童歌 (わらべうた)

童歌
絵描き歌 / たこ入道あひるのここぶたカッパさかなおよめさんお姫さまてっちゃんコックさんへのへのもへじ・・・
数え歌 / 京都の通り名いちじくにんじんいちにさんまのしっぽ一つとや・・・
遊び歌1 / 茶つぼ手遊び歌お手玉唄口あそび唄・・・
遊び歌2 / おちゃらかほいお寺の和尚さん茶摘みアルプス一万尺・・・
遊び歌3 / かごめかごめはないちもんめ通りゃんせずいずいずっころばしいろはに金平糖一かけ二かけ今年の牡丹せんべいやけたあぶくたった1あぶくたった2あそび唄なわとび唄・・・
手鞠歌 / あんたがたどこさ道成寺一匁のい助さん一番はじめは一の宮各地の手まり唄1各地の手まり唄2・・・
子守歌 / ねんねんころりよ五木の子守唄ゆりかごの唄竹田の子守唄中国地方の子守唄島原の子守歌・・・
わらべ唄の分類 2  わらべ唄の分類 3
全国の童歌
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童歌諸話 / 子守唄と守り子唄子守歌の世界子守唄にみる幼児労働童唄の発想と表現童謡わらべ歌子供の歌お月さまいくつ「お月さん幾つ」考螢狩の唄わらべうた仏教とわらべうたわらべ歌に隠された闇わらべ歌と差別雪渡りとわらべ歌座敷童子桃太郎亥の子ジャンケンポンわらべ歌と猫・・・
 
通りゃんせずいずいずっころばしげんこつ山のたぬきさん雪やコンコン坊やはよい子だいもむしごろごろせっせっせ鬼さんこちら手の鳴るほうへホーホー蛍こいだいぼろつぼろやもよやもよこうもりこっこ烏勘三郎しりとり歌さよなら三角大寒小寒かくれんぼあんたがたどこさ花いちもんめ春よ来い守さ子守さ花咲爺かごめかごめ指きりげんまん家の裏の黒猫うしもうーうさぎうさぎ夕焼けこやけ雀雀ほしんじょだるまさん諸唄

雑学の世界・補考

 
■童歌 (わらべうた)

こどもが遊びながら歌う、昔から伝えられ歌い継がれてきた歌である。伝承童謡(でんしょうどうよう)、自然童謡(しぜんどうよう)ともいう。民謡の一種ととらえられるものもある。 / 古くから子供たちの間で歌われてきた歌。また、子供に歌ってきかせる歌。 / 子どもたち自身が生活のなかで歌う歌。 / 昔から子供に歌いつがれてきた歌。また、子供に歌って聞かせる歌。遊びに伴うものが多い。手まり歌や数え歌など。 / 日本民謡の一種。子どもたちが日常生活の遊びや体験の中からしぜんに習いおぼえ、口づたえに歌われてきた歌。作詞者・作曲者とも不明で、メロディーがやさしくおぼえやすいのが特徴。まりつき・羽根つき・なわとび・鬼ごっこ・お手玉などの遊戯にむすびついたものが多く、このほか、正月・節句・祭りなどの年中行事に関する歌や、はやし歌・数え歌・しりとり歌などの種類がある。
・・・大正期の童謡運動以後、子どもたちに読ませるために作られた詩、さらに子どもたちのために作られた歌曲をさすようになった。これらは、従来のわらべうたと区別するため創作童謡、芸術童謡などともいわれ、またわらべうたの方を伝承童謡とよんでいた。1918年に鈴木三重吉らによって創刊された児童雑誌《赤い鳥》を基盤に展開された〈赤い鳥〉の運動は、泉鏡花、小山内薫、芥川竜之介、北原白秋、島崎藤村ら当時を代表する文学者の参加を得て児童文学の運動として始まった。・・・  
わらべ (童)
わらんべ、わらわ、わらわべ、わろうべともいい、童部とも表記した。普通には男女を問わず元服以前の児童(童子・子ども)をさした。童というのは10歳前後とする考え方もあるが、そのように限定してしまうと、かえって童の語にふくまれていた豊富な内容が見失われかねないともいえる。なぜならば、成人女性は謙遜して自分をさすのに〈わらわ〉の語をもちいたし、また、年齢的にはけっして児童ではないにもかかわらず、髪風もふくめて姿形が〈童形(どうぎよう)〉であるものを童・童子などと呼んだ。
童(わらし、わらんべ、わらわ、わっぱ)、童衆(わらし、わっぱ)。
字源 1 / 「語源 ・ 元々は、目を刃物で突きぬいて見えなくした男の奴隷。また、男の罪人を奴隷としたもの。」
童というのは従来の説では、奴隷を意味すると言うことになっています。奴隷は髪を結んでおらず、それが子供を連想させるからだそうです。
甲骨文字では童はどのような形をしているのでしょうか。とても複雑な形をしています。辛(針)+目+東(袋)+土です。従来は辛を奴隷の入れ墨と結びつけて解釈してきました。東は袋を意味するとされています。袋がどうして「ひがし」を意味するのが不思議ですが、甲骨文字で東を含む字には量と重がありまして、確かに両方とも「満杯の袋」の意味で東が使われています。童は入れ墨をされた奴隷が重い袋を背負わされているのだと解釈されてきました。しかし童が奴隷の意味で使われたことはありません。
童を含む字として瞳(ひとみ)があります。これはわかりやすいです。子供は瞳が大きいからです。では童も元々瞳という意味だったと考えてみてはどうでしょうか?童という字には「目」が含まれているのですから!
眼球は液体が詰まった袋です。眼球を納めたまぶたもまた袋になっています。瞳は眼球にあいた針穴のように小さな穴です。だから辛(針)+目+東(袋)で瞳なのです。土はおそらく「満杯」を意味する符号でしょう。山水蒙のところで説明しますが、春秋戦国時代には童は子供と瞳(のぞき窓・採光のための窓)の両方の意味で使われていたと考えられます。
字源 2 / 会意兼形声文字です(辛+目+重)。「入れ墨をする為の針」の象形と「人の目」の象形と「重い袋」の象形から、目の上に入れ墨をされ重い袋を背負わされた「どれい」を意味する「童」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て) 「未成年者(児童)」の意味も表すようになりました。
字源 3 / 罪を犯して奴隷階級にまで下がってしまった罪人。その「罪人」に歌わせていたのが「童謡」。昔の動揺に怖い裏付けがされるのはこのためとか。さらに、「働く(はたらく)」意味は「童(奴隷)」に「力」(農作業で使う「すき」を象った字)を使って働かせるので、「童+力」で『動(はたらき)』になる。さらに「人(権力者)」が監視して「働く」という字になる。
■ …15歳で一人前となり、若者組へ加入することでその完成は示された。世代としての子どもは古い言葉では〈わらわ〉〈わらんべ〉〈わらし〉などであるが、それらはしだいに使用されなくなり、子どもが一般化してきたのは、もともとの〈こ〉〈こども〉の意味が変化拡大した結果と思われる。子どもの第2の意味である、〈親に対する存在としての子ども〉は〈こ〉という言葉のより古いあり方を示していよう。…
わらわ (童)
束ねないで、垂らしたままの髪。また、そうした10歳前後の子供。童児。わらべ。使い走りの子供。召使い。寺院で召し使う少年。
わらし (童)
(主に東北地方で)子供。わらべ。
わっぱ (童)
子供をののしっていう語。また、子供。年少の奉公人。小僧。男子が自分のことを卑下していう語。横暴な人。あばれ者。乱暴者。
こわっぱ
「こわっぱ」とは、子ども、または若輩者をののしっていう語で、若造といった意味である。「こわらわ(小童)」の変化した語で、「こわらわ」とは幼い子ども、小さな子どものことである。
「わらは(童)」は、まだ元服していない、10歳前後の子どもを言う。なぜそれくらいの年齢の子どもを「わらわ」と呼ぶのかはよくわかっていないのだが、この年代の子どもは髪を束ねないで下げ垂らした髪型をしていて、それを「わらわ」と言ったことによるという説がある。ただし子どもと髪型の呼称のどちらが先なのかはよくわからない。
「わっぱ」はこの「わらわ(童)」が変化した語である。もちろん「わっぱ飯」などという、まげ物の弁当入れを言う「わっぱ」のことではないし、車輪や手錠などをいう「わっぱ」とも違う。それらはいずれも漢字で書くと「輪っぱ」である。
ちなみに、時代劇などで武家の女性の自称として使われる「わらわ(私・妾)」は、この「わらわ(童)」から生まれた語である。童(わらわ)のような未熟な者、幼稚な者といった意味なのであろう。また、「かっぱ(河童)」は、「かわわらは(河童)」の変化した「かわわっぱ」から生まれた語である。
なお、蛇足ではあるが、室賀正武は天正12年(1584)に、信之・信繁兄弟の父昌幸に殺害される。室賀正武に「こわっぱ」呼ばわりされる信之は永禄(えいろく)9年(1566)の生まれなのでこのときはまだ10歳代で、まさに「こわっぱ」と言える年頃である。ところがそれを演じる大泉洋さんの実年齢はというと、どう考えても20歳前とは言えないはずだが、まったく違和感がない。役者さんはすごいと思う。
おおわらわ (大童)
一生懸命になること。夢中になってことをすること。
「童」は元服前の3〜10才の子供のこと。また子供のおかっぱ頭の髪形もいいます。戦場で兜を脱ぎ捨てると髪が乱れ、童のようになるところから、髪をふり乱して戦かうさまが「大きな童」で「大童」。
「おおわらわ」に似た意味に「てんてこ舞い」があるが、これは太鼓の音に合わせて舞うこと。驚きあわてる表現に、「泡を食う」がある。

大童は、髪の乱れの形容から生まれた語である。「童」は元服前の子供(3歳から10歳くらい)のことであるが、子供が髪を束ねないで垂らしているその髪形もいう。大人はきちんと髪を結っているが、戦場で兜を脱ぎ捨てると髪が乱れ、童のようになることから、髪を乱して奮戦するさまを「大きな童」で「大童」と言うようになり、一心不乱になって行うさまも「大童」と言うようになった。「童」の語は「乱れる」という意味に由来するため、髪形に関係なく、取り乱して大慌てすることから「大童」になったとも考えられるが、『平治物語』の「冑も落ちて、おほわらわになり給ふ」など、髪の乱れをいったものが多いことから、子供のように乱れた髪に由来すると考えた方が良いであろう。 
 

 

1.「遊び」のうた
「手合せ」のうた
「手合せ」や「指あそび」の歌は、現在もなお子どもたちの中に生きている。インスタントなところが喜ばれるのか、通学のバスを待つ短い時間などに、子どもたちは、結構この遊びを楽しんでいる。
一二の三/二の四の五/三、一、二の四の/二の 四の五 (高岡)
数字を唱えるだけのこの歌は、「指遊び」の歌である。互いに向き合い、数字に合わせて指を出し合って遊ぶ。この歌は、もと「石けり」の歌だった。それを子どもたちは、「指遊び」に転用したのである。最近、その数字に合わせ、階段を上り下りして遊んでいる。別の遊びへの新しい転用である。
時に、仲間の誰かが祖母などから古い「手合せうた」などを教わったりすると、それがまたたく間に広がってしまう。旋律のアンティークな味わいを子どもたちは、一つのファッションとして楽しむのである。
一かけ二かけて三かけて/四かけて五かけてはしをかけ/はしのらんかん手を腰に/晴れたみそらを眺むれば/十七、八のねえさんが/花と線香手にもって/もしもしねえさんどこへ行く/私は九州鹿児島の/西郷隆盛娘です/今日は命日墓まいり/お墓の前で手を合わせ/なみあみだぶつと唱えます。 (高岡)
「遊び方」は、セッセッセーノ、ヨイヨイヨイなどと掛声をかけて調子をそろえ、第1拍でそれぞれ手を打ち、第2拍で相手の手と打ち合わせ、これを繰り返す。
それにしても奇妙に錯綜した歌詞である。何かいろんな場面や物語の断片のようなものが入り混ざつている。もとは、西南戦争(明治10年)後の西郷隆盛を悼む御霊(みたま)信仰のようなものが歌詞の内容となっていたようだが、口写しに歌い継がれる中で詞章が崩れ、意味が風化していったのだろう。そして、言葉のイメージだけが連鎖し、奇妙な錯綜を醸し出すのではないだろうか。古いわらべうたには、このようなものが多く、伝承童謡(わらべうた)のひとつの特性となっている。しかし、そのこと−絶えず自由に歌い変えられているということによって伝承を保持し得たのかも知れない。したがって、ひとつの歌が伝えられる過程で、周囲には、歌に捨てられた類歌(ヴアージョン)が無数に累積する。どれを拾い上げて歌うかは、全く子どもたちの好みに任される。
だが、「わらべうた」は、仲間と一緒にうたって遊ぶ歌である。いつも一緒にうたっていると、歌はその中で調整され、「仲間のうた」ができあがる。ひとつの類歌の流布圏は、子どもの交友圏と重なるのである。類歌は、このようにして成立するので、歌詞や旋律の上に著しい地域性が生ずる。この歌の場合も、次のような詞章を付け加えた類歌が採集される。
お墓のあとの魂が/ふんわりふんわり/ジャンケンポン (宇祭月)
もしも、この子が男なら/士官学校(あるいは、「師範学校」)を卒業させ/イギリス言葉を習わせて/梅にうぐいすとまらせて/ホーホケキョーと鳴かせます。 (砺波)
「手まりうた」
「手合せ」の遊びに用いている「一かけ、二かけ」の歌は、もとは「手まりうた」であった。また、「お手玉」をする時にも歌ったという。さらに「縄とび」にも使ったという。まさに万能「遊びうた」の感がある。また、この歌の旋律には、次のように全く別の歌詞を付けて歌われることもある。
一番はじめは一の宮/二また日光東照宮/三また佐倉の宗五郎/四また信濃の善光寺/五つは出雲のおおやしろ/六つ村々鎮守様/七つ成田の不動様/八つ八幡の八幡宮/九つ高野の弘法様/十で富山の招魂社 (富山)
歌詞は、数え歌の形式による全国寺社尽くしである。この歌にも異同が多く、
「三で讃岐の金比羅さん」 (立山町)
「十で富山の反魂丹」 (富山)
などと、登場する名所名物が異なり、ここでもまた、末尾に次のような詞章が付け加えられる。
「十一いなかのお医者様/十二は二宮金次郎…」 (射水)
「これほど信心したけれど/浪さんの病はなおらない/ゴウゴウゴウと鳴る汽車は/武男と浪子の別れ汽車/武男が戦に行く時は…。 (滑川)
誰かが、ふと思い付いた言葉を挟み、それがまわりに承認され、そのまま類歌となって伝えられていくのである。小説『不如帰』(徳富蘆花)のエピソードを、いつ、どこで、だれがこの歌の中に持ち込んだのか、それはもうわからない。
「手まりうた」は、かつて「遊びうた」の王座であった。明治39年に編纂された『伝説俗謡童話俚諺調査答申書』(富山県教育課編)に収録されている165篇の「わらべ歌」の約3分の2が「手まり歌」で占められる。この調査の行われた明治30年代には、まだゴムまりが用いられておらず、手作りの「糸まり」が使われていた。糸まりは、ぜんまい綿やひじきなどを芯にして、もめん糸を幾重にも重ねて巻き、表面を赤や黄の糸で花や星の形をかがって作った。母親や祖母などが念入りに作って子どもに与えるのが普通だった。糸まりは、ゴムまりに比べてはずみが悪かったので、子どもたちは床にひざを落としてまりをついた。ゴムまりが県内に普及するのは、大正へ入ってからであった。
かつて、子どもたちにとっては、遊びの技法は、非常に重要な意味をもっていた。女の子では、手まりやお手玉、男の子では、竹馬やコマ廻しというふうに、それぞれの遊びには、初伝から奥伝にいたる技法の段階があり、子どもたちは、技法を磨き、奥儀を究めることに熱心であった。まりつきの技法の中心は、何といっても、まりを長く持続してつくことであった。いくつつけるか判定するために「手まり歌」の中では数が数えられ、時間を持たせるために歌の中に長い物語が仕組まれた。先の「一番はじめ」の歌は「数え歌」風であり、「一かけ、二かけ」の方は、より「物語」風である。しかし、1曲を歌い終えても、まだまりが続いている。そんな時、別な歌を思いついて歌い継いでゆく。そのうち、前の方を忘れて途中から歌い出したり、真ん中の部分が抜けてしまって前と後とがつながったりするなど、いろんな風に接続、分断を繰り返しながら歌は変わってゆくのである。
「お手玉、羽根つき」の歌
「お手玉」も「羽根つき」も技法を競う遊びであった。
一つご、二つご、かんじきはいた/いわして、まわろ、まわろ/なむ、なむ、はいたら、トン/中の一つご、一つご/中の二つご/一つ、ねえさんはいたら/いわして、きわろ、きわろ…。 (富山)
「お手玉うた」である。意味のよくわからない言葉が続いているが、全体お手玉の技法を指示する言葉で成り立っている。土地の言葉で、しかも子ども独特の表現で歌われたため、意味がわからなくなったのである。よく知られる「おっさあらい」(右手で親玉をほうり上げ、それが空中にある間に下の子玉をさらい取る技法)をはじめ、お手玉遊びの歌には、直接、技法をうたい込んだ歌が多い。
ひとめ、ふため、みよかし、よめな/いつよの、むかし/ななおの、やかし/このまに、とおり。 (城端)
数え歌の型式をとった「羽根つき」の歌である。この歌も土地によって様々なヴアージョンで歌われ、例えば、大山町では結びを、「ここの前でとまれ」、魚津では「ここの目でとまった」などと歌われる。先の歌の採集地の城端では、この歌を「どっこい、どっこい」と互いに間を入れ合いながら機場(はたば)の作業歌としても歌ったという。また、雪の多い本県では、「羽根つき」より、この歌で紙ふうせんをついて遊ぶことが多かったという。
やがて、遊びがレジャーとされ、ひまつぶしとされるようになって、子どもたちは、歌を真に自分のものとして打ち込むことができなくなる。それと共に、遊びの技術も未熟となり、まりつきやお手玉のように高度な技術を必要とする遊びは、子どもの中から次第に消えてゆく。そして、先のインスタントな「手合せ」遊びの中に、わずかな名残りを留めてゆくのである。
2.季節のうた
風や草や鳥のうた
かつて、子どもたちは、わらべうたの豊かな実りの中に生きていた。町の子たちが路地のどぶ板を踏みならして「手まり歌」や「花いちもんめ」に興じていた時、村の子たちは、畦(あぜ)に立って風や草や鳥のうたを歌をうたい、歌うということのほのかな情感にひたっていた。人は、風や草や鳥と共に生きていたから、風に尋ね、虫と語るという日々を送っていた。不思議なことがいっぱいあっても、それがいちいち合理的には説明されなかったから、子どもたちは、いつも自然に呼びかけ、「自然」から直接聞こうとしたのだ。
大かぜ、小かぜ/こうやの山から/風もってこい。 (射水)
雨ふってござった/天竺(てんじく)のまっつりだ。 (上新川)
つつじの花が/開いたり、つぼんだり/おらなんとこせ。 (砺波)
だんぼ(とんぼ)だんぼ、とまらっせい/おまえさ、なんかにかもうけ。 (下新川)
とんべ、とんべ/舞い舞いせ/蛇捕ってぶっちゃげよか。 (平村)
これらの歌には、特にきわ立った旋律やリズムがあるわけではない。土地の言葉の抑揚や情感がそのまま旋律に転じたといっていい。会話の中のアクセントの高低が自ずと節(ふし)を作ったのである。
とかげ、とかげ/おら、なも、せんな/川原の石や、石や。 (下新川)
とかげを殺してしまったことのいいわけである。
へびやまむしや、よるなや/なた、かま、腰にさしとるぞ。 (砺波)
これは、へびへのおどし。
川の神さま、川の神さま/かんねして、くりゃっしゃいの。 (下新川)
これは、川に小便しても、罰を受けないための唱えごと。子どもたちには、とかげやへびや川の神様に直接、語りかける−そのことがおもしろい。言葉は、旋律を伴うことによって言霊(ことだま)効果を発揮する。
雪と正月のうた
下、わたぼし/空、はえのこ/天じく、天じく、はえのこ。 (婦負)
雪ぁ降る/みそさんしょうぁ(ミソサザイ)なく/かあかござらず/おら、どうするこっちゃ。 (下新川)
大きなぼたん雪がいっぱいに降りしきる。雪の降る空へあおむくと、数知れずおりてくる虫のような黒い雪に不思議な興奮を覚える。雪の降った夕方は、あたり一面、うすい霧におおわれ、厚い層雲からもれる重い日ざしが乱反射を繰り返し、あやしげな薄明光をつくり出す。情感を刺激するのはそんな光だ。
昔は、雪が降れば、雪の降ったような生活をした。雪の中でじっと耐え、雪に自分を同化させようとした。はなやかな中に悲しさを秘めた雪は、北陸型の感情様式の象徴でもあったようだ。
雪の中で「正月」を迎える
お正月さま、お正月さま/どこまでござった/くりから山の茶屋までござった/おみやげ何じゃ/みかん、こんぶ、かややかちぐり/あまの原の串柿。 (砺波)
年神のうた。新しい年をもってきてくれる年神を、子どもたちは、「正月さま」と呼ぶ。正月さまは、おみやげをさげてきてくれるが、それは土地によって異なる。砺波地方では、一般に「みかん」「こんぶ」「あまの原の串柿」が多い。「あまの原の串柿」は、「あま(天井裏の部屋)につった串柿」(平村)が原型だろうか。そのほかに「みかん・くねんぼ」(下新川)、「ゆずり葉」(高岡)、「猫のふんだかいもち」(高岡)というのもある。
天神さま、天神さま/どこまでいらっしやった/くるくる林の下までいらっしゃった…。 (宇奈月)
ここでは、「正月さま」が「天神さま」となっている。旧前田藩の領内では、「天神さま」を「正月さま」と受け取っている地域があった。領内では、天神さまは手習いの神様であり、子どもの守護神であるともされていたからだ。歌に戻って、「どこまでいらっしゃった」のあと、「くるくる山の下まで」と続くのが県内では最も多く、そのほかに「きりきり山のすそ」(平村)、「くろべの橋」(下新川)とも歌い込まれている。また、やっていらっしゃる「神さま」のかっこうについても言及し、「まえだま(繭玉)ふってござった」と歌われるのが多く、「とうふげたはいて、串柿かんで(かついで)長いてぼ(杖)ついてござった」(伏木)というていねいなものもある。
正月ちゅうもんは、よいもんや/月さまみたいなぼち(もち)たべて/あかしみたいなとと(魚)たべて/油みたいな酒のんで/正月ちゅうもんは、よいもんや。 (砺波)
手放しの正月讃歌。子どもたちにとって、正月は1年を通しての最も楽しいひと時であった。白米のおもちや魚などが容易に口に入らない時代の願望がよく写し出されている。
正月の歌としては、このほかに1月15日を中心とする「小正月」行事にうたわれる歌が数多く残されている。「左義長」「鳥追い」「成木責め」などの行事でうたった歌である。
(「鳥追い」は、鳥害を防止するための、「成木責め」は、果樹の豊作を願う呪術的な農村行事。砺波地方では、これらが連結して行われていた。14日の夜、子どもたちは、「左義長」の残り火でもちを焼いて食べ、そのあと、「鳥追い」のうたを歌って田畑をねり歩き、庭先へ戻って「成木責め」を行った。柿の木のそばへいって、一人が鎌で木の幹に傷をつけ「なるか、ならんか」と唱える。それに答えて他の一人は「イタイ、イタイ、なるなる」と唱える。そこで二人は、傷口に小豆(あずき)がゆを掛けて引きあげる)
これらの行事に参加することによって、子どもは、土地の生活にとけこみ、地域社会を支える一員としての地位を獲得していったのである。
3.子守うた
「子守」のうた
ねんねや、おろろわい/ねんねや、おろろわい
泣くなや、泣くなや/すずめの子/泣くと餌刺(えささし)が、とりにくる。
ねんねや、ねんね。
ねんねのお守は、どこへいった/山こえて里いった/里のみやげになにもろた/でんでん太鼓に、しょうの笛
赤いお皿に、ととよそて/赤いおわんに、ままよそて/ねんねやねんね。 (富山)
「子守うた」には、「ねんねや、おろろわい」などという響きのよいリフレインが加わり、それが何度も繰り返される。このやさしい響きが子どもを落ち着かせ、場に情感を醸し出す。
先のうたには、この地方で歌われていた3種の歌が連なって出てくる。最初は「餌刺」のうた。「餌刺」は、藩政時代、鷹匠に属し、鷹の餌にする小鳥を捕えることを職業とした人たち。泣く子をすずめにたとえ、泣くと餌刺が刺しにくると、おどしているのである。朝日町で採集された歌では、この部分が「いたち」に変えられている。
…ねんねん、泣きや、いたつ(ち)の子/泣いちゃいたつ(ち)が刺しねくる/ねんねんねん…
中ほどに出るのは、一般に「江戸子守唄」と呼ばれている詞章。
最後に出てくるのは、正月の歌にも出ていた食事への願望。ここでは、「赤い皿、赤いおわん」と色彩が強調されている。次の類歌には、赤、白、青とさらに色彩が強調される。
…赤いちゃわんに、ままよそて/白いちゃわんに、おつけよそて/青いてっしゅ(小ざら)に、ここ(つけもの)よそて… (婦負)
「子守うた」は、子どもをあやすための、いわば実用的な歌である。子どもが寝つくまで、しばらくは歌い続けてやらなくてはならない。歌としての形を整える必要はなく、おどしたり、あやしたりしながら、思いつくままに、いろんな歌をうたいつないでいったのである。
「守り子」のうた
子守には、母親や祖母、あるいは姉など、身内の者があたるのが普通であったが、それ以外によそから少女を雇い入れ、子守をさせるという風習は、藩政時代からみられるものであった。しかし、それが非常に盛んになったのは、明治に入ってからで、あと大正を経て、昭和の初めにいたるまでこの風習が残っていた。こうして、全国、至るところの町や村には、手ぬぐいで髪をつつみ、小さな子を背負った子守娘の姿が多く見られたのであった。
「守り子」を置くことのできる家は、中流以上で、守り子を出す家は、それ以下の家であった。また、両親が遠方へ出かせぎに出る時など、子どもを守り子として働かせることを条件に他家に預けるという風習も多かった。しかし、いずれにしろ、守り子は雇い主の家では、最下級の使用人として扱われるのが普通であった。「守り子のうた」とでも称すべき一群の子守うたの中に、その苛酷な境遇が歌い込まれている。
子守りよな、おぞいもんな、どこにあろか/親に 叱られ、子に泣かれ、ひとの軒端(のきば)に、立ってあかす/ねえ、おやおや、ねえ、おやおや……子守よな、おぞいもんな、どこにあろか、雨が吹いても宿もたず/うちいきゃ、おっかに、ばめかれる/ねえ、おやおや、ねえ、おやおや。 (黒部)
「子守うた」は、本来、大人が子どもに歌ってやる歌であった。しかし、子守に当たる者が子どもであったために、「子守うた」は、わらべうたの延長となり、そこで子ども自身の生活や願望がうたわれることになったといえよう。「守り子のうた」には、次のような数え歌型式のものも見られる。
ことし、はじめて、子守に出たら/一にいじめられ/二ににくまれ/三にさべられ/四にしかられ/五にごなりめそ、かづかせられて/六に、ろくなものくわせぬことに/七にしめしまであらわせられて/八に、はりつけられ、涙をこぼし/九に、くくらつけられ、/十に戸のところで、家へ泣き泣きもどる。 (下新川)
〈さべられ〉は、告げ口されること。〈ごなりめそ〉は、泣き虫の子−というふうに土地の言葉だけでこの詞章が成り立っている。「守り子うた」の発生は、通常の「子守うた」にいろんなニュアンスを与え、「子守うた」の奥行きを深くしたと同時に、それが一般の「民謡」との接点を作った。民謡として歌われる「五木の子守唄」や「島原の子守唄」などは、みな「守り子のうた」として成立したのである。「守り子のうた」の果たした役割を柳田国男は、『民謡覚書』の中で次のように記している。
明治以後になって新たに発生した民謡は、鉱山の穴の底、或いは大洋を走る船の上などにもあったが、日常我々の耳に触れる平地の歌としては、織屋、紡織などの工場から出て来る声、それよりも更に夥しい数は、村の小さな子守娘らの口すさびであった。年頃といふよりも少し前の少女を雇ひ入れて、その背に子供をくくり付けて外へ出す習慣は、決してさう古くからのもので無いらしいのだが、彼等は忽ち群を為し、群の空気を作り、一朝にして百、二百の守唄を作ってしまった。何人も未だ子守唄の作者を以て任ずるものは無く、流行歌(はやりうた)があってもその選択応用は、すべて彼等の自主であったが、しかも号令無く、また強制もなくしても、歌は悉(ことごと)く既に彼等の共有になって居(い)るのである。
 

 

 

■絵描き歌

 

絵描き歌
絵の描き方を歌詞にして、指示通りに描いていくと、自然と絵が完成しているといったもの。日本で有名なものとしては「ぼうが一本あったとさ」(俗称コックさん)がある。似た子供の遊びとしては「へのへのもへじ」などの歌わずに文字で絵を書く「文字絵」がある。
文字絵
文字を組み合わせて絵を作る江戸時代の遊びである。現代にも伝わるへのへのもへじはその代表例である。他には「つる三ハ○○ムし(つるニハ○○ムし)」「ヘマムシヨ入道」「いろは天狗」など。
絵描き歌、アスキーアート、顔文字と似ているが、文字絵には以下の特徴がある。
○ 歌わない。
○ 単語の意味と絵の内容が合ったものが好まれる。
○ 文字の一部が他の文字に入り組んだり、大きさや位置は行に由来しなかったりと配置が自由である。
顔文字
文などの文字の中で表情などを持った顔のように見える文字を使用することで表情の意味を絵文字のように表す表現である。文字や記号を組み合わせて表情を表現したものと、単独の表情の表現された絵文字がある。文字や記号を組み合わせて複数の行で表現されたものはアスキーアートと区別して扱われる。
パソコンやメール、インターネット掲示板、チャットなどにおいては、文の前後や中で用いられる。しかし、相手がその顔文字をどう受け取るかによって、時には大きな誤解が生じる可能性もある。
複数の文字で表現される顔文字の場合、欧米や、それ以外のラテン文字あるいはそれ以外の文字を使用している言語では横倒しにした顔文字を「;‐)」のような形式で、日本語や東アジアの文字コードの使用圏などでは正位置の顔文字を「(^_^)」のような形式で使用することが主流となっている。
表情を1つの文字で表現した絵文字が使われることもあり、携帯電話の普及とともに一般的に使用されるようになった。 
 
たこ入道

 

みみずがさんびきよってきて
おせんべさんまいたべました
あめがザァザァふってきて
あられもポツポツふってきて
あっというまにたこにゅうどう  
あひるのこ
にーちゃんが
さんえん もらって
豆 買って
くちばし とんがらかして
あひるのこ
こぶた 
まんまるちゃん まんまるちゃん
まんまーるちゃーん
まんまるちゃん まんまるちゃん
まんまーる ちゃーん
小さーい おふねーに のせらーれて
お父さん お母さん
さよおーなら
ろくろくちゃん ろくろくちゃん
さんじゅーろく
ろくろくちゃん ろくろくちゃん
ふじのーやま  
カッパ
ぼうが1ぽん あったとさ 
葉っぱかな?
葉っぱじゃないよ カエルだよ
カエルじゃないよ アヒルだよ
アヒルじゃないよ カッパだよ
さかな

 

やまがあって
たにがあって
だんだんばたけがあって
むぎばたけ
きゅうりがあって
まめがあって
さかなになっちゃった 
およめさん
まるちゃん まるちゃん まるきばし
おおやま こやま はなざかり
となりのおばさん そば食べて
となりのおじさん そば食べて
となりのねえさん およめいり
きれいにかざって およめいり
お姫さま
たてたてよこよこ
まーるかいてチョン まーるかいてチョン
おおやまさーんに こやまさん
桜のはーなが まんかいで
雨がざあざあ ふってきて
あられもポツポツ ふってきて
1円もらって豆かって 1円もらって豆かって
まがった針は れい円だ
アッという間に かわいいお姫さま
てっちゃん
てっちゃんと つるちゃんが
ハチミツ買って しかられてー
平気で 平気で
のんきで のんきで
しけんは れい点
たてたて よこよこ 丸かいてちょん
たてたて よこよこ 丸かいてちょん
たてたて よこよこ 丸かいてちょん
たてたて よこよこ 丸かいてちょん
「コックさん」「かわいいコックさん」

 

棒が一本あったとさ
はっぱかな
はっぱじゃないよ かえるだよ
かえるじゃないよ あひるだよ
六月六日のさんかんび
雨ざあざあふってきて
三角じょうぎに ひびいって
あんぱんふたつ 豆三つ
コッペぱんふたつ くださいな
あっというまに
かわいいコックさん
(『うたのえほん』採用の際、「さんかんび」は幼児にわかりにくいと省略された)
棒が一本あったとさ
はっぱかな
はっぱじゃないよ かえるだよ
かえるじゃないよ あひるだよ
六月六日に雨 ざあざあふってきて
三角じょうぎに ひびいって
あんぱんふたつ 豆三つ
コッペぱんふたつ くださいな
あっというまに
かわいいコックさん 
「棒が一本あったとさ」(ぼうが一本あったとさ)の歌いだし、または曲名でも知られる絵描き歌の俗称。歌にあわせていろいろな絵ができて行くが、最終的に出来上がる特徴的な絵を歌詞中で「かわいいコックさん」と称しているところから、その曲名と混同したもの。その理由の一つに後述の商標問題もある。
東京のわらべうた。作詞・作曲者は不詳。1964年から1965年にかけて、NHKの『うたのえほん』で歌われたことにより、広く全国に知られるようになった。
民族音楽学者で当時、東京芸術大学の教員だった小泉文夫が楽理科の学生らとともに採集した楽曲の一つ。小泉の研究室を訪ねた『うたのえほん』の担当ディレクター岡弘道が番組にふさわしい曲として見出した。わらべうたの旋律をもとに間宮芳生にピアノ譜の作曲(編曲)を依頼。中川順子の歌で放送された。
へのへのもへじ

 

「へ・の・へ・の・も・へ・じ」の7つのひらがなのみを使い人の顔を模した図柄を描く文字遊び(文字絵)である。「へへののもへじ」とも言う。
最初と2番目の「へ」が両の眉を、2つの「の」が両目を、「も」が鼻を、3番目の「へ」が口を、「じ」が顔の輪郭をそれぞれ表している。 典型的なかかしの顔としてよく使われる。また黒板やノートなどの落書きにも使われ漫画、とくにギャグ漫画においては、登場人物の顔が一時的にへのへのもへじになるなどの表現も使われる。
同様の文字の組み合わせとして「へのへのもへの」、「へめへめくつじ」、「へめへめしこじ」、「へねへねしこし」「しにしにしにん」(1, 2のしは横に、んはケツあご風に)になどがある。
また、「つるニハ○○ムし」(つるにはまるまるむし)というものもあり、「つ」がハゲ頭、「る」が耳、「ニ」が額のしわ、「ハ」が両眉毛、「○○」が両目、「ム」が鼻、「し」が顔の輪郭をそれぞれ表し(口はない)、全体で老人の顔になる。また「二」を「三」に変えて「つる三は○○むし」とも。
正確な起源は定かではない。しかし江戸時代の初期には見受けられないが、中期以降には常識化したごとく流布していることから発祥起源はこれ以前の京都、大阪などの上方だと推測されている。 元々は「へのへのもへの」のようなものであり「へのへのもへまる」や「へのへのもへまろ」などが派生し関東の方へと伝播した。 歌川広重の新法狂字図句画には侍の顔が「へへののもへいじ」になっておりその原型が確認できる。 
 

 

丸かいてちょん
1 丸かいて ちょん 2 丸かいて ちょん 
3 横々 4 縦々 5 丸かいて 6 ちょん 
7 のんきな 8 とうさん 9 毛が三本 
10 おっと 11 たまげた 12 おかみさん  
絵描き歌。歌詞に合わせて絵を描いていく。最後の絵は、思いもよらない形になる。描くことと出来上がった形のおもしろさがある。 (東京)
 

 

  
 
■数え歌

 

 
京都の通り名数え歌

 

東西の通り名の唄 (丸太町通り〜九条通りまで)
まる たけ えびす に おし おいけ
あね さん ろっかく たこ にしき
し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう しち(ひっ)ちょうとおりすぎ
はちじょう(はっちょう)こえれば とうじみち
くじょうおおじでとどめさす
もうひとつの東西の通り名の唄 (丸太町通り〜松原通り)
坊さん頭は 丸太町
つるっとすべって 竹屋町
水の流れは 夷川(えべすがわ)
二条で買うた 生薬(きぐすり)を
ただでやるのは 押小路
御池で出逢うた 姉三(あねさん)に
六銭もろうて 蛸買うて(たここうて)
錦で落として 四かられて(しかられて)
綾まったけど(あやまったけど) 仏仏と(ぶつぶつと)
高(たか)がしれてる 松(ま)どしたろ
    まる:丸太町通り
    たけ:竹屋町通り
    えびす:夷川通り
    に:二条通り
    おし:押小路通り
    おいけ:御池通り
    あね:姉小路通り
    さん:三条通り
    ろっかく:六角通り
    たこ:蛸薬師通り
    にしき:錦小路通り
    し:四条通り
    あや:綾小路通り
    ぶっ:仏光寺通り
    たか:高辻通り
    まつ:松原通り
    まん:万寿寺通り
    ごじょう:五条通り
    せきだ:雪駄屋町通り
    ちゃらちゃら:鍵屋町通り
    うおのたな:魚の棚通り
    ろくじょう:六条通り
    しちじょう:七条通り
    はち:八条通り
    くじょう:九条通り
南北の通り名の唄 (寺町通り〜千本通り)
てら ごこ ふや とみ やなぎ さかい
たか あい ひがし くるまやちょう
からす りょうがえ むろ ころも
しんまち かまんざ にし おがわ
あぶら さめないで ほりかわのみず
よしや いの くろ おおみやへ
まつ ひぐらしに ちえこういん
じょうふく せんぼん はてはにしじん ♪
    てら:寺町通り
    ごこ:御幸町通り
    ふや:麩屋町通り
    とみ:富小路通り
    やなぎ:柳馬場通り
    さかい:堺町通り
    たか:高倉通り
    あい:間之町通り
    ひがし:東洞院通り
    くるまやちょう:車屋町通り
    からす:烏丸通り
    りょうがえ:両替町通り
    むろ:室町通り
    ころも:衣棚通り
    しんまち:新町通り
    かまんざ:釜座通り
    にし:西洞院通り
    おがわ:小川通り
    あぶら:油小路通り
    さめない:醒ヶ井通り
    ほりかわ:堀川通り
    よしや:葭屋町通り
    いの:猪熊通り
    くろ:黒門通り
    おおみや:大宮通り
    まつ:松屋町通り
    ひぐらし:日暮通り
    ちえこういん:智恵光院通り
    じょうふく:浄福寺通り
    せんぼん:千本通り  
南北、東西それぞれの京都市内の通りを順に言っていく歌。
いちじくにんじん
いちじく にんじん
さんしょに しいたけ
ごぼうに むくろじゅ
ななくさ はつたけ
きゅうりに とうがん
1はイチジク、2はニンジン、3はサンショウ(山椒)、4はシイタケ(椎茸)といったように、数字の読みと語頭が一致する名前の食材や植物などが順番に歌い込まれていく。「さんしょにしいたけ」以降の歌詞については、地域によって異なる食材や植物が歌われることもあるようだ。
むくろじゅ(無患子) はつたけ(初茸)とは?
『いちじくにんじん』で歌われる食材や植物の中には、普段あまり聞きなれないものもいくつか登場する。まずは「むくろじゅ(無患子)」。ムクロジ科の落葉樹で、果皮には多量のサポニンが含まれ、かつては石鹸として洗濯などに珍重されていた。むくろじゅ(ムクロジ)の黒くて硬い種子は、羽子板の羽根の玉や数珠(じゅず)の材料としても使われていたという。つぎに「はつたけ(初茸)」は、特に関東圏で親しまれていた食用キノコの一つで、他の地域では「あいずり」、「あおはち」、「あいたけ」などと呼ばれている。初茸は炊き込みご飯にしたり、味噌焼き・しょうゆ焼き、吸い物や煮物など、幅広い料理法で食される。
『いちじくにんじん』他の歌詞は?
数え歌『いちじくにんじん』には、他のわらべうたと同様、歌われる地域によって歌詞に若干のバリエーションが存在する。例えば、「しいたけ」を「シソ(紫蘇)」、「むくろじゅ」を「むかご」や「ろうそく」、「はつたけ」を「はくさい」や「はじかみ」、「きゅうり」を「くわい」などと置き換えて歌う地域もあるようだ。むかご(右写真)とは、ヤマイモ(山芋)やジネンジョ(自然薯)などの小さな肉芽、はじかみとは、料理に添えられる赤と白の2色の生姜(しょうが)のこと。数え歌なので、数字の読みとの関連性さえあれば、基本的にどんな食材を当てはめても自由に歌うことができる。こうした多様性こそわらべうたの醍醐味の一つだろう。
「いち にい サンマのしいたけ」との関係は?
『いちじくにんじん』以外の有名な数え歌として、「いち にい サンマのしっぽ」と歌う数え歌があるが、地域によっては「いち にい サンマのしいたけ」と歌われることもあるという。「サンマのしいたけ」という意味不明なフレーズについては、おそらく、『いちじくにんじん』の歌詞である「さんしょに しいたけ」の影響を受けているのではないかと推察される。数え歌『いちにサンマのしっぽ』は、このほかにもわらべうた『いろはにこんぺいとう』との融合バージョンも確認されており、子供たちの創造力豊かな遊び心が体現されているようで非常に興味深い。 
いちにさんまのしっぽ
いち にい さんまのしっぽ
ゴリラの息子
菜っ葉 葉っぱ 腐った豆腐
さんまのしいたけ? ゴリラのろっこつ?
他のわらべうたや数え歌にも共通して言えることだが、この『いちにさんまのしっぽ』も地域によって部分的に異なる歌詞が存在するようだ。まずは「さんまのしっぽ」の部分。ネットで検索してみると、「さんまのしいたけ」、「さんまるしいたけ」などの歌詞が少なからず確認できた。これはおそらく、他の数え歌『いちじく にんじん』の歌詞にある「さんしょ(山椒)にしいたけ(椎茸)」の影響を受けているものと推測される。「さんまる」は「さんまの」が訛ったものだろう。「ゴリラの息子」の歌詞については、「ゴリラの娘」、「ゴリラのろっこつ(肋骨)」、「ゴリラのろうそく」、「ゴリラのロケット」、「ゴリラのロボット」、「ゴリラのラッパ」などのバリエーションが見られた。数字の「6」の読みである「ろく」または「む」から始まる単語であれば、基本的にどんな言葉でも間違いということはないので、地域や時代によって様々なアレンジが存在する。これも数え歌の醍醐味の一つだろう。
腐った豆腐 豆腐は白い 白いはウサギ・・・?
『いちにさんまのしっぽ』は、1から10まで数える歌。当然のことながら、10まで数え終われば歌も終わるはず…。と思ったら、まだまだ続きを歌って楽しむ遊び方が存在するようだ。「菜っ葉 葉っぱ 腐った豆腐」と歌い終わった直後に続けて、「豆腐は白い 白いはウサギ ウサギは跳ねる 跳ねるはカエル」と尻取りのように次々と単語をつなげて歌うことができる。この「豆腐は白い」以降の歌詞は、わらべうた『いろはに金平糖(こんぺいとう)』から拝借したもの。最後には「電気は光る 光るはオヤジの禿げ頭!」で締めくくられる有名なあの歌だ。こうなると、もはや最初の数え歌としての役割は完全に消え失せ、ただ歌うこと自体を楽しんでいる状況に陥っていることと思われるが、こうした子供らしい柔軟な発想力・想像力はいつまでも大切にしていきたいものだ。 
一つとや
一つとや 一夜(ひとよ)明ければ
にぎやかで にぎやかで
お飾り立てたる 松飾(まつかざ)り 松飾り
   二つとや 二葉(ふたば)の松は
   色ようて 色ようて
   三蓋松(さんがいまつ)は 上総山(かずさやま) 上総山
三つとや 皆様子供衆(しゅ)は
楽遊(らくあそ)び 楽遊び
穴一(あないち)こまどり 羽根をつく 羽根をつく
   四つとや 吉原女郎衆(よしわらじょろしゅ)は
   手まりつく 手まりつく
   手まりの拍子の 面白や 面白や
五つとや いつも変わらぬ
年男 年男
お年もとらぬに 嫁をとる 嫁をとる
   六つとや むりよりたたんだ
   玉だすき 玉だすき
   雨風吹けども まだ解けぬ まだ解けぬ
七つとや 何よりめでたい
お酒盛り お酒盛り
三五に重ねて 祝いましょ 祝いましょ
   八つとや やわらこの子は
   千代の子じゃ 千代の子じゃ
   お千代で育てた お子じゃもの お子じゃもの
九つとや ここへござれや
姉(あね)さんや 姉さんや
白足袋(しろたび)雪駄(せった)で ちゃらちゃらと ちゃらちゃらと
   十とや 歳神様(としがみさま)の
   お飾りは お飾りは
   橙(だいだい) 九年母(くねんぼ) ほんだわら ほんだわら
十一とや 十一吉日(きちにち)
蔵開(くらびら)き 蔵開き
お蔵を開いて 祝いましょ 祝いましょ
   十二とや 十二の神楽(かぐら)を
   舞い上げて 舞い上げて
   歳神様へ 舞納(まいおさ)め 舞納め
これは東京(江戸)で歌われていた内容です。
三蓋松(さんがいまつ)とは、枝が三層になった松のこと。
穴一(あないち)とは、地上に穴をあけ、銭を投げて入ったときは取る遊び。
こまどりとは、駒鳥・独楽取り二様の解釈がある。
駒鳥とは、「子を取ろ子を取ろ」の古称。
独楽取りとは、独楽を手元へ引き手に取る遊び。
むりよりたたんだとは、むりやり結んだ縁。
玉だすきとは、玉章(たまずさ)とも。
やはらとは、感動詞「やあら」。
お千代とは、千代も変らぬめでたい意。
歳神様とは、年のはじめ、五穀の実りと幸福・繁栄を祈る神。
橙(だいだい)は、「代々しぼまぬ」意。
九年母(くねんぼ)は、橙の代用か。
ほんだわらも「穂俵」に通じる祝意から。
蔵開きとは、正月十一日、武家では具足に供えた鏡餅を開き、町家では倉の商品を積み出し帳面を新たにして祝った。
十二の神楽とは、神楽の曲目の組み合わせ。十二座。
2
一つとや ひと夜明くれば
にぎやかに にぎやかに
お飾り立てたり 松飾(まつかざ)り 松飾り
   二つとや 二葉(ふたば)の松は
   色ようて 色ようて
   三蓋松(さんがいまつ)は 春日山(かすがやま) 春日山
三つとや 皆さんこの日は
楽遊(らくあそ)び 楽遊び
春さき小窓で 羽根をつく 羽根をつく
   四つとや 吉原女郎衆(よしわらじょろしゅ)は
   手まりつく 手まりつく
   手まりの拍子は おもしろい おもしろい
五つとや いつも変わらぬ
年男 年男
年をはとらずに 嫁をとる 嫁をとる
   六つとや 無病でたたんだ
   玉ずさは 玉ずさは
   雨風吹いても まだ解けぬ まだ解けぬ
七つとや 南無阿弥陀仏と
手を合わせ 手を合わせ
後生(ごしょう)を願えや おじじ様 おじじ様
   八つとや やわら良い子だ
   器用な子じゃ 器用な子じゃ
   おちよで育てた お子じゃもの お子じゃもの
九つとや ここへござれや
あね御さん あね御さん
足袋や雪駄で ジャラジャラと ジャラジャラと
   十とや 塔福寺(とうふくでら)の鐘の音 鐘の音
   今なる鐘は除夜の鐘 除夜の鐘
3 権藤花代作詞
一つとや 
ひとりで早起き 身を清め 身を清め
日の出をおがんで 庭はいて 水まいて
   二つとや
   ふだんにからだを よくきたえ よくきたえ
   み国にやくだつ人となれ 民となれ
三つとや
身じたくきちんと ととのえて ととのえて
ことばは正しく はきはきと ていねいに
   四つとや
   よしあしいわずに よくかんで よくかんで
   ごはんをたべましょ こころよく ぎょうぎよく
五つとや
いそいでいきましょ 右がわを 右がわを
みち草しないで 学校に おつかいに
   六つとや
   虫でも草でも 気をつけて 気をつけて
   しぜんの姿をしらべましょう 学びましょう
七つとや
なかよくみんなで おとうばん おとうばん
ふく人 はく人 はたく人 みがく人
   八つとや
   休みの時間は 元気よく 元気よく
   まりなげ なわとび おにごっこ かくれんぼ
九つとや
心はあかるく 身はかるく 身はかるく
進んで仕事の手伝いに 朝夕に
   十とや
   東亜のまもりを になうのは になうのは
   正しい日本の子どもたち わたしたち 
 

 

  
 
■遊び歌1 / ひとりで遊ぶ手遊び歌

 

いちじくにんじん
いちじく にんじん さんしょに しいたけ
ごぼうで ほい
(人差し指から順番に一本づつ指を立てていき、ほいで両手をたたく)
(うたに出てくるものをひとつずつ食べていき、食べたものは声を出さずに歌う)
(「ほい」を食べた後は両手をたたかずにすれ違わせる)
かれっこやいて
かれっこ やいて 
(両手の甲を上に向け、上下に4回ふる)
とっくらきゃして やいて 
(甲を下に向け、上下に4回ふる)
しょうゆつけて 
(左の手のひらを右手で刷毛で塗るようになで、逆の手も同様に行う)
たべたら うまかろう 
(両手を口にあてたあと、両ほほに軽くあてる)
おさらにおはし
おさらに(両手 のひらを上に向ける)
おはしに(両手の2 本指を下に向ける)
ぼたもち(両手をグ ーの形に握る)
だんご(親指と人差 し指で輪を作る)
(だんだん早くして楽しむことができます)
ちゃちゃつぼ
ちゃ(左手を握 り、その上に右のてのひらをのせ「ふた」にする)
ちゃ(右のてのひら を左手の下につけ「そこ」にする)
つ(右手を握り、左 のてのひらで「ふた」をする)
ぼ(左の手のひらを 右手の下につけ「そこ」にする)
ちゃつぼ ちゃつぼにゃ ふたがない そこをとって (以下は同じ動作を繰り返す)
ふたにしよう(左手 の上に、右の手のひらで「ふた」になっているようにする。)
やすべーじじー
やすべーじじーは うんぽんぽん
やすべーじじーは うんぽんぽん 
そういうたぬきも うんぽんぽん
うんぽこ すんぽこ すこぽんぽん
(レベル1 リズムにあわせて両ひざをたたく レベル2 リズムにあわせて両ひざをたたき、「ぽん」と「ぽこ」のとこ ろで手をたたく レベル3 リズムにあわせて両ひざをたたき、「ぽん」と「ぽこ」のとこ ろは、交互にひじに触れる)
(子どもの年齢に合わせてレベルをかえる。だんだんとレベルを上げていっても よい)  
 
茶つぼ

 

茶茶つぼ 茶つぼ
茶つぼにゃ ふたがない
底を取って ふーたにしょ  
にぎったこぶしを茶壺に、空いた片方の手を広げて茶壺の底や蓋に見立て「ちゃちゃつぼちゃつぼ、ちゃつぼにゃ蓋がない。底を取って蓋にしよ」という歌の節にあわせて、開いた手のひらを茶壺に見立てたこぶしの上と下に交互に当てる。このとき開いた手のひらが握りこぶしの上と下に順番に交互に当てた後、右手と左手の茶壺と蓋・底の役割を入れ替える。
手遊び歌

 

いちにさんまのしっぽ
いち に さんまの しっぽ
ごりらの ろっこつ
なっぱ はっぱ
くさった とーふ
うちのうらの
うちのうらの くろねこが
おしろいつけて べにつけて
ひとにみられて
ちょいとかくす
かたどんひじどん
かたどん ひじどん
てっくび てのひら
ちんちょう ちのすけ
せいたか いしゃどん
こぞうこぞう
ここはてっくび
ここはてっくび てのひら
ありゃりゃに こりゃりゃ
せいたかこぞうに いしゃこぞう
おさけわかしの かんたろうさん
こどものけんか
こどもとこどもが けんかして
くすりやさんが とめたけど
なかなかなかなか おわらない
ひとたちゃわらう
おやたちゃおこる
だいこんつけ
だいこんつけ だいこんつけ
うらがえし
だいこんつけ だいこんつけ
おもてがえし
たぬきさん
たぬきさん たぬきさん
ひをひとつ かしとくれ
このやま こえて
このたに おりて
ひはここに ぴっこぴこ
ひとつとひとつで
ひとつとひとつで どんなおと
こんなおと
ふたつとふたつでどんなおと
こんなおと
みっつとみっつでどんなおと
こんなおと
よっつとよっつでどんなおと
こんなおと
いつつといつつでどんなおと
こんなおと
ぽっつんぽつぽつ
ぽっつんぽつぽつ あめがふる
ぽっつんぽつぽつ あめがふる
ざあーっと あめがふる
みみずのたいそう
みみずの たいそう
いちに いちに いちに いちに
もちっこやいて
もちっこやいて とっくらかえしてやいて
○○をつけて たべたら うまかろう  
お手玉唄

 

おひとつおろして
おひとつ おひとつおろして
 おさらい
おふたつ おふたつおろして
 おさらい
おってんしゃん おってんしゃん
 おろして おさらい
おつかみ おつかみ おろして
 おさらい
おちりん おちりん おっさらい
おひだり おひだり あわせてだぁりだり
なかとって しわよせ おさらい
せぇすけ しょうすけ おさらい
おてんぷし おてんぷしきりして
 おさらい
ごんきょうの ごんきょうのきりして
 おさらい
かんぎょ るいるいきりして
 おさらい
おばさま おばさま おばさま
 おばさまきりして おさらい
おたもと おたもと おさらい
おこそで おこそで おさらい
おしんちゃ おしんちゃ おさらい
おてした おてした たたいてひろって なげて
おおやまのっこえろ のっこえろ
 かえして おさらい
ぬりかえ ぬりかえ ぬりかえきりして おばかえ
おばかえ おばかえきりしておさらい
 いさきも一升 いさきも二升
 いさきも三升 いりめも四升
 おまけで五升 おさらい
さらって おばかくし かくしましょ
次の方 おあてなさい
おさらい
おさらい おひとつおひとつおろして
 おさらい
おふたつ おろしておさらい
おてさげ おてさげおろしておさらい
おつかみ おつかみおろしておさらい
おちりん おちりんおかけておさらい
おひだり おひだり おひだりたたいて 中きって しんめ
しんめとさっぱ さらりとてーすけ
 しょうすけ
さらりとおでぷし おでぷしおでぷし
手ぬげで おさらい
 さらりと かんぎょ
おきふな おきふなおろして
 さらりと かんぎょ
かんぎょ かんぎょまぬげて
 さらりとおこひざ
お小袖 お小袖 たたいておさらい
おたもと おたもとたたいておさらい
お手下 お手下 たたいて
 さらりと おかはし
おかはし おかはし たたいてまぬげて
 えっさけ えっさけ 一升
 えっさけ えっさけ 二升
 えっさけ えっさけ 三升
 えっさけ えっさけ 四升
 えっさけ えっさけ 五升
 おかくらし
ひんでひんで
ひんでひんで みでよんで
いこいんで あんまよんで
いちまんは にじゅういち
さんじゅうふりそで しじゅうしごばた
ごじゅう結んで ろくじゅうまめぼそ
しちじゅう ひ ふ み よ
はちじゅう ひ ふ み よ
ごじゅっかんのかわいい(○○さん)
いっちょ かし申した
おさらさらさら
おさらさらさら
宮のさいれんさん おくまんさん
たばこの煙出し ちょうはった
ひ ふ み よ いつ む なな やぁ ここ と
とうといお寺の鐘がなる
今なる鐘は除夜の鐘 いっちょかし申した
おっしょのさらさら
おっしょのさらさら
 さらさら さらぎやね
たばこの煙出し じょうはった
 ひい ふ み よ いつ む
 なな や ここの と
とうとうお寺の鐘がなる
今なる鐘はどこの鐘 除夜の鐘
じょやごや申せばありがたや
 ただいっちょついだ 
口あそび唄

 

つぶつぶ
つぶつぶ山さ歩(あ)えべ
おらやんだ おらやんだ
からすという黒鳥に
尻のまんがり目を
ちょくちょくとつつかれて
雨さえ降っじど
じっくじっくと痛みます
静御前の
静御前のおそばには
頭つるつる 武蔵坊
あいつおれより ちと強い
何でも坊主と見たならば
逃げるが勝ちよ がってんだ
かしこまってございます
さよなら三角
さよなら三角 またきて四角
四角は豆腐 豆腐は白い 白いは兎
兎ははねる はねるはノミ ノミは赤い
赤いはほおずき ほおずきはなる
なるは屁 屁はくさい くさいは便所
便所は深い 深いは海 海は青い
青いは空 空は高い 高いは富士山
富士山はすべる すべるはおやじのはげ頭
おみやげ三つ
おみやげ三つ たこ三つ
あした天気になあれ
おまけ バイバイ
数え唄
一にたちばな 二にかきつばたね
三に下りふじ 四にししぼたんね
五ついやまの千本桜
六つ紫いろよく染まるね
七つなよせば 八つ山ぶきはね
九つ小梅はちらちら落ちるね
十と殿さま葵の御紋ね
丸山土手から東を見ればね
門の扉はおとわさがいたのかえ
おとわささしたるべっこうのクシはね
誰にもろうたか源次郎さにもろたのか
もらった男は役者でないかぇなぇ
役者みこんでおとわさは恋れたのかえ
大黒舞唄
一に俵をふんまいて
二ににっこり笑って
三に盃さして
四つに世の中よいように
五つ泉の湧くように
六つ無病息災に
七つ何ごとないように
八つ屋敷を平らげて
九つ小倉をおっ立てて
十でとうとう納まった
お正月は
お正月はええもんだ
雪のような飯(まま)くって
油のような酒のんで
木(こ)っぱのような魚(とと)くって
お正月はええもんだ
悪口うた
△馬鹿かばまぬけ ひっとこなんきん南瓜 一銭五厘の下駄買って 便所掃除がつらがんべ
△泣き虫毛虫 はさんですてろ
△馬鹿かばちんどんや ひょっとこ 南京かぼちゃ お前のかあちゃん 出べそ んだからお前もでべそ
△でぶでぶ百貫でぶ 電車にひかれて ぺっちゃんこ
△みちこみんがらがって みたまたみねじ みってみられてみんたま ほいほい
△ひとつふたつはいいけれど
みっつ三日月はげがある
よっつよこちょにはげがある
いつついつ見てもはげがある
むっつむこうにはげがある
ななつななめにはげがある
やっつやっぱりはげがある
ここのつここにもはげがある
とおでとうとうつるっぱげ
米搗きうた
おく山でひとりで米搗くあの水車
何を待つやら くるくるとこぬか
こぬか出よ
あら日を送るよ いつかまた
世に出てままとなる
畑(はた)の中の石ころが(仙台)
畑(はた)の中の石ころが一人つぶやく声きけば
われとまめとは大小の
ひってきならぬ みのそうへ
いかでかまめにまくべきと
きのうたかぶり いたりけり
しかるにまめは知らぬ間に
ようようそう立ち 成長し
葉が出る 花咲く実を結び
さやがはじける 子ができる
思えばきのうに変わりなき
わが身のかいなき はずかしさ
さらばよ
(数人が輪になって手のひらにかくれるようなおはじきなどを一つ、うたいながら廻す。)
さらばよ さらばよし
静かにわたす
こがねのゆびわ
鬼の来ないまに
ちょいとかくす よいよい
絵描きうた
△つるにはののむし
△兄(にい)ちゃんが三円払って豆買って、くちばしとんがらして、あひるの子
△棒が一本あったとさ、はっぱかな。はっぱじゃないよ、かえるだよ。かえるじゃないよ、あひるだよ。六月六日に雨ざぁざぁ降ってきて、三角定規にひびいって、コッペパン二つ、まめ三つ。あんぱん二つ下さいな。あっというまに、かわいいコックさん。
△まるまる、まるまる、丸木ぶね土人の顔に耳かざり耳かざり。父さん母さんさようなら、涙流してあら、えっさっさ、ろくろく、ろくろくさんじゅうろく、またもやろくでろくでなし。
△なずなをゆでて タマリをかけて
たけのこ皮むいて あんかけて
戸棚のお砂糖ぺろっとなめた
三角めだまで にらまれた
それよりいっそう 死んだほうがいい
早く棺に入れられて
あたごの山にうずめられ
闇夜の晩に化けてくる
ひ、ふんだか
ひ、ふんだか、みやさか、ずきんこかぶって、とっとと歩けば、じいさんばあさん、みっけのけ
かぼちゃ芽出して
かぼちゃ芽出して つぼみがふくらんで
花が咲いて開いた おっちょこちょいの ちょい
赤いネクタイ
赤いネクタイ 長ズボン
山高帽子に 金時計
どうせおいらはなまけもの
うしろ向いて 前向いて
パイのパイのパイ
われら仏の子どもなり
われら仏の子どもなり
うれしい時も 悲しいときも
みよやの袖にすがりなん
チナンポ
チ、チ、チナンポ
ナンチクリンのプライトパイポ
イマジャ ニッチャパイポ シナポッポ
子守うた
こんなおじょめこ
きっくりやのふっくりこ
としもいがのに
さきだちなどつれて
江戸で一番 新湯で二番
酒田で三番
よしのやで四番子
だて男 だて男
おじゃのみ かやのみ
らっちょんちょん
まじない
△雷「まんざいらく、まんざいらく」
△針をさがす「なかぬくも、なかぬくも、何がないとて、おいしかるらん」
 
 
■遊び歌2 / 2人組で遊ぶ手遊び歌

 

特に2人組で行う手遊び歌では、代表的な始め方として「せっせっせーのよいよいよい」のフレーズが挙げられる。このフレーズでは、まず自分の右手と相手の左手、自分の左手と相手の右手をつなぐ。そして「せっせっせー」で縦に3度振った後、つないだまま両手を交差させるようにし、「よいよいよい」で再度3度縦に振って手を離す。 
ととけっこうよがあけた
ととけっこう よがあけた
まめでっぽう おきてきな
「おはよー」
(両手を合わせて顔の前で上下にゆらし、「おはよー」で左右に開く)
(まめでっぽう」のところは、子どもの名前を入れてもよい)
めんめんすーすー
めんめん(目じ りを指で2回なでる)
すーすー(鼻すじを 2回なぞる)
けむしし(眉を2回 なぞる)
きくらげ(耳たぶを 2回そっとつまむ)
ちゅっ(くちびるに そっとタッチ)
とうきょうとにほんばし
とうきょうと( 人差し指で手のひらをたたく)
にほんばし(人差し 指と中指で手のひらをたたく)
がりがりやまの(手 のひらをひっかく)
ぱんやさんと(手の ひらをパーンとたたく)
つねこさんが(手の ひらをつねる)
かいだんのぼって( 腕を上っていく)
こちょこちょ(くす ぐる)
いちりにり
いちり(両足の 指をつまむ)
にり(両足の足首を つかむ)
さんり(両足のひざ をつかむ) 
しりしりしり(おし りの両端をくすぐる)
(足首以外から始めることもできる)
にぎりぱっちり
にぎり ぱっちり たてよこ ひよこ
にぎり ぱっちり たてよこ ひよこ 
ぴよぴよぴよ
(両手のひらを合わせてまるめ、上下にゆらす。「ぴよぴよぴよ」で開く)
 
おちゃらかほい  
セッセッセーのヨイヨイヨイ
おちゃらか おちゃらか
おちゃらか ほい
おちゃらか かったよ
おちゃらか ほい
おちゃらか まけたよ
おちゃらか ほい
おちゃらか あいこで
おちゃらか ほい
『おちゃらかほい』は、二人組みで向かい合って遊ぶ日本の遊び歌・わらべうた。遊び方は、まず向かい合って両手をつなぎ、「セッセッセ〜の」で上下に3回両手を振って、「ヨイヨイヨイ」で両手をつないだまま交差させて上下に3回両手を振る。その後、左手を上に向けて相手に差出し、「おちゃ」で自分の左手を、「らか」で相手の左手を叩く。これを3回繰り返す。「ほい」でジャンケンをして、勝ったらバンザイ、負けたらうつむき、あいこなら腰に両手を当てる。勝ち負けの判定は、じゃんけんの勝敗ではなく、一連の動作が正確にできたか否かで判断する。相手が失敗するまで、徐々にスピードを上げながら繰り返していく。 
お寺の和尚さん

 

セッセッセーの ヨイヨイヨイ
お寺の おしょさんが
かぼちゃの種を まきました
芽が出て ふくらんで
花が咲いて すーぼんで
水をあげて
ジャンケン ポイ 
「お寺の和尚さんがカボチャの種を蒔きました」…と続くジャンケンの歌。おちゃらかほい
「おちゃらかおちゃらかおちゃらかほい」でじゃんけんをし、以下「おちゃらか勝ったよ(負けたよ・あいこで)おちゃらかほい」で延々とじゃんけんを続ける歌。
茶摘み

 

夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘みぢやないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠
   日和(ひより)つづきの今日このごろを
   心のどかに摘みつつ歌ふ
   摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
   摘まにゃ日本(にほん)の茶にならぬ 
日本の唱歌。文部省唱歌。作詞作曲ともに不詳。オリジナルの曲名は「茶摘」である。摘という字は小学校で教えないので教科書では「茶つみ」と表記している。
アルプス一万尺

 

アルプスいちまんじゃく こやりのうえで
アルペンおどりを さぁ おどりましょ
ランラランランランランランラン...ヘイ!
   おはなばたけで ひるねをすれば
   ちょうちょうがとんできて キスをする
   ランラランランランランランラン...ヘイ!
 

 

  
 

 

  
 

 

  
 
■遊び歌3 / 集団で遊ぶ遊び歌

 

 
かごめかごめ

 

□ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
□ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?
□ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?
□ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるつる滑った 鍋の鍋の底抜け 底抜いてたもれ
□ かごめかごめ 籠の中の鳥は いつもかつもお鳴きゃぁる(お鳴きやる) 八日の晩に 鶴と亀が滑ったとさ、ひと山 ふた山 み山 越えて ヤイトを すえて やれ 熱つ や(お灸を据えて、やれ熱や)
□ 籠目籠目 加護の中の鳥居は いついつ出会う 夜明けの番人 つるっと亀が滑った 後ろの少年だあれ?
□ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だぁれ?
□ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの番人 鶴と亀が滑った 後ろの少年だあれ?
中央に座った鬼が、自分の真後ろが誰かを当てるときの遊び歌。なお、文献では、このかごめかごめは江戸中期以降に現れる。『後ろの正面』という表現は、明治末期以前の文献では確認されていない。さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていない。地方により歌詞が異なる。
かごめかごめ 2 [手つなぎ遊び]
かごめ かごめ
かごめ かごめ
籠の中の鳥は
いつ いつ でやる
夜明けの晩に
つるつかめと すべった
うしろの正面
だあれ
主に女の子の遊び。1人が輪の中に目隠しをしてしゃがみ、他の子は両手をつなぎ輪にる。歌いながら右回り、歌の終わりで、鬼の真後ろの子の名前当てをする。当たらなければ、鬼が続き、当たれば鬼が交代する。  
はないちもんめ

 

勝ってうれしい はないちもんめ
負けてくやしい はないちもんめ
となりのおばさんちょっと来ておくれ
鬼がいるから行かれない
お釜かぶってちょっと来ておくれ
釜がないから行かれない
布団かぶってちょっと来ておくれ
布団破れて行かれない
あの子がほしい
あの子じゃわからん
この子がほしい
この子じゃわからん
相談しよう そうしよう
「もんめ(匁)」とは、貨幣として用いる銀の重量を表す単位で、一匁(いちもんめ)は約3.75グラム程度。花を一匁だけ買う際に、値段をまけて悲しい売り手側と、安く買ってうれしい買い手側の様子が歌われているとされる。一説には、貧乏な家の子供が口減らしの為に人買いに一匁(もんめ)で買われていく悲しい歌として解釈されることがある。 
「勝って嬉しいはないちもんめ」から続く歌。地方によって、いろいろなバージョンがある。
□ 宮城県南部 / まず、二組に分かれたらとなりのおばさんちょっと来ておくれ、鬼がいるから行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、釜破れて行かれない、鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲ないから行かれない。あの子がほしい、あの子じゃわからん、相談しましょ(相談すべし)、そうしましょ(そうすべし)」とやる。そして5で名乗り合ったら、「なーにで行くの」「ひっぱりこ(じゃんけん等)でゆくの」と勝負方法が選択できる。
□ 福島県1 / 「勝ってうれしいはないちもんめ 負けてくやしいはないちもんめ あの子がほしい あの子じゃ分からん その子がほしい その子じゃ分からん (ま〜るくなって)相談しましょ そうしましょ ちょいとま〜る〜め・・・き〜まった そっちからどうぞ そっちからどうぞ ××ちゃんがほしい ○○ちゃんがほしい 何でいくの (じゃんけん又は引っ張りっこなど)でいくよ」
□ 福島県2 / 「もんめもんめもんめはないちもんめ あの子がほしい あの子じゃ分からん 相談しましょ そうしましょ・・・○○ちゃんがほしい ××ちゃんがほしい」
□ 福島県3 / 「ふるさと求めてはないちもんめ・・・」ではじまる。
□ 福島県4 / 「き〜まった」と言った後、「となりの〇〇ちゃんちょっとおいで となりの××ちゃんちょっとおいで な〜にで決める? □□で決める(じゃんけん又は引っ張りっこなど)」
□ 長野県小諸市 / 「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばちゃんちょっとおいで、鬼が怖くて行かれない、お釜かぶってちょっとおいで、お釜底抜け行かれない、布団かぶってちょっとおいで、布団ビリビリ行かれない、あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよ」
□ 新潟県新潟市内 / 「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっとおいで、鬼が怖くて行かれません、お釜かぶってちょっとおいで、お釜底抜け行かれません、座布団かぶってちょっとおいで、座布団ぼろぼろ行かれません、あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しましょ、そうしましょ」で、それぞれ相談。決まったら「き〜まった〜き〜まった〜」と叫び、指名する人の名前を呼ぶ際「かわいいかわいい」をつける
□ 新潟県 / 「勝ってうれしいはないちもんめ」「負けて悔しいはないちもんめ」「隣のおばさんちょっとおいで」「鬼が怖くていかれませんよ」「お釜かぶってちょっとおいで」「お釜底抜けいかれませんよ」「お布団かぶってちょっとおいで」「お布団ボロボロいかれませんよ」「あの子がほしい」「あの子じゃわからん」「その子がほしい」「その子じゃわからん」「相談しよう」「そうしよう」 決まったほうから「きまった」と宣言し、じゃんけんをする
□ 群馬県 / 「勝って嬉しいはないちもんめ」「負けて悔しいはないちもんめ」「隣のおばさんちょっと来ておくれ」「鬼が怖くて行けられない」「御釜かぶってちょっと来ておくれ」「御釜底抜け行けられない」「御布団かぶってちょっと来ておくれ」「御布団ぼろぼろ行けられない」「あの子が欲しい」「あの子じゃ分からん」「この子が欲しい」「この子じゃ分からん」「相談しよう、そうしよう」
□ 埼玉県大宮市(現:さいたま市) / 「勝ってうれしいはないちもんめ、負けてくやしいはないちもんめ、となりのおばさんちょっと来ておくれ、鬼がいるから行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、釜がないから行かれない、布団かぶってちょっと来ておくれ、布団破れて行かれない(?)、あの子がほしい、あの子じゃわからん、この子がほしい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう」
□ 埼玉県川越市 / 「勝ってうれしいはないちもんめ」「負けて悔しいはないちもんめ」「隣のおばさんちょっと来ておくれ」「鬼が怖くて行かれない」「お釜かぶってちょっと来ておくれ」「お釜底抜け行かれない」「お布団かぶってちょっと来ておくれ」「お布団びりびり行かれない」「鉄砲かついでちょっと来ておくれ」「鉄砲玉無し行かれない」「あの子が欲しい」「あの子じゃ分からん」「この子が欲しい」「この子じゃ分からん」「相談しよう」「そうしよう」
□ 千葉県 / 「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、座布団かぶってちょっと来ておくれ、座布団ぼろぼろ行かれない、あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう」
□ 東京都 / 2と3で前に進む最後は片足を蹴り出す。「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団ぼろぼろ(若しくはびりびり)行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、(鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲あるけど弾がない、)あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう」
□ 神奈川県横浜市 / 「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲玉無し行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団びりびり行かれない、あの子が欲しい、あの子じゃ分からん、この子が欲しい、この子じゃ分からん、相談しよう、そうしよう」
□ 神奈川県川崎市 / 「勝ってうれしいはないちもんめ、負けてくやしいはないちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼がいるから行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲ないから行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団びりびり行かれない、あの子が欲しい、あの子じゃ分からん、この子が欲しい、この子じゃ分からん、相談しよう、そうしよう」
□ 静岡県1 / 遊び方3のあと、「あの子が欲しい」「あの子じゃわからん」「この子が欲しい」「この子じゃわからん」「ま〜るくなって相談、あっかんべ〜(と言いながらお互いに「あっかんべ〜」のしぐさをする)」と言う。5は、「××ちゃんが欲しい」「○○くんが欲しい」と言い、6で、指名された人同士でじゃんけんをする。
□ 静岡県2 / 遊び3のあと、「あの子が欲しい」「あの子じゃ分からん」「この子が欲しい」「この子じゃわからん」「まとまって相談、そうしましょ、ゴリラ、パンツ、あっかんべ〜」と悪態をついて、遊び4以降へ
□ 静岡県沼津市 / 「勝ってうれしいはないちもんめ」「負けて悔しいはないちもんめ」「隣のおばさんちょっと来ておくれ」「鬼が居るからいかれない」「お釜かぶってちょっと来ておくれ」「お釜底抜けいかれない」「お布団かぶってちょっと来ておくれ」「お布団びりびりいかれない」「あの子がほしい」「あの子じゃわからん」「その子がほしい」「その子じゃわからん」「相談しよう」「そうしよう」 決まったほうから「きまった」と宣言し、じゃんけんをする
□ 岐阜県 / 「勝ってうれしいはないちもんめ、負けてくやしいはないちもんめ となりのおばちゃんちょっとおいで、犬がおるからよういかん、お釜をかぶってちょっとおいで、穴があいててよういかん、座布団かぶってちょっとおいで座布団ぼろぼろよういかん。あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しましょ、そうしましょ。決ーまった・・・○○ちゃんがほしい ××ちゃんがほしい。(引っ張り合い)」
□ 愛知県西部(名古屋市など) / 「勝ってうれしいはないちもんめ、負けて悔しい大根の尻尾、隣のおばさんちょっとおいで、鬼がいるからよう行かん、お釜かぶってちょっとおいで、お釜底抜けよう行かん、座布団かぶってちょっとおいで、座布団びりびりよう行かん、あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しましょ、そうしましょ」 
遊び方
1. それぞれの組は手をつないで一列に並んで向かい合う。
2. 前回勝った組から「か〜ってうれしいはないちもんめ」と歌の一節を歌いだす。歌っている組は前に進み、相手の組はあとずさりする。はないちもんめの「め」の部分で片足を蹴り上げる。
3. 今度は負けた組が「まけ〜てくやしいはないちもんめ」と歌って、前に進む。
4. その後に、「タンス長持ち あの子が欲しい あの子じゃわからん 相談しましょ そうしましょ。」と歌の一節を交互に歌いながら前後に歩く。
5. 歌が終わると、それぞれの組で相談して、相手の組から誰をこちらの組にもらうかを決める。決まった組は「き〜まった」と叫ぶ。
6. それぞれの組は手をつないで一列に並んで向かい合い「××ちゃんが欲しい」と前に進みながらもらいたい相手を披露しあう。
7. 双方の代表者がじゃんけんを行い、勝った組の主張どおりにメンバーがもらわれていく。
8. 片方の組からメンバーがいなくなれば終了。つづける場合には1にもどる。
はないちもんめ 2
ふるさとまとめて はないちもんめ
ふるさとまとめて はないちもんめ
○○ちゃん取りたい はないちもんめ
□□ちゃん取りたい はないちもんめ
(じゃんけん)
勝ってうれしい はないちもんめ
負けてくやしい はないちもんめ
女の子の集団遊び。二群に別れ、互いに向き合って列を作る。先攻を決め、先攻は歌にあわせて前進し、スカウト希望を唱える。後攻めも、同様に歌にあわせて前進、スカウト宣言。代表者のじゃんけんで勝者は相手側の引抜が成功し、勝って嬉しいと歌う、相手方は負けて悔しがる。歌の主体となるほうが前進すると、相手は後退する。交互に前進後退を繰り返す。「もんめ」のところで前に蹴る。引き抜き合戦、人気者が狙われる。  
通りゃんせ

 

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ 
二人で手をつなぎアーチを作り、歌が続いている間に残りの子がその下を通り抜け、歌が終わった時にアーチの下にいた子を捕まえる遊び歌。
通りゃんせ 2
○通りゃんせ 通りゃんせ
△ここはどこの 細道じゃ
○天神様の 細道じゃ
△どうか通して くだしゃんせ
○御用のないもの 通しゃせん
△この子の 七つのおいわいに
お札を 納めに参ります
○行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
女の子の遊び。二人(○印)が繫いだ両手を高く上げ関所を作り、下を列になった子ら(△印)が通る。交互に歌ういながら通過するが歌の終わりに関所がしまる。じゃんけんで関番が交代。また、捕らえた子に小声でAが好きかBが好きか問い、組み分けをする、次の遊びに移るための前遊びともなる。  
ずいずいずっころばし 1

 

ずいずいずっこばし ごまみそずい
茶つぼに追われて トッピンシャン
抜けたら ドンドコショ
川原のねずみが 米食てチュッ
チュッ チュッ チュッ
おっとさんが呼んでも
おっかさんが呼んでも
行きっこ なぁーしよ
井戸のまわりで お茶わん かいたのだぁーれ  
鬼決めや、指遊びに使われる。「お茶壺道中」についての唄だと言われているほか、不純異性交遊を表す戯歌とも言われている。
ずいずいずっころばし 2
『ずいずいずっころばし』は、古くから日本に伝わる童謡・わらべうた。江戸時代の「お茶壺道中」にまつわる唄と一般的に解釈されている。
江戸時代には、京都府宇治市の名産品である宇治茶を徳川将軍家に献上するため、茶を詰めた茶壺を運ぶ行列が行われた。大名行列同様、街道筋(東海道、中山道)の住民は土下座などを強要されたことから「お茶壺道中」と呼ばれ、1633年から徳川幕府が倒れるまで続いた。庶民が行列の前を横切ろうものなら、女子供を問わず「手打ち」にされる身分制度の厳しい時代。「茶壷が来たらピシャンと戸を閉めて、誰が呼んでも外に出てはいけない」という戒めの意が込められているという。
ずいずいずっころばし
ごまみそずい
ちゃつぼにおわれて
どっぴんしゃん
   ぬけたら、どんどこしょ
   たわらのねずみが
   米食ってちゅう、
   ちゅうちゅうちゅう
おっとさんがよんでも、
おっかさんがよんでも、
いきっこなしよ
   いどのまわりで、
   おちゃわんかいたのだぁれ 
いろはに金平糖

 

いろはにこんぺいとう こんぺいとうは甘い
甘いはお砂糖 お砂糖は白い
白いは兎 兎は跳ねる
跳ねるは蚤 蚤は赤い
赤いはほおずき ほおずきは鳴る
鳴るはおなら おならは臭い
臭いはうんこ うんこは黄色い
黄色いはバナナ バナナは高い
高いは十二階 十二階は恐い
恐いはおばけ おばけは消える
消えるは電気 電気は光る
光るは親父のはげあたま 
一かけ二かけ

 

一かけ 二かけて 三かけて
四かけて 五かけて 橋をかけ
橋の欄干 手を腰に
はるか彼方を 眺むれば
十七八の 姉さんが
花と線香を 手に持って
もしもし姉さん どこ行くの
私は九州 鹿児島の
西郷隆盛 娘です
明治十年の 戦役に
切腹なさった 父上の
お墓詣りに 参ります
お墓の前で 手を合わせ
南無阿弥陀仏と 拝みます
お墓の前には 魂が
ふうわりふわりと ジャンケンポン
ドラマ「必殺仕事人」口上
一かけ 二かけ 三かけて
仕掛けて 殺して 日が暮れて
橋の欄干腰下ろし 遥か向うを眺むれば
この世は辛い事ばかり
片手に線香 花を持ち
おっさん おっさん どこ行くの?
あたしは必殺仕事人 中村主水と申します
「それで今日は、どこのどいつを殺ってくれとおっしゃるんで?」  
西郷隆盛が登場する、わらべ歌では新しめの歌。手合わせ、お手玉などで歌われる。
今年の牡丹

 

今年の牡丹はよい牡丹
お耳をからげてすっぽんぽん
もひとつからげてすっぽんぽん
遊び方
今年の牡丹は良い牡丹と輪になった子供達が歌う。その時鬼は、輪の外にいる。歌が終了すると鬼が輪になった子供達の所にやってきて「輪に入れて」と頼む。
最適な人数は10人前後でしょう。最低でも5人は欲しいし、学級全員でやるとちょっと多すぎて長続きしません。最大許容範囲で、5〜40人でしょう。
まず鬼を一人決めます。鬼決め(いずれ紹介)か、ジャンケンで負けた人が鬼になります。残りの人は手をつなぎ、内側を向いた円陣を作ります。鬼は円陣の外にいます。
コドモたちは、反時計回りに歩きながら、
「今年の牡丹はよい牡丹、お耳をからげてすっぽんぽん もひとつからげてすっぽんぽん」
と歌います。今年の牡丹はの所は手をつないだまま歩きます。お耳をからげてで、手を離し、自分の耳を指して指で円を描くようにくるくると手を回します。すっぽんぽんで手をパンパンとたたきます。また手をつなぎ、今年の牡丹は〜 と続けます。つまり上記の歌を2度繰り返して歌うのですね。
2度楽しそうにやったところで、鬼がやってきます。ここからは台詞の掛け合いです。
オニ 「入れてぇ」
コドモ「いや〜」
オニ 「どうして?」
コドモ「しっぽがあるから」
オニ 「しっぽ切って来るから入れて」
コドモ「血が出るからいや」
オニ 「川で洗って来るから入れて」
コドモ「川坊主が出るからいや」
オニ 「海で洗って来るから入れて」
コドモ「海坊主が出るからいや」
オニ 「そんなら今度うちの前を通ったとき、天秤棒でひっぱたくぞ」
コドモ「そんなら入れてあげる」
ここで、コドモたちはオニを輪に入れ、また楽しそうに、
「今年の牡丹はよい牡丹お耳をからげてすっぽんぽんもひとつからげてすっぽんぽん 今年の牡丹はよい牡丹お耳をからげてすっぽんぽんもひとつからげてすっぽんぽん」と動作を入れながら歌い回ります。二度やったところで、鬼が
オニ 「わたし帰る」
コドモ「どうして?」
オニ 「お昼ご飯だから」
コドモ「おかずはなあに?」
オニ 「蛙とナメクジ」
コドモ「生きてるの?死んでるの?」
オニ 「生きてるの」
コドモ「じゃあさようなら」
手を振って別れ、鬼は円陣から遠ざかる。するとコドモは手をたたきながら、「だれかさんの後ろに蛇がいる」囃す。鬼は振り返り、「わたし?」と聞く。子供達が「違うよ」と言うと、鬼は「ああ良かった」と言ってまた振り直り、歩み始める。鬼が歩き始めると、子供達が「だれかさんの後ろに蛇がいる」と手をたたきながら、囃す。鬼が振り帰り「わたし?」と聞くと「違うよ」と言い、鬼は「ああ良かった」と言ってまた歩む。するとみたび「だれかさんの後ろに蛇がいる」と囃す。鬼が振り返り、「わたし?」と聞くと、今度は「そう!」と叫んでみんなで逃げ回る。ここからは普通の鬼ごっこである。
捕まった者が次の鬼になり、残りの子は円陣を作る。最初に戻る。

「今年の牡丹」は鬼ごっこですが、演劇的要素があります。子供達は知りませんが、鬼とは蛇の精なのです。蛇の精と牡丹とが一体どのような関係があるのか、私には不思議ですが、なにか呪術的な
なにがしかの暗喩をそこに感じます。
子供達と遊んでいると、「おかずはなあに?」のあたりで、子供達の声がぬらぬらしてきます。「生きてるの、死んでるの?」は一種のクライマックスで、子供達は本当にこわそうです。
思えばこの演劇は、不条理な演劇です。楽しそうに遊んでいる輪に、入れてと頼んで断られる設定は、優れて子供達の現実的な恐怖を誘います。いや、と言われるその理由がまた、不条理そのものです。しっぽがあるから? しっぽなんてないよ。ところが鬼は、「しっぽ切ってくるから」と卑屈にも答えざるを得ません。すると、血が出る、川坊主が出る、海坊主が出る、と言を左右にしてみんなは聞いてくれないのです。不条理は深まります。ところが追い詰められて一転、暴力に訴えると、みんなはあっさりと屈するのです。私には、こここそ不条理に感じます。また、せっかく一緒に遊んでもらえたのにしばらくすると、もう帰る、というのも不思議です。そして、みんなの「だれかさんの後ろに蛇がいる」というこれまた不条理な囃し言葉。それは私か?と問えば、みんなは一斉に違うと答えます。これはほとんど、いや完全に「いじめ」です。
しかし、私は今学校などで「いじめ」が問題になるのは、子供達がこうした遊びを失ったのも原因の一つではないかとさえ、思っています。遊びは、子供達を解放するのです。ダークサイドへさえも。
では、この鬼ごっこは、鬼ごっこと関係のない歌がくっついているのでしょうか? そうではありません。この前半部分の演劇もどきは、鬼ごっこに対して重要な役割を担っているのです。それは、距離の創出です。
「だれかさんの後ろに蛇がいる」と3度鬼は輪から歩み去ります。その結果コドモと鬼は距離ができます。これは鬼ごっこにとって重要です。なぜなら鬼とコドモの距離があまりに近いと、たちどころに捕まって、逃げる−追う という鬼ごっこの楽しみが味わえないのです。ですから鬼はコドモと距離をおかなければなりません。「今年の牡丹」では、それが自然にとれるのです。
もう一つの距離があります。それは心理的な距離です。「今年の牡丹」の鬼はかなりつらいものがあります。不条理ないじめにあい、生の蛙やナメクジを食べるという想定になっているからです。オニは「鬼」という忌まわしい、恐ろしい名称がつけられています。それも同じ理由からで、オニは忌まわしいものでなければならないのです。もし鬼が楽しいものなら、みんな鬼から逃げる必要がなくなります。またみんな鬼に捕まりたがってしまいます。これでは鬼ごっこは崩壊します。だからオニは厭わしいもの、嫌なものでなければならないのです。「今年の牡丹」の演劇は、そうした機能を果たしているのです。
「だれかさんの後ろに蛇がいる」という声は、私の心の奥底へ響きます。この呪術的な言葉をだれもが昔聞いたことがあったのではないか、と私は思うのです。ただこれから先は、分かりません。「今年の牡丹」は失われてしまうのでしょうか?
「だれかさんの後ろに蛇がいる だれかさんの後ろに蛇がいる 」 
せんべいやけた

 

「せんべい、せんべい、やけた。焼けたせんべいひっくり返せ」と歌いながら手の表と裏をつかって遊ぶ歌。
遊び方1 参加者全員で輪になって遊ぶ場合
1 じゃんけんなどで「親」を決め、輪になって、甲を上にして両手を前に出します。この手をおせんべいに見立てます。「親」が「お、せ、ん、べ、や、け、た、か、な」と歌いながら、一人ひとりの手の甲を指していきます。「な」に当たったら、その手をひっくり返します。これを繰り返します。
2 上に向けた手が、もう一度「おせんべやけたかな」の「な」に当たった人は、その手を「もぐもぐもぐ」と食べるまねをします。おせんべいが焼けたあとのお話も楽しみましょう。
親「何味だったかな?」
子「おしょうゆ味」(味は子が自由に決めます)
親「じゃあ、おしょうゆ味のおせんべいをみんなで食べましょう」
全員「もぐもぐもぐ」
遊び方2 「親」がメーンになる場合
自分の手を後ろに隠しておき、「おせんべやけたかな」の「な」で片手ずつパッと前に出して、おせんべいに見立ててひっくり返していきます。焼けたあとのお話を、子どもと楽しんでみてください。
親「さあ、何味のおせんべいができたかな?」
子「お砂糖」(味は自由に子が決めます)
親「お砂糖味ですね。甘いかな? 食べてみましょう。ぱくぱくぱく」 
あぶくたった 1

 

「あぶくたった にえたった にえたか どうだか 食べてみよう むしゃ むしゃ むしゃ まだ にえない」と歌って鬼ごっこになる。
遊び方
1 おにを1人決める。
2 おにはしゃがんで両手で顔をかくす。他の人は、おにを囲んで手をつなぐ(かごめかごめと同じ要領)。
3 歌をうたいながら、歌に合わせて動く。
(1)手をつないだまま、おにの周りをぐるぐる歩いて回る
「あーぶくたった煮えたった 煮えたかどうだか食べてみよう」
(2)おにの方を向き、食べる真似をする
「むしゃむしゃむしゃ」
(3)首を横に降り、片手を顔の前で左右に揺らす
「まだ煮ない」 ※(1)〜(3)を2、3回繰り返す。
(4)「もう煮えた」
(1)〜(3)を繰り返した後、3回目で(もしくは4回目)で、(2)の後にうなずくようにしてうたう。
(5)歌の歌詞に合わせてジェスチャーをする
「ごはんを食べて 歯磨きをして おふろに入って 電気を消して」
(6)しゃがみ、両手を方頬にあてて目をつぶり、寝るジェスチャーをする
「おやすみなさーい」
4 みんなが寝たら、おには輪の外側に出て、「トントントン」と言う。
5 寝ている子は、「なんの音?」と聞く。
6 おには、「風の音」「新聞やさんの音」「冷蔵庫の音」「物が落ちた音」など答え、寝ている子たちは、「あーよかった。」と言ってまた寝る。これを繰り返す。
7 おにが、「おばけの音」「おにがきた音」などと言ったら、寝ている子たちは「キャー」と一斉に逃げ出す。
8 ここからは普通の鬼ごっこと同じで、鬼にタッチされた人が今度はおにになってまた1〜8までの工程を繰り返して遊ぶ。 
あぶくたった 2

 

あぶくたった にえたった
にえたか どうだか 食べてみよう
このような歌い出しから始まる『あぶくたった』は、何人かの子供たちが輪になって遊ぶ日本の古い童謡・わらべうた。複数の子供たちが手をつないで輪を作り、中に一人鬼役の子を入れて、時計回りに回りながら歌い進めていく。
わらべうた『あぶくたった』の前半部分では、「煮えたかどうだか食べてみよう」と何かを煮ている描写がなされているが、これは一体何を煮ているのだろうか?
子供たちが実際に輪になって遊ぶ場合には、いわゆる鬼ごっこの鬼の役(おばけの役)をする子供が輪の中に入るが、これを「追いかける役割」としての鬼ではなく、ツノの生えた実体のある怪物としての鬼として捉えてしまうと、ちょっと怖い意味の童謡になってしまう。
『あぶくたった』の後半の歌詞では、煮て食べた物が夜におばけになって出てくるというストーリー展開になり、ここから鬼ごっこのような遊び方につながっていくのだが、そこは「鬼」という言葉自体に問わられず、ニワトリやブタのように普段の生活で煮て食べている食用の生き物が夜に「おばけ」になって出てきたと考えるのが、(それが面白いかは別として)幼児の教育上、道徳的に妥当な解釈と言えるだろう。
煮る、寝る、おばけの3部構成
今日広まっている『あぶくたった』の一般的なストーリーは、大きく分けて3つ、「煮る(食べる)」、「寝る」、「おばけ出現(そして鬼ごっこへ)」という三部構成になっているようだ。
曲名である『あぶくたった』が直接関連してくるのは第1部の「煮る(食べる)」パートのみ。第2部の「寝る」、第3部の「おばけ出現」パートは、場面設定や状況がそれぞれ明確に分離されている。
第1部 「煮る(食べる)」
第1部「煮る(食べる)」パートは、他のパートと比べて古い「わらべうた」としての色合いが最も強く感じられる場面と言える。これは筆者の勝手な想像だが、わらべうた『あぶくたった』は元々この第1部のパートのみの歌だったのではと思われるほど、残りのパートとの空気感の違い、温度差が感じられる。実際、どの時代や地方の替え歌を見ても、この第1部パートの歌詞にはバリエーションがほとんど見られないように思われ、この部分を土台に、後世になって第2部、第3部のストーリーが加えられていったのではと推測されるが、本当のところは全くもって不明だ。
あぶくたった にえたった
にえたか どうだか
食べてみよう
   むしゃ むしゃ むしゃ
   まだ にえない
あぶくたった にえたった
にえたか どうだか
食べてみよう
   むしゃ むしゃ むしゃ
   もう にえた
第2部 「布団を敷いて寝る」
第2部「寝る」パートでは、場面は夜になり、布団に入って寝るまでの様子が描写される。この第2部からは数多くの替え歌が存在し、時代や地域によって様々な遊び方がネットでも確認できる。その歌詞の一例を挙げてみよう。
例1
皿を洗って棚にしまって
お便所いってお布団敷いて
電気を消して「おやすみなさーい」
例2
戸棚にしまって鍵を掛けて がちゃがちゃがちゃ
お風呂に入って ごしごしごし
お布団引いてねーましょ
例3
戸棚に入れて 鍵を掛けて ガチャガチャガチャ
御飯を食べて ムシャムシャムシャ
お風呂に入って ゴシゴシゴシ
布団を敷いて 寝ましょ
例4
お皿を洗って ガチャガチャガチャ
棚にしまって ゴトゴトゴト
テレビを見て ワイワイワイ
トイレに行って ジャージャージャー
お布団ひいて ヨイショヨイショヨイショ
電気を消してさぁねよう。
この第2部は時代や地域によってかなりの替え歌があるようで、歌の長さや内容は多岐にわたるようだが、ストーリーの展開・結末としては、夜になって布団を引いて電気を消して寝ましょう、というオチになるのはお約束なようだ。だが、第2部がまったく存在せず、いきなり夜中になって「お化け出現」の話に飛ぶバージョンの替え歌もあるようで、なかなか奥が深い。この第2部省略バージョン(二部構成版)の歌詞は後述する。
第3部 「おばけ出現」
わらべうた『あぶくたった』最終パートである第3部「おばけ出現」では、夜中に正体不明の何かが、カタカタカタ、トントントンと物音を立て、しばらく問答を繰り返した後に、自らがお化けであることを明かし、寝ていた者を驚かせる展開となる。実際に子供たちが遊ぶ際には、このお化けが鬼ごっこの鬼のような位置付けで、周りにいた子供たちを追いかけていくことになる。それでは第3部「おばけ出現」の歌詞の一例を見てみよう。
例1
鬼:「カタカタカタ」
周りの子供:「何の音?」
鬼:「風の音」
周りの子供:「あーよかった!」
鬼:「カタカタカタ」
周りの子供:「何の音?」
鬼:「おばけの音!」
周りの子供:「キャー」
例2
鬼:トントントン
周りの子供:何の音?
鬼:風の音
鬼:トントントン
周りの子供:何の音?
鬼:おばけだー!
周りの子供:わー!
この第3部にも様々なバリエーションの替え歌が存在するが、鬼の役の子供と他の子供がお約束的な会話を何度かはさむのがお決まりのようで、最後には「お化けだー!」と正体を明かして、そこから鬼ごっこへと移行し、捕まった人が次の鬼役となるという遊びが繰り返される。
二部構成バージョン
既に少し説明したが、第2部の「布団を敷いて寝る」パートを省略して、この第3部「お化け出現」パートへ移行する替え歌も存在する。この第2部が省略版されるバージョンでは、お化けパートは次のような歌詞となる。
例1
となりの おばさん
時計は なんじ
夜中の2時
ほんとの おなまえ
なんと いうの
ヤナギの 下の
おおにゅうどう
例2
夜中の三時
おばさんの名前はなーに?
おきく
本当の名前はなーに?
柳の下の 猫幽霊
この第2部省略パターンでは、深夜におばさんが登場し、本当の名前を聞くと実はおばさんは妖怪だったというストーリーが展開されるようだ。なお、「第2部が省略される」と書いたが、おそらく替え歌が成立した時系列的には、わらべうた『あぶくたった』は、しばらく2部構成だったものが、後世になって脚色されて3部構成になったのではないかと筆者は想像している。筆者の私見を最初からまとめて繰り返すと、『あぶくたった』はもともと第1部のみのわらべうたで、後に「おばさん登場」パターンの2部構成となり、さらに後の時代に自由に替え歌が進んだ結果、3部構成の劇場的な展開に発展していったのではないかと勝手に推測している。 
集団あそび唄

 

あのね和尚さんがね
あのね 和尚さんがね
暗いお堂でね いちりこらんらん
なむちん かむちん あら見てたのね
いちりこ らんらん
らっきょ食ってしっしっ
しんがらがって きゃっきゃっ
キャベツで ほい
三人遊び
(一人はさそう人、一人はお母さん、一人は子ども)
○○ちゃん、学校さ行がねが
 今、寝っだ
○○ちゃん、学校さ行がねが
 今、歯みがいっだ
○○ちゃん、学校さ行がねが
 今顔洗ってだ
○○ちゃん、学校さ行がねが
 今服きった
○○ちゃん、学校さ行がねが
 今、飯(まま)食ってだ
○○ちゃん、学校さ行がねが
 今行った(子どもが走って逃げる)
え?(追いかけて頭を三回叩く)
泡ぶくたった 1 (おにごっこ)
あわぶくたった 煮たった
 煮だかどうだか 食べてみろ
まだ煮立んね となりのおばさん
 時計は何時 三時
お前のお名前何と おにさん
 柳の下の大入道 よしよし
あぶくたった 2
○あぶくたった 煮いたった
△煮えたか 煮えねか たべてみよ
あむ あむ まだ煮えない
○もう煮えたか食べてみよ
△あむ あむ あむ
○隣の奥さん時計なん時
△夜中の十二時
○奥さんの名前なんていうの
△柳の下のお化け
最後、「柳の下のお化け」と鬼が言うとで皆がパット散る、鬼に捕まると鬼と交代する。
いったんこ
いったんこのいったんだるまのこ
いっさらもっさら でてきて
いのはまいんぐりこ(アラ)いんぐりこ
にいたんこの にいたんだるまのこ…
いちりっちゃん
いちりっちゃん ころりだるまの
めだまのころりちゃん
にいりっちゃん ころりだるまの
めだまのころりちゃん
〔以下、三、四、五…と続く〕
どのせんべいが
どのせんべいが焼けたかな
 神さまのいうとおり
えびすさまにも大黒さまにも
 聞いてみろ
じじばばたのんで聞いてみろ
(火鉢に数人で手をかざしてこの歌を歌いながら、一人が一方向に手のひらを指さしながらまわり、「じじばば…」で、当たった人は手を裏返して当たる。)
おらえのこんぺんとう
おらえのこんぺんとうは
 ほんとに困ります 困ります
困ったあとから 涙がぽろぽろぽろぽろ
ごほしたあとから おたもとで
 拭きましょ 拭きましょ
拭いたあとから おたもとを
 洗いましょ 洗いましょ
洗ったあとから おたもとを
 干しましょ 干しましょ
干したあとから おたもとを
 はずしましょ はずしましょ
はずしたあとから おたもとを
 たたみましょ たたみましょ
たたんだあとから たんすを
 開けましょ 開けましょ
開けたあとから おたもとを
 しまいましょ しまいましょ
しまったあとから たんすを
 閉めましょ 閉めましょ
閉めたあとから ねずみが
 がりがり がりがり
かじったあとから たんすを
 開けましょ 開けましょ
開けたあとから おたもとが
 ぼろぼろ ぼろぼろ
 ぼろ屋さ売ってやれ 売ってやれ
下駄かくし 1
下駄かくしまんないた
まんないたの下で
味噌ふり塩ふり しょっぱいぴ
数の子好きなやつ抜けりゃんせ
下駄かくし 2
下駄かくしまんないた
まんないたの下で
やすべのおかたが死んだと言われて
味噌なめ 塩なめ しょっぱいぴ
かごめかごめ
かあごめかごめ
かごの中の鳥は いつまで鳴きゃる
夜中のばんに
つるとかめのかあけっこ
だあれがうしろ
子とり
子買お 子買お 子があてなんしょ
みのぜん こまぜん こまくらぜんよ
○Aそれがよければ どの子が欲しい
○Bあの子がほしい
○A何買って食せる
○Bまんじゅう買って食せる
○Aまんじゅうは腹の大毒で
○B洗ってやる
○Aあらんくさくなる
○B拭いてやる
○Aふきんくさくなる
ほんじゃお椀に金いっぱい
はつムカサリ
なかのなかの
なかのなかの地蔵(じんぞう)
なして そんなに家小(ち)っちゃい
にくまねから おがれおがれ
花いちもんめ
勝ってうれしい花いちもんめ
負けてくやしい花いちもんめ
となりのおばさん ちょっとおいで
鬼がこわくて行かれない
お鍋かぶって ちょっとおいで
それでもこわくて行かれない
おふとんかぶって ちょっとおいで
まだまだこわくて行かれない
杖をついて ちょっとおいで
あの娘(こ)がほしい この娘(こ)がほしい
相談しましょ そうしましょ
 となりの○○ちゃん ちょっとおいで
 となりの○○ちゃん ちょっとおいで
 ジャンケンポン
蛙どの蛙どの
蛙どの蛙どの いつ死んだ
夕べの餅食って 今朝死んだ
お医者さま来たから 戸をあけろ
カラトンカラトン こんにちわ
コンニャク一枚 油揚げ一枚
スポポンのポン(あわせてジャンケンポン)
さいなら三角
さいなら三角 また来て四角
四角は豆腐 豆腐は白い
白いはうさぎ うさぎは跳ねる
跳ねるはのみ のみは赤い
赤いはほうずき ほうずきは鳴る
鳴るはへ へはくさい
くさいは便所 便所は長い
長いは廊下 廊下はすべる
すべるはとっちゃのはげ頭
どちらにしようかな
どちらにしようかな となりの おばさんに よくよく きけば わかります
二者択一の際、甲乙を指で交互に指して、歌の終わりで指している方を決めとする。
坊さん坊さん
坊さん 坊さん
どこいくの
わたしは 田んぼへ稲刈りに
そんなら 私も連れらんせ
お前が行くと 邪魔になる
かんかん坊主 糞坊主
うしろの正面 だぁれ
輪の中の鬼は目を瞑りしゃがみ、たの子は手を繫いで輪になり、歌いながら回る。歌の終わりでとまる。鬼は後ろになった子を手探りで当てる。
らかんさん
らかんさんが そろったら
まわそじゃないか
よいやさの よいやさ
よいやさの よいやさ
よいやさの よいやさ
よいやさの よいやさ
女の子の遊び。一組が大抵は4人、夫々が右足を膝で曲げ、足首を後ろの子の内膝に挟む。 4人の足が揃って組み終わると、櫓状になるので、右手を前の子の肩に添え、片足で一緒に右回りする。その時、全員で歌うのがこの歌。呼吸が合わないと、櫓組みがばらけてしい続かない。上手になると、両手で手拍子を打って回転を続け、回転数を競う。
なわとび唄

 

大波小波
大波小波で風が吹いたら山よ
郵便配達 お上の御用でえっさっさ
ささまきこ こっぱのこ
大波小波
大波小波 せんどうさんが
ひっくりかえって 大さわぎ
おじょうさんお入り
おじょうさんお入り
おはいりになったら じゃんけんぽん
負けたら さっさとお逃げなさい
くまさんくまさん
くまさんくまさん まわれ右
くまさんくまさん 手をついて
くまさんくまさん 片足あげて
ひ ふ み よ いつ む なな や ここの と
一羽のからすが
一羽のからすが かぁかぁ
二羽のにわとり コケコッコー
三羽のさかなが およいでる
四つのようかん 食べたいなぁ
 それ一ぬけろ それ二ぬけろ
 それ三ぬけろ それ四ぬけろ
ひといりひい
ひといりひぃ ふたいりひぃ
みいいりひぃ よいりひぃ
ごいりひぃ ろくいりひぃ
しちいりひぃ はちいりひぃ
きゅういりひぃ じゅういりひぃ
たわらのねずみが
たわらのねずみが一匹だ
ほら二匹だ ほら三匹だ ほら四匹だ
ほら五匹だ…
ほらおかえり ほらおかえり
ほらおかえり…
おおやまの おおやまの えんどう豆が あおくさい
おひめさま にげだした おとのさま
おいかけた いちはっさい にはっさい さんはっさい…
いちぬけろ それにぬけろ
それさんぬけろ…
 
 
■手鞠(手毬)歌
 

 

(手まり歌、手まり唄、手毬歌、手毬唄) 少女たちが手まりをつきながら歌った童歌、遊び歌の一種である。
明治の中期頃からゴムが安価になり、よく弾むゴムまりがおもちゃとして普及してからは、正月だけでなく通年の遊びとなった。そのリズミカルな運動にあわせた、さまざまな歌が作られ、童歌として各地に伝わる。なお、江戸時代から遊郭などには手毬歌なるものがあったが、日露戦争や、明治中・後期に話題になった文芸作品に題材を取ったものが多く残るのは、子供の遊びとして広く普及してからと思われる。歌の最後でスカートで手まりを隠したり、後ろ手に取ったりなど様々な「フィニッシュ」をとることが多い。
1950年代までは、路地で手まり歌を歌いながら毬をつく少女の姿が見られたものだが、路地にも車が入るようになり、また、テレビが普及して、子供が戸外で遊ぶことが少なくなったことから、今ではほとんど忘れられている。
代表的な手まり歌
あんたがたどこさ
一番はじめは一の宮
京の手まり歌(丸竹夷)
まるたけえびすに、おしおいけ、あねさんろっかく、たこにしき、しあやぶったかまつまんごじょう、せったちゃらちゃらうおのたな、ろくじょうひっちょうとおりすぎ、はっちょうこえればとうじみち、くじょうおうじでとどめさす
丸太町・竹屋町・夷川・二条・押小路・御池、姉小路・三条・六角・蛸薬師・錦・四条・綾小路・佛小路・高辻・松原・万寿寺・五条、雪駄屋町(今の楊梅通)・魚の棚、六条、七条・八条・九条の横の通りをうたう。
一列談判
一列談判は1950年代頃までよく歌われていた東京の手まり歌。イチ、ニ、サ、シ…と各句の頭に数字を読み込んだ数え歌の形をとっている。「一列」は意味不明だが、「一月」(日露開戦直前の1904年1月に最後の交渉が決裂したことを指す)の転訛とも、「日列」(=日本対列強)の転訛とも、交渉会場のテーブルが一列に並んでいるから、ともいう。
   一列談判破裂して、日露戦争始まった
   さっさと逃げるはロシヤの兵、死んでも尽すは日本の兵
   五万の兵を引き連れて、六人残して皆殺し
   七月十日の戦いに、哈爾浜(はるぴん)までも攻め破り
   クロパトキンの首を取り、東郷元帥万々歳
乃木大将
乃木大将も1950年代頃まで全国でよく歌われていた手まり歌。最後の語句が、最初の語句に戻り延々ループするしりとり歌になっているのが特徴で、手毬歌や縄跳び歌として歌われた。しりとり歌であるため、「野蛮国(架空の国?または当時のロシアは大国ながら民度の低い国とされ「野蛮国」とも言われたとも)」、「土瓶の口(砲台のことか?)」、「金の玉(財宝?、弾丸?、睾丸?)」「チャンチャン棒(鈴のついた棒。当時の清国人への蔑称チャンチャン坊)」「犬格子」ちなど若干意味不明な語句が連なっている。
   日本の、乃木さんが、凱旋す、雀、目白、ロシヤ、
   野蛮国、クロパトキン、金の玉、
   負けて逃げゆくチャンチャン棒(坊)、
   棒で叩くは犬格子(犬殺し)、
   シベリア鉄道長けれど、
   土瓶の口から火を噴けば、バルチク艦隊壊滅し、
   死ぬ気で尽すは日本の、乃木さんが、凱旋す…
都霊詩伝
都霊詩伝も1950年代頃まで全国でよく歌われていた手まり歌。伝説をまとめた歌であり、大半は幽霊や心霊現象などまとめたものである。
   都の女が夜一人
   知らぬ知らざるその姿
   伝うる話はうつつかな
   いやいやそうとは限らんぞ
   右に左に揺れ動く
   着物の袖があなたの耳に今届く
   すれ音は風に流され
   トレネ市電の中に消えてゆく  
 
あんたがたどこさ

 

あんたがたどこさ 肥後さ
肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ 船場(せんば)さ
船場山には狸がおってさ
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉でちょいとかぶせ 
「あんたがたどこさ」は、熊本市船場地区を舞台とした童謡・わらべうた。古くは女の子の手まり唄(まりつき唄)として歌われた。
遊び方は、4拍子のリズムでボールをついて、「さ」の所で足にくぐらせる。最後の「ちょいとかぶせ」でスカート(昔は着物)でボールを隠す。
唄の「せんば(船場)」とは、熊本の船場地区ではなく、埼玉県川越市の仙波山を指しているのではないのか?こんな有力説が存在する。江戸時代後期の幕末に、薩長連合軍が倒幕運動のために川越の仙波山に進行していたときのこと。付近の子供たちがどこからきたのか尋ねる様子が歌詞に描かれているという。川越市には「仙波山」があり、仙波山には徳川家康公を祀った仙波東照宮(せんばとうしょうぐう)が存在する。徳川家康は「狸」の俗称で知られている。
こう考えると、「船場山には狸がおってさ」の部分は「仙波山」と歌詞を書き変えても話の筋が通ることになる。ややこじつけ気味だが、説得力のある面白い解釈だ。
童歌(わらべうた)の中の手鞠歌のひとつ。熊本県熊本市(異説:埼玉県川越市)が舞台。正式な題名は肥後手まり唄。
あまり知られていないが、もう一つある。
   あんたがたどこさ 肥後さ 
   肥後どこさ 熊本さ 
   熊本どこさ 船場さ
   船場川にはえびさがおってさ 
   それを漁師が網さで捕ってさ 
   煮てさ 焼いてさ 食ってさ
また、九州では「それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ」ではなく、「うまさのさっさ」になっている場合が多々あり、実際、歌の舞台となっている船場橋(路面電車の停留場名としては「洗馬橋」の表記となっている)一帯でも「うまさのさっさ」の歌詞で広く伝わっているため、こちらが原型であるという説もある。
この歌詞でまりつきをする時は、歌詞の「さ」でまりをついた手とまりの間に足を通す。また、最後の「隠せ」ではまりを袴で覆ってしゃがむ。まりが袴から転がり出してしまったら失敗となる。和服を着ていなければスカートで代えることができる。ただしズボンではこれが出来ない。
異説
「あんたがたどこさ」を関東地方の童歌とする資料・研究が多方面からなされている。実際、唄われている歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言である、と古くから研究者の指摘が多い。熊本のことが触れられているだけで、熊本で生まれた童歌ではない、とする熊本の研究家も少なからずいる。
この童歌の発祥地は、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)とする説である。
「あんたがたどこさ」のような「問答歌」は、幕末から明治時代初期に生まれた手鞠歌の形式である。
史実として戊辰戦争時に、薩長軍が東征軍として彰義隊の残党である振武隊を追って川越城に進駐し、城に隣接する仙波山に駐屯していた。仙波山とは仙波古墳群のある周辺一帯の別名である(熊本には船場川はあっても船場山や仙波山という地はない)。仙波山付近の子供たちが兵士にどこからきたのか尋ね、熊本藩出身の兵士が答える様子が歌詞に描かれているという。「肥後どこさ 熊本さ」という問答は肥後(熊本)に不案内な関東だからあり得る会話で、官軍に帰順した川越藩の子供たちが立派な銃を所持している官軍兵士のご機嫌を取っている場面が唄われている、などの説である。
川越の仙波山は、「古狸」と呼ばれた江戸幕府開祖の徳川家康を祀る「日本三大東照宮」のひとつ、仙波東照宮がある。また川越城内には「通りゃんせ」の発祥の地とされている三芳野神社(異説あり)もある。
これに対し、2016年3月19日放送のNHK『ブラタモリ』で熊本市が取り上げられたときは、熊本市新町付近は堀が作られ、その堀を作ったときの土を盛り上げた土塁を「せんば山」と呼んでおり、そこには狸がいたことが示されている。
なお、この異説の元となっている太田信一郎『童謡を訪ねて』には、この説について「地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされています」とのみ説明しているが、その出典は明らかにされていない。 一方、川越郷土史研究家で川越市史の編纂に当たった岡村一郎は、川越でなく「熊本城下の洗馬山のほうが正しい」としている。
道成寺、道成寺のてまり唄

 

トントンお寺の 道成寺(どうじょうじ)
釣鐘(つりがね)下(お)ろいて 身を隠し
安珍清姫(あんちん きよひめ) 蛇(じゃ)に化けて
七重(ななよ)に巻かれて ひとまわり ひとまわり
   トントンお寺の 道成寺
   六十二段の階(きざはし)を
   上がり詰めたら仁王(におう)さん
   左は唐銅(からかね)手水鉢(ちょうずばち) 手水鉢
安珍・清姫伝説による和歌山県の手鞠歌。
安珍・清姫伝説
紀州道成寺にまつわる伝説のこと。思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女の清姫が激怒のあまり蛇に変化し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すことを内容としている。
安珍清姫の伝説については、説話として古く平安時代の『大日本国法華験記』(『法華験記』)、『今昔物語集』に現れる。さらに古くは『古事記』の本牟智和気王説話に出雲の肥河における蛇女との婚礼の話がある。内容については伝承によって相違があり、よく知られているものは次のようである。
安珍・清姫のなれそめ / 時は醍醐天皇の御代、延長6年(928年)夏の頃である。奥州白河より熊野に参詣に来た僧がいた。この僧(安珍)は大変な美形であった。紀伊国牟婁郡(現在の和歌山県田辺市中辺路:熊野街道沿い)真砂の庄司清次の娘(清姫)は宿を借りた安珍を見て一目惚れ、女だてらに夜這いをかけて迫る。安珍は参拝中の身としてはそのように迫られても困る、帰りにはきっと立ち寄るからと騙して、参拝後は立ち寄ることなくさっさと行ってしまった。
清姫の怒り / 騙されたことを知った清姫は怒り、裸足で追跡、道成寺までの道の途中(上野の里)で追い付く。安珍は再会を喜ぶどころか別人だと嘘に嘘を重ね、更には熊野権現に助けを求め清姫を金縛りにした隙に逃げ出そうとする始末である。ここに至り清姫の怒りは天を衝き、遂に蛇身に化け安珍を追跡する。
安珍の最期 / 日高川を渡り道成寺に逃げ込んだ安珍を追うものは、火を吹きつつ川を自力で渡る蛇の姿である。渡し守に「追っ手を渡さないでくれ」と頼んでもこれでは無意味であった。よんどころなく、梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む安珍。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。因果応報、哀れ安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。
成仏 / 蛇道に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである、と法華経の有り難さを讃えて終わる。
伝承内容の相違
いわゆる安珍清姫伝説の内容はおおよそ以上のようなものであるが、古い文献などが伝える伝承の内容は、これとは相違する点がある。『大日本国法華験記』巻下第百二十九「紀伊国牟婁郡悪女」、『今昔物語集』巻第十四第三「紀伊ノ国道成寺ノ僧写法華救蛇語」では、少女の代わりに若い寡婦が登場する。また、宿泊するのは老若二人の僧である(懸想されるのは若い僧)。若い僧に逃げられた後怒った寡婦は寝所で死に、その寝所から体長五尋の毒蛇が現れ、僧を追って熊野街道を行く。道成寺で僧を焼き殺す点は一致しているが、宿泊した僧が二人とも焼かれる。
『道成寺縁起絵巻』では、主人公の女は真砂の清次の娘ではなく「娵」(よめ)である。いずれにせよ安珍・清姫の名はまだ見られず、安珍の名の初出は『元亨釈書』、清姫の名の初出は浄瑠璃『道成寺現在蛇鱗』(寛保2年〈1742年〉初演)とされる。
また、真砂の里では別の伝説が行われている。大きな相違点を挙げると以下のようになる。
清姫の母親は実は、男やもめであった父が助けた白蛇の精であった。
初め安珍は幼い清姫に「将来結婚してあげる」と言っていたが、清姫の蛇身を見て恐れるようになった。
安珍に逃げられた清姫は絶望し富田川に入水、その怨念が蛇の形をとった。
蛇にならず、従って安珍も殺さず、清姫が入水して終わる話もある。
さらに異説としては、清姫は当時鉱山経営者になっており、安珍が清姫から鉱床秘図を借りたまま返さないので、怒った清姫やその鉱山労働者が安珍を追い詰めたという話がある(「清姫は語る」津名道代〈中辺路出身〉)。
後日談
安珍と共に鐘を焼かれた道成寺であるが、四百年ほど経った正平14年(1359年)の春、鐘を再興することにした。二度目の鐘が完成した後、女人禁制の鐘供養をしたところ、一人の白拍子(実は清姫の怨霊)が現れて鐘供養を妨害した。白拍子は一瞬にして蛇へ姿を変えて鐘を引きずり降ろし、その中へと消えたのである。清姫の怨霊を恐れた僧たちが一心に祈念したところ、ようやく鐘は鐘楼に上がった。しかし清姫の怨念のためか、新しくできたこの鐘は音が良くない上、付近に災害や疫病が続いたため、山の中へと捨てられた。
さらに二百年ほど後の天正年間。豊臣秀吉による根来攻め(紀州征伐)が行われた際、秀吉の家臣仙石秀久が山中でこの鐘を見つけ、合戦の合図にこの鐘の音を用い、そのまま京都へ鐘を持ち帰り、清姫の怨念を解くため、顕本法華宗の総本山である妙満寺に鐘を納めた。鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にも「道成寺鐘」と題し、かつて道成寺にあった件の鐘が、石燕の時代には妙満寺に納められていることが述べられている。
史跡
伝説の舞台となる道成寺には安珍塚がある。 清姫の生誕地とされる真砂は現在の熊野古道の中辺路付近にあたるが、ここには清姫の墓と伝えられる石塔があるほか、清姫渕、衣掛松、清姫のぞき橋、鏡岩など、伝説にまつわる史跡が数多く残されている。また熊野古道潮見峠越えにある田辺市指定天然記念物の大木・捻木ノ杉は、清姫が安珍の逃走を見て口惜しんで身をよじった際、一緒にねじれてしまい、そのまま大木に成長したものといわれる。
妙満寺に納められた道成寺の鐘は、現在でも同寺に安置されており、寺の大僧正の供養により清姫の怨念が解けて美しい音色を放つようになったとされ、霊宝として同寺に伝えられている。毎年春には清姫の霊を慰めるため、鐘供養が行われている。道成寺関連の作品を演じる芸能関係者が舞台安全の祈願に訪れていた時代もあり、芸道精進を祈願して寺を訪ねる芸能関係者も多い。 
一匁のい助さん

 

一もんめの 一助さん
一の字が きらいで
一万一千一百石
一斗(いっと) 一斗 一斗まの
お蔵におさめて 二もんめに渡した
   二もんめの 二助さん
   二の字が きらいで
   二万二千二百石
   二斗 二斗 二斗まの
   お蔵におさめて 三もんめに渡した
三もんめの 三助さん
三の字が きらいで
三万三千三百石
三斗 三斗 三斗まの
お蔵におさめて 四もんめに渡した 
一番はじめは一の宮 1

 

一番はじめは一の宮
二は日光東照宮
三は讃岐の金比羅さん 
四は信濃の善光寺
五つ出雲の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さん
十は東京招魂社(注:現在の靖国神社)
これだけ心願かけたなら 浪子の病も治るだろう
ごうごうごうと鳴る汽車は 武男と浪子の別列車
二度と逢えない汽車の窓 鳴いて血を吐くほととぎす 
明治後期から昭和時代にかけて、全国で歌われていた手まり歌・お手玉歌のひとつである。曲は明治時代に日本軍隊の指導のために来日したフランス人が作曲した軍歌「抜刀隊」のメロディーを借用したものであるが、リズムは手鞠歌によく見られるピョンコ節になっており、メロディーも歌いやすいように変えられていることがある。歌詞は、口承による童歌のため、作詞者は未詳で、また、歌詞にいろいろなパターンがある。
一般に唄われていたものは、20行からなり、前半は数え歌形式で、この歌では、御利益のありそうな神社仏閣尽くしになっている。後の10行は打って変わって、徳富蘆花の小説「不如帰」をモチーフにしている。本来は10行目までで終わりになっていたのが、1908年(明治41年)前後から「不如帰」が劇として各地で上演されることが多くなったのを受け、舞台を鑑賞した年かさの女児が、後を付け足したものと思われる。
近年は作曲家信長貴富編曲による合唱曲としてしばしば演奏されるようになった。《7つの子ども歌》所収、混声版と女声(同声)版がある。因みに曲名は「一番はじめは」となっている。 
   一番はじめは一の宮 二は日光東照宮
   三は讃岐の金比羅さん 四は信濃の善光寺
   五つ出雲の大社(おおやしろ) 六つ村々鎮守様
   七つは成田の不動様 八つ八幡の八幡宮
   九つ高野の弘法さん 十で東京招魂社
   これほど心願かけたのに 浪子の病は治らない
   ごうごうごうと鳴る汽車は 武男と浪子の別れ汽車
   二度と逢えない汽車の窓 鳴いて血を吐くほととぎす
   武男が戦争に行くときは 白い真白いハンカチを
   うちふり投げてねえあなた 早く帰ってちょうだいね
一番初めの一の宮、二は日光中禅寺、三は佐倉の惣五郎、八つ大和の東大寺/法隆寺、九つ高野の高野山、十で所の氏神さん/東京泉岳寺/東京本願寺、二〜四の「は」の部分を「また」、など様々なバリエーションが地域ごとに見られる。
一番はじめは一の宮 2
一番初めは一の宮
二は日光の東照宮(とうしょうぐう)
三は佐倉の宗五郎(そうごろう)
四はまた信濃の善光寺
五つ出雲(いずも)の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守様(ちんじゅさま)
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡宮(はちまんぐう)
九つ高野(こうや)の弘法様(こうぼうさま)
十で東京招魂社(しょうこんしゃ)
   ■上唄に変更や追加
   8番を「八つ 山田の伊勢神宮」
   10番を「十で 東京二重橋」
   ■
   一願かけたれど 浪子(なみこ)の病いは なおらない
   ごう ごう ごうごと 行く汽車は 浪子と武夫の別れ汽車
   ハンカチふりふり ねえあなた はーやく帰ってちょうだいな
   泣いて血を吐く ほととぎす
   ■
   心願掛けたなら 浪子の病は治らぬか
   ごうごうごうごうなる汽車は 武雄と浪子の別れ汽車
   二度と逢えない汽車の窓 鳴いて血を吐く不如帰
   ■
   心願掛けたなら 浪子の病は治らぬか
   武雄が戦争に行くときは 白い白い真っ白い
   
ハンカチ振り振り ねえあなた、早く帰ってちょうだいね
   ごうごうごうごうなる汽車は 武雄と浪子の別れ汽車
   二度と逢えない汽車の窓 鳴いて血を吐く不如帰、不如帰
一番初めは一の宮
二また日光中禅寺
三また佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社(おおやしろ)
六つは村村鎮守様
七つは成田のお不動さん
八つは八幡の八幡宮
九つ高野の弘法様
十で東京泉岳寺
これほど信(神)願 かけたのに 浪子の病はなおらない
武夫が戦地に行くときは 白きま白きハンカチを
うちふりながらも ねえあなた はやくかえってちょうだいね
泣いて血を吐く ほととぎす
一番はじめは一宮
二また日光東照宮
三また桜の咲く頃に
四また吉野の八重桜
五つ出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡様
九つ高野の弘法様
十で東京二重橋
これほど 信心掛けたのに 浪子の病は治らない
ぴーぴーごーごー鳴る汽車は 武夫と浪子の別れ汽車
二度と会えない あの汽車に ハンカチ振り振り さようなら さようなら
一番はじめは一の宮
二また日光中善寺
三また佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社
六つは村村鎮守さま
七つは長野の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の高野山
十は東京心願寺
これほど心願かけたなら ナミコの病は治るだろう
ゴーゴーゴーゴーと鳴る汽車は タケオとナミコの別れ汽車
二度と逢えない汽車の窓 泣いて血を吐く不如帰
いよいよ戦争が始まった 日露の戦争が始まった
さっそく逃げるはロシア人 死んでも進むは日本人
八月十日の戦いで 6人残して皆殺し
あれはナミコの墓参り
いちばんはじめは一宮
二で日光東照宮
三は佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つ出雲の大社
六つ村々鎮守さま
七つ成田の不動さま
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さま
十で東京本願寺
これほど心願かけたのに 浪子の病は治らない
ああ 浪さんよ なぜ死んだ わたしをおいて なぜ死んだ
一番はじめは一の宮
二また日光東照宮
三また讃岐の金毘羅さん
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社
六つ、村村天神さん
七つ、成田の不動さん
八つ、八幡の八幡さん
九つ、高野の弘法さん
十で所の氏神さん
これほど信心したなれど ナミちゃんの病は治らせぬ
ゴーゴーゴーと鳴る汽車は タケオとナミコの生き別れ
二度会われぬ汽車の窓 泣いて血を吐く不如帰
タケオがボートに移るとき ナミコは白いハンカチを
振り振りながら、ねえあなた はやく帰ってちょうだいな
一列談判破裂して、日露戦争始まった
さっさと逃げるはロシアの兵 死んでも尽くすは日本の兵
5万の兵を引き連れて 6人残して皆殺し
7月8日の戦いに ハルピンまでも攻め寄せて
クロポトキンの首落とし 東郷大将万々歳
大山大将万々歳 中条大将万々歳
一番初めは一の宮
二は日光の東照宮(とうしょうぐう)
三は佐倉の宗五郎(そうごろう)
四はまた信濃の善光寺
五つ出雲(いずも)の大社(おおやしろ)
六つ村々天神(てんじん)様
七つ名古屋の熱田(あつた)様
八つ山田の伊勢神宮
九つ高野(こうや)の弘法(こうぼう)様
十で東京二重橋
一番初めは一の宮、二また日光中禅寺、
三また佐倉の惣五郎、四また信濃の善光寺、
五つは出雲の大社、六っつ村々鎮守様、
七つは成田の不動様、八っつ八幡の八幡宮?
九つ高野の高野山、十はとうとう寒山寺?
一番初めの 一の宮
ニぃはと 日光東照宮
三はと 佐倉の宗五郎
四はと 信濃の善光寺
五つは 出雲の大社(オオヤシロ)
六つ 村々鎮守様(または八幡さん)
七つ 成田の不動さん
八つ 大和の大神宮
九つ 高野の高野山
十で 東京明治神宮
これだけ信心したけれど 浪子の病気は治らない
武雄が戦争に行くときは 白い白い真っ白い
ハンカチ振ってネェあなた 早く帰って頂戴ね
ボーボーボーボと鳴る汽車は 武雄と浪子の別れ汽車
二度と会えない汽車の窓 鳴いて別れてホトトギス
(または、泣いて血を吐くホトトギス) 
各地の手まり唄 1

 

■(香川)
家(うウち)の裏(うウら)の黒猫が
お白粉(しろい)つけて 紅(べに)つけて
人(ひイと)に見られて チョイと隠(かく)す
■(山形)
家の隣の三毛猫は白粉つけて紅つけて、
小さな橋を渡る時、・・・・・
■(京都)
家の裏の黒猫が、お白粉ぬって紅ぬって
紅がないので買いにって、
人に見られてチョッと隠せ
(兵庫)
うちの裏の黒猫が、鏡の前にちょいと坐り・・・・・
山王のお猿さん 
山王のお猿さんは 赤いお衣服(べべ)が大(だい)おォ好き
テテシャン テテシャン
夕べ恵比寿講(えびすこう)に招(よ)ばれて行ったら
お鯛の吸物 小鯛の塩焼き
一杯おすすら  すゥすら
二杯おすすら  すゥすら
三杯目には肴が無いとて腹を立て
ハテナ ハテナ ハテハテハテナ
(山王は江戸麹町日吉山王神社ともいわれています。この唄は東京地方の古いものですが、今では山形や神奈川、静岡、長野、新潟、富山、京都、大阪、宮崎などでも歌われ、お手玉、毬つきなどの遊戯にも、その時々に応じて使い歌われているそうです。)
清水の観音様
清水の観音様に 雀が三疋とまった
その雀が 蜂(はアち)にさされて
あいたた ブンブン
あいたた ブンブン
まずまず一貫 貸し申した
(足利地方で歌われたそうです。)
いちじく人参 
無花果(いちじく) 人参(にんじん)
山椒(さんしょ)に 椎茸(しいたけ)
牛蒡(ごぼう)に  無患子(むくろじュ)
七草(ななくさ)  初茸(はつたけ)
胡瓜(きゆうり)に  冬瓜(とうがん)
(この唄の発祥は静岡のようですが、全国共通の唄です。)
向う横町の 
向う横町(よこちょ)のお稲荷さんへ 壱銭上げて
ちゃんと拝(おが)んで お仙の茶屋へ
腰を掛けたら 渋茶を出して
渋茶よこよこ 横目(よこめ)で見たらば
米(こめ)の団子か 土(つち)の団子か お団子 団子(だァんご)
この団子を 犬にやろうか 猫にやろうか
とうとう鳶(とんび)に さらわァれた
(江戸の庶民の姿が浮かびます。この唄は手毬唄の中でも秀作の一つとのことです。歌の意味は『わらべうた』町田喜章・浅野健二編によると「明和の頃、江戸谷中、笠森稲荷神社頭の茶屋鍵屋の娘、お仙の美貌を叙したもの」、だそうで、「鈴木春信の一枚絵にも描かれた」といいます。そして、この笠森稲荷神社は「瘡の神として、まず祈願をこめる時に土の団子を供え、満願の時効験あれば、米の団子を改めて供える風俗あり、両側の茶屋は皆両様の団子を売った」のです。)
あっちの山から
あっちの山から こっちの山から
赤い父(と)っちゃん 大人(おおにん)づれで
一でよいのは 糸屋の娘
二でよいのは 肉屋の娘
三でよいのは 酒屋の娘
四でよいのは 塩屋の娘
五でよいのは 呉服屋の娘
六でよいのは 蝋燭屋(ろうそくや)の娘
七でよいのは 質屋の娘
八でよいのは 鉢屋の娘
九でよいのは 櫛(くし)屋の娘
十でよいのは 豆腐(とふ)屋の娘
豆腐かついで えっささ もっささ
(これは、広島市の唄ですが、秋田・宮城・福島・長野・福井・愛知・三重・京都・大阪にも同じようなものがあります。)
一番初めは 
一番初めは一宮 二また日光中禅寺
三また佐倉の宗五郎 四また信濃の善光寺
五つ出雲の大社(おおやしろ) 六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様 八つ大和の法隆寺
九つ高野の弘法様 十で東京心願寺(しんがんじ)
(岡崎地方の唄ということです。)
わしの大事な
わしの大事な お手毬(てまり)さァまは
紙に包んで 文庫に入(いィ)れて
お錠(じょう)でおろして お鍵で開けて
開けたところは イロハと書(かァ)いた
イロハ誰(誰)が書いた お菊が書(かァ)いた
お菊よう書く お袖の下(した)から
お渡し申すが合点(がッてん)か 合点(がッてん)か
(西日本。) 
各地の手まり唄 2

 

いちかけにかけ
いちかけ にかけ さんかけて
しかけて ごかけて 橋をかけ
橋の欄干に腰をかけ はるか向うを眺むれば
十六、七のねえさんが 花と線香を手にもって
ねえさん ねえさん どこ行くの
私は九州熊本の西郷隆盛むすめです
明治九年のたたかいに 切腹された父親の
お墓まいりにまいります
お墓の前に手をあわせ
なみあむだぶつを拝もうせば
お墓の中からゆうれいが
フウーワリ フウーワリ ジャンケンポン
二本橋 コチョコチョ
たたいて つねって
階段のぼつて コチョコチョ
お寺の鐘が ゴンゴン
(手あそび、ジャンケン遊びにも唄われるもので全域にひろがっている。)
あんたがたどこさ
あんたがたどこさ 肥後さ
肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ 船場さ
船場山にはたぬきがおってさ
それを猟師が鉄砲で打ってさ
煮てさ焼いてさ食ってさ
それを木の葉でちょっとかぶせ
だいすけ
だいすけ だいすけ
お手まる つくかつかぬか
おしめしめなわ
糸ごんごじゅうめ 糸ろくろくじゅめ
糸しちしちじゅめ 糸はちはちじゅめ
糸九十九まで とと百ついた
いちもんめの
いちもんめのいすけさん
いもやのおばさん いもちょうだい
にいもんめのにいすけさん
にんじんやのおばさん にんじんちょうだい
さんもんめのさんすけさん
さかずきやのおばさん さかずきちょうだい
よんもんめのようすけさん
ようかんやのおばさん ようかんちょうだい
ごもんめのごんすけさん
ごぼうやのおばさん ごぼうちょうだい
ろくもんめのろくすけさん
ろうそくやのおばさん ろうそくちょうだい
ななもんめのななすけさん
なっぱやのおばさん なっぱちょうだい
はちもんめのはちすけさん
はちみつやのおばさん はちみつちょうだい
きゅうもんめのきゅうすけさん
きゅうりやのおばさん きゅうりちょうだい
じゅうもんめのじゅうすけさん
じゅうばこやのおばさん じゅうばこちょうだい
いちもんめの
いちもんめのいすけさん
いもやのおばさん
一万一千一百億 いといといとまの
おうらいさだめて がってんとん
がってんとん、がってんとん
〔以下、二万、三万…十万と続く〕
てんてんてまり
てんてんてまり てんてまり
てんてん てまりのてがそれて
あの山越えて 谷越えて
表の通りに 飛んで行った
飛んで行った
てんてんてまり
てんてんてんまり てんてまり
てんてんてまりの 手がそれて
どこからどこまで とんでった
垣根をこえて 山こえて
とんでいった とんでった
一のまの千石
一のまの千石
二のまの千石
三のまの三平が
四つ横浜 えっさっさ
五ついつもの学校へ
六つ村祭り
七つ南天 何曜日
八つ八重桜
九つ金ぴら ぴらぴら
十でおわった
いちだんいちだん
いちだん いちだん
赤いネクタイ 長ズボン
山高帽子に銀のつえ
どうせおいらは なまけもの
後向いて前向いて バイバイ
〔以下、にだんだん…さんだんだん〕
てんてんてまり
てんてんてまりの昔の数
ひい ふう みい よう いつ むうっ ななっとかぞえて やつになれば
わたしは尋常一年生
ああうれしいな うれしいな
一番はじめは
一番はじめは 宇都宮
二また 日光東照宮
三また 佐倉の宗吾郎
四はまた 信濃の善光寺
五つ 出雲の大社(やしろ)
六つ 村々鎮守さま
七つ 成田の不動さま
八つ 八幡の八幡宮
九つ 高野の弘法寺
十で 東京泉岳寺
だんごがおよめに
だんごがおよめに行く時は
あんこときなこで化粧して
赤いお椀に入れられて
ゆらゆら ゆらゆら
あのねそのね
あのね そのね よっちゃんが
電車にね ひかれてぺっちゃん
とんとんとなりの
とんとんとなりのきちばさま
あんまり 欲ばり 腹だして
あんもち焼くとて へそやいた  
 
 
■子守歌
 

 

子守をするときに歌う歌。子供に聞かせる、という意味で童歌である。例えば母親が赤ん坊をあやしながら歌う。「ねんねんころりよ」などはこれに属する。しかし、同時にかつて子守が貧乏な子供の働き口として重要であったことから、子守をする子が歌う場合もある。「竹田の子守歌」などに見られる、子守のつらさを唄うものはこれによる。  
子守唄には寝かせ唄、遊ばせ唄、子守労働歌謡等があります。江戸時代、行智の「童謡古謡」にある江戸子守唄は、寝かせ唄に入るでしょう。そして、「ねんねんねんねこよ」というはやしことばは、仏教の「念念」から来ている、仏教歌の和讃の形式を取り入れた歌ではないかともいわれています。念仏にも使われる笙の笛は、土佐では「吹いたり鳴らしたりして遊ぶ」と遊ばせ歌に変わっています。
江戸子守唄の後半「枇杷の葉を食べた」は、土佐では「南天の実を食べた」になっています。敗戦間もなく、私は幼な友だちの画家・種田英幸さんの家の庭先の南天の前で、下の妹を背負って遊んだことを思い出します。英幸さんにうかがうと、この南天は今も健在の由。
熊本県五木村から始まった「五木の子守唄」は、旦那衆の家に奉公した、貧しい娘たちの子守労働歌謡です。子守娘の諦め、抵抗、不満、淋しさが歌われ、民衆文化史の資料としても貴重です。勧進=かんじんは乞食、子守娘たち自身の卑称です。
江戸の子守唄 1
ねんねん ねんねこよ
ねんねのおもりは どこいたあ
山を越えて 里行た
里のおみやに 何もろうた
でんでん太鼓に 笙の笛
起き上がり小法師に 振り鼓
江戸の子守唄 2
ねんねんねんころり
ころころ山のうさぎは
なぜに お耳が長うござる
親のお腹にゐるときに
枇杷の葉食べて 長うござる
明日は疾うからおひんなれ
赤のまんまに とと添えて
ざんぶざんぶと上げましょよ
ねんねんねんねこよ
五木の子守唄
おどま盆限り盆限り
盆から先はおらんと
盆が早よ来りゃ 早よ戻る
おどま勧進勧進
あん人たちゃ 良か衆
良か衆 良か帯 良か着物
おどま勧進勧進
がんがら打って歩るこ
土瓶で 飯ァち 堂に泊まる
おどまいやいや 泣く子の守にゃ
泣くと言われて 憎まれる
おどま馬鹿々々
馬鹿んもった子じゃつで
よろしゅ頼んもす 利口かしと
おどんが打死んだちゅうて
誰が泣やァてくりゅうきゃ
裏ん松山 蝉が鳴く
蝉じゃござらぬ 妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる
おどんが打死んねば 道端埋けろ
通る人ごち 花あぐる
花は何の花 つんつん椿
水は天から 貰い水
ねんねした子にゃ 米ん飯わしゅ
黄粉あれにして 砂糖つけて
ねんね一ぺん言うて 眠らめ餓鬼は
頭たたいて 尻ねずむ
おどまいやいや 泣く子の守にゃ
泣くと言われて 憎まれる
辛いもんばい 他人の飯は
煮えちゃおれども 喉こさぐ
子どんが可愛がりゃ 守に餅食わしゅ
守がこくれば 子もこくる
土佐の子守唄 1
ねんねよ ねんねよ ねんねこよ
ねんねのお守りは どこへ行た
あの山越えて 里へ行た
里の土産に なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
それを貰うて なににする
吹いたり 鳴らしたりして遊ぶ
土佐の子守唄 2
ころころ小山の 小兎は
なぜに おめめが 赤うござる
母ちゃんお膝に いたときに
南天の実をば 食べたから
それで おめめが 赤うござる
 
ねんねんころりよ

 

ねんねんころりよ おころりよ
 ぼうやはよい子だ ねんねしな
ぼうやのお守りは どこへ行った
 あの山こえて 里へ行った
里のみやげに 何もろうた
 でんでん太鼓に 笙の笛(しょうのふえ)
歌詞は、第11代将軍・徳川家斉の文化文政時代には記録が確認されており、参勤交代などを通じて江戸から各地に伝えられたと考えられている。
いくつか解釈が可能と思われるが、私見では、江戸時代中期以降の裕福な商家・農家に生まれた子供の母親の視点からストーリーが描かれていると考えられる。
当時は、貧しい農家の子供たちが裕福な商家・農家へ住み込みで奉公へ出され、男子は丁稚・小僧として、女子は子守り・走り使いとして働かされることが多かった。
奉公人が実家へ帰れる「藪入り」
住み込みで働く奉公人たちは年に2回、盆と正月に実家へ帰ることを許されていた。この日は「藪入り(やぶいり)」と呼ばれ、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物と小遣いを与え、手土産を持たせて実家へと送り出した。
奉公人がお里(実家)へ帰った藪入りの間は、実の母親が自ら赤子の子守をすることになるが、上述の歌詞は、この母親の立場から歌われたものと考えられる。
里帰りのお土産が笙の笛?
歌詞の最後では、奉公人が里帰りのお土産として「でんでん太鼓に 笙の笛(しょうのふえ)」を持ち帰ったと描写されている。
でんでん太鼓は子供をあやすオモチャだが、笙の笛(しょうのふえ)とは、神前結婚式などで耳にするあの雅楽の管楽器のことだろうか?それはいくらなんでも庶民のお土産としては違和感がある。
果たして、奉公人がお土産とした「笙の笛(しょうのふえ)」とはいったいどんな笛だったのだろうか?他にもお土産はなかったのだろうか? 
でんでん太鼓と笙の笛 
江戸時代から伝わる日本の伝統的な子守歌「江戸の子守唄」。冒頭の「ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな」の歌詞が特に有名。
今日一般的な歌詞では、里帰りした奉公人がお土産(みやげ)として「でんでん太鼓に笙の笛(しょうのふえ)」を持ち帰ったとあるが、「笙の笛」については不自然な点が残る。歌われたお土産について、若干詳しく見ていくこととしたい。
でんでん太鼓
「でんでん太鼓」は、子供をあやす小さな太鼓のおもちゃで、横についた紐の先に小さな玉が結ばれており、太鼓を横に回転させると音が鳴る。雅楽で用いられる「振鼓」(ふりつづみ)がモデルで、実際の雅楽では舞楽などで用いられる。神社では、子供の魔除や健康祈願としてでんでん太鼓が売られることがある。
笙の笛
笙の笛(しょうのふえ)は、雅楽で用いられる管楽器の一つで、複数の細い竹管が円筒状にくくられている。形は翼を立てて休んでいる鳳凰に見立てられ、鳳笙(ほうしょう)とも呼ばれる。神前結婚式でもおなじみの楽器だ。
ここで大きな疑問が一つ生じる。歌詞では、「里のみやげ」として「笙の笛」が挙げられているが、「笙の笛」を雅楽の楽器として文字通り解釈してしまうと、庶民が選ぶ「里のみやげ」としては違和感があると言わざるを得ない。
もう一つのお土産とは何だったのか?
でんでん太鼓は子供をあやすオモチャであり、大きさも値段も手ごろで、子守の奉公人が里帰りのお土産として選ぶのはごく自然だ。これに加えてもう一つ子供向けのお土産があるとしたら、持ち運びしやすく、値段も手ごろで、子供が喜びそうな何かでなければ、歌詞の流れからして不自然さが際立ってしまう。
「もう一つのお土産」とは、本当は一体何だったのか?この疑問を解くには、江戸時代に大流行していた「お伊勢参り」について若干触れていく必要がある。
お伊勢参りと江戸の子守唄
江戸時代に入って主要な街道の整備が進み、各地の関所も撤廃されると、人々は現世利益を求め、伊勢神宮(現在の三重県伊勢市)にこぞって参詣する「お伊勢参り」が盛んに行われた。数百万人の人々が参詣する様は「お蔭参り(おかげまいり)」と称され、中には子供や奉公人などが親や主人に無断で参詣することも多かったことから「抜け参り」とも呼ばれた。伊勢神宮・内宮の主祭神は、商売繁盛の守り神でもある天照大神(あまてらすおおみかみ)。商家の奉公人が抜け参りをしても、証拠の品物(お守りやお札など)を持ち帰れば、おとがめは受けなかったという。
伊勢神宮の周辺では、お蔭参りの人々を目当てに数多くの土産物が売られていたが、中でも当時の伊勢みやげの一つとして小さな笛が人気だったそうだ。この点に関する文献について軽く説明しよう。
伊勢みやげの小さな笛とは?
江戸時代後期の天保元年(1830年)に出版された随筆集「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」には、伊勢みやげとして人気があった笛について、次のような記述が残されている。
「伊勢みやげの笛 「諸艶大鑑」に伊勢みやげの笛を吹て門に遊びし云々、貞享四年の衣服ひな人形をみるに、いせ土産の模様あり、笛は小さき笙の笛なり「永代蔵」に伊勢のみやげをいふ処、笙の笛 貝杓子して世を渡る 海の若和布の数しらずなどいへり」
この記述だけでは具体的な形状は不明だが、「小さき笙の笛」とは、雅楽の笙(しょう)のサイズをそのまま小さくしたものではなく、篠笛(しのぶえ)のように単に一本のシンプルな笛であったと想像できる。
お伊勢参りの一般庶民に売るお土産品なので、値段を抑えるために素材も構造もシンプルな作りが選ばれるであろう。おそらく「小さき笙の笛」は、篠笛のような複数の穴もなく、実際に吹いても単音しか鳴らないような素朴な土産品だったのではないだろうか。
ちなみに、篠笛(しのぶえ)の「篠」は音読みで「ショウ」。これを「笙の笛」と結び付けて考える説もあるようだ。  
五木の子守唄

 

おどまいやいや 泣く子の守りにゃ
泣くといわれて憎まれる 泣くといわれて憎まれる
   ねんねした子の かわいさむぞさ
   起きて泣く子の面憎さ 起きて泣く子の面憎さ
ねんねいっぺんゆうて 眠らぬ奴は
頭たたいて尻ねずむ 頭たたいて尻ねずむ
   おどまお父つぁんな あの山おらす
   おらすともえば行こごたる おらすともえば行こごたる 
お座敷唄
おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと
盆が早よくりゃ早よもどる
   おどま勧進勧進(かんじん かんじん)
   あん人たちゃよか衆
   よか衆ゃよか帯よか着物
曲名を見ると、子供を寝かしつけるための穏やかで優しい典型的な「子守唄」を想像するが、「おどま盆ぎり盆ぎり…」から始まる歌詞では、故郷を離れ住み込みで子守の奉公をする若い「守り子」の辛い心情・悲哀が描かれている。内容的には、曲名は『五木の守り子歌』、『五木の子守哀歌』といった感じが誤解が少なそうだが、実際に守り子がこの民謡を子守歌として歌っていたのであれば、現状どおり『五木の子守唄』で問題はないだろう。『五木の子守唄』は戦後にレコード化され、お座敷唄の曲調で一般的に知られるようになった。これとは別に、商業的な色合いの薄い『正調・五木の子守唄』も存在する。
ゆりかごの唄

 

ゆりかごの歌を かなりやがうたうよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
ゆりかごの上に びわの実がゆれるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
   ゆりかごのつなを 木ねずみがゆするよ
   ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
   ゆりかごの夢に 黄色の月がかかるよ
   ねんねこ ねんねこ ねんねこよ 
竹田の子守唄

 

こんな泣くぅ子よ 守りしぇと言うたか
泣かぬ子でさい(さえ) 守りゃいやにゃ
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
   この子よう泣く 守りをばいじる
   守りも一日 やせるやら
   どうしたいこーりゃ きーこえたーか
来いや来いやと 小間物売りに
来たら見もする 買いもする
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
   寺の坊んさん 根性が悪い
   守り子いなして 門しめる
   どうしたいこーりゃ きーこえたーか
久世の大根飯 吉祥(きっちょ)の菜飯
またも竹田のもん葉飯
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
   盆がきたぁかて 正月がきぃたて
   なんぎな親もちゃ うれしない
   どうしたいこーりゃ きーこえたーか
はよもいにたい あの在所こえて
むこうにみえるんは 親のうち
どうしたいこーりゃ きーこえたーか 
広く歌われている歌詞
守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし
   盆がきたとて なにうれしかろ
   帷子(かたびら)はなし 帯はなし
この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら
   はよもいきたや この在所(ざいしょ)越えて
   むこうに見えるは 親のうち
現在の京都府の被差別部落に伝えられた民謡、およびそれを基にしたポピュラー音楽の歌曲である。
中国地方の子守唄

 

ねんねこ しゃっしゃりませ
寝た子の かわいさ
起きて 泣く子の
ねんころろ つらにくさ
ねんころろん ねんころろん
   ねんねこ しゃっしゃりませ
   きょうは 二十五日さ
   あすは この子の
   ねんころろ 宮詣り
   ねんころろん ねんころろん
宮へ 詣った時
なんと言うて 拝むさ
一生 この子の
ねんころろん まめなように
ねんころろん ねんころろん 

まめになったら 絵馬買うてあげましょ
絵馬はなに絵馬 武士絵馬あげましょ
ねんころろん ねんころろん
島原の子守歌

 

おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の
梨の木 育ちよ
何の梨やら 何の梨やら
色気なしばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ん 久助(きゅうすけ)どんの 連れんこらるばい  
   帰りにゃ 寄っちょくれんか 帰りにゃ 寄っちょくれんか  
   あばら家 じゃけんど
   唐芋飯(といもめし)や 粟ん飯 唐芋飯や 粟ん飯
   黄金飯(こがねめし)ばよ しょうかいな
   嫁ごん 紅(べん)な誰(だ)がくれた
   唇(つば)つけたなら 暖ったかろ
山ん家はかん火事げなばい 山ん家はかん火事げなばい
サンパン船は与論人
姉しゃんな握ん飯で 姉しゃんな握ん飯で
船ん底ばよ しょうかいな
泣く子はガネかむ おろろんばい
アメガタ買うて ひっぱらしゅう
   姉しゃんな 何処行たろかい 姉しゃんな 何処行たろかい  
   青煙突のバッタンフール
   唐(から)は 何処ん在所(にき) 唐は 何処ん在所
   海の涯(はて)ばよ しょうかいな
   はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
   おろろん おろろん おろろんばい
あん人たちゃ二つも あん人たちゃ二つも
金の指輪はめとらす
金はどこん金 金はどこん金
唐金(からきん)げなばい しょうかいな
おろろん おろろん おろろんばい 
おろろん おろろん おろろんばい
江戸時代の末から明治・大正、昭和の初めにかけて、遠く中国や東南アジアなどに渡り、娼館(しょうかん)で働いた娘たちがいました。『からゆきさん』と呼ばれたそれらの娘たちの多くが島原(長崎県)、天草(熊本県)の出身者だったといわれます。
島原半島の最南端に口之津という港があります。今は、早崎瀬戸を隔てて7〜8kmの向こう岸にある天草の鬼池港とを結ぶフェリーが発着する静かな港ですが、大正初めに三池(福岡県大牟田市)に近代的な港が完成するまで、口之津は三井三池の石炭を積み出す外港として長崎に並ぶ賑わいを見せたといわれます。
口之津港には、香港のバターフィルという船会社の船が出入りしていたので、のちに地元の人々は外国の貨物船をすべて『バッタンフル』と呼ぶようになったそうです。そして、天草の鬼池には、久助どんと呼ばれる人買い仲介の長者がいました。からゆきさんたちは、バッタンフルの船底に石炭と一緒に押し込められ、口之津港を後にしました。
貧しいがゆえに南方へ送られていった娘たちを哀れむ一方で、少数ながら成功して帰ってきた「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したこの唄は、宮崎康平(本名一彰 1917〜1980年)作詞・作曲による戦後の創作子守唄です。 
恐い子守唄 
女の子がまだ小さいうちから奉公に出されて、子守をするので、辛いこともたくさんあったのでしょう。いろいろな地方に残る子守唄には、かなり恐いものがあります。
青森の南部子守唄
ねんねろや ころころ ねんねこして おいたなら あんずきまんまさ ごごかけて もしもそれが おいやなら 白いまんまに しゃけのよ もしもそれが おいやなら あんころに しょゆだんご
このあとも、寝てくれたら飴玉や麦せんべい、パン、むぎまんじゅうなどいろんなものをあげると続きます。
福井の高浜子守唄
ねんねした子にゃ 赤いべべ着せて 起きて泣く子にゃ 縞のべべ 縞のべべ
この子よい子じゃ ぼた餅顔じゃ きな粉つけたら なおよかろう   
愛知
坊やはよい子だ ねんねしな この子のかわいさ 限りなさ 天にのぼれば 星の数 七里ヶ浜では 砂の数
京都
ねんねなされませ 今日は二十五日 明日はおまえの 誕生日
奈良
泣くな泣くな 泣くなよ 泣いたらとんびに つままれる
広島
ねんねんよ ねんねんよ 寝たらおもちゃを 買うてやろ 起きたらもうもに かぶらすぞ
(「もうも」はお化けのことらしい。こわくて寝られないってば。)
愛媛幡多地方の子守唄
ねんねこしょ ゆうて ねる子はかわい ねんこしょ ゆうて ねん子はつらにくい
つらのにくい子は まな板の上にのせて 大根きざむよに きざみたい  
宮崎日南地方の子守唄
よい子よい子いうて 眠らん子は びんたに手こぶし あててやる 
 
 
■わらべ唄の分類 2
 

 

歳時唄
正月正月どこまでいらした
向(むこ)のコロコロ橋の下迄いらした
みやげ なんじゃった
カヤや勝栗 ミカンコウジ 橘
犬(いん)の踏んだが かいもち
猫の踏んだが とちもち
馬の踏んだが やきつき
あまの裏の串柿

正月 正月 どこまでござった
くるくる山のしたまで ござった
みやげは何じゃ みかんと栗と
天(あま)下がった串柿と
棒につけた繭玉と ゆずり葉かずいて
えんとこ えんとこ ござった
大黒様と言う人は
一つに 俵をふんまいて
二に にっこり笑い顔
三に 盃 いただいて
四つ 世の中 良いように
五つ いつも 湧くように
六つ 息子に 嫁貰て
七つ なに事 ないように
八つ 屋敷を広げたて
九つ 子宝 恵まれて
十に とっくり おさまった

正月っつあま(様) 正月っつあま どこ迄ござった
くるくる山の下までござった
みやげァ 何じゃった
天から下がった串柿と 垣だに刺いた繭玉と
猫の踏んだ掻き餅と
勝手に作った どぶ酒と みかんと こうじ

差義長 ちょうちょ ちょうのかあか目ェむいて
きんの(昨日)むいて 今日むいて あした(明日)むきゃあ 三日や 
自然の唄

じいじいの ばあばあいの
綿帽子雪が 降るわいの
おーとも こーとも しめさっし
すり鉢かぶって 走らっし

お月様いくつ
十三、ななつ
なながさ着せて
おんまに乗せて
河原へやったら
河原のジョジョが
コウワイむすか むさんか
一つにつんでみょ
つまいでもだんない
いっちりぎっちょ にぎっちょ
きんぎっちょ しぎちょ
しのはの中の
おもないとっと
こもないとっと
じっぼ はっぽ
はるまのはやし
祭の前の
桜の花が
咲いたか
つぼんだが
デンデラポー
雉(きじ)鳩(山鳩)
テテッポッポ テテッポッポ
若いもんどまあ あとにこいこい
年寄なもんどまあ 先にこいこい
テテッポッポ テテッポッポ
ほたる
ほーたる 来ォーい 水飲ましょ
あっちの水ァ苦いぞ こっちな水は甘いぞ
ほ、ほ、ほーたる来い
とんぼ
だんぼ(とんぼ) だんぼ とまれ 飴こうてやるぞー
たにし
たにーし ぼんぼら貝 中とりゃ 身ゃ なー  
ホタルこい
夏の夕方、川べりや露のしとった草むらや、笹やぶのかげなどに、子どもたちの幾むれかが集まってきます。「ほう、ほう、ホタルこい」子どもたちは、笹や篠竹、ウチワをふりふりして、呼びかけました。「こっちの水は甘いぞ」の呼びかけは、日本中どこでも同じですね。今回は、画家の種田英幸さんと私の故郷、土佐のわらべ唄を取り上げました。子どもたちは、うまいものをホタルに見せびらかしたり、おどかしたりして、自分の方に来させようとします。あっちの水はまずくて、こっちの水は甘いから、こっちへおいでと、呼びかけるのです。
ホーホーほうたろ来い (高知県香我美町) 
ホー ホー ほうたろ来い 山道こい
お尻のひかりで とんで来い
ホー ホー ほうたろ来い
あっちの水は にがいぞ
こっちの水は あまいぞ
ホー ホー ほうたろ来い
ほうたる来い (高知県南国市) 
ほうたる来い 山道来い
あっちの土手には 鬼がおる
こっちの土手には 人がおる
ホーッ ホーッ ほうたる来い
ほ ほ ホタルよ (滋賀県) 
ほ ほ ホタルよ
こい こい こい
おまえの夏の くいものは
山のおくの ドングリボウ
あまかわむいては がありがり
しぶかわむいては がありがり
かけあい唄
油屋のかいどで
とっすべってころんで
油一升かやいた
その油どうした
犬(いん)ななめてしもた
その犬どうした
ころいてしもた
その皮どうした
太鼓に張ってしもた
その太鼓どうした
もやいてしもた
その灰どうした
麦にまいてしもた
その麦どうした
雁な食べてしもた
その雁どうした
西ポッポ 東ポッポ たってった 
子守り唄
おろろん ばあや
ねんねこ ばあや
ねる子は 可愛い
おきて泣くやつぁつらにくい

ねんねんよう ねんねんよ
ねんねの 子守りはつらいもの
親に叱られ 子に泣かれ
友達なかにも はね出され
ねんねんよう ねんねんよ
ねんねの お守りは どこ行った(2回繰返し)
ねんねの お守りは お里行った
お里のみやげを なに貰た
でんでん太鼓に 笙(しょう)の笛
これでも まだまだ 泣くのかねぇ
ねんねんよう ねんねんよ

参らんか 参らんか お花が無ぁて 参られん
お花が 無けにゃあ 買ってきて
参らんか 参らんか

ねんねんよう おころりよ
子守りというもな つらいもの
親に叱られ 子に泣かれ
友達なかにも はねだされ
よーォ ねんねんよーォ
あやし唄
チョイ チョイ チョイ チョイ
みん みん みん みん みん みん
かいぐり かいぐり かいぐりや
肘 ポンポン おつむてんてん 万歳 
尻り取り唄
高しゃっぽ
ポンヤリ
陸軍の
乃木さんが
がいせんす

目白
ロシア
やばんがく
クロパトキン
金の玉
負けて逃げるはチャンチャンボ
棒でなぐるは犬(いん)殺し
死んでもつくすは日本兵
兵隊並んでトットコト
富山の三十九連隊
大砲一発ドン
ドンが鳴ったら昼飯や
ヤーヤの仕事は何じゃった
 (以下最初へもどりくり返す)

さぎ、さぎ、何で首 投げる
ひだるて 投げる ひだるけりゃ 田圃打て
田圃打てゃ 泥ァつく 泥ァつきゃ 洗え
洗やぁ ちびたい ちびたけりぁ あたれ
あたりぁ熱い 熱けりぁ引っ込め
引っ込みゃ寒い 寒けりぁ三(さぶ)さの褌(ふんどし)かぶってはしれ

木下藤吉は わ、わ、我が国 とりはさみ
み、み、みそ汁ァ ごばいっしょ
しょ、しょ、正直婆っさ 屁こいた
たぬきのきん玉 はっちょうじき 
はやし唄
イッチョンサの
ニマイが
サンニョンサへ
養子に行って
五月の
六日に
しちびた
蜂さいて
苦しんで
とんでった

ミッキ ミッキ旦那さん
足ちょっとまげて
屁をブッとこいた

新婚、レンコン、生レンコン
煮ても 焼いても 食えれんレンコン 
手まり唄
すいでんしゃ
すいでんしゃ
ながしの たけだに
ウグイス三羽
とまった
とまった
ひとしゃ
ふたしゃ
みいしゃ
よおしゃ
いつしゃ
むうしゃ
ななしゃ
やあしゃ
ここのしゃ
とおしゃ
とおでおろいて
一番娘は およめりなきった
二番娘は 見物なさった
三番娘は 鬼にぼわれて
ちょいとかくれた

いちれつだんぱん 破裂して
日露戦争 あいにけり
さっさと逃げるは ロシアの兵
死んでもつくすは 日本の兵
五万の兵を 引きつれて
六人残して 皆殺し
七月八日の たたかいに
ハルピンまでも 攻め入りて
クロパトキンの 首をとり
東郷大将 万万才
十字の旗も 万万才

うちのお背戸の梅の木に
雀が二、三羽止まって
一羽の雀の言うよのは おらちゃお背戸も広ござる
隣の座敷も広ござる
むしろ三枚 ござ三枚 六尺屏風をたて広げ
よんべごしった花嫁さん
なにが不足で泣かしゃんす
何も不足はないけれど うちの父さん金山へ
金が湧くやら湧かんやら
一年たっても まだ ござらん
二年たっても まだ ござらん
三年三月に状がきて 状の上書き 読んでみたら
三人 子供を どうどした
一人は おじごへ あずけます
一人は おばごへ あずけます
一人は 縁につきました
縁についたら 装束は
白い小袖も ななかさね
赤い小袖も ななかさね
帯やたぐりも 十三(じゅうみ)筋
これほど仕立てて やるほどに
出されて来るやな 出て来るな
おらちゃ出てこと 思わねど
向うの あん様の 心次第 心次第 すりとんとん

とんとん叩くのは誰さんや
新町 小寺のおばさんや
今どき 何しに 参りんした
席駄(あしだ)がかわって 参りんした
あなたの席駄は ど言う席駄
紫鼻緒の京席駄
そんなら 探して あげましょね

お月さまいくつ 十三、七つ
まだ年ァ若い 油買いに行って
油屋の前で すべって転んで 油一升こぼいた
その油どうした 犬な なめてしもうた
その犬どうした 殺してしもた
その灰どうした よんべ(夕)の風と今朝の嵐で
パッパとたつて行ってしもうた すりとんとん

伊勢 伊勢
新潟 伊勢新潟
三河 伊勢新潟三河
信州 伊勢新潟三河信州
神戸 伊勢新潟三河信州神戸
武蔵 伊勢新潟三河信州神戸武蔵
名古屋 伊勢新潟三河信州神戸武蔵名古屋
函館 伊勢新潟三河信州神戸武蔵名古屋函館
九州 伊勢新潟三河信州神戸武蔵名古屋函館九州
東京 伊勢新潟三河信州神戸武蔵名古屋函館九州東京 
お手玉唄
おじゃみ おじゃみ
おふた おふた
おみい おみい
およお およお
なってくりょ おとんけ
おじゃまさあんな
何を習いました
お琴を習いました
おふた ざくら ざあくら
おみ ざくら ざあくら
およ ざくら
すってし ざくら
おなな さあらあり
おひとつ お落いて お落いて
おしゃれ
おふたつ お落いて お落いて
おしゃれ
おみい お落いて お落いて
おしゃれ
およう おのけ
おなの おのけ
すってし おのけ
まあぬけ
おとんけ
つつみ つつみ つつみ つつみ
つまんだ いたかいた
ぱあらありい のっこ
いっかんしょ

おしゃーれ お一つ おといて(「おといて」を三回繰り返す) おしゃーれ
お二つ おといて おしゃーれ
お三つ おといて おしゃーれ おみんな おしゃーれ
お手あげ
お手あげ(四回繰返し) おしゃーれ
おはさみ(三回繰返し) おしゃーれ
おちびりんこ(四回繰返し) おしゃーれ
おたたき(三回繰返し) おしゃーれ
ちい橋くぐれ(四回繰返し) おしゃーれ
お一つやの 何ァーにころ
おニつやの 何ァーにころ
おーみつやの 何ァーにころ
おーよつやの 何ァーにころ
だーるまさん 
じゃんけん唄
せっせっせ
いちかけ にかけ さんかけて
しかけて ごかけて 橋をかけ
橋のらんかん 腰をかけ
はるか向うを 眺むれば
十七・八の姉さんが
お花や線香 手に持って
これこれ姉さん どこ行くの
私は九州 鹿児島の
西郷隆盛 娘です
明治十年 戦いに
切腹なされた 父上の
お墓まいりに 参ります
お墓の前に 手をあわせ
南無阿弥佗佛と となうれば
西郷隆盛 魂は
ふうわり ふわりと
ジャンケンボン

(手で形を示しながら)
こらほどの お重箱に
おむすび こむすび
つめこんで
たたきごぼうに ごまふりかけて
まいてくたんし
ひいてくたんし
オワワイのワイ
ジャンケンポン

のんきな父さん
毛が三本 毛が三本
お屋根の上から おっこちて
あーたい くうたい 何くうたい
そうめん くうたい
そば くうたい
お金がのうて
ジャンケンポン 
なわとび唄
大波 小波
おじょうさん おはいり
ジャンケンポンよ
アイコでしょ
負けたお方は
お逃げなさい 
からかい唄
越中 富山の 反魂丹
鼻糞 まるけて 万魂丹
それを飲むやつァ あんぽんたん

尻まくりゃ 流行った
すん(尻)の用心さしんせ 
その他の唄
ひとみ唄
ひとめ ふため みつ屋の よめの
いつ屋の昔 なな屋のやかし ここな屋のとかし
遊び唄
かごめ かごめ かごの中の鳥は
いつ出て遊ぶ 夜明けの空に 輝く時に
うしろの正面誰ァーれ
(当たったもんが鬼になる)
にらめっこ
だるまさん だるまさん
みみりっこしましょ わろたら駄目や うんとどっこいしょ
指あそび唄
子供と子供と けんかして
親たち 親たち 腹立てて
人様 人様 言うよには
中々 かのわんことなれど
弁慶様へ ことわった
あかしもん
六角堂に小僧一人 参りが無ァて戸が開かぬ
何ァーんじゃ ほおづき
親は丈高 子はちんこ ちんこ小竹に花が咲く
何ァーんじゃ みょうが
金山こえて 竹薮こえて 中は菩薩の踊る場に
何ァーんじゃ 煙管(きせる)
十八の女、二階の下に居る
何ァーんじゃ 桜

坊さん 坊さん 何処いくの
わたしはこれから 稲刈りに
わたしも一っしょに つれてって
お前がくると じゃまになる
かんかん坊主 かん坊主
うしろの正面 だあれ

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神様の 細道じゃ
どうか通して 下しゃんせ
御用の無いもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝に
お札をおさめに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ通りゃせ
(歌の終った所でひっかかると)
地獄 極楽 エンマさんの前で
お経読んで 飛んでけ(つきとばす)
(ほめられたということもある)

指きり かみきり げんまんや
うそついたら 八万地獄へ
まっさかさまに 落ちる

(手の甲をお互につまみながら)
いちゃ さいた
にゃ さいた
さんな さいた
しゃ さいた
ご さいた
ろく さいた
しちゃ さいた
はちゃ さいた
ブーン

(前掛をつまんで遊ぶ)
おんけぼ に
こんけぼ に
まなばたけ
さくらい念彿
四十四、五日
なんなの首を
三つに切って
キチキチまわし
あーみ なーみ だーぶつ 
 
 
■わらべ唄の分類 3
 

 

手まり唄
季節に関係ないが、主として外に出られなくなったときにやる。
1あげまり・・・わらべ唄や古謡がうたわれる。
2つきまり・・・わらべ唄をつけ、床上でやる。
明治以前ならば、小さい子どもは髪を、ちごまげ(おちご)に結ったり、ハマグリに結ったりした。結い目に丈長(たけなが)というものをつけ、きれいなカンザシを差し、長袖のたもとを左手でおさえて、座ったまま、きれいなマリで、仲良しの子ども何人もと室内で遊んだものだ。
きり遊びの唄
秋の終わりから冬、室内で男女ともが遊ぶ。「竹きり」とか「竹おごし」とも言う。長さ18cm位の細長い竹、4本以上、偶数本を使う。竹は皮の方を「黒」、裏の方を「白」と呼ぶ。二人以上で向かい合って座って遊ぶ。先攻はじゃんけんその他で決め、白黒、自分の持分を決める。遊び方は次のようなものである。
1おごし
右手の上に偶数本の竹をあげ、手からそろって(白黒)おろす。あるいは、手の平をおこしかえす。別の方法としては右手に一本の竹を持ち、その上に他の三本をあげて握り落として白黒 自分の「持ち」があり、次のやり方に進むことができる。
2たで
3なげ
4ねじり
5かえし
6わげ
7きり
この7種類のコースを繰り返す。
最後の「きり」で、この1ゲームが終わりをつげる。6の「わげ」だけは左右両手を使う。これをおこなうのに次のようなわらべ唄を使う。
   ひとかえし ふたかえし みかえし
   よかえし えずかえし むかえし
   ななかえし やかえし ここのかえし
   とかえし 大阪見物 みっつがよ
羽根つき唄
ひとごに ふたご
みわたす よめこ
よめこの はらこ
ねぶとこ でたけぁ
いでとも いわず
かえとも いわず
ただなく ばかり
ここのえの えっちょら
正月、羽子板と羽根を買ってもらう。歌舞伎役者の押し絵のある羽子板を持って、二人で遊ぶ。わらべ唄とともに羽根の音がカンカン鳴って、正月気分が部屋いっぱいに満ちあふれる。羽根が5本ずつ、クシに通されて売られているのは大変美しいものであった。正月、みんなきれいな着物を着て、この羽子板で楽しく遊ぶ。
お手玉唄
お手玉を作る布を「あやこ布(ちん)コ」と呼んでいる。着物や羽織や帯などの余りの小布が子どもたちによってたくわえられる。明治初年ごろ、メリヤスがまだ日本に渡ってこない時代には、黒色に赤い桜などの模様が付けられていた木綿のものが「あやこ布コ」といわれ使われていた。まず、布を二つに裁断して舟形のものを2つ作り、それを縫い合わせてお手玉を作る。お手玉の中にはアズキなどを入れる。または、1文銭を入れてカラカラ鳴るようにしたものもあった。
やり方は二人で向かい合ってやる。一人で壁や、からかみに投げ上げて落ちてくるのを拾ってやる遊びもある。一人で三つ四つ五つも、まるで軽業師のように上手にもてあそんで行う遊びもある。ここにわらべ唄がつく。女子にとってはまことに楽しい遊びであった。
   おふとつ おふとつ
   おふとつ おふたつ
   おふたつ おふたつ
   おふたつ おんみつ・・・ 
手指の唄
「手指の遊び」には大きく分けて3種類あるようだ。まず代表的な「シュッ シュッ シュ」の手合わせ唄である。これは全国各地に残っている。津軽では「シュッ シュッ シュ パッタ パタ」の前唄からはじまって、手の打ち方の変化(両手を上中下で合わせたり、片手をかわるがわる打ち合う)をわらべ唄をうたいながら楽しむものと、それに簡単な手振りや身振りをつけるものがある。女子によって多く遊ばれ、二人で向き合い、両手を顔の前にあげて、手の平と手の平を打ち合わせていく。
次は「指遊び」である。私らの小さい時、何ということなく、こんなことをやって楽しんだものだ。
   火(し)たもれ 火たもれ
   あっこに 火コ ごえへん
   あの山越えで あの沢越えで あの谷越えで
   こごに 火コ ぼっかぼか
   こごに 火コ ぽっかぽか
この唄を何度もうたいながら、両手の指と指を組んで山形にし、はじめ両方の人差指から、離して触れさせ、つづいて中指と中指、薬指と薬指と順番に動かしていく。火がポカポカ燃える所作なのだろう。
第三は雑遊び。まず、指を組んで、お湯屋の遊びをするものがあった。
1へんとこ(お湯屋の意) 今日わがしたはで
 お湯コさ 入るね来へんが
2お湯コさ 入るに来した
3あつかんコに へすが
 ぬるかんコに へすが
1のような挨拶をしながら、左手を上向き、右手を反対にして組む。2お湯に入るときの子の挨拶で、こう唄いながら自分の人差指を入れる。3「あつかん」と言えば、指をきつく痛いようにしめ、「ぬるかんこ好きだ」と言えば指をゆるめ、そのお湯の加減を指で調節する。
また、次のような唄をうたいながら、子どもをあやす所作になったり、顔全体を指差す遊びになったりするものもあった。
   眉毛の殿様       (眉をなでる)
   めがげをつれて     (目の縁をまわす)
   花見に行(え)ったけぁ (鼻をつまむ)
   お池のほとりで     (口をまわして)
   白石(えし)コ 拾って (前歯を数えて)
   お土産忘れ       (奥歯を数え)
   おのどこ こちょ こちょ(のどをくすぐる)
室内でみんな集って、座りながら向かい合う。相手の顔に右手の人差指を軽くあてながら、わらべ唄をうたって上記のような所作をするのである。遊び道具がなくとも、子どもたちはいろいろ工夫し、こんなことをやって楽しんだ。
拳(けん)遊び
春夏秋冬、男女とも先攻後攻を決めたり、鬼を決めたり、二つの組を決めたり、いろいろなときに使う。二人で握手した格好から、津軽では口で「しゅっ しゅっ しゅっ」と拳の前に唱える。こうして「津軽拳」の勝負が始まるのである。ここにわらべ唄が伴う。
1ろうそく、あめだま、ふるしぎ(ふろしき)
 ろうそく(やり)・・・人差指を伸ばす
 あめだま(にぎり)・・こぶし
 ふるしぎ(へら)・・・全部の指をのばした手の平。
 また、この拳に、足歩(そくほ)を伴うものがある。
2にっこ、へら、やり
 にっこ(にぎり)は一歩前進できる。やりは三歩を許し、へらは五歩である。
3「かぼちゃ、芽出した、花コ咲いで開いた」と唄って拳をする。
 ・かぼちゃ・・・にぎり 
 ・芽出した・・・やり
 ・花コ咲いで開いた・・・へら
また、上方方面のように「じゃんけんポン、あいこでしょ」「おあいこ じゃん」という「輸入拳」もこのごろ、子ども同士でやっている。昔ながらの「津軽拳」の規定も「上方拳」の勝負規定へと、だんだん改められてきた。
4「けんけんけなり、おぼしな稲荷(いなり) 尾っぽ ごそば よら」
 上記のように唄ってやる拳もある。
 この唄が終わった瞬間、にぎり・へら・やりを即座に出さなければならない。
6ぐ ぱ ぴ
 女の子どもは、もっぱら「ぐ」「ぱ」「ぴ」をおこなった。
 ぐ・・・にぎり
 ぱ・・・ひらき
 ぴ・・・親指と人差指
5大名拳
 子ども数人が、二列に並ぶ。
 そのうちの一人は二列にならないで、上の座に一人デンと構えて位置している。下位の二人から、じゃんけんをして、勝ったら順に上位の人と拳をしてのぼっていく。
 勝ったらその人と位置をかえてのぼっていく。負けた人は下に一段下がる。
 こうしてだんだん拳をして、大名に近づいていく。
 ついに大名の前へ出た者は、一礼し、大名と拳を争うことになる。
 そのとき、あとのみんなが、「大名(だえめょう)落ぢだら 手たたけ」と叫んではやす。
 大名が拳に負けると、一番下の座にさがって、また拳をしながら、上に上にとのぼっていく。
 こうして再び、拳遊びを繰り返すのである。
 大名がおろされるときは、みんなで拍手して喜ぶ。
 この遊びは封建的大名制度の恨みの名残りであろうか。

   さん さん じゃえ(庄屋)
   さん さん こん(狐)
   さん さん どん(かりうど)
秋冬の室内で男女とも遊んだ。二人でおこなう。キツネ・かりうど・庄屋の格好の所作をする。
キツネ・・・両手人差指をピンと立てて両耳の上に掲げキツネ耳の格好
かりうど・・左手を胸の前に突き出し、右手で引き金をひいて獣をねらい撃つ格好
庄屋・・・・両こぶしを座ったひざにのせて、威張ったような格好をする
準備がそれぞれ整ったところで、この遊びにとりかかる。はじめに「さんさん」という前文句が入り、じゃえ(庄屋)、こん(キツネ)、どん(かりうど)と格好に対応した言葉を唱え、二人ですばやくその格好をとる。
二人は互いに見合う。
庄屋&かりうど・・・庄屋の勝ち
かりうど&キツネ・・・かりうどの勝ち
キツネ&庄屋・・・・・キツネの勝ち
だんだん言い方を速めていくと、二人はおのおの、うろたえて間違えたり、遅れたり、お互いにアイコになったり、これ以外の別な格好を急にしたり、大変にぎやかな、また、こっけいな遊びになる。
人あて遊び
今日は誰さん 呼びましょう
○○さんでも 呼びましょう
何の魚で 呼びましょう
合わせで 揃えで しょうふ 
北海道の 海道の子
海道の娘は 廃しましょう
お寺で みそすれば すれば
よっとこさ
大正時代に弘前地方で流行したが、今はもうない。歌詞の意味はわからない。唄の終わったところで、中の目隠しをした子が(しゃがんで)後の子の名をあてる。
山越えで 沢越えで
お山の お山の
ちょんこ 居(え)したが
男女とも子ども数人でおこなう。このわらべ唄をうたい、両方の組に分かれて、そのうちの一人が隠れていた人を「◇◇さん、◇◇さん」だと言って、向こう組の人の名を一人当てる遊びである。当てられた人は他の組に取られて、その組の人になる。組み分けは、その前にあらかじめおこなっておく。また、目隠しをした一人が他の組の人の名を「この人ァ◇◇だァ」と言って当てることもある。
かりうどさん
鉄砲(てっぽ) かづえで どこ行(え)ぐの
どん
子どもたちが、たくさん丸い輪をかいて、手をつなぎ、中に鬼の子を一人いれておく。わらべ唄をうたいながら、外側の子どもたちがまわる。「ドン」で止まり、後にいた者の名をあてる。夕焼けが赤く空をそめている。子どもたちが六人、七人と丸く輪を作って手をつなぎ、わらべ唄をうたいながら、丸くゆっくり歩く。中に子どもがちょこんとちぢこまって、目を両手でおおっている。「後に えだ者 だーれ」と唄い終わると名前をあてる。名前をあてられたら鬼は交代。しかし、こういったのんびりした唄も、今は聞かれなくなった。 
 
 
■全国の童歌

 

北海道

 

空を背中にかついで歩けば どこへ行っても心のふるさと お〜い お〜い北海道 
亜紀に美幸にはるみ節 釧路 帯広 苫小牧 女ごころがわかります
ふと立ち止まる おれの小樽は 坂の町 別れた あの日が 見えかくれ
母のふるさと ああ色丹恋し 苫屋が恋し 落書き恋し ノサップ岬
ふたりの札幌 もう一度 心の人です あなたに逢いたい
何処にいるのよ あなたは何処に 夢を 夢をつないで ひとり札幌
思わず重ねた くちびる哀し もいちど胸に もいちど顔を ふたりの小樽
想い出だけを残して ああブルーナイトイン札幌 薄野の夜は更ける
ああ 札幌 札幌 慕情の都 君とここに住みたかった 夢はまださめない
この世の運命 恨んでも どうにもならない 想い出ばかり ああ氷点の街 旭川
忘れられない夢がある 北のネオンの 止まり木で 男はそんな 阿呆鳥
いまでもあなたの心の妻と 北のはずれのとまり木で 夢を待ってる花咲港
そばで一緒に しぶきを浴びる 夢を追います 根室海峡
思い出全部 かき集め 涙は捨てて 行きましょう 北のサッポロ
あゝ死ぬまでふたりづれ 想い出が 消えるまで チョッと待って札幌 しのび雪
燃えて花咲くアカシアも 名残りつきない時計台 北の街札幌は恋の街ふたりづれ
恋の夕笛 さやかにわたる ああ わたしの札幌 あなたの札幌 夢呼ぶ街よ
すててください 溜息を 釧路 夜霧の 釧路夜霧の 幣舞酒場
流氷とけて 春風吹いて ハマナス揺れる 宗谷の岬
名もない鴎に なりたくて 海なり岬を 函館本線は 涙の線路を 走ります
ああ旅路の汽笛が 時計の針が この胸を泣かせる 小樽のめぐり逢い
セピア色した雨が降る イエスタデイをもう一度 窓の向こうに あぁ小樽運河
はるかに偲ぶ石北峠 あゝ北海道の屋根という 大雪こえる 旅心
北風冷たい 帯広の夜 可愛いあの娘と かた寄せた 今夜も飲もうよ いつもの店で
つよく手をとり 生きてよと きらきらきらり きらきらり ゆれて輝く 宗谷湾
抱けば愛しい乳房の重み 明日はどの人好きになる あなたさよなら忍路海岸別れ雪
離れていく流氷たちが あなたに見える納沙布岬
悲しみ多い 恋でした ああ つきぬ恨みの函館 函館ブルース
明日は小樽へ 旅立つあなた 秋が泣かせる 節子草 ここは函館 青柳町
責めればみじめになるばかり ひとりひとり身を引く 函館本線
雪の砂漠はつづいても ついてゆきたい 宗谷 紋別 氷雪原野
通い妻だと笑ったひとの 髪の匂いもなつかしい アイヤー 留萌 滝川 稚内
切なくむせぶ あの声が ああ 終りなき愛は 宗谷の岬の月をゆがめる
もう見おさめだ 船をおりるぜ 千島の千鳥 さらばさよなら ロパトカ岬
待っていてくれ 納沙布かもめ 俺の船唄 船唄 男唄 届け はるばる 北故郷
命ぎりぎり愛したい 涙ぼろぼろすがりたい リラの花咲く都 薄野 女待ちます北物語
おもいで灯り 街あかり ふたりで燃えた 雪まつり 魅せられて札幌 好きです札幌
いつかあなたが話してくれた 北のさいはて摩周湖の夜
愛に生きるわ 命の限り 深い情の 名寄の女よ
丸太のように かじかむ指に 羅臼魂の 陽が赤い
行こか釧路へ戻ろか襟裳 春はどこやら 旅まくら 夢の 絆 ひとすじ 女のさだめ
恋人なのね 故里なのね ありがとう私の恋の町札幌
遊ばせ唄
あんよはお上手
あんよは お上手
ころぶは お上手
ここまでおいで
ここまでおいで あんよは上手
ここまでおいで
おつむてんてん
おつむてんてん
おつむてんてん
寝させ唄
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
それをもろうて どこへいった
あの山越えて 里へいった
ねんねこや
ねんねこや ねんねこや
そったらに泣くと もっこくるぞ
ころころころ
ころころころ ころころころ
ころころころ ころころころ
ころころころ ころころころ
赤い山青い山
ねんねの寝た間に 何せよいの
小豆餅の 橡(とち)餅や
赤い山へ持っていけば 赤い鳥がつっつく
青い山へ持っていけば 青い鳥がつっつく
白い山へ持っていけば 白い鳥がつっつく

 

子守唄
ハタハ ハタハ
ハタハ ハタハ
ハタハ ハタハ
ハタハ フ ホ
ハタハ フ ホ
ハタハ フ ホ
ハタハ ハタハ
ハタハ ハタハ
オロロロロロ フ ホ(囃し)
ハタハ
ハタハ ハタハ
オロロロロロ フ ホ(囃し)
ハタハ・・・・
テタ マクタ マクン フチ
テタ マクタ〔むかしむかし〕
マクン フチ〔大むかしのおばあちゃんの〕
イフムケ〔子守歌だよ〕
ハタハ ンー〔ハタハ ンー〕
チシル エカチ〔よく泣く 子だ〕
ペヌチ ハウェ〔泣く声が〕
イエ クルカ スウエ〔自分の上に響くよ〕
ハタハ オー〔ハタハ オー〕
オロロロロロ〔オロロロロロ〕(囃し)
ハオ ハオ ホイ〔ハオ ハオ ホイ〕(囃し)
トイ カワ ホプニペ
トイ カワ ホプニペ コモンネ
〔地上から立ち昇るものが眠りだろうか〕
モム カワ ホプニペ モコンネ
〔流れの上から立ち昇るものが眠りだろうか〕
アヨロ タ カムイ シンタ
〔アヨロに神の揺りかごが〕
ラン ワ クス アンペ モコンナ
〔降りたところから起こるのが眠りですよ〕
アフ ワ アフ
〔アフ ワ アフ〕
ホイスハ オハオ
ホイスハ オハオ
ホイスハ オーヘ
ホイスハ
ヘタク モコロ〔早くねむれ〕
ホイスハ オーヘ
ホイス
イテキ チシ〔泣かずに〕
ホイスハ オーヘ
ホイスハ
ヘタク モコロ〔早くねむれ〕
ホイスハ オーヘ
ホイスハ オハオ
ホイスハ オー
アルルルルルルルルル オーヘ
アルルハ オハオ
アルルハ オーヘ
アルルハ
ヘタク モコロ〔早くねむれ〕
アルルハ オーヘ
アルル
モコロ モコロ〔ねむれ ねむれ〕
アハルハ オーヘ
アルル イテキ チシ〔アルル 泣かずに〕
アルル フン
アルルハ
ヘタク モコロ〔早くねむれ〕
アルルハー オー
アルルハ オーヘ
アルルハ オハオ
アルルハ オーヘ
アルルハ オハオ
アルルハ オーヘ
アルルハ
ヘタク モコロ〔早くねむれ〕
アルルハ オーヘ
アルルハ オーヘ
アイヌの子守唄は「イフムケ」と呼ばれ、子どもをあやす時に使う「よしよし」といった音による呼びかけを基本として構成された唄が多い。この唄の「ホイスハオハオ ホイスオーヘ」も、とくに有意なものではなく、「よしよし」と呼びかけているものである。続く歌詞は、「さあ、はやくお休みなさい」「泣くんじゃないよ」といった意味。
ホー チーポ チプ
ホー チーポ チプ〔そらこげ 舟を〕
ハウ ワ ハウ〔ハウ ワ ハウ〕
(繰り返す)
ピルカ ピルカ
ピルカ ピルカ〔よいな よいな〕
タント シリ ピルカ〔きょうは天気よいな〕
ピルカ ピルカ〔よいな よいな〕
イナンクル ピルカ〔どの人よいか〕
ピルカ ピルカ〔よいな よいな〕
イナンクル クヌンケ〔どの人えらぼう〕
フワ ハエン (クマの子守唄)
フワ ハエン〔フワ ハエン〕
ウシシキナ ハ オスラ〔ウシシキナは棄てろ〕
フワ ハエン〔フワ ハエン〕
 
青森

 

津軽の海峡荒れて 俺もお前も 故郷へふるさとへ 帰りつけない 文明沙漠
赤い口紅買ったよな 逢いたいな 逢いたいよ 津軽恋唄 じょんがら岬
風に唄って 出船だよ 津軽 下北 最果て港 海は男の 恋女房
春を知らせに 流れ行く 十三湊へ 日本海 津軽を流るる岩木川
さよならはしたけれど 今でも好きよ あなたが 雪が舞う 龍飛岬よ
空は無限だ どこまでひとつ ああ 十和田湖 さざ波よ
明日の道さえ 埋めつくす 津軽平野は あぁー雪の海
むち打ち生きて 愛の涙を ちらすのか 津軽じょんがら流れ唄
夢のひと枝 花が咲く 帰って来いよ 津軽の里へ
林檎も桜も 一緒に咲いて 北の津軽は 春盛り花盛り
今年ァめでたの 父子船 あんたの海だよ 津軽の海は 絆一本 固めて来され
私は帰ります 風の音が胸をゆする 泣けとばかりに ああ津軽海峡冬景色
生まれ故郷は 忘れない 酒っこ飲むたび 口に出る 津軽じょんから 故里の唄
いつもじょんがら大きな声で 親父うたって 汽車から降りる お岩木山よ 見えたか親父
大きな声で叫んでみたよ 岩木よ お前がいたから 俺がいる
じょんがら津軽平野を 思いだすんだヨ 津軽 東日流
いつになったら夜があける 津軽海峡 心をはこべ 北のかもめよ心をはこべ
竜飛岬は ああ北の果て 命断ち切る 意地もない つらさなお増す 別れ旅
遊ばせ唄
きっこたっこ
きっこ たっこ
咬まない しるし
咬んだが 咬まねが
まだ降りねェ
手ん車手ん車
手ん車 手ん車 誰乗った手ん車
ミヨちゃん乗った 手ん車
 だえじの嫁コに
呉るも惜しし 投げるも惜しし
豆 豆 ぽっちど入れで
砂糖食ってが 乳飲みてが
砂糖屋さ まげでやれ
からかんご
からかんご からかんご
誰が乗った からかんご
ハナコが乗った からかんご
江戸見てが 京見てが
大阪まで ぶん投げろ
十歩八歩
十歩八歩 はやまのはやしコ
てんじま てんどりコ
もっちゃぐちゃの 花コ
咲えだが 咲がねが
まだ秋ァ 来ねね
とらぼァ五つ 十三ね七つ
かれェコ焼んかえ
かれェコ焼んかえ 火けさえ
頭コ焼んかえ しりっぽ焼んかえ
寝させ唄
ねにゃもにゃ
ねにゃもにゃ どご行た
あの山超えで 里行た
里のおみやに なにもらた
でんでん太鼓に 笙の笛
ねんにゃ ねんにゃ ヤイ ヤイ ヤイ
木造の子守歌
ねんねんころりよ おころりよ
泣げば山がら もこぁ 来ろぁね
泣がねで 泣がねで こんこせぇ
山の奥おぐの白犬しろいのこぁ
一匹吠えれば みな吠える
ねんねこ ねんねこ ねんねこせぇ  
諏訪沢の子守歌
寝ろじゃ 寝ろじゃ 寝ろじゃえ
早ぐ寝ねば もこァ来らァね
早ぐ寝れば 母 乳コ呉らね
寝ろじゃ ヤイ ヤイ ヤイ
岩崎の子守歌
泣げば山がら もっこァ来るじゃ
泣がねば海がら じょうじょ来るじゃ
あんまり泣げば かましコ下げで
袋下げで もっこァ来らァ
したはで 泣ぐな
大川平の子守歌
俺の太郎は 寝ろじゃよ
寝ねば山がら もこァ来らァね
寝ろじゃ ヤイ ヤイ ヤイ
金屋の子守歌
俺のハナコ 寝たこへ
寝れば山がら もこァ来るァね
ヤーエノ ヤエ ヤエ ヤエ
倉石の子守唄 1
ねんねこ ねんねこ ねんねこせぇ
ねんねこ ねんねこ ねんねこやぇ
寝ったら 母方さ へでぐじゃ
寝ながら ししに 食せでけらァ
ねんねこ ねんねこ ねんねこせぇ
ねんねこ ねんねこ ねんねこやぇ
倉石の子守唄 2
ねんねこ ねんねこ ねんねこやぇ
ねんねこ ねんねこ ねんねこね
寝ったら 母方さ へでぐァじゃ
三戸の子守歌
ねたこ ねたこ ねたこへ
寝たら 母方さ 連で行ぐ
寝ねば 山コさ 取て投げる
ねたこ ねたこ ねたこへ
川内の子守歌
ねろじゃ ねろ ねろ
泣がねで 寝こせ
泣げば山コがら もっこ来て取て食う
ねんねろや ヤーエ
七戸の子守歌
ねんねろ さんねろ 酒屋の子
おらが隣の千松コ
七つ八つから かねつけで
かすりの前垂コ あでかげで
しみすコ洗う時ァ パチャパチャと
絞る時には キリキリと
あっちの山の 白いんこ
こっちの山の 黒いんこ
一匹吠えれば みな吠える
佐井の子守歌
ねんねこヤーエ ねんねこヤーエ
 ねんねこせじゃ ねんねこよ
ねんねばヨーエ 山コがら
 おっかねもこァ 来るじゃよ
横浜の子守歌
ねろじゃ ねろ ねろ
泣がねで 寝だら
寝だら めごがる かなしがるウ
おれのおんぼこァ
おれのおんぼこァ ねんねこへ
おぼのお父さは どごさ行た
お父さ鳥コ町さ 鳥こ買ねた
お母さ鰈コ町さ 鰈コ買ねた
兄の馬鹿者 柴コ刈ねた
柴にはンずかれで 七転び
もひとげり 転べば八転び
ねろじゃ ねろじゃ ヤイ ヤイ ヤイ

 

わらべ唄 / 雪
上見れば虫コ
上見れば虫コ
中見れば綿コ
下見れば雪こ
雪ァ降れば 
雪ァ降れば 寺の屋敷さ 
雪ァ一杯貯(た)また 
何鳥つつだ もほ鳥つつだ
オホオホ       
雪やこんこ
雪やこんこ 霰(あられ)やこんこ
嶽の方さ 降ってえげ
降ってげ 降ってげ
おば雪降れば 
おば雪降れば
猿のけっつァ 真っ赤だ 
わらべ唄
からかいご
からかいご からかいご
誰乗った からかいご
アコちゃん乗った からかいご
おじの嫁コに けるも惜しいし
投げるも 惜しいし
豆、豆 ぱっちど いれど
江戸見てが 唐見てが
大阪まで まげでやれー  
津軽地方の子守歌には「あやし歌」と「ねかし歌」があるという。「からかいご」はあやし歌の一つである。からかいごは「唐籠」と書くのか。「古の天じく、唐のえもいわれぬ見事な乗り籠」であったのか。「おじ」は「おんじ(二男の称)」である。はじめ両手を組み、幼児を乗せて軽く揺り動かし、最後の「大阪までまげでやれ」で大揺れに動かし、幼児をあやす。 
風うわうわよ
風うわうわよ
強い風 たのむ
弱い風 たのまね   
長い冬に耐えて生活している津軽地方の人々は、春をこよなく待ちあぐんでいる。春風が吹きはじめると子どもらは凧上げに夢中になる。子どもが凧上げに必要な強い風を呼ぶいじらしい願望が素朴に叫ばれている。 
あがべてこさま
あがべてこさま
凧あげだ
知らねで おけたきゃ
凧 にげだ
父さん 母さん 取ってくれ
はしごが ないがら
取られません  
上記同様、凧上げの歌で、お互いに相手を揶揄しながらの歌である。子どもたちは、春は春風に羽織(はんちゃ)を着て外に出て、指に凧糸で傷のついた手で、寒さに負けず凧上げをしたものである。相手の凧がグリする(空中でさかまわりすること)とか、糸が切れて逃がすようなときには、間髪をいれず、口からこの歌が出てお互いにからかいあった。昔は、凧上げが、春の男の子どもの遊びの大部分をしめていた。津軽地方一帯では、だいたい、このような歌詞によっているが、その他の地方では、以下に示すよう、凧上げする人の呼び名を異にしているのが興味あることである。 
津軽の子守唄
寝にや ねえにや
寝んねこせ
寝ねっば 山から
もっこが 来らね
寝ろでや 寝ろでや (弘前)   
この唄は多少の変化を伴って津軽に広く伝わるもの。子どもが、ずるけるときに唐から「もっこ」が来ると言っておどかしたそうだ。米沢付近では「もう」または「もうもう」と言い、ときには「もうー」と長く引き伸ばして、急に「かっ」と言ったりしておどかしたという。 ここで「もっこ」のことについて、さらに述べたい。私自身も「もっこ」は「蒙古」のことであると聞かされていた。すなわち、蒙古襲来がその頃の日本人にとって非常に恐ろしかったことから、「また蒙古が来るよ」と、こわいもの、おそろしいものの意味になったと。「もっこ」はお化け、怪物の意のモツケ(物怪)の転意したもので、蒙古襲来は後人の作為との説もある。 
中郡大浦村(一野田)の子守唄
おれのおぼこァ ねんながよー
ねんねば やまがら もこァ くるじゃ
ながねで ねんながよー よー よー
   おれのあだこァ どごさ えたァ
   やまを こえで さどさ えたァ
   さどの みらげね なにもらたァ
「ねんずと ごんぼね よりだえご」・・※
おぼこね もだへる ねねよしこ
ねんながよーよ  
この唄では、もともとの「でんでんたいこに笙の笛」が、※の部分で「にんじん、ごぼう、大根」と農産物に変わっている。 
おれのおぼこ
おれのおぼこ ねんたこへ
おぼの おどさは どごさ いったあ
おどさ とりこまちさ とりかねたー
おがさ かれこまちさ かれこかねたー
あにのばかもの しばこかねたー
しばに はづかれで ななころびー 
もひとげり ころべば やころびー
ねろじゃ ねーろじゃ やい やい やい 
てんぐるま
てんぐるま てんぐるま
誰乗った てんぐるま
太郎ちゃん乗った てんぐるま
だいじの嫁コに けるも惜しし
投げるのも 惜しし
豆、豆ぽっちといれで
砂糖食ってが 飲みてが
砂糖やさ まげでやれ  
「てんぐるま」は手車である。この唄は「からかいご」とともに津軽地方で広く唄われている幼児のあやし唄である。子ども3人のうち、1人は東手、あとの2人が両手で井桁をくんで、その上に1人を乗せる。2人でこの唄をうたいながら調子をとり、揺り動かすのである。「砂糖食ってが」から大きく揺り動かし、「まげでやれ」で一番高いところまで動かす。これをやると幼児はことのほか喜ぶ。 
十ぽ八ぽ
十ぽ 八ぽ はやまのはやしこ
ちょんずは てんぐるま もちょこちの花コ
咲えだが 咲がねば まだ秋来ねじゃ
おとりやご とりやご 侍ピロロ  
十ぽ(十方) 八ぽ(八方) はやま(早馬) はやしこ(早廊こ) ちょんず(長十) てんぐるま(手押車) もちょこち(盲者愚者) おとりやご(お到来こ) とりやご(取合こ) ピロロ(嫌ろ「キロロ」)と解くようです。 昔、津軽藩の御用人に足羽長十郎(乳井貢の家来)という人があって、年貢をひどく取り立て、その威をふるったそうです。人々はそのひどい仕打ちに憤りを感じ、彼を揶揄する唄がいつしか生まれて流行していったそうです。 幼児の両手をひいて歩かせたり、足の甲に乗せて歩かせたりするときに唄われますが、十ぽ(十方)、八ぽ(八方)を「十歩八歩」と意味を取って、歩かせる唄に転化していったのかもしれません。 
花折りの唄
友達なあ 友達な
花折るね 行がねな
何の花折るねシ
牡丹 しゃくやく 芥子の花折るねシ
一本折って 腰にさし
二本折って 腰にさし
三本目に 日暮れを
ぬる湯さ 泊まったけァ
朝(あさま)ネ もっぐど起きで
西の方じ 見んだれば 
雪のよな姉さま
銀の銚子 手に持って
銀の盃 手に持って
父(てで)こね 父こね
母(あば)こね 母こね
何し(なし)に 飲めへんば
魚コなくて 飲めへんじゃ
おらほじの山コに
高げえ所に 竹の子
低い(ふぐい)所に ふぎの子
鰊(にし)コ いわしコ
たんさんだ たんさんだ
ふぐろになあれ 
ふくろこになれ
かめこになれ  
幼児を「いすこ(いずこ)」に入れて寝かせる唄。前の方に、はたきや風車を立て、ゆっくり揺さぶりながら、この唄をうたう。幼児は揺らぐ はたきなどに注意をひかれ、母の唄を聞きながら眠りに入る・・。 
ねぷたの唄(弘前地方)
ねぷたコ 流れろ
豆の葉さ 止まれ
トヘロレコ レコレ
トヘロレコ レコレ
ヤレ ヤレ ヤレヤ
ヤァ ヤド   
旧7月1日より7日まで、津軽地方でおこなわれる七夕行事で、枝をつくして作った高さ数丈の紙人形や燈籠を、川や海に流す行事である。その流すものを「ネプタ」と称する。これは秋田の「ねぶり流し」、花輪の「七夕」、その他各地の七夕祭りと同一の型であり、祇園の神の古い信仰が、この祭りの中心の意味をなすもので、ねぷた燈籠は流される祓いの形式であり、けがれや禍罪や、わざわいを負わせて流した祓いの人形にほかならない。「ねぷた(ねぶた)」ということばは、秋田の「ネブリ」と同様で、「ねむり」を流すということも、古代の人たちは真闇の夜も神秘なものと考え、同時に黄泉の国を連想することから、すなわち眠ることは死であり、不吉なことのわざわいなり、けがれなりと、祓うことでもあった。
「ねぷた祭り」の起源については、その昔、坂上田村麿が津軽の蝦夷大丈丸の反撃に、たびたび苦戦におちいり、一策を案じ大燈籠をかざりたて、囃子面白く練って大丈丸をつり出して、これを討った故事にならったものといわれている。が、実はずっと降りておよそ、三百六十余年前、豊臣秀吉が朝鮮遠征の際、留守役をして京都にいた津軽秀信が祇園人形にならって「人形ねぷた」を創作したのがはじまりで、その後、享保の頃、津軽地方の豊年祝いと威武を宣伝するために国元において出させたのが、今に伝わっているのである。 
大円寺の宵宮
大円寺の宵宮(よみや)は おおにわが
石燈籠(いしどろ) 金燈籠(かなどろ)
まんどろで
辻では 花火コ しゅー しゅー
   6月13日 大円寺の宵宮
   えぱだに 賑か(にわか)で
   石燈籠 金燈籠 まんどろで
   両方側(りょほわぎ)
   花火コ しゅー しゅ
 おおにわが(大にぎわい)
 まんどろ(非常に輝かしく明るい)
 えぱただ(妙な 変な)  
国宝の五重塔のある八坂神社に以前、大円寺という寺もあった。それで、今でも大円寺という。この神社の宵宮の情景を唄ったものである。 
夜神楽
トレヘコテンテコ様
腹コ 病んだ
病んだきゃ 病んだきゃ
へちょコ ぬげだ
そのへちょ にがわで
ぴーたど ねぱらがした
あんまり とろろ飯
よぐ食たきゃ 
その へちょ
まだ ぬげた
 へちょ(ヘソ)
 ねぱらかし(くっつける)  
津軽の祭礼の夜に奏される旋律に、このような言葉をつけてうたわれた。祭礼が近づくと流行歌のようにうたわれたという。 
つのだえし
つのだえし つのだえし
つんのコ だっせじゃ
つのだえし つのだえし
つんのコださねば しからえる  
「つのだえし」というのはカタツムリのことである。5〜6月の頃の雨上がり、あじさいの大きな葉の上に、2匹、3匹といるカタツムリはかわいらしい。子どもらが、その引っ込んだ角を出させたいと、カタツムリにせがんでいる姿なのであろう。 
だぶり
だぶり だぶり 
くっつがねば へびからめァ  
夏のカンカン照りつけている日盛りに、子どもたちは、トンボ(だぶり)取りに夢中である。何かにトンボがくっついたとき、子どもの二本の指が丸く輪を描いてトンボに近づく。 
うさぎ
うさぎ うさぎ
なぜ耳 ながえ
ささで もちゃぐちゃの 
もちゃぐちゃの ささのは  
うさぎは目が赤くて、耳が笹の葉を二本立ててつけたようで、かわいいものである。子どもが、ガサガサと風にそよぐ笹から、うさぎの耳を連想したのであろう。 
くもさま
くもさま くもさま
今日 なんも ね はで
明日 ご へや  
くもが夜、灯を慕ってか家の中に入ってくることがある。すると、みんな、くもに呼びかける。「くもさん今晩は。よくいらっしゃったが、ごちそうがないから明日おいでなさい」と。 
松葉あそび
おらさ あだれば
ずっかもっか ささる  
松葉遊びにはいろいろあるが、正月のゆずり葉と松葉のすもうがある。このほかに大勢で遊ぶのが「松のずがもか遊び」である。一人が松の葉を針のように持ってみんなを追いかけるのである。 
こうせんこ
おれの かくじ(裏地)の ほうせんこ(鳳仙花)
花コ さえでも 実こァ ならね
今年はじめて 実こァ なった
あっじから けんぶつ こっじから けんぶつ
みな けんぶつ  
みな けんぶつ  
これは津軽地方のあやこ(お手玉)唄のひとつである。女子が好んで唄ったものである。 
ふぐろコになぁれ
ふぐろコに なれ
かめのコに なれ 
私たちは、ゆりの花びらを一枚とって、それを両手の間にはさみ、この唄をうたってやわらかにし、上の方を口にあててふくらませ、袋コにして遊んだものです。 
子守唄 「モコ」のこと
津軽の子守唄は、「モコ」をはじめたくさん採集されているが、その移り変わりをよくみると大変興味がある。これらわらべ唄から、長い間歌われている間の変化の様子がわかる。われわれ庶民の経済生活の波が、この唄の中にも、ヒシヒシと及んできていることが伺われる。津軽の各地方の人たちの手によって、その地方にふさわしく表現しなおし、類歌や替歌となって変化していったのか。「モコ」から、「姉さま育てた唐猫」「子守制度の古い因習」「母さまの市場買い」「父さまの狩猟」「兄の野仕事・芝刈労働」などにいたるまでの、前近代的な生活ぶりが、これらのわらべ唄にしのばれ、身にしみいるように感じられる。 
寝ねば山コがら、モコ来るァね
泣げば里がら 鬼 来るァね
おれの○○ちゃんは ねェたこせー
寝ーろーじゃ ヤエ ヤエ ヤエ
ねんねこ ねんねこ 寝えたこへ
ねんねば 山がら モコくらね
それでも泣げば 山サ捨てでくる
寝ろじゃ ヤエ ヤエ ヤエ
ねんねこ ねんねこ 寝えたこへ
寝んねば 山がら モコぁ 来らね
姉さま育でだ 唐猫コ
抱エだり おぼたり ママ かへで 
それでも泣げば 山サ捨てでくる
寝ーろじゃ ヤエ ヤエ ヤエ
ねんねん小山の白犬コ
山を越えで 里さ行ぐ
里のみやげに 何もらた
ピイピイ がらがら 豆太鼓
でんでん太鼓ネ 笙の笛
寝ーろじゃ ヤエ ヤエ ヤエ
おらァの子守(あだこ)は どこさ行(え)た
あの山を越えで 里へ行た
里のみやげに 何もらた
ニンジン、ゴボウ、針包
守は楽なよで つらいもの
お母さんに叱られ 子に泣かれ
近所の子どもに いじめられ
早ぐ 正月ァ来ればよい
フロシキ包みで 里へ行ぐ
お母さん さよなら もう来ない 
そんなこと言わねで またおいで
ねんねろ ねんねろ ねんねろやい
フロシキ包みに 下駄そろえ
おどさん さよなら もう来ない 
おがさん さよなら もう来ない
とうさま 鳥コ町さ 鳥コ買ネ行た
かあさま 鰈(かれ)コ町さ 鰈コ買ネ行た
家(え)にえだ あねさま ママたえでら
兄の若者 芝 切ネ行た
芝ネ はじがれで 七転び もひとげりころべば
八っころびーィよーおーお ヤエ ヤエ ヤエ
田螺(たにし)の唄
下記の唄によって、カラスと田螺(タニシ)のけんかの、長い間にわたるその経過とその歌詞の時代的な移り変わりを、うかがい知る。最後の語り物になったカラスと田螺のけんかは、ここでけんかの全貌を描き、因縁的な経過を述べている。この物語は、こうして人々によって、わらべ唄に創作され、人々の口にのぼり、末代まで語り継がれてきた 。現在では、田螺の生存は危うくなり、昔のように優勢をほこりえない。田の面に田螺が落ちていること自体、きわめて珍しくなってしまった。
カラスもけんか相手を失ってさびしいことであろう。
津軽の童戯の中に「がろう遊び」というのがある。早春、田の面上におびただしく落ちている田螺をカラスが長いくちばしで一つずつ、ついばみ、ほおばるさまを遊戯化したものであった。カラスが田螺を拾うそのたびに声を上げる。その擬声音が「がろう がろう」と聞こえるのであった。
つぶ つぶ つぶたん 川原のゴミかぶり
つぶや つぶや 豆つぶや 
醤油に煮づげて あがらんせ つぶ しょっぱいね
つぶや つぶや 豆つぶや
醤油で煮づげて あがらんせ
つぶ しょっぱいね 
カラスというクロ鳥に つっぽり かっぽりさーれだ
つぶや つぶや 豆つぶや
去年の春に いったれば
カラスというクロ鳥に 頭のまきめのとんがりを
もっくと つつかれて
雨さえ降れば その傷が
ずっくもっくと 痛み申す
向こう えのきネ カラスが一羽 
田螺 めがけて そろそろおりる
そこで田螺は食われちゃならぬ
カラスさまとは お前のことか さてもよい鳥
きりょうのよい鳥よ
すねにビロードの さやはんをはいて
コカンコカンと 鳴く声聞けば
昔 お釈迦の鉦鼓(しょうご)の音よ
そこでカラスも 涙にくれて
もとの えのきへ そろそろ帰る
そこで田螺は 身を三尺覚悟いたし
カラスどのとは そなたのことか
さても汚い 見たくない鳥だ
コカンコカンと 鳴く声聞けば
かわら やかんを引きずるごとく
そこでカラスは 腹立つけれど
我も 鷺のよに 嘴(はし)長いならば
つつき殺して もとの恨みを晴らす
悪口唄
(長男を揶揄して)
あんちょこ ちょこ ちょこ
するめの 尾っぱコで 祝言した   
(次男を揶揄して)
おんちゃま 大鰐(おわに)の遠方(えんぽ)の手
雪隠(へんつ)サ からまる 南瓜(となす)の手
(長女を揶揄して)
あねこ ねこ ねこ かながしら
猫(ねご)に とらえで 泣えでかがた
(相手のお母さんを揶揄して)
○○の かっちゃ
ええ かっちゃ  
便所さ 落ぢれば
くせえ かっちゃ 
(着飾った女の人を揶揄して)
今 行(え)った あねさま あんまりだ
おがわさ湯 くんで 顔(つら)洗った
その手でお釈迦さ 団子あげだ
お釈迦 臭せえと 鼻 ねじたぁ
もどりに 誓願寺(せえがじ)の団子盗んで
隠坊(おんぼ)にふまれて 尻(けつ)だくら
(顔に飯粒のついている子に)
あの飯(まま) えづ 食(く)んだべなぁ
正月餅っで 食んだべが
(仲のよい男女の子どもを冷やかして)
男(おどご)と女(おなご)ど ちょうめんコ
鉦コ ただえで なんまえだ
(泣きやんだ子に)
泣えだ 坊主(ぼんず) 笑った
袴 はえで 屁 ふた
箒(はぎ) 持って おどた
(頭の大きい子どもをからかって)
一つ(ふとつ) 人(ふと)より 大(お)き頭(あだま)
二つ 二つと なえ頭
三つ 見れば 見るほど 大き頭
四つ よっぽど 大き頭
五(えづ)つ えず見でも 大き頭
六つ むやみね 大き頭
七つ なるほど 大き頭
八つ やっぱり 大き頭
九つ この世にないよな 大き頭
十(とお) とほもなぐ 大き頭
(相手をけなすとき)
からすぁ ガ
ねずみぁ ギ
合わせで ガーギ 
ことば遊びの唄
かぐれおっこさ かだれ
かぐれおっこさ かだれ
「かくれんぼ遊び」をする時、この唄を声高らかに歌い、友を集める。友集めの唄である。「かぐれおっこ」とは、カクレオイコ(隠れ追子)、かくれんぼの意。「かだれ」は「参加しなさい」の意。
なべ 大きぐ なーれ
おっきい なべァ
ぶっかれろ
子どもたちが十数人でこの唄をうたいながら、両手を握って輪を描く。あんまり力を入れすぎて切れる。すなわち「ぶっかれる(こわれる)」のである。
ふじ入れこ やらねな
藤の葉の複葉を、葉柄から全部もぎとり、長い葉柄ばかりを集めて握る。そして、この唄をうたって友を集めるのである。友が集まったところで、「何本出しヨ」と出す数を決める。その後、葉柄をいっしょにして地面、または床上に、右手でつまんでばらまく。まく時に「大きだ穴 作れ 作れ」と言う。
まかれた藤の葉柄が、いろいろな形を作る。その形の中にどこもかけていない正方形、長方形、台形、ひし形のいろいろな四辺形ができると、そこに自分の持っている藤の葉柄をまとめ(1本以上何本でも)、四辺形のへりにふれさせないようにして入れ、相手に確かめ、その数だけ、まいた藤の数をとる。これを、お互いにやって、数を争う遊びがあったのである。上方ではこれを「フジぎっちょ」と言っている。
[一]じょうりき じょうりき じょばんの亭主(てえしゅ)
おっこの実 さしの実 
さらば さらば 先になって
じゅんじゅと ぬけろんじょ
   [二]上見ろ 下見ろ 
   奥の隅(しま)コ ちゃっと見ろ
(どうしても見つからないと周囲の子どもたちが)
[三]鉈一丁(なだ えっちょ)かれれば
今(えま)でも出すぞ (と何回も唄ってはやす)
   (降参 どうしても見つからないと探す子が)
   [四]鉈一丁 鎌一丁 かれだ
「草履隠し遊び」の唄である。草履の他のものでもよいが、どこかに隠して探させるとき、このように交替で唄うのである。このとき、隠しているものがどうしても見つからぬときは、隠した人が[三]を唄う。そして、見つからないと降参する子は[四]を唄う。[一]は独立しても唄われる。
つめこ なんじょ やらねが
「つめんこ なんじょ遊び」の友集めの唄。相手の甲の上を、右手の人差指と親指とでつねって、交互に左手・右手と繰り返す。座った膝の上のあたりから、だんだんに立てひざ、そのまま立った格好で上へ上へと二人が「つめコ(手指でつねる)」を繰り返す。痛さをがまんしながら、笑いさざめく遊び。
鯉(こーえ)の 滝のぼり
鯉の 滝のぼり
男の子ども、十数人が二列になり、両手を下から組んで、その並んだ両腕の上を一人の子どもがコイになって、この唄にはやされながら、左下から右上に、はね上げられ、上っていく。子どもらが、代わりがわりコイになって続く。
おもれんしゅう てんからぽん
天がら落ぢで 鼻欠えだ
梨コなれば とて かへら
泣くなじゃえー こんじょこえ 
悪口唄に分類していたが、この唄で「鬼ぎめ」もする。これを唄いつつ、片一方ずつ並べたゾウリやゲタを指で数え、唄が止まった最後のゾウリを抜く。これを繰り返し、最後のゾウリの持ち主を鬼と決めるのである。これは古代の「一きめ」の名残であろうといわれている。類唄が五つほど確認されている。
たぽーこ たぽこ
きじなえ たぱこ
鳥サ かへねで おだまサ かへる
さっさど くぐーれ くぐれ
女の子が向き合って幾組みも両手をあげて手を組み、この唄をうたいながら行進する。「さっさど くぐーれ」のところで、お互いに背中を向けて、くるっと向きをかえる。そして、また手をつないで丸くなって行進する。
あれよ あれよ
おらだきゃ しらね
おら しらね
誰かが何か大人に叱られるような悪いことをした時に、一緒に遊んでいる子どもたちがこのようにはやす。責任を転嫁する時にも使う。
おっけが おっと
こご 切って 禁制(きんせえ)
まる 書えで 禁制
何人かでイチョウ遊びの時、まず何枚出しかを決め、その数だけをお互いに出し、まとめて置く。右手の五本で上手にまく。このとき、ひとつずつのイチョウは取ってもよいことになっている。2個くっついているのは動かさないで取り得るが、少しでも動くと取られない決まりである。ここで前文句が唱えられる。「おっつけ おっと こご 切って 禁制」こう言って、少し離れて並んでいる二つのイチョウの実の間を1個、右手の人差指か親指ではじいて、他のイチョウの実にあたらぬように注意して通過させる。失敗すると交互に代わる。最後に一つになると、目をつむって「まる 書えで 禁制」と唄いながら、三度、丸を書いて、人差指と親指で山形にし、指に触れさせないようにしてくぐらせる。 
お手玉唄
お一つ(ふとつ) お一つ お一つ お二つ 
お二つ お二つ お二つ おん三つ
おん三つ おん三つ おん三つ お四つ
お四つ お四つ お四つ おん五つ(えづつ)
お五つ お五つ お五つ おん六つ
おん六つ おん六つ おん六つ お七つ
お七つ お七つ お七つ おみんな
おみんな おみんな おまくら かえして
おっ天 ばらり
ぞーくんな ぞーくんな ぞーくんなあんめ
あーんめ あーんめ おんめも 御(おん)だい
おんだえしこ おんだえしこ おんだえ びっき
びきすずめ びきすずめ びっきもおしゃらず
おしゃらず おしゃらず おしゃらず おんにんがえし
おんにん おんにん おんにんがえしゃ 
おんにんもおっかえしょ
おっかえしょ おっかえしょ 
おっかえ 桃(もも)どし
桃どおしぱった 桃どおしぱった 
桃も柿(かぎ)どおし
柿どおしぱった 柿どおしぱった 
桃も柿どおし
柿どおしぱたぱた 柿どおしぱたぱた
柿も一俵(えっぴょう)
一俵 二俵 三俵 四(し)俵 五俵もて俵(たわら)
一俵 二俵御馬(おんま) 御馬も一足(ひとあぁし)
一足かして 二足(ふたあし)かして 
三(み)足かして 四(よ)足かして 
五(えづ)足かして 五(え)づもたんたん
たんたん たえこ 白(しろ)だえこ
油のしゅんこで とっても来(こ)え
たんたん 滝(たぎ)の水
あしは おらえで倉(くら)建でる 飲むに来え
たな水(みず)向こうの お山の 雨降りお花は
咲えだが 咲がねが わしゃ 知らぬ
とっても来え
下(しも)の横丁(よこちょ)の
坊さん なんじょは
一人(ふとり)娘をかぐして おえで
かごさかくして お千代(ちよ)とつれで
お千代 十七 坊さん 二十(はたち)
我とお千代と 末代(まつだい)そわば
けしゃもかげまえ ころもも着まえ
おねんじょさんやら つとめもせまえ
七つ なつなつ なつかたびらを
何(なん)と染めると こうやに聞けば
こやの亭主は 染め方 知らぬ
一(えぢ)に たちばな 二に かきつばた
三に 下がりふじ 四(し)に ししぼたん
五(えづ)つ えやまの がんけのつつじ
六(む)つ むらさき 色よく染めで
七つ なんてん 八つ 山桜
九つ こうめよ お照らしおえで
十(とお)で 殿様 あおいの御紋で
さえ さえ さえ
椋鳥(むこどり)え 
山の うぐえすは れっちわね
れっちわさして くりようと
竿(さお)どり 頼むだ
竿ざ とれなえ 早ぐ さして 取ってくれよ
はやを忘れで 剣屋(つるぎや)の茶屋へ
一(えぢ)に たちばな 二に かきつばたね
三に 下がりふじ 四(し)に ししぼたんね
五(えづ)つ えやまの がんけのつつじ
六(む)つ むらさき 色よく染めだね
七つ なんてん 八つ 山桜ね
九つ 功名(こうみょう) 白羽(しらは)に染だね
十(とお)に 殿様 あおいの御紋ね
さい さい さい
一(と) 二(た) 三(み) 四(よ)
いつ む なな や 九(ここ) 十(と)や
十二が十六 十三が十六
くさにさぶない とおに一(ひと)つ
一(えぢ)ぎっじょ 二ぎっじょ
三ぎっじょ 桜 五葉(ごよ)の松(まづ)柳
柳の先さ 半丁(はんちょ)かげて
「○○」と呼んだ よしが 五郎太(ごろた)か
お山の弁慶(べんけ) よしたりささねが
お杯(さかずき) 一丁(えっちょ)
すすりや はしりや
イカの品物 ごもなもすすり
一杯(えっぱい) 二杯 三杯 四杯 五杯 
六杯 七杯 八杯 九杯 十杯
お額(なづき) 額 お顔の毛 髪の毛
お目(まなぐ) 目 お鼻 鼻
おん頬(ぺた) 頬
おん口 口 おとげ おとげ 
お耳 耳 お胸 胸
お乳 乳 お腹 腹
おへそ へそ およろた よろた
おひざ ひざ おんかくし かくし
おってん ばらして 一貫 貸し申した
見せたい 着せたい 大目縞(おおめじま)
たみ子に着せで 後(あど)見れば
だんだら男(おどご)も 腰折るだんの
骨折るだんの
おんば はらだ
おたけの中(なが)で すとしか すとしか
みしか みしめ よすか よろこび
五(ご)たち 六(む)たち
七度 八度(やど) 九(こご)たび 一丁(えっちょ)  
うすかもこ
舟のとんぼへ 腰かげで
浪(なみ)に打だれで
おや好きで だんの
おや好きで だんの
あれあれ 三上(みがみ)の おつやさま
たもど丸めで 歯をそめで
おはぐろ落(おど)して 二度 島田
赤(あが)え はねもど どっさりど
三味線 太鼓で どごえがる
わたしぁ 今晩 たのまれで
後(あど)は 野となれ 山となれ
先(さぎ)は 蓮華(れんげ)の 花と咲げ
花と咲げ
しーや ふーや みーやよ
えづむ なんなや ここのつ とお
お城の おんさむらえ衆は
おかごで おもとてを
そろり そろえで さぐえがな どん
どんどこせー どの神様も
ここは船場の さぐいがな どん
どんどこせ
すすれー はしれ
かものすりもの 
一杯(えっぺい) なーます
一杯 二杯 三杯 四杯 五杯
六杯 七杯 八杯 九杯 十杯
さんじゃくろ 三年味噌
四年大根(だえご)で さい さい
あかちょっこ 下りの といちこ
めうぶの まだ来て 取らぬうぢ
さい さい さい
てんがく婆様(ばばさま) 二階(にがい)落ぢだ
何しに落ぢだ 赤(あげ)え 腹病(はらや)めだ
奥(おぐ)の お山の 山椒(さんしょ)の 木薬だ
一ぷく(えっぷく) とって来て 飲ませでみだれば
腹の五臓綿(ごぜわだ) みな なおった
おきく十七八から 機(はた)も織ったし
巻くも巻えだし 親の ゆずりの
かけ掛げるどご ちょい忘れだ
げんば様 げんば様
数えて下され ばんば様
教(お)せたえけれども 人(ふと)が 教せれば
水座(みずじゃ)の尻(しり)がら 
大水(おおみず)ぁ  ごぉとまがして
お万(まん) 小袖(こそで)も 
こ万 小袖も
皆 流す 皆 流す
向こう通るは 伊之助(えのすけ)で なーいか
今朝の しばれに どこ 行(え)がる
お万だまする 帯 買うに
帯 買わば 地(じ)よく 
巾(はば)よく 丈(たげ)長く
結ぶところに 鶴と亀
さがり さがりに 藤の花 藤の花
まず まず 一貫 かしました
とたびの おふるこで
お祖師さま 鬢(びん)こ 無(ね)で
鬢こ 無で かしこ
十や 十二が十六で
十三二の くさのさぶらえ
十(とお)のせこ 一つ
鶯(うぐえす)や 鶯や たまたま都に上ろとて
梅の小枝に昼寝して 昼寝の夢をなんと見た
夕べ 入(はえ)った 花嫁御所(ごしょ) 
錦(きん)らん緞子(どんす)を縫(ぬ)わせたら
襟(えり)と さしわに くけかけけて 
ほろり ほろりと 泣くわいな
お前 弟(おとど)の千松(せんまつ)は 
七つ 八つから 金山(かなやま)へ
金(かね)はないやら 死んだやら 
一年(えぢねん)待っても まだ来ない
二年待っても まだ来ない 三年先の さるの年
親のもどから 状(じょう)下った 
上れじゃ 大阪 下れじゃ お江戸 
上り下りの よえ坂娘
縞(しま)の着物に 赤(あげ)ぇ 裏合わせ 
とろり かおりと 山中(やまなが)通ったら 
知らぬ 若(わが)ぇ衆に 道(みぢ)とめられて
痛(いで)ぇ 離せや 
わしゃ 帯切れる 切れで 解げれば
わしゃ 結(む)しんであげる 
お前 結しだのは
父(とど)に見ても 気に合わぬ  
母(かが)に 見せても 気にあわぬ
とんと とけらがて 知らぬ姉様(あねさま)に
ちょっと 結してもらった
まず まず 一貫(えっかん)かしました
正月とせ 
障子開ければ 万才(まんざい)が
つつみを打つやら 歌の声 歌の声
   二月とせ
   二月三日に 寺まいり
   明日は彼岸の御中日(おちゅうにち) 御中日
三月とせ
桜花(さくらばな)より お雛様
飾って見事な内裏様(だいりさま) 内裏様
   四月とせ 
   死んで 又(まだ)来る おしゃかさま
   竹(たげ)の子(ご) 杓子(しゃくし)に 
   つつじ花(ばな) つつじ花
五月とせ
ごん桜の 前垂れ
正月しめよと 裁(た)っておえだ 裁っておえだ
   六月とせ
   ろくにタバコも吸わないで
   兄さんに叱られ 腹が立ち 腹が立ち
七月とせ 
質屋のお倉は混雑で
出したり 入れたり 流したり
   八月とせ
   蜂(はぢ)に刺されて 泣くよりも
   何か薬があるまえか あるまえか
九月とせ
草の中(なが)なる ヒキガエル
姉(ねえ)さん 一匹ちょうだいな ちょうだいな
   十月とせ
   重箱かかえて どこ行(え)ぐの
   明日は 恵比須講(えびすこ)よばれ 講よばれ
本町(ほんちょう) 一丁目(えっちょうめ)の薬屋のおふりこ
年もえがねで 長吉(ちょうぎぢ)ど つれで
長吉 二十一 あふりこ 七つ
おふり もった子は
男(おどご)の子だな 女(おなご)の子だな
江戸に のぼらせで 学問させで
江戸で 一番(えぢばん) 津軽で二番
酒屋で三番 吉原(よしわら)四番
伊達男(だいおどご) 伊達女(だておなご)
ちょ ちょばしの ちょばしの
おらが姉様(あねさま) 三人ござる
一人(ふとり)姉様 太鼓(たえこ)上手(じょうず)
一人 姉様 三味線(さみせん)上手
一人 姉様 仕立でを上手
仕立では一番(えずばん) 伊達(だて)しの女(おな)ご
二両は片帯(かだおび) 三両にくける
くさめの ささに 七ふさ下げて
明日は十日で お寺まいる
知らぬ若衆(わかじゅ)に 道(みぢ)とめられて
痛でだ 離せば わし 帯とける
帯がとければ わし 結んでやる
お前の結んだのは わし気に合わぬ
ちょちょばしの ちょちょばしの
おらえ おぼこは ええ おぼこ
めえらっぽに 茶の小袖
野でも山でも 寝たけれど
松葉に刺されて 目をさまし
ここは どこだと思ったれば
鎌倉街道もんどして
一に一代 二に二代
三に更紗(さらさ)の帯 買って
誰にしめると買ってきた
伯母(おば)さにしめると買ってきた
伯母さん 死んでから 今日で七日
それがうそなら お寺まで
松三本 杉三本
京の雀は 大阪の雀は
上がったり 下ったり 
ちょっと 一貫かしました 
ねぷた(ねぶた)
ねぷたコ 見でけへ
ねぷたコ 見でけへ
津軽地方の行事から、ねぷたとお山参詣を忘れることができない。子どもの世界の遊びにも、この催しが反映していく。ねぷたどきになると、大人ねぷたを真似し、道路を子供用の一人持ち扇燈籠、金魚ねぷたが行列を作る。紫色の塗りで胴の小さな皮太鼓、おもちゃの笛が囃子を奏でてゆく。夜がふけ、大きなねぷたが、ドンコ・ドンコと大きな鳴り音をたてて通り過ぎた後のむなしい暗がりに、ヒョロ・ヒョロ・ヒョロと子どもねぷたの遊びがしばらく続き、「ねぷたコ 見でけへ ねぷたコ 見でけへ」と、囃声が、かまびしく各家々に響いたものであった。そして、あたりは次第に、森閑とした闇夜に変わっていったのであった。
ねぶたコ 流(なんが)れろ
豆の葉さ 止まれ
ねぷたは、旧7月1日より7日まで、津軽地方におこなわれる七夕行事で、枝をつくして作った高さ数丈の紙人形や燈籠を川や海に流す行事である。秋田の「ねぶり流し」や、花輪の「七夕」、その他各地の七夕祭の型と同一であり、祇園の神の古い信仰が、この祭の中心の意味をなすものだといわれている。ねぷた燈籠は「流される祓い」の形式であり、穢れ・禍罪・禍いを負わせて流す「祓い人形」である。「ねぷた(ねぶた)」という言葉は、秋田の「ネブリ」と同様、「ネムリ」を流すというところに由来するもので、古代の人たちは、真闇の夜を最も神秘なものと考え、同時に黄泉の国を連想するところから、眠ることはすなわち「死」であり、不吉なこの禍いや穢れを祓うことが大きな目的となっていたようだ。
ねぷた 流(なんが)れろ
豆の葉 とっちぱれ
はぁ
やっさ やっさ やっさよ
ねぶたの起源については、その昔、坂上田村麻呂が津軽の蝦夷大丈丸の反撃にしばしば苦戦におちいったので、あるとき、一策を案じ、大燈籠を飾り立て、囃子おもしろく練って大丈丸を釣り出し、これを討ちとった故事に倣ったものという。しかし、実は、ずっと降って豊臣秀吉の時代、留守役をして京都にあった津軽為信が祇園の大燈籠に影響を受け、「人形ねぷた」を創作したのがはじまりというのが事実のようである。
どん どこ どこ どん こど
どこ どこ どこ どーんこど
やーれ やれ やーれよー
   どん どこ どこ どん こど
   どこ どこ どこ どん こど
   やぁ やどー
子どもたちは、ねぷたの時以外にも、こんな調子で唄いながら、棒やホウキを立て、ねぷたの真似をして遊んだものだ。
とへろれこ れこれ
とへろれこ れこれ
とへろれこ れこれ
とへろれこ れこれ
とへろれこ れこれ
やれ やれ やれや 
「梅の折枝」 
コッキリコの小母様(おばさま)
どこで討たれた
吾妻(あずま)街道の茶屋の娘コね討たれた
討たれながらも 蜂に刺されて
顔(つら)は のーろと腫れ申した
小豆餅ぶっつけだら 全治(よぐ)なましょ
全治なましょ
 あのとおしゃの
熊野とおしゃの
肩にかけたり帷子(かたびら)
肩掛すそに
梅の折枝 
中は御殿の反橋(そりばし)
そろりそり橋サ 鉋(かんな)をかけて
コケラコの小母様 どこで討たれた
討たれながらも 今朝のぼた餅
まと 喰えてェ おややし婆さま
[コキリコ(あやこ唄)]
あのとおしゃの 熊野とおしゃの
肩にかけたり帷子 肩掛すそネ
梅の折枝 中は御殿の反橋
その反橋に 鉋をかけて
渡ってみたれば高砂
コッキリコの小母様 どこで討たれた
吾妻街道の茶屋の娘コね 討たれた
討たれながらも 蜂に刺されて
顔はのーろと 腫れ申した
小豆餅ぶっつけたら 全治なましょう
ここを通りし 熊野どうしゃの
うえにめしたる 帷子は
片すそは 稲の出みだれ
中になかての かりかぶや
今年のしまいの 稲のおうさよ
たわらは とこに おこぞさよ
[雨乞踊(熊野踊ともいう)]
伊勢の道者か
熊野道者か
肩に掛けたる帷子(かたびら)
肩と裾とは
梅の折枝
中は五条の反橋(そりばし)
反橋はどこで打たれた
あずま街道で打たれた
あずま街道の
茶屋のむすめは
日本手ききと聞こえた
日本手ききと聞こえた
あまり手ききで
御座りゃせねども
一つでは乳をのみそめ
二つでは乳首はなして
三つでは水を汲みそめ
四つではよい茶くみそめ
五つでは糸を取りそめ
あっく通やれ ここ通りやれ
小田原名主の 中娘(なかむすめ)
色白で 桜いろで
江戸さき庄屋へ もらわれた
江戸さき庄屋は 伊達の庄屋で
絹、紬(つむぎ)七重ね八重ね
かさねて 染めてくだんせ 紺屋(こうや)さん
紺屋なれば 染めて進上
模様(かた)は 何をつけましよ
片裾は梅の折枝 桜の折枝
なかは五条の反橋(そりばし)
反橋を渡るものとて
渡らぬものとて
こっけらこんの紺包(こんづつみ「鼓?」)
誰に打たせて この包
吾妻街道の茶屋の娘に打たせたが
見よくないとて
滝田川原へ身を捨てた
身は沈む 髪は浮きる
ざんぶ こんぶと 流れる 流れる
流れると知れたれば
七つ浪が打って来た
[手まり唄・梅の折枝の類歌] 
 
岩手

 

あなたの胸が恋しくて 燃えるこの肌 遠野の雪に雪に埋めたい
しのび泣くよに降るしぐれ 雨のみちのく 花巻の夜
灯影に咲いた 面影が 優しくのこる ああ 盛岡 ブルースよ
君の面影 胸に秘め 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 初恋よ
遊ばせ唄
ゆっきゆっき桃の木
ゆっきゆっき 桃の木
桃コァなったら たもれや
だれもしゃ たもるべ
おじいさんさ 五っつ
おばあさんさ 四つ
おとうさんさ 三つ
おかあさんさ 二っつ
あにさんさ 三つ
あとの残りは ハナちゃんだよ
かれっコ焼えで
かれっコ焼えで
とっくり返して焼えで
みそっコつけで
アグアグアグ
かねこもり
かねこもり べんざいこ
かねこもり かねこもり
かねこもり べんざいこ
王になれ 将になれ ヤートーセイ
吉原揚げ屋へ 行くときは
散緒の雪駄に 長羽織
せんぼくはまなに おかやしい
デンスコ バンスコ ドンショ
寝させ唄
あずきまんまさ
ねんねろヤーエ こーろころ
ねんねこして おひなったら
小豆まんまさ ごっこかてて
もしもそれが おいやなら
白いまんまさ 鮭のよ
もしもそれが おいやなら
あんころ餅に 醤油だんご
もしもそれが おいやなら
芋コにほどコに 里梨コ
ねんねこや
ねんねこや ころこや
ねんねこして おひなったら
芋コ ほどコ 掘ってけで
煮だり焼いたり あげましょう
ねんねこあっぱこ 1
ねんねこねんねこ ねんねこえ
ねんねこあっぱこァ どごさ行った
向かい山の 小沢コさ
芋コ ほんどコ 堀りさ行った
今に来るべから ねんねこせ
ねんねこねんねこ ねんねこえ
ねんねこあっぱこ 2
ねんねこせ ねんねこせ
ねんねこあっぱこ どごさ行った
あの山越え超え 里に行った
里の土産に 何もらった
でんでん太鼓に 笙の笛
それを鳴らして 遊ばんせ
寝ろてばよ 寝ろてばよ
ねろてば ねないのか この餓鬼コ
一匹ほえれば 1
ねんねこせ ねんねこせ
ねんねこ山の 赤犬コ
一匹吠えれば みな吠える
ねんねこせ ねんねこせ
一匹ほえれば 2
ねんねこ山の ころ犬さんはよ
一匹吠えれば みな吠える
一匹ほえれば 3
ねんねこねんねこ ねんねこや
ねんねがお山の 白犬コ
一匹吠えれば みな吠える
芋コと ほどコと 掘ってきて
煮たり焼いたり さっ くれべ
オーヤレ ヤレヤレ
ごんぼこ ごんぼこ ごんぼこやい
一匹ほえれば 4
ねんねこやエ ねんねこやェ
泣くな泣くな 赤ん坊よ
お母さんの乳を あげますよ
ねんねこ ねんねこやェ
ねんねこやエ ねんねこやェ
ねんねこ山の 白犬コ
一匹吠えれば みな吠える
ハー 年寄りの仕事にゃ 緩くない
年は七十六でがす
若い姉さんなれば こわくもない
ねんねこやエ ねんねこやェ
ねれじゃねれねれ
ねれじゃ ねれねれ
めんこァ寝れじゃ ヤーエヤエー
寝たらば乳三杯けるべちゃ ヤーエヤエー
泣かば狼に食せでける ヤーエヤエー
ねんねんねこのけっつ
ねんねんねこのけっつさ 豆が舞い込んだ
おがさん取ってけろ 飛んでしまった
ねんねんねこのけっつ かににはさまれた
かあちゃん取ってけろ 逃げてしまった
柴の折戸
柴の折戸の 賤が家に
翁と媼が 住まいけり
翁は山に たきぎとり
媼は川に 布すすぎ
日ごと夜ごとの 世渡りも
いとあさましき 五十鈴川
流れ流れる 源に
流れ来たれる 桃の実の
世にたぐいなく 大ければ
あな珍しと 持ち帰り
座敷にすえて 愛ずるうち
桃はわれから 打ち割れて
男児が一人 出でにける
老の夫婦は 驚きつ
また喜びつ 取り上げて
桃の中より 出でたれば
桃の太郎と 名づけつつ
かざして花と 愛でにける
しだいに人と なるにつれ
健しくもまた 賢くして
翁と媼の 高き恩
深き恵みに 報いんと
鬼はときどき 人里に
渡りて憎き 振る舞いを
憎しと常に 思うより
きびの団子を かてとなし
犬猿雉子を 従えて
鬼が島へと 打ち渡り
鬼を平らげ その島の
黄金白金 種々の
宝を納め 帰り来て
翁と媼に ささげたり
豊かに富める 身となりて
親に仕える 忠実心
げにありがたき ためしなり
鬼ちょうものは 世の中の
邪な人を 鬼という
おさな心に 善し悪しを
知らせんために 伝えたる
昔の人の かぞえ草
おら家の前の
おら家の前の ずさの木さ
美し鳥コ とまった
なして首たコ 曲がった
腹コへって 曲がった
下さおりで 物コ拾え
足コ汚れっから やんだ
川さ入って かぎ洗え
びびコ切れっから やんだ
もっつ噛んで くっつぐれ
蠅コせせっから やんだ
団扇買って あおげ
銭コ一文も ござね
殿さんさ行って ひん盗め
首たコ切らえっから やんだ
向かいお山で
ねんねろころころ ねんねろや
向かいお山で かや刈るは
金五郎どのか 五郎どのか
いっときおいでや お茶あがれ
お茶の香には 何がよい
天下一の 香箱さ
香箱の中にさ
赤い重ねの 十二重ね
白い小袖の 十二重ね
十二 十二の中にさ
お月さまは おんでぇって
上さ向いても チョッチョッチョ
下さ向いても チョッチョッチョ
あんまりチョッチョが 早くて
百に米は 一石
十文酒は とひやげ
ねんねろねろねろ ねんねこせ
ねんねこお守りは どごさ行った
山を越えて 里さ行った
里の土産に 何もらった
どんどん太鼓に 鳴るつづみ
ピッピガラガラ 風車
それをあげます ねねしゃんせ
ねんねこころころ ねんねろや
友達な友達な
友達な 友達な
花コ折りに 参らんか
何の花折りさ 黄金花折りさ
一枝折って ひっかつぎ
二枝折って ひっかつぎ
三枝四枝に 日が暮れて
そばの家さ 宿とって
朝ま起きて 見たれば
きぎのような 女郎は
鉄鉢椀 つん出して
一杯めは しゃしゃぐ殿
二杯めは しゃしゃぐ殿
おれどごの肴は
うまぐなくて 参らんか
低い山の ひぐの子
高い山の 竹の子
ひっコと 貝っコと 蛤貝っコと
庭で踊る 子雀コ
千福山 1
千福山の 中の沢で
縞の財布を 見つけた見つけた
おっ取りあげて 中を見たれば
黄金の玉は 九つ九つ
一つの玉をば お上にあげて
八つの長者よと 呼ばれた呼ばれた
長者殿は 京から下って
瀬田の反り橋 架けやる架けやる
瀬田の反り橋 踏めば鳴るが
大工柄か 木柄か木柄か
大工柄よりも 木柄よりも
手斧と鉋の かけ柄かけ柄
千福山 2
千福山の 中の沢で
縞の財布を 見つけた見つけた
おっ取りあげて 中を見たれば
黄金の玉が 九つ九つ
一つの玉をば お上にあげて
八つの長者よと 呼ばれた呼ばれた
呼ぶも呼んだし 呼ばれもしたが
朝日長者よと 呼ばれた呼ばれた
千松コ
おらが弟の 千松コ
ことし初めて 田を作る
殻は七尺 穂が五尺
何んたな馬でも 八穂つけた
八穂がうそだべ 十穂つけた
ヤホ ヤーハレ コンノ
ヤホ ヤーハレ コンノーエ
まわれ水車
まわれまわれ 水車
どこでまわる 堰で止んまるな
奥や深山の 秋鹿は
生れて落ちれば 親に似て
頭ふってくる 頭ふってくる
守り子唄
女の子守りは
女の子守りは 辛いもの
犬めに吠えられ 子に泣かれ
近所の子供に いじめられ
こんなだ闇のように 辛いもの
あの山越えれば 里にゆく
お父っちゃんさよなら もうこない
そなだごど言わねで まだおいで
風呂敷 握り飯 下駄添えで
お父ッちゃん さよなら もうこない
あの山越えれば 里にゆく
里の土産に 何もらった
ピッピにカラカラ 豆太鼓
鳴るか鳴らぬか 吹いてみよ
一にゃこわいのは
一にゃこわいのは 子守りコの役だね
二にゃ憎まれ 三にゃ叫ばれでね
四にゃ叱られ 五にゃ小言されでね
六にゃろくなもの 食べさせられでね
七にゃしめしなんど 洗わせられでね
八にゃはだがれ 九にゃ口説がれでね
十にゃ遠山さ 歩がせられでね
はじめて唐臼
はじめて唐臼 踏まれけり
足を見たれば 足に豆が九つ
九つの豆を見たれば
親の在所が恋しさ ハーエー

 

わらべ歌 1
お手玉うた(ジャッキ唄)
おやだまこーれ
お一つお一つ お一つお一つ
お一つお二つ お二つお二つ
お二つお三つ お三つお三つ
お三つおみんな おみくらかえして
おってん ぱらりこちょこいんな
ちょこいんな ちょこいんな
ちょこいんな ちょこいんな
ちょっこいはなさき
はなさきはなさき はなさきはなさき
はなもだいすこ
だいすっこだいすっこ だいすっこだいすっこ
だいだいびっき
びっきすずめ びっきすずめ びっきすずめ
びっきもおしゃらず
おしゃらずおしゃらず おしゃらずおしゃらず
おしゃらずおにげっしょ
おにげっしょおにげっしょ おにげっしょおにげっしょ
おにもおかえし
おっかえしおっかえし おっかえしおっかえし
おっかえももだっさ
ももだっさばったん ももだっさばったん
ももだっさばったん ももだっさばったん
もももかーげ
かげざっさいささ かげざっさいささ
かげざっさいささ かげざっさいささ
かげも一ぴょう
一ぴょう 二ひょう 三ぴょう 四ひょう
五しょうもてたもれ
一ぴょう 二ひょう 三ぴょう 四ひょう
五しょうもてたもれ
一ぴょう 二ひょう 三ぴょう 四ひょう
五しょうもてたもれ
たもらもおまげっしょ ひとあし
ひとあしたんたん ふたあし
ふたあしたんたん みあし
みあしたんたん よあし
よあしたんたん いずあし
いずあしたんたん いずもたんたん
じじばば じゃがどん
じじばば じゃがどん
じじばば じゃがどん
じじばば じゃがどん
じじばば じゃがどん
とっても となりのあねさんに
お一つかしました はいかりました
お手玉うた 
おやだまこえて お一つお一つ
お一つ お二つお二つお二つ
お二つ お三つお三つお三つ
おまくらかえして おってんぱらりん
ぞくえの ぞくえの
ぞくえのはなさき はなさきはなさき
はんなもおですこ おですっこおですっこ
おんだいびっき びっきしょうめいびっきしょうめい
びっきもおさらす おさらすおさらす
おさらすおにげんせ おにげんせおにげんせ
おんにもおっかい おっかいしょおっかいしょ
おっかいもも ももどうせいばった
ももかぎ かぎどうせいばだばだ かぎどうせいばだばだ
かぎもいっぴょう いっぴょうごしょ
ごしょもてたもれ いっぴょうごしょ
ごしょもてたもれ ごしょもおまげんせおまげんせ
おんまもひとあし ひとあし
ひとあしたんたん ふたわし
ふたわしたんたん みわす
みわすたんたん よわす
よわすたんたん いずわす
いずわすたんたん いずもたん
たんたんたのみず
きょうはれんげのはなみにゆくなら
むこうのおやまにちょうせんかが
さいたかさかねか わしゃしらぬ
まずまずいっけん もちました
おっさらい
おてのせおてのせ おてのせおろしておさらい
おはさみおはさみ おはさみおろしておさらい
おんむりおんむり おんむりおろしておさらい
おしだりおしだり おしだりおろしておしだり
なかよせすまよせ ちゃらりこてんつけしょうつけおさらい
おばさんおばさん おばさんおろしておさらい
おじさんおじさん おじさんおろしておさらい
おいしおいし でかけておろしておさらい
おてばたおてばた でかけておろしておさらい
おそでっこおそでっこ でかけておろしておさらい
小さなはしくぐれ 小さなはしくぐれ くぐった
大きなはしくぐれ 大きなはしくぐれ くぐった
どのたまきらい
お一つやのおんむすけ
お二つやのおんむすけ
お三つやのおんむすけ
お四つやのおんむすけ
お五つやのおんむすけ
おさらい
おまけていっしょう
おまけてにしょう
おまけてさんじょう
おまけてよんしょう
おまけてごしょう
おさらい
正月門松
正月ァ門松 二月初午
三月ひなさん 四月はしゃかさん
五月はごせっく 六月ァてんのう
七月七夕 八月ァはっしゃく
九月はくぜん 十月ァえびす講
ゆうべえびす講によばれて参ったヶ
鯛の塩焼きにスズメの吸い物
金のお箸で
一ぱい吸いましょ
二はい吸いましょ
三はい吸いましょ
四はい吸いましょ
五はい吸いましょ
六はい吸いましょ
七はい吸いましょ
八はい吸いましょ
九はい吸いましょ
十ぱい吸いましょ
これでまずまず おなかがいっぱいになりました
ゆきゆき桃の木 
ゆきゆき桃の木
桃がなったら たもれや
誰(も)さ たもるべ
おらほのめんこさ
   ゆきゆき桃の木
   桃がなったら たもれや
   誰(も)さ たもるべ
   おらほのめんこさ
青山土手から 
せっせっせーの よいよいよい
青山土手から 東山見ればね はい見ればね
見れば見るほど 涙がポロポロ はいポロポロ
ポロポロ涙を 袂(たもと)で拭きましょ はい拭きましょ
拭いた袂を 洗いましょ はい洗いましょ
洗った袂を 絞りましょ はい絞りましょ
絞った袂を 干しましょ はい干しましょ
干した袂を たたみましょ はいたたみましょ
たたんだ袂を しまいましょ はいしまいましょ
しまった袂を ネズミがガリガリ はいガリガリ
まずまずいっかん かしました
痛いとこ飛んでけ
いんぼうとうれ からぐまんぜい
はったぎはねれば カラスが喜ぶ
いでぇどごいでぇどご むけぇ山さ飛んでけ
羽根つき唄
ひとごふたご
みわたすよめご
いつきてみても
ななごのおびを
やのじにしめて
ここのまちとおる
縄とびの唄  
お嬢さま お入り
はいよろし じゃんけんぽん
負けたお方は お抜けなさい
まりつき唄  
なるほどさいほど
受け取りましたか
とんとん樽こ
酒樽こ 酒樽こ
ここまで米つき
さかりはともよ
むかいはなこさんに
それ渡す
にらめっこ 
せっせっせ ぱらりとせ
おまえはちゃめこで
薬屋の子守りこ
どしても ようつかない
よったりごを つれて
じっちき ぼっぽいさんが
二階から 落ちました
笑ったら げんこつ
おんちょこちょいの あっぷ  
わらべ歌 2
鳥っこ
おら家(え)の 前(めぇ)の ずさの木さ
美(うづぐ)す鳥っこ 止まった
なすて 首たこ 曲がった
腹こへって 曲がった
下さおりで 物っこ 食(け)え 食(け)え
足(あ)っこ べっぺぐなっから やんた
川さ行って  洗わんしぇ
ひびっこ きれっから やんた
小麦 かんで ぬったぐれ
はえっこ せせから やんた
うぢわ 買って あおがんしぇ
銭(じぇん)こ 一文も 持(も)だんず 持だんず
しょどもや
しょどもやぁ しょどもや
花折りさ 行がねが
何の花 折りさ
桜花 折りさよ
ひと枝折っては ぶっかつぎ
ふた枝折っては ぶっかつぎ
三枝 四枝 日が暮れて
そばの家っこさ 寄ったれば
臼のような 杯で 杵のような じょうろで
一杯(いっぺぇ)あがれ 客どの
二杯(にへぁ)あがれ 客どの
肴(さがな)が 無(ねぁ)くて あがらんか
おらだぁりの さがなは
高ぇ山の竹の子 低ぇ山のひぐのご
ヒッコ メァッコ ハマグリメァッコ
ヒイヤノ おんどり こすずめ
正月
正月ぁいいもんだ 
木っ端(こっぱ)のようなもち食って
葉っぱのような魚(とと)食って
油のような酒飲んで
てんか ぱんか はねついて
お正月ぁいいもんだ
唐土の鳥も (七草)
唐土(とうど)のとりも
田舎のとりも
渡らぬ先に
七草叩(ただ)け 七草叩(ただ)け
とんとん とととん
正月は門に門松 (おて玉歌)
正月は 門(かど)に門松
二月は にのてんばた
三月は 梅は三月 桜は四月
あやめ かきつばた 五月咲く
六月は うのかたびら
七月は ちゃこちゃんこと
八月は はとぺろぺろ
九月は おもしろそろえておもしろや
十月は 神も仏も出雲へござる
ただの留守居は福の神
十一月は 小雪さらさら降るときは
猫の足跡 梅の花
十二月は お正月 餅つき勇ましや
さんがよいとも連れて一貫かしました。
向こうお山で
向こうお山で 萱(かや)刈るは 新五郎殿か 五郎殿か
ちょっとござって お茶あがれ
お茶の こうは なぁになに 天下一の香炉箱
中(なが)開げで 見だれば ちょこちょこ鳥っこ一匹
そっちゃ向いでも ちよっちょこちょ
こっちゃ向いでも ちょっちょこちょ
ちょっちょこ鳥に はやされて
たいこ たいこ めんたいこ 百に米ぁ 一石(いちごく)だ
十文酒 とっひさげだぁ とっひさげだぁ
ひとよ ふたよ (はねつき歌)
ひとよ ふたよ みわたす よめご
いつきてみても ななこのおびを
やの字に むすび ここを とおる
一かけ ニかけ(て)
一かけ 二かけて 三かけて
四かけて 五かけて 橋をかけ
橋のらんかん 手を腰に
はるか向こうを ながむれば
一六、七の 姉さんが
花と 線香を手に持って
姉さん姉さん どこ行くの
私は九州鹿児島の
西郷隆盛娘なり
明治十年戦争で
うたれて死んだ父親の
お墓参りにまいります
お墓の前で手を合わせ
なむあみだぶつと拝んだら
お墓の中からゆうれいが
ふうわりふわりと
じゃんけんぽん
伊勢や (まりつき歌)
伊勢や 伊勢や 伊勢よ
新潟 新潟 伊勢 新潟よ
三河 三河 伊勢 新潟 三河よ
横須賀 横須賀 伊勢 新潟 三河 横須賀よ
越後 越後 伊勢 新潟 三河 横須賀 越後よ
武蔵 武蔵 伊勢 新潟 三河 横須賀 越後 武蔵よ
名古屋 名古屋 伊勢 新潟 三河 横須賀 越後 武蔵 名古屋よ
函館 函館 伊勢 新潟 三河 横須賀 越後 武蔵 名古屋 函館よ
九州 九州 伊勢 新潟 三河 横須賀 越後 武蔵 名古屋 函館 九州よ
東京 東京 伊勢 新潟 三河 横須賀 越後 武蔵 名古屋 函館 九州 東京よ
羅漢さん
そーろった そろった
羅漢さんがそろった
そろたらみんなで
まわそじゃないか
じょいやさの じょいやさ
じょいやさの じょいやさ
地獄極楽
地獄 極楽
みなさまかわい(こわい?)
もひとつおまけに どっこいしょ
ばっけぁ
ばっけぁ ばっけぁ のんどげろ
日向(ひなだ)の 前(めぁ)さ のんどげろ
へび
へび居だ がさがさ 鉈(なだ) もって切っと
田螺(つぶ)
田螺(つぶ)や 田螺(つぶ)や まめつぶや
次郎 太郎
じろう たろう
小豆 まんま 食(か)しぇっから
来(こ)ぉ  来(こ)ぉ
あらぐろ
あらぐろ とんぶぐろ
とんながした かんなが(ら)
いずみの さげ(酒) わぐ(湧く)ように わぐように
かぐれがっこ (おに決め歌)
隠(かぐ)れがっこ とがっこ
とになる ばぁんさま
猫(ねご)の皮かぶって 逃げろどや
西条(妻女)山 (お手玉歌)
西条(妻女)山は 霧深し
筑摩(千曲)の川は 波荒し
遥かに聞こえるものおとは
さかまく水か つわものか
昇るあさひに 旗の手は
めぐるは めぐる 三万つよし
いちれつだんぱん (まりつき・お手玉歌)
いちれつ談判破裂して 日露戦争 始まった
さっさと逃げるは ロシアの兵 死んでも尽くすは 日本の兵
五万の兵を 引き連れて 六人のこして 皆殺し
七月八日の戦いで ハルピンまでも攻め入って
クロパトキンの首をとり 東郷大将 バン バンザイ
いちりとらん (まりつき歌)
いちりとらん ハロ ハロと
進駐軍がやってくる
二りとらん  ハロ ハロと
進駐軍がやってくる
(三 四 五・・・十まで同文)
でこ坊よ (まりつき歌)
デコ坊よ帰ろうよ
もう時計は三時ごろ
家ではね 花ちゃんがね
まちかまえて いるだろう
ねえねえ ねえちゃん
ねずみとって チュウチュウ
おんぶーしな ハーイハイ  
 
宮城

 

はじめまして仙台わたしの家族 仙台仙台 はじめましてよろしく
遊ばせ唄
りんがじんと
りんがじんと ががじんと
だんずることを もんずれば
りょそうをせっすと ぐんだんす
くさにそうこう なきときは
やんまとやんまを かさねべし
ねんねんころころ ころころろん
寝させ唄
ねんねろねんねろ
ねんねろねんねろ ねんねろや
向かいやんまの 白ぼ犬
一匹ほえれば みなほえる
ねんねこおんぼこや 1
ねんねこや おんぼこや
ねんねこ おんぼこ ねんねこや
ねんねこ おんぼこ したならば
お乳コ 三杯 あげもすで
三杯 お乳コ たりながら
いもだり ほどだり 掘ってきて
煮でだり 焼いでだり あげもすで
ねんねこや おんぼこや
ねんねこおんぼこや 2
ねんねこや おんぼこや
ねんねこお守りが どごさ行った
あの山越え超え 里さ行った
里のおみやに 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
ねんねこや ねんねこや
ねんねこねろてば ねんねこや
ねろてばねないし 古小豆
ねろてば猫のけっつさ 豆はさんだ
かかさん取ってけろ またはさんだ
ねんねこや おんぼこや
坊やはよい子だ
坊やはよい子だ ねんねしな
ねんねこねがたに つるあうし
およって起きたら 何あげべ
あんずきまんまに ととそえて
黄金こがねのお箸で あげましょう
ねんねこ ねんねこ ねんねこや
ねんねこかんかこや
ねんねこや かんかこや
おら家の三郎が ねたならば
乳コ三杯 飲ませべや
ねんねこや かんかこや
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やの子守りは どこへ行った
あの山越えて 里へ行った
里のおみやげ 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
ねんねんころりよ おころりよ
ねんねこやねんねこや
ねんねこや ねんねこや
ねんねこや ねんねこや
ねろてばや ねろてばや
ねろてばねろてば ねろてばや
ねろてばや ねろてばや
ねろてばねねえのか このがきめ
大島子守歌
ねんねすらんせ およらんせ
ねればねずみに とってかれる
起きりゃお母さんに 叱られる
ねんねや ころころや
ねんねんさいさい
ねんねんさいさい 酒屋の子
酒屋がいやなら 嫁に出す
ねろてばや ねろてばや
たんす長持 挟み箱
これほど重ねて やるほどに
ねろてばや ねろてばや
二度と来るなよ この娘
お父ちゃんお母ちゃん そりゃ無理よ
ねろてばや ねろてばや
西が曇れば 雨となる
東が曇れば 風となる
ねろてばや ねろてばや
宮城はまた酒造が盛んだったことでも知られ、教養を持ち裕福だった者も多い酒屋は、当時の庶民の憧れの対象でもあった。「いい子にして寝たら、お金持ちの酒屋の子どもにしてあげよう。それがいやなら、お嫁さんに出してあげよう」という意味のこの唄にも、その思いが表現されている。
こけしぼっこ
ハー スサスサスサヨ スサスサスサヨ
こけしぼっこ 木ぼっこ
土でこしゃだの 土ぼっこ
わらでこしゃだの わらぼっこ
おらえのぼっこは 何ぼっこ
   ハー スサスサスサヨ スサスサスサヨ
   銀のうすに 金のきね
   十月十日 かがって
   ねる日もねずに ねりあげた
   めんけいめんけい おぼっこ
ハー スサスサスサヨ スサスサスサヨ
金銀ぼっこの おぼっこ
餅コのように ぽってりと
ぼよコのように のびのびと
めんけいめんけい とでぼっこ
ぼっことでだがら ねんねこすらい
守り子唄
子守りの役
一つひどいのが 子守りの役で
二で憎まれて 三でさかばれて
四で叱られて 五でごせやかれて
六でろくなもの かせられぬ
七でしち餓鬼 おぼわせられて
八ではたかれて 九でくどがれて
十で遠くさ行って ほろげとやれた
そこで子守コは つらいもの 

 

わらべ唄
 
 
秋田

 

みれん埋めに 来たけれど あなた恋しい 思いきれない あゝ男鹿半島
遊ばせ唄
鰈こ焼いで
鰈こ焼いで ひっくり返して焼いで
醤油こつけで アグアグ
ゾンゾンふげば
ゾンゾン ふげば
隣のおばちゃ んめんめ けるぞ
しっちき ゾンゾン しっちき ごんぼ
なばひで でぶだ
ジゴバゴ引げば
ジゴバゴ 引げば
隣のばんばこぁ 欠げた椀こ 持ってきて
オックリ オックリ みんな食た
寝させ唄
秋田の子守唄
ねんにゃこ
ねんにゃこ やえーや
泣けば小山の白コ来て嚙かじるんで
泣かなぁでねんねや
こびーでや やえーや
ねんにゃこ コロチャコ
ねんにゃこ コロチャコ
ねんにゃこ コロチャコ よーよ
向ェの山の白犬コーよ
一匹吠えれば みな吠えるーウ
けっちあぶり
けっちあぶりのコンコン
こちばじっちゃさ こちばばっちゃさ
じっちゃど ばっちゃさ
飲んませろ
ねねこんこよーよ
ねねこんこ よーよ
ねればねずみに 引がれるしよ
起ぎれば夜鷹にさらわれるよーよ
おら家のつぼめの
おら家の つぼめの大石は
あだりは張り紙 中がごだ
ねんねこ ねんねこ ねんねこや
ねんねこ ねんねこ ねんねこせ
こぼしこやまの
こぼしこやまの 白犬こ
一匹吠えれば 皆吠える
   寝ればねずみに 引かれるし
   起きれば おたかに さらわれる
おれのめごのじょぺどさ 誰かまた
誰もかまわねども 一人して泣く
ねんねんころちゃこ
ねんねんころちゃこ
ねんころちゃこ よーよ
ねんねの 子守りは
何処さ行た
あの山越えで 里越えで
里の土産に 何もらた
でんでん太鼓に 笙の笛
ねんねこねんねこや
ねんねこ ねんねこや
ねんねこ ねんねこやーや
おら家の めんちょこどさ
だれぁ かまた
とんとん隣の 竹松かまたでろ
泣げば なば食せる
泣がねば 砂糖食せる
からすぁかあてば
からすぁかあてば 勘三郎
とんびぁぴいてば くまどの鉦ただき
鉦ぁねえて つんもどて
から竹三本 見つけて
じゃくじゃくと 割ったれば
赤い小袖十二ひろ 白い小袖十二ひろ
太郎ぼに着せれば 次郎ぼがうらみる
次郎ぼに着せれば 太郎ぼがうらみる
向かいのあねこに着せて
花帯させて 花笠かぶせて
どこまで送たけゃ 仙台まで送たけゃ
仙台の若殿ぁ 何着て踊たけゃ
はかまはいて踊たけゃ
はかまの色は 何色に染めだけゃ
きく色に染めだけゃ
きくえでぁかもさ 油虫ぁくいついで
かいでも かいでも 取れねぁえ
どんころ背負て けぱたば取れだ
ともだちな
ともだちな  ともだちな
花こつみに あでごじゃ
どの花こ つみにや
かんこ花こ つみによ
一本とってぁ ひっかつぎ
二本とってぁ ひっかつぎ
三本目に 日ぁ暮れで
堂の前さ 宿とって
朝ま起ぎで 見だれば
でのような めらしこぁ
あしだはいで ちゃはいで
黄金の盃 手に持って
あっぱこな あっぱこな 酒三べぁ
えでこな えでこな 酒三べぁ
三べぁの盃に 肴ねくて めらんず
おらどごの 肴は
たかいどこの たけのこ
ひくいどこの ふきのこ
井戸ばたの かなすずめ
ちりんぱりんと ちとた
何しに ちとた 腹へって ちとた
腹へったら 田作れ
田作るもこうぇし 陸稲作るもこうぇし
われも男だら せどせねど
あぶらげど とげど
山に生えだ杉の木 ぬぺぽにけずて
けずりよも よげぁつ
よげぁつぁすずめ いただけゃきつね
おさて むじな
むじなの へのこや
おら家のはしご
おら家(え)の はしごは
一箇と二箇で 三箇だ
二箇と三箇で 五箇だ
五箇と五箇だば 十(とお)箇だ
十箇ずつ十だば 百箇だ
百箇ずつ十だば 千箇だ
千箇ずつ十だば 万箇だでよーよ
おら家の つぼの石(えし)は
籠さ紙張た 石で
風吹げば 飛ぶじゃよーよ
長者の家で娘に賢い婿を探すために、婿の候補者に難問を出すことにした。それは、無数に置かれたはしごの数を当て、さらに大石を持ち上げることを求めた問題だった。ある若者が、子守娘によるこの唄によって、難問を解き、めでたく長者の婿になった――という昔話がもとになっている。子どもはこの唄を聞くうちに、自然と数の数え方、足し算や掛け算まで覚えることができた。
守り子唄
岩谷の子守唄
一に こうぇのは こもりの やぐだ
二に にがこを だませど おっしゃる
        だませど おっしゃる
三に しゃべられで
四に しかられで
五に ごぎさら あらえど おっしゃる
        あらえど おっしゃる
六に ろぐだもの くわせも さねで
七に しめしこ あらえど おっしやる
        あらえど おっしゃる
八に はられで
九に くらされで
十に とっちり こもりこ やめろ
        こもりこ やめろ
一につらいこと
一に つらいこと 子守りの役目
二に にが子を 負とおっしゃる
三に さべられで 四に しかられで
五に ごんごと あたまをはられ
六に ろくたもの ひとくち食ひね
七に しみしなど 洗えとおっしゃる
八に はられて 涙でくらす
九に 苦して わが身をやつす
十に とうとう 子守りをやめろ
一にこわいのは
一に こわいのは子守り役だ 子守りの役だ
二に にらめられ
三に さべられて 三にさべられて
四に しかめられ
五に ごしゃがれる  五に ごしゃがれる
六に ろくだ物着せるもさせね 着せるもさせね
七に しみこし洗えとおっしゃるし
   洗えとおっしゃるし
八に はき物もはかせもさせね
   はかせもさせね
九に 苦をして涙ここぼし 涙ここぼし
十に とど来えば いどまこもらて行ぐ
   いどまこもらて行ぐ
うそだらえてみれ お山の釜たき子
煙こあがて見る
啼くなにわとり まだ夜が明けぬ
まだ夜が明けぬ
ましてお寺の鐘も鳴る 鐘も鳴る 

 

わらべ唄
上見れば虫コ
上見れば 虫コ 
中見れば 綿コ 
下見れば 雪コ 
ほたるこい
   ほ ほ ほたるこい あっちの水はにがいぞ こっちの水はあまいぞ
   ほ ほ ほたるこい ほ ほ 山道こい
   ほたるのおとさん 金持ちだ どうりで おしりがぴかぴかだ
   ほ ほ ほたるこい 山道こい 昼間は くさばの露のかげ
   夜は ぼんぼんたかぢょうちん
   天じく あがりしたれば つんばくろに さらわれべ
   ほ ほ ほたるこい あっちの水はにがいぞ
   ほ ほ ほたるこい こっちの水はあまいぞ
   ほ ほ ほたるこい 山道こい あんどの光を ちょと見てこい
   ほ ほ ほたるこい ほ ほ 山道こい
   ほ ほ ほ ほ ほ ほ ほ .
昔は日本の農村の川にはどこにでも蛍(ホタル)がいました。夏の夕暮れ、うちわや笹の葉を持ってこの歌を歌いながら蛍を追いかける子どもの姿が見られました。身近にいたはずの虫や動植物を再び子どもたちのもとに取り戻したいものです。この歌はわらべ歌を元にした児童合唱曲として世界に紹介され、ヨーロッパの少年合唱団などが日本語で美しく歌っています。  
鹿角の手毬歌
一かけ二かけ
一かけ二かけ三かけて 四かけて五かけて橋をかけ
橋の欄干腰をかけ 遥かに向こうをながむれば
十七八のねえさんが 花や線香手に持って
鉄砲でうたれた父親の お墓まいりいたします
お墓の前で手を合わせ 南無釈迦 加無釈迦 ジャンケンポン
一にたちばな
一にたちばな 二にかきつばた 三に下り藤 四にシシ牡丹
五つい山の千本桜 六つ紫色よく染めて 七つナンテン 八つ八重桜
九つ紺屋で振袖そめて 十で徳川あおいのご紋
毬つき歌
いちれつ談判破裂して 日露戦争始まった
さっさと逃げるは ロシヤの兵
死んでもつくすは 日本の兵
五万の兵を引きつれて ハルピンまでも攻めよせて
六人残してみなごろし
七月八日の戦いに クロパトキンの首をとり
東郷元帥万々歳

一れつ談判破裂して 日露戦争始まった
さっさと逃げるは ロシヤの兵
死んでもつくすは 日本の兵
五万の兵を引き連れて 六人残して皆殺し
七月八日の戦いに ハルピンまでも攻めよせて
クロパトキンの首を取り 東郷元帥 万々歳

いごせん きせん ごろくせんの 花は
糸より細い 細けりゃ うばよ やなぎの 下に
石だれ つんで (くるっと廻って)
まずまず一貫 貸しました

おらえのおどさん どこおでえる
秋田の久保田さ のの(布)買いに
だれに着せるて のの買いに
おじょこに着せるて のの買いに
おじょこ着るよな ののならば
裾に紅つけ 紅形に
梅にうぐえす(鶯) うら雀
まづまづ一貫 貸しました

たんたん太鼓 豆太鼓 油のしょうがんとってもこい
向かい山コの 白百合コ お花が咲いたか 咲かねか
わしゃ知らぬ
向かい山コの 朝鮮花コ 咲いたか 咲かねか
わしゃ知らぬ とってもこい 向こうの姉ちゃ
まず一貫貸しました

おゝばら はらよ たけのなか
ひとつか ふたつか みーつか むすめだち
ようつで よろこび いつだち むいろ
なゝだち やいろ こゝのだち一丁
 
一もんめ ぶんぞぶんぞ
ニもんめ はけはけ
三もんめ しおなめしおなぁめ
四もんめ おんがめおんがぁめ
五もんめ なわなれなわなぁれ
六もんめ 髪ゆれ髪ゆぅれ
七もんめ びんつけびんつぃけ
八もんめ びんとれびんとぅれ
九もんめ もとまげもとまぁげ
十もんめ かつ山かつ山
十ぽにほがす
えんじょさま
えんじょさまドン
さいさまドン ひのみやドンドン
どど神様のお祭り ここは舟場の
盛りはドン
ひーや ふーや みっつ よん
いつ むう なんな や
ここのつ とお 一つかしました
おゝさむらい しゅうは おかごで
おともで ちょいと はやして 
えんじょさまドン さえさまドン

エジョさまどん
サエサマどん しのびはどん
どんどこえ どんどがみさんまの
ここは舟場の盛りはどん
ヒーヤ・フヤ・ミッツ・ヨン
イツ・ムー・ナンナ・ヤ
ココノツ・トウ 一つ貸しました
おおさむらい衆は お駕籠で 
お供で ちょいと はやして
えじょさまどん さえさまどん

えぞはえぞまき
えぞさまどん さえさまどん
しのびはどん どんどこえ
どのかみさんまの 
こゝはふなばの さかりはドン
ひーや ふーや
みっつ よん いつ
むー なんなや
こゝのつ とー 一つ貸しました
おゝさむらいしゅうは おかごで おともで
ちょいとはやして えぞさまどん さえさまどん
八幡長者の小娘コ
八幡長者の 小娘こは
てどよく しなよく 姿よし
知るも 知らぬも あうみちを
歩んべ あんべと 誘われて 
おじょめこ きくやの おふりこ
年もゆかねで 長吉どつれて
長吉もった子は 男の子ども
江戸へのぼらせ 学問させて
江戸で一番 大坂で二番よ
佐賀で三番 吉原で四番よ
まずまず一貫かしました
こっきりこっきり
こっきり こっきり 
こにやぶは どこでうたれた
はしば街道で 打たれた 打たれた
はしば街道の 茶屋の娘か
にほんてじょから きっこれた きっこれた
きっこのすみから 大水ァ出てきた
おまん小袖コ 流した 流した
おじょめこ
おじょめこ きくやのおふりこ
年もゆかねで 長吉どつれて
長吉もった子は 男の子ども
江戸へのぼらせて 学問させて
江戸で一番 大坂で二番
三番めの 吉原女郎衆
だておとこ だておなご
まずまず 一貫かしました かしました
二月三日花ざかり
二月三日 花ざかり
ウグエス鳴いた 春の日に
楽しいときの ゆめのうち
五月六月 実がなれば
枝から振るい 落とされて
近所の町へ 持ち出され
何升何合 計り売り
もとよりすっぱい この体
塩に染まって からくなり
七月八月 あつい頃
三日三晩 土用干し
思えばつらい ことばかり
まして戦の その時は
なくてはならぬ この私
春の野
春の野 下草踏み分けて
東に西に 南飛ぶ毬の
ここかしこ うたれしうちに
ともどもに かつまけ
たのしさよ たのしさよ
向こう通るは
向こう通るは
向こう通るは 仙太じゃないか
鉄砲かついで 小脇差さして
どこさお出ァると 問いきけば
雉のお山さ 雉撃ちに
雉はケンケン 鳴くばかり
ちょってお出ァて お茶上がれ
お茶もしん茶も まいれども
ここの小娘さ とんと惚れた
ほれたならば 親に十貫子に五貫
ましてしゅうとめにゃ四十五貫
四十五貫のぜに金で
高い豆買って 何さ積む 船さ積む
船は何故ぶね 関東船
関東みやげに 玉手箱
あけてみたれば 何入(ヒ)ってら
金(キン)が入ってら 金でないもの
かねだかおひなか 鼻血たらして
ソッキァコダ

向こう通るは 生徒じゃないか
一日休まず 雪降る日も
雨の降る日も 風吹く日にも
ついぞ一日 遅参をせずに
今じゃ生徒の 方一番よ
それというのも 常平ぜいに
寝ても起きても 我が儘いわず
外に教師の 諭しを受けて
習い覚えし 修身行儀
親の名まで 世間で誉める
あやかりな あやかりな
かいりょうざん
かいりょうざんは 霧深し
はるかにきこえる ものの音
なかなかなみ子は いうものか
のーぼる朝日の 旗立てて
はためくはたは きらきらきら
一番はじめは
一はじめに一の宮
二は日光東照宮
三は桜の吉野山
四は信濃の善光寺
五つ出雲の大社
六つは村々地蔵さん
七つは成田の不動さん
八つは山田の八幡宮
九つ高野の弘法さん
十は東京終列車 十一浪子の墓参り
十二二の宮金次郎
十三さかたの金時さん
十四四国の金比羅さん
十五御殿の八重桜
十六ロシヤ大戦争
十七七士鐘が鳴る
十八浜辺のシロウサギ
十九楠木正成
二十は日本でバンバンザイ

一は始めは一の宮
二は日光東照宮
三は桜の吉野山
四は信濃の善光寺
五つ出雲の大社
六つ村々地蔵さん
七つ成田の不動さん
八つ山田の八幡さん
九つ高野の弘法さん
十は東京急列車
これ程心願かけたのに
浪子の病気は治らない
ゴーゴーゴーゴー鳴る汽車は
浪子と武雄の生き別れ
二度と会えない汽車の窓
泣いて血を吐くホトトギス
オンパラハラヨ
おんぱらはらよ、たけの中に
ヒトシカ フタシカ
ミーシカ むすめだち
ヨーシカ よろこび
イツダチ ムイロ ナナダチ
ヤイロ ココノダチ 一丁
いちもんめ
イチモンメ ブドブドウ
ニイモンメ ハケハケ
サンモンメ シオナメシオナメ
シイモンメ オガメオガメ
ゴウモンメ 縄なれ縄なれ
ロクモンメ 髪結い髪結い
シチモンメ ビンツケビンツケ
ハチモンメ びんだしびんだし
キュウモメ もとどれもとどれ
ジュウモメ 引きよせ引きよせ
あんたがたどこさ
あんたがたどこさ ひごさ
ひごどこさ くまもとさ
くまもとどこさ せんばさ
せんばやまには 狸がおってさ
されさ猟師が 鉄砲をうッてさ
にてさ やいてさ くってさ
それをこの葉に ちょういと
おっかくせ 
鹿角の子守歌
赤貝赤貝
わしらは水もの しょばら生まれ
赤貝赤貝 スズミやスズミ貝
おばさんもしごきげんさん 毎度大きに有がとう
赤貝安い買こうてくれ
今は仕まえゝで 計る桝目には 二しょ三合
おさぁわし娘の おしえちゃん様え
しのぶに七年こて四年 お堀七つにごもえびす
酒のもよくお役いて 四十八枚障子明けりゃ
くくみの枕に手をかけりゃ 軒端の雀も逆さ落ち
夜明けの烏もなき渡る 四つえの鐘もゴンと鳴る
今夜からあゝのー 明日の晩
白犬コ
あっちの山の 白犬こ あっちの山の 赤犬こ
一匹吠えればみな吠える ねんねこせ ねんねこせ
手っ手っ手
手っ手っ手は、幼児が最初におぼえる遊戯歌である。
手っ手っ手 あわわわわ まげまげ あっぷろれぇ
子守歌
ねんねこ ねんねこ ねんねこや
ねったら アッパ(母親)て ひで(連れて)えがな
おれの○○子 ねってけろ
ねんねこやー ねんねこやー

ぼうやもまけずに はやねむれ
あれみよお日さん いまねむた
かあかあからすや ちゅんちゅん雀
いっしょにねむろと とんでゆく
ねむれば楽しい 夢の園
きんぎんさんごの はなが咲く
そこにはきれいな 鳥もいて
あしたの朝まで 鳴いている
ぼうやもまけずに はやねむれ
お日さんの目さめる あしたまで  
 
山形

 

ふたりで刻んだ 夢こけし エンヤコラマカセの 舟唄に ゆれてゆられて 最上川
寝させ唄
エンヤマッカゴエン
エンヤマッカゴエン エンヤマッカゴエン
おら家の愛児は じょこたまやー
 ねんねろや ねんねろや
酒田さ行ぐさげ まめでろやー
 エンヤマッカゴエン エンヤマッカゴエン
酒田みやげにゃ なによかろ
 エンヤマッカゴエン エンヤマッカゴエン
大っきな瓶こに 砂糖いっぺぇ
 エンヤマッカゴエン エンヤマッカゴエン
桃買って来い 飴買って来い
 エンヤマッカゴエン エンヤマッカゴエン
酒田みやげにゃ なによかろ
 エンヤマッカゴエン エンヤマッカゴエン
草履こど下駄こど そりゃみやげ
 エンヤマッカゴエン エンヤマッカゴエン
桃買って来い 飴買って来い
 エンヤマッカゴエン エンヤマッカゴエン
せんどのやんま
ねろねろ ねろねろ ねろねろやードー
せんどのやんまの どんころはードー
紙ではったる どんころで
転んで来たどて どでんするなーエー
ねんねろやードー
ねんねろ ねんねろ ねんねろやードー
干刈どもでの 畔くろぬるにゃ
朝まにけずって 昼つけて
からすの夜あがり みて撫でろ
ねんねろやードー
ねんねろ ねんねろ ねんねろやードー
一丁と二丁なら 三丁だべぁなードー
三丁と七丁で 十とお丁だべぁなードー
十丁ずつ十なら 百丁だべぁなードー
ねんねろやードー
山形地方の子守歌
おら家の おぼこば
誰泣かせた
誰も泣かせぬげんど
おとりで泣いだんだ
ねろねろや ほらほらや
オワイヤレ オワイヤレヤ
ねんねこっこ ねんねこっこや
村山地方の子守歌
ねろねろや おんねろねろや
ねむると ねずみに まんじゅうもらう
起ぎると おぎづに さらわれる
ねろねろ ねろねろ ねろねろやー
赤湯地方の子守歌
オワイヤ オワイヤ オワイヤレヤレ
寝っど ねずみにひかれんぞ
起きっど 夜鷹にさらわれる
オワイヤ オワイヤ オワイヤレヤレ
おら家の子守りっ子
おら家の子守りっこは
どさ行ったべ
あら町横町さ
ぼち買いに
おまえに来るから
寝て待ちろ
オーワイ オーワイ
ねたいどねずみに
ひかれるし
起きるとお鷹に
さらわれる
オーワイ オーワイ
白鷹地方の子守歌
オンバエヤレ オンバエヤレ
オンバエヤレヤー
オロロンバエ オロロンバエ
オロロンバエヤー
オンバエココ オンバエココ
オンバエココヤー
泣がねで ねんねんここ しろよ
泣ぐじど 夜鷹にさるわれんぞ
泣がねで ねんねここ ねんねんここよ
ねねんここしろう ねねんこ しろよ
裏の裏のじさの木さ
裏の裏の じさの木さ
すずめが三匹 とまった
一羽のすずめが 言うことにゃ
むしろ三枚 ござ三枚
六枚屏風を たてまわし
ゆうべござった 花嫁が
ぽろりぽろりと 泣きやんす
おらが弟の千松は
七つ八つから 金山へ
金は出ぬやら 死んだやら
一年たっても まだこない
二年たっても まだこない
三年三月に 状がきた
誰に来えどの 状がきた
おせんに来えどの 状がきた
おせんはまだまだ やられない
衣装の一つも 着せてから
帯の一つも させてから
裏の小寺に まいらせて
衣装の小棲に 血がついた
血でもないのに 血だ血だと
ゆんべ化粧した 紅だもの 紅だもの
ねんねんやお守りや
ねんねんやお守りや
 ねんねん お守りやーや
虚空蔵のお祭りに 帯買いにーに
帯は七尺 値は五百ーく
八丈の帯買って 誰にさせるーる
おせんにさせらせで 遊ばせるーる
遊ばせながらも 泣きながらーら
ねんねんや お守りや
 ねんねん お守りやーや
ねんねろや
ねろねろや ねろねろや
おら家の みよさんば 誰かむった
ねろねろや ねろねろや
小国郷の子守歌
やんまのえりの おいのこは
一匹 吠えるずど みな吠える
ねろねろや
ねんねこせ
ねんねこせ ねんねこせ
ねんねのおさとは どさ行った
あの山こえて 里こえて
おさとのお土産 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
ねろてばよ ねろてばよ
ねろてばねないのか このやっこ
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
あの山こえて 里こえて
花のお江戸に のりこえて
坊やの土産 なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
ねんねこや
守り子唄
子守りくどき
一にゃこわいもの 子守りの役よ
二にゃ憎まれて 三にゃ叫ばれて
四にゃ叱られて 五にゃ怒がれて
六にゃろくだものも 着せられしねでよ
七にゃしめしなの 洗わせられてよ
八にゃはられて 九にゃくどかれて
十にゃじゅんぶぐ あきはてたよ
ねんねろやー ねんねろやー
小国地方の子守歌 1
子守り娘は 楽なようでつらいもんだな
他人の軒端に 立ち寄れば
やがましいがら そっちゃ行げど叱られる
ねんねこせー ねんこせー
小国地方の子守歌 2
やんやん山形の 弥兵衛母さは
おぼこ産すどて 蕪産した
お父っつぁんに見せねで 煮で食べた
よーい よい

 

わらべ唄
凧上げ
風の三郎ア 背病(ヘヤミ)みだ
お陽(ヒ)さま まめだ
カラカラ風 吹け吹け 
子守唄
ねんねん、ころころ、ねんころや、
寝ないと鼠に引かれんべ
おきると夜鷹にさらわれる 
 
福島

 

塩屋の岬 見えぬ心を 照らしておくれ ひとりぼっちに しないでおくれ
海をみてると勇気が出るの 逢えないつらさ こらえて生きる 私と歌おう 塩屋の灯り
北は磐梯 南は湖水 中に浮き立つエーマタ 翁島 
須坂ばんだい東山 愛の別れが霧となる 若い二人の福島は 忘れられない恋ばかり
遊ばせ唄
お月さまいくつ
お月さまいくつ 十三七つ
まだ年ゃ若いな いばらのかげで
ねんねんこんこなして おまんにおぶせよか
おせんにおぶせよか おまんにおぶせて
油買いやったらば 油屋の前で
油一升こぼした その油どこやった
犬めがなめた その犬どごいった
太鼓に張りついた ドンドンドン
寝させ唄
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やのお守りは どこへ行った
あの山越えて 里へ行った
里のお土産 何もろた
でんでん太鼓に お笙の笛
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ ねんころり
坊やはよい子だ ねんねしな
あの山越えて 里越えて
里の土産に 何もろた
でんでん太鼓や 笙の笛
坊やはよい子だ ねんねしな
   ねんねんころりよ ねんころり
   坊やのお家の 母さんは
   ころころ小芋で 飴作った
   甘いとろりの 飴の味
   坊やにあげようか この飴を
   坊やは泣かずに ねんねしな
ねんねんころりよ ねんころり
坊やのお里の お祭は
どんどん太鼓や 笛の音で
お守りの前に 立つ幟
坊やに見せようか 獅子の舞
坊やはよい子だ ねんねしな
ねんねんこんころ
ねんねんこんころ おとの守り
おとの守り子は どこに行った
小浜の町に 帯買いに
帯は七丈 値は八十
八十で高いから おまけなんしょ
おまけはならない 一文も
おまけの帯買って 誰に締めらせる
おらいのややちゃんに 締めらせる
おいらのややは
おらいのややは どこさ行ったべ
小浜のお町に 帯買いに
帯を買ってきて 誰に締めらせる
おらいのややに 締めらせる
締めらせで遊ばせで ねんねさせ
ほんじゃからねんねして こんこしな
ほらねろほらねろ
ほらねろほらねろ ほらねろやや
ねんねろねんねろ よぐねろやや
ねないずど鼠に ひかれるぞ
起ぎるどお鷹に さらわれる
したがらよぐねろ ねんねろやや
赤いまんまに およかげで
さくりさくりと くれんべな
ねんねろねんねろ よぐねろやや
ほらよいほらよい
ほらよいほらよい ほらよいやァ
坊やはよい子だ ねんこしろ
ねんこして起きたら 何やんべ
赤いまんまに ととかけて
おさくりさくりと 食わせましょう
ほらよいほらよい ほらよいや
   ほらよいほらよい ほらよいやァ
   泣くな泣かすな 雉の子
   泣くとお鷹に さらわれる
   泣かねと おかが抱いて寝る
   ほらよいほらよい ほらよいや
ほらよいほらよい ほらよいやァ
守り子て楽なようで こわいもんだね
雨風吹いても 宿はない
ひとの軒端に 立ち寄れば
犬に吠えられ 子に泣かれ
早くに師走の 二十四日
娘来たかと いわれたい
ほらよい ほらよいや
ねんねんねた子に
ねんねんねた子に 何やろか
赤いまんまに ととかけて
おさくりさくりと 進ぜましょう
おらどごのややは
おらどごのやィやは ねんねしねが
ねんねしたらば 何をやろ
赤いまんまに ととかけて
さくりさくりと 食わせましょう
   守り子ちゃ楽なようで こわいもんだ
   ひとの軒端に 立ち寄れば
   犬に吠えられ 子に泣がれ
ねんねをして
ねんねをして 起ぎだらば
赤いまんまさ およかげで
そろりごそりと 進ぜましょう
ほんじゃがら泣がねで ねんねしな
おがごはこのたび どごさ行ったんべ
柳の下さ およ釣りに
誰ごにくれるのに 釣ってござった
おがごにくれるのに 釣ってござった
おがごはいねもの 死んだもの
死んで七日の 墓参り
墓へ行って 見だらば
桔梗の花が 咲いていた
ねんねこぼこちゃん
ねんねこぼこちゃん 亀の子ぼこちゃん
それがのっぺらぽう
のっぺらぽうさ嫁とって なじゃおん出した
おん出す間もなぐ 子ができた
その子育でで 嫁にやる
嫁の仕事は何仕事 糸取り機織りごぜんたき
それがいやなら 出でもいんぎゃがれ
出では行くが 見ちゃおれぬ
お宮の前まで 送りましょう
お宮の前で泣ぐ鳥は 恋しや恋しや籠の鳥
籠の土産に何もろた でんでん太鼓に笙の笛
起きゃがり小法師に 犬張子
たたいてきかすに ねんねしな
たたいてきかすに ねんねしな
よいよいよこづかの
よいよいよこづかの ぐりぐり乙女
早く大きくなれ 嫁にやる
嫁の仕事は 何仕事
機織り糸取り 御飯たき
それもいやなら 出ていぎゃれ
出てもいいげんちょ 道知らぬ
お宮の前まで 送りましょう
お宮の前で 鳴く鳥は
恋し恋しの 籠の鳥
かごの土産に 何もらった
松の木三本 杉の木三本
合せて六本 根を見れば
ねんねんころりよ おころりよ
ねろやねやまの
ねろやねやまの とら猫は
人さえ見れば 食べたがる
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
ねんねのお守りは どこへ行った
あの山越えて 里へ行った
里の土産に 何買って来た
でんでん太鼓に 笙の笛
起きゃがり達磨に 風車
寝ろてば寝ないのか このがきめ
寝ろてば寝ないのか このがきめ
おっかは信太の 白狐
おっかは信太に けえるから
ちょうま蜻蛉も 殺すめえし
近所のがぎども ながすなよ
あれは狐の 子だからと
世間の人から ゆわれっぞぉ
そんじゃがら泣かねで 眠んだぞ
福島の子守唄 1
ねんねこ ねんねこ ねんねこばい
ねんねこ ねんねこ ねんねこばい
ねんねこ ねんねこ 酒屋ねこ
酒屋がいやなら嫁入らさい
嫁入り道具に何もたしょ
たんす長持ちはさみ箱
それだけ持たせてやるならば
いっちご帰っちゃこらさんな
ねんねこ ねんねこ ねんねこばい
ねんねこ ねんねこ ねんねこばい
福島の子守唄 2
ねろてばねろても ねろてばよ
保原のまつりに 帯買いに
金襴緞子(きんらんどん)すの 帯買いに
帯は七尋(ひろ) 値は八十
ねんねんねる子に 買うてやる
ねろてば ねろてば ねろてばよう
守り子唄
ほらやれほらやれ
ほらやれほらやれ ほらほらや
おどの守りゃ楽なようで 辛いもんだどな
雨風吹ぐどきゃ 宿はないな
ひとの軒端に 立ぢ寄れば
犬に吠えられ この子に泣がれよ
泣がねでねんねん こんこしな
ねんねの子守りは
ねんねんの子守りは 辛いもの
ひとには楽だと 思われて
おっかさんに叱られ 子に泣かれ
雨風吹いても 宿はなし
ひとの軒端で 日を暮らす
守り子なんて
守り子なんて楽なようで ひどいもんだでな
泣げばいじめだなんて ずわれんべしな
しょんべんで濡れれば 川でつっぺしたなんて
ずわれんべしな
   守り子なんて楽なようで ひどいもんだでな
   眠ればねくびったなんて ずわれんべしな
   ぜぇさ帰ればまだはえなんて ずわれんべしな
   ほんに子守りなんて ひどいもんだでな
ねなねなねなねな
ねなねなねなねな ごうとねなんしょよ
守りほど楽なようで つらいもんなね
ひとの軒端に 立ち寄れば
やかましいおじさんに 叱られて
やさしいおばさんに だまされる
そらやいそらやい ごうとねなんしょよ
   ねなねなねなねな ごうとねなんしょよ
   ねろってねないのは おさんどんの子
   おさんどんに婿とって これはのっぺらぼうのぼう
   のっぺらぼうにできたその子も
   これものっぺらぼうのぼう
   そらねなそらねな ごうとねなんしょよ
ほらほらや
ほらほらやほらほらや 眠れでばハ
おどの守りちゃ楽なようで ひどいもんだなハ
泣がねでくどがねで 眠れでばハ
   ほらほらやほらほらや 眠れでばハ
   泣ぐずどおっかはんに おごられるハ
   泣がねでくどがねで 眠れでばハ
ほらほらやほらほらや 眠れでばハ
泣がねで眠ったら 何くれべハ
飴かお菓子か おかんじょかハ
おんだら泣がねで 眠れでばハ
守り子しあきた
守り子しあきた 叱られあきた ウアウア
他人の晩飯も 食いあきた ウアウア
ねんねんねやまの おんつぁまは ウアウア
かかほしかかほし 何しんだ ウアウア
洗濯させたり まま煮たり ウアウア
夜はぽたぽた 抱いて寝る ウアウア
   守りほど楽なようで 辛い商売ね ウアウア
   ひとの軒端に 立ち寄れば ウアウア
   犬めに吠えられ 子に泣がれ ウアウア
   雨が降ってきたし 洗濯物ぬれる ウアウア
   背中でがきゃ泣く 飯ゃこげる
ねんねんころりや
ねんねんころりや おころりや
守りほど楽なようで 辛いしょうべぇねえ
雨風吹いでも 宿はなし
ひとの軒端に 立ち寄れば
犬にゃ吠えられ 子にゃ泣かれ
うっつぁしなんどと 追っぱられ
一にゃいじめられ 二に憎まれて
三に騒がれて 四に叱られて
五にはごうごう 泣ぐややを
六でろぐなもの 食わせらんにぇで
七にゃしめしなんど 洗わせられで
八にゃはっとばさっちぇ 流されて
九には悔しくて 悔しくて
十でとうとう 逃げ出した
いぐら泣いでも
いぐら泣いでも この子は憎ぐはね
これがおまんまの 種だもの
一にいじめられ 二で憎まれ
三ではしゃべらせらっち 四でしめられ
五にはごろごろ 裸にしられ
六でろぐなもの くわせらんにぇで
七ではしめられ 八ではっとばされ
九では繰りげぇし 口説がっちぇ
とうとうこの子は つとめられ
つとめられない ことと思い
家に帰って みだならば
お爺ちゃんとお婆ちゃんと 火を焚いて
とうとうこの子は 泣ぎ泣ぎ
家に帰って しまいました
一でいじめられ
一でいじめられ 二で憎まれ
三で騒がれ 四で叱られ
五でごんごん 子に泣がれ
六でろぐなもの 食わせらんにぇで
七でしめしなんか 洗わせられて
八で初めで なだこぼっちゃ
九できゅうきゅう 逃げで行った
十でとうとう 来ながった 

 

わらべ唄
 
栃木

 

待てばこの身も渡良瀬の 秋の中 あなただけに身を焦がす 恋紅葉
寝させ唄
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
泣くと長持 しょわせるぞ
笑うとわらじを はかせるぞ
寝ないとねずみに ひかせるぞ
   ねんねんねんこしな ねんこしな
   奥のお山の おうさぎは
   なんでお耳が 長いのか
   わりの葉 かやの葉 たんと食べ
   それでお耳が 長いのよ
坊やはよい子だ
ねんねんころりよ ねんこしな
坊やはよい子だ ねんねしな
ねんねのお守りは どこへいった
あの山越えて 里へいった
里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
あっち向けこっち向け
あっち向け こっち向け 筑波見ろ
 筑波の山では 白猫が
足駄をはいて 木登りだ
 足駄じゃあぶない じょんじょがいい
じょんじょの鼻緒が 切れたなら
 赤いかっこを 貸してやる
ねんねこどっちゃん
ねんねこどっちゃん 亀の子どっちゃん
ソラ のっぺらぽん
のっぺらぽんに育てりゃ もらいとがねえ
もらいとがなげれば 一生後家だ
一生後家 二生後家 三生後家
ねんねん猫のけつ
ねんねん猫のけつ かにがはさんだ
 あいててこんちくしょう 離しやがれ
父さんとってくれよ まだはさんだ
 母さんとってくれよ まだはさんだ
そまつにするな
そまつにするなと 母上の
 仰せたまいし この人形
着物を着せて 帯しめて
 箱の御殿に 坐らせん
着物はみどり 帯は赤
 模様は千鳥に 春の雪
泣くなよ泣くなよ お休みの日に
 梅見に 連れて行こう
あわけるねずみ じゃれるねこ
 坊やの人形 やぶるなよ
またも今度の 休みには
 村の鎮守の 祭日よ
何を買うて あげようか
 お前に太鼓を 買ってやろ
ねんねんねんねん
 ねんねしな
お月さんいくつ
お月さんいくつ 十三七つ
まだ年ゃ 若いね
ねんねを生んで 誰にだかしょ
お万にだかしょ お万はどこ行った
油買いさかい 酒屋の前で
すべえてころんで 油一升こぼした
その油 どうした
白どんの犬と 黒どんの犬が
みんななめて しもうた
その犬どうした 太鼓になって
あっち行っちゃ ドンドコドン
こっち行っちゃ ドンドコドン
(足利市相生町)
守り子唄
おともりっちゃ楽なようで
おともりっちゃ楽なようで こわいもんだよ
 雨風吹いても 宿がない
人の軒場へ 立ち寄れば
 おかやんに叱られ 子に泣かれ
やれ行げ それ行げ 追い出され
 おともりっちゃ楽なようで こわいもんだよ
おともりっちゃ楽なよで
おともりゃ楽なよで こわいもんだ
 雨風吹いても 宿はなし
人の軒場に 立ち寄れば
 おかあさんに叱られ 子に泣かれ
おともり子守りは
おともり子守りは つらいもんだよ
 雨風吹いても 宿がない
ひとんちの軒場に 立ちこもり
 犬におえられ 立ちこもり
よいよいよい子だ ねんねしな
 よいよいよい子だ ねんねしな 

 

わらべ歌
坊さん坊さん   
坊(ぼう)さん 坊さん 何処(どこ)行くの
わたしは田圃(たんぼ)へ 稲刈りに
わたしも一緒に 連れしゃんせ
お前が来ると 邪魔になる
このかんかん坊主 糞坊主
うしろの正面 誰(だぁれ)   (栃木県など)

ぼんさん ぼんさん どこいくの
あの山越えて 酢ぅ買いに
私も一緒に 連れてって
お前ら来たら 邪魔に成る
このかんかん坊主 糞坊主
後ろの正面 誰(だぁれ)   (大阪) 
野菜の数え唄
このところ大分秋めいてきました。五感を働かせながら町を歩くとそこここに秋が忍び寄っているのを感じます。
いつかラジオで聞いたことですが、京都の或る地方ではお月見にサトイモを供える。これは多くの地方でも行われているようですが、特に記憶に残っているのはそこでは茹でたサトイモに竹串で穴を通し、その穴からお月様を見るということでした。満月がうまく見えれば将来素敵な旦那様にめぐりあえるとか、幼児たちにそういったところ「じゃ、男の子はどうなるの?」。……どうなるんでしょうね、男の子は見ないのかしら?
昔はやはり芋といえばサトイモだったのでしょうね、何しろ稲より歴史が古いといいますから……。そういえば野菜の数え歌でも始めは芋から始まるものが多いようです。
芋 
芋人参 
芋人参山椒 
芋人参山椒紫蘇 
芋人参山椒紫蘇牛蒡 
芋人参山椒紫蘇牛蒡麦 
芋人参山椒紫蘇牛蒡麦茄子 
芋人参山椒紫蘇牛蒡麦茄子蓮 
芋人参山椒紫蘇牛蒡麦茄子蓮栗 
芋人参山椒紫蘇牛蒡麦茄子蓮栗唐茄子
一ちょで 二ちょで 三ちょで ホイ
というのがあります。これは栃木県の、手鞠歌として記録されています。
これを見て、また他の数え歌に思いを馳せて解かることは、日本語の数の数え方の豊かさです。いちにいさんしごおろくしちはちくうじゅう、ヒトツフタツミッツヨッツイツツムッツナナツヤッツココノツトオ、ひいふうみいよおいつむうななやあこのとお……。この頭を縦横に駆使して面白く数え歌を作っているのです。また、ひとよひとよに……、ふじさんろくにおおむなく、などむずかしいルートなどの記憶も助けています。ひいふうみいよおという数え方は日本の文化ですから私は幼児期には必修と考えていますが、残念なことにほとんどの幼児はイチニイサンシイという無味乾燥な数え方しかしていません。あと50年もしたら日本の文化の一部は消えるかもしれない。たかが数え方、でもされど数え方なんですが…ね。
さて前記の歌に戻って、もしこれを日本語を知らない外国の人が覚えようと思ったら大変です。始めの一小節目は二拍子、次の一小節は三拍子、次には2拍子が2小節来てまた3拍子、次に2拍子が1回、というように拍子の表記が変わります。私達日本人は楽譜なんぞに頼らず、言葉が増えていく面白さで覚えきってしまえるのです。子供たちが成長しクラシック音楽に親しみ始めて、外国の変拍子の多い曲に戸惑うことが良くありますが、そのとき私は小さいとき歌ったこういう歌を楽譜で見せます。
「どの国の音楽もわらべうたにはこういう形が多い。きっとこの作曲家も小さいときの体験、そして母国語からこの音楽は出てきたに違いない」というとわが身に置き換えて理解しやすくなるようです(もしかして、始めに言葉ありきといったのはこのことだったのかも?)。
この歌はとうきょうもんの私の歌ではありませんが、言葉の面白さ、拍子の面白さ、そしてクライマックスに到達する興奮が私を捉えました。クライマックスはね、普通に唐茄子まで歌ったらもう一回始めから唐茄子まで息もつかずに猛スピードで歌って最後に一ちょで二ちょで三ちょでホイとしめなければいけないのです。手鞠歌ですからそこまで続いてつけなければいけないし、スピードに狂わされてもいけない、相当の集中力を要します。 
日光東照宮の伝説
実は日光東照宮には、あまり注目されていない「伝説」があるのです。この伝説は、あまりにも内容が壮絶で現実味を帯びており、このことが噂となってテレビの某人気番組でも取り上げられたことがあります。そのテレビの番組名とは「徳川埋蔵金のありかの真実」と言う名の番組名です。
徳川埋蔵金は「豊臣埋蔵金」
徳川政権の前の政権と言えば、豊臣秀吉が主役となった豊臣政権です。
豊臣秀吉は莫大な金銀を採掘していることでも有名で、その資産価値は徳川埋蔵金の金額をケタ違いに凌ぐとまで言われています。 一説によると、その額は、現在の紙幣価値になおすと・・なんと! 200兆円にものぼるそうです。
秀吉の生前時代から、家康は、密かに豊臣家の資産を調査していたと言います。やがて秀吉が没したのち、家康は豊臣家の資産に、手を伸ばしはじめます。家康は、秀吉の去った豊臣家に無理難題を言いかけ、豊臣家の財産を徐々に利用しました。すなわち、この頃から家康は、自らの財布の紐を緩めることはなく、そのほとんどを豊臣家の財産で補ったといいます。そして、その後に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、家康は見事、勝利を治め、天下人となります。
天下をとった家康は、家臣や協力してくれた大名たちに恩賞を与えることが急務でした。そこで家康がまず目に付けたのが、秀吉の埋蔵金であったと言います。その後、実際に家康が豊臣秀吉が残したとされる「200兆円」もの埋蔵金を手に入れたのかは不明です。しかし、もしも家康が秀吉の残した豊臣埋蔵金を手に入れていたとしたら、その莫大な埋蔵金が、まだ必ずどこかに眠っているハズなのです。
徳川埋蔵金は本当に実在した
徳川家康が残した埋蔵金は、一説では想定で400万両、現在の価値で3800億と云われています。そして、その埋蔵金が、どこに隠されているかが話題を呼んでいます。伝説によると、すでにこの埋蔵金のありかは判明されているらしいのです。
埋蔵金の隠し方には特徴があり、3カ所に分けて埋蔵されていると言われています。そのうちの2カ所はダミーとされていて、少額の埋蔵金が隠されており、残りの1カ所に、徳川埋蔵金が隠されていると言います。しかし、埋蔵金の調査には、莫大な資金が必要であるのと、埋蔵金の場所を特定してもアチラこちらと簡単に掘れるワケではありません。したがって現在でも、いまだ謎と言うヴェールに包まれたままになっています。
「かごめ、かごめ」が徳川埋蔵金のありかを示す
実は、わらべ歌の「かごめかごめ」の中で、徳川埋蔵金のありかを歌っているという説があるのです。この歌は、江戸時代の初頭には、すでに一般的に歌われていたらしく、江戸時代の文献にもその記録が残っていると言います。そして、以下の歌詞は、あなたもよく知っている「かごめかごめ」の歌詞の一部です。
「か〜ごめ、か〜ごめ、(カァ!) か〜ごのな〜かのぉ、とぉりぃ〜は、(カァ!)い〜つ、い〜つ、出ぇや〜る(カァ!)」
「よあ〜け〜のば〜んに、(ほぃ!)つ〜ると、か〜めがす〜べぇ〜た、(ふぅ) 後ろの正面だぁ〜れぇ(カァ!..カツ丼食べたい)」
これは「かごめかごめの歌詞」なのですが、この中に答えがあると言われています。では、この「かごめ、かごめ」の歌を、もう少し詳しく見てみましょう。実は、この歌は「陰と陽を示している」と言います。さらに以下のような意味合いになると言います。
   「籠の中」「出やる」とは、「とらわれの身」と「開放」
   「夜明け」「晩」は、「昼と夜」
   「鶴」と「亀」は、「天と地」
   「出る」と「滑る」は、「成功と失敗」
   「後ろ」と「正面」は、「徳川家の成功と失敗」
   「かごめ」は「六芒星」を意味
つまり、これらの歌の中の歌詞が指し示す意味をまとめてみると、以下のような事実が浮かび上がってきます。
徳川幕府が建てた主な寺院を、六芒星で結ぶと、その中心に「日光東照宮」がくる。そうなると「籠の中の鳥」は「日光東照宮の鳥居」を指している。
さらに「夜明けの晩に 鶴と亀が滑った」という箇所は、日光東照宮には、たしかに鶴と亀の像があります。そして、「夜明けの晩」を「朝方」として言いかえて考えていくと・・ 「日光東照宮の”鶴・亀の像”が朝日を浴びて、できたの影の延長線上の交点の地下に何かが眠っている」と、言う解釈が可能になります。
渡した受け取った
渡した受け取った
もっとも大事な 娘の子
唐糸三本に 針三本
向こう河原の 
ハナコさんに 渡したいの
民謡調でとっても歌いにくいし、休符とかもあり音をカタカナで書けません。紙風船をついている間みんなで歌い、「ハナコさんに」のところを次に渡すこの名前を入れて歌い終わりに渡し、次の子は続けてつくので、またみんなで歌うという遊びです。
4人で実際に遊んでみましたが、人によって風船のつく速さが違い、そのため歌う速度を変わるのが面白かったです。また私のようないじわるさんは、わざと早く歌ってつくこに合わせさせるようなことをしたりして、そんな風に子どもたちも遊んだのかな〜と思いました。  
えんやら もものき
えんやら もものき ももがなったら だれにやろ
おっかさんに あげよか? おきくさんに あげよか?
だーれに あげよか?
しぐさあそびです。背中に子どもを横にして背負い揺すりながら歌ったり、向かい合った二人が手をつなぎその上に子どもを乗せてうたう。
もと関東一帯のわらべうたのようです。
桃が生ったら「食うぞ」(宮城)とか「じいとばんばに食(か)せる」(山形)
「太郎と次郎と半分こ」(栃木)などあるそうです。
桃の季節にたわわに実る木を喜ぶうたでしょう。”あっかとばい”では1歳から子どもをだっこして又は、横にして腰をふりながらあそびます。子どもも4歳ぐらいになると重くなるので、この横ふり遊びは母親に負担にならないでしょう。子どもはゆすられると、楽しくて大はしゃぎです。 
さよなら三角
いろはに金平糖
金平糖は甘い 甘いは砂糖
砂糖は白い 白いはウサギ
ウサギは跳ねる 跳ねるはノミ
ノミは赤い 赤いはホウズキ
ホウズキは鳴る 鳴るはオナラ
オナラは臭い 臭いはウンコ
ウンコは黄色い 黄色いはバナナ
バナナは高い 高いは電気
電気は光る 光るはオジヤンのはげ頭

でぶでぶでぶ百巻でぶ
車にひかれてぺっちゃんこ ぺっちゃんこはせんんべい
せんべいは丸い 丸いはボール
ボールは跳ねる 跳ねるは蛙
蛙は青い 青いうは柳
柳は揺れる 揺れるは幽霊
幽霊は消える 消えるは電気
電気は光る 光はおや味の禿げ頭  
清水の観音様
清水の観音様に 雀が三疋とまった
その雀が 蜂(はアち)にさされて
あいたた ブンブン
あいたた ブンブン
まずまず一貫 貸し申した
(足利地方で歌われたそうです)
渡良瀬川
渡良瀬川は 利根川の支流。日光市足尾町から草木ダムを経て、群馬・栃木の県境を流れて渡良瀬遊水地に入り、古河市と加須市の境界で利根川に合流する。一般に 神子内川との合流部から下流が渡良瀬川で、上流は松木川と呼ばれていたが、国土交通省では 1965年以降、足尾ダムから下流をすべて渡良瀬川とし、足尾ダム上流部を松木川としている。
伝承によれば、奈良時代の終わり頃 日光を開山した勝道上人がこの川を渡ろうとしたところ、浅瀬を見つけて その場所を“渡良瀬”と名づけ、その地名から“渡良瀬川”となったいう。その場所がわたらせ渓谷鉄道の足尾駅付近であったとされる。
足尾銅山は 江戸時代初期から採掘が開始され、1877(明治10)年に古河市兵衛が近代化をはかって 全国有数の銅山となり、古河鉱業(現・古河機械金属)は 現在の古河グループに至る事業の基盤を作った。「古河掛水倶楽部」は、1899(明治32)年に古河鉱業が 賓客の接待用に建てた迎賓館で、旧館は国の有形文化財に指定されている。
余談だが「銅山電話資料館」は、足尾銅山の施設内で使用された電話の交換機が置かれた施設。1876(明治9)年にグラハム・ベルが電話機を発明した10年後の 1886(明治19)年に足尾銅山に導入され、民間企業が導入した電話としては国内最初であった。明治40年時点で100回線に達しており、事務所・坑内をはじめ、足尾の町役場や駅にまで通話することができたという。1965(昭和40)年に手動交換機から自動交換機に入れ替えられたが、この施設は 2000(平成12)年に現役を引退するまで使用された。  
 
群馬

 

泣いているよな雨音きけば 思い切ない三度笠 ああ赤城悲しや 里ごころ
酒でぬくめて 唄うのよ ああここは前橋 なぜかこの唄 前橋ブルース
遊ばせ唄
かいぐりかいぐり
かいぐり かいぐり とっとの目
しゃんしゃん アッパパ
お獅子の子は
お獅子の子は 生れて落ちると頭を振る
でん でん でん
水沢どんどん
水沢どんどん かけ流し
腹の真ん中へ 帯しめて
お茶屋の真ん中へ 腰ょかけて
ほっぺたはたけば あかくなる
やや餅ゃ どんどこどん
のんのさんいくつ
のんのさんいくつ 十三七つ
七つの年に 赤子を生んで
この子を生んで だれにだがしょ
おまんにだかしょ おまんはどこいった
油買い茶買い 油屋の縁で
すべってころんで 油一升こぼした
その油どうした
太郎どんの犬と 次郎どんの犬が
みんな なめてしまった
その犬どうした
ぼっころして しまった
その皮どうした
太鼓に張って しまった
その太鼓どうした
あっちい向いちゃ どんどこどん
こっちい向いちゃ どんどこどん
そのあとどうした つんもしてしまった
寝させ唄
ねんねこぼっち
ねんねこぼっち
かんかかぼっち
ようばい どうしんぼう
与兵衛さんが嫁とって
おん出したとさ
なぜにおん出すよな嫁とった
とらなきゃ一生後家 つらいものよ
ねんねんねころげて
ねんねんねころげて がにがはいこんだ
一匹だと思ったら 二匹はいこんだ
二匹だと思ったら 三匹はいこんだ
三匹だと思ったら 四匹はいこんだ
四匹だと思ったら 五匹はいこんだ
母ちゃんがたまげて お茶かけた
ねんねこねんねこ
ねんねこ ねんねこ ねんねこや
ねんねがお守りは どこへ行った
あの山越えて この山越えて 里に行った
里のおみやに なにもらった
でんでん太鼓に 笙の笛
その笛吹いたら ねんねしな
ほらよい ほらよい ほらよいよ
ねんねんね山の
ねんねんね山の 白ねこが
あしだをはいて おりてくる
あしだじゃあぶない じょんじょがいい
じょんじょの鼻緒が 切れたなら
赤い鼻緒で たててやれ
白い鼻緒で たててやれ
ねんねん ねんころ ねんころりん
ねんねんよかんかんよ
ねんねんよ かんかんよ
 嬢やはよい子よ ねんねしな
ねんねして起きれば おちちやろ
 おちちのおでばが いやならば
お米のご飯に ととせえて
 さらさら食べたら うまいだろ
嬢やのお守りは どこへ行った
 八島の宿屋へ あんも買いに
あんもを買って 誰にくりょ
 いい子にくれて はらませて
男の子を生んだら とりあげよ
 とりあげのばあさん 名はなんと
八幡小太郎と 名をつけよう
 八幡小太郎の 馬屋には
馬をいくつ つないだ
 三十三匹 つないだ
草をいく段 刈りこんだ
 三十三段 刈りこんだ
ねんねんよ かんかんよ
 よい子だから ねんねしな
守り子唄
ねんねん子守りは
ねんねん子守りは つらいもの
人には楽だと おもわれて
親には叱られ 子にゃ泣かれ
雨風吹けども 宿はなし
人の軒端のきばで 日を暮らす
早く三月くればよい
三月三日は 出替わりで
茶碗におまめで 箸あばよ
ねんねろ ねんねろ ねんねろよ 

 

わらべ唄
「かいぐりかいぐり」遊び方
   ちょちちょち あわわ
   かいぐり かいぐり とっとのめ
   おつむてんてん ひじとんとん
「ちょちちょち」 / これは、「手打ち手打ち」が「ちょちちょち」(幼児語)と発音されたためだそうです。そういえば、この部分は手を叩きますね。手打ちのなまりです。
「あわわ」 / 動作のままです。手を口にあてて「あわわ」です。「あはは」が語源。
「かいぐりかいぐり」 / 掻い繰ること。幼児の遊びで、両手を胸の辺りで横にしてぐるぐる回すもの。両手を動かし繰り寄せること。「たぐり寄せる」動作のこと。
「とっとのめ」 / まず「とっと」自体が魚・鶏・鳥などをいう幼児語だそうです。とにかくそういう動物の目を示すということでしょう。「とっと」は「とと」で、鳥や魚の幼児語です。ここではニワトリのことです。
「おつむてんてん」「ひじぽんぽん」 / 動作のままです。「おつむ」は「おつむり」の略で、「あたま」の幼児語です。 
ちょーちちょーち (手をたたく)
あーわーわー (ああーと声を出しながら手のひらで口をトントン)
かいぐりかいぐり (いーとをまきまきと同じからだの前で手をグルグル)
とっとのめ (人差し指をだし、もう片方の手のひらをトントン)
おつむてんてん (広げた両手で頭をトントン)
はらぽんぽん (おなかをトントン) 
よーちーよーちーあーわーわー (あくびをするように手を口元に)
かいぐりかいぐりとっとのめー (頭をぐりぐり)
おつーむてんてんしりぽんぽん (頭をかるくたたき、お尻も同様) 
ちょちちょちあ〜ば〜ば〜 (手をたたいて口にあてる)
かいぐりかいぐりとっとのめ〜 (糸巻き巻きの動きをして手を目にやる)
おつむて〜んてん (頭をたたく)
ひじぽ〜んぽん (ひじをたたく) 
かいぐりかいぐり (赤ちゃんの両手を頭に持って行き、クルクル撫でます。)
とっとのめ〜 (赤ちゃんの手を両目の横に持って行き、チョンチョン)
チョチチョチ あわわ (赤ちゃんの手を口にチョンチョン) 
赤ちゃんを前向きに膝の上に座らせ、後ろから赤ちゃんの両手を持って、その手を動かしながら歌います。
ちゃ〜ち、ちゃ〜ち (拍手をするように、胸の前で合わせる)
あわわ (両手を赤ちゃんのお口のところに)
かいぐり、かいぐり (糸巻きのように、両手を胸の前でぐるぐる)
とっとのめ (両手を赤ちゃんのおめめのところに)
おつむ、てんてん (両手で赤ちゃんの頭にてんてん)
はら、ぽんぽん (タヌキの腹鼓のように、赤ちゃんのおなかをぽんぽん)  
ちょ〜ちちょ〜ち (二回拍手)
あ〜ば〜ば〜 (手のひらで開けた口を軽く三回たたく)
かいぐりかいぐり (両手をグーにして交互にぐるぐる(い〜と〜まきまき状態))
とっとのめ (右手は人差し指を立て、パーに開いた左手のひらを三回チョンチョン)
おつ〜むて〜んてん (両手を頭に二回とんとん) 
ちょちちょち あわわ
かいぐり かいぐり とっとのめ
おつむてんてん ひじぽんぽん
「ちょちちょち」は、手を叩きます。
「あわわ」は、手のひらを口にあてて「あわわ」と言います。(上のイラストのように)
「かいぐりかいぐり」は、胸のあたりで両手をぐるぐるします。(糸まきまきのように)
「とっとのめ」は、手のひらを指でとんとんします。
「おつむてんてん」は、あたまを両手でぽんぽんします。
「ひじぽんぽん」は、両ひじを両手でぽんぽんします。(「はらぽんぽん」でも同じことです。) 
ちょちちょち (こどもの両手をもって、2回合わせる)
あわわ (片手または両手を口に)
かいぐりかいぐり (両手を胸の前で上下にぐるぐるまわす)
とっとのめ (左手の平を右手指でつつく)
おつむてんてん (片手または両手で頭を軽くたたく)
ひじぽんぽん ( 片手でもう一方の肘をたたく)
「たんぽぽ」
   たんぽぽ たんぽぽ むこうやまへとんでけ
吹けば飛んでいくたんぽぽの綿毛のイメージ。遊び方としては黄色い布、もしくは白い布を綿毛にみたて、フーッと布を吹いて飛ばしてみたり、たんぽぽの真似をして身体をクルクル回してみたりして遊ぶのも良いでしょう。
たんぽぽ / 綿毛が飛んでいく様子が「たんぽ」(綿を丸めて布などで包んだもの)に似ている事から「たんぽ穂」と名付けられ、「たんぽぽ」となった。黄色い花が多いが、白花のものもあり、若い葉はサラダに出来たり、花は天ぷらにして食べられる。葉を煎じて飲むと利尿薬として効く。別名「鼓草」(つつみくさ)とも言われ、茎の両端を細かく裂くと、反り返って鼓のような形になり、鼓をたたいた時の音「たんぽんぽん」の略から「たんぽぽ」になったとも言われる。 
わらべ歌に探る県民性
群馬の前橋地方で歌われた手まり歌を調べてみた。
   一番始めは一宮、
   二また日光中禅寺、
   三また佐倉の宗五郎、
   四また信濃の善光寺、
   五つは出雲の大社、
   六つは村々鎮守様、
   七つは成田の不動様、
   八つ八幡の八幡宮、
   九つ高野の弘法様、
   十で東京二重橋
この歌は、戦前に主に歌われたようだが、戦後はあまり歌われていない。歌詞は「二は日光東照宮」や「十は東京招魂社、あるいは東京泉岳寺」、富山の方では「富山の招魂社」と地方によって多少の違いはあるが、全国的に歌われたようだ。
   一匁のイー助さん、
   一の字が大好きで一万一千一百石、
   一ト一ト一ト豆、
   お蔵に納めて二匁に渡した
この歌は、戦後まもなく最もよく歌われたようだ。歌詞は「二匁のニー助さん・・・」と九匁まで続くが、「一ト一ト一ト豆」のところは、正確には「一斗一升一合豆」であったと考えられる。尺貫法からメートル法に変わり簡略化されたのであろう。地方によっては「大好き」が「嫌い」に、「豆」が「マイ(米)」や「マス(枡)」になり、「蔵」が「フダ(札)」」になったりしている。「豆」は小豆を表していると思われ、変化の激しい小豆相場を好む、ギャンブル好きな地方の姿が浮かんでくる。
   一リットラー、一トウシュ、一番船の船長さん、おかいんなさい
この歌は「二リットラー、二トウシュ・・・」となって続いていく。この最初の部分の意味は不明であるが、明らかに船の歌であり、海のない群馬県で船に関して歌われたのは、利根川を始め河川が交易に重要な役割を果たしていたからであろう。また、歌詞が他の曲より短いのは、短気な性格の表れであろうか。更に、「かえる(帰る)」を「かいる」と発音しており、かなり地方色の濃い曲と言えそうである。
   あんた方どこさ、肥後さ、肥後どこさ・・・
この歌を知っている人は最も多く、歌詞は全国共通のものである。流行った時代は他の曲より遅く、この後、まりつき自体が全国的に行われなくなっている。
J.ホイジンガーはその著「ホモ・ルーデンス」の中で「子供は種族の歴史を遊びの中で学習する」と述べている。群馬の県民性というものがあるとするならば、子供の遊びの中に、そのヒントが隠されているはずである。わらべ歌を歌うとき、子供たちは歌詞の意味などほとんど考えないし、その歌が地方特有のものかなどと考えることはもちろんない。しかし、その伝承課程でその地方独特の表現に変えられ、無理なく子供たちに伝えられていたことは、手まり歌の例を見ても明らかである。 
 
茨城

 

寝させ唄
ねんねんころりや
ねんねんころりや おころりや
泣ぐな 泣がすな 守りの役
床屋の娘は
床屋の娘は おしゃらくね
おしゃらく おしゃらく 腰が曲がった
その腰治すのに いくらかがった。
いぐらもかがんねえが 十両かがった
十両じゃ安いもんだよ よく治せ
勘平さんは
爺よ婆よ 勘平さんは
山にも寝るし 野良へも寝るし
松葉にさされて 目がさめた
かっこんかっこん
かっこん かっこん
かっこん馬車 どっからはやった
東京吉原 仲の茶屋
仲の茶屋から 嫁が来る
嫁は何時来る 晩に来る
晩に来るから 門あけろ
門の外へと 出てみれば
大きなてばだき 唄で来る
ねんねんねこのけつ
ねんねんねこのけつに かにがはいこんだ
やっとこすっとこ 引きずり出したら
またはいこんだ
一匹だと思ったら 二匹はいこんだ
二匹だと思ったら 三匹はいこんだ
三匹だと思ったら 四匹はいこんだ (以下続ける)
ねんねんおころり
ねんねんおころり ねんころり
ねんこして起きたら なにあげよ
じょんじょか お菓子か 落雁か
落雁くわせて はらませて
はらませ 大きくなれ お江戸にやるぞ
お江戸じゃ ちんちん ちりめん着物
田舎じゃ ぼろ着て 菜種まき 菜種まき
さあさあれ見な
ねろてば ねねえのか この子供
さあさあれ見な 筑波見な
筑波にゃ雲ども かかっても
ほれほれお前らにゃ かからぬよにな
ヤーイ山見ろ
ヤーイ山見ろ 筑波見ろ
筑波の方から 唐獅子が
三十三匹 飛んできた
ねんねん ねろねろ
月の夜に ねんねしな
   ヤーイ山見ろ 筑波見ろ
   筑波の方から 月の夜に
   雁が三十三羽 飛んできた
   ねんねん ねろねろ
   月の夜に ねんねしな
守り子唄
守りちゃ楽のよで
守りちゃ楽のよで こわいもんでんす
雨風吹く時ゃ 宿がない
宿は新家の かわら屋根
あがれ そわれど すすめられ
この子が泣くので そわられぬ
ねろねんねろ ねんこしな
おどもり子守りは
おどもり子守りは つらいもの
雨風吹いても 宿はない
お母さんには 叱られ
子には 泣かれ
人の軒場で 日を暮らす
おいらやだやだ
おいら やだやだ もういやだ
 いやではなるまい 師走まで
師走八日が 来たときにゃ
 お暇をもらって 里帰り
里へ帰って 来たときにゃ
 おばさん一人で お茶わかし
お茶も新茶も もう食べて
 食べて食べらせて はらませて
良い子生させて 守りさせて
 お守りさんは どっから参った
坂上から 坂上のお守りさんは
 小さい守りだね
も少し大きい守り 置いておくれよ
 大きい守り置くのにゃ 損が高いね
損も高げりゃ お仕着せも高いよ
 おいらやだやだ もういやだ
守りっちゃ楽なようで
守りっちゃ 楽なようで こわいもの
雨風吹くときゃ 宿がない
人の軒端さ 立ち寄れば
おかみさんにゃ おこられ
子にゃ 泣かれ
旦那さんにゃ横目で にらめられ 

 

わらべ唄
七草のわらべ歌
鳥取のわらべうたを調べてみると、ちょうど大山町国信というところに伝わる「唐土の鳥が」という歳時歌を見つけた。
   唐土の鳥が 日本の土地に
   渡らぬさきに
   せりやなずなや 七草そろえて
   繁盛 ホーイホイ
という短いものだ。このとき、田畑の害鳥や害虫を追い払うための鳥追いという行事と、正月7日に食べる七草とが密接につながっていることを知った。七草はそもそも、無病息災や五穀豊穣の願いから生まれた風習だ。田の豊作を願うという意味で、鳥追いと七草がつながることは何となく合点がいくが、正月の七草の話は知っていても、東京で育った私には鳥追いという風習はほとんど聞いたことがない。だから歌の中で七草と鳥追いの二つが合わさっていることが不思議だった。「唐土」という言葉が出てくることも、気になった。日本海に面し、大陸の存在を意識することの多かっただろう山陰地方に広がっている歌なのだろうか。鳥取ライブから一か月後に、茨城のつくばでライブがあった。すると茨城のわらべうたを調べていてもやはり、七草の歌が出てきたのだ。そこにもやはり「唐土」が登場していた。
   七草なつな唐土の鳥が 渡らぬ先に ストトン ストトン
   (鹿島郡鉾田町)
   七草なつな唐土の鳥の 渡らぬうちに すととん すととん と作れ
   (那珂郡美和村)
   七草なつな 名のない鳥が鳴かないうちに ばんか ばんか ばんか
   (つくば市筑波)
   七草なつな 唐土の鳥と日本の鳥が渡らぬ先に
   とんとん ばさばさ とんとん ばさばさ
   (鹿島郡鹿島町)
茨城の歌にはいずれも、大山の歌にはなかった不思議な「音」が登場している。これは、6日に摘んだ七草を歳神に供えたものを、7日にまな板に載せ、まな板をすりこぎでたたきながら歌っていたことに由来するのだという。そもそもは唐の説話で、老齢の両親を若返らせたいと思う男に帝釈天のお告げがあり、齢8000年のガチョウの秘術を授けられるという話がある。ちなみに茨城では「唐土の鳥」というと姑獲鳥という人間を害する鳥の妖怪のことを指すともいわれるが、このガチョウとかかわりのあるものか詳細は不明である。ともかくこのガチョウの秘術が、酉の刻からセリ、戌の刻からナズナ、という風に6日の夕方から夜通し七草を順に叩いていくというもので、朝たたき終えた七草で粥を作って両親に食べさせると若返ったという話に由来するらしい。ようするに七草は、健康や長寿、若返りを期待する儀式として伝えられてきた。 一方で、鳥追いはどんな歴史を持っているのか。本城屋勝によれば、農村行事としての鳥追いは、長者の荘園内で農民たちが鳥追いをしたことにさかのぼるという。それが次第に新年の芸能化し、平安中期にはすでに鳥追い芸能が存在していた。田遊びから発達した田楽にも、鳥追い歌に連なるものがある。愛知県鳳来寺の田楽は正月に現在も行われているが、その中で、次のように歌われる。
「苗代にとりては追うべきものあり、すくひ喰ふ小鳥、拾ひ喰ふ小雀...彼奴こそ憎い奴...東へさして追はんば、津軽や合浦、外の浜へ追ふべし...北へさして追はんば、越後や越中、外が浜へ追ふべし...天にさして追はんば天竺天の雲の上に追ふべし
下へさして追はんば、泥犂の底へとんと追ふべし」
こうした新年の芸能をおこなった職能者たちは当初は神仏の権威と結びついていたが、室町時代以降徐々に賤視されていき、長者の鳥追いは、物貰いの鳥追いになっていった。
「北陸や新潟秋田などでは、「苗代田のおんばさ、鳥追うてくんさいせ」「能代のおじゃじゃ鳥コ追ってたもれ」というような歌も残っており、遊女や身分の低い女をも意味する「おんばさ」や「おじゃじゃ」たちが、芸能の担い手になっていったこともうかがい知れる。」
阿波踊りの衣装に名残がみられる鳥追い女も、非人の女大夫であり、平時は菅笠に三味線で歌い金銭を乞うたが、正月は着物も新調し、編笠になり、普段とは節を変えて家々や商店を回った。これを鳥追い女という。それでは彼女たちはどんな歌を歌ったのか。三田村玄竜は、そうした歌の内容が後世に伝わるようにと書き残している。
「やんらめでたや。やんらたのしや。せぢやうやまんぢやうの鳥追がまゐりて福の神をいはひこめ。(中略) お長者のみうちおとずるのは誰やらふ。右大臣に左大臣。関白でんの鳥追。さらば追へ聞かふやふ。聞召さば追ひまんしょう。(中略) 七くさがござりて。摘む菜はないなに・ごぎゃうたの草。すすぐさはこべ。春田のなづな・かような若菜を・摘みあつべさふらうて。福いけにすすいて。徳いたにのせて・かうらい庖丁。日本ンの鳥とうのとりと。わたらぬ先にてしりてうと祝ふた。」
かつては、鳥追いが「お長者」とつながっていたことから語りはじめ、七草の風習にも触れている。江戸で鳥追いといえば、鳥追い女を意味し、人々はこの正月の鳥追い女の歌を、金銭を求められることを時に面倒に思いながらも、年始の風物として毎年受け取っていた。
やがて農村行事としても大人たちが実際に鳥を追っ払う光景は少なくなり、鳥追いは子供たちの祭りになっていった。鳥追棒や祝い棒と言われる棒を手に、音を出しながら、鳥追い歌を歌うという形が多い。これらの棒は、かつては女性の尻をたたいて子宝を願った名残とも言われ、ここも緩やかに人間の繁栄から五穀豊穣へと祈りが繋がっているようだ。鳥追いは今でも子供たちが村をめぐる小さな祭りとして残存している地域や、群馬の中之条のように後に鳥追い太鼓なる太鼓がいくつも作られていき、それらが重要有形文化財となって、太鼓が町内を引き回される大規模な「鳥追い祭り」として保存会までできているところもある。棒で音を出しながら歌う点は七草に通ずる。鳥追い歌から七草歌が生まれたともいわれるが、鳥追いは鳥を追っぱらうための音であり、七草は健康祈願の儀式の中に組み込まれている音だ。七草の歌が面白いのは、「たたく」音の意味するもの、つまり鳥を追い払う音と、七草の儀式で草を打つ音とが歌の中でまざり、せめぎあうところだろう。
鹿島郡鉾田町のように、シンプルなものは、鳥追いの風景をイメージすることもできるし、七草を切っているイメージをすることもできるが、那珂郡美和村のように「唐土の鳥が渡」る前に「すととん すととん と作れ」と、「作れ」が入ってくると「すととん」が七草の音としてのみ、表現されている。鹿島郡鹿島町のように、「とんとん」と「ばさばさ」が繰り返されると、単に「とんとん」に驚いて飛び去る鳥の様子のようにもとれるし、七草の「とんとん」によっても悪いものが逃げていくような、呪術性がたちあがる感覚がする。「ばんかばんか」も何の音なのか、大した意味はないのかもしれないが、不気味なまじないのような感じを受ける。
子供たちの祭りになった鳥追いは、どんとやきの風習ともつながっている。祝い棒で横木をたたいては歌い、鳥追いをするだけでなく、子供たちだけですごす小屋を作ってそこで煮炊きや寝泊りをしてすごすのだ。この小屋が「ワアホイ小屋」とか「ホンヤラ堂」とか呼ばれ、数日間子供たちが主役の楽しい祝祭となった。この仮小屋を最後にどんと(どんどん)焼きとして燃やすところも多いそうで、今でいえば冬の子供キャンプのような感じだろう。祝い棒が子宝をさずかる願いを込められたものであったことは触れたが、このどんと焼きも道祖神を祝う儀式と言われ、二重にも三重にも五穀豊穣や多産の願いがかけられている。子供たちがどこまでその意味を知っていたかはわからないが、柳田国男は「その日の面白さは、白髪になるまで忘れずにいる者が多い」としている。
この小屋も、雪国では雪の櫓となり、茣蓙を敷いてそこで同じようなキャンプ様の活動が行われた。
小童等ここにありて物を喰ひなどして遊び、鳥追歌をうたふ。その一ツに「あのとりや、どこからおつてきた、しなぬのくにからおつてきた、なにをもつておつてきた、しばをぬくべておつてきた、いばのとりもかばのとりも、たちやがれほいほい おらがうらのさなへだのとりは、おつてもおつてもすずめすはどりたちやがれほいほい」
「しばをぬくべておつてきた」というのは柴を束ねたもので鳥を追ったということらしい。「おってもおっても」鳥を追いきれないと描写するのは、それだけ豊作の秋を迎えるぞという予祝の側面もあるという。面白いのは、「しなぬのくに(信濃)」から追ってきた、とあることだ。つまり、茨城や鳥取で歌われた「唐土」は、歌われる土地によって様々な場所に変わり、日本と外国、という意識よりもその土地とそれ以外の遠い場所という感覚であり、歌う人々の地理認識や世界認識を表しているともいえそうだ。例えば山形と石川の鳥追い歌を見てみよう。
   かしら切ってしっぽ切って
   さだらにふっこんで、
   さんどの島まで追い流せえ
   (山形)
   追うてもたたず、追わいでもたたず、
   たたずの鳥を、頭切って塩つけて、
   沖ノ島へながして
   (石川)
「さだら」は桟俵、「さんどの島」は佐渡島、「沖ノ島」は能登半島と歴史的にも関係の深かった隠岐の島のことだろう。
青山宏夫は、どこへ追うか、どのように追うかという視点で鳥追い歌を分析し、塩によって害虫祈願をする例などをあげて、害鳥という災厄を塩で祓い清める意味があり、桟俵などの藁製品もこの世のものを異界に送る呪力を持つと信じられてきたと指摘する。また日本海側は国土の北限である佐渡やその先にあるとされた鬼ヶ島、太平洋側では蝦夷や遠島、その先の鬼ヶ島に追うと歌うものが多いとしている。
鬼ヶ島はもちろん、想像上のとてつもなく遠い島、異界というニュアンスが濃厚だが、鳥取や茨城の鳥追い歌に歌われた「唐土」もまた同じような異界としてとらえられていたのではないだろうか。果てしなく遠い異界からやってくる鳥、その鳥が害鳥であるために清めて、再び異界へ送り返す。そのために棒で追い払うだけでなく、七草の呪力が必要とされたのかもしれない。鳥追い歌を探していると、こんな田植え歌もみつけた。
   一二の枝に
   たうどの鷹が巣をかけた
   其巣の中をのぞいてみれば
   黄金の卵九つあった
   一つとっておかみにあげた
   八つのちゃうじゃなるわいな 
「たうどの鷹」が9つの卵を産んで一つおかみにあげて残り8つだけども、それだけで8人長者が生まれる、というわけだ。鳥追い歌の「唐土の鳥」は害鳥だったけれど、こちらは明らかに益鳥である。「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に」というフレーズだけ聞けば、古今中国からは迷惑なものが流れてきたんだな、などと毒づく人がいそうだが、昔の人の「唐土」観はそう単純ではなさそうだ。また、青山は鳥を「鬼ヶ島」に追いやるというフレーズについて、狂言の「節分」や「宝の槌」を例に「鬼は理想郷たる蓬莱に住むと考えられていた」とも述べており、鳥追い歌には、単なる遠方というよりも、自分たちの世界とは異なる世界、もしかしたら素晴らしい場所かもしれない未知の異界が想像されているのではないだろうか。
茨城の「七草なずな」は、1フレーズが短いのでいろいろな地方の少しずつ異なる歌詞をつなげて歌っている。鳥追いの祝い棒でたたく音のように、七草を叩き切る音が連想できるように、跳ねた感じで弾くが、一人で演奏するよりは、複数で打楽器もたくさんいれてやったら楽しい曲であり、そのバージョンは夏に発売予定のアルバム「私の好きなわらべうた」の中で聞いていただければと思う。 
 
埼玉

 

遊ばせ唄
あがり目さがり目
あがり目 さがり目
くるくるまいて ねこの目
とっとのめ
ちょーちちょーち〔手を打つ〕
あわわ〔口を手で押さえる〕
かいぐりかいぐり〔両手をにぎり胸の前で回す〕
とっとのめ〔指先でてのひらをつく〕
おつむてんてん
おつむてんてん
しゃんしゃんしゃん
しゃんしゃんしゃん おしゃしゃんのしゃん
おしゃしゃんの きつねさん
あんよはじょうず
あんよは じょうず
ころぶは おへた
ここまでおいで
ここまでおいで 甘酒進上
ここまでおいで 甘酒進上
寝させ唄
ねんねんねこの
ねんねんねこの けつめどに
ありが はいり込んで
痛かろ 痒かろ 取ってやろか
お月のんのん
お月のんのん こうのんのん
夕べのだんごの銭よこせ
銭がなけりゃ 金よこせ
金がなけりゃ ぶんばくぞ
ぶんばげば 寒いぞ
寒けりゃ あたれ
あたれば 熱いぞ
熱けりゃ ひっしゃれ
ひっしゃれば 尻が痛え
尻が痛けりゃ 綿すけ
綿すけば のみが食う
のみが食ったら 食っつぶせ
食っつぶせば 生臭い
生臭けりゃ 汁吸え
汁吸えば しょっぱいや
しょっぱけりゃ 水飲め
水飲めば 腹が痛え
腹が痛けりゃ 用たしな
用たせば 種がねえ
種がなけりゃ くれべえや
もらい種にゃ はえねえぞ
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やのお守りは どこ行った
あの山超えて 里行った
里のみやげに 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
守り子唄
守りっ子というもの
守りっ子というもの つらいもの
雨風吹いても 宿はない
人の軒端へ 立寄れば
あっち行げ こっち行げ
じゃまにされ 

 

わらべ歌
ホタルのわらべ歌
   あの山に光るものは月か星かホタルか
   月ならば拝みましょうか
   蛍ならばお手にとる お手にとる
   あの山に光るものは月か星かホタルか
   蛍ならば袋にとりて
   観音さまに供えましょう 供えましょう
近所の玉川上水では毎年夏にホタル祭りが開かれる。かつてはこの上水にも舞っていただろうホタルが、大量に放され、都会にいながらホタルの光に触れることができる。
東京の人間にとってはなかなか貴重な機会でもあり、毎年沢山の人でにぎわう。一昨年子供たちと上水沿いを歩いたときも沢山の光を見ることができた。上水沿いの木々や草に止まって光るもの、ゆらゆらと上水の闇を飛ぶもの、人工的にセッティングされた状況ではあるけれども、その光はどこまでも幻想的だった。ふと、一匹のホタルが空の方に飛んでいったのを、目で追ってみて、あっと驚いた。蛍はまるで夜空を無音でなめらかに移動する人工衛星のように見えたのだ。つまり、それは星の光にどこまでも似ていた。もしビデオでその様子を撮影してストップモーションをかけたなら、その光は完全に夜空の星のように見えたことだろう。
だから、この歌の「月か星かホタルか」というフレーズに出会ったときも、誇張ではなくリアリティのあるものに感じられた。月の光も星と比べれば大分大きいが、もし夜の山のうっそうとした木立の下から、梢や葉の間からもれる光をかすかに感じるのだとすれば、あながち誇張の表現とばかりもいえないかもしれない。
そして、シンプルに心が震えるのは、昔の人の信仰心の深さである。人々は月を愛し、観音さまにホタルの光を供えていたのだ。わらべうた研究者の松永伍一は民衆と月について次のように述べている。
「民衆は太陽より月に親しみを多く抱いてきた。太陽の恵みなしには作物がとれないことを充分知っているにもかかわらず、満ちたり欠けたりする月に思いをつなぎながら、うたをうみ祭をつくりだしてきたのである。比喩にたけた民衆は「暗い気持ち」を「心は闇」と言った。闇はきらいであった。それは闇にたとえられる暗い気持ちを知り、そこから抜け出すことを願い続けていたからだった。彼らにとって「闇」の反対側にあるのは「白昼のまぶしさ」ではなく、闇からようやくのがれた「月明り」のほのかな明るさだったのである。」
太陽を見つめることはできないが、闇の中で光る月はじっくりと向き合うことのできる友達であり、心の拠り所となり得る。娘たちを自転車に乗せて月の夕暮れに走ると、子供たちはみんなやはり不思議がるのだ。
「どうしてお月さまはついてくるの」
自転車はゆっくりこげばゆっくり、急いでこげば急いで月はついてくる。
「どうしてだろうね、多分さきちゃんのことが好きで気になるからついてくるんじゃないかな」と言うと
「そうかー、私のことを好きなのかなあ」と嬉しそうに笑う。
信仰心のなくなった現代の人間も、月に親しみを覚えるのは変わらない。加えて、昔の人は満月よりも十三夜や十七夜など、欠けた月の美しさにも心惹かれた。十七夜や二十三夜などの月待ちは、欠けていく美への憧れを表しているとも言われる。月待ちには出店が出、人々は飲み食いをしながらのんびりと月の出を待った。単なる鑑賞の意味に加え、そこには観音、阿弥陀菩薩、勢至菩薩が月と共に来迎するという考えがあった。まさに願い、祈るために人々は月を待っていたのだ。袋にとったホタルを持ち帰るのでなく、観音さまのところに置いてくるというのも美しい。路傍の石仏は、うっすらと集められたホタルのわずかな光で闇の中その輪郭を見せただろうか。
「あの山に光るものは月か星か蛍か。同様の歌詞を持つ歌は多い。長野隆之はこのホタルのうたの類歌の歌詞について分布の仕方を検討し、地方によって田植え唄、てまり唄、盆の行列遊びで歌われた盆々歌などさまざまな伝わり方をしてきたことを明らかにした上で、東北地方と中国地方に残る田植え唄が直接的な関係を持っていた可能性を指摘している。」
   ソーレナヤーハエ 西根山に光るものは 月か星か蛍か 
   ソーレナヤーハエ 月でない蛍でない お田の神さまのお燈明だ
   (岩手県紫波町 田植踊り歌)
   大山山で 光るは
   アラ 月か星か 蛍か
   植田の中に 立つのは
   アラ 田の草取りか 鳥追いか
   どんどらどんと どなるは
   アラ 前の川の瀬の音
   (鳥取県倉吉市大栄町 田植唄)
田植歌と聞いて思い出すのはウサギの耳が歌われる歌だ。畝や谷の様子を知りたいから耳が伸びた、とする中国地方の歌は田植え唄にさかのぼれるともいう。中国地方には東北と同様、古い歌の形が残っているのだ。それでも、詩の内容の分布と歌の種類は必ずしも同じ地方だからといって一致せず、日本列島における民俗歌謡の分布は、ひとつの基準をもって把握することはできないと長野は言い、柳田国男でさえその分類方法に無理があり、一筋縄でいかない作業であったことを指摘している。
長野も説明できないだろう、歌の広がり方を私も島根のわらべうたを調べていて感じた。それは、埼玉東松山の蛍の歌と限りなく近い美しい歌を、隠岐の島本島に伝わる歌の中に見つけたのだ。驚きだった。歌詞の似たものは広く分布しているなかで、メロディが重なるものはずっと見いだせなかった。埼玉の蛍の歌の美しさの稀有さは山田耕作も注目したようで、埼玉のわらべ歌として紹介している。しかし全く似たような歌が遠く離れた隠岐島に伝わっている。これは、まったく一個人の移動による伝播の形なのだろう。陸路で伝わったものでないことは確実だろう。埼玉という海のない県から、北の島へと伝わったのか、はたまたその逆なのか。埼玉のわらべ歌を端から調べていたときにこの歌を見つけた驚きを思い返すと、あるいは隠岐島発祥の歌か、という気もするのだが、いずれにせよ、隠岐と埼玉の間を船が運んだ歌、と言えそうだ。
この二つの歌を松江のライブで歌ったとき、会場に隠岐出身の人がいた。そして終わったあと、「隠岐のバージョンがやはり懐かしいような、しっくりくるような感じがしました」と伝えてくれた。極端に言ってしまえば、「しっくりくるような感じ」がしてもしなくても、どちらでもいいのだと思っている。ただ、そうやって故郷の歌と他所の歌と、異なる響きに耳を傾けて、聞く人が何かを感じてくれればそれだけでうれしい。それは通り過ぎた時間に耳をすますことであり、そこに生きた人の呼吸を感じることだ。おばあちゃんに聞いてみたら知らなかったけど、別の歌を歌ってくれたとか、そんなコミュニケーションが生まれたとしたら、さらにうれしい。
冒頭であげた埼玉東松山のホタルの歌は手まり歌として分類されているが、同じ埼玉でも次のものは麦打ち歌とされる。
   あの山で光るものは 月か星か蛍か 
   星なれば 拝みましょうが 
   蛍ならば手に取りて 袋へ入れて 
   裏のお稲荷様へ納める
   (埼玉県大井町)
長野作成の歌の種類の分布図を見ると、関東地方は主にてまり唄などの子供唄に変化しているものが多いが、中には大井町の歌のように、稲作に連なる麦打ち歌として古い歌われ方が残された地域もあるということだろう。
手まり歌と言う意味では、歌われたテンポも気になるところだ。右田伊佐雄は『手まりと手まり歌 その民俗・音楽』の中でゴムまりが登場してからの手まり歌が、明らかに歌詞も増えてテンポも速くなったことを指摘しているが、東松山の手まり歌は歌詞のみみてもおっとりした感じがするし、歌の調子にしても、のんびり美しいものなので、明治以降に歌われた新しい手まり歌とは一線を画す感じがする。つまり昔の手まりは海綿などを用いた一部のものの他は全体にあまり弾ます、皆しゃがんでゆっくりとつくものだったのだ。東松山のホタルの歌には断然その方がしっくりくるし、夕暮れに少女がそんな風にしゃがんで歌いながら毬をついていたらさぞ美しい光景だったろうと思う。 
「通りゃんせ」 川越諸話 
「通りゃんせ」の舞台川越市
行きはよくても帰りはこわい≠ニ歌われた『通りゃんせ』のモデルとなった場所は、埼玉県の川越市だといわれる。川越市は「小江戸」とも形容されるように、江戸時代には都とずいぶんなじみの深い土地がら。江戸の北の守りとして、また、江戸の台所として代々幕府がおさめてきた天領である。さて、そんな川越には、かつて城があり、城の本丸の近くに三芳野神社が建立されていた。この神社、幕府とかかわりが深く、庶民の身ではふだんは参詣もかなわず、庶民の参詣が許されるのは、年に一回の大祭のときだけだったという。とはいえ、そんなときでも、場所がら、警備の者が多い。町人たちがめずらしさのあまり、キョロキョロしようものなら、「何をしている」「はやく歩け」と叱声が飛んできた。そんな庶民の落ち着かない気分が「行きはよいよい帰りはこわい」と表現されたという。三芳野神社は、現在も川越市の一角に健在である。
   とおりゃんせ とおりゃんせ
   ここはどこのほそみちじゃ
   てんじんさまのほそみちじゃ
   ちょっととおしてくだしゃんせ
   ごようのないものとおしゃせぬ
   このこのななつのおいわいに
   おふだをおさめにまいります
   いきはよいよいかえりはこわい
   こわいながらも
   とおりゃんせ とおりゃんせ
「とおりゃんせ」と川越天神
通りゃんせ、通りゃんせ、こ〜こはど〜この細道じゃ。天神様の細道じゃ、という童謡「とおりゃんせ」は江戸の町で子どもの遊び歌として流行した。30代以上の人なら、小さいころこれを歌いながらふたりがアーチをつくって、歌い終わったときにとおった子が鬼になる。という遊びをしたことがあるだろう。その発祥の地は埼玉県川越市、川越天神・三芳野神社といわれている。川越市は「小江戸」といわれ栄えた城下町で、いまも蔵造りの家並みや城跡、多くの社寺が残る町だ。三芳野神社というのは、室町中期に形成された川越城内にあって、菅原道真(天神様)を祭ったもの。ふつうの人は年に1回お祭のときにしかはいれなかった。その昔は7つになると天神様の氏子になれる。昔は医療も発達していなかったから、7つになるということはその子が育つ目安となり、いまでいう成人式のようなお祝いをしたのだ。そのために天神様を訪れたのだが、到着するまでには南大手門から入って、さらに門を3つくぐっていかなければならなかった。厳しいチェックを受ける。そこで、♪行きはよいよい、帰りはこわい。こわいながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ、となるのだ。こんな暗い歌の発祥の地であることは「学問の神様、菅原道真を祀っているので暗くてもいいんじゃないですか」と川越市文化財保護課担当者。なんだか妙に納得いくお返事。受験の祈願に行く機会があれば、「とおりゃんせ」を歌いながら川越天神の細道を歩いてみてほしい。帰りはきっとこわ〜いのだ。
三芳野天神起源説の疑問
   ここはどこの細道じゃ
   天神様の細道じゃ
というわらべ唄は、川越の三芳野天神から起った唄だという説がある。本当にそうだろうか。今回はこの問題について少し考えてみたい。 
三芳野天神は川越城中の鎮座である。その所在地は昔から現在の所と変りはないが、ここはもと城内本丸の中心部に相当する。したがってごく古い時代のことははっきりしないが、すでに松平伊豆守信綱の明暦二年(1656)には本丸のご本社とはべつに田郭に外宮を建てて、ここに一般諸人を参詣させるようにした。この仮殿はもと江戸城中紅葉山にあった東照宮の空宮を拝領して移築したもので、現在川越氷川神社の境内社である八坂神社の社殿がそれである。また田郭というのは松平信綱時代の城地拡大によって増設された曲輪で、外宮の所在地は現在の市水道部浄水場のあたりに相当する。
ではこの外宮に参詣するのに、どの城門から入れたかは、秋元喬房時代の元文三年(1738)に書かれた「川越城御番所定」によって多少窺うことができる。すなわち天神宮参詣の者とその別当高松院に用事のあるものは、いずれも西大手の御門から通した。しかも「様子をたしかに承り、疑わしき者は御門継ぎに送れ」とあるように、決して無条件に参詣させたわけではない。
西大手から入ると外曲輪を東に進み、中の門を経て中曲輪に入る。そして南行して田郭門を通って田曲輪内に入るわけである。南大手から入ると右折すればすぐ田郭門の前にでる。田郭門の位置は富士見櫓前の堀の南側で、やや手前の方である。この田郭門は年に一度の大祭である正月十八日(今は四月十八日)には大扉を開いたと記している。ざっと考えて西大手門から天神外宮に達するには八百米、南大手からは三百米位はあったようだ。松平大和守時代には外宮からわずか百米位の所にあった清水門から入れたこともあるらしいが、まだ確証は得られない。
そこでこのわらべ唄の川越起源説を唱える者は、天神外宮に達するまでの長い細道をひとつの根拠としている。さらにお城の縄取りは極秘のことに属するから、要所要所に警固の士が見張っていた。町人どもがもの珍しそうにきょろきょろしようものなら、容赦なくどやしつけられた。こころ落着かぬ思いで参拝する町人どもの気持を表現したのが「行きはよいよい、帰りは怖い」の文句だと説明するのである。
だが私は川越の天神様に参拝するのに長い細道を通ったことは認めるけれども、あのわらべ唄の発祥の地がここだという説には賛成できない。なぜなら前節につづく唄は、
   ちょっと通して下しゃんせ
   御用のない者通しゃせぬ
   この児の七つのお祝いに
   お札を納めに参ります
であるが、この唄のすこし古い形を追って江戸時代までさかのぼると、「御用のないもの」というところが「手形の無い者通しゃせぬ」となっている。
これが何を意味するかというと、じつはこの唄が関所に関連のあることを立証しているのであって、この童謡が徳川氏の江戸居城以後のものであることは論をまたない。徳川氏は西国の雄藩から江戸を守るために、箱根の天険を利用して関所をかまえ、道中通行の吟味を厳重にした。武家、商人、百姓を問わず、関所手形のない者は絶対に通行は許されなかった。この禁令を犯す者がすなわち関所破りで、重い刑罰に処せられた。
しかしそうした裏面にも親の重病とか、主人の危篤などという火急の場合で、どうしても手形をうけるいとまのないときは、関所役人に哀願すると、表面は拒否するが、
「こらこら貴様は此方から参ったのに、そちらに参るとは不都合な奴じゃ」
といって、わざと来たときと反対の方向に出してくれた。いわゆるお上のご慈悲である。けれども用事が済んで帰る時には、ふたたび寛大な扱いに預かるわけにもゆかない。はてどうしたものだろうと、大いに苦慮せねばならなかった。
   行きはよいよい帰りは怖い
   怖いながらも通りゃんせ
ここではじめてこの文句が生きてくるのである。この関所説は酒井欣氏の「日本遊戯史」によるまでもなく、諸書にみえており、大体定説として是認されているものだ。
さてこういうと、いかにも川越の郷土伝承にけちをつけるようであるが、川越側のいい分にこの定説を覆すほどの根拠がない限りはやむをえない。それともまだ何かほかにお考えのある方がいれば、教えていただきたいとおもう。
通りゃんせ
(前略) かつて「小江戸」と呼ばれた埼玉県川越市は、東京のベッドタウンになっても、江戸時代の面影を街の随所に残している。重厚な蔵造りの町並みは往時、物資の集散地として商業が栄えたことをうかがわせ、堂々とした風格を漂わす川越城の本丸御殿は、江戸を守る城下町であったことの証でもある。川越城の鎮守として、1624年、城主の酒井忠勝によって再興されたといわれる三芳野神社は、その本丸御殿の東方、歩いて1、2分のところにある。創建は九世紀初めにさかのぼり、もともとは菅原道真を祭ったことから「お城の天神さま」とも呼ばれてきた。「わらべ唄発祥の所」。境内の一角にある石碑には、こう刻まれている。「ここはどこの細道ぢゃ 天神さまのほそみちぢゃ」の歌詞が添えられ、1979年11月3日、元埼玉銀行頭取、山崎嘉七の手によって建てられたことが紹介されている。江戸のわらべ歌『通りゃんせ』は、この神社の境内から生まれたというのだ。氏子総代会の会長、鈴木一郎(68)は言う。「川越に来る観光客は、近くの本丸御殿や市立博物館には足を運んでも、神社まで来る人は残念ながら少ないんです。だから、時々私がガイド役になって博物館のお客さんたちを連れてきて、『通りゃんせ』の話をするんです。みなさん、へぇー、そうなんですか、と驚いた顔をしますよ」
「発祥の所」とする根拠はどこにあるのだろうか。川越で生まれ育ち、埼玉県文化財保護協会会長を20年近く努めた山田勝利(88)は「このわらべ歌が現れる歴史的環境、条件が川越の三芳野神社には整っているということでしょう」と説明する。『通りゃんせ』の歌詞には<天神さまの 細道じゃ><御用のないもの 通しゃせぬ>とある。三芳野神社は「天神さま」を祭っており、「細道」は社殿に至る参道を指すのだろう。また、神社が城内にあったため、番所に詰める見張りの侍が一般庶民の出入りを禁止していたことも、歌詞の内容と合致する。江戸時代、庶民が城内に入り、参詣できたのは年一度の大祭の時が、七五三の祝いの時だけだったという。<この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります>との歌詞も、当時の庶民の姿をよくとらえていると言える。
[ 行きはよいよい 帰りはこわい ] はどうだろう。ようやく城内に入ったのに、見張りの侍の監視の目が鋭く、庶民がおそるおそる帰っていった様子を表した内容と考えれば、歌詞と歴史的環境との相関は成り立つ。こうして川越で生まれたわらべ歌が江戸に伝わり、各地から江戸に集ってきた人たちが、またそれぞれの地に戻ってこの歌を伝え、やがて全国に広まった。これが、山田の見解である。
しかし、「川越発祥論」には異論もある。これまでにも埼玉県の他市から、また他県などからも「発祥の地はうちだ」という声が幾度となく出されてきた。「通りゃんせ」「細道じゃ」「まいります」などの言葉は関西、西日本方面の表現では、と指摘する学者もいる。こうした異論が出ていることも、山田は十分に承知している。「どこが発祥の地なのかは、本来どこであっても構わないものなのかもしれません。ただ、私にとっては『通りゃんせ』は、古里そのものであり、川越市民の多くもそう思っています」子どものころ、よく歌って遊んだのを思い出したのだろう。石碑の前に立った山田は、とてもうれしそうに見えた。
通りゃんせ  行きはよいのに、なぜに帰りはこわいのか?
   通りゃんせ 通りゃんせ
   ここはどこの細道じゃ
   天神様の細道じゃ
   ちぃっと通して 下しゃんせ
   ご用のない者 通しゃせぬ
   この子の七つのお祝いに
   お札を納めに 参ります
   行きはよいよい 帰りはこわい
   こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
行きも恐いし、帰りも恐い
この歌の発祥地は、今も残る埼玉県川越市にある三芳野(みよしの)神社だという。川越は小江戸と称され、城跡、喜多院、時の鐘、蔵造の商家などが残された江戸風情(えどふぜい)にあふれる町だ。川越城が建てられたのは長禄(ちょうろく)元年(1457年)だが、築城前から神社はあった。ちゃんと、
   天神様(てんじんさま)……
を祀(まつ)っており、詩のとおりに天神様に続く長い細道もあり、歌碑も建つ。このわらべ歌、川越城内の子女の間で歌われていたものが、城下に流れ江戸から全国に広まったものとされ、また城内の子女を、意識的に外部とのふれあいから避けるために作られ遊ばせた歌ともされる。はたまた、その最後に手の門が下りてくる遊びの意味から、城の近くにあった遊郭に売られた女の子を歌っているともいわれる。つまり手の門は廓(くるわ)、遊郭のことをさすというのだ。廓とは城の周囲にめぐらせた囲いのことでもあるが、遊郭のこともさす。現に今もこのあたりは郭町(くるわまち)という町名である。行きは支度金(したくきん)が用意されるのでよいが、帰りは身も心もぼろぼろになって帰される。荒くれ男の相手をして何度も恐い思いもしたし、もし身ごもったりしたら冷たい水をかけたりする方法でお腹の子供の命を自らの手で絶たなければならない。でも遊郭に売られていく子の家は貧しい。だから金のために、
   こわいながらも……
廓の門をくぐらなければならない。「通りゃんせ」なのだ。この遊びを通して手の門が下りてきたときに捕まった子が、次に売られるのはお前だぞ≠ニ天神様が決めるという、残酷かつ恐怖に満ちた歌だというのだ。が、子供を堕(お)ろしたりしたのだから、
   七つのお祝い……
は、辻褄(つじつま)が合わないだろう。水子の年齢を数える遊女の呪(のろ)い歌だとでもいうのか? だからこれは、簡単に三芳野神社に子供を引き連れて詣(もう)でる歌だと解すほうがいいのだ。でもなぜ、神社に参るだけなのに、
   行きはよいよい、帰りはこわい……
というのか? それは三芳野神社が、城内にあったからである。
   この子の七つのお祝いに……
の七つのお祝いとは、七五三のお参りのことだ。その頃の子供は抵抗力がなく、よく死んだ。医療も発達していなかった。だから三歳まで生かせていただいた、五歳、七歳を迎えることができたというお礼とこれからの安全を祈願するために、七五三の行事は始まったのだ。だが、ここの神社は城内にある。ほかの神社ならすぐにお参りもできるが、ここはいちいち門番に詰問(きつもん)される。そりゃそうだ。お城に普通の人が入るのだ。ひょっとして忍(しの)びかもしれないではないか。
   ご用のない者、通しゃせぬ……
なのである。それでもなんとか中に入れてもらってお参りに行く。門番だけでなく、参道には何人も見張りが立っている。確かに恐い。でもこれなら、行きもこわいし 帰りもこわい……≠ナはないか。なぜ帰りだけ恐いというのだ? それは門を出るとき、城内の手紙や文書を盗み出していないかと、携帯品を何度も調べられるからだという。でも、一般人をほんとうに、
   七つのお祝い……
だけで、城の門をくぐらせたりしたものだろうか? 普通ならしないはずだ。調べていくうちに、本丸横にある神社とは別に外宮(げぐう)がちゃんと建てられていたことが判明した。そしてなんとその建物は、今もなお川越の氷川神社境内に、八坂(やさか)神社の社殿(しゃでん)として残されていたのである。その建物は、寛永14年(1637年)に江戸城二の丸の東照宮(とうしょうぐう)として建立(こんりゅう)されたが、その後、明暦(めいれき)2年(1656年)に三芳野神社の外宮として江戸城から縮小して移築されたいわれている。廃藩置県(はいはんちけん)の公布(こうふ)が明治4年(1871年)、それにより今まで厳重だった城内に誰でも自由に出入りできるようになる。三芳野神社本殿にお参りできるようになったのだ。翌5年(1872年)、城が民間などに払い下げられると同時に、外宮も氷川神社に移された。でもひとつ疑問が増える。本社に参拝できるようになったのだから、外宮が他の場所に移されたことはよく分かる。ではどこから氷川神社に運ばれていったのか? 仮宮はどこにあったのか? それが本社から歩いて5分ほど、現在の川越市水道郭町浄水場あたりに建てられていたのだ。これでは近すぎる。それも、わざわざ江戸城からやってきたような大事な建物を城外に建てるということ自体非常識だ。変な話、仮宮ならどんな建物でもよかったはずではないか。本社すら別段、大きく立派なものでもないのだから……。そうだったのだ。実は本丸から多少遠くなっただけで、仮宮もしっかり城内に建てられていたのだ。厳重に用向きを尋ねられ、西大手門から入ることも決められ、
   天神様の細道
を通って参拝したとされる。でもほんとうにそうなのか? これでは同じなのである。七つの祝いのためだけにお城の中に入れることに変わりはないではないか。川越市立博物館で、ここの部分を詳細に尋ねてみた。すると、「内宮(ないくう)はもちろん外宮も普段は参拝できませんでした。一年に一回の大祭の日、正月18日にだけ大扉が開かれ、外宮の参拝のみ許されていたのです」やっぱりそうだ。そこでこんな説がある。城内に入った町人が、物珍しくキョロキョロ周りを見回していると、警護の者が、何を見ている、ささっと歩け≠ニ、どなりつける。庶民のおどおどした様子が、
   帰りは こわい……
に、なったというものだ。でも年に一度の祭りだ。そんなことを言うなら、最初っから入れなきゃいいじゃないか! 同じ大祭でもちょっと違う説もある。何しろ大勢の人が集まる。意気揚々(ようよう)として出かけて、お参りするまではいい。でも帰りは人がごった返して押すな、押すな≠ェ恐いと解す。ちょっと待ってほしい。これじゃあ、祭りでみんな入れるのだから、
   ちぃっと通して 下しゃんせ……
などとお願いすることはなくなる。その上、
   七つのお祝い……
は、どこに行ってしまったのか? いよいよ川越発祥説がゆるぐ。だからということでもなかろうが、わが町こそが「通りゃんせ」発祥の地≠ニ名のりをあげる場所がやたら多いのだ。そして、私も川越以外の発祥地探しを始めた。
   手形の無い者 通しゃせぬ  
   菅原神社へ「通りゃんせ」  
   天神様は祟り神
関所遊び・通りゃんせ
「通りゃんせ」は、一名「天神様(参り)」ともいって、江戸時代から殆ど全国に普及した「関所遊び」の唄であるが、京都地方ではこれを一種の子取り遊びにしている。
   通りゃんせ 通りゃんせ
    此処(ここ)は何処(どこ)の細道じゃ
   天神様の細道じゃ
    ちいっと通して下しゃんせ
   御用のない者(もの)通しゃせぬ
    この子の七つのお祝いに
    お札(ふだ)を納めに参ります
   行(い)きはよいよい 帰りは恐(こわ)い
   恐いながらも 通りゃんせ
          通りゃんせ
東京地方の普通の遊び方は『日本児童遊戯集』に見える左の方法である。
   ここはどこの細道じゃ
二人対(むか)い合いて立ち、一人の左手と一人の右手と組み、肩の辺の高さに挙げ居れば、他の児はその傍らに来り二人に対して他「ここはどこの細道じゃ――(繰り返し)」ニ「天神様の細道じゃ――」他「どうぞ通して下さんせ――、この子の七ツのお祝いに――、お札を納めに参ります――」二「通りゃんせ――」といえば皆々その下を潜(くぐ)るなり。その時他「往きはよいよい還りはこわい」ニ「こわい筈だよ狐が通る」といいて他の児その下を潜りゆき、又直ちに帰るを待ち、二人はそを打たんと試むるなり。つまりアーチをつくっている子どもに背を叩かれると、叩かれた子は叩いたアーチの子と交替しなければならない。現行の唄は問答風に斉唱と独唱と交互に繰り返すが、もともとは両手(または左手)をアーチに組んで立った二人の子とその下を潜る子どもとの問答形式の唄であったと思われる。「ちいっと」は、「ちょっと」とか「どうか」ともいうし、「御用のない者云々」は古くは「手形の無い者通しません」ともいったらしい。この唄は、江戸幕府の頃、箱根の関所の通行が厳重を極め、手形のないものは絶対に通さず、何か特殊の事情、例えば親の重病とか主人の危篤などの場合だけ、関所に哀訴して通して貰った。しかし、その帰りには絶対に許さなかったことを歌ったものだという。また一説によると、穀物の豊作を祈って、人身御供(ひとみごくう)をささげた原始時代の人類の信仰が、この唄のもとになっているともいう。「七つのお祝い」は、七五三の宮詣り。「お札を云々」は「天神さんに願(がん)かけて」ともいうし、「恐(こわ)いながらも云々」のところは「帰りのお土産なァに」とか「こわい橋からお化けが出るよ」ともうたう。京都地方では「恐いながらも通りゃんせ」の後を、「此の児はよい児、親に何食わす/鯛の身/此の児はよい児、親に何着せる/絹物(もん)/此の児はよい児、親の許(もと)い帰れ(または「此の児は悪い児、地獄い飛んでいけ」)と歌いながら、次のような方法で遊ぶ。
「最初子供の並ぶ順序を決めるために、やはり組長格の児が二人向かい合って両手を握り合い上に挙げている。そして輪になった他の児らがこの手のアーチの下をくぐりながら「桜、桜、弥生の空は見渡す限り、霞か雲か、朝日に匂う」の歌をうたい、歌が終わったとたんに、二人は挙げた手を下ろして下をくぐっていた児をとりこにする。そのとりこにした子供から順々に並べておいて、全部並んだら親(鬼?)はそのまま両手をアーチに組んで立っており、子供達はそのアーチの下を走ってくぐる。親は急いで手を下ろして走り抜ける子を捕えようとする。捕えた時「此の児はよい児、親に何食わす」と聞き、聞かれた児が「鯛の身」とか「ひじきに油揚げ、雁もどき」または「お寿司に柏餅」と答える。親は「この児はよい児、親に何着せる」と聞く。児は「絹物」といった風に答える。それで合格すれば、親は、「この児はよい児、親の許い帰れ」とか「……元の家へ帰れ」「極楽へ飛んでゆけ」と言って元の方へ返す。もし合格しなかったら、「此の児は悪い児、地獄いとんでいけ」または「……針の山いとんでいけ」と言って反対側へ送る。これを繰り返すのだが、一度捕えられ判定を受けた児は、それ以後は加わらず、加わる者の数は次第に減る。」(『京都のわらべ唄』)
愛知県岡崎辺では、やはり京都のように問答をするが、「親に何くわす」「鯛の身をくわす」と答えると、「この子はよい子、大きになったら出世せ」などともいう。『童戯集』の<伊勢>の部には女子の遊戯法として次のように説明している。
天神様の細道(女子)
両人手を連ねて門の如くその手を挙げ、他の子供のくぐるを待つ。
   甲 「そこは何処の細道や」
   両人 「天神様の細道じゃ」
   甲 「一寸(ちょっと)一ぺん通らしてんか」
   両人 「御用の無いのに通らされぬ」
   甲 「天神様へ筆上げに」
   両人 「往きは、ゆるゆる、還りは、こわい」
往きや、ゆるゆると云いて徐(しず)かに通らしめ、還りはこわいと云いて、両人挙げたる手にて背中を打つなり。
この遊戯法から思い出されるのは『尾張童遊集』に見える「くんぐれくんぐれ山伏(ヤンマブシ)くんぐれやんまぶし」という遊びで、同書に、「手を手を持て真丸になり、如此いひながら廻りくぐりぬけて、うしろに向にみなみな成、又もとのごとくなるなり」とか、「今世童遊びに、手と手を取合せで、くぐれくぐれ山伏、又くぐれ山伏と云は、吉野山上する先達の股をくぐれば小児疱瘡をかろくすると云、今も峯入の帰りに市町にて小児を連出、股をくぐらす也、峯入は山伏の行也、因て股くぐれば山伏也」とあるので、ほぼ察せられる。因みに同種の遊び唄「通れ通れ山伏」が『童戯集』の<摂津>の部に見える。とにかくこの唄がこんなに盛んになったのは、大正時代に本居長世という作曲家が編曲して童謡として広めてからで、明治時代の曲調は同じメロディをくり返すような、もっと単調なものであったといわれる。
「とおりゃんせ」の歌はなぜ怖い?
7歳の子どもはそれまでの守護神から離れ、以後は自分の力で力強く生きてゆかねばならなかった。
「七つ前は神の内」という伝承の意味
まず「とおりゃんせ」の歌詞を思い出してほしい。「とおりゃんせとおりゃんせ、ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。ちょっと通してくだしゃんせ。ご用のないもの通しゃせぬ。この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります。行きはヨイヨイ帰りは怖い。怖いながらもとおりゃんせとおりゃんせ」。幼い頃にこの詞を聞いていいようのない恐怖心に駆られた記憶があるのは筆者だけではあるまい。なぜ「行きはヨイヨイ、帰りは怖い」のだろう。
子どもの7歳の意味を考える時、「七つ前は神の内」という伝承が重要なヒントとなる。これは7歳までの子どもは神の領域にいることを表した一種の格言である。不安定であった子どもの魂は7歳になってようやく安定し、この世に定着すると考えられていたのである。
伊豆大島の南にある利島(としま)と新島(にいじま)では、子どもの生後14日目にハカセババアとよばれる産婆(さんば)さんが「ハカセ(博士)」という子どもの守り神を作る。ハカセは半紙を二つに折って三角形の底の部分に米を入れた簡素なものであり、子どもが7歳になるまで神棚で祀られる。子どもは7歳まではハカセがついているから危険な場所へ行っても難を逃れるといわれている。やがて子どもは7歳になると晴着を着て氏神(うじがみ)に参り、ハカセを納める。家では「七つ子の祝い」が盛大に行われる。これは子どもがハカセの守護下を離れて人間社会の仲間入りをしたことを披露する祝いであるといわれている。
ハカセの伝承は、7歳になった子どもはそれまでの守護神を氏神に返し、以後は自分の力で災厄(さいやく)を振り払いながら力強く生きてゆかねばならないことを意味している。つまり「行きはヨイヨイ、帰りは怖い」とは、7歳の宮参りの本質を今につたえているのではないだろうか。
7歳の祝い / ヒモトキッコ
旧川越町や朝霞市では7歳の祝いをする子をオビトキッコ、狭山市入間川・川島村中山ではヒモトキッコといい、7歳の11月15日にヒモオトシをして宮参りをする。滑川村宮前では里方から着物・帯・はきものなどが祝われ、旧田面沢村では里方から着物(四つ身)二重ねと羽織が贈られる。ヒモトキ以後は子供の着物に付けひもをつけない。ヒモトキまでは鎮守さまがついて子供を守って下さったが、以後はついていて下さらないので今までのお礼に鎮守さまに参るのだという。
天神さま
――通りゃんせ、通りゃんせ、ここはどこの細道じゃ。天神さまの細道じゃ……
童謡「通りゃんせ」は天神さまへ子どもの七歳のお参りに行く様子が歌われている。しかし、この歌はよく聞くと怖い。「行きはよいよい、帰りは怖い」といって、こどもを捕まえてしまうのである。天神さまといえば、学問の神として名高い。しかし、神なのに天神さまには怖いイメージがついてくる。
なぜなのか。じつは天神さまは、ほかの神とは性格と生い立ちがちがう。多くの神社は自然や神話に出てくる神や天皇を祭っている。ところが、天神さまはそのどれにも当てはまらないのである。
天神さまはもとは天皇の臣下で、名を菅原道真(すがわらのみちざね)といった。平安時代の秀才で、認められて右大臣まで出世したエリートである。書にもすぐれ弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)や、小野道風(おののみちかぜ)らと日本の三筆に数えられる。天神さまの「学問や書道の神さま」という性格づけは、生前の道真の資質に由来している。
道真は恵まれた人生を送るはずだった。だが朝廷の政争に巻き込まれ、落とし穴にはまる。左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(ざんげん)によって九州の大宰府(だざいふ)に左遷され、あげく失意のうちに亡くなった。かれの死は、都の人々にとって後味の悪いものだった。その後、都に疫病が流行り、落雷や火災が相次ぎ、示し合わせたように道真を陥れた政敵が次々と不慮の死を遂げると、道真の怨霊の仕業にちがいないと人々は考え、その祟りにおののいた。
当時は御霊(ごりょう)信仰が盛んだった。不遇の死を遂げた者が怨霊となって人々に祟り、疫病を流行らせ、厄難を招くと信じられていた。そのため、霊を神さまとして祭って怒りを鎮めようとしたのだった。
道真の家があった京都の桑原(くわばら)の地だけが落雷の被害に遭わなかったこともあって、かれを火雷天神とする御霊信仰が起こった。雷が鳴ると、身を守るために「桑原、桑原」と唱えるのは、このことに由来している。のちに道真の祟りを恐れた人々は、霊をなぐさめるために京都北野にあった天神社のかたわらに霊を祭る社(やしろ)を建てたのだが、これが北野天満宮(北野天神社)の始まりでるこっこで。
ここで、おやっと思われるかもしれない。道真の霊を祭るまえから、天神さまがすでにあったからである。じつは、天神さまはもとはあまつかみ、すなわち天の神として祭られていのだ。時が経つにつれて、天神社と道真を火雷天神とする御霊信仰がひとつになった。ややこしい話だが、このように長い時の溶炉のなかで、いろいろな信仰がひとつに溶け合ってゆくのは珍しいことではない。
今では学問の神さまとして高名な菅原道真も、「天神さま」として祭られた当時は、何をしでかすかわからない怨霊として怖れられていたのである。
菅原道真
845〜903(承和12〜延喜3)平安前期の官僚・文人 (系)菅原是善の子、母は大伴氏。(生)左京(菅原院という)。
家学である文章道をよくし、11歳で初めて詩を詠み、15歳で刑部福主四十の賀の願文を草するほどであった。862(貞観4)文章生試に及第し、’67に文章得業生となり、ついで正六位下下野権少掾(しもつけのごんのしょうじょう)に任ぜられた。’70方略試に及第して正六位上となり、翌年玄蕃助、少内記を歴任。’74従五位下となり、兵部少輔、民部少輔、式部少輔をへて、文章博士となり、’86(仁和2)讃岐守に任ぜられるまで、諸貴族の願文を度々草し、「治要策苑」や「日本文徳天皇実録」の序を草した。さらに藤原良房・基経らとの交際も親密なものがあった。讃岐の任地での漢詩は道真のその道での一期を画するものといわれるが、この間中央では阿衡(あこう)事件がおこっており、道真も事件の調停にあたった。’90(寛平2)帰任ののち、翌年基経の死の直後に蔵人頭となり、ついで式部少輔、左中弁、左京大夫をへて、’93には参議兼式部大輔となった。この間「三代実録」の撰修、「群書治要」の侍読などに参加。その後、左大弁、勘解由長官、春宮亮(とうぐうのすけ)などをへて、’94には遣唐大使となったが、在唐中僧崔(王偏に崔)の奏状などによりその中止すべきことを奏し、停廃となった。その翌年従三位中納言となり、さらに民部卿を兼ね、長女衍子を入内させ、自らも正三位権大納言右大将となり、’99(昌泰2)には右大臣となった。翌年三善清行が辞職をすすめたが、その予想どおり901(延喜1)従二位に叙せられた直後、藤原時平の讒言により大宰権師に左遷され、’03任地で失意のうちに59歳で没した。その作品は「菅原文草」「菅原後集」などに収められているが、とくに唐の単なる模倣ではなく、日本の心情を描写したものとして著名である。その不遇な最期から、死後天神信仰などとして民衆に強い影響を与えた。  
「あんたがたどこさ」 川越諸話
仙波山のたぬき
川越地方のわらべ唄にこんなのがある。
   仙波山には狸がおってさ
   それを猟師が鉄砲で打ってさ
   煮てさ、焼いてさ
そして子どもたちはこの仙波山を喜多院のある仙波のことだと思っている。しかしこれはこの唄の冒頭に
   あんた方どこさ、肥後さ
   肥後どこさ、熊本さ
   熊本どこさ、洗馬さ
   洗馬山には……。
とあるとおり熊本城下の洗馬山のほうが正しい。何でもそこには自然の湧水があって、藩中の者が馬を洗う場所だったと聞いている。もちろん川越の子供たちが仙波だと考えたって別に差支えがあるわけではなし、あながち幼い者たちの夢をこわす必要はない。
それにしても仙波山に狸がいただろうか。「仙波川越由来見聞記」には、享保19年(1734)喜多院の慈恵堂の下にある穴を、御用懸りの平尾平三、吉岡五郎左衛門などが検分した記事がみえる。それによると穴は縁の下の西の方にあって、大きさは四、五尺位もあろうか。そのまた東の方にも穴があるが、この方は少し埋まっている。両者の距たりは約四五間あるが、どうも洞になってつながっているらしい。そこで縄を入れてみたが、横穴のために縄がうまく下りないので、今度は灯を入れて探ってみたけれども、どれほど深いものやら見当がつかない。
ただ穴のあたりに狐か狸とおぼしき足跡が沢山あったから、多分そうしたものの棲家に違いない。そういえばこの慈恵堂の裏手の土手に大きな杉の木があるが、その根方にも穴がある。ひょっとするとこの穴から縁の下に出入りするのかも知れない。そしてこの穴のことは寺内の年寄たちにも尋ねてみたが、誰ひとり知る者がない。折よく来合わせた南の院の住職だけが、つぎのような話をしてくれた。
何でも実海僧正が住職のときだというから、天正頃のことであろう。この縁の下に年久しい狸がいて日夜勤行を聴聞していたが、のちに新三位という僧になって慈恵堂の堂守になった。しかしある日その寝姿を人に見られ、本性を見破られてしまったので、もはや仙波にもいられなくなり、どこへともなく姿を消してしまった。何でもその新三位とやらが書いた聖教が伝わっていたが、それも先年の火事で焼けてしまって今はない。その後この狸の子孫が喜多院の山内にいたというから、大方その穴ででもあろう。近頃はとんとそんな噂も聞かないし、私もこの穴は始めてみた。
この話から考えると昔はどうやら狸がいたことになるが、今はこんなことをいっても、誰もあまり信用してくれまい。もっとも狸がかならずしも四つ足に限らぬという解釈ならば話はまた別であるが……。
あんたがたどこさ  
煮て焼いて食われたのは 誰だったのか?
   一、 あんたがた どこさ
    肥後さ 肥後どこさ
    熊本さ 熊本どこさ
    せんばさ
    せんば川には えびさがおってさ
    それを漁師が 網さでとってさ
    煮てさ 焼いてさ 食ってさ
    うまさの さっさ
   二、 あんたがた どこさ
    肥後さ 肥後どこさ
    熊本さ 熊本どこさ
    せんばさ
    せんば山には
    たぬきがおってさ
    それを猟師が
    鉄砲で撃ってさ
    煮てさ 焼いてさ 食ってさ
    それを木の葉で ちょいとかぶせ
たぬきとえび  参勤交代が作ったわらべ歌
なんだって? まさか。いや、待った……、そうか!
   肥後(ひご)さ……
だから、熊本県だけとは限らない。ちなみに肥後とは江戸時代には熊本、人吉(ひとよし)、宇土(うと)、高(たか)、富岡(とみおか)の5藩からなっていた。廃藩置県後にそれらが熊本県になったのだ。ということは、肥後のどこかの歌だったのか? それが違うのだ。答えは、まったく振り出しに戻る勢いのものだったのだ。「違いますよ。『あんたがたどこさ』は関東のわらべ歌なんです」 この話を聞いたある町とは埼玉県川越である。先に書いたわらべ歌の「通りゃんせ」の取材の最中だった。「通りゃんせ」は、川越城内にある三芳野(みよしの)神社の天神様≠歌ったものといわれているが、「あんたがどこさ」の発祥までが、まさかここであったとは驚き! ただ川越に限らず、これを関東のわらべ歌としている資料はかなりあるのだ。最大の理由は、
   あんたがた どこさ
   肥後さ
   肥後どこさ 熊本さ
   熊本どこさ せんばさ……
この〜さ≠ヘ、熊本では使われない言葉であるからということなのだ。よく見てみると、この歌は問答形(もんどうけい)になっている。
   あんたがた どこさ……、
と、尋ねられてから、
   肥後さ……
と、答えている。今の時代でもあるまいし、お父さんの転勤で肥後から遠くに来て、子供たちがあなたどこから来たの?≠ニ聞くわけもないし……。でもそれがそうなんだ。あんたがた≠ニいうことは、複数をさしている。じゃあ、貧しさゆえの集団就職? または人さらい? まさか。たとえば当時の女の子が就職先やさらわれた先として行くのは、子守奉公(こもりぼうこう)か遊郭になってしまう。それならのんきに、まりついて遊んでいられるはずなどない。これは参勤交代のため、藩主(はんしゅ)やその家来たちの家族が江戸住まいをしていたときに、歌われた歌だとすれば納得がゆかないか? 近くに住む江戸の子供たちでもいいし、江戸城や川越城などいわゆる都会派の士族仲間の子供でもいい。どこから来たの?≠ニ、問いかける。つまり江戸弁で、
   あんたがた どこさ……
と。子供に限らず、大人でも都会の言葉には憧(あこが)れるものだ。方言は国の宝≠ニはいえ、子供同士であなたたちどこから来たの?≠ニ尋ねられ、わざわざ肥後でごわす≠セなんて答えやしないだろう。参勤交代で先に江戸へ来ていて、国許(くにもと)へ帰ったお姉さんたちから 「江戸では、〜さ≠チて使うよ。〜ごわす∞〜ばってん≠ネんて使わんとよ」 などと言われてりゃ、女の子たちはますますそんな使ったっことのない言葉を恰好いいと思ったとしても不思議じゃない。今の若い子たちがかっこいいじゃん≠ニか超かわいい≠チて使っているのと同じようなもんだ。今も昔も女の子は敏感なのだ。一般の熊本人は〜さ≠ニは使わないが、城中の参勤交代経験者の中では十分に使われていた言葉だと考えてもいい。だからこの歌は、言葉が違うという理由からだけで肥後の歌ではないとは、言い切れなくなるのだ。ただ、
   あんたがた どこさ……
と、尋ねるほうの子を考えるとこの歌の発祥は確かに関東だと思われてくる。だが、答えているのは、やっぱり肥後の子供でなければおかしいのだ。そしてある時期まで、この歌の主人公はやはり、たぬきではなく、えび≠セったのではないか? それが、ある時期からたぬき≠ノその座を奪われた。話が遠回りしたが、実はここからが川越発祥説になるのである。川越は、徳川家康が江戸に幕府を開いてから川越藩となり、親藩(しんぱん)として老中や大老ら大名が代々藩主となった江戸の護(まも)りの地である。この町に天長(てんちょう)7年(830年)創建の天台宗(てんだいしゅう)・喜多院がある。ここの27世を継いだのが、家康の信頼が厚かった天海大僧正(てんかいだいそうじょう)だったのである。喜多院の境内には有名な五百羅漢像(ごひゃくらかんぞう)も残されているが、その奥にあるのが仙波山(せんばやま)とよばれる小高い丘なのだ。さらにここには明治維新のときに薩長(さっちょう)連合の東征軍が駐屯(ちゅうとん)していたので、兵士と子供たちのやり取りがこの歌を作ったとされるのである。兵士に向かって、
   あんたがた どこさ……
と、子供が聞いた? ちょとこの説はいかがなものかと思う。ただ私は、この場を訪れてみてこういうことであれば川越発祥≠烽ネきにしもあらず……と感じたのである。たぬきの正体、見〜つけた! 喜多院の境内の中にある仙波山には今、東照宮(とうしょうぐう)が建てられている。仙波東照宮とよばれる。天海が寛永(かんえい)10年(1633年)に建てたものである。家康が75歳の生涯を、駿府城(すんぷじょう)で閉じたのは元和(げんな)2年(1616年)のことだ。遺体は家康の死んだ暁(あかつき)には……≠フ命に従って久能山(くのうざん)に移され、葬儀が執り行なわれた。その後、遺骸を久能山から日光東照宮に移す途中に喜多院に入り、4日間の法要が営(いとな)まれている。そして日光へ運ばれていったのである。世の中では泣くまで待とうほととぎす≠フ徳川家康のことを、その計画性の巧妙(こうみょう)さから腹黒いたぬきおやじ≠ニ形容して呼んでいたといわれることが多い。75歳で天寿(てんじゅ)を全(まつと)うというのも長生きそのもの。当時は人生50年。いや、それもうまく生きることができて50年という時代だった。たぬきは、生命力の強い生き物だといわれる。それがとうとう、そんなたぬきも病いには勝てず死んでいった。だから、
   せんば山には たぬきがおってさ……
と皮肉(ひにく)ったのではなかろうか。わらべ歌には、お上(かみ)に言上(ごんじょう)できない庶民の願いが歌として託されている、というものが数多い。城下で歌われていたえび≠フ歌が仙波山に引っかかり、仙波山がある川越に死んだたぬき≠ェやって来た……、と考えれば、川越説もなかなか説得力があるだろう。さらにたぬき≠ヘ家康でもいいのだが、そのたぬき≠キら化かしていた大だぬき≠ェ天海だったのでは? とも思えてくるのだ。天海は家康と近しくなる以前は、武田信玄(たけだしんげん)の下(もと)についていた。その後、信玄は、織田信長(おだのぶなが)と雌雄(しゆう)を決しようとしている最中に病いを得て死去する。信長が明智光秀(あけちみつひで)に本能寺(ほんのうじ)で死に追いやられ、明智の三日天下≠ナ豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代に移る。秀吉の関東攻略の成功により家康が関東に入国した頃、天海は家康に接近。関ヶ原(せきがはら)の戦いの勝利で家康は江戸に幕府を開く。慶長(けいちょう)8年(1603年)のことだ。実は天海が喜多院27世を継いだのが、関ヶ原の戦いの前年に当たる。そして家康から厚い信頼を受けるようになる。その結果、寺領4万8000坪及び500石を下され、寺勢盛んとなる。慶長12年(1607年)、比叡山(ひえいざん)内部の争いのときに、家康が天海を使って復興に当たらせ成功させたことで、そこらにいる坊主とは格が違う≠ニ周囲に認めさせた。このことを発端にして二代将軍秀忠(ひでただ)、三代家光(いえみつ)とも深く関(かか)わってゆくのである。業績を残しさらに5年後、天海は夢だった無量寿寺(むりょうじゅじ)の再興(さいこう)に着手、この際に寺を喜多院という名前に改め、ここを関東天台宗の本山(ほんざん)とさせ、自身をもっとも位の高い僧にのし上げさせた。建立された大堂には、国中の大名から礎石(そせき)をひとつずつ寄進させ、多数の仏像を京都の一流仏師に作らせた。この関東天台宗法度≠ェ幕府から発布されることにより、主導権を比叡山から関東に移させたのである。家康死去後も力を振るう。側近たちは神として家康のことを大明神≠ニ祀(まつ)りたいと進言したが、即刻却下。仏教界の用語権現(ごんげん)=Aつまり仏として祀らせている。権現とは、仏が身を変えて、わが国の神として現れることである。神仏習合の時代ではあったが、それでも仏教こそ神の上に立つものという思いが、ここに表われていると指摘する説もある。秀吉が大明神≠ニして祀られているから、どうしても家康には権現≠名のらせたかったともいわれている。
さらに家康の葬儀場所、遺言にあった久能山からわざわざ遠回りさせて喜多院に寄らせ、そこから日光山へと送り出す。そしてそれから17年も後になって、仙波東照宮を造営するつ間もなくして、江戸寛永の大火である。江戸城はもちろん、川越も大火によって喜多院も東照宮も焼失する。しかし東照宮をすぐに直さなければと復興に着手。その際に江戸城の徳川家光御誕生の間≠喜多院の客殿として、春日局化粧(かすがのつぼねけしょう)の間≠書院として移築させた。しかしこれは大火を免(まぬが)れた江戸城唯一の遺構(いこう)だったのである。そんな大切なものを運ぶのだからと、川と舟の便をよくさせ、川越の町を経済的に発展させたのである。当然、川越に着いた人々は、権現様が祀られる喜多院の東照宮に足を運ぶという計算が成り立つ。旅人が多くなると町は栄える。仙波には茶屋まで登場する。そこで茶屋女が遊女のまねごとまでしていたとされる。遊郭の女はかごの鳥¥態の悲しい身の上だが、茶屋女は違った意味で売春して小金を稼ぐ性悪(しょうわる)女だった。それこそたぬき≠サのものではないか? これを推奨したのも天海だとさえいわれる。
   せんば山には たぬきがおってさ……、
やはり、大だぬき≠フ正体は天海だったのではないか? それらを見届けて天海が亡くなったとき、天海は107歳だったとも117歳だったともいう。75歳の家康も足元に及ばぬ大だぬき=A人々はこの大だぬき≠ノ踊らされている徳川家康を腹の底では、せせら嘲(わら)っていたとしたらどうであろう? 庶民の口はうるさいものなのである。  
 
千葉

 

遊ばせ唄
かいこうまんま
かいこう まんま お舟が通る
何積んで通る 米積んで通る
通らば呼ばれ こちゃ福の神
ぎっこなばっこな
ぎっこな ばっこな
となりのおばさん
米一升貸してくれ
晩げひいてもどすべ
ぎっこうがっこう
ぎっこう がっこう
となりのばあさんな
米一升貸してくれ
あしたの晩について
つんもどすべ
あんよはじょうず 1
あんよはじょうず
ここまでおいで
あんよはじょうず 2
あんよはじょうず
ころぶはおへた
寝させ唄
ホラホラほうらい豆
ホラホラ ほうらい豆 十六ささげ
ささげが嫁に行って 追い出された
お留が大きくなったら 江戸へやる
お江戸じゃちりちり ちりめんづくし
お江戸じゃちりちり ちりめんづくし
いなかじゃ菜種の 花ざかり
ねんねんおころり
ねんねんおころり ねんころり
坊やのお守りはどこへいた
あの山こえてお里いた
里のおみやげ何もろた
でんでん太鼓に笙の笛
ちゃんぽんぽんの木の下に
ねんねんころりねんころり
ねんねの子守りはどこへ行った
あの山越えて花取りに
一枝取れば昼になる
二枝三枝めにゃ日が暮れた
今夜はどこへ泊まろかな
ちゃんぽんぽんの木の下に泊まろかな
ちゃんぽんぽんの木の下にゃ蜂がいて
蜂に刺されて目が覚めた
お里のおみやげ 1
ねんねんよう おころりよう
ねんねのお守りは どこ行った
あの山こえて お里行った
お里のおみやげ 何もらった
でんでん太鼓に 笙の笛
おきゃがらこぼしに 風車
風の吹くときゃ よくまわる
お里のおみやげ 2
ねんねんころりよ ねんねしな
坊やのお守りは どこえった
あの山こえて 里こえて
お里のおみやに 何もらった
でんでん太鼓に 笙の笛
それをやるから ねんねしな
坊やの父さん
ねんねんころりよ おころりよーオ
坊やの父さん どこへ行ったーア
あの山こえて とと釣りにーイ
ととは何びき 釣ってきたーア
坊やが食べるほど 釣ってきたーア
坊やによいとこ 食べさせてーエ
ねこには骨でも しゃぶらせろーオ
だからよい子だ ねんねしなーア
ねんねんしなしな ねんねしなーア
守り子唄
泣いてくれるな
泣いてくれるな出船の出先ヨ
 泣くと出船が出そくなるヨ ヨイヨイ
お前泣くからこのわしまでがヨ
 つらい涙が先に立つヨ ヨイヨイ
守りは楽なよでつらいものヨ
 雨風吹ければ宿はなしヨ ヨイヨイ
ヨーイ四日市場で日が暮れてヨ
 芦崎たんぼで夜が明けたヨ ヨイヨイ
早く来い来い師走の二十日ヨ
 いろいろお世話になりましたヨ ヨイヨイ
ヨーイ四日市場のよごれ道心棒ヨ
 いくらよごれでも籠つくるヨ ヨイヨイ
坊やが泣けば
ねんねんころりよ ねんころり
坊やはよい子だ ねんねしな
坊やが泣けば ねえやも泣くよ
守りっ子は楽なよで つらいもの
つらいはずだよ よそだもの
よそは他人の なかだもの
他人のめしには とげがある
ねんねんころりよ ねんころり
守りっ子は楽なよで つらいもの
雨風吹いても 宿はなし
人の軒場に 立ち寄れば
またうるさいと 追い出され
親が貧乏だから 子守りに出され
ほんに守りっ子は つらいもの
ねんねんしなされ 起きなされ
起きた目ざまし 何あげよ
お菓子かせんべか らくがんか
ねんねんよォ ねんねんよ
ねんねんころりよ ねんねんよ 

 

わらべ唄
 
 
東京

 

負ける女がなお悪い 三拍子そろった 東京ワルツ
二度とあんたの 顔などみたくない ああ東京
街はいつでも 後姿の 幸せばかり ウナ・セラ・ディ東京
エロスで殺して 乳房で脅して 東京美人 朝まで吊るして
いいことひとつも ないれれど ないれれど どうせ東京の片隅に
心の痛み 感じている ひとり暮し 東京で ひとり暮し 恋もなく
泣きたいほどさ 赤坂 麻布 数寄屋橋 ゆられてゆれて ふたりの東京
俺らこんな村いやだ 東京へ出るだ 東京へ出だなら 銭コア貯めで東京で牛飼うだ
裏目つづきの世間を飛ばす 夢の土俵さ 東京は 風も吹くけど 花も咲く
あゝ好きです 東京の人 故郷をあげたい あの人にあげたい
愛のぬくもり抱きしめて 東京大阪 心の糸を 結んで走る 14番線
明日は東京へ帰ります あゝ 星の降る 八ヶ岳 あなたが恋しい 信濃路ひとり
人の情けがいきる街 東京なんてめじゃないわ あなたとわたしは 大阪すずめ
東京へはもう何度も行きましたね 君が咲く花の都
花嫁衣装は もう無理だけど 渋谷 新宿 吉祥寺 私 東京かくれんぼ
離しはしないさおまえのことは ほんとね ほんとさ いつまでも二人の東京しのび逢い
夜は真珠かガラスの街は もらす吐息に 夢もかけあし夢もかけあし 東京セレナーデ
花嫁衣装でつつんであげる 渋谷 新宿 吉祥寺 お前東京たずね人
あなたを今も 待っている 東京で一番淋しい女
どこか似ている 濡れまつ毛 愛して 愛して 愛したりない あゝ東京の雨を札幌で
召しませ花を 粋なジャンバーアメリカ兵の 影を追うよな甘い風 ああ東京の花売娘
夜が更けゆく街 私のため息が流れて 霧になるなる東京
この世の汚れを消せますか 純になろうと瞳を閉じても 東京の夜は短くて
女が鳴らす 口笛は 恋の終わりの 東京ブルース
ふたつならんだ夫婦星 東京ふれ愛 めぐり愛
心で暴れて 俺を酔わせないよ みっともないぜ雨 雨 東京もどり雨
そんな耳うちを されると 別れがとてもつらい 東京 東京 ラスト・ナイト
人が見てるべ はずかし ありゃうれしい 胸もふくらみ 東京らんでぶう
乾いた砂漠の東京も 港町だと思えば濡れる 古い男も女も 生きられる
あなたがいれば 陽はまた昇る この東京砂漠
同じ色の花を咲かそう 東京砂漠 かたすみのめぐり逢い
眠りたい 眠れない かくれる夜がない 東京白夜
さびしげな目の色を みつめているような 東京物語
恋の砂漠の東京で 明日は いいことありそうな 咲く花 散る夢 東京無情
骨のずいまで 演歌で通す それも男の それも男の 東京流転笠
どっこい明日はヨ 錦を飾る 花の東京の アア旅鴉
夜汽車の笛はいやだよ 早く行こう あの娘の住んでる東京へ
うすいコートで包みあう 肩の先にもしあわせが 夜の東京 二人のめぐり逢い
あなたに抱いて ほしいの 男と男と 女の女の 涙のナイトイン東京
東京の夜明けに歌う 子守唄
涙が頬に光るたび 小さなダイヤになるという 銀座恋の街
おんな 一代 舞扇 どうぞ幸福 くるように あゝ神楽坂 愛して生きるのよ
未練は未練は いじわるね 夜明け間近の 花園しぐれ
言問橋から飛ばそうか だっておきゃんも お年頃 ハイ お年頃
浮気封じに あんたの胸に 紅で名を描く 大江戸そだち
ここがいつもの愛の部屋 それが赤坂 赤坂 デル コラソン
遅いでしょうか この恋は 夢がゆられて 流れゆく 雨の すみだ川
それぞれの人 原宿表参道 ゆれて青山通り 原宿表参道 ゆれて青山通り
江戸の名残りの 浅草は 木やりくずしの 酒の味
おしゃれして 渡っておいでよ ベイブリッジ 恋のかけ橋 ベイブリッジ・ブルース
おせっかいのついでに 石けんひとつ 夕日赤い阿佐ケ谷あたり
半分恋しさ もとめあうのね 甘えたい 甘えていいよ ゆれて赤坂 ナイトパブ
手描きの人生 江戸友禅に 夢見る隅田の 愛染流し
さよならしたらもう二度とは 足音さえも帰らない 赤坂 赤坂 ぼくは泣きたい
生くる蒲田若き蒲田 キネマの都
ああ 春はこぶしのび逢い 恋しき人よ銀座
今宵更けゆく銀座 たのしい街よ ふたり消えゆく銀座 夜霧の街よ
あゝ背のびして あゝ指を噛む 波浮の港は 御神火月夜
あなた恋しと鶴をおり 波間にとばします 波浮の港
どこか優しい仲間たち 新宿 新宿 新宿みなと町
だまされちゃって 夜が冷たい 新宿の女
深川雀が 噂ばなしに 親にゃ内緒に しておくれ 恋しお方も木場育ち
何を信じて生きてく女 春はいつくる 渋谷 新宿 池袋
今じゃ妻子さえいるという 肩に冷たい 夜の浅草 みぞれ雨
あなたに駆け寄り 傘をさす 袖摺坂の あゝ夢しぐれ
いつか武蔵野 うけらが花よ 恋し紫 恋し紫 色に出た
僕と君が映るウインド 肩を寄せて指をからませ 二人の銀座
心の櫓で 半鐘 鳴らしておくれ 恋の火の手が上がる 江戸の華よ
忍ぶ 不忍無縁坂 かみしめる様な ささやかな僕の 母の人生
あてにならない あなたなら せめて二人で いるときだけは あまえさせてね 広小路
明日もひとり あの坂を帰って来そうな そんな六本木
ほろりとさせて六本木 あなたいいひとだね
遊ばせ唄
テテンクンクン
テテンクンクン テテンクンクン シタダミツブツブ
わがな母が潮汲みへ 出たっとろが
石のとんぐれから つんむぐって
ひん流れか したんのう
出てみろナカメ 出てみろテゴメ
なァきゃ父 あだみしょうど
ジョーセイジョーセイ
ジョーセイジョーセイ クビジョーセイ
お前どこに寝とお 川端に寝たら
あにょ着て寝とお くもばを着て寝たら
どらそのくもばは 土になって灰になって
かご屋が庭い ぶん投げた
ここまでおいで 1
ここまでおいで あまざけしんじょ
ここまでおいで 2
ここまでおいで あんよはじょうず
ころぶはおへた
赤いじょじょはいて
赤いじょじょはいて ここまでおいで
あまざけしんじょ あんよはじょうず
あんよはじょうず
あんよはじょうず ころぶはおへた
おつもてんてん
おつもてんてん ひじぽんぽん
千ぞや万ぞ 1
千ぞや万ぞ お舟はギッチラコ
ギッチラギッチラこげば 港が見える
恵比須か 大黒か こちゃ福の神ィよ
千ぞや万ぞ 2
千ぞや万ぞ お舟はギッチラコ
ギッチラギッチラこげば
恵比須か 大黒か こちゃ福の神ィよ
塩屋かぎ屋
塩屋 かぎ屋 塩一升おくれ
千手観音
千手観音 拝んでおくれ
寝させ唄
ねんねん寝屋町
ねんねん寝屋町米屋町 酒屋で嫁とって追い出した
追い出すまもなく子ができて できたその子は女の子
早く育てて嫁にやる お嫁の道具はなに道具
たんす長持挟箱 それに続いて夜着ふとん
坊やはよい子だ (江戸子守唄)
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
坊やのお守りは どこ行った
あの山超えて 里へ行った
里のおみやに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
坊やはよい子だ ねんねしな
ねんねんねこのけつ
ねんねんねこのけつに ありがはいりこんだよ
やっとこすっとこ ほじくり出したら
またはいりこんだよ
ねんねんねこのけつ
ねんねんねこのけつへ かにがはいこんだ
かにだと思ったら 毛虫だ
毛虫ゃ毛だらけ穴だらけ
おまえのおけつはくそだらけ
ねんねんねこのけつ
ねんねんねこのけつに かにがはいこんだ
やっとこさで しょぼきだしたら
またはいこんだ
小山の子うさぎ
ねんねんころりよ おころりよ
ねんねん小山の子うさぎは
なァぜにお耳がお長いね
母ちゃんのポンポにいたときに
椎の実榧の実食べたゆえ
そォれでお耳がお長いよ
坊やはよい子だ ねんねしな
ねんねこした子にゃ
ねんねこよォ ねんねこよォ
ねんねこした子にゃ乳あげる
起きて泣く子にゃ石七つ
ねんねろォねんねが ねんねしなァ
守り子唄
ねんねが子守りは
ねんねんねんねん ねんねしな
ねんねが子守りは つらいもの
親にゃしかられ 子にゃ泣かれ
ヘビロたぼりょちゃ おそばなし
みつぎよつぎの みしゃだおりょ
ひきだしにようとで とじつけて
一よんべ着るとは ビービーと
二よんべ着るとは ジャージャーと
三よんべめには あてどなし
おったらでおよりやれ わが子さま
起きれば桶のはれ たたきこもに
寝なけりゃネンネンジョーに 背負わせろんて
ねんねんねんねん ねんねしな 

 

わらべ歌
「キャーロノメダマニ」
   きゃーろのめだまに きゅうすえて 
   それでもとべるか とんでみな
   おっぺけぺっぽー ぺっぽっぽ 
   おっぺけぺっぽー ぺっぽっぽ
[ きゃーろ=カエル/きゅうすえて=お灸をすえて ]
トナエうた。「カエルの目玉にお灸をすえて、飛べるなら飛んでみな」という、子ども独特の残虐性が出ています。しかしこういった体験(残虐性というよりは好奇心でしょうね)から自然と命の尊さを子どもは学び取っていくのだと思います。遊び方としては、円になり、その中心にカエル役一人。みんなではやして歌い、「おっぺけぺっぽー」からはカエル役が中央で飛び跳ねる。 
 
神奈川

 

振向いて 横浜 いきいきと二人きり はしゃいだ日まで
おもいで酒場の 止り木は ああ熱い涙に ぬれて横浜
ふりむけばヨコハマ くちびるが淋しい ふりむけばヨコハマ 置いてきぼりね
タバコの香り ヨコハマ ブルーライトヨコハマ 二人の世界 いつまでも
ここはヨコハマなんだもの 君の横顔まぶしくて 心 せつないね
めそめそ泣いても 囁く声もない 横浜 たそがれ シルエット 夜って嫌い
わたし 泣かない いつも 女ひとり よこはま 別れ雨ブルース
おまえのほかに 幸せなんか さがしはしないさ よこはまで出逢った 恋の物語
おれの心は 変わらない あゝヨコハマ 星がつぶやく 恋港
みれん水割 恨みを流す 明日に生きる 夢に生きる 横浜のおんな
時の流れを 戻して追えば おもかげいとしい 本牧通り ああ ヨコハマ
アンタ あの娘の何なのさ 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ
ああ 港ヨコハマ 花売娘
追いかけてヨコハマ あのひとが逃げる 残したすてゼリフに誰か見覚えはありませんか
語り明かした 伊セ佐木通り 忘れはしない 君のこと アア 恋の横浜 情け街
一夜の恋のブルースよ 忘れられようかヨコスカマンボ
お前の罪じゃない 元町あたりで 踊っていたと お前の噂をきいた
伊勢佐木あたりに 灯がともる 夢をふりまく 灯がともる
波のように抱かれるのでしょう ここは横須賀
あの娘可愛や 小田原育ち 人の噂の なかに咲く
夏が来た ほろ苦い想い出つれて 夏が来た ただひとり湘南哀歌
別れを惜しむ 男相傘 ほろりと濡らす 雨も神奈川 水滸伝
弘法山にはからすが急ぐ 煙草かく娘のエー なんとしょ手がはずむ
ひとり別れの 酒くめば つらい 逢いたい 箱根の女よ
積る不孝は 倍返し やだねったら やだね 箱根八里の 半次郎
寝させ唄
どっこい丼鉢
どっこい丼鉢ゃ 落せば割れる
割れるはずだよ せてものだ
信州信濃の
信州信濃の しんそばよりも
わたしゃあなたの そばがよい
どっこい丼鉢
どっこい丼鉢ゃ 落せば割れる
姉さん島田で 寝てわれる ヨーオヨイヨイ
   ヨイヨイ横浜 明るくなれば
   うちの街道は 暗くなる ヨーオヨイヨイ
ねんねねてくれ
ねんねねてくれ 朝起きてくれ
あすはこの子の 誕生日よ ヨイヨイト
島はよいとこ
島はよいとこ 来てみらしゃんせ
前は相模川 船がつくよ ヨイヨイト
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
坊やのねんねの その暇に
糸取り 機織り染めあげて
三つのお祝い 三つ身着せ
五つの祝いに 四つ身着せ
七つ本裁ち裁つからは
つくせ世のため 人のため
つくせ世のため 人のため
子守りゃ楽なようで
子守りゃ楽なようで してみりゃつらい
おっかさんにしかられ 子に泣かれ
雨が降るときゃ 宿がない
子守りゃ子でもつ
子守りゃ子でもつ
子は乳でもつ ヨオー ヨイヨイ
名古屋は 城でもつ ヨオー ヨイヨイ
尾張名古屋は 城でももつが ヨオー
おかさんの ふんどしゃ
ひもでもつ ヨオー ヨイヨイ
いか採り舟の歌
沖に見えるは いか採り舟か
 さぞや寒かろよ 冷たかろ ヨーイヨイ
嫁に行くなら 西町はおよし
 のぼりくだりのよ 水かつぎ ヨーイヨイ
早く日が暮れ はや夜が明けて
 三月二日がよ 来ればよい ヨーイヨイ
三月二日も 近寄りました
 旦那おかみさんもよ お世話さま ヨーイヨイ
お世話さまとは 言いたいけれど
 長々みじめによ あいました ヨーイヨイ
子守り叱んなんな 子守りはだいじ
 子守り叱ればよ 子にあたる ヨーイヨイ
子守りゃ楽なようで してみりゃつらい
 子守り叱ればよ 子にあたる ヨーイヨイ
小桜節
(上の句)
あのや小桜をナーアヨ
アアあのや ほら小桜をナー オーサイ
折ろろっとしたなら
背中なる ねんねこさんがナー
じゃまになる
(下の句)
じゃまになるならナーアヨ
じゃまになるならナー オーサイ
前へっと まわして
お乳でも 飲ませたら
だまるだろ 

 

わらべ歌
てべしょ
神奈川県央のわらべうたの中に 
「てべしょ てべしょ てべしょの中に 憎い野郎めに くれたい物は 蛇の生焼け とかげの刺身 さっさと おくりゃれ 唐辛子 唐辛子 一石 二石 三石 五石のお釜で 茹でこぼし 茹でこぼし 茹でて晒して 俎にのせて あぶらを切るよに ブッキリ ボッキリ ブッキリ ボッキリ」
というのがあります。
解説には「てべしょとは何かハッキリしない。小さくて浅い皿のオテショ(御手塩:手塩皿)に近いのではないか」とか、「その中に蛇の生焼けやトカゲの刺身を入れてやりたいと歌っているから、多分男の子が好んで歌ったものではないか」とあります。『あぶらを切るよに』というのは油菜のことだそうです。
子守唄や民謡に中にも仕事の辛さ、厳しさを歌ったり、雇い主を批判した歌詞が多く見られます。それを真似たのか、わらべうたの中にも悪口歌や嫌がらせ歌といえそうな歌があります。
私はずい分悪口歌を歌ったり、歌われたりしてきました。
「馬鹿かば間抜け お前の母さん でべそ」
「ごめんそうろう はげそうろう〜」
そんな歌を歌っているのを大人に見つかればこっぴどく怒られましたが、それでも懲りずに歌い、耳を澄まして人が歌っている悪口歌などを集め、良い時に歌っては鬱憤を晴らしたものです。そう、悪口歌は子どもも大人もストレスを解消する手段だったのではないかしら? 心が風邪引いちゃったとき、薬屋さんで売ってる薬ではきかないからね。大人も心得たもので「お母さんなんか嫌いよ!」といえば「キライで結構好かれちゃ困る」とか「こんなおかずは好きじゃない。もっと他のものないの?」と我儘を言えば「厭ならよしゃがれ よしべのこんなれ ぺんぺんひきたきゃ げいしゃのこんなれ」とか歌われて、ご飯をサッサと片付けられたり。「ハイハイ、いただきます、いただきます」と言って食べなければ他には何も出てこないのですから。こういう歌は学校で習うでもなく、大人が教えてくれるわけでもなく、自然と流れてきたものを耳が捉えて自分のものにしてきたのでしょう。
てべしょは私の歌ではないので歌ったことはありませんが、
「おてぶしてぶし てぶしの中に 蛇の生焼け 蛙の刺身 いっちょばこやるから まるめておくれ いや」 
というのはよく歌います。意味不明、何のために歌うかも良くわかりませんが、歌った相手になんともいえない、愉快ではない感情を起こさせるのが目的であることは確かです。しかし私の歌い方が良いのかどうか分かりませんが、幼児に歌うと始めは大抵ポカ~ンとします。その後何となくにや〜っとして困ったような怖いもの見たさのような不思議そうな表情をします。蛇を食べるのか、蛙を食べるのか、考えているようです。確かにこの歌も嫌がらせるために悪がきたちが可愛い女の子(生意気な女の子?)に歌ったのかもしれません。でも幼児に「蛙の唐揚げは柔らかくて美味しいよ、ウサギみたい」とか「昔、中野に蛇さんがあってね、お店のショーウインドに蛇がたくさんいたの。食べたい蛇を料理してくれた。ウナギも蛇も似てるじゃない?」などと普通の顔をしていうとみんなも納得するようなのです。誰かがストレス発散のために歌ってくれればそれはそれでいいことだしね。気味の悪い歌を歌えば暑さ凌ぎにも役にたつし。そういえば最近は団扇も扇子もあまり出番が無いようです。クーラーが普及して、扇風機も少なくなりました。 
 
山梨

 

せめて今夜は 想い出の 灯りつけます 道志川
街の灯りも ぬれている どうせあなたは 他国の人よ 泣いて別れた 甲府駅
明日をみつめて 生きてゆく ゆめと希望の 夜明けの甲府駅
寝させ歌
ねんねんころりよ 1
ねんねんころりよ おころりよ
坊やの寝たときゃ どこへ寝かしょ
奥の八畳の 真ん中へ
松が三本に 杉三本
合わせて六本 五葉の松
五葉の松より まだ可愛い
ねんねんよ ねんねんよ 
ねんねんころりよ 2
ねんねんころりよ おころりよ
坊やの父さん 馬買いに
馬は何馬 うらぎ馬
幌かけ寝車 ほしいなら
あす朝ひかせて 進ぜましょう 
「江戸の子守唄」に近い旋律の寝させ唄。「うらぎ馬」とは、うさぎ馬がなまった言い方で、ロバのこと。やせた土地を開墾するのには必要なものだったが、同時に高価だったため、「馬を買いに行く」と留守にしている父親は、実際は出稼ぎに行っている、とも読める。「幌かけ寝車」は幌をつけた乳母車のことだが、これもまた高価なものであるため、この唄自体が母親の見栄や願望を含んだものと解釈することもできる。 
ねんねんころりよ 3
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
寝えって起きたら 何ょやらっか
寝ればよい子だ 米のぼこ
寝らねよたぼこ 麦のぼこ 
坊やのかあちゃん
坊やのかあちゃん どこへ行った
あの山越えて 里へ行った
お里のおみやに 何もらった
でんでん太鼓に 笙の笛
鳴るか鳴らぬか 吹いてみろ 
福島の子守唄などにみられる「いい子にしていたら、お父さんがおみやげを持って帰ってくる」というものに対し、この唄は母親自らが子どもを置いてよそに出稼ぎにいくという内容になっている。 
坊やが大きくなったら
坊やが大きくなったら 嫁をとる
嫁の道具は なに道具
たんす長持 夜着ふとん
下駄箱 針箱 挟箱 
ねんねんねんねんしな
ねんねん ねんねん ねんねしな
泣くっちゅうと 鰍沢の川へ流すよ
ねんねん 猫のけつへ 蟹がはい込んだ
ひきじり出しても ひきじり出しても
またはい込んだ
ねんねん ねんねん ねんねしな
坊やはよい子だ ねんねしな 
ねんねん猫のけつ
ねんねん 猫のけつへ かにがはい込んで
それを見て お婆やんが 首を曲げた 
おらんお子守りゃ
おらんお子守りゃ どこへ行った
かんかんかつのやめ 鳥ょ追いに
鳥を何匹 追ってきた
千匹万匹 追ってきた
そのよに追ってきて 何にする
つついてはたいて 粉にして
お母ちゃんに食わせて はらませて
よい子を持たせて 金をとらそ
女の子を持たせて 機織らす 
お月さん神さん
お月さん 神さん
どこへござる 信濃へござる
信濃の道で 管一本拾って
くっ砕いてみたら
赤い布が三尺 白い布が三尺
太郎に着せろば 次郎がうらみる
次郎に着せろば 太郎がうらみる
中とって ゆんべ出た
赤ん坊に 着せろ 
奈良田の子守歌 1
よいよいよお よいよいよ
しょんがいばんばあは 焼き餅好きで
ゆんべ九つ けさ七つ
一つ残して たもとにこいて
馬に乗るとて うちょうといた
よお よいよいよ
奈良田平で 寒いとかどこだ
日影草里と へざかあば
よいよいよお よいよいよ 
奈良田の子守歌 2
よお よいよいよ
しょうがいばんばあ 焼き餅好きで
ゆんべ九つ けさ七つ
一つ残して たんぽに入れて
馬に乗るとて うちょうといた
よお よいよいよ
うらが家のおぼこを 誰がかまった
だれもかまのに お泣きゃるか
よお よいよいよ 

 

わらべ唄
■手まり歌
いちもんめ
一もんめの いすけさん いもかいおりて とおりゃんせ
二もんめの にすけさん 忍術つかい とおりゃんせ
三もんめの さすけさん 猿飛佐助 とおりゃんせ
四もんめの よすけさん よちよち赤坊 とおりゃんせ 
五もんめの ごすけさん 五人ばやし 冠者たち
六もんめの ろすけさん ろうそくいくら六万円
七もんめの 七すけさん 七草八草 とおりゃんせ
八もんめの はすけさん 箱せこいくら 八万円
九もんめの 九すけさん くりくり坊主 くり坊主
十もんめの 十すけさん 重そうはいくら 十万円
ひとひとつ
ひとひとつ ふたふたつ みつみっつ
よつようつ いついつつ むつむうつ
ななななつ やつやあつ こここんで
いちじく 人参 山椒にシイタケ ゴボウに向えて
七くさ 八くさ クワエの十(とう)よ
たくさんあがれ
■お手玉歌
おさらい
おっさーらい おひとつ、おひとつおろして おっさーらい
おみんな こんばんは、おてんじょうへ おろしておっさーらい
おみつおろしておっさーらい、おひとつ おろしておっさーらい
■なわとび歌
大波こなみ
おおなみ こなみ ぐるっと回って 猫(ニャンコ)の目
お入り
(よし子さん〉お入り さいごのしゅうでジャンケンポン
負けたお方は お抜けなさい
ゆうびんやさん
ゆうびんやさん おとしもの
ひろってあげましょ
1枚、2枚、3枚……10枚
ゆうびんやさん お抜けなさい
月火水木金土 日曜日
月火水木金土 日曜日
山とせ そよ吹けば さくらの富士越えて ピーヒャラ ピーヒャラ三大師
おわりの神様 四大師 それ入ろ それ抜けろ
■手遊び歌
子供のケンカ
子供と子供がケンカして
ひとさん ひとさん きいとくれ
子供のケンカに親が出て ななかなとまらぬ このケンカ
薬屋さんのおばさん ちょっと来てとめた
(両手を合わせて、ゆびを指を合わせながら歌う)
いっこじゃ
いっこじゃ いっこじゃ にこじゃ にこじゃ
さんこじゃ さんこじゃ 
(小石でお手玉のようにして、順順にとっていく遊び)
じょうりきんじょめ
じょうりきんじょ きんじょ
足のヒラにあやめが咲いたか、まだ咲かぬか
みょうみょう車に手を取ってみたらば、じどろくまどろく、
じっさぶろく ホレ 抜けたのせっせのせ
(履物を並べて、歌いながら取って行く)
上がり目下がり目
上がり目 下がり目 ぐるっとまわって ニャンコの目 
(にらめっこしながら歌う)   
 
静岡

 

せめて空似の人でよい 揃い浴衣の 片袖で 涙ふきたい 伊豆の夜
悔いはしません別れが来ても 命つくすわこの人に 夢をみさせて あゝ伊豆の雨
ぶつかり転んで 這ってでも 大漁旗あげ つき進む 港駿河の ヤレ男節
忘れられない 名を呼べば 清水湊に 雪が降る
生命を生命を断とうとも 滝の白糸 末は夫婦のふたりづれ
想い出すまい 話すまい 女ひとりが 旅の果て 天城湯ヶ島 白い花
くらくら燃える 地を這って あなたと越えたい 天城越え
今夜もちょいと ご機嫌さん 誰が名づけた 島田のブンブン ずいぶん いい調子
天城おろしに 傘かたむけて あなた見送る 駅の道
遊ばせ歌 
かいぐりかいぐり
かいぐりかいぐり とっとの目
とっとのお目々は なにを見る
町へ行って花電車
花電車欲しいと 泣くお目々 
寝させ歌
この子のかわいさ
坊やはよい子だ ねんねしな
この子のかわいさ 限りなさ
天にのぼれば星の数
七里ヶ浜では砂の数
山では木の数 萱の数
沼津へ下れば千本松
千本松原小松原
松葉の数より まだかわい
ねんねんころりよ おころりよ 
ねんねんねっころばち
ねんねんねっころばち さがり乙女
乙女大きくなれば 江戸へやる
江戸じゃ縮緬 着せそろす
江戸の土産にゃ なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
ねんねした子にゃ 早くやろ
ねんねんころりよ おころりよ 
寝ると寝床へ
ねんねんおころり おころりよ
 坊やはよい子だ ねんねしな
寝ると寝床へ 寝かせるぞ
 起きると興津へ くれてやる
泣くと長持 しょわせるぞ
 坊やはよい子だ ねんねしな 
ねんねん猫のしっぽ
ねんねん猫のしっぽ
からすがつっついた
一匹つつけば またつづく
あれあれかわいそうに またつっついた 
泣けばお山の
ねんねんおころり おころりよ
泣けばお山の 白い犬が
一匹吠えれば また吠える
泣かずによい子だ ねんねしな
よい子だよい子だ ねんねしな 
泣くと長持
ねんねんよ ねんねんよ
泣くと長持ゃ しょわせるぞ
おこるとおこもに 呉れてやる
すると摺り鉢ょ かぶせるぞ
吠えると頬たん つみきるぞ
ねんねん ねんねん ねんねんよ 
寝ないとねずみに
ねんねんよ おころりよ
寝ないとねずみに引かせるぞ
起きると置屋につれてくぞ
ねんねんよ おころりよ 
守り子歌 
守りは辛いもんだ 1
お泣き泣きん面 盆までお泣き
 盆が過ぎれば わしゃいない
守りは辛いもんだ 人目にゃ楽でよ
 親にゃ叱られ 子にゃ泣かれ 
守りは辛いもんだ 2
守りは辛いもんだ 人目にゃ楽で
とこざんざ きはざんざ
ホラ 親にゃ叱られ 子にゃ泣かれよ
ホホ ホーホイ
   嫌か出て来い 降られちゃいるな
   とこざんざ きはざんざ
   ホラ どこも日は照りゃ 雨も降るよ
   ホホ ホーホイ
今年ゃこうでも また来年は
とこざんざ きはざんざ
ホラ 火鉢かかえて おかみさんよ
ホホ ホーホイ
   粘土搗くときゃ 襦子の帯しめて
   とこざんざ きはざんざ
   ホラ 嫁に行くときゃ 何しめるよ
   ホホ ホーホイ 
子守りというもな
子守りとゆうもな 辛いもの
朝から晩まで 子守りして
お母さんに叱られ 子にゃ泣かれ
お父さんは横座で 横にらみ
   早くお正月 来ればよい
   風呂敷包みに 下駄さげて
   お父さん さよなら また来ます
   お母さん さよなら また来ます 
一じゃいじめられ
一じゃいじめられ 二じゃ憎まれて
三じゃ酒屋へ 酒買いにやられ
四じゃしめしを 洗わせられて
五じゃごんごん 泣く子をだまし
六じゃろくな飯ょ 食べさせられぬ 

 

わらべ唄
 
 
長野

 

死ぬことさえも 出来ない私 馬籠 落合 中津川 木曾路十四の なみだ宿
あなたを今も愛してる 恋しさつのる旅路です 揺れる面影 梓川
陽差しを浴びて見えるでしょう あー安曇野の恋 銀色の雨
明日は東京へ帰ります あゝ 星の降る 八ヶ岳 あなたが恋しい 信濃路ひとり
よせるさざ波 くれゆく岸に 里の灯ともる 信濃の旅路よ
遊ばせ唄
ねんねんねこのけつ
ねんねん ねこのけつに
かにが はいこんだ
やっとこ すっとこ
ほじくりだしたら またはいこんだ
寝させ唄
ねんねんねえぼに
ねんねんねえぼに 花が咲いた
赤い木の実も なりました
誰にくれると 聞いたなら
ねんねをする子に やるというた
ねんねんね山の
ねんねんね山の 米屋町
 米屋の横丁 通るとき
ちゅうちゅうねずみが 鳴いていた
 なんの用かと 聞いたらば
大黒さまの お使いに
 ねんねした子の お使いに
坊やも早く ねんねしな
 大黒さまへ まいります
ねんねんねむの葉っぱ
ねんねん ねむの葉っぱ ねるだろし
坊やもねむの葉っぱ よくねろよ
ねたらほうびに 何やろか
空のお月さんの うさちゃんが
ついたお餅を どっさりと
いものお舟に つみこんで
坊やのところへ 持ってくる
ねんねんねんねん ねんねんね
ねんねこぼっちゃん
ねんねこぼっちゃん
ねんねこぼっちゃん お酒に酔ったかね
お酒はからくて 飲まれない
ひとりで泣くのは よいけれど
ふたりで泣くのは わしゃこまる
ねんねんよ
ねんねんねんよ ねれば子も楽親も楽
かたる子守りは なお楽よ
よいよい よいよ
向こう通る猿が
向こう通る 猿が三匹通る
先の猿はもの知らず あとの猿ももの知らず
真ん中のちょび猿は よくものを知っていて
あの山くずして堂建って 堂のまわりに花まいて
「子供衆子供衆 花折りに行かねかね」
「なんの花折りに」
「牡丹しゃくやく 菊の花折りに」
一本折っちゃ 腰にさし
二本折っちゃ 腰にさし
三本目に 日が暮れて
「どこの宿に 泊まろうか」
「油屋に 泊って」
油かす貰って 枕元においたらば
猫かいたちか ちょっくらちょっと引いてって
そこを見つける見つけると たかずっぽ拾って
手でとるも おっかなし
足でとるも おっかなし
隣の嫁どんの 足駄を借りて
ふんづぶして みたらば
赤い絹が十二尋 白い絹が十二尋
十二尋の絹を 小袖にこしらえて
わが子に着せれば 人の子がうらむ
人の子に着せれば わが子がうらむ
向こう通る おちょぼに着せて
上のすわにざらり 下のすわにざらり
ざらりのすごに 粟一升まいて
爺っさと婆っさに 餅粟 餅粟
信濃の子守唄 (長野民謡)
ねんねんねむの葉っぱ 寝るだろし
坊やもねむの葉っぱ よく寝ろよ
寝たらほうびに 何やろか
空のお月さんの うさちゃんが
ついたお餅を どっさりと
いものお舟に つみこんで
坊やのところへ 持って来る
ねんねんねんねん ねんねんよ
守り子唄
ねんねん子守りは
ねんねん子守りは つらいもの
雨雪ふっても 宿はない
よそのひさしで 日をくらす
わしほど因果な者はない
わしほど因果な者はない
七つ八つから ちゃや町へ
子守奉公に 行ったらば
そこの姐さま ひどい人
火吹け 灰吹け 火鉢吹け
しまいちゃ 坊っちゃん 着物きしょ
そこで子守りの 思うには
早く正月ァ 来ればよい
早く正月ァ 来たならば
風呂敷包みを 横ちょにしょって
下駄を片手に ぶっ下げて
姐さま へっさと いとまごい
正月ァすんだら たま来いよ
いやだ いやだ
こんなひどいとこ もう来んぞ
はてな はてな はてはて はてな
果は野となれ 山となれ
果は山となる 川となる

 

わらべ唄
信州の子守唄
泣くないい子だ ねん寝しな
泣くと かじか澤の川へ流すぞ泣かなきゃ この家のおとのさま おひめさま 
 
新潟 

 

いつ来る春は 木綿絣に 雪が舞う 越後 荒海 佐渡ヶ島
舞えばせつない雪の肌 あなたに逢いたい 海の荒さよ 佐渡の島
ああ 新潟は新潟は 霧に更けゆく
仰げば天空に真綿の雲が 駆け渡る越後は春
遊ばせ唄
ののさんいくつ
ののさんいくつ 十三七つ
まだ年ゃ若い お万に抱かしょ
お寺の裏で 花摘んでござる
お月さまいくつ
お月さまいくつ 十三七つ まだ年ゃ若いな
あの子を産んで この子を産んで
だれに抱かしょ お万に抱かしょ
お万はどこいった 油買い茶買いに
油屋の前で すべってころんで
油一升こぼした その油どうした
太郎どんの犬と 次郎どんの犬が
みんななめてしまった その犬どうした
太鼓にはって つづみにはって
あっちへ行っちゃ ドンドコドン
こっちへ行っちゃ ポンポコポン
寝させ唄
ねんねんころりん
ねんねんころりん ねんころや
坊やのお守りは どこいった
坊やのお守りは どこいった
かちかち山へ 芋掘りに
芋がないとて 泣いてきた
どこからどこまで 泣いてきた
お寺の前まで 泣いてきた
お寺の小僧さん 何してた
立ったりねまったり お経よんでた
ねんねこねんねこ
ねんねこ ねんねこ ねんねこや
寝ったらねずみが 引くだろう
起きたらおんまが 引くだろう
ねんねこ ねんねこ ねんねこや
ねんねんねんねん
ねんねん ねんねん ねんねんや
この子が寝ったら 何くろや
あったけまんまに ととかけて
さっくらさっくら かせよかな
ねんねんこんこん
ねんねんこんこん こんこんや
この子が寝ったら 何くろや
小豆まんまに ととかけて
さっくりさっくり おんまらしょ
ねんねんこうや
ねんねんこうや ねんこうや
ねんねが子守りは どこいった
かちかち山へ 鳥追いに
とっとにけられて 泣いてきた
ねんころ ねんころ
ねんねんねったか
ねんねんねったか ねったかや
ねんねがねったら 何くりょか
小豆まんまに ととかけて
さっくりさらりと やしなおか
守り子唄
一にいじめられ
一にいじめられ 二に憎まれ
三にさべられ 四に叱られ
五にごんごと 泣く子をばあされ
六にろくなもの 食べさせないで
七にしめしまで 洗わされ
八に腹を立てて 涙をこぼし
九に食いもんでも 一緒に食べさせないで
十に殿さに 叱られました
よいよいよっこら島
よいよいよっこら島の がんがらおよし
およしが大きくなったら 上田へやろか
上田はよいとこ ちりめんづくし
お家じゃ 菜種の花盛り
守りっ子は楽なようで 辛いもの
雨風吹いても 宿はなし
主人に叱られ 子に泣かれ
早く十二月が きたならば
風呂敷包みに 下駄さげて
おっ父さんさいなら またきます
おっ母さんさいなら もうこない
こんなこと言わずに またおいで
やのことこうせん 親大事 

 

わらべ歌
風のわらべ歌
   風の三郎 ごーんごんと吹くな
   あしたの晩に餅ついて あげろあげろ
   (長岡市宮内町)
   風の神様 ごっと吹いて
   くらっしぇ くらっしぇ
   あしたの晩に 餅ついて
   酒買って あげる あげる
   (小千谷市首沢)
二つの歌は、おなじ風を歌ったわらべうただが、一つは「吹くな」といい、一つは「吹いてくらっしぇ」と歌う。正反対の願いが主題になっているのだ。共に餅をあげることになっているから、三郎も神様もおそらく同じものとして歌われているだろう。風が吹いてくれ、と頼んでいる「風の神様」は凧遊びなどに興じる子供たちの中からのちに発生したもののようだ。しかし、全国に分布する風のわらべうたは圧倒的に「吹くな」と歌うものが多く、農作物を荒らす大風を免れるように人々が歌ってきた。山火事を起こしたり、厳しい冷気を送り込む存在でもある風に対して、人々はその勢いが弱まるように願ってきたのだ。
風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱をだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。「やっぱりあいつあ風の又三郎だったな」「二百十日で来たのだな」
二百十日とは、現在の暦では八月末や九月一日ごろにあたり、現在全国に残っている風祭もこの辺りに行われているものが多い。長野の佐久では「二百十日は荒れる日」という言い伝えがあり、他の地域にしてもこの頃の風の具合で作柄が大きく変わったため、風の神に対する儀式が行われるようになった。その祭祀には大別して、由緒ある神社に伝えられる国家レベルでの儀式と、その末社などから広まった農民信仰とに分けられるという。神社では奈良の龍田神宮、伊勢神宮の風宮、諏訪大社も風の神を祀り西日本にも及ぶ一方、農民信仰は主に関東、甲信越、東海と東日本に見られ、二百十日ごろに屋根や庭先に風を切るとされる草刈り鎌をたてる風習は、諏訪大社の御柱祭でも木に打ちこむ薙鎌に連なるものとされる。鳥越皓之はこうした風の信仰について、次のように指摘する。
大なり小なり、諏訪神社や諏訪湖にベクトルが向けられていることに注目すべきだろう。風の三郎の分布空間の中心的な位置に風の神を祭神とする諏訪大社(諏訪神社)があることは無視できない。
宮沢賢治の作品のおかげで全国的には「又三郎」の方が有名になったが、風の神の名としては「風の三郎」が最も多い。Wikipediaでは「又三郎」は賢治の造語であろうという説を載せているが、新潟県東蒲原郡の上川村(現阿賀町)のように、風の神を「またさぶろう」と呼んでいた地域も少数あったようで、賢治の故郷岩手でも同様に呼ぶ村もあったかもしれない。
何故風の神を三郎というのかについては諸説あり、新羅三郎とよばれた平安の武将源義であるという説、陰陽五行説で風の死や風の追放を意味する配置の数字が擬人化されたという説、諏訪明神の化身とされる甲賀三郎であるという説など様々だ。鳥越は、昔話や浄瑠璃にもなった甲賀三郎の伝説の中で、「三郎が二人の兄弟に穴から落とされ、再びそこから出てきて龍となり諏訪湖へ飛んで行った」という筋書きがあることに触れ、風が山中の穴から出てくるためと考えて風穴を祀ってきたこととの関連も指摘している。
現時点の風の信仰について最もまとまった研究を進めている田上善夫は、諏訪の主神とされるシャクジ信仰の分布と風の三郎信仰の分布が重なることを指摘し「風の祭祀と深いつながりをもつ地は、縄文にも遡る根源的な信仰の地とみることができる」としている。シャクジとはミシャクジとも、塞ノ神とも言われ、石や樹木として祀られるという。これらは大和文化ではない、縄文の信仰に派生するもののようだ。漢字では石神、石神井、社宮司、尺神、赤口神など地方により幾通りもの表記のバリエーションがあり、信仰の古さとその広がりを感じる。東京の人にはなじみのある石神井公園の石神井も一般に「石神」からの説明がなされるようだが、それは後の当て字であり、音としてシャクジと発音される信仰がその地域にもあったということらしく、興味深い。
静岡県では「風の三郎」ではなく「風の三九郎」と呼ぶところもあり、これについて木村博は次のように述べている。
「風の三郎」と、信州方面でよくいわれる道祖神祭りの「三九郎」とが混り合った結果であろう。道祖神信仰と風神信仰がこのような所でこのような形で習合していることは面白いし、注意すべきことであろう。
これも風の三郎が諏訪を媒介にしてシャクジ(塞ノ神)に連なる神であるならば、道祖神は塞ノ神とも呼ばれるため、風の三九郎は自然な呼び名ということになるだろう。
私はふと、ここ半年ほどの個人的な、しかし重要ないくつもの出会いについて考えていた。不思議なことにこの期間に3人ほど続けて、目に見えないものを感じる人々に出会ったのだ。巷でいえばスピリチュアルな、ということになってしまうのだろうか。しかし、3人ともそれを商売にしている人ではない。それぞれに本業があり、そのかたわら、見えないものを見、神様の気配を感じながら祈りを秘めて生きているひとたちだった。そのうちの二人は面白いことに古墳巡りが趣味だった。こんな変わった趣味の人と立て続けに出会うとはやはりただ事でない。私はすぐさまこの二人を新宿の喫茶店で引き合わせ、案の定彼らにしかわからないマニアックな話題で盛り上がっているのを、ニコニコ満足して聞いていたのだが、この古代史にも精通する二人が注目している土地が諏訪だった。そして彼らが諏訪の先に見ているものは縄文であり、縄文の信仰であった。
二月のある日、私は明治神宮の原っぱにいた。明治神宮には一度しか行ったことがないが、そのまわりの広大な敷地の原っぱには、子供たちを連れたり、連れて行きたいと思う人を連れてよく出かけるようになっていた。そして、その日、枯れた色の冬の芝生の原っぱで、私は視界の片隅に、ぴょんと飛んだ何かを見た。こんな時期にバッタが?と思い、そのあたりを凝視すると、飛んだものは小さな枯葉だった。しかし驚いたことにその小さな風で飛んだと思われる葉っぱは動きを止めることなく、その場所でふわりふわりとゆっくりと回転していた。いくつもの小さな枯葉たちがそれにお供していた。つむじ風というにはゆっくりで不規則な動きだった。風ってあんなに長時間自由に、ゆっくりと続くものかしら。私には何か見えないものがダンスしているような、そんな気がしてならなかった。一緒にいた人も不思議がっていた。帰って早速、3人のうちの一人にメールしてみると返事が返って来た。
「それはいいものをご覧になりましたね」
そんな経験もあって、今の私には風の三郎も又三郎も、風の神様という言葉も大変すんなりと入って来る。たぶん賢治もそんな自然の中に神や精霊を見、目に見えぬもの、動かぬものや語らぬものたちの存在を感じながら物語を紡いでいった人だと思う。いや、賢治だけではない。その時代の人々は同じように自然やさまざまな神への信仰を持っていた。
冒頭のわらべうたの残る新潟でも、地域によってさまざまな信仰の形態があったようだ。男子が山へゆき、竹で鳥居を作り、手作りの旗を立て、団子を配る行事となっている新発田市赤谷の例、二百十日に赤飯や餅を携え「風の三郎山」に登った二王子山麓の例、夕顔を輪切りにして部落の入口の細木にさして祈る南蒲原郡下タ村大谷の例など、枚挙にいとまがない。中でもユニークなのは、早朝村の入口に小屋をつくり、通行人に打ち壊してもらい風に吹き飛ばされたことにして、風の神が避けて通ることを祈るという風習のあった東蒲原郡太田村の例だ。もしこの風習が残っているならぜひ見に行きたいと思い、この地区の図書館に問い合わせてみたが、司書の人は「風の三郎」という単語も聞いたことがないようで戸惑っていた。後から下さった電話では、今70代くらいの知り合いのおじいさんが、自分のおばあちゃんから風の三郎について聞いたとのことです、という返答だった。60年前におじいさんがその話をおばあさんから聞いたとしても、その時、1950年代にはすでに失われていた風習だろう。
一つの風習が失われていくとはどういうことだろうか。私はどこか、生活形態や家族形態が変わり、自然にそのようなものが廃れて忘れられていくイメージばかりがあった。しかし、前回鳥追いについて調べたときに読んだ論文に次のような一節を見つけた。
現在、富山県内で鳥追いを実施している地域は数少ない。昭和三十年から四十年頃、生活改善運動の影響を受け、古い習慣は弊風とされ、鳥追いも同様でありしだいに衰退した。
近代化や合理化という名のもと、複雑な習俗や効用のはっきりしない習慣は迷信や弊風とされて意図的に消滅させられてきた歴史があった。ショックだった。生活改善運動の歴史というのは大正まで遡り、主に「勤倹」な生活を推奨してきた歴史があるが、地域によってそれが入り込んだ時期は異なるようで、人口が増えてきた地域から順に、そうした運動が持ち込まれていったようだ。小田嶋政子は北海道伊達市の冠婚葬祭の簡素化の運動が1960年に持ち込まれ、様々な風習がこの時期失われたことを報告している。上の富山の鳥追いが消えた運動も、昭和30年から40年にかけての運動であり、戦後10年20年と日本が敗戦から立ち上がっていく過程で、全国的にそのような「弊風」が失われていったことが想像できる。
何かを得るとは何かを失うことかもしれない。けれど、その失うものの価値に同時代のどれだけの者が気づけていただろう。気づけていた人がいても、偏屈だとか頑固ものだとか、そんな風に笑われたりして相手にされなかっただろうか。失って取り返しのつかないほど時間がたって、人はその意味をようやく理解するのだろうか。もはや見ることのできない新潟太田村の小屋壊しの風の祭祀に未練を覚えつつ、司書の人への問い合わせの電話を切った。
風の三郎信仰は実は八丈島にまで及んでいるという。伊豆半島全体ではこの信仰は小正月の団子とかかわりがあり、風の三郎のための大きな団子を作る風習が存在した。三郎は神であるが、同時に子供のようでもある。風の又三郎もそうだし、北風小僧の貫太郎という子供向けの歌が昔あったが、あの小僧のイメージも近いかもしれない。「大サム小サム山から小僧がやってきた」というわらべうたは全国的に有名だが、伊豆の場合は「大サム小サム山から小僧が泣いてきた 団子の一つもくれてやれ」となる地域が多いことを前述の木村は「風神信仰論」の中で報告している。腹が減って泣き騒ぐ子供に団子をやろうか。そう思うことで、時にはひどい災禍をも引き起こす寒風や大風の厳しさを受け止める。「団子の一つもくれてやれ」という優しいフレーズに触れると、やりきれない思いを次なる祈りに変えてきたきた人々の姿が浮かび上がるかのようだ。冒頭の新潟のわらべうたもまたその系譜であろう。子供のような気まぐれな風の神と人々との応酬は、日本のあちこちに、たくさんの風の歌と、興味深い風習を生んできた。残念ながら風習の多くは消え、歌もほとんどが途絶え、30年前にかろうじて残された楽譜のおかげで私は今、貴重な風の歌を歌うことができるのだ。 
呼び太鼓の歌
   一番始めは一ノ宮
   二また日光中禅寺
   三また佐倉の惣五郎
   四また信濃の善光寺
   五つは出雲の大社
   六つ村々鎮守様
   七つは成田のお不動様
   八つ八幡の八幡宮
   九つ高野の高野山
   十で東京心願時
   あれこれ心願懸けたのに
   浪子の病は治らぬと
   轟々轟々行く汽車は
   武男と浪子の行き別れ
   二度と逢えない汽車の窓
   早く帰って来てちょうだい
新潟・岩船大祭の呼び太鼓として親しまれているこの歌は、原曲は明治初期に流行したわらべうたである。(私が小学校の時、この歌の前半部 分が東京のわらべうたとして音楽の教科書に載っていた。NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」の最終回で田中裕子扮する西郷隆盛の妻が、 同じメロディーを別の歌詞で歌っていた。)歌詞は数え歌になっているが、明治31〜32年に国民新聞に連載された、徳富魯花の「不如 帰(ホトトギス)」によっている。
「一ノ宮」は各地の最も由緒ある神社を指す(越後一ノ宮は弥彦神社、というふうに)。地名として有名なのは愛知県一宮市で、尾張一ノ 宮 真清田(ますみだ)神社がある。日本の一ノ宮なら、三重県伊勢市にあり皇室の祖 天照大神(あまてらすのおおみかみ)を祀る伊勢 神宮であろう。しかしここでは東京で歌われたということで、武蔵の国(現在の東京都、埼玉県)一ノ宮の、埼玉県大宮市にある氷川神社 を指すと解釈したい。
「中禅寺」は栃木県日光市にある天台宗の寺で、古来山岳修業の道場として人々の崇敬を受けている。二荒山(ふたらさん)神社境内にあ り坂東三十三札所の第十八番。 
「佐倉惣五郎」は江戸前期の義民。(現在の千葉県)佐倉郷の名主として、百姓のために領主の悪政を将軍に直訴して捕らえられた。死 後、口ノ明神として将門山に祀られる。 
「善光寺」は長野市にある単立宗教法人。天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とによって管理される。本尊は阿弥陀如来で、中世以降盛ん に信仰される。 
「出雲大社」は島根県大社町にあり、大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る。伊勢神宮を筆頭とする天津神(あまつかみ)系に対す る、国津神(くにつかみ)系の筆頭であり、古来より大いに信仰されている。 
「成田のお不動様」は成田山新勝寺。千葉県成田市にある、真言宗智山派の別格大本山。不動明王を本尊とする。 
「八幡の八幡宮」は京都府八幡市の石清水(いわしみず)八幡宮。大分県の宇佐八幡宮を勧請して創建。歴代朝廷の崇敬を受ける。源氏 の氏神としても有名。 
「高野山」は和歌山県の高野山金剛峰寺のこと。真言宗の総本山で、開祖空海が自らの入定地として建立。 
「心願時」は、所在不明。実在しないのかもしれない。 
前出の「不如帰」は、数多くの演劇・映画の原作となっている当時の大ヒットドラマである。この歌も、すでにあったメロディーを使っ た劇中歌か、誰かの作った替え歌が、大衆に定着したものと思われる。浪子の悲運を織り込んで替え歌を完成させるために、架空の「東京 心願時」を作り出したのではないだろうか。いつどのように岩船に伝えられたのか、なぜお祭りの歌として今に残るのか、幻の心願時とと もに、すべての謎は歴史の霧の中である。 
 
愛知

 

風のように 花のように 名古屋の街で あゝ夢を追いかけるひと
こんなカンゲキ 私はじめてよ 恋もいのちも燃える 名古屋 広小路
寝させ唄
鷺どん
鷺 鷺 なんで首投げた ひだるて投げた
ひだるけりゃ 田ぁ打て 田ぁ打ちゃ泥がつく
泥がつきゃ洗え 洗ゃつめたい
つめたけりゃあたれ あたりゃあっつい
あっつけりゃひされ ひさりゃひさり虫が引いてく
どこまで引いてく 窓の下まで引いてく
窓の下には竹の切り株 ふたもとあって
手でよう取らず 足でよう取らず
隣のお婆に足駄を借りて ちゃっと取って見たら
赤い小袖が十二と 白い小袖が十二
これだれに着しょう
まま子に着せれば ほんの子がうらみる
ほんの子に着せれば まま子がうらみる
まま子に着せて 竹馬に乗せて
あっちへ行けほうろほろ こっちへ行けほうろほろ
ほろろの道で ほろほろ穂拾い 穂拾い
穂はなんぼ拾った 一束三把拾った
その穂はどした 米についてまま炊いて
みんな喰ってしまった
天満の市 1
ねんねころいち
 天満の市は
 大根そろえて
 舟に積む
舟に積んだら
 どこまで行きゃる
 木津や難波の
 橋の下
天満の市 2
ねんねころいち
 天満の市やえ
 大根そろえて
 舟に積む ヨイヨー
ねんねしなされ
 お休みなされ
 あすのご膳の
 できるまで ヨイヨー
木曽川の子守歌
ねんねこ ねんねこ 酒屋の子
酒屋のもうよは どこへ行った
あっちの あっちの 木曽川へ
おむつや みいしを 洗いに
洗い川で 洗って
いすい川で いすいで
お寺の茶の木に かけて来た
かれたか見て来い おばせるに
かれたもかれんも あるものか
お寺のおくりが とてかした
何にするとて とてかした
ふきのにするとて とてかした
ふきのにならない 巾着に
一文入れては ちんころりん
二文入れては ちんころりん
三文入れては 口しめて
泣く子に持たせて だまらせよ
ねんねしよ ねんねしよ ねんねしよーよ
ねんねしよ ねんねしよ ねんねしよーよ
ねんねしよ ねんねしよ ねんねしよーよ
へこきむし
そこでごそつく なにもんだ
いつもよう来る へこきむし
一文やるから 買うてみよ
チンチン カラカラ ブウブウしょ
岡崎地方の子守歌
ねんねんよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねんよ
また夜が明けぬ お目ざにゃ早い
よい子だ泣くなよ ねんねんよ
この子のかわいさ
坊やはよい子だ ねんねしな
この子のかわいさ 限りなさ
天にのぼれば 星の数
七里ヶ浜では 砂の数
   山では木の数 かやの数
   沼津へ下れば 千本松
   千本松原 小松原
   松葉の数より まだかわい
ねんねんころりよ
おころりよ
ねんねしなされ
ねんねしなされ 朝起きなされ
早く起きては おむつを洗い
女子おなご庭はき 男子おとこ門はき
わたしはおじょうじょ 並べましょう
ねんねしなされ 朝起きなされ
ねんねのお守りは どこへ行った
ひと山越えて 二の山へ
父さん使いに 行ったげな
坊やのみやげに 何もろた
太鼓にお笛に ぴいぴいどん
おらがこの子は
ねんねんよォー おこらんよ
おらがこの子は いい子だよ
守りさ子守りさ
守りさ子守りさ
昼寝が大事よ ホヨオ
晩げおそまで 門に立つ
ハリコヤ
スイタカ ジュンサイ
スイタカ ジュンサイ
守り子唄
古谷の子守歌
守りさ 子守りさ 紺屋の守りさ
染めて着せえず 紺絣
 ねんねんよー おころりよー(以下ハヤシ同様)
守りと呼ばるな 守りさと呼ばれ
 守りは若い衆の 花嫁御
背で泣くなよ 守りさもつらい
 山でいつがら 鳴きやんだ
雨が降り出す たきものぬれる
 家で子が泣く 日は暮れる
西の町から 東の町まで
 歌ではやすは 守り子供
この子守りして こんなにやせた
 帯の二重が 三重まわる
守りというもの 楽そでつらい
 親に叱られ 子に責められて
こんな泣く子の 守りさはいやだ
 誰かたのんで 暇おくれ
暇はやるけど 仕着せはやらぬ
 仕着せおくれと たのみゃせぬ
固い約束 岩山寺の
 石の土台が くさるまで
石の土台が くさるまでながい
 せめてこけらの はえるまで
盆よ 早よ来い つばくら帰る
 稲に穂が出りゃ わしも出る
守りさどこいく
守りさどこいく 白足袋はいて
間々の観音へ 乳もらい
ねんねねんねと
ねる子はかわい
起きて泣く子は
わしゃきらい
ええ子だよ
ええ子だよ ええ子だけれど
 晩の七つに 泣くでいや
守りというもな つらいじゃないか
 親に責められ 子に責められて
朝も早よから ひき起こされて
 晩の七つまで 負ばされて
こんな泣く子は よう守りせんに
 守りをたのんで 暇おくれ
暇をやるけど 仕着せはやらぬ
 守りの役目に みなおくれ
守りはつらいぞえ
守りはつらいぞえ 餅つきもつらい
 九餅はおきゃれ 帯が三重まわる
守り子泣くなよ 故郷はもう近い
 早くお父とお母の 顔見たい
こんな泣く子は
こんな泣く子は よう守りせんに
守りをたのんで 暇おくれ
暇をやるから かわりを立てよ
かわり立てます 男守り
男守りでは 夜なびができぬ
夜なびさせます わら細工

 

わらべ唄
愛知の子守唄
坊よ坊よと いつまで坊よ
坊は二十歳で 嫁もらう
嫁をもらうなら 北から貰え
北の木の陰 器量よし 
堀川わらべうた
一の鳥居(いちのとり)
二の鳥居(にのとり)
山王さま(さんのうさま)
四間所(しけんじょ)
御坊さま(ごぼさま)
六角堂(ろっかくどう)
七面さま(ひちめんさま)
八幡さま(はちまんさま)
九玄寺(きゅうげんじ)
東輪寺(とうれんじ)
東輪寺の小坊主(とうれんじのこぼうず)
鐘つき堂(かねつきどう)からぶちおった
なんまいだー なんまいだ
かくれんぼするもの
かくれんぼ する者
この指さわれ
かくれんぼ する者
この指 さわれ
なあしなあし
なあし なあし 高針なあし
でゃあこのなめし
んめゃあなあし
つぼさんつぼさん
つぼさん つぼさん 
お彼岸みぁありにいかっせんか
行くことええが からすという黒鳥が
出やこっつき 出ゃこっつき
それでわたしは よう参らん
   つぼさん つぼさん 
   お彼岸みゃありにでさっせんか
   からすという黒鳥が
   眼つつき 鼻つつき
   それでわたしは よう参らん
正月はええもんだ 
正月は ええもんだ
赤いベベ着て 羽根ついて
譲(ゆず)りの葉のよな餅食って
雪のようなまま食って
木片のような魚(とと)添えて
正月は ええもんだ
正月 がーつがつ
がーつの処へ行ったれば
芋煮て 隠(かく)いて
蕪(かッぶら)煮て 突き出いた
 
岐阜

 

どこか佗しい赤提灯の 情け横町流し唄 ああ哀愁の高山よ
泣いてまた呼ぶ雷鳥の 声もかなしく消えてゆく ああ奥飛騨に 雨がふる
手漕ぎ笹舟 どこへゆく 別れ木曽川 なみだ川
秘めて切なく 舞う螢 忘れられない ああ長良川
女の恋が うるむネオンに にじんで消える 高山の夜
胸に吊した似顔絵の 君と一緒に 越える木曽路は 時雨月
みれん北陸なごり雨 あなた次第よ私の行く道は 大垣 結びの戻り旅
あなた私を泣かす人 枕淋しや鵜飼いの宿は 朝が白々長良川
ああ恋は終わっても 待ちますあなた どこへ行く流れ雲 木曽路の女
湯もやに炎える かなしいふたりの愛の里 夜の木曽路は わかれ雨
遊ばせ唄
ちょちちょち
ちょち ちょち ちょち
かいぐり かいぐり かいぐり
おつむてんてん アッカラボのヤ
寝させ唄
ねんねこせ
ねんねこせ ねんねこせ
ねんねの坊やは どこ行た
あの山越えて 里行た
里の土産に 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
ねんねんよう
ねんねんよう おころりよ
方やはよい子だ ねんねんよう
まだ夜が明けぬ よい夢見つつ
よい子だ泣くなよ ねんねんよう
ねんねんよう おころりよ
方やはよい子だ ねんねんよう
日暮れの花の つぐまるように
よい子だ泣くなよ ねんねんよう
坊やはよい子じゃ
坊やはよい子じゃ ねんねしょよ
坊やがねねした そのるすに
赤いまんまに ととそいて
くうくして くうくして
くれるでな
ねんねころいち
ねんねころいち 竹馬よいちよ
竹をそろえて 舟に積む
ヨホホイ エヘヘン
守り子唄
守りのういのは
守りのういのは 秋冬五月
 寒の凍てにも たち暮らす ヨホホエヘヘ
守りは守り連れ 菜種は菜連れ
 麦ははしこて 連れがない ヨホホエヘヘ
この子泣くので わしまでやせる
 帯の二重が 三重まわる ヨホホエヘヘ
帯の二重が 三重ならよいが
 四重とまわりて 房となる ヨホホエヘヘ
守りは気違い 泣く子をたたく
 たたきゃよけ泣く よけたたく ヨホホエヘヘ
こんな泣く子は
こんな泣く子は よう守りせんに
 おひまくだされ 旦那さま ヨーホイ
おひまやるけど かわりをたてよ
 かわりたてます 男守り ヨーホイ
男守りでは 夜なべができん
 夜なべさせます わら細工 ヨーホイ
西の丁から
西の丁から 東の丁まで
うとうて歩くは 守りの役
この子寝させて おふとんきせて
四すみたたいて 針仕事
ねんねねんねと 寝る子はかわい
起きて泣く子は つらにくい
ねんねしてくりょ
ねんねしてくりょ 今日は二十五日
 あすはこの子の 誕生日
 ねんねんね こんこんこ よいよいよいよ
誕生日には なにして祝う
 あずきぼたもち して祝う
 ねんねんね こんこんこ よいよいよいよ
坊や泣くなよ お父さは江戸に
 おっ母は名古屋の お屋敷に
 ねんねんね こんこんこ よいよいよいよ 

 

飛騨のわらべ唄
坊さん、坊さん、どこいくの
わたしは田んぼへ稲刈りに
わたしもいっしょに連れてって
おまえがくると邪魔になる
このかんかん坊主くそ坊主
後ろの正面だあれ

これっくらいのおべんとばこに、
おにぎりおにぎりちょっとつめて。(おにぎりつくる手振り)
きざあみしょうがにごましおかけて(これも手振り)
いちごさん。にんじんさん。さくらんぼさん。
あなあの開いたれんこんさん。すじのとおったふうき。(これも手振り)
できました!(と言って、差し出す感じ)

なべなべ、そこぬけなべ
そこがぬけたら帰りましょう

正月ぁええ、盆よりええ
ぶくりの歯のようなあっぽ食って
白いまんまにととそえて
髪の毛のようなこぶ食って
正月ぁええ、盆よりええ

とんとんとんからりのとなりぐみ
さあさ、おはいり、○○ちゃん
廻して頂戴、帰らん坊
知らせられたり知らせたり

A タンス長持 あの子がほしい
B あの子じゃわからん
A この子がほしい
B この子じゃわからん
A 相談しよう
B そうしよう
(グループで集まり、相手から1人ほしい人を選ぶ)
A and B 決〜まった!
A ○○ちゃんがほしい
B ○○ちゃんがほしい
A and B グストリパストリ、グッピッパッ!、
     ジャンケンシ!アイコデシ!
(指名された子同士がじゃんけんをし、勝ったら相手を自分のグループに入れる)
勝ちグループ 勝ってうれしい花いちもんめ
負けグループ 負けてくやしい花いちもんめ

ひなさま、ひなさまぁ、みしとくれぇ
ララララ ララソソ ララミミミー
おぞ(ぅ)ても ええでぇ、みしとくれぇ 
ミラ ソソ ソソソー ララミミミー
[ みしとくれ=見せてくれ / おぞい=おぞましい、みっともない、悪い / おぞうてもええで=おぞましくてもいいから ]
ひなまつりのわらべ歌で、これを歌いながら家々を訪問します。  
 
石川

 

流す涙は何のため 恋せと歌う子守唄 能登は冬です
橋を渡れば 香林坊 あなたの背中に あゝ雪が降ります 金沢の夜
庇って嘘をつき通す あゝ金沢の格子窓には なみだ雪
未練な奴と 能登の岬よ ああ日本海 なまり色した ああ日本海
抱いてくれますか 寒い心が寒い 女ひとりの 能登の能登の旅です
すべて投げ出し馳けつける あなたあなたたずねて行く旅は 夏から秋への能登半島
遊ばせ唄
ゆんべ夢みた
昨夜夢見た 地獄の夢や
鬼が餅つきゃ 閻魔さんがちぎる
鼻欠け地藏が 食いたがる
われも食いたけりゃ てったいせえ
てったいしょうにも たすきがない
隣行って借ってこい
隣の婆々はお茶婆々
かき餅焼くてて へそ焼いて
その手でお釈迦の顔なでた
お釈迦臭いてて 鼻つまんだ
泣いた権兵衛
泣いた権兵衛ァどこ行った
天竺山へ飛んでった また来て笑ろた
泣ァくみ泣ァくみ
泣ァくみ 泣ァくみ かすくれ
かす五合持たいて 牛蒡の葉で包んで
線香で荷のうて 長屋のあっち
放いやれ放いやれ
手ってのねずみ
手ってのねずみ はしかいねずみ
麦食て 藁食て 米食て
コチョコチョコチョ
一升ま二升ま
一升ま二升ま ますん底ァ抜けた
「ドサーン」
寝させ唄
ねんねの母は
ねんねの母は どこ行った
からすの山へ 飯炊きに
飯が煮えたら はよござれ
赤いお椀に 飯よそて
白いお皿に 魚よそて
母のみやげは なんじゃいの
ピッカラガラガラ 笙の笛
鳴らいてみたらば 鳴らなんだ
寝せよ寝せよ
寝せよ寝せよ 寝せよ寝せよ
ねんねの守りゃ どこ行った
下坂越してィ 里行った
里のみゃあげは なんじゃった
元結一把に 紙三帖
寝せよ寝せよ 寝れば子も楽守りも楽
ベロロンサイコ
ベロロンサイコ トコサイコ
ねんねの守りゃ どこ行った
山山越えて 里行った
里のみやげに 何もろた
ピッピャ ガラガラ 笙の笛
ベロロンサイコ トコサイコ
とことこ山の あちらには
仏たちが まいられる
何を着せて まいられる
絹や小袖を 織り着せて
ベロロンサイコ トコサイコ
旅の人 石を枕にしゃっしゃるな
死んだ人こそ 石枕
石を枕に せんもんじゃ
ねんねこうこ
ねんねこうこ
ねんねの守りは どこ行った
あの山越えて 里行った
里のみやげは なんじゃった
赤いお椀に 飯よそて
菜はなんじゃ かっつを汁
箸はなんじゃ やなぎ箸
柳が折れたら あさぎ箸
あさぎが折れたら 竹の箸
ねんねの寝た間に 1
ねんねの寢た間に 何をやろ
さかずき持って来い 酒飲ます
酒のお菜は なんじゃった
牛蒡三切りに 鮒三切り
ねんねの寝た間に 2
ねんねの寝た間に オロロコしょう
ねんねの寝た間に まんま食ってよう
ねんねの寝た間に 縄ぬってよう
ねんねの寝た間に 寝間衣逢ってよう
ねんねの寝た間に 米搗いてよう
ねんねの寝た間に 頭髪結ってよう
わらっち子どんども
わらっち子どんども 花折りに行かんか
今朝の寒いに 何花折りに
ぼたん しゃくやく 菊の花折りに
一本折っては 腰にさし
二本折っては 笠にさし
三本折るまに 日が暮れて
あっちの小屋に 泊まろうか
こっちの小屋に 泊まろうか
中の小屋に 泊まろうか
あっちの小屋は 餅つきで
こっちの小屋は すす掃きで
中の小屋に 泊まったら
のみは喰うし しらみは喰うし
蓆ははしかし 夜はながし
朝はよ起きて 空見たら
雛のような 女郎たちが
笹色の着物きて 笹色の帯して
笹色の草履はいて
あっちいようらり こっちいようらり
きんちゃく一匹拾うた
くれっていうても くれんがな
かせっていうても かしんがな
甘酒いっぱい飲まいたら ちょろりと寄越いた
ねんねんころれよ
ねんねんころれよ ねんころれ
ねんねのおかかあ どこ行った
越後(いちご)の山へ 花折んに
一本折っては 腰にさし
二本折っては 前にさし
三本目に 日が暮れて
からすの宿に 宿とろか
からすの宿は きたないし
すずめの宿に 宿とろか
すずめの宿も きたないし
とんべの宿に 宿とろか
とんべの宿も きたないし
まあやの宿に 宿とろか
まあやの宿に 宿とって
朝ぎり起きて 空見たら
赤い上臈(じょうろ)と殿様と
黄金(こがね)の銚子に 酒ついで
まいらんか まいらんか
太郎兵衛も次郎兵衛も まいらんか
さかなが無あて まいられん
お前のさかなは なんざかな
にんじん こぼう やまいもで
いしなの孫の さざえで
煮ても焼いても 食われんぞ
ねんねのちゃあちゃあ
ねんねんころりよ おころりよ
ねんねのちゃあちゃあ どこ行った
とおちの浜へ 魚買いに
ねんねのじゃあま どこ行った
ねんねのじゃあまは 花折りに
一本折っては 腰にさし
二本折っては 腰にさし
三本目に 日が暮れた
どこのお宿に 泊まろやら
ねんねんねんねん ねんねこせ
ねんねんねんねん ねんねこせ
金が湧くてて
ねんねんころりよ おころりよ
ねんねのお守りは どこ行った
金が湧くてて 金山へ
一年たっても まだござらん
二年たっても まだござらん
三年目に 状が来て
状の封を といて見たら
三人の子供は 同道した
ひとりは おっさまに預けます
ひとりは おばさんに取らします
姉御は縁に つきました
縁につきたる この子には
赤いたんすも 七たんす
白いたんすも 七たんす
赤い小袖も 七重ね
白い小袖も 七重ね
帯やたぐりは 十二筋
席駄や木履は 十二足
鋏や毛抜きは 十三丁
これこれ持たせて やるからにゃ
出ては来るなよ 出されるな
おっかさん それは無理ですよ
出ては来まいと 思えども
千石積んだる 大船でも
港を出るときゃ まともでも
風の吹きよで 出てもどる
ねんねんころりよ おころりよ
りんかじんと
ねんねんころりよ おころりよ
隣家人と我家人と
談するところを 聞すれば
旅僧殺すと 言すなり
山に山を 重ぬべし
草の上の草を取り
ねんねん ねんころりよ おころりよ
守り子唄
思いきりゃんせ
思いきりゃんせ 牧山の太郎兵衛
 死んだおなべが 泣きゃ来るか
泣いてくれるな 親ない子供
 親はござれど 極楽に
からすなんで鳴く 女郎屋の屋根に
 金も持たずに カオカオと
鳴くはにわとり 騒ぐはからす
 泣けば餌差が さしにくる
 子守りかわいや 冱寒の冬も
ねんねこ寝まっしゃれ
ねんねこ寝まっしゃれ 寝た子はかわい
 起きて泣く子は 面憎い
兄さまいらしたか 足の湯を取ろか
 酒の燗しょか 床取ろか
あんにゃまあんにゃまと 呼ばるは誰だ
 連れのあんにゃまか あねさまか
坊さま山道 破れた衣で
 行きつもどりが 気にかかる
こんな家には 二年とおれぬ
 悪童痛める 女郎せせる
七つ八つから
七つ八つから 子守りに出たら
 悪童痛める 女郎せせる
親のない子の あのざま見され
 裾を結んで 肩に掛け
こんこん今夜は はやおか祭り
 しもて行くわいね 親のそば
こんな泣く子の 守り子さいやや
 泣いて泣きつく 郵便箱
泣いて泣きつく 郵便箱に
 親の便りを 聞きたさに
今年ゃこうでも 来年からは
 好いた兄さまと 田んぼする
ねんにゃ泣く役 守りゃすかす役
 せめて片親 ござりょよい
ねんにゃ泣く役 守りゃすかす役
 巡査在所を 廻る役
守りというもな あわれなもんや
 盆と祭りに ただ半日
おっちゃかわいもな
おっちゃかわいもな 蚕の虫や
 衣装はがれて まるはだか
雨の降る時ゃ にわとりかわい
 人の軒端に しょぼしょぼと
わが子かわいけりゃ 子守りまでかわい
 抱きたいわの 守りともに
おっちゃ死んだてて 誰ゃ泣いてくりょや
 山のからすと 親ばかり
じんじいばんばあ
じんじい ばんばあ けんどんや
なんば 百三文や
ねんねんねんね
ねんねんねんね
ねんねの子守りは つらいもの
親にしかられ 子に泣かれ
ひとには身楽と 思われて
ひとの軒端に 日を暮らし
ねんねんねんね 

 

金沢のわらべ唄
「大黒様という人は」(お手まり数え唄)
大黒様という人は
一に俵を踏んまえて 二ににっこり笑うて
三に盃引き受けて 四つ世の中良いようで
五ついつもの如くで 六つ無病息災で
七つ何事無いようで 八つ屋敷を広げて
九つ小蔵をぶっ建てて 十でとうとう治まった
「社寺づくし」(お手まり数え唄)
一番はじめは一の宮 二は日光東照宮
三は讃岐の金比羅さん 四は信濃の善光寺
五つ出雲の大社(おおやしろ) 六つ村々鎮守様
七つ七尾の天神さん 八つ八幡(やわた)の八幡宮
九つ高野の弘法様 十で東京招魂社
[ 「七つ七尾の天神さん」は松尾天神社で、「八つ八幡の八幡宮」は当波自加弥神社を指し、「十で東京招魂社」は靖国神社のことです。]
「今度ひとたび」(説教唄)
今度ひとたび初事に 阿弥陀如来にお手まりもろた
もろた手まりの味わい聞けば
若(じゃく)不正者の綿くずつめて 四十八願千鳥掛け
衆生(ししょう)かわいとせめてもみたり 
衆生かわいとゆるめてみたり
せめてゆるめたお慈悲でござる
内でついてもありがたや 外でついてもありがたや
さあ、皆さん つくまいか
スットントン スットントン
[ 衆生 / 仏教用語で「老いも若きもすべてを生きる者の意」。真宗王国と呼ばれる石川県にふさわしい手まり唄である。]
「魚づくし」
トントンとなりの魚屋さん お魚づくしのお正月
明けて元旦お目で鯛 真っ黒鮪(まぐろ)の紋付きに
仙台平目のお袴で 烏賊(いか)にも立派な旦那鰤(ぶり)
出入りの大工や飛びの魚(いお) 朝から年始の車鯛(だい)
魴鯡(ほうぼう) 秋刀魚(さんま)のご馳走(ちそう)で
さめるまもなく屠蘇機嫌(とそきげん)
[ 「仙台平目」は仙台平の袴に、「烏賊に」は如何に、「旦那鰤」に振りを、「飛び魚」は鳶職に、「車鯛」は来るに、「魴鯡」は方々にそれぞれかけている。]
「おじゃみ唄」(お手玉)
おじゃみ おふたおふた おみいおみい
おようおよう なってくりょトントン
おじゃみ桜 おふた桜々 おみい桜々
およう桜してし桜 おななさあらり
一つおのけおのけた
二つ   〃
三つ   〃
おようおのけしてしのうけ
おみつこぼうした 抓めった抓めった抓めった抓めった
ばらりキンドン 馬の金玉ほうり上げて 一貫しょ
はじかみ神主のぶろぐ
「おはじき唄」(数え唄)
いちじく 人参(にんじん) さんしょう しいたけ ごんぼう(牛蒡)
むかご 七草 山百合(やまゆり) くわい(慈姑) 豆腐(とっぴ)
はじかみ神主のぶろぐ
「ハコダテコノゴロ」(字書き唄)
ハコダテ コノゴロ
ダゴクテ テロテロ
はじかみ神主のぶろぐ
[ 縦から読んでも、横から読んでも、「函館 この頃 団子食って テロテロ」という訳である。]
「ミミズが三筋」(蛸入道・絵かき唄)
みみずが三筋這うとった 
卵が三つ落ちとった
雨がザーザー降ってきた 
笠をかぶると蛸(たこ)になる
はじかみ神主のぶろぐ
「兄ちゃんが」(あひるの子)
兄ちゃんが〔アラビア文字の2〕 
豆食って〔黒い目を書く〕
口をとんがらせてアヒルの子
はじかみ神主のぶろぐ
「正月つぁま」 (鳳至郡能都町)
正月つぁま 正月つぁま どこまでござった 
くるくる山の 背までござった 
松の葉を杖にして 豆腐を下駄にして 
チョーン チョーンとござった 
高の天井の串柿 縁の下のごんぼ 
食べれや まいじょ まいじょ 
 
富山

 

愛しいお前 離しはしない 雨 ことだまの 雨 銀の雨 濡れて高岡
出船せつない新湊 一目逢いたい内川の 灯り恋しい神楽橋
大漁節で 龍神呼んで 嵐の寄せ場へ 越中船だ
遊ばせ唄
たんたんたぬきの
たんたんたぬきの 運動会
すべってころんで げったくそ
それを見ていた 親だぬき
おなかをかかえて わっはっは
寝させ唄
ねんねんこっこ
ねんねんこっこ ねんこっこ
おらっちのぼぼさに だりゃかもた
春日の小寺の でちゃかもた
あとから来たやっちゃ こすにいれ
てんもくやいと しているぞ
ねんねんこっこ ねんねんこっこ
ねんこっこ
いま泣いたもんな
いま泣いたもんな だるじゃ
牛の甲に乗せて 山へぼいやれ ぼいやれ
   いま泣いたもんな だるじゃ
   鯉の背に乗せて 川へぼいやれ ぼいやれ
ねんねんころりん
ねんねんころりん ねんねんころりん
おうちの大事な子 だりゃかもた
誰もかまわん ただ泣いた
ねんねせいや ねんねせいや
ねんねんころりや
ねんねんころりや おころりや
坊やはよい子だ ねんねしな
ねんねの子守りは どこへ行った
あの山越えて 里へ行った
里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
鳴らいてみたら よく鳴った
それを鳴らいて ねんねこせい
ねんねんころりや おころりや
坊やはよい子だ ねんねしな
赤いお椀に ままよそて
白い椀には ととよせて
ねんねんころりや ねんころり
おろろわいや ねんねこや
大事なちょこまに だりゃかもた
ねんねんおろろわいや
ねんねんおろろわいや おろろわいや
はなちゃんの子守りは どこへ行った
あの山越えて 里へ行った
里のみやげに なにもらった
でんでん太鼓に 笙の笛
おきゃがりこぼしに いぬ張り子
鳴らいてみたなら よく鳴った
ねんねんねこじまの やぐらおとめ
おとめが大きくなったら 江戸へやろ
江戸ではちんちん ちんちどり
田舎じゃ菜種の 花ざかり
ねんねやねんね
ねんねやねんね
ねんねのお守りは どこに行った
あの山こえて 里に行った
里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
ねないかねないか このまめちゃん
精だいてねられんか このまめちゃん
ねんねやおろろわい
ねんねや おろろわい
ねんねや おろろわい (繰り返す)
泣くなや泣くなや
泣くなや泣くなや すずめの子
泣くと餌差が とりにくる
おんねこさんねこ
ねんねこ さんねこ 酒屋の子
いっぱい飲んだら きげんじゃ
にはい飲んだら よたよたじゃ
ねんねや おろろばい
ねんねんや おろろばい
おお泣かれんど
おお 泣かれんど 泣かれんど
おっか おっか ござらんか
おっかも とっとも ござらんか
日が日が 暮れるぞ
山から犬が 出てくるぞ
笹の葉が まねくぞ
はようはよらと ござらんか
ねんねんこいこい
ねんねん こいこい
ねんねの子守り どこ行った
山こえて 里へ行った
里のみやげに なにもろた
ねんぶりこに 風車
赤いつぼに ままよそて
白いさらに ととよそて
した汁かけて そろそろと
富山の子守唄 (富山民謡)
ねんねんや おろろわい
おろろわいや ねんねこせ
ねんねのお山の 子兎は
泣かずにねんねん ねんねこせ
ねんねのお山を こえる時
東を見ても 松ばかり
西を見ても 松ばかり
雪にふられた 松の葉は
銀の縫い針 仕掛け針
振りの小袖を しゃなしゃなと
ねんねのお山を とろとろと
おろろわいや ねんねこせ 

 

富山の薬売り
   越中富山の薬売り 鼻くそ丸めて万金丹
   それを買うのが あんぽんたん
   それを飲むのも あんぽんたん
万金丹(まんきんたん) / 伊勢の国、朝熊山で作られた薬で、胃腸病、解毒に効く妙薬とされました。その薬の色、形が、鼻くそを丸めた感じに似ていたらしいです。昔の薬の原料は、いかがわしいものが多かったため、売薬に対する不信感、かなりいい加減なものではないかと疑いが生じ、「万金丹」として売り歩いているが、実は鼻くそを丸めたものではないかと茶化している。 
富山の薬売り 1
富山から日本全国の家庭へ配置家庭薬を行商に回る人、あるいはその行為をいう。後者は越中(えっちゅう)売薬あるいは富山売薬ともよばれる。越中売薬は、富山藩第2代藩主前田正甫(まさとし)に始まるとされる。前田正甫は生来病弱で、幼いころから医薬に対する関心が強い人であった。17世紀の末、正甫は当時の岡山藩医万代浄閑(ばんだいじょうかん)(常閑)から「反魂丹(はんごんたん)」の処方を伝授され、この薬方が非常に功を奏したことから、藩の事業として各地に行商させることにしたという。当初は町役所の総曲輪(そうがわ)で売薬商の取締り管理をしていたが、のちに同役所内に反魂丹役所が設けられ、藩の財政も大いに潤ったと伝えられる。行商の方法は、現在とほぼ同様の配置販売方式がとられた。すなわち、各家庭にあらかじめ薬を置いておき、年に一度か二度、家庭訪問し、使用された薬の代金のみを受け取り、使用分を再度補充する、いわゆる「先用後利」の方法である。家庭訪問に際しては、配置員(売薬人)が子供への土産(みやげ)(角(かく)風船や売薬版画)や各地のニュースを運んでくるため、たいへんに喜ばれた。また、藩としても配置員の教育には力を入れ、まじめで信頼できる人材の養成に努めた。
富山売薬は現在も行われており、配置薬の種類はかぜ薬、胃腸薬、膏薬(こうやく)などのほか、近年では応急バンドテープやドリンク剤なども加わり、その配置品目は増えている。なお、顧客名簿である「懸場(かけば)帳」は売買の対象ともされる。 
富山の薬売り 2
古くから富山県にある医薬品配置販売業の通称である。
薬種商の始まりは室町時代とされる。中原康富の『康富記』(1455年)の1453年5月2日(6月17日)の条に「諸薬商買の千駄櫃申し間事談合とするなり。薬売るもの施薬院相計る所なり。」と書いてある。また、『御府文書』には1460年に京都の四府賀興丁座の中に薬品類を商いする商人がいたことが記されている。
富山で薬種商が始まったのは16世紀中ごろ、越中に薬種商の唐人の座ができたことである。17世紀初期から中ごろにかけて丸剤や散剤を製薬する専業店が現れる。開業当時は薬種販売のみを行い、それから製薬業に移ったと思われる。
1639年に加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代・江戸幕府の委託事業、生産性の低い領地、などの要因で財政難に苦しめられていた。そこで富山藩は本家の加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために産業を奨励した。そのひとつに製薬(売薬商法)があった。
17世紀終期、富山藩第2代藩主・前田正甫が薬に興味を持ち合薬の研究をし、富山では最も有名な合薬富山反魂丹(はんごんたん)が開発された。これが富山売薬の創業とされる。しかし、この頃既に反魂丹は存在し、生産の中心地は和泉国(現在の大阪府)であった。1690年に江戸城で腹痛になった三春藩主の秋田輝季に正甫が反魂丹を服用させたところ腹痛が驚異的に回復した、とされる「江戸城腹痛事件」という巷談がある。このことに驚いた諸国の大名が富山売薬の行商を懇請したことで富山の売薬は有名になった、とするが、この腹痛事件に史料的な裏付けは無い。ともあれ正甫は領地から出て全国どこでも商売ができる「他領商売勝手」を発布した。さらに富山城下の製薬店や薬種業者の自主的な商売を保護し、産業奨励の一環として売薬を奨励した。このことが越中売薬発生の大きな契機となった。
18世紀になると売薬は藩の一大事業になり、反魂丹商売人に対する各種の心得が示された。この商売道徳が現在まで富山売薬を発展させてきた一因であるとされる。藩の援助と取締りを行う反魂丹役所、越中売薬は商品種類を広げながら次第に販路を拡大していった。
明治になって漢方医学の廃止とともに富山売薬が苦境に立たされるが、配置家庭薬業界は結束して生き残りを図ろうとした。1886年には輸出売薬を開始した。明治の末期から大正にかけて輸出売薬は大きく伸び、中国・アメリカ・インドなど数多くの国と交流があった。大正の初めにはピークに達し、日貨排斥運動が活発だった中国市場の8割強が輸出売薬に占められた。
20世紀に入ると売薬に関する制度や法律が次々と整備された。1914年には売薬の調整・販売が出来るものの資格・責任を定めた「売薬法」が施行され、1943年に品質向上確保のため医薬品製造はすべて許可制とする「薬事法」となった。さらに1960年には薬事法が改正され、医薬品配置販売業が法文化された。
商法
先用後利
先用後利は「用いることを先にし、利益は後から」とした富山売薬業の基本理念である。創業の江戸時代の元禄期から現在まで脈々と受け継がれている。始まりは富山藩2代藩主の正甫の訓示「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ。」と伝えられている。
創業当時、新たな売薬販売の市場に加わる富山売薬は他の売薬と同一視されないような販売戦略をしなければならなかった。当時は200年にわたる戦国の騒乱も終わり江戸幕府や全国の諸藩は救国済民に努め、特に領民の健康保持に力を入れていた。しかし疫病は多発し、医薬品は不十分だった。医薬品販売も室町時代から続く売薬はあったものの店売りは少なく、薬を取り扱う商人の多くは誇大な効能を触れ回る大道商人が多かった。またこの時代、地方の一般庶民の日常生活では貨幣の流通が十分ではなかった。貨幣の蓄積が少ない庶民にとって医薬品は家庭に常備することはできず、病気のたびに商業人から買わざるを得なかった。
こうした背景の中で医薬品を前もって預けて必要な時に使ってもらい、代金は後日支払ってもらう先用後利のシステムは画期的で時代の要請にも合っていた。
「薬は原価が10%で利益が90%だ」という意味で「薬九層倍」(くすりくそうばい)とも揶揄されたのだが、利益が大きいこと、運ぶものが軽いことなどが先用後利を成功させた。
配置販売
配置販売は富山売薬の営業形態となっている。消費者の家庭に予め医薬品を預けておき半年ごとに巡回訪問を行って使用した分の代金を受け取り、さらに新しい品物を預けるシステムである。薬事法では医薬品の小売を店頭販売と規定し消費者が転売することを禁じているため、「決まった消費者のもとで配置という形の陳列販売をしている」と解釈されている。また預ける医薬品や配置員も許可制で代金は使用された後に受け取ることになっており、他の小売販売のように現金販売はできない。
懸場帳
置き薬業者が回る地域を「懸場」(かけば)と呼び、その地域の顧客管理簿や得意先台帳のことを懸場帳(かけばちょう)といった。懸場帳は優良な顧客、売れた薬の種数、家族構成、そして集金が書かれ、再訪問する際の服用指導や情報提供にも役に立ち、商売の管理に欠かせないものであった。データベースの奔りともいえ、家庭のデータだけでなく、さまざまなデータを合わすことで、お見合いなどの資料にもなった。他業者の懸場帳はそれがあれば誰でも他業者の集金高に近い売上高(貫高)が得られるため、のちには懸場帳自体が財産価値を持ち、業者間で多額の金額で取引されるようにもなった。
懸場帳を扱った作品は、小説に『蜃気楼』(内田康夫)、テレビドラマに「水戸黄門」第25部の24話(1997年6月9日放送)、「裸の大将放浪記」など、漫画には「買厄懸場帖 九頭竜」(石ノ森章太郎)がある。数えられないほどの映画にも出てきて、推理映画の場合は、事件のヒントを与えることが多い。
おまけ(おみやげ)
富山の売薬の1つの特長としておまけ(おみやげ)を渡すことがあげられるが、江戸時代後期から行われているおまけで人気があったのが、富山絵(錦絵)と呼ばれた売薬版画(浮世絵)で、歌舞伎役者絵、名所絵(風景画)、福絵などいろいろな種類が擦られ全国の家庭に配られた。そのほか紙風船をはじめ、「食べ合わせ」の表や当時の歌舞伎の情報や、紫雲英の種など軽いものを中心に日本中に配った。また上得意には、輪島塗や若狭塗の塗箸、九谷焼の盃や湯飲みなどをおみやげとして渡していた。現在もおまけは渡しているが、高級品の進呈は業界の取り決めによりほぼなくなっている。
北原照久は『「おまけ」の博物誌』(PHP新書)で「おまけ」のルーツを求め、「富山が生んだ日本初の販促ツール」という一章を設けている。
また、「庶民哲学」のような言葉を広めたとされる。例えば、「高いつもりで低いのが教養 低いつもりで高いのが気位 深いつもりで浅いのが知識 浅いつもりで深いのが欲の皮 厚いつもりで薄いのが人情 薄いつもりで厚いのが面の皮 強いつもりで弱い根性 弱いつもりで強い自我 多いつもりで少ない分別 少ないつもりで多い無駄」などである。 
 
福井

 

生きる支えの 扇の要 いいえ 昔は昔 今は今 越前雪舞い おんな舞い
洗い流してしまうまで 噫々ーあーここは 北陸越前岬よ
愛の苦しさ わかってくれた わたしの越前 冬の海
ひとり紅ひくとまり木で 春を待ちます 春を待ちます 越前岬
何もかもあの人に捧げてた 恋をふりきる 恋をふりきる 若狭の宿よ
好きなあなたの 寝顔をながめ 夢で花咲け 若狭の春よ
船にのせれば 空似の女の 細い衿あし 濡らす若狭の 小夜しぐれ
越前岬は今も 昔のままだろか 男と女の男と女の 哀しみ織りなす 螢川
寝させ唄
ねんねんや 1
ねんねんや おべどこじゃ
ねんねの寝たまに まま吹いて
赤い茶碗に ままよそて
白いお皿に ととよそて
ねんねが起きたら 食わしょかな
ねんねんや 2
ねんねんや おべろんや
ねんねの寝たまに まま吹いて
赤い茶碗に ままよそて
白いお皿に ととよせて
起きたらあげるで ねんねしな
ねんねんや おべろんや
おべろんや 1
おべろんやァ ねんねんや
ねんねの寝たまに まま炊いて
それをあげるで ねんねしな
おべろんやァ ねんねんや
おべろんや 2
おべろんやァ ねんねんや
ねんねのお守りは どこへ行た
あの山越えて 里へ行た
里のみやげは なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
それをあげるで ねんねしな
おべろんやァ ねんねんや
ねんねんよ
ねんねんよ ねんねんよ
しなさいな
よい子のお守りは どこ行た
あの山越えて 里へ行た
里のみやげに なにもらた
でんでん太鼓に 笙の笛
一本もろても 笙の笛
二本もろても 笙の笛
ねんねしなされ 1
ねんねしなされ ねた子はかわい
起きて泣く子は つらにくや
ねんねしなされ 2
ねんねしなされ 今日は二十五日
 あすはこの子の 誕生日
誕生日には 豆まま炊いて
 一生この子の まめなよに
ねんねしなされ ねた子のかわさ
 おきて泣く子の つらにくさ

 

わらべ唄
福井の子守唄
ねんねしなされ 今日は二十五日
あしたはそろりと 宮まいり
宮へ参って 何といって拝む
この子一代 まめなように
明日はこの子の宮参り
ねんねねさいませ 今日は四十九日
明日はこの子の 宮参り
宮さまへ参って どないいうて拝む
この子息災 まめなように 
蛍来い
蛍来い(来い) 飛んで来い 
うちわをあげたら 飛んで来い 
笹を振ったら 飛んで来い 
来たら だいじにしてあげよう
2
蛍来い 飛んで来い 
団扇を上げたら 飛んで来い 
さァさ煽ったらとんで来い
3
蛍来い 飛んで来い 
お家は綺麗な蛍篭 
御馳走しましよ 草の露 
ピカピカピカと灯をともせ 
 
三重

 

一度食べていかんかね 海女のふるさと志摩半島
キラと散る涙 きみには白い真珠をだいた 旅をあげたい 鳥羽の海
遊ばせ歌 
かいぐりかいぐり
かいぐりかいぐり とっとのめ
ひじポンポン 頭テンテン
あかぺっかんこう 
頭の上に
頭の上に 豆さんをのせて
のるかのらんか 当ててみよ
障子の穴から 天のぞく 
寝させ歌 
ねんねんよう
ねんねんよう よう おころりよ
ねんねんよう よう おころりよ 
ねんねこさんねんこ
ねんねこ さんねこ 酒屋の子
さかずき持てこい 酒飲もに
酒はからいで あもを出せ
あもはかったい 焼いて出せ
焼いたらきなこを つけて出せ
ねんねん ヨイヨー 
ねんねん猫島の
ねんねん猫島の ちんちら乙女
 乙女いなくなりゃ 江戸へやる
江戸じゃちりちり ちりめん育ち
 田舎じゃもめんの 紺しぼり
泣くんじゃ泣くんじゃ 泣くんじゃないよ
 ねんねしなよ ねんねしなよ 
富士山の山へ
富士山の山へ 花折りに
一本折って 腰にさし
二本折って 腰にさし
三本目に 日が暮れて
西の庄屋に 泊まろうか
東の庄屋に 泊まろうか
西の庄屋に 泊って
朝起きてみたら
大黒さんと いう人が
一で 俵をふんまえて
二で にっこり笑って
三で さかずきさしようて
四で 世の中よりようて
五つ いつものごとくに
六つ 無理ないように
七つ 何事ないように
八つ 屋敷をひろげて
九つ 小言ないように
十  とうとうおさまった 
この子よい子だ
この子よい子だ ねんねをなされ
ねんねねんねと 泣く子はきらい
泣いてなみだ 流さぬものは
千両役者か 鳥の打ち ヨイヨー 
つうねん坊子守歌
かくれん坊につうねん坊に ぬけがみや
鐘のよぼせの 禅寺坊
ねずみが爪つんで羽つんで 立ち上がる 
ねんねころいち 1
ねんねころいち 竹屋の与市
 竹を揃えて 竹を揃えて 舟に積む
舟に積んだら どこまで行きゃる
 池は野方の 池は野方の 橋の下 
ねんねころいち 2
ねんねころいち 竹屋の与市
 竹をそろえて 舟に積む ヨイヨー
早くねさんせ 子のない人よ
 猫を子にして 抱いて寝る ヨイヨー 
ねんねころいち 3
ねんねころいち 竹屋の与市
 竹を揃えて 竹を揃えて 舟に積む
舟に積んだら どこまで行きゃる
 池は野方の 池は野方の 橋の下 
お月さんなんぼ
お月さんなんぼ 十三一つ
そりゃ まだわかいな
帯買うて あげよか
たすき買うて あげよか
たすきの中から お息子がでけて
だれに 抱かそ
おまんに 抱かそ
おまんは どこ行た
川原の溝へチャブチャブしに
わたいも行きたい チャブチャブや 
ねんねんころりや
ねんねんころりや おころりや
 坊やはよい子だ ねんねしな
坊やのねんねを してる間に
 赤いままちゃんを 吹いといて
白いままちゃんも 吹いといて
 ふくめてふくめて みな食わそ 
伊賀の子守歌
ねんねしなされ ねた子がかわい
 ねんねせん子に ねんねせん子に 縞のべべ
縞のべべ着てどこ行かりょかな
 赤いべべ着て 赤いべべ着て のの参り
ののへ参ったら なんと言うておがむ
 一生この子の 一生この子の まめなよに 
「べべ」は「着物」、「のの」は「神様、神社」の幼児語。「まめなよに」は「健康ですこやかに」の意。伊勢参りの土地柄にあっては、生まれて間もない子どもも赤いべべを着て宮参りする風習があった。「赤いべべ」「縞のべべ」と子守唄に詠み込んでいるのも東海・北陸地方がその東限で、近畿以西の特徴になっている。 
長島の子守歌
バーバーバー 晩に寝てバー
朝起きてみたら お宮さんの裏に
かなつぶ一羽 シャクリコ シャクリコ
おしゃまめ くりくり
バーバーバー 晩に寝てバー
朝起きてみたら 美しい小女郎が
さかずき持って 立っとる
一杯飲まんせ 上戸さん
二杯飲まんせ 上戸さん
三杯目には なぜあがらん
肴がないので 飲まれんか
うぐい三つ 鯉三つ
それではねたら ピンとせ 
阿山の子守歌
うちのこの子に 赤いべべ着せて
つれて参ろか つれて参ろか ののさんへ
ののへ参ったら なんと言うておがむ
一生この子の まめなよに
まめで来たかよ まめで来たかよ 小豆で来たか
わたしゃえんどで こけて来た
   うちのこの子は かしおでござる
   だれも阿呆やと だれも阿呆やと 言うてくれな
   だれも阿呆やと 言わせんけれど
守りが阿呆やと 言うて泣かす
ねんねした子に ねんねした子に 赤いべべ着せて
ねんねせん子に 縞のべべ 
新所の子守歌
ねんねねんねと ねた子はかわい
 起きて泣く子は つらにくい ヨイーヨー
ねんねねぶたい 姉さんとねたい
 わたしがママなら ねさすのに ヨイーヨー
かわいこの子の いまねるさいちゅう
 だれもやかまし 言てくるな ヨイーヨー
あすはこの子の 誕生日です
 わしによく似た ややだいて ヨイーヨー 
藤原の子守歌
ねんねんころりよ ねんころり
今日は二十五日
 明日はこの子の 誕生日
誕生日には 餅して祝う
 餅はなに餅 あーき餅
あーき餅さん 棚から落ちて
 赤い顔して けろけろと
 赤い顔して けろけろけろと 
一志の子守歌
ねんねをせえ もうたをせえ
ねんねをした 留守には
赤い飯を 吹いといて
白い飯も 吹いといて
となりの子にも ひと口よ
うちの子にも ひと口よ
ひと口ふた口 残って
うらの火棚へ あげといて
となりの猫に ぬすまれて
腹立ちや 腹立ちや
それに腹が 立つならば
むらさき川へ とびこんで
下から小はえが つづくやら
上からとんびが つづくやら
つづけ つづけ
柳のもとまで つづかれや 
守り子歌 
松阪の子守歌
この子よい子や ぼた餅顔や
 黄粉つけたら なおよかろ ヨイヨー
こんな泣く子は よう守りせんで
 おひまおくんな 旦那さん ヨイヨー
旦那さんより 奥さんこわい
 白目黒目で にらまんす ヨイヨー
守りよ子守りよ ひのこえ守りよ
 うちをのぞくと 子が泣くぞ ヨイヨー
この子泣くので さんどの飯も
 胸につまりて しゃくとなる ヨイヨー
守りよ守りよと あなどりなさる
 守りといえども 人の子じゃ ヨイヨー
こんなよい子を だれもけなした
 お父さんとお母さんが してもけなした ヨイヨー 
員弁の子守歌
ねんねしなされ ねる子はかわい
 起きて泣く子は つらにくい ヨイヨー
西の町から 東の町まで
 うとて歩くは 守りの役 ヨイヨー
ねんねしなされ お母さんは里よ
 お父は京へ 銭もけに ヨイヨー
泣くでないぞよ 泣く子はきらい
 泣くとお鷹が 食いに来る ヨイヨー
お前泣いても おしゅうさえ帰りゃ
 七つ下がれば ひまが出る ヨイヨー 
この子よう泣く
この子よう泣く よう守りせんで
 ひまをおくれよ 旦那さま ヨイヨイ
ひまをやるけど かわりを立てよ
 かわり立てます 男守り ヨイヨイ
男守りでは 子があぶないで
 せめておんなの 十二三 ヨイヨイ 
片田の子守歌
守りや守りやと 軽蔑するな
 守りがなければ 育たせぬ
寝てけ寝てけと 尻たたかれて
 寝てもいかりょか たたかれて
守りを悪すりゃ 子にこそ当たれ
 守りも世間の 人の子や
この子泣くので 三度の飯も
 胸につかえて ゆでながす
守りよ守りよと 出代わり来たに
 今度おる気かおらぬ気か 
飯高の子守歌
ねんねねてくれ ねた子がかわい
 起きて泣く子は わしゃきらい わしゃきらい
足が冷たい 足袋買うておくれ
 父が帰れば 買うてはかす 買うてはかす
この子よう泣く この鼻小僧
 山のきつねに くれてやる くれてやる
夜のお空を とぼとぼあるき
 お月さまさえ 親知らず 親知らず 
関の子守歌
この子よくねる 宵からねやる
 守りは十時の 鐘を待つ ヨイヨー
守りはいやじゃよ これから先は
 雪はちらつく 宿はなし ヨイヨー
守りは楽そで つらいものじゃよ
 さらばさらばの いとまごい ヨイヨー 

 

子どもの遊び 
一で伊勢の大神宮
一で伊勢の大神宮  二で日光東照宮
三で讃岐の金比羅さん  四で信濃の善光寺
五つ出雲の大社  六つ京都の六角堂
七つ奈良の春日さん  八つ八幡の八幡さん
九つ小倉の権現時  十でいっこんかしまーした。
一番はじめは一の宮
一番はじめは一の宮  二は日光東照宮
三は佐倉の宗五郎  四はまた信濃の善光寺
五つ出雲の大社  六つ村々鎮守様
七つ成田の不動さん  八つ大和の法隆寺
九つ高野の弘法さん  十で東京の泉岳寺
向こう横丁のお稲荷さんへ
向こう横丁のお稲荷さんへ  一銭あげて
ちょっとおがんで お仙のお茶屋へ
腰をかけたら  渋茶を出して
渋茶よこよこ横目で見たら
お米のだんごか  お土のだんごか
おだんごだんご  このだんごを
犬にやろうか  猫にやろうか
とうとう  とんびにさらわれた
山寺の和尚さんが
山寺の和尚さんが まりはつきたし まりはなし
猫を紙袋にどしこんで ポンと蹴りゃ ニャンと鳴く
ニャンと鳴きや ポンと蹴る オニャニャのニャン
いもにんじさんしょしいたけ
いもいもいもいも にんじにんじいもにんじ
さんしょさんしょいもにんじさんしょ
しいたけしいたけいもにんじさんしょしいたけ
ごんぼごんぼいもにんじさんしょしいたけごんぼ
どんぐり・・・・    七面鳥・・・・
初茸・・・・     栗・・・・
いずれも手まり歌である。これらの歌を一緒に歌いながら、まりをつき、誰が一番長くついていることができるかを競った。 
あんた方どこさ
あんた方どこさ  肥後さ  肥後どこさ  熊本さ
熊本床さ  船場さ  船場山には狸がおってさ
それを猟師が鉄砲でうってさ
煮てさ  焼いてさ  食ってさ
骨を菜の葉で、チョイトかぶせ
同じく手まりつきの歌である。「さ」の時に、その都度片足を上げて、その下へ手まりをくぐらせる。最後の「チョイトかぶせ」では股の間をくぐらせ、「せ」の時に両手を後ろに回して、着ている「はんこ」の裾を持ちあげ、その中へ手まりを包みこんで捕まえた。
高い山から谷底みればの
高い山から、  谷底見ーればの
瓜やなすびの  花ざかりよ
はりわいどんどんどん  これわいどんどんどん
本来は、大人たちが歌った地つき歌であったが、それを真似した子どもたちが、盛んに歌ったものである。女の子たちがまりつきをする時にも、この歌を歌っていた。
この子器量よし
この子 器量よし 卵に目がある
さぞや お母様うれしかろ・・・・・・・
これも、玉つき(まりつき)の歌である。この後にも文句が続いていたが忘れられてしまった。
郵便屋さん走らんせ
郵便屋さん 走らんせ
もうかれこれ 十二時や (それ)
オイチニ オイチニ オイチニサン
なわとび歌である。「郵便屋さん」から「十二時や」までは、大波小波のやり方で、二人の持ち役が縄を左右に揺さぶり、「それ」で大回しに移り、その中へ一人ずつが次々と入っては跳んで、出ていくという要領であった。
一でたちばな
一で  たちばな  二で  かきつばた
三で  下がり藤  四で  ししぼたん
五つ  飯山の千本桜  六つ  紫桔梗に染めて
七つ  南天  八つ  山吹の
九つ  小梅をちらしゃに染めて
十で  殿様お馬にのーせて
竹に雀は仙台さんのご紋
おしとろろー  おしとろろー
これは、「せっせっせ」と同じやり方で手遊びをする時に歌ったものである。 
おんじょこ歌 1
二月三月花ざかり  うぐいす鳴いた春の日の
楽しい時も夢のうち
五月六月実がなれば  枝からふるいおとされて
近所の町に売り出され  何升何号はかり売り
もとより酸っぱいこの体
塩につかって辛くなり  シソに染まって赤くなる
七月八月  暑い頃  三日三晩の土用干し
思えばつらいことばかり  それも世のため人のため
シワが寄ってもこの私  小さいあなたのお友だち
運動会にもついていく  まして戦のその時は
なくてはならぬこの私  なくてはならぬこの私
おんじょこ歌 2
いちれつだんぱん破裂して  日露戦争はじまった
さっさと逃げるはロシアの兵  死ぬまでつくす日本兵
五万の兵をひきつれて  六人残してみな殺し
七月八月の戦いは  ハルピンまでも攻めいって
クロアパトキンの首をとり  東郷大将ばんばんざい
おんじょこ歌 3
一かけ二かけ三かけて  四かけて五かけて橋をかけ
橋のらんかん手を腰に  はるか向うをながむれば
十七八の姉さんが  花と線香手に持って
姉さん姉さんどこいくの  私は九州鹿児島の
西郷隆盛娘です  わたしは九州鹿児島へ
切腹なされた父上の お墓参りにまいります
上の三つは、いずれも「おんじょこ」をする時の歌である。上手な子になると、この歌を歌いながら、四つも五つもの「おんじょこ」を操ることができた。二番目の歌は、日露戦争の後にできたものと思われるが非常に殺伐とした内容で、現在からすれば少なからぬ抵抗が感じられるのであるが、当時の子供たちが、深い意味は解らないながらも、現実に歌ったものである。一番目の歌にしてもそうであるが、戦争への動きは、当時の子供たちの世界にも色濃く影を落していた。

ひに ふに みに よに いつつ むつ なーや
この とうで 十一 十二 十三 四五六
おくーが 四六で ちゃわん五ん十で
ちやろく七十で ちやくが九十なら この百ほった
  
ひいー ふうー みいー ようー いつー むうー
なな やあー ここで とん(十)を ひいー
ふうー みいー ようー いつー むう なな
やあー ここで 二十を ひいー ふうー みいー
ようー  ・・・・   三十を ・・・・
これも、おんじょこをする時の歌であるが、明治の頃のものというから、前出の歌よりは古いと思われる。  
かごめかごめ
かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀がすーべった
後の正面だあーれ
遊び方は、「中の中の子仏」と同じである。全国的に分布する歌であり、実際に当地でもやられた遊びである。
いもむしこおろころ
いもむし  こおろころ
ひょうたん  ぽっくりこ
集まった子が一列にならんで地面にしゃがみこみ、前の子の腰のあたりをつかむ。そして、この歌を歌いながら、列が切れないように体を左右に揺すって前進するという遊びであった。
タコタコあがれ
タコタコあがれ
天まであがれ
水くんであがれ
凧揚げをする時に歌ったもの。「水くんであがれ」というのは、空中で回転して落下しそうになった凧が再び勢いを増して上昇していく様子が、ちょうど水を汲んで上がっていくように見えたからである。
とっちんかっちん鍛冶屋の子
とっちん かっちん  鍛冶屋の子
はだかで飛びだす 風呂屋の子
これは、短い丸太などを支点にして、その上に板をのせた即席のシーソーをする時に歌った歌である。
子どもと子どもがけんかして 1
子どもと子どもが喧嘩して
親さん親さん腹を立て
人さん人さん寄りおうて
なかなかすまんとおっしゃって
薬屋さんにとめられた
指遊びの歌である。子どもは小指、親さんは親指、人さんは人差し指といった具合に、両手の指を歌の順番にあわせてくっつけていく遊びであった。
子どもと子どもがけんかして 2
子どもと子どもと喧嘩して
親さん親さん腹が立つ
そんなに腹が立つなれば
人さん人さん寄りおうて
長太郎さんの
仲なおり 仲なおり
これも、前出のと同じ指遊びの歌であるが、言い回しが少し違っているし、薬指も抜けている。明治の頃のものである。 
極楽の道 地獄の道
極楽の道
地獄の道 針の山にー
これも、指遊びの一種である。両手の指を組みあわせて裏返し、掌を上に向けると「極楽の道」で、手の甲を上にして十本の指をピンと立てると「地獄の道」になり、立てた指を動かして「針の山やにー」と言って相手をおどした。この他に、人さし指に中指を負わせ、中指には薬指、薬指には小指をといった具合に次々と負わせていく指遊びもあった。こうして出来あがった形が生姜に似ているので、「しょうが、しょうが」と言って、形の比べ合いをした。
子守り歌 1
ねんねころいち 天満の夜市
大根そろえて 舟に積む
舟に積んだら どこまでいきゃる
大阪天満の 橋の下
橋の下には 蛇がおるげなが
こわい蛇じゃげな 嘘じゃげな
ねんねころりよ 天満の夜市
大根そろえて 舟に積む
舟に積んだら どこまでいきゃる
わたしゃ丹波の 橋の下
橋の下には 蛇がおるげなが
それは蛇じゃげな 嘘じゃげな
ネンネン ネンネン ネンネン ネー
ヨイヨイ ヨイヨイ ヨイヨイ ヨー
子守り歌 2
ねんね ねんねと寝る子がかわい
起きて泣く子はつらにくい
ねんねしたなら 赤いべを着せて
明日はこの子の宮まいり
宮へ参ったら 何というて拝も
この子一代 まめなよに
ねんねしなされ 今日は二十五日
明日はお前の宮まいり
宮へ参ったら 何というて拝も
この子一代 まめなよに
ネンネン ネンネン ネンネン ネー
ヨイヨイ ヨイヨイ ヨイヨイ ヨー
子守り歌 3
ねんねころりよ おころりよ
坊やは良い子だ ねんねしな
   坊やのお守りはどこへいた
   あの山越えて 里へいた
里のおみやに何もろた
でんでん太鼓に笙の笛
   鳴るか鳴らんか 吹いてみよ
   鳴ったら寝た子にもろてやろ
ねんねころりよ おころりよ
明日はぼうやの 宮参り
   宮へ参ったら なんというて 参る
   ぼうや一代 まめなよに
白いままも 炊いといて
赤いままも 炊いといて
   くっくめくっくめ みな食わそ
   ねんねしなされ 寝る子はかわい
起きて泣く子はつらにくい
ねんねこしゃっしゃりなー
ねんねんよー
子守り歌 4
ねんねんよいよー ねんねんよいよー
ねんねんころりゃ ねんころやー
ねんねんころりゃ ねんころやー
ねんねんころりゃ ねんころやー
○○のお守りはどこ行った あの山越えて里行った
里のみやげに何もろた でんでん太鼓に笙の笛
でんでん太鼓はどこやった お寺の縁においてきた
お寺のおばさん何してじゃ
   赤っかい頭巾 縫ってじゃった
   ○○にかぶしょ ねんねんよいよー
ねんねしなされ 寝る子は可愛い
背で 子は泣く 日は暮れる
   この子よう泣く ぜんたいよう泣く
   乳がたらんか 乳ばなれか
この子よう泣く いすればだまり
いすり持ちあげ できた子か
   北のはしから 南の町まで
   うとうて歩くは 守りの役
すべて子守り歌である。昔は、男の子も女の子も、小さい弟妹がいると必らず子守りをさせられた。特に、女の子は少し大きくなると、モリコといってよその家の子守りに雇われるものも多かった。だから、遊んでいる時でも、赤ん坊を背なかにくくりつけている子がたくさんいた。いつも赤ん坊を負うている子は、たいてい出っ尻になっていたものだ。モリコにならない場合、9歳になるかならないかで製糸工場へ働きに出た女の子もいた。垂坂の五島製糸や別名にあった森製糸へ雇われていったのである。 
一かく二かく三かく四角
一かく二かく三かく四角
四角はとうふ とうふは白い 白いはうさぎ
うさぎは跳ねる 跳ねるはカエル カエルは青い
青いはバナナ バナナはむける むけるはミカン
今でも耳にする「しりとり歌」であるが、最後のところで少々下品な方向へ落ちていくようになっている。それが子供の性的好奇心をくすぐって面白く、大人の顰蹙(ひんしゅく)をかうと余計に大きな声をあげて歌った。この歌は、まだまだ続くのだが…。
さよなら三角
さよなら三角 また来て四角
四角は豆腐 豆腐は白い 白いはうさぎ
うさぎは跳ねる 跳ねるはノミ ノミは赤い
赤いはほうずき ほうずきは鳴る 鳴るはおなら
おならはくさい くさいは便所 便所は高い
高いは空 空は青い 青いは海 海はひろい
ひろいは世界 世界はまるい まるいはまり
まりはあがる あがるは飛行機・・・・・・
これも同じような歌だが、ワイセツな方向へはいかずに、どこまでも連想が続いていくようになっている。
おっ月さんいくつ
おっ月さんいくつ 十三七つ
まんだ年しゃ若いな
あの子を産んで この子を産んで
だあれに抱かしょ
お万に抱かしょ お万はどこ行った
油買いに 茶買いに
油屋の縁で すべってころんで 油一升こぼした
その油どうした
太郎どんの犬と 次郎どんの犬と
みんな なめてしもた
その犬どうした
太鼓に張って あっちのほうでも どんどんどん
こっちのほうでも どんどんどん!
すずめはチュウチュウ鳴いている
すずめはチュウチュウ鳴いている
カラスはカアカア鳴いている
障子が明るくなってきた
早く起きぬと遅くなる
着物を着替え 帯をしめ
手水をつかい 口すすぎ
きれいになったら おはようと
朝のお礼をいたします
ごはんも ていねいによく噛んで
紙や手拭い忘れずに
さっさと行きます 学校へ
急いで歩いて 遅れずに
いつともなしに歌ったわらべ歌である。二番目のは、一見、学校で習わされたような感じがするが、そうではなくて、おばあさんに教えてもらって覚えた歌である。
月夜の晩に
月夜の晩に 火事出して
水持ってこーい 木兵衛さん
金玉おとして 泥まるけ
月曜日から土曜日までを読み込んだコトバ遊びである。これも最後のところにオチがついているので、特に男の子に人気があった。  
ウリ売りがウリ売りに来て
ウリ売りが ウリ売りに来て
ウリ売らんと 売り売り帰るウリ売りの声
みかん きんかん
みかん キンカン わしゃすかん
子どもにラクガン なおきかん
そーだそーだそーだ村の
そーだ そーだ そーだ村の村長さんが
ソーダ飲んで 死んだそーだ
葬式まんじゅう うまいそーだ
あんが入って うまいそーだ
これらは、○○づくしといった類のことば遊びである。同じ言葉が次々と出てきて調子がよいので、みんなで声を合わせて言い合いっこをした。
亥の子の晩に
亥の子の晩に 重箱ひろて
あけてみたら ほかほかまんじゅう
にぎってみたら 十兵衛さんの金玉
11月の「亥の子まつり」の時に歌ったものだが、語呂合わせになっているのと、最後にオチのついているのが面白く、普段の日でも、子供たちの間で盛んに歌われたものであった。尚、ここに出てくる十兵衛さんとは、今から290年程前、当地の灌漑事業に大きな功績をのこして殉死した荒木十兵衛さんのことで、この歌はその十兵衛さんを讃えるものであったという。
高野の弘法大師
高野の弘法大師 子抱いて
粉を挽いたら 子の目へ 粉が入って
こんなことはもう こまる
歌の文句の頭に「こ」が付いているので語呂がよく、それを面白がって歌った。 
正月さんええもんや
正月さん ええもんや
赤っかいぺぺ着て 足袋はいて
下駄の歯のような餅食って 油のような酒飲んで
ごんぼのような糞たれた
正月の歌である。本来は、もう少し上品な内容になっていたと思われるが、ここでは絶対に上品とはいえないオチがついたものとなってしまっている。
大寒小寒(おおさむこさむ)
大寒 小寒 山から小僧が泣いてきた
餅のひとつも くれてやれ
大寒 小寒 山い ずっきんおいてきて
取りに行くか寒いし 戻るも寒いし
もう ここらで死んでくりょ
当地では、冬の寒風を北風と呼ばずに、西風と言っていた。この西風がビュンビュン吹きまくり、雪やアラレも降りだして、寒くてじっとしていられれない時に、これらの歌を大声で歌いながら、あちこちをわけもなく走りまわったのである。「ずっきん」とは、頭巾のこと。また、「戻るも寒いし」の後「もうそこらでほっとけほっとけ」と続ける言い方もあった。
つづれさせ コモさせ
つづれさせ コモさせ 早よ寒なるぞ
コオロギの泣き声がこのように聞えると言った。そして、「コオロギが鳴いとんで、早よつくろい物せんならん」と言って、大人たちは冬支度を急いだ。
まいまいこんぼ
まいまいこんぼ くるこんぼ
くるくるまわって 目をまわせ
まいまいこんぼとは、ミズスマシのことで、これを捕まえる時、水を手でかき回しながら、この歌を歌ったのである。
蛙とろとろ
蛙とろとろ
親の乳より うまいもん喰わしょ
蛙つり草やヒエの穂先で蛙を引き寄せ、釣り上げる時に歌った。手に持ったヒエの穂先を蛙の目の前でチョイチョイと動かすと、それを見た蛙がパクッと口開けて飛びついてきたのである。 
雀チュウチュウ忠三郎
雀チュウチュウ 忠三郎
烏カアカア 勘三郎
トンビは富田の鰯売り
秋の夕暮れ時、ねぐらへ帰るカラスをみた時などに自然とこんな言葉が口について出てきたものだ。鰯も秋のもので、富田の方から獲りたての鰯を売りに回ってきたのであった。
もずもずキッチキチ
もずもず キッチキチ
あした天気になあーれ
もずが鳴く日は、天気が良いと言われていたので、その鳴き声を聞いた時に、うれしくなってこの歌を歌ったのである。
泣き虫 毛虫
泣き虫 毛虫 はさんですてろ
今泣いたカラスが ちょっと笑ろた
小さい子が泣きだした時に、これをあやそうと節をつけて歌ったもの。自分が泣かしたことがばれると、親にきつく怒られるので、何とか早く泣き止まそうと苦心したものだった。
痛けりゃイタチの
痛けりゃ イタチの糞つけよ
まんだなおらな まんの糞つけよ
ちょっと痛い目をしただけで泣きだす弱虫をはやしたてる時に、みんなが声を合わせて言った言葉である。イタチは、たくさん棲息していて、すばしこく道を横切る姿を頻繁に見かけたものだ。このイタチが、ちょうど着物の懐に入る方向、つまり右から左へと「道切り」した時には、「今日はふところに入ったで、ええことがある」と喜び、逆に左から右だと幸運が逃げたと言って残念がったりした。
田市場たのき
田市場 たのき(狸)
田の中で子を産んで
たつぼ食って育った 
○○のガイラ
○○のガイラ 何食らう シラミ三升 ノミ三升
あわせて六升 よう食ろた
いわゆる悪口ことばである。昔は、村どうしの対抗意識が強く、子供たちの世界でも、ことあるごとに対立し、お互いの村をからかい、罵り合う、このような悪口ことばが多くあった。
あいついやらし
あいついやらし なまじゃらじゃらと
人がじゃらつきゃ あいつまで
あいつにくらし でしゃばりやがって
どんとくらわせ 青竹で
いつの時代でも、人の真似ばかりする者やおせっかいやきは、嫌われるものだ。そんな子を、非難と軽蔑を込めてはやしたてる時の悪口言葉である。
まねしまんざい米もらい
まねし まんざい 米もらい
一日歩いて 米半つぼ
これも、人の真似ばかりしている者をからかう時のことばである。
わしのおかやん
わしのおかやん こんぺとのたちよ
甘いけれども 角がある
これも悪口言葉の一つである。目を吊り上げて怒っている母親をひやかす時などに使った。「こんぺと」とは金平糖のこと。
男と女と遊ばんもんや
男と女と遊ばんもんや
金ちゃん ぼんちゃん 傷がつく
子供たちも、少し大きくなってくると異性を意識するようになり、それまで一緒に遊んでいた者同士も、お互いに距離を置くようになってくる。そんな年頃になっても、まだ男女が一緒に遊んでいるのを見て、みんなで一斉にはやしたてる時に言った言葉である。こんな悪口言葉を言い立てながらも、本当は自分も一緒に遊びたいという羨望やら嫉妬やらが込められていた。 
屁こきゃ三つの徳がある
屁こきゃ 三つの徳がある
おなかがすいて 気がはれて
人には どんどと笑われて
尻のほこりが立ってった
おもわず放屁をしてしまった時に、こんなことを言って照れくさいのを誤魔化した。また、もらした相手をからかう時にも、この言葉を使った。
イボイボうつれ
イボイボ うつれ
昔の子供たちは、何故かしら手の甲などにたくさんのイボを作っていた。中には「百イボ」といって、手の甲一面に数えきれないくらいのイボをこしらえている子もいた。このイボを、他の子に移してやろうと、この言葉を唱えながら、自分のイボに触った指を相手の手などへくっつけに行ったのである。
鼻高こなあれ
鼻高こなあれ 米安なあれ

わたしゃ谷間の八重桜
花が低ても 人が好く
赤ん坊をあやす時に、赤ん坊の鼻の先をチョイトつまみながら言った言葉である。これに類したもので、他にも「アワワワ、アワワワ」 「カブリ、カブリ」 「ハラポンポコ、ハラポンポコ」 「カイグリ、カイグリ、オツモテンテン」というものもあった。ツバのしゃぼん玉を作り、赤ん坊に見せて笑わせたりもした。これらは、子供だけでなく、大人も使った言葉である。 

一つ ひなたの山道を
二つ 二人で行きました
三つ 港の蒸気船
四つ 他国(よそ)から着きました
五つ 急いで見にゆけば
六つ 向こうの青空に、
七つ ならんだ白い雲
八つ 山家(やまが)のおさの音
九つ ここまで聞こえます とんとんからりとんからり
十で 港も暮れました とうに港も暮れました
 
奈良

 

お前を連れて来ればよかった 吉野に 風が なよ風が舞う
忘れはしません母さんの 背中で遊んだあの頃を 生駒は哀しい女町
遊ばせ唄
おいよ才平は
おいよ 才平は まだ戻らぬか
 まだも戻らぬ ながの旅 ヨイヨ
ながの旅すりゃ 身は大切に
 人のお世話に ならぬように ヨイヨ
鐘がごんと鳴りゃ もう去の去のと
 ここは寺町 日が暮れる ヨイヨ
かあさんかんよ
かあさん かんよ 帰りの道で
尾のある鳥と 尾のない鳥と
酒の粕くわえて クックック
油買いに
油買いに 酢買いに
油屋のかどで 油一升こぼした
その油どうした
あっちの犬と こっちの犬が
みんななめた
その犬どうした 太鼓にはった
その太鼓どうした
あっちからドンドン
こっちからドンドン
たたきやぶった
寝させ唄
北山の子守歌
泣くな泣くな 泣くなよ
泣いたら とんびにつままれる
泣いたら 小鷹につままれる
こうって寝れ こうって寝れ
寝れ寝れ ねしょの子
起きれ起きれ 男の子
うちの赤ちゃんの 
誕生日たんじょうにちには 赤飯あかまま炊いて
一生この子の まめなよに
うちの赤ちゃんは もうつい寝てよ
誰もやかまし いうてくれな
ねあせりゃ
あわせりゃ 起きる
起きりゃおかさの じゃまをする
ねんねころいち 1
ねんねころいち 寝た子はかわい
 起きて泣く子は面にくいヨー
ねんねころいち 子のない人は
 猫を子にして 抱いて寝るヨー
ねんねねんねん 猫 三味の皮
 おまん包むは 竹の皮ヨー
ねんねころいち 2
ねんねころいち
きょうはこの子の 二十五日
赤いご飯炊いて 誕生祝いましょう
あの子偉そうに 塗りげたはいて
親は一合の 米買いに
守り子唄
龍門の子守歌
だけの山から とんできたからすよ
 銭も持たずに 買お買おとよ
つらは憎ても ほべらは可愛いよ
 つらとほべらと 振りかわれよ
西吉野の子守歌
お子がかわいけりゃ 守りから大事よ
 守りにきつすりゃ 子にあたるよ
こけこにわとりゃ 死ぬまで鳴くかよ
 死んでから鳴く ほらの貝よ
来いと呼ばれて そのいく夜さはよ
 足の軽さよ 楽しさはよ
ねんね根来の 粉河のしごはよ
 たより聞きたい 和歌山のよ
親とたてよて うち出て来たがよ
 舟の乗り場で 親子石よ
守りが憎いとて 破れ傘ささせよ
 かわいわが子に みなかかるよ
下市の子守歌
ねんねしなさい おやすみなさいよ
 鳥が鳴いたら 起きなさいよ
守りが憎いと 破れ傘ささせよ
 かわいわが子に みなかかるよ
奉公する身と 千石橋はよ
 金につられて 苦労するよ
奈良の子守歌
守りのつらいのは 霜月師走
 雨やあられや 雪や霜
ねんねころいち ねた子はかわい
 起きて泣く子は なおつらい
泣くな一太郎
泣くな一太郎 泣かすな二太郎よ
 あんじょ守りせよ 三の太郎よ
はやくいぎたい あの山こえてよ
 いらぬこの地を あとにしてよ

 

わらべ歌 1
聖徳太子の子守唄 (聖徳太子伝より)
寝入れ寝入れ小法師こぼうし 縁の縁の下に
むく犬の候ぞ 梅の木の下には 目きららのさぶらふぞ
ねんねん法師に緒ををつけて ろろ法師に引かせう 
ろろ法師に緒をつけて ねんねん法師に引かせう 
御乳母めのとは何処どこぞ 道々の小川へ襁褓むつき濯すましに
ねんねんねんねんろろろろ (以下略)
ここで「寝入れ寝入れ」と寝かしつけられている「小法師」、これが聖徳太子のことだと言われている。聖徳太子立像は「夜泣き太子」としても知られ、夜泣きがひどい子どもがお参りすると、夜泣きがおさまって安眠できるようになるという言い伝えがある。 
ふえおにするもん
ふえおにするもん
この指たかれ
山くだけ
多いもんがええな
指きった
奈良県民謡。鬼ごっこなどをする時に仲間を集めるための「人寄せ歌」。
遊びをする前、一人の子がこの歌を歌いながら人差し指を上に向けて出すと、次の子もこれに合わせて前の子の人差し指を握り、同時に人差し指を上に向けて差し出し、と、順番につながっていって、最後に「指きった」と唱えて遊び仲間を作る。という場面で歌われている曲だそうです。
奈良の大仏さん
奈良の奈良の大仏さんは
天日に焼けて
ありゃドンドンドン
こりゃドンドンドン
後ろに誰がいる
「○○ちゃん!」
違いました 違いました
船のかげ
奈良県民謡(奈良市登大路町)。「人当て鬼」の歌で、遊び方は「かごめかごめ」と同じ。奈良の子供たちにはお馴染みの遊び歌らしいです。
下市の子守唄
ねんねしなさい おやすみなさいよ
鳥が鳴いたら 起きなさいよ
泣いてくれるな  泣かんでもさへもよ
守がどんなと思われるよ
守が憎いと 破れ傘させよ
可愛い我が子にみなかかるよ
ねんねころいち 天満の市はよ
大根たばせて 船に積むよ
船に積んだら どこまで行くかよ
木津や難波の橋の下よ
奉公する身と 千石橋はよ
金につられて 苦労するよ
奈良県民謡(吉野郡下市町幸町)。日本の子守唄によくある、子守り奉公の辛さが歌われている曲ですが、不思議な事に、二番以降の歌詞が大阪民謡の「天満の市は」と酷似しています。大阪で歌われていた『天満の市は』が奈良県の吉野に伝わったのか、吉野で歌われていたものが大阪に伝わったのか・・・ 真相は謎ですが、歴史的にこの二つの場所がつながっていた、という事になりますよね。
竜門騒動の手まり唄
一つとや 竜門騒動は大騒動 二十まで作りた手まり唄歌おうかいな
二つとや 札のいかがを無理として お江戸へ捕られた又兵衛さん 愛おしわいな
三つとや 水のたるよな大小は 差すがよけれど その後はむずかしいわいな
四つとや 様子はこのほうの胸にあり あやまりしだいは こちらから 残念やわいな
五つとや 愛おしござるわ 父君は 松子さん お江戸へ生き別れ 懐かしわいな
六つとや 無理な取り立てなさるから このようになるのももっともや 得心かいな
七つとや 何を言うても身を責める 心の鬼が身を責める我がことかいな
八つとや 屋敷はお江戸に身はここに いとおしござるはいと桜 散りますわいな
九つとや 頃は極月十五日 四ッが村は立ち寄りて ご相談かいな
十とや  年は十六蔵之介  酒屋の息子は大手柄 あっぱれやいな
十一とや 言わず語らず百姓は 胸に包んで その後は難しいわいな
十二とや 憎いヤツじゃと御上から 取っ手の役人 十二人 いざそうかいな
十三とや さらりと簑傘うち揃え 竹槍かたげて おおよりに行きますわいな
十四とや 責め上げられたる 浜島は 登ろとするもの突き落とす まくれるわいな
十五とや 五件四六さまの守 こいつぁまた えらいと見定めて落とそうかいな
十六とや 牢へ入ろと首落ちょと 又兵衛さんの仇とったら本望かいな
十七とや 七尺縄にとつながれて 長い道中引かりょなら 恐ろしわいな
十八とや 鋼をあらわす大庄屋が 松本すじをみとめて行きますわいな
十九とや 国は東国竜門地  こんどの騒動はどこまでも響こうかいな
二十とや 二十まで数えた手まり唄 歌えば響く 吉野山名高いわいな
奈良県民謡(吉野郡下北山村)。1818年に奈良県吉野郡の竜門郷の農民が、年貢の軽減を求めて実際に起こした農民一揆の事が歌われた曲。数え歌にふさわしく、言葉の頭が数字の印を踏んでいるのが印象的です。 
十津川・わらべ歌 2
あのねおしょうさんがね
あのね おしょうさんがね
らいはいどうでね なむちん
なむちん あら おかしいわね
いちりっと らいらい らっきょ
くって しっし しんがらもっちゃ
きゃっきゃっ きゃべつで ほい
なかの なかの
なかの なかの○○ちゃん(くん)
ちょうちょに まかれて
さんどさんど ひっこんだ
うしろに だれがおる
(ワンワン ○○ちゃん(くん))
(ニャオニャオ ○○ちゃん(くん))
(ちーごた ちーごた)
(あーたった あーたった)
おひとさくら
おひとさくら さくら さくら
おふたさくら おみさくら
おみなさくら
おひとよせおふたよせまってくりょ
おのせよ おなのかしこみ おかわ
   おひとおぬけ おぬけ おぬけ
   おふたおぬけ おみおぬけ
   おみなおぬけ おひとよせ
   おふたよせ まってくりょ
   いっぴゃくでほい おっきでしょ
うけとった
うけとった うけとった
さんやのさかずき うけとった
これから どなたに わたしましょ
うちのとなりの ○○ちゃん(くん)に
わたした うけとった うけとった
こもりうた
ねむれ ねむれよ
ねたこはいちじゃ
あすは このこの
たんじょうにちよ おいよ
   もりよ こがなきゃ
   かどへでてゆすれ
   かどの ぼたんの
   はなもたせよ おいよ
ないて やかましい
よしわらすずめ
なけば のでなけ
やまでなけよ おいよ
   たんじょうにちには
   まめめしたいて
   このこ いっしょう
   まめのようによ おいよ
   まめのようによ おいよ
おうめさんのかご
おうめさんのかごと
なんぼほどでました
ひょうたんのさきで
やいとをすえて
あつやかなしや
ふかいかわへどんぶりこ
あさいかわへどんぶりこ
一丁目二丁目三丁目のかどで
おおみずふいて
ふねにふかれて
せんどはだれじゃ
○○くん(ちゃん)ではないかいな
いもかいました
いちもんめの いーすけさん
いもかいました
   にもんめの にーすけさん
   にくかいました
さんもんめんの さんすけさん
さばかいました
   しもんめの しーすけさん
   しびかいました
ごもんめの ごーすけさん
ごぼうかいました
   ろくもんめの ろーすけさん
   ろうそくかいました
ななもんめの なーすけさん
なしかいました
   はちもんめの はーすけさん
   はりかいました
くもんめの くーすけさん
くりかいました
   とうもんめの とーすけさん
   とうふかいました おーらいしょ
おひとつ
おひとつ おひとつ
おひとつ おひとつ
おろして
おっさあらい
   おふたつ おふたつ
   おろして
   おっさあらい
おみいつ おみいつ
おろして
おっさあらい おみなで
おっさあらい
   おはさみ おはさみ おはさみ
   おはさみ
   おろして おっさあらい
おちりんこ おちりんこ おちりんこ
おちりんこ
おろして おっさあらい
   おてのうえ おてのうえ おてのうえ
   おてのうえ
   おろして おっさあらい
   おみなで おっさあらい
うしろのせ
うしろのせ おんせのせ
おおさかさかおさかでどん
よつやでどん よつやあかさか
こうじまち おかごにのるのは
いくらです ごひゃくです
もうちっとまからんか
おからかどん
どんどのおふろのくろまめさん
きょうは はこねの
ひーや ふーや みーや よーや
いーや むーや なーや やーや
ここのつかえして うしろのせ
おんせのせ 
 
和歌山

 

愛を結べる 岸がある あなただけ おまえだけ 情けの紀ノ川
紀州の男 だからどでかい望みを腹に 生きて行くのさ熊野灘
遊ばせ唄
ちょっちょっちょうの
ちょっちょっちょうの カーリカリ
おつむてんてん あばばのあばば
じんごやかんごや
じんごや かんごや かんごやのおばさん
足が痛うて よう歩きません
一丁目 二丁目 三丁目のかどで
大水ついて 舟を浮かべて
船頭さんは誰よ 太郎さんじゃないか
深い川越そか 浅い川越そか
とてもかなわぬ 深い川へドップーン
寝させ唄
りんかじんと
りんかじんと ががじんと
もんすることを もんすれば
りょそうせっすと 申します
山に山を 重ねて
だてにしんにゅう かけさんせ
ねんね根来の 1
ねんね根来の かくはん山でよ
 としょじ 来いのよ 鳩が鳴くよ
ねんね根来の 地藏さんこけてよ
 それがおかしゅうて ねむられんよ
紀州紀の川 荒川粉河よ
 おまん包むは 竹の皮よ
ねんね根来の 2
ねんね根来の かくばん山でよ
 としより来いよの 鳩が鳴くよ
ねんね根来に 行きたいけれどよ
 川がおそろし 紀の川がよ
さんさ坂本 室谷の娘よ
 嫁入りしたそな 住持池よ
ねんね根来の 夜鳴る鐘はよ
 一里きこえて 二里ひびくよ
太鼓たたいて
太鼓たたいて 守り子を寄せてよ
 いろのよい子を 嫁にとるよ
泣くななげくな 今日一日はよ
 明日は親守り 泣かしゃせなよ
堺住吉いとまの太鼓
堺 住吉 いとまの太鼓よ
 流れついたよ 加太浦ィよ
加太はよいとこ 西浦うけてよ
 前に宝の 島すえてよ
加太はよいとこ 西浦うけてよ
 なかとあらしは そよそよとよ
親のない子に 髪結うてあげらよ
 親はよろこぶ 極楽でよ
親のない子と 浜辺の千鳥よ
 日ぐれ日ぐれに 鳴きくらすよ
ここら小島で 身は加太浦でよ
 舟は田川の 新湊よ
ねんねねむの木
ねんねんねむの木 朝はよ起きよよ
 七つ下がれば みな眠れよ
ねんねしなされ ころりとさんせよ
 朝ははよから 起きなされよ
こわいおそろし
こわいおそろし 室河の阪は
七つ下がれば 鹿の声よ
鞆渕の子守歌
花が咲く咲く 八幡山によ
 詣る氏子にゃ 気にかかるよ
とんと鞆渕 なかのの鐘がよ
 一里聞こえて 二里ひびくよ
河根の子守歌
高野雪降りゃ 神谷は霰よいよい
 河根で清めの 雨が降るよ
行たら見て来い 橋本御殿よいよい
 裏は紀の川 舟が着くよ
紀州紀の国 荒川粉河よいよい
 おまん包むは 竹の皮よ
この子ねんねしたら
この子ねんねしたら 赤いべべ着せてよ
 ねんねせん子に 縞のべべよ
この子ねんねしたら なにより嬉しよ
 金の千両も もろたよによ
ねんね根来町ゃ 広いよでせばいよ
 横に車は 通りゃせなよ
ねんねした子に
ねんねした子に 赤いべべ着せてよ
 ねんねせぬ子に 縞のべべよ
この子かしこい もうねんねするよ
 どうぞみなさん お静かによ
ねんねした子に
ねんねした子に 赤いべべ着せてよ
 ねんねせぬ子に 縞のべべよ
この子かしこい もうねんねするよ
 どうぞみなさん お静かによ
ねんねねんねん 1
ねんねねんねん ころりとなされよ
 ねたら子も楽 守りも楽よ
ねんねねんねん ねた子はかわいよ
 起きて泣く子は つらにくいよ
塩屋祓井戸 広芝野島よ
 加尾や上野や 楠井や津井やよ
おもしろいぞや 名田目の道はよ
 楠井通れば 津井通るよ
盆と正月 一緒に来たらよ
 火鉢かかえて 蚊帳かぶるよ
ねんねねんねん 2
ねんねねんねん ねた子はかわいよ
 起きて泣く子は つらにくいよ
うちの父さん 山行て遅いよ
 蜂にさされて ねてござるよ
ねんねねむたい
ねんねねむたい ねた子はかわいよ
起きて泣く子は つらにくいよ
ねんねねた子に
ねんねねた子に 赤ばい着せてよ
 起きて泣く子に 縞のばいよバイバイ
御坊東町 箒はいらんよ
 お御堂参りの 裾で掃くよバイバイ
この子ねた間に 飴売り来たらよ
 安うで買てやろ 五文がなよバイバイ
親のない子は 入り日をおがむよ
 親は入り日の 真ん中によバイバイ
ねんねころいち 1
ねんねころいち 天満のていちよ
 大根そろえて 舟に積むよ
舟に積んだら どこまで行こによ
 木津や難波の 橋の下よ
橋の下には おかめがござるよ
 おかめおとろし ちょとねむるよ
ねんねころいち 2
ねんねころいち 天満のていち
 大根たばねて 舟に積むよ
舟に積んだら どこまで行こに
 木津や難波の 橋の下よ
橋の下には かもめがござる
 かもめとりたや 網ほしやよ
ねんねこさんねこ 1
ねんねこさんねこ 酒屋の子
酒壺持て来い 酒やらそ
酒のないのに やとろ言て
それほどお腹が 立つなれば
チャラチャラ雪駄を 買てあげら
赤いチャラチャラ なんもんめ
やすてもたこても 三もんめ
負けておくれよ 一もんめ
ねんねこさんねこ 2
ねんねこさんねこ 酒屋の子
酒だる持て来い 酒飲まそ
酒は飲みとう ござんせんが
赤いべべなら ほしござる
ねんねん ねんねんよ
ねんねん しなされよ
ねた子は かわいよ
ほらね ホラ 守りも楽よ
おろろんころろん 1
おろろんころろん 子は泣くな
泣いたらおたかに つかますぞ
おろろんころろん 2
おろろんころろん 子は泣くな
泣いたらおたかに つかますぞ
おろろんころろん 子は泣くな
正月三日に 乳飲ましょ
この子ねむたら なにより嬉しよ
金の千両も ひろたほどよ
ねんねねんねと 尻たたかれてよ
なにがねぶろか たたかれてよ
   ねんねのお守りは どこへ行た
   あの山越えて 里へ行た
   里のおみやに なにもろた
   栗や菓子や おこし飴
   おかさん乳より 甘ごんす
   ねんねのお守りは どこへ行た
   あの山越えて 里へ行た
   里のおみやに なにもろた
   でんでん太鼓に笙の笛
   鳴るか鳴らぬか どれにしょか
守り子唄
ねんねのお守りは 1
ねんねのお守りは どこへ行た
あの山越えて 里へ行た
里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
鳴るか鳴らぬか どれにしょか
ねんねしなされ 2
ねんねしなされ ねる子はふとる
起きて泣く子は 虫が出る
ねんねしなされ 3
ねんねしなされ ねる子はかわい
起きて泣く子は 面にくいよ
ねんねねんねと ねる子をたたく
なにがねらりょか たたかれてよ
ねんねしやんせ
ねんねしやんせ ねる子はふとる
起きて泣く子は 虫が出る 虫が出るよ
ねんねねんねと
ねんねねんねと 背中をたたく
 なにがねらりょかよ たたかれてよ
守りがにくいとて 破れ傘くれて
 かわいわが子はよ ぬれねずみよ
泣いてくれるな 1
泣いてくれるな 泣かいでさえもよ
 たたきひねるよにゃ 思われるよ
守りはにくいとて 破れ傘くれてよ
 かわいわが子はよ 雨ざられよ
泣いてくれるな 2
泣いてくれるなよ 殿御の留守によ
からす鳴くさよ ねんころろい
気にかかるよ 気にかかるよ
この子泣くのでよ 照る日も曇るよ
晴れた月夜 ねんころろい
闇となるよ 闇となるよ
鳴くなにわとりよ 夜明けのからすよ
明けりゃお寺の ねんころろい
鐘も鳴るよ 鐘も鳴るよ
守りがにくいとて 1
守りがにくいとて 破れ傘くれて
 かわいわが子が 雨ざらし ねんねんねんよ
ねんねした子に 赤いべべ着せて
 起きて泣く子に 縞のべべ ねんねんねんよ
ねんねしなされ ねる子はふとる
 起きて泣く子は 面にくい ねんねんねんよ
わたしが死んだら 誰が泣いてくりょに
 山のからすが 鳴くばかり ねんねんねんよ
山のからすも ただ鳴きゃせぬが
 墓の団子が 食いたさに ねんねんねんよ
とんととまめは ほうらくの中で
 連れて走ろか 腹切ろか ねんねんねんよ
守りがにくいとて 2
守りがにくいとて 破れ傘ささし
かわいわが子が しぼぬれや
しぼぬれや ヨーイヨイ
守りがにくいとて 3
守りがにくいとて 破れ傘きせてよ
 かわいわが子が 先ぬれるよ
勤めつらさによ 出て山見たらよ
 霧のかからんよな 山はないよ
守りがにくいとて 4
守りがにくいとて 破れ傘きせてよ
かわいわが子が 先ぬれる
ヨーイヨイ ヨーイヨイ ヨーイヨイ
守りがにくいとて 5
守りがにくいとて 破れ傘きせてナーヨ
 かわいわが子を ぬらすのかよ
 それは なーじょかいなー
あぜらいかんか お寺の背戸ナーヨ
 小梅小桜 枝折りによ
 それは なーじょかいなー
むしの出た子は
むしの出た子は 出来よが悪いよ
薬飲ませよ 疳薬 疳薬よ
うちの姉さん
うちの姉さん 大阪嫁入りよ
 たんす長持 船に積むよ
船に積んだら どこまで行こによ
 和泉 難波の 橋の下よ
わしら山行きゃ
わしら山行きゃ 茨が止める
 茨止めるな 日が暮れる こいこい
守りがにくいとて 破れ傘くれて
 かわいわが子に ふりかかる こいこい
泣いてくれるな 坊やが泣けば
 守りがわるいと 叱られる こいこい 

 

わらべ唄
 
 
滋賀

 

遊ばせ歌 
お姫さんのかご
お姫さんのかごと 天神さんのかごと
比べてみれば 十文じゃ十文じゃ
浅い川へはめよか 深い川へはめよか
いっそはめるなら 深い川へドンブリコ  
かんかん堂のお宮さま
かんかん堂の お宮さま お猿が三匹 飛んできて
先のお猿も 物知らず あとのお猿も 物知らず
一番(いっち)の中の 小猿が よう物知って
鯰川へ飛び込んで 鯰一匹踏んまえて
手々で取るのも かわいそう 足(あいや)で取るのも かわいそう
杓子(おしゃも)の欠けが 流れて来たで それで取って 奥の間へ持ってって
チャクチャクチャクと刻んで あなたにも一菜(ひとさい) こなたにも一菜
嫁のが足らいで けんかができて けんかのなかで
お芋たいてやろか 南瓜(おかぼ)たいてやろか 芋も南瓜も そんなもんいらん
そんなら出てけ 何履いて出てこ 
お爺さんのかんかん 片っ方(ぽ)と お婆さんのかんかん 片っ方と
履いて出てけ どっから出てこ 
裏から出てけ 裏にお馬(んま)がおって 怖いわ
窓から出てけ 窓に竹の筒が あったれば
踏み破(わ)ってみようか 噛み破ってみようか
踏み破ってみれば 赤いお(着物)べべが十二枚 白いおべべが十二枚
誰に着せよか 太郎に着せよか 次郎に着せよか
太郎に着せると 次郎が怒るし 寺のおぼんの お稚児に着せて
馬(んま)ハイコ乗せて あっちの方へコロコロ こっちの方へコロコロ
あんまりコロついて 小麦団子落とした ひばりがみつけて とんびにやった
からすカアカと くやしがる とんぼは遠くに 飛んでった  
キッコーマイコー
キッコーマイコー
よそでも摺りゃる うちでも摺ろか
一升摺って 寝よまいか  
遊ばせ歌
キッコン マッコン ヨードーヨー
山田の米は うまいぞ
里の米は あんないぞ
キッコン マッコン ヨードーヨー  
大坂見たか
ええとこ見せたろかア
大坂見たか 京見たか  
子守唄
ここは腰越 下がれば沙沙貴
沙沙貴下がれば 常楽寺
常楽寺と言うて 鍵の橋越えて
良い子もじゃるは 馬次郎  
寝させ歌 
子守歌 1
この子良い子じゃ ねんねこしやれ
寝たら田んぼへ 連れて行こう  
子守歌 2
ねんねなされよ 今日は二十五日
明日はこの子の 誕生日
誕生日よエ  
子守唄 3
ねんねしてくれ ころりと寝たら
赤い枕を買(こ)てさそに ヨーエー  
竹馬の与一 1
ねんねころいち 竹馬のよいち
竹にもたれて ねんねしゃれ ねんねしゃれエー
   瀬田の唐橋 唐金擬宝珠
   水に映るは 膳所の城 膳所の城オー
この子良い子や 卵に目鼻
この子育てた 親見たい 親見たいイー
   ねんねねんねん 寝た子は可愛い
   起きて泣く子は 面憎い 面憎いイー  
竹のまのよいち 2
ねんねころいち 竹のまのよいち
 竹をたばねて 舟に積む 舟に積む
舟に積んだり くだいてみたり
 落ちる涙が 道の露 道の露
ねんねしてくれ 寝た子はかわい
 起きて泣く子は 面にくい 面にくい
ねんね眠たい 姉(あね)さんと寝たい
 姉が侭(なな)なら 寝さすのに 寝さすのに
会いた見たさは 飛び立つ様(よ)でも
 龍の鳥かよ 情ない 情ない
ねんねしてくれと 頼む子は寝んと
 だれも頼まん 子が寝やる 子が寝やる
来ては泣き来ては泣き われの様(よ)に泣くと
 わしの身やかて どこで立つ どこで立つ
思い出しては また来ておくれ
 鳥も枯れ木にゃ 二度とまる 二度とまる
鳥は枯れ木に 二度とまるけど
 花は枯れ木に 二度咲かん 二度咲かん
ねんねしてくれ まだ夜(よ)は明けん
 明けりゃお寺の 鐘が鳴る 鐘が鳴る  
子守唄 1
ねんねしなされ お手手はしょまい
わしの眠たいこと思うて
ねんねしてくれ まだ夜は明けぬ
明けりゃお寺の 鐘が鳴る  
子守歌 2
ねんねしてくれ まだ夜が明けぬ
明けりゃお寺の鐘が鳴る  
子守歌 3
この子よいこや ぼたもち顔や
きな粉つけたら なお良かろう  
子守歌 4
ねんねしあんせ まだ夜は明けぬ
 明けりゃお寺の 鐘が鳴る
鐘が鳴るかよ 撞木が鳴るか
 鐘と撞木の あいが鳴る-  
子守歌 5
ねんねしてくれエー
まだ夜は明けぬ、
明けりゃお寺の鐘が鳴る 
ねんねしてくれ
ねんねしてくれ 今日は二十五日
 明日はお前の 誕生日
誕生日には 赤着物(べべ)着せて
 連れて参ろか 氏神(のの)さまへ
連れて参ったら 何と言うて拝む
 この子一代 達者(まめ)なよに
この子泣くんで 照る日も曇る
 おぼろ月夜も 闇となる
この子寝さして おふとん着せて
 四隅たたいて 針仕事
ねんねしてくれ まだ夜が明けぬ
 明けりゃお寺の 鐘が鳴る  
今津の子守唄
ねんねねんねんねんねをしたら ねたら田んぼへ連れて行こう
誕生日にはあずまま炊いて 連れて参ろかののさまへ
連れて参ったら何と言うて拝む この子一代まめなよに
この子良い子やぼた餅顔や きな粉つけたらなお良かろ  
ねんねん森の
ねんねん森の 小鳩たち
こんなに暗い 夜じゃもの
さぞやふくろうの 金の目が
青く光りて 怖かろう  
子守歌 1
ねんね ねんねよ ねんねをしやれ
うちのこの子は 今寝やる
寝たら 子も楽 守りも楽
ねんね ねんねよ ねんねしな  
子守歌 2
ねんねころいち 天満の市よ
だいご揃えて 船に積む
船に積んだら どこまで行きゃる
木津や難波の橋の下
橋の下には お亀がいやる
お亀とりたや 竹ほしや  
子守歌 3
ねんねしやれや 寝る子は可愛い
起きて泣く子は つらにくい つらにくい  
子守歌 4
ねんねしてたも まだ夜は明けぬ
明けりゃお寺の 鐘が鳴る
抱いて寝てさえ すき間の風に
今朝の霜朝 帰えさりょか  
子守唄 5
ねんねんころり ねんころり 坊やは良い子だ ねんねしな
坊やの土産は 何もろた デンデン太鼓に しょうの笛
鳴るか鳴らぬか 吹いてみよ ねんねんころり ねんころり  
子守歌 6
大雪小雪 雪の降る晩に
誰か一人 泣く子をもらおうか
寝ない子を もらおうか  
竹馬(たけんま)よいち
ねんねころいち 竹馬(たけんま)よいち
 お蕪(かぶ)揃えて 舟に積む
舟に積んだら どこまで行(ゆ)くや
 賽(さい)の河原(かわら)の 橋の下
橋の下には 怖い蛇(じゃ)がござる
 こわい蛇やげな うそじゃげな  
ねんねなされませ
ねんねなされませ 寝る子はかわいし 起きて泣く子は 面にくい
うちのクミコは 良い子でござる みんな良いこと 言うておくれ
うちのクミコは 良い子で器用で 器用に育てて おくじゃもの
うちのクミコに 赤いべべさん着せて 連れて参ろか お宮様
連れて参ったら 何と言うて拝む 一生この子の 達者なよと
クミコ良い子じゃ ぼた餅顔で きな粉つけたら なお良かろ
クミコ良い子じゃ ねんねんしやれ 寝れば子も楽 守りも楽
うちのクミコは ねんねんするで 誰もやかまし 言うてくれな
ねんねころいち 竹の馬よいち 竹にもたれて ねんねする
寝たか寝なんだか 枕に問やれ 枕お正直 寝たと言う
ねんねなさりませ まだ夜は明けぬ 明けりゃお寺の 鐘が鳴る
鐘が鳴るかよ 撞木が鳴るか 鐘と撞木の合いが鳴る
鐘が鳴りゃまた お蚕をついて 朝の御飯の すわるまで  
ねんねしてたも
ねんねして給(たも) まだ夜(よ)は明けぬ
 明けりゃお寺の 鐘が鳴る
鐘が鳴りゃまた 去(い)の去のとおしゃる
 ここは寺町 いつも鳴る
ねんねこよいち 竹馬(たけんま)よいち
 蕪(かぶ)を揃えて 舟に積む
舟に積んだら どこまで行きゃる
 遠い他国の 果てまでも
お前百まで わしゃ九十九(くじゅく)まで
 ともに白髪の生えるまで
高い山から 谷底見れば
 瓜やなすびの 花盛り  
うちのこの子は
うちのこの子は なに着しょ 此(こ)着しょ
 つばき桃色の 小袖着しょ
つばき桃色の 小袖を着せて
 寺へ詣ろか 飴買いに
飴はいらんし 外郎が欲しし
 外郎まつりに 買(こ)てあげよ 
子守唄
うちのこの子が ねんねをしたら
買うて上げよか 砂糖煎餅(せんべい)
起きて泣く子は 憎らしい
   かいつけかいつけ 柿の木
   柿の木の下には 赤いこうこうが三匹と
   白いこうこうが三匹と
   それがこわけら ねんねしな
ねんこい山の きじの子
きじか かもか うのとりか
おさえて見たれば おせん鳥  
竹馬よいち
ねんねころいち 竹馬よいち 竹を揃えて 舟に積む
うちのこのこは よい子でござる
誰もあほじゃと 言うてくれるな 言うてくれるな  
ねんねんねむの木
ねんねんねむの木 ねんころよーォ
 ねんねのお守りは どこへ行ったーァ
あの山越ォえて 里へ行ったーァ
 里のお土産(みや)に なにもらったーァ
でんでん太鼓(だいこ)に しょうの笛ーエ
 しょうの笛やら 太鼓(たいこ)やら
これみな坊やの ものですよーォ
 ねんねんころりよ おころりよーォ  
守り子歌 
この子よう泣く
この子よう泣く 泣かん子もあろに
 もちと泣かん子と 替えて欲し 替えて欲し
子ォが可愛いけりゃ 良い傘おくれ
 破れ傘では 子が濡れる 子が濡れる
この子これだけ よう泣くせがむ
 お乳足らぬか 乳(ち)ばなれか 乳ばなれか
お乳たくさん ありますけれど
 この子これだけ 性(しょ)が悪い 性が悪い
性(しょう)の悪いのは まな板の上で
 きざみきざむように きざきざと きざきざと
きざみきざんで お醤油をかけて
 親に見せたら 血の涙 血の涙
今の守り子は コイコイ習(なろ)て
 男呼ぶのも 来い来いと コーイコーイ  
田上の子守唄 1
寺のかどへ行きゃ 小坊主が叱る
小坊主建てた寺じゃなし 寺じゃなし  
田上の子守唄 2
ねんねしてくれ まだ夜が明けん ヨーエ 明けりゃお寺の鐘が鳴る ヨーエ
寝たら念仏 起きたらつとめ 明けばお寺の鐘が鳴る
鐘が鳴るのか 撞木じゃないか 鐘と撞木のあいに鳴る
うちのこの子の 枕の模様は 梅に鶯ほととぎす
ねんねんよう 寝た子は可愛い 起きて泣くよりゃ寝ていやれ
この子良い子や 良い器量の子や 器量に育てた親の子や
ねんねしやんせ 寝た子は可愛い 起きて泣く子は面憎い
うちのこの子は なんでこない泣きゃる 乳が足らんのか 乳離れか
乳はたくさん ありますけれど はたの守子が言うて起こす
乳はたくさん ありますけれど うちのこの子が泣き味噌や
守子さんによりゃ 喧嘩がでける 一番二人が仲がええ
子が可愛けりゃ 守子を寵(ちょう)しやれ 守りにあたると子にあたる
在所三遍 まわりてきたが 今に帰れと言わりゃせん
在所三遍 まわりてきたが 親が迎いに来そうなものを
親は迎いに 行きたいけれど 晩の仕舞いができかねる  
田上のヨンヨー節
ねんねころいち 竹馬の与一ナ
 竹を束ねて 舟に積むナ ヨンヨー
うちのこの子は どじゃいこない泣くやナ
 乳が足らんのか 乳離れかナ ヨンヨー
守り子三人寄りゃ 喧嘩がでけるナ
 とかく二人が 仲が良いナ ヨンヨー
丹波炊け炊け 皆言わんすけれどナ
 丹波炊くよな 鍋はないナ ヨンヨー
丹波炊け焚け 皆言わんすけれどナ
 丹波炊けても 食べられんナ ヨンヨー
ヨンヨ ヨンヨは どこから流行るナ
 石部草津は なお流行るナ ヨンヨー  
廻り三返子守歌
西の果てから 東の果てまで
 歌とて通るは 守り子ども
歌とて通るは 騒がしけれど
 御免ください 守りの役
廻り三返 廻りて来たに
 もはや帰れと おっしゃらんか  
子守唄 1
ねんねしなされ 寝た子はかわい
 起きて泣く子は 面憎い
面が憎いとて 叩かりゃしょまい
 叩きゃ おしゅうさんの 気に入らぬ  
子守歌 2
この子寝かせて 布団を着せて
よすみおさえて 針仕事
うちのこの子と おはらい様は
下におこまい 手の上に  
子守歌 3
アー うちのこの子は 今寝るとこで
誰もやかまし 言うてくれな
誰もやかまし 言わせぬけれど
よその守り子が 来て起こす  
子守唄 4
ねんねころいち 竹馬よいち
竹を揃えて にのよいち
ねんねんよ ころいちよ
   この子泣くので 照る日も曇る
   冴えた月夜も 闇となる
   ねんねんよ ころいちよ  
ななよ泣くなよ
ななよ泣くなよ 赤いべべ買うてやろ
 ひもはなにひも 紅絹のひも
ねんねさんせよ 寝る子は可愛い
 起きて泣く子は 面憎い
守りというよな 憂いご商売を
 どこの港で習たやら
守りと頼んで 女(おなご)とと使(つこ)て
 仕着(しさせ)よけくれ 良いのくれ
仕着よけやろ 良いのはやらん
 丈の短い 赤縞を
西の山見りゃ 恋してならぬ
 お母(か)やお父(と)ったんの 声がする
お母やお父ったんの 声なら良いが
 きつねやたぬきの 声がする
寺のぼんさん とぼけてぼけて
 お仏供茶碗に 魚(とと)添えて
寺の和尚さん 早鐘(はやがね)ついて
 守り子去(い)なして 木偶(でこ)芝居
ななよ泣くなよ 今日は二十五日
三十五日にゃ 赤い飯炊いて
守りにゃ三杯 子にゃ二杯  
オッチキチョーウワイチョー
ねんねころいち 竹馬よいち
 竹を揃えて 二のよいち
 オッチキチョー ウワイチョー
この子泣くので 三度の飯も
 胸に詰まって 食べられん
守りの憂いのは 秋冬五月
 かどに立つのが 四十九日
うちのこの子の 枕の模様(もよ)は
 梅に鶯 竹に虎
梅に鶯 品(しな)良くとまれ
 品の良いのを 嫁にとろ 
子守歌 1
うちのこの子に 赤い着物(べべ)着せて
 多賀へ参ろか 飴買いに
飴はいらぬが ういろがほしい
 ういろ祭りに 買うてしんじょ  
子守歌 2
うちのこの子に やりたいものは
乳と かんざし 甘酒と  
子守唄 3
ねんねしてくれ 寝る子はかわい 起きて泣く子は 面憎い
うちのこの子は よう泣く子でな よその泣かん子と 替えて欲し
よその泣かん子と 替えてはやるが あまり泣かんのも きずつない  
子守唄 4
ねんねんこんよ! 寝たら子も楽 守りも楽
この子寝かせて 布団を着せて 四隅おさえて 針仕事
うちのこの子に 赤い着物(べべ)着せて 多賀へ参ろか 飴買いに
飴はいらんで 饅頭(おまん)買うておくれ おまん買うてやろ ねんねしな
抱いて寝もせず 暇(いとま)もくれず つなぎ船かよ わしの身は  
子守歌 5
こわや恐ろし 北畑の狂言
 西大路ご家中の 敵討ち
西大路ご家中の 敵を討って
 広いばんばの 道狭や
うちのおっしゅうさんは 無理なことおっしゃる
 籠で水汲め そうけで湯取れ 石で火を焚け 消やさんと
西の町から 東の町まで
歌うて 歩いて 寝さして 来たに
晩のしまいには まだ早いと  
ねんねする子に(甲良の子守唄)
ねんねする子に やりたいものはーァ 針や鋏や絹糸やーァ
ねんねしてくれ 寝る子はかわいーィ 起きて泣く子は 面(つら)憎いーィ
良い娘(こ)嫁入(よめり)する 悪い娘は残るーゥ 嫁入りせん娘は わしひとりーィ
いくら飲まいでも 今夜の酒はーァ 飲んで喜ぶ 親たちがーァ
この子よう泣く 泣かん子欲しやーァ よその泣かん子と 替えてこいーィ
泣くな一太郎 泣かすな二太郎ーォ 泣かすまいとの 三のオリーィ
啼くなにわとり まだ夜が明かんー 明けりゃお寺の 鐘が鳴るーゥ
うちのこの子に 着せたい着物ーォ 背中牡丹で すそ柳ーィ
祭来たとて 何楽しもやーァ 貧乏親もちゃ 腹が立つーゥ
眠たがる子を 寝させもせずにーィ 夜なべさす身の かわいさよーォ
わしらこうして こうせにゃ食えんー だれも養(やしの)て くれやせぬーゥ  
うとて歩くは
うとて歩くは やかましけれど ごめん下さい 守りの役
歌をうたうなら まっすぐうたえ 歌の横んちょは 通れゃせぬ
寺の坊主は 根性(こんじょ)が悪い 守り子去(い)なして 門閉める
寺の坊主と 隠坊(おんぼ)の嬶(かか)は 人が死ぬのを 待っている
わたしゃ歌好き 念仏嫌い 死んで行(い)くのも 歌で行(ゆ)く
死んでしまおか 髪切りましょか 髪は延び物(もん) 身は大事
死んでしまいたい 正月の月に 生きてもどりたい 盆正月(しょがつ)
盆と正月と 一緒に来たら 門(かど)でまりつく 羽根をつく
うちの母ちゃん なんでも嘘よ 鹿(か)の子買(こ)てやろ それも嘘
うちの親父は金平糖(こんぺいと)の性(しょう)よ 甘い顔して 角(つの)生やす
ねんねころいち 竹馬(たけんま)よいち 竹にもたれて ねんねする
泣いてくれるな 下駄の歯に困る 下駄の歯じゃない 子に困る
ねんねころりよ 寝た子はかわい 起きて泣く子は 面(つら)にくい
かわいかわいと 言(ゆ)てる子が死んで 憎い継子(ままこ)が 達者(まめ)でいる
親は子ォをば たずねもすれど 親をたずねる 子は稀(まで)な
嫁と姑と 茶碗と皿と 仲が良さそで コチコチと
分限者(ぶげんしゃ)けなりいや 白壁づくし こちら貧乏で 藁の壁
分限者けなりいや 両手に花よ わたしゃ片手に しおれ花
上見りゃきりがないぞ 下見て暮らす 橋の下にも 屋形船
貧乏してても 心は錦 人さんのものには 手はかけぬ
お酒飲む人 しんからかわい 飲んでくだまきゃ なおかわい
七つ八つから いろはを習(なろ)て はの字忘れて いろばかり
芝居見に行(い)て 役者に惚れて 惚れた役者の 名も知らぬ
来いよ来いよと そう言うとき来んと 浜の松風 音ばかり  
高い山から
高い山から 谷底見れば 瓜や茄子(なすび)の 花盛り
瓜が三味(しゃみ)ひく 茄子が踊る そこで南瓜(かぼちゃ)が 音頭取る
平木山(ひらきやま)から 八日市を見れば 新地女郎(おやま)の 風呂上がり
猫が飯(まま)炊く ねずみが移す こわい狸が お膳出す
お膳出したら お上がりなされ はつかねずみが 給仕する  
ふごで子守するときの歌
この子泣くので わしの身が痩せる
帯の二重が 三重回る  
宿場子守唄
石部良いとこ宿場がござる お半長ヱ門の仮の宿仮まくら
ネンネコロイチ竹場の与市 竹を揃えて舟に積む
舟に積んだらどこまで行くよ 横田河原の橋の下
お前一人かお連れはないか お連れ後から籠で来る
籠で来るよな大病か胃病か お腹痛いのか御遍路か
親の意見と茄子の花は 千に一つの仇花はない
男良うても土甲斐性なけりゃ 伏見人形で面ばかり
奉公する身とながしのとゆは 辛い言葉も聞き流し
泣いた涙を笹の葉に溜めて これがとどこか親許へ
ここらあたりに瓦葺きゃないか 嫁に貰うような娘はないか
嫁に貰うような娘はあるけれど もうちょっとお針ができかねる
お針だけでも織さえ織れば 百姓女業に貰うてやろう
ねんねなされませ京は二十五日 明日は前さんの誕生日
誕生日には赤いべべ着せて 連れて参ろうかののさまへ  
仁助の子守歌
ぼんよ泣くなよ お父ツァんは江戸へ
お母はさんまい(墓場) 嫁入りした 嫁入りした
お母はさんまいに 何をしてござる
白いべべ(着物)着て 手に数珠かけて
石の枕で 寝て御座る 寝て御座る。  
子守唄
うちのこの子は なんでこね泣きゃる
晩に往(い)んだら 暇もらう ヨンヨ
暇をやるから 代わりをたてよ
代わりたてます 男守り ヨンヨ
ア ネンネンヨー ネンネンヨー  
うちのこの子は
うちのこの子は なんでこれ泣きゃる 晩にいんだら 暇もらう ア暇もらう
暇をやるから 代わりをたてよ 代わりたてます 男守り ア男守り
うちのこの子は なんでこれ泣きゃる 乳がたらんのか 乳(ち)離れか ア乳離れか
乳はたくさん ありますけれど 傍(はた)の守り子が 言(ゆ)て泣かす ア言て泣かす
うちのこの子は 今寝るときや だれもやかまし 言てくれな ア言てくれな
だれもやかまし 言わせんけれど 傍の守り子が 言て起こす ア言て起こす
ア ネンネンヨー ネンネンヨ  

 

わらべ歌
じゃんけん遊び
じゃんけんは、今も昔も行われています。昔はじゃんけんが歌になっていることがありました。グー・チョキ・パーだけでなく、石・紙・鋏(はさみ)とするルールもありました。
遊戯唄ジャンケン/大津市
じゃんけん遊び/近江八幡市小舟木町
勝負ジャンケン/甲賀市水口町嶬峨
勝負ジャンケン/守山市新庄
手合わせ歌/甲良町下之郷
勝負ジャンケン/野洲市小篠原
勝負ジャンケン/野洲市小比江
鬼ごっこ
一人が鬼になって、他の人が鬼に捕まらないように逃げる。
鬼ごとするもん/甲賀市土山町徳原
向かいの婆さん/東近江市八日市金屋
てんのおばさん/大津市坂本
かくれんぼする人/高島市今津町日置前
輪遊び歌
輪になって手をつないで回り、後の正面にいる人を当てる遊び。一般的には「かごめかごめ」と似た遊び方になる。
坊さん/大津市
輪遊び歌/東近江市伊庭
中の中の小仏は/米原市甲津原
輪遊びの歌/豊郷町八町
中の中の弘法さん/草津市大路
うしろの正面/長浜市旧高月町
子取り遊び
鬼が一番後にいる人を捕まえる遊び。先頭の人は手を広げて鬼を防御しながら動き、他の人は前の人から離れないようにして動く。
子取ろ子取ろ/長浜市木之本町大音
桃くれ桃くれ/長浜市元浜町
こんこんさん/長浜市
子買い遊び
売手と買手とその他に分かれる。買手は売手から子どもを指名して取引をする遊び。
子買お子買お/大津市坂本
子取り遊び/草津市木川町
猫買おう/長浜市元浜町
なわとび歌
両端の二人が縄を持ち、その間に人が入って、縄が下を通過するときに足が引っかからないように跳びます。縄は、左右に揺れる時と、一周回す時があります。
大波小波/野洲市比留田
郵便屋配達屋/長浜市南呉服町
大波小波で/野洲市吉川
おはいり/近江八幡市上畑町
ゆすり遊び歌
二人が向き合って両手首を握り合い、井桁を組む。別の子がその上へ腰掛け、左右に揺すり、歌の最後に放り出す。幼児に対して行う場合は、子守歌の一種(遊ばせ歌)になる場合がある。
ゆすり遊びの歌/高島市新旭町藁園
揺すりゃ揺すりゃ/草津市大路
お姫さんのかご/長浜市元浜町
ゆすり遊びの歌/近江八幡市安土町中屋
子取ろ子取ろ/大津市坂本
くぐり遊び
二人組の子が作る門を、他の子がくぐる遊び。
これからは/大津市坂本
ここはどこの細道や/東近江市上平木町
送り遊び
二人づつ向き合って両手をしっかり握り、樋を作る。腹ばいで樋の上に乗り、腕を振り上げて跳ね上げ、順に先へ送る遊び。かなり腕力が必要である。
あいこでよいやさ/大津市坂本
お手玉歌
お手玉を用いた遊び。揚げ玉:戸外で立ち、空中にお手玉を投げ上げて受け止める。オジャミ / 室内や縁先などで座り、決まりの所作に従って扱う。
コンメのうた/栗東市荒張
うしろのせ/大津市坂本
おしと歌/米原市甲津原
つっとんだ/野洲市安治・井口
なむあみだぶつ/守山市新庄
こんめのうた/草津市野路
ひいふのなにわら/野洲市西河原
手まり歌
まりを使った遊び。まりつき / まりを地面や床につき下げ、反発して戻るので再度床に突き下げる。揚げまり / まりを空中へ投げて受け止める。
手まり歌/日野町大窪
まりつき歌/高島市新旭町深溝
ひとめふため/愛荘町長塚
ひいふの彼岸だんご/長浜市高月町渡岸寺
お小夜と伝兵衛さん/長浜市元浜町
ひいふのねえさん/大津市坂本
手まり歌/草津市山田町
手まり歌/甲良町金屋
まりつき歌/高島市マキノ町在原
いちじくにんじん/長浜市元浜町
ひいふのなにわら/野洲市西河原
市太郎/米原市甲津原
手まり歌/草津市山寺町
ひいふの三吉/大津市尾花川
羽根つき歌
羽子板で、おもりをつけた羽根を当てる遊びの時に唄った。一人つきと二人つきがあった。一人つきは、一人でついた回数を競う。二人つきは、交互に羽根をつき、先に落とした方が負けである。
いちじくにんじん/東近江市八日市金屋
ひとめふため/東近江市八日市金屋
羽根つき歌/米原市柏原
指遊び歌
指を使った楽しい遊びも行われていました。
トントンごめんな/甲賀市土山町徳原
一でいも食て/長浜市元浜町
言葉遊び歌
言葉遊びは、いろは、123などの順番であったり、早口言葉であったりして、迅速さと正確さを競っていました。また、笑い歌や、尻取りが隠されている歌もありました。
いんの字いっさいこく/米原市甲津原
一(い)の字いっさいこく/米原市甲津原
遊戯唄 いの字/大津市大津
正月三日/大津市坂本
ことば遊び/甲良町下之郷
稗谷あたいの坊さんが/甲賀市水口町嶬峨
自然遊び歌
自然豊かな土地で、動植物と共に遊んでいました。
とんぼつかみのうた/近江八幡市安土町下豊浦
蟻の道/守山市新庄
ピーヒョロとんび/野洲市乙窪
からすの歌/東近江市八日市清水
とんびや裏かやれ/東近江市上平木町
つばな抜きのうた/東近江市桜川西町
白鷺白鷺/東近江市八日市金屋
げんげ摘み/長浜市新庄馬場町
かいつぶり/大津市尾花川
カアカアからす/野洲市乙窪
からすカアカア/東近江市今崎町
がんがん渡れ/東近江市上平木町
カエルの学校/長浜市旧湖北町
お天気の歌
晴れ・曇・雨・雪・雷・月夜といった、お天気に関する歌。
お月さんいくつ/長浜市木之本町大音
お月さんいくつ/大津市尾花川
雪の歌/日野町大窪
雪が降るわいな/近江八幡市中村町
雨のショボショボ/長浜市元浜町
雷の歌/東近江市五個荘三俣町
天気占いの歌/東近江市桜川西町
おまじないの歌
痛み止め・しびれ止めの、おまじないがありました。
やけどのまじないの歌/近江八幡市安土町中屋
しびれ京へ/野洲市比留田
リンピョートージャ/東近江市今崎町
糸ほどきの歌/多賀町尼子
なおれなおれ/野洲市北比江
絵描き歌
たこの絵を描く歌が残っています。
たこさん/近江八幡市末広町
たこ入道/甲賀市甲賀町神保
十の早読み
一から十を早く読むための歌がありました。
坊さんが屁をこいた/東近江市八日市金屋
天照大神/甲良町金屋
かくれんぼ
鬼が目をふさいでいる間に子が隠れ、後に鬼がそれを見つけだす遊び。
かくれんぼする人/高島市今津町日置前
げんべしょう/長浜市木之本町広瀬
こま回し歌
こま(円盤又は円錐形の銅を、心棒や軸を中心に回転できる玩具)を回して遊ぶ。
独楽打ちの歌/日野町大窪
たこ揚げ歌
四角形の凧を大空に揚げて遊ぶ。
たこたこあがれ/東近江市北花沢  
 
京都

 

祇園の雨に濡れながら シャネルの人を せつなく今日も さがす京都の夜はふけゆく
恋によごれた女は明日から 白い京都の片隅に 想い出をすてるの
あの頃の 幸せが後ろ姿で遠去かる ゆらゆらり 京都ひとり
好きな人にも涙みせずに あゝかくれて 京都の女は 生きるために泣く
貧しい女やから 思いでだけで温かい 京都 京都ああ去りがたし
淡き想いの雪の華 めぐる季節のはかなさに 何を語るか 古都の冬
耳をすませば滝の音 京都 嵐山 大覚寺 恋に疲れた女がひとり
ああ 時は身じろぎもせず 悠久のまま 千年の古都
そのまた夢を 夢と信じて 夢を見た 京都 大原 うつせみの恋
すがりつくよな夢がある 円山 花町 母さんの 願いがしみた日陰町
散るを惜しまぬ おりょうの心 月もご存じ嵐山
内気装った その裏に 夜叉を隠して 先斗町 川は紅葉の 紅をさす
渡りとうない 戻り橋 どないしよう どないしよう 野村岐れの 思案道
切れぬ迷いの 糸を切る 嵯峨野 白露 ああ 黒髪ざんげ
嵯峨野ほろほろ よわい女をぶつように 鐘が鳴りますまたひとつ
西陣しめて 雨にかくれて 唇かんで すがる木屋町 宵あかり
遊ばせ唄
去年のやや
去年のややと 今年のややと
くらべてみれば おんなじことや
まいとこ まいとこ バー
チョチチョチアババ
チョチチョチアババ
かいぐり かいぐり おつもテンテン
チョチチョチチョチや
チョチ チョチ チョチや〔手をうつ〕
めめくぼくぼや〔人さし指で人さし指をつつく〕
こっちも めめくぼや〔同、反対に〕
たんぽ たんぽ たんぽや〔たもとを叩く〕
こっちも たんぽ たんぽや〔同、反対側〕
きゃっくり きゃっくり きゃっくりや〔かいぐり〕
あか ばあやのこー〔両手で顔をなでおろす〕
とんとんどなた
とんとん どなた 大丸丁稚
いまごろなにしに ござった
雪駄がかわって かえにきた
あんたの鼻緒は なに鼻緒
黒と白とのねじ鼻緒
そんな鼻緒は ございません
コチョ コチョ コチョ
紺屋のねね
紺屋のねねは かしこいねねで
藍食て 米食て おいちに追われて
柴屋へ コソコソ
キッコバッコ
キッコバッコ 臼ひき 米ひき
お腹が へったか へったか へったか
キッコカイヤ
キッコカイヤ 伊根までやってくれ
 伊根が遠けりゃ 文殊までやってくれ
キッコカイヤ 伊根までやってくれ
 伊根のおじが ぶり買てくわしょ
 ぶりの骨たてて キョホンキョホン
 言うたとや 言うたとや
キッコカイヤ 伊根までやってくれ
 舟賃なんぼ 二匁五分
 そりゃまた高い 高ても 安ても
 親の代から 十二文のはたご
寝させ唄
京の子守歌 1
ねんねなされませ きょうは二十五日
 あすはおまえの 誕生日 誕生日
誕生日には 赤い飯たいて
 赤い飯には 魚そえて 魚そえて
赤い着物きて 赤い草履はいて
 連れて参ろか 宮さまへ 宮さまへ
連れて参ったら なんというて拝む
 一生この子が まめなよに まめなよに
京の子守歌 2
よいよい よいよい 淀より下は
やわた八幡 大菩薩 大菩薩
むこうに見えるは 淀 鳥羽 武田
松に花咲く 藤森 藤森
優女
優女 優女
京の町の優女
売ったるものを 見しょうめ
金襴緞子 綾や緋縮緬 
どんどん縮緬 どん縮緬
ねんねおしやす
ねんねおしやす きょうは二十五日
 あすはこの子の 誕生日 誕生日
誕生日には 豆のままたいて
 一生この子が まめなよに まめなよに
赤いべべ着て 赤いじょじょはいて
 連れて参ろよ ののさまへ ののさまへ
ののへ参ったら なんというて拝む
 親のいうたように いうて拝む いうて拝む
天満のお市
ねんねころいち 天満のお市
 大根そろえて 船に積む
船に積んだら どこまで行きゃる
 木津や難波の 橋の下
橋の下には オカメがいよる
 オカメとりたや おそろしや
山城町の子守歌
ねんねころいち ねた子はかわい
 おきて泣く子は つらにくい
つらはにくても ほべらはかわい
 かわいほべらが つめらりょか
うちのこの子に 赤いべべ着せて
 お宮参りに そろそろと
お宮へ参ったら なんというて拝む
 一生この子が まめなよに
乙訓の子守歌
ねんねなされませ 今日は二十五日
 あすはいとさんの 誕生日 誕生日
誕生日には 小豆のままたいて
 だれに食べさそ いとさんに いとさんに
わたしゃいとさんが かわゆてならぬ
 いつもおせなに たたをして たたをして
わたしゃ十二で いとさんが二つ
 ことしお盆に 里帰り 里帰り
うちの父さんは あの世の人よ
 母さん一人で さびしかろ さびしかろ
ことしゃお盆に おひまをもろて
 母さんと二人で 墓まいり 墓まいり
宇治田原の子守歌 1
ねんねねんねん ねた子はかわい
 ねたら丹波へ つれていこ
ねたら丹波へ おきたら京へ
 おめがさめたら 江戸のまち
ねんねしてくれ ねんねが好きで
 ねたら丹波へ つれていこ
ねたら丹波へ おきたら山へ
 おきたらオカメに かますぞえ
ねんねねんねん ねた子はかわい
 だれもやかまし いうてくれるな
だれもやかまし いわしゃんけれど
 守りがやかまし いうて泣かす
宇治田原の子守歌 2
あー ねんねんよ
 こちのミヨちゃんは いまねるとこよ
 だれもやかまし いうてくれな
 おきて泣く子は つらにくい ねんねんよ
あー ねんねんよ
 ねたら子もらく 守りもらく
 おきて泣く子は 田んぼへつれていく
 ねんねん ねんねん ねた子はかわい
 ねんねんよ
ナッチロリン
ねんねころりよ ねんねして チリグサ おくれ
 おきて泣かずに ねんねして
 ナッチロリンの シャントエ
かわいこの子に 赤いべべ チリグサ 着せて
 お宮まいりに そろそろと
 ナッチロリンの シャントエ
守り子しゃんとせよ しゃんと髪 チリグサ 結うて
 見さげられなよ わかい衆に
 ナッチロリンの シャントエ
おまえ百まで
おまえ百まで わしゃ九十九まで
 ともに白髪の ともに白髪の はえるまで
この子ようなく 泣きみそこみそ
 こんど味噌屋へ こんど味噌屋へ 嫁にやろ
ねんねしなされ おやすみなされ
 ねたら子も楽 ねたら子も楽 守りも楽
西の町から 東の町まで
 うとうて歩く うとうて歩くは 守り子供
守りのつらいのは 霜月師走
 こごりたたいて こごりたたいて しめ洗い
宇治の子守歌
ねんね ねんねん ねんねをなされ
 おきて泣く子は 世につらい
ねんね ねんねん ねんねをなされ
 ねたら子も楽 親も楽
泣いてくれるな 今日は二十五日
 あすはこの子の 誕生日
誕生日には 赤まま炊いて
 連れて参ろか ののさまへ
連れて参ったら なんというて拝む
 うちのこの子が まめなよに
とろりとろりと ねむたいときは
 馬に千両の 金もいや
馬に千両の金さえあれば
 こんな苦労も せまいのに
うちのこの子に あげたいものは
 乳かおまんか 赤いべべ
加茂町の子守歌
うちのこの子に やりたいものは
砂糖かまんじゅうか 城の口
城の口ほど うまいものないが
それがいやなら 親の乳
   ねんねころいち 天満の市は
   大根そろえて 船につむ
   船につんだら どこまで行きゃる
   木津や難波の 橋の下
   橋の下には かもめがいやる
   かもめとりたい 網ほしや
   網はゆらゆら 由良之助
うちのこの子は いまねんねする
だれもやかまし 言うてくれな
だれもやかまし 言わせぬけれど
うちのこの子は ねどろ言い
ねどろ言わずに ねてさえくれりゃ
親もらくなら 守りもらく
   ねんねんころいち ねた子はかわい
   おきて泣く子は つらにくい
   つらはにくても ほべらはやさし
   やさしほべらは つねらりょか
うちのこの子に 赤いべべ着せて
お宮まいりも そろそろと
お宮へまいりて なんというて拝む
一生この子の まめなよに
   ねんねしなされ きょうは二十五日
   あすはこの子の 誕生日
   誕生日には 赤ままたいて
   近所となりへ 配りましょ
オッチョコチョイ
ねんねころいち
 ねた子はかわいサ
 おきて泣く子は
 つらにくいサ
 つらにくい オッチョコチョイ
つらはにくても
 ほべらはかわいサ
 かわいほべらが
 つめらりょかサ
 つめらりょか オッチョコチョイ
西の町から
 東の町までサ
 うとて歩くは
 守りの役サ
 守りの役 オッチョコチョイ
笠置の子守歌
この子いなんだら 出て奉公するのに
 出たら浮世で 暮らすのに 暮らすのに
ねんねしてくれ ころりと横に
 晩のご飯の すまるまで すまるまで
 (または)朝のご飯の すむまでも すむまでも
ねんねした子に 羽子板と羽根と
 ねんねせん子に 羽根ばかり 羽根ばかり
盆と正月 一度に来たら
 昼は羽根つき 夜は踊る 夜は踊る
親と子となら なんでもないが
 こわや他人さんの 根の深さ 根の深さ
想うて想いおうて 添うのが縁や
 親が添わすは 無理の縁 無理の縁
添うて苦労は 世情のならい
 添わぬ先から 苦労する 苦労する
美山の子守歌
ねんねしなされ 今日は二十五日
明日はこの子の 誕生日 ヨホホ
誕生日には 小豆の飯炊いて
一生この子が まめなよに ヨホホ
赤いべべ着て 赤いじょじょはいて
連れてまいろか ののさまへ ヨホホ
   ねんねころいち ころたけのいち
   竹にもたれて ねねなされ ヨホホ
   ねたら丹波へ おきたら山へ
   お目がさめたら お江戸まで ヨホホ
ねんねしなされ おやすみなされ
朝のごぜんの あがるまで ヨホホ
朝のごぜんは なんどきあがる
あけは九つ 夜は七つ ヨホホ
   守りよ子守りよ なんで子を泣かす
   乳が飲みとて 泣きなさる ヨホホ
   乳が飲みたけりゃ 連れてこい飲まそ
   連れてゆく間に 日が暮れた ヨホホ
   日が暮れたなら お提灯ともせ
   お提灯ともす間に 夜が明けた ヨホホ
   ねんねねんねん まだ夜は夜中
   あけの烏が 鳴くまでも ヨホホ
ねんねしょと言うて ねるよな子なら
守りもしてやろ うとうてやろ ヨホホ
守りもしてやろ うとうてもやろし
間にゃままごと してもやろ ヨホホ
   よいやよいよい よい子でござる
   この子育てた 親みたい ヨホホ
   親を見たけりゃ この子を見やれ
   親によく似た きりょうよし ヨホホ
うちのこの子は いまねるところ
だれもやかまし 言うてくれな ヨホホ
だれもやかまし 言わせぬけれど
守りがやかまし 言うて泣かす ヨホホ
   親のない子に 親はと問えば
   親は極楽 ねてござる ヨホホ
   北を枕に 木の葉を夜着よ
   雲を天井に ねてござる ヨホホ
この子よい子や ぼた餅顔や
きな粉つけたら なおよかろ ヨホホ
   うちのこの子は 泣きみそきみそ
   だれが きみそと 名をつけた ヨホホ
今夜ここにねて 明日の夜はどこや
明日は田の中 畔まくら ヨホホ
   畔をまくらに 枯草よせて
   落つるその葉が 夜着となる ヨホホ
守りはつらいもんや これから先は
雪はチラチラ 子は泣くし ヨホホ
   ねんねしなされ おやすみなされ
   おきて泣く子は つら憎い ヨホホ
   つらの憎い子を まな板にのせて
   青菜切るよに ザクザクと ヨホホ
   切ってきざんで 油で揚げて
   道の四辻に ともしおくよ ヨホホ
   人が通れば なむあみだぶつ
   親が通れば 血の涙 ヨホホ
広河原の子守歌
はたちこえたら 嫁入りはおそいな
 行くか河内の 尼寺へな
 ヨヨラホイ ココラコイ
親と親との ご相談なろがな
 行かにゃなろまえ もどろとも
 ヨヨラホイ ココラコイ
いやというのに あなたはくどいな
 一度いやなら 二度もいや
 ヨヨラホイ ココラコイ
しんぼうしてくれ いやじゃろけれどよ
 親と末代 そわしゃせぬ
 ヨヨラホイ ココラコイ
なにがいやじゃろ 夫の親やよ
 かわいあなたの 親じゃもの
 ヨヨラホイ ココラコイ
ねんねされませ 今日は二十五日よ
 あすはこの子の 誕生日でよ
 ヨーイヨーイ ココラコイ
誕生日には 豆のまま炊いてな
 一生この子が まめなよによ
 ヨーイヨーイ ココラコイ
守りのつらいのは 霜月師走よ
 雪はちらつく 子は泣くしよ
 ヨーラホイ ココラコイ
佐々里の子守歌
ねんねしてくれ よい子でねたなら
 赤い枕を 買うて さすによ
 ヨヨイヨイ ココラコイ
赤い枕は まだ買うてないがな
 そ言うて たらして ねさすのやよ
 ヨヨイヨイ ココラコイ
わしの兄弟 七人あるによ
 京と大坂と 伏見と淀とな
 佐渡と越後と わしゃここによ
 ヨヨイヨイ ココラコイ
ねんねころいち
ねんねころいち こは竹のいち
 竹にもたれて ねるわいな
ねんねしなされ おやすみなされ
 あすはお早に おきなされ
ねんねしなされ おやすみなされ
 母のおひざで 夜明けまで
ねんねした子に 赤いべべ着せて
 つれて参ろや 外宮内宮
外宮や内宮は 賽銭どころ
 あいの二俣 ちょぼどころ
この子よいこじゃ なに食べさしょう
 おぼろまんじゅうに 砂糖せんべ
おぼろまんじゅうに 砂糖せんつけて
 のどの奥さんに 供えたい
ねんねせなんだら 大江の山の
 鬼がおまえを 食べにくる
うちのこの子は よい子じゃさかい
 だれもやかまし 言うてくれな
だれもやかまし 言いはせぬけれど
 守りがやかまし 言うておこす
おまえなんぼじゃ わしゃ九つじゃ
 わしも九つ 連れになろ
守りはいやいや これから先は
 雪はちらつく 子は泣くし
綾部の子守歌
ねんねしなされ おやすみなされ
 あすはお早に おきなされ おきなされ
赤いべべ着て 赤いじょじょはいて
 あすはお寺へ 参ろいな 参ろいな
なんぼ泣いても この子はかわい
 わしがお飯の たねじゃもの たねじゃもの
コッコイコイ
ねんねねんねん ねんねの守りは
 どこへ行ったやら 犬つれて
 コッコイコイ コッコイコイ (以下くり返し略)
うちのハルちゃんは いい子やさかい
 だれもあほやと 言うてくれな
だれもあほやと 言わせぬけれど
 守りがあほやと 言うて泣かす
ねたかねなんだか まくらに問えば
 まくら正直もんや ねたという
ねんねねんねん ねた子はかわい
 おきて泣く子は つら憎い
つらの憎い子は まないたにのせて
 青菜切るよに ざくざくと
切ってきざんで 油で揚げて
 お寺まいりの お茶のこに
ちょんちょんちょ太郎
ちょんちょんちょ太郎は どこへよ ホイホイ
 ちょ太郎丹波へ 米買いに
米も安なれ はかりもよなれよ ホイホイ
 道もちこなれ はよもどれ
オカメにかましょ
ねんねせん子は オカメにかましょよ ホイホイ
オカメこわいわいな ねんねする ねんねよ
ねんねしなされ おやすみなされよ ホイホイ
あすはおまえの 誕生日 ねんねよ
誕生日には 豆のままたいてよ ホイホイ
たいて供えて まめなよに ねんねよ
ねんねしなされ ねた子はかわい ホイホイ
おきて泣く子は つらにくい ねんねよ
つらのにくい子にや つららがさがるよ ホイホイ
つららさがれよ やつさがれ ねんねよ
ねんねしなされ まだ夜はあけぬ ホイホイ
あけりゃお寺の鐘がなる ねんねよ
こんな泣く子の 守りをしょうよりも ホイホイ
いんで山行き するがよい ねんねよ
ねては念仏 おきてはつとめ ホイホイ
つらいつとめは せにゃならぬ
かかに似んと
母に似んと 父に似い
母に似ると 性わるだ
ねんねが山の
ねんねが山の 雉の子
鳴いて鷹に とられな
久美浜の子守歌 1
ねんねしなされ きょうは二十五日
 あすはおまえの 誕生日
誕生日には 豆のままたいて
 連れて参ろや ののさまへ
連れて参れば どういうて拝む
 一期この子が まめなよに
ねんね長松 長太郎はどこへ
 長太郎丹波へ 米買いに
米も安なる はかりもよなる
 道もちこなる はよもどれ
こんな泣く子の 守りどもいやよ
 いんで草刈り するがよい
ねんねした子は かわいうてならぬ
 おきて泣く子は 腑が悪い
こんな泣く子は オカメにかましょ
 オカメこわいわいな ねるわいな
うちの子さんは よう泣く子さん
 乳がたらぬか ねじれたか
乳はたくさん ありますけれど
 これはこの子の 生まれつき
ねんねしなされ ねた子はかわい
 おきて泣く子は つら憎や
つらの憎いのにゃ つららがさがる
 つららさがれよ やつさがれ
この子さんの お正月べべは
 梅にうぐいす 竹に虎
竹に雀は しなよくとまる
 とめてとまらぬ 色の道
ねんねしてくれ まだ夜は明けぬ
 明けりゃ お寺の 鐘がなる
鐘がなるかな 撞木がなるか
 鐘と撞木の 間がなる
久美浜の子守歌 2
ねんねしなされ きょうは二十五日
 あすはおまえの 誕生日
誕生日には 豆のままたいて
 連れて参ろや ののさまへ
連れて参れば どういうて拝む
 一期この子が まめなよに
ねんね長松 長太郎はどこへ
 長太郎丹波へ 米買いに
米も安なる はかりもよなる
 道もちこなる はよもどれ
こんな泣く子の 守りどもいやよ
 いんで草刈り するがよい
ねんねした子は かわいうてならぬ
 おきて泣く子は 腑が悪い
こんな泣く子は オカメにかましょ
 オカメこわいわいな ねるわいな
うちの子さんは よう泣く子さん
 乳がたらぬか ねじれたか
乳はたくさん ありますけれど
 これはこの子の 生まれつき
ねんねしなされ ねた子はかわい
 おきて泣く子は つら憎や
つらの憎いのにゃ つららがさがる
 つららさがれよ やつさがれ
この子さんの お正月べべは
 梅にうぐいす 竹に虎
竹に雀は しなよくとまる
 とめてとまらぬ 色の道
ねんねしてくれ まだ夜は明けぬ
 明けりゃ お寺の 鐘がなる
鐘がなるかな 撞木がなるか
 鐘と撞木の 間がなる
でんでん太鼓 1
ねんねん守りは どこへった
 あの山こえて 里へった
里のみやげに なにもろた
 でんでん太鼓に 笙の笛
それをたたいて あそばんせ
 なるかならぬか ふいてみな
 ねんねん ねんや
でんでん太鼓 2
ねんねの子守りは どこへいった
 あの山こえて 里へいった
 里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
 それをたたいて あそばんせ
 それをたたいて あそばんせ
でんでん太鼓 3
ねんねんねんねん ねんねんや
 この子のねたまの しごとには
大きな島へ わたって
 ニナイやサザエを とってきて
 ゆでたり焼いたり して食わしょ
ねんねしなされ
ねんねしなされ おやすみなされ
 あすはおまえさんの 誕生日
誕生日には 豆のままたいて
 連れて参ろや ののさまへ
連れて参ったら どういうて拝む
 一期この子が まめなよに
一期この子が まめのような子なら
 三升酒買うて 祝いしょう
ねんねしなされ まだ夜はあけぬ
 あけりやお寺の 鐘がなる
鐘がなるかや 撞木がなるか
 鐘と撞木の間がなる
この子さんは よう泣く子さん
 乳が不自由なか 親ないか
乳はたくさん 親あるけれど
 泣くが仕事で 泣くわいな
旦那ようきけ おかみさんもようきけ
 守りいじると 子にあたる
守りいじって 子にあてられ
 傷のない子に 傷させる
お主さんなよ 子がかわいけりゃ
 守りも大事に しておくれ
お主さんなよ 傘買うておくれ
 傘のえぼりで 子がぬれる
なんぼ泣いても この子さんは大事
 三度 三度の ままのたね
ねんね子守りは 日の暮れが大事
 朝やねおきは なお大事
子守り大将さん 連れにしておくれ
 豆の十粒も よけい上げる
守りは守り連れ 子は子ども連れ
 若いねんさん 男連れ
親が親なり 世が世であれば
 つらいつとめは させはせぬ
この子よう泣く 袂へ入れて
 川へ流そか 子にやろか
川へ流せば 魚がとめる
 魚とめるな 日がくれる
守り子唄
どこの軒ねに
足は冷たし 背の子は泣くし
 どこの軒ねに 立てろやら 立てろやら
お主さんなよ 子がかわいけりゃ
 守りも大事に しておくれ しておくれ
お主さんなよ 気をつけなされ
 守りをいじると 子にあたる 子にあたる
守りをいじって 子にあたられて
 とがもない子に 傷がつく 傷がつく
ねんね子守りは 日の暮れが大事
 朝のねおきは なお大事 なお大事
守り奉公は
守り奉公は
 さしょまい しょまい
 口はようなる 手はさがる 手はさがる
守りはうまいもんじゃ
 いうてじゃ けれどよ
 守りが楽なか してみなれ してみなれ
守りじゃ守りじゃと
 たくさん なげによ
 守りがありゃこそ 子が育つ 子が育つ
高瀬の船頭
うちのおとっつぁん 高瀬の船頭
朝のはよから ホイホイと
竹田の子守歌
守りもいやがる 盆からさきにゃ
 雪もちらつく 子も泣くし
この子よう泣く 守りをばいじる
 守りも一日 やせるやら
はよも行きたや この在所こえて
 向こうに見えるは 親のうち
来いよ来いよ 小間物売りに
 来たら見もする 買いもする
久世の大根めし 吉祥の菜めし
 またも竹田の もんばめし
盆が来たとて なにうれしかろ
 かたびらはなし 帯はなし
織り手ぶし
朝はおはよで
ねんねしなされ おやすみなされ
 朝はおはよで 立ちなされ
ねんねしなされ 今日は二十五日
 あすはあなたの 誕生日
誕生日には 豆のまま炊いて
 つれて参ろや お伊勢さん
つれて参ったら どういうて拝む
 この子一代 まめなよに
ねんねころりと たらいてねさせてよ
 ねんねせん子は つらにくい
ねんねせというて ねるよな子なら
 守りいろまい 親守りで
ねんねしなされよ ねた子はかわい
 おきて泣く子は つらにくい
与謝の子守歌
ねんねしなされ おやすみなされ
 それがいやなら 泣きなるな
ねんねする子は かわいいけれど
 泣いてくだまきゃ にくらしい
守りゃえらいもんじゃ 子にゃいじられて
 朝ははよから おこされて
守り守りと あなどりなるな
 守りがありゃこそ 子はねさす
守り守りと たくさんなげに
 守りゃ天から 降らしょまい
旦那さんより おかみさんがこわい
 白眼 黒目で にらみなる 

 

わらべ歌
雪の歌
「『降れ降れ粉雪、たんばの粉雪』といふ事、米搗き篩ひたるに似たれば、粉雪といふ。『たンまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。『垣や木の股に』と謡ふべし」と、或物知り申しき。昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられける由、讃岐典侍が日記に書きたり」(『徒然草』)
温暖化で湿った今の雪と違って、昔は江戸でも京都でも粉雪の降ったものか、兼好法師が「或物知り」の言葉を上のように伝えている。粉雪の粉は、米を挽いてふるった時の粉のような様子を指しているらしい。讃岐典侍日記が書かれたのは、平安末期。兼好法師にとっては250年くらい前の話だ。
「降れ、降れ、こ雪」と、いはけなき御けはひにておほせらるる、聞こゆる。こはたそ、たが子にかと思ふほどに、まことにさぞかしと思ふにあさましく(『讃岐典侍日記』)
讃岐典侍は堀河天皇のそばに仕えた女官だった。天皇の死後、幼い鳥羽天皇の下に仕えることになるが、その対面の日、無邪気に粉雪の歌をうたう子供を誰かとおもったら鳥羽天皇であった、という場面だ。
その当時からあるとしたら、900年近くの歴史を持つフレーズである。『京都のわらべうた』の楽譜集を眺めていてこの歌を見つけたとき、そのメロディの美しさに衝撃を受けた。
   雪やこんこ あられやこんこ お寺の柿の木に いっぱいつもれこんこ
   (旧京都市城)
短調か長調か問われれば、短調だろう。しかし、そうした分類さえ陳腐に思えるほどメロディそのものが哀感を残すと思った。雪の解けるような余韻だ。その印象は、童謡になった「雪やこんこ」のイメージとかけ離れているために強く感じるものだろうか。「柿の木」は地方の類歌でそれぞれ異なり、越後の「梨の木」、薩摩の「山椒の木」などがある。
「こんこ」というのは、「こんこん」の「ん」が抜けたものだが、私自身「こんこん」が何かあまり深く考えないまま、歌ってきた。雨はしとしと、雪はこんこん。降る様を表しているのだろうか。北原白秋は「こんこんと雪が湧いて降ってくる」という使い方をしており、「泉の水がこんこんと湧く」と同じ、次々とあふれてくるようなイメージを抱いたようだが、若井勲夫は「雪が」でなく「雪や」となっているのは呼びかけであり、「雪や来む来む」であると指摘した。雪よ来い、これぞわらべうたという感じがする。雪を喜んで、もっと降れというのはいつの時代も子供たちだ。
松永伍一はもう少し、違う解釈をしている。「春は花なつほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」(道元法師)「雲を出でて我にともなふ冬の付き風や身にしむ雪や冷めたき」(明恵上人)のように、自然を愛で、自然に吸収されていくような鑑賞者の視点ではなく、
   上見れば 虫コ 中見れば 綿コ 下見れば 雪コ
   (秋田のわらべうた)
のように、地面に立ち降ってくる雪の様子をしかと観察する主体、生活者としての視点だ。「お寺の柿の木に一ぱいつもれ」という歌詞にも雪と対等な姿勢があり、それは自然を向かいにおいて「いどむ」態度であるとしている。
その上で私が親しんできた「雪」を改めて眺めてみよう。明治44年『尋常小学唱歌』第二学年用に掲載された歌は次のものだ。文部省唱歌ゆえ、作詞者不明である。
 一 雪やこんこ霰やこんこ。
   降っては降ってはずんずん積る。
   山も野原も綿帽子かぶり、
   枯れ木残らず花が咲く。
 二 雪やこんこ霰やこんこ。
   降っても降ってもまだ降りやまぬ。
   犬は喜び庭駆けまわり、
   猫は火燵で丸くなる。
綿帽子という言葉は「白い帽子」という以上に深く考えたことがなかったが、和装の結婚式で花嫁が頭にかぶる大きな白いあの被り物を指すのだという。「昔は家で婚礼をしていたので、子供たちは花嫁姿を見る機会が多く、どの子もその白い綿帽子の美しさを知ってい」た。阿毛久芳はこうした雪の擬人法や、犬と猫の対句は「日本の雪景色の統一的イメージ」を生み出したのではないかと指摘する。確かに、ここには外に出て子供のように雪を見つめる人間はいない。もっと降れ、と浮き立つ心もない。ただ、そのような光景として「認識する私」がいる。この「私」がどこにいるかもわからないが、「火燵」から庭を眺めているような気もする。子供のための歌ではありながら、大人の視点から書かれた歌のようにも感じる。そもそも「こんこ(来む来む)」と歌いながら、「まだ降りやまぬ」というところで捩じれている。「こんこ」はこのとき、すでに意味あいまいな「音」として使われているのだろう。
そんな文部省唱歌も、作られた30年後の1941年には学校教科書から外され、戦後二年たって復活している。これについて池田は「父や兄が戦場で、お国のために戦っている非常時に、この平和な歌は、省かれて当然だった」としている。今の感覚からすれば、ここまで「害のない」歌が、排除されたということが不可解でもあるが、そのようなささやかな幸せさえ否定されたのが戦争の時代、ということか。戦後すぐに掲載が復活しているところを見ると、学校で教えられていた30年で冬の歌として広く定着したのだろう。 
京のわらべうた
子どもたちはさまざまな遊びの中で、大人になるための知恵や技能を知らず知らずの間に体得してゆく。それは昔も今も変わらない。遊びは、子どもたちにとって楽しみであるとともに、必ず経験しなければならない、大切な通過儀礼のひとつでもある。子どもたちは、遊びの世界の中で仲間たちとの絆を紡ぎ、社会の規範を学んでいく。そこに表象されるのが、個々の遊び特有の歌である。歴史において、遊びの種類に合わせて自然発生的に数々の歌が生まれ、それらが地域社会の中で、少しずつ変化しながら唄い継がれてきた。手毬歌・ジャンケン歌・羽根つき歌・絵描き歌など、数え上げれば無数の歌がある。これらは総称して、童が唄う歌「わらべ歌」と呼ばれる。
遊びは、今日では娯楽であると理解されているが、「神あそび」という語があるように、古くは神仏の祭りや占いなどの呪術的な意味を有する宗教儀礼でもあった。またときには、遊びは死者の魂を揺さぶり起こし、再生を願う儀礼ともなった。そこで唄われる歌は、宗教色を色濃く纏った一種の「呪詞」でもあったのだ。
例えば、「かごめかごめ」という遊びがある。「かごめかごめ かごの中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面だーれ」。懐かしい響きのわらべ歌である。これは目隠しした鬼の子を中央にして周囲を唄いながら廻り、歌の終了とともに鬼の真後ろの子が誰かを当てる遊びである。当たれば鬼は交替し、当たらねば何度でも鬼を務めなければならない。それにしても「夜明けの晩に 鶴と亀がすべった」など、意味不明な歌詞が多いのがわらべ歌の特徴である。ところで、「かごめかごめ」とはどんな意味なのだろうか。 これと似た遊びに、たとえば東北地方に広く分布している「地蔵遊び」がある。それは「かごめかごめ」と同様に、円陣の中央の鬼が、真後ろの子を当てる「人当て遊び」であるが、その歌詞の中に「中の中の地蔵さま」や「坊さん坊さん」などの語が含まれており、地蔵信仰を中心とした仏教の影響が垣間見られる。このような遊びには、円陣の中央にいる者に地蔵を憑依させて託宣を聞くという、呪術的な信仰の痕跡がうかがえる。周囲が回転する円陣の中央に目隠しをして座るということは、それだけで神がかりのイメージを醸す。だからこそ鬼は憑霊の対象となり、目隠ししていても“後ろの正面”の子を当てることができると考えられていたのだろう。おそらく「かごめかごめ」もこのような信仰を背景として作られた遊びであろうと思われる。その意味で、「かごめかごめ」は「囲め、囲め」の意ではないかと考えられる。この遊びは深層において呪術的な意味を有したがゆえに、その歌にも、神秘的で不可思議な歌詞が唄われているのだろう。
「下駄隠しチュウネンボ はしりの下のネズミが 草履をくわえてチュッチュクチュ チュッチュク 饅頭は誰が喰った 誰も喰わないわしが喰った 表の看板三味線屋 裏から廻って三軒目」。これは「下駄隠し」で鬼を決める際に唄われる歌である。下駄隠しは「鬼ごっこ」の一種であり、同種の遊びとしての「かくれんぼ」の履物版である。「鬼ごっこ」の「ゴッコ」という語は、元は「コト」、すなわち神事や儀礼を意味する語で、「ママゴト」の「ゴト」と同じ意である。鬼に因んだ一連の遊びは、人々のくらしの妨げとなる“鬼”を想定して、その鬼が他者を追跡、もしくは捜索して最後は捕まえる、あるいは見つけ出すことを意図した遊びである。つまり追跡と逃避を基本とし、鬼とそうでない者とが役割と立場を交替しながら展開する、かつての社会での“神隠し”をどこか想起させる遊びである。だからこそ、異界の存在としての“鬼”を決める時には、囃し言葉を含んだ、特殊な歌詞が唄われるのである。
それにしても、京には個性的なわらべ歌が何と多いことか。そこには京独自の風土と季節観が織り込まれている。京のわらべ歌の特徴は、遊び歌以外に、「坊さん頭は丸太町」・「丸竹夷」・「寺御幸」などのような、京ならではの地名を謳い込み、語呂合わせをもじった、いわゆる「地口歌」が豊富に伝えられていることだろう。それは、千年越しにわたって都がおかれた地であり、かつ条坊制によって碁盤の目に通りが配されたことに由来することは間違いない。
豊かな情感を想い起こさせ、悠久の歴史と風情を今に伝えるわらべ歌は、今、まさに多くの人々の記憶から忘れ去られようとしている。もはやわらべ歌は、子どもたちのためだけの歌謡ではない。日本の価値高い“口承文化”である。先人たちが築き守ってきた、くらしの中の情景を豊かに織り込んだわらべ歌を、絶やすことなく、後世に伝えてゆきたいものである。
ひとめふため
「ひとめふため」は羽根つき歌である。羽根つきは正月の女児の遊びとして古くから人々に親しまれてきたが、近年では正月に羽根つきをする光景を目にすることはめっきり少なくなった。寂しい限りだ。羽根つきの道具である羽子板は、別に「コギイタ」ともよばれる。「コギ」とは、昔の中国では「トンボ」を指す語であった。そのため、羽子板で突かれる「羽根」はトンボに似ているのである。トンボは人々に害をもたらす蚊を食べる益虫として、縁起のよい昆虫と解されるようになった。羽根つきは新年にトンボを突くことから、単なる遊びではなく、一年の無病息災を願う儀礼的な遊戯とされ、また羽子板は魔除けの呪物、また縁起物としての性格を帯びるようになる。このような背景から、近世には、羽子板は女児の誕生祝いにお守りとして贈る慣習ができあがったのである。
1月・2月:正月きたら
最近の正月は、ひと昔前と比べるとハレの演出があまりにも薄れてしまったように感じる。考えてみると、確かに昔の正月は、年の始めを寿ぐ意味もあって、すべてにおいて特別な日であった。「正月きたら なにうれし お雪のような 飯食べて…」と唄われるこのわらべ歌は、子どもたちにとって、正月がまだまだ特別な機会であった頃の想いを、今に伝えてくれている。かつては「お雪のような飯」は、正月にしか食べられなかったのだろう。
3月・4月:祇園の夜ざくら
これは「ジャンケン歌」。紙、石、ハサミ。ジャンケンは元は中国から伝えられたとする説や、今日のジャンケンは近世末から明治期に日本で成立したとも言われている。簡便に勝ち負けを決する時は、ジャンケンほど簡単かつ公平な決着法はない。京の子どもたちは、花の名所である枝垂れ桜を遊びに取り込み、「祇園の夜ざくら パッと咲いた 祇園の夜ざくら チョッと咲いた 祇園の夜ざくら グッと咲いた」と唄った。
5月・6月:愛宕山へ登って
「愛宕さん」や「音羽の滝」等の地名が登場するこの歌は、歌に合わせて頭や鼻などを触る、いわゆる「顔遊び」の歌である。愛宕は、京はもとより日本全国から篤い信仰を集める火伏せの神として名高い。「お伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り」と唄われたように、村々では愛宕へ代参月参りを行った。また子どもが3歳までに愛宕へ参ると一生火災の難をまぬがれるといわれ、今も「三歳参り」の習慣は広く受け継がれている。
7月・8月:盆の十六日
盆は、ご先祖のおしょらいさん(精霊)を家へお迎えし、子孫たちと束の間の団欒を楽しむ機会である。京都の盂蘭盆は8月上旬の「六道参り」で幕を開ける。迎えられたおしょらいさんは、家々で丁重なもてなしを受け、大文字に代表される五山の送り火に照らされながら、再びあの世へ戻ってゆく。「盆の十六日 はつかねずみをおさえて…」と唄われるこの歌は、送り火の16日が題材として謳い込まれた、いわゆる「盆歌」である。
9月・10月:下駄かくし
この歌は、子どもたちが鬼を決める際の「遊び歌」である。歌詞の中に「はしり」という語が登場するが、今ではその意味を知る者もめっきり少なくなった。「はしり」は台所の「流し」を指す京ことばである。このような京独自の語彙が豊富に謳い込まれているのも、京のわらべ歌の面白さだ。ちなみに、筆者は子どもの頃「おもての看板 ちんどん屋」と唄っていた記憶がある。歌詞は時代とともに少しずつ変化してゆくのだろう。
11月・12月:おかわりやす・千枚漬
「おすわりやす 椅子どっせ あんまり乗ったら こけまっせ」「千枚漬 どぼづけ」と、京ことばをふんだんに取り込んだこの歌は、「押し合い遊び」の遊び歌である。椅子に腰かけている子どもの上に、他の子どもたちがこの歌を唄いながらどんどん覆いかぶさってゆくという、男の子向けの肉体遊びだ。子どもたちの重なり合ってゆく姿を、「千枚漬」や「どぼづけ」という京ならではのお漬けもんに例えているのが、この歌の魅力といえる。 

京の京の 大仏つぁんは
天火で 焼けてな
三十三間堂が 焼け残った
アラ どんどんどん
コラ どんどんどん
うしろの正面 どなた 
 
大阪

 

わりない仲でも 泣きをみる 義理には勝てない 大阪かたぎ
誘い誘われて 誘い誘われて 誘われて大阪
あなたが恋しい 戎橋 ちょっと待って大阪 涙町 ちょっと待って大阪 恋の町
あんたひとすじ あんたひとすじ なにわの女 灯をともす
ぬれて大阪 あなた あなた愛して 涙のブルース
ああ抱きしめて ふたりの大阪 ラスト・ダンス
別れがくる 追いかければ 逃げてゆくわ ブルーレイン 雨の大阪
夜の大阪あなたの胸で あなたの胸で 今夜だけでも雨やどり アーさせてもう一度
とんがったまんまの黒ちゃんの背中が 大阪の街で小さく見えた
箱根山を 越えたいものと 咲かせます心華 大阪のはな
大阪好きやねん この街で この街で 生きていくんやもん
異国の空に 消えた人 ああ 大阪空港待合室
今日も最高やねエ ただそれだけで 浪花に夢の風が吹く
愛のぬくもり抱きしめて 東京大阪 心の糸を 結んで走る 14番線
離ればなれじゃ いられへん 夜の大阪 曽根崎そだち
大阪 この街にめぐり逢えた奇跡を 今もこのままであたためて
遅いのかい 大阪Broken Heart 好きやねん テレホンベルを鳴らし続けた
いつかあなたに めぐり逢う ああ 夢を見ました 今日もまた大阪ごころ
つくしたりない 私が悪い あのひとを 雨よ帰して ああ大阪しぐれ
泣けてみじかい夜が更ける 別れが出来ない 大阪しのび逢い
人の情けがいきる街 東京なんてめじゃないわ あなたとわたしは 大阪すずめ
浪花のおんなや うちは 泣き止むのも早い めそめそしたって あかん
そんな女とそんな男が 一夜限りの夢に酔う 大阪 大阪 大阪ナイトクラブ
三十路女の夢ひとつ 明日は咲かせて 北新地 あなたひとすじ 大阪なさけ
笑顔千両で 小春のように 生きてゆきたい 浪花のおんな
死ぬほど抱いて あんたと添いたい 情け花 難儀なもんやね 大阪のおんな
酔ったふりして名を呼べば 急にあなたが来るようで 離れられない大阪を
大阪の女 負けたらあかん 若い私に演歌は似合いませんか
一つ 命を懸けた人 今でも好きや 大阪ひとり 夢で素直になれたのに
雨も小降りの御堂筋 愛合傘で 愛合傘で 大阪ふたりづれ
ふたり生きたい この街で あーあああ 春はいつ 大阪ブルース
耐えりゃほほえむ 春もあろ あんじょやりやと 今日も流れる 大阪めおと川
女はいつもみをつくし 男はいつも明日へ逃げる 大阪 大阪 恋と夢が 川に映る街
七色のネオンさえ 甘い夢を唄ってる 宵闇の大阪は 二人づれ恋の街
占う路地裏に 星がながれる 堂島あたり 夢もぬれます 大阪無情
夢のとなりに 住まわせて 泣けば濡れます 大阪夜曲
酔わせてゆらゆら 愛してゆらゆら 雨がうれしい 雨がうれしい 大阪恋めぐり
ほれてつきあう 今夜の酒は まっ赤に流れる 浪花の心意気
そう言う私も昭和の女 浮世世渡り下手やけど 浪花女の女の夢がある
じっと見上げて 明日を祈りゃ 鐘が鳴ります 浪花の空に
天照らします 御親神 負けてたまるか 一心不乱 浪花男の 華の道
この指この髪 あなたを覚えてる 哀しみに染まる 大阪の夜は 涙の海に なりそうね
おもいで大阪 心に刻んで 夢を飲み干す 夜更けのふたり
心と心が結ばれて ふたりが ひとりになった街 アー大阪 大阪 小雨の御堂筋
頬よせて濡れてゆく 大阪 恋する街よ もいちどください 愛のくちづけ
夢を支えて ついて行く 惚れぬいて 惚れぬいて 浪花の 花になる
うちにゃふたりの 明日が見える 浪花生まれや あんたについてゆく
ついてゆきたい 男の夢に 浪花そだちの 女です
不倖をかくす 頬紅つけて あゝ今日も聞いてる 浪花のギター
のぞく情けの 二十日月 浪花花道 恋あかり 足もと照らして おくれやす
桜もやっと蕾をつける ああ浪花の春はもう近い
生きる女の 夢ひとつ 消しは 消しは 消しはしません 浪花の灯り
両手合わせる ご命日 お母ちゃん見ててや 私のこと 浪花で生きてゆく
小春びよりの明日を呼ぶ ええやないか あいあい傘で 夢をひろげる 浪花めおと橋
宝だよ 浪花春秋 これから先もその先も 縁でこそあれ 夫婦の絆
どんとまかせろ これから先は 口上だけでも 景気よく 浪花人情花が咲く
肩よせあって 夢が虹となる 浪花人生 夫婦花
気ばればいつか 夢も咲く あんたはうちの 浪花灯りや 春灯り
浪花人情 捨てられません 涙もろうて 笑いの華よ 浮世舞台に 夢と咲け
笑うふたりに 浪花の春が来る
肌は鉄火の勇み肌 グイと冷酒 飲みほして 仁義がわりの河内ぶし
闘鶏は死んでも 音をあげぬ 俺は河内の 俺は河内の次郎長や
酔えば火を吐く 男の気魄 日本六十余州まで 天下ごめんの河内ぶし
今夜もここで 別れましょう ビルの谷間の 淀屋橋
涙の花道 御堂筋 ついてゆきます ゆきます命のかぎり ねえ あんた
七分五厘で生きられる 人はスラムというけれど ここは天国 釜ケ崎
なぜかかなしい宗右衛門町よ さよならさよなら もう一度だけ 明るい笑顔をみせとくれ
雨が教えたお店があるわ 雨が教えた夢がある 恋は 二人の北新地
目指して勇む 今日は本番 燃え尽きろ 泉州岸和田 ダンジリ祭り
つたい歩きの とまり木は 浮いて流れて 北新地
手に手をとって渡ろやないか 涙と辛抱の八百八橋 道頓堀 情けの 花あかり
今日からふたり 北の法善寺 ちいさな愛を 抱きしめて
心と心が結ばれて ふたりが ひとりになった街 アー大阪 大阪 小雨の御堂筋
春よこい早く来い 願をかけましょ 住吉さんに きっとしあわせに
宵の高座の 出囃子だけが 独り浮かれる 法善寺
遊ばせ唄
だんごだんご
だんごだんご だーんご
おにぎり
おにぎり おにぎり
ちょちちょちあばば
ちょちちょち〔両手を打たせる〕
あばば〔片手を口に当てて発声させる〕
かいぐりかいぐり〔両手を胸の前で前後にぐるぐる回す〕
とっとの目ェ〔人さし指の先で掌を突く〕
おつもてんてん〔自分の頭をたたかせる〕
いないない〔両手で両目を覆わせる〕
バァーッ〔両手を下ろさせる〕
行て来ましょ
エッサッサッ 行て来ましょ
ここまでおいで
ここまでおいで
こけたらあかん
手の鳴る方へ
手の鳴る方へ
チャッチャとおいで
ここまでおいで
甘酒のます
紺屋のネズミ
紺屋のネズミ 藍食て糊食て
すまんだへ コチョコチョコチョー
紺屋のネズミ
紺屋のネルミ 藍食て糊食て
すまんだへ チュチュチュチュ
チュチュチュチュチュー クチュクチュー
天神さんの駕籠 1
お姫さんの駕籠と 天神さんの駕籠と
くらべてみれば おいどしゃっくり出ました
なんぼほど出ました
ひょうたんほど出ました
ひょうたんの先に 灸をすえて
熱や悲しや 金仏
一丁目二丁目 三丁目のかどで
深い川へはめよか 浅い川へはめよか
とてもはめるなら 深い川へドンブリコー
天神さんの駕籠 2
天神さんの駕籠と
お姫さんの駕籠と
どっちが重い
お姫さんが重い
なんで重い言たら
ひょうたんの先に 灸をすえて
熱や悲しや 金仏ェケ
深い川へはみょか
浅い川へはみょか
とてもはみょなら
深い川へドンブリコー
ブランコシャブランコ
ブランコ シャブランコ
ちっちゃい川へ はめろか
おっきな川へ ドブリンコ
ほうり子
ほうり子 ほうり子
深い川へはめよか 浅い川へはめよか
同じはめるなら 深い川へドンブリコ〔幼児をほうり出す〕
お山の首つり 見えたかどうじゃ〔幼児を逆さにしてもどす〕
寝させ唄
難波の「天満の市」
ねんねころいち 天満の市
 大根揃えて 舟に積む
舟に積んだら どこまで行きゃる
 木津や難波の 橋の下
橋の下には おかめがいよる
 おかめ捕りたい かめこ怖い
星田の「天満の市」
ねんねころいち 天満の市で
 大根揃えて 舟に積む
舟に積んだら どこまで行くか
 あすは難波の 橋の下
橋の下には かもめがいよる
 かもめ捕りたし 網欲しや
網が欲しけら 網屋へ行きゃれ
 どんな網でも ござります
私部金太郎さん
私部金太郎さんの 嬢さんの衣装は
 着物羽二重 前掛け錦
 掛けるたすきは 本ビローロ
かわい子じゃとて 甘茶で育て
 甘茶育ては のちゃ乞食
乞食うまいもんや よその飯食ろうて
 土塀にもたれて しらめ取る
丹波与作は 馬追いなれど
 今はお江戸で 刀研ぐ
ねんねころいち 丹波の市で
 大根揃えて 舟に積む
舟に積んだら どこまで行こか
 行こか丹波の 橋の下
 橋の下には カモメがいよる
 カモメ捕りたい 網欲しや
ねんねしてくれ 寝かしておくれ
 晩の御飯の すわるまで
お前おもてか 照手の姫か
 八百屋お七か 弁天か
小島の子守歌
この子よう泣く ひばりかひよかヨー
 ひよでごんせん 子でごんすヨー
この子寝さして ふとんを着せてヨー
 ぐるりたたいて 針仕事ヨー
ねんねした子に 赤いべべ着せてヨー
 起きて泣く子に 縞のべべヨー
ねんね根来へ 行きたいけれどヨー
 川がおとろし 紀の川がヨー
ねんね根来は おしろのやぶでヨー
 としょり来いよの 鳩が鳴くヨー
ねんねころいち 天満の市でヨー
 大根そろえて 船に積むヨー
船に積んだら どこまで行くにヨー
 木津や難波の 橋のひたヨー
橋のひたには おかめがいてるヨー
 おかめおとろし ちゃとねんねヨー
樫井の子守歌
泣いてくれるな 泣かいでさえも
 きずつないぞよ ひとの子は
この子ァ泣く癖 わしゃ揺する癖
 旦那奥さん 叱る癖
この子ァ泣くんで 世間の人に
 いらぬ気がねを せにゃならぬ
この子もりせにゃ 銭もきゃないし
 川にうなぎも いやしょまい
あの子けなりや 錦紗のべべに
 赤い鼻緒の 表つき
ねんねしてくれ した子はかわい
 ねんねせん子は 面にくい
ねんねした子に 赤いべべ着せて
 ねんねせん子にゃ 縞のべべ
ひがの一日 揺すっていれば
 きょうも日も暮れ あすも暮れ
雨よ降れ降れ
雨よ降れ降れ 川い水ァたまる
 砂もいかりも くさるまで
雪よ降れ降れ 川い水ァたまれ
 この子流してヨ 身を楽に
ねんねした子に あっかいべべ着せる
 ねんねせん子に 縞のべべ
でんでん太鼓
ねんねんころりよ ねんころり
 ねんねの守りは どこ行た
あの山越えて 里行た
 里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に しょうの笛
 吹いて吹いて みたけれど
 しょうにもこにも 鳴らなんだ
守り子唄
余野コイコイ節
うちのこの子は なんで泣くしらん
 乳が足らぬか 乳離れか 乳離れか コイコイ
うちのこの子に 赤いべべ着せて
 連れて参ろか 神様へ 神様へ コイコイ
お宮参りは なんというて拝む
 一生この子が まめなよに まめなよに コイコイ
山田コイコイ節
うとて回れば やかましけれど
 これは守り子の 役じゃもの コイコイ
ねんねころいち 天満の市で
 蕪揃えて 舟に積む コイコイ
ねんねねんねと お尻をたたく
 なんで寝らりょか たたかれて コイコイ
泣いてくれるな 泣かしてくれな
 誰も泣かさぬ ひとり泣く コイコイ
お前の言うの鳥 わしゃ聞くの鳥
 山で鳴くのが からす鳥 コイコイ
恋という字は どう書くぞいな
 花のトゥボミと 書くぞいな コイコイ
恋にやぶれて 鳴く蝉よりも
 鳴かぬ螢が 身を燃やす コイコイ
泣くな嘆くな 五月の蝉は
 小松抱えて 腰つかう コイコイ
うとて回れば ショウショが怖い
 馬の頭が ゴロゴロと コイコイ
清溪コイコイ節
ねんねころいち 天満の市よ
 大根揃えて 舟に積む コイコイ
舟に積んだら どこまで行きゃる
 どこはどんどの 橋の下 コイコイ
橋の下には お亀がいるで
 お亀捕りたい 網欲しや コイコイ
西面コイコイ節
寝たら念仏 起きたら勤め
 つらい勤めを せにゃならぬ コイコイ
ねんねしなされ おやすみなされ
 朝はとうから 起きなされ コイコイ
こちのこの子は 今寝るからに
 誰もやかまし 言てくれな コイコイ
誰もやかましゅは 言わせんけれど
 側の守り子が うじゃうじゃと コイコイ
寝たか寝なんだか 枕に問えば
 枕もの言た 寝たと言た コイコイ
ねんねする子に 何やろ彼やろ
 おぼろ饅頭に 砂糖せんべ コイコイ
おぼろ饅頭に 砂糖せん付けて
 のどの奥さんに 供えたい コイコイ
腹はへり山 これから去んで
 おひつ中山 嵐山 コイコイ
腹がたつなら ねんねをおなし
 寝ればお腹が 横になる コイコイ
泣いて涙を こぼさぬ人は
 芝居役者か にわとりか コイコイ
歌はよいもの 仕事がでける
 話悪いもの 手をやめる コイコイ
歌の先生は わたしでござる
 教てあげましょ 逆向けに コイコイ
船の先頭さんに 手ぬぐいもろた
 模様は淀川 下り船 コイコイ
松の大きいのは 本照寺の庭の
 広いお庭の 開き松 コイコイ
山が焼けるぞ 発たしゃれ雉よ
 これが発たりょか 子を置いて コイコイ
姉と妹は 揃えの浴衣
 どっちが姉やら 妹やら コイコイ
わしは花嫁 去んだり来たり
 こぼす涙は 道の露 コイコイ
食ても食わいでも 方袖着ても
 親のそばには いとござる コイコイ
盆が来たかて 正月来たて
 親が貧乏すりゃ うれしない コイコイ
鶴見コイコイ節
守りは守りづれ 子は子供づれ
 若いねえちゃん 男づれ コイコイ
あんたゆえなら 浅葱の袋
 首にかけても いとやせぬ コイコイ
うちは土百姓で しまいが遅い
 もちとしまいの 早いとこ コイコイ
鶴見ヨイヨー節
うとて回れば やかましけれどヨー
 これが守り子の 役じゃもの ヨイヨー
わての親方 しまいが遅いヨー
 もちとしまいの 早いとこ ヨイヨー
男守りさん あほらしないかヨー
 今はとうせで 女守り ヨイヨー
守りは憎いとて 破れ傘きせてヨー
 かわい坊ちゃんに 雨かかる ヨイヨー
守りや守りやと あなどるくせにヨー
 守りがありゃこそ 秋越せる ヨイヨー
淡輪ヨイヨイ節
回れ回れと 大きな家回れ
 見つけられたら 負て逃げよ ヨイヨイ
回れ回れと 家のうち回れ
 三度回りて 叱られた ヨイヨイ
この子よう泣く なんで泣くしらん
 乳は足らぬか 寝たらぬか ヨイヨイ
ねんねねんねと 寝た子はかわい
 ねんねせん子は 面にくい ヨイヨイ
ねんねひた子に 赤いべべ着せて
 ねんねせん子にゃ 縞のべべ ヨイヨイ
ねんね根来の 後ろの藪で
 としょり来いとの 鳩が啼く ヨイヨイ
ねんね根来へ 詣りたいけれど
 川がおとろし 火の河原 ヨイヨイ
寝てもねぶたい 春三月の
 苗代かいるの 鳴くじゅうに ヨイヨイ
わたしゃこの家の 米搗きおなご
 足の痛いのに 搗け搗けと ヨイヨイ
うとて歩き
ねんねもたもた もたれて寝たらヨーエ(ア ヨイソレ)
 寝たら子も楽 ホッコリと 守りも楽ヨーエ(ア ソヤソヤ ソヤソヤ)
ねんねした子に 赤いべべ着せてヨーエ
 起きて泣く子に ホッコリと 藁のべべヨーエ
いやで泣きゃるか おいやで泣くかヨーエ
 市松人形は ホッコリと 腹で泣くヨーエ
うとて回るは やかましけれどヨーエ
 これが守り子の ホッコリと 役じゃものヨーエ
うとて回るは 村の道じゃヨーエ
 村の道なら ホッコリと 誰も歩くヨーエ
ここの門通りゃ 香ばしにおいヨーエ
 ここの聟さん ホッコリと 入り聟かヨーエ
おぼろ饅頭に 砂糖煎餅つけてヨーエ
 のどの奥さんに ホッコリと 供えたいヨーエ
いじの悪いやつ 顔見りゃわかるヨーエ
 口は三角 ホッコリと 目は四角ヨーエ
あの子偉そに 白足袋はいてヨーエ
 耳の後ろに ホッコリと あかためてヨーエ
けさの寒さに 親なら子ならヨーエ
 はようもどれと ホッコリと 言てくにょにヨーエ
なんぼ泣いても この子がかわいヨーエ
 飯の種じゃと ホッコリと 思やこそヨーエ
守り子守り子と いわれる守り子ヨーエ
 守り子これでも 人であるヨーエ 

 

わらべ唄
 
 
兵庫

 

遊び上手な ひとと めぐりり逢いたい 神戸
二人で乗るはずの 船が出て行くわ 三の宮 泣いてサヨナラ 雨に濡れた舗道
神戸 流れ行く景色の中で 心 こころ 探してる
時を止めて あの頃へと戻れたら 神戸 流れ行く景色の中で 心 心 探してる
小指も泣いてる 神戸北クラブ 君は人妻 あゝ人の妻
あやし歌 
一口に子守歌といっても様々ですが、大きく分けて、幼児をあやす「あやし歌」、幼児を眠らす「ねさせ歌」、そして、子守り奉公の辛さを歌った「守り子の歌」に分けられます。幼児を楽しく遊ばせることをねらいとした「あやし歌」は、遊び歌の手遊び歌や指遊び歌などに近い感覚の歌です。 
お月さんなんぼ 1
お月さん、年なんぼ
十三、七つ まだ年若いな
わこうもごんせん 二十でごんす
はたやの かどで 銭三文 ひろて
一文で あめこうて 二文で招待しょ  
お月さんなんぼ 2
お月さん、年なんぼ
十三、七つ まだ年若いな
若けりゃ子うめ 子生んで どないしょ
おんばにだかせ
おんば どこへいた 油買いに 酢買いに
油屋の門で 酢一升こぼして
酢屋の門で 油一升こぼして
たろべの犬と じろべの犬が
けとけと ねぶった  
お月さんなんぼ 3
お月さん、歳なんぼ
十三、七つ 歳まだ若いな
若屋のかどで 銭三文拾うて
一文で飴買い 二文でよばれ
よばれは何所じゃ 地蔵さんの奥や
奥屋の子どもは かしこい子ども  
お月さんなんぼ 4
お月さん、年なんぼ
十三、七つ まだ年しゃ若い
この子を産んで あの子を産んで
だあれに抱かしょ お万にだかしょ
お万 どこいた 油買いに 酢買いに
油屋の門で 油一升まいた その油どうした
太郎どんの犬と 次郎どんの犬と
みいんななめてしもた
その犬どうした 太鼓に張って ドンドコドン
ドンドコドンのドンドコドン  
こいこい木挽きさん 1
こいこい こびきさん
お茶飲んで ひきんか まだ日は高い  
こいこい木挽きさん 2
きっこのこびきさん お茶飲んでひきんな
まだ昼早い 足元よろよろ  
こいこい木挽きさん 3
きっこのこびきさん お茶飲んでひきんか
まだ昼早い 服吸うてひきんか  
こいこい木挽きさん 4
きっこのこびきさん お茶飲んでひきんか
まだ昼早い 足元ひょろひょろ  
日が照り婆さん 1
日が照り婆さん 日が照っておくれんか
柳の下で穂なと拾ろて
はったいひいて食わしましょ  
日が照り婆さん 2
日が照り婆さん 日が照っておくれ
柳の下で粉なと挽いて
はったい挽いて 食わしましょ  
きっきのばあさん
きっきのばあさん 臼ひきに 来なんせ
臼の代はなんぼ 一升五合 そりゃま高きゃぁ
高くても安くても 臼ひきに 来なんせ  
高い山へほろか低い山へほろか
高い山へほろか 低い山へほろか
とても低い山へどんぶりことほったろ
高い山へほろか 低い山へほろか
この子よい子じゃおうちへつれていの  
いいちくたあちく 1
いいちく たあちく たぁまんご
かえでりゃ ひよこ
羽が生えたら ばーたばた  
いいちくたあちく 2
ちっちっく たっちく卵 かいでたらひよこ
羽が生えたらばぁたばた
大きくなったらコケコッコ  
いいちくたあちく 3
いっちく たっちく みょうれん そうれん
いっちくりんの花が咲いて りーんそうない  
こっちやたんぽ
こっちや たんぽ たんぽで こっちや
みみこ みみこで かいくり
掻い繰りわあ〜い  
おいさまこいさま 1
おいさま こいさま
おいどがひょっこり出ました
ひょうたんの先に あちちをすえて
あつや 悲しや かなぼとけんけん
一丁目 二丁目 三丁目の角で
大水流して 舟の船頭さん
この子やないかいな
この子の じょじょを 小船に乗せて
深い川にはめよか 浅い川にはめよか
とてもかなわん 深い川へどんぶりこ
去年のややと 今年のややと
ややどうしあわせて ぼんべんぼん  
おいさまこいさま 2
大まき 小まき 小まきの上に
あちちをすえて
深い川へはめろか 浅い川にはめろか
よっちゃんのかどへ
大水打って 舟を渡して
どんぶりどんぶりしょ  
おいさまこいさま 3
かんぐり かんぐり 宮かんぐり
お姫はんの籠と 天神さんの駕籠と
どっちが大きい ひょうたんほど大きい
ひょうたんの先に あつつをすえて
あつや悲しや 南無阿弥陀仏
深い川へはめろか 浅い川にはめろか
はめるなら 深い川へどんぶりしょ  
まいまいこんこ 1
まいまいこんこ まいこんこ
目がもうたら やいとしょ  
まいまいこんこ 2
まいまいこんこん きりこんこん
目がもうたら やいとしょ  
あがり目さがり目
あがり目 さがり目
くるりとまわって 猫の目  
にらめっこ 1
だるまさん だるまさん にらみっこしましょ
笑ろたら 負けよ うんとこどっこいしょ  
にらめっこ 2
大黒さんとえべっさんで
にらめごっこしましょ
負けたらだめよ うんとこどっこいしょ  
ねかせ歌 
赤ん坊を眠らす「ねさせ歌」は、歌の中に「ねんねん」など同音の反復が見られ、幼児の耳に心地よい音となって届き、眠りを誘うという歌です。このように「ねさせ歌」の本質のひとつは、リズムの継続です。祖母や母らの愛に包まれながらの柔らかな歩みの中で、歌のリズムとともに子どもが身体をゆられて自然に眠りに落ちていくようになります。  
坊やはよい子だ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
坊やのお守はどこへ行った
あの山越えて 里へ行った
里の土産に何もろた でんでん太鼓に 笙の笛  
寝たら山の 1
ねんねんよいよ
寝たら山の雉の子
起きたらおかめ(狼)がとってかも
ねんねんよいよ  
寝たら山の 2
ねんねんね
寝たら山の雉の子
起きたらおかめ(狼)がとってかむ
ねんねんねんね よいよいよいよ
守りは守りづれ 子は子どもづれ
大きな姉さん男連れ  
寝たら山の 3
ねんねんねんよ
起きたらおかめ(狼)がとんでかむ
よーい よーい よーいよ
この子が寝た間に餅ついて
あっちの子にも一つやり
こっちの子にも一つやり
この子にやるのがたらなんだ
こんだついたら みなやろぞ ねんねんねんよ  
ねんねなされや 1
ねんねなされや おやすみなされな
あすはついたち みやまいりな
みやについたら 何ちゅうておがむな
きっとこの子が まめなようにな
ねんねする子にゃ 赤いベベ七つな
起きて泣く子にゃ帯一つな  
ねんねなされや 2
ねんねしなされ おやすみなされ
あすはお前さんの誕生日
ねんころさいころ 酒屋の子
酒がほしけりゃ 酒のまそ
酒はかろうてよう飲まん
乳ならあもうて 飲むけれど
ねんねした子にゃ 赤いベベ七つ
起きて泣く子にゃ 帯一つ
ねんねした子は よい子やさかい
起きて泣くは 面にくい
ねんねんころいち 子は竹のいち
竹にもたれて ねんねしな
ねんねしなされ おやすみなされ
あすはおはよに おきなされ  
ねんねなされや 3
ねんねしなされ今日は25日よ
あすは6日みやまいりよよ〜ほいよ〜
ねんねする子に赤いベベ着せてよ
起きて泣く子に縞のベベよ〜ほいよ〜
ねんねねんねとねる子は可愛いよ
起きて泣くは面憎いよ〜ほいよ〜
ねんねころいち 天満の市はょ
大根そろえて舟に積むよ〜ほいよ〜
オバンどこ行く味噌腰さげてよ
わしは歯が無うて豆腐買いによ〜ほいよ〜
家のおとったんは酒に酔うてこけてよ
赤いテンテン泥だらけよ〜ほいよ〜
向こう見なされお月さんがでたぞよ
まあるい大きなお月さんよ〜ほいよ〜
向こう見なされ自転車が来るよ
リンがなるまでよけらんとけよ〜ほいよ〜
宮に参りて何というておがむ
一生この子がまめなようによよ〜ほいよ〜  
ねんねなされや 4
ねんねしなされ おやすみなされ
鳥が唄うたらおきなされ
鳥が唄うても まだ夜は明けぬ
明けばお寺の鐘がなる
鐘がなりますお寺の鐘が
一に聞こえて 二に響く こいこい  
ねんねなされや 5
うちのややこは 今寝るさかりよ
だれもやかましゅう 言うてくれるなよ
宮に参ったら何というておがむ
この子一代無病息災によ  
ねんねなされや 6
ねんねしなされ おやすみなされよ〜
朝はとうからおきなされ よ〜いよ〜
ねんねしなされ 一夜も二夜も
せめて 三夜も寝ておくれ
ねんねしなされ
今日は25日 あすは6日 みやまいり
宮へ参ったら何というておがむぞ
一生この子がまめ(息災)なように  
天満の市 1
ねんねんころいち 天満の市は
大根そろえて 船に積む
船に積んだら どこまで行きゃる
木津や難波の 橋の下
橋の下には かもめがいやる
かもめとりたや 竹ほしや
竹がほしけりゃ 竹屋に行きゃれ
竹はなよなよ 由良之助  
天満の市 2
ねんねんころいち 天満の市は
大根そろえて 船に積む
船に積んだら どこまで行くぞ
木津や難波の 橋の下
橋の下には 狼がおるぞ
おかめとりたや おそろしや  
天満の市 3
ねんねころいち 天満の市で
大根そろえて 船に積む
船に積んだら どこまで行きゃる
行けば難波の 橋の下
橋の下にはかもめがおりゃる
かもめとりたや 網ほしや  
ねんねんころいち
ねんねんころいち 寝る子は可愛い
起きて泣くは 面にくい
ねんねんころいち 子は竹のいち
竹にもたれて ねやしゃんせ
ねんねんころいち ころ竹のいちよ
竹にもたれて 寝た心地よいよ
ねんねする子は 赤いベベ着せてよ
ねんねせん子は 縞のベベよいよ
あの子見やんせ 赤ベベ着てじゃ
親は錦の ボロ下げて
わしの友達や 芋の葉の露よ
一つ違うたら ぶっしゃりと
わしの思いは お釜のこげよ
ままにならぬと 焼いている
ふくささばきは 知らねど今日の
お茶のかよいが してみたい
こいよこいよと ことづてばかり
まこと恋なら 文よこせ  
ねんねんばっぽを 1
この子はよい子じゃ ねんねしいな
この子がねんねを しとる間に
ねんねんばっぽを ついといて
起きたら目覚まし 食べさそよ
ねんねんころりや おころりや
坊やがねんねをしとる間に
坊やのお守りは どこへ行た
あの山越えて 里へ行った
里の土産に 何もろた
一に香箱 二に硯 三にさらさの 紐もろた
紐はもろたが まだくけん
くけて見せましょ はやばやと
はやの帯して 伊達こいて
伊達の小褄に 血がついた
血ではないもの 紅じゃもの
伊達の小褄に 紅つけて
紅はよい紅 化粧の紅  
ねんねんばっぽを 2
ねんねんばっぽ
この子はよい子じゃ ねんねしな
この子がねんねを しとる間に
ばっぽを トントンついといて
この子が起きたら 食べさせよ
ねんねんばっぽ  
ねんねんばっぽを 3
ねんねんよいよ よいよ
ぼうやのねたまに ばぼついて
あっちの子にも一つやろ
こっちの子にも一つろ
ねんねんよいよ いよよいよ  
ねんねんよ
ねんねんよ〜ねんねんよ
ねんねんよいよい ねんねんよ  
あれ見よお日さんも
ぼうやはよい子だ ねんねしな
あれ見よ お日さんも ねんねした
かあかあからすに ちゅんちゅん雀
一緒にねむろと とんでゆく
坊やも泣かずに ねんねしな
お日さんの めざめる明日まで  
いけばとっけ
行けばとっけで
帰れば榎
道の悪さが若宮や  
加茂地方の子守歌
加茂の宮さん 千体きたい
上に宮さん 愛宕さん
中にしょんぼり 庚申さん
加茂のいわたは 問わいでもわかる
門にある松 二本松  
篠山地方の子守歌
ねんねんころり おころりよ
春の夕べはおちちのもやよ
お山のおさるもねんねした
霧のお里は 紅の橋
ころり ねんころ ぼうやの国は
丹波篠山 歌の国  
加西地方の子守歌
とんとんとろりと なる音が
坊やのおねまに まだこぬか
こなけりゃむかえにまいりましょう
海、山越えて 鬼が島
鬼のいぬ国 ねんね島  
千種の子守歌
大雪 小雪 雪の降る晩に
だれかひとり 泣く子がほしい
あっちいっちゃ今晩は こっちいっちゃ今晩は
大雪 小雪 雪の降る晩に
誰かひとり 泣く子がほしい  
志方地方の子守歌
ねんねんよう ねんねんよう
よい子よ泣くなよ ねんねんよう
抱くは母ぞ 撫でるも母ぞ
よい子よ泣くなよ ねんねんよう
ねんねんよう ねんねんよう
よい子よ泣くなよ ねんねんよう
神もよい子を 守らせたもう
よい子よ泣くなよ ねんねんよう  
居組の子守歌
泣くないや泣くないや 何が不足で泣くだいや
米はある金はある 何が不足で泣くだいや
あ〜ねんねんせえや ころりんせえや
泣くないや泣くないや ケンケン山の雉の子が
泣いていて鷹になぁ 泣いて鷹にとられるど
あ〜ねんねんせえや ころりんせえや
泣くないや泣くないや 泣くとお山のお吉の子
だんまりゃなぁ家のなぁ
だんまりゃ家のかかさんの子
あ〜ねんねんしてごせえや ころりんせえや  
守り子の歌 
子守り奉公の習慣は、かつて全国各地にありました。いわゆる「口べらしで、7歳〜12歳の主に女の子が、故郷を離れ、遠い村や町に住み込みながら雇い主の子どもを守りする仕事をこう呼びます。「守り子の歌」は、貧しさゆえに出されたつらい仕事の中で唄われた歌で、一種の労働歌と言えます。歌の内容は、雇い主への悪口や子守りという仕事の辛さを唄いこんだものが主になっています。日本を代表する「守り子歌」は、“五木の子守歌”で、天草地方から奉公に出された娘たちが、郷里の福連木あたりで古くから唄われていた歌を替え歌にして唄ったものだといわれています。全体的には、地域に根ざしたものが多いといえましょう。  
野間の守り子歌
ねいよねいよと 尻たたかれて
 何の寝ましょよたたかれて ロイロイロ
お前知りんか 伊丹が焼けて
 昆陽の大工さんが 繁盛した ロイロイロ
おんばうまいもんや 鯛くて食わせ
 乳もようはる 子も肥える ロイロイロ
かわいかわいは おんばのならい
 なんがかわいかろ ひとの子が ロイロイロ  
母子の守り子歌
ねんねしなされ おやすみなされ
起きて泣く子は 面憎い
ねんねやぁと言うて 寝る子はかわい
起きて泣く子は 面憎い
門に橘 戸にもたれ花
うちの様子を きくのはな  
加古川の守り子歌
この子憎いやつ 目の玉抜いて
道の真ん中に ほりうめる
人が通れば 南無阿弥陀仏
親が通れば 血の涙  
石守の守り子歌
咲いてすぼんで また咲く花は
須磨の前田の かきつばた
明石の殿さん 尾張の国を
昼のあかいのに 高提灯
明石樽屋町 茶碗屋の娘
歌につくろか 絵に描こか
明石あかいけど 大蔵谷暗い
まだも暗いのは 一の谷
   ここは一の谷 敦盛さんの
   お墓どころか 痛わしや
   大阪大阪と 皆言うてやけど
   大阪いよいか すみよいか
   わしは備前の 岡山育ち
   米のなる木は まだ知らん
   あの子憎いやつ よそからうせて
   じげの守り子を よせらかす
わしはいにたい かあさんとこへ
戻りともない 親方へ
奉公する身では しゃないけれど
今年一年 塩ふみに
鐘がなったら いのいの言うてや
ここは寺町 いつも鳴る
きのう北風 今日は南風 あすは浮き名の巽風
   お婆どこいく 三升樽さげて
   嫁の在所へ 孫抱きに
   思うて通えば 千里も一里
   逢わず戻れば また一里
   思うてみやんせ 十五や六で
   一人夜道が 通わりょか
   思い出しては 写真鏡を眺め
   なぜに写真がもの言わぬ
来いよ来いよと ことづてばかり
まこと恋なら 文よこせ
来いと言葉の かからん所へ
行かれますかい 恥ずかして
お前さんのように ご器量がよけりゃ
知らん他所から 文が来る
今の若い衆の 雪駄(せきら)の音は
一里聞こえて 五里ひびく
   今の守り子が 寺子にほれて
   七つ上がりを 待ちかねる
   わしの嫌いなは あの餓鬼ひとり
   あいつのけたら みなかわい
   わしはあの子に どういわれても
   たとい乞食と 言われても
   身上ようても 貧乏あなずるな
   今はようても 後ゃ乞食
お月さんのような 丸い丸い丸い
心変わらん 殿がほし
世帯もたすりゃ 茶碗のめげも
たりになります 塩入れに
旦那おかえりか 門の戸が開いた
酒のかんしょか あも焼こか
   親が甘いので 子の性(しょう)が悪い
   頭一つも どやさんせ
   うちのこの子は よう泣くいじる
   守りに難儀をかけなさる
   かわいかわいは お乳母のならい
   何がかわいかろ 他人の子が
   何ぼ泣いても この子はかわい
   わしのお飯の たねじゃもの
守りよ守りよと 守り楽そうに
守りが楽なら してみやれ
守りの大将さん 遊んでおくれ
豆の三粒も よけあげろ
わしの兄弟は 学校の先生
椅子にもたれて 本を読む
椅子にもたれて 本読むけれど
月に3円で 日を送る  
黒田庄の守り子歌
ねんねん よいよ
よい子の守りには 誰を置こ
新町米屋の お市置こ
お市が来たら 何をさそ
おむつき洗ろたり 守りしたり
それが嫌なら 去いんでくれ
出ては去ぬけど 道知らん
道を知らねば 送らそう
柳の下まで 送らそう
柳の下から わし一人 ねんねん よいよ  
吉川の守り子歌
ねんねしなされ おやすみなされ
朝はとうからおきなされ
ねんねする子に赤いベベ着せて
起きて泣く子に縞のベベ
ねんねころいち ころ竹のいち
竹にもたれて ねた心地
守りよ子守りよ なんぜ子を泣かす
後の子守りが尻つめる
守りよ子守りよ なんぜ子を泣かす
泣かしゃしませぬ 泣きなさる
どこの誰さん
なんぜ色黒い蛸の黒べか 牛糞か
あの子よい子や ぼたもち顔や
黄な粉つけたら 尚よかろ  
千種の守り子歌
ねんねしなされ 寝た子はよい子
寝たら子も楽 守りも楽
守りというもん つらいもん
朝から晩まで 負いつめて
親にゃ叱られ 子にゃ泣かれ
他人にゃ楽げに 思われて
お飯というたら 麦の飯
お汁というたら 干し菜汁  
安富の守り子歌
この子よい子じゃ ぼたもち顔じゃよ〜
黄な粉つけたら 尚よかろ ヨイヨイ
ねんねする子にゃ 赤いベベ着せてよ〜
起きてやだけりゃ 縞のベベよ〜  ホイよ〜  
気比の守り子歌
守りはえらいもの これから先は
 雪はちらつく 雪はちらつく
 子はなくし コイコイコイ
ねんねせというて 寝るよな子なら
 守りゃいりゃせぬ 守りゃいりゃせぬ
 お主守りで コイコイコイ
ねんねせえや ねんねせえや
 起きて泣く子は 起きて泣く子は
 面憎い コイコイコイ
ねんねせえや まだ夜は明けぬ
 明けりゃお寺の 明けりゃお寺の
 鐘がなる コイコイコイ  
与布土の守り子歌
上の橋から 下の橋までも
 うとてまわるのが守りの役
 まわるのが守りの役
守りはつらいもんじゃ 子に責められて
 人に楽げに思われて 楽げに思われて
なんぼ泣いても この子はかわい
 飯の種じゃと思やこそ 種じゃと思やこそ  
塩山の守り子歌
ねんねてくれ ねてさよくれりゃ〜
守〜りも楽なし 子も楽な
 ヨイヨイヨイ
 コロンデコ〜イ ヨイヨイヨイ
守〜りしょまいもの 子にゃいじられて
人にゃ楽げに思われて
 コイコイコイ コロンデコ〜イ
 コイコイコイ
なんぼ泣いても この子はかわい
ままの種じゃと思やこそ
 ヨイヨイヨイ コロンデコ〜イ
 ヨイヨイヨイ
山の木の葉が 紅かなる見なれ
葉が落ちたら雪が降る
 コイコイコイ コロンデコ〜イ
 コイコイコイ  
黒石の守り子歌
ねんねしなされ 寝る子はかわいよ
 守りもたすかる 子も楽なよ ホイヨ
ねんねしなされ おやすみなされ
 起きて泣く子は 面憎いよ ホイヨ
泣いてくれなよ 泣く子の守りは
 叩き抓めると 思われるよ ホイヨ  
沼貫の守り子歌
ねんねしなされ おやすみなされ
 明日はおはよに 立ちなされ
 明日はおはよに 立ちなされ
ねんねしたかと 思えばまたも
 起きて泣き出す 面憎や
 起きて泣き出す 面憎や
ねんねころいち 子は竹のいち
 竹にもたれて ねた心
 竹にもたれて ねた心
ねんねした子は しんからかわい
 起きて泣く子は 面憎い
 起きて泣く子は 面憎い  
尾崎の守り子の歌
ねんねしなされ お休みなされ
 朝はとうからおきなされ ホイホイ
おしんど良く聞け お話ししましょ
 守りを悪すりゃ子にあたる ホイホイ
うちの親方 金米糖の顔よ
 甘い顔してきつう使うよ ホイホイ  
小路谷の守り子の歌
だんな大黒 おしんど恵比寿よ
恵比寿また大黒 福の神
くるりっきん こうやった ちょうめっかい  
野島の守り子の歌
淡路島見りゃ 去にとてならぬ
去んでここ見りゃ また来たい
勤めの辛さに 出て山見れば
雲のかからぬ 山は無い
胸に千束の 茅たくけれど
煙出さなきゃ ひた知らん
守りよ守よと たくさんそうに
わしもいやあり 親もある
坊やよい子だ ねんねこしゃんせ
ねたら母さんに 便り書く  

 

絵かき歌 
蛸入道 1
みみずが三匹 おりました
朝めし 昼めし 晩のめし
雨がザーザー 降ってきて
あられがポツポツ 降ってきて
あっと言うまに 蛸入道
蛸入道 2
みみずが三匹 這い出して
朝めし 昼めし 晩のめし
雨がザァザァ 降ってきて
あられもポツポツ 降ってきた
あっと言うまに 蛸入道
蛸入道 3
みみずが三匹 泳いでた
朝めしくって 昼めしくって 晩めしくって
雨がジャージャー 降ってきて
あられもポツポツ 降ってきて
あっと言うまに 蛸入道
蛸入道 4
みみずが三匹 寄ってきて
朝めし昼めし 晩のめし
雨がザーザー 降ってきて
あられがパラパラ 降ってきて
あっと言うまに 蛸入道  
くーちゃんしーちゃん
くーちゃん しーちゃん てっぴーちゃん
おしゃれな おしゃれな みみこさん
平気で 平気で のんきで のんきで
試験はれーてん くーくーくーちゃん
ぺけぺけ まるまる まるかいてチョン
まるかいてチョン
さんかくじょうぎに きずつけて
だいこん にほんで じゅうえん
だいこん にほんで じゅうえん  
へのへのもへじ
へのへのもへじ  
たてたてよこよこ 1
たてたて よこよこ まるかいて ちょん
まるかいて ちょん
大山さんに小山さん
雨がザーザー降ってきて
雨がザーザー降ってきて
1円もろて 飴もろて 1円もろて 飴もろて
1円もろて 飴もろて
あっという間に お姫さま
たてたてよこよこ 2
たてたて よこよこ まるかいて ちょん
大山 小山
雨がジャージャー降ってきて
あられがポツポツおちてきて
一円もろて まんじゅうこうて
いがんだ針が れいせんで
あっというまに お姫さま
たてたてよこよこ 3
よこよこ たてよて まるかいて
ちょん まるかいて ちょん
おおきなおまるに
毛が三本 毛が三本 毛が三本
ぐるっとまわって お嫁さん  
さんちゃんがさんぽにいきて
さんちゃんが 散歩にいきて まめみっつ
お口とんがらかして
たぬきじゃないよ 足あるか 足あるよ
こんくりかついでつなわたり  
つるさんは○○虫
つるさんは○○むし  
山があって里があって
山があって 里があって 段々畑に 麦畑
まめがあって ゆみがあって
そーら さかなになっちゃった  
棒が一本あったとさ
棒が一本あったとさ
はっぱかな はっぱじゃないよ かえるだよ
かえるじゃないよ あひるだよ
六月六日の参観日
三角定規にひびいって
コッペパンふたつ くださいな
アンパンふたつ 豆みっつ
あっという間に かわいいコックさん  
にいちゃんが
にいちゃんが 2円もらって 豆買って
口をとんがらかして アヒルの子  
二郎君に三郎君
二郎君に三郎君 三郎君に四郎君
松本さんに松原さん 大山さんに小山さん
お日さまぴかぴか お池にこいがぴょんぴょん
あっという間に 大うちわ  
いちくちそいち
いちくちそいち いちのめは  
うんちゃんが一円もらって
うんちゃんが 一円もらって 豆こうて
算数三点 国語三点
平気で 平気で のんきで のんきで
試験は れ〜てん
たてたて よこよこ まるかいて ちょん  
おしりがわれて
おしりがわれて おだんご1つ
卵がわれて ぴ〜ちゃぴちゃ
せっけん遊びはおもしろい
三日月ちょん 三日月ちょん
たてたて よこよこ まるかいて ちょん
雨がザ〜ザ〜降ってきて
みみずが三匹はえだした
たてたて よこよこ まるかいて ちょん  
手合わせ歌 
始めに「せっせっせ」と拍子をとって遊ぶ手合わせ遊びは、今も全国各地で遊ばれています。二人もしくは数人が向かい合って、相手の手と歌に合わせて打ち合わせる遊びです。歌の途中で、簡単な手振りや身振りが加わるものもあります。  
茶摘み
せっせっせ の よいよいよい
夏も近づく 八十八夜(トントン)
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは 茶摘じゃないか(トントン)
あかね襷に すげの笠  
ひとつひよこが 1
せっせっせ
一つ ひよこが豆を食て たいやくねんねん
二つ 舟には船頭さんが たいやくねんねん
三つ 店屋に番頭さんが たいやくねんねん
四つ 横浜異人さんが たいやくねんねん
五つ 医者さんが薬箱 たいやくねんねん
六つ 昔はちょんまげ結うて たいやくねんねん
七つ 泣き虫ひねりもち たいやくねんねん
八つ 山伏ほらの貝 たいやくねんねん
九つ 乞食がおわん持って たいやくねんねん
十 殿さんお馬に乗って たいやくねんねん  
ひとつひよこが 2
一つ ひよこが豆を食て たいろくないない
二つ 舟には船頭さんが たいろくないない
三つ 店屋の番頭さんが たいろくないない
四つ 横浜異人さんが たいろくないない
五つ 医者さんには薬箱 たいろくないない
六つ 昔によろい着て たいろくないない
七つ 泣き虫ひねりもち たいろくないない
八つ 山には天狗さんが たいろくないない
九つ 乞食がお椀持って たいろくないない
十 殿様お馬に乗ってたいろくないない
十一 巡査がサーベル持って たいろくないない
十二 兄さんが新聞読んで たいろくないない
十三 三味線ぴんぴらぴんで たいろくないない
十四 新年おめでとう たいろくないない
十五 ごんべが種まいて たいろくないない
十六 ろくすけ鉢巻 たいろくないない
十七 質屋の女将さんが たいろくないない
十八 浜では海水浴 たいろくないない
十九 櫛屋の女将さんが たいろくないない
二十 仁徳天皇陛下万歳 たいろくないない  
ひとつひろた豆汚いが
一つ ひろた豆 汚いが がってんがってん
二つ 踏んだ豆 平べたいが がってんがってん
三つ 味噌豆 やわらかいが がってんがってん
四つ よった豆 屑がないが がってんがってん
五つ 炒った豆 香ばしいが がってんがってん
六つ むいた豆 皮がないが がってんがってん
七つ なった豆 ちぎるが がってんがってん
八つ 焼いた豆 にがいが がってんがってん
九つ こいた豆 飛んでまうが がってんがってん
十を 飛んだ豆 拾うが がってんがってん  
丸山どうてんじゃ
せっせっせ
丸山どうてんじゃ 東山見ればね 見ればね
盆のおっ月さん まるい
誰にもろたか 源次郎さんにもろたわね
源次郎男は 派手者で
三味線じゃ 三味線じゃ  
一に橘
せっせっせ からりとせ
一に橘 二にかきつばたネ 三に下がり藤
四に獅子牡丹ネ 五つ伊山の千本桜ネ
六つ紫 七つ南天 八つ山吹
九つ紺屋が色よく染めてネ
十で殿様 葵の御紋ネ  
一に水仙
せっせっせ むこどりやまの鶯一羽ネ
一に水仙 二にかきつばたネ 三にゃ下がり藤
四にゃ獅子牡丹ネ 五つ伊山の千本桜ネ
六つ紫色よく染めてネ 七つ南天
八つやの娘ネ 九つ小梅がちらりとぱらぱら
十で殿様 御城の御門ネ
御門所が あぶら買いに行たらネ
いたら異人が ペケポンとへべすネ
奥州 甲州 播磨の姐さん
西瓜つるして かぼちゃが真似して
すっぺら ほい  
おんごく
向こうの向こうの 万みよさん(万右衛門)
藁一把あげよか わしゃ医者いらん
病ならこそ医者いりまする
ほんなら二把あげよか わしゃ庭はかん
丁稚ならこそ庭はきまする
ほんなら三把あげよか わしゃ三味ひかん
芸者ならこそ三味ひきまする
ほんなら四把あげよか わしゃしわよらん
婆さんならこそしわよりまする
ほんなら五把あげよか わしゃ碁うたん
旦那さんならこそ碁うちまする
ほんなら六把あげよか わしゃ牢いらん
盗人ならこそ牢いりまする
ほんなら七把あげよか わしゃ質おかん
貧乏ならこそ質おきまする
ほんなら八把あげよか わしゃ鉢めがん
あわてならこそ鉢めぎまする
ほんなら九把あげよか わしゃ鍬もたん
百姓ならこそ鍬もちまする
ほんなら十把あげよか わしゃ重もたん
彼岸ならこそ重箱持ちまする  
おはぎの嫁入り
おはぎがお嫁に行くときにゃ
あんこときなこでお化粧して
まあるいお盆にのせられて
遠いところへお嫁入り  
芋屋のおじさん
芋屋のおじさん 芋切って
たたいて つめくって 真っ黒け  
いたずら坊主
お寺の中から お化けがにゅー
お化けの中から おけらさんがおけおけ
おけらさんの後から
おまわりさんがえへんぷい
おまわりさんの後ろから いたずら坊主が
ねんねして だっこして おんぶして 風車  
指遊び歌 
ずいずいずっころばし
ずいずいずっころばし 胡麻味噌ずい
茶壷に追われて トッピンシャン
抜けた〜ら ドンドコショ
俵の鼠が 米食ってチュウ
チュウ チュウ チュウ
おっ父さんが呼んでも おっ母さんが呼んでも
行きっこな〜しよ
井戸の周りでお茶碗欠いたのだ〜れ  
一が刺した
一が刺した 二が刺した 三が刺した
四が刺した 五が刺した 六が刺した
七が刺した 蜂が刺した ブ〜ン  
子と子と
子と子とけんかして 小指
親親おこって 親指
人様に御迷惑
なかなかスマンとおっしゃって 中指
紅屋の前ですみました 紅指  
子取り遊びの歌 
子取り遊びとは、広場などで、子どもたちが2組に分かれて向かい合って並び、互いに歌問答を一通りして、最後に指名された子どもが、向かいのグループに取られていく遊びです。  
花いちもんめ 1
A:「勝ってうれしい花いちもんめ」
B:「負けて悔しい花いちもんめ」
A:「どの子が欲しい」
B:「あの子が欲しい」
A:「あの子じゃわからん、名を言っておくれ」
B:「○○ちゃんがほしい」
A:「どうしていくの」
B:「○○でおいで」  
花いちもんめ 2
ふるさとまとめて 花いちもんめ
ふるさとまとめて 花いちもんめ
△△ちゃんとりたや 花いちもんめ
××ちゃんとりたや 花いちもんめ
勝ってうれしい 花いちもんめ
負けて悔しい花いちもんめ  
花いちもんめ 3
持ってうれしや 花いちもんめ
どの子がほしい あの子が欲しい
あの子じゃわからん △△さんがほしい
この子はやらん
××さんがほしい この子はやろう
ジャンケンポン
勝ってうれしい 花いちもんめ
負けて悔しい花いちもんめ  
お茶あがりんか
A:「向かいのおばさんお茶あがりんか」
B:「何茶でごんす」
A:「芋茶でごんす」
B:「芋茶いっぱい飲みたいけんど、道に鬼がおってよう行きまへん」
A:「そんならお迎えどなたが欲しい」
B:「○○ちゃんが欲しい」
A:「連れていんで何食わす」
B:「鯛のととに赤まま」
A:「赤ままに鯛のとと」
B:「骨たたあ身から抜いてよ」
A:「何でよ」
B:「毛抜きで」
A:「痛いわ」
B:「痛ないように」
A:「そんならお迎え頼みます」  
子買お子買お 1
鬼:「子買お子買お」
他:「何もんめで買いなさる」
鬼:「一もんめで買いましょう」
他:「そりゃ安い」
鬼:「二もんめで買いましょう」
他:「そりゃまだ安い」
鬼:「十もんめで買いましょう」
他:「そんなら売りましょう、どの子が欲しござる」
鬼:「△△さんが欲しござる」
他:「もろうて何しやる」
鬼:「二階で手習い」
他:「あぶない」
鬼:「その下で手習い」
他:「手が汚れる」
鬼:「水で洗う」
他:「つめたい」
鬼:「いい加減でうめてやれ」
他:「そんなら売りましょう」  
子買お子買お 2
鬼:「子買を子買を」
他:「子を買うてなんしょ」
鬼:「ととにまんま」
他:「ととに骨がある」
鬼:「むしって食わそ」
他:「むしきりゃきたない」
鬼:「洗ろうて食わそ」
他:「洗えば水臭い」
鬼:「しょう油かけて食わそ」
他:「それもよかろどの子が欲しい」
鬼:「△△ちゃんがほしい」
他:「私は△△ちゃんの母親です」
鬼:「△△ちゃんに合わせて下さい」
他:「今、お便所へ行ってます」
鬼:「もうでましたか」
他:「今、お風呂へ入っています」
鬼:「もう上がりましたか」
他:「今、ご飯食べています」
鬼:「何のおかずで」
他:「蛇だのとかげだのかえるだの」
鬼:「これー」  
子買お子買お 3
鬼:「子買を子買を」
他:「子をはなんで養う」
鬼:「肴に飯」
他:「魚には骨がある」
鬼:「むしって食わそ」
他:「むしったらいじましい」
鬼:「洗ろうて食わそ」
他:「洗えば水臭い」
鬼:「しょう油かけて食わそ」
他:「それもよかろがどの子が欲しい」  
向かいのこせさん
A:「向かいのこせさん、子は何人ござる」
B:「4,5人ござる」
A:「一人下さい、やしのて進上」
B:「何食ってやしなう」
A:「砂糖まんじゅう」
B:「そりゃ虫の大毒」
A:「赤い飯にととそえて」
B:「そらなおよかろ、どいつなっととっていけ」  
どどんどの子がほしい
A:「どどんどんどんどの子が欲しい」
B:「○○ちゃんという子が欲しい」
A:「行ったら何々食わす」
B:「あずき飯にととそえて」
A:「お馬に乗っておいでなされ」
B:「お馬の足が折れました」
A:「お駕籠に乗っておいでなされ」
B:「お駕籠の底がぬけました」
A:「弁当かついでエッサッサエッサッサ」  
タンス長持ち
A:「タンス長持ちどの子が欲しい」
B:「あの子が欲しい」
A:「あの子じゃわからん」
B:「この子が欲しい」
A:「この子じゃわからん」
B:「○○さんが欲しい」
A:「どうしていくの」
B:「△△でおいで」
A:「勝ってうれしい花いちもんめ」
B:「負けて悔しい花いちもんめ」  
関所遊びの歌 
江戸時代から全国的に伝播したくぐり遊びの一種に関所遊びがあります。その中でも“とうりゃんせ”は、大正時代に本居長世が編曲して、童謡として広め、歌詞もメロディも普遍のものとなっているようです。明治時代のこの歌は、単調なメロディを繰り返すものであったといわれています。  
とうりゃんせ
とうりゃんせ とうりゃんせ
ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ
ちょっと通してくだしゃんせ
ご用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めにまいります
いきはよいよい 帰りは怖い こわいながらも
とうりゃんせ とうりゃんせ  
門になる子が2人向かい合って両手を合わせて、肩の高さ以上に上げ、その中を一列になって円陣をつくった子どもたちが、歌にあわせてくぐっていく遊びです。門の子は歌の終わりに手を下ろし、一人を捕まえます。また、全員がくぐった後に門の子がくぐっている子のお尻をたたいたりする遊びもあります。
この歌は、江戸幕府のころ、箱根関所の通行の厳しさを歌ったという説があります。当時、手形のないものは絶対通しませんでした。ただし、特殊な事情がある者は別で、例えば親の重病などの場合などに限って、関所に哀願して通してもらっていました。しかし、その帰りには絶対に手形がなければ通さなかったことを「かえりは怖い」と唄っているという説です。
また、他の説では、穀物の豊作を願って、人身御供を捧げた土着宗教の名残を唄っているといわれています。
歌の終わりに、「帰りのお土産なにもうた」や「こわい橋からお化けが出るよ」とも唄われます。  
手まり歌 
あんたがたどこさ 1
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ
熊本さ 熊本どこさ せんばさ
せんばやまには狸がおってさ
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉でちょいとかくす
あんたがたどこさ 2
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ
熊本さ 熊本どこさ えんまさ
えんま山奥狸がおってさ
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
切ってさ 煮てさ 食ってさ
お茶の子さいさい
あんたがたどこさ 3
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ
熊本さ 熊本どこさ えんまさ
えんま山には狸がおってさ
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
ちってさ 煮てさ うまかったとさ
一番最初に
一番最初に一の宮 二で日光東照宮
三で讃岐の金毘羅さん 四で信濃の善光寺
五つ出雲の大社 六つ村々地蔵さん
七つ成田の不動さん 八つ高野の弘法さん
十で所の氏神さん
これほど信心したならば
浪さんの病気も治るだろう
ゴーゴーゴーという汽車は
浪子と武男の別れ汽車
二度と逢えない汽車の窓 
泣いて血を吐く ほととぎす
一かけ二かけ三かけて
一かけ 二かけ 三かけて 四かけて
五かけて 六かけて
橋の欄干腰を掛け 遥かかなたを眺むれば
十七、八のねぇさんが
片手に花持ち線香持ち
ねぇさん ねぇさん どこ行くの
わたしは九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年三月三日
切腹なされた父上の お墓参りに参ります
お墓の前で手を合わせ
南無阿弥陀仏と唱えれば
線香の煙が ひーやふーやみーや
      よーやいーやむーや
      なーやこーや
      とうとう一献つきました
上がり下がり明石町の
あぁがり さぁがり 明石町の
こくせん紺屋の こことうお
ここは高砂ほろろ池 ほろりとほりゃげて
なんじゃいな
とうおえ 二十え 三十え 四十え 五十え
六十え 七十え 八十え 九十え
百に足らしてまいこのこ
えべっさん大黒さん
えべっさん大黒さん
一に俵ふんばって 二ににっこり笑ろうて
三に酒つくって 四つ世の中よいように
五ついつものごとくに 六つ無病息災に
七つ何事もないように 八つ屋敷を広げて
九つここに家建てて 十でとうとう納まった
一匁の一助さん 1
一匁の一助さん
いの字がきらいで 一万一千一百億
いといといとまの お札を納めて
二匁に渡した
二匁の二助さん 
にの字がきらいで 二万二千二百億
にとにとにとまの お札を納めて
三匁に渡した   ・・・(以下十匁までつづく)
一匁の一助さん 2
一匁の一助さん 芋買いました 通りゃんせ
二匁の二助さん 肉買いました 通りゃんせ
三匁の三助さん 酒買いました 通りゃんせ
四匁の四助さん 羊羹買いました 通りゃんせ
五匁の五助さん ごんぼ買いました 通りゃんせ
六匁の六助さん ろうそく買いました 通りゃんせ
七匁の七助さん 菜っ葉買いました 通りゃんせ
八匁の八助さん はっさく買いました 通りゃんせ
九匁の九助さん きゅうり買いました 通りゃんせ
十匁の十助さん 重箱買いました 通りゃんせ
ひいふの三吉 1
ひいふの三吉 昼は馬追い 夜は沓うち
お姫さんがた どうでしばらく
山の紅葉を 春と眺めて 五軒茶屋の
おとやこんぱん お花やききょうや
おいて育てて 育てておいて 朝ま疾うから
赤べべ いわずに
いまのこしらえて 稲荷山まで 送った
稲荷山の あれ向こうの
これ向こうの 向こうとなりの
やたまたづくしの 白壁づくしの
お杉女郎に送った
そうりゃ先方 受け取り申し そうろうや
お姫さんがた どうでしばらく
山の紅葉を 春と眺めて 五軒茶屋の
おとやこんぱん お花やききょうや
おいて育てて 育てておいて 朝ま疾うから
赤べべ いわずに
いまのこしらえて 稲荷山まで 送った
稲荷山の あれ向こうの
これ向こうの 向こうとなりの
やたまたづくしの 白壁づくしの
お秀女郎に送った
ひいふの三吉 2
ひいふの三吉 昼は馬追い 夜はわらかち
わらじょりつくる
あいやぽんぽん うちの丁稚は 酒飲み丁稚
酒の肴に いわし買うて
焼いて 焼いてこんがらがして
戸棚に入れて 猫に引かれて
猫をおわえまわして
しきん〈敷居〉でけつまづいて
すってんとんよ
とんよ とんよ とんよ とんはとんなべ
かかは かんなべ
すってんとんよ とんよ とんよ とんよ
ひいふの三吉 3
ひいふの三吉 昼は馬追い 夜さりゃ藁から
わらんじづくり
りっぽうはっぽうはりやのはなし
小池の千鳥、千鳥の花が 咲いたか
咲かんか阿弥陀坊さん杖ついて通らんせ
とっけもない ここちょっと
のかんせ のくことなりません
どんどんたたくは 1
どんどんたたくは 誰さんじゃ
新町米屋の 姉さんじゃ
何しにここまで おいでたか
雪駄がかわって 替えに来た
どんな雪駄でございます 紫鼻緒の 上雪駄
そんな雪駄はございません
あってもなくても あけてんか
ますます一たん 貸しました
どんどんたたくは 2
とんとんたたくは 誰じゃいな
新町米屋のぎへいさん
あなた今頃何しに おいでたか
せきだがかわって 替えに来た
どういうせきだでございます
むらさきはなごの ちょうせきだ
そんなせきだはございません
あってものうても かえてんか
そりゃそりゃむりじゃ そりゃむりじゃ
ひいふのあねさん 1
ひいふのあねさん 十四で嫁入り
しろく二十四で子が出来まして
去ねとおっしゃりゃ 去にますけれど
もとの十四に しておくれ しておくれ
ひいふのあねさん 2
ひいふのあねさんお供がないとて
あなずりなさる
伴は丹波の助一様よ助の土産に何々もろた
一に京箸二におしろい箱
三にさしぐし四に紅まくら
あげて一番か〜たびら
ひいふのあねさん 3
一二三四みよの姉さん 十六で嫁入り
よめりしそめてはや子ができて
いねとおっしゃら今でも帰る
もとの十六にしてかやんせ
京から坂から村の若い衆が四、五人みえる
じょりもはかんとはだしでみえる
わたしのはいとるやぶれじょりかたし
あげしか進じよか
殿がないとて侮りなさる 殿は丹波の助一様よ
助の土産は何々もろうた
一に香箱 二におしろい箱
三にさし櫛 しののめの枕あげて
一番かたびら 肩と裾とは
れんげ はんげの梅の折枝
中はごでんの袖はし そうではしとは
どこで聞こえた
有馬街道の茶屋の娘がにほんてかけと聞こえた
聞こえたからこそ一つでは乳を飲み初め
二つでは乳口はないて 三つでは水を汲みそめ
四つでは用事聞きそめ
五つでは糸を繰りそめ 六つでは機をおりそめ
七つでは七つながらのおさを入れそめ
八つではきんらん織りそめ
九つではここの紺屋へ嫁入りしそめて
十で殿御と寝そめた
十一では花もようさく
じさん ばさんの 世話になるから
スッテントン とんと豆腐屋の縁の下から
水が出てきて
ごばん小袖を流いた
流すほどならわしにくれたら
銭の百両もやるのに
乳を飲みそめ数え歌
一つでは乳を飲み初め
二つでは乳をはなれて
三つではじょじょをはきそめ
四つでは一人遊びなしゃんす
五つでは管を巻きそめ
六つでは機をおりそめ
七つでは木綿機織り
八つではきんらんどんすを織りそめ
九つでは嫁入りしそめ
十で殿御と寝そめた
巡礼おつる 1
一つとや 柄杓と笈摺 杖に笠
巡礼姿で父母を たずにょうかいな
二つとや 補陀落紀州は三熊野の
那智山お山はあたたかに 響こうかいな
三つとや 見るよりおゆみが走り出て
盆にしらげの志 進上かいな
四つとや ようよう西国まいらんす
定めて道中は親御達 同行かいな
五つとや いえいえ私は一人旅
トトさんカカさん顔知らず 逢いたいわいな
六つとや 無理矢理押しやりはなむけを
たらして取らせる親心 かわいいわいな
七つとや 泣く子を抱いたりすかしたり
なだめて見送る母心 いとしいわいな
八つとや 山越し谷越し観音堂
ここまでたずねてきたわいな さびしいわいな
九つとや 九つなる子の手を引いて
じゅうろべえ館の表口 はいろうかいな
十とや 十にもならぬ幼子を
わが子と知ったら十郎兵衛が 殺そうかいな
巡礼おつる 2
ひとめに笈摺つりに笠
巡礼姿で父母を たずねよかいな
補陀落紀州は三熊野の
那智山お山は音高き 響こうかいな
見るよりおゆみが走り出て
盆にしらげの志 進上かいな
ようこそたずねてござんした
さだめしおつれは親御達 同行かいな
いやいや私は一人旅
トトさんカカさん顔知らず 逢いたいわいな
無理矢理おっしゃるはなむけを
しょうしょうばかりの志 進上かいな
泣く子を抱いたりすかしたり
あちらやこちらへ見送って いなそうかいな
山坂笈坂観音寺
はるばる尋ねてきた娘 いなそうかいな
九つなる子の手を引いて
じゅうろべえ館へつれていて 殺そうかいな
トトさん知らずに殺されて
十郎兵衛 わが子であったかと
かなしいわいな
いちいちわたしが悪かった
こらえておくれやおゆみさん
西を向いては手を合わせ
東を向いては手を合わせ観音様に頑かけて  
うちの裏のちしゃの木に 1
うちの裏のちしゃの木に
すずめが三羽とまって
一羽のすずめの言うことにゃ
むしろ三枚 ござ三枚
あわせて六枚 敷き詰めて
ゆうべ迎えた 花嫁さん
襟もおくみもようぬわん
そんな嫁なら去んでくれ
明石の浦まで 送って
うちの裏のちしゃの木に 2
うちの裏のちしゃの木に
すずめが三羽とまって
一羽のすずめの言うことにゃ
むしろ三枚 ござ三枚
あわせて六枚 敷き詰めて
よんべよんだ 花嫁に
金襴緞子を縫わしたら
襟とおくみをようつけんで
となりのばばさんに笑われて
門に出てはしくしくと
裏へ出てはしくしくと
何が悲して泣きなさる 何も悲しはないけれど
わしの弟の千松が 七つ八つから金山へ
金が出るやら出ないやら
一年経ってもまだ帰らず
二年経ってもまだ帰らず 三年三月の九日に
江戸におるとの状が来て
状の上書読んでみしょ 大きい刀は父さんに
小さい刀は母さんに
金の千両はばばさんに
金の千両で倉建てて 倉のぐるりに松植えて
松の小枝に鈴つけて
鈴がじゃんじゃんなるときは
連れて参ろか千松をの 千松を
おっと確かに受け取りました
ここに今日 天気はよろし
筆もいらん すずりもいらん
お花開きの お受け申して
となりのとなりのこちのとなりのおさんじょうさん
お袖の下から お袖の上まで
ちょいと一巻 ちょいと一巻貸しました
うちの裏のちしゃの木に 3
うちの裏のちしゃの木に
すずめが三羽とまって
一羽のすずめの言うことにゃ
爺さん婆さんせかんすな
私が十六になったなら 城山崩して 堂建てて
堂のぐるりに 松植えて 松の小枝に鈴さげて
鈴がちゃんちゃんなる音は
キジかおかめか 鵜の鳥か
あけて見たれば ごぜん鳥 ごぜん鳥
あんたどこの子
あんた どこの子 お寺の裏の子
夢見たように
大阪姉さん べっぴんさん
京都の姉さんどうどすえ
ちいさいねえさん どっこいしょ
よもの景色 1
ひぃ ふぅ みぃ よぅ
よも(四方)の景色を春と眺めて
梅にうぐいす ホウホケキョとさえずる
あすは祇園のむけちょろめの
琴や三味線 四条で帯買うて
三条でくれて くけたくけ目に 金礼つけて
夜のばんばん 遊びにいてや
夜の若い衆が 帯び引きなさる
そないなさるな 帯切れまする
帯は切れても つなごとらくや
縁が切れたら つなぐことできん
ここで一番 勝ちました 勝ちました
よもの景色 2
ひぃ ふぅ みぃ よぅ
よも(四方)の景色を春と眺めて
梅にうぐいす ホホゥ ホケキョとさえずって
梅と桜は匂いはんがん
あした北野の天神さんで 梅と桜をあげたなら
梅はすいてと申されました
桜はよいとてほめられた
それで一献かしました
めでたいなお盃 さあさあこれから
となりの白壁づくりの○○さんにお渡し申〜す
西宮から 1
西宮から 五人連れで
一でよいのが 糸屋の娘
二でよいのが 肉屋の娘
三でよいのが 酒屋の娘
四でよいのが 塩屋の娘
五でよいのが 呉服屋の娘
呉服かたいで えささの道で
鼻緒が切れて どうしょう こうしょう
ちょっと 一たん貸せました
西宮から 2
姫路のお城は 名高いお城で
一段上がって 二段上がって 三段上がって
四段上がって 五段上がって 向こう見れば
一によいのは 糸屋の娘
二でよいのは におやの娘
三でよいのは 酒屋の娘
四でよいのは 塩屋の娘
五でよいのは 呉服屋の娘
六でよいのは ろうそく屋の娘
七でよいのは 質屋の娘
八でよいのは 箱屋の娘
九でよいのは 薬屋の娘
十でよいのは 床屋の娘
みんなよい娘 でござる
西宮から 3
あっちの山から こっちの山から
きれいな姉さん 五人連れで
一でよいのが 糸屋の娘
二でよいのが 人形屋の娘
三でよいのが 酒屋の娘
四でよいのが 新聞屋の娘
五でよいのが 呉服屋の娘
六でよいのは ろうそく屋の娘
七でよいのは 質屋の娘
八でよいのは 八百屋の娘
九でよいのは 薬屋の娘
十でよいのは 時計屋の娘
受け取った 受け取った
さんやのさかづき 受け取った
これからどなたに 渡しましょ
うちの裏の白壁づくしの お姫様に
渡しましょ 渡しましょ
こくせん今夜は
こくせん今夜はこことまれ
ここは丹波のほろろいち
あんぐり じゃんぐり
ひ〜よひよ ひよひよ車に 十乗せて
二十のして 三十のして 四十のして
五十のして 六十のして 七十のして
八十のして 九十のして 百のして
百目のところで 舞子の子
わしの大事な
わしの大事なおてまるさんを
紙に包んで文庫へ入れて
お錠でおろして お鍵であけて お鍵でおろす
おてての下から お渡し申すが 合点か
おっと確かに受け取りました
うちの丁稚 1
うちの丁稚は 酒飲み丁稚
酒の肴に いわし買うて焼いて
焼いてこんがらがして 戸棚に入れて
猫に引かれて 敷居で毛躓いて
すってんとんよ とんよ とんよ とんよ
うちの丁稚 2
爺さん寒いか するめ買うて来て
焼いてこんがらかして
棚に置いたら 猫がとろとて スッテントン
うちの丁稚 3
隣の爺はいやしい爺で
いわしを焼いて 紙に包んで ほっぺへ入れて
さぁさ 上の子ども衆 下の子ども衆
花見に行こう
花はどこ花 地蔵の前の 桜花
一枝折れば パッと散り
二枝折れば パッと散り
三枝の坂で 日が暮れて
上の旅籠にとまろうか 下の旅籠に泊まろうか
中の旅籠に泊まったら
むしろははしかいし
夜は長いし のみは食いつく 蚊はせせる
とんとんとうだけ
とんとんとうだけ ひびき山だけ
向かい通るは せつろうでないか
鉄砲かついで 雉うちなさる
雉はケンケン 鳴かねば撃てぬ
撃てぬ拍子に 船乗りなろうた
舟はどこへついた 大阪の川へ
大阪土産に 何々もろうた
一に京箱 二におしろい箱
三にさし口 四にしのまくら
一番あげて 聞こえた ちょうど
一献つきました
花の都の
花の都の真ん中の 郵便箱の申すでよ
さても忙がし 我らほどに
せわしきものは またあらじ
朝はひき明 夜は夜更けまで
出でる飛び出る そのわけたてに
ばったりばったりばったりこを
さしいで 富士のやすみなし
いちりっとら
いちりっとら らっとげっとし
しんがらほけきょの たかちほよ ちょんがめ
いもいもにんじん
いもいも いもいも 人参人参 いも人参
さんしょさんしょ いも人参さんしょ
しそしそ いも人参さんしょ しそ
ごんぼごんぼ いも人参さんしょ しそごんぼ
どんぐりどんぐり いも人参さんしょ
しそごんぼどんぐり
ななぐさななぐさ いも人参さんしょ
しそごんぼどんぐり ななぐさ
蛤 蛤 いも人参さんしょ
しそごんぼどんぐり ななぐさ 蛤
栗 栗 いも人参さんしょ
しそごんぼどんぐり ななぐさ 蛤 栗
重箱重箱 いも人参さんしょ
しそごんぼどんぐりななぐさ蛤 栗 重箱
じっぽ かっぽ
じっぽ かっぽ かばやの 芋栗山の
あいのび あかさのしづくも
てんのけみろり 油桶どおけ
むかいのさむらい つきのけた
うしろのせ おんさのせ
うしろのせ おんさのせ
大阪しろ しろ しろ煙
おくまさん たいまさん
煙草の目方は百九十目
おまえさんのことならまけとくに あひゃぁ
ふや みや よや いや
むや なや こや とや
九つ越えて
佐野のお猿さんが 赤いべべがたいそう好きで
テテシャン マメシャン
夕べエス講(えびす講)に呼ばれていたら
小鯛のすいもん 小鯛の浜焼き
いっぱいおすすろ すすろ 二杯
おすすろ すすろ
三杯目は讃岐の殿さん 魚がないとて
おはらをたてて
はてな はてな はてはてな
ちょうど一献つきました
うらの隠居さん
うちのうらには 隠居さんがござる
猫がまたたく ねずみがうつす
かわいタヌキがおぜんだす おぜんだす
おあさ一寸来い
おあさ一寸来い もの言うて聞かしょ
われが正月後に 何々着しょぞ
下に緋縮緬 上には羽二重
当世はやりの面の帯を 二重回して
吉弥に結んで 足は白足袋 八つ緒の雪駄
はいて行かんせ どこまでも
三人娘
ひぃ ふぅ みぃ よぅ
いー むぅ なな やー この とぅ
とふやのかみさん 三つ子を産んで
一人の子を うるしへやったら
うるしにまけて おぎゃ おぎゃ おぎゃ
もう一人の子を 茶屋へやって
茶のべべ着せて 茶の帯さして 茶々 ちゃや
もう一人の子は 紙屋へやって
紙半帖もろて いろはと書いた
天神さんへ上げたら ありゃ誰書いた
八万長者のおと娘
あの子よい子じゃ 器用な子や
器用に育てたお子じゃもの
お春一寸来い ちょもめがうせた
ちょもめなんすりゃ 川へどんぶりこて
糸くず拾うて 糸につないで 川瀬にかけて
はたいもちゃげて こっきりや〜きぃこ
忠臣蔵数え歌
一つとせ 人を見下す師直が
かわえ御前に恋慕して 渡そうかいな
二つとせ 深い編笠虚無僧が
刀のせの手の内ご無用と 止めようかいな
三つとせ 身の上知らずの九太夫が
主人の逮夜に蛸魚 はさもうかいな
四つとせ 夜討ちの面々打ち揃い
山と川との合言葉 忍ぼうかいな
五つとせ 猪撃たんと勘平が
狙い定めた二つ玉 はなそうかいな
六つとせ 無理な判官ご切腹
師直切り立て御殿から 騒ごうかいな
七つとせ なむさんきたうで由良之助
力弥が鯉口さんさんと 遊ぼうかいな
八つとせ 屋敷長屋は長者まで
玄関長屋で芝部山 たづにょうかいな
九つとせ 九つ梯子をさしかけて
お軽を後から無理矢理に おろそうかいな
十とせ とうとう敵を討ち取って
めでたく主人の塚の前 まつろうかいな
よんよんにっしょか
よんよんにっしょか もりか
うどん屋の子が心中をしたか
嘘かほんまか まことの事か
もうし姉さん 男はないか
男 淡路の米屋の番頭 字もよう書く
算盤も器用な 器用な男に 逢いそめられて
ここで死のうか 役場の前で
羽織ぬごとて ヨイヤサ ヨイヤサ
一の丹衆に 二の丹衆 三の丹衆に止められて
おかさおかさと 気を誉められて
「春は世間の墓参り 墓の後ろに 鳥がいて
鳥は何ゾと こうこうと」  
 
岡山

 

遊ばせ唄
あまんだァぶり
あまんだァぶり こだぶり
天の川 スットントン
チョチチョチアワワ
チョチ チョチ アワワ
かいぐり かいぐり とっとの目
おつむテンテン ひじトントン
とうすを引け
とうすを引け 米かましょ
米ならよいが 麦じゃった
なだめ唄
泣く泣くよ
泣く泣くよ 泣く泣くよ
泣けば弱いが すぐわかる すぐわかる
笑いましょう 笑いましょう
笑う門には 福来たる 福来たる
笑いましょう 笑いましょう
えくぼついたる あいらしさ
笑う門には 神やどる 神やどる
寝させ唄
うさぎさんのお耳
うさぎさんのお耳は なぜながい
母ちゃんのポンポン いたときに
きゅうりやくさや 食べたゆえ
それでお耳が ながいのよ
ねんねんこうろ
ねんねんこうろ
こうろの山の うさぎは
なぜにお耳が 長いぞ
びわの葉を くわえて
それでお耳が 長いぞ
この子かわいさ
この子かわいさ かぎりなし
山で木の数 かやの数
天へのぼれば 星の数
沼津へおりれば 千本松
千本松原 小松原
松葉の数より なおかわい
ねんねんころいち
ねんねんころいち ころいちや
こうろが山の 雉子の子
泣いてお鷹に とられな
母さん上手な 子守歌
ぼくが小さい 赤ん坊で
泣けばやさしい 母さんは
お乳飲ませて ふところに
抱いてねかせて下さった
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
歌はなにうた 子守歌
里の子守りの 歌きけば
おらが父さん 馬引きで
日日毎日 町がよい
朝の家出は 星明かり
ねんねの守りは
ねんねん ねんね
ねんねの守りは どこ行った
山越えて 里行た
山の里のみやげに 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
鳴るか鳴らぬか 吹いてみよ
ねんねん ねんね
ねんねんねんね
ねんねん ねんね
みよちゃんが寝たまに ばぶついて
ようよの子に 負わして
高い山を 駈けらすぞ
ねんねん ねんね
ねんねんする子の かわいさ
起きて泣く子の つらにくや
ねんねん ねんよ
ねんねんねんねんよ
ねんねん ねんねんよ
ようねんねしたら
ばっぽをちいて さめえて
ちんぎる ちんぎる 食べさすぞ
ねむれば楽しい
ねむればたのしい夢の国
夢のかけ橋 とんとんと
渡れば楽しい 夢の園
金銀さんごの花が咲く
そこにはきれいな鳥もいて
坊やの来るのをまっている
ねんねこさっしゃりませ
ねんねこさっしゃりませ 寝た子のかわいさ
起きて泣く子の ねんころろん
つらにくい ねんころろん ねんころろん
   つらのにくい子を まな板にのせてさ
   青菜切るよに ねんころろん
   じょきじょきと ねんころろん ねんころろん
寝たかねなんだか 枕に問えばさ
枕もの言うて ねんころろん
寝たと言うた ねんころろん ねんころろん
   ねんねこさっしゃりませ 今日は二十九日さ
   明日は一日 ねんころん
   宮まいり ねんころろん ねんころろん
明日は宮まいり 赤いべべ着せてさ
乳母に抱かれて ねんころろん
宮まいり ねんころろん ねんころろん
   宮に参ったら なんと言うて拝むさ
   一生この子が ねんころろん
   まめなよに ねんころろん ねんころろん
まめになりたら 赤いまま炊いてさ
ばばがおんぶして ねんころろん
お礼まいり ねんころろん ねんころろん
山んだァのじいの子
山んだァのじいの子 じいの銭ゅう盗んで
鯛を買うて食うたげな あんまり塩が辛うて
前の川へとびこんで 水う三杯湯う三杯
合わせて六杯飲んだれば あんまり腹がふとうて
鐘撞堂へとびあがり 屁をプンプンこえたれば
鐘撞堂がくずれて 大きな仏は泣きょうる
小めえ仏は笑ようる 泣きゃんな笑やんな
今度の市にゃ 板三間買うてきて
堂建てて進ぜましょう
ア ねんねんや ア ねんねんや
坊やはよい子だ 泣かずにねんねんよ
ねんねんよ
こうさか港にゃ
こうさか港にゃ 船がつく
その船ついたら 船頭つく
船頭の腰には 金がつく
その金 目がけて 賊がつく
賊のけつには くそがつく
そのくそかざんで 犬がつく
犬がついたら ワンワン吠えつく かぶりつく
かぶりつかれりゃ 傷がつく
傷がついたら ずくずくずくずく うずき出す
うずき出したら 床につく
床についたら 医者がつく
医者がついたら 薬つく
医者と薬と看護つきゃ
その傷しだいに なおりつく
なおりついたら きっぽつく
坊やは泣かずに ねんねしな
ねんねしな
ねんねんよねんねんよ
ねんねんよ ねんねんよ
よい子ぞ 泣くなよ ねんねんよ
抱くも母ぞ 撫でるも母ぞ
よい子ぞ 泣くなよ ねんねんよ
神のよい子を 守らせたもう
よい子ぞ 泣くなよ ねんねんよ
高い山で光るは
高い山で光るは
 月か 星か ほたるか
うら ドーンと鳴るのは
 前の川の瀬の音
ドンドラドーンと鳴るのは
 前の川の瀬の音
守り子唄
守りのつらいのは
守りのつらいのは 霜月 師走
 雨の降る日も 風の日も
雨の降る夜は お里がこいし
 坊や泣かずに ねんねしなねんねしな 

 

津山のわらべうた
てんてんてん (まりつき歌)
てんてんてん 天神さまのおまつりに てんてんてまりを買いました 買いました
てんてんてん 天神さまの石段は だんだん数えて二十段 二十段 段の数ほどつきましょう つきましょう
てんてんてん てんてんてまりはどこでつ く梅のお花の下でつく 下でつく
てんてんてん てんてんてまりをつくたびに つくたびに 梅のお花が散りました 散りました
一匁のいんすけさん (まりつき歌)
いちもんめのいんすけさん 芋買いに走った 一万一千一百億一とう一とう一とう枚のおふだをおさめて二もんめに渡した
二もんめのに一すけさん にんじん買いに走った 二万二千二百億二とう二とう二とう枚のおふだをおさめて三もんめに渡した
三もんめの三すけさん さんしょ買いに走った 二万二千三百億三とう三とう三とう枚のおふだをおさめて四もんめに渡した
四もんめの四すけさん よもぎ買いに走った 四万四千四百億四とう四とう四とう枚のおふだをおさめて五もんめに渡した
五もんめのごすけさん ごぽう買いに走った 五万五千五百億五とう五とう五とう枚のおふだをおさめて六もんめに渡した
ひとめふため (まりつき・羽根つき・お手玉歌)
ひとめ ふため 都衆(みやこし)嫁御(よめご)は
いつきてみても 七重の帯を 矢立に結び 紺屋(こうのや)とんがらし
ひとろろふたろろ 1 (羽根つき歌)
ひとろろ ふたろろ みいみが よことて いつさが
むことて なーにが やさしゅて こうのにゃ とお
ひとろろふたろろ 2 (羽根つき歌)
ひとろろ ふたろろ みいみが横丁で いつさか
むことり なーにがやさしゅて 紺屋(こうのや) とんがらし
おしろのさん (お手玉歌)
おしろのさん おんしろしろしろ白木屋の お駒さん 才女さん たばこの煙が丈八っつあん 相手にならぬが
おこむらさん ひいや ふうや みいや よいつや むや ななや このや とお
とんとんたたくは 誰さんじゃ 新町米屋のしげさんじゃ しげさん何しにおいでたら 雪駄(せちだ)がかわってかえにきた おまえの雪駄はどんなんじゃ うこんに紫あいみろど そんな雪駄があるものか あるのにないゆうてくれなんだ やあれ腹立つごうわきじゃ わしが十五になったなら 西と東に蔵建てて 蔵のまわりに松植えて 松の小枝に鈴つけて 鈴がしゃんしゃん鳴るときにゃ 鳴るときにゃ 爺(じじ)さん婆(ばば)さんうれしかろ うれしかろ 父(とと)さん母(かか)さん くやしかろ くやしかろ
妙願寺の屋根に (てまりうた歌)
妙願寺の屋根に猿が三匹とまっていつちの中の猿がよう物知っとって 一の木 二の木 三の木桜 柳の枝にとんびが止まる 烏も止まる 夜鷹の首を ねんねんねじ上げて おちょろに見せて おちょろはおかち 殿様お馬 いちがたちや槍持ち はさん箱 がたがた 槍の先やべったりこ
一かけ二かけ三かけて (てまりうた歌)
一かけ二かけ三かけて 四かけて五かけて橋かけて
橋の欄干腰掛けて はるか向こうを見渡せば 
十七八のお姉さん 片手に線香 花を持ち 
姉さん あなたはどこですか 私は九州鹿児島の西郷隆盛娘です 
明治十年戦争に 討たれて死んだ父上の お墓を尋ねて参ります
お墓の前で手を合わせ南無阿弥陀仏と拝みます
いちれつ談判 (てまりうた歌)
いちれつ談判破裂して 日露戦争となりにけり 散々逃げるがロシアの兵 死ぬまで尽くすが日本の兵 五万の敵と戦いて 六人残して皆殺し 七月八日の戦いは ハルピンまでも攻めよせて クロバトキンの首をとり 東郷元帥万万歳
ひらいたひらいた
ひらいたひらいた何の花がひらいた ごんげの花がひらいた ひらいたと思ったら いつの間にかつぼんだ ひらいたひらいた何の花がひらいた 菜の花がひらいた ひらいたと思ったらいつの間にかつぽんだ
ことしのぼたん
今年のぼたんはよう咲いた お耳にからげてスットントン もひとつからげてスットント
のうのうさん なんぼ
のうのうざん なんぼ 十三 九つ 十(とお) 三つ まだ年や若いな あの子を産んで この子を産んで 誰に抱かしょ おまんに 抱かしょ おまんはどこ行った 油買いに 茶買いに 油屋の門で 油一升こぼいて すべってころんだ
お月さん なんぼ
お月さんなんぼ 十三 七つ そりゃまだ若いな 紅つけ かねをつけ 庄屋のお婚(かか)に なろかいな
からす 1
からすかねもん勘三郎 おまえの家(うち)はまる焼けじゃあ 早ういんで水かけにゃ 水うかける杓がない 杓がなけりゃあ貸そうか 借っても借っても よう払わん
からす 2
からす からす 勘三郎 おばの家に火がついた 銭三文やるけん 杓こうて水かけろ
こもこもつりのうた
こもこも出え こもこも出え お茶にしようや おやどのこがほしけりゃあのこがほしいあのこ1二やわからんこのこがほしい
つにしょう 三べんまわって たばこにしょう
きつねさん (目隠しうた)
きつねさん きつねさん あそぽうじゃないか 今お化粧の最中 きつねさん きつねさん あそぼうじゃないか 今勉強の最中 きつねさん きつねさん あそぼうじゃないか 今ごはんの最中 おかずはなあに 蛇にカエル 生きとるか死んどるか
おじょうさん (縄跳びうた)
おじょうさん おはいり ありがとう じゃんけんぼん あいごでしょ 負けたらさっさとお逃げなさい
もんめ もんめ (集団あそびうた)
もんめもんめ 花いちもんめ ふるさとまとめて 花いちもんめ どの子がほしけりゃ あの子がほしい あの子じゃわからん この子じゃわからん 相談しましょそうしましょ
○○ちゃんがほしい なんで行くの おかごでおいで おかごギシギシ おかごで行こう
子をとろ (集団遊びうた)
子をとろ子とろ どの子がほしけりゃ 親あやっても子はやれん
京の川瀬の (鬼ごつこ)
京の川瀬の花みずぐるま 水と桜と合わせてみたら 水の流れはほいさっさのさ
いつちご にんじん (数えうた)
いつちごにんじん さんしょにしいたけ ごぽうにむかごに ながいも八つ頭(がしら) くわいにとんがらし
坊さんどこなら
坊さんどこなら 八塔寺 モンバのももひきゃ ぬくかろう しらみがわいたら かいかろう
あんたどこの子
あんたどこの子 お寺の村の子 大阪姉さんべっぴんさん 草刈り姉さんどっこいしょ
ねんねんころころ (子守うた)
ねんねんころころ ねんころり 坊やの寝たまに ばつぼ揚(つ)いて ちんぎりちんぎり くわしょうぞ
ケンケン小薙が (子守うた)
ケンケン小薙(こきじ)が今鳴いた ねんねんころころ ころいちや ころがお山の薙の子は 鳴いて夜鷹に捕られなよ 落ちてトンビにすられなと かあさん鳥の子守歌 ねんねんころころ ころいちや
ねんねこ ねんねこ (子守うた)
ねんねこ ねんねこ酒屋の子 酒屋がいやなら 嫁にやろ 嫁入り道具はなになにぞ タンスに長持ち はさん箱 これほど仕立ててやるからに あとへ帰ろと思やんな
向こうの山を (こもりうた・ことばあそびうた)
向こうの山をお猿が3匹飛びよって 一番先も もの知らず 一番後も もの知らず 真ん中の小猿がようものを 知っとって なまず川にとびこんで なまずう一匹へさえて 手でとるのも可愛いし 足でとるのも可愛いし かわらけのめげで すくうてとって あなたに一切れ こなたに一切れ 嫁にやるのが 足あらいで 根深汁う吸うわして 子を産んだ
中の中の小坊主は (子守うた)
中の中の小坊主は なんで背がひくけりゃ のうのうさんのまんま喰って 早う大きゅうなれや
まるやままるてん (手合わせうた)
まるやま まるてん どってんしゃを見ればね 見れば見るほど 涙がほろほろ ほろほろ ほろほろ涙をふきましょ ふきましょ ふいた挟は汚いね 汚いね 汚い着物は洗いましょ 洗いましょ 洗った着物は干しましょ 干しましょ 干した着物はたたみましょ たたみましょ たたんだ着物はたんすにピッシャンコ それをねずみが ガージガジ ガージガジ かじった着物は捨てましょ 捨てましょ 
 
広島

 

飲み明かそうよ 酒は 広島の男意気 肩組み飲めば 広島天国
坂の尾道 涙町 瀬戸内慕情の ああ 船が行く
ひとり夜風に 名前を呼べば 星が流れる 尾道水道
知略にかけて 挑む合戦も 大勝の 凱歌に明ける 巌島
遊ばせ唄
お月さんなんぼ
お月さんなんぼ 十三九つ
そりゃまだ若いな
若屋の薬 薬薬 くすぶった
まんまんさん
まんまんさん まんまんさん
あんた年ゃなんぼうか 十三九つ
まだ年ゃ若いな
油買うてあぎょうか
元結買うてあぎょうか
なんにもいらんよ
銭が十ほどほしいよ
その銭ゅう どうすりゃ
ガンガン持って参るよ
ガンガンの前で
マンマンアン マンマンアン
寝させ唄
守りはどこ 1
ねんねんや ねんねんや
ねんねんお守りゃ どっち行った
ありゃ里に 茶茶買いに
茶茶買うたら はよもどれ
はよもどらにゃ 去んでくれ
どっち通て 去のか
あっち通て 去のか
あっちもこっちも 山山
山越して 里越して
どんどへ参る道にゃ
尾のない烏が チラホラ言いよった
守りはどこ 2
ねんねんや
ねんねのお守りは どこ行った
ありゃ里へ 茶茶買いに
茶茶買うたら はよもどれ
はようもどらにゃ 去んでくれ
年をとって 去のうか
橋をとって 去のうか
あっちもこっちも 山山
山を越して 里に出て
どんどへ参る道にゃ
尾のない鳥が ケラケラ言いよった
守りはどこ 3
ねんねん子守りは どこ行った
ありゃ隣い 魚売りに
茶茶飲んだら はよもどれ
はよもどって 子をせかせ
子せかさんにゃ 去んでくれ
どっち通て 去のうか
上通りゃ 雷が降る
下を通りゃ 霜が降る
ねんねんや ねんねんや
守りはどこ 4
ねんねこせ たんたこせ
ねんねん寝た子の かわいさ
起きて泣く子の 面憎や
ねんねこせ たんたこせ
ねんねのお守りは どこ行た
ありゃ隣の 茶茶飲み
茶茶飲んだら かあもどれ
かあもどらにゃ 去んでくれ
去んだら 何を食しょうぞ
棚の柱 かぶらいせ
棚の柱 固いよ
固けりゃ 焼いて食わいせ
ねんねこせ たんたこせ
守りはどこ 5
ねんねんやあ こうこうやあ
 ねんねんやあ こうこうやあ
 ねんねん守りは どこへ行た
 あありゃあ お里へ茶茶飲みに
茶茶飲んだら はよもどれ
 はよもどって 子をすかせ
 子をすかさにゃ 去いね去ね
 ねんねんやあ こうこうやあ
里のみやげに 1
ねんねんころりや おころりや
坊やのお守りは どこへ行った
あの山越えて 里越えて
ばあさんのお里へ 行ったとさ
里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
里のみやげに 2
ねんねんよ ねんねんよ
よい子だ 泣くなよ ねんねんよ
ねんねのお守りは どこに行った
あの山越えて 里越えて
里のみやげに 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
たたいて聞かしょか ドンドコドン
吹いて聞かしょか ピーロロロ
ねんねんよ ねんねんよ
竜泉寺の鐘
ねんねしなさい おやすみなさい
 鳥がうとうたら 起きなさい
鳥がうとうても まだ夜が明けぬ
 明けりゃ竜泉寺の 鐘がなる
鐘が鳴る鳴る 竜泉寺の鐘は
 茶碗たたくような 鐘が鳴る
ねんやころいち
ねんやころいち 天満の市に
 大根揃えて 船に積む
船に積んだら どこまで行きゃる
 木津や難波の 橋の下
橋の下には お亀がいるよ
 お亀とりたや 竹ほしや
竹がほしけりゃ 竹屋へ行きゃれ
 竹はゆらゆら 由良之助
泣くな なげくな 三月にゃ戻る
 おそし 四月の中頃に
一夜こけて来い 菜種の中に
 菜種折らんように こけて来い
大阪道頓堀 竹田の芝居
 ぜぜは安くて おもしろい
ねんねんころころ ねんころや
 ねんねんころころ ねんころや
ねんねこしゃっしゃりましゃ
ねんねこしゃっしゃりましゃ 今日は二十五日
 明日はこの子の宮参り
宮に参ったら 何というておがみゃ
 一生この子のまめなよに
まめな時にはよ かっぽれ着せて
 おんばに抱かれて乳のましょ
ねんねん子守りすりゃ 楽なよでつらい
 人に楽なよに思われて (下略)
ねんねん山のうさぎは
ねんねんや ねんねんや
ねんねん山のうさぎは
なぜにお耳がお長いの
親の腹におる時に
枇杷の花をくわえて
それでお耳がお長いの
ねんねんや ねんねんや
ねんねんねんねん ねんねんや
ねんねこさんねこ
ねんねんねんねん ねんねんや
ねんねこさんねこ 酒屋の子
酒屋がいやなら嫁入さそ
嫁入の支度は なに支度
たんす長持 挟み箱
それほど揃えてやるものを
窓からたたき出して ひねり出せ
ねんねんねんねん ねんねんや
今日は二十五日
ねんやさせましょ 今日は二十五日
明日はこの子の誕生日
誕生日には 豆の飯炊いて
一生この子の まめなよに
一生この子の まめなよに
ねんねんねんねん ねんねんや
   ねんやころいち 今日は二十五日
   明日はこの子の宮参り
   宮に参ってから 何と言うておがむ
   一生この子の まめなよに
   一生この子の まめなよに
   ねんねんねんねん ねんねんや
ねんねこさかもちゃ
ねんねんよう こっこうよ
ねんねんよう こっこうよ
ねんねこさかもちゃ よいちが子
よいちが子にゃ 負わせて
あっちの山には ほろほろ
こっちの山にゃ ほろほろ
ほろほろ山の きじの子
鳴いたら夜鷹に とらりょうぞ
ねんねんよう こっこうよ
ねんねんよう こっこうよ
寝たら餅を
ねんねん ねんねん ねんねんよ
ねんね子守りは どこ行った
寝たら餅を 搗いてやる
起きたら灸を すえるぞ
ねんねん ねんねん ねんねんねん
寝たらおもちゃを
ねんねんよ ねんねんよ
寝たらおもちゃを 買うてやろ
起きたらもうもに かぶらすぞ
寝た子の可愛らさ
ねんねんころりや ねんころり
ねんねん寝た子の 可愛らさ
起きて泣く声の 面憎さ
どこを通って 去のうか
高いとこを通って 去のうか
高いとこにゃ 鷹がいる
低いとこを通って 去のう
低いとこにゃ ひきがいる
くぼいとこを通って 去のう
くぼいとこにゃ 蜘蛛がいる
ねんねんころりや ねんころり
ねんねん寝た子の 可愛らさ
うちの裏には
うちの裏には 茗荷が二本
冥加めでたや 福貴繁昌
冥加めでたや 福貴繁昌
ねんねんねん ねんねんねんや
   一夜天満の かやつり草よ
   親の意見と 思い草
   親の意見と 思い草
   ねんねんねん ねんねんねんや 

 

わらべ歌
「たなばたのかみさんが」 
   たなばたのかみさんが 
   たなからおちて はいもぐれ
   うりやなすびが きげんとる
[ かみさん=神さま。「はいもぐれ」とは灰にまみれたという意味。]
七夕といえば織姫と彦星。この七夕は6世紀頃の中国でのお話が基となっているそうです。古来中国では7月7日に魔よけの行事を行っており、これが織姫と彦星の話と結びつき、七夕の行事となりました。日本伝わったのは平安時代で、宮中行事の一つとして行われていました。祭壇には「うり、なすび、桃、梨、酒盃(さかずき)、大角豆(ささげ)、蘭花豆(らんかず)蒸しあわび、鯛」がそれぞれ盛られて並びます。
遊び方 / 円になり、中心に七夕の神さまを一人おきます。「たなばたの〜たなからおちて」で円の人は右に回ります。(神さまは好きなポーズをしましょう) 「はいもぐれ」で円の人も神さまもその場にしゃがみます。もう一度「たなばたの〜」歌い、今度は左に回ります。「はいもぐれ」の部分は同じです。「うりやなすび〜」では両手でお皿の形を作り、お供え物とします。(中心にいる神さまのご機嫌をとりましょう) 神さまは気に入ったお供え物のところで交代して下さいね。 
「おつきさんなんぼ」
   おつきさんなんぼ じゅうさんここのつ 
   そりゃまだわかいよ
   あぶらこうてあぎょうか 
   もっといこうてあぎょうか
   なんにもいらんよ 
   ぜにとこめがいっちすき
[ こうてあぎょうか=買ってあげようか/もっとい=元結(髪を束ねるヒモ)/ぜに=お金/いっち=いちばん ]
とってもシビアな歌だと思います(笑)でも素直な子どもの心が見え隠れするようでもあります。お月様をみたらこの歌を思い出してください。 
 
鳥取

 

離しはしない 離れはしない ああ 鳥取 鹿野橋 ふたりの恋物語
受けた情は 返さにゃならぬ ゆくぜ真実 一路の旅を 因幡の虎蔵 火を羽織る
遊ばせ唄
次郎や太郎や
次郎や太郎や どこへ馬つないだ
南蛮畑の梨の木につないだ
なに食わしてつないだ
わら食わしてつないだ
わらの中見れば 小さい小袖が三つ三つ
三つんなる小僧が お寺から下りてきて
なに着ゅうとおっしゃる
袴あ着ゅうとおっしゃる
袴のすそに 何型つきょうやら
熟柿 まぐれ 里柿
はんなの枝に すずめが一羽
からすが一羽 とびが一羽
すずめはチュンチュン チュンのもの
からすはカアカア カンのもの
とびは熊野の鉦たたき 鉦たたき
ゆうべ生まれた坊主子が
ゆうべ生まれた坊主子が
納戸の唐紙あけて出て
じいさんばあさん 泣かしゃんな
おれば十五になったれば
この山崩いて堂建てて
堂のぐるりにごままいて
ごまは仏のきらいもの
油は仏のおみあかし おみあかし
堂のぐるりに松植えて
松の梢に鈴つけて
鈴がチャンチャン鳴るときは
じいさんばあさんうれしかろう
ねんねこねんねこ
ねんねこねんねこ ねんねこや
りんかのこの人 この人
出家を害する手だてだ
早く 早く 山 山
寝させ唄
ねんねんころろん
ねんねんころろん ねんころりーイ
坊やはよい子だ ねんねしなーア
坊やが寝たまに バボついてーエ
起きたらさまして 食わせるぞーオ
ねんねんころろん ねんころよーオ
ねんねんころりよ 1
ねんねんころりよ ねんころりーイ
坊やのお守りは どこへ行たーア
あの山越えて 里へ行たーア
里の土産は 何もろたーア
でんでん太鼓に 笙の笛ーエ
おきゃがり小法師に 犬張子ーオ
ねんねんころりよ 2
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
ねんねんころりよ おころりよ
坊やの子守りは どこへ行た
あの山越えて 里越えて
坊やの土産を 買いに行た
里の土産は 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
鳴るか鳴らぬか 吹いてみよ
ねんねんころりよ ねんころり
ねんねんころりや
ねんねんころりや さんころり
よい子じゃ よい子じゃ よい子じゃな
ねんねんころりや さんころり
酒屋のいとさん 乳飲ましょ
お乳がいやなら 嫁行かしょ
お嫁の道具は 何道具
たんすに長持 はさみ箱
これほど手つけてやるものに
されとてもどるな こりゃ娘
されとてもどろた 思わねど
千石積んだる船でさよ
風の吹きよで 舞い戻る
行ってみりゃ 殿御の気を知らず
行ってみりゃ 舅の気を知らず
ねんねんころりや さんころり
守り子唄
この子あよい子だ
この子あよい子だ ぼた餅顔で
黄粉つけたら ハ なおよかろ
だんなよう聞け
だんなよう聞け おかみさんはなおと
守りいためりゃ コリャ 子に当たるよ
寝た子かわいや
寝た子かわいや 起きた子は憎いよ
 起きて泣く子は 面憎い
あまり泣かしゃんすな
 泣くときゃ親御さんが
 たたいたか つめったか 思わさる
関の姉やちゃ
関の姉やちゃ 子が無あて悲しいよ
 お客子ねして 抱いて寝る
憎いやつめが 目の先ほててよ
 三丁小刀で 刺し殺し 

 

わらべ歌
法師、法師どこの子 (植物の歌・鳥取市伏野)
   法師 法師 どこの子 スギナのまま子
   一本法師は 出んもんだ 二本三本 出るもんだ
鳥取県下では、春先に野山に自生しているツクシのことを法師と呼んでいる。それはツクシの頭がお坊さんに似ているところから出た命名であろうかと思われる。やがてこのツクシは、しばらくするとスギナに変わって行く。そこを人々は想像をたくましくして「スギナのまま子」とたとえて歌にしているのである。鳥取県下に類歌は多く、詞章の発想は同じである。
   法師ゃどこの子 スギナのまま子 おじの銭ぅ盗んで タイを買うて食ろうて タイの骨が喉んつまって ガアガアとぬかいた
   (鳥取市用瀬町宮原)
   法師 法師 出串(でぐし)スギナの孫子 親子三人 ちょいと出え
   (溝口町溝口)
島根県下での収録は、わずか一例しかない。
   彼岸坊主は どこの子 スギナのかかあの オト息子
   (桜江町川越)
春の彼岸時分に顔を出すツクシを見て、スギナのお母さんの一番下の子であろうとしているのである。わたしはわが国が第二次世界大戦に突入した昭和16年に国民学校に入学しているが、そのときの国語の教科書に次の歌が掲載されていたのを思い出す。
   ぽかぽかと あたたかい ひに つくしの ぼうやは めを だした つくし だれのこ すぎなの こ
なぜか知らず、子ども心ながら、わたしはこの素朴な詩を好んでいた。わたしは当時、大阪に住んでおり、そこでこの詩を学んだのである。戦争はしだいに激しくなって行き、わたしは終戦の年の春、父のふるさと松江市へ家族そろって疎開してきた。そして郊外で初めてツクシやスギナの実物を見る機会を得たのであった。これが教科書に出ていたあのツクシやスギナかと、わたしは懐かしいものでも見るような気分で、それを眺めたことを思い出す。そのときは戦争の厳しさについても、しばらく忘却していたのであった。それにしても、戦時中でありながら、教科書に載せられていたこの詩もまた、山陰両県で見つけた穏やかな伝承わらべ歌の心と全く同じであったのである。 
丸山まるてん (手遊び歌・鳥取市福部町)
   せっせっせ 丸山まるてんドッテンショと 見ればね 見ればね
   門の扉におさよと 書いてね 書いてね
   おさよ挿したる 八重歯の 櫛はね 櫛はね
   だれにもろたか 源治郎さんに もろたかね もろたかね
   源治郎このごろ 歯医者にごめんね ごめんね
   そこでおさよが 涙をぽろぽろ ぽろぽろ
遊び方はこの詞章からもお分かりいただけると思うが、二人が向かい合って「せっせっせ」と手を合わせ、次いでうたいながら詞章に合わせて、その動作を行うものである。類歌は、山陰の地でもあちこちで収録できたが、島根県石見地方、江津市桜江町の歌を挙げておきたい。
   せっせっせ 丸山土手から 西も東も見ればね 見ればね
   盆の月がたおさよさんが 書いている 書いている
   おさよさしすせ 笄(こうがい)お櫛(くし)をね お櫛をね 
   だれにもろたか 源治郎(げんじろ)さんに もろたかね もろたかね
   もろた源治郎さんは はり者(しゃ)で困るね 困るね
   出ている涙は 絞り端ゅをもんでいる もんでいる
   大阪鉄砲 コウ鉄砲 スッポロポンのポン
この歌もかなり古いもののようで、江戸時代のわらべ歌を集めた岡本昆石編『あづま流行時代子供うた』(明治27年刊)にも、類歌が次のように紹介されていた。
「大丸(だいまる)土手から東を見れば、門の扉におとはと書(かい)て、おとハ差したる水牛(すいぎゆ)の櫛は、誰に貰(もら)たと詮議(せんぎ)をすれば、清五郎男(をとこ)におとはが惚(ほれ)て、惚(ほれ)て間もなく身持(みもち)になつて、やアレお医者さん、ソヲレお医者さん、お手(てゝ)が利(きか)ぬ、ねんねんころり牡丹(ぼたん)の花よ、桜の花よ、先(ま)づ先づ一貫 貸しまアゝした。」
ただし、ここでは手遊び歌ではなく、手まり歌として出ていたのであった。 
夏年変わらず (手まり歌・鳥取市福部町左近)
   夏年変わらず 冬年変わらず
   うちのだいじな お手まるさんを
   海のもくさに 五つにまわして
   これからどなたに 渡しましょいな
   向こうの花子さんの お手のおひざに
   おしかしっかと渡いた  はいはい 受け取り申したわいな
ゴムまりなどのまだ現われなかったころ、手まりは母や祖母たちが、かわいい娘のために夜なべ仕事に、くず糸などを巻いて作った、自家製のものだった。その苦労を知っていた女の子たちは、それだけに手まりをとても大事にしていたのである。この歌にもそのような気持ちがあふれている。次の二つの歌も同様の心の通っているものである。
まず、鳥取市福部町湯山のもの。
   小母(おば)にもろうた絹糸手まる
   つけば汚れるときどき変わる
   川に流せば柳にとまる
   柳切りたし川柳 川柳
   これでいっこう貸せました
次に智頭町波多のもの。
   手まりよう来た おすべり煙草
   煙草のむ間にゃ お茶々が煮える
   お茶々煮える間にゃ おかずが煮える
   おかず煮える間にゃ おままが煮える
   スットコトンや また百ついた
   また千ついた  
向こうの向こうのすすき原 (てまり歌・鳥取市福部町左近)
   向こうの向こうのススキ原 親がないかや 子がないか
   親もござるに子もござる その子に離れて十五日 十五日参りをしょと思って
   姉さん父さん ちょっと寄って 姉さん姉さん かたびら一枚貸してえな
   あるのにないとて貸せなんだ 大腹だちや 大腹だちや
   西の紺屋に一反と 東の紺屋へ一反と 染めてくだされ紺屋さん
   染めてあげます何色で 紺と石蝋に染め分けに 染め分けに ちょいと百ついた
手まり歌の中には、どこかわびしい内容のものがときおりある。この歌もそのような一つであろう。ただ、内容は子どもの歌特有の連鎖反応的なつながりで、次々と話題が転換してゆくので、最後のところでは、特にわびしさの伝わってこないところがおもしろい。ところで、伝承者の住所は、鳥取市福部町左近であったが、ご出身は近くの兵庫県美方郡浜坂町である。したがって、あるいは鳥取県東部として紹介したこの歌は、兵庫県のものとした方が適当かも知れない。ただ、鳥取県内でもよく似た歌があるので、鳥取市の歌として紹介した。
そのような類歌は、中部の倉吉市に次のように存在している。
   向こうお山の白ツツジ親がないかや 子がないか
   親もござんす 子もござる 殿御に離れて今日七日 七日と思えば十五日
   十五日(じゅうごんち)参りをしょと思(おも)て おばのところに かたびら一枚借りにったら
   あるのにないとて 貸さなんだ やれやれ腹たつ 腹がたつ
   西の紺屋(こうや)に一反と 東の紺屋に一反と 染めてください紺屋さん
   染めてあげます 何色に ウコンに紫 浅黄色 浅黄色
両者を比べて見ると、確かによく似ている。距離が離れていながら、どのような経過でこれらの歌は伝承されるのか、いつの間にかちゃんと伝えられ、その土地に根を下ろしてしまうのである。その不思議さを考えるにつけても、このような伝承わらべ歌の世界から、私はなかなか抜け出せないわたしなのである。 
お月さんなんぼ (天体の歌・鳥取市福部町湯山)
   お月さんなんば 十三七つ
   七織り着せまして 京の町に出いたらば
   鼻紙落とし 笄落とし
   鼻紙 花屋の娘がちょいと出て拾って
   こうがい 紺屋の娘がちょいと出て拾って
   泣いてもくれず 笑ってもくれず
   とうとうくれなんだ
月を見てうたう歌。本県でもこの類の歌はかなり見つかったが、いろいろな形に変化しているところが特徴といえる。この歌は県内では東部に限られた型のようである。兵庫県からお京都へ続いて伝わっているようで、兵庫県浜坂出身の方からもうかがったし、京都までもよく似た形で伝えられていることが分かっている。
なお、江戸前半、元禄文化盛んな頃に生まれた鳥取藩士の野間義学(野間宗蔵とも。[1692-1732]は、因幡地方で歌われていたわらべ歌を筆録した『古今童謡』を残しているが、ここにも以下のように載せられている。
   お月さまなんぼ 十三七つ
   七織り着せて 京の町に出いたれば  笄落とす 鼻紙落とす
   笄 紺屋の拾う 鼻紙 花屋が拾う
   泣けどもくれず 笑うてもくれず
   なんぼ程な殿じや 油壺からひきだいたような 小男 小男
ところが、伯耆になると「七織り着せて」の形は影を潜め「尾のない鳥」に変わって行く。大山町国信では、
   お月さんなんぼ 十三ここのつ
   そりゃまんだ若い
   若もござらぬ いにとうござる
   いなはる道で 尾のない鳥が
   油筒ぞろぞろ飲んで
   よい子を生んで
   お万に抱かしょか
   お千に抱かしょか
   お万は油屋の門で
   滑って転んで 徳利投げた
県境を越えた松江市にもそれは続いている。松江市生馬町の例を挙げる。
   お月さんなんぼ 十三ここのつ
   そりゃまんだ若いの 若うもござらぬ
   いにとうござる いぬたかいなされ
   いなさる道で 尾のない鳥が 油筒くわえて
   あっちの方へホキホキ こっちの方へホキホキ 
下手の子どもさん (手まり歌・鳥取市佐治町尾際)
   下手(しもで)の子供さん 上手(jかみで)の子供さん 花折りにいかいな
   何花折りに 庚申花折りに 一本折っちゃぴーんとし 二本折っちゃぴーんとし
   三本目に日が暮れて 新し小屋に泊まろうか 古小屋に泊まろうか
   新し小屋に泊まって 朝起きて見たら 猿が三匹跳びおって
   後の猿も物知らず 先の猿も物知らず 中の猿が物知って
   なまず川に飛び込んで なまず一匹へーさえて 堂の隅(すま)に持ってって
   ぎーちゃぎちゃと刻んで あなたに一切れ こなたに一切れ
   お万がたらん お万はどうした 油屋に行きた 油一升買うて 
   油屋の角で油壷落として その油どうした 犬がなめてしまった
   その犬をどうした ぶち殺いてしもうた その皮どうした
   どうに張ってしもうた
   あっちをたたきゃあ ドンドンドン こっちをたたきゃあ
   ンドンドンぶち破ってしもうた
手まり歌の中でも豊かな想像力を駆使して作り上げられた代表的なものである。子供たちはいつしか歌の中の主人公に、自分を置きかえて楽しんでいたのだろう。
さて、「向こうの山を猿が三匹跳びよって…」で始まる歌なら、他の地方でもよく聞くが、「下手の子供さん…」の出だしを持つのは、鳥取県東部地方だけに集中している。
それはそれとして、この歌の構成を眺めると、主人公は次のように変化している。すなわち、子供→猿→お万→犬という具合である。
一種の連鎖反応的な変化とでもいえる、この主人公の交代こそ、わらべ歌の特色の一つであろう。子供たちの想像力は、次々と飛躍して一カ所に留まるのをこころよしとはしない。
類歌を見ると、鳥取市末恒町や八頭郡智頭町波多でも「下手の子ども衆、上手の子ども衆」で始まり、ほぼ同様の詞章である。また福部村左近では「上(かみ)どいの子供衆、下(しも)どいの子供衆」。岩美郡岩美町田後では「下(しも)じゅうの子供衆、上(かみ)じゅうの子供衆」となっている。そして後半部分は「裏の山から(向こうの山から)猿が三匹出た出た」などと変化してしまうという筋書きになる。
さらに鳥取市赤子田町では、犬の皮を破った後、
   その破れどうした 雪駄にはってしまった
   その雪駄どうした あっちにチャラチャラ こっちにチャラチャラ
   履き破ってしまった その破れどうした
   あっちにゴロゴロ こっちにゴロゴロ 川に流してしまった
となっている。かつての子供たちの想像力のすばらしさをこれらは示しているのではなかろうか。 
どんどんが いちどんどん (手まり歌・鳥取市佐治町尾際)
   どんどんどんが いち どんどん どんどんどんが にい どんどん
   どんどんどんが さん どんどん どんどんどんが しい どんどん
   どんどんどんが ごお どんどん
   ざくろ一匁 ざくろ二匁 ざくろ三匁 ざくろ四匁
   ざくろ五位上がり 千文ざいが一匁 千文ざいが二匁 千文ざいが三匁
   千文ざいが四匁 千文ざいが五匁
   箒はき一匁 箒はき二匁 箒はき三匁 箒はき四匁 箒はき四匁
   五位上がり こっちの国道の 小国の国道で よう一ぺんくぐった
   こっちの国道の 小国の国道で よう二へんくぐった
   こっちの国道の 小国の国道で よう三べんくぐった
   こっちの国道の 小国の国道で よう四へんくぐった
   こっちの国道の 小国の国道で よう五へんくぐった
   いっちょ貸した
かなり長編の手まり歌である。これだけ長い歌をうたいながら、途中で失敗せずに手まりを続ける技量は、なかなかのものであろう。
同じような仲間を捜してみると中部の倉吉市で見つかった。
   どんどんどんが いち どんどん どんどんどんが にい どんどん
   どんどんどんが さん どんどん (歌い手:大正3年生まれ)
この調子で続けて行ける歌ではあろう。しかし、佐治町の歌に比べると、非常に短い。他の町村の歌を見ても同様に短いものが多いようである。東伯郡琴浦町野井倉では「大どんど小どんど じゃくろ花が一匁…」というのがあったが、これにしてもそう長いものではなかった。
ここらで歌い手の手まりについての思い出を述べておこう。「昔の手まりは、かがって作ったものである。10歳のとき、東京から大きな花ゴムまりを買ってきてもらった。中からはチンチン音がした。とてもうれしく、友達と二人で、日曜日になると朝から晩までついて遊んだものである。当時、このような手まりは、このあたりで持っている者がなく、仲間から羨ましがられたものだった。」以前の子どもたちの素朴な喜びが目に見えるようである。  
ねんねんころりよ おころりよ (子守歌・鳥取市佐治町尾際)
   ねんねんころりよ おころりよ 坊やは良い子だ ねんねしな
   ねんねんころりよ おころりよ 坊やのお守りはどこへいた
   あの山越えて 里越えて 坊やの土産を買いにいた
   里の土産は何もろた デンデン太鼓に笙(しょう)の笛
   鳴るか鳴らぬか吹いてみよ ねんねんころりよ ねんころり
これは一般的に知られている子守り歌で、寝た子に対して「里の土産に何もろた、デンデン太鼓に笙の笛」系統のものである。続いて鳥取県西部地区の大山町の歌。
   ねんねこやー あ ねんねこやー ねんねのお守りはどこへいた
   山越え谷越え里に行た お里の土産に何もろた デンデの太鼓に笙の笛
   鳴るか鳴らぬか吹いてみよ 張り子の虎や熊のじに それほどもらって何にする
   何を駿河(するが)の富士の山 富士はよい山 高い山 山ほどみごとに育つよに
   あ ねんねんこしょ あ ねんねこしょ ねんねこせー
   寝た子の顔見りゃ可愛てならぬ 起きて泣く子はつらにくや
   あ ほんちょの玉子だ ねんねしょ ねんねしょ あ ねんねこせー
この方は後半部分がなかなか変化に富んでいる。詞章で「張り子の虎」は分かるが、「熊のじ」となるとはっきりしない。また「ほんちょの玉子」も同様である。あるいは「玉子のようにかわいい子だ」というような意味なのかも知れない。
次に島根県石見地方、邑智郡川本町の例。
   ねんねんころりや おころりや 坊やのお守りはどぉこいた
   あの山越えてさぁといた 里の土産になにもろた てんてん太鼓に笙の笛
   たたいて聞かしょか テンテンと 吹いて聞かしょか ピイロロロ
   泣かん子には聞かせるが 泣く子には聞かせんよ
   ねんねんねんねん ねんねんや
後半部分で、泣く子を嫌い、泣かない子を好む詞章については、大山町の場合と同じなのである。 
山の奥のはまぐりと (言葉遊び歌・鳥取市佐治町尾際)
   山の奥のはまぐりと 海の底の勝ち栗と 水で焚いて 火でこねて
   あしたにつけたら 今日治る ああおかし
現実にはあり得ない内容をうたって楽しんでいた、かつての子どもたちの姿が想像できる。日本人の歌としては珍しくユーモアがある。東北地方では同類が早物語とかテンポ物語などと称され、早口で語る語り物として存在している。
また、江戸時代には井原西鶴の『世間胸算用』巻四、第三話「亭主の入替り」の最初、乗合船の様子を述べているが、そこで「不断の下り船には世間の色ばなし・小唄・浄瑠璃・はや物語…」とあり、ここからも当時流行していた民間文芸であったことが推定される。
ここで『日本歌謡集成』(巻12)にある三重県名賀郡の雑謡を紹介しよう。
「西行法師という人は、始めて関東へ上るとき、のぼるがうそぢゃ下るとき、水なし川を渡るとき、こんにゃくせ骨であしついて、豆腐の奴(やっこ)でのどやいて、どこぞこゝらに薬がないかと尋ねたら、尋ぬれやない事はござんせん。山口はいたるなまわかめ、畑ですまひする蛤が、海にあがりし松茸と、夏ふる雪を手にとりて、水であぶりて火でねりて、あしたつけたら今日なほる。」
この後半部分と、佐治町の歌を比較してみると、やはりどこか関連を感じさせる。そうして見ると、このような早物語が、山陰では一つは子どもの「ことば遊び歌」という形で定着していると考えてよいようである。
ところで、わたしは島根県隠岐郡西郷町益見で「相撲取り節」として以前収録したのが、ちょうど今回の歌に関連していた。つまり、鳥取県ではわらべ歌となっているのが、島根県では大人の民謡である「相撲取り節」として、その命脈を保っているのである。次に紹介してみよう。
   寺の坊主が修行に回る 水ない川を渡るとき
   クラゲの骨をば足に立て コンニャク小骨を喉に立て 豆腐の小角で目鼻打ち
   これに薬はないかいと そこ通る娘に問うたなら このまた娘がちゃれたやつ
   これに薬はいろいろと 千里奥山蛤と 海に生えたる松茸と
   水のおく焼きして延べて 明日(あした)つければ 今日治る
これはまたさきほどの三重県の雑謡とそっくりである。そして鳥取県佐治町の「ことば遊び歌」の後半部分ともまた関連のあることは説明するまでもなかろう。
このようにして庶民の世界においては、いろいろな種類の歌に姿を変えながら、伝承歌は命を永らえ続けているのである。 
カラス カラス 勘三郎 (動物の歌・鳥取市鹿野町鹿野)
   カラス カラス 勘三郎 親の家が焼けるぞ
   早いんで 湯うかけ 水うかけ
夕焼け空の中をねぐらをさして急ぐカラスのシルエットは、もともとカラスの黒い身体がいっそう黒く強調されて不思議なロマンが漂う。そのようなことからか、カラスは子供たちにはとりわけ親しまれた鳥といえるのではなかろうか。
ところで、大人では、「カラス鳴きが悪いと、近く死人が出る」とか「カラスがカーァと長く鳴くと近く死人が出る」など、どこか不吉な前兆を呼ぶ鳥とイメージされ、子供の感覚とはずいぶん違うようである。
一方、カラスは神の使いなどの霊鳥として意識されていることもある。島根県西の島にある焼火神社の主祭神である焼火の神が、その場所に収まられるのに、カラスが道案内をしたという伝説などがその例であろう。鳥は天界と人の世界を結ぶ存在として昔から考えられていた信仰が、カラスの両極端な言い伝えになっていったものであろう。
さて、この歌は夕焼け空をカラスの家の火事による炎と捉えている。類歌は各地でうたわれている。また、「親の恩を忘れるな」というものも中部から西部にかけて認められる。試みに岸本町久古のものを紹介しよう。
   カラス カラス 勘三郎 親の恩を忘れんな
これなど現代の子供たちに少し味わってもらいたいような感じがする。今ひとつ、「鉄砲撃ちが…」というタイプの歌が東部から中部にかけて認められた。岩美町田後の歌をあげておく。
   カラス カラス 勘三郎 後先に鉄砲撃ちが来ようるぞ
   早いんで 水かけ 樽かけ ドーン ドン
以上あげた三種類のものが、おおむねカラスを見てうたう歌である。もちろんこれらはかなり昔からうたわれていた模様で、そのような資料もいろいろあるが、ここでは江戸の資料として一七九七年に出た『諺苑(げんえん)』に出ている類歌を、現代かなづかいに直して紹介しておく。
   カラス 勘左衛門 うぬが家が焼ける
   早く行って水かけろ 水がなくば湯かけろ
このように記されており、注釈として「夕方カラスが森に帰るのを見てうたう」となっている。
これは冒頭に紹介した鹿野町の歌に驚くほどそっくりではないか。今も昔も、子どもの発想は変わらないといえるのだろう 
唐土の鳥が、日本の島に (歳時歌・鳥取市青谷町北河原)
   唐土の鳥が 日本の島に渡らぬ先に ナズナ 七草そろえて 杓子の上持って スットコテンとはやいて ホーイ ホイ
正月6日の晩、七草を神に供え、悪いものを鳥に例えて鳥追いをする行事が昔は盛んに行われていた。鳥取市末恒の女性(1902年生)の話では、親の代くらいまでそれを行ったといい、父がまな板を餅搗き臼の上へ持って行き、七草を載せ、スリコギでがちゃがちゃいわせながらしたという。そのときにはこの歌をうたい3回繰り返したという。
同じく鳥取県東部の鳥取市福部町左近出身の女性(1906年生)は、トリノスの上へ七草を載せ、亭主がシャモジ、火箸、スリコギでたたきながらこの歌をうたったと語っている。
似たようなことだが、琴浦町成美出身の女性(1920年生)の話では、6日の夜、豊作を祈って鳥追いをした。トシトコさんにおじいさんの採ってきた春の七草のほか、スルメ、餅、スリコギとご飯シャモジ、火箸などの供えものをして、子どもたちが唱えた。なお、七草は芹を七枚採って来ることによって代用していた。また、おじいさんは30年くらい前に亡くなったので、以後はしていないという。
この歌の歌い出しに注目すると、二つに分かれるようだ。一つは鳥が登場しても「唐土の鳥…」とはじまるものと、他方は「日本の鳥…」とはじまるものとである。鳥取県では東部に「唐土の鳥…」とうたい出すものが多く、「日本の鳥…」とうたい出すものは中部や西部に多かったようである。米子市尾高のものをあげておく。
   日本の鳥は唐土へ渡り 唐土の鳥は日本に渡り 渡らぬ先に 芹 ナズナ スズナ スズシロ ゴギョウ タブラク ホトケノザ 七草そろえて ヤッホー ホィヤー
一つ一つ七草の名前を挙げながらうたうという丁寧な詞章である。
ところで、島根県でも鳥取県と同様の二つのタイプがある。ここでは松江市玉湯町別所の例を紹介しておく。
   唐土の鳥が日本の土地へ 渡らぬうちに 七草そろえて ステテコはやいて ヤー ヤー ヤー ヤー
いずれにしても歳神様の滞在している正月に、聖なる数の七つの草を調理して作った七草粥を食べたり、鳥追いのような行事を行うことによって、歳神様に来たるべき農作業の豊作をもたらしてくださるよう、人々は真剣に祈っていたのである。 
子ども衆 子ども衆 (てまり歌・岩美町浦富)
   子ども衆 子ども衆 花折りに行かしゃんか
   何花折りに 地蔵の前の桜花折りに
   一枝折りや パッと散る 二枝折りや パッと散る 三枝目にゃ 日が暮れて
   新し小屋に泊まろうか 古い小屋に泊まろうか
   新し小屋に灯が見えて 新し小屋に泊まって
   むしろははしかし(1) 夜は長し
   朝とう(2) 起きて空見れば 黄金の盃手にすえて
   一杯飲みゃ 嬢御の 二杯飲みゃ 嬢御の 三杯目にゃ 肴がのうて参れんか
   おれらの方の肴は うぐい三つ あい(3)三つ
   ショボショボ川の ふな三つ ふな三つ
   [(1)「むずがゆい」意の方言。(2)朝早く。(3)鮎のなまり。]
岩美郡岩美町浦富に住んでいた女性(明治39年生まれ)からうかがった子守歌。この方は鳥取市福部町湯山出身だった。
江戸時代、元禄文化華やかなりしころ、鳥取藩士の野間義学(1692〜1732)が、現在の鳥取市内の子どもたちから集めた歌の本『古今童謡』に出ている次のものがそっくりであり、伝承の長さを覚える貴重な歌だと言える。江戸時代の子どもたちも、このようなメロデイでうたっていたと想像できるのである。
   おじやれ子ともたち花折りにまいろ
   花はどこ花、地蔵のまえの桜花 桜花
   一枝折はパッとちる 二枝折れはパッと散る 三枝の坂から日か暮れて
   あんなの紺屋に宿かろか こんなの紺屋に宿かろか
   むしろははしかし 夜はながし
   暁起て空見れば ちんごのやうな傾城が、黄金の盃手にすえて
   黄金の木履を履きつめて、黄金のぼくとうつきつめて
   一杯まいれ上ごどの、二杯まいれ上戸殿、三杯目の肴には
   肴がのうてまいらぬか(おれらか町の肴には さるを焼いてしぼつて、とも)
   われらがちょうの肴には 姫瓜 小瓜 あこだ瓜 あこだにまいた香の物
なお、隣の島根県浜田市三隅町古市場でも、少し似た次の子守り歌があった。
   子ども衆 子ども衆 花を摘みに行きゃらんか
   花はどこ花 地蔵が峠のさくら花
   一枝摘んでもパッと散る 二枝摘んでもパッと散る 三枝目に日が暮れて
   上の小松い火をつけて 下の小松い火をつけて 中の小松い火をつけて
   なんばつけても 明からんぞ 
二郎や太郎や (子守歌・岩美町浦富)
   二郎や 太郎や どこへ馬つないだ 南蛮畑の梨の木につないだ
   何食わしてつないだ 藁食わしてつないだ
   藁の中見れば 小さい小袖が三つ三つ
   三つになる小僧が お寺から下りてきて 何きゅうとおっしゃぁる
   袴きゅうとおっしゃぁる 袴の裾に何型つきょうやら ずくしまぶれ里柿
   ハンナの枝に雀が一羽 鴉が一羽 鳶が一羽
   雀はチュンチュンチュンのもの
   鴉はカアカアカンのもの
   鳶は熊野の鉦たたき 鉦たたき
岩美郡岩美町浦富に住んでいた女性(明治39年生まれ)からうかがった子守歌であるが、この方は福部村湯山(現・鳥取市福部町)出身だった。
驚いたことには、江戸前半、元禄文化盛んな頃に生まれた鳥取藩士の野間義学(野間宗蔵とも。元禄5年・1692?〜享保17年・1732)が、当時の子どもたちから採録したわらべ歌を『古今童謡』(『筆のかす』の写本ともされる)に収録された次の歌にそっくりなのである。
   二郎よ太郎よ 馬どこにつないだ ばんばん畑にしころことつないだ
   何食わせてつないだ 藁食わせてつないだ
   藁の中を見たれば 白い小袖が三つ三つ 赤い小袖が三つ三つ
   三つに成る若うが 寺から降りて 袴着よとおしやる
   袴のこしに何型つきょうよ むめろかまろづくし まふり さとうがきのはんな
   はんなの上に鳶かとまる カラスがとまる
   カラスの首をひんねじねじて ちょうろに見すれば ちょうろはかちて、
   殿様御馬はさんはこはごとく いちがととは槍持ち
   槍の先 蜂がさいて すぼらぼんのぼん
   (カラスがとまる カラスの首はねぢあがつた首らや 首らや)
義学の生きた時代は江戸時代前半期。徳川綱吉を中心にその前後を含む時期で、いわゆる元禄文化といわれている。それは京都・大坂などの上方を中心に発展した文化であり、庶民的な面が濃く現れているが、文化を支えたのは、町人ばかりでなく、武士階級も多かった。この歌は、江戸時代の流れを汲む貴重なものであることが理解できるであろう。 
裏の山から猿が三匹出た出た (手まり歌・岩美町田後)
   裏の山から猿が三匹出た出た 先の猿はもの知らず 中の猿ももの知らず
   後の猿がもの知って ナマズ川に飛び込んで ナマズぅ一匹押さえて
   手で取るもかわいし 足で取るもかわいし あんまりかわいそうで
   杓子ですくって トウスミでくくって オガラでになって
   堂の隅に持ってきて ぎじゃぎじゃと刻んで
   あなたに一切れ こなたに一切れ だれがが足らん お万が足らん
   お万はどこ行った お万は油買いに 酢買いに
   油屋の門で牛糞(うしぐそ)にすべって 油一升こぼいた
   その油はどうした 赤い犬がねぶった その犬どうした たたき殺してしまった
   その皮どうした 太鼓にはった その太鼓どうした あっちの山からどんどんどん
   こっちの山からどんどんどん たたき破ってしまった そのカスどうした
   火にくべてしまった その灰はどうした
   ゆうべの風とけさの風に ポーッと発って逃げた女性
山から出てきた猿が活躍する歌は、山陰両県で多い。ところで出だしは似ているが、なぜか後半部は変化している。次のは中部の三朝町大谷のものである。
   向こうの山を猿が三匹通って 前の猿はもの知らず 後の猿ももの知らず
   中の中の子猿めがようもの知って言うことにゃ
   日本国(にっぽんごく)ぅ歩いて イワシを三匹拾って 焼いて食っても塩辛し 煮いて食っても塩辛し
   あんまり喉が乾くので 前の川へ飛び込んで 水ぅ一杯飲んだらば
   あんまり腹が太うて かなきどうりぃ(鐘つき堂の訛り)泊まって
   屁をぶるぶるっとひったら 大きなやつは笑うし こまいやつは泣くし
   泣くな笑うな 明日(あした)の市(いち)に焼き餅買(か)ぁたるぞ
   焼き餅の中から汁が出て言うことにゃ 紅つけるがどこ行く 白粉(おしろい)つけてどこ行く
   にょんにょんに参る にょんにょんの道に あっちいちろり こっちいちろり
   ちろ兵衛の子どもが 杓(しゃく)持って遊ぶ どの杓ぅどがあする その杓はいくらやええ
   麦かける その麦ゃどがあした 鶴と亀が食った 鶴と亀はどーがした
   峰を越え山を越え さんばら松ぃ止まった 
おひとつ落としておさら (お手玉歌・岩美町田後)
   お一つ落として おさら お二つ落として おさら お三つ落として おさら
   お手しゃみ お手しゃみ おさら おはさみ おはさみ おさら
   おちりんこ おちりんこ おさら お左 左ぎっちょ 右左 中つき しまつき
   さらえて えっつけ おさら やちなん やちなん おさら
   おっ手ばたき おっ手ばたき おさら お袖 お袖 おさら お膝 お膝 おさら
   おんばさん おんばさん おさら き−しる しるしる しるしる 落としておさら
   一ちゃにおみつき 二ちゃにおみつき 三ちゃにおみつき 四ちゃにおみつき
   五ちゃにおみつき 六ちゃにおみつき 七ちゃにおみつき 八ちゃにおみつき
   九ちゃでおみつき 十でかけ一升 十でかけ二升 おまけに一升 やちき
   どっこい かーらす
女の子の遊びのお手玉に伴ってうたわれる歌として特に知られており、山陰両県でも盛んにうたわれている。類歌の詞章そのものは、「おさら」という共通項はあるものの、他はかなりバラエティーに富んでいる。後半部だけを眺めても、鳥取県米子市愛宕町では、
   小さな橋くぐれ 小さな橋くぐれ くぐれこうして おさら
   大きな橋くぐれ 大きな橋くぐれ くぐりこうして おさら おみんな おさら おさら
   一貫しょで 終わり(伝承者:大正13年生まれ)
となる。このように「小さな橋くぐれ」や「大きな橋くぐれ」とあるのも多い。
この歌は広範囲に分布しているところからも、少なくとも江戸時代には存在していたと解釈しても良いように思われる。けれども、今のところ、古い文献に同類の記載が見つからないので、わたしがそう思っているだけなのかも知れない。 
中の中の小坊さんは (鬼遊び歌・岩美町田後)
   中の中の小坊さんは なんで背が低い
   てんま梶原のボシャさんにかがんで それで背が低い
   もひとつ回りましょ もひとつ回って お礼参りにまいりましょう
   三度目がじょうずめ もひとつ回ってじょうずめ
子どもたちが手をつないで輪を作り、歌を歌いながら回っている。その輪の中に鬼になった子どもが両手で目をふさいでしゃがんでいる。歌が終わったところで、しゃがんでいる子どもは後ろになった子どもの名前を言い当てる遊びである。鳥取市美和でも同類は次のようにうたわれていた。
   中の中の小坊さんは なんで背が低いやら
   えんま梶原 イシャシャにこごんで
   うしろの正面だぁれ
江戸時代の元禄ごろ野間義学も『古今童謡』で次の歌を収録している。
   中の中の子仏は なせに背が低いぞ
   えんまの梶原で、いそいそとかがんだ かがんだ
300年以上の歴史が存在していることが分かるのである。 
向こう通るはおせんじゃないか (手まり歌・八頭町門尾)
   向こう通るはお千じゃないか お千こりゃこりゃなして髪解かぬ
   櫛がないのか 油がないのか
   櫛も油もカケゴにござる 何がうれしゅて髪ときましょに
   父は江戸に行きゃる 信二郎は死にゃる 一人ある子をおくまとつけて
   馬に乗らせて伊勢参りさせて 伊勢の道から馬から落ちて 落ちたところが
   小薮でござる 竹のトグリで手の腹ついて 医者にかきょうか 目医者にかきょか
   医者も目医者もわしの手に合わぬ とかく吉岡の湯がよかろ スットントンヨ
   また百ついた
この手まり歌は前半部には何ともいえないわびしさが漂っているが、後半部では一転して伊勢参りをさせた女の子のエピソードに変わり、吉岡温泉のコマーシャルソングのような終わり方となっている。
類歌は、鳥取市用瀬町・佐治町、岩美町などでも収録しているが、詞章の内容から見て、これは江戸時代にもうたわれていたものと思われる。
この歌は中部地区ではまだ見つけていない。西部地区では、次に紹介するように、大山町で一例だけ見つかった。しかし、例外的なのでこの歌は東部地区を中心にして伝承されているようである。
   お千こりゃこりゃなして髪とかぬ 櫛がないかや 油がなぁいか
   櫛も油もカケゴでござる 何がうれして髪ときましょに
   とっつぁん死なれる 格さんお江戸 いとし殿ごは出雲に行きゃる
   出雲土産にゃ何々もろた 一にゃこうがい 二にゃまた鏡 三にさらさの帯までもろて
   帯にゃ短し 襷(たすき)にゃ長し 笠の緒にすりゃポロリと解ける
前半部分は共通しているが、後半部はかなり違い、夫の出雲旅行の土産の品を、あれこれと披露している。それにしても最後のオチはちょっとユーモラスである。
歌の詞章が連鎖反応的に展開され、少し前の詞章とは、あまり関連を感じさせないのは、手まり歌にはよくある手法なので、例えてみればこれは連歌のようなつながりということができよう。 
郵便屋さん (縄跳び歌・八頭町宮谷)
   郵便屋さん はがきが十枚落ちました
   拾ってあげましょ 一枚 二枚 三枚 四枚 五枚 六枚 七枚 八枚 九枚 十枚
   はい 郵便 じゃんけん ぽん 負けたらさっさとお逃げなさい
これは二人の子どもが縄をぐるぐる回している中に、さらに二人の子どもが入り、歌に合わせてはがきを拾う動作をし、最後にじゃんけんをして、負けた子どもは去って行くという遊びである。勝てば中に入っていることができる。また、縄を足などで引っかけたら、その子は縄を回す方に交替するのである。同類は広く存在している。
島根県のものを示しておこう。大田市では、
   郵便屋さん 郵便屋さん はがきが十枚落ちました 拾ってあげましょ 郵便屋さん そら 一枚 二枚 三枚 四枚 五枚 六枚 七枚 八枚 九枚 十枚 ありがとさん
このように落ちたはがきを拾うという手法は同じである。
ところが、同じ郵便局員を主人公にした縄跳び歌でも、はがきを拾うのとは違い、時間を内容にした歌も存在している。松江市美保関町で聞いたもの。
   郵便さん 配達さん もうすぐすぐ十二時だ 一時 二時 三時 四時 五時 六時 七時 八時 九時 十時 十一時 十二時
同じ仲間の歌として、江津市のもの。
   郵便さん 配達だ もうかれこれ十二時よ えっさか まっさか どっこいしょ
ところで、同様に郵便配達をする人物をあげながら、単なるじゃんけん仲間にしてしまったような取り上げ方もある。松江市八束町の歌である。
   郵便さんおはいり はいよろし じゃんけんぼ 負けたおかたは出てちょうだい
いずれにしても、暑さ寒さをものともせず、雨や雪の日も、毎日配達に精を出す郵便配達の人たちに対して、子どもたちは親しみを持っているのである。 
和尚さん、和尚さん、どこ行きなんす (外遊び唄歌・八頭町船岡)
   和尚さん 和尚さん どこ行きなんす わたしは丹波の篠山に
   そんならわたしも連れしゃんせ 子どもの道連れ邪魔になる
   この和尚さんはどう欲な それなら後からついて来い
   転ぶなよ すべんなよ あら和尚さん こけました
   おまえの性根はどこにある 腰からスト−ンと抜けました
鬼遊びの中の「目隠し鬼」でうたわれる歌の一つがこれである。まず、その遊び方を説明しておく。
鬼になった子供が一人、しやがんで目隠しをする。そのまわりを他の子供たちが輪になって手をつなぎ、この歌をうたいながら回るのである。歌の終わったところで鬼は目隠しをしたまま、自分の後ろの子供を手で探ってその名を言い当てる。うまく当たれば鬼はその子と交代、当たらなければ再び遊びをくり返す。現代の子供たちにも、この系統の歌はうたわれているようだ。
なお、この遊びについて、柳田國男は『小さき者の声』の中で、昔の神降ろしの信仰の模倣から出たものであると述べている。
ところで、この歌を眺めてすぐに思い出されるのが「坊さん坊さんどこ行くの」とうたい出される歌であろう。島根県木次町の場合を挙げておく。
   ぼんさん坊さん どこ行くの わたしは田圃へ稲刈りに
   ほんならわたしも連れてって おまえが来ると邪魔になる
   こんなぼんさん くそぼんさん 後ろの正面 だぁれ
これには「中の中の小坊さん」「かごめかごめ」などの歌が見られる。後者の「かごめかごめ」の方は、あまり地方的な違いはないので、事例を省略し、「中の中の小坊さん」について紹介しておく。まず鳥取県郡家町の例。
   中の中の小坊さんは なんで背が低いやら
   えんまかじわら いしゃしゃにこごんで 後ろの正面 だぁれ
また、島根県大社町では、
   中の中の小坊さんは なぜ背がひくいやら
   エンマの腰掛けに ヨチヨチしゃがんだ
   一皿 三皿 四皿 目の鬼がヤエトを連れて
   アテラか コテラか 金仏
こうなる。この「ヤエトを連れて、アテラか、コテラか」については、意味不明であるが、鳥取県日南町ではこの部分が、「お馬(んま)の蔭でヤイトをすえて、熱や悲しや…」となっていることから、大社のこの部分も、本来は「ヤイトをすえて、熱や悲しや金仏」であったものが、いつの間にか変化したと推定されてくる。 
とんとん隣に (手まり歌・若桜町大野)
   とんとん隣に嫁が来たとは 行っては見んけど まひげ八の字
   目はドングリ目で 鼻は獅子(しし)鼻(ばな) 口は鰐口(わにぐち) 
   腹は太鼓腹 背なは猫背な 頭十貫 尻五貫 みんな合わせて十五貫
ユーモアをしのばせた手まり歌ではある。普通、嫁と聞けば、可憐な新妻の姿をつい想像するが、この歌はそれとは似ても似つかぬたいへんなものであり、隣に来た嫁についてのすさまじいばかりの悪口歌でもある。
つまり、女性の容姿について、一番好まれないものばかりを、これでもかと並べ上げている。けれども、意外と全体からは、とぼけたユーモアを感じさせる。うたっている子どもたちも、そんな味わいを楽しみながら、手まりをついていたものと思われる。
ところで、同類は東部と中部地区であったが、不思議と西部や島根県ではまだ見つからない。
さて、類歌であるが、東部の福部村のものはやや変わっていた。
   とんとん隣に嫁御が来たそな 行きて見たれば 頭やかんで まいげ八の字
   目はどんぐり目で 鼻は獅子鼻 口は鰐口 手は杓子で 脚はスリコギ
   歩く姿はひき蛙(伝承者:明治34年生まれ)
前のに比べると、背と腹、頭、尻の形容はない。その代わり手と脚、そして歩く姿の形容が加わっている。
続いて鳥取県中部、琴浦町の例である。
   うちの嫁さん 鼻は獅子鼻 目はどんぐり目 口は鰐口 歯は出っ歯で
   歩く姿はアヒルが弁当負うて 大山さんへ参るような(伝承者:明治26年生まれ)
たしかに類歌ではあるが、これまでの「隣の嫁」とは違い、「うちの嫁さん」である。そして、歯が出っ歯であるという表現が、これまでにはなかった。さらに「歩く姿は、アヒルが弁当負うて、大山さんへ参るような」と表現している点も新しい。しかし、わが家に来た嫁をこれほど手厳しく形容するのは、どうしたことだろう。 
一月とや (手まり歌・若桜町湯原)
   一月とや一月どこでも松飾り 松とだいだい よくできた よくできた
   二月とや 二月どこでも凧をあげ 凧のだいだい よくできた よくできた
   三月とや 三月どこでも 雛祭り 雛のだいだい よくできた  よくできた
   四月とや 四月どこでも釈迦祭り 釈迦のだいだい よくできた よくできた
   五月とや 五月どこでも幟立て 幟のだいだい よくできた よくできた
   六月とや 六月どこでも水餅(1) 氷のだいだい よくできた よくできた
   七月とや 七月どこでもはり(2)祭り ほりのだいだい よくできた よくできた
   八月とや 八月八朔(3)栗の餅 栗のだいだい よくできた よくできた
   九月とや 九月どこでも菊の餅 菊のだいだい よくできた よくできた
   十月とや 十月どこでも指くくり(4) 指のだいだい よくできた よくできた
   十一月とや 十一月三日天長節で 天長節だいだい よくできた よくできた
   十二月とや 十二月どこでも餅つきで 餅のだいだい よくできた よくできた
   [(1)寒気にさらして凍らせた餅。(2)意不明。「もり祭り」の転化か。(3)陰暦八月朔日の称。農家では新穀を収め、田実(たのみ)の節句といって祝う。(4)意不明。]
一月から十二月までの月づくしで、その月ごとの主な年中行事にまつわる象徴的な事物を詠み込んで作られている。 
おさよと源兵衛 (手まり歌・智頭町波多)
   一つとせ 一つとせ 人も通らぬ山道を おさよと源兵衛(げんべ)は夜通るノー 夜通る
   二つとせ 二つとせ 二股大根は離れても おさよと源兵衛は離りやせぬノー 離りやせぬ
   三つとせ 三つとせ 見れば見るほどよい男 おさよがほれたもむりはないノー むりはない
   四つとせ 四つとせ 用のない街道二度三度 おさよに会いたき顔見たさノー 顔見たさ
   五つとせ 五つとせ いつもはやらぬかんざしを おさよにささせて姿見るノー 姿見る
   六つとせ 六つとせ むりにしめたる腹帯を ゆるめてくだされ源兵衛さんノー 源兵衛さん
   七つとせ 七つとせ 何をいうにも隠すにも おさよの腹にはややがおるノー ややがおる
   八つとせ 八つとせ 焼けた屋敷に長屋建て 長屋のぐるりに松植えて 松の小枝に鈴つけて
   鈴がチャンチャン鳴るときは じいさんばあさん悲しかろ とうちゃんかあちゃんうれしかろノー うれしかろ
   九つせ 九つせ ここで死んだらどこで会う 極楽浄土の道で会うノー 道で会う
   十とせ 十とせ ととさんかかさん留守のまに おさよと源兵衛が色話ノー 色話
   十一せ 十一せ いちいちわたしが悪かった こらえてください源兵衛さんノー 源兵衛さん
   十二とせ 十二とせ 十二薬師に願かけて おさよの病気が治るよにノー 治るよに
   十三せ 十三せ 十三桜は山桜 おさよと源兵衛は色桜ノー 色桜
   十四とせ 十四とせ 死出の山辺は針の山 手に手をとって二人づれノー 二人づれ
   十五とせ 十五とせ 十五夜お月さんは夜に余る おさよと源兵衛は目に余るノー 目に余る
   十六せ 十六せ 十六むきしを指すときにゃ 教えてくだされ源兵衛さんノー 源兵衛さん
   十七せ 十七せ 質に置いたる帷子を 受けてくだされ源兵衛さんノー 源兵衛さん
   十八せ 十八せ 十八さそりは垣をはう おさよと源兵衛は閨をはうノー 閨をはう
   十九とせ 十九とせ 十九嫁入りはまだ早い
   二十とせ 二十とせ 機もだんだん縞機を
   これこそ源兵衛さんの夏羽織ノー 夏羽織
この数え歌形式の「おさよと源兵衛」のロマンスをうたった手まり歌は、とても人気のあったものである。そして、手まり歌にするだけでは飽き足らず、盆踊り歌としてうたった地方も見られる。鳥取市福部町の女性(明治37年生)は、盆踊り歌の場合と手まり歌の場合との両方をうたってくださった。なお多くの同類を採集しているが、いずれも十番までで、二十番まで聞けたのはここにあげた智頭町のものだけであった。
大山町国信では、次の類歌があった。
   一つとや 人も通らぬ山中を、おさよと源兵衛が色話な色話
   二つとや 二股大根は離れても、おさよと源兵衛は離りやせぬな離りやせぬ
   三つとや 見れば見るほどよい男、おさよがほれたもむりはないのむりはない
   四つとや 用のない街道二度三度、おさよに会いたてまた一度のまた一度
   五つとや いつもはやらぬかんざLを、おさよに挿させてはやらせたのはやらせた
   六つとや むろ手で・とめた腹帯を、ゆるめてごっさい源兵衛さんの源兵衛さん
   七つとや 七月なる子を笑わせて、この子を見っさい源兵衛さんの源兵衛さん
   八つとや 山で切る木は数あれど、おさよと切る気はさらにないのさらにない
   九つとや ここで心中しょか腹切ろか、おさよをつれて夜逃げしょかの夜逃げしょか
   十とや とんとんたたくはだれさんか、源兵衛さんなら開けましょがの開けましょが
このようにあちことで聞くことができた手まり歌ではあったのである。 
 
島根

 

寒くないのか 諸手船 神が選んだ つわ者が 水をかけあう美保関
遊ばせ唄
子供衆子供衆
子供衆 子供衆
花を摘みに行きゃらんか
花はどこ花 地藏が峠のさくら花
一枝摘んでもパッと散る
二枝摘んでもパッと散る
三枝目に日が暮れて
上の小松い火をつけて
下の小松い火をつけて
中の小松い火をつけて
なんぼつけても 明からんぞ
ねんねんさとばこ
ねんねんねんねん ねんねんや
ねんねん さとばこ 弥市が子
起きたや コッコにやってやろ
グワングワングワンね かましちゃろう
ねんねこさいのこ
ねんねこ さいのこ 酒屋の子
酒屋の丁稚が言うことにゃ
わしの弟の千松が 七つ八つから金堀りに
金を掘るやら 死んだやら
一年たっても状が来ぬ
二年たっても状が来ぬ
三年三月に状が来て
状の文句を読んでみりゃ
みんなまめなか達者なか
わしもこのごろ 金堀りで
雨の降る日も風の日も
日にち毎日 穴の中
たまの休みのあるときに
故郷の空を 見てあれば
つんつんつばめが飛んで来て
先のつばめも 文持たず
中のつばめも文持たず
一番あとの子つばめが
チュンチュク チュンチュク
言うことにゃ
お前の恋しい かかさんは
去年の三月十四日
わずかな風邪が 元となり
お前のことを言いながら
とうとうあの世に行きました
お前も早く出世して
国の土産にしやしゃんせ
土産の品は なになにぞ
金か衣装か田畑か
金はこの世の回りもの
百千万両 あったとて
持ってあの世へ行かりゃせぬ
綾や綿の振り袖も
灰になったら ひとにぎり
田畑 田畑 家 屋敷
人手に渡ることもある
これは浮世の宝物
幾千万却 たったとて
変わらぬ宝は ただひとつ
人は心が第一よ 心直けりゃ身も直い
心強けりゃ身も強い
また来年の このごろにゃ
わしも元気で来るほどに
お前の家を宿にして
母のつとめを はたします
まずそれまでは さようなら
さよなら さよなら チュンチュクチュン
猿が三匹
向かい山 猿が三匹通る
先の猿ももの知らず 後の猿ももの知らず
いっての中のこん猿が ようもの知っとって
銭銭一文拾うて
鰯を一こん買うて 食べたらば
あんまり塩がかろうて どんどん淵とびこんで
水がぶがぶ飲んだれば あんまり腹が太うて
観音様へ上って
屁をプッコラプッコラ たれたらば
いかい地藏さん 泣きゃる
こんまあ地藏さん 笑やある
泣くなよ笑うなよ 十日の市にゃ
ピイピイガラガラ 買うちゃげょの
寝させ唄
ねんねこした子は
ねえん ねえん ねえんや
ねえん ねえん ねえんや
ねんねこした子は かわいい子よ
ねんねこせの子は ねくい子よ
ねんねん ねえんや
   ねえん ねえん ねえんや
   ねたやら音がない
   ねんねこしたやら音がない
   ねた子には米の餅
   ねんねこした子にゃ 米の餅
   ねんねこせの子にゃ きびの餅
   ねたやら音がない ねェたやら音がない
   ねんねこしたやら音がない
ねんさいよさいねこよ
ねんさいよ さいねこよ
ねんねの守りは どこ行った
茶の木原へ 茶摘みに
はよもどって 子をすかせ
子をすかさんにゃ 去ね去ね
去ねる道にゃ ボイがおる
もどる道にも ワンがおる
ねんさいよ さいねこよ
ねんねんころりや
ねんねんころりや おころりや
坊やのお守りは どこ行た
あの山越えて 里行た
里のみやげに なにもろた
てんてん太鼓に 笙の笛
たたいて聞かしょか テンテンと
吹いて聞かしょか ピイロロロ
泣かん子には 聞かせるが
泣く子には 聞かせんよ
ねんねん ねんねん ねんねんや
ねんねこさかぼこ
ねんねんねんねんや ねんねんねんねんや
ねんねこさかぼこ よい子だな
ねんねこさかぼこ よい子だな
よい子だ よい子だ よい子だな
よい子だ よい子だ よい子だな
よい子だ よい子だ ごうごしぇや
よい子だ よい子だ ごうごしぇや
よい子だ よい子だ ごうごする
よい子だ よい子だ ごうごする
よい子がごうごを すうた間に
よい子がごうごを すうた間に
あんもこ搗いてさまいて
あんもこ搗いてさまいて
べえべの子に負わせる
べえべの子に負わせる
よい子だ よい子が ごうごした
よい子だ よい子が ごうごした
ねんねんよねんねんよ
ねんねんよ ねんねんよ
ねなさいよ ねなさいよ
ねたら山の雉子の子
おきたらがんがに かぶらする
ねんねんよ ねんねんよ
ねなさいよ ねなさいよ
ねんねが守りは どこ行た
茶の木原い 茶摘みに
茶を摘んだら はよもどれ
はよにもどって 子をすかせ
子がいやなら 去ね去ね
去ぬる道で すべくって
腰のほにょ つき折って
膏薬買うて つけてやる
膏薬買うて つけてやる
ねんねんよ ねんねんよ
ねなさいよ ねなさいよ
寝た寝た寝たよ
寝た 寝た 寝たよ
寝たら母さに つぇてえなか
起きたらおかめに 取らしょかな
よーいよーい よいよいよーい
ねんねのお守り
ねんねんよ ころりんよ
ねんねがお守りは どこ行た
野越え 山越え 里行た
里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に笙の笛
でんでん太鼓を たたいたら
どんなに泣く子も みなねむる
笙の笛をば 吹いたなら
どんなに泣く子も みなだまる
ねんねんよ ころりんよ
おととのお山の おうさぎは
なしてお耳がお長いの
おかかのおなかに いたときに
椎の実 榧の実 食べたさに
それでお耳がお長いぞ
ねんねんよ ころりんよ
守り子唄
守りほどつらいものはない
守りほどつらいものはないィ
親にゃ叱られ 子にゃ泣かれェ
人にゃ楽なと おもわれてェ 

 

わらべ唄 1
隠岐島の子守唄
   ねんねしなねんねしなねんねしな
   ねのこは憎い子憎い子よ
   寝た子はかわいこかわいこよ
   ねんねしなねんねしなねんねしな
   ねんねこお山の兎の子
   なぜまたお耳が長いやら
   お母さんのお腹にいるときに
   びわの葉笹の葉食べたそうな
   それでお耳が長いそな
   それでお耳が長いそうな
歌詞の愛らしさに口元が緩む。兎の耳はなぜ長い、という素朴な疑問を前に、海士町の人々は、笹の葉、びわの葉を連想したのだ。前半はいわゆる「寝させ歌」だが、後半はわらべ歌に近いのびのびした雰囲気が広がる。しかしハーンは、「伯耆から隠岐へ」という文章の中でこの子守唄について次のような感想を述べている。
「その節がとくに美はしくまた哀調を帯びてゐて、出雲や日本の他の地方で、同じ言葉で歌ふ節とは全く異つてゐた。」
この短い、しかし熱のこもった感想からまずわかることは、この兎の耳をモチーフにした子守唄が、「出雲や日本の他の地方」に存在するということである。この兎の耳にまつわる豊かなイマジネーションは海士町一箇所に限られたものではなかったのだ。南方熊楠も「十二支考」の中で「吾輩幼時和歌山で小児を睡(ねむ)らせる唄(うた)にかちかち山の兎は笹(ささ)の葉を食う故耳が長いというた」と回想している。調べてみると出てくる出てくる、「兎の耳が長い理由」を歌う子守唄は全国に分布していた。図書館ライブで「海士の子守唄」を披露して帰京すると早速、企画してくれたAさんからも連絡が入った。どうやら似たような歌は文京区にもあるらしい、というのだ。びっくりしながら、「東京のわらべ歌」のページを繰ると、果たして文京区本郷の子守唄が載っていた。
   ねんねんころりよおころりよ
   ねんねんこやまのこうさぎは
    なぜにお耳がお長いね
    かあちゃんのポンポにいたときに
   しいのみかやのみたべたゆえ 
   それでお耳がお長いよ
   ぼうやはよいこだねんねしな
こちらは「しいのみかやのみ」である。しかし、海士町の子守唄が長調であるのに対し、こちらは短調だ。口ずさむと歌詞のかわいらしさに反し、寂しい感じに聞こえる。さらに全国に分布する兎の耳の子守唄を調べていくと、ほとんどが短調のものなのだ。以下に、耳が長い理由やメロディーの長短調とともに、兎の子守唄を並べてみたい。
短調
母ちゃんのポンポでしいのみかやのみ食べた(東京 文京区本郷)
お母さんのおポンポンでしいのみかやのみ食べた(熊本 玉名郡横島町京泊)
おっ母ちゃんのぽんぽで長い木の葉を食べた(佐賀 唐津市)
親の腹でびわの花をくわえた(広島 豊田郡豊町)
びわの葉をくわえて(岡山 赤磐郡熊山町)
わりの葉 かやの葉 たんと食べ(栃木 芳賀郡茂木町)
お母さんのおなかでかやの実 かちぐり食べた(新潟)
お母さんのおなかでばしゃの葉柳の葉を食べた(愛知 額田郡常盤)
母さんのぽんぽんで木の実かやのみ食べた それでお耳が長うござる(愛知 丹羽郡池野)
ちち乳母が耳をくわえてひっぱった(大分 竹田市本町)
母さんがお耳をくわえてそっぱった(長崎 下県郡厳原町)
母さまがお耳をくわえてひっぱった(高知 高岡郡佐川町)
母さんがお耳をくわえてひっぱった(香川 丸亀市川西町/仲多度郡仲南町)
長調
母ちゃんのポンポンできゅうりやくさを食べた(岡山 和気郡日生町)
おかかのおなかでしいのみかやのみ食べた(島根 鹿足郡柿木村柿木)
お母さんのおなかで枇杷の葉笹の葉食べた(島根 隠岐島海士町)
ざっと見渡すと主に東は東京から西は北九州まで分布している。東北以北のものは見つからない。しかし、この柳原書店のわらべ歌シリーズがあらゆるわらべ歌を網羅しているわけでもない。案の定、他の資料にもあたると、上記の「食べ物」系、「耳をひっぱられた」系以外にもう一つ「周囲の土地」タイプとも言うべき系統があることがわかった。
   兎や兎なじょして耳ぁ長いね お山の事も聞ぎでえし お里の事も聞ぎでえし ほんで耳ぁ長いね(山形 最上郡)
   兎どん兎どん なして耳が長いか 他人で生れてうねんで育って 谷のそも聞きたし畝のそも聞きたし それで耳が長いよ(広島 双三郡)
この本の著者の一人でもある真鍋は、こうした、土地のことを知りたくて耳が伸びた、というグループは、東北と中国地方にだけ残っていることを示す。さらに中国地方の田植え唄にその原形をみとめており、田植え歌にうさぎが歌われた背景として、兎が「山の神」やその使いとして信仰されていたことを指摘する。中国地方では、兎に乗った山の神が木々に若芽を授けたり、シシ狩にいくという伝承が残っているという。
田植歌に歌われた兎の神性は、山や里などのことを知りたいと歌う兎の子守唄の中に残された、といえそうだが、赤田光男は「ウサギの日本文化史」の中で、鈴木牧之ののこした「北越雪譜」を紹介し、たおした木を運ぶときに歌う「木遣歌」の中にも、ウサギの耳が歌われることに注目している。 「母の胎内にいた時に笹の葉をのまれて」と歌われるこの木遣歌は1828年当時牧之が耳にしたものである。木遣歌と子守唄は互いに深い関係があるといわれるが、赤田は、木遣歌にうさぎが歌われることについて、帝釈天とうさぎの関係を持ち出す。それは、木遣に「修羅」といわれる、そりのような運搬具が使われるためだ。修羅は「大石」ほどの重いものも運ぶことができる。この「大石」に「帝釈」がかけられており、帝釈天と阿修羅の戦いという隠された意味が浮かび上がる。うさぎが帝釈天の食べ物となるため、自ら火に飛び込み、帝釈天により月に送られた話は有名だが、赤田はこの木遣歌はそもそも神歌としてのうさぎ歌なのだ、としている。うさぎは農作物を荒らすため嫌われてきた一方で、山の神やその使いとして神性を付与されてきた。大石を運ぶそりに帝釈天、うさぎと連想ゲームのようにイメージが投影されていったわけだが、これが月と絡んでいるところに、木遣歌の呪術的な性格が表れているように思う。「北越雪譜」自体は江戸時代の書物だが、兎の耳の長さの由来を歌うという行為自体は、歌が呪術に収斂されていく、かなり古い時代にまでさかのぼれるのではないだろうか。
メロディーについては上で一覧したように、大体が短調で、長調のものは、海士町の子守唄も含め、中国地方に限られるようだ。ただし、岡山和気郡のものは、明治の唱歌調で比較的新しいもののように思える。島根の鹿足郡のものは同じ長調でも、海士町のものと違い、単調なリフレインが続く。ここで気になってくるのは、ハーンが書き残した、海士町の子守唄に感じた「哀調」が、果たして短調だったのか、ということだ。海士町に残されていた手書きの小冊子の中で、私が目にした楽譜には短調のものはなかった。しかし他県の「ウサギの耳」の子守唄は圧倒的に「短調」が多い。とすれば、海士の子守唄にハーンが感じたものは、「哀調」とは書かれたものの、新鮮なフレーズの動きだったり、長短調という区分を超えた歌い手の生き生きした情感そのものだったのかもしれない。実際、80年当時ハーンの聴いた子守唄はどれだったか、ということで海士町の人や専門家たちがこれと決めたバージョンは「大野キワ」さんが伝えたものだったが、これも長調である。しかし途中で一部短調のような展開が見られ、なかなか歌として凝った作りのものになっている。 
彼岸坊主はどこの子 (植物の歌・江津市桜江町川越)
   彼岸坊主は どこの子
   スギナのかかあの
   オト息子−
ツクシは春の彼岸時分に出るところから、この地方では「彼岸坊主」と呼んでいる。ツクシの頭が僧侶の頭のように丸いところからきた命名であろう。以前の国定教科書には
   ぽかぽかと
   あたたかい ひに
   つくしの ぼうやは
   めを だした
   つくし だれのこ
   すぎなの こ
という歌が掲載されていたことを思い出す。第二次世界大戦時代に小学生だった筆者の思い出であるが、この歌の心は、江津市の歌と同じであることに気づいたのである。 
ねんねんよ ころりんよ (子守り歌・鹿足郡吉賀町柿木)
   ねんねんよ ころりんよ
   ねんねがお守りは どこ行た
   野越え 山越え 里行(い)た 里のみやげに なにもろた
   でんでん太鼓に笙(しょう)の笛 でんでん太鼓をたたいたら 
   どんなに泣く子もみな眠る
   笙の笛をば吹いたなら どんなに泣く子もみなだまる
   ねんねんよ ころりんよ
   おととのお山のお兎は なしてお耳がお長いの
   おかかのおなかにいたときに 椎(しい)の実 榧(かや)の実 食べたそに
   それでお耳がお長いぞ
   ねんねんよ ころりんよ
とてものどかな節回しである。そしてその歌い出しは「ねんねんころりよ、おころりよ」でよく知られ、日本古謡としての子守歌の骨格が前半部に見られるが、後半部の「おととのお山のお兎は」からは、実はまた別な童話風物語が付属したスタイルになっている。
伝承わらべ歌の特徴として、詞章の離合集散はよく見られる現象である。ある地方で二つ以上になる歌が、ほかのところでは一つに統合されている例はいくらでもある。この歌がまさにそれであった。
たとえば明治20年代、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が隠岐島へ旅行したおり、現在の隠岐郡海士町菱浦で
「隠岐の母親たちが、赤ん坊を寝かしつけながら、この世でいちばん古い子もり歌をうたっている声を聞くことができた。」
と次のように紹介している。
   ねんねこ お山の
   うさぎの子
   なぜまた お耳が長いやら
   おっかさんのおなかに おるときに
   びわの葉 ささの葉 たべたそな
   それで お耳が 長いそな
一方、鳥取県でも知られていた模様で、米子地方のものとして、『ふるさとの民謡』に、以下の歌が出ている。
   ねんねこやまの
   兎の耳はなぜ長い
   わしの おかさんが
   つわりの時に
   びわの葉なんぞを
   食べたので長い
幼子を相手に大人たちは、兎の耳の長い理由を童話風なわらべ歌の詞章に託して、うたっていたのであった。現在の母親たちには、もうこのような子守歌は伝えられれてはいないのではなかろうか。 
あの山で光るものは (手まり歌・隠岐の島町犬来)
   あの山で光るものは 月か 星か 蛍か
   月ならば 拝みましょうか 蛍ならば 手に取る 手に取る
   まずまず一貫 貸しました
これは手まり歌である。どこか品のあるメロデイーを持つこの歌が、どうして離島に残されていたのかと、わたしは不思議に思いながら聞いていた。けれども、今日ではもう隠岐島でも聞くことはできないようであるし、山陰両県でも聞いたことはなかった。
けれども、わたしはどこかに同類がないかと『日本のわらべ歌全集』を見ると、東は群馬、東京、埼玉に仲間があり、西では福岡、熊本に類歌のあることが出ていた。
この中で福岡県柳川市のものだけは、子守歌の「寝させ歌」とある点が変わっていた。他はいずれも島根県と同じ手まり歌である。福岡県柳川市の詞章は次のようであった。
   あの山に光るは
   月か星か蛍か
   蛍ならお手にとろ
   お月様なら拝みあぎゅう
   おろろん おろろんばい
   おろろん おろろんばい (『福岡のわらべ歌』)
九州方言でうたわれているが、なるほど、「おろろん、おろろんばい」の後半部分を見れば、確かにこれは子守歌である。そして前半の詞章も、後半部との連携を踏まえて考察すれば、子守歌に適していることも理解できる。もっと多くの地方で子守歌としていてもよいように考えられるのではあるが、実際はなぜか手まり歌がほとんどなのである。
念のために東の代表として埼玉県東松山市のものを紹介してみる。
   あの山で 光るものは
   月か星かほたるか
   月ならば 拝みましょうか
   ほたるならば お手にとる お手に取る (『埼玉 神奈川のわらべ歌』)
この埼玉県の解説を担当した小野寺節子氏は、同書に次のように書いておられる。
―夏の夜、その闇の中で美しく輝くものへの感嘆をうたっている。その不思議な美しさは、信仰心にまで浄化され、旋律とともに他の手まり歌にはない味わいがある。―
わたしも小野寺氏のご意見に全く賛成である。
ふとしたことから教えてもらった隠岐の手まり歌が、あまり聞くことのできない貴重な歌であることを知って、わたしは伝承の糸の謎をいよいよ痛感したのである。 
じいとばば 寝とれ (手遊びの歌・奥出雲町大呂)
   じいとばば えっと寝え
   嫁は起きて 火ぃ焚け
   婿は起きて カンナ行け
これはアケビの花粉で遊ぶ歌である。アケビは五月上旬から中旬にかれんな花をつけるが、色は赤、白、紫色などさまざまである。それを見つけた子供たちは、花から五つか六つの雌しべを手のひらに載せ、この歌をうたいながら、一方の手で手首のへんをとんとんとたたく。すると手のひらの雌しべは、ひょっこり起きあがってくるものが出る。「二つ起きたぞ」、「おらは三つ」、「みんな寝たままだ」。子供たちはこのようにして楽しんでいた。
以前の子供たちの世界では、自然の中にいろいろな遊びを見つけ、こうして愉快に遊んでいた。花粉を遊び道具として、楽しく遊ぶとは、何とすばらしいことか。
同じ種類の歌は昭和63年にも、雲南市頓原町志津見の女性(大正5年生)から、次のように聞いている。
   じいとばあは 寝とれ
   嫁は起きて 火を焚け
   婿は起きて 里へ行け
ところで、この奥出雲町の歌では、なぜか最後がまったく違っていた。「婿は起きて カンナ行け」なのである。
たたら製鉄のとても盛だった奥出雲地方では、以前はカンナ流しが盛んに行われていた。これは山肌に強く水を吹きかけて土砂を流し、砂鉄を採るのであるが、子どもたちはちゃんとそれを眺めて知っていた。それであるので同じような子どもの遊び歌にもそのような労働の存在が投影されたのであろう。ここでもその地域の特色が出ているのである。そしてどうやらこの種類の歌は、まだ鳥取県では見つかっておらず、島根県下でも出雲地方の山間部に限って伝承されているようだ。けれども驚いたことには、はるか離れた九州に仲間が存在していた。長崎県南高来郡口之津町の次の歌である。
   じいとばあは寝とれ
   嫁ごは起きて
   茶わかせ
これは『佐賀長崎のわらべ歌』に出ており、以下の説明が添っていた。「にしきぎ科の常緑灌木、柾(まさき)(じとばの木)の赤い実を三つとって、手の中で振る時にうたう。二個が一緒になり、一個が別になった時、二個が爺と婆で一個が嫁で、早く起きてお茶をわかしているという。三個一緒の場合は、まだ寝てるとして、もう一度うたう。」はるか離れた意外なところではあるが、こうして親族関係の歌は伝えられているのであった。 
向下駄隠しノーリンボ (鬼遊び歌・隠岐郡海士町)
   下駄隠しノーリンボー 橋の下のネズミが 
   草履をくわえてチュッチュクチュー
   チュッチュク饅頭はだれが食た 
   だれも食わせぬ わしが食た
   表の看板 三味線で 裏から回って三軒目
戸外で遊ぶ子供たちの遊びの一つに「履き物隠し」がある。この歌はこうしてうたいながら、鬼を決めてゆくものである。
ところで、これは「下駄隠し」としてうたい出されているが、少し後で「橋の下のネズミが、草履をくわえて…」となっており、元々は出だしも「草履隠し…」であったことをうかがわせている。そこは子どもの素朴な知恵のおもしろさであろうか、「頭隠して尻隠さず」の諺通り、最初の詞章は下駄に変えても後の詞章には無頓着で、そのまま「草履」とうたっていたのである。つまり、この歌は子供たちの履き物としてわら草履が一般的に幅を利かせていた時代、創作されたのであろう。その後、履き物は下駄になり、現在は靴に変わっている。この歌はたまたま下駄が普通となった時代に、自然に改作されたものであろう。
現在のところ、その事例をわたしはまだ持っていないが、当然、その後「靴隠し…」と歌い出される歌が出現してしかるべきであると考えている。
さて、古形をとどめる歌ならば、いくつか収録しているので、少しあげておく。
まず鳥取県日野郡江府町御机のものである。
   草履隠し チューレンボ 橋の下の子ネズミが 
   草履をくわえてチュッ チュク チュ
   チュッチュック饅頭はだれが食た だれも食わないわしが食た
   表の看板 三味線だ 裏から回って三軒目 一 二 三
この歌は、かなり以前からうたわれていたようで、もっと年代の古い方からもよく聞かされた。鳥取市鹿野町大工町の場合は、
   草履隠し クーネンボ 橋の下のネズミが 
   草履をくわえてチュッ チュッ チュッ
   チュッチュック饅頭はだれが食た だれも食わないわしが食た
   表の看板 三味線屋 さあ さあ 引いたり 引いたり
このようであった。
なお、これでは「表の看板、三味線屋」となっているが、先に挙げた「三味線で」とか「三味線だ」という形よりも、歌の流れも自然であり、類歌にはそうなっているのも多い。島根県では江津市波積町南本谷や浜田市三隅町福浦などで聞いている。わたしはこの方が原型であろうと考えているのである。  
ぼんぼんさんさん (手まり歌・大田市)
   ぼんぼん さんさん さん 山道
   やんやん 破れた 御衣
   行ききも もん戻りも
   きにかかる か菓子屋さん
三瓶山方面の言語伝承を集めに回っていたら、女の子たち数名が遊んでいた。そこでわらべ歌をうたってもらった一つがこれであった。そのころ、わたしはまだ二十六歳で、この方面の知識も浅かった。
したがって、わたしはこの歌も同音語を重ねたおもしろさを持つ歌としてのみ考えていた。
ところが、少し時間が経過して見ると、実はこの歌は大人の労作歌を、子供用に改作したものであることが分かった。
昭和41年のこと、吉賀町柿木村口屋である女性から、木挽き歌として次のように教えていただいた歌は、まさに大田市の子供たちの手まり歌の本歌だったのである。
   坊さん山道ゃ 破れた衣
   行きし 戻りが
   木に掛かる
柳田国男も『民謡覚書』の「採集の栞」の中で、
   ぼさん山路破れたころも
   行きし戻りがきにかかる
こう引用し、「江戸でも古くから有名であったのは、この口合が軽い故であるが、実は(中略)男女をからかった歌で、なまめかしい色々の意味が含まれてゐた。」と解説している。これで見ると柳田は盆踊り歌の一種として、この歌を扱っていた。これらの歌は音節数からは基本的には七七七五スタイルである。
   ぼさん山路………七
   破れたころも……七
   行きし戻りが……七
   きにかかる………五
この形は、近世民謡調と呼ばれ、江戸時代後期に流行し始めたものであり、現在の各地の民謡にも、このスタイルをしたものがかなりある。近いところでは安来節がそれであり、鳥取県の貝殻節はこの字余りの形である。
さて、もう一度、最初の歌に戻って眺めてみよう。子供は模倣の名人である。この歌も本歌をヒントに、繰り返しを用いた詞章をつけたところ、いつの間にか元の意味などそっちのけで、「衣が木に掛かる」はずだったのが、「気にかかる菓子屋さん」というようになってしまったのである。
子供の世界にあっては、柳田のいうようななまめかしく深遠な掛詞の意味など、まったく無縁であろう。それよりも彼らにとっては菓子の方がよほど重要な問題だったのである。大人の歌が子供の世界に移されてしまうと、アレンジの達人でもある彼らは、たちまちこのような詞章に変えて、遊びを楽しんでいたのであった。  
こういしこうらい こなオンジョ来い (動物の歌・松江市)
   こいし こうらい こなオンジョ来い
   アブラやミタオンジョ 負けて逃げるオンジョ 恥じゃないかや
さて、オンジョであるが、これは普通のトンボより大きく、いわゆる「ヤンマ」といわれている種類を指す出雲方言である。そしてアブラは、ヤンマの雄の中でも羽が油色のものをいい、ミタは雌のヤンマをいっている。
類歌として、わたしは島根県美保関町七類で次の歌を見つけている。
   オンジョ来い 男オンジョや 女房オンジョや
   つかしょば来い 来い
しかし、これ以外にオンジョをうたった歌は、今のところわたしはまだ出会っていない、
冒頭の歌に話を返すが、わたしの世代では、小学校時代、この類の歌で竹などの先に糸を垂らし、それにおとりのオンジョを結びつけて、ゆっくりと振り回しながらオンジョを釣っていた。『山陰路のわらべ歌』には、氏の父親である徳次郎氏から収集された、明治20年(1887)ごろのうたとして、次のように紹介されていた。
   こういしくらい こなおんじょくらい
   あぶらや めとうに まけてにげるおんじょ はじじゃ ないかや
蒲生さんの教えてくださった詞章。
   おおいしやー このオンジョ来い
   アブラやミトオンジョ 駆けて逃げるオンジョ 火事じゃないかよ
わらべ歌詞章の変化の法則を暗示させるような出来事と共に、知らぬ者同士を瞬時に親しく結びつけるわらべ歌のすばらしさを、このときわたしは知ったのであった。 
大まん口から (手まり歌)
   大まん口(ぐち)から揚屋の前まで 三好高さん 不昧(ふまい)の近じょ
   みなみな同士ゃ 見事なことよ 行き先々 花芽が咲いて
   豊(とよ)さん 文(ふみ)さん なんだが縞の 坂尾(さかお)がしんびょで
   紅(くれない)さんしがうれしき早織り 確かな近所 おめぐりさまよと
   からぐりさまよ 向こうの衆に渡いた
もともとは江戸時代に各地でうたわれていた古い手まり歌であるが、鳥取県西部地方と島根県出雲地方の古老から、ときおり聞き出すことのできた歌である。さて、江戸時代の同類を調べてみると、文化7年(1810年)刊の式亭三馬著『浮世風呂』に出ていた。
   大門口 あげ屋町 三浦高浦米屋の君
   みなみな道中みごとなこと ふりさけ見よなら 花紫 相がわ 清がわ
   あいあい染がわ 錦合わせてたつたの川 あのせ このせ やっこのせ
   向こう見いさい 新川見いさい 帆かけ舟が二艘つづく
   あの舟におん女郎乗せて こん女郎乗せて あとから家形が押しかける
   やれ止めろ 船頭止めろ 止めたわいらにかまうと 日が暮れる お月は出やる
   それで殿御のおん心 それ百よ それ二い百よ それ三百よ(中略)
   とどめて一貫貸した せんそうせん
少し下って天保初年(1830年)ごろ書かれた高橋仙果著『熱田手鞠歌』にも同類は出ているが、ここでは省略する。石村春荘氏は、その著『出雲のわらべ歌』で、「(江戸)吉原のおいらん道中の華やかさをたたえたもの」と述べておられる。案外そうであったかも知れない。当時の女の子のあこがれをうたっていたのであろうか。 
一山越えて (外遊び歌)
   皆 一山(ひとやま)越えて 二山(ふたやま)越えて
     三山の奥に 灯がちょんぼり見えた
     狐さん 狐さん 遊ぼうじゃないか
   鬼 今ねんねの最中
   皆 お寝坊じゃないか
   鬼 いま顔洗う最中
   皆 おしゃれじゃないか
   鬼 いまご飯を 食べる最中
   皆 おかずはなぁに
   鬼 ヘビとカエル
   皆 生きてるか 死んでるか
   鬼 生きている(死んでいる)
輪になっている中に一人「狐」、つまり鬼になった子どもがいる。それを取り巻いた子どもたちが、歌に合わせて手をかざしたり、いろいろな動作をしながら問答の形でこの歌をうたう。「生きてるか、死んでるか」の問いに対して、鬼が「生きている」と答えれば、子どもたちはワーッと逃げ出す。鬼はだれかを捕まえようと追っかけ、捕まえられた子どもが次の鬼になる。もし鬼が「死んでいる」と答えれば、「生きている」と答えるまで、何度でもこの歌はくり返される。このように鬼の答えが「死んでいる」であれば、歌は最初に返るが、「生きている」となれば、即座にそこから鬼ごっこに変わるというところがおもしろい。 
親ごに離れてはや七日 (手まり歌)
   親ごに離れてはや七日(なぬか)
   七日と思えば四十九日
   四十九日参りをしょうと思て
   おばさんのところへ 着るもの一反借りね来た
   あるものないとて貸しぇだった
   やれやれお腹が立ちなんど
   奥の納戸に機(はた)たてて
   今日も一反織りおろし
   明日(あした)も一反織りおろし
   下(しも)の紺屋(こうや)へ一反と
   上(かみ)の紺屋へ一反と
   染めください紺屋さん
   染めてあげましょ何色に
   肩にはシャッポ 裾(すそ)には柳の葉をつけて 葉をつけて
この歌をうたわれた永井さんは結婚後、奥出雲町大呂にお住まいだったが、生地は安来市広瀬町西比田であるところから、そこで覚えられた歌なので、そうしておいた。手まり歌には、内容にどきっとするものがときどきあるが、これもその一つであろう。この歌の主人公は女性と思われる。物語の展開が、機織りや染め物にかかわりのある語句でなされているから、そのように考えるのが自然である。そして、内容は出だしからして親子離散の憂き目にあっていることが推定できる。「七日」は「初七日」のことかもしれず、また「四十九日参り」というのも、逝去後の四十九日法要を指しているような感じがする。そうして見ると、はっきりとは述べられてはいないが、「親に離れて」とあるのは、親と死別したことを暗示させているのであろう。
さて、この同類を捜してみると、仁多郡奥出雲町大呂から比較的近い飯石郡飯南町角井で聞いている。次に挙げておこう。
   親に離れ子に離れ 殿御に離れて今日七日
   七日と思えば四十九日 四十九日参りをしょうと思て
   叔母のところに着り物借りにいったんだ あるものないとて貸せだった
   やれやれ腹立つ残念な 後ろの小庭に機たてて
   今日も一反織りおろし 明日も一反織りおろし 東の紺屋へ一反と
   西の紺屋へ一反と 染めてください紺屋さん 染めてあげます何色に
   紺と紅との花色に 花色に
細かい点で両者は多少の違いは見られるものの、大筋では同じである。それにしても手まり歌には、なぜか生活の厳しい状況を取り上げてたものがよくある。どうしてこうした内容をうたっているものが多いのか、まだ、わたしにはその理由が分からないのである。 
びりがびっちょう 泣いたげな (からかい歌)
   びりがびっちょう 泣いたげな
   高津山へ聞こえて
   松が三本倒れた 竹が三本倒れた
「びる」は石見方言で「泣く」の意味。「びり」はそれの名詞形であり「泣き虫」といったところだろうか。当地の別な歌では「びりがびっちょうびったげな」となっている。ここではその部分が「泣いたげな」と共通語化したもの。意味については2009年1月1日掲載の「ええこと聞いた」の歌と同様にお考えいただきたい。 
紺屋の庇にスッチョチョンがとまって (言葉遊び歌)
   紺屋(こうや)の庇(へさき)に スッチョォチョンがとまって なしてとまった けだるてとまった
   けだるけりゃ 田おれ 田おりゃ 冷(つめ)て 冷てけりゃ あたれ あたりゃ蚤(のん)が食う
   蚤が食(か)ば 殺せ 殺さ可哀想(かわい) 可哀想けりゃ 抱いて寝
   抱いて寝りゃ なおなお食らう
歌の途中から後の語句を踏まえて、連鎖反応式に歌を問答形式で続けていく手法となっている。「紺屋」というのは今ごろはあまり見られなくなったが、布を染めることを専門にした店である。また、「スッチョオチョン」はスズメのこと。「けだるい」は「疲れて身体がだるい」というのだろうか。「田おれ」は「田へ降りなさい」という意味であろう。この歌は、紺屋の屋根の庇にスズメがとまった原因をきっかけとして話が進んでいる。相手が意見を述べれば、理由を挙げて反発しているというようにして展開している。したがってこれは「ことば遊び」に属するわらべ歌と考えたい。各地には似た歌がいろいろと見られる。鳥取県西伯郡日吉津村では、
   お月さまなんぼ 十三 九つ そりゃまんだ若いな
   若もござらの いんとうござる いなさる道に尾のない鳥が 油筒くわえて
   だれにやろか お万にやろか お万はどこ行った 油屋のかどで
   牛の糞に滑ってやれきたな きたなけりゃ洗え 洗や冷た 冷たけりゃあたれ
   あたりゃ熱い 熱けりゃ後へすざれ 後へすざりゃ蚤がかむ 蚤がかみゃ殺せ
   殺しゃかわいい かわいけりゃ抱いて寝
   抱いて寝りゃ なおかむ なおかむ(大道ふさよさん・明治32年生)
また、鳥取県八頭郡八頭町船岡でも、
   ほーぐりほーぐり 山にけ 山に行きゃ 鉈がねえ 鉈がなけりゃ 田ぁすけ
   田ぁすきゃ 足がよごれる 足がよごれりや 洗え 洗やあ冷てえ
   冷たけりや あぶれ あぶりや熱い 熱けりゃ すだれ すだりゃあこける
   こけりゃ つっぱいせえ つっぱいすりゃ 痛え
   痛けりや 板切れに吸いつけ(浦林 寿男さん・昭和15年生)
いずれも同工異曲である。日吉津村の歌は「お月さんなんぼ」で始まる月を愛でる子守歌の変形したものであり、八頭町のものは、最初から独立した「ことば遊び歌」である。 
アタさんなんぼ (子守歌)
   アタさんなんぼ 十三ここのつ そらまんだ若いぞ
   若(わこ)うはござらぬ いにとうござる いなさる道で サト餅買うて
   だれにやろか お万にやろか
   お万が部屋は 今こそ見たれ 金襴緞子の(きんらんどんす)キリコの枕
島根県の場合にも、いくつかの地方差が見られる。これは子守歌の遊ばせ歌といえるだろう。詞章が「そらまんだ若いぞ」などから見て伯耆地方から出雲地方にかけて伝えられている歌の亜流といえる。この「アタさん」という語句は、柳田國男著の『小さき者の声』を借りると、日本に仏教が渡来するより以前に、祖先の人たちが信仰の対象として、太陽や月を拝む際に発していたと思われる「アナトウト(ああ尊い)」という語に起源を持つ「アト」の変化したものではないかと考えられるという。そしてわたしは、島根県の西端、鹿足郡吉賀町柿木村柿木で、まさに柳田のいう「アトさん」で始まる次の歌を、この八束町で聞くよりも7年前になる昭和37年に聞いている。
   アトさまなんぼ 十三ここのつ
   それにしちゃあ若いの 若いこたぁ道理
   胴馬へ乗せて あっちへじろり こっちへじろり
   じろりの中で よい子を拾うて
   お千に抱かしょ お千はいやいや お万に抱かしょ お万もいやいや
   お万が部屋を 今朝こそ見たら 金の屏風(びょうぶ)に鹿子(かなこ)の枕(小田サメさん・明治31年生)
この月の古称を意味するアタとかアトの語を用いた歌は、わたしとしては八束町と鹿足郡吉賀町柿木村以外の山陰両県では、まだ聞いていない。しかし、収録を続けていると、こうした古さをしのばせる貴重な伝承に出会うことがある。それがまたこのようなわらべ歌の言い知れぬ魅力ということになる。 
蛍、蛍、こっち来いポッポ (動物の歌)
   蛍 蛍 こっち来い ポッポ
   あっちの水(みざぁ) 苦いけえ こっちの水(みずぁ) 甘いけえ
   こっち来い ポッポ
全国的なのは、「ほーほー蛍来い」で始まり、「こっちの水は甘いぞ…」までと最後は再び「ほーほー蛍来い」で収めるスタイルであろう。ところが、この歌はやや独特である。いろいろな地方を言語伝承を求めて歩いていて、このように独自な伝承に出会うと、何か宝物でも見つけたような喜びを覚える。さて、それでは類歌の特徴あるものを紹介しよう。まず鳥取県のものから。鳥取市佐治村尾際では、
   ほ ほ 蛍来い 蛍来い 小さな提灯さげて来い
   ほ ほ 蛍来い 蛍来い
   あっちの水は苦いぞ こっちの水は甘いぞ
   ほ ほ 蛍来い 蛍来い(福安初子さん・大正4年生)
小さな提灯さげて来い」と蛍の明かりのたとえに特徴がある。東伯郡湯梨浜町原では、
   蛍来い 山道来い
   ランプの光で みんな来い(尾崎すゑさん・明治32年生)
短く引き締まった詞章に特色がある。次に島根県のもの。江津市桜江町渡で、
   ほー ほー 蛍来い
   あっちの水ぁ苦いぞ こっちの水ぁ甘いぞ
   貝殻持てこいブウ飲ましょ(門田ヤスエさん・大正8年生)
「貝殻持てこいブウ飲ましょ」は素朴であろう。この大田市のものも「…ポッポ」がおもしろい。 
うしろのどーん (手まり歌)
   うしろのどーん まえそのどーん おおさか おさかでどん
   やすやでどーん
   末まかせのお歯黒は いくらです 五百です
   もすこしまからんか すからか ほーい
   おまえのことなら 負けとくに
   ひー ふー みー よー いつ むう なな やー ここのつ とお
   山王のお猿さんは 赤いおべべが大(だい)お好き
   ててさん ててさん よんべの恵比寿講(えべすこう)に よばれて行って
   鯛の浜焼き竹麦魚(ほうぼう)の煮付け 一杯すいましょう 二杯すいましょう
   三杯目にゃ肴がないとて お腹立て お腹立て
   はてな はてな はて はて はてな
「お歯黒」の出ている内容から見てかなり古めかしい歌であると想像できる。明治27年発行の岡本昆石編『あづま流行時代子どもうた』には、この歌の後半部分が独立して手まり歌として出ているので、現在のかなづかいに直して紹介しておく。
   山王のお猿様は 赤いおべべが大おお好き
   ててしゃん ててしゃん 昨夜恵比寿講によばれて
   鯛の小女郎(小皿?)の 吸物 一杯おすすら 吸うすうら
   二杯おすすら吸うら 三杯目には 名主の権兵衛さんが肴がないとてごう腹立ぁち
   はてな はてな はて はて はてな まずまず一貫 おん貸し申した
   千そっせ 万そっせ おたたぁのたたのた
一見して同類であることが分かる。ここにうたわれている山王とは、神田祭りと共に江戸の二大祭りとして有名な江戸麹町日吉山王神社のことではないかといわれている。そして猿は山王権現の使いとして神聖視されているのである。この同類は東京だけではなく、山形・神奈川・静岡・長野・新潟・富山・京都・大阪・宮崎などでもこれまでに収録されている。そのような伝承の過程の中で、ここ島根県の石見地方にも、いつしか根づいていたのであろう。中央で流行していた手まり歌が、どのような経路をたどって島根県の山間部で定着したのか、今となっては知る由もない。ラジオやテレビなどのなかった昔であったろうが、子どもたちの世界では、それなりに流行に敏感で、ちゃんと中央の歌を仕入れ、こうして手まり歌にしていたのである。 
トンボ トンボ (動物の歌)
   トンボ トンボ カメガラやるぞ
   トンボ トンボ カメガラやるぞ
男の子どもたちにとって特に親しいトンボの歌は意外と少ない。松江市美保関町七類で、次の歌があった。
   オンジョ来い
   男オンジョや
   女房(にょうば)オンジョや
   つかしょば来い 来い(森脇キクさん・明治39生)
しかし、これ以外にオンジョをうたった歌は、今のところわたしはまだ出会っていない。 鳥取県での収録は、八頭郡若桜町大野でトンボを捕る歌として次の歌を見つけた。
   トンボ トンボ とまれ
   この指 とまれ(兵頭ゆきえさん・大正5年生)
ともかく、トンボ捕りの歌は意外に少ないようである。 
トンボやトンボ (動物の歌)
   トンボやトンボ 麦わらトンボ 塩辛トンボ
   もち竿持って おまえは刺さぬ 日向は暑い こち来てとまれ 日陰で休め
昭和39年8月にうかがった。また浜田市三隅町森溝では「日陰で休め」のところだけ省略され、次のようであった。
   トンボやトンボ 麦わらトンボ 塩辛トンボ
   もち竿持つとも おまえは刺さぬ
   日向は暑い
   こっち来てとまれ
なお、金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌・上』によれば、「もち竿持つも」のところが「もちざをもつとも」、「こっち来てとまれ」が「こちきてあそべ」と変化している以外、全く同じ詞章で出ており、作詞者・作曲者・成立年代すべて不明であるとのことである。そして『童謡歳時記』の藤田圭雄氏によれば、関西地方で歌われていたわらべ歌の一種らしいと述べられている。そしてさらに、大正元年以降、東京神田にあった東洋幼稚園では、朝の時間の初めに全員でうたわれていた、とも記してあった。 
こいし こうらい (動物の歌)
   こいし こうらい こなオンジョ来い
   アブラやミタオンジョ 負けて逃げるオンジョ
   恥じゃないかや
うたってくださった方は、わたしの小中学校時代の恩師である。わたしが教師になって言語伝承を集めていることを知って、「自分が子ども時代にうたっていた」と教えてくださったのが、これであった。園山先生が物故されてすでに久しいが、わたしの録音テープの中には、今でも先生のこの元気のよいお声が残されている。さて、オンジョであるが、これは普通のトンボより大きく、いわゆる「ヤンマ」といわれている種類を指す出雲方言である。そしてアブラは、ヤンマの雄の中でも羽が油色のものをいい、ミタは雌のヤンマをいっている。わたしの世代では、小学校時代、この類の歌で竹などの先に糸を垂らし、それにおとりのオンジョを結びつけて、ゆっくりと振り回し、畑の間を走り回りながら、このオンジョを釣っていた。石村春荘著『山陰路のわらべ歌』(昭和42年・自刊)には、氏の父親である徳次郎氏から収集された、明治20年ごろの歌として、次のように紹介されていた。
   こういしくらい こなおんじょくらい
   あぶらや めとうに まけてにげるおんじょ
   はじじゃ ないかや
ところで、この歌について、わたしには忘れられない思い出がある。昭和41年8月22日のこと。わたしは東京の民放NET局(現在のTBS)の全国ネットである「木島則夫モーニングショー」に、島根県鹿足郡柿木小学校の三名の女子児童と生出演してわらべ歌を放送したことがあった。この曲を彼女たちがうたい終わったとたん、プロデユーサーが「懐かしい」と飛び込んできた。二十二歳の蒲生直人さんというその方は、松江市南田町に住んでいたことがあり、この歌をうたっていたのだという。ただ、蒲生さんの教えてくださった詞章は、次のようになっていた。
   おおいしやー このオンジョ来い
   アブラやミトオンジョ 駆けて逃げるオンジョ
   火事じゃないかよ
わらべ歌詞章の変化の法則を暗示させるような出来事と共に、知らぬ者同士を瞬時に親しく結びつけるわらべ歌のすばらしさを、このときわたしは知ったのであった。 
正月の神さん (歳事歌)
   正月の神(かん)さん どこまでござった
   大橋の下(した)まで 破魔弓(はまゆみ)を腰に挿いて
   羽子板を杖にして えーいえとごっざった
正月が近づくと子どもたちは、正月を擬人化したようなこのような歌をうたって、来るのを歓迎した。全国各地にこの類の歌は存在している。少し紹介しよう。
鳥取市用瀬町鹿子では、
   正月さんはどーこ どこ
   万燈山の裾の方 白い箸にバボを挿いて
   食いきり 食いきり 今日ござる(小林もよさん・明治30年生)
米子市大谷町では、
   正月つぁん 正月つぁん どこまでござった
   勝田(かんだ)の山までござった 山百合 杖について 羽子板 腰にさし
   栗の木箸に団子挿して かぁぶり かぁぶり ござった(船越容子さん・昭和3年生)
もうすぐそこまで正月はやって来ている。自分たちの住むところへもすぐに来るのだ。そのような弾む心がこの歌からはうかがえる。しかも、その正月さんは、正月の象徴である土産を持って来てくれるのである。松江市島根町では破魔弓や羽子板を持って、また、鳥取市用瀬町では白い箸にバボ、すなわち餅を挿し、米子市大谷町では山百合の杖をつき、羽子板や栗の木箸に挿した団子を持って来てくれるのである。それではこれらの土産を持ってきてくれる「正月さん」とは何者であろうか。それはいうまでもなく、季節ごとに姿を変えてやって来、わたしたちが正しい生活を行っているかを、点検し、心正しいものが困っていれば幸せを授け、怠け者がいればそれを戒めるために来る祖霊、すなわち先祖の神なのである。 
カッポさん出てこい (動物の歌)
   カッポさん 出て来い 出て来い
   カッポさん 出て来い 出て来い
カッポさんはウスバカゲロウの幼虫の名前。それを掘り出すさいにうたわれる歌である。大田市と同じカッポさんは、出雲部の雲南市飯南町八神でも次のようにして存在していた。
   カッポ カッポ 出て来い
   甘い水を飲ましょ(升本朝子さん・明治38年生)
これになると「甘い水を飲ましょ」のところから、蛍の歌を連想させるものがある。また、江津市波積町南では、よく似た「キッポさん、ジッポさん」とか「ジッポさん」と称している。同地出身で同市桜江町谷住郷にお住まいの本山ハルエさん(昭和23年生)から、次のように教えていただいた。
   ジッポさん ジッポさん
   はよ目に当たれ
   わしが目に当たれ
子どもらしくストレートに「わしが目に当たれ」と、その願望をうたいあげている。邑智郡邑南町日和では、浜田市三隅町同様、この虫のことを「コンゴ」と呼んでいる。
   コンゴ コンゴ 田ぁ掘れ
   蓑(みの)笠買うちゃろう
ここらで再び出雲部に舞台を移そう。少し変わったところでは、名称が「テテッポさん、カカッポさん」であろうか。雲南市木次町大原のものである。
   テテッポさん カカッポさん
   水汲みに行くかね
オーソドックスなところでは、松江市玉湯町下大谷で、
   コモコモさん コモコモさん
   出てごさっしゃい
とうたわれているのが、それであろうか。 いずれにしても、ウスバカゲロウの幼虫の固有な所作を、人間のそれと置きかえて、子どもたちは詞章を創作しているのである。 
ええこと聞いた (からかい歌)
   ええこと聞いた 疾(と)う聞いた
   洞光寺(とうこうじ)山へ聞っこえて 松が三本転んで
   洞光寺でらの小僧が なんぼ出て すけかぁても かぁても 転んだ
友だちの秘密を知った仲間が、その子をひやかしてうたっていたという。各地に類似の歌があるが、この松江市の歌はかなり豊かな内容である点に特徴がある。この中に庶民の素朴で古い民間信仰が隠されていることにも気をつけていただきたい。以下、それについて眺めてみよう。
まず、言霊(ことだま)信仰である。ことばには神が潜んでおられるから、良いことばを使えば良い結果が現れるが、よくないことばは、逆に悪い結果をもたらす。これが言霊信仰の基本である。「ええこと」は決して良いことではない。当人にとっては人に知られたくない秘密で、それを知られたことは悪い言霊を発したことになる。
次に山の信仰である。山は多くの人間の住む平地とは違い神聖なところであり、神がお住まいになる場所である。この歌では洞光寺山なるそこへ「ええこと」なるものの内容が聞こえた結果、その言霊の影響が出てくる。それは「松が三本倒れ」ることにつながる。これには宿り木信仰と聖数信仰が背景にある。
松は神の宿る神聖な木とする信仰である。昔の人たちは、多くの樹木がすっかり落葉する冬にあっても、青々と葉をつけている松に神秘を感じた。つまりこれには神が宿られるから葉が落ちないと考えた。正月に門松として家の前に松の飾られる理由がここにある。また「三」も神聖な数である。神にお供えするものを乗せる器を三宝といったり、人が社会人として認められる「七五三」なる帯直しの行事が、この地方では三歳に基本をおいて行われているが、そのようなところにも三の数の神聖さは証明される。そうして考えると「松が三本倒れた」の意味の重大さが理解されるのではなかろうか。
つまり、本人にとって知られたくない、絶対に秘密にしたいことが、こともあろうに神のいらっしゃる神聖な山に聞こえ、次々と悪い結果をもたらすことになる。それは神の宿り木の松が、尊い数の三本も倒れ、小僧さんが直そうとしてもできなかったのだから、本人の面目は丸つぶれということになる。
子供の歌に秘められたこの奥の深さは、なかなかすごいものがある。この歌は当然のことながら、このような信仰が常識だった時代に生まれたと思われるのであるから、古い時代に作られたということが推定される。 
わらべ唄 2
松江のわらべ歌
おじゃみ
お手玉歌には、この「おじゃみ・・・」で始まる歌と、もう一つ「おさら」で始まる歌の二種類が特に知られています。この「おじゃみ」の歌ですが、『日本民謡の流れ』によれば、江戸時代江戸地方に同類のあったことが分かっています。なお、平成11年、仁多郡の高田小学校で一年生の女子児童がこの歌を歌っていたのを聞いたことがあります。歌の生命は意外に長いものです。
おじゃみ おふた おみえ およお
おいつ おもお みねみね
かっとくれ とんき
おじゃみじゃく とんき
おおふたざくら ざくら
おおみざくら ざくら
おおよざくら ざくら
おおいつざくら ざくら
おおもざくら みねみね
おおぼし こおぼし こおぼや こおぼや まもれ
ぬーけ ぬーけ ぬーけ ぬーけ ぬーけ
おおふた ぬーけ ぬーけ
おおみ ぬーけ ぬーけ
おおよ ぬーけ ぬーけ
おおいつ ぬーけ ぬーけ
おおも ぬーけ みねみね
おおも ぬーけ
つーめ つーめ つーめ つーめ つーめ
おおふた つーめ つーめ
おおみ つーめ つーめ
おおよ つーめ つーめ
おおいつ つーめ つーめ
おおも つーめ みねみね
おおも つーめ
○○さんに 貸せた
正月つぁん
「正月つぁん」というのは、トシトコさんとか歳徳神などの異名です。この神は海の彼方とか山などに普段は住んでおられ、正月に各地を訪ねて人々に幸せを授け、怠け者を戒める役目を司っています。同類として簸川郡湖陵町の歌も出雲圏のところで紹介しております。
正月の神さん どこまでござった
大橋の下まで
破魔弓を腰に挿いて 羽子板を杖にして
えーいえとごっざった
亥の子歌
旧暦十月の亥の日は、田の神が大根畑まで帰り、亥の子の神になられるので大根畑へ入ってはいけないとする伝承も多く存在しています。この日、コタツを出すと火が粗相にならないとも言われ、子供たちがこの歌をうたいながら、亥の子づ搗きなどをして家々を回ります。各家では餅や柿などを子供たちに与えました。つまり、この行事は亥の子の神が子供に仮託して、各家に幸せを配って回るという意味がこめられています。
亥の子さんの晩に 祝わぬ者は
蛇産め 子産め 角の生えた子産め
祝ってごさっしゃったけん
ええ子産まっしゃい ええ子産まっしゃいよ
出雲のわらべ歌
一は橋
数え歌形式のこの歌は、広く手遊び歌として知られています。明治生まれの方々からもよく聞かされました。2人が向かい合って歌いつつ、手の平を広げ、まず自分の両手の平を合わせ、続いて相手の両手の平を合わせます。そして歌いながら繰り返して遊ぶのですが、この大社町の歌では、最後がじゃんけんに変わりますので、この場合はじゃんけんの前奏曲といった感じになります。
一は橋 二はカキツバタかね 三は下がり藤
四にゃ獅子牡丹ね 五つ井山の千本桜かね
六つ紫 色好く染めたかね 七つ慣れても
八つ山吹 九つ紺屋かね
十で殿御さんがお駕籠に乗ろうかね
ゼンゼがのうて乗られません
(じゃんけんになる)
一せんばの異国
数え歌形式のこの歌は、広く手遊び歌として知られています。明治生まれの方々からもよく聞かされました。2人が向かい合って歌いつつ、手の平を広げ、まず自分の両手の平を合わせ、続いて相手の両手の平を合わせます。そして歌いながら繰り返して遊ぶのですが、この大社町の歌では、最後がじゃんけんに変わりますので、この場合はじゃんけんの前奏曲といった感じになります。
一せんばの異国
二せんばの庭に
三せんばの猿が
四つ夜中
エッサッサ
五ついつもの学校へ
六つ村同士
七つ南天何曜日
八つ八重桜
九つ金比羅キーラキラ
十でとうとう終わった
正月さん
「正月つぁん」というのは、トシトコさんとか歳徳神などの異名です。この神は海の彼方とか山などに普段は住んでおられ、正月に各地を訪ねて人々に幸せを授け、怠け者を戒める役目を司っています。同類は各地でうたわれており、ここでは三瓶山から神が下りて来られることになっています。
正月つぁん 正月つあん どこからござりゃ
三瓶の山から 豆腐の下駄はいて 線香の杖ついて
かっぽる かっぽる おいでます
こぶとりの唄(お手玉の歌)
おさらー おみんなー おさらー
おてしゃに おてしゃに おとして おさらー
おみんな おさらー
おはさみ おはさみ おはさみ おとしておさらー
おみんな おさらー
ひよどり ひよどり だるまのめ
なかよし つまよし さらいっとん ちょいすけ おさらー
おみんな おさらー
[ おてしゃに=手の甲に / おはさみ=指と指の間にお手玉を挟む / おさらー=この歌詞のとき、払うようにしておてだまを掴み抛りあげる ]
横着者のわらべ唄
山の ひゃっこり どげして やせた
もの くゎせんで やせた
くいもんなけらな た つくれ た つくりゃ ちべて
ちべたけりゃ ふ ね あたれ ふ ね あたりゃ あち
あちけりゃ あとしざー せ あとしざーさ のん が かん
のん が かみゃ ちぶせ ちぶしゃ ごらしい
ごらしけりゃ だいて ねれ だいて ねりゃ よけ かん
[ ひゃっこり=春蘭 / ごらしい=可哀相 ]
.おんじょつりの唄
こーいし こい こな おんじょ こい
あぶら や みたお に
負けて 逃げる おんじょ
はじだ ないかや
雲南のわらべ歌
うちの後ろの竹藪に
「千松口説き」として、以前は手まり歌として女の子たちによくうたわれていたものです。この歌は江戸時代には知られていたようで、仙台藩のお家騒動を扱った当時の浄瑠璃の名作「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の中で、若君鶴喜代君を毒殺する陰謀を知った乳母の政岡は、若君に代わって我が子、千松がその菓子を食べた途端、八汐の刃で絶命します。後に政岡が手まり歌の詞章を思い出しつつうたう詞章にこの部分があるのです。
うちの後ろの竹藪に スズメが三羽とまって
一羽のスズメがいうことにゃ
よんべ呼んだ花嫁ご 今朝の座敷に座らせて
畳三枚 ござ三枚 六枚屏風を立てつめて
しっぽりかっぽり 泣かしゃんす
何が不足で泣かしゃんす
何だり不足はないけれど
わしが弟の千松が 西のホウラへかね掘りに
かねども掘るやら掘らぬやら
一年たっても戻らんが
二年たってもまだ戻らん
三年ぶりのついたちに
人をごせとの状が来た 人はやらぬがわしが行く
後の田地はどげしゃやら 後のの田地はかねにして
親に三貫 子に四貫 ついた伯母ごに四十四貫
四十四貫の銭金ためて
高い米こうて船に積む 安い米こうて船に積む
さっさ行こ行こ都まで 都もどりに何もろた
一にこうがい 二に鏡 三にさらさの帯もろた
帯はもろたがくけてない
くけてごっさい伯母ごさん くけよくけよと思えども
夜中すぎてはくけられず 帯にゃ短し タスキにゃ長し
山田薬師の鏡の吊り緒に
ちょうどよかろ ちょうどよかろ
インディアンの歌
歌に合わせて動作をしながら手まりをつきます。「ちょっと足で踏んで」のところでは、手まりを踏むような動作、「ちょっと手で揉んで」では、手まりを手で揉むように扱いながらつくといった具合です。第二次世界大戦後、この歌はけっこう広く歌われていました。そして最後のところですが、「一二三」よりは、「ワン、ツー、スリー」となっている方が多いようです。
インディアンの町 名高い町
ちょっと足で踏んで ちょっと手で揉んで
一 二 三
蟻地獄の歌
神社やお寺の境内の縁の下など、あまり雨の降り込まない砂地にウスバカゲロウの幼虫、つまり、俗にアリジゴクといわれる虫が住んでいます。子供たちはこの歌をうたいながら、すり鉢型の底を掘り起こして、この虫の出てくるのを楽しんでいます。
カッポ カッポ 出て来い 
甘い水を飲ましょ
蛍狩りの歌
奥出雲で見つかったこの蛍狩りの歌は、小学校唱歌でよく知られた「ほーほー蛍来い」の歌に非常に似ています。案外、この歌はそれの変形かも知れません。各地にはいろいろと変わった詞章の歌も存在しているのですが、今回はオーソドックスなものを紹介しておきました。
ほ−たる ほ−たる こっちぃ来い 
あっちの水は苦いぞ 
こっちの水は甘いぞ
県央のわらべ歌
ぼんぼんさんさん
柳田国男は『民謡覚書』の「採集のしおり」で、江戸時代から有名な歌「ぼさん山路破れたころも行きし戻りがきにかかる」という民謡を紹介していますが、大田市の手まり歌は、これを本歌としています。つまり、大人の世界の歌を、子供らしく改作して楽しんでいるのです。島根県柿木村で木挽き歌として「坊さん山道ゃ破れた衣行きし戻りがきにかる」を聞いていますが、これも本歌の1つです。
ぼんぼん さんさん
さん 山道
やんやん 破れた 御衣
行ききも もん戻りも
きにかかる か菓子屋さん
よーさっさよいさっさ
柳田国男は『民謡覚書』の「採集のしおり」で、江戸時代から有名な歌「ぼさん山路破れたころも行きし戻りがきにかかる」という民謡を紹介していますが、大田市の手まり歌は、これを本歌としています。つまり、大人の世界の歌を、子供らしく改作して楽しんでいるのです。島根県柿木村で木挽き歌として「坊さん山道ゃ破れた衣行きし戻りがきにかる」を聞いていますが、これも本歌の1つです。
よーさっさ よいさっさ
何虫ょ送るか
アブラムシを送るよ
木挽き歌
山で木を伐りだすおりにうたわれた作業歌です。辛い仕事もこのようにして、うたいながらリズムに乗って行えば、作業もはかどろうというもの。昔はこんな七七七五調の作業歌がよくうたわれていました。
木挽き女房になるなよ妹
木挽きゃいど出す はよ死ぬる
木挽き木挽きと大飯ょくろて
松の根切りで おろぼえる
播州高砂 舞子が浜で
鶴がごらんの舞を舞う
浜田のわらべ歌
お月さんなんぼ
この「お月さんなんぼ」の歌は、各地で開かれる子守歌である。しかしながらどういう訳か内容は、地方によって多彩に変化している。那賀郡当たりでは「二十三に九つ」が普通であるが、他の地方では「十三九つ」であるし、後半も違っている。ただ、この歌では「お万」が出てくるが、同類では「お千」という女性も合わせて登場することが多い。
お月さんなんぼ 二十三 九つ
そりゃまだ若いぞ
とおりの道で 娘の子を拾うて
お万に抱かしょ お万は部屋で
小豆飯ぅ炊いて
親に一杯 子に一杯
向こうの山を猿が三匹通る
子守歌の中でも「遊ばせ歌」に属するこの歌は、なかなか愉快な内容を持っている。主人公である猿の行動も傑作なら、信仰の対象であるべきはずの地蔵さんや仏さんも愉快である。この歌もよく似た内容で広く歌われており、各地で収録することができる。
向こうの山を猿が三匹通る
いっち中の小猿めが ものをよう知っとって
下の畑へ飛び降りて 大根三本 抜いてきて
焼ぁて食っても 塩辛し 煮ぃて食っても塩辛し
あんまり塩が辛うて 下の小川へ飛び降りて
水ぅ三杯飲んだらば あんまり腹が太うて
地蔵の前へ糞たれた
地蔵 地蔵 泣きゃんな 仏 仏 笑やんな
あさっての市にゃ 板三枚買うてきて
堂を作ってまいりましょ
堂もなんにもいらんが
鍋の底のコガリがほしい ほしい
からかい歌
友だちに知らせたくない秘密を知った子供が、「ええこと聞いた…」と囃す歌として知られています。ハンドウは水を蓄えておく水瓶のこと。石見地方では「隣のハンドウ、ぶちめぇだ」とうたわれることが多く、これに対して出雲地方では、例えば木次町林原の「…とうこち山へ聞こえて 松が三本倒れた」のように「○○山へ聞こえて松が三本倒れた」の形が多いようです。
ええこと聞いた 疾う聞いた 隣のハンドウ  
ぶちめぇだ 数えて三十三めぇだ
いんでかかさんに叱られて
大藪小藪へ投げられた
益田のわらべ歌
ブタちゃんの宙返り
子供たちの間ではかなり知られているもので、全国各地で採録することができるようである。ここでは太った子供を見たときに、こううたってからかったものだと、伝承者の島田さんは話していた。一般的には何気なく一人が歌い出すと、そばにいた仲間たちもつられて一緒に合唱してしまうようである。
ブタちゃんの宙返り 屋根から落ちて
水一升飲んで おなかは太鼓 おけつはラッパ
ブーブーブー
おはぎがお嫁に
傑作な内容で高齢の方には懐かしい手まり歌だと思われます。以前は良く歌われていました。おはぎ、つまりぼた餅の黄粉でまぶされたり、アンで表面を包まれたりしたのをお化粧にたとえています。歌の詞章「お化粧して」は、リズムの関係で「おけしょして」と歌われます。音節をながめれば八五八五七五七五となり、盆踊り口説きの七五調の一部字余りのスタイルです。
おはぎがお嫁に 行くときは
きなことアンコで お化粧して
のどの関所を つまづいて
あすはお発ちか 下関
坊さん坊さん
石見地方西部の手まり歌では、この「坊さん 坊さん…」の歌が、かなり聞かれました。この地方を代表する手まり歌だと考え、紹介したものです。後半の詞章では言葉はありますが、通して眺めると意味がよく分からないというのも、伝承の手まり歌らしいといえそうです。
坊さん 坊さん お前のやしき 立派なやしき 
梅の木 三本 桜が 三本 あわして 六本 
から傘から梅 からす一羽で わぁたした わぁたした
隠岐のわらべ歌
向こうの山見て機織れ
子供の手遊び歌ではありますが、歌われている詞章の内容に昔の生活の様子が、自然に投影しています。つまり、具体的に「しっかり機を織りなさい」と、毎日の生活を見据えている目が、そこに生かされているのです。
向こうの山見て
機織れ 機織れ
唐人の寝言には
これは一種の早口言葉です。友達の間でいかに早く言えるかを競って遊びます。同類を同じ隠岐の島の五箇村でも聞くことが出来ました。それは、「唐人の寝言には オオシュ テレスク ネイーソウ キンカネ ギンカネ ギンチョウ サイテ ヤータラ ボータラ オトトコ シンタン カンポンタン ヒラナイソウカ ズウベラボン スットコ ネイタカ ツーパーパー」比べてみてもほとんど同じでした。
唐人(とうじん)の寝言には
オオショ テレスコ メェショウナ
ネーロニアンネーロキンカニ
ギンカニ キンチョウ サイテテーレス
イチズクヤーノ オトトク シンタン
カンポンタン
イラナイショウカワ ズンベラ ポントコ
ネーターカ ツウパアパ 
あの山で光るものは
実にきれいな詞章と美しい調べを持った手まり歌です。同類は今のところ山陰で見つかりませんが、県外では、群馬、東京、埼玉に仲間があり、九州の福岡、熊本にも同類が確認されています。この歌は隠岐という離島ゆえに、他の地方で消えていってもそのまま命脈を保ち続けていたのかも知れません。
あの山で 光るものは
月か 星か 蛍か
月ならば 拝みましょうか
蛍ならば 手に取る
手に取る
まずまず一貫 貸し申した  
 
山口

 

日本の明日を創るのだ 松下村塾 長州魂 いまも生きてる萩の町
遊ばせ唄
かおかおかおよ
かおかお かおよ
かおかお かおよ
きっこうばい
きっこうばい やんごらせ
米ならまかしょに 麦じゃった
ぎっこたんまっこたん
ぎっこたんまっこたん 沖ゃ波が高いぞ
あばたの爺が はい諸を切らして
海の中へ どぶどぶどぶ
海の中へ どぶどぶどぶ
ちょちちょちあばば
ちょちちょちあばば あたまてんしてんしよ
じいのめじいのめ たらまきたらまき
この子はどこの子
この子は どこの子
昨日来た爺の子 上がれ遊ばしょ
黄粉餅ょ三つ四つ かるわしょ
大さむ小さむ
大さむ小さむ 小さむの家にゃ
餅ついてかこて 泣く子にゃ一つ
笑う子にゃ二つ 子守りにゃ三つ
寝させ唄
ねんねこよ
ねんねこよ ねんねこよ
寝たらおかかに 連れてゆく
起きたらごんごに かぶらせる
ねんねこよ ねんねこよ
ねんねんよ 1
ねんねんよ ねんねんよ
寝たらねむり餅 三つやる
起きたらごんごしに かぶらせる
ねんねんよ ねんねんよ
ねんねんよ 2
ねんねんよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
寝たらあんもを 搗いてやる
起きたらやいとを すえてやる
ねんねのお守りは どこへ行った
あの山越えて 里へ行った
里のみやげにゃ なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
それよりほかには なにもろた
なんにももらわん ねんねんせ
ねんねんよ 3
ねんねんよ ねんねんよ
寝たらあん餅 買うちゃるぞ
起きたらふいふい すえちゃるぞ
ねんねんよ ねんねんよ
ねんねん猫のけつに
ねんねん猫のけつに がにが舞いこんだ
いたかろ かいかろ のけてやろ
やっとこさと ひっぱり出したら
また舞いこんだ
ねんねん小山の
ねんねんよ ねんねこよ
ねんねん小山の きじの子は
起きたらおたかに とられます
だまってねんねん ねんねんよ
だまってねんねん ねんねんよ
けんけん山の
けんけん山の きじの子は
なして鷹に とられた
あまりにけんけん ないたゆえ
それで鷹に とられた
お前もあんまりなくと
鷹にとられて ゆくだろう
お子供衆お子供衆
お子供衆お子供衆 花折りに行きゃらんか
どこ花かどこ花か 地藏の前の桜花
一枝折りゃぱっと散り 二枝折りゃぱっと散り
三枝目にゃ日が暮れて 後へも先へも行かれいで
西の紺屋へ宿とろか 東の紺屋へ宿とろか
道の中の殿さま紺屋へ 宿とって
畳はせまし夜は長し あかつき起きて空見れば
ちんごのような星さまが 銚子さかずき手に持って
こりゃだれにさそうか 忠兵衛どんにさそうの
忠兵衛どんのお肴は 白うじ赤うじまだらうじ
あかだがはてのこまてうじ
婿をとるのは
婿をとるのは だれむすめ
糸屋八郎左の おとむすめ
さてもよい子じゃ 器量な子じゃ
器量で育てた 子じゃものに
木綿十反 買うてとらしょ
小袖八反 買うてとらしょ
それがうえでも 不足なら
京や大阪に つれのぼる
つれてのぼるこた やすけれど
あとで父母 泣くなみだ
泣くななみだは 船に積み
船はしろがね 櫓はこがね
やんさ押せ押せ みやこまで
みやこみやげに なにもろた
一にゃこうがえ 二にゃかがみ
三にゃこだまの 帯もろた
帯はもろたが まだふけん
今夜ふきょか お父ごさん
あしたふきょか 母ごさん
あしたのあかりに ふけつれば
蓮華の花より まだ見事
さくらの花より まだ見事
ぼたん しゃくやく ゆりの花
ねんねこよー ぼうちこよー
お前は唐の
お前は唐の唐人か
口ひげが長いで 子供が恐れた
アラヨイヨイヨイ
   お前は浜のおばさんか
   いつ見ても方褄からげて じゃこじゃこ
   アラヨイヨイヨイ
お月さんなんぼ
お月さんなんぼ 十三七つ
まだ年ゃ若いの
あんな子を産んで この子を産んで
誰に抱かしょ お万に抱かしょ
お万どこ行った 油買いに茶買いに
油屋の縁で 氷がはって
すべってころんで 油一升こぼして
太郎どんの犬と 次郎どんの犬が
みんな なめてしまった
その犬どうした 太鼓の皮にはって
あっち向いて どんどこどん
こっち向いて どんどこどん
あとさまなんぼ
あとさまなんぼ 十三九つ
そりゃまだ若いの 若いは道理
道理の道で 赤子をひろて
こりゃ誰に抱かしょ 花子さあに抱かしょ
花子さあどこ行た 油買いに茶買いに
油屋の前で 油一升かやした
その油どうした 太郎どんの犬と
次郎どんの犬と みんな来てなめた
その犬はどうした 太鼓にはって
あっち向いちゃ どんどんどん
こっち向いちゃ どんどんどん
あとはんなんぼ
あとはんなんぼ 十三九つ
そにしちゃ若いぞ 若い年ゃ道理
どうりやの背戸で ねんねこ一つ拾うた
そりゃだれにやろか お万にやろう
お万の乳は 美しゅうてまるうて
てんてんてんまりよ
ねんねこほんそ
よいよいよー こんぼいよ
ねんねこほんそが 寝たなら
つじから籾を おろして
炒ってはたいて 粉に挽いて
ねんねこほんそに 飲まするぞ
よいよいよー こんぼいよ
ねたねたせー ねんねこさ
ねんね子守りは どこ行った
あの山越えて 里行った
里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
よいよいよー こんぼいよ
ねたねたせー ねんねこさ
次郎や太郎や
次郎や太郎や
馬をどこへ つないだ
さんごろ松へ つないだ
なにょ食わして つないだ
あくたを食わして つないだ
あくたの中を さんぐりさんぐりしおったら
ぜにが一文 あったげな
そのぜにゃどうした 米を買うて候
その米はどうした 酒に造って候
その酒どうした 犬がねぶって候
その犬はどうした 打ち殺して候
その皮はどうした 太鼓に張って候
その太鼓はどうした 鳶がつついて候
その鳶はどうした 打ち殺して候
その羽はどうした 矢にして候
その矢はどうした あんな山こんな山
打って打って 打ち捨てた
ねんねん唱名
ねんねん唱名 じょうさんげ
三月じゅうは よろこべよ
よろこび心の おこるのは
弥陀の本願 きいたゆえ
弥陀の本願 きいたのは
すぐにこいとの ご勅令
勅令きいたが 信心よ
信心ひとつで まいるのよ
守り子唄
どこへ行くとも
どこへ行くとも 八ケ浜にゃ行くな ヨイヨイ
 松露がんぼ汁で 胸ょこがす ヨイヨイ
どこへ行くとも 白滝にゃ行くな ヨイヨイ
 小麦だんごで 胸ょこがす ヨイヨイ
どこへ行くとも 厚母にゃ行くな ヨイヨイ
 いやな厚母の かがち底 ヨイヨイ
山が高うて 室津が見えぬ ヨイヨイ
 室津恋しや 山憎くや ヨイヨイ 

 

わらべ歌
「そおとめそおとめ」 
   そおとめ そおとめ たぁうえ みのもかさも こうちゃろ
そおとめ=水すましの意。方言だそうです。「そおとめ」を田植えをする早乙女に見立てて歌ったとか。田植えの真似っこをして遊ぶのも面白いかもしれませんね。 
「どんどんやきゃ」 
   どんどんやきゃ じゅうよっか
   もちのかい(粥)は じゅうごんち
どんど焼き(とんど焼き・左義長)の歌で、正月14日(現在では15日に行われる)に輪飾りや書初めを外で焼きます。15日には正月に供えた鏡餅を切ってお粥にし、そのお粥を神佛に供え、家族一同が食するといった慣わしでした。どんど焼きは地方によって様々な呼び方があります。私は広島県出身ですが「とんど」と言っておりました。他にも「おんべ焼き」と呼ばれたり、「かんじょ」「どんと」「さぎっちょ」などと呼ばれたりするそうです。 
 
愛媛

 

抱いてください 燃えつきるまで 夢であなたに逢えますか 春は名ばかり 大三島
海猫の棲む島を ぐるりと一まわり 何を想うか 豊後水道
がんばろうね ふたりでね 影がより添う 豊予海峡
遊ばせ唄
籾すりこんご
籾すりこんご
籾がなけりゃ 貸しましょ
まだ籾ござる
臼に八升 箕に八升
ずってずって ずりこかして
大やぶ子やぶ
大やぶ小やぶ
光り窓に 蜂の巣
碁石に ぼた餅に
きいくらげ きいくらげ
ちょうちちょうち
ちょうち ちょうち ちょうちや
わくぐる わくぐる わくぐるや
じんのみ じんのみ じんのみや
あたま てんてんや
寝させ唄
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やよい子だ ねんねしな
守りのこやくは もからかんね
うとてさなるは 守りの役
ねんねんころりよ ねんころり
ねんねんさんねん
ねんねんさんねん 酒屋の子
酒屋のかみさん 子がのうて
はつかねずみを つかまえて
さかやきそって べべ着せて
ぜんぜを三文 持たして
油揚買いに やったなら
となりのとなりの どら猫が
頭からモジャモジャと かんでしもたア
ねんねんせェ ねんねんせ
ねんねんころりの
ねんねんころりの やぐらの子
やぐらのお守りは どこへいた
あの山こえて 里へいた
里のみやげに 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
それをもろうて 何にする
吹いたりたたいたり して遊ぶ
ねんねんころりや おころりや
その子が十五に なったなら
屋敷を開いて 倉たてて
倉の回りに 松植えて
松の木陰で 昼寝する
ねんねんころりよ おころりよ
ねんねんやぼろろんや
ねんねんやア ぼろろんや
坊やのお守りは どこへ行た
あの山越えて 里へ行た
里のみやげに 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
お笛をもろても よう吹かん
太鼓をもろても ようたたかん
ねんねんやア ぼろろんや
ねんねんやア ぼろろんや
守り子唄
下の金毘羅さん
下の金毘羅さんに
 ちょうちんが 見える
 あれはみな 雨ごいだ
 ヨイヨイ
あの子見よると
 照る日も 曇る
 冴えた月夜も 闇になる
 ヨイヨイ ヨイヨイ
なんぼ泣いても
 この子は かわい
 わしの飯の ためじゃもの
 ヨイヨイ ヨイヨイ
ねんねねさせて
ねんねねさせて ふとんを着せてェ ヨイヨイ
親はこたつで 針仕事
この子十五に
この子十五に なったなら
屋敷ひろげて 倉建てて
倉の回りに 松植えて
松の小枝に 鈴つけて
鈴がジャラジャラ 鳴るときは
おとっつぁんも おかやんも
うれしかろ
ねんねしなされ
ねんねしなされ おやすみイなされ
起きて泣く子の つらにくさ 

 

わらべ歌
(鬼ごっこの歌)
鬼子にする者な 早よこい 疾うこい あかねの夜星で でんでこでん 
(鬼あそび歌)
中の中の 弘法大師 なぜ背が低いぞ 低けりゃ高うせい 高けりゃ低うせい うしろのものだあーれ 
(まりつき歌)
おもさんおもさんお嫁入りか お嫁入りなれば言って来なれ お嫁入り道具を言うてきかそ 絹の着物を百三十 紬の着物を百三十 木綿の着物を百三十 たんす長持はさみ箱 それほど仕立ててある中に 必ずもどると思うなよ 
(お手玉)
おさら おひとつおろしておさら 
(羽根つき歌)
いってきな にてきな みていきな よっていきな いつやの むさし ななやの やくし ここのやでとうよ わたした 

てんぐんさん風おくれ いわしのあたま三つやろ 三つがいやなら四つあろ てんぐんさん風おくれ たこたこあがれ たこたこあがれ
(手合わせ歌)
一でとったくしょで 二でかきつばたね 三でさがりふじ 四で獅子ぼたんね 五つむらさき 七つナンテン 八つ山吹 九つ小梅は色よく咲いたかね 十で殿様あおいの御紋ね 竹に雀は仙台さんの御紋ね 
(縄とび歌)
大波 小波 でんぐり返して ほっぽいしょ 

一がさした 二がさした 三がさした 四がさした 
面河村
わらべ唄
わらべ唄には、二とおりの種類がある。一つは子供がみずから歌うもの、一つは子供に歌って聴かせるものである。子供の唄には、その土地で生まれたもの、又は古く人の移住によって伝わってきて、ずっと歌われたものがあり、町方の生活・文化に影響されていない農村の自然の中で育った文学といえばおおげさであろうか。その中に、いたいけない子供の自然を歌ったもの・物語り的なもの、特に、遊びに結びつくか遊びを伴ったものが多い。山村の自然を愛し、その単純な言葉にも、当時の思想的な背景もあり、その独特の調べには、素ぼくな感情が流れている。しかし近年になってから、テレビの普及・漫画の流行・幼児教育・小学教育の発達につれ、子供の生活の地域性は薄れ、昔からの子供の唄は、子供の遊びそのものの変化に伴い、しだいに子供の世界から消えつつあるのではあるまいか。
かいぐりかいぐり (赤ちゃんに動作を教える唄)
ちょうち ちょうち あわわ
じんのみ じんのみ じんのみや (片方の手のひらを人指し指で指す) 
わくぐり わくぐり (両手をくるくる回す)
にゃんの目 (目を指でつり上げる)
おつむてんてん (頭をたたく)
ほたる狩り
ほう ほう ほうたるこい
あっちの水は にがいぞ
こっちの水は あまいぞ
あまい水を のみにこい
凧あげ
てんぐんさぁん 風おくれ
いわしのあたまを 三つやろ
おたふく みふく
風がふいたら よふく
子守唄
坊やは よい子だ ねんねしな
ねんねのおもりは どこへいた
あの山こえて 里へいた
里のおみやに なにもろた
でんでんだいこに 笙の笛
おきゃがり 小法師に 犬はりこ
たたいて きかすに ねんねしな
お月さん
お月さん なんぼ 十三九つ
まだ としゃわ わかいや
わかい子 もうけて
たれに だかそか
○○さんに だかそ
まりつき唄
あんたとこ どこさ ひごさ
ひごどこさ 熊本さ 熊本どこさ
せんばさ せんば山には狸がおってさ
それを かりうどが 鉄砲で打ってさ
にてさ やいてさ それを 木の葉で
ちょいとかくせ
おてだま唄
西条山は 霧深し
ちくまの川は 波早し
さかまく波か つわものか
のぼる朝日に 旗の手の
きらくひまに くるくるくる
はないちもんめ
かってうれしい はないちもんめ
まけてくやしい はないちもんめ
ふるさともとめて はないちもんめ
ふるさともとめて はないちもんめ
○○さんとりたい はないちもんめ
××さんとりたい はないちもんめ
ジャンケンポン (以下繰り返し)
かごめかごめ
かーごめ かごめ
かごの中の とりは
いついつ でやる
夜あけの晩に
つるとかめが すべった
うしろの正面 だあれ
なわとび
大波 小波 風が吹いたら
まわしませう
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。
亥の子唄
おいのこさんというひとは
いちで俵ふまえて
にいで にっこり笑うて
三で お酒を作りませう
よっつ よの中 よいように
いつつ いつもの如くなり
むっつ 無病そくさいに
ななつ 何事ないように
やっつ 屋敷をたてひろげ
ここのつ 小蔵をたてならべ
とうで とんとん つきおさめ
かぞえ唄
一かけ 二かけ 三かけて
四かけて 五かけて 橋かけて
橋のらんかんに 腰かけて
はるか向こうをながむれば
十七、八の姉さんが
花と 線香を 手に持って
私は 九州 鹿児島の
西郷隆盛の 娘です
明治十年 戦争で
せっぷくなさった 父上の
お墓まいりに まいります
お墓の前で手をあわせ
ナムアミダブツとおがみます
父上さまの たましいは
フウワリ フワリと ジャンケンポン
てまり唄 1
てまりと てまりと いきおうて
一つのてまりの いうことにゃ
朝もとうから 起きなろて
ちゃん ちゃん 茶釜を くみかえて
とうちゃん かあちゃん おきしゃんせ
おきて ままくて かみゆうて
てんてこ寺へ まいらんか
てんてこ寺の きじねこは
内より そとより ほうろうっ
ほうろじゃあるまい 傘じゃろ
傘はなに傘 えちご傘
えちごの山へ 入ってて
あんな小屋へとまろうか
そんな小屋へとまろうか
あんな小屋は青みしろ
こんな小屋は 青だたみ
青みしろにとまって
みしろははしかし 夜は長し
あか時 すぎて 空見れば
花のやうな じょうさんが
あんどのあかりで 髪ゆうて
お月のあかりで 湯つこて
一っぱいおあがり じょうごさん
二はいおあがり じょうごさん
三ぱいめに さかながないとて あがらんか
さかなは 白うり 赤大根
低い山の ひくの子
高い山の たかの子
じょろじょろ川の あいの子
せりやいりこで おおきめた
てまり唄 2
およし よし よし 吉田の うまれ
うまれおちると おちちに はなれ
いまは 吉田の機織娘
月に三反 木綿を 二反
わしも 一度は いにたいものじゃ
いぬるこみちで書いた紙 ひろて
手にとりみれは おいろこいこい
おまんをつれて おまん ひきたて
やるものないが 筆や草紙や
うたいの本や
まだもやりたい 長崎かもじ
入れてゆわえて後から 見れば
わげが三尺 まきてが二尺
あわし五尺のなげ島田 なげ 島田 
久万町
亥の子歌
お亥の子さんという人は
一で俵踏まえて、二でにっこり笑うて、三で酒造って、
四つ世の中よいように、五ついつものごとくなり、六つ無病息災に、
七つ何事ないように、八つ屋敷を掘り広げ、九つ小倉を建て並べ、
十でとんとつき納め、この家繁盛せい 繁盛繁盛大繁盛、
もう一つおまけに大繁盛
亥の子つきを拒否した場合
亥子、亥子、亥予餅ついて、祝わんものは、鬼産め蛇産め角のはえた子産め
手まり歌
1、正月とえ、障子あければ万才がつづみの音やら歌の声、さあ歌の声
2、二月とえ、神社参りや寺参り、あすは彼岸のお中日、さあお中日
3、三月とえ、桜花にはおひな様、きれいに飾った内裏様、さあ内裏様
4、四月とえ、死んでまた来るお釈迦様、竹のひしゃくで茶々あがれ、さあ茶々あがれ
5、五月とえ、ごんぼしぼりの前かけを、正月結ぼとのけといた、さあのけといた
6、六月とえ、ろくに結ばん前かけを、ころんでよごしてはらがたつ、さあはらがたつ
7、七月とえ、質に入れたり流したり、質屋のおばさん懇切な、さあ懇切な
8、八月とえ、蜂にさされて目が痛い、姉さん薬はないかいな、さあないかいな
9、九月とえ、草の中には菊の花、姉さん一枝折ってんか、さあ折ってんか
10、十月とえ、重箱さげてどこへ行く、おいべっさまのお使いに、さあお使いに

一かけ二かけ三かけて、四かけて五かけて橋かけて、橋のらんかん腰おろし、はるか向こうを踏むれば、十七、八のねえさんか手には花持ち線香持ち、ねえさんねえさんどこへ行く、わたしは九州鹿児島の西郷隆盛娘です。
明治一〇年三月に、切腹なされた父上のお墓へ参る途中です。

おん正正正月は、松たてて、竹たてて、年詞の御用に行きましょう
おたばこぼん、お茶もてこい、なんぞ吸い物早もてこい
ひいや、ふうや、みいや、ようや、いつや、むうや、ななや、やあや、ここのや、とう
とおからおいでたおいも屋さん、おいも一貫はいくらかね、二四文でありますぞ
もうちいとまからんか、ちゃからかぼん、お前のことなら負けたぎょう
隣のおばさんちょっとおいで、おいものにころかしこれあげよ
ひいや、ふうや、みいや、ようや、いつや、むうや、ななや、やあや、ここのや、とう、とうで一回おさめた

日清談判破裂して、品川乗り出す吾妻艦、続いて金剛、浪速艦、先を行くのは松島艦、玄海灘を乗り越えて、黄海表で敵にあい、砲弾浴びて戦こうて、敵の平遠、定遠撃ち沈め、鎮遠号を捕獲して、めでたく凱旋いたしますこれか戦争のはじめにて、陸上海上大勝利
ひいや、ふうや、みいや、ようや、いつや、むうや、ななや、やあや、ここのや、とう、とうでとうとう勝ち通し、勝利勝利大勝利

朝起きた、父さん母さんどこへ行た、馬を引いて牛追うて、奥の山へと草刈りに、わたしゃおうちでお留守番、お留守番
妹が弟が次から次へと起きてくる、おまんま食べて連れだって、近所のお友だち、お友だちとお宮のお庭で遊びます
字かくし、葉かくし、手まりつき、ひいや、ふうや、みいや、ようや、いつや、むうや、ななや、やあや、ここのや、とう
十人寄ったらにぎやかに、大飛び小飛びもできまする、そりゃ大飛び小飛びでおまりがお背なに納まった

お正月はよいもんじゃ雪のようなまま食べて、木の葉のようなじじ(魚)食べて、お袖の長いべべを着て 羽子板ついてたこ上げて、まりついてこまを回して遊びます、早くこいこいお正月
なわとび歌
大波小波、風が吹いたら回しましょう、いちりき、にりき、さんりき、しりき、しきりき、すっぽんぽん
子守り歌
ねんねんころりよおころりよ、ねんねのお守りはどこへ行た。あの山越えて里へ行た。里のみやげに何もろた、でんでん太鼓にしょうの笛、それを もろうて何にする、吹いたり、たたいたりして遊ぶ、坊やはよい子じゃねんねしな、ねんねんころりよおころりよ  
柳谷村
てまりとてまり (手毬唄)
てまりとてまりが行きおうて 一つの手まりが言うことにや
一年奉公しよじゃないか 一年奉公わしゃいやじゃ
二年奉公しよじゃないか 二年奉公わしゃいやじゃ
三年奉公しよじゃないか 三年奉公するからにゃ
朝もとうから起きやんせ ちゃんちゃん茶釜に水ついで
おじさんおばさん起きやんせ 起きて茶茶飲んで髪結うて
てんてこ寺へ参りやんせ てんてこ寺のきじ猫は
父より母よりほろろうつ ほろろじゃあるまい傘じゃあろ
傘は何傘えちご傘 一に鏡台二に鏡
三人子供に帯もろて 帯はもろたがくけてない
くけておくれやあねごさん くけてあげるは楽なれど
針がないからくけられん 針は針屋の絹糸で
くけてもろうて花見に行けば お寺ぼんさにだきしめられて
帯がきれるけはなしておくれ 帯がきれたらつなぎもできる
縁がきれるけはなしておくれ 縁がきれたらつながれん
うけとった (手毬唄)
今日はきょうきょう 明日はだいだい
お台所のおてんまりを お貸しなされや
お見せなされや 貨してもろうて
ついて汚して戻すときは 赤の糸や黄の糸や
金茶まじりの紫 おうやこうやと
おちどりもうして ○○さんの小袖の下へ
お渡し申すががってんか ヨシガッテン ガッテン
わしのおばさん (手毬唄)
わしのおばさん 窓から見れば 銀の屏風に 綿のふとん
こまい茶びんに 甘茶を入れて 誰にさそうや お芳にさそう
お芳 芳 芳 吉田の生れ 生まれ落ちると おばさんがかり
おばにかかりて はや十年よ 奉公さそうか 縁づきさそか
縁はまだまだ 奉公が急ぐ 奉公さしても わきへもやらん
寺のおしょやの 機織り奉公 機は織っても 布織りいやよ
紬三反 木綿が二反 織って仕立てて 旦那に着せて
わしも一度 いにたいものよ いぬる小道で 書いた紙ひろて
足でけり上げ 手に取って見れば 下の一字は お色とござる
上の一字は お万とござる お色来い来い お万をつれて
お色来たとて やるものないぞ 筆に草紙に 歌の本
まだもやりたい 長崎かもじ いれていわして 後から見れば
つとん三尺 まきてが二尺 合せて五尺の まげ島田
一匁のいい助さん (手毬唄)
一匁のいい助さん いの字が嫌いで 一万一千一百石一斗一升
お蔵におさめて二匁に渡した
二匁のにいすけさん 二の字が嫌いで 二万二千二百石二斗二升
お蔵におさめて三匁に渡した  (一〇匁まで続く)
おしょしょ正月 (手毬唄)
おしょしょ正月は 松立てて 竹立てて 年始の御祝儀 いたしましょ
オチャチャカポン 茶々持て来い なんと 吸物 早よ持て来い
子供の喜ぶ お正月 お正月
ひいや ふうや みいや ようや いーつや むーや なーや やーや
ここのや とーや とうからおいでだ お芋屋さん
お芋一升 いくらかね 八十七銭五厘よ もちっとまからんか チャカランカポイ
おばさんのことなら まけてあぎょ ざるを出し ますを出し
正月とえ (手毬唄)
正月とえ 障子あければ万才が 鼓の音やら歌の声 さあ歌の声
二月とえ お宮参りや寺参り あすは彼岸のお中日 さあお中日
三月とえ 桜の花にはおひな様 きれいに飾った内裏様 さあ内裏様
四月とえ 死んでまた来るお釈迦様 竹のひしゃくで茶茶あがれ さあ茶茶あがれ
五月とえ ごんぼ紋りの前掛けを 正月結ぼとのけといた さあのけといた
六月とえ ろくに結ばん前掛けを ころんで汚して腹が立つ さあ腹が立つ
七月とえ 質に入れたり流したり 質屋のおばさん親切な さあ親切な
八月とえ 蜂にさされて目が痛い 姉さん薬はないかいな さあないかいな
九月とえ 草の中には菊の花 姉さん一枝折ってんか さあ折ってんか
十月とえ 重箱さげてどこえ行く おいべつさまのお使いに さあお使いに
十一月とえ 十一ぐらいの兄さんが 鉄砲かついで鳥うちに さあ鳥うちに
十二月とえ 十二ぐらいの姉さんが 私の肩掛け編んでいる さあ編んでいる
一かけ二かけ (手毬唄)
一かけ 二かけ 三かけて 四かけて 五かけて 橋をかけ
橋のらんかんに 腰かけて はるか向うを ながむれば
十七八のねえさんが 手には花持ち 線香持ち
ねえさん ねえさん どこえ行く 私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年の戦争で 切腹なされた 父上の お墓参りに参ります
一れつ談判 (手毬唄)
一れつ談判破裂して 日霧戦争始った さっさと逃げるはロシヤ兵
死ぬまで尽すは日本の兵 五万の兵と戦いて 六人残して皆殺し
七月七日の戦いに ハルピンまでも 攻めよせて クロバトキンノ
首を取り 東郷大将万々歳
一番はじめは (手毬唄)
一番 最初は一ノ宮   二で 日光東照宮
三で 讃岐の金毘羅さん 四で 信濃の善光寺
五つ 出雲の大社    六つ 村々鎮守様
七つ 成田の不動様   八つ 八幡の八幡宮
九つ 高野の弘法大師  十で 東京の明治神宮
おじゃみ (お手玉唄)
おじゃみ おふた おみい およう なんとかじゆ とんちな
おじゃみざくら おふたざくら おみざくら ざくら おようざくら
おななざくら おもがえし おうまののりかえ おかごののりかえ
のりかえた おふた おふた おうまののりかえ のりかえた
おみい おうまののりかえ のりかえた
およう おうまののりかえ のりかえた
日本の乃木さんが (お手玉唄)
日本の乃木さんが 凱旋す すずめ めじろ ロシヤ 野蛮国 クロバトキン
金の丸 マカロフ ふんどし 締めた 丹切り リコウシヨウのはげ頭
負けて逃げるが チャンチャンボ 
棒でたたくが犬殺し しわん坊主の柿の種 年があいたら帰ろうか
鍛冶屋の丁稚も暑かろう お寺の小僧もお経よみ 皆さんこれでおしまい
一や二 (羽子つき唄)
一や二 三や四 五や六 七や八 九や十
鬼ごと (鬼あそび唄)
鬼さんこちら 手のなる方へ
鬼さんこちら 豆いってかまそ
鬼が来るまで 豆いって待ちょろ
かごめかごめ (鬼あそび唄)
かあごめ かごめ 篭の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に
鶴と亀が すうべった うしろの正面だあれ
坊さん坊さん (鬼あそび唄)
坊さん坊さん どこ行くの わたしは 田圃へ稲刈りに
私も一緒に連れしゃんせ お前が来ると 邪魔になる
このきんかん坊主 くそ坊主 後の正面だーれ
中の中の弘法大師 (鬼あそび唄)
中の中の弘法大師 なぜに 背が低いぞ 立てば立ってみせい
うしろの者 だあれ
大波小波 (縄とび唄)
大波小波 風が吹いたら まわしましょ 一 二 三
四 五 六 高一 高二 三リキ リキ リキ スッポンピ
ゆうびんさん (縄とび唄)
ゆうびんさん 走らんか もうかれこれ 十二時じゃ
時間がきれたら ばっきんじゃ
おはいり (縄とび唄)
おはいり はいよろし ジャンケンポン
負けたお方は 出てちょうだい
子くれ子くれ (子取り遊び)
子くれ子くれ どの子が欲しい この子が欲しい 連れて帰って
何食わす せんちのはたの ぐいみ食わす それはあんまり
ほろきしゃない 川端のぐいみ 食わす それはあんまり 水くさい
お米のまんまに じじ食わす それなら やるから 連れて行き
夏も近づく (手合わせ遊び唄)
夏も近づく 八十八夜 野にも山にも 若葉が茂る あれに見ゆるは
茶摘みでないか あかねたすきに 菅の笠ー
いびつく (指遊び唄)
いびつく にびつく さんびが早い お姫さんが 指つく らんちゃんぽ
一が刺した (指遊び唄)
一が刺した 二が刺した 三が刺した 四が刺した 五が刺した 六が刺した
七が刺した 八(蜂)が刺した ブーン
だるまさん (にらめっこ遊び唄)
だるまさん だるまさん にらめっこしましょ
笑ろたら駄目よ うんとこ どっこいしょ
通りゃんせ (関所遊び唄)
通りやんせ 通りやんせ ここはどこの 細道じゃ
天神様の細道じゃ ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ この子の 七つのお祝いに
お札を納めに 参ります 行きはよいよい 帰りは恐い
恐いながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
ちようち (幼児の唄)
ちようち ちようち おつむてんてん
輪くぐり 輪くぐり おつむてんてん
じいのみ じいのみ 
伊予市
あやふり、お手玉のうた
(一)さいじょうさんは きりふかし ちくまの川は 波あらし はるかにきこえる ものおとは さかまく波か つわものか のぼる朝日の はたの出の ひらめくひまに くるゝゝ
(二)くるまがかりの じんそなえ めぐるもあいずの ときのこえ あわせるかいも あわしふく てきはこのかた かすみだす 川中島のたたかいは かたるもきくも いさましや

お一つおとして おさら お二つおとして おさら おみんなおとして おさら お手のみ おさら おつかみ おさら おちりんて おさら おひだり おひだり おさら くるくるまわして おさら くはづけやっちょんめ やっちょめ やっちょめ おさら お手ぶし お手ぶし ぶっしておさら おんばさん おんばさん ばあさんで おさら しいるしる しいるしる しいるでおさら おさで おさら ちいさな はしくぐれ くぐっておさら おおけな はしくぐれ くぐっておさら どのむくりやんしょ お一つやのおつの木 お二つやのおつの木 お三つやのおつの木 どっこい目が一しょう おじゃみ お二お二 お三お三 お四 なんてくりょう とんきり おじゃみざくら お二ざくら お二ざくら ざくら お三ざくら お三ざくら ざくら お四ざくら おななさらり むむがえし お二こぼし お二こぼし こぼし でたよ でたよ でたよ おひとよせ おふたよせ おのせきり おひと おぬけ おぬけ おぬけ ぬけた おふた おぬけ おぬけ おぬけ ぬけた おみお おぬけ おぬけ おぬけ ぬけた お四おぬけ おひとお馬ののりかえ おかごでのりこえた お二 お馬ののりかえ おがごてのりかえた お三 お馬 お四 お馬 小はしくぐれ 大はしくぐれ おむがえし おつめぱあらあり おまねき一っかい 一つ ひんがら 二つ ふんがら 三つ みんがら 四つ よんがら 五六いつでも 七八おいさん ここのとお
羽根つきうた
一や二 三や四 五や六 七や八 九や十

ひとめ ふため 見わたしゃ 嫁ご いつやの むさし 七やの やくし 九のや 一くわん
手まりうた
おしろのさあ おしろのさあ おん侍衆は おかごにおのりて いちうけいっさんどん ついた かどん つかんかどん 島ばち 松ばち さかしにどん 一や二 三や四 五つや六 七や八 九や十 もういっぺんかえして おしろのさあ おしろのさあ

おんしょうしょうしょう正月は 松たてて 竹たてて 子どものよろこぶ お正月 だんなのけらいの おおみそか いちや 明くれば元日 年賀の御祝儀申しましょう おちやぼこぼん なんぞすいもの はよもてこい 一や二 三や四 五や六 七や八 九のや十 とおからおいでだ おいもやさん おいも一升 いくらかね 三十四文でございます もつとまからんか しゃからんかね おまえさんのことなら まけてあぎょ ますおだし ざるおだし ほっちょ まないた だしかけて あたまをきろとは とうもんじや しっぽきろとは やっはしじや となりのおばさん ちょっとおいで おいものにころがし これあぎょお そこでおならを ごめんなさい ぷッ ぷッ ぷッ なかむら ななしの ななむすめ としは十六 名はおせん おせんのともだち 四十九人 四十九人の友だちが うえしたそろえて けしょさして おびはどんすの 寺まいり てんじくつとめて 出かけたら お舟とちゃ舟がういて来て 小舟にのろうか おせんじょろ ちゃ舟にのろうか おせんじょろ おぶねも ちゃぶねも やすませて 人のやしきへ とりついて かたち油を べたつけて 一わのもっとい みのまいて 子ども 来たなら かおかくせ わかいし来たなら お茶をだせ  まずまず一かい すみましたあ すみました

てまりとてまりが いき合うて ひとつの手まりの いうことにや 一年奉公しよじゃないか 二年奉公をした時にや 朝もとおから おき習らうて ちゃんちゃん茶釜に 茶を入れて 父さん 母さん おおきんか おきてままくて 髪結うて てんてん寺へまいらんか まいらんか てんてん寺のきじねこが 門より そとより ほろろうつ ほろろじゃあるまい かさであろ かさは 何がさ えちごがさ えちごの山へ なわかけて あとからおくまが なきかかる なくなく涙を舟につむ 舟は何舟 都舟 都の土産に何もろた 一にきようだい 二にかがみ 三にさなだのおびもろた おびはもろたが くけてない くけてむすんで 花見にいたら 花見にいたら 先先一がいすみましたあ すみました

あんたがた どこさ ひごさ ひごどこさ くまもとさ くまもとどこさ せんばさ せんばやまには たぬきがおってさ それを りようしが てっぽうで うってさ にてさ くってさ うまさの さっさ

一かけ二かけ 三かけて 四かけて五かけて橋かけて 橋のらんかん腰かけて はるか向こうをながむれば 十七、入のねえさんが 片手に花持ち 線香持ち ねえさんねえさんどこへいく 私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です 明治十年 三月に 切腹なされた父上の お墓へ参る途中です

日清談判破裂して 品川乗り出す吾妻艦 続いて金剛浪速艦 さきに行くのが松島艦 玄海灘を乗りこえて 黄海沖で敵にあい 砲弾あびて戦うて 敵の平遠 定遠撃ち沈め 鎮遠号を捕獲して めでたくがいせんいたします これが戦争のはじめにて 陸上海上大勝利

お月さんなんぼ 十三七つ まだ年や若いぞ あのこをうんで この子をうんで だれにだかしょ お方に抱かしょ お万お万どこへいた 油買いに酢買いに 油屋の前で すべってころんで油一升かやした その油どうしたら 犬がなめてしもうた その犬どうしたら その犬殺した その皮どうしたら 太鼓に張った その太鼓どうしたら 祭りの晩に あっち向いちゃ ドンドコドン こっち向いちゃ ドンドコドン たたき破ってしもうた そのやぶれどうしたら せったに張ってしもうた そのせったどうしたら はいてはいてはきやぶってしもうた そのやぶれどうしたら 犬がくわえてしもうた

いちばんさいしょは一の宮 二で日光東照宮 三でさぬきの金比羅さん 四で信濃の善光寺 五つ出雲の大社 六つ村々鎮守様 七つ成田の不動様 八つ八幡の八幡宮 九つ高野の弘法さん 十で所の氏神さん

日露談判破裂して 日露戦争始まった さっさと逃げるはロシアの兵 死んでも尽くすは日本の兵 五万の兵と戦いて 六人残して皆殺し 七月七日の戦いに ハルピンまわって攻めぬいて クロバトキンの首をとり 東郷大将 万万歳

青葉繁れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下蔭に駒とめて 世の行く末をつくづくと しのぶよろいの袖の上に 散るは涙かはた露か (小学校唱歌)

手まりはうたを歌いながら、手でぽんぽんとついて遊んだ。手まりをつくとき、足をまりの上でまわしたり、またをくぐらせたりしながら次の子に、一小節ずつ歌っては引きついでいき、最後の子どもが、うしろで腰のところでうけて終わる遊びで、女の子が好んでする遊びであった。
せっせっせ(二人が向かい合って、手をうったり合わせたりしながら歌ううた)
一にこっぷりげた はなおがたァよる
二でにわはきゃ ほうきがたァよる
三でさけのみゃ おさかながたァよる
四つよめさん むこさんがたァよる
五ついとひきゃ おくるまがたァよる
六つむくつきゃ はごいたがたァよる
七つなく子にゃ おんばさんがたァよる
八つやまいきゃ おべんとがたァよる
九つこめつきゃ おうすがたァよる
十でとのさま おやりがたァよる
鬼ごっこのときのうた
○鬼さんこちら手のなる方へ
○鬼の来るまで 豆いって待ちょろ
○おにの来る間に 豆いってかもう
○じようり(ぞうり)かくし ちゃろれんぼ 橋の下のねずみが じようりをくわえて チュウ チュウ チュウ チユウチュウの まんじゅは 誰が食た だあれも食わない わしが食た
かごめ遊びのうた
○かあごめ かごめ かごの中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるとかめがすべった うしろの正面 だァーれ
○中の中の弘法大師 なぜ背が低いぞ こうまい時にえび食べて それで背が低いぞ 後ろの者 だァーれ
○せーれんかずわら かごんだ まんじゅやの角で火を打って たばこのんで チョイとかごんだ あとの者 だーれ

かごめ遊びは、みんなで手をつなぎ、まん中に目をつむって坐っている鬼のまわりを、これらのうたを歌いながら回って、歌い終わると腰を下ろして、鬼にまうしろにいる子をあてさせる遊びである。
縄とびうた
○大波小波 風が吹いたら まわしましよ 一りき二りき 三りきりきりき すっぽんぽん
○おひとりさん おーはいり 今日は ジャンケンポン あいこでしょ あーらしょ 負けたお方は お出なさい
○おーはいり はいよろし ジャンケンポン 負けたお方は出てちょうだい

縄とびは人が縄をまわしながら中へはいって、いっしょにとぶ遊びと、二人がまわして一人がはいり後からはいった人と、うたに合わせてジャンケンをし、勝った子どもが残って、またはいるという遊びである。
子とろ
○子とろ子とろ どの子がほしけりゃ あの子がほしい 連れていんで何食わしゃ 鯛や 骨じゃこ いか買うて食わそ それはあんまり骨かましい せんちのはたのしゃしゃぶい みそつけて食わそ それはあんまりほろきしゃない 川のはたいてむしろしいて しゃごのみをぬかそ そうりやあんまりしんきくさい 金の着物着せよ それならよかろ
ものまね遊び
○羅漢さん 羅漢さん 羅漢さんがそろたらそろそろはじめましょ スツポンポン スツポンポン
指遊び
○いびつく にびつく さんびが早い お姫さんが指つくらんちゃんぽん
にらめっこ遊び
○羅漢さん羅漢さん にらめっこしましょ 笑ろたらだめよ(羅漢さんのこわい格好をまねて相手をにらみつけ、笑ったらまけになる)
関所遊び
○通りやんせ 通りやんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ ちょっと通してくだしゃんせ ご用のないもの通しゃせん この子の七つのお祝いに お札を納めにまいります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
二人が両手を向かい合わせてにぎり、その下をくぐりぬけて遊ぶ時に歌ったうたで、つかまった者がはみだされる遊びで、うたに合わせて通っていった。
手遊びのうた
○一がさした 二がさした 三がさした 四がさした 五がさした 六がさした 七がさした 八(蜂)がさした ブーン くまんばちがさした ブーン(そこでつめくる)
手をひき合って遊ぶときのうた
○井戸のがわせの 大水車 水にせかれて どんどとまわる 一寸たかなんぼ 一匁五分 もつとまからんか まかることならん まからにや ほいとせ ほいとしょも わんがない わんがなきゃ ぼいだせ
とんぼつり
○とんぼゝ しおからとんぼ もちざおもつも おまえはささぬ ひなたはあつい こちへきてとまれ
つんばなぬき
○つんばなぬいたか けぬいた へびならうごけ はめならじっとせ
どんこ(川魚をとるときに歌う)
○どんこ どんこ どこいきや ようごわるきで せなあぶる
ほたるがり
○ほたる来い 火やろ あっちの水はからいぞ こっちの水はあまいぞ ほッほッ ほたる来い
○ほ、ほ、ほたる来い そっちの水は苦いぞ こっちの水は甘いぞ ほ、ほ、ほたるこい あんどのかげから しのんでこい
からす
○あーとのかあらす さーきいけ さーきのかあらす あーとにいけ 山のお家がやけよるぞ 早よいんで 水かけよ
お月見のうた
○お月さんなんぼ 十三 九つ まだ若い若い だれにだかそか だれそれさんにだかそか
おひなさんのうた
○ひなさんゝ またおいで 来年の三月に さくらの花の さくじこに
幼児をあやすうた
○ちょうち ちょうち ちょうちや わかぐり わかぐり わかぐりや じんのみ じんのみ じんのみや おつむ てーん てーんや
たこあげのうた
○たこたこあがれ 天まで上がれ 字だこに絵だこ どちらもあがれ
雨のうた
○あーめえ あーめえ降るなよ やーまの鳥が鳴くぞよ
○雨も降らんのに傘さして 一文でーこに笑われた
○夕やけこやけ あーした天気になーれ
ほうしことりのうた
○ほうしこ ほうしこ 山の中のとうなの子 とうながしんでも 出て来い とうながしんだら かねたたく
○ほうしこ ほうしこ でてこい 出んとかまでぶち切るぞ
○ほうしこ ほうしこ だれの子 やぶの中の とうなの子
小さい子の遊びのうた
○ひに(一)ふに(ニ)だあ(三)だるま(四)こうて(五)ちい(六)ちんがら(七)ほけ(八)きょの(九)とんがらし(十)
( 小さい子に十までのかずを覚えさすために歌ったものである。)
かんづくし
○みかん きんかん さけのかん おやじのせっかん 子がきかん びんぼのもとだちゃ働かん 
中山町
亥の子歌
お亥の子さんという人は
一に俵ふうまえて   二でにっこり笑うて
三で盃さしおうて   四つ世の中よいように
五ついつものごとくなり 六つ無病息災に
七つ何事ないように   八つ屋敷を買ひろげ
九つ小倉をたてならべ 十でとうとうおさまった
エンヤモ エンヤー
ここで御祝儀をもらう、もらってから
ここの屋敷はよい屋敷 がわが高うて 中ひくで
大判小判がすずれこむ 繁盛せーい 繁盛せーい
もし亥の子つきを断ったり御祝儀をこばんだ時は、「亥の子 亥の子 亥の子餅ついて 祝わんものは 鬼もうけじゃもけ 角のはえた子もけ」、とはやしたてたところもある。以前は五輪のような石に、縄をつけ大勢の子供が引いていたが、この頃では庭や、道路がコンクリート、アスファルトになったため自動車の古いタイヤでやっている。また、農家の集落では伝承されてきた藁ボテを利用しているようだ。
関所あそび
通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ ちょっと通して下しゃんせ
ご用のない方通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります
往きはよいよい帰りは怖い 怖いながらも通りゃんせ
通りゃんせ
縄とび
お入り 今日は ジャンケンポン アイコデショ
負けたお方はおでなさい ハイヨロシ  (くり返し)

大波小波 風が吹いたら回しましょう 一や二や三や
四や五や六や 三りきりきりきすっぽんぽん
子とろあそび
古里もとめて花一匁、古里もとめて花一匁 あの子を
とろか この子をとろか ○○さん ジャンケンポン
勝ってうれしや花一匁 負けてくやしや花一匁  (くりかえし)
お手玉
お一つ落としておさら お二つ落としておさら お三つ落としておさら
お四つ落としておさら おみな落としておさら トンキリー  (くりかえし)

小さい橋くぐれ 小さい橋くぐれ 小さい橋くぐれ
おみな落として大きな橋くぐれ (くりかえし)

たんのり たんのり 一ちょかけたんのり 二ちょかけたんのり
たんのり 三ちょかけたんのり 四ちょかけたんのり たんのり  (くりかえし)
(お手玉一ヶの遊び)
一かけ 二かけ
一かけ二かけ三かけて 四かけて五かけて橋をかけ
橋のらんかん手を腰に はるか向こうをながむれば
十七八のねえさんが  片手に花もち線香もち
ねえさんねえさんどこへ行く わたしは九洲鹿児島の西郷隆盛娘です
明治十年三月に(明治十年九月に死す) 切腹なされた父上の お墓参りにまいります
お墓の前で手を合し ナムチン ナムチン ジャンケンポン  (くりかえし)
目かくし
カアゴメ カゴメ かごの中の鳥は いついつ出合う
夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後の正面だあれ
(○○さん、名前が当たれば交替する)  (くりかえし)
手まりの歌
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ
仙波さ 仙波山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲でうってさ
煮てさ 食ってさ うまかってさ (マリを背中にのせて終わる) (くりかえし)

一れつらんぱんはれつして、日露戦争はじまった
さっさと逃げるはロシアの兵 死んでもつくすは日本の兵
五万の兵をひきつれて 六人残してみな殺し
七月八日の戦いに ハルピンまでも攻めよせて
クロバトキンの首を取り 東郷大将ばんばんざい
十一なみこの墓参り 十二は二宮金次郎 十三三月花節句
十四新年おめでとう 十五五月の鯉のぼり 十六ろしやの番人さん
十七質屋のむすめさん 十八浜辺の白うさぎ 十九くろんぼ印度人 二十は東京の二重橋

おんしょんしょん正月は 松立てて 竹立てて 何ぞすいものもってこい
ひーや ふーや みーや よーや いつやむーや ななやー やーや ここのやーとう
とうからおいでたお芋やさん お芋一貫いくらかね 二十四文でございます
もっとまからんかさがらんか お前のことなら負けとこう
ますお出し ざるお出し 隣の婆さん一寸おいで お芋のにっころがしこれあげよ
ひーや ふーや みーや よーや いつやー むーや ななやー やーや ここのやー とう
とうで一回おうさめた
子守歌
ネンネンヤネンネンヤネンネのお守りはどこへ行た
うね坂越えて里へ行た 里のみゃげに何もろた
でんでん太鼓に笙の笛 それでもたらぬとおいるなら
たたきたおせやぶち倒せ たたいてなるかや乳飲ませ
守りがつらさに裏に出て見れば 雪のかからぬ山はない
一匁の一助さん
一匁の一助さん 芋かいに走った 一万一千一百石一
  斗一升一とうまいの お倉に納めて二匁に渡した
二匁の二助さん 人参かいに走った 二万二千二百石
  二斗二升二とうまいの お倉に納めて三匁に渡した
三匁の三助さん さばかいに走った 三万三千三百石
  三斗三升三とうまいの お倉に納めて四匁に渡した
四匁の四助さん 羊羹かいに走った 四万四千四百石
  四斗四升四とうまいの お倉に納めて五匁に渡した
五匁の五助さん ごぼかいに走った 五万五千五百石
  五斗五升五とうまいの お倉に納めて六匁に渡した
六匁の六助さん ローソクかいに走った 六万六千六
  百石六斗六升六とうまいの お倉に納めて七匁に渡した
七匁の七助さん 七輪かいに走った 七万七千七百石
  七斗七升七とうまいの お倉に納めて八匁に渡した
八匁の八助さん ハッパかいに走った 八万八千八百
  石八斗八升八とうまいの お倉に納めて九匁に渡した
九匁の九助さん 胡瓜かいに走った 九万九千九百石
  九斗九升九とうまいの お倉に納めて十匁に渡した
口ずさむ歌
ここからお江戸へ三百里 いきしもどして六百里

日本の乃木さんが 凱旋す 雀 目白 ロシヤ 野蛮国
クロバトキン 金のたま マッチ  (くりかえし)

父さんトントに酒がない 母さんカッコにはまがない
じいさんジイジに骨がない 婆さんバッポにあんがない

いちじく にんじん さんしょうに しいたけ ごぼうに
ろうそく 七りん 葉っぱ 胡瓜に トマト

さんかく 四角 四角は豆腐 豆腐は白い 白いは兎
兎ははねる はねるは蝗 蝗は青い 青いはねぶか
ねぶかは長い 長いは煙突 煙突は丸い 丸いはお月さん
お月さんは光る 光るはおやじのはげあたま

そうだ そうだ そうだの村の村長さんが 死んだそうだ
葬式まんじゅう食ったそうだ うまかったそうだ

一番星見つけた お宮の森の上に 二番星見つけた
○○の○○の上に  (くりかえし) 
子守唄
ねんねんころりよ おころりよ 坊やはよい子だ ねんねしな 坊やのお守りは どこへ行った あの山越えて 里へ行った 里のみやげに 何もろた でんでん太鼓に 笙の笛 おきゃがりこぼしに 振り太鼓 ねんねんころりよ おころりよ

むかえの山に 猿が三匹とまって さきの猿ももの知らず あとの猿ももの知らず いつちの中の子猿めがようもの知って もの知り川へ飛びこんで 鮎を一匹ふるまえて 手でとるのもかわいいし 足でとるのもかわいいし  
 
徳島

 

紅の寒椿 夢の中でも 散りいそぐ 鳴門海峡 海が鳴る
遊ばせ唄
ぎんぎやもんも
ぎんぎやもんも 籾すりおかた
やまどは戻りこむ 子は泣きさけぶ
だんごは煮えこむ 杓子は見えず
すってすって すりまくれ
寝させ唄
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
坊やのお守りは どこへ行た
あの山越えて 里へ行た
里のおみやに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
それをもろうて なににする
ふいたり たたいたり して遊ぶ
坊やのお守りは
坊やのお守りは どこへ行た
あの山越えて 里へ行た
里のおみやに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
そこには これいな鳥もいて
みんなで 仲よく 遊んでた
ねんねねんねと 1
ねんねねんねと ねる子はかわい
起きてなく子は つらにくい
つらのにくいやつァ 田んぼへけこめ
けこめひっぱり出せ またけこめ
ねんねねんねと 2
ねんねねんねと たたいてねさす
 誰がねさそに たたかれて
うちのこの子は よう泣くみそじゃ
 守りが泣かすかと 親おもう
親がおもても ひねりはせぬぞ
 この子かんしゃく 虫のから
家の裏には たんたんたの(ぬ)き
 出たりひっこんだり また出たり
撫養の子守歌 1
とんと徳島に 芝居がでけて
 太鼓たたけば 雨が降る ヨイヨイ
雨は降りくさる 子は泣きくさる
 下駄の鼻緒が 切れくさる ヨイヨイ
この子よい子じゃ ぼた餅顔じゃ
 きな粉つけたら なおよかろ ヨイヨイ
うちの裏には 茗荷や蕗や
 茗荷めでたや 蕗繁昌 ヨイヨイ
撫養の子守歌 2
ねんね ねぶたいのに 糸ひけひけと
 車大工さんが なけりゃよい ヨイヨイ
酒屋酒屋と 三軒ならぶ
 中の酒屋が いっちこいし ヨイヨイ
ねんね念仏 起きたらつとめ
 つらいつとめを せにゃならん ヨイヨイ
お前そういうて そない酒のんで
 わしにぼろでも 着せる気か ヨイヨイ
撫養の子守歌 3
とんと徳島に 芝居ができて
 太鼓たたけば 雨が降る ヨイヨイ
うちのこの子は かしこで利口で
 親にかくれて 抜け参り ヨイヨイ
うちのお父っつぁん じょうろり好きで
 買うてやりたい 見台を ヨイヨイ
牟岐の子守歌
守りよ行かんか お役所の前に
 行たら貝吹く 子が起きるよ ヨイヨイ
守りよ守りよと 追い使われて
 わしが去んだら 子に困る(よ) ヨイヨイ
守りが憎いとて やぶれ傘くれて
 かわいわが子に みなかかるよ ヨイヨイ
美馬の子守歌
守りが憎てか やぶれ傘くれて
 かわいわが子は ぬれるのに ヨイヨコ
ねんね ねんねと 胴たたかれて
 なんでねらりょうに たたかれて ヨイヨコ
上勝の子守歌 1
お守りというもな つらいもの
お主にゃ叱られ 子にゃ泣かれ
旦那さまには いじめられ
お守りのそぶつは 白じばん
紺糸一すじ いっとらん
上勝の子守歌 2
守りほど悲しい ものはない
お主にゃ叱られ 子にゃ泣かれ
人には楽なよに 思われて
旦那さまには いじめられ
なんでこの子が かわいかろ
おままの種じゃと 思やこそ
節季しもうて 去ぬときにゃ
なが虫みたよな 帯ひとつ
それも惜し惜し くれたかや
ネーン ネーン ネーンね
ヨーイ ヨーイ ヨーイよ
花はなに花 つつじ花
一枝折っては 腰にさし
二枝折っては 肩にかけ
三枝折る間に 日が暮れた
ねんねしなはれ
ねんねしなはれ 今日は二十五日よ
 あすはこの子の 宮まいりよ
宮にまいるときゃ なんというておがむよ
 この子一代 まめなように
守りがおろかか してみてごろじょ
 親にゃ叱られ 子にゃ寝じかれてよ
 人にゃ楽なように 思われてよ
ねたら念仏 起きたらつとめよ
 つらいつとめも せにゃならんよ
坊やのぼりさん
坊やのぼりさん どこいた
あんな向こい 花とりに
一枝折っては 腰にさし
二枝折っては 手に持って
三枝ぶりには 日が暮れた
ネーン ネーン ネーンよ
この子はよう泣く めっそなく
泣くなよ泣くなよ きじの鳥
泣っきょったら 殺生人に撃たれるぞ
ネーン ネーン ネーンよ
ヨーイ ヨーイ ヨーイよ
ポンポコ ポンポコ ポンポコよ
神山の子守歌 1
ハーとんと徳島にハー 芝居がでけて
ハー太鼓たたけば 雨が降る
太鼓たたいて 踊り子寄せて
ハー器量のよい子を 嫁にする
器量で一番 しょてんで二番
ハー髪の結いよで 二十五番
神山の子守歌 2
ねんね ねんねと たたいてねさす
 何がねらりょうに たたかれて ヨイヨコ
ねんねする子にゃ 赤いべべ着せて
 ねんねせん子にゃ 縞のべべ ヨイヨコ
ねんね ねんねと ねる子がかわい
 起きて泣く子が つらにくい ヨイヨコ
げしなれげしなれ
げしなれ げしなれ げんげばな
げんげは六月 また九月
五月に咲いたる 白れんげ
この子一人に つんであぎょ
椿泊の子守歌
ねんねする子に 赤べべ着せて
 起きて泣く子に 縞のべべ ヨイヨイ
芝居見にいき 役者にほれて
 七日七夜 小屋でねた ヨイヨイ
ねんねする子の 父ちゃんおそい
 猪にかまれたか 道寄りか ヨイヨイ
徳島の子守歌
ねんねする子に 赤いべべ着せて
 日傘さしかけ 宮まいり ヨイヨコ
宮にまいったら なんと言ておがむ
 この子一代 息災に ヨイヨコ
ねんね ねんねと たたいてねさす
 なんでねらりょう たたかれて ヨイヨコ
うちの裏の士さん
うちの裏の 士さんが
鉄砲かついで 雉うちかける
雉はけんけん ほろほろ涙
泣いた涙で 船こぎ出して
船はどこへついた 大阪の町よ
大阪みやげに 何々もろた
一に三味線 二に帯雪駄
三に晒の かたびら かたびら
ねんね浜の松
ねんね浜の松 ねむろとすれば ヨイヨイ
磯の小波が ゆりおこす ゆりおこす
磯の小波が ゆりおこす
   磯の小波に ゆりおこされて ヨイヨイ
   ねんね浜の松 ねむたかろ ねむたかろ
   ねんね浜の松 ねむたかろ
ねんねころいち 天満の市よ ヨイヨイ
大根そろえて 船に積む 船に積む
大根そろえて 船に積む
   船につんだら どこまで走る ヨイヨイ
   木津や難波の 橋の下 橋の下
   木津や難波の 橋の下
橋の下には かもめがおるぞ ヨイヨイ
かもめとりたや 竹ほしや 竹ほしや
かもめとりたや 竹ほしや
   泣くな一太郎 泣かすな二太郎 ヨイヨイ
   あんじょ守りせよ 三太郎よ 三太郎よ
   あんじょ守りせよ 三太郎よ
粗谷の子守歌 1
この子が十五に なるときは
わたしがいろいろ 蔵をたて
蔵のめぐらに 杉植えて
杉が枯れたら 松植えて
松の小枝に 鳥とまる
鳥はなに鳥 しらさげよ
しらさげ しらさげ どこへ行く
あのうね超えて 里へ行く
里のみやげに 何もろた
てんてん太鼓に しょうの笛
それをもろうて 何にする
吹いたりたたいたり して遊ぶ
ねーん ねーんよ
粗谷の子守歌 2
この子の姉さん どこへいた
あの里越えて 花とりに
花は何花 つつじ花
三枝折る間に 日が暮れて
あとへ帰りょにも 道知らず
向こうへ行こにも 道知らず
ねーん ねーん ねん
この子の母さん どこへいた
あの谷渡って 萱刈りに
泣いたら守りさん えらいぞな
この子が寝入ったら そのあとで
餅やだんごを しておいて
起きたらこの子に みな食わそ
ねーん ねーん ねん
この子のととさん どこへいた
あの山越えて木地づくり
木地は何木地 六什もん
五つ作って 日がいった
中の小宿で 宿とれば
むしろはしかい 夜はながい
ねーん ねーん ねん
この子のぼりさん どこへいた
あのうね超えて 嫁はんに
お里帰りに 何もらう
三文でこに もぶし菓子
あした七日ぞ はよ戻れ
この子よい子じゃ ねんねする
ねーん ねーん ねん
ねんねころいち
ねんねんころいち 床屋の子
床屋で生まれた 勝五郎は
車にのせて ひいてやろ
車がいやなら 嫁にいけ
ねーんねんねん ねんころり
たんす長持 はさみばこ
これほど仕立てて やるほどに
二度とわが家へ もどるなよ
それは母さん むりでしょう
ねーんねんねん ねんころり
西が曇れば 雨とやら
東が曇れば 風とやら
千石積んだ 船さえも
波の立ちよで またもどる
ねーんねんねん ねんころり 

 

わらべ唄
 
 
香川

 

遊ばせ唄
おつむてんてん
おつむてんてん 耳ひこひこ
寝させ唄
山田の法専寺 1
ねんねこ山田の 法専寺
 お鐘がなったら ててまいる
ねんねこ山田の 法専寺
 お開帳があったら ててまいる
山田の法専寺 2
ねんねこ山田の 法専寺
 開帳があったら ててまいろ
里のおみやに 何もろた
 でんでん太鼓に 笙の笛
それをもろうて 何にすりゃ
 たたいたり吹いたり して遊べ
うちのこの子の
うちのこの子の お正月べべは
何に染めましょうか
お紺屋さんに問えば
梅にうぐいす 吉原すずめ
羽がえひろげて とぶところ
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
坊やのお守りは どこへ行った
あの山越えて 里へ行った
里のおみやに 何くれた
でんでん太鼓に 笙の笛
それをもろうて 何にする
吹いたりたたいたり して遊ぶ
ねんねんころりよ おころりよ
ねんねおしませ
ねんねおしませ きょうは二十五日
あすはお前さんの 誕生でござる
誕生日には 赤いべべ着せて
乳母に抱かせて 宮参り
宮へ参っては どういうて拝む
一生この子が丈夫なように
あの 丈夫なように
坊やはよい子じゃ
坊やはよい子じゃ ねんねしな
この子が十五に なったなら
お屋敷ひろげて 倉たてて
倉のめぐらに 松植えて
松が枯れたら 杉植えて
杉にとまって 鳴く鳥は
鳶か烏か 鵜のとりか
パーッととんだら 白鷺か
白鷺 白鷺どこへ行く
海の端へ 子を産みに
何々 持って行く
たいたいまいや ごめ
ねんねん ねんねしな
坊やはよい子じゃ ねんねしな
お山の兎の子
ねんねこお山の 兎の子
どうしてお耳が 長ござる
小さいときに 母さんが
お耳をくわえて ひっぱった
それでお耳が 長ござる
   ねんねこお山の 兎の子
   どうしておめめが 赤ござる
   小さいときに 母さんが
   赤い木の実を 食べたから
   それでおめめが 赤ござる
   ねんねこせー ねんねこせ
お山の兎さん
ねんねんねんね
よいとこお山の 兎さん
どうしてお耳が 長いのぞ
小さいときに 母さんが
お耳をくわえて ひっぱった
それでお耳が 長いのよ
ねんねんねんよ
この子はよい子だ ねんねしな
ねんねんねんよ
赤いべべ着せて
うちのこの子に 赤いべべ着せて
ぐるりたたいて 針仕事 ヨイヨコ
この子が寝たまに
ねんねんねんよ
この子が寝たまに 餅ついて
起きたら誕生の 餅配る
配ってすんだら 一つやろ
一つがいやなら 二つやろ
二つがいやなら 三つやろ
三つがいやなら 四つやろ
四つがいやなら 五つやろ
五つがいやなら 六つやろ
六つがいやなら 七つやろ
七つがいやなら 八つやろ
八つがいやなら 九つやろ
九つがいやなら 十やろ
十がいやなら 出ていけ
出ていく道には 鬼がおる
もどる道には 猿がおる
猿にかまれて 足痛い
ねんねん ねんね
守り子唄
子守り子泣かすな
子守り子泣かすな その子も泣くな
泣けば名がたつ 守りの名が
仕事せなんだら
仕事せなんだら うちのお母さんが
大阪松島へ 売るというた
大阪松島へ 売られてもよいが
大阪松島を 見てもよい ヨイヨコ 

 

わらべ唄
 
 
高知

 

思い出だけを 抱きしめながら 生きてゆきます このさだめ川 四万十川の宿
月も片割れ 室戸の風に 捨てる涙を 誰が知ろ 異名も 女鬼龍院
ふり向いては駄目よ駄目よ 戻っちゃ駄目 私はらはら 南国土佐の昼さがり
親の心は 誰でも同じ 泣くな吠えるな 土佐の海
耐えてひと花 咲かせたい 土佐の女はヨー 夢おんな
ひとの別れの さみしさだいて 風と鳴こうか 足摺岬
おらんくの池に 潮吹く魚が 泳ぎよる よさこい よさこい
寝させ唄
北山やけた
北山焼けた 鹿みな逃げた
お梅 涙をこぼした
ゆんべ生まれた亀の子
ゆんべ生まれた 亀の子
まだ眼は あかんか
ねんねこさいろく
ねんねこさいろく お亀の子
お亀の卵を 焼いちょいて
焼けたらほんそに 食べさすぞ
ねーん ねーん ねーんや
坊やいとしに
坊やいとしに 限りない
天にたとえば 星のかず
山では木のかず 萱のかず
七反畠の 芥子のかず
七里が浜の 砂のかず
召したる御服の 糸のかず
おねんねしなされ おねんねや
ねんねん山の
ねんねん山の 子うさぎは
なァぜにお耳が お長いぞ
小さいときに 母さまが
お耳をくわえて ひっぱった
それでお耳が お長いの
ねんねんねんねん
ねんねんねんねん ねんねんよ
ねんねのお守りは どこいった
あの山越えて 里いった
里のおみやに 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
そーりゃ ねんねん ねんねんよ
つくつく法師
つくつく法師は なぜ泣くの
親がないか 子がないか
親もごんす 子もごんす
もひとり欲しや 娘の子
たかじょにとられて きょう七日
七日と思えば 十五日
十五の玉を 手にすえて
おじさんところへ 来てみれば
よう来たよう来た お茶まいれ
お茶でものまして 養うて
長者の嫁御に やるときにゃ
金襴緞子の 帯しめて
お馬ゆられて 行きました
お馬ゆられて 行きました
守り子唄
おォのうるさい
おォのうるさい この家のうちは
 毎日麦飯 味噌の菜
ややよ泣こうなら お母ぁの膝で
 お乳くわえて 泣きなさい
守りよ守りよ守りの子よ 何故子を泣かしゃ
 乳が飲みとて ひとり泣く
乳が飲みとて 泣く子じゃないが
 守りが手わざを するからよ
お前や守りさん 来年くるか
 暮れの二十日が 来にゃ知れん
暮れの二十日が 今日ならよかろ
 わしもいにます 里親へ
ややよ泣きなよ 今晩かぎり
 明日は親の守り 泣かしゃせぬ
一人娘を 蓮池へやるな
 蟇が小便ばったら はやつかる
藩多地方の子守歌 1
ねんねしよしよ ねる子はかわい
 おきて泣く子は つらにくい
つらのにくい子は まな板にのせて
 大根きざむよに きざみたい
この子泣くなよ おとみのからか
 乳をたっぷり 飲まんから
泣く子の守りには ちんばがよかろ
 歩きゃ踊るよで おもしろい
去んでお母んに 豆炒ってもろて
 帯のあいだに 入れて噛む
藩多地方の子守歌 2
ねんねするゆうて ねる子はかわい
 おきて泣く子は つらにくい
つらのにくいやつ まな板にのせて
 大根きざむよに きざんでおいて
 うらの流れに 流したい
藩多地方の子守歌 3
ねんこしよゆうて ねる子はかわい
 ねんこしよゆうて ねん子はつらにくい
つらのにくい子は まな板のうえにのせて
 大根きざむよに きざみたい
 ねんねん ねんねん ねんねしよ 

 

わらべ唄
清水の子守歌
   この子が泣いたら 俵に入れて
   土佐の清水へ おくります
   土佐の清水は 海より深い
   底は油で 煮え殺す 
節分の豆
子どもの頃、雷が鳴りはじめたのに、裸で走りまわっていると、「雷にヘソを取られるぞ」と、家に呼びかえされましたね。雷からヘソを守るために、節分の晩にまいた豆を残しておいて、雷が鳴ると、急いで食べたそうです。
土佐の西、足摺岬の根元、清水の町に、松之助とお時という若夫婦が、細々と、駄菓子屋をやっていました。お時が妊娠し、初産が近づいたので、大事をとって、実家へ帰しました。
家事も店番もろくにできない、亭主の松之助が目をつけたのが、近所で子守奉公をしている、お春という、16歳の可愛らしい娘。
「お春、子守をしながら、店番をせんか。賃にお菓子をやるぞ」と、松之助はお春を誘いました。
何日かたったある日の昼過ぎ、突然、ピカッ・ドンと、雷があばれ始めました。そして、とうとう、ピカッ・ドンと、庭先の松の木におちました。
「オンチャン(おじさん)、怖い」と、お春が、松之助の部屋へ走り込んできました。
ところが、翌日から、雷が鳴りもしないのに、「オンチャン、雷」「押し入れへ入れ」と、二人は毎日のように、押し入れにもぐり込みました。ある日、お春ともぐり込んだところへ、「義兄さん、産まれたよ」と、女房の弟が知らせてきました。
女房の実家へかけつけると、お時は、赤ん坊を松之助に見せながら、「こないだの雷は近かったでしょう」「ウン、庭の松の木へ落ちた」「まあ、そのとき、あんたはどうしたの」
松之助は大あわて、「お、おれは、雷よけのまじないに、押し入れで、お春の、その…、いや、節分の…」「お春の、何?」「豆を喰うた」
豆を喰っても
「土佐の清水へおくります」と、奈良の子守が、赤ん坊をおどかしているのは、古代、清水が流刑地として知られる、日本のはずれだったからですね。
土佐の高知でも、清水ははずれでした。画家の英幸さんや私たちの村をつくってくれた野中兼山が同僚に憎まれ、子どもたちが半世紀も流されたのも、この近くでした。
結婚していない娘の豆を喰うのはよくある話ですが、このあたりでは、産まれた子どもを欲しがる人が多くて、解決が早かったそうです。 
ちょうちょのわらべ歌
高知は他県と比べて「からかい歌」や「ふざけ歌」が多い印象で、富山の薬売りをからかう歌や、藪医者のはげをからかう歌など面白いものが多かったが、びっくりしたのは童謡の「ちょうちょう」の原型と思われるわらべ歌「蝶々かんこ」があったことだ。
   蝶々かんこ 菜の葉へとまれ 
   なん菜がいやなら てん手にとまれ 
   てん手がいやなら かんこにとまれ
かんこ、というのは「かわいいこ」の意だという。なんて愛おしい風景だろう。蝶々が近づいてきて、じっと動きをとめた少女たちの一人に蝶々が止まる、止まられた子は嬉しい気持ちを抑えて、じっとしていただろう。
驚いたのは、そのメロディだった。童謡の「ちょうちょう」が明るい長調なのに比べて、このわらべ歌は幽玄な雰囲気をもつ、短調だった。明治期にこの歌が改変、整形されたことは予想がついた。そもそも、童謡のほうは「菜の葉に飽いたら桜にとまれ」だったはずだ。しかし、桜花の蜜を吸おうとする蝶々なんてそういえばみたことないな、と思った。たいてい地面近くの背丈の低い春の花の周りを飛んでいるイメージである。桜を持ち出すあたりが「国」という単位を子供たちに周知させようとする明治政府の意図が透けてみえるようにも思った。わらべうたの短調から長調へと切り替えられていることも、西洋文化を取り入れようとする方向性の中で行われたのだろう。しかし、ものさびしい美しいわらべ歌の蝶々のメロディーをアレンジし始めると、俄然この短調バージョンのほうが蝶々が舞う世界観に近いように思えた。メロディの印象は重要である。短調の子守唄は、徳之島の回でふれたように雅楽経由の型にはまったものが多いように感じてあまり惹かれなかったのだが、この蝶々は短調がもたらすはかない感じがぴったりとはまっている。改めて長調の童謡バージョンを頭の中で鳴らしてみると凡庸で能天気にきこえてしまう。このメロディはどこから来たのだろうか。
調べてみると、原曲は「幼いハンス」というドイツ民謡だった。少年が旅にでて、母のもとに帰るまでを歌う曲だ。これが、アメリカに渡り「Lightly Row」という舟漕ぎの歌になった。日本はこのアメリカ唱歌となった曲を輸入し、蝶々の歌詞をあてはめたのだ。この曲と出会った日本人は伊沢修二といい、愛知師範学校の校長などを勤めた教育学者だった。伊沢はもともと、幼児教育の祖とされるドイツのフレーベルの理論に親しんでおり、それをもとに、独自のお遊戯(遊戯唱歌)を編み出したりしていた。その伊沢が、明治8年米国留学にいき、アメリカの唱歌教育の第一人者だったメーソンに唱歌を習った際、「Lightly Row」と出会っている。
「氏からラブレローの譜を余に示し、これは日本の子供の好に合ひそうな曲であるから、何か日本語で適当な歌を附けたら可からうと云った。そこで余は此蝶々の歌を附けて見た所が、偶然にも誠に能く適合、メーソン氏も大いに喜ばれた。」
「適当な歌を附けたら可からう」という自由さが楽しい。言ってみれば「Lightly Row」だって「ハンス」とは何の関係もない「適当な」歌詞が当てられているのだ。このとき、伊澤の脳裏にすぐに「蝶々」が浮かんだかはわからない。伊澤は帰国後、愛知師範学校の好調時代、教員だった野村秋足に歌詞を任せている。野村は郷里愛知のわらべうたの「蝶々」を参考に、次のような歌詞におちつかせた。
   ちょうちょうちょうちょう、菜の葉にとまれ
   なのはにあいたら、桜にとまれ、
   さくらの花の、さかゆる御代に、
   とまれよあそべ、あそべよとまれ
「君が代」を思わせる「さかゆる御代に」は、野村がつけたフレーズかと思われる。愛知のわらべうたの原型は「ちょーうよとまれ。菜の葉にとまれ。菜の葉がいーやなら、木の葉にとまれ」というものらしく、確かに「木の葉」というのは味気ない感じがする。しかし、現在の「さくらの花の 花から花へ」に慣れている身には、いきなり「さかゆる御代に」とくると思わず身構えてしまう。
留学から戻った伊沢は、「音楽取調掛」という東京音楽学校の前身の機関を文部省に設置させ、自ら「音楽取調掛長」におさまる。そしてそこでの成果を「音楽取調成績申報書」で報告するのだが、この歌に次のような注釈を加えている。
「其意は我皇代の繁栄する有様を桜花の爛漫たるに擬し聖恩に浴し太平を楽む人民を蝶の自由に舞ひつ止りつ遊べる様に比して童幼の心にも自ら国恩の深きを覚りて之に報ぜんとするの志気を興起せしむるにある也。」
桜は天皇の「国恩」、蝶は「人民」にたとえられていた。伊沢は保守的な人物ではなかった。すでに述べたように、ドイツの幼児教育の祖フレーベルの理論に親しんだりお遊戯を考案したりと、当時の日本の幼児教育を西洋の理論を借りて切り開かんとした人だった。和洋折衷とは日本の文明開化を説明する際、よく聞きなれた言葉だが、この「胡蝶」はまさに、西洋のメロディーに皇国思想を盛り込んだ、明治日本の不思議な折衷の産物だったと言える。明治9年11月16日天皇夫妻が参列するなか、日本初の幼稚園が開かれた。東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)附属幼稚園だ。この時期の唱歌は、当初式部寮雅楽課の伶人たちに作曲依頼され、日本唱歌、保育唱歌といわれている。この日は「風車」「冬燕居」という曲がお遊戯つきで子供たちによって発表され、参列した人々は驚いたといわれる。遊戯唱歌は、愛知師範学校の校長時代の伊沢も、ちょうちょの短調のわらべうたを使って考案していた。伊沢がアメリカ留学でメーソンに出会う前からちょうちょのわらべうたに注目していたことが分かる。
明治13年4月からメーソンは、伊沢らに呼ばれてお雇い外国人として来日する。師範学校でも唱歌教授にかかわり、このころ西洋風「蝶々」も完成したようだ。明治15年1月30、31日には、東京の昌平館で「音楽取調の成績報告のため」の発表会が開かれ、学習院や女子師範学校、東京師範学校付属小学校の生徒らによって、さまざまな唱歌が演奏された。西洋風「胡蝶」は二日目の31日に東京女子師範学校付属小学校生徒143名によって歌われている。ピアノ伴奏はメーソンだった。童謡「蝶々」研究の端緒を開いた外山友子はわらべうたの蝶々について1978年に次のように書いた。
「 「蝶々」はもともとはどんな旋律であったのか。現在うたわれていないのでわからないが、このわらべうた「蝶々」は江戸時代から東京でもうたわれていた。江戸時代の書に江戸で育った太田全斎の「諺苑」がある。江戸で集めた諺などを本にしたもので、その中に、「蝶々トマレナノ葉二トマレナノ葉カイヤナラ木二トーヲマレ」とある。」
その後、80年代に柳原出版から日本わらべ歌全集が続々と刊行され、各地に残る蝶々の歌の旋律も明らかになった。私が高知のちょうちょの歌に出会えたのも、各地のわらべうたを調べることができるのもこの全集のおかげだ。冒頭で紹介した高知のわらべ歌は香美郡香我美町のもので、高知県内でもさまざまなバリエーションがある。
   蝶々とまれ、菜の葉へとまれ、三月いったら、菜の花みてる
   (高岡郡越知町)
   蝶々とまれ、菜の花にとまれ、菜の花枯れたら、よしの葉にとまれ
   (須崎市上分)
須崎市の「よしの葉」は一瞬不思議な気がした。「よし」は葦のことだ。「悪し」を連想させるので、「よし(良し)」と呼ばれるようになったというが、花の咲かないよしの葉にとまれというのは、どういうことだろうか。蝶々は春だけでなく秋も舞っているので、これは、時の移り変わりを表現したものだろうか。須崎の新庄川の川辺の風景の中で蝶々は葦にも止まったかもしれない。しかし、どうやらこれが、自然の風景をそのまま見て生まれた歌かどうか、というところは断言できないようだ。外山が書いたように、江戸ではこの蝶々止まれの歌が歌われていた。その背景には歌いながら蝶の紙のおもちゃを売り歩いた「蝶々売り」の存在がいるようなのだ。西山宗因は「世の中は蝶々止まれかくもあれ」と詠み、葛飾北斎が蝶々売りを描いたものが、「江戸名所図会」で確認できる。
「この蝶々とまれは、文政の初年頃より一進境をなし、頗る時代化して細い竹の節をなめらかに削りとり、中心にゴムを入れ、両翼は紙にて張り、中心のゴムがよく捲けたのをみて手を放すと、ゴムの捲き反る反動で蝶が宙に飛ぶしくみになってゐた。」
この紙の蝶々は大小によって値段も異なり、極彩色のものは2文,3文して高かったという。竹のほかに、葦の節を抜いて作るものもあり、まさに「葦に止まる蝶」を蝶々売りたちが「蝶々止まれや〜木に止まれ」と歌ってデモンストレーションしながら商売をしていたのだ。歌だけが伝わったのか、蝶々売りが高知にも伝播して伝わったものか、それとも高知の素朴な風景を歌った歌が江戸に伝わり、そこからインスピレーションを得た商売人が蝶々売りとなったか、今となっては知る由もない。ただ、たとえば後の回で取り上げる予定の東北発祥といわれる「異人殺し」のわらべ歌も、九州に伝わっている。陸路のみならず、海路を通じても人々が行き来し、それだけ歌が伝わりやすい状況があったのかもしれない。 
 
福岡

 

ばちのさばきは人には負けぬ なんでさばけぬ男の心 小倉名代は無法松
小倉名代は 無法松 情ゆらめく 洞海湾に ひびく祇園の 乱れ打ち
今日は甘えて みたいのに このごろこない 博多も そんなナイトパブ
ああ ここは 九州 博多ばい ラーメンどんぶり 流れ唄
俺を育てた 荒くれ海で 親子二代の 暴れ者 俺もお前も 玄海の漁師
独り寝枕の子守唄 オロロンバイ オロロンバイ 玄海灘の 海が哭くよ
なんで なんで忘れて たまるかよ 骨の髄までヨ 玄海育ちだぜ
ここは福岡 博多川 好きよあなたが いつだって 戻りたい 戻れない これも人生
お前忍べば ぬくもりが 離したくない 今度こそ 小雨 中洲の ひとり旅
忘れんしゃい 中洲 那珂川 風が吹く
燃えてあずけた あの夜の 恋もぬれます 恋もぬれます 博多はしぐれ
女の春が たとえ過ぎても 幸せですと 風よ伝えて 夜の夜の博多
いずれ散るのよ 乱れ花 夜の博多の 川やなぎ 弱い女の よりどころ
抱いて下さい待つ身はつらい 明日を夢見る夫婦川 あなたを待ちます博多舟
肌があなたを 恋しがる ついて行きたい 博多川
遊ばせ唄
長崎見るか京見るか
長崎見るか 京見るか
京の町に ふりやった
ドッシン ドッシン トーン
この子はいらん坊主
この子は いらん坊主
塩俵に ひっつめて
向こん岸さん ほりやれ
ちょうちちょうち
ちょうち ちょうち あばば
じんのめ じんのめ じんのめよ
てんぐり てんぐり バァー
はなちゃんりんごが
はなちゃん りんごが
食べたいなあ はなちゃん
眉毛の殿さま
眉毛の殿さまが 妾を連れて
花見に行った 方々のものが
口々言うた 無念のことば
おへそが聞いて ちんちくりんのちん
臼すり婆女
臼すり婆女 婆がすった米は
石が入って 噛まれん
まんじゅなっと がぶと食え
もっつきぼう
もっつきぼうが 来たれども
年ゃ何でとろうか お米でとりやれ
とっぱいぴいひゃろ
とっぱい ぴいひゃろ
鬼が出て ひゅうやろ
寝させ唄
坊やはよい子だ
坊やはよい子だ ねんねしな
 坊やのかわいさ かぎりない
山では木の数 草の数
 草の数より まだかわい
天にのぼれば 星の数
 星の数より まだわかい
千本松原 小松原
 松葉の数より まだかわい
椎の山通れば
椎の山通れば 椎がぼろりぼろりと
おひとつ拾うて かみわった
もひとつ拾うて かみわった
初めの方は虫喰らい 後の方は美しか
美しか方は みえちゃんに
虫喰らいの方は 婆さんに
やるけん はよねんねしな
ねんねん ねんねん ねんねんよ
ねんねん ねんねん ねんねんよ
あの山に光るは
あの山に光るは 月か星か螢か
螢ならお手にとろ お月様なら拝みあぎゅう
おろろん おろろんばい
おろろん おろろんばい
おろろんころろん
おろろんころろん いうて
寝た子の むぞさ
起きて泣く子の 面憎さ
はよ寝た者ににゃ
白ぼっちに 砂糖つけて
枕もとに すえとくよ
おそ寝た者にな
栗ぼっちに 胡椒つけて
枕もとに すえとくばい
賽の河原を眺むれば
賽の河原を 眺むれば
黄金づくしの 地藏さんが
数多の子供を 引きつれて
日にち毎日 砂遊び
一条積んでは 父のため
二条積んでは 母のため
この山無情の つつじ花
一枝折りては 神にあげ
二枝折るまに 日が暮れて
父母恋しと 泣いている
泣くな歎くな 幼な子よ
七月半ばの 十五日
みんな残らず 連れていく
みんな残らず 連れていく
ねんねこねんねこ酒屋ねこ
ねんねこねんねこ ねんねこばい
 ねんねこねんねこ ねんねこばい
ねんねこねんねこ 酒屋ねこ
 酒屋がいやなら 嫁入らさい
嫁入り道具に 何持たしょう
 たんす 長持 はさみ箱
それだけ持たせて やるならば
 いっちご帰っちゃ こらさんな
ねんねこねんねこ ねんねこばい
 ねんねこねんねこ ねんねこばい
木町の子守歌
しものやの
つくつく法師は なぜ泣きゃる
親もないのか 子もないか
親も一人 子も一人
たった一人の その子をば
鷹からすられて 今日七日
七日のしあげを しょうとても
隣にかたびら 借りいたりゃ
あるもんない言て お貸しやらん
ようようお腹立つ 小腹立つ
ねんねんしなされ ねんねしな
守り子唄
博多の子守歌
うちの御寮さんな がらがら柿よ
 見かけよけれど 渋ござる ヨーイヨーイ
うちの御寮さんの 行儀の悪さ
 お櫃踏まえて 棚さがし ヨーイヨーイ
御寮よく聞け 旦那も聞けよ
 守りを悪すりゃ 子にあたる ヨーイヨーイ
うちの御寮さんな 手ききでござる
 夜着も布団も 丸洗い ヨーイヨーイ
うちの御寮さんな 御寮ぶりゃよいが
 守りの仕着せは まだできん ヨーイヨーイ
守り仕着せは できるこたできた
 豆のもるよな 浅黄縞 ヨーイヨーイ
歌もうたいより 仕事もしよる
 何が御寮さんの 気に入らぬ ヨーイヨーイ
御寮聞け聞け
御寮聞け聞け 旦那んも聞け
 守りに悪すりゃ 子にさわる ヨイヨーイ
守りに良おすりゃ 負うたる子まで
 手すけ ずりあげ ものも言う ヨイヨーイ
よいよいよォい
よいよいよォい よか守りおいた
 なんがよかろか 転婆守り ヨイヨイ
転婆転婆と 言わしゃるけれど
 転婆つかねば ややが泣く ヨイヨイ
師走十三日が
師走十三日が 来たばな御寮さん ヨイヨイ
 守りの仕着せが できたやら ヨイヨイ
守りの仕着せは できたこたできた ヨイヨイ
 守りが悪かりゃ 着せられぬ ヨイヨイ
守りが悪うても 着せんこたならぬ ヨイヨイ
 せめて一年 勤めとる ヨイヨイ
守りはいやよ
ととさんかかさん 守りはいやよ
 雨の降る日も 出にゃならぬ ヨイヨイ
雨の降る日と 日の暮れ方は
 家の恋しさ 帰りたさ ヨイヨイ
家の恋しさも かかさん頼り
 今日は何して ござるやら ヨイヨイ
食べてみなんせ 他人の飯は
 いぎはなけれど 喉にたつ ヨイヨイ
喉にたつなら 茶かけてあがら
 茶かけ御膳も いけかける ヨイヨイ
矢部の子守歌
〔前歌〕
おろろん ころろん 子が泣くばい
 泣かせちゃおくまい 乳飲ましゅ
泣かするほどなら 守りゃいらぬ
 ねんねん ねんねん ねんねんばい
〔本歌〕
ねんねしなされ うっつきなされ ヨイヨイ
 明日はお前さんの 誕生日 ヨイヨイ
ねんねした子の 可愛さむぞさ ヨイヨイ
 おずで泣く子の 面憎さ ヨイヨイ
ねんねしなされ うっつきなされ ヨイヨイ
 朝はナーはよから 起きなされ ヨイヨイ
おどまよかよか どう言わりゅがさりゅが ヨイヨイ
 長くこの家に おるじゃなし ヨイヨイ
煮えちゃおれども 他人の飯は ヨイヨイ
 噛んでも噛んでも 喉こさぐ ヨイヨイ
師走十三日が 明日ならよかろ ヨイヨイ
 まして今日なら なおよかろ ヨイヨイ
師走十三日の 日の暮れ方にゃ ヨイヨイ
 うちの父さんが 呼びに来る ヨイヨイ
師走十三日の 日の暮れ方にゃ ヨイヨイ
 足の軽さよ 地につかん ヨイヨイ
柳島の紙漉き子守歌
どうかそらちゅうて 半年暮れた
 またの半年ゃ 泣き暮らし ドウカソラ
なごれ十三日が 明日ならよかろ
 せめて今夜なら なおよかろ ドウカソラ
あー金ん鎖が今夜は ガチャーンと切れた 

 

わらべ唄
 
 
佐賀

 

寝させ唄
しっちょこはっちょこ 1
しっちょこ はっちょこ はァちの巣
はァちゃ山ゃ  巣つくりぎゃァ
巣はつくらじ 嫁御みぎゃァ
嫁御はどがん しとったかん
紅つけ かねつけ よか嫁御
しっちょこはっちょこ 2
しっちょこ はっちょこ ねんしゃいよ
はよねんね しんしゃいよ
はちゃ山ゃ 巣つくいぎゃ
巣はつくらじ 嫁御みぎゃ
嫁御は どうした嫁御かん
びんつけ かねつけ よか嫁御
あしちゃなれば 化け嫁御
はよねんしゃい ねんしゃいよ
ねんねせろ
ねんねせろ ねんねせろ ねんねせろ
太郎がねんねした そのあとに
ぼっちと団子と ついとこで
ぼっちは上の棚に ええとこで
団子は下の棚に ええとこで
   ねんねせろ ねんねせろ ねんねせろ
   太郎が起っきした そのあとに
   ぼっちと団子と 食べさそで
   ぼっちも団子も 五つずつ
   乳もいっぱい 飲まそうよ
あっとうさんないくつ
あっとうさんないくつ 十三と七つ
七つの年から 京にのぼせて学問させて
七どん八どん 源八どん
源八どんが 負けやった
ヨイヨイの亀しゃん
ヨイヨイの 亀しゃんは
あっぷか茶碗で ぶぶ飲んで
お医者さんに見せたりゃ 水ぶくれ
ヨイヨイの ヨイヨイ
ヨイヨーイ ヨーイ
はよねんしゃい
はよねんしゃい ねんしゃいよ
みっちゃん はよねんしゃいよ
ねえちゃんが 嫁さんになるときは
たんすに長持 針だんす
かならず持たせて やるけんが
はよねんしゃい ねんしゃいよ
向こうの敷居をこえたなら
必ずもどると 思うなよ
母さんそりゃまた 胴欲な
千石積んだる 船でさえ
風が変われば もどるもの
はよねんしゃい ねんしゃいよ
向こうのお寺は
ヨイヨイ ヨイヨイ ヨイヨイヨー
向こうのお寺は 誰が建てた
八幡長者の 乙娘
めめよし 顔よし 形よし
人の通らん 山道を
通れ通れと せつかれて
一枝折っては 腰にさし
二枝折っては 前にさし
三枝折る間じゃ 日が暮れた
ばっきいの方に 泊まろうか
あんねの方に 泊まろうか
ばっきいの方に 泊まったら
たたみは短し 夜は長し
夜明け時分に 起きたれば
黄金の盃 さしかけた
一ぱいあがるは お客さん
二はいあがるは おてっさん
三ばいあがるは 酒屋さん
肴がないとて あがらんせ
密柑金柑 酒の燗
親の折檻 子は聞かん
養子息子は 働かん
ヨイヨイ ヨイヨイ ヨイヨイヨー
千松父っつぁん
ヨイヨイ ヨイヨイ ヨイヨイヨー
千松父っつぁん 金堀りに
一年待てども まだ見えぬ
二年待てども まだ見えぬ
三年じょうごに 状が来て
状の裏書き 見てみれば
京の土産は 何じゃろか
でんでん太鼓に 笙の笛
なるかならぬか 吹いてみよ
ヨイヨイ ヨイヨイ ヨイヨイヨー
ヨイヨイヨイの 亀ちゃんな
あっぷかべんべん着て 宮参り
ヨイヨイ ヨイヨイ ヨイヨイヨー
ねんねんころりよ
ねんねんころりよ おころりよ
ねんねんかん坊 酒屋の子
   酒屋の子なら 酒飲ましゅ
   酒がいやなら 水飲ましゅ
水がいやなら 乳飲ましゅ
乳がいやなら 嫁入さしゅ
   嫁入の道具は 何々な
   一で空箱 二で鏡
三で薩摩の さざら帯
ざんざら帯して 通わして
   あんまり通うて 刺ふんで
   刺はなに刺 そのの刺
取ってくだされ 頼みます
取ってやろうこそ やすけれど
   うちで取れば 母が見る
   外で取れば 父が見る
ねんねんよ
ねんねんよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
子守りの歌にねかされて
ねんねん ねむの花しぼむ
   ねんねんよ おころりよ
   坊やはよい子だ ねんねしな
   子守りの歌に 日が暮れて
   空には青い 星ひとつ
あずまどんが
あずまどんが 寝った家にゃ
おど猫ん 子持って
あっちゃん いこでちゃ
ニャンごろりん
こっちゃん くうでちゃ
ニャンごろりん
ねんねせろ ねんねしな
うちの裏のちゃの木
うちの裏の ちゃの木に
雀が三羽 とまって
一羽の雀の いうことにゃ
よんでござった 花嫁御
奥の座敷に すわらせて
金襴緞子を 縫わせたら
ほろりほろりと 泣きしゃんす
なんで悲しゅう ござるのか
わたしの弟の 千松は
七つ八つから 金堀りの
金も掘らずに 死にました
佐賀子守歌
ねんねねんね ねんねしな
ねんねころりや ねんねしな
ほーら 中野のだいどん 立ってんやーい
ほーら 中野のだいどん 立ってんやーい
立てばよいこと あるばん
守り子唄
ああひやこひや
ああひや こひや
コウちゃんがちゃ いたて
ずうし食うて ぬうくもろ
いねすりこすり
いねすり こすり
コウしゃんかた いたら
ぼってつき おらいたとん
おんどま 食いとうなかとこれ
いっちょう でゃぁて なわさいた
いねすり こすり
いねまだ すれぬ
一升五合すれた すれてから それ進上
あやし唄
田打ちにゃ
てぁうちにゃ てぁうちにゃ
ひだねぎにゃ ぎっかんしょ
みぎぎにゃ ようりより 

 

わらべ歌
ずくぼんじょ
   ずくぼんじょ ずくぼんじょ
   ずきんかぶって でてこらさい
「ずくぼんじょ」は九州地方の方言でつくしのこと。 
 
大分

 

松浦港は もうすぐ近い ありがとう 黒潮の幸よ 豊後 鶴御崎 男の港
海猫の棲む島を ぐるりと一まわり 何を想うか 豊後水道
がんばろうね ふたりでね 影がより添う 豊予海峡
遊ばせ唄
三重の重箱
三重の重箱 おにぎり握って
たたき牛蒡に 胡麻ふりかけて
椎茸さん いやいや
干瓢さんも いやいや
それでも いやなら
オッチョコチョイの チョイ
ひらいたひらいた
ひらいた ひらいた なんの花がひらいた
れんげの花がひらいた
ひらいたと思ったら いつのまにかしぼんだ
しぼんだ しぼんだ
れんげの花がしぼんだ
しぼんだと思ったら いつのまにかひらいた
ギッコショマッコショ
ギッコショ マッコショ
まだ米ゃすれんか 糠こそすれた
箕を持てこい してこましょ
ヤッシッシ ヤッシッシ
寝させ唄
ねんねん子守りは
ねんねん子守りは どこに行った
あの山越えて 里に行った
里の土産に なにもろうた
でんでん太鼓に 笙の笛
鳴るか鳴らぬか 吹いてみよ
鳴るなら この子にやってくれ
鳴るな鳴るけど 吹ききらぬ
隣の坊やに やってくれ
さっこさっこ
さっこさっこ上がれば 右も左も山山
その山の向こうに 一軒の堂があったげな
その堂の中にゃ ジュウジュウ虫が入っちょった
ジュウジュウ虫の言うことにゃ おれの方の裏にゃ
いちょうの木 二本の木 三の木 桜
五葉の松 柳 さっこさっこ上がれば
坊やはよい子だ
坊やはよい子だ ねんねしな
坊やのねえやは どこへ行った
あの山越えて 里へ行った
里の土産に 何もろた
あぶを搗いて 冷まいて
べべの子に うせて
坂を上り 追い上げた
坂を下り 追い払い
ねんねんころりよ ねんねしな
この子が七つに なったなら
上のお寺に 参らせて
法華経なんどを 習わせて
堅山砕いて 堂建てて
堂のめぐりに 杉植えて
杉の縁に 鳴く鳥は
雁かすいしょか 鵜の鳥か
開いて見たり ごしょの鳥
坊やよい子だ
坊やよい子だ ねんねしな
坊やがねんねん した間には
つしのお米を おろして
搗いてはたいて 団子して
坊やと二人で 食べましょね
そらそら はよ眠れ
向こう山の兎は
向こう山の 兎は
どうして耳が 長いな
小さいときに ちち乳母が
耳をくわえて 引っぱった
それでお耳が 長いな
ねんねん ねんねんよ
ねんねん ねんねんよ
   眠れ 眠れ 猫の子
   うっつけ うっつけ 兎の子
   眠らんと おじいもんが 連れにくるぞ
   早う眠れ 猫の子
   うっつけ うっつけ 兎の子
   ねんねん ねんねんよ
   ねんねん ねんねんよ
坊やはよい子じゃ ねんねしな
坊のお守りは どこへ行た
あの山越えて 里に行た
里の土産に なにもろた
おきゃがりこぼしに 笛太鼓
ねんねん ねんねんよ
ねんねん ねんねんよ
ねむれねむれ
ねむれ ねむれ ねずみの子
うっつけ うっつけ 兎の子
泣くな 泣くな なすびの子
坊やがねむった あとからは
裏の山の 山猿が
一匹とんだら みなとんだ
そらそらねむれ ねむれよ
そらそらねむれ ねむれよ
ほらほらねむれ
ほらほらねむれ ねむれよオン
ねむらにゃ くわんくわんが 食いつくぞ
お前の親たちゃ どこ行った
あの山越えち 畑行ったアン
畑の土産に なにゅもろた
お芋の堀り割り 柿の実か
ようき取っち もどっちくるぞオン
いっときこらえち ねむらんし
くねんでしこしゃ なんと鳴いた
ねむらん子がおったりゃ 連れちくぞ
早くねむれ ねむれよオン
フーラにいれ
フーラにいれ にいれよ
とたんが ふねえの じょうき出ち
せんびとふうずきゃ 買うてやる
フーラにいれ にいれよ
泣くとわんわんが ついちくるぞ
フーラにいれ にいれよ
ねんねんさいろく
ねんねんさいろく 酒屋の子
 酒屋がいやなら 嫁にやろ
嫁入り道具は なになにと
 一にゃこんばこ 二にゃ鏡
三にゃ薩摩の はやり帯
 はやり帯をして 腰をしめて
紅はなに紅 大阪紅
 大阪紅こそ 色はよけれ
おつばにつけたら なおよけれ
 ねんねんころりよ おころりよ
次郎んぼ太郎んぼ
次郎んぼ 太郎んぼ
馬どこに つないだ
牛ゃどこに つないだ
くるくる山の 木の下
何を食わせて つないだ
去年の粟がらと 今年の稗がらと
切って混ぜて 食わせた
上の山にあがって
あせくって見たら
栗を一つ 拾った
つみ割るも 惜し惜し
かみ割るも 惜し惜し
つみ割りかみ割り してみたら
赤い雉児が 出て来た
六つになる雉児を 驢馬に乗せて
京から熊野に初詣り
おむくの父さん
おむくの父さん どこへ行った
寒田の金山 金堀りに
金が掘れたか掘れぬやら
一年待てどもまだ見えぬ
二年待てどもまだ見えぬ
三年ぶりの霜月に
おむくに来いとの 状が来た
そうりゃねんねん ねんねんよ
そうりゃねんねん ねんねんよ
おむくをやること やすけれど
着物着替えを持ちませぬ
下には木綿の中小袖
上には越後のお帷子
これほど仕立ててやるほどに
あとに帰ろと思やるな
先に蓮華の花が散る
あとに時雨の雨が降る
そうりゃねんねん ねんねんよ
そうりゃねんねん ねんねんよ
隣が人と
隣が人と 我が人と
言することを 聞すれば
旅人を刺すと 言すなり
草の上の草をとり 山に山を重ねよ
そうりゃねんねん ねんねんよ
そうりゃねんねん ねんねんよ
守り子唄
心せくより
心せくより 川堰きなされ
 川にゃ思いの 鯉がおる
あら嬉しや だいだい熟れた
 わしの帰るのも 近よりた
明日は帰ります どなたもさらば
 長くお世話に なりました
親が貧すりゃ 緞子の帯を
 買うてやろやろ 口ばかり
泣いてくれるな 泣かんでさよも
 尻をひねるよに 思われる
食べてみらんせ
食べてみらんせ 他人の飯を ヨイヨイ
 骨は無けれど 喉にたつよ ヨイヨイ
金が欲しゅけりゃ 鳥島女島 ヨイヨイ
 命欲しゅけりゃ 通われぬ ヨイヨイ
巡査ごめんなれ 守り衆の歌を ヨイヨイ
 守り衆ゃうたわにゃ 日がたたぬよ ヨイヨイ
親のない子は 磯辺の千鳥 ヨイヨイ
 潮が干りゃ鳴く 満ちりゃ鳴く ヨイヨイ
こいな泣く子は くれたらいらん ヨイヨイ
 くるりゃ茶の木の 肥にする ヨイヨイ
このか泣かんいうて わしが守り来たら ヨイヨイ
 なにが泣かんか 泣きくらす ヨイヨイ
色利ゃ日が照る
色利ゃ日が照る みやんだ曇る ヨイヨイ
 中のせきやみゃ 雨が降る ヨイヨイ
雨は降る降る 薪は濡るる ヨイヨイ
 かわいこの子は 雨しずく ヨイヨイ
あの子泣かんちゅうて 守り来てみれば ヨイヨイ
 泣くも泣かんか 泣き暮らす ヨイヨイ
色利みやんだに 金橋かけて ヨイヨイ
 金のくさるまで 通いたい ヨイヨイ
わしの思いは
わしの思いは 阿蘇山やまの
 朝の霧より まだ深い ソラヨーイ ヨーイヨー
あなた思うてか わしゃ夏痩せか
 帯の二重が 三重まわる ソラヨーイ ヨーイヨー
思うて見て泣き 見て思うて泣き
 思い忘れる 暇がない ソラヨーイ ヨーイヨー
あの娘こっち向け 手拭い落ちた
 なんの落ちよか 顔見たい ソラヨーイ ヨーイヨー
わしのおとったんな しまんだの沖で
 波に揺られて 鯛を釣る ソラヨーイ ヨーイヨー
うちのおとったんな 白髪の山で
 板をかるうて 苦労する ソラヨーイ ヨーイヨー
うちのおとったんな 鯛釣り上手
 ひとが千釣りゃ 万も釣る ソラヨーイ ヨーイヨー
ここのご家は
ここのご家は めでたなご家 ヨイヨイ
 鶴と亀とが 舞い遊ぶ ヨイヨイ
三味の音がする 太鼓の音する ヨイヨイ
 かわい男の 声もする ヨイヨイ
かわいかわいと 夜は抱きしめて ヨイヨイ
 昼は互いに 知らぬ顔 ヨイヨイ
わしが死んだら 煙草で焼いて ヨイヨイ
 きせり卒塔婆を 立ててくれ ヨイヨイ
わしが死んだら しきみの花を ヨイヨイ
 さしてくだんせ 墓の前 ヨイヨイ
いじめられても 世間は広い ヨイヨイ
 またも時世の 風が吹く ヨイヨイ
宇目の歌げんか
A:あん子つら見よ 目は猿まなこ ヨイヨイ
  口はわに口 えんま顔 アヨーイ ヨーイヨー
B:お前つら見よ ぼたもち顔よ ヨイヨイ
  黄粉つけたら なおよかろ アヨーイ ヨーイヨー
A:いらん世話やく 他人の外道 ヨイヨイ
  焼いちよければ 親が焼く アヨーイ ヨーイヨー
B:いらん世話でも ときどき焼かにゃ ヨイヨイ
  親の焼かれん 世話がある アヨーイ ヨーイヨー
A:ねんねねんねと 寝る子はかわい ヨイヨイ
  起けち泣く子は つら憎い アヨーイ ヨーイヨー
B:憎みゃしませぬ 大事にします ヨイヨイ
  とぎじゃとぎじゃと遊びます アヨーイ ヨーイヨー
A:山が高たこうち 在所が見えん ヨイヨイ
  在所かわいや 山憎や アヨーイ ヨーイヨー
B:ままになるなら 在所を山に ヨイヨイ
  山を在所に してみたい アヨーイ ヨーイヨー
ねんねねんねと
ねんねねんねと 寝る子はかわい
 起けて泣く子は つら憎い ヨイヨイ
つらが憎けりゃ 田んぼに蹴込め
 上がるそばから また蹴込め ヨイヨイ
わたしゃうたいとじ うたうのじゃないが
 あまり辛さに 泣くかわり ヨイヨイ
あまり辛さに 出て山見れば
 霧のかからぬ 山はない ヨイヨイ
嫁になるなら 田原にゃやるな
 田原田どころ 畑どころ ヨイヨイ
人の子じゃとて わがまま気まま
 いつかお前の 恥が出る ヨイヨイ
おどんがこまんかときゃ
おどんが こまんかときゃ
お兼と あそうだ
今じゃお兼は 庄屋どんの嫁御
庄屋どんの嫁御てちゃ
高ぶりゃさいな
常にゃ粟ん飯 鰯のしゃ 

 

わらべ唄
 
 
長崎

 

守ってあげたい幸せを ふたたび長崎 祈る天主堂
今夜は抱いてと 影法師 長崎 ちょっとせつない 恋の町
お前を好きだと いってみた いってみた 冷たい雨に ああ長崎 思案橋ブルース
終着駅 長崎 嘘をつかれたことよりも 約束を忘れられたことが 少し悲しい
ひきとめて ひきとめて 未練ごころを ああ 泣いて長崎 中の島ブルース
生きるつらさに 泣けそうな 星が流れる 瀬戸港
あなたと二人濡れた街 あゝここは長崎 中の島ブルースよ
ああ 長崎 長崎の 夜はむらさき
酒に恨みは ないものを あゝ 長崎は今日も雨だった
小鳩よ飛べるでしょうか あしたは 青空見えるでしょうか 惚れて 長崎ワルツ
霧笛 たそがれ 思案橋 別れても 信じていたい 遠いあの日の 夢ものがたり
面影を追いかけて ふりむけば今日も わかれ雨降る 夜の中島川
守り通した 神の道 天草四郎時貞の 魂が写る 有明の海よ
辛い運命です 長崎は雨 いつもそうですね 女は 泣かされて 待ちわびて
遊ばせ唄
高い山から
高い山から 谷底見ればよ
瓜やなすびの 花ざかりよ
あれは よいよい よい
これは よいよい よい
潮ぶりこぶり
潮ぶりこぶり
潮んなきゃ
ボチャリン
ギッコンバッタン
ギッコンバッタン チャンポロリン
爺に一反 織って着しゅ
婆へ一反 織って着しゅ
ギッコンバッタン チャンポロリン
寝させ唄
ねんねせろ
ねんねせろ こんぼせろ うっちせろ
おどんがいの 誰てろは ねんねしたよ
ころろん
ころろんころろん ころろんや
 ころろん山の きじの子は
 泣いて小鷹に とられるな
ころろんころろん ころろんよ
 ころろん山の うさぎの子
 なしてお耳が 長いのか
生まれた時に 母さんが
 お耳をくわえて そっぱった
 そっでお耳が 長いのじゃ
なまず川
ねんねんよ ねんねんよ
ねんねの守りゃ どこ行ったか
なまず川に とっぱって
なまずば一匹 捕ってきて
そのん じんじに 皿いっぴゃ
まえん じんじに 皿いっぴゃ
真ん中ん じんじが のして
はらかいて ふんぞった
酒屋ごご
ひょちょこ はっちょこ 酒屋ごご
酒屋がいやなら 嫁にやろ
たんす長持 はさみ箱
鼈甲の小櫛も十二本
長崎雪駄も十二足
こうして世話して やるからは
二番に帰ると 思うなよ
父さん何を 言わしゃんす
千石積んだ船さえも 万石積んだ船さえも
向こうの港が悪いなら もとの港へ帰ります
私もそれと同じこと
向こうの亭主が 悪いなら
もとの我家へ 帰ります
おれろんこんぼ
ひっちょこ はっちょこ 蜂の巣
蜂ゃァ山田に 巣かけげぇ
巣はかけでな 嫁ご見て
嫁ごん名は なんて付きゅか
紅つけ羽つけ 花嫁ご
嫁ごたちゃ かんのんみゃ
きょうは雀の みっつくり
酒屋の子
ひっちょこ まっちょこ 酒屋の子
酒ば飲ませて うたわせて
飴固 かませて 寝せつけた
ねんねんよ ねんねんよ
ねんねんよ ねんねんよ
ひっちょこはっちょこ
ひっちょこ はっちょこ 蜂の巣
蜂は はるきゃて はって行た
向かえの こそだち とまった
ことわけ 言うて つれてきた
いちょうたけ雀の
いちょう たけ雀の 道下り
 三匹づれづれ 下るげな
 後の雀も 物言わず
先の雀も 物言わず
 真ん中雀の 言うことにゃ
 われどまこんねえ もりやにや
このごろなに花 あるもんな
 雲に法華経 藤の花
 一枝折れば ぱと落ちる
二枝折れば ぱと落ちる
 三枝めにゃ 日が暮れた
 今夜どこに 泊まろうか
西の長者も 灯が見えず
 南の長者も 灯が見えず
 真ん中長者に 灯が見えた
今夜あすこに 泊まろうか
 明日 起きてみたら
 ちんちい嫁さん 花嫁さん
何が悲しゅて 泣きやんす
 私の弟の千松は
 七つ八つから 金堀りに
金があるやら 死んだやら
 一年待てども 状が来ん
 二年待てども 状が来ん
三年三月に状が来た
 その状にゃ 何々書いてある
 おせんをやれと 言うて来た
おせんはやらずに おまんやろ
 おまんにゃ 何々着せてやろ
 下から ちんちん縮緬を
上から こんこん紺屋染
 中から なための ひきじらし
 帯には どんすの 三重まわり
足袋は白足袋 京雪駄
 頭は鼈甲で 朝日やま
 これほど仕込んで やるからにゃ
道でこけるな つまずくな
 禅門坊主に うてあうな
 お寺にあがって 米食むな
 ねんねんよう ねんねんよう
 ねんねんころりよ おころりよ
三匹の雀
向こから雀が 三匹 とんできた
先の雀も 物言わず
後の雀も 物言わず
真ん中の こびっちょが 言うことにゃ
あがだ あがだ 花つもや
花は何の花 菊の花
一枝折れば パッとし
二枝折れば パッとし
三枝三月で 日が暮れた
がんがん島
がんがんじみゃ 船きゃァぎゃ
船は買わでな 馬買うて
馬はどこへんに つなでたな
三本松の 木の下に
ないどんば くれて つなでたな
去年の粟がらと 今年の稗がらと
十把ばっかり とりくれて
つなで ええたとばい
アッパッパ
ねんねんよ ねんねんよ
赤ちゃんな ねんねしたて
アッパッパも なんも
来んなよ 来んなよ
一の木二の木
一の木二の木 三で桜四の木
五葉松柳 柳のもとにゃ
ひっちょこ ちょんの 子もって
はっちょこ ちょんに ん抱かせて
のんぼり くんだり ごしんどう
ごしんどうの 寺にゃ
じゅず はっぽう かねはっぽう
かねや盗人の おっ取って
板きれ たたいて なんまいだ
壱州子守歌
ねんね ねんね ねんねよ
 ねんね ねんね こんぼうよ
 ねんねさんせ とこさんせ
あした早う おけさんせ
 ぼっちん搗いて 食わしゅうで
 搗いていやなら 焼いて食わしゅう
焼いていやなら たいて食わしゅう
 たいていやなら 生で食わしゅう
 ほりゃ ほりゃ ほりゃよ
 おうおう おうおう おうおうよ
イッチョココンボコ
イッチョコ コンボコ
イッチョコ コンボコ ねんねしな
蜂は山に 巣ばかけに
イッチョコ コンボコ
イッチョコ コンボコ ねんねしな
ハナちゃんは お母さんと ねんねしな
イッチョコ コンボコ
イッチョコ コンボコ ねんねしな
島原の子守歌
ねんねしなされ まだ夜は夜中
山のお寺の 鐘が鳴る
守り子唄
三年奉公
福江のおっさんたちゃ
じゃくねの輪切り
色は白しても 水くさい
朝は野にやる 昼ゃ山になる
夜は遅まで 物つかせ
なんぼ おっさんたちの末よかろ
ヒッチョコ マッチョコ ヨンヨコヨーン
ねねうらきゃて
ねねうらきゃて 伝馬の陰寝せて
 伝馬がうらきゃて 起こされた
おどま このいがが おつまでおりよ
 盆よ早よ来い 早よもどる
どっけん いわがたから 吹いて来る風は
 ほなつ たかいしがけに さよさよと
ほっかいの とっとどんが する商売は
 いのちゃ帆にして 波まくら
親の難儀で 十三の年
 売られましたよ 下関
下関より 来よとの便り
 行かにゃなるまい 泣く泣くも
ねんねしなされ
ねんねしなされ 朝起きなされ
明日は あなたの誕生日
誕生日には 赤べしょ着せて
乳母にだかせて 宮参り
旦那さんもおっ母さんも よく聞きなされ
守りば憎めば 子ば憎む
ねんねする子の 可愛さみぞさ
起きて泣く子の 面の憎さ
小太郎が守りょして
アララン コララン コラリヨ
 小太郎が守りょして 泣くときは
朝鮮かわいや 舟かいや
 舟は白がね 櫓はこがね
三で薩摩の 板買うて
 板屋づくしにゃ 門たてて
門のぐるりにゃ 杉植えて
 杉の小枝で 泣く鳥は
雁か すいしょか うの鳥か
 そばに よって見たりゃ ごぜんどり
 ごぜん ごぜんと あけてゆく 

 

わらべ歌
「たけのこいっぽん」 
   たけのこいっぽん おくれ まだめがでないよ
   たけのこにほん おくれ もうすぐでるよ
   たけのこさんぼん おくれ もうめがでたよ
   うしろのほうから ぬいてくれ
遊び方は“たけのこ役”と“引き抜く役”に分かれ、交互に歌います。“たけのこ役”はまだ芽が出ないうちはしゃがんで頭を隠しましょう。“引き抜き役”は、美味しそうなたけのこを吟味しながら歌い、芽が出たらたけのこを抜きましょう。 
「でんでらりゅうば」
   でんでらりゅうば でてくるばってん
   でんでられんけん でてこんけん
   こんこられんけん こられられんけん こん こん
小さい頃はお諏訪さんの龍のことかと思っていたけど、外出もままならない遊女や異人さんの歌と聞きました。「(ここから)出られるものなら出ても行きましょうけど、出られないのだから出て行けません。行けません。」というような意味でしょうか。長崎に限らず九州では、「来る」は「行く」ということ。「おうちんかたに、くるけんね。」とは「あなたの家に行きますよ。」の意味。
「あっかとばい」
   あっかとば〜い かなきんばい おらんださんから もろたとば〜い ばい
「かなきん」は金巾。オランダさんから貰った赤い上等の布(着物の裏地)を見せびらかしていたのかな?やっぱり遊女の歌なのかなぁ?
「まちでまんじゅうこうて」
   町で饅頭買うて 日見で火もろて 矢上で焼いて
   古賀でこんがらかして 久山でうち食うた
長崎から諫早久山までの地名を織り込んだもの。「喜々津で切って」というのもはさまってた?この歌では長崎の街でお饅頭を買ったことになっているけど、日見峠の饅頭屋さんは有名でした。父はそこで育ちました。私が子どもの頃は伯母さんが大きな茶色のソーダ饅頭を作ってました。
「つるは」 (絵描き歌)
   つるは まるまる むし 
 
熊本

 

遊ばせ歌 
ちょっちょっちょっ
ちょっ ちょっ ちょっ〔手をたたく〕
めめんこ めめんこ めめんこ〔掌に指で丸を描く〕
いとぐい いとぐい〔かいぐりをくり返す〕
ばあ〔両手をひろげて幼児を喜ばせる〕 
すーすー子供
すーすー子供 あしたけ あさってけ
 あらもとすっで かますっで
すーすー子供 堂の前へ こるでけ
 商人(あきゆうど)が尻(ひゅう) こしゃじなめさすっで 
ぎーっちゃん
ぎーっちゃん ちゃんごろりん  
おひィがっちゃん
おひィがっちゃん ちゃんごろりん
湯前(ゆのまえ) 多良木(たらぎ)の 須恵(すえ) 深田(ふかだ)
おまんがことづけ 忘れんな
ちょけ さっ ちょけ さっ 
ギッコンバッコン
ギーッコン バーッコン
爺さんに いっちょ 打ってやろ
婆さんに いっちょ 打ってやろ
ギーッコン バーッコン 
まんまいさんはいくつ 1
まんまいさんはいくつ 十三ななつ
ななつで子をもって 子はだれ だかしゅ
おまんにだかしゅ おまんはどこいた
高瀬の先に舟買いぎゃ 舟のはしでにゃ馬買うて
その馬どこえた 三本松の木の下
つないでおいたぞ おろろんばい おろろんよ
おろろん畑の ぼんぶらは
なるみちゃ知らでにゃ はいまわる
寝った子の可愛さ 寝らん子の面憎さ
おろろんばい おろろんばい
おろろん おろろん ねんねしな 
まんまいさんいくつ 2
まんまいさんいくつ 十三ななつ
ななつの歳に 油きゃにやったらば
油屋の前で 油五合いしてぇた
赤犬と黒犬が がんがん言うて
ちょんなめた 
お月さんないくつ
お月さんないくつ 十三ななつ
ななつで 子をもった
その子は どうしたかい
おまんどんに うんだかしゅ
おまんどんな いやでち
油買いはってぇた その油どうしたきゃ
犬と猫と ちょんなめた 
ねんねしなされ 1
ねんねしなされ はよおきなされ
 おきて目さましゃ いろたばこ
ねんねした子の かわいさみぞさ
 おきて泣く子の つらにくさ 
ねんねしなされ 2
ねんねしなされ 朝おきなされ
 朝の目さましゃ 茶とたばこ
 朝の目さましゃ 茶とたばこ
ねんねした子の かわいさむぞさ
 おきて泣く子の つらにくさ
 おきて泣く子の つらにくさ 
ねんねしなされ 3
ねんねしなされ まだ夜は明けぬ
 明けりゃお寺の 鐘がなる
ねんねした子の かわいさむぞさ
 おきて泣く子の つらにくさ
ねんねこねんねこ ねんねこよ
 ねんねこかっちり お亀の子
 お亀は盗人が おっとった
ねんねしなされ 朝おきなされ
 朝の寝おきにゃ 団子だご饅頭
団子か饅頭か おこしの米か
 一夜づくりの 甘酒か 
ねんねしなされ 4
ねんねしなされ おやすみなされ
 親のすみよにゃ まだはやか
ねんねした子の かわいらっさ もぞさ
 おきて泣く子の つらにくさ
つらのにっかったろ うち殺これておくれ
 親にゃ こき死んだと いうておくれ
わしとあなたは、つぎほの密柑
 今はならねど 末はなる
わしとあなたは かけひの水よ
 澄まずにごらず 出ず入らず
おどんげ来てみゃ 天満ずぐし
 竿じゃとどかぬ 見たばかり
おどんがこまんか時ゃ よしのにかよた
 よしのすすきば なびかせた 
ねんねしなされ 5
ねんねしなされ はよおきなされ
 朝の目さましゃ 茶とたばこ
ねんねした子の かわいさむぞさ
 おきて泣く子の つらにくさ
わしとお前さんは 姉妹(きょうだい)なろや
 お前ゃ姉(あね)さん わしゃ妹 
ねんねしなされ 6
ねんねしなされ 朝おきなされ
 朝はお寺の 鐘がなる
おどんがちんか時ゃ かね打ちせきだ
 今はふとなって つのむすぶ
ねんねして泣く 子にゃ乳のませ
 乳をのませて だいてねる 
おれろばんごばんご
おれろ ばんごばんご
 ねんね さいたならば
 おきて目覚ましゃ 砂糖饅頭
里のみやげに なにもろた
 でんでん太鼓に しょうの笛
 鳴るか鳴らぬか ふいてみよ 
ねんねんよ
ねんねんよ ねんねんよ
ねんねが守りは どこいった
山をこえて 里いった
里のみやげは なになにか
一に香箱 二に鏡 三で薩摩の板を買(こ)て
板を葺(ふ)くちて 門たてて
門のぐるりに 泣く鳥は
がんかすいしょか 鵜の鳥か
いたみてたもね 御所の鳥
ごしょんごしょんと わけていく
わけていくいく いげふんだ
いげはなにいげ こからいげ
どうぞ姉さん ほってくれ
今日はひまなし おひまなし
わたしがそのうち 死ぬるなら
ろうそく線香は たのみます 
おろろんおろろん
おろろん おろろん おろろん
おろろん おろろん おろろんよ
おろろん おろろん おろろん
おろろん おろろん おろろんよ
うんどんがえん とっつぁんたちゃ
竹ん島(しみ)ゃ 芽とるぎゃ
芽はとりゃえでん きゃ流(なぎ)ゃて
   おどみゃどゥうしゅろ どゥうしゅろな
   おろろん おろろん
   おろろん おろろん おろろんよ
   おろろん おろろん おろろん
   おろろん おろろん おろろんよ
   アラ みぞさが みぞさが しょうけいっぴゃ
   みぞさが みぞさが しょうけいいっぴゃ
うんどんがえん かっちゃんたちゃ
茶園原(ちゃえんばり)ゃ 茶つみぎゃ
お茶ばよんにょ摘んで はよもどれ
おれろばんが子は 泣かせちゃならぬ
(ハヤシ言葉略)
アラ みぞさが みぞさが しょうけいっぴゃ
   ねんねころゆて ねんねせんややは
   打とか たたこか なんぎゃろか
   おきて泣く子の つらにくさ
   (ハヤシ言葉略)
   アラ みぞさが みぞさが しょうけいっぴゃ
   みぞさが みぞさが しょうけいっぴゃ 
おろろん亀屋にゃ
おろろん おろろん おろろんばい
 おろろん亀屋にゃ 子がでけた
 泣くと丹後山ゃ おいやぐるばい
おろろん おろろん おろろんばい
 おろろん亀屋にゃ 子がでけた
 泣くと久助どんの もらいこらすばい
おろろん おろろん おろろんばい
 ねむれねむれ 猫の子
 うっつけ うっつけ 牛の子
 はようねむらんと わんわんがくるばい 
おろろんいうて
おろろんばい おろろんばい
おろろんいうて ねらぬ子は
打とかたたこか なんぎゃろか
なんぎゃらするまい 母さまに
お乳のでばなで お目さましょ 
おろろんや
おろろんや おろろんや
おろろが山から 日が暮れて
権現堂に 宿して
朝どき起きて 面見れば
十七八の 稚児たちが
黄金の木履 ふみそろえ 
ねんねこや
ねんねこや こんぼしや
ねんねこちゅうても ねらの子は
びんたに 手こぼし 二つ三つ 
ねんねのおもりは
ねんねんころり ねんころり
ねんねのお守りは どっちいた
向こうのお山に 里帰り
里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に しょうの笛
ねんねんころり ねんころり 
ねんねここんぽこ
ねんねこや こんぽこや
ねんねこや こんぽこや
ねんねこ こんぽこ とこなされ
ねんねした子の かわいさむぞさ
おきて泣く子の つらにくさ 
ねんねんころころ
ねんねんころころ 鳴く虫の
 父ちゃん母ちゃん 恋しゅて泣きゃるのか
父ちゃん母ちゃん 手枕で
 ねんねんころりよ おころりよ 
ねんねこさんねこ
ねんねこ さんねこ 酒屋が子
酒屋がいやなら 嫁入さしゅ
嫁入の道具は なになにか
たんすに長持 はさみ箱
これほど持たせて やるほどに
いてから戻ろでちゃ いなはんな エー
戻らば戻らい きゃ戻らい
あてにゃ十八 きょよぼたい
あてにゃ十八 きょよぼたい 
ちょんちょこべえ
ねんねこや ねんねこや
ねんねこ ねんねこ ねんねこや
ちょんちょこべえ ちょんちょこべえ
ちょんちょこべ人形は うしてらいた
うっけぎゃございたろ どぎゃんさっどか
ねんねこや ねんねこや 
向かえの山に
向かえの山に 灯が明かる
月か星か ほったるか
山寺坊主の 御前迎え
よんべ迎えた 花嫁御
今朝の座敷に 出したれば
椀が細いとて 出てはしる
まいっとき 待ちなはり わんふとの
椀はなに椀 たかち椀
膳はなに膳 杉の膳
箸はなに箸 やなぎ箸
なにが不足で あるものか 
この子が眠ったら
この子が眠ったら さぞよかろ
餅んついて さまいて
べべの子に うせて
坂をのぼり おいあげて
坂の上には 堂がある
堂の中には 虫がおる
きたねえ虫が ひと夫婦
立派な虫が ひと夫婦
立派な虫の いうことにゃ
雁なすいしょか 鵜の鳥か
寄ってみたれば 御所の鳥
ねんねんころりよ おころりよ 
あの人とあの人は
あの人とあの人は 川とんぼ
川の中で 子がでけた
その子は初子で 宮まいり
宮の後ろで ぽんがせく
ぽんがせっくなら 医者呼んで
医者のくすりは のまんという
のまんとゆったてちゃ のまにゃならん
だってろさんの手枕で ちょっとようなった
だってろさんの手枕で ちょっとようなった 
おろろんが守りは
おろろんよ おろろんよ
 おろろんが守りは どっちいた
あの山こえて 里いた
 里のみやげは なになにか
一に大雨 二に夕立
 三に用事が くるわいな
おろろんよ おろろんよ
 おろろんが守りは どっちいた
あの山こえて 里いた
 里のみやげは なにもろた
一に香箱 二に鏡
 三で薩摩の 板を買て
板をぶぎょして 門たてて
 門のぐるりに 杉さして
杉のみどりに 鳴く鳥は
 雁かすいしょか 鵜の鳥か
鵜のじゃござらぬ 御前鳥
 御前鳥どり 化けていく
化けていくいく いげふんだ
 いげはなにいげ くわくわらいげ
くわくわらいげほど 身の毒だ
 ほて下され 姉御さま
ほてやるのは やすけれど
 今日は暇なし お暇なし
明日の晩の月夜に ほてやろ
 おろろんよ おろろんよ 
おまんがお父っつぁん
おまんがお父っつぁんな どっちいた
 かんかんかね山ゃ かね堀りに
かねが掘れたか 掘れんかしょ
 おまんも行こでちゃ 泣かるげな
おまんになになに 着せてやる
 下から木綿 あか小袖
上から丹後の 単物
 一番上から おっぱいて
さらばさればと 行きよれば
 地藏のもとの 八重桜
一枝折りては 髪にさし
 二枝折りては 肩にさし
三枝折るまじゃ 日が暮れた
 姉方の方に 泊まろうか
伯母方の方に 泊まろうか
 伯母方の方に 泊まったら
たたみはせまし 夜は長し
 ここはどこよと たずねたら
ここはなだいの かけどころ
 なだけかけたる そのあとは
親にしんがん 子に四貫
 明日は伯母女に 四十五貫
四十五貫の ぜにかねば
 高い米買て 船に積み
船はどこまで 大阪まで
 大阪みやげは なになにか
一で香箱 二で鏡
 三で薩摩の 板を買て
坂屋奉行して 門たてて
 門のぐるりに 杉うえて
杉のみどりに 鳴く鳥は
 雁かすいしょか 鵜の鳥か
鵜のじゃござらぬ 御所の鳥
 御所の鳥とり いげふんだ
いげはなにいげ ぐゎくゎらいげ
 姉さんどうぞ ほってくれ
今日は暇なし お暇なし
 明日の晩の月の夜に ほってやろ
わたしがそのとき 死ねるなら
 ろうそく線香 たのみます 
おろろん畠の
おろろん畠の ぼうぶらは
なりみちゃ知らずに はいまわる
としきさんの お父っつぁんな ただ買いに
ただはおらずに 馬買うて
だだはどこにつないだか 一本松の木の下に
なにば食ゎせてつないだか
去年の稗がら 今年の粟がら
それを食ゎせてつないだ
早よ寝って 早よおずめ
あんめとぼっちを買うてやる
おっちきばっちきしおらしたりゃ 子ができた
その子はなに子か ひょうたん子
ひょうたん子のぶん助さんに よう似とる
ぶん助さんに うだかれて お寺参り
お寺の段から むしのせぎゃーた
むしがせくなら お医者さん
お医者さんの薬ゃ わしゃきらい
ぶん助さんの手枕で ちょっと良なった
早よ寝て 早よおずめ
あめんぼとぼっちと買うてやる 
江戸の父さん
江戸の父さん 早よもどれ
飴もぶんぐも いらんばな
お千と万八ゃ うっ死んだ
あさがら二本に 渡されて 
うさぎのお耳
おろろん畠の しねうさぎ
なぜにお耳が おながいの
母さんのおポンポンに いたときに
椎の実 榧の実 食べたから 
子供衆ゃ泣かす
盆なはってかす 子供衆ゃ泣かす
 なんの泣くかな またこらす
親の難儀で 十三の歳
 売られましたが 下関
下関から 来いとの手紙
 行かにゃなるまい 泣くなくも
おどんがもった子は 笠岩にゃくれぬ
 行けば笠岩は 岩の下
行こやはってこや 熊本ん先に
 阿蘇の南郷の 果てまでも
わしとあんたは はってこじゃないか
 親の訊ねの ないところ 
ねんねこねんねこ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよォ
霧島さんでん 乙宮さんでん
どこでんよかたい いとんなはり
この子が寝れば わたしもくる
ねんねこ がっちり 亀の子
寝らにゃ こうこが わんすう びょうびょう
そらきた もうきた おろろんばい
ねんねこ ねんねこ ねんねこよォ
今年こらした あんたん方の高文金な
器量もよかげにゃ たいっげにゃ
知っとるばってん いわんばってん
かまわんこっばってん
がまじゃち むぞがって おきなはり
うらやましこっ 一日なっと 一晩なっと
いっときなっと じょうもんさんになってみちゃ
千代さん 嵯峨さん いま来たばい
あんたたちゃ みゃばん お湯にだまって
一人でばっかり はちくるけん
どうしてん わたしどま そりゃでけん
いろいろ奥さん くしするけん
何でも かんでも いちいち奥さんに
告げ口いわんと のちゃ りんきさす 
守り子歌 
おどんがもった子は
おどんがもった子は 岩屋にゃくるんな
 岩がくずるりゃ 死んでしまう
おどんがもった子は 湯島にゃくるんな
 湯島談合島 はなれ島
おどまかんじんかんじん あん人たちゃよかし
 よかしゃ きりょうよし 姿よし 
何が心に
なにば案じっかよ 日の暮れ方に
 何が心にィ かかるやら
あなたろうそく しんから燃える
 わたしゃたいまつ うわのそら
あなた百まで わしゃ九十九まで
 ともに白髪のォ はゆるまで 
わが子かわいなら
わが子かわいなら 餅ゃ守り食わせろ
 守りばにくめば 子ばにくむ
おれろばんご言うて 寝った子のみぞさ
 おきて泣く子の つらのにくさ
つらのにくかたろ 打ち殺れてくっどない
 親にゃ死んだとは 言てくれろ
親にゃ死んだとは 言ちゃおりゃならぬ
 親は目で見て 耳で聞く 
今年ゃこけおって
今年ゃ こけおって 着物三つもろて
 年中泣く子を かりゃあげた
ねんねした子の かわいらしさみぞさ
 おきて泣く子の つらにくさ ヨイヨイ 
うんどみゃばかばか
うんどみゃばかばか ばかんもった子じゃっで
 ばかといわれて はずかしや
なけばなんこんばな たけんさきの灘に
 あがりゃえんとばな 死んとばな
おどま いやばな 泣く子の守りは
 泣けばおやじょに おごらるる 
親が難儀で 1
親が難儀で 十三の年
 売られましたが 下関
下関から 来いとの手紙
 行かぞなるまい 泣くなくも
奥さんも旦那さんも よう聞きなされ
 守りにけんどすりゃ 子にあたる 
親が難儀で 2
親が難儀で 十三の年
 売られましたが 下関
下関から 来いとの手紙
 行かにゃなるまい 泣くなくも 
ねんねした子の 1
ねんねした子の かわいさむぞさ
 おきて泣く子の つらにくさ
つらのにっか子は うち殺れておくれ
 親にゃ ご死んだと ゆておくれ 
ねんねした子の 2
ねんねした子の かわいさみぞさ
 おきて泣く子の つらにくさ
わたしゃこの家の 子守りだけれど
 守りばにくめば 子ばにくむ
子ばにくめば しきしょにさわる
 しきしょさわれば 守りゃおらぬ 
けさの寒さに
けさの寒さに 親なら子なら
 行くな戻れと ゆてくりょに
他人おそろし 闇夜はこわい
 親と月夜は いつもよい
おどんが死んだなら 誰が泣いてくりょか
 前の松山の 蝉が泣く
蝉じゃござらぬ 妹でござる
 妹泣くなよ 気にかかる
おどんがごたってにゃ もの言うな名言うな
 なさけかくるな 袖ひくな
なさけかくっちゅて 籾のぬかかけて
 さまのなさけは かゆござる
こんなところに なぜ来たしらぬ
 親が行くなと とめたのに
親はどこかと 豆腐にきけば
 親は畠に 豆でおる
おどんが父さんな 桶屋でござる
 朝はとんとことんとこ 輪をたたく
ねんねした子に 香箱七つ
 起きて泣く子に 石七つ
あの子にくらし わしみて笑う
 わしもみてやろ 笑てやろ
あの子えらそに 白足袋はいて
 耳のうしろに あかためて
山でこわいのは さるとりいばら
 里でこわいのは 守りの口
おどんがにくけりゃ 野山で殺せ
 親にそのわけ 言うて殺せ
おどんがこの村に 一年とおれば
 丸木柱に 角がたつ
丸木柱に 角がたつよりも
 早くいとまが 出ればよい
おどんがおればこそ こん村がもむる
 おどんが行ったあて 花がさす
花はさいても ろくな花はさかん
 手足かかじる いげの花 
五木の子守唄 1
おどま非人(くわんじん)非人
ぐゎんぐゎら打ってさるこ
ちょかで飯(まま)たいて 堂に泊まる
おどまばかばか
ばかんもった子じゃっで
よろしゅたのんもす 利口(じこ)かひと
子持ちよいもの 子に名をつけて
添い寝するちゅて 楽寝する
つらいもんだよ 他人の飯(めし)は
にえちゃおれども のどこさぐ
おどまいやいや 泣く子の守りは
泣くといわれて にくまるる
こどんかわいけりゃ 守りに餅くわせ
餅がこくれば 子もこくる 
五木の子守唄 2
おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先ゃおらんど
盆が早よ来りゃ早よもどる
   おどまかんじんかんじん
   あん人しとたちゃよか衆し
   よか衆ゃよか帯よか着物(きもん)
おどんがうっ死(ち)んだちゅて
誰(だい)が泣(に)ゃあてくりゅきゃ
裏の松山蝉が鳴く
   おどまいやいや
   泣く子のもりは
   泣くといわれて憎まれる
ねんねいっぺん言うて
眠らぬやつは
頭叩いて尻ねずみ
   ねんねした子に
   米ん飯食わしゅ
   きなこおれにして砂糖つけて
ねんねした子の
かわいさむぞさ
起きて泣く子の面憎さ
   子どんがかわいけりゃ
   守りに飯くわしょ
   守りがこくれば子もこくる
つらいもんばい
他人の飯は
煮えちゃおれどものどこさぐ
   おどまバカバカ
   バカんもった子じゃっで
   よろしゅ頼んもす利口か人
おどまかんじんかんじん
ぐわんがら打ってさるこ
ちょかで飯ちゃあて堂にとまる
   おどんがこん村に
   一年おれば
   丸木柱に角がたつ
丸木柱に
角たつよりは
おどまはよ暇んでればよか
   花が咲いても
   ろくな花ささん
   手足かかじるイゲの花
おどんがおればこそ
こん村もめる
おどんが去たあと花が咲く
   おどんがうっ死(ち)んだちゅうて
   誰だいが泣にゃてくりゅうか
   裏の松山蝉が鳴く
蝉じゃござらん
妹でござる
妹泣くなよ気にかかる
   おどんがうっ死んだら
   道ばちゃいけろ
   通る人ごち花あぎゅう
花はなんの花
つんつん椿
水は天からもらい水
   おどんがとっちゃんな
   おん山おらす
   おらすともえば行こごたる 
九州を代表する子守唄で、戦後になってアレンジ曲が流行歌となり、全国的に知られることになった。元々は、貧しい山間の村に生まれた娘が、口減らしのために子守娘として奉公へ行った先で、わが身の不遇を嘆いて歌った唄。「おどま」は「私たち」のこと。「非人」は子守娘自身のことを卑下している言葉で、普通は乞食の意味で使われる。現在記録されているだけでも、70を超える歌詞が存在する。今も一般に広く知られている「五木の子守唄」は、元の正調とはかなり変わって民謡風にアレンジされている。 
五木四浦地方の子守歌
おどま盆ぎり盆ぎり 盆かる先ゃおらんと
 盆がはよ来りゃ はよもどる
おどま非人(かんじん)非人(かんじん) あたしたちゃよかし
 よかしゃ よか帯 よか着物
おどんが死んずろば 道ん端(ばちゃ)いけろ
 通る人ごち 花あげる
花はなんの花 つんつん椿
 水は天から もらい水 
おどまいやいや
おろろん おろろん おろろんばい
おろろん おろろん おろろんばい
おろろん おろろん ばばのまご
おどまいやいや 泣く子の守りにゃ
 泣くと言われて にくまれる(くり返す)
ねんねいっぺん言うて ねむらぬやつは
 あたまたたいて しりねずむ(くり返す)
おどま勧進(くわんじん)勧進 ぐゎんがら打ってさるく
 ちょかで飯ままちゃて 堂に泊まる(くり返す)
おどんがお父っつぁんは あん山おらす
 おらすともえば いこごたる(くり返す)
おどま勧進勧進 あんしたちゃよかし
 よかしゃよか帯 よか着物(きもん)(くり返す)
おどんが死んだちゅうて だが泣ぁてくりゅきゃ
 裏ん松山 蝉が泣く(くり返す)
蝉じゃござらぬ 妹(いもと)でござる
 妹(いもつ)泣くなよ 気にかかる(くり返す)
おどま馬鹿馬鹿 馬鹿ん持った子じゃっで
 よろしゅたのんもそ 利口(じこ)か人(くり返す)
おどんがうっ死んずろば 道ばちゃいけろ
 通る人ごて 花あぐる(くり返す)
花はなんの花 つんつん椿
 水は天から もらい水(くり返す)
おどま盆ぎッ盆ぎッ 盆から先ゃおらんと
 盆が早よくりゃ 早よもどる盆ぎッ 
おどま盆ぎり 1
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
 盆が早よくりゃ 早よもどる
うちのお父さんな あの山(やみや)おらす
 おらすともえば いこごたる
おどまいやいや 泣く子の守りにゃ
 泣くと言われて にくまれる 
おどま盆ぎり 2
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらん
 せめてナー 今年の ア 師走まで
奥さん旦那さん よう聞きなされ
 守りにナー けんどすりゃ ア 子にさわる 
ねんねこばっちこ
ねんねこばっちこ言うて ねらん子はたたけ
 たちゃてねらん子は 尻(じご)ねずめ
ねんねこばっちこは 守り子の役目
 そう言うてねらきゃて 楽をする
うんどみゃ盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
 おって盆べこも きしゃされず
うんどんが死んだときゃ だが泣ゃてくりゅきゃ
 山のからすと 親さまと
うんどんが死んだときゃ 大道端(うみちばちや)いけろ
 のぼり下りにゃ 花もらお
花は立っちゅちィ 柴ン葉はたつンな
 椿つつじの 花たてろ 

 

わらべ歌
葦北の子守唄
   ねんねしなされ
   おやすみなされ
   親のすみよにゃまだはやか
    ねんねした子のかわいらっさもぞさ
    おきて泣く子の面にくさ
   つらのにっかったろ
   うちこれておくれ
   親にゃこき死んだと言うておくれ
「ねんねしなされ」で始まる子守唄はいくつもある。「寝させ歌」の典型的な形でもある。「親のすみよ」の「すみ」は「済み」だろうか。親が休むにはまだ早い、休めないまま子どもの寝かしつけは続く。寝た子はかわいい、寝ない子は憎い、という対比はよく見かけるもので子守唄としての目新しさはない。いきなり平手打ち食らうような衝撃を受けるのは、3番だ。泣き止まぬ赤ん坊に対して、私の面が憎いんだろう、殺しとくれと歌うのだ。実際赤ん坊を脅したり憎しみをぶつける歌というのは少なくない。
   ねんねん、ころころ、ねんころや、
   寝ないと鼠に引かれんべ
   おきると夜鷹にさらわれる 
   (山形)
   ねんね、ねんねよ
   ねる子はかわいい、
   面のにくい子はまないたにのせて
   四万十川へちょいと流す   
   (高知)
   泣くな泣くなよ、泣く子はいらぬ
   泣けば地獄の釜の中   
   (鹿児島)
鼠や夜鷹など怖いもので脅すというのはまだかわいいほうで、川や地獄に送るという物騒なものも多い。しかし、葦北の子守唄は、守子である自分を殺せと歌う。泣く子の「不機嫌」を「憎しみ」として受け止める少女の姿がそこにはある。いくら泣きわめいても殺意を抱くことなど知らぬ赤ん坊に、「憎いだろう、殺しとくれ」というとき、それは、そのまま少女の赤ん坊への憎しみが反射して生まれた言葉といえる。自らを滅せと迫るほどの深い悲しみは、川へ流し、地獄へ送る子守唄の幾倍も強く聴く者に響いてくる。たとえ死んでも、実の親に届くのは死んだという便りだけだ。それさえ届かぬこともあったのではないだろうか。
   俺(おど)まが死んだてちゃ誰が来て泣くど、裏の松山や蝉が鳴く
   俺んが死んだ時ゃ道端や埋けろ、通る人ごち花あげろ
生のはかなさをすでに知る少女たちの、諦念覚えつつ抑えきれぬ感情の高ぶりが、熊本に伝わる二首の子守唄のフレーズにも表れている。
しかし、4番からは子守の様相を離れ、詩の主題は恋になる。
   わしとあなたは接ぎ穂のミカン
   今はならねど
   末はなる
今は恋愛の実る時期ではない、と自らを慰める気分が伝わるよくできた比喩になっており、大人たちの恋の歌のフレーズが混じっているのかもしれない。
江戸期に集められた民謡集「山家鳥虫歌」を参照すると、この「わしとあなた」型の恋の歌には
「わしとお前は子藪の小梅 なるも落つるも人知らぬ(丹後)」
「わしとお前さんはいろはにほへと やがてちりぬるお別れじゃ(三重)」
などが伝わるが、ここに出てくる接ぎ穂のミカンの比喩表現は、より洗練されている感がある。もう少し類歌を探してみると
「様とわしとは山吹育ち 花は咲けども実はならぬ」(愛知・田峰盆踊) 
「様とわしとは焼野の葛 蔓は切れても根は切れぬ」(土佐・機織唄?)
のように、実と縁について歌う二首を見つけた。現世で結ばれなくても「根は切れぬ」、という縁を歌うフレーズが「末はなる」という言葉で、接ぎ穂のミカンに詠み込まれたものが葦北バージョンであるように思う。田峰盆踊のバージョンは新潟甚句にも類歌があり、土佐バージョンは機織歌とも言われる。子守唄や守子歌もジャンルを超えて盆踊り、甚句、労働歌などさまざまな類歌の影響が及んでいることが分かり面白い。続いて恋は掛井の水にたとえられる。
   わしとあなたは掛井の水よ 
   すまずにごらず
   出ず入らず
掛井とは、筧、懸樋とも書き、水を引き、地面の上を水平に運ぶものだ。竹やくりぬいた木で作られ、歴史的には田んぼに水を運ぶ灌漑用水に用いられてきた他、人家の屋根の雨水を下に落として地上で運ぶためのものでもあった。吉田兼好が徒然草の第十一段に
木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、露おとなふものなし
と描写して以来、和歌の世界では世捨て人の心細さと共に詠まれてきた。冬になり山里の庵に流れる掛井の水が凍ったり枯葉に埋もれて「音」が途絶える様と「訪なふ」者がない寂しさとがかけられたからだ。その一方で、「にごりなきもとの心にまかせてぞかけひの水のきよきをもしる(続千載集・釈教・覚懐法師)」のように掛井の水の音に清浄を感じ、澄みわたる心を詠むものも存在する。
しかし、葦北の歌で詠まれるのは、とどまることなく流れ、澄むこともにごることもない。思い寄せる人との間を温める時間もない、今世での縁の薄さへの歎きである。その意味では
「わしは谷水出ごとは出たが 岩に堰かれて落ち合はぬ(河内)」(伊豆碓挽歌、広島御島廻歌、愛媛雨乞踊歌などに類歌)
「何を歎くぞ川端柳 水の出ばなを歎くかや(河内)」(愛媛籾摺歌、田峰盆踊、鹿児島労作歌などに類歌)
「出ごと」「出ばな」はそれぞれ色恋の暗喩になるらしく、勢いのある水の流れとうまく実らない恋の行方を重ねる歌の系譜に連なるのだろう。
つらい子守の合間に、今は結ばれなくても来世は一緒になるという期待をこめて恋人の面影を思い浮かべ「わしとあなた」と発声することがどれほど、彼女たちの心の慰めになったことだろう。それが悲恋の歌としても、子守の途中で恋の歌を歌うことは、今で言えば思春期前後の守子たちにとってほとんど必然だったように思う。
6番からは自分の家のことや自分の幼いころの回想、昔を思う歌になっている。
   おどんげ来てみゃ
   天満づくし
   さおじゃ届かぬ
   見たばかり
   おどんがこまんかときゃ
   よしのに通た
   よしのすすきばなびかせた 
「おどまかんじん」というフレーズが有名なように、「おど」というのは「俺」「私」である。柿がたわわに実る様を「天満づくし」と言った。さおを使っても届かなかった、小さい頃の実家での思い出、野原ですすきを靡かせた思い出を回想する少女。歌う今もまだ、大人になりきらぬ年端だろう。現代の感覚で言えば、回想などする年齢ではないが、労働力として他家へ奉公に出ている身には、とりわけ実家の親元にいられた幼児期が美しく懐かしく思い出されたことだろう。
守子歌というのは、世界的に見ても珍しいのだという。世界の子守唄は母親の愛情を歌うものが圧倒的に多い。厳密に言えば日本の守子歌は労働歌であり、しかし、労働歌といってしまうにはあまりにはかない美しさをたたえているように思う。
右田伊佐雄は「子守と子守歌」の中で、守子を「兄弟守子」「互助守子」「奉公守子」の三種に分類し、「兄弟守子」は世界にも見られるものとしている。また「互助守子」も農閑期などに共同体内での助け合いとして子どもたちを子守に利用しており、それほど悲惨な雰囲気はない。いわゆる「守子歌」らしい恨み節を生みだしていったのは、江戸中期ごろから広まった「奉公守子」たちだった。親元を離れ、奉公先で冷遇されながら、ひたすら子を背負い、背を赤ん坊の尿でぬらし、恋しい人を思い、親を思い、故郷を思いながら奉公明けを待ちわびた少女たち。彼女たちの嘆き歌は日本全国に分布するという。楽譜を通して遠い日の彼女たちの記憶が現在に残っていることは、本当に奇跡のようだ。
この曲をライブで歌うと「寺尾さんあんな歌い方もできるんですね、民謡調というか」と言われる。意識してはいないのだが、メロディに引っ張られて出てくる声色というものがあるのだろう。今この歌を歌いながら、当の母親でさえ、一人目の子育ては泣きたくなる事もあったなあと思いかえす。私と彼女たちの思いが、時代を超えて、声帯でかすかに共鳴する瞬間が、もしかしたらあるのかもしれない。 
 
宮崎

 

滝も生きてる自然も人も 街を飾る 関之尾滝は 花を咲かす 都城話
出来れば昔の ふたりの暮らし 願う心の 女ごころの ああ堀川運河
寝させ歌 
ちにれちにれ
ちにれちにれ
ちにれちにれ ちにれちにれ
わんわんさんが来っど
ちにれちにれ
よかどよかど ちにれちにれ 
ねんねこさっしゃりませ
ねんねこさっしゃりませ
きゅは 二十五日
あすはこの子の 宮まいり
宮に参ったら なんというておがむ
この子一生 まめなよに 
ねんねこせん子は
ねんねこねんねこねんねこせ
ねんねはよい子じゃねんねこせ
泣くな泣かずに ねんねこよ
泣かんでねらんと 背負かるわんど
泣いてねらんと 川流す
ねんねこせん子は墓たてる 
ねんねねんねこ
ねんねねんねこ ねんねこよ
 ねんねしなされ 夜がふけた
わたるそよ風 草の露
 いったり来たり 夢の舟
親がうたえば 子がねむる
 ねんねしなされ ねんねこよ 
ぼんがえんお父っちゃんな
ホーラホーラ ホーラヨ
ぼんがえんお父っちゃんな
どこん行きゃった
おかん先 焼酎飲んけ
焼酎飲んで 酔(い)くろうて
正月どんの べんじょを 汚(よご)らけて
むらざけ川で 洗やったどん
干すとこがなくて 草っ原へ
干しちょきやったら のっがいって
ひん燃えっしもっ ちょっしもた
ホーラホーラ ホーラヨ 
むかえの原に
むかえの原に 鹿が鳴く
 さびしゅて鳴くか 妻呼ぶか
さびしゅて泣かぬ 妻呼ばぬ
 あすはこの山 かりがある
ここらは狭まし 子は多し
 逃げよとすれば 子が惜しゅし
助けたまえよ 山の神
 助けたもうた お礼には
四角四面の 堂立てて
 石の燈籠に 灯を明かす 
ねんねんお守りは
ねんねんお守りは どこへ行た
あの山越えて 砂糖買いに
里のおみやげ なになにの
一に香箱 二に鏡
三に薩摩の 板買うて
いたやぼきれて 門立てて
門のぐるりに 杉さして
杉のみどりに 鷹はませ
鷹のこう場に 香たいて
香の煙は どちらゆく
西や東に きたみなみ 
ねんねこやいやこ
ねんねこやいやこ ねんねこや
 やいやこねんねこ やいやこよ
ねんねこ山の 白犬は
 一匹ほゆれば みなほゆる
ねんねこした そのあとで
 餅じょとだんごを しておいて
お起きしたときゃ それをやる
 やいやこねんねこ やいやこよ
父ととと母ははは どこへ行いた
 父とうちゃんは米屋に 米買いに
米がのうして 馬買うて
 その馬はそれから どうしたや
一本松の 木の下で
 つないでおいたよ やいやこよ 
眠れ眠れ猫の子よ
眠れ眠れ 猫の子よ
だんまれだんまれ だんまの子
うっつけうっつけ 牛の子
すやすや眠れ ええ子じゃろ
ほらほら眠れ ええ子じゃろ 
さるけさるけ猿の子 1
さるけさるけ 猿の子
うっつけうっつけ 牛の子
眠れ眠れ 猫の子
この子がねんねを したならば
ぼちやだんごも ついて食わしゅ
ついて食わせた 残りは
だんだの背中に乗せて 牛の子に引かせ
あっちの坂を ごろごろ
こっちの坂を ごろごろ
五郎蔵どんの山にゃ 畑つくり金持ち
金を盗人が おっ盗った 
さるけさるけ猿の子 2
さるけさるけ 猿の子
うっつけうっつけ 牛の子
眠れ眠れ 猫の子
うちのとめちゃんが ねんねすると
ぼちもだんごも ついてやる
ほらほらお山の きじの鳥
猫から追うわれて とられたど 
よい子よい子いうて
よい子よい子いうて 眠らん子は
びんたに てこぶし当ててやる
眠れ眠れ 猫の子
うっつけうっつけ 牛の子
ねんねこいうて 眠らずに
起けたら おかめが
とってかも とってかも 
ぼんがえんひゅうたんな
ホロロホロロ ホロロロロ
ホロロホロロ ホロロロロ
ぼんがえん ひゅうたんな 太ふちっじゃ
太っじゃ太っじゃ 太っじゃ
米どむ入れたら 三十三石三斗
三升三合三勺 三畝どま いろうだい
ホロロホロロ ホロロロロ
ホロロホロロ ホロロロロ 
べぶん子が一ぴき
べぶん子が一ぴき
たぶん子が一ぴき
どき つねじょいたか
むかえん三本松の 木の下に
なにゅ 食わせちいたか
去年の豆がらと 今年の粟がらよ 
狩人子守歌
眠れ眠れ 猫の子
うっつけうっつけ 牛の子
走れ走れ狩人かりんど 秋のししゃとれんど 
ねんねこぱんぱこ
ねんねこぱんぱこ 酒屋が子
酒屋で生まれた 子なれば
盃持って来い 酒飲ましょ
子供がお酒を 飲むものか
正月ゆるりと 酒飲ましょ
ねんねこや ぱんぱこや 
ほーわれほーわれ
ほーわれほーわれ ほーわれよ
眠れ眠れ 猫の子
だまれだまれ だんまの子
この子がねんねを したときにゃ
餅やらだんごやら こしらえて
隣のべの子に かるわせて
のんぼりくんだり とばしょうぞ
この子がめざめた そのときにゃ
この子にばっかり 食わしょうぞ
ほーわれよ ほーわれよ 
「だんまの子」は「馬の子」、「べの子」は「牛の子」、「のんぼりくんだり」は「上り下り」のこと。内では、この「眠れ 猫の子 だまれだまれ だんまの子」という歌詞で歌いだす子守唄が多く、生き物が生活の中で身近で愛着のある存在になっていることが伺える。 
この子よい子じゃ
この子よい子じゃ ぼた餅顔じゃ
黄粉つけたら なおよかろ 
ねんねこしゃんせ
ねんねこしゃんせ とこしゃんせ
あすは早う 起きしゃんせ
お乳のでばなは 参ぜましょ
ねんねこしゃんせ とこしゃんせ
   ねんねこしゃんせ とこしゃんせ
   にくい嫁の 腹から
   こういうかわいい 子がでけた
   ねんねこしゃんせ とこしゃんせ 
一の木二の木
一の木二の木 三の木さくら
五葉松 やなぎ やなぎの木には
とんびもとまる からすもとまる
ひだるさじゃろばい
ひだるけりゃ田作れ 田作れば泥がつく
泥がつけば洗え 洗えば冷とし
冷たけりゃ火をあぶれ あぶればあたし
あたけりゃよりひざれ よりひざればしっつく
しっつけば立ち上がれ 立ち上がれば頭つく
頭つけば外に出よ 外に出れば下駄ふめ
下駄ふめば転ぶ 転ぶなら杖っけ
杖っけばあごをつく 
守り子歌 
よいそらよいそら
よいそらよいそら よいそらよ
どうしたお前は 泣く子かえ
隣のおばさん お茶たもれ
   おばさんこの茶は 新茶か古(と)茶か
   やらんがらかよ お茶がらか
   おばさん死にゃっときゃ 七月死にゃれ
   ほたら灯あかす せみゃ経読む
   よいそらよいそら よいそらよいよ
   なんぼそなたが 泣いたとて
   そなたの母さん この地にゃおらん
   あの山越えて 海ゅ超えて
   二度と帰らぬ おかあさん
   よいそらよいそら よいそらよ
   早くねんねせにゃ 俺が噛むど
よいそらよいそら よいそらよ
親も親かや このよなとこにゃ
使いも便りも ないとこにゃ
どういう生まれか この年までも
ひとりまる寝を せにゃならぬ
わしが友達ゃ 家持ち子持ち
わたしゃ 流れ船 とこへつく
よいそらよいそら よいそらよ
   よいそらよいそら よいそらよ
   なんでお前は そんなに泣くか
   そんない泣いたら 守りゃせんど
   いやど馬鹿らし 死んだ方がましじゃ
   死ねばお寺の 土となる
   わしが死んだときゃ 往還(おかん)端埋(ばたい)きゃれ
   通る人ごち 立ちたもれ
   よいそらよいそら よいそらよ
よいそらよいそら よいそらよ
死んでくれるな 十二や三で
墓に線香も 立てらりょか
死んで花実が 咲きゃせんど
死んで花実が 咲くものなれば
お寺処刑場は 花だらけ
お山のせみが 鳴くばかり
よいそらよいそら よいそらよ
   よいそらよいそら よいそらよ
   どうしたあんたは じょきな子か
   親はおらぬか 子は泣き死ぬる
   親はおれども 極楽へ
   二度と母さん 帰らない
   親のおらん子は どこでもわかる
   たもとくわえて 門に立つ
   よいそらよいそら よいそらよ 
いやだいやだよ
いやだいやだよ 泣く子の守りは
子からせつかれ 親からがられ
世間の人から にらまれる 
雨の降る日と
雨の降る日と 日の暮れぐれにゃ
 親の所在が なつかしや ハーヨイヨイ
この子泣かんちゅて わしゃ守り来たが
 いつも泣きべす 泣き暮らす ハーヨイヨイ
わしが死んだら 誰が泣いちぇくりゅか
 浜の松の下で せみが鳴く ハーヨイヨイ
せみじゃござらん おっかさんでござる
 おっかさん泣きゃんな わしゃ死なん ハーヨイヨイ 
こげな泣く子は
よいよよいよと ねる子はかわい
起きて泣く子の つらにくさ
こげな泣く子は あぶらげに揚げて
となり近所の お茶じょうけ 
ねんねん子守りは
ねんねん子守りは いやなもの
 親から叱られ 子はがめく
なんでこの子が むぞかろに
 めしの種なら しょうがない 
よいよこよいよこ
よいよこよいよこ よいよこよい
雨は降り出す 筵干しゃぬれる
かるた子は泣く めしゃたぎる
よいよこよいよこ よいよこよい
泣くな泣くな 泣くなよ 
爺のかたん行たら
爺のかたん行たら
米二合半 もらじゃーた
婆んかたん行たら
粟ん二合半 もらじゃーた
ねずみどんか とまどんか
つんくりかえて もろうた
すずめどんに たので
やっと二合半 ひろじゃーて
下ん谷で洗うて 上ん谷でゆしで
鍋に入れて クヮタクヮタ
鍋に入れて クヮタクヮタ 
早く来りゃよい
早く来りゃよい 正月盆が
来たらわがしょへ 帰るぞよ
帰っておかあさんの 顔を見る 
親のならいで
ねんねんねんねん ねんねんや
親のならいで 守りに出た
あやせどあやせど 泣きやまぬ
子守歌など うとうたに
   泣く子のお守りは わしゃいやじゃ
   親から叱られ 子は泣くに
   なんでこの子が かわいかろ
   おままのためじゃと 思やこそ
もろたわもろたわ 大目玉
目玉で足らずに ひまもろた
これより先は なんとしょう
どうすりゃいいのか わからない 

 

わらべ歌 1
宮崎県では間引きのことを「へし子」と呼びました。へし子は、圧し折る(へしおる)等で使用される「へし」からきているのかもしれません。この言葉は現在では廃れてしまっているので知らなくて当然です。
「子を間引き 馬にくつをばはかせいで にごり酒呑む 日向路の奥」
日向国の儒学者である安井息軒はこの歌を紹介して以下のように述べています。
「わが祖国は日向なれば、この悪俗盛んにして、士人に至るまでこの風あり」
手毬歌
わしが父(とん)ちゃん 豊前でござる
豊前どこかと たずねて行けば
奥にゃ三味線 二階にゃつづみ(鼓)
二階障子を さらりとあけて
なんと友達 伊勢参りせんか
伊勢の御門の くぐり段の下で
七つ八つ子が 三つ児を生んで
生むに生まれず おろすにゃおりず
なんとお医者さん 薬はないか
薬あるある おはせて煎じ
師走竹の子 冬なるなすび
これを煎じて 飲ませてみれば
親も喜ぶ その子も育つ
なんとこの子が 女の子なら
菰(こも)に包んで 三つとこ締めて
締めた上をば もんじ(文殊)と書いて
池に棄つれば もんじの池に
道に棄つれば もんじの道に
藪に棄つれば もんじの藪に
人が通れば 踏み踏み通る
親が通れば 泣く泣く通る
なんとこの子が 男の子なら
寺にさしあげ 手習いさせて
筆は蒔き筆 硯は碁石
墨はほんまの 匂い墨
長い手毬歌ですが、旋律を繰り返すだけの単純な歌です。歌われている内容は堕胎と間引き。女の子であれば殺してしまおう、男の子なら寺に預けてしまおうというもの。堕胎は毒草、呪術、母体に物理的な負担をかけることなどでおこなわれたといいます。それでも生まれた子は、口に糠を詰めて圧殺(へし、ですね)したり、「神隠し」にあったりしたようです。
人買いと神隠しの歌
蜜柑 金柑 酒の燗
親の折檻 子が聞かん
聞かん子売ろか 人買いどのへ
その子 どの子 この子 なんぼで買うか
はい ちょっと一貫いかがです
豊後の儒学者、広瀬淡窓が著わした『日向飫肥人買船実記』は、飫肥藩が人買いに直接関わったことを証明する記録です。下は10歳から上は16歳まで、計15名の子どもが伊勢への抜け参り中(大規模な無断参詣)に飫肥役人に拉致されたと記してあります。※その後の取り調べで、11名は拘引、4名は奉公であることが判明した。
江戸時代には人身売買を禁じる法令が繰り返しだされていましたが、人買いは恒常的におこなわれていたようです。禄高を上げれば領民が貧しくなり口減らしをする、結果労働力が不足し、それを充足すべく人買いをおこなうということです。
昨日までいたはずの子の行方が突然わからなくなれば「神隠し」にあったと騒がれても仕方ありません。また、裏では親との密約が交わされていたということもあったでしょう。無論これは、飫肥藩だけに限った話ではありませんが。
ごめんください 煙草ください
売り切れました
お米ください
売り切れました
お味噌ください
売り切れました
子供ください
裏の畑で遊んでますから 呼んでください
子よーい 子よい (鬼以外の子どもは一斉に逃げ出す)
また、男のものを模った棒を使って、はらめ打ちと呼ばれる、子を授かるためのまじないや避妊のまじないが行われた地域もあるようです。
はらめ はらめ
内から お祝い申す
現代においては適切な言い方ではありませんが、子ども一人の値打ちがそのときそのときで変動していたということでしょう。
子守唄
ねんねこねんねこ ねんねこせ
ねんねは良い子じゃ ねんねこせ
泣くな泣かずに ねんねこよ
泣かんで寝らんと かるわんど
泣いて寝らんと 川流す
ねんねこせん子は 墓立つる
『かるわんど』は『からわない』の意味で間違いないと思います。宮崎では子どもを背中に背負うことを『からう』と言います。つまり、「背負わないよ」という意味ですね。『川流す』『墓立つる』はそのままの意。
宮崎県は九州山脈に囲まれた土地柄のため、やや閉じた社会だったのでしょう。山村などでは、他では聞いたことのないような歌も残っています。宮崎に残る歌の多くは上で紹介したような恐ろしげな歌ではありません。「刈干切り歌」に代表されるような、もっと素朴なものです。労働とともにある歌、または子どもが真似するうちにわらべ歌になったようなものがほとんどです。 
わらべ歌 2
今年のツバナ
あたたかい春がやってきた。待っていたとばかりに子供たちの野あそびが始まる。土手道に駆け出した子供たちを待っているのは黄金色の菜の花畑。そして羽化したばかりの黄色いチョウチョの群れ。子供たちは花びらに止まったチョウチョに、そーっと手を伸ばし捕らえようとするが、その度にチョウチョはあっちにひらり、こっちにひらり。逃げたかと思うと、また近づき、からかうように子供たちのほっぺたをかすめたりする。
子供たちは悔し紛れに、それでも祈りを込めてまじない歌を歌う。
   チョウチョとまれ もとんとき とまれ とまる菜の花 こがねの花か 風に吹かれて
   ひーらひら だいが持っちょっでしょ
あら不思議、歌に聞きほれたのか、それともまぬけなチョウチョもいたりするのか、器用な子の手につかまったりする。
「やっぱり、まじない歌は効けるねぇ」「そーらそうよ」
子供たちはなんとなく勝ち誇ったような気分を確かめ合いながら、次の土手に向かう。野焼きのあとの黒い土手に、にょきにょきっと立ち上っているもの、それはさみどり色に芽吹いたばかりのツバナだ。しこしことした歯ごたえが、待っていた春の味なのだ。
「人ん前にならーんごっ」 突然先頭の小さな子が大声で叫んだ。
あらあら不思議、前に駆け出そうとしていたガキ大将までがぴたりと止まってしまった。先頭の小さな子は、縄張り宣言の効果を確かめると、やおら覚えたばかりの歌を歌い始めた。おおらかでゆったりとした収穫の歌だ。
   今年のツバナは よくよくできた かいっ ちゃゆっくゆっく 摘んだほうがましじゃ
   耳鳴れスッポンポン 耳鳴れスッポンポン
子供たちはだれからともなく手をつなぎ、輪あそびの形を整えていく。歌の前半では円形に回り、後半「耳鳴れ」 では手のひらを耳にあて、「スッポンポン」 で両手をたたく。歌詞にアドリブが生まれ、振りにバリエーションを加えながら、子供たちの収穫のうたげは日没まで続く。
泣こかい跳ぼかい
「あっ、深ーい溝があるよ、ほらきてん」。順平の驚いた声にみんなが駆け寄る。冬枯れの野原は思いもかけぬ広がりを見せ、子供たちの遊びの範囲がぐっと広がり、遠出の楽しさがたまらない。そこには新しい発見があり、未知の冒険がかげをひそめているからだ。
順平のもとに駆け寄ったみんなは、足元に口を開けている深い溝を前にして、ただ顔を見合わせるばかり。それまでのときめくような探検気分はどこへやら。
「深いねえ、底は見えんよ」「跳び越えられんわねえ」「うん、広ーくて、深ーいもんねえ」
すると、「こんくらい何じゃな、まじないかけたらすぐ跳び越えらるいが」 と、5年生の孝夫。
「じゃあ、跳んでんない…」 と、いつもだったらここではやし立てるのに、きょうはみんな顔を見合わせるばかりだ。だが孝夫は決心しているらしい。両手を合わせ、目をつむり、まじないの歌を歌い始めた。
   泣こかい 跳ぼかい 跳ぼかい 泣こかい 跳んだ方がましじゃ パンコセッ
あっという間だった。孝夫は深い溝を跳び越え、向こうの土手で得意のポーズを決めている。
「わぁ、驚いた、すげえが」「まじない歌を歌ってん、簡単じゃが」
するとどうだろう、まず努が跳び、順平が続き、健までが深い溝を跳び越えて行った。
「三郎、おまえはこんめえかい無理じゃ。向こうへ回ってこいよ。まだ1年生じゃもんね」
「ふん、よう跳ぶわい」
   泣こかい 跳ぼかい
   跳ぼかい 泣こかい
三郎は目をつむり、手を合わせ、何度も何度もまじない歌を繰り返していたが、やがて、「跳んだ方がましじゃ」 と、ひときわ大声とともに、「パンコセッ!」 三郎の小さな体は宙に舞い、努の前に転がった。
「よう跳んだねぇ、三郎」 と努たち。三郎は、「ふん、おらぁ、足が長ーいもん」 とっ言ってその細い足をみんなの前に差し出した。
ガグラドン
7月の下旬、水浴びの季節だ。6年生の努が、「おーい」 と言いながら右手を上げ、人さし指と中指を立て、その2本の指を交互に折り曲げてみせる。そのちょっと変わった努の合図を見ると、下級生たちは胸がわくわくしてくる。努の合図は、”水浴びに行くぞ”という秘密の合図なのだ。だが、その秘密のサイン、実は地区の大人たちはみんな知っている。なぜってその合図は、この地区に昔から伝わっている水浴びの合図なのだから。上級生で思いやりのある努が、地区の子供たちを水浴びに連れていくことに、親たちはみんな安心しきっている。
「行く行く」「おれも連れて行って!」 どこから見ていたのか、遊び仲間5人の顔がさっとそろってしまう。
1年生の三郎が、集まったとたんに駆け出す。
「サブ、水浴びの前には走っちゃいかんよ」 努あんちゃんのいつもの注意だ。
「ふーん」。三郎はわかったように答えるが、心ははやるばかり。だって三郎はきのう泳ぎを覚えたばかりなのだ。努たちが体を支えてくれたおかげで初めて泳げたのだから。きのうは5メートルも泳げて、ゆうべは眠れないくらいだった。川に着くなり三郎は川に飛び込もうとする。「だめだ。まじないをかけんと、ガグラドン(かっぱのこと)からしりごを抜かれるとよ」 と、5年生の孝夫。
「じゃかい、まじない歌を歌って泳ぐとよ」 2年生の健が上級生ぶって三郎に教える。
みんなは川を向いて1列に並び、歌い出した。
   ガグラドン ガグラドン 猿渡すど 猿渡す
子供たちは何回も何回も声をそろえて歌う。
「なんで、猿渡すというと?」「ガグラドンはね、猿が一番こわいとと」「だから、この歌でガグラドンを追っ払ってから、川を渡ったり川に入ったりするとよ」「いいか、おまえもちゃんと覚えろよ」「うん、もう覚えたよ」
   ガグラドン ガグラドン 猿渡すど 猿渡す
何回も聞いているうちに、三郎の口からもかっぱまじない歌が聞こえてきた。
じょうりかくしきねん棒
「おーい、じょうりかくしするよー」「やろう、やろう」 ここは県北のある海沿いの町。どこまでも続く砂浜が子供たちの遊び場となっている。
5、6人の子供たちが輪をつくった。「道夫、おまえもやろう」 道夫は努のいとこだ。向かいの島から遊びに来ている。「はよ来んか、じょうりかくしすっとよ」 だが、道夫はぐずっていて、輪に入ろうとしない。
「だって…」「遊ぶのはいやか」 努が道夫に近づき、問いただしてみる。
「そんなことないよ」「だったら入れよ」「でも、歌が違うもん、きっと遊び方も違うと思う」「少しくらい違っていても、気にせんでいいが」 努は道夫を輪の中に招き入れた。
みんなは右足を前に差し出した。努が近くから拾ってきた棒ぎれで、歌に合わせてみんなの足を指していく。
   じょうりかくし きねん棒 橋の下のねずみが おじょじょをかくして
   チュッチュッチュッ
棒は努の足で止まった。
「なぁんか、おれが鬼か」 努は、草履を脱ぎ、目をつむってしゃがみ込む。みんなは努の草履を近くの砂の中に隠す。「もういいがぁ」 とみんなの声。努は目を開け、砂の中に隠された草履を探し回る。その草履を鬼が探し当てると、次の鬼に代わる。
何回か繰り返した後、努が聞いた。「道夫、遊び方が達う?」「うん、遊び方は同じじゃけど、歌が達う」「へえ、どんな歌? 歌ってみよ」
   じょうりかくし かくれんぼうは なかんぼんは ボンボラボン ねずみの家は
   あんげして こんげして じゃんめした
「うわぁ、おもしろいが。これからこん歌で遊ぼや」 今覚えたばかりの歌で、子供たちの鬼遊びは西の山に日が落ちるまで続けられる。
おとっさんおっかさん泣かしゃるな
キクは13歳、よその家にやとわれた住み込みの子守娘である。あれは8歳の時だった。見知らぬおじさんがやって来て、お父さんとお母さんと3人で話をしていた。おじさんの声は大きく、威勢がいいのに、お父さんたちの声がひそひそ声なのが気になっていた。その夜のことだった。ごはんが済むのを待ってお父さんが言った。
「キク、昼間来ていたおじさんが、お前を子守奉公に世話するといわれるんだよ」 そして、「なあに、子守さえしておればごはんだって腹いっぱい食べさせてもらえるし、盆や正月には着物だって買ってくださるというんだ」
キクはもう覚悟していた。隣のサヨもユキも、8歳になるとすぐに子守奉公に出されている。いつかは自分も、と思っていたのだ。
「いいよ」 キクはきっぱりと言った。ただ、その間そばに座っていたお母さんが、じーっと黙っているのが気がかりだった。いよいよ明日、迎えのおじさんがやって来るという夜のことだった。「向こうのお母さんの言われることをよーく聞くんだよ」「決して口ごたえなんかするんじゃないよ」「体だけには気をつけるんだよ」 この前は黙ったままだったお母さんが、今夜は同じことを何度も何度も繰り返す。
こうして始まったキクの子守奉公であったが、−子守さえしておれば、銀のめしが腹いっぱい食べさせてもらえる、といったあの赤ら顔のおじさんの言葉とはまるで違う暮らしが、キクを待っていた。おばさんは、子守のほかに、炊事の加勢、掃除、洗濯、そして農作業の手伝いと、息つく間もなくキクに言いつけるのであった。
キクはあらためて子守娘のつらさを知らされた。そんな中で、おばさんが何かの用事で家を空けることがあった。すると近くの子供たちが誘い合ってキクのところに遊びにやって来る。キクの得意なむかし話やわらべ歌を聞くためだ。きょうの歌はまりつきの時に歌う歌だった。
   おとっさん おっかさん 泣かしゃるな わしが十五になった時 西と東に蔵立てて
   蔵のうしろに杉さして 杉がだんだんふとったら おとっさんもおっかさんも うれしかろ
   ちょっと 一貫かちました
歌いながらキクは、だんだんと胸が熱くなり、にじみ出そうな涙を、やっとこらえていた。
ズストントン
   一つでは乳をくわえて
   二つで乳をゆるした
   三つでは水の汲(く)み初め
   四つで世の事仕初めた
   五つでは糸の縒(よ)り初め
   六つで金襴(きんらん)織らせた
   七つでは馴(な)れの掛け初め
   八つで屋敷広めた
   九つではここと定めて
   十で殿御と寝初めた
   十一では花のようなる吾子をもうけて
   巣山 松山 雨の降る夜はズストントン まいっちょズストントン
椎葉村不土野で巡り合った歌である。まりつきでも歌っていたということであるが、県内のみならず、他県の文献にも類歌を見ない珍しく貴重な歌である。歌ってくださったのは、那須カネさん、奥椎葉の豪壮な庄屋跡に住む教養深いおばあちゃん(当時80歳)であった。歌詞は数え歌の形をとっているが、何とも格調を感じさせる歌である。人の一生のうち、1歳から11歳まで、それぞれの年に訪れるいわば成長期のイベント(通過儀礼)が並べられていて、いろいろな意味で興味深い。
   七つでは馴れの掛け初め
   十で殿御と寝初め
   十一では花のようなる吾子をもうけて…
このような歌を10歳前後の少女たちが、まりつきをしながら歌う…また、ひとり子守をしながら口ずさむ世界。
子供たちの胸にはどのような情動が流れていたのだろうか。わらべ歌は、子供たちの暮らしの中から自然発生的に生まれたものが主流ではあるが、中には民謡からの流用や、大人が歌づくりして意図的に子供たちに歌わせたのではなかろうか、と思わせるものもある。さしずめこの歌はその後者に属するものではなかろうか。歌詞や旋律に見られるある種の格調からみても、古い時代それなりの立場にあった人によって作られた歌か、あるいは京都あたりから下って、ここ奥日向の庄屋に代々歌い継がれてきた歌なのか、興趣を誘う歌だと思われる。伝承者のカネさんは、この歌をさらっと歌われたあと、そのような採譜者の心のうちをおもんぱかられたのか、「あら、はずかしいわの、こげな歌を子供んころ、歌うていたんじゃろかの」 と言って、顔をゆるめられたのを思い出す。
早くくりゃよい正月盆
西の空が赤く染まってきた。カラスが3羽、4羽と連れ添って、ねぐらを目指して帰っていく。
   カラスが鳴くから かーえろ
   チョイチョイ(と手をたたく)
   あしたもいっしょに あーそぼ
   チョイチョイ(手をたたく)
サヨもゆきもよしえも、夕日を浴びながらさっと帰って行った。だが、子守奉公に来ているキクの足取りは重い。おばさんたちが親類のお祝いに行ったので、きょうは久しぶりに近所の子供たちと遊べた。だが、あんまり楽しくて、帰る時刻を忘れてしまった。
−洗濯物も取り込んでいない。庭に干してあるもみのむしろもたたんでいない。そういえばお昼のお茶わんもおけにつけたままだ−きっとしかられる。きょうはどんな罰が渡ることだろう−
こんな時思いだすのはきまってふるさとのことだ。だがキクは自分の生まれ在所がどの方角なのか知らない。子守娘を連れてくるのは夜と決まっていた。昼だと道を覚えていて、帰ってしまうからであった。キクは自分の生まれ在所は夕日の落ちる西の方角と決めていた。西の空に落ちる夕日は、だれの顔も同じようにやわらかく染め上げてくれる。黒いカラスの群れをいっそう黒いシルエットに浮かばせるのも、夕日の好きな理由だった。すでに日の落ちた西の空には、名残惜しそうに横雲がたなびいている。金色に輝いていたその美しい帯雲もやがて明るさを失い、次第に黒みを増していく。
−父ちゃんは元気だろうか。母ちゃんはどうしているかなあ。ああ、ばあちゃんの顔が見たいよ− こんな時、キクの口をついて出てくる歌がある。
   早くくりゃよい 正月盆が きたらわが在所(しょ)へ 帰るぞよ
   帰ってお母さんの 顔を見る 早くくりゃよい 正月盆が
   きたらわが在所へ 帰るぞよ 帰ってお父さんの 肩たたく
わが在所(ふるさと)に帰ったとて、おいしいものがわたるわけではない。でも、お母さんの顔を見るだけでいい。痛いといっていたお父さんの肩をたたいてやりたい。それだけでいい。帰りたいよう、西の空の下、わが生まれ在所へ。
ひとりで淋しい
ここは高千穂町向山。奥まった諸塚山の頂に、ほんのりと赤みがさしているのに気づかされる−。これが紅葉の始まりだった。紫色の山頂を冠のように包んでいるその赤みは、あちこちに黄色などを混ぜ込み、日ごとに華やぎつつ照り映えを増し、ふもとの方へすべり落ちてくる。やがて人里をも包み込み、綾錦(あやにしき)にもえあがり、谷川を埋めつくす。
「今年の紅葉は花んごつあるばい」「ことしゃ台風の来んかったけん、美しかとばいの」
紅葉をいつくしむ里人たちの顔も、心なしか赤らんで見えたりする。紅葉もいわば花であり、花びらのようにさっと散りゆくのが、県南の杉山ばかりを見慣れている者には、ひとつの快い発見に思えてくる。高千穂地方のわらべ歌には、九州山地の中央という地形のほかに、さまざまな条件が重なって、古く珍しい歌が残されている。
次の歌は、正月の歳事遊び、羽根つきをする時の歌である。
   ひとりで淋(さび)しい
   ふたりで参りましょ
   見渡すかぎり 嫁菜にたんぽぽ
   妹の好きな むらさきすみれ
   菜の花れんげ やさしいちょうちょ
   ここまでおいでなさい 峠に参りましょ
   ひとんご ふたんご みやたが よんご
   いつやが むさし ななんご
   やっちろ くぐを とむや
寒風の中の高千穂の正月、やがて訪れる花の季節を予祝するような優雅な歌詞である。よく見るとこの歌も羽根つき歌に共通する数え歌の形をとっているのがわかる。しかし、それもまた伏せ字みたいに一見しただけでは見破れまい。巧妙な仕組みをもった歌である。それにしてもこのような情緒豊かな遊び歌をつくった先人の言語感覚に驚かされる。
曲調も実に愛らしく上品である。高々と打ち交わす羽根つき遊びにふさわしく、ゆったりとした二拍子、晴れ着姿の女の子たちの喜々とした声や、ムクロジの実で手作りしていたという羽根玉の乾いた音も聞こえてきそうだ。おそらく下り物(京都あたりから流布してきた歌)であろうが、五ヶ瀬川をさかのばって源流の地にたどりついたものか、それとも竹田、もしくは熊本あたりから伝わってきた歌なのだろうか。
三月桜の咲く頃で
わが子に、子守歌を歌ってやる母親は、今どれくらいいるのだろうか。詳しく調査したわけではないが、かつて教職にあるとき、音楽室で触れ合ってきた子供たちの状況から推察して、それは多くはなさそうだと思っていた。お母さんに子守歌を聴いた、習ったという子が少なかったからである。
CDやテープなどの急速な普及、日夜テレビなどから流れ続けるさまざまなジャンルの歌、歌、歌。都市、地方を問わず、今日本人は歌の洪水の中に放り込まれている感がある。しかし、それら身辺を埋めている数多くの歌は、人々にいかほどのメッセージを伝えているのだろうか。
聞く側の大衆の多くは、たとえば川の流れや風のそよぎに触れるような感じで、なんとなく聞き、歌っている。ひとつの歌に深くかかわり、こだわろうとする例は多くはなく、いわばお気に入りの温泉にでもつかっている感じでつき合っている傾向があるのではなかろうか。
さらに核家族化は地方においても急速に進行しており、子供たちは祖父母との接触を知らぬままに、つけっ放しのテレビやテレビゲーム機などに守られながら成長していく。父方・母方の祖父母を知らぬ子供たちがなんと増えていることか。母(父)と子のきずな、祖父母とのつながり、この人間形成の要諦(てい)が実に希薄なままに育っているのが今の日本の子供たちである。
10年ほど前、宮崎市が「こころのふるさと創生事業」 の一環として、子守歌運動に取り組んだのも、そのような現状分析と認識に立っていたからであった。市は、(1)伝承子守歌の発掘(2)現代にふさわしい子守歌の制作─の2本立てでその運動を展開し、今日に至っている。子守歌「三月桜の咲く頃で」 は、市内各地に残っていた子守歌35曲の中から、その代表曲に選定された歌である。伝承者は檍地区の清山富士雄氏で、老齢ながらこの歌を格調高く歌ってくださった。
三月桜の咲く頃で
   1、ねんねんころりよ おころりよ
    ぼうやの生まれは いつごろか
    三月桜の咲く頃で 道理でお顔が桜肌
   2、ねんねんころりよ おころりよ
    あなたの生まれは いつごろか
    卯月 卯の花咲く頃で 道理でやさしいその寝顔
ちにれちにれ
   ちにれ ちにれ ちにれ ちにれ ちにれ
   ちにれ わんわんさんが くっど ちにれ
   ちにれ よかど よかど ちにれ ちにれ
まるでことば遊びのような「ちにれ」の羅列。これが歌だろうか、とだれしも思うに違いない。歌詞の大半を占める「ちにれ」という詩句、これは、ちん寝れの縮まった言い方で、ちんは小さいものを指す。つまり、「赤ちゃんよ、眠りなさい」という意である。
歌詞は、この「ちにれ」のほかには「わんわんさんがくっど」「よかどよかど」が挟み込まれているだけである。
この子守歌は山之口町ほか諸県盆地に広く分布しているが(鹿児島県の一部にも)、子守歌の専門家である在京の原荘介氏(シンガーソングライター、ギタリスト)にこの歌を紹介したところ、氏は一度にほれ込み、ただちに日本子守歌全集(CD)に、自らのギター伴奏で収録された。先に見たように歌詞は典型的な諸県弁である。「わんわんさんがくっど」 ─眠らないとこわいものが出てくるよ。「よかどよかど」 ─いいよいいよ、お休みしなさい、と眠りに誘う歌である。つまり、語りかけのあとの脅しと褒め言葉と安らぎ。この子守歌の要諦(てい)とされる3つの要素が、短い歌詞の中に見事に歌い込まれている。一方旋律面でも、歌詞の流れを受けて、A・B・A′の自然な小3部形式が期せずしてできあがっているのがわかる。
「ちにれちにれ」というゆったりとした美しい旋律が通奏低音のように曲全体を包み込んでいて、歌全体のトーンを保持していくのもとても印象的である。
そのあとに「化け物がくるよ」という脅しのメロディーが、Bの部分として立ち上がってくるが、それはすぐさまΑ′のやさしい旋律に戻り、歌い納められていく。
こうしてみると、この歌、小品でありながら、提示部、変化部、再現部で成り立っていて、レベルの高い歌唱表現にも耐え得る旋律構造を持った歌のようである。私ごとになるが、筆者は諸県育ち、亡母の歌うこの子守歌で育てられた。
かねつけ一匁
おかるばあさんが、縁側で日なたぼっこをしている。さっきまで子猫のタマと遊んでいたのに、隣のクロがやって来て、タマをどこかへ連れ出してしまった。そこへ、6年生の智子たちがやって来た。
「おう、来たの。きょうは3人連れかの」 3人は、にこにこ顔のおかるばあさんを取り巻いて座った。子供たちもにこにこ、何かいいことがあるみたい。「どうした、うれしそうだねえ」「そうよ」 3人は声をはずませた。
「よしえ、おばあちゃんに見せてやらんね」 智子が言うと、よしえはたもとから赤いまりを差し出した。
「延岡のおばあちゃんが、お年玉だといって」「どれどれ、まあ、美しかまりじゃの」
おかるばあさんは、しわくちゃの手のひらで、赤いまりをぐるぐる回しながら、「ぴっかぴっか光っておおっけなまりじゃ、大事に使わにゃよ」 と言ってよしえに返した。
「はい」と、よしえが返事すると、3人は声をそろえて、「おばあちゃん、手まり歌を教えてよ」「手まり歌? この前教えたじゃろ?」「じゃけん、まりが新品になったき、新しい歌でつきたいんだよ」「そうかの、じゃあ、別のを教えてやるか。どれどれ、まりを貸してみよ」
おかるばあさんはまりを手にすると、「歌だけじゃと、途中で途切れるからの」 それはおかるばあさんの口ぐせだ。手が覚えているからだというのだ。おかるばあさんは立ち上がり、器用にまりつきしながら歌い出した。
   かねつけ一匁 かねつけ二匁 かねつけ三匁
   かねつけ四匁 五匁にあげて 白粉(おしろい)つけ一匁
   白粉つけ二匁 白粉つけ三匁 白粉つけ四匁
   五匁にあげて 紅つけ一匁〜五匁にあげて
   髪結うて一匁〜五匁にあげて
   あがりで シャンシャラリ
おかるばあさんは、右手でつきながら、左手ではそれぞれの動作をしてみせた。そして、「見ている人みんな身ぶりをするとよ」 と言った。「じゃあもう一度歌って」 智子が言うと、「何度でん歌うよ」 3人が立ち上がった。白粉をつけるまね、紅をつけるしぐさ、髪を丸まげに結うところ、楽しくなってきた子供たちは何度も何度も、おかるばあさんに歌わせるのであった。
むかえのおさんどん
東京からミチルが帰ってくるそうだ。智子たちは大喜び。あれはもう5年前になる。ミチルは智子と同じ年、一緒に小学校に入学した。だけど入学するとまもなく、ミチルは東京の学校に転校してしまった。お父さんたちが出稼ぎに行ったからである。
4年生の時、ミチルたちが一度帰ってきた。智子はよしえを誘って、ミチルの家を訪ねた。でも何度呼んでもミチルは家から出てこない。返事もしないのだった。するとお母さんが出てこられて、「ごめんね、ミチルは言葉のことが気になるようでね、昨日男の子たちに、”東京ん言葉なんか使って、なんのまねやな”と言われたといって泣いて帰ってきたとよ。そして、ここの言葉と東京の言葉とどっちがいいのか、といって泣いているとよ」
あれから3年の月日が流れた。そのミチルたちが家を引き上げて帰ってきた。おじいちゃんが亡くなったからだ。ミチルには、小さな弟と妹ができていた。智子たちは誘い合ってミチルを訪ねた。ミチルはすっかり大人びていた。だが、やはり寂しげだった。
「ミチルちゃん、今おもしろい歌がはやっているとよ」「むかえのおさんどんというんだけど、身ぶりがついちょるとよ」 智子たちは大げさに身ぶりをつけながらその歌を歌い出した。
   むかえのおさんどん 髪結うてたもらんか
   はんはんしょうで 鼻引きしょ
   みんみんしょうで 耳引きしょ
   かんかんしょうで 肩たたく しんしんしょうで 尻たたく
   てんてんしょうで お手たたく おーしまい
最後は2人で向かい合い、パチンと手を合わせた。
「どんなだった?」「おもしろいじゃろう」「ミチルちゃんも覚えないよ」
しかし、ミチルは興味を示さなかった。無関心をかまえている。智子たちはすごすごと帰って行った。次の日のことだ。ミチルが2人の家を訪ねてきた。昨日の手遊びを教えてくれというのだ。あの時そばで見ていた弟たちが、あの遊びを教えて、と泣いているという。智子たちはその足でミチルの家へ駆けつけた。
   むかえのおさんどん 髪結うてたもらんか
そこには昨日と打ってかわった真剣で楽しそうなミチルの姿があった。
一かけ二かけ三かけて
わが国の古典芸能である身ぶり狂言、外国の芸能ジャンルのパントマイムなどの例を挙げるまでもなく、人間は鳥やけもの、そして他人のしぐさや口癖などを真似(まね)ることに、おかしさや楽しさを求めてきた。いわゆる模倣という衝動であるが、この種の本能に支えられて、種々の芸能なども生まれてきた。
日本語の「学ぶ」が「真似る」を語源としている説など、示唆に富む話である。中でも成長期の子供たちはいわば模倣の天才であり、周りの事物に強い興味を示し、貪(どん)欲に自分の内に取り込もうとする。そこには、物まね─模倣という遊びが生まれ、劇遊びという形に再構成されていく。
ここに挙げる歌は、諸県を中心に県下各地、そして全国各地に流布している身ぶり遊び歌である。もとより地区により、多少の異同はあるが、この歌ほど骨格の崩れない歌は少なかろう。
   一かけ二かけ三かけて
   四かけ五かけて橋をかけ
   橋のらんかん腰おろし
   はるか向こうを眺むれば
   十七、八の姉さんが
   花や線香手に持って
   姉さんどこゆくたずねれば
   わたしは九州鹿児島の
   西郷隆盛娘です
   明治十年十月に
   切腹なされた父上の
   お墓参りにまいります
   お墓の前に手を合わせ
   なみだぶつと唱えます
   もしもこの子が男なら
   士官学校卒業し
   梅にうぐいすとまらせて
   ホーホーホケキョと鳴かせます
遊びは2人向かい合っての手合わせ遊びを土台にして進行していく。リズムは4分の2拍子、1拍目は自分で手をたたき、2拍目は相手と手を合わせる形が3行目まで続き、それぞれ橋を架けるしぐさをする。このあとはいずれも各自自由な身ぶりとなるが、その動作の工夫がこの歌遊びのおもしろさを高める。つまりそれぞれのしぐさに定形はなく、各自の思いつきで進められる。最後の「ホーホケキョ」では、各自大げさな動作をし、「バイバイ」と手と手を合わせ、別れる場合もあった。
郵便屋さん
史料によると、1人で跳ぶ縄跳び遊びは、古くから行われていたものではなく、その起こりは江戸の後期だろうとされている。またここで取り上げる長縄跳びは明治以降、米国から伝わってきた遊びのようである。したがって縄跳び歌といえば、長縄跳び用の歌が主流である。1人跳び用の歌は残っていないものか、と探しているうちに、1曲ほど串間市の笠祇地区で巡り合えた。
   一回もって一
   二回もって二
   三回もって三
   四回もって四 (以下同様に続く)
このようにしてしくじるまで続けるのだが、いずれにしても大変な運動量を伴い、長くは続けられない。それに数が100の位になると、その数を唱えるのに苦労し、それがもとで手足がもつれていったものだ、と古老が話してくれた。
新しく入ってきた長縄跳びは、遊びの要素が加わり、しかも自由な創造性も発揮できるなどの利点を持っていたため、あっという間に全国に広がっていった。長縄跳びの歌は「郵便屋さん」が主流である。それには次のような事情があるようだ。明治4年、わが国に初めて郵便制度が施行された。郵便脚夫と呼ばれる配達人が、郵便物をてんびん棒で担ぎ、12時という時限までに遅れないように駆け足で配達して回った。
この当時珍しかった風景を、子供たちは、長縄跳びという新しい遊びに取り込んだ。名も形も一新させてしまったのであるが、新奇なものにいち早く反応する子供たちの本性がうかがい知れるようなできごとであったといえよう。
   郵便屋さん
   おはいり
   はいよろし
   手紙が十枚落ちました
   一枚二枚三枚四枚五枚
   六枚七枚八枚九枚十枚
   ジャンケンポン
   負けたお方は出てちょうだい
多人数で遊ぶ時は、親と呼ぶ先頭の子について、遠くの立ち木を回ったり、ジャンケンをして勝ち残り遊びを組み込んだり、さまざまな所作をしたりして変化をつけて遊んでいた。縄跳びという全身運動の中に、さまざまな要素を組み入れた楽しい遊びであるが、近年この遊びがあまり見られないのは寂しい気がしている。
猫ん子くれちくれんの
山深い椎葉の里、小さなお社の広場に子供たちが5、6人集まり、子もらい遊びにふけっている。片方に、子もらい(鬼)と見たてられた子が1人、片方に親猫に連れられた子猫が5、6匹。ニャオニャオと鳴きながら横一列に並ぶ。鬼(タオルをかぶっている)、前に進み出て
「ごめんくださーい、猫ん子くれちくれんの」
親猫、一歩前に出て、「何食わせち、養うの」
鬼「麦んめし、茶かけて養うわの」
親猫「そんげな粗末なもんじゃやれんわの」
鬼「そんなら米ん飯、鯛(たい)の魚(ビビ)食わせち、養うわの」
親猫「そんならどれでん連れていきないよ」
鬼が子猫の品定めをする。子猫たち、ニャオ、ミャオなど、それぞれの鳴き方をする。
鬼「こんとが鳴き声のかわいいき、こんとを連れて行くわの」
鬼、子猫を連れて行き、またはじめから繰り返す。親猫が出す条件は、おもしろいものを工夫する。
鬼「ごめんくださーい、猫ん子くれちくれんの」
親猫「どんな着物着せてやるつもりかの」
鬼「木の皮のズボンにかずらで編んだ上着を着せるわの」
親猫「そんな粗末な着物なんか着せるとならやれんわの」
鬼「そんなら、絹の上着に絹のはかまを着せるわの」
親猫「そんなら、どれでん連れていきないよ」
鬼が子猫の品定めを始める。子猫たち、鳴き声に、さまざまな身ぶりをして、鬼の気を引こうとする。
鬼「どれにしようかな」と言って、子猫1匹1匹の品定めをする。
鬼「あらー、この猫、踊りがうまいが、これを連れち行くわの」
鬼が子猫の手を取り、連れて行こうとする。すると、それを見ていた別の子猫が、
子猫「あら? このおじさんには角が生えちょるよ、ほら」
と言って、タオルの中の角を指す。ほかの子猫たち一斉に近づき、鬼のタオルを奪い取る。そして、鬼じゃ鬼じゃと言って、鬼を押さえつける。鬼は「ごめんごめん」と言って逃げ回る。このあと、ジャンケンで鬼と親猫の役を決め、はじめからやりなおす。親猫や鬼のせりふは、おもしろく楽しい遊びになるよう、工夫する。
はとととんびと
むかしから鳥ほど人間の〈ねがい〉をかき立ててきた生き物はないだろう。ねがい、それはいうまでもなく、〈とべる〉ということである。鳥は庭の木立の間や、屋根の上を、自由にそしてゆうゆうと飛び回っている。時には、はばたきながら中空にとまっているように見えたり、かと思うとさっと宙返りを見せたりする。また小さな口を破れるほどに大きく開けて、親鳥のえさを待つひな鳥の姿など、いつまで見ていても見飽きない。
そのような鳥たちの姿に、子供たちが無関心でいられるはずはない。
─鳥のように大空を飛んでみたい…この大昔からの人類のねがいが、今、飛行機という形でかなえられた。航空技術の発達はめざましく、何百人を乗せたジャンボ機が世界中の空を飛び回っている。しかし、いかに航空技術が進歩発達してきても、人間自身が自分の力で空を飛ぶことは実現していない。魚をまねて泳ぐことはできても、素手で空を飛ぶことは不可能なのかもしれない。つまりスズメのような小鳥からコンドルのような大きな鳥まで、大空を自由に飛び回っている鳥たちへのあこがれは、これからもおそらくあこがれであり続けることであろう。
鳥への親しみにもう一つ、その鳴き声がある。今、地球上の鳥類は何と9,000種にものぼるそうであるが(日本国内での確認は約500種)、その多くはそれぞれ固有の快い鳴き声を持ち、その特徴ある美しい羽毛とともに親しみをいっそう深めている。
さて、ここは山深い西米良村、種類も数も多い鳥たちが、子供たちの身辺を飛び回っている。いつのころか定かでないが、そこに住む子供たちは、鳥の鳴き声だけを集めた歌を歌っていた。はとととんびと きじとつばめと うぐいすと かりがねの鳴き声は かりがねの鳴き声は
   ピーピ ピーヒョロリンケン クークク ピーヒョロリンケン ケンとケンチャク
   チャクとチャーチク ツングルリンと ホーホケキョ イッチン ニッチン
   トンチン トンチャク ツングリ マングリ ホーホ ホー
「チャク」「ツングルリン」「トンチン」こんな鳴き方をする鳥って、いったいどんな鳥なんだろう。山国の子供たちなのに、見たことのない鳥も多いのだ。でもそのことがかえってこの歌の魅力ともなっているのかもしれない。
花づくし
もう30年も前のことになる。花の名前だけを並べたわらべ歌を北方町のおばあちゃんが歌ってくださった。全国に類を見ないこの歌を聞いた時の驚きと喜び、今も忘れることができない。「全国わらべ歌全集・各県別」を取り仕切っていた出版社の担当者も驚いておられたのが印象に残っている。
   花づくし 
   花は数あるその中で わけて見事に咲く花は ぼたん しゃくやく 山吹桜
   梅に椿に 萩 女郎花(おみなえし)ききょう 朝顔 桃 つつじ 百合にあじさい
   花枯らし かきつばた れんげ草 こぶしに水仙 枯尾花 たんぽぽ すみれに 花かいどう
この歌、さっそく子供たちに歌わせてみた。驚きと喜びの表情。まぎれもなくいい歌を与えた時の反応だ。とにかく歌いやすく、覚えやすい。陽音階という日本人の基底にある音階でできているからでもあろう。それに花名と花姿を覚えるという知的関心をも呼び起こす。
あずきあずき
ここは小さなお社の広場。秋の日暮れは早く、その短い時間を惜しむかのように、子供たちはさまざまな遊びを繰り広げる。だれが言い出すのか、この時期に決まってはやるのが、ゆうれい遊び「あずきあずき」である。この遊びはせりふの掛け合いで進んでいく。つまり劇の要素があるのが子供たちに好かれている理由である。それに、せりふが決まっているわけではなく、それぞれ自由な掛け合いで進んでいく。つまりアドリブで成り立つ遊びなのである。古いお社に杉やクスの大木、それに生け垣や石垣や石灯ろう。劇遊びの道具立てには事欠かない。まず鬼(実はゆうれい)を鬼決め歌で決める。
   青山暗いとき 黒い実が三つみつん そのあと ハイカラさんが ちゅうじ(靴)はいて
   はかまをはいて くるくるまわって ジャンケンポン
鬼になった人は、輪の真ん中に目隠しをしてしゃがむ。ほかの子は手をつなぎ、鬼の周りを回りながら歌う。歌詞にふさわしい動作をしていく。
   (一同)あずきあずき ひとつ取ってみたら(しゃがんでいる鬼をなべに見たてて)
まだ煮えちょらん(と手を横に振る。以下も、同様に身ぶりをする)もひとつ取ってみたら
一同止まり、鬼とのやりとり。
一同「おばさんのおうちはどこ?」 鬼「柳の木の下」 一同「今、何時?」 鬼「夜中の十二時」 一同「おばさんの着ているものは?」 鬼「白ーい着物」 一同「おばさんには足がある?」 鬼「足は、なーい」 一同「おばさんの好きな食べ物は?」 鬼「に・ん・げ・ん・の・こ・ど・もー」 一同「おばさんの名前はなんというの?」 鬼「ゆーれーい」 一同「わあーっ」と言って逃げ回る。鬼が追いかけ、つかまった人が鬼になり、初めから繰り返す。鬼との問答に、子供たちの自由な問いかけが組み込まれるところに、この遊びのおもしろさ、楽しさがある。意外性と創造性がこの遊びを支えることになるが、発表会などのステージで演じても確実に成功するようだ。
おしろのさん
日差しがなえて山里に秋色の濃くなるころ、路地の日だまりや社寺の片隅で、この歌が聞こえてくる。
   おしろのさん 
   いまの流行りの電気馬車
   十二時頃にはどこへつく 宿屋でしょ
   宿屋満州の奥さんが 髪をゆらゆら丸まげに
   ちりめん羽織をひふにして ひーにふーにみーによ いーにむーになーにや
   こーこのつーにとーよ
   とおまで数えて おしろのさん
この歌を聞いていたのは昭和の初期、筆者幼児のころである。女の子たちがお手玉遊びで歌っていた。電気馬車って何だろう、満州ってどこだろう。この人は旅に出るのだろうか。小さな胸を連想が流れる。そして、
   丸まげ、ちりめん羽織、ひふ…
ここらにくるともう幼児の連想は広がりを失うのだが、何ともやみ難いような幻想の世界に遊んでいたのを思い出す。
歌は遊びを伴っていた。お手玉遊びであるが、持病ともいえる腹痛の発作の中に幼児期を過ごしていた筆者は、特に寒中は男の子たちと遊ぶ機会は少なかった。5つ違いの姉の後にいつでもくっついていた。お手玉遊びには、易から難への段階があった。両手2つ玉が初歩のグレードで、次が片手使いである。
「女の子の遊びじゃが、男ん子がするもんか」
からかわれながらやってみるが、思うようにいかない。2つの玉は手元を離れ、途方もない所へ散ってしまう。女の子たちは玉を3個に持ちかえ、4個に増やしていく。何と快い手さばきであることか。まだあった。3つ玉には〈切る〉といって、1つの玉が上がっている間に2つの玉を手元で素早く切り替える手が組み込まれる。その手が入る部分は決まっていて、その詩句が巡ってくるのが楽しみだった。その速い手さばきでは数珠玉が独特の乾いた音を発するのだが、今思えばあれは、「タッカタッカタン」の土俗的なリズムに隠れていた「タタタタン」の3連符のリズムだったわけである。
目井津子守船歌
─カツオの群れを発見。ただちに出港せよ。仲間の船からの無線連絡だ。船は積み込みに大忙し。船員や家族がコマネズミのように走り回っている。午後4時、学校を終えた健は急いで港に駆けつけた。ドック入りして新しく塗り替えられた船は真っ白な船体を青い海に浮かべている。「父さーん、やっと間に合った」「おお、健か。今年こそお前の運動会が見られると思うとったのになあ」 健は6年生になるまで父さんに運動会を見てもらったことがない。「健、鼓笛バンドの方はどうなんだ?」「うん、今最後の仕上げがあったけど、みんなうまくなったよ」健は鼓笛バンドの指揮者、入場行進の先頭に立つ。「先生がね、帰る前にみんなを褒めてくれたよ」「そりゃあよかった」 いつの間にか、母さんと妹の節子もそばに立っていた。
「まあ、健、背が伸びたねえ、並んで立ってると父ちゃんと同じくらいよ」「でも足は兄ちゃんの方が長いよ」 体の弱い節子が甘ったれた声で言った。「母さんや節子のこと頼んだよ」 父さんは健の肩をぽんとたたくと、力強い足取りで渡し板を渡って行った。その時、父さんの油の匂(にお)いがプンと健の顔にふりかかった。
─父さんの匂いだ。小さいころこの匂いがいやだった。父さんの体にしみ込んでいるのだ。だけど大きくなるにつれてこの匂いがいやでなくなった。それどころか今ではとても懐かしい。油の匂いをかぐだけで父さんのことを思い出す。やがて船は渡し板をはずし、とも綱を解いた。エンジンの音が一段と高まり、家族の見守る中を船は緩やかに港を離れ、洋上へ向かった。
   お前の父さん行ったよ ねんね 波をけたてて 目井津をあとに
目井津の人たちは、このような別れを何十回となく繰り返してきた。
─母さんや節子のことを頼むぞ。父さんがあんなことを言ったのは初めてだった。健は急に熱いものがこみ上げてきて、何だか急に大人になったような気がした。健は自転車のペダルを強く踏み込むと、思わず歌っていた。
   お前の寝顔にほほよせて ねじり鉢巻き船の上 ソーレよい子だ ねんねしな  
 
鹿児島

 

薩摩焼酎 男の酒に 赤い夕陽が 天に舞う
肌にしみつくあなたの匂い 未練心を 指宿に いやす我が身は 桜島
待ってろよ 待ってくれ よかおごじょ 薩摩育ちのよ 血が騒ぐ
寝させ唄
南薩地方の子守歌
ねんね ねんね ねんねよ
ねんねの 母(かー)さん 何処(どけ)いった
笹山こえて 里(さて)いった
里のみやげは 何々(ないない)か
駄馬(だだ)ん子が一匹 牛(べぶ)ん子が一匹
何処(どけ)ぇ 繋(つ)ねー置(え)たか
三本松の一本松 繋ねー置(え)たよ
なにょ 食ゎせ置(え)たか
去年の粟(あわ)がら ことしの蕎麦(そま)がら
抱合(だツくワ)せ抱合せ して置(え)たよ
あしたん朝(さ) 早(ごツ)と起き 行たっ見たや
牛(べぶ)ん子は居(お)ったいどん 
駄馬(だだ)ん子は居(お)らんじゃったど
堀出(ほた)ったい 漁(あせ)ったいして見たや
木蝋(もくよ)ん実を見っけた
噛(か)ん割ろちゅちゃ惜(お)せし
突(し)っ割ろちゅちゃ惜(お)せし
そろいと 噛(か)ん割っ見たや
三ちなる稚児さんが 入っちょらったど
稚児さん 稚児さん 何事(ないごツ)な
父さんも 母さんも 留守(ずし)ごあんで
ここたい チョボチョボして居(お)んど
赤馬一匹黒馬一匹
赤馬(あかんま)一匹 黒馬(くろんま)一匹
買(こー)てわしょー
その馬(んま)は 何処繋(どけつ)なだ
武(たけ)の松の木に 繋(つ)なで置(え)た
なにょなにょ 食ゎせて置た
去年の粟(あわ)がらことしの粟がら 食ゎせて置た
行(い)たて見たれば 居(お)らんじゃったど
一(ひと)っ飛び二(ふた)っ飛びしおったれば
木蝋(もくろ)がひとつ落(あ)えてきて
噛(か)ん割(わ)ろよも突(つ)ん割ろよも無(の)して
噛ん割って見たれば
三(みツ)つにならる おと姫じょ
おと姫じょーに 鳴く鳥は
八万長者の おと姫じょ
ア ネンネー コンコン
ネンネー コンコンヨ
よーかいよーかい 1
よーかい よーかい よーかいよ
よっと この子が 寝たなろば
息をほしと しょーものば
御前(おぜ)が父(てツ)ちょは 何処(どけ)いたか
あれは屋久島 かま売りに
かまは売れぬか まだじゃろか
二年たっても まだ在(わ)せぬ
三年たっても まだ在せぬ
三年三月(みつき)に状が来た
よーかいよーかい 2
よーかい よーかい よーかいよ
いっときこの子が 寝たなろば
ちぇっちぇも あっぱも
楽(だく)せらりょー
よーかい よーかい よーかいよ
よーかいよーかい 3
よーかい よーかい よーかいよ
お前(ぜ)がそのよに 長泣けば
あたり近所の人達の 親のしつけと言わりょーど
よーかい よーかい よーかいよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
おころい おころい おころいよ
一で香箱
一で香箱(こーばこ)よ 二で鏡
 三で薩摩の 板買て
板屋葺(いたやぶき)ょして 門を建てて
 門のぐるりに 杉ょ植えて
杉の葉房(はぶさ)に 香(こー)を盛りて
 香のけむりは 西ひがし
西やひがしに 鳴く鳥は
 雁(がん)か水鳥(すいしヨ)か 鴛(おし)の鳥か
行たて見たなら 水鳥さま
 水鳥さまの 口説(くろき)には
八万長者の おと姫じょ
 手箱針箱 はさみ箱
たんす長持 あいそえて
 京の町に 行かりょーよ
コッチコイ
おっ母(かん)よ思(おま)んかよおら寝た間にも
 波のひく間も忘りゃせんど コッチコイ
波のひく間も忘れてなろか
 五年このかた抱いて寝とー コッチコイ
忘りゃせねども月日がたてば
 しだいしだいに薄くなる コッチコイ
くもり山とは汝(み)が住む里よ
 いつも曇りて ふりごころ コッチコイ
おいどんが小(ち)っか時ゃ山車(ちんぐるま)にのって
 沖を眺めて太鼓(てこ)たたく コッチコイ
宮之浦の子守歌
俺共(んどん)がヨ 父(てつ)ちゃなんだ 鹿児島行(い)たて
 もどいや 絹(きん)のべんじょ 買(こ)てわしゃる
屋久のヨ 御岳(おたけ)をヨ おろかに思うなヨ
 金の倉よりヨ なお宝
屋久の御岳(みたけ)のヨ しゃくだん花はヨ
 年中しぼんで いちど咲く
泣くな嘆くなヨ 浮世は車ヨ
 いのち長(なが)かえ めぐり会(あ)お
ひとり息子をヨ 鹿児島になるなヨ
 きけば灘さえか 三十八里
この子ぁ憎(にツ)か子じゃヨ 釜ん中入(なけい)れてヨ
 入れて入れて殺(これ)て 炒(い)れあげて
永田の子守歌
ハ ネンネンヨ ネンネンヨ
小屋の突(と)っ端(ぺん)から 海(うん)の底みれば
海の底には 魚(いお)がおる
ネンコセー ネンコセー(以下ハヤシ同様)
坊主が頭(びんた)に たまごを上げて
落(お)つっか落(お)てんか 上げてみよ
こんどこの子が 男ん子なら
算盤(そろばん)もたせて 学校にやる
こんどこの子が 女(おなご)ん子なら
裁縫箱(さいほばこ)もたせて 学校にやる
この子誰(た)が子か よい器量よしじゃ
この子そだてた 親見たい
わしが様じょは 熊本城に
お茶もあがるか いまごろは
わしが様(さま)じょは 二番茶の芽立ち
さほど良(よ)いもない 悪(わる)もない
お前(ま)や何(なに)ょする ランプのかげで
書物ぁ読まずに 文(ふみ)を書く
わしとあなたは お倉の米よ
いつか世に出て ままとなる
思いかえして 添う気はないか
鳥も枯木に 二度とまる
カゴのオジルは 鰹釣(かつつ)いけ行たて
鰹(かつ)は釣いださじ あともどり
沖の鰹(かつお)に 潮どき聞けば
わたしゃ立ちのく 波に聞け
沖のダントに布機(ぬのばた)たてて
波に織らせて 夫(せ)に着せる
かわいがられて 寝た夜もござる
ま一度あのよに 寝てみたか
ひとつ枕で 寝た夜もござる
ま一度あのよに 寝てみたか
俺共が同年配(ひとツとし)ぁ 家もち子もち
どんが長船 どけ着こかい
遠く離れて おる身のつらさ
夢でお顔を 見るばかり
うっつけうっつけ
うっつけ うっつけ 牛の子
ねむれ ねむれ 猫の子
おきれ おきれ 鬼の子
ヨイヨイ ヨイヨイ ヨイヨイヨ
楠川の子守歌
この子が迎えて 行くときは
たんすに長持 はさみ箱
これほど持たせて やるかいな
あとには必ず かえるなよ
ととさんかかさん よー聞かれ
千石つんだ 船さえも
むこーの嵐がつよければ もとの港にそよそよと
ヨイヨイヨイ ヨイヨイヨイヨー
向かえの坊主は
向かえの坊主は 火をたくちゅー
なにゅして たくちゅーか
ひだるして たくちゅーど
ひだるか時ぁ 田に行け
田に行けば よごるるもん
よごれた時ぁ 水あびれ
水あびれば 冷(ひや)かもん
冷か時ぁ 火ぬくめ
火をぬくめば けぶかもん
けぶか時ぁ よし退(の)けよ
よし退ければ ころぶもん
ころぶ時ぁ ねんねせー
口之島の子守歌
うんだがこんこやんな 何故こげん泣くちゅー
親がおらんちゅーて こげん泣くちゅ
ヨイヨイ イサ ヨイヨイ(以下ハヤシ同様)
   爺さん婆さん 長生きしやれ
   道もよくなる 船もくる
俺共が姉さんなんだ 涙で出たが
いまは笑顔で 日帰りよ
   うちのこんこやんが 男ん子なら
   そろばん持たせて 学校にやる
うちのこんこやんが 女ん子なら
裁縫箱持たせて 学校にやる
黒島の子守歌 1
ヨーヨ ヨーヨ ヨーヨ
俺共が家の子が ねんね ねんねせんば
豚と猫と来てに噛むろ
ヨーヨ ヨーヨ ヨーヨ
黒島の子守歌 2
俺共が納戸の石垣にゃ
べんじょか着物の入っちょんで
泣くな 泣くな 泣くなよ
御前が太なったときゃ
御前に呉るっとやっちゅーで
泣くな 泣くな 泣くなよ
硫黄島の子守歌
ねんねんねんね ねんねんころよ
俺共(んど)が小(こ)めうちゃ 蟹(がね)ほいけ行っごった
蟹は ほい出さんじ 泣(ね)て戻る
ねんねんねんね ねんねんころよ
   俺共が同年輩(ひとツとし)ゃ 嫁(おめ)もつ子もつ
   俺(おい)なんだ あっちんへたんツルゲもつ
   ねんねんねんね ねんねんころよ
そこへ三人組が通る
ひとの言わん事も 言て通いが
ねんねんねんね ねんねんころよ
川薩地方の子守歌
烏が父(てツ)ちょは 何所(どけ)いたか
あの山こえて 里へ行た
里からみやげは 何々(ないない)か
駄馬(だだ)ん子一匹 牛(べぶ)ん子一匹
何処(どけ)ぇ繋(つ)ねっ置(え)たか
向かえの三本松 繋なっ置たが
なになに食(くワ)せ置たか
去年の蕎麦殻 今年の粟殻
抱合(だツくワ)せ抱合せして置たが
明朝行たて見たや
駄馬ん子も居らず 牛ん子も居らず
漁くい堀出くい しおったや
タンバグイよ 見しけた
つん割って見たや 三つになる稚児さまの
はかま着(き)って入(い)っちょやった
出水地方の子守歌
おろろ坊(ぼん)が泣く 泣かせちゃならぬ
 乳をのませて だいて寝る ヨイヨイ
おろろおろろで 寝ざめの悪さ
 泣かぬ瘡児(かさご)が 可愛(みじヨ)ござる ヨイヨイ
ねんねした子は かわいや可愛(もじヨ)や
 おずで泣く子の つら憎さ ヨイヨイ
つらが憎かなら 抓(つ)ん殺(こね)て給(たも)れ
 親にゃ死んだと 言て給れ ヨイヨイ
親に死んだと 言ほどあれば
 いくら憎かちゅーちゃ 殺しゃせぬ ヨイヨイ
わしが死んだ時ゃ 道ばて埋(いけ)ろ
 通る友達共(どしど)が 花をさす ヨイヨイ
花はさすどんか 水ぁ誰が掛くっか
 水はお寺の 清(きよ)の水 ヨイヨイ
りんがじんと
隣(りん)が人(じん)と 我家(がが人じん)と
言(ごん)することを 聞(もん)すれば
旅僧(りょそー)を 殺(せツ)すと 言(ごん)すなり
草(くさ)と言(ゆ)う字(じ)の 上(うえ)とって
山(やま)に山を 重(かさ)ぬべし 山に山を重ぬべし
東市来の子守歌
昔(むかひ)の座頭(ざツつ)が 銭(ぜん)ぬ百文(ひヤツめ) 拾(ふ)るた
その銭な どーしたか 米買て候(そーろ)
その米は どーしたか 甘酒つくって候
その甘酒 どーしたか 犬(いん)がひん舐めて候
その犬な どーしたか 打(う)っ殺(ころ)て候
その屍体(からだ)は どうしたか 焼(や)っ払(たく)って候
その灰(へー)は どーしたか 西瓜(すいくワ)をつくって候
その西瓜は どーしたか 烏(からし)が突崩(つくじ)って候
その烏は どーしたか 鉄砲で射殺(いこれ)て候
その羽根は どーしたか 矢をつくって候
その矢は どーしたか
肥前長崎 肥後は熊本
パッパパパッと射払(いはる)て候 パッパッパ
名瀬の子守歌
ねィぶりぶり わらび
如何(いきヤ)しなんでィ 泣きゅんよ
泣きちちゃる 人語(ちユかた)り
うりや うらんど
   汝(イや)ば泣きち 言(い)しゃ者(むん)や
   山ち 捨(す)てりゅんど
   海ち 捨てりゅんど
   泣くなよ 泣くなよ
笠利の子守歌 1
ハーランヨ ハーランヨ
泣くないよ 坊(ぼー)ぐヮやよ
泣くないよ 泣くないよ
按母(あんま)やよ 何処(だち)もーち
按母やよ 唐芋堀(とんふ)りが
野原(はーる)ち 行(い)ちゃんど
唐芋堀りが 行ちゃんど
ヨッコロハイヨ ヨッコロハイヨ
笠利の子守歌 2
生まれ運(ぶ)や 無(ね)んでィむよ
育(すだ)ち運どゥ 産(な)しゃるよ
ヨーハレ 愛子(かな)よ
   親(うや) 二人(たり) 中によ
   育ちマタ 見(に)ゃだなよ
   ヨーハレ 愛子よ
泣くなちば 泣きゅるよ
泣くなちば 泣きゅるよ
ヨーハレ 愛子よ
徳之島の子守歌
ねんねぐヮし ねんねぐヮし
ねんねぐヮしゅんちどゥ
泣きゅらや
ねんねぐヮし ねんねぐヮし
ねんねぐヮしょ
   ねんねぐヮし ねんねぐヮし
   按母(あんま)が乳(ちー)から 乳飲(ちーぬ)ましゃ
   ねんねぐヮし ねんねぐヮし
   ねんねぐヮしょ
ねんねぐヮし ねんねぐヮし
涼(しだ)か風(かじ)ぐヮぬ 欲(ふ)しゃらばや
ねんねぐヮし ねんねぐヮし
ねんねぐヮしょ
   ねんねぐヮし ねんねぐヮし
   阿旦(あだん)ぬ下(しヤ)いじ 風叫(はじあび)ら
   ねんねぐヮし ねんねぐヮし
   ねんねぐヮしょ
沖永良部の子守歌
親ぬ産し御陰〔親が産んで下さったお蔭で〕
丈程に太でィてィ〔この背丈までに成長しました〕
産し親ぬくとゥや〔産みの親のことは〕
粗相に思んな〔粗末に思ってはなりません〕
   桑木ぬ上じ子産ち〔桑の木の上で子を産み〕
   乳木ぬ上じ乳飲まち〔乳木(アカテツ)の上で乳を飲まし〕
   下ぬ菜畑下りてィ〔下の菜畑に下りて〕
   吾子に名くりら〔わが子に名をくれよう〕
石ぬ上に砂置てィ〔石の上に砂を置いて〕
砂ぬ上に花植てィ〔砂の上に花を植えて〕
うぬ花ぬ咲かば〔その花が咲いたら〕
吾子に呉いら〔わが子にあげよう〕
   泣くなくなわらび〔泣くな泣くな、わらべ〕
   誰が泣きでィ言ちよ〔誰が泣けといったか〕
   泣きでィ言ゃぬ人語り〔泣けと言った人を言いなさい〕
   うりに守らさ〔その人に守りをさせよう〕
泣くなくなわらび〔泣くな泣くな、わらべ〕
誰が泣きでィ言ちよ〔誰が泣けと言ったか〕
泣かなしゅてィ太でり〔泣かずに大きくなりなさい〕
花ぬわらび〔花のわらべよ〕
   眠りでィどゥ言ちゃる〔眠れとこそ言ったのだ〕
   誰が泣きでィ言ちよ〔誰が泣けと言ったか〕
   わが守らば眠り〔私が守りをするから眠りなさいね〕
   ヨーヒヨわらび〔ヨーヒヨわらべよ〕
眠りぶり眠り〔眠れ眠れ眠れよ〕
眠らんでィどゥ泣ちゅろ〔眠ろうと泣くのだろう〕
如何しがでィ泣ちゅいよ〔どこまで泣くのだい〕
眠りぶりわらべ〔眠れ眠れわらべよ〕
   汝が如何泣ちゃんてィ〔お前が如何に泣いたとて〕
   汝親ぬ聞ちゅみ〔お前の親が聞くものか〕
   吾ぬどゥ親成とゥてィ〔私だからこそ親代わりになり〕
   汝む守ゆる〔お前をもお守りするのだ〕
泣きゅぬ子ぬ面に〔泣く子の顔に〕
トゥドゥ虫這とゥらど〔円座虫やすでが這っているぞ〕
笑れぬ子ぬ面に〔笑う子の顔に〕
美ら虫ぬ這とゥらど〔きれいな虫が這っているぞ〕
   吾ちゃ子や眠たしが〔私の子は眠ったが〕
   汝ちゃっ子や眠らじな〔お前の子は眠らないのか〕
   汝ちゃっ子ぬ目玉や〔お前の子の目玉は〕
   見張い目玉〔眠らない性なのかなァ〕
人ぬ子ぬ泣きゅん時ゃ〔他人の子が泣くときは〕
飯箆取てィ尻叩ち〔おしゃもじで尻を叩き〕
吾きゃぬ子泣きゅん時ゃ〔自分の子が泣くときは〕
砂糖し止みら〔砂糖で泣きやめさせよう〕
   泣きさ子や泣ちゅい〔泣きべその子は泣く〕
   ふぎ鍋や漏ゆい〔ほげ鍋(穴のあいた鍋)は水がもる〕
   野原からや い参い〔野良から皆帰っていらっしゃる〕
   今如何がしゆる〔さあ、どう致しましょう〕
泣くなくな蔵人ぬ子〔泣くな蔵人(役人)の子たち〕
なくな筆子ぬ子〔泣くな筆子(役人)の子たち〕
御蔵米とゥてィ来ち〔お蔵米をとってきて〕
餉焚ち食しゅんど〔ご飯を炊いて食べさせるから〕
   子守しゅぬ哀り〔子守りをする身のあわれ〕
   夜昼ぬ物思み〔夜も昼も物思い〕
   物思み忘りらば〔物思いを忘れられたら〕
   御祝しゃぶら〔お祝いをいたしましょう〕
今どゥ吾ぬ笑れる〔今こそ私を笑っているが〕
吾が咲かば見より〔私の花咲く時節を見なさい〕
刺ぬ上に咲ちゃる〔刺(いばら)の上に咲いた〕
花ぬ如に〔花の如く、花咲く時節もあるでしょう〕
   吾ぬ産ちゃぬ親や〔私を産んだ親は〕
   産ちゃぬ名どゥ立ちゅる〔産んだという名目だけ〕
   雲風がなたら〔雲や風になってしまったのか〕
   行方しらぬ〔行方が知れません〕
五ち頃ないに〔五つごろになったとき〕
親に捨てィらりてィ〔親に捨てられて〕
七つ頃なたとゥ〔七つごろになったら〕
吾親思み出ち〔私の親を思い出しました〕
   親とゥ子ぬ中ぬ〔親と子の中の〕
   深さ有し見りば〔深い中(情愛)を見れば〕
   親居らぬ吾身どゥ〔親のいない自分の身が〕
   なゆく可哀想〔いまいっそうかわいそうです〕
彼斯遠々ぬ島に〔あんなに遠い遠い島(所)に〕
吾親一人置きば〔わが親を一人でおけば〕
宵なりや見欲しゃ〔夕暮れになると会いたくて〕
直思みさがる〔ただただ思いがしずみます〕
   にしに立つ雲や〔西の方に立つ雲は〕
   吾親影姿〔わが親のおもかげのようです〕
   立ち代わい代わい〔立ちかわり立ちかわり〕
   見してィ給り〔見せて下さいな〕
眠てィ起てィ覚みてィ〔眠って起きて目が覚めて〕
島向こてィ見りや〔故郷の方を見てみれば〕
島ぬ名どゥ見ゆる〔島のようすは見えるが〕
吾親見ゃらむ〔わが親の姿は見られない〕
   野原出てィ見欲しゃ〔野良へ出てみたいものです〕
   百合ぬ花見欲しゃ〔百合の花を見たいものです〕
   うりゆかむ見欲しゃ〔それよりも見たいものは〕
   見欲しゃ〔わが親、両親の姿が見たいものです〕
与論島の子守歌 1
ヨーヨーサ ヨーヨーサ 泣くな
泣くな ヨーヨーサ ヨーヨーサ
ヨーヨーサ ヨーヨーサ 泣くな
   泣くな ヨーヨーサ ヨーヨーサ
   泣けば 阿母やヨ 眠ららじ
   泣くな ヨーヨーサ ヨーヨーサ
泣くな 泣くな ヨーヨーサ
ヨーヨーサ ヨーヨーサ 泣くな
わったいど わったいど 泣くな
与論島の子守歌 2
泣きぶさぬ 面なんや〔泣きべその顔には〕
トゥドゥ虫ぬ しがゆんど〔やすでがついているぞ〕
泣かぬしが 面なんや〔泣かぬ子の顔には〕
砂糖ぬしがてィ 食りゅんど〔砂糖がついていて食べられるよ〕
ねんねんど ねんねんど
ヨーヨーサ 

 

わらべ唄
子守唄 1
なくなくな なくなよ
あんまがちぃから ちぃぬまさ(母さんがいったら乳のませるよ)
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ
   わんがふらんち なくなよ(私がいないからって泣くんじゃないよ)
   あんまがこおからみゅじくみな(母さんはこれから水汲みだよ)
   ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
   ねんねぐゎせよ
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
なきしゃむんぐゎどぅ なきゅりよ(泣く子は泣き虫の子だよ)
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ
   ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
   あんまとわってんや なぁじるべん(母さんとお前は実のない汁だね)
   ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
   ねんねぐゎせよ 
子守唄 2
泣くな泣くなよ、泣く子はいらぬ
泣けば地獄の釜の中    
徳之島の子守唄
自分が、わらべ歌だの子守唄だの歌うようになったわけは、子供たちと「日本昔ばなし」のyoutubeを視聴していたことにさかのぼる。そのとき、私たちは山姥の話を見ていた。恐ろしい山姥のでてくる、「牛方山姥」だったか、「三枚のおふだ」だったか忘れたが、子供たちはこの恐ろしい老女に「追いかけられる」タイプの話にスリルを覚えるようで、よく見たがった。私は、この話をみながら、ふと、ほかに山姥が出てくる話があるのか気になった。そこで「日本昔ばなし 山姥」というワードで検索をかけてみたところ、10を超えるさまざまな話が引っかかってきたのだ。夢中になって一つ一つ見ていくと、その面白さに釘付けになった。そこには、恐ろしい山姥のほかに、仲人してくれる山姥、子供を生む山姥、孤児に糸つむぎを教えてやる山姥、飢えた子にたらふく食べさせてやる山姥など様々なやさしい山姥像が描かれていたのである。これは何を意味しているのだろうか。いったい山姥とは何者なのだろうか。こうして私の山姥研究が始まったのだが、この山姥への好奇心はたいそう美しい子守唄と私を巡りあわせてくれた。山姥についての論文が掲載されていて手に取った「子どもと昔話」という雑誌に、主宰の小澤俊夫さんが「徳之島の子守唄 ねんねぐゎせ」を直筆採譜したものが掲載されていたのだ。小澤さんは、音楽ファンならずとも名の知れたアーティスト「オザケン」のお父様で、この雑誌にはオザケンがコラムを書いている号もある。こうしてたまたま出会った楽譜をみながら主旋律のメロディを口ずさむと、すばらしく優しい和音が自分の中で鳴り始めるのがわかった。シューベルトの子守唄も、江戸の子守唄も適わない、切なく優美な旋律が耳慣れぬ方言の歌詞とともにそこに記されていた。
子守唄にしろわらべ歌にしろ、単音の主旋律しか書かれていない楽譜を見たとき、左手で鳴らすべき音というのはかなり自由な裁量に任される。極端な話、ピアノがあまり得意でない幼稚園の先生が右手のメロディーを弾きながら、左手はずっとドミソのCの響きで済ましてしまう、というのと同じことをやってもいいわけで、わらべ歌というのはシンプルだけに一つか二つのコードを添えればそれだけで聞けてしまう曲も多い。しかし、アレンジする側としては、やはり色んな和音を添えて情感を増したり、意外な響きの中に美しさを表現したりしてみたい。そして、この「ねんねぐゎせ」はまさにそうしたさまざまな表現欲を駆り立てるような、シンプルで美しいメロディーを持っていたのだ。
   なくなくな なくなよ
   あんまがちぃから ちぃぬまさ(母さんがいったら乳のませるよ)
   ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
   ねんねぐゎせよ
    わんがふらんち なくなよ(私がいないからって泣くんじゃないよ)
    あんまがこおからみゅじくみな(母さんはこれから水汲みだよ)
    ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
    ねんねぐゎせよ
   ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
   なきしゃむんぐゎどぅ なきゅりよ(泣く子は泣き虫の子だよ)
   ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
   ねんねぐゎせよ
    ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
    あんまとわってんや なぁじるべん(母さんとお前は実のない汁だね)
    ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
    ねんねぐゎせよ
「ぐゎ」というやさしい響きは「子」を意味する。ねんねこしなさい、というリフレインがひときわ心地よい。
4連からなるこの子守唄はドレミソラドというファとシがぬけたいわゆる四七抜きと呼ばれる日本の民謡に多く見られる音階を使っている。あらためて徳之島の位置を確認すると、沖縄と鹿児島の間に位置し、屋久島、奄美、徳之島、沖永良部島、与論島、そして沖縄という並びになる。そして、徳之島と沖永良部島の間に音階上のはっきりした境界線がある。本土と共通する民謡音階は徳之島が南限で、沖永良部以南はドミファソシドの沖縄音階になるのだという。しかし、徳之島の言葉や生活様式、歌詞自体は沖縄にかなり影響を受けているそうで、そのいわば骨組みの音階の部分だけ、しっかり民謡音階を守っている点が面白い特徴らしい。徳之島には、男女の掛け合いで二部合唱のようになる民謡もあり、残っている民謡としては、「とびぬけて古い」形を残しているという。
ここまで調べて私は少し意外な気がした。というのは、全国のわらべ歌の楽譜をざーっと眺めていったとき、「ねんねぐゎせ」のような明るい旋律のものはむしろ少数派のように感じていたからだ。多くは、「ねんねんころーりーよー」のフレーズで知られる「江戸の子守唄」のような、物悲しいものだった。それで、日本古来のメロディというのは、やはり短調になるのだろうか、と思っていた。しかし、実際は逆だった。明るい民謡音階が最も古い形、原形として存在しており、それが南限の徳之島に残っているのだ。しかも、一聴して強烈な個性を放つ沖縄音階の分布地域でさえ、それが広がる前は民謡音階が分布しており、沖縄文化が成熟する過程で、それを覆して北進し、沖永良部島まで支配した、という説もあるのだという。いずれにせよ、日本列島全体にそもそもあった音階というのは、明るい音階であったのだ。では、「江戸の子守唄」のような、短調の歌が広まっていった背景には何があるのだろうか。
下総皖一は「日本民謡と音階の研究」で雅楽の音階と民間の音階に差異があることを指摘し、短調の音階を「都節音階」と呼んで三味線や笙の音階としている。つまり自然発生の時点では長調の音階が雅楽の影響などを取り入れて短調化していったものが、現在多く残る短調の民謡やわらべ歌ということだ。下総さんは、日本の音楽はもともと明るい旋律だが、技巧的になると暗くなっていく、ということも言っていて、私はなんとなく、古今、新古今と技巧的になっていく前の万葉集の和歌たちが伝えているような太古の大らかさを、「ねんねぐゎせ」に感じていたのかな、という気もするのだ。
それにしても、4連からなるこの子守歌の穏やかさに反してそこから伺える生活の苦しさが胸に迫る。島の暮らしというのは、北に暮らす者からするとおおらかに思えるが、水事情にせよ、食糧事情にせよ、どこの島も厳しい歴史を背負っているところが多い。沖縄も、飢饉のとき、有毒のソテツのでんぷんを求めて、多くの人が残留する毒で苦しんだ経験が「ソテツ地獄」として伝えられているが、徳之島も例外ではなかっただろう。大正7年生まれの老婆も食用にするためにソテツを山に植えていたことを証言している。水事情も、南西部に多い琉球石灰岩には帯水層がなく、井戸を掘っても水質が悪いという。加えて、石灰岩の上の石灰質の赤土は雨風で流されやすく、川は雨が降ると1、2時間で濁って飲めなくなり、常に水豊かな川もない。この子守唄の正確な発祥地域はすでに知る術がないが、赤子を置いて水汲みにゆくこの母親が、すぐ戻ってこれるのか、はたまた少し離れた川まで行かなければならないのか。後者とすれば切実さが増す。
島には次のような歌も伝わる。
   米倉ぬ有たんてんま くみぐらぬあたんてんま
   米ぬ生き延びゆめ  こめぬいきぬびゆめ
   物言ち生き延びゆし むぬいちいきのびゆし
   初ぬ思め子 はつぬうめぐゎ
米倉があっても米が命をのばしてくれようか、物をいって命を延ばしてくれるのは初子だ。
これは、米倉を持つ富める者の口から生まれた歌だろうか。私には違うように思える。「なぁじるべん(実のない汁)」をわが子とすすりながら、その尊い宝が、物言い、立ち上がり、駆け出す日を待ちながらなんとか育てようと日々奮闘する母親。のどから手が出るほど明日の米がほしい貧しさの中でも、それを忘れさせてくれるような宝を手にしている喜び、その宝を大切に育てていこうとする母親の意気込みがにじみ出ているように思えるのだ。
この尊い強がりのような表現は、「徳之島の子守唄」にはない。むしろ、日々の貧しさの中では心細くなることも多かっただろう。安らかさと、心細さと、いとしさと。色んな感情がないまぜになった母親の心が伝わるように、演奏するときは、1、2連は原形のCの長調で始め、3、4連をAマイナーの短調に変えて演奏してみている。子どもと二人「実のない」汁物をすするしかなかった母親のやるせなさをどうやったら表現できるだろうか。
4歳から7歳まで3人の女の子がいるので、もはや自転車に全員を乗せることは不可能に近い。そこで、保育園と小学校までの道のりを、草木や花の名をクイズのようにして教えたり、歌を歌ったりしながら荷物だけ自転車に乗せて子どもたちを歩かせ、行き帰りしている。あるとき、長女が「ねえ、この歌なんだっけ、お母さんが歌ってた」と節を歌ってみせる。
   「ラーラララーラララーラララーララララ」
そんなメロディの歌があったかなと、なかなかわからない。何遍か歌ってもらって、それが、「ねんねぐゎせ」の間奏部やアウトロで私のピアノがならした右手のメロディーだとわかった。小澤俊夫さんが徳之島のおばあさんから聴いた歌がシンプルな譜面になり、その美しさに触発された私のイマジネーションから生まれた間奏部のメロディー。当然譜面には書かれていない部分である、そのメロディーの動き、旋律が長女の記憶に強く残ったのだ。不思議だった。
こどもたちが、保育園で手遊びうたなど覚えて帰ってきて家でやっていると、自分が幼稚園のころ、幼稚園の教室で教わった手遊び歌をやるときのわくわくした懐かしい気持ちを思い出し、ああ、この感じ、となんともいえない気持ちになる。自分の手のひらから広がる音、自分の手が作り出す形、自分の声と結びつく手の動き。すべてが新鮮で、当時の教室の空気と一緒に思い出す。 
 
沖縄

 

バイバイ沖縄 又ハーリヌチンダラヨ 
故郷離れてから早十二年 変わるなよその眺め 八重山の島々よ
首里天加那志 御顔拝ま
寝させ唄
べーべーぬ草刈いが
いったー母(あんま) 何処(まー)かいが
べーべーぬ 草刈いが
べーベーぬ まさ草や
畑(はる)ぬ 若みんな
ヘルヘルヘル
ヘルヘルヘル 泣くなよ
母(あんまー)や長畑(ながはる)から
芋(うむ)ぐワー 掘てィめーぐとゥ
泣くなよ ヘルヘルヘル
「ヘルヘルヘル」は、「よしよし」といったあやし言葉。沖縄の子守唄には、その島その島の、独特のはやし言葉、あやし言葉があって、沖縄の音楽性の豊かさを感じる。
ヘイヨーヘイ
ヘイヨーヘイ 泣くなよ
我ったーカマルグヮーや 泣かんど
母が畑から めんそーらわ
魚んめーめん くィゆくとゥ
ヘイヨーヘイ 泣くなよ
いったー父や
ホイホイホイ ホイホイホイ
いったー父や だんがてィもちゃが
大海んがてィ 大魚捕いが
ホイホイホイ ホイホイホイ
   いったー母や だんがてィもちゃが
   大海んがてィ 大魚堀いが
   ホイホイホイ ホイホイホイ
いったー兄や だんがてィもちゃが
海んくヮんがてィ 魚んくヮ捕いが
ホイホイホイ ホイホイホイ
   いったー姉や だんがてィもちゃが
   畑んくヮがてィ 芋んくヮた堀いが
   ホイホイホイ ホイホイホイ
母や母や
母や母や 何処かいが
那覇ぬ町かい
ビンビン買いがど
買てィ戻らば
此んにん飲まさりよ
我んにん飲まさりよ
ヘイヨーヨ
泣くなよ 泣くなよ
汝から母ホィヤ
汝かは母 ホィヤ〔お前の母さんは〕
大芋堀りがどゥ ホィヤ〔大きなお芋を掘りに〕
わりたりどー ホィヤ〔いらっしゃったよ〕
   汝から父 ホィヤ〔お前の父さんは〕
   南ばる行んけどゥ ホィヤ〔南の海に行かれて〕
   大蛸しょきがどゥ ホィヤ〔大蛸をとりに〕
   わりたりどー ホィヤ〔いらっしゃったよ〕
ににっちゅがむてィ ホィヤ〔眠っている子には〕
皮がくむかてィ ホィヤ〔皮をむいて〕
大蛸ぬ ホィヤ〔大蛸の〕
手むとゥあなぎな ホィヤ〔手をまるごと〕
ふァしおかよー ホィヤ〔食べさせるよ〕
   起きっちゅがむてィ ホィヤ〔起きている子には〕
   ふてィんかてィかてィ ホィヤ〔虫くい芋と〕
   あずがまぬ ホィヤ〔小あじの〕
   苦腹かてィかてィ ホィヤ〔苦い腹わたを〕
   ふァしおかよー ホィヤ〔食べさせるよ〕
弟がまよー
ホィヤホーイ 弟がまよー ホイ
泣ふなよーの 汝弟がまよーイホーイ
   汝が母 大芋掘るがよー ホイ
   汝が父よーの 大蛸捕るがよーイホイ
大蛸ぬ 手ぬ根やーよー ホイ
大魚ぬよーの 甘背中とゥよーイホーイ
   片手んな 米ぬずよー ホーイ
   片手んなよーの 蛸ぬ手よーイホーイ
こねまぬ父や
こねまぬ父や 何処かいどゥおったーね
大平田おーり 俵回しょーり
後ぬ稲叢 高稲叢為しょーり
前ぬ稲叢 大稲叢為しょーり
ホイヤーヨ ホイヤーヨ ホイヤーホイヤーヨー
   こねまぬ母や 何処かいどゥおったーね
   大畑おーり 大芋あめおーり
   こねまぬ物や 大芋ばがし
   守姉ぬ物や 長大芋ばかし
   ホイヤーヨ ホイヤーヨ ホイヤーホイヤーヨー
こねまぬ公事 寝すどゥ公事
守姉ぬ公事 守すどゥ公事
こねまぬ眠ぶか 守姉ん眠びどゥしィ
こねまぬ起きっか 守姉ん起きどゥしィ
ホイヤーヨ ホイヤーヨ ホイヤーホイヤーヨー
我んちゃぬ母
我んちゃぬ母 何処かいど おったるね
大山かいど おったるね
大山から 薪木ば担ぎょーり
明日ぬ夜 こねまぬ 祝すんちょ
ホィヤヨラ ショッカー ホィヤヨラ ショッカー
ハララルデー
ハララルデー んくてィやよ ハララルデー
母やでィんぬりぬ 畑んけ 芋堀んで
ハララルデー 泣ぐんなよ 父 や でィんぬりぬ
耳切り坊主 1
大村御殿ぬ 角なかい〔大村御殿の角の所に〕
耳切り坊主ぬ 立っちょんど〔耳切り坊主立っとるぞ〕
幾人幾人 立っちょやびが〔幾人立っておられるか〕
三人四人 立っちょんど〔三人四人立っとるぞ〕
鎌ん小刀ん 持っちょんど〔鎌も小刀も持っとるぞ〕
泣ちゅる童 耳グスグス〔泣いてる童は耳グスグス〕
ヘイヨー ヘイヨー 泣かんど〔泣かないで〕
ヘイヨー ヘイヨー 泣かんど〔泣かないで〕
耳切り坊主
ゆさんでィ童 泣ちね〔夕方子供が泣くと〕
耳切り坊主ぬ 立っちょんど〔耳切り坊主立っとるぞ〕
幾人幾人 立っちょーがー〔幾人幾人立っとるか〕
三人 四人 立っちょんど〔三人四人立っとるぞ〕
鎌ん庖丁ん 持っちょんど〔鎌も庖丁も持っとるぞ〕
泣くなよ 泣くなよ
ヘイヘイヨー ヘイヘイヨー
耳切り坊主 3
ゆさんでィ畑かい 行くなよ〔夕方畑へ行くなよ〕
耳切り坊主ぬ 立っちょんど〔耳切り坊主立っとるぞ〕
何とゥ何とゥ 持っちょーたが〔何と何を持っとるか〕
棒とゥ刀とゥ 持っちょんど〔棒と刀と持っとるぞ〕
耳切り坊主 4
ハイヨーヨー 泣くなよ
泣つる童 耳グスグス
耳切り坊主 5
あまふま 歩ちーくんたな〔あっちこっち歩いて、もどってくるまで〕
門に立っつきろ〔門に立っていなさいよ〕
泣くなよ 泣きみや〔泣くなよ、泣くと〕
耳切り坊主ぬ 立っちょんど〔耳切り坊主立っとるぞ〕
幾人幾人立っちょーたが〔幾人幾人立っとるか〕
七人七人立っちょんど〔七人七人立っとるぞ〕
泣くなよ 眠んびべくど〔泣くなよ、眠りくらべだよ〕
ヨーヒーヨ
ヨーヒーヨ ヨーヒーヨ
泣くなよ ヨーヒーヨ
泣きんさびらんど 泣くなよ
泣くる童よ 小芋 喰ますんど
泣かぬ童よ 大芋 喰ますんど
ヨーヒーヨ ヨーヒーヨ
わったー母がよ 井戸ぬ上からよ
がにがに持たさわよ
汝にる 呉いよんど
泣くなよ 泣くなよ ハイハイヨ
いったー門ぬ
いったー門ぬ 栴檀木 枝持ちぬ美らさ
我やくみが妻ぬ 胴持ち美らさ
姉ぐヮーそーい
いったーとーとーめぐヮー
いったーとーとーめぐヮーとゥ
 わったーとーとーめぐヮーとゥ
 一門がやたら あんし似ちょーる 姉くヮーそーい
姉ぐヮーそーてィ クバぐヮー
 クバぐヮーぬ下 拝でィ
 拝まりやすしや 銭や無いぬ 姉ぐヮーそーい
東明がりば
東明がりば 墨習が行ちゅさ
 墨ぬ優りりば 大和通さ
運天ぐヮーぬうっけーめー 入たくとゥる食らる
 茶碗くヮーぬみさい 二貫五百
昨夕産ちゃる坊じゃーぐヮー 七ち頃ならわ
 うまぬ家ぬ側に 乗馬立てィり
いったー門とゥ門対向 門対向ぬウサグヮー
 目眉黒々とゥ 抱ちょい見欲さぬ
わったー前ぬ栴檀木 足駄くでィ上てィ
 落てィてィ玉頭 割りばちゃんすがてィ
我が抱ち抱ち
我が抱ち抱ち ふるわーさば
地頭代主が 嫁なりよ
我が来らばん 誰が来らばん
茶受きすことてィ 待ちょきよ
   昨夜産ちぇる 坊じゃーぐヮー
   七ちぐる なりば
   親ぬ側 なかい
   乗馬立てィりよ んじょぐヮー
我が抱ち抱ち ふるわーさば
地頭代主が 嫁なりよ
あしじゃんぱちない くますんど
草履ぐヮんぱちぱち くますんど
眠らせくらべ
いったー子とゥ
いったー子とゥ 我ったー子とゥ 眠んび勝負や
我ったー子や 我ったー子や 眠んたんど
いったー子や いったー子や なま眠んばん
ヘルヘルヘル んまぬ家かい行くなよ
人喰い犬ぬ子 居んどーや
泣くなよ ヘルヘルヘル
あったー子とゥ
あったー子とゥ 我んなー子とゥ 眠んぶいべくど
あったー子やよ 目ふァんちょん
我んなー子やよ 起きてィどゥ眠んとんど
ホイホイホイ ホイホイホイ 

 

わらべ歌
てぃんさぐぬ花
てぃんさぐぬ花(はな)や
爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ
親(うや)ぬゆし言(ぐとぅ)や
心(ちむ)に染(す)みり
天(てぃん)ぬ群(ぶ)り星(ぶし)や
読(ゆ)みば読(ゆ)まりしが
親(うや)ぬゆし言(ぐとぅ)や
読(ゆ)みやならん
夜走(ゆるは)らす船(ふに)や
ニヌファ星(ぶし)みあてぃ
我(わ)ん生(な)ちぇる親(うや)や
我(わ)んどぅみあてぃ

ホウセンカの花は
爪先に染め
親の言う事は
心に染めなさい
天の群れ星は
数えようとすれば数えられるが
親の教えた事は
数えきれないものだ
夜走る船は
北極星が目あて
私を生んだ親は
私を目あてにしている 
月ぬ美しゃ
月(つき)ぬ美(かい)しゃ
十日三日(とぅかみーか)
みやらび美(かい)しゃ
十七(とぅなな)つ
ホーイ チョーガ
東(あ)りから上(あ)りおる
大月(うふつき)ぬ夜(ゆ)
沖縄(うきな)ん八重山(やいま)ん
照(てぃ)らしょーり
ホーイ チョーガ

月の美しいのは
十三夜
乙女の美しいのは
十七歳
ホーイ チョーガ
東から上がる
大きなお月様
沖縄も八重山も
照らして下さい
ホーイ チョーガ 
ばんがむり
我(ば)んが守(も)りぷどぅわさば
ョーイヨイ
姉(あに)が漕(く)ぎ ぷどぅわさば
ヨーイヨー ホーイー
友(どぅす)ぬぱな 生(んま)りゃしょてい
ョーイヨイ
ぁぐぬぱな 生りゃしょてい
ヨーイヨー ホーイー
島(すま)ぅすい
照(てぃ)りゃがりゅてい
ヨーイヨイ
国うすい 照りゃがりゅてい
ヨーイヨー ホーイー

私が守り育てたら
ヨーイヨイ
姉さんが揺って大きくすれば
ヨーイヨー ホーイー
友だちの中でも
ぬきんでておくれ
ヨーイヨイ
親友の中でもひいでておくれ
ヨーイヨー ホーイー
島中に照り輝いておくれ
ヨーイヨイ
国中に鳴り響いておくれ
ヨーイヨー ホーイー 
うふむらうどぅん
大村御殿(うふむらうどぅん)ぬ 角(かどぅ)なかい
耳切坊主(みみちりぼーじ)ぬ 立っちょんど
幾人幾人(いくたいいくたい) 立(た)っちょがや
三人四人(みっちゃいゆったい) 立っちょんど
鎌(イラナ)ん小刀(シーグ)ん 持(む)っちょんど
泣ちゅる童(わらべ) 耳グスグス
へイヨーへイヨー 泣かんど
へイヨーへイヨー 泣かんど

大村御殿の角に
耳切り坊主が立っているよ
何人何人立っているの
三人四人立っているよ
鎌も小刀も持っているよ
泣いている子の耳を
グスグス切るよ
へイヨーへイヨー
泣かないよ
ヘイヨーへイヨー
泣かないよ 
いったーあんまーまーかいが
いったーあんまー
まーかいが
べーべーぬ 草(くさ)かいが
べーべーぬ まさ草(くさ)や
畑(はる)ぬ わかみんな
姉小(あんぐゎー)そーていコッコイ
いったーちゃーちゃー
まーかいが
モーモーぬ 草かいが
モーモーぬ まさ草や
畑ぬ わかかんだ
姉小そーていコッコイ

あなたのわ母さんは
どこへ行ったの
山羊の草を刈りに
山羊の好きな草は
畑にあるわかみんな
姉さんも連れて
あなたのお父さんは
どこへ行ったの
牛の草を刈りに
牛の好きな草は
畑にあるわかかんだ
姉さんも連れて  
雨どーい
雨(あーみ一)どーい
田場主(たーばーすー)
田場ぬ 家(やー)んじ
くわっきりよ
御駕籠(うかぐ)
ギッチリ ギッチリ
当山(とーやま)かい
唐(とー)や 何処(まー)やが
大和(やまとぅ)ぬ後(くし)

雨だよ田場主
田場の家で
雨やどり
駕籠にのって
ギッチリ ギッチリ
当山へ
唐は何処ですか
大和(日本)の後ろだよ 
でーじぬぐんかん
大事(でーじ)ぬ軍艦
大事(でーじ)ぬ軍艦
あんまんしかすん
い−じゃんしかすん

大変だ軍艦がやって来た
大変だ軍艦がやって来た
お母さんに知らせよう
お父さんに知らせよう 
なーみなーみわんわちゃくり
なーみ なーみ
わんわちゃくり
ゆーちぬさーちぬ
鼻もーもー

波よ波
私をくすぐれ
ユーチヌ崎の
鼻もーもー 
うぷぴとぅたーぴとぅ
大人(うぷぴとぅ)
他人(たーぴとぅ)
高(たか)ましゃら
銭持(じんむ)ちゃ
弟(とーとぅ)がま
うまから虫(むす)がまぬ来(き)し
あーくちゅくちゅくちゅ

大きい指(親指)
他人を差す指(人差し指)
一番高いもの(中指)
お金持ち(薬指)
一番小さな指(小指)
そこから小虫がやって来て
あーくちゅくちゅくちゅ 
いっちくたっちく
いっちくたっちく
じゅうにが
ふぃがー
ちくむく
ちんぼらが
御殿(うどぅん)ぬ後(くし)んじ
ふーるがやい

ーつ二つ
十二に
巻いた
(不明)
チンボラ貝が
お屋敷の後ろの方で
糞をたれた 
花ぬ風車
花(はな)ぬ風車(かじまや)やスリ
風連(かじち)りてぃ回(みぐ)る
チントゥンテントゥン
マンチンタン
うねたり主(す)ぬ前(めー)
うみかきれ

花の風車
風に吹かれてよく回る
チントゥンテントゥン
マンチンタン
ほらほらお父さん
ごらんなさい 
みーみんめー
みーみんめー
みーみんめー
ひーじんとー
ひーじんとー
いーゆぬみー
いーゆぬみー

耳だよ
耳だよ
ひじだよ
ひじだよ
魚の目だよ
魚の目だよ  
ふーゆべまー
ふーゆべまー
なかゆべまー
たかてぃーまーれま
かんざせま
がさめま
あんまーかいおり
ジョロジョロジョロ
ハイ、ジョロジョロジョロ

大きい指(親指)
中指(人差し指)
高いもの(中指)
かんざしを差すもの(薬指)
小さなカニ(小指)
お母さんが井戸へ行って
(お洗濯)
ジョロジョロジョロ
ハイ、ジヨロジヨロジヨロ  
じんじん
じんじん じんじん
酒屋(さかや)ぬ水喰(みじくゎ)てぃ
落(う)てぃりよーじんじん
下(さ)がりよーじんじん
じんじん じんじん
壺屋(ちぶや)ぬ水飲(みじぬ)でぃ
落(う)てぃりよーじんじん
下(さ)がりよーじんじん
じんじん じんじん
久茂地(くむじ)ぬ水飲(みじぬ)でぃ
落(う)てぃりよーじんじん
下(さ)がりよーじんじん

ホタル ホタル
酒屋の水を飲んで
落ちてこいホタル
落ちてこいホタル
ホタル ホタル
壺屋の水を飲んで
落ちてこいホタル
落ちてこいホタル
ホタル ホタル
久茂地の水を飲んで
落ちてこいホタル
落ちてこいホタル 
あぬふしてぃーち
あぬ星一(ふしてぃー)ち 我(わ)ん一(てぃー)ち
あぬ星二(ふしたー)ち 我(わ)ん二(たー)ち
あぬ星三(ふしみー)ち 我(わ)ん三(みー)ち
あぬ星四(ふしゆー)ち 我(わ)ん四(ゆー)ち
あぬ星五(ふしいち)ち 我(わ)ん五(いち)ち
あぬ星六(ふしむー)ち 我(わ)ん六(むー)ち
あぬ星七(ふしなな)ち 我(わ)ん七(なな)ち
あぬ星八(ふしやー)ち 我(わ)ん八(やー)ち
あぬ星九(ふしくくぬ)ち 我(わ)ん九(くくぬ)ち
あぬ星十(ふしとぅー) 我(わ)ん十(とぅー)

あの星一つ  私の星一つ
あの星二つ  私の星二つ
あの星三つ  私の星三つ
あの星四つ  私の星四つ
あの星五つ  私の星五つ
あの星六つ  私の星六つ
あの星七つ  私の星七つ
あの星八つ  私の星八つ
あの星九つ  私の星九つ
あの星十   私の星十 
 

 

 
 

 

 
 
■童歌諸話

 

 
「子守唄」と「守り子唄」

 

今の若いお母さんたちは、どんな子守唄を唄っているのだろうか。子守唄など唄わない、というお母さんはいないと思いつつ、きっと、好きなミュージシャンの曲を彼女たちなりに選んで唄っているのだと想像する。そうあって欲しい。
NPO法人日本子守唄協会を見てみると、子守唄ランキングがあった。第一位は「ねんねんころりよ おころりよ 坊やはよい子だ ねんねしな」という歌詞で始まる『江戸子守唄』だ。そのリストには子守唄だけでなく、遊ばせ唄、寝させ唄、守り子唄までが掲載されている。
「放送禁止歌」(森達也著)によって、「竹田の子守唄」や「五木の子守唄」が「守り子唄」であり、そのベースに被差別部落の問題があることを遅まきながら知った。「子供を寝かせつけるための唄が子守唄であり、基本的には母親が自分の子に歌いかけるため」の唄。「守り子唄は一種の労働唄。かつては子守は十歳前後の少女のたちの労働」であった。「特に部落の場合、子供とはいえ、遊んだり学校に行くような余裕がない家庭がほとんどだったから。守り子唄には、そんな少女たちの心情が唄われて」いる。
早稲田大学文学部・井桁研究室HP中の卒論に「眠り文化の研究」と題した須永有紀子さんの論文があり、その中で子守唄を取り上げた項がある。一部に適切ではないと思われる文章もあるが、そのまま引用しておく。
日本の子守唄
数ある日本の子守唄ので最もよく知られた曲は、恐らく『江戸子守唄』であろう。「ねんねんころりよ おころりよ 坊やはよい子だ ねんねしな」という歌詞で始まるこの曲は、いわば日本の子守唄の代表のように思われている。江戸時代の頃から歌われていたといわれる古いパターンを持っており、それだけに歌詞やメロディーを少しずつ変えて日本各地に伝播した。歌詞の中には子供の喜ぶものとして、でんでん太鼓や笛などのおもちゃや、地域によっては金銭や脇差、食べ物などが入っている。「いいものをやるから、早く眠れ」という意味が唄の中に込められている。悲しく暗い旋律ではあるが、歌詞には微笑ましい母子の姿がうかがえる。
しかし、日本で歌い継がれてきた子守唄の多くは、歌詞も子供を怖がらせるような内容で、曲全体に寂しさや哀しさが現れている。『五木の子守唄』には、子守としての自分の惨めさと辛さ、そして雇い主の家族に対する羨ましさなどが表現されている。『中国地方の子守唄』も、赤ん坊に対して「早く眠って欲しい、起きて泣く子の顔は憎らしい」という表現がある。また『島原の子守唄』にも同様の表現がある。
このような歌詞の違いは、子守唄を奏でる主体の違いにあるのではないかと思われる。
日本の子守唄の多くは、雇われて子守をさせられる“子守娘”が歌う曲である。そんな中で、『江戸子守唄』は母親が歌う子守唄なのである。子守娘たちは、母の情愛と無縁であるから、自分の境遇を恨みつつ赤ん坊をいじめたりする。「おまえの顔は猿みたい」などと、とかく子守娘はそんな歌詞を選び、母親は「この子の可愛さ限りなさ」と歌いたがるのである。愛情のない歌詞で歌っても、聴く方は内容を理解することができないから、子守娘は他人の産んだ子を代わって育てる出稼ぎの現実を呪い、赤ん坊をイメージの中で、その逆境に一緒に追い込もうとしていたのであろう。子守娘の心理は、貧しかった日本の暮らしを指弾しているようにも見える。
子守娘という職種がなくなった現在は、母親が子守唄を独占できる時代となった。『五木の子守唄』や『中国地方の子守唄』のような、子供を怖がらせる歌詞の子守唄があまり浸透せず、その一方で、暗く寂しい日本の子守唄の中でも、数少ない母親の歌う曲である『江戸子守唄』が日本の子守唄の代表のようになったのも、そのような社会背景とつながりがあるのではないかと私は考える。
ところで、日本の子守唄は暗く寂しい曲ばかりかと思うと、広く知られた子守唄の中に、数少ない優しいメロディーの子守唄が一つある。北原白秋が作詞した『ゆりかごの唄』である。「ゆりかごの うたを かなりやが うたうよ」という歌詞は、周知のとおりである。白秋の長男誕生の少し前、大正10年8月に『小学女生』で詩が発表され、曲は作曲家草川信氏によって翌年6月に作られた。36才にして初めて授かった子に対する、深い愛情に満ちた思いが、この曲から強く伝わってくる。それと同時に、子守が女の仕事であり、父親は手放しで喜ぶことができたという当時の現実を象徴しているようにも見える。
西洋の子守唄
次に、西洋の子守唄を挙げてみようと思う。西洋の子守唄は、おおらかでゆったりとした優しい曲が多いというのが日本人の一般的な認識としてあると思う。しかし、明るく優しい子守唄ばかりでもない。ドイツ民謡の『眠りの精』という子守唄の中には「眠らぬ子供を 見つけ出して 閉じないまなこに 砂をまくよ」というくだりがある。これは、ドイツに伝わる眠りの精、「砂男」の伝説を歌ったものである。砂男は、子供達の目の中に砂を投げ入れ、まぶたを閉じるまで上に座ったり、まぶたを噛んだりするという手荒な妖精である。
また、『コサックの子守唄』など、ロシアの子守唄の中には寂しい旋律の曲もある。とはいえ、全体的に見れば、明らかに日本のそれより曲想は明るい。現在まで歌い継がれている子守唄は世界各国、その地方の民謡が多いため、殆どが作者不明である。特定の人や自分の子供の為に作られた曲というのは少ないようであるが、日本で広く知られた曲は、偉大な作曲家の作品が目立つ。作曲家が依頼を受けて、特定の人物のために作曲したケースが多い。また、これらの作曲家は男性ばかりである。西洋の子守唄から優しく温かい印象を受けるのも、眠らない子を寝かしつけなければならないという現実とは無関係の人物が作曲したからではないかと推測される。
すでに何度も述べたように、西洋の子守唄は日本の子守唄に比べ、優しく華やかな感じがする。子供に対して優しく話しかけるような歌詞が多く、旋律も日本の子守唄は短調が多いのに対し、西洋の子守唄は長調がほとんどである。
1816年に作曲された『シューベルトの子守唄』は、周知のとおり「ねむれ ねむれ ははのむねに」の歌詞で、多くの日本人に親しまれている。「Andante(ゆっくりと)」という指定そのままに、揺りかごに揺られているような自然な歌である。「ねむれよいこよ にわや まきばに」の曲は『モーツァルトの子守唄』として知られているが、この曲は実際にはモーツァルトの作品ではなく、ゴッターの詩にフリースが作曲したものである。曲はへ長調、八分の六拍子、またシューベルトの子守唄と同様「Andante」と指定されている。『ブラームスの子守唄』はブラームスが、友人であるベルタファルド夫人の次男誕生のお祝いに贈ったと言われている。またショパンも33歳の時、女性の弟子のために子守唄を作った。詩情豊かな旋律で、「ピアノの詩人」と呼ばれるショパンの本領が発揮された曲である。
有名作曲家の作品以外を挙げると、アメリカの『Hush Little Baby』という曲がある。作者不詳だが、日本でもよく聴かれる曲である。題名を聞いただけでメロディーが思い浮かぶ人は少ないと思われるが、テレビCM等でよく流される。
この子守唄だけでなく、西洋の子守唄はテレビCMによく使われる傾向が見られる。ゆったりと、優しく温かさに満ちた音楽は、コンピューターのように頭を働かせて勉強や仕事をし、ストレスを抱え込んだ現代人にとって、子供の頃に子守唄を聴いたときの安心感や心地よさを、ごく自然に蘇らせてくれる音楽なのであろう。“確かに昔、どこかで聴いたことのある旋律”を媒介として、無意識の記憶を操り、商品やその企業のイメージアップにつなげているのである。テレビCMでの子守唄人気は、人間が潜在意識の中で子守唄を欲している証しではないだろうか。
世界各国で子守唄は伝承され、その曲が作られた背景や情感には違いがあるが、テンポは共通してゆったりとしている。人間には生活のリズムがあり、その源は呼吸数と脈拍数と多いに関係があるといわれている。だからこそ、子守唄は人類共通でゆったりとしたテンポなのだと思う。現代に暮らす子供達を包み込む音楽は、大人もついていけない程の複雑なリズムとメロディーが多く、柔軟な可能性を持つ子供の脳は即座に反応し、身についてしまう。このリズム感覚は幼児期に身につけたいものではあるが、現代の子供達には、一方の生活リズムから涌き出る豊かな心の歌も感じることのできる子供に育ってもらいたいと私は思う。 
 
子守歌の世界

 

子守歌の向こうに見えてくる、歴史的背景
「ララバイ(lullaby)」とは、子守歌のこと。では子守歌と聞いて、一般的にどんな曲をイメージするでしょう?  「ねんねんころりよ〜」という、昔からの日本の子守歌でしょうか? それとも「ねむれ〜、ねむれ〜、ははのむね〜に」という、西洋の子守歌でしょうか? あるいは家族だけに歌われてきた特別な歌でしょうか?  いずれにしても、一般的に子守歌と言えば、母が我が子を思い、安らかに育つことを願って 優しく歌われる曲を想像します。でも子守歌について調べてみると、意外な事実が見えて来ます。子守歌に、どんな種類があるのかを調べてみると、結構いろいろあるようです。まず一般的に誰でも考えるのが、子供を寝かしつけるときに歌う「寝かせ歌」があります。この他にも、子供を遊ばせるときに歌う「遊ばせ歌」も含まれるようです。
ところで同じ子守歌でも、日本の子守歌と西洋の子守歌では、ずいぶんと雰囲気が違います。西洋の子守歌が何となくおしゃれで裕福なイメージがあるのに対して、日本の子守歌は、はっきり言って暗い感じがします。西洋の子守歌がおしゃなのは、ブラームスにしてもシューベルトにしても、裕福なクライアント(依頼主)の要請によって作曲されたことに原因があるようです。それともう一つ、西洋の子守歌の背景には、キリスト教の影響もあります。西洋の人々は、赤ちゃんを抱く母親の姿に、聖母子(聖母マリアと幼いキリスト)の姿を重ねて見ています。それ故に子供をあやす母親の姿は、清らかで安らかに、そして優雅にと、どんどん美化される傾向があるようです。それから、日本の伝統的な子守歌が2拍子なのに対して、西洋の子守歌は3拍子です。このことからも西洋の子守歌は、優雅に感じるのかもしれません。何故、西洋の子守歌が3拍子で、日本の子守歌が2拍子なのか、専門家でもいろんな説があるようです。キリスト教の「三位一体説」から、三拍子になったという説もあります。
でも一番有力なのは、赤ちゃんをあやす時のスタイルの違いが、リズムの違いとして現れたという説です。西洋では、よくクレードル(ゆりかご)に赤ちゃんを寝かします。でもクレードルに寝かせるまで母親は、腕に赤ちゃんを抱いてあやします。この、腕の中で赤ちゃんをあやすときのスタイルには、3拍子の子守歌がちょうどあっているというのです。なるほどワルツを踊るように、腕の中の赤ちゃんを左右にゆっくり揺らすのをイメージすると分かりやすいです。一方、日本の伝統的な子守スタイルと言えば、背中に赤ちゃんを背負うおんぶ。この状態で赤ちゃんをあやすとき、両足で交互に上下に体を揺することになります。従って、どうしても2拍子になるというのです。背中に赤ちゃんを負うスタイルは、昔の日本女性達の、過酷な育児環境を想像させます。そこに見えてくるのは、育児の最中でさえ、何らかの労働を担わなければならなかった母達の姿です。背中に子供を背負いながら、その両手は作業をしていることがほとんででした。その場合子守歌は同時に、労働歌でもあったわけです。そうなると、ゆっくりした2拍子の方が都合が良かったと考えられます。
最近あまり歌われなくなった、子守歌
ところで最近、子守歌が歌われなくなったらしいです。若いお母さんが子供を寝かしつけるとき、子守歌を歌わなくなったと言うのです。 何故でしょう?その原因はいろいろあるようですが、おおざっぱに言えば、子育てのスタイルと母親の音楽の好みが変わった事に起因すると言われます。昔ながらの、子供を背中に背負う日本独自の子守スタイルは、昔の母親達が、幼子を抱えているときですら、労働から解放されなかった事を意味しています。しかし現代はほとんどの女性が、過酷な育児環境と無縁になりました。それに何と言っても、家事のスタイルは大きく変わりました。炊事、洗濯、掃除といった家事の負担を軽減する電化製品は、今やどこの家庭でも普及しています。 その上どんどん核家族化して、若い嫁が大家族の中、重労働を負わされると言う話も滅多に聞かなくなりました。それに伴い、背中に赤ちゃんを負う育児スタイルはめっきり見なくなりました。最近は赤ちゃんと顔を見合わせる方が良いという観点から、胸元に袋状のだっこ紐をぶら下げたお母さんが多くなりました。肩こり防止や装着の利便性を考えたお洒落なものもあるようです。
でも子育ての大変さは、昔も今も変わらないはずです。むしろ子供の教育や健康の問題、母親の育児ノイローゼと言った、現代ならではの悩みが増えています。 ですから現代女性が抱える育児の問題は、どちらかと言えばメンタルな面 が問題視されるようになりました。そうなると、昔の子育ての暗いイメージはますます嫌われ、日本の子守歌が歌われなくなったらしいのです。そもそも若い人達が演歌を聞かなくなったように、いわゆるマイナー系の和旋律は好まれない傾向にあります。
では、母親が子守歌を歌わなくなったのかと言えば、そんなことはありません。童謡や幼稚園で歌われる歌などを、かわりに歌っているようです。あとTVの影響もあります。例えば、幼児番組で子供が好む曲、またアニメソングも歌われているようです。こうした点を見ると、日本人の精神構造が、近年急激に変わりつつあるようです。
子守歌、それはルサンチマンの歌
ところで日本の子守歌には、「守子歌(もりこうた)」と言うジャンルもあるそうです。守子(もりこ)」とは、赤ちゃんの面倒を見る子供達の事を言います。 ただしそう呼ばれる子供達は、赤ちゃんの兄弟姉妹や親戚 ではありません。貧しい農家から口減らしのため、他家に引き取られてきた子供達なのです。その大部分がまだ幼い女の子で、ほとんど人身売買でした。今でさえ農家では、特に農繁期は、家族総出で作業に当たります。現代の様に機械化された農業と違い、全て手作業だった昔の農業は大変でした。 子供を産んだばかりの母親であっても、家事のみならず、仕事は数限りなくありました。特に農繁期は、乳飲み子だけに関わっていられなかったのです。そこで経済的に余裕のある農家では、少しでも労力を補うため、安価な労働力であった子供をお金で買い取っていました。子供と言えど昔の農村では立派な労働力でした。こうしたことから、非力な女の子が嫌われる傾向にあり、真っ先に口減らしの対象となりました。可哀想な話ですが、江戸時代後期から昭和の中頃まで、しばしばこのような事が農村では行われていました。
僕は日本の子守歌が、何故あんなに悲しげなのか、子供ながらに痛々しく思ったことが何度もあります。ただ子供の時は、その歌の意味するところが理解できませんでした。九州では有名な「五木の子守歌」でも、何故「盆から先きゃ、おらん」のか不思議でした。そうしたことも、実はこの歌が守子歌だったと分かれば、その意味も理解出来ます。つまりこの歌を歌った守子が、お盆になればやっと解放されて故郷に帰れると言っていたのです。昔の日本には藪入りという風習がありました。盆と正月、年に二回の休暇のことです。このときばかりは、丁稚奉公や豪農で下働きしていた子供達も、土産を持たされて帰郷出来ました。それは苦しい生活の子供達にとって、この上ない楽しみでした。しかし、当時の農村の事情を知れば「五木の子守歌」の守子が、本当にお盆に帰郷出来たか疑問に感じます。何故なら売られてきた子供達は、しばしば「すぐに親許に帰してやるから」と、だまされて連れて来られたケースも少なくなかったのです。
同様に、過酷な労働に故郷を懐かしむ心境を歌った子守歌に「竹田の子守歌」があります。「守りもいやがる盆からさきにゃ、 雪もちらつくし子も泣くし」……この歌詞は、ある年齢から上の世代にはとても懐かしいでしょう。70年代、赤い鳥が歌ってヒットしました。ところで「五木の子守歌」に出てくる、「おどま勧進、勧進〜」の勧進という歌詞の意味は、乞食という意味ですが、最近は韓人では無いかという説があるそうです。つまり被差別民だった朝鮮人が、この歌を通して自分たちのつらい身の上を語っていたという説です。九州各地には、秀吉の朝鮮出兵によって虜囚となった朝鮮人が数多くいました。また近年は隆盛を誇った石炭産業を支えるため、多くの炭鉱労働者が朝鮮半島から強制連行されました。同じ九州の「島原の子守歌」には、からゆきさんの事が歌われているそうです。からゆきさんとは、異国に身売りされてゆく女性達のことです。このような女性達は、中国や東南アジアでの人身売買の対象となり、ほとんど帰ってくることはありませんでした。
そうしたことを考えれば、子守歌はある意味、ルサンチマンの歌と言えます。ルサンチマンとは、社会的に抑圧された人々の、抑圧者への怨念あるいは、貧しい人々の裕福な人に対する恨みといった意味です。
子守歌に託されたメッセージ
何だか、ずいぶんと暗い話になってしまいました。でも日本の子守歌には、こうした悲惨な背景を歌った歌詞が少なくないのです。ですからもっと詳しく見て行くと、驚くことに、こんな事も分かってきます。それは、赤ちゃんをいとおしく思って歌われるはずの子守歌に、しばしば見られる憎しみの感情です。「中国地方の子守歌」には、こんな歌詞があります。「ねんねこしゃっしゃりませ〜、寝た子のかわいさ、起きて泣く子の面憎さ〜」 子供の時、この歌詞を始めて見た僕は、「寝た子のかわいさ」は分かるけど「起きて泣く子の面 憎さ」は、ずいぶんとひどい事を言うと思いました。しかし歌っていたのが、幼い守子達だったと考えると、なんとなく理解できます。きっとそれは重労働だったに違いありません。泣きわめく子供を守子達は、どう扱って良いのかも分からず、自分も泣きながらあやしていたでしょう。何時までも言うことを聞かない赤ん坊は、本当に「面憎く」思えたことでしょう。「竹田の子守歌」にも、こんな歌詞があります。 「この子よう泣く守をばいじる、守も一日やせるやら」
中にはもっと過激に「何時までも泣きやまないなら、いっそ切り刻んでやる」といった歌詞もあるようです。こうなると、ほとんど脅しです。赤ちゃんにとって守子歌は、もはや嫌がらせのように思えます。そもそもこんな歌を歌って、教育的悪影響は無かったのでしょうか? 僕はむしろ、こうした悲惨な状況を繰り返し歌うことで、昔の子供達は大切な事を学んでいたと思うのです。子守歌が伝えようとしたメッセージ……それは命の重さです。自分の命が、他人の命の犠牲によって支えられていることを、子守歌を通 して、昔の子供達は学んでいたと思うのです。それは机上の学問では、決して得られません。命の重さを論理で理解することは出来ません。命の価値は、個々の体験を通して知る必要があるからです。いったん命の重さを体験した子供達は、本当の思いやりを忘れることは無いでしょう。この事は、現代の教育にもっとも欠けていることです。
母親達が日本の子守歌を歌わなくなったのは、時代の趨勢として仕方ないかも知れません。しかし、和旋律のマイナーなメロディに乗せて伝えようとしたメッセージを聞かなくなることは、ある意味、日本人がその血の中に受け継いできた大切な何かを失いつつあると思うのです。  
 
子守唄にみる幼児労働

 

1.子守のはじまり
1772(明和9)年に刊行された民謡集「山家鳥虫歌」に、次のような子守唄が収められています。
   勤めしょうとも子守はいやよ
   お主にゃ叱られ子にゃせがまれて
   間に無き名を立てられる   (志摩地方)
18世紀後半には労働としての守り子達があらわれ、子守奉公と守り子唄が歌われ始めたのであろうとみることができます。
しかしこれは家事労働として、兄や姉達に課せられたもので、年季奉公としての子守りではなかったと考えられます。
それ以前の記述では、イエズス会の宣教祖として35年間にわたり日本で布教活動を行っていたルイス・フロイスが「ヨーロッパ文化と日本文化」の中で、「日本ではごく幼い少女が、ほとんどいつでも赤児を背に付けて行く」と書いています。(16世紀末のこと)
子守りが社会的に要求された時期は、江戸時代の末期から明治時代にかけてです。商品経済(商業)が発展した結果、商業的・高利貸し的な資本が農村にまで侵入し、自給自足経済から貨幣経済へと変わっていく時に、貧富の差が拡大し、貧しい者はより貧しく、富める者はより裕福になってきました。そこで必要になったのが安い労働力でした。このようにして窮乏農民の子供達が、不幸にも幼くして働く場を与えられたのです。「食い扶持」を求めて「口減らし」のために、中流以上の農家や商家に奉公に出されたのです。男子は丁稚・小僧として、女子は子守り・走り使いとして働かされることになったのです。この墓に、明治維新後の徹底した堕胎禁止によって人口が急速に増加したため、子守りに対する需要も増えたと考えられます。
   子守り1  自分の弟妹達の守りをする
   子守り2  雇われて他人の子の守りをする (自村 / 他村から雇われてくる)
2.守り子唄とその背景
子守唄は「遊ばせ歌」「眠らせ歌」「守り子唄」に分類して研究されています。江戸中期以降から大正の初年頃まで、子守を雇うことは全国的な傾向がありました。他の産業(紡績など)が発達しない間、女性達が働く場は子守りか女中奉公、または花街と言われる所しかありませんでした。他村から雇われてきた子守り達は、自分の置かれた情況を嘆き、感情の発露を唄に見出したのです。
「苦労して苦労したその後で 女郎に売るとはどうよくな」と、子守りで苦労して、年頃になったら、こんどは身売りされてしまう現実もあったのです。
竹田の子守唄(京都府)
   守りもいやがる 盆から先にゃ   雪もちらつくし 子も泣くし
   この子よう泣く 守りおばいじる  守りも一日 やせるやら
   はよも行きたや この在所こえて  向こうに見えるは 親のうち
   来いよ来いよと 小間物売りに   来たら見もする 買いもする
   久世の大根めし 吉祥の菜めし   またも竹田の もんぱめし
   盆が来たとて なにうれしかろ   かたびらはなし 帯はなし
         (注:もんぱめしとは、米に豆腐のおからをまぜた飯)
当時の竹田部落では、母親は明けても暮れても「鹿の子絞り」の仕事に追いまわされており、赤子を抱いて子守唄を歌うような風景はまったく持てなかったという。子供達が小さい弟妹達の子守りをし、近所の同じ年頃がしだいに集団化した。未開放部落は閉鎖社会としての長い、いたましい歴史を持つが、そこに伝承される唄は一般社会とほとんど相違するところがない。幼少時から労務を与えられて、十分に遊んでいない人が年長者ほど多く、わらべ歌が発達していない反面、子守唄は豊富である。
丹後地方は、府内の他の地域に比べて守り子唄がより多く採取されるのは、この地方が有数の機業地であるため、仕事に従事する女性が多く、子守りはどうしても必要であり、専門に守り子を数多く雇い入れた土地柄を反映している。丹後縮緬の里の人たちには、子守唄が機織り唄であり、機織り唄が子守唄にもなった。
島原の子守唄(長崎県)
   おどみゃ島原の おどみゃ島原の 梨の木そだち
   何の梨やら何の梨やら 色気なしばよ しょうかいな
   はよねろ泣かんで おろろんばい 鬼の池の久助どんの連れん子らるばい
      帰りにゃ寄っちくれんか 帰りにゃ寄っちくれんか あばら屋じゃけんど
      と芋めしゃ栗ン飯 と芋めしゃ栗ン飯 黄金飯ばよ しょうかいな
      嫁子ン紅な誰がくれた つばつけたなら赤ったかろ
   姉しゃんなどけいたろか 姉しゃんなどけいたろか 青煙突のバッタンフル
   唐はどこんねき 唐はどこんねき 海のはてばよ しょうかいな
   おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい
      山ン家はかん火事げなばい 山ン家はかん火事げなばい サンパン船はよろん人
      姉しゃんなにぎん飯で 姉しゃんなにぎん飯で 船ン底ばよ しょうかいな
      おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい
   あん人たちゃ二つも あん人たちゃ二つも 金の指輪(ゆびがね)はめとらす
   金はどこん金 金はどこん金 唐金げなばい しょうかいな
   おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい
この唄は創作子守唄です。島原鉄道の専務から作家に転身した宮崎康平氏が、実際にわが子の子守をしながら作詞作曲した者です。大正のはじめ三池築港が完成するまで、口之津が三池の外港であり、三井の石炭が積み出されていました。そこには香港のバターフィルという船会社の船が出入りしていて、地元の人たちは「ばったんふる」と呼び、後には外国の貨物船をすべてそう呼んでいました。娘達が密輸される夜は、決まって山の民家に付け火があり、町が騒然となるその隙に、口之津港からひっそりと船が出て行きました。その船底では、にぎり飯をあてがわれた娘達が、苦痛と反逆と諦めとの乱れあう長い船旅を強いられていたのです。彼女達は「からゆきさん」と呼ばれていた出稼ぎです。
そして女郎として異国の土に埋まらず、運良くシベリア馬賊の妻となったり、シャムやシンガポールで華僑の妾となって金をもうけて帰ってきた婆さんの指に輝く二つもの金の指輪を見ると、子守りはいつか自分も売られる身とは知らずに、羨ましく思っていたのでしょう。
五木の子守唄(熊本県)
   おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんど 盆が早よ来りゃ 早よもどる
   おどまかんじんかんじん あん人達ゃ よか衆 よか衆よか帯 よか着物
   おどんが打死ちゅて 誰が泣いてくりょか 裏の松山 蝉が鳴く
   おどんが打死んだば 道端ゃいけろ 通る人ごち 花あぎゅう
   花はなんの花 つんつんつばき 水は天から もらい水
*この歌詞は歌謡曲として歌われているものですが、元唄となっている五木の子守唄は、五木地方の子守唄として多くの歌詞を持っています。
   おどま非人非人 ぐわんぐわら打ってさるこ ちょかで飯たいて 堂に泊まる
   おどまばかばか ばかもった子じゃって よろしゅたのんもす 利口かひと
   子持ちよいもの 子に名をつけて 添い寝するちゅて 楽寝する
   つらいもんだよ 他人の飯は にえちゃおれども のどこさぐ
   おどまいやいや 泣く子の守りは 泣くといわれて にくまるる
   子どんかわいけりゃ 守りに餅くわせ 守りがこければ 子もこくる
江戸時代の五木村には「旦那」と呼ばれる三十三家の地頭がいた。村を支配する庄屋であり、山や畑を所有する地主であった。子守唄に歌われている「あん人たちゃ良か衆」とはこの人たちのことである。村民はいずれかの地頭に小作人として所属し、「名子」と呼ばれていた。小作料は賦役労働であり、その一部として子供までが9歳くらいから年季奉公をした。娘の場合は子守り奉公で、報酬は年間に米2俵か3俵であったという。出替わりは正月・盆・彼岸で、それぞれ1年間の勤めであった。
大正15年に山江村山田で生まれた一女性は、8人姉妹の4番目で、昭和13年に同村に年季奉公に出された。いわゆる「口減らし」のための奉公であったが、1年に3斗俵1ぴょうを親元がもらった。お金は祭りの時に30銭か50銭もらい、子守の他に夜なべとして踏み臼の手伝いをさせられたと言う。2年の奉公の後、また他家へ奉公に出されたが、それから10日間あまり、毎日のように我が家の見える坂の上まで、2kmの道を通ったと語っている。
創作された子守唄以外はその発生は年代不明ですが、伝承・口承されていくうちに内容が少しずつ変わってきた事は確かです。労働として子守りをしたと言うより、生きるために誰かが犠牲になる、子供を生かすために年季奉公に出すことでもありました。
3.労働契約・条件
板橋区史の「奉公人」のところに奉公人の請状がありました。その一例には
一、このとめと申す者は、身元が確かな者なので、私どもが請け人として、貴方様に間違えなく奉公させます。給金として金子一両一分を只今確かに借用いたしました。但し、年季については、当申年(文化9)の12月から酉年(文化10)の12月まで、一ヵ月に10日づつ奉公をいたします。
一、幕府で定めました御法度だけでなく、貴方様の家のしきたりにも背向きません。宗旨は代々真言宗で、同村の常楽院の檀家であることに間違いありません。万が一、この者が逃げ出してしまった時には、言い訳をせずに、我々で捜し出します。若し見つけ出せない時には、給金の返金であろうと、また代理人の奉公であろうと、貴方様のご希望に従います。この者の事で、親類だけでなく、外から異議を言い立てる人はいません。もし何かクレームを言う者がいたとしても、我等請け人がどこにでも出掛けていき、すぐに説明をし、決して貴方様にはご迷惑をお懸けいたしません。後日のための奉公人の請状です。以上述べてきたとおりです。
   文化九年(1812)申極月日   前野村 人主 仙太郎
   請人 彦右衛門   同村 豊蔵 殿
もう少し遡った享保8年(1723)のものには、11歳のたつという女の子が5年間の奉公 の請状で、給金は一分、仕着せに夏は帷子を1着、冬は袷を1着づつ与えてください・・。
と書かれていました。このような請状が残っているのは珍しいことです。
*守さ精出せお正月粗物/裾にゃ鶴亀五葉の松。守さ精だせ夏の季は肌着/織って着せるぞ桔梗縞に。守さ精を出せ精を出すしゃ着せるよう/紺に浅黄に桔梗入れてよう。守さ今度の季に給金いくら/二十四文に、草履、油。守さ子守さ今度の季はいくら/二貫五百に草履油。いやじゃいやじゃと半年暮れた/いやな半年長うござる。おいておくれよまた来年も・せめてこの子が歩むまで。子守奉公楽だか苦だか/半季出てみよ夏の日に。こんな泣く子の守するよりも/わしは機やへ管巻きに。(愛知県)と、品物より現金が手に入る仕事を選ぶようにもなっていきました。また、年季明けは
*どうかそらちゃうて 半年暮れた/またの半年ゃ泣き暮らしドウカソラ/なごれ十三日が明日ならよかろ/せめて今夜なら なおよかろドウカソラ。「あー金ん鎖が今夜はガチャーンと切れた」福岡県では、12月13日が子守の出代わりの日でした。
*早く霜月十五日/お父さんの前へも手をついて/お母さんの前へも手をついて/大きにながながお世話さま(栃木県)。
*早く日が暮れて、はや夜が明けて/早く二月がくればよい/二月二日のおひまがでたら/旦那ながながお世話さま/つらの憎いのはあの女子ひとり/馬にけられて、死ねばよい。 (千葉県)
*ねんねん子守りはつらいもの/人には楽だとおもわれて/親には叱られ子にゃ泣かれ/雨風吹けども宿はなし/人の軒端で日を暮らす/早く三月くればよい/三月三日は出替わりで/茶碗におまめで 箸あばよ/ねんねろねんねろ ねんねろよ(群馬県)。
どこの地方でも盆と正月には親元に帰ったようですが、それも叶わず「親は死んでしまった」と嘆いている唄も多くありました。
4.社会情勢と子守り(女子労働)
子守りが社会的に必要とされたのは比較的短期間でした。その理由としては、近代資本主義(貨幣経済)が勢いづいてきて、女性達に有利な条件を提供する事業、紡績を中心とする諸事業が発展してきたことがあげられます。この事は、子守りの最も大きな雇用先であった中・小地主階級が、産業資本主義社会から取り残されて、雇用条件を次第に悪化させていったからです。都市の中・小商家も次第に経営難となっていったことなどもあり、子守りの需要も減っていきました。さらに幼児教育機関としての託児所や幼稚園が発達し、子守り達による幼児教育は非科学的で悪影響があるとされ、排斥されるまでになりました。職場のなくなった女性達は、製糸・紡績工場に女工として、女工哀史とまで言われた紡績工場での過酷な労働に身を置いたのです。
子守りは、図らずも女子労働の先駆的な役割をはたしていたのです。  
 
童唄の発想と表現

 

はじめに 
わらべ唄を数年に。わたり採集してみると、その根底には、大人の歌った子守唄や大人たちから伝承されたであろう歳時唄などと軌を一にする発想や表現が多々みられる。その点から、わらべ唄について、 「子ども同士の集団生活から自然発生的に生れでた唄で、それが長い年月の間に洗練され、淘汰され、今日まで伝承されてきたもの」という定義づげでは不十分で、歌謡の発生にかかわる、より本質的で根源的な問題が、わらべ唄の発想それ自体の中にはらまれているのではないかと考えられる。また、わらべ唄の主流を遊び唄に求め、「わらべ唄には元唄はない」とする立場もあるが、遊び唄の中には、元唄をもつものがあり、さらに、発想についての伝承的な一定の型があると推定できるものが少くない。それは単に「元来大人が子供を意識して歌ったもの」とか、「子どもを考えにいれなかったもの」が子どもの世界に入って定着したととらえるよりも、むしろ、子供や大人に共通して歌われ続けてきた唄や唱え言の表層的な表現の基層にある構造が、現在では、わらべ唄の中により多く原型を残しているといった方が適切ではないだろうか。とりわげ、児童心理学の説くように、 「子供というものは心的世界と物的世界とを区別しないものであり、また極めて幼少な時期には、自我と外界とに殆んどはっきり見極めをっげないものであるから、私ども大人には生命のない多数の事物をも、これを生きているものだ、意識のあるものだと見傲すだろうということは予期される」。すなわち、アニミズム論的な意識をみることができる。これは、わらべ唄が歌謡の始源にかかわる発想を有することを示唆している。さらに、 「子供の思考というものは私ども大人のように杜会化されていな、い」といわれるが、それだからこそ、わらべ唄の基層に或る種の原型的た構造を認めることができよう。歌謡の歴史において、 「わらべ唄」のもつ意義もそのようた線上にあるのではたいか。
わらべ唄は、従来その唄の素材や内容から、(1)子守唄、(2)天体気象。動植物の唄、(3)遊戯唄、(4)歳事唄、(5)雑謡と分類されており、多くはその分類に従っているようである。それに対して、土橋寛先生は、わらべ唄をその機能から、(1)呼びかけ歌、(2)呪い歌、(3)遊び唄、(4)その他に分類され、呼びかげ歌を、 「呪術的たものと遊戯的なものとの未分化な状態にあるもの」で「ここにわらべ歌の本領を認めると共に、呪詞以前の呪詞ともいうべき先呪術的たコトバの姿を見ることができると思う」とされている。実際に個々の唄をみていくと、呪いの目的のために呪いの対象である「うるし」や「しびれ」等に呼びかげる唄は呪い唄であるとして、果たして呼びかけ唄ではないのか、という疑間が残る。すなわち唄の機能は、呪いにあるが、その方法は、呼びかげて何かをさせようとするところにあるわげである。その目的や結果によって、それが呪的内容になるかならないかの相異があるだげであって、呪い唄のほとんどが対象への呼びかげを含んでいる。呼びかげは、機能ではなく、方法の間題である。また動植物に乎びかげながらそれらと遊ぶ遊び唄にも同様の表現がある。
したがって、唄の機能によって唄を見ることはもちろん必要不可欠ではあるが、そのような唄の果す機能が異っているにもかかわらず、唄の発想が類似している点にむしろ注目しなげれぱならない。短詞章の唄を中心に、現在分類しえているその基本的な発想を三分類に限って、その類型性と定型性を考察してみたい。その際、歌の発想を支えるコソテクストには、言語表現の一定の構造があることに注目したい。それはピァジェにたらっていえぱ、児童の獲得する言語機能の基本に通底する性質をもっている。それは、言語の、「他人への非難・潮笑たどを含ませる。命令・要求・威嚇、質間応答」たどの心的機能が重要な意味をもってくるのではないか。 「わ
らべ唄」の詞章におげる発想類型の研究の方法もこの点にかかわっていよう。 
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わらべ唄の中で、土橋寛先生が「先呪術的」 「呪術的」とされる唄におげる発想にも一定の類型性と定型性をみることができる。すなわち、歌い手と歌う対象との心的関係から分類して、0D〈だまし型〉、の〈おどし型〉、榊〈のろい型〉の三っの発想に分類することが可能である。しかもそれらは、一定の類型的な表現様式をもっている。ヤコブソソの指摘を引くまでもなく、 「どの言語にも、語のほかに成句晋H器干考◎邑と呼ぱれるコード化された語群」があり、 「どんたメッセージの構成要素も、内的関係によってコードと、外的関係によってメッセージと、必然的に結びついて」いるのである。わらべ唄の場と発想もまたコード化された表現定型に結びっいているのではないか。
まず第一の〈だまし型〉の発想にっいて考えてみたい。その対象をだます方法からさらに四分類できる。
T 甘言で相手(対象)の喜ぶことがらを約束し自己の欲する結果を生ぜしめ、相手を従わせる型。その表現は、対象への呼びかけと共に、次のようた定型をもつ。
  Aせよ(するな)。〈なぜなら〉
  (私が)Bしてやる(から)。
  Aせよ。〈なぜなら〉
  そこはBだ(から)。
  Aせよ。
  (私がBしてやるから。)
  あっちのxはCだ(が)
  こっちのxはDだ(から)。
  Aせよ。
  (お前が) xしたら(私が)Bしてやるぞ。
        yしたら(私が)Bしてやらないぞ。
@ とんぶさ とんぶさ おとまりなんよ
  豆のまんまを進ぜるに
  (長野)『下伊那郷土民謡集』
A えんのころころ 子を産めよ
  ちいちのまんま 煮てやるに
  (長野)『山国のわらべうた』
B ほうほう、螢来い、
  あっちの水は苦いぞ、
  こっちの水は甘いぞ。
  (大阪)『目本伝承童話集成』
C ねんねんや、おころりや、
  ねたら 餅を買うたるぞ、
  おきたら 餅を買わんぞ。
  (広島)『目本伝承童謡集成』
D しびれ しびれ 京の町へ上れ、
  京の町は ひ−ろいに。
  (長野県下伊那郡豊丘村)(筆老採録)
E ぱら ぱら 放せ、
  赤い おっかさま もらってやるに1。
  (長野県下伊那郡豊丘村)(筆者採録)
F うるし うるし かぶれんな
  おれは お前の 嫁(婿)になる
  (長野)『山国のわらべうた』
@は子供が蜻蛉をとる時に誘いかける唄である。@は川やたぎの花を両手でもみほぐして花を二つに分げる遊びに歌われるもので、新しくえんのこ(川やなぎの花の愛称)の子供が無事に生まれたなら、お祝いに「ちいちのまんま」(塩気のきいたごはんの童詞)をたいてやろうと約束する歌である。 はoの誘い唄と同じであるが、この場合は螢を誘う唄で「あっち」より「こっち」の水の方が甘いとこちらに来させるための甘言を述べる。@は子守唄で「寝たらAしてやる」と子供を眠らせるための甘言を歌うものであるが、子守唄の場合には「起きたらAしてやらない」とか、あるいは「起きたら恐ろしい嫌たことがあるぞ」と後におどしことぽが甘言と対になっているのが一般的た慣用表現となっている。Dは@〜Cのような眼前に存在する対象にではたく、自分のからだの一都分に生ずる不快なしびれという目に見えない感覚的存在に対し歌ったもので、「今いる場所より、広い京の町」と対象にとって居心地のよさそうた場所を歌い込んだしびれをとるための呪い唄である。これと全く同型の発想のものがこの伊那谷には目の中のゴミをとる時の呪い唄として存在している。
  めえ−もの めえーもの
  むけえ1やまへ とんでげ−
  むげ−やま 広ーいわ
  おーれの目は せーめ−わ
がそれである。Eは茨が着物にからみついた時、豊丘村では現在でも大人や子供たちによって歌われており、この唄を歌うと必ず離れるという。女性にからみついた時、歌う対象の白い茨を男性にみたててこのように歌うのであろう。すなわち茨がからみっくのは「茨が一人身で寂しいからだ」という人間の側の想像力が働いて、 「赤い色のお嫁さんをもらってやるから」と歌うと、茨はその言葉を信じて人間から離れるのである。Fはうるしにかぶれることを未然に防ぐための呪い唄であり、やはり歌い手が男の場合は婿、女の場合は嫁になると約束する。この場合は前のEよりも対象は歌い手の言い分を聞き入れてくれるはずである。
これらの唄を唄の目的・機能という点からみてみると@Bは動物をとるための誘い唄、 は花をもみほぐすという遊びの行為を伴いながら歌われる遊び唄、Cは子供を寝かしつげる眠らせ唄、D〜Fはいずれも、しびれを直したり、着物にからみっいた茨を離させたり、うるしにかぶれないための呪い唄である。このように歌の機能はそれぞれ異っているが、唄の表層的な表現と表現の基層の構造は対応している。子守唄の場合、呼びかげる対象は歌われていないが、もちろん対象は寝かしっけたい眼前の子供である。それ以外の歌はすべて対象への呼びかげからはじまっている。とすると、これらは、
  〔対象への乎びかげ〕十〔行為・動作の命令・禁止〕十〔甘言〕
という表現の定型をもち、甘言によって対象をだまし、こちら側(歌い手)の願望を対象に聞かせるわげである。もちろん願望表現の唄の形式としては命令や禁止のみで終わるものが多いが、それだげで終わらずに「BしてやるからAせよ(Aするな)」を基本的な表現定型とするものが多く、しかも「Bしてやるから」とだまし、約束する内容をさぐってみると、対象の心意をよく知っているということが対象にこちら側の願望を聞き入れさせる為の必要条件になる。Cの子守唄の対象が子供である以外はすべての唄は外界の動植物や目にみえないものを対象にする。それらが擬人化され、その象徴化された対象をもコトバによって満足感を与えることにより支配する構造が「だます」詞章の1の分類としてとらえることができる。
U 相手(対象)が白分にー危害を加えるにはふさわしくない存在であると言ってだまし、難を逃れる型。それは次のようた表現の定型を示している。
  Aする次。〈なぜならぱ〉
  お前と私はB(の関係)だから。
  〈Aされることは〉ごめんだ。〈なぜならぱ〉
  私(の家)はBだから。
@ うるし うるし かぶれんた、
  うるしとわしは 兄弟だ。
  (長野)『山国のわらべうた』
A 蜂、蜂、ごめんだ、
  おいらはまだ赤んぼだ。
  (東京)『日本伝承童謡集成』
B 蜂、蜂、ごめんだ、
  俺ら家は精進だ。
  (新潟)『日本伝承童謡集成』
@は前にみたTFと同じく、うるしの木をみっけた時、うるしにかぶれないようにうるしに頼むときの呪い唄であるが、この場合は「うるしと兄弟だ」と名のることによって相手に親近感を抱かせると、こちら側(歌い手)に害を与えないだろうという心理的機能を持っ。またそう歌うことによって阜、れが相手に聞き入れられ、うるしにかぶれないという安心感が得られるのであるが、それでも呪文がわりのこの唄だけでは安心できない子供たちはさらに対象とのより深いっきあいを行ったという。
遠山谷の八目市場などでは、うるしの木かぶれからのがれる呪として、うるしに弱い子供がうるしの木に酒をそそぎかげ、自分もそのあまりを飲んで、うるしと兄弟需をとりかわす習俗が以前にはありました……。
ことぱが相手(対象)に受容されることを前提として歌ったり唱えたりするのであるが、それが対象に聞き容れられるかどうか不安な場合はことぱよりももっと強い手段に訴えることによって、かぶれないという実際的な目的を実現しようとする。Aは自分が赤ん坊だと弱者にたることによって対象が気心を加えてくれることを期待する。Bの場合も、自分の家は精進ものしか食べていないから、刺してもおいしくないと、対象にとって自分は刺すにはふさわしくない相手だと主張するものであろう。
いずれの場合も、うるしや蜂という害を加える動植物に、対象との関係が血縁関係というもっとも親密な間柄であるとしたり、相手が手を下すには自分が余りにいとげない、か弱い存在であったり、とるに足りない存在であると、敵にされるにはふさわしくない存在であることを主張することによって敵の難を避げる発想である。
V 相手(対象)への自己の行為に対する崇り・報復を逃れるため、罪を他に転嫁させて相手をあざむく型。次のような表現定型である。
  Aするのは私ではない 他の者だ。
  私がAしたのではない。他の者だ。
  私のせいになるた。他の者のせいだ。
@ 蜂々 おっだかまねえど
  寺ん坊主がかまったど
  (千葉)『日本伝承童謡集成』
A 彼を葬る者は私ではない。
  それは大天使さまでございます。
  (フレイザー)『金枝篇』
B 己のせいじゃねえぞ、
  三年さきの烏のせいだぞ。
  (静岡市)『僅謡集拾遺』
C 俺の所為にたるな、
  後の者の所為よ。
  (東京)『目本伝承童謡集成』
@は蜂を、Cは外界の生き物を殺した時、その崇りや報復から免れたいために、自已の罪を他者に転嫁させる呪い唄、Cはマレー人が呪術にょって人をのろい殺すその罪科から逃れるための呪文、Bは具体的にどういう場で歌われたのか不明であるが、@ACと同じ型の歌であるから、恐らく何らかの罪を「三年さきの烏」という非現実的存在の他者にその罪を肩代わりさせるための呪い唄であったと考えられる。表現形式の上から考えてみると@〜BとCがやや異なる。Cの前半が「俺の所為になるた」と命令表現にたっており、@〜Bの実在的表現と異る。土橋先生はこの二つの表玩について「自分をその原因にしたくないという願望の表現として、主観的には同じ意味をもっているのである。」とされている。確かに結果的には同じ目的をもった願望表現として統括できるが、 「俺の所為ではない」という表現は、対象をだます〈だまし型〉発想であり、「俺の所為にーなるな」という命令表現は現実に即した消極的願望表現であり、ことばのもっ力に大きな相違があると言えよう。例えぼ次にあげた歌を参考にしたい。
㋑ おらん耳入らんな、烏の耳入れ。
  (静岡)『日本伝承童謡集成』
㋺ おらが瘤にたるた、鳥の瘤になあれ。
  (群馬)『目本伝承童謡集成』
㋑は、昼間殺した小動物が夜になると、殺した子供の耳へ入るという俗信があって、そうたることを恐れて自分の耳に入らないで代わりに烏の耳へ入れと頼む呪い唄で、自己の罪を認めた結果、耳で両手を塞いで叫ぶ。㋺は瘤の出た痛みを鎮める唄で、自分の痛みを烏に転移させる願望表現としての呪い歌であり、㋑㋺ともに病気、災厄、罪などの重荷を他の動物や人問や物に転移する発想で、その点においては先にあげたVの@〜Bの例と重なるものであるが、ただ㋑㋺は単に病気、災厄等の転移だげを願望しているに対し、@〜Bまでは自己の罪そのものを認めずに、言葉の上で他に転移させることで、罪を免れるという点において質的に異なるものである。すなわち㋑㋺には願望はあるが、〈だまし〉の発想はない。一方@〜Bは〈だまし型〉発想を主体とするところの願望表現である。歌い手の罪に対する恐れの意識が強げれぱそれだげ唱えられたり、歌われるコトバは真実味を帯びた緊迫したものでたければたらたいはずで、その場合には命令表現ではなく、 「他の者のせいだ」と事実に反した内容を確信をもって主張するコトバの方が、対象に訴える心理的効果は大きい。すなわち、歌われる内容が事実か、薯実に反したことであるかは問題ではない。対象に−真実として聞き容れられること、築言すれば、コトバが力をもっか否かにかかわってこよう。
Cはちょうど命令彩で終わる単なる願望表現と対象をだます表現との両者を含みこんだ折衷型である。
W 好ましい結果を作り出すために、コトバでその好ましい状態を装ったり、そうなるためのふりをする。
@ 粟ん穂下がた、実入って割れた。
  (宮城)『日本伝承童謡集成』
A 目いぼやと思ったら、小豆やった。
  (滋賀県高島郡朽木村)(筆老採録)
B 嫁娶り 婿娶り やれ忙しや
  (長野)『山国のわらべうた』
C からすの 御器づれ おかや(え)し申す。
  (長野)『山国のわらべうた』
@は正月十四目に餅を揚き、それを木の枝にっげて座敷に1置いた米僕に差し、枝いっぱいに垂れ下がった長さ四、五寸位の餅を見て歌われる唄で、作られた作りものとともに、豊かた実りそのものが現実に眼前にやって来ることを歌った、いわぱ未来(その年)の豊作を先取りした唄である。非現実の姿を実在化したものといえる。
Aは目いぽをとる時の呪い唄で、目の近くまで小豆をもってきてパッと手を離して小豆を池へ落とす時にこの唄を唱えると目いぽがとれると朽木村では信じられている。コトバの呪術性を補償するものとして呪的行為を伴いながら伝承されてきた。目いぼと類似した小豆を目いぽに見立ててそれがとれた状態を呪的行為(類感呪術)として実際に行なう時に、 「よく確かめると目いぽはなかった」と目いぽのないふりをする。こうあって欲しいと願う非現実を実在化させた唄である。Bは針仕事をはかどらせるための呪い唄で、非現実の忙しさの幻想表現を歌うことで、すたわち歌詞のとおりの忙しいふりをすることで、忙しさにおいて類似の現象(針仕事に忙しい針仕事がはかどる)をもたらす効果を願うものである。Cは御器ずれ(口の端にできる小さたできもの)が烏の口の両側にっいているものと類似しているところから、この唄を二回叫び、できもののあたりを手でこすり、その手を烏に向かって投げる所作をすると御器ずれが直るという。これもゴキズレをなくす呪的行為を伴いながら、模擬的に歌ったものである。
これらの模擬的内容を装ったものは音声で発するものだげでなく、例えぱ、流行病がはやると、流行病を門前払いするためにアワピ殻に「子供留守」と書いて門口に下げておくといったようた呪的行為たどと同一の構造をもつ。
@ACのようた模擬的た呪的行為を伴う唄はコトバの呪力を強化する働きをもつのに対しBは唱え唄を歌うことによって針仕事の行為(もちろんこれは呪的行為ではたい)の能率を高めるという、いわばコトバから行為(非現実の実在化)への筋遣をたどるものである。 
2 

 

前章でみた〈だまし型〉の全く裏返しの発想として〈おどし型〉発想法が考えられる。
T 相手(対象)の嫌がることや、恐れることがらを示して相手に威圧を加え従わ喧る型。これは、
  Aしないならば
  Aならば(すると)   (私が)Bするぞ。
  Aすると        (お前は)Bになるぞ。 
  あっちへCしろ。 こっちはDだぞ。
というような表現定型になっている。
@ 風々 吹けよ
  吹かんというと
  ドソドのやーまに火をつける
  (飯田市)『山国のわらべうた』
A ほおずきほおずき 根づきになあれ
  根づきにならんというと
  おしょうさんに そう申して
  おまえの首を ちょんぎるぞ
  (長野)『山国のわらべうた』
B こらこら梨の木生(な)っか生んねいか
  生んねいなら切っぞ
  (福島)『日本伝承童謡集成』
C 舞へ 舞へ 蝸牛
  舞はぬものならぱ
  馬の子や牛の子に1蹴ゑさせてむ
  踏み割らせてむ
  まことに美しく舞うたらぼ
  花の園まで遊ぼせむ
  (『梁塵秘抄』)
D 病(や)ん眼ちょ こうめっちょ、
  おんにいうつると、
  焼火箸をつくすぐぞ。
  (山梨)『わらべ唄考』
E 雷(かんなり)、 かんたり、山へ行げ、
  こっおは桑の木の根っこだぞ。
  (山梨)『目本伝承童謡集成』
F 指切り鎌切り
  嘘いふと 地獄の底へ落ちるぞ
  (飯田市)『山国のわらべうた』
G この山に錦まだらの虫おらぱ、
  やまたちぼな姫に申し上げそうろう、
  アビラオソケソソワカ。
  (高知県土佐清水市当麻)(筆者採録)
H 狐や出て来い、
  山の木を刈ったるぞ。
  (兵庫)『日本伝承童謡集成』
I 雷落ちよ、桑の棒で叩くぞ。
  (京都)『目本伝承童謡集成』
@は凧上げをする時たど風を吹かせるために歌う呪い唄、Aは、ほおずきを探みながら芯を抜きとる作業の成功を約束させる唄で、呪い唄的性格をもつ唄である。@は正月十四目に、銘で屋敷内の果樹に傷をっけて歌う、いわゆる成木責めの唱え唄で、必ずこれに答えて、「なります、なります。」とその年の豊作を木に約束させ、この目に揚いただんご餅の揚き水を切り口に注いで豊作を祈るもので、正月の予祝行事の一貫として行われるものである。Dは、はやり眼に対する呪い唄で、病気が自分に移らないように対象におどし従わせる。EIはともに雷除げの呪い唄で、いずれも雷の嫌いな桑を唄って相手をおどす点は同じであるが、形式はEは「こちらは……だからあちらへ行げ」というように「こちら」と「あちら」を対比する移で、前章でみたABの「螢来い……あっちの水は……こっちの水は……」及びD「しびれ、しびれ京の町へ上れ京の町はひ−ろいに」の発想法と同じである。それに。対しIは現実には、雷の落ちないことを願っているのであるが、強圧的な態度で「落ちるなら落ちてみろ、そのかわり……の目に会うぞ」と対象を脅す発想で、前者よりも対象をおびやかし従わせる手段としては効果的である。
Fは対象が人間である点で他の例とは異たるが、指と指をからませながら仲間に嘘をっかないことを約束させる為の仲問や相手に対するおどし的約束唄である。 「AするとBになる」という因果的必然性をはらんだ型をもつコトワザの一般的形態をそのまま用いており、コトワザが対人的性格をもって機能するようにこの唄も人間対人問の関係の中で歌われ、この唄を歌い終わるや「嘘をつくと地獄におちる」というコトバのはらむ真理が、約束をした者たちの行動を呪縛するといえる。その意味でこれは呪い唄といってよいだろう。Gはまむし(錦まだらの虫)除けの呪文で、 「やまたちばな姫という、威大な力をもった神(一説に猪の神とも)に申して退治してもらうぞ」と他力に依存しておどすものである。Hは山中で狐が出て来ないように子供たちが歌う呪い唄で、これも前にみたIと同じく逆接的用法のおどし唄と考えられる。
以上のような「AしたいならぱBするぞ」という〈おどし〉の型は原初的た形は単純にこの型だげであっただろうが、対立概念としての「AしたらBしてやる」という甘言の〈だまし〉型発想をもすぐ後に付加するたかで捗式のバラソスのとれた、聞いていてなだらかな響きをもっ彩に変容していく可能性をはらんでいた。 『梁塵秘抄』にみられるCの蝸牛に対する唄などはその典型といえよう。すでに平安末から鎌倉にかけてのこの時代に、
  AしないならばBするぞ。
  AしたらBしてやる。
という〈おどし型〉〈だまし型〉発想法がみられるということは、逆にこの歌が童謡として歌われていたことを類推させるものともいえよう。今目のわらべ唄の発想の原型がかなり古くまで遡ることができるという証左にもなろう。
U 相手(対象)の弱点を知って、自分は相手の恐れる存在である (存在にたれ)とおどし、対抗する型。これは次のような表現定型をもっている。
  私はAだぞ。
     A'だぞ。
  Bするな。(せよ。)〈なぜならぱ〉
  私はAだぞ。(A様のお通りだ)
     A'だぞ
     A''だぞ
  お前のxはB、私のxはC〈だから〉
     Aだぞ。
@ 俺は鍛冶屋の娘(息子)だよ、
  鎌も錠も持っとるぞ。
  (長野)『下伊那郷土民謡集』
A 蛇も百足も出るた、
  銘も鎌も差して来た、
  菖蒲湯も浴びて来た、
  菖蒲丹前かげて来た。
  (新潟)『目本伝承童謡集成』
B われが指は糞指、わしが指は金指(かなゆぴ)、
  なんぽ噛んでも痛うない。
  (島根)『目本伝承童謡集成』
C おれの手は かね(金)にたれ
  蛇の手はくされ……
  (長野)『下伊那郷土民謡集』
D 漆まけまけ、こちゃ負けん、
  わしは 大和の すもんとり。
  (奈良)『目本伝承童謡集成』
E 蛇も蝮(はみ)ちよれ、
  隼人(はいと)のお通り。
  (高知)『目本伝承童謡集成』
@Bは蛇を見た時、Dも蛇や竣を見た時に自分は対象の恐れる者であるとだましておびやかし、それらの危害に会わないようにする呪い唄である。指を噛まれたらその毒で死ぬという、蛇や竣に対する恐怖に対抗するには敵をよく知っていることが何よりも大事たことで、「鍛冶屋の娘(息子)」は次の鎌や舵を出すための語ではあるが、鍛冶屋の血筋を引く者ということで権威づげをしたり、Aも同じであるが、蛇が鋼鉄を嫌い、これに触れると腐敗して蛇が死ぬという俗信を知った上で、コトバの上における殺し文句を並べたものである。Aの場合は、さらに魔除げの効果をもつ菖蒲を持ち出し徹底的に敵をこわがらせたものである。Bも蛇に指を噛まれることに対する恐れの心情の裏返しとして自分の指の強靱さを相手の指のもろさと対比させる移で示しておどし蛇を遠ざげる呪い唄である。この時、恐怖心が居直りによるおどしにまでなりきらず、こうあって欲しいという願望によって恐怖心を補償する場合にはCのように「……になれ」という形になる。Dは漆除げの呪い唄で、漆に負けない「力」の持主として対象と対決する。Eは隼人という人物名を出して蛇や竣をおどす。隼人とは戦国時代の武将、福原隼人のことで、まむしに噛まれて死んだので、その霊をまつったものが隼人神杜であるという。その御祭神である「隼人さま」は、この地域では蛇除げの守り神となり、その「隼人さまのお通りだ」と蛇や竣をおどすのである。
以上はすべて漆・蛇・峻・百足等の存在に対し抱く恐怖心を、より強い力や霊力でこれらの邪悪な対象に対抗することで解放する呪い唄といえよう。それは例えぱ、疫病が流行すると村落の境界や各家の門口等に大草轄を吊り下げて、「こんな大きな草軽を履く怪物がいるぞ」と疫病神をおどし、その侵入を防ぐ習俗などと同じ心理から出た言語表現としての呪的行為といえよう。
V 相手(対象)に人の守るべき道徳的道(主として恩)をその手段にしておどし、相手を強制的に従わせる型。これは、
  Aの恩を忘れたか(忘れるな)。
というような表現定型にたる。
@ くちはびや ちがや畠に屋寝して
  ワラビの恩は忘れたか
  (茨城)『目本の俗信』
A 茅萱に昼寝して 茅萱芝に突き通された
  蕨の恩を忘れたか
  (長野)『下伊那郷土民謡集』
B ちがや畑に昼寝して
  わらびの恩を忘るな
  (福島)『目本の俗信』
@は堕に出会った時やっかまえる時の唱えことぱ、Aは野原の木蔭たどに昼寝するときの唱えことぱ、Bは蝮に咬まれたときに三度このことぱを唱え、わらびでこすって湯に入ると、まむしの毒が消えるという、まむしの毒消しの呪いことぱである。したがってAの場合も本来はまむし除げの唱えことはとして歌われたものと推定される。それにしてもこれらの唱え言葉の意味は難解で、それにっいての由来は次のようである。
「まむしが昼寝をしていたら、ちがやが芽を出して、まむしの体を突きさしてしまった。そこにワラビが生えてきて、やわらかくマムシの体を持ち上げ、ちがやを抜いてやった。だからマムシに咬まれたときは、わらびの恩を忘れたかと、昔の恩を思い出させるような呪文をとなえるのだという。」
また呪文だけでなく実際に1竣の害を免れるために、春にはじめて見っげたワラピをっぶして足に塗っておくというような呪的行為が残っている地域もあるようだ。
W 対象(害を及ぽす動物等)を現実に懲らしめようとしている状態や、かつて懲らしめた状態を模擬的に歌って対象に聞かせておびやかす型。
@ おもらもちは お留守け、
  お槌どんの 御見舞(おんめえ)
  (長野県下伊那郡豊丘村堀越)(筆者採録)
A 七草なづな 唐土(とうど)が
  目本の国へ 渡らぬ先に
  あわせて バータバタ
  (全国的)
B 狐くったら うまかった
  ちいっとしっぽが にがかった
  (長野)『山国のわらべうた』
C かな蛇 かく太郎
  晩げ化けたら
  鉈鎌 そろえて切って ぷっぷっぶっ
  (福島)『わらべ唄考』
@は正月十四目の未明に農家の子供たちが田畑の畦を槌でたたいてまわり、肥桶の底を天びん棒でギーコギーコきしる音(もぐらの鳴き声の擬音)をさせ、田畑を荒らすとこんな風にお前たちをギューギュエ言わせて懲らしめてやるぞという威嚇を行なうその行為も、畦を槌でたたいてまわるときの唄も、ともにもぐらに対して一年問農作物に害を与えさせないことを約束させるための牽制といえる。Aも同じく十四目の晩に行なわれる害鳥を追い払う鳥追いの唄で、唐土の害鳥が目本の国に渡って来ない前にやっっげておくのだと庖丁で七草をたたたいて刻みながら歌う。 「あわせてバータバタ」は恐らく人問にこらしめられる時の鳥の羽音を歌ったものだろう。とすると、まさに七草を刻む行為も唄も害鳥を懲らしめる模擬的行為といえよう。Bは狐に対する威嚇の唄で、現実には人問が狐を食べるなどということはしないのであるが、そのような行為をしたぞと言い、悪いことをすると再び同じような目に会わせてやるぞというおどしをする。Cは蛇を殺した時に崇りのないように唱える唱え唄であるが、 「ぶっぷっぷっ」というのは錨鎌で蛇を切る時の擬音語で、化げてきたら逆にこんな目にあうぞというおどし。
以上いずれの例も人間にとってありがたくない生き物たちに人問の側が、未来、現在、過去において痛い目にあわせている状況を模擬的に対象に知らせることによって相手にこちらの主張なり言い分なりを聞かせ従わせる発想である。  
3 

 

〈だまし型〉発想法及び〈おどし型〉発想法が、それぞれ形式を異にしながらも、歌い手が自己の意志や願望を実現するための発想で、歌や唱え言によって対象を支配する結果をもたらす定型的な構造をもち、両者が一つの唄の中で同時に用いられることもある。〈だまし型〉発想と〈おどし型〉発想は本来、唄や唱え言を聞かせる対象にこちら側の言い分を納得させる彩で歌ったり唱えたりせねぱなら汰いもので、歌い手は当然そのことを意識して歌う。ところが〈のろい型〉発想法は対象そのものを否定する憎しみや敵対の感清の吐露そのものであるから、対象がこちら側に従わなくてもよいのである。従って両者が言い争える可能性のある悪口唄とは本質的に異たるものである。す汰わち〈のろい〉の発想はいわゆる黒呪術といわれるものであり、対象が直接的な災禍を受げることを願う発想で、相手からの反撃を許さ ない。
  Aする老は(そいつを) Bしてしまえ。
  Aする(しない)者は〈その結果〉Bしろ。
  (お前は) Aしてみろ。〈その結果〉Bしろ。
  この家(=Aする家) は〈その結果〉Bにたれ。
                  とことんBにたれ。
  (お前は/お前たちは) Bせよ。私はxになつてxはCになれ。
                    (お前たちは)B'になれ。
  (お前たちは) Bせよ。
          B'せよ。
というような表現定型をもっている、
@ 俺の蔭に匁る者は
  いちびと にびと
  さんびと しびと
  死人の山へずり込んで
  赤い火箸で焼き殺せ
  (長野県下伊那郡大鹿村)(筆者採録)
A おれの影にたるもの、
  お椀持って乞食しょ。
  (愛知)『目本伝承童謡集成』
B かげをせい、貧乏せい、
  ほいとう袋縫うてやろ、
  かげをすりゃ猫でも嫌う。
  (岡山)『目本伝承童謡集成』
C この家(うち)やくされ、
  ねだから ねだまで くされ、くされ。
  (富山)『目本伝承童謡集成』
D 亥の子の夜(よう)さ、祝わん奴は、
  鬼産め蛇産め、角のはえた子産め。
  (広島)『日本伝承童謡集成』
E 貧せ、貧せ、
  足はすりこぎ、手はてんぼ、
  頭はやかんにたってうせ。
  (三重県志摩郡)『僅謡集』
F 親死ね、子死ね、
  ひととは味暗にたれ、
  味嗜塩は腐れ。
  (長野県飯田市川路)(筆者採録)
G 親死ね、子死ね、
  四十九の餅をつげ。
  (長野県飯田市川路)(筆者採録)
@〜Gは日向ぽっこをする子供の前に1立って日陰をっくる者に対して歌われるのろい唄で、それらののろいコトバは「焼き殺せ」とか「乞食をしろ」 「貧乏しろ」と単なるおどしや悪ロコトバではなく、コトバが対象の災禍そのものを含みこんでおり、現実におこりうるものである点において、コトバが実質的意味をもっている。しかも、それを聞く側は、それをコトバでもって対応しきれない。
Cは正月十五目に左義長の材料を集めるために子供たちが各家を訪間して貰えなかったときに歌う唄で、逆に貰えたときに1は、
  この家(うつち)や御繁昌
  ねだからねだまで 御繁昌 御繁昌
とこの家を寿ぐ祝唄を歌うという。すなわち寿詞と対立するコトバとしてのろい唄は歌われる。Dも、前のCと類似した構造をもっ。この唄は、旧暦十月の亥の目に行なう収穫祭に亥の子餅をついて祝う、その目に子供たちが藁ボテや石で地面を突いて回り、各家を訪間して歩いて、祝儀の餅やものを貰えないときにこの唄を歌う。逆に貰えた時には、
  亥の子 亥の子
  亥の子餅揚いて 繁昌せ繁昌せ
と祝い唄を歌うという。Eは、霜月七目に行われる「山の神の勧進」といって各家を祝言を述べて廻りながら寄進を依頼する行事の折、寄進を拒まれた家に対して歌われる唄である。「貧乏しろ」とか「手足も頭もバラバラにたって失せてしまえ」とのろう唄である。
C〜Eは共同体全体が祭に参加したり祝ったり、寄進をせねばならない時にそれらに協力しなかったり、勝手な行動をする家や人々に対する杜会的非難であり抗議でもあるが、それ以上にそういった全体で祝わねぱたらたい祝い事をしない者は「災禍にあって不幸になれ」とのろう気持が、共同体全体の心情の根底に本来存在しており、そこから発せられるのろいコトバではないだろうか。Eの唄について、土橋寛先生は、
「こうした唱え言には呪詛の意識は弱く、単なる悪口歌に近いが、聞き手にはそれが不吉の感情をもたらし、その後何かよくないことが起こったとするとこれを悪口歌と結びっげて考えるところから、悪口歌は呪詛の歌に転化してゆくのである。この例などは悪口言葉(先呪術的言語)と呪詛(黒呪文)との境目にあるものといえよう。」
と述べられる。このことは認められ汰けれぱならないが、より唄の発想の基層的構造にかかわって言うたらぱ、悪口とのろいとは必ずしも同一のものではない。すなわち悪口や悪態が、相手の感情を損うことに主眼をおいた、いうならぱ喚情的機能をもつのに対して、のろいは、感情の問題でなく、より直接的な災禍をもたらそうとする呪的機能による実質的なものと言わなげれぱならない。しかもわらべ唄の機能において、これこそがより始源的たものと認められよう。土橋寛先生によれぱ、「ノル」は「憎悪の感情の表出としての『ノル』に由来するものでないかと考えられ、その方向から呪詛を意味するノロフが派生した」ということである。そうであるとして、のろいは単なる感情の表出として、相手の悪感情を喚起することに目的があるわけではない。むしろ、相手の感情のありかたよりも、こちらの感情にもとづいて、相手に悪い事態を生じることを目的にするのである。FGの唄がそのことをよりよく実証している。FGに,歌われた「ひとと」というのはセキレイのことで、上伊那北部においては水神様のお使い鳥とされ、水神鳥と呼ぱれるという。この「ひとと」の雛を人間が取っ.たり、いじめたりすると、親鳥がその害を加えた人間を呪詛して鳴くと言われているのがこのFGの唄である。後半部分が「家のぐるらは海になれ」(大草)と歌うところもあるという。Fの「味嗜塩は腐れ」という詞章にある「味嗜が腐る」現象に関しては、人共の問で不吉なことの前兆として受けとめられていたことは、例えぱ「味嗜が酸くなると人が死ぬ」(下伊那郡豊丘村)というコトワザなどに1おいてもこのあたりの地域全域にわたって伝承されている事がらでもあり、歌詞の意味は「自分(ひとと)が味喀に.なって腐ってやる」ということになる。まさに、「ひとと」自身による、害を加えた人間の親や子への直接的た呪詛といえる。Gの「四十九の餅」とは、人の死後、四十九目目にあたる目に食べる四十九餅を言ったもので、「この餅をっげ」ということは松山義雄氏もすでにふれられているが、 「今から死後の準備をせよ」という意になる。 「家のぐるらは海になれ」は家が水びたしになった状態を言ったもので、総じて、ひととの呪詛は、害を与えた個人への服酬にとどまらず、親も子も、家もといった規模のもので大層根深いものが歌われる。それはいかなる理由にもとづくものなのであろうか。それはこの鳥が特殊た鳥、すなわち共同体の生活の根源にかかわる水神のお使いであるということとも深くかかわっているのではなかろうか。先にみたC〜Eの唄が、いわゆる個人を呪詛するというような個人的レベルでの発想ではないように、この鳥が他の一般の鳥と同じょうな存在ではたく、共同体での霊鳥として大切に扱わねばならない鳥であるからこそ、この鳥をいじめたり、害を加えたりしたことによる結果を恐れるという人々のこの鳥に対する畏敬の念によって、げたたましく鳴き叫ぶ鳴き声に、人間に対するのろいコトバとしての意味を聞いたにちがいないのである。それゆえ、この唄とともに、 「ひととの巣をとると不吉なことがおこる」という伝承や、「ヒトトの巣をとるなよ」という戒めを親たちは子供に与え、子供もその戒めを守り続けてきたのであろう。日なたぼっこをする子供が「目陰をなす」ということに1ついても何らかの呪的背景があったのかもしれぬがそれについては今後の考察に譲りたい。
ともかく、のろいコトバとして発せられる唄が〈だまし型〉発想や〈おどし型〉発想で歌われた対象と性質を異にしていることに注目せねぱならたいが、一方、唄の表現にもそれは顕著に表われている。〈だまし型〉発想の「AならぼBしてやる」や〈おどL型〉発想の「AするならぱBするぞ」等の代表的型にみられる表現は条件法を中心にした表現であるし、〈おどし型〉の「AするとBにたるぞ」ですら因果関係を叙述した表現であるが、この場合も言外に「だからCせよ」と対象に要求し自已の願望を実現させる目的を発想自体の中に含み込んだもので、相手に行動を選択する余地を与えている。それに対して〈のろい型〉発想法の場合は「A(許されない行為)する者はBしろ」 「Aした結果Bにたれ」と、のろいコトバを一方的に発せられ、唄を聞く側は何ら行動の選択の余地をもたない発想である。従って〈のろい型〉発想法をもっ唄そのものは例にあげたごとく、ごく限定されたもののみにしか表われておらず、そのことの意味にっいても十分検討されねぱたらない。太陽の陰をたしたり、祝いの行事に積極的に参加せず、心から祝うことをしなかったり、霊鳥である水神鳥に害を加えたりすることは、表現の表層においては、 一見無関係にみえながらも、その基層に対応するものが見えてきそうである。すなわち、太陽にしろ、水神鳥にしろ、左義長や亥の子や霜月の収積祭といった年中行事にしろ、基本的には農耕そのものにとってもっとも重要な意味をもっものぱかりである。それは、個人的な神六ではたく、共同体全体の神々であるはずのもので、そういうものに対する冒濱としての行為をなした者への〈のろい〉が存在したと考えてもよいのではないか。個人的レベルでの呪詛的行為は秘密裡に行われた陰湿なものであるのに対し、わらべ唄の中に伝承されっづけてきたものは、より解放的な性格をもちながら、本来の呪的機能に基づく実質性を時代とともに失ないつつ、発想のみは明確に〈のろい型〉定型をもって生き続げてきたといえよう。これこそが、歌謡の始源に通底する「わらべ唄」の発想の基本になるものであった。喚情的機能を主とした悪口唄は、その一つの展開として認められるであろう。後の拝清詩に連なる心情表現をそこにみることができよう。それに対して、〈おどし〉や〈だまし〉は、〈のろい〉の根源的な呪的機能の正負の両極への分化としてみることができるのではないか。いずれにしろ、わらべ唄はこれら三つの発想の類型性と表現の定型を有することにおいて歌謡におげる基層構造を伝承しているといえよう。 
 
童謡わらべ歌

 

(上)要旨
唱歌・童謡・わらべ歌など、広く童歌、子ども歌と称せられる歌謡は、長年にわたって歌い継がれ、親しまれてきているのに、それらの歌詞の内容や言葉の意味についてはそれほど注意されずに過ぎてきた。その要因の一つはこれらは幼少の子が歌うものであって、本格的な研究対象にし難く、一部の音楽に関心のある者が総括的に取上げて一般書として公刊される程度であった。最近は、興味本位の、根拠のない思いつきの論も世に出ている。そこで、本稿では今までいろいろな解釈が提示され、なお決着がつかず、諸説のある童謡・わらべ歌について、国文学だけでなく、国語学の研究に基づいて、歌詞の言葉や表現を精しく分析し、考証し、言語主体の言語意識や表現意識を考究し、作品全体の構想や主題を明らかにして、その歌の意味づけを定めようとした。
本稿では四編を取上げ、まず「赤蜻蛉」は「負はれて見た」「小籠に摘んだ」と「お里のたより」の照応に着眼して、表面的には姐やを歌うが根底に母への思いがあることを一部の説を評価した上で論じ、その上に、最後の連を故郷の原風景として捉え直した。「七つの子」の「七つ」は七羽という数を示すのではなく、七歳という年齢を表すことを、国語学、国文学、民俗学などの面から究明し、ここに日本人の根本的な意識・感情があることを論じた。「雪」はわらべ歌の「雪やこんこん」を取り入れたもので、この「こんこん」は「来む来む」であるという説を多くの用例を挙げて補強し、併せて、命令表現の意味をも考えた。「背くらべ」は「羽織の紐のたけ」は長さではなく、高さであることを語源、原義から明らかにし、「何のこと」「やっと」に込めた言語主体の表現意識を探った上で、第二連との対応も考え合せ、新しい説を提起した。なお、次号(下)では「かごめかごめ」と「通りゃんせ」について論究する。
は じ め に
遠く江戸時代に由来する「かごめかごめ」を始めとするわらべ歌、明治十五年四月に『小学唱歌集初編』が刊行され、学校教育に取り入れられた唱歌、大正時代に民間で起った童謡など、長年、歌い継がれ親しまれてきた近代の歌謡は今になってもその歌詞の意味、内容が十分に明らかになっているとは言えない。このことについて、柳田国男は『小さき者の声』(大正十三年)で、次のように述べている。「小さい者が色々の大きな問題を提出致します。……(かごめかごめを聞いて―引用者注)こんな眼の前の、是ほど万人に共通なる文芸が、今なほその由って来る所を語ること能はず、辛うじていはけ無き者の力に由って、忘却の厄から免れて居るのです。何かと言ふと『児戯に類す』などと、自分の知らぬ物からは回避したがる大人物が、却って様々の根無し草の種を蒔くのに反して、未だ耕されざる自然の野には、人に由緒の無い何物も生長せぬといふ道理を、曽て立留って考へて見た者がありましたらうか」。小説や詩歌の作品には精緻な注解や鑑賞がなされているのに、「児戯に類す」るこれらの歌謡の言葉については一部の人々の関心を集めているに過ぎなかった。ただ子供らが「自然に従来の型を承け継いで、周囲に理解せられ易い方法で、興味を追うて見よう」(柳田国男・前掲書)という方法で伝えられてきたものであった。
もとより子供はこれらの歌詞の意味を十分に理解して歌っているわけではなく、このことは日本人一般に通じる言葉に対する無関心な態度にもよるだろう。また、今たとえ知らなくても、いずれは大人になって初めて納得できるという理解の仕方もあるだろう。遊戯を伴うわらべ歌は意味が明確に分らなくても、それを無視して身体の動作におもしろみを覚え、何となく潜在的に分ることもあるだろう。しかし、長い間に伝えられてきた歌謡が知らず知らずのうちに日本人の共通感情を形成し、精神の核をなし、いわば心のふるさととして今なお生きていることを思うと、歌詞の意味や由来、歌全体の思想や心情を知ることに深い意義がある。このことは、日本人の生活や文化だけでなく、日本語の感覚や特色を明らかにすることに繋っていく。
従来、これらの歌に注解が加えられたのは日本近代文学大系『近代詩集T』(昭和四十七年)に収められた『小学唱歌集』で、ここには十編の唱歌に対して、他の詩と同じ方法で注釈がなされている。これに続いて、新日本古典文学大系明治編『教科書 啓蒙文集』(平成十八年)で、『小学唱歌集』全三編に注解が施された。さらに、唱歌は文学面だけでなく、その歌詞の言葉が国語資料として認識され出し、『新潮現代国語辞典』(昭和六十年第一版)で「和歌・俳句・近代詩から文部省唱歌などの韻文の作品で時代の好尚に投じたものは……一往の語彙撰定の対象とした」(あとがき)という方針で、多くの作品から用例が採取された。(平成十二年第二版にも踏襲)。また、『集英社国語辞典』(平成五年第一版、同十二年第二版)でも、用例に唱歌だけでなく、童謡、歌謡曲など出典の表示はないけれども意欲的に掲げている。これ以外は、作曲された一部の近代詩が別個に研究されているだけで、専門的に童謡・わらべ歌が解釈された例はない。ただ、一般書として、これらについて作者や作品の成り立ちなどについて解説したものはかなりある。それは本稿でも適宜、参考にして引用するが、こじつけや際物的なものもないわけではなく、研究書としては不十分である。
そこで、このような現状に鑑みて、本稿では広く親しまれ誰もが知っていながら、歌詞の意味、内容がよく分らない童謡三編(「赤蜻蛉」「七つの子」「背くらべ」)、わらべ歌の句を取り入れた唱歌一編(「雪」)、わらべ歌二編(「かごめかごめ」「通りゃんせ」)を取り上げる。そして、国文学、国語学(特に、文法、語構成)の研究手法で分析、注釈し、語義を明らかにした上で、さらに民俗学的にその作品の背景を探り、全体の発想、構想から主題を究めていこうとする。なお、唱歌は古語の意味や文法的な構造が分れば、大抵の解釈はできるので、ここでは取り上げない。本稿はそれ以上の、言語主体(書き手)の意識、意図にまで溯って、その表現しようとした意味付けや価値、さらに態度を明らかにしようとする試みである。 
一 「赤蜻蛉」 

 

(1)作者と作品
作者、三木露風は明治二十二年、兵庫県揖保郡龍野町(現、たつの市)に生れた。祖父は寺社奉行職を経て、初代龍野町長、九十四銀行の頭取を務めた。父も同じ銀行に勤めていたが、家庭を顧みず放蕩し、母の将来を考えた祖父は離婚を勧めた。そのため、母は露風が数え七歳(満五歳)の時に、鳥取の実家に次男を連れて帰ってしまった。母は露風が五歳のころ家庭読本を読んで聞かせ、やさしかったが、幼稚園に入る時は子供一人で入園届を出しに行かせるという教育方針であった(『我が歩める道』)。その後、露風は祖父に育てられ、子守奉公に来た少女に特にかわいがられた。露風は大正九年五月、三十一歳の時に、北海道の函館にあるトラピスト修道院の講師として夫人を伴って赴任し、文学概論・美学概論を担当した。その翌十年八月、「赤蜻蛉」の詩を『樫の実』に発表、同年十二月に『真珠島』で一部修正した。その大きな違いは、初出では第一連の「あかとんぼ」が「山の空」、第一連の「いつの日か」と第二連の「まぼろしか」が逆になっていることである。この改作の意図についていろいろ言われるが、大事なことは「山の空」から「あかとんぼ」に改めたことにより、題名との関わりから、故郷の懐しい風景を夕焼の中の赤とんぼという一点に集約したことである。これは作者自身、修道院でのある日の夕方、赤とんぼが竿の先に止っているのを見て、故郷の風景が蘇ったことを後に述べている(『森林商報』昭和三十四年七月)ことからも理解できる。また、第一連と第二連はまず「いつの日か」と時代を追い、次に「まぼろしか」と幻影を追う方が心の内面に入り込む順序に適していよう。しかし、例えば、初出形で「山の空」の向こうに遠く去った母の「まぼろし」を「見た」と解する(和田典子『三木露風赤とんぼの情景』)のは作者の動機、発想から著しく逸脱した深読みといえよう。露風は翌十一年の復活祭に、夫人とともに洗礼を受けた。心に期するものがあったのであろう。なお、この詩は昭和二年一月、山田耕筰の作曲によって、童謡として揺ぎない地位を得た。
(2)第一連
○夕焼、小焼の/あかとんぼ
「夕焼小焼」は古くからあるわらべ歌「夕焼小焼 あした天気になあれ」から来た言葉であるが、「小焼」とは何であろうか。「小焼」単独では使われないし、「大焼」という言葉もない。「夕焼小焼」でまとまった一語である。一般に、わらべ歌や童謡には同じ語の繰り返しや対語が多い。それによって、子供の心にその言葉を染み込ませ、印象づけることができる。「小焼」は「夕焼」の言葉を一部違えた、いわば「(大きい)夕焼」に対する一種の対句的用法で、語調を整えながら、対照的に赤い夕焼がより鮮やかに浮び出て、その内実が深められるのである。しかも、「ユー|ヤケ‖コヤ|ケ○」(○印は休符)という二拍を重ねて四拍子にする、国語らしい韻律感で安定する。大正十二年の中村雨紅の童謡「夕焼小焼」で、この語はさらに広まり、定着した。
これに類した言葉は「大寒小寒」で、天明年間、行智が江戸で歌い遊んだわらべ歌を文政三年に編んだ『童謡集』に出てくる。「大」は感動詞「おお」で、形容詞語幹「さむ」がつき、感動的に発せられたものが体言として固定し、それに対応して「小寒」が添えられた。ただ、これは「小寒い」という形容詞があり、また、「大雨」と「小雨」の関係から、逆に「大寒」が大変寒いという意味に類推されたことであろう。近世のわらべ歌には他に「大鳥小鳥」「大やぶ小やぶ」もあり、「小焼」の成立に、この種の語形成の意識がはたらいたであろう。この他に、「大川小川」(京丹後市網野町)「大雪小雪」(北原白秋「雪のふる晩」)もある。また、「仲よし小よし」(同「子供の村」)の「小よし」も調子よく整え、「朝焼小焼」(金子みすゞ「大漁」)は「夕焼小焼」を意識した造語である。
○負はれて見たのは/いつの日か
「負はれて」の意味が以前から誤解されてきた。子供が耳で聞いていると「追はれて」と思いがちで、赤とんぼの大群や犬に追い駆けられたり、子供どうし追い駆けっこで遊んでいると解釈されることがあった。これは、背負われて、おんぶされて、という意味である。古く浄瑠璃に「負うた子に教へられる」「負うた子より抱いた子」などとあり、現在も諺として使われている。音数の関係もあって「背」を省いたのであろう。
ここで問題は誰に「負はれて」かということである。普通に考えれば、第三連に出てくる「姐や」であろう。これはまた作者が四十年経って「家で頼んでいた子守娘がいた。その娘が、私を負うていた。……赤とんぼが飛んでいた。それを負われてゐる私は見た」(『森林商報』前掲)と回想していることから一応、言えるであろう。しかし、事はそれほど簡単ではない。これについては、次の第二連で説明する。
(3)第二連
○山の畑の/桑の実を/小籠に摘んだは/まぼろしか
「桑の実」は六月ごろに熟し、形は木苺の実に似ていて、色は赤紫色で軟かく甘味があり、食用となる。一名、桑苺といい、俳句では夏の季語である。龍野はかつて脇坂藩の城下町であった。露風の生家近辺は武家屋敷街であったが、桑畑が広がっていた。これについて、地元の霞城館長の苗村樹は「維新後、桑を栽培し、苦しい生活の中で養蚕農家に桑を売り、現金収入にした」と述べる(毎日新聞、平成三・八・二五)。露風の実体験を踏まえた表現であることが分る。「小籠」は一般的に「こかご」と読んでいるが、「おかご」とするものもある(『太陽』日本童謡集、昭和四九・一)。後者では「御」の意味にもなり、やはり前者のように読むのが正しい。
ここで問題は第一連と同じく誰と「摘んだ」かということである。苗村樹は「やはり姐やで……幼児のお守りは龍野市周辺では姐やがいたら姐やの仕事で……たくさんの老人のいる家を伺ってまわり、この答えを得」たという(平成十二・十二・三、筆者宛の私信)。このように、第一・二連を通して表現されていない姐やに「負はれて」、姐やと「摘んだ」のであり、次の第三連の姐やの登場にうまく繋ってはいく。しかし、別の視点の読み方をする説もあり、以下、その説明をしていこう。
露風の同郷の友人に有本芳水がいた。長く『日本少年』を主宰した詩人・歌人である。「初期の三木露風の作品」によれば、明治四十年代のはじめごろ、早稲田大学の学生であった露風は夏休みで帰郷する芳水に対して、「君は……郷里にはお袋さんがいるからいいねえ、君にひきかえ僕にはお母さんがいないんだ。……母は僕を可愛がって呉れた。僕は母を忘れることが出来ない。いつかは母の愛を詩にしたいと思っている」と語った。それから四、五年後に「こんな詩を作った」と芳水に見せたのが、この「赤蜻蛉」である。続いて芳水は次のように解釈する。関係するところだけを摘記する。「私は母の背に負われて赤とんぼを見た。……母とともに赤い桑の実を摘みに行った……久しぶりに龍野に帰って見ると……母も姐やもいず」と、「母の愛」を中心にした読み方をしている。
また、和田典子はこの作品の主題は「母への思い」であって、表面には出ないが一貫して基底にあると、成立過程から論証した(前掲書)。それによると、露風は「桑の実の黒きをかぞへ日数経る」と母と別れた七歳のころ詠んでいた。これは、「われ七つ因幡に去ぬのおん母を又かへりくる人と思ひし」(『文庫』三十―二、明治三十八年)と照応する。母が鳥取に帰って行った山道で、ひとり遊ぶことが多くなった、きっとこの峠から帰って来ると母を待ち続けたのである、と指摘する。さらに、「赤蜻蛉」を作った大正十年に「初夏」と題する追憶詩を『真珠島』に発表した。「わがふるさとを思ひ出す、/白い日かげを見てをれば。/ 一(ひ)い、二(ふ)う、三(み)いと梅の実を、/かぞへて待ったは、何時(いつ)のこと。」。作者は「故郷に関するおもひでとして、それらは、私の胸にある」と自解する(元原稿)。「赤蜻蛉」はこの詩と表裏一体として解すべきである。また、露風自身「詩歌を作り始めた頃」(『日本童謡』二、昭和二年)で、高等科一、二年(今の小学五、六年)のころ、「赤とんぼとまってゐるよ竿の先」という句を作り、「秋の風光を詠んだもので……童心句の先駆を為した」と述べる。これが既に指摘されているように(家森長次郎『若き日の三木露風』)、第四連に生かされている。「桑の実」「梅の実」「赤とんぼ」、などの具体的な事物が幼いころの故郷の風景として捉えられている。さらに、右と同じころ、『神戸又新日報』に一等入選した短歌がある(「初期詩文集」)。それは「夕空に希望の星を仰ぐとや星は愁ひにまたたくものを」で、世間の人々にとっては「希望の星」であるが、子供である自分にとっては「愁ひ」そのものなのである。この憂愁の中に母への思いを読み取ることはごく自然であろう。
このように述べていくと、詩の解釈より、詩作の背景を説明し過ぎたかもしれない。第一、二連を通して、誰に「負はれて」か、誰と「摘んだ」かは一切、言葉に表現されていない。読者としては、幼いころの思い出の情景として読み、相手は誰なのか、あるいは孤独であるのかと、想像を膨らませて、次の連へと進むしかない。このことについては、さらに、以下に考察する。
(4)第三連
○十五で姐やは/嫁に行き/お里のたよりも/絶えはてた
この童謡が今なお親しまれ、歌い続けられているのに「ねえや」が誤解されることがある。耳で聞いていると姉さんと考えられがちだが、とすると、次の「お里のたよりも/絶えはてた」と合わなくなる。方言で「にいや」といえば、兄のことだが、下男、作男という意味で使う地域もあり、間違いやすい。この「ねえや」は子守奉公の若い娘、下女を意味する。「や」は「坊や」「爺や」「婆や」のように、人を表す名詞や人名につけて、親しみを表す接尾語である。前述したように、母と生別した作者の養育のために「宍粟(し そう)から……よんだ」(有本芳水、前掲)女性である。これ以上に詳しいことは分らず、「揖保川上流、宍粟郡山崎町(現、宍粟市)か更にその北部か」で、名前も残っていない(吉村樹、前掲)。
さて、第一、二連は「いつの日か」「まぼろしか」という、遠くはかない、夢のような情景であったが、ここで初めて人物が登場して、過去の日々が出来事として描かれる。四連構成であるので、起承に続いて、第三連が転の部分であると理解される。一、二連で伏流水のように底に流れていたものが、三連に至り、表面に事実として浮上してきたような印象を覚える。ここで、問題は「お里のたより」をどう考えるかということである。「お里」が「姐や」の人名ではもとより意味を成さず、やはり実家であろう。とすると、誰の実家かということである。
これについては、諸書で簡単に「里からの便り」とするか、里に帰った「姐やからの便り」とするのがほとんどで、前者でも姐やからを前提としてのことであろう。しかし、嫁に行った後に、その実家からの便りとことさら表すのにどれだけの価値があろうか。三木家と姐やの実家とが交流していたとも考えられない。「露風は送られてくる葉書、手紙の類は残している……が、姐やからのものは残ってい」ないとされている(吉村樹、前掲)。この「お里のたより」は易しいようで、実は難解で、従来、素通りされてきた表現である。
これについて、和田典子が新説を発表した(前掲書)。今まで姐やを通じて母の便りを聞いていた、つまり姐やは母との連絡役であった。ところが、嫁に行ってからはもはや母からの便りを聞くすべもなくなった。「お里のたより」とは、母の実家からの便りであり、母の様子や生活など近況を伝えてくれていたが、それも絶えて、母が何をしているかも分らなくなったというのである、(なお、和田は「たより」が平仮名であるのは、母の里からの便りと母代りに頼っていた姐やへの頼りの、両方の意味を兼ねた掛詞と説明するが、そこまで考えなくてよい)。「お里のたより」を以上のように姐やと母親の二人の人物の関わりで解すると、全体の理解が自然にできる。ただ、難点は、母親の里と表されていないことだが、これを前述の通り姐やの里と解してもそれ以上に無理がある。また、作者自身の幼いころの事実を知らなければ、そうは解釈できない。しかし、そういう事情を全く考慮せず、第三連に初めて出てくる姐やだけで解釈した場合、可能であっても内容は平板になってしまう。露風と姐やとの交流がどれだけのものであったか明らかでなく、人生における出会いとして深い意味はなかったのではないか。詩に表すほど深い影響を与えたかどうかも問題である。成立事情を全く考慮に入れない作品の解釈や客観的な評価はあり得るだろうか。
ここで係助詞「は」の文法的機能から、一つの解釈を提示しよう。「十五で姐やは」が「十五で姐やが」と表されていた場合、表現的な意味がどう異なるかということである。「は」は直前に述べていたことを再叙する時に使うことがあり、重点は述部にある。第一、二連に人物は出て来ないが、第三連に「は」で表したことは、前の連で姐やということを十分に意識した上で、それを既知のこととして「は」と表したのであろう。もし、「が」であれば、これでも意味は通じるが、第一、二連と無関係で、読者にとって未知なる者が突然出てきたことになる。次に、「お里のたよりもたえはてた」の「も」に注意すると、前件の「は」と対比、対照させて、類同のものとして「も」と表したと考えられる。姐やが嫁に行き、消息が絶えたのと同じく、里からの連絡も絶えたというのである。「が」の場合は対比、類同の視点はなく、姐やと里の便りそれぞれに重点がある。従って、姐やが嫁入りし、その結果、姐やの実家の便りも絶えたと続く文脈になろう。一方、「は」は文末にまで陳述が及んで言い納める。姐やは、嫁入りし、そのため姐やの関わっていた里の便りまでも、絶えたという含みを持つ。「が―も」は単純に続く重文であるが、「は―も」は文末にまで総主語の気息が及ぶ複文である。このように文法的に考察すると、「お里のたより」は母の実家の消息、連絡であり、姐やが嫁入りしてから母の動静が伝わらなくなった嘆きを歌ったと考えてよいであろう。
さて、この詩の背景を理解する参考として、露風と母のその後の関係について述べる。母かた子は実家に戻った後、上京して、帝国大学附属看護法講習科に入って勉学、そのころ弓町本郷教会で洗礼を受けた。七年間、同病院で看護婦を勤めて、碧川(みどりかわ)企久男と再婚し、婦人参政権運動と禁酒運動に尽力した。露風は作品のよき読者であった母と二十代のころから交流し、大正十二年、関東大震災後に神経衰弱になった露風を母は北海道まで見舞ったほどである。このように親子の深い情に結ばれ、碧川家の人々とも親しく交わった。昭和三十七年、九十一歳で母が亡くなった時は、許しを得て、通夜で亡母と並んで添寝し、「吾れや七つ母と添寝の夢や夢十とせは情け知らずに過ぎぬ」(『夏姫』)と詠んで以来、五十七年目にして宿願を果した(『全集』三の年譜、安部宙之介『三木露風研究』の「露風の『赤とんぼの母』」)。このように母子の生涯をたどると、詩の中に母という語を何も表さなかった作者の心中の深い思いが逆に浮き彫りにされるといえないだろうか。
露風の心中の思いは十代の後半に作った歌にしめやかに、静かに歌われている。
  浪速よき花の入江に舟寄せて十二の夏は母恋ひたりき(『夏姫』明治三十八年)
  母恋うて夕べ戸に靠(よ)る若き子が愁ひの眉よ秋をえ堪へぬ(同)
  恋ならず十九の春を帰へり来て母のみ膝に抱きて泣きぬ(『低唱』同)
  白き精の霊と凝りてはおん膝に涙のみ歌泣きて問はまし(『閑谷』同)
  ……凪の夕(ゆふべ)は「愛の母」/ 汝(な)がふところに我は寝む/母なる海の翼にも/ 擁(だ)かるるものかわが恋は(「海はわが恋」『芸苑』明治四十年)
第三首以下は母に抱かれる幻想、憧憬を詠んだもので、特に「恋ならず」というところに苦渋がにじみ出ている。
  (我が母を思ひて出た歌即ち東京に居るお母様を思出したる歌なり)
  戸に立ちて母を恋ひふる百五十里水のあなたを慕はしと見め(東京に居ます母を呼んでも何の返事もなし哀れ母はいかにしてけむ)
  声あげて呼べば木だまと返り来ぬあゝ天地に我領なきや(『低唱』)
  母が家は春雪とけて草の芽の多きころなり如月の雲国遠く離(さか)りは居ぬるさびしさを告げぬ日数は怨まれてある(『婦人世界』明治四十年)
遠くに去った母をひたすら慕わしいと恋い焦がれている情が素朴、素直に表れている。
  母は我病むこと知らず祈りてはいと静かなる夜ともおぼさめ(『初期詩文集』萩若葉一)
  おん母は伏し給へりと君いふに二尺聞えぬ戸の大嵐(『国詩』明治三十九年)
遠く離れていてはそれぞれが病気になっても互いに知る由もない。これらの歌は母恋いの情を、届くことのない夢の世界のように捉えている。
露風の少年時代はかくも孤独で、寂しく、暗く、重かった。その時に過した故郷も同じように悲しみ嘆く対象にほかならなかった。
  故郷はかく迄吾れをなやますか悲しと誰か吾れを慰むる(『低唱』)
  母こひし竹の花咲く山の日はうづら追ひたるふるさとの家(『新声』明治三十九年)
  夜ぞ恋ひし涙の中にふるさとの桑つむ家の眼にうかび来て(同)
このような自分を慰めてくれる存在は母以外にはあり得ない。母を求める心は幼年時代のままである。トラピスト修道院に赴任した大正九年五月に作った「青鷺」という詩がある。
  母に去(い)なれて、/しょんぼりと、/池の汀に、/たちつくす。/明日も明後日(あ さって)も、/かへらうか。/三年待ったが、/ただひとり。
「青鷺」に托して、自分のことを表している。「去なれて」「三年待った」は十代で詠んだ作品に既にあった。この翌年八月に「赤蜻蛉」の原詩を発表し、十二月に二つの作品とともに『真珠島』に収録した。従って、「赤蜻蛉」を理解するには、前年の「青鷺」、「初夏」(前述)とともに解釈すべきであり、北海道に渡ったことも考え合せねばならない。さらに、これ以降、露風の心にけじめができて吹っ切れたのか、母を恋うる詩歌は作っていない。
なお付言すれば、母かた子は生前、「赤とんぼのママさん」と呼ばれることを喜び、墓碑には露風が直筆で「赤とんぼの母此處に眠る」と刻んだ(和田典子・前掲書)。この「赤とんぼ」は必ずしも作品そのものを意味しないが、母と結びつける受け止め方は当時ごく自然なことであったであろう。
このように、露風の心には母恋しさが生涯にわたって根底にあった。それに比べると、姐やの存在は詩歌に歌って、自覚的、積極的に主題に据えるほど強く意義あるものではない。姐やは幼いころの一時期に限った思い出であり、それが一生を貫いてはいない。姐やを回想して歌った詩歌が何一つ見出せないことはそのことを証していよう。ただ、難点は前述の通り、母という語が全く表されていないということである。この点について、和田典子の新説を意識してのことであろう、次のような批判がある。即ち、上笙一郎は「作品それ自体の内容よりも作者の周辺の事情に依り過ぎている」という(『日本童謡事典』)。また、田村圭司は「作品の記述に添った読みにその論拠を示す必要があろう」として、「主題と制作意図とは幼児期と少年期の記憶の対比表現」としている(『日本の童謡』国文学臨増、平成十六・十二)。主題については後述するが、「作品それ自体の内容」「作品の記述」に基づいて考察しても、前述の通り第三連の「お里のたより」が解釈できずに矛盾する。その解決のために、第三連になって初めて姐やを登場させることによって、第一、二連は実は母でなかったことを明らかにしたと考えるとよい。続いて、「お里のたより」で母の存在を暗に示したが、それは作者にとっていつまでも遠く隔たり、不在のままであった。「母の愛」を歌うには幼少時代の短歌と俳句と同じく、受動的、消極的な方法によるしかなかったのである。
(5)第四連
○夕やけ小やけの/赤とんぼ/とまってゐるよ/竿の先
先に述べた通り、この作品の創作の契機は北海道で夕暮に赤とんぼが飛んでいるのを見てと作者自身も解説している。従って、第四連の描写も現前の風景として解釈されてきた。しかし、文学作品として見た場合、作者が現に詩作中に見ていた夕方の情景だろうか。この疑問を解く鍵は二つある。一つは、前述の通り、作者が七歳の時に作った「赤とんぼとまってゐるよ竿の先」をこの結の部分に取り入れたことである。これにより、起の赤とんぼを負われて見た思い出の風景がここに再び蘇り、重ね合され、幼児の時の俳句が生かされる。これは現在の事実を超えた内面の世界といえないか。作者の体験ではもはやなく、普遍化、理想化された真実の世界へと昇華されたのである。もう一つは、「とまってゐるよ」という現在形を使っていることである。もちろん、詩作の現在とも考えられよう。しかし、詩作の時間と作品の時間の流れは決して一致することはない。作品として創作したからには、どこで作ったか、いつ作ったかはあまり重要ではなくなる。作品における時間表現として捉え直すべきである。ということは、この現在形は単に現在ではなく、英文法で説く歴史的現在、イェスペルセンのいわゆる劇的現在の用法である。昔も、その時も、これからもいつも、常にとまっている。それがどこかといえば、作者の心の中であり、読者の心の中ででもある。つまり、これは、ふるさとの原風景としていつまでも人の心の中に、心象風景として描かれるものなのである。こうして、この詩は赤とんぼによって母につらなるふるさとの心の内なる風景として、永遠の真実を得たといえるのである。
(6)構想と主題
以上、第一連から表現を細かく分析し、精読してきて、構想の特色と主題を探る段階ににきた。この作品の動機(モチーフ)はやはり先に、露風が芳水に語った「母の愛を詩にしたい」ということである。しかし、母を語るには数え七歳で離別した、その喪失感は子供には重く、暗い体験としてのしかかり、母の思い出を直接表すことができず、また、その材料もなかった。母はいつも去った人であり、待つ人であった。手の届かない遠い所へ行った夢幻の人であった。そこで、実在感、実体感の乏しい母の代役としてやってきた姐やを直接に描くことにしたのではないか。
赤とんぼを「負はれて」見た、誰にと表現しない、第三連や作者の回想で姐やと分るが、それは同時に母ではないだろうか。桑の実を「摘んだ」のを、誰とかは表現しないが、同じく、表面的には姐やであろう。しかし、それは同時に母の姿でもあった。姐やの背後には、というより、姐やを同体として母がいたのではないか。両方とも姐やとも表現せず、「いつの日か」「まぼろしか」と言い表していることに注意しなければならない。
姐やが嫁に行った、これより先に母は実家に帰って行った。里の便りが絶え果てた、姐やを含めた姐やの実家からも母の実家からも連絡が絶えた。共に暮した姐やは表面的な、事実として居ない母は隠れた存在として、一体的に、いわば二重構造にして描いているのではないか。現実の世界、事実としては姐やがいる、しかし同時に、幻想の世界、真実として母が目に見えない形で存在している。これがこの作品の発想であり、構想の枠組として成り立ったのではないか。姐やへの慕情では全体を一貫した主題にならない。姐やを歌うことにより、母を失ったことをより強く意識し、母を追い求める。「負はれて」も「摘んだ」のも姐やであった、母ではなかった。だからこそ母が恋しいのである。母を思い慕う子供の心が姐やに重ねられ、托されている。姐やの役割はあくまで仲立ちであり、代役に過ぎない。
このように考えると、先に紹介した第一、二連と第三、四連を分け、「幼児期と少年期の記憶の対比」が主題であり、「母への慕情は底流にあるものとして、それらと離して別に考えられるべき事柄」とする説(田村圭司・前掲)は、ことさらに作者の心情を排除して、形式的に詩の表現を理論づけようとしているだけであることが分る。幼少年期を二分することに意味はない。幼少年期を通して変ることのない思いが叙されている。第四連に赤とんぼを再び描くことにより、第一連に響き合って、赤とんぼに象徴される故郷への思いが改めて漂うのである。
(7)その他の問題
@赤とんぼの意義
この詩の季節は第二連が桑の実で初夏、第一、四連は赤とんぼの飛び交う夏の終りから初秋にかけてのことである、このころのとんぼは精霊とんぼ、別名、仏とんぼ、盆とんぼともいう。とんぼ(赤とんぼ)は古来、先祖が乗って来る、魂を運ぶもの、また、亡き魂そのものと観じられ、ことに盆のころに子供が捕るのを戒められた(柳田国男『先祖の話』、『昔話覚書』、『海上の道』、折口信夫「石に出で入るもの」)。「亡霊は高きを飛翔して低きにつかんとする」もので、盆ごろから現れる赤とんぼに祖霊の来訪を感じたのである(堀一郎『我が国民間信仰史の研究』)。作者にこのような意識があったかどうかは明らかでないが、作者の手から一旦離れて、この詩が作曲されて広く親しまれ、懐しがられる背景にこのような潜在的な共通の感情があったのではないだろうか。
A夕焼けの印象
前にも述べたが、夕焼けを歌った童謡は、わらべ歌の「夕焼小焼 あした天気になあれ」をはじめとして、「夕日」(大正十年)「夕焼小焼」(大正十二年)「夕日がせなかをおしてくる」(昭和四十三年)など、数多くある。今でこそあまり見られないが、かつては子供は夕方暗くなるまで外で遊び、夕焼を見ながら家路についたものである。子供にとっての夕焼はやはり原風景として大人になっても生き続けていく。山折哲雄はこの夕焼を日本人の落日信仰と積極的に結びつけて評価している。太陽が海の水平線や山の彼方に沈んでいく光景に神道の常世観、仏教の西方浄土を想像し、深層意識の中に信仰心を養ってきたとする。だからこそ夕焼は無常観、悲壮感を覚えさせる(『日本人の宗教感覚』)。この「赤蜻蛉」の詩、というより歌曲が今もって愛好されるのは、夕焼、夕日、夕暮という情景にも要因があったと考えるのもまた自然なことであろう。
B文字の書き方
一般に詩作品で題目と本文で漢字と平仮名の文字を書き分けることはよくある。これは作者が意図的に行ったのか、無意識であるかは容易に判断できない。和田典子はこの書き分けに年齢(年代)による成長を読み取ろうとしているが(前掲書)、必ずしもそのような文字意識で解することはできない。ただ、一般的な表現意識で考察すると、次のように考えることができよう。
まず、題の「赤蜻蛉」は漢字によって、概念をはっきり提示し、詩に出てくる中心的なものを明示しようとする。従って、次の第一連の「あかとんぼ」は漢字表記する必要がなく、思い出の風景として柔らかく表そうとした。結びの第四連は三回目の登場で、間隔が二連あるので、「赤とんぼ」と「赤」を強く意識づけようとした。また、第一連の「夕焼、小焼」は初めての場面の提示であり、漢字によって概念的に強く印象づけようとした。結びの「夕やけ小やけ」は二回目であるので、「赤とんぼ」と同じく、漢字仮名交りにして、心の内面に在り続け、生き続けていく風景としてやさしく表現しようとした。少なくとも以上のように、漢字、平仮名の本質と意識から分析して説明することができよう。これを年代別の発展と解するのは文字意識から逸脱して、やや読者としての一方的な解釈に陥る危険性があるといえよう。 
二 「七つの子」 

 

(1)作者と作品
作者、野口雨情は明治十五年、茨城県多賀郡北中郷村(現、北茨城市)磯原に生れた。代々、村長を務める名家であったが、火事と借金のために没落、雨情は職を求めて転々とする生活を送った。この詩は大正十年七月、『金の船』に発表されたが、その原歌というべきものが、十四年前の、明治四十年に童謡・民謡の小冊子『朝花夜花』第一輯に載せられていた。それは「山烏」という題で「烏なぜ啼く/烏は山に/ 可愛(かわい)七つの/子があれば」という、四行の短詩で、これが新しい第一連に使われている。作者は子供と離れて、上京して仕事をしていたが、郷里に残した幼い子のことが忘れられず、絶えず手紙を送って励ましていたという。詩そのものは、帰郷して植林事業をしていたころ、子を連れてよく杉や松の裏山を散歩していた思い出をもとにして作られた。作曲は本居長世で、右の詩と同時に同じ雑誌に発表されている。爾来、「赤蜻蛉」とともに、日本の代表的な童謡として今なお歌い継がれている。
(2)第一連
○烏 なぜ啼くの/烏は山に/可愛七つの/子があるからよ
原詩は文語体であるが、これは口語体で表現している。ここに作者のどういう意図があったか。一般に、わらべ歌には例えば江戸時代から歌われる「うさぎうさぎ 何よ見てはねる/十五夜お月さま 見てはねる」というように問答形式が多いことは金田一春彦が指摘している(『童謡・唱歌の世界』)。この形式は現代の童謡にまで引継がれていて、この問答は子供の頭で自問自答して、納得していくのによい形式である。原詩は文語体であって、これでは作者または読者が一人で自問自答しているようで、広がりがない。このように口語体で表現することにより、二者の問答、子と母が烏の鳴き声を聞いて問答していると理解すると情景がよく想像でき、効果的である。後に、雨情は『童謡教本 尋常一・二年用』(昭和二年)で二人の少年の会話の形として自ら解説しているが、これは小学生用を念頭において、そういう説明にしたのであって、詩の表現から言えば、母子の会話という設定がごく自然である。
次に、「七つの子がある」の「ある」の表現の適否を「七つの」の解釈と絡めて問題視する考えがある。藤田圭雄の『日本童謡史』によれば、「子がいる」では七歳の子で当然だが、「子がある」では、七羽の子と解釈されやすいと言う。しかし、この「ある」は人間か動物かに関らず、物の存在、所有、実現に使う語である。ここは「昔々、お爺さんとお婆さんがありました」とも語るように、物語的、昔話的に表していて、この場合、動詞の使い方から主語を判断する決め手にはならない。これについては、浜田敦も「ある」は生物、無生物に関らず、抽象的なものにまで使われると、多くの文例を挙げて説いている(「七つの子がある」『続朝鮮資料による日本語研究』)。
さて、ここでこの詩の最大の問題、「七つの子」の「七つ」がどういう意味であるかを解明する。それに先立って注意すべきことは烏の子が出てくるからといって、「七つ」を生物学、動物学的に考えてはならないということである。それは二点あって、山烏の卵の数が七個では多過ぎるから、七羽ではない、また、七歳の烏では実際はもう相当な大人で、かわいくないから、七歳ではないという説である。詩は文学的、語学的に解釈すべきで、詩的世界の虚構性をも考慮しなければならない。従って、この論争でこういう知識を持ち込むことは無意味であり、禁物である。
では、「七つ」の諸説を整理すると、@七羽の烏、Aたくさんの烏、B七歳の(人間の)子、C七歳の烏の子、の四つにまとめられる。以下、それぞれについて紹介し、私見を述べる。@初出の大正十年『金の船』の挿絵に七羽の小烏が描かれている。また、藤田圭雄によると、コロムビアの童謡曲全集『たのしい童謡のすべて』に、七羽の子が親烏と向い合っている絵があるという(前掲書)。郵政省発行の童謡シリーズの切手で、三羽ほどの烏が描かれていたのは、七羽まで書き入れにくかったためであろう。これらは「七つ」が七羽であることを根拠にして描いたのではなく、一羽であれば、絵になりにくいという描き方の問題でもあろう。ここで、この詩全体で七羽説を主張できる表現や語法は言葉として何も表されていないことを知る必要がある。「七つの子がある」「いい子だよ」はことさら複数形を示さず、その上、単数形を否定しない。また、「七羽の子」では、親がかわいいと思うには焦点がぼける嫌いがある。この歌の全体的な印象から言えば、たった一羽の子と捉える方がよりふさわしい。それ以前に、七羽でなければならない根本的な意味付けができない。詳しくは後に考証する。
Aは前述の『日本童謡史』で、一つの考え方として述べている。「七」は確かに多数の意に使われるが、「七つの子」の例はない。また、「たくさん」では情調が弱くなり、曖昧になる。雨情の自解では「烏はあの向ふの山にたくさんの子供たちがゐる」とする(『童謡と童心芸術』大正十四年、前掲『童謡教本』)。自解が必ずしも全面的に正しいとは言えず、作者自身、他の論者と同じく漠然と述べているだけである。何よりも、雨情は童謡「子守唄」(大正十一年)で、「七のお歳の/日は暮れる」「なんなん七の/日は暮れる」と「七つ」、即ち七歳に独自の意味、価値を込めようとしている。「七つの子」はこの「七の日」と同じ質で考えるべきもので、「たくさん」という自解に従う必要はない。
B藤田圭雄によると(前掲書)、本居貴美子・若葉の『本居長世童謡曲全集』で、この童謡が『小学生全集』の童謡集に載った時、七歳くらいの子供が巣の中の三羽ほどの烏を見上げている挿絵があったという。これで七歳の人間の子と解釈していると断定できないが、藤田はそう判断して論を進めているように見受けられる。しかし、第三連に「山の古巣に/いって見て御覧」とあり、その絵は母の勧めで子供が古巣を見に行ったと仮定して描かれ、「丸い眼をした/いい子だよ」は当然、烏の眼のことである。従って、この説は成り立たない。
Cは学問的に客観的に説明できる、ごく自然な考え方であり、以下、順序立てて説明しよう。まず、浜田敦の説くように(前掲書)、日本語では人を数える場合、上代以来、ひとつ、ふたつとは言わず、ひとり、ふたりと数えるのが原則である。このありふれた事実を他に説く人がいないのは不思議なことであった。常識的に「ひとつの赤ちゃん、ふたつの男の子、みっつの女の子、むっつの小学生」と言っていくと、どれも人数ではなく年齢を表していることは経験的に分っているはずである。また、浜田は「七つ」が「七人」の意として理解されるには、「七つの子」という連体修飾的構造ではなく、「子が七つある」という連用修飾的構造で用いられるならまだしも、この文脈で「七人」あるいは「七羽」の意味で用いられるのは極めて異例で、奇異な用法であるとした。そして、この文構造は「象は鼻が長い」と同じく、「烏は(山に可愛い)七つの子がある」という構造であると論じた。このように、国語学、文法学の方法で解明すると、ごく自然に七歳の子という結論に達する。従来、この種の論議がなく、印象風の説明しかされなかったのである。
なお、「七つの子」は右の通り連体修飾であるが、「ふたご」といえば双生児という限定された意味で、数を表す意味に慣用として固定された。「みつご」は双生児と同じ発想による三人という意味とともに、「三つ子の魂百まで」というように三歳をも意味する。この「ふたご」の「ふた」は「ひとり」「みたり」「よったり」と同じく数を表すのが基本で、「みつご」だけは数とともに年齢をも表すようになったのである。
「七つの子」が「七歳の子」であることは古くから慣用句のように使われていた。金田一春彦は「室町、江戸時代を通じてはやった歌謡に『七つの子』云々というのがあって、子どもといったら『七つの』というのが枕詞のように使われた」と早く指摘している(前掲書)。これについては、折口信夫も「江戸時代にも上方歌をはじめ、いろいろなものに取り入れられている」と述べていた(『全集ノート編』十八)。これは、鷺流の狂言歌謡の小舞「七つに成る子」の中に「七つに成る子が、いたいけなことゆうた、殿がほしとうたうた」が代表例である。また、松永貞徳の『新増犬筑波集』は『犬筑波集』の前句に自ら付句を試みたもので、「及ばぬ恋をするぞをかしき」に対して、「殿ほしといふは七になる子にて」を付句とした。あるいは、近松門左衛門の浄瑠璃『賀古教信七墓廻』で子守唄として「こゝな子はいくつ。十三七つ。七つになる子がいたいけなこといふた。とのがほしとうたふた」と歌っている。この「七つになる子」は別名「おちゃめのと」といって、非常にませて、大人のようなことを言う子供のことで、もとより七歳である。また、別の狂言小舞の「棒縛り」で「七つ子」が、子を背に負って舞様式で演じられる。白隠の「布袋携童図」(永青文庫蔵)では、賛にこの句を引用した後、人を諭し教える言葉を付けている。江戸中期にも広く伝わっていたのである。このように、「七つになる子」は「いたいけな」、つまり、かわいらしい子供、子供らしい子供という意味で用いられている。「はたち」が成人を意味し、また象徴するように、「ななつ」は子供そのものを表す代表的な語として定着していたのである。このことに谷崎潤一郎は関心があり、『月と狂言師』(昭和二十四年)で、「地唄の方でも『七つ子』と云って三味線に合せて唄はれるもので、『松の葉』にも歌詞が載ってゐるし、井上流の舞でも舞はれる」として、「此の唄の文句」をそのまま引用している。ただし、『松の葉』には第一巻の巻末に「秘曲相伝之次第」の中に「七つ子」の曲名が記されているだけで、歌詞は収載されていない。
この「七つの子」の伝統を受け継いで積極的に童謡に取り入れたのは西条八十である。「お月さん」(大正十一年)で、「お月さん/いくつなの/わたしは七つの/親なし子」、「なんなん菜の花」(昭和七年)で、「なんなん菜の花 咲く路を/なんなん七つの 子がとほる/‥‥なんなん泣いてる 七つの子」のように、「七つの子」はただ単に七歳という年齢を示すだけでなく、かわいく、あどけない子供という普通名詞として表現していることが理解される。野口雨情は六年後に小学生に「たくさんの子」と解説しているが、これは前述の挿絵と同じく、にぎにぎしい雰囲気を表す意図であった。創作の動機、発想としては古典から伝えられてきた「七つの子」の本来の意味を用いたと考えるのが至当である。この考えは現代にまで及び、加納朋子の童話短編集の『ななつのこ』(平成十年)は同名の作品を収録し、「野口雨情の童謡『七つの子』が絶えず響いている。失われたアドレッセンス期の夢の追憶へと誘(いざな)う」と解説されている。これが「七人の子」であれば、何の意味も価値もなく、それこそ何人でもよいことになる。
七歳の意義を別の視点から考察すると、古来、子供の成長過程にとって第二の誕生ともいうべき重要な一時期、節目であり、文学にもしばしば取り上げられてきた。
(犬宮は)来年は七つになり給ふ。今までこれ(琴)を教へ奉らぬこと‥‥となげき聞え給へば(宇津保物語、楼上、上)
(源氏は)ななつになり給へば、ふみ始め(読書始)などさせ給ひて(源氏物語、桐壺)
「惣領の孫が七つの祝ひ」「やれさて、それはおめでたい」(浮世風呂)
この行事が現代に至るまで、七五三の七つ詣りの習慣として続いているのである。
民俗学的に言っても七歳は人生の重要な段階である。柳田国男は小児の生身玉は身を離れて行く危険が多く、容易に次の生活に移り、人間世界から戻すことも可能で、七歳までは子供は神であるという諺が今も全国に行われているという(『先祖の話』)。例えば「七つ前は神の子」「七つまでは神のうち」「男子七歳まではものあやかり」「七つから大人の葬式をするもの」「七歳未満の者には忌服かからず」などは、子供は七歳までは神の世界にいるものという認識を示していよう。また、大隅では七歳になった小児が隣七軒から食物をもらう乞食をする。種子島では同じく雑炊をもらい集め、この日の夜に付紐を解いて帯を締め、一人前の子供になる(『食物と心臓』)。七歳の男児が七つ坊主といって頭を剃ってしまうことも近畿、四国、信州にも以前あって、「七つといふ年は男の児にとって可なり顕著な境界線である」(『社会と子ども』)。
これは例えば、「おどんま親なし 七つの年で よその守娘(も りこ)で苦労する」(五木の子守唄、熊本)をはじめ、西条八十の童謡「珊瑚の首かざり」(大正十四年)の「この子に 珊瑚の/首かざり/七つになったら/買ってやろ‥‥七つに なれなれ/あしたなれ」のように、七歳の子に特別の意味付けをしようとしている。小野恭靖は「子どもを歌う歌謡史―中世日本における子どもの年齢範囲」(『日本文学』平成十四・七)で、「七歳を歌う歌謡」として、静岡県や大阪府の盆唄、和歌山県の盆踊歌で、「七歳が幼な子を代表する年齢」と論証している。また、仲井幸二郎の著書から「七つという年はやはりひとつの資格を身につける年である」という指摘を紹介し、「雨情が子どもの年齢として七歳を選んで作詞したことに大きな意味がある」と結論づける。
このように、「七つの子」というのは幼児から一人前の子として認められるころであり、いわば子供の代名詞のように広く使われてきた。だからこそ、近世の寺子屋では数え七歳の入門が多く、明治の小学校でもこれが引き継がれた。前述の通り、はたちは成人を意味し、百年、百年の後という語は一生、生涯を暗示し、象徴するのと同じ発想なのである。
(3)第二連
○可愛 可愛と/烏は啼くの/可愛可愛と/啼くんだよ
この前半と後半は第一連と同じく、子と母との問答である。ただ、前半を母親の答えの続きととる説もあり(『日本の童謡』前掲)、とすると、後半も母親の答えとなってしまう。しかし、これは不自然な解釈で、この詩における問答体の価値がこれでは消えてしまう。本居長世の作曲の調べも両者の問答と解してなされている。
ここで、「可愛可愛」はいうまでもなく、烏の鳴き声の擬声語とかわいいという語の二つの意味が掛けられている。これが雨情の独創かといえば、そうではない。歌舞伎十八番の「鳴神」で「月もいるさの夜明のからす、可愛〳〵と引よせて、つひそのままの」とある。また、清元の「明烏」で「可愛と一ト声明烏」とあり、既に近世に用例がある。これは鳥のさえずりを人の言葉に置き換えて聞き取る、いわゆる聞き做しで、日本人が虫の音を言語化して聞くのと同じ態度である。前述の通り、雨情自身、子供を連れて裏山をよく散歩した。烏の鳴き声を聞いて、あの烏はどういうつもりで鳴いているのだろうと子供(野口雅夫)に尋ねたこともあるという(『太陽』前掲)。そのことを思い出し、その親烏と子烏を、作者と、遠く離れている自分の子との姿に擬して、まず、原歌を思いついたのであろう。従って、「七つの子」は歌としては烏の七歳の子であるが、それは同時に、作者自身の七歳の子である。「七つの子」に我が子を投影して捉えたのがこの詩の眼目である。なお、ここで改めて述べれば、「七歳の子」とは厳密に七歳と限定、特定しているのでは決してない。七歳によって子供という意味を代表させたのであって、幼い子という意味である。
(4)第三連
○山の古巣に/いって見て御覧/丸い眼をした/いい子だよ
「山の古巣」というのは単に現実の風景をいっているだけではない。「山の古巣に‥‥いい子」がいるということは、作者にとっては山の古里であり、つまり故郷に残してきた我が子がいるということを二重に意味している。これは前述と同じく、事実が投影し、反映された表現なのである。作者は烏の子に托して、烏の子を通じて、我が子のことを歌っているのである。ここに至って、烏の子がそのまま人間の子であることが明らかとなる。
なお、「山の古巣に」は原作であるが、作曲された楽譜には「山の古巣へ」と改められている。一般的に「に」は帰着点に重点を置き、「へ」は方向を示すことが多い。詩としては「に」がよいが、歌う場合、「へ」の方が強く指示することができそうである。
この詩を全体として見た時に気づくことは押韻が整っていることである。第一、二連は「烏、烏は、可愛(可愛)」と、カ音が韻律をなす。第三連では「いって、いい」でイ音を重ねる。この頭韻に対して、第一、二連で「啼くの」の繰返し、各連で「からよ、だよ、だよ」と脚韻を踏む。これらによって、口語体の俗語、平語が下品に陥らず、この詩全体の品位を保っているように見える。また、作曲の場合であるが、第一連の「可愛(かわい)」は「かわいい」と音符を付け、第四連の「丸い」が「まーるい」と歌うことにより、「かわいい」も「かーわい」と対応させて歌われることがよくある。自然に対句意識がはたらいて、「七つの子」の印象を深めて想像しようとするのであろう。
(5)構想と主題
烏は一般に不気味で人に嫌がられるが、子供の歌の世界ではそうではなかった。古くからのわらべ歌「からす勘三郎」は、カ音の頭韻を響かせて、鳴き声を表している。後になって、「夕日」(葛原しげる、大正十年)では「烏よ、お日を追っかけて/真赤に染まって舞って来い」と呼び掛け、「夕焼小焼」(中村雨紅、大正十二年)では「烏と一緒に帰りましょう」と親愛の情を寄せている。また、「からすの赤ちゃん」(海沼実、昭和十四年)では「なぜなくの」と問い掛ける。これは日本人の根底に烏に対する、何がしかの情があるからで、これが先の「赤蜻蛉」と同じく、夕方、夕暮の情景と絡んで、懐しい原風景を掻き立てるのであろう。野口雨情も同じくそのような情景に包まれた烏の鳴き声、烏が寝ぐらに飛び帰る姿に故郷の景色を感じ取ったのである。親が子を思う心を通して描くことにより、そこに自分自身の心情、またそれ以上に普遍的な、生き物への愛を描こうとしたのである。ここに至って改めて「七つの子」の意味を考えた場合、「七羽の子」「たくさんの子」と数量として捉えたのではなく、生き物の親子の愛情に結びつく「七歳の子」即ち、幼い、かわいい子供という一点に凝縮して捉えた存在であると確認できるのである。 
三 「雪」 

 

(1)作者と作品
明治四十四年に発行された『尋常小学唱歌二』に収録された、いわゆる文部省唱歌で、作詞、作曲者とも不明である。戦後も小学校の音楽科の共通教材として必修であったが、昭和五十五年度の学習指導要領の改定で削除された。それでも、選択教材として今日も歌い続けられている。
(2)第一連・第二連
○雪やこんこ霰(あられ)やこんこ。/降っては降ってはずんずん積る。/‥‥
○雪やこんこ霰やこんこ。/降っても降ってもまだ降りやまぬ。/‥‥
以下、冒頭の「雪(霰)やこんこ」の意味を項目に分けて考察する。
@意味(通説)
「こんこ(こんこん)」はどういう意味であるか。一般の国語辞書の説明では、例えば「雪や雹(あられ)がしきりに降るさまを表す語」と説明されている(『大辞林』第三版)。「こんこんと大降りになり出した往来の雪をぼんやり瞬きもせずに眺めながら」(有島武郎「星座」大正十年)は「と」を伴って、雪の降る擬態を表している。一方、「雪の降る擬音かと思っていた」という説もある(金田一春彦他『日本の唱歌』上)。「コンコン、コンコン、霰が降る/パラリ、パラリ/コンコンコンコンコン」(葛原しげる『大正幼年唱歌』八、大正六年)は擬態語とも考えられようが、中心は擬音語として用いていよう。
「こんこ(こんこん)」を擬態・擬音語と考えていいのだろうか。「こんこん」は一般的に、咳の音や狐の鳴き声、鐘の響く音、堅い物をたたいた時の音など、硬質の音が実際に出る時に使われる。しかし、雨や霰はともかく、雪は音がしないもので、「しんしん(涔々、深々、沈々)と」、また「しとしと」(与謝野晶子「花子の熊」大正八年)降って来るものである。「雪がこんこんと降る」という表現があるとして、さて、どういう降り方かと省みると、説明し難く、小止みなく、しきりに降る様子としか言えない。しかし、「こんこん」という語からこの意義は導き難く、カ行音の硬く緊張した音感は雪の降り方にふさわしくない。また、「こんこん(滾々)と湧き出る泉」、「こんこん(渾々)と流れる川」は実感の伴わない漢語で、これを下からではなく上から降ってくる雪に結びつけるのは後知恵による解釈である。
北原白秋は『お話・日本の童謡』(大正十三年)の「雪こんこん」という文章で、「あの紫がかった薄墨いろの空から、こんこんと雪が湧いて降って来る」として、全国各地の雪を歌ったわらべ歌を紹介している。ここで、雪がこんこんと空から湧いてくると解していることはどう考えるべきか。これを読んで思い起すのは、京都のわらべ歌「雪花 散り花/空に虫がわきます/扇 腰にさして/きりりと舞いましょ」である。あるいは、有名な秋田のわらべ歌「上見れば 虫コ/中見れば 綿コ/下見れば 雪コ」でもよい。これは子供の発想として、空を見上げて雪を見れば、まるで虫が湧いているように見えると言っている。雪が空から湧いて来ると捉えているのではない。白秋はこのわらべ歌を参考にして「こんこんと雪が湧いて」と逆に類推したのであろう。そこに詩人的な感覚もあろうが、大地からでなく、上方から湧くことにやはり無理な解釈が入っている。
この問題を考える鍵は、「雪(霰)や」の「や」にある。「雪(霰)がこんこん」とは決して言っていないことに着目すべきである。「我妹子や、我(あ)を忘らすな」(万葉集、巻十二)「朝臣や。さやうの落葉をだに拾へ」(源氏物語、常夏)のように、間投助詞として呼び掛けに用いる例から考えて、この「雪(霰)や」を主格ではなく呼格、独立格として解すると、解決が開かれそうである。なお、「こんこ」は後述するが、これが本来の形で、後に「こんこん」ともなった。これは先にも述べたが、二音節を一単位として、四拍子を国語の基本的な韻律であると捉える国語らしい言語感覚によるものである。
A源流と伝播
「雪やこんこん」の本来の意味については現在、既に明らかになっていて、「雪や、来む来む」、つまり「雪よ、降って来い」と考えるのが正しい。そして、この源流は平安時代後期に溯ることができる。『讃岐典侍日記』に、鳥羽天皇が幼い時に「降れ降れ粉(こ)雪と、いはけなき御けはひにて仰せらるる聞ゆる」と記している。ここで、「降れ降れ」と命令形が二回繰り返されていることに注意すべきで、やはり雪に対して呼び掛けている。さらに『徒然草』(百八十一段)に次のような興味深い話が書き留められている。「『降れ降れ粉雪、たんばの粉雪』といふこと、米つきふるひたるに似たれば、粉雪といふ。『たまれ粉雪』といふべきを、あやまって『たんばの』とはいふなり。『垣や木のまたに』とうたふべし、とある物しり申しき」と記した後、『讃岐典侍日記』の右の部分を紹介している。ここでもやはり「降れ降れ」「たまれ(垣や木のまたに)」と命令形である。また、『閑吟集』(二四九)に「降れ降れ雪よ/宵に通ひし道の見ゆるに」があり、雪に対して、降ってほしいと希求するという発想が受け継がれている。雨であれば日照りの時以外に降って来いと願うことはないだろうが、雪は時には降って来てほしいというのが、日本人、ことに子供の共通感覚といえよう。
この雪を待ち望む発想が近世に引続いて使われる。
  ゑのこ(犬の子)さへ御寺の垣にふりたまる、嬉しかりける、雪やかふかふ(堀川百首題狂歌集)
  雪やこんこん、霰やこんこん、舞ひ舞ひ独楽(こま)めくるりめくるりと(浄瑠璃『浦島年代記』七世の鐘)
  雪こんこんや、丸雪(あられ)こんこんと、小褄に溜て(井原西鶴『本朝二十不孝』)
第一、三例で「たまる」を、第二例で「舞ひ舞ひ」と畳語の命令形を使う伝統的な発想であることに注意すべきである。
この歌謡がわらべ歌として全国に広まっていった。町田嘉章・浅野建二編『わらべうた』によれば、次のような例を拾うことができる。
  霰や コンコン 豆 コンコン(秋田)
  雪 コンコン 雨 コンコン/お寺の屋根さ 雪一杯 たーまった(宮城)
  雨コンコン 雪コンコン/おら家(え)の前さ たんと降れ(福島)
  霰コンコ、お寺の前に一升五合たまれ、たまれ(新潟、長野)
  雪やコーンコン/霰やコーンコン/お寺の柿の木に/一ぱいつーもれ/コーンコン(京都)
  雪やコーロ 霰やコーロ(佐賀)
ここに共通していることは、前と同じく、「や」の間投助詞を使う例もあり省くこともあること、「こんこん」は連用修飾の用法ではなく、呼び掛けであることから動詞性の意味であること、「降れ、たまれ、積れ」は動詞の命令形で、「こんこん」と響き合っていることである。これらは、子供が家の中で雪や霰が降っている様子を眺めているのではない。外で走り廻りながら、空に向って、もっと降れ降れ、降って来いと囃し立てているのである。雪や霰が降る形容を示す擬態・擬音という考え方は後代の大人の解釈であって、子供にとっては嬉々として遊び戯れる世界のことである。
B原形の考察
「雪やこんこん」は前述の通り、「雪や来む来む」が元の形であるが、これについて詳述する。この「来む」は、平安時代以降、発音の変化により、「来ん」とも表記され、鎌倉時代以降は「来う」に変った。このもとの「む」は相手に対して勧誘、促し、命令の意を表す助動詞である。例えば「とくこそ試みさせ給はめ」(源氏物語、若紫)、「鳴り高し。鳴り止まむ」(同、乙女)のように、本来、自己の意志に用いる意識が相手、対象の意志に向って、誘い込み、促す。「雪やこんこん」は「雪や、来む来む(来ん来ん、来う来う)」と考えるべきで、雪よ、降って来い(降ってきたらどうか)と、雪に対して勧誘し、希望している。また、「こんこ」の後の「こ」は「来(く)」の命令形「来(こ)」で、結局「こん」「こ」とも意味としては命令を示している。
なお、「こんこん」を「来よ、来よ」が変化したとする説もある(小野恭靖『子ども歌を学ぶ人のために』)。しかし、「こよ」が「こん」に変化するのは不自然である。命令形の「来よ」は鎌倉時代まで使われ、室町時代に「来よ」が「来い」に変化した。「来よ」が撥音を含む「来ん」という古い形に戻ることはあり得ない。ただ、現代に至ると、「こむ(こん)」を命令表現と捉える意識から「こいこい」に転じることは次の例のようにあり得る。
  雪や来い来い/霰や来い来い/大山やまの雪ころころや(鳥取、『日本歌謡集成』十二)
  雪や来い来い坊やは寒い/寒いお手々をたたいて待(まつ)に/雪よこんこと降ってきた(若山牧水「雪よ来い来い」大正八年)
この「雪よこんこと降ってきた」の「こんこ」は「と」があるけれども「来い来い」の意味で使っていよう。「雪よこんこと」期待するように降ってきたのである。これと相似たものに次の例がある。
  だるま だるまさんに/雪こんこ おふり/みんな こい こい(野口雨情「雪こんこだるま」昭和十年)
やはり「こんこ」と「こいこい」を同じ発想の流れとして表現している。
  雪ふりこんこんこ/積れ積れ/御寺の柿の木に(名古屋、『日本歌謡類聚』下)
「こんこんこ」と「積れ積れ」の命令表現を重ねて、雪を待望する気持を表す。このように、「雪や来い来い」は「雪や来ん来ん」の訛ったもので、「雪や来よ来よ」という古風な形によるものではない。
なお付け加えれば、三木露風の詩に次のような表現が見られる。
  雪よ降れ、/われらのこころを浄めよ、/‥‥雪よ、早よ降れ(未刊詩集「微光」)
  とべ、とべ、小鳥、/ふれ、ふれ、雪よ。(「チラチラ小雪」大正十五年)
雪に対して降れという希求表現が「浄めよ」「とべ」という、雪以外の他者に同じように使われているところに、共通した根強い言語意識を読み取るべきである。
C命令意識による類推
「こんこん」の「ん(む)」は前述の通り、対象に対して行動を勧め、促して、その実現を期待する言語主体の陳述を表す。その発想で、同じような語構成による語を見出すことができる。「でんでん虫々 かたつむり」(『尋常小学唱歌』一、明治四十四年)の「でんでん虫」は「出む出む」であって、かたつむりに対して、「角だせ槍だせ あたまだせ」と子供が呼び掛けている。この語は江戸時代中期に既にあり、一方、「ででむし」もあった。これは「出え出え」という命令形による命名である。方言で「でえろ」というのは、「出ろ出ろ」であり、同じ系譜である。「まいまい」は「舞い舞い」であって、「舞え舞え」の変化したものである。また、子守唄の「ねんねんころり おころりよ」の「ねんねん」はまさに「寝む寝む(寝ん寝ん)」で、寝よう寝ようと赤ん坊に誘いかけていることになる。「けんけん」は「蹴む蹴む(蹴ん蹴ん)」であって、片足で飛ぶ子供の遊びはまさに今、足で蹴ろうとしている格好そのものである。
さて、「こんこん」は命令形に相当する意味だが、唱歌、童謡には好んで命令形単独で呼び掛けて、望む例が多く見られる。
  ちょうちょう ちょうちょう/菜の葉にとまれ(「蝶々」、野村秋足、明治十四年)
  鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ ポッポポッポと 飛んで来い(「鳩ぽっぽ」、東くめ、同三十四年)
  もういくつ寝ると お正月‥‥早く来い来い お正月(「お正月」、同右)
  春よ来い 早く来い/あるきはじめた みいちゃんが(「春よ来い」相馬御風、大正十二年)
  あめあめ ふれふれ、かあさんが/じゃのめで おむかひ、うれしいな(「あめふり」、北原白秋、大正十四年)
この表現は「雪や、来む来む」と同じ発想で後世にまで引き継がれている。現代語で命令形が使われることはあまりないのに、文章語に近いけれども、子供の歌によく用いられるのは、表現、文体の特色として国語らしさを示している。
D体言に転化
「こんこん」は「でんでん虫」が体言になったように、雨そのものに用いられることがある。
  さァさァよの坊や あの様に雨々(こんこん)が降って来たから、お母(つか)の所へ連れて行かうのう(為永春雅「妹背鳥」、天保年間か)
  雨こんこ パラパラ 降ってきた(野口雨情「みそさざい」大正九年)
これは「雨こんこん」の略であり、現代の方言でも幼児語で「こんこ」を細雨や雪の意味で用いる地方がある。「こんこん」「こんこ」が広く普及した証左である。また、「わんわん」や「にゃんこ」は犬や猫の鳴き声がそのまま体言として定着した幼児語である。ということから「こんこ(ん)」も本来の動詞としての原義が忘れられて、擬態・擬音語として認識されることが一般化し、その後、体言化したとも考えられる。 
四 「背くらべ」 

 

(1)作者と作品
作者、海野厚は明治二十九年、静岡県安倍郡豊田村(現、静岡市)曲金に生れ、早稲田大学に進んだが、肺結核のために中退、大正十四年に二十八歳で亡くなった。この詩は東京で、郷里にいる十七歳年下の弟(海野春樹)のことを懐しく思って作ったものである。大正八年に第一連を作り、同十二年に中山晋平が作曲し、レコードに吹き込む時に、第二連を追加するように要請されて、付け加えた。
(2)第一連
○柱のきずは をととしの/五月五日の 背くらべ/粽たべたべ 兄さんが/計ってくれた 背のたけ/きのふ くらべりゃ 何のこと/やっと羽織の 紐のたけ
まず、この詩は弟が作ったのではなく、兄が弟の立場に立って作ったことを知らねばならない。ここで「をととし」とことさら言われていることには事情がある。このころ、雑誌の編集に忙しく、しかも病弱であった兄は実際に二年間、帰郷できなかった。そこで、東京から故郷の弟を思い、二年間でどれだけ大きくなっているだろうかと気に懸けていた(読売新聞文化部『愛唱歌ものがたり』)。この背景を知らなくても、この詩そのものは弟が兄と背くらべをする温かい兄弟愛が五月五日の端午の節句を舞台に歌われていることは分る。大正時代の家庭における子供の生活の一端がやや散文的、説明的にのどかに物語られている。「背くらべ」という言葉は『伊勢物語』の筒井筒、樋口一葉の『たけくらべ』に見られるように、子供の成長の喜びと他者への意識が、大人に近づく期待と不安を底に漂わせながら感じられる。なお、「きのふ くらべりゃ」で、なぜ「きのふ」と表したのだろうか。先に「をととし」と言ったので、それに対応するように、前日のことを振り返って「きのふ」と言ったのか。すべて過ぎたこととして回想するという視点に統一したのか。不要のように見えて、この文脈に適合した語に収まっている。
ここで一番の問題は「羽織の紐のたけ」をどのように解釈するかということである。まず、「たけ」を長さと考えた場合、@弟の身長が二年間で伸びた長さ、A二年前の兄の身長と今年の弟の身長の差、となろう。また、「高さ」と考えると、B弟の身長が二年前の兄の羽織の紐の高さに達した、ということになる。次に、「背くらべ」とあるからには、何と何とを比べているのか。弟が二年前と今年の自分の身長を比べているなら、紐の分だけ伸びたので右の@と対応する。弟が二年前の兄の身長と比べているなら、その差を指摘するのが右のAで、また、Bは兄の紐の高さのあたりまで伸びたと捉えていることになる。
このことについて、弟の春樹は次のように解説している(前掲書)。「末弟の私は小学三、四年まで、ちょうど羽織の紐が気になる年ごろだった。そして、その年齢の子どもが二年で伸びる身長が、まさに羽織の紐と一致する」。現在、これが一般的な考えで通説となり、右でいえば@である。しかし、これは作詩者の兄の話ではなく、後年になってモデルとなった弟が解釈している。「羽織の紐が気になる年ごろ」は大人になって幼年時代を回想する、無理した言辞であり、「二年で伸びる身長」云々は後になって分る大人の知識である。子供の生きた視点が何も入っていないことに注意すべきである。
「羽織の紐のたけ」は簡単なようで、難しい。そこで、私は金田一春彦に手紙で尋ねたところ、次のような回答(要旨)を得た(昭和五十九年六月)。
  作者の二人(事実は三人―引用者注)の弟の末弟の海野春樹氏の説によると、一昨年から今年に比べて、弟である自分の身長は羽織の紐の丈け、つまり五、六センチぐらいしか伸びていなかった。作者は実際に柱で身長を計ってくれた。この歌は作者が東京に出てから弟が淋しくしているだろうと思って作られた。
これは前述の海野春樹の解説と一致する。
ここで考え直さねばならないことは、「きのふ くらべりゃ 何のこと やっと」という表現である。@の説が広く支持されているのに、これに言及したものは不思議と見られない。「何のこと」「やっと」はどちらも否定的な意味合いを持つ言葉である。昨日、二年前に兄が計ってくれた「柱のきず」を比べたら、何のことはない、当てがはずれて、どうにかこうにか「羽織の紐のたけ」であったというのである。ぐんと背が伸びた喜びを言っているのではなく、一昨年の兄または自分の身長と比べて、予想外に伸びなかった弟の残念な気持を歌ったことになる。この感情を考慮して@の説で押していくと、自分(弟)は「羽織の紐のたけ」ほどしか背が伸びずに残念であった。やはり兄にはかなわない、早く兄のように大きくなりたいという心境を歌ったと解すれば、自分と兄の身長をともに比べていることになり、一応「背くらべ」らしくなってこよう。ただ、それでも@の説の欠点は、自分の身長の伸びた長さの比較が中心で、兄弟の「背くらべ」そのものになっていないこと、「やっと」が伸びた長さを表すのには不適切で、それなら「たった」「わずかに」といった言葉の方がふさわしいということである。次に、Aの説で、兄弟の身長の差と解すると、その差が広がったか、縮まったかについて比較する視点の表現がないので、文脈上、差とは把みにくい。また、作詩の事情に立入ってしまうが、十七歳の年齢の差から考えると、「羽織の紐の長さ」では短かすぎて、現実的でない。
残るは、「たけ」を高さと考えるBの説である。ここで「たけ」の語源に溯って考察しよう。「たけ」は動詞「たく」の連用形が体言になったものである。「たく」は日が高くのぼる、高くなるが原義で、形容詞「たかし」と同源である。「たく」(高)は「上方へ伸長するとして、すなはち、空間的な方向量の義であり」(森重敏『続上代特殊仮名音義』)、一方、「時間的な方向量の義」では「たく」(闌)となり、盛りを過ぎるという意味になる。背丈、身の丈、丈の高い草などの丈は本来、上に伸びる高さから捉えたもので、思いの丈、たけなわ(酣)も内容の面からの高さを主に表したものである。前者の丈は別に見れば長さであろうが、根本は高さを基準にして、「立っている物の縦方向の長さ」(『岩波国語辞典』第六版)が本義である。従って、袖の丈は手を下におろした時の袖の、垂直的な長さをいうものであろう。また、これに上接する「やっと」は、どうにかこうにか、辛うじて、実現する、到達する、あるいはこれに近づくことを表すものであり、これは高さがふさわしい。
そこで、歌の「羽織の紐のたけ」を高さとして改めて解釈し直すとどうなるか。二年前の兄の身長を示す柱のきずに弟が一人で今年の身長を当てて比べてみた。期待していたのに、「何のこと、やっと」、兄のちょうど「羽織の紐のたけ」(高さ)にしか達していなかった。まだまだ兄の高さまでに至らず、兄にかなわない。残念で、くやしいが、早く兄のように大きくなりたい。このように解すると、前後に矛盾なく、兄との「背くらべ」であることもはっきりして、言語主体の表現意識と整合し、筋の通ったものになる。従来の通説の誤りは、「たけ」を本来の義である高さと考えなかったこと、「何のこと」「やっと」の心情表現との関連も考慮しなかったことによる。
この私の説は全くの新説ではない。池田小百合が『童謡・唱歌風だより』(平成十六・十一)で、「やっと」に着眼して、「羽織の紐」の「位置」として捉え、「『やっと』兄の胸まで届いただけだった」と弟の気持を汲んで解釈している。私はこれとは別に、前述の通り、三つの語の本義をもとに言語的に考証したのである。また、海野厚の作詩に中山晋平ら三人が作曲した楽曲叢書『子供達の歌』が三冊刊行され、第三集の『背くらべ』(大正十二年)の表紙に大きな兄を背景に、その中に小さく収まる弟の姿が、ちょうど兄の「羽織の紐のたけ」あたりまでに描かれている。挿絵はあくまで参考ではあるが、当時はそのように捉えていたことを証する。
(3)第二連
○柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える/遠いお山も 背くらべ/雲の上まで 顔だして/てんでに背伸 してゐても/雪の帽子を ぬいでさへ/ 一(いち)はやっぱり 富士の山
山が背くらべをするという話で有名なのは『万葉集』巻一にある中大兄皇子の三山の歌である。「香具山は 畝傍ををしと 耳成と相争ひき 神代より かくにあるらし‥‥」これは大和三山の妻争いの伝説をもとにしている。「諸国の名山の背競べ伝説」(柳田国男)は各地に伝えられ、特に、近江国坂田郡と美濃国不破郡との境にある山がその高さを競って聳えているので、その付近を長競という地名伝説として残っている。また、越前国坂井郡丸岡町に、丈競(たけくらべ、たけきそい)山という、名そのままの山もある。この歌は富士山とその周辺の山が高さを競うという捉え方であるが、富士山の対手は『曽我物語』の愛鷹(あしたか)山、柳田国男の『一目小僧その他』に紹介する浅間山、筑波山、鳥海山、白山など数多くある。「背くらべ」の作者はこのような伝承が念頭にあって、地元の富士山を持ち出した。柱にもたれて背丈を計ってもらいながら、弟は四方の山なみを望み、富士山がひときわ高かったという。山どうしの背くらべは富士山が飛び抜けて高い。同じように、四人兄弟の背くらべも兄が一段と高く立派である。富士山のように大きく、気高くなりたい、ということは兄のように大きくなりたいということである。ここまで考えると、第一連の「羽織の紐のたけ」は一昨年の自分の身長と比べているのではなく、あくまで一昨年の兄と比べて、兄の「羽織の紐」の高さまでしか伸びなかった自分を歌い、兄を強く意識していることに対応する。第二連は後になって付け加えたものであっても、二連を共通して背くらべであると理解しなければならない。
(4)構想と主題
この歌の動機、発想、構成については既述の通りで、「羽織の紐のたけ」を高さと考えることによって、統一的に全体の流れを理解することができる。長さであれば、背くらべの本旨、兄との競争心などにおける弟の位置づけが弱くなり、全体として構想にまとまりを欠いてしまう。この歌の成立事情を知らずに、この歌だけで解釈すれば、兄弟の愛情が溢れた子供の世界における弟の兄への信頼と競争心が主題になろう。しかし、成立した内実を知った上で解釈すれば、兄の弟へのやさしい愛情、それにこたえる弟の無邪気な心が中心となる。もちろん、どちらも正しいのだが、力点の置き方が変ってくるだけである。池田小百合は、「弟のいじらしさがあふれてくる」(前掲書)として、弟の心情を読み取っている。前述の童謡集は海野春樹の次女、海野万万恵によって復刻された(『産経新聞』平成十八・五・四)。これに前述の表紙絵も出ていて、海野万万恵は「時代は変っても兄弟を思いやる心は変わらない」と語る。子供の成長を祝う端午の節句にふさわしい歌といえよう。 
 

 

(下)要旨
本誌第四十号(平成二十一年三月)でわらべ歌の二編(「かごめかごめ」「通りゃんせ」)を取上げ、国語学・国文学の研究に基づき、起源の形から歌詞が変化していく過程を跡づけながら、歌詞の言葉と表現を言語主体の意識や感覚を中心に精しく分析し、一語、一句ごとに解釈を施し、主題を明らかにした。本稿はこれに引続いて、わらべ歌の「ずいずいずっころばし」を考究する。
この歌は江戸時代の文献には見られず、明治十六年の綿絵風のおもちゃ絵が初出であり、二、三十年の歌謡集に見られる。内容については従来、意味がはっきりせず、明確な説明がされなかった。通説としては江戸時代のお茶壷道中によるとされるが、これには何の根拠もなく、歌詞の一部をそのように考えれば、その歌の部分的な解釈ができるという程度に過ぎない。この他に、意味不明説、不可解な点に意味を認める説、また、解釈そのものを否定する説などがあり、それ以上に進まなかった。その後、近世近代の歌謡研究家の西沢爽氏が「ずっころばし」と「胡麻味噌」を近世語からの転訛として解釈を試み、大体の全体像が初めて明らかになった。
本稿はこの西沢説によりながら、近世語の用例や関連語を挙げて右の二語の語釈を補い、「抜けたら」その他について新しい解釈を提示し、全体の展開と構成を矛盾することなく、整合的に明らかにし得た。さらに、元の歌詞が転訛していく過程を追い、異なった語句の解釈から逆に元歌の語釈を究め、また、多くの類歌の表現を分析し、そこに共通する意味や言語主体の発想と意識を探り、この歌を初めて総合的に解明することができた。研究の態度としては、先入観にとらわれず、独断やこじつけに陥らず、また、興味本位や卑俗に流れず、あくまで学問的に語釈、評釈し、考証することを心懸けた。わらべ歌は子供の素朴、純真な童心だけを歌うものではなく、特に意識しなくても、その底には善悪、明暗、清濁の入り混った心を表すものである。 
七 「ずいずいずっころばし」

 

(1)起源と成立
わらべ歌「ずいずいずっころばし」の文献上の初出は、明治十六年に「錦絵一枚摺のおもちゃ絵資料」として板行された『しん板(引用者注、新版のこと)子供哥づくし』(歌川芳藤画)である。五曲の童歌の歌詞を四十二コマに分けて絵を付す。その一首目がこの歌で、六コマに漫画風の絵が描かれている(小野恭靖『絵の語る歌謡史』)。また、同十八年の『新板子供哥づくし』にも載せられている(同)。続いて、同年に岡本昆石が『古今百風 吾妻余波(なごり)』を著し、歌詞はないが指遊びの絵を描いている。岡本は同二十六年、『あづま流行 時代子供うた』も刊行し、ここに、右のおもちゃ絵と同じく、現在通用しているものとは語句が一部違い、また短いが、まとまった歌詞を記録している。本書は「幕末期の童唄、童言葉二四三編を収録」したもので(『近世童謡童遊集』)、編者は嘉永五年生れ、後者の刊行時は四十二歳であった。次に、江戸後期の儒者、大田錦城の曾孫である大田才次郎編『日本全国児童遊戯法』(同三十四年刊)で、歌詞はやはり少し異なるが、東京と伊勢の歌詞が報告されている。また、明治二年生れで文部編修官であった平出鏗次郎編『東京風俗志』下(同三十五年刊)にも収められている。しかし、江戸時代の文献では行智編『童謡集(童謡古謡)』(文政三年)をはじめ見出すことができない。以上のことから、この歌は江戸末期から明治前期に東京で作られ、中期に広く流行したといってよいだろう。
(2)解釈の通説と無意味説
この歌詞について、従来必ずしもうまく説明されてこなかった。一般的な通説では、お茶壷道中に結びつけて説かれる。代表的なものとして、浅野建二は「宇治でとれた新茶を御茶壷につめて将軍家に献上するために東海道を下向する」とき、「子供たちが…驚きあわてて逃げる様を言ったものとして解される」と言う(『新講わらべ唄風土記』)。この説は広く信じられ、初夏の八十八夜に早摘みした新茶を献上する行事が「…と童謡に歌われた江戸時代の茶壷道中を再現する昭和新版『第十七回お茶壷道中』が二日、京都市東山区の祇園一帯で繰り広げられた」(京都新聞、平成元年五月三日)と、毎年のように親しまれている。また、宇治の御物茶師の老舗ではこの歌に絡めて道中の説明をする。この通説をもとにした解釈は次の通りである。道中の警護が厳しいので、子供や家人があわてて家の中に駆け込み、隠れていたが、一行が通り抜けてほっと安心した、この騒ぎに、俵から米を取り出し、食べていた鼠が驚いてチュウと鳴いた、喉がかわいた子供達が井戸に集り、争って水を飲んだのでお茶碗を割ってしまった、というものである。この解釈は歌詞の順を追って、一つの物語として創作したような印象を受ける。これとは別に、歌詞の語句に基づいて解釈する試みもある。平岡正明は猪野建治から考えを得たとして次の通り説明する(『大歌謡論』)。
  (お茶壷道中の)供先の士が道で遊んでいる子どもをズイズイズッコロバスのをおそれて、人々は茶壷に追われて戸を(引用者注、トッも掛けるか)ピッシャンと閉めて行列が通り過ぎるまで家の中に入った。ゴマミソズイというのは、人間でもないのに茶壷が威張りかえって通りすぎることへの比喩で、通りすぎたらドンドンやろう、童謡のかたちを借りた民衆の怒りだとのこと、これで解けた。
語句を一応なぞってはいるだけで、基本的には通説と変りはない。この考え方と先入観は現在に至るまで牢乎としてあり、平成十九年一月、文化庁と日本PTA全国協議会が公募によって「心に残る日本の歌一〇一選」を選定した中に、この歌が入れられた。長田暁二はこれと同名の解説書で、通説によって説明し、「そのときの気持ちをユーモラスに歌い合ったのが、このわらべ唄」とする。
しかし一方、この歌は意味不明とされることも多く、上笙一郎は早くに次の通り述べていた(『童謡のふるさと』上)。「お茶壷道中説も…意味や解釈にとらわれすぎている…起源もおもしろさも、じつは、この唄が、解釈可能な意味をまったく持たぬものであるという、まさにその点にあった」。「一貫した意味なんか、はじめからなかった……何かの擬音めいたことばのおもしろさと、それが軽快なリズムではこばれていくたのしさとがすべて」「この唄ほどナンセンスに徹し、しかも底ぬけに健康で明るいものはない」。とは云え、伝播し、時代が流れるに従って意味が分らなくなることはあっても、その歌が発生した当初は十分に本来の意味があったのではないか。さらに、同種の捉え方として、金田一春彦は「支離滅裂、何を言いたいのかさっぱりわからない。……それ(お茶壷道中)を歌ったものだったと言うが、今の歌からはその様子は想像しにくい」(『童謡・唱歌の世界』)と述べ、尾原昭夫は「歌の意味はいろいろいわれていますが、よくわかっていません」(『日本のわらべうた室内遊戯歌編』)としている。また、松永伍一は「シュール・リアリズム(引用者注、超現実主義)の詩を前にしたときの一種の難解さに似ている。…日本ではその初発の芽が無心に遊ぶ子供たちのわらべうた、すなわち『無心所着のうた』を土壌にして息づいていた」と説く(『うたの慰め』。また、同じ趣旨が『定本うたの思想』にもある)。ここでいう「無心所著の歌」は萬葉集の巻十六(三八三八)に収められ、「心の著く所無き歌」で、「相互に無関係の語をくっつけて詠み込みわざと意味がわからないように作った歌」とされる(『日本古典文学全集 萬葉集』)。松永の説明では「うたの一句ごとに別々の…ことを言い、全体として意味をなさぬうた」で、「無心の状態が必然的に生み出すシャーマンの呪文の類に似ていはしないか。出まかせと言ってもよい」ということである。これは無理に理窟をこじつけたような意見で、やや無責任である。佐佐木幸綱も同じような観点から次の通り言う(『現代詩手帖』昭和四十九年八月)。「意味をとることはむつかしい。…指突きの擬態語のニュアンス、そして何やら父母から独立しようとする子供たちの秘密結社的な結束のムードなどと言ってもはじまるまい。…子供は、反意味的歌詞を呪文のようにうたいつつ自らの遊びを遊ぶ。うたうことで自己に没入する。そのための歌なのだ」。結局、お茶壷道中に起源を求める説と、それを否定、または放棄して、意味不明のところに意味を認めようとする説があることになる。前者が広く受入れられている通説であるが、後者もまた一つの通説として認識されている。
(3)通説への疑問と反対説
以上の通り、この歌の歌詞については従来、十分に解明できていなかった。お茶壷道中に起源を求める考え方も説得的とはいえず、素朴な疑問が湧いてくる。
@ わらべ歌は冒頭の歌い出しが肝腎で、これが歌の基調を提示し、全体の雰囲気、情調を醸し出して包み込む。しかも、これが歌の場の基底をなして、展開し、関わり、いわば囃し言葉の役割も果している。しかし、この歌い出しは道中の様子やそれに対する子供の反応や動きに全く結びついていない。道中説でこの冒頭句について説明したものはほとんどない。
A お茶壷道中は江戸時代前期に制度化されたが、この歌は江戸期の文献には記録されていない。道中に結びつける根拠は「茶壷に追われて」の一句のみである。しかし、厳重で傲慢な振舞があったという道中を避けて逃げようとする動作が「茶壷に追われて」という表現と必ずしもぴったりしない。ここはもと「烏坊(からすべ)に追われて」であり、「茶壷」は後の変化である。このことから、道中に由来を求める説は成り立たない。さらに、「茶壷」であって「お茶壷」でないことに注意すべきである。お茶壷道中は公式には茶壷道中であるが、一般的には「お」を付けて表し、また、「お茶壷」一語のみで、宇治から将軍家におくられるものを限定的に意味した。これは例えば、おあし(銭)、おまん(饅)、おやつ、おつむ(頭)、お礼、御身拭いなどの「お」と同じく、「お」があってこそ特定の意味を持つ語として成り立つ。「茶壷」では一般的な普通名詞に過ぎない。
B これに続く歌詞で、「とっぴんちゃん」を戸を締める音、「ぬけたらどんどこしょ」を行列が通り過ぎるのを喜ぶ姿にとるが、そのように解釈すればできるという程度であり、必然性がない。まして、これに続く「俵の鼠が…」の説明がうまくいかない。
C 道中は往路が東海道、復路が中山道の官道を通るが、子供の遊び場として適切かどうか。わらべ歌は細い路地や奥まった細道を舞台にしている。また、この歌全体を通して、子供の遊びや動きの描写に乏しく、子供らしい明るさやのどやかさに欠けている。むしろ、秘密めいた隠し事の世界、親の目を掠めて、いたずらをしている秘儀めいた印象が感じられる。
D この歌の旋律は他のわらべ歌と同じく伝承されてきた曲調に基づいていようが、全体として滑稽なおどけたところがあり、また、冷めたひやかしの感じがして、他と比べると異質である。少なくとも子供らしさがない。また、道中から逃げて隠れようとする恐怖と曲のふしが合っていない。恐怖というより、隠微な暗ささえ漂っている。
E この歌は指遊び唄であるとともに、鬼決め唄である。前述の『しん板子供哥づくし』や『吾妻余波』の絵の通り、数人の子供が両手の握りこぶしを並べ、一人が人差し指で、そのこぶしの穴を突き刺しながら歌っていく。わらべ歌は動作、遊戯を伴うもので、その歌の内容に応じた遊びになっている。この歌の仕草は道中とは全く関係がなく、逆に、他のわらべ歌と同じく、右の手遊びから歌の意味を考える手懸りになりそうである。
F わらべ歌は全国に広がっていくにつれ、言葉が訛り、形が崩れていく。基本的な流れは変らないが、歌詞の一部が異なる類歌が多く生じてくる。これを調べていくことにより、逆に元の歌詞の内容がわかってくることがある。この歌詞の別語や類歌を比較し考察すると、道中とは何ら関わりのない、ある一定の別の意味が見えてくる。
G この歌は一般に一番のみとされるが、後に新しく作られた二番の歌詞が存在する。これを読むと、一番の意味をどう捉えたかということがはっきりしてくる。道中に関係する表現はやはり何もなく、別の意味が想定される。
このような疑問は直感的で、ごく自然なものであり、わらべ歌であるという先入観、願望、あるいは期待感がこの歌の正当な解釈を妨げてきたのではないか。一方、前述の、解釈は不可能で、意味のないところに意義を見出そうという説も一つの見識ではある。しかし、歌はもとは何らかの意味、つまり言語主体の対象に対する捉え方や態度に基づいて表現されたものである。その歌の発想や心意を言語表現に即して探ることはやはり可能である。この歌が長く伝えられてきたのも、単にリズムのよさやおもしろさだけではないであろう。この無意味説(解釈不可能説)を突き詰めると、解釈否定説になる。寺山修司は別役実との対談「わらべ歌考」で次のように述べる(『日本童謡集』、後に新編集して『日本童謡詩集』)。「童謡ブーム、童話ブームというのも一つの分解運動のなせるわざ」(別役)に対して、「分解するという言葉につきまとう真理探求的な感じがいや」であり、「『事』を分解しようとするときに、『事』にも一つの真実があるんだという前提を受け入れることになる。それは一般的理性への退行」であるという。そして「いくつかの解釈をしてみても、結果としてはどれも『正解』ということにな」り、「正解を発表しても、それに見合うだけの保証というものが、現在形の中には何一つない」と述べる。これは評論家の立場であり、それはそれとして許されるであろうが、国語学徒として放置しておくわけにはいかない。右の指摘は研究上の注意として受け止めて、やはり「真理探求」に向わねばならない。
そこで、この歌を解釈するもう一つの視点を以下に述べる。この説は内容に問題があるからか、正面きって扱われることがなかった。また、論者の述べ方も控え目で、発表した書物も一般の目に触れることが少なく、世にそれほど知られなかった。それは性の意味が含まれているとする考え方で、中野栄三が早くに指摘していた。中野はこの歌を「全然に意味の続かないような言葉が混っている」とし、語呂、尻取り、早口などの「言語遊戯があったか」としつつも、続いて「丁稚と小娘の蔵の中の出合を思わせるような文句」であると、一つの見通しをつけていた(『性風俗事典』昭和三十八年)。また、添田知道は、「わらべ唄のおもしろさが、意味よりも音感に多くかかわっている…おろかな解説はしないが、この歌を性意でうけとるようになるのは、おとなになってからのことで、子どもはただ無心にうたっていたのである。そして語意よりも、まず音による吸収とするのである」と、大人と子供の区別をして、意味深長な示唆を与えていた(『日本春歌考』同四十一年)。さらに、高橋鐵は三箇所が「はっきりセックスを表わしている」とだけ述べていた(『日本の神話』同四十二年)。この方向づけを決定的にしたのが西沢爽で、まず昭和五十三年に日本歌謡学会で研究発表をした後、「わらべ唄『ずいずいずっころばし』はエロ唄だった」を公にした(『雑学艶学』同五十四年)。ここで、この歌が猥歌、戯歌(ぎれうた)であることを多くの資料に基づいて論証している。この説は内容が性に関わり、しかも子供の歌ということで、半信半疑か、触れられることが好まれないからか、一般には普及していない。しかし、わらべ歌や民謡、また、子供の替歌に性意を含んだものがかなりあることは周知の事実である。民俗学では性の問題が微妙に避けられるが、それに反する立場の研究もある。成句も例外でなく、笹間良彦は「『ちゅうちゅう蛸かいな』とか『ずいずいずっころばし』の歌は大人が子供に教えて、無邪気に子供はそれを口にするが、本来の意味はもっと婬猥である」という(『好色艶語辞典』平成元年)。
この歌は通説通りに、また、意味不明とされても、それだからこそ長く親しまれきた。それはそれとして意義を認めるべきである。しかし、この歌について正当な解釈を施し、わらべ歌の中に位置づけることは十分に意味のあることである。ただ、内容が内容なだけに、この読解は予断と先入観を排し、客観的に慎重でなければならない。小野恭靖は性意でとることに「疑問を抱いて」次のように述べる(『子ども歌を学ぶ人のために』)。
  「茶壷」を性的な意味で深読みしてしまえば、その他の歌詞もすべて深読みに深読みを重ねて一曲全体をセクシュアルな歌に解釈してしまうことにつながる…それこそが現在種々行われている牽強付会で恣意的な解釈を導いている原因に他ならないのである。
この所論も語句の一部に新説を述べるものの根拠がなく、歌全体の内容との関わりが不明である(後述)。「性的な意味」に取らない立場に立とうとするあまり、逆に同じように「深読み」をしているのではないか。ただ、「恣意的な」こじつけにならないように注意しなければならない。
本稿は西沢の論を参考にしながらも、触れていないことを補い、誤りと思われる説には私見を呈し、語句の変化の過程を跡づけ、類歌を追加して併せて考察する。そうして、一貫した流れを把み、発想と趣意を説き、全体像を明らかにしようとする。従来のわらべ歌研究に一番欠けていた点は国語学の立場からの追究がなされず、言葉の面の究明が十分にされなかったことである。本稿は前稿(中)(本誌前号)で取り上げた「かごめかごめ」「通りゃんせ」のわらべ歌の国語学的研究の一環であり、特に今回は近世語、近世文学の知識、方法に基づき、あくまで学問的に語義を考証し、究めていく。なお、主に参照した近世語の辞典は次の通りである。
  『江戸語大辞典』(昭49、『江戸語の辞典』昭54)『江戸語辞典』(平3)『江戸語事典』(昭46)『江戸時代語辞典』(平20)『雑俳語辞典』正続(昭43、昭57)『川柳大辞典』(昭37)『江戸川柳辞典』(昭43)『新編川柳大辞典』(平7)『近世上方語辞典』(昭39)『上方語源辞典』(昭40)『俚言集覧』(明32)『隠語辞典』(昭31)
(4)語句の考証と解釈
○ずいずい ずっころばし
ズイズイは次のズッコロバシを序詞のように導き、調子を整える語句である。「つんつん つばき」「なんなん なつめ」など現代の歌謡や童謡のように、同じ音の語句を引き出し、中心的な語句を強く引き立てることになる。ところが、この形に定着する前は、ズイズイ スッコロバシヤ(『時代子供うた』)、ツイツイ ズコバシ(伊勢、『遊戯法』)であり、語形は一定していない。従って、現在のズッコロバシは少なくとも訛って変形したものであると推定できる。そこで、この語をよく見ると、コロブ、コロバシという動詞を含んでいることに気付く。西沢爽は『江戸語大辞典』の用例にもある式亭三馬の『小野舷譃字尽(ばかむらうそじづくし)』(文化三年)に、最下層の私娼である夜鷹の別称として「惣嫁(そうか)、夜発(やはち)、辻君、ついころばし…」とあることに着目し、このツイコロバシをケ(蹴)コロバシの転訛だろうとした。これは卓説であり、この冒頭句がこの歌全体の意味を方向づけ、決定することになる。ツイコロバシは他動詞形であるが、その自動詞形のツイコロビ、訛ってツイコロボも『鳴絃之書』(元禄十五年)『正風集』(享保十五年)などにあり、夜鷹、惣嫁の別名として使われた。
以下、詳論すると、まず、コロブ(転)は「ころぶからそれではやると芸者いひ」(柳多留)のように、遊女以外の女、芸者などが隠れて売春することで、江戸期の川柳や戯作本に多くの用例がある。コロバスは「茶屋の二階でげいしゃをころばし」(吉原楊枝)のように、口説いて自由にすること、コロビは不見転芸者で、コロビゲイシャともいい、コロビチャヤ(茶屋)もあった。コロビアウは私通、野合で、コロビハオリは深川の岡場所の羽織芸者のことである。
このように広く使われたコロブの他動詞形コロバスにケル(蹴)がついて、ケコロバスができ、その体言形がケコロバシである。これは下谷、浅草あたりにたむろしていた下等な私娼を指し、「けころばしごみも無いのにはいて居る」(柳多留)「煙たつ下谷の竈(かまど)けころばし」(雲鼓評万句合)などと詠まれている。これを略したのがケコロで「十二文ほどの機嫌でけころ出る」(柳多留)は銚子一本のほろ酔い景気をいう。この語はケコロバセとも訛り、ケコロミセ(店)、ケコロヤ(屋)なども使われた。これらの語句の中心はコロブとケルである。この転ぶ、転がるという発想からケツマヅクやケマロ、また、ダンゴ(団子)もあり、コロブという意味の定着と広がりが理解される。一方、ケルの方はケタオス(倒)、ケタオシが同種の意味で使われた。ここからケルそのものに交接する意味にとる説もあるが(小松奎文『いろの辞典』)、これは右の使用例からケルにその意味が付加されたのであり、ケルはこの時代では本来の意味を保って比喩的に使われた。現代語の隠語的な用法はその名残であろう。
ズイコロバシの原形がツイコロバシであるとする西沢爽の所論の考証は後述するが、このツイはもとツキ(突)であり、ツキコロバシの音便がツイコロバシである。ケコロバシとともに、突く、蹴るという行動的な意味の動詞であることに注意すべきで、つまり、同じ発想によってできた語である。それだけでなく、ツクはこれ単独で「戸立てゆへつく事ならず」(擲銭青楼古)のように交合の意味があった。このツイコロバシがさらに音便化して、ツッコロバシができた。ツッコロバシを夜鷹の異名とする説があるが(『絵解き・江戸っ子語大辞典』)、その用例は挙げられていない。この語はむしろ歌舞伎で使われ、ちょっと突くと、すぐに転びそうな、頼りないことから、若くして二枚目の色男の役どころをいう。ここでは、原義を保ちつつ、ツッコロバシが広く使われていたことを知ればよい。
さて、ズッコロバシの前に歌うズイズイは江戸の明和ごろから動詞に付く接頭語として、ずっと、ついと、すぐの意味で用いられた。例えば、ズイニゲ(逃)、ズイカクレ(隠)、ズイユキ(行)、ズイカエリ(帰)など、目的のもとに勢いよく力強く進むさまを表す。幸田文の「(父は)ずいくのんくと講釈師の通りにやりだした」(『こんなこと』)のズイズイはまさにその調子が出ている。このズイズイが次にズッコロバシを引き出すのだが、この語は見当たらない。ここは西沢爽の推測通りに、ツキコロバシからツイコロバシ、またツッコロバシの一群の語を想定して、それを導く音として、また、突イの意味を持ってツイツイが成立したのであろう。前述の通り、伊勢では「ツイツイ ズコバシ」と歌っていたことは、その例証となる。つまり、ツイを前置きの語として二拍を二度重ねて、四拍子にして、国語の基本的な韻律を整え、まず、ツイツイ ツイコロバシと歌い、次に言いやすいように、ツイツイ ツッコロバシとなった。ここの韻律を図示すれば、ツイ−ツイ−ツッコロ−バシ−、と四拍子が等拍に平板に滑らかに進んでいる。このツイツイは「ついついといた」(さっさと通りぬけた)(上田秋成『胆大小心録』)「ついついと藪の中より菜種かな」(小林一茶『文化句帖』)のように、動作の素早いさまや真直に突き出るさまを意味する語で、ツイコロバシに続く語として意味的には合っている。それがツイツイより言いやすく、重くて大きい音感のヅイヅイと濁音化して、さらにより発音に近い文字表記として、ズイズイに取って代ったと思われる。この速く進む音感が同時にこの語の意味と関連してくるのである。なお、このあたりのズはヅと表記して考えると解しやすくなる。
○ごまみそ ずい
ここが一番難解な箇所で、一般的には「胡麻味噌」と漢字で表している。前述の『しん板子供哥づくし』では、少女がすりこぎと杓子を持って、すり鉢で胡麻味噌をつくっている絵が描かれている。しかし、これでは前後の脈絡がつかめず、意味が取りにくい。今はそれを離れて、ゴマミソが何かの語の変化ではないか、また、清音のコマミソが考えられないかと、追究しなければならない。これについて、西沢爽はゴマミソはコマイショから転じたと考え、これによってこの歌全体の意味が把むことができた。以下、西沢の所論をもとに説明しよう。
コマイ(木舞)とは壁の下地として、竹を細かく縦横に編み、細い縄で絡げたもので、その職人をコマイカキという。この職人は指の使い方が巧みで、複雑に交叉した竹を組んでいく。これが川柳の題材に好まれ、「こまいかき根津の入り訳け聞いて居る」(柳多留)は、職業柄、遊女との入り組んだ事情を聞き、「こまいかき茶人にいぢりころされる」(川柳評万句合)は建築にうるさい茶人に苦労する。このコマイカキの練達した指の動きが探宮、探春することを連想させ、コマイヲカクという熟語もできた。「女房を稽古所にするこまいかき」(柳多留)「くじる手の鶺鴒らしいこまいかき」(柳の葉末)と、妄想が膨んでいく。後の句は古事記にあるように、鶺鴒の尾の上下運動を指し、「こまかい指の動きが…くじる手つきを教える先生のようだ」といっている(矢野貫一「淫喩辞彙」『文学』平成十一年七月)。江戸語では他に「(指)人形(を使う)、指遣う、指木偶、指てんごう」「二本指」なども用いられた。以上により、コマイショの元の形はコマイシヨウと想定され、コマイショウを経て、コマイショと短縮形になったのであろう。その意味は抉(くじ)り、弄(いじ)ろうと、いたずら遊びをしようといっているのである。これが明治期になって元の意味が分らなくなり、コマイショがコマミソ、さらにゴマミソ(胡麻味噌)という日常の食物に解釈し直されたものと思われる。わらべ歌はもとより、現代の唱歌、童謡でも、子供は意味の不明の語を自分がよく知っていて、分りやすい単語に当てはめ、何となく分った気分で歌うことは一般的に見られる国語の現象である。これは例えば、西条八十が「ズイズイズッコロ橋」という童謡(コドモノクニ、昭和九年一月)で、「ズイズイズッコロ橋、どこの橋、お山の奥の丸木橋」と、橋の名前に敢えて転化して、「親豚コロリンと落ちました」に続いて、「あわてて子豚もズイコロリン」とズイの意味を効かせて、危ない橋を詠み、ズイコロリンを造語したことと、根本的に同じことである。「胡麻味噌」という、もっともらしい宛字にとらわれることなく、ゴマミソ、コマミソと仮名に直して考察しなければならない。
次のズイは西沢の説くように「強調の口拍子」で、冒頭のズイズイをもう一度、念を押すように反復して、調子を整えたものである。それとともに、ズイの次に二拍の休み(休符)を置き、わらべ歌らしい、というより国語らしい「二拍+二拍=四拍」の韻律を整え、一区切りを示している。このことから、ここまでの本来の形は、ツイツイ ツッコロバシ コマイショ ツイということになる。これがコマイショをゴマミソと濁音化することにより、ツイツイがヅイヅイと類推して意識され、前述の通り、この方が調子がよく出て、ヅイヅイの観念が定着し、口承文芸であるが文字表記するときに、ズイズイと書き直され、ツとヅの関連を失ったまま、この形が現代に至っているのである。
○ちゃつぼにおわれて
ここまで進むと、チャツボが何を意味するかが推測できよう。古代語でツビは女陰のことで、その母音交代による語がツボである。これが近世に「能い壷へ懸る明石の浮れ蛸」(柳多留)「壷がいづみをたたへたは相模が下女」(同)のように隠喩として使われるようになった。また、ツボワリ(壷割)は情交することをさすらしい(『江戸時代語辞典』)。近代に至ると、ツボフリ(壷振)は爛壷振りの略で酌婦、私娼のこと、ツボヤキ(壷焼)は情交の意である。チャツボはツボと同じ比喩として、「新茶の茶壷よなふ、入れての後は、こちゃ知らぬ、こちゃ知らぬ」(閑吟集三三)のように、中世の小謡に早く使われている。近世の諸国の民謡集『山家鳥虫歌』(明和九年)に周防の民謡として、「一夜馴れ馴れこの子が出来て、新茶茶壷でこちゃ知らぬ」があり、両者ともコチャは「古茶」と「此方は」が掛けられている。これは他にも『延享五年小歌集』や山崎美成『歌曲集』(文政三年)などに類歌が多くある。古茶と掛けない単独でも、近松門左衛門『傾城江戸桜』中(元禄十一年上演)に「是は私が女房でございます。まだ新茶ちゃつぼで、ゆふべ口切をいたしました。よいちゃでございます」と、この語が普及していたことが知られる。このツボが形容詞となって、「つぼいなふ、せいしゃう、つぼいなふ、つぼや、寝もせいで、睡(ねむ)かるらう」(閑吟集二八一)のように、かわいいという意味に拡大して使われた。また、「待ち受ける茶つぼがみちてけさか明日」(軽口頓作)「うれしさよちゃつぼ見るよな娌(よめ)の腹」(磯の波)のように、子宮や妊婦の腹へと意味が広がっていく。また、コツボ(子壷)は子宮を指す。さらに、短縮されてチャ(茶)そのものが女陰を表すことにもなり、例えば「茶入れ、茶袋、お茶碗、茶を嫁ぐ、茶立女」など多く使われた(『講座日本風俗史別巻 性風俗』一)。なお、御茶壷そのものが女陰を意味することもあり、『吉原讃嘲記時之大鞍』(寛文七年か)に用例がある(『日本国語大辞典』第二版)。
次のオワレテは追い払われるのではなく、追い駆けられるの意味であり、茶壷(遊女)に追われるように攻められる、強要されるということである。関東地方で「茶壷に蹴られて」という形もあるが(北原白秋編『日本伝承童謡集成』三、昭和十年代に収集、同五十一年に全六巻刊)、特に意味を考えてのことではないだろう。また、ここの部分を「『茶壷が追われて』とあるべきところ」とし、「小娘は悲鳴をあげる」と口語訳する考えがある(須藤豊彦『国文学』平成十六年二月臨増)。しかし、この歌の本来の形は「に」であり(後述)、ここは茶壷を受身ではなく、積極的な主体として表現し、話のおもしろさ、意外性を強めたと考えたらいいだろう。
○とっぴんちゃん
トッピンチャンは寛政ごろの流行語で、特に深川で口拍子に用いられた語である。「『ヲヤ此子は大それた事をいんなんちゃからか、とっぴんちゃん』『又おかぶの唐人が』」(辰巳婦言)のトッピンチャンは唐人語をまねたもの、「いんなん」は言いなさるの意で、この後に唐言めかした軽口がつけられた。特に一定の意味はなく、前句に合わせて調子を整える囃し言葉とも一応は考えられる。
しかし、この語はここでは前後の文脈からいって、実質的な意味を担い、一種の擬態語であろう。また、トッピンチャンやドッピンシャンの語もあることから、西沢爽の説の通り、トッピはドッピの転訛であろう。ドッピ(ト)は「どっぴとわめいて」(日葡辞書)「嫁を見にどっぴと路次へかけて出る」(柳多留)のように勢いよく立ち騒ぐさまを表す。また、ドッピドッピは「さまざまの者を内へ取込で、どっぴどっぴと騒ぐやら、茶屋だの女部屋など、すべったはころんだはと」(浮世風呂)と、勢いがさらに盛んになるさまを表す。また、ドッピサッピは「表ざしきが乱妨な、どっぴさっぴの大一座」(与話情浮名横櫛)と使われた。また、トッピキシャという形もあった(半沢敏郎『童遊文化史』)。このことから、ドッピキシャ↓ドッピンシャ↓ドッピンシャン↓ドッピンチャンという変化が考えられる。いずれにしろ、ここはドッピを語基とした複合語を考えればよい。ドッピが清音化してトッピ、さらにトッピンのように撥音をつけて四拍子にした方が語として安定し、シャンがチャンに転訛して、より強い滑稽な様子を印象づける。以上によって、歌意は、遊女と攻め合って、戯れいちゃつき、大騒ぎをしていることになる。
○(からすべにおわれて とっぴんしゃん)
  (烏坊に追われて すっぽんちゃん)
前者は『しん板子供哥づくし』、後者は『時代子供うた』の歌詞である。この方が「茶壷」よりも古い形であり、この原形から考えると意味がよりはっきりしてくる。カラスベはカラスメと同じくカラスの蔑称で、船中で売春した比丘尼を指す隠語である。烏のような黒い頭巾を被っているところから、この異名がついた。「比丘人はからすのわきへ少し生へ」(川柳評万句合)「からすめはかへるにたかは見せを出し」(同)などの用例がある。
次のスッポンチャンは、スッパリ、スッペラポン、スップリ、スッペリ(ポン)、スッポ、スッポリなどの一連の語を考え合すとよい。全部を包み、また露出するときに使う。その上に、「此竹鑓で泥亀突(すっぽんつき)」(三日太平記)や「臍の下の開帳、すっぽん入れる放生会」(伊勢冠付)のスッポン(ツキ)は男根の比喩で、その連想もあろう。「すっぽすっぽと抜き差しをして、独りにてのよがり泣き」(「遺精先生の夢枕」寛政元年)はスッポの意をよく示している。現代語でもスッポリ、スッポン、スポット、スパットというように、中にすっかり入った状態の擬態語、擬音語として使われている。
○(茶壷に追われて とち車)
  (鴉からすべいに追われて とち車)
どちらも『東京風俗志』にあり、後者は別の例として掲げられている。このことからもチャツボとカラスが同じ意味で用いられていることが分る。トチグルマという語の用例はないが、これは本来トチグルウ(狂)という動詞であろう。トチはトチル、トチメクのトチで、あわてる、うろたえるの意味で近世から使われている。トチグルウはトチクラウ、ドチクルウともいわれて、「憎らしい娘男とどちくるひ」「さわったらころびたそふにとちぐるひ」(川柳評万句合)のように、男女がふざけて、狎(な)れ合っていることである。トチトチ(ト)という副詞もあった。以上、四つの異なった歌詞を考え合せることにより、言葉は少し違っていても共通した一儀を示していることが看取される。
○ぬけたら
この句は先の、ズッコロバシとゴマミソとともに難しい。西沢爽はこれについては何も触れていない。ここで肝腎なことは、ヌケタラのヌク、ヌケルをどのように考えるかということである。ヌクは中から物を取り出す、自分の側に引き寄せる(抜く)意味と、物を突き刺して対象の向うに出るようにする、向う側へ押す(貫く)意味の両面がある。これは「抜き出す」と「通し入れる」という「方向を可逆的に…対義的共義をなしたものである」(森重敏『続上代特殊仮名音義』)。このように、ヌクは先後、内外の両方向への進む二つの意義を持っていて、大別すれば、「ひきぬく」と「さしこみつらぬく」である(『角川古語大辞典』)。このことは方言の使用例を見ても理解できる。『日本方言大辞典』によれば、ヌクは「刺す、刺し貫く」(熊本)、「差す、差し込む」(佐賀、「刀を鞘にぬく」)、「指先や棒の先で突く」(沖縄)、ヌケルは「穴や深い所に入り込む」(新潟)など、向うや内への方向の意味にも用いられている。
ここで思い合せられることは、「いろはかるた」(京、江戸とも)の「月夜に釜を抜く」である。このヌクは一般的にはヌカレルと同じで、句意は油断、迂闊なこととされる。ところが、駒田信二は別解として『艶笑いろはかるた』で、ツキは月の障り、カマは「表門でなく裏門」と考え、ヌクを「裏門を使う」と解き、江戸の川柳として「月の夜は釜を抜く気になる亭主」「おりふしは妾月夜に釜抜かれ」の句を挙げている。この種の用例は他にもあり、「月夜に釜も親のした事」(武玉川)「釜を抜いて、弐朱ではやすい」(東海道中膝栗毛)がある。後者は風呂釜を踏み抜いたことを掛けている。また、永井荷風の『濹東綺譚』で有名になった玉の井遊廓の各路地の入口に掲げられた看板「抜けられます」のヌケルをどう解釈するかである。「ごたごた建て連なった商店の間の路地口には「ぬけられます」とか、「安全通路」とか…書いた灯がついてゐる」。この「ぬけられます」は普通に考えれば狭い路地を通り抜けて、外に出られるということであろう。しかし、笹間良彦はそのような「ご親切な意味ではなく、玉の井私娼窟の一画にたどりつけますという意味で」あると指摘する(『図録性の日本史』)。もしそうであれば「ちかみち」「安全通路」(滝田ゆう『寺島町奇譚』『昭和流れ唄』)も目的地に至るための指示ということになる。このように考察していくと、ここのヌクはヌキサシのヌキではなくて一応は刺し込む、突き入れると解釈できる。
この語の基本的な意味はこれでよいのだけれども、このままでは前句の内容とやや重複することになる。そこで、もう少し近世語としての分析を究めていかねばならない。中野栄三の『江戸秘語事典』によると、ヌクは「交会御法でいう秘語」であって、「抜けるまでおけば女房機嫌也」のように、「遂情」にいい、ツツハライ(筒払)やトッパズス(トリハズス)と類語であると説明する。後者は「女のあさましさについとっぱづしそうになる時、紛らかすが法さ」(部屋三味線)のように、女郎が「思わず真情を現わしてしまう」ことで、これはシオチ(仕落)で恥とされるが、ついうっかり我を忘れてしまうのである。ヌケルは中野の説くように、江戸語のイク、デル、オクルと同じ状態を表す閨房語であった。このヌクは現代語の「生きぬく、勝ちぬく、困りぬく」のように、「最後まで、すっかり…しとげる」のように、頂点、限界を極め、至り着くという意味もある。このような語感が江戸語のヌケルにもあったと思われる。以上により、ヌケタラは絶頂感の境地まで読み取っていいだろう。なお、付け加えれば、現代の風俗業界で使われるヌク、ヌキの意味(『日本俗語大辞典』その他)が近世語にあったとは考えられない。
ところで、小野恭靖はこのヌケタラの意味について、「茶壷に見立てられた子どもたちの親指と人差し指で作った穴から、順番に挿していく指が抜ける状態を言うものと考え」、「茶壷はそれ自体に意味はなく、指遊びの様子が歌詞の中に混入したものと見たい」と述べる(『子ども歌を学ぶ人のために』)。本体の歌詞の流れに別の歌詞が「混入」して一つの歌になったというのである。この考える方向に沿えば、仮に、「指が抜ける状態」に対して、指を入れる状態を冒頭の句で、「突き、突き、突き転ばし」と仮に想定することもできよう。しかし、突いたり抜いたりする動作、状態そのものを言葉で表現するほど重要であろうか。また、「茶壷」に意味がなくて「追われて」以下の内容が成り立つであろうか。ヌケタラの新しい解釈がこの歌全体とどのように関わり、位置づけられるか、明確にできず、結局、他の論者と同じく、一部の語句の解釈のみに終っている。ヌクには「飽く」「いい」「いみじ」「かげ」のように対義的な共義(両義)があること、近世語として特別の用法があったことから考え直さねばならない。なお、変形した歌詞として「まけたら(負)」があるが(東京、『童謡集成』)、意味を持つ一定の解釈が入っていよう。
ちなみに、前稿(中)の「かごめかごめ」の「(附)『籠の中の鳥』の解釈」で、大略、次の通り述べた。安永八年、黄表紙「かごめかごめ籠中鳥」で「籠の中の鳥」を遊女として解している。同じ時代にこの語はその意味で浮世草子や浄瑠璃、歌謡、川柳などにも使われ、長い間、一つの観念を形成していた。従って、わらべ歌にもその影響があるかもしれず、古調の「鍋の底抜け」も新たな視点から検討し直せる。ここで、「鍋」が女陰、または女性の異称として使われてきたのが一つの手懸りである。しかし、前稿は現行の歌詞を読解、解釈することが中心で、以上のままで置いておいた。ここで、その続きとして、本稿の内容の関連から解釈を提示する。
黄表紙の「一生鍋の底抜け」は、続いて「鍋の底抜いてたもれ」と問答していることから「底抜けだ」という体言ではなく、「底を抜け」という命令形である。前者は輪を廻る子供達、後者は輪の中にかがむ子が発言している。ここは表面上の意味は、輪である鍋の底を抜いて早く外に出て行けと問いかけ、鍋の底をどうか抜いて外に出して下さいと答えたということである。しかし、ナベを前述の秘語と解し、また、ヌクを前述のヌケタラと同じように解したら、別の意味が浮び上がってくる。即ち、鍋の底に突込めとみんなで言い合うと、遊女に見立てられた子はどうか鍋の底を突き通して下さいと泣き言めいて答えたのであろう。それが意味が取りにくくなり、二十年後の太田全斎の『諺苑』で「抜いてたもれ」が「入れてたもれ」と、より分りやすい語に取って代ったのであろう。この解釈はあくまで「かごめかごめ」の発生を当時の「籠の中の鳥」とする観念から考えたもので、これが遊戯を伴うわらべ歌になった後のことを言っているのではない。ヌクという動詞を「ずいずいずっころばし」と同じ意味に取って解釈し直したのである。「かごめかごめ」も元の歌は大人の歌であり、それが子供に伝わったと考えるのが自然であろう。
○どんどこしょ
さて、ドンドコショは大声で呼び立てる声を意味するドンド、ドンドリ(ト)、また、物事が勢いよく進んだり、唄や鳴物入りでどんちゃん騒ぎをするドンドン(ト)に関連しよう。これらは「二階中が引っくり返りの大どんどん」(辰巳婦言)のように大騒ぎをしているときの擬音語、擬態語である。景気よく派手にという意味のドントもあり、「芸者なども大勢呼んでどんとさわいで居さっしゃる」(南門鼠)のように、現代語にも引継がれている。ショは「よいしょ」「わっしょ」「どっこいしょ」のショで、力を入れた掛け声を示し、その上、語として安定させる接尾語である。
ところで、大阪で明治時代まで「十二月(つき)」という手まり唄があった。正月で「じっと手に手を〆の内とて、奥も二階も羽根や手まりで拍子そろえて、音もドンドと突いてもらえば、骨正月や、こたえかねつついく如月の…」と歌う(牧村史陽『大阪ことば事典』)。このドンドは左義長のことで、大阪ではトンドというが、問題のドンドコショと共通した意味合いを含み持つことは推定できよう。江戸も上方も同じ発想で捉えていたのである。ちなみに、この歌について、田辺聖子は「一年十二カ月の季節や年中行事をよみこんである手まり唄だが、性的な意味を大胆に含ませてある。これを遊里で歌うのではなく、一般良家の童女が日常に歌い慣らし、いつとなく性教育をかねていた」と言っている(『ああカモカのおっちゃん』)。
このドンドコショは本来ドンドンショであったかもしれないが、どちらとも太鼓の音を連想させる。『しん板子ども哥づくし』では、鉢巻をした少年が太鼓をたたいている絵がある。また、ドンドコカッカといえば神輿が渡御するときの太鼓の音であるが、そのままで祭りをも意味する。そこで、オマツリといえば、「御祭りは先祖の血筋きらぬ為め」(柳の葉末)「おくびに出るほど(引用者注、いやというほど)お祭をしたら、明日(あ した)は目が窪むだらふ」(小袖曽我薊色逢)のように、交合のことである。オマツリガワタルという語もあった。これは「神輿振りの擬態」という要素もあったが、もともと神と人間との交流である祭りを神人合一と考えたことの類推による(樋口清之『性と日本人』)。このことから、ドンドコショが祭りを想像させるほど大騒ぎをしている状態であるとともに、オマツリの様子であることが分り、それはやはりヌケタラによってなのである。
○(抜けたァら との字のどんどこしょ)
『時代子供うた』ではこの形になっており、これが古いもので、トノジノが四音で長く、また意味が分らなくなって省略されたのであろうか。このトノジは語頭に「と」の字がつく言葉という意味で、「床(とこ)」の「と」を取って表した。これは中世の女房詞の伝統を引く文字言葉で、江戸語としては「ほの字」(ほれる)「御目文字」(お目見え、目通り)「はもじ」(はずかしい)など好んで使われた。トノジとは「何かあらいあひさつばかりで、さっぱり、との字なんざァなしさ」(猶謝羅子)のように、もともと岡場所の隠語で、床、つまり閨中のことである。また、「との字が荒い」は床が荒い、多婬であるという意味で、右の原注に「ひつっこひきゃくをいふ」とあり、「山さんはだい一とこがあらし、そしてすかぬ事をいひんす」(こんたく手引車)という用例もある。現行の句と比べて、この古い形の方が意味がより明瞭になっている。なお、『時代子供うた』の歌詞はここで終っている。元来、ここまででまとまった歌であったが、流布するにつれて、次に語句が新たに付け加えられたものと思われる。
○たわらのねずみがこめくって ちゅう  ちゅう ちゅう ちゅう
このタワラは『遊戯法』では東京、伊勢とも「棚」とあり、これが本来の形と思われる。西沢爽はタワラはタナ(棚、店(たな))で「貸家、長屋」か、また、ネズミについては、約束があるのに短時間、他の客の相手にある女郎か、あるいは、ネヅレ(夜這い)かと推測する。しかし、前者は近世ではヌスミ(盗)といい、上記の意味にネズミが使われるのは明治中期である。これはヌスミとネズミの相似た語形の混同による。また、須藤豊彦は「田原の鼠(いたずら者)ではないか」というが(前掲『国文学』)、この歌の場を野原という前提で解釈していて、やや唐突の感を免れない。ここで参考になるのが京都のわらべ歌の「下駄かくし ちゅうねんぼ はしりの下のねずみが…」である。この「はしり」は台所の流しのことだが、今の子供には縁遠く、だんだん意味が分らなくなる。そこで、子供は使い慣れた言葉に替えて、「柱の下」「橋の下」と納得して歌うことになる。以上のことから、ここはもと「棚の鼠」であり、これが次のコメクッテの関連から、コメを「米」と考えて、「俵の鼠」と転化したのであろう。
次のコメクッテはやや難しい。西沢は「ひどい目にあうの江戸語」で、「やり込められる」のコメだと言う。しかし、出典の明示はなく、江戸語のどの辞書にもこの語は見当たらない。また、他動的なコムが右のような受動的な意味で使われることはない。また、ネズミを私娼、密娼の意とすると、「子めくって」とも考えられようが、これは中古語である。あるいは「込め狂って」なら、色狂い、色情にふけるとしてもよいが、少し無理がある。『東京風俗志』では、「これがほんとの鬼ごっこ、俵の鼠が豆喰ってちゅう、米喰ってちゅう」と、豆と米を対比的に並列している。また、「俵の鼠が米喰ってちゅう、粟喰ってちゅう」という変形もある(関東地方、『童謡集成』)。これらを参考にして考えると、もっと素直、単純に、驚きあわてる意のアワ(ヲ)クウ(クラウ)の「泡」を「粟」と取り、それが日々の生活に馴染みのある「米」に転じたと解したらどうだろうか。つまり、元の形はタナノネズミガ アワクッテではないか。タナは店ではなくて、棚(戸棚)で、それがネズミの関連から米俵のタワラに転じたのであろう。ここはあまりの狂態に鼠が当惑し、驚きあわてている滑稽さを表している。さて、ここで気付くことは、今までの中心的な内容から批評的、第三者的な口吻に移っていることである。以下の文句を見ても、それまでと違って江戸語ではなく、現代語の感覚で表現されているように思える。この部分は後の、明治後期ごろの追加と判断してよいであろう。
この後に、まずチュウと歌い、続けて三回チュウを歌う。この三回は三拍子ではなく、次に一拍分の休止を置くことにより、四拍子の韻律として、口拍子を整える。ここで、意識的に繰り返すことによって、特別の意図を生じさせるのが国語の表現というものである。鼠の鳴き声を擬音的に表すだけでなく、特定の意味合いをそれとなく漂わす。ネズ(ミ)ナキは枕草子で、人が鼠の鳴き声のように口をすぼめて鳴らして呼ぶことに使われているが、今昔物語(巻二十九第三)に「半蔀(はんじとみ)のありけるより、鼠鳴きを出して手をさし出でて招きければ、男寄りて」と、女の客引きとして用いられている。近世には特に遊女が客を呼び入れるときにこの声を発した。ここは鼠が鳴いていることになっているが、女郎が客を引く媚態の様子の雰囲気を同時に漂わせている。さらに、この擬音語はクチスイ(口吸)をも表しているだろう。三回のチュウは接吻の音をも意味し、夢中になっている男女の切実な状態を暗示し、鼠のおもしろい動作と落差をつけ、二重写しにする表現効果をもたらす。ちなみに、「ちゅう ちゅう たこかいな」は二つずつ、五度数えて十にする数取りの文句であるが、意味のない句ではない。熱烈な情が激しく、吸付がまるでタコ(蛸)のようだというが、タコそのものが特殊な女陰を意味する。さらにまた、タコカイは蛸開(たこかい)であり(中野栄三、前掲書)、カイ(女陰)と終助詞カイを掛けている。このように、チュウの畳語は単なる強調ではなく、いくつかの暗示を含ませ、この歌の淫靡な諧調を成しているのである。
○ おとつぁんがよんでも おっかさんがよんでも いきっこなぁし(よ)
この句は明治期の資料にはなく、第二次のやはり批評的な、観察的な追加であろう。意味は説明するまでもなく、子供の遊びでもいいが、「丁稚と小娘」(前掲)のような、男女の若者が隠れて秘密の性戯にふけっている最中で、親に呼ばれても行くはずがなく、息をこらしていると考えてもよい。
○いどのまわりで おちゃわんかいたの だあれ
この句は普通には省かれることがあり(町田嘉章、浅野建二『わらべうた』)、第三者の評語めいた口吻になっている。第三次の補作、追加であろう。イドは一般的に居所、居処で、尻のことであり、京都では現代でもオイドという。西沢爽はこれをその意味に解した上で、「ゐどを廻して」とも考えてか、「廻すは輪姦の意味にも考えられる」と述べる。この解釈は「廻りを取る」から類推したのであろうが、一方、江戸語で「廻しを取る」があり、前者の語が後者の語の意味に使われることもある。このことから、イドノマワリをそのように考えるのは曲解である。このイドノマワリは江戸語のイドバタ、イケノハタと同じ意味であり、陰門のふち、へりを指している。次のオチャワン(御茶碗)は無毛の女陰、カク(欠)は割るで、「新鉢(あらばち)を破(わ)る」と同じ意味であり、ハチはやはり女陰である。このカクはそれ単独で、また、タレ(垂)ヲカク(掛)、カクヤッカイとともに交合を意味する。ここは前の句と同じく、第三者的な立場から処女を犯したのは誰だとひやかして、囃し立てていることになる。さらに、自分のことを言いながら、しらばくれて自分は知らない、一体誰だと平気を装っているとも考えられる。
以上が第一義で、次に、イドノマワリを比喩的にではなく、そのまま井戸の廻りと二重に解することにより、「井戸(の)端の茶碗」という語ができた。あるいはこの語句がもともとあって、先の句ができたかもしれない。この句は井戸の端に茶碗が載っていることから、危ないものの譬えに用いられる。「井戸端の茶碗、有常油断なり」(柳多留)は伊勢物語の業平と有常の娘との幼馴染みの初恋(筒井筒)を踏まえている。この句は年頃の娘の危うさをも暗示していることになる。それ以上に、「ちの字とめの字まくり逢ふ筒井筒」(柳多留)「めめっことちんこが井筒覗いてる」(末摘花)のような破礼句(ばれく)も詠まれた。イドノマワリ以下のこの句は三重の意味を持って、想像が広がってきたのである。なお、このように、ドンドコショまでを本体、以下を後代の追補とした場合、この歌を当然、性意に解していたことになる。この歌をそのような意味がないとする立場に立つならば、右の本体の句までで、別のまとまった構成、趣意で解釈し通さねばならない。
○ ずいずい ずっころばし/ごまみそ ずい/なんべんやっても とっぴっしゃん/やめたら どんどこしょ/こたつの こねこが/ころんで ニャア/ニャア ニュア ニャア/とだなの ねずみが/それきいて たまげて/こしぬかしたよ
第四次の追加というべきものが、この二番の歌詞である、これは一般的には知られていないが、その成立について調べた結果は次の通りである。昭和三十年に岡田和夫編『日本民謡合唱集』(飯塚書店)が刊行され、二番の歌詞が掲載された。これが初見だが、この作者については不明である。一方、戦後まもなく「うたごえ運動」が働く若者が中心になって起り、同三十年代半ばに最盛期を迎えたが、この周辺から、この二番の歌詞が生まれたという説がある(上笙一郎編『日本童謡事典』)。これが事実であれば、右の『日本民謡合唱集』の発行の時期とほぼ一致する。その後、同四十八年ごろにキングレコードがレコードアルバム集『美しき日本の歌』を刊行し、その『幼き日の調べ』の中に一、二番を三橋少年民謡隊が歌っている。続いて、『日本唱歌童謡集』(昭和五十二年、飯塚書店)に、「日本古謡 岡田和夫編曲」として収まり、カセットテープ『わらべうたベスト30』(平成十一年、キングレコード)にも収録された。以上により、この作者も年代も確定できないが、言葉遣いや発想がより現代風で作為的であることから、昭和三十年ごろに岡田和夫、あるいはその周辺の好事家が補作したといっていいだろう。
この歌詞を読むと性の意味に基づいていることは明らかで、このことから、本来の一番の歌詞もそのように解していたということになる。ただ、ここのヤメタラは一番のヌケタラを江戸語ではなく、現代語の感覚で解いているが、止むを得ない。鼠の代りに猫を登場させ、コロンデとしたことは一番のコメクッテを簡単にあわてると考えたからであろう。タワラノネズミに対してトダナノネズミとしたのも、より分りやすく仕上げたのであろう。ネズミがタマゲテ コシヌカシタというのも、よりおもしろさを引き立てようとした。総じて、この二番は一番の内容をなぞって、別の簡明な言葉に言い換えただけで、新しい独自の発想には欠けている。
以上の通り、一語一句ごとに、また、違った歌詞を比較対照させながら、詳細に分析し、解釈してきた。この歌は支離滅裂でも、不可解でも、無意味でもなく、前後に矛盾なく、整合して一貫した物語をなしていることが理解された。しかも、わらべ歌特有の動作、遊戯を伴っていて、その指の動きが歌の内容に合っていることも確認できた。これは決してもとから子供が歌ってきた歌でも、子供らしい歌でもない。まして子供が作ったとは考えられない。西沢爽の言うように「江戸の私娼窟の岡場所あたりの戯れ唄だったのが、子供達へ伝播したため、元の歌詞が転訛し、意味不明の歌になってしまった」とするのが妥当である。大人が世間に持ち込み、子供がそれを聞いて、韻律のおもしろさと難しい言葉から興味を持って、子供に分る言葉に置き換えて、指遊びの唄、鬼決めの唄として、歌い、遊びながら広がっていったのであろう。
(5)類歌による検証
「ずいずいずっころばし」にはこれを元歌として相似た歌詞の類歌が数多くあり、全国に分布している。これを見るには、尾原昭夫編『日本のわらべうた室内遊戯歌編』(昭和四十七年)と『日本わらべ歌全集』全二十七巻三十九冊(昭和五十四年〜平成四年)が便利である。それらはやはり指遊び唄、鬼決め唄で、指の使い方も元歌と変りはない。その歌詞を詳しく読解することにより、「ずいずいずっころばし」の本来の意味がより明確にされてくる。以下、両書から引例して、解釈していく。
○からすぼう、とちぐるま、どんぶりばち
「からすぼうにぬかれて とちぐるま」(長野)「からすぼうに追われて とちぐるま」(静岡)は、前述の『時代子供うた』と『東京風俗志』の歌詞が入り混じっている。カラスボウ、ヌカレテ、トチグルマと、元歌の中心語を使って意味は通っている。「どんぶりばちしょ いちくにくなめたか…そらぬけた たのすけよ」(群馬)のドンブリバチ(鉢)は女陰の隠語である。イチクニクのクは口の意であろうか。あるいは、イッチクを一と解し、二をニクとしたのであろう。「ずいずいくるまのはかたごま このちょへあわせて あわすかぽん」のクルマはトチグルマかクルワ(廓)であり、ハカタゴマはこぶしの大きさの蓮の房の形をした木製のこまのことで、握ったこぶしの比喩である。それをチョと表しているが、チョはチョ(ン)コ、チャ(ン)コと同じく女陰で、アワセテはアウ(合)を含み、交合のことに他ならない。
○「いっちくたっちく」の歌
『童謡集(童謡古謡)』にも収められる「いっちくたっちく」は片足飛び唄で、これが後に鬼決め唄になり、広く分布している。『時代子供うた』では、次の通りになっている。
  いっちくたっちく 太右衛門殿の乙姫様は/湯屋(ゆうや)で押されて泣く声聞けば/ちんちんもぐもぐ おしやりこしァりいこ
イッチクタッチクは歌い出しの句として軽やかで明るい調子のよい韻律であるが、はっきりした意味は不明である。次のタエモンを引き出すための序詞的な言葉であろうか。タエモンはタヘモノ(妙者)で、美しい娘、よい女のことで、柳多留、膝栗毛、浮世風呂などに多くの用例がある。潁原退蔵は「牡丹屋太右衛門の花壇が名高くなった寛政頃の文献から見える点で、牡丹の美しさに比する意で言出した言葉であるまいか」という(『川柳雑俳用語考』)。ユウヤは銭湯、風呂屋のことで、江戸時代、男女入込浴といって、混浴の時期があり、狭い上に暗く、騒々しく、風紀上よくなかった。ここは、押されもがいて、よがり泣いているとも解釈できる。湯女風呂もできており、遊興的な一面もあったことに注意しなければならない。なお、オサレテの代りにモマレテ(揉)という形もあるが(千葉、『童謡集成』)、より真に迫っている。また、「茶ぽ壷」と歌い出す地方もあり(栃木、同)、この歌の一定した受け止め方がうかがえる。「陸中国盛岡雑謡」では「ほッぷくほッぷく」と歌い出し、「ちゃうすの茶釜に毛がモックとはいのすけ」という類歌がある(『続日本民謡全集』)。チャウスとチャガマは女陰で、モックトは岩手の方言で、むっくり、たくさんという意味である。イッチクタッチクの歌は軽快に、片足で飛ぶように遊ぶ歌が起源であるが、握りこぶしの指遊び唄になったためか、だんだん露骨に卑猥に落ちていく。こういうところから、元歌の性格も考えてみなければならない。
次のチンチンモグモグはチンチンという語をもとにして、チンチンカモ、チンチンモ(ン)グラ、チンチンモ(ン)ガモ(ン)ガ、チンチンオテマクラ(手枕)、チンチンコッテリ、チンチンスルなどの語や、チンチンカモノアジ、チンチンアヒル、チンチンマツリなど、もじった語が派生して、すべて男女が睦み合うこと、仲のよい情交を意味する。オシャリコ、シャリイコはシ音とヒ音の混同からオヒヤリコ、ヒヤリコともいう。オヒャルはおだてる、なぶることで、ここはおだててなぶりものにしている状態を意味しよう。『東京のわらべ歌』では、この代りに「しっし しらの貝 ほっほ ほらの貝」とある。このシシ、カイ、ホラ(ノ)カイは江戸語ではどれも女陰を表す秘語である。「乙姫さんがね、ちんからぼうに、負(ほば)されて 泣く声きけば、ほっほ、法螺(ほら)の貝」(群馬、『童謡集成』)のチンカラボウは元歌の別語カラスボウとチンチンカモの合成語であろう。ホバサレテは不詳だが、「負」の漢字から意味は分る。ホラノカイはホラガイで現代の隠語として大きな女陰を表し、全体として卑猥なことを歌っている。このように「いっちくたっちく」の歌は全体として美しい娘がいじめられている様子を歌い、やはり性意を含んだものと認められるのである。
○東西、井戸端の茶碗、花が咲く
「いっちくたっちく…東西まくらで銭(ぜに)せいて 金せいて おチョンチョン車の こすず小山の 松竹のけろォ」(千葉)のトウザイとマツタケは男根のことだが、前者は興行物の言葉かもしれない。オチョンチョンは女陰、(オ)スズ(鈴)はスズグチ(鈴口)とともに亀頭の隠語である。セイテはセクで急かす、促すということだろうか。露骨な言葉を並べて、隠喩的な表現をしているが、全体の意味はおおむね通っている。また、同じ千葉で「おっちょんちょんぐるまの 松の花 咲いたか咲かねか」(『童謡集成』)とある。マツはマツタケの異名であるが、ハナサクには別の意味がある(後述)。「…東西ざくら いろさし名乗れば 子ども衆もチョイチョイ 抜けろ抜けろ」(長野)はトウザイとヌクがあり、チョイチョイはやはり女陰である。東西ざくらのザクラはザクロ(女陰)の転訛であろう。「おちんちん ころ おまんまん ころ」(静岡、『日本歌謡集成』十二)もある。
「井戸のはたの茶碗は あぶない茶碗で 麦の粉に花が咲いて…抜けた」(鳥取)は一読して分りにくいが、鍵となる言葉が散りばめられている。「男髷(まげ)やめねばならぬ花が咲き」(柳多留)「初花が咲いて母親垣をゆひ」(同)のハツハナ、(ハツ)ハナガサクは初潮を見ることであり、右の語句は「あぶない」思春期で、母親の監視が厳しくなったことをいう。また、ムギはこの場合、現代の隠語として、バク(麦の音読み)、オシムギ(押麦)とともに女陰を表す。「麦の粉」の「粉」は余計な言葉で、単純に「豆に花咲くと小豆の飯を焚き」(同)と同じ構造と考えればよい。これに続いて、元歌と同じくヌケタがあり、これで全体の意味が推測できよう。この類歌として、「井戸端の茶碗かけ、危いのんの、野菊の花が咲いたか咲かぬか まだ わしゃ知らぬ ちょこつん ぬけろ」(埼玉、『童謡集成』)がある。麦が野菊に変っただけで、基本の構成は同じであるが、「まだわしゃ知らぬ」が思わせぶりで、陰湿である。チョコツンは少しの意の副詞ともとれるが、(オ)チョコ(猪口)で女陰と考えるべきであろう。また、「…乙姫さまらは 鬼に追われて…畑のねずみが麦食ったポイ 抜けたかポイ」(栃木)のムギクウは元歌の「米食う」の変化かもしれないが、次のヌケタによって別の意味かもしれない。また、「池のはたへ茶碗置いて あぶないものだよ」(福井)、「おかみさん おかみさん 井戸端茶碗おいて あぶないと 抜けたとせ」(静岡)も前述のイドバタノチャワンが歌われ、筒井筒の子供の幼い恋をやはり暗示する。この種の歌は千葉、山梨にも伝えられているが(『童謡集成』)、「あぶない」とともに、同じように、ヌケタも使われていることから、元歌の趣意を踏まえている。「東西見つけた 鬼とさかずき なるてんと」(島根)はトウザイがあり、サカズキ(杯)はやはり女陰の隠語である。
○中世の童謡の断片
「じっぽうはっぽう」といって、中世から歌われた童謡があり、その断片が残るとされる類歌(尾原昭夫)もよく注意すると、破礼句を含んでいる。「いっぷくてっぷく まめだかよだか 咲いたかつぼんだか ごしょうぐるまに ほっかいほろほろ 手いれてみたら あぶらしっかのしか かわらけばかりが つえのしシャッポ」(山口)について、マメダカのマメ(豆)は陰核、転じて女陰の秘語で、マメイリ(豆炒)は情交を表す。ヨダカ(夜鷹)は夜の最下等の私娼、ホッカイホロホロは古事記(大国主神)の「内はほらほら、外はずぶずぶ」を類推させるか。カワラケは無毛の女陰である。サイタカツボンダカはサイダカツムダカという形もあり(全集)、何か意味があるかもしれない。大まかな内容はとれそうで、このような思わせぶりで露骨な歌がわらべ歌として残っていたのである。ちなみに、ゴショウグルマは後生車のことと思われる。これは標柱に南無阿弥陀佛と記し、下の方をくり抜いて、車井戸の車輪のようなものをはめ込み、これを廻しながら亡くなった人の菩提を弔うものである。山口県に確かにあるが、岩手、宮城、山形県など東北地方に多く見られる。この語がどのような意味を持つか、推測できないことはないが、未だ確言できない。
同じく、「いにふにだし」という中世の童謡の類歌で、「ひにふにだるまどんが 夜も昼も 赤い頭巾かずきとおしもうした」 (京都、大阪、『守貞漫稿』)のダルマは私娼、ズキンは白手拭を頭に被っていたヨタカや前述の黒頭巾のカラスの類推による語であろう。「ひいふうひんだり だるまのだっちゃー きんたまししにくわれて しっしらしの ししのけ」(岩手)は、ダルマ、キンタマ、シシ、シシノケと下品な言葉が並んでいる。
○「ジョイタカケンポ」
「ジョイタカケンポ」という鬼決め唄が鹿児島の三地域で伝えられ、元歌と同じく握りこぶしを使う。そのうち、比較的分りやすい肝属郡串良町(現、鹿屋市)の歌を挙げる。
  ソイダカケンブシ 豆ちゃんに長次郎 長次郎が母(かか)は きど豆チャンゴメ イックイチャックイ 大福殿(でぶつどん)のおかげで のしゃらんせ
キド豆のキドは珍しいという意味の方言、マメは陰核である。チャンゴメは「ある種の隠語」と注があり、前述のチャコ、チャンコと同じく女陰である。イックイチャックイは前述のイッチクタッチクの訛りかもしれない。デブッドンは方言で「大黒様」(大黒天)のことで、これは「性神的」な要素を持ち(樋口清之『笑いと日本人』)、男根を象徴している(西岡秀雄『図説性の神々』)と解釈できる。ノシャランセは南九州の方言で幸運であるという意味で、注に「いい目を見なさい」とある。以上によって大体の意味が理解できよう。
○「つぶや つぶや」
「つぶや つぶや」は北海道、東北、東海地方で元歌に代るわらべ歌として伝承されている。
  つぶや つぶや 豆つぶや/醤油で煮つけて あがらんせ/どうも どうも しょっぱいな(青森)
  つぶやつぶや ぬけつぶや/去年の春 行ったれば/からすという ばか烏に/ズックリモックリ 刺された(宮城)
このツブは田螺(たにし・巻貝)のことで、現在も全国で方言として使われている。握りこぶしを田螺に見立てて、指を刺して鬼を決めるときに、元歌と同じように歌われる。右の前者は特に意味のない歌であるが、後者はどこか隠喩的な意味合いが含まれていそうである。『角川古語大辞典』によれば、タニシの古名はタツビ、タツボであり、巻貝の総称であるツビが「同源」として女陰を意味した。また、タツブともいい、カタツブリはカタツビともいう。『日本方言大辞典』によると、タにツブやツボがついた語、ツブにドンやメがついた形が多く収録されている。このことから、タニシを女陰と考えるのが妥当であろう。次のマメツブ、ヌケツブの他に、ムキツブ(剥)の形もあり(『新講わらべ唄風土記』)、転訛であっても共通の意味を保っていよう。
このタニシは川柳の題材に好まれ、「田螺ばっかり拾ふ十三」(末摘花)は「十三ぱっくり毛十六」(同)を利かせたとされる。従って、カラスはこの場合は黒いことから男を指し、ズックリモックリは擬態語である。以上によって、この歌は、タニシを茶壷と同じく、物として握りこぶしの比喩と解釈するだけでは表面的で浅い。全体を見れば今まで挙げてきた歌と同じように性意で取るのが自然ではなかろうか。
○チンボラー
『沖縄のわらべ歌』によると、「いっちくたっちく」系の歌がいくつか採取されていて、指遊びは元歌と同じで鬼決め唄である。ただし、意味不明とするものが多く、ここでは代表的な那覇市首里の歌を掲げる。
  いっちく たっちく/十二(じューに)がふいがー/ちくむく チンボラーが/御殿(うどウン)ぬ 後(くん)んじ/ふーるが やい
チンボラーとは「沖縄の浜では、どこでも見られる…小さな巻貝」で「ちょこんと突立っている」といわれる。ジュウニは十二歳で、イッチクタッチクの歌から若い娘と考えたらどうだろうか。チクムク チンボラーは「みだれ髪」という説がある(島袋全發『沖縄童謡集』)。ウドウンは御殿と漢字表記があるように、御殿、豪邸であるが、フールは便所という意味がある(『沖縄語辞典』)。しかし、これだけでこの一首を解釈するのは不可能で、現在も意味不明とされている。ただ、イッチクタッチクの歌い出しの句、巻貝と娘、また指遊びの動作から、元歌と何らか関連した意味は本来あったのであろう。
この他に『日本わらべ歌全集』で各県のこの類歌を調べていくと、同種のもので省略したものが多く、形が変化して、その土地の方言らしい言葉で綴られている。この書の語釈には既に意味不明とされるものが多く、これ以上明らかにすることができない。とは云え、これだけの説明からだけでも、「ずいずいずっころばし」が転訛、派生した類歌と元歌との根源の捉え方は基本的に同じであって、拙論の補強になっているとしてよいであろう。
(6)おわりに
わらべ歌は必ずしも子供が作り、伝えていったものではない。また、いつも素直で明るく、かわいらしいものでもない。子供の持つ性質と同じく、意地悪で陰湿な面もあるはずである。子供は歌の意味を前もって、また、十分に知って歌うことはなく、その必要もない。調子が整い、おもしろければそれでよく、大人になって自然に気づくこともあってよい。江戸以来のわらべ歌を現代の童謡と同質のものと思ってはならない。純真な童心を歌うというのは大正時代の「赤い鳥」のころで、それはそれで大切なことであるが、子供の歌にはもっと別の一面もあるのではないか。替歌でもかなりきわどい内容を歌っていることはあり得るのである。
以上に解明してきた通り、わらべ歌の中には性の意味を含んだものが残っており、子供ははっきりと意味は分らなくても、何かを感じているのではないか。それは子供なりに避けて通れない長い道である。無意識的であっても、感覚的であっても変に思いつつ、またどこか興味、関心を引きつけられながら成長し、自然に性教育の役割を果たしてきたかもしれない。そこにわらべ歌の、人間味の籠る真実の深さがあったのである。 
 
子供の歌

 

「童歌・童謡・唱歌・子守歌」の違いはご存知だろうか。いずれも子供向けの歌であり、歌の目的として子守歌は他と異質であることがすぐに分かるだろう。しかし他の3つ、筆者から見るとどこに線引きがあるのか判別し難く、唱歌は若干新しい響きであるように感じる。まずこの違いについて触れた後で、各々の項目に入ろうと思う。
童謡という語が歴史上初見されるのは奈良時代に成立した「日本書紀」の中だというのだが、当初は童謡という語は現在言われる「子供の歌」を意味しておらず、近世以降になって現在と同じような意義付けがなされたようだ。古来日本では、子供の歌と言えばいわゆる「童歌(わらべうた)」を指していた。例えば「ねんねんころりよ…」の歌詞で有名な「子守歌」は、江戸時代頃から歌い継いできたとされるし、手遊び歌や数え歌など、子供が遊びながら歌うものの総称と定義付けられている。こうした伝承が伴う全ての歌は民謡のジャンルにも入るようであるが、歌を入れる箱の違いで呼び方が変えられてきたということにもなる。どうやら今、子守歌のジャンルに入っているものも、当時は童歌ともされていたようなので、厳密にいえば「わらべうた」は今日の童歌と子守歌を包含していたようだ。その後の明治初期、明治維新によって西洋の近代音楽が紹介されて日本に伝わると、学校教育用として多くの「唱歌(正式には文部省唱歌)」が作られ、そして大正時代後期以降、子供が歌うことを前提として創作された歌を「童謡」と呼ぶことにした訳である。歴史的に古いのが「子守歌」「童歌」、最も新しいのが「童謡」ということになるが、以下、各々の定義と歴史について触れてみることにする。
童歌
「童歌(わらべうた)」とは昔から子供により歌い継がれてきた、子供が遊びながら歌う歌であると定義される。親から子へと伝えられた口承遊びで、数え歌・唱え歌等、言葉・数字・行事等の導入を遊びながら学べる類も多い。ペンタトニック(五音音階)等の平素なメロディと単純なリズムで、古くから一般庶民の子供たちによって伝承されてきた歌であり、民謡の一種とみなす分類もある。大正時代に誕生した「創作童謡(いわゆる童謡)」と区別するため、わらべうたを「伝承童謡」、文学詩人の創作によるものを「文学童謡」と呼び分けるようになったようだ。室町時代以降、主として徳川期から明治末期にかけて発生・流行したものが多く、ほとんど作成年代や核となった地域等が明確でなく、誰が作ったのか分からない謎の歌ばかりで、流行り・廃りがあるという。従って中には時代の流れとともに衰退していったものもあるし、今でも変わらずに人々に愛され、歌い継がれているものもある。中には労働者の間から自然発生したような労働歌の類もあるという。
わらべうたの集大成として北原白秋と弟子らが著した「日本伝承童謡集成」という書籍がある。あらゆる方法で日本全国のわらべうたを蒐集し、昭和22年〜25年に成立させた書だというのだが、その分類は子守唄・遊戯唄・天体気象/動植物唄・歳事唄・雑謡とあるので、どのような子守歌か分からないが、当時の白秋が子守歌もわらべうたのジャンルとして扱ったことは興味深い。
さて最後に、音楽的立場から「わらべうた」を考察してみよう。明治以前から伝わるとされる童歌や民謡の中でも「陽旋法(ようせんぽう、日本の伝統的な音階のうち田舎節(いなかぶし)と呼ばれる俗楽の音階)」のものは、全て「ヨナ抜き長音階(ドレミの音階からファ・シを除いたもの)」と同じ音程を使う。教科書掲載の「どじょっこふなっこ」の元歌である東北のわらべうた「どじょっこふなっこ」等がこれに該当するらしい。なお明治維新以前の古い童歌は、西洋音楽の影響を受けていないため「ド」で終わるという考え方がないので、ラ(陽音階)かレ(律音階)で終わる曲が多いといわれる。現在まで歌い継がれている古いわらべうたがいずれも侘しいような独特の響きを持つのは、これらの音階の違いによるところが多いので、聞き比べて見ると面白いだろう。
童謡
「童謡(どうよう)」とは、大正時代後期以降、子供に歌われることを目的に作られた創作歌曲の総称で、子供向けに大人が作った歌と定義される。子供たちに芸術的価値のある歌・物語を提供することを目的として、大正7年、鈴木三重吉(すずきみえきち)が創刊した児童雑誌「赤い鳥」に掲載されて多くの童謡が誕生した。成田為三が作曲した「かなりや」が日本で最初の童謡とされ、北原白秋・西条八十・野口雨情らの詩に、成田為三・山田耕筰・中山晋平らの作曲家たちが曲をつけ、現在も数多くの歌が歌い継がれている。この児童文学の潮流の発端は、子供の視点で心情を描き、子どもたち子供たち自ら楽し童謡・童話を子供たちに与えたいという鈴木三重吉の思いにあった。当時一流の作家らの賛同を得、童謡・児童文学運動が興隆したことにより、「赤い鳥」の後に続いて「金の舟」「コドモノクニ」など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種にも上ったという。この時期、優れた童話作家、童謡作家、童謡作曲家、童画家らも世に輩出し、児童尊重の教育運動が高まっていた教育界にも大きな反響を呼んだ。「赤い鳥」は近代児童文学・児童音楽の創世期に最も重要な影響を与えたとされ、鈴木三重吉は日本の児童文化運動の父と呼ばれている。
もう一つ、上の童謡の定義に入らないが日本国外の子供向け歌曲を「童謡」と呼んでいるので、外国から来た童謡について少し触れておきたい。日本に伝わり、日本語の歌詞が付けられ、長く日本に馴染み人々に愛されている類のものとして「ロンドン橋」「ドナドナ」「アビニヨンの橋の上で」「線路は続くよどこまでも」等がある。「ロンドン橋」などは「ロンドン橋落ちる〜」と二人の子供がアーチを作って他の子がその下を次々にくぐり抜ける遊び歌として日本でも愛されているのだが、「落ちたよ」と歌い終わった時に捕まる子供は、橋を作る時の人柱として選ばれたという意味を本来持っているという。イギリスでは17世紀頃から歌い継がれているというが、もちろん遊び歌で子供の人柱が立てられた訳ではなく大人の話を聞いて子供が遊びにしたのだろうけれど、子供の歌は概して意味深なものが多いので、素直に笑えないのも悲しいものである。
唱歌
「唱歌(しょうか)」は、学校の音楽の時間に教わる歌、というのが一般的な定義ではないだろうか。明治維新以降、主に小中学校等の音楽教育の為に作られた歌を指し、1872年の学制発布後の1881年から3年を費やし唱歌の時間の教科書が3冊にまとめられて誕生したことに始まる。明治政府が近代国家形成のために最重視した「学制」の一環として作られた経緯から、日本国家としての意向を色濃く反映し、徳育・情操教育を目的として文語体で書かれたものや日本の風景・風俗・訓話などを歌ったものが多く、日本民族・天皇・家夫長制道徳賛美や軍歌等が数多く採用されている。よって現在も愛唱されている唱歌には、本来の意味を意図的に隠して文部省唱歌として採用されているものも多く、また欧米で広く親しまれている民族歌謡や賛美歌等を焼き直したものも多い。
「唱歌」という語の起源は、学制で小学校の授業の1科目として「唱歌科」が設けられたことに始まり、学校の音楽の授業のことを「唱歌」と呼ぶようになり、更に授業で使われる教科書も「唱歌」と呼ばれるようになった。このように戦前まで小学校の教科の名称の1つであったが、その唱歌の時間に歌われた曲の多くが戦後の教科書に引き継がれ、今日まで「文部省唱歌」として用いられ続けてきたのである。ちなみに明治43年に文部省唱歌が制定される前は「小学唱歌集」「児童唱歌」「ヱホンシャウカ」など民間発行の唱歌集が使用されており、この文部省制定の「小学唱歌集初編」「小学唱歌集第二編」「小学唱歌集第三編」の3冊が、日本初の官製の音楽教科書である。
この「文部省唱歌」は、当初作曲者名を挙げず「文部省著作」とだけ記されていたために「文部省唱歌」と一般に呼ばれるようになったため、公的な正式名称ではない。よって正式には、1911年、学年別に編集された「尋常小学唱歌」、1932年に全面改訂した「新訂尋常小学唱歌」などと名称を変え、1941年まで長く授業で用いられた。また「蛍の光」「むすんでひらいて」「庭の千草」等、日本の歌と思われがちな代表的な唱歌の故郷はスコットランドやアイルランド、スペインなど、様々な国であり、唱歌の多くが外国曲だった。初の音楽教科書に採用された最初の3曲は「見わたせば(フランスの哲学者ルソー作)」「蛍の光(スコットランド民謡)」「喋々(スペイン民謡)」であり、日本の伝統的な歌が1つも入っていないことからも当時の世情が伺える。
その後、音楽教科書なのに子供にとって意味が取りずらいような難解な歌が多いのは教育的にどうか、と疑問を呈したのが鈴木三重吉であり、先述した童謡の中の「童謡運動」に繋がっていった。また当初、唱歌は戦意高揚の目的で軍事的にも利用されたが、戦後は戦争を肯定するような内容の歌は削除され、日本人の心象を描いたもの、多くの人々に愛唱されるものへと移行していった。例えば「蛍の光」の歌詞は現在2番までしか知られていないが、本来は4番まであり、晴れ着姿の学生達の歌ではなく、当時日本の生命線を守るべく出兵する兵士の為の歌である。文部省唱歌が誕生した社会的背景を考えると、教育そのものに支配階級側の社会思想(イデオロギー)の影響が強く、国民の思想に強い方向付けをなしていることが見てとれる。
ところで「唱歌」には2通りの意味・読みがあることをご存知だろうか。雑学程度に触れておくが、本項で採り上げた「唱歌(しょうか)」とは別に「唱歌(しょうが)」が存在し、こちらは雅楽・祭囃子等で音階を覚えるための歌の一種を指す。楽器で演奏する前に「唱歌(しょうが)」として曲を暗記し、メロディーで奏でるものらしい。
最後に音楽的立場から「唱歌」を考察して次に移りたい。唱歌には「ふるさと」「朧月夜」「村祭り」など、日本的なイメージが強いにも関わらず「洋音階」のものが多く、わらべうたに見られるような「ヨナ抜き音階」のものでもドで終止している、というのも、文部省唱歌は明治維新後、文部省の監督の下で西洋音楽の理論で作られたために長調の曲は全てドで終止しているらしい。中でも「ふるさと」「朧月夜」は、3拍子の曲で曲想はあまり日本的ではないが、歌詞が日本人の心に合っているようで1世紀余り経た今でも変わらず愛唱されている。
子守歌
さて次は「子守歌」であるが、子供が生まれてから一番最初に耳にすると思われるものであり、世界中に様々なものが歌い継がれている。その継承手段は極めて単純明快、記憶を頼りに親が幼少の頃歌ってくれたものを我が子に歌って聞かせて歌い継がれる…と現代の生活からは想像してしまうのだが、日本の子守歌は大別して3つあり、それこそが邦楽のどのジャンルに入るか一概には言えない複雑な部分でもある。以下、3つの違いが分かりやすいように紹介してみる。
まず最も一般的な子守歌が、子どもを寝かせるための 「寝かせ歌」であり、世界的に広がりを見せる子守歌でもある。親に抱擁されながら親子が互いの絆を確かめる歌であり、自分では歌を歌えない幼児のための歌であり、生まれて初めて覚える歌である。恐らく即興で歌い出したような子守歌は無数に存在するのだろうが、最も有名なものが「江戸子守唄(えどこもりうた)」である。
「江戸子守唄」は「ねんねんころりよおころりよ」で始まる最も伝統的な子守唄で、日本の子守歌の起源であるという。江戸時代・文化文政期以前の成立と見られ、原曲は1820年に編纂された行智の童謡集に見ることができる。江戸で誕生して各地に伝えられたとされる歴史の長い歌で、「ねんねん」の囃子詞が仏教の「念念」から来ている等の見方から、和讃(仏教の声明の一つ)の形式を採り入れた歌とも言われるが定かではない。
「遊ばせ歌」は寝かせ歌同様、世界的に広がりを見せる子守歌であり、わらべうたや民謡のジャンルにも入る。眠らせるより目覚めさせておくような月齢の子供を手遊びなどで遊ばせたり、動植物を取り込んだり、物語を挟んだり、知恵付けを試みたりする。わらべうたとして成長した子供たち自らが歌うものもある。また親のみならず子守をする周囲の人々−祖父母等に伝承者が多いのが遊ばせ歌の特徴だという。
「守子歌」は子守奉公に行った守子たちが歌ったもので、口説き歌、嘆き歌等とも呼ばれる日本独特の子守歌で民謡のジャンルにも入るようだ。子供に歌ってあげるための歌ではなく、幼くして故郷を離れた子守娘ら自らが慰めに独り歌った子守歌であり、歌詞・曲調共に暗く、世間を辛辣に皮肉り、恨みを吐き出すものなども散見されるので「寝かせ歌」「遊ばせ歌」とは歌詞内容もかなり違っている。子どもが子守として労働するようになったのは16世紀末頃からのようで、守子歌は江戸末期から明治時代にかけて数多く作られたという。戦後役目を終えた歌というのも、子守奉公が当時独特の環境下にあり、戦後その存在が消えていったことが歌の発生・消失の背景にある。
日本人が好きな歌ベスト3に入る「赤とんぼ」(作詞・三木露風、作曲・山田耕筰)は、この子守奉公の女の子を歌ったものだという。身近なところに守子歌はあるかも知れないので、年配の方に聞いてみると面白いかもしれない。
日本の伝統的な子守唄に歌われている世界は封建時代の暗い部分が陰を落とし、短調で悲哀に満ちた節が多い。「ブラームスの子守唄」「シューベルトの子守唄」など世界で歌われている子守唄は、中産階級の豊かで幸福な家庭での子守唄であり、親が子を優しく寝かしつける歌であるのに比べ、日本の子守歌は子供が眠れなくなりそうな曲調である。そんな悲哀を帯びる日本の歴史を歌い込んだ有名な子守歌を少し紹介したい。教科書には載らないものも多いので、次世代に是非伝えていかねばと思う。
「五木の子守唄」  山村の厳しい生活の中から生まれたもので、熊本県民謡で球磨郡五木村に伝わる子守り奉公をする娘たちの嘆きの歌「守子歌」に入る。戦後の農地改革まで、地主である「だんな衆」以外、大半が「名子(なご)」と呼ばれる小作人であり、地主から山・土地を借りて細々と焼畑や林業を営んでの生活は大変厳しく、子供は7歳余りで食い扶ち減らしのために奉公に出されたものの給金はなく食事の支給のみの状態で働いていたようだ。五木の子守歌には正調が一つではないとも言われ、様々な歌詞が存在するようだが、概して「おどまいやいや 泣く子の守りにゃ 泣くといわれて 憎まれる」のフレーズが入り、子守奉公生活の悲しく辛いことを詠んだ歌詞が最後まで続く。
「島原の子守り歌」  宮崎康平が作詞・作曲した長崎県島原・天草地方を詠んだ子守歌であり、1957年に発表・レコード化した戦後の創作子守唄で歴史は浅い。「おどみゃ島原の…」で始まり、貧しさ故に異国へ売られた娘達を哀れむ一方、少数ながら成功して帰る「からゆきさん」を羨む貧しい農家の娘の心を描写している。植民地の外国人相手の売春婦として密出国させられ過酷な運命に遭った「からゆきさん」は当時20万人に上ったとも言われ、その歴史の真実味を如実に物語り、今に伝える歌である。
「竹田の子守歌」  京都・大阪にある複数の被差別部落に伝わる子守歌であり、守子歌である。脚光を浴びるのは尾上和彦が京都・竹田地区で老婆の歌を採譜し、フォークグループ「赤い鳥」の後藤悦治郎が1969年に歌ったことによる。当時、レコードが百万枚余り売れて全国的に知られるようになった大ヒット曲であり、以来放送禁止歌とされ封印された時期もあったが、近年再び脚光を浴びてカバーされている。「復興節」「ヨイトマケの唄」と同様、秀逸な歌でも、歌詞に何ら引っかかる部分があったために放送自粛・放送禁止になった歌も多く存在するが、子守歌などの伝承歌謡に対してナンセンスこの上ない気がする。
なお有名な日本の歌「さくらさくら」は童謡のジャンルに入らず、児童の演奏・鑑賞を目的として作曲された曲「童曲」、あるいは「日本古謡」というジャンルに入る。原曲は江戸時代、「咲いた桜」という筝の手ほどき曲・入門用の曲であり、宮城道雄が作曲した「さくら変奏曲」が有名であるが、明治21年に出版された「筝曲集」の中で「桜」として現行の歌詞「桜さくら弥生の空は…」が付された。後の昭和16年、「さくらさくら」と題名で「さくらさくら野山も里も…」の歌詞が付されて小学校の教科書に掲載されるようになった。ちなみに筝曲「咲いた桜」の歌詞は「咲いた桜花見て戻る…」だったので、3通りの歌詞(厳密に言うとそれ以上)が付された経緯を持つ。ちなみに現行の教科書では、小学校では「野山も里も」、中学校では「弥生の空は」と2通り掲載されているというので、ご自分の歌がいずれか、口ずさんでみたらよいだろう。
以下、大正時代に起こる童謡運動の中心にあった作詞家・作曲家を主に取り上げ、日本の童謡界に名を残す人物像に触れてゆこうと思う。
北原白秋(きたはらはくしゅう)  「雨降りお月」「ペチカ」「揺籠(ゆりかご)のうた」等を作った童謡詩人・詩人・歌人であるが、むしろ「明星」「スバル」などに短歌・詩を発表した歌人として有名である。野口雨情・西條八十と並び大正期を代表する三大童謡詩人と称された。鈴木三重吉の「赤い鳥」の童謡面を担当したことから、創作童謡に新分野を開拓した。代表作に歌集「雲母集」、童謡集「からたちの花」等がある。
西條八十(さいじょうやそ)  「かなりや」「かくれんぼ」等の多くの童謡を発表し、北原白秋・野口雨情と並び大正期を代表する三大童謡詩人と称された。童謡のみならず象徴詩の詩人として、「青い山脈」「東京行進曲」等の歌謡曲の作詞家としても活躍し、数多くのヒット曲を生み出した。
野口雨情(のぐちうじょう)  「七つの子」「赤い靴」「しゃぼん玉」等数多く作詞した童謡詩人で、童謡の他にも日本・樺太・朝鮮・満州・台湾と幅広く地方民謡を作った。北原白秋、西條八十と並び三大童謡詩人と呼ばれており、児童文化運動の流れに乗って児童雑誌に童謡の発表をし、作曲家・本居長世、中山晋平、藤井清水等が雨情の試作に曲譜を付けたこともあって、現在も愛される有名な曲を数多く生み出した。63歳で亡くなるまでに2千余編もの詩を残した。
高野辰之(たかのたつゆき)  作曲家・岡野貞一と組み「春が来た」「故郷」「日の丸の旗」「紅葉」「春の小川」「朧月夜」等を生んだ作詞家で、歴史的な国語・国文学者でもある。現在も愛唱されているこれらの歌には故郷を想う優しさが込められ、歌に触れた者に親しみと叙情への深い共感が湧く名曲ばかりである。
岡野貞一(おかのていいち)  作詞家・高野辰之と組み「故郷」「朧月夜」等を作った作曲家で、音楽教育の発展に大きく貢献する一方で熱心なクリスチャンでもあった。40年間教会で毎日曜に礼拝のオルガンを弾き、聖歌隊の指導を続けるなど信心深く誠実な人格者であったという。63歳で亡くなるまでに市歌や校歌等、心に残る美しい歌を数多く残した。
中山晋平(なかやましんぺい)  野口雨情らと共に「しゃぼん玉」「背くらべ」「てるてる坊主」等の童謡を作った作曲家で、日本の民謡を研究した人。島村抱月の書生になり芸術座の旗揚げに参加し、劇中歌「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」を発表して人気を博し、全国的に名を知られるようになった。「波浮の港」「出船の港」「東京行進曲」など多くのヒット曲を手がけ、日本の大衆歌謡に大きな影響を与えた作曲家である。
清水かつら(しみずかつら)  「叱られて」「靴が鳴る」「雀の学校」等の童謡を作った童謡詩人で、関東大震災により埼玉県和光市に避難した後、53歳で亡くなるまで過ごした。生涯を過ごした武蔵野の自然と、子供達の純真さをこの上なく愛し、両親が離婚したため4歳で実母と離別した経験より、実母を慕う心や寂しさ等、彼の人柄を映した数々の童謡は、現在も変わらず愛唱されている。
総論
親が子に歌って聞かせる時に選ぶ歌はどんな歌だろう。子供が喜ぶ歌、子供に知ってもらいたい歌(一般的に言われる良い歌)、子供のためになる歌(数え歌や道徳的なもの)…色々基準はあるかも知れない。でも歌を子供のために作るとしたらどうだろう?赤ちゃんに作るなら愛情溢れる優しい歌、幼児なら身近な題材で面白い歌や子供が喜ぶ歌、小中学生だったら?少し難しい気もするが、旋律が美しいような音楽的な歌とか、心情や風光を詠んだ歌といったところか。親の意図がそのまま出た歌になるかもしれないが、それは自分の家庭の話だから許される。童謡のところで「支配階級側の社会思想(イデオロギー)」の影響に触れたが、軍国主義にあり、西洋化に焦る日本が推奨した歌は無論、そのような歌になって当然かと思う。しかし戦後長い年月が過ぎ、修正(部分的削除)はあったにしろ、そうした色の強い歌が残され、訳の分からぬ理由により教科書から消えた歌が多数存在することを注記して、本項を終えたいと思う。訳の分らぬ理由とは、全国の市町村合併で村が消えた県があるから「村」が付く歌はダメとか、「汽車」は存在しないからとか、「狸」と和尚が一緒に演奏するのは良くないとか、そんなレベルである。それ以上に大切なものと筆者が考える歌の心や歴史的価値・背景などを吟味され、文部省唱歌を見直したらどうかと思う。  
 
お月さまいくつ / 北原白秋

 

  お月つきさまいくつ。
   十三じふさん七ななつ。
   まだ年としや若わかいな。
   あの子こを産うんで、
   この子こを産うんで、
   だアれに抱だかしよ。
   お万まんに抱だかしよ。
   お万まんは何処どこへ往いた。
   油あぶら買かひに茶ちや買かひに。
   油屋あぶらやの縁えんで、
   氷こほりが張はつて、
   油あぶら一升しようこぼした。
   その油あぶらどうした。
   太郎たろうどんの犬いぬと
   次郎じらうどんの犬いぬと、
   みんな嘗なめてしまつた。
   その犬いぬどうした。
   太鼓たいこに張はつて、
   あつちの方はうでもどんどんどん。
   こつちの方はうでもどんどんどん。(東京)
この「お月さまいくつ」の謡うたは、みなさんがよく御存じです。私たちも子供の時は、よく紅あかい円まるいお月様を拝みに出ては、いつも手拍子をうつては歌つたものでした。この童謡は国国くにぐにで色色いろいろと歌ひくづされてゐます。然しかし、みんなあの紅あかい円いつやつやしたお月様を、若い綺麗きれいな小母をばさまだと思つてゐます。まつたくさう思へますものね。
  お月つきさんぽつち。
   あなたはいくつ。
   十三じふさん七ななつ。
   そりやまだ若わかいに。
   紅鉄漿べにかねつけて、
   お嫁入よめいりなされ。(伊勢)
  ののさまどつち。
   いばらのかげで、
   ねんねを抱だいて、
   花はなつんでござれ。(越後)
  あとさんいくつ。
   十三じふさん一ひとつ。
   まだ年とし若わかいの。
   今度こんど京きやうへ上のぼつて、
   藁わらの袴はかま織おつて着きしよ。(紀伊)
  お月つきさんいくつ。
   十三じふさん七ななつ。
   まだ年としは若わかい。
   七折ななをり着きせて、
   おんどきよへのぼしよ。
   おんどきよの道みちで、
   尾をのない鳥とりと、
   尾をのある鳥とりと、
   けいつちいや、あら、
   きいようようと鳴ないたとさ。(伊勢)
   「おんどきよへ」とは、「今度こんど京きやうへ」といふのがなまつたのです。
  お月つきさまいくつ。
   十三じふさん七ななつ。
   そりやちと若わかいに。
   お御堂みだうの水みづを、
   どうどと汲くもに。(美濃)
   お月つきさま。お年としはいくつ。
   十三じふさん七ななつ。
   お若わかいことや。
   お馬うまに乗のつて、
   ジヤンコジヤンコとおいで。(尾張)
かういふ風ふうに、「そりやまだ若わかいに。」と、みんな歌つてゐるから面白いのです。京へ上のぼつたり、紅べにかねつけたり、お嫁入りしたり、赤ん坊を生んだりしてゐます。お馬のジヤンコジヤンコもおもしろいでせう。それにまた、「そりやまだ若わかい。若船わかぶねに乗のつて、唐からまで渡わたれ。」(紀伊)といふのもあります。それから少し変つてゐるのに、一寸ちよつと西洋せいやうの童謡見たやうなのがあります。それは珍らしいものです。
  お月様つきさまいくつ。
   十三じふさん七ななつ。
   まだ年としは若わかいど。
   お月様つきさまの後あとへ、
   小ちいちやつけ和尚をしやうが、
   滑橋すべりばしをかけて、
   お月様つきさま拝をがむとて、
   ずるずるすべつた。(下総)
これは、空のけしきが其のままに歌はれてゐます。小さい和尚さんは白い星か薄うすい霧のやうな星の雲かでせう。滑橋すべりばしもさうした雲のながれでせう。天の川のやうな。ずるずる滑るところがをかしいではありませんか。
それから、その綺麗きれいな若いお月様の小母さまに、みんながお飯まんまを見せびらかしたり、またいろんなものをせびつたりします。やはり子供の小母さまですから。
  お月様つきさま。
   観音堂くわんのんだう下おりて、
   飯まんま上あがれ。
   飯まんまはいやいや。
   あんもなら三つくりよ。(信濃)
  お月様つきさま。お月様つきさま。
   赤あかい飯まんまいやいや。
   白しろい飯まんまいやいや。
   銭形ぜにがた金形かねがたついた
   お守まもりくんさんしよ。(岩代)
  あとさん。なんまいだ。
   ぜぜ一文もんおくれ。
   油あぶら買かつて進しんじよ。(肥前)
  どうでやさん。どうでやさん。
   赤あかい衣服べべ下くだんせ。
   白しろい衣服べべ下くだんせ。(陸中)
そのお月様は、紅あかいのに桃色だと云つたとて、プリプリ怒つたのもあります。
  お月様つきさま桃色ももいろ。
   誰だれが云いつた。
   海女あまが云いうた。
   海女あまの口くちひきさけ。(尾張)
それから、
  大事だいじなお月つきさま、
   雲くもめがかくす。
   とても隠かくすなら、
   金屏風きんびやうぶでかくせ。(東京)
といふのがありませう。ほんとに金屏風でなくては、あの若い小母さまには似合はないでせうね。いかにも昔のお江戸の子供が謡つたやうでせう。気象きしやうが大きくておほまかで、張はりがあつて、派出はでで。
「兎うさぎうさぎ」といふのも御存じでせうね。
   兎うさぎ。うさぎ。
   何なに見みて跳はねる。
   十五夜じふごやお月つきさま
   見みて跳はねる。ピヨン/\。
ほんとに、お月夜の兎のよろこびと云つたらありません。両耳を立てて、草の香の深い中から、ピヨン/\と跳ねて飛んで出る、あの白い綿のやうな兎さんもかはいいものです。それにしても、あのまアるいお月さまの中には、いつも兎が杵きねをもつて餅を搗ついてゐる筈でしたね。  
 
「お月さん幾つ」考

 

要旨
本稿は、古くまた広く歌われてきた童謡「お月さん幾つ」の難解な歌詞について、先学の議論を整理し、新しい解釈を提出するものである。われわれは、「十三七つ」型が原型であるという定説を再検討し、「十三ひとつ」型がより古く、この言葉は十四月夜を意味するという仮説を立てた。これによって、中世においては十四月夜が「子持ち月」と呼ばれていたことから、この歌の原意が身よりのない子どもを生んだ少女の悲しみを歌ったものだという結論に達した。
一 はじめに
わらべうたの中には、歌詞の元の意味が忘れられて意味不明になってしまったものや、ナソセソスな言葉の連続であるものが少なくない。そういうわらべうたの中でも「お月さん幾つ」は「かごめかごめ」とならんでとりわけ難解な歌詞を持つものとして知られている。そのため多くの人々がこの歌をくり返し議論の対象としてきたのであるが、長い努力にも関わらず、解明された謎はごく少ない。
本稿は、「お月さん幾つ」の謎について先学の議論を整理し、ごく一部分についてではあるが、新しい解釈を提出しようとするものである。
「お月さんいくつ」は、全国に広く普及している童謡だが、同時に長い生命力をもつ歌でもあった。童謡研究の第一人若枝野建二は、この童謡の近世の書籍に記載された例を多くあげ、「古謡の中でもこんなに広く且つ古くから講書に散見するわらべ唄は珍らしい」と述べている。
その長い歴史と広い分布のため、この童謡は柳田国男門下の民俗学老がもっとも熱心に採集に努めたもののひとつであった。そのおかげで、全国各地の伝承が克明に記録されている。次に掲げるものは、そのなかでもっとも典型的な歌詞で、その分布はほぼ日本の全域に及ぶ。
   お月さん幾つ 一三 七つ
   まだ年ァ若いね あの子を生んで
   この子を生んで 誰に抱かしょ
   お万に抱かしょ お万どこへ行た
   抽買いに茶買いに油屋の前で
   辷ってころんで 油一升こぼした
   その抽どうした 太郎どんの犬と
   次郎どんの犬と みな舐めてしまった
   その犬どうした 太鼓に張って
              鼓に張って
      あっち向いちゃドンドコドン
      こっち向いちゃドソドコドソ
         たたきつぶしてしまった
民俗学者によってこれまで採取された歌詞の大部分は右のものときゎめてよく似ているが、他方でこれと一部を共通にしながら大きく異なる歌詞をもつものも少なくはない。なかには、最初の一行以外まったく異なって・いるものすらある。その変異はあまりに多岐にわたっていて、相互比較もほとんどできない。たとえば南方熊楠が採取した和歌山県の歌詞は、他の地方のどれとも類似せず極めて特異なものと言える。
しかし、右に掲げたもっともポピュラーな歌詞には、それ以外のものと区別される三の大きな特徴がある。それは「油買いに」という語句の有無で、これを持つものはば同一の歌詞をもつ。差異があるとしてもごく小さく、広い分布にもかかわらずその変形の少なさにむしろ驚かされるはどである。ここでは、右のもっとも典型的なタイプを他と区別して「油買い型」と呼ぶことにしたい。
このタイプの歌詞は、歴史的に遡ってももっとも多く見いだされる。この歌は、江戸時代の児童遊戯を採取した書籍には必ずといってよいはど記載されているが、そのほとんどがこのタイプの歌詞である。そのうち、もっとも古いものは、寛政九年の『諺苑』所収のものと言われている。「油買い型」の江戸時代の広い分布を考えると、この型が、近世初頭以来の「お月さん幾つ」の発展の最後に位置する完成型であったと思われる。
もっとも、「油E貝い型」ですら歌詞の意味は不明で、統一性にも欠けている。多くの研究者がのその意味の解明に努力してきたが、諸説は相互に矛盾・混乱し、一致点はごく少ない。そこでわれわれは、先学の議論の再検討を出発点として、この難解な歌詞の解明に挑んで行きたい。
二 月と子守りの問答の意義
まず、この歌の形式であるが、これについては多くの先学が「月」と「子守り」との問答形式の歌だとしている。これについては異論はぁまりないだろうが、問題は、この歌のどの部分が月の歌う歌詞でどこが子守のものかを確定する作業である。これがはっきりしなければ歌の解釈自体ができるはずもない。ところがこの重要な問題について緻密な作業をした論考はこれまではとんどなかった。唯一、国文学者の仲井幸二郎が次のような解釈を示しているだけである。
   子守女 お月さまいくつ
   月    十三七つ
   子守女 まだ年や若い
   月    あの子を生んで
   子守女 誰に抱かしょ
   月    おまんに抱かしょ
これを見ると仲井は、子どもを生んだのは月だと考えて、「誰に抱しょ」を子守りの発した問いとみなしていることが分かる。しかし、この例では「この子を生んで」のフレーズが抜け落ちていて一般的な解とは言い難い。また、「誰に抱かしょ」が子守りの問いなら、これに続く「お万どこいった」は当然子守りの問いということになる(もっとも仲井はこのことについては明言していない)。しかし、それに後続する尻取り歌の面白さは、答えの部分の奇抜さにあるのだから、それは実際の歌い手である子守や子供たち自身のものだと考えるべきではなかろうか。そして、尻取り歌の問いを月のものと考えるなら、その直前の「誰に抱かしょ」も月の問いと考えるべきであろう。
以上の分析を前提にして、最初に掲げた典型的な歌詞を、問と答えの歌詞の長さをそろえて整序しなおすと、以下のようになる。この歌は五つの問とそれへの答えからなる、比較的単純な構成のものであることが分かる。
@子守の問い ・お月さん幾つ
 月の答え ・一三 七つ
 子守 ・まだ年ァ若いね あの子を生んで
A月の問い ・この子を生んで 誰に抱かしょ
 子守の答え ・お万に抱かしょ
B月の問い ・お万どこへ行た
 子守の答え ・油買いに茶買いに
         油屋の前で 辷ってころんで
         油一升こぼした
C月の問い ・その油どうした
 子守の答え ・太郎どんの犬と 次郎どんの犬と
         みな舐めてしまった
D月の問い ・その犬どうした
 子守の答え ・太鼓に張って 鼓に張って
         あっち向いちゃドソドコドソ
         こっち向いちゃドソドコドソ
         たたきつぶしてしまった
これを見ると、@@とその後の問答とでは異質な印象を受ける人が少なくないであろう。B以下の問答は、いわゆる尻取り歌となっているだけでなく、滑梧味を追求したナソセソスな遊戯歌であるからである。そのため、多くの人がこの部分は後からの追加であろうと考えてきた。
この漠然とした印象にたいし、明白な根拠を示したのが仲井である。かれは、前半と後半の境目にある「おまんに抱かしょ」について、このフレーズの原義は「お前さんに抱かせよう」だと指摘し、それに続く歌詞は「『おまん』を人名とうけとって、あとは問答体が自由に連想によって展開して」いったのだという。
仲井の、u65378 「お万」の原型が「お前」であるという説は卓説であると思われる。というのは、この説に立つならば、この歌の前半は子どもの相手に飽きた月と子守りがたがいに子どもを押しっけあっている、労働歌としての守歌であると理解できるからである。
「お前」の意義が忘れられることによって後半の尻取り形式の歌詞が生じたのだという仲井の指摘は、歌詞の後半が前半が完成した後に追加されたものだという仮説のもっとも良い論証となっている。つまり「お万どこへ行た」に先行する@と@の部分こそが、この歌の原形なのである。われわれは仲井の卓抜な見解に敬意を表し、論証の焦点をここにあてたい。
三 「十三七つ」と「十三ひとつ」はどちらが古いか
「お月さん幾つ」の歌詞については、近世以来さまざまな議論がなされてきた。しかし、ここでは古い時代の考察に拘泥する煩をさけ、近代のものに限定して先学の説明を比較検討してみたい。
ゎれわれがまず最初に注目すべきは、当然のことながら柳田国男のものである。彼は、民俗学のあらゆる領域に手を染めた巨人であったから、この童謡にも強い関心を向けた。彼は「小さき老の声」(昭和二年)という高名な論文の冒頭で、彼自身幼時にこの歌を新月に向かって歌った記憶があるとのべて、次のような分析を行っている。
まず彼は、各地で採取された歌詞の最初の部分を比較検討して、「月をノノサマと謂ふものと、アトサマと呼びかけたもの」の二つがぁることを指摘する。たとえば千葉では「ノノサマ」と呼び、淡路の洲本では「アトサンなんぼ」と歌っていたと言う。そして、「アトサマ‥‥‥」の歌詞が「お月さま」より古い形だと考えた。さらに「此等の月の異名がもと礼拝から出て居る」とし、「アトサマといふ言葉が、月ばかりで無く色々の尊いものに、次第に延長して行った」と指摘している。彼は、仏僧を「アトサマ」「ノノサマ」と言い、神・星・薬を「アトサン」と言うのは、「アトサマといふ言葉が、月ばかりで無く色々の尊いものに、次第に延長して行ったこと」の結果だという。
「子供と言葉」(昭和一〇年)ではこの論をさらに発展させて、関西各地の小児語では、月だけでなく、神や仏もアトサンと言うが、それは「もとはア\タウト、即ち拝む言葉であつた」と言う。
柳田の月の異名についての分析は面白いが、それは幼児語における身近な人々への呼称の分析に進み、「お月さん」の歌詞そのものの分析に向かうことはなかった。
柳田国男の先駆的な研究のあと、多くの研究者がこの童謡の採集と分析に努めた。その主要な論考の一つに金関丈夫の「お月さまいくつ」がある。この論文は、それまでの研究の集大成であると共に、中国大陸の類似した童謡との比較を試みていて、興味深い。かれは、台湾や広州、福建等の中国南部に「月光々」で始まる童謡が分布していることに注目をして、大陸の童謡が「南中国から長崎あたりに伝わり、それが次第に日本全国に広まった」と主張している。その当否は見極めがたいが、貴重な論考である。
この歌の歌詞は日本各地で大量に採集されているが、そのほとんどに共通するのが「十三〇〇つ」というフレーズである。「十三七つ」のはか、このフレーズには、「ひとつ」「九つ」など幾つか種類があるが、どれが原型か、またそれがどんな意味をもっていたかは容易に結論を出しがたい。それゆえ、このフレーズの分析について実にさまざまな議論がなされてきた。
たとえば、金関丈男は、十三ひとつ型と十三九つ型が分布する地方にも十三七つ型が共存していることを根拠に、「十三七つ」が祖型でぁると述べている。当然のことながらこの説を支持する研究者は多い。
この歌の地方的差異について詳細な検討を行った右田伊佐雄は、「一つ」「七つ」「九つ」に「みっつ」を加えて四類型を提示した。最後の「みっつ」は、右田自身が大阪府内で数例採取したものであるという。かれの作成した四類型の全国分布の一覧表をみると、「ななつ」が全国に広まっているのにたいし、これと重複しながら、「九つ」は中国・四国地方に、「一つ」は近畿地方に集中していることが分かる。右田は、この分布表に依拠して、「『ななつ』が全国各県に一様に伝播しているのに対して、『ひとつ』や『ここのつ』が部分的にすぎない」こと、「江戸時代の記録が『ななつ』しか発見されていない」ことの二点を理由に、金関と同じく「七つ説」を支持している。
また、真鍋昌弘は、右田より早くこのフレーズの全国的な分布図を作り、それに基づいて「十三九つ型」が古いという推測を行っている。彼が自説の根拠としたのは、この型が日本の両端に分布していること(柳田の方言周圏説にもとづく)、瀬戸内海沿岸に一様に分布していることなどの事実であった。真鍋の示した仮説は安易に無視しうるものではない。しかし、彼の主張は幾分控え目で検討にも不十分なところがあるのが惜しまれる。
なお、金関と石田は「一つ」のフレーズは江戸時代の文献にはまったく見つからないとしているが、一荷重半水編『花袋』(元治元(一八六四)年) や『守貞慢稿』(嘉永六(一八五三)年)などにこのタイプの記載例がある。しかし、この炉型がごく少ないことは確かである。
以上に見たごとく、研究者の多くは「十三ななつ」が最も古いという見解を支持してきた。しかし、少数ながらこの見解に反対する研究者も存在している。言語学老の金田一春彦は、このフレーズの古い形は「十三ひとつ」だったという前提にたち、次のような主張をした。
「十三一つ」とは十四日目の月のこと、お月さんは盛りが十五夜であるから、十四夜ではまだ年が若いということになるのであろう。それが〔現行の〕「十三七つ」となっては意味がわからなくなる。
金田一は、この答えは月齢だという前提にたって、十四夜以外は意味を持たないと考えた訳だが、右の説明では、問いに対する答えが何故十四夜でなければならないかという疑問に対する説得力は弱い。
以上のように先学の考察は、「一つ」説、「ななつ」説に二分され、互いに少しも譲らないのであるが、私は、「七つ」説には疑問を感じている。この説に依拠する論者がことごとくこの歌詞の解明に失敗しているからである。この点について次に検討しょう。
四 「十三七つ」の解釈ついて
「十三七つ」解釈については、先学によって実に様々な意見が提出されてきた。その多岐にわたる議論をまず右田の整理にそって検討してゆこう。右田は、それを次の四種に分顕した。
(一)加算して年齢とする説
たとえば「十三七つ」なら、二十歳となる。
(二)十三夜の月の七つ時とする説
これは『俳話岩山集』中の「お月さまいくつ十三ヒつ時」の句に基づく説で、十三夜月はおよそ七つ時(午後四時すぎ)に出るという事実を歌ったものだとする。
(三)十三夜月と十七歳女子の対比説
これは、八重山の有名な民謡「月の美しゃ 十日三日 女量美しや 十七つ」に基づくもので、「お月さまが美しいのは十三夜、娘が美しいのは十ヒ歳」という意味だとする。
(四) 閏月七回説
これは国文学者山田孝雄の説で、旧暦で閏年(年一三ケ月)が十九年に七回あることを歌ったとするもの。
右田は、先学の四つの説のそれぞれを批判・検討し、「十三七つ」の意味は(一) の加算説以外には考えられないと言い、このフレーズは二十歳を意味すると結論している。
参緩までに、右田以前の論者の主張を紹介しておく。相馬大は(二)説支持、金関は「現在、最も妥当な見解とされているものは、月齢とする説と、娘の年齢とする説の二つである」と言っているから、(こ、(二)両説のいずれとも決めかねているようである。また、桜井満は、これを十三夜月を歌ったものとし、「七つ」は「調子を整えるだけの言葉だったかも知れない」と述べている。
大ざっばに見れば(二)説を支持する者がやや多く、(一)と(四)を支持する論者はごく少ない。高郷宝之進は、(二)を支持しっつ、「人の年齢としては『十三、十七』の省略形としての意味をあわせて意識されていたのかも知れない」と述べているが、このあたりがもっとも多く支持される考え方といえるかも知れない。
ちなみに、(三)説は沖縄研究者によってくり返し主張されてきたものだが、彼らはそのプライオリティを柳田国男に求めている。しかし、吾郷によると柳田の著作にはこの説にふれたものがなく、学説史上の謎となっているという。興味深い問題提起である。
右田は、加算説を前提として「あの子を産んで、この子を産んで」という歌詞も、二十歳なら「二児の母であってもおかしくない」と説明している。「まだ若い」というフレーズについては、柳田説を援用して、「『ののさん』(神様)にしては『そらまだ若い』ということになった」と言う。この文章は分かりづらいが、お月さまなら永遠の命をもつから二十歳でも若いと考えられたということだろうか。いずれにせよこの部分の右田の説明はあまり説得力があるとは思えない。私は、右田の加算説の正しさを認めた上で、二十歳の出産を「若い」と呼ぶことには無理があると思う。
金関は、二十歳の娘は当時としては適齢期を少し過ぎているから、この句は「その娘に対する皮肉なあてつけである」という説を紹介している(論者不明)。この説が根拠としているのは、「若い」のあと「若うもごんせんはたちでごんす」と続く兵庫の歌詞だと言う。しかし、金関の指摘するように、この歌詞自体が元の意味が忘れられた後に生じた「解釈」であることを示しているように思われる。
以上「十三七つ」についての先学の解釈を見てきたが、四つの説のぅちどれが正しいか、結局結論は出しがたいように思える。支持者のもっとも多いのは(二)説だが、月の出が七つ時であるという答えがどのような意味をもつかについては、まったく説明されていない。十五夜ならともかく、十三夜の月が夕方四時ごろに出るという知識にどれほどの価値があるか疑問と言わざるをえない。この説を支持する論者が一人もこの点に触れていないのは、説得力のある説明が見つからなかったからであろう。
「十三七つ」についての先学の説明がすべて説得力がないとしたら、このフレーズが原型であったという仮説自体に疑問が生ずる。加算説の最大の弱点は二十歳を「まだ若い」と呼ぶことの不自然さにあるが、もしこれが十四歳であるなら、つまり、「十三一つ」を原型と考えるならば、この不都合は解消される。そこで次章では、この仮説に立って、「お月さん幾つ」の再解釈を試みたい。
五 「子持ち月」の嘆き
われわれは考察の焦点を歌詞の前半に置いてきたが、この短い語句ですら難解で納得のゆく解釈は容易ではない。その最大の理由は何よりもまず、お月さんの年(月齢) についての問答と、それに続く子どもについての問答との間になんの関連も見いだされないことにある。そのために、古来この歌詞はナンセンスなものと判断されてきた。
そこで、まず出発点に戻って考えてみると、この歌の原型が月齢を尋ねる問答に由来してるという点には議論の余地はないだろう。現代社会では必要性はほとんどないが、月の満ち欠けを見てその日の月齢を言い当てる「月よみ」の技能は、太陰暦の世界では極めて重要なものであった。それは単に一月の何日目かを知りうるという便宜ばかりではなく、夜間の作業や外出のために、あるいは未婚の男女の恋のために、明るい月夜が必須だったからである。
例えば、八重山の民謡「新安里屋ユソタ」には次の一節がある。
   田草取るなら 十六夜月よ 二人で気がねも 水入らず
だから、十五夜前後の明るい月の月齢を読みとることはとくに重要で、そのためこのころの月は、十三夜、十六夜、宵待ち月、立待ち月などのように固有の名前がつけられていた。月よみは子どものうちから身につけておくべき大事な技能だったのである。この問答はそういう必要のなかから生み出されたのであろう。
もし明るい月夜が人々の生活に欠かせないものだったならば、「お月さま幾つ」の答えは、二十夜というような遅く陪い月夜ではなく十五夜前後の明るい月でなければならない。とすれば、この問答の答は、「十三一つ」以外には考えられないのである。
そこで、「十四夜月」が何を意味していたかが、改めて問題となる。太陰暦の時代には月齢を示す固有の単語が広く使用されていたことは前述したが、では十四日の月は何と呼ばれていたか。中世において、それは「子持ち月」と呼ばれていた。このことを知れば、この答の含意は自ずから明かとなる。すなわち「十三ひとつ」という答は、月の年齢が「十四歳」でしかもすでに「子持ち」であることを示しているのである。十四歳で母親になったのであるから、当然のことのように「まだ年7若いね」という感想へと連続してゆくことになる。
これが子持ち月についての歌だとすると、次の問答もより正確な理解が可能となる。
   子守り まだ年ァ若いね あの子を生んで
   月    この子を生んで 誰に抱かしょ
   子守り お万に抱かしょ
ここで、「あの子を生んでこの子を生んで」は二人の子供の存在を意味するのでなく、月の手元にいる子を子守が「あの子」、月自身が「この子」と呼んでいるのである。
「年が若い」という文句は、十四を子を生んだ母親の年齢と解釈しての文句であるが、もちろん未婚であることをも暗示しているから、「この子を誰に抱かせよう」とは、単なる赤ん坊のの押しっけあいではなく、世話をすべき正当な保護者のいない幼児の境遇を語っているとも理解できる。抱いて充分な世話をしてくれる老がいない悲しみから、少女は「お月さん、お前が抱いておくれ」と哀願しているのである。
さて、最後に十四夜の月がなぜ子持ち月と呼ばれたのかを考えてみよう。その理由はこの歌が生まれた時代の人々にとっては自明のことであり、ことさらここで論じるまでもないことかも知れない。しかし、逆に言えば、この言葉が忘れられたために、「お月さん幾つ」の歌詞の意味もまた忘れられたと言いうるのである。
中世においては、十四日の月は小望月と呼ばれるのが一般的であった。その輝きが十五夜の月に比べて少し欠けるからだという。現代では、この言葉はまったく忘れられてしまったが、それでも俳讃の世界では秋の季語としてわずかに残っている。その「コモチヅキ」という発音を借りて、十四日の月は「子持ち月」と呼ばれたのである。
「子持ち月」は十四月夜の機知に富んだ異称として中世の文献にしばしば登場している。例えば、「小式部」には、
   みなかみに、こと夜のしもは、ふらねども、七日七日の月とゐわれじ
という和歌について、和泉式部が「七日七日とは、十四日なり、十四日の月をは子もち月といひ、十五日のをは、もち月といふなり」と説明したとある。和泉式部の説明から、この和歌がなぞなぞ歌であったことが分かる。
また、『御伽草子』の「和泉式部」には
   百年に又百年は重ぬとも七つ七つの名をばたへじな
があり、「七つ七つ」は十四日の月を意味する。もちろん、和泉式部の、どんなに年をとっても「子持ち」と呼ばれたくないという気持ちを歌ったものである。
『御伽草子』は、和泉式部が十三歳で男と出会い、十四歳で子を産み、「子持ち」と呼ばれることを嫌って捨て子したと物語っている。この説話の意味するところは色々あるだろうが、ひとつの眼目は、このころ最も早熟な少女は十三で恋をし十四で出産するという事実を示していると言える。『御伽草子』は、この年齢がもっとも早いと認識しっっ、道徳的な非難をしてはいない。つまり、作者にも読者にも、恋ができる年齢に達したものが恋をすることは当然だと考えていたのである。
日本では月についての固有名詞は数も多くまた使用頻度も高い。十三夜に始まり、望月、十六夜、宵待ち月、立待ち月、臥待ち月、寝待ち月等々の月齢を示す言葉は、近世の文芸に頻出している。しかし、不思議なことに十四夜を示す小望月だけは使われることが少なかった。小望月の忘却自体一つの謎であるが、それにともない「子持ち月」という言葉も近世の早い時期に忘れられてしまったと思われる。当然のことながら、小望月という言葉が生きている社会でしか、「子持ち月」という言葉の面白さば理解されないからである。
「子持ち月」という言葉が忘れられると、「十三一つ」は「お月さん幾つ」の答えとしての意味を失ってしまう。こうしてこの問答の意味が子どもたちに理解されなくなってしまえば、それが「十三七つ」のような語呂のよい歌詞に移行してゆくのは、ごく自然の勢いだったといえるだろう。
当然のことながら「十三七つ」は問いに対する答えとしてなんの意味も持たない。しかし、歌詞の意味を読みとろうとする者の眼には、意味不明な語句は解釈を求める神秘的な一言葉、あるいは解くべき謎とぅっる。こうして、新しく生じた歌詞に後から意味を付与する様々な努力がなされ始めるのである。「三つ」や「九つ」ではなく「七つ」が定着したのは、この語句が謎解きにもっとも適していたからであろぅ。「お月さま幾つ」は、謎の付与によって新しい生命力を獲得し再生し始めたのである。 
 
螢狩の唄考 (螢狩の唄が歌われはじめた時期)

 

はじめに
日本で歌われていたわらべ唄(伝承童謡)について浅野(1988)は、「これらの諸記録類によれば、現行の「わらべうた」の大半は、すでに近世初期頃から歌われた」と述べている。夏の夜、子供達がホタルを追いながら歌ったわらべ唄である螢狩の唄については、江戸時代後期のわらべ唄集や当時の風俗を記録した随筆などに記録が残っていることは知られているが、中期以前については不明である。では、螢狩の唄はいつ頃まで遡れるのだろうか。
わらべ唄の記録はわらべ唄集以外にも、随筆、日記、能狂言伝書、歌謡集、浮世草子、浄瑠璃正本など
に散見される(浅野、1988;尾原、1991)。筆者は江戸時代前・中期の俳諧書、狂歌集、浮世草子等から螢狩の唄の記録を見出すことができたので報告し、螢狩の唄が歌われはじめた時期を探る資料の一助としたい。
なお、引用作品のホタルの表記は螢で統一し、踊り字はそのまま(く はと表記)とした。
江戸時代後期・末期の資料
江戸時代のわらべ唄の記録は後期に集中しており、螢狩の唄も5 編が知られている(尾原、1991)。また、幕末期の螢狩の唄を知る資料としては『山の手の童謡』があり、2 編が載る(尾原、1991)。
『弄鳩秘抄(ろうきゅうひしょう)』
栗田惟良(葛園)著。常陸国水戸(茨城県水戸市)のわらべ唄を集め、考証を加えたもの。著者の惟良は1824(文政7)年に37 歳で没しており、本書の成立は化成期の1804 〜 24 年頃と考えられている。
   ○ 螢とりの歌
   ほふたるこい、山見てこい、あんだのひかりをちよと見てこい。
   あんだは阿弥陀にや、山越の阿弥陀なるべし。またお江戸の光ともいふ。行燈のひかりといふは誤りなり。
『熱田手鞠歌 盆歌/童諺/附』
著者は高橋仙果、名を広道、笠亭・古今堂などと号した。尾張国熱田(愛知県名古屋市熱田区)の人で、本書は熱田の童謡を集めたもの。天保初年頃(1830-31)の成立と考えられている。
   ○ 熱田童諺
   螢こい露のましよ、あつちの水はにがいよ、こつちの水はあまいよ。 螢とる/時の詞
『尾張童遊集』
著者の小寺玉晁は尾張藩士で、名は広路、連城亭・続学亭などの号を持つ。本書は原題を『児戯』といい、尾張地方の童戯童謡を集めている。1831 年(天保2 年)の自序がある。
   ○ 幼児口遊(クチスサミ)
   螢来(ホツタルコウ)い水のましよ、そつちの水はにがいよ、こつちの水はあまいよ。 螢を見る/時いふ詞
『嬉遊笑覧』
喜多村信節(のぶよ)(筠庭・いんてい)著の随筆で、各巻に童戯童謡の考証が多数ある。1830(文政13)年刊
   ○ 巻十二 禽蟲 石山螢谷
   上州にて小児螢を呼に
   ほうたろこう、おのがてゝの合子(はこカ)で、かぶら川の水くれう。
   高崎の辺に蕪川という河あり。
『守貞漫稿』
喜田川守貞著。1810(文化7)年大坂に生まれ、1840(天保11)年江戸に移住した守貞が、江戸と上方の風俗の違いに興味を持ち、1837(天保8)年から書き綴った風俗百科で、1853 年(嘉永6)年に成る。
   ○ 第二十五篇 遊戯
   飛螢を観て京坂の男女云詞、蓋京坂の童は螢を「ほうち」と云。
   ほうちこい、落たら玉ごの水のまそ。
『山の手の童謡』
著者の山中笑(えむ)は幕府御家人で、名は平蔵保生、後に笑と改め共古と号した。本書は、1850(嘉永3)年江戸四谷(東京都新宿区)に生まれた著者が子供の頃に、東京の山の手で歌われていたわらべ唄集。
   ○ 螢を捕へるとき
   ほーたるこい、山見てこい、あんどの光をチヨト見てこい。
   ほーたるこい、柳の下で水のましょ、あつちの水はにーがいな、こつちの水は甘いな。
江戸時代中期の資料
江戸時代中期の資料としては、江戸浅草覚吽院(かくうんいん)の僧行智が子供の頃(天明から寛政初年頃)歌っていたわらべ唄を記した現存最古のわらべ唄集『童謡集』(1820(文政3)年成)や、江戸の童謡・童諺を数多く載せる太田全斎著『諺苑』(1797(寛政9)年序)などがあるが、いずれも螢狩の唄は見られない。ただ、この時代に螢狩の唄が歌われていたことを窺わせる資料として、太田南畝の狂文集『四方のあか』がある。
著者の太田南畝は幕府御家人で、狂名を四方赤良、蜀山人・巴人亭などとも号し、戯作者、狂歌師、漢詩人として知られる。『四方のあか』の一編「巴人亭記(はじんていき)」は、南畝が1786(天明6)年に増築した十畳ほどの書斎「巴人亭」について記しているが、この中に「東面に戸をあけて、洒落臭き机を出せり。螢こい雪こんの場所なるべし」という文章が見られる。「螢こいこい雪こんこん」は、中国晋の車胤と孫康の故事“ 螢雪の功” を踏まえて勉強場所を示したものだが、この「螢こいこい」は螢狩の唄の一節と考えてよいだろう。
なお、江戸中期から後期にかけての上方狂歌には、螢狩の唄を踏まえて詠まれた狂歌がいくつも見出される。また、俳諧発句についても作品が見られるが、これらは別報で紹介する。
江戸前期の資料
江戸前期のわらべ唄集としては、鳥取藩士、野間義学(宗蔵)の手になる『筆のかす』(1704(宝永元)年頃成)が知られている。これは行智の『童謡集』より1 世紀ほど早く、元禄期の鳥取地方のわらべ唄を集めたものである。しかし本集は原本が散逸し、写本端本から岩田勝市が採録したものが知られていたにすぎなかった(尾原、1991)。もし原本もしくは写本が完本の状態で発見されたら、螢狩の唄も江戸前期まで遡れるかもしれないと考えていたところ、2005 年に江戸後期の写本(資料名『古今童謡』)が発見されたことを知った。この資料は鳥取県立博物館の大嶋陽一氏によって紹介・翻刻がされた(大嶋、2007)が、残念ながら螢狩の唄は見当たらない。ただ、この写本も抄録本であるといい(大嶋、2007)、完本が発見されることを期待している。
『古今童謡』には螢狩の唄がなかったものの、さらに他の資料を当たった結果、いくつかの資料から螢狩の唄が歌われていたことを示唆する記事を見つけた。
ひとつめは、1683(天和3)年2 月刊の『乱曲集』に、新作として収録された宇治加賀丞の古浄瑠璃『京わらんべ』で、その第一段に「…はやきをんゑの夕すゞみ。ほたるこいとて水むすぶ。たもとすゞしきなつ衣…」とあり、この「ほたるこい」は螢狩の唄の歌い出しの言葉であると考えられる。
ふたつめは、1679(延宝7)年12 月に刊行された中島随流の『誹諧破邪顕正』である。本書はこの頃勢力を伸ばしていた談林俳諧の俳人、惣本寺(菅野谷)高政の俳諧撰集『誹諧中庸姿(ハイカイツネノスガ)』に対する論難書で、ここから貞門派・談林派の論戦が起こっている。
   随流は『誹諧中庸姿』の独吟百韻
   目にあやし麦藁一把飛螢
   次郎ま次郎吉夏草の陰
   白い雨軒のかど屋に玉なして
   (以下略)
を各句ごとに批判するが、第二句には
   二郎ま次郎吉夏草の陰
   此「二郎ま次郎吉」は、「螢」に付たるか、「麦わら」に付たるか。一句は、田夫の野わろにきこゆれば、「麦わら」にあひをなす事有べからず。たゞ、わらべの「ほたるこい、むし」といふほどに、童ァを付んとおもふが、…
とあり、「ほたるこい、むし」は螢狩の唄と見てよい。
この「ほたるこい、むし」は、1686(貞享3)年正月刊の浮世草子『好色三代男』(西村市郎右衛門著)の巻二〈恋は深し涼床〉にも「螢こひ虫とむしくるあつさにたえて四条河原の床涼」という文が見られる。
また、中期以降の上方狂歌にも
   双六のさいはひ橋のほとりとて螢こひ目をよふやむし/\ 鼠舌『狂歌三年物』
   いささらば川辺に出て螢こひむし/\暑さもしはし忘れん 鈍莫『興太郎』
   火宅をは出てもあつき夏の夜は螢よふにもむし/\と言ふ 安羅『夷歌哥ねふつ』
などの歌がある。江戸時代前期から中期にかけて、京阪地域では「螢来い、むしむし」という歌詞を持つ螢狩の唄が歌われていたのではないかと思われる。
三つめは、京の俳人高瀬梅盛が1676(延宝4)年に刊行した俳諧付合集『類船集』で、「螢」の項には、「こちの水ハあまいとハわらへのたはふれ」の一文がある。この「こちの水はあまい」は現在こっちの水型として知られる唄の一節を指すことは間違いない。
四つめとして、俳諧撰集『続山井』(1667(寛文7)年刊)に載る俳諧発句がある。
   螢こいと人はいふ也宇治の河  林見
この句では昔から螢の名所として知られていた宇治川で、「螢こい」と「いふ=呼びかける」人がいたことがわかる。
おわりに
江戸時代の螢狩の唄は、わらべ唄集の他にも、俳諧や狂歌、浮世草子、随筆等に断片的な記録が見られ、江戸前期の17 世紀半ばには歌われていたことが確実である。また『類船集』の記述から、あっちの水型の唄も、江戸前期から歌われていたことが確認できた。これまでのところ、江戸初期の資料からは記録を見付けることはできていない。三谷(1954)は日本各地の螢狩の唄を検討し、「昼は草葉の露飲んで」系統、「山道来い」系統、「あっちの水」系統の順に広まったと推定しており、もし、三谷の論が正しければ、歌われ出したのはさらに古く、江戸前期以前にまで遡れる可能性がある。
 
 
わらべうた

 

赤ちゃんが生まれて初めて出会う音楽は、お母さんがやさしくお尻をとんとん叩きながら歌う「子守歌」であってほしい。少し大きくなったら、お母さんやお父さんとたくさん触れ合う「わらべうた」で遊んでほしい。お友達と遊べるようになったら、体と知恵と思いやる心をたくさん使って、季節の移り変わりを感じながら、「わらべうた」で思い切り遊んでほしい。そんな願いを込めてわらべうたを伝えています。これまでの経験と知識に基づいて、つたないながら「子守歌」と「わらべうた」について記述していこうと思います。
1.子守歌
赤ちゃんが生まれて、お母さんの元で一緒に過ごせるようになったら、やさしく赤ちゃんの体に触れながら、静かに子守歌を歌ってあげてください。お母さんの心のこもった優しい声と温もりを、深い記憶の底に刻んでくれるはずです。
子守歌を知らないお母さんは、自分の大好きな歌を心を込めてやさしく歌ってあげてください。上手い、下手は関係ありません。お母さんの暖かな生の声が赤ちゃんにとっては一番快いのです。
昔から伝えられている子守歌、新しく作られた子守歌など、本屋さんで「わらべうた」の本を探すと、その中に載っていたりします。妊娠が分かったら、ぜひ探して購入して歌う練習をしてみてください。
お勧めの子守歌は、
ねーんねんころーりーよ、おこーろーりーよー、ぼうやはー、よい子だ、ねんねーしーなー。・・・・・・。江戸子守歌とも言われています。
ねんねこしゃっしゃりまーせー、ねたー子―のかーわーいさー、おきてなーく子―のねんころろ、つーらにーくさ。ねんころろん、ねんころろん。・・・。
中国地方の子守歌とも言われています。
ねんねんねやまのこめやまち、こめやのよこちょうをとおるとき、ちゅうちゅうねずみがないていたー、なーんのようかときいたらば・・・。歌詞は物語風、メロディーは単調で眠りに入りやすい。
ゆーなの木―のしーたーで、ゆーれるふーりんりんりらりん、・・・・。現代に作曲された子守歌。歌詞もメロディーも大変美しい。
このうち、1曲か2曲知っていれば十分です。
2.守り子歌
一口に子守歌といっても、昔から伝承されている歌の中には、とうてい子供に歌って聞かせるのにふさわしくない歌もあります。昔は貧しい家の子供が、他の裕福な家の小さな子供や赤ちゃんの世話をするために働きに出され、そこでつらい目に会いながら歌った「守り子歌」というものもあるからです。「守り子歌」は、悲しく暗い歌が多いですが、そんなつらい背景をせつせつと歌いながらも、例外的にきれいな言葉と旋律で、大変美しい歌もあります。
おどまぼんぎりぼーんぎり、ぼんからさーきゃーおーらんどー・・・・。五木の子守歌。採譜されたのは、熊本県の五木村ではなく、別の土地のようです。
もーりもいーやーがーるーぼんからさーきーにゃー・・・・。竹田の子守歌。
でも実は、40数年前「赤い鳥」が歌って大ヒットしたよく知られている「竹田の子守歌」は、原曲からほんの1音だけ高い音に変更され、後半が劇的に盛り上がるよう作り変えられているとのこと。元々の旋律は、初めから終わりまで、狭い音域内の起伏で淡々と歌われるようです。恐らく言葉もより美しいものに作り替えられていると推測されます。
子守歌は、後半で盛り上がったりすると、そこで聴いている方も気持ちが高揚するので、眠るのにはふさわしくありません。たいていの子守歌は、盛り上がることなく、淡々と眠くなるように出来ていますが、この2つの「守り子歌」は、後半に盛り上がりがあり、歌として聴く分には美しく感動的です。
五木の子守歌も竹田の子守歌も、私は大好きですが、そんな事情を知らない子育て中、子守歌としては違和感を覚え、子供たちが眠るときには歌いませんでした。
その代わり、寝る時ではなく、目を覚ましている時、抱っこしたり、横になってごろごろしながら、歌って聞かせました。とても美しい歌ですので、お好きな方は歌ってみてください。
お母さんが大好きな歌と初めに記しましたが、子守歌としては、どちらかというと穏やかな感じの歌を、盛り上がりの少ない歌を、静かに歌ってあげるのが良いと思います。 
 
通りゃんせ/ずいずいずっころばし/げんこつ山のたぬきさん/雪やコンコン/坊やはよい子だ

 

通りゃんせ 1
   通りゃんせ 通りゃんせ
   ここはどこの細道じゃ
   天神様の細道じゃ
   ちいっと通してくだしゃんせ
   御用のない者 通しゃせぬ
   この子の七つのお祝いに
   お札を納めにまいります
   行きはよいよい 帰りはこわい
   こわいながらも
   通りゃんせ 通りゃんせ
子どもの頃、この「うた」をみんなで歌うのは、いつもきまって夕暮れ時。
   通りゃんせ 通りゃんせ
歌っているうちに不思議な気持ちになりました。
   御用のない者 通しゃせぬ 
しだいしだいに不安な感じがしてきます。そして、いよいよ
   行きはよいよい 帰りはこわい
なのです。
どうしてこわいのか、わかりません。どうしてなのか、聞くこともこわそう。
   こわいながらも
   通りゃんせ 通りゃんせ 
で最高潮!
この不安感と緊張感がたまらなくいいのです。こわいものみたさでしょうか。
このようにして子どもたちは、社会のもつある種のこわさを感じていくのでしょう。
この「うた」は江戸時代に全国に広がって行ったそうです。別名、「天神様参り歌」「関所遊び歌」。
それは、どのようにして生まれた「うた」なのでしょう。
ひとつには、「天神様参り説」。
その舞台は現在の埼玉県川越にある三芳野天神横の細道。川越にはお城がありました。城内の者が天神様へ参拝に出かけるとき、行きは簡単に城外に出られるのですが、城内に帰るときには手荷物などのきびしい検査があったそうです。そのお調べは大変厳しくて、なかなか城内には入れてもらえなかったのです。それはそれは厳しいチェックだったのでしょう。こわいほどの!そのような理由で「行きはよいよい 帰りはこわい」と「うた」に歌われるようになったといわれています。
そうだったのですね。
ということで、最初は川越城内で歌われていた「通りゃんせ」。それが江戸に伝わり、全国に広がっていったのです。
もう一つは「関所遊び説」。
「関所」は室町幕府の時代に設けられはじめましたが、江戸時代には、江戸を守り、全国の治安を守るためにと全国各地に設けられるようになりました。その関所は、旅人にとっては厳しい取調べの場所となったのです。幕府が特に厳しく見張っていたのは「入鉄砲・出女」といわれるもの。
「入鉄砲」とは?それは江戸で反乱を起こそうと企む者が鉄砲などの武具を江戸に持ちこむ事。
「出女」とは、当時、大名の奥方たちは江戸に人質のようになって暮らしていましたが、その奥方たちが逃亡することを意味するのです。奥方たちの不自由な暮らしぶりが見えてきますね。
そして、関所を通過するには関銭を支払い、通行手形も見せなければなりません。通行手形は旅をするにはどうしても必要だったのです。しかし、手形を持っていても、女性には厳しい取調べが待っていました。髪形が違ったことで通行不可能!なんてことが起こったのです。その事例が関所役人の日誌に載っているそうです。関所とはこわいものですね。そんなこんなで「行きはよいよい、帰りはこわい」となってしまうのです。
このようなことが書かれている本を読んでいるうちに、川越の三芳野天神に行って、「通りゃんせ」を歌ってみようと思いたちました。
お天気の良い日、川越に着くと、駅で観光案内パンフをもらい、いざ出発ですまずは、街をゆっくりと見物しながら三芳野天神に向いました。
すぐに蔵造りの町並みが見えてきます。江戸時代の面影!平成11年には国の重要伝統的建築群保存地区に選定されていて、古いたたずまいの中に、風情のあるお店が沢山並んでいます。
通りから「時の鐘」が見えてきました。約400年前から城下町に時を知らせてきた鐘です。鐘のある櫓は奈良の大仏と同じ高さ。今も市民に時を告げていて、1日4回です。午前6時、正午、午後3時、午後6時にと。その鐘の音は「残したい日本の音風景百選」に選ばれているそうです。
少し行くと、国の重要文化財に指定されている大沢家住宅があります。寛政4年(1792)に建てられたもので、呉服太物を商っていた店蔵です。
すこし先、札の辻の交差点を右に行くと、川越市役所があります。市役所前交差点の角には、武将太田道灌の像が建っていました。川越城は父である太田道真とともに築いたお城なのです。すこし行くと、城の中ノ門堀跡が道路右にありました。深く掘られた堀は、敵の侵入を防ぐために工夫が凝らされています。昔はこのあたりも戦場だったことがありました。案内によると、天文6年(1537)、後北条氏によって攻め落とされ、天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略のときに、前田利家に攻められ落城しているのです。そして、寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱によって城の大規模な改修が行われています。
もう少し歩きましょう。市立の美術館・博物館前の交差点を右に曲がると三芳野神社が見えてきます。
神社の手前には川越城本丸御殿がありました。
樹木に囲まれた境内。「通りゃんせ」“わらべ唄発祥の地”であることを示す石碑があります。
細道はどこ!と見渡しました。歴史を感じさせる社殿があり、そこにむかうように境内の地面に細道らしきしるしが続いています。ここでしょうか細道は!また、鳥居にむかう参道もありました。
その鳥居には、「強い地震の折には倒壊の恐れがありますので、石垣・鳥居・石灯籠には近付かないでください。社務所」と注意書きが張られていました。ここにも大震災の影響が出ているのです。ここにかぎらず、地震の際は本当に気をつけましょう。
右に少し小高くなっているところがあり、樹木も沢山あって日陰になっているので登ってみました。そこから境内を眺めると、子どもたちが元気に参道を駈けていきます。遊びに来たのですね。2人で話をしながら手を洗っていますよ。
左の広場では、少年野球の子どもたちがバットの素振りに夢中です。近くに初雁公園があり、試合のできる初雁球場があるのです。
初雁という名前は風情があっていいですね。川越城は別名「初雁城」とも呼び、その名は太田道灌がつけたものです。築城祝いのとき、頭上を初雁の群れが鳴きながら飛んで行くのを見て、「初雁城」と名付けたといわれています。
神社の近くで楽しそうに遊んでいる子どもたちに会えて本当に良い日でした。
江戸時代には、この三芳野神社に親子そろってお札を納めに来たのでしょう。「通りゃんせ」の歌声が聞こえてきそうです。 
通りゃんせ 2
童歌『通りゃんせ』と云えば誰でも一度は聞いたことがあるはず。少しばかり意味不明な歌詞とマイナーなメロディで、様々な解釈がなされ、発祥地についても諸説ある謎めいた童歌です。その発祥地の中でも最も有力と云われているのが埼玉県川越市。
   通りゃんせ 通りゃんせ
   ここはどこの細通じゃ 
   天神さまの細道じゃ
   ちっと通して下しゃんせ
   御用のないもの通しゃせぬ
   この子の七つのお祝いに
   お札を納めにまいります
   行きはよいよい 帰りはこわい
   こわいながらも
   通りゃんせ 通りゃんせ
文字どおりに解釈するなら、7つのお祝いが七五三の意味とは限りませんが、江戸時代は寿命も短く、まずは7才まで育てば目出度いという風潮はあったようで、子供の成長の御礼と祈願がテーマと云えるでしょう。こうした単なる神社への参拝であるのにも関わらず、何故「御用のないものは通れないのか」、何故「行きはよいよいで、帰りがこわいのか」と妙な歌詞に注目が集まったのです。
この謎めいた歌詞を巡り、現在まで疲労説や神隠説と云った伝説まで多様な解釈がなされているのですが、この謎を解き明かす鍵が、現在でも実存する川越城本丸御殿と三芳野神社の存在なのです。
天神さまの細道じゃ
参道口に在原業平の伊勢物語が刻まれた石碑がある神社が『三芳野神社』。
主祭神の素盞嗚尊と奇稲田姫が大宮の氷川神社から、配祀の菅原道真が北野天満宮から勧請されたのではないかと云われ、平安時代に創建されたと考えられています。
由緒が明確になるのが室町時代末期の頃からで、太田道灌が川越城を築城し三芳野神社を川越の鎮守としたところから始まり、江戸時代以降は、近くの喜多院・仙波東照宮と共に徳川幕府直営の社として庇護を受けました。
興味深いのが社殿で、1624年に拝殿と本殿が建立され、その約30年後の1656年に江戸城二の丸東照宮が移築された際、幣殿と拝殿を現在の川越氷川神社境内に、本殿をこの三芳野神社に移したのです。
そして1624年建立の拝殿と1656年の本殿とを、新たに造った幣殿でつないだ権現造りの社殿が現在のもので、謂わば、3つのDNAをもった珍しい社殿です。
現在、三芳野神社は川越市指定の史跡で、静かな佇まいの中で江戸時代の香りを残しています。
御用のないもの通しゃせぬ
三芳野神社のすぐ近くにあるのが『川越城本丸御殿』。
川越城は、1457年太田道灌親子が築城した城で、扇谷上杉領の拠点として造られ、その後、後北条氏の城となりますが、秀吉の関東攻略に際して川越城は前田利家らに攻められ落城しました。
家康が江戸に入府すると、川越城には重臣酒井重忠を置き、その後も堀田、松平、柳沢といった有力大名達が城主でした。
特に1639年の拡張整備では、本丸・ニノ丸などの各曲輪、3つの櫓、13の門からなる、総面積約99000坪余りの規模をもつ巨大な城郭となります。更に江戸末期には、二の丸御殿の焼失により本丸御殿が竣工し、当時の藩主松平家に相応しい威容をもつ御殿として造りあげられたのです。
明治になって城としての役割を終えると、本丸御殿を始めとして多くの建物が移築・解体されましたが、本丸御殿の玄関と広間部分は当時の入間県庁に利用されたことから、現在、川越城本丸御殿として復元され県指定有形文化財になっています。
御殿内の質素ながら重厚感ある佇まいに、往時の威容を感じられるかも知れません。
この子の七つのおいわいに
古くから庶民に親しまれた三芳野神社は、1639年の川越城拡張整備により川越城内に取り込まれ川越城の鎮守となります。当時の川越城天神曲輪に鎮座したことにより、これ以降、一般庶民の参拝はできなくなったのです。
当然、他の神社に参拝しに行けば済むことですが、当時の交通事情や鎮守への信仰心から庶民は「お城の天神様」と呼んで遠くから参拝していました。
その信仰心の篤い庶民の姿を見た当時の藩主は、年に一度の三芳野神社大祭と七五三のお祝い時のみ参拝を許しました。
天神様にお参りする順路は、南大手門から入城し、田郭門を抜け富士見櫓を左手に見て進み、天神門を潜って直進し、直角に左に曲がって三芳野神社に直進する参道を進んだと考えられており、これが“とうりゃんせ”に唄われた天神様の細道となのです。
一般庶民が、絶対に入れない城内に入るのですから、警備上の理由からも狭い参道にして警備の目を光らしていたのです。
行きはよいよい、帰りはこわい
江戸幕府が安定してた時代に、各藩のもっとも恐れているのは“密偵”などによる機密漏洩。場合によってはお家取り潰しなどという事態も招くのですから一大事で、そのような中で、一般庶民を入城させることは墓穴を掘るようなものです。
そこで警備はより厳重になります。当然入場の際のチェックはあったはずで、「御用のないものとうしゃせぬ」という歌詞にも表れている通り、それなりの厳しいチェックがされたものと推測されます。
それでも「行きはよいよい、帰りはこわい」と唄われているのは、入場の際は怪しい者だけを外見からチェックするだけですが、退場の際は機密書類等を持っていないか所持品のチェックをしたものと考えると、入場より退場の方がより厳しいことになります。
これが“帰りはこわい”と唄われた根拠と推測されているのです。
通りゃんせ 3
「とおりゃんせ」は疫病で、年端もいかない子供が死んでいくという象徴。遊びの中でも歌が終わると同時に無作為に子供を捕まえるのも、疫病が人を選ばずに死をもたらすことの暗示。 
ずいずいずっころばし 1
   ずいずいずっころばし ごまみそずい
   茶壷に追われて トッピンシャン
   ぬけたら ドンドコショ
   俵のねずみが 米食ってチュウ
   チュウチュウチュウ
   おっとさんが 呼んでも
   おっかさんが 呼んでも
   行きっこなーしよ
   井戸のまわりで お茶碗欠いたの
   だあれ
“うた”は知っていても意味はわからず、歌っていても意味はわからず、です。でも、おもわず口ずさんでみたくなるのです。
擬態語、ずっころばし トッピンシャン ドンドコショと、チュウチュウチュウの擬声語がリズミカルな口調にさせてくれます。
こんな歌詞を考えたのは誰でしょう?
気になる言葉は、茶壷に追われて トッピンシャン
“茶壷に追われる”とはどういうことでしょうか。“トッピンシャン”とは?
“茶壺”が鍵のようです。
次のような川柳があります。
   御茶壷が 泊り宿々 寝つかれず
御茶壺が泊まる! 宿々寝つかれず?
茶壺が泊まって、寝つかれず、とは、なぜ?
そんなことを想っていると、テレビから、歌声が流れてきました。なんとその“うた”は、
   ずいずいずっころばし ごまみそずい
   茶壺に追われて トッピンシャン
   ぬけたら ドンドコショ
それは、『ふるさとうたの細道』でした。歌声に続いて、次のようなお話が語られはじめました。
「ずいずいずっころばし」は古くから日本に伝わる“わらべうた”です。江戸時代、京都宇治の新茶を徳川将軍家に献上するために行われていた『御茶壺道中』。「ずいずいずっころばし」はその様子を歌った“うた”とされています、と。
それは、江戸時代のこと、宇治でとれた新茶を三代将軍家光の頃から、徳川幕府に献上されることとなったそうです。以来、新茶を「御茶壺」につめて東海道を下る『御茶壺道中』というものが行われるようになったのです。
この『御茶壺道中』の位はとても高く、当時、参勤交代の大名行列も道を譲るほどだったそうです。その「御茶壺」は将軍様そのもの、行列を遮ったり、前を横切ったりしようものなら大変です。すぐさま無礼打ちになってしまうとのこと。
『なつかしのわらべ歌』によると、
四月一日に空の茶壺を持って江戸を出発します。そして茶壷にお茶を入れて帰還するのが六月一日です。その二か月間は茶壷をまるで将軍のごとく扱い、道中行きも帰りも行列で進みます。「御茶壺は将軍様がお手に取り、そのお茶は将軍様が毎日お飲みになる」と、それはもう恭しく運ばれたようです。
将軍が飲む1年分のお茶。それを、その年の新茶ができる時期に合わせて、役人が宇治までとりに行くというものです。400人以上もの長い行列。それが道中を練り歩くのです。豪勢ですね。
大名までも「御茶壺」に出合うと土下座する決まりがあったそうで、その行列の一行は、将軍の権威をかざして、悪行三昧もしたようです。大変迷惑したのは「御茶壺」が通る街道筋の庶民です。豪勢に飲み食いし、2ヶ月の間も嫌われ恐れられながら旅をする「御茶壺」とは!街道筋の庶民はこの『御茶壺道中』を恐れ、その怖さを子どもたちに教えるために“うた”にしたとのこと。
では、この“うた”はどんな意味を持っているのでしょう。
どんどん胡麻味噌すってたら、『御茶壺道中』が来た〜!それ大変だ、戸を閉めろ!
   茶壺に追われて
   トッピンシャン
ピシャリと戸を閉めるのです。
   ぬけたら ドンドコショ
通り過ぎて、ああよかった。ほッと一息。
   俵のねずみが 米食ってチュウ
ねずみが米食う小さな音すら聞こえるぐらい静かにして行列をやりすごす?また、役人が“こずかい”をせびって持っていく?そのことを、ねずみが米食ってチュウと表現したのでしょうか。
   おっとさんが 呼んでも
   おっかさんが 呼んでも
   行きっこなーしよ
誰が呼んでも外に出てはいけませんよ。何も知らない子どもたちは、面白がって外に出てしまうかもしれません。危険なので、お父さんが呼んでもお母さんが呼んでも出てはいけませんよ。そう言っているのですね。
   井戸のまわりで お茶碗欠いたの
   だあれ
そんな中、井戸端で、慌ててお茶碗割った音が聞こえてくる。誰なのかしら・・・。井戸は人が身を投げることもある怖いところ。
う〜ん、みんな息を殺して静かにしている。怖いです『御茶壺道中』。
遊び方は、前回と同じく鬼さがしでしょうか。円陣組んで、軽く握ったこぶしを円の中央に出すと、一人がその円の中心にいて、歌いながら人差し指をこぶしの穴に突いていきます。うたが歌い終わったところで、こぶしに「指を突っ込まれている子どもが鬼」となります。鬼を決めたり、指遊びに使われる“うた”ということですね。
では、江戸時代の庶民の気持ちになって歌ってみようかと、昔の東海道・品川宿に出かけてみました。東海道の玄関口品川宿。宿内の家屋は1,600軒。人口7,000人で賑わっていたそうです。
現在も街道は江戸時代と同じ道幅です。歩いてみると、大勢の供を連れた大名行列が通ると大変だなあと実感します。避けるしかありません。また簡単に横切ることができる幅なので、子どもたちは遊びに夢中になって横切ることもあったでしょう。すると、無礼打ちとは!本当に危険な行列でしたね。
品川宿の本陣跡がありました。松のそばに石碑が建っています。
大名たちや旗本、公家などが休憩、宿泊したところです。おそらく、「御茶壺」もここで休息したことでしょう。そのときは、宿場の人々の苦労も大変だったに違いありません。現在、この本陣跡は聖蹟(せいせき)公園となっています。公園に入ってみると甘いキンモクセイの香りがしてきました。 
ずいずいずっころばし 2
この童謡ほど意味不明・支離滅裂なものはない。歌のリズムがいいからついつい歌ってしまうが、内容を理解して歌っているわけではない。
『ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん 抜けたら どんどこしょ 俵のねずみが 米食ってちゅう ちゅうちゅうちゅう おっとさんがよんでも おっかさんがよんでも 行きっこなしよ 井戸のまわりで お茶碗欠いたのだぁれ』
一行目から解らない。「ずころばし」とは何か?いったいどのような意味があるのだろうか。
詞の解釈
胡麻味噌を摩っていると、お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り戸をピシャリ(=とっぴんしゃん)と閉めてやり過ごす。お茶壺道中とは新茶を将軍に献上する行列のことで、切捨御免の時代柄、庶民はお上に粗相の無いように細心の注意を払っており、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。
そしてお茶壺道中が通り過ぎるとやっと一息つけたのである(=抜けたら どんどこしょ)。家の中で息を潜めていると、米を齧っているネズミの鳴き声や、井戸の近くで茶碗が割れたような音まで聞こえてくる。
もうひとつの解釈
『ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん』
国語学者などの中には、この歌に性的な意味が含まれていると解釈する場合もある。「茶壺」は女性の意味であり、男が女に追われて家に逃げ込み、戸をぴしゃんと閉める(=とっぴんしゃん)、というのだ。
江戸時代の春歌だった!?
『ずいずいずっころばし ごまみそずい』
これは「ツイツイついころばし、こまいしょツイ」が訛ったもの。ツイは口拍子、ついころばしは、昔で言う夜鷹(今でいう街角の売春婦)のこと。こまいは、家屋の土壁の下地に組む竹骨(竹小舞)のことで、作業中に指先を使うことから玉門いじりの秘語になった。つまり「夜鷹のねーちゃん、俺と玉門いじりしてあそぼーぜ」
『茶壺に追われて とっぴんしゃん 抜けたら どんどこしょ』
茶壺は玉門の秘語。夜鷹が自分をからかった男を追いかけて馬乗りになる。しかし2人はともに初体験で、うまく入らずに一物は外れてしまう。
『俵のねずみが 米食ってちゅう ちゅうちゅうちゅう』
ネズミも玉門の秘語。昔、女が男をナンパするときはチュウチュウとネズミ鳴きをしたらしい。
『おっとさんがよんでも おっかさんがよんでも 行きっこなしよ』
これは当たり前、ふたりは楽しいことをしている真っ最中だから。
『井戸のまわりで お茶碗欠いたのだぁれ』
お茶碗は、無毛の玉門を指した秘語。だからお茶碗欠いたっていうのは処女喪失ってこと。
歌のヒントは『伊勢物語』
平安時代の在原業平を主人公にしたと思われる歌物語『伊勢物語』に、井戸端で幼い男女が恋に目覚める、「筒井筒」という段(二十三段)がある。
男が詠む。
筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに
女が返す。
くらべこし振分髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき
「ズイズイずっころばし」はこの「筒井筒」をもとにして江戸時代のエッチな人が作った春歌というわけだ。強引だが愉快だ。  
ずいずいずっころばし 3
ずいずいずっころばし ゴマ味噌ずい 茶壺に追われてトッピンシャン 抜けたらドンドコショ 俵のネズミが米くってチュウ チュウチュウチュウ おっとさんが呼んでも おっかさんが呼んでも 行きっこなあ〜し〜よ 井戸のまわりでお茶碗欠いたのだあれ 
大名行列からこどもを守る歌
むかし、宇治から江戸に向かう「お茶壺道中の一行」がとてもえらそうにして、通り道の人たちに迷惑をかけるので、その行列が来るとみんな戸をピシャンと閉めて家に隠れていました。同様に、大名行列も前を横ぎったり無礼をすると切られてしまうので、子どもに注意するために作ったものがこの歌だと言われています。
   ずいずい=どんどん 
   ずっころばし=すっ転ろばし ※注1
   ゴマみそずい=ごますり接待 ※注2
   茶壺=お茶壺一行、または大名行列
   追われて=やってきたら
   トッピンシャン=戸をピシャン
   抜けたら=一行が通り抜けたら
   ドンドコショ=安心してどんどこ大騒ぎ
   俵のネズミ=お役人たち
   米食って=私たちが汗水流して作り上げた米を取り上げて
   チュウチュウチュウチュウ=(役人たちを小ばかにしている)
   おっとさんが呼んでもおっかさんが呼んでも=たとえ親が呼んでも
   行きっこなあ〜し〜よ=外へ出てはいけません
   井戸のまわりで=井戸は罪を背負ったときの身投げの場所でもあった
   お茶わん欠いたのだあれ=あわてて茶わん割ったのはだれ!? ※注3
要約すると・・・・
ある農家でずいきのゴマミソあえを作っていたら、将軍様にお茶を献上する"茶壷道中が"通りかかりました。何をされるかわからないので、家の人たちは急いで奥へ隠れました。静まりかえった家の納屋では、ネズミが米俵を食べる音や鳴き声が聞こえてきます。。井戸端ではあわててお茶わんを割ってしまった音が聞こえてきます。やがて茶壷道中は去って行くから、それまでは絶対に外にでてはいけませんよ。
前後の意味が全くつながらない部分がありますが、これは子ども向けの歌にはよくあることです。おとなたちが歌っている歌の一部分だけを取り出したりして、意味ではなく「言葉のつながりや語呂の良さ、リズム感を楽しんで」作る遊び歌の手法です。アニメ『ちびまる子ちゃん』のテーマ曲『おどるポンポコリン』の歌詞なども、前後のつながりがはっきりせずに意味がつながらない部分があるのに、テンポと語呂の良さでみんなから親しまれる大ヒット曲となりました。
注1 古い文献に「虫を捕ったり、ずっころばしを集めたり・・」とあるので、子どもが興味を示す何か?があるのだと思います。方言でしょうか??どなたかご存じの方いらっしゃいませんか?!
注2 「ずい」は、「どんどん〜する」という意味と、夏野菜の「ずいき」(サトイモの葉柄)と、ごますり接待の掛詞です。
注3 江戸時代に、ある殿様につかえていた小僧があやまって庭で大切なお茶碗を落として割ってしまったのだそうです。その小僧はその罪を償うために、近くにあった井戸に身を投げたという話が広まっていて、きっと子どもたちには「怖いぞ〜」という脅しになったのでしょう。
柳田国男氏は『トッピンシャンという文句は東北地方の昔話で語りおわった時に「おしまい」という意味の決まり文句として使われる、「とっぴんぱらりのぷう」などとの共通性がありそうだ』と述べています。 
げんこつ山のたぬきさん 1
   げんこつ山のたぬきさん (握りこぶしを上下にトントン)
   おっぱい飲んで (口元に両手をあてておっぱいをのむ)
   ねんねして (ねむるしぐさ)
   だっこして (両手を前で合して、抱っこする)
   おんぶして (両手を後ろに回しておんぶする)
   また 明日 (両手を身体の前でまわして、かいぐりかいぐりする)
この歌は、幼い子に歌詞としぐさで子守の方法を教えています。
そのお手本はたぬきのお母さん!
『なつかしのわらべ歌』では、げんこつ山に住んでいるたぬきのお母さんと子だぬきの物語です。たぬきのお母さんは子どもが泣くと、おっぱいを飲ませます。子だぬきは母さんのおっぱいを両方の手で押さえて上手に飲みます。お腹がいっぱいになると寝てしまいました。お昼寝から覚めた子だぬきをお母さんはだっこしたりおんぶしたりして、かわいがっています。たぬきの愛情たっぷりの育児の姿がわらべ歌になったようですね。
幼稚園でもおなじみのわらべうた。幼い女の子が目の前で歌ってくれました。♪げんこつ山の・・・と歌いながら、両手を可愛く動かして、楽しいしぐさ付きです。
楽しい振り付けで、楽しく歌いながら子守の方法を覚えていくのですね。
愛情たっぷりの育児の姿が歌になる“たぬき”さん。最近都会ではめっきり出会うことはありませんが、それでも時々たぬきに出くわした人の話を聞くことができます。先日、日が暮れた頃、池袋の立教大学キャンパス内にある旧江戸川乱歩邸の屋根に二匹のたぬきの影を見たとのこと。見た人は、その影は猫と違って尻尾がふあーと大きく後ろに伸びているので、あれはたぬきに違いないと。
そこで、森口満・作『タヌキまるごと図鑑』を読んでみました。絵がいっぱい載っていて解説がつけられ、楽しい本です。それによれば、タヌキは夜行性で、夜、動きまわり、外見の特徴は、目のまわりに黒いもようがあり、手足の先は黒く、しっぽにはシマシマはなく先っぽだけ黒いのです。
日本には広く住んでいて、「カチカチ山」や「ブンブクチャガマ」など昔からわたくしたちには身近な存在でした。5月ごろ子どもを産み、生まれたての子どもは、100gぐらいしかありません。しかし、その後はぐんぐん成長していくのです。
その誕生と成長を、新日本動物植物えほん『たぬきの子』で見てみましょう。これまた楽しい絵本です。
   やがて、ちいさな ちいさな 
   たぬきが うまれた。
   1とう、 2とう 4、5とう。
   目を とじ、耳も ふさがった、
   とっても ちっちゃな
   くろっぽい 子ども。みんな
   かあさんたぬきの たからもの。
   そして、成長へ
   とうさんたぬきは、 せっせと はこぶ。
   のねずみ、パンくず、いろいろな たべもの。
   いそがしい おかあさんたぬきも おおだすかり。
   子だぬき、 はやく 大きくなーれ。
   子だぬきたちは、 そだつのが はやい
   10日で 目が あき、 やがて はいだす。
   少し育つと
   子だぬきたちは、おやの まわりで、
   おいかけっこや レスリング。
   おやに あまえる 子だぬきも いる。
   育ち盛りの子だぬきは、
   いつも おなかを すかせている。子だぬき つれて、
   たべものさがしに あるくのは とうさんたぬき。
   すこし大きくなると、
   いろいろな 道を おぼえたし、虫とりだって できる。
   どれ、きょうは ひとりで あるいてみよう。
   いろいろな経験をして、からだも親ほどに成長すると、
   たぬきたちの 心に わきあがる おもい。
   したしい ともだちが ほしい。
   どこか とおくへ たびしてみたい。
   しぜんが また、 そっと ささやく。
   “ひとりだち しなさい。
   じぶんの かぞくを もちなさい”と。
   子だぬきたちは、だれかを もとめて、
   つぎつぎ たびだつ。あたらしい 天地へ。
すこし長く引用してしまいましたが、とてもいいですね。『たぬきの子』の著者・増井光子さんの文章です。感動してしまいました。たぬきの子どもたちの成長の様子がよくわかります。子守りの方法を教える“わらべうた”に、たぬきさんが選ばれるわけですね。
さて、たぬきと出あうには山に入って探すのが一番!しかし、夜行性、昼間は姿を現しません。夜まで待つのですよ。ケモノ道をさがして、そこで待ち伏せはいかがでしょう。水辺には足跡も見つけられるそうです。
ところで食事はどうなっているのでしょう。それは、次のようなものです。クワ、ヘビイチゴ、ヤマザクラ、イチョウ、センダン、アケビ、カキなどに、カナブン、エサキオサムシなどの昆虫。サワガニも、そしてアカネズミなど。
では天敵は!それはオオカミです。いまの日本ではオオカミは絶滅していないとのことなのですが、なんと野良犬が天敵となることがあるのです。
そしてそして、むかしの人たちは、たぬきをつかまえて食べていたと。大昔の遺跡からは、たぬきの骨が出てくることがあるのです。「あんたがたどこさ」の“うた”にも猟師が鉄砲で撃って食べてしまうという歌詞がありましたね。今では、食用ではなくて毛皮のために、捕獲されてしまうことがあるのです。また、町の近くの道路では交通事故で、ひかれてしまうことがよくあるのです。それは成長した子だぬきが親から離れて、一人旅にでかけるときなのです。可哀そうですね。やっと育ったのに!たぬきと出あったらいつまでも元気でねと、祈ってあげよう。 
げんこつ山のたぬきさん 2
せっせっせーの
   両手をグーにして前に出し上下に3回振る。
よいよいよい
   両手をグーにしたまま、片方の腕にもう片方の腕に乗せ、
   腕を交差させながら上下に3回振る。
げんこつやまのたぬきさん
   両手をグーにして、上下を替えながら7回打ち合わせる。
   (月齢が低い場合は、とんとんだけ)
おっぱいのんで
   両手を口のそばにもっていき、 指を2回パクパクする。
ねんねして
   両手の平を合わせて、左右1回ずつほおにつける。
だっこして
   両手を胸で合わせて、だっこするしぐさをする。
おんぶして
   両手を後ろに回して、あかちゃんをおんぶするしぐさをする。
またあし
   両手をグーにして、胸の前で上下にぐるぐる回す。

   じゃんけんをする。
昭和時代(1926 年)に入ってから生まれたわらべ歌です。日本では非常に有名です。ミルクを飲むしぐさも、抱っこや寝んねもこどもにとっては体験済みのことですから、表現しやすいです。また、よく知っているものを少し発展した形は、知っている安心感と新しいものへの好奇心を両方もたせてくれます。
遊びの発展:じゃんけんをして勝った方がおんぶしてもらったり、負けた方が背負ってみたりするのもおもしろいでしょう。親子で向かい合って、実際に抱っこしたり、おんぶしたりすると、こどもは喜びます。 
雪やコンコン 1
   雪(ゆゥき)やコーンコン
   霰(あられ)やコーンコン
   お寺の柿(かァき)の木に
   いっぱいつーもれ
   コーンコン
冬の寒い日、天空から舞い降る白い雪。子どもの頃、よく歌ったのは、雪やこんこ 霰(あられ)やこんこ 降っては降っては ずんずん積もる (略)
この歌は新しく作られた尋常小学唱歌の「雪」です。その参考にされた歌が“わらべうた「雪やコンコン」”。
「雪やコンコン」は京都で歌われていたもので、記録によると、伝承童話のもっとも古いものともいわれます。1108年のこと、「讃岐典侍日記」(天仁元年正月二日条)には、幼い鳥羽天皇が「降れ降れこゆき」とうたった様子が書かれています。
「つとめて起きて見れば雪いみじく降りたり。・・・降れ降れこゆきと、いはけなき御気はひにて仰せらるる聞ゆる。」
讃岐典侍(さぬきのすけ)藤原長子が朝早くに起きて、庭を見れば、雪がたいそう降っているのですね。すると、幼い鳥羽天皇が可愛い声で「ふれふれこゆき」とおっしゃっているのが聞こえてくるのです。「いはけなき御気はひ」なんて、なんと可愛いのでしょう。一千年前、京の都に降る雪の光景が見えてきますね。
兼好法師の「徒然草」(1330年頃)にも「ふれふれこゆき」について述べられています。それは第百八十一段、
「『降れ降れ粉雪(こゆき)、たんばの粉雪』という事、米(よね)搗(つ)き篩(ふる)ひたるに似たれば、粉雪といふ。『たンまれ粉雪』と言ふべきを、誤まりて、『たんばの』とは言ふなり。『垣や木の股に』と謡ふべし」と、或物知り申しき。昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せらけれる由、讃岐典侍が日記に書きたり。」
そうですね、米をついて粉をふるうと、まるで粉雪が舞っているように見えたのですね。また、『たンまれ粉雪』というところを、あやまって、『たんば』といったのは、京の西北方に「丹波」があり、京の雪はその方から降ってくるように思われたのからだそうです。このように兼好法師も鳥羽院が幼いころ、「ふれふれこゆき」とうたっていたのを知っていたのですね。
昔から、雪の美しさを愛でることもあれば、豪雪になって人々の生活を苦しめるのも雪なのです。
雪降る土地では、常に人々の心とともにあった雪。「雪やコンコン」も、お寺の「柿の木」が、「松の木」(宮城・新潟・京都)や「梨の木」(宮城・長野・新潟)、「山椒の木」(新潟・宮城・鹿児島)、「茶の木」(東北・茨城・千葉・東京・静岡)、「背戸の柿の木」(石川)などの変化して伝えられています。
また、宮城で歌われたものには、次のようなものもあります。
   雪コンコン
   雪 コンコン 雨コンコン
   お寺の屋根(やァね)さ 雪一杯(いッぺェ)たーまった
   小僧(こぞ) 小僧(こぞ) ほろげ
   和尚さんほろがねがら
   おらやーんだ
「ほろげ」のホロクは方言で、「揺さぶっておろす」こと。「おらやーんだ」は「わたしは嫌だ」の意味です。和尚さんと小僧のやりとりでしょうか。生意気な小僧ですね。和尚さんがやらなければ嫌だなんて・・・。でも、和尚さんは子どもたちに慕われていたのでしょう。楽しく歌われていますからね。
福島では、雪を呼ぶ歌として
   雨コンコン(雪)
   雨コンコン 雪コンコン
   おら家(え)の前さ たんと降れ
   お寺の前さ ちっと降れ
雨コンコンと雪コンコンと歌われていますが、この“うた”は雪を呼ぶ歌なのです。家の前にたくさん降った雪で、“雪だるま”をつくったり、“雪合戦”をして遊んだのでしょうか。
同じような歌は愛知にもあります。
   雨降りコンコ 雪降りコンコ
   コンコの山に(お宮の松に)、
   さっさと(ドンドと)かかれ
長野では、
   雨降るコンコ 雪降るコンコ
   お寺の裏の蓑も笠も持って来い来い
石川では、
   雨コッコ雪コッコ
   背戸の枇杷(びわ)の木にとまらんせ
尾張では、
   雪ふれこんこ雨ふれこんこ
それぞれの土地に生きた人々の雪に込めた想いがさまざまな言葉になって歌われているかと思うとなんだか人恋しくなってきます。どのような表情で歌っていたのかな?
東北地方にはこのほかに雪の降るのを見ながら歌うものがあります。
   上見れば(雪)
   上見れば 虫コ
   中見れば 綿(わだ)コ
   下見れば 雪(ゆぎ)コ
雪の降る姿をじっくりと見たことはありますか?上のほうの雪は虫に、中ごろの雪は綿のように見え、下のほうはハッキリと雪。上のほうの雪はじっくり見たことはありません。今度、雪降る日に出合ったら落ち着いて見てみましょう。
このように雪のことを考えているうちに一つの詩を思い出していました。それは岩手県に生まれた詩人、宮沢賢治の詩。
   永訣(えいけつ)の朝
   けふのうちに
   とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
   みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
   (略)
   わたしのけなげないもうとよ
   この雪はどこをえらぼうにも
   あんまりどこもまっしろなのだ
   あんなおそろしいみぞれたそらから
   このうつくしい雪がきたのだ
   (略)
   おまえがたべるこのふたわんのゆきに
   わたしはいまこころからいのる
   どうかこれが兜卒(とそつ)の天の食に変って
   やがてはおまえへとみんなとに
   聖い資糧をもたらすことを
   わたしのすべてのさいはひをかけてねがふ
最愛の妹の死をまえにして歌うこの詩はなんと美しく切ないのでしょう。雪が兜卒の天の食に変わるとは!兜卒の天の食とは、弥勒菩薩の住む兜卒天の食で、衆生を救う弥勒の意思のエネルギーの源となるという意味なのです。それは、常に人々の役に立つために生きようとした賢治の切ない思いなのでしょう。“わらべうた”を歌い遊ぶ子どもたちもすぐに大きくなって、賢治の詩を理解するようになるでしょうね。
子どもたちが雪降る日の寒さに負けないで、雪遊びをしながら歌った“うた”が大阪に残されています。
   雪ばな散る花(雪遊び)
   雪ばな散る花 空(そォら)に虫が湧ァく花(わな)
   扇 腰にさして キリキリッと 舞いましょ
   大寒 小寒 誰の甚平(じんべ)借って着よ
元気な子どもたちは雪を花にたとえて歌っています。ときには幻想的な花にも見える雪。チラチラ降ってくる小雪を見て、空に虫が湧いて舞っていると。シュールで美しい映像ですね。子どもも大人も不思議に心とらわれる雪。私たちは人生で何日“雪の降る日”に出合うでしょうか。 
雪 (雪やこんこ あられやこんこ) 2
「雪やこんこ あられやこんこ」が歌い出しの『雪(ゆき)』は、1911年の『尋常小学唱歌(二)』初出の文部省唱歌。100年近く前の曲だけに、「こんこ」といった若干古めかしい表現が見られるが、今日では逆にその古さが味わい深い。ちなみに、「こんこ」の正確な意味・語源は不明だが、「来む」(来い = 降れ)と関係があるとのこと。
原曲は「雪やこんこん」
文部省唱歌『雪』が出版される10年前の1901年(明治34年)、瀧 廉太郎が作曲、東くめが作詞を担当した「幼稚園唱歌」の第18曲目に、「雪やこんこん」と題された曲が掲載された。冒頭の歌詞は、「雪やこんこん あられやこんこん」。全ての歌詞は後掲するが、明らかに「幼稚園唱歌」から大きな影響を受けていることがうかがえる。
なお、瀧 廉太郎『雪』のメロディは、文部省唱歌『雪』のそれとはまったく異なっている。
ドヴォルザーク歌曲『聖書の歌』と似てる
余談だが、文部省唱歌『雪』のメロディについては、19世紀チェコの作曲家ドヴォルザークが1894年に作曲した歌曲集『聖書の歌』の一曲との類似性を指摘する説があるようだ。当時の日本の唱歌は西洋のクラシック音楽や賛美歌に影響を受けた曲がいくつかあるので、あながち偶然の一致と断じることもできないが、果たして真相やいかに。
雪(ゆき) 文部省唱歌
   雪やこんこ あられやこんこ
   降っては降っては ずんずん積もる
   山も野原も わたぼうしかぶり
   枯木残らず 花が咲く
    雪やこんこ あられやこんこ
    降っても降っても まだ降りやまぬ
    犬は喜び 庭かけまわり
    猫はこたつで丸くなる
雪やこんこん 明治34年「幼稚園唱歌」
   雪やこんこん あられやこんこん
   もっとふれふれ とけずにつもれ
   つもった雪で だるまや燈籠
   こしらへましょ お姉様
「こんこ」
正確な意味・語源は不明で諸説あるが、「来む」(来い = 降れ)と関係がある言葉と思われている。特に、
1.「来む来む」(降れ降れ)
2.「来む此」(ここに降れ)
の2説が有力とされる。「来む来む」説の場合、語源的には本来は「雪やこんこん」となる。これについては、別の曲(補足を参照)の歌詞の最初の部分と一緒になる事を避けたという説がある[要出典]。国語学者の大野晋によれば「コンコン」はもとは「来ム来ム」であり、「雪よ、もっと降れ降れ」が最初の意味であったとしている 。
こんこは木を切ったときのコーンコーンという音が響いている音をこんこと表したという説もある。 
坊やはよい子だ
   坊やはよい子だ ねんねしな
   ねんねのお守は 何処へ行た
   あの山超えて 里へ行た
   里のお土産に 何もろた
   でんでん太鼓に 笙(しょう)の笛
   起上り小法師に 振(ふ)り鼓(つづみ)
幼いころに母の背中におぶさってよく聴いていた“子守歌”です。その旋律はいまでも思い出されますね。この“うた”は日本の代表的な子守唄で、宝暦、明和(1751~1772)の頃、江戸で歌われた“わらべうた”を集めた釈行智の『童謡集』にもほぼ同じものがでています。
“子守唄”は、母と子のコミュニケーション。母の歌声に安心して眠りにつく子ども。わが子の安らかな吐息にほっと息つく母親。その“うた”は、いくつになっても懐かしい思い出となります。
また赤ちゃんの世話をするのは、お母さんだけではありません。おばあちゃんやお姉さんも、また、お守(もり)さんも。
昔は、赤ちゃんの世話をする守り子と呼ばれる女の子たちがいました。7、8歳から10代で、その多くは、貧しい家から守り子の奉公にでたそうです。その子たちは、年に数度、山を越えて里に戻っていきます。
   ねんねのお守は 何処へ行た
   あの山超えて 里へ行た 
そして、里の土産にもらったものは、赤ちゃんをあやす玩具、
   でんでん太鼓に 笙の笛
    起上り小法師に 振り鼓
「でんでん太鼓」はご存じでしょう。棒状の持ち手がついた小さな太鼓。その太鼓の両側に紐に結んだ玉がついています。持ち手を回転させると紐の先の球が太鼓に当たり、パンパラ、パンパラ、トントンデンデンと音を立て、赤ちゃんをあやすのです。
「笙の笛」は、ここでは雅楽に使う笛ではなく、竹製の一本の縦笛。江戸時代には、よく土産物として売られていた竹笛だそうです。幼い子どもにも吹きやすくしたものです。「起き上り小法師」は、だるまのように、何度倒しても起き上がってくる可愛い玩具。これらの玩具は、生まれた子どもがすくすくと幸せに育つように願う親心が込められたものです。
この唄を歌っていると、なぜか目の前に、夕焼けに染まった山の姿が見えてきそうで、懐かしい夢のような情感があふれでてきます。“うた”とはこうしたものなのですね。
いつの時代でも親にとっては“子どもの可愛さ”は何事にも代えられません。その親心を歌った唄が静岡に伝えられています。
   この子の可愛さ 〈眠らせ唄〉
   坊やはよい子だ ねんねしな
   この子の可愛さ 限りなさ
   天に上れば 星の数
   七里が浜では 砂の数
   山では木の数 萱(かや)の数
   沼津へ下れば 千本松
   千本松原 小松原
   松葉の数より まだ可愛い
   ねんねんころりよ おころりよ
天の星の数よりも、七里ヶ浜の砂の数よりも、松葉の葉の数よりも、限りなくかわいいわが子!愛情表現がこまやかで、母の愛にあふれた唄です。
この唄は沼津地方で唄われましたが、その他の地方でも広く唄われていたようです。しかし、歌詞は各地によって少しずつ異なっていきます。
栃木では、
   山では木の数、千両が浜では砂の数
東京では、
   天にたとえて星の数、山じゃ木の数、萱の数、七里ヶ浜で砂の数
香川ではその特徴が際立ちます。
   尾花かるかや萩桔梗、七草千草の数よりも、数ある虫の数よりも、大事なこの子がねんねする
秋の七草などや、数ある虫の数よりも、大事なこの子、なんです!その子がねんねしているのよ、静かにね、と囁くやさしい母親の笑顔が浮かんできます。
高知では、
   天にたとえば星の数、山では木の数、萱の数、
   七反畑の芥子の数、七里が浜の砂の数、
   召したる御服の糸の数
七反畑の芥子の数よりも限りなく大切なわが子。様々な風土が唄いこまれていて楽しくなります。
いまもこの“子守唄”が、お母さんたちの間で、歌われるといいですね。限りない愛情が心にあふれるのではないでしょうか。
北海道で唄われた〈眠らせ唄〉に次のような美しい唄があります。
   赤い山青い山
   ねんねの寝た間に 何せよいの
   小豆餅の 橡餅(とちもち)や
   赤い山へ持って行けば 赤い鳥がつっつく
   青い山へ持って行けば 青い鳥がつっつく
   白い山へ持って行けば 白い鳥がつつくよ
小豆餅とは、赤い小豆の饀をつけた餅、あんころもち。橡餅(とちもち)は、橡の実をかき混ぜた黒赤色の餅です。
赤い餅、黒赤の餅。赤い山、青い山、白い山、それに続いて、赤い鳥、青い鳥、白い鳥、なんとカラフルなのでしょう。
また、白犬が吠える〈眠らせ唄〉が、秋田にあります。
   ねんにゃこコロチャコ
   ねんにゃこ コロチャコ
    ねんにゃこ コロチャコ よーよ
   おれの愛(め)で子どさ 誰ァかまて泣ーく
    誰もかまねども ひとりして泣ーく
   ねんにゃこ コロチャコ
    ねんにゃこ コロチャコ よーよ
   向(むげ)ェの山の白犬コーよ
   一匹吠えれば みな吠えるーよ
赤ちゃんを育てることはとても大変なことですね。ましてや昔のこと、厳しい自然の東北の暮らしの中での主婦の労働は大変なもの、忙しく立ち働く母親にとっては・・・、それはそれはつらいこともあったでしょう。そのためにいらだつこともあるのです。そのような中、眠りにつかないで泣くわが子。早く眠りについておくれ、どうしたの、そんなに泣きわめいて、山の白犬が吠えるよ。早く眠ってね!と、少しおどかしても眠らせたかったお母さん。こんな想いで子守をしていたことでしょうね。
山の白い犬、白い色の動物とは、人間界を超えた魔物のような不思議なものといわれます。その白い犬が吠えるのです。怖い白犬の吠える声。それは、子どもにとってはとても恐ろしいもの。
山の白犬が、おまえをおどろかしているのかい。おびえて泣く子どもの顔を見つめながら、様々に揺れ動く母親の心。
   おれの愛で子どさ 誰ァかまて泣ーく
と唄う母親の心の中には、「白い犬が吠えても、お母さんが守ってあげるからね、安心してゆっくりとおやすみなさい」というつよい愛情があふれていたのでしょう。母親の日々の暮らしが引き起こす様々なせつない想いをわが子を愛する心とともに“子守唄”に託し、美しい旋律にのせて唄うのです。
このように、“子守唄”にふれてくると、ほんとうにこのような“うた”は“人間のいのち”そのものといえるでしょう。 
 
いもむしごろごろ/せっせっせ/鬼さんこちら手の鳴るほうへ/ホーホー蛍こい/だいぼろつぼろ(蝸牛)

 

いもむしごろごろ
   いもむし ごろごろ
   ひょうたん ぽっくりこ
啓蟄(けいちつ)の日も過ぎて、もうそこに春。いもむし(チョウやガの幼虫)も、うごめいてくる頃です。
地方によっては、「・・・ぽっくりこ」の後に「げじげじが 足だした」と歌われているのもあるそうです。
幼稚園に通っていたころ、よくこの“うた”を歌ってみんなと遊びました。
それは、この“わらべうた”からつくられたと思われる童謡、「いもむしごろごろ」だったかもしれません。
   いもむし ごろごろ
   ひょうたん ぽっくりこ
   ぽっくり ぽっくり ぽっくりこ
   ででむし のそのそ
   かきねを よっちらこ
   よっちら よっちら よっちらこ 
   (小林純一作詞、中田喜直作曲)
歌いながらの遊びは、一人一人の子どもがしゃがみ、前の子の腰に手をかけ、一列に並んで連なって這うようにして歩くのです。
それはまるで、いもむしのよう・・・。そうです、まるでいもむしが這っているように進むと楽しくなるのです。まるでむしになったよう。変身しようとする心は想像力を高めるそうです。でも過度な変身願望は危険だそうですが、すこし、何かに変身するのは楽しいものなのです。それが、“いもむし ごろごろ”!
この遊びは浮世絵の中にも描かれていますよ。歌川広重の『風流をさなあそび』がそれです。
「凧揚げ」「ジャヤンケン」「こま回し」「水鉄砲」「相撲」「竹馬」「将棋たおし」など、十六もの遊びが楽しく描かれているのですが、そのなかに「いもむし ごろごろ」が入っています。
“いもむし”がでたら、野原には様々な草花が咲きはじめることでしょう。古代の人々は花の香りに
春がやってくるのを感じたといいます。風に乗ってやってくる春の香り!花を目で見る前に香りで感じる春だったのです。
花がひらく春は心もやさしくなり、あたたく感じます。いい歌があります。それは、
   ひらいたひらいた
   ひらいた ひらいた
   何の花が ひらいた
   れんげの花が ひらいた
   ひらいたと思ったら
   いつのまにか
   つーぼんだ
    つぼんだ つぼんだ
    何の花が つぼんだ
    れんげの花が つぼんだ
    つぼんだと思ったら
    いつのまにか
    ひーらいた
この歌の中で「ひらいたり、つぼんだりするれんげの花」は蓮の花。昔は、子どもたちがよく遊んだお寺の境内には小さな池があって蓮の花が美しく咲いていたのでしょうね。蓮はお釈迦様の花。
極楽浄土が見えてきます。子どもたちはその極楽浄土で遊んでいたのでしょう。
では、歌いながら遊んでみましょう。
   ひらいた ひらいた
   何の花が ひらいた
   れんげの花が ひらいた・・・
『なつかしのわらべ歌』によると、一人で遊べる手遊びは、「両方の手を合わせて花のつぼみを作ります。そのつぼみを歌に合わせて開いたり閉じたりして、れんげの花に見立てて遊ぶのです」
集団で遊ぶには、「円陣を作り、隣の人どうしで手をつなぎます。やはり、歌に合わせてつないだ手を上にあげ円陣を外に大きく開いていくと花は開き、円陣の中心に皆が集まって小さくなると花は閉じます。いたってシンプルな遊びで、幼い子どもから大人まで楽しめます」
今回は“いもむし”になったり、“れんげの花”になったり、楽しく遊べそうです。
ということで、さあ、皆さま「ひらいたり、つぼんだり」して、お花になって遊んでみましょう。 
せっせっせ 1
   せっせっせの
   ヨイ ヨイ ヨイ
   お寺の花子さんが
   かぼちゃの種を
   まきました
   芽が出て
   ふくらんで
   花が咲いたら
   ジャンケンポン
わらべうた「せっせっせ」は、「せっせっせの ヨイヨイヨイ」ではじまる“手遊びうた”です。
『なつかしのわらべ歌』によるとその遊び方は、
「まず、「せっせっせの ヨイヨイヨイ」と歌いながらお互いの手に取り合って、始める動作をします。いよいよ歌にはいります。「お寺の花子さんが かぼちゃの種をまきました」で、両方の手を合わせ、種の形を作ります。作った種の形を歌に合わせて変えていきます。「芽が出てふくらんで、花が咲いたら」まで二人一緒の動作になります。そして最後にジャンケンをして勝ち負けを決め、終了します。」
ユーチューブで、この“うた”を聴いてみようと思ったら、デイサービスでおばあさんたちが小学唱歌の「茶摘み」を歌っておられました。これも「せっせっせの ヨイヨイヨイ」で遊べる歌です。何人もの人が並んで坐り、お互いの手のひらをリズムに合わせて交差しあって遊びます。画面ではお年寄りの方々が楽しそうに歌って遊んでおられました。その小学唱歌の「茶摘み」の歌は、みなさまご存知でしょう。
   夏も近づく 八十八夜 
   野にも山にも 若葉が茂る
   あれに見えるは 茶摘みじゃないか 
   あかねだすきに 菅(すげ)の笠
曲のテンポが遊びのポイント!テンポが速まると、面白さが増してくるのです。
面白いといえば、最初に書いた“せっせっせ”では、負けた子の面白い罰もありますよ。罰ゲームですね。
勝った子はこんな“わらべうた”を歌うのです。
   お寺のつねこさん
   階段のぼって
   こーちょこちょ
意味深な歌詞ですね。つねこさん、階段のぼる?えッ、こーちょこちょ!
『なつかしのわらべ歌』では次のように遊ぶのです。
「ジャンケンに勝った子が、負けた子の手を取ります。「お寺のつねこさん」で手のひらをつねります。」
つねこさんとはつねることなのですね。
「階段のぼって」で腕を脇まで人差し指と中指で上っていきます。
階段とは、腕なのでした。
腕を脇まで、人差し指と中指で上っていくとは、面白いですね。
そして、
脇の下に到着したら「こーちょこちょ」とくすぐるのです。
脇の下に到着したら「くすぐる」!それも「こーちょこちょ」と。こそばいですね。なんと面白い“うた”なのでしょう。
この「お寺のつねこさん」は、幼い子どもをあやすのにも歌われたのですよ。
おなじように「一本ばし こーちょこちょ」という歌もあるのです。
   一本橋 こーちょこちょ
   たたいて すべって
   おでこ ぴん
この歌は、相手の手のひらに一の字を書くのです。そして、くすぐって、叩いて、すべった手はそのまま額を突っつくという遊びです。
川原井泰江著では「優しくやれば幼い子をあやすこともできるでしょう。」とあります。“わらべうた”には楽しい“うた”がいっぱいですね。さあ、みんなで歌って楽しみましょう。 
せっせっせ 2
広島
   せっせっせーのよいよいよい・・・
   アルプス一万尺こやりの上でアルペン踊りをさあ踊りましょう
   (同じ手振りを繰り返す)
   せっせっせーのよいよいよい・・・
   おちゃらかおちゃらかおちゃらかほい!(ここでじゃんけん)
   せっせっせーのよいよいよい・・・
   みーかんーのはーながー、さーいてーいるー(瀬戸内らしいね!)   
広島福山
   せっせっせーのよいよいよいっ
   お〜て〜ら〜の〜お〜しょ〜さんが〜か〜ぼ〜ちゃ〜の〜た〜ね〜を〜ま〜き〜ま〜し〜たっ
   め〜が〜で〜て〜ふくらんで〜は〜ながさいて〜みになって〜トンネルくぐってじゃんけんぽんっ
千葉
   せっせっせーのよいよいよい・・・
   夏も近づく八十八夜〜(略)
   せっせっせーのよいよいよい・・・
   お寺のおしょうさんが カボチャの種をまきました
   芽が出て ふくらんで 花が咲いて じゃんけんぽん
九州
   せっせっせーのほいのほいのほい 
   しゃらりこしゃらりこしゃらりこセッ(ここでじゃんけん)
   しゃらりこ(勝ったよ/負けたよ/同点)
   しゃらりこセッ(またじゃんけん)
(勝ったよのとき万歳のポーズ、負けたよのとき下を向くポーズ、どうてんのときお互いの両手のひらを合せるポーズ)

手遊び歌としては、
   「お寺の和尚さんがかぼちゃの種をまきました。芽が出て、膨らんで、花が咲いて、じゃんけんほい」
じゃんけんに勝ったほうが、相手の手のひらの上で
   「一本橋、こちょこちょ。たたいて、つねって、階段のぼって、(相手の腕を2本の指で歩くように上へ移動して)
   こちょこちょこちょ!(と、相手の腋あたりをくすぐる)」

   せっせっせーのよいよいよい・・・
   もちつきぺったんこ〜ぺったんこ〜ぺったんこ〜
   こねて こねて こね こね こね こね
   うえ うえ うえ なか した
   した した した なか うえ
   なか した なか うえ なか こねて
   せっせっせーのよいよいよい・・・
   線路は続くよ どこまでも〜
 
   せっせっせーの、ぱらりこ・せ
   お寺の和尚さんがお花の種をまきました
   芽が出て、ふくらんで、
   は〜なが咲いて、
   じゃんけんぽんっ
北関東
   せっせっせっせ〜のよいよいよい
   お寺のおしょうさんがかぼちゃのたねをまきました〜
   芽がでて(ここで手を合わせる)
   ふくらんで(合わせた手をふくらませる)
   は〜なが咲いて(パッとひらく)
   じゃんけんぽん
大阪
   お寺の裏の子、ようみた顔じゃ
   大阪ねえさん べっぴんさん (お化粧の振り)
   京都のねえさん 舞妓    (着物の振り)
   アメリカ姉さん バレエ   (バレリーナの振り)
   ハワイの姉さんフラダンス  (フラの振り)
   田舎の姉さんたんぼ     (汗をぬぐう)
   いちいちらいらい、らっきょうくってすいすい、すいかくって
   きゃっきゃ、きゃべつでホイ!(じゃんけん)
岡山南部
   せっせっせ〜、ばらりこせ〜(どういう意味?)
   夏も近づく八十八夜〜
   もしくは、おちゃらかおちゃらかおちゃらかほいっ
鬼さんこちら 手の鳴るほうへ 1
   鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
   鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
人の心の中にも住むといわれる鬼。最初に鬼にであったのは神社のお祭りです。鳥居から境内まで並んだ屋台。その中に沢山の玩具のお面が売られていました。天狗やお猿さんにまじって鬼のお面も。友だちがその鬼のお面をかぶり、こわいぞ〜、こわいぞ〜、などと仲間をおどかしたりしたものです。
鬼の面は古来より私たちのそばにありました。怖い鬼も、人の力を超えた存在として、恐れられ、また、崇められていたからです。
鬼は怖いだけでなく、ときには、その大いなる力をもって、人間を戒め、災難から救い出し、悪霊を退治し、五穀豊穣をももたらすものだったのです。私たちはその鬼の力が発揮されることを願い、さまざまな郷土芸能を生み伝承されてもきました。
鬼と呼ばれてきたのは、その土地土地の祖霊や地霊。山岳宗教における鬼や山伏などに語られる鬼。たとえば、鞍馬山で牛若丸に剣術を教えたとされる天狗。また、仏教寺院などにみられる邪鬼。社会から疎外され盗賊や凶悪な行いをして人から鬼と呼ばれてしまった人たち。怨みや恨めしさで鬼になってしまう人。いろんな形で私たちの周りには鬼が存在するのです。
もっとも親しい鬼はなんでしょう。それは、節分の鬼ですね。家族と一緒に、“鬼は外、福は内。福は内、鬼は外”などと叫びながら、豆まきをしましたね。
先日、友人と食事をしながら、鬼の話になりました。日本には有名な桃太郎の「鬼退治」などがありますが、それらの物語に潜む哀しい日本の歴史もあったようです。友人の話によると、社会から疎外され、生活もできずにいた人たちが、盗賊になり、その人たちがしばしば鬼と呼ばれ、討伐されたそうです。その人々の哀しい歴史も鬼のお話の一部にはなっているのです。
鬼の話は多いのですが、大江山の酒呑童子は、都から姫をさらって食べていたとされていますね。「昔、男ありけり」ではじまる『伊勢物語』第六段には、身分違いのいとしい女を背負って逃げる男の哀しい話があるのです。それは、追っ手から逃げる途中、あばら家に女を休ませ、自分は戸口を守っているうちに、女を鬼に一口で食べられてしまったという話!哀しくも恐ろしいお話なんです。ですがですが、昔の本は印刷ではありません。物語は人の手で書き写しされ、語り継がれ伝わってきたのです。そこで、誰かが、あなた知ってる、私は知ってるよ、この鬼ね、と、書き足され、その鬼は、連れ出した女の兄さんたちだった、とわかります。兄さんが妹を奪い返しに来たのです。そこで、兄さんが鬼!と・・・。このように、いろいろな語り口でたち現れてくる鬼。
また、私たちは激しい嫉妬や怨みに憑りつかれたら、怖い怖い生霊(いきりょう)になってしまうこともあるようです。平安時代に生きた紫式部もそのことをよく知っていたのでしょう。その著作『源氏物語』の中に、源氏の妻・葵上(あおいのうえ)に憑りつく生霊の話があります。それは、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の生霊。源氏を愛するばかりに、高い教養をもつ女性であっても、なんとしたことか、源氏の子どもを身ごもった葵上の夢枕に夜な夜なあらわれ、呪い殺してしまうのです。
それは嫉妬心が鬼になったのです。『なつかしのわらべ歌』では、この愛の姿を「羞恥の鬼」「愛欲の鬼」と呼ぶことがあります。と。
光源氏を愛するあまり、葵上に嫉妬する心。執念というのは深く恐ろしいものです。自分の知らないうちに夜になると魂が身体を離れる、とは、なんて恐ろしいことでしょう・・・。身体を離れた魂は、人を呪い、殺すことまでしてしまう。人の心は計り知れぬほど怖いものなのですね。しかし、人の心は仏にもなります。
沢庵禅師の「不動智神明禄」には、
   心こそ 心迷わす 心なれ
   心に心 心ゆるすな
という歌が載っています。鬼も仏も私たちの心の中に住んでいるのです。そのことがあるから、「怖いもの、恐ろしいもの」にも興味をしめすのが私たちなのでしょう。
そして、鬼になる遊びも生まれたのでしょう。昔から子どもたちも
鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
と歌っては鬼ごっこを楽しんでいたのです。
この「鬼ごっこ」は、実は、子どもが大人の遊んでいるのを見て覚えていったようなのです。
エッ!オトナから学んだもの!というのは、『なつかしのわらべ歌』では次のようなことなのです。
この遊びは、遊郭での遊びが原点ではないかといわれています。遊郭を訪れた大店の旦那や大名が複数の遊女を相手に座敷で鬼ごっこをするものです。鬼(たいていは旦那や大名)が手ぬぐいで目隠しをして、優雅な雰囲気の中で遊女たちのはやし声や手拍子を頼りに、次の鬼になる遊女を探し当てるまで続きます。お酒も入っていて半分ふざけ気分ですから、どちらも本気で鬼ごっこをしているわけではありません。
すると、
好奇心旺盛な近所の子どもたちが、あまりにも楽しそうな笑い声にひかれて遊郭を覗き見してみると、普段は威張っている大人たちが子どものように遊んでいます。自分たちでもできそうな遊びです。さっそく仲間を集めてやってみようと始めたのが全国に広まったとされています。
そんなことがあるのですね。
大人の遊びから始まった「鬼さんこちら 手の鳴るほうへ」ですが、子どもの遊びとしてわらべ歌とともに伝承されてきたポピュラーな遊びです。と。
さて、どのように遊ぶのでしょう。皆様のおうちには、日本手ぬぐいはありますか。目隠し用に使うのです。「鬼」が次の「鬼」を探すときに目隠しするのです。タオルでもいいですね。
そして、「鬼さんこちら 手の鳴るほうへ」の掛け声に合わせて手探りで次の「鬼」になる子を探すことになります。
楽しい遊びですが、目隠して「鬼」になっている子どものほうが足元がわからず、怖いでしょうね。 
鬼さんこちら 手の鳴るほうへ 2
夕間暮れ、小さな庭の一角で二人の子供がボール遊びをしている。年嵩の方が四年生ぐらい、もう一人は恐らく小学校に上ったばかりではないかと思われる小柄な男の子。年長の子供が、家の二方を囲むコンクリート塀目掛けてボールを投げ、その、跳ね返ったボールを年下の子供が拾っては兄貴分に返球しようとしているのだが、ボール遊びを始めたばかりの弟分には、その返球がままならない。彼の投げた球は、真っ直ぐ前に進もうとはせず、地面に激突して、あらぬ方向へ転がったり、珠には、どういう訳か身体の後ろに飛んだりもしている。衰えた夕陽が、急ぎ足で西の山の際に沈もうとする頃、玉拾いに飽き飽きした弟分は、家に帰ろうと思った。
『もぉ、帰るわぁ、たー君。晩になってきたし。帰らんと、怒られる』
その時、「たー君」と呼ばれた子供の心は、一瞬、魔物にでも支配されていたに違いない。彼の心の中で、訳のわからない怒りと憎しみ、そして残忍な感情が突然沸騰し、そのはけ口を、生贄を強烈に求めざわざわと蠢いていた。
『ゆきひろ!最後の一球や、体の正面で、ちゃんと取るんやで』
どこに、それだけの力が秘められていたのか、投げたボールは一直線に十メートル余りの距離を突き進み「ゆきひろ」の心臓を直撃した。黙ったまま胸を抑え蹲る男の子、ただ、その場に立ち尽くす男の子、二人の影法師も、何時の間にか掻き消えた。

我が国最古の史書『日本書紀』は、欽明天皇(きんめいてんのう、509〜571)五年(544)十二月の項で、次のように言う。
「彼の嶋の人、人に非ずと言す。また、鬼魅(おに)なりと申して、敢えて近づかず。人ありて占いて曰く、是の邑の人、必ず魅鬼(おに)のためにまどわされん。」
さらに書紀は斉明天皇(さいめいてんのう、594〜661)七年(661)の条で、より不気味な記述をしている。
「秋七月の甲午の朔に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徒りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に朝倉宮の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ。」
欽明の時代に存在したであろう「人ではないモノ」としての「鬼魅」「魅鬼」を果して、今風に「オニ」と呼んでいいものなのか?(一般的には、どちらにも「おに」の訓を付けるようです)分かりませんが、ここでは明らかに日本書紀を編修した「人々」が属する世界とは「異なる(立場の)モノ(存在・人?)」を「鬼魅」と言っているわけです。その正体については色々な議論もあるようですが、まず、外国人を指した言葉だと解釈するのが一般的です。つまり、ここで云う「鬼魅」は、実在した外国の人である可能性が強い。そして「惑わされん(惑わされるだろう)」という表現からは、なんとなく『魏志東夷伝』倭人の条に出で来る「卑弥呼」の「鬼道」を想起してしまいます。また、この欽明天皇の時代背景を考えると、別な見方も生まれます。それは有名な「仏教公伝(538)」に伴う憶測ですが、半島経由で仏教を受け入れた欽明は、臣下たちにも仏教を受け入れるよう諮問しました。ところが、その考えに同調した豪族は蘇我稲目(そが・いなめ、生没年不明?〜570?)ただ独りに過ぎず、他の豪族たちは皆、押しなべて仏教の受け入れに反対したのです。ここから仏教戦争も生じたわけで、世情は今にも一触即発の様相を呈していたと云えます。そんな事情を前提にすれば、また、別様の見方が出来るのかもしれません。
蛇足・この「嶋の人」については、書紀は前段で、次のように細かく伝えています。越国言さく『佐渡嶋の北の御名部の碕岸に、肅慎人有りて、一船舶に乗りて留まる』だから、彼等は明らかに外国からの訪問者なのです。その人を「鬼魅」と呼んでいる訳ですが、当時の漢音からすれば、その読みは当然「きみ」になるはずです。そして欽明の父・継体の出身地が「越国」だったとすれば…、これは何かの暗示でしょうか
ついでと言っては何ですが、この欽明天皇について蛇足の蛇足を付け加えます。それは、彼が、一つの時代の大きな節目の中で誕生しているからです。と言うのも、彼の父親である継体天皇(けいたいてんのう、450〜531頃)という人は、宇佐神宮のページでお馴染みの「応神天皇」の「五世の孫」とされ、先帝・武烈(ぶれつ)に後継者がいなかったため、仁賢天皇(にんけんてんのう)の皇女、つまり武烈の妹にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)の婿となることによって皇位継承した人物で、天皇にはなったものの、余程の事情があったのか二十年もの間大和国に入ることが出来ず、その間、近畿周辺の各地を転々としていたと伝えられているのです。つまり、父親である人そのものが、書紀の言う「その嶋」の住人だと中央では考えられていた(天皇になるには、相応しくない)可能性のある存在であったのです。更に云えば「継体」という漢風の諡号そのものが、全てを物語っているとも…。都人は、案外『今度の大君は、どこか、他所の嶋で育った人らしい』なぞと噂したのかも知れませんね。(五世の孫といっても、中々実感がわかないでしょう。例えば、貴方のお祖父さんのお祖父さんから数えて貴方が五世にあたる、と言えば分かり易い?かな)
それから凡そ120年、斉明天皇の葬儀に現れた「鬼」は、何を「視て」いたのでしょう。その前に、少し触れておかなければならない事があります。それは蘇我氏の台頭に関わることなのですが、いつもお断りしているように、このオノコロシリーズは「研究」のためのものではありません。だから、当然、管理人の想像が多分に入っています。そのつもりで読んでください。
歴史上、悪役の元祖とも言える扱いを受けている蘇我氏は、一応「武内宿禰(たけうちのすくね)」を始祖とする葛城氏・紀氏などと同様の所謂「古い豪族」の一派であるとされていますが、歴史関係のWEBを散見すると、その素性は明確なものではなく、六世紀の前半、突然、権力の中枢に登りつめた新興勢力だという見方が有力です。また、系図に見られる父・祖父の名前が、それぞれ「高麗(こま)」「韓子(からこ)」であることから秦氏などと同様に、半島あるいは大陸からやってきた渡来系の一族ではないかとも考えられています(この「韓子」という名前については日本人と韓人の間に生まれた子、という意味合いもあるそうです)。その新参者が宣化天皇(せんかてんのう)の即位に伴い一躍「大臣(おおおみ)」に抜擢され、従来から権力の中心を占めてきた物部氏(稲目の時代では物部尾輿[もののべ・おこし、生没年不詳])に対抗出来るまでになったのか、と言えば、欽明天皇との連携以外に納得のゆく理由を探し出すことは出来ません。つまり蘇我稲目は娘である堅塩媛・小姉君の姉妹を欽明の妃として差し出し、天皇家の外戚としての地位を確立し、さらには外来の新しい神・仏教を旗印にすることで、その先進性を誇示しようとしたのです。彼の戦略は大成功を収めたと言えるでしょう、二人の娘が三人もの天皇(崇峻・用明・推古)を生んだのですから。政権基盤というべきものを全く持たずに即位した父・継体の「苦難」を詳しく聞かされていたであろう欽明が、旧豪族たちとは一定の距離を置き、新興の蘇我氏に接近しようとした心理は理解できそうに思われます。ただ、大きな誤算は蘇我氏の暴走でした。西暦587年、稲目の子・蘇我馬子(そが・うまこ、?〜626)は政敵の物部守屋(もののべ・もりや)を武力で倒し、その余勢をかって592年には甥に当たる崇峻天皇(すしゅんてんのう)を暗殺、姪の推古を即位させ権力中枢を牛耳るまでにのし上がります。それから半世紀、正に蘇我氏の時代が続きました。所謂『大化の改新』の遠因がここに芽生えた、とも言えるでしょう。
蘇我氏の出自・歴史学者の門脇禎二さんは、蘇我氏について『百済の高級官僚が渡来し、日本に定着した』と考え、その人物を木満致であると推察しています。この満致が来日した時期については西暦475年の半島動乱の頃とも推理されています。所謂、蘇我氏渡来人説ですね。
書紀の記述からは見えてきませんが、もう少し想像を逞しくすれば、大和朝廷内が混乱する中、政権を支えていた旧勢力を代表する豪族達が連携して、一見「無難」な候補である継体天皇を擁立した時から四半世紀後に大和入りを果たすまで、継体一族を支えていたのが蘇我氏そのものであった可能性が浮んできます。若し、その想像が許されるのであれば、書紀が伝えている蘇我氏の「横暴」も、彼等の側からすれば「当然の報酬」と考えられていたかも知れないのです。下世話な言い方をすれば稲目や馬子には『一体誰のお蔭で天皇になれたと思っているんだ』という思いがあったと考えられるのです。余り人名ばかりを列記すると混乱しかねませんが、馬子の立場からすると用明・推古・崇峻の三天皇は甥と姪であり、歴史上最も著名な人物の「聖徳」太子はその用明の子供にあたるのです。そして、ややこしいですが太子と崇峻・舒明のお妃が馬子自身の娘なのです。だから、血筋・血縁という意味で聖徳太子は全くの蘇我一族の代表者と言う見方ができます。
一方、斉明天皇は、蘇我入鹿(そが・いるか、馬子の孫、?〜645)との醜聞説を除けば、太子のように蘇我氏一族とは密接な血縁関係のある天皇ではありません。その血統が推古などと同様に欽明天皇から出ている点は同じなのですが、系図的には敏達天皇(びだつてんのう)の孫にあたる舒明天皇(じょめいてんのう)の皇后だった人物で、夫の死去に伴い皇極天皇(こうぎょくてんのう)となった後、大化の改新(蘇我入鹿・暗殺、645)で一旦退位、そして9年後に同母弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)が59歳で没したため急遽、再び即位した複雑な経緯があります。その波乱万丈の生涯を知りたい方はWEBで検索してみてください。
ここで「オニ」のお話しに戻りたいのですが、その斉明天皇の葬儀に現れた「おに」は、欽明時代に記された「鬼魅」とは明らかに異なっています。それは、葬儀に参列した「衆」すなわち皆の眼にも「大笠」を着た姿が見えていた、という点でも明らかです。また、この「おに」の出現を暗示するかのような文章が斉明即位(655年)の最初の記述として残されています。
「夏、五月の庚午の朔に空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城の嶺より、馳せて生駒の山に隠れぬ。」
時代が下り『扶桑略記』(ふそうりゃっき、成立は十二世紀初頭頃、編者は皇円とされる)は、この書紀本文を引用して、わざわざ「時の人言う、これ(蘇我)豊浦大臣の霊なり」と注釈しているように、当時から、そのような「噂」話しが宮廷内では流布していたと思われます。『唐人に似たり』という書き方は、如何にも書紀の編者が見てきたような表現ですが、勿論そんなはずもなく、これも「仏教」を強力に推進した特定の人物像が念頭にあっての描写だと考えられるのです。天皇の即位という晴れがましい最高の国家事業を「空」の高みから、しかも「龍」に乗って見下す人物が若しも居たとすれば、それは蘇我氏一門以外には考えられません。その「人」が葬儀には「鬼」の姿となって斉明の最期を見届けに来ていたのでしょうか?更に『龍に乗って』を、その言葉どおりに解釈すれば、蘇我氏こそ「龍」つまりは天皇だった、との見方も出来ることになります。
扶桑略記を編纂したとされる皇円という人は、関白・藤原道兼(ふじわら・みちかね,961〜995)を祖先とする藤原氏一族の出身で、比叡山延暦寺の高僧として知られる、十二世紀を代表する天台宗の大立者。仏典ばかりではなく歴史の分野でも非常に優れた知識を持っていた彼は、神武天皇から堀河天皇の嘉保元年までの編年体の史書として略記を残したと伝えられています。ほぼ、同時代の人として、あの「此の世をば」の歌で有名な藤原道長がいます。

仲良しの子供たちが数人集まり、川原に出来た、さして大きくもない州の中で遊んでいる。秋の日暮れは早い。少し離れた人家からは夕食の支度の進み具合を示す、柔らかく暖かい仄かな匂いが、ひんやりとした風に乗って漂い、彼等の鼻孔をくすぐっている。
『なぁ、かくれんぼ、しょうか?!』
言い出しっぺの「マー坊」が、とりたてて意地悪という訳でもなかったのだが、下級生には、どういう訳か余り人気がない。じゃんけんで「マー坊」がオニに決まったとき、最年長の「たー君」の脳裏に一つのアイデアが浮んだ。
『マー坊、今日は50まで数えるんやで。ここらには隠れるとこ、あらへんからな』
『えぇーっ、そんなぁ…。50も数えたら、どこまででも行けるやんか!』
『そんなことあらへんて、みな、ちっこい子ばっかりやから、大丈夫や、じき、つかまえられる』
ふくれっ面の「マー坊」が、渋々、地面に屈み込み「いち、にー、さん、しー」と数え始めた時、素早く川岸の一角に皆を集めた「たー君」は、ひそひそ声で作戦命令を伝えた。
『ええか、初めの50数えるまでに、皆、道路の上まであがるんやで』
『そんなんしたら、マー坊、誰も見つけられへんやんか?』
『それで、ええねん。今日は、みな、そのまま家に帰るんや、分かったか?』
それでも、突然のルール変更に納得がいかないという怪訝な面持ちの下級生たちを、急いで道路上に追いやると「たー君」は最期に崖を駆け上り、道路端の川原から死角になった山側の場所に陣取り、オニの呼びかけに声の調子を少しずつ変えながら移動してゆく。
『もー、いいかい?』『まーだだよ!』
『もー、いいかい!!』『……まーだだよぉ』『もーおー、いい、かーい』
5分たっただろうか、10分が過ぎた頃だろうか「マー坊」の呼び声が突然消えてしまい、あわてた「たー君」は中州に戻った。
『なんや、いてるやないか?声がせぇへんから心配するやないか、マー坊』
薄暗がりの中でしゃがみこんだままの「マー坊」に話しかけた途端、背後から「マー坊」の大声が響いた。
『たー君、みっけ』
眼の前から「マー坊」の姿は掻き消えた。

嵯峨天皇の子孫で、十世紀に活躍した歌人であり国学者でもある源順(みなもと・したがう、911〜983)は、母親が仕えていた醍醐天皇皇女・勤子内親王の求めに応じて、我が国最初の漢和辞典とも言うべき『和名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)を二十代の若さで編纂しています。これは二十四部、百二十八類に細分化された百科辞典の要素も兼ね備えた大部なものですが、彼は「鬼」について、
「鬼は物に隠れて顕はるることを欲せざる故に俗に呼びて穏と云うなり」
と解説、その和名は「於爾」(おに)であり、かつ、その「於」は「穏」(おん)が訛って発音されたものだとしています。つまり十世紀現在で「おに」と称されるものの原型は「おんに」であり、その言葉を漢字の「鬼」に当てはめた、と彼は言っているわけですが、何とも分かったようで分からない「解釈」です。皆さんは、どう思われましたか?さて、オニの正体とは、一体何なんでしょう??まぁ、良く分からない処が「おに」の「オニ」たる由縁なのかも…。最後に、いつものオマケをもう一つ。日本には、今でも、鬼の子孫を自称する人たちが京都・左京区に棲んでいます。彼等は八瀬童子(やせどうじ)と呼ばれ、かつて後醍醐天皇が比叡山に行幸された折、駕輿丁役として天皇に便宜を図ったことから「年貢を免除」された、と言われる人々です。興味をもたれた方は、WEBで探してみてください。そして、この人々が住む地域で使われる独特な言葉があり、それを「八瀬ことば」と呼ぶのですが、なんと、その一部が出雲の方言にそっくり。八瀬では「あんな」「こんな」という場合に「あがな」「こがな」と話すそうです。
ホーホー 蛍こい 1
   ホー ホー 蛍こい
   あっちの水は 苦(にーが)いぞ
   こっちの水は 甘(あーま)いぞ
   ホー ホー 蛍こい
   山路(やまみち) こい
   行燈(あんど)の光で
   又こいこい
蛍を見たのは何年前のことでしょう。それは、都内のホテルで催された庭園でのほたる祭り。昔は、夏の夜にでもなると、ゆらりゆらり点滅しながら飛ぶ蛍を見ながら、蛍に呼びかけたのです、蛍の歌を唄いながら・・・。その子どもたちの向こうには川や草むらがありました。いまでは子どもたちが安全に遊べる川や草むらはなくなってしまっているようです。
蛍に呼びかけるときは、笹竹や団扇をもって振り回しながら、
   ホー ホー 蛍こい
   あっちの水は 苦いぞ
   こっちの水は 甘いぞ
と蛍狩りの“うた”を歌っていたのです。
この夏の風物詩ともいえる「蛍狩り」には、水の澄んだ流れと夜空が必要です。そして人々の和やかな心、夕涼みを楽しむ気持ちが大切ですね。
では、子どもたちはどのようにして蛍を捕まえていたのでしょう。『なつかしのわらべ歌』によると、
ほたるが飛びはじめる頃になると、子どもたちは家の人に「菜種(なたね)ほうき」を作ってもらいます。「菜種ほうき」とは、菜種油を取った後の菜種殻を1メートルほどの長さに束ねてほうき状にしたものです。菜種殻のない場合は、竹ぼうきや笹などを代用していたようです。この菜種ほうきをほたるに向けて振り回します。すると菜種殻にからまって飛べなくなったほたるや払い落されたほたるは、子どもにも容易に取ることができたのです。
また、“自然破壊のよって河川が汚れ、蛍の飛び交う川は少なくなり、というより皆無に等しくなって「ほたる狩り」の文化も消滅した”と書かれています。
本当に残念なことです。しかしながら、この蛍を歌ったこの“うた”は、「わらべうた」の中でも、もっとも流行ったメロディをもっていました。発祥は秋田県地方といわれます。
そして、この「蛍」を歌った“うた”は多くの地方で、さまざまな歌詞で歌われています。
栃木では「蛍の親父」。
   蛍の親父
   ホ ホ 蛍 来い
   蛍の親父は 金持ちで
   夜は提灯 高(たか)のぼり
   昼は草葉のお露のみ  
   ホ ホ 蛍 来い
岩手では、
   蛍の親父は 金持ちだ
   道理でお尻が ピカピカだ
となります。
佐賀では、
   谷川の水
   ホ ホ 蛍こい
   谷川の水呉(く)りゅう
   谷川の水ァ 要らんこんな
   堀(ほい)の水 ちい呉(く)りゅう
   ホ ホ 蛍こい
地方によって方言やお国言葉がつかわれ、独特の表現になりますね。「呉(く)りゅう」は、「呉(く)れてやろう」の意味です。
沖縄では、
   じんじん
   じんじん じんじん
   酒屋(サカヤ)ぬ 水(ミジ)くゎて
   落て(ウテイ)りょー じんじん
   さがりょー じんじん
これは首里附近の唄だそうです。歌の意味は、「蛍よ 蛍よ酒屋の水飲んで 落ちろよ蛍、さがれよ蛍」
八重山では、あがれよ蛍(じんじん)さがれよ蛍と唄います。
また今ではほとんど歌われていない有名な蛍の歌があります。それは昭和7年に作られた小学唱歌。作詞、井上赳、作曲下総皖一で、
   
   一、蛍のやどは川ばた楊(やなぎ)、
     楊おぼろに夕やみ寄せて、
     川の目高(めだか)が夢見る頃は、
     ほ、ほ、ほたるが灯をともす。
   二、川風そよぐ、楊もそよぐ、
     そよぐ楊に蛍がゆれて、
     山の三日月隠れる頃は、
     ほ、ほ、ほたるが飛んで出る。
   三、川原のおもは五月(さつき)の闇夜、
     かなたこなたに友よび集い、
     むれて蛍の大まり小まり、
     ほ、ほ、ほたるが飛んで行く。
なんだか懐かしい感じのする歌詞ですね。『童謡を訪ねて』の著者太田信一郎氏は「一番から三番までの歌詞には、昭和の初期“蛍狩り”を楽しんだ人々の平和な情景と、短い蛍の一生がそこはかとなく感じられます」と述べられています。 
ホーホー 蛍こい 2
鳥取
   ホー ホー 蛍こい
   あっちの水は苦いぞ
   こっちの水は甘いぞ
   ホー ホー 蛍こい
   山路 こい
   行燈の光で
   又こいこい
阿波
   螢こい 螢こい
   あんどんのかげから
   かくれてこい
   螢こい 田の虫こい
   ほつちの水は 苦いぞ
   こつちの水は 甘いぞ
   甘い水をのみにこい
阿波
   ホ ホ 蛍来い
   あっちの水はにがいぞ
   こっちの水は甘いぞ
   ホ ホ 蛍来い
   ホ ホ 蛍来い 田の虫来い
   あんどの蔭から 蓑着て笠着て 飛んで来い
徳島
   ほー ほー ほたるこい
   太郎虫こい
   あんどのかげから
   笠きて みのきて とんでこい
徳島
   ほーほーほたるこい あんどの影から
   蓑きて笠きて飛んでこい
   ほーほーほたるこい あっちの水はにがいぞ
   あっちの水はにがいぞ
   こっちの水はあーまいぞ
   ほーほーほたるこい
京都
   ほたろこい 田の虫こい
   あっちの水は あんないし
   こっちの水は うまいし
   ほたろこい 田の虫こい
京都
   ほ ほ ほおたろこい
   あっちの水は にがいぞ
   こっちの水は あまいぞ
   ほ ほ ほおたろこい
   行燈(あんど)のかげから 笠着てこい
田の虫ヘイケボタル、眉山のホタル
日本には40 種以上のホタルが生息し、成虫が発光するものは21 種、そのうち一般によく知られているものはゲンジボタルとヘイケボタルである。ゲンジボタルの方が体が大きく、光も強い。生息環境は両者とも水辺であるが、ゲンジボタルは水の流れがある環境が必要であり河川に生息するが、ヘイケボタルは止水を好み、水田、池、湿原に生息する。ヘイケボタルは田の代表的な昆虫の一つであり、わらべ歌の「田の虫」と呼ばれるホタルはヘイケボタルのことを指す。地方によっては「コメボタル」と呼ばれる。
昭和20年代の前半までは、全国の都市近郊でホタルをみかけることができたが、水辺環境の変化により激減した。昭和53年(1978)度に環境庁の委託で実施された第2回自然環境保全基礎調査動物分布調査(昆虫類)において、ゲンジボタルが指標昆虫類に指定されて全国調査が行なわれた。その調査報告書の全国版には、ゲンジボタルの生息地の消失・個体数減少をもたらした要因として、農薬使用、イワナ漁などのための毒流し、殺貝剤によるミヤイリガイ駆除、牧場・養豚場などからの汚水流入、家庭排水流入、砕石・土木工事による土砂流入、宅地造成による流水の消失・土砂流入、川砂利採取、河川・用水路の改修、乱獲、水害などが指摘されている。これらの要因による影響がゲンジボタルだけでなくヘイケボタルにも及んだのはもちろんである。
この時の調査において、徳島市ではゲンジボタルの生息個体が確認されなかった。調査報告書には「徳島市内では昭和30年頃より少なくなり、現在は生息していない」と記されている。しかし、数年後の1985年に実施された徳島県自然保護協会による眉山の調査では、眉山にホタルが生息していることが明らかになった。それによると、ゲンジボタルは1950年代まで眉山西麓の名東町一帯に非常に多くみられたが、1960年代に入ってからはその姿を見かけなくなったこと、しかし1985年6月に行なった調査において地蔵院のため池の谷川からの流入口で相当数の個体を確認したことが記されている。さらに、ヘイケボタルが地蔵院附近で、オバボタルが地蔵院と黒岩神社で、オオマドボタルが西部公園で発見したことも記されている。また、同書の中で別の調査者は、ゲンジボタルを眉山西部の下町で発見したことを記している。  
だいぼろつぼろ(蝸牛)
   だいぼろ つぼろ
   おばけの山 焼けるから
   早く起きて 水かけろ
         水かけろ
まだ梅雨の気配のする庭に下り立つと、アジサイの葉に蝸牛(かたつむり)がいることが多いですね。今回はちょっと残酷でむごい蝸牛と蛙の“わらべうた”です。
蝸牛の唄は全国的にあるのですが、この「だいぼろつぼろ」は茨城の古河地方の唄です。歌詞は私たちにとってすぐに理解するには少し難しいですね。“かたつむり”にむかって言っているのでしょうか。おばけの山が焼けるから早く起きて水かけろ、とは状況をよく知らないとわかりにくいですね。どんな状況で、どのように唄うのでしょうか。それは、この唄を生みだした人たちやこの“うた”歌って遊んだ子どもたちの心と交信しなければなりませんね。それにしても、お化けの山焼けるとは、あまりにも幻想的!
「かたつむり」で思い出すのは、後白河天皇と関係深い『梁塵秘抄』です。そこには、
   舞へ舞へ蝸牛 
   舞はぬものならば
   馬の子や牛の子に蹴(くゑ)させてん
   踏みわらせてん
   まことに美しく舞うたらば
   花の園まで遊ばせん
この“うた”は、なぜか美しい風情がしてきますね。子どもたちのロマンが感じられる“うた”になっています。これは、いまでいう流行歌、当時“今様”といわれたものです。
しかし、一般的な蝸牛の唄では、
   蝸牛(カタツブリ) 蝸牛
   銭(ぜに)百呉(け)えら、
   角コ出して
   見せれ見せれ
秋田の“うた”です。
東京や千葉、神奈川では
   まいまいつぶろ
   湯屋で喧嘩があるから
   角出せ槍出せ
   鋏み箱出ァしゃれ
また、
   でェくらでくら、
   角出して踊らんと
   向えの岸岩坊(きしがんぼう)が
   蛇を追て来(こ)ッど
鹿児島の唄ですが、角を出させるためになにか代償を与えようという魂胆が・・・そして、喧嘩や火事でおびき出そうという内容のものまであります。
子どもながらの駆け引きや自分の思い通りに蝸牛を動かしてやろうという考えが出ているのがこの“かたつむりのうた”には多いですね。子どもに芽生えた自我が表現されている“うた”なのでしょうか。
類似した“うた”には、福島や茨城にもあります。
   まいまいつぶろ
   小田山焼けるから
   角出してみせろ
また千葉では、
   おばおば おばらァ家が焼けるから
   棒もってこい 槍持って出てこい
“爺も婆も焼けるぞ”なんて恐ろしい!
また、こんな“うた”も、愛媛にはあります。
   カタタン、カタタン 角出しゃれ
   爺(じい)も婆(ばあ)も焼けるぞ
   早う出て水かけろ
なにか蝸牛に命令しているような“うた”ばかりでしたね。
蝸牛の後は蛙の“うた”です。また、いろんなものが見れるかな、と思って、箱根にいったとき、そこで見たもの、いや聞いたものはカエルの鳴き声。泊まった宿に小さな池があり、そのあたりから夕方になると、ゲロゲロというより今まで聞いたことのない鳴き声が聞こえてきました。そこで思い出したのが蛙の“うた”です。
“ぴっきぴっき(蛙)”の“うた”を続いて載せてみましょう。山形の“うた”です。
   びっきびっき(蛙)
   びっき びっき いつ死んだ
   ゆんべ酒呑んで 今朝死んだ
   和尚さま頼んで まま上げろ
「びっき」とは方言で蛙のこと。東北や栃木県新潟県、岐阜県、滋賀県、佐賀県などに残っているそうです。
でも蛙さんが死ぬとは・・・。やはり蝸牛の“うた”と同様に、その“うた”が生まれた当時のことや、その時代の人の心がよくわからないとすぐさま理解するのはむつかしいです。
そしてこんな“うた”も、新潟で歌われたのですが、
   蛙(けいり)さん死んで
   車前草(オンバコ)さん弔(とむ)れいに
京都では、
   雨蛙どのは いつ死なさった
   八日の晩に 甘酒のんで ついつい死なさった
それにしても、なぜ、蛙さんは死ななきゃならないのですかね。次のようなことが『わらべうた・伝承童謡』に書かれていました。
「爰(ここ)らの子どもの戯(たはむれ)に、蛙を生きながら土に埋めて諷うていはく、ひきどののお死なった、おんばくもってとぶらひにとぶらひに、と口々にはやして、ふいの葉を彼(かの)うづめたる上に打ちかぶせて帰りぬ。しかるに本草綱目、車前草(しゃぜんそう)の異名を蝦蟇衣(がまい)といふ。此国の俗、がいろつ葉とよぶ。おのずからに和漢、心をおなじくすといふべし。むかしはかばかりのざれごとさへいはれあるにや。卯の花もほろりほろりや蟇(ひき)の塚 一茶」(おらが春)
う〜ん。子どものたわむれに、生き埋めにされた蛙。なんと可愛そうなのでしょう。子どもは時に残酷なものです。そしてくちぐちに蛙は死になさった、といい。「とぶらひ」「とぶらひ」とはやしたて、唄い、ふいの葉(オオバコの葉)を、蛙を埋めた土の上にかぶせて帰っていったのです。江戸時代の俳人小林一茶は、生き埋めにされた蛙をかわいそうに思い、一句詠みました。
卯の花も ほろりほろりや 蟇(ひき)の塚  一茶
亡くなった蛙の塚の上に卯の花が哀しんで
ほろりほろり涙を流すようにこぼれかかっている、と。
人間の持つ残酷性は、はやくも子どものうちからあらわれて来るもの。
今回は、人間のもつ功利性と残酷な自我が表現された“わらべうた”でしたね。 
 
やもよやもよ/こうもりこっこ/烏勘三郎/しりとり歌/さよなら三角/大寒小寒

 

やもよやもよ(蜻蛉)
   やもよ やもよ
   おとんに目(め)かけて
   ござらんかん
過ぎゆく夏にトンボとりの歌。蜻蛉といえば、蜻蛉(とんぼ)つりに夢中になった子どものころが思い出されます。子どもたちの夏の遊びです。でも、今ではあまり見かけません。蜻蛉が少なくなったせいでしょうか。
「やもよ」というのは方言で、蜻蛉のことです。「おとんに目かけて」は、「おとりにめがけて」の意味。「おとり」とは蜻蛉をとるために仕掛けた罠でしょうか。「ござらんかん」は「やっておいで」。やっておいで、おとりをめがけて、そうすると蜻蛉はつかまえられるからね。
ではどうして蜻蛉をとらえるのでしょうかこの歌は佐賀地方の唄で、佐賀では、「蜻蛉つり」は次のようにしたそうです。「約二米の竹竿の先に糸をつけ、その端に生きた雌の蜻蛉をつけて囮(おとり)にし、昼間から夕方まで、蜻蛉の飛びかう田圃や原っぱで振り回す」(『わらべうた 日本の伝承童謡』町田嘉章・浅野健二編より)
このようにして蜻蛉をとらえるとき、子どもたちが、みんなでうたう唄がこれなのです。
蜻蛉がどんどん空高く飛ぶようになって、なかなか降りてこない時には、降りて来いと誘う唄もありますよ。
   高上り、水呉りゅう、
   シャンコシャンコ
同じようなものには、
   とんぼとろろ
   汝(いし)の家が焼けたら
   そこいらとまれ
これは茨城地方の唄です。千葉では、
   とんぶとんぶ
   酒屋の粕食って
   ちょいととまれ
新潟では、
   とんぼととんぼ
   おら母(チャチャ)の乳のいぼにとまれ
京都では、
   トンボやトンボ ムギワラトンボ
   シオカラトンボ もち棹もって
   お前は刺さぬ 日向は暑い
   こち来てとまれ 日陰で休め
高知では、
   とんぼとんぼおとまり
   あしたの市に塩辛買うてねぶらしょ
「蜻蛉つり」では空高く飛ぶ蜻蛉を呼ぶには、水を飲ましたり、酒粕食わしたり、日陰で休めとか塩辛買ってねぶらそうかなどと、一生懸命ですね。 
蝙蝠(こうもり)こっこ
   蝙蝠 こっこ えんしょうこ
   おらがの屋敷へ 巣つくれ
   晩方寒いぞ 風邪ひくぞ
   坊やに絆纏(はんてん) ひっかけろ
    蝙蝠 こっこ えんしょうこ
    おらがの屋敷へ 巣つくれ
    三日月さまは 細(ほーそ)いな
    野良(のら)からおかァん まだかいな
   蝙蝠 こっこ えんしょうこ
   おらがの屋敷へ 巣つくれ
山梨で唄われた“わらべうた”です。「蝙蝠 こっこ」の「こっこ」は「子ッこ」の意味とも、また「来い」から転じたものでしょうか。「おかァん」は「お母さん」です。
夏の夕ぐれに、「蝙蝠 こっこ」のような“うた”を歌ったことはありますか。
この“うた”は農村などで、長い竹竿の先に手拭をつけ、それを振りまわし、飛んでいる蝙蝠を追いかけながら歌う「蝙蝠とりの唄」だそうです。
蝙蝠を捕るなんて、可哀そうですね。映画などの「吸血鬼」のイメージがあるので、すこし怖がられることもありますが、血を吸う蝙蝠は種類も少なく、ほとんどは「蚊」などを取って食べてくれるよき友らしいのです。昔は、蚊食鳥(カクイドリ)とも呼ばれていました。
尾張には次のような唄もありました。
   蝙蝠こういお茶持てこい
   堀切回ッてお茶持て来い
関東地方では、
   蝙蝠、蝙蝠、
   草履やっから
   早く来い
福島では
   蝙蝠こっこ すっこっこ
   向こうの水は苦いぞ
   こっちの水は甘いぞ
なにか蛍の唄に似ていますね。
兵庫、和歌山、徳島、愛媛では、
   蝙蝠来い、草履やろど、
   雨降ったら下駄やろど
蝙蝠は夏の季語でもあります。以前、「ゆうさりの茶会」に誘われたことがあります。「ゆうさり」とは夕方頃のことですが、蝙蝠も夕方から飛びはじめるのです。その茶会にお伺いした時、玄関の小間にある床の間の掛軸には、これから灯を点そうとする行灯が描かれていました。そして、帰るころには、
蝙蝠が飛んでいる絵に掛けかえられていました。それは、これから帰るお客様の道案内を蝙蝠がいたしますよとの、ご亭主の心遣いでした。 
烏勘三郎 1
   烏(からす) 烏(からす) 勘三郎(かんざぶろう)
   うが家(え)コ 何処だべ 小沢(こざわ)の松原
   うが家(え)さ 寄って
   小豆まんま 三杯(さんべェ)
   白いまんま 三杯
   ガーオガオど かっぽげ
この歌は弘前の唄です。「ガーオガオ=ガアー、ガアー」と鳴き声が濁るのはハシボソガラスで、「カアー、カアー」と鳴くのはハシブトガラスです。その名のとおり、ハシボソガラスはスマートで、ハシブトガラスはくちばしが太くておでこでています。
この歌は、空が真っ赤に染まる夕焼け頃、ねぐらに帰ろうと、ガアー、ガアーと鳴いて飛んでいくのを見て、子どもたちが囃し立てる唄なのです。昔の子どもたちは仲間たちとカラスを見ると追っかけて囃し立てていたのですね。なんだかその姿が目に見えるようです。
「勘三郎」とは鳥の異称。擬人法から勘三郎と呼んだのでしょう。また、カラスの頭の「カ」から勘左衛門とかも呼んで、親愛感をあらわしていたと思えます。そういえば、このようなこともいわれますね。
「鳥はカアカア勘三郎、雀はチュウチュウ忠三郎、鳶は(とんび)は熊野の鉦(かね)叩き、一日叩いて米三合」
「うが家(え)コ」の「うが」は方言で「おまえ」のことです。「何処だべ」は、「何処だや」の意味。「かっぽけ」は、これも方言で「かっこめ」の意味で、大急ぎで食べることです。
カラスの唄はわりと多く残っています。福島では、
   烏(からす)何処さ行ぐ
   烏 烏 何処さ行ぐ
   天寧寺の湯さ行ぐ
   手に持った(の)何だ
   粟米 粉米
   俺にちっと呉んにゃいが
   呉れれば 減る
   減ったら 作れ
   作れば 冷(つ)みでェ
   冷(つ)みだが あだれ
   あだれば 熱ッち
   熱ッちが 退げ
   退げば 痛い
   痛げりゃ 鼬(いたち)の糞つけろ
呉んにゃいがは、「呉れないか」の意味です。冷(つ)みでェは、「冷たいなら」。熱ッちがは、「熱いなら」。カラスは何処へ行くのでしょう。それは、東山温泉です。温泉に入るカラスとはどんなカラスでしょうね。これは擬人法で、みんなの良く知っている人物だったのかもしれませんね。天寧寺は若松市の東南の郊外にあり、もとは北会津東山村です。また、奈良ではこんな歌も、
   烏(からす)こい
   烏(からす)こーい 餅やろぞ
   十二の餅と 柘榴三つと 代え代えしよ
   宙で取ったら 皆やろぞ
   足で取ったら 皆かえせ
昔は、正月に餅をついた時、小さな餅をこしらえてカラスにやりに行ったのでしょうか。それにしてもカラスと食べ物がからむ歌詞が多いですね。カラスはきっと食いしん坊と思われていたのでしょうか。知能指数が高く、学習能力もあり、そして、子どもへの愛情もたっぷりの鳥なのです。
大正時代にもカラスの愛情たっぷりな素敵な歌が作られています。それは野口雨情作詞の童謡『七つの子』です。皆様もよくご存知ですね。
   七つの子 / 野口雨情
   からす なぜなくの
   からすは山に
   かわいい七つの
   子があるからよ
   かわい かわいと
   からすは なくの
   かわい かわいと
   なくんだよ
   山の古巣に
   いって見てごらん
   丸い目をした
   いい子だよ 
烏勘三郎 2
    烏 烏 かん三郎
   あの山 火事だ
   とび口 ふって走れ
   生れた山をわすれるな

   かぁらす 勘三郎
   西のお山は 夕焼けだ
   早く行って 水かけろ

   カラス カラス 勘三郎 
   親の家が焼けるぞ
   早いんで 湯うかけ 水うかけ

   カラス カラス 勘三郎 
   親の恩を忘れんな

   カラス カラス 勘三郎 
   後先に鉄砲撃ちが来ようるぞ
   早いんで 水かけ 樽かけ ドーン ドン

   カラス 勘左衛門 
   うぬが家が焼ける
   早く行って水かけろ 
   水がなくば湯かけろ

   からすかねもん勘三郎 
   おまえの家(うち)はまる焼けじゃあ 
   早ういんで水かけにゃ 水うかける杓がない 
   杓がなけりゃあ貸そうか 借っても借っても よう払わん

   からす からす 勘三郎 
   おばの家に火がついた 
   銭三文やるけん 杓こうて水かけろ
しりとり歌
   すずめすずめ なにしにここへきた
    はらへって やってきた
   はらへったら 田をつくれ
    田をつくれば 泥はねる
   泥がはねたら 洗え
    洗えば 冷たい
   冷たきゃ 火にあたれ
    火にあたれば 熱い
   熱けりゃ さがれ
    さがれば 寒い
   寒けりゃ 酒を飲め
    酒を飲めば 酔っぱらう
   酔っぱらえば 寝てしまえ
    寝れば ねずみにひかれる
   ひかれるなら 起きろ
    起きれば 夜鷹にさらわれる
このわらべ歌は秋田県で歌われたもので、歌うときは、かけ合いで歌っていました。
秋田は米作りの土地ですね。すずめもちゅんちゅん飛び回っていることでしょう。そして、冬には雪が降り積もり、寒い日が続きます。そのような日には、大人たちは体を温めるためにお酒を飲んで過ごすこともあります。しかし、子どもたちの中にはなかなか寝付けない子どもたちもいます。そうすると、「夜になってもなかなか寝ない子どもは、夜鷹にさらわれてしまうよ」と言い聞かして眠らせていたこともあったのでしょう。この「しりとり歌」には、土地の人々の日々の生活への想いが宿っているようです。
このような「しりとり歌」を歌われたことがありますか。また、「しりとりゲーム」で遊ばれたことはありますか。
「しりとり」とは、文章なり単語の語尾をひっかけて、次の句をつなげるもの。たとえば、まず「秋」といえば、次は「きゅうり」、そして「りんご」「ごぼう」・・・と単語の語尾の音をつなげて続かせていくものです。これをうまくつなげていくと、遊び仲間の間に元気が出てきて、発する言葉にリズムが生まれ楽しくなります。しかし、つづける単語の最後が「ん」がつくものを選んでしまったとき、たとえば、「みかん」。その時、その単語をいってしまった子どもの負けになり、ゲームが終了します。
また、このような「しりとり歌」もあります。白いうさぎや蛙、幽霊、また電気や豆腐がでてくるのです。
   さよなら三角
   さよなら三角
   また来て四角 四角は 豆腐
   豆腐は 白い 白いは うさぎ
   うさぎは はねる はねるは 蛙
   蛙は 青い 青いは 柳
   柳は 揺れる 揺れるは 幽霊
   幽霊は 消える 消えるは 電気
   電気は 光る 光るは 親父のはげ頭
   明治初頭の文明開化の頃の歌です。なんだか何度か聴いたことがあるような歌ですね。 
さよなら三角
   でぶでぶ百貫でぶ  車にひかれてぺっちゃんこ
   ぺっちゃんこはせんべ
   せんべは甘い 甘いは砂糖
   砂糖は白い 白いはうさぎ
   うさぎははねる はねるはカエル
   カエルは緑 緑は柳
   柳はゆれる ゆれるは幽霊
   幽霊は消える 消えるは電気
   電気は光る 光は親父のはげ頭
栃木
   いろはに金平糖
   金平糖は甘い 甘いは砂糖
   砂糖は白い 白いはウサギ
   ウサギは跳ねる 跳ねるはノミ
   ノミは赤い 赤いはホウズキ
   ホウズキは鳴る 鳴るはオナラ
   オナラは臭い 臭いはウンコ
   ウンコは黄色い 黄色いはバナナ
   バナナは高い 高いは電気
   電気は光る 光るはオジヤンのはげ頭
栃木 
   でぶでぶでぶ百巻でぶ 車にひかれてぺっちゃんこ 
    ぺっちゃんこはせんんべい
   せんべいは丸い 丸いはボール
   ボールは跳ねる 跳ねるは蛙
   蛙は青い 青いうは柳
   柳は揺れる 揺れるは幽霊
   幽霊は消える 消えるは電気
   電気は光る 光はおや味の禿げ頭
千葉 
   でぶでぶ百貫でぶ〜
   車にひかれてペッチャンコ〜
   ペッチャンコ〜はせんべ〜
   せんべ〜はまるい〜 まるいはボール
   ボールは白い 白いはウサギ
   ウサギははねる はねるはカエル
   カエルは緑 緑はきゅうり
   きゅうりは長い 長いは廊下
   廊下はすべる すべるは親父のはげ頭
神奈川 
   さよなら三角 また来て四角
   四角は豆腐 豆腐は白い
   白いはウサギ ウサギは跳ねる
   跳ねるはカエル カエルはみどり
   みどりはキュウリ キュウリは長い
   長いは煙突 煙突は暗い
   暗いはこわい こわいは幽霊
   幽霊は消える 消えるは電気
   電気は光る 光るはおやじのハゲ頭
神奈川
   でぶでぶ百貫でぶ、電車にひかれてぺっちゃんこ
   ぺっちゃんこはせんべ
   せんべは甘い 甘いは砂糖
   砂糖は白い 白いはうさぎ
   うさぎははねる はねるはカエル
   カエルは緑 緑は葉っぱ
   葉っぱはゆれる ゆれるは電気
   電気は光る 光は親父のはげ頭
神奈川 
   でぶでぶ百貫でぶ車に引かれてぺっちゃんこ
   ぺっちゃんこは煎餅甘い 甘いは砂糖
   砂糖は白い 白いはウサギ
   ウサギは跳ねる 跳ねるはカエル
   カエルは緑 緑は葉っぱ
   葉っぱは揺れる 揺れるは幽霊
   幽霊は消える 消えるは電気
   電気は光る 光るは親父のハゲ頭
兵庫
   さよなら三角 また来て四角 四角は豆腐 
    豆腐は白い 白いはウサギ 
    ウサギは跳ねる 跳ねるはカエル 
    カエルは青い(みどり) 青い(みどり)は柳(葉っぱ) 
    柳(葉っぱ)はゆれる ゆれるは幽霊 
    幽霊は消える 消えるは電気 
    電気は光る  光るはおやじのハゲ頭
広島 
   さよなら三角叉来て四角 四角はとうふ、
    とうふは白い 白いはうさぎ
    ウサギは跳ねる 跳ねるはカエル
    カエルは青い 青いは火の玉、
    火の玉は消える 消えるは電球
    電球は光る 光は親父のはげ頭  
大寒小寒 1
   大寒(おおさむ) 小寒(こさむ) 
   山から小僧が 泣いてきた
   何んといって 泣いてきた
   寒いといって 泣いてきた
寒くなってきましたね。冬の山からは冷たい風が吹きおろしてきます。この木枯らしを歌ったものです。
江戸時代から、狂言などにも「大寒小寒・・・」の謠(うたい)文句があるとのことで、この“うた”は「わらべうた」の代表的なものの一つなのです。
『わらべうた 日本の伝承童謡』町田嘉章・浅野健二編には、次のように述べられています。
“行智「童謡集」に「大さむ小さむ・・・なんとてないてきた、さむいとてないてきた」”と。
また、“尾張童遊集に「寒い時いふ詞」として「ををさむ小さむ猫の皮ひッかむれ、又山から小僧がないて来た」”とあります。
この“わらべうた”は、その他、東北から九州地方まで広く全国的にうたわれていたそうです。
群馬・神奈川等では、冬の風の寒い日には、羽織を裏返しに頭から被り、「大寒小寒」と呼び合いながら辻々を駆け廻る習俗もあるのだとか。
楽しそうじゃないですか。寒さを吹っ飛ばす楽しい遊びでしょうか。
また、「寒い寒いと言って泣いて来た」の次を「寒いけりゃ当れ、当れば熱い、熱けりゃ後へ去れ、後へ去れば蚤が食えばくっ潰せ、くっ潰せば苦いやい、苦けりゃ水飲め、水飲みゃ腹が痛い、腹が痛けりゃ薬飲め」
なんとなんと“尻取り文句”にして歌っているところもあります。それは、栃木、群馬、埼玉、東京、神奈川、大阪、福岡ということです。 
大寒小寒 2
    おおさむこさむ
   山から小僧が泣いてきた
   なんといって泣いてきた
   寒いといって泣いてきた
   おおさむこさむ おおさむこさむ

   大寒小寒
   山からこぞうが泣いてきた
   なんといって泣いてきた
   寒いといって泣いてきた
   寒けりゃあたれ 茶わんのすみで
   こっつりと  ぶってやれ

   大寒 小寒 山から小僧が泣いて来た
   だんごの一つも くれてやれ

   おおさむ こさむ・・・
   山から小僧がやってきた なんと言ってやってきた・・・

   大寒 小寒 
   小寒に行ったら 芋の煮たのを食ぁさった

   大寒 小寒 大寒 小寒 
   山から小僧が泣いて来た 
   何と言って泣いて来た 寒いと言って泣いて来た 大寒 小寒

   大寒むこさむ
   山から小僧が飛(とん)で来た
   何(な)ンとて飛(とん)できた 寒いとツて飛(とん)で来た

   大寒 小寒 
   山から小僧が泣いてきた(飛んできた、やって来た) 
   何んといって泣いてきた(飛んできた、やって来た) 
   寒いといって泣いてきた(飛んできた、やって来た) 
   大寒 小寒

   大寒 小寒 山から小僧が泣いてきた
   餅のひとつも くれてやれ
   大寒 小寒 山い ずっきんおいてきて
   取りに行くか寒いし 戻るも寒いし
   もう ここらで死んでくりょ
大寒小寒 土田耕平  3
   おほ寒(さむ)こ寒(さむ)
   山から小僧が
   とんでくる……
冬のさむい晩のこと、三|郎(らう)はおばあさんと二人で、奥座敷のこたつにあたつてゐました。庭の竹やぶが、とき/″\風に吹きたわむ音がして、そのあとは、しんとしづかになります。そして、遠くの方で犬の吠(ほ)える声がきこえたりするのも、山家の冬らしい気もちであります。大寒小寒(おほさむこさむ)の唄(うた)は、さういふさむい晩など、おばあさんが口癖のやうに、三郎にうたつてきかせる唄(うた)でありました。
「おばあさん、小僧がなぜ山からとんでくるの。」
三郎は、今またおばあさんが口ずさんでゐるのをきいて、かう云(い)つてたづねました。
「山は寒うなつても、こたつもなければお家(うち)もない。それでとんでくるのだらうよ。」
おばあさんは手に縫物の針をはこびながら答へました。
「小僧つてお寺の小僧かい。」
「何(な)にお寺なものか、お寺ならお師匠さまがゐて可愛がつて下さるだらうが、山の小僧は木の股(また)から生れたから、お父さんもお母さんもなしの一人ぽつちよ。」
「おばあさんもないの。」
「ああ、おばあさんもないのだよ。」
「それで小僧は着物をきてゐるのかい。」
「着物くらゐはきてゐるだらうよ。」
「誰(たれ)が着物を縫つてくれるの。」
「そんなことは知らないよ。大方木の葉の衣かなんだらう。」
木の葉の衣つてどんなものだらうと、三郎は想像してみたが、はつきり思ひ浮べることはできませんでした。
「小僧は山からとんできてどうするの。」
「人の家(うち)の門へ立つて、モシ/\火にあたらせておくんなさい、なんて云ふのだらう。」
「そして、火にあたらせてもらふの。」
「いゝえ、火になんぞあたれない。」
「なぜ。」
「小僧のいふことは、誰の耳にもきこえないのだから、いくら大きな声をしたとて聞えない。もしかすれば、今じぶんお家(うち)の門(かど)へきて立つてゐるかも知れない。」
三郎はそんな話をきくと、気味がわるくなりました。頭を青くすりこくつた、赤はだしの小僧のすがたが、目に見えるやうにおもひました。おばあさんは、やさしい笑みを浮かべて、
「どれ/\、一つお餅(もち)でもやいてたべよう。」
と云ひながら、縫物をわきへよせました。そして、こたつの火をつぎたして、その上へ金網をわたしました。お餅(もち)のやけるかうばしい匂(にほ)ひをかぐと、三郎はもう小僧のことなど忘れてしまひました。
三郎は大人になつて、東京のにぎやかな町なかでくらすやうになりました。けれど毎年冬になると、大寒小寒(おほさむこさむ)の唄(うた)をおもひ出し、おばあさんを思ひ出しするのでありました。幼い三郎がかさね/″\問ひたづねるのを、少しもうるさがることなく、しんせつに答へて下されたおばあさんを、どんなにかなつかしくおもひましたことでせう。
「大寒」「小寒」
「大寒」「小寒」は、「立冬」や「冬至」などと同じ「二十四節気」の1つで、農作業などの目安にするために中国で作られた季節を示す基準です。
「大寒」(1月20日ごろ)は「一年じゅうで最も寒いころ」、「小寒」(1月5日ごろ)は「寒さがしだいに厳しくなっていくころ」で、「小寒」の日から「寒」の季節に入ります。「寒の入り(寒入り)」です。
「寒中」「寒の内」は、「小寒」から「立春」の前日の「節分」(*注)までの約1か月間を指します。「余寒」は「立春」後の寒さを表す語で、「立秋」後の暑さを表す「残暑」に対することばです。「寒の戻り」は、春になって気温の上がる時期に突然やってくる寒さのことを言います。
ところで、このような季節の節目を示すことばで「〜入り・〜明け」という言い方があります。「寒の入り・寒の明け」「土用の入り・土用の明け」(一般的には夏の土用だけ)「梅雨入り・梅雨明け」は使いますが、「盆の入り・盆の明け」は使いません。「彼岸」の場合は「入り」は使いますが、「明け」は使いません。また、「大寒の入り」という言い方はしません。  
 
かくれんぼ/あんたがたどこさ/花いちもんめ/春よ来い/守さ子守さ
 

 

かくれんぼ 1
   かくれんぼするもの 寄っといで
   ジャンケンポン あいこでしょ
   もういいかい まあだだよ
   かくれんぼするもの 寄っといで
   ジャンケンポン あいこでしょ
   もういいかい もういいよ
この「かくれんぼ」のうたも、みんなで歌うのは、いつもきまって夕暮れでした。鬼と遊ぶ「かくれんぼ遊び」ですから!あたりが薄暗くなる黄昏時、鬼に見つからないようにドキドキしながら電柱の陰に隠れたことを思い出します。
「かくれんぼするもの 寄っといで」、空を指さし腕白坊主が叫びます。すると、その指目指して、わーッと子どもたちが駆け寄っていきます。その腕白坊主の人さし指を1人が握ると、次々に駆けつけた子が同じように人さし指を空に向けて握っていきます。みんなが集まり、握り終わった時、「指切った」と腕白坊主が大きく叫び、みんなの指を解き放ちます。そして、ジャンケンポンで鬼を決めることになります。鬼と遊ぶ「かくれんぼ遊び」のはじまりです。
「ジャンケンポン」鬼が決まるまで続けられます。
「ジャンケンポン、ほれ、ジャンケンポン・・・」そして、鬼が決まると、逃げるように、わーッと、みんながいっせいに散らばります。隠れるのです! 鬼から!
鬼は目をつむり、「もういいか〜い」と大声で尋ねます。するとみんなはいっせいに、「まあだだよ〜」
鬼から見つからないように隠れるまで口々に答えるのです、「まあだだよ〜」と。
家の扉の後ろや、物陰、あらゆるところに身を隠そうとドキドキしながら隠れまわるのです。このドキドキがたまらない!
「もういいか〜い」鬼の声に「・・・・」返事をする声がなくなったとき、鬼は目を開けて、隠れた子どもたちを探しにいくのです。見つかると鬼のお手伝いをすることになります。鬼は、最後の一人まで探し回ります。最後の1人が探し出されると、遊びの終了です。
この「かくれんぼ」に、「缶蹴り」が加わった、より楽しい遊びがあります。「空き缶」を使った「かくれんぼ」です。
その「かくれんぼ」は、鬼のそばに置いた「空き缶」を他の子どもたちから蹴られないように用心しながら、隠れている子どもを探し出すのです。
足を「空き缶」の上にのせ、じっーとあたりを見渡します。隠れている子どもたちの気配を感じ取るために・・・。感覚を研ぎ澄まし・・・。そして、見当をつけたところへまっしぐらに駈けつけ、
探し出して、「みつけた!」と叫びながら「空き缶」のところまで飛んで帰り、「空き缶」を踏むのです。鬼の力は「空き缶」を踏むことで表現されます。
でもその前に、他の子どもたちに「空き缶」を蹴られてしまったら、どうしましょう。そのときは残念!もう一度、ゲームは振り出しに戻ってしまいます。そんなことを繰り返しながら、最後の1人まで探し出す遊びです。なかなか鬼は大変ですね。
また、隠れた子どもたちは、探し出される恐怖と同時に、自ら積極的に「空き缶」を蹴るために攻撃に打って出れるので、スリル満点です。「空き缶」を蹴る楽しみもあります。
鬼になっても楽しいし、隠れて攻撃に出ることも楽しい遊びなのです。
ところで、わらべうたの中で大活躍する鬼。その鬼とは、なんなのでしょう。『うたおうあそぼうわらべうた』によると、その鬼の意味するところはおおよそ次のようになります。
「鬼」という字は本来、魂を意味しているとのことです。その姿はないのです。はっきりと見える昼間には出て来れません。現れるときは人間に化けます。人が鬼に食われると、鬼の世界に連れ込まれて、さまようことになってしまいます。さまよう人は安らかではおられません。「安らかに鎮まれない魂」それが「鬼」!鎮まれない魂とはつらい魂です。それが鬼だとしたら・・・。
遊びの中の「鬼ごっこ」は、鬼そのものの登場と鬼からの逃避、そして、むなしく鬼に捕まってしまう、その実演です。
また、つぎのような鬼についても述べられています。
「悪魔払い、悪霊払いをする山の神としての鬼」もいるのです。この鬼は、地下の悪霊を踏みしめ、人間よりはるかに強力な生きる力を大地の中に踏み入れて、山里に幸福をもたらすものです。鬼に踏んでもらい、鬼の強い生命力を分けてもらう行事も多く見られます。特に大地の力が弱くなっている冬に行われる行事の中に、この種の鬼が活躍するものが見られます。そして、鬼を追い出すことは冬から春への以降のシンボルでもありました。節分の鬼は、このような冬の顕現でもあります、と。
日本の文化に色濃くその姿を滲ませる鬼。昔は私たちの身近には、鬼たちがいっぱいいたのではないでしょうか。それとも今は見えないだけかもしれません。いや見ようともしないだけかも・・・。
空き缶といえば、「空き缶下駄」で遊んだことを思い出します。空き缶に穴を開け、紐を通しておきます。2個の「空き缶下駄」を作り、足を乗せ、紐で引っ張りあげながら歩くのです。最初は調子をつかめないので難しいですが、慣れてくると、“カンカン”と音を立てながら走ることもできました。
このような「空き缶遊び」は昭和の中期頃まで見受けられたようです。現在のように物が豊かになると、「空き缶遊び」のようなものは無くなってしまうのですね。遊ぶ道具のない時代に、楽しく遊ぶために工夫された遊びや道具は鬼の力をもその中に含ませていたような気がします。
夕暮れの中、「もういいか〜い」、「まあだだよ〜」と交し合う声。「カ〜ン、カラカラカラ」と音を立てて蹴られ転がる空き缶。“カンカンカン”と響かせながら駆ける子どもたち。
それは、鬼と神の間を行き来する子どもたちの宇宙だったかもしれませんね。 
かくれんぼ 2
   かくれんぼするもの よっといで
   じゃんけんぽんよ あいこでしょ
   もういいかい まあだだよ
   もういいかい まあだだよ
   もういいかい もういいよ

   かくれんぼ する者
   この指さわれ
   かくれんぼ する者
   この指 さわれ
この指とまれ
(人差し指を立てて手をかざし、歌いながら人を集める。○○のところには「かくれんぼ」とか「鬼ごっこ」とか、これからやる遊びを入れる)
   ○○するものこの指とまれ
   ○○するものこの指とまれ……
   (メンバー集めを締め切るとき)
   電気の球がきーれた 
かくかくかくれんぼ
   かくかくかくれんぼ 
   ちゃわんにおたふく
   すっぺらぽん
かくれんぼと神隠し
童謡『かくれんぼ』で描写される子供の遊び「かくれんぼ」については、暗くなりかけの夕方以降にやると神隠しにあうという怖い言い伝えがあるという。
暗くなったら遊びをやめて早く家に帰ってきて欲しいという大人たちの思惑もあっただろうが、確かに夕闇の独特の雰囲気は、何か別世界の扉が開かれるような異様な不気味さが感じられる。
更に、かくれんぼで隠れるような所は、普段人が通らないような不気味な場所や危険な場所であることも多く、現代のように街の開発が進んでいない時代には、川や池、がけや岩、ヤブ蛇やハチ・野犬など、子供の命が脅かされるような危険な場所が遊び場となる可能性も高かったことだろう。
昼間ならある程度注意して避けられる場所でも、かくれんぼに夢中な状態の夕暮れ時では気づくのが遅れ、場合によっては命取りとなることもあったかもしれない。中には実際に「神隠し」として処理された事故があってもおかしくはない。
そんな危険な夕方に、大事な子供をいつまでも遊ばせておくわけにはいかない。大切な子供を守るための戒めとして、かくれんぼと神隠しという言い伝えが広められたのだろう。 
「遊ぶ子どもの声」 / 梁塵秘抄
   遊びをせんとや生まれけむ
   戯れせんとや生まれけん
   遊ぶ子どもの声聞けば
   我が身さへこそ動(ゆる)がるれ
当世風にいえばマイホーム・パパが、子どもを団地の遊び場などに連れていって、その無心に遊ぶさまを見守っている図であろう。人間というものは、もともと遊び戯れるために生まれてきたのだなあ、と彼は一種の感動におそわれる。それは生活にあくせくして、童心を喪失した大人の悔恨であるかもしれない。
   舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり)
   舞はぬものならば
   馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん
   踏み破(わ)らせてん
   真に愛(うつく)しく舞うたらば
   華の園まで遊ばせん
その頃の子どもたちの唄ったわらべ唄である。トンボを馬のしっぽの毛に結びつけて、飛びまわっている子ども。雀を罠にかけてとらえようとしている子ども。いつの時代でも、小さな生き物は子どもの良き遊び相手であった。いや“いつの時代”とはもはやいえなくなっているのかもしれない。現代には童心を育む自然というものが失われ、したがって抒情(ジョジョウ)のうた、郷愁のうたも失われてしまった.。
平安時代から盛んになった遊びとしては、そのほかに子をとろ子とろ、かくれんぼう、走りくらべ、何個何個いくつ、石蹴り、お手玉、竹馬などがある。遊びの世界が開けた時代だった。大人たちのあいだでも、貴族社会にはじまった双六(すごろく)や囲碁がようやく庶民の普及し、一方では競馬や闘鶏なども盛んだった.。こうした遊びのたぐいは、人間の本性としてたちまち賭博化した。
プロのばくち打ちが登場したのも平安時代で、当時の絵には烏帽子をつけた博徒の姿が描かれている。
   我が子は二十(はたち)に成りぬらん
   博打(ばくち)してこそ歩(あり)くなれ
   国々の博党に
   さすがに子なれば憎か無し
   負(ま)かいたまふな
   王子の住吉西の宮
息子が博徒になったのは困りものだが、我が子となればやはり可愛いので、どうか負けませんようにと、住吉や西ノ宮の神様にお祈りした――という、これは老いた母の悲哀をうたったものだ。 
あんたがたどこさ 1
   あんたがたどこさ 肥後さ
   肥後どこさ 熊本さ
   熊本どこさ せんばさ
   せんば山には たぬきがおってさ
   それを猟師が 鉄砲でうってさ
   煮てさ 焼いてさ 食ってさ
   それを木の葉で ちょいとかぶせ
この“うた”は「まりつき歌」の代表的なものです。
最近は“まり”をついている子どもたちをぜんぜん見かけませんね。
60代の人に聞くと、幼い頃は“まり”をついて遊んでいたそうです。「あんたがたどこさ」の歌詞は、年上の子どもに習っていつの間にか覚えていたと。目の前で歌ってもらいました。テンポがよくて楽しい曲!でも「たぬきを撃って食べる」なんてちょっと怖そう。
歌って遊んだのは家のまわりの空き地だそうです。少しタイムトリップしてみましょう。
それは昭和20年代終わり頃、町には自動車がほとんど走っていなくて、商店街の細い路地を入るとそこに小さな空き地があります。みんなが寄り集まって遊んでいます。年上の子が大将。ベーゴマ、竹馬、缶けり、縄跳び、紙芝居。そんな中で“うた”を歌ってまりつきも!夕方薄暗くなってくると、かくれんぼ。その頃、空は夕焼け色に染まっているのです。お腹が空くのも忘れて遊びます。そろそろ夕食の時間。あまり遅いとお母さんが心配して迎えに来ます。いつ思い出しても子ども時代は懐かしいものです。
『童歌を訪ねて』には次のように書かれています。
   あんたがた何処さ 肥後さ
   肥後何所さ 熊本さ
と歌い継がれてきたこの手毬唄(てまりうた)は、一説には「問答唄」といわれ、幕末から明治期にかけて生まれました。九州熊本がその発生地のように思われていましたが、実は関東の歌で、埼玉県川越市喜多院裏の「仙波山」あたりがそもそもの発祥地であることが地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされています。幕末に薩長連合軍が倒幕のため川越の仙波山にも駐屯し、その時付近の子どもたが兵士に「あんたがたはどこから来たのさ」「肥後から」「肥後って何所さ」「熊本のことさ」と問い、答えた(問答)ことから始まったと伝えられ、後に手毬唄として歌い遊ばれました。
書かれている中で「九州熊本がその発生地のように思われていました」とあります。九州にもこの“うた”の発生地とされているところがあるようです。
では“うた”に合わせてまりをついてみましょう。『なつかしのわらべ歌』に書かれているこの“うた”のまりのつき方は次のようです。
「せんば山にはたぬきがおってさ」の「さ」と、「それを猟師が鉄砲でうってさ」の「さ」で、まりをつきながら片足をヒョイとあげてまりをくぐらせます。「煮てさ焼いてさ食ってさ」も同じように「さ」でまりをくぐらせるのですが、まりつきのテンポからして、(一度ついたら一度くぐらせる)の動作を三回続けて行うようになります。一回ならどうにかできても、三回連続はちょっとむずかしいかもしれませんね。
そうです、なかなかむずかしそう。
そして、最後のフレーズの「それを木の葉でちょいとかぶせ」となります。「かぶせ」でまりをスカートの中に隠してしまいます。
正面に隠すのは簡単なので、まず、こちらを試してみるのがいいかもしれません。タイミングがつかめたら、後ろ側へ隠すのに挑戦してみましょう。
えっ!むずかしそう。
コツとしては、まりを股の間から後ろへ叩き込むようについて、同時に腰を前へ突き出します。このようにするとまりは自然にスカートの中に納まるようです。
少し練習してうまくなろうかな・・・。
そういえば、思い出しました。江戸時代の手まりの名手を!その人の名は、いつも子どもたちと手まりを楽しんでいた良寛さん。
良寛さんにはこんな詩があります。
   袖裏の毬子直千金
   (しゆうりのきゅうし あたいせんきん)
   言ふ吾好手にして等匹無しと
   (いふ われこうしゆにして とうひつなしと)
   箇中の意旨如し相問はば
   (こちゆうのいし もしあいとはば)
   一二三四五六七八 
   (いちにさんしごろくしち)
わたしの袖の中に、毬(まり)がある。それは極めて高い値打ちの物だ。そして、「自分ほどの毬つきの上手な者はいまい」と、心の中で言う。人がもし、毬つきの境地を尋ねたら、「一二三四五六七八と続いて、尽きることのない仏心と同じだ」と答えよう。
まり遊びが庶民の間に広まったのは江戸時代です。良寛さんも子どもたちと楽しんでいたのですね。そして、その境地は、尽きることのない仏心! 良寛さんの心がしのばれます。
   子どもらと 手まりつきつき 此さとに
   遊ぶ春日は くれずともよし   良寛
では、まりつきを一緒に楽しみませんか。 
   あんたがたどこさ
   ひごさ
   ひごどこさ
   くまもとさ
   くまもとどこさ
   せんばさ
   せんば山には
   たぬきがおってさ
   それを りょうしが
   てっぽうでうってさ
   にてさ やいてさ
   くってさ
   それをこのはで
   ちょっとかぶせ

   あんたがたどこさ
   ひごさ
   ひごどこさ
   くまもとさ
   くまもとどこさ
   せんばさ
   せんば川には
   えびさがおってさ
   それを りょうしが
   あみさでとってさ
   にてさ くってさ
   うまさでさっさ  
あんたがたどこさ 2
童歌の中の手鞠歌のひとつ。熊本県熊本市(異説:埼玉県川越市)が舞台。正式な題名は肥後手まり唄。
   あんたがたどこさ 肥後さ 
   肥後どこさ(もしくは「肥後もっこさ」) 熊本さ 熊本どこさ 船場(せんば)さ
   船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 
   煮てさ 焼いてさ 食ってさ 
   それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ
あまり知られていないが、もう一つある。
   あんたがたどこさ 肥後さ 
   肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場さ
   船場川にはえびさがおってさ それを漁師が網さで捕ってさ 
   煮てさ 焼いてさ 食ってさ
また、九州では「それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ」ではなく、「うまさのさっさ」になっている場合が多々あり、実際、歌の舞台となっている船場橋(路面電車の停留場名としては「洗馬橋」の表記となっている)一帯でも「うまさのさっさ」の歌詞で広く伝わっているため、こちらが原型であるという説もある。
この歌詞でまりつきをする時は、歌詞の「さ」でまりをついた手とまりの間に足を通す。また、最後の「隠せ」ではまりを袴で覆ってしゃがむ。まりが袴から転がり出してしまったら失敗となる。和服を着ていなければスカートで代えることができる。ただしズボンではこれが出来ない。
異説
「あんたがたどこさ」を関東地方の童歌とする資料・研究が多方面からなされている。実際、唄われている歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言である、と古くから研究者の指摘が多い。熊本のことが触れられているだけで、熊本で生まれた童歌ではない、とする熊本の研究家も少なからずいる。
この童歌の発祥地は、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)とする説である。
「あんたがたどこさ」のような「問答歌」は、幕末から明治時代初期に生まれた手鞠歌の形式である。
史実として戊辰戦争時に、薩長軍が東征軍として彰義隊の残党である振武隊を追って川越城に進駐し、城に隣接する仙波山に駐屯していた。仙波山とは仙波古墳群のある周辺一帯の別名である(熊本には船場川はあっても船場山や仙波山という地はない)。仙波山付近の子供たちが兵士にどこからきたのか尋ね、熊本藩出身の兵士が答える様子が歌詞に描かれているという。「肥後どこさ 熊本さ」という問答は肥後(熊本)に不案内な関東だからあり得る会話で、官軍に帰順した川越藩の子供たちが立派な銃を所持している官軍兵士のご機嫌を取っている場面が唄われている、などの説である。
川越の仙波山は、「古狸」と呼ばれた江戸幕府開祖の徳川家康を祀る「日本三大東照宮」のひとつ、仙波東照宮がある。また川越城内には「通りゃんせ」の発祥の地とされている三芳野神社(異説あり)もある。
これに対し、2016年3月19日放送のNHK『ブラタモリ』で熊本市が取り上げられたときは、熊本市新町付近は堀が作られ、その堀を作ったときの土を盛り上げた土塁を「せんば山」と呼んでおり、そこには狸がいたことが示されている。
なお、この異説の元となっている太田信一郎『童謡を訪ねて』には、この説について「地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされています」とのみ説明しているが、その出典は明らかにされていない。 一方、川越郷土史研究家で川越市史の編纂に当たった岡村一郎は、川越でなく「熊本城下の洗馬山のほうが正しい」としている。  
あんたがたどこさ 3
「あんたがたどこさ」は童歌の中の手毬歌です。正式名称は「熊本手毬歌」と言います。この歌を知っている人は多いと思いますが、最初に歌詞から紹介します。
「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ せんばさ せんばやまにはたぬきがおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいと隠せ」
遊び方
「さ」の文字が言葉の最後に付きます。この歌は手毬歌で、私達が子供の時は良く弾むゴムボールを使って遊びました。そして一人でも遊びますが、数人で一緒に歌いながら遊びました。
遊び方は歌詞の「さ」の時に、ボールが地面についている間に片方の足を内側から外側に回しあげてボールを足の下にくぐらせます。そして最後の「ちょいと隠せ」ではボールを地面に強く叩きつけて高くバウンドさせて、その間に体を一回転させます。最後に落ちてきたボールを手で落とさないようにキャッチできると成功です。
小学校高学年になるとこの遊びは簡単なのですが、幼稚園や低学年の時は「さ」で足を回すときに足にボールがぶつかってどこかへ転がってしまったり、最後の一回転してキャッチするときに失敗したりして難しい遊びだと感じていました。
これを2〜3人でじゃんけんで順番を決めて、失敗したらそこで中断して失敗しなかった人だけ最後まで続けられるというルールにして競って遊んだこともありました。
因みにこの歌は手毬歌ですが、ボールを使わない遊び方もあります。
○ 複数人でしゃがんで歌い、「さ」の時だけ立ち上がる
○ 複数人で立ったまま歌い、「さ」の部分だけさっとしゃがむ
○ 5人で輪になってそれぞれ左手の上にお手玉を持ち、歌いながら「さ」の時に右手で隣の人のお手玉を触って遊ぶ
他にもいろいろ遊び方があり、「あんたがたどこさ」は歌が歌えれば子供も高齢者も楽しく遊べる童謡です。
どこ発祥の遊び?
あんたがたどこさの正式名称は「熊本手毬歌」だと最初に説明しました。しかしこの曲の発祥は熊本県ではないと言う説が広がっています。
その理由はこの歌詞の言葉が熊本弁ではなく、完全な関東の方言だからです。そしてその発祥は武蔵野国川越藩(現在の川越市)だと言う説が有力だと言われています。
この歌の形式は幕末から明治初期に生まれた形式です。そしてこの間は日本の内戦で、戊辰戦争がありました。この戦争で薩長藩が東征軍として川越城に進駐し、このお城の隣にあった仙波山に兵士が駐屯していました。
この周辺に住んでいた住民の子供たちが、銃を所持している兵士たちの機嫌を取っている様子を唄ったのではないかと言われています。
この仙波山には、「古狸」と呼ばれた徳川家康を祀る仙波東照宮があります。そして熊本県には船場川はありますが、船場山や仙波山はありません。
これらのことから多数の研究者が指摘するように、あんたがたどこさの発祥は埼玉県川越市の説が有力との意見は信憑性があります。

小さいころから何千回と歌ったであろうこの歌ですが、歌詞の内容が熊本の説明なので熊本で作られた曲だと勝手に信じていました。しかし調べた通り、歌詞に出てくる言葉は熊本弁ではありません。
このように古い童歌の歴史を探っていくと、思いがけない真実を知る事があります。歴史に詳しくない人でも歌の歌詞と関連付けると理解がしやすいように感じました。  
あんたがたどこさ 4
熊本県熊本市が舞台。正式な題名は肥後手まり唄。熊本県熊本市が舞台とはいいながら、しかしこの歌の出所をめぐっては長く不明だった。
『あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場(せんば)さ  船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ』
あまり知られていないが、もう一つある。
『あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場さ 船場川にはえびさがおってさ それを漁師が網さで捕ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ』
問題は歌詞がふたつあることではない。問題は誰が、どこで作って歌ったかである。
熊本の歌だから熊本生まれ
実はこの歌「熊本のことが触れられているだけで熊本で生まれた童歌ではない」とする研究家が少なからずいる。その根拠は「歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言」であるからという。
そしてこの歌の発祥地は、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)と断定する。なぜ埼玉で熊本の歌??
明治維新が生んだ歌
江戸末期の戊辰戦争時に薩長軍は東征軍として、彰義隊の残党である振武隊を追って川越城に進駐し、城に隣接する仙波山に駐屯していた。仙波山とは仙波古墳群のある周辺一帯の別名である(熊本には船場川はあっても船場山や仙波山という地はない)。
歌詞は仙波山付近の子供たちが兵士にどこからきたのか尋ね、熊本藩出身の兵士が答える様子が描かれているという。「肥後どこさ 熊本さ」という問答は、肥後(=熊本)に不案内な関東だからあり得る会話で、官軍に帰順した川越藩の子供たちが、立派な銃を所持している官軍兵士のご機嫌を取っている場面を歌っているともいう。
川越の仙波山は、「古狸」と呼ばれた江戸幕府開祖の徳川家康を祀る「日本三大東照宮」の1つ仙波東照宮があることで知られている。
鉄砲で撃たれた狸が徳川家康とは、江戸から明治に代わる時代を言い当てたあまりにも出来すぎた歌ではないか。  
あんたがたどこさ 5
童謡、童歌というと、今ひとつその意味を理解しかねるものがあります。「かごめかごめ」などはその最たる例ではないでしょうか。籠の中の鳥。夜明けの晩。後ろの正面。これらが何を意味するのか。これらには諸説あって、死産を歌ったとか、死の世界を歌ったなんて説もあります。私が最近気になっているのは「あんたがたどこさ」である。
   あんたがたどこさ  肥後さ 肥後どこさ  熊本さ
   熊本どこさ  せんばさ せんば山には  たぬきがおってさ
   それを猟師が 鉄砲で撃ってさ
   煮てさ  焼いてさ  食ってさ
   それを木の葉で  ちょっとかぶせ
と言う歌詞が一般的で、一説には戊辰戦争時に熊本藩出身の兵士が子供に聞かれたときの逸話がもとになっているという。しかし、歌の発祥地とされる熊本では最後の節が違う。「それを猟師が 鉄砲で撃ってさ 煮てさ 食ってさ」までは同じだが、最後の部分だけ、
    うまさがさっさ
また、熊本.Verには2番があったりする模様。「熊本どこさ せんばさ」までは同じだが、
   せんば川には エビさがおってさ
   それを漁師が 網さでとってさ
   煮てさ 食ってさ うまさがさっさ
というらしいのだ。
まあ、普通に考えればアレである。肥後の国の人吉藩(熊本の隣)は、九州山脈(せんば山)に囲まれ、さらには船場(せんば)もある。まあ、木の葉で隠すのは食べた後の○○○って事になるのだろう。
つまり、熊本のタヌキは美味しいよという自慢になるのだが、熊本の名産と言えば有名なのは馬だったりする。それに、食後の処理方法まで指南する必然性はない。かと言って熊本.Verの「うまさがさっさ」ではヒネリがなさすぎる。
何だろう。この違和感は?調べてみたところ、熊本の名産と言えば、馬刺、辛子蓮根、竹輪、ずいき・・・、狸の文字は見当たらない。海老でさえ探すのに苦労するぐらいだ。地元自慢の歌でないとするならば一体コレは何だ?気になるのは、「煮て」「焼いて」食べる際の調理プロセスが2段階と言う点である。
煮てから焼くという調理プロセスが特に珍しい訳ではないが、焼いてから煮るよりは頻度が低い。むしろ気になるのは「煮て食うなり、焼いて食うなり」という俎板の鯉の状態を示す言葉の順であることだろう。つまり、相手は手も足も出ないだろうから好きにしちまえって事を言っている。そして、「それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ」と続く。
なんだ? 更に調べてみると、この歌に関して奇妙な説が出てきた。江戸時代、人吉藩主である七代相良頼峯が毒殺された。いわゆるお家騒動である。そして、急遽その跡を継いだのが相良頼央。もとより、この頼央を藩主に就かせるための暗殺である。だが、間もなく頼央までもが暗殺された。血を血で拭う報復である。凶行に及んだのは、改革政策で対立する家老派。暗殺に使用された武器は、鉄砲。だが、藩はこの事件を隠蔽したのである。
こんなお家騒動が江戸にまで届こうものなら、お家取り潰しは免れない。そして、藩主頼央死後1ヶ月、公式発表は「急病による病死」となった。隠匿したこの事件だが、やはり何処からとなく外へ漏れだし、「あんたがたどこさ」の童謡へと繋がったというのである。  
花いちもんめ 1
   勝ってうれしい 花いちもんめ
   負けてくやしい 花いちもんめ
    隣のおばさん ちょっと来ておくれ
    鬼が怖くて行かれない
    布団かぶって ちょっと来ておくれ
    布団ボロボロ行かれない
    お釜かぶって ちょっと来ておくれ
    お釜底ぬけ行かれない
   あの子がほしい
   あの子じゃわからん
   この子がほしい
   この子じゃわからん
    相談しよう そうしよう
    決まった ○○ちゃんがほしい
    ジャンケンポン
   勝ってうれしい 花いちもんめ
   負けてくやしい 花いちもんめ
この“わらべうた”は、もとは京都から昭和初期に全国に広まった「子取り遊び」の一つです。上記の歌詞は秋田で採取されたもの。歌詞は考え深いものがあります。
『なつかしのわらべ歌』には、
「花」を「子ども」に、「いちもんめ」を通貨の「一匁(いちもんめ)」に置き換えてみます。この歌全体が「間引き」による人買いへの人身売買、そして人買いが遊郭へ卸す時の駆け引きを綴っているとしたらどうでしょうか。
と述べられています。これはどうしたことでしょう。“わらべうた”というものは、ときとして大変な意味を持つものなのですね。どうしても伝えたいことがあるとき、やむおえぬ想いがあるとき、人々は何かに託してその想いを伝え残していくことを考えるのでしょう。この「花いちもんめ」は、江戸時代の哀しい思い出かもしれません。
江戸時代、富士山の大噴火や日照りによる飢饉や飢餓が続きました。農民は自分の子を餓死させるよりは働きにだしたほうがよいと考え、多くの子どもが奉公に出されました。実際は「年貢のかた」に子どもを持っていかれたのです。幼い女の子の多くは子守りとして働き、その子たちが成長して十二、三歳になると、女中奉公にあらためて出るか、女郎として売られていきました。一握りの子どもは奉公先から嫁にいかせてもらえました。奉公に出された子どもたちは、家族が離散したり、実家はあっても借金が返せないまま死ぬまで奉公しつづけ、生涯親の顔を見ることはできなかったといいます。このような境遇の子どもたちが、自分が人買いに連れられて売られていく状況を、わらべ歌にして伝承されたと推察されています。 『なつかしのわらべ歌』より
もう一度歌詞を見てみましょう。
   勝ってうれしい 花いちもんめ
   負けてくやしい 花いちもんめ
それが、「花」を「子ども」に、「いちもんめ」を通貨の「一匁(いちもんめ)」に置き換えてみると。「子ども一匁」とはなんと哀しい言葉なのでしょう。
私たちの歴史の中で、飢饉などの大災害はしばしば起こってきました。今年3月の大震災とその津波による原発放射能汚染。いつどのような災害がやってくるかもわからないのです。
「花いちもんめ」が歌われるようになった江戸時代、日本は多くの飢饉に襲われました。約260年間の間に、130回程の飢饉があったといわれています。2年に1回の割合です。その3分の1以上(ほぼ40回)は、東北地方で起こったのです。その時、飢饉に苦しむ多くの人々。哀しい歴史です。
その中でも三大飢饉といわれている飢饉があります。どのようなものだったのでしょう。それは、享保・天明・天保という年号のときに起こりました。
享保の飢饉は、1732年(享保17)の夏、イナゴの大群が瀬戸内海沿岸を中心に発生。近畿から九州にかけて、稲に大きな被害を与えました。飢えて苦しんだ人々は二百数十万人。そして、なんと一万数千人が飢え死にするという悲惨さでした。それとともに米価があがり人々は苦しみつづけたのです。
天明の飢饉は、1783年(天明3)。その数年間、冷害・長雨にたたられたうえに、浅間山(長野県)が爆発。このため東北地方を中心に大飢饉となりました。仙台藩(宮城県)では14万から15万人が、南部藩(岩手県・青森県)では6万人余りの人が亡くなったのです。
天保の飢饉は、1833年(天保4)から4年余り続いた飢饉。これも、冷害・長雨・風水害などの異常気象がもとで米の収穫が半分以下に減り、農作物が全滅に近い被害を受けました。
飢饉の悲惨さについて、『農喩(のうゆ)』という本に、次のような意味のことが綴られています。
「奥州には、飢え死にした人がたくさんいます。食べ物という食べ物は、何一つなくなってしまったためです。人々は、牛や馬の肉はもちろんのこと、犬や猫まで食べ尽くしてしまいました。そのあげく飢え死にしていったのです。ひどいところでは、四十戸余りあった村のすべての人が、死に絶えてしまいました。だれがいつ死んだのかもはっきりしません。世話する人もいませんからほうりすてられた死体は、鳥や獣のえじきになっている有様です」
悲惨の極みとはこのことです。このようなつらい状況を生み出すのが飢饉なのです。いま世界で大災害が起こったならば世界中の国々や人々が援助の手を差出し、ボランティアの人々も現地に駈けつけます。ところが、江戸時代には信じたくないようなことがありました。それは「津留(つどめ)」というもの。領主が「津留」を命じれば、隣の藩の人たちがどれだけ困っていても、米や麦などを送ることはできなかったのです。当時は、藩は独立国のようなもの、藩主は、隣の藩を救うより、自分の藩のいざというときのために食料を取っておこうとすることが多かったのです。なかには、飢えに苦しむ人々が領地にはいってくると、自らの食料が減るのを恐れて力づくで追い返してしまった藩もあったそうです。そして、もっとひどいことをした藩もありました。自分の藩の食料を自由に動かせないように「津留」を命令し米の値段をつりあげるだけつりあげ、大儲けしたしたというのです。なんということでしょう!
では、飢えに苦しむ人々のために何ができたのでしょう。こんなこともありました。それは、「お救い小屋」というもの。幕府や藩は飢饉がひどくなると人々のため、一人当たり八勺(120g)ほどの米を薄い粥にして、朝夕2回に分けて配ったりしたのです。しかし、それも一時をしのげるだけのことでした。それでもお救い小屋には何百・何千という人々が集まってきたといわれます。そして、天明・天保の飢饉の後には、飢餓への備えとして、米などを蓄えておく倉として「郷倉」をつくることが増えました。
こうして、さまざまな“うた”の誕生した背景を考えると、“わらべうた”には、日本の歴史や心の在り方が見えてきます。

「子取り遊び」を歌い楽しんでみましょう。
遊び方は、前述の『なつかしのわらべ歌』では次のようです。
A組とB組の二組に分かれて一列横隊に向き合います。まずA組が「勝ってうれしい花いちもんめ」と歌いながらB組に向って前進し、「・・・もんめ」に合わせて足を蹴りだします。A組に対抗してB組も同じように前進します。その時A組は後退し、元の位置に帰ります。歌いながらこの動作を繰り返していくのです。「相談しよう そうしよう」の場面では、相手の組の誰をもらうか各組で決めます。そして「○○ちゃんがほしい」と相手に要求します。人気のある子から引き抜かれていったように記憶しています。ここでの勝敗は、指名された子もしくは組の代表が、ジャンケンで決着をつけるようになっています。組の代表者がひっぱりっこして勝った方が、相手の組より一人引き抜くという勝敗のつけ方もあるようです。最終的には何度か「花いちもんめ」を繰り返し、残った人数の多い組が勝ちとなります。 
花いちもんめ 2
こどもの遊びのひとつ。2組に分かれて、歌を歌いながら歩き、メンバーのやりとりをする。花を一匁買う際に、値段をまけて悲しい売り手側と、安く買ってうれしい買い手側の様子が歌われているとされる。
遊び方
1.それぞれの組は手をつないで一列に並んで向かい合う。
2.前回勝った組から「か〜ってうれしいはないちもんめ」と歌の一節を歌いだす。歌っている組は前に進み、相手の組はあとずさりする。はないちもんめの「め」の部分で片足を蹴り上げる。
3.今度は負けた組が「まけ〜てくやしいはないちもんめ」と歌って、前に進む。
4.その後に、「タンス長持ち あの子が欲しい あの子じゃわからん 相談しましょ そうしましょ。」と歌の一節を交互に歌いながら前後に歩く。
5.歌が終わると、それぞれの組で相談して、相手の組から誰をこちらの組にもらうかを決める。決まった組は「き〜まった」と叫ぶ。
6.それぞれの組は手をつないで一列に並んで向かい合い「××ちゃんが欲しい」と前に進みながらもらいたい相手を披露しあう。
7.双方の代表者がじゃんけんを行い、勝った組の主張どおりにメンバーがもらわれていく。
8.片方の組からメンバーがいなくなれば終了。つづける場合には1にもどる。
宮城県南部
まず、二組に分かれたらとなりのおばさんちょっと来ておくれ、鬼がいるから行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、釜破れて行かれない、鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲ないから行かれない。あの子がほしい、あの子じゃわからん、相談しましょ(相談すべし)、そうしましょ(そうすべし)」とやる。そして5で名乗り合ったら、「なーにで行くの」「ひっぱりこ(じゃんけん等)でゆくの」と勝負方法が選択できる。
岩手県
勝ってうれしいはないちもんめ
負けてうれしいはないちもんめ
隣のおばちゃんちょいと来ておくれ
鬼が怖くて行かれない
お布団かぶってちょいと来ておくれ
お布団ぼろぼろ行かれない
お釜かぶってちょいと来ておくれ
お釜そこ抜け行かれない
あのコが欲しい
あのコじゃわからん
そのコが欲しい
そのコじゃわからん
相談しよう
そうしよう
遠野
ふるさとまとめて はないちもんめ
ふるさとまとめて はないちもんめ
勝ってうれしい はないちもんめ
負けてくやしい はないちもんめ
○○ちゃんとりたい はないちもんめ
△△ちゃんとりたい はないちもんめ
もんめ もんめ はないちもんめ
もんめ もんめ はないちもんめ
福島県
勝ってうれしいはないちもんめ 負けてくやしいはないちもんめ あの子がほしい あの子じゃ分からん その子がほしい その子じゃ分からん (ま〜るくなって)相談しましょ そうしましょ ちょいとま〜る〜め・・・き〜まった そっちからどうぞ そっちからどうぞ ××ちゃんがほしい ○○ちゃんがほしい 何でいくの (じゃんけん又は引っ張りっこなど)でいくよ
福島県
もんめもんめもんめはないちもんめ あの子がほしい あの子じゃ分からん 相談しましょ そうしましょ・・・○○ちゃんがほしい ××ちゃんがほしい
福島県
「ふるさと求めてはないちもんめ・・・」ではじまる。
福島県
「き〜まった」と言った後、「となりの〇〇ちゃんちょっとおいで となりの××ちゃんちょっとおいで な〜にで決める? □□で決める(じゃんけん又は引っ張りっこなど)」
福島県
A もんめもんめ
B はないちもんめ
A あの子がほしい
B あの子じゃわからん
A そうだんしましょ
B そうしましょ
全員 ちょいとまるめ
(それからA,Bグループは相談してほしい子を決める。どっちもきまったら)
A きーまった
B きーまった
A ○○ちゃんがほしい
B ○○ちゃんがほしい
A なにできめる?
B △△できめる
(この△△っていうのは「じゃんけん」「けんけん」「ひっぱりっこ」の三種目から選べるというものです。)
福島県
か〜って嬉しいはないちもんめ
まけ〜て悔しいはないちもんめ
あの子が欲しい
あの子じゃ分からん
あの子が欲しい
あの子じゃ分からん
相談しましょ
そうしましょ
(ここで、双方円を描いて集まり相談し合います。これで決まった方から、「き〜まった!」と言い、一方も「き〜まった!」と言い、続きが始まります。)
○○ちゃんが欲しい
○○くんが欲しい
な〜にで決める
ひぱっりこで決める
そ〜しましょ
(上の「ひぱっりこ」という所は、他にも「じゃんけん」、「つなひき」などその時その時で色々でした。先に歌い出したグループに、その決定権があります。ここまで来たら、指名された子達が出てきて、お互いの手を真っ直ぐ突き出して握り、掛け声に合わせて力一杯に引っぱり合い、敵地に引き込まれた子が引き込んだ子のグループに入ります。そして、また始めに戻り、勝ったグループから始め、どちらかのグループの人数が最後の一人になるまでやります。)
茨城県
かーってうれしいはないちもんめ
まけー悔しいはないちもんめ
隣のおばさんちょいときておくれ
鬼ーが怖くて行かれない
お布団かぶってちょいときておくれ
お布団ぼろぼろ行かれない
おかーまかぶってちょいときておくれ
おかーま底抜け行かれない
あーの子がほしい
あーの子じゃ分からん
こーの子がほしい
こーの子じゃ分からん
相談すっぺ
そうすっぺ
(と、ちょっとなまって言うのが地元流でした。で、相談し終わってから、)
きーまった
きーまった
○○がほしい
△△がほしい
(すると、2人が前へ出て、じゃんけんして、あとはまた繰り返しでした。)
群馬県
「勝って嬉しいはないちもんめ」「負けて悔しいはないちもんめ」「隣のおばさんちょっと来ておくれ」「鬼が怖くて行けられない」「御釜かぶってちょっと来ておくれ」「御釜底抜け行けられない」「御布団かぶってちょっと来ておくれ」「御布団ぼろぼろ行けられない」「あの子が欲しい」「あの子じゃ分からん」「この子が欲しい」「この子じゃ分からん」「相談しよう、そうしよう」
埼玉県
勝ってうれしいはないちもんめ、負けてくやしいはないちもんめ、となりのおばさんちょっと来ておくれ、鬼がいるから行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、釜がないから行かれない、布団かぶってちょっと来ておくれ、布団破れて行かれない(?)、あの子がほしい、あの子じゃわからん、この子がほしい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう
埼玉県
(まずジャンケンをして)
勝ってうれしいはないちもんめ
負けて悔しいはないちもんめ
隣のおばさんちょっと来ておくれ
鬼が怖くていけれません
座布団かぶってちょっときておくれ
座布団ビリビリ行けれません
お釜かぶってちょっと来ておくれ
お釜底抜け行けれません
あのコがほしい
このコがほしい
埼玉県
いちにとさん
にんがらほけきょ
さんしょのみ
とんがらしのみ
となりの○○ちゃん ちょっと おいで
となりの△△ちゃん ちょっと おいで
(勝った組)勝ってうれしい はないちもんめ
(負けた組)負けてくやしい はないちもんめ
埼玉県川越市
「勝ってうれしいはないちもんめ」「負けて悔しいはないちもんめ」「隣のおばさんちょっと来ておくれ」「鬼が怖くて行かれない」「お釜かぶってちょっと来ておくれ」「お釜底抜け行かれない」「お布団かぶってちょっと来ておくれ」「お布団びりびり行かれない」「鉄砲かついでちょっと来ておくれ」「鉄砲玉無し行かれない」「あの子が欲しい」「あの子じゃ分からん」「この子が欲しい」「この子じゃ分からん」「相談しよう」「そうしよう」
千葉県
勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、座布団かぶってちょっと来ておくれ、座布団ぼろぼろ行かれない、あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう
東京都
2と3で前に進む最後は片足を蹴り出す。「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団ぼろぼろ(若しくはびりびり)行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、(鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲あるけど弾がない、)あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう」
東京都
1 勝〜って嬉しいはないちもんめ
2 負け〜て悔しいはないちもんめ
1 隣のおばさんちょっと来ておくれ
2 鬼が怖くていかれない
1 お布団かぶってちょっと来ておくれ
2 お布団ビリビリいかれない
1 お釜かぶってちょっと来ておくれ
2 お釜底抜けいかれない
1 あの子がほしい
2 あの子じゃ分からん
1 この子がほしい
2 この子じゃ分からん
1 相談しよう
2 そうしよう
(ここで丸くなり相談・・決まった方から)
決まった
1 ○○ちゃんが欲しい
2 ○○ちゃんが欲しい
(呼ばれた人が前に出て)
じゃんけんポン
(で、負けた人が勝った人のほうに行く・・この繰り返し)
神奈川県横浜市
勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲玉無し行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団びりびり行かれない、あの子が欲しい、あの子じゃ分からん、この子が欲しい、この子じゃ分からん、相談しよう、そうしよう
神奈川県川崎市
勝ってうれしいはないちもんめ、負けてくやしいはないちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼がいるから行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲ないから行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団びりびり行かれない、あの子が欲しい、あの子じゃ分からん、この子が欲しい、この子じゃ分からん、相談しよう、そうしよう
静岡県
「あの子が欲しい」「あの子じゃわからん」「この子が欲しい」「この子じゃわからん」「ま〜るくなって相談、あっかんべ〜(と言いながらお互いに「あっかんべ〜」のしぐさをする)」と言う。5は、「××ちゃんが欲しい」「○○くんが欲しい」と言い、6で、指名された人同士でじゃんけんをする。
静岡県
「あの子が欲しい」「あの子じゃ分からん」「この子が欲しい」「この子じゃわからん」「まとまって相談、そうしましょ、ゴリラ、パンツ、あっかんべ〜」と悪態をついて、遊び4以降へ
静岡県
勝ってうれしいはないちもんめ
負けて悔しいはないちもんめ
隣のおばさんちょっと来ておくれ
鬼が怖くていけれません
座布団かぶってちょっときておくれ
座布団ビリビリ行けれません
お釜かぶってちょっと来ておくれ
お釜底抜け行けれません
あのコがほしい
このコがほしい
まーるくなって相談 あっかんべー
静岡県
かってうれしい花いちもんめ
負けて悔しい花いちもんめ
あの子がほしい
あの子じゃわからん
この子がほしい
このこじゃわからん
まーるくなってそーだんしーましょ
そーしましょ (で、丸くなる)
きーまった
そっちからどーぞ
○○ちゃんがほーしい
○○くんがほしい
(で二人でじゃんけん。そしてまた最初に戻る)
静岡県沼津市
「勝ってうれしいはないちもんめ」「負けて悔しいはないちもんめ」「隣のおばさんちょっと来ておくれ」「鬼が居るからいかれない」「お釜かぶってちょっと来ておくれ」「お釜底抜けいかれない」「お布団かぶってちょっと来ておくれ」「お布団びりびりいかれない」「あの子がほしい」「あの子じゃわからん」「その子がほしい」「その子じゃわからん」「相談しよう」「そうしよう」 決まったほうから「きまった」と宣言し、じゃんけんをする
長野県小諸市
勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばちゃんちょっとおいで、鬼が怖くて行かれない、お釜かぶってちょっとおいで、お釜底抜け行かれない、布団かぶってちょっとおいで、布団ビリビリ行かれない、あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよ
新潟県新潟市
「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっとおいで、鬼が怖くて行かれません、お釜かぶってちょっとおいで、お釜底抜け行かれません、座布団かぶってちょっとおいで、座布団ぼろぼろ行かれません、あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しましょ、そうしましょ」で、それぞれ相談。決まったら「き〜まった〜き〜まった〜」と叫び、指名する人の名前を呼ぶ際「かわいいかわいい」をつける
新潟県
「勝ってうれしいはないちもんめ」「負けて悔しいはないちもんめ」「隣のおばさんちょっとおいで」「鬼が怖くていかれませんよ」「お釜かぶってちょっとおいで」「お釜底抜けいかれませんよ」「お布団かぶってちょっとおいで」「お布団ボロボロいかれませんよ」「あの子がほしい」「あの子じゃわからん」「その子がほしい」「その子じゃわからん」「相談しよう」「そうしよう」 決まったほうから「きまった」と宣言し、じゃんけんをする
岐阜県
勝ってうれしいはないちもんめ、負けてくやしいはないちもんめ となりのおばちゃんちょっとおいで、犬がおるからよういかん、お釜をかぶってちょっとおいで、穴があいててよういかん、座布団かぶってちょっとおいで座布団ぼろぼろよういかん。あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しましょ、そうしましょ。決ーまった・・・○○ちゃんがほしい ××ちゃんがほしい。(引っ張り合い)
岐阜県
勝って嬉しい花いちもんめ
負けて悔しい花いちもんめ
隣のおばさんちょいと来ておくれ
鬼がいるからよう行かん
お布団かぶってちょいと来ておくれ
お布団ないからよう行かん
お釜かぶってちょいと来ておくれ
お釜ないからよう行かん
鉄砲かついでちょいと来ておくれ
鉄砲ないからよう行かん
岐阜県
A 勝〜って嬉しいはないちもんめ
B 負け〜て悔しいはないちもんめ
A 隣りのおばちゃんちょいとおいで
B 鬼〜が来るからよう来やせん
A カンムリかぶってちょいとおいで
B カンムリ無いからよう来やせん
A 雑巾かぶってちょいとおいで
B 雑巾無いからよう来やせん
A あの子が欲しい
B あの子じゃ分からん
A この子が欲しい
B この子じゃ分からん
A 相談しましょ
B そうしましょ
(相談します)
A・B 決〜まった
A ○○ちゃん!
B ○○ちゃん!
(この後、指名された二人がジャンケンをして勝った方の組へ負けた子が移動します。そして、人数の増えた組からまた始めます。)
愛知県
勝ってうれしい花いちもんめ
負けて悔しい花いちもんめ
隣のおばさんちょっとおいで
鬼が怖くてよう行かん
布団かぶってちょっとおいで
布団ぼろぼろよう行かん
お釜かぶってちょっとおいで
お釜そこ抜けよう行かん
あのコが欲しい
あのコじゃわからん
そのコが欲しい
そのコじゃわからん
相談しましょ
そうしましょ
(それぞれ相談し、)
きーまった
○○君が欲しい
○○ちゃんが欲しい
最初はぐー じゃんけんぽん
( そして、負けたほうが勝ったほうに入るとい)
愛知県
かってうれしい はないちもんめ
まけてくやしい はないちもんめ
となりのおばさん ちょっと おいで
おにがこわくて よういかん
おかまかぶって ちょっとおいで
それでもこわくて よういかん
あのこが ほしい
あのこじゃ わからん
このこが ほしい
このこじゃ わからん
そうだんしましょ
そうしましょ
○○ちゃんが ほしい
△△ちゃんが ほしい
愛知県西部
勝ってうれしいはないちもんめ、負けて悔しい大根の尻尾、隣のおばさんちょっとおいで、鬼がいるからよう行かん、お釜かぶってちょっとおいで、お釜底抜けよう行かん、座布団かぶってちょっとおいで、座布団びりびりよう行かん、あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しましょ、そうしましょ
または「かって嬉しい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のオバサンちょっとおいで、鬼がいるからよぉいかん、あの子がほしい、あのこじゃわからん、この子がほしい、この子じゃ分からん、相談しましょ、そうしましょ。」と、略す場合もある。 相談が終わると、「きーまった」と言い、「相談しましょ」といった側が「そっちから(お先に)どうぞ」と言う、そのあとに「○○ちゃんがほしい」「××君がほしい」となり、じゃんけんになる場合がある。略すのは大体小学生中学年。 日本のほぼ中央にあるため、東西の歌詞が入り混じり、愛知県内でも歌詞が違う場合が多々ある。
愛知県東部、岐阜県飛騨地域
遊び2と遊び3で前進した最後は片足を蹴り出す。続けて、「あの子が欲しい」「あの子じゃわからん」「この子が欲しい」「この子じゃわからん」「相談しましょ」「そうしましょ」と交互に歌いながら前進後退を繰り返し、前進した最後は片足を蹴りだす。遊び6では指名された人同士でじゃんけんをする。
石川県
遊び方6の時に指定された人が「ねことねずみがいたちをおいかけた それじゃんけんぽん」という歌を歌いながら、小指と小指を指きりげんまんの状態にして、けんけんでその場を回る(歌が終わるまで)。歌が終わった後、じゃんけんに入る
石川県
か〜ってうれしいはないちもんめ
まけ〜てくやしいはないちもんめ
隣のおばさんこちょっと来ておくれ
おに〜がこわくていけれません
お布団かぶってきておくれ
お布団がないからいけれません
お面をかぶってきておくれ
お面がないのでいけれません
お釜をかぶってきておくれ
お釜がないのでいけれません
た〜んすながもちあの子がほしい
あのこじゃわからん相談しましょ
そうしましょ
(で、相談して、きまったほうから)
き〜まった (って言って)
〜ちゃんがほしい (って言ったあと、)
〜ちゃんがほしい (または、) 〜ちゃんを返せ
(のどちらか言って指名された二人は中央に立って指切りして)
猫といたちがねずみを追いかけた、とことん
(といった後じゃんけんをして勝った方の所に負けた子が行って・・・・みたいな感じです。)
〜をかぶってでておいで
富山県
遊び方7の前に「ねこねこねずみとり いたちがおいかけた それじゃんけんぽん」という歌を歌いながら、指名された子どもが、小指と小指をつないでけんけんをしながら回り、最後にじゃんけんをする。
富山県
勝ーって嬉しいはないちもんめ」
負けーて悔しいはまいちもんめ」
隣のおばさんちょっとちょっとおいで」
鬼ーが怖くて行かれませんよ」
お布団被ってちょっとちょっとおいで」
お布団ぼろぼろ行かれませんよ」
座布団被ってちょっとちょっとおいで」
座布団ぼろぼろ行かれませんよ」
おかーま(←お釜)被ってちょっとちょっとおいで」
おかーま(←お釜)穴あき行かれませんよ」
たーんす(←タンス)ながもち、あの子が欲しい」
あの子じゃわからん」
この子が欲しい」
この子じゃわからん」
相談しよう」
そうしよう」
(で、相談して)
決ーまった
○○ちゃんが欲しい」
△△ちゃんが欲しい」
(指定された二人が中央に出てきて、小指をつなぎ、けんけんでまわりながら)
猫とねーずみ(←鼠)どうし、いたちがおいかけた。それじゃんけんほい(又はじゃんけんぽん)
(これはみんなで歌います。そして、じゃんけんで負けた子は、勝った子のチームに入ります。この繰り返しです。)
奈良県
故郷もとめて花いちもんめ
故郷もとめて花いちもんめ
タンス長持ちあの子が欲しい
あの子じゃ分からん
その子が欲しい
その子じゃ分からん
○○ちゃんが欲しい
勝って嬉しい花いちもんめ
負けて悔しい花いちもんめ
京都府
ふるさともとめて はないちもんめ
ふるさともとめて はないちもんめ
もんめ もんめ はないちもんめ
もんめ もんめ はないちもんめ
○○ちゃんが ほしい
△△ちゃんが ほしい
(勝った組)勝ってうれしき はないちもんめ
(負けた組)負けてくやしき はないちもんめ
関西(大阪府・兵庫県・京都府など)
遊び方3のあと、「タンス、長持、どの子が欲しい?」「どの子じゃわからん」「あの子が欲しい」「あの子じゃわからん」「この子が欲しい」「この子じゃわからん」「相談しましょ」「そうしましょ」の歌が入ってから、4で相談する。
大阪府
勝って嬉しい花いちもんめ
負けてくやしい花いちもんめ
たんす長持どの子が欲しい
どの子じゃわからん
あの子が欲しい
あの子じゃわからん
相談しましょ そうしましょ
べーっ(舌をだす)
(相談)
決ーまった
○○ちゃんが欲しい
□□ちゃんが欲しい
(じゃんけん)(勝った方に負けた子が入る) (くりかえし)
兵庫県
勝って嬉しいはないちもんめ、
負けて悔しいはないちもんめ、
タンス長持ちどの子が欲しい、
どの子じゃ分からん、
相談しましょそうしましょ (あっかんべ〜)
決〜〜〜まった。
○○ちゃんが欲しい、
△△ちゃんが欲しい (その後じゃんけん)
広島県
「勝ってうれしいはないちもんめ」「負けて悔しい花いちもんめ」「たんす長持ちあの子がほしい」「あのこじゃわからん」「相談しましょ」「そうしましょ」(全員で舌を出して)「べー」(決まったほうが)「決ーまった、お先にどうぞ」「○○ちゃんがほしい」「△△ちゃんがほしい」  そしてジャンケン
香川県
かって嬉しいはないちもんめ
負けてくやしいはないちもんめ
たんす長持ちあのこがほしい
あのこじゃわからん
相談しましょ
そうしましょ
しっし (両方が足でけるマネをする)
きーまった (さきに勝ったほう)
○ちゃんがほしい」
きーまった (負けたほう)
△ちゃんがほしい
(じゃんけんぽん。それでかったほうに負けた子が加わります。)
愛媛県
遊び方3のあと、「あの子が欲しい」「あの子じゃわからん」「相談しましょ」「そうしましょ」
愛媛県
遊び方3のあと、「隣のおばさんちょっとおいで」「鬼が怖くてよういかん」「あの子がほしい」あの子じゃわからん」「相談しましょ」「そうしましょ」「きーまった、手を合わせ、○○ちゃんがほしい 」
「××ちゃんがほしい」と選ばれたふたりがじゃんけんをする。
愛媛県
故郷まとめて花一匁
タンス長持ち花一匁
あの子が欲しい
あの子じゃ分からん
相談しましょう
そうしましょ
(-相談中-決ーまった)
○○ちゃんが欲しい
○○ちゃんが欲しい
(じゃんけんぽん!で、勝った方のチームに負けた子が加わって2回目からは)
勝って嬉しい花一匁
負けてくやしい花一匁・・・
高知県
「勝ってうれしいはないちもんめ」「負けてくやしいはないちもんめ」「たんすながもちあの子がほしい」「あの子じゃ分からん」「相談しましょ(または相談しよう)」「そうしましょ(またはそうしよう・ソーセージなど)」⇒「きーまった」どっちかが「お先にどうぞ」「××ちゃんがほしい」「○○ちゃんがほしい」「何になって行くの」「相談しましょ(または相談しよう)」「そうしましょ(またはそうしよう・ソーセージなど)」⇒「きーまった」どっちかが「お先にどうぞ」「△△になっておいで」「◎◎になっておいで」(動物や昆虫・またはその時に流行っている人物などを指定してそれのマネをしてジャンケンをする)
福岡県
勝って嬉しいはないちもんめ 負けて悔しいはないちもんめ あの子が欲しい あの子じゃわからん 相談しましょ そうしましょ。 あらよ ばいばい あっかんべー(あらよ しっしっ ベー の場合もある)
福岡県
(はじめじゃんけんをして、A組が勝った場合)
A 勝って嬉しい花いちもんめ
B 負けて悔しい花いちもんめ
A 隣のおばちゃんちょっと来ておくれ
B 鬼がいるから行かれない
A お布団かぶってちょっと来ておくれ
B お布団ビリビリいかれない
A お釜かぶってちょっと来ておくれ
B お釜底抜け行かれない
A 鉄砲かついでちょっと来ておくれ
B 鉄砲たまなし行かれない
A あの子がほしい
B あの子じゃ分らん
A その子がほしい
B その子じゃ分らん
A 相談しよう
B そうしよう
全員 あらよバイバイあっかんベー
(相談して決まる)
A きーまった
B そちらからどうぞ
A ○○さんがほーしい
B ××君がほしい
(指名された2人がじゃんけんをして負けたら相手チームに入る)
長崎県
「勝ってうれしいはないちもんめ」「負けて悔しい花いちもんめ」「たんす長持ちどの子がほしい」「どのこじゃわからん」「相談しましょ」「そうしましょ」(全員で舌を出して)「べー」相談の後、各々で「決ーまった」前回勝った方から「○○ちゃんがほしい」「△△ちゃんがほしい」  そしてジャンケン

(ジャンケンに勝ったほうが) かーってうれしい花一匁
(ジャンケンに負けたほうが) まけーてくやしい花一匁
(勝ったほうが) あの子が欲しい
(負けたほうが) あの子じゃわからん
(勝ったほうが) この子が欲しい
(負けたほうが) この子じゃわからん
(どちらも一緒に) 相談しましょう、そうしましょ
(お互いに決まったら) きーまった
(勝ったほうが) ○○ちゃんが欲しい
(負けたほうが) ××ちゃんが欲しい  
花いちもんめ 3
   勝ってうれしいはないちもんめ
   負けてくやしいはないちもんめ
   となりのおばさんちょっと来ておくれ
   鬼がいるから行かれない
   お釜かぶってちょっと来ておくれ
   釜がないから行かれない
   布団かぶってちょっと来ておくれ
   布団破れて行かれない(?)
   あの子がほしい
   あの子じゃわからん
   この子がほしい
   この子じゃわからん
   相談しよう
   そうしよう
この歌は食べることもままならない昔の貧しい人達が、自分達の子供(あるいは「女の子」という説も・・・)が泣く泣く子買いに買われていってしまう様子を歌ったものだという説があるようです。いわゆる「口減らし」ですよね。細かくみれば歌詞そのもののとらえ方に多少の差はあるものの、大きくとらえるとほぼ同じ様な意味にうけとめる事ができます。
はないちもんめ=花一匁 と書き、
   花=子供(或いは女の子)
   匁=ごくごく軽い重さの単位(一匁=約3.75g)
当時、花を売る際にこの重さが値段の基準となっていたようです。 すなわち「花一匁」という言葉からは、当時の子供がいかに安い値段をつけられていたかが伺えます。
本当の意味
買って嬉しい花一匁   (子供が安く買えた。嬉しいねぇ)
負けて悔しい花一匁   (わが子が値切られてしまって悔しい)
隣のおばさんちょいと来ておくれ
鬼が恐くて行かれませんよ   (子買いが恐くて外に出られないんです)
お布団かぶってちょいと来ておくれ
お布団ボロボロ行かれませんよ
お釜かぶってちょいと来ておくれ
お釜底抜け行かれませんよ
あの子が欲しい   (あの子を売ってくれ)
あの子じゃ負からん   (あの子はいなくなると困る。だから負けられない)
その子が欲しい   (それならばその子を売ってくれ)
その子じゃ負からん   (その子もいなくなると困る。だから負けられない)
相談しよう
そうしよう  
花いちもんめ 4
「勝ってうれしい はないちもんめ♪」という歌詞の子供遊びはご存知だと思います。皆さんも小さい頃は遊んだ記憶があると思うんですが、この歌詞はどういう経緯で作られたのでしょうか。今日は童歌「はないちもんめ」について調べました。
はないちもんめ(花一匁)
   勝って嬉しい 花いちもんめ 
   負けて悔しい 花いちもんめ 
   あの子が欲しい あの子じゃ分からん 
   相談しましょう そうしましょう
この「はないちもんめ」なんですが、私が調べた範囲では作詞者・作曲者とも不明。いつごろ作られたかも分かりませんでした。また「もんめ(匁)」は尺貫法における質量の単位で、1665年(寛文5年)から1891年(明治24年)まで使われていたそうです。
ただし地域によって歌詞、遊び方にばらつきがあります。まずは、最も一般的な、歌詞と遊び方で調べていこうと思います。
「はないちもんめ」歌詞の意味
では「勝って嬉しい 花いちもんめ」「負けて悔しい 花いちもんめ」はどういう意味なのでしょうか。まず、「はな」は花、「いちもんめ(一匁)」は重さの単位。さらに「勝って」を「買えて」に置き換え解釈すると「買えて嬉しい、花一匁の値段で」という意味になります。
ちなみに「一匁」の重さは3.75g、現在使われている5円玉の重さです。つまり、3.75g程度の花の相場とほぼ同じ値段で何かを取引していたわけです。では何を取引していたのか。「あの子が欲しい あの子じゃ分からん」とあるように、取引していたのは人間という説です。
ここから歌詞全体の意味を解釈するとこのようになります。
   勝って嬉しい 花いちもんめ
   (買う側) 買えて嬉しい、花いちもんの値段で
   負けて悔しい花いちもんめ
   (売る側) まけられて(値切られ)て悔しい、花いちもん以下の値段で
   あの子が欲しい あの子じゃ分からん
   (買う側)あの子がほしい (売る側)あの子じゃわからん
   相談しましょう そうしましょう
   (買う側)(値段を)相談しましょう (売る側)そうしましょう
子供遊びではこの後、「○○ちゃんがほしい」お互いが言い合って、じゃんけん等を行って勝負を決めます。負けた人は、相手のチームに移動しどちらかのチームが0人になるまで勝負することになります。
花いちもんの値段で取引されていた人間。さすがに1人の人間が3.57g花と同じ値段と取引されていたとは考えにくいんですが、安い値段しか付かなかったというのがこの歌から感じられます。
「遊郭があった江戸時代〜明治時代は今とは比べ物にならないくらいの格差社会で、生活の為に子供を売り飛ばすということは良く行われていたとされています。 貧乏な家の子供(または女の子)が口減らしの為に、人買いに一匁(もんめ)で買われ、人買い同士が「勝った(買った)」「負けた(マケた)」と囃し立てる悲しい歌としての一説もあります。」 
ということで、「はないちもんめは人身売買の歌です」と言いたいところなんですが、この説はあまりにも短絡的です。大体、この歌はあくまで現在歌われている歌詞で、そこから意味を解釈したものです。そもそも、人身売買があった時代に取引されるであろう子供達が歌い遊んでいたとは考えにくいです。
では、地方に伝わる歌詞はどのようになっているかなんですが、基本的に「勝って嬉しい」「負けて悔しい」、「あの子がほしい」「あの子じゃ分からん」「相談しよう」決まったあとに勝負という流れは日本全国でほぼ統一されているみたいです。
統一されていない部分について調べてみるとこのような歌詞があります。
   勝って嬉しい 花いちもんめ
   負けて悔しい 花いちもんめ
   隣のおばさんちょいと来ておくれ
   鬼が怖くて行かれない
   お釜かぶってちょいと来ておくれ
   お釜底抜け行かれない
   座布団かぶってちょいと来ておくれ
   座布団びりびり行かれない
   あの子が欲しい あの子じゃわからん
   その子が欲しい その子じゃわからん
   相談しましょう そうしましょう
地方にもいくつか歌詞がありますが、基本的に太字の部分が別の言葉に置き換えられるだけで(座布団が布団など)で意味はほぼ同じでした。また、相談した後に○○ちゃんが欲しいとは言わず。「かっこいい○○ちゃんが欲しい」「かわいい○○ちゃんが欲しい」と形容する歌詞も存在するそうです。
ぱっと歌詞を読んだ感じだと、鬼のように厳しい親いるためが外に出ることができず、また恥ずかしがりやの娘に対して「頭に物を被ったままでもいいから出てきてください」と言っているような感じもします。
また、「隣のおばさん」「鬼」「釜」「座布団」の歌詞がそっくり無い代わりに「箪笥(たんす)持ちあのこがほしい」と歌われている地域も存在します。そう考えると、現代で言う“お見合い”や“合コン”といった場で、年頃の男女が出会いを作るべくこの歌で遊んでいたようにも感じます。
さらに、ジャンケン自体は19世紀前半に誕生したことを考える必要があります。ジャンケン以外の勝負の決め方で、指名された人が引っ張り合いを行うという地域があります。昔の人が、それこそ男女が人前で手を繋ぐこと批判されていた時代に、男女が引っ張り合いを行っていたということはどういうことなのか。これは容易に想像できると思います。
つまり、ここでの説は最終的に「年頃の男女の遊びを見かけた子供達が、それを真似して遊んだ。」というものです。これは「かごめ かごめ」の「神寄せの行為を見た子供たちが真似し、それがやがて児戯となった。」という説と非常に似ています。個人的な意見としては人身売買から子供が歌い遊ぶようになったという説よりも、その遊びをみた子供達が歌い遊び広まったという説の方が自然な感じがします。
現代歌われている歌詞から解釈すると、「人が動いた」ことはどちらの説も間違いないみたいです。しかし、元々の歌詞が分からないだけに、推測の域を出ることはありません。いったいどういう経緯でこの歌が歌われるようになったのでしょうか。  
春よ来い
   春よ来い 早く来い
   あるきはじめた みいちゃんが
   赤い鼻緒の じょじょはいて
   おんもへ出たいと 待っている
    春よ来い 早く来い
    おうちのまえの 桃の木の
    つぼみもみんな ふくらんで
    はよ咲きたいと 待っている
作詞は、詩人相馬御風(1883〜1950)。早稲田大学校歌「都の西北」や「カチューシャの唄」を作詞。作曲は、弘田 龍太郎(1892〜1952)。『鯉のぼり』『浜 千鳥』『雀の学校』などを作曲。
「春よ来い」の“うた”では、
   春よ来い 早く来い
   あるきはじめた みいちゃんが
と、みいちゃんが春よ来い、早く来いと歌い、そのみいちゃんのモデルは、作者の長女といわれています。
あるきはじめた幼い子どもが片言の幼稚語で歌うのは可愛いですね。
赤い鼻緒の じょじょはいておんもへ出たいと「じょじょ」とは、草履のことで、「おんも」とは家の外のこと。
赤い鼻緒の草履をはいた女の子がお外に出たいと、春の来るのを待っているのです。うららかな春風の吹く日を楽しみにしているのですね。なんと可愛いのでしょう。この可愛さの中に、雪国の人々の春への思いが託されていて、歌う人、聴く人の心にその思いが響いてきます。そして、
   春よ来い 早く来い
   おうちのまえの 桃の木の
家の前には桃の木があって、
   つぼみもみんな ふくらんで
   はよ咲きたいと 待っている
蕾もみんな膨らみ、早く咲きたいと、春の来るのを待っています。想像力豊かなイメージで、人も自然も一体化していて素敵です。それこそ自他一如!
“自他一如”とは仏教の教え。作詞した相馬御風は新潟県糸魚川市出身の詩人で、早稲田大学講師を勤めた後、故郷に戻り、良寛の研究に没頭しました。私たちが親しく良寛さんを知ることができるのは、相馬御風の功績だといえます。
良寛さんには、春の日に子どもたちと楽しく遊ぶ詩があります。春には少し早いですが、よき春の来ることを祈り読んでみましょう。
   冬ごもり  春さり来れば
   飯乞ふと  草の庵を
   立ち出でて 里にい行けば
   たまほこの 道のちまたに
   子どもらが 今を春べと
   手毬つく  ひふみよいなむ
   汝がつけば 吾がうたひ
   吾がつけば 汝はうたひ
   つきて唄ひて 霞立つ
   永き春日を 暮らしつるかも
そして、反歌は、
   霞たつながき春日をこどもらと
    手まりつきつつこの日暮らしつ
   こどもらと手まりつきつつこの里に
    遊ぶ春日はくれずともよし
“今は春べ”と喜ぶ子どもの笑顔。良寛さんも、手まりに加わって、
   手毬つく  ひふみよいなむ
   汝がつけば 吾がうたひ
   吾がつけば 汝はうたひ
子どもたちの弾む心。良寛さんの弾む心。
楽しさあふれる詩ですね。良寛さんの過ごす越後の冬はさぞや寒かったでしょう。長く、堪える冬。
春を迎える喜び。人々の心は弾みます。それは、あるきはじめた みいちゃんも一緒でしょう。私たちもみんなで“春を呼ぶうた”をつくれば楽しいでしょうね。 
守さ子守さ
   守さ 子守さ
   昼寝が大事ヨ ホーヨーオ
   晩げ遅うまで 門に立つ
   ハリコヤ スイタカ ジュンサイ
    なんぜこの子は
    なぜこに泣くかヨ ホーヨーオ
    乳が足らぬか 親なしか
    ハリコヤ スイタカ ジュンサイ
   向う山をば
   ちんばが通るヨ ホーヨーオ
   傘が見えたり 隠れたり
   ハリコヤ スイタカ ジュンサイ
先回の子守唄(眠らせうた)の次は、“遊ばせうた”です。赤ちゃんの守りをするために雇われた守子の何とも言えないやるせなさが歌われています。
昨日は赤ちゃんが夜泣きして遅くまで外でおんぶしてあやさなければいけなかったので、よく眠れなかったよ。今日は赤ちゃんが寝ているうちに昼寝をしておこう。なぜこんなに泣くの、お乳が足らないの、おまえには親がないの、お乳もさっきもらったばかりじゃないの。
“わらべうた”の種類はさまざまありますが、『わらべうた研究ノート』によると、
第一類 子守歌
  (一)眠らせ歌
  (二)遊ばせ歌
第二類 口遊歌
第三類 遊戯的口遊歌
  (一)天体気象歌
  (二)動物歌
  (三)植物歌
  (四)歳事歌
  (五)雑歌
第四類 遊戯歌
この分類は、「歌われる目的の第一義は何か」ということによって決められたそうです。
今回の「守さ子守さ」は、雇われた子守の子どもが自らのために歌ったのです。背中に背負った赤ちゃんが泣くと、「なぜ泣かせるの」と叱られたりして、泣きたいのは自分なのです。守子の辛い心情。慰めたくなるのは自分なの。
「守さ子守さ晩げ(日暮)が大事、朝は寝起きはなお大事」
「守さ子守さ、楽そうで辛い、親にゃ叱られ、子にゃ泣かれ」
「守さ楽のよで楽じゃない、朝は早(はよ)から叩き起されて、晩は四つまで門に立つ」
「守は辛いぞ、霜月師走、雪はちらつく、子はぐずる」
そして、
「守さ子守さ、なぜ子を泣かす、泣かせまいとの守じゃもの」
「守さ頼むなら、ちんばを頼め、歩くたんびに子が黙る」と。
(『わらべうた・日本の伝承童謡』より) 
そして、新潟には、次のような“うた”があります。
   守っ子
   守っ子というもの 辛(つら)いもの
   雨が降る時ゃ 宿が無い
    おかかにゃ叱られ
    子にゃ泣かれ
子どもに泣かれてしまうと本当に大変です。鹿児島、奄美大島には、「泣くないよ(泣くんじゃないよ)」とくりかえし歌う、「泣くないよ坊ややよ」という美しい“遊ばせうた”があります。
   泣くないよ坊ややよ
   泣くないよ坊ややよ
   泣くないよ坊ややよ
   泣くないよ坊ややよ
   母様(あんま)やよ何処(だち)もうち 
   母様(あんま)やよ芋堀(とんふ)りが
   野良(はる)ち行ちゃんど
   芋堀(とんふ)りが行ちゃんど
   泣くなちーば 泣きゅるよ
   泣くなちーば 泣きゅるよ
   ヨーハレ愛子(かな)よ
お母さんが畑に芋堀に行っているのですね。「すぐに帰ってくるからね」、と家族の人。お婆ちゃんでしょうか、お姉さんでしょうか、坊やをあやしているのでしょうね。
それにしても、子どもとは可愛いものです。佐賀、唐津地方に、母親が子どもに抱く愛情を、子兎と母兎の愛情に託して歌った“うた”があります。
   小山の子兎
   こんこん小山(こやま)の子兎(こうさぎ)は
   なぜにお耳が長(なご)うござる
   おッ母(か)ちゃんのぽんぽにいた時に
    長い木の葉を食べたゆえ
    それでお耳が長うござる
   こんこん小山の子兎は
   なぜにお目々(めめ)が赤(あこ)うござる
   おッ母ちゃんのぽんぽにいた時に
    赤い木の実を食べたゆえ
    それでお目々が赤うござる
本当に“わらべうた”は美しいですね。そして、「月の出端の美しい月を見てみんなで遊びましょう」と歌うとても美しい“遊ばせうた”が、沖縄の八重垣島にあります。
   月ぬ美しゃ
   月(ツキ)ぬ美(カイ)しゃ 十三日(トウカミカ)
   みやらび美(カイ)しゃ
   十七(トウナナ)つ
   ホーイ チョーガ
有名な八重垣童謡です。お月様の美しさは十三夜、乙女の可愛さは十七歳、と歌っていますね。みやらび(ミヤラビ)とは少女の意味です。沖縄の月を見たくなりました! 
 
花咲爺/かごめかごめ/指きりげんまん/家の裏の黒猫/うしもうー
 

 

花咲爺(はなさかじじい) 1
   うらのはたけで ポチがなく
   しょうじきじいさん ほったれば
   おおばんこばんが ざくざく ざくざく
この歌はおとぎばなしを題材としたもので、1901年(明治34)、『幼年唱歌(初の下)』に発表されました。作詞は石原和三郎。作曲は田村寅蔵です。歌は次のように続きます。
    いじわるじいさん ポチかりて
    うらのはたけを ほったれば
    かわらやせとかけ がらがら がらがら
   しょうじきじいさん うすほって
   それでもちを ついたれば
   またぞろこばんが ざくざく ざくざく
    いじわるじいさん うすかりて
    それでもちを ついたれば
    またぞろせとかけ がらがら がらがら
   しょうじきじいさん はいまけば
   はなはさいた かれえだに
   ほうびはたくさん おくらにいっぱい
    いじわるじいさん はいまけば
    とのさまのめに それがいり
    とうとうろうやに つながれました
多くの人々に愛されてきた「花咲爺」さん。日本には勧善懲悪の物語が大好きな人が多いからといわれます。
絵本『はなさかじじい』の解説では次のように述べられています。
「――『はなさかじじい』の話は(中略)「隣の爺型」に分類されており、おなじ話型の話としては『したきりすずめ』『鳥のみじい』『さる地蔵』『雁取りじい』などがあります。――主人公の善良なじいやばばの家の隣に性悪なじいとばばを配置して、ある出来事によって心のやさしい善良なじいとばばの幸せを、まねばかりする性悪なじいとばばは失敗するというきわだった対照によって、人間の善悪、幸不幸が語られます。」
この昔ばなしの大切なところは、「白い犬」と「枯れ木に花を咲かせましょう」だと思われます。
では「花咲爺」のお話はどのように展開していくのでしょう。
細部は、語られる地方によって少しずつ変化していますが大筋は次のようなものです。
むかし あるところに、こころのやさしい正直者のお爺さんとお婆さんが住んでいました。ふたりには子どもがいませんでしたので、ずっとずっと子どもが欲しいと思っていたようです。ある日、お爺さんとお婆さんは、道端に白い犬が捨てられているのを見つけました。(ここのところは、お婆さんが川で洗濯をしていると川上から白い子犬が流れてきたというお話もあります。)
お爺さんたちは子犬がかわいそうに思い、わが子のように育てようと家に連れて帰ることにしました。(この犬を拾うというお話の原型は東北に多くあるようです。)おじいさんたちは、自分たちよりも子犬に美味しいものを食べさせ、大きくな〜れ大きくな〜れと、大切に育てました。
犬はどんどん大きくなりました。ある日、お爺さんは犬を連れて山へ柴刈に出かけました。犬は元気に山へ駆けていきます。そして、お爺さんが薪(たきぎ)をあつめていると、犬が「ここ掘れ、ワンワン」としきりに吠えるのです。不思議に思ってそこを掘ると、小判がザクザクと出てくるではありませんか。お爺さんはびっくりして、神さまに感謝しました。
古くから犬は神のお使いという言い伝えがあります。山に柴を刈りに行くお爺さんは山の民でしょうか。また、この「犬が吠えたところに何かが埋まっている」という考えは中国からきたそうです。昔ばなしのなかには古くからの言い伝えがいっぱい詰まっていそうですね。
小判を授かったお爺さんとお婆さん、喜んで小判を神棚に置いておきます。そこに、隣のいじわる爺さんがやってくるのです。
『花鳥風月の科学』では、隣の爺さんは「火をもらいに入ってくる」となっています。簡単には火をおこせなかった昔は、「火を貸してくれませんか」と隣に頼みにいったのです。「火もらい」は「隣の家は何をしているのかな」と気になるとき、隣家に入るためのいい口実だったのです。日本の民家ではこのように火種をもらいにいくことは日常の事だったのですね。
当然、隣の欲ばりの爺さんは、はやくも小判のことを聞きつけていたのでしょう。しょうじき爺さんの大切な愛犬を、なんだかんだと言って連れて行ってしまうのです。
隣の爺さんは犬を借りても大切にはしてくれません。可愛がりもしません。粗末な食事しか与えません。そんななか、犬が何もしないので、この欲張りで意地の悪い爺さんは、犬を引っ張って山へ出かけます。でも、いつまでたっても「ここ掘れ、ワンワン」と吠えないので、犬をたたいてむりやり「ワンワン」となかせました。「うむ、ここだな ここだな」と爺さん土を掘ると、でてきたのは、かえる、むかで、蛇や石ころばかりです。金貨は一枚も出てきません。爺さんは腹を立て、犬を殺して埋めてしまいました。
よくばり爺さんのこの非道な行為!話を聴いているこちらが腹を立てかねませんね。
嘆き悲しんだ善良なお爺さんとお婆さん。犬を埋めたという松の木のところにいくと、その松の木はみるみるうちに大きな樹に育っていました。犬が夢に出てきて、この木を切って臼にするように告げたので、お爺さんたちはこの大きく育った松の木を犬の思い出として臼にすることにしました。そして、お餅をつくろうと臼をついたとき、ひとつきすると小判が、ちゃりーん!ふたつきすると、ちゃりーん、ちゃりーん。大判小判が臼の中にあふれ出ました。
噂を聞いた隣のよくばり爺さん、臼を借りて一儲けとばかりにやってきて、むりやり臼をかついで帰っていきました。
けれども、臼をつけどもつけどもゴミしか出てきません。またまた腹を立て、臼を叩き割って燃やしてしまいました。
愛犬を可愛がっていたお爺さんは深く深く悲しみました。やるせない気持ちで臼を燃やしたかまどから白い灰をひきとり家に帰ろうと、とぼとぼ歩きはじめると、風がそよいで、灰がふわっと舞い上がりました。するとすると飛び散った灰をかぶった道の枯草は、花をぱあ〜と咲かせました。おじいさんは驚きました。「これは、これは不思議。もっと花を咲かせよう」と、大きな桜の枯れ木にのぼり、「枯れ木よ、花咲け〜」とおもいきり灰をまきました。するとどうでしょう、枯れた桜の木は再び花ざかりとなったのです。おじいさんは隣の木にも登っては灰をまき、あたりを花で満たしました。このめでたいお爺さんの行いは、噂になり、殿様に呼ばれ、その御前で灰をまいて花を咲かせました。「見事、見事じゃ。日本一の花咲爺! ほうびをとらせよう」殿様も大喜びです。
これをみていたよくばりじいさん。「わしもほうびにあずかろう」とかまどに残った灰をかきあつめ、殿様の前で灰をまきました。ところが、花が咲くどころか、殿様に灰がかかり、目にも入って大変なことになってしまったのです。そこで、「ぶれいもの」と家来に縄で縛られてしまいました。
このようなお話です。欲をはりすぎると人は不幸になりかねませんね。
人を幸せにする神のお使いの「子犬」。また、考えてみれば「枯れ木に花を咲かせる」とは、再生の意味を持っているのではないでしょうか。いま日本は、震災復興のみならず、あらゆるところであらゆるものが再び元気に生まれかわらなければならないときです。
“おさなごころ”に戻って、「枯れ木に」花を咲かせてみませんか。さあ、“はなさかじじい”を元気に歌って・・・。可愛い子犬に出会えるかもしれませんね。 
花咲か爺 2
日本の民話の一つ。「花咲かじいさん」「花咲かじい」ともいう。「動物報恩」および「隣の爺型」昔話に分類される。
心優しい老夫婦と欲深い隣人夫婦が、不思議な力を持った犬をきっかけに前者は幸福に後者は不幸になるという内容。日本では室町時代末期から江戸時代初期にかけて成立した勧善懲悪の話。朝鮮半島や中国にも似た話がある。江戸時代の赤本のタイトルは『枯木に花咲かせ爺』、燕石雑志では『花咲翁』になっている。
あらすじ
心優しい老夫婦が、川で一匹の白い仔犬を拾い、わが子同然にかわいがって育てる。
ある山里に心優しい老夫婦と、欲張りで乱暴な隣人夫婦がいた。
優しい夫婦が傷ついた子犬を見つけて飼うことにし、わが子のように大切に育てる。
あるとき犬は畑の土を掘りながら「ここ掘れワンワン」と鳴き始める。
驚いた老人が鍬で畑を掘ったところ、金貨(大判・小判)が掘り出され、老夫婦は喜んで近所にも振る舞い物をする。
それをねたんだ隣の夫婦は、無理やり犬を連れ去り、財宝を探させようと虐待する。
しかし、指し示した場所から出てきたのは、期待はずれのガラクタ(ゲテモノ・妖怪・欠けた瀬戸物)だったため、隣人夫婦は激怒して犬を殺害し、飼い主夫婦にも悪態をついた。
わが子同然の犬を失って悲嘆にくれる夫婦は、死んだ犬を引き取って庭に墓を作って埋め、そして雨風から犬の墓を守るため、傍らに木を植えた。
植えられた木は短い年月で大木に成長し、やがて夢に犬が現れてその木を伐り倒して臼を作るように助言する。
夫婦が助言どおりに臼を作り、それで餅を搗くと、財宝があふれ出た。
再び隣人夫婦は難癖をつけて臼を借り受けるが、出てくるのは汚物ばかりだったため、激怒した隣人夫婦は、斧で臼を打ち割って薪にして燃やしてしまう。
夫婦は灰を返してもらって大事に供養しようとするが、再び犬が夢に出てきて桜の枯れ木に灰を撒いてほしいと頼む。
その言葉に従ったところ花が満開になり、たまたま通りがかった大名が感動し、老人をほめて褒美を与えた(このときの台詞が「枯れ木に花を咲かせましょう」である)。
やはり隣人夫婦がまねをするが、花が咲くどころか大名の目に灰が入ってしまい、悪辣な隣人は無礼をとがめられて罰を受ける(捕縛・投獄されるなど)。
解釈
五大御伽噺のひとつとして江戸時代の赤本等に載せられ広く民間に普及した昔話で隣の爺型と呼ばれる昔話のパターン。
この話の花を咲かせるモチーフは中世末以降、千手観音の信仰を背景として民間に普及した「枯れ木に花を」のたとえの形象化であると言われる。それ以前の型は灰をまいて雁を取る「雁取り爺」にあり、雁取り爺は東北で「犬コムカシ」と呼ばれ川上から流れてきた木の根っこから生まれた犬が狩猟で獲物をもたらすという異常誕生の「小さき子」のモチーフを有し、「花咲爺」の祖型であると民俗学者・柳田國男は指摘している。
また中国の『狗耕田故事』の犬が畑を耕す話との対比からこの話の背後に犬と農耕の重要な関係が見て取れる。大河ドラマ『花神』では「花神とは、中国では『花咲爺』のことである」と語られる。
唱歌
唱歌(童謡)「花咲爺」は1901年(明治34年)に出版された『幼年唱歌 初編 下巻』に収録。作詞・石原和三郎、作曲・田村虎蔵。全6番の歌詞は一連の内容をなぞっている。犬の名前は本来はないが、唱歌では「ポチ」としている。 
花咲かじじい 楠山正雄 3

むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。
正直(しょうじき)な、人のいいおじいさんとおばあさんどうしでしたけれど、子どもがないので、飼犬(かいいぬ)の白(しろ)を、ほんとうの子どものようにかわいがっていました。白も、おじいさんとおばあさんに、それはよくなついていました。
すると、おとなりにも、おじいさんとおばあさんがありました。このほうは、いけない、欲(よく)ばりのおじいさんとおばあさんでした。ですから、おとなりの白をにくらしがって、きたならしがって、いつもいじのわるいことばかりしていました。
ある日、正直おじいさんが、いつものように鍬(くわ)をかついで、畑をほりかえしていますと、白も一緒(いっしょ)についてきて、そこらをくんくんかぎまわっていましたが、ふと、おじいさんのすそをくわえて、畑のすみの、大きなえのきの木の下までつれて行って、前足で土をかき立てながら、
「ここほれ、ワン、ワン。ここほれ、ワン、ワン」
となきました。
「なんだな、なんだな」
と、おじいさんはいいながら、鍬を入れてみますと、かちりと音がして、穴のそこできらきら光るものがありました。ずんずんほって行くと、小判(こばん)がたくさん、出てきました。おじいさんはびっくりして、大きな声でおばあさんをよびたてて、えんやら、えんやら、小判をうちのなかへはこび込みました。
正直(しょうじき)なおじいさんとおばあさんは、きゅうにお金持ちになりました。

すると、おとなりの欲(よく)ばりおじいさんが、それをきいてたいへんうらやましがって、さっそく白(しろ)をかりにきました。正直おじいさんは、人がいいものですから、うっかり白をかしてやりますと、欲ばりおじいさんは、いやがる白の首(くび)になわをつけて、ぐんぐん、畑のほうへひっぱって行きました。
「おれの畑にも小判がうまっているはずだ。さあ、どこだ、どこだ」
といいながら、よけいつよくひっぱりますと、白は苦しがって、やたらに、そこらの土をひっかきました。欲(よく)ばりおじいさんは、
「うん、ここか。しめたぞ、しめたぞ」
といいながら、ほりはじめましたが、ほっても、ほっても出てくるものは、石ころやかわらのかけらばかりでした。それでもかまわず、やたらにほって行きますと、ぷんとくさいにおいがして、きたないものが、うじゃうじゃ、出てきました。欲ばりおじいさんは、「くさい」とさけんで、鼻(はな)をおさえました。そうして、腹立(はらだ)ちまぎれに、いきなり 鍬をふり上げて、白(しろ)のあたまから打ちおろしますと、かわいそうに、白はひと声(こえ)、「きゃん」とないたなり、死んでしまいました。
正直(しょうじき)おじいさんとおばあさんは、あとでどんなにかなしがったでしょう。けれども死んでしまったものはしかたがありませんから、涙(なみだ)をこぼしながら、白の死骸(しがい)を引きとって、お庭のすみに穴をほって、ていねいにうずめてやって、お墓(はか)の代(かわ)りにちいさいまつの木を一本、その上にうえました。するとそのまつが、みるみるそだって行って、やがてりっぱな大木(たいぼく)になりました。
「これは白の形見(かたみ)だ」
こうおじいさんはいって、そのまつを切って、臼(うす)をこしらえました。そうして、
「白(しろ)はおもちがすきだったから」
といって、臼のなかにお米を入れて、おばあさんとふたりで、
「ぺんたらこっこ、ぺんたらこっこ」
と、つきはじめますと、ふしぎなことには、いくらついてもついても、あとからあとから、お米がふえて、みるみる臼にあふれて、そとにこぼれ出して、やがて、台所(だいどころ)いっぱいお米になってしまいました。

するとこんども、おとなりの欲(よく)ばりおじいさんとおばあさんがそれを知ってうらやましがって、またずうずうしく臼をかりにきました。人のいいおじいさんとおばあさんは、こんどもうっかり 臼をかしてやりました。
臼をかりるとさっそく、欲ばりおじいさんは、臼のなかにお米を入れて、おばあさんをあいてに、
「ぺんたらこっこ、ぺんたらこっこ」
と、つきはじめましたが、どうしてお米がわき出すどころか、こんどもぷんといやなにおいがして、なかからうじゃうじゃ、きたないものが出てきて、臼にあふれて、そとにこぼれ出して、やがて、台所(だいどころ)いっぱい、きたないものだらけになりました。
欲(よく)ばりおじいさんは、またかんしゃくをおこして、臼をたたきこわして、薪(まき)にしてもしてしまいました。
正直(しょうじき)おじいさんは、臼を返してもらいに行きますと、灰になっていましたから、びっくりしました。でも、もしてしまったものはしかたがありませんから、がっかりしながら、ざるのなかに、のこった灰をかきあつめて、しおしおうちへ帰りました。
「おばあさん、白(しろ)のまつの木が、灰になってしまったよ」
こういっておじいさんは、お庭のすみの白のお墓(はか)のところまで、灰をかかえて行ってまきますと、どこからか、すうすうあたたかい風が吹いてきて、ぱっと、灰をお庭いっぱいに吹きちらしました。するとどうでしょう、そこらに枯れ木のまま立っていたうめの木や、さくらの木が、灰をかぶると、みるみるそれが花になって、よそはまだ冬のさなかなのに、おじいさんのお庭ばかりは、すっかり春げしきになってしまいました。
おじいさんは、手をたたいてよろこびました。
「これはおもしろい。ついでに、いっそ、ほうぼうの木に花を咲かせてやりましょう」
そこで、おじいさんは、ざるにのこった灰をかかえて、
「花咲かじじい、花咲かじじい、日本一の花咲かじじい、枯れ木に花を咲かせましょう」
と、往来(おうらい)をよんであるきました。
すると、むこうから殿(との)さまが、馬にのって、おおぜい家来(けらい)をつれて、狩(かり)から帰ってきました。
殿さまは、おじいさんをよんで、
「ほう、めずらしいじじいだ。ではそこのさくらの枯れ木に、花を咲かせて見せよ」
といいつけました。おじいさんは、さっそくざるをかかえて、さくらの木に上がって、
「金のさくら、さらさら。銀のさくら、さらさら」
といいながら、灰をつかんでふりまきますと、みるみる花が咲き出して、やがていちめん、さくらの花ざかりになりました。殿さまはびっくりして、
「これはみごとだ。これはふしぎだ」
といって、おじいさんをほめて、たくさんにごほうびをくださいました。
するとまた、おとなりの欲(よく)ばりおじいさんが、それをきいて、うらやましがって、のこっている灰をかきあつめてざるに入れて、正直(しょうじき)おじいさんのまねをして、
「花咲かじじい、花咲かじじい、日本一の花咲かじじい、枯れ木に花を咲かせましょう」
と、往来(おうらい)をどなってあるきました。
するとこんども、殿(との)さまがとおりかかって、
「こないだの花咲かじじいがきたな。また花を咲かせて見せよ」
といいました。欲(よく)ばりおじいさんは、とくいらしい顔をしながら、灰を入れたざるをかかえて、さくらの木に上がって、おなじように、
「金のさくら、さらさら。銀のさくら、さらさら」
ととなえながら、やたらに灰をふりまきましたが、いっこうに花は咲きません。するうち、どっとひどい風が吹いてきて、灰は遠慮(えんりょ)なしに四方八方(しほうはっぽう)へ、ばらばら、ばらばらちって、殿さまやご家来(けらい)の目や鼻(はな)のなかへはいりました。そこでもここでも、目をこするやら、くしゃみをするやら、あたまの毛をはらうやら、たいへんなさわぎになりました。殿さまはたいそうお腹立(はらだ)ちになって、
「にせものの花咲かじじいにちがいない。ふとどきなやつだ」
といって、欲ばりおじいさんを、しばらせてしまいました。おじいさんは、「ごめんなさい。ごめんなさい」といいましたが、とうとう牢屋へつれて行かれました。 
かごめかごめ 1
   かごめかごめ
   かごの中の鳥は
   いついつでやる
   夜明けの晩に
   鶴と亀とすべった
   後ろの正面だあれ
江戸時代から伝わる「鬼遊び」うた。この“うた”の歌詞は、様々な意味を含んでいます。
“うた”のはじまりは、「かごめ かごめ(しゃがめ しゃがめ)」という言葉が訛(なま)ったものだそうです。
エッ、鳥の“かもめ”ではないの!鳥の“かもめ”と思っていましたが・・・。
「かごめ かごめ」は「屈(かが)め屈(かが)め」の意味。しゃがむ動作を命じて、しゃがませることを意味しています。
この歌が生まれたのは、千葉県野田地方です。醤油つくりで有名なところですね。その町は、醤油の倉とレンガ造りの堀に囲まれています。「かごめ かごめ」の語源はというと、醤油を積んだ舟が掘割から江戸川の水路に出るとき、水門をくぐらなければならないのですが、そのとき、水門で身をかがめなければならないので、「かごめ かごめ」といったのです。そこから、この歌が生まれたといわれています。
そして、この“うた”が長い歳月を重ねて伝わっていく中で、歌い継ぐ子どもたちの想像力がとても不思議な言葉のつながりをつむぎ出していったのです。まるで連想あそびのように・・・。
「うた」は、「かごめ かごめ」を鳥のかもめへと連想させ、「かごの中の鳥は」の歌詞へと続くのです。
   かごの中の鳥は
   いついつでやる
「かごめ(しゃがめ)」が一気に、鳥に飛躍し、変化して、「いつかごからでてくるの」と問いかける・・・?
そして、「夜明けの晩」へと転回するのです。
   夜明けの晩に
夜が明けた「晩」とは!不思議な言葉です・・・。
『なつかしのわらべ歌』では次のように解説されています。
「日が暮れて晩になり、そして夜が明けるのが自然の摂理です。夜が明ければ次第に太陽が輝きだすのであって、晩がめぐってくることはありえません。婉曲的に、「かごから出て遊べることはないよ」という意味を示しているのでしょうか。」
かごの鳥は「いついつでやる」と、問いかけながら、「かごから出て遊べることはないよ」と続くとしたら、少し不気味ですね。
そして、
   鶴と亀とすべった
またしても、歌詞は謎めいて、鶴と亀へ。
江戸時代の釈行智の『童謡集』の「かごめかごめ」では、後半に「つるつる・・・」とあります。
   かァごめかごめ かーごのなかの鳥は 
   いついつでやる 夜あけのばんに
   つるつるつッべェた なべのそこぬけ
   そこぬいてーたーァもれ
う〜む、つるつるつッべェた・・・
「つるつる・・・」が、つまり「つるつるすべった〜」が、これまた、鳥の「鶴」になったのですね。
やはり不思議な「うた」です。そう思ってパソコンを立ち上げ、ネットで調べてみました。そうすると、この“わらべうた”には怖くて哀しいお話ばかりが登場してきます。やはり、不思議な“うた”なのです。そして、ユーチューブでこの“うた”を聴いてみても、なんとも物寂しく切ない歌声がきこえてくるのです。
では、この“うた”を歌っての遊びはどのようなものなのでしょう。『なつかしのわらべ歌』では次のようになります。
「夕暮れに数人の子どもが集まり、「ずいずいずっころばし」やジャンケンで鬼を決めます。鬼になった子どもは、目隠しをして中心に座り、鬼以外の子どもたちは、鬼のまわりに手をつないで円陣を作ります。隊列がととのったら、「かごめかごめ・・・」と歌いながら鬼のまわりを回ります。そして、「後ろの正面だーあれ」で回るのをやめ、その場に座ります。最後に鬼は、自分の真後ろになった子どもが誰なのかを当てなければなりません。鬼の真後ろに座った子どもは動物の鳴き声を真似して声をだします。それが誰かを鬼が当てれば、当てられた子どもが次の鬼になります。」
子どもの頃にこの“遊び”を楽しんだ人から話を聴くと、この遊びをするのはいつも夕暮れ時だったそうです。鬼と夕暮れ時、なんだかやはり怖い思いを楽しむ遊びですね。
川原井泰江著でも「このわらべ歌はなぜか、夕焼けの風景が似合います」と。
この謎の多い“わらべうた”も、ここでは元気に鬼遊びとして楽しんでみましょう。
   かごめかごめ
   かごの中の鳥は
   いついつでやる
   夜明けの晩に
   鶴と亀とすべった
   後ろの正面だあれ
わあー、あたっちゃった〜。次々と鬼になっていく子どもたち。怖いです、やはり・・・。鬼だぞ〜・・・。 
かごめかごめ 2
こどもの遊びの一つ。または、その時に歌う歌。「細取・小間取(こまどり)」「子捕り・子取り(こどり)」「子をとろ子とろ」とも言う。「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教的儀礼を子供が真似たものとされる。
鬼は目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。各地方で異なった歌詞が伝わっていたが、昭和初期に山中直治によって記録された千葉県野田市地方の歌が全国へと伝わり現在に至った。 野田市が発祥地といわれることから、東武野田線の清水公園駅の前に「かごめの唄の碑」が建立されている。
地方により歌詞が異なる。
○ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
○ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?
○ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?
○ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるつる滑った 鍋の鍋の底抜け 底抜いてたもれ
○ かごめかごめ 籠の中の鳥は いつもかつもお鳴きゃぁる(お鳴きやる) 八日の晩に 鶴と亀が滑ったとさ、ひと山 ふた山 み山 越えて ヤイトを すえて やれ 熱つ や(お灸を据えて、やれ熱や)
○ 籠目籠目 加護の中の鳥居は いついつ出会う 夜明けの番人 つるっと亀が滑った 後ろの少年だあれ?
○ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だぁれ?
○ かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの番人 鶴と亀が滑った 後ろの少年だあれ?
なお、文献では、このかごめかごめは江戸中期以降に現れる。『後ろの正面』という表現は、明治末期以前の文献では確認されていない。さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていない。
文献
「竹堂随筆」 竹堂随筆(ちくどうずいしゅう):文政3年(1820年)頃に編纂)浅草覚吽院に住した修験僧「行智」の編んだ童謡集で、宝暦・明和年間(1751年 - 1772年)頃に収録された童謡集「かァごめかごめ。かーごのなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんに。つるつるつっぺぇつた。なべのなべのそこぬけ。そこぬいてーたーァもれ。」
「戻橋背御摂」 戻橋背御摂(もどりばしせなのごひいき):文化10年(1813年)、江戸市村座で初演された歌舞伎芝居鶴屋南北の作で、芝居に取り入れた子供の遊び唄。戻橋背御摂に関しては大南北全集(春陽堂)、鶴屋南北全集(三一書房)などで確認できる。「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつっはいた」(大南北全集)「かご目かご目篭の中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩につるつるつるはいつた」(鶴屋南北全集)
「月花茲友鳥」 月花茲友鳥(つきとはなここにともどり):文政6年(1823年)、市村座で初演された浄瑠璃。清元全集(日本音曲全集刊行會)、日本歌謡集成(春秋社)などで確認できる。「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつるつゝぱつた」
「幼稚遊昔雛形」 幼稚遊昔雛形(おさなあそびむかしのひながた):天保15年(1844年)に刊行された万亭応賀編の童謡童遊集「かごめ かごめ かごのなかへ(の)とりは いついつねやるよあけのまえに つるつるつッペッたなべの なべの そこぬけ そこぬけたらどんかちこ そこいれてたもれ(孫引き)」
「俚謡集拾遺」 俚謡集拾遺(りようしゅうしゅうい):1915年(大正4年)刊行1905年(明治38年)、文部省により各都道府県から集められ、1914年(大正3年)に刊行された「俚謡集」に収録されなかったものを集めたのが俚謡集拾遺である。「籠目かごめ、籠の中の鳥は、いついつでやる、夜明けの晩に、ツルツル辷(つ)ウベッた。」(東京)「籠目かごめ、籠の中のますは、何時何時出やる、十日の晩に、鶴亀ひきこめひきこめ。」(長野県)「かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、よあけの晩げつゝらつゥ」(新潟県)
「かごめかごめ」俗説
この歌の歌詞が表現する一風変わった(ある意味神秘的な)光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がある。ただ、『鶴と亀』以降の表現は明治期以降に成立したと思われるため、それらの解釈に古い起源などを求めることは困難である。また、この歌の発祥の地についても不詳である。
姑によって後ろから突き飛ばされ流産する妊婦や、監視された環境から抜け出せない遊女、徳川埋蔵金の所在を謡ったものとする俗説などがある。
解釈に際しては、歌詞を文節毎に区切り、それぞれを何かの例えであると推定し、その後で全体像を論じる形をとっているものが多い。以下に一部を紹介する。
「かごめ」
籠目、すなわち竹で編まれた籠の編み目を表す。
「囲め」が訛ったもの。つまり、かごめ遊びをする際に、皆で「囲め、囲め」と呼び合っている。
「屈め」が訛ったもの。つまり、かごめ遊びをする際に、オニに対して「屈め、屈め」と言っている。
籠目の形、すなわち六角形のことである。
籠目の形、すなわち六芒星のことである。
「籠女」と書き、見た目が籠を抱いているような女性、すなわち妊婦のことである。
「籠女」と書き、籠=子宮であり、すなわち妊婦のことであり、「聖母マリア」のことである。
「カーゴ(Cargo)」に乗る役目。
処刑場を囲んだ竹垣を表している。
「かごめ」は「神具女」(かぐめ)若しくは「神宮女」(かぐめ)である。即ち、神の雰囲気を具える女、日本で古くから厚く信仰されていた祈祷を行う「巫女」(ミコ、預言者)や「斎宮」の意味である。
「かごのなかのとり」
「籠の中の鳥」であり、当時の風俗から考えて鳥は鶏である。
かごめ遊びの中で、オニとなった人を「籠の中の鳥」に喩えている。
「籠の中の鳥居」と解釈し、籠に囲まれた小さな鳥居、もしくは竹垣に囲まれた神社を表している。
ある点を籠目の形(六角形または五芒星)に結んで出来た図形の中心に存在する物を指している。
籠目の形をした空間の中心に存在する物を指している。
籠女(妊婦)の中にいるもの、つまり胎児のことを指す。
「籠=子宮」の中にいる鳥、つまり「子」のことを指し、聖母マリアの子である「イエス・キリスト=ルシファー」を指している。
子供のことである。
「とり」=トリをとる人。祭り等で、最後の締めをやる人。最後尾に就いて、取り溢しが無いように皆を追い上げて、締めをする人。
処刑されることが決まっている牢屋の中の罪人
「いついつでやる」
「何時、何時、出会う」であり、「何時になったら出会うの?」「いつになったら出て来るの?」と疑問を投げかけている。
「何時、何時、出遣る」であり、「何時になったら出て行くの?」と疑問を投げかけている。
「何時、何時、出遣る」であり、「何時になったら出て行けるの?」と疑問を投げかけている。
「何時、何時、出遣る」であり、「いつ、出現するか?」「いつ、出て来るのか?」と疑問を投げかけている。
「何時、何時、出やる」であり、「救世主は、いつ出現・降臨するのか?」と疑問を投げかけている。
「何時、何時、出やる」であり、「何時になったら出るのかな?」と疑問を投げかけるのであるが、「出やる」の「やる」は西日本で、目下の者や愛玩動物に対して親しみを込めて使う敬語的語彙であり、共通語で的確な訳語がないが、「出やがる」に親しみのニュアンスを持たせたとでも云うべき意味を持つ。
「何時、何時、出遣る」であり、「(罪人が処刑されるために)いつ(牢屋の外に)出て来るのか?」と疑問を投げかけている。
「よあけのばんに」
「夜明けの晩」つまり「夜明け=夜の終り、朝の始まり」「晩=夕暮れ、夜」であり、「真夜中過ぎ」を指している。
「夜明けの番人」であり、籠の中の鳥、つまり鶏のことである。
「夜明けの晩に」は「夜明けから晩に至るまで」という意味であり、「朝早くから夜遅くまで」という時間の経過を表している。
「夜明けの晩」つまりは光を見る前であり、胎児からの視点では臨月に当たる。
「夜明け」は夜が明けたときで、「晩」は夜のこと。つまり「夜明けの晩」とは「存在しない時間」のこと。
「夜明け」は「始まり」で、「晩」は夕暮れ=黄昏(たそがれ)=「終わり」のこと。つまり「夜明けの晩」とは「夜明けでもあり晩でもある時刻=(世界の)始まりでもあり終わりでもある(歴史上の)時刻」のこと。「アルファでありオメガである」。あるいは、「夜明け」という一定の期間の「晩=終わり」でも意味は通じる(後千年王国説)。
「夜明けの晩」つまり「夜明け」の「晩=終り(朝が始まりなら晩は終り)」であり、「夜が明ける終りの部分」つまり「日の出=日光を見る(日光東照宮の方向を見る)」を指している。
「夜明けの晩」つまり「夜明けとも言える晩」であり、午前4時前後の時間帯を指している。
「つるとかめがすべった」
「鶴と亀が滑った」であり、縁起の良い象徴の2つが滑るということで、吉兆(もしくは凶兆)を表している。
「鶴と亀が統べた」であり、鶴および亀に象徴される為政者(または建造物)を表している。
「鶴と亀が統べった」であり、鶴および亀に象徴される為政者が、「統治した」と「滑った」を掛けてある。
「鶴と亀が統べった」であり、鶴は「太陽」、亀は「太陰(≒月)」を象徴し、「太陽」(上向き三角形)と「太陰(≒月)」(下向き三角形)が統べる(=統合・統一される)という意味である。
京都に伝わる童謡の歌詞「つるつる つっぱいた」が変化したもので、「ずるずると引っ張った」という意味である。
清元節の浄瑠璃「月花茲友鳥」より、「つるつるつるつっぱいた」が変化したもので、「するすると突っ込んで入っていった」という意味である。
「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴である2つが滑るということで、死を表している。
敦賀と亀岡を統べるで明智光秀が統治。
「鶴と亀」とは、日光東照宮御宝塔(御墓所)の真前に(側近くに)置かれている「鶴(飛ぶ=天)」と「亀(泳ぐ=海)」のことであり、徳川家康の側近つまり天海が「統治する(陰で操る)」という意味である。
「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴の2つが滑るということで、罪人の命運が尽きること(=処刑されること)を表している。
「うしろのしょうめん だあれ」
「後ろの正面」は、真後ろを表し、「真後ろにいるのは誰?」と問うている。
「後ろの正面」は、真後ろを表し、「真後ろにいるのは誰?」と問うている。しかし、そもそも振り返らずに後ろなど見えるはずが無い。頭の後ろ側に「目」は無いのだから。頭の前側にある「二つの目」に頼っていては見えるはずが無い。その上で問うているわけである。「見えないものをみろ」と。つまりこの時、「普通であれば(=二つの目では)見えないもの(物・者・存在・世界)が観える」のである。
あるいは、もっと直接的に、「夜明けの晩に」が「夜明けでもあり晩でもある(時刻)」を指すとすると、同様に、「後ろの正面」も「後ろでもあり正面でもある(存在)」を指すのかもしれない。とすれば、歌全体が謎かけであり、「誰?」はその前の歌詞全体(「誰?」の性質)にかけられるべきものであり、「後ろの正面」(性質のひとつ)と「誰?」は分けるべきではないだろうか。
「後ろの正面」は「鬼」の背面(背中側)を指す。
「後ろの正面、誰?」は、「後ろを向いた時に正面に居る人は誰?」との意味。転じて、逆の存在・影の指揮者・取り憑いていた存在等を表す。
江戸時代、京都で「正面」と言えば方広寺大仏殿を指し、正面の後ろに葬られた人物(豊臣秀吉)を連想させている。
斬首された首が転がって、体は正面を向いているけれど首が後ろを向いて、「私を殺したのは誰?」と問うている。
または、死んだことに気付かず目の前の首がない体は誰のものだろうと疑問に思っている様子を表している。
ただし、この「しょうめん」の部分の歌詞は、一部の地域では「しょうねん(少年)」とする場合もある。
「後ろの正面」は、真後ろを表し、「(罪人の首を斬るために)真後ろに立つのは誰?」と尋ねている。
明智光秀の出身地(岐阜県可児市)から日光(日光東照宮)の方向を向くと、「後ろの正面」はちょうど、日本で唯一、明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺がある大阪府岸和田市(貝塚市)になる。
歌全体の解釈
「かごめかごめ」はその歌詞の多義性、論理のおかしさ、普通ではなく合理的でない所が、人間の類推の能力に働きかけ、聞く人を楽しませる、面白味のある言葉遊びの歌として日本中に流行したとする説。
主に女児の遊ぶ「かごめかごめ」は、歌の冒頭で一人の目の見えない状態の女児を複数の女児が取り囲み「かごめ かごめ」と囃し立てるところから始まる。ここでの「かごめ」は、「囲め」と「籠のなかの女」と「格子状で隙間のある籠目」等の複数の意味を持つ多義語となっている。次に「かごのなかのとりは」で、冒頭の「かごめ」の意味を「鳥類のかもめ」の意味へ一転させ、取り囲まれた女児を「鳥が囲まれている(とりかこまれている)」「籠の中の鳥」等と意味付けている。次に「いついつでやる」で、「鳥はいつ籠から出ていくのか」「答え合わせはいつだろう」という期待感を持たせると同時に「鳥が誰かと会う」ことを隠喩し、多義性を持たせている。次に「よあけのばんに」で「夜が明けた晩」という矛盾、「朝と夜の順序が逆」という倒置を用い、疑問と混乱を誘うおかしみを出している。そして「つるとかめがすべった」で、「鳥は鶴だった」と「かもめ」から一転させ、「鳥が出会ったのは亀であった」という拍子抜けを誘い、「縁起の良い鶴と亀が滑って転んだ」という失敗への隠喩を持たせ、最後に「うしろのしょうめんだあれ」で「後ろなのに正面」という矛盾、「誰が真後ろにいるかを当てて頂戴」という多義性を持たせている。
元々児童遊戯の歌として成立したとする説(国語辞典など)
籠の中の鳥=オニであり、「囲め、囲め、オニの人は何時になったら次の人と交代して出て来ることができるのでしょうか。後ろの正面は誰?」と解釈する。ただし「鶴と亀がすべった」の部分については「語呂やリズムを合わせる為」と曖昧にしているものが多い。
遊女説
一日中(夜明けの晩に)男性の相手をさせられ(鶴と亀が滑った)、いつここから抜け出せるのだろう(いついつ出やる)と嘆いているうちにもう次の相手の顔(後ろの正面だあれ)が見え隠れしている、という自由のない遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表している。
日光東照宮説
日光東照宮の三神庫と呼ばれる建築物群や奥院には鶴と亀が対になって飾られている所があり、歌詞中の「鶴と亀が統べった」はこの彫刻を指しているとしている。
豊國廟説(宮本健次など)
正面とは京都の豊国神社周辺(現在の正面通り)を指し、徳川家康を神格化する際に邪魔となった豊臣秀吉を神の座から引き摺り降ろす為に行われた、豊国神社の打ち壊しと、秀吉の棺を掘り返して庶民と同じ屈葬にして埋め直した事件を表したものである。
芦名埋蔵金説
「鶴と亀」はそれぞれ芦名家の城の別名であり、埋蔵金の隠し場所を示している。
陰謀説
「かごめ」は籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて流産してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。
キリスト待望説
隠れキリシタンが救世主を待望する歌。
「ああ 聖母マリアよ 聖母マリアよ
 あなたの御腹の中におられる 光り輝く不死鳥 光の御子 イエス=キリストは
 いつ再臨されるのでしょうか
 それは世界の始まりと終わりのとき
 そのとき 太陽と月は一つとなり
 あなた方の「目」が開け それまで見えなかったものが みえるようになるでしょう」
謎かけ説
上記を内容は同じに謎かけ風に。
「皆様に謎々です。
 その者は、今は未だ、聖なる母の御腹の中におられる、光り輝く不死鳥、光の御子であり
 その者は、世界の終わりに生まれ、世界の始まりに死ぬ御方であり
 その者は、明けの明星。すなわち太陽と月が一つとなった御方であり
 その者は、後ろでもあり正面でもある御方です。
 さて、その御方とはいったい誰でしょうか?」
囚人説
かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。
明智光秀・南光坊天海同一人物説(岩辺晃三)
南光坊天海の正体が、山崎の戦いに敗れた後も生き延びた明智光秀であることを示唆しているとする説。鶴と亀には、日光東照宮の彫刻の他に敦賀と亀岡の意味もあるとする。ただし前述のように、「鶴と亀」の部分が明治期以前に存在していたことを示す文献は確認されていない。
神示説
「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。
降霊術説
「カゴの中の鳥は」と歌っているところで円の中に人がいなければ霊を呼び出すという、コックリさんと同様の交霊術に使われる歌であるという説もある。
呪術説
真ん中の子供に神様を宿らせるまじないであったとする説。
遊戯説
影の支配者を当てる遊戯。 
口寄せ説
一人を取り囲み歌を歌いながら回ることで霊を呼び寄せ、その真ん中の人間に憑依させます。
諸説
流産の恨み説
あるところに、お腹の中に赤ちゃんを身ごもったお母さんがいました。  (歌詞中の「籠の中の鳥」が、赤ちゃんを表している。)
いつ生まれてくるのかな…と、お母さんは赤ちゃんが産まれてくる日を楽しみにしていました。 (「いついつ出会う」という歌詞から読み取れる感情)
しかし、ある夜のこと。安産を願うために神社を訪れ、帰ろうと階段を下っていたところ、誰かに背中を押されて転んでしまい、お腹の子を流産することになってしまったのです。  (「夜明けの晩に、鶴と亀が滑った」の歌詞から読み取れる状況)
大切な子供を失う事になってしまったお母さんは、背中を押した人の事が許せず、犯人は誰なのか探している。 (歌詞の「後ろの正面だあれ」には、お母さんの怒りの感情が含まれている事が伺える。)  という、怖い話があります。この話は、子供を失ったお母さんの怒りの話という事ですが、実際に流産となり、生まれてくることが出来なあった赤ちゃんが犯人を探しているという説もあります。
流産説
「かごめ」とは「籠女」、妊娠をしている女性である。「かごのなかのとりは、いついつでやう」というのは、お腹にいる赤ちゃんがいつ出てくるのだろうということ。「夜明けの晩に」、夜明けなのに晩とは・・・?つまり「この世ではない世界」。「鶴と亀が滑った」というのは、おめでたいこと(その象徴として鶴と亀)が滑った、つまり流産したということだそうです。「後ろの正面だあれ」、後ろに水子の霊がいるよ。 
殺された親子説
昔々、一組の夫婦がありました。夫と妻、そして夫の母との三人暮らしでした。夫婦の仲は良かったのですが、夫の母親はこの妻をとても嫌っていました。
ある晩のことです。念願の子供をその腹に授かった母親が、安産の祈願に神社にお参りしました。帰りに階段を下りようとした時、突然後ろから誰かが突き飛ばしました。妻の命は助かりましたが、腹の子は無念、流産してしまいました。そして突き飛ばした犯人こそ、夫の母親だったのです。
かごめかごめ / 「かごめ」は籠目と書き、籠とはつまり母親の腹を指します。
かごの中の鳥は / 鳥はその腹の中の胎児。
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った / 子を身ごもった女が階段から落ちた、と。
後ろの正面だあれ / 後ろから突き飛ばしたのは誰だ。
諸話
昔、貧しい村で定期的に子供たちが村長の周りを囲み、今の「かごめかごめ」と同様のことをし、後ろの正面にきた子供を口減らしとして殺すという儀式があったそうだ。「かごめかごめ」は「かこめ、かこめ」から来ているという説もある。
嫁のことを気に入らなかった姑が、妊娠中の嫁を突き落として流産させたようなのだ。だから最後にある、「後ろの正面だぁれ?」というのは、突き飛ばした姑のことを指している。かごの中の鳥というのはお母さんのおなかの中の子供という意味になり、いついつでーやーるがいつ生まれるの?という意味となる。鶴と亀が母親とおなかの中の赤ちゃん。夜明けの晩に姑が階段からお母さんと子供をつき落とした。それで、後ろの正面だーれといのは、突き落とした人は誰?という意味となる。
あれは罪人を斬首するときの歌った歌だという説がある数名の首切り役人が罪人を囲んで「かごめかごめ」。「かごの中のとり」とは罪人を指し、「いついつでやる」は放免になるのはいつかと聞きながら、「夜明けの晩」とは放免はないことを意味し、「つるとかめがつうべった」は、『つるりとこうべがつうべった』と斬首した罪人の首を意味し、斬首した首がどっちを向いていると。
昔出産を間近に控えた女性がいました。その女性はある夜明けの晩、神社へ一人向かい「この子が無事に生まれてくるように」と願掛けをしました。そして、登ってきた神社へとつながる長い階段を降りようとしたその時。何者かからいきなり後ろから背中を押され、その女性とおなかの中の赤ちゃんは階段を真逆さまに落ちてしまい、もちろん死んだ。そしてその階段の頂上で密かに笑う老婆が一人・・。その女性の姑。姑は息子の嫁のその女性がどうも気に入らなかったらしく、赤子が生まれてくる前にどうにか始末してしまおうと女性が一人外出するのを見計らって女性を殺すことを考えていた。姑によって殺された嫁とまだ名も無い孫。この二人の悲しみや恨みが基づいてか「かごめこごめ」にはこんな解説があるのだろう。
「かごめかごめ」は、母の母体を指し、「かごの中のとりは」で、胎児を指している。「いついつ出やる」:いつ生まれるのか。「夜明けの晩に」:昔は出産が自然分娩だったので夜明け近くが多かった。「鶴と亀がつべった」:縁起が良いと象徴されているものが、すべると言う事で、縁起が悪い事を言う。この場合、流産した事を言う。「後ろの正面だぁれ」:いるはずのない、赤ちゃんがあなたの後ろに立っている。昔は、無事に出産する事が難しく、それを風刺した歌だという説もあるのだ。
神様への捧げ物にしたなど、飢餓のとき誰を食料にしてしまうのかを選んでたらしい。
   かごめかごめ    (かこめ、かこめ)
   籠の中の鳥は    (皆に囲まれている人が)
   いついつ出やう   (いつ出ることが出来るか)
   夜明けの晩に    (どう考えてもありえない時間に)
   鶴と亀が滑った   (良いことが無くなった)
   後ろの正面だぁれ? ((神様に捧げられて)存在しなくなるのは誰だ?)
打ち首になった女囚人の歌だっと言う説や、宝物の隠し場所を記した暗号だと言う説や階段から突き落とされた子供の歌だって言う説などがある。歌の起源とは違うが、昔の貧しい村で飢饉が起きた時に、口減らしをするためにその村の村長を中心に子供達が円になり、村長がかごめかごめを歌っている間に円をくるくると回し「後ろの正面だあれ」で回転を止め、その時村長の真後ろに止まった子供から順に殺していった、という話だ。今の遊び方と同じというわけだ。という事は、そんな昔から今の形で存在していたのだろう。
カゴメとは籠の目、三角形を2つ合わせて六芒星の形になるだろう。これは仏教でいうところの六道を意味するのだ。六道とは輪廻の世界の事。御釈迦様が仰られたように苦の世界。籠の中の鳥とは正しく、私達や御先祖様、輪廻の世界の住人のことなのだろう。いついつでやる→いつ輪廻の世界から抜け出して本当の世界に帰るのか、となる。夜明けの晩とは不思議な表現だが、その時期を表しているのだろう。鶴と亀は四神獣の朱雀と玄武、即ち方位を示す。つまり、南北が滑った。従って極ジャンプの事と言われている。とうことは、この歌は古い時代の終焉、全く新しい時代の夜明けを意味する歌なのではないだろうか。
「かごめかごめ」の遊び方は古代の呪術に基づいているのではないだろうか。真ん中で目を塞いでしゃがんでいる子は、憑依させるための巫女を表しており、反時計回りで周囲を回ることで、この世からあの世へ戻り、巫女に霊が憑くのを促すというもの。「後ろの正面だあれ?」とはあの世の霊がそこにいるという訳になる。目を塞いでしゃがんでいる子は「生け贄、人身御供」を象徴している。古来、生け贄の目を潰す習慣があったことは、ご存知だろうか?生け贄の周りをグルグル回るのも、有名なような気がする。  
かごめかごめ 3
本来的に「かごめかごめ」は童謡ではなく、むしろ わらべうた である。童謡とわらべうたの定義はともにゆらぎがあるので、両者の境界を明確に定義するのは難しいが、一般論的にざっくり分ければ、プロアマの作詞作曲家が子供たちのために制作した楽曲が「童謡」で、誰の口からとも知れず日常生活の中で生まれ、子どもたちの間で広まった楽曲が「わらべうた」だと言える。 1作者が存在するか と 2自然発生的か の2点が、両者を分けるポイントだろう。童謡の例としては「ぞうさん」や「どんぐりころころ」が挙げられ、わらべうたの例としては「あんたがたどこさ」や「通りゃんせ」などが挙げられる。わらべうたはいつの時代、どこかで、誰かが生みだした始源の歌詞やメロディにとらわれない。普及の過程で口々に、自由にアレンジされ、様々なバリエーションを増殖させていく。現在までに最もよく広まり、あるいは最もよく保存されてきた形がオリジナルだという保証もない。この性質は伝説などにも共通するところがあると編集者は思う。
原題に立ち返り「かごめかごめ」の成り立ちを考えてみる。変幻自在なわらべうたの性質にかんがみ、「かごめかごめ」を「かーごめかごめ かーごのなかの鳥は…という歌いだしで始まる歌」として類型してみると、実は江戸時代の後期ごろに関東一円で成立した文献においてすでに、「子どもたちがこんなん歌ってた。」ということで、多種多様な歌詞が記録されている。ゆえに「かごめかごめ」は本来、正しいメロディ、歌詞を持っていたわけではなく、この時点で「かごめかごめ」の真なる発生源を断定することはほぼ不可能だと言わざるを得ない。子ども好きの神さまが子供たちのために作ったとでも思っておけばよい(暴論)。
しかしですね、先人達もそんなことは当然にご承知。その上で千葉県野田市が童謡「かごめかごめ」の発祥地だとされるのには理由があり、決して「言ったもん勝ち」でそうなっているわけではない。
千葉県野田市が童謡「かごめかごめ」の発祥地だと言われる理由・・・。それは西暦1933年(昭和8年)、山中直治(やまなかなおじ)という教師・作曲家が、千葉県野田市で「かごめかごめ」の歌を採譜したからである。採譜とは、それまで口伝されていた歌を聞き取り、メロディを楽譜に起こし、歌詞を記録することである。さらに山中直治は、千葉県野田市で採譜した「かごめかごめ」を、『日本童謡民謡教集』という書籍(学校で使用される教本)に寄せた。すると以降、この書籍に載っていた「かごめかごめ」の態様が、次第に「かごめかごめ」の統一規格と化していった。すなわち決まったメロディ、歌詞という童謡の性質を得た「かごめかごめ」が浸透し、全国に 群雄割拠 していたであろう種々のわらべうた「かごめかごめ」たちを併呑、駆逐。今日に至るまでに ほぼ 天下統一を果たしたのである(比喩です)。こうして今の世に最も広く知れ渡り、「かごめかごめ」と言えば誰もが想起するのあのメロディ、あの歌詞は、千葉県野田市で山中直治によって見出されたものだから、千葉県野田市は定型的なメロディと歌詞をもった「かごめかごめ」、すなわち童謡的性質を備えた「かごめかごめ」の発祥の地として顕彰されるのは、然るべきことだろう。山中直治の採譜なくして、わらべうた「かごめかごめ」が現代まで生きのびた確証は無いのだから、まぎれもなく偉大な事蹟である。( 野田市内に存在する 愛宕神社 の本殿に刻まれた、子どもと籠と鶏の彫刻。「かごめかごめ」との関連も噂される。文政7年(西暦1824年)の作。 )
「かごめかごめ」の謎
天下統一を果たしたキリッとは比喩ったものの、なお全国には様々なバリエーションのわらべうた「かごめかごめ」が生き残っている。しかしながら、その内容としてはおおむね次のとおりだろう。
   かごめかごめ
   かごのなかのとりは
   いついつでやる
   よあけのばんに(ん)
   つるとかめが(と)すべった
   うしろの正面(少年)だあれ?
意味:籠の中の鳥はいつ出られるのだろう。夜明けのばん(晩、番)に鶴と亀がすべった(滑った、統べった)。後ろにいるのは誰?
「他愛もない」と笑うはあまりに意味不明で、言いようのない不気味さを持つ歌詞は、古来多くの人々に "歌の真意 "に関する興味をかきたててきた。そして「かごめかごめ」に魅入られた人々に、歌の成立に関する様々なバックストーリーやオカルト、果ては陰謀説まで、多くの空想をめぐらしめてきた。繰り返しになるが、わらべうたの性質からして、「かごめかごめ」にそもそも真意や深い意味なんぞがあるとは限らない。また、山中直治による採譜等によって今日まで保存されてきた「かごめかごめ」が、始源の「かごめかごめ」であるとも限らない。現在生き残っている「かごめかごめ」が、記録された時点ですでに改編されたり複数の歌が接合したものであったとするならば、その経緯を知らない人から見て内容が意味不明なのは、むしろ当たり前の話でもある。そして意味不明なものを不気味だと思うのも、至極当然の流れだと思う。
というわけで、「かごめかごめ」の真意について現在どんな仮説や空想(伝説)が飛び交っているかを、少しだけ付記しておく。
1 意味なんかないよ説
本来「かごめかごめ」には、歌全体を通した意味など大してないよ、とする説。フレーズの内外で目まぐるしく起こる言葉の意味の連想あるいは転換を、謎かけ的に楽しむ歌だよと考える。例えば歌いだしの「かごめかごめ」という言葉は、一見すると意味不明であり、しかし聞き手に「"囲め"だろうか」「籠目では?」「籠女かも」など、複数の意味を連想させうるものだろう。だがそうやって"一般的な"連想をさせておいた上で、第二フレーズで「かごめ=籠の中の鳥だ」という解が与えられる。これは多くの場合、予想の斜め上を行くような答えではないだろうか。 「かご=籠」はともかく「め=鳥」というのはやや強引だが、雀(すずめ)や燕(つばめ)のように、名前の終わりに「め」がつく鳥はそこそこいる。また、「かもめ」とも語感が似ている。
だからまあ、「かごめ=籠の中の鳥だ」という解を与えられても、聞き手はわりとギリギリのところで納得しうる。当てられにくく、また納得させられる絶妙なラインの解である。すなわち「かごめかごめ」はフレーズ同士かけあったり矛盾を述べたりと、突拍子もない展開に対する驚きと納得を内包させて楽しむ児戯であり、全体の意味にこだわった歌ではない。
2 罪人説
罪人について歌ったものだという説。かごめとは籠目(かごめ)であり、罪人を輸送する籠、あるいは牢屋を意味するという。また籠の中の鳥とは、籠もしくは牢の中の罪人のことだという。歌全体の意味としては、罪人のことを「いつ解放されるのだろう」と心配している、あるいは罪人自身が、夜明けの晩に(番人)鶴と亀がすべった隙に脱獄をはかった様子だと解釈できる。自分の後ろに、正面(自分の方)を向いている番人と背面を向いている番人がいて、後ろの正面は誰だ、腕っぷしで押し通れる相手か、と思案しているのかも知れない。さて、この罪人が誰であったかについても複数の説が言いたい放題言われている。中でも
無実のお父つぁんが役人に連れていかれる様子を、「いつ帰って来られるだろう」と子が悲しむ歌だという解釈。目隠しをしたかごめかごめの鬼役の姿は、泣いている姿とよく似ている。決して出してはいけない狂気の殺人鬼。「殺人鬼が脱獄したらしいぞ」「マジかよ」「ところでお前の後ろにいるのは、どちら様?」「え?」というサイコスリリングな物語だという解釈。が有力だろう。たぶん。
3 悲しき遊女説
遊女について歌ったものだという説。かごめとは籠女(かごめ)であり、遊郭に入った女性を意味するという。また籠の中の鳥とは、遊郭で客をとる遊女を抒情的に表現したものだという。ご存知の諸兄も多いと思うが、江戸時代の遊郭は人々の往来(道路)から格子ごしに遊女たちを物色できる造りになっている事が多かった。そこから「ひやかし」という言葉も生まれた。フェミ的には許し難い歴史だと察せられるが、あたかもショーウィンドに並べられたかのような遊郭の女性達をもって「籠の中の鳥」と比喩することは、純粋に表現として美しいと思う。さてもこの説に立って歌の意味を考える場合には、次のような意訳が仮説として唱えられている。
遊郭に入れられてしまった少女は、いつ出てくることができるのだろう。夜が更けるまでツルとカメが滑った(性的サービスの暗喩)。ああ、また次のお客さんが来る…(涙) 遊郭に入れられてしまった少女は、いつ出てくることができるのだろう。あれ?夜明けの番人(見張り役)のつるとかめ(あだ名または女性名)がヘマしてる。よっしゃ逃げたろ。
4 水子説
生まれてくることができなかった赤ちゃんの歌だという説。かごめとは身籠(みごもった)った女、つまり妊婦を意味するという。また籠の中の鳥とは、そのお腹の中の子のことだという。 この説に立つと、歌の意味は次のようになる。
幸せそうな妊婦さん。赤ちゃんはいつ産まれるのだろう。でもある夜明けの晩にツルっと転び、流産してしまいました。背ろにいるのは、だあれ?
この問いかけに対する回答としては、誰しも「赤ちゃんの亡霊」を想像するだろう。「どうして産んでくれなかったの?」と言わんばかりに、帰って来る赤ちゃんの亡霊。ぞっとしない話でである。さらに話を膨らませ、母親はお金持ちの愛人だったとする場合もある。嫉妬や相続問題などが絡み、母親ともども殺されたお腹の赤ちゃん。その亡霊が復讐に現われるまでが歌になっているという。ただ、いずれにしてもその大筋において 「お前だー!」 のオチで有名な現代の伝説 「コインロッカーベビー」 に何となく似ており、その背後に因果応報の原理が敷かれていると指摘できる。こうして一本筋の通った展開は、かえって子どもらしい混沌が無く、つまり「わらべうた」らしくない。歌の中にちりばむ謎めいた語も、物語の構成上で整然と意味付与され、あまりに無駄がない。以上のように、かごめかごめが「合理的で、知的な怪談」として歌い上げられたとする説は、某巨大掲示板で言及されることも多いから、わりと最近になってから普及したのではないかと思われる。
5 徳川埋蔵金説
重大な秘密、具体的には 徳川幕府の隠し財産(埋蔵金) の眠る場所について歌にしたものだと言う説。表に出せず、さりとて失われてはならない情報を、歌い継がせることで後世に残したと考える。本説ではまず、かごめについて文字どおり籠(かご)の編み目のことを意味すると考える。また、その形を 六芒星 だとする(当然ながら、現実には六芒星の形でない籠の編み目も無数に存在する)。さて、六芒星と言えばユダヤ教のシンボルマークとしてよく知られているが、その聖地エルサレムより直線距離で9000km以上離れた我が国でも、歴史上特別な意味をもって使用された痕跡がある。例えば、古来 四国地方 に根を張る忌部氏という氏族は、六芒星を原型とした家紋を用いたとする説がある。また、諏訪神社や伊勢神宮へ続く道に、六芒星が刻まれた石灯籠が存在するとも言われる。このように日本でも六芒星が用いられた理由には、ユダヤ教の影響だとか、日本で独自進化した陰陽五行道だとかの諸説がある。しかし、いずれの説も六芒星に結界機能が見出されていたと考える。さらに日本人と六芒星との関係を見出そうとする立場からは、わが国では霊的な力をもつ宗教施設それ自体を六芒星に配置することで、結界機能を発生させる試みがされてきたとも主張されている。例えば江戸時代初期頃に幕府が建てた 主な寺院 を線で結ぶと、江戸を中心に六芒星が浮かび上がると言う。六芒星に結界機能を見出す中では最大規模の仮説であり、 「江戸結界説」 とも呼ばれる。ここまでを統合すると、「かごめかごめ」は、かごめ(すなわち六芒星形)状に配列された目印が作る結界の中に、籠の中の鳥(すなわち徳川埋蔵金)が眠る様相が歌にされたものだと捉えられる。そしてこの説にたって歌の意味を読み解いた場合、徳川埋蔵金の隠し場所として候補に挙げられるのが 日光東照宮 である。歌を読み下すと、次のようになる。
かごめかごめ = 徳川家ゆかりの六芒星(岐阜の恵那市明智町、京都の明智神社、静岡の浜松城、江戸城、天領(幕府直轄地)の佐渡金山、日光東照宮)に
かごの中の鳥は =  隠された埋蔵金は
いついつ出会う = いつ姿を現すのだろう
夜明けの晩に = 夜明けの終わり、すなわち朝日がさす時間
鶴と亀がすべった = 日光東照宮にある鶴と影の象から影がのびて、三猿を指す。三猿の見つめる方向に眠り猫の彫刻があり、その先に徳川家康の墓がある
後ろの正面だあれ = 徳川家康の墓の背後に、次のような紋様がある
この図形は六芒星の上部を取り除いたものであり、「下がある」つまり「下に何かある」ことを暗示している。よって、「徳川埋蔵金の隠し場所は、ここだったんだΩΩΩ!」…ということになる。以上がかごめかごめ=徳川埋蔵金の隠し場所伝承説に関する大体の全容であるが、編集者の意見を一言だけ付すならば、 この仮説、苦しいってレベルじゃねーぞ とだけはお伝えさせていただきたい。出発点から光秀=天海説という怪しい伝説をミックスし、鶴と亀がすべるくだり以降は歌詞とはかけ離れた解釈が暴走。よしんばそこまでは許容しても、墓の下にあるものが埋蔵金だと、なぜ断言できようか。と様々なツッコミ所を残しつつも、埋蔵金ロマンは時を超え人々を惹きつける。1990年代に実際に付近で発掘調査が行われたこともあるというから、魅力的な仮説であることに疑いはないだろう。
6 南光坊天海の正体が明智光秀であったことを伝承している説
本能寺の変を起こし裏切者として散ったとされる明智光秀が実は生き延びており、 南光坊天海 と名乗って徳川幕府に出仕。対朝廷政策や宗教政策で暗躍して幕府の影の支配者となったとする説。5の徳川埋蔵金説と同様に、かごめとは六芒星であり、結界であると考える。そして籠の中の鳥とは、明智光秀のことだとする。この説にたって「かごめかごめ」を読み解くと、次のようになる。
かごめかごめ = 徳川家の作った六芒星(岐阜の恵那市明智町、京都の明智神社、駿府の浜松城、江戸城、佐渡金山(幕府津直轄天領)、日光東照宮)
かごの中の鳥は = 徳川幕府に仕える明智光秀は(鳥は、土岐の暗喩だとも言われる。明智氏は土岐氏の支流。)
いついつ出会う = いつ世に名声を馳せるのだろう
夜明けの晩に = 夜明けの終わり、すなわち朝日がさす時間帯。本能寺の起こった時間帯あるいは日の出=日吉丸=豊臣秀吉の治世の晩(終わり)に
鶴と亀がすべった = 鶴と亀は日光東照宮の暗喩。つまり徳川家が天下統一を果たした(統べた)
後ろの正面だあれ = 徳川家康の背後にいる真の支配者は誰だろう(答え:明智光秀)
この説の補足としては、日光東照宮に徳川家の家紋である葵紋と並んでなぜか明智家の家紋である桔梗紋が多く残されていること、日光に「明智平」という地名が存在することなどが挙げられる。さらには、「かごめかごめ」の段で語られる六芒星のうち、日光東照宮の背後(対角)にある建物が明智神社であること等も指摘される。明智神社は日光東照宮に対し正面を向いているともいう。仮に本説が真実ならば、「かごめかごめ」の制作者は明智光秀本人か、あるいは歴史の真実を知る情報通の誰かということになるが、何のためにそんなことをしたんだ?という疑問符が付いてくる。自らの成し遂げた大業を表沙汰にはできないが、それでもなおウキウキで「わらべうた」として残さずにはいられなかったのだろうか。ともすれば、明智光秀の性格面も透けて見えて面白いと思う。
7 民間信仰説
謎めいた歌詞を歌いながら、目隠しをした鬼を囲って周回する遊び「かごめかごめ」は、本来は遊びとして生まれたものではなく、呪術的な儀式、あるいはトレーニング方法だったと考える説。前述した1〜6の説が「かごめかごめ」の歌詞に隠された真意の考察に注力するに対し、本説群では「かごめかごめ」について、その動作にまで、隠されたもしくは失われた意図があると考える。いわばスピリチュアルな観点から「かごめかごめ」を読み解き、歌詞を儀式の一部(呪文)のようなものだと認識する説で、おおむね以下のようなバリエーションに分類できる。
イ 通常の「かごめかごめ」は鬼役の周りを回りながら歌を歌う。しかしこの鬼役を置かずに「かごめかごめ」を行うと、輪の中心に本物の鬼(あるいは神霊)が宿るとする説
ロ プレイヤーが一体となり、念をこめながら「かごめかごめ」を行うと、輪の中心にいる鬼役(あるいは、外輪のいずれかの者)に神や幽霊が憑依(降霊)するとする説
ハ 黎明や幽玄など、陰陽が混淆する特殊条件下(夜明けの晩)に「かごめかごめ」を行うと、肉体(籠)と魂(鳥)が調和。心身の制御が自在になる(鶴と亀を統べる)とする説
イの説ではこっくりさん等に類似するオカルト、ロの説では近世まで巫女が担っていた神おろしの儀式、ハの説では密教的な修行として、「かごめかごめ」の発祥起源を説明することができる。「かごめかごめ」が広まったと考えられる江戸時代中期〜後期は、まさにこれら民間信仰の最盛期と重なることから、民俗学的な観点からは十分にその可能性を検討する余地のある仮説だと思う。しかしながら一方で、その明確な論拠となり得る資料・文献を取りそろえることは、不可能に近いんじゃないかとも思われる。  
かごめかごめ 4
かごめと言うのは、籠目であり、籠は竹冠に龍。竹で作った龍が絡まるようなものです。龍と言うのは伝説上の生き物ですが、現すのは、神聖な力であり、神や神社です。神社の手水場には、必ず龍がいますよね。さらに、古くは竹垣でわざわざ囲む建物や地は、神社など、神聖なものの地、神域でした。
籠目は籠目紋のことでもあり、六芒星を参照して下さい。更に、しめ縄は龍や蛇の絡んだ姿を示しています。鏡餅もとぐろを巻いている姿の象徴です。この歌の現している物が、ぼんやりと分かって来たかと思います。
かごのなかのとりは、籠の中の鳥というのは、神社の中の鳥。不死鳥、つまり鳳凰ですね。とりではなく、とりい、鳥居と解釈する事も出来ます。いずれにしても、神社の事を示しているのは、明らかな感じがします。
いついつでやるは、いつ飛翔するのか。又は、いつ出現するのか。それとも、いっついである、一対である。ふたつあるの意味だとも取れます。
夜明けの晩は、夜明けと晩で、一日中。又は夜明けの暗いうち、深夜。人間の精神の高揚する時間。又は、日食。天の岩戸の伝説の話しと解釈する事も出来ますが、この話の大きさから言えば、大きな歴史的背景の夜明けとも言うべき時代の、晩のようなひと時、あるいは、いずれ夜が明けるような時代が来る前の、晩のような時代と解釈します。
つるとかめがすべった。つると亀は、二本足と四本足、赤ん坊から大人。又は天と地の象徴。肉体と空をかける精神の対比を現すなどが考えられます。すべったは転換した、反転したとも取れますが、統った(すべった)、つまり、統治したということです。統べると言う言葉は、古語では普通に使う言い方です。足がすべったみたいに解釈する方が不自然ですね。
この繋がりから、考えられることは、支配したのは、空のつる、地の亀、天と地であり、空間、物質界、あるいは俗世界を言っているのかも知れません。すると前の夜明けの晩と言うのが、時間を言っていますので、次の句のつると亀が空間を現しています。歌の構成としては有り得る話しです。
これらから言えることは、神社の中にいる偉大なものは、いつ出るんだろう。又は、その偉大なものは、一対の物だよということでしょうか。夜明けの時代の前の晩のような時代は、つると亀(空間、物質界の象徴?)が統治していたと、背景が示されています。これを踏まえながら、次の句の解釈を読んで見てください。
後ろの正面だれ
後ろの正面とは何の事でしょう。前後の反転です。
通常、神社には実は何もありません。鏡が祭ってあります。なんのことは無い。鏡に写った自分の姿を見て、自分自身が合わせ鏡の用になって、祈っているのです。後ろの正面だれ? つまり、自分自身だよって、言っているのです。祈る対象も神も自分自身の中にいると示しているようです。又はそれらは一対のものであると。
仏教でも同じ意味のことが言われます。仏は自らの中にいる。さらに、現代のキリスト教では異端の考え方ですが、滅びた古代のキリスト教の一派の中には、神は汝の中にいると、唱えていたふしがあります。
六芒星と神宮
六芒星は、ダビデのマークで有名ですが、基本的にはイスラエルのマークになったのは、時代的に新しく、六芒星そのものは、古代から存在していました。日本でもかごめ紋として、古くから知られた紋章です。上向きの三角と下向きの三角を合わせたマークで、陰陽を現し、男女融合の象徴とも言われます。そのかごめ紋が不思議な所に刻印されています。
石燈篭の六芒星
さて、このマークが、伊勢神宮の内宮と外宮と伊雑宮とを結ぶ数多くの石燈篭に刻印されていたのは、ご存じでしょうか。(石燈篭は老朽化のために撤去されてしまいました。)
この石燈篭は今の天皇のご成婚記念に寄進などによって作られたものですが、宮内庁によって指導された物であろうことは想像できます。それでなければ、勝手に公道におびただしい数を建立出来るはずもありません。
当時、これに関しての質問に、宮内庁はノーコメントあるいは、作った石燈篭屋の紋章に過ぎない、と答えたとの事ですが、製作元では宮内庁の指示によるものと、回答していたとの事です。
実はこれは伊雑宮の神紋です。なぜ内宮と外宮と伊雑宮を結ぶおびただしい石燈篭に、伊雑宮の紋章が刻印されたのか、さらになぜ、この三社を結ぶ必要があったのか。不思議です。
先代旧事、あるいは先代旧事本紀という古代書をご存じでしょうか。聖徳太子によって編纂された歴史書、そして、予言書です。太子一族が蘇我氏によって滅ぼされた時、一緒に破棄されてしまった書物です。(その後、日本書紀が正本とされ、先代旧事は闇に葬り去られる事になります。江戸時代には禁書とされていました。)しかし、写本の一部が、古いお寺などに存在し、盛んに研究されています。残念な事に一部の巻は失われてしまっていますが。
その先代旧事に驚くべき事が書かれているのです。伊雑宮こそが日の神の本宮であり、外宮は月の神、内宮は星の神に過ぎないと言うのです。(この事は伊雑宮の神書にも書かれている事で、幕府に訴え出た伊雑宮の神官が、世を惑わす罪で何人も処刑されています。)
宮内庁の指導によって、石燈篭によって、三宮が結ばれ、その石燈篭に伊雑宮の神紋である六芒星が刻印された事、これは宮内庁によって、先代旧事の正当性、伊雑宮こそが、天照大神の本宮であると確認された事ではないでしょうか。伊雑宮
簡単には覆せないでしょうが、何十年か後には、先代旧事本紀が日本書紀を否定し、伊雑宮が伊勢神宮の正当な本宮に成るのかも知れません。伊勢に行かれたおりには、伊雑宮にも立ち寄られるのも、一考かも知れませんね。
近くには天岩戸と呼ばれる景勝地もあります。また、神路川が近くを流れています。まさに神の道の川という名付けです。リアス式海岸が近くにあり、まさに海の物と山の物が混在一体になっている地です。神話でここは「美味し国」なので、ここに鎮座するという神託があったとされますが、今の伊勢神宮の地より、伊雑宮の地の方がしっくりとします。 
かごめかごめ 5
   かごめかごめ 
   籠の中の鳥は
   いついつ出やる 
   夜明けの晩に鶴と亀がすーべった
   うしろの正面だあれ
「これは我が籠神社の歌である」という話を、以前、海部宮司から聞いた。かごめは籠目だと。いっぽう、籠目は六芒星(古代ユダヤの「ダビデの星」)を意味するのではと読む向きもある。
かつて籠神社を訪れたとき、海部宮司さんに絵馬の右上に描かれた紋の由来を訊いた。
「これは、何という紋ですか?」「籠目日月(かごめにちげつ)といいます」「籠目なんですね? 六芒星ではなく」「はい、籠目です」
無言で浮かべた笑みが、これなら騒ぎにはなるまいと言っているように、私には見えた。かつて海部宮司が奥宮・真名井神社の鳥居横に籠目紋を刻印した石碑を建てたものの、「六芒星だ」と騒がれ、わずか1年で撤回となったことは知る人ぞ知る話。現在は三つ巴紋に修正されている。
「籠の中の鳥」のように閉じ込められた神様とは……? その謎を解いた人はいない。しかし、封印が解かれる日はそう遠くないと、沖縄の語り部・宮里聡さんは言った。折しも伊勢神宮内宮・外宮の遷宮が終了した直後、10月初旬のことだった。
運よく宮司さんとの面会が叶った私は、まず沖縄の稲作伝説を話題として選んだ。本島南部にある稲作発祥の地・受水走水(うきんじゅ・はいんじゅ)の近くには、鶴が稲をくわえて運んで来たという話がある。その稲種の移植に成功した、琉球稲作の祖「アマスのアマミツ」はアマミキヨの末裔。
アマミキヨには「天孫氏」「渡来の人」という意味もある。海部氏も「天孫族」である。「海(あま)とは、天(あま)である」との格言がある。アマミキヨの「アマミとは、古代の海人部(あまべ)の転訛」という定説を踏まえれば、 『かごめかごめ』の鶴と沖縄の鶴には、「天孫」という共通の歴史が流れているように思われる。
南城市玉城にある稲作発祥の地・受水走水の案内板。「アマミツ」の「御穂田(三穂田)」は神田と呼ばれた。この地も「豊葦原の瑞穂の国」なのだ。
左手に行くと受水走水に、右手に下ると海に出る。古代はこのあたりが海岸線だったという。正面の丘陵は琉球七御嶽のひとつ「薮薩の浦原」。ヤハラヅカサから受水走水までは、徒歩3分ほど。アマミキヨの上陸地と稲作発祥の地は、ひとつのユニット。つまりアマミキヨは稲作渡来民だった。
宮司さんには、『かごめかごめ』の歌についても訊いた。「“鶴と亀がすべった”の鶴は、何を意味していますか?」「日神(にっしん、太陽神)です。伊雑宮(いざわのみや)にも鶴の伝説がありますね」
伊雑宮。伊勢神宮内宮(皇大神宮)の別宮のうちの一社。そうだった。伊雑宮にも、鶴が稲穂をくわえていたという白真鶴の伝説があった。伊雑宮を建立したのは、第十一代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)。海部宮司家の外孫である。
「鶴が伊雑宮の日神なら、亀は籠神社の海神ですね。亀の甲羅は六角形ですし」言うと、宮司さんは静かに微笑まれた。
「鶴と亀」が統べるとき、神々が和合して新たな世が明けるとき「うしろの正面」に光が当たる?さて、では、亀に象徴される籠神社の御祭神をいま一度確認してみよう。
主神 彦火明命
亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒連日命、又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の東側の別宮に祭られて、現在に及んでいる。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる、又別の古伝に依れば、十種神宝(とくさのかんたから)を将来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に大汝命(おおなむち)の御子であると云い、一に丹波道主王とも云う。
天火明命には実に多くの異名がある。ご神魂を同じくしての異名同神である。籠神社の先代宮司・海部穀定氏が遺した稀代の大著『元初の最高神と大和朝廷の元始』(桜風社刊)にも、そのことは記されている。
元初の神は、別の神名によって呼ばれており、しかも、その元初の神の名は、所伝、古記によって決して一様ではない。これら元始の神は明らかに、記紀編纂時代、和銅養老年中以前に、我国に存在していたものである。
まさにその元初の最高神に、やがて封印が解かれる日がやって来る。海部宮司さんも言っていた。「国津神と天津神は、同じ線上にあるのです」神々は元ひとつであることを、人はそろそろ知らねばらないのだと、私には聞こえた。
三島敦雄著『天孫人種六千年史の研究』にも同じ意味の一文がある。
宇宙の霊威は統一すれば一神であり、分解すれば多神である。一神教といひ、多神教といひ其見方を異にしたに過ぎぬ。我々の生命は宇宙の大生命の表現であって、小我としては異別あるも、大我としては一物一禮たるが故である。殊に神社祭祀は数千年前のスメル時代より宇宙の大生命を民族の大生命として崇拝したのであった。  
かごめかごめ 6
   籠目(かごめ) 
   籠目籠の中の鳥は 
   いついつ出やる夜明けの晩に 
   鶴と亀がすうべったうしろの正面、だあれ
どなたもご存知ではあるが、意味は謎のわらべ歌である。『広辞苑』で「かごめかごめ」を引けば、「児童の遊戯の一。しゃがんで目をふさいだ一人を籠の中の鳥に擬し、周囲を他の数人が手をつないで歌いながらまわり、歌の終ったとき、中の者に背後の人の名をあてさせ、あてられた者が代って中にうずくまる。」とある。なるほど、さすがは『広辞苑』である。オニを囲む子らが「籠目」で、オニの子が「鳥」だというわけだ。  
それにしても、なにか転回(反転)を感じさせる歌詞である。「いついつ出やる」(入る−出る)、「夜明けの晩に」(夜明け−晩)、「うしろの正面」(うしろ−正面)など。しかしこれも、オニの交替を予感させているだけなのかも知れない。とすれば、残った歌詞は「鶴と亀がすうべった」である。
「鶴」は空を飛び、「亀」は地を這う。すなわち「天地」と解釈できる。「すべる」は、「統べる」(支配する)か「滑る」か。転回(反転)というモチーフの線に沿って考えると、天と地が滑るように入れ替わる、と理解できようか。結局、次のオニはお前かも知れないぞ、というおののきを高める呪文が「かごめかごめ」ということになる。
あと一つだけこだわるとすれば、「籠目」である。籠目とは籠の編み目のことであるが、これは本来入れ物ではなく、呪具である。籠を作る竹の文化は、東南アジアから中国南部、そして日本のものである(「かぐや姫」はこの系譜にある)。いまでも東南アジアには、呪具としての「籠目」がある。それは悪霊を祓うものである。その姿は、あたかも日本の鯉のぼりの鯉がないものである。  
祓いとしての「籠目」、それは三角形や六角形の「目」であり、目の力で悪霊を睨みかえすものである。土器などに刻まれた古代の三角形にはそんな意味がある。籠目が悪霊を遠ざけるものであるなら、同時に善き霊を招き寄せるものでなければならない。これが依り代としての髯籠(ひげこ)である。鯉のぼりは髯籠の下に、鯉流し(幟り)が付いたものである。なお、入れ物としての籠は、そういう霊的な祓いと加護の中に大切な贈り物を入れるものとしてある。  
さて、話を「かごめかごめ」の「夜明けの晩」に戻したい。わらべ歌の意味としては先ほどの通りでよいとしても、これは日本人にとって大変に重要な時間の表現である(だからこそ、わらべ歌にまで取り入れられたのだろう)。「夜明けの晩」とは何か。朝であり夜であり、朝でもなく夜でもない時間である。曉(あかつき)、すなわちうすら明るくなりかけて、しかし陽がまだ登らぬ時間帯である。  
ではいつから「朝」か。それは実に、鶏の鳴く声とともに始まる。これを「東天紅」と言う。この東天紅を知ることは神事にとって、非常に重要なことであった。まずそのために神社に鶏が飼われた。宵に祭場にお招きした神々は東天紅までに天上に戻らなければならない。しかもその間際までは地上にいることがルールなのだ。タイミング良く、神を無事にお見送りすることが神官の腕の見せ所なのである。こうして祭りは夜明けとともに終わる。  
昔の一日は夜から始まった。それは神の時間だった。夜は、(夕べ)−宵−夜中−曉−(あした)と続き、昼の時間(人の時間)は朝−昼−夕と続いた。ちなみに「朝廷」という言葉はもともと、「夜明けの晩」に宮城の内庭(屋根のない屋外)で開かれた宮廷会議のことである。神の時間から人の時間へ、つまり夢見などによって神託を受ける祭事(まつりごと)から俗事としての政事(まつりごと)への変換(転回)こそが、天皇の仕事であった。  
この時間は後ちに、鬼や幽霊たちが本拠に戻る時間となる。朝をゆっくり過ごす鬼の話なぞ聞いたことがない。東天紅は神にとっても鬼や幽霊たちにとっても、この世に捨て置かれるか自分の棲み処に戻れるかどうかのギリギリの時間であった(ちなみに西洋でもそうだ。たとえば、ドラキュラや狼男)。神の祭りばかりではなく、悪夢や百鬼夜行も夜明けとともに終わるのだ。  
歴史や価値とは、どうも堕落あるいは反転するものであるらしい。あの世からの客人(まれびと)も堕落し、神々はいつしか鬼や幽霊たちに取って替わられる。もとよりこれは歴史ではなく人間の側の問題である。いまは神に出会えなくなり、鬼や幽霊たちと出会う時代なのである。また、籠目も聖なるものを入れる容器から邪を入れるものに成り下がる。「かごめかごめ」では「オニ」が籠目に入る。江戸時代の囚人も「籠の中の鳥」である。  
蛇足であるが、東天紅を告げるものとしての鶏は、その後中国祭事の影響を受け、「生き血の清め」に使われるようになる。これは結構流行る(筆者は、神社の朱塗りはこの名残りかと推測する)。確実なところで言えば、伊勢神宮の「心の御柱」はかつて鶏の生き血によって清められていた(いまは鶏卵を供えるだけだ)。 
かごめかごめ 7
天海と光秀は同一人物?
今も日光東照宮には徳川二代将軍「秀忠」と三代将軍「家光」の名付け親たる南光坊天海の文がある。この紙片は斜めに折り畳むようになっていて、秀忠と家光の名前の一字がそれぞれ現れてくる。「家光」の『光』と「秀忠」の『秀』で、合わせて『光秀』となり、これが「天海僧正は明智光秀だ」とする根拠にもなっている。また四代将軍「家綱」と五代将軍「綱吉」に共通する『綱』という字も、明智光秀の父「光綱」の名から意図的に抜き出したものであると言われている。徳川家の歴代将軍の名前に隠された明智光秀の残像は、そのまま名付け親たる南光坊天海僧正が明智光秀その人であることを示唆している。
天正十年六月二日の「本能寺の変」で信長暗殺に成功した明智光秀は、六月十三日に山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、敗走する中、山科で竹藪から突き出された土民の竹槍によって命を落としたことになっている。仮にこの伝説が創作であり、光秀が生き延びて匿われたとしても不思議はない。信長の比叡山焼き討ちに反対したのは光秀であり、その信長を滅ぼした光秀は僧侶たちにとっては英雄であったはずだ。僧侶たちは喜んで光秀を匿うだろう。
一方、天海がその歴史に名を留めるのは八年後、天正十八年に小田原陣中において徳川家康と謁見した時とされる。天海と家康は「時、来たり」と懐かしい笑顔を交わしたことだろう。本能寺の変の背後には明智光秀と家康の密約があったのではないか。光秀死して、天海として生まれ変わった瞬間でもある。その後の天海の異例の出世は、かつての家康との密約に裏付けされていた当然の成り行きだった。やがて徳川家に嫡男が生まれると、家康は天海大僧正を名付け親として「光秀」の二文字を遺す。
日光東照宮と秩父神社に秘められた桔梗の謎
元和二年四月十七日に徳川家康が死去する。後に大権現として祀るための寛永の大造営は総工費五十六万八千両(約四百億円)、動員四百五十三万人、延べ日数一年三ヶ月に及ぶ大工事であったとされる。むろんその総指揮は南光坊天海であり、ここに尋常ではない天海の挑戦がある。周辺地域を見渡すと日光東照宮は単なる徳川家康を祀る寺院ではなく、前を流れる大谷川や背後の山脈を自然の防壁とした大要塞であることが分かる。何より異彩を放つのはその膨大な彫刻においてである。その日光東照宮の雛形として天正二十年に存命中の家康が造営を命じた秩父神社がある。ここでの彫刻を見ると、日光東照宮は秩父神社をモデルにしていることが分かる。その秩父神社の拝殿と本殿の間の幣殿側面には東西に向かい合った二人の人物の彫刻がある。東には右手に竹笹を持つ桔梗紋の男が座し、西には同じ桔梗の紋の僧侶が頭巾を被って座している。そしてここで桔梗の紋が明智家の家紋であることに気付くのである。つまり相対する二人の人物の彫刻は、東の明智光秀と西の南光坊天海を暗示するのである。そして二人が桔梗の紋を通じて同一人物であることも・・・
童歌「かごめかごめ」の天海の挑戦
日光東照宮の陽明門には「唐子遊び」と呼ばれる子供たちが戯れる彫刻がある。鬼ごっこ、司馬温公の瓶割、喧嘩などテーマごと三枚の彫刻が配置されている。これら子供たちの遊ぶ風景から漂ってくるのが童歌「かごめかごめ」であり、彫刻「唐子遊び」を陽明門に配置した天海の挑戦が感じ取れる。陽明門はその名の通り太陽を表し、童歌「かごめかごめ」には『籠の中の鳥』ニワトリが『いついつ出やる』という歌詞がある。当時は竹を六つ目に編んだ竹籠でニワトリを囲っていた。ニワトリは太陽に向かって朝一番に鳴く。朝日は黄金に輝き、ニワトリは黄金を象徴する縁起のいい鳥だとされている。陽明門もまた黄金を意味する太陽を意味している。そして目を周辺の山々に転じる時、我々はそこに鶏鳴山を発見するのである。読んで字のごとし、鶏が鳴く山である。そして童歌は「夜明けの晩に、鶴と亀が滑った」と続くのであるが、これは日光東照宮の『三具の鶴亀』にも暗示されている。「夜明けの晩」とは申(サル)と酉(トリ)の刻とすれば、日光の庚申塔を暗示して、庚申山へと導引されていく。「鶴と亀」が滑って何かが解ける予感がする。そして「後ろの正面だあ〜れ」になるのだが、日光を正面にするとその真後ろには岸和田の本徳寺がある。その本徳寺には明智光秀の位牌と画像が安置されている。天海は童歌に自分の正体を謎かけ、黄金を太陽に引っかけて財宝の隠し場所をちらつかせているのかも知れない。
童歌「かごめかごめ」には続きがある。「向こう山で鳴く鳥は、信心鳥かニワトリか。金三郎のお土産に何もらった。金ざし、かんざし、もらった。納戸のおすまに置いたれば、きうきうネズミが引いてった。鎌倉街道の真ん中で、一抜け、二抜け、三抜けさくら。さくらの下で文一本ひろった。あくしょ、あくしょ、一本よ」最後の歌詞には違った説がある。それは「桜の下で文一本ひろった」から「その文だれだ。金三郎の妻だ。金三郎の妻はさんしょにむせた」と続く。謎の多い歌詞である。その意味すら分からない、支離滅裂な内容であろう。「一抜け、二抜け、三抜け桜」を東照宮の門に当てると『一・表門を抜け、二・陽明門を抜け、三・唐門を抜けて拝殿に至る』そしてその拝殿には三十六歌仙が桜の彫刻で飾られている。童歌はその歌の謎を解けと言っているのかも知れない。もうひとつの解き方もある。『「さくら」の最初の一を抜いて「くら」になる』「くら」は「蔵」に当て、日光の「地蔵岳」とする。『「さくら」の真ん中一字を抜いて「さら」になる』「さら」は「申」に当て、日光の「庚申山」とする。『「さくら」の最後の一字を抜いて「さく」になる』「さく」を「裂く」に当て、日光の「石裂山」とする。これら日光の名だたる山を線で結ぶ。「東照宮と石裂山、そして庚申山」を結ぶと三角形になる。また「地蔵岳と鶏鳴山、そして男体山」を結ぶとやはり三角形になる。すると三角形が前とだぶって六角形となる。ここに六つ編みの籠の目が出現する。
六角星形に秘められたユダヤの秘技
籠目と六角星形は偶然の産物ではない。「鶴と亀」の亀の紋様もまた六角であり、亀甲(きっこう)は縁起の良い形とされてきた。今ではお馴染みの醤油のメーカー「キッコーマン」の由来は茂木家「亀甲萬」が起因している。六角星はイスラエルの国旗に象徴されるようにユダヤの紋章である。天海はそのことを知っていたはずだ。明智光秀は信長に仕えていた頃、信長の娘婿・蒲生氏郷の家臣にユダヤ人ロルテスがいたことも知っていたと思われる。ロルテスは蒲生の家臣として西洋の会計や測量技術をもたらしたが、同時にフリーメーソンであった節がある。光秀はロルテスの影響をかなり受けながら、後に天海となってから日光こそユダヤの秘技を展開する土地として、東照宮や童歌にそれとなく組み入れたのではなかったか。ちなみに日光には石屋町という地名がある。
徳川幕府の財宝は日光東照宮にあり
童歌「かごめかごめ」に隠されているのは黄金を意味する陽明門とニワトリに代表されているなら、その黄金とは徳川幕府の財宝を意味するだろう。大要塞としての強固な造りを誇る日光東照宮こそ最も安全な隠し場所である。それは今日に至ってなお、国の重要文化財として守られている。残念ながら「かごめかごめ」の謎は今だに解くことはできない。その重要なキーワードは「鶴と亀が滑った」その場所である。強引な独断を許してもらえるなら、その場所こそ全てが逆さまに地面を指すところの「飛び越えの獅子」であり、「莫」そして逆さ葵の「オランダ灯籠」のような気がしてならない。「神厩の三猿」は見ざる言わざる聞かざるで謎の解けない我々を挑発しているようだ。そしてその背後では「ざまあ見ろ」とばかりに高笑いする光秀の影を背負った南光坊天海の高笑いが聞こえる。  
かごめかごめ 8
「かごめかごめ」と文殊寺(四国八十八ヶ所)
文殊院は、発祥の地なのになぜか八十八ヶ所の一つには入っていません。四十七番札所八坂寺と四十六番札所浄瑠璃寺の間にあります。このお寺「文殊院」がどうして発祥の地となったのか、まずはそこからお話します。
西暦824年の出来事です。お大師さま(弘法大師)は、四国霊場最後の見回りの途中、伊予の国荏原の庄(愛媛県松山市恵原町)に、立ち寄られました。その時、1人の童子が、お大師さまの前に現れ、「お大師さま、ありがたい霊場を開くといわれても誰1人仏の道にはいられません。ここに罪深い人が住んでおります。改心させて来世の鑑(先達)にしてはいかがですか」と告げると何処となく去って行きました。
すると突然豪雨になり、お大師さまは徳盛寺に宿を請われました。お大師さまが、本堂でお経を唱えておりますと 文殊菩薩さまが現れました。先ほど、お大師さまの前に現れた童子は文殊菩薩さまの化身だったことに気付きました。
この村には、大庄屋で悪鬼長者と村人に恐れられている「河野衛門三郎」が住んでおりました。お大師さまは、衛門三郎の門前で托鉢の修行を、数回、7日間行いましたが欲深い衛門三郎は、追い帰してしまいました。
翌日の事です。腹を立てた衛門三郎は、竹箒でお大師さまをたたくと、手に持っていました鉄鉢に当たって八つに割れました。すると、光明を放ちながら南の空に飛んでいきました。南の山々を見ますと、山の中腹から雲が湧き出てきました。不思議に思い、山に登ってみますと、八つの窪みが出来ておりました。
三鈷でご祈念しました。すると、
1番目の窪みからは風が吹き、
2番目、3番目のくぼみから水が湧き出て来ました。
この水を八降山八窪弘法大師御加持水として涸れることなく、いまも文珠院の山中に湧いています。
衛門三郎には、「男の子5人と女の子3人」おりました。お大師さまをたたいた翌日、長男が熱を出して病気になりました。しかし、いくら介抱しても、あくる日に亡くなってしまいました。
そして次男坊と、次々「八日の間に8人」の子供達が亡くなってしまいました。
衛門三郎は毎日毎日泣き暮らしておりました。
ある日、お大師さまは罪の無い子供達を不憫に思い、山の麓に行き手に持っております錫杖で土を跳ねますと、その夜、土が大空高く飛んで行き、お墓の上に積み重なっていきました。(このお墓が八塚と呼ばれ、今も文殊院の境外地に松山市の文化財に指定され残っています。)
お大師さまは、文珠院にて、衛門三郎8人の子供菩提供養の為に、延命子育地蔵菩薩さまと自分の姿を刻み供養をしました。又、法華経一字一石を写され、5番目の子供の塚に埋め、子供の供養を行なって文殊院を後に旅立ちました。ある晩のことです。
衛門三郎の枕元に
「汝8人の子供が亡くなったのは、汝の罪悪が深い為に亡くなった。 一心に四国寺院を巡拝しなさい、その時私が会って汝の罪を許してあげよう、夢々うたがってはいけません。」とお大師さまが夢枕に立たれました。
衛門三郎は子供のお位牌の前で、奥さんに、「お大師さまに会って罪を許していただくまでは家には帰って来ません」と別れの水盃をいたし、白衣に身を包み、手には手っ甲、足には脚絆、頭には魔除けの笠をかぶり、右の手に金剛杖を持って旅立ちました。
この姿が、本来のお遍路さんの姿だそうです。
衛門三郎は、文殊院にお大師さまを訪ねてきましたが、旅立ったあとでした。 
紙に自分の住所、氏名、年月日を書き、お大師さまがこの札を見ると、衛門三郎がお参りした事がわかりますようにと、お札をお堂に張りました。 (このお札を「せば札」といい、現在のお納札のいわれとなっています。)
ある日、野宿をしていますと乞食が現れて、年貢が払えなかったために家、田畑をとって追い出され、こういう姿になったと、罵られ叩かれますが、ただ謝るばかりです。(これが改心の姿)
雨にも負けず、風にも、雪にも負けず難行苦行の毎日です。やがて、8年の歳月がたちました。その間、歩き続けたのですが、四国寺院を20回しか巡る事ができませんでした。
それでもお大師さまに巡り会えませんでした。
西暦832年(閏年)、「徳島の切幡寺から逆に巡るともしかしたらお大師さまに会えると思い逆回りを始めました。」
自分の家の前に帰って来た時、茶店で一休みしていますと、子供のお墓から煙が立ちのぼっておりました。茶店の婆さんに尋ねますと、衛門三郎に衛門三郎さんのお話をして聞かせました。
「奥さんは家、田畑を村人に施して、三番目の塚に小屋を建て、子供の供養をしながら、ご主人の帰りを待っておりましたが、ふとした病がもとで亡くなって村人が寄って野辺の送りをする所です」
といわれました。家に帰って一目妻に会って別れをしたいのですが、
「ここで帰ると今までの苦労が無駄になる」と心に言い聞かせ、その夜お墓の前で手を合せて村人に見られないように旅立ちました。
そしてとうとう、徳島県の焼山寺の麓へ差し掛かると足腰立たず、倒れてしまいました。
このままお大師さまに会うことができず、死んで行かなければならないのかと嘆き悲しんでおりました。
「衛門三郎殿、衛門三郎殿」
という声に目を見開きますと、8年前に叩いたお大師さまが立っておられました。
お大師さまは、「よくここまで歩んで来ましたね、今までの罪はもう無くなっています。
しかし、貴殿の生命はもう尽きようとしています。何か願い事が有るならば1つだけ、叶えてあげましょう」と言われました。
衛門三郎は「できる事でしたら、一国のお殿さまの嫡男に生まれ変わらして下さい」とたのみました。
お大師さまが、小石に「衛門三郎再来」と書き手に握らせますと、衛門三郎は亡くなりました。お大師さまは、衛門三郎が持っていました金剛杖をお墓の上に逆に立てご供養いたしました。
「お大師さまは、文殊院に衛門三郎のお位牌を持って来られ、子供のお位牌と一緒に本堂で衛門三郎家の悪い先祖の因縁を切るために、因縁切りの法を権修しました。」
しばらくたった、ある日のことです。愛媛、松山の道後に昔、湯月城がありました。
河野伊予守左右衛門介越智息利候の奥さんが妊娠し、玉のような男の子が誕生しました。名前を、息方君と名付けました。
若君の右の手が、いくらたっても開きません。
若君3歳の春の事です。桜の花見の席で南に(文殊院)向かって両手を合せ(合掌)、南無大師遍照金剛とさんべんお唱えになりました。
すると、右の手がぱっと開き、その手の中から小さな玉の石が出て来ました。
家臣が拾って見ますと、「衛門三郎再来」と書かれていました。
その石を安養寺へ持って行って納めました。後に、安養寺を石手寺と改めました。(これが、四国八十八ヶ所 石手寺の由来でもあります。)
若君は、衛門三郎の生い立ちを聞きました。そして、民、百姓に喜ばれる政ごと(政治)をしました。

これが、四国八十八ヶ所を巡るようになった由来です。
このお話の主人公「河野衛門三郎」は、このお話の中では、「大庄屋で悪鬼長者」ですが、名前は「河野」越智家の子孫、河野家の一人です。
私は、このお話はただの庄屋のお話ではなく、「越智家」が行ってきたことの罪のお話だと思います。「越智家」は、本来は伊予の国を守らなくてはいけない立場でした。それが、どうしてか、敵の見方についてしまったのです。もちろん一族全部ではなかったと思います。でも、大国主の国譲りのお話のように、敵に国を譲ってしまったのです。そして、その子孫「河野家」の中に、その罪を祓おうとした人がいたのではないかと思うのです。
この庄屋の子供は「男の子が5人、女の子が3人」まるでこれは、アマテラスとスサノオの誓約の時に生まれた「神」の数と同じです。そして両方合わせて「8人」そして、「8日間」で、みんな死んでしまいました。ここでも、「8」の 意味が組み込まれています。
文殊院の本尊でもある「文殊菩薩さま」は、人々の罪を祓ってくださる仏さまです。一族が犯した罪を祓ってくれた仏さま。
弘法大師が、四国八十八ヶ所を廻った最初のお寺 1番札所では、弘法大師自身が、祓い清めてから出発しました。
しかし、八十八ヶ所を人々が廻るようになった起源は、1番札所ではなく、 ここ、「文殊院」の「河野家」だったのです。
四国八十八ヶ所は、姫のために作られたお寺です。一見封印のように思える「88のお寺」は、本当は、封印ではなく、鎮魂。魂を沈め祀る意味もあったのだと私は思っています。だから、ここを巡る意味は、「これまでの罪を詫び、祓い、清め、懺悔」をすることなのだと、このお話は語っているのではないでしょうか。
そして、この文殊院がある場所。ここにも、きっと意味があると思います。ほぼ直線状に、砥部から松山市内へと続く遍路道。浄瑠璃時、八坂寺、西林寺、そして、西林寺奥の院の、弘法大師の湧き水。この短い間に、3つのお寺が連なるこの場所は、きっと姫が封印されることとなった大きな出来事があったところではないかと思うのです。それは、昨日松山の考古博物館に行き、更に強く思うようになりました。
21回目にめぐりあえたことも、その数に意味があり、また、めぐりあえた場所「徳島県 焼山寺」は、邪馬台国があった場所とも言われる「神山町」のお寺です。
ここには大蛇がいて、弘法大師はこの大蛇を倒すために訪れます。そして洞窟の中へと、閉じ込めてしまった場所です。 

阿波の三大難所「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」の一の山が、神山町。もう、この三つの場所を見て、気付いた方もいると思います。
ここにも、「鶴」と「龍(亀)」が出てくるのです。
そして、一の山とされた「神山町」はもっとも重要な場所です。
ここで、越智家の子孫「河野衛門三郎」は、また生まれ変わることを約束され死んでいったのです。そして、本来の「小千家」の姿にもどった河野家に生まれ変わった場所は「湯月城」でした。 しかし、この伝説の時代に湯月城はまだなかったとされています。
ということは、本来の小千家に戻った河野家の一部の子孫は最初「湯月」には城はなかったかもしれません。でも、その地に住んでいた。そして、もう一度姫を祀ったのではないでしょうか。そして、その子孫が 北条の河野家と争い、「湯月」に城を造った。そして最後は、「二度とどんなことがあっても、二つの当主に仕えることのないようにと誓い、姫の泉の水を飲んで、自害した」のではないでしょうか。
この物語は、ただの庄屋の物語ではありません。
河野家が後の世に、なんらかのヒントを残すために、また自分たちの祖先が行ってきたことがいけなかったことだと気付いたからこそ、この物語はこのお寺に残され、1200年の時を越えても、昔話として受け継がれてきたのだと思います。
いつか、この真実に気付いてくれる人が現れるのを待っていたのだと、私はこの物語を読んだ時思いました。
「剣山」に隠された「鶴」と「亀」の秘密。その秘密が、「かごめかごめ」となって受け継がれていったように・・・。
「かごめかごめ」の歌もまた、「姫の封印」伝える歌。
去年もこのお話にふれたことがありましたが、その時は、どうしても一つだけ自分の中で納得がいかないことがありました。 それが「鶴」でした。
「鶴」とは何なのかが、どうしてもわからなかったのです。だから、それがはっきりとわかるまで、お話するのはやめようと思っていました。でも、先日やっとその意味がわかりました。もちろん、これは私の勝手な思い込みかもしれません。でも、そうすると、全ての意味が繋がるのです。
「鶴」も「亀」も、どちらも、「瀬織津姫であり、饒速日命」のことだったのです。
「かごめかごめ かごの中の鳥は 
 いついつ出会う
 夜明けの晩に
 鶴と亀がすっべた
 後ろの正面だ〜れ。 」
「かごめかごめ」は、籠目紋でもあり、籠の意味でもあります。また、「篭」は閉じ込められるもの。「瀬織津姫」が閉じ込められた「篭神社」はその姿をあらわしています。篭の中の鳥とは、 瀬織津姫のことです。鳥には、神としての二つの姿があります。それが、「水鳥」と「猛禽類」です。
姫を祀る 女神信仰の部族は、太古の昔より、聖なる水は、地上と空の両方にあると信じていました。だから、「空=鳥」も「蛇=地」どちらも同じ、女神がいたのです。そしてそれは「水鳥」だったのです。 鶴、鷺、白鳥。 これらは、女神信仰の証です。そして、「猛禽類」これは 鷹、鷲などの、肉を食べる鳥です。これらの鳥は、男神信仰の部族が神使としていた、鳥です。その姿は、勇ましく、強く、攻撃的。 男性を表す鳥です。だから、 かごの中の鳥は、「水鳥」=「鶴」でもあったのです。
「亀」は、神紋にも表されているように、 国津神が閉じ込められた姿です。 浦島太郎の原作「浦嶋子」の前に現れた「姫=神女」は、 亀にその姿を変えられていました。亀の姿で、浦嶋子(浦島太郎)の前に現れたのです。そして二人は、常世の国(竜宮城)へとむかったのです。亀に姿を変えられた、神女は、「竜宮の姫」=「乙姫」それが瀬織津姫の姿です。
そして、饒速日命も同じです。瀬織津姫と饒速日命は二人(柱)で一つなのです。
また、かごめの意味は、瀬織津姫と饒速日命が出会う意味と、お互いの隠された姿と、真の姿がいつ出会うかという意味にもなります。
だから、「いついつ出会う」なのです。そして「夜明けの晩」これは、月と太陽が一つになる時間。しかも、あの本来の七夕の日の夜中 1時ころの時間「宵の明星」その時のその時間が、「夜明けの晩」と呼ばれ、 またその時二つが一つになった時に落ちてくる聖なる水を「をち水」という。
月と太陽が出会える時、ぴったりと一つになる時は「夜明けの晩」だけなのです。
だから、「夜明けの晩に」になのです。
そして、「鶴」である 瀬織津姫と饒速日命、「亀」である 瀬織津姫と饒速日命が、もし滑ったとすれば、その顔が反対を向き、真の姿が見えるのではないかという思いを込めて歌ったのではないでしょうか。
「後ろの正面」
それは、 変えられてしまった 瀬織津姫と饒速日命の「もう一つの姿」が 今は表の顔になっているからです。本当の姿こそ「後ろの正面」なのです。
後ろの正面だ〜れ。 
その本当の姿は、 月の女神、太陽の神の瀬織津姫と饒速日命なのです。今日は、かごめのお話をする予定ではなかったのですが、勢いあまってそのまま書き綴ってしまいました。
これが、私の考える、「四国八十八ヶ所」と「かごめかごめ」の本当の姿です。
人それぞれ考えかたは違うかもしれませんが、私がたどり着いた姿は、どちらもやはり瀬織津姫でした。1300年の時を越えて、語り継がれた、童謡や、昔話。あの時代を生きた人々はどんな思いで、その出来事を歌や伝説に残したのでしょう。自由に生きることができる私たちには、想像もつかない心の葛藤があったのではないかと思えてなりません。 
かごめかごめ 9
「かごめかごめ」の歌詞をヘブライ語で読むと、そこには神宝が取り出された後、地域一帯が焼かれたことが記されていました。その歌詞から伝わる恐ろしいほどリアルなメッセージは、フィクションのようなおとぎ話ではなく、実際に起こった出来事を、後世に伝承するために書かれているようなニュアンスが込められています。もし、「かごめかごめ」が過去の史実を証していたとするならば、その場所が日本のどこかに存在したはずです。
神宝を証する「かごめの歌」
「かごめかごめ」の舞台となった場所を探る前に、まず、そのテーマとなる神宝について考えてみましょう。日本書紀や古事記の記述に見られるとおり、皇室の権威を象徴するかけがえのない神宝の存在は、古代の日本社会においても極めて重要な意味を持っていました。国家の創始から隣国との戦い、皇居での祀りごと、そして地域の平和と民の祝福などに絡み、いつの時代でも神宝は、人々の生活と密接に結び付いていたのです。よって、神宝を外敵から守り、安全な場所に秘蔵することは、国家が担う重大な責務でした。
その事例として歴史に名を残す国家レベルの施策が、元伊勢の御巡幸です。大陸からの不穏なニュースが飛び交い、国内の治安が不安定になる最中、1世紀近くの年月をかけて各地を転々と移動した御巡幸の目的は、神宝を護衛しながらその遷座地を探し続け、最終的に安全な場所にて祀ることでした。その結果、多くの元伊勢の地が誕生し、それら御巡幸地では皇族や役人だけでなく、多くの一般庶民が神宝の存在を肌で感じることができたことでしょう。そして最終的に伊勢の皇大神宮にて神の象徴である鏡が祀られて、御巡幸の旅路は終結します。
しかしながら、外敵の侵入や攻撃に対してほぼ無防備な伊勢の地において、果たして本物の神宝が安置され続けたかどうかは定かではありません。特に、元伊勢の御巡幸が完結した直後、国家体制は更に不安定になり、大陸からの渡来者の波も押し寄せ続ける最中、内乱の噂が飛び交うほど治安が大きく乱れたという国内情勢がありました。それ故、レプリカとすり替えられ、本物の神宝は伊勢から遷されて、どこか人の手の届かない安全な場所に保管されたと考えるのが自然でしょう。
そのような歴史的背景の中で、いつしか邪馬台国が産声を上げ、元伊勢御巡幸が終焉した2世紀後には、海外にまで名が知れ渡る大きな統治国家となっていたのです。そのような歴史の流れから察するに、天皇家の権威を象徴する神宝は、邪馬台国の舞台となる新天地に遷されていた可能性が見えてきます。神宝の存在があったからこそ、その権威を誇示しつつ、女王なる卑弥呼が邪馬台国で頭角を現したのではないでしょうか。大切な神宝を守るためには、いかなる手段も問わなかった時代でした。それ故、元伊勢御巡幸のような一見、訳のわからない奇想天外な策略がめぐらされ、奇跡のミッションとも言えるほど綿密に仕組まれた遷座プロジェクトによって、神宝は外敵から守られたのです。
元伊勢御巡幸の結果、安全な場所に一旦は秘蔵された神宝ですが、それも長続きはしなかったようです。その神宝の行く末に絡む話が、「かごめかごめ」の歌詞の中に潜んでいたのです。「かごめかごめ」をヘブライ語で読むと、以下の意味になります。

何が守られているのか? 誰が守られているのか?
守護されて封印し、安置して 閉ざされた神宝を取り出せ!
そして火を付けろ!燃やせ! 神の社を根絶せよ!
水が湧く岩のお守りを造り、 荒れ地に水を引いて支配せよ

ここで守護されている神宝とは、元伊勢の御巡幸後、密かに邪馬台国の舞台となる聖地にて安置されたものであるという前提で読み直すと、わかりやすく解釈できます。ある時、神宝を収蔵されていた場所から「取り出せ」、という命令が突如として下りました。神宝の収蔵場所には火が付けられ、あたり一帯は火の海と化してしまうのです。同時にその神宝を祀っていた神社も炎上したのです。そして直前に取り出された神宝は、水が湧き出でる磐座に囲まれた新たな遷座地へと遷されたことを、ヘブライ語で読む「かごめかごめ」は証していたのです。
では、焼かれた神宝の収蔵場所は、どこにあったのでしょうか?その神宝を祀る社はどこに存在したのでしょうか。元伊勢御巡幸が終結した直後の時代でもあり、その後に台頭する邪馬台国の存在を振り返るならば、神宝は邪馬台国にまで持ち運ばれたと考えるのが自然です。魏志倭人伝などの中国の史書に記載されている数々の証言や、それに伴う地勢や文化に関わる数々の状況証拠から察するに、「かごめかごめ」の歌詞の内容に適うだけでなく、元伊勢御巡幸の歴史の流れにも合致する要素を兼ね備えている場所が、国内でただひとつ存在します。それが四国の剣山です。「かごめかごめ」の舞台を剣山と想定することにより、元伊勢御巡幸の終結から神宝の秘蔵とその後の行く末まで、古代史の流れを一貫して見据えることができるようになります。「かごめかごめ」の歌により、その歴史の謎が紐解かれるのです。
四国の剣山が歌の舞台である理由
1.元伊勢御巡幸と結び付く邪馬台国の存在
「かごめかごめ」は神宝の行く末について、ヘブライ語で証しています。その内容は、神宝が突如として持ち出され、その後、秘蔵されていた場所が焼き払われてしまうというものです。果たして、このような歌詞の背景となった場所が、どこかに存在していたのでしょうか。
古来より日本では、神宝の存在が大切に取り扱われてきたことから、「かごめかごめ」が、どの時代について歌っているかは、わかるはずがないように思われがちです。しかしながら、ヘブライ語で読む歌詞の中に含まれる「神宝」、「遷座」、「焼」というテーマに焦点を当てて古代史を振り返ると、そこには「元伊勢御巡幸」と「邪馬台国」という、ふたつの重大な歴史的イベントが浮かび上がってきます。そして、元伊勢の御巡幸に絡む神宝が、「かごめかごめ」の歌が証する神宝と同一であるという前提で、ふたつの時代の繋がりを検証し直すと、元伊勢から邪馬台国へと発展するきっかけだけでなく、邪馬台国が崩壊した後の神宝の行く末まで見えてきます。
元伊勢御巡幸の年代は、崇神天皇から垂仁天皇の時代、紀元前1世紀から元年の頃にあたります。それからおよそ200年隔てた3世紀の初め、日本国の歴史に邪馬台国が登場します。中国の史書には、邪馬台国が台頭する直前、倭国では70〜80年間、男王が国家を統治していたものの、戦乱があり、その結果、女王卑弥呼が治めるようになったと記載されています。よって、元伊勢の御巡幸が完結した後、徐々に内政が乱れていく最中、邪馬台国の種は播かれて育ち始め、その国家形成におよそ2世紀の時間を要した後、大きな産声を上げたのです。その背景には、元伊勢の御巡幸によって遷座された神宝が存在し、それが邪馬台国の創始と関わっていたと想定されます。その神宝が、最終的には邪馬台国の原点となる山上の聖地へ遷され、周辺一帯に集落が造られ、時が満ちるとともに国家体制が整うまでに成長したとするならば、正にそのタイミングはぴたりと合っています。
元伊勢御巡幸の本来の目的は、外敵から神宝を守護し、安全な場所に秘蔵することでした。そのために各地を転々とし、神宝のレプリカも鋳造しながら、本物の神宝がどこに収められているか、わからないように周囲の目をくらますことが目論まれたようです。そして表向きには神宝は伊勢の皇大神宮に祀られて、御巡幸が完結したという形をとりながらも、実際には、全く違う場所に遷されていたという、奇想天外な構想が実現した可能性を否定できません。本物の神宝は伊勢の聖地ではなく、最終的には邪馬台国となる新天地にて秘蔵されたと想定することにより、歴史の流れが見えてきます。
神宝が最終的に遷座した邪馬台国は、外敵の侵入から守られる地勢を有する場所であったに違いありません。魏志倭人伝の記述内容に基づき、邪馬台国の道のりを辿ると、その到達点は意外にも、四国の剣山周辺であったことがわかります(詳細については「邪馬台国への道のり」参照)。魏志倭人伝を含む史書の記述には、様々な地域における距離の詳細までもが記され、それらを日本列島の地勢と照らし合わせて読みながら地図を辿ると、その終点が四国の山奥、剣山の頂上周辺であることに気が付きます。つまり、元伊勢御巡幸のゴール地点は実は伊勢ではなく、人里から離れた四国剣山の頂上であり、そこに神宝は秘蔵されることになったのです。安易に足を運ぶことができない、遠い山奥の新しい聖地にて、天皇の権威を象徴する神宝が遷座して祀られたからこそ、神宝は安全に守られ続け、時が経つにつれて邪馬台国は倭国を制する統治力を、国々に対して誇示するようになったのです。
さらに邪馬台国には不思議な霊力が存在していたことも、史書には記されています。神宝の存在と共に霊力を増し加えた女王となる卑弥呼は、鬼道とも呼ばれた不思議な力をもって大衆を惑わし、国家を導いたのです。元伊勢御巡幸の後、邪馬台国に神宝が秘蔵されて祀られた結果、祭祀活動が積極的に執り行われたことでしょう。そしていつしか女王は霊力を身に纏うようになり、国家体制の権威が誇示されるとともに邪馬台国は脚光を浴び、歴史に名を連ねることになったのです。その一大国家の台頭を陰で支えていたのは、不思議な霊力に勝る神宝の存在に他なりません。
しかしながら、邪馬台国の歴史は短命に終わりました。女王卑弥呼が死去した後、崩壊の一途をたどり、3世紀の半ば、266年に卑弥呼の娘である倭の女王の使者が朝貢したことを最後に歴史から消え去ります。そして日本は「空白の4世紀」と呼ばれる時代に突入し、5世紀初頭まで何ら史料が残されてないという、正に歴史の空白に突入するのです。いったい邪馬台国に何が起こったのでしょうか。何故、いとも簡単に邪馬台国は崩壊してしまったのでしょうか。そこに秘蔵されていた神宝は、どうなってしまったのでしょうか。
女王国とも呼ばれた邪馬台国では、多くの偶像礼拝が執り行われ、自らを神とした暴君の高慢な罪は、目に余るものがあったようです。また、邪馬台国の在り方そのものは天皇を君主とする従来の国家体制とはそぐわないものであり、国生みの時代から続く神々への信仰を否定するものでもありました。その結末が周辺国からの攻撃と、火による裁きです。旧約聖書にも記されているとおり、古代では偶像礼拝や不信仰などの罪が深い町々は、神の裁きによって敵国から攻め入られ、焼かれてしまうという事例が少なくありません。同様に、神宝の遷座と共に発展した邪馬台国も周辺国の攻撃を受けて国家が壊滅し、その後、周辺一帯は罪から清めるために焼き打ちにあったと考えられます。結果、邪馬台国は跡形もなく消え去ってしまったのです。その際、天皇の権威を象徴する大切な神宝は、未然に取り出されたことでしょう。神宝の到来により始まった邪馬台国の歴史であるだけに、その終焉は、神宝が取り去られることをも意味していたのです。
邪馬台国の発展と荒廃には、神宝の遷座と守護に関わる重要な歴史が含まれています。聖なる神宝だけに、邪馬台国に安置されていた神宝は、国家が崩壊した後、安全な場所に再び遷されたのではないでしょうか。その史実を「かごめかごめ」の歌は、ヘブライ語で証していたと考えられます。邪馬台国の比定地である四国の剣山に神宝が遷座したと想定することにより、元伊勢の御巡幸から邪馬台国へと繋がる歴史の流れが明確になり、ヘブライ語で読む「かごめかごめ」の歌詞の内容が、より一層、現実味を帯びてきます。「かごめかごめ」の歌詞は、邪馬台国が崩壊した後の時代、秘蔵されていた神宝が取り出され、周辺一帯は焼かれて清められたことを、如実に物語っていたのです。
2.元伊勢のレイラインは剣山が起点
元伊勢御巡幸により守護されていた神宝が、最終的には邪馬台国へ遷されたとするならば、その新しい秘蔵場所は、伊勢からさほど離れていない地域に存在したはずです。その場所を特定するには、邪馬台国の比定地を中国史書の記述を基に検証するだけでなく、元伊勢の御巡幸地に絡む数々のレイラインと、それらの繋がりを調べることも重要です。
一見、不規則に散在しているように見える御巡幸地ではありますが、それらの場所には一つの共通点が存在します。全ての御巡幸地は、四国剣山とレイライン上で繋がっていたのです。剣山と元伊勢に関わる御巡幸地を通るレイラインを地図にプロットすると、どの御巡幸地も剣山と直結するレイラインが存在していることがわかります。それは、四国の剣山を起点として、他の聖地や霊峰、地の指標を結ぶ線上に、それぞれの御巡幸地が見出されたことを意味しています。それ故、これらレイラインの起点となる剣山の意味は重要であり、神宝と何かしらの繋がりを持っていた可能性が見えてきます。
元伊勢御巡幸の目的は神宝の守護であり、人の手の届かぬ安全な場所に神宝を秘蔵することでした。その結果、御巡幸の最終目的地として選ばれた場所が、西日本で2番目の標高を誇る剣山であったと想定すれば、レイラインの起点として特別視された理由が明確になります。しかしながら、例え断崖絶壁が連なる剣山への道のりとて、その場所を公言してしまえば、いつ何どき、盗賊がやってくるかわかりません。神宝の収蔵場所は、隠ぺいするしかなかったのです。それ故、誰もわからない場所に密かに秘蔵することが目論まれ、元伊勢の御巡幸という謎めいた長旅が計画されたのです。そして神宝の秘蔵場所となる最終目的地を剣山と定め、他の聖地と剣山を結ぶレイライン上に並ぶ場所を、御巡幸地の条件としたのです。こうして全ての御巡幸地は1か所ずつ念入りにロケーションが精査され、剣山という起点をレイライン上で共有することができたのです。その結果、それぞれの御巡幸地から剣山の方向を見ると、その御巡幸地と霊峰を結ぶ一直線上の間には、大切な聖地が必ず並ぶようになったのです。それらの聖地と一直線上にぴたりと並ぶ剣山の存在は、例え目にすることはできなくても、人々の心に徐々に根付いたことでしょう。
元伊勢の御巡幸は、神宝が秘蔵された場所の謎を解くための鍵を後世にも伝えることも、その目的のひとつとしていました。それ故、ひとつひとつの御巡幸地に絡むレイラインは剣山を含むものとし、剣山が共通の起点として示されるように工夫されただけでなく、そこが御巡幸の最終目的地であることも分かるように、最終的に淡路島の伊弉諾神宮と剣山を結ぶレイラインと三輪山の緯度線が交差する場所に磐座を置き、そこで神を祀ったのです。これが淡路島の舟木にある石上神社創始の背景です(後述参照)。こうして古代の識者を含め、後世の民でも、元伊勢の御巡幸地と剣山を交えたレイラインの存在に気づくことにより、神宝の秘蔵地となった剣山の重要性を理解することができたのです。
3.神宝の秘蔵が伝承される剣山
西日本で2番目に高い剣山の周辺地域では、ユダヤの秘宝が隠されているという噂が遠い昔から村々で語り継がれています。剣山の麓は「日本のチベット」と呼ばれるほどの交通の難所であり、そこには今もってなかなか開発が進まない東祖谷山村(ひがしいややまそん/現・三好市)が存在します。四国の真ん中に位置する人口2,600人余りの小さい村で、その地域は高山に道を阻まれており、まさに秘境。その東祖谷村でも、ソロモンの秘宝と言われる契約の箱が、この剣山下に隠されていると言い伝えられてきました。村の観光案内でも公式に認知されていることもあり、単なる伝説ではすまされないようです。
剣山の麓にある祖谷地方には、古代から伝承されている民謡があり、その歌詞は、神宝や、イスラエルの契約の箱に関して歌っているという説もあります。

祖谷の谷から何がきた。 恵比寿大黒、積みや降ろした。
伊勢の御宝、積みや降ろした。 三つの宝は、庭にある。
祖谷の空から、御龍車が 三つ降る。(中略)
伊勢の宝も、積みや降ろした、 積みや降ろした。(中略)
三つの御龍車が降った祖谷。 伊勢の宝が積みおろされた祖谷。

この歌の背景について詳細は不透明なものの、剣山に向けて、伊勢から神宝が運ばれてきたことが語られているように読み取れます。祖谷地方の民謡に、神宝の移動を証する歌が残されていることは極めて重要であり、その背景は「かごめかごめ」のものと同じであったと考えられるのです。
剣山に神宝が秘蔵されている、ということを最初に公言したのは、神奈川県出身の元小学校校長である高根正教氏です。高根氏は昭和11年から3年にわたり、剣山の頂上周辺にて発掘調査を行いました。発掘した全長は485尺、すなわち150〜160mにも及び、その結果、多くの玉石や鏡石などの遺物が見出され、同氏は剣山を「人工の山」と称したほどでした。そして高根氏は聖書や古事記を比較研究した結果、剣山にはイスラエルの契約の箱が隠されているのでないか、という結論に達したのです。
その真相は定かではないものの、高根氏の働きは、剣山の存在を世間に知らしめることになります。その後、同氏の剣山に纏わる働きは、御子息である高根三教氏に引き継がれ、筆者も生前、色々な話を高根氏の自宅にて伺うことができました。高根氏の見解には極論が多く見られたものの、剣山に関する洞察力は抜きんでており、周辺の遺跡に纏わる貴重な話を聞くことができたことは収穫でした。
4.金の鶏が秘蔵されたと語り継がれる石尾神社
高根氏から教わったことで、最も感銘を受けたのが、徳島県穴吹にある石尾神社の存在です。今となっては、荒廃した岩場のようにしか見えませんが、そこには剣山の謎を解く多くの鍵が残されています。最も大切なことは、古代、人々が剣山を参拝する際にはこの石尾神社にて、まず祈りを捧げ、それから杖立峠という難所を通り抜けて、剣山の山頂へと向かったのです。よって、石尾神社は何故かしら重要な位置づけにあり、剣山と深い絆で結ばれていたことがわかります。
その石尾神社は、空海こと弘法大師も愛してやまない聖地でした。それ故、空海が高野山に拠点を設け、紀伊の吉野川上流にて人生の最後の日々を過ごした際も、高野山周辺にしか見られない「こうやまき」という木を、わざわざ石尾神社まで持ち運び、御神体として佇む巨大な磐座の頂上に植えたのです。それほどまでに何故、空海は石尾神社を大切に取り扱ったのでしょうか。その理由を解明することが、「かごめかごめ」の謎を紐解くことになります。
石尾神社の御神体である巨大な磐座には、古代より、金の鶏が埋蔵されていると伝えられています。それ故、今日では巨石の真横に、「金鶏の風穴」と大きく記された標識が立てられ、その下には小さく、「この穴は清水があり、さらに進むと金鶏の像があると伝えられる」と書かれています。火のない所には煙は立たぬ。何かしらの理由があり、金の鶏に見えるような物体が古代、石尾神社に持ち運ばれ、巨石の下に埋められたのではないでしょうか。このような伝承が2千年以上の時を経てまで語り継がれていることに驚きを隠せません。もしかして金の鶏とは、イスラエルから運ばれてきた契約の箱の上に取り付けられていた、ケルビムと呼ばれる1対の鶏のことかもしれません。それ故、剣山界隈、祖谷の地域では、古くからイスラエルの契約の箱に纏わる伝承が残されてきたのではないでしょうか。
石尾神社の磐座は特筆すべき価値のある、見事なものです。その御神体である結晶片岩の路頭は、100mx50mというとてつもない大きさを誇示しています。その磐座を空海も大切にしていた形跡が残されていることからしても、石尾神社が神宝と絡んでいた可能性は高いと考えられます。
5.鶴石と亀石を崇める剣山
剣山の頂上近くには宝蔵石と呼ばれる巨石があり、そこから200mほど離れた所には、鶴石、亀石と呼ばれてきた大きな岩石が存在します。これらの巨石は古くから、剣山を登頂する多くの人から崇められてきました。鶴と亀、と言えば、「かごめかごめ」の歌詞に登場する2匹の「すべった」動物が、思い起こされます。剣山は山自体が「鶴亀山」とも呼ばれることもあり、「かごめかごめ」のテーマと一致します。これはもはや単なる偶然とは言えないでしょう。剣山の鶴石と亀石の存在は、剣山に纏わる数多くの伝承の中に「かごめかごめ」の歌も含まれていたことに起因しているのではないでしょうか。
6.剣山周辺が焼かれた痕跡とは
四国では瀬戸内側に高地性集落の遺跡が多数見つかっています。古代社会の不思議とも言われる謎めいた高地性集落は、剣山を中心とする周辺の山々でも存在しました。実際、祖谷地区の周辺には近年までは大きな牧場が存在したほど、剣山周辺でも、人々が居住することができる程度のなだらかな斜面と地勢を有する山麓が少なくありません。四国の山上に高地性集落を造営することは決して難しいことではなく、邪馬台国が存在していた可能性も見えてきます。
標高1,955mを誇る剣山の頂上周辺は、ササ原やコメツツジの野原が広がっています。樹木が全くなく、野原が尾根に沿って広がっていることから、その景観は「馬の背」、とも呼ばれています。このように、ササ原に囲まれたおよそ平坦な高地を有する山々は、剣山の周辺に広がっています。矢筈山、石立山、赤帽子山、天狗塚などがその一例です。
ササ原とコメツツジの野原が剣山周辺の山々に見られる理由は、古代、これらの山々の頂上周辺にて樹木が切り倒され、集落が造られた形跡の名残ではないでしょうか。そして、「かごめかごめ」の歌詞が証するように、ある時、これらの高地性集落の中で、神宝が秘蔵されていた場所や、神社を有する地域が、ことごとく焼かれてしまったと考えられるのです。その結果、今日見られる「馬の背」のように、山麓の途中から樹木が消え去り、頂上近くになるに従って、野原が広がっているという景色を目の当たりにするのです。これは、山々が古代、山焼きの被害に遭遇し、樹木が一掃された痕跡と考えられ、「かごめかごめ」が証する結末と一致します。
その証として、剣山から24kmしか離れていない神山町には焼山寺が建立されています。第12番札所としても名が知られている焼山寺の創始は、遅くとも飛鳥時代にまで遡り、その名称のとおり、焼き山についての由緒が複数残されています。中には空海が、火を吹いて人々を襲う大蛇と対決した言い伝えもあります。そして山を火の海にする大蛇と、真言を唱えながら戦う空海との一騎打ちとなり、最終的に大蛇は岩窟の中に封じ込められます。しかしながら、丸焼きの被害をまぬがれるこができずに焼山となってしまったことから、焼山寺が建立されたのです。焼山寺周辺の見晴らしの良い場所からは、剣山周辺の山上にて燃え上がる火の手を見ることができたでしょう。それ故、この焼き打ちを目撃した証として焼山寺が建立されたとも考えられます。
「火を付けろ」、「燃やせ」という「かごめかごめ」に含まれる命令を裏付ける環境が、古代の剣山周辺には整っていたのです。
7.剣山に魅了された船木氏の動向
元伊勢の御巡幸において、縁の下の力持ちとして倭姫命御一行を伊久良河宮から伊勢まで導いたのが、海人豪族として名高い船木氏でした。大陸に由来する船舶技術を携え、経済力にも富んでいた船木氏は、皇室の御一行に船舶を提供しただけでなく、神宝の護衛も任されていたことでしょう。よって、船木氏の動向を見据えることにより、元伊勢の御巡幸における最終段の結末が見えてきます。
御一行が伊勢の五十鈴河上に到達し、そこで神が祀られた後、船木氏は短期間で何故かしら伊勢の拠点を去り、船で海岸沿いに紀伊半島最南端まで下り、そこから紀伊水道を北上したのです。そして紀伊半島の吉野川上流にある伊都郡へと向かい、丹生都比売神社の周辺に拠点を設けました。直後、船木氏は淡路島北部の山頂へと向かい、そこで巨石を移動するという難題に着手し、磐座の周辺には環状列石にも見える岩石を並べ、祭祀活動を行ったのです。その周辺一帯は舟木と呼ばれ、船木氏の重要な拠点となったのです。その後、船木氏は大阪の住吉大社方面から摂津国へと拠点を広げ、最終的には明石国の加古川から上流に上り、今日、加西市と呼ばれる地域を拠点とし、住吉酒神社をはじめとする数々の神社を建立しました。また、加古川の支流となる東条川沿い、今日の小野市周辺にも船木の集落は広がりを見せ、多くの住吉神社が建立されました。
船木氏が足早に伊勢を去り、淡路島へと向かったことには、大切な理由が秘められていたようです。船木氏により、淡路島の舟木に建立された石上神社は、単に巨石を御神体として祀る神社ではありませんでした。その場所は、元伊勢の原点にある日本の聖地、三輪山だけでなく、長谷寺や斎宮とも同緯度の位置だったのです。しかも、他の御巡幸地と同様に、剣山を結ぶレイラインも構成し、剣山と石上神社を結ぶ直線上には、日本の創始に深く関わる伊弉諾神宮と、霊峰として名高い摩耶山や六甲山もピタリと並んでいたのです。さらに石上神社からちょうど真北に向かうと、そこには明石国の住吉神社も建立され、船木氏の拠点が設けられていたことからも、石上神社の位置が重要であったことがわかります。
これら船木氏の動向を振り返ると、剣山を意識していたことが明らかになってきます。船木氏が剣山のレイラインに結び付く場所に拠点を設け、そこで祭祀活動を執り行った理由は、元伊勢御巡幸の最終地点となる剣山に神宝を運んだこと以外に答えがありません。だからこそ、剣山と伊弉諾神宮や摩耶山、六甲山を結ぶ線と三輪山の緯度線が交差する地点を、聖地の力がクロスする重要拠点と定め、その場所にピンポイントで巨石を移動し、そこで祭祀活動を執り行ったのです。神宝が秘蔵された剣山を思うあまり、船木氏は淡路島の石上神社において、剣山の神宝を思い起こしながら神を崇め祀ったのです。
8.剣山に精通した空海が「かごめかごめ」の作者か?
ヘブライ語と日本語を巧みにブレンドした「かごめかごめ」の作者は、語学の達人、弘法大師空海である可能性が極めて高いと言えます。空海は四国に生まれ育ち、遣唐使として中国へ渡った際、ネストリウス派のキリスト教(景教)を学び、ヘブライ語を習得しました。聖書の教えに触れた空海は、帰国して15年後の821年、今日の香川県にある日本最大の灌漑用溜池として知られる満濃池の改修を3か月で完了させ、多くの農民を救済したのです。空海は海外の文化人らも驚嘆させたほどの偉大なる宗教家、詩文家、書道家でありながら、その天分のみならず、土木灌漑建築というまったく異なる分野においても、当時の最先端技術と情報を唐より持ち帰り、即座に活用して多くの結果を残しました。
空海が灌漑治水を学んだ理由は、単に庶民の救済だけでなく、神宝を見出して、新たなる聖地へと遷さなければならないという天命を悟ったからに他なりません。旧約聖書のイザヤ書に繰り返し綴られている重要なテーマは、山と水、そして水路の存在です。空海は神宝が秘蔵されるべき場所は安全であるだけでなく、水源が豊かな場所であることに気づいていました。それ故、全国をくまなく行脚して水路を造り、神宝を収蔵できる環境に恵まれた場所を探し続けたのです。「かごめかごめ」の歌は、収蔵場所が焼かれてしまうことを語り告げていますが、その前に神宝は取り出されて、別の場所に遷されたのです。その巧みな遷座策を実現した張本人が、空海であった可能性が見えてきました。
空海が行脚した四国の巡礼場所は、後に四国をほぼ一周する「四国八十八箇所」となりました。これら空海ゆかりの聖地も、イスラエルルーツの神宝、及び「かごめかごめ」の歌と不思議な繋がりがあるようです。まず注目すべきは88という数字です。一般的に「八十八箇所」は、88の煩悩を消し去り、88の徳を成就するという意味に捉えられているようです。しかし「8」の音読みである「ヤ」はヘブライ語で神を意味し、その8を重ねることにより、八重(ヤエ)、つまりヘブライ語での「神」となります。しかも日本語では幾重にも覆われて隠れてしまう、というニュアンスが含まれているため、「八十八」は「神を隠す」と解釈できます。それを更に明確に表現した言葉が「八重桜」であり、この言葉の読みはヘブライ語で「神隠し」を意味します。おそらく空海は、長年に渡り神宝が秘蔵された剣山を基点にして、その周囲を八十八箇所の霊場で結びながら遍路と定めることにより、多くの信望者が剣山という霊峰の存在を知り、その恩恵を受けることを願っていたのでしょう。
四国の剣山は、空海が生まれ育った東香川の地から近い場所に位置しています。そして古代よりイスラエルの神宝が埋蔵されているという言い伝えが残されていたが故に、剣山を徹底して調査したのではないでしょうか。そして四国の剣山には、確かに元伊勢の御巡幸に結び付く大切な神宝が秘蔵されていたことを知り、それらの神宝の中には、預言者イザヤに導かれて渡来したイスラエルの民が祖国から持ち込んだ、聖櫃に纏わる貴重な神宝が含まれていたと考えられるのです。
それ故、イスラエルの神器が日本に運ばれて秘蔵されているという風説は、あながち作り話ではないようです。偶像が多々残されていた剣山周辺は焼かれて清められることが定められますが、その焼き打ちが実行される直前、それらの神宝が持ち出されて違う場所に移設されたと考えると、「かごめかごめ」の歌の主旨とぴったり合います。そして「かごめかごめ」の作者だけに留まらず、それを実行したのも空海であると想定すると、全体の流れがよりわかりやすくなります。
「かごめかごめ」の歌は、剣山に秘蔵されていた神宝が、新天地に遷されたことを語り告げていたのです。空海の故郷に聳え立つ剣山は、神隠しの象徴であり、鶴と亀という「お守り」の岩によって、今でも霊峰剣山を守護しています。そして神宝は歴史の中に隠され、新天地にて秘蔵されることになりました。これら一連の働きの背後に存在したのが空海ではないでしょうか。そして空海こそ、世界が探し求めているイスラエルの神宝の秘蔵場所を知る主人公だったのです。 
かごめかごめ 10
伝統的な子どもの遊びの中には、素直な心を持っていた太古の記憶が残されているらしい。子どもは、知らず知らずのうちに、古代から連綿と受け継がれてきた原始的な祭りの様式を、いまに伝えているというのである。
たとえば、子どもは無意識に鬼ごっこというが、鬼とは、妖怪、死者の霊魂、亡霊などの意味を持っている。子どもは好んで霊魂に扮し、妖怪に追いかけられて笑い転げていたことになる。また、鬼は太古「モノ」と読み、「神」と同義語であっ
たから、鬼ごっことは、神の真似をすることが原義ととることもできる。
ちなみに、子どもが鬼ごっこや神の遊びをするものと考えられているひとつの理由には、古来、子どもが神や鬼と同一視されていたことと無縁ではなかったようだ。昔話の中で子ども(童子・童女)が主人公で登場し、大人でも手に負えぬ鬼を退治してしまうのは、子どもが鬼よりも強い鬼、あるいは鬼の邪気に打ち勝てる聖なる存在とみなされていたからである。
子どもには不思議な力が秘められていると考えられていて、神に近い存在とみなされていたから、多くの重要な神事にも、童子・童女は主役級の大役を任されてきたのである。その、子どもが行ってきた神事・祭りが、遊びとなって今日に伝わった疑いが強いのである。
とすれば、伝統的な「遊び」も、軽視することはできない。
たとえば……つい近年まで女子の遊びの定番であったカゴメ歌にも、謎がないわけではない。
カゴメ歌といえば、鬼が目を塞いでしゃがみ、そのぐるりを他の子どもたちが取り囲み、歌を謡い、立ち止まったところで、後ろ側に立った人の名を当てるというゲームとして知られる。
目に見えぬ背後の人物を言い当てるということも何やらオカルトじみているが、この、中央でかがみ込んだ人物を取り囲むのは、霊媒者に神おろしをする形とそっくりであるともいう。
たしかに、カゴメ歌は、不可解な歌詞である。
カゴメカゴメ(籠目・籠目)、籠の中の鳥は、いついつ出やる。夜明の晩に、鶴と亀がつっぺった(すべった)。後ろの正面だあれ。
籠の中にいる鳥は、はたして閉じこめられているとでもいうのであろうか。そして、夜明の晩という矛盾、何の脈絡もなく鶴と亀が出てくるのはなぜか。そして、なぜ後ろの正面を推理しなければならないのか……。知らず知らずに口ずさんでいた歌が、不気味な謎を持っていたことに気づかされるのである。
カゴメ歌を記した最古の文献は、江戸時代の安永8年(1779)のもので、そこには、「むかしむかしよりいいつたえし かごめかごめのものがたり」とある。
このことから、カゴメ歌が少なくとも江戸中期には遡ること、しかもこのとき、すでに「むかしむかしから伝わる」「物語」と認識されていたことがわかる。
カゴメ歌を継承してきた者が童女であり、童女が巫女としてきわめて宗教的意味を持っていたことは無視できない。というのも、古代より語り継がれた星の数ほどの民話・伝承の中でも女性の悲劇にまつわる代物には、あるひとつのパターンがみられる。その根が想像以上に古く、しかも、カゴメ歌にも、この「様式」が当てはまってくるからである。
それは、たとえば鶴の恩返しであり、天の羽衣伝承、『竹取物語』(かぐや姫)、奈良県の中将姫伝説、北陸地方の奴奈川姫伝説である。
これらの話の中のことごとくが、シャーマン(巫女)的要素を含んでいること、最後に悲劇的な幕切れが用意され、天に飛んで帰る(死、自殺を含む)こと、さらには「水(沼・湖・海)」「鳥(白鳥・羽衣を含む)」「カゴ(籠・籠目・亀・亀甲、籠の材となる竹)」「機織(天の羽衣・神衣を織ること、すなわち鳥のイメージとつながっている)」といった、古代日本の民俗信仰の痕跡が濃厚にみられるのである。
これらの説話が、新しいもので中世、古いものでは神代(つまりはヤマト建国直前の混乱期の話であろう)まで遡り、予想以上に古い題材であることも興味深いが、問題はカゴメ歌の中に、この「女性(巫女)の悲劇の説話」と共通のパターンが見出せることなのである。
しかも、この遊びの形式が、一種の「神おろし」であり、「童女(巫女)」たちの手で継承されてきたところに、深い秘密を感じずにはいられないのである。
カゴメ歌には、千数百年にもわたる女人の恨みつらみ、執念が込められている……これが、カゴメ歌を追ってみて行き着いた答えであり、「カゴメ歌的なもの」が語り継がれてきたのは、この女人の悲劇が、歴史の秘密を隠し持っていたからであろう。 
指きりげんまん 1
   指きりげんまん うそついたら
   針千本飲ます 指きった!
おそろしい、針千本なんて飲めません!
今回は「まじない歌」。それは、これを唱えれば何も怖くない、とか。勇気凛凛になる、とか。気力に溢れ、一気に元気になる、とか。それとも、少し恐ろしいこともある歌なのか。「わらべうた」は様々な面を持ちますが、この「指きりげんまん」という歌は、友だちとの約束を守るための言葉で綴られています。それは、小指と小指を絡めながら約束を守ることを誓う言葉なのです。
指きりげんまん うそついたら
針千本飲ます 指きった!
と唱えると、お互いにどんなことをしても約束を守ろうとする気持ちが湧くのです。
こうやって書きはじめると、幼いころに「指きりげんまん」をした友だちの顔が浮かんできます。「うそついたら 針千本飲〜ます」と。
しかし、その言葉をよく使ったのは大人。子どもを叱る時の決まり文句でした。子どもにとっては大変恐ろしい歌でもあるのです。
針を千本だって〜、
一本飲んでも危険な針。それを千本も飲むなんて!お腹が痛くなって大変だよ〜!どうしよう・・・、うえ〜ん。
その上に、「針を飲むと体の中をめぐりめぐってね、死んじゃうからね」と言われて、痛〜い、怖い〜。その言葉を聴いた後は、針が身体の中でどうなるのかとても心配でした。想像しても子どもにはわからない、どうなるのかな・・・。思案に思案をかさねて、ここを切って針をとりだすのかな、とお腹を見つめたり。結局、わからなくて、どうしょうもなく、泣き疲れて眠ってしまうのです、いつも。
その他、母がよく使った「まじない歌」は、
   ちちんぷいぷい 痛いの痛いの 飛んでいけ
子どもはいつも飛び跳ね、あっちへ行ったり、こっちに来たり。それも前かがみでよちよちよち。そこで何かのひょうしにつまづいて、ひざっ小僧をすりむいて・・・、うえ〜ん、痛いよ〜。そんなときには、そうです。
ちちんぷいぷい 痛いの痛いの 飛んでいけ〜
すると、ひざっ小僧の痛さは、不思議にもとれて、おもわず母の顔。そのにっこりと笑う母の顔を見て、子どもは愛情を感じてひと安心。すっかり機嫌が直って、また元気に歩きだす。そんな頃もありましたね。子どもは暗示にかかりやすいのでしょうか。いやいやそれだけではないようです。そうすると、いま泣いたからすが もう笑った。これも「まじない歌」なのです。
『なつかしのわらべ歌』には、「ちちんぷいぷい」の効能がもっとあると書かれています。
忍者が姿を消す時も「ちちんぷいぷい」、狐やたぬきが木の葉をお金に変える時も「ちちんぷいぷい」と唱えます。呪文を唱えながら、心の中でお願いするとその願いごとがかなうのです。何と素敵な言葉なのでしょうか。
そうですね。子どもにとって夢の言葉です、ちちんぷいぷい!
そして、もし、いつまでも泣いていると、もっと怖い「まじない歌」が・・・。
泣き虫毛虫 はさんで捨てろ
うえ〜ん。子どもにとって捨てられることこそ恐ろしいことはありません。
そう、いじめられの言葉は、「おまえは、橋の下から拾われてきたんだぞ!」わぁ〜ん。嫌な兄貴だったな。いつも取っ組み合いの喧嘩。いまは仲良しだけれどもね。といったことはありませんか。
そういえば、「鬼は〜外、福は〜内」も「おまじない」なのです。
そして、「くわばら くわばら」も。これは、雷と関係があります。何か恐れることがあったとき、使われますね。くわばら、くわばら。よく歌舞伎などで聞く言葉です。
その「くわばら くわばら」には、前述の『なつかしのわらべ歌』には、こんな話が、
季節は、夏になり、雷様がゴロゴロ鳴ってくると、「くわばら くわばら」といって蚊帳(かや)を張って布団を敷いて中に隠れて寝てしまう。
とても懐かしいですね、「蚊帳」とは。子どもの頃は、夏の夜に蚊帳が張られ、蚊から守られ、その中で眠り込んだものです。
この話の続きは、
言い伝えにドジな雷様の話があります。ゴロゴロ派手に雲の上でやっていたのはよかったのですが、調子に乗りすぎて足を踏み外し、農家の井戸の中に落ちてしまいます。
そう、調子に乗りすぎるのは駄目ですね。
それを見ていたおじいさんは、井戸に蓋(ふた)をしてしまいました。
雷さんも大変なことに・・・。
空に帰れなくなってしまった雷様はおじいさんに「わしは桑の木が大嫌いだ。わしがお前の家の上に来たら、『くわばら くわばら』と唱えろ。二度とおまえの所には落ちない」と約束し、やっと空へ返してもらえたというものです。
昔の人は、自分たちが体験してきたことを「生活の知恵」としてきました。桑畑という平らな土地には雷が落ちることが少ないと、経験上知っていたのでしょう。そして、子どもたちにそのことを伝えるために、楽しい昔話にしたのです。
それにしても『くわばら くわばら』とは。「くわのはら」、つまりは、桑の畑。この言い伝えはうまく作りましたね。くわばら くわばら、と二回繰り返すところなんかは、実に巧みです。
では、「針千本」を恐れないで、勇気をもって歌ってみましょう。
指きりげんまん うそついたら
針千本飲ます 指きった!
指きった! は、決心の言葉。人生幾度決意の言葉を誓うでしょうか。 
指きりげんまん 2
ゆびきり(指切、指切り)
近世以降の日本において、約束の厳守を誓うために行われる、大衆の風習。ゆびきりげんまん(指切拳万)の略語。フック状に曲げた小指を互いに引っ掛け合う。その際、指を絡め合った状態で上下に振るのが通常であり、また、「指切拳万、嘘ついたら針千本呑ます」という、約束を違えたときに課される名目上の罰を内容とするまじないの言葉を共に唱えて意思を確認し合うことが多い。「拳万」は「握り拳(にぎりこぶし)で1万回殴る」、「針千本呑ます」は「ハリセンボンを呑ませる」ではなく、「裁縫針を1000本呑ませる」という意味である。
男女が愛情の不変を誓い合う旨を証拠立てることを「心中立(しんじゅうだて、心中立て)」と言うが、指切は、遊女が客に対する心中立てとして、小指の第一関節から指を切って渡したことに由来している。これにはかなりの激痛が伴うため、それほど愛してるということを意味し、貰う客も、遊女の思いに応えるくらいの気構えが必要であった。しかし、実際に切る遊女は少なく、贋物(模造品)の指が出回ったらしい。そして、この「指切」が一般にも広まり、約束を必ず守る意思を表す風習へと変化した。
同風習が、博徒集団でも広がり、親分に対する忠誠の誓いに利用されるようになった(指詰めも参照)。もっとも、博徒集団においては組織内で和を乱した場合に、親分に対する謝罪の意思として指を切断することでけじめをつけることとされる。今日のヤクザのエンコ詰めは、この指切りの風習に由来するものである。
中世社会における指切
日本の社会において、指を切ることによって責任をとらせるといった行為自体は、中世初期における武家が最初であり、『吾妻鏡』の12世紀末の記述として、戦時中、御方討(味方討ち・同士討ち)をしてしまった者は、「指切の刑」に処されたことが記述されている(記述によれば、鮫島氏が右手指を切っている)。そういった意味では、指詰めの発想自体は近世以前から存在する。
室町幕府が永正9年(1512年)8月に定めた『撰銭令』の条例(令自体は永正2年に発布)には、違反した者は、「男は頸(くび)をきり、女は指をきらるべし」との肉体刑を記しており、女性の指切りを刑としている。これは違法に対する刑罰(責任)ではあるが、責任を取る形の一つとして、女性の指切りが社会的に認知される下地が中世からあったことがわかる。 
指きりげんまん 3
子どもの頃、約束を守る証として「ゆびきりげんまん 嘘ついたら はりせんぼん飲ます」というわらべうたを歌いながら、自分と相手の小指を絡めた経験が一度はあると思います。「指きりげんまん 嘘ついたら針千本飲ます」の歌詞には一体どういう意味があるのでしょうか? 子どもの頃は無邪気に歌っていましたが、意味を調べてみるととても無邪気に歌えないようなものでしたよ・・・?
「指きりげんまん 嘘ついたら針千本飲ます」の意味と由来
漢字で書くと「指切拳万」となります。
まず「指切」ですが、江戸時代(1603年〜1868年)の遊郭である吉原で、遊女が客に対する心中立(しんじゅうだて・男女が不変の愛を誓うために証拠を立てること)として意中の男性に小指の第一関節から先を切って渡したことが由来だといわれています。
小指を切るということで、かなりの激痛が伴いますが「それほど愛している」ということを意味し、爪や髪を切って渡すこともありましたが、新しく生えてくる爪や髪よりも、切ってしまったらもう二度と生えてはこない小指を送ることで、誓いの強さを示したそうです。
しかし、実際に小指を切る遊女は少なく、模造品の指が出回ったという話もあります。
やがてこの「指切」が一般庶民にも広まり、約束を必ず守る意味へと変化しました。
つぎに「拳万」ですが、「一万回のげんこつ」という意味があります。
「約束を破った時には、一万回げんこつで殴る」ということで、後から付け足されたものだといわれています。
「嘘ついたら針千本飲ます」も、後から付け足されたもので「約束を破ったら裁縫の針を千本飲ませるよ!」と、約束を守らなかったら制裁を加えると歌っているのです。
海の生物である「ハリセンボン」と思っている方もいるようですが、裁縫につかう針を千本なのです。
小指を絡めるのはなぜ?
「ゆびきりげんまん」と歌いながら、約束を交わす相手と自分の小指を絡めますよね?
この仕草は、小指を切る仕草が元になっているといわれています。
実際に小指を切ることはしなくても、お互い最後に「指切った!」と言いながら指を離します。
「指切った!」と言うよりも前に指を離してしまった場合、約束が成立していないから守る必要はないとか、歌っているうちに約束を守る自信がなくなったとか、世代や地域によっていろいろな解釈の仕方があるようです。
「指きりげんまん 嘘ついたら針千本飲ます」の意味がわかりましたね。「約束を守らなかったら酷い目に遭わせるよ!!」という脅迫のようなものでしょうか?
実はとっても怖い歌詞だったんですね。もともとは遊女が愛情を示す行為でしたが、現在は子どもたちがお友達や家族と約束をするときに無邪気に歌っています。子どもたちにはもともとの意味は教えず、「約束は守らなければならない」「嘘をついてはいけない」ということだけ教えてあげるといいですね。 
指きりげんまん 4
幼い頃、親や友達と約束するときによく 「ゆびきりげんまん 嘘ついたらはりせんぼん飲〜ますっ 指きったっ」 と小指を結びながら歌わなかっただろうか。げんまんってなんだろ?はりせんぼんとか、痛そう……。子どもが歌うには物騒では? 
ゆびきりげんまんの由来
歴史をさかのぼること江戸時代。男女が愛情の不変を誓い合う旨を証拠だてることを「心中立(しんじゅうだて、心中立て)」と言う。「指切」は、遊女が客に対する心中立てとして、小指の第一関節から先を切って渡したことに由来している。かなりの激痛が伴うため、「それほど愛している」ということを意味し、もらう客も、遊女の思いに応えるくらいの気構えが必要であった。しかし、実際に切る遊女は少なく、贋物(模造品)の指が出回ったらしい。そして、この「指切」が一般にも広まり、約束を必ず守る意思を表す風習へと変化した。
遊郭の女性は、男性を誘惑するのがとても巧く、信用を得るためにここまで痛い思いをしなければなかったそうだ。指を受け取った男性もそれなりの覚悟が必要である。
小指のほかに、髪の毛を切って渡す、爪をはぐ、刺青を入れるというのも流行っていたようだが、小指が一番、信用度が高いとされている。また、小指は第一関節しか切らないため、包帯を巻いておけば他のお客さんからバレないという面もある。
模造品が出回るくらいなのだから、いろいろな人が好きな人へ誓いを立てていたことがよくわかるだろう。
だが、実際にはこのようなことをすることによって、お客さんへ 「私は本気で貴方が好きです」 と見せかけるためのテクニックとして流行っていたともいわれている。
○ 爪は自分のものではなく、目下の女郎に爪を伸ばさせ切った物を渡した
○ 刺青は偽物で実は墨であったり、素人の刺青なので消すことができる
○ 小指は、模造品のほかに死体の小指を買っていた。
また、死体から指を切って売る「指きり屋」といわれる職業も存在していたという。
本気で好きになった人に渡す女性は少なかったことがわかる。
なぜ、わらべうたへ発展したのか
諸説あるが、
○ 遊郭がとても栄えた吉原の子どもたちに「好きな人に小指を切って渡すのが流行っている」という話が耳に入り、ごっこ遊びが流行し、次第にわらびうたへと変化していった。
○ 人形劇・浄瑠璃などで、遊郭とそのお客さんとの極端な恋愛を描く劇があり、劇から庶民のあいだに伝わり、最終的には子どもに伝わり、わらべうたになった。
両者とも「子どもに伝わりわらべうたになった」という説は共通しており、今のところ前者の説のほうが有力である。
歌詞の意味
ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼんのます ゆびきった
歌詞は、後づけといわれている。ちなみに、げんまんは、「拳万」とかき「一万発拳骨する。」という意味である。
たまに「はりせんぼん」を魚のハリセンボンと勘違いしてる人がいるが、魚ではない。漢字で「針千本」とかき、裁縫で使う針のことがを指す。 (余談だが、魚のハリセンボンの針の数は実際は千本もなく、約400本である。意外と少ないことに驚く)
わらべうたは、時とともに変化していき、「約束を破ったら指を切って 一万回拳骨をして 針を千本を飲ませる」という意味で伝えられてきたようである。
約束を破った遊郭の女性や、相手の男性への制裁ではないといえるだろう。
だが、あくまでわらべうたで実際に制裁を与えることはほとんどなかったそうだ。実際に制裁を加えていたら……想像するだけでも、恐ろしいものである。
また、「ゆびきった」のあとには「死んだらごめん」と歌詞が続いている。という説もあある。
調べ進めていると、この「死んだらごめん」は、 「約束を果たす前に死んだらごめんなさい」 「約束を果たせなければ死んで詫びる」と、ふたつの意味が出てくる。真偽がわからないが、そもそも歌詞自体が後づけなので、たしかめる術はなさそうである。 
指きりげんまん 5
「死んだら御免」
子どものころ、こんなことを言った覚えはないだろうか。「指切りげんまん。嘘ついたら針千本飲ます」この後に「死んだら御免」と続く。約束した以上、命ある限り、約束を果たすのが当たり前。こんな覚悟を示したものだった。
イメージ若い読者のために解説をしたい。まず、「指切り」。小指と小指を絡めて何回か振る。ヤクザなら約束を違えると即指を切り落とす。子どもたちはこれを遊戯化した。
江戸時代、吉原の遊女たちは贔屓客のために何回か、この指切りをした。「主(ぬし)さんだけが頼り。誠の気持ちをみせますえ」とか何とか言って、5,6回、指を切り落とす。正確には、そのつど、その振りをした。晒しにくるんだ小指はよそからの調達物、指には包帯をしてあるから気付かれる心配はない。
でも本来の約束事は、そんなものではない。だから、約束を破ったらげんこつを1万回くらわせるぞ、針を1000本飲ませるぞ、といった。まさに生き死に、を賭けたのだ。
それでも、大人たちの間の約束事は、時に、薄っぺらな紙のように容易に破られた。破らざるを得ない事情があったかもしれない。その時は死んでお詫びをするのが当たり前だった。
子供たちの遊びに残っている「死んだら御免」。その意味は、死んでしまったら知らない、ではない。江戸の人々の思いはもっと重い。 
指きりげんまん 6
「指きりげんまん」の歌詞が怖い理由は、江戸時代の遊郭に関係してる。江戸時代、遊郭の遊女は様々な男性と関係を持っていたので、その中で本気で好きになった男性に愛を誓うときは、左の小指を切り落として相手の男性に贈ることで自分の誠意を伝えていた。この遊女の愛の誓いを「指切り」と言っていた。その後、約束をするときは、指切りのことをうたったわらべ歌を歌うようになり、わらべ歌が歌い継がれるうちに、「指切り かねきり 嘘言うと指が腐るよ」、「指切り かねきり 高野の表で血吐いて来年腐って又腐れ」、「指きり げんまん 嘘ついたら針千本飲ます 指きった」という歌詞になった。 
家の裏の黒猫(手毬唄)
   家(うウち)の裏(うウら)の黒猫が
   お白粉(しろい)つけて 紅(べに)つけて
   人(ひイと)に見られて チョイと隠(かく)す
隣の家に新しく引っ越されてきた家族には猫もいます。家の前を通ると窓の処にちょこんと座り、こちらをちょいと見つめます。思わず立ち止まって、にらめっこ!じーっと見つめるまなざしは、「あなたは、だぁ〜れ」と言ってる様子。こんな風に思わせる猫はとても人となじみのふかい動物ですね。この“わらべうた”に歌われている猫は、人でしょうか、猫でしょうか。白粉つけて紅つけて、うむうむ、はてはて・・・。
このうたは、香川県で歌われているもので、2回以上反復して歌われるそうです。この唄をうたいながら手毬をするのは楽しそうですね。
今回は、手毬唄の数々を楽しみましょう。
山形県の加茂町では歌の文句が少し変わります。
   家の隣の三毛猫は白粉つけて紅つけて、
   小さな橋を渡る時、・・・
となります。
京都では、
   家の裏の黒猫が、お白粉ぬって紅ぬって、
   紅がないので買いにって、
   人に見られてチョッと隠せ
兵庫では、
   うちの裏の黒猫が、鏡の前にちょいと坐り・・・
面白いですね、楽しくなります。お猿さんの出てくる手毬唄もありますよ。それは、「山王のお猿さん」といいます。
   山王のお猿さん (手毬唄)
   山王のお猿さんは 赤いお衣服(べべ)が大(だい)おォ好き
   テテシャン テテシャン
   夕べ恵比寿講(えびすこう)に招(よ)ばれて行ったら
   お鯛の吸物 小鯛の塩焼き
   一杯おすすら  すゥすら
   二杯おすすら  すゥすら
   三杯目には肴が無いとて腹を立て
   ハテナ ハテナ ハテハテハテナ
なんとも愉快な唄ですね。このような唄を歌いながら手毬をするなんて楽しすぎます。
山王は江戸麹町日吉山王神社ともいわれています。この唄は東京地方の古いものですが、今では山形や神奈川、静岡、長野、新潟、富山、京都、大阪、宮崎などでも歌われ、お手玉、毬つきなどの遊戯にも、その時々に応じて使い歌われているそうです。
雀が登場するのもあります。
   清水の観音様 (手毬唄)
   清水の観音様に 雀が三疋とまった
   その雀が 蜂(はアち)にさされて
   あいたた ブンブン
   あいたた ブンブン
   まずまず一貫 貸し申した
スズメが蜂に刺されるなんて、などと言ってはいけません。素直に楽しむことですね。これは足利地方で歌われたそうです。
野菜や果物の出てくる唄もあります。
   いちじく人参 (手毬唄)
   無花果(いちじく) 人参(にんじん)
   山椒(さんしょ)に 椎茸(しいたけ)
   牛蒡(ごぼう)に  無患子(むくろじュ)
   七草(ななくさ)  初茸(はつたけ)
   胡瓜(きゆうり)に  冬瓜(とうがん)
野菜尽くしの手毬唄という感じですね。昔の子どもは、この唄を楽しく歌いながら、野菜の名前とその難しい文字を覚えたのでしょう。この唄の発祥は静岡のようですが、全国共通の唄です。
「向う横町の」と歌いだし、普段の生活を想像することができる唄もあります。
   向う横町の (手毬唄)
   向う横町(よこちょ)のお稲荷さんへ 壱銭上げて
   ちゃんと拝(おが)んで お仙の茶屋へ
   腰を掛けたら 渋茶を出して
   渋茶よこよこ 横目(よこめ)で見たらば
   米(こめ)の団子か 土(つち)の団子か お団子 団子(だァんご)
   この団子を 犬にやろうか 猫にやろうか
   とうとう鳶(とんび)に さらわァれた
江戸の庶民の姿が浮かびます。この唄は手毬唄の中でも秀作の一つとのことです。歌の意味は『わらべうた』町田喜章・浅野健二編によると「明和の頃、江戸谷中、笠森稲荷神社頭の茶屋鍵屋の娘、お仙の美貌を叙したもの」、だそうで、「鈴木春信の一枚絵にも描かれた」といいます。そして、この笠森稲荷神社は「瘡の神として、まず祈願をこめる時に土の団子を供え、満願の時効験あれば、米の団子を改めて供える風俗あり、両側の茶屋は皆両様の団子を売った」のです。
この唄は、地方によって歌い方は違うのですが、山形県の米沢市では、
   栗の団子か米の団子か、
   だんごだんご、
   まずまず一貫貸しました
と歌います。
東京でも昔は、「お団子お団子」で切って、「まずまず一貫貸しました」と歌ったそうです。このお団子とは手毬の形から連想されたともいわれます。
そして、多くの娘がでてくる手毬唄も歌われていました。
   あっちの山から (手毬唄)
   あっちの山から こっちの山から
   赤い父(と)っちゃん 大人(おおにん)づれで
   一でよいのは 糸屋の娘
   二でよいのは 肉屋の娘
   三でよいのは 酒屋の娘
   四でよいのは 塩屋の娘
   五でよいのは 呉服屋の娘
   六でよいのは 蝋燭屋(ろうそくや)の娘
   七でよいのは 質屋の娘
   八でよいのは 鉢屋の娘
   九でよいのは 櫛(くし)屋の娘
   十でよいのは 豆腐(とふ)屋の娘
   豆腐かついで えっささ もっささ
なんとまあ〜、これもまた楽しい歌ですね。
一でよいのは 糸屋の娘で、全部を数字の頭文字で、一は、「いち」で、「いとや(糸屋)の娘」と。二は、「に」で「にくや(肉屋)の娘」と歌っていくとは・・・。本当に面白いです。これは、広島市の唄ですが、秋田・宮城・福島・長野・福井・愛知・三重・京都・大阪にも同じようなものがあります。
同じように数字の頭文字の「一」の「い」を一宮、「二」の「に」を日光中禅寺と綴りながら、観光案内のような手毬唄もありました。
   一番初めは (手毬唄)
   一番初めは一宮      二また日光中禅寺
   三また佐倉の宗五郎    四また信濃の善光寺
   五つ出雲の大社(おおやしろ)  六つ村々鎮守様
   七つ成田の不動様     八つ大和の法隆寺
   九つ高野の弘法様     十で東京心願寺(しんがんじ)
“わらべうた”は本当に庶民の暮らしを子どもたちに教えるいい教材だったのですね。
これは岡崎地方の唄ということです。こんなに多くの手毬唄、それを楽しみながら歌ってきた人々。私たちは次の世代に伝えていかねばなりませんね。
では最後に、手毬の大好きな人向けに、西日本で残っている古い伝承の唄を、
   わしの大事な (手毬唄)
   わしの大事な お手毬(てまり)さァまは
   紙に包んで 文庫に入(いィ)れて
   お錠(じょう)でおろして お鍵で開けて
   開けたところは イロハと書(かァ)いた
   イロハ誰(誰)が書いた お菊が書(かァ)いた
   お菊よう書く お袖の下(した)から
   お渡し申すが合点(がッてん)か 合点(がッてん)か 
うしもうー(牛)
   うしもうー かね噛(か)ましゅ
   いやバーイ 杉の枝
   牛ァかか もたれん
   馬ンかか 借(か)っとらす
   返(かえ)しゃ得(え)じ 鳴きよらす
最近は田畑で牛を見かけることはありませんね。牛に替わって耕運機が活躍しています。
この“うた”は田畑の耕作に牛や馬が一役買っていた頃にうたわれていた唄です。
『わらべうた 日本の伝承童謡』町田嘉章・浅野健二編によると次のような意味になるようです。
[ のっそりと働いている牛が「モウー」と鳴き声を立てると、近くで遊んでいた子供たちは一斉にこの唄で囃したて、カネ、すなわち「馬のくつわを口にはめよう」と唄います。そうしたら、牛は「嫌だと鳴くに違いない。それより鼻に通す杉の枝の方がいいというだろう」杉の枝とは牛の鼻輪のことです。続けて唄うには、「牛はお嫁さんをもっていないよ」カカとは妻のこと。一説には母とも。「馬のお嫁(お母)さんを借りているよ」そして、「返せないで、あんなに鳴いているよ」 ]
牛を取り巻く子どもたちや人々の生活が感じられます。ほんとうに牛が身近な日常の風景に溶け込んでいたのですね。
この唄は佐賀県の鹿島地方から太良地方にかけて歌われていたようです。
鹿島は九州の西部にあり、東は有明海に面したところで、南部は多良(タラ)山が連なっています。この土地では今でもお年寄りに唄われているそうです。
みなさん、「べいご」という言葉を聞かれたことはありますか。牛のことです。北海道や東北では牛は「べこ」といい、新潟や山形では「おし」、茨城や千葉では「うしめ」、山梨では「うしんべえ」、長野では「べえぼう」、石川、静岡、愛知では「ばつこ、ぼつこ、うしんぼう」、島根では「もうん」、宮崎や長崎では「うひ」、熊本では「うぅし」、鹿児島では「べぶ」といったそうです。
東北の岩手にはこんな牛の唄があります。
   べいご べいご つんべいご
   山のべいごに負げんな
   味噌くって肥えろ
   酒のんでつくれ
秋田では、
   べこべこ餅食(か)せる
   小ちゃ餅やったけゃァ
   いらねァて投げだ
   大き餅やったけゃァ
   いひひて笑った
面白い唄です。
宮城では、
   べいご、べいご
   豆食(け)え
   生(お)がったら米食(け)え
群馬では、
   牛もうもう
   鼻っかけ
   親に世話焼かして
   それで角がまがった
親不孝するから角がまがったというのです。これは牛の話でしょうか。私たちのことを牛にたとえているのでしょうか。
福岡では、
   牛ァ角(けん)なもたんだ
   馬ン角(けん)ば借っとった
宮崎では、
   牛ァかかもたれん
   馬(うんま)かか借っとら
牛なのに「かか=妻」のことまで心配してやっているのか、ひやかしているのか、牛は子どもたちとこんなにも身近なのです。
牛と人との関係はとても深く、私たちの農耕生活とともにはじまった牛との生活があります。それは世界的にみると9000年前から始まっているそうで、人間よりはるかに力の強い牛は、機械のない時代にはとても貴重な労働力だったのです。 
 
うさぎうさぎ/夕焼けこやけ/雀雀ほしんじょ/だるまさん/諸唄
 

 

うさぎうさぎ(月)
   うさぎ うさぎ 何見てはねる
   十五夜お月さま 見てはねる
皆様よくご存じの「うさぎ うさぎ」の唄。江戸時代から歌われてきたそうです。子どものときに、聞かされませんでしたか。月には兎が住んでいて餅をつくと・・・。そして「ぴょんぴょんはねる」と。そのたびに、月を眺めて確かめたりして。その表面の模様が兎の餅つきに見えたりして!子どものときは素直な心、すっかり信じ込んで、想像力はどんどん膨れ、月の兎と夢の中で戯れたりして・・・。今の子どもたちはどうでしょうか。
月にまつわる歌は、“わらべうた”だけではありません。子どもを愛した良寛さまが素晴らしい長歌を詠われています。
   月の兎
   いそのかみ ふりにし御代に ありといふ 
   猿(まし)と兎(おさぎ)と狐(きつに)とが 
   友を結びて あしたには 野山にあそび 
   ゆふべには 林にかへり かくしつつ 
   年のへぬれば ひさがたの 天(あめ)の帝(みかど)の
   ききまして
   それがまことを しらんとて
   翁となりて そがもとに よろぼひ行きて 申すらく
   いましたぐひを ことにして 
   同じ心に 遊ぶてふ まこと聞きしが ごとならば
   翁が飢を救へと 杖を投げて いこひしに 
   やすきこととてややありて
   猿はうしろの 林より 木のみひろひて 来たりけり 
   狐は前の 川原より 魚をくはへて あたへたり 
   兎はあたりに 跳びとべど 何もものせで ありければ 
   兎は心 異なりと ののしりければ はかなしや 
   兎はかりて 申すらく 猿は柴を 刈りて来よ 
   狐はこれを 焚きてたべ 
   いふが如くに なしければ 烟の中に 身を投げて 
   知らぬ翁に あたへけり 
   翁はこれを 見るよりも 心もしぬに 久方の 
   天をあふぎて うち泣きて 土にたふれて ややありて 
   胸うちたたき 申すらく 
   いまし三人の 友だちは いづれ劣ると なけれども 
   兎はことに やさしとて 
   からを抱へて ひさがたの 月の宮にぞ はふりける 
   今の世までも 語りつぎ 月の兎と いうことは 
   これがもとにて ありけると 聞く吾さへも
   白袴(しろたえ)の 
   衣の袖(そで)は とほりて濡れぬ
この歌は、「今昔物語」に“月の兎”というお話しがあり、そこから発想されたそうです。お腹のすいたお爺さんに(実は神様なのですが)食べ物を与えるために自分の身をささげた健気な兎。神様は兎たちの仲の良さを試したばかりに、こんなことになってしまった、と嘆くばかり。自らの命を捧げた兎の優しい心をはっきりとみたのです。そして、月の宮に手厚く葬ってあげようと、兎を腕に抱え天へお帰りになった、というお話です。やさしい兎のことを思い、涙している良寛さんが浮かんできます。 
夕焼けこやけ
   夕焼け こやけ
   あした天気になあれ
みなさ〜ん、空が紅に染まる夕焼けはお好きですか。美しい夕焼けを眺めるとなんだか心は別世界につつまれますね。以前、旅に出て瀬戸内海の小さな島に滞在したとき、その島の小高い山に登って、空から海に沈んでいく太陽の美しさに圧倒されたことがあります。そして、生きているというのはなんと素晴らしいことかと思ったのです。
今回の夕焼けの唄は、そのような夕焼けの中で「あした天気になあ〜れ」と歌います。それはお天気占い!歌いながら、自分の履いている靴やサンダルをポォ〜ンと空に向かって蹴り上げます。落ちてきた履物が地面に落ちたら、さてどうなのでしょう。
表か裏か?この表裏でお天気占いなのです。落ちた履物が表を向いていたら明日は晴れ!裏になっていると、そう、雨なのです。では横向きに立ったらどうしましょう。そのときは曇りなのです。
よく天気予報に、晴れのち曇り雨とあるように、晴、雨、曇りが占われるのです。
この「わらべうた」で、履物を蹴り投げるのは、“お願い”なのです。「夕焼けこやけ あした天気になあれ」と。それもそのはず、「夕焼けになったら、次の日は晴れ」と言い伝えられてきているので、そこからこの歌詞ができたようですね。天気予報じゃないですが、当たる確率はいいのです。つまりは、願いがかなうことが多いのです。
明日の天気を占うにはいろいろ方法があるといいますが、父は古傷が痛むと「明日は雨かも」とよく言っていました。
『なつかしのわらべ歌』では、昔からの言い伝えとして次のようなものが書かれています。
・猫が耳までこすって顔を洗っていたら、雨。
・からすが鳴き騒ぐと、雨になる。
・雀がにぎやかにさえずると、晴れる。
・かたつむりが木に登ると、雨が降る。
・雨蛙が低いところにいると、晴れ。
・蛇が木に登ると、雨が降る。
・くもが巣を作ると、晴れる。
・赤とんぼが高く飛ぶと、明日は晴れ。
・夜、蛙が鳴くと明日は晴れ。
・ありが忙しく動いていると、雨になる。
・ありがたくさん出てくると、晴れる。
・魚がはねると雨になる。
沢山ありますね。言い伝えということですが、結構当たるそうです。皆様の経験ではいかがですか。「僕は晴れ男」とか、「私は雨女」とか、仲間と出かけるときに言う人がいますね。それがよく当たったりするから不思議です。まあ運命みたいなものでしょうか。 
雀雀ほしんじょ
   雀(すンずめ) 雀 ほォしんじょ
    どの雀 ほォしんじょ
   ○ちゃん雀(すンずめ) ほォしんじょ
    羽(はァね)無(ね)ンで 呉(けェ)らいね
   羽コ呉(け)らはで 飛んで来い
    川あって 行(いィ)がれね
   橋架(か)ァけで 飛んで来い
    山あって 行がれぬ
   山くずして 飛んで来い
「雀」が登場する歌で、「子とろ遊び」・「子買い遊び」・「子貰い遊び」ともいわれるものです。
弘前地方で歌われたもので、「ほォしんじょ」は「欲しい」の意味です。「○ちゃん雀」は誰でも好きな相手の名前をつけて呼びますよ。
この歌は、平安朝時代の古い子どもの遊びで、比比丘女(ひふくめ「子を捕(と)ろ子捕ろ」の昔の呼び名)に、すでにそのもとがあるそうです。
『わらべうた・日本の伝承童謡』町田嘉章・浅野健二編では次のように解説されています。
「恵心僧都が閻羅天子故志王経の経文の意を取り、地蔵菩薩が獄卒の率いる亡者を奪ったのを、獄卒が取りかえさんとするのに擬えて創めたものという」と。
恵心僧都とは、平安時代に『往生要集』を著した天台宗の僧で、浄土信仰に大きな影響を与えた人です。あの紫式部の『源氏物語』にも少なからず影響を与えたともいわれています。その恵心僧都が経文より発想したのが、この歌の根本にあったのです。当時、宗教と人々の日常とがいかに密接な関係にあったかしのばれますね。
そして、また、江戸時代に童謡をまとめた行智の童謡集によると、「子をとろ子とろ、どの子がめづき、あ引との子がめづき、さあとって見やれ」とあります。その遊び方は、まず一人が鬼になります。そして、他の子どもたちは互いの帯の結び目に手をかけてつかまり、順番に縦につながり、一番前列の子どもが大手を広げてうしろの子どもをかばいます。鬼になった子が、その子の前に立って、「子とろ、子とろ、どの子をとーろ」といって囃すと、先頭の子が、「ちいちゃとって、みーなさいな」といいながら、鬼が一番後列にいる子を掴まえようとするのを、とらせまいとして、右に避けたり、左に避けたりして、鬼からとられないように防ぎます。
弘前地方のものもたのしいですよ。子どもたちが、二列に並び向かい合って歌問答。
山あって 行がれぬ
山くずして 飛んで来い
それが終わると、指名された子どもが、自分でブーンといって飛んで来るのです。楽しそうな「子取り遊び」ですね。 
だるまさん
   だるまさん
   だるまさん
   にらめっこしましょう
   笑うと
   負けよ
   あっぷっぷ
にらめっこに強い人、弱い人、どちらにしても、「だるまさん」の“うた”は多くに人に親しまれてきました。この「にらめっこ」は幼い頃には、家族や友だちとよくしたものです。「あっぷっぷ」で百面相!どんな表情をして相手を笑わせるか、笑わしたら勝ち。相手の表情が面白すぎて笑ってしまったら負け。ある意味の我慢比べですが、遊び上手な子どもたちには、なんでもかんでも遊びになっちゃうのです。「にらめっこ」も楽しい遊び。
ところで、この「だるま」の名前は何処から?それは、達磨大師からの発想といわれています。禅宗の始祖である達磨大師。鎌倉時代に日本に禅宗が伝来し、その時に達磨大師の肖像画ももたらされてきました。その肖像画に描かれていた、大きく見開いた目!まさに「目を剝く」表情。その絵から、「だるまさん」と親しまれるようになりました。
絵には、坐った達磨大師のお姿は、頭から襞の多い朱の衣。手足は襞の中。ただただ見えるのはお顔のみ。濃い口髭に、固く結ばれた口。そして、大きく見開かれた「目を剝く」表情。子どもたちは真似したくなっちゃいますね。
そんな「だるまさん」で思い出すのは、子どものころによく家に飾ってあった大きな目玉の「縁起だるま」。最初は、まず一年後のだるま市まで願いがかなうように、向かって右の白目の瞳を書き入れます。そうすれば、「だるま」の開眼。魂が「だるまさん」に宿ることになります。そして、甲斐あって願いがかなうと、祈願達成!左の白目に瞳をぐっと書き入れます。
願いがかなわなかったらどうするか。大丈夫ですよ。願いがかなわなくても、一年間無事に過ごすことができれば、左目を書き入れる人もいるそうですから。それは、どちらも、達磨大師の姿勢にあるのです。いかなる困難も克服して精進する姿勢を達磨大師はお持ちです。その姿勢にあやかるのです。どんなに失敗しても、また起き上がり挑戦する。その「七転び八起き」ができる人間になるため縁起をかつぐのです。
この「縁起だるまの」の発祥地は群馬県高崎市の少林寺達磨寺。お正月の七草の縁日には「だるま市」が立ち、縁起ものの「だるまさん」を求めに多くの人々が集まってくるのです。この「だるまさん」の発祥について、『なつかしのわらべ歌』では次のように述べられています。
「江戸時代、浅間山の大噴火をはじめとする天変地異が続発し、天明の大飢饉となりました。農民の危機を救おうと、九代住職東獄和尚は達磨大師像の木型をつくり、その像を張り子にして縁日で売るよう人々に知恵を授けました。それがだるま市の起源」と。 
諸唄
おつきさまえらいの
   おつきさまえらいの 
   かがみのようになったり 
   くしのようになったり
   はるなつあきふゆ 
   にほんじゅうをてらす
二人組みで向かい合い、両手をつないで揺らしながら歌う。「かがみのようになったり」で鏡月=満月(両手で円)を作る。「くしのようになったり」で“くし”のかたちを作る。「はるなつあきふゆ」で最初と同じように両手をつないで揺らし、「にほんじゅうをてらす」で背中合わせにクルッと二人でくぐりあう。もう1回同じように繰り返せば元の向かい合わせに戻ります。二人だけじゃなく、三人月、みんな月にチャレンジしても。  
おにはそとふくはうち
   おにはそと ふくはうち 
   えびすだいこく めをあけろ
節分のわらべ歌です。節分にも各地でいろいろなやり方があり、鬼を祭っている神社や「鬼」という字が名前についている人の家などでは「鬼は外福は内」ではなく、「鬼は内福も内」などという言い方もあるそうですよ。
遊び方 / 節分のとき、豆をまいたりしながら歌いましょう。「おにはそと(ふくはうち)」の部分は3回ずつくらい歌って、思いっきり豆を投げましょう。 
あぁひや、こひや
   あぁひや こひや
   だいちゃんがちゃ いたて 
   ずぅしくて ぬくもろ
意味は「ああ冷たい だいちゃんの家へ行って、雑炊食べて暖まろうよ」という意味。
遊び方は、子どもの両手をもってゆらし、「ぬくもろ」でほっぺたに手をあてたり、寒い時にひっつきもっつきしながら揺らし遊びにしても良いですね。  
どじょっこ ふなっこ 1 (東北わらべうた)
   春になれば しがこ(すがこ)もとけて
   どじょっこだの ふなっこだの
   夜が明けたと思うべな
    夏になれば わらしこ泳ぎ
    どじょっこだの ふなっこだの
    鬼っこ来たなと思うべな
   秋になれば 木の葉こ落ちて
   どじょっこだの ふなっこだの
   船っこ来たなと思うべな
    冬になれば しがこ(すがこ)もはって
    どじょっこだの ふなっこだの
    てんじょこはったと思うべな
どじょっこ ふなっこ 2
   春になれば 氷(しが)コもとけて
   どじょっこだの ふなっこだの
   「青い空見えたべ ンんだ」
   夜が明けたと 思うべなホー
    夏になれば 童(わらし)コ泳ぎ
    どじょっこだの ふなっこだの
    「おっかねェな かくれろ」
    鬼ッコ来たなと 思うべなホー
   秋になれば 木の葉コ落ちて
   どじょっこだの ふなっこだの
   「舟ッコ来たべ ンんだ」
   舟ッコ来たなと 思うべなホー
    冬になれば 氷コがはって
    どじょっこだの ふなっこだの
    「くれえな ンんだ くれえ」
    天井ッコはったと 思うべなホー  
バカカバ チンドンヤ
悪態の歌。子ども同士の悪態歌であり、茶化しの歌でもあった。
   バカカバ チンドンヤ お前のかーさん 出べそ
「お前の母ちゃんでべそ」
怖い悪口です。ただの子供の悪態と片づけられないだけの意味があるからです。
「でべそ」とは、女性器を婉曲に言いかえたものです。つまり、ほんとうは性器の肉体的欠陥、奇形を言い立てている悪口ということになります。
母親の下半身の形状について言い立てる、というのは、そのことを自分は知っている、つまり性的関係があることを示します。それにより、社会的序列上で相手より優位に立とうとしています。
それと同時に、母親の性的不品行を暴露することによっても、相手を侮辱する意図を持っています。
また、「母親との性的関係」に関する悪口のもうひとつの系列に「母親を姦する」主体を罵倒する相手に置いているパターンも存在します。つまり、「母子相姦のタブーを犯している奴」という意味の悪罵です。
○ お前の母親の性器が大きいことを俺は知っている、お前の母親は俺の女だからだ。従って、お前は俺の子分なんだぞ、という威嚇なのである。
○ 「母開」は単なる部分≠フ名称ではなく、これも母子相姦という行為≠フよび名ではなかったろうか。
おじさん 何処だい
悪態の歌。炭焼きなどの生業と山里の暮らしが表れた歌で、悪態やからかいである。大人がそれを承知で、子どもに対応していた様子が窺える。
   (問い)おじさん 何処だい 
   (応え) △△だ 
   (問いかけた者)どおりで お手々が
   (△△が) 真っ黒けのけ
提灯行列
歳時の歌(盆の歌)。盆行事と子女の様子を歌ったもので、広く関東地域などでも行われていた「ボンボン」という女の子がほおずき提灯を下げ、町中を巡る行事で歌った(唱えた)ものである。
   提灯行列 始まった おかめに ひょっとこ  ハゲ ドンドン (埼玉)
十日夜 (とおかんや、とおかや)
   十日夜 十日夜 朝そば切りに 昼だんご 夕飯くったら ひっぱたけ
   十日夜 十日夜 朝ぼた餅に 昼だんご 夕そば食ったら ひっぱたけ  
旧暦10月10日の夜に行われる年中行事である。
旧暦10月10日に行われる収穫祭で、「刈上げ十日」などともいわれる。稲の刈り取りが終わって田の神が山に帰る日とされる。北関東を中心に甲信越から東北地方南部にかけて広く分布し、西日本の刈上げ行事である亥の子と対応している。
一般的には、稲の収穫を感謝し翌年の豊穣を祈って、田の神に餅・ぼた餅が献じられるほか、稲刈り後の藁を束ねて藁づとや藁鉄砲を作り、地面を叩きながら唱えごとをする行事が行われる。これは、地面の神を励ますためと伝えられるが、作物にいたずらをするモグラを追い払う意味も持つ。
地域別の風習の一例として、長野県では、田んぼを見守ってくれた案山子を田の神に見立てて田から内庭に移して供え物をする案山子上げが行われる。また、群馬・埼玉県では、子供が藁鉄砲を持ち、集団で各家を訪れ地面をたたいて歩く。十五夜と同じく月に供え物をする所や、大根の年取りと称してダイコン畑に入るのを忌む所もある。その他、田の神送りの日として、2月10日前後の田の神降ろしと一対のものとみなしている所も、福島県を中心にして見られる。
一方で、藁鉄砲打ちの唱えごとや月への供物の習慣から、この行事は、水田での稲作のみに関わるものではなく、畑作祈願の要素も認められる。
藁鉄砲打ちの唱えごとの例
   とおかんや、とおかんや とおかんやの、藁でっぽう 夕めし食って、ぶっ叩け
 
仏教とわらべうた

 

坊さんが屁をこいた(十数える)
ぼ・ん・さ・ん・が・へ・を・こ・い・た
(坊さん=坊主(ぼうず)。「坊主」とは「房主」と書くのが本来である。始めは僧房の主(あるじ)のこと、つまり一坊の主としての住持や住職のみを指していた。これに対して十分な経験をもちながら、特定の房(坊)を持たない僧侶を法師と称した。また、こうした坊主身分のことを特に坊主衆(ぼうずしゅう)とも称した。古典文芸作品では、坊主は小僧の対義語で、お寺の一番身分の高い僧侶である。日本では中世以来、次第に法師など住職以外の一般の僧の総称となった。従って、本来は尊称であった。「坊さん」「お坊さん」と呼ぶのも、同じ語源による。時代が経つと、僧形の者、髪を剃ったり短く刈ったりした者、また、毛のない頭やそれに見立てられるものをも広く指すようになる。武家時代に、大名などに仕えて、僧形で茶の湯など雑役をつとめた者も坊主と呼ばれ、その職掌によって茶坊主・太鼓坊主などと呼ばれた。また、男の子の愛称となったのは、昔、僧のように幼時に髪を剃っていた事からであろう。なお、キリスト教伝来には、宣教師を(南蛮)坊主と呼んだこともあったという。このように、時代が下がるにつれて、尊称とは言えなくなり、蔑称の場合も多く、現在では僧侶に対し「坊主」などと呼びかけるのは大変失礼に当たるので、注意が必要である。これは「坊主丸儲け」「生臭坊主」などという言葉[檀家制度が導入されたために僧侶の堕落が著しくなった江戸時代から使われるようになった]に象徴されるように、仏教の葬式仏教化に伴い、僧侶が必ずしも尊敬の対象にならず、むしろ侮蔑の対象にすらなったという意識の変化によるものであろう)
(葬式仏教=本来の仏教の在り方から大きく隔たった、葬式の際にしか必要とされない現在の日本の形骸化した仏教の姿を揶揄して表現したもの)
(檀家制度=寺院が檀家の葬式供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた、寺と檀家の関係をいう。仏教に関わるものであるが、江戸幕府の宗教統制政策から生まれた制度であり、家や祖先崇拝の側面を強く持つなど、日本特有のものである)
達摩さんがころんだ(十数える)
だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ
(達摩=中国禅宗の開祖とされているインドの仏教僧である。ブッダから数えて28代目。慧能は達摩から数えて6代目)
(日本書紀などの記録によると、推古21年12月に太子が道中で大変身なりの汚れた飢えで倒れている人を見つけ、憐れんだ太子は自分の着ている物をその薄汚れた者にかけてやった。翌日、気になって使いの者に様子を見に行かせると、すでにその者は冷たくなっており、太子は手厚く葬った。後日確認すると、棺の上には太子が与えた衣服だけが残されていた。その倒れていた薄汚れた人物は、達摩大師が姿を変えたものだとされ、人々は、『聖人は聖人を知る』と口々に噂をした。そして、この棺の上に達摩塚を作り、さらに、僧が修行を行なう精舎を建て、聖徳太子が木で彫った達摩の像を安置したというのが、達摩寺のはじまりとされている)
羅漢さん(物真似遊び)
羅漢さんが揃ったら 廻そじゃないか
ヨイヤッサノ ヨイヤッサ
ヨイヤッサノ ヨイヤッサ
(羅漢=阿羅漢の略称。尊敬や施し受けるに相応しい聖者)
坊さん坊さん(鬼遊び)
坊さん 坊さん 何処行くの
わたしは田圃へ 稲刈りに
わたしも一緒に 連れしゃんせ
お前が来ると 邪魔になる
このかんかん坊主 糞坊主
うしろの正面 誰
(茶坊主=室町時代から江戸時代に存在していた職名の一つ。将軍や大名の周囲で、茶の湯の手配や給仕、来訪者の案内接待をはじめ、城中のあらゆる雑用に従事した。刀を帯びず剃髪していたため「坊主」と呼ばれていたが、僧ではなく武士階級に属する。現代は、権力者に取り入り出世や保身を図る者の例えとして、侮蔑的に扱われることが多い)
(坊主丸儲け=坊主は資本も経費もいらず、収入がそのまま全部儲けになる。「花八層倍、薬九層倍、お寺の坊主は丸儲け」という昔からある言葉の最後の部分。花八層倍=花屋は元手(仕入値)の八倍の利益がある。薬九層倍=薬屋は元手の九倍の利益がある。お寺の坊主は丸儲け=坊さんは元手なしで利益がある)
(生臭坊主=生臭坊主とは怠け者のことで、そういった人を嘲う言葉として江戸時代から使われる。ちなみに本来の生臭坊主の意味は、戒律を守らない坊主(僧侶)のことである。仏門の身である僧侶は、魚や鳥獣類の肉といった生臭物を食べる僧侶を生臭坊主と呼び、転じて修行やお勤めをさぼり、金策のことばかり考えるような僧侶のことも指すようになる。ここから一般でも怠け者に対して生臭坊主と呼ぶようになった。現在では本来の意味を知らず、「なまぐさ」という語感から怠け者の意で使っている人も多い)
うさぎうさぎ(月)
うさぎうさぎ 何見て跳ねる
十五夜お月様 見て跳ねる
(仏教説話。うさぎは自ら焚火に身を投じ、餓死しそうなお爺さんを救おうとした。お爺さんは仏の化身で、うさぎを昇天させ、月に住まわせた)
頭の皿は(鬼遊び)
頭の皿は 幾皿 六皿 七皿 八皿 九皿 十皿
とさんの上に灸(やいと)をすえて 泣くや悲しや 金仏
毛のない 坊さん
(金仏=感情の動きの少ない人。心の冷たい人)
いの字(手合わせ唄)
いの字 一切虚空 いんじゅうじ
いららんが 一切虚空 一切達摩の達摩の子
一切まっさら いの字が いんぎり豆 十三大豆
(一切虚空=三世[時間]・十方[空間]・諸法[凡ての範疇]を空とする仏教思想)
(いんぎり豆=縁切り豆か)
(十三大豆=十三大会か。胎蔵界曼荼羅で、その数が自ら十三層の法界塔婆に相応するという)
(いろは・・・=色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせず)
清水の観音様(手毬唄)
清水の観音様に 雀が三匹とまった
その雀が蜂に刺されて
あいたたブンブン あいたたブンブン
まずまず一貫 貸し申した
赤田首里殿内(手遊び唄)
赤田首里殿内(赤田首里殿内に)
黄金燈籠下ぎてィ(黄金の燈籠が飾られて)
うりが明がりば(これが明々とともれば)
弥勒うんけ(弥勒様をお迎えしましょう)
シーヤープーシーヤープー(両頬を触っていい顔をする)
ミーミンメーミーミンメー(両耳を指でつまむ)
ヒージントーヒージントー(肘を擦る)
イユーヌミーイユーヌーミー(掌を指しながら歌う)
(弥勒=1釈尊の次の世に現われ、仏となる菩薩。釈尊入滅後56億7000万年後に衆生を救済する。2仏教の唯識説を説くインドの唯識派の開祖)
盆ならさん(お盆唄)
盆ならさんよ 盆ならさんよ
盆が来たに 帯買うてお呉れ
赤いが良えか 白いが良えか
今の流行の 繻子の帯 繻子の帯
此処をこう行きゃ 門前町よ
門前町の 黒船御座る
幕は非緞子 葵の御紋
中で船歌 面白や 面白や
(お盆=一般に仏教の行事と認識されているが、仏教の教義で説明できない部分も多い。古神道における先祖供養の儀式や神事を江戸幕府が庶民に強いた檀家制度により仏教式で行なう事も強制し、仏教行事の『盂蘭盆』が習合して現在の形が出来たとされる)
(盂蘭盆=釈尊の神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に火となって、母親の口には入らなかった。哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うと、『安吾の最後の日にすべての比丘に食べものを施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう』と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行ない、比丘たちは飲んだり食べたり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり母親の口にも入った)
(安吾=それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一ヶ所に集まって集団で修行すること。及びその期間の事)
よいさっさ(お盆唄)
よいさっさ よいさっさ
これから八丁 十八丁
八丁目の 潜りは 潜りにくい潜りで
頭の天辺すりむいて
一貫膏薬 二貫膏薬
それで治らにゃ 一生の病じゃェー
さのやの糸桜(お盆唄)
さのやの糸桜 盆には何処も忙しや
東のお茶屋の門口で
赤前垂れに繻子の帯
ちょと寄らんせ入らんせ
巾着に金が無い
無うても大事ない入らんせ
おお辛気 こう辛気
(ゆき暮れて雨もる宿や糸桜=蕪村)
遠国(お盆唄)
遠国なはは なははや遠国 なはよいよ〜い
何が優しや蛍が優し 草の葉陰で灯をともす
アリャリャコリャリャ サアサヨ〜イヤサ
遠国なはは なははや遠国 なはよいよ〜い
船は出てゆく帆掛けて走る 茶屋の娘は出てまねく
アリャリャコリャリャ サアサヨ〜イヤサ
一おいて廻りゃ こちゃ市ァ立てぬ 天満ならこそ 市立てまする
二おいて廻りゃ こちゃ庭掃かぬ 丁稚ならこそ 庭掃きまする
三おいて廻りゃ こちゃ三味弾かぬ 芸妓ならこそ 三味弾きまする
四おいて廻りゃ こちゃ皺寄らぬ 年寄りならこそ 皺寄りまする
五おいて廻りゃ こちゃ碁は打たぬ 良え衆ならこそ 碁を打ちまする
六おいて廻りゃ こちゃ艪は押さぬ 船頭ならこそ 艪を押しまする
七おいて廻りゃ こちゃ質ァ置かぬ 貧乏ならこそ 質置きまする
八おいて廻りゃ こちゃ鉢割らぬ 盲目ならこそ 鉢割りまする
九おいて廻りゃ こちゃ鍬持たぬ 百姓ならこそ 鍬持ちまする
十おいて廻りゃ こちゃ数珠持たぬ 坊主ならこそ 数珠持ちまする
(遠国=律令国の等級区分の一つ。都から遠く離れた所にある国)
(数珠=仏を念ずる時に用いる珠との意味から『念珠』とも呼ばれる。起源は諸説あるが、古代インドのバラモン教で用いられていた道具を原型とするとされる。それが、釈尊により用られ、後に中国に伝わる。そして仏教伝来とともに飛鳥時代には、日本に伝わったとされる。鎌倉時代に入り、浄土教が流行し称名念仏が盛んとなるとともに一般にも普及する)
山寺の和尚さん(手毬唄)
山寺の和尚さんは 毬がお好きで毬は無し
猫を紙袋へへし込んで
ポンと蹴りゃ ニャンと鳴く
ニャンポン其処にか わしゃ此処に
さらば一貫貸しました
(和尚=仏教の僧の敬称である。『御僧』を表現するのに、特定の宗派で『わじょう』と言われているのを僧のことだと思い、それが一般化して『おしょう』と言われるようになったという説もある。本来の意味は、出家して受戒した僧が、日常親しく教えを受ける教師を指す。『十誦律』では、受戒の師を指す。禅宗・浄土宗では『おしょう』、天台宗・華厳宗では『かしょう』、真言宗・法相宗・律宗・浄土真宗では『わじょう』といい、律宗・浄土真宗では『和上』と書く)
(良寛=”子供らと手毬つきつつこの里に遊ぶ春日はくれずともよし” ”手毬唄ひふみよいむなここのとをとをと納めてまた始むるを”
「頭髪を剃って僧侶となったからには、衆生に喜捨を乞うて修行生活をするわけである。それを自分ですでに承知していながら、どうして反省しないでおられよう。私の見るところでは世の僧侶たちは、昼も夜もわけもなく読経や説教に声を張りあげているだけである。ただ生活の資を得るために、一生、心を外部にばかり馳せている。在家の衆で仏道にこころざさないのなら、まだ許せる。しかし出家した者がそのこころざしを持たないとは、なんたる心の汚れようか。三界への執着を断つため髪を剃り、現世の事象の本来無であるのを悟って墨染め衣になったのである。恩愛のきずなを捨てて禅門に入り、是にも非にもかかわらぬ境涯になったのである。世間どこを歩いてみても、男も女もそれぞれ何かして働いている。機を織っては着る着物をつくり、田を耕しては食う米を作っている。それなのに、こんにち僧侶と称する者どもは、行もつまなければ悟りも持っていない。いたずらに檀家からのお布施を費して、仏戒の三業を顧みようともしない。大勢集まって大法螺をたたき、旧弊のまま朝な夕なをすごしている。外面はもっともらしい顔をし、よその婆さんたちを迷わせている。それを世渡り上手だと自惚れている、ああ、いつになったら目が覚めるのか。たとい子持ちの虎の群れに中に踏み入っても、名誉や利得の路に迷い込んではならない。すこしでも名利の欲心が起これば、大海の水を注いでも洗い尽すことはできない。親爺がお前を出家させてから、朝夕なにをしているか。焼香して神仏を請じ、いつまでもお前の道心の堅固であるように祈願しているのだぞ。そんなことでは、初志とは矛盾しているではないか。三界は宿屋のように仮の宿、人命は朝露に似てはかなく消えるものだ。修行の上の好次期は失いやすく、仏法の正門もめったには遇えないものだ。さァさァ、見映えのある良い色彩を打ち出すべきだ、手をかえて他から呼ばれ注意されるのを待つまでもない。私が切々とくどく言うのも、決していい仕業ではない。明日といわずすぐに今から、よくよく考え直してお前の態度を改めるがいい。後世に生れたもの(自分を含む)は、自ら勉強して、内心に不安や危懼の思いをのこすことのないようにせよ」)
道成寺(手毬唄)
トントンお寺の道成寺
釣鐘下ろいて 身を隠し
安珍清姫蛇に化けて
七重に巻かれて一廻り 一廻り
(安珍清姫伝説=旅僧安珍に恋した清姫が蛇体となって日高川を渡り、道成寺の鐘に隠れた安珍を灼熱の恋に巻き熔かすという話。蛇道に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである。『謹請東方青龍清浄』)
田螺どん(お彼岸唄)
田螺[つぼ]どん田螺どん お彼岸参りをさっせんか
お彼岸参りはしたァェけど
烏という黒鳥が 足を突き目を突き
それでよう行かんわいな
のののォどの木に花が咲いて
お茶壺ゴーロゴロ お茶壺ゴーロゴロ
お茶壺ぶち割った
(お彼岸=サンスリット パーラムの意訳であり、仏教用語としては、『波羅密』(パーラミター)の意訳『到彼岸』に由来する。Paramitaをparam(パーラム)+ita(到った)、つまり『彼岸』という場所に到ることと解釈している。悟りに到るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え、その向こう岸に涅槃があるとする)
(涅槃=人間の本能が起こる精神の迷いがなくなった状態。心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地)
百八燈(お彼岸唄)
百八燈 百八燈
百の米が一斗五升
もろんざけが十六杯 十六杯
爺ごたち 婆ごたち
じさは川を越えなれも
ばさは舟に乗りなれも
この明りにござれござれ
(百八燈=仏説の百八煩悩に基き、百八把または多数の松明をたいて精霊の祭りを行なうこと)
(爺・婆は精霊をさす)
お月さんいくつ(月の唄)
お月さんいくつ十三七つ まだ年ァ若いね
あの子を産んで この子を産んで
誰に抱かしょ おまんに抱かしょ
「おまんは何処行った」
油買いに茶買いに 油屋の前で滑って転んで 油一升こぼした
「その油どうした」
太郎どんの犬と 次郎どんの犬と みんな舐めてしまった
「その犬どうした」
太鼓に張って 鼓に張って
あっち向いちゃ ドンドコドン
こっち向いちゃ ドンドコドン
叩きつぶしてしまった
(禅僧仙高ノ影響を与えたわらべうた)
きせない(お盆唄)
天の星さん 数えてみれば
九千九つ八つ七つ ノーヤッサイ キセナイキセナイ
九千九つヨーホイ八つ七つ ノーヤッサイ キセナイキセナイ
中の弘法大師(鬼遊び唄)
中の 中の 弘法大師
なぜ 背が低い
立つなら 立ってみよ
お皿の中へ 灸をすえて
痛や悲しや オゲゲのゲ
(弘法大師=弘法さんは小坊さんの転訛か。大師は四国八十八箇所の霊場の創始者)
京の大仏さん(鬼遊び唄)
京の 京の 大仏さんは
天火で焼けてなァ
三十三間堂が焼け残った
ありゃ ドンドンドン
こりゃ ドンドンドン
「うしろの正面 何方」
(大仏=大仏殿は方広寺の金堂で妙法院に属し、天正十四年豊臣秀吉建立。もと大仏は木像盧遮那仏坐像で高さ十六丈という。慶長以来、数度の地震・火災等のため倒壊・焼亡し、再建されて現在に至る)
(天火=寛政十年七月、雷火で焼失したことを指す。一説に、慶長七年十二月、方広寺の大仏鋳造の時の大火とも。即ち、銅像の胴体にその首を鋳着ける時に、火が胴の中の支柱に移って火事が起こったのを、原因不明のため、当時の人々は「天火で焼けてな」と言ったものかと)
(三十三間堂=東山区七条大和大路にある天台宗の古刹、蓮華王院本堂の俗称。長寛元年、後鳥羽法皇の勅願によって創建、一千一体の千手観音を安置す。堂の実際の長さは六十四間五尺)
一番始めは(手毬唄)
一番始めは一の宮
二また日光中禅寺
三また佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つ出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様
八つ大和の法隆寺
九つ高野の弘法様
十で東京本願寺
巡礼お鶴(手毬唄)
一つかえ 柄杓に笈摺 杖に笠 巡礼姿で父母を尋にょうかいな
二つかえ 補陀落岸うつ三熊野の 那智さんお山は音高う響こうかいな
三つかえ 見るよりお弓は立ち上り 小盆に精げの志 進上かいな
四つかえ ようこそ巡礼廻らんせ 定めし連れ衆は親御達同行かいな
五つかえ いえいえ私は独り旅 父(とと)さん母(かか)さん顔知らず逢いたいわいな
六つかえ 無理に差し出す草鞋銭 少々ばかりの志 進上かいな
七つかえ 泣く泣く別れる我が娘 伸び上がり反り上がり見送って去(い)なそうかいな
八つかえ 山越え海越え谷を越え 艱難してきた我が娘去なさりょうかいな
九つかえ 九つなる子の手を引いて 十郎兵衛館の表口連れ込もうかいな
十かえ  徳島城下の十郎兵衛は 我が子と知らずに巡礼を送ろうかいな
(巡礼お鶴=阿波の十郎兵衛の哀史を読み込んだ数え唄)
(”普陀落や岸打つ浪はみ熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬”西国三十三番巡礼歌)
天竺へのぼる道へ(手毬唄)
天竺へのぼる道へ 椿ょ植えて育てて
日が照りゃば涼みどころよ 雨が降れば雨宿
雨宿の茶屋の娘は 天下一の機織り
一つでは乳を飲み候 二つじゃ乳を離れて
三つでは水を汲み候 四つじゃ良い茶を出し候
五つでは管を巻き候 六つじゃころ機織り候
七つでは綾を掛け候 八つじゃ錦を織り候
九つではここへもらわれ 十じゃ殿御に受けられて
まずまず一貫貸し申した
(天竺=インドの旧名。ブッダの生まれた国)
ぼんぼん(お盆の唄)
ぼんぼんとても今日明日ばかり
あさってはお嫁のしおれ草
しおれた草をやぐらに乗せて
下から見れば牡丹の花
牡丹の花は散っても咲くが
情けのお花は今ばかり
情けのお花ホイホイ  
 
わらべ歌に隠された古代史の闇

 

伝統的な子どもの遊びの中には、素直な心を持っていた太古の記憶が残されているらしい。子どもは、知らず知らずのうちに、古代から連綿と受け継がれてきた原始的な祭りの様式を、いまに伝えているというのである。
たとえば、子どもは無意識に鬼ごっこというが、鬼とは、妖怪、死者の霊魂、亡霊などの意味を持っている。子どもは好んで霊魂に扮し、妖怪に追いかけられて笑い転げていたことになる。また、鬼は太古「モノ」と読み、「神」と同義語であったから、鬼ごっことは、神の真似をすることが原義ととることもできる。
ちなみに、子どもが鬼ごっこや神の遊びをするものと考えられているひとつの理由には、古来、子どもが神や鬼と同一視されていたことと無縁ではなかったようだ。昔話の中で子ども(童子・童女)が主人公で登場し、大人でも手に負えぬ鬼を退治してしまうのは、子どもが鬼よりも強い鬼、あるいは鬼の邪気に打ち勝てる聖なる存在とみなされていたからである。
子どもには不思議な力が秘められていると考えられていて、神に近い存在とみなされていたから、多くの重要な神事にも、童子・童女は主役級の大役を任されてきたのである。その、子どもが行ってきた神事・祭りが、遊びとなって今日に伝わった疑いが強いのである。
とすれば、伝統的な「遊び」も、軽視することはできない。
たとえば……つい近年まで女子の遊びの定番であったカゴメ歌にも、謎がないわけではない。
カゴメ歌といえば、鬼が目を塞いでしゃがみ、そのぐるりを他の子どもたちが取り囲み、歌を謡い、立ち止まったところで、後ろ側に立った人の名を当てるというゲームとして知られる。
目に見えぬ背後の人物を言い当てるということも何やらオカルトじみているが、この、中央でかがみ込んだ人物を取り囲むのは、霊媒者に神おろしをする形とそっくりであるともいう。
たしかに、カゴメ歌は、不可解な歌詞である。
カゴメカゴメ(籠目・籠目)、籠の中の鳥は、いついつ出やる。夜明の晩に、鶴と亀がつっぺった(すべった)。後ろの正面だあれ。
籠の中にいる鳥は、はたして閉じこめられているとでもいうのであろうか。そして、夜明の晩という矛盾、何の脈絡もなく鶴と亀が出てくるのはなぜか。そして、なぜ後ろの正面を推理しなければならないのか……。知らず知らずに口ずさんでいた歌が、不気味な謎を持っていたことに気づかされるのである。
カゴメ歌を記した最古の文献は、江戸時代の安永8年(1779)のもので、そこには、「むかしむかしよりいいつたえし かごめかごめのものがたり」とある。
このことから、カゴメ歌が少なくとも江戸中期には遡ること、しかもこのとき、すでに「むかしむかしから伝わる」「物語」と認識されていたことがわかる。
カゴメ歌を継承してきた者が童女であり、童女が巫女としてきわめて宗教的意味を持っていたことは無視できない。というのも、古代より語り継がれた星の数ほどの民話・伝承の中でも女性の悲劇にまつわる代物には、あるひとつのパターンがみられる。その根が想像以上に古く、しかも、カゴメ歌にも、この「様式」が当てはまってくるからである。
それは、たとえば鶴の恩返しであり、天の羽衣伝承、『竹取物語』(かぐや姫)、奈良県の中将姫伝説、北陸地方の奴奈川姫伝説である。
これらの話の中のことごとくが、シャーマン(巫女)的要素を含んでいること、最後に悲劇的な幕切れが用意され、天に飛んで帰る(死、自殺を含む)こと、さらには「水(沼・湖・海)」「鳥(白鳥・羽衣を含む)」「カゴ(籠・籠目・亀・亀甲、籠の材となる竹)」「機織(天の羽衣・神衣を織ること、すなわち鳥のイメージとつながっている)」といった、古代日本の民俗信仰の痕跡が濃厚にみられるのである。
これらの説話が、新しいもので中世、古いものでは神代(つまりはヤマト建国直前の混乱期の話であろう)まで遡り、予想以上に古い題材であることも興味深いが、問題はカゴメ歌の中に、この「女性(巫女)の悲劇の説話」と共通のパターンが見出せることなのである。
しかも、この遊びの形式が、一種の「神おろし」であり、「童女(巫女)」たちの手で継承されてきたところに、深い秘密を感じずにはいられないのである。
カゴメ歌には、千数百年にもわたる女人の恨みつらみ、執念が込められている……これが、カゴメ歌を追ってみて行き着いた答えであり、「カゴメ歌的なもの」が語り継がれてきたのは、この女人の悲劇が、歴史の秘密を隠し持っていたからであろう。 
 
わらべ歌と差別

 

はじめに
最近、差別語や差別表現についてあちこちで書いてきた。その主な動機は、ちかごろ多く見られる差別語や差別表現への抗議が、あまりにも字句にとらわれすぎ、真の差別問題解決には有害無益と思われるケースが増えているように思えたからである。そしてこの原稿を書くにあたり、大阪の保育関係者に聞いた事例は、ますますその心配を強くするものだった。たとえば、子どもの遊び歌にある「通りゃんせ」という歌だ。「通りゃんせ、通りゃんせ。ここはどこの細道じゃ。天神さまの細道じゃ。ちょっと通してくだしゃんせ。ご用のない者とおしゃせぬ。この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります。往きはよいよい、帰りは恐い。恐いながらも、とおりゃんせ、とおりゃんせ」という誰しも耳にしたことのあるポピュラーな歌だが、保育関係者の間では、この「帰りは恐い」が部落をさしての差別的意味を含んでいるので、子どもに歌わせるべきではないという意見があるそうだ。また、これとよく似たケースに、「ほー、ほー、ほたるこい。あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」の「あっち」は部落をさしておりよくないとの指摘もあるそうだ。私にいわせれば、そんな指摘をして歩いている人こそ、人々の潜在意識に部落差別を植え付けているようなもので、問題行動だと思うのだが、少なからぬ人が差別だという指摘に同意しているようなので、ここではそうした問題をどのようにうけとめたらよいかを考えていきたい。
「ぞうり隠しの歌」は差別の歌か
「往きはよいよい、帰りは恐い」については、私自身は直接クレームを聞いたことがないので、同様のケースとして、比較的よく知られている「ぞうり隠しの歌」を題材に考えていこう。「ぞうり隠しの歌」、あるいは「下駄かくしの歌」として知られているこの歌の歌詞は、代表的なところでは「下駄かくしチュウレンボウ 橋の下のねずみが 草履をくわえてチュッチュクチュ ちゅっちゅくまんじゅは誰が食た 誰も食わへんわしが食た 表の看板三味線屋 裏から回って三軒め」というものである。この歌詞の「チュウレンボウ」は部落にたいする蔑視語である「チョウリンボウ」の訛ったもので差別である、との指摘を聞かされたら読者の皆さんはどう考えるだろうか。今から二〇年近く前これを聞かされた私は、この歌が自分もよく歌っていた歌で、部落差別の意味をこめるなど思いもよらないことなので、変なことをいう人もいるもんだと、なかば憤りつつ聞き流していた。しかし、もうすこし「良心的」な人なら気になるところだろう。私も、すこし改心したつもりになって、考えることにする。
とりあえず解放出版社からだされている『部落問題事典』をひいてみよう。すると、さすが部落問題に関することを網羅的に収録してある事典だけあって、ちゃんと「ぞうりかくし」という項目で解説してある。それによれば、この「チュウレンボウ=チョウリンボウ」説は、同和教育の先覚者である故盛田嘉徳氏が部落問題調査研究会の『調査と研究』一九六四年六月号に発表した「ぞうりかくしの歌」という論文が最初のようである。この雑誌自体は今では手にはいらないだろうが、部落解放研究所から出版されている『盛田嘉徳部落問題選集』(一九八二年刊)に収録されている。それをみると、盛田氏は、「歌詞の前後から推察すれば、この語は、元の形ではチョウリンボウと言われていたものであろう、と私は想像しているのであるが、現在、原形を残している例は、まだ見当ってはいない」とし、「こんな歌に、憶説的解釈を試みるなどということは、まことに愚かしいことではあるが、あえてその愚を試みる」と断わりつつ、「橋の下のネズミ」は、「子供たちが、草履をかかえてこそこそとかくしあっている自分たちの姿から、貧しい雪駄なおしの姿を連想し、差別と圧迫に苦しめられて、世をはばかり、人を恐れるみじめな様を、ねずみに見たててあざけり歌った差別的な意味の歌である」と推測を述べている。そして、論文の最後は、次のように結ばれている。「この小稿は、子供たちから草履かくしの歌を取り上げてしまうために書いたものでは、けっしてない。私の主意は、無心なわらべ歌を耳にしていて、ふといだかせられた疑問について、そこに含まれた問題の真実について、それを明らかにしてみたかっただけのことである。・・・もとは全く差別的な意味をもった歌ではあったが、長い年月の間には中味がすっかり昇華してしまって、現在では、もはやナンセンスな、口調だけの唱えごとに変ってしまったこの歌には、こだわるだけの意味内容はなくなっているのである。この小稿によって、草履かくしの児戯を、一層意味深い気持ちで眺められるようになっていただき、さらに、日頃、何でもなく見過ごしている些細なことの中から、かくれた過去の真実を見つけ出していただける誘いともなれば、望外の喜びとするものである。」
盛田氏の論稿を読めばわかるが、「チュウレンボウ=チョウリンボウ」説には、まったく根拠はなく、「ねずみ=雪駄直し」にいたっては、本人自身が「憶測的解釈」「文学的妄想」といっているのである。あぁ、よかった。じゃぁ、この歌は差別ではないのか、一安心、一安心といきたいところである。ところが、さきほどの『部落問題事典』には、一九七二年七月に、兵庫県でぞうりかくしの歌が問題になったとある。いったいどんな事件だったのか。ここまで考えてきたのだから、ついでに探ってみよう。
当時の新聞を探してみると、あった、あった。一九七二年七月九日付の『神戸新聞』は、「わらべうた『ぞうりかくし』/差別の歌だった/兵庫県教委が「自己批判」/保存楽譜から削る」という見出しでけっこう大きな記事を掲げている。それによれば、兵庫県教委主催の「第一回兵庫のわらべ歌合唱祭」で配布された楽譜集に「ぞうりかくし歌」があり、それを見た県教委同和教育指導室課長補佐の中川真澄氏が、差別の歌であると同じ庁内の文化課にクレームをつけた。クレームの内容は、盛田氏の論文と同趣旨である。指摘をうけた県教委では、さっそく各課にくばった二〇部を回収し、学校に配る予定だった一二〇〇部も発送をストップ。楽譜の「ぞうりかくし」は削除し「ずいずいずっころばし」「夏も近づく」に差しかえ、すでにママさんコーラスに配られた六〇〇部の楽譜も回収されることになった。そして、これから開く合唱祭ではこの歌は歌わず、その他のわらべ歌に問題はないかチェックし、差別を許さない文化運動をすすめていくということで、中川氏も了解し、けりがついたということである。新聞には県教委課長のコメントとして「キメ細かな点検をしていなかった点を深く反省する。学校に配布する楽譜は印刷をし直し、すでに渡した楽譜は回収する。これからは差別の歌は歌わぬように指導を強化していきたい」とあり、部落解放同盟県連委員長は、「むかしからの格言、詩、はやり歌、わらべ歌などの中にある差別性を平気で見逃している。今回の『ぞうりかくし』がそのいい例で、悪いことと指摘されすぐ処置をとった行政側の姿勢は一歩前進のように思う。」と県教委のすばやい対応を評価している。
さて困った。盛田氏の論文を読んで安心したのもつかのま、兵庫県教委は楽譜を回収までして反省し、今後は歌わないように指導を強化していくと決意を語っている。そして、部落解放同盟もすばやい対応を評価しているらしい。もし、ぐずぐずしていたら県教委は怒られたに違いない。
このままでは気持ちがおさまらないので、もう少し調べてみよう。さきほどの『部落問題事典』には、右田伊佐雄氏の『大阪の民謡』が引用されている。これは、けっこう専門的な本で対象地域が大阪に限定されているので、どこにでもある本ではない。とりあえず、大阪府立図書館に行ってみる。さすが、膨大な蔵書を誇る中之島図書館(通称)だけあって、所蔵されていた。なかなか大部な本だ。この本で右田氏は、自身が「ぞうりかくし」で指摘を受けた経験を次のように語っている。「『下駄かくしチュウレンボウ』が部落差別の歌だとされ、現にこれを新聞や放送で取り上げて糾弾を受けた民謡研究家が少なくなく、マスコミではいまもってこの歌をブラック・リストに載せている。私もこの歌を放送しようとして、局のディレクターから拒否され、部落差別の歌ではないことをクドクドと説明して、やっと了承を得たことがある。いっぽう、どんなに説明してもわかってもらえないどころか、ある日刊新聞の連載読物が、この歌のために中止になった苦い経験もある。」なるほど、一九七〇年代に入ると、盛田氏の意図を越えて、差別の歌としてかなり排撃されたらしい。しかし、右田さん自身は、全国にある二一四例の「履物かくし歌」を検討しても、「チョウリンボウ」と歌っている例はなく、子どもたちの歌の原型がしばしば山伏(やまぶし)の唱える呪文からきていることが多いことから、「チュレンボウ」の語源は、常念坊、常陸坊、日光坊などの山伏たちの名前からきているのではないかという仮説を述べている。さて、どうしたものか。この著名な民謡の研究家によれば、「チュウレンボウ」は「チョウリンボウ」ではないという。
『部落問題事典』からはこれ以上のことは探れない。そこで、ここからは私の知っていることをお教えしよう。部落解放研究所の「マスコミ・文化創造部会」では、一九八八年に「『わらべうた』と差別表現」というテーマで「ぞうりかくし」などにつき議論しており、この研究会の模様を『奈良新聞』一九八八年六月七日号が詳しく報じている。それによれば、「ぞうりかくし」が差別的といわれた経過や、さきの兵庫県教委の問題が紹介され、出席者からは疑問の声がだされたようである。これにたいし、木津譲氏(大阪府同和事業促進協議会常務理事)からは、「歌の題名が問題なのか、表現や遊びの内容自体が問題なのか、不注意な指導が差別につながるのか、さまざまな観点から差別について考えることが必要」との意見がだされ、林田哲治氏(東大阪教育研究所員)からは、「チュウレンボウ」は植物の「クネンボ」からの変化ではないかなどの意見が出された。また、これらの問題提起にたいし、出席のマスコミ各社から、「ホタル」「通りゃんせ」「竹田の子守唄」についても、放送終了後抗議の声が寄せられたことが報告され、「受け手のとらえ方で判断せざるを得ない」「(放送で)差別されたことを想起させ、不快さを訴えられては、差別の歌であるのかどうかを議論する以前に放送を自粛せざるを得ない」などの意見が述べられた。そして記者のまとめによれば、研究会としては「(一)抗議の声が寄せられたこと自体から判断して差別的歌を決めるけるのが差別的、(二)差別的可能性のある歌を一つの見解から是非の方向性を決めて問題解決とするのは言論の自由に反する。差別的と認められる歌について歌詞を改めていく方向にも慎重な態度が必要―としながら、さらに学問的研究を議論を深めていくことで意見の一致を見た」とある。
ここまで、調べてくると、「チュウレンボウ=チョウリンボウ」の根拠は薄弱で、かつこの歌の禁止には反対意見が多いことがわかる。では、とりあえず差別の歌であるとはっきりするまで歌わせておくことにするか。ところが、そうもいかない。二、三年前のことだが、埼玉の部落出身女性で著名な文筆家の体験談を人づてに聞いた。その女性は小さいとき近所の子どもから「下駄かくし、チョウリンボウ」といっていじめられたというのだ。その女性の人となりやそれを私に教えてくれた人の信頼性からいって、けっして被害妄想や差別のあらさがしから出た発言ではない。この体験は、すなおに事実だと受けとめていただいてよいと思う。さて困った。現にこの歌で「チョウリンボウ」と差別された人がいるとなると、この歌が差別の歌でないとして子どもに歌わせていいものだろうか。
差別の基準はどこに置くべきか
ふつうに生活をしている保母さんが、ある子どもの歌について差別かどうかを「判定」し、歌わせるべきかどうかを考えるにはどうしたらよいのだろうか。差別が大事な問題だとしても、何か差別であると指摘されるたびに、ここまで調べないといけないものだろうか。労をいとうわけではないが、日々の仕事でこなさなくてはいけないことは山ほどある。ここまでと同じ作業をしようと思えば、まるまる一週間はかかるだろうし、よほど部落問題研究者に知りあいでもないかぎり、この程度の調査もとうていおぼつかない。結局は、「差別!」という指摘の前には、「はい、わかりました」という答しか用意されていないのだろうか。
私は、そうは思わない。そもそも、私がここまでやってきた作業の方法自体が誤っているのだ。つまり、歌それ自体をとりあげて、内容や語源をさぐったり、差別的に歌われた事例の有無を調べるというやりかただ。まず、歌の歌詞、とりわけわらべ歌の歌詞の「本当の」意味をさぐるなどということはできない。かりにこうだという説があり、ある程度なっとくできても、最終的に確定することはない。つねにひっくり返る可能性がある。「チュウレンボウ=チョウリンボウ」説を肯定する材料はこの先いくらでもあらわれる可能性はあるし、否定する材料があらわれる可能性はなおさら高い。では、そのたびにこの歌が差別の歌になったりならなかったりするのだろうか。そんなバカな話はない。現に歌ったという事実があるとき、それが事後的に差別になったりならなかったりするのは背理というほかない。
ならば、差別的に歌われたという経験のある人の有無によればいいものか。こちらは、多少現実的ではある。しかし、さきほどの埼玉の女性の経験談は、私が偶然聞いたもので、誰でもがいきあたれる情報ではない。差別の歌であるという指摘を受けつつ、そうした体験談を直接聞けないことのほうが多いだろう。それに、「ぞうりかくし」の例でいえば、関西では部落をさして「ちょうりんぼう」とはいわないので、かりに関東でそういう例があったとしても関西人は納得できない。そうした地域性を無視して歌を葬ったさきほどの兵庫県教委のやりかたは、人の痛くない腹をさぐり、相互不信を助長するような本末転倒の結果に終わるしかないのではないだろうか。
私が思うに、けっきょく実際に可能な作業はまず自分のまわりをみわたして、その歌がげんにどんな意味で歌われているかを考えることだけだろう。それ以外は、外からやってくる知識でしかない。外からやってくるしかない「正しさ」は、自分で確かめようもなく、権威のある個人や機関・団体におうかがいをたてるしかなくなる。ところが、そうして確定された判断は、人に伝えるときに自分の言葉ではなく、権威を振りかざしての押しつけでしかありえず、とかく鬼面人をおどろかす類の誇張された話になりがちである。そんなやりかたが、差別の解消に有効かどうかはいうまでもないだろう。むろん、自分のまわりをみわました経験を絶対化することはない。より知識や経験のある人に聞いてみて、ああなるほどと思いあたることがあれば、認識が深まるわけだ。しかし、それも自分の日常と照らし合わせて確認すべきものであって、ご神託のように受け賜わるものではない。それに、子どもの生活から縁遠いところでその歌がどのように歌われているかということを詮索することに時間をとられて子どもの日々の保育がおろそかになるようでは、本末転倒も甚だしいといわなくてはならない。
要は、自分の身近での生きた現実が受け取るべき対象であり、かつ働きかける対象であって、それ以遠のことは、日常の経験とつきあわせて徐々に考えていくしかないのだと思う。
 

 

 
宮沢賢治 「雪渡り」とわらべ歌

 

宮沢賢治の童話には、季節感がこまやかに的確に伝えられている。本当にその地方で過ごした者でなければ描けない体感に基く描写に感嘆することがある。同じみちのくに育った私にとっても「ああ、わかる」と共感の嘆声をあげたくなるような描写や作品に何度も出合う。『雪渡り』(1)はそうした作品の最たるものだ。賢治は25 歳、盛んに童話を書き始めた頃の作品である。書かれたのは1921 年(大正10)、木立も野原も白くおおわれた雪景色は昔も今も変わりない。そこから、子どもたちの歌が聴こえてくる……
ここでは、作品の導入部に注目して、賢治にとって異界(異次元)への入り込みがどのようになされているのかをみてみたい。
「 雪がすっかり凍って大理石よりも堅くなり、空も冷たい滑らかな青い石の板で出来てゐるらしいのです。 」
とても魅力的な書き出しだ。雪は大理石で、空は青い石の板。この後も「木なんかみんなザラメを掛けたやうに霜でぴかぴかしてゐます。」というふうな、体験から生まれた詩的で映像的な表現が続く。
表現の巧みさはともかくとして、ここで描かれている自然状態を雪の少ない地方の人は実感としてはわからないのであるまいか。雪が大理石のようになる状態を。私は津軽・弘前で幼少年期を過ごしていてるのでとてもよくわかる。十二月、一月、二月と降り続く雪は、深々と積もり、その上を歩こうものなら、長靴をはいてもズボズボと埋まり、足の抜き差しに難儀する。それが、二月半ばあたりから三月、山里では四月までの期間に、雪の上をスタスタと歩ける日が度々出現する。新雪がさほど積もらなくなり、冷気によって雪面が堅くなり、子どもの体重ではその上を埋まらずに歩けるのである。しかも、春から晩秋、さらに積雪前半期までは、灌木やススキや熊笹などがあって視界もきかない野原を自由自在に走り回れる。子どもにとってこれほど楽しい日はない。
とは言っても、太陽が照っている日には雪面も溶けてしまう。早春の季節でも、気温がぐんと冷えた一夜があけたあとの一日でなければならない。
『雪渡り』はそのような時季の特別な一日を舞台にしている。
「 堅雪かんこ、凍み雪しんこ。 」
歌が聴こえてくる。青空の下の広い雪の原っぱという映像に、音がフェードインする。賢治は優れた劇作家でもある。
現れたのは四郎とかん子である。
「 こんな面白い日が、またとあるでせうか。いつもは歩けない黍の畑の中でも、すすきで一杯だった野原の上でも、好きな方へどこ迄でも行けるのです。平らなことはまるで一枚の板です。 」
面白い日。賢治は「日」を意識して書いている。やはり、これは特別な「日」なのである。ここで私たちは『水仙月の四日』において、その時季が重要であるものの、それ以上にその「日」が特別な日であることが強調されていることを想起したい。空間的・地平的なある場所がマジック・ポイントであることはよく言われることだが、時間的・気候的なある場所がマジック・ポイントとなることも忘れてはならない。『雪渡り』はそのような特別な「日」にくり広げられる物語である。
「 「堅雪かんこ、しみ雪しんこ。狐の子ぁ、嫁ぃほしい、ほしい。」と二人は森へ向いて高く叫びました。しばらくしいんとしましたので二人はも一度叫ぼうとして息をのみこんだとき森の中から「凍み雪しんしん、堅雪かんかん。」と云ひながら、キシリキシリ雪をふんで白い狐の子が出て来ました。 」
二人の子どもの呼びかけに答えて、狐の子が現れる。ここからのやりとりをさして、ここには男女間の「歌垣」のイメージが重ね見られる、という興味深い指摘がなされている。
「 雪を踏みしめ、踏みかため、足どりも軽く春の豊穣を予祝する野遊びに興じていた子どもたちは、「枝も埋まるくらゐ立派な透きとほった氷つらゝ柱を下げて」凍ってそびえ立つ柏の大木の許に至ったとき、すなわち、林から見知らぬ異界の森へと移行する境􀀆 に至ったとき、思わず興奮し、そして、歌垣の囃し〈狐の子ぁ嫁ほしい〉を言吹いたのではあるまいか。 」
「 「雪渡り」の雪原が非日常的な祭の場であり市の場でもあるとき、不意に現れた紺三郎に対して四郎が《少しぎょっとしてかん子をうしろにかばって》みせたことからして、皆川美恵子が指摘するごとく踏歌の掛け合いに男女間の歌垣=嫁とりのイメージが重ね見られるのは自然であるし、と同時に、そこにはまた歌垣の原型として、両者が和合する以前の〈霊モノ争い=神と精霊の対立を基盤とする呪詞の問答〉が踏まえられてもいた筈である。 」
「歌垣」は、「上代、男女が山や市などに集まって互いに歌を詠みかわし舞踏して遊んだ行事」(広辞苑)。上代・古代と言えば、随分と昔のことのようだが、登山家で山村の風習についての著作も多い根深誠によれば、近年においてもネパールの水田地帯で「歌垣」に似た風習を聴くことができたそうである。
「 歌というよりは遠吠えにちかい。その遠吠えはのちに帰国してから調べたのだが、「歌垣」といって日本では万葉時代の昔にさかんにおこなわれていたという。ここチトワンでの遠吠えは夕食を終えた頃から始まり、男女のどちらが先に信号を送るのかわからないけれど、ともかくその数はだんだん増えて四方八方の村々から発せられ交錯し、明け方まで続く。 」
このように、「行事」としては消えたかもしれないが、そのように歌で言問いをなす男女の行為は今もなお形を変えながら生き続けているはずである。
また、踏歌とは「足を踏み鳴らして歌い舞う集団舞踏。隋・唐の民間行事で、日本に入り、歌垣と結びついて古代、宮中で行われた」(広辞苑)。皆川の前著によれば宮廷歌垣の記録には「正月十五日の〈男踏歌〉、十六日の〈女踏歌〉」とあり、年頭を祝う歌舞につきものであったようだ。賢治の暮らした南部地方(3)に属する八戸で今も二月半ばに行われている「えんぶり」はまさに、早春の大地を踏みしめて踊る「踏歌」ではなかろうか。
「えんぶり」は、長大な烏帽子を被った三人から五人の踊り手が、笛と太鼓、手平鉦による囃子と、祝言風の歌に合わせて、首を傾け傾けしながらジャンギ(田をならす農具エブリを擬したもの)を地面に突き立てたり地面を摺るようにし、このとき、踊り手の足は大地を踏み鳴らしているように見える。
このようにしてみるとき、『雪渡り』において、歌を呼び交わしながら、四郎とかん子と狐が「キック、キック、トントン」と足踏みをしながら歌い踊るのは、まさに「踏歌」の世界である。
「 四郎もかん子もすっかり釣り込まれてもう狐と一緒に踊ってゐます。
 キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キック、トントントン。 」
そして、とりわけ『雪渡り』の世界で、その「歌垣」、あるいは「踏歌」の基底部にあるのは、民間伝承の「わらべ歌」だ。
四郎とかん子は森に向かって「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐の子ぁ、嫁ぃほしい、ほしい。」と歌う。
ここには雪原の向こうに見える森への怖れがある。森には狐が棲んでいる。それはわかっているのだが、ここでは実在の狐に呼びかけているのではない。得体のしれない怖れの対象としての森そのものに呼びかけている。子ども特有の“ 怖いもの見たさ” の心理も入っていよう。
ところが、ここに狐の子(紺三郎)が出現する。狐の子は「凍み雪しんしん、堅雪かんかん」と返す。四郎は「ぎょっとしてかん子をうしろにかばう」。予期せぬものが現れたことによる警戒感がここにある。しかし、「歌垣」に警戒感はつきもの。それを乗り越えて、両者は和合に向かう。
「狐こんこん白狐、お嫁ほしけりゃ、とってやろうよ。」
狐の子の返歌はこうだ。
「四郎はしんこ、かん子はかんこ、おらはお嫁はいらないよ。」
応答の意味的なずれはない。相手の歌をきちんと受け止めて返している。「四郎が笑って云いました。」という一文がはさまれる。見知らぬ子ども同士の「遊び」が成立に向かっているのである。
「狐こんこん、狐の子、お嫁がいらなきゃ餅やろか。」
狐の子が返す。
「四郎はしんこ、かん子はかんこ、黍の団子をおれやろか。」
今度はかん子が歌う。
「狐こんこん狐の子、狐の団子は兎のくそ。」
からかいが許された関係に入っている。こうして、子どもたちの「歌垣」を通して、物語のこの後の展開の核心部分が示唆される。この後、二人は、狐小学校の幻燈会に招待され、団子を供され、それを食べるかどうかが物語の重要な場面になっているのだが、本稿の主題はそこではなく、子どもたちと狐の歌のやりとりにある。二人が招待を受けてくれたことに喜んだ狐の子は歌いだし、四郎とかん子も一緒に踊る。
「 狐は可笑しそうに口を曲げて、キックキックトントンキックキックトントンと足ぶみをはじめてしっぽと頭を振ってしばらく考へてゐましたがやっと思ひついたらしく、両手を振って調子をとりながら歌ひはじめました。
   凍み雪しんこ、堅雪かんこ、
     野原のまんじゅうはポッポッポ。
   酔ってひょろひょろ太右衛門が、
     去年、三十八、たべた。
   凍み雪しんこ、堅雪かんこ、
     野原のおそばはホッホッホ。
   酔ってひょろひょろ清作が、
     去年十三ばいたべた。
四郎もかん子もすっかり釣り込まれてもう狐と一緒に踊ってゐます。 」
このくだりは、狐が愚かな人間をからかって歌っているのだが、四郎もかん子も笑ってそれを受け入れている。
続いて、四郎とかん子がそれぞれ、狐の失敗をからかった歌を歌うがこれも、狐の子は受け入れ、三者はキックキックトントンと踊りながら林の中に入って行く。ともあれ、「歌垣」は和合成立したのである。
この掛け合いの基調を形作っている「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」と似ているものが北東北地方のわらべ歌にある。いくつかみてみよう。地域名は、それが採集された場所であって、その歌がその地に限定されたものであることを示すものではない。
《北東北地方のわらべ歌から》
○採集地・岩手県久慈市大川目町
   雪渡りかんこ 氷すが渡りかんこ
   かんこのお寺さ 小あずき豆鳥とりとまった
   何糞たれだ 小豆糞たれだ
   何もってさらった 皿もってさらった
○採集地・岩手県九戸郡九戸村伊保内
   堅雪かんこ 凍しみ雪しんこ
   しもどいの嫁コァ ホーイホイ
○採集地・岩手県和賀郡西和賀町
   堅雪かんこ 凍み雪しんこ
   こんこんの寺さ 
   小豆ばっとはねた
   小豆ァ 凍み凍み凍み通って
   豆コころころ 小豆そろそろ
○採集地・岩手県花巻市湯口
   芽々コ珍し 花コはずかし
   堅雪こんこん
   こんこんのお寺さ
   小豆鳩とまって
   豆コころころ 小豆そろそろ
以上は、千葉瑞夫著『岩手のわらべ歌』からで久慈市で採集された「雪渡りかんこ」には楽譜もついている。町田嘉章・浅野建二編『わらべうた』には、南部地方(岩手県)とは風土が異なると言われている私の住む弘前で採集された歌がこれも楽譜つきで収録されている。
○採集地・青森県弘前地方
   堅雪かーんこ 白雪かっこ
   しんこの寺てーらさ
   小あずき豆バッとはねた
   はーねた小豆コ すみとって
   豆まーめコ ころころ 豆コ ころころ
こうしてみると、ほぼどの歌にも「かんこ」「しんこ」の言葉が入っている。花巻で採集されたものだけにそれがないが、「こんこん」は狐を示唆する言葉であることを想起すると、これらの「わらべ歌」にすでに『雪渡り』の世界が胚胎されていると言ってもいいような気がする。
「小豆ばっと」は、方言で小豆汁にうどん粉の練り粉を入れた料理のことだそうだが、ここでは「バッと」はねたという擬態語かもしれない。比較してみると、九戸村伊保内の「堅雪かんこ 凍み雪しんこ/しもどいの嫁コァ ホーイホイ」が、『雪渡り』の「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐の子ぁ、嫁ぃほしい、ほしい。」にもっとも重なる。
いずれにしても、冬の冷え込んだ朝、障害物を隠してしまった雪原が広々と広がり、子どもたちが堅い雪の上を自由に駆けまわったり、橇に乗ったりした。そんなユートピア的状態の自然の中で、「雪渡りかんこ」のわらべ歌は、歌詞を変えながら北東北の各地で歌われていたことが、これらの採集されたわらべ歌が物語っている。
それを賢治は、資料からではなく、自らの体と記憶で知っていた。その「体験」が童話『雪渡り』で闊達に開花している。
このほかに、工藤健一著『青森のわらべ歌』にある青森県八戸市で採集された「だまされ団子」というわらべ歌も気にかかる。
   だまされ団子 三つ食った
   仏ほとげの団子 取とて食かえなェ
二行目は発音を確認しないとわからないところもあるが、「仏の団子は取って食べるな」という意味であろう。ともあれ、狐の兎の糞団子をだまされて食べた人間をからかう『雪渡り』に登場する話にも重なる歌だ。
賢治は1896(明治29)年に生まれ、明治・大正・昭和初期の南部地方に生を送った。「わらべ歌」がまだ暮らしの中に生きていた時代である。子どもらの心持ちに敏感であった賢治は「わらべ歌」をみずからの血肉としていたであろう。
いくつかのファンタジーや童話において、私たちは現実から非現実の世界へ、日常から異界へと入って行く。異界において、登場人物たちの意識下の心が試されたり、現実では起こりえないことにも遭遇し、精神的な試練を体験する。そして、多くの童話では、無事、日常へと帰還する。そこには登場人物の精神的な成長が描かれている。この異界への移行は、往々にして特定の場所を経ることによって実現される。C.S. ルイスの『ナルニア国ものがたり』では、大きな衣装箪笥の中が、異界への入り口であった。賢治の『銀河鉄道の夜』では「天気輪の丘」がその場所であった。
それでは、『雪渡り』では、集落と森の間にある雪が大理石のように堅く凍った雪原であろうか。空間としては確かにそうであろう。冬もどん詰まりの時季、もうすぐ春がやって来るくらいの時季のよく冷えた「日」。その特別な時間もまた異界への入り口であろう。しかし、それ以上に、四郎とかん子と狐によって唱和された「わらべ歌」こそ、異界へと入り進むためのツールであったのではなかろうか。彼らは、ある特殊なポイントを過ぎることによって異界に進入したのではない。みずからの体内から湧きおこった歌に運ばれて、少しずつ異界へと進入していったのである。言い換えるならば、異界につながるものが人間の奥底に泉のようにあり、それが歌となって湧きあがるのである。
「わらべ歌」、そこには、遊びの意匠に託されながら、人と人を結ぶ言霊がある。採集された「わらべ歌」だけが「わらべ歌」なのではない。子どもたちの唇から言吹かれた歌は今も「わらべ歌」である。
賢治の『タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった』では、主人公のタネリが「でまかせのうた」を歌いながら登場する。
   山のうへから、青い藤蔓とってきた
   …西風ゴスケに北風カスケ…
   崖のうへから、赤い藤蔓とってきた
   …西風ゴスケに北風カスケ…
   森のなかから、白い藤蔓とってきた
   …西風ゴスケに北風カスケ…
   洞のなかから、黒い藤蔓とってきた
   …西風ゴスケに北風カスケ…」
と、繰り返されていく歌だが、「わらべ歌」として、子どもらが鞠つきや縄跳びなどに使っても良いような語感とリズムを持っている。賢治の言語感覚が「童心」の側にあることを示している。『雪渡り』における歌の掛け合いでもそうだったが、韻律を使いこなす賢治の詩人としての手腕は近・現代の詩人たちの中でも抜きんでている。「童心」が「詩人」としての言葉の魔法を動かしている。
タネリは母に「森へは、はひって行くんではないぞ。」と言われながら、野原を駈け出している。季節は『雪渡り』よりも少し後の早春。雪がまだ窪みに残っている。
「 そらはいよいよ青くひかって、そこらはしぃんと鳴るばかり、タネリはたうとう、たまらなくなって、「おーい、誰か居たかあ。」と叫びました。 」
『雪渡り』で四郎たちが森に呼びかけるのと似ている。ここでは、ヒキガエルがのそのそ出てくるのだが、狐の小学校への招待につながるような展開にはならずに、タネリはまた先に走る。そして、一羽の鴇を見かけ「おいらと遊んでくれ」と追いかけて行くと、鴇は、入ってはならないと言われている森の中に消えてしまう。木立ちは暗く陰気で、「何かきたない怒鳴りや叫びが、中から聞こえて来る」。さらに、「顔の大きな犬神みたいなものが」現れる。タネリは、一目散に逃げだし家に向かう。
という具合で『雪渡り』のような物語性はないが奇妙に心に残る掌編だ。ここでも、わらべ歌のような歌がタネリをオーラのように包み、異界へと導き入れようとしている。
歌の力、詩の力、言霊の力を思わずにはいられない。 
雪渡り 宮沢賢治
雪渡り その一 (小狐の紺三郎)
雪がすっかり凍(こお)って大理石よりも堅(かた)くなり、空も冷たい滑(なめ)らかな青い石の板で出来ているらしいのです。
「堅雪(かたゆき)かんこ、しみ雪しんこ。」
お日様がまっ白に燃えて百合(ゆり)の匂(におい)を撒(ま)きちらし又(また)雪をぎらぎら照らしました。
木なんかみんなザラメを掛(か)けたように霜(しも)でぴかぴかしています。
「堅雪かんこ、凍(し)み雪しんこ。」
四郎とかん子とは小さな雪沓(ゆきぐつ)をはいてキックキックキック、野原に出ました。
こんな面白(おもしろ)い日が、またとあるでしょうか。いつもは歩けない黍(きび)の畑の中でも、すすきで一杯(いっぱい)だった野原の上でも、すきな方へどこ迄(まで)でも行けるのです。平らなことはまるで一枚の板です。そしてそれが沢山(たくさん)の小さな小さな鏡のようにキラキラキラキラ光るのです。
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」
二人は森の近くまで来ました。大きな柏(かしわ)の木は枝(えだ)も埋(うず)まるくらい立派な透(す)きとおった氷柱(つらら)を下げて重そうに身体(からだ)を曲げて居(お)りました。
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐の子ぁ、嫁(よめい)ほしい、ほしい。」と二人は森へ向いて高く叫(さけ)びました。
しばらくしいんとしましたので二人はも一度叫ぼうとして息をのみこんだとき森の中から
「凍み雪しんしん、堅雪かんかん。」と云(い)いながら、キシリキシリ雪をふんで白い狐の子が出て来ました。
四郎は少しぎょっとしてかん子をうしろにかばって、しっかり足をふんばって叫びました。
「狐こんこん白狐、お嫁ほしけりゃ、とってやろよ。」
すると狐がまだまるで小さいくせに銀の針のようなおひげをピンと一つひねって云いました。
「四郎はしんこ、かん子はかんこ、おらはお嫁はいらないよ。」
四郎が笑って云いました。
「狐こんこん、狐の子、お嫁がいらなきゃ餅(もち)やろか。」
すると狐の子も頭を二つ三つ振(ふ)って面白そうに云いました。
「四郎はしんこ、かん子はかんこ、黍の団子をおれやろか。」
かん子もあんまり面白いので四郎のうしろにかくれたままそっと歌いました。
「狐こんこん狐の子、狐の団子は兎(うさ)のくそ。」
すると小狐紺三郎が笑って云いました。
「いいえ、決してそんなことはありません。あなた方のような立派なお方が兎(うさぎ)の茶色の団子なんか召(め)しあがるもんですか。私らは全体いままで人をだますなんてあんまりむじつの罪をきせられていたのです。」
四郎がおどろいて尋(たず)ねました。
「そいじゃきつねが人をだますなんて偽(うそ)かしら。」
紺三郎が熱心に云いました。
「偽ですとも。けだし最もひどい偽です。だまされたという人は大抵(たいてい)お酒に酔(よ)ったり、臆病(おくびょう)でくるくるしたりした人です。面白いですよ。甚兵衛(じんべえ)さんがこの前、月夜の晩私たちのお家(うち)の前に坐(すわ)って一晩じょうるりをやりましたよ。私らはみんな出て見たのです。」
四郎が叫びました。
「甚兵衛さんならじょうるりじゃないや。きっと浪花(なにわ)ぶしだぜ。」
子狐紺三郎はなるほどという顔をして、
「ええ、そうかもしれません。とにかくお団子をおあがりなさい。私のさしあげるのは、ちゃんと私が畑を作って播(ま)いて草をとって刈(か)って叩(たた)いて粉にして練ってむしてお砂糖をかけたのです。いかがですか。一|皿(さら)さしあげましょう。」
と云いました。
と四郎が笑って、
「紺三郎さん、僕らは丁度いまね、お餅をたべて来たんだからおなかが減らないんだよ。この次におよばれしようか。」
子狐の紺三郎が嬉(うれ)しがってみじかい腕(うで)をばたばたして云いました。
「そうですか。そんなら今度|幻燈会(げんとうかい)のときさしあげましょう。幻燈会にはきっといらっしゃい。この次の雪の凍った月夜の晩です。八時からはじめますから、入場券をあげて置きましょう。何枚あげましょうか。」
「そんなら五枚お呉(く)れ。」と四郎が云いました。
「五枚ですか。あなた方が二枚にあとの三枚はどなたですか。」と紺三郎が云いました。
「兄さんたちだ。」と四郎が答えますと、
「兄さんたちは十一歳以下ですか。」と紺三郎が又尋ねました。
「いや小兄(ちいにい)さんは四年生だからね、八つの四つで十二歳。」と四郎が云いました。
すると紺三郎は尤(もっと)もらしく又おひげを一つひねって云いました。
「それでは残念ですが兄さんたちはお断わりです。あなた方だけいらっしゃい。特別席をとって置きますから、面白いんですよ。幻燈は第一が『お酒をのむべからず。』これはあなたの村の太右衛門(たえもん)さんと、清作さんがお酒をのんでとうとう目がくらんで野原にあるへんてこなおまんじゅうや、おそばを喰(た)べようとした所です。私も写真の中にうつっています。第二が『わなに注意せよ。』これは私共のこん兵衛(べえ)が野原でわなにかかったのを画(か)いたのです。絵です。写真ではありません。第三が『火を軽べつすべからず。』これは私共のこん助があなたのお家(うち)へ行って尻尾(しっぽ)を焼いた景色です。ぜひおいで下さい。」
二人は悦(よろこ)んでうなずきました。
狐(きつね)は可笑(おか)しそうに口を曲げて、キックキックトントンキックキックトントンと足ぶみをはじめてしっぽと頭を振ってしばらく考えていましたがやっと思いついたらしく、両手を振って調子をとりながら歌いはじめました。
「凍(し)み雪しんこ、堅雪かんこ、
  野原のまんじゅうはポッポッポ。
酔ってひょろひょろ太右衛門が、
  去年、三十八、たべた。
凍み雪しんこ、堅雪かんこ、
  野原のおそばはホッホッホ。
酔ってひょろひょろ清作が、
  去年十三ばいたべた。」
四郎もかん子もすっかり釣(つ)り込(こ)まれてもう狐と一緒(いっしょ)に踊(おど)っています。
キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キック、トントントン。
四郎が歌いました。
「狐こんこん狐の子、去年狐のこん兵衛が、ひだりの足をわなに入れ、こんこんばたばたこんこんこん。」
かん子が歌いました。
「狐こんこん狐の子、去年狐のこん助が、焼いた魚を取ろとしておしりに火がつききゃんきゃんきゃん。」
キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キックトントントン。
そして三人は踊りながらだんだん林の中にはいって行きました。赤い封蝋(ふうろう)細工のほおの木の芽が、風に吹(ふ)かれてピッカリピッカリと光り、林の中の雪には藍色(あいいろ)の木の影(かげ)がいちめん網(あみ)になって落ちて日光のあたる所には銀の百合(ゆり)が咲いたように見えました。
すると子狐紺三郎が云いました。
「鹿(しか)の子もよびましょうか。鹿の子はそりゃ笛(ふえ)がうまいんですよ。」
四郎とかん子とは手を叩いてよろこびました。そこで三人は一緒に叫びました。
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ、鹿(しか)の子ぁ嫁ぃほしいほしい。」
すると向うで、
「北風ぴいぴい風三郎、西風どうどう又三郎」と細いいい声がしました。
狐の子の紺三郎がいかにもばかにしたように、口を尖(とが)らして云いました。
「あれは鹿の子です。あいつは臆病ですからとてもこっちへ来そうにありません。けれどもう一遍(いっぺん)叫んでみましょうか。」
そこで三人は又叫びました。
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ、しかの子ぁ嫁(よめい)ほしい、ほしい。」
すると今度はずうっと遠くで風の音か笛の声か、又は鹿の子の歌かこんなように聞えました。
「北風ぴいぴい、かんこかんこ
   西風どうどう、どっこどっこ。」
狐(きつね)が又ひげをひねって云いました。
「雪が柔(やわ)らかになるといけませんからもうお帰りなさい。今度月夜に雪が凍ったらきっとおいで下さい。さっきの幻燈をやりますから。」
そこで四郎とかん子とは
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」と歌いながら銀の雪を渡っておうちへ帰りました。
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」
雪渡り その二 (狐小学校の幻燈会)
青白い大きな十五夜のお月様がしずかに氷(ひ)の上山(かみやま)から登りました。
雪はチカチカ青く光り、そして今日も寒水石(かんすいせき)のように堅(かた)く凍(こお)りました。
四郎は狐の紺三郎との約束(やくそく)を思い出して妹のかん子にそっと云いました。
「今夜狐の幻燈会なんだね。行こうか。」
するとかん子は、
「行きましょう。行きましょう。狐こんこん狐の子、こんこん狐の紺三郎。」とはねあがって高く叫(さけ)んでしまいました。
すると二番目の兄さんの二郎が
「お前たちは狐のとこへ遊びに行くのかい。僕(ぼく)も行きたいな。」と云いました。
四郎は困ってしまって肩(かた)をすくめて云(い)いました。
「大兄(おおにい)さん。だって、狐の幻燈会は十一歳までですよ、入場券に書いてあるんだもの。」
二郎が云いました。
「どれ、ちょっとお見せ、ははあ、学校生徒の父兄にあらずして十二歳以上の来賓(らいひん)は入場をお断わり申し候(そろ)、狐なんて仲々うまくやってるね。僕はいけないんだね。仕方ないや。お前たち行くんならお餅(もち)を持って行っておやりよ。そら、この鏡餅がいいだろう。」
四郎とかん子はそこで小さな雪沓(ゆきぐつ)をはいてお餅をかついで外に出ました。
兄弟の一郎二郎三郎は戸口に並(なら)んで立って、
「行っておいで。大人の狐にあったら急いで目をつぶるんだよ。そら僕ら囃(はや)してやろうか。堅雪かんこ、凍(し)み雪しんこ、狐の子ぁ嫁(よめ)ぃほしいほしい。」と叫びました。
お月様は空に高く登り森は青白いけむりに包まれています。二人はもうその森の入口に来ました。
すると胸にどんぐりのきしょうをつけた白い小さな狐の子が立って居て云いました。
「今晩は。お早うございます。入場券はお持ちですか。」
「持っています。」二人はそれを出しました。
「さあ、どうぞあちらへ。」狐の子が尤(もっと)もらしくからだを曲げて眼(め)をパチパチしながら林の奥(おく)を手で教えました。
林の中には月の光が青い棒を何本も斜(なな)めに投げ込(こ)んだように射(さ)して居りました。その中のあき地に二人は来ました。
見るともう狐の学校生徒が沢山(たくさん)集って栗(くり)の皮をぶっつけ合ったりすもうをとったり殊(こと)におかしいのは小さな小さな鼠(ねずみ)位の狐の子が大きな子供の狐の肩車に乗ってお星様を取ろうとしているのです。
みんなの前の木の枝(えだ)に白い一枚の敷布(しきふ)がさがっていました。
不意にうしろで
「今晩は、よくおいででした。先日は失礼いたしました。」という声がしますので四郎とかん子とはびっくりして振(ふ)り向いて見ると紺三郎です。
紺三郎なんかまるで立派な燕尾服(えんびふく)を着て水仙(すいせん)の花を胸につけてまっ白なはんけちでしきりにその尖(とが)ったお口を拭(ふ)いているのです。
四郎は一寸(ちょっと)お辞儀(じぎ)をして云いました。
「この間は失敬。それから今晩はありがとう。このお餅をみなさんであがって下さい。」
狐の学校生徒はみんなこっちを見ています。
紺三郎は胸を一杯(いっぱい)に張ってすまして餅を受けとりました。
「これはどうもおみやげを戴(いただ)いて済みません。どうかごゆるりとなすって下さい。もうすぐ幻燈もはじまります。私は一寸失礼いたします。」
紺三郎はお餅を持って向うへ行きました。
狐の学校生徒は声をそろえて叫びました。
「堅雪かんこ、凍(し)み雪しんこ、硬(かた)いお餅はかったらこ、白いお餅はべったらこ。」
幕の横に、
「寄贈(きぞう)、お餅沢山、人の四郎氏、人のかん子氏」と大きな札(ふだ)が出ました。狐の生徒は悦(よろこ)んで手をパチパチ叩(たた)きました。
その時ピーと笛(ふえ)が鳴りました。
紺三郎がエヘンエヘンとせきばらいをしながら幕の横から出て来て丁寧(ていねい)にお辞儀をしました。みんなはしんとなりました。
「今夜は美しい天気です。お月様はまるで真珠(しんじゅ)のお皿(さら)です。お星さまは野原の露(つゆ)がキラキラ固まったようです。さて只今(ただいま)から幻燈会をやります。みなさんは瞬(またたき)やくしゃみをしないで目をまんまろに開いて見ていて下さい。
それから今夜は大切な二人のお客さまがありますからどなたも静かにしないといけません。決してそっちの方へ栗の皮を投げたりしてはなりません。開会の辞です。」
みんな悦んでパチパチ手を叩きました。そして四郎がかん子にそっと云いました。
「紺三郎さんはうまいんだね。」
笛がピーと鳴りました。
『お酒をのむべからず』大きな字が幕にうつりました。そしてそれが消えて写真がうつりました。一人のお酒に酔(よ)った人間のおじいさんが何かおかしな円いものをつかんでいる景色です。
みんなは足ぶみをして歌いました。
キックキックトントンキックキックトントン
凍み雪しんこ、堅雪かんこ、
    野原のまんじゅうはぽっぽっぽ
酔ってひょろひょろ太右衛門(たえもん)が
    去年、三十八たべた。
キックキックキックキックトントントン
写真が消えました。四郎はそっとかん子に云いました。
「あの歌は紺三郎さんのだよ。」
別に写真がうつりました。一人のお酒に酔った若い者がほおの木の葉でこしらえたお椀(わん)のようなものに顔をつっ込(こ)んで何か喰(た)べています。紺三郎が白い袴(はかま)をはいて向うで見ているけしきです。
みんなは足踏(あしぶ)みをして歌いました。
キックキックトントン、キックキック、トントン、
凍み雪しんこ、堅雪かんこ、
    野原のおそばはぽっぽっぽ、
酔ってひょろひょろ清作が
    去年十三ばい喰べた。
キック、キック、キック、キック、トン、トン、トン。
写真が消えて一寸(ちょっと)やすみになりました。
可愛(かあい)らしい狐の女の子が黍団子(きびだんご)をのせたお皿を二つ持って来ました。
四郎はすっかり弱ってしまいました。なぜってたった今太右衛門と清作との悪いものを知らないで喰べたのを見ているのですから。
それに狐の学校生徒がみんなこっちを向いて「食うだろうか。ね。食うだろうか。」なんてひそひそ話し合っているのです。かん子ははずかしくてお皿を手に持ったまままっ赤になってしまいました。すると四郎が決心して云いました。
「ね、喰べよう。お喰べよ。僕(ぼく)は紺三郎さんが僕らを欺(だま)すなんて思わないよ。」そして二人は黍団子をみんな喰べました。そのおいしいことは頬(ほ)っぺたも落ちそうです。狐の学校生徒はもうあんまり悦んでみんな踊りあがってしまいました。
キックキックトントン、キックキックトントン。
「ひるはカンカン日のひかり
よるはツンツン月あかり、
たとえからだを、さかれても
狐の生徒はうそ云うな。」
キック、キックトントン、キックキックトントン。
「ひるはカンカン日のひかり
よるはツンツン月あかり
たとえこごえて倒(たお)れても
狐の生徒はぬすまない。」
キックキックトントン、キックキックトントン。
「ひるはカンカン日のひかり
よるはツンツン月あかり
たとえからだがちぎれても
狐の生徒はそねまない。」
キックキックトントン、キックキックトントン。
四郎もかん子もあんまり嬉(うれ)しくて涙(なみだ)がこぼれました。
笛がピーとなりました。
『わなを軽べつすべからず』と大きな字がうつりそれが消えて絵がうつりました。狐のこん兵衛(べえ)がわなに左足をとられた景色です。
「狐こんこん狐の子、去年狐のこん兵衛が
左の足をわなに入れ、こんこんばたばた
こんこんこん。」
とみんなが歌いました。
四郎がそっとかん子に云いました。
「僕の作った歌だねい。」
絵が消えて『火を軽べつすべからず』という字があらわれました。それも消えて絵がうつりました。狐のこん助が焼いたお魚を取ろうとしてしっぽに火がついた所です。
狐の生徒がみな叫びました。
「狐こんこん狐の子。去年狐のこん助が
焼いた魚を取ろとしておしりに火がつき
きゃんきゃんきゃん。」
笛がピーと鳴り幕は明るくなって紺三郎が又出て来て云いました。
「みなさん。今晩の幻燈はこれでおしまいです。今夜みなさんは深く心に留(と)めなければならないことがあります。それは狐のこしらえたものを賢(かしこ)いすこしも酔わない人間のお子さんが喰べて下すったという事です。そこでみなさんはこれからも、大人になってもうそをつかず人をそねまず私共狐の今迄(いままで)の悪い評判をすっかり無くしてしまうだろうと思います。閉会の辞です。」
狐の生徒はみんな感動して両手をあげたりワーッと立ちあがりました。そしてキラキラ涙をこぼしたのです。
紺三郎が二人の前に来て、丁寧におじぎをして云いました。
「それでは。さようなら。今夜のご恩は決して忘れません。」
二人もおじぎをしてうちの方へ帰りました。狐の生徒たちが追いかけて来て二人のふところやかくしにどんぐりだの栗だの青びかりの石だのを入れて、
「そら、あげますよ。」「そら、取って下さい。」なんて云って風の様に逃(に)げ帰って行きます。
紺三郎は笑って見ていました。
二人は森を出て野原を行きました。
その青白い雪の野原のまん中で三人の黒い影(かげ)が向うから来るのを見ました。それは迎(むか)いに来た兄さん達でした。
 
 

 

 
座敷童子 (ざしきわらし)

 

主に岩手県に伝えられる精霊的な存在。座敷または蔵に住む神と言われ、家人に悪戯を働く、見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらすなどの伝承がある。柳田國男の『遠野物語』や『石神問答』などでも知られ、『遠野物語』の17話・18話および『遠野物語拾遺』87話に「ザシキワラシ」または「座敷ワラシ」の表記で話が掲載されており、17話には「この神の宿りたまふ家は富貴自在なりといふことなり」「ザシキワラシは座敷童衆なり」と記述がある。近年では、座敷わらしに会える宿として岩手県の「緑風荘」「菅原別館」「わらべ」などがテレビ番組や雑誌に取り上げられることでも知られている。
主に岩手県を中心として報告されているが、青森県、宮城県、秋田県など東北地方各県にも分布するといわれる。
一般的には、赤面垂髪の5、6歳くらいの小童というが、年恰好は住み着く家ごとに異なるともいい、下は3歳程度、上は15歳程度の例もある。髪はおかっぱ、またはざんぎり頭。性別は男女両方が見られ、男の子は絣か縞の黒っぽい着物を、女の子は赤いちゃんちゃんこや小袖、ときには振袖を着ているという。はっきりとした姿がわからないために、性別が不明な場合もあるという。男女2人など複数が家に住み着いていることもある。黒い獣のような姿、武士のような姿といった伝承もある。
悪戯好きで、小さな足跡を灰やさらし粉の上に残し、夜中に糸車を回す音を立てるともいわれ、奥座敷で御神楽のような音を立てて遊ぶことがある。また家人が一人で縫い物をしていたとき、隣の部屋で紙ががさがさする音や、鼻を鳴らす音がするので、板戸を空けると誰もいないなどの話が伝わっている。夜になると客人の布団の上にまたがったり枕を返したり、悪戯をして眠らせまいとするが、押さえようとしても力が強くて歯が立たないともいう。子供と一緒に遊んだりもする。
岩手では早池峰神社の座敷童子が、遠方から神社に参拝に来ていた者について別の土地へ行くという伝承がある。その土地の子供たちに、岩手のわらべ歌を教えたという伝説もある。。
青森県五戸町では家を新築する際、床下に金の玉を埋めておくと、座敷童子を呼ぶことができるという伝承がある。
姿は家の者以外には見えず、子供には見えても、大人には見えないとする説もある。子供たちの数を大人が数えると、本来の人数より1人多いが、大人には座敷童子がわからないので、誰が多いのかわからないといった話もある。こうした話は、文学上でもよくモチーフとなる。
家の盛衰との関連
最も特徴的な民間信仰として、座敷童子がいる家は栄え、座敷童子の去った家は衰退するということが挙げられる。こうした面から、座敷童子は福の神のようなもの、または家の盛衰を司る守護霊と見なされることもある。
『遠野物語』には、座敷童子が去った家の一家が食中毒で全滅した話や、岩手県土淵村(現・遠野市)大字飯豊(いいで)の資産家で、座敷童子を子供が弓矢で射たところ、座敷童子は家を去り、家運が傾いたという話が残されている。座敷童子の去った家が没落する話は、貧乏神が去った家が裕福になるという話と関連しているとの見方もある。
白い座敷童子は吉事の前触れであり、赤い童子(赤い顔、赤い服、赤い手桶を手にした童子)が目に見えるのは、童子が家を出て行くことによる凶事の前触れとの説もある。赤い服の童子を見たという家族一同が食中毒死した事例もある。
風習
座敷童子は奥座敷におり、その存在が家の趨勢に関ると言われるため、これを手厚く取り扱い、毎日膳を供える家もある。小豆飯が好物といわれることから、小豆飯を毎日供える家もあり、飯が食べられていないと家が衰退する前兆だともいう。座敷童子は狐持や犬神持に類似した構造を持つが、座敷童子の住んでいることを迷惑がらず、むしろ神として保護し、周囲の人間も座敷童子のいる家に対して一種畏敬の念を持って接する点が、それらとは異なる。
二戸市の一帯では、かつて亡くなったり間引かれた子の供養のために部屋の一画に子供部屋を作り、菓子や玩具を置いて祀ったというが、この風習が現在でも残っており、座敷童子を家に居つかせ福をもたらせ栄えさせようと、部屋の一画に子供が好む小部屋を作る風習もある。
『遠野物語』によれば、土淵村のある豪家には「座頭部屋」と呼ばれる奥まった小さな空間があり、昔は家に宴会があれば必ず座頭を呼んで待たせるのに用いたとあるが、文学研究者・三浦佑之はこれを、家の守護霊を祀る部屋だったのではないかと推測している。
様々な座敷童子
座敷童子は「座敷童」、「座敷童衆」、「座敷ぼっこ」、「御蔵ボッコ」、「座敷小僧」、「カラコワラシ」など、地方によって様々な呼び方がある。「座敷ぼっこ」の名で呼ばれるのは岩手の内陸部であり、宮沢賢治の著書でもこの名が用いられている。
座敷童子にも位があるとする地域や伝承も存在し、『十方庵遊歴雑記』には、岩手県江刺市(現・奥州市江刺区)稲瀬の座敷童子についての記述が見られ、家の土間にいる座敷童子を、「コメツキワラシ」、「ノタバリコ」、「ウスツキコ」などと言い、 奥座敷にいる色の白い最も綺麗な座敷童子を「チョウピラコ」と呼んでいる。これらの中には家の盛衰とは関係なく、家の中を動き回ったり物音を立てたりするだけの者もおり、単に気味の悪い存在とされることも少なくない。
蔓のように細長い手を出して人を招き、洪水、津波などの災禍を知らせるため、「細手(ほそで)」または「細手長手(ほそでながて)」と呼んでいる例もある。似た話に『貧しい男が薪を水中に投じると、龍宮に招かれ土産に醜いが福を招く童子「龍宮童子」を貰った』という話がある。 「クラワラシ」「クラボッコ」と呼ばれる、土蔵の中にいる座敷童子も存在する。
民俗学者・佐々木喜善の著書『ザシキワラシの話』によれば、前述の土淵村のある家ではマダの木(菩提樹のこと)に「カブキレワラシ」というものが棲んでおり、童子姿となって家の座敷に忍び込んで娘にいたずらしたり、赤い顔の姿でクルミの木の三つ又で遊んでいたという。マダの木の精霊とする解釈もある。
東北地方には座敷童子の伝承が多いにもかかわらず、秋田県のみは伝承が少ない。これは秋田の三吉鬼が、下等な妖怪を秋田に入れないためといわれている。
起源
前述の佐々木喜善は座敷童子のことを、圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊ではないかと述べている。東北地方では間引きを「臼殺(うすごろ)」といって、口減らしのために間引く子を石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所などに埋める風習があったといい、こうした子供の霊が雨の日に縁側を震えながら歩いていたり、家を訪れた客を脅かしたりといった、座敷童子に似た行為が見られたともいう。特に、前述の「ノタバリコ」や「ウスツキワラシ」は座敷童子の中でも下等なものとされており、前者は内土間から這い出て座敷を這い回り、後者は臼を搗くような音をたてたりと、気味の悪い振る舞いをするといわれていることから、これらの座敷童子に、間引かれた子供の埋められた場所が土間や臼の下などであることが関連しているとの指摘もある。
このような間引きとの関連に加え、座敷童子のいる家が旧家であることや、村の外から訪れた六部(巡礼僧)を殺害した家が後に没落するという伝承と結び付けられて語られていることがあることから、座敷童子は村落共同体の暗部の象徴との指摘もある。
高橋貞子著『座敷わらしを見た人びと』によれば、座敷童子は大工や畳職人が、家の工事の際に気持ちよく仕事できなかったことに対する呪いから生じたとする話も残っており、木片を薄く剥いだ人形を柱と梁の間に挟みこむなどの呪法があったという。
河童を正体とする説も多く、淵に住む河童が近くの家に上がりこんで悪戯をするものが座敷童子だとする話や、河童が家に住み着いて座敷童子となった話などもある。
また、座敷童子が子供の姿なのは、仏教でいう護法童子(仏法を守る童子姿の鬼神)が童子(子供)の姿であるように、子供を神と人間を繋ぐものとする民間信仰に由来するという説、または子供の姿が神性を体現しているなどの説がある。
柳田國男は、高僧が天から呼んだ護法童子と同様、仏教や民間巫女の守護霊が、若葉の魂の清新さを尊重する信仰へとつながり、さらに神意を人間に伝えるため家の守護霊としての座敷童子信仰へとつながったとみている。柳田以降の民俗学でも、オクナイ様との繋がりや竜宮童子など異界から訪れる童子との関連などが論じられている。
また、民俗学者・小松和彦は文化人類学的視点から童子に注目し、村落における家の盛衰や富の移動の問題を取り上げ、座敷童子の属性はイズナ使いなどの動物霊としての憑き物とほとんど重複しているとし、精霊がついている家の共同体の優越性と劣等性を詳しく分析し、座敷童子を民俗社会内、特に旧家層における貧富の差と変動の説明原理としている。
上田秋成による江戸後期の読本『雨月物語』の「貧福論」で、陸奥国(現・青森県)の武士の家に銭の霊が小さな翁で現れて「黄金の精霊」を名乗り、「お金を大事にしてくれるから嬉しくて話に来た」という話があるが、文学博士・阿部正路はこれを座敷童子の祖型ではないかと考察している。
戦後の伝承
東北地方の人々にとって、座敷童子は決して戦後の伝承ではなく、明治以降、昭和以降になっても座敷童子の話は語られている。柳田國男の著書『妖怪談義』によれば、1910年(明治43年)7月頃、陸中上閉伊郡土淵村(現・岩手県遠野市)の小学校に座敷童子が現れ、1年生の児童にだけ見え、年長の生徒や大人たちの目には見えなかったという。
昭和・平成以降も営業し続けている、岩手県の金田一温泉「緑風荘」、盛岡市天神町の「菅原別館」「わらべ」などの旅館は、座敷童子のいる宿として知られ、宿泊客が座敷童子を見た、足音を聞いた、体を触られた、といった話がある(緑風荘については内部リンク先を参照)。ただし、一般的な座敷わらし伝承とは異なり緑風荘では病死した先祖が守り神となったと位置づけている。
「わらべ」の近くには、1200年以上前に開山された早池峰(はやちね)神社があり、ここでは「わらべ」創業当時から座敷童子の祈願祭が行なわれているため、神社の座敷童子が「わらべ」に来ている、などともいわれている。
「菅原別館」の座敷童子は、もとは江戸時代に女将の実家で火災から家を守護していた火の神であり、女将が同館に嫁入りする際に実家からついて来たという。同館には、宿泊客が結婚や仕事で成功したといった体験談も寄せられている。
日本各地の類話
座敷童子に類するものに、遠州門谷(現・静岡県)の「座敷坊主」、徳島の「アカシャグマ」がある。四国金毘羅宮の、奥の院周辺の家には、夜になると仏壇の中から「アカシャグマ」が出てきたという。アカシャグマとは、赤く染めたクマの毛のことで、これを被った小さな子供のようなものが、家の持ち主の老婆を毎晩くすぐったという。
山梨県の旧東八代郡には倉の中に「お倉坊主(おくらぼうず)」がいるといって、座敷童子の一種と考えられている。
石川県の「マクラガエシ」は、ある家の座敷に寝ると、特に二本差しや髭を立て洋服を着て高慢な顔をしたものが泊まると隣室に引き出すという。
香川県大川郡白鳥町(現・東かがわ市)に伝わる座敷童子は童女姿で、髪の毛がショボショボに垂れていることから「オショボ」と呼ばれ、家の者には見えないとも、家の者のみに見えるともいう。
ほかにも、北海道で人家で寝ている者を襲うといわれる「アイヌカイセイ」、沖縄県で人家で寝ている者に悪戯を働く「アカガンター」といった妖怪を、座敷童子と同様のものとする解釈もある。
民俗学者・折口信夫はオクナイサマ、座敷坊主、アカシャグマ、沖縄のキジムナー、壱岐のガアタロなどの例を引いて、外の土地のある家のために働きに来る忠実な精霊がいて、いなくなると家が衰えると言う型の話と見た。そして座敷童子が庭に降りない点に注目し、かつての芸能が庭・座敷・舞台とに分けられていたことと関連づけて考えている。 
遠野物語
旧家にはザシキワラシといふ神の住みたまふ家少なからず。この神は多くは12〜13ばかりの童児なり。をりをり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊(いひで)の今淵勘十郎といふ人の家にては、近き頃高等女学校にゐる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢ひ大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物をしてをりしに、次の間にて紙のがさがさといふ音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思ひて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間 坐(すわ)りてをればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思へり。この家にも座敷ワラシ住めりといふこと、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたまふ家は富貴自在なりといふことなり。 第17段
ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門といふ家には、童女の神2人いませりといふことを久しく言い伝へたりしが、ある年同じ村の何某といふ男、町より帰るとて留場(とめば)の橋のほとりにて見馴(みな)れざる2人のよき娘に逢へり。物思はしき様子にて此方へ来る。お前たちはどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処(ところ)からきたと答ふ。これからどこへ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮らせる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、この家の主従20幾人、茸(きのこ)の毒にあたりて1日のうちに死に絶え、7歳の女の子1人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近き頃病みて失せたり。 第18段
孫左衛門が家にては、ある日梨の木のめぐりに見馴れぬ茸のあまた生えたるを、食はんか食ふまじきかと男共の評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食はぬがよしと制したれども、下男の1人がいふには、いかなる茸にても水桶の中に入れて苧殻(をがら)をもちてよくかき廻して後 食へばけつしてあたることなしとて、一同この言に従ひ家内ことごとくこれを食ひたり。7歳の女の児はその日外に出でて遊びに気を取られ、昼飯を食ひに帰ることを忘れしために助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、あるひは生前に貸しありといひ、あるひは約束ありと称して、家の貨財は味噌(みそ)の類までも取り去りしかば、この村草分(くさわけ)の長者なりしかども、一朝にして跡方もなくなりたり。 第19段
この兇変の前にはいろいろの前兆ありき。男ども苅り置きたる秣(まぐさ)を出すとて三ツ歯の鍬(くは)にて掻きまわせしに、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打ち殺したりしに、その跡より秣の下にいくらともなき蛇ありて、うごめきいでたるを、男ども面白半分にことごとくこれを殺したり。さて取り捨つべき所もなければ、屋敷の外に穴を掘りてこれを埋め、蛇塚を作る。その蛇は簣(あじか)に何荷(なんが)ともなくありたりといへり。 第20段
右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読み耽(ふけ)りたり。少し変人といふ方なりき。狐と親しくなりて家を富ます術を得んと思ひ立ち、まづ庭の中に稲荷の祠(ほこら)を建て、自身京に上りて正一位の神階を請(う)けて帰り、それよりは日々1枚の油揚を欠かすことなく、手づから社頭に供へて拝をなせしに、後には狐馴(な)れて近づけども逃げず。手を延ばしてその首を抑へなどしたりといふ。村にありし薬師の堂守(どうもり)は、わが仏様は何物をも供へざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ありと、たびたび笑いごとにしたりとなり。 第21段
綾織村砂子沢(いさござわ)の多左衛門どんの家には、元御姫様の座敷ワラシがいた。それがいなくなったら家が貧乏になった。 第87段 (遠野物語拾遺)
遠野の町の村兵(むらひょう)という家には御蔵(おくら)ボッコがいた。籾殻などを散らしておくと、小さな児の足跡がそちこちに残されてあった。後にそのものがいなくなってから、家運は少しずつ傾くようであったという。 第88段 (遠野物語拾遺)
前にいう砂子沢でも沢田という家に、御蔵ボッコがいるという話があった。それが赤塗りの手桶などをさげて、人の目にも見えるようになったら、カマドが左前になったという話である。 第89段 (遠野物語拾遺)
同じ綾織村の字大久保、沢某という家にも蔵ボッコがいて、時々糸車をまわす音などがしたという。 第90段 (遠野物語拾遺)
附馬牛村のある部落の某という家では、先代に1人の六部(巡礼僧)が来て泊って、そのまま出て行く姿を見た者がなかったなどという話がある。近頃になってからこの家に10になるかならぬくらいの女の児が、紅(あか)い振袖を着て紅い扇子(せんす)を持って現われ、踊りを踊りながら出て行って、下窪という家にはいったという噂がたち、それからこの両家がケエッチヤ(裏と表)になったといっている。その下窪の家では、近所の娘などが用があって不意に行くと、神棚の下に座敷ワラシがうずくまっていて、びっくりして戻って来たという話がある。 第91段 (遠野物語拾遺)
遠野の新町の大久田某という家の、2階の床の間の前で、夜になると女が髪を梳いているという評判が立った。両川某という者がそんなことがあるものかと言って、ある夜そこへ行ってみると、はたして噂の通り見知らぬ女が髪を梳いていて、じろりとこちらを見た顔が、なんとも言えず物凄かったという。明治になってからの話である。 第92段 (遠野物語拾遺)
遠野一日市(ひといち)の作平という家が栄え出した頃、急に土蔵の中で大釜が鳴り出し、それがだんだん強くなって小一時間も鳴っていた。家の者はもとより、近所の人たちも皆驚いて見に行った。それで山名という画工を頼んで、釜の鳴っている所を絵に描いてもらって、これを釜嶋神といって祭ることにした。今から20年余り前のことである。 第93段 (遠野物語拾遺)
土淵村山口の内川口某という家は、今から10年ほど前に瓦解(がかい)したが、一時この家が空家になっていた頃、夜中になると奥座敷の方に幽(かす)かに火がともり、誰とも知らず低い声で経を読む声がした。往来のすぐ近くの家だから、若い者などがまたかと言って立ち寄ってみると、御経の声も燈火ももう消えている。これと同様のことは栃内の和野の、菊池某氏が瓦解した際にもあったことだという。 第94段 (遠野物語拾遺)
ざしき童子のはなし 宮沢賢治
ぼくらの方の、ざしき童子(ぼっこ)のはなしです。
あかるいひるま、みんなが山へはたらきに出て、こどもがふたり、庭(にわ)であそんでおりました。大きな家にだれもおりませんでしたから、そこらはしんとしています。
ところが家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒(ほうき)の音がしたのです。
ふたりのこどもは、おたがい肩(かた)にしっかりと手を組みあって、こっそり行ってみましたが、どのざしきにもたれもいず、刀(かたな)の箱(はこ)もひっそりとして、かきねの檜(ひのき)が、いよいよ青く見えるきり、たれもどこにもいませんでした。
ざわっざわっと箒の音がきこえます。
とおくの百舌(もず)の声なのか、北上(きたかみ)川の瀬(せ)の音か、どこかで豆(まめ)を箕(み)にかけるのか、ふたりでいろいろ考えながら、だまって聴(き)いてみましたが、やっぱりどれでもないようでした。
たしかにどこかで、ざわっざわっと箒の音がきこえたのです。
も一どこっそり、ざしきをのぞいてみましたが、どのざしきにもたれもいず、ただお日さまの光ばかりそこらいちめん、あかるく降(ふ)っておりました。
こんなのがざしき童子(ぼっこ)です。
「大道(だいどう)めぐり、大道めぐり」
一生けん命(めい)、こう叫(さけ)びながら、ちょうど十人の子供(こども)らが、両手(りょうて)をつないでまるくなり、ぐるぐるぐるぐる座敷(ざしき)のなかをまわっていました。どの子もみんな、そのうちのお振舞(ふるまい)によばれて来たのです。
ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんでおりました。
そしたらいつか、十一人になりました。
ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけおりました。そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人(おとな)が出て来て言(い)いました。
けれどもたれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼっこでないと、一生けん命|眼(め)を張(は)って、きちんとすわっておりました。
こんなのがざしきぼっこです。
それからまたこういうのです。
ある大きな本家では、いつも旧(きゅう)の八月のはじめに、如来(にょらい)さまのおまつりで分家の子供らをよぶのでしたが、ある年その一人の子が、はしかにかかってやすんでいました。
「如来さんの祭(まつ)りへ行きたい。如来さんの祭りへ行きたい」と、その子は寝(ね)ていて、毎日毎日|言(い)いました。
「祭(まつ)り延(の)ばすから早くよくなれ」本家のおばあさんが見舞(みま)いに行って、その子の頭をなでて言いました。
その子は九月によくなりました。
そこでみんなはよばれました。ところがほかの子供(こども)らは、いままで祭りを延ばされたり、鉛(なまり)の兎(うさぎ)を見舞いにとられたりしたので、なんともおもしろくなくてたまりませんでした。
「あいつのためにひどいめにあった。もう今日は来ても、どうしたってあそばないぞ」と約束(やくそく)しました。
「おお、来たぞ、来たぞ」みんながざしきであそんでいたとき、にわかに一人が叫(さけ)びました。
「ようし、かくれろ」みんなは次(つぎ)の、小さなざしきへかけ込(こ)みました。
そしたらどうです。そのざしきのまん中に、今やっと来たばっかりのはずの、あのはしかをやんだ子が、まるっきりやせて青ざめて、泣(な)きだしそうな顔をして、新しい熊(くま)のおもちゃを持(も)って、きちんとすわっていたのです。
「ざしきぼっこだ」一人が叫んでにげだしました。みんなもわあっとにげました。ざしきぼっこは泣きました。
こんなのがざしきぼっこです。
また、北上(きたかみ)川の朗妙寺(ろうみょうじ)の淵(ふち)の渡(わた)し守(もり)が、ある日わたしに言いました。
「旧暦(きゅうれき)八月十七日の晩(ばん)、おらは酒(さけ)のんで早く寝(ね)た。おおい、おおいと向(む)こうで呼(よ)んだ。起(お)きて小屋(こや)から出てみたら、お月さまはちょうどそらのてっぺんだ。おらは急(いそ)いで舟(ふね)だして、向こうの岸(きし)に行ってみたらば、紋付(もんつき)を着(き)て刀(かたな)をさし、袴(はかま)をはいたきれいな子供(こども)だ。たった一人で、白緒(しろお)のぞうりもはいていた。渡(わた)るかと言(い)ったら、たのむと言(い)った。子どもは乗(の)った。舟(ふね)がまん中ごろに来たとき、おらは見ないふりしてよく子供を見た。きちんと膝(ひざ)に手を置(お)いて、そらを見ながらすわっていた。
お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかあいい声で答えた。そこの笹田(ささだ)のうちにずいぶんながくいたけれど、もうあきたから他(ほか)へ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば、更木(さらき)の斎藤(さいとう)へ行くよと言った。岸についたら子供はもういず、おらは小屋(こや)の入口にこしかけていた。夢(ゆめ)だかなんだかわからない。けれどもきっと本当だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気もすっかり直ったし、むすこも大学を終わったし、めきめき立派(りっぱ)になったから」
こんなのがざしき童子(ぼっこ)です。 
 
桃太郎 芥川龍之介

 


むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃(もも)の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地(だいち)の底の黄泉(よみ)の国にさえ及んでいた。何でも天地|開闢(かいびゃく)の頃(ころ)おい、伊弉諾(いざなぎ)の尊(みこと)は黄最津平阪(よもつひらさか)に八(やっ)つの雷(いかずち)を却(しりぞ)けるため、桃の実(み)を礫(つぶて)に打ったという、――その神代(かみよ)の桃の実はこの木の枝になっていたのである。
この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅(しんく)の衣蓋(きぬがさ)に黄金(おうごん)の流蘇(ふさ)を垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核(さね)のあるところに美しい赤児(あかご)を一人ずつ、おのずから孕(はら)んでいたことである。
むかし、むかし、大むかし、この木は山谷(やまたに)を掩(おお)った枝に、累々(るいるい)と実を綴(つづ)ったまま、静かに日の光りに浴していた。一万年に一度結んだ実は一千年の間は地へ落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の八咫鴉(やたがらす)になり、さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、小さい実を一つ啄(ついば)み落した。実は雲霧(くもきり)の立ち昇(のぼ)る中に遥(はる)か下の谷川へ落ちた。谷川は勿論(もちろん)峯々の間に白い水煙(みずけぶり)をなびかせながら、人間のいる国へ流れていたのである。
 この赤児(あかご)を孕(はら)んだ実は深い山の奥を離れた後(のち)、どういう人の手に拾われたか?――それはいまさら話すまでもあるまい。谷川の末にはお婆(ばあ)さんが一人、日本中(にほんじゅう)の子供の知っている通り、柴刈(しばか)りに行ったお爺(じい)さんの着物か何かを洗っていたのである。……

桃から生れた桃太郎(ももたろう)は鬼(おに)が島(しま)の征伐(せいばつ)を思い立った。思い立った訣(わけ)はなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。その話を聞いた老人夫婦は内心この腕白(わんぱく)ものに愛想(あいそ)をつかしていた時だったから、一刻も早く追い出したさに旗(はた)とか太刀(たち)とか陣羽織(じんばおり)とか、出陣の支度(したく)に入用(にゅうよう)のものは云うなり次第に持たせることにした。のみならず途中の兵糧(ひょうろう)には、これも桃太郎の註文(ちゅうもん)通り、黍団子(きびだんご)さえこしらえてやったのである。
桃太郎は意気|揚々(ようよう)と鬼が島征伐の途(と)に上(のぼ)った。すると大きい野良犬(のらいぬ)が一匹、饑(う)えた眼を光らせながら、こう桃太郎へ声をかけた。
「桃太郎さん。桃太郎さん。お腰に下げたのは何でございます?」
「これは日本一(にっぽんいち)の黍団子だ。」
桃太郎は得意そうに返事をした。勿論実際は日本一かどうか、そんなことは彼にも怪(あや)しかったのである。けれども犬は黍団子と聞くと、たちまち彼の側へ歩み寄った。
「一つ下さい。お伴(とも)しましょう。」
桃太郎は咄嗟(とっさ)に算盤(そろばん)を取った。
「一つはやられぬ。半分やろう。」
犬はしばらく強情(ごうじょう)に、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回(てっかい)しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮(しょせん)持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう嘆息(たんそく)しながら、黍団子を半分貰う代りに、桃太郎の伴(とも)をすることになった。
桃太郎はその後(のち)犬のほかにも、やはり黍団子の半分を餌食(えじき)に、猿(さる)や雉(きじ)を家来(けらい)にした。しかし彼等は残念ながら、あまり仲(なか)の好(い)い間がらではない。丈夫な牙(きば)を持った犬は意気地(いくじ)のない猿を莫迦(ばか)にする。黍団子の勘定(かんじょう)に素早(すばや)い猿はもっともらしい雉を莫迦にする。地震学などにも通じた雉は頭の鈍(にぶ)い犬を莫迦にする。――こういういがみ合いを続けていたから、桃太郎は彼等を家来にした後も、一通り骨の折れることではなかった。
その上猿は腹が張ると、たちまち不服を唱(とな)え出した。どうも黍団子の半分くらいでは、鬼が島征伐の伴をするのも考え物だといい出したのである。すると犬は吠(ほ)えたけりながら、いきなり猿を噛(か)み殺そうとした。もし雉がとめなかったとすれば、猿は蟹(かに)の仇打(あだう)ちを待たず、この時もう死んでいたかも知れない。しかし雉は犬をなだめながら猿に主従の道徳を教え、桃太郎の命に従えと云った。それでも猿は路ばたの木の上に犬の襲撃を避けた後だったから、容易に雉の言葉を聞き入れなかった。その猿をとうとう得心(とくしん)させたのは確かに桃太郎の手腕である。桃太郎は猿を見上げたまま、日の丸の扇(おうぎ)を使い使いわざと冷かにいい放した。
「よしよし、では伴をするな。その代り鬼が島を征伐しても宝物(たからもの)は一つも分けてやらないぞ。」
欲の深い猿は円(まる)い眼(め)をした。
「宝物? へええ、鬼が島には宝物があるのですか?」
「あるどころではない。何でも好きなものの振り出せる打出(うちで)の小槌(こづち)という宝物さえある。」
「ではその打出の小槌から、幾つもまた打出の小槌を振り出せば、一度に何でも手にはいる訣(わけ)ですね。それは耳よりな話です。どうかわたしもつれて行って下さい。」
桃太郎はもう一度彼等を伴に、鬼が島征伐の途(みち)を急いだ。

鬼が島は絶海の孤島だった。が、世間の思っているように岩山ばかりだった訣(わけ)ではない。実は椰子(やし)の聳(そび)えたり、極楽鳥(ごくらくちょう)の囀(さえず)ったりする、美しい天然(てんねん)の楽土(らくど)だった。こういう楽土に生(せい)を享(う)けた鬼は勿論平和を愛していた。いや、鬼というものは元来我々人間よりも享楽(きょうらく)的に出来上った種族らしい。瘤(こぶ)取りの話に出て来る鬼は一晩中踊りを踊っている。一寸法師(いっすんぼうし)[#ルビの「いっすんぼうし」は底本では「いっすんぽうし」]の話に出てくる鬼も一身の危険を顧みず、物詣(ものもう)での姫君に見とれていたらしい。なるほど大江山(おおえやま)の酒顛童子(しゅてんどうじ)や羅生門(らしょうもん)の茨木童子(いばらぎどうじ)は稀代(きだい)の悪人のように思われている。しかし茨木童子などは我々の銀座を愛するように朱雀大路(すざくおおじ)を愛する余り、時々そっと羅生門へ姿を露(あら)わしたのではないであろうか? 酒顛童子も大江山の岩屋(いわや)に酒ばかり飲んでいたのは確かである。その女人(にょにん)を奪って行ったというのは――真偽(しんぎ)はしばらく問わないにもしろ、女人自身のいう所に過ぎない。女人自身のいう所をことごとく真実と認めるのは、――わたしはこの二十年来、こういう疑問を抱いている。あの頼光(らいこう)や四天王(してんのう)はいずれも多少気違いじみた女性|崇拝家(すうはいか)ではなかったであろうか?
鬼は熱帯的風景の中(うち)に琴(こと)を弾(ひ)いたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、頗(すこぶ)る安穏(あんのん)に暮らしていた。そのまた鬼の妻や娘も機(はた)を織ったり、酒を醸(かも)したり、蘭(らん)の花束を拵(こしら)えたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしていた。殊にもう髪の白い、牙(きば)の脱(ぬ)けた鬼の母はいつも孫の守(も)りをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしていたものである。――
「お前たちも悪戯(いたずら)をすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは角(つの)の生(は)えない、生白(なまじろ)い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛(なまり)の粉(こ)をなすっているのだよ。それだけならばまだ好(い)いのだがね。男でも女でも同じように、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74](うそ)はいうし、欲は深いし、焼餅(やきもち)は焼くし、己惚(うぬぼれ)は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒(どろぼう)はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」

桃太郎はこういう罪のない鬼に建国以来の恐ろしさを与えた。鬼は金棒(かなぼう)を忘れたなり、「人間が来たぞ」と叫びながら、亭々(ていてい)と聳(そび)えた椰子(やし)の間を右往左往(うおうざおう)に逃げ惑(まど)った。
「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
桃太郎は桃の旗(はた)を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉(いぬさるきじ)の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好(い)い家来(けらい)ではなかったかも知れない。が、饑(う)えた動物ほど、忠勇|無双(むそう)の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛(ひとか)みに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴(くちばし)に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺(しめころ)す前に、必ず凌辱(りょうじょく)を恣(ほしいまま)にした。……
あらゆる罪悪の行われた後(のち)、とうとう鬼の酋長(しゅうちょう)は、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に降参(こうさん)した。桃太郎の得意は思うべしである。鬼が島はもう昨日(きのう)のように、極楽鳥(ごくらくちょう)の囀(さえず)る楽土ではない。椰子(やし)の林は至るところに鬼の死骸(しがい)を撒(ま)き散らしている。桃太郎はやはり旗を片手に、三匹の家来(けらい)を従えたまま、平蜘蛛(ひらぐも)のようになった鬼の酋長へ厳(おごそ)かにこういい渡した。
「では格別の憐愍(れんびん)により、貴様(きさま)たちの命は赦(ゆる)してやる。その代りに鬼が島の宝物(たからもの)は一つも残らず献上(けんじょう)するのだぞ。」
「はい、献上致します。」
「なおそのほかに貴様の子供を人質(ひとじち)のためにさし出すのだぞ。」
「それも承知致しました。」
鬼の酋長はもう一度|額(ひたい)を土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
「わたくしどもはあなた様に何か無礼(ぶれい)でも致したため、御征伐(ごせいばつ)を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点(がてん)が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明(あか)し下さる訣(わけ)には参りますまいか?」
桃太郎は悠然(ゆうぜん)と頷(うなず)いた。
「日本一(にっぽんいち)[#ルビの「にっぽんいち」は底本では「にっぼんいち」]の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱(かか)えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三(さん)かたをお召し抱えなすったのはどういう訣(わけ)でございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子(きびだんご)をやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
鬼の酋長は驚いたように、三尺ほど後(うしろ)へ飛び下(さが)ると、いよいよまた丁寧(ていねい)にお時儀(じぎ)をした。

日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々(とくとく)と故郷へ凱旋(がいせん)した。――これだけはもう日本中(にほんじゅう)の子供のとうに知っている話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送った訣(わけ)ではない。鬼の子供は一人前(いちにんまえ)になると番人の雉を噛(か)み殺した上、たちまち鬼が島へ逐電(ちくでん)した。のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形(やかた)へ火をつけたり、桃太郎の寝首(ねくび)をかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂(うわさ)である。桃太郎はこういう重(かさ)ね重(がさ)ねの不幸に嘆息(たんそく)を洩(も)らさずにはいられなかった。
「どうも鬼というものの執念(しゅうねん)の深いのには困ったものだ。」
「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩(だいおん)さえ忘れるとは怪(け)しからぬ奴等でございます。」
犬も桃太郎の渋面(じゅうめん)を見ると、口惜(くや)しそうにいつも唸(うな)ったものである。
その間も寂しい鬼が島の磯(いそ)には、美しい熱帯の月明(つきあか)りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子(やし)の実に爆弾を仕こんでいた。優(やさ)しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗(ちゃわん)ほどの目の玉を赫(かがや)かせながら。……

人間の知らない山の奥に雲霧(くもきり)を破った桃の木は今日(こんにち)もなお昔のように、累々(るいるい)と無数の実(み)をつけている。勿論桃太郎を孕(はら)んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉(やたがらす)は今度はいつこの木の梢(こずえ)へもう一度姿を露(あら)わすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。……  
 
亥の子(いのこ)

 

旧暦10月(亥の月)の上の(上旬の、すなわち、最初の)亥の日のこと、あるいは、その日に行われる年中行事である。玄猪、亥の子の祝い、亥の子祭りとも。主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などがある。
歴史的には、古代中国で旧暦10月亥の日亥の刻に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説や、景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来するという説もある。
この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、この日に炬燵開きをすると、火災を逃れるともされた。
九州から中国地方を中心として殊に知られる行事である。明治・大正時代には、関東以北で亥の子に関する行事は知られておらず、江戸・甲州で亥の子餅がみえるのは江戸時代からである。
行事
行事の実施形態はさまざまで、亥の子餅を食べるが石は搗かない、あるいはその逆の地方もある。
亥の子餅
旧暦10月亥の日亥の刻に食べる。餅は普通のものや茹で小豆をまぶした物などが作られるが、猪肉を表した特別なものが用意されることもある。
亥の子石
旧暦10月の亥の日の夕方から翌朝早朝にかけて、地区の子供たち(男子のみの場合もある)が集まり一軒一軒を巡って、歌を歌いながら平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗く。石の重さも1kg〜10kg程度と地方により異なる。地方によって歌の内容は異なるが、亥の子のための歌が使用される。歌詞は縁起をかつぐ内容が多いが例外もある。子供たちが石を搗くとその家では、餅や菓子、小遣いなどを振舞う。振る舞いの無い家では悪態をつく内容の歌を歌われることもある。石のほか藁鉄砲(藁束を硬く縛ったもの)を使う地方もある。藁鉄砲を使う事例により、東日本における旧暦10月10日に行われる同様の行事、十日夜(とおかんや)との類似性が指摘できる。
石を搗いた後は各家庭の庭先に石の形に半球の穴がのこり、大きいほど喜ばれた。またその風景が初冬の風物詩であったが、近年はコンクリートなどで舗装している場合がほとんどで、小さな畳を持ち運びその上で搗いたり、空中で搗く動作だけを行ったり、引き合うことでこすったりする地方もある。
なお、昭和40年代に、この時期になると準備や亥の子歌の練習に夢中になり、宿題や勉強がおろそかになることなどから、学校が亥の子行事を禁止し廃れてしまった地域もある。
また、「公民館行事」として保護奨励され未だ興隆している地域(愛媛県宇和島市吉田町など)もある。
愛媛県今治市菊間町では一軒一軒をまわるための小さい石を「いのこさん」。宿で使う石を「ごうりんさん」と呼ぶ。石を搗いた跡を踏むとバチが当たるとされ、跡を踏んだ人の髪の毛を三本抜く地区もある。宿とは最後の家のことで、最近子供が生まれた家が宿になることが多いが少子化で最近子供が生まれていない地区は集会所を使うことがある。
亥の子の歌
そーれ、そーれ、そーれ
亥の子の餅はついてもついても折れません
もう1つついたら折れすぎた
おまけにこまけにどっこいしょ  (三重県四日市市)
藁鉄砲を使用する。「そーれ〜」の部分は主に上級生(その家の家族に参加者がいる場合はその人)が「大亥の子」と呼ばれる巨大な藁鉄砲を1人でつく。掛け声は全員で行う。
亥の子の晩に 餅せん家は 箸の家建てて 馬のくそで壁塗って
ここの嫁はんいつもらう 正月三日の朝もらう
鰯三匹酒五合 さいらのわたで祝おてやれ
おーこまはん 寝ーてんのけ 起きてんのけ
寝てても起きててもどんないわ 新米藁で祝おてやれ
どんぶらこ どんぶらこ もひとつおまけにどんぶらこ  (奈良県高市郡)
亥の子の牡丹餅祝いましょ
一つや二つじゃ足りません
蔵に千石積むように
お神酒を供えて祝いましょ
ひとつ ふたつ みっつ よっつ いつつ むっつ ななつ やっつ ここのつ とー
(京都府丹波地方)
亥の子の宵(えー)に祝わんものは 鬼産め 蛇産め 角のはえた子産め (せんせんせんよ)
一つ 鵯は 栴檀の実を 祝え (せんせんせんよ)
二つ 鮒子は 水の底 祝え (せんせんせんよ)
三つ 蚯蚓は 土の底 祝え (せんせんせんよ)
四つ 嫁御は 姑の髪 祝え (せんせんせんよ)
五つ 医者殿は 薬箱 祝え (せんせんせんよ)
六つ 娘は 化粧箱 祝え (せんせんせんよ)
七つ 泣き子は 親の乳 祝え (せんせんせんよ)
八つ 山伏は 法螺の貝 祝え (せんせんせんよ)
九つ 紺屋は 藍瓶(やがめ) 祝え (せんせんせんよ)
十で 豆腐屋は 豆腐籠 祝え (せんせんせんよ)
亥の子の宵(えー)に祝うた者は 四方へ蔵建て 繁盛せ 繁盛せ  (広島県福山市)
亥の子 亥の子
亥の子の宵に
餅付く衆は 福梅小梅
それもこれも お江弁須様に
1つ 人より踏ん張って
2で ニッコリ笑って
3で 酒を造って
4つ 世の中良いように
5つ いつもの五徳なり
6つ 無病息災に
7つ 何事無きように
8つ 屋敷を広めたり
9つ ここらへ蔵を立て
10で 徳利納めたり
進穣祝え 進穣祝え  (広島県福山市)
亥の子 亥の子 亥の子餅ついて
祝わんものは 鬼産め 蛇産め
角のはえた子産め
やっさの尻を 
煮え湯で焚いて また湯で焚いて
これのこれの 〜さん(亥の子餅をつく家の長男等)に嫁をとって(〜さんが女性の場合は婿)
繁盛せえ 繁盛せえ  (広島県安芸郡) 
これのよう旦那は 団子か餅か 
ありゃとうこせとうこせ (10歳を越せ(そしたら安心だ)) 
餅はよう餅でも おがそうればさ 
金持ちじゃ
ありゃとうこせとうこせ  (山口県周防大島町)
亥の子石、石の周辺に蔓(かずら)の輪を使う。亥の子のことを「ごうれんさま」という。数え唄は愛媛県伊予市・大平武領地区に似る。子供が激減して行事は消滅。「おがそうればさ」は意味不明。
「いのこさん いのこさん」こいさのいいお
いおうたものは しほうのすまへ
くらたてまわせ えんやらえっとーえっとーや
いちでいこくやきんぎんのとり(よいよい)
にではにほんのにわとりさまよ(よいやさー よいやさー)
さんでさんしゅうそらとぶとりよ(よいよい)
しではしらさぎ ごでごやのさぎ(よいやっさー よいやっさー)
ろくでろうどり 〇〇どりよ(よいよい)
はちではとどり くでくじゃくどり(よいやっさー よいやっさー)
じゅうでじゅうじゅうさえずるひばり(よいよい)
どれもどなたもどのこのほしよ
やいをおさめて「やど」のほうへいこや(よいよい)   (愛媛県今治市)
地区毎に歌詞とメロディが微妙に変わる。歌で伝えられているため、歌詞が濁っている地区もある。「いのこさん いのこさん」の部分は宿で大きい石を搗く場合は「ごうりんさん ごうりんさん」になる場合がある。「やど」の部分は宿と呼ばれる最後の家で石をつく場合で、家をまわる際には宿の場所を基準にして「おく」「しも」と言い換える。
一は不明
にーでにっこりわろて
さーんでさかずきさしおうて
よーつよのなかええように
むーつむびょうそくさいに
なーなつなにごとないやうに
ここのつらこくらをたてまわせ
とーうでとうとうおーさめたーおーさめた  (愛媛県今治市)
いわいましょー  いわいましょー
おおだいこーくの のーにーは
いーちから ふんまいて
にーで にっこり わらいかけ
さーんで さ−けを つ−くって
よーっつ よのなか よいように
いーつつ いつもの ごうとくに
むーっつ むびょう そくさいに
なーなつ なにごと ないように
やーっつ やしきを ひろめたて
ここのつ こくらを たておいて
とーで とって お−さめた
ふね〜 ふね〜
   いちでー いちがた あつもりさまよ
   にではー おえどの かんのんさまよ
   さんでー さぬきの こんぴらさまよ
   しではー しなのの ぜんこうじさまよ
   いつつー いずもの おやしろさまよ
   むっつー むはなの ろくじぞうさまよ
   ななつー なーらの だいぶつさまよ
   やっつー やはたの はちまんさまよ
   ここでー ここのつ こうぼうだいし
   とではー ところの うじがみさまよ
   あ〜よほい よほい よいやな
   あれわいな これわいな
   よいやっせ ふね〜 ふね〜  (愛媛県宇和島市)
亥の子 亥の子 小鬼さんの亥の子
亥の子餅搗いて 祝わん者は
鬼か蛇(じゃ)か 角の生えた子産め
お亥の子さんという人は
一から ふりまいて
二で にっこり笑ろて
三で 酒造って
四で 世の中良いように
五つ いつものごとくなり
六つ 無病息災に
七つ 何事ないように
八つ 屋敷を広げ建て
九つ 小倉を建て並べ
十で とうとう収まった  (愛媛県伊予市)
亥の子 亥の子
亥の子餅搗いて
一から ふんばって
二で にっこり笑ろて
三で 盃(さかづき)酌み交わし
四つ 世の中良いように
五つ いつものごとくなり
六つ 無病息災に
七つ 何事ないように
八つ 屋敷を建て直し
九つ 心を立て直し
十で とうとう収めた
この家繁盛せえ もひとつおまけに 繁盛せえ  (愛媛県松山市)
亥の子 亥の子 こいさんの亥の子
亥の子餅ついて 祝おうじゃないか
お亥の子さんという人は
一で 俵ふまえて
二で にっこり笑ろて
三で 酒造って
四つ 世の中良いように
五つ いつものごとくなり
六つ 無病息災に
七つ 何事ないように
八つ 屋敷を広げ建て
九つ 小倉を建て並べ
十で とうとうおさまった
エットー エットー エットーヤー  (愛媛県伊予市)
祝い申す
ひとつどんどん祝いましょ御大黒のお庭では
一つ俵ふん撒いて
二でにっこり笑ろて
三で酒を造って
四つ世の中良いように
五ついつもの如くに
六つ無病息災に
七つ何事ないように
八つ屋敷を広め建て
九つ小倉を建て並べ
十で盗って治めた
   一は一ノ谷敦盛(あつもり)様よな
   二はにわかの観音様よな
   三は讃岐の金比羅様よな
   四は信濃の善光寺様よな
   五つ出雲の大社(おおやしろ)様よな
   六つむはかのお地蔵様よな
   七つ浪速の天神様よな
   八つ八幡の八幡様よな
   九(ここ)で高野の弘法大師な
   十でところの氏神様よな
一つ拾た豆得(徳)のいかんことがない
二つ踏んだ豆・・・がない
三つ味噌豆・・・がない
四つ選った豆傷があったことがない
五つ煎った豆片平焦げんことがない
六つ蒸した豆・・・がない
七つ成った豆・・・がない
八つ焼いた豆・・・がない
九(ここ)で買うた豆・・・がない
十で飛んだ豆そこらの近所おられんぞ
   弁慶が弁慶が鎧の麓に登りたて麓の道で日が暮れて
   火を灯せ火を灯せ灯せど灯せど真っ赤な明かりはないけれど
   わしの弟の千松(せんまつ)はまだまだ十三ならんけど
   弓の矢を肩に掛け黄金(こがね)の太刀を腰に差し
   斬っちゃれ斬っちゃれ斬り斬り口はどこどこぞ
   兜のめっこうゆいだれ口まで斬りつけた
   よう斬ったよう斬ったおうかんどうに誉められて
   おうかんどうの魚には切ってしもて
   皿に盛って冷ましてさあさあおうがいやのごとごと
   殿様の殿様の殿様お山の楠木を
   お船に造って押し出して海の中で櫓(ろ)が折れて
   櫂(かい)で押すにも櫂がなし根太(ねだ)で押すにも根太がなし
   子牛の一頭引き抜いて艫(とも)から二番に漕ぎ着けたの押し付けた
   千秋楽だ萬歳楽だ
   千秋楽だ萬歳楽だ
   上手(かみて)の人が下手(しもて)に下がって
   下手の人が上手に上がって
   恵比寿来い大黒来い福の神が舞い込んだ
   ぼうほんいえ  (愛媛県宇和島市)
祝います
ごーざった ごーざった
おお大黒という人は
天竺の人なれど
一が俵ふんまいて
二でにっこり笑て
三で作つくって
四つ世の中よいよいに
五ついつものごとくなれ
六つ無病息災に
七つなにごとないように
八つ屋敷を広めたて
九つここらに蔵を建て
十でところを治めたて
えーんえーんえんしこな
をーほいえーえんとこなやえんとこな
をーほいえ
おいでたな おいでたな
おいべっさんがおいでたな
大黒様をひきつれて
錦の袋を肩にかけ
金銀しょうせんばーらばら
ここらのお家は繁盛する
をーほいえ  (愛媛県西予市)
おいのこさんという人は
一からふんばって
二でにっこり笑ろーて
三でさかずき指し王手
四つ世の中良いように
五ついつもの如くなり
六つ無病息災に
七つ何事ないように
八つ屋敷を広げて
九つここらで倉を建て
十でとうとうむーにゃーげー
このいや(家は)ぐうべんしゃ(金持ち)
はんじょうせ はんじょうせ
もっとはんじょうするように
もっとはんじょうするように  (愛媛県今治市)
祝いましょう 祝いましょう
お亥の子さんのお庭
一に 俵ふんまいて
二で にっこり笑ろて
三で 酒造って
四で 世の中良いように
五つ いつものごとくに
六つ 無病息災に
七つ 何事ないように
八つ 屋敷を広げ建て
九つ 小倉を打ち建てて
十で とっておさめた
あら よーいよい
鶯は 鶯は
初めて都へ上る時
一夜の宿も借りかねて
梅の木小枝に昼寝した 昼寝した
※梅の木小枝※に何を見た
春咲く花を夢に見た
あら よーいよい  (愛媛県松野町)
おいべっさんという人は、
一で 俵(を)踏んばって
二で にっこり笑ろて
三で 酒造って
四つ 世の中良いように
五つ いつものごとくなり
六つ 無病の息災に
七つ 何事ないように
八つ 屋敷を建て広げ
九つ 小倉を建て並べ
十で とうとう納まった
この家 繁盛せぃ! この家 繁盛せぃ  (愛媛県松山市)   
一番
祝いましょう 祝いましょう
お大黒さまは
一に 俵ふんまえて
二で にっこり笑うて
三で 酒造って
四つ 世の中よいように
五つ いつものごとくに
六つ 無病息災に
七つ 何事ないように
八つ 屋敷をつき広げ
九つ 小倉をつき建てて
十で とっておさめた
エイトヤー サイトヤー
   二番  (うぐいす)
   鶯が鶯が
   今年初めて 伊勢参宮
   伊勢の町ほど広けれど
   一夜の宿を 借りかねて
   下へさがれや高砂や 尾上の松の二の枝に
   木の葉を食い寄せ 巣を組んで
   十二の卵を産み揃え
   十二が一度に飛ぶときは
   金の杯 手に添えて 
   黄金の銚子でまわすよに
   エイトヤー サイトヤー
三番  (くすの木)
いららぎや いららぎや
いららぎ山のくすの木を
もと切り離して 板にして
大工雇うて 船にして
沖の間中へ漕ぎ出して
沖の間中に艪が折れて
艪ではいけない うたでやれ
エイトヤー サイトヤー
   四番  (亥の子の由来)
   亥の子の由来を申すなら
   ほうや 法華経
   ほばしら八幡大菩薩
   いかりを春日の大明神
   せなに小松のはえた猪
   仁田の四郎という人は
   猪の背中に飛び乗って
   ふたひろ縄で 絞め殺し
   富士山のオ お山のオ
   ぬしを殺した その罰で
   昼は亥の子で つきかため
   夜はぐすぐす もちかえす
   占い博士にかけたなら
   十月の 十月の
   亥の日を 祀てついたなら
   やっぱり今でも おだやかな
   エイトヤー サイトヤー
お蔵うた
ここの旦那 分限者
西と東に 蔵建てて
西の蔵 米蔵
東の蔵 金蔵
福も得も 舞い込め 舞い込め  (石川県)
 
ジャンケンポン

 

鬼決めの歌。「逆ジャンケン」は青森県津軽地方などで行われていた事例があり、今日の拳の勝負と逆の勝負となる。グーはチョキに勝つがパーには負ける。これが逆になり、グーはパーに勝ちチョキに負ける。昭和20年代生まれの人々は、孫たちとのジャンケンに戸惑ったという。拳の名称では、パーは風呂敷・紙、チョキは鋏・鉄砲(人指し指と親指を出す)、グーは石・ゲンコツなどといわれていた。
   ジャンケン ポン あいこで しょ
   チッチッ チ
   チッカッ ポ
じゃんけん (石拳、両拳、雀拳)
手だけを使う遊戯である。3種類の指の出し方(グー・チョキ・パー)で三すくみを構成し、勝敗を決める手段である。日本で拳遊びを基に考案されたが、現代では世界的に普及が進んでいる。
日本国内では「じゃいけん」「いんじゃん」など地域によって様々な呼び方がある。中国では「猜拳」と呼ぶ。英語圏の場合、イギリスでは "Scissors Paper Stone" などと表現されることもあるが、イギリスやアメリカ合衆国を含めて多くは "Rock-paper-scissors" という呼称が使われている。
偶然によって簡便になんらかの物事を決定する必要があるときに使われる。短時間で決着が付き、コイントスやくじなどと異なり、道具を用意する必要がない。勝ち負けを決める簡便な手段として用いられるほか、じゃんけんを複数回行って何連勝できるかなど、ゲームとして用いられることもある。
グー・チョキ・パーの三すくみを用いる一般のじゃんけん以外にも、一度に大人数で勝敗や組み分けを決めるために、多い勝ち・うらおもて・グーパーなどがある。
じゃんけんに類似した拳遊びの類は日本に限らず世界中にあり、日本でもじゃんけんとほぼルールが同じ物に虫拳が存在する。
歴史
現在行われているじゃんけんは意外に新しく、近代になって(19世紀後半)誕生したものである。ウィーン大学で日本学を研究する『拳の文化史』の著者セップ・リンハルトは、現在の「じゃんけん」は江戸時代から明治時代にかけての日本で成立したとしている。『奄美方言分類辞典』に「奄美に本土(九州)からじゃんけんが伝わったのは明治の末である」と記されており、明治の初期から中期にかけて九州で発明されたとする説を裏付けている。また、江戸時代末期に幼少時代を過ごした菊池貴一郎(4代目歌川広重)が往事を懐かしんで、1905年(明治38年)に刊行された『絵本江戸風俗往来』にも「じゃんけん」について記されている。今でも西日本に多く残る拳遊びから(日本に古くからあった三すくみ拳に17世紀末に東アジアから伝来した数拳の手の形で表現する要素が加わって)考案されたと考えられる。
19世紀に誕生したじゃんけんは20世紀に入ると、日本の海外発展や柔道など日本武道の世界的普及、日本産のサブカルチャーの隆盛などに伴って急速に世界中に拡がった。
日本の拳遊びには、数拳(本拳・球磨拳・箸拳、ほか)と三すくみ拳(虫拳・蛇拳・狐拳・虎拳、ほか)がある。
じゃんけんでは数拳(球磨拳)の1, 3, 4は省かれ、分かりやすい0と5と中間の2を残し、新しく意味を「石」「鋏」「紙」として三竦みを完成させた。
チョキはもともと人差し指と親指を伸ばす数拳での2を表す方式「男チョキ」であったが、日本国内を伝播するうちに人差し指と中指を使うもの「女チョキ」が派生した。じゃんけんの基と成った遊びの多くが九州を中心とした西日本に多く分布し、古い形態である「男チョキ」も九州を中心とした西日本に多い(韓国でも「男チョキ」が行われている)。
歴史参考
江戸時代後期の歌舞伎作家・西沢一鳳が1850年(嘉永3年)に著した『皇都午睡(みやこのひるね)』には「近頃東都にてはやりしはジヤン拳也 酒は拳酒 色品は 蛙ひとひよこ三ひよこひよこ 蛇ぬらぬら ジヤンジヤカ ジヤカジヤカジヤンケンナ 婆様に和藤内が呵られて 虎はハウハウツテトロテン なめくでサア来なせへ 跡は狐拳也」とあるが、これは現在のじゃんけんとは別もので、虫拳の類いではなかったかと推定される。
一方、明代末期の中国で書かれた『五雜俎』によると、漢代中国には「手勢令」と呼ばれるゲームがあったという。『五雜俎』では「手掌を以て虎膺とし、指節を以て松根とし、大指を以て蹲鸱とする」などの手勢に関する詳しい記載があるが、遊び方に関して「用法知らず」とされ、当時「捉中指」という遊びのルーツではないかと作者が推測している。『全唐詩』の八百七十九巻に「招手令」に「亞其虎膺、曲其松根。以蹲鴟間虎膺之下」、そのルールと思われる記述がある。「蹲鴟を以て虎膺の下とす」から、三すくみ的要素を見て取れるが、これも内容から見て現在のじゃんけんとは別ものである。
○○拳は、中国では主に拳法のことであるが、中国でも明代に書かれた『六研齋筆記』に「謂之豁拳」の記述があり、拳遊びのことを「猜拳」「画拳(かくけん)」「豁拳」などと呼んでいた。拳遊びを○○拳と呼ぶのは、中国の影響が考えられる。現在、中国で行われているじゃんけんは明治以後、日本から新たに伝わったものと考えられるが、同じく「猜拳」と呼んでいる。
日本と密接な関係を持っていたイギリスの旧植民地などにじゃんけんが分布している。紙・鋏(はさみ)・石のじゃんけんは日本起源で、近代以降、日本人の移民や交流で世界各地に広がり、日本との接触が少ない所では、紙・鋏・石のじゃんけんは普及していない。また、この図では未調査に成っているが、南アメリカでも日本人が入植した地域を中心にじゃんけんが行われている。 日本や世界一般では、3つある手はそれぞれ「石」「鋏」「紙」に由来すると説明されるが、中国や朝鮮では日本から伝播した際に「紙」が「布」に置き換わったため、「石」「鋏」「布」となった。これは日本の和紙は薄く大変丈夫であったのに対し、じゃんけんが伝わった当時の朝鮮製の紙(韓紙)は漉いた2枚以上の紙を貼り合わせて作られていた為に分厚くごわごわしており曲げたり物を包むことができにくかったからであろう。韓国語のじゃんけんの掛け声は「カウィ(鋏)・バウィ(石)・ボ(布)」である。
19世紀後半の明治になるまで鎖国していて一切の日本人の外国への渡航を禁止していた日本に対し、19世紀中ごろのアメリカ大陸横断鉄道建設の労働者など、欧米に早くから多くの移民を送り出してきた中国式の「石」「鋏」「布」が世界標準とならなかったのは、当時の中国人がまだ現在のじゃんけんを知らなかったからであり、中国に現在のじゃんけんが伝来したのは、日本の明治以降のことだからである。現在の中華人民共和国西部地区(新疆ウィグル)や中央アジアでは未だにじゃんけんがほとんど普及していない。中国語ではじゃんけんの掛け声は「シータォー(石)・チェンツ(鋏)・プー(布)」であるが、「ジャン・ジン・ボー」などと言う人もいる。また、高齢者の中にはじゃんけん(石・鋏・布)を知らない人もいる。
2002年(平成14年)、世界各地のじゃんけん系ゲームのルールを統一し、世界大会を開くためとして the World Rock Paper Scissors Society(略号:WRPS)がカナダで結成された。WRPSは元々は1842年にイギリスで設立されたと主張しているが、この年にはまだ現在のじゃんけん自体がこの世の中に存在していなかったので、これはWRPSのジョークである。WRPS自体が冗談で創られたものである。じゃんけんが1842年当時イギリスで既に行われていたなら、旧大英帝国領を中心にじゃんけんは普及しているはずであり、他のヨーロッパ諸国にもイギリスから伝わった明らかな痕跡が見られるはずであるが、そのような事実はない。ヨーロッパでは19世紀以前の文献にじゃんけんは出てこないし、20世紀になってじゃんけんが出てくるのは日本についての記述からである。 ヨーロッパ諸国のじゃんけんは「女チョキ」しかなく日本の関東地方から伝わったようである。日本ではじゃんけんに限らず、パーを出す場合は五指が離れるように広げるが、WRPSのじゃんけんでは五指をそろえる。これは、「パーは紙である」という意味しか伝わらなかったために生じたものであろう(日本国内で伝播する際に鋏のイメージから「女チョキ」が生まれたのと同様)。このようなことからも、WRPSの歴史が極めて新しいことが分かる。数十年前に日本人が海外での体験を書いた書物を調べると、日本人同士がじゃんけんをしていると欧米人が不思議に思い、何をしているのかと質問されたとの記事が散見され、最近まで欧米ではじゃんけんがほとんど知られていなかったことが確認できる。日本が舞台となった『007は二度死ぬ』(1967年(昭和42年))原作の小説では、日本的な雰囲気を出すために主人公ジェームズ・ボンドがじゃんけんをする場面が登場する。
語源
じゃんけんの語源は2人で行うから「両拳」(りゃんけん) チョキを示す「鋏拳」(じゃーちゅあん)が変化したとする説、「石拳」(じゃくけん・いしけん)の「じゃくけん」が変化した説、「蛇拳」(じゃけん)説、じゃんけんの広東語「猜拳」(チャイキュン)説や他にも多くの説があるが不明である。
じゃんけんぽんの語源にも仏教語の料間法意(りゃけんほうい)説や長崎の唐人が伝えたという様拳元宝(ヤンケンエンポウ)説、一般的な掛け声のホイが転化したという「じゃんけん+掛け声」「じゃんけんほい」説があるが不明である。
以下のようにグー・チョキ・パーはすべて日本語であるという説もある。
○ ぐっと拳を握るからグー
○ チョキンと切るからチョキ
○ ぱっと手を広げるからパー
ルール
じゃんけんは2人以上の参加者によって行う。参加者は向き合い(あるいは円になり)、片腕を体の前に出す。参加者全員で呼吸を合わせ、「じゃん、けん、ぽん」の三拍子のかけ声を発し、「ぽん」の発声と同時に出した腕の先に「手」を出す。この「手」の組み合わせによって勝者と敗者を決定する。
勝負が決定しなかった場合を「あいこ」と言う。あいこのときは「あい、こで、しょ」のかけ声を同様に行い、「しょ」で再び「手」を出す。「あいこでしょ」は勝敗が決定するまで繰り返される。
「じゃんぽんけん」と言う場合もあり、その場合は通常ルールでは負ける人が、勝つというルールであり、 通常ルールでは勝つ人は、この場合は負ける。
「手」の種類
じゃんけんの「手」は指の動きによって表され、以下の三つがある。
○ グー / 五本の指を全て握る。親指を他の四本の指の中に入れるかどうかは任意である。グーは「石」の象徴であるとされる。数拳では0を意味する
○ チョキ / 「チー」「ピー」「キー」と呼ぶ地域もある。5本のうち、2本の指を伸ばし、それ以外を全て曲げる。チョキは「鋏(はさみ)」の象徴であるとされる。チョキには2種類あり、親指と人差し指を伸ばすチョキを「男チョキ」、人差し指と中指を伸ばすチョキを「女チョキ」という呼び方がある。「男チョキ」は数拳の2でありチョキの原型である。「女チョキ」は形が鋏のイメージにより近いために新たに生まれたもの。「男チョキ」は東京など東日本には普及しなかったので一部には「田舎チョキ」とよばれたりする。このように全国的には「女チョキ」が主流である。数拳では2を意味する。
○ パー / 五本の指を離して広げる。パーは「紙」の象徴であるとされる。数拳では5を意味する。
勝敗の決定
勝敗に関しては、次のようなルールが定められている。
○ グーは、チョキに勝ち、パーに敗れる。
○ チョキは、パーに勝ち、グーに敗れる。
○ パーは、グーに勝ち、チョキに敗れる。
2人のときは、以上に加え、両者が同じ手を出したときには「あいこ(引き分け)」となる。
3人以上のときは、全員が出した「手」が三つのうち二者だけであったときに勝負が決する。たとえば、5人中2人がパー、3人がグーを出したならば、パーを出した2人が勝者となる。全員が同じ手を出したときや、グーチョキパー全てが出たときには「あいこ」になる。
一見して分かるとおり、グー・チョキ・パーの三者は三すくみの関係にあり、三つの「手」の間に特別な有利不利もなければ、何人でじゃんけんしようと勝敗の確率も人によって変わることはない。この三者の関係は、そのモデルである「石」「はさみ」「紙」を考えると理解しやすい。つまり、以下のとおりである。
○ 「石」は「はさみ」に切られないが、「紙」に包まれてしまうので、「石」は「はさみ」に勝ち「紙」に負ける。
○ 「はさみ」は「紙」を切ることができるが、「石」は切ることができないので、「はさみ」は「紙」に勝ち「石」に負ける。
○ 「紙」は「石」を包むことができるが、「はさみ」に切られてしまうので、「紙」は「石」に勝ち「はさみ」に負ける。
なお、「ぽん」のタイミングに「手」が出なかった場合はやり直しになる。特に、わざとタイミングを遅らせて、相手の手を見てから自分の手を出す行為は、「遅出し」「後出し(あと出し)」と呼ばれる反則であり、負けと見なされる。
なお、この反則行為から派生したゲームとして、親の出した手を瞬時に判断して、子が勝てる手を出す『あと出しじゃんけん』というゲームもある。
複数人における決着を早く行う方法
上で述べたルールによれば、対戦者が増えるほど「あいこ」になる確率が増えるため、決着が遅れることがある。このため次のような対策がとられるのが普通である。
[ 審判がいない場合 ]
○ 「パー」だけを使ってするじゃんけんはうらおもてと呼ばれる。「うらかおもて」などの掛け声を言いながら「パー」を出す、このときに掌(てのひら)を上向きが「表」、掌を下向きが「裏」とし、「裏」と「表」の人数を数え数の少ない方を勝ち、または負けとする(始める前に決めておく。通常、勝ちを決める場合は少ない方を勝ち、負けを決める場合は少ない方を負けとする)。最後に二人残った場合はじゃんけんをする。1970年(昭和45年)頃に始まったが、最近は新興のグーパーの方が盛んである。
○ グー・チョキ・パーの関係を一時的に無視し、最も多く、もしくは少なく出されたものを勝者とする。最後に二人残った場合はじゃんけんをする。
○ 「グー」と「パー」だけを使ってするじゃんけんで「グーパー」または「グーパージャン」と呼ばれる(他に、「グットッパ」、「グッパージャス」と呼ばれることもある)。「グーとパーでわかれましょ」(主に東日本で使われる)「グッパでわかれましょ」(主に西日本で使われる)などの掛け声を言いながら「グー」または「パー」を出す、「グー」と「パー」の人数を数え数の少ない方を勝ち、または負けとする。最後に二人残った場合はじゃんけんをする。このやり方は上記2つのやり方を参考に生まれたものとする説もある。また、このグーパーは、チームを決めるときなどに用いられることもある。その際は、人数が偶数であれば、グーとパーを出した人数が等しい際に勝負が決まり、それでチームが分けられたりもする。なお、この類似として「グッチョ」(グーチョキ・グッチ・グーキー・グッピー)など、相手が普段やりなれていない方法を用いて、相手の混乱を誘う方法が、近年は西日本の方で盛んである。この際は主催者となる人物は、事前に告げることなく掛け声「グッチョでわかれましょ」などをかけることが多い。
○ 多い勝ち、または、多いもん逃れ(ローカル)がある。掛け声と共に、グー・チョキ・パーの何らかを出す。多いものが勝者という一種の多数決に似ている仕組み。もちろん最低3人はいないと成立しないため、二人になれば普通のじゃんけんに変わる。なお、この仕組みは仕掛けられる場合があり、はめられるケース(あるいは、その地域において暗黙の了解として常識的な手が決まっている場合があり、それを知らなかった者が負ける)もある。そのような内通を防ぐため、互いに共謀できない少ない者勝ちのじゃんけんも広く行われている。細部のルールも地域ごとに微妙に異なる。
○ 隣接する2人同士でじゃんけんし、勝った者同士、負けた者同士で再びじゃんけんを行う。対戦者が奇数の場合3人で対戦するか、1人がシード権を獲得する。
○ 少ない勝ちを採用した ゲーマーじゃんけんがある。「ゲーマーじゃんけん、じゃんけん、ぽん」の掛け声と共に、グー・チョキ・パーの何らかを出す。少ないものが勝者となる。例えば、グーが一人、パーが二人、チョキが一人の場合には、パーを出したものは複数いるためにバッティングが起こり脱落する。グーとチョキが少数なので暫定的に残るが、じゃんけんの判定により、グーを勝ちとするものである。さらに、勝者同士で早く順番が回ってくる方を勝ちとするように判定を加える。例えば、Aがグー、Bがパー、Cがグー、Dがパー、Eがパーを出した場合には、AとCの出したグーが少数ということで勝ちとなり、さらに、座り位置を時計回りに見て、AをスタートプレイヤーにすればCは3番目となるが、CをスタートプレイヤーとするとAは4番目となるため、Aを勝ちとする。この方式を採用することであいこのケースが減って、すぐにゲームが始められるというメリットがあり、テーブルゲームのスタートプレイヤーを素早く決めるための方法として広く普及している。
[ 審判がいる場合 ]
○ 審判が出した手と、各対戦者の手によって脱落者を決め、これを繰り返して最終的な勝者・敗者を決める。
○ 集団で行う場合は、「一人 対 多数であいこは負け」とする。これは、関口宏が情報番組『テレビあっとランダム』のなかで始めたものである。
○ あいこを負けとしない場合もある。また、審判に負けた者が毎回残って敗者を選ぶ場合もある。選出する人数に近い人数が残った場合、普通のじゃんけんで決めることが多い。
確率としてのじゃんけん
じゃんけんは偶然性に多くを支配されるゲームであるという特性から、しばしば確率の問題(設問)などで使われることがある。「グー」「チョキ」「パー」を出す確率をそれぞれ3分の1とすると、2人での対戦の場合、あいこが重なっても平均すれば、1.5回で勝敗が決着する。
「じゃんけんぽん」のバリエーション
「手」を出し合うときの掛け声「じゃんけんぽん」は、標準的なものであるが、これには主に地方ごとに様々なバリエーションがあり(例:「じゃんけんぽい」「じゃんけんほい」「じゃんけんぽ」「いんじゃんほい」など)、また、時おり同じ市町村でも地域によって異なる場合がある。通常の掛け声のパターンとメロディに乗せるパターン(京都など近畿地方に多い)に大別される。
心理戦
じゃんけんは偶然性に多くを支配されるゲームである一方、心理戦の側面も有している。これは、競技の性質上、相手が何を出すのかが事前に分かっていれば確実に勝つことができるため、それを何らかの方法で読み取ろうとする努力がときになされるためである。
例えば、2人での勝負において、2回連続で互いにグーであいこになったとする。このとき、相手は何を出すかを考えると、一番単純なのは相手がまたグーを出すことであるから、それに勝つパーを出す作戦が考えられるが、相手も同じ考えをしてくるならばパーに勝つチョキを出すべきである。さらに、相手がそこまで見越してチョキを出してくることを想定して、再びグーを出す作戦も考え得る。このように、競技の性質から、思考は堂々巡りに陥ることになるが、相手の人となりを知っているのなら、そこから「どこまで考えを巡らす人物であるか」などを考慮に入れ、最終的に相手が出すであろう手を予測することになる。
また、1回目がグー・2回目がチョキであいこになったとすれば、「グー・チョキ・パー」という語呂から3回目にはパーが出てくる可能性が高い。特に、「あいこでしょ」がテンポ良く行われている場合には、別の手を出すまでに考えが至らないことも多く、テンポに乗せられてパーを出してしまう可能性も多い。テンポが速い場合には、手の決定は瞬間的・反射的に行われることが多いため、こういった予測が一層効果的であるとする考え方もある。
複数ラウンドによる勝負では、心理戦の要素は一層高まる。相手の性格と前回相手が出した手から、次に出す手を判断しそれに勝つであろう手を出すという作戦をとることができる。特に子供同士でじゃんけんを行っているときや酒が入るなど、判断力が低下した場でのジャンケンは顕著に性格が出るため、例えば前回相手が負けたなら、その負けた手に勝つ手を出すという作戦をとることができる。例えば、パー対グーで負けたときにはパーに勝つために相手はチョキを出すと予想し、グーを出すという作戦である。
1回勝負であったとしても、心理戦の要素を持ち込むことができる。実際のじゃんけんに入る前に、相手に「何を出すのか」と尋ねたり、「自分はグーを出す」などと相手に宣言するなどして、相手がそれに対してどう判断するかを予測したりして、心理戦を生じさせることができる。
別の方法は、自分の前で両の掌(てのひら)を、右掌が左側に、左掌が右側になるような形で合わせ、両手の指を結び合わせ、肘と手首を曲げながらその結び合わせた手を自分の顔の前に持ってくるものである(手をいったん下方に動かしてから自分の前に持ち上げる形をとる)。結び合わされた手は、小指の側が自分の顔に近く、親指の側が自分から遠くにあるが、その手を覗き込むようにして、結び合わされた親指の隙間から見える光の形を見る。  
 
わらべ歌と猫

 

子守唄
岩手
子供達(わしゃらど)子供達 
馬コはなしに行かんか 
とっちの方え行かんか 
南の方に行かんか 
仏の油をぬすんで 
はようの町さ行ったれば 
犬コにわんて吠えられて 
猫コにどろっこしめられた 
宮城
おらが婆さま 鼠子一匹とらまいて 
頭コそって髪ゆって 
ぼた餅売りに出したれば 
虎毛猫がはねてきて 
重箱がらみにみな食(か)れた 
秋田
あねコどこさいく 
葛籠(かつこべ)コなどさげだねが 
猫ね食わせる  泥鰌(ほんじょう)コ取ねえがとて行て見る 
もしか泥鰌コいんねがら蝦(えんび)まざりの小雑魚 
笊コもて掻(かつ)ちゃぐる 

かみから かみから 比丘尼(ひくに)三人くだた 
先の比丘尼物知らず 
後の比丘尼物知らず 
中の比丘尼物覚(お)べて 
かたたさおれて 
つぎ切れ百きれ捨て 
洗い場で洗て糊つけ場で糊つけて 
乾(ほ)し場で乾して縫い場で縫って 
綿せ場で綿せて 絎(く)け場でくけて 
次郎ごに着せろか太郎ごに着せろか 
太郎ごに着せれば次郎ごぁ怨みる 
次郎ごに着せれば太郎ごぁ怨みる 
向(むきあ)のやしやし弥太郎に着せて 
浜帯させて 浜笠かぶせて 
どこまで送る 浜まで送る 
浜の鼠だ 余(あんま)り 悪(わ)り鼠(ねんずみ)で 
仏の油すん盗で  しちゃごちゃつけて 
今日の町ちゃ立ったりば  犬にわんと吠えられて 
あしたの町ちゃ立ったりば 猫に頭(かあしら)かんまれて 
猫殿 猫殿 鯡三本(にしさんぽ)で許しゃんせ  許しゃんせ
福島
ねんねん猫のけつに火が跳ねた 
婆さまたまげてお茶かけた 

向かいの山から 
雌ん鳥雄ん鳥飛んで来た 
雌ん鳥奴のいうことにゃ 
猫の腹に子がある 
男なら助ける 
女子ならぶっ潰せ 
名はなんとつけ候 
八幡太郎とつけ候 
八幡太郎のお厩に 
馬なん匹たて込んだ 
中のよい馬に油ひいて鞍おいて  とっくとっくと乗って行こう 
観音堂がせきならば 
かたくずして堂築(つ)いて 
堂のあたりさ種蒔いて 
菊の花も十六 お姫も十六 
お姫が油買って行くどって 
すめり転んであしてま噛まれた 
猫殿猫殿 許してくりゃれ 
明日の市に鰹節買うて 
振舞い致しましょう 
栃木
ねんねん猫のけつ 蟹がはさんだ 
おう痛(いて)いと思ったら またはさんだ 

ねんねん猫の尻尾に火がはねた 
ばあさん魂げて水かけた 
群馬
ねんねん猫の尻(けつ)に蟹がはいこんだ 
やっとこさで引きずり出したら  またはいこんだ 

ねんねん猫の尻(けつ) 蟹が入りこんだ 
一匹だと思ったら二匹入り込んだ 
お母ちゃん魂消(たまげ)てお茶こぼした
お父ちゃん魂消て鎌投げた 

おらがお背戸の遠背戸の 
忠右衛門どののおかみさんが 
あんまり子供をほしがって 
流しの下を掘りかいて 
ねんねこねずみを掘りだして 
さかゆき剃って髪結うて 
赤いべこきせて てんてん車に乗せて 
飴かいにやったらば 
酒屋の猫にとられた 
茨城
ほらほら やいやいねんねしろ 
おらの隣のおばんさん 
あんまり子供がほしいので 
ながしの下に米まいて 
京都ねずみをつかまいて 
さかゆき剃(す)って髪結って 
あしたは御殿の御普請で 
お菓子を売りにやったれば 
とらぶち猫めに見つかって 
あたまからお菓子まで食っちゃれた 
そらねろそらねろ ごうとねろ 
埼玉
ねんねん猫の尻(けつ) 蟹が這い込んだ 
よいとこせと引っ張り出したら また這い込んだ 
千葉
ねんねこ猫の尻 蟹が這い込んだ 
お母さんとってくれまた這い込んだ 
お父さんたまげてお茶こぼした 
   
ねんねこねてくれ いいこだね     
かんかち山のとら猫が     
人さえ見れば 食いたがる     
二人を見れば呑みたがる     
いい子だね ねんねしな

ねんね猫の尻 蟹がはさんだ 
一つかと思うたら二つはさんだ 
二つかと思うたら三つはさんだ 
三つかと思うたら四つはさんだ 
四つかと思うたら五つはさんだ 
五つかと思うたら六つはさんだ 
六つかと思うたら七つはさんだ 
七つかと思うたら八つはさんだ 
八つかと思うたら九つはさんだ 
九つかと思うたら十はさんだ 
ねんねこ寝ないとはさまれる 

ねた子にゃ米の飯 とと汁だ 
猫にゃ冷飯 ぽろぽろ大根汁だ 
東京
おらがとなりの爺さまが 
あんまり子供をほしがって 
京都鼠をとらまえて 
月代そって髪ゆって 
あすはお城の御普請で 
牡丹餅売りに出したれば 
石垣なんどのあいだから 
隣の三毛猫お出やって 
牡丹餅ぐるみにしてやった 

ねんねん 猫の尻(けつ)に蟻が這いこんだよう 
やっとこすっとこほじくり出したら 
また這い込んだよ 

ねんねん猫のみんみへ かにがはいこんだ 
やっとでそばき出したら またはいこんだ 
寝ろってばよう寝ろってばよ 
山梨
ねんねん猫の尻(けつ)に蟹がはいこんだ 
そりょうを見てお婆さんが洟たらした 

ねんねん猫の尻(けつ)に蟹がはいこんだ 
うんとこしょと引じりだいだら  またはいこんだ 
あの猫(ねか)可哀そうだ 可哀そうだよ 

おらの親父は猫食って死んだ 
猫はこわいもんだ 命とる 
長野
ゆうべ 夢見た 
お寺の裏で 
猫が三味ひく 南瓜が踊る 
あかとうがらしがお手叩く 
新潟
ねんねん猫の尻 蟹がはさんだ 
婆さん取ってくりゃれ またはさんだ 
岐阜
ゆうべ夢見た お寺の裏で 
猫が三味ひく 
閻魔が踊る 
赤い唐辛手をたたく 
ゆうべ夢を見た 地獄の夢を 
鬼が餅つく 閻魔がちぎる 
やせた地蔵さん たべたがる たべたがる 
石川
天竺のおばさんが 
お子が無うてさびしかろ 
二十日鼠をつらまいて 
元服させて髪結うて 
上下着せて出いたらば 
隣の猫がちょかいかけて 
明日から内のお兄さま 

猫はだまとる 鼠がおどる 
噺せ噺せよ どんちゃんちゃん 
おどる だまとる おもしろい 

ねんねの母(じやま)どこへ行った 
向こうの山へ花切りに 
菊や牡丹の花切りに 
一本切っては腰にさし 
二本切っては振りかたね 
三本目には日が暮れて 
歩けど歩けど宿がない 
雀の小宿をちょっと借りて 
莚は短し夜は長し 
朝きり起きて空みたら 
雛(ひんな)のような女郎たちが 
参らんか参らんか坂三郎 
そこらの肴はなに肴 
塩瓜 唐瓜 南蛮(なんば)瓜 竹藪の筍 
石なの狭間のつくつんぼ 
それを切って煮てみたら  あんまり塩がしょむのうて 
醤油をちょっこり差いたれば 
あんまり塩が辛うて 
犬に食わしても食わず 
猫に食わしても食わず 
隣の嬶(はば)さが かがたを借りにちょいときて 
一杯食わんかと言うたらば 
お爺(とと)の椀に十三杯 
お母の椀に十三杯 
三重
守も小守も子のないうちは 
猫を子にして抱いて寝る 
和歌山
ねこねこねこねこ申そうなら 
おそろし猫は山猫じゃ 
楽しい猫は三毛猫じゃ 
きたない猫ははい猫じゃ 
滋賀
うちの姉さん子が無うて不自由な 
猫を子にしておとらとつけて 
おとらちょっと来い 乳のます 
京都
ちいんわん  猫にやんちゅう 
金魚に放し亀 
牛もうもう こま狗に鈴がなる 
蛙が三つで 三ひょこ 三ひょこ 

わしの小さい時 おとらというたが 
今は七倉の庄屋の嫁 
庄屋の嫁さん子が無(の)て不自由な 
猫を子にしておとらとつけて 
おとらちゃとこい 乳のまそ 
大阪
こうと光徳寺のお寺の縁で 
猫が衣きて鉦たたく 

うちのねえさん 子猫が好きで 
猫を子にしておたるとつけて 
おたるこいこい 乳のまそ 
兵庫
うちのねえさん二階から落ちて 
茶碗ぶちわり 猫ふみ殺す 

茶碗だんない猫こてまどて 
買うてまどいます 虎猫を 

うちのおとつぁん 鼠の羽織 
油断さすんな 猫が取る 

うちの猫の福一は 
女房がのうて  二十日鼠を子にもろうて 
きりぼし買いにやりよって  猫が見つけてひとかぶり 
岡山
おばさん死んだらどうするなあ 
お墓へ泣き泣き行て見たら 
松が三本 杉三本 
ちょうどあわせて十六本 
上には鳥が巣をかける 
下には猫めがねらようる 
やれやれけうとのおばさんよ  おばさんよ 
広島
ねんねん猫の尻に蟹がはいりこんで 
婆さんがひっぱりだしや  またはいりこんだ 

ねんねんねっころしに火が飛んで 
婆さん魂消(たまげ)てお茶かけた 
お茶より水の方がよごだんす 
山口
ねんねこ猫の尻に蟹がはいこんで 
ようようのけたらまたはいこんだ 
愛媛
ねんねんねんや 
ねんねこ太郎八 弥五兵衛殿 
なんどの神様は 
あんまり子供が好きじゃとて 
つかまえて 
月代(さかやき)そって髪結うて 
あんもち売りにゆかせたら 
となりの猫めが飛んで来て 
売り子と共に食てしもた 

ねんねこぼろろこ さいろこや 
酒屋のかみさん子がのうて 
二十日鼠を抱きしめて 
猫よ守せよ 機嫌とれ 
それがいやなら嫁入りしょ 
嫁入り道具はなになにぞ 
箪笥に長持 挾箱 
ねんねんねんねん ぼろろん 
香川
うちのねえさん子がのうてこまる 
猫を子にしておとらとつけて 
おとらこっちい来い 乳のます 
佐賀
ねんねんねんよ 
ねんねせにゃ 
猫(ちょうちょ)がうち食うよ 
酒屋がいやなら米屋ねこ 
ねんねんねんよ ねんねしな 
長崎
親の罰かい天罰かい 
木鉢の端(はな)から眺むれば 
猫がねらった鼠島  たった一噛み神の島   
歳時唄
山形
お正月どこまで  きりきり山のこっちまで 
おみやげなになに  鰊と昆布とからいお 
猫のまたの串柿  じょっこさかせるどて 
じょっこかんねどて つんだした 

正月 正月 どこまで来たば 
くるくる山のこっちまで 
みやげなあになあに 
鰊(にし)ど昆布とから魚(いお) 
猫の股の串柿 
じょっこ食(け)えどて 突出(つだ)したば 
じょっこ食(か)ねどて 誰が食(く)た 
隣の婆達 みな食いあがた 
茨城
お正月どこまで  ばんじょ山の陰まで 
なに土産持って来た 
小豆餅 切餅 笹葉にくるんで 
太郎めにひかせて次郎めに負わせて 
上の道通ったれば  犬めにわんと吠えられて 
下の道通ったれば  猫めににゃんと啼かれて 
中の道通ったれば  紅い巾着めっけで 
太郎めにやれば次郎めが欲しがる 
次郎めにやれば太郎めがほしがる 
太郎めと次郎めに半分こして  やっちゃった 
石川
正月さん どこまでいらした 
山のころころ橋の下までいらした 
お土産はなにやった 
榧や勝栗 密柑 柑子(こじ) 橘 犬のふんだ年餅 
猫のふんだ粥餅  あまの裏の串柿 

正月さん 正月さん  どこまでござった 
ごろごろ山の山までござった 
土産なんじゃ  密柑 柑子(こじ) 橘じゃ 
天(あま)から下りた串柿と 
猫のふんだ粥餅と 
座敷(でい)の隅の辛酒と 
勝手の隅の甘酒と 
枝やゆずり葉にのって 
へんこらへんこら ござった 
富山
正月さん 正月さん 
どこどこまでお出でた 
倶利加羅山までござった 
お土産はなんじゃ 
榧や勝栗 密柑 橘  あまに吊った串柿 
犬のふんだ橡餅  猫のふんだかい餅 

竹に短冊 七夕さまよ 
この手をあげてくだせんよ 
猫が米かつ 鼠がはかるよね 
うちのおやじが 見てはいかのやと考えた 
福井
猫が嫁入りすりゃ鼬がなあこぞ 
二十日鼠が二升樽さあげて 
おいと飛んだら鼻柱 ちょいちょい 
はやせはやせ 
早や夜が明けるぞ  ちょいちょい   
雑謡
青森
ちっぺ ちっぺ ちっぺ ちっぺ 
かながしら  猫に取らえで泣いでかがった 

泣げっつ めっつ 
お寺の前さ赤猫背負って 
白猫抱いて参れ参れ 

泣げっつ めっつ お寺の前さ 
赤猫背負って ぶっぶと跳ねろ 

泣げっつ ごんぼ 
赤猫背負(そつ)て黒猫抱いて 
お寺の前さ参れ参れ 

泣げっつ ごんぼ お山の宝 
猫しょってまいれ 

あねコねコねコ かながしら 
猫にとられて泣いでかかった 
岩手
泣き泣きべっちょ お山の竹(たあけ)の子 
猫背負っておっかえった 
泣いたり吠えたり糞ったれ 
掻(さ)あらえないでかんまけた 
やなぎの箸(はあし)でかっぽいた 

泣き泣きべっきょ お山の竹の子 
猫(ねご)しょっておけやいった 

泣き泣き別当 お山さ猫三匹 
背負って走せろ 

泣き面(づら)ごんぼ お山に行って 
猫三匹背負って来う 
宮城
かっちゃん鰹節 なまりぶし 
猫にとられ大騒ぎ 

ちんぷんかんぷん 
犬の糞 猫の糞 ぽう 
秋田
熊(ざま)見れ雑魚(ざっこ) 猫噛(かじ)だ 

あのもせや このもせや  がっつぁもせや 
隣の猫もせや  死んだとせや 

一筆啓上仕候 
猫にきんたま齧られ候 
軟膏つけても癒らず候 
群馬
人真似小真似 猫の真似ぁ出来ね 

かっちゃん かつぶし なまりぶし 
猫に追われてきゃっきゃっきゃ 
埼玉
勝ちゃん鰹節 鰊の子 
猫に食われて口惜しいか 
千葉
人真似小真似 酒屋の猫が 
粕食って逃げた 樽背負って逃げた 

おばさん この猫どうするの 
大きくなったら学校へ 
学校のやつら なまいきだ 
君だ 僕だ 白墨だ 

べたべた叩かれて 
矢口山猫しっぽを切られて  きゃんきゃん 
東京
そこを通るは何者じゃ 
人間だ なに持って通る 
その米寄こせ いやなことだ 
鼠の死んだの おつけるぞ 
怖くないよ  猫の死んだの おつけるぞ 
怖いよ 怖いよ 

猫じゃ猫じゃとおっしゃますが 
その猫が下駄はいて杖ついて 
絞りの浴衣で来るものか 
おっちょこちょいのちょい 

人真似小真似 酒屋の猫が 
田楽焼くとて 手を焼いた 

人真似小真似 猫の真似ぁ出来ね 

異人ぱくぱく 猫の糞 
長野
いたち見目よし 猫の面杓子 
愛知
今泣いただあれ  赤猫 白猫 穴掘ってくぐれ 
岐阜
あの子ぁどこの子 
山中の姥の子 
猫やいてこっきょ 

あの子どこの子 ざいごの猫の子 
魚(とと)食ってにゃあご 

泣く者蛙(かえろ) 怒るもの消炭(けしずみ) 
赤猫にゃぁご 
岡山
屋根の上を  猫がどんこつくわえて通る 
見るがどんこつ  岡山 お寺の坊さん猫ねらう  どうしてや 蛸じゃもの 

お寺のぼんさん 
猫きらう  そりゃまたどうして 蛸じゃもの 
山口
ねんねん猫の目に 
毛がまいこんだ 
痛かろ痒かろのけてやろ 
やっこらせとひっぱりのけたら 
またまいこんだ 
香川
うちの裏の三毛猫は 
おしろいつけて 紅つけて 
人に見られて ちょいとかくす 
佐賀
すちゃらがちんちん  子猫が手を振る首を振る 
おつむにかぶせた紙(かん)袋 
ごっそがさがさ ごっそがさがさ 
長崎
猫居れ 居れよ 
居んな 居んなよ 

姉ちゃんね 猫がね 
鼠を取ったんですものねえ  姉ちゃん   
わらべ唄
青森
鼠コ居だ 猫コねかってみつけられ 
逃げだも逃げだも どこまで逃げた 
炬燵の上コさ逃げだ 
猫コきた 炬燵の上で寝てしまた 

かささき看板 唐猫コ 
姉コそだでた ぶぢ猫 

百になる婆さま 猫の皮きせて 
鼠とれとれ 爪コ無ばとられねえ 
金の釘コ曲げて それでこそよかろ 

ぼう ぼう ぼっくり 山大根(だいご) 
赤猫そって ぶっころんだ 
岩手
猫コにゃんごといえば 
早く金持って逃げろやい 
ぎゃぐ ぼがぼが 

猫じゃ猫じゃと 
おしゃますな  猫は下駄はいて杖ついて 
絞のゆかたでくるものか 
おっきょこ きょいのきょい 
秋田
けなれ けなれ 
猫 猫 鯡呉(け)ら 尻尾振れ    
〈注〉猫が鼠を捕った時に褒めてうたう 

昨日の仇コなんとした 
猫がて食(くわ)いだ 
その猫連(つつ)でけ  にゃおにゃお 

こっちこよ こっちこよ 柳の下で 
大きくなあれ いまに猫(ちゃこ)来てくんて 
山形
雪こんこんこ  お寺の前にいっぱい降った 
お小僧 お小僧  早く起きて掃かしゃれ 
掃かぬと和尚さんに叱られる 
烏かんのと山からくちばしつん出して 
猫にちょっかいかけられて  痛いとてひんこんだ 
さあさ 居雪船(いそり)行くぞ行くぞ  足噛んだら 
一貫三百三十三文銭取るぞ 

猫鼠とり いたぢわらえ 
しゃんしゃん 

猫と鼠が 藁ぶって  ちょん ちょん 
福島
お月さまいくつ 十三七つ 
まだ年若いな 
おまんがどこへいった 油買い坂へ 
油屋の前で 油一升こぼった 
その油どうした 猫めがなめた 
その猫どうした 犬めがとった 
その犬どうした  次郎と太郎が太鼓に張って 
ぶつぶつぶって ぶっさいた 

山猫が 猿のけづ ぶっ裂いだ 

向こうの山さ雌鳥雄鳥飛んで来た 
雌鳥だらぶっつぶせ  雄鳥だら置き候 
名は何と附け候  八幡太郎と附け候 
八幡太郎のおん馬屋さ  馬なんぼたてこんだ 
四十六匹たてこんだ  草なんぼ刈りこんだ 
四十六把刈りこんだ  どっこどっこと乗ってって 
高山崩してどうついて  油の中さつっぱいた 
猫どんどんあしたの市に 
買って呉れべだら  いらない魚(とと)の骨だろよがんべ 

猫どん 猫どん 
あしたの市日に買ってくれべ 
だらいらない  魚(とと)の骨だら よかんべ 
群馬
猫 猫 じゃれろ 

うちの隣の三毛猫が 
白粉つけて紅つけて 
小さい橋を渡るとき 
人に見られてちょいとかくす 

猫さん 猫さん どこ行くの 
わたし足袋屋へ足袋買いに 
幾文履くの にゃにゃもん半 
山梨
風 風 吹いちょ 
猫のしっぽをくうれるで 
静岡
猫 猫 いまに暑さも寒さも来るに 
夜着や布団をたたんでおけよと 
にゃごにゃご 
長野
ようくかくねろ金鼠 
虎毛の猫に捕られるな 
新潟
提灯消したか大暗闇 
猫ふんだか にゃぐにゃぐ 
愛知
猫が嫁入りせる いたちが仲人 
二十日ねずみが三升樽下げて 
一本橋ちょいちょいと 
石川
ぼたぼた雪の降る時は 
猫の尻ゃ灰だらけ 
乞食(やつこ)の尻は寒晒し 

烏 烏 どこへ行く 
千石山へ胡麻まきに 
何石何石蒔いて来た 
三石三石蒔いて来た 
千石山のおばさまは 
子がおらいで淋しかろ 
二十日鼠をとらまえて 
元服さして髪結うて 
長右衛門と名をつけて 
おやき売りに出いたらば 
隣の猫がちょいと来て 
ひっくわえてしもうた 
福井
お月さんいくつ 十三七つ 
そりゃまだ若い 
おんばばどこへ 北ごの果てへ 
油屋の前に 氷が張ってあって 
滑って転んで 油一升こぼいた 
その油どうした 鼠がねぶった 
その鼠どうした 猫がとった 
その猫どうした 犬がとった 
その犬どうした 皮屋がついた 
その皮どうした 太鼓に張った 
その太鼓どうした お寺へあげた 
その寺どうした 燃えてしもた 
その灰どうした 灰屋へ売った 
その銭どうした こんの家(ち)の誰誰さんと 
隣の誰誰さんと  飴買うてべえろべろ 
砂糖買うてべえろべろ 
三重
鼬ごとごと 鼬耳よし猫耳わるし 
もういっぺんみせたら なおよかろ 
奈良
お月さんなんぼ 十三七つ 
まだ年ゃ若いな 
わかやのかどで銭十三文ひろた 
その銭で油買うて 
隣の猫来てぶっちゃけた 

とうととと 
にゃんにゃんに噛まれて鳴くなよ 

猫の足跡 梅の花 
鶏の足跡 もみじの葉 

ちゅうちゅう鼠 棚から落ちて 
猫に追われて 小便たごへどんぶりこ 
和歌山
やんま こっち来うの 
猫に怯えて来うかいの 
大阪
猫が鼠とる いたちがわらう 
ちょんちょん 
兵庫
猫が鼠とる いたちが追いかける 
よいよい 

猫が嫁入りすれゃ 
鼬鼠が仲人 
二十日鼠が五升樽さげて 
裏の細道こそこそ 
岡山
お月さまなんぼう 十三九つ 
そりゃまだ若いぞ  若い時に子を生んで 
おせんに抱かしょう  おまんにおわしょう 
油買いに酢買いに 油屋の門で 
すべってこけて 鼻血をだして 
その鼻血をどうしたら  猫がねぶってしもうた 
その猫はどうしたら  犬が食うてしもた 
その犬はどうしたら  牛が食うてしもうた 
その牛はどうしたら  太鼓に貼って どんどんどん 

いたち 顔見せ  猫の顔ときゃたいやろ 

鼬 いたち 顔みせいたら 
いたちの顔はきたないぞ 
猫の顔とかえてやろ 
広島
猫が鼠とりゃ鼬が笑う 
鼬笑うな われも取れ 
山口
ねずみ ねずみ ようかごめ 
後ろから猫がついていく 
そらそらそら 早よういこう 
そら来い はようこの内へ 
高知
からす からす どこへゆく 
裏の山へ穂ひろいに 
何升何合ひろてきた 
一升五合ひろてきた 
爺の皿に一杯と 婆の皿に一杯と 
嫁の皿に足らいで 
嫁がしくしく泣きだいて 
嫁嫁泣くな 甘酒作って飲ますぞ 
どう その甘酒は 
猫がねぶって候 
どう その猫は ぶち殺いて候 
どう その皮は 太鼓に張って候 
どう その太鼓は  昨日の踊りにうち破って候 
どう その破れは 風呂に焚いて候 
どう そのあくは 瓜にかけて候 
どう その瓜は 鳥が食て候 
どう その鳥は  あっちの山でばしゃばしゃ 
こっちの山でばしゃばしゃ 
ばしゃばしゃ山の真ん中で 
木綿一反ひろうて  わが子に着せれゃ人の子が着たし 
人の子に着るれゃわが子が着たし 
京のお従兄弟に裁って着しょう  たって着しょう 
福岡
雪やこんこん 霰やこんこん 
お寺の柿の木 みな降りつんだ 
なにかと思えば  猫の鼻から鼻血が出る出る 

猫に面(つら)ずっと見るばってん 
鼬の面ちいん見ん 

猫が鼠捕りゃ 鼬が笑う 
長崎
猫しっぼんとんぎった  腹かいてぶっとした 

へろろ へろろ ぬすと猫 
横丁のかんぼこ ぬすとして 
一丁 二丁 さいの さいの  
遊戯唄・・・手毬唄
青森
橋の下に六地蔵 
鼠に頭を噛じられて 
鼠こそ地蔵だ 
鼠地蔵だらなしに猫に捕られべな 
猫こそ地蔵よ 
猫は地蔵だらなしに犬に捕られべな 
犬こそ地蔵よ 
犬は地蔵だらなしに狼に捕られべな 
狼こそ地蔵よ 
狼地蔵だらなしに火にまかれべな 
火こそ地蔵よ 
火は地蔵だらなしに人に飲まれべな 
人こそ地蔵よ 
人は地蔵だらなしに地蔵拝むべな 
真の地蔵は六地蔵 
岩手
仙台の 仙台の  大橋普請のその時に 
煙草切り屋の姉さんは 
鼠を一匹飼って置いて 
赤い法被コちょっと着せて 
饅頭コ売りに出したれば 
隣の猫さんちょっと出はって 
猫さん 猫さん 許さんせ 
今度のお盆にかして上げる  一丁 一丁 

鼠子コ一匹そだてたば 
あたまコすてけ 髪コゆて 
饅頭コ売りにやったれば 
となりの猫さん ちょっといぎぁて 
猫さん猫さんゆるさんせ 
こんどの晩までゆるさんせ 

おらが弟千万さまは 
七つ八つから金掘りだして 
金をほるやら 掘らぬやら 
一年待ってもまだ来ない 
二年待ってもまだ来ない 
三年三月の夜の夜中に伏がきた 
誰に来いとて伏がきた 
おせんにこいとて伏がきた 
おせんがいないもの 死んだもの 
今日さ七日の墓参り 
墓のぐるりさ線香たてて 
線香のぐるりさ粉まいて 
粉を何石まいてきた 
さらり三石まいてきた 
三石やの女郎は 
馬に乗ってへんぞって 
赤いねんねこ汚して 
おとうさんに叱られべ 
おかあさんに叱られべ 
洗場で洗って ゆすぎ湯でゆすいで 
糊つけ場で糊つけて 
座敷を通る 雪がふる 
井戸を掘らせば雪が降る 
隣の婆さん猫かっさい 
猫がないもの 死んだもの 
屏風のかげでにゃごにゃご 一こついた 

おらが後ろの白ねずみ 
なかずりすって髪結って 
あん餅売りに行ったれば 
隣の三毛猫ちょっとではって 
あん餅がらみみな食(か)れた  みな食れた 

猫は絣のゆかたに高足駄 
からんころんぎゃぁ からんころんぎゃぁ 
まずまず一貫貸しました 

からすあっぱ どっちゃいった 
ばんじょ超えてしょ超えて 
麹買いにまがった 
なんぼ麹買ってきた 
一升五合買ってきた 
師匠どん女郎は神の前ではらんで 
仏の前でぶんだして 
そのおぼこの名はなんと申します 
つくつん太郎と申します 
つくつん太郎は馬屋になんぼ馬買いこんだ 
四十六匹買いこんだ 
どの馬の毛色はええ  中の馬の毛色はええ 
油めいてとろめって  貝ですった鞍おいで 
錦の手綱をゆらかけて  どこまで乗ってった 
鎌倉の鼠はあんまりわり鼠で 
仏の油ひてえこびき ひんのして 
今日の町に立つべいが  明日の町に立つべいが 
京は天竺八日町  八日町に立ったれば 
犬にわんと吠えられて  猫ににゃんとえがまれて 
犬どの犬どのゆるさんせ  猫どの猫どのゆるさんせ 
百に米は一石十文 酒は十ひさげ 

お城のさい子さんは  お猫コだまして 
お茶碗ぶっ欠いて 
継ぐにつがれず 買うに買われず 
一文めえられ 二文めえられ  三文めえられ 
四文めえら  五文めえられ 六文めえられ 
七文めえられ 八文めえられ  九文めえられ 十文めえられ 

うしろの才子さん  猫コだまして一匁 
られらあれ二匁  られらあれ三匁 られらあれ四匁  られらあれ五匁 
られらあれ六匁  られらあれ七匁 られらあれ八匁  られらあれ九匁 
られらあれ十匁  られらあれ とんとかやして 
うしろのおさむらい衆は  お駕籠でお急ぎ 
とちゃまどん  しなずきどん さいたかどん  どんどとせ 
一や二う 三いや四  五つ六 七八 九つ十 
十でお前さんにい一丁貸しました 

おかねこおはつこ  お猫コだまして 
お茶碗ぶかして  つぐもつがれぬ 
買うも買われぬ 
一文めえられ 二文めえられ  三本柳さ雀巣をくて 
落ちて鷹にさらわれた 
清助 清助 あんどだ  六角娘さ ほれなき人は 
猫か 鼠か 鶏か  となり屋敷の直治さん 

一う二う左まき お寺の小僧コ 
晩にござらば窓からござれ 
猫の真似してにゃおにゃおと 
にゃおにゃおと 

山寺の和尚さんは毬がつきたい  毬がない 
子猫小袋につめこんで 
ぽんと蹴りゃにゃんと鳴く 
おにゃんにゃのにゃん 

山寺の和尚さんが毬をつきたい  毬がない 
ちょいと小袋さ猫入れて 
ぽんとつけぁにゃお  ぽんとつけぁにゃお  おにゃにゃのにぁ 
宮城
俺らが後ろのおたえ子さまよ 
猫コだまして一文なり 二文なり  三文なり 四文なり 五文なり 
六文なり 七文なり 八文なり  九文なり 十文なり 

俺が後ろのおじさんが 
鼠コ一匹とって来て 
頭コ結ってくれて剃ってくれて 
餅売りにやったれば 
隣の猫コにみな食(か)れた  みな食れた 

俺ぁ寝所さ ぼろ穴あいた 
猫もくぐれば鼠もくぐる 
猫の真似してにゃおにゃおと 
よいとんついて一貫かした 

俺が伯母さん四十八島田 
嫁に行くときゃ孫女に笑(わ)られ 
孫女笑うなお里の国で 
猫が嫁とりゃ鼠が仲人 
蝶蝶とんぼが一升樽下げて 
猫の細道ちょろちょろと 一貫しょ 

仙台で 仙台で  大町ころの中頃で 
鼠一疋つかまえて 
月代剃って髪結うて 
牡丹餅売りに出したれば 
隣の唐猫ちょっと出来て 
牡丹餅がらみに占め込んだ  占め込んだ 
福島
おらのおかっさん猫真似上手 
棚にあがってにゃごにゃごと 
にゃごにゃごと 

おらがお瀬戸の早早坊さま 
池の中から鮒つり上げて 
焼いて焦がして戸棚に入れて 
猫にとられて南無三宝 

俺が後のおじさんが 
鼠コ一匹とってきて 
頭コ結って呉(け)て剃って呉て 
餅売りにやったれば 
隣の猫コにみな食(か)れた  みな食れた 

昨夜 貰った花嫁御 
大飯八杯 汁九杯  なます七皿 酒三升 
あいぎの座敷さ坐らせて 
べそりべそりと泣いている 
なにが辛くて泣いている 
金襴緞子の帯縫いない 
帯が縫いなきゃ出てゆけ 
下道通ればおっかないし 
上道通れば恥ずかしい 
向こうの細道通ったらば 
田辺の伯父さんに行き逢って 
お小袖三枚貰って 
したの小袖に血がついた 
血ではあるまい紅だわい 
一度洗ってもまだ落ちねえ 
二度洗ってもまだ落ちねえ 
三度洗ったらちゃんと落ちた 
二階さ乾せば猿舐める 
いろりさ乾せば猫舐める 
猫待ちや猿待ちや 
飲みかけお茶でも飲んでゆけ 
食いかけ餅でも食ってゆけ 
飲んで行け くって行け 

向かいの山から雌鳥雄鳥飛んで来た 
雌鳥奴のいうことにゃ  猫の腹に子がある 
男なら助ける 女子ならぶっつぶせ 
名は何と命(つ)け候 八幡太郎と附け候 
八幡太郎の御厩に馬何匹立て込んだ 
四十六匹たてこんだ 
仲の良い馬に油ひいて鞍置いて 
とっくとっくと騎(の)っていこう 
観音堂がせきなくば 
かたくずして堂築(つ)いて 
堂のあたりへ種蒔いて 
菊の花も十六 お姫も十六 
お姫が油買いに行くとって 
すめりて転んで あしてま噛られた 
猫どの猫どの ゆるして呉りゃれ 
明日の市に鰹節買うて 
御振舞いたしましょう 

向かいの山に雌鳥雄鳥飛んで来た 
雌鳥奴のいうことにゃ 
姉御の腹に子がいた 
子がいたはいいことよ 
女子ならぶっつぶせ 男だら助けろ 
名は何とつけろ  八幡太郎とつけろ 
八幡太郎の御厩に馬何匹立て込んだ 
四十六匹たてこんだ 
中の馬の毛いろは 
油引いて鞍置いて 
どっこどっこと乗っていこ 
観音堂まで乗って行く 
片山崩して堂築いて 
堂のあたりさ花蒔いて 
次郎どんの十袴 
太郎どんのたつ袴 
畳めばたのかみ 
伸ばしゃ菊の花よ 
菊の花も十四(よつ) の娘子が油屋さ突入(つっぱい)て 
猫に鼻かじらっちゃ 
猫どの猫どの 赦してくりゃれ 
今度の市見に鰹買っておんましょう 
鰹なっていらない  ねじりがちゃかりがち 
鼠こそいいことよ 

これのお庭に小池を掘って 
深い深いとみなさん仰言る 
深くないもの 浅いもの  こ
れのお庭に柴垣結って 
猫もくぐれば鼬もくぐる 
十七八ならみなくぐる 
栃木
家の婆さん  四十九で島田を結ったとさ 
嫁に行く時 馬子衆に笑われ 
馬子衆笑うなよ  薩摩の国ではね 
猫が嫁とる 鼠が仲人 
蚤と虱が鋏箱かついで 
嫁に行くとき笑われた 笑われた 

山寺の和尚さんが 
毬をつきたし毬はなし 
猫をかん袋に押込んで 
ぽんと突きゃにゃんと鳴く 
にゃんと鳴きゃぽんと突く 

おらが隣のちょこぼさま 
あんまり子供がないままに 
大たら鼠をおさまいて 
月代剃って髪結って 
うんどう巾着ぶらさげて 
ぼたもち売りにとやったらば 
寅毛の猫がちょいと出て 
ぼたもちぐるみにしいられた 

とんとん床屋の花子さん 
白い袋に猫入れて 
赤い袋に下駄入れて 
見えたか見えねか ちょいとかくそ 

日光の日光の観音様が 
俵てねずみを一匹とらまいて 
さかゆきすって髪結って 
ぼたもち買いにやったらば 
隣の猫にしめられた しめられた 
群馬
山寺の和尚さんが 
毬はつきたし毬はなし 
猫を紙袋へ押し込めて 
ぎゅっと押せばにゃんと鳴く 
おにゃにゃんのにゃん 

おいらが隣の三毛猫が 
足袋屋の縁台腰かけて 
足袋を一足売っとくれ 
お前の履く足袋どんな足袋 
今のはやりの鼠いろ 
にゃにゃもんはん にゃにゃもんはん 

家の隣の三毛猫は 
白粉つけて紅つけて 
小さい橋を渡る時 
人にみられてちょいとかくす 

おんどらどらどら どら猫さん ちり猫さん 
お前と私とかけくらべ 
吉原田圃のまんなかで 
小間物店でも開きましょう 
ひいでふう みいでよう いつでむう  ななでやあ ここのでとお 
唐から下ったお芋屋さん 
お芋は一升いくらです 
あなたの事なら一銭八厘に負けてやる 
お出し 枡お出し  包丁爼板出しかけて 
頭を切られるやつがしら 
尻尾を切られる唐の芋 
となりのお婆さん お茶のみお出て 
鬼がこわくて参れません 
それなら私が出迎えに 
さあお出て さあお出て  
それでまずまず一貫かしもうした 

おんどらどらどらどら猫が 
どこからどこまで逃げましょう 
吉原田圃が丸焼けで 
どうりでお臍がまっ黒だ 
だあだあだあ だるまやのだ 
ちいちいちい ちるめやのち 
おいらの後のおん坂坂坂赤坂どのよ 
四谷でどのよ 四谷赤坂麹町 
たらたら落ちるはお茶ノ水 
お茶の水の真ん中で 
十七八のねいさんが 
白い手袋 白い足袋 
ひいいあ ふう みいは よう いつ  むう なや この 十 
十よさがったお芋屋さん 
お芋は一升いくらです 
三十五文に負けましょう 
もうちとまからかちゃからかぽん 
お出し 枡お出し 
包丁爼板出しかけて 
頭の出るのは八つ頭 
しりっぽ切るのは唐の芋 
まずまず一貫かしました

おかよかよかよ勘平さん 
ひとり娘をやるからね 
家も畑もなくしもするが 
ゆうべ取った花嫁御 
今朝の座敷に出したらば 
めそりめそりとお泣きやる 
なにが不足でお泣きやる 
小袖の裾に血がついて 
それは血じゃない  ゆうべ化粧した紅じゃもの 
洗い川で洗って 濯ぎ川で濯いで 
しぼり川でしぼって  表へ干せば人が見る 
裏へ干せば犬が見る  二階に干せば猫が見る 
馬屋に干せば馬が見る  行燈のふすまに干したらば 
あれお母さん 歯かけ鼠がひいて行く 

猫や猫や 
お客が来たからお蒲団だしな 
にゃあごにゃあご  まずまず一貫かしました 
茨城
山寺の和尚さんは 
毬はつきたし毬はなし 
猫をかん袋に捻じ込んで 
ぽんと突きゃにゃんと鳴く 
にゃんと鳴きゃぽんと突く 
ぽぽんぽんと突きゃ 
にゃにゃんにゃんと泣く 
ぽんにゃんぽんにゃん 
つかんどりしょ わしゃんどりしょ 
なつどの和尚さま 石原で転んで 
石が腹立つ 和尚さま笑う笑う 

うしろのうしろのどら猫が 
白粉つけて紅つけて 
人にみられてちょいとかくし 
埼玉
おらがお婆さんは四十九で島田 
嫁にいぐときゃ孫衆が笑う 
孫衆笑うな 薩摩の国じゃ 
猫が嫁とって 鼠が媒妁 
蝶ちょ蜻蛉が一升樽さげて 
もこの細道 ちょろちょろ通る 

うちの隣の三毛猫が 
足袋屋の前で腰下ろし 
猫の履く足袋 幾文かにゃ 幾文かにゃ 
文半にゃ 文半にゃ 
文半猫の眼玉が見えるか見えないか 

高い山から谷底みれば 
猫が嫁とる いたちが仲人 
二十日鼠が貧乏樽さげて 
裏の細道ちょこちょこまいる 
まずまず一貫おん貸し申した 

おらがお背戸のおせさんなんぞは 
しもさあかもさあ かもさか前の 
源太郎様から手紙がまいった 
なんとてまいった 
今日の今晩 三日の朝に 
牡丹の花が咲いて落ちるか  ちぢんで落ちるか 
猫がじゃんじゃん手ばたきしょ 
千葉
ほうほけきょうや鶯や  たまたま今日へのぼるとて 
一夜の宿を借りかねて 
梅の小枝に昼寝して 
昼寝の夢に何を見た 
猫の嫁入り狐のなこうど 
二十日鼠が五斗樽さげて  裏の細道ちょこちょこ走り 
走っても走ってもこの山越せぬ  この山越せぬ 

おらが伯母さんさんは 
四十五で嫁に行ったとさ 
孫衆笑うな 薩摩の国では 
猫が嫁とる 鼠が仲人 
蚤と虱が鋏箱かついで 
嫁に行くとて笑われた 笑われた 
これで一貫つきました 

家の三毛猫が白粉つけて紅つけて 
紅がないから買いに行き 
ながなが橋を渡るとき 
人に見られてちょっとかくす 

うしろのうしろのどら猫が 
白粉つけて紅つけて 
人にみられてちょいとかくし 
東京
俺(うら)が向こうの山寺の 
ひとり坊さんさびしかろ 
毬をつくにも毬がない 
羽根をつくにも羽根がない 
猫を紙袋に押し込んで 
ぽんと突きゃにゃんと鳴く 
おぽぽんぽんと突きゃ 
おにゃにゃんにゃんと鳴く 

おんどらどらどら どら猫さん 
お前と私駈落ちしょ 
どこからどこまで駈落ちしょ 
吉原田圃のまんなかで 
小間物店でも出しかけよ 
ひい ふう みい よう いつ  むう なな やあ この とお 
唐から下ったお芋屋さん 
お芋は一升いくらだえ 
三十二文でござります 
もうちとまからかちゃからんぽん 
お前のことなら負けてやろ 
お出し 枡お出し 
包丁爼板出しかけて 
頭をきるのが唐の芋 
尻尾をきられる 八つ頭 
向こうのお婆さん ちょっとお出て 
お芋のにころばしお茶あがれ 
あとでおならは御免だよ 
神奈川
おらがお婆さん四十九で 
信濃に嫁にゆかしゃる  孫子が笑う 
孫子笑うな  薩摩の国でじゃ 
猫が嫁とる 鼠が仲人 
三十ねずみが三升樽さげて 
裏の細道しょぼしょぼ通る 
まずまず一貫貸しました 

猫を紙袋へ押し込めて 
ぽんと突きゃにゃんと鳴く 
おにゃにゃんにゃんよ 
まずまず一貫貸しました 

山寺の和尚さんは 
毬はつきたし毬はなし 
猫をかん袋に押込んで 
ぽんと蹴りゃにゃんと鳴く 
にゃんがにゃんと鳴く よいよい 

おんどらどらどら どら猫さん きじ猫さん 
お前と私と駈落ちしょ 
どこからどこまで駈落ちしょう 
吉原田圃のまんなかで 
ひい ふう みい よう いつ  むう なな やあ この とお 
天から落ちたお芋屋さん 
お芋は一升いくらする 
三十五文で負けて置く 
もうちとまからかすちゃらかぽん 
お前のことなら負けておく 
お出し 枡お出し  包丁爼板出しかけて 
頭をきるのは唐の芋  尻屋を切るのは 八つ頭 
向こうのおばさんちょっとおいで 
お芋のにっころがしお茶あがれ 
あとでおならは御免だよ ぷいぷい 
長野
山寺の和尚さんは 
毬はつきたし毬はなし 
猫を紙袋へ詰め込んで 
ぽんと蹴りゃにゃんと啼く 
ぽぽんぽんと蹴りゃ 
にゃにゃんにゃんと啼くよ 

山寺の和尚さんが 
毬を蹴りたくも毬がなく 
猫を三疋紙袋の中へ押込んで 
ぽんと蹴りゃにゃんと泣く 
ぽぽのぽんと蹴りゃ  にゃにゃのにゃんと泣く 
ぽんにゃんそこかい ほいここに 

ちゅうちゅう鼠の棚探し 
猫に追われて恥かいた 
つんとこ つんとこ 
つんねけそんまいた 

おんとらとらとら とら猫さん 
私とお前と逃げやんしょ 
どこからどこまで逃げやんしょ 
ひいや ふうや みいや 
よいよい吉原 江戸の吉原 
雀三羽とまった 止まった 
一羽の雀 嫁入りなさる 
二羽の雀 庭掃きなさる 
三羽の雀 酒買いいったら 
お鷹に追われて泣いて来た 泣いて来た 
じさ ばさ ちょっと見て ちょっと隠した 

おんとらとらとら とら猫さん 
わしとお前と逃げなんかいよ 
吉原田圃へ逃げなんかいよ 
吉原田圃は丸焼けで 
ひいや ふうや みいや よ  よんよん吉やぶに 
雀三匹とまった 止まった 
一羽の雀 嫁入りなさる 
二羽の雀 庭掃きなさる 
三羽の雀 酒買い行くと手て 
鷹に追われてあっちへ行ってちいちく 
こっちへ行ってちいちく 

おんとらとらとら とら猫しょ 
かつぶしくわえて逃げましょう 
どこからどこへ逃げましょう 
吉原田圃は丸焼けだ 
ひいふ みいよ よみよみ吉田の三ば柳に 
雀三匹とまった 
一羽の雀は嫁入りなさる 
二羽の雀は婿入りなさる 
三羽の雀は豆腐買いに行って 
鷹に追われて あれやちゃこや これやちゃこや 
隣の爺婆ちょときてかくした 
あとななや 九 十 

おん虎 虎 虎猫さん 
私とお前と逃げやんしょ 
どこからどこまで逃げやんしょ 
吉原田圃へ逃げやんしょ 
吉原田圃は丸焼けで 
ひいやふ みいやよ いいやむ なやや  このやとお 

おんとらとらとら 虎猫や 山猫さ 
どこからどこまで逃げやんしょ 
吉原田圃へ逃げやんしょ 
吉原田圃は丸焼けで 
一やふやみや四や……じじばば…… 
新潟
蝶蝶どこいく さっきの山へ 
猫が嫁とる イタチが仲人 
そこでむぐらもちが一斗樽かついで 
へんとこどっこいしょ 
酒の肴になにがいっちょよかろ 
ゆうべうまれた鼠がよかろ 
鼠かわいや血の涙 血の涙 
岐阜
げんごろ どこいきゃる 
このさぶごろに  さぶてもつろても 
いかねばならぬ 
今日はここのか たかどの嫁が 
猫を嫁にして いたちがはつく 
はつく鼠が三升樽さげて 
裏の細道つらつらとつらつらと 
ちょいとここらで一貫わたいだ 
石川
でんでらのお子だちは 
手毬つくとも銭がなし 
猫を袋に入れといて  ちょいと蹴ころがいて 
おにゃにゃく にゃくにゃく 

こんのあんにゃまは子がなくてならぬ 
猫を子にしておつるにつけて 
おつまちょっとこい 子にくれる 

どんどん叩くは誰さまや 
新町米屋のおあんさま 
今ごろなにしにおいだいた 
雪駄がかわってまいりました 
雪駄の緒はなに緒や 
そりそり緒のそり緒や 
ととはとっくり かかはかんなり 
うちの嫁さは魚焼くてて 
猫にとられて 
猫を追うとて石に蹴つまづいて すっとんとん 
も一つかやいて すっとんとん 

せんせん船頭の乙娘 
顔は白壁 目は水晶 
こんどお嫁に行く時は 
朝疾く起きて窓明けて 
窓の明かりに髪結うて 
爺さん婆さん おひんなり 
お茶もどんどん沸いとるし 
お風呂もどんどん沸いている 
どんどん叩くは誰さまや 
千松米屋のお爺さん 
今頃なんしに参りやした 
雪駄がかわりて参りやした 
雪駄の緒はなに緒や 
赤と白との交り緒や 
家の女中は肴焼くとて 猫にとられて
猫を追うとて敷居につまづいて 
涙ほろほろすりとんすりとん 

おゆきの父さんどこ行った 
金が湧くてて金山へ 
一年経ってもまだ来ん 
二年経ってもまだ来ん 
三年三月の朝の六つのお伏やいの 
誰に来いとのお伏やいの 
お雪に来いのお伏やいの 
今年は一年やられまい 
来年二十になったらば 
赤い小袖の一重ね 
箪笥 長持 鋏箱 
傘笠や十二蓋 足駄や木履十二足 
お歯黒壺や馬につけ 
これほど仕立ててやるときにゃ 
必ず出て来と思うまいが 
なんで出て来や 
窓の明かりで髪結うて 
白粉塗って紅さいて 
爺さん婆さん起きさんせ 
茶釜がどんどん湧くわいね 
茶釜の湧くとこどこやいね 
千日町のお米やいね 
早うから出て何じゃいね 
雪駄が替って参りみした 
雪駄の緒はなんじゃいね 
しょっしょり紐のしょり紐や 
あったら取って行くまっし 
無けねや買うて上げる 
こんのべいやは 雀焼くてて猫にとられて 
猫を追うとて敷居にけつまずいて 
涙ほろほろすっとんとん 

おじじさま  天竺のばあさまが子がおらえで淋しかろ 
隣から鼠を一匹借って来て 
横座(よこじや)にきっちり坐(ねま)らして 
けんぷくゆうて 髪ゆうて 
おやこはおへこへだいたれば 
となりのどす猫ぁすかためた  すかためた 

うちの裏の黒猫が 
散髪行って風呂行って 
紅がないので買いに行って 
人に見られてちょいとかくす 

裏の細道 飛んで出たら 
猫の嫁入り 鼬の仲人 
二十日鼠が出たり入ったり 
ちゅう ちゅう ちゅう 
富山
山寺の和尚さんが 
毬はつきたし 毬はなし 
猫をかん袋にねじ込んで 
ぽんと突きゃにゃんと鳴く 
にゃんと泣きゃぽんと突く 
にゃんぽん にゃんぽん 

山寺の和尚さんが 
毬はつきたし 毬はなし 
猫を紙袋につめ込んで 
ぽんと突きゃにゃんと鳴く 
にゃんと鳴きゃぽんと突く 
ぽんぽんぽんのぽんとつきゃ 
にゃんにゃんにゃんのにゃんと鳴く 

ちんわん猫 にゃごちゅう 
金魚 銀魚に 放し亀  牛がもうもうに 
駒狗 鈴がらりん 
蛙が三つで みひょこ みひょこ 
鳩ぽっぽ立石 石灯籠 
小僧ころんでこけている 
かいちくかいちく  ほてのどうじにつんぼえびす 
雁が三羽に とろいに おかめに 般若に  笛どんちゃん 
天神さんに小結  相撲取どっこい 
天狗ばいばい五重の塔 
お馬が三つでいひひのひいん  ひん ひん 

うちの裏の黒猫が 散髪へ行って 
風呂へ行って 白粉つけて紅つけて 
人に見られてちょっとかくす 

家のうらのでこちゃんが 
お白粉つけて紅つけて 
猫に紙袋をかぶせて 
ちょいとかくれた 

隣のおばさん子を持たず 
はしかい鼠を捕まえて 
床の間の上に坐らせて 
赤い頭巾かぶらせて 
白い頭巾かぶらせて 
猫にとられて ちゅう ちゅう 
福井
おん虎虎虎 虎猫さん ぶち猫さん 
お前と私と駈落ちしょ 
どこからどこまで駈落ちしょ 
吉原田圃のまんなかで 
ちょっと横丁のお稲荷さん 
ざっと拝んで一銭あげて 
茶屋で腰かけ 渋茶をあがれ 
渋茶よこよこ 横目で見たら 
月の団子か 花の団子か 
まずまず一貫お渡し申しました 

どらどらどらどら どら猫さん 狐こさん 
あなたとわたしと駆けごくしょう 
一原田圃のまんなかで 
菰(こも)でも一枚敷きましょうか 
ひい ふう みい よう いつ  むう なな やあ この とお 
とうどう生まれたお米屋さん 
お米は一升いくらです 
二文三文に負けてやろ 
もちっとまからんかちゃからんか 
隣のお婆さん 切れる包丁もってちょっとおいで 

せんせんせんどの乙娘 
顔は白壁 眼は水晶 
こんど嫁入りする時は 
朝早よ起きて窓開けて 
窓の明かりで髪結うて 
白粉塗って紅差いて 
爺さん婆さん おひんなれ 
お茶が沸いたあおひんなれ 
とんとん叩くは誰さまじゃ 
千松米屋のお爺さまじゃ 
朝からなんしにお出たぞ 
雪駄がかわってかえに来た 
お前の鼻緒はなに鼻緒 
そりそり鼻緒のそり鼻緒 
有ったら見出して返しましょ 
父親はとっくり 母親は燗鍋 
娘茶碗で引掛けた 
家の丁稚 雀焼くてて 
猫にとられて猫を追うとてて
敷居にけつまづいてすっとんと 
もひとつかやいてすっとんと 
奈良
とんは とっくり  かかは かんなべ 
うちの丁雅(ちつで)は酒のみ 
酒を飲もとてうるめ買てきて 
焼いてくすべて  棚へあげとて猫にとられて 
猫を追うとてほうけかたげて 
庭(かど)へとんで出て 
しまいに蹴躓いて すってんとん 
とんやの婆さん  茶漬けにこんこん[香の物] 
吸いつく吸いつく吸いつく 
兵庫
うちの裏の赤猫が 
じょいじょい剃って髪結うて 
そろばん橋を渡ろとて 
蟹に横腹はさまれて 
あいたたのこいたたの ごんべさん 
このみち助けておくれたら 
城山くずして松植えて 
松の小枝に鈴つけて 
鈴がじゃんじゃん鳴るときは 
いとさんぼんさん 起きなされ 
きょうのおかずはなんですか 
いしいし三つに 山椒味噌 
そりゃよかろ そりゃよかろ 
鳥取
うちの裏(うしろ)の赤猫が 
ぼたん絞りの着物着て 
足袋屋の縁に腰かけて 
「てっつぁん 足袋一足おくれんか」
「猫さんのはく足袋 どんな足袋」
お紺に紫 藍びろうど 藍びろうど 

村の細道でて見さえ 
猫の嫁とり 狐の仲人 
二十日鼠が五升樽かつぐ 
一のめのめ殿さと嫁御 
二杯のめのめ姑と小姑 
三杯のめのめ庄屋さんとあねさ 
庄屋あねさに手をかけられて 
一本巻いて へっこんだ 
二本巻いて へっこんだ 
ようよう一貫つきました 
島根
うちの裏の三毛猫が 
白粉つけて紅つけて 
紅がないので買いに行く 
かいかい橋をわたる時 
人にみられてちょいとかくす 

うちのうしろの赤猫が 
ぼたん絞りの着物着て 
足袋屋の縁へ腰かけて 
とっつぁん とっつぁん 
足袋一足くれんかい 
どんな足袋  猫さんが履くよな金の足袋 
あら一貫だ こりゃ一貫だ 
山口
鼠 鼠 ようかごめ 
あとから猫がついて行く 
そらそらそらそら早う行こう 
そら来い 早うこの内へ 
愛媛
てんてんてん 
手毬と手毬がいき逢うて 
一つの手毬の言うことにゃ 
ととさんかかさん起きしゃんせ 
起きて髪結うて傘さして 
てんてんお寺に詣らんか 
てんてんお寺のきじ猫が 
門より外でほろろろ 
ほろろろじゃあるまい 傘じゃろう 
傘はなに傘 日和傘 日和傘   
遊戯唄・・・手玉唄
岩手
一つひとびと船漕ぎだんより  だんよりだんよりだんよりで 
二つふみよさんのお顔が  だんよりだんよりだんよりで 
三つ味噌だま かぶれ味噌  だんよりだんよりだんよりで 
四つ吉原のお客が  だんよりだんよりだんよりで 
五つ医者どの 薬箱  だんよりだんよりだんよりで 
六つ麦飯とろろめし  だんよりだんよりだんよりで 
七つ納豆売り 糸きり  だんよりだんよりだんよりで 
八つ山猫ぎろりぎろり  だんよりだんよりだんよりで 
九つ子供らがこれすき  だんよりだんよりだんよりで 
十で殿さま 刀をぬいて 
すっぽんすっぽんすっぽんぽん 

一つ人びと お一人お顔たより  ありゃりゃん こりゃりゃん 
二つ船人 お舟をたより  ありゃりゃん こりゃりゃん 
三つ味噌さんが味噌すりたより  ありゃりゃん こりゃりゃん 
四つ吉原お客さまたより  ありゃりゃん こりゃりゃん 
五つ医者さま 薬箱たより  ありゃりゃん こりゃりゃん 
六つ麦飯とろろめしたより  ありゃりゃん こりゃりゃん 
七つ納豆屋さんが糸引きたより  ありゃりゃん こりゃりゃん 
八つ山猫 大きな目をたより ありゃりゃん こりゃりゃん 
九つ子供がこれしきたより  ありゃりゃん こりゃりゃん 
十で殿さまお馬がたより  ありゃりゃん こりゃりゃん 
宮城
一つ……(不明)
二つふくれんぼ  ふくれたところがだんよりだんより 
三つかんこ  すっぱいところが だんよりだんより 
四つようかんこ  甘いところがだんよりだんより 
五つ医者様お薬箱  だんよりだんより 
六つ娘さん白粉つけて  だんよりだんより 
七つ納豆箱  糸がたつのがだんよりだんより 
八つ山猫ごろにゃんごろにゃん  だんよりだんより 
九つこぞこ  味噌するのがだんよりだんより 
十で殿さまおえらいところが だんよりだんより 
兵庫
ひいふの姉さん 
お共がないとてあなずりなさる 
殿は丹波の助一さんの 
助の土産になになにもろた 
一に京箱 二に白粉箱 
三にお盆 四つめの枕 
あげていちばかたびら 
肩と裾とは梅の折枝 
そこは御殿の袖端し 
そではしとは どこで打たれた 
それはお茶屋の 娘に打たれた 
お茶屋の娘は器量がよいとて 
とんと豆腐屋に  豆腐が売れずに 
きらず(おから)ばっかり よう売れて 
きらず買(こ)てきて 棚に置いたら 
猫がちょいと来てひっかけた 
猫を追おとて石につまずいて すってんとん   
遊戯唄・・・雑謡  
長野
けぶ岳いけ  ちんと猫こっち来い 

ちゅうちゅう鼠の棚探し 
猫に追われて 恥かいた 
つんとこつんとこ つんぬけそんまいに 
石川
東京の坊ちゃん だら坊ちゃん 
屋根の上にねんねして 
鼠にお臍かじられた 
猫のおかげで助かった 
富山
人の真似こまね 猫の糞くさい 
福井
猫の子この子 名はおしず 
おしずやおしず 静かに行って鼠とれ   
遊戯唄・・・縄跳び唄
栃木
大波小波 
まわさないで まわさないで  猫の目 
群馬
大波小波 
ぐるりとまわして 猫の目 
埼玉
大波小波 
ぐるりとまわして 猫の目 

月火水木金土 げっくり かっくり 
水曜日  もっくり きんとき どっこいしょ 
日曜日 山の風そよ吹けば 桜の峰越えて 
ぴいひょろぴいひょろ さんだわす 
猫追われて 巻煙草 
そうら入れ そうら出ろ 
静岡
一羽のからすがかあかあ 
二羽のにわとり こけこっこう 
三匹のさかなが泳いでいる 
四匹の小猫がにゃあにゃあ 
それおまどりさん 
一月 二月 三月 四月 五月 六月 
七月 八月 九月 十月 十一月 十二月 
京都
大波小波 
ぐるっとまわって猫の目 
広島
大波小波 
ぐるっとまわって猫の目 
山口
大波小波 
くるっとまわって猫の目 

大波小波 
ぐるっとまわってにやぁこの目   
遊戯唄・・・雑謡 / 子取り
栃木
こんにちは 猫おくれ 
なんにする  大事に育てて嫁にする 
朝なにくれる  あんころ餅くれよ 
虫気の毒だ  ご飯進じょ  なにそえてくれる 
鰹節くれよ  なに入れてくれる 
土鍋でくれよ  土気がたかる 
釜の飯(まま)くれよ  金気がたかる 
どうしてくれる  やしなって進じょ 
どんな箸でやしなう  お米のご飯を茶碗に入れて 
鰹節そろえて南天箸でさくさく 
茨城
猫買い仔買い 
仔買ってなんする 
お砂糖に饅頭 
それも良かろが銭なんぼ持って来た 
一銭五厘  それでは足りない 
家へ行って持って来る 
叔母さん 叔母さん 負けてやる 
にゃあお にゃあ にゃあお にゃあお 

猫ちょうだい 
売られません  さようなら 
ちょいと姐さん忘れ物 
何を  猫を 
どの仔がよかろ この仔がよかろ 
私叩いてなきません 
にゃあおう  この仔を頂戴  猫頂戴 
売られません 
じょうやん じょうやん 
学校へ行んべ 
もうとっくに学校に行きましたよ 

猫頂戴 猫頂戴  いくらかな 
三升かな  売れません 
ちょっと姐さん忘れ物  なあに 
猫鳴きません 跳びません 
どの猫買いますか   
遊戯唄・・・尻取り唄
兵庫
ちんわん ねこにゃん ちゅう 
金魚にはなし紙  牛もうもう  狛狗に鈴が鳴る 
金魚が三つで みひょこひょこ 
はと くうくう   
遊戯唄・・・雑謡 / 早口唄
埼玉
道は六百八十里 長門の浦を船出して 
鼠にちんぽをかじられて 
猫のおかげで助かった 
小母さんその子をどうするの 
大きくなったら学校へ 
学校の子供は生意気だ 
君だ僕だ白墨だ  白墨粉にして粉薬 
馬(うんま)の小便水薬 
鼻糞丸めてせいしん丹 
それを呑む奴ぁあんぽん丹   
遊戯唄・・・羽子つき唄
茨城
ねこやねこや 
やがてやがて寒さが来るぞ 
夜着に布団 夜着に布団かさねて 
一貫しょ 

ねえねや猫や 寒さが来るぞ 
夜着や布団かさねて一丁な 

ねこじゃねこじゃ 
やがてやがて寒さが来ると 
夜着や布団でくるくる巻いては一貫ね 

お正月どこまで 向こうの山の影まで 
なあにお土産持ってきた 
木片のような餅持って 
笹のような魚(とと)持って 
上の道通ったら 猫ににゃんと泣かれて 
下の道通ったらば 犬にわんと吠えられて 
真ん中の道通ったらば小刀一挺見つけた 
小刀の鞘の名 桜のもとに 
お嬢さんと小譲さんなにごとなさる 
羽根つきなさる 
くるっとまわっては一丁の上がり 
千葉
猫や猫や 寒さが来るぞ 
夜着や布団と重ねて一ちょうよ   
遊戯唄・・・お手遊び唄 / 握りつつき
茨城
いっちくだっちく だるまさま 
乙姫さまらは猫に追われて 鳴く声聞けば 
じゃんがもんがもんが 
おひゃらっか 
ぜんべえさま 豆腐一丁食えば 
ぼたんぼっり おん抜けられました   
遊戯唄・・・お手遊び唄 / 顔遊び
関東地方
あんがり目 さんがり目  ぐるっとまあって 猫の目 
新潟・福井
あがり目 さがり目  くりくりまあって 猫の目   
早物語
早物語とは、昔琵琶法師の語りの合間に、その弟子などが早口に語ったものです。暗記と口まめとを争うもので、「物語」「テンポ物語」「テンポウ物語」「チョブキリ」などとも呼ばれています 。その後、酒盛りや目出たいお祝いの座敷などで語られてつつ、今に伝わったそうです。
猫と鼠の大戦争  山梨県南巨摩郡硯島村
鼠の住み家はどことどこ ケタンダル木に竹ダルコ 
あまりことの淋しさに 今日鎌倉へカントウさげて出でられる 
さるとこに御堂あり 立ち寄ってみたら トーガイに油あれあれ 
一すやすやばやと あたりをはってみておれば 
大きなる灰毛なる猫殿が 居眠りかいて参られる 
親重代のカナクマ一丁もち 爪はりはりとぶっ貫き 
ああ痛いなあ のう猫殿 明日のうちには鰹がくる 
なんの鰹だらに ウヌの頭に鰹はある 
鼠の頭のギリギリ骨から 尻尾のギリギリ骨まで 
ムンリ ガンリとひっ噛まれ 猫と鼠の大戦争でした   
 

 

 
 
 
 
 
 

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