お雇い(御雇)外国人

お雇い(御雇)外国人 / お雇い外国人江戸から東京へ日本を絶賛した外国人
お雇い一覧
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雑学の世界・補考

お雇い(御雇)外国人

お雇い外国人
幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い。江戸幕府や諸藩、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘された。お抱え外国人とも呼ばれることもある。
「お雇い外国人」と呼ばれる人々は、日本の近代化の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産・官・学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。江戸時代初期にはヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、幕府の外交顧問や技術顧問を務め徳川家康の評価を得て厚遇された。幕末になり鎖国が解かれると、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが一時期幕府顧問を努め、レオンス・ヴェルニーが横須賀造兵廠の建設責任者として幕府に雇用された例などがある。
しかし、外国人の雇用が本格化するのは、明治維新以降である。例えば、法令全書の文部省医学教則をみれば、外国人教師による高度な内容の医学教育がすでに1872年の時点でなされており、このような教育を通じて西洋の最先端の知識や技術が急速に日本に流入したことをうかがわせる。
お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことが知られる。1871年(明治3〜4年)の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。その他グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円で雇用されており、1890年(明治23年)までの平均では、月俸180円とされている。身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であった。国際的に極度の円安状況だったこともあるが、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによる。お雇い外国人には後発国である日本を蔑む者も少なくなく、雇い入れ条件は次第に詳細になっていった。
多くは任期を終えるとともに帰国したが、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯あるいは生涯を終えた人物もいた。
出身国
ひと口に「お雇い外国人」とはいうものの、その国籍や技能は多岐に亘り、1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、『資料 御雇外国人』、『近代日本産業技術の西欧化』があるが、これらの資料から2,690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。また期間を1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている。
1890年(明治23年)までの雇用先を見ると、最多数のイギリス人の場合は、政府雇用が54.8%で、特に43.4%が工部省に雇用されていた。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5%がイギリス人であった。鉄道建設に功績のあったエドモンド・モレルや建築家ジョサイア・コンドルが代表である。
アメリカ人の場合は54.6%が民間で、教師が多かった。政府雇用は39.0%で文部省が15.5%、開拓使が11.4%であるが、開拓使の外国人の61.6%がアメリカ人であった(ホーレス・ケプロンやウィリアム・スミス・クラークなど)。
フランス人の場合は48.8%が軍の雇用で、特に陸軍雇用の87.2%はフランス人であった。幕府はフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化を図ったが、明治政府もフランス式の軍制を引き継ぎ、2回の軍事顧問団を招聘している。のちに軍制をドイツ式に転換したのは1885年(明治18年)にクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐を陸軍大学校教官に任じてからである。また、数は少ないが司法省に雇用され、不平等条約撤廃に功績のあったギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいる。
ドイツ人の場合は政府雇用が62.0%であり、特に文部省 (31.0%)、工部省 (9.5%)、内務省 (9.2%) が目立つ。エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍した。
オランダ人の場合、民間での雇用が48.5%であるが、海運が盛んな国であったことから船員として働くものが多かった。幕府は1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所を開設し、オランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらを招いたため海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となったが、幕末にイギリスからトレーシー顧問団が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは1873年(明治6年)にダグラス顧問団による教育が実施され、帝国海軍はイギリス式に変わっている。他に土木の河川技術方面でヨハニス・デ・レーケら多くの人材が雇用された(オランダの治水技術が関係者に高く評価された背景があるとされているが、ボードウィン博士兄弟との縁故による斡旋という説もある)。
イタリア人はその人数こそ多くなかったものの、工部美術学校にアントニオ・フォンタネージらが雇用された。またエドアルド・キヨッソーネが様々な分野で貢献した。
御雇の意味
「御雇」と御の字が付いたのは、御上(おかみ)すなわち政府が雇ったという意味である。明治政府が雇用した官雇外国人にならって、民間でも学校や会社に私雇外国人を多く採用した。在外公館で雇用されていた者や外国人居留地の警備に当たった者なども含まれるが、一般的には、欧米から技術や知識を学ぶために招いた人物を指す。本項では、便宜的に、私雇外国人を含めて記述する。
なお「御雇」の原義は、(特に外国人に限らず)武家でない身分の者をその専門技芸において幕府の「御用」に徴用することを指した。江戸期後半になって諸外国の動向が伝わってくるにつけ、武士である幕臣だけでは様々な専門分野に対応できず、一般民の中から専門に秀でた特に優れた人材を募り、この需要に充てたものである。しかし幕府の側からすると身分としてはあくまでも「御雇い」であり、臨時雇用の色合いの濃い立場の低い扱いではあったが、それなりの処遇(給与・住居など)は与えられて、なかには能力と功績が認められると正規の幕臣として取り立てられ、武家として称氏(氏姓、苗字を名乗ること)・帯刀・世襲が許される場合もあった。
墓所
お雇い外国人の中には日本に墓所が残されている者もいる。ハーンの墓所は島根県松江市の重要な観光資源にも位置付けられている。アーネスト・フェノロサはロンドン滞在中に亡くなったが、園城寺(三井寺)に埋葬された。
東京都にある青山霊園の青山外国人墓地では、関係者の所在が不明となり、管理料(2005年現在、年590円)が長年にわたって未納のままのものがある。通例であれば無縁仏として集合墳墓に改葬されるところだが、青山霊園の場合、2006(平成18)年度に東京都側が78基にのぼる管理費滞納お雇い外国人墓所を文化史的に再評価し史跡として保護する方針であることが2005年(平成17年)2月18日の読売新聞で報じられた。  
 
外国人の視点での、江戸から東京へ [日本の国際化]

 

1 はじめに
江戸が東京と名を改める19 世紀は、日本が西洋文化と本格的な接触を始めた時代であった。16 世紀に初めて西洋文化に触れた時と異なり、今回は社会全般にわたる変革を引き起こす衝撃的な出会いであった。アメリカのペリー提督が4 隻の艦隊を引き連れて浦賀に現れたのが1853(嘉永6)年、徳川幕府が崩壊し、明治政府が誕生するや日本は、近代国家を目指して遮二無二に走りはじめる。この時の日本人は、中国文化の衣から、いち早く西洋文化の服に着替えようとするかのように、近代化の御旗のもと西洋の文物、制度を採り入れ続けた。これほどの短期間での日本社会の変貌ぶりは、外国人からみると驚きの一言に尽きた。それと同時に、日本社会の行く末に危惧の念を抱く人々がいたのも事実であった。
76(明治9)年に東京医学校(翌年、東京大学医学部と改称)に着任したドイツ人ベルツは、彼の日記に次のように綴っている。
「 現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのまま!〕」とわたしに言明したものがあるかと思うと、……「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。……これら新日本の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです。 」(『ベルツの日記』)
このように性急な変革に邁進する日本人の姿が、彼の日記のそこここにとらえられているが、急ぐあまりに、安易に西洋文明の果実のみを取り込もうとする日本を危ぶむ思いも彼は表明している。日本在留25 周年を記念した祝賀の席での演説で、
「 西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われるのであります。人々はこの科学を、年にこれこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさすことのできる機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体でありまして…… 」(『同』)
と話している。
同様な心配をするのはベルツだけではない。70(明治4)年末に来日、福井藩校の明新館で理化学を教えた米人のウイリアム・グリフィスは、『明治日本体験記』に以下のように記している。
「 今、試みられている力強い改革が完成し、永遠なものになるだろうか。一国が根がなくてキリスト教文明の果実のみを占有できるだろうか。できないと信じる。 」
日本のような、キリスト教国でない野蛮な国が近代文明国になれるのだろうか、というのが当時、日本を訪れた多くの外国人が持った疑問と言える。駐日英国公使であったラザフォード・オールコックは『大君の都』に書いている。
「 実際ヨーロッパに存在するすべての文明は、キリスト教によって形成され、その最善の型の発達のすべてはキリスト教からきている。であるから、近代文明の成長をキリスト教の影響と切りはなして跡づけることが不可能だということはもちろんである。 」
日本が近代国家に向けてまっしぐらに駆けている姿を目の当たりにして次のような感慨を抱いた人もいた。駐日米国総領事であったタウンゼント・ハリスは、57(安政4)年、長い交渉の末にようやく実現した将軍に信任状を直接、奉呈するために江戸に行く途中、神奈川から川崎に向かう東海道で見物人の幸福そうな姿を見て、彼の日記の『日本滞在記』でこう述べている。
「 これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。 」
しかし現実は日本の近代化の勢いは止まらない。その結果がどうであったか。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、『神国日本』で次のような恐ろしい悪夢をみている。
「 この国のあの賞賛すべき陸軍も勇武すぐれた海軍も、政府の力でもとても抑制のきかないような事情に激発され、あるいは勇気付けられて、貪婪諸国の侵略的連合軍を相手に無謀絶望の戦争をはじめ、自らを最後の犠牲にしてしまう悲運を見るのではなかろうか、などと、悪夢はつづくのである。 」
幕末から明治にかけて来日した西洋人は、日本の社会についてどのような思いを抱いたのか、何に関心を持ったのか、彼らの日記、旅行記などを通して日本の国際化についてみていくことにしたい。  
2 オランダとの交流
日本が開国をする以前は、長崎の出島が西洋に通じる細いパイプであった。そこを通してオランダとの交流がなされ、西洋の文化が流入し、日本の文化が西洋に紹介されていた。出島にはオランダ東インド会社の商館が置かれ、そこに10 名ほどの社員が駐在していた。彼らの主な業務は貿易と江戸参府であった。江戸参府は、社員のうちの3 名、商館長(カピタン)と医師、書記が「貿易継続への感謝のため将軍に拝謁し献上品を贈る儀式として定例化した」(松井洋子『ケンペルとシーボルト』)ものである。
商館の医師として勤務するフィリップ・フリッツ・フォン・シーボルトが江戸参府に参加するのは、1826(文政9)年。この時の様子を彼は『江戸参府紀行』として書き残している。以下、それによって交流の実際を見ていこう。
彼は2 月15 日、出島を出発して陸路小倉に、そこから下関へ船で渡り、船を乗り換えて瀬戸内海を進み室に上陸、再び陸路で大阪に向かい京を経て、4 月10 日に江戸に到着している。下関に滞在中の2 月28 日の記事に、「晩に使節とわれわれは府中候の医官の訪問をうけた。22(文政5)年コック・ブロムホフ氏を訪ねてきたのと同じ人であった」とある。「17 世紀の段階では、オランダ人が参府の道中で日本人と接触することは禁じられ、厳しく監視されていた」(『ケンペルとシーボルト』)のが、地方の大名の医官が比較的自由に交流できたのは、「八代将軍吉宗は、実用的科学・技術の導入への関心から……幕府の医師たちや、実学の担い手として抜擢した青木昆陽・野呂元丈などを参府中のオランダ人のもとに派遣し対談させ、オランダの学術を学ばせようとした」(『同』)からである。いわゆる蘭学の誕生である。こうした訪問が度重なり習慣化するにつれ、禁じられていたことが空洞化していき、「キリスト教徒であるオランダ人への治安上の警戒も、当初の危機感が薄れ、形骸化していった。」(『同』)。
この日、シーボルトは医官に新しい薬品と本を贈った。この本は薬草とその代用品や新治療薬に関する簡明な薬品目録であって、フォン・シーボルトの弟子の高良斎が翻訳し、大阪で出版された。下関滞在中には、「もう一人の市長が使節のもとに来て挨拶したが、この人はオランダ人の熱烈な愛好者であって、彼はこういうものだとすぐに名刺を通じて名乗りでた。愛好者というのは、名刺にファン・デン・ベルフと書いてあったからである。」(『江戸参府紀行』)。この名は前の使節ゾーフが付けたそうで、「全くヨーロッパ風の家具を置いた部屋でわれわれを出迎えもてなしたのであるが、……オランダの衣装を着て出て来た」(『同』)。この衣装はゾーフの贈物で彼が将軍に謁見した時に着ていたものという。これほどにオランダ趣味の高じた人もいた(注によればこの人物は伊藤杢之允)。オランダ好きな人は大名にもいた。ファン・デン・ベルフは、前商館長のコック・ブロムホフが中津候に対して書いた詩を所蔵していた。そこには、「中津の殿、フレデリック・ヘンドリック候に捧ぐ」(『同』)、とあって、中津の殿とは奥平正高のことで、彼もこのようなオランダ風の名を持っていた。彼は薩摩藩主島津重豪の次男で奥平家の養嗣子となり、豊前中津藩を継いだ。父と子の二人とも「オランダ趣味を愛好する……収集家であるとともに……蘭学をめざす人びとのパトロンともなった」(『ケンペルとシーボルト』)』)大名であった。
使節一行は六郷川を渡って江戸の近づいたところで薩摩候と中津候の出迎えを受ける。薩摩候は若君(斉彬)を同伴していて、対談中にはオランダ語をはさみながらいろいろと質問が出た。中津候もフォン・シーボルトに対し、「ドクトル・シーボルト、私の方へ来たまえ。手紙と贈物を有難う」、とオランダ語で語ったそうだ(『江戸参府紀行』)。一行はこの日(4月10 日)、江戸の宿舎長崎屋に着いた。
蘭学を許された青木昆陽が「オランダのカピタンを宿屋に訪うては、横文字の読み方、書き方などを教わりました。」(『おらんだ正月』)とあるように、この長崎屋には使節の滞在中、蘭学者、医師だけでなく様々な人が訪問してきた。到着の翌11 日に訪ねてきた人々は、桂川甫賢(オランダ名、ウィルヘルムス・ボタニクス)、中津候の家臣の神谷源内(同名、ピーテル・ファン・デル・ストルプ)、医師大槻玄沢などで、大部分の人はオランダ名を持ち、オランダ語を話し、聞き分けることができたという。その夜は中津候も参加してヨーロッパ風にもてなし、「非常に楽しく、全くくつろいだ態度でこのオランダ人の愛好者と過ごした。……各人は非常にうまくめいめいの役を演じたので私はこらえていることができず、フランス語で、これは私が今まで見たことのない独創的な喜劇だと使節に耳うちした」(『江戸参府紀行』)。楽しいひと時は夜更けまで続いて、中津候は引き上げたという。翌12 日、使節たちが渡す贈物の整理に追われていたときには、島津候から贈物が届き、「夜には中津候がお忍びでみえ、夜更けまでおられた」(『同』)。13 日の記事には「日本の友人、医師多数来訪」とある。15 日の記事によると、晩に中津候および薩摩侯の正式の訪問をうけ、立派な贈り物があった。このときの話題は音楽、詩歌、書籍、機械類におよび、話は夜半まで続き、薩摩候は一羽の鳥を持参していて、彼の望みにこたえて、剝製にして見せた、とある。16 日には、最上徳内が訪れ蝦夷、樺太の地図を貸してくれたことを、ラテン語で記している。18 日、天文方高橋作左衛門が来訪、いわゆるシーボルト事件の当事者が登場する。
将軍家斉に拝謁する儀式は、名前を呼ばれ恭しく敬意を表して、何も言わずに引き下がってあっさり終わる。フォン・シーボルトは、ケンペルのときのような将軍の前で踊ったり歌ったりせずに済んだことに幸福だというべきだった、と感想を述べている。
医師ケンペルが踊ったり歌ったりしたのは、将軍綱吉に拝謁した1691(元禄4)年3 月のことで、彼の『江戸参府旅行日記』によってその時の様子を知ることができる。拝謁の儀式のあと一行は御殿の奥の部屋に案内された。御簾の後ろには将軍と夫人をはじめ将軍一族の姫たちや大奥の女性たちが集まり、老中や若年寄、その他高官、大名の子供たちなどが周りを囲んでじっとみつめているなかで、「バタビア総督とオランダの王とはいずれが権力を持っているのか」「癌とか体内の潰瘍に其方はいかに対処しているか」など、いろいろと将軍から尋ねられた。そしてこれだけで終わらずに、ケンペルのいう猿芝居がはじまった。立ち上がって歩かされたり、互に挨拶し、踊ったり、跳ねたり、酔払いの真似をさせられたりした。彼はドイツの恋の歌をうたいもした。結局2 時間にわたって見物された、と書き残している。
商館長らの江戸参府にあたっては、西洋の品々が献上品として将軍に送られ、お返しの贈物は、告別の拝謁の時に時服が渡された。時服は天子や将軍が臣下に賜る衣服のことで高級品である。これをオランダ人は次のように処分していたという。「この高価な絹製の衣装は、オランダ人の手によって海外に転売され、ヨーロッパの裕福な人々の間で、エキゾチックな遠い異国から来た衣服として、非常に珍重された。モーツァルトの歌劇『魔笛』……の台本には、第一幕で王子タミーノが『日本の服』を着て登場するよう記されている」(B.M・ボダルト=ベイリー『ケンペル』)。
フォン・シーボルトの『江戸参府紀行』に戻ると、4 日に将軍と世子に別れの拝謁があり、そのときに贈物の時服を拝領している。5 日に薩摩候が、7 日に中津候が来訪、その後、友人、知人多数の訪問を受け、18 日に江戸を発った。品川で82 歳になった薩摩候のもてなしを受ける。「老侯は少しばかりオランダ語を話し、かなり前に来日した商館長ティチングをよく知っていたという話をされた」と書いている。ティチングは1779(安永8)年、初めて来日し、80 年までと、81(天明元)年から83 年までの2 期、商館長を務めている。(『ケンペルとシーボルト』)
フォン・シーボルトの下関、江戸滞在は、大名をはじめ医師、学者、商人ら大勢のオランダ愛好者たちとの交流で彩られ、人々が外国語であるオランダ語を操り、交際を繰り広げるさまは、限られた場とはいえ、国際化が華やかに展開したひと時であった。
またフォン・シーボルトは、長崎奉行らの好意的な計らいにより、出島の外部である長崎郊外の鳴滝に塾を構えることができた。そこで、高野長英や岡研介ら各地から集まった日本人に医学や博物学、オランダ語を教えるかたわら、病人の診療も行った。
3 ペリーの日本遠征
フォン・シーボルトが日本地図などの禁制品を国外へ持ち出そうとしたことが発覚し、国外退去、再渡航禁止の処分を受けて(28 年シーボルト事件)、日本を去ってから24 年が経過した1853(嘉永6)年7 月、アメリカのマシュー・ペリー東インド艦隊司令長官兼特命全権大使が日本にあらわれた。『ペリー艦隊日本遠征記』によると、ペリー提督の日本遠征を聞いたフォン・シーボルトは、遠征隊に加わりたい希望を提督に伝えたが断られている。提督はシーボルト事件のことを知っていた。日本から追放された人物を同行することで生じる悪影響を避けようと、有力者の圧力を退けて彼の同行を拒否し続けた、という。日米和親条約の締結後のことであるが、「シーボルトはボンで『世界各国との航海と通商のために日本を開国させるにあたり、オランダとロシアが成し遂げた努力についての真実の記録』と題する小冊子を出版した」とあって、「明らかにこの冊子は、抑えつけられた、鬱積した虚栄心の産物であり、二つのあからさまな目的がはっきりと見てとれる。ひとつは著者自身に栄誉を与えること、そしてもうひとつは、合衆国とその日本遠征を非難することである」、と『同遠征記』に記されている。さらに、フォン・シーボルトのロシアとの親密な関係から、日本人が彼をロシアのスパイと疑ったこともまんざら間違いとは思えないといい、彼が遠征隊に同行しようとしたのはこの企てを失敗させようとしたからではないか、とまで指摘している。提督が彼の忠告に従ったことで条約締結に成功した、と平然と主張するような途方もない自負心の持ち主である、とフォン・シーボルトを非難し、彼の冊子に徹底的に反論している。『同遠征記』は、ペリーのフォン・シーボルトに対する不快感をはっきりと示している。
ペリー提督の率いる4 隻の艦隊(旗艦サスケハナ号)が、浦賀沖に現れたとき、艦隊は日本の番船に取り囲まれた。そのうちの1 隻が舷側で読めるように高く掲げた文書には、フランス語で、「艦隊は撤退すべし。危険を冒してここに停泊すべきではない」という趣旨の命令が書かれていた(『同遠征記』)。そして「横づけにした番船上の一人がまことにみごとな英語で『私はオランダ語を話すことができる』と言った」(『同』)。これが記録に残る、初めて日本人がアメリカ人に話した英語といえる。こうして米国側の英語・オランダ語の通訳と日本側の日本語・オランダ語の通訳を介して日米間の意思疎通が始まった。
幕府との交渉にあたって、提督のとった方針は「断固たる態度」をとることだった。これは、後に続く米英の外交官、タウンゼント・ハリスやラザフォード・オールコック、ハリー・パークスらがとった態度に通じるものがあり、ペリーは、来日前にすでにこうした方針を、「厳格に実行する決意をかためていた」(『同』)。そうすることの理由は、先例に反し、「文明国に対し当然とるべき礼儀にかなった行動を、権利として要求し、好意に訴えない、……狭量で不快な対応をいっさい許さない」ことが、提督に「課せられた使命を確実に成功させる最善の方策と信じていたからである」(『同』)。ただ断固たる態度には、最悪の場合、武力の行使までを含めていたことは留意していてよいだろう。日本研究家のバジル・チェンバレンは、日本を開国に導いた日米和親条約の締結(54 年3 月)にいたるぺリー提督の交渉について、「ペリーが勝利を収めたのは、弱くて無智で、全く不用意で、武備も不充分な日本人を脅かし、彼らの肝をつぶしたからである」、と『日本事物誌』に記している。
日本人の「知識や一般的な情報も、……優れていた」と『同遠征記』に記されているが、以下にそうした個所を拾い上げてみる。「オランダ語、中国語、日本語に堪能で、科学の一般原理や世界地理の諸事実にも無知ではなかった。地球儀を前において、合衆国の地図に注意を促すと、すぐさまワシントンとニューヨークに指をおいた。……イギリス、フランス、デンマークその他のヨーロッパの諸王国を指さした」「また、地峡を横断する運河はもう完成したのかともたずねたが、これはおそらく建設中のパナマ鉄道を示唆していたのであろう」「長崎のオランダ人を通じてヨーロッパから文学、科学、芸術、政治についての定期刊行物を毎年受け取っており、その一部は翻訳されて刊行され、帝国中に頒布されるのだという」。この定期刊行物はオランダ風説書のこととおもわれる。「ヨーロッパの戦争、アメリカの革命、ワシントン、ボナパルトについても彼らは明晰な会話ができた」「露土〔ロシア・トルコ〕戦争についてのわれわれの見解をたずねたりした」。露土戦争の開戦は53 年であるので、この質問が発せられたのは開戦直後のことになる。
日本人の科学の知識、技術力については、「日本人は土木工学の知識をある程度そなえ、数学、機械工学および三角法についてもいくらか知っている。そのため非常にみごとな日本地図も作成されている。彼らは高度計でいくつか山の高さを測り、立派な運河も建設し、水車や水力旋盤も作っている。また日本製の時計を見ると、彼らがいかに器用で巧みであるかが分かる」。医学については、「オランダ商館長が江戸へ行くと、同伴したヨーロッパ人の医師が必ず日本人医師の訪問を受け、専門的な事柄について質問されたということである」「彼らの最もよく理解しているオランダ語によって得られる知識は、すべて翻訳されている」。ただ、死体解剖がほとんど行われないため、「解剖研究が行われなければ、内科医や外科医の知識が不十分なのは明らかである」、と指摘している。天文学については、かなり進歩しているとして、「ヨーロッパ製の器具の扱い方を心得、その多くを日本の職人は非常にみごとに模造している。……日本人は月蝕を正確に算出し、年ごとの暦は江戸と内裏の大学で作成される」。日本製の器具は望遠鏡、クロノメーター、寒暖計、晴雨計などである。
日本人が示す好奇心についても書き留めている。ペリーの再訪時、アメリカ側から電信装置が贈られた。それを使って1 マイルほど離れた2 つの建物の間で通信の実験が始まると、「日本人は強烈な好奇心をもって操作法に注目し、一瞬のうちに伝言が英語、オランダ語、日本語で建物から建物へ伝わるのを見て、びっくり仰天した。毎日毎日、役人や大勢の人々が集まってきて、技手に電信機を動かしてくれるよう熱心に頼み、伝言の発信と受信を飽くことなく注視していた」「日本人はいつでも異常な好奇心を示し、それを満足させるのに、合衆国からもたらされた珍しい織物、機械装置、精巧かつ新奇な発明品の数々は恰好の機会を与えた。」
ペリー提督遠征隊が報告している日本の工業化の見通しは。100 年以上の時間を必要としたが、その通りとなった。
「 日本の職人の熟達の技は世界のどこの職人にも劣らず、人々の発明能力をもっと自由にのばせば、最も成功している工業国民にもいつまでも後れをとることはないだろう。人々を他国民との交流から孤立させている政府の排外政策が緩和すれば、他の国民の物質的進歩の成果を学ぼうとする好奇心、それを自らの用途に適用する心構えによって、日本人は間もなく最も恵まれた国々の水準に達するだろう。ひとたび文明世界の過去および現代の知識を習得したならば、日本人は将来の機械技術上の成功をめざす競争において、強力な相手となるだろう。 」
この遠征隊の中に一人の日本人がいた。遠征隊の仲間からはサム・パッチと呼ばれていたが、日本名は仙太郎、栄力丸に乗り組み紀州沖で遭難した漂流民である。サム・パッチは日本の役人に会い帰国するよう説得されたが、結局、日本に帰ることを希望せず、信仰の厚いゴーブルという海兵隊員と一緒にアメリカへ戻った(『同遠征記』)。その後のサム・パッチは、グリフィスの日記の72(明治5)年1 月31 日の記事中に登場する。「カステラ、菓子、鶏、卵などはたくさんあって持って行けないので、サム・パッチに残して行く。ペリー提督が1853 年、日本へ浮浪児として連れて帰ったあの正真正銘のサム。彼は今、クラーク氏の料理人を勤めている」。サム・パッチについて、その日の原注には、「本名はセンタロー。伊予の生まれ。……サミーの遺体は東京に近い王子の寺の墓地にいま眠っている。……」(『明治日本体験記』)とある。クラークはグリフィスの級友で当時、静岡で教師をしていた。 仙太郎の仲間の、他の船員には、ジョセフ彦、岩吉らがいた。後に岩吉は伝吉という名で英国駐広東領事のオールコックに雇われて、59(安政6)年、通訳として日本に戻ってくるが、翌年1 月、外国人殺傷事件が相次ぐなか、公使館の門前で刺殺されてしまう。彼は麻布光林寺に葬られた。  
4 外国人の観察
(1)コミュニケーション
日欧間の通信事情はどうであったのか。1866(慶応2)年に来日したフランス海軍の一士官であるエドゥアルド・スエンソンは次のように記している。「セイロンの小港プワント・ド・ガル(Pointe de Galle)は電信でヨーロッパと結ばれていた。……郵便船が、電報を受け取ってシンガポールへ。電報はそこで『海峡タイムズ』という名のもとに印刷されて、その形で……日本沿岸の港へも届けられる。このようにして汽船航路の終点である横浜で受け取られる最新情報は、いつも30 日程度遅れていた。それでも、手紙や新聞によって得るニュースよりも、14 日早いことになる」(『江戸幕末滞在記』)。より速い情報入手法が、聖ペテルブルグとキャフタ間の回線利用だと紹介するが、一般の通信用でなく高価であまり利用されていない、として、第三の道についてのべている。「1867 年1 月1 日より、……北米汽船会社がサンフランシスコ―横浜間に航路を開いたのである。第一船は航程を20 日でこなし、20 日しか経っていない英国からの情報を届けてきた」。
欧米各国の人々と話をするときに共通の言葉はオランダ語だったので、通訳は二人が必要になる。日本語・オランダ語の通訳とオランダ語・英語の通訳である。英語だけの場合に比べ時間はほぼ倍かかることになる。英国公使のオールコックは、これについて『大君の都』で、次のように述べている。「決断を要する重要な取引のために数時間にわたってこのような公式会見を行うときの退屈さと徒労とは、筆舌につくしがたいものがある。というわけは、なにからなにまで二重に翻訳する必要があるからだ。まずオランダ語に訳し、それを日本語に訳しなおし、それをもういちど逆もどりさせる」(彼は59 年11 月、初代駐日公使となる)。また彼は、「最初の言葉の真意なり精神なりがはたして日本人につうじたか、それとも語られざる誤差が残っているかどうかということが、全然わからない」、と不安も述べて、「これを改善する唯一の良薬は、時間だけである。有能な外国人がみずから通訳となって日本語を話すようになるまではだめだ」という。時間が解決するのは確かであるし、彼の不安については、常に通訳、翻訳には付きまとう不安であるが、少なくとも、通訳が一回分減れば、それだけ間違いも減るとはいえるだろう。彼は、「数年もすれば、オランダ語はまったく廃止されて、英語にとって代わられるであろう」と書いている。
実際、オランダ語の通訳を巡っては、様々な問題があったようである。何度かそうした記述が彼らの日記に現れる。まず日本人通訳の話すオランダ語が古いという指摘。米国駐日総領事として56(安政3)年9 月、下田に領事館を開いたハリスは、「日本人のオランダ語の知識は不正確である。彼らの知っているオランダ語は貿易業者や水夫の話すような言葉であり、そのオランダ語は250 年前のものであるばかりでなく、主題も上記の範囲に限られている。それであるから、抽象的な観念を彼らに理解させることは甚だ困難である。まして形容的に彼らに話すことは、ほとんど不可能だ」(『日本滞在記』)と、57 年4 月29 日の記事に書いている。6 月17 日には同趣旨のことを述べた後、「当座の役に立つような新語を少しも教えられていないので、条約や協約などに用いられるあらゆる言葉を全く知らない。……その上に彼らは、オランダ語の訳文の言葉を日本語そのままの順序でならべることを欲するのだ! ! 」と記している。この日、下田協約が結ばれていて、この協約に使用する用語の翻訳をめぐって、かなり苦労したことが想像される。
また、ハリスは日本人に経済学の初歩を教えるにあたっての苦労を話している。「未だ新しくて、適当な言葉すらないような事柄について彼らに概念をあたえるだけでなく、それを聞いた通訳がそのオランダ語を知っていない始末なのだから。これがため、極めて簡単な概念を知らせるだけでも、往々にして数時間を要することがある」(57 年12 月27 日)。このころ、ハリスが日本側に手渡した通商条約の草案について、彼は、その訳文が正確か否かをたしかめるため、次のような面倒な手順を踏んでいる。「日本の翻訳者をして日本語の訳文をよませ、且つオランダ語に口約させてヒュースケン君にきかせ、ヒュースケン君が(英文から)オランダ語に訳したものを持ちながら、それと対照した。それは莫大な骨折りであった」(58 年1 月23 日)。
オールコックも日本の通訳の話すオランダ語の古さにふれている。彼が赴任したころ、「それまでの江戸の通訳は、オランダ語しか話さなかった─しかも、そのオランダ語は2 世紀前のものであったから、ヨーロッパからやってきたばかりの人びとは、古くさい旧式の表現がつかわれるので、ひどく閉口させられたものである」(『大君の都』)と、嘆いている。さらに彼は、日本人は記憶力をたよりにして純粋のオランダ語を維持しているだけで、言語の進歩を無視し近代的な語法をにせもの扱いしている、と批判したうえで、外国「使節側の通訳であるオランダで育った一紳士〔ヒュースケンか〕と日本側の通訳たちとが、この問題にかんして論争するとは、驚きである。しかも、日本側の通訳が使節側の通訳のオランダ語は文法的にでたらめだと非難しているとは、おそれいる」(『同』)と、あきれる始末である。
英米との接触が増え、横浜などに居留する英米人が増えていくと、オランダ語を介しての意思疎通は、次第に英語によるものにとって代わられていくのは自然の流れだ。福沢諭吉が江戸に出た翌年の59(安政6)年に経験したことが、それをよく物語っている。ある日、彼は横浜を訪ねるが、オランダ語が通じないことを知る。そこで、「これからは一切万事英語と覚悟を極めて」、江戸で英語を知っているという噂の森山多吉郎を訪ね、英語を習うことにする。ところが、彼が忙しすぎて教える時間が取れないうえに、「森山という先生も、何も英語を大層知っている人ではない。ようやく少し発音を心得ているというくらい」と見切りをつけて、何も習わないまま彼を訪ねることを止めて、藩所調所に入門することになる(『福翁自伝』)。
日本人通訳である森山多吉郎について、オールコックは来日した当時(59 年)、「かれは、特筆するにあたいする。彼は通訳の主任であるが、その官職名が示しているよりもはるかに重要な人物だ」(『大君の都』)、と高く評価する。54 年にペリー提督と結んだ条約から60 年にプロシアと結んだ条約まで、「すべての条約の日本語の訳文作成という仕事を担当したのが」森山だからだ、という。森山がそもそも英語を習ったのが、米船の遭難者で日本に拘留されていた船員だったという話がペリーの遠征記に紹介されている。彼の英語の実力は、「その当時の森山は、英語はすこししか話さなかったが、その後に使節団〔2 都2 港延期のための遣欧使節〕とともにイギリスへも行き……ひじょうに語学が進歩していた」。この遣欧使節が出かけるのが61(文久元)年、森山も英語の通訳ができるようになる。次第に世の中は英語に切り替わっていく。
それからの英語の浸透ぶりは、少し時代が下がるが、大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースの見聞に現れる。最初に来日した77(明治10)年7 月、彼の部屋の近くの部屋で学生4 人が語学の勉強をしていて、「彼らの部屋からは、日本語、独逸語、英語がこんがらがって聞こえ、時々仏蘭西語で何かいい、間違えるといい気持ちそうな笑い声を立てる。彼等の英語は実にしっかりしていて、私には全部判る」(『日本その日その日』)。その年の10 月28 日、モースの送別の宴が開かれたときの様子を次のようにいっている。「彼等は大学の、若い、聡明な先生達で、みな自由に英語を話し、米国及び英国の大学の卒業生も何人かいる。彼等の間に唯一の外国人としていることは、誠に気持ちがよかった」(『同』)。この時代、日本人は英語が上手であった。
オールコックの期待したように、英国人にもアーネスト・サトウのような日本語を上手に話す外交官が現れる。サトウは43 年6 月にロンドンで生まれた。62(文久2)年9 月に通訳生として横浜に到着、68(明治2)年、日本語書記官に昇進、82(明治15)年、三度目の賜暇で帰国するまで20年間にわたって日本に滞在した。そして95(明治28)年に今度は公使として日本に戻り、以後5 年半、滞在した。幕末から明治初めにかけて外交官として存分に活躍しただけでなく、外交官の枠を超えて明治維新の動きをリードした人ともいえる。また、同じ外交官であり、サトウの後任の日本語書記官になるウィリアム・アストンや日本研究家のバジル・チェンバレンらとならぶ英国を代表する日本研究家でもあった。
サトウは日本語を話し、読み書きができた。彼は日本語の勉強法を回想録『一外交官の見た明治維新』に書いている。オールコックは日本語の習得には、はじめに漢字を覚えることが必要だとして、日本で働こうとする外交官は、まず北京に駐在して漢文の勉強をしてから江戸に来るのが、日本語習得の早道だという考えであった。実際サトウも北京で中国語の研修をしてから日本駐在となったが、サトウ自身は中国語の勉強が早道になるとは思わなかった。サトウは、彼の方法は「ラテン語の知識がイタリア語やスペイン語を学ぼうとする者にとって不可欠のものではないのと同様だ」、といっている。日本に来ると彼は、アメリカの宣教師S・R・ブラウン師に日本語入門の授業を受ける。教科書は同氏の著『会話体日本語』で、その中の文章を彼らが復唱するのを聞いて、文法の説明をするというものであった。「また『鳩翁道話』という訓話集の初めの部分を一緒に読んでくれたので、私にもいくらか文語の構成が分かりかけてきた」。日本人の教師高岡要(紀州和歌山出身の医師)には、サトウの同僚が病気で帰国したので、一対一で教えを受けることができた。「高岡は、書簡文を教え出した。かれは、草書で短い手紙を書き、これを楷書に書き直して、その意味を私に説明した」。サトウはその英訳文を作ると、数日間そのままにして、その間日本文のあちこちを読む練習をした。それから、自分の英訳文を取り出して日本語に訳し戻す。こうした翻訳作業を続けることによって、彼は覚えた成句をつなぎ合わせて、書簡文を作れるようになった、というのが彼の日本語勉強法であった。
さらに彼は書道の教授も受ける。やはり同書によれば、「当時は御家流が流行していた。運悪く、私はこの商人用式の書体を始めてしまった」と言うほど日本語に通じていたが、次の御家流の先生を経て、維新後に3 人目の唐様の高斎単山の教えを受けた。このひとは、「東京の能書家六人のうちの一人に数えられていた」。サトウはのちに彼から静山の号を与えられる。サトウ静山を日本風に書くと薩道静山となる(萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウの日記抄』)。97(明治30)年のことになるが、サトウがヴィクトリア女王即位60 周年式典でロンドンに戻ったときの晩餐会で、彼が日本語を話せることを知って驚いた女王が、日本語は非常に難しい言葉ではないのかという質問をすると、「ヨーロッパではその国の家庭に入って言葉を学ぶのが普通ですが日本では外国人が日本の家庭で生活しながら日本語を覚えることができないからです」(『アーネスト・サトウ公使日記』)、と彼は答えている。日本語が特別難しいわけではない、と言っているのは彼の語学の才ゆえなのだろうか。
当時の日常会話を紹介しよう。品物を並べた店先で店主は「みなたいへん安い all vely cheap」「たいへん上等 vely good」(なぜなら日本人の口からはr がほとんど聞こえない)というぐらいの英語は知っている(『大君の都』)。LとRの区別については、ベルツも同じことを言っている。「Lの音が日本語にないことは不思議に思われる。……何年間も英語を書いていた人でさえRのかわりにLを使い、またはその逆をする」(『日本その日その日』)と。買うときに外国人が覚えておかなければならない日本語は、「イコラ ナン モン(いくら、何文)」「タカイ、メッポウタカイ(高すぎる、あんまり高すぎる)」である(『同』)。スエンソンは次のようなやり取りを記録している。買い物のとき、最初のあいさつが「オヘイオー」(お早う)、店主は、だんだんに珍しいものを出してきて「イチバン! イチバン!」と叫ぶ。客の「クラ?」(いくら)の質問で取引が始まる。帰ってくる答えは実際の価格の3 倍である。そこで「アナタ! マコト、マコト?」(本当の値段は?)、これを繰り返して歩み寄って、最初の値段の半分で手を打つ。店主は「ヨロシイ! ヨロシイ!」と叫ぶ。スエンソンは、日本人は中国人にひけを取らないほど取り引きの才能を備えているという(『江戸幕末滞在記』)。商用のために作り出された言葉が、マレー語の駄目(ペケpeggi)と破毀(サランバン)に「アナタ」と「アリマス」を付け加えて、自分は複雑な取引をやる資格を持っていると、めいめいが思い込んでいた(『一外交官の明治維新』)。グリフィスは、来日早々、「少し待って」「いくら」「どこ」「よろしゅう」「早く」の五つの言葉を覚え、地図を持って東京の街に繰り出した(『明治日本体験記』)。
(2)消えた日本の美─ 天女のような女性
ラフカディオ・ハーンは1890(明治23)年4 月に来日、『知られぬ日本の面影』をはじめとする数多くの作品を通して美しい日本を紹介してきた。彼の『神国日本』は、彼が東大を解雇された後、米国コーネル大学での講義用に準備した原稿をもとにして、1904 年に出版された。そのなかで、日本女性について次のように述べている。「日本の作り出した最も不思議な審美的制作物は、……実はその女性だとよく言われるからである。……日本の婦人は倫理的には日本の男子とはちがった存在なのである。……この種の型の婦人は、今後十万年間はこの世に二度と再び出現しないだろう……この種の型は、近代風に作られた社会では作り出せるはずもない。……祖先崇拝の上に建てられている社会だけが、これを作り得たのである。」「日本婦人は……その細かな感受性、その無上な素直さ、その小児のように信心深くて信頼性をもち、その周囲を楽しくするためにはいろいろと実に見事に、こと細かに手段方法鑑別の才をもっている」と。このようにも言っている。「日本の婦人は少なくとも仏教での天女の理想を実現している。他人のためにのみ働き、他人のためにのみ考え、他人を喜ばせることにのみ幸福感を覚えるような人間……こうしたのが日本女性の特質なのであった」。
はじめ日本の女性を「美しいと思わな」かったベルツは、ある日、宴席で有名な洗い女の踊りを演じる少女をみると、「優しくて美しく、上品な面立ちで、特にその中の一人は断然あでやかだった。……ただもううっとりするばかりだった。自分はこの小娘に、ほとんど首ったけにならんばかりだった。どうしても女の名前を聞きださねばならん」(『ベルツの日記』1880 年3 月19 日)、というまでに惚れてしまう。同じ日の記事の後半部では、「これらの娘たちが若い頃から、日本式よりむしろ今少しわれわれの、いわゆるよい音楽と美しい動作を学んだとしたら、ほとんど無比の存在となることだろう」、とべたほめしている。
日本女性の美しさを見いだした二人は、当然のことのように日本女性と結婚する。ハーンは、90(明治23)年末、小泉セツ(節子)と結婚、95年に日本に帰化して小泉八雲を名乗る。1904 年、54 歳で亡くなる。三男一女を儲けた。ベルツはいつハナと結婚したのかはっきりしないが、彼の日記の1889 年5 月23 日の記事に「父になった!……妻(ハナ)は男の子を授けてくれた。今のところ、父という感じが全然しない!」とあるので、この1,2 年前のことと思われる。その後、長女が誕生するが3 歳で病死するという悲しい出来事に見舞われる。1900 年、長男はドイツに渡り、教育を受け始める。05 年にベルツはハナとともにドイツに帰国した。
日本女性と結婚したもう一人の外国人、英国人フランシス・ブリンクリーにふれておきたい。以下、昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書第13 巻』から摘記する。彼は1867 年、日本公使館武官補及び守備隊長として日本に赴任した。日本に愛着を感じたブリンクリーは、日本語の研究を始めた。彼の進歩は著しく、在留外国人中その比をみぬほどに正確流暢に常用日本語を話し得るようになった。日本語を習うのに「寄席」に行って落語家や講談師の話を聞いたりしたそうである。さらに漢字の読み書きもできるほどに上達した。71 年、海軍砲術学校の主任教師に招聘され海軍省御雇となった。78 年には帝国工部大学校の数学科教員に任命された。この年、水戸藩士の娘田中安子と結婚する。当時イギリス本国の法律ではイギリス人と日本人との婚姻は認められていなかったので、彼は英国法院に訴え、ついにこの訴訟に勝って日本人とイギリス人との正式の結婚に新例を作った。81 年、ブリンクリーは、ジャパン・メイル紙を譲り受けて、経営者兼主筆として健筆をふるった。彼の記者生活は亡くなるまでのほぼ30 年間続いた。また二人の日本人と共編で出版した『和英大辞典』は名著の評判をとる。家庭は2 男2 女が生まれ、1912(大正元)年10 月、71 歳で永眠した。
ブリンクリーにはまだ紹介したいところが多くあるが、ひとつだけ付け加えておく。グリフィスの日記によれば、福井に来るはずだった「第十イギリス連隊のブリンクリー中尉は帝国政府によって東京に引き留められた」(1871 年9 月30 日、『明治日本体験記』)。上述の海軍省御雇になったときである。その日の続きに、「福井にとって損失であったことが互いに相手の国の言葉を学びたい日本人と英語を話す人びとにとって大きな利益となった」といって、ブリンクリーの書いた『語学独案内』を、「1875 年に印書局で印刷された語学の自習書で、外国人により日本語で書かれた最初の独創的な仕事であると私は信じる。それは学問の生んだ傑作である」、と絶賛している。
ブリンクリーの赴任当時は、まさにサトウの活躍していた時期と重なるわけであるが、なぜかサトウの日記や回想録にブリンクリーの名はほとんど出てこない。しかし『遠い崖』によれば、サトウが出した『英和口語辞典』の序文の謝辞であげている個人名は、アストンとブリンクリーだけだそうである。付き合いがなかったわけではないだろう。『ベルギー公使夫人の明治日記』には、「サー・アーネスト・サトウ、ブリンクリー大尉が夕食に来た。……大変楽しかった」(1896 年4 月1 日)とある。
サトウは武田兼という女性と71 年頃に家庭を構え、二人の男子に恵まれたが、なぜか正式な結婚はしなかった。外交官だから赴任先の女性との結婚は、何か法的な問題があったからなのか、ブリンクリーの勝訴の後であれば問題もなかったと思われるが、よくわからない。サトウの同僚、医官のウィリアム・ウィルスが長兄の夫人ファニーに宛てた手紙には、「当地で結婚するのは、公務についている者にとって、賢明でないように思います。すくなくとも、まだ下級の身分の者にとっては、そうです」(64 年3 月1 日付)、と書き送っている(『遠い崖』)。1900(明治33)年、サトウは北京公使に転出する。家族と別れるにあたって、彼の日記(『アーネスト・サトウ公使日記』)には「源兵衛村で親子三人と最後の夕食をした。私が戻れない可能性については何も言わなかった」(4 月21 日)、「富士見町に別れを告げにいく」(5 月3 日)と書き、翌4 日に出帆した。源兵衛村とは大久保にあるサトウの別墅、富士見町とは家族のために残した住まいのことである。北京での勤めを終え帰国する途中の06 年5 月、東京に立ち寄り、22 日に家族と再会する。そして別れのとき、「富士見町へ行って、来年の9 月までの分として小切手数枚を渡す」(5 月26 日)、「富士見町へ朝早く別れを告げにいく」(5 月28 日)、と立て続けに記され、今度こそ最後と思ったのだろうか、別れがたく思う彼の気持ちが察せられる。サトウは家族に生活費として小切手を終生、送り続けたそうである(『遠い崖』)。
ウィリアム・ウィリスも日本女性の江夏八重と結婚し一男を儲けているが、兄嫁のファニー宛ての手紙には日本の女性のことは一切登場しない(『同』)。1895(明治28)年、サトウが公使として日本に戻ってきたとき、前年に亡くなったウィリスに、渡すように頼まれた正確な遺産の金額を八重に伝えている(96 年1 月15 日、『同公使日記』)。ウィリスにはもう一人遺産を渡す女性がいた。「吉田千野の消息を訪ねることにする」(同年6月29 日、『同』)とある、千野がそうである。また、サトウの同僚の外交官アルジャーノン・ミットフォードには、トミという女性との間に於密(おみつ)と名付けられた娘がいたとみられ、73 年彼がアメリカ旅行中にサンフランシスコから日本を訪ね、同じ道を引き返してアメリカに戻ったことは、おみつに関わることとみられている(『遠い崖』)。
プッチーニ作曲のオペラ『蝶々夫人』は、日本女性の蝶々さんとアメリカの軍人ピンカートンとの悲恋物語として人気のあるオペラだ。この原作はアメリカ人のジョン・ロングの書いた『マダム バタフライ』。彼の姉が宣教師の妻で、長崎で布教活動をしているときに耳にした話を姉から聞いて、彼は小説に仕立てたという。本当にあった話かどうかわからないが、長崎を舞台に似たような恋物語が、多く繰り広げられたのであろう。長崎でフォン・シーボルトは楠本たきと結婚するが、正式の結婚ではない。「アジアではオランダ女性を得られないので、現地人女性との結婚が奨励されたが、妻子を伴って帰国することは会社の規則で禁止されていた。そこで多くの者は内縁関係という便利本位な方式を選び……自国へ帰ってから、生涯を共にしようと望む理想の妻を選ぶことができたのだ」(『シーボルトの日本報告』解説)。この頃、彼は母に宛てた手紙(1823 年11 月15 日付)に、「ここに古きオランダの習慣に従って、一時的ではありますが、一六歳の日本娘と契りを結んでおります」(『同』)、と書いている。二人の間には娘が一人生まれ、伊祢(イネ)と名付けられた。
55(安政2)年に日蘭和親条約が結ばれたことでフォン・シーボルトの罪が許され、59 年、彼は30 年ぶりに長男のアレキサンダーを連れて日本を訪れる。フォン・シーボルトは63 歳になっていた。この当時、長崎の鳴滝に住むフォン・シーボルトをイギリス人の植物学者ロバート・フォーチュンが訪ねている。彼は、親切に迎えられ、彼の羨む住まいの周りにある植物園で、「シーボルト博士の大作『日本植物誌』の中に描写された、植物図の大部分の実物を見た」「シーボルト博士は日本語を自国語のように話し、周囲の人々に人気があり、また大きな感化を及ぼした。私は辞去する時、『博士!あなたは長崎の人々の間で、まるで君主のようですね』と言うと、彼は微笑をたたえて、『私は日本人が好きだ。そしてお互いに尊敬している』と答えた……」そうだ(『幕末日本探訪記』)。その後、フォン・シーボルトは、61 年に幕府の外交顧問に雇われるが、すぐに解雇され、江戸を退去することになる。アレキサンダーは、オールコックの願いでイギリス公使館の日本語通訳官に年俸300 ポンドで雇われる。このとき鳴滝の住まいは「私の娘おイネさんの名義にして鳴滝にある居宅や山林、畑地を購入した」(62 年4 月7 日、『シーボルト日記』)。日本にある資産をこのように始末すると、彼は翌月、長崎から帰国の途に就いた。
サトウは娘のイネと長崎で会っている。同僚のアレキサンダーの姉にあたるわけである。「彼女は四十歳になる美しい顔立ちの女性であるが、ヨーロッパ人の面影はどこにも見られなかった。……」(『遠い崖』)、と日記に感想を記している。66 年12 月のことである。  
(3)消えた日本の美─ 郊外の美しさと大仏
日本から消えた美しさに江戸近郊の風景がある。ただコンクリートの塊がならぶだけの現代の街並みからは、昔の様子をしのぶよすがもないが、オールコックは江戸郊外の美しさをこう述べる。「郊外に出るとすぐに、美しいないしさっぱりした風景を目にすることができる。この風景と太刀打ちできるのは、イングランド地方の生垣の灌木の列の美しさぐらいなものであろう」(『大君の都』)。フォーチュンは、江戸近傍の田園風景を「どこにもある小屋や農家は、きちんと小ざっぱりした様子で、そのような風景は、東洋の他の国ではどこにも見当たらなかった」、と『幕末日本探訪記』に書いている。何人かは江戸近郊を游渉した思い出を語っている。
サトウは、「毎日江戸の近郊を馬で乗りまわし、ローレンス・オリファントの本にきわめて輝かしい色彩で描かれている王子のきれいなお茶屋や、甲州街道の十二社の池、そのほか丸子への途中にある洗足の池、あるいは目黒のお不動さまへ出かけた」(『一外交官の明治維新』)という。12年ぶりに日本に公使として戻ると早速、「カークウッドと目黒に散歩に出かける」(1895 年9 月22 日)、と日記に記している(『アーネスト・サトウ公使日記』)。明治になって来日したグリフィスは、「私は次々と訪ね歩いた。王子(オリファントらがたびたび描写している)、目黒(その近くに『権八と小紫』という恋人同士の墓がある)、高輪(日本の忠義の発祥地で、四十七人の浪人と……主君の墓と像がある)、亀戸(神にまつられた殉教者、菅原道真の記念碑)、芝、上野、向島など住民や観光客によく知られ、それを見物すると、日本人にとって大事なものを全部見たいという欲望にますます駆られ」(『明治日本体験記』)た、と思いを述べている。
江戸近郊の目黒について、ミットフォードが “Tales of Old Japan(”『古い日本の物語』)に収められているThe Loves of Gompachi and Komurasaki (「権八と小紫の恋」)の話で、以下のように美しく描写している。
「 江戸から2 マイルほどだが、大都会での労苦と喧騒から遠く離れて目黒村がある。……目黒に近づくと、あたりの景色はますます田園風になって、美しさを増す。深い木々の陰に覆われた道は、イングランドにあるような立派に茂った生垣がならび、稲の育ったエメラルドグリーンに輝く水田がひろがる低地につづく。右にも左にも趣のある形をした丘が隆起している。丘の上はたくさんのスギやモミ、マツカサの格好をした木々が伸びている。そのまわりには柔らかな竹藪が生え、夏のかすかなそよ風にその葉を優雅にそよがせている。……この低地の東をみれば地平線が青い海と重なり、西は遠く山々が連なる。正面には、小ざっぱりした、ビロードのような茶色の草ぶき屋根の農家の前で、一団の元気な日焼けしたわんぱく坊主たちが、全くの裸で飛び回っている。……足元近くにきれいな川が流れ、何人かの農夫が野菜を洗っている。やがて肩に担いで、江戸の近郊の市で売るために運んでいく。はるか遠く、山々の輪郭が霞むことがないほど、澄んだ大気のなかで見る眺望もたいそう美しいが、もっと近くにあるこまごまとしたものが、強い日差しを真上から浴びたり、時には空を横切るふんわりとした雲が投げかける翳につつまれたりして、レリーフのようにくっきりと際立って見える。……私たちが見るものすべてが、ほれぼれするほど美しい。 」
安藤広重の「目黒夕陽か岡」(富士三十六景)をみても、この情景をいくらか思い浮かべることができよう。このあと、ミットフォードは目黒村の入り口近くにある古い神社にふれ、目黒不動堂(瀧泉寺)のいわれを詳しく述べた後、彼の筆は、白井権八と小紫の悲恋話と、二人の来世での幸せを願って建てられた、目黒不動堂のそばにある比翼塚に移る。『古い日本の物語』は、この話のほか赤穂浪士やおとぎ話、彼が実見したサムライの腹切りの話などを集め、海外の人に日本を紹介した本で、1871 年に英国で出版された。当時のベストセラーであった。新渡戸稲造の『武士道』にも引用されており、ハーンやイザベラ・バードも読んでいた。ちなみに、蘭学の祖青木昆陽は目黒不動堂の裏手にある小高い丘の上の墓地に眠っている。
目黒村の入り口にある神社というのは大鳥大明神のことであるが、その神社と目黒不動堂の間に蟠龍寺という浄土宗の寺がある。1871(明治4)年末、そこに二人のフランス人が現れる。銀行家でコレクターのアンリ・チェルヌスキーと彼の友人の美術評論家テオドール・デュレである。彼らの目的は、寺内にある丈六の阿弥陀如来像の購入であった。『江戸名所図会』にある蟠龍寺窟辨天祠の図を見ると、本堂に向かって左手にその像が描かれていて、これが目黒大仏といわれていた。霊雲山蟠龍寺の項には、「境内に丈六の阿弥陀如来の銅像あり。また後ろの方山崖の下に岩窟ありて、うちに弁財天を安置す」とある。幕末から明治にかけて活躍した写真師下岡蓮杖がこの像を撮影していて(『下岡蓮杖と臼井秀三郎の写真帖より』)、その写真にはローマ字とカナ文字で目黒大仏と書き込まれている。キャプションには「東京 目黒不動堂瀧泉寺の大仏」とあるが、間違いであろう。
デュレの著した“VOYAGE EN ASIE”(『アジア旅行記』)によれば、寺に着くと、すぐ持ち主と買取の交渉がはじまり、まとまると早速解体作業に移り、翌日に、その作業は終わってすべてを寺から運び出した。次の日、大仏が運び出されたことを聞いた地元の人々が総出で、彼らの宿に来て買い戻しの要求をし、数日やり取りがあったが、その間に梱包して横浜から送り出してしまった、とある。彼は、この如来像の表情から絶対的な静寂、執着を捨てた諦念を感じ取ることができて、これを得たことにより彼らの仏像のコレクションは完璧なものとなった、と満足気に記している。サトウは目黒大仏を、「彫刻美術の中での仏像制作の分野における近代の傑作としてM・セルヌシが所蔵する十八世紀後半につくられた目黒大仏を挙げて置こう」(『明治旅行案内』)、と紹介している。デュレは、像の高さは4 m 28cm と記し、廃仏毀釈時の日本の海外流出美術品では最大のものと言われている。現在、大仏はパリのチェルヌスキー美術館に展示されていて、ここのHPでも写真を見ることができる。大仏の解説文に購入額は総計500 両とある。明治4 年5 月に新貨条例が施行され通貨の呼称が両から円に変わり、旧1 両=1 円= 1 米ドルであった。
ついでにいえば、この旅行でチェルヌスキーが日本から連れ帰った狆を、作品名「タマ日本犬」として、マネとルノワールが描いている。現在、二つの絵は別々の美術館に所蔵されているが、それぞれの来歴から推すと、ルノワールはチェルヌスキーのために描き、マネはデュレのために描いたとみられる。マネの作品には「テオドール・デュレの肖像」もある。狆という犬種について、提督ペリーの遠征記には、日本の将軍からの贈物には必ず狆が含まれていると報告され、英国公使のオールコックはこのスパニエル犬種はスペイン原産で、17 世紀にイギリスに持ち込まれる一方、南蛮貿易で日本にも持ち込まれたのであろう、といっている。
ところで、鎌倉の大仏も危うく海外に流出しかけたという。ベルツが1880(明治13)年11 月8 日の日記に、ひとりで江の島、鎌倉に行ったことを書いているなかで、次のように言っている。「……名高い大仏、すなわち青銅の仏の座像がある。美しく上品な顔立ち。十年前に日本政府は日本の持つ最も立派なこの青銅像を、地金の値段で外人に売払うという、とんでもない考えを起こしたのであった! それほどまでに、信心と国粋に対する理解が全く失われていたのである。幸い、取引の話はさたなしで済んだ。……」。
5 宗教と葬送
(1)宗教
この時期に西洋から日本にやってくる人々にとって最大の関心事の一つは、日本人の信仰する宗教は何か、ということであった。仏教、儒教は理解できるが、それらの教えが伝来する以前からある神道とは何か。その存在は知ってはいるものの、よく分からなかった。
日本研究家チェンバレンによる神道の解説はこうである。「神道はしばしば宗教として言及されているが、……その名〔宗教〕に価する資格がほとんどない。神道には、まとまった教義もなければ、神聖なる本〔聖書・経典の類〕も、道徳規約(モラル・コード)もない」(『日本事物誌』)。
1874(明治7)年2 月、日本アジア協会(72 年7 月設立、英米系の日本研究団体)で外交官サトウが「伊勢神宮」と題して発表した。その発表後の出席者からの発言をみれば、日本をよく知る西洋人たちの神道理解が、どのようなものであるかがよく分かるので、『遠い崖』から紹介する。ヘボン式ローマ字で知られる同協会会長のジェームス・ヘボンは、「わたしは神道とは何かを究明しようとして、ずいぶん努力してみたが、いくら努力しても報われることがないので、この努力をずっと以前に放棄してしまった。……」。サトウは、「神道には道徳律がないというヘップバーン(ヘボン)氏の意見に同感である。……」。英国公使のパークスは、「わたしも他の諸君と同じように、神道とは何かが理解できなくて、失望している。一般に日本人も、神道をどう説明したらよいのか、途方に暮れているように思われる。……」。米国の宣教師ブラウンは、「わたしの考えでは、神道は言葉の正しい意味で宗教ではない。わたしはこの国に十四年以上も住んでいる。その間神道とは何かを知ろうと努力しなかったわけではないが、ヘップバーン(ヘボン)氏も述べているように、この国の文献を調べてみても、報われることはほとんどなかった。報われたことといえば、神道の中身がいかに空虚なものかを発見したことだけである」。彼ら欧米人の神道理解は、チェンバレンの解説と変わりはなく、神道は宗教でないというものであった。
ただサトウはこの後も神道の研究を続けている。この研究を進める上での彼の考え方が、論文「古神道の復活」(「伊勢神道」と併せて『アーネスト・サトウ神道論』に所収)に、次のように書かれている。「神道の本質とその起源についての結論は、歴史的に研究された通常の経典によって導かれるものでなくてはならない。」として、その効果的な方法は、『古事記』や『日本紀』、祝詞などの研究をすることであって、それらを正確に理解するためには、本居宣長が主張したように、「まずは『源氏物語』やその他の『物語』の言葉を丹念に読み解くことから始めなければならない。この作業は『万葉集』を理解するための鍵となる」。『万葉集』の正確な理解が、『古事記』、『日本紀』、祝詞などを正しく読み解くことにつながり、「正しい結論に到達することができる」と。彼は、その後、祝詞の研究についての論文を発表しているが、84(同17)年にシャム領事として転出してしまい彼の研究は中断してしまったようである。
「神道は宗教でない」という人々に対して、「いや、神道は日本の宗教である」と主張するのがハーンである。彼は「家庭の祭屋」(『神々の国の首都』)のなかで次のように述べている。「神道は宗教である─ただしそれは一般にいう宗教とは違って先祖代々伝わる道徳的衝動、倫理的本能にまで深められた宗教である。すなわち神道は『日本の魂』─この民族のすべての情動の源なのだ」。さらに、「神道の太初の性格は……あらゆる祭祀のうちで最古のもの─ハーバート・スペンサーの言葉を借りれば『すべての祭祀の根源』─死者に対する畏敬の念である。……神とは御霊であるから、すべての死者は神になる」という。『神国日本』ではこのように述べる。「いまなお全国民からいろいろの形で信仰されている日本の宗教は、すべての文化を誘導する宗教の土台であり、またすべての文化的社会の土台となってきたあの祭祀─すなわち祖先崇拝の祀である」。神道は祖先崇拝であり、祖先崇拝は家族の先祖を祀るだけでなく、地域社会の祭祀、国の祭祀を含むものであって、神道は日本文化の根底にある、「日本の魂」であるという。したがって、「日本人を論じて彼らは宗教には無関心だと説くほど、馬鹿げた愚論はまずあるまい。宗教は昔そうであったように、今もなお相も変わらず、この国民の生命そのものなのである」ということになる。
しかし、日本人が宗教に無関心だとみる欧米人は結構多い。ハリスは日記に、「特別な宗教的参会を私はなにも見ない。僧侶や神官、寺院、神社、像などのひじょうに多い国でありながら、日本ぐらい宗教上の問題に大いに無関心な国にいたことはないと、私は言わなければならない。この国の上層階級の者は、実際はみな無神論者であると私は信ずる。」(1857 年5 月27 日)と書いている。スエンソンは次のように記している。「聖職者には表面的な敬意を示すものの、日本人の宗教心は非常に生ぬるい。開けた日本人に何を信じているのかたずねても、説明を得るのはまず不可能だった。」(『江戸幕末滞在記』)と。英国人の旅行作家で1878(明治11)年に来日したイザベラ・バードは、『イザベラ・バードの日本紀行』で「日本人はわたしがこれまで出会ったなかで最も無宗教な人々である。日本人の巡礼はピクニックで、宗教的な祝祭はたんなる祭りである。」と言っている。
そんな日本人にキリスト教をどう広めようとするのか。そもそもキリスト教は、「政治的支配者の命令が主なる神に対する義務と相反するときには、……神にしたがわねばならぬ宗教」であり、東洋の諸国では「その性質からして反逆的なものなのである」、とオールコックは述べている(『大君の都』)。またキリスト教は、祖先崇拝を偶像崇拝につながるとして禁じている宗教でもある。バードはキリスト教の布教における障害を次のようにいう。「キリスト教を阻止するおもな障害は、わたしの判断が正しいとすれば、宗教的本能と宗教への渇望が全般的に絶えてしまっていること、国家信仰と日本人の祖先崇拝が結びついていること、最も影響力のある階層にまったく不信心な人々が多いこと、禁欲の福音にたじろいでいる不道徳性があまねくあること、イギリスから持ち込まれた不可知論がひろがっていることです。」。最後に挙げられたイギリス哲学の影響については、浄土真宗の「英語を話すお坊さん」である赤松連城から、すでに教えられていた。彼女は布教にあたる宣教師の不勉強についても、「宣教師たちは日本人の二大信仰についてほとんどなにも知りません。異教徒のさまざまある重要な儀式の意味を尋ねると、『どうでもいいことに興味はありません』とか『そんなこと知らなくてもかまいませんよ』……という答えがよく返ってきます」(『同』)と述べている。二大信仰とは、神道と仏教のことである。
バードによれば、1878 年時点で「一六一七人の日本人をプロテスタントへ改宗させ、一方ローマ・カトリックは二万人、ギリシャ正教は三〇〇〇人をそれぞれ改宗させたとしており」(『同』)、三四〇〇万人の日本人のほとんどが無神論者や物質主義者であるか、子供じみた迷信にのめりこんでいるという。彼女は、この信者の数を見て、布教における障害や宣教師の不勉強を知って、日本をキリスト教国化するのは難しいと思ったのかどうかはわからないが、「キリスト教を受け入れれば、高潔さと国民の立派さという真の道義を備えた日本は、最も高尚な意味において、『日出ずる国』となり、東アジアの光明となりうるかもしれないということである。」(『同』)と、書き残していることからすると、キリスト教の布教について楽観視していたのかもしれない。  
(2)葬送
野蛮な国、非キリスト教国の日本で死ぬようなことがあれば、一体どうなるのか。タイモン・スクリーチの『阿蘭陀が通る』によれば、「以前商館が平戸にあった頃には土葬が許されていた。平戸から一・五キロほどの沖合に浮かぶ横島がその地である。長崎ではヨーロッパ人の遺体を陸上で火葬することは許されていたが埋葬することは禁止されていた。しかし、ヨーロッパ人は火葬を認めておらずこれを受け入れられない。……ヨーロッパ人の遺体はただ海に投げ捨てられていたのである。」とある。土葬禁止を「野蛮で残忍な話」と悲しむオランダ人の抗議によって、17 世紀半ばにようやく許可される。1654 年、江戸参府中に亡くなったオランダ人の遺体は、棺を使いオランダの慣習に則って「浅草という名の寺」に埋葬された。翌年には、長崎で亡くなったオランダ人の船員は稲佐の梧真寺に葬られた。以後、「長崎で没したヨーロッパ人は、例外なく稲佐にある浄土宗の寺院、終南山梧真寺に埋葬された」ということである。
ペリー艦隊が2 度目に日本に来た1854 年3 月、ミシシッピ号所属の一人の海兵隊員が死亡した。その遺体の埋葬について日米間でやり取りがあった。『ペリー艦隊日本遠征記』によると、日本側は、外国人を埋葬するための寺院を長崎に用意してあるのでそこへ日本船で運ぶ、と提案したが、米国側はそれを拒否し、自らの停泊地に近い夏島(現横須賀市)に埋葬することを主張したが、日本側はこれを認めず、横浜にある寺院の隣接地を申し出て、同意に至った。葬式は従軍牧師が司り、遺体が埋められた後、仏僧が仏教特有の葬式を始めたそうである。この後も下田で一人、箱舘でも二人の水兵の葬式を行っている。この横浜の隣接地がのちの横浜外国人墓地となる。62 年9 月に起きた生麦事件の犠牲者のチャールス・リチャードソンもここに葬られた。米国公使ハリスの通訳兼書記として活躍したヘンリー・ヒュースケンは、赤羽接遇所から麻布の公使館に戻る途中に暗殺された(61 年1 月)。キリスト教徒である彼は土葬されなければならないが、「当時御府内では土葬が禁止されていたため、江戸府外であった光林寺に葬られた」(東京都港区教育委員会資料)という。英国公使オールコックの通訳であった伝吉が眠る地のすぐ後ろに彼の墓所がある。
最後の審判の日、復活して裁きを受けると信じるキリスト教徒にとって、火葬は「野蛮で残忍な」ことで土葬が当たり前だった。彼らが火葬場の見学を希望することは、どのような気持ちからだったのであろうか。バードは、78(明治11)年12 月、日本滞在の最後の日々を、江の島、鎌倉への小旅行や買い物、送別のパーティーなどで忙しく過ごすなかで、ある「見どころ」(one “sight”)という表現を使って目黒近くの桐ケ谷火葬場の見学に出かけている。『イザベラ・バードの日本紀行』にその模様を次のように書いている。火葬場の外見について、「厳粛な用途にはささやかすぎるように見える建物」は、高い屋根と煙突を持ち、「田園的なまわりのようすとあいまって、『火葬場』というより『農家』を思わせます」と書き、さらに、なかには四つの部屋があって御影石の台が並び、目に入るものはこれで全てで、料金は1 円(約3 シリング8 ペンス)、単独の火葬の場合は5 円、と料金を記す。遺体の納められた棺は午後8 時に火が点けられ、翌朝の6 時に小さな灰の山となるが、煙突が高いので近所の住民に迷惑をかけることがないと、遺体が無害で完全に消滅することを書き添えている。
モースも82(同15)年10 月に、日本美術品の収集家であるビゲロウとともに千住の火葬場を見に行っている。モースは、「陰気な小屋や建物のある、物淋しい場所をみるだろう」という事前の予想に反して、「掃き清めた地面、きちんとした垣根、どこでも見受ける数本の美しい樹等」、都会の公共の建物と変わらぬたたずまいを見た。レンガ造りの平屋の二棟は、その間にたつ煙突から左右に伸びた煙道でつながれている。分かりやすいように彼はそのスケッチを残している。棟の大きさは、長さが72呎(フィート)、幅が24 呎で、それぞれ3 つの部分に分かれている、という。「諸設備の簡単さと清潔さとは、大いに我々に興味を持たせた。」と書いた後、火葬の方法について詳しく記す。料金は最高が7 円、その次が2円75 銭(約1 ドル37 セント)、一番安いのが1 円30 銭である。最後に彼は、「我が国ではこの衛生的な方法を阻止する偏見が、いつまで続くことであろうかと考えたりした」という感想を書き残している(『日本その日その日』)。
グリフィスは71(同4)年3 月、福井に到着早々に火葬場の見学をしている。「火葬場には4 つの炉がある。葬式の行列を見、真宗の僧侶による儀式を火葬場の堂でまのあたり見た」。モースと同じく、火葬の実際を詳しく綴り、一本が木、もう一本が竹の箸でものを食べないという迷信が分かったという。そして、骨壺をしまう墓の形や墓を掃除する人々の話を書いている(『明治日本体験記』)。彼は火葬そのものより、日本人の死にかかわる一連の儀式に関心があったようで、火葬について特に感想は述べていない。
日本における火葬に興味をみせたこの西洋人3 人のほかに、日常的に火葬場を眺めていた西洋人が、ハーンである。彼は晩年、東京の市外(現新宿区)西大久保に住んでいた。散歩で自宅から落合の火葬場近くをよく歩いたそうである。妻小泉節子の思い出話によると、「落合橋を渡って新井の薬師の辺までよく一緒に散歩をしたことがあります。その度毎に落合の火葬場の煙突を見て今に自分もあの煙突から煙になって出るのだと申しました。」(『思い出の記』)。そのとき、「のぼりにし雲居ながらもかへり見よわれあきはてぬ常ならぬ世に」(『源氏物語』御法巻)の歌をハーンは思い浮かべていたのかどうか。ハーンは1904(明治37)年9 月、急逝する。葬式は瘤寺でおこなわれて雑司ヶ谷墓地に埋葬された。
 
日本を絶賛した外国人

 

ルイス・フロイス
ポルトガル人、宣教師、1563年(永禄6年)来日、日本製の鉄砲の性能と品質を世界最高と評した。
フランシスコ・ザビエル
スペイン人、宣教師(彼もスパイであった事は、現在当時の手紙から証明されている)、1549年(天文18年)に来日。彼は日本人を、清貧で名誉を重んじ、今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民と評した。欧州人の知る武器の全てを製造する事も、扱う事もできるので軍事力で征服するには適さない、と本国に報告している。
C・P・ツュンベリー
スウェーデン人、医師、植物学者、1775年(安永4年)来日。
「江戸参府随行記」 / 地球上の民族のなかで日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人にも劣らず。その国民性は堅実で熱意に溢れ、その他百を超す事柄に関し我々は驚嘆せざるを得ない。政府は独裁的でもなくまた情実にも傾かず、飢餓と飢饉はほとんどない。信じられない事ではあるがこれは事実なのである。日本人の親切なことと善良なる気質についても驚くべきことで、日本で商取引をしているヨーロッパ人の汚いやり方やその欺瞞に対しても、侮り、憎悪を持たず信義を通す。国民は大変に寛容でしかも善良である。
18世紀、識字率がロンドンで20%程度、パリが10%未満の時、江戸が70%以上だったと言われている。19世紀半ば欧米では識字率が世界最高と思われていたイギリスで男性25%程度、女性ほぼ0%の時、日本は男性40%、女性25%、江戸においては武士100%、男性79%、女性21%だった。明治になり福沢諭吉は「通俗国権論」で幕末の日本の識字率は世界一であると誇っている。考えてみれば世界最初の小説は日本の「源氏物語」1001年(長保3年)である。
マシュー・C・ペリー提督
アメリカ東インド艦隊司令長官、1853年(嘉永6年)に来航。ペリー提督一行も、どの様に日本という国を植民地化するかを分析する為の、偵察隊であった訳であるが。侍の高い戦闘能力を知り、また当時の日本に貸し本屋がいたる所にあり、そして町民から百姓にいたるまで手紙による意思伝達が広く普通に行われている事に驚き、この国の植民地化が簡単にはいかない事を思い知った。また、ペリーは当時日記に、「この国の国民の勤勉さと器用さは尋常ではない、将来工業製品で我が国をおびやかす存在となるであろう。」と書き残している。
タウンゼント・ハリス
初代米国総領事、1856年(安政3年)来日。
「日本滞在記」 / 日本人は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうで。一見したところ、富者も貧者もない。これが恐らく人民の本当の幸福というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの国の人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は他のどの国にも存在しない、質素と正直の黄金時代を日本に見い出した。
ラザフォード・オールコック
イギリスの初代駐日公使、1859年(安政6年)来日。日本征服戦略のために送り込まれた精鋭の一人で、最後まで日本人を非白人の劣等民族と見下していたが。清潔で手入れの行き届いた町並みに思わず意に反して世界にはこれに匹敵する都はないと感嘆を吐露している。日本人の器用さ、勤勉さ、生活態度も驚嘆に値する、とスパイらしく事細かにそれらを本国に報告している。
アレクサンダー・F・V・ヒューブナー
オーストリアの外交官、1871年(明治4年)来日。
「オーストリア外交官の明治維新」 / この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行きわたっているのだ。ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ。
「世界周遊記」 / 他の国では、自己の仕事の削減と他人の仕事増は大歓迎。しかし、これでは争いになるから、綿密な契約を作る、しかしトラブルは絶えないだろう。日本だけである、ニコニコ笑って自分の方がきつく厳しい思いをあえて選択するのは。どちらの精神の方が、戦争と平和という観点からも貴重であるか、明白の事であろうと思う。
バジル・ホール・チェンバレン
イギリス人、言語学者、1873年(明治6年)に来日し、後に東京帝国大学の文学部教師を務めた。彼は日本人のことを、逞しく健康的な国民で知的にも道徳的にもヨーロッパ人と比較して少しも劣ることなく、これほど技術の習得に優れ、戦争に際しては騎士道的で人道的な国民は他になく、日本の軍隊は規律正しく優秀で世界最強であると評した。高い精神性を持つ日本文化を西洋化するのは間違いで、欧米こそ日本に学ぶべきと説いた。
エドワード・S・モース
アメリカ人で東京帝国大学で生物学を講じた、1877年(明治10年)来日。
「日本その日その日」 / 外国人は日本に数カ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、他人の感情についての思いやり、これらは恵まれた階級の人々ばかりでなく、この国では最も貧しい人々も持っている特質である。
アーネスト・F・フェノロサ
アメリカ人、美術研究家、1878年(明治11年)来日、東京大学で政治学や哲学を教えた。美術行政にかかわり、東京美術学校創設などにも尽くした。日本文化に傾倒し、日本人よりも日本美術を愛したと評される。
「中国および日本の特徴」 / 日本のとるべき最上の道は、日本が東洋的伝統の理念をしっかりと保持して行くことだと私は信じている。この道こそ日本が人類に対して果たすべき重大なる任務であり、日本こそこの聖火を守る最後の国である。
イザベラ・バード
イギリス、女性旅行家、1878年(明治11年)来日、日本各地を旅した。
「日本奥地紀行」 / ヨーロッパの多くの国々や我イギリスでも、外国の服装をした女性の一人旅は、無礼や侮辱の仕打ちにあったりお金をゆすりとられることがあるが、ここでは私は一度も失礼な目にあったこともなければ、過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲まれても失礼なことをされることはない。馬子は私のことを絶えず気をつかい、荷物は旅の終わりまで無事であるように細心の注意を払う。私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何よりの美徳で、何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが子どもを脅したり手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は日本には見られない。庶民の振舞いに私は目を見張った。美しかった、とても育ちがよく親切だった。英国と何という違いだろう。老人と目の見えぬ者へのいたわりは、旅の間とてもはっきりと目についた。われわれの一番上品な振舞いだって、優雅さと親切という点では彼らにはかなわない。
アリス・ベーコン
アメリカ人、女性教育者、1881年(明治14年)来日、華族女学校(後の学習院女学校)の英語教師として活躍した。
「明治日本の女たち」 / 日本が芸術や造形、色彩を愛する国として欧米で知られているのは職人の功績である。職人は忍耐強く、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で納得できないものを作ることは決してない。日本人は貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで誰もが自然の中にも日用品の中にも、美を見い出し大切にしている。
エライザ・R・シッドモア
アメリカ人、紀行作家、世界各地を回って日本に魅せられ、1884年(明治17年)以降6度も来日した。ポトマック河畔の桜並木は、シッドモア女史からタフト大統領のヘレン夫人への提案で実現したもの。また、彼女は日露戦争時の日本のロシア人捕虜に対する人道的な扱いを題材とした小説「ヘーグ条約(ハーグ陸戦条約)の命ずるままに」を著し、アメリカでの対日理解に貢献した。しかし、1924年(大正13年)アメリカ議会が通過した「排日移民制限法」に憤って母国を捨てスイスに移住した。1928年死亡、日本政府の計らいで遺骨は横浜の山手外人墓地に眠る。
エドウィン・アーノルド
イギリス人、詩人、インドのデカン大学学長、1889年(明治22年)来日、帰英後はデーリーテレグラフ紙の編集者。
「ヤポニカ(Japonica)」 / この国以外世界のどこに、人生のつらいことも受け入れやすく品のよいものたらしめようとする広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動の普遍的な抑制、毎日の生活の絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然への愛、美しい工芸品への心からの喜び、楽しいことを楽しむ上での率直さ、子どもへのやさしさ、両親と老人に対する尊重、洗練された趣味と習慣の普及、異邦人に対する丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上での熱心、この国以外のどこに、このようなものが存在するというのか。
ヴェンセスラウ・D・モラエス
ポルトガル人、作家、海軍で世界各国を訪れたあと1889年(明治22年)来日。日本に魅せられ自国籍を返上して日本に帰化、1929年に亡くなるまで一度も故国を訪ねる事はなかった。日露戦争で東洋をロシアから守った日本を軍国主義と批判する欧米に対して、それなら植民地を持っている国家はすべて軍国主義であると反論した。
ロシアから守られたのはアジアだけではなかった、日露戦争のおかげでロシアの支配体制から抜け出ることができた、トルコ、ポーランド、フィンランド、スェーデン、ポルトガル等の北欧、東欧諸国はその影響で今でも親日の国が多い。特にトルコは自称世界一の親日国家で、私のトルコ人の知人はその事を語り出すともう止まらない。それなのに、日本人はトルコが19世紀からの親日国家である事を何もを知らないと言って残念がる。日露戦争だけでなく、1890年(明治23年)に来航したエルトゥールル号の遭難者を日本人が救助した際、その事後措置を手厚く行った事がトルコでは、何と現在でも語り継がれているのだ。また、フィンランドには、1992年(平成4年)まで、世界各国の提督の肖像をラベルにしたアミラーリ(提督)ビールがあり、日本は東郷提督になっていた。
小泉八雲(P・ラフカディオ・ハーン)
アイルランド人、新聞記者、小説家、1890年(明治23年)に来日して、その後日本に帰化した。
「知られざる日本の面影(日本瞥見記)」 / 将来まさに来ようとしている変革が、この国の道義上の衰退をまねくことは避けがたいように思われる。西欧諸国を相手にして、産業の上で大きな競争をしなければならないということになれば、結局日本はあらゆる悪徳を自然に育成していかなければなるまい。昔の日本が、今よりもどんなに輝かしいどんなに美しい世界に見えたかを、日本は思い出すであろう。古風な忍耐と自己犠牲、むかしの礼節、古い信仰のもつ深い人間的な詩情。日本はこれから多くのものを見て驚くだろうが、同時に残念に思うことも多かろう。
ハーバート・G・ポンティング
イギリス人、写真家、1901年(明治34年)来日、日露戦争にも従軍。
「英国人写真家の見た明治日本」 / 日本兵はロシア兵捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。松山ではロシア兵たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。何人かの勇士は病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵は過去のすべての歴史において、これほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。
アルジャーノン・B・F・ミットフォード
英国公使館の書記官、1866年(慶応2年)来日、1906年(明治39年)にガーター勲章使節団として33年ぶりに3度目の来日。
「ミットフォード日本日記」 / 東郷提督、黒木大将らの謙遜と自制心はまさに人々の心をとらえるものがあった、両者ともに誇らしげな様子は全く見られなかった。私が強調しておきたいのは、私の日本滞在中にいろいろな種類の多くの日本人と話をしたが、さきの日露戦争の輝かしい勝利を自慢するかのような発言を一度も耳にしなかったことである。戦争に導かれた状況と戦争そのものおよびその結果について、全く自慢をせずに落ち着いて冷静に話をするのが日本の人々の目立った特徴であり、それは全世界の人々の模範となるものであった。このような謙譲の精神をもってかかる偉大な勝利が受け入れられたことはいまだにその例を見ない。
ロマノ・ヴルピッタ
イタリア人、ローマ大学法学部卒。東京大学に留学、駐日イタリア大使館一等書記官、ナポリ東洋大学大学院現代日本文学担当教授、1975年(昭和50年)欧州共同体委員会駐日代表部次席代表、後に京都産業大学経営学部教授。
1910年(明治43年)に起きた第六号潜水艇の海水侵入事故について / 引き揚げられた潜水艇の中で、乗組員皆が取り乱すことなく自分の役目を最後の最後まで果たしながら亡くなっていた。これは世界の驚きだったわけですが(注:当時、外国の海軍に同様の事故があり、乗組員の醜態が世間に知られていたから)、大事なことは彼らが別に英雄を目指したわけでも何でもないということです。そこに、日本人の根本的な美しさがある。日本は何を外国に発信すべきか。私はそうした能動的な姿勢がことさら必要とは思わない。当たり前のこと、つまり日本人として本質を追求して立派な日本人として当たり前に振る舞う。それでいいのだと思うのです。それが世界のモデルになる。
この第六号潜水艇の事故についての当時1910年の「英紙、グローブ」の記事 / この事件は、日本人は体力的に勇敢であるだけでなく、精神的にも勇敢であることを証明している。このような事は世界に類を見ない。また、潜水艇と言えば。1942年(昭和17年)5月31日、オーストラリアのシドニー湾に停泊中の米軍大型艦船6隻からなる艦隊に小さな特殊潜航艇3隻に依る奇襲攻撃が敢行された。3隻とも自爆あるいは沈没をしたのだが、彼らの勇気と愛国心に感銘を受けた、当時のオーストラリア海軍シドニー要港司令官、ムーアヘッド・グルード少尉は、我が国にこれらの勇士の千分の一の覚悟でも持てる人が何人いるだろうか、と自国の船1隻と19名の海軍兵を失う被害にあったにも関わらず(まして白豪主義のかの国で)、周りの反対を押し切り自決した敵国の松尾敬宇大尉ら4名の遺体を引き上げ棺を日本国旗で包んで、スイス総領事らも参列し最高位の海軍葬で丁重に弔った。この模様は、ラジオで放送され、オーストラリア全土で感動を呼んだという。そして、4名の遺骨は戦時交換船を通して日本に送り届けられた。この時の特殊潜航艇は、後の回天とは違い特攻用に設計された物ではなかったが、この任務の内容は、生還することが不可能なものであった。松尾大尉は自ら志願し、遺書を遺して出撃した。
ラビンドラナート・タゴール
インド人、詩人、1916年(大正5年)来日。日本が日露戦争に勝利した時、ベンガル語で短歌を詠んで日本を称えた。後日来日して、日本文化の精神性の高さに感動し「日本紀行」を著した。
ポール・リシャール
フランス人、法律家、東洋の精神文化を求めてアジアを目指し、1916年(大正5年)最初数ヶ月の予定で来日したが日本に魅せられ4年間滞在。分裂し相争う世界を統合する事は日本にしかできないと主張、1919年(大正7年)、パリの講和会議で日本が「人種差別撤廃案」を提出した際も列国の要人に働きかけ協力をし、結果11対5で圧倒的多数決を得た。しかし議長のアメリカ大統領ウィルソンが平然と、全員一致ではなかったからと屁理屈をこねて否決を宣言。国際連盟議会のルールであった多数決に従う事を拒否した。彼は日本人に、植民地政策を転換しない欧米にもう期待する事をやめて、自分たちの力で「アジア連盟」を作る事を進言した。
コリン・ロス
ドイツ人、新聞社の海外特派員、1939年(昭和14年)来日。
「日中戦争見聞記、1939年のアジア」 / わたしたちの大型車メルセデスは、日本の狭い道路にとってあまりにも長大で重すぎた。しかし、車が町角の家にぶつかったり、耕作したばかりの畑に深い車輪のあとをつけても、人々は決して立腹した様子は見せなかった。車が故障で動かなくなったときは、いつもただちにいかにも当然であるかのように、援助の手が差しのべられた。その際謝礼を出そうとすると、彼らはまるで侮辱されたかのように驚きの表情をあらわにして拒否した。日本人は、全世界でもっとも友好的で上品だ。地球上で日本人に匹敵できるほど、親切で礼儀正しい国民はないであろう。
デール・カーネギー
アメリカ人、実業家、作家(鉄鋼王のカーネギーとは無関係)、1953年(昭和28年)来日。人間関係を良好にする秘訣を説いた「人を動かす」は世界で1500万部以上を売り上げ、聖書に次ぐ世紀のベストセラーとなった。来日して、「日本人は、私が生涯かけて発見した人間関係の法則を、既に何百年も前から実践していた」と驚嘆した。
アーノルド・J・トインビー
イギリス人、歴史学者、1929年(昭和4年)来日。
「英紙、オブザーバー」1956年(昭和31年)10月28日 / 第2次大戦において日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々の為に偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
アイヴァン・モリス
イギリス人、翻訳家、日本文学研究者。ロンドン大学で「源氏物語」の研究をし称賛、大岡昇平、三島由紀夫などの翻訳を通し日本文化の紹介に努めた。特攻という非合理な攻撃への志願は自発的ではなく脅迫、あるいは洗脳によってなされたに違いないという欧米人の考え方に疑問を持ち。日本人の歴史を丹念にたどり、ひとりひとりの若い特攻隊員にとっては、それが病的な狂信や暗愚とはほど遠い、日本人の古来からの美意識や気性にもとづくものであり、ひたむきな誠実さ、高貴なる精神の発露であったと語っている。
ベルナール・ミロー
フランス人、ジャーナリスト、特攻を深く掘り下げて研究をした。
「神風(KAMIKAZE)」 / 本書の目的は、皮相的な見方から一歩踏みこんで西欧から見た神風に、新たな脚光を浴びせることであった。また著者の意図したところは、この日本の自殺攻撃が集団的発狂の興奮の結果などでは断じてなく、国家的心理の論理的延長が到達した点であらわれた現象であり、戦局の重圧がそれをもたらしたものであることを明らかにすることにあった。このことを、我々西欧人は笑ったり、哀れんだりしていいものであろうか。むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。日本国民はそれをあえて実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最後の国民となったと著者は考える。たしかに我々西欧人は、戦術的自殺行動などという観念を容認することができない。しかしまた、日本のこれら特攻志願者の人間に、無感動のままでいることも到底できないのである。
アンドレ・マルロー
フランスの作家、冒険家、政治家、第二次世界大戦中はドイツへの抵抗運動に身を投じた。戦後はド・ゴール政権下で情報相や文化相を務めた。日本は戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。スターリン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナティックだったろうか、断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった、祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナティズムとは根本的に異質である。人間はいつでも偉大さへの志向を失ってはならないのだ。フランス人のなかには、なぜ若い命をと疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつも言ってやる。「母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見過ごせるものだろうか?」と。私は、祖国と家族を想う一念から、恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、潔く敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに、男の崇高な美学を見るのである。

私は、出撃時に特攻隊員数名で撮られた写真を何枚か持っているが、どの写真を見てもすべての隊員がまるでピクニックでもしているかのような穏やかで爽やな笑顔をしている事に驚かされる。また、1945年(昭和20年)8月20日、樺太へのソ連軍の違法な侵攻の際、最後の電話交換業務に志願し、民間人が避難するのを見届けた後、ソ連兵からの辱めを避ける為に服毒自殺を遂げた、真岡郵便局の9人の若き女性電話交換手のことも忘れることはできない。彼らは、少年航空兵出身の十八歳から十九歳の十人と学徒出陣の四名で、この写真に笑顔を残してから一時間半後の、昭和二十年四月二十二日午前十時ころ、台湾北部の桃園飛行場から沖縄本島方面に特攻出撃していった。彼らは五百キロ爆弾を搭載して沖縄本島周辺の敵艦に突入し、敵巡洋艦と貨物船を各一隻を撃沈した。
ここに信じてよい事がある。いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に滅びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に必ずや、日本民族は再興するであろう。  
 

 

 
お雇い外国人一覧

 

学術・教育
フレデリック・イーストレイク - 語学教育、慶應義塾教員、国民英学会創立参加(米)
トーマス・ブラキストン - 博物学、分布境界線研究、ブラキストン線提唱者(英)
ラフカディオ・ハーン - 語学教育 『怪談』(英)
エドワード・S・モース - 生物学 大森貝塚の発見(米)
ウイリアム・スミス・クラーク - 札幌農学校(現・北海道大学)初代教頭(米)
バジル・ホール・チェンバレン - 語学教育 『古事記』の英訳(英)
ラファエル・フォン・ケーベル - 哲学・音楽(露、但しドイツ系でドイツ語を母語とし、ドイツ哲学を基礎とした)
フィクトール・ホルツ - 多科目教育(独)
エミール・ハウスクネヒト - 教育学(独)
アリス・メイベル・ベーコン - 女子教育(米)
ジョージ・アダムス・リーランド - 体操伝習所教授(米)
ヘンリー・ダイアー - 工部大学校(現・東京大学工学部)初代都検(英)
ハインリッヒ・エドムント・ナウマン - フォッサ・マグナの発見、ナウマンゾウ(独)
ダビッド・モルレー - 文部省顧問(督務官・学監)(米)
ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデル - 東京大学理学部(当時)にて講義(米)
ホーレス・ウィルソン - 語学教育、野球を日本に紹介(米)
マリオン・スコット - 大学南校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)、東京大学予備門教員(米)
ルートヴィヒ・リース - 歴史教育、慶應義塾大学部、帝国大学、陸軍大学校教員(独)
エドワード・B・クラーク - 語学教育、ラグビーを日本に紹介、慶應義塾大学、京都帝国大学教員(英)
アーサー・ナップ - 語学教育、慶應義塾教員、日本ユニテリアン教会宣教師(米)
リロイ・ランジング・ジェーンズ - 語学教育、熊本藩藩校熊本洋学校英語教師、熊本バンド(米)
エドワード・ウォーレン・クラーク - 化学、語学教育、賤機舎の前身静岡学問所、東京開成学校(米)

ウィリアム・グリフィス - 福井、東京で教鞭(米) 
ジェームス・カーティス・ヘボン - 医療伝道宣教師、医師、ヘボン式ローマ字(米)
ニコライ・カサートキン - ロシア正教宣教師、ニコライ堂
セルギー・チホーミロフ - ロシア正教会修道士
セルギー・ストラゴロツキー - ロシア正教布教
メアリー・パトナム・プライン - 女性宣教師、共立女学校と偕成伝道女学校を創設、「日本の母」(米) 
メアリー・エディー・キダー - 女性教育者、フェリス女学院創設(米)
オーグスチン・ハルブ - 神父、長崎大分奄美などで布教活動、天草崎津教会(仏)
エリザ・ルアマー・シドモア - 著作家・写真家・地理学者、ポトマック河畔桜並木(米)
ハインリッヒ・シュリーマン - 考古学者、トロイ都市発掘(独)
カール・ブッセ - 詩人・作家、「山のあなた」(独)
イザベラ・バード - 女流作家、旅行家、「日本奥地紀行」「バード 日本紀行」(英)
パーシヴァル・ローウェル - 天文学者、「能登旅行記」(米)
メルメ・カション - 宣教師・医師、函館に教会・病院、アイヌの研究(仏)
エセル・ハワード - 教育者・英国婦人、元薩摩藩主島津家子息の教育(英)
ロバート・フォーチュン - 植物学者、プラントハンター、「幕末日本探訪記」(英)
ジョン・レディー・ブラック - 記者、「日新真事誌」「ジャパン・ヘラルド」(英)
ウィリアム・ホィーラー - 教育者・土木技術者、札幌農学校、札幌時計台(米)
ロバート・ルイス・バルフォア・スティーブンソン - 作家、「宝島」「ジキル博士とハイド氏」(英)
ファヴェル・リー・モーティマー - 児童文学作家、「不機嫌な世界地誌」(英)
クララ・ホイットニー - 勝海舟三男・梶梅太郎の妻(米)
ジョン・ミルン - 鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者、日本地震学の基礎(英)
法律
グイド・フルベッキ - 法律、旧約聖書の翻訳(蘭)
ギュスターヴ・エミール・ボアソナード - 刑法、刑事訴訟法、民法、司法省法学校教員、太政官法制局御用掛(仏)
アルベール・シャルル・デュ・ブスケ - 法律、軍事などの仏語資料を多数翻訳(仏)
アルバート・モッセ(独)
オットマール・フォン・モール - 宮廷儀礼、栄典制度(独)
ヘルマン・ロエスレル - 憲法、商法(独)
ヘルマン・テッヒョー - 民事訴訟法(独)
カール・ラートゲン - 国法学(独)
ウィリアム・M・H・カークウッド - 駐日英国公使館の法律顧問から司法省法律顧問(英)
ジョルジョ・ブスケ - 弁護士、「日本見聞記」(仏)
外交
シャルル・ド・モンブラン - 外国事務局顧問。駐仏日本総領事(仏)
フレデリック・マーシャル - 在仏日本公使館付情報員、顧問格(英)
ヘンリー・デニソン - 外務省顧問。下関条約・ポーツマス条約交渉(米)
アレクサンダー・フォン・シーボルト - 井上馨秘書他(独)

エラスムス・ペシャイン・スミス - 明治天皇の顧問
アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード - 英国公使館書記官、「ミットフォード日本日記」「昔の日本の物語」「英国外交官の見た幕末維新」
フランツ・フェルディナント - ハプスブルク帝国の皇位継承者、サラエボ事件
ヴェンセスラウ・デ・モラエス - ポルトガル軍人、外交官、文筆家
ウィリアム・ジョージ・アストン - イギリス公使館員、「日本紀」
芸術・美術
アーネスト・フェノロサ - 哲学、日本美術を評価(米)
エドアルド・キヨッソーネ - 紙幣・切手の印刷、明治天皇・西郷隆盛などの肖像(伊)
アントニオ・フォンタネージ - 絵画、工部美術学校(伊)
ルーサー・ホワイティング・メーソン - 西洋音楽の輸入。音楽取調掛教師(米)
フランツ・フォン・エッケルト - 現行「君が代」の編曲(一説では作曲も)(独)
ジョン・ウィリアム・フェントン - 軍楽隊の導入(英)
シャルル・ルルー - 音楽、特に軍楽の指導、陸軍分列行進曲(抜刀隊・扶桑歌)の作曲(仏)
ゴットフリード・ワグネル - 陶磁器、ガラス器などの製造指導(独)
ジョルジュ・ビゴー - 漫画家、風刺画家(仏)

ヴィンチェンツォ・ラグーザ - 彫刻家(伊)
エメェ・アンベール - 特名全権公使、スイス時計業組合会長
アドルフ・フィッシャー - 東アジアの美術史家・民族研究家、「明治日本印象記」
ハーバート・ジョージ・ポンティング - 写真家(英)
チャールズ・ワーグマン - 通信社特派員、漫画家、「ジャパン・パンチ」創刊(英)
医学
エルウィン・ベルツ - 医学(独)
フェルディナント・アダルベルト・ユンケル - 医師(墺)
テオドール・ホフマン - 軍医(独)
レオポルト・ミュルレル - 軍医(独)
ポール・マイエット - 太政官顧問、東京医学校(現・東大医学部)、慶應大学教員(独)
ウィルヘルム・デーニッツ - 東京医学校・解剖学、警視庁・裁判医学(独)

ヨンケル・フォン・ランゲッグ - 麻酔器、「瑞穂草」「扶桑茶話」
ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト - 医師、長崎医学伝習所
ヘンリー・フォールズ - 医師、指紋研究者(英)
ウイリアム・ウィリス - 医師、臨床医学の発展、東大病院創立(英)
建築・土木・交通
フランク・ロイド・ライト - 建築、山邑邸、帝国ホテル新館設計(米)
ヘルマン・エンデ - 建築(独)
ヴィルヘルム・ボェックマン - 建築(独)
ルドルフ・レーマン - 機械工学、語学教育(独)
ヨハニス・デ・レーケ - 河川砂防整備(蘭)
ローウェンホルスト・ムルデル - 利根運河、宇品港(広島港の前身)築港(蘭)
ジョージ・アーノルド・エッセル - 河川整備。版画家マウリッツ・エッシャーの父(蘭)
セ・イ・ファン・ドールン - 安積疏水の設計や野蒜築港計画に携わる(蘭)
トーマス・ウォートルス - 銀座煉瓦街(英)
ジュール・レスカス - 生野鉱山建設のほか、西郷従道邸宅(仏)
ジョサイア・コンドル - 鹿鳴館の設計、建築学教育(英)
エドモンド・モレル - 新橋〜横浜間の鉄道建設、初代・鉄道兼電信建築師長(英)
リチャード・ヴァイカーズ・ボイル - 京都〜神戸間の鉄道建設、E・モレルの後任(英)
リチャード・フランシス・トレビシック - 官設鉄道神戸工場汽車監察方。国産第1号機関車を製作。機関車の父リチャード・トレビシックの孫(英)
フランシス・ヘンリー・トレビシック - 鉄道技術を伝える。官設鉄道新橋工場汽車監督。リチャード・フランシスの弟(英)
レオンス・ヴェルニー - 横須賀造兵廠、長崎造船所、城ヶ崎灯台など(仏)
ベンジャミン・スミス・ライマン - 後の夕張炭鉱など北海道の地質調査(米)
フレデリック・ベルデル - (仏)
リチャード・ヘンリー・ブラントン - 各地で灯台築造・横浜の街路整備(英)
コーリン・アレクサンダー・マクヴィン - 灯台築造・工部大学校時計塔・関八州大三角測量の指導(英)
ヘンリー・S・パーマー - 横浜ほか、全国各地の水道網設計(英)
ウィリアム・K・バートン - 各地の上下水道を整備(英)
ジョン・ウィリアム・ハート - 神戸外国人居留地計画(英)
エドモン・オーギュスト・バスチャン - 横須賀製鉄所・富岡製糸場などの設計(仏)
シャルル・アルフレッド・シャステル・デ・ボアンヴィル - 皇居謁見所、工部大学校校舎など(仏)
ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペレッティ - 参謀本部や遊就館など(伊)
ジョン・スメドレー - 東京大学理学部で造営学、図学講師。都市開発提案など(豪)
リチャード・ブリジェンス - 新橋停車場、築地ホテル館
チャールズ・A・W・パウネル - 橋梁設計、帰国後も日本の鉄道全権顧問を委嘱(英)
チャールズ・A・ビアード - 鉄工業者、関東大震災前後における東京市復興建設顧問(米)
産業技術
エドウィン・ダン - 北海道の農業指導(米)
ウィリアム・ブルックス - 北海道の農業指導
ルイス・ベーマー - 北海道の農業指導
ホーレス・ケプロン - 北海道の農業指導、道路など(米)
ヘンドリック・ハルデス - 長崎造船所、製鉄所建設(蘭)
レオンス・ヴェルニー - 海軍工廠の建設指導など(仏)
オスカル・ケルネル - 農芸化学(独)
オスカル・レーヴ - 農芸化学(独)
ウィリアム・エドワード・エアトン - 物理学(英)
クルト・ネットー - 鉱業の技術指導(独)
ジャン・フランシスク・コワニエ - 鉱山技術、生野銀山にて帝国主任鉱山技師、日本各地の鉱山調査(仏)
トーマス・ウィリアム・キンダー - 大阪造幣寮首長
ウィリアム・ゴーランド - 造幣寮での化学・冶金指導など、古墳研究で考古学にも貢献(英)
カール・フライク - 帝国ホテル総支配人として西欧ホテル経営の基礎を伝える(独)
ポール・ブリューナ - 富岡製糸場の首長(責任者)、建設から近代製糸技術の導入まで(仏)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘルマン・ハイトケンペル - 革靴製造の指導(独)
ウォルター・ウェストン - 登山家、慶應義塾教員、日本山岳会名誉会員(英)
スネル兄弟 - 「死の商人」
軍事
シャルル・シャノワーヌ - 江戸幕府のフランス軍事顧問団(仏)
ジュール・ブリュネ - 榎本武揚率いる幕府軍軍事顧問(仏)
カール・ケッペン - 紀州藩の軍事顧問(普)
ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ - 近代海軍の教育(蘭)
アーチボルド・ルシアス・ダグラス - 海軍兵学校教官(英)
クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル - 陸軍大学校教官(独)

ルイ=エミール・ベルタン - 海軍技術者、呉・佐世保工廠
エドゥアルド・スエンソン - デンマーク海軍軍人、大北電信会社、海底ケーブル
ピエル・ロチ - 海軍士官、作家、「氷島の漁夫」「お菊さん」(仏)
テオドール・エードラー・フォン・レルヒ - オーストリア軍人、新潟県高田でスキーを伝る
アルフレッド・ルサン - 海軍士官、下関戦争、「五十年前の想い出」
ヴィットリオ.F.アルミニヨン - 軍人、外交官、蚕種(蚕の卵)調達、「イタリア使節の幕末見聞記」
ヘルハルト・ペルス・ライケン - 海軍軍人、長崎海軍伝習所教授
 
学術・教育

 

フレデリック・イーストレイク
Frederick Warrington Eastlake (1856-1905)
語学教育、慶應義塾教員、国民英学会創立参加(米)
アメリカ合衆国出身の英語教育家、慶應義塾教員、来日外国人。フランク・ウォーリントン・イーストレイク(Frank Warrington Eastlake)とも。言語学博士であり、23カ国語に精通し、「博言博士」の名で知られた。日本人女性の太田なをみと結婚し、東湖と号した。
アメリカ合衆国ニュージャージー州に生まれる。1860年(万延元年)、父ウィリアム・クラーク・イーストレイク(日本の近代歯科医学の父と呼ばれる歯科医)に伴われて来日。5歳でラテン語、ギリシャ語、フランス語、ドイツ語を、8歳の時に父に従って清国に行きスペイン語を学ぶ。米国に帰り、12歳でドイツのギムナジウムに入学。後にパリに移って医学、法学を修め、ベルリン大学で言語学の博士号を得た。さらにアッシリア、エジプトを遊歴して現地の言語を究めた後、香港に渡って3年間滞在、その間にインドを訪れてサンスクリット語、アラビア語にも親しんだ。
1881年(明治14年)に再び来日。1885年(明治18年)、元旗本の太田信四郎貞興の娘である日本人女性、太田ナヲミと結婚する。当時は外国人が居留地以外に住むことは禁じられていたが、福澤諭吉の好意により福澤名義で東京の一番町12番地に家を借り、居を構える。1886年(明治19年)から外国人教師の一員として慶應義塾で英文学講師となる。その他、『ジャパンメール』(後に『ジャパンタイムズ』と合併)などの新聞記者、教育者として活躍。妻ナヲミとの間には三男四女をもうける。
1888年(明治21年)、英学者磯辺弥一郎と共に国民英学会を設立する。のちに磯辺と不和になり、1891年(明治24年)、国民英学会から分裂して日本英学院を設立するも、経営に失敗する。このため、1896年(明治29年)に斎藤秀三郎と手を組んで正則英語学校の設立に加わり、教鞭をとった。
日本語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語は言文ともに自国語並み、英語は古代、中世、近代と三様に語り分けた。
『ウェブスター氏新刊大辞書和譯字彙』(三省堂刊)など英語辞書の和訳や、『英和比較英文法十講』など英文法書の執筆に寄与した。その他の著書に『香港史』、『日本教会史』、『日本刀剣史』、『勇敢な日本』などがある。
1905年(明治38年)2月18日、流行性感冒をこじらせて急性肺炎で病没。遺体は青山外人墓地に葬られた。青山外人墓地に墓碑と記念碑がある。
息子のローランド・パスカル・イーストレイクは教育者として、慶應義塾大学で教鞭をとった。
国民英学会
明治・大正期に著名だった日本の私塾、英語学校。単なる洋学校ではなく、旧制中学校から旧制専門学校相当の教育機関の要素があった。
1888年(明治21年)2月、慶應義塾の英語教師フレデリック・イーストレイク(イーストレーキ)と英学者磯辺弥一郎によって東京市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)に設立。当時、慶應義塾の人々が力を入れて推進していたのは、医学や英学であって実用英語ではなかった。これに不足を感じたイーストレーキら一部の慶應義塾の外国人教員らが慶應義塾大学と兼任する形で創立、やがて独立した。
舎主は磯辺弥一郎で、初めは授業料も無く月謝も極めて安かった。苦学生のための夜間部も開校し、1906年(明治39年)には別科の中に数理化を設立するまでに至った。
第一高等学校やナンバースクール、慶應義塾大学、学習院等を筆頭とする正規の学歴コースに乗れない生徒たちを対象とする学校であるにも拘らず、講師陣には高名な英語学者であるアーサー・ロイド(慶應義塾大学教授)、斎藤秀三郎(第一高等学校教授)、吉岡哲太郎(理学博士)、内藤明延、岡倉由三郎を迎えるなど講義の質が高く、人気を集めた。
しかし、やがて磯辺と反目した斎藤は、1896年(明治29年)10月、国民英学会から分裂する形で、同じ神田錦町3丁目に正則英語学校を開校し、校長に就任。斎藤みずから教鞭を執った他、上田敏、戸川秋骨、フレデリック・イーストレイクといった名講師を揃えた。このため国民英学会は正則に押されて勢いをそがれることとなったが、その後の大正・昭和初期にかけても学問機関として存続し、1945年ごろまで活動していたことが確認できる。 
杉村楚人冠 (すぎむら そじんかん、本名:杉村廣太郎)
随筆家、俳人でもあるジャーナリスト、1872〜1945。
和歌山県にて旧和歌山藩士 杉村庄太郎の子として生まれる。1875(明治8)年3歳の時、父と死別し、以来、母の手で育てられた。16歳で和歌山中学校を中退、法曹界入りを目指して上京。英吉利法律学校(のちの中央大学)で学ぶが、これも中退した。
アメリカ人教師イーストレイク(Frederick Warrington Eastlake)が主宰する国民英学会に入学し、1890(明治23)年18歳で卒業。彼の英語に関する素養は、ここで培われた。1891(明治24)年19歳にして「和歌山新報社」主筆に就任するが、翌1892(明治25)年再び上京し、自由神学校(のちの先進学院)に入学した。
その後、本願寺文学寮の英語教師を勤めながら「反省雑誌」(のちの「中央公論」)の執筆に携わるが、寄宿寮改革に関する見解の相違から、1897(明治30)年25歳の時、教職を棄て三たび上京。1898(明治31)年、社会主義研究会に加入し、幸徳秋水や片山潜などの知遇を得た。
1899(明治32)年、在日アメリカ合衆国公使館の通訳に就任。1900(明治33)年、「新仏教」を創刊。
そして1903(明治36)年31歳の時「朝日新聞社」に入社した。
入社当初の楚人冠は、主に外電の翻訳を担当していた。1904(明治37)年8月、レフ・トルストイが日露戦争に反対してロンドン・タイムズに寄稿した「日露戦争論」を全訳して掲載した。
戦争後、特派員としてイギリスに赴いた。滞在先での出来事を綴った『大英游記』を新聞紙上に連載、軽妙な筆致で一躍有名になった。彼はその後も数度欧米へ特派された。1908(明治41)年、世界一周会(朝日新聞社主催)の会員を引率して渡米した(3月18日〜6月21日)。
帰国後、外遊中に見聞した諸外国の新聞制度を取り入れ、1911(明治44)年6月、「索引部」(同年11月、「調査部」に改称)を創設した。これは日本の新聞業界では初めてだった。また1924(大正13)年52歳の時には「記事審査部」を、やはり日本で初めて創設し部長に就任した。縮刷版の作成を発案したのも彼だった。
これらの施策は本来、膨大な資料の効率的な整理・保管により執筆・編集の煩雑さを軽減するために実施されたものだが、のちに縮刷版や記事データベースが一般にも提供されるようになり、学術資料としての新聞の利便性を著しく高からしめる結果となった。
その他、校正係であった石川啄木(1909明治42年入社)の文才をいち早く認め、彼を選者として「朝日歌壇」欄を設けたり、「日刊アサヒグラフ」(のちの「週刊アサヒグラフ」)を創刊するなど、紙面の充実や新事業の開拓にも努めた。
楚人冠は制度改革のみならず、情報媒体としての新聞の研究にも関心を寄せており、『最近新聞紙学』(1915大正4年)や『新聞の話』(1930昭和5年)を世に送り出した。
外遊中に広めた知見を活かしたこれらの著作により、彼は日本における「新聞学」に先鞭をつけた。世界新聞大会(第1回は1915大正4年にサンフランシスコで、第2回は1921大正10年にホノルルで開催)の日本代表に選ばれたこともあった。
関東大震災(1923大正12年)後、それまで居を構えていた東京・大森を離れ、かねてより別荘として購入していた千葉県我孫子町(現 我孫子市)の邸宅に移り住み、屋敷を「白馬城」、家屋を「枯淡庵」と称した。この地を舞台に、「湖畔吟」「湖畔哲学」など湖畔文学というべき多くの作品を著した。
1924(大正13)年7月1日、アメリカで新移民法が施行された。同法には日本からの移民を禁止する条項が含まれていたため、日本では「排日移民法」とも呼ばれ、激しい抗議の声が上がった。楚人冠は「英語追放論」と題する一文を掲載して、同法を痛烈に批判した。
また、俳句結社「湖畔吟社」を組織して地元の俳人の育成に努めたり、「我孫子ゴルフ倶楽部」の創立に尽力し、「アサヒグラフ」誌上で手賀沼を広く紹介するなど、別荘地としての我孫子の発展に大いに貢献した。また、青少年に関心を寄せその指導に熱意を持っていた。
1929(昭和4)年 監査役、1935(昭和10)年 相談役に就任した。1945(昭和20)年10月3日、亡くなった。1951(昭和26)年、彼の指導下にあった湖畔吟社の有志により、邸宅跡地に句碑が建立された。陶芸家 河村蜻山(せいざん)が制作した陶製の碑で、「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」と刻まれている。
「楚人冠」の名は、項羽に関する逸話から採られたものである。『史記』に「人の言はく、『楚人は沐猴(もっこう)にして冠するのみ』と。果たして然り」とある。(「『項羽は冠をかぶった猿に過ぎない』と言う者がいるが、その通りだな」)杉村は、アメリカ公使館勤務時代に、白人とは別の帽子掛けを使用させられるという差別的待遇を受けたことに憤り、以来「楚人冠」と名乗った。
1933(昭和8)年に尋常小学校の唱歌として採用された「牧場の朝」(福島県鏡石町の宮内庁御料牧場であった「岩瀬牧場」を描いたといわれる)は、長年「作詞者不詳」とされてきたが、楚人冠が書いた紀行文「牧場の暁」が1973(昭和48)年に発見されたのを契機に、楚人冠が作詞者であるとの説が浮上。その後若干の曲折があったが、現在ではこれが定説とされている。
杉村楚人冠は、明治・大正・昭和にかけて朝日新聞社の記者・最高幹部として活躍した国際肌豊かな人物だった。反骨精神に満ち、辛辣、かつ風刺に満ちた評論で知られていたが、第二次大戦下に政府の弾圧を受け、筆を置いたまま、終戦直後に亡くなっている。
 
トーマス・ブラキストン

 

博物学、分布境界線研究、ブラキストン線提唱者(英)
Thomas Wright Blakiston (1832-1891)
イギリス出身の軍人・貿易商・探検家・博物学者。幕末から明治期にかけて日本に滞在した。津軽海峡における動物学的分布境界線の存在を指摘、この境界線はのちにブラキストン線と命名された。トマス・ブラキストンとも表記する。
イングランド、ハンプシャーのリミントンに生まれる。少年時代から博物学、とりわけ鳥類に関心をもつ。陸軍士官学校を卒業後、クリミア戦争にも従軍した。1857年から1858年にかけてパリサー探検隊に参加し、カナダにおける鳥類の標本採集やロッキー山脈探検などを行なう。1860年には軍務により中国へ派遣され、揚子江上流域の探検を行なう。1861年、箱館で揚子江探検の成果をまとめた後、一旦帰国。1862年には、揚子江の調査の功績に対して、王立地理学会から金メダルを贈られた。
帰国の後、シベリアで木材貿易をすることを思い立ち、アムール地方へ向かうが、ロシアの許可が得られなかった。そのため、彼は蝦夷地へと目的地を変更、1863年に再び箱館を訪れ、製材業に従事、日本初となる蒸気機関を用いた製材所を設立した。ただし、蝦夷地では輸送手段が未開発であったために、大きく頓挫することとなった。箱館戦争などの影響もあり、事業の成果ははかばかしくなかったが、そこで、貿易に力を入れることにした彼は、1867年、友人とともにブラキストン・マル商会を設立、貿易商として働いた。彼は20年以上にわたって函館で暮らし、市の発展に貢献した。函館上水道や、函館港第一桟橋の設計なども手がけ、また、気象観測の開始に寄与し、福士成豊が気象観測を受け継いだ(日本人による最初の気象観測)。
この間、北海道を中心に千島にも渡り、鳥類の調査研究を行なった。
1884年に帰国、のちにアメリカへ移住した。1885年にブレーキストンはジェームス・ダンの娘であるアン・メアリーと結婚する。従って、ブレーキストンとエドウィン・ダンは義理の兄弟ということになる。ブレーキストン夫妻は一男一女をもうけた。1891年、カリフォルニア州サンディエゴで肺炎のため没。墓はオハイオ州コロンバスにある。アン・メアリー夫人はブレーキストンの死から46年後の1937年3月にイングランドで亡くなった。
なお、1911年(明治44年)、函館図書館の主催で、彼の没後20年を期し、盛大な二〇年祭が行われた。
ブラキストン線発見を記念して、函館山の山頂にブレーキストンのレリーフをはめ込んだ石碑がある。
業績
ブレーキストンが北海道で採集した鳥類標本は開拓使に寄贈され、現在は北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園(北大植物園)が所蔵している。 1880年にプライアーとの共著で「日本鳥類目録」を出版、1883年に津軽海峡に分布境界線が存在するという見解を発表、お雇い外国人教師ジョン・ミルン(John Milne)の提案でこれをブラキストン線と呼ぶこととした。
Blakistonは、植物の学名で命名者を示す場合にトーマス・ブレーキストンを示すのに使われる。
ブラキストン紙幣事件
明治に入り、経営が悪化したブラキストン商会では、局面打開のため、清国向け貿易会社の設立を計画した。しかし自己資本が不足したことから、「現金100円を差し出すと、利息二割前渡しの120円の証券を渡す」という内容の証券を発行することとし、明治7年(1874年)、ドイツのドンドルフ・ナウマン社へ依頼したところ、別途同社に紙幣印刷を依頼していた明治政府の知るところとなり問題となる。
ブラキストン商会は届いた証券を流通させ始めていたが、外務省は、本証券は会社設立資本金集めの株券であり、発行差し止めはできないとの見解を示したのに対し、大蔵省はこれを紙幣とみなし、外国人が政府の許可なく国内で発行することは国権を侵す重大な問題であるとして、真っ向から意見が対立した。その後、明治政府と英国公使パークスとの交渉等により、ブラキストン商会の証券は通用禁止、イギリス側で回収することとなった。
ブラキストン線 (Blakiston Line)
動植物の分布境界線の一つである。津軽海峡を東西に横切る線であり、このことから津軽海峡線(つがるかいきょうせん)ともいう。
この線の提唱者はイギリスの動物学者のトーマス・ブレーキストンである。彼は日本の野鳥を研究し、そこから津軽海峡に動植物分布の境界線があるとみてこれを提唱した。また、哺乳類にもこの海峡が分布境界線になっている例が多く知られる。
この線を北限とする種はツキノワグマ、ニホンザル、ムササビ、ニホンリス、ニホンモモンガ、ライチョウ、ヤマドリ、アオゲラなどがある。逆にこの線を南限とするのがヒグマ、エゾモモンガ、エゾヤチネズミ、エゾリス、エゾシマリス、ミユビゲラ、ヤマゲラ、シマフクロウ、ギンザンマシコなどである。
また、タヌキ、アカギツネ、ニホンジカ、フクロウはこの線の南北でそれぞれ固有の亜種となっている。
ただし、エゾシカとホンシュウジカはかつては別亜種と見られていたが、近年の遺伝子研究では、どちらもニホンジカの東日本型に属するとされ、地域個体群程度の差でしかないとされるようになってきている。
その他、現在でも北海道の一般家庭ではゴキブリがほとんど見かけられないことから、かつてはゴキブリもブラキストン線を境界に北海道に棲息していないと言われていた。
最終氷期(約7万年〜1万年前)の海面低下は最大で約130mであり、最も深い所で140mの水深がある津軽海峡では中央に大河のような水路部が残った。このため、北海道と本州の生物相が異なる結果となったと考えられている。 
北海道開拓の先覚者
トーマス・ライト・ブラキストンは箱館に23年間も滞在し、その間蝦夷地の特有な動植物分布を調査研究、北海道の産業育成にも努めた人物であるが、彼はクリミア戦争にも参加している。
ブラキストンは1832年(天保3年)イングランドに生まれ、少年時代から鳥類に特段の興味を抱いていたといわれる。陸軍士官学校卒業後、イギリス軍の近衛砲兵将校としてクリミア戦争に従軍した。クリミア戦争はイギリスなどの同盟軍の勝利に終わったが、ブラキストンはロシアの黒海艦隊の基地となっているセバストポリ攻略にも参戦し、多大な戦果を挙げた。しかし、残念ながらこの戦争で弟のローレンスが戦死している。
クリミア戦争従軍後イギリスに帰還した1857年、ブラキストン24歳の時にカナダのハドソン湾やフォート・エドモンドでの地質調査をおこなっている。カナダ滞在中には独力でロッキー山脈も踏破した。
1860年(万延元年)、大尉に昇進して清国広東守備隊の指揮を命じられる。
翌1861年、5カ月にわたって揚子江流域調査を実施する。その探検記録を整理するために選んだ場所がなんと箱館。ここに3カ月間滞在する。この間に作成した研究レポートは優れたもので、翌年「英国王立地理学賞」が授与されている。
揚子江流域調査がきっかけとなって、ブラキストンはイギリスの「西太平洋商会」に雇われ、支配人として箱館に再度来訪する。商会では貿易船3隻を駆使し、手広く貿易業や製材業を営む。この時ブラキストン30歳。
この頃、日本で始めての蒸気式製材機を採用している。この機械は優れもので、箱館奉行所もその技術を学ばせるため多くの伝習生を送り込んだそうである。町民からは「木挽きさん」と呼ばれ親しまれたそうだ。
1867年(慶応3年)、「西太平洋商会」から独立し、英国人のジェームス・マルとともに「ブラキストン・マル商会」を設立。交易・製材業を拡張していった。
1868年(慶応4年)10月、戊辰戦争で幕府側の敗色が濃厚となり、榎本武揚は艦船8隻を率いて品川沖を脱出、渡島半島(今の森町近く)に上陸した。その後、榎本は五稜郭を拠点として「蝦夷島政権」を誕生させる。
当時箱館府の知事であった清水谷公考(きんなる)は青森口への撤退を余儀なくされる。箱館府の庇護下にあった「ブラキストン・マル商会」は、新政府軍のため武器・食料・石炭の調達に機動力を発揮。香港・上海・横浜を舞台に物資調達に全面協力した。一方、幕府脱走軍敗残兵たちを自社の船で東北地方に逃がしてやるなど、人道的な措置も施している。
さて、幕府が崩壊し維新戦争が終わると軍用物資の輸送が減少し、さらに新たに誕生した開拓使の事業が軌道に乗ってくると運送事業の競合相手も増え、ブラキストン・マル商会の保有船の動きが鈍くなった。その上、自社船の沈没もあり海運事業が困難になっていく。自己資金不足から、資金調達のため発行した「ブラキストン商会証券(今の株券)」にも新政府からクレームがつき、発行禁止となった。この証券の印刷はドイツの会社に依頼していたが、たまたま日本新政府の紙幣印刷も同じ会社であったため、明治政府の知るところとなったのである。大蔵省はこの株券を紙幣とみなし、その流通を差し止めたのだ。このため事業資金の調達が困難になっていく。
その後もブラキストンには不幸が重なった。使用人殺害の疑いで訴えられ(実際は盗みを働いた使用人を折檻し小屋に入れたところ、縛ったなわを解き首を吊って自殺)、またドイツ領事が殺害される事件が起き、1883年(明治16年)春、失意の中とうとう函館を去りアメリカに移ることになった。
ブラキストンは自尊心が強く、短気で気難しい一面を持っていた反面、驚くほど私利私欲の無い人物で、何よりも日本文化をこよなく愛していた。
鳥類に格別な興味を抱いていた彼は、函館滞在中、日本の野鳥を熱心に調査研究し、そこから津軽海峡に動物分布の境界線があるのではないかと推察した。
1883年2月、渡米の直前にブラキストンは「日本列島と大陸との過去の接続と動物的兆候」と題した研究成果を日本アジア協会の例会で発表する。
蝦夷地質学外伝によると、「蝦夷地ならびにそれより北方の諸島は、動物学的に申せば日本ではなく、北東アジアの一部なのであります。そこから、本州は津軽海峡という疑いのない境界線で断ち切られたのであります。。
こうして発見されたのが津軽海峡における動物分布境界線「ブラキストン・ライン」である。北海道の鳥類・動物はアムール川(黒竜江)から津軽海峡を境としてシベリア亜区に属することを証明したのだ。時にブラキストン50歳。この説は世界の学会に認められることになった。
ブラキストン・ラインを北限とする種は、ツキノワグマ、ニホンジカ、ライチョウ、アオゲラなどがあり、逆に南限とするのがヒグマ、エゾジカ、エゾシマリス、ヤマゲラ、シマフクロウなどである。ゴキブリもこの線を北限としており、北海道の一般家庭ではほとんど見かけない。
シマフクロウは北海道のシンボルだが、その学名は“bubo blakistoni Seebohm”と、ブラキストンの名前が付けられている。
ブラキストンは蝦夷(北海道)と日本は別なものとみなしており、どうも「蝦夷(北海道)」は好きだが「日本」は嫌いだったらしい。
函館山の山頂には黒御影石と白御影石の組み合わせで作られたブラキストンの碑が立っている。碑に刻まれている顔から、頑固で生真面目なブラキストンが偲ばれる。私も函館に住んでいた時分、何度か訪れたものだ。
アメリカに渡った1883年8月、ブラキストンはワシントン州で偶然にエドウイン・ダンに再会する。ダンは開拓使のお雇い外国人でケプロンやクラークとともに北海道に招かれ、長く酪農や畜産を指導してきた人物である。当然ブラキストンと親交があり、一緒に豊平川でマス釣りをした間柄である。
ダンの家に数日だけ滞在する予定であったブラキストンは、なんとダンの姉アンヌ・マリーに心を惹かれ、滞在を伸ばし熱心に彼女を口説き続けた。その努力が実を結び、滞在中に彼女の承諾を得ることができた。
1885年(明治18年)、53歳で彼女と結婚し2人の子供を授かったが、サンディエゴで肺炎になり58歳の生涯を閉じる。
彼の遺体は夫人の実家であるオハイオ州コロンバスに埋葬されている。 
蝦夷地質学 
1
トーマス=W.=ブラキストン(Thomas Wright Blakiston)である。ブラキストンの地質学的知識を示すことによって、当時の日本と欧米の知識人の地質学的知識の比較ができるだろうと思うからである。
ブラキストンという人物については知らなくても、「ブラキストン・ライン」という言葉を知っているひとは多い。ブラキストンの趣味は鳥撃ちで、たくさんの標本を集めていた。彼は職業学者ではなかったが、北海道を去ったあと、彼のコレクションからえたデータを横浜在住のプライヤーと共に1880年に発表した。この時にリストとともに津軽海峡を境に鳥類相が異なるという見解を公表した。三年後(1883.2.14.)、この津軽海峡動物相境界は「日本列島と大陸との過去の接続の動物学的兆候」となって結実する。
「蝦夷地ならびにそれより北方の諸島は、動物学的に申せば、日本ではなく、北東アジアの一部なのであります。そこから、本州は津軽海峡という疑いのない境界線で断ち切られたのであります。」
ブラキストンはその原因を地質学的過去に求めた。つまり、過去の氷期に津軽海峡が結氷し陸橋が成立することによって動物が行き来し、氷期のおわりに海峡が成立することによって分断され、現在本州と北海道の動物相の違いが生じたのである。ブラキストンのこの指摘に、工部大学校・教授のジョン=ミルン(John Milne: 1850-1913)が立ち上がった。そして、「津軽海峡という新境界線をブラキストン線(" Blakiston's line ")と呼ぶ」ことを提案した。ミルンはすでに、日本に氷河が存在したことを論じており、ブラキストン線の存在は、彼の理論を裏付けるものだったからである。「ブラキストン線」の名は、この日から始まったのである。
「ブラキストン・ライン」が有名なわりにはブラキストンという人物については知られていない。理由は不明である。考えられるのは、彼は民間人であること。つまり、「お雇い外国人」の範疇には入らず、歴史学者からは、ほぼ無視されてきたこと。生物学的な功績があるにもかかわらず、外国人でアマチュア学者であったため、科学史家からも無視されてきたことなどがあるのだろう。また、彌永芳子「トーマス・W・ブラキストン伝」によれば海外でもブラキストンについての資料を集めることは困難だったいう。海外では日本での動向が不明になっているのだそうだ。
そのため、ブラキストンという人物を語る書物はすくない。知っている範囲内ではたった二つだけである。いずれもすでに入手困難になっている。ひとつは、上野益三(1968)「お雇い外国人(3)自然科学」(鹿島出版会)中の「トーマス・ライト・ブレーキストン」である。もちろん、ブラキストンは「お雇い外国人」ではない。上野がブラキストンをこの本の最初に取り上げたのは、函館に二十三年もの間住み、複数のお雇い外国人と交流があり、キーマンであるからだ。もちろん、自然科学上の業績も無視することができないのはいうまでもない。
もう一つは、彌永芳子「トーマス・W・ブラキストン伝」である。これは、ブラキストン、T. W. 「蝦夷地の中の日本(近藤唯一、1979訳)」の付篇として発行されている。本の形態としては奇妙だが、一冊で、ブラキストンの旅行記と伝記が入手できるのはありがたい。この形態のためか高価になっているのは残念であるが。なお、「蝦夷地の中の日本」は原題が「" Japan in Yezo "」であり、「蝦夷の中の日本」が正確である。もちろん、「日本の中の蝦夷地」ではない。一般には“奇妙な表題”と思われるようだが、ブラキストンは、蝦夷と日本は別のものとみなしており、どうも、「蝦夷」は好きだが「日本」は嫌いだったらしい。あくまで「蝦夷」の旅行記であり、観察記である。その中にブラキストン・ラインを越えて、侵入してきた日本があるという意識なのだろうと思う。
ブラキストンの旅行記がもう一冊和訳されている。ブラキストン、T. W.「ブラキストン えぞ地の旅(西島照男、1985訳)」(北海道出版企画センター)である。これは、「ブラキストンが、1869(明治二)年、北海道を旅行した時の旅行記(" A Journey in Yezo ")を翻訳したものである」そうだ。原著は「1872(明治五)年、ブラキストンが英国王立地学協会誌に発表し、活字になったもの」を使用したそうだ。「英国王立地学協会」は「" Royal Geographic Society "」のことだと思う。
現在、ブラキストンのことを知る手がかりはこれだけだが、SF作家・豊田有恒がブラキストンを主人公に「北方の夢」(祥伝社)という小説を著している。
もひとつ。蛇足すれば、シマフクロウは北海道のシンボルであり、アイヌ民族からは「コタンコル-カムイ[kotankor-kamuy]」もしくは「カムイ-チカップ[kamuy-chikap]」として親しまれた。その学名はBubo blakistoni Seebohm, 1884 であり、もちろん、ブラキストンの名が付けられたものである。ブラキストンの標本をシーボウム(Henry Seebohm: 1832-1895)が記載するときにブラキストンの業績をたたえてつけたものだろう。
2
ブラキストンは、1832年12月27日、英国・ハンプシャー州レミントンに生まれた。家系は裕福で、軍人・政治家が多く、爵位を受けたものもいる。父はジョン=ブラキストン、軍人である。母は牧師・トーマス=ライトの娘ジェーン。二人の間には四人の息子が生まれ、二男がトーマス=ライト=ブラキストン。母方の祖父の名前をもらったことになる。
トーマスは王立陸軍士官学校を卒業(1851.12.6.)後、英国近衛砲兵隊に配属、少尉になる。クリミヤ戦争に出征し、勲功をたて、のちに大尉(captain)に昇進した。彼がしばしばキャプテン・ブラキストンと呼ばれるのはこのためである。
いつ頃からか、彼は博物学に興味を持ち始め、軍務で遠征した各地で鳥や植物を採集し、リストを学会誌に投稿したりしていた。この傾向は、1857〜1859年、パリサー探検隊に加わるころに一層顕著になる。パリサー探検隊とは正式名称を「北アメリカ学術探検隊」といい、西部カナダを探検した。探検の目的はカナダ・パシフィック鉄道のルート設定と植物の調査だった。隊長はパリサー(John Palliser)。隊員には地質学者で博物学者そして医者のヘクター(James Hector)、植物学者のバーゴー(Eugene Bourgeau)、数学者で天体測量士のサリバン(Johon W. Sullivan)らがいた。ブラキストンの担当は地磁気の観測であった。
ブラキストンは軍人らしく任務には忠実であったが、民間人であるほかの隊員とはソリが合わなかったようだ。何度かトラブルを起こした後、探検隊を辞任する。その後、独自にロッキー山脈の探検をおこない、鉄道ルートを発見した。この時採取した鳥類の標本は学会誌に報告されている。
彼は英国に戻り、軍務に戻った。
 1840年、アヘン戦争起きる(〜1842)
 1842年、南京条約締結
 1850年、太平天国の乱起きる(〜1864)
 1856年、アロー号事件、戦争に発展(〜1860)
 1860年、北京条約締結
英国に戻ったブラキストンは1860年、中国の広東守備隊の指揮をとることを命ぜられ、中国に向った。中国ではすでに北京条約が締結され、一応は安定化の方向に向っていた。平穏な広東地区の守備隊任務に飽きたブラキストンは、揚子江上陸の探検を企画、許可される。計画では揚子江を遡り、チベットからインドへ抜ける予定だったが、奥地はやはり混乱をきわめており、揚子江上流・金沙江河口付近の屏山(ピンシャン)までたどり着くのがやっとだった。1861年、上海に戻ったブラキストンは、この探検の詳細な報告書をまとめるために、暑さと喧騒を避け、涼しい箱館に向った。箱館は、1859(安政六)年に開港されたばかりだった。箱館では、探検の記録をまとめる一方で、周辺を探索したり、鳥類などの標本をつくっていたという。約三ヶ月を、ここで過ごして上海へ戻り、母国に帰った。
母国に帰ったブラキストンは除隊し、貿易会社と雇用契約を結ぶ。会社「西太平洋商会」は極東地域での貿易と製材事業の開発を目指していた。ブラキストンはある女性と結婚し極東地域に住み着くことを決意したようだ。この女性はブラキストンの生涯にあまり大きな位置を占めない。よって詳しいことは省略する。ただし、結婚したのは1862年7月17日とある。製材機器を船で送り込む一方で、ブラキストン夫妻は犬橇でシベリアを横断して極東へ向う。のちに政治家に転身した榎本武揚がやはり、犬橇でシベリア横断をしているが、決して楽しい旅とはいえないようだ。漂流人・大黒屋光太夫らもシベリア横断をしているが、その過酷さは大変なもので、なんで新婚早々の夫人を伴ってなのか理解に苦しむ。ともあれ、二人は(無事、かどうかはわからないが)アムール(黒竜江)河畔に着く。その後、アムール川を船で河口のニコラエフスクに到着した。ニコラエフスクといえば、1861(文久元)年に、武田斐三郎率いる亀田丸が入港。交易をおこなっていることを付け加えておく。要するに、ブラキストンと斐三郎はコンテンポラリーなのだ。
ブラキストンはニコラエフスクに到着したが、どうやら、開業はロシア当局の許可にはならなかったようだ。あきらめたブラキストンはその足で箱館に向う。箱館で借地契約をしたのが1863(文久三)年だというから、ほぼどういう時期に英国をでて、シベリア横断し、アムール河畔に着いたか推測できるだろう。ブラキストンはマール(J. Marr)と共同出資でブラキストン・マール社( Blakiston Marr & Co. )を設立し、貿易に力を注いだ。ブラキストン・マール社は「AKINDO」(丸・号)ほか数隻の帆船を所有し、国内外の物資輸送に活躍した。「AKINDO」とは商人(あきんど)のことである。また、ブラキストンは箱館在住の日本人商人のコンサルタントもおこない、日本人の友人もたくさん出来て、生活は安定していた。
箱館(函館)における気象観測は1854(安政元)年から1858(安政五)年まで、箱館奉行所で「風向・風力・天気・気温・ほか」が定時観測としておこなわれていた(函館市史・デジタル版)。これが知りうる最初の長期定点気象観測である。その後、1859(安政六)年から1860(万延元)年の間、ロシア人医師アルブレヒトが箱館付近の自宅で気象観測をおこなっていたことが記録に残っている。一時期はこれが日本最初の気象観測といわれたこともあるようだ。約三年間の空白を置いて、 ブラキストンが1864(元治元)年から1871(明治四)年までの八年間は雨雪日数を、1868(慶応四)年から1871(明治四)年までの四年間は、気温、気圧を観測した。これがこれが引き金となり、開拓使・三等属測量課長の福士成豊が官営測候所をつくり、ブラキストンの観測機器を引き継いで、日本最古の函館測候所に引継がれて今日に至っている。
さて、肝心のブラキストンによる蝦夷地探検であるが、実はよくわかっていない。唯一ハッキリしているのが、ブラキストン(1872)「えぞ地の旅(西島照男、1985訳:原題A Journey in Yezo)」のみである。原著は、“英国王立地学協会誌”に発表されたものとあるが、引用が不完全でよくわからない。これは1869(明治二)年に公用で北海道一周をした時の記録である。有名なのは1883年2月から10月にかけて「ジャパン・ガゼット(The Japan Gazette)」紙に連載された" JAPAN IN YEZO "(邦名「蝦夷地の中の日本」として近藤唯一訳)であるが、これは「1862(文久二)年から1882(明治十五)年の間に何回か行なわれた蝦夷島旅行の記録」であるとされている。実際には、何回かの旅行を地域別にまとめたものらしく、彼の旅程の復元には使えない。上野益三「お雇い外国人」には、ブラキストンの旅程を復元しようとした努力の跡が見られるが、著者が「遺憾」に思う通り、成功していない。ブラキストンが来日してから、かなりの間、外国人が自由に動き回れる範囲は制限されていた。どうやら、そのためにブラキストンは不法に旅行をしたらしい。もちろん、それには現地日本人の協力が必要なわけで、もしものことを考えて、ブラキストンは意図的に旅程をわかりにくいものしたらしいのだ。復元に困難があるのは当然であろう。一方で、公用でおこなわれた旅行の方は行程がハッキリしている。
以下、上野が示したブラキストンの旅行のうちわかるものを記す。
年不明の旅:函館から札幌往復 (函館を出発。駒ヶ岳西麓を通り、森へ。森から船で室蘭へ。室蘭から登別・白老・苫小牧を通り内陸部へ。美々・千歳から札幌へ。帰路は往路を室蘭まで。室蘭から陸路を噴火湾沿いに有珠・礼文華・静狩・長万部・黒岩・落部・森へ。森から函館へと帰った。)
1874(明治七)年の旅:函館から札幌へ (函館から現在の国道5号線のルートで、長万部から黒松内山道を通り、日本海海岸沿いを岩内へぬけまた現在の国道5号線に戻り、余市から小樽を通り札幌へ。)
年不明の旅:函館から森へ (函館から湯川・銭亀沢を通り、汐首岬・戸井・尻岸内を経て、恵山岬を回り、佐原・尾白内を通って森へでた。)
年不明の旅:函館から江差へ (函館から大沼を見てから西に向い、中山峠を越えて、厚沢部川沿いに、江差へでたとある:地形図を見てもこのルートは理解できない)。
年不明の旅:函館から江差へ (もう一つは木古内・知内・吉岡から、白神岬を見て、福山へ。それから、日本海岸を江良・石崎・上ノ国経由で江差へ。)
年不明の旅:江差から寿都へ (江差から乙部・熊石・久遠・太櫓をすぎ茂津多岬へ。茂津多岬から島牧・弁慶岬を通り、寿都へ。)
年不明の旅:函館から上川へ (函館から船で石狩へ。石狩平野を江別・幌向・美唄・神居古潭を通って上川へ。)
年不明の旅:函館から宗谷へ (函館から船で石狩へ。石狩から増毛・留萌・鬼鹿・苫前・天塩・稚内を通り、宗谷へ。)
1875(明治八)年の旅:函館から根室を経て、宗谷へ (苫小牧から太平洋岸沿いを南下、静内・三石・浦河・様似・幌満・幌泉から猿留山道を通り、東海岸へ。猿留・大津を通り、釧路原野へ。白糠・釧路・厚岸・浜中・落石を経て、根室へ。根室からは、西別河口・別海・野付岬・標津を通り、斜里にでた。さらに西へ進んで、網走・常呂・湧別・紋別・枝幸から宗谷へ)
上野は「ルートを記するのに、多くのページを費やしすぎた」を書いているが、そんなことはない。もっと詳しく書いてくれてもいいぐらいだ。もっといえば、このルートは何から引用したのか、何を分析したのかも語って欲しかった。
ほかに、以下の旅行がある。
1881(明治十四)年:択捉島渡航 (函館から船で裳岬沖経由、とまであるが、択捉旅行に関しては満足な記述がない)
1878(明治十一)年:小笠原諸島渡航 (詳細不明)
ブラキストンがその事業をやめ、故国英国へ帰るために日本を去ったのは、1883(明治十六)年とも1884(明治十七)年ともいわれている。そのまま英国に帰ってからアメリカに渡ったとも、帰国の途中にアメリカに渡ったともいわれている。アメリカではエドウィン=ダンと親交を結び、ダンの姉(妹という説もある)アンヌ=マリーに求婚した。ブラキストンは箱館につれて来た妻とすぐに別れてから独身であった。結婚の承諾を得たブラキストンはオーストラリア・ニュージーランドを旅行し、1884年、英国に一度帰った。再び渡米し、1885年にアンヌ=マリーと結婚。ブラキストンは五十二歳であった。ニューメキシコ州・シマロンに新居を定め、アンヌ=マリーとの間に一男一女を儲け、平穏な生活が続いた。1891年10月15日、カリフォルニア州サンディエゴ付近を旅行中、肺炎にかかり、五十八歳の生涯を閉じた。遺体はオハイオ州コロンバスへ運ばれ、そこで埋葬された。
3
大著である「蝦夷の中の日本」から引用したい所だが、旅行の行程が唯一ハッキリしている「えぞ地の旅」から引用することにする。なお、「蝦夷の中の日本」中にも驚くほど多彩な地質学用語・地質学的な解説がでてくることを記しておく。
1869(明治二)年9月15日(八月十日)、ブラキストンは箱館港を厚岸に向けてアキンド号で出帆した。後半になってから、旅の目的がわかるが、宗谷の海岸で遭難した英国艦・ラトラー号の積み荷の確認と処分の依頼を開拓使からうけていた。アキンド号は襟裳岬を回る。のっけから、日本の地図・海図に対する苦情が延々と書かれている。もちろん、当時の日本の地形図のレベルは蝦夷地質学のライマンのところで示したように、欧米のそれとは比較にならないものだったのは事実だった。
厚岸湾にはいってすぐに、海流・地形・植生そして地質について記述がある。和訳をそのまま引用しよう。
「地質的には、二次生統、礫岩、砂岩、及び石版状の頁岩がある。」
厚岸周辺にはいわゆる根室層群が分布しており、岩相の記載としては矛盾がない。ただし、「二次生統」という用語は現在の地質学にはない。その元の語を知りたい所であるが、たぶんアルディーノ(Arduino, G. :1713-1795)がイタリア山地の研究でつかった「第二系(secondary)」のことだろう。イタリアのそこでは、現在、海生化石を含む中・古生層が分布しており、上部白亜系が大部分をしめるとされる根室層群の位置付けと矛盾がない。
ブラキストンはアイヌの風俗についてふれたあと、厚岸湾口にある大黒島についてふれている。
「島が非常に軟らかい規則的なスレートの頁岩の層で出来ていて、…太平洋から押し寄せる大波に、いつも洗われているから」
そのうちに無くなって暗礁になるだろうとしている。二つの大黒島(大黒島と小島のこと)は今でも健在であるから、ブラキストンの予言は外れたことになるが、ブラキストンがこう予測したのは、昔のオランダ人ほかの航海者が記録している大黒島は陸続きになっているように描かれていたかららしい。これを、彼は記述の間違いではなく、実際にそうなっていたが急速な侵食のために島になったと考えたのだ。
やがて、アキンド号は出港し、ブラキストンは彼がクレームをつけた日本製の地図で、まだほかの外国人の誰もやったことがない旅行に出ることになった。明治が始まったばかりの当時、内陸部はもちろん、北海道の沿岸部の道といえば、ケモノ道程度の「こうでもしなければ、ほとんど通れない」というところだけ人手の入った難所続きであった。
10月6日、浜中(厚岸)をでる。根室半島の付け根を通り、北上する。知床半島の付け根を越し、斜里に入る。斜里から知床半島の山々が見える。
「ごく海岸に近い、この群れになった山の中の火山から、蒸気が見える。そこには大きな純粋の硫黄の層があるというが、会所の一番上の人の話によると、海岸が険しいので、採鉱が出来ないそうである。」
これは知床硫黄山のことだろう。
13日。斜里をでて、網走に向う。
砂浜を渡り、やがて、海と潟湖の間を通った。濤沸湖と藻琴湖だろう。
ブラキストンは網走に着く直前にある崖について記述している。
「…実に奇妙な崖がある。灰色の岩で出来、四辺形のブロックに割れていて、遠くから見ると、実に玄武岩とそっくりなので、すぐそばに行って見なければ、だまされる程である。」
では、なんであるかということは明示していない。場所的にはポンモイ岬にある通称ポンモイ玄武岩のことかと思われる(道東の自然史研究会編「道東の自然を歩く」)。すると、ブラキストンの第一印象は正しかったことになる。
翌日、網走から常呂へ向う。
網走川を舟で渡り、海岸沿いを海岸にでたり、山道に入ったりして進む。
「海岸は砂岩と礫岩の崖になっている。」
能取湖の岸にでて昼食。砂浜を行くと、
「所々で頁岩の高い崖の下を通り、崖の層は随分傾斜している。」
翌日、常呂から佐呂間を過ぎて湧別へ。
湧別川河口では、円礫になった「黒水晶が見付かった」ので、採集した。
16日、紋別会所に着く。
そのまま引用すると、「この会所は、…(地質学に関係ない記述なので省略)…で、赤みを帯びた、堅い二次性の岩石からなる、傾斜した岬の上にある」そうだ。
五万分の一地質図幅「紋別」(道立地下資源調査所)によれば、紋別山と紋別公園のある岡やその延長は、新第三紀の玄武岩となっており、一見、ブラキストンの観察と合わない。しかし、その基盤は「ジュラ紀〜三畳紀の諸滑層(珪質砂岩、頁岩)」であり、それが見えていたのだとしたら、「二次性の岩石」とは、前出のアルディーノの「第二系(secondary)」のことを意味しているのだろう。
10月18日、沢木から幌内へ。
「ここの地質上の構造は、東の海岸と異なり、堅い始原岩が、本来の場所や玉石の中にある。」
日本語としても、少し意味がとりにくいが、アルディーノのいう所の「始原系(primary)」のことだとすれば、風烈布あたりに分布する花崗岩もしくは内陸部の花崗岩類の礫が転石として落ちているのかも知れない。
19日、幌内からチカトムシ(現在の地名不明)へ
「台地は海岸で削られて、低い崖になり、岩が出たりあるいは粘土や砂礫の層が現れている。小さな成層岩が一つ、わずかに見えるが、チカトムシに近づくにつれ、花崗岩と、その外の硬い原成岩石が余計目に付く。」
チカトムシの現在の地名がわからないのでなんだが、前述のように風烈布あたりには花崗岩が分布している。「原成岩石」の原語は、なんなのか知りたい所だ。たぶん、「始原系(primary)」を専門用語とわからずに、訳者がその時その時、別な語に訳しているのだろうと思う。
20日。チカトムシから枝幸へ。
枝幸の役人から、1868年の夏に、遭難した「女王陛下のラトラー号」について訊く。海岸には、ラトラー号の部品と思われるオーク材の破片が打ち上げられていた。
枝幸から斜内へ。斜内から猿払へ。猿払から宗谷へ。
宗谷岬を回り、宗谷の会所に着いたのは24日だった。
25日は宗谷に滞在して、ラトラー号の積み荷・備品の処分をする。公用は終わった。
26日、日本海岸を南下するために出発する。秋も終りなので、紅葉が美しかった。
宗谷から抜海へ。抜海から天塩へ。
遠別川をすぎると、山が海岸にせり出している。
「海岸には粘土質の岩の崖が、一直線に続いている。高さは大体二百から二百五十フィートで、一番上は、粘土と砂利の層である。」
「この自然の壁を破る、雨溝があまりなく、崖は何マイルも続いている。」
私は大学院時代に、ここに微化石研究用の資料を採集しにいったことがある。すでに当初のもくろみは不可能なことがわかっていたので、人っ子一人いない海岸で立ち尽くしていたことを思いだす。
海岸段丘の研究でも有名な所である。
天塩から風連別へ。風連別から苫前へ。
30日、苫前から留萌へ。
小平川を渡る。
「この谷では石炭が発見されており、見本を見せられた。光ってはいるが、ごく小さいのを試して見ると、良く燃える石炭ではないらしい。おまけに、海から十里離れ、また川は船が通れないので、現在のところ、この石炭は何も価値がない。」
ここは空知炭田の末端部にあたる。小平蘂炭鉱、住吉炭鉱、青木炭鉱などと呼ばれ、昭和になってから採掘されたものだろう。一部では露天掘りが行なわれ、現在でも露頭が残っているそうである。青木炭鉱からの石炭は強粘結炭とされ、産出さえあれば商品になったというから、ブラキストンの見た標本は、たまたま質の悪い部分のものだったのだろう。
留萌では、在住の役人に石炭について意見を求められた。
増毛山道はすでに雪だというので、海岸沿いを舟で南下する。
雄冬岬をすぎる。
「景色は、実に雄大である。雄冬岬のすぐ北側に、明るい赤色の砂岩の、見事な高い垂直の崖がある。あちこちに、小さな滝があり、また、ある所には裂け目や、ほら穴や、礫岩と砂岩特有の面白い形をした、突き出た高い岩がある。また、硫黄泉が幾つかある。」
11月1日。浜益毛で昼飯をとり、再び舟に乗る。濃昼で泊まる。
濃昼から厚田に向う。
「海岸は粘土と頁岩の壁になっている。」
石狩を通って、小樽内へ。小樽内から忍路へ。忍路から余市へ。余市川を上り、留辺蘂(峠の手前)で泊し、岩内へ向う。堀株川へ出て岩内へ。岩内に泊まり、翌日目的地の茅沼炭鉱へ。
11月7日から11日まで、茅沼炭鉱に泊まる。
ブラキストンは、大島(高任)が茅沼炭鉱を発見したと書いてあるが、ブラキストンの勘違いだろう。
続けて、
「この人は、二人のアメリカ人鉱山技師の指示を受けていた。また、このアメリカ人は、1862年のある時期、えぞにいて、政府に雇われていた。」
二人のアメリカ人とは、もちろん、ブレ−クとパンペリーのことである。
「E. H. M. ゴウアー氏は、彼の兄弟──箱館駐在の女王陛下の領事──と一緒に、1866年にここを視察し、炭鉱の再開を宣言した。」
「ゴウアー氏は、その後技師長に任命され、その指示で、炭鉱から海までの軌道が始まった。」
「ゴウアー氏」とは、「蝦夷地質学の参」で紹介した「ガワー」のことである。
「この工事は、内戦で邪魔されたが、政府は1869年の秋、ジェームス・スコット氏をよこし、これを完成させようとした。氏は、私がそこへいった時、丁度これを完成したところで、石炭が初めて軌道を走るのを見て、満足していた。実際、日本最初の鉄道が出来たといって良いかもしれない。」
「内戦」とは、「箱館戦争」のことである。
以下、茅沼炭鉱についての記載がある。
「主要坑道は、厚さ七フィート半の炭層に沿い、北北東に進み、徐々に、少なくとも四十五度西北西に傾斜する。」
少し日本語が微妙だが、傾斜しているのは坑道ではなく、炭層だろう。
「坑道は、幅八フィート、高さ十フィートで、私がそこに行った時には、既に五十から六十ヤード掘っていた。それから小さい坑道が分かれていて、三フィート半の炭層にぶつかる。」
「トロッコが通れる主要坑道では、そこから分かれて、上と下へ一緒に掘り進むつもりであったが、まだこれは全然実施していない。」
「上の方へだけ掘ると思うが、その訳は、下の作業場からポンプで水を出したり、石炭を運び上げる労力があったら、山の低い方の同じ炭層へ、別の坑道を掘った方が良いからである。」
「炭鉱の入口に、平らな台地があるが、これは土地を切り開き、土を盛って作ったもので、そこに小屋が一軒建っている。ここに石炭を──冬など雪が深くてすぐ運べない時──貯蔵して置く。」
「私がそこへ行った時の職員は、役人三人と──といっても仕事はほとんどせず──それに四十三名の男で、この中に大工、鍛冶、監督、人夫、及び十九名の坑夫が含まれる。スコット氏が仕事を統括し、その指示で、万事順調に進んでいるようであった。」
「大工小屋、鍛冶場、エンジニアの仕事場が、軌道の低い方の終点近くの線路のそばに建っている。そこはまた、職人の何人かが住んでいるが、坑夫は主要軌道の始発点近くの家に住んでいる。そこは、炭鉱で働くのに、便利な場所だからである。」
炭鉱の状況が細部にわたって観察されている。次に、石炭の運搬に関する記述が続く。
茅沼で用いられている湾は非常に小さなもので、西風が吹くと避ける場所がないこと。そのため、利用できる船は悪天候時には陸揚げできる小さなものしか使えないことを見取った。大型船が使える波止場をつくるには、莫大なコストがかかるだろうとし、それでも、気候の安定した時期にしか使えないだろうことも予測している。
しかし、適切な管理の元では、海外より安く、日本のどこの石炭よりも質のいい石炭が供給できるだろうとしている。
11月11日、茅沼炭鉱を出て、岩内にむかう。往路をそのまま余市、小樽、石狩へと帰った。石狩にしばらく滞在し、11月19日、出発する。
石狩から札幌太へ。札幌から対雁へ。対雁から漁太へ。漁太から千歳川へ。千歳川から植苗へ。勇払会所には23日に着いた。
勇払から白老へ。
途中、
「浜から少し離れた泥炭地を行くと、絵のように美しい樽前の火山にぐんぐん近づいて来る。この山は、日本人の話によると、百六十年前と三百年前に噴火したそうである。」
白老から逢寄へ。逢寄から幌別へ。幌別から絵鞆へ。絵鞆から有珠へ。有珠から虻田へ。虻田から礼文華へ。
礼文華から舟に乗り、海岸を行く。
「見事な崖、高く突き出た岩、洞穴、谷、それに砂岩と礫岩質の岩特有の形をした岩が在り、この山岳地帯は主にこれらの岩で出来ているようである。」
静狩の海岸に上がる。長万部へ。羊蹄山、駒ケ岳、有珠岳が見える。噴火湾(Volcano bay)という命名に感心する。
長万部から黒岩へ。訓縫砂金場の情報が短く触れられている。
「黒岩では、高地が浜まで迫り、ぎざぎざした岩が、固まって少し海の方へ突き出ている。硬い火打ち石の岩で、その中に、白い、石英の縞と球形の団塊がある。」
これは玄武岩質安山岩の熔岩で、海底火山の活動によって出来たものとされている。球果状の瑪瑙が含まれている(地団研道南班「道南の自然を歩く」より)。
遊楽部から山越内を過ぎ、鷲ノ木にはいる。
山越内の手前で、「製鉄所を見た」と書かれている。が、その記述からは「たたら製鉄」であることを思わせる。噴火湾沿岸に多産する砂鉄を原料としている。
遊楽部の谷に、鉛鉱山があり徳川幕府が操業していたが、今はやっていない。
「四年前に、ある個人が鉛鉱(山)を再開し、現在鉛と共に、かなりの銀を生産している。この人も同様に、十分な資本を持っていない」
「この外に、山越内かあるいはその近くに、油井がある。しかし、そこを通った時、このことを聞くのを忘れてしまった。」
「更にまた、大野村近くの谷に、鉛鉱(山)が有ることをここに指摘しても良いだろう。これは、箱館からせいぜい十八マイルで、以前、政府がやっていたが、今では中止して何年かになる。」(()内は筆者が付加)
これは、大野鉱床のことで、大永鉱山ともいったらしい。銅・鉛・亜鉛を鉱種とし、閃緑岩を母岩とする鉱脈型鉱床である。安政期のほか明治四年頃採掘。昭和に入ってからも探鉱の対象となっている。
「まず、えぞで富を産むものの一つは、鉱山である。これで政府が収益を上げるのは、ほとんど不可能だろうが、このような事業が出来る資本と能力のある、会社か個人にうまく貸した方が良いかもしれない」
ライマンらも公営ではなく、民営でという意見だった。道内の鉱山について歴史的・系統的にまとめたものは見あたらないが、ライマンやブラキストンが考えたような開発は、おこなわれなかったように思う。そのようにおこなうには、鉱山技術者や経営者の養成が必要であるし、それにはまだまだ時間が必要だった。
翌日、鷲ノ木をたって、森、宿野辺、大野を通り箱館に着いた。11月29日であった。約千五百km、二ヶ月にわたる旅だった。
最後の章には、気象観測の創始者であるブラキストンらしく「箱館の気候について」述べているが、割愛する。
 
パトリック・ラフカディオ・ハーン (ヘルン・小泉八雲)

 

Patrick Lafcadio Hearn (1850〜1904)
語学教育 『怪談』(英)
    小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン)
モラエス、フェノロサと並ぶ日本紹介者で、この時代に来日した外国人の中でも最もよく知られた人物。父はアイルランド人、母はギリシア人。ギリシャのレフカダで生まれ、アイルランド、フランス、ロンドンで学び、アメリカの新聞社に勤務するなど根っからの「国際人」であった。1890年、ローウェルの『極東の魂』を読んで日本に興味を持ったハーンはまず新聞記者として来日。すぐに日本に魅せられ改めて島根県松江尋常中学校に英語教師として赴任。その後松江の士族の娘小泉節子と結婚、熊本の第五高等学校に転勤した。すっかり日本の虜となり、日本に馴染んだハーンは1896年帰化し、妻の旧姓から「小泉」、日本最古と言われる和歌「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに、八重垣つくるその八重垣を」に現れる、「出雲国」にかかる枕詞の「八雲立つ」に因んで「八雲」と名乗った。同年から上京して東京帝国大学や早稲田大学で英文学を講じながら、『日本瞥見記』『東の国から』などの随筆を書き、様々な視点から日本の姿を欧米諸国に紹介した。その中でも1904年アメリカで刊行された『怪談』は、日本の古典や民話などに取材した創作短編集であり、その中の『耳無し芳一』『雪女』『貉』などは日本人にもよく知られ愛された物語となっている。松江に残された居住跡は1940年に国の史跡に指定されている。妻の回想『思ひ出の記』にハーンの好きなもの嫌いなものリストがあり、彼の人物像が良く見えて面白い。好きなもの=西、夕焼、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱、マルティニークと松江、美保関、日御碕、焼津、ビフテキ、プラム・プディング、煙草。嫌いなもの=うそつき、弱いもの苛め、フロックコートやワイシャツ、ニューヨーク。「日本人は最も少ない費用をもって最も多い楽しみを味わう人種である」彼の残した言葉だが、日本人は精神的な楽しみを重んじる天才と謳っている。今の物質に依存した娯楽にあふれた日本を見たら彼は何て言うだろうか? 
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ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。
ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。
1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗る。「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。 日本の怪談話を英語でまとめた『怪談』を出版した。母がシチリア島またはマルタ島生まれのギリシャ人で、アラブの血も混じっていたらしく、のちに八雲自身、家族や友人に向かって「自分には半分東洋人の血が流れているから、日本の文化、芸術、伝統、風俗習慣などに接してもこれを肌で感じ取ることができる」と自慢していた。父母を通じて、地球上の東西および南北の血が自分の中に流れているという自覚が、八雲の生涯と文学を特徴づけている。異国情緒を求める時代背景もあったが、八雲は生涯を通じてアイルランドからフランス、アメリカ、西インド諸島、日本と浮草のように放浪を続けた。かつ、いかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかった。シンシナティでは州法を犯してまで混血黒人と結婚しようとし、のちに小泉セツと家庭を持つに際しても、何ら抵抗を感じなかった。
2016年11月、愛知学院大学の教授によって1896年(明治29年)当時の英国領事の書簡を元にした研究論文が発表され、小泉八雲がイギリスと日本の二重国籍だった可能性が高いことが示唆されている。(後述)

1850年、当時はイギリス領であったレフカダ島(1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父チャールス・ブッシュ・ハーンと、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島出身のギリシャ人の母ローザ・カシマティのもとに出生。生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いた。
父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ=アイリッシュである。イギリス軍の軍医少佐としてレフカダ島 (Lefkada) の町リュカディアに駐在中、キティラ島(イタリア語読みではセリゴ島)の裕福なギリシャ人名士の娘であるローザ・カシマティと結婚した。カシマティはアラブの血が混じっているとも伝えられる。ラフカディオは3人男子の次男で、長男は夭折し、弟ジェイムズは1854年に生まれ、のちにアメリカで農業を営んだ。
1851年、父の西インド転属のため、この年末より母と通訳代わりの女中に伴われ、父の実家へ向かうべく出立。途中パリを経て1852年8月、両親とともに父の家があるダブリンに到着。移住し、幼少時代を同地で過ごす。
父が西インドに赴任中の1854年、精神を病んだ母がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった。
フランスやイギリスのダラム大学の教育を受けた後、1859年に渡米。得意のフランス語を活かし、20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博す。
1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日。来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年結婚。
松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺した。日本では『雨月物語』『今昔物語』などに題材を採った再話文学で知られる。
私生活では三男一女をもうけ、長男にはアメリカで教育を受けさせたいと考え自ら熱心に英語を教え、当時、小石川区茗荷谷に住むイサム・ノグチの母レオニー・ギルモアに英語の個人教授を受けた。
1904年(明治37年)に狭心症で死去。満54歳没。彼が松江時代に居住していた住居は、1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。
年譜
1850年 - レフカダ島にて誕生。
1852年 - ダブリンに移住。
1854年 - 精神を病んだ母がギリシャのキティラ島へ帰国。
1856年 - 父母が離婚し、父は再婚。
1863年 - アショウ・カレッジに入学。フランスの神学校に移るも帰国し、ダラム大学セント・カスバーツ校入学。
1865年 - 寄宿学校で回転ブランコで遊んでいる最中にロープの結び目が左目に当たって怪我をし、隻眼となる(以後左目の色が右目とは異なって見えるようになり左を向いた写真ポーズを取るようになる)。
1866年 - 父が西インドから帰国途中に病死。大叔母は破産した。
1867年 - ダラム大学セント・カスバーツ校退学、ロンドンに行く。
1869年 - リヴァプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。
1872年 - トレード・リスト紙の副主筆。
1874年 - インクワイアラー社に入社。マティ・フォリーと結婚。オハイオ州では当時違法だった黒人との結婚で、正式な届け出が受理された形跡はない。結婚式は最初に頼んだ牧師から拒絶され、次に依頼した黒人牧師が司式した。
1875年 - マティとの結婚も一因となり、インクワイアラー社を退社。
1876年 - インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社。
1877年 - 離婚、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ行く。
1879年 - アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗。
1882年 - アイテム社退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。この時期の彼の主な記事はニューオーリンズのクレオール文化、ブードゥー教など。
1884年 - ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で農商務省官僚の服部一三に展示物など日本文化を詳しく説明され、この時、高峰譲吉に会う。
1887年 - 1889年 - フランス領西インド諸島マルティニーク島に旅行。
1890年 - ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカでのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。なお、来日の動機は、このころ英訳された古事記に描かれた日本に惹かれたとの説もある。 ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り、4月4日横浜港に着く。その直後、トラブルにより契約を破棄する。
  7月、アメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる。
  8月30日、松江到着。
1891年 1月 - 中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉セツ(1868年2月4日 - 1932年2月18日)と結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)。
  11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる。長男・一雄誕生。熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた。
1894年 - 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
1896年 - 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)。
1897年 - 次男・巌誕生。
1899年 - 三男・清誕生。
1902年3月19日 - 西大久保の家に転居する。
1903年 - 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子誕生。
1904年3月 - 早稲田大学の講師を務め、9月26日に狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。戒名は正覚院殿浄華八雲居士。墓は東京の雑司ヶ谷霊園。
1915年 - 贈従四位。
評価についての論争
東京帝国大学名誉教師となった日本研究者でハーンとも交友があったバジル・ホール・チェンバレンは、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。
ハーン研究者でもある比較文学者の平川祐弘はチェンバレンの説に反対して、ハーンは日本を愛し暖かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の太田雄三はこれに対し、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書)の書中で反論した。
また、平川・太田と同じ研究室(東大大学院・比較文学比較文化)出身の小谷野敦は著書『東大駒場学派物語』において、近年のハーン肯定論者の多くが同研究室の関係者であることを指摘している。
平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に一部誇張があったことを認めているが、現代の日本での支持は高い。
1904年の著作『Japan-An Attempt at Interpretation』は、太平洋戦争中、アメリカの対日本心理戦に重要な役割を果たしたとされる。当時のアメリカ軍准将であり、ダグラス・マッカーサーの軍事書記官・心理戦のチーフであったボナー・フェラーズは、当時のアメリカが利用できる、日本人の心理を理解するための最高の本であったと述べたという。
エピソード
身体、外見
もともと強度の近視であったが、さらに晩年は右目の視力も衰え、高さが98センチもある机を使用して紙を目に近づけランプの光を明るくして執筆を行った。
16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、白濁した左目を嫌悪し、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。
「 たゞ見る身材五尺ばかりの小丈夫、身に灰色のセビロをつけ、折襟のフランネルの襯衣に、細き黒きネクタイを無造作に結びつけたり。顔は銅色、鼻はやゝ高く狭く、薄き口髭ありて愛くるしく緊まれる唇辺を半ば蔽ひ、顎やゝ尖り、額やゝ広く、黒褐色の濃き頭髪には少しく白を混へたり。されど最も不思議なるは其眼なり。右も左を度を過ぎて広く開き、高く突き出で、而して其左眼には白き膜かゝりてギロギロと動く時は一種の怪気なきにしもあらず。されど曇らぬ右眼は寧ろやさしき色を帯びたり。』『やがて胸のポケットより虫眼鏡様の一近眼鏡をとり出て、之をその明きたる一眼に当てゝ、やゝさびしく、やゝ羞色あり、されど甚だなつかしき微笑を唇辺に浮べつゝ、余等の顔を一瞥されし時は、事の意外に一種滑稽の感を起さゞるを得ざりき。突如その唇よりは朗かなれど鋭くはあらぬ音声迸り出でぬ。英文学史の講義は始まれる也。出づる言葉に露よどみたる所なく、洵に整然として珠玉をなし、既にして興動き、熱加はり、滔々として数千語、身辺風を生じ、坐右幽玄の別乾坤を現出するに及びて、余等は全然その魔力の為めに魅せられぬ。爾来三年の間余は一回としてその講義に列するを以て最大の愉快と思はざるはなかりき。 」
執筆関係
非常に筆まめであり、避暑で自宅を離れている間、あとに残った妻セツに毎日書き送った手紙が数多く残されている。ハーンは日本語がわからず妻は英語がわからないため、それらは夫妻の間だけで通じる特殊な仮名言葉で書かれている。
「原稿は9回書き直さなければまともにならない」とし、文章にこだわった。例えば「雪女」の結文「Never again was she seen」のsの3連続を風呂鞏は代表例としてあげる。
著作の原稿料にはこだわっていたが貯蓄にまったく関心がなく、亡くなった当時小泉家には遺産となるものがほとんど残っていなかった。当時小泉家には妻の親類縁者が多く同居しており、著述業と英語教師としての収入はほぼ全額彼らの生活費に充てられていた。
アメリカで新聞記者をしていたとき、「オールド・セミコロン(古風な句読点)」というニックネームをつけられたことがある。句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたことを指している。
英語教師としては、よく学生に作文をさせた。優秀な学生には賞品として、自腹で用意した英語の本をプレゼントしていた。
アメリカ在住中に勤勉が習い性になり、日本では学校教育の傍ら14年間に13冊の本を書いた。
tsunamiという英語をみんなが知る英語にしたのはスマトラ島沖地震 (2004年)からであるが、最初に英語として紹介したのはハーンの 1897年の作品「生神」の英語版"A Living God"からである。2004年まではtidal wavesと地震と無関係の用語と混同されていた。
 
エドワード・シルヴェスター・モース

 

Edward Sylvester Morse (1838〜1925)
生物学 大森貝塚の発見(米)
アメリカの動物学・考古学者。小学校も卒業せず独学で生物学などを学び大学教授・博士になった。シャミセンガイを研究するため1877年来日、東大で生物学・動物学を講じ、ダーウィンの進化論などを紹介した。開通したばかりの汽車に乗り、横浜から新橋に向かう途中、車窓から貝殻のむき出しになった地層を偶然見つけ、さっそく発掘すると土器や石器が出土し日本の古代(縄文時代後期)の遺跡(大森貝塚)であることを発見。後の日本考古学・人類史研究の基礎を築いた。日本中を旅してまわり、日本人の生活の様子をスケッチし、生活用具や陶器を収集した。3万点に及ぶ民具はアメリカ・セイラムの博物館に収められている。その中には現在日本にも存在しない貴重な民具もある。 
2
アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。大森貝塚を発掘し、日本の人類学、考古学の基礎をつくった。日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介した。名字の「モース」は「モールス」とも書かれる。
メイン州ポートランドに生まれた。高校は入退学を繰り返し、製図工の勤めも長続きしなかったが、13歳ごろから採集し始めた貝類の標本は、学者が見学にくるほど充実していた。1854年、18歳で博物学協会に入会し、1857年に新種のカタツムリを協会誌上に報告した。
ダーウィンの『種の起源』が出版された1859年から2年余、貝類研究の縁で、ハーバード大学のルイ・アガシー教授の学生助手を務める。アガシーの教授を受ける中で、アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたのを疑問に思ったのが、腕足類研究を思い立ったきっかけであった。アガシーやジェフェリーズ・ワイマン(Jefferies Wyman)の講義を聴き、ワイマンの貝塚発掘にも関係した。生物学界に人脈も作った。1863年にエレン・エリザベス・オーウェン(Elen Elizabeth Owen)と結婚。
講演にたけ、その謝礼金が生活を助けた。1867年、ジョージ・ピーボディ(George Foster Peabody)の寄付を得て、3人の研究仲間とセイラムに『ピーボディー科学アカデミー』(1992年以降のピーボディ・エセックス博物館)を開き、1870年まで軟体動物担当の学芸員を務めた。1868年、セイラムに終生の家を構えた。
1871年、大学卒の学歴がないにもかかわらず、31歳でボウディン大学教授に就任し、ハーバード大学の講師も兼ねながら、1874年までボウディン大学で過ごした。1872年からアメリカ科学振興協会の幹事になった。
日本
進化論の観点から腕足動物を研究対象に選び、1877年(明治10年)6月、腕足動物の種類が多く生息する日本に渡った。文部省に採集の了解を求めるため横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝塚を発見。これが、後に彼によって日本初の発掘調査が行なわれる大森貝塚である。訪れた文部省では、外山正一から東京大学の動物学・生理学教授への就任を請われた。江ノ島に臨海実験所を作ろうとも言われた。
翌月にあたる7月、東大法理文学部の教授に就任。当時、設立されたばかりの東大の外国人教授の大半が研究実績も無い宣教師ばかりだったため、これに呆れたモースは彼らを放逐すると同時に、日本人講師と協力して専門知識を持つ外国人教授の来日に尽力。物理学の教授には、トマス・メンデンホールを、哲学の教授にはアーネスト・フェノロサを斡旋した。さらに、計2,500冊の図書を購入し、寄贈を受け、東大図書館の基礎を作った。
そして江ノ島の漁師小屋を『臨海実験所』に改造し、7月17日から8月29日まで採集した。9月12日、講義を始めた。9月16日、動物学科助手の松村任三や、生徒であった佐々木忠次郎、松浦佐用彦と大森貝塚を掘り始め、出土品の優品を教育博物館に展示した。9月24日、東大で進化論を講義し、10月、その公開講演もした。
大学での講義や研究の合間を縫って、東京各地を見物し、日光へ採集旅行もした。これらの間に、多くの民芸品や陶磁器を収集したほか、多数のスケッチを書き残した。
11月初め、一時帰国した。東大と外務省の了解を得て、大森貝塚の出土品の重複分を持ち帰ったが、この出土品をアメリカの博物館・大学へ寄贈し、その見返りにアメリカの資料を東大に寄贈して貰うという、国際交流を実行した。
二度目の来日
1878年(明治11年)(40歳)、4月下旬、家族をつれて東京大学に戻った。
6月末浅草で、『大森村にて発見せし前世界古器物』を500人余に講演し、考古学の概要、『旧石器時代』『新石器時代』『青銅器時代』『鉄器時代』の区分、大森貝塚が『新石器時代』に属することを述べ、出土した人骨に傷があり現在のアイヌには食人風習がないから「昔の日本には、アイヌとは別の、食人する人種が住んでいた」と推論した。演説会の主催および通訳は、江木高遠であった。(講演の中の『プレ・アイヌ説』は、考古学の主流にならなかった。)
7月中旬から8月末まで、採集に北海道を往復した。この間函館にも『臨海実験所』を開いている(矢田部良吉「北海道旅行日誌」鵜沼わか『モースの見た北海道』1991年)。10月の『東京大学生物学会』(現在の『日本動物学会』)の発足に関わった。日本初の学会である。
この滞日期には、『進化論』(4回)、『動物変進論』(3回)、『動物変遷論』(9回)の連続講義を始め、陸貝、ホヤ、ドロバチ、腕足類、ナメクジ、昆虫、氷河期、動物の生長、蜘蛛、猿、などに関する多くの学術講義や一般向け講演をした。江木高遠が主宰した『江木学校講談会』の常任講師であった。(『動物変遷論』は、1883年、モースの了解のもとに石川千代松が、『動物進化論』の名で訳書を出版した。)
貝塚の土器から興味が広がり、1879年初から、蜷川式胤に日本の陶器について学んだ。5月初めから40日余、九州、近畿地方に採集旅行をし、陶器作りの見学もした。
1879年7月、大森貝塚発掘の詳報、"Shell Mounds of Omori"を、Memoirs of the Science Department, University of Tokio(東京大学理学部英文紀要)の第1巻第1部として出版した。ときの東大綜理加藤弘之に、「学術報告書を刊行し、海外と文献類を交換するよう」勧めたのである。(この中で使われた"cord marked pottery"が、日本語の『縄文土器』となった。)
1879年8月10日、冑山(現在の熊谷市内)の横穴墓群を調査し、その31日、東京大学を満期退職し、9月3日、離日した。後任には、チャールズ・オーティス・ホイットマンを斡旋した。
再帰国(1879年9月 - )
この時期、大森貝塚発見報告について、『ネイチャー』誌上でフレデリック・ヴィクター・ディキンズに批判されており、モースはダーウィンに書簡を送り、その結果、ダーウィンの推薦文とモースの記事が『ネイチャー』誌に掲載されている。
1880年7月、古巣の『ピーボディー科学アカデミー』の館長となり、講義講演の活動を続けたが、日本の民具・陶器への執着はやまなかった。
三度日本へ
1882年(明治15年)(44歳)6月初、家族を残し、日本美術研究家のビゲローと横浜に着いた。東大側は歓迎し宿舎を提供した。あちこちで講演し、冑山の再訪もしたが、今回は民具と陶器の収集が目的で、民具は、『ピーボディー科学アカデミー』用であった。大隈重信が、所蔵の全陶器を贈った。
7月下旬から9月上旬まで、フェノロサ、ビゲローらと、関西・中国へ収集・見学の旅をした。そして武具や和書も集めたのち、1883年2月、単身離日した。
帰国
離日後、東南アジア・フランス・イギリスを回って収集し、6月ニューヨークに着いた。集めた民具は800点余、陶器は2900点に上った。
1884年(46歳)、アメリカ科学振興協会の人類學部門選出副会長、1886年、同協会会長となった。1887年、1888年、1889年にもヨーロッパへ、学会や日本の陶器探しの旅をした。
1890年(52歳)、日本の陶器の約5,000点のコレクションをボストン美術館へ売却して管理に当たり、1901年、その目録(Catalogue of the Morse Collection of Japanese Pottery)を纏めあげた。
晩年
1898年(明治31年)、東京帝国大学(後の東京大学)における生物学の教育・研究の基盤整備、日本初の学会設立などの功績により、日本政府から勲三等旭日章を受けた。1902年、60歳を越えたモースは、20数年ぶりに動物学の論文の執筆を再開し、1908年に渡米した石川に対しても「私は陶器も研究しているが、動物学の研究も止めない。」と述べるなど、高齢になっても研究に対する執念は尽きなかった。1913年、75歳となったモースは、30年以上前の日記とスケッチをもとに、『Japan Day by Day(日本語訳題:日本その日その日)』の執筆を開始。1914年、ボストン博物学会会長となった。1915年、『ピーボディー科学アカデミー』から改名した『ピーボディー博物館』の名誉会長になった。1917年、『Japan Day by Day』を書き終えて出版した。1922年(大正11年)、日本政府から勲二等瑞宝章を受けた。
1923年(85歳)、関東大震災による東京帝国大学図書館の壊滅を知り、全蔵書を東京帝国大学に寄付する旨、遺言を書き直した。
1925年(大正14年)、87歳になってもなお手術後の静養中に葉巻をふかすなど健康だったが、脳溢血に倒れ、12月20日に貝塚に関する論文を絶筆に、セイラムの自宅で没した。遺言により、脳は翌12月21日にフィラデルフィアのウィスター解剖学生物学研究所に献体され、1万2,000冊の蔵書が東京帝国大学に遺贈された。遺体はハーモニー・グローヴ墓地(Harmony Grove Cemetery)に葬られている。
死後
翌1926年(大正15年)、東京人類学会は『人類学雑誌』第41巻第2号でモースの追悼特集を組み、彼の教育を受けた研究者たちの回顧録が掲載された。
大森貝塚が取り持つ縁で、大田区とセイラム市とは、姉妹都市になっている。
埼玉県熊谷市の石上寺に銅像が設置され、2015年12月20日に除幕式が行われた。
人物
左右の手で別々の文章や絵を描くことができる両手両利きであった。『Japan Day by Day』に掲載されたスケッチも両手を使って描かれたもので、両手を使うので普通の人より早くスケッチを終えることが出来た。講演会でも、両手にチョークを持って黒板にスケッチを描き、それだけで聴衆の拍手喝采を浴びるほどであった。脳を献体するという遺言も、両手両利きに脳が与える影響を研究してほしいというモースの希望によるものである。
日本その日その日 JAPAN DAY BY DAY   石川欣一訳  
序 モース先生
石川千代松
一八八七年の春英国で科学の学会があった。此この時ワイスマン先生も夫それへ出席せられ、学会から帰られた時私に「モースからお前に宜しく云うて呉れとの伝言を頼まれたが彼れは実に面白い人で、宴会のテーブルスピーチでは満場の者を笑わせた。」夫れから後其年の十一月だと思ったが、先生がフライブルグに来られた事がある。其時折悪くワイスマン先生と私とはボーデンセイへ研究旅行へ行って留守であった。であったのでウィダーシャイム先生が先生を馬車に載せて市の内外をドライブした処カイザー・ストラーセに来ると、モース先生が、「アノ家の屋根瓦は千年以上前のローマ時代のものだ。ヤレ彼処にも、此処にも」と指されたので、ウィダーシャイム先生も始めて夫れに気付き、後考古学者に話して調べた処、夫れが全て事実であったと、ウィダーシャイム先生もモース先生の眼の鋭い事には驚いて居られた。先生の観察力の強い事では此外幾等も知れて居るが、先生はローウェルの天文台で火星を望遠鏡で覘いて其地図を画かれたが、夫れをローウェルが前に研究して画いたものと比べて見た処先生の方が余程委しい処迄出来て居たので、ローウェルも驚いたとの事を聴いて居た。夫れで先生は火星の本を書かれた。処が此本が評判になって、先生はイタリア其他二、三の天文学会の会員に選ばれたのである。私が一九〇九年にセーラムで先生の御宅へ伺った時先生は私に Mars and its Mystery を一部下さって云われるのに、お前が此本を持って帰ってモースがマースの本を書いたと云うたらば、日本の私の友達はモースは気が狂ったと云うだろうが、自分は気が狂って居ない証拠をお前に見せて置こうと、私に今云うた諸方の天文学会から送って来た会員証を示された。此時又先生が私に見せられたのは、ベルリンの人類学会から先生を名誉会員に推薦した証書で、夫れに付き次ぎの様な面白い事を話された。自分がベルリンへ行った時フィルショオが会頭で人類学会が開かれて居た。或る人に案内されて夫れへ行って見た処南洋の或る島から持って来た弓と矢とを前に置いて、其使用方を盛んに議論して居た。すると誰かがアノ隅に居るヤンキーに質して見ないかと云うので、フィルショオから何にか良い考えがあるならば話せと云う。処が自分が見ると其弓と矢とは日本のものと殆んど同じで、自分は日本に居た時弓を習ったから、容易にそれを説明した処が大喝采かっさいを博した。で帰って見たら斯んな物が来て居たと。先生は夫れ計ばかりでなく、実に多才多能で何れの事にでも興味を有たないものはなく、各種の学者から軍人、商売人、政治家、婦人、農民、子供に至る迄先生が話相手にせないものはない。殊に幼い子供を先生は大層可愛がられ、私がグロースターのロブスター養殖所へと行くと云うたら、先生が私に自分の友達の婦人を紹介してやると云われたので、先生に教わった家へ行って見ると、老年の婦人が居て、先生の友達は今直きに学校から帰って来るから少し待って下さいと云われるので、紹介して下さった婦人は或いは学校の先生ででもあるのかと思い、待って居ると、十四、五位の可愛い娘さんが二人帰って来て、一人の娘さんが、此方こちらは自分のお友達よと云うて私に紹介され、サー之これからハッチェリーへ案内を致しましょうと云われて、行ったが、此可憐の娘さんが、先生の仲好しの御友達であったのだ。先生は日本に居られた頃にも土曜の午後や日曜抔などには方々の子供を沢山集め、御自分が餓鬼大将になって能く戦争ごっこをして遊ばれたものだが、又或る時神田の小学校で講演を頼まれた時、私が通訳を勤めた。先生の講演が済んだ後、校長さんが、先生に何にか御礼の品物でも上げ度いがと云われるので、先生に御話した処自分は何にも礼を貰わないでも宜しい。今日講演を聴いて呉れた子供達が路で会った時に挨拶をして呉れれば夫れが自分には何よりの礼であると申された。
今云うた戦争ごっこで思い出したが、先生の此の擬戦は子供の遊戯であった計りではなく、夫れが真に迫ったものであったとの事である。夫れは当時或る日九段の偕行社の一室で軍人を沢山集めて、此擬戦を行って見せた事があったが、其時専門の軍人連が、之れは本物だと云うて大いに賞讃された事を覚えて居る。
斯様かように先生は各方面に知人があって、又誰れでも先生に親んで居たし、又直ぐに先生の友人となったのである。コンクリン博士が先生の事に就き私に送られた文章に「彼れは生れながら小さい子供達の友人であった計りでなく又学者や政治家の友人でもあった」と書いて居られるが実に其通りである。
先生が本邦に来られたのは西暦一八七七年だと思って居るが、夫れは先生が米国で研究して居られた腕足わんそく類を日本で又調べ度いと思ったからである。で其時先生には江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて暫くの間研究されたが、当時我東京大学で先生を招聘しょうへいしたいと云うたので、先生には直ぐに夫れを承諾せられ一度米国へ帰り家族を連れて直ぐに又来られたのである。此再来が翌年の一八七八年の四月だとの事であるが、夫れから二年間先生には東京大学で動物学の教鞭を執って居られたのである。
其頃の東京大学は名は大学であったが、まだ色々の学科が欠けて居た。生物学も其一つで此時先生に依って初めて設置されたのである。で動物学科を先生が持たれ植物学科は矢田部良吉先生が担任されたのであった。先生の最初の弟子は今の佐々木忠次郎博士と松浦佐与彦君とであったが、惜しい事には松浦君は其当時直きに死なれた。此松浦君の墓は谷中天王寺にあって先生の英語の墓碑銘がある。
先生は此両君に一般動物学を教えられた計りでなく、又採集の方法、標本の陳列、レーベルの書き方等をも教えられた。之これ等は先生が大学内で教えられた事だが、先生には大学では無論又東京市内の各処で進化論の通俗講演を致されたものである。ダーウィンの進化論は、今では誰れも知る様、此時より遙か前の一八五九年に有名な種原論が出てから欧米では盛んに論ぜられて居たが、本邦では当時誰独りそれを知らなかったのである。処が茲ここに面白い事には先生が来朝せられて進化論を我々に教えられた直ぐ前にマカーテーと云う教師が私共に人身生理学の講義をして居られたが、其講義の終りに我々に向い、此頃英国にダーウィンと云う人があって、人間はサルから来たものだと云う様な説を唱えて居るが、実に馬鹿気た説だから、今後お前達はそんな本を見ても読むな又そんな説を聴いても信ずるなと云われた。処がそう云う事をマカーテー先生が云われた直ぐ後にモース先生が盛んにダーウィン論の講義をされたのである。
先生は弁舌が大層達者であられた計りではなく、又黒板に絵を書くのが非常に御上手であったので、先生の講義を聴くものは夫れは本統に酔わされて仕舞ったのである。多分其時迄日本に来た外国人で、先生位弁舌の巧みな人はなかったろう。夫れも其筈、先生の講演は米国でも実に有名なもので、先生が青年の時分通俗講演で金を得て動物学研究の費用にされたと聴いて居た。
処が当時本邦の学校に傭やとわれて居た教師連には宣教師が多かったので、先生の進化論講義は彼れ等には非常な恐慌を来たしたものである。であるから、彼れ等は躍起となって先生を攻撃したものである。併し弁舌に於ても学問に於ても無論先生に適う事の出来ないのは明かであるので、彼れ等は色々の手段を取って先生を攻撃した。例えば先生が大森の貝塚から掘り出された人骨の調査に依り其頃此島に住んで居た人間は骨髄を食ったものであると書かれたのを幸いに、モースはお前達の先祖は食人種であったと云う抔など云い触し、本邦人の感情に訴え先生は斯様な悪い人であると云う様な事を云い触した事もある。併し先生だからとて、無論之れ等食人種が我々の先祖であるとは云われなかったのである。
此大森の貝塚に関して一寸ちょっと云うて置く事は先生が夫れを見付けられたのは先生が初めて来朝せられた時、横浜から新橋迄の汽車中で、夫れを発見せられたのであるが、其頃には欧米でもまだ貝塚の研究は幼稚であったのだ。此時先生が汽車の窓から夫れを発見されたのは前にも云う様に先生の視察力の強い事を語るものである。
斯様にして先生は本邦生物学の祖先である計りでなく又人類学の祖先でもある。又此大森貝塚の研究は其後大学にメモアーとして出版されたが、此メモアーが又我大学で学術的の研究を出版した初めでもある。夫れに又先生には学会の必要を説かれて、東京生物学会なるものを起されたが、此生物学会が又本邦の学会の嚆矢こうしでもある。東京生物学会は其後動植の二学会に分れたが、其最初の会長には先生は矢田部良吉先生を推されたと私は覚えて居る。
(先生が発見された大森の貝塚は先生の此書にもある通り鉄道線路に沿うた処にあったので、其後其処そこに記念の棒杭が建って居たが、今は夫れも無くなった。大毎社長本山君が夫れを遺憾に思われ大山公爵と相談して、今度立派な記念碑が建つ事になった。何んと悦ばしい事であるまいか。)
之れ等の事の外先生には、当時盛んに採集旅行を致され、北は北海道から南は九州迄行かれたが其際観察せられた事をスケッチとノートとに収められ、夫れ等が集まって、此ジャッパン・デー・バイ・デーとなったのである。何んにせよ此本は半世紀前の日本を先生の炯眼けいがんで観察せられたものであるから、誰れが読んでも誠に面白いものであるし、又歴史的にも非常に貴重なものである。夫れから此本を読んでも直ぐに判るが先生は非常な日本贔屓びいきであって、何れのものも先生の眼には本邦と本邦人の良い点のみ見え、悪い処は殆んど見えなかったのである。例えば料理屋抔の庭にある便所で袖垣根や植木で旨く隠くしてある様なものを見られ、日本人は美術観念が発達して居ると云われて居るが、まあ先生の見ようは斯こう云うたものであった。
又先生は今も云う様にスケッチが上手であられたが、其為め失敗された噺はなしも時々聞いた。其一は先生が函館へ行かれた時、或る朝連れの人達は早く出掛け、先生独り残ったが、先生には昼飯の時半熟の鶏卵を二つ造って置いて貰いたかった。先生は宿屋の主婦を呼び、紙に雌鶏を一羽画かれ、其尻から卵子を二つと少し離れた処に火鉢の上に鍋を画き、今画いた卵子を夫れに入れる様線で示して、五分間煮て呉れと云う積りで、時計の針が丁度九時五分前であったので、指の先きで知らせ何にもかも解ったと思って、外出の仕度をして居らるる処へ、主婦は遽あわただしく鍋と火鉢と牝鶏と卵子二つを持って来た。無論先生は驚かれたが、何にかの誤りであろうと思い、其儘外出され、昼時他の者達が帰って来られたので、聞いて見ると宿屋の御神さんは、九時迄五分の間に夫れ丈けのものを持って来いと云われたと思い、又卵子も夫れを生んだ雌鶏でなくてはと考えたから大騒をしたとの事であった。
之れは先生の失策噺の一つであるが、久しい間に又は無論斯様な事も沢山あったろう。併し先生は今も云うた様にただ日本人が好きであられた計りでなく、又先生御自身も全く日本人の様な考えを持って居られた。其証拠の一つは先生が日本の帝室から戴かれた勲章に対する事で、先生が東京大学の御傭で居られたのは二年であったので、日本の勲章は普通では戴けなかったのである。併し先生が日本の為めに尽された功績は非常なもので、前述の如く日本の大学が大学らしくなったのも、全く先生の御蔭であるのみならず、又先生は帰国されてからも始終日本と日本人を愛し、本統の日本を全世界に紹介された。であるから日清、日露二大戦争の時にも大いに日本の真意を世界に知らしめ欧米人の誤解を防がれたのである。其上日本から渡米した日本人には誰れ彼れの別なく出来る丈け援助を与えられボストンへ行った日本人でセーラムに立ち寄らないものがあると先生の機嫌が悪かったと云う位であった。であるから、我皇室でも初めに先生に勲三等の旭日章を授けられ其後又勲二等の瑞宝章を送られたのである。誰れも知る様外交官や軍人抔では夫れ程の功績がなくとも勲章は容易に授けらるるのは世界共通の事実であるが、学者抔で高級の勲章をいただく事は真に功績の著しいものに限られて居る。であるから先生が我皇室から授けられた勲章は真に貴重なものである事は疑いのない事である。処が先生は、日本皇帝からいただいた勲章は、日本の皇室に関する時にのみ佩用はいようすべきものであるとの見地から、常時はそれを銀行の保護箱内に仕舞い置かれた。尊い勲章を売る様な人面獣心の奴が日本人にもあるのに先生の御心持が如何に美しいかは窺われるではないか。
私は前に先生が左右の手を同時に使われる事を云うたが、先生は両手を別々に使わるる計りでなく、先生の脳も左右別々に使用する事が出来たのである。之れに付き面白い噺がある。フィラデルフィアのウィスター・インスチチュートの長ドクトル・グリーンマン氏が或る時セーラムにモース先生を訪い、先生の脳の話が出て、夫れが大層面白いと云うので先生は死んだ後は自分の脳を同インスチチュートへ寄贈せようと云われた。其後グリーンマン氏はガラス製のジャーを木の箱に入れて先生の処へ「永久之れを使用されない事を望む」と云う手紙を付けて送った。処が先生は之れを受け取ってから、書斎の机の下に置き、それを足台にして居られたと。先生が御亡くなりになる前年であった、先生の八十八歳の寿を祝う為めに、我々が出して居る『東洋学芸雑誌』で特別号を発行せようと思い、私が先生の所へ手紙を上げて其事を伺った処斯様な御返辞が来たのである、
“The Wister Institute of Anatomy of Philadelphia sent a glass Jar properly labelled …… in using for my brain which they will get when I am done with it.” (……の処の文字は不明)。
此文章の終りの when I am done with it は実に先生でなければ書かれない誠に面白い御言葉である。
斯様な事は先生には珍しくない事で、先生の言文は夫れで又有名であった。であるから何れの集会でも、先生が居らるる処には必ず沢山の人が集り先生の御話を聴くのを楽みにして居たものである。コンクリン博士が書かれたものの中に又次ぎの様なものがある。或る時ウーズ・ホールの臨海実験で先生が日本の話をされた事がある。此時先生は人力車に乗って来る人の絵を両手で巧に黒板に画かれたが、其顔が直ぐ前に坐って居る所長のホイットマン教授に如何にも能く似て居たので満場の人の大喝采を博したと。
併し先生にも嫌いな事があった。其一つは家蠅で、他の一つは音だ。此音に付き、近い頃日本に来る途中太平洋上で死なれたキングスレー博士は、次ぎの様な面白い噺を書いて居る。モースがシンシナチイで、或る豪家に泊った時、寝室に小さい貴重な置時計があって、其音が気になってどうしても眠られない。どうかして之れを止めようとしたが、不可能であった。困ったあげく先生は自分の下着で夫れを包み、カバンの中に入れて、グッスリ眠ったが、翌朝此事を忘れて仕舞い、其儘立った。二十四時間の後コロンビアに帰り、カバンを開けて大きに驚き、時計を盗んだと思われては大変だと云うので直ぐに打電して詫び、時計はエキスプレッスで送り返したと。
先生は一八三八年メイン州のポートランドに生れ、ルイ・アガッシイの特別な門人であられたが、アガッシイの動物学の講義の中で腕足類に関した点に疑問を起し、其後大いにそれを研究して、声名を博されたのである。前にも云うた様に先生が日本に来られたのも其の研究の為めであった。其翌年から前述の如く二年間我大学の教師を勤められ、一度帰られてから八十二年に又来朝せられたが之れは先生には主として日本の陶器を蒐集せらるる為めであった。先生にはセーラム市のピーボデー博物館長であられたり又ボストン美術博物館の日本陶器類の部長をも勤めて居られた。で先生が日本で集められた陶器は悉く此美術博物館へ売られたが、夫れは諸方から巨万の金で買わんとしたが、先生は自分が勤めて居らるる博物館へ比較的安く売られたのであると。之れは先生の人格の高い事を示す一つの話として今でも残って居る。夫れから先生は又此陶器を研究せられて、一大著述を遺されたが、此書は実に貴重なもので、日本陶器に関する書としては恐く世界無比のものであろう。
先生は身心共に非常に健全であられ老年に至る迄盛んに運動をして居られた。コンクリン博士が書かれたものに左の様な言葉がある。「先生は七十五歳の誕生日に若い人達を相手にテニスをして居られた処、ドクトル・ウワアヤ・ミッチェル氏が七十五歳の老人にはテニスは余り烈しい運動であると云い、先生の脈を取って見た処、夫れが丸で子供の脈の様に強く打って居たと。」私が先年ハーバード大学へ行った時マーク氏が話されたのに、モースが八十六(?)で自分が八十で共にテニスをやった事があると。斯様であったから先生は夫れは実に丈夫で、亡くなられる直前迄活動を続けて居られたと。
先生は一九二五年十二月廿日にセーラムの自宅で静かに逝かれたのである。セーラムで先生の居宅の近くに住い、久しく先生の御世話をして居たマーガレット・ブルックス(先生はお玉さんと呼んで居られた)嬢は私に先生の臨終の様子を斯様に話された。
先生は毎晩夕食の前後に宅へ来られ、時々夜食を共にする事もあったが、十二月十六日(水曜日)の晩には自分達姉妹が食事をして居る処へ来られ、何故今晩は食事に呼んで呉れなかったか、とからかわれたので、今晩は別に先生に差し上げるものもなかったからと申し上げた処、でも独りで宅で食うより旨いからと云われ、いつもの様に肱掛椅子に腰を下して何にか雑誌を見て居られたが、九時半頃になって、もう眠るからと云うて帰られた。夫れから半時も経たない内に先生の下婢が遽しく駈込んで来て先生が大病だと云うので、急いで行った処、先生には昏睡状態で倒れて居られた。急報でコンコードに居る御嬢さんが来られた時に少し解った様であったが、其儘四日後の日曜日の午後四時に逝かれたのである。であるから、先生には倒れられてからは少しの苦痛も感ぜられなかった様であると。
斯様に先生は亡くなられる前迄活動して居られたが八十九年の長い間には普通人に比ぶれば余程多くの仕事をせられたのである。夫れに又前述の如く、先生には同一時に二つの違った仕事もせられたのであるから、先生が一生中に致された仕事の年月は少なくとも其倍即ち一九八年にも当る訳である。
先生の此の貴い脳は今ではウィスター・インスチチュートの解剖学陳列室に収めてある。私も先年フィラデルフィアへ行った時、グリーンマン博士に案内されて拝見したが、先生の脳はドナルドソン博士に依って水平に二つに切断してあった。之れは生前先生の御希望に依り先生の脳の構造に何にか変った点があって夫れが科学に貢献する処があるまいかとの事からである。併しドナルドソン博士が私に話されたのには、一寸表面から見た処では別に変った処も見えない。先生が脳をアノ様に使われたのは多分練習から来たものであったろうと。
であるから「先生は生きて居られた時にも亦死んだ後にも科学の為めに身心を提供されたのである」とは又コンクリン博士が私に書いて呉れた文章の内にあるが、斯様にして「先生の死で世界は著名な学者を失い、日本は最も好い親友を失い、又先生の知人は楽しき愛すべき仲間を失ったのである」と之れも亦コンクリン博士がモース先生に就いて書かれた言葉である。
私がセーラムでの御墓参りをした時先生の墓碑は十年前に死なれた奥さんの石の傍に横になって居たが、雪が多いので、其時まだ建てる事が出来なかったとの事であった。
終りに茲ここに書いて置かなくてはならぬ事は、此書の出版に就き医学博士宮嶋幹之助君が大層骨を折って下さった事と、啓明会が物質上多大の援助を与えられた事と、モース先生の令嬢ミセス・ロッブの好意許可とで、之れに対しては大いに御礼を申し上げ度いのである。
夫れに又附言する事を許していただき度い事は私の子供の欣一が此書を訳させていただいた事で、之れは欣一が米国に留学して居た時先生が大層可愛がって下さったので、殊に願ったからである。
訳者の言葉
一 先ず第一に現在の私がこの著述の訳者として適当なものであるかどうかを、私自身が疑っていることを申し上げます。時間が不規則になりやすい職業に従事しているので、この訳も朝夕僅かな暇を見ては、ちょいちょいやったのであり、殊に校正は多忙を極めている最中にやりました。もっと英語が出来、もっと翻訳が上手で、そして何よりも、もっと翻訳のみに費す時間を持つ人がいるに違いないと思うと、私は原著者と読者とに相済まぬような気がします。誤訳、誤植等、自分では気がつかなくても、定めし存在することでしょう。御叱正を乞います。
二 原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。まことに穏雅な、親切な、而もエフィシェントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう。
三 Morse に最も近い仮名はモースであります。私自身はこの文中に於るが如く、モースといい、且つ書きますが、来朝当時はモールスとして知られており、今でもそう呼ぶ人がありますから、場合に応じて両方を使用しました。
四 人名、地名は出来るだけ調べましたが、どうしても判らぬ人名二、三には〔?〕としておきました。また当時の官職名は、別にさしつかえ無いと思うものは、当時の呼び名によらず、直訳しておきました。
五 翻訳中、( )は原著にある括弧、又はあまり長いセンテンスを判りやすくするためのもの。〔 〕は註釈用の括弧です。
六 ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵は大体に於て原図より小さくなっています。従って実物大とか、二分の一とかしてあるのも、多少それより小さいことと御了解願い度いのです。
七 価格、ドル・セントは、日本に関する限り円・銭ですが、モース先生も断っておられますし、そのままドル・セントとしました。
八 下巻の巻尾にある索引、各頁の上の余白にある内容指示、上下両巻の巻頭にある色刷の口絵は省略しました。
九 先輩、友人に色々と教示を受けました。芳名は掲げませんが、厚く感謝しています。
一〇 原著は一九一七年十月、ホートン・ミフリンによって出版され、版権はモース先生自身のものになっています。先生御逝去後これは令嬢ラッセル・ロッブ夫人にうつりました。この翻訳はロッブ夫人の承諾を受けて行ったものです。私は先生自らが
Kin-ichi Ishikawa With the affectionate regards of Edw. S. Morse
Salem  June 3. 1921
と書いて贈って下さった本で、この翻訳をしました。自分自身が適当な訳者であるや否やを疑いつつ、敢てこの仕事を御引き受けしたのには、実にこのような、モース先生に対する思慕の念が一つの理由になっているのであります。昭和四年夏   訳者 
緒言
私が最初日本を訪れた目的は単に日本の近海に産する腕足類の各種を研究するだけであった。それで、江ノ島に設けた小さな実験所で仕事をしている内に、私は文部省から東京の帝国大学で動物学の講座を受持つ可く招聘された。殆ど四年日本にいた間、私は国へ送る手紙の重複を避ける為に、毎日日記をつけた。私の滞在の一期限は、後になって発表してもよいと思われた題目に関する記録が出来上らぬ内に、終って了った。が、これは特殊な性質を持っていたのである。即ち住宅及びそれに関係した諸事物の覚え書きや写生図だった。これ等の備忘録は私の著書『日本の家庭及びその周囲』――“Japanese Homes and Their Surroundings”の材料となったのである。この理由で、本書には、この前著に出ている写生図の少数を再び使用した以外、家庭住宅等に関する記述は極めて僅かしか出て来ない。また私は私が特に興味を持っている問題以外に就ては、記録しようとも、資料を蒐集しようとも努めなかった。日本の宗教――(仏教、神道)――神話、民話等に大して興味を持たぬ私は、これ等を一向研究しなかった。また地理にも興味を持っていないので、横切った川の名前も通過した地域の名も碌ろくに覚えなかった。マレー、サトウ等が著した優秀な案内書や、近くは、ホートン・ミフリン会社が出版したテリーの面白い案内書のおかげで、私は私が旅行した都邑とゆうに於おける無数の興味ある事物に言及さえもしないで済んだ。これ等の案内書には、このような事柄が実に詳しく書いてあるからである。
私が何等かの、時には実に些細なことの、覚え書きか写生かをしなかった日とては一日もない。私は観察と同時に興味ある事物を記録することの重大さを知っていた。そうでないとすぐ陳腐になって了って、目につかぬ。ブリス・ペリー教授は彼の尊敬すべき著述『パーク・ストリート・ペーパース』の中で、ホーソンがまさに大西洋を渡らんとしつつある友人ホレーシオ・ブリッジに与えた手紙を引用している。曰く「常に、君の心から新奇さの印象が消えぬ内に書き始めよ。そうでないと、最初に君の注意を引いた特異な事物も、記録するに足らぬ物であるかのように思われやすい。而もこのような小さな特異な事柄こそ、読者に最も生々とした印象を与える、大切なものなのである。最少限度に於てでも特質を持っている物ならば、何物をも、記録すべくあまりに軽少だと思う勿れ。君はあとから君自身の旅行記を読んで、このような小さな特異性が如何に重大な、そして描写的な力を持っているかに驚くであろう。」
本書にして若もし価値ありとすれば、それはこれ等の記録がなされた時の日本は、数世紀に亘る奇妙な文明から目ざめてから、数ヶ年を経たばかりだという事実に立脚する。その時(一八七七年)にあってすら、既に、軍隊の現代的調練、公立学校の広汎な制度、陸軍、財政、農業、電信、郵便、統計等の政府の各省、及び他の現代的行政の各官署といったような変化は起っていて、東京、大阪等の大都会には、これ等新制の影響が僅かに見られた。それは僅かではあったが、而もたった数年前、武士がすべて両刀を帯び、男子がすべて丁髷ちょんまげに結い、既婚婦人がすべて歯を黒くしている頃の、この国民を見た人を羨ましく思わせる程、はっきりしていた。だがこれ等外国からの新輸入物は田舎の都会や村落を、よしんば影響したにせよ極く僅かしか影響しなかった。私の備忘録や写生図の大部分は田舎に於てなされた。私が旅行した地域の範囲は、北緯四十一度に近い蝦夷えぞの西岸オタルナイから三十一度の薩摩の南端に至るといえば大略の見当はつくであろう。これを私は主として陸路、人力車並ならびに馬によった。私の記録や写生図の大部分は一千年前につくられた記録と同じであろう。事実、この国は『土佐日記』(エーストン訳)の抄本が、私が毎日書いていた所のものによく似た光景や状態を描いている程、変化していなかったのである。
日記帳三千五百頁を占めるこの材料を、どういう方法で世に表わそうかということは、長年考えはしたが、はっきりした考えがつかなかった。まったく、友人ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ(私は同氏と一緒に三度目の日本訪問をなした)からの手紙がなかったら、この日記は出版のために準備されなかったことであろう。私は大得意でビゲロウ氏に手紙を出し、軟体動物並に腕足類に関するいくたの研究を片づけるために、セーラムのピーボディ博物館及びボストンの美術館から長い休暇を貰ったことを知らせた。それに対するドクタア・ビゲロウの返事は次の通りである――「君の手紙で気に入らぬことがたった一つある。外でもない、より高尚な、君ほどそれに就て語る資格を持っている人は他にない事の態度や習慣に就て時を費さず、誰でも出来るような下等動物の研究に、君がいまだに大切な時を徒費しているという白状だ。どうだ、君は正直な所、日本人の方が虫よりも高等な有機体だと思わないか。腕足類なんぞは溝へでも棄てて了え。腕足類は棄てて置いても大丈夫だ、いずれ誰かが世話をするにきまっている。君と僕とが四十年前親しく知っていた日本の有機体は、消滅しつつあるタイプで、その多くは既に完全に地球の表面から姿を消し、そして我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人であることを、忘れないで呉れ。この後十年間に我々がかつて知った日本人はみんなベレムナイツ〔今は化石としてのみ残っている頭足類の一種〕のように、いなくなって了うぞ。」
彼の論点は圧倒的で私に弁解の余地を与えなかった。私は渋々出版を目的として材料の整理を始めた。最初私は備忘録を、私が一八八一年から翌年にかかる冬、ボストンのローウェル・インスティテュートでなした日本に関する十二講の表題によって分類することに腹をきめた。その表題というのは次の通りである。一――国土、国民、言語。二――国民性。三――家庭、食物、化粧。四――家庭及びその周囲。五――子供、玩具、遊戯。六――寺院、劇場、音楽。七――都会生活と保健事項。八――田舎の生活と自然の景色。九――教育と学生。一〇――産業的職業。一一――陶器及び絵画芸術。一二――古物。
かかる主題のあるものは、すでに他の人々の手で、専門的論文の性質を持つ程度に豊富な※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵によって取扱われている。それに、私の資料をローウェル・インスティテュートの講義の順に分類することは大変な大仕事で、おまけに多くの新しい副表題を必要とする。やむを得ず、私は旅行の覚え書きを一篇の継続的記録として発表することにした。本の表題“Japan Day by Day”――エッチ・エー・ガーフィールド夫人とロリン・エフ・ディーランド氏とから個々に云って来られた――は、事実ありのままを示している。材料の多くは、この日記がちょいちょい描写する、街頭をぶらつく群衆のように、呑気でまとまっていない。然し今日稀に見る、又は全く跡を絶った多くの事柄を描いている。この日記中の重要な問題はすでに他で発表した。

かかる覚え書きは次の如く各種の記事や著述の形をとっている――『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』には「日本に於る健康状態」、「日本に於る古代人の形蹟」(※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画付)、「日本に於るドルメン」(※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画付)の三記事。『ユースス・コムパニオン』に「日本の紙鳶たこあげ」(※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画付)。『ハーパース・マンスリー』には「古い薩摩」と題する記事に四十九の物品を十一枚の木版画で説明して出した。また『日本の家庭とその周囲』と称する本には説明図が三百七図入っている。東京帝国大学発行の『大森の貝塚』には石版図のたたんだもの十八枚に説明図二百六十七図が納めてある。日本の陶器に関する記録はフォトグラヴィア版六十八枚、及び記事中に一千五百四十五個の製造家の刻印を入れた、三百六十四頁の四折判の本となって、ボストン美術館から発行された。また私を最初日本に導いた腕足類の研究の結果はボストン博物学会から出版された。これは八十六頁の四折判で石版図が二十三枚入っている。

ボストン美術館のジェー・イー・ロッジ氏は、私に本書に出て来る日本の物件のすべてに、その名を表す支那文字をつけることを勧告された。然しそれは、原稿を印刷のため準備するに当って、非常に労力を要するのみならず、漢字に興味を持つ少数の読者は、それ等に相当する漢字が見出さるであろう所のヘップバーンの日英辞典を、持っているなり、あるいは容易に手にすることが出来るであろうことを思って、私は遺憾ながらこの優れた申し出に従うことをやめた。序ついでにいうが、我国では漢字のよき一揃えを手に入れることは至難事であろう。かかる活字はライデン市のブリルにでも注文せねばあるまい。同様な理由でOを長く読ませる※(マクロン付きO小文字)をも除外した。
この日記の叙述には大ざっぱなものが多い。一例として日本人が正直であることを述べてあるが、私はかかる一般的な記述によって、日本に盗棒どろぼうがまるでいないというのではない。巡査がいたり、牢屋や監獄があるという事実は、法律を破る者がいることを示している。諺ことわざのようになっている古道具屋の不正直に関しては、三千世界のいずこに正直な古道具屋ありやというばかりである。私が日本人はスウェア(神名を妄用)しないということを書いたその記述は、日本人がスウェア語を持っていないという事実に立脚している。日本にだって神様も聖人も沢山いる。だがそれ等の名前は、例えばスペインで聖ペドロ、聖ユアンその他の聖徒の名前が、忌まわしい語句と結びつけられるような具合に、祈りに使用されたり、又は罵られたりしないのである。
必ず見出されるであろう所の多くの誤謬ごびゅうに就ては、私としては只当時最も権威ある典拠によったということをいい得る丈で、以下の記録をなした後の四十年間に、いろいろと新しい説明が加えられ得るものもあるらしい。一例として富田氏は、私に富士山のフジは、噴火山を意味するアイヌ語だとの手紙を呉れた。

私が日本で交をむすび、そして世話になった初期の友人に女子師範学校長のドクタア高嶺秀夫及び彼の友人宮岡恒次郎、竹中成憲両氏がある。宮岡氏はその後有名な弁護士になった。彼はそれ迄外交官をしていて、ベルリン及びワシントン大使館の参事官であった。九歳の彼は同年の私の男の子の遊び友達だった。彼はよく私の家へ遊びに来たもので、彼と彼の兄を通して私は諺、迷信、遊戯、習慣等に関する無数の知識を得た。なお実験室で親しく交際した私の特別な学生諸君にも感謝の意を表する。帝国大学の綜理ドクタア加藤、副綜理ドクタア浜尾、ドクタア服部、学習院長立花伯爵その他『日本の家庭』の序文に芳名を録した多くの日本人の学生、友人、茶ノ湯、音曲の先生等にも私は負うところが多い。屡々しばしば、質問のあるものがあまりに愚なので、笑いに窒息しかけながらも、彼等が私に与えてくれた、辛棒強くも礼義に富んだ返事は、私をして従来かつて記されなかった習慣の多くを記録することを得させた。私の対話者のある者は、英語を僅かしか知らなかった。加レ之しかのみならず私の日本語が同様に貧弱だったので、その結果最初は随分間違ったことを書いた。意見を異にするのは礼義でないということになっているので、質問者自身があることがらを了解したと考えると、話し相手も従順に同意するのである!
いろいろな点で助力を与えられた美術館の富田幸二郎氏及び平野ちゑ嬢に私は感謝する。また一緒に日本に行った私の娘ラッセル・ロッブ夫人は、私が記録しておかなかった多くの事件や経験を注意してくれた点で、ラッセル・ロッブ氏はタイプライタアで打った原稿の全部を批評的に読み、余計なところを削除し、句章を短くし、各方面にわたって粗雑なところを平滑にしてくれた点で、私は負う所が多い。最後に、呪詛じゅその価充分なる私の手記を読んでタイプライタアで打ち、同時に粗※(「米+慥のつくり」、第3水準1-89-87)そぞうなるを流暢に、曖昧あいまいなるを平易にし、且つ絶間なく私を鞭撻べんたつしてこの仕事を仕上げさせてくれたマアガレット・ダブリュー・ブルックス嬢に対して、私は限りなき感謝の念を感じる。   E・S・M 
第一章 一八七七年の日本   横浜と東京
サンフランシスコからの航海中のこまかいことや、十七日の航海を済ませて上陸した時のよろこびやは全部省略して、この日記は日本人を最初に見た時から書き始めよう。
我々が横浜に投錨した時は、もう暗かった。ホテルに所属する日本風の小舟が我々の乗船に横づけにされ、これに乗客中の数名が乗り移った。この舟というのは、細長い、不細工な代物で、犢鼻褌ふんどしだけを身につけた三人の日本人――小さな、背の低い人たちだが、恐ろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟に下した――が、その側面から櫓をあやつるのであった。我々を海岸まではこぶ二マイルを彼等は物凄い程の元気で漕こいだ。そして、彼らは実に不思議な呻り声を立てた。お互に調子をそろえて、ヘイ ヘイチャ、ヘイヘイ チャというような音をさせ、時にこの船唄(若もしこれが船唄であるのならば)を変化させる。彼等は、船を漕ぐのと同じ程度の力を籠めて呻る。彼等が発する雑音は、こみ入った、ぜいぜいいう、汽機の排出に似ていた。私は彼等が櫓の一と押しごとに費す烈しい気力に心から同情した。而しかも彼等は二マイルを一度も休まず漕ぎ続けたのである。この小舟には側面から漕ぐ為の、面白い設備がしてあった。図は船ばたにしっかりと置かれ、かつ数インチつき出した横木を示している(図1)。櫓にある瘤こぶが、この横木の端の穴にぴったりはまる。櫓(図2)は固く縛りつけられた二つの部分から成り、重く、そして見た所如何にも取扱いにくそうである。舟の一方で一人が漕ぎ、反対の側で二人が漕ぐ、その二人の中の一人は同時に舵をとるのであった。我々が岸に近づくと、舟子の一人が「人力車」「人力車」と呼んだ。すぐに誰かが海岸からこれに応じた。これは人の力によって引かれる二輪車を呼んだのである。

小舟はやっと岸に着いた。私は叫び度い位うれしくなって――まったく私は小声で叫んだが――日本の海岸に飛び上った。税関の役人たちが我々の荷物を調べるために、落着き払ってやって来た。純白の制帽の下に黒い頭髪が奇妙に見える、小さな日本の人達である。我々は海岸に沿うた道を、暗黒の中へ元気よく進んだ。我々の着きようが遅かったので、ホテルはいささか混雑し、日本人の雇人達が我々の部屋を準備するために右往左往した。やがて床についた我々は、境遇の新奇さと、早く朝の光を見度いという熱心さとの為に、恰度ちょうど独立記念日の朝の愉快さを期待する男の子たちみたいに、殆ど睡ることが出来なかった。
私の三十九回の誕生日である。ホテルの窓から港内に集った各国の軍艦や、この国特有の奇妙な小舟や、戎克ジャンクや、その他海と舟とを除いては、すべてが新しく珍しい景色を眺めた時、何という歓喜の世界が突然私の前に展開されたことであろう。我々の一角には、田舎から流れて来る運河があり、この狭い水路を実に面白い形をした小舟が往来する。舟夫たちは一生懸命に働きながら、奇妙な船唄を歌う。道を行く人々は極めて僅か着物を着ている。各種の品物を持っている者もある。たいていの人は、粗末な木製のはき物をはいているが、これがまた固い道路の上で不思議な、よく響く音を立てる。このはき物には長方形の木片に細い二枚の木片を横に取りつけた物と、木の塊から彫った物と二種類があった。第3図は人品いやしからぬ老婦人の足を写生したものであるが、このように太い紐がついていて、その前方が拇指おやゆびとその次の指との間に入るように工夫されている。人の通る道路には――歩道というものはないので――木製のはき物と細い人力車の轍わだちとが、面白い跡をのこしている。下駄や草履には色々な種類がある。階段のあたりに置かれる麦藁わらでつくった小奇麗なのもあれば、また非常に粗末な藁製の、一足一セントもしないようなのもある。これ等は最も貧乏な人達がはくので、時々使い古しが道路に棄ててあるのを見る。

運河の入口に新しい海堤が築かれつつあった。不思議な人間の杙くい打機械があり、何時間見ても興味がつきない。足場は藁繩でくくりつけてある。働いている人達は殆ど裸体に近く、殊に一人の男は、犢鼻褌以外に何も身につけていない。杙打機械は面白く出来ていた。第4図はそれを示しているが、重い錘おもりが長い竿に取りつけてあって、足場の横板に坐る男がこの竿を塩梅あんばいし、他の人々は下の錘に結びつけられ、上方の滑車を通っている所の繩を引っ張るのである。この繩を引く人は八人で円陣をなしていたが、私の写生図は簡明にする為四人にしておいた。変な、単調な歌が唄われ、一節の終りに揃って繩を引き、そこで突然繩をゆるめるので、錘はドサンと音をさせて墜ちる。すこしも錘をあげる努力をしないで歌を唄うのは、まこと莫迦ばからしい時間の浪費のように思われた。時間の十分の九は唄歌に費されるのであった。

朝飯が終るとすぐに我々は町を見物に出かけた。日本の町の街々をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。――不思議な建築、最も清潔な陳列箱に似たのが多い見馴れぬ開け放した店、店員たちの礼譲、いろいろなこまかい物品の新奇さ、人々の立てる奇妙な物音、空気を充たす杉と茶の香。我々にとって珍しからぬ物とては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光と位であった。ホテルの角には、人力車が数台並んで客を待っていた(図5)が、我々が出て行くや否や、彼等は「人力車?」と叫んだ。我々は明瞭に要らぬことを表示したが、それにも拘らず二人我々について来た。我々が立ち止ると彼等も立ち止る。我々が小さな店をのぞき込んで、何をか見て微笑すると、彼等もまた微笑するのであった。私は彼等がこんなに遠くまでついて来る忍耐力に驚いた。何故かなれば我々は歩く方がよかったから人力車を雇おうと思わなかったのである。然し彼等は我々よりも、やがて何が起るかをよく知っていた。歩き廻っている内に草疲くたびれて了うばかりでなく、路に迷いもするということである。果してこの通りのことが起った。一歩ごとに出喰わした、新しいこと珍しいことによって完全に疲労し、路に迷い、長く歩いて疲れ切った我々は、よろこんで人力車に乗って帰る意志を示した。如何にも弱そうに見える車に足をかけた時、私は人に引かれるということに一種の屈辱を感じた。若し私が車を下りて、はだしの男と位置を代えることが出来たら、これ程面喰わずに済んだろうと思われた。だが、この感はすぐに消え去った。そして自分のために一人の男がホテル迄の道のりを一と休みもしないで、自分の前を素敵な勢で馳けているということを知った時の陽気さは、この朝の経験の多くと同様に驚く可きことであった。ホテルへ着いた時彼等は十セントとった。この為に彼等は朝半日を全くつぶしたのである! かかる人々の驚く可き持久力は、まさに信用出来ぬ程である。彼等はこのようにして何マイルも何マイルも走り、而も疲れたらしい容子もしないということである(図6)。乗客をはこぶに際して、彼等は決して歩かず、長い、ゆすぶる様な歩調で走るのである。脛すねも足もむき出しで、如何に太陽が熱くても、たいていは無帽である。時として頭に布切れをくるりとまきつけ、薄い木綿でつくった藍色の短い上衣を着、腰のまわりに下帯を結ぶ。冬になってもこれ以上あたたかい服装をしないらしい。涼しいには違いなかろうが、我々の目には変に見える。それにしても人力車に乗ることの面白さ! 狭い街路を全速力で走って行くと、簡単な住宅の奇異な点、人々、衣服、店、女や子供や老人や男の子の何百人――これ等すべてが我々に、かつて見た扇子に描かれた絵を思い起させた。我々はその絵を誇張したものと思ったものである。人力車に乗ることは絶間なき愉快である。身に感じるのは静かな上下動だけである。速度は中々大きい。馬の代りをなすものは決して狂奔しない。止っている時には、彼は荷物の番をする。私が最初に長い間のった人力車の車夫はこんな風に(図7)見えた。頭のてっぺんは剃ってあり、油を塗った小さな丁髷ちょんまげが毛の無い場所のまん中にくっついていた。頭の周囲には白い布が捲きつけてあった。

誰でも皆店を開いているようである。店と、それからその後にある部屋とは、道路に向って明けっぱなしになっているので、買物をしに行く人は、自分が商品の間から無作法にも、その家族が食事をしているのを見たり、簡単なことこれに比すべくもない程度にまで引き下げられた家事をやっているのを見たりしていることに気がつく。たいていの家には炭火を埋めた灰の入っている器具がある。この上では茶のための湯が熱くされ、寒い時には手をあたためるのだが、最も重要な役目は喫煙家に便利を与えることにあるらしい。パイプと吸い口とは金属で、柄は芦みたいな物である(図8)。煙草は色が薄く、こまかく刻んであり、非常に乾いていて且つ非常にやわらかい。雁首には小さな豆粒位の煙草のたまが納る。これを詰め、さて例の炭で火を点けると、一度か二度パッと吸った丈で全部灰になって了う。このような一服でも充分なことがあるが、続けて吸うために五、六度詰めかえることも出来る。またお茶はいつでもいれることが出来るような具合になっていて、お茶を一杯出すということが一般に、店に来た人をもてなすしるしになっている。かかる小さな店のありさまを描写することは不可能である。ある点でこれ等の店は、床が地面から持ち上った、あけっぱなしの仮小屋を連想させる。お客様はこの床の端に腰をかけるのである。商品は――可哀想になる位品数のすくないことが間々ある――低い、段々みたいな棚に並べてあるが、至って手近にあるので、お客様は腰をかけた儘手をのばして取ることが出来る。この後で家族が一室に集り、食事をしたり物を読んだり寝たりしているのであるが、若しこの店が自家製品を売るのであると、その部屋は扇子なり菓子なり砂糖菓子なり玩具なり、その他何であろうと、商品の製造場として使用される。子供が多勢集ってままごとをやっているのを見ているような気がする。時に箪笥たんすがある以外、椅子、テーブルその他の家具は見当らぬ。煙筒えんとつもなし、ストーヴもなし、屋根部屋もなし、地下室もなし、扉ドアもなく、只すべる衝立ついたてがある丈である。家族は床の上に寝る。だが床には六フィートに三フィートの、きまった長さの筵むしろが、恰あたかも子供の積木が箱にピッタリ入っているような具合に敷きつめてある。枕には小さな頭をのせる物を使用し、夜になると綿の充分入った夜具を上からかける。

この国の人々がどこ迄もあけっぱなしなのに、見る者は彼等の特異性をまざまざと印象つけられる。例えば往来のまん中を誰れはばからず子供に乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける。また、続けさまにお辞儀じぎをする処を見ると非常に丁寧であるらしいが、婦人に対する礼譲に至っては、我々はいまだ一度も見ていない。一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。多くの町村では、道路に添うて井戸がある。この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みに来た三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼等が飲み終る迄、辛棒強く横に立っていた。我々は勿論彼等がこの婦人のために一バケツ水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それ所か礼の一言さえも云わなかった。
店に入る――と云った処で、多くの場合には単に敷居をまたいで再び大地を踏むことに止るが――時、男も女もはき物を残す。前に出した写生図でも判る通り、足袋たびは、拇指が他の四本の指と離れた手套てぶくろに似ているので、下駄なり草履なりを脱ぐのが、実に容易に行われる。あたり前の家の断面図を第9図で示す。店なり住宅なりの後方にある土地は、如何に狭くても、何かの形の庭に使用されるのである。

ある階級に属する男たちが、馬や牡牛の代りに、重い荷物を一杯積んだ二輪車を引っぱったり押したりするのを見る人は、彼等の痛々しい忍耐に同情の念を禁じ得ぬ(図10)。彼等は力を入れる時、短い音を連続的に発するが、調子が高いので可成り遠くの方まで聞える。繰り返して云うことはホイダ ホイ! ホイ サカ ホイ! と聞える。顔を流れる汗の玉や、口からたれる涎よだれは、彼等が如何に労苦しているかの証拠である。またベットー即ち走丁フットマン(めったに馬に乗ることをゆるされぬ彼は、文字通りの走丁である。)の仕事は、人が多勢歩いている往来を、馬車に先立って走り、路をあけることである。かくの如くにして人間が馬と同じ速さで走り、これを何マイルも何マイルも継続する。かかるベットーは黒い衣服に、丸くて黒い鉢のような形のものをかぶり、長い袖をぺらぺらと後にひるがえす。見る者は黒い悪魔を連想する。

いたる所に広々とした稲の田がある。これは田をつくることのみならず、毎年稲を植える時、どれ程多くの労力が費されるかを物語っている。田は細い堤によって、不規則な形の地区に分たれ、この堤は同時に各地区への通路になる。地区のあるものには地面を耕す人があり(図11)他では桶から液体の肥料をまいており、更に他の場所では移植が行われつつある。草の芽のように小さい稲の草は、一々人の手によって植えられねばならぬので、これは如何にも信じ難い仕事みたいであるが而も一家族をあげてことごとく、老婆も子供も一緒になってやるのである。小さい子供達は赤坊を背中に負って見物人として田の畔にいるらしく見える。この、子供を背負うということは、至る処で見られる。婦人が五人いれば四人まで、子供が六人いれば五人までが、必ず赤坊を背負っていることは誠に著しく目につく。時としては、背負う者が両手を後に廻して赤坊を支え、又ある時には赤坊が両足を前につき出して馬に乗るような格好をしている。赤坊が泣き叫ぶのを聞くことは、めったになく、又私はいま迄の所、お母さんが赤坊に対して疳癪かんしゃくを起しているのを一度も見ていない。私は世界中に日本ほど赤坊のために尽す国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界中にないと確信する。かつて一人のお母さんが鋭い剃刀かみそりで赤坊の頭を剃っていたのを見たことがある。赤坊は泣き叫んでいたが、それにも拘らず、まったく静かに立っていた。私はこの行為を我国のある種の長屋区域で見られる所のものと、何度も何度もくりかえして対照した。

私は野原や森林に、我国にあるのと全く同じ植物のあるのに気がついた。同時にまるで似ていないのもある。棕櫚しゅろ、竹、その他明らかに亜熱帯性のものもある。小さな谷間の奥ではフランスの陸戦兵の一隊が、意気な帽子に派手な藍色に白の飾をつけた制服を着て、つるべ撃ちに射撃の練習をしていた。私は生れて初めて茶の栽培を見た。どこを見ても興味のある新しい物象が私の目に入った。
はじめて東京――東の首府という意味である――に行った時、我々は横浜を、例の魅力に富んだ人力車で横断した。東京は人口百万に近い都会である。古い名前を江戸といったので、以前からそこにいる外国人達はいまだに江戸と呼んでいる。我々を東京へ運んで行った列車は、一等、二等、三等から成り立っていたが、我々は二等が充分清潔で且つ楽であることを発見した。車は英国の車と米国の車と米国の鉄道馬車との三つを一緒にしたものである。連結機と車台とバンター・ビームは英国風、車室の両端にある昇降台と扉とは米国風、そして座席が車と直角に着いている所は米国の鉄道馬車みたいなのである。我々は非常な興味を以てあたりの景色を眺めた。鉄路の両側に何マイルも何マイルもひろがる稲の田は、今や(六月)水に被われていて、そこに働く人達は膝のあたり迄泥に入っている。淡緑色の新しい稲は、濃い色の木立に生々した対照をなしている。百姓家は恐ろしく大きな草葺ぶきの屋根を持っていて、その脊梁には鳶尾とんびに似た葉の植物が生えている。時々我々はお寺か社を見た。いずれもあたりに木をめぐらした、気持のいい、絵のような場所に建ててある。これ等すべての景色は物珍しく、かつ心を奪うようなので、十七マイルの汽車の旅が、一瞬間に終って了った。
我々は東京に着いた。汽車が停ると人々はセメントの道に下りた。木製の下駄や草履が立てる音は、どこかしら馬が沢山橋を渡る時の音に似ている――このカラコロいう音には、不思議に響き渡る、どっちかというと音楽的な震動が混っている。我々の人力車には、肩に繩をつけた男が一人余計に加った――何のことはない、タンデム・ティーム〔竪に二頭馬を並べた馬車〕である――そして我々はいい勢で走り出した。横浜が興味深かったとすれば、この大都会の狭い路や生活の有様は、更に更に興味が深い。人力車は速く走る、一軒一軒の家をのぞき込む、異様な人々と行き違う――僧侶や紳士や派手に装った婦人や学生や小学校の子供や、その殆ど全部が帽子をかぶっていず、みんな黒い頭の毛をしていて、下層社会の人々の、全部とはいわぬが、ある者どもは腰のまわりに寛衣かんいの一種をまとった丈である――これは全く私を混乱させるに充分であった。私の頭はいろいろな光景や新奇さで、いい加減ごちゃごちゃになった。
かなり広い焼跡を通過した時、私は今までこんなに人が働くのを見たことがないと思った位、盛な活動が行われつつあった。そこには、小さな、一階建ての住宅や、吹けば飛ぶような店舗と、それから背の高い、堂々たる二階建ての防火建築との、二つの形式の建物が建てられつつあった。大きな防火建築をつくるに当っては、先ず足場を組み立て、次にむしろで被覆するのであるが、これはふんだんに使用する壁土が、早く乾き過ぎぬ為にするのである。かかる建物には、重い瓦の屋根が使用される。これは地震の際大いに安全だとされている。即ち屋根の惰性は、よしんば建物は揺れても、屋根は動かぬようになっているのである。一本の杖を指一本の上に立てようとすると困難である。だが、若し重い本を、この杖の上に結びつけることが出来れば、それを支えることは容易になるし、本をすこしも動かすことなしに、手を素速く数インチ前後に動かすことも出来る。〔蔵を建てるには〕先ず丈夫な骨組みが出来、その梁はりの間に籠細工のように竹が編み込まれ、この網の両側から壁土が塗られる。
建物が先ず板張りされる場合には、四角い瓦が、時としては筋違いに、時としては水平に置かれ、その後合せ目を白い壁土で塗りつぶすのであるが、これが中々手際よく、美しく見えるものである(図12)。商売人たちは毎年一定の金額を建築費として貯金する習慣を持っている。これは、どうかすると広い区域を全滅させる大火を予想してのことなのであるが、我々が通りつつあった区域は、長い間、このような災難にあわなかったので、こうして貯えた金がかなりな額に達した結果、他に比較して余程上等な建物を建てることが出来た。

古風な、美しい橋を渡り、お城の堀に沿うて走る内に、間もなく我々はドクタア・デーヴィッド・マレーの事務所に着いた。優雅な傾斜を持つ高さ二十フィート、あるいはそれ以上の石垣に接するこの堀は、小さな川のように見えた。石垣は広い区域を取りかこんでいる。堀の水は十五マイルも遠くから来ているが、全工事の堅牢さと規模の大きさとは、大したものである。我々はテーブルと椅子若干とが置かれた低い建物に入って行って、文部省の督学官、ドクタア・デーヴィッド・マレーの来るのを待った。テーブルの上には、煙草を吸う人の為の、火を入れた土器が箱に入っている物が置いてあった。間もなく召使いがお盆にお茶碗数個をのせて持って来たが、部屋を入る時、頭が床にさわる位深くお辞儀をした。
大学の外人教授は西洋風の家に住んでいる。これ等の家の多くは所々に出入口のある、高い塀にかこまれた広い構えの中に建っている。出入口のある物は締めたっきりであり、他の物は夜になると必ず締められる。東京市中には、このような場所があちこちにあり、ヤシキと呼ばれている。封建時代には殿様たち、即ち各地の大名たちが、一年の中の数ヶ月を、江戸に住むことを強請された。で、殿様たちは、時として数千に達する程の家来や工匠や召使いを連れてやって来たものである。我々が行きつつある屋敷は、封建時代に加賀の大名が持っていたもので、加賀屋敷と呼ばれていた。市内にある他の屋敷も、大名の領地の名で呼ばれる。かかる構えに関する詳細は、日本に就いて書かれた信頼すべき書類によってこれを知られ度い。大名のある者は大なる富、陸地を遙々はるばると江戸へ来る行列の壮麗、この儀式的隊伍が示した堂々たる威風……これ等は封建時代に於る最も印象的な事柄の中に数えることが出来る。加賀の大名は家来を一万人連れて来た。薩摩の大名は江戸に来るため家来と共に、五百マイル以上の旅行をした。これ等に要する費用は莫大なものであった。
現在の加賀屋敷は、立木と藪やぶと、こんがらかった灌木との野生地であり、数百羽の烏が鳴き騒ぎ、あちらこちらに古井戸がある。ふたのしてない井戸もあるので、すこぶる危い。烏は我国の鳩のように馴れていて、ごみさらいの役をつとめる。彼等は鉄道線路に沿った木柵にとまって、列車がゴーッと通過するとカーと鳴き、朝は窓の外で鳴いて人の目をさまさせる。
我々は外山教授と一緒に帝国大学を訪れた。日本服を着た学生が、グレーの植物学を学び、化学実験室で仕事をし、物理の実験をやり、英語の教科書を使用しているのを見ては、一寸妙な気持がせざるを得なかった。この大学には英語を勉強するための予備校が付属しているので、大学に入る学生は一人のこらず英語を了解していなくてはならない。私は文部卿に面会した。立派な顔をした日本人で、英語は一言も判らない。若い非常に学者らしい顔をした人が、通訳としてついて来た。この会見は、気持はよかったが、恐ろしく形式的だったので、私にはこのように通訳を通じて話をすることが、いささか気になった。日本語の上品な会話は、聞いていて誠に気持がよい。ドクタア・マレーも同席されたが、会話が終って別れた時、私が非常にいい印象を与えたといわれた。私はノート無しに講義することに馴れているが、この習慣がこの際、幸にも役に立ったのである。私は最大の注意を払って言葉を選びながら、この国が示しつつある進歩に就いて文部卿をほめた。
昼過ぎにはウィルソン教授(我々は同教授と昼飯を共にした)が私を相撲見物に連れて行ってくれた。周囲の光景がすでに面白い。小さな茶屋、高さ十フィートばかりの青銅の神様若干、それから例の如き日本人の群集。我々は切符を買った。長さ七インチ、幅二インチ半、厚さ半インチの木片で漢字がいくつか印刷してある。興行場は棒を立て、たるきを横に渡した場所に、天井に蓆むしろを使用し、壁もまた蓆で出来ていた。粗末な桟敷さじき、というよりも寧ろ桟敷二列がこの建物の周囲をめぐっているのだが、これもまた原始的なものであった。その中心に柱が四本立っていて、その間は高くなっており、直径二十フィートもあろうかと思われる円場どひょうが上に赤い布の天蓋を持って乗っている(図13)。柱の一本ずつに老人が一人ずつ坐っているのは、何か審判官みたいなものであるらしい。また厳格な顔をして、派手な着物を着た男がアムパイアの役をする。巨大な、肥えた相撲取りが円場にあらわれ、脚をふんばり、まるで試験をするように両脚を上下したり、力いっぱいひっぱたいたりした後、さて用意が出来ると顔つき合わせて数分間うずくまり、お互に相手の筋肉を検査する(彼等は犢鼻褌をしている丈である)有様は、まことに物珍しく且つ面白い観物であった。いよいよ準備が出来ると二人は両手を土につけ、そこで突然飛びかかる。円場から相手を押し出すか投げ出すかするというのが仕業なんである。この闘争が非常に短いこともあり、また活発で偉大なる力を見せたこともある。時としては単に円場から押し出され、時としては恐ろしい勢で投げつけられる。ある相撲取りは円場から投り出されて、頭と肩とで地面に落ちた。立ち上ったのを見るとそこをすりむいて血が流れていた。私がふり向いて見物人を見ることが出来るように、我々は円場にごく接近して坐った。場内は※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)ほぞ穴を持つ横木で、六フィート四方位の場所にしきられている。これがボックスなので、そのしきりの内の場所は全部あなたのものである。見物人のある者は筆を用意して来て、相撲の有様を書きとめていた。また炭火の入った道具と小さな急須とを持っていて、時々小さな茶碗に茶を注いで飲む見物人もあった。日本人たちが不思議そうに、ウィルソン教授の八つになる男の子を眺めるのを見ることは、私にとっては、他のいずれの事物とも同じ位興味があった。この可愛らしい子供は、相撲がよく見えるように、例のかこいの一方に腰をかけていた。見物人が全部膝を折って坐っているのにハリイだけが高い所にいるのだから、彼等は一人のこらず彼を眺めることが出来た。彼の色の濃い捲毛と青い目とは、まだ外国人が珍しい東京にあっては、まっかな目玉と青い頭髪が我々に珍しいであろう程度に、不思議なものなのである。所で、この色の白い、かよわそうに見える子供は、日本語を英語と同じようによく話す。彼がお父さんのために後をむいて、演技のある箇所を質問し、そしてそれを英語で我々に語った時の日本人たちの驚きは非常なものであった。彼が自分たちの言葉を話すと知った日本人たちのうれしそうな顔は、まことに魅力に充ちたものであった。私は相撲を見ている間に、何度も何度も、彼等の感嘆した顔が見たいばかりに、ハリイをして日本人にいろいろな質問を発せしめた。相撲取りたちは非常に大きくて、力が強かった。ある者は実に巨大であった。彼等は実際よく肥っている。だが彼等は敏捷さよりも獣的の力をより多く示すように思われた。幾度か彼等は取組み合うと、アムパイアが何か正しからぬことを見つけて彼等を止める。すると彼等は四本柱の一つに当る一隅に行く、そこで助手が飲水を手渡すと、彼等はそれを身体や両腕に吹きかけ、さて砂を一つかみ取って腋の下にこすりつけてから、円場の真中に来てうずくまる。正しく開始する迄に、同じことを六遍も八遍もやる。時に彼等はこのような具合(図14)になり、一人が「オーシ」というと一人が「オーショ」といい、これを何度もくりかえす。だが、その間にも相撲取りたちは各々自分の地位を保持するために、力いっぱいの努力を続けているのである。最後にアムパイアが何かいうと、二人は争いをやめて円場の外に出る。この勝負は明かに引き分けとなったらしい。巡査がいないのにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。上機嫌で丁寧である。悪臭や、ムッとするような香が全然しない……これ等のことが私に印象を残した。そして演技が終って見物人が続々と出て来たのを見ると、押し合いへし合いするものもなければ、高声で喋舌しゃべる者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。

ここを立ち去る時、私の友人は人力車を呼んで、日本語で車夫に私の行先きを話した。彼は先約があるので、私を停車場につれて行く訳に行かなかったのである。かくて私は三十分間、この大きな都会の狭い町並を旅していた。その間に欧米人には一人も行き会わず、また、勿論、私が正しい所へ行きつつあるのか、間違った方向へ行きつつあるのか、まるで見当がつかなかった。
汽車に乗って東京を出ると、すぐに江戸湾の水の上に、海岸と並行して同じような形の小さい低い島が五つ一列にならんでいるのが見える。これ等の島が設堡されているのだと知っても、別に吃驚びっくりすることはないが、只どんなに奇妙な岩層か、あるいは侵蝕かが、こんな風に不思議な程対称的な島をつくる原因になったのだろうということに、驚きを感じる。そこで説明を聞くと、これ等の島は人間がつくったもので、而もそのすべてが五ヶ月以内に出来上ったとのことである。ペリー提督が最初日本を去る時、五ヶ月の内にまた来るといいのこした。そこでその期限内に日本の人達は、単にこれ等五つの島を海の底から築き上げたばかりでなく、それに設堡工事をし、更にある島には大砲を備えつけた。かかる仕事に要した信じ難い程の勤労と、労働者や船舶の数は、我々に古代のエジプト人が行った手段となしとげた事業とを思わせる。只日本人は、古代の人々が何年かかかってやっとやり上げたことを、何日間かでやって了ったのである。これ等の島は四、五百フィート平方で約千フィート位ずつ離れているらしく見える。東京の公園で我々は氷河の作用を受けたに違いないと思う転石を見たが、あとで聞くと、それは何百マイルもの北の方から、和船ではこばれた石であるとのことであった。
我々は散歩をしていて時々我国の墓地によく似た墓地を見た。勿論墓石の形は異っている。我国で見るような、長くて細い塚は見当らず、また石屋の芸術品である所の見栄みえを張った、差出がましい代物しろものが無いので大いに気持がいい。日本人はいろいろな点で訳の分った衛生的な特色を持っているが、火葬の習慣もその一である。死体の何割位を火葬にするのか私は知らないが、兎に角多い。
夜中に時々、規則的なリズムを持つ奇妙なカチンカチンという音を聞くことがある。これは私設夜警が立てる音で、時間をきめて一定の場所を巡回し、その土地の持主に誰かが番をしつつあることを知らせるために、カチン カチンやるのである。
また昼夜を問わず、疳かん高い、哀れっぽい調子の笛を聞くことがある。この音は盲目の男女が彼等の職業であるところの按摩あんまを広告して歩くものである。このような按摩は、呼び込まれると三十分以上にもわたって、たたいたり、つねったり、こすったり、撲ったりする。その結果、それが済むと、按摩をして貰った人が、まるで生れ更ったかのように感じるような方法でこれを行うのだが、この愉快さを味って、而もたった四セント払えばいいのである! この帝国には、こうやって生活している盲人が何千、何万とある。彼等は正規の学校に通って、マッサージの適当な方法を学ぶ。これ等不幸な人達は疱瘡ほうそうで盲目になったのであるが、国民のコンモンセンスが種痘の功徳を知り、そして即座にそれを採用したので、このいやな病気は永久に日本から消え去った。我々は我国にいて、数字や統計の価値を了解すべく余りに愚鈍である結果、種痘という有難い方法を拒む、本当とは思えぬ程の莫迦者共のことを、思わずにはいられなかった。このような人達は適者生存の法理によって、いずれは疱瘡のために死に絶え、かくて民族は進歩の途をたどる。「私は盲です」という札を胸にかけている乞食は一人もいない――第一乞食がいないのである。それから、食物その他を売って歩く行商人の呼び声は、極めて風変りなので、ただちに人の注意を引き、その声を聞くために後をついて行くことさえある。花売りの呼び声は、死に瀕した牝鶏の鳴き声そのままである。
店で売る品物を陳列する方法は多く簡単で且つ面白い。一例として、団扇うちわ屋は節と節との間に穴をあけた長い竹を団扇かけとして使用する。穴に団扇をさし込むのである。台所でも同じような物に木製の匙さじや箆へらや串等をさし込む(図15)。

人力車に乗って町を行くと、単純な物品の限りなき変化に気がつく。それで、ちょっと乗った丈でも、しょっ中油断なくしていられ、興味深く、また面白がっていられる。二階のある家でいうならば、二階の手摺だけでも格子や彫刻や木材に自然が痕をとどめた物の数百の変種を見せている。ある手摺は不規則な穴のあいた、でこぼこな板で出来ていた(図16)。このような粗末な、見っともない板は、薪にしかならぬと思う人もあるであろう。然し日本人は例えば不規則な樹幹の外側をきり取つた板、それはきのこのためによごれていて、またきのこが押しつけた跡が穴になっている物のような、「自然」のきまぐれによる自然的な結果をたのしむのである。

大分人力車に乗ったので、乗っている時には全く静かにしていなくてはならぬことを知った。車を引く車夫は梶棒をかなり高く、丁度バランスする程度に押えている。だから乗っている人が突然前に動くと――例えばお辞儀をする――車夫は膝をつきお客は彼の頭上を越して前に墜ちる。反対に、友人が通り過ぎたのに気がついて、頭と身体とをくるりと後に向け同時に後方に身体をかしげると、先ずたいていは人力車があおむけにひっくりかえり、乗っている人は静かに往来に投げ落される。車夫は恐懼きょうくして頭を何度も下げては「ゴメンナサイ」といい、群衆は大いによろこぶ。
日本人の持っている装飾衝動は止るところを知らぬ。赤坊の頭でさえこの衝動からまぬかれぬ。両耳の上の一房、前頭部の半月形、頭のてっぺんの円形、後頭部の小さな尻尾――赤坊の頭を剃るにしても、こんな風に巧に毛を残すのである。
日本では我国と違って馬に蹄鉄を打たない。馬や牛が藁でつくった靴をはいているのは、すこぶる観物である。これは厚い、編んだ底を持っていて、ひづめの後に結びつけられる。往来にはこんな靴が棄ててある。四足の労役獣のばかりでなく二本足のも……。
第17図は子供を背中に負う一つの方法を示している。お母さんは背後に両手を廻し、そして赤坊の玩具を手に持っている。

東京の死亡率が、ボストンのそれよりもすくないということを知って驚いた私は、この国の保健状態に就いて、多少の研究をした。それによると赤痢及び小児霍乱コレラは全く無く、マラリヤによる熱病はその例を見るが多くはない。リューマチ性の疾患は外国人がこの国に数年間いると起る。然し我国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は、日本には無いか、あっても非常に稀であるらしい。これは、すべての排出物資が都市から人の手によって運び出され、そして彼等の農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかも知れない。我国では、この下水が自由に入江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す。そして腐敗と汚物とから生ずる鼻持ちならぬ臭気は、公衆の鼻を襲い、すべての人を酷い目にあわす。日本ではこれを大切に保存し、そして土壌を富ます役に立てる。東京のように大きな都会で、この労役が数百人の、それぞれ定った道筋を持つ人々によって遂行されているとは信用出来ぬような気がする。桶は担い棒の両端につるし下げるのであるが、一杯になった桶の重さには、巨人も骨を折るであろう。多くの場合、これは何マイルも離れた田舎へ運ばれ、蓋のない、半分に切った油樽みたいなものに入れられて暫く放置された後で、長柄の木製柄杓ひしゃくで水田に撒布される。土壌を富ます為には上述の物質以外になお函館から非常に多くの魚肥が持って来られる。元来土地が主として火山性で生産的要素に富んでいないから、肥料を与えねば駄目なのである。日本には「新しい田からはすこししか収穫が無い」という諺がある。
この国の人々は頭に何もかぶらず、殊に男は頭のてっぺんを剃って、赫々かくかくたる太陽の下に出ながら、日射病が無いというのは面白い事実である。我国では不節度な生活が日射病を誘起するものと思われているが、この国の人々は飲食の習慣に於て節度を守っている。
街路や小さな横丁等は概して撒水がよく行われている。路の両側に住む人々が大きな竹の柄杓で打水をしているのを見る。東京では水を入れた深い桶を担い棒でかついだ男が町を歩きまわる。桶の底の穴をふさぐ栓をぬくと、水がひろがって、迸ほとばしり出る。一方男はなるべく広い面積にわたって水を撒こうと、殆ど走らんばかりにして行く(図18)。水を運ぶバケツは、イーストレークがその趣味と実益とを大いに賞讃するであろうと思われる程、合理的で且つ簡単に出来ている。桶板の二枚が桶そのものの殆ど二倍の高さを持って辺の上まで続き、その一枚から他へ渡した横木がハンドルを形づくっている(図19)。

固い木でつくった担い棒は日本、支那、朝鮮を通じて、いたる所でこれを見る。棒の両端に大きなざるを二つ下げている人が、一つには一匹の大魚を、他にはそれとバランスをとるために数個の重い石を入れていることがある! これは精力の浪費だと思う人もあろう。飲用水を入れた深い桶をこのような担い棒にぶら下げたのを見ることもある。桶の中にはその直径に近い位の丸い木片が浮んでいる。この簡単な装置は水がゆれてこぼれるのを防ぐ。また桶板三枚が僅かに下に出て桶を地面から離す脚の役をつとめる、低い、浅い桶もある。この容器には塩水を満し、生きた魚を売って廻る。構造の簡単と物品の丈夫さと耐久力――すくなくとも日本人がそれを取扱う場合――とは、注意に値する。
この国に来た外国人が先ず気づくことの一つに、いろいろなことをやるのに日本人と我々とが逆であるという事実がある。このことは既に何千回となく物語られているが、私もまた一言せざるを得ない。日本人は鉋かんなで削ったり鋸で引いたりするのに、我々のように向うへ押さず手前に引く。本は我々が最終のページとも称すべき所から始め、そして右上の隅から下に読む。我々の本の最後のページは日本人の本の第一頁である。彼等の船の帆柱は船尾に近く、船夫は横から艪をこぐ。正餐の順序でいうと、糖果や生菓子が第一に出る。冷水を飲まず湯を飲む。馬を厩に入れるのに尻から先に入れる。
「茶を火にかける」建物は百尺に百五十尺、長く低い竈かまどの列(竈というよりも大きな釜が煉瓦に取りかこまれ下に火を入れる口がある)があって、中々面白い場所である。これ等の釜の列が広々とした床――それは土間である――を覆っている(図20)。釜は錫すずか亜鉛に似た合金で出来ていて、火は日本を通じての燃料である所の木炭によって熱を保つ。釜二個に対して人――男、女、娘――一人がつく。彼の任務は茶の葉を焦げぬように手でかきまわすことである。時として横浜の空気がこの植物の繊美な香で充満するということを聞くと、火を入れるために茶が香気を失うのではあるまいかと想像する人もあろう。ここの暑さは息づまるばかりであった。男は犢鼻褌一つ、年取った女の多くは両肌ぬぎ。どの人も茶道具を持っていた。小さなパイプを吸っている者も多かった。大小いろいろな嬰児こども達が、あるいは寵の列の間を走り廻り、又は煉瓦を組んだ上に坐っていた。母親の背中にいるのもある。子供達は殆ど如何なる職業にも商売にも、両親より大きな子供に背負われてか、あるいは手を引かれるかして、付き物になっている。日本人があらゆる手芸を極めて容易に覚え込みそして器用にやるのは、いろいろな仕事をする時にきっと子供を連れて行っているからだ、つまり子供の時から見覚えているからだ、と信じても、大して不合理ではないように思われる。

輸出向きの茶は、空気が入らぬようにハンダで密封する板鉛の箱に納めるにさき立って、先ず完全に乾燥しなくてはならぬ。すこしでも湿気があると黴かびが生えて品質が悪くなる。内地用の茶は僅かに火を入れる丈であるから、香気を失うことがすくない。その結果最初の煎じ出しに対しては微温湯ぬるまゆさえあればいいので、この点我国の「湯は煮たぎっているに非ざれば……」云々なる周知の金科玉条とは大部違う。
日本で出喰わす愉快な経験の数と新奇さとにはジャーナリストも汗をかく。劇場はかかる新奇の一つであった。友人数名と共に劇場に向けて出発するということが、すでに素晴しく景気のいい感を与えた。人通りの多い町を一列縦隊で勢よく人力車を走らせると、一秒ごとに新しい光景に、新しい物音、新しい香い(この最後は必ずしも常に気持よいものであるとはいえぬ)に接する……これは忘れることの出来ぬ経験である。間もなく我々は劇場に来る。我々にとっては何が何やらまるで見当もつかぬような支那文字をべったり書いた細長い布や、派手な色の提灯ちょうちんや、怪奇な招牌かんばんの混合で装飾された変てこりんな建物が劇場なのである。内に入ると我々は両側に三階の桟敷を持った薄暗い、大きな、粗末な広間とでもいうような所に来る。劇場というよりも巨大な納屋といった感じである。床は枠によって六百フィート平方、深さ一フィート以上の場所に、仕切られているが、これ等の箱が即ち桝ますで、その一つに家族一同が入って了うという次第なのである(図21)。日本人は脚を身体の下に曲げて坐る。トルコ人みたいに脚を組み合わせはしない。椅子も腰かけもベンチも無い。芝居を見るのも面白かったが、観客を見るのも同様に面白く――すくなくとも、物珍しかった。家中で来ている人がある。母親は赤坊に乳房をふくませ、子供達は芝居を見ずに眠り、つき物の火鉢の上ではお茶に使う湯があたためられ、老人は煙草を吸い、そしてすべての人が静かで上品で礼儀正しい。二つの通廊は箱の上の高さと同じ高さの床で、人々はここを歩き、次に幅五インチ位の箱の縁を歩いて自分の席へ行く。

舞台は低く、その一方にあるオーケストラは黒塗りの衝立によって、観客からかくしてある。舞台の中央には床と同高度の、直径二十五フィートという巨大な回転盤がある。場面が変る時には幕を下さず、俳優その他一切合財を乗せたままで回転盤が徐々に回転し、道具方が忙しく仕立てつつあった新しい場面を見せると共に今迄使っていた場面を見えなくする。観客が劇を受け入れる有様は興味深かった。彼等は、たしかに、サンフランシスコの支那劇場で支那人の観客が示したより以上の感情と興奮を見せた。ここで私は※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)句的につけ加えるが、上海に於る支那劇場は、サンフランシスコのそれとすこしも異っていなかった。サンフランシスコの舞台で、大きな、丸いコネティカット出来の柱時計が、時を刻んでいた丈が相違点であった。
劇は古代のある古典劇を演出したものとのことであった。言語は我々の為に通訳してくれた日本人にとってもむずかしく、彼は時々ある語句を捕え得るのみであった。数世紀前のスタイルの服装をした俳優――大小の刀をさしたサムライ――を見ては、興味津々たるものがあった。酔っぱらった場面は、大いに酔った勢を発揮して演出された。剥製の猫が長い竿のさきにぶらさがって出て来て手紙を盗んだ。揚幕から出て来た数人の俳優が、舞台でおきまりの大股ろっぽうを踏んで大威張りで高めた通廊を歩く。その中で最も立派な役者は、子供が持つ長い竿の先端についた蝋燭の光で顔を照らされる。この子供も役者と一緒に動き廻り、役者がどっちを向こうが、必ず蝋燭を彼の顔の前にさし出すのである(図22)。子供は黒い衣服を着て、あとびっしゃりをして歩いた。彼は見えないことになっている。まったく、観客の想像力では見えないのであるが、我々としては、彼は俳優たちとすこしも違わぬ程度に顕著なものであった。脚光が五個、ステッキのように突っ立った高さ三フィートのガス管で、目隠しもないが、これが極最新の設備なので、こんな風なむき出しのガス口が出来る迄は、俳優一人について子供一人が蝋燭をもって顔を照らしたものである。後見は我国に於るそれと異り、隠れていないで、舞台の上を故ことさらに歩き廻り、かわり番に各俳優の後に来て(私のテーブルはたった今地震で揺れた。一八七七年六月二十五日、――また震動があった。またあった)隠れているかのように蹲うずくまり、そして明瞭に聞える程の大声で助言する。図23は舞台の大略をスケッチしたものである。舞台の上には下げ幕として、鮮かな色の紙片を沢山つけた硬い繩がかたまって下っている。オーケストラは間断なく仕事した――日本のバンジョウを怠けたような、ぼんやりしたような調子で掻き鳴すのに持ってって、時々笛が疳高く鳴る。音楽は支那の劇場に於るが如く勢よくもなく、また声高でもなかった。過去に於る婦人の僕婢的服従は、女を演出する俳優(我々は男、あるいは少年が、女の役をやるのだと教わった)が、常に蹲るような態度をとることに依て知られた。幕間には大きな幕が舞台を横切って引かれる。その幕の上には、ある種の扇子の絵のような怪奇さを全部備えた、最も巨大な模様が目も覚めるような色彩であらわしてある。すべての細部にわたって劇場は新奇であった。こんな短い記述では、その極めて薄弱な感じしか出せない。

旧式なニューイングランドの習慣で育てられた者にとって、日曜日は面白い日であった。あらゆる種類の商売や職業が盛んに行われつつある。港の船舶は平日通りに忙しく、ホテルの向いの例の杙打機械は一生懸命働き、往来には掃除夫や撒水夫がいるし、内国人の店はすべて開いている。私の見た範囲では、日曜を安息日とする例は、薬にしたくもない。この日の午後、私は上野公園の帝室博物館を訪れるために東京へ行った。公園の人夫たちは忙しく働いている。博物館の鎧戸よろいどは下りていたが、裸の大工が二十人(いずれも腰のまわりに布をまいている)テーブルや陳列箱の細工をしていた。
博物館には完全に驚かされた。立派に標本にした鳥類の蒐集、内国産甲殻類の美しい陳列箱、アルコール漬の大きな蒐集、その他動物各類がならべてある。そして面白いことに、標示札がいずれも日本語で書いてある。教育に関する進歩並に外国の教育方針を採用している程度は、まったくめまぐるしい位である。
東京の町々を通っていて私はいろいろな新しいことを観察した。殆どすべての家の屋梁むねの上に足場があり、そこには短い階段がかかっている。ここに登ると大火事の経過がよく判る。まったくこの都会に於る火事は、その速さも範囲も恐る可きものが屡々しばしばある。人の住いはたいてい一階か二階建ての、軽い、見た所如何にも薄っぺらなものであるが、然し、かかる住宅の裏か横かには、厚さ二フィート、あるいはそれ以上の粘土か泥の壁を持つ防火建築がある。扉や僅かな窓の戸も、同じ材料で出来ていて非常に厚く、そして三つ四つの分離した鋸歯がついている点は、我国の金庫の扉と全く同じようである。家と家とは近接していはするが、一軒一軒離れている。大火事が近づいて危険になって来ると、この防火建築の重い窓の戸や扉を閉じ、隙き間や孔を粘土でふさぐ。その前に蝋燭数本を床の安全な場所に立ててそれに点火するのは、かくて徐々に酸素を無くし引火の危険を減ずるためである。日本人は燃焼の化学を全然知らぬものとされているが、実際に於ては彼等はその原論を理解し、且つ私の知る限り、他の国ではどこでもやっていないのに、その原論を実地に応用しているではないか。このような建物は godown と呼ばれる。これはインド語である。日本では「クラ」という。商人や家婦が大急ぎで荷物をかかる倉庫に納め、近所の人達もこのような保護を利用する。大火事の跡に行って見ると、この黒い建物が、我国の焼跡に於る煙突のような格好で立っている。焼け落ちた蔵を見ると、我国で所謂耐火金庫のある物で経験することを思い出す。
日本及び他の東洋の国々を訪れる者が非常に早く気づくことは、殆ど一般的といってもよい位、ありとあらゆる物品に竹を使用していることである。河に沿って大きな竹置場がいくつもあり、巨大な束にまとめられた竹が立っている。竹製品の一覧表を見ることが出来たらば、西洋人はたしかに一驚を喫するであろう。私は道路修繕の手車から、小さな石ころが粗末な竹の耨ホーでかき出されるのを見た。一本の竹の一端を八つに裂いてそれを箒のようにひろげると、便利な、箒に似た熊手レークが出来る。これは一本で箒ブルーム、熊手レーク、叉把ピッチ・フォークの役をする。
不思議な有様の町を歩いていて、アメリカ製のミシンがカチカチいっているのを聞くと妙な気がする。日本人がいろいろな新しい考案を素速く採用するやり口を見ると、この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような保守主義に、縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。
大学を出て来た時、私は人力車夫が四人いる所に歩みよった。私は、米国の辻馬車屋がするように、彼等もまた揃って私の方に馳けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異った麦藁を四本ひろい、そして籤くじを抽ひくのであった。運のいい一人が私をのせて停車場へ行くようになっても、他の三人は何等いやな感情を示さなかった。汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車の轂こしきにぶつかった。車夫たちはお互に邪魔したことを微笑で詫び合った丈で走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起る罵詈雑言ばりぞうごんとを比較した。何度となく人力車に乗っている間に、私は車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気がついた。また今迄の所、動物に対して疳癪を起したり、虐待したりするのは見たことが無い。口小言をいう大人もいない。これは私一人の非常に限られた経験を――もっとも私は常に注意深く観察していたが――基礎として記すのではなく、この国に数年来住んでいる人々の証言に拠っているのである。
箸という物はナイフ、フォーク、及び匙の役をつとめる最も奇妙な代物である。どうしてもナイフを要するような食物は、すでに小さく切られて膳に出るし、ソップはお椀から直接に呑む。で、箸は食物の小片を摘むフォーク、及び口につけた茶椀から飯を口中に押し込むショベルとして使用される。この箸の思いつきが、他のいろいろな場合に使われているのを見ては、驚かざるを得ない。即ち鉄箸では火になった炭をつかみ、料理番は魚や菓子をひっくり返すのに箸を用い、宝石商は懐中時計のこまかい部分を組み立てるために繊細な象牙の箸を使用し、往来では紙屑拾いや掃除人が長さ三尺の箸で、襤褸ぼろや紙や其他を拾っては、背中に負った籠の中にそれを落し入れる。
往来を歩いていると、目立って乞食のいないことに気がつく。不具者のいないことも著しい。人力車の多いのには吃驚びっくりする! 東京に六万台あるそうである! これは信用出来ぬ程の数である。あるいは間違っているのかも知れぬ。
旅行中の国の地方的市場を訪れることは、博物学の興味ある勉強になる。世界漫遊者は二つの重大な場所を訪れることを忘れてはならぬ。その土地の市場と、ヨーロッパでは土地の美術館とである。市場に行くとその地方の博物を見ることが出来るが、特にヨーロッパでは固有の服装をした農民達を見ることが出来るばかりでなく、手製の箱、籠等も見られる。横浜の市場訪問は興味深い光景の連続であった。莚を屋根とし、通路の幾筋かを持つ広い場所には、私が生れて初めて見た程に沢山の生きた魚類がいた。いろいろ形の変った桶や皿や笊を見る丈でも面白かったが、それが鮮かな色の、奇妙な形をした、多種の生魚で充ちているのだから、この陳列はまさに無比ユニークであった。縁ふちよりも底の方が広い、一風変った平な籠は魚を入れるのに便利である。こんな形をしていれば、すべっこい魚とても容易に辷り出ないからである(図24)。いろいろな種スペシスの食用軟体動物(色どりを鮮かに且つ生々と見せるために、水のしぶきが吹きかけてある)を入れた浅い桶には、魅せられて了った。我国の蒐集家が稀貴なりとする標本が、笊の中にザラザラと入って陳列されている。男の子が双殻貝の小さな美しい一種をあけていたが、中味を取って貝殻は惜気もなく投り出して了う。浅い桶に、我国の博物館では珍しいものとされている最も非凡な形をした大小のクルマエビや、怪異な形状で、奇妙な姿のカニが、ここにはいくつとなくある。大きな牡蠣かきに似た生物が一方の殻をはがれて曝されているが、心臓が鼓動しているのはそれが新鮮で生きている証拠である。真珠を産する貝 Haliotis カリフォルニア沿岸では abalone といい、ここでは「アワビ」というものが、食品として売り物に出ている(図25)。浅い竹籠に三つずつ貝を入れたのを売っていたが、その貝殻には美しい海藻や管状の虫がついていて、さながら海の生物の完全な森林を示していた。私が最も珍しく思ったのは頭足類で、烏賊いかも章魚たこ(図26)もあり、中には大きいのもあったが、生きたのと、すぐ食えるように茹ゆでたのと両方あった。

これ等各種の生物はすべてある簡単な方法によって生かされている。即ち低い台の上にのせた大きな円い水槽に常に水を満たし、その水槽から所々に穴をあけた長い竹の管が出ていて、この穴から水がかなりの距離にまで噴出するのである。槽に入れる水は人が天秤棒てんびんぼうの両端に塩水を入れた重いバケツをぶら下げて、海と市場とを往復するのであるが、私はこのようにして数マイルも海岸を距った地点にある市場へ海水を運ぶ人を見たことがある。噴き出す水を受けるのは浅い桶で、それには生魚が入っている。このようにして新鮮な海水が魚に与えられるばかりでなく、その水は同時に空気を混合される(図27)。食料として展観される魚の種類の数の多さには驚かざるを得ない。日本には養魚場が数箇あり。鮭は人工的に養魚される*。

* 合衆国漁業委員会最初の委員長ベアド教授の談によると、我国の近海にも日本の海に於ると同程度に沢山の可食魚類がいるのだが、我々が単に大量的に捕え得る魚のみを捕えるのに反して、日本の漁夫は捕った魚はすべて持ち帰り、そしてそれを市場で辛棒強くより分けるのである。
市場の野菜部は貧弱である。外国人が来る迄は極めて少数の野菜しか知られていなかったものらしい。ダイコンと呼ばれるラディッシの奇妙な一種は重要な食物である。それは長さ一フィート半、砂糖大根の形をしていて、色は緑がかった白色である。付合せ物として生で食うこともあるが、また醗酵させてザワクラウトに似たような物にする事もある。この後者たるや、私と一緒にいた友人の言をかりると、製革場にいる犬でさえも尻尾をまく程臭気が強い。往来を運搬しているのでさえも判る。そしてそれは屑ごみ運搬人とすれ違うのと同じ位不愉快である。トマトは非常に貧弱でひどく妙な格好をしているし、桃は小さく固く、未熟で緑色をしている。町の向う側で男の子が桃を噛る音が聞える位であるが、而も日本人はこの固い、緑色の状態にある桃を好むらしく思われる。梨はたった一種類しかないらしいが、まるくって甘味も香りもなく、外見と形が大きな、左右同形のラセットアップル〔朽葉色の冬林檎〕に似ているので、梨か林檎か見分けるのが困難であった。果実は甘さを失うらしく、玉蜀黍スイート・コーンは間もなく砂糖分を失うので数年ごとに新しくしなければならぬ。〔外国から苗種を輸入した植物のことであろう。玉蜀黍は数年ごとに直輸入の種子を蒔かぬと、甘さが減じて行くのであったろう。〕莢さや入りの豆は面白い形をした竹の筵に縫いつけられて売物に出ている(図28)。鶏卵は非常に小さい。我々が珍しいものとして保存するものを除いては、今迄に見たどの鶏卵よりも小さいのが、大きな箱一杯つまっている所は中々奇妙に思われた。

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入しても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また、今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚もって来た。この国の人々も所謂文明人としばらく交っていると盗みをすることがあるそうであるが、内地に入ると不正直というようなことは殆ど無く、条約港に於ても稀なことである。日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も閂かんぬきも戸鈕も――いや、錠をかける可き戸すらも無いことである。昼間は辷る衝立が彼等の持つ唯一のドアであるが、而もその構造たるや十歳の子供もこれを引き下し、あるいはそれに穴を明け得る程弱いのである。
ある茶店で私は始めて日本の国民的飲料である処のサケを味った。酒は米から醸造した飲料で、私の考ではラーガー・ビヤより強くはなく、我々が麦酒ビールに使用する半リッタア入りの杯マッグの代りに日本人は酒を小さな浅い磁器の盃から啜すする(図29は酒の盃実物大)。酒は常に熱くして飲むのである。私は冷たい儘をよりよしとなして数杯飲んだが一向に反応を感じなかった。確かにクラーレットよりも強くない程である。全体として私は酒をうまいものだと思った。私が今迄に味ったワインやリキュールのどれとも全く異っていて、ゼラニウムの葉を思わせるような香を持っている。今日までの所では、千鳥足の酔漢は一人も見ていない。もっとも夜中、時々歌を唄って歩く者に逢うが、これは飲み過ぎた徴候である。日本人はあまり酒をのまぬ民族と看做みなしてよかろう。日本人が物静かな落着いた人々である証拠に、彼等が指でコツコツやったり、口笛を吹いたり、手に持っている物をガタガタさせたり、その他我々がやるような神経的であることの表現をやらぬという事実がある。昨夜東京から帰りに私は狭い往来を口笛を吹きながら手で昆虫箱をコツコツ叩いて歩いた。すると人々はまるで完全な楽隊が進行でもしているかのように、明けはなした家から外を見るのであった。日本人は決して疳癪を起さないから、語勢を強める為に使用する間投詞を必要としない。「神かけて云々」というような起請オースはこの国には無い。非常に腹が立った時、彼等が使う最も酷い言葉は、莫迦と獣とを意味するに止る。而もジェントルマンはこのような言葉さえも口にしない。

有名なアメリカの医師で数年間日本で開業し、ここ二年間は東京医科大学に関係しているドクタア・エルドリッジは、彼自身が日本人を取扱ったことや、他の医師(中には十六年も、日本に滞在した人がある)の経験に就いて、私にいろいろなことを教えてくれた。日本の気候は著しくよいとされている。従来必ず流行した疱瘡は、政府が一般種痘のために力強い制度を布き、その目的のために痘苗製造所を持つに至って、今や制御し得るようになった。この事に於て、他の多くに於ると同様、日本人は西洋の国民よりも遙かに進歩している。猩紅熱しょうこうねつは殆ど無く、流行することは断じてない。ジフテリヤも極めて稀で、これも流行性にはならぬ。赤痢か慢性の下痢とかいうような重い腸の病気は非常にすくなく、肺結核は我国の中部地方に於るよりも多くはない。マラリア性の病気は重いものは稀で、軽い性質のものも多くの地方には稀である。急性の関節リューマチスは稀だが、筋肉リューマチスは非常に一般的である。腸窒扶斯チフス及び神経熱はめったに流行しない。殊に後者はすくない。再帰熱は時々見られる。皮膚病、特に伝染性のものは多い。話によると骨の傷害や挫折の治癒は非常に遅く、而も屡々不完全だそうである。米の持つ灰分は小麦の半分しか無く、おまけに水が骨に必要な無機物を充分に供給しないからである。
日本人の多くが美しい白い歯を見せる一方、悪い歯も見受ける。門歯が著しくつき出した人もいるが、この不格好は子供があまり遅くまで母乳を飲む習慣によるものとされる。即ち子供は六、七歳になるまでも乳を飲むので、その結果歯が前方に引き出されるのであると。日本人は既に外国の歯科医学を勉強しているが、彼等の特殊的な、そして繊細な機械的技能を以てしたら、間もなく巧みな歯科医が出来るであろう。日本は泰西科学のどの部門よりも医学に就いて最も堅実な進歩を遂げて来た。医学校や病院は既に立派に建てられている。外国から輸入されるすべての薬が純であるかどうか分析して調べるための化学試験所はすぐ建てられた。泰西医療術の採用が極めて迅速なので、皇漢法はもう亡びんとしている程である。宗教的信仰に次いで人々が最も頑固に固執するのは医術的信心であって、それが如何に荒唐無稽で莫迦げていても容易に心を変えぬ。支那の医術的祭礼を速に合理的且つ科学的な泰西の方法に変えた所は、この国民があらゆる文明から最善のものをさがし出して、それを即座に採用するという著しい特長を持っていることの圧倒的実例である。我々は他の国民の長所を学ぶことが比較的遅い。我々はドイツやイングランドには我国のよりも良い都市政制度があり、全ヨーロッパにはよりよき道路建設法があることを知っている。だが我々は果してこれ等の制度を迅速に採用しているであろうか。
我国の人々は、丸い真鍮製で中央に四角な穴のあいている支那の銭をよく知っている。日本にも同様なものや、またより大きく、楕円形で中心に四角な穴のあいたものもある。我々は屡々この穴が何のためにあるのかと不思議に思った。これは人が銭を南京玉のように粗末な藁繩で貫いたり、木片の上に垂直に立つ小さな棒に通して積み上げたりする為らしい(図30)。

いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供達の天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少く、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人々なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蠅うるさく愚図愚図ぐずぐずいわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長して了いそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如しくものはない。爾なんじの父と母とを尊敬せよ……これは日本人に深く浸み込んだ特性である。子供達は赤坊時代を過ごすと共に、見た所素直げに働き始める。小さな男の子が往来でバケツから手で水を撒いているのを見ることがある。あらゆる階級を通じて、人々は家の近くの小路に水を撒いたり、短い柄の箒で掃いたりする。日本人の奇麗好きなことは常に外国人が口にしている。日本人は家に入るのに足袋以外は履いていない。木製の履物なり藁の草履なりを、文字通り踏み外してから入る。最下層の子供達は家の前で遊ぶが、それにしても地面で直じかに遊ぶことはせず、大人が筵を敷いてやる。町にも村にも浴場があり、そして必ず熱い湯に入浴する。
バー・ハーバア、ニューポート及びその階級に属する場所等を稀な例外として、我国に於る防海壁に沿う無数の地域には、村落改良協会や都市連合が撲滅を期しつつあるような状態に置かれた納屋や廃棄物やその他の鼻持ちならぬ物が目に入る。全くこのような見っともない状態が、都鄙とひいたる所にあればこそ、このような協会も出来たのである。汽車に乗って東京へ近づくと、長い防海壁のある入江を横切る。この防海壁に接して、簡単な住宅がならんでいるが、清潔で品がよい。田舎の村と都会とを問わず、富んだ家も貧しい家も、決して台所の屑物や灰やガラクタ等で見っともなくされていないことを思うと、うそみたいである。我国の静かな田園村落の外縁で、屡々見受ける、灰や蛤はまぐりの殻やその他の大きな公共的な堆積は、どこにも見られない。優雅なケンブリッジ〔ハーヴァード大学所在地〕に於て二人の学者の住宅間の近道は、深い窪地を通っていた。所がこの地面はある種の屑で美事にもぶざまにされていたので、数年間にわたってしゃれに「空罐峡谷」と呼ばれた。日本人はある神秘的な方法で、彼等の廃棄物や屑物を、目につかぬように埋めたり焼いたり利用したりする。いずれにしても卵の殻、お茶の澱滓かす、その他すべての家の屑は、奇麗にどこかへ持って行って了うので、どこにも見えぬ。日本人の簡単な生活様式に比して、我々は恐ろしく大まかな生活をしている為に、多くの廃物ウェーストを処分しなくてはならず、而もそれは本当の不経済ウェーストである。我国で有産階級は家のあたりを清潔にしているが、田舎でも都市でも、貧民階級が不潔な状態の大部分に対して責任を持つのである。
日本人が集っているのを見て第一に受ける一般的な印象は、彼等が皆同じような顔をしていることで、個々の区別はいく月か日本にいた後でないと出来ない。然し、日本人にとって、初めの間はフランス人、イギリス人、イタリー及び他のヨーロッパ人を含む我々が、皆同じに見えたというのを聞いて驚かざるを得ない。どの点で我々がお互に似ているかを尋ねると、彼等は必ず「あなた方は皆物凄い、睨みつけるような眼と、高い鼻と、白い皮膚とを持っている」と答える。彼等が我々の個々の区別をし始めるのも、やはりしばらくしてからである。同様にして彼等の一風変った眼や、平な鼻梁や、より暗色な皮膚が、我々に彼等を皆同じように見させる。だが、この国に数ヶ月いた外国人には、日本人にも我々に於ると同じ程度の個人的の相違があることが判って来る。同様に見えるばかりでなく、彼等は皆背が低く脚が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い歯を現わし、頬骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊美で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かで丁寧で、晴々しい。下層民が特に過度に機嫌がいいのは驚く程である。一例として、人力車夫が、支払われた賃銀を足りぬと信じる理由をもって、若干の銭を更に要求する時、彼はほがらかに微笑し哄笑する。荒々しく拒絶した所で何等の変りはない。彼は依然微笑しつつ、親切そうにニタリとして引きさがる。
外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。こう感じるのが私一人でない証拠として、我国社交界の最上級に属する人の言葉をかりよう。我々は数ヶ日の間ある田舎の宿やに泊っていた。下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て、この米国人は「これ等の人々の態度と典雅とは、我国最良の社交界の人々にくらべて、よしんば優れてはいないにしても、決して劣りはしない」というのであった。 
第二章 日光への旅
日光への旅行――宇都宮までの六十六マイルを駅馬車で、それから更に三十マイル近くを人力車で行くという旅――は、私に田舎に関する最初の経験を与えた。我々は朝の四時に東京を立って駅馬車の出る場所まで三マイル人力車を走らせた。こんなに早く、天の如く静かな大都会を横切ることは、まことに奇妙なものであった。駅馬車の乗場で、我々は行を同じくする友人達と顔を合わせた。文部省のお役人が一人通弁として付いて行って呉れる外に、日本人が二人、我々のために料理や、荷ごしらえや、荷を担ったり、その他の雑用をするために同行した。我々の乗った駅馬車というのは、運送会社が団体客を海岸へ運ぶ為に、臨時に仕立てる小さな荷馬車に酷似して、腰掛が両側にあり、膝と膝とがゴツンゴツンぶつかる――といったようなものであった。然し道路は平坦で、二頭の馬――八マイルか十マイル位で馬を代える――は、いい勢で走り続けた。
朝の六時頃、ある町を通過したが、その町の一通りには籠や浅い箱に入れた売物の野菜、魚類、果実等を持った人々が何百人となく集っていた。野天の市場なのである。この群衆の中を行く時、御者は小さな喇叭ラッパを調子高く吹き鳴らし、先に立って走る馬丁は奇怪きわまる叫び声をあげた。この時ばかりでなく、徒歩の人なり人力車に乗った人なりが道路の前方に現われると、御者と馬丁とはまるで馬車が急行列車の速度で走っていて、そしてすべての人が聾つんぼで盲ででもあるかのように、叫んだり、怒鳴ったりするのである。我々にはこの景気のいい大騒ぎの原因が判らなかったが、ドクタア・マレーの説明によると、駅馬車がこの街道を通るようになったのはここ数ヶ月前のことで、従って大いに物珍しいのだとのことであった。
この市場の町を過ぎてから、我々は重い荷を天秤棒にかけて、ヨチヨチ歩いている人を何人か見た。大した荷である。私は幾度かこれをやって見て失敗した。荷を地面から持ち上げることすら出来ない。然るにこの人々は天秤棒をかついで何マイルという遠方にまで行くのである。また十マイルも離れている東京まで歩いて買物に行く若い娘を数名見た。六時半というのに子供はもう学校へと路を急いでいる。時々あたり前の日本服を着ながら、アメリカ風の帽子をかぶっている日本人に出喰わした。薄い木綿の股引きだけしか身につけていない人も五、六人見た。然し脚に何にもはかない人も多いので、これは別に変には思われなかった。
我々は水田の間を何マイルも何マイルも走ったが、ここで私は水車が灌漑用の踏み車として使用されているのを見た。図31は例の天秤棒で水車と箱とを運んで路を歩いて来る人を示している。同じスケッチで、一人の男が車を踏んで水を溝から水田にあげつつある。先ず箱を土手に入れ、車を適宜な凹に落し込むと、車の両側の泥に長い竿を立てる。人はこの竿につかまって身体の平衡を保ちながら、両足で車をまわすのである。

我々が通った道路は平でもあり、まっすぐでもあって、ニューイングランドの田舎で見受けるものよりも遙かによかった。農家は小ざっぱりと、趣深く建てられ、そして大きな葺ふいた屋根があるので絵画的であった。時々お寺やお社を見た。これ等にはほんの雨露を凌ぐといった程度のものから、巨大な萱かや葺屋根を持つ大きな堂々とした建築物に至る、あらゆる階級があった。これ等の建築物は、あたかもヨーロッパの寺院カセードラルがその周囲の住宅を圧して立つように、一般民の住む低い家々に蔽いかぶさっている。面白いことに日本の神社仏閣は、例えば渓谷の奥とか、木立の間とか、山の頂上とかいうような、最も絵画的な場所に建っている。聞く処によると、政府が補助をやめたので空家になったお寺が沢山あるそうである。我々は学校として使用されている寺社をいくつか見受けた(図32)。かかる空家になったお寺の一つで学校の課業が行われている最中に、我々は段々の近くを歩いて稽古に耳を傾け、そして感心した。そのお寺は大きな木の柱によって支持され、まるで明け放したパヴィリオン〔亭ちん〕といった形なのだから、前からでも後からでも素通しに見ることが出来る。片方の側の生徒達は我々に面していたので、中にはそこに立ってジロジロ眺める我々に、いたずららしく微笑ほほえむものもあったが、ある級は背中を向けていた。見ると支柱に乗った大きな黒板に漢字若干、その横には我々が使用する算用数字が書いてある。先生が日本語の本から何か読み上げると、生徒達は最も奇態な、そして騒々しい、単調な唸り声で、彼の読んだ通りを繰り返す。広い石の段々の下や、また段の上には下駄や草履が、生徒達が学校へ入る時に脱いだままの形で、長い列をなして、ならんでいた。私は、もしいたずらっ児がこれ等の履物をゴチャまぜにしたら、どんな騒ぎが起るだろうかと考えざるを得なかったが、幸にして日本の子供達は、嬉戯に充ちていはするものの、物優しく育てられている。我国の「男の子は男の子なんだから」boys will be boys という言葉――我国にとって最大の脅威たるゴロツキ性乱暴の弁護――は日本では耳にすることが決してない。

所で、これ等各種のお社への入口は tori-i と称する不思議な門口、換言すれば枠形フレーム(門ゲートはないからこう云うのだが)で標示されている。この名は「鳥の休息所」を意味するのだそうである。これが路傍に立っているのを見たら、何等かのお社が、あるいは林のはるか奥深くであるにしても、立っているのだと知るべきである。この趣向はもと神道の信仰に属したものであって何等の粉飾をほどこさぬ、時としては非常に大きな、白木でつくられたのであった。支那から輸入された仏教はこの鳥居を採用した。外国人が描いた鳥居の形や絵には間違ったものが多い。日本の建築書には鳥居のある種の釣合が図表で示してある。一例をあげると上の横木の末端がなす角度は縦の柱の底部と一定の関係を持っておらねばならないので、この角度を示すために点線が引いてある。鳥居には石造のもよくある。これ等は垂直部もまた上方の水平部も一本石で出来ている。肥前の国には大きな磁器の鳥居もある。
道路に添って立木に小枝の束が縛りつけてあるのを見ることがある。これは人々が集め、蓄え、そして、このようにして乾燥させる焚きつけなのである。
ある町で、私は初めて二人の乞食を見たが、とても大変な様子をしていた。即ち一人は片方の足の指をすっかり失っていたし、もう一人の乞食の顔は、まさに醗酵してふくれ上らんとしつつあるかのように見えた。おまけに身につけた襤褸ぼろのひどさ! 私が銭若干を与えると彼等は数回続けて、ピョコピョコと頭をさげた。一セントの十分一にあたる小銭は、このような場合最も便利である。ある店で六セント半の買物をして十セントの仮紙幣を出した所が、そのおつりが片手に余る程の、いろいろな大きさの銅貨であった。私は後日ここに来るヤンキーを保護するつもりで、貰ったおつりを非常に注意深く勘定する真似をしたが、あとで、そんなおつりを勘定するような面倒は、全く不必要であると聞いた。
午前八時十五分過ぎには十五マイルも来ていた。我々の荷物全部――それには罐詰のスープ、食料品、英国製エール一ダース等も入っている――を積んだ人力車は、我々のはるか前方を走っていた。而も車夫は我々と略ほぼ同時に出立したのである。多くの人々の頭はむき出しで、中には藍色の布をまきつけた人もいたが、同時にいろいろな種類の麦藁帽子も見受けられた。水田に働く人達は、極めて広く浅い麦藁帽子をかぶっていたが、遠くから見ると生きた菌きのこみたいだった(図33)。

目の見えぬ娘がバンジョーの一種を弾きながら歌を唄ってゆっくりと町を歩くのをよく見たし、またある場所では一人の男がパンチ・エンド・ジュディ〔操り人形〕式の見世物をやっていた。片手に人形を持ち、その頭をポコンポコン動かしながら、彼は歌を唄うのであった。
艶々つやつやした鮮紅色の石榴ざくろの花が、家を取りかこむ濃い緑の木立の間に咲いている所は、まことに美しい。
街道を進んで行くと各種の家内経済がよく見える。織おりものが大部盛に行われる。織機はその主要点に於て我国のと大差ないが、紡車いとぐるまを我々と逆に廻すところに反対に事をする一例がある。
路に接した農家は、裏からさし込む光線に、よく磨き込まれた板の間が光って見える程あけっぱなしである。靴のままグランド・ピアノに乗っかる人が無いと同様、このような板の間に泥靴を踏み込む人間はいまい。家屋の開放的であるのを見ると、常に新鮮な空気が出入していることを了解せざるを得ない。燕は、恰度我国で納屋に巣をかけるように、家の中に巣を営む(図34)。家によっては紙や土器の皿を何枚か巣の下に置いて床を保護し、また巣の直下の梁に小さな棚を打ちつけたのもある。蠅はすこししかいない。これは馬がすくないからであろう。家蠅は馬肥で繁殖するものである。

床を洗うのに女は膝をついて、両手でこするようなことをしないで、立った儘手を床につけ、歩きながら雑巾ぞうきんを前後させる(図35)。こんな真似をすれば我々の多くは背骨を折って了うにきまっているが、日本人の背骨は子供の時から丈夫になるように育てられている。

窓硝子ガラスの破片を利用して、半音楽的なものが出来ているのは面白かった。このような破片のいくつかを、風が吹くと触れ合う程度に近くつるすと、チリンチリンと気持のいい音を立てるのである。(図36)。

我々が通過した村は、いずれも小さな店舗がならぶ、主要街を持っていた。どの店にしても、我々が立ち止ると、煙草に火をつける為の灰に埋めた炭火を入れた箱が差し出され、続いて小さな茶碗をいくつかのせたお盆が出る。時として菓子、又は碌に味のしないような煎餅若干が提供された。私は段々この茶に馴れて来るが、中々気持のよいものである。それはきまって非常に薄く、熱く、そして牛乳も砂糖も入れずに飲む。日本では身分の上下にかかわらず、一日中ちょいちょいお茶を飲む。
この地方では外国人が珍しいのか、それとも人々が恐ろしく好奇心に富んでいるのか、とにかく、どこででも我々が立ち止ると同時に老若男女が我々を取り巻いて、何をするのかとばかり目を見張る。そして、私が小さな子供の方を向いて動きかけると、子供は気が違ったように泣き叫びながら逃げて行く。馬車で走っている間に、私はいく度か笑いながら後を追って来る子供達を早く追いついて踏段に乗れとさしまねいたが、彼等は即時すぐ真面目まじめになり、近くにいる大人に相談するようなまなざしを向ける。遂に私は、これは彼等が私の身振りを了解しないのに違いないと思ったので、有田氏(一緒に来た日本人)に聞くと、このような場合には手の甲を上に、指を数回素早く下に曲げるのだということであった。その次に一群の子供達の間を通った時、私は教わった通りの手つきをやって見た。すると彼等はすぐにニコニコして、馬車を追って馳け出した。そこで私は手真似足真似で何人かを踏段に乗らせることが出来た。子供達が木の下駄をはいているにもかかわらず――おまけに多くは赤坊を背中にしょわされている――敏捷に動き廻るのは驚く可き程である。上の図(図37)は柔かい紐が赤坊の背中をめぐり、両腋と足の膝の所を通って、女の子の胸で結ばれる有様を示している。子供はどこにでもいて、間断ない興味の源になる。だがみっともない子が多い。この国には加答児カタルにかかっている子供が多いからである。

日本を旅行すると、先ずどこにでも子供がいることに気がつくが、次に気がつくのは、いたる所に竹が使用してあることである。東屋あずまやの桷たるき、縁側の手摺、笊、花生け、雨樋から撥釣瓶はねつるべにいたる迄、いずれも竹で出来ている。家内ではある種の工作物を形づくり、台所ではある種の器具となる。また竹は一般に我国に於る唾壺だこの代用として使用されるが、それは短く切った竹の一節を火壺と一緒に箱に入れた物で、人は慎み深く頭を横に向けてこれを使用し、通常一日使う丈で棄てて了う。
田舎を旅しているとすぐ気がつくが、雌鶏の群というものが見あたらぬ。雌鶏と雄鶏とがたった二羽でさまよい歩く――もっともたいていはひっくり返した笊の内に入っているが――だけである。鶏の種類は二つに限られているらしい。一つは立派な、脚の長い、距けづめの大きな、そして長くて美事な尾を持つ闘鶏で、もう一つは莫迦げて大きな鶏冠とさかと、一寸見えない位短い脚とを持つ小さな倭鶏である。
歩いて廻る床屋が、往来に、真鍮張りの珍しい箱を据えて仕事をしている。床屋はたいていは大人だが(女もいる)どうかすると若い男の子みたいなのもいる。顔はどこからどこ迄剃って了う。婦人でさえ、鼻、頬、その他顔面の表面を全部剃らせる。田舎を旅行していると、このような旅廻りの床屋がある程度まで原因となっている眼病の流行に気がつく――白障眼そこひ、※(「火+欣」、第3水準1-87-48)衝きんしょうを起した眼瞼まぶた、めっかち、盲人等はその例である。
我々が休憩した宿屋の部屋部屋には、支那文字の格言がかけてある。日本人の通弁がその意味を訳そうとして一生懸命になる有様は中々面白い。我々として見ると、書かれた言葉が国民にとってそれ程意味が不明瞭であることは、大いに不思議である。読む時に、若し一字でも判らぬ字があると、通弁先生は五里霧中に入って了う。接続詞が非常にすくなく、また文脈は役に立たぬらしい。今 Penny wise pound foolish ――〔一文惜みの百損〕――なる格言が四個の漢字で書いてあると仮定する。この格言が初めてである場合、若し四字の中の一字が判らないと、全体の意味が更に解釈出来なくなる。つまり penny wise …… foolish とか、…… wise pound foolish とか(外の字が判らぬにしても同様である)いう風になって、何のことやら訳が判らぬ。我々の通弁が読み得た文句は、いずれも非常に崇高な道徳的の性質のものであった。格言、古典からのよき教え、自然美の嘆美等がそれである。このような額は最も貧弱な宿屋や居酒屋にでもかけてある。それ等の文句が含む崇高な感情を知り、絵画の優雅な芸術味を認めた時、私は我国の同様な場所、即ち下等な酒場や旅籠はたご屋に於る絵画や情趣を思い浮べざるを得なかった。
田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前の奇麗に掃かれた歩道、家内にある物がすべて小ざっぱりとしていい趣味をあらわしていること、可愛らしい茶呑茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤こぶ、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これ等の美しい品物はすべて、あたり前の百姓家にあるのである。
この国の人々の芸術的性情は、いろいろな方法――極めて些細なことにでも――で示されている。子供が誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙片をはりつけずに、桜の花の形に切った紙をはる。この、奇麗な、障子のつくろい方を見た時、私は我国ではこわれた窓硝子を、古い帽子や何かをつめ込んだ袋でつくろうのであることを思い出した。
穀物を碾ひく臼は手で廻すのだが、余程の腕力を必要とする。一端を臼石の中心の真上の桷たるきに結びつけた棒が上から来ていて、その下端は臼の端に着いている。人はこの棒をつかんで、石を回転させる(図38)。稲の殻を取り去るには木造で石を重りにした一種の踏み槌が使用される。人は柄の末端を踏んで、それを上下させる。この方法は、漢時代の陶器に示されるのを見ると、支那ではすくなくとも二千年前からあるのである。この米つきは東京の市中に於てでも見られる(図39)。搗ついている人は裸で、藁繩で出来たカーテン〔繩のれん〕によってかくされている。このカーテンは、すこしも時間を浪費しないで通りぬけ得るから、誠に便利である。帳として使用したらよかろうと思われる。

この上もなく涼しい日に、この上もなく楽しい旅を終えて我々は宇都宮に着いた。目新しい風物と経験とはここに思い出せぬ程多かった。六十六マイルというものを、どちらかといえばガタピシャな馬車に乗って来たのだが、見た物、聞いた音、一として平和で上品ならざるはなかった。田舎の人々の物優しさと礼譲、生活の経済と質素と単純! 忘れられぬ経験が一つある。品のいいお婆さんが、何マイルかの間、駅馬車内で私の隣に坐った。私は日本語は殆ど判らぬながら、身振りをしたり、粗末な絵を描いたりして、具合よく彼女と会話をした。お婆さんはそれ迄に外国人を見たこともなければ、話を交えたこともなかった。彼女が私に向って発した興味ある質問は、我国の知識的で上品な老婦人が外国人に向ってなすであろうと、全く同じ性質を持っていた。
旅館に於る我々の部屋の清潔さは筆ではいい現わし得ない。これ等の部屋は二階にあって広い遊歩道に面していた。ドクタア・マレーのボーイ(日本人)が間もなく我々のために美事な西洋料理を調理した。我々はまだ日本料理に馴れていなかったからである。ここで私は宿屋の子供やその他の人々に就いての、面白い経験を語らねばならぬ。即ち私は日本の紙に日本の筆で蟾蜍ひきがえる、バッタ、蜻蛉とんぼ、蝸牛かたつむり等の絵を書いたのであるが、子供達は私が線を一本か二本引くか引かぬに、私がどんな動物を描こうとしているかを当てるのであった。
六十六マイルの馬車の旅で疲れた我々は、上述の芸当を済ませた上で床に就いた。すくなくとも床から三フィートの高さの二本の棒に乗った、四角い提灯ちょうちんの形をした夜のランプが持ち込まれた。この構造の概念は、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵(図40)によらねば得られない。提灯の一つの面は枠に入っていて、それを上にあげることが出来る。こうして浅い油皿に入っている木髄質の燈心若干に点火するのである。日本では床の上に寝るのであるが、やわらかい畳マット*がこの上もなくしっかりした平坦な表面を持っているので、休むのには都合がよい。

* この畳に関する詳細は私の『日本の家庭』(ハーパア会社一八八六年)に図面つきで説明してある。Japanese Homes(Harper & Bros)
四角い箱の形をした、恐ろしく大きな緑色の蚊帳かやが部屋の四隅からつられた。その大きさたるや我々がその内に立つことが出来る位で、殆ど部屋一杯にひろがった。枕というは黒板こくばんふき位の大きさの、蕎麦殻そばがらをつめ込んだ小さな袋である。これが高さ三インチの長細い木箱の上にのっている。枕かけというのは柔かな紙片を例の袋に結びつけたものである。その日の旅で身体の節が硬くなったような気がした私は按摩あんま、即ちマッサージ師を呼びむかえた。彼は深い痘痕あばたを持つ、盲目の老人であった。先ず私の横に膝をつき、さて一方の脚を一種の戦慄的な運動でつまんだり撫でたりし始めた。彼は私の膝蓋骨を数回前後に動かし、この震動的な捏こねるような動作を背中、肩胛骨けんこうこつ、首筋と続けて行い、横腹まで捏ねようとしたが、これ丈は擽くすぐったくってこらえ切れなかった。とにかく按摩術は大きに私の身体を楽にした。そして三十分間もかかったこの奉仕に対して、彼はたった四セント半をとるのであった。
翌朝、我々は夙く、元気よく起き出でた。今日は人力車で二十六マイル行かねばならぬ。人力車夫が宿屋の前に並び、宇都宮の人口の半数が群をなして押しよせ、我々の衣類や動作を好奇心に富んだ興味で観察する有様は、まことに奇妙であった。暑い日なので私は上衣とチョッキとを取っていたので、一方ならず派手なズボンつりが群衆の特別な注意を惹いた。このズボンつりは意匠も色もあまりに野蛮なので、田舎の人達ですら感心してくれなかった。
車夫は総計六人、大きな筋肉たくましい者共で、犢鼻褌だけの素っぱだか。皮膚は常に太陽に照らされて褐色をしている。彼等は速歩で進んでいったが、とある村に入ると気が違いでもしたかのように駈け出した。私は人間の性質がどこでも同じなのを感ぜざる得なかった。我国の駅馬車も田舎道はブランブランと進むが、村にさしかかると疾駆して通過するではないか。
宇都宮の二十五マイル手前から日光に近い橋石に至る迄、道路に接して立派な杉(松柏科の一種)の並木がある。所々に高さ十二フィートを越える土手があり、その両側には水を通ずる為に深い溝が掘ってある。その溝のある箇所には、水の流れを制御する目的で広い堰せきが設けられている。二十七マイルにわたって、堂々たる樹木が、ある場所では五フィートずつの間隔を保って(十五フィート以上間をおくことは決してない)道路を密に辺取へりどっている有様は、まさに驚異に値する。両側の木の梢が頭上で相接している場所も多い。樹幹に深い穴があいている木も若干見えたが、これは一八六八年の革命当時の大砲の弾痕である。所々樹の列にすきがある。このような所には必ず若木が植えてあり、そして注意深く支柱が立ててある(図41)。時に我々は木の皮を大きく四角に剥ぎ取り、その平な露出面に小さな丸判を二、三捺おしたのを見た。皮を剥いた箇所の五、六尺上部には藁繩が捲きつけてある(図42)。このようなしるしをつけた木はやがて伐きられるのであるが、いずれも密集した場所のが選ばれてあった。人家を数マイルも離れた所に於て、かかる念入りな注意が払われているのは最も完全な保護が行われていることを意味する。何世紀に亘ってこの帝国では、伐木の跡には必ず代りの木を植えるということが法律になっていた。そしてこれは人民によって実行されて来た。この国の主要な街道にはすべて一列の、時としては二列の、堂々たる並木(主に松柏科)がある。奥州街道で我々は、村を除いてはこのような並木に、数時間に亘って唯一つの切れ目もないのを見ながら旅行をした。

密集した部落以外に人家を見ることは稀である。普通、小さな骨組建築フレーム・ウワークか、門ゲートの無い門構ゲート・ウェーが村の入口を示し、そこを入るとすぐ家が立ち並ぶが、同様にして村の通路の他端を過ぎると共に、家は忽然として無くなって了う。
道路の両側に電信柱がある。堤の上には柱を立てる余地が無いので、例の深い溝の真中に立ててあり、柱の底部に当って溝は手際よく切られ、堤の中に入り込んでいる(図43)。古いニューイングランド式の撥釣瓶はねつるべ(桿と竿とは竹で出来ている)が、我国に於るのと全く同じ方法で掛けてあるのは、奇妙だった。正午人々が床に横わって昼寝しているのを見た。家は道路に面して開いているので、子供が眠ている母親の乳房を口にふくんでいるのでも何でもまる見えである。野良仕事をする人達は、つき物の茶道具を持って家に帰って来る。山の景色は美しく、フウサトニック渓谷〔ニューイングランドを流れる川の一つ〕を連想させた。

仕事をするにも休むにも、日本人は足と脚との内側の上に坐る――というのは、脚を身体の下で曲げ、踵かかとを離し、足の上部が畳に接するのである。屡々足の上部外側に胼胝たこ、即ち皮膚が厚くなった人を見受けるが、その原因は坐る時の足の姿勢を見るに至って初めて理解出来る。鍛冶かじ屋は地面に坐って仕事をする(手伝いは立っているが)。大工は床の上で鋸を使ったり鉋かんなをかけたりする。仕事台も万力も無い大工の仕事場は妙なものである。
時々我々は不細工な形をした荷鞍の上に、素敵に大きな荷物を積んだ荷牛を見受けた。また馬といえば、何マイル行っても種馬にばかり行き会うのであった。東京市中及び近郊でも種馬ばかりである。所が宇都宮を過ぎると、馬は一つの例外もなく牝馬のみであった。この牡馬と牝馬とのいる場所を、こう遠く離すという奇妙な方法は、日本独特のものだとの話だが、疑も無くこれは支那その他の東方の国々でも行われているであろう。
村の人々が将棋――我国の将棋チェスよりもこみ入っている――をさしている光景は面白かった。私はニューイングランドの山村の一つに、このような光景をそっくり移して見たいと想像した。
あばら家や、人が出来かけの家に住んでいるというようなことは、決してみられなかった。建築中の家屋はいくつか見たが、どの家にしても人の住んでいる場所はすっかり出来上っていて、足場がくっついていたり、屋根を葺かず、羽目を打たぬ儘にしてあったりはしないのである。屋根の多くは萱葺きで、地方によって屋背の種類が異っている。柿葺(こけらぶき)の屋根もすこしはある。柿は我国のトランプ札と同じ位の厚さで、大きさも殆ど同じい。靴の釘位の大きさの竹釘が我国の屋根板釘の役をつとめる。一軒が火を発すると一町村全部が燃えて了うのに不思議はない。柿というのが厚い鉋屑みたいで、火粉が飛んで来ればすぐさま燃え上るのだから*……。
* 家屋の詳細は『日本の家庭』に就いて知られ度い。
日本人の清潔さは驚く程である。家は清潔で木の床は磨き込まれ、周囲は奇麗に掃き清められているが、それにも係らず、田舎の下層民の子供達はきたない顔をしている。畑に肥料を運ぶ木製のバケツは真白で、我国の牛乳鑵みたいに清潔である。ミルクやバターやチーズは日本では知られていない。然しながら料理に就いては清潔ということがあまり明らかに現われていないので、食事を楽しもうとする人にとっては、それが如何にして調えられたかという知識は、食慾催進剤の役をしない。これは貧乏階級のみをさしていうのであるが、恐らく世界中どこへ行っても、貧民階級では同じことがいえるであろう。
とある川の岸で、漁夫が十本の釣竿を同時に取扱っているのを見た。彼は高みに立って扇の骨のように開いた釣竿の端を足で踏んでいる。このようにして彼は、まるで巣の真中にいる大きな蜘蛛くもみたいに、どの竿に魚がかかったかを見わけることが出来るのであった(図44)。

日本の枕というのは奇妙な代物で、一寸見ると如何にも使い難くそうであるが、而し私は二時間の睡眠にこれを使用して見て、これはいいと思った。只、馴れぬ人が一晩中使用すると頸に痙攣けいれんが起る。この枕は特殊な方法で結った頭髪に適するために、出来たものである。婦人のこみ入った結髪、及び男子の固いちょんまげ――こってりと堅練り油をつけ、数日間は形を保つように仕上げたもの――は、それ等がこわれないような枕を必要とした。暑い時には空気が頸のまわりを吹き通して誠に気持がいい。図45はその一夜の用のために運び込まれた我々の枕で、図46は熟睡している有田氏をスケッチしたものである。

日本の部屋に敷いてある畳に就いては既に書いた。畳は一定の規則に従って敷きつめられる。図47は六枚畳を敷いた部屋を示している。宿屋では畳一枚に客人一人の割合なので、主人としては、一人で部屋全体を占領したがるのみならず、テーブルと椅子とを欲しがる外国人よりも、日本人の方を歓迎する。テーブルや椅子――手に入らぬ時は論外だが――には、いずれも脚に幅の広い板が打ちつけてある。そうでないと畳に穴があいて了う。加レ之、外国人はコックを連れて歩くが、このコックがまた台所で広い場所を取る。日本食に慣れるには中々時間がかかる。日本料理は味も旨味も無いように思われる。お菓子でさえも味に欠けている。私は冷たい牛乳をグーッとやり度くて仕方がなかった。パン一片とバターとでもいい。だが、その他のすべての事が如何にも気持よいので、目下の処食物のことなんぞは考えていない。

我々は東京行きの郵便屋に行きあった。裸の男が、竿のさきに日本の旗を立てた、黒塗の二輪車を引っ張って、全速力で走る。このような男はちょいちょい交代し、馬よりも早い(図48)。

道路の重要な曲り角や目につきやすい場所には、馬に慈悲をたれ給う神への顕著な記念碑が建っている、ここにその一つのスケッチがある(図49)。碑文を書くことは出来なかったので、いい加減なことを書いておいたが、我国の動物虐待防止会式の諫言、例えば「坂を登る時には支頭韁(はづな)をゆるめよ」とか「馬に水を飲ませよ」とかいうような文句が刻んであるのである。

萱葺屋根の葺きようの巧みさには、いくら感心しても感心しきれなかった。こんな風なことに迄、あく迄よい趣味があらわれているのである。よく葺いた屋根は五十年ももつそうである*。
* 『日本の家庭』には屋根のことが写生図と共にある程度まで取扱ってある。
日本の萱葺屋根の特異点は、各国がそれぞれ独特の型式を持って相譲らぬことで、これ等各種の型式をよく知っている人ならば、風船で日本に流れついたとしても、家の脊梁むねの外見によって、どの国に自分がいるかがすぐ決定出来る程である。画家サミュエル・コールマンはカリフォルニアからメインに至る迄どの家の屋根も直線の脊梁を持っていて、典雅な曲線とか装飾的な末端とかいうものは薬にしたくも見当らぬといって、我国の屋根の単純な外見を批難した。日本家屋の脊梁は多くの場合に於て、精巧な建造物である。編み合わした藁から植物が生える。時に空色の燕子花かきつばたが、美事な王冠をなして、完全に脊梁を被っているのを見ることもある。図50は手際よく角を仕上げ、割竹でしっかりと脊梁をしめつけた屋根を示している。軒から出ているのは花菖蒲の小枝三本ずつで、五月五日の男子の祭礼日にさし込んだもの。私はこの国で、多くの祭日中、特に男の子のための祭日が設けてあり、かつそれがかく迄も一般的に行われていること――何となればどの家にも、最も貧困な家にも、三本ずつ束にしたこのような枯枝が檐のきから下っていた――に心を打たれた。女の子のお祭りは三月三日に行われる。

日本の犂すきは非常に不細工に見える(図51)。だが、見た所よりも軽い。鉄の部分は薄く、木部は鳩尾ありさしのようにしてそれに入っている。これを使用する為には、ずい分かがまねばならぬが、この国の人々の深く腰をかがめたり、小さい時に子供を背負ったり、田植をしたりする習慣は、すべて、非常に力強い背中を発達させる役に立つ。赤坊や小さな子供が両手の力を藉かりずに床から起き上るのを見ると、奇妙な気がする。彼等の脚は、腕との割合に於て、我々のよりも余程短い。これは一般に坐るからだとされているがそんな莫迦なことはない。

この国の連枷からさおは我々のとは全く違う。柄は竹製、その末端を削って図52のように曲げ、そこに打穀部を取りつける。何人かがそろって連枷を使っているのを見るが、いい事に、この連枷は一つの平面のみにしか動かない。我国の連枷はどっちへでもくるくる廻る結果、下手な人がやると自分の頭を撲ったりするが、日本のだとそんなことは無い。穀物は家に近く、筵の上に奇麗にならべて日に乾す。鶏は自由自在に入り込むが、いまだかつて追っ払われるのを見たことがない。農夫は野から草や穀物を運ぶのに長い架しょいこを使う(図53)。その架は人間の背よりも高いので、背中の上の方に背負う。人が休むと架の下端は地面に着く。穀物は大きな束にして縛りつけるので、小さな乾草架なら、一杯になって了うであろう。

路に沿って我々は折々、まるい、輝紅色の草苺いちごを見たが、これは全然何の味もしなかった。今迄に私は野生の草苺を三種類見た。人家の周囲には花が群れて咲いている。蜀葵たちあおいは非常に美しく、その黄色くて赤い花はあまり色が鮮かなので殆ど造花かと思われる程である。いや、まったく、花束に入っていたのを見た時には、造花に違いないと思った。最も美しいのは石榴ざくろである。門の内には驚く程美事な赤い躑躅つつじの生垣があった。我国の温室で見るのと全く同じ美しい植物である。
小憩するために車を止めた茶屋で、我々はいたる所を見廻した。部屋は奇麗に取片づけられている、畳は清潔である、杉材の天井やすべての木部は穴を埋めず、油を塗らず、仮漆ニスを塗らず、ペンキを塗ってない。家の一面は全部開いて、太陽と空気とを入れるが、而も夜は木造の辷り戸で、また必要があれば、昼間は白い紙を張った軽い枠づくりの衝立で、きっちりと閉め切ることが出来る。室内の僅かな装飾品は花瓶とかけ物とである。かけ物は絵の代りに、訓言や、古典から取った道徳的の文句を、有名な人か仏教の僧侶かが書いたものであることがある。図54はそのような字句を簡単に額にしたものと、その額を保護する為の紅絹もみの小布団とである。

窓――それがある場合には――の形に現われる日本人の注意深さと趣味とは図55の通りである。これは鼠無地の壁を丸くくりぬいた、直径四フィートの窓であって、外側には松の立木を態々わざわざ曲げくねらせ、また石燈籠が見える。若しこの丸い眺望の中に山の峰を取り入れることが出来れば、それは理想的なものとされる。このような窓は瓢箪ひょうたんを二つ連ねた形であったり、四角であったりすることもあるが、形の如何を問わず、常によい趣味で出来ている。我々はこのような、物珍しくも古めかしく且つ美しい趣を見て、殆ど有頂天うちょうてんになった――我国の家屋にあっては決して見られぬ、然し取り入れてもよい趣味である。

図56は女髪結に髷まげを結ゆって貰いつつあった一婦人のスケッチである。木製の櫛と髪結の手とは練油でベットリしていた。彼女は使用に便利なように、自分の手の甲に練油を一とぬり塗りつけたものである。このようにして結った髷は数日にわたって形を崩さない。

この国の人々があく迄勤労する実例はいたる所で見られる。作物を植えることを語った時、私は何千エーカーという水田に稲の小さな束が手で移植されることを述べたが、大麦や小麦や蕎麦が事実何列も移植され、また徹底的な草取りが手で行われるのだとは、思いもよらなかった。聞く所によると、米の変種は二百七十種ある。主な種類は二つ――普通のと、それからねばねばしたのとである。 
第三章 日光の諸寺院と山の村落
我々は世界的に有名な日光の諸寺院に近い橋石〔括弧してストーン・ブリッジとしてあるが現在の日光町字鉢石はついしのことらしい〕で数日間逗留することになった。東京にくらべるとここは二千フィートも高い。この村は広い流床と高い河岸とを持つ、大きな、轟き渡る川に沿うて、細長く横たわっている(図57)。周囲全体はホワイト・マウンテン地方の荒地と同じように、岩の山脈や山の森林や乱れ繁る叢林で荒々しく見える。日光の寺院の無比にして驚嘆に値する特質を諒知するために、人はこの野生さと近づき難さとのすべてを、心に留めていなくてはならぬ。村の町通りは全体にわたって坂である。それは僅かに屈曲していて石が敷きつめてあり、丁度真中の所に石の溝があって、水が勢強く流れている。通りの両側にも溝がある(図58)。中央の溝は所々広がって四角い井戸になり、ここで女の人達が桶や手桶を洗ったり、手や足に浴したりする。この水は山間の渓流から流れて来るので、水晶のように奇麗である。飲料水は別の井戸のを使う。道路の各所に石段があるが、全体として、車輪のついた運搬機が、いまだかつてこの道路を使用していないことを示している。目に入るものは駄馬ばかり、人力車でさえも石段を越して行くことは困難である。

我々は村一番の宿屋に泊った。道路から古風な建物のいくつかが長く続いて、美しい廊下や、掃き清めた内庭や、変った灌木や、背の低い松や、石燈籠や、奇妙な塀や、その他すべてが、如何にも人の心を引きつける。我々はかくの如き建物の最終の部屋――下二間、二階二間である――を選定した。そこの廊下は殆ど部屋と同じ位広く、そして張り出した屋根で覆われている。我々はテーブルを廊下に持ち出し、夜は頭の上の桷からぶら下った、二つの石油洋燈ランプの光で、物を書く。これ等の洋燈は我々を除いては唯一の欧州、又はアメリカとの接触の形蹟である。我々が逢うのは日本人ばかり。新聞紙片、ポスター、シガレットの箱、その他外国の物は一つもない。今、午後十時、ここでこれを書いている私にとって、昆虫類は大いに歓迎はするが、うるさい。私は手近に昆虫箱を置き、誘惑に堪え兼ねて、蛾のあるものをピンでとめる。それ等はすべて実に美しいのである。その多くは、我国にいるのと同じ「属」に属するので見覚えがあるが、色彩や模様は異っている。時々、私の紙の上に、驚く程同じ様なのが落ちて来て止るが、それにしても相違はある。ここで書いて置かねばならぬのは、晩飯に食った野生のラズベリー〔木苺の一種〕のこと。形は我国のものの二倍位でブラックベリーのように艶つやがあり、種子は非常に小さく、香はラズベリーで味は野生的な森林を思わせるもの。実に美味で我国のとは全く異る果実であった。
落ついた所で我々は村落を見廻し、雄大な山の景色を楽しむのである。我々の背後で轟々ごうごうと音を立てる川は、私にカリゲイン渓流を思わせた。翌朝我々はこの島帝国に現在建っている最大の寺院、日光山の諸寺院に向けて出発した。これ等の寺院は第一の将軍と第三の将軍との埋葬地と関係がある。第一の将軍は二百五十年前に死んだ。我々は面白い形をした橋を渡ったが、この橋に近く並んでもう一つ、朱の漆を厚く塗った橋がかかっている。この橋は両端近くで、激流からそそり立つ高さ十五フィート直径二フィートの大きな石柱で支持されている。横木は石で、垂直の柱に※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)ほぞ穴にして嵌はめてある。橋の両岸には高い柵があって、何人も渡ることを許されない。過去に於て只将軍だけがこの橋を渡れたのであって、参詣に来た大名ですら渡ることを許されなかった*。
* この橋に関係のある面白い事実が一つ。グラント将軍が一八七九年世界一周の途次、日光を訪れた時、この柵を取りはらって彼が渡れるようにしたが、謙遜な将軍はこの名誉を断った。
これ等の寺院や墳墓は実に驚嘆すべきものである。精巧、大規模、壮麗……その一端を伝えることすら私には全然出来ないことを、ここに白状せねばならぬ。見ること二時間にして、私は疲れ果てた。私はこれ等の寺院の小さな写真数葉を持っているが、それ等はこまかい装飾や、こみ入った木ぼりや、青銅細工や、鍛黄銅しんちゅう細工や、鮮かな彩色や、その他記録され難い百千の細部の真の価値を殆ど現わしていない。かかる驚く可き建造物の絵も従来一つとして出来ていない。一つの門を日本語で「日暮門ひぐらしもん」という。その緻密な彫刻の細部を詳しく見るのに、一日かかるからである。
一般用の橋を渡ってから、我々は広い並木路を登って行った。この路は山の斜面を切り開いたものなので、六フィート或は八フィートごと位に石段があり、両側は巨大な石の壁、そしてあたり一面、我国メインの最も荒々しい地方に於るが如く、古い森林の木がすくすくと天をついて立つ。これ等建造物の宏大さを髣髴ほうふつさせようとした所でそれは無駄である。建物全体が山の険しい斜面に、原始的な松柏科の森林につつまれて建ち、この上もなくよい香を放つ蔓性植物や花の下生したばえが、人の手による精巧極まる仕事の豊かな骨組みをなしていることは、日光をして一層感銘深いものにしている。この自然のままの森林は、石垣や寺院の、それぞれの土台に近く接して生え、恰も、日光諸寺院の精密なる境界線が、先ずこの深林中に定められ、あらゆる物を取り去った後で寺や石墻かべやが建てられたかの感がある。最初の廟が建てられたのは千年以上も昔のことであるが、現在のも建ってから三百年は経過しているので、その間には森林がその周囲に生長し得たであろう。この美しい自然の景色に加うるに、日本の詩人が礼讃してやまぬ一種の鳥の、玄妙な笛のような声……我国のハーミット・スラッシの声と同じく魅力あり而して耳につきやすい……が、時折り聞える。
図59はドイツの地図からうつした日光寺院である。私は建物の二、三に文字を書いて符号とした。何故かというと、私のスケッチは到底これ等の建物の大さを現わさぬからである。Oは三つの大広間を持つ建築を示している。その中央の広間は四十フィートに六十フィートであり、点線で示す側間は四十フィートに二十五フィートである。この寸法はむしろすくな目に推測したものである。どの建物の壁も鮮かに彩色された、精巧な彫刻を施した鏡板で被われている。木彫は深く、枝や花は離れ、木材は彫刻に対して、暗い背地をなす程深くえぐられている。Fと記された平面図に於て、入口の一側には鏡板が十五枚あり、他の側には八枚ある。

かかる鏡板は長さ六フィートで各々異った構図を持っている。ある一枚には鶴、他の一枚には白鳥、更にスケッチ(図60)で示す一枚は高浮彫で美しく彫った神話の鳥……それは如何にも生々としていて、羽根や花は見事に極彩色されてある……である。大きな鏡板の下には、同様に精巧な彫刻を施した、より小さな鏡板があり、数多い真鍮の板にはこみ入った模様が切り込んである。この素晴しい偉業に面して、我々は息もつかず、只吃驚びっくりして立ちすくんで了うばかりである。

この仕事の多くは三百年近くの昔に始められ、各種の建築物は二百五十年前まで位の間に建て増しされたのであるが、それにもかかわらず一向古ぼけていないのを見ると、これ等神聖な記念物を如何に大切にして来たかが判る。室内にあっては漆細工、真鍮、鍍金めっき、銀、黄金製の品物、鏡板を張った天井、床には冷たい藁の畳が敷きつめられる。屋外は巨大な石の鋪床、石の塀、石の欄干、石の肖像と記念碑! そしてこの信じ難い程の手細工は、すべて、塀の外では朽木にも、また生え乱れる八重葎むぐらにも手をつけぬままの、荒々しく峨々たる山の急斜面に置かれ、石の土台さえも地衣や蘚こけに被われ、岩の裂目からは美しい羊歯しだの葉が萌もえ出ている。私は日本の芸術と細工との驚く可き示顕を、朧気おぼろげながらも描写しようとする企てを、絶望を以て放棄した。斜面の最高所にある墓に行く人は、大きな楼門を通りぬけ、古色蒼然たる広い石段に出る。この階段の幅は十フィート、一方の側は高い石墻、他方は長さ六フィート高さ四フィート半の一枚石から刻み出した欄干である。この石段の数二百、幅広く面積も大きい。ゆっくりと登りながら、がっしりした石の欄干ごしに、樅もみと松の素晴しい古い林の奥深く眺め入り、更に石段を登りつめて、自然その儘の、且つ厳かな林の中に、豊富に彫刻を施した寺院を更に一つ発見するその気持は格別である。かかる驚嘆すべき景観に接すること二時間、我々は精神的に疲れ果てて……肉体的にも多少疲れていた……宿屋に帰った。時々上の森から調子の低い、ほがらかな寺鐘の音が何か巨大な、声量の多い鳥の声のように聞えて来る。日本のお寺の鐘音がかくも美しいのは、我々のように内側にぶら下る重い金属製の鐘舌で叩かず、外側から、吊しかけた木製の棒の柔かく打ち耗へらされた一端で打つからである。また段々に速度を増す奇妙な太鼓の音は、祈祷その他の祭典の信号である。頭を剃った、柔和な顔つきの僧侶が行くのを見ると東洋に雲集する何百万人に対して仏教が持つ大勢力が目のあたり立証される。
このスケッチ(図61・62)は時代の色緑に、かつ万物を被う陰影によって湿気を帯びた、大きな石段の大略を示す。あたりを占めるものは、すべての密林に於るが如く、完全な沈黙で、それを破るものは只蝉の声と、鶇つぐみ(?)の低い、笛に似た呼び声とだけ。図62は欄干の石の一つを示す。単独の部分はいずれも一枚石から切り出され、各部分は真鍮の繋ぎで結びつけられてある。こんな仕事をするに要する労力は、定めし大変なものであろう! 遠方から石を運び、急な山腹を引きずり上げ、それを刻んで二百段の石段をつくることは、その仕事のすべてが蒸気機関も鉄道もない時代になされたが故に、我々の注意を強く引く。諸寺院の内部がまた外部同様に感銘的である。神龕の両側に厚重な鉢があり、それには竹の竿によって整枝された高さ四フィートの倭生松が植えてあるが、その全部――不規則な、曲った枝や、ざらざらした樹皮や、何百という針葉を持つ松の木、植木鉢、竹、その他すべて――が青銅製で、而も人造であることを確かめるためには、余程注意深く検査する必要がある位、真にせまっている!

お寺に近づいた時我々はお経のように響く妙な合唱を耳にして、これは何か宗教上の勤行ごんぎょうが行われつつあるのだなと思った。だが、それは、実のところ、労働者が多勢、捲揚機をまわして、建築中の一つの土台に大きな材木をはこんでいるのであった。我々は彼等が働くのを見るために囲いの内に入った。裸体の皮膚の赤黒い大工が多人数集って、いささかなりとも曳くことに努力する迄のかなりな時間を徒に合唱を怒鳴るばかりである有様は、誠に不思議だった。別の場所では、労働者たちが、二重荷車を引張ったり木挺てこでこじたりしていたが、ここでも彼等が元気よく歌うことは同様で、群を離れて立つ一人が音頭をとり、一同が口をそろえて合唱をすると同時に、一斉的な努力がこのぎこちない代物を六インチばかり動かす……という次第なのである。図63は荷車の形をしているが、例の無気味な音楽は我等の音譜ではどうしても現わし得ない。

お寺から帰る途中で、私は各一片の石からつくられた二つの大きな石柱の写生をした(図64)。それはたった今柱をとび越しはしたが、尻尾がひっかかったといったような形の神話の獣をあらわしている。

今まで研究していた目まぐるしい程の細工や奇麗な色彩や、こみ入った細部を後に、落付きのある部屋に帰ると、その対照は実に大きい。我々の部屋は階下のにも階上のにも、特に我々のために置かれた洋風の机と椅子とを除いて、家具類が一切無い。我々は床の上に寝るのである。階下の廊下から見える古風な小さい庭には、常緑樹と、花をつけた灌木若干と、塵もとどめぬ小径とがある。左手には便所(図65)へ通じる廊下があるが、これなどもニューイングランドの村で、普通見っともなくて而も目につきやすい事物を、このようにして隠す所に、日本人の芸術的洗練がよく現われている。日本の大工――というよりも指物師といった方が適切かも知れぬ――が、自然そのままの木を使用する方法に注意されたい*。木造部のすべては鉋にかけた状態そのまま、而もその大部分は自然そのままの状態である。私は辷る衝立によって塞がれた小さな戸棚が、昆虫箱その他を仕舞うのに便利であることを発見した。

* 『日本の家庭』には図65のうつしと叙述とが出ている。図66も書きうつし、説明をつけてこの本に出してあるが、この図は我々が寝た部屋の一つを示しているもので、日本間の簡単で上品な特質をよく現わしている。

街路に立ち並ぶ小さな店には土地の土産みやげ物があったが、どれを見ても付近の森で集めた材料から出来ていた。木質のきのこ(polyporus)をくりぬいて、内側に漆を塗った盃、虫の喰った木の小枝でつくった野趣に富んだ燭台、立木のいぼをくりぬいた鉢、内側に花を刻んだ美しい木の小皿、その他樹身や樹皮でつくった多くの珍しい品がそれである(図67)。

日本で名所として知られている多くの場所の土産物は、必ずそれ等の土地に密接した所から蒐集した材料でつくられる。我国に於ては、ナイアガラ瀑布、バー・ハーバアその他で、何千マイルも遠くから運んで来た、従ってその場所と全く無関係な品物が、土産物として売られる。事実、私はバー・ハーバアで、日本から持って来た土産物を見たが、店の者はそれを海岸で採集したのだといい、ナイアガラ瀑布では英国のライアス〔ジュラ紀時代の古部〕からの菊石を、滝のすぐ近くの岩石から掘り出した化石だといって売っている。
図68は高さ三フィートの青銅の鐘と、長さ八フィートの丸太棒と、それから、どんな風にそれをつるして鐘をつくかを示している。図69は私の昆虫箱を調べつつある日本の昆虫採集家。このスケッチをした時、彼はそれ等昆虫の日本名を私に教えていて、私は彼のいうことが一つも判らずに、つづけさまに礼をいうのであった。

日光付近で採集している間に、私は保護色の著しい例の二、三を見た。その一は路傍で見受ける小さな雨蛙が、常に大きな緑の木葉の上に坐っているのだが、その葉の緑と蛙の色とが全く同じであった。私は、また、緑色の蜘蛛くもが同様にして、樹の葉を占領しているのに気がついた。蜘蛛は沢山いて、そして面白い。ジオメトリックの種類〔我国の女郎蜘蛛の如く、幾何の図のように規則的な巣をつくる蜘蛛の種類〕に属する、ある奇妙な蜘蛛は、巣を垂直に近く張る代りに、水平的に張り、放射線の間は普通見受けるものよりも狭く、中心には多くの電光形線によって編まれた筵むしろがある。この筵の部分は、他の部分が殆ど見えない位なのに反して、色が白く非常に目につきやすい。蜘蛛は細長く、すらりとしていて、中心をすこし離れた所に、中心に面してとまり、巣をつつくと、荒々しくゆするのであった(図70)。もう一つの巣は、私がそれ迄に見たもののどれとも異っていた。それは直径一インチばかりの隠蔽した蛛網ウェッブの小さな巣で、不規則形に五、六本の細い帯が流れ出している。蜘蛛はその天蓋の下にかくれていて、放射している細帯が攪乱されると走り出す(図71)。

七月二日の月曜日の朝、我々は中禅寺に向って出発した。距離七、八マイル、全部登りである。日光は海抜二千フィート、中禅寺は四千フィート。我々はカゴを一挺やとったが、これは簡単な轎かごで二人がかつぎ、時々更代する男がもう一人ついている。別に丈夫そうな男が二人、袋や余分の衣類や、食料やその他全部を背中に負って行った。それは背中に長さ四フィート半の木の枠をくくりつけ、この架掛しょいこに我々の輜重しちょう行李をつけるのである。背中に厚い筵をあてがい、それの上にこの粗末な背嚢はいのう、即ち枠を倚り掛らせる。図72は二人の中の一人が昆虫網や杓子や採集瓶やその他を背負った所の写生である。これ等の重さは七十斤か八十斤あったに違いない。かくて召使い二人が行列の殿しんがりをつとめ、我々が往来を縦隊で進んで行くと土地の人々は総出で我々の進軍を見物した。我々は寺院へ通じる美しい並木路を登り、そこで左の谷へ入った。この所、川に沿うて家がすこしばかり集っている。が、深い木立の影になり、頭の上には山が聳える。山は皆火山性で、削磨作用のためにどの峰もまるい。図73は谷に入る時見た山々の輪郭を急いで書いたもので、我国の山とは非常に違う。道路は佳良で固く、その上礫を粉砕する車輪が無いために、埃ほこりは全くない。

二マイル歩いてから我々は道路を離れて、神社と、茶屋と、庭と、森林の間を流れ落ちる渓流の水晶のような水を湛たたえた池とがある小さな窪地へ降りて行った。この庭も、池も、家も、その他すべての物も、まっ盛りの躑躅つつじの茂った生垣に取りかこまれていた。岡の上から見た所は赤色の一塊であった。生垣は高さ四フィート、厚さ六フィート、そして我国の貧弱な温室躑躅などは足もとにも寄りつけぬ程美事に咲いていた。我々が廊下に坐って庭を見ながらお茶を啜すすっていると、湯元の温泉に入浴に行く旅人達がやって来た。その中の娘二人が肌をぬいで泉に身体を拭きに行ったのは、珍しく思われた。彼等は、我々が見ているのに気がつくと、外国人がこんな動作を無作法と考えることを知って、恥しそうに、然し朗かに笑いながら、肌を入れた。その総てが如何にも牧歌的であり、我々には異国にいることが殊のほか強く感じられた。
この魅力に富む場所を後にすると、道路はせまくなり、奔流する山の小川に出喰わした。水は清澄で青く、岩は重なり合い、坂は急に、景色は驚く可きものである。山々は高く嶮しく、水量は普通かかる場所に於て見られるものよりも遙かに多く、山間の渓流というよりも事実山の河川であった。狭い小径は大きな岩と岩との間をぬけたり、岩にそって廻ったり、小さな仮橋で数回川を越したりしている。この水音高く流れる川に沿うて行くこと一、二マイルにして登りはいよいよ本式になり、急な坂かはてしなき石段かを登ると、所々、景色のいい所に小さな腰掛茶屋がある。その一つは特に記憶に残っている。それは岬みさきみたいにつき出た上の、木立の無い点に立っていて、単に渓谷のすばらしい景色を包含するばかりでなく、三つの異る山の渓流が下方で落合うのが見られる。最初の休憩所で見た旅人達のある者が我々に追いついたので、しばらく一緒に歩いた。娘たちは、笑い笑い日本語で喋舌しゃべり、時々「オー、アツイ、アツイ」と叫ぶ。私に判った言葉はこれだけ。Hot を意味するので、その日はまったく焦げつくように暑かった。一人の老人が私に質問を発する。私はそれに応じて「汝不可解なる愚人よ、何故汝は汝の言論を作出しないか云々」というようなことをいうと、彼はそれに対して「ハイ」という。「ハイ」はイエスで、我々の逢う人達は、彼等の了解しないことのすべてに対して「ハイ」という。
我々一行中の二人は、かわり番こに「カゴ」に乗った。私も乗って見たが、こんな風にして人に運ばれるのは如何にも登山らしくないので、八分の一マイルばかりで下りて了った。駕籠かごは坐りつけている日本人には理想的だろうが、我々にとっては甚だ窮屈な乗物で、長い脚が邪魔になって、馴れる迄には練習を要する。私は一寸休んでいた間に急いで駕籠のスケッチをした。長い、丸い竿を肩にかつぎ、それからぶら下る駕籠を担いながら、屈強な男が二人、勢よく歩いて行く所は中々面白い。かごかきはそれぞれ長い杖を持って自身を支え、二人は歩調を合わせ、そして駕籠は優しく、ゆらゆら揺れる。その後からもう一人、これは先ず草疲くたびれた者に交代するためについて行く。図74はカゴで、図75は乗っている時内側から写生したものである。

ある場所で腐った木の一片をひっくりかえして見たら、きせる貝に似て巻き方が反対な、実に美しい陸貝があった。(私はこの「種」の形をフランスの一雑誌で見た覚えがある。)それ等と一緒にあった小さな貝は、明かにニューイングランドで普通に見受ける種の物と同一であった。また極めて美しい蝶が飛んでいて、私はその若干を捕えた。我々は路傍に立ち並ぶ石の像に興味を感じた。それ等の大多数――全部とまでは行かぬとしても――は仏陀の姿で、こわれているものも多く、中にはひっくり返った儘のもあるが、いずれも苔むし、その他いろいろと時代の痕跡をとどめていた。石の台の上にのっているのもあったが、その一つの両脚、両手の上には小石が積み上げてあった。この小石一つが一回の祈祷を代表するのである(図76)。渓流をさかのぼる時、小さな橋の上に佇んで下をほとばしり流れる水から立ち昇る空気に冷されるのは誠に気持がよい。氷河作用の証拠が見えぬのは不思議に思われた。漂石の中には、氷河作用によるものらしく見えるものが大略千個について一個位あるが、それ等もニューイングランドの漂石のように丸くはなく、また蝕壊されてもいない。旅人達が休み場として用いる無住の小舎で、私は初めて羽目や桷たるきに筆で日本文字の署名をしたのを見た。この時まで私は公共の場所を、我国で普通に行われるように、名前や、粗雑な絵や、文句でけがすことを見なかった。この無住の小舎は、然し人里を離れることが非常に遠いので、それを筆蹟帳として悪用することも、大した曲事とは思われなかった。

長い、辛い、然し素晴しい徒歩旅行を終えて、我々は中禅寺湖のほとりに着いた。この湖水は径二マイル、一方をめぐるのは一千五百フィート、あるいはそれ以上の急な山々で、北には有名な海抜八千フィートの男体なんたい山が湖畔から突如急傾斜をなして聳えている。湖床は明瞭に噴火口であったらしい。砂浜は見えず、岸にはあらゆる大きさの火山岩石が散在し、所々に熔岩や軽石がある。男体山は日本の名山の一つで地図には Nantai とあるが、ミカドが代ると共に新しい名前をつけたことがあるので、別名も数個持っている。一八六八年の革命の後、ミカドがこれに新しい名を与え、そして古い名は、それが何であったかはとにかく、放棄されて了った。これ――即ち古い名を変えること――は我々には、不思議に思われる。例えば江戸はこの革命の後に東京――東の首都――と名づけられた。だが、我々とても、それはインディアンの名を英語の名に代えたのではあるが、同様な変更を行った。シャウムウトがボストンになり、ナウムケーグがセーラムになった如きはその例である。
蜻蛉とんぼが何百万という程群むらがって飛んでいた。私はこんなに沢山いるのを見たことがない。彼等は顔につき当り、帽子や衣服にとまり、実にうるさいことこの上なしであった。また蜉蝣かげろうその他の水中で発生する昆虫類も多数いた。この日の午後を私は湖畔で採集をして送った。生きた軟体動物の、証跡は見あたらなかったが、水蛭みずびるはあちらこちらの岩の上にいたし、少数の甲殻類も目についた。蛙は二つの「種」のが沢山いた。また東京付近の田の溝に非常に多い蜆しじみが、ここには貝殻ばかりしかないのには驚いた。私は生きた標本をさがそうと思って、柄杓ひしゃくでかきまわしたが、無駄だった。後で旅館へ帰って聞いた所によると、政府はこの湖水に生きた蜆を一万個移植したのだが、それは全部死んで了ったとのことである。
この国で最も有難からぬ厄介物の一つは蚤のみである。山の頂上にでも野生している。彼等は人家に侵入しているので、夜間余程特別な注意を払わぬと人間は喰い尽されて了う。その噛みよう――刺しよう――は非常に鋭尖で、私の腕を刺した奴は、私をしてガバとばかり起き上らせた位であり、そしてうず痛さはしばらく残っていた。私の身体は所々蚤に喰われて赤く膨れ上っている。どこででも使用する藁の敷物が、彼等にこの上もない隠れ家を与える。我国の夜具の役をするフトンは木綿か絹の綿――最高級の家を除いてはめったに後者を使わぬ――を沢山入れた上掛である。その一枚を身体の下に敷き、上には何枚でも好きな丈かける。東京を出発する前に我々は大きな枕蓋か袋のような形の寝間着をつくらせた。夜になるとこの中に入りこんで、首のまわりで紐を締るのである。寝る時が来て我々が手も足も見せずに長々と床に寝そべる有様は誠に滑稽こっけいだった。我々はまるで死骸みたいだった。障子を明けるためには、ヨロヨロと歩いて行って、頭で障子を押す。これには腹をかかえた。だがこの袋のおかげで、蚤の大部分には襲われずに済んだ。
下層民が使用する食物の名を列記したら興味があるであろう。海にある物は殆ど全部一般国民の食膳にのぼる。魚類ばかりでなく、海胆うに、海鼠なまこ、烏賊いか及びある種の虫さえも食う。薄い緑色の葉の海藻も食うが、これは乾燥してブリキの箱に入れる。見受けるところ、これは普通の緑色海藻で、石蓴あおさ属の一つであるらしい。料理の或る物は見た目には食慾をそそるが、我々の味覚にはどうも味が足りない。私は大きに勇気をふるっていく皿かの料理を試みたが、実に腹がへっていたのにかかわらず、嚥のみ込むことが出来たのはたった一つで、それはスープの一種であった。はじめブリキの鍋で、水とウスターシイヤ・ソースのような濃い色の、醗酵した豆から造るソースとを沸し、これに胡瓜きゅうりみたいな物を薄く切って入れ、次には搾木を外したばかりの新しい白チーズによく似た物質の、大きなかたまりを加えるが、これは三角形に切ってあった。この最後の物質は豆を煮て、皮を取去るために漉こし、それを糊状のかたまりに製造するのである。このスープは確かに養分に富んでいたし、すこし練習すれば好きになれそうである。もう一つの普通な食品は、海藻からつくった、トコロテンと称するものである。これは長い四角形の白い物質で、必ず水につけてある。それを入れた浅い桶の横には、出口に二十四の間隙を持つ金網を張った四角い木製の水銃があり、この水銃の大きさに切ったトコロテンを喞子ピストンで押し出すと、針金がそれを長く細い片に切るという仕掛である。トコロテンはまるで味がなく、マカロニを思わせる。ソースをすこしつけて食う。図77は水銃と喞子とのスケッチで、出口の図は実物大〔原著〕である。

中禅寺の村は冬には人がいなくなる。今は七月の第一週であるが、それでも僅かの家にしか人が入っていない。然しもうしばらくすると、何千人という旅人が男体登山にやって来て、どの家にも部屋を求める人達が一杯になる。田舎の家や旅籠はたご屋は炊事に薪を使用するので、板の間はピカピカに磨いてあるが、台所の桷は黒くすすけている。
奥地へ入って見ると、衣服は何か重大なことがある時にのみ使われるらしく、子供は丸裸、男もそれに近く、女は部分的に裸でいる。
その夜非常によく眠て翌朝はドクタア・マレーと私とが男体山に登る事になっていたので、五時に起きた。我々は先ず一ドル支払わねばならなかった。これは案内賃という事になっていたが、事実僧侶の懐に入るのである。男が一人、厚い衣類や飲料水等を担いで我々について来た。往来を一マイルの八分の一ばかり行った所で、我々は石段を登ってお寺に詣り、ここで長い杖を貰った。お寺の正門の両側に長い旗が立っていた。細長い旗を竿につける方法が如何にも巧みなので、私はそれを注意深くスケッチした(図78)。(その後私は店の前やその他の場所で、同じように出来た小さな旗を沢山見た。)旗は竹竿の上端にかぶさっている可動性の竹の一片についていて、旗の片側にある環がそれをちゃんと抑え、風が吹くと全体が竿を中心に回転する。旗は漢字を上から下へ垂直的に書くのに都合がいいように長く出来ている。私は漢字を写す――というよりも寧ろそれ等がどんな物であるかを示すべく努力した。旗は長さ十五フィートで幅三フィート、依って私はその上半部だけを写した。漢字は寺院と山の名その他である。図79は石段の下部、両側の旗、及びそのすぐ後方にある鳥居の写生図である。古めかしい背の高い、大きな門の錠が外されて開いた。それを通り越すと、我々は直接に山の頂上まで行っている山径の下に出た。唐檜とうひが生えているあたり迄は段々で、それから上になると径は木の根や岩の上に出来ている。それは四千フィートの高さを一直線に登るので、困難――例えばしゃがんだり、膝をついて匐はったり、垂直面につまさきや指を押し込んだりするような――を感じるようなことは只の一度もなかったが、それにも拘らず、私が登った山の中で最も骨の折れる、そして疲労の度の甚しいものであった。径は恐ろしく急で、継続的で、休もうと思っても平坦な山脊も高原もない。図80は我々が測定した登攀とうはんの角度である。図81は段々の性質を示しているが、非常に粗雑で不規則で徹底的に人を疲労させ、一寸鉄道の枕木の上を歩いているようだが、続け様に登る点だけが違っている。またしても珍しい植物や、美しい虫や、聞きなれぬ鳥の優しい声音、そして岩はすべて火山性である。

上へ上へと登るに従って、中禅寺湖の青い水は木の間から輝き、山々の峰が後から見えて来る。果しないと迄思われた時をすごして唐檜の列まで来ると、今迄よりも見なれた花が多くなった。我々はバンチベリーの花を見た。これは我国のより小さい。またブルーベリーを思わせるベリーを見たが熟してはいなかった。その他、北方の植物系統に属する花があったが、それ等が亜熱帯の型式を備えたものと混合して咲いていたのは不思議である。頂上に近づくとあたりの山々の景色は誠に壮大であった。近い山は海抜八一七五フィートという我々の高度よりも遙かに低い。遠くの山の渓谷には雪が見られた。峰々の外貌は、ホワイト・マウンテンスのそれに比較すると、著しく相違している。登る途中所々に毎年巡礼に来る日本人たちが休んで一杯の茶を飲む休憩所があったが、かかる場所に来ることは気持がよかった。外国人は影も形も見えず、また空瓶、箱、新聞紙等が目に入らないのはうれしかった。時々我々は小さな屋根板のような薄く細長い板片をひろった。これには漢字が書いてあるが、それはお祈りであるということであった。
今や我々は絶頂から百フィートの所に来た。その一方の側は、千フィートをも超える垂直な面で、古い噴火口の縁である。絶頂のすこし下に真鍮で蓋った黒塗の頑丈な社がある(図82)。それを最高点から見た所は図83で示した。扉には鍵がかかっていたが、内部には仏陀の像があるとのことであった。前面の壇、即ち廊下には錆さびた銭若干があり、絶頂近くには槍の穂や折れた刀身が散っていたが、いずれも何世紀間かそこにあったことを思わせる程錆びて腐蝕していた。見受ける所これ等に手を触れた者は一人もないらしく、私は誘惑に堪え兼ねて小さな錆びた破片二つを拾った。これは神社へ奉納したものである。図83に見える最高所には岩に深く穴のあいた所があるが、昔ここで刀を折った。それよりもっと珍しいのは、犠牲、あるいは、立てた誓を力強めるためにささげた、何本かの丁髷ちょんまげである。話によると日本の高山の、全部とまでは行かずとも、殆どすべてには、神社があるそうである。驚く可き意想であり、彼等の宗教に対する帰依である。八月にはかかる場所へ、日出と共に祈祷をささげんとする人々が何千人と集る。その中には難苦を堪え忍んで、何百マイルの旅をする者も多い。私は我々の宗教的修業で、メソディスト幕営キャンプ集合以外、これに比すべきものは何も思い出せなかった。

我々は頂上に一時間いたが、百五十マイル向うの富士山が、地平線高く聳える景色は驚く可きものであった。高く登れば登る程、地平線は高く見える。この高さから富士を見ると、その巨大さと、またがる地域の広汎さとが、非常にはっきり理解出来る。図84の写生図に於て富士山の傾斜はあまりに急すぎるが、写生した時にはこう見えたのである。捲き雲の塊が富士の裾をかくしていたが、ワシントン山位の高さの山ならば、この雲の層に頂がかくれて了うことであろう。

下山は登山よりも骨が折れた。私はこんな際限もない段々をポッコリポッコリ下りるよりも、カリゲインを十二度下りた方がいい。頂上から麓までの距離は七マイルというが、麓に来る迄にもう二十マイルもあったように思われたので、我々はよろこんで一時間を休憩と睡眠とに費した。この時日本の木枕を使った。涼しいことは涼しかったが、どうも具合が悪かった。五時、八マイル向うの湯元に向けて出発。私は元気溌剌たるものであった。
路は二マイルばかりの間湖水に沿うている。これが中禅寺と湯元とを結ぶ唯一の街道なので、叢くさむらが両側から迫り、歩く人に触ったりするが、而もよく踏み固められてある。時々我々は半裸体の土民や背に荷を負った妙な格好の駄馬に行きあった。歩きながら赤坊に乳房をふくませる女が来る。間もなくもう一人、両肌ぬぎで日にやけた上半身をあらわし、駄馬を牽きながら片手で赤坊を荷物のようにかかえ、その赤坊がこんな風なぎこちない位置にいながら、乳を吸っているというのが来る。路は湖畔を離れて徐々に高い平原へ登る。ここ迄は深林中の、我国で見るような下生えの間を通って来たのである。今や我々は、暑くて乾き切った夕日が、一種異様の光で、これから我々が横切ろうとする何マイルかの平坦地を照す所に出て来た。この地域は疑もなく死滅した火山の床、即ち火口底なのである。黒蠅に似た所のある蠅が、我々を悩し始めた。刺すごとに血が出る。蝶はひっきりなしに見られた。大群があちらこちらに群れている。路には鮮かな色の甲虫類が沢山いた。またいたる所に、青と紫のあやめが、広い場所にわたって群生して咲いていたが、最も我々を驚かせたのは躑躅の集団で、我々はその中を文字通り何マイルも徒渉した。我々は男体山の頂上で、すでにこれ等の花が赤い靄もやのように見えるのに気がついていた。この高原は高い山でかこまれていたが、そのすべてに擢ぬきんでる男体は、遠く行けば行く程、近くなるように見えた。図85はここから見た男体である。再び我々が森林に入った時、あたりは全く暗かった。我々は疲れてはいたが、二マイル行った所にある美しい滝に感嘆することが出来ぬ程度に疲労困憊こんぱいしてもいなかった。

八時、我々は数軒の家がかたまり合って高い山の中心に巣喰っているような、湯元の小村に入った。茹ゆで玉子の奇妙な、気持の悪い臭気があたりに充ちていたが、これはこの地に多い硫黄いおう温泉から立ち上るものである。我々は素速く、外気に面して広く開いた一軒の旅籠を発見し、荷物はそのままに、畳の上に倒れて間もなく深い眠りに陥った。湯元に着いた時はもう暗かったので、何も見えなかったが、翌朝目を覚して素晴しい風景や、見馴れぬ建物や、珍しい衣類を身につけた(あるいは全然身につけぬ)国人を見やり、硫黄の臭に混った変な香を嗅ぎ、聞いたこともないような物音を耳にした時には、何だか地球以外の星に来たように思われた。早く見物をしたいという気に駆られて、我々は二つか三つ細い往来のあるこの寒村を歩き廻ったが、端から端までで一千フィートを越してはいなかった。だが出かける前に、我々はどこで顔を洗う可きかに就いて多少まごついた。日本の家には、いう迄もなく、手水ちょうず台、洗面器、水差というような便利な物は置いてないのである。この時まで我々は銅或は真鍮の皿と、バケツ一杯の水と、柄の長い竹の柄杓とを持って来させて顔を洗った。橋石には図65で示したような洗面用の高い流しがあった。我々は最後に廊下の一端に木造の流しと、水の入った手桶と真鍮の盥たらいとが置いてあるのを見出し、この盥でどうやらこうやら顔を洗ったが、前にかがまねばならぬので、誠に具合が悪かった。別の場所で私は棚、あるいは台ともいう可き物の上に手桶がのっているのを見た。それには図86に示す如く、呑口のようにつき出した管があり、呑口の代りに鉄の栓を引きぬく仕掛があった。噴き出す水の量は極めて僅かで、両手と顔とを洗う丈出すのにさえ大分時間がかかった。

浴場は道路の片側に並んでいる。前面の開いた粗末な木造の小屋で、内には長さ八フィート、幅五フィートの風呂桶があり、湯は桶の内側にある木管から流れ入ったり、単に桶の後方にある噴泉から桶の縁を越して流れ込んだりしている。一つの浴場には六、七人が入浴していたが、皆しゃがんで肩まで湯に浸り、時に水を汲んで頭からかけていた。然し最も驚かされたのは、老幼の両性が一緒に風呂に入っていて、而もそれが(低い衝立が幾分かくしてはいるが)通行人のある往来に向けて明け放しである事である。
ここで、一寸横道に入るが、私は裸体の問題に就いてありの儘の事実をすこし述べねばならぬ。日本では何百年かにわたって、裸体を無作法とは思わないのであるが、我々はそれを破廉恥はれんちなこととみなすように育てられて来たのである。日本人が肉体を露出するのは入浴の時だけで、その時は他人がどうしていようと一向構わない。私は都会ででも田舎ででも、男が娘の踵や脚を眺めているのなんぞは見たことがない。また女が深く胸の出るような着物を着ているのを見たことがない。然るに私はナラガンセット・ビヤや、その他類似の場所で、若い娘が白昼公然と肉に喰い込むような海水着を着、両脚や身体の輪郭をさらけ出して、より僅かを身にまとった男達と砂の上をブラリブラリしているのを見た。私は日本で有名な海水浴場の傍に十週間住んでいたが、このような有様にいささかなりとも似通ったことは断じて見受けなかった。男は裸体でも必ず犢鼻褌ふんどしをしている。かつて英国のフリゲートがニュージーランドのある港に寄り、水兵たちがすっぱだかで海水浴をした所が、土人たちは必ず腰のあたりに前かけか犢鼻褌かをしているので、村の酋長が士官に向って、水兵たちが何も着ずにいる無作法さに就いて熱烈な抗議をしたことがあると聞いている。
私は中禅寺へ向う途で、我々に追いついた旅人達のことを述べた。嶮しい所を登る時、私は二人の可愛らしい娘に手をかして、足場の悪い場所を助け上げようとした。私には彼女等にふざけてかかろうというような意志は毛頭無かったのであるが、湯元温泉へ向いつつある彼女等はそう考えたらしく、私の申出を遠慮深く「ゴメンナサイ」と言って断った。さて温泉に来て、ドクタア・マレーは管から流れ出る時の湯の温度を知り度いと思ったが、いくらか足が悪いので、寒暖計をそこに支え持つことを私に依頼した。これをする為には私は片足をうんと内側に踏み入れて、風呂桶の縁に立ち、湯の流に届くように腕を思い切り伸す必要があった。私がいささか気恥しく思い、桶の中にいる人達を見る勇気がなかったことは、誰でも了解出来るであろう。この時桶の中から「オハヨー」というほがらかな二人の声がする。その方を見て、前日のあの遠慮深い娘二人が裸で湯に入っているのを発見した私の驚きは、如何ばかりであったろう。事実をいうと彼等は子供のようで、私は日本人が見る我々は、我々が見る日本人よりも無限に無作法で慎みがないのであることを断乎として主張する。我々外国人が深く襟を切り開いた衣服をつけて、彼等の国にないワルツのような踊をしたり、公の場所でキスをしたり(人前で夫が妻を接吻することさえも)その他いろいろなことをすることは、日本人に我々を野蛮だと思わせる。往来を歩きながら風呂桶をのぞき込む者があれば入浴者は、恐らく我々が食卓に向っている時、青二歳が食堂の窓から覗き込んで行くようなことがあった場合に、いうようなことを、いい合うであろう。日本人のやることで我々に極めて無作法だと思われるものもすこしはある。我々のやることで日本人に極めて無作法だと思われることは多い。
道路に沿って浴場が数軒ある。屋根の無いのもあれば、図87のように小屋に似た覆いがあるのもある。地面から多量の湯――文字通り※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)にえくり返る泉で一秒間も手を入れていることが出来ぬ――がわき出ているのは実に不思議な光景だった。一つの温泉に十分間鶏卵を入れて置いたら、完全に茹って了った。これ等の温泉は、すべて同じ様な硫黄性の臭気を持っているらしく思われたが、而も村の高官の一人が我々の通訳に教えた所によると、それぞれ異った治療的特質を持っている。ある温泉は胸や脚の疼痛いたみに利くことになっている。もう一つ別なのは胃病によろしく、更に別なのは視力の恢復に効能があり、また別なのは脳病に、この温泉は何々に……という訳で、それぞれ異る治病効果を持っていることにされている。

ドクタア・マレーが手帳を持ち、私がかかる浴場に一つ一つ入っては、桶の隅に立って出口から流れ出る湯の方に寒暖計をさし出し、後には我々が何をするかと不思議に思ってついて来る老幼男女を随えて道路を歩いたのは、実に並外れな経験であった。ついて来る人達は入浴者を気にかけず、入浴者はついて来る人達を気にかけなかったが、これは全くしかあるべきである。それは実に礼節と単純さとの絶頂であって、この群衆の間には好色な猫っかぶりなどはいない。浴場にはそれぞれ二人乃至八人(あるいはそれ以上)の入浴者がいて、中には浴槽の縁に坐っているのもあったが、若い娘、中年の婦人、しなびた老人等が、皆一緒の桶で沐浴する。私は素直に且つ明確に、日本の生活のこの一面を説明した。それはこの国民が持つ特に著しい異常の一つだからである。我々に比して優雅な丁重さは十倍も持ち、態度は静かで気質は愛らしいこの日本人でありながら、裸体が無作法であるとは全然考えない。全く考えないのだから、我々外国人でさえも、日本人が裸体を恥じぬと同じく、恥しく思わず、そして我々に取っては乱暴だと思われることでも、日本人にはそうでない、との結論に達する。たった一つ無作法なのは、外国人が彼等の裸体を見ようとする行為で、彼等はこれを憤り、そして面をそむける。その一例として、我々が帰路についた時、人力車七台(六台には一行が乗り、一台には荷物を積んだ)を連ねて、村の往来をガラガラと走って通った。すると一軒の家の前の、殆ど往来の上ともいう可き所で、一人の婦人が例の深い風呂桶で入浴していた。かかる場合誰しも、身に一糸もまとわぬ彼女としては、家の後にかくれるか、すくなくとも桶の中に身体をかくすかすることと思うであろうが、彼女は身体を洗うことを中止せずに平気で我々一行を眺めやった。人力車夫たちは顔を向けもしなかった。事実この国三千万の人々の中、一人だってそんなことをする者はないであろう。私は急いでドクタア・マレーの注意を呼び起さざるを得なかった。するとその婦人は私の動作に気がついて、多少背中を向けたが、多分我々を田舎者か野蛮人だと思ったことであろう。また実際我々はそうなのであった。
湯元で水温調査を終えた我々は、この土地唯一の大きなゴンドラみたいな舟を借り、漕ぎ手として男二人をやとって、湖水の動物研究にとりかかった。舟子が舟に乗りうつる時、若い娘が例の火鉢と薬鑵やかんとを持ってついて来た。我々は何故招きもしない彼女が舟に乗って来たのか不思議に思ったが、とにかく舟を立去らぬので、私はあかとりから貝を取り出す時硝子ガラス瓶を持たせたり何かして、彼女に渡船賃をかせがせた。彼女は我々が標本をさがして舷ふなばたから水中を見る時、我々の帽子を持ったりした。やがて岸に帰りついて、彼女が実は舟の持主で、我々が彼女に舟賃を払わねばならぬと知った時の我々の驚きは推察出来るであろう。この国の人々は冗談を面白がる気持を多分に持っているから、定めし彼女も我々が彼女を取扱ったやり口を楽しんだことであろう。私はメイン州の「種」を思わせる Lymnaea の標本一つと、小さな Pisidiium とを見つけた。我々が岸を離れ、貝をさがすにはもって来いの新しい水蓮の茂った場所に来た時、烈しい風が吹き始め、舟子たちが一生懸命、漕いだり押したりしたにも拘らず、舟は自由にならなかった。彼等を助けようと思って私は竿を取ったが、間もなく竹竿が私にとっては全く珍奇なものであることを理解し、また舟その他すべてが我国にあるのと丸で違って奇妙な動きようをするので、うっかりすると水の中に墜ちる恐れがあるから、私は運を天にまかせた。我々は湖水を横断して、対岸の入江へ吹きつけられた。ここで風の止むのを待ってしばらく採集した後、舟子たちは舟を竿で押し戻そうとした。私は再び竿を取って見たが、あまり短気に、どこへでも構わぬから動かそうとした結果、暗礁にのし上げて了った。ここで我々はかなりな時間を徒費した。舟子はとうとう水中の岩に飛び降りて、そして恐ろしい努力の後に、ボートを持ち上げるようにして、岩から引き離した。と同時に、また風が舟をもとの入江に吹きつけたので、我々は皆岸に飛び上って湯元まで歩いて帰った。図88は舟から見た村を大急ぎで写生したものである。

宿屋に着くと我々は急いで荷造りをし、ドクタアは駄馬をやとい、十七マイルの距離を橋石まで歩いて帰ることにした。その日一日の経験の後なので、丘を上下し、平原や渓流を横切り始めた時には、いささか疲れていた。我々はかくの如くにして、七月四日の独立祭を祝ったのである。私は昆虫採集に時を費した為に取り残されて了い、私の日本語たるや「如何ですか?」「さようなら」「一寸待って」、その他僅かなバラバラの単語に限られているのに、数時間にわたって、英語の全く話されぬ日本の奥地に、たった一人でいるという、素晴しい新奇さを楽しんだ。この日は暑熱きびしく、私の衣服はすべて人夫が背負って先に持って行って了ったので、私は下シャツとズボン下とを身につけている丈であった。それも出がけにボタンが取れて了ったので、安全ピン一本でどうやら体裁をととのえ、かくて私はその日を祝うために「大砲ドンドン」「星の輝く旗」等を歌いながら、或は蝶々を網で捕え、或は甲虫を拾い、とにかく局面の奇異を大いに愉快に思いながら歩いて行った。私は熱い太陽を除けるために、てっぺんの丸い日本の帽子をかぶっていた。これで私の親友と雖いえども、私が誰だか判らなかったことであろう(図89)。日本人がこの焦げつくような太陽の下を、無帽で歩いて平気なのには実に驚く。もっとも折々、非常に縁の広い編んだ笠をかぶっている人もいるが……。平原地を通りぬけて再びあの深林中の小径に来た時、突如私の前に現われたのは一匹の面構え野蛮にして狼のような犬で、噛みつかんばかりの勢で吠え立てたが、路が狭くて通りこすことが出来ないものだから、後ずさりをした。我々はその状態を続けた。犬は逃げては吠えた。白状するが、私の僅かな衣類は極めて薄く思われ、私はピストルを持っていなかった。間もなく三人の日本人が現われた。犬は彼等の横を走りぬけ、我々は身体をすり合わせて通った。すると犬奴は彼等を見失うことを恐れ、思切って森の中に飛び込んで私と反対の方向に走った。何故犬が森を怖れたのか、私には訳が分らぬ。いずれにしても、犬が行って了ったことは悦しかった。もっとも、それ迄に見た犬から判断すると、この国の犬は害のない獣であるから、私も特別に恐れていはしなかったが……。

私は中禅寺で、休憩しながら私の来るのを待っていた一行に追いつき、食事をした後でまた歩き出した。橋石に向う途中の景色は、来た時よりも余程雄大である。下り坂なので、荒々しい切り立った渓谷を見下すことが出来るばかりでなく、上る時には暑くて疲労が激しい為に何も考えることが出来なかったが、今は深い谷の人に迫るような形状をつくづくと心に感じることが出来た。我々の食料はなくなりかけていた。赤葡萄酒や麦酒ビールは残っていたが――我々が極端な節酒家であることの証拠である――ビスケットは完全になくなって了った。(外国人は日本の食物や酒に馴れなくてはならぬ。私は一、二年後にすっかり馴れた。これは同時に運搬や調理の面倒と費用とを節約することになる。)我々は米、罐詰のスープ、鶏肉で、どうにかこうにか独立祭の晩餐をつくり上げ、ミカド陛下、米国大統領、並に故国にいる親しき者達の健康を祝して乾杯し、愛国的の歌を歌い、テーブルをたたいて、障子からのぞく宿屋の人々を驚かしたりよろこばしたりした。 
第四章 再び東京へ
二日間続けさまに雨が降って我々に手紙や旅行記を書く時間を充分与えて呉れた。朝の五時、我々は東京へ向けて出発した。人力車は旧式な二輪馬車みたいに幌をかけ、雨をふせぐ為に油紙を前方に結びつけた(図90)。我々は文字通り仕舞い込まれて了ったあげく、七台の人力車を一列につらねて景気よく出立した。車夫の半数は裸体で、半数はペラペラした上衣を背中にひっかけた丈である。確かに寒い日であったが、彼等は湯気を出して走った。時々雨がやむと幌を下させる。車夫たちは長休みもしないで、三十マイルを殆ど継続的に走った。急な傾斜のある場所では、溝に十フィート、あるいは十五フィート置きに堰せきが出来ていて、水流の勢を削ぎ、かくて水が勝手に流れ出るのを防ぐようになっているのに、気がついた。また立木は如何なる場所にでも斧で伐らず、鋸で引いて材木を節約する。時に大きな岩塊に、それを割ろうとした形跡のあるのを見たが、鑽孔は円形でなくて四角い。街道には変った人々がいた。我々がすれちがった一人の巡礼は、首にかけた小さな太鼓を時々たたき、口を開くことなしに、息を吹き出して了ったバッグパイプのような、一種間ののびた、つぶやくような曲節に似た、音を立てるのであった。この音は彼の祈祷で、巡礼中絶えず口にするものである。何百マイルも旅をして各所の神社仏閣に参詣するこれ等の人々の中には、大工や商人や百姓等などもいる。彼等はよく一銭も持たずに、たとえ家には充分金があっても、途中の食事と宿とは人々の施しを頼りにして、巡礼に出かけることがある。

我々が昼飯をとるために休んだある場所では、一人の男が詩だか何だかを朗誦していたが、彼の声には非常に緊張した不自然な調子があった。彼は二つの長い木片を持っていて、適当な時間を置いては彼の話に勢をつける為に、それを叩き合せた。家の近所にいた人は誰も彼に注意を払わないので、我々は一銭ずつ出し合って、彼になおしばらく朗誦を続けさせた。我々が旅した街道には、前にも述べたような立派な松や杉が、塀のように立ち並んでいた。他所に於ると同様、ここでも燕が家の中に巣をつくり、最も善い部屋にまで入り込む。床がよごれるのを防ぐ為に棚が打ちつけてある。
街道には短い間隔をおいて標があり、次の場所までの距離が示してある。三十五マイル来た時、路が非常に悪くなり、また風も著しく勢を増したので、我々の車夫は疲れて了い、引き返し度いといい出した。そこで賃銀を貰った彼等は、四銭出して食事をした後、帰って行った。我々が通過した村のある物は貧しげに見え、村民たちも明らかに貧乏やつれしていた。外国人がめったにやって来ないので、我々が通ると家族全体が出て見送り、我々が止ると人の黒山があたりを取巻いた。人々は最下層に属し、粗野な顔をして、子供は恐ろしく不潔で、家屋は貧弱であったが、然し彼等の顔には、我国の大都市の貧民窟で見受けるような、野獣性も悪性も、また憔悴しょうすいした絶望の表情も見えなかった。我々が昼食をしたある村では、お主婦かみさんが我々の傍に膝をついて坐り込み、我々が何か口に入れるごとに、歯をむき出してニタリニタリと笑ったり、大声を立てて笑ったりした。そして最後にうるさくてたまらぬ程になったので、ドクタア・マレーが日本語で、何がほしいのだと叱るように質たずねたら、彼女はその意味を悟って向うへ行った。この憐れむ可き女は何も知らず、そして極めて好奇心に富んでいるので、我々の顔色、服装、食物、動作、ナイフとフォーク、その他すべてのこまかいこと迄が全然新しく、見馴れぬものなのだった。彼女の態度は、たしかによくなかった。
このきたならしい町に於てですら、我々が立寄った旅籠屋を、ニューイングランドその他の我国の各所で私が見た宿屋と比較すると、面白いことが見出された。図91は我々の部屋の一面をざっと写生したものである。棚はざらざらした虫喰いの板、柱は自然のままの木の幹、それから簡単なかけもの。細部はしっかり建てられてあった。この部屋は美しい庭に面していて、庭には水をたたえた小さな木槽があった。その材木は海岸から持って来たのである。事実それは船材の一部分で、色は黒く、ふなくい虫が穴をあけたものである。その中には岩と水草と真鍮の蟹かにその他が入っていた(図92)。それは誠に美しく、我国にでもあったら、最も上等な部屋の装飾として、熱心に探し求められるであろうと思われた。この部屋の壁にかけられた書き物は、翻訳を聞くと、古典の一部であることが判った。私は米国の同じような場所の壁を飾る物――拳闘、道化た競馬、又は裸の女を思い浮べ、我々はいずれも、日本人の方が風流の点では遙かに優れていることに同意した。この繊細な趣味のすべてが、最も貧しい寒村の一つにあったのである。そしてこの異教人の国で、芸術的の事物を鑑識することが、如何に一般的に行われているかを示している。

此所で我々は、我々の人力車夫と喧嘩をした。彼等は我々が手も足も出ないような地位にあるのを見て、所謂文明国でよく行われるように、足もとにつけ込もうとしたのである。我々はステッキで彼等を威嚇した。すると彼等は大人しくなったが、事実彼等は悪人ではないので、事態は再び円滑になった。雨が絶間なくビショビショ降り、おまけに寒かったが、これ等の裸体の男共は、気にかける様子さえも示さなかった。日本人が雨に無関心なのは、不思議な位である。小さな赤坊を背中に負った子供達が、びしょ濡れになった儘、薄明の中に立っていたりする。段々暗くなるにつれて、人力車に乗って走ることが、退屈になって来た。低い葺き屋根の家々が暗く、煙っぽく見え、殆どすべての藁葺家根から、まるで家が火事ででもあるかのように、煙が立ち登る。茶をのむ為に休んだ場所には、どこにも(最も貧し気げに見える家にさえ)何かしら一寸した興味を引くものがあった。例えば繩、竹、又は南京玉のように糸を通した介殻さえも材料にした、簾のれんの器用なつくりようがそれである、これは戸の前に流蘇ふさのように下っていて、風通しがよく、室内をかくし、そして人は邪魔物なしに通りぬけることが出来るという、誠にいい思いつきである。村の一軒の小さな家の屋根が、鮑あわびの大きな完全な介殻や、烏賊いかの甲で被われていたことを覚えている。これ等は食料として海から持って来たもので、殻を屋根の上にのせたのである。
最後に人力車の旅の終点に着いた我々は、すべての旅館に共通である如く、下が全部開いた大きな家の前に下り立った。非常に暗く、雨は降り続いている。そして車夫たちが、長い間走ったので身体から湯気を立てながら、絵画的な集団をなして、お茶を――ラム酒でないことに御注意! ――飲み、着色した提灯のあたたかい光が、彼等の後に陰影を投げて、彼等の褐色な身体を殆ど赤い色に見せている所は、気味が悪い程であった。彼等は野蛮人みたいに見えた。この家には一体何家族いるのか見当がつかなかったが、すくなくとも半ダースはいたし、女も多かった。図93は戸外から我々を見つめていた子供達の群である。一室に通された我々は、草疲くたびれ果てて床の上にねころがった。

天井には長い棒から蚕かいこの卵をつけた紙片が何百枚となくぶら下っていた(図94)。これ等はフランスに輸出するばかりになっている。紙片は厚紙で長さ十四インチ、幅九インチ、一枚五ドルするということであった。いい紙片には卵が二万四千個から二万六千個までついている。紙片は背中合せにつるしてあって、いずれも背に持主の名前が書いてある。横浜の一会社が卵の値段を管制する。この会社は日本にある蚕卵をすべて買占め、ある年の如きは卵の値段をつり上げる為に、一定の数以上を全部破棄した。この家の持主らしい男は中々物わかりがよく、我々は通弁を通じていろいろと養蚕に関する知識を得た。彼には奇麗な小さな男の子がある。私は日本に来てから一月になり、子供は何百人も見たが、私が抱いて肩にのせさえした子供はこれが最初である。家の人達はニコニコして、うれしがっていることを示した。

磨き上げた黒い歯を持つ既婚の婦人達は、外国人にとってぞっとする程驚く可きものである。最初に黒磨料をつける時、彼等は色がよくしみ込むようにしばらく唇を離している。このように唇を引き離していることはやがて癖になる。とにかく、彼等はめったに唇を閉じていない。若い男が扇子を持ち出して、我々に名前を書いてくれといった。私が私の分に虫や貝を沢山書いてやったら、彼は大いによろこんで、返礼に菓子を一袋呉れた。砂糖漬の杏プラムはうまかったが、他の砂糖菓子は何等の味もしないので、外国人にはうまいとは思われぬ。
この地、野渡のわたで我々は舟に乗り、利根川を下ることになった。利根川の航行は野渡で始る。Nowata の最後のAがRのように発音されるので、そこから舟運が始まる場所の名前として no water〔水なし〕は適切であるように思われた。東京までの六十マイルを、我々をのせて漕いで行く舟夫が見つかった時は、もう夜の十時であった。一寸さきも見えぬような闇夜で、雨は降るし、殊に最後に河を下った時、河賊に襲われたというので、舟夫は容易に腰をあげなかった。ドクタア・マレーと私とは、我々二人が非常に物凄い人達で、よしんば河賊が何十人敢て現われようと、片っぱしから引きちぎってやるということを示した。この危険は恐らく、大いに誇張されていたものであろうが、それでもその時には、我々の旅行に興奮的の興味を加えた。それで気持のよい宿主達に「サヨナラ」を告げた後、我々は親切な男の子達が手にさげた紙提灯ちょうちんの光に照らされて、濡れた原や藪を通って河岸に行った。舟は長い、不細工なもので、中央部に接ぎ合した葺屋根に似た小さな莚の屋根を持つ場所がある。舟には、舵を取る邪魔になるというので、燈火がない。我々は手さぐりで横になる場所をさがした。私は一時間ほどの間坐ったままで、周囲の新奇さを楽しんだ。舟夫は無言のまま、長い、間断ない振揺で櫓を押し、人々は熟睡し、あたりは完全に静寂である――事実、多くの不思議な昆虫類が立てる疳かん高い鳴声を除いて、物音は全く聞えぬのであった。この鳴声の多くは、私が米国で聞き馴れているものに比べて、余程調子が高く、また金属性であるか、又はその拍子が我国のと違うかしていた。煙草を吸いながら、半分は夢を見ながら、私は時々私自身が、河岸に近い黒い物体を疑深く見詰めているのに気がついた。ピストルを持っていたのは私一人であるが、そのピストルもゴタゴタに詰めた鞄の底に入っている。弾薬筒がどこに仕舞ってあるか私は知らなかったし、また暗闇で荷物を乱雑に積み込んだのだから、空のピストルを見つけることさえも問題外である。いずれにせよ、眠ようと思って横になった時、私は若し河賊がやって来たら、竹竿を武器にして戦おうと考えた。夜明けにはまだ大部間のある時、何かに驚いた舟夫がドクタア・マレーを呼んだ。ドクタア・マレーは起き上って、しばらく見張りをしたが、最後に何でもないという結論に達した。(これは私が日本でピストルを持って歩いた最後なので、特にこの事件を記録する。)舟夫は恐らく賃銀を沢山貰おうとして、河賊が出るとうそをついたのであろう。日本に数年住むと、日本の最も荒れ果てた場所にいる方が、二六時中、時間のいつを問わず、セーラムその他我国の如何なる都市の静かな町通りにいるよりも安全だということを知る。
我々は六時に眼を覚ました。如何にも輝しい朝である。忠実なヤスが舟中で調理した朝飯を済ませて、我々は荷物の上に横になり、河、大小各種の船舶、面白い形の家等の珍しい景色を楽しんだ。河岸は低く、流れはゆるいので、我々は静かに進んだ。だが、静かといっても、いい写生図をつくるには早すぎた。河上の舟は、形は同じだが、大さが違う。ペンキを塗った舟は一艘もない。町の家にも、都会の家にも、ペンキが塗ってない結果、町通りが如何にも薄ぎたなく見え、家屋は我国の古い小屋や納屋を連想させる。使うとすれば、それは黒くて腐った糊みたいな不愉快な臭気を発するペンキである。写生図(図95)は我々が乗った舟を示している。図96は帆をあげた舟であるが、風が無いので舟夫は竿で押している。舟の帆は長い幅の狭い薄布を、三、四インチのすき間を置いて紐でかがったものである。帆は非常に大きく、かかるすき間は風が強い時に風圧を軽減する。長い竹竿は鉄で被覆してあって、巨大なペンに似ている(図97)。舟夫の耐久力は、人力車夫の力と耐久力とに全く等しい。一例として、我々の舟夫は夜十時に漕ぎ始め、途中で一、二度休んだきりで、翌日の午後四時まで一睡もせず、また疲れたらしい様子も見せずに、漕ぎ続けた。時々、我々は、河岸を修繕している人足の一団の前を通った。この仕事で、彼等は竹の堡塁を築き、杭を打ち込み、ある場合には、長さ十フィートの小枝や灌木の大きな束の、切口の方を河に向けて置いて、壁をつくるのであった。最も効果のあるのは、長い管状の竹籠で、直径一フィート、長さ十五フィート或は二十フィートのものに、大きな石をつめたものである。これ等の管は、河岸の危険な場所に、十文字に積まれる。河は非常に速に河岸を洗い流すので、絶間なく看視していなくてはならぬ。

我々は魚を網で取る巧みな方法を見た。網は二本の長い竹竿に張られ、竹竿の端は舟に取りつけられた簡単な枠構えに結びつけてある。この枠構えを前方に押すと竹竿が水中にひたり、網と一緒に水中に没する。しばらくして、枠構えを手前に引き寄せると、水から網が上って魚は舟に投り落される。図98は水中に入った網と引き入れられた網とである。河に添う家屋の型式は、図99で示す。図100はもう一つ別の舟である。

四週間日本にいて、私はやっと一目で男と女の区別がつくようになりかけている。彼等は同じ様に長い、青黒い衣類を身につけている。男は髭を生やしていず、田舎へ行くと、女の頭髪が男のと区別つかぬ程こんがらかっている。が、しばらくすると、相異が認められて来る。田舎の人々――農民――は、概して不器量である。男の方が女よりもいい顔をしていて、時々知的な顔を見受ける。私は奇麗ともいうべき娘を五、六人見た。
子供が赤坊を背負うことに就いては、既に述べる所があった。図101は大きな男の子が釣をしている処であるが、彼の背中には彼の小さな弟だか妹だかがぶら下っている。私は今迄に揺籃ゆりかごを見たことがない。また一人放り出されて、眼玉の出る程泣き叫んでいる赤坊も見たことがない。事実、赤坊の叫び声は、日本では極めて稀な物音である。
外国人の立場からいうと、この国民は所謂「音楽に対する耳」を持っていないらしい。彼等の音楽は最も粗雑なもののように思われる。和声ハーモニーの無いことは確かである。彼等はすべて同音で歌う。彼等は音楽上の声音を持っていず、我国のバンジョーやギタアに僅か似た所のあるサミセンや、ビワにあわせて歌う時、奇怪きわまる軋きしり声や、うなり声を立てる*。

* その後ある学生が話した所によると、我々の音楽は日本人にとってはまるで音楽とは思われぬそうである。彼は何故、我々が我々の音楽を、ギックリシャックリ、不意に切断するのか、了解出来ぬといっていた。彼にとっては、我々の音楽は「ジッグ、ジッグ、ジッグ、ジッグ、ジッグ、ジッガア、ジッグ、ジッグ」と聞える丈であった。
然し、男達が仕事をしながら歌う声は、余程自然的で心から出るように思われる。そして、我々が過日橋石で知った所によると、彼等はこの種の唱歌を事実練習するのである。我々は酒盛りでもやっているような場所を通ったが、聞く所によるとこれは労働者が大勢、物を揚げたり、杭を打ったり、重い荷を動かしたりする時に、仕事に合わせて歌う彼等の歌や合唱を、練習しつつあるのであった。歌のある箇所に来ると、二十人、三十人の労働者達が一生懸命になって、一斉に引く準備をしている光景は、誠に興味がある。ちょっとでも動いたり努力したりする迄に、一分間、あるいはそれ以上の時間歌を歌うことは、我々には非常な時の浪費であるかの如く思われる。
灌漑を目的とする水車装置は大規模であった。同じ心棒に大きな輪が三つついていて、六人の男がそれを踏んでいた。こうして広い区域の稲田が灌漑されつつあった。かかる人達は、雇われて働いているのか、それとも農夫達が交代でこの仕事をするのか、私はききもらした。
この国民に奇形者や不具者が、著しくすくないことに気がつく。その原因の第一は、子供の身体に気をつけること、第二には殆ど一般的に家屋が一階建てで、階段が無いから、子供が墜落したりしないことと思考してよかろう。指をはさむドアも、あばれ馬も、噛みつく犬も、角ではねる牛もいない。牝牛はいるが必ず紐でつながれている。鉄砲もピストルもなく、椅子が無いから転げ落ちることもなく、高い窓が無いから墜落もしない。従って背骨を挫折したりすることがない。換言すれば重大な性質の出来ごとの原因になるような状態が、子供の周囲には存在しないのである。投石は見たことがない。我国のように、都会で男の子供が党派戦をするということもない。我々からして見れば、日本人が彼等の熱い風呂の中で火傷して死なぬのが、不思議である。
東京から十マイルのところで向い風が起った。我々はそこで上陸して人力車をやとい、ボーイは荷物を持って来るために後に残した。人力車は我々をのせて新しい地域を横断した。ここは世界大都会の一つである東京の境界地なので、興味があった。家の形は多少異っていた。即ちある箇所、特に屋梁の取扱い方に、新しい所があって、百マイル北の家屋で見受けるのとは大いに違っていた。
塵芥を埋立その他の目的で運搬するのには、長い紐輪を持つ、粗末な筵を使用する。塵芥は耨くわでこの筵の中に掻き込まれ、そこで天秤棒を使って図102のように二人の男がそれを運搬する。

この広い世界を通じて、どこでも子供達が、泥のパイや菓子をつくるのを好むのは、面白いことである。日本の路傍ででも、小さな女の子が柔軟な泥をこねて小さな円形のものをつくっていたが、これは、日本にはパイもパンもないので、米でつくる菓子のモチを現わしているに違いない。
この国の人々が――最下層の人でさえも――が、必ず外国人に対して示す礼譲に富んだ丁寧な態度には、絶えず驚かされる。私は続けさまに気がついたが、彼等は私に話しかけるのに先ず頭に巻いた布を解いて、それを横に置くのである。一台の人力車が道路で他の一台に追いつき、それを追い越す時――我々は早く東京に着き度くて急いでいたのでこれをやった――車夫は必ず詫び、そして、通訳の言によると「お許しが出ますれば……」というようなことをいう。
我々は多くの美しい生垣を通過した。その一つ二つは、二重の生垣で、内側のは濃く繁った木を四角にかり込み、それに接するのは灌木の生垣で、やはり四角にかり込んであるが、高さは半分位である。これが町通りに沿うて、かなりな距離並んでいたので、実に効果的であった。日本の造園師は、植木の小枝に永久的の形がつく迄、それを竹の枠にしばりつけるという、一方法を持っている。私の見た一本の巨大な公孫樹いちょうは、一つの方向に、少なくとも四十フィート、扇のように拡がりながら、その反対側は、日光も通さぬ位葉が茂っていながらも、三フィートとは無かった。樹木をしつける点では日本人は世界の植木屋中第一である。この地方を旅行していて目についた花床は美しかった。ことに蜀葵たちあおい、すべりひゆの眩まばゆい程の群団、大きな花のかたまりを持つ青紫の紫陽花あじさい等は、見事であった。梅や桜は果実の目的でなく、花を見るために栽培される。有名な桜の花に就いては、今迄に旅行家が数知れず記述しているから、それ以上言及する必要はあるまい。変種いくつかが知られている。売物に出ている桃は小さく、緑色で、固く、緑色橄欖のように未熟であるが、人々はその未熟の状態にあるのを食う。私はいくつかの桃を割って見たが、五つに四つ位は虫がいた。
この国の人々が持つ奇妙な風習はいたる処に見え、そして注意を惹く。ある家の入口には、漢字を僅か書いた横に、指を広くひろげた手に墨を塗ったものが二つ、ペタンと押してあった*。
* 数年後、私はこの記号は、疱疽ほうそうを追い払うためにつくられたということを聞いた。
稀まれに我々は、聡明らしく見える老人が、前を通り去る我々を見詰めて、懐古的瞑想にふけりながら、厳格な態度で頭をふるのを見た。それは恰も彼等は旧式な派に属し、そして長い間近づけなかった、また軽蔑していた外国人に、好き勝手な所へ行かせることによって、日本人が無茶苦茶になって了うと信じているかの如くであった。私は彼等が我々に与えた表情的な顔付に、これを読むことが出来た。然し、このような自由は与えられていない。外国人は、四つの条約港に定められた境界線から二十マイル以上は、旅券無しでは出られない。出ればつかまって追いかえされる。この国の内地に入る為には、旅券は単に実際旅行す可き道筋を細記するにとどまらず、旅行に費す日数までも書かねばならぬ。我々が泊った旅宿では、どこででも宿主か或いは何かの役人が、先ず旅券を取り上げ、注意深く書き写したあげく、我々に面倒をかけたというので、非常に丁寧なお辞儀で詫をする。
東京の近くで我々は大きな材木置場を通り過した。板は我国のように乱雑に積み上げず木を切った通りに纏まとめて縛ってあるから、建築に取りかかる時、大工は材木の色も木理きめも同じ様なのを手に入れることが出来る。竹の大きな置場も見えた。竹はかたまって立ち、何等かの支柱によりかかっている。石置場もある。ここで五十ドルか百ドル出すと、佐渡か蝦夷えぞからでも来たらしい、奇妙な形の、風雨に蝕磨された石を買うことが出来る。日本人は庭園に石を置くが、その石は遠い所から持って来られる。形の変ったものなら何でもいいのだが、小鳥の飲み水を湛えるようなくぼみが自然に出来たのは、大事にされる。石燈籠をつくるために積み上げる石、小さな庭園の橋をつくる板石、詩文を刻む石、その他の目的に使用する石を日本人は熱心に求める。
大火事の経過を見張るために、家屋の屋根の上に足場をつくることに就いては、既に述べた。今や私は数軒の家の屋根に水を満した大きな樽と、屋根に振りかかる火の子を消す為の、刷毛のついた長い竿とが置いてあるのを見た。樽を籠細工でつつんで、見た所がいいようにしたのもあった。
行商人が商品を背中にしょって歩いているのに屡々逢った。ある行商人は小さな籠の入った大きな箱をいくつか運んでいたが、この籠の中には緑色の※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったが押し込められたまま、我国に於る同種のものよりも、遙かに大きな音をさせて鳴き続けていた。私は一匹買ってマッチ箱に仕舞っておいたが、八日後にもまだ生きていて元気がよかった。子供はこれ等の昆虫を行商人から買い求め砂糖を餌にやり、我々がカナリヤを飼うように飼うのである。小さな虫籠はまことに趣深く、いろいろ変った形で出来ていた。その一つは扇の形をしていて、仕切の一つ一つに虫が一匹ずつ入っていた。
再びドクタア・マレーの款待に接し、半焼けのロースト・ビーフ、本当のバタ、それから佳良なパンの正餐の卓に向った時は悦しかった。ミルクもバタもチーズもパンも珈琲コーヒーもない――今迄もかつて無かった――国ということを考えるのには骨が折れる。日本人にとって、バタは極めて不味まずいので、彼等は菓子にせよ何にせよ、バタを入れてつくった食品を食うことが出来ない。
帝国大学の動物学教授として招聘されて以来、私は夏期の実験所を計画し、学生九十名の級の為に課程を整え、博物館創立の計画に忙しく暮している。
大きな包を背負った人を、往来で屡々見ることがある。この包は青色の布で被われて、手風琴ハンドオルガンを思わせる。これは大きな書架……事実巡回図書館なのである。本はいたる処へ持って行かれる。そして日本には無教育ということがないので、本屋はあらゆる家へ行き、新しい本を残して古いのを持って帰る(図103)。

私が今迄に知り得た処では、この都会の町には、外国人がある一区画なり、橋なりの名をとって命名した、僅かな例を除いて、名前がない。最も広い大通りでもその通りである。主要な区画(多分すべての区画)には名があるが、町通りには決して無い。人はこれこれの区画に住んでいるので、その人を探す為には、その区画の四辺を――即ち四つの異った町なり露地なりを――歩き廻らねばならぬ。ドクタア・マレーは、私と一緒に、私が紹介状を貰って来た日本人を探しに出かけた。我々の人力車夫は、何度もくりかえしてその区画を質ねた後、さてそれが見つかると、今度は目的の家をさがし出す迄に四辺の三辺までを、家にはりつけた小さな木、又は紙の札を読み読み歩くのであった。これに関連して面白いのは、我国の職業的都市住所姓名簿製作人が名前を集める方法である。彼等は先ず一区画の一隅から始め、ありとあらゆる小路や入り込んだ場所に入りながら四辺を廻り、その一区画が済むと持っている地図でその区画を消し去って、新しい区画の一隅からまた仕事を始める。このようにして検査員は全都市を調査しつくす*。
* 気ぜわしない旅行家がよくやる、信頼出来ぬ叙述の例として、東京の町々に名前がないという以上の間違った記事(私の日記から書き写したもの)は誠に適切である。当時私は日本語とては一言も話さなかったので、この間違いは、東京にかなりの間いた米国人の仲間から聞いたものに相違ない。『日本亜細亜協会会報』の第一巻にはドクタア・W・E・グリフィスの「江戸の町及び町名」という面白い通信が出ている。これは一八七二年に読まれ、一八七四年、即ち私が以上の記録を私の日記になした三年前、すでに発行されている。私はこの記事を熱心に推奨する。これを読むと町名はいくらでもあり、フロント(前)、パイン(松)、ウィロー(柳)、シーダー(杉)等我国のと同じのもあれば、また「ありあまる喜悦」、「墓の戸」、「一つの色」、「山のそよ風」、「指の谷」及びそれに類似した、極めて奇妙な町名もある。
人々の住宅には仏教の廟を納めた棚――カミダナ、即ち神様の棚と呼ばれる――があり、そこに小さな燈火と食物の献げ物とが置かれる。かくの如き食物は、死んだ友人のために献げられるのである。
時々町通りで何かのお祭を祝っているのに出喰わす。先頃の夜、往来は売り買いをする人々で一杯だった。正式の市なのである。私は人ごみの中を一時間も歩いて、売物に出ている色々な奇妙な品物を観察したが、その多くは手づくりで、値段は一セントの半分あるいは十分の一というような僅かなものであった。町を照らすのは、螢に似た小さな蝋燭や提灯で、極めて弱い光を出すのが関の山だった。支柱にのった棚は趣味深く塩梅してあり、常緑樹の一種の短い小枝を、二つの竹片ではさんで、小さな垣根をつくったのも一つあった。多数の花束、小さな鉢植えの植木、可愛らしい木の小皿、いろいろな種類の玩具、それから精巧を極めた紙製の提灯等が見られた。ある提灯は紙で円筒形をつくり、その中には上部に風車を持つ木製の心棒があり、そして蝋燭の熱が心棒を回転させる。紙をきりぬいてつくった馬に乗っている人、人力車、人々の姿が心棒からつき出たものに下っている。提灯には小さな橋や風景が描いてあるので、人や馬が回転すると、蝋燭がその影を紙の円筒に投げ、かくてこれ等の物体が橋を渡るという活動写真が出来上る。子供にとっては最も興味のある玩具だが、而も値段は僅か一セント半であった。図104はその構造の概念を示している。別の円い形をした白い紙提灯には、新しい水滴と思われるものが表面についていた。最初私は、提灯の内側に硝子ガラス玉か透明なゴムの数滴かをつけて、この効果を出したものと思ったが、事実は内側に三、四個、銀紙でつくった大小の小円筒をはりつけたので、蝋燭の光が紙の上に光る一点を持つ陰影をつくり出し、それがまるで丸い水玉のように見えるのであった(図105)。これ等の行商人が売っている品の殆ど全部は、子供のためにつくられたのである。いろいろな慰み事もやっていた。その一つは竹の棒を立てた上に人形が三つ立っているもので、男の子達は小さなボタンに似たものを十個買い、四フィートはなれてこれをぶつける。そして人形一つに命中すると、褒美として卵を一つ貰う。又男の子達は竹の中から小さな矢を吹き出して――他ならぬ吹き矢である――いろいろな的を射ていた。
人力車に乗って町を通る人は、この国の人々が如何に自然物を愛するかに絶えず気がつく。一例として飲み屋――もっとも氷水、瓶詰めのソーダ水等より強い物は飲ませぬが――の店さきに、大きな、こんがらかった、何かの木の根の直径六フィートばかりのが立てかけてあり、顧客が使用する美しい磁器のコップがこの根のあちらこちらにかけてある(図106)。この根は、農夫達が根の垣根をつくる材料にするようなものであった。それを一層黒く見せるために、しょっ中水で濡らしてある。それで艶のいい磁器のコップと相伴って実に見事に見えた。またふなくい虫が穴をあけた黒色の舟板二枚の間に、竹の胴輪を入れてつくった植木鉢もあったが(図107)非常に効果的で、また無類であった。

東京の町を散歩している中に、私は小学校へ入って見た。先ず先生の許可を受けたが、先生は私の望みを理解して呉れた。私は部屋を一つ一つ見せて貰ったが、異った部屋に入るごとに先生は朗誦をやめ、号令をかけると生徒は皆立ち上り、もう一つの号令と共に一同――先生も含む――机にさわる位低くお辞儀をするのであった。その後朗誦は中絶することなしに続けられる。
日本人の顔面には強烈な表情というものがない。これは彼等の訓練の結果である。彼等は決して狂憤したり(興奮さえもしない)しないらしいので、外国人の顔に見受けるような深い皺などを惹起することは無い。
下層民の間には奇妙な入れ墨の方式が見られる。すくなくとも我々はそれを裸体の人力車夫に見る。背中、両腕、両脚等に青と赤とで奇怪極る模様を念入りに入れ墨するのであるが、その意匠のあるものは全く芸術的で、背中から両脚へかけて、最も精細に行った竜の入れ墨の如きは、その一例である。この遺風は如何に妖怪的な先祖から来ているのであろうか! 脚部に朽木のような物質を燃やした焼跡が、行列しているのを見ることも多い。苦痛の多い手術であるが、リョーマチスの療法だとされている。
日本人が倭生樹をつくるのに巧みであることは既に述べた。この間私は高さ二フィートの頑丈な林檎りんごの木を見た。この木はあたり前の茶瓶に植っていて、果実を二十個枝につけていた。果実も同様に小さかったが、かっちりしていた。我国の園芸家が、日本人の持つこの巧妙な芸術に注意を向けたならば、どんなに立派な食卓の中心飾りが出来ることであろう。
日本に着いてから数週間になる。その間に私は少数の例外を除いて、労働階級――農夫や人足達――と接触したのであるが、彼等は如何に真面目で、芸術的の趣味を持ち、そして清潔であったろう! 遠からぬ内に、私は、より上層の階級に近づき度いと思っている。この国では「上流」と、「下流」とがはっきりした定義を持っているのである。下流に属する労働者達の正直、節倹、丁寧、清潔その他我国に於て「基督教徒的」とも呼ばれる可き道徳のすべてに関しては、一冊の本を書くことも出来る位である。
東京でアサクサと呼ばれる一郭は、外国人に珍しい観物の一つである。大きな寺院が付近の低い住宅の上にそそり立っている。この寺院に達する路の両側には、主として玩具屋や犬の芸当や独楽こままわし等の小店が櫛比しっぴしている。お茶屋や菓子屋もないではないが、ここに於る活動と陳列との大多数は、子供の興味を中心にしたものである。鳩の餌を売っている場所もある。鳩は大群をなしてお寺の屋根から舞い降り、地面の上や、餌をやっている人々の上にとまる*。
* 我々はここ二十年間にこの点で大きに進歩した。今やボストン公園で、大人や子供が鳩の群に餌をやっているのを見るようになった。鳩は餌をやる人の頭、肩、手等にとまる。
薄暗い寺院の隅々では、涼しそうな服装をした僧侶が動きまわり、人々があちらこちらにかたまって祈祷をしていた。日本人は、私が今迄見た所によると、祈祷をする時以外に熱心そうな表情をしない。寺院の内にある奇妙な物象は、屡々人を驚かし、軽蔑の念をさえ起させる。この問題に関して米国の一宣教師雑誌は、この宗教的建築物の壁にかかっているある品物――太平洋の便船「シティ・オブ・チャイナ号」の石版画を額に入れたもの――を捕えて嘲弄の的にした。私はこれを信じることが出来なかった。それで初めてこの寺院に行った時、特に探した処が、なる程、他の記念品や象徴物の間に入って壁を飾っていた。それは記叙してあった通り、蒸汽船の、安っぽい、石版の色絵で、よごれた所から見ると何年かそこにかかっていたものらしい。硝子板の横の方に何か五、六行縦に書いてあった。数日後私は学生の一人と一緒にまた浅草寺へ行って、そこに書いてあることを翻訳して貰うと、大体以下のようなことが書いてあるのであった――「この汽船は難船した日本の水夫五人を救助して日本へ送り届けた。外国人のこの親切な行為を永く記念するために、当時の僧侶がこの絵を手に入れ、当寺の聖物の間にそれを置いた。」これは日本人が外国人に対して、非常な反感を持っていた頃行われたことで、僧侶達が本当の基督キリスト教的精神を持っていたことを示している。そして日本人はこの絵画を大切にする。
この寺院には、天主教の祭儀を思わせるものが沢山ある。事実、十七世紀の後半、オランダ使節に随って長崎へ来た同国の医師ケムペルは仏教の儀式や祭礼を研究し、坊主、尼、聖水、香、数珠、独身の僧侶、弥撒ミサ等を見ては“Diablo simulanti Christum”といわざるを得なかった。この寺には台にのった高さ三フィートばかりの木像があるが、それは手足の指が殆ど無くなり、また容貌も僅かにそれと知られる程度にまで、するするに撫で磨かれて了っている。身体に病気なり痛みがある時、この木像のその場所を撫で、その手で自分のその局部を撫でれば、痛みがやわらいだり、病気が治ったりする――下層民はこの像が、そんな功徳を持つものと信じている。この像を研究すると、その減り具合によって日本で、どんな病気が流行っているかが判る。目は殆ど無くなっている。腹の辺が大部分磨減しているのは、腸の病気が多いことを指示し、像の膝や背中が減っているのは、筋肉及び関節リョーマチスを暗示している(図108)。私はしばらく横に立って、可哀想な人達がいと厳かにこの像に近づき、それを撫でては自分の身体の同じ場所を撫でたり、背中に負った赤坊をこすったりするのを見た。信仰療法や局部を撫でることは一向差支えないが、眼の問題になると保健官吏の干渉があって然る可きだと思わざるを得ない。これでは伝染性の眼病が、いくらでもひろがるにきまっている。だが、こんな迷信を持っているのは、他の国々でも同様だが、下層民か無知な人々だけで、知識階級は余程以前、このような意味をなさぬ信心から超脱して了っている。

東京の往来は何度歩いても、何か記録に残すべき新しい事柄に出会う。砂糖を売る一軒の店で、八つか十を越しているとはどうしても思えぬ男の子達が、砂糖を鉄把秤スティールヤード――というより竹の把秤はかりだが――で量はかっては袋に入れ、おつりの勘定をする等の仕事を、すっかりやっていたのは面白かった。その日その日の、あるいは一週間分の、買物をする人が多数いたが、男の子達はまるで蟻のように敏活に働いていた。肉屋は数年前は非常に珍奇なものであったが、今でも大きな都会に僅かあるだけである。氷が非常に高価なので、冷蔵庫というものはない。一軒の店さきに牛肉の大きな一片があり、女が一人横に坐って、蠅を追うために団扇うちわでそれをあおいでいた。
大人が寛容で子供が行儀がいい一例として、どんなに変った、奇怪なみなりをした人が来ても、それに向って叫んだり笑ったり、何等かの方法で邪魔をしたりしない。私は帽子として大きな日本の蟹の甲羅をかぶっている人を見たことがある(図109)。これは日本の近海でとれる巨大な蟹で胴体の長さが一フィート以上に達し、爪は両方へ四、五フィートもつき出している。この男が歩いて行くのを多くの人が眺め、中には微笑した人もあった。殆ど全部の人々が頭を露出しているのに、これはまた奇妙な物をかぶったものである。

私は「河を開く」というお祭に行った。この正確な意味は聞かなかった。このお祝は隅田川で行われるので、東京中の人が何千人となく川の上や河岸の茶店に集って来る。我々三人は晩の八時に加賀屋敷を出た。この晩の人力車の走りようは、およそこれ程無鉄砲なことは無い位であった。そもそも出発したのが遅かったのだが、往来は人が一人残らず手に持っている紙提灯の、薄暗い光を除いては暗く、おまけに車夫は急いでいたので、全速力で走りながら、人々に通路をあけさせる為に「ハイ、ハイ、ハイ」と叫び続けるのであった。狭い所を無理矢理に通ったの通らぬの! 先に行く人力車が止ると、後のがそれにぶつかった。我々は曲り角を急にまがり、狭い通りを近路し、すべての人力車を追い越した。川の光景には思わず茫然とした。広い川は見渡すかぎり、各種のボートや遊山船で埋まっていた。我々はある大名の庭を横切ることを許されていて、この家の召使いが我々のために河の端に椅子を持って来て呉れた。数分間坐っていた上で、我々はもっと近く見物することにきめたが、恰度その時一艘の舟が、お客を求めながら、河岸に沿って静かに近よった。我々が乗ると、間もなく舟は群衆の真中まで漕ぎ出た。この時我々の眼前に展開された光景以上に不思議なものは、容易に想像出来まい。ありとあらゆる大きさの舟、大きな、底の四角い舟、日除や天蓋を持ったのが多い立派な伝馬船……それ等はいずれも、日除の端につるした、色鮮かな提灯の光で照らされている(図110)。そして舟の中央には必ず敷物がひろげてあり、その上では大小とりどりの皿や酒徳利をならべたのを取巻いて、家族が友人と共に坐り、芸者達は三味線をかき鳴して、奇妙な作り声で歌を歌う。広い川はかくの如き、提灯で照らされた舟で完全に被われている。ある舟では物静かな酒盛が行われ、すべての舟に子供が乗っており、そしてどちらを向いても、気のよさと行儀のよさとが見られる。河の向う岸では橋に近く光輝燦爛さんらんたる花火が発射されつつあり、我々はこの舟の迷路の中で、衝突したり、後退したり、時に反対の方向に転じたりしながら、一時間ばかりかかってやっとそこへ行くことが出来た。舟の多くが只水に浮んでいるのに、岸に着こうとしたり、又は他の場所へ行こうとして、我々と同じような難境にあった舟もあったが、それにも拘らず、荒々しい言葉や叱責は一向聞えなかった。近く寄って見ると、十人ばかりの裸体の男が、大きな舟に乗ってローマ蝋燭を発射したり、複雑な性質の花火を仕掛けたりしている。その有様には、まったく肝をつぶした。これは実に忘れられぬ光景であった――光に輝く男達の身体には火花が雨のように降りそそぎ、振りかえると花火の光輝に照らされた舟の群が水に浮んで上下し、新月は徐々に沈み、星は稀に見る光を放って輝き、川はすべての大さと色彩との何万という提灯の光を反射しながらもなお暗く、舟の動揺によって幾条の小川に別たれている――。乗船した河岸に帰ろうとして、我々は反対の方向に進む多くの舟とすれちがった。船頭達は長い竿で、舟を避け合ったり、助け合ったりしたが、この大混雑の中でさえ、不機嫌な言葉を発する者は一人もなく只「アリガトウ」「アリガトウ」「アリガトウ」或は「ゴメンナサイ」だけであった。かくの如き優雅と温厚の教訓! 而も船頭達から! 何故日本人が我々を、南蛮夷狄いてきと呼び来たったかが、段々に判って来る。

上陸してから我々は、また景気よく人力車を走らせて帰宅した。日曜の夜の十一時というのに、店舗の殆ど全部は開いていた。私は夜中まで起きていて、ドクタア・マレーと日本人の態度に就て話し合った。いろいろな話題の中で我々は火事のことを論じたが、ドクタア・マレーは、それ迄に火事場へ行ったことは、一度も無いが、今度あったら一緒に行こうと約束された。やがて我々は寝ることにして、彼は二階へ行き、私は文字通り蚊で一杯になっている地階の部屋へ退いた。私は蚊を一匹も入れずに蚊帳の中にもぐり込んだが、ブンブンいう声で眠つかれずにいると、間もなく警鐘が鳴った。警鐘は高い柱の上にあって梯子がかかっている(図111)。一人の男が梯子を登って行って、棒で区域の数を叩く。その音は粗硬で非音楽的であり、五百フィートの遠く迄も響くまいと思われる程莫迦ばかげて弱い。だが、このような鐘は、東京市中のいたる所に密接しているので、誰にでも聞える。私は即座に寝台を離れて、急いで衣服を身につけた。その時ドクタアが現われて、火事は遠くないといった。我々は屋敷を駆け出し、二人そろって一台の人力車に飛び乗った。そして半マイルも来ない内に、立木や日本人の群衆の顔を赤々と照らす、炎々たる火事の現場へ着いた。焼けていたのは、高い塀にかこまれた屋敷の、門のところに立ち並んだ、数軒の人家であった。私は日本に来てから、いろいろな奇抜なものを見たが、火事場で活躍している消防隊ほど奇抜なものはない。消火機械その物が、長さ二フィート半を越えぬ頑丈な木造の箱で、車輪なんぞは無く、二人の男がそれを担い上げ、上げ下げして水を揚げる長い柄を天秤棒の代りとして肩にかつぎ、何マイルも走ることが出来る位軽い代物なのである。写生図(図112)はその消火機械が、消防署の小屋みたいな建物の横側から出た二本の木釘にひっかかって、休息している所を示している。その下にかけてあるのは丈夫な竹でつくった梯子で、梯桟は木の小片をしっかり縛りつけたもの。軽くて強くて便利な梯子である。狭い往来をうまく舵が取れさえすれば、一人で安々とこれを持って走ることが出来る。蛇管は無い。長さ六フィートの木管が、消火機械の中心から垂直に出ている木管に接合しているのだが、その底部は、それが上下左右に動き得るような具合になって、くっ付いている。火を消すことを目的につくられたとしては莫迦気切った、そして最も赤坊じみたもののように思われた。我々が到着した時建物は物凄い勢で燃え、また重い屋根の瓦はショベルで掻き落されて、音を立てて地面に落ちていた。家屋の構造で焼けぬ物は瓦だけなのに、それを落すとは訳が判らなかった。地面には例の消火機械が二、三台置いてあり、柄の両端に一人ずつ――それ以上がつかまる余地がない――立ち、筒先き役は箱の上に立って、水流をあちらこちらに向けながら、片足で柄を動かす応援をし、これ等の三人は気が狂ったように柄を上下させ、水を揚げるのだが、柄を動かす度に機械が地面から飛び上る。投げられる水流の太さは鉛筆位、そして我国の手動ポンプにあるような空気筒がないので、独立した迸水ほうすいが連鎖してシュッシュッと出る。喞筒ポンプは円筒形でなく四角であり、何週間か日のあたる所にかけてあったので、乾き切っている。それで、筒から放出されるより余程多量の水が、罅裂すきまから空中に噴き出し、筒先き役は即座にびしょ濡れになって了う。機械のある物は筒の接合点がうまく行かぬらしく、三台か四台ある中で只一台が、役に立つような水流を出していた(図113)。消防隊は私設で、各隊に標章持ちがいる。この標章は部厚い厚紙でいろいろの形の幾何的構造物をつくり、白く塗った上に黒く機械の番号を書いたもので、長い竿の上にのっている。標章持ちは出来るだけ火事に近く位置を占める。燃えつつある家の屋根に立つことさえある。標章持ちが証拠になった消防隊は、焼失をまぬかれた家の持主から金若干を貰う。

この写生図で、私は水の洩る機械、水を運んでいる二人の男、屋敷の塀に立っている標章持ち等の概念を示そうと努めたのであるが、実際の火事場にはこんな機械が数台あり、その殆ど全部が洩り、人々が水を運搬し、梯子や、消火用の棒や杖を持って、叩いたり撲ったりして建物を引き倒し、すべての人が怒鳴り、十中八、九までが灯のついた提灯を持っている。そこはよろしく御想像下さい。前にもいったように、蛇管というような物が無いので、機械は火焔の極く近く迄引き寄せねばならず、従って裸体か、裸体に近い消防夫は、火傷をしはしまいかと思われる*。
* 其後知った所によると、消防夫は厚い刺し子でつくった制帽や甲やその他すべてを持っている。そして火事の進行を阻止するために風下の家を取りこわし、機械は焔に水をかけるのでなく、この仕事をする消防夫達に水をかけ、かくの如き小さな迸水装置は、迅速に取り上げて火事の現場へ持って行くことが出来る。提灯は暗い狭い町通りで消防夫達を助ける――と、こう聞くと日本の消防隊も、そんなに莫迦気た真似ばかりやっているのでもない。マサチューセッツ州セーラムのピーボディー・ミュージアムには、消防夫の身支度の立派な蒐集が陳列してある。
勇気と活気の点で、また熱と煙とに対する抵抗力に於て、彼等は我国の消防夫に比して決して劣ってはいないが、それ以外の点ではアメリカの少年達の方が遙かにうまくやりそうに思われ、彼等の間に立っていた私は、彼等の途法もないやり方に、何度も何度も腹をかかえて笑った。木造建築の薄っぺらな火を引きやすい性質が原因して、一年か二年ごとにこの都会の広い区域が焼け落ち、多額の財産はいうに及ばず、時に生命さえも亡ぼされるのに、何の不思議はない。日本人が建築法を変更して、薄い木片の羽目板を使用することを禁止し、そしてもっと役に立つ消火機械を持ち、ちゃんとした消防隊を組織しなくては、火災による大損害はいつ迄もあとを絶たぬであろう。
一時、火事場から家路についた時、何か商売がありはしまいかと思って開けている店が五、六軒あった。店といえば、その多くが晩の十時、或はその以後までも開いているのに気がつく。夜になると店全体が往来に溢れ出るらしく、何にしても往来の両側の建物の近くには(歩道がないので)木製品、金属製品、陶器、漆器、団扇、玩具、菓子その他を積み上げた莚がびっしり並び、それ等のすべては紙の燈心を持つ粗末な脂蝋から石油洋燈ランプにいたる、各種の燈火で照らされている。人口の大部分は、商売と交易とばかりを職業としているらしく思われる。店の多くは背後に部屋があり、そこを住居として使用する。
先日の午後伊藤氏という有名な老人が、ドクタア・マレーを訪問し、私も紹介されるの名誉を持った。彼は秀でたる植物学者で、一八二四年既に日本のある植物協会の会長であった。伊藤氏はマレー夫人に、この年最初に咲いた蓮の花を持って来たのである。彼は丁髷は棄てたが純日本風の礼装をしていた(図114)。私は最大の興味を以て彼を眺めた。そしてドクタア・グレーやドクタア・グッドエールが、この日本の植物に就いては一から十まで知っている、優しい物静かな老人に逢ったら、どれ程よろこぶことだろうと考えた。通弁を通じて私は彼と、非常にゆっくりした然し愉快な会話を交換した。彼が退出する時、私は私の備忘録の一部分の写しを贈呈したが、彼に判ったのは絵だけであった。数日後彼から日本の植物に関する全三巻の著書を贈って来た。

お城を取りまく堀と、そこから彎曲わんきょくした傾斜で聳そびえる巨大な石垣とに就いてはすでに述べた。この石垣は東京市の広い部分をかこみ込んでいる。堀は大きな運河みたいで、市中を人力車で行く時、何度もお堀にかけた橋を渡る。所によって堀は蓮でうずまっている。蓮は私に間違が無ければ、我国の睡蓮に極めて近いものである。葉は直径一フィート半で、水の表面より上に出ている。花は非常に大きくて、優美な桃色をしている。今や真盛りで、大きな葉が茂っているので、どこででも、生えている所では、事実下の水をかくしている。
東京のような大きな都会に、歩道が無いことは奇妙である。往来の地盤は固くて平であるが、群衆がその真中を歩いているのは不思議に思われる。人力車が出来てから間がないので、年とった人々はそれを避けねばならぬことを、容易に了解しない。車夫は全速力で走って来て、間一髪で通行人を轢ひき倒しそうになるが、通行人はそれをよけることの必要を、知らぬらしく思われる。乗合馬車も出来たばかりである。これは屋根がある四方あけ放しの馬車で、馬丁がしょっ中先方を走っては人々にそれが来たことを知らせる。反射運動というようなものは見られず、我々が即座に飛びのくような場合にも、彼等はぼんやりした形でのろのろと横に寄る。日本人はこんなことにかけては誠に遅く、我々の素速い動作に吃驚びっくりする。彼等は決して衝動的になったりしないらしく、外国人は彼等と接触する場合、非常に辛棒強くやらねばならぬ。 
第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所
私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。私はフンディの入江、セント・ローレンス湾、ノース・カロライナのブォーフォート等へ同じ目的で行ったが、それ等のいずれに於ても、只一つの「種」しか見出されなかった。然し日本には三、四十の「種」が知られている。私は横浜の南十八マイルの江ノ島に実験所を設けた。ここは漁村で、同時に遊楽の地である。私がそこに行って僅か数日経った時、若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した。日本語がまるで喋舌しゃべれぬことを述べると、彼は大学の学生は全部入学する前に英語を了解し、かつ話さねばならぬことになっていると答えた。私が彼を見覚えていないことに気がついて、彼は私に、かつてミシガン大学の公開講義で私が講演したことを語った。そしてその夜、私はドクタア・パーマアの家で過したのであるが、その時同家に止宿していた日本人を覚えていないかという。そのことを思い出すと、なる程この日本人がいた。彼は今や政治経済学の教授なのである。彼は私がミシガン大学でやったのと同じ講義を、黒板で説明してやってくれと希望した。ズボンと婦人の下ばきとの合の子みたいなハカマを、スカートのようにはき(割ったスカートといった方が適している)、衣服のヒラヒラするのを身に着けた学生が、一杯いる大きな講堂は、私にとっては新奇な経験であった。私はまるで、女の子の一学級を前にして、講義しているような気がした。この講義の結果、私は帝国大学の動物学教授職を二年間受持つべく招聘された。だがその冬、米国で公開講演をする約束が出来ていたので、五ヶ月間の賜暇をねがい、そして許された。これが結局日本のためになったと思うというのは、この五ヶ月間に、私は大学図書館のために、二万五千巻に達する書籍や冊子を集め、また佳良な科学的蒐集の口火を切ったからである。また私は江ノ島に臨海実験所を開き、創立さるべき博物館のために材料を集めることになっていた。
契約書は二ヶ国語で、書かねばならなかった。私は二人の書記が忙しく書類を調製する内、事務所に坐っていて、彼等の仕事ぶりを内々スケッチした(図115)。実験所のために、ガラス瓶、酒精アルコール、その他を集める日が、いく日も続いた。外国人は、この国の人々が何をやるのにもゆっくりしているので、辛棒しきれなくなるが、彼等は如何にも気立てがよく、物優しいから、悪罵したり、疳癪を起して見せたりする気にはなれない。植物学教授の矢田部教授――コーネル大学の卒業生で「グレーの摘要」を教えていた――が実験所の敷地を選び、そしてその建設の手配をするために、私と一緒に江ノ島へ行った。この日――七月十七日――は極めて暑かったので、我々は出発を四時までのばした。我々は各々車夫二人つきの人力車に乗った。車夫達は坂に来て立ち止った丈で――我々は下りて歩いた――勢よく走り続けた。殊に最後の村を通った時など、疲労のきざしはいささかも見せず、疾風のように走った。彼等の速力によって起る微風をたのしむ念は、こんな暑い日に走る彼等に対する同情で大部緩和された。彼等が日射病と過労で斃れぬのが不思議な位である。

南へ行くに従って、江ノ島まで位の短い内であっても、村々の家屋に相違のあるのが認められる。ある村の家は、一軒残らず屋根に茂った鳶尾とんび草を生やしていた。この人力車の旅は、非常に絵画的であった。富士山の魅力に富んだ景色がしばしば見られた。かくもすべての上にそそり立つ富士は、確かに驚く可き山岳である。時々我々は花を頂いた、巨大な門を通りぬけた。茶屋や旅籠屋には、よく風雨にさらされた、不規則な形をした木片に、その名を漢字で書いたものが看板としてかけてある。我々の庭で栽培する香のいい一重の石竹が、ここでは路傍に野生している。また非常に香の高い百合(Lilium Japonicum)を見ることも稀でなく、その甘ったるい、肉荳※にくずく[#「くさかんむり/寇」の「攴」に代えて「支」、1巻-125-上-12]に似た香があたりに漂っている。
江ノ島は切り立ったような島で、満潮時には水の下になる長い狭い砂洲で、陸地とつながっている。この島は突然見える……というのは、陸地を離れる直前に、我々は長い砂丘を登るので、その頂に立つと江ノ島が海中に浮び、太平洋から押しよせる白波でへり取られた砂浜と共に人の目に入る。この長い砂洲を横切る時、私は初めて太平洋の海岸というものを見た。私は陸上に見るべきものが沢山あるので、それ迄海岸を見ることを、私自身に許さなかったのである。私が子供の時、大切に戸棚に仕舞っておいたり、あるいは博物館でおなじみになったりした亜熱帯の貝殻、例えば、たから貝、いも貝、大きなうずらがい、その他の南方の貝を、ここでは沢山拾うことが出来る。これ等の生物の生きたのが見られるという期待が、如何に私を悦ばせたかは、想像出来るであろう。江ノ島の村は、一本の急な狭い道をなして、ごちゃごちゃに集っているのだが、その道は短い距離をおいて六段、八段の石段がある位、急である。幅は十フィートを越えず、而も木造の茶屋が二階、あるいは三階建てなので、道は比較的暗い。これに加うるに板でつくった垂直の看板、いろいろな形や色をした、これも垂直な布等が、更に陰影を多くするので、道路の表面には決して日が当らず、常にしめっている。路の両側には店舗がぎっしり立ち並んでいて、その多くでは貝殻、海胆うにその他海浜で集めたいろいろな物でつくった土産物を売っている。
私は日本の食物で暮すことに決心して、昼飯は一口も食わずに出て来たのであった。一軒の茶屋に入って、部屋に通されると、我々は手をたたいた。これは召使いを呼ぶ普通な方法で、家が明け放しだから、手をたたくと台所までもよく聞える。召使いは「ハイ」と長くひっぱって答える。部屋には家具その他が全く無く、あるものは只我々と旅行鞄とだけであった。先ずお茶、次に風味のない砂糖菓子とスポンジ・ケーク(かすてら)に似たような菓子が運ばれた。これ等は我国では、最後に来るのだが、ここでは最初に現われる。我々は床に坐っていた。私は殆ど餓死せんばかりに腹が空いていたので、何でも食う気であった。娘達が何かを差出すごとに、膝をついてお辞儀をする、そのしとやかな有様は、実に典雅それ自身であった。しばらくすると、漆器のお盆にのって食事が出現したが、磁器、陶器、漆器の皿の数の多さ! 箸は割マッチみたいにくっついていて、我々のために二つに割ってくれたが、これはつまり、新しく使い、そして使用後は折ってすてて了うことを示している。箸は図116のようにして片手で持つ。一本は拇指と二本の指とではさみ、物を書く時ペンを動かすようにして前後に動かす。もう一本の箸は薬指と、拇指と人差指との分れ目とで、しっかり押えられる。私はすでに、一寸箸を使うことが出来るようになった。これ等二本の簡単な装置が、テーブル上のすべての飲食用器具の代用をする。肉はそれが出る場合には、適宜の大さに切って膳に出される。スープは、我々の鉢に比べれば、小さくて深くて蓋のある椀に入っている。そして液体は飲み、固形分は箸でつまみ上げる。飯も同様な椀に入っていて、人はその椀を下唇にあてがって口に押し込む。だが、飯には、箸でそのかたまりをつまみ上げることも出来る位、ねばり気がある。飯櫃の蓋は、飯椀を給仕する時、よくお盆として使われる。料理番は、金網や鍋の食物をひっくり返すのに、金属製の箸を使用する。火鉢で使う箸は鉄か真鍮で、一端に環があって連結している。細工人は懐中時計を組み立てるのに細い箸を使う。往来の塵ひろいは、長さ三フィート半の竹の棒を二本持っていて、これで紙屑を拾い、背中にしょった籠の中に入れる。私は一人の老婦人が貝で花をつくるのを見たが、こまかい貝殻をつまみ上げるのに、我々が鑷子ピンセットを使用する所を、彼女は精巧な箸の一対を用いていた。若し我国の軍隊で箸の使用法を教えることが出来たら、兵隊の背嚢からナイフ、フォーク、スプーンを取り除くことが出来る。入獄人は一人残らず箸の使い方を教えらるべきである。公共の場所には、必ず箸が備えらるべきである。

だが、日本の正餐のことに戻ろう。いくつかの盆の上にひろがったのを見た時、私は食物に対すると同様の興味を、それ等を盛る各種の皿類に対して持った。床に坐り、皿の多くを持ち上げては食うのは甚だ厄介であったし、また箸にはしょっ中注意を払っている必要があったが、すべてに関する興味と新奇さに加うるに激しい食慾があったので、誠に気持のよい経験をすることが出来た。油で揚げた魚と飯とは全く美味だった。各種の漬物はそれ程うまくなく、小さな黒い梅に至っては言語道断だった。大きな浅皿の上には、絹糸でかがった硝子の棒の敷物があった。棒は鉛筆位の太さがあり、敷物は長さ一フィートで、くるくると捲くことが出来る。これは煮魚のような食物の水気を切るには、この上なしの仕掛けである。図117はそれが皿に入っている所を示している。この装置は日本の有名な料理、即ち生きてピンピンしている魚を薄く切った、冷たい生の魚肉に使用される。生の魚を食うことは、我々の趣味には殊に向かないが(だが我々は、生の牡蠣かきを食う)、然し外国人もすぐそれに慣れる。大豆、大麦、その他の穀物を醗酵させてつくるソースは、この種の食物のために特別に製造されたように思われる。私はそれを大部食った。そして私の最初の経験は、かなり良好であったことを、白状せねばならぬ。だが、矢田部氏に至っては、一気呵成かせい、皿に残ったものをすべて平げて了った。坐って物を食うのは困難な仕事である。私の肘は間もなく疲れ、脚もくたびれて恐ろしく引きつった。私は、どうやらこうやら、先ず満腹という所まで漕ぎつけたが、若しパンの大きな一片とバタとがあったら(その一つでもよい)万事非常に好都合に行ったことと思う。図118は、我々が食事を終えた時の、床の外見である。食事後我々は実験所に使用する場所をさがしに出かけ、家具の入っていない小さな建物を見つけた。我々はこれを一日三十セントで借りた。今晩、あるいは明日、我々は将来の大学博物館のために、材料の蒐集を始める。

朝飯はあまりうまい具合ではなかった。水っぽい魚のスープ、魚はどっちかというとゴリゴリで、その他の「飾り立て」に至っては手がつけられぬ。やむを得ず私は罐詰のスープ、デヴィルド・ハムやクラッカース等の食糧品や、石油ランプ、ナイフ、フォーク、スプーン等を注文した。この不思議な食物に慣れることが出来たら、どれ程面倒な目にあわずに済むことだろう。私が特にほしかったのは朝の珈琲である。日本人はお茶しか飲まぬ。よって珈琲も買わねばならなかった。
私は家屋内の装飾に関する、すべての事実を、記述し度いと思う。我々が往来を歩いていて通り過ぎた、明るく、風通しがよく、そして涼しい一軒の茶店のことを書き留める。天井から糸で細長い金銀の紙をつるしたのが、奇妙な効果を出していた。一寸でも風が吹くと、紙片はくるくる廻ってピカピカ輝き、非常に気持がよい。これ等の紙片は長さ三インチ、幅一インチ、約一フィートの間を置いて天上一面にぶら下っている。天井を飾るもう一つの方法は――もっとも、天井を飾ることはすくない、――大きな扇子の彩色画を以てすることである。十六フィート四方の部屋の天井に、こんな絵が二十も張ってあったが、そのある物は高価で非常に鮮かな色をしていた。日本人が天然物を便化する器用なやり方は顕著である。廊下の手摺板にいろいろな姿をした鶴を切りぬいたのがあった。また日除けには極度に紋切型にした富士と雲との絵がかいてあった(図119)。

洗面した時、我々は真鍮製の洗面器の横手に、木製の楊子が数本置いてあるのを発見した。それは細い木片で、一端はとがり、他端は裂いて最もこまかい刷毛にしてある。これ等は一度使用するとすてて了うものだが、使えば刷毛の部分がこわれるから、いつでも安心して新しいのを使うことが出来る(図120)。

日本の燭台にはいろいろな形のがあるが、非常に興味が深い。それは真鍮製で、床からの高さが三フィート近くもある(図121)。

翌朝我々は夙く起き、長い往来を通ってもう一軒の茶屋へ行った。ここは実に空気がよく、そして如何にも景色がよいので、私は永久的に一部屋借りることにした。海の向うの富士山の姿の美しさ。このことを決めてから、我々は固い岩に刻んだ段々を登って、島の最高点へ行った。この島には樹木が繁茂し、頂上にはお寺と神社とがあり、巡礼が大勢来る。いくつかの神社の背後で、島は海に臨む断崖絶壁で突然終っている。ここから我々は石段で下の狭い岸に降り、潜水夫が二人、貝を求めて水中に一分と十秒間もぐるのを見た。彼等が水面に出て来た時、我々は若干の銭を投げた。すると彼等はまたももぐって行った。銅貨ほしさにもぐる小さな男の子もいたが、水晶のように澄んだ水の中で、バシャバシャやっている彼等の姿は、中々面白かった。岩にかじりついている貝は、いずれも米国のと非常に異る。海岸の穴に棲んでいる小さな蟹かには吃驚する程早く走る。最初に小石の上を駈け廻っているのを見た時、私は彼等を煤すすの大きな薄片か、はりえにしだだろうと思った。彼等は一寸蜘蛛くもみたいな格好で動き、そしてピシャッとばかり穴の中に駈け込む。
非常につかれていた上に暑い日だったので、横浜へ帰る途中、私は殆ど居ねむりをしつづけた。だが、何から何までが、異国的な雰囲気を持っているのを、うれしく思った。ある点で男の子達は、世界中どこへ行っても同じである。粘土の崖を通過した時、小さな子供達が、(恐らく漢字を使用してであろう)名前をほっていた。私は米国でも、度々このような露出面に、男の子が頭文字を刻んでいるのを見た。
日本人が畳や、家の周囲の小路を掃く箒ほうきは、我国の箒と大して相違してはいない。只柄が短く、そしてさきが床に適するような角度で切ってあるので、我々のようにそれを垂直に持ちはしない。
私が汽車の中やその他で観察した処によると、日本人は物を読む時に唇を動かし、音読することもよくある。
横浜に住んでいる外国人の間にあって、日本人は召使い、料理人、御者、番頭等のあらゆる職を持っていて、支那人は至ってすくない。然し大きな銀行のあるものには支那人がいて、現金を扱ったり勘定をしたりしている。国際間の銀行事務、為替相場等を、すみからすみ迄知っている点で、世界中支那人に及ぶものはない。一例として、交易が上海シャンハイ、香港ホンコン及びサンフランシスコ、ロンドン、ボンベイ等に対し、いろいろな貨幣並に度量衡を以てなされる。今、我国の重量でいうと百斤を越すぴくるで米をはかり、それを他の場所で別な重量度を以て別な通貨で売り渡すというような場合、支那人の買※(「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50)ばいべんは即座に、算盤そろばん上にその差異を、日本の貨幣で計算する。米の値段は我国の麦に於ると同様、しょっ中上下している。これ等の買※(「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50)は、インドや支那の米価や、ロンドン、ニューヨーク等の為替相場を質問されるとすぐさま、而も正確に返答をする。同時に彼等は銭――銀ドル――を勘定し、目方の不足したのや偽物を発見する速度に就ても、誰よりもすぐれている。彼等が銀ドルの一本を片手に並べて持ち、先ずそれ等の厚さが正確であるかどうかを検べる為に、端をずーっと見渡し(彼等が使用する唯一の貨幣たるメキシコドルは、粗末に出来ている)そこでそれ等を滝のように別の手に落しながら、一枚一枚の片面を眺め、相互同志ぶつかり合う音を聞き、次に反対側を見るために反対の手に落し込むその速度は、真に驚くの他はない。一人の買※(「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50)がそれをやるのを見ながら、私は銀貨がチリンと音を立てるごとに、指でコツンとやろうと思って、出来るだけ速く叩いた結果、私は一分間に三百二十回ばかり、コツンコツンやったことを発見した。この計算は多すぎるかも知れないが、とにかく銀貨が一つの手から他の手に落される速さは、まったく信用出来ぬ程である。こうして買※(「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50)は一分間確実に二百枚以上の重量を感じ、銀貨を瞥見し、そして音を聴く。時々重さの足らぬ銀貨を取り出すのを、私はあきれ返って凝視した。だが、日本人が不正直なので、かかる支那人の名人が雇傭されるのだというのは、日本人を誹毀ひきするの甚しきものである。事実は、日本人は決して計算が上手でない。また英国人でも米国人でも、両替、重量、価値その他すべての問題を計算する速度では、とてもかかる支那の名人にかないっこない。
私は東京でもう一つの博物館を見学した。これは工芸博物館で、私は炭坑、橋梁、堰堤の多数の模型や、また河岸の堤防を如何にして水蝕から保護するかを示す模型等を見た。日本家の屋根の組立てもあったが、それには、その強さを示すために、大きな石がいくつか乗せてあった。橋の模型はいずれも長さ五、六フィートの大きなもので、非常に巧妙に、且つ美麗に出来ていた。また立木から繩で吊した歩橋の、河にかかった模型もあった。図122は橋脚の簡単な写生で、一種の肱木の建築法を示している。最初に井桁いげた枠をつくり、それに丸の儘の樹幹の根の方をさし込み、井桁枠に石をみたしてこれを押える。かくて次々に支柱を組立て、最後にその周囲に石垣を築く。

この博物館にはサウス・ケンシントン博物館から送った、英国製の磁器陶器の蒐集があった。陳列箱は上品で、硝子ガラスにはフランスの板硝子が使ってあった。広間は杉で仕上げてあった。一軒の低い建物にはウイン博覧会から持って来た歯磨楊子、財布、石鹸、ペン軸、ナイフ、その他、我国の店先きでお馴染なじみのいろいろな品が、沢山並べてあったが、恐らくこれはこの博物館の出品物と、交換したのであろう。日本の物品ばかりを見た後で、この見なれた品で満ちた部屋に来た時は、一寸、国へ帰ったような気がした。
私は郵便局の主事をしているファー氏に紹介された。同氏の話によると私宛の手紙を江ノ島へ転送することは、すこしも面倒でないらしい。昨年中に郵便切手を六千ドル外国の蒐集家に売ったそうである。米国へ行く郵便袋の各々に入っている手紙に貼った切手は、外国の蒐集家に、五十ドルから七十五ドルまでで売られるというが、何と丸儲ではないか。
この国の雲の印象はまったく素晴しい。空中に湿気が多いので、天空を横切って、何ともいえぬ形と色を持つ、影に似た光線が投げられることがある。日没時、雲塊のあるものは透明に見え、それをすかしてその背後の濃い雲を見ることも出来る。朝は空が晴れているが、午後になると北と西の方向に雲塊が現われ、そして日暮れには素晴しい色彩が見られる。
私は前に、私が今迄見た都会の町通りに、名前がついていないという事実を述べた。横浜では地面が四角形をいくつもならべたような具合に地取りしてある。聞く所によると、町通りはもとの区画に従わず、地所が小区域に転貸されると、それ等の場所へ達する町通りが、ここに出した図面に示すように、出来るのだそうである(図123)。どこでもさがそうとする人は、元の区域の番地を知っていなくてはならぬ。番地には引き続いた順序というものがない。一例として、グランド・ホテルは八十八番だが、八十九番は四分の三マイルもはなれた所にある。地所は最初海岸から運河まで順に番号づけられ、運河に達すると再び海岸に戻って、そこから数え出したのであった。

この国の庭園にはイシドーロ、即ち石の燈籠という面白い装飾物がある。形はいろいろだが、図124ではその二つを示した。これ等はたいてい苔で被われ、いずれも日本の庭園で興味あるのみならず、米国の庭に持って来ても面白かろうと思う。小さなランプか蝋燭を、特にこの目的でえぐり取られた上部に置く。これはその周囲を照しはしない。恰度海岸の燈台が航海者を導くように、夜庭園の小径を歩く人の案内者の役をつとめる丈である。

再び江ノ島へ(七月二十一日)。午後四時、熔鉱炉のように赫々と照りつける日の光を浴びて出発した。日光は皮膚に触れると事実焦げつく。日本人が帽子もかぶらずに平気でいられるのは、実に神秘的である。彼等はひどく汗をかくので、頭にまきつけた藍色のタオルをちょいちょい絞らねばならぬ程である。だが晩方は気持よく涼しくなり、また日中でも日陰は涼しそうに見える。前と同じ路を通りながら、私はつくづく小さな涼亭の便利さを感じた。ここで休む人はお茶を飲み煎餅を食い、そして支払うのはお盆に残す一セントの半分である。このような場所には粗末極まる小屋がけから、道路全体を被いかくす大きな藁むしろの日除けを持つ、絵画的な建造物に至るまでの、あらゆる種類がある。図125は野趣を帯びた茶店の外見を示している。我々はちょいちょい、農夫が牝牛や牡牛を、三匹ずつ繋いで連れて来るのに逢った。牡牛は我国のよりも遙かに小さく、脚も短いらしく思われるが、荒々しいことは同様だと見え、鼻孔の隔壁に孔をあけてそこに輪を通し、この輪に繩をつけて引き導かれていた。これ等は三百マイルも向うの京都から横浜まで持って来て、そこで肉類を食う外国人の為に撲殺するのである。彼等は至って静かに連れられて来た。追い立てもしなければ、怒鳴りもせず、また吠え立てて牛をじらす犬もいない。いずれも足に厚い藁の靴をはき、上に日除けの筵を張られたのも多い。私がこれを特に記すのには理由がある。かつてマサチューセッツのケンブリッジで、大学が牛の大群をブライトン迄送ったことがあるが、その時、子供や大人が、彼等を苦しめ悩ましたそのやり方は、ハーヴァードの学生にとって忘れられぬことの一つである。

道を行く農夫達は、よく四角い莚を肩にかけて背中にまとっている。これは日除けにも雨除けにもなる。竹や材木を山程積んだ駄馬にもちょいちょい出会うが、必ず繩で引かれて来る(図126)。駄馬や牛が沢山往来を歩いて行くにも拘らず、糞が落ちていないのに驚く。これは道路の清潔というよりも、肥料にする目的で、それを掃き集めることを仕事にしている、ある階級の人々が――ある階級とまでは行かないにしても、皆老人ではある――いるかららしい。図127に示すものは、このような農夫の一人が、道路清掃と背中にしょった赤坊の世話との、二重義務を遂行している所である。

稲がのびると共に、稲の上に大きな麦藁帽子と胴体だけを出した農夫達が、一層変な格好に見える(図128)。だが、人間が身体を殆ど二つに折り曲げて、終日焦げつくような太陽の下で働いているとは! 男も女もこの仕事をする。

家の前の道路に水をまくのには、図129のような長い木造のポンプを使用する。長さは三フィート半で、かなりな水流を発射する。これは防火にも使う。

ある村を通り過ぎていた時、私は新しく生れた赤坊を抱いて、奇麗な着物を着た婦人の周囲に、同じく奇麗な着物を着た子供達が、嬉々として集っているのを見た。彼等は我国の洗礼名つけ式みたいな儀式のために、近くの神社か教会かへ行った帰りだということを、私は聞いた。女の子は三十三日目に、男の子は三十一日目にこの儀式に連れて行くそうである。私は人力車の上から彼等に向ってほほ笑み、そして手を振った。子供の中には応じた者もあり、人力車が道路の角を曲って了う迄それをつづけた。
世界中、大抵の所で扇子や団扇は、顔をあおぐか、目に影をするかに使われるが、日本にはそれ等の変種が非常に多いばかりでなく、実にいろいろなことに使用される。油紙でつくった団扇は、水に入れて使うので、あおぐと空気が涼しくなる。火をおこす時には鞴ふいごの役をする。日本人はスープが熱いと扇でさます。舞い姫は優美な姿勢でいろいろに扇を使う。同時に扇は教育的でもあり、最もよい旅館や茶屋、或は地方の物産等の教示が一面に印刷され、反対面にはその地方の地図が印刷してあったりする。
我々が休んだある場所で、私は一人の男が、何でもないような扇を、一生懸命に研究しているのを見た。私にもそれを見せて呉れないかと頼むと、彼は私が興味を持ったことを非常によろこんだらしかった。その扇の一面には日本の地図があり、他の面には丸や、黒い丸や、半月のように半分黒い丸やを頭につけた、垂直線の区画が並んでいた。これは東京、尾張間の停止所の一覧表で、只の丸は飲食店、半黒の丸は休み場所、黒丸は旅人が「食い且つ眠り得る」場所を示している。道徳的の文句、詩、茶店の礼讃等もよく書いてある。封建時代には、大将達が、大きな扇を打ち振って、軍隊の運動を指揮した。これ等の扇には白地に赤い丸があったり、赤に黄金の丸があったり、黄金に赤い丸があったりした。日本の扇に関しては、大きな本が幾冊か出版されている。
小さい子供にちょいちょい見受ける腹部アブトミナルの、そして厭忌アボミナブルすべき、膨張は驚く程である。これは子供達に苦痛を与えるだろうと思われる。まったく彼等は、焼窯に入れるために腹に詰め物を押し込んだ鶏か何ぞ見たいに見える。これは事実上、胃壁を伸長させる米を、あまり無闇に食うから起るのである。
私は非常に興味を以て壁紙の模様を見た。私が今迄に見たのは平民階級の住宅ので、我国の安い壁紙同様に貧弱極るものであるが、只一つ、我国のよりも優れた点がある。それは決してケバケバしい色彩が使ってないことで、大体に於て薄い色をつけた地紙に、白くて光る模様を置いた丈である。模様は我々のとは全然違う。そしてくるくる巻いては無く、長さ一フィート半の細長い紙片になっている。一部屋で違う紙が何枚か見られることもある。私が写したのには五種類あった。一種は天井一種は壁の上部と部屋の二側、他は辷る衝立に張ってあった。これは決してよくはなかった。誰かがこの部屋を所謂欧米風にしようとした結果、みじめにも失敗したのである。ある模様には菱形と形式的な花とで充たした不規則な区域があり、その外に燕と蝶と蛾とがあった。図130には Paulowniaと呼ぶ水生植物の絵がある。これは徳川家の紋章に描出してある。また撫子、昼顔、葡萄、蔓草等を、雲形の輪郭にゴチャゴチャに入れたものや、小舎に入った兎もある。更にもう一つは川の早瀬を薪を積んだ、而も舟頭のいない舟が流れている所を示しているが、これには何か意味があるのだろう。これ等の模様は錦襴から模写したそうである。私はこれ等が最も目立たぬ点に興味を感じた。紙を余程丁寧に調べないと判らぬ位である。往来を越して見た家の襖は、竹の子の外皮を混じた紙ではってあった。これは松の木の内皮を細かく切った物のように見えたが、非常に濃い褐色で、実に効果的であった(図131)。又、紙をつくる時、繊維紙料に緑色の、糸みたいな海藻を入れることもあるが、これも見た目には非常に美しい。

江ノ島は有名な遊覧地なので、店には土地の材料でつくった土産物や子供の玩具が沢山ある。海胆うにの二つでつくった簡単な独楽こまがある(図132)。小香甲こうこうの殻を共鳴器とし、芦笛をつけた喇叭ラッパ(笛というか)もある(図133)。この独楽は長い間廻り、喇叭は長い、高い声を立てた。これ等は丈夫で、手奇麗につくってある。而も買うとなると、私の持っていた最少額の貨幣は日本の一セントだったがおつりを貰うのが面倒なので三つ貰った。小さな箱の貝細工、上からつるした輪にとまった貝の鳥、その他の上品な貝細工のいろいろを見た私は、我国で見受ける鼻持ならぬ貝細工――ピラミッド、記念碑、心臓形の品、ぱてをごてごてくっつけた、まるで趣味の無い、水腫にかかったような箱――を思い出さずにはいられなかった。

私の部屋の向うに、この家の一角が見える。そこには日本人の学生が四人で一部屋を占領していて、朝は寛かなキモノを着て一生懸命に勉強しているが、午後太陽がカンカン照る時には、裸になって将棊やゴをして遊ぶ。どちらも非常にむずかしい遊びである。彼等はよく笑う、気持のいい連中であって、午前中の会話を聞くとドイツ語を学んでいることが判る。一人が「私は明日父に逢いにロンドンへ行く」というと、もう一人がそれをドイツ語に訳していう。このようにして彼等の部屋からは日本語、ドイツ語、英語がこんがらかって聞え、時々フランス語で何かいい、間違えるといい気持そうな笑い声を立てる。彼等の英語は実にしっかりしていて、私には全部判る。
昨夜学生達の二人が、私の依頼に応じて碁のやり方を説明する為に、私の部屋へ来た。この遊技は元来支那から来たのであるが、今は日本人の方が支那人より上手にやる。熟練した打ち手の間にあっては、一勝負に数日を要し、一つの手に一時間かかることもある。盤は高さ八インチの低い卓子テーブルで、四本の丈夫な脚が厚い木の板を支えている(図134)。これは我々のチェッカー盤みたいに、四角にしきってあるが、チェッカー盤に比較すると、四角はより小さく、また濃淡に塗りわけてもなく、おまけにその数は十九に十九で三百六十一ある。棋子チェッカースに相当するものはボタンに似た平たい円盤で、黒い石と白い貝殻とから作られ、四角の上に置かずに線の交叉点に置く。打ち手の一人が先ず盤上の好きな点にこの円盤を置いて勝負を始めるが、目的は敵の円盤を、円盤の連続線で包囲して了うにある。一方がこれに成功すると、包囲された円盤は分捕りになり(図135)、そして勝負の終りに四角の数を数える。合戦は碁盤のいたる所で行われる。有名な打ち手には階級がある。第一階級の打ち手は第二級の打ち手に対して、最初一個の代りに二個の円盤を置く権利を与える。恐らく第三級の打ち手は、三個置く権利を持つのであろう。名人二人が、極めて僅かな円盤を碁盤の上に置いて、勝負しているのを見ると、中々奇妙である。長い間状態を研究したあげく、他の石から十数こまも離れた場所や、右手や隅のとんでもない所その他に、石を置いたりするが、その理由は只名人のみがこれを知るので、それに応じて打つ相手方の手も、また同様に憶測出来ぬようなものである。碁を打つ時、彼等は必ず人差指と中指(中指を人差指の上に重ねる)とで円盤をつまみ上げる。碁は最も玄妙な遊技で、これに通達している外国人はすくない。コーシェルト氏はこの遊技に関する一文を書き、八十四枚の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵を入れてドイツ・アジア協会の会報に提出した。

学生達は私のために、親切にも一勝負やって見せて呉れた。私の方に時間がなかったため、これは急いでやった。一方が七十一個の四角を、他は八十四個の四角を得た。この遊技には私に理解出来なかった点も若干ある。
同じ碁盤を使ってやる遊技がもう一つある。これは至って簡単で、我国の人々にも面白かろうと思われる。即ち円盤五個を一列にならべようとするのである。これは簡単な遊技ではあるが、人によって上手さに非常な差がある。私は学生達と数回やって見たが、いつでも僅かな石で負かされて了った。次に彼等がやると百個以上の円盤を使用した。若し一方が四個並ぶ線が二本ある状況をつくり上げれば、勝ちになる。相手はその一つをしか止めることが出来ないからである。図136はかかる位置を現わしている。AとBとはここにいう二つの線で、相手はその一本しか止めることが出来ない。碁の勝負と同じく盤上で各様の争点を開始することもある。

日本間には、壁の真中に柱が立っているのがよくある。これは屋根を支持する為なのかも知れぬ。屡々この柱に長さ五フィート、幅は柱のそれに近い位の、薄い木片がかけてある。そしてこの垂直な狭い表面に、日本の芸術家は絵なり、絵の一部分なりを描き、ちょっと明けた戸から見えるようにする*。
* 『日本の家庭』に掲載したものは、杉の木地に松の褐色の幹と緑の葉とを描いたもので、実に美しいというより外はなかった。反対側には別の絵が描いてあった。
江ノ島へ帰って見ると、私の部屋は私の為にとりのけてあった。荷物は安全に到着し、実験所として借りた建物は殆ど完成していた。私はドクタア・マレーに借りたハンモックを部屋の柱から縁側の柱へかけ渡した。蚊はいないということだったが、中々もって、大群が乱入して来る。私は顔にタオルをかけ、次に薄い上衣をかけたが、これでは暑くてたまらぬ上に、動いたり何かする為起き上ったりする度ごとに、チョッキ三枚及びズボンをシャツで包んで作った枕が転げ落ち、私は一々それをつくり直さねばならぬ。最後に私は絶望して、ハンモックにねることを思い切った。私のボーイ(日本人)が部屋全体にひろがるような蚊帳を持って来たので、私は畳の上に寝た。その時はもう真夜中を過ぎていた。私がやっと眠りにつくと、心配そうな顔をした男が片手に棒の先につけた提灯を、片手に手紙と新聞紙とを持って、私の部屋へ入って来た。彼は日本語で何か喋舌しゃべったが、それは恐らく「私が藤沢から特別な使者として持って来たこの包みはあなたに宛てたものか」といったのであろう。起された私は激怒のあまり、若しそれが故郷からの手紙だったら、どんなにうれしいことかを理解さえしなかった。名を見るとダンラップと書いてあるではないか。私はその男に悪魔にでも喰われてしまえといった。その調子で彼はいわれたことを知ったらしく、即座に引き下って行き、私はもう一度眠ろうとして大いに努力した。
日本人は夜、家族のある者や客人が、睡眠しているかも知れぬという事を断じて悟らぬらしい。この点で、彼等は我々よりも特に悪いという訳でもないのかも知れぬ。日本人の住居は我々のに比較すると遙かに開放的なので、極めて僅かな物音でも容易に隣室へ聞え、それが大きいと、家中の者が陽気な群衆の唱歌や会話によって、款待されることになる。障子を閉める音、夜一枚一枚押して雨戸をびしゃびしゃ閉める音は、最もうるさい。障子や戸は決して静かに取扱わぬ。この一般的ながたぴしゃ騒ぎからして、私は日本人は眠ろうとする時、こんな風な邪魔が入っても平気なのかと思った。然し訊ねて見た結果によると、日本人だって我々同様敏感であるが、多分あまり丁寧なので抗議などは申し出ないのであろう。
ここへ来てから、私は私の衣類を、無理にシャツに押し込んだものを枕として、床の上に寝ている。日本の枕は昼寝には非常に適しているが、慣れないと頸が痛くなるから、私には夜使う丈の勇気がない。
ここで再び私は蚤の厄介さを述べねばならぬが、大きな奴に噛まれると、いつ迄も疼痛が残る。私の身体には噛傷が五十もある。暑い時なのでその痛痒さがやり切れぬ。
今日食事をしている最中に、激しい地震が家をゆすり、コップの水を動揺させ、いろいろな物品をガタガタいわせた。それは殆ど身の丈四十フィートの肥った男が、家の一方にドサンと倒れかかったような感だった。いろいろな震動が感じられたのは、いろいろな岩磐に原因しているに違いない。震動を惹起する転位は、軟かい岩石と硬い岩石とによって程度の差がある筈である。
今日外山氏と彼の友人とが来た。彼等が食事をしている時、私も招かれ、そこで煮た烏賊いかを食う機会を得た。それは固い軟骨みたいに強靭で、水っぽい海老えびのような風味がする。私は又生の鮑あわびを食おうとして懸命になった。これは薄く切ってあったが、とても固くて噛み切ることはおろか、味を知ることすら出来なかった。まるでゴムみたいである。ある一つの事実に関して、私は明言することが出来ると思う。それは我々の食物は日本食にくらべてより栄養的、且つ合理的、そして消化しやすいということである。だが、私は脂肪のしみ込んだ食物の多くや、熱いビスケット等をばまで、この声明に入れはしない。日本人は熱心に我々の食物をとり、そしてそれは完全に彼等の口に合うが、我々は自然的に彼等の食物を好むことはない。
外山氏の友人というのは学者らしい人で、英語は一言も話さないが、実に正確に読み且つ翻訳する。彼は英語の著書をいろいろ日本語に訳した。そしてそれ等はよく読まれる。すでに翻訳された著書を列記したら、たしかに米国人を驚かすに足りよう。曰くスペンサーの『教育論』(これは非常に売れた)、ミルの『自由論』、バックルの『文明史』、トマス・ペインの『理論時代』の一部、バークの『新旧民権党』(すでに一万部売れた)、その他の同様な性質の本である。このような本は我国のある階級の人々には嫌厭されるが、この国では非常な興味を以て読まれる。図137は江戸湾の地図で、江ノ島の位置を示している。

昨晩私は将棋盤を使ってやる遊技を、三種類習った。学生の一人が私に日本の将棋を教えようと努めたが、私には込み入り過ぎていて了解出来なかった。だが私は将棋盤(図138)には四角が八十一個あり、形は碁盤とあまり違っていないことを知った。これ等の四角は彩色はしてないが、深い線が四角の境界を示している。将棋駒は黄楊つげ材製で着色してない、つまり自然の色のままである。

駒には大小があるが、形はみな同じである。王の一族が一番大きく、兵隊即ち卒が一番小さい。駒は迫持せりもちの楔石くさびいしに似た形をしていて細い方が薄く、黒漆でその名が書いてある(図139)。数は二十、宮廷関係の駒が第一列を占め、卒は第三列、それから二つの駒がその間、即ち第二列に置かれる。王は四角の第一列の中央に、その左右に黄金の将軍、次に銀の将軍がいる。黄金の将軍は斜に前進するほか、前方、及び左右にはまっ直に進むが、後方には直線に退く丈である。銀の将軍は我国の将棋でいうと僧正の役をつとめるが、同時にまっ直に前進することも出来る。飛竜の将軍は我々のルック〔飛車〕のように動き、一枚の斜進する将軍は僧正同様に動く。盤の右隅にいる一つの駒は前進することしか出来ぬが、敵の第三列に入ると黄金の将軍に変身する。馬兵と呼ばれる二つの駒は我々のナイト〔騎士〕と全く同様に動くが、只後進することは出来ない。これ等も敵の第三列に入れば、希望によっては、黄金の将軍になることが出来る。勝負の時には駒の細い方の端が敵に面するので、敵味方を区別するのはこれによる丈である。二人の者が植物性の蝋燭のうす暗い光の下で、盤上にそれと同じ様に黒ずんだ駒をのせて勝負している有様は、まことに物珍しい。駒を捕虜にする仕方は、我々と同様だが、只卒は一直線に進んで敵を捕える。この遊技で最も奇妙であり、またこれあるが故に我々の将棋が簡単なものと思わせる点は、捕虜にした敵の駒をいつでも、いかなる場所にでも、使い得ることで、従って形勢不利な場所には、このような囚人が後から後から出て来て敵に当り、攻撃される方でも同様にして彼の囚人を利用することがある。これは最もこみ入った遊技で、理解するには余程の知力を必要とする。脚をむき出しにした人力車夫達が、客を待ちながらこの遊技をしている有様は奇抜なものである。

今朝、外山氏及び二人の彼の友人と共に舟を賃かり、我等の入江からこぎ出して、外洋に面した島の岸へ廻った。ここには満潮痕跡に近く一つの洞窟があり、我々はこれを調査したいと思ったのである。鷹揚に我等の舟を上下させる、大洋の悠々たるうねりに乗って帆走するのは、誠に気持がよかった。島の前面の切り立った崖の上に松の木が並んだところは絵のようであった(図140)。汀に近い岩の上には、インディヤンみたいな色をした男の子が十数人、我々の投げ入れる銅貨を潜って取ろうとして、勢い込んで走り廻っていた。洞窟は岩に出来た巨大な割れ目で、以前海中にあった頃、波がまるくしたのに違いないと思われる。今は波は僅かに入口に達する丈である。岩は淡色をしているので、洞窟の暗い入口が一層際立って見える。百五十フィートばかり入った所に金箔を塗った神道の祠ほこらがあり、これが入口から入り込むいささかな光を反射して、暗い洞窟中で目立っている。この祠は高さも幅も十フィート近く、非常に精巧な彫刻が施してある。この暗い、湿った洞窟は、祠を置くには奇妙な場所であるが、而も日本では顕著な地形の所、例えば此所とか、山の頂上とか、絶壁や深い谷の口とかに、信心深い人達が彼等の教会なり神社なりを立てる。この祠の片側を通りぬけることが出来る。後方はまっ暗で、ここで灯を貰い、我々は数百フィート進んで行ったが、お仕舞しまいにはかがまねばならぬようになった。この辺は、我々の蝋燭の覚束ない光を除けば、絶対に暗黒である。洞窟のどんづまりには、ぼろぼろに腐った古めかしい板の壁があった。この壁の内には木の格子があり、そこからのぞくと直径十二インチばかりの、磨き上げた金属の鏡が見えた。これは神道の祠を代表している。帰りには一つの横穴に入ったが、ここにもどんづまりに格子があり、その間から見ると神社と鏡とがあった。この路は二人が並んで歩くことが困難な位で、壁には石に刻んだとぐろを巻いた竜、その他の神話を象徴した姿があった。私はジャヴァ、インド、支那等で、驚く可き岩石彫刻や巨大な寺院を残した、初期の信仰者達の、信仰と敬虔とを思わざるを得なかった。あるいは微光昆虫がいるかと思って、私は注意深く壁を精査したが、暗さが足りないので、典型的な洞窟動物は発見出来なかった。私は二匹の小さな蜘蛛と、二匹の非常に小さなワラジムシとを見つけてうれしく思ったが、殊に二匹の洞窟蟋蟀こおろぎは何よりもうれしかった。これ等は恐ろしく長い触角を持ち、我国のよりも遙かに小さく、鼠色をしていて実にいい複眼を具えている。私は初めて、日本の海水の水たまりを見て楽しんだ。私は引き潮の時、岩から大きなヒザラガイをいくつか拾い上げた。また、それ迄貝殻だけで見知っていた軟体動物が、生きて這い廻っているのを見たのは大いに愉快だった。

午後は横浜に向けて出発。途中小村藤沢に立ちよった。江ノ島に一番近い郵便局はここにある。サンフランシスコからの汽船が着いたので、私宛の郵便が転送されていはしまいかと思って寄って見た。我々が郵便局に着いた時、恰度郵便が配付され始めた。図141は郵便局長が、手紙や新聞の雑多なかたまりを前にして、坐っている所を示す。私宛の手紙を日本の小さな村で受取ること、及び局長さんが、私の名を日本語で書いた紙片をつけた手紙の束を、渡してくれた無邪気な態度は、まったく新奇なものであった。私が単に「モースさん」といった丈で、手紙の束が差出された。他の手紙の配分に夢中な局長さんは、顔をあげもしなかった。横浜郵便局長の話によると、日本が万国郵便連合に加入した最初の年に、逓信ていしん省〔駅逓局〕は六万ドルの純益をあげ、手紙一本、金一セントなりともなくなったり盗まれたりしなかったというが、これは日本人が生れつき正直であることを証明している。藤沢からの六マイル、私はゆったりして手紙を楽しんだ。だが、元気よくデコボコ路を走る人力車の上で、手紙をみな読もうとしたので、いい加減目が赤くなって了った。私は日本語をまるで話さず、たった一人で人力車を走らせることの新奇さを、考えずにはいられなかった。人々は皆深切でニコニコしているが、これが十年前だったら、私は襲撃されたかも知れぬのである。上衣を脱いでいたので、例の通り、人の注意を引いた。茶を飲むために止ると必ず集って来て、私の肩の上にある不思議な紐帯ちゅうたいにさわって見たり、検査したりする。日本の女は、彼等の布地が木綿か麻か絹で織り方も単純なので、非常に我々の着ている毛織物に興味を持つ。彼等は上衣の袖を撫で、批判的に検査し、それが如何にして出来ているかに就いて奇妙な叫び声で感心の念を発表し、最後に判らないので失望して引き上げる。あまり暑いので、私は坂へ来るごとに、人力車を下りて登った。一つの坂で、私は六人の男が二輪車に長い材木をのせて、大いに骨折っているのに追いついた。私の車夫二人は車を置いて、この荷物を押し上げる手伝いをしたが、私もまた手をかして押した時には、彼等は吃驚びっくりして了った。坂の上まで行くと、彼等は私にアリガトウと、ひくいお辞儀との一斉射撃をあびせかけた。その時は八時を過ぎていて月はまんまるで明るく、私は車上の人となり、あけはなした家々の中をのぞきながら、走って行く経験を再びした。

私は前に死んだ縁者を記念するためカミダナ(神の棚)に燈の光を絶やさぬ祭典のことを述べた。道路の両側の家には、いずれも神棚の、神道か仏教の意味を持つ二、三の事物の前に、一列、時としては数列の燈火がある。部屋は低く、神棚の上の木造部は煤けて黒い。図142はこのような家庭内の祠の一つを写生したのである。この上にならべてある品物の数は、多分信心と財布とに比例するのだろうが、非常に差がある。死人にそなえる米を入れた、小さな皿もある。神道の神社で使うかかる器には、釉薬うわぐすりがかけてなくまたある種の場合の為には、全然轆轤ろくろを用いず、手ばかりでつくる。花がすこし、それから死人の名前を薄い板に書いたものも棚にのっている。

旗は細長い布で輪によって縦に旗竿にかけられる。題銘はすべての漢字に於ると同様、縦に書かれる*。旗をあげる方法は図143に示す通りである。

* 忘れてならぬのは、日本人の使用する漢字が厳密に支那のものだということである。私の知るかぎり日本は漢字を一つも発明していない。これは我々が文字を発明しないと同じである。只日本人は漢字の音を使用してアルファベットを発明し、最後にそれ等の漢字を一つの線、あるいは二本の線位にまで単純化した。支那人はこれを全然やっていない。西方の国境にサンスクリットなる、発音による文字の形式の、いい実例を持ちながら、一億の国民の中で、彼等自身のアルファベットを考え出す丈の知恵を持った者が、一人もいなかったのである。大支那学者ドクタア・エス・ウェルス・ウィリアムは、支那を他の国々から隔離した最大の原因は彼等の言語だといい、絵画文字並に象形文字研究の大家、ギャリック・マロレー大佐は絵文字の使用は文明に属さぬといっている。そこで支那人に関して起る問題は――この国民は彼等の書法の結果として、不活発で且つ文明に遅れているのか、それとも他の方法を採用すべく余りに化石しているか? である。日本の一学者の言によると、日本語は漢字の輸入によって、大いに発達をさまたげられたそうである。
路傍の茶屋で人々に会う時、彼等のいうことが、一言もこちらに通じないことを、理解させることは、不可能である。彼等はかまわず話し続ける。こっちを聾つんぼと思って、大きな声で喋舌るのが普通である。そうでなければ、馬鹿か低能かとでも思っているような表情を、顔に浮べている。「自分には了解出来ぬ」という意味の日本語「ワカリマセン」を、いくら言っても無駄である。最後に私は熱心な有様で「カンサス・ネブラスカ交譲に関する貴下の御意見はどうですか」という。すると彼等は不思議そうに私の顔を眺め、初めて事情が判って、ぶつぶついったり、大いに笑ったりする。
江ノ島で必要とする品物数点を買い求めて正午出発、十八マイルの路を人力車で帰る。実にひどい暑さであった。汗は大きな水滴になって私の顔や手につき、車夫は湯気を立てんばかりであったが、蒸発が速いので耐え忍ぶことが出来る。恰も職人達が群をなして寺々を廻る時節なので(七月末)、街道には多勢巡礼がいた。これは実は田舎を歩き廻ることになるのだが、彼等はこの休暇に神社仏閣を廻って祈祷をいい、銅貨を奉納する信仰的精神をつけ加える。彼等は十数人位の団体をなして出かけ、二、三人ずつかたまってブラブラと道を歩く。彼等はたいてい同じような木綿の衣服――ゆるやかな寛衣かんいみたいなもの――を着ているので、制服を着ているようにさえ見える。中には腰のあたりに鈴をつけている者もある。これは一足ごとにチリンチリンいう。暑い時には裾をまくり上げて脚をむき出す。図144は巡礼二人である。彼等はいつでもいい機嫌で、こちらが微笑すると微笑し返す。

我々は途中で、恐らく寺の燈籠と思われる、大きな青銅の鋳物を運搬して行く群衆に追いついた。その意匠は透し彫だった。それは長い棒からつるされ、棒の前方には横木があって、その両端を一人ずつでかつぎ、後方は多分素敵な力持ちと思われる男が、一人で支えていた(図145)。これ等の人々は白地の衣服を着ていたが、その背中には右の肩から腰にかけて漢字が書いてあり、鋳物にも文字を記した小旗が立ててあった。彼等は休むために荷を下すと、みんなそろって奇妙きわまる、詠歌みたいなものを唄った。路上ではこのような珍しいものにいろいろと、行き違ったり、追いついたりする。

私の部屋から海を越して富士山が実に立派に見える。入江が家から五十フィートの所まで来ているので、面白い形をした舟にのっている漁夫達が常に見える。そして夜、獲物を積んで帰って来る時、彼等は唱応的に歌を唄う。一人が「ヒアリ」というと他の一人が「フタリ」といい――すくなくともこんな風に聞える――そして漁夫達は、片舷片舷交代で漕ぎながら艪ろの一と押しごとにこの叫びを上げる。日本の舟は橈かいで漕ぐのでなく舷から艫で漕いでやるのである。
横浜からの帰途例の砂洲を横切りながら私は長い、大きなうねりが太平洋から押し寄せて来るのに気がついた。これは外洋で、大きな暴風雨が起りかけていることを示している。其後風は勢を増しつつあったが、今や最大の狂暴を以て吹きつけている。そして、今こうやって書いている私の耳を風と波が一緒になった凄じい怒号が襲う。今日の午前、天地溟濛めいもうになる迄は、長いうねりが堂々と押し寄せ、陸から吹く風が波頭から泡沫のかたまりをちぎり取って、空中高く吹き廻す有様はまことに素晴しかった。入江はすくなくとも五マイルの幅を持っているが、うねりもその長さ全体に及びすくなくとも三百フィートの間隔を置いて、高さも非常に高く、そして寄せて来る半円形の波からちぎられた飛沫しぶきは、蒸気のように白くて、私が今迄に見た何物よりも荘厳であり、また海岸で立てる雷のような音は、陸地の数マイルはなれた場所ででも聞えたに違いない。この嵐は台風である。これがどれ程強くなるかは誰も知らないが、とにかく私が今迄経験したどの嵐よりも強く、そして益々狂暴の度を加えつつある。往来の最低部は波をよけて引き上げた漁夫の舟で完全に閉塞され、家はいずれも雨戸をとざし、空気は暑くて息づまる程である。私の部屋は特に嵐に面していはしないので、雨戸もしめてはない。だから嵐に閉じ籠められながら、私はこの記録を続けて行こう。 
第六章 漁村の生活
今朝我々の小実験所が出来上った。曳網の綱と、その他若干の品物とが届きさえすれば、すぐに仕事に取りかかることが出来る。私は戸に南京ナンキン錠と※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねとを取りつけた。仕事をしていると男、女、娘、きたない顔をした子供達等が立ち並んで、私を凝視しては感嘆これを久しゅうする。彼等はすべて恐ろしく好奇心が強くて、新しい物は何でも細かに検査する。現に今もこうして書いていると、家の女が三人、おずおず入って来て私が書くのを見つめている。日本人の物の書きようが我々にとって実に並はずれに思われると同様、我々の書きようも珍しいのである。彼等は筆を垂直に持って書くが、行はページの上から下へ到り、ページの右から始めて左の方へ進行する。我々はペン軸を傾けて持ち、釘のようにするどい金属の尖点を使用して、彼等の濃く黒い印度インドインクに比べると水っぽいインクで物を書く。日本のインクは、書くごとに、墨をすってつくらねばならぬのである。これ等の女は、私の机の上の物の一々に就いて、吃驚したような評論を与えた――瓶、壺、顕微鏡はまだしも、海泡石のパイプは、彼等の小さな、金属の雁首を持つパイプに比べたら、象みたいに大きく思われるに違いない。
戸に南京錠をつけた後、我々はアルコール二罐、私が横浜で買った沢山の硝子ガラスの壺、曳網その他、実験所用の材料を運び入れた。この建物は石の海壁のとっぱなに建っていて、前を小径が通っている。図146は江ノ島の略図である。四方すべて高く切り立っているが、只本土に面した方の鳥居を通りぬけて狭い砂洲に出る場所はそうでない。ここ迄書いた時、嵐は叫び声をあげる疾風にまで進んだ。私は実験所がいくらか心配になって来たので、雨外套を着て狭い往来を嵐と戦いながら降りて行き、その下の方では舟をいくつも乗り越した。その付近の家の住民達は、すべて道具類を島の高所にある場所に移して了った。我々の建物の窓から見た光景は物凄かった。大きな波が、今や全く水に覆れた、砂の細長い洲の上に踊りかかっている。その怒号とその光景! 危険の要素が三つあった。実験所の建物が吹き飛ばされるかも知れないこと、波にさらわれるかも知れぬこと、石垣が崩れるかも知れぬことである。我々が番人として雇った男がどうしても実験所で寝ることを肯じないので、彼及び他の人々の手をかりて、我々はその朝荷を解いて並べた壺を沢山の桶につめ込み、アルコール、曳網その他動かせる物を全部持って、やっとのことで本通りへ出、そして私の泊っている宿屋へ持って来た(図147)。床に入った後で、吹きつける雨が、戸がしまっているにも拘らず、私の部屋に入って来たので卓子テーブルその他を部屋の反対側へ動かした。私は畳の上に寝ていたが、まるで地震ででもあるかのように揺れ、夜中の間に嵐が直接に私を襲いはしまいかと思われる程であった。目をさますと嵐は去っていたが、海は依然として怒号を続けていた。実験所へ行って見た結果、この建物が、こんなに激しく叩きつけられても平気でいる程、しっかり建てられていることが判った。建物の両側の石垣は、所々流されていたが、幸にも我々の一角はちゃんとしていた。道路の低い場所は、四フィートの深さに完全に押し流されて了った。波は依然として、島と本土とをつなぐ砂洲を洗っているので、人々は両方から徒渉し、背中に人を背負ったのもいた(図148)。向う岸で巡礼の一隊が渡るまいかと思案していたが、大きな笠を手に、巡礼杖を持ち、小さな青旗をヒラヒラさせた所は、笠と杖とが盾と武具とに見えて、まるで野蛮人の群みたいであった。今使者が入って来て、実験所宛にいろいろな品が着いたが、波のために島まで持って来ることが出来ぬと告げた。波が鎮まったら初めて手に入れることになるだろう。

昨夕私は机を部屋の真中へ持出し、外山教授、彼の友人生田氏〔?〕及び私の助手の松村氏を招いて、石油洋燈ランプを享楽させた。これは植物性の蝋燭の、覚束ない光で勉強した後の日本人が、特によろこぶ贅沢ぜいたくなのである。生田氏〔?〕はやりかけの仕事、即ち『月刊通俗科学雑誌』に出ている「古代人の世界観」の翻訳を持ち込んだ。松村氏は私の著した小さな『動物学教科書』を勉強しつつある。外山教授は動物界の分析表を研究していたが、非常に熱心であった。
私が昨日横浜から来る途中で写生した図(図149)程、一般民衆の単純な、そして開放的な性質をよく示すものはあるまい。車夫は横浜市の市境線を離れると、とても暑かったので立止って仕事着を脱いで了った(市内では法律によって、何等かの上衣を着ていなくてはならぬのである)。彼等は外国人に対する遠慮から、裸で東京、横浜その他の大都会へ入ることを許されない。裸といったって、勿論必ず犢鼻褌ふんどしはしめている。

それを待つ間に、私は夜の燈明がついている神棚をスケッチするため、一軒の家へさまよい入って、その家の婦人が熟睡し、また乳をのませつつあった赤坊も熟睡しているのを見た。私は日本の家が入り込もうとする無遠慮者にとっては、文字通りあけっぱなしである事の例として、この場面を写生せざるを得なかった。若し彼女が起きていたら、私は謝辞なしには入らなかったことであろう。
七月二十九日 日曜日。若干の英国の店が閉められ、また政府の役所も閉められる(外国人に譲歩したのである)、大都会以外にあっては、日曜日を他の日と区別する方法は、絶対に無い。この役所も、私の短い経験によると、入って行けば用を達することが出来る。
旅につかれ、よごれた巡礼達が、神社に参詣するために、島の頂上へ達する狭い路に一杯になっている。各旅籠はたごやでは亭主から下女の末に至る迄、一人のこらず家の前にならび、低くお辞儀をしながら妙な、泣くような声を出して客を引く。家々は島帝国のいたる所から来た、このような旅人達で充ち、三味線のチンチンと、芸者が奇怪なつくり声で歌う音とは、夜を安息の時にしない。この狭い混み合う路を通って、私は実験所へ往復する。私はこの村に於る唯一の外国人なので、自然彼等の多くの興味を引くことが大である。彼等は田舎から来ているので、その大多数は疑もなく、それ迄に一度も外国人を見ていないか、あるいは稀に見た丈である。然し私は誰からも、丁寧に、且つ親切に取扱われ、私に向って叫ぶ者もなければ、無遠慮に見つめる者もない。この行為と日本人なり支那人なりが、その国の服装をして我国の村の路――都会の道路でさえも――を行く時に受けるであろう所の経験とを比較すると、誠に穴にでも入り度い気持がする。これ等の群衆は面白いことをしに出て来たのだから、恐ろしく陽気な人達も多いが、酔っぱらいはたった一人見た丈である。彼は路傍に静かに眠ていた。人々は悲しげに其の状態を見て通り、嘲笑する子供などは只の一人もいなかった。このような場合が、私をして二つの文明を心中で比較させ続ける。
著述家のノックス氏、『東京タイムス』の主筆ハウス氏、横浜のドクタア・エルドリッジ及びウェルトハイムバア氏が私の宿屋で一日一夜を送った。今朝彼等が出立した後、私は路の終りまで見送りに行った。砂の地頸〔地峡〕が台風で洗われて了ったので、彼等は舟に乗って本土へ越さねばならなかったが、叫び声! 押し方! 引き方! ある者は舳へさきに繩をつけて満員の舟を引き出そうとするその騒ぎは大変なもので、私が今迄見たものとは非常に相違していた。宿の主人や召使いもそこに来て、客人達に向って丁寧にお辞儀をし、別れを告げ、御贔屓ごひいきを感謝していた。
横浜の海岸に残された暴風雨の影響を見ると、波が如何に猛烈な性質を持っていたかが判る。海壁の重い覆い石は道路に打ち上げられ、道路は砂利や大きな石で一杯になっていた。大きな日本の戎克船ジャンクの残骸がホテルの前に散在し、また水路で二ヶ月間仕事をしていた大きな蒸気浚渫しゅんせつ船は、千フィートばかり押しながされて横っ倒しになり、浚渫バケツが全部むしり取られていた。
実験所には窓が二つあり、その一つからは海岸が、もう一つからは砂洲に沿うて本土が見える。図150は実験所から海岸を見た所で、一番手前は建築中のクラ、又は godown と呼ばれる、耐火建物である。足場は莚をかけ、壁土が早く乾き過ぎるのを防ぐ。砂洲が完全に流されて了ったので人々は舟で渡ったり、徒渉する頑丈な男に背負われたりする。

昨日横浜から来る途中、十八マイルの間で、異る場所に乞食を四人見た。今や道路に巡礼が充ち、今後数週間にわたって尚巡礼が絶えぬので、乞食も出て来るのである。彼等は不思議な有様で物乞いをする。人が見えると同時に、彼等は地面に膝をつき、頭を土にすりつけて、まるで動かず、そのままでいる。私が手真似で車夫に、この男が祈祷でもしているのか、それとも物乞いをしているのか、質問せねばならなかった位である。日本ではめったに乞食を見受けず、また渡り者、浮浪人、無頼漢等がいないことは、田園の魅力を一層大にしている。図151は我々の実験所で、私の知っている範囲では、太平洋沿岸に於る唯一の動物研究所の写生である。

二週間前の私は、かかる性質の研究所のために小舎を借り受ける努力を、書きとめることなどは、価値がないと思っていたであろう。米国にいれば私はイーストポートへかけつけ、波止場の建物の上階を借り、大工を雇って私の希望を伝え、保存罐を買い、かくて半日もあれば仕事に取りかかれるからである。私がドクタア・マレーに向って小さな家を手に入れ、それを特に私の研究のために準備するという案を話した時、彼は意味ありげに笑って、非常に多くの邪魔が入るに違いないといったが、まったくその通りであったといわねばならぬ。第一適当な建物を見つけて、その持主にそれを私の為に支度させるのを承諾させる迄に、大部時間がかかった。彼は来週それをするという。いや、今すぐでなくてはいけない。そうでなければまるで要らないのだ。それから万事通弁を経て説明する。日本にはテーブルなど無いから、田舎の大工の石頭に長いテーブルを壁の所に置くということを叩き込もうとする。日本人は床に坐るので椅子なんどは無いから椅子を四つ作らせる。棚をかけさせ、辷すべる仕切戸でしまる長い窓なるものを説明し、日本人は家に鍵をかけないから辷る窓とドアとに一々錠前をつけることをいって聞かせる。私に出来た唯一のことは、横浜へ行って南京ナンキン錠と※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねとを買い、それを自分で取りつけること丈であったが、同時にアルコール、壺、銅の罐等を手に入れるのも、たしかに一と仕事であった。壺に就いては、私は辛棒しきれなくなって、横浜へ行き、一軒の日本人のやっている古道具屋を見つけ出して、塩の瓶を買おうとした。だが、既に東京から申込みがあったので、他の壺は売れるがこれ等は駄目だという。三日後、東京から私に宛てた重い荷物を背負った男が四人乗り込んで来た。荷を解くと東京の硝子工場で製造した非常に優秀な壺が数箇以外に、私が横浜で買おうとして大いに努めた塩の瓶その物が、四十ばかり入っていた!
ドクタア・エルドリッジはこの建物と、壺、銅罐、小桶、篩ふるい、アルコール箱等の完全な設備を見て驚いていた。来週はドクタア・マレーが来る。私は一刻も早く、彼に、元気と激励と勢の強い言葉との充分な分量さえあれば、実験所の設備は出来上ることを見せたい。私の日本人の助手達は、何でもよろこんでするが、時間の価値をまるで知らぬ。これは東洋風なのだろうと思うが、それにしてもじりじりして来る。今朝三時、私は飛脚に起された。曳網の繩が届いたというのである。私はねむくって受取に署名しない位だったが、然し多くの経験に立脚して、日本人は夜中起されても平気だし、また他人の安眠を妨害することを何とも思わぬ国民だという概括をなす可く、余りにねむくはなかった。
子供が遊んでいるのを見たら、粘土でお寺をつくり、その外側を瓶詰めの麦酒ビールその他の蓋になっている、小さな円い錫の板で装飾していた。これは外国人が残して行ったのを、子供達が一生懸命に集め、そしていろいろな方法に利用するのである。お寺の付近には、小さな玩具の石燈籠や鳥居が置かれ、木の葉すこしで周囲を仕上げてあった。数度私は子供が砂や粘土で何かつくるのを見たが、彼等の努力が我国の子供達のと同じ方向に向っていることを見出した。
家々の屋根を眺めてすぐに気がつくのは、煙突がまるで無いことである。また小櫓、円屋根、その他のとび出た物も無い。都会だと屋梁むねの上に火事の進行を見るための小さな足場を見受ける。耐火建築は、多少装飾の意味も持つ巨大な端瓦を、屋梁にのせていることもある。図152は私の部屋から見渡した家々の屋根のスケッチで、あるものは萱葺き、他はすでに述べた薄い木片で覆れている。大きな装飾的の屋梁のあるのは耐火建築である。これ等の建物はごちゃごちゃにくっつき合っている。一度火事が起れば即座に何から何まで燃え上って了うことが、了解出来るであろう。

家の内外を問わず、耳を襲う奇妙な物音の中で、学生が漢文を読む音ぐらい奇妙なものはない。これ等の古典を、すくなくとも学生は、必ず声を出して読む。それは不思議な高低を持つ、妙な、気味の悪い音で、時々突然一音階とび上り、息を長く吸い込む。それが非常に変なので勢い耳を傾けるが、真似をすることは不可能である。
夜になると部屋は陰鬱になる程暗い。小さな皿に入った油と植物の髄の燈心とが紙の燈籠の中で弱々しく光っている。人はすくなくとも燈籠を発見することは出来る。この周囲にかたまり合って家族が本を読んだり、遊技をしたりする。蝋燭も同様に貧弱である。石油が来たことをどれ程日本人が有難がっているかは、石油及び洋燈ランプの輸入がどしどし増加して行くことによっても判る。
今朝(七月三十日)私は第一回の曳網を試みた。我々の舟は小さ過ぎた上に、人が乗り過ぎたが、それで外側へ廻って出て、絶え間なく大洋から寄せて来る大きなうねりに乗りながら、曳網を使用しようと試みた。十五尋ひろの深さで数回引っぱったが、我々の雇った二人の船頭は、曳網を引きずり廻す丈に強く艪を押さなかった。これは困難なことではあった。そして外山と彼の友人が船に酔ってグッタリと舟底に寝て了ったので、引き上げた材料は私一人で点検しなければならなかった。明日我々は、もっと大きな舟に船頭をもっと多数のせて、もっと深い所へ行く。我等の入江に帰った時、私はそもそも私をして日本を訪問させた目的物、即ち腕足類を捕えようという希望で一度曳網を入れて見た。私は引潮の時、この虫をさがしに、ここを掘じくりかえして見ようと思っていたのである。所が、第一回の網に小さなサミセンガイが三十も入っていたのだから、私の驚きと喜びとは察して貰えるだろう。見るところ、これ等は私がかつて北カロライナ州の海岸で研究したのと同種である*。
* この研究の結果は「生きた腕足類の観察」と題する記録の中に入っている。『ボストン博物協会記要』第五巻八号。
日本人は会話する時、変なことをする。それは間断なく「ハ」「ヘイ」ということで、一例として一人が他の一人に話をしている時、話が一寸ちょっとでもとぎれると後者が「ヘイ」といい、前者が「ハ」という。これは彼が謹聴し、且つ了解していることを示すと同時に、尊敬の念を表すのである。またお互に話をしながら、彼等は口で、熱いお茶を飲んで舌に火傷やけどをしたもんだから息を吸い込んで冷そうとでもするような、或は腹の空った子供等が素敵にうまい物を見た時に出すような、音をさせる。この音は卑下か尊敬かを示すものである。
今朝私は帆のある大きな舟に漁夫四人が乗ったのを手に入れ、朝の八時から午後四時まで曳網をやった。全体の費用が七十五セント、それで船頭達はすこしも怠けず懸命に働いた。外山は舟に酔うので来ず、彼の友人は東京へ帰ったので、私の助手の松村がやって見ようということになったが、出かけて一時間にもならぬ内に彼は曳網に対する興味をすっかり失って了い、その後しばらくしてからは舟酔いのみじめさに身をまかせて舟底に横になった儘、舟が岸に帰り着く迄動かなかった。彼は通弁することも出来ぬ程酔って了ったので、私は一から十まで手まね身振りで指図しなくてはならなかった。太陽が極めて熱く、私はまたひどく火傷をした。私は我国で太陽がシャツを通して人の皮膚を焼くというようなことをする覚えはないが、日本の太陽はこんな真似をする。今日は遙か遠くまで出かけ、曳網を三十五尋ひろの深さに投げ入れ、いく度も曳いた。私は実に精麗な貝殻を採った。その多くは小さいが、あるものは非常に美しかった。正午になると、漁夫達は艪をはなして昼飯の仕度にとりかかった。彼等は舟底の板を一枚外して、各々前日捕えた魚を手探りでつかまえた。私は漁夫の一人が昼飯を準備するのをよく見た。先ず魚の尻尾を切って海に投げ込み、内臓を取り除くと、大きな、錆びた、木の柄のついた庖丁で頭も目玉も骨も何もかも一緒に小さくきざんで、それを木の鉢に入れる。次に彼は籠をあけて冷たい、腐ったような飯を沢山取り出し、梅干二個とそれとを一緒に刻んでこれを魚の鉢にぶち込んだ。そこで非常に酸すい香のする、何でも大豆でつくった物を醗酵させた物質を箱からかけ、水少量を加えてひっかき廻した。これ程不味まずそうな物は見たことがない。然し彼が舌鼓を打って、最後の一粒までも食って了った所から察すると、すくなくとも彼には御馳走であるらしい。魚の生肉は非常に一般的な食料品で、ある種の魚は殊に珍重される。
人はみな煙管きせるに火をつけるのに火打石と火打鎌とを使い、台所には必ず火打箱がある。私がこの国で見たマッチはスウェーデン製の安全マッチである。
我々は何艘もの舟とすれちがった。釣をしている者も、網を手繰たぐり込んでいる者もあったが、皆裸体で、黒く日に焼けた身体と黒い頭髪とからして野蛮人みたいであった。舟の艫ともに坐って、船頭四人がいい機嫌で笑いながら調子をそろえて前後に動き、妙な歌を唄って力強く艪を押すのを見ることは実に新奇であった。図153は舟と、仕事中の漁夫が如何に見えたかの大体を示している。

私のコックが、私のシャツに、焼け穴をつくって了った。彼は悪気のないニタニタ笑いをしながら、炭火の入った土器とその上に透しのある竹籠の底を上にして被せた物とを見せて、事件を説明した。この籠の上に乾かそうと思う衣類を、図154のようにかけるので、自然炭が跳ねて衣類に焼けこげが出来る。私は一番薄い下着しか着ていないので、これ等はしょっ中洗っては乾かし、洗っては乾かしている。

ここに出した写生図は、宿屋に於ける私の部屋の三方の隅を示している。図155は私が食事をする一隅である。食卓にお目をとめられ度い――これが大工の外国人のテーブルに対する概念である。椅子は旅行家用の畳み椅子を真似たのであるが、畳めない。テーブルは普通のよりも一フィート高く、椅子は低すぎるので食事をする時、私の頭が非常に好都合にも、皿と同じ高さになる。だが食事をしながら、私は美しい入江と、広い湾と、遠方の素晴しい富士山とを眺める。景色は毎日変るが、今やこの写生をしている時の光景は、何といってよいか判らぬ位である。日没の一時間前で、低い山脈はみな冷かな薄い藍色、山脈の間にたなびく細い雲の流れは、あらゆる細部を驚く程明瞭に浮び出させる太陽の光線によって、色あざやかに照らされ、そのすべてにぬきん出て山の王者が聳えている。部屋の話に立ちかえると、テーブルが非常に高いので、肘をそれにのせぬと楽でない。隅には私の為に棚がつられ、その一つに私は木髄の帽子と麦藁帽子とをのせた。テーブルには朝飯の準備が出来ているのだが、多くの食事の為の食品も全部のっかっている。まるで野営しているようだ。その次の写生(図156)は私の執筆兼仕事テーブルで、塩の瓶に洋燈ランプがのっている。その上の棚には私の顕微鏡が一つ、アルコールの壺、及びパイプ、煙草等を入れた箱が置いてある。床にあるのは予備の曳網を入れたブリキ箱で、私はこれに足をのせる。テーブルの左にのっている瓶には殺虫粉、右の方のにはアルコールが入っていて、夜飛び込んで来る甲虫その他の昆虫を――時に蚤を――つかまえて入れる。この写生図(図157)は、私がここへ来てから混乱皇帝が君臨し続けている(私がいよいよ立ち去る迄はこの通りであろう)一隅である。この世界には、詰らぬことに気を使うべく、余りに多くの仕事がある。写生図は完全にごちゃごちゃな私の大鞄、私が眠る時使う日本の枕、蚊帳かやにかぶせた筵、箱に入った双眼鏡、椅子にのせた日本の麦藁帽子を、示している。この帽子は二十五セントだが、八ドルもする木髄製のナポレオン帽よりも遙かに遙かに楽でかぶり心地がいいから、私はしょっ中これをかぶっている。この上なしの目覆になるから、夜でも物を書く時にはかぶる。その上の棚には素晴しい六放海綿(ほっすがい科)を、いくつか入れた箱がのっている。その若干は箱から外につき出ている。

曳網で取った材料を選りわけることが出来たのは、実に助手達が手伝ってくれたからである。海底には海産物が非常に豊富である。で私が大事なサミセンガイを研究している間に、彼等は貝、海胆うに、ヒトデ等をそれぞれの区分に分ける。図158は彼等が働いている所を示す。右にいるのは外山教授で、彼は自分で費用を払うが採集の手助をする。中央は松村氏で、彼の費用は大学が払う。左は私が雇った男で、夜は実験所で寝泊りし、昼は新鮮な海水を運んで来たり、雑役をしたりする。この男は、日本人が誰でも一般的に理知的であることの、いい実例になる。彼は甲殻類、軟体動物、棘皮きょくひ動物等を説明された後で、材料を適当な瓶に選りわける。其後陸棲りくせいの貝を採集に郊外に出かけた時、人力車夫達が私のために採集の手伝いをすることを申し出た。そこで彼等に私がさがしている小さな陸棲貝を示すと、彼等は私と同じ位沢山採集した。私は我国の馬車屋が、このような場合、手伝いをしようと自発的に申し出る場面を想像しようとして見た。私はこの男を貝の多い砂地へ連れて行って、私の欲する顕微鏡的な貝殻を指示して見た。すると彼はこまかい箸を用いて、実に巧にその小さい貝殻をひろい上げたので、私は殆どしょっ中彼に仕事をさせた。

今著ついた新聞紙に台風の惨害が書いてあるが、沿岸で大部船舶が遭難し、人死にも多い。私は江ノ島の大通り――それは事実唯一の通りである――を写生しようとする誘惑に耐え兼ねた(図159)。遠近法がひどく間違っている上に、町の幅を広く書き過ぎたが、これ等の実行上コミッションの過誤と共に、この絵には多くの遺脱オミッションの過誤もある。私は旗をこの倍も書く可きであり、男、女、子供、猫、犬、鶏も同様である。鶏といえば、私はどの一羽にまでも近づいて行って、捕えることが出来る。捕えられると鶏はギャッギャッと鳴いて反抗の気勢をあげるが、逃げようとはしない。

嵐があってから、非常に潮の低い時以外には、本土へ渡ることが出来なくなって了ったので、何人かの船頭は団体をなしてやって来る巡礼達(一晩泊るだけのも多い)を渡して、大もうけをしている。巡礼の一隊に従って往来を登って行くと、非常に面白い。この往来にそって建っている家の殆ど全部が遊興の場所らしく、宿やの人々がすべて店さきに並んで客を引くので、恰もニューヨークで、辻馬車がズラリと並んだ前を歩くような騒ぎである。客引が間断なく立てる音の奇妙さは形容出来ぬ。第一の家で立てる騒音が第二の家で聞え、第二の家のは第三の家で聞え……とにかくいろいろな声で完全なヒンヒン啼きである。
ここ数日間、私の料理人は何度も叱られた結果、大いに気張って了い、今や私はとても贅沢な暮しをしている。今朝私はトーストに鶏卵を落したものと、イギリスのしたびらめに似た魚を焼いたものとを食った。正餐には日本で最も美味な魚である鯛、新しい薩摩芋、やわらかくて美味な塩づけの薑しょうがの根、及び一種の小さな瓜と梅干とが出た。
先日の朝、私は窓の下にいる犬に石をぶつけた。犬は自分の横を過ぎて行く石を見た丈で、恐怖の念は更に示さなかった。そこでもう一つ石を投げると、今度は脚の間を抜けたが、それでも犬は只不思議そうに石を見る丈で、平気な顔をしていた。その後往来で別の犬に出喰わしたので、態々わざわざしゃがんで石を拾い、犬めがけて投げたが、逃げもせず、私に向って牙をむき出しもせず、単に横を飛んで行く石を見詰めるだけであった。私は子供の時から、犬というものは、人間が石を拾う動作をしただけでも後じさりをするか、逃げ出しかするということを見て来た。今ここに書いたような経験によると、日本人は猫や犬が顔を出しさえすれば石をぶつけたりしないのである。よろこぶ可きことには、我国の人々も、私が子供だった時に比較すると、この点非常に進歩した。だが、我都市の貧しい区域では無頼漢どもが、いまだに、五十年前の男の子供がしたことと全く同じようなことをする。
日本人が丁寧であることを物語る最も力強い事実は、最高階級から最低階級にいたる迄、すべての人々がいずれも行儀がいいということである。世話をされる人々は、親切にされてもそれに狎なれぬらしく、皆その位置をよく承知していて、尊敬を以てそれを守っている。孔子は「総ての人々の中で最も取扱いの困難なのは女の子と召使いとである。若し汝が彼等に親しくすれば、彼等は謙譲の念を失い、若し汝が彼等に対して控めにすれば彼等は不満である」といった。〔唯女子与小人為レ難レ養也。近レ之則不レ孫、遠レ之則怨〕。私の経験は、何等かの価値を持つべく余りに短いが、それでも今迄私の目に触れたのが、礼譲と行儀のよさばかりである事実を考えざるを得ない。私はここ数週間、たった一人で小さな漁村に住み、漁夫の貧しい方の階級や小商人達と交っているのだが、彼等すべての動作はお互の間でも、私に向っても、一般的に丁寧である。往来で知人に会ったり、家の中で挨拶したりする時、彼等は何度も何度もお辞儀をする。往来などでは殆ど並ぶように立ち、お辞儀の方向からいうと相手を二、三フィートも外れていることもある。人柄のいい老人の友人同志が面会する所は誠に観物である。お辞儀に何分かを費し、さて話を始めた後でも、お世辞をいったり何かすると又お辞儀を始める。私はこのような人達のまわりをうろついたり、振返って見たりしたが、その下品な好奇心には全く自ら恥じざるを得ない。これは活動的な米国人には、時間を恐ろしく浪費するものとしか思われない。外山教授の話によると、大学の学生達はこのような礼儀で費す時間を倹約しつつあり、彼等の両親は学生生活は行儀を悪くするものと思っているそうである。
先夜東京から帰って来た時、江ノ島へ着いたのはもう真夜中に近かった。それは非常に暗い夜で、私は又しても下層民の住家が、如何に陰鬱であるかを目撃した。雨戸を閉めると、夜の家は土牢みたいであろう。開いた炉に火がパチパチ燃えるあの陽気さを、日本人は知らない。僅かな炭火で保温と茶を入れる目的とを達し、台所で料理用に焚く薪は上方の桷たるきを煙で黒くする。人力車で村を通過すると、夜の九時、十時頃まで小さな子供が家の前に置いた床几しょうぎに坐っているのを見る。紙を張ったすべる枠は、昼間は家の外側になり、気持のいい光線を部屋へ入れ、閉ざせば風をふせぐ。部屋に火をつけた蝋燭が沢山ある場合、住んでいる人達がかかる紙の衝立に投げる影には、滑稽なのが多い。北斎は彼の「漫画」に、このような影絵のある物の、莫迦げた有様を描いている。
私はポケットに百ドル入れ、車夫只一人を伴侶として、夜中暗い竹藪や貧乏な寒村を通り、時々旅人や旅人の群に出会ったが、私に言葉をかける者は一人もなかった。私はピストルはおろか、杖さえも持っていなかったが、この国の人々の優しい性質を深く信じているので、いささかなりとも恐怖の念を抱かなかった。ある殊の外暗い場所で、我々は橋を渡った。それは高く弓形に反っていて、上には芝土があり、手摺はなく、幅は人力車が辛じて通れる位であった(図160)。橋の真中で我々は、酒に酔っていくらか上機嫌な三人の男に出喰わした。その瞬間私は若し面倒なことが起れば、きっとここで起るなと思った。何故かといえば我々を通す為には、彼等は橋の端に立たねばならぬからである。私の大きな日除帽子と葉巻とによって、彼等は私が「外夷」であることを知っていた。で、一押し押せば人力車も何も二十フィート下の河に落ちて了う。だが彼等は何ともいわなかった。最後に私は疲れ切って眠て了った。幸い道路が平坦だったからよかったものの、そうでなかったら私は溝へ投り込まれていたかも知れぬ。目をさましていれば、人はデコボコな路で人力車が前後に揺れる時、無意識に自分の身体の釣合をとる。目をさますと、我々は海岸に来ていた。波が打ち寄せている。そしてあたりは、世界中どこへ行っても、只田舎だけが持つ、あの闇であった。人のいることを示す唯一の表示は、海の向うの家の集団から洩れる僅かな燈火と、海岸の所々にある明るい火――それをかこんで裸体の漁夫が網や舟を修繕している――とだけであった。私の人力車夫は、暗闇のどこからか、大きな籠を二つ見つけて来て、この中に持って来た荷物を入れ、それを長い天秤棒の両端にしばりつけて、煮えくりかえるような磯波の中を、ジャブジャブ渡り始めた。闇の中から一人の男が、これもどこからともなく現われ、私を負って渡ろうといった。そこで私は普通やるように、背中に乗ったが、これではいけないのであった。彼は私を落し、後に廻って彼の頭を私の両脚の間に押し込み、まるで私が小さな子供ででもあるかのように、軽々と持ち上げて肩にのせた。私は彼の濡しめった頭に武者ぶりつくことによってのみ、位置を保つことが出来たが、波が押し寄せて彼がぐらぐらする度ごとに、まだ半分眠っている私は、これはいつ海の中に投げ出されるか判らぬぞと思うのであった。

道路は何度通っても、何か新しいものか、面白いものを見せてくれる。私はある一軒の店で、大きな木槽の辺を越して、図161で示すかような硝子ガラスのサイフォンがかけてあるのを見た。この端から出る小さな水沫は、盆に入った小型な西瓜すいかを涼しげに濡らしつつあった。小さな小屋がけの店では、西瓜を二つに切り、切った面は薄い日本紙を張りつけて保護する。市場の西瓜は柄に小さな赤いリボンがついている。一度私は一人の男が西瓜を沢山市場へ持って行くのを見たが、一つ残らずこの赤い小さなリボンがついていた。西瓜は丸くて小さく、我国の胡瓜に比べてそう大して大きくはない。そして日本の南瓜かぼちゃに非常によく似ているので、間違えぬように例のリボンをつける。果肉の色は濃い赤(充血したような赤の一種)で、味は我国のに似ているが、パリパリしてはいない。英国人の多くは西瓜の種子も一緒に食って了う。梨は煮て食うと非常に美味だが、梨の味は更にしない。色は朽葉色の林檎に似ていて、形も林檎のように丸い。梅も煮ると非常に美味である。トマトは我国のそれと全く同じ味のする唯一の果実である。馬鈴薯じゃがいもは極めて小さく、薩摩芋は我国のによく似ているが、繊維が硬く味は水っぽい。横浜のホテルで、シンガポールから輸入した奇妙な果物がテーブルに出た。その名をマンゴスティーンと呼ぶ(図162)。皮は黒ずんでいて非常に厚い皮(このスケッチの点線は皮の厚さを示している)の内側は濃紫色で、その内の果実は、よくかきまわした鶏卵の白味に似た純白である。これは蜜柑みかんみたいに小区分に割れ、そして大きな種子を持っている。味はことのほかよく、私が今迄に味った物のどれとも違っているが、ほのかに林檎の風味を思わせる所があり、僅か酸味を帯びている。たしかに最も美味な果実で、フロリダあるいは南カリフォルニアで栽培出来ぬ筈はない。
図‐161 / 図‐162
過日東京へ行く途中、私と同じ車室に、何かの集りへ行く為に盛装した小さな子供が二人いた。彼等は五、六歳にもなっていなかったが、髪を最もこみ入った風に結び、眉毛を奇麗に剃そり落し、顔や首は白粉おしろいでまっ白。両眼の外端には紅で小さな線を描き、頭は所々剃ってあった。一人の女の子が車室の戸の所に立って外を眺めている所を、急いで写生した(図163)。頭のてっぺんの毛を剃った場所と、小さな辮髪べんぱつがその後にくっついている所とに、お目をとめられ度い。時間の関係上、私は彼女の衣装の簡単な輪郭を写生することしか出来なかったが、縮緬ちりめんで出来ていて、鮮かな色の大きな不規則な模様がついていた。腰のまわりの帯は模様のない派手な単色で、重くてかさばり、背後で大きく結ぶが、衣服にはボタンも紐穴もホックも鉤眼も紐も留針もない――まことに合理的な考である――ので、只この帯で衣類をひきしめる。長い袂の外側の辺には黄色い絹の紐が、しつけ糸のように通っていて、袂の一隅で黄色い房をなして終っている。

人力車に乗って田舎を通っている間に、徐々に気がついたのは、垣根や建物を穢なくする記号、ひっかき傷、その他が全然無いことである。この国には、楽書らくがきの痕をさえとどめた建物が、一つもない。而も労働者達は、我国のペン、あるいは鉛筆ともいう可きヤタテを持って歩いているから自分の名前や、気に入った文句や、格言を書こうと思えばいくらでも書けるのである。私はこのことを、我国の人々のこの点に関する行為と比較せざるを得なかった。我国の学校その他の建築物がよごれていることは、この傾向を立証している。
道路で私は、葉のついたままの、長い竹が立っているのを見た。葉には色とりどりの紙片がついている。何かの祭礼の飾りか、あるいは何等かの広告であろう。
東洋風の習慣の一つが、路傍なり、又は内々なりで話をして、人々をもてなし廻る公共的の談話家に見られる。日本の話し家は旅をしては、天幕の下にすみやかに聴衆を集める。日本語はまるで判らぬながら、私は話し家と、話しに聞きほれてよろこんでいる聴衆とを見て、楽しんだ。私は旅館に来た話し家の話を三十分間も聞いた(図164)。彼の顔面筋肉は不思議な働きをし、また違う人物を表示するために、突然声の調子を変化させる所は興味が深かった。彼の聴衆である所の学生達は、ある種の人物がゆっくりした、おせっかいな声で表現された時、声を立てて笑った。すると話し家も同じように嬉しがった。彼は低い机を前にして坐り(これは将棋盤を特に借りて来たのである)そして舞台道具として、三つの品物を持っていた。その一つは扇子で、時に右手で、時に左手で持つ。他の一つは閉じた扇子のような品で、これは薄い木片に紙をまきつけたもの。彼は話に調子をつける為に時々これで、強弱の差をつけて、机をひっぱたく。第三の品物は小さな木片で、彼はこれを屡々取り上げては、カチンカチンと机を叩く。

実験所の世話をやく男は大いに成績がいい。彼は曳網で上げた砂から小さな貝を取り出し、大きなのを洗い、自己の仕事に非常な興味を持っているらしく見える。彼は、一週間一ドル二十五セントという莫大な労銀で、四六時中我々のために、ありとあらゆる仕事をする。
今日(八月十四日)子供達はみな派手な色の着物を奇麗に着ている。何かの祭礼を祝うものと思われる。実験所に行って見ると、小使が自分の子供の頭を剃っている最中であった。一番下の子はすでにその苦難をすごして、姉さんの背中で眠ていた。彼等を写生しようとしている時に、赤坊が目を覚まして泣き始めた。姉さんはそこで腰かけから下り、背中の赤坊を、一種のゴトゴト動かすような運動でゆすぶりながら、歩き廻ったあげく、また腰かけに腰を下した(図165)。今日の祭礼は、彼等の先祖を祭るものだとのことである。午前中、子供は少量の米を、自分の家から持って来るなり、他人に貰うなりして、以前は海岸に置いた大きな釜でそれを煮たものだが、今は家の中で煮る。子供はめいめい塗椀を持って、自分の分け前を貰うために大勢集って来る。図166は子供を背負った婦人を示しているが、子供は手に漆塗りの飯椀を持って、自分の所に御飯の来る番を待っている。御飯には、お祭なので、赤いような色がつけられるが、これは我国の曲馬で売るレモン水が、桃色であるような訳合いなのだろうと思う。この色は米と一緒に煮る豆の一種から出る。私は子供達にまじって写生しようとしたが、彼等はあまりに私に不安を持ち過ぎ、殊に女の子達は私が一番みっともなくないチビ公(彼等は概してあまり奇麗でない)をつかまえようとしたものだから、大いに恐れを抱いて了った。私は日本人が我々の子供の一人を捕えようとしたら、彼等が恐ろしく思うと同じ理由を、この子供達が持っているということを、容易に理解出来なかった。男の子達は私のいることをよろこんだらしく、私は大きな声で笑いながら盛に彼等と騒いだ。

今日実験所の小使が子供の衣類をつくろっていた。彼の細君は私の宿屋の女中をしていて、こんな仕事をする暇がないのである(図167)。

日本人は実に器用に結びをつくる。彼等は藁で安い繩をつくり、紙で恐ろしく丈夫な紐をつくる。建築をする時の足場はすべて釘を打たずに繩でしばる。釘は材木を弱くするからである。接触点には繩を幾重にもまきかけて、非常に強い定着をつくり上げる。
横浜からの路上の一軒の宿屋(図168)には、外国の麦酒ビールがあるという小さな英語の看板が出ている。前面の、木造で物置に似た屋根にめぐらした流蘇ふさは、幅三フィートの青い布で、一フィートごとに半分程裂け、風が通るようになっている。
第七章 江ノ島に於る採集
昨日は実験所大成功だった。漁夫がバケツに一杯、生きたイモガイその他の大きな貝や、色あざやかなヒトデや、私が今迄生きているのは見たことがない珍しい軟体動物を持って来た。すっかりで漁夫は二十セントを要求した。我々は何か淡水貝を見つけることが出来るかも知れぬと思って、我々が渡る地頸に近く海に流れ込む川を遡さかのぼりながら採集し、若干の生きたシジミを発見した。また河口に近く、美事な Psammobia〔皿貝の類の大きな二枚貝〕数個と、更に上流で元気のいい、喧嘩早い蟹を何匹か捕えた。女や子供が数名、岸近くの水中を歩きながら、シジミをひろっていたが、これは食用品なのである。私はシジミの入った小さな籠を二つ、一つ二セントずつで買った。これ丈集めるのに、我々なら、半日はかかったであろう。水中のすべての生物は、下層民の食物になるらしい。貝類の全部、海老えびや蟹の全部、鮫、エイ、それから事実あらゆる種類の魚、海藻、海胆うに、海の虫等がそれである。私はハデイラ科のある物を煮たのを食ったが、決して不味くはなかった。あちらこちらに集った、舟や人々を配景として、川は絵画的であった。巡礼が川を下りて来る。老婆がシジミをひろっている。男が網を引いて餌をとっている。我々が戻ろうとしていた時、一艘の舟が、江ノ島へ行く巡礼の一隊をのせてやって来た。船頭は二セント出せば、我々四人を渡してやるという。恰度干潮で、川の水がすくなかった為に、我々は何度も飛び下りては、他の人々を助けて舟を押した(図169)ので、我々は文字通り、渡船賃をかせいだようなことになった。

普通の種類の蠅がいないことは、この国の特長である。時を選ばず、蠅を一匹つかまえるということは、困難であろう。私はファンデイ湾の入口にあるグランド・メーナンに於て、魚の内臓等をあちらこちらにまき散らす結果、漁村は我慢出来ぬ程蠅が沢山いたことを覚えている。江ノ島は漁村であるが、漁夫達は掃除をする時に注意深く※(「魚+荒」の「亡」に代えて「氓のへん」、第4水準2-93-59)くずにくを全部はこび去り、そしてこれを毎日行う。それに彼等は、捕えた物をすべて食うから、棄てられて腐敗するものが至ってすくない。加之、動物とては人間と鶏だけで、馬、牛、羊、山羊等はまるでいない。鶏も数がすくなく、夜になると籠を伏せた中に入れられる。夜、牡鶏や牝鶏が人家へやって来て、やがて入れられる籠のまわりを、カッカッいいながら歩き廻り、誰か出て来て一羽一羽籠の中に入れる迄それを続ける所は中々面白い。
前にも書いたことがあるが、町を行く行商人の呼び声は、最も奇妙で、そしていう迄もなく、世界中どこへ行ってもそうだが、訳が判らぬ。ある時、それ迄聞きなれたのとまるで違った呼び声を耳にして駆け出して見ると、一人の男が長い竹の管から、あぶくを吹き出していた。あぶくは、石鹸でつくったものよりも一層美しくて、真珠光に富んでいた。石鹸といえば、日本人は全然石鹸というものを知らない。溶解液は二つのほっそりした手桶に入っていて、それを子供達に売る(図170)。外山氏がこの男に液体の構成を聞いた所によると、いろいろな植物の葉から出来ていて、煙草も入っているとのことであった。裸体の男があぶくを吹き吹き、時々実に奇妙極る叫び声をあげながら往来をのさのさ歩いている有様は、不思議なものだった。

私の料理番は階下に、流しと二つの石の火鉢とから成る台所を持っている。これ等の火鉢はある種のセメントか、あるいは非常に軟かい火山岩を切って作ってある。勿論オーヴン〔窯〕は無く、火鉢は単に燃える炭を入れる容器であるに過ぎない。この上で料理番は煮たり焼いたりするが、鶏のロースト〔燔肉〕をつくる時には、四角な葉鉄ブリキを火の上に置いて鶏をのせ、その上に銅の深鍋をひっくりかえしにかぶせて、一時的のオーヴンを設け、銅鍋の底で炭火を起し、鶏がうまくロースト出来る迄、彼は辛棒強く横に立って炭をあおぐ。図171は料理番の簡単な写生図である。鶏の雛は一羽数セント、鯖さばに似た味のいい魚が一セント。私は何でもが安いことの実例として、これ等の価格をあげる。

車夫二人に引かせて人力で藤沢へ行った結果、私は大きな淡水産の螺にし(Melnia)の美事な「種」を壺に一杯集めることが出来た。車夫達がまるで海狸ビーヴァーのように働いて、これ等の貝を河床からひろい上げたからである。
私は特別な使を立てて郵便を藤沢へ送った。距離三マイル、賃銀十セント。亭主がやって来て、この使者は走る飛脚だから二セント多くかかるといった。私は丈夫そうな脚をした男がいい勢で走り出し、水を徒渉して向う側へ全速力で姿を消すのを見た。外山氏は郵便局長宛に、私の所へ来た外国郵便を特便で送るよう特に手紙を書き、それを持たせてやったが、その返事は同じ飛脚が、信じ難い程短い時間に持って帰って来た。彼は往復共、全速力で走り続けたに違いない。
昨日我々は、干潮で露出した磯へ出かけた。水溜りの大きな石の下面を、我々が調べることが出来るように、それを持ち上げてひっくり返す役目の男も、一人連れて行った。収獲が非常に多く、また岩の裂目に奥深くかくれた大きなイソガイ、生きてピンピンしている奇麗な小さいタカラガイ、数個のアシヤガイ(その貝殻は実に美しい)、沢山の鮑、軟かい肉を初めて見る、多くの「属」、及びこれ等すべての宝物以外に、変な蟹や、ヒトデや、海百合ゆりの類や、変った虫や、裸身の軟体動物や、大型のヒザラガイ、その他の「種」の動物を、何百となく発見する愉快さは、非常なものであった。今日我々はまた磯へ行き、金槌で岩石を打割って、ニオガイ、キヌマトイガイ、イシマテ等の石に穴をあける軟体動物を、いくつか見つけた。私はこれ等の生きた姿を写生するので大多忙であった。我々の建物は追い追い満員になって来て、瓶や槽の多くはもう一杯である。材料の豊富は驚くばかりである。顕微鏡をのぞいてばかりいるのに疲れた私は、休息として我々の小舎を写生した。海岸を見下す窓――というか、とにかく開いた所――で私は勉強するのだが、その外でいろいろな珍しいことが起るので、時としては中々勉強をしていられない。この写生図(図172)によって、実験所の内部の大体が判るであろう――枠に布を張り、その上でヒトデや海胆を乾燥もするが、このような仕事には、とかく、ガタピシャ騒ぎがつきものである。

前にもいったが、旅館の私の隣室には学生達がいる。実に気持のいい連中である。彼等の大多数は医科の学生で、大学では医学生はドイツ人に教わる為に、かかる若者達は、入学に先立って、ドイツ語を覚えねばならない。英語をすこし話す者もいる。私はちょいちょい彼等の部屋へ行って、彼等が勝負ごとをするのを見るが、それ等はみな我々のよりも、遙かに複雑である。日本の将棋のむずかしさは底知れぬ位で、それに比べると我国のは先ず幼稚園といった所である。碁は我々はまるで覚え込めず、「一列に五つ」は我等のチェッカースと同程度にむずかしい。私は彼等にチェッカースや、チョーキング・オン・ゼ・フロワ、その他四、五の遊びを教えた。腕を使ってやる面白い勝負がある。二人むかい合って坐り、同時に右腕をつき出す。手は掌をひろげて紙を表す形と、人さし指と中指とを延して鋏はさみを表す形と、手を握って石を表す形の、三つの中の一つでなくてはならぬ。さて、紙は石を包み、あるいはかくすことが出来、石は鋏をこわすことが出来、鋏は紙を切ることが出来る。で、「一、二、三」と勘定して同時に腕を打ち振り、三度目に、手は上述した三つの形の中の、一つの形をとらねばならぬ。対手が鋏、こちらが紙と出ると、鋏は紙を切るから、対手が一回勝ったことになる。然しこちらが石を出したとすれば、石は鋏を打ちこわすから、こちらの勝である。続けて三度勝った方が、この勝負の優勝者である。小さな子供達が用をいいつけられた時、誰が行くかをきめるのに、この勝負をするのを見ることがある。この時は只一度やる丈だから、つまり籤くじを抽くようなものである。
両手を使ってやる勝負が、もう一つある。膝に両手を置くと裁判官、両腕を鉄砲を打つ形にしたのが狩人、両手を耳に当てて物を聞く形をしたのが狐である。これ等は、片手でやる勝負と、同じような関係を持っている。即ち狐は裁判官をだますことが出来、裁判官は狩人に刑罰を申渡すことが出来、狩人は狐を射撃することが出来る。日本人は非常な速度でこの勝負をする。彼等は三を数えるか、手を三度動かすか、或いは両手を二度叩いて、三度目にこれ等三つの位置の一つをとるが、その動作は事実手だけを使ってやるのである。手をあげ前に出すと狐になり、両手で鉄砲を支えるような形をすると狩人になり、指を下に向けると裁判官になる。我々には、いくら一生懸命に見ていても、どちらが続けて三度勝ったのかは、とうてい判らない。この勝負は極めて優雅に行われ競技者は間拍子をとって、不思議な声を立てる。多分「気をつけて!」とか「勝ったぞ!」とかいうのであろう。見物人も同様な声を立て、一方が勝つと声を合せて笑うので、非常に興奮的なものになる。
私は外山と松村に向って、何事にでも「何故、どうして」と聞く。そして時々驚くのは、彼等が多くの事柄に就いて、無知なことである。この事は他の人々に就いても気がついた。彼等が質問のあるものに対して、吃驚したような顔つきをすることにも、気がついた。そして彼等は質問なり、その事柄なりが、如何にも面白いように微笑を浮べる。私はもう三週間以上も外山、松村両氏と親しくしているが、彼等はいまだかつて、我々がどんな風にどんなことをやるかを、聞きもしなければ、彼等が興味を持っているにも係わらず、私の机の上の色々なものが何であるか聞きもしない。而も彼等は、何でもかでも見ようという、好奇心を持っている。学生や学問のある階級の人々は、漢文なり現代文学なりは研究するが、ある都会の死亡率や、死亡の原因などを知ることに、興味も重大さも感じないのであろう。
外山に頼んで、女の子と男の子の名前――我国の洗礼名に相当するもの――と、その意味とを書いて貰った。
女の子の名前
マツ松 / タケ竹 / ハナ花 / ユリ百合 / ハル春 / フユ冬 / ナツ夏 / ヤス安らかな /  チョウ 蝶 / トラ虎 / ユキ雪 / ワカ若い /  イト糸 / タキ滝
男の子の名前
タロー第一の男子 / ジロー第二の男子 / サブロー 第三の男子 / シロー第四の男子 / マゴタロー孫の第一の男子 / ヒコジロー男性第二の男子 / ゲンタロー泉第一の男子 / カメシロー亀の子第一〔?〕の男子 / カンゴロー検査された第五の男子 / サタシチ 心の固い第七の男子 / カイタロー貝殻第一の男子
女の子は下層民でない場合、普通その名前の前に、尊敬前置称語として「お」をつけ、その他すべての場合「さま」を短くした「さん」を名前の後につける。これは尊敬をあらわす言葉だが、人の名につくばかりでなく、冗談に動物の名の後にもつける。この「さん」はミス、ミセス、及びミストルの役をする。日本人が「ベビさん」「キャットさん」といっているのを聞くこともある。だが、前置称語の「お」は、女の子の名前にかぎってつける。ミス・ハナは「お はな さん」になる。太郎、次郎等、第一、第二……を意味する男の子の名前はよくあるが、我国のジョンソンなる姓が、「ジョンの息子」なる意味を失ったと同様に、ある点で第一の男子、第二の男子の意味を持たぬようになった。外山氏の話によると、今や男の子達は、クロムウェル時代の風習の如く、忍耐、希望、用心、信実等の如き、いろいろな新しい名前を、沢山つけられているそうである。
山の名前を知る為に、外山は学生二、三名を応援として呼び込んだ。彼等が、僅か五、六の名を思い出そうとして、一生懸命になったのは、一寸不思議だった。私は殆ど無理に返答をひき出した程であったが、山の名のあるものは英語に訳すことが困難で、殊に「フジ」にはてこずったあげく、これは「富んだサムライ」を意味するといった。サムライは、封建時代、二本の刀を帯びることを許されていた人達である。山の漢字は「ヤマ」と呼ばれる。日本の山の名で、即ち支那語の漢字の名によったものである。現代の支那では、この漢字は、サンと発音する一地方を除いては、シャンである。外山は英語を完全に話し、且つ書くが、而も屡々、正確な英語の同意語を見つけるのに苦しんだ。彼が教えた名前の中のあるものを、以下にあげる。我国の山の名と同じような意味のものが多いことに気がつくであろう――。
オーヤマ大きな山 / ナンタイサン男性の身体の山 / ハクサン白い山 / カブトヤマ 甲の山 / シラネ 白い峰 / タテヤマ直立した山 / キリシマヤマ霧のかかった島の山 / ノコギリヤマ鋸の山
ノコギリはスペイン語の Sierra に相当するが、サクラメント市から見るシエラ山脈は、鋸の歯のようである。
犬の名には赤、黒、白等の色を用いるが、犬は自分の色を知っているらしく思われる! 馬の名で普通なのは「ハルカゼ」(春の風)、「キヨタキ」(清い滝)、「オニカゲ」(悪魔の影)。川の中には「早い」川や、「犀」川や、「大きな井戸」の川や、「天の竜」の川やその他がある。相撲すもう取は、この国では非常に尊敬されるが、「電光」「海岸の微風」「梅の谷」「鬼の顔の山」「境界の川」「朝の太陽の峰」「小さな柳」等の名を持っている。舟にもまた、極めて小さいもの以外は、皆一風変った名前がつけてある。
山を描くにあたっては、どの国の芸術家も傾斜を誇張する――即ち山を実際よりも遙かに嶮しく書き現わす――そうである。日本の芸術家も、確かにこの点を誤る。すくなくとも数週間にわたる経験(それは扇、広告その他の、最もやすっぽい絵画のみに限られているが)によると、富士の絵が皆大いに誇張してあることによって、この事実がわかる。私はふと、隣室の学生達に、富士の傾斜を、記憶によって書いて貰おうと思いついた。この壮麗な山は湾の向うに聳えていて、朝から晩まで人の目を引く一つの対象なのである。先夜、晩飯の時、輝く空を背に、雄々しく、非常に暗くそそり立つこの山を、出来るだけ注意深く描いて見た。そこで鋏を使用して輪郭を切りぬき、そしてそれを持って山にあてがうと私が努力したにもかかわらず、傾斜をあまり急に描き過ぎたことを発見した。私は紙に鋏を入れては山にあてがって見て、ついに輪郭がきちんと合う迄に切り、そこで隣の部屋へ入って、通弁を通じて、出来るだけ正確な富士の輪郭を書くことを、学生達に依頼した。私は紙四枚に、私の写生図に於る底線と同じ長さの線を引いたのを用意した。これ等の青年はここ数週間、一日に何十遍となく富士を眺め、測量や製図を学び、角度、円の弧等を承知している上に、特に、斜面を誇張しないようにとの、注意を受けたのである。図173は彼等の努力の結果で、一番下は私の輪郭図である。彼等は彼等のと私のとの輪郭の相違に、只吃驚するばかりであったが、この試験には非常な興味を見せた。彼等は不知不識しらずしらず、子供の時から見なれて来たすべての富士山の図の、急な輪郭を思い浮べたのである。彼等の角度が、殆ど同じなのは面白い。学生の一人が持って来て見せた扇には、斜面が正確に近く描いてあった。登山した人がその山の嶮峻さを誇張するのは、山は実際よりも必ず峻しく見えるものだからということが、想像出来る。

昨日長い砂浜で、漁師達が、長さ数千フィートの繩がついている、大きな網を引きあげた。殆ど全部が裸の、漁夫や男の子達が、仕事を手伝っている所は、誠に興味があった(図174)。大きなうねりがさかまいて押しよせた。人々は面白い思いつきの留木を用いて、繩にぶら下った。それは六フィートばかりの繩で、一端は輪になっており、これを腹のまわりにまきつけ、他端には大きなボタンみたいな木の円盤がついている。このボタンを巧みに投げると、それが網の繩にまきついて、しっかりと留まる。私は図175でそれを明瞭にしようと試みた。我国の漁夫も、この方法を知っているかも知れないが、もし知らぬならば真似をすべきである。これは繩を非常にしっかりとつかみ、取り外しも至極楽で、また速に繩にくっつけることが出来る。網が見え出すと、多数の人が何が捕れたかを見る為に、集って行った。私はこの裸体の人々の集団の中に無理に入って行って、バケツに一杯、各種の海産物を取った。私はそれ迄、自発的の群衆がこれ程密集し得るとは知らなかった。まるで鰯いわしの罐詰である。

この島の東端に、漁夫の家がかたまっていて、私はその何軒かを写生しようとしたが、老若男女が私の周囲にぎっしりかたまって了ったので、とうとう断念せざるを得なかった。彼等が喋舌しゃべったの喋舌らぬの! そして五歳ばかりの子供も大きな大人のように厳然たる口のききようをした。彼等は明かに、どの小舎を私が写生しつつあるかを、議論していた。最初私は、ある名前がハッキリいわれるのを聞くが、写生図(図176)に例えば大きな魚の籠といったような、新しい細部をつけ加えると、非常に誇りがましい笑い声が起る。だが、大きな魚の籠は一つより多くあるので、今度は別の主張者が叫び声をあげる番になる。私は小舎を三軒写生した丈で、辛棒がしきれなくなったが、頭髪のもしゃもしゃした、皮膚の黒ずんだ土人達の長い人間道ひとあいみちを通じて(まったく私はその間から向うを見ねばならなかった)見る光景は、不思議なものであった。私によっかかった者の一人、二人に対して、私がスペイン語で呪咀したら、彼等は哄笑こうしょうした。

日本人は漢字で文章を書くが、優秀な学生は三千字、四千字を知っている。これ等全部に書かれる時の形がある。日本人は同時に、四十八字のアルファベットを持っていて、それで言葉を発音通りに綴る。だが私はこのことを余りよく知らないから、興味を持つ読者は、ヘップバーンの「日英辞典」の序言を参照されるとよい。漢字の多くは、一つの点や線によって相違する。外山教授は大学へ手紙を出して網をたのんでやったが、先方はその漢字を、私が沢山持っている綱と読み違えた。日本人の手紙には Dear Sir も Dear friend もなく、突然始る。物を書く時には、図177のように筆を垂直に持つ。

Lの音が日本語にないことは、不思議に思われる。日本人が英語を書く際に、最も困難を感じることの一つは、LとRの音の相違を区別することで、何年間も英語を書いていた人でさえ、RのかわりにLを使い、又はその逆のことをする。日本人にはLを発音するのが恐ろしくむずかしい。外山の友人に、Parallel と発音して御覧なさいといった所が、彼は私がどんな風にそれを行うかと熱心に私を見つめながら、舌と両唇とを一生懸命に動かし、最後に絶望の極断念して了った。これは吃驚する程だった。反対に支那人は、Rの音を持っていないので、それを発音する困難さは、日本人のLに於ると同様である。
日光へ行った時、マッサージをやらせて、気持よくなったことを覚えていた私は、非常に疲れていたので、めくらのアンマ(マッサージ師はこう呼ばれる)を呼び入れ、彼は私の身体をこね廻したり、撫でたり、叩いたりした。松村氏は私の横に坐り、私は彼を通じて、色々な質問を発した。このアンマは、天然痘で盲目になったのである。天然痘は、この国で一時は恐るべき病疫であったが、幸いにも今は統制されている。外国人の渡来はよいことと思うかと聞いたら、彼は勢よく「然り」と答え、そして「若し外国人が二十五年も前に来ていたら、私を初め何千人という者が、盲目にならずに済んだことであろう」とつけ加えた。彼はまた、外国人は非常に金を使うともいった。同一の服装をしていても、日本人と外国人との区別がつくかと聞くと、彼は即座に「出来ます、外国人は足が余程大きい」と答えた。だが、若し外国人が小さな足をしていたらというと、「足の指がくっついていて、先の方が細い」との返事であった。彼は大きな太った男で、頭は禿げているというよりも、奇麗に剃ってある。仕事にとりかかると同時に、私に詫をいいながら衣を脱いだ。撫でる時には指が変に痙攣けいれん的にとび上って、歯科医が使用する充填機械に似た運動をする。
私が小使に新鮮な塩水(fresh salt water)を取って来てくれと頼んだら、彼はそれを混ぜるのかと聞いた。彼は英語で十まで勘定することを覚え、fresh water〔真水〕salt water〔塩水〕及び all right ということが出来る。松村氏も fresh salt water とは変だと思ったのである〔fresh water は真水であるが、fresh なる形容詞には「新鮮」の意味がある〕。そこで私は彼に真水は日本語で何かと質ねたら、それは「真実の水」で、他は「塩の水」であるとのことであった。これは最もいい呼びようらしく思われる。欧州人は真水を sweet water〔甘い水〕というが、真水は決して甘くはない。
私が部屋でやることのすべてが、他の部屋にいる好奇心の強い人々には、興味があるらしく、私の部屋を見ては、私の一挙手一投足を見詰める。彼等のやることが私に珍しいと同様に、私のやることも彼等には物珍しいのだということは、容易に理解出来ない。日本に来た外国人が先ず注意するのは、ある事柄をやるのに、日本人が我々と全く反対なことである。我々は、我々のやり方の方が疑もなく正しいのだと思うが、同時に日本人は、我々が万事彼等と反対に物をすることに気がつく。だが、日本人は遙かに古い文化を持っているのだから、或は一定のことをやる方法は、彼等のやり方の方が本当に最善なのかも知れない。
日本人が知識を得ようとする熱心さは、彼等が公開講演の会場を充満する有様でも知られるが、更に若い人達が、我々の為に働き、自分が受けた教えに対しては、日本語を訳す手伝いをしたり、家の内外で仕事をしたりして報いようとして、努めることでも分る。先日若い男が一人、私の家へやって来て、一通の手紙を置いて行くことを許され度いと願った。彼は加賀から東京まで、二百マイル近くも歩いて来たのである。この手紙は日本紙に筆で――これはむずかしい仕事である――立派な英語で書いてあった。それは学生が、外国の知識を得ようとする野心を示していると同時に、彼が私の「科学的動作」を観察することの重要さを、如何に感じているかを示して、興味が深い。
「先生、どうか私の乱暴な言葉と悪い文法とをお許し下さい。私の名前はT・DOKIであります。私は石川県から勉強するために東京へ送られた学生の一人であります。私は多くの理由によって自然の科学の一つを勉強する決心をしました。然しこれをする為に私は第一に、物理、化学、地質学、生理学、植物学、動物学その他の一般的科学を多少知っていなくてはなりません。そして私はこれ等の科学の知識は殆ど何も持っていません。そこで私が考えますに、私は先ずこれ等の準備的教課を勉強しなくてはならぬと思いますが、その為にはよい先生を得ねばなりません。然し私は色々な理由で東京大学の学生になることを欲しませんので私にこれ等の課目を教えて下さる程親切で暇のある先生を見出すことが出来ません。
あなたが有名な博物学者で我々の為に多くのよいことをなされ、またもっとなさろうとの御希望であることをききました。私は以下の請願のお許しを乞わずにはいられません。
あなたが非常にお忙しいということはよく知っておりますので、あなたが私を半召使い半学生としてお宅に生活させて下され、そしてお暇の時に一週間に三時間か四時間ずつ私が読んで判らぬ所を説明して下さらんことを希望いたします。かくて私は単に困難な点を説明して頂けるのみでなくあなたの科学的言辞を聞き、あなたの科学的動作を観察するの利益を得ることが出来ます。若しあなたが御親切に私のねがいを入れて下さるのならば私はよろこんで以下の条件に私自身を置きます――。
一 私は毎日二、三時間あなたの為に何でも(出来ることは)いたします。
二 私は以下の三条以外に何物をも要求いたしません。第一に毎週あなたの時間を三、四時間、第二にどんなものでも生きるに足る食物、第三にどんなのでも住むに足る場所。
三 私は若しあなたがお受取りになるなら三円以下に於て如何なる金額をも差出します。
これ等は私が自身を置こうとする条件のすべてではありませんが、一ヶ月三円以内の費用でこれ等の課目をいい先生の下で学ぶことが出来さえすれば私は如何なる条件にも服します。御慈悲深く御許可下さい。御慈悲深く御許可下さい。」
私の部屋の廊下に面して、家が面白い形に積み重なっている(図178)。これ等の建物中の三つは耐火建築で、村が火事の時火を避けるように、ここに建てたのである。然し若し我々のいる建物が火を出せば、家はみな密接している上に、非常に引火しやすい材料で出来ているから、村中燃え上って了うことであろう。

松村は日本人の多くと同様、絵を描くことに興味を持っている。図179は彼が子供を写生したものであるが、その筆致が如何に純然たる日本風であるかに注意せられたい。日本人の絵画に力強さと面白味とを与える一つの原因は、それが必ず筆で描かれることで、従って仕事の上に、太さの異る明瞭な線と、大なる自由とを得るのである。彼等が選ぶ主題、例えば木の葉とか人物とかは、彼等の持つ技術によって、写実的に描かれる。彼等の描く人物は、みなゆるやかな、前で畳み合せる衣服を着ている。男が普通に着るのは、典雅に垂れ下る一種の寛衣かんいであり、彼等の帽子は絵画的である。木の葉、竹、竹草、松、花その他は力強く、勢よく描かれる結果、日本の絵は非常に人を引きつける。

今日は曳網の運が、あまりよくなかった。私はサミセンガイを求めて、我々の入江に戻り、目的の貝を沢山と、大きなオキナエビス若干その他を得た。網を引いている間に、突然驟雨が襲って来て、私はずぶ濡れになったが、すぐ太陽が現われ、やがて衣類が乾いた。日本の舟夫達は優秀だとの評判があるにかかわらず、非常に臆病であるらしく、容易なことでは陸地から遠くへ出ない。今日私は遠方へ行くので、彼等を卑怯者といわねばならなかった。漁船は二マイルばかりの所に列をなしている。三十マイル程離れた大島へ行こうといい出したら、彼等は吃驚して顔色を変え、如何にも飛んでもない思いつきだと、いうように笑った。曳網を引き廻している最中に、舟から遠からぬ場所に、大きな魚が、長くて黒い鰭ひれを僅か水面に出して、さっと過ぎて行った。さァ大変! 舟夫の一人が艪を棄て、舳に近く坐っている私の所へ来て、熱心にこの魚を追いかけさせてくれとたのんだ。私には彼が何をいっているのか、丸で判らなかったが、彼の懇願的な態度は間違う可くもないので、私は「ヨロシイ」といった。そこで大活動が始った。曳網の綱が三十五尋ひろ入っていたので、先ず網を手ぐり入れるものと思った所が、彼等は長い竿三本を縛りつけ、曳網綱の末端をこの急造浮標うきに結んで、海の中に投げ込んだ。私は綱が解けるか、或はこれを発見することが出来ないと困るなと多少心配した。我々は鮫さめ――大きな魚は、鮫だった――を追って元気よく動き出した。銛もりは長い竿のさきに、鉄の槍をいい加減にくっつけた物で、綱がついているから、使用後には竿を引きぬき、倒鉤のある槍さき丈を、魚の身体に残すのである。小さな魚類が鮫を恐れて、共通な一点を中心に、かたまり合っているのは誠に興味があった。一網打尽ということが出来たであろう。我々は死物狂しにものぐるいで追いかけたが、鮫は遂に逃げ去った。で、舟夫達はもとの場所に帰り、安々と曳網の浮標を見つけた。彼等が鮫を追っている間に、私は漁船二、三を写生したが、まだ私は正しい線をつかんでいないので私の写生図には実物の優雅さが欠けている。図180の前帆は、舷側を越えている。帰途についた時風が出た。そこで竹の釣竿を翼桁とし、ダブダブな帆を環紐でそれに通して、これを竿を檣マストにしたものに取りつけ、帆の下端は手に持つという、実に莫迦らしい真似をしながらも、景気よく走ったものである。図181は舟中から見たその帆である。日本の舟には竜骨が無く、底荷を積みもしないが、めったに椿事ちんじが起らない。よしんば顛覆したにしても、舟はそれに縋りついていられる丈の人数の漁夫達と一緒に、ポカポカ浮いているし、水はあたたかく、漁夫は魚みたいに水に馴れているから、幾日でも舟にかじりついた儘でいられる。入江に帰った時、サミセンガイを求めて曳網を入れ、百五十個を獲た。又、珍しいものも入っていた。終日それ等を研究して来た所である。いろいろな新しい事実が判明して来ることは、驚く程である。私はノース・キャロライナの「種」は、かなり詳しく研究されているものと思っていたが、ここで捕れたのはノース・キャロライナのに非常によく似ているが、もっと透明であり、私はそれ迄に腕足類で見たことのない新しい器官をいくつか見た。

図182は実験所の流し場を、外から見た所である。この家を建てた人は、水の吐口ということを丸で考えなかったので、このような突出部を取りつけ、そこから水を自由に流すようにした。

ここ二週間、私は米と薩摩芋と茄子なすと魚とばかり食って生きている。私はバタを塗ったパンの厚い一片、牛乳に漬けたパンの一鉢その他、現に君達が米国で楽しみつつある美味うまい料理の一皿を手に入れることが出来れば、古靴はおろか、新しい靴も皆やって了ってもいいと思う。
この村の先生が私を訪問して、儀式ばった態度で“How do you do ?”といった。そのアクセントは、彼が英語を僅かしか知らぬことを示していたが、後で彼が白状したことによると、彼の英語の知識はこの挨拶と“Good-bye”とに限られているのである。彼が英語を知っている以上に、私が日本語を知っている――といった所で大したものではないが――と思うと、一寸気が楽になる。昨夜私は数週間前、最初に泊った向う側の宿屋の人々を訪問した。私は富士山が更によく見える場所をさがしている時、彼等と知り合いになったのである。結局私が坂をずっと上った所に宿を定めたに拘らず、彼等は私に会うと、前と同様気持よくお辞儀をした。行って見ると、家族は非常に忙しそうにしていた。彼等の中の四人はその日の会計をやりつつあって、銭を数えたり、帳面づけをしたりしていた。彼等は、いう迄もなく、床に坐っていたが、机は低い腰かけに似ていて、一人がその前に膝をついていた。日本の家屋の照明は至極貧弱なので、この時も暗すぎて、写生をする訳には行かなかった。私は日本人が、子供達に親切であることに、留意せざるを得なかった。ここに四人、忙しく勘定をし、紙幣の束を調べ、金を数え等しているその真中の、机のすぐ前に、五、六歳の男の子が床に横たわって熟睡している。彼等はこの子の身体を越して、何か品物を取らねばならぬことがあるのに、誰も彼をゆすぶって寝床へ行かせたりして、その睡眠をさまたげようとはしない。彼等は私に酒を出した。そして番頭の一人が、奇麗に皮をむいた桃を二つ皿にのせて持って来てくれたが、それは非常に緑色で煉瓦みたいに固かった。一口噛かじってから、私は気持が悪いことを表示し、無言劇の要領で胃のあたりを撫でて見せたら、彼等はその意味をすぐ悟った。今これを書いている時、往来の向うで召使いが二人、廊下の手摺によっかかって桃を食っている。この桃は未熟なので、噛むごとに事実その音がここ迄聞える程である。彼等はまるで最も固い林檎を食ってでもいるかの如く、桃をしっかり握りしめている。
私はこれ等の優しい人々を見れば見る程、大きくなり過ぎた、気のいい、親切な、よく笑う子供達のことを思い出す。ある点で日本人は、恰も我国の子供が子供染じみているように、子供らしい。ある種の類似点は、誠に驚くばかりである。重い物を持上げたり、その他何にせよ力の要る仕事をする時、彼等はウンウンいい、そして如何にも「どうだい、大したことをしているだろう!」というような調子の、大きな音をさせる。先日松村氏が艪を押したが、その時同氏はとても素敵なことでもしているかのように、まるで子供みたいに歯を喰いしばってシッシッといい、そしてフンフン息をはずませた。ある点で彼等は我国の子供によく似ているが、他の点では大きに違う。悲哀に際して彼等が示す沈着――というより寧ろ沈黙――は、北米のインディアンを想わせる。
図183は家庭内の祠ほこらを、写生したものである。小さなテーブルの上にならんでいるコップは真鍮製で、赤い色をした飯が盛ってある。右の下には薩摩芋と、一種の蕪かぶとに四本の木の脚をつけて、豚みたいな形にしたものがある。中の段には米の塊〔餅のことであろう〕が二つと、桃をのせた皿とがあるが、先祖の中に虎疫コレラで死んだものがありとすれば、桃の一皿はまことに暗示的なお供物であろう。もっともあまり気持のよくない思い出させではあるが――。祠の中央には仏陀の美しい像があった。これは最もみすぼらしい小舎にあった祠である。

今朝私はサミセンガイを調べに実験所へ行ったが、昨夜極く僅かしか眠ていないので、起きていることが全く出来ず、断念して部屋へ帰り、短くて不安定なハンモックが提供する範囲で、最も気持のよい昼寝をした。明日で、家庭を離れてから恰度三ヶ月になるが、その間、ホテルとドクタア・マレーの家とに泊った数夜を除くと、私は寝台という贅沢品を経験していない。三ヶ月間の一部分は、米国大陸を横断する寝台車にいた。また十七日間は、汽船の最も狭い寝床で暮した。そして其後はありとあらゆる品物を枕の代用品として、ハンモックか、固い畳の上かに寝ているのである。
今迄に私は理髪店というものを見たことがない。床屋は移動式で、真鍮を張った、剃刀かみそりその他を入れる引き出しのある箱(図184)を持って廻る。この箱は何か色の黒い材木で出来ていて、真鍮の模様があり、油とびんつけの香がぷんぷんする。鋏は我国で羊の毛を切る鋏に似ている。剃刀は鋼鉄の細長くて薄い一片で、支那の剃刀とはまるで違う。剃刀をとぐ砥石といしは、箱の下の方に見えている。引き出しには留針や、糸や、頭髪等が一杯入っている。箱の上の木製の煙出しに入っている、焼串のような棒は、頭髪を一時的一定の形に置くものであり、煙出しの端からぶら下っている真鍮の曲った一片は、顔を剃る時、こまかい毛を入れるもので、床屋はこの端に剃刀をこすりつける。私は学生の一人が剃らせるのを見た。顔を剃ることは前に述べたが、床屋がまぶたを剃ろうとは思わなかった。勿論まつ毛は剃りはしないが、顔中、鼻も頬もまぶたも、剃るのである。ここみたいな村の往来で写生をしようとすると、老幼男女が周囲を取り巻いて、ベチャクチャ喋舌り続けるから、非常に不愉快である。

私の頭は大きな貝を共鳴器として使用する歌い手、或は話し家に関係する騒音と新奇さとで、ガンガンする程である。彼の写生図(図185)は割によく似ている。彼は学生達の招きに応じて、往来の向うから、私の部屋へ入って来た。学生達は、私がこの男の立てつつある音に興味を感じたのに気がついて、呼んだのである。彼は低い、机に似た将棋盤の前に坐って恐ろしく陰気な音で吹き続けた。その音は、犢こうしの啼くのを真似したら出来そうであるが、然し調子には規則正しい連続があり、私にはそれが明かに判った。時に彼は咳をしては声を張り上げ、息を吸い込む時には、悲哀のドン底に沈んでいる人みたいな音を立てた。貝殻をブーブーやると同時に、彼は片手に、木の柄に何かの金属をつけて作った、奇妙なガランガランいう一種の鳴鐘器を持っていた。この金属の一端は半インチ足らず前後に動いて、カランカランと弱々しい音を立てた。しばらくこのような音を立てた上で、彼は喇叭ラッパを下に置き、歌を唄ったのと同じ調子で吟誦し、徐々に談話に移って行ったが、それにも時々歌と、それから貝殻が出す憂鬱な音とが入り込んだ。日本の学生達は彼の談話のある所々で、笑いを爆発させた。私は彼の貝殻、小さな木のかたまり、及び彼がピシャッと机を叩いて話に勢をつける扇形の木箆へらを更によく見ようと思ったので、彼のこの演技に対して十セント支払った。すると彼は私がこれ等の物品に興味を持っていることを知り、お礼がいいのを有難く思って、私に木片と、例の叩く物とを呉れた。図186は話し家の道具の一つを示している。

東京への途中、兵隊が多数汽車に乗って来た。東京へ着いて見ると、道路は南方の戦争、即ち薩摩の叛乱から帰って来る軍隊で一杯であった。停車場の石段には将校が何人かいたが、みな立派な、利口そうな顔をしていて、ドイツの士官を思い出させた。私は往来の両側を、二列縦隊で行進する兵士の大群――多分一連隊であろう――を見たが、私が吃驚する暇もなく、私の人力車夫は片側に寄らず、もう一台の人力車の後について行列の間に入って了い、この隊伍の全長に沿うて走った。私は兵士達を見る機会を得た。色の黒い、日にやけた顔、赤で飾った濃紺の制服、白い馬毛の前立をつけた短い革の帽子……これが兵士であり、士官はいい男で、ある者はまるで子供みたいだが、サムライの息子達で、恐れを知らぬ連中である。私を大いに驚かせ、且つよろこばせたのは、私に向って嘲笑したり、声をかけたりした者が、只の一人もなかったという事実である。彼等は道足で行進しつつあり、ある者は銃を腕にのせ、ある者は肩にになっていたが、それにしてもこれ程静かな感じのする、規律正しい人々を見たのはこれが最初である。事実彼等は皆紳士なので、行為もそれにふさわしかった。
今日、人を訪問する途中、私は東京市中の、私にとっては新しい区域を通って非常に愉快であった。それは実に絵みたいな場所で、大きな石垣と広い堀とがあった。平坦な道路を人力車で通り、文字通り苔に蓋われた石垣が彎曲した傾斜で四十フィートの高さに達し、その上には松その他の巨木が、まるでメイン州の森林のまん中に於るが如く、瘤こぶだらけな枝を四方に張って、野生そのままに自由に成長している景色が遙か続くのを見ることは、誠に興味が深い。ここかしこ、この縁を取る森林の間、或は石垣の角に、巨大な屋根を持つ古風な日本建築が見えた。これ等は赤か黒かで塗ってあったが、多分過去に於て兵営に使用したものであろう。石垣の下の堀には、蓮が実に美事に生えていた。繁茂しているので水が見えず、直径一フィートの淡紅色の花と美しい葉とは、水から抽ぬきんでたり、水面に浮んだりしていた。また蓮の生えていない場所もあったが、それには石垣や木の影がうつって素晴しい光景を見せていた。我々は変った橋をいくつか渡り、最も特徴のある門構えをいくつか通った。この驚くべき景色は何マイルも続いた。
こんな風に気持よく人力車を走らせた後、大学へ行って見ると、当局者が私の仕事に便利な部屋を、いくつか割当てておいて呉れた。博物館と講義室とにする大きな部屋が二つと、構内の別の場所に、実験室にする長い部屋が三つとってあった。七月分の月給を払うのに、私の契約書が七月十二日から始っているので、彼等は端銭を払ったばかりでなく、小さな銅貨を六つ呉れて、一セントの十分の六まで払った。彼等は如何なる計算も、一セントを十分の何々にした所まで勘定するとのことで、私は受取書にその価格まで書かねばならなかった。自分自身が、一セントの端数のことでゴチャゴチャやっているのに気がつくと、妙な気持がする。これは他の人達も同じ経験をしたと白状している。端銭チェンジ、即ち書付け以上の金額を払った者が受取る銭は、「ツリ」というが、この語は同時に魚を捕えること、即ち魚釣を意味する。
折々見受ける奇妙な牛車に、いささかでも似た写生図が出来ればよいと思う。図187で私はそれを試みて見た。牡牛一匹が二輪車に押し込まれ、柄は木製の環で背中の上を通って頸にのっかる。車にとりつけた大きな莚むしろの日除けは、牛に日があたらぬようにするものである。足も藁の草履をしばりつけて保護する。これによって、我々はかかる仏教の異教徒が、如何に獣類を可愛がるかに気がつき、そしてこれ等の動物が、カソリック教国のスペインで、どんな風に取扱われているかを思い出さぬ訳に行かぬ。

食料品を取りまとめた上で、私は再び江ノ島へ向けて出発した。原始的な漁村で一週間暮すのはいいが、それが殆ど二ヶ月近くの滞在となると、幾分巡礼に出るような始末になって来る。江ノ島へ着いて、私は第一夜を送った宿屋で食事した。この家の人々は私が別の宿屋へ移ったにもかかわらず、実に親切なので、私はその家族を私の部屋に招き、顕微鏡で不思議なものを見せることにした。私の無言劇的な会話はわかったらしい。宿の亭主と、彼の家族とだけを期待していた私は、彼等のみならず、この家の召使い、子供全部、及び向う側に住んでいる人達までが皆やって来た時には、面喰わざるを得なかった。だが、私は出来るだけのことをし、ベックの双眼顕微鏡で彼等に蠅の頭や、蜘蛛くもの脚や、小さな貝殻等を見せてやったが、彼等が示した驚愕の念、低いお辞儀と「アリガトウ」とは誠に興味があった。驚くのも道理である。彼等はそれ迄に、顕微鏡も、望遠鏡も聞いたことすら無いのである。若し彼等が何かを拡大して見たとすれば、それは天眼鏡を通じてであろう。私はまだ日本で天眼鏡を見たことがないけど、支那人が使っているから、日本にもきっとあるに違いない。これが今日の大愉快の一つであった。もう一つの愉快なことは、実に可愛らしい日本人の男の子と近づきになることであった。この子は私が今迄に見たたった一人の可愛らしい子供であり、多くの子供達と違って私を恐れなかった。一体子供が私を怖がるというのは、新奇な経験である。今朝私はこの子と両親と召使いとを実験所へ招待した。彼等が顕微鏡その他に対する興味を示した、上品で優雅な態度は、気持がよかった。父親は私と名刺を交換し、それを松村が翻訳したが、彼は大蔵省に関係のある役人だった。
昨晩私はカルタで不思議な経験をした。学生達が私のところへやって来て、その中の一人が、私の「君達はウイスト〔四人でやる一種の遊び〕を知っているか」という質問を、了解する丈の英語を知っていた。出来ると思う者もいたので、私は椅子若干を工面し、円卓を片づけて、さて札をくばって見ると、彼等が札の価値さえも知らぬことがわかった。彼等はジャックと女王とを区別するのにさえ骨を折った。私の質問が誤解されたのである。カードとウイストとは同意語であるらしい。だが、彼等は即座にこの遊戯に興味を持った。勿論それは無茶苦茶だったが、然し私は学生達が気がよくて丁寧なのをうれしく思った。椅子は彼等を痛めたらしく、しばらくすると彼等は畳の上に坐るように、椅子の上に坐って了った。
今日松浦という、はきはきした立派な男が、大学の特別学生として私に逢いに来た。松村及び料理番と石油ランプを二つ持って、例の洞窟を訪れ、ランプの光で洞窟蟋蟀こおろぎその他の昆虫をかなり沢山採集した。これ等はすべて石の下や、古い材木の下にいるのと同じような、薄明の形式をしていた。
日本人が油紙製の傘を装飾する奇妙な方法は、興味がある。ある場合、傘を黒く塗り、縁の一部分を白く残して新月を表す(図188)。また花、変な模様、漢字等も見られる。

昨晩、大きな波が、島から本土へかけた、一時的の歩橋の向う端を押し流して了った。天気が静穏で気持がいいのに、大きなうねりが押し寄せて来るのを見ると、たしかに不思議である。多分五百マイルも離れた所で嵐が起り、その大きな動揺が、やっと今岸に達したのであろう。波は夜中轟き渡った。
今日私は、新しい掛絵が、柱にかけてあるのに気がついた。ひっくり返して見ると、裏面にはもとの絵がかいてある。薄い杉板の、幅六インチ長さ五フィート半のものを、絵に利用する日本人は、巧みな芸術家といわねばならぬ。風景に竹の小枝を一本描き、狭い隙間から向うを見る効果を出すには、適当な主題を選ぶ技能を必要とする。
日本の家庭で如何に仕事の経済が行われるかは、室内の仕事を見るとわかる。一例として、部屋が沢山ある宿屋の仕事は、部屋女中の一人か二人で容易になされる。寝台はなく、客は畳に寝る。寝具は綿をつめたもの。枕は蕎麦殻そばがらをつめ込んだ、小さな坐布団みたいなものに、薄い日本紙をかぶせ、軽い木箱に結びつけたもの。洗面等は戸外でやる。朝になると布団を集め、縁側の手摺にかけて風を通し、その後どこかの隅か戸棚かにたたみ上げる。軽くて箱みたいな枕は、両腕にかかえて下へ持って行き、よごれた枕かけ、即ち単に一枚の紙を取り去って、新しい一枚をのせる。十枚位を同時に結びつけたのなら、一番上のをはがす丈で、その日の仕事は、寝室の用事に関するかぎり終るのである。図189は女中が二人、枕の紙をかえている所を示す。

図190は舟二艘の写生である。遠方のは「戎克ジャンク」という名で知られていて、ここに表したのよりも遙かに大きい。前にもいったが、舟にはペンキが塗ってなく、どれもこれも一様に、鼠がかった木材の色をしている。舟は一種の鉄釘で接合してあるらしく、これ等の釘の頭は材木の面より低く沈んでいて、その四角い穴には木片が填めてある。舟の先の方には穴があって、船尾から岸に引き上げた時、ここから水が流れ出る。

大学から手紙が来て、月曜の朝九時、他の教官達と教課目の時間割に就て、相談してくれとのことであった。私は日曜の正午に東京へ行く積りであったが、ハミルトン氏と彼の友人とが突然実験所を見に来て、そしてハミルトン氏は稀重な標本を瓶に詰めることを手伝うと約束し、私を晩方まで江ノ島に止るようにして了った。で、晩に出発し、十七マイルを横浜まで歩くことにしたが、これは五時間かかる。晩になると大風で、我々はそれがやむのを待って十時までいた。然し、やむ所どころか、風は暴力を増す一方であった。我々は向う側が流されていたことを承知しながらも、狭い橋を渡りかけた。下では波が凄い勢で狂い廻っている。末端まで来て我々は舟を呼んだが、この風ではどんな舟でも浮いていることは出来まい。徒渉しようかとも思ったが、十七マイルを、砂と水とで一杯になった靴で歩くことを考えて、やむを得ず引き返し、明朝三時もう一度やって見て、人力車で横浜へ行くことにした。私の英国人の友達は岸に近い宿屋にいたが、我々が一緒に出立出来るように、私にもその宿に泊れとすすめた。私は夜中、何度も何度も起き上った。第一回は合奏している犬に石をぶつける為に起き、次には雨戸を通して雨を吹き込む烈風を避けて、畳の上に新しい場所を見つける為に起きた。階段を下りると、家族の人達が床のあちらこちらに寝ているのが、薄暗いたった一本の蝋燭の光で見えた。この部屋は時代と煙とで黒く、外見は野蛮人の小舎みたいだった。階上の客間は、これも年代の色にそまっていはするものの、遙かに上等である。極めて僅か眠ったばかりで、おまけに私は、日本へ来て最初の風邪を引いたが、我々は三時には用意して出かけた。朝食はトーストパン一片とお茶一杯とであった。私は鞄と、こわれやすい標本の大きな包みと、それから風が強くて頭にのせていられない大きな日除帽子とを、持って行かねばならなかった。風は我々が台風突風と称する吹き様で襲い、波は橋板の間からとび上り、また橋板の上を越した。前に橋を渡ることが困難だったとすれば、今は、より多くの橋板が流されたので、不可能事だった。橋は揺れ、まっ暗なので、時々我々ははらん這いになって、向うの板を手さぐりにさぐらねばならなかった。風と波との音で、我々はお互に何をいっているのかまるで聞えず、そして我々は海水で膚まで濡れたが、幸い水は温かく、空気は暑かった。如何にして私が荷物を持って橋を渡ったかは、いまだに神秘である。私は橋の全長を、文字通り一インチずつ這って歩いたので、末端まで来て見ると、波は長さ三フィートでさかまいていた。我々は声をそろえて、嵐の中で我々を待っていた、人力車夫を呼んだ。やっと聞えると、彼等は波浪の間を辛じてやって来た。非常に困難したあげく、我々は彼等の肩に乗り彼等はヨロヨロしながらも、どうやらこうやら我々を、水の中でなく、陸地に投り出した。それから長い間、木製の雨戸をしっかり締め切った家があり、道路で犬がねている、静かな村々を通って、人力車は走った。風は竹の林をヒューヒュー鳴らしている。ある村では夜廻りが、時々太鼓を四つずつ叩いて廻っていた。四時であることを示していたのである。日出は実に素晴しかった。こんなに鮮かな赤の色は、かつて見たことがない。風がこれ程烈しいのに、恐ろしく暑いのは不思議だった。我々は十七マイルを通じて、上衣を脱いだ儘でいた。六時三十分、我々は横浜のさきの神奈川に着き、ここで私は東京行きの汽車に乗って、ついに集合時間迄に大学へ着いた。三時、私は暑いさかりの太陽を頭上にいただいて、江ノ島へ向けて帰途についた。
藤沢へ着く前に、私は奇麗な着物を着た人達が、街路をゾロゾロ歩いて行くのを見た。娘達(大人のある者さえも)は美しい紅色の下着を着ていたが、これは一般に見受ける藍色の衣類にくらべて、気持のよい変化であった。藤沢へ入ると、大変な群衆である。あるお寺の段々から白衣を身につけ、頭に自由帽(自由の表章として着ける半卵形の緊身帽)に似た茶色の帽子をかぶった男が四、五十人、肩に祠の雛形みたいな物を担いで下りて来た。先頭には太鼓があり、これをドンドンドンと三度ずつ、ゆっくりした単調な調子で叩く。明かに何事かが行われつつあるのである。私は身振り手振りで車夫達に、それが何であるにせよ、とにかく止って見たいのだということを伝えた。そこで彼等は横町に車を引き入れ、私はノロノロと子供、大人、玩具店の間を縫って歩いた。全部の光景は市に似ていた。ある種の芝居みたいなものを、やっている真っ最中だった。一人の男が勢よく太鼓を叩きながら、大きな声で、背後に並べられた人像彫刻のようなものに、人々の注意を引いていた。この見世物の入場料が、一セントの十分の一だということを知らぬ私は、二セント出した所が、男は非常にうやうやしく礼をいったあげく、入場券を渡したが、それは長さ一フィートの木の札だった。この見世物は一種の奇妙な天幕テントの内で行われ、長さ七フィートばかりの舞台があって、少数の観客がそのすぐ前に立っていた。この国の人達は皆背が低いので、彼等から見たら私は巨人と思えるであろう。いずれにせよ、私はまるで竹馬にでも乗ってるような具合に、彼等全部の頭ごしに見ることが出来た。だが見物人が見世物を見ないで私をみつめ、低い声で「イジンサン」といいあうのを聞くのは、いささかいやだった。「イジンサン」は「異った人々」で、即ち「外国人さん」の意味である。
舞台へは子供が二人、一緒に出て来た。その一人はカンガルーみたいな装をしていて、カンガルーみたいに飛び廻り、他の一人は小さな太っちょに扮し、それ迄に見たこともない程奇怪極るお面をかぶっていたが、その姿はジョン・ギルバートが描いたフォルスタフの絵を思わせた。こんなに背を低く見せるために、女の子は脚を曲げていたに違いない。彼等は暫時踊って子供達をよろこばせた。
この見世物の目新しさをしばし楽しんだ後、私はまた人力車に乗って、晩の八時頃海岸へ着いた。波は依然として荒れ狂い、岸には男が十人ばかり、盛に手真似身振りで、全力を尽して私に何事かを了解させようとしていた。真暗だったので容易に解らなかったが、気がつくとその朝三時、橋の末端をなしていた所には、大きな残骸の破片があるばかりで、橋は無くなっていた。私は舟をやとおうとした。すると男達は極めて簡単に手をひっくり返して見せて、舟もひっくり返るということを示した。今から思うと全く恥しい位私は激怒したものである。すくなくとも十二人は集っていたが、それに加うるに裸の漁師が二、三十人、中にはサケの香をプンプンさせているのもあり、皆手真似をしながら、大きな声で私に何かいって聞かせようとする。私は私で「エノシマ」と吐鳴どなりながら、今や行くことの出来ぬ島を指さした。私は吐鳴ったが、これは自分の言葉が通じないと、無意識に彼等を聾つんぼだと思うからである。彼等も同様な衝動に煽られていた。最後に私は横浜まで歩いて帰るといって威嚇し、すこし海岸から歩き去って、つかれ切っていたので、汐の引くのを、じりじりしながら待った。遂に私はある男の肩に乗って渡ったが、橋が完全に無くなっているのを見ては、驚かざるを得なかった。宿屋へ着いて聞くと、橋は我々が渡った直後に押し流されたそうで、事実、我々が渡っている最中に流されつつあったのである。危い所であった。
私の宿屋の亭主は、前日ハミルトン氏の一行から、言語道断の暴利をむさぼった。それで私は宿屋へ着くや否や、荷物を全部ひっくるめて、往来をはるか下った所にある別の宿屋へ行った。私の外日本人二人も一緒に引越し、また大学から私にあいに来たドクタア・ヴェーダーにも、移ることをすすめた。今迄いた家に次ぐいい旅館を持っている立花は、それ迄も私を親切に取扱ったが、よろこんで我々をむかえた。 
第八章 東京に於る生活
八月二十八日。今日は荷物を詰めるので大多忙だった。小使も、特別学生も、病気になったので、この仕事は松村と私とに振りかかって来た。我々がやとった車夫達は、例の通り手伝う事を申し出たので、私は彼等に麦藁をきざませたが、日本人はいろいろなことを器用にやるから、我々よりも上手に、荷を詰めたかも知れぬ。水曜日の朝、我々は人力車を五台つらねて出発した。箱、曳網、その他、及び人を四人のせた舟は、翌日まで出帆出来ないので、荷ごしらえの残部は小使にさせることにした。繊弱過ぎて詰めることの出来ない標本は、大きな、浅い籠に入れた。大きな、細い枝を出した珊瑚さんごは、板に坐布団をくくりつけてその上に置き、料理番がこれを東京へ着く迄膝の上に乗せて行った。我々はみな標本を入れた籠を一つずつ持ち、最後の人力車には荷物を積んだ。図191は、三十マイル以上を走って東京へ向うべく出発した時の一行の有様を、朧おぼろげながらも示したものである。我々はかなり、くっつき合って進んだが、人々が我々から受けた印象を見受けることは面白かった。彼等は不思議そうに先頭を瞥見し、二番目を眺め、吃驚して三番目に来る人を見詰め、そして我々がそろって膝の上に、かくも奇妙な物をのせている光景に、驚いて笑い声を立てる。我々は横浜で泊ることにした。翌朝我々は大切な珊瑚その他を、少しも傷けずに、東京へ着いた。金曜の朝には舟が着き、私は荷物が大八車二台に安全に積まれ、三人の男が曳いたり押したりして、最後に大学で私にあてがわれた部屋で下ろされるのを見た。これ等の部屋は博物館――日本に於る最初の動物博物館――の細胞核である。私は、私の契約期限が切れる迄に、これをしっかりした基礎にのせるようにしたいと希望している。

今、江ノ島に別れを告げて来て見ると、あすこに滞在した期限は、矢のように疾く過ぎたものである。私は六週間、あの小さな家がゴチャゴチャかたまった所で暮した。人々は過労し、朝六時から真夜中まで働き、押しよせる巡礼――時々外国人も来るが、すべて日本人――を一晩泊めるために、とても手にあまる程に沢山の仕事を持っている。訪れる人々は一日に四度も五度も、食事を要求するらしく思われ、絶間なくお茶や、煙草の火や、熱い酒やその他を求める。いろいろな年齢の子供達が、いたる所にかたまっていた。が、私は最も彼等に近く住んでいたにもかかわらず、滞在中に、只の一度も意地の悪い言葉を耳にしたことがない。赤坊は泣くが、母親達はそれに対して笑う丈で、本当に苦しがっている時には、同情深くお腹を撫でてやる。誰もが気持のいい微笑で私をむかえた。私は吠え立てる犬を、たった一本の往来で追いかけ、時に石を投げつけたりしたが、彼等は私のこの行為を、異国の野蛮人の偏屈さとして、悪気なく眺め、そして笑った丈である。親切で、よく世話をし、丁重で、もてなし振りよく、食物も時間も大まかに与え、最後の飯の一杯さえも分け合い、我々が何をする時――採集する時、舟を引張り上げる時、その他何でも――にでも、人力車夫や漁師達は手助けの手をよろこんで「貸す」というよりも、いくらでも「与える」……これを我々は異教徒というのである。
犬といえば、犬の名前を聞くと“Kumhere”だと返事をされる。これが犬の日本語だと思う人も多いが、この名は犬を呼ぶのに“Come here !”“Come here !”という英国人や米国人の真似をしたので、ここらにいる日本人はこれを犬の英語だと思っている。Dog は日本語では「イヌ」である。
小さな庭のつくり方や、垣根、岩の小径等は、この上もなく趣味に富んでいる。先日、朝早く村々を通過した時、私は多くの人々が、井戸端や家の末端で、顔を洗っているのを見たが、彼等は歯も磨いていた。これは下層民さえもするのである。加之、これ等の人々は、水を飲む前に、口をゆすぐのを例とする。
江ノ島の寺には沢山宝物があって、坊さん達が恭々うやうやしくそれを見せる。宝物には数百年前の甲冑や、五百年前の金属製の鏡で、その時代の偉い大名が持っていたもの等がある。坊さんは、固い物体の大きな一片を持ち出して、これは木が石になった物だといった。よく見ると抹香鯨まっこうくじらの下顎の破片である。そういって聞かせた私を見た彼の顔には、自分を疑うお前は実にあわれむ可き莫迦者だという表情があった。彼は同じ文句を何千遍もくりかえしては説明するので、いろいろな宝物の説明を非常に早口で喋舌り続け、松村がそれを訳すのに困ったりした。最後に坊さんは細長い箱の前に来て、如何にも注意深く蓋をあけると、中にはありふれた日本の蛇の萎しなびた死骸があり、また小さな黒い物が二つ、箱の中にころがっていた。坊さんはこの二つがその蛇の角だといった。そんな風な生物がいないことは、いう迄もない。ちょっと見た丈で、それ等が大きな甲虫の嘴であることが判る。だから、そういって聞かせた所が、彼はすこしも躊躇ちゅうちょすることなく、また嬉しい位の威厳と確信とを以て、彼の説明は書面の典拠によっているのだから、間違は無いといった。こうなると仏教の坊主達も、世界の他の宗教的凝り屋と同様、書面の典拠を以て事実と戦おうとしているのである。
今日私は往来で、橙色の着物を着た囚人の一群が、鎖でつながれ、細い散歩用のステッキ位の大さの鉄棒を持った巡査に守られているのを見たが、日本のように、無頼漢も乱暴者も蛮行者も泥酔者もいない所で、どこから罪人が出現するのか、不思議な位である。これ等の囚人達は、邪悪な顔をしていた。若し犯罪型の顔とか表情とかいうことに、いくらかでも真実がありとすれば、彼等は米国の犯罪人と同じように、それを明瞭に示していた。この少数の者共が、人口三千万を越える日本に於て知られている兇状持の全部だといって聞かせる人があったら、私は、限られた経験によってではあるが、それを信じたろうと思う。
昨日私は人力車夫を月極つきぎめで雇ったが、非常に便利である。彼は午前七時半にやって来て、一日中勤める。私が最初に彼の車に乗って行ったのは、上野の公園で開かれたばかりの産業博覧会で、私の住んでいる加賀屋敷からここ迄、一マイルばかりある。公園に着いた我々は、立派な樹木が並ぶ広い並木路を通って行ったが、道の両側には小さな一時的の小舎こや或は店があって、売物の磁器、漆器其他の日本国産品を陳列している。入場券は日曜日は十五セントで、平日は七セントである。入口は堂々たる古い門の下にあり、フィラデルフィアの百年記念博覧会の時みたいに、廻り木戸があった。大きな一階建ての木造家屋が、不規則な四角をなして建っている。美術館は煉瓦と石とでつくった、永久的建築である。図192は農業館の入口を簡単に写生したもので、これは長さ百フィートの木造建築である。内には倭生の松、桜、梅、あらゆる花、それから日本の植木屋の面喰う程の「嬌態と魅惑」との、最も驚嘆すべき陳列があった。松の木は奇怪極る形につくられる。図193はその一つを示している。枝は円盤に似た竹の枠にくくりつけられるのだが、どんな小枝でも、根気よく枠にくくりつける。面白い形をしたのは、まだ沢山あったが、時間がないので写生出来なかった。ちょっとでも写生しようとすると、日本人が集って来て、私が引く線の一本一本を凝視する。この写生をやり終るか終らぬかに、丁寧な、立派ななりをした日本人の役人がやって来て、完全な英語で「甚だ失礼ですが、出品者の許可なしに写生することは、禁じてあります」といった。私は元来写生をする為にやって来たのだから、これには閉口したが、知恵をしぼって、即座に米国の雑誌に寄稿することを決心し、この全国的博覧会の驚くべき性質を示す可く米国の一雑誌へ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画入りの記事を書こうとしているのだと云った。これで彼は大分よろこんだらしく、次に私に、それは商業上の目的でやるのかと質問した。そこで生れてから一度も、松の木も他の木も育てたことが無く、またこの年になって、そんな真似を始めようとも思っていないというと彼は名刺をくれぬかといった。私はいささか得意になって Dai Gakku(偉大なる大学)と書いた名刺を一枚やった。すると彼の態度は急変し、それ迄意匠を盗む怪しい奴と思われていた私が、すくなくとも一廉ひとかどの人間になった。彼はこの件を会長と相談して来るといった。一方私は、会長がどんな決議をするか知らぬので、大急ぎで各館をまわり、出来るだけ沢山の写生をした。

図194は長いテーブルで、娘が十人ずつ坐り、繭まゆから絹を紡つむいでいる所を写生した。これを百年記念博覧会に出したら、和装をした、しとやかな娘達は、どんなにか人目を引いたことであろう。紡ぐ方法は実に興味があった。私は一本の糸を繭から引き出してほぐすものと思っていた。繭は三十か四十、熱湯を入れた浅い鍋に入れ、写生図のテーブルの一隅にある刷毛を用いて、それ等を鍋の中でジャブジャブやる内に、繊維がほぐれて来て刷毛にくっつく。すると、くっついた繊維を全部紡ぐので、一本一本、切れるに従ってまた刷毛でひっかける。鍋の湯の温度は蒸気の管で保ち、上には紡のついた回転棒がある。

何百人という人々を見ていた私は、百年記念博覧会を思い浮べた。そこには青二才が多数いて、薑しょうがパンと南京豆とをムシャムシャやり、大きな声で喋舌ったり、笑ったり、人にぶつかったり、色々なわるさをしたりしていた。ここでは、只一つの除外例もなく、人はみな自然的に、且つ愛らしく丁寧であり、万一誤ってぶつかることがあると、低くお辞儀をして、礼儀正しく「ゴメンナサイ」といって謝意を表す。人々の多くは、建物に入るのに、帽子を脱いだ。だが三人に二人は、扇子か傘で日をよける丈で、頭をむき出しにしているので、脱ぐべき帽子をかぶっていない者も多い。
虫の蝕った材木、即ち明かに水中にあって、時代のために黒くなった板を利用する芸術的な方法に就いては、すでに述べる所があった。この材料で造った大きな花箱に、こんがらかった松が植えてあった。腐った株の一片に真珠の蜻蛉とんぼや、小さな青銅の蟻や、銀線でつくった蜘蛛の巣をつけた花生けもある。思いがけぬ意匠と材料とを使用した点は、世界無二である。長さ二フィートばかりの、額に入っていた黒ずんだ杉板の表面には、木理をこすって目立たせた上に、竹の一部分と飛ぶ雀とがあった。竹は黄色い漆うるしで、小さな鳥は一種の金属で出来ていた(図195)。別の古い杉板(図196)の一隅には竹の吊り花生けがあり、金属製に相違ない葡萄ぶどうの蔓が一本出ていた。蔓は銀線、葉と果実とは、多分漆なのだろうが、銅、銀等に似せた浮ぼりであった。意匠の優雅、仕上げ、純潔は言語に絶している。日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術に於て、かかる簡単な主題(Motif)を具体化する力とを示しているので、これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、そして最大な芸術家であるかのように思われる。彼等は誰も夢にだに見ぬような意匠を思いつき、そしてそれを、信用し難い程の、力と自然味とで製作する。彼等は最も簡単な事柄を選んで、最も驚く可き風変りな模様を創造する。彼等の絵画的、又は装飾的芸術に於て、驚嘆すべき特長は、彼等が装飾の主題として、松、竹、その他の最もありふれた物象を使用するその方法である。何世紀にわたって、芸術家はこれ等から霊感を得て来た。そしてこれ等の散文的な主題から、絵画のみならず、金属、木材、象牙ぞうげで無際限の変化――物象を真実に描写したものから、最も架空的な、そして伝統的なものに至る迄のすべて――が、喧伝けんでんされている。

この地球の表面に棲息する文明人で、日本人ほど、自然のあらゆる形況を愛する国民はいない。嵐、凪なぎ、霧、雨、雪、花、季節による色彩のうつり変り、穏かな河、とどろく滝、飛ぶ鳥、跳ねる魚、そそり立つ峰、深い渓谷――自然のすべての形相は、単に嘆美されるのみでなく、数知れぬ写生図やカケモノに描かれるのである。東京市住所姓名録の緒言的各章の中には、自然のいろいろに変る形況を、最もよく見ることの出来る場所への案内があるが、この事実は、自然をこのように熱心に愛することを、如実に示したものである。
播磨の国の海にそった街道を、人力車で行きつつあった時、我々はどこかの神社へ向う巡礼の一群に追いついた。非常に暑い日だったが、太平洋から吹く強い風が空気をなごやかにし、海岸に大きな波を打ちつけていた。前を行く三、四十人の群衆は、街道全体をふさぎ、喋舌ったり、歌ったりしていた。我々は別に急ぎもしないので、後からブラブラついて行った。と、突然海から、大きな鷲が、力強く翼を打ちふって、路の真上の樫の木の低い枝にとまった。羽根を乱した儘で、鷲は喧やかましい群衆が近づいて来るのを、すこしも恐れぬらしく、その枝で休息するべく落着いた。西洋人だったら、どんなに鉄砲を欲しがったであろう! 巡礼達が大急ぎで巻いた紙と筆とを取り出し、あちらこちらから手早く鷲を写生した有様は、見ても気持がよかった。かかる巡礼の群には各種の商売人や職人がいるのだから、これ等の写生図は後になって、漆器や扇を飾ったり、ネツケを刻んだり、青銅の鷲をつくったりするのに利用されるのであろう。しばらくすると群衆は動き始め、我々もそれに従ったが、鷲は我々が見えなくなる迄、枝にとまっていた。
維新から、まだ僅かな年数しか経ていないので、博覧会を見て歩いた私は、日本人がつい先頃まで輸入していた品物を、製造しつつある進歩に驚いた。一つの建物には測量用品、大きな喇叭ラッパ、外国の衣服、美しい礼服、長靴や短靴(中には我々のに匹敵するものもあった)、鞄、椅子その他すべての家具、石鹸、帽子、鳥打帽子、マッチ、及び多数ではないが、ある種の機械が陳列してあった。海軍兵学寮の出品は啓示だった。大きな索条ケーブル、繩ロープ、滑車、船の索具全部、それから特に長さ十四フィートで、どこからどこ迄完全な軍艦の模型と、浮きドックの模型とが出ていた。写真も沢山あって、皆美術的だった。日本水路測量部は、我国の沿岸及び測量部にならった、沿岸の美しく印刷した地図を出していた。又別の区分には犂すき、耨くわ、その他あらゆる農業用具があり、いくつかの大きなテーブルには米、小麦、その他すべての日本に於る有用培養食用産品が、手奇麗にのせてあった。学校用品は実験所で使用する道具をすべて含んでいるように見えた。即ち時計、電信機、望遠鏡、顕微鏡、哲学的器械装置、電気機械、空気喞筒ポンプ等、いずれもこの驚くべき国民がつくったものである。私が特にほしいと思った物が一つ。それは象牙でつくった、高さ一フィートの完全な人間の骸骨である。この骸骨の驚異ともいうべきは、骨を趾骨に至る迄、別々につくり、それを針金でとめたことで、手は廻り、腕は曲がり、脚は意の如く動いた。肋骨と胸骨とをつなぐ軟骨は、黄色い角で出来ていて、拵え作った骸骨の軟骨と全く同じように見えた。下顎は動き、歯も事実歯※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)しかの中で動くかのように見えた。
外国人向きにつくった金物細工、像、釦金とめがね、ピン等は、みな手法も意匠も立派であった。ある銀製の像には、高さ四インチの人像が二つあり(図197)、一人が崖の上にいて、大きな岩を下にいる男に投げつけると、下の男はそれを肩で受けとめる所を示している。それには松の木もあるが、皆銀でこまかく細工してある。ここに出した写生図は、人像の勢と力とを不充分にしか示していない。

今や私は加賀屋敷第五番に、かなり落着いた。図198は、私が住んでいる家を、ざっと写生したものである。これは日本人が建て、西洋風だということになっている。急いでやったこのペン画は、本物の美しい所をまるで出していない。巨大な瓦屋根、広い歩廊、戸口の上の奇妙な日本の彫刻、椰子やし、大きなバナナの木、竹、花の咲いた薔薇等のある前庭によって、この家は非常に人の心を引く。家の内の部屋はみな広い。私が書簡室即ち図書室として占領している部屋は、長さ三十フィート、幅十八フィートで高さは十四フィートある。これがこの家の客間なので、これに接する食堂とのしきりは折り戸で出来ている。床には藁の莚を敷いて、家具を入れぬ情況の荒涼さが救ってある。夜は確かに淋しい。頭の上では鼠が馳けずり廻る。天井は薄い板に紙を張った丈なので、鼠は大変な音をさせる。床は気温の変化に伴って、パリンパリンといい、時に地震があると屋根がきしむ。そして夜中には、誰でも、確かに歩廊を私ひそかに歩く足音が聞えたと誓言するであろう。だが、私は押込み強盗や掏摸すり等のいない、異教徒の国に住んでいるので、事実、故郷セーラムの静かな町にいるよりも、遙かに安心していられる。

今日裏通を歩いていたら(ここの往来はみな裏通みたいだ)パンみたいな物を、子供のために、山椒魚(図199)その他の奇妙な生き物の形に焼いたものがあった。聞く所によると、東京のある場所では、菓子かしを蟾蜍ひきがえる、虫、蜘蛛等のいやらしい物の形につくっているそうである。それは実に完全に出来ていて、ひるまずに食った人が勝負に勝つのだという。また砂糖菓子や寒天を使用して、実に鼻持ちのならぬような物をつくり上げる正餐もあるそうである。これ等はすべて食えば美味いのだが、むかつきやすい胃袋にとっては、とても大変な努力を必要とする。

町の子供達は昨今、長い竹竿を持って蜻蛉とんぼを追い廻している。また蜻蛉や※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったの胴体に糸をむすび、その糸を竿につけて、これ等が小さな紙鳶たこででもあるかのように、飛ばせているのもある。
今日の午後、私はまた博覧会へ行き、そこに充ちた群集の中を、歩きながら、財布を押え続けたりしないで歩き得ることと、洋傘をベンチの横に置いておいて、一時間立って帰って来てもまだ洋傘がそこにあるに違いないと思うことが、如何にいい気持であるかを体験した。「草を踏むべからず」とか「掏摸御用心」とかいうような立札は、どこにも見られぬ。私は今後毎週二回ずつここへ来て、芸術品を研究しようと思う。今日私は漆うるし細工の驚く可き性質――漆の種類の多さ、製出された効果、黄金、真珠等の蒔絵まきえ、選んだ主題に現われる繊美な趣味に特に気がついた。
装飾品としてかける扁額(国内用か輸出向きかは聞きもらした)は、いずれも美しかった。純黒の漆を塗った扁額には、海から出る満月があった。月は文字通りの銀盤だが、それが海面にうつった光は、不思議にも黄金色であった。我々をいらいらさせるのは、日本の芸術の各種に於る、このような真実違犯である。もっとも私は日本の絵画に、三日月が、我国の絵でよく見受けるように、逆に描かれたのは見たことがない。閑話休題、この扁額は、壁にかかっているのを一寸見ると、完全に黒く、真黒な表面が闇夜を表現し、月は実によく出来ていて、低くかかり、一部分は雲にかくれている。が、よく見ると海岸があって、数艘の舟が引き上げてあり、大きな戎克ジャンクが三つ海上に浮び、一方の側には遠方の岸と、水平線上の低い山とが見える。これ等の芸術家が示す控え目、単純性、及びそれに撞着するようではあるが、大胆さは、実に驚く可きである。誰が黒い背地に黒い細部を置くことを思いつこうぞ! 真黒な印籠の上の真黒な鴉! これは思いもよらぬことであるが、而も日本人が好んでやる数百のことがらの中の、たった一つなのである。
磁器でつくった美事な花環、桜の花、色とりどりな茨いばらや小さな花もあったが、これ等に比べると古いドレスデンやチェルシイの製品も弱々しく、パテでつくったように思われる。あっさりした象牙の扇子に漆で少数の絵を、実に素晴しく描いたものが九十ドル。雪景色を画いた屏風びょうぶが九十五ドル。金属製の花瓶かびんが六百ドル(後で聞いた所によると、これ等はみな外国へ売るためにつくったものである)。品物の多くについている値段を見ていて面白く思ったのは、一セントの十分の一までが書き込んであることである。通貨はエン=ドル、セン=セント、リン=一セントの十分の一である。リンは我国の古い五セント銀貨とほぼ同じ大さの、小さな銅貨である。この博覧会にあった二脚の彫刻した椅子(勿論外国人向き)は八円三十三銭七厘としてあった。こんなに細く区分するのでは、貯金も出来るであろう。一つの扁額(図200)は、竹の額も何もすっかり金属で出来ていた。長さは二フィートで、扁額は活字の地金に似ていた(後で聞いたのだが、この金属は多分シャクドウと呼ばれる、銅と金との合金であったろう)。蜻蛉は高浮彫りで銀、重なり合っている花や葉は金、銀、金青銅で出来ていた。これは実に精巧な出来で、値段は百三十五ドルであった。その他、非凡な扁額が沢山あった。ある一枚には貝類を入れた籠が低浮彫りで表してあった。籠から貝が数個こぼれていたが、「種」を識別することも出来る位完全に出来ていた。又別のには、秋の木葉をつけた小枝があった。異る色彩の縮緬ちりめんで浮き上らせてつくったいろいろな模様は、自然そのままであった。杉板でつくった十枚ひとそろえの懸垂装飾には、奇麗な小さい意匠がついていたが、その中のきのこの一枚は図201で示した。一組の定価が一ドル三十セント。この作品で人を驚かすのは、すべての意匠の独創と、自然への忠実と、それ等の優雅と魅力とである。我々はデューラーの蝕銅版画の草が真に迫っているのに感心し、彼の荒野の絵に夢中になる。だがこの博覧会には、あまり名前を知られていないデューラー何百人かの作品が出ている。漆と黄金と色彩とで、森林中の藪や、竹林や、景色を示した大型な衝立に至っては、美の驚異ともいうべきである。これ等は写生するには余りに込み入り過ぎていたので、最も簡単なものだけを書いた。大胆な筆致で色を使用して布に魚類を描いたものは、それ等の魚のとりまとめ方が実に典雅でよかった(図202)。最も顕著な出品の一つを図203で示す。これは木理を高く浮き上らせた樫の円盤で、樽の頭位の大さがある。その上に、縁に近く、黒い金属でつくった牡牛があり、背中に乗っている童子は、円盤の中央に書かれた何等かの文句を、口をあけ、驚いたような様子をして見ている。童子の衣服は真珠貝を切り取ったもの、手と顔と、牛の頸の上の紐は金。これは実に無比無双で、美麗であった。

九月八日。気持のいい天気で、新鮮な、勢をつけるような風が、故郷に於ると同様に、我々をシャンとさせる。私は追々我々のに比べると、時に恐ろしくじゃれる猫のやり方が、快活な犬とまるで違うように違う、日本の習慣に慣れて来る。この広い都会を歩くのにも、いくらか見当がついて来て、もう完全に旅人ではないような気がしている。昏迷と物珍しさとは、ある程度まで減じたが、これは私に古い事を更に注意深く観察し、新しい事をよりよく会得する機会を与える。人力車で町々を通ったり、何度も何度も大学へ往復したりするのは、常に新奇で、そして愉快な経験である。必ず何か新しい物が見えるし、古い物とて見飽きはしない。低い妙な家。変った看板や、バタバタいう日除け。長い袖を靡なびかせて、人力車の前を走りぬける子供達。頭髪をこみ入った形に結って、必ず無帽の婦人。老女は家鴨あひるのようにヨタヨタ歩き、若い女は足を引きずって行く。往来や、店さきや、乗っている人力車の上でさえも、子供に乳をやる女。ありとあらゆる種類の行商人。旅をする見世物。魚、玩具、菓子等の固定式及び移動式の呼び売人、羅宇らう屋、靴直し、飾り立てた箱を持つ理髪人――これ等はそれぞれ異った呼び声を持っているが、中には名も知れぬ鳥の啼声みたいなのもある。笛を吹きながら逍遙さまよい歩く盲目の男女、しゃがれた声と破れ三味線で、歌って行く老婆二人と娘一人。一厘貰って家の前で祈祷する禿頭の、鈴を持った男。大声で笑う群衆にかこまれて話をする男。興味のあるお客をのせて、あちらこちらに馳ける人力車。二人で引く人力車には、制服を着た士官が、鹿爪らしく乗っている。もう一台のでは、疲れ切ったらしい男が二人、居ねむりをして、頭をコツンコツンやっている。別のには女が二人、各々赤坊を抱いている。もう一台のには大きな子供を膝にのせた女が一人、子供は手に半分喰った薩摩芋を持ち、その味をよくするつもりで母の乳房を吸っている――これ等の光景の全部は、我々の目をくらませ、心を奪う。とても大きな荷物を二輪車に積んだのを、男達が「ホイ サカ ホイ、ホイダ ホイ」といいながら、曳いたり押したりして行く。歩道は無いので、誰でも往来の真中を歩く――可愛い顔をした、小さな男の子が学校へ行く。奇麗な着物を着て、白粉をつけた女の子達が、人力車をつらねて何かの会合へ急ぐ――そして絶間なく聞えるのは固い路でカランコロンと鳴る下駄の音と、蜂がうなるような話し声。お互に、糞丁寧にお辞儀をする人々。町の両側に櫛比しっぴする店は、間口がすっかり開いていて、すべての活動を、完全にさらけ出している。傘づくり、提灯づくり、団扇に絵を描く者、印形屋、その他あらゆる手芸が、明々と照る太陽の光の中で行われ、それ等すべてが、怪奇な夢の様に思われ、そしてこれ等の種々雑多な活動と、混雑した町々とを支配するものは、優雅、丁重、及び生れついたよい行儀の雰囲気である。これが異教の日本で、ここでは動物を親切に取扱い、鶏、犬、猫、鳩等がいたら、それを避けて行くなり、又はまたいで行くなりしなくてはならず、米国では最も小心翼々としている鴉でさえも、ここでは優しく取扱われるので、大群をなして東京へ来るのだという、争う余地のない事実へ、私の心はしょっ中立ち戻るのである。
大学での貝その他の海生物に関する仕事は、うまい具合に進行しつつある。私は展覧の目的で、貝のいろいろな「種」をテーブルにのせたり、標票ラベルをつけたりしている。今朝貝の入った皿を動かしていた時、私はすこし開いた扉に衝突して、貝のいくつかをこぼした。そこで私は、不幸にも且つ誤謬的に、涜神とくしん語の範疇に入れられてある古い純然たるサクソンの表現を、語気強く使用した。私が癇癪を起したのを見て、助手は微笑した。で、かねて私は、日本人が咒罵じゅばしないという事を聞いていたので、助手に向って、このような場合、脳の緊張を軽減するために、何かいわぬのかと質ねた。彼は日本人も時として呪語を使用すると白状した。これはいい、時々必要を感じる日本語の咒罵語が覚えられる――と私は思った。然るに助手が教えてくれたのは「厄介な」とか「面倒な」とかいうようなことを意味する言葉で――多分我国の“Plague take it !”〔罰あたり奴〕程度の表示であろう――これが日本人の涜神の最大限度なのである。しばらくしてから私は陶器の急須を落した。幸い割れなかったので、別に呪語めいたこともいわなかったが、助手に日本人はこんな場合、どんなことをいうかと聞いた所が、「俺に別れの挨拶をしないでこんな風に別れて行くお前は何と無礼であることよ!」という意味のことを、急須に向っていうだけだとのことであった。
大工が仕事をしているのを見てハラハラするのは、横材を切り刻むのに素足でその上に立ち、剃刀のように鋭い手斧を、足の指から半インチより近い所までも、力まかせに打ち降すことである(図204)。彼等はめったに怪我をしないらしい。私は傷痕や、指をなくした跡を見つけようとして、多数の大工を注意して見たが、傷のあるのはたった一人だった。私がその大工の注意をその傷痕に向けると、彼は微笑して、脚部にある、もっと大きな傷を私に見せ、手斧を指さしながらまた微笑した。

図205は、市場で薩摩芋を洗っている人の写生図である。桶には芋が半分ばかり、水にひたっている。二本の長い丸太棒は真中で結んであり、人は単に両腕を前後させる丈で、棒の先端を桶の中で回転させる。市場へ行ってすぐに気がつくのは、蕪、大根、葱その他すべての根生野菜が、如何にも徹底的に洗い潔めてあることである。

木版職人が仕事している所も、中々興味がある。彼等は我国でするように小口を刻みはせず、木理の面を刻むが、スーッスーッと非常に速く刀を使う。印形を彫るには、我国の木彫と同様、小口をきざみ、そして木も黄楊つげのように見えるから、我国のと同じものなのであろう。人は誰でもみな印形を持っている。買物をすると、受取書は赤い色の印形で調印される。印形の漢字は、我々が同様の目的に、古代英語の文字を使用するであろうが如く、古代の様式のが書かれる。図206は手当り次第集めた印形のいくつか〔?〕を示している。書物の多くは一頁大の版木から印刷される。写字者が一頁を、薄い透明な紙に書き、この紙を表面を下に版木にはりつけるから、透いて見える字はひっくり返しになる。彫み手はさきの鋭い小刀を、しっかりと手に持ち、それを手前へ素速く動かして、紙ごと木を彫む。字の輪郭を彫り終ると、円鑿のみで間にある木を取り去る。往来に面して開いた、ある小さな部屋で、七人の彫刻師が働いていた。四人が一列になり、残り三人はそのすぐ後に、これも一列になっていた。彼等は高さ一フィートの卓子テーブルを前に、例の如く床に坐って、人々が見つめ、時々光線をさえぎるのも平気で、働き続けた。

挽物ろくろ師が木の細工をする有様も、同様に奇妙である。旋盤は簡単な一本の回転軸で、それに皮帯を五、六回捲きつけ、皮帯の両端は環になっていて、挽物師はここに両足を入れる。彼は旋盤の一端に坐り、両脚を上下に動かして回転軸を前後に回転させ、この粗末で原始的な方法で、非常にこまかい入籠いれこの箱その他をつくる(図207)。別の場所では、一人の男が何等かの金属性のものを旋盤にかけ、男の子が皮帯を前後に引っぱっていた。

友人と一緒に浅草にある大寺院を訪れた。第一回に行った時のことは、この日記の、前の方のページに書いてある。加賀屋敷から歩いて行って一マイル位であろうが、途中いろいろと見る物があったので、二時間かかった。私は一軒の古本屋で、動物その他の威勢のいい写生図を、一枚一セントで買った。寺院への主要大通りの両側に、子供の玩具を売る店が立ち並んでいるのは、見ても面白い。広い階段は子供が占領して、人形と遊んだり、泥饅頭まんじゅうをつくったり、遊戯をしたりしていた。お寺は一週間七日を通じて、朝から夜まで、礼拝者の為にあけてある。その裏には手奇麗につくった長い廊下みたいなものがあり、ここでは弓矢で的を射ることが出来る。ある場所には鳩、やまあらし、猿その他の動物の見世物があった。非常に利口そうな猿が竿のてっぺん迄登って行き、登り切ると、登りながらつかんでいた繩についている籠を手ぐり上げた。猿が下りて来た時、私は彼と握手をしたが、彼は私の手を引っ張り、おしまいには両足を私の掌に入れて、数分間、如何にも満足したように大人しくしていた。猿の手の触感は子供のそれと全く同じで、あたたかくて、すこし湿っていた。指の線も人間のと同じで、多分我々同様、一匹一匹違っているだろう。猿の見世物の次に、我々は蝋人形を見に行った。私はこの人形で見たような、勢と熱情を、米国では絵でも彫刻でも見たことがない。男の人形は、実に極悪非道な顔をしていた。ある一つは特別に醜悪だった。それは襤縷ぼろを着た不具の老乞食が、車にうずくまっているのを、同様にぞっとするような、もう一人の乞食が、引いている所を見せていた。また蝋人形が踊り廻るように出来ている人形芝居もあった。ある一場面ではお姫様が七尾の狐に変化したが、この演技に関する話を物語る老人を見詰めることも、舞台上の口をきかぬ人形を見るのと同様な研究であり、おまけにオーケストラの立てる、途方もない音や、拍子をやたらに変える所は、私がそれ迄耳にした如何なるものとも丸で違っていた。お姫様は玉座みたいなものに坐り、その周囲には等身大の人形がいくつか、今にも恐ろしいことが起るぞというような表情で集っていた。突然玉座が真中から割れ、お姫様がバラバラになって姿を消すよと見る間に、尻尾が七つある巨大な狐となって現われ、とても物凄い有様で牙を喰いしばりながら舞台をうろつく。この狐は実によく狐に似ていた。私は日本の俗説を知らないので、いろいろな人形がどんな意味を持っているのか、とんと判らなかったが、それ等の持つ力と表情とによって、日本の芸術家が絵画に於る如く、彫刻にかけても偉いということを知った。
大変な景気で相撲をやっていたので、我々は一時間見物したが、これは前に見たのより、遙かに面白かった。相撲取は年も若く、前に見た連中みたいに太っていず、手に汗を握らせるような勝負をやり、高くはね飛ばしたりした。彼等の準備的運動、特に手を膝にのせて先ず片脚を、次に別の脚をもち上げ、固い地をドサンと踏むその莫迦げ切ったやり方は、実に面白い。それからお互にしゃがみ合って、取組合いを始めると、何故だか私には判らぬ理由によって審判官にとめられ、そこで又初めからやりなおす。私は一日中見ていることさえ出来るように思う。
横手の小さな寺院で、我々は不思議な信仰の対象を見た。それはゴテゴテと彫刻をし、色をぬった高さ十フィートか十五フィート位の巨大な木造の品で、地上の回転軸にのっている。その横から棒が出ていて一寸力を入れてこれを押すと、全体を回転させることが出来る。この箱には、ある有名な仏教の坊さんの漢籍の書庫が納めてあり、信者達がこれを廻しに入って来る。楽にまわれば祈願は達せられ、中々まわらなければ一寸むずかしい。この祈願計にかかっては、ティンダルの議論も歯が立つまい! 図208にある通り、私もやって見た。

往来を通行していると、戦争画で色とりどりな絵画店の前に、人がたかっているのに気がつく。薩摩の反逆が画家に画題を与えている。絵は赤と黒とで色も鮮かに、士官は最も芝居がかった態度をしており、「血なまぐさい戦争」が、我々の目からは怪奇だが、事実描写されている。一枚の絵は空にかかる星(遊星火星)を示し、その中心に西郷将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日本人は皆彼を敬愛している。鹿児島が占領された後、彼並に他の士官達はハラキリをした。昨今、一方ならず光り輝く火星の中に、彼がいると信じる者も多い。
近頃私は日本の家内芸術に興味を持ち出した。これは我国で樺の皮に絵をかいたり、海藻を押したり、革細工、貝殻細工その他をしたりするような仕事と同じく、家庭で使用する物をつくることをいう。意匠の独創的と、仕上げの手奇麗な点で、日本人は我々を徹底的に負かす。この問題に関する書物は、確かに米国人にも興味があるだろうし、時間が許しさえすれば、私はこの種の品物を片端から蒐集したいと思う。台所には、深いのや浅いのや、色々形の違ったバケツがあるが、そのどれにも通有なのは、辺から一フィートあるいはそれ以上つき出した、向きあいの桶板二枚で、それ等を横にむすぶ一片が柄になる。これ等各種のバケツは、それぞれ用途を異にする。桶もまた非常に種類があり、図209のような低いのは足を洗うのに使用し、他の浅い形のは魚市場で用いる。桶板のあるものが僅かに底辺から出て、桶を地面から離しているのに気がつくであろう。博覧会には結構な漆器、青銅、磁器にまざって、いろいろな木で精巧を極めた象嵌ぞうがんを施した、浅い洗足桶があった。装飾の目的に桶を選ぶとは変った思いつきであり、そして我々を驚かしたのは意匠、材料及び用途の聳動しょうどう的新奇さである。米国人で日本の芸術を同情的に、且つ鑑賞眼を以て書いた最初の人たるジャーヴェスは、欧州人と比較して、特にこれ等の特質を記述している。曰く「それは装飾的表現に於て、より精妙で、熱切で、変化に富み、自由で、真実に芸術的であり、そして思いがけぬことと、気持のよい驚愕と、更に教養のあらゆる程度にとって、理解される所の美的媚態と、美的言語の魅力とを豊富に持っている*。」

* ジェー・ジェー・ジャーヴェス著『日本芸術瞥見』一八七六年。(J. J. Jarves, A Glimpse of the Art of Japan.)
ある友人が、東京のごみごみした所で、昆虫や海老や魚類やその他の形をした、小さな懸かけ花生けをつくる、籠製造人を発見した。私は彼をさがし出して、数個の標本を手に入れた。図210は蔓のある瓢ひさごの形をしている。葉及び昆虫の翅のような平な面は、蓙ござ編みで出来ているが、他の細部はみな本当の籠細工である。裏に環があって、それで壁に懸け、内部には水を入れる竹の小筒が入っている。図211はザリガニを、図212は鯉を示すが、この写生図は、鯉の太って曲った身体や、尾の優美な振れ方を、充分にあらわしてはいない。図213は※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったで、かなりよく出来ているが、こんな物にあってすら脚の数は正しく、そして身体の適当な場所から出ている。図214の蜻蛉も、かなりな出来である。図215は籠細工で表現するにしては、奇妙な品だが、形は実に完全に出来ているから、菌類学者なら殆どその「属」を決定するであろう。これ等の藁製品は長さ六インチか八インチで、値段はやすく、十セントか十五セントであった。これ等及びこの性質のすべての細工に関する興味は、日本人が模製する動物の形態を決して誤らぬことである。昆虫の脚は三対、蜘蛛は四対、高等甲殻類は五対、そしてそれ等がすべて身体の正確な場所から出ている。これ等を正確にやり得る原因は、彼等が自然を愛し、かつ鋭い観察力を持っているからである。かかる意匠の多くは象徴的である。

停車場から来る途中で、道路に人だかりがしているのに気がついた。見ると片側に楽隊台みたいな小屋があって、そこで無言劇をやっている。身振りが実に並外れていて、また奇妙極る仮面を使うので、私は群集同様、熱心にそれを見た。オーケストラの、風変りなことは、サンフランシスコで聞いた支那楽以上であるが、あの耳をつんざくような喇叭ラッパの音がしないことは気持がよい。私は人力車を道路の一方に引き寄せて、この見世物を写生しようとしたが、肩越しにのぞき込む者が非常に多い上に、前に立って目的物をかくさんばかりにする者共もあったので、単にその光景の印象を得たに止った(図216)。竿から下っている提灯は濃い赤であった。

日本人が衣服や行為の風変りなのを大目に見るのは、うれしい性質である。日本人は好き勝手な身なりをした所で、誰も注意しない。若し、恐ろしく変ったなりをしていれば、微笑する者はあっても、男の子供が嘲弄したり何かすることはない――これは米国の大人や子供達の偏執な動作と、強い対照をなしている。また、日本人が、何人をも思いやり深く取扱うことも、彼等の性格の注目すべき特性である。米国にいると、我々は仕事のことばかり心に思って、急いで道路を歩いたり、密閉した車に乗っていたりするから、僅かな事しか気がつかないが、日本に来た私は、歩いていようと人力車に乗っていようと、とにかく四方八方明けっぱなしなのだから、この国に上陸した瞬間から今迄、絶えず色々なことを一生懸命に見、あらゆる状況や事件を心にとめた。私は今迄に不具者や、襤褸ぼろの着物を着た者や、変な着物が、ひやかされたり、騒ぎ立てられたりしたことを、只の一度も見ていない*。
* 先日ニューヨークの一新聞で、私はあわれむ可き老人が多数の無頼漢に、雪のかたまりをぶつけられて、死んで了ったという記事を読んだ。このような兇暴さが、如何に日本人の持つ我々が野蛮人だという意見を強くさせることであろう。
悪口をいったり、変な顔をして見せたりした結果、熊に食われて了った男の子の話は、この親切と行儀のいい国には必要がない。日本の役人には我々の衣服をつける者がかなり多く、大学の先生のある者も、時に洋服を着るが、何度くりかえして聞いても、嘲笑されたり、話しかけられたり、注目されたりした者は、一人もいない。私は、若し私が日本人のみやびやかな寛衣を着て、米国の都会の往来――田舎の村にしても――へ出たとしたら、その時経験するであろう所を想像しようと試みた。日本人のある者が、我々の服装をしようとする企ては、時として滑稽の極である。先日私が見た一人の男は、殆ど身体が二つ入りそうな燕尾服を着、目まで来る高帽に紙をつめてかぶり、何番か大き過ぎる白木綿の手袋をはめていた。彼はまるで独立記念日の道化役者みたいだった。図217は彼をざっと写生したものである。彼はみずぼらしい男で、明かに上流階級には属していない。当地の博覧会の開会式の時には、最も途方もない方法で、欧米の服装をした人々が見られた。一人の男は、徹頭徹尾小さすぎる一着を身につけていた。チョッキとズボンとは、両方から三、四インチ離れた所まで来たきり、どうにもならず、一緒にする為に糸でむすんであった。かなり多くの人々は、堂々たる夜会服を着て、ズボンを膝まで来る長靴の中に押し込んでいた。この上もなく奇妙きてれつな先生は、尻尾が地面とすれすれになるような燕尾服を着て、目にも鮮かな赤いズボンつりを、チョッキの上からしていた。衣服に関しては、日本固有のものと同様、我々のに比べてより楽な固有の衣服を固守する支那人の方が、余程品位が高い。だが私は、我国の人々が、日本風*に着物を着ようと企てる場合を思い出して、こんな変な格好をした日本人に大いに同情した。日本服といえば、私は大学で、教授のある者が時々洋服を着て来るのに気がついた。然し非常に暑い日や非常に寒い日には和服の方が楽だが、実験室では袂たもとが始終邪魔になるということであった。

* かかる企ての一つを、其後我々はギルバートとサリヴァンの「ミカド」の舞台で見た。日本人にはこれが同様に言語道断に見えた。
江ノ島で私は日本の着物をつくって貰った。これは一本のオビでしめるので、私には実に素晴しく見えた。裾は足の底から三インチの所まで来ていたが、外山にこれでいいかと聞くと、彼は微笑してそれでは短かすぎる、もう二インチ長くなくてはならないといった。だが一体どんな風に見えるかと、強いて質ねた結果、彼にとっては、我々が三インチ短いズボンをはいた田舎いなか者を見るのと同じように見えるのだということを発見した。換言すれば、如何にも「なま」に見えるのであった。かくて、ゆるやかな畳み目や、どちらかといえば女の子めいた外見で、我々には無頓着のように思われる和服にも、ちゃんときまった線や、つり合いがあるのである。支那を除けば、日本ほど衣服に注意と思慮とを払う国は、恐らく無いであろう。官職、位置、材料、色合い、模様、紐のむすび方、その他の細いことが厳重に守られる。
東京、殊に横浜には、靴屋、洋服屋その他の職業に従事する支那人が沢山いる。彼等は自国の服装をしているので、二、三人一緒に、青色のガーゼみたいな寛衣の下に、チュニック〔婦人の使用する一種の外衣〕に似たズボンを着付け、刺繍した靴をはいて、道をペラペラと歩いて行く有様は、奇妙である。彼等を好かぬ日本人の間に住んでいるのだが、日本人は決して彼等をいじめたりしない。一年ばかり前から、日本と支那とは、今にも戦争を始めそうになったりしているのだが、両国人は雑婚こそせざれ、平和に一緒に暮している。この国の支那人は、米国の東部及び中部に於るが如く、基督キリスト教的の態度で取扱われているが、太平洋沿岸の各州、殊にカリフォルニアで彼等を扱う非基督教的にして野獣的な方法は、単に日本人が我々を野蛮人だと思う信念を強くするばかりである。サンフランシスコにある、天主教及び新教の教会や、宗教学校や、その他のよい機関は、輿論よろんを動かすことは全然出来ぬらしい。宣教師問題、及び海外の異教徒達を相手に働いている諸機関を含むこれ等の事柄に触れることは、鬱陶しくて且つ望が無い。然し、まア、この位にしておこう。
材木を切る斧は非常に重くて、我国のと同様に役に立つらしく思われる。刃は手斧ちょうなと同じく、柄に横についている(図218)。

私が前に書いた薩摩芋を洗う男は、薩摩芋を※(「火+喋のつくり」、第3水準1-87-56)ゆでる店に属していることに気がついた。子供達はこの店に集って来て、薩摩芋一つを熱い昼飯とする。店の道具は大きな釜二つと、奇麗に洗った芋を入れた籠十ばかりと、勘定台にする小さな板とで、この板の上にはポカポカ湯気の出る薩摩芋若干が並べてある。このような店が、全市いたる所にある。我国の都会でも、貧乏な区域で、似寄った店を始めたらいいだろう。日本の薩摩芋は、あまり味がしないが、滋養分はあるらしい。
葡萄が出始めた。色は薄緑でまるく、葡萄としては非常に水気が多く、味はいささか酸すい。よく熟していないように見えるが、咽喉がかわいている時食うと非常にうまく、おまけに極く安い。大きな房が、たった二セントか三セントである。葡萄を売る店はどこもみな、興味の深い方法でそれを陳列している。板を何枚か縦に置いて、それに何かの常緑灌木をかぶせ、この葉から出ている小さな木の釘に、葡萄の房をひっかける(図219)。笊ざるの葡萄は常緑樹の葉を敷物にしている。果物店は、季節季節の、他の果物も売る。先日、大学で講義をした後で、咽喉がかわいた上に、埃っぽい往来を長い間行かねばならなかったので、私は人力車の上で葡萄を食おうとした。如何に巧みに口に入れても、日本人は見つけて微笑した。多分野蛮人の不思議な習慣に就いて話し合ったことであろう。

この国の魅惑の一つに、料理屋とお茶屋とがある。給仕人はみな女の子で、挙動はやさしく、身なりはこざっぱりしていて、どれも頭髪を品よく結っている。図220は流行のまげを示している。時々弓形の褶曲しゅうきょくが垂直に立っていて、より大きな褶曲が上にのっているのを見ることもある。

東京のような広い都会で、町や小径が一つ残らず曲っていて狭い所では、最も詳細に教えて貰ったにしても、ある場所を見出すことは殆ど不可能である、チャプリン教授と私とが、あの面白い籠細工の花生けをつくる男をさがそうとした時には、車夫達が全力をつくして、たっぷり二時間はかかった。その最中に、我々は広くて急な長い石段に出喰わしたが、その上から東京がよく見えた。この大きな都市を見渡して、その向うに江戸湾の海運を眺めた所は、誠に見事だった。煙筒えんとつは一本もなく、かすんでさえもいない有様は、煙に汚れた米国の都会に比して、著しい対照であった。勿論風も無かったのである。風の吹く日は非常に埃っぽく、万事ぼやっとなる。急な坂をのぼり切ると、低い小舎がいくつかあり、ここで休息して景色に見とれ、奇麗な着物を着た娘達の出すお茶を飲む。私は一人の娘に頭の写生をすることを承諾させた。有難いことに、遠慮を装ったものか、あるいは本当に遠慮したのか、とにかく向うを向いたので、私は彼女の頭髪を立派に写生することが出来た。 
第九章 大学の仕事
九月十一日。大学の正規な仕事は、今朝八時、副綜理ドクタア浜尾司会の教授会を以て、開始された。彼は先ず、綜理ドクタア加藤が、母堂の病あつき為欠席のやむを得ざるを、綜理に代って陳謝した後、ゆっくりした、ためらうような口調で、前置きの言葉を僅か述べ、この学期が教員にも学生にも、愉快なものであることを希望するといった。午後には先任文部大輔が、大学の外人教授たちを、上野公園の教育博物館へ招いて、接待した。これは、興味の深い会合だった。医科にはドイツ人が配置され、語学校には仏、独、英、支の先生がおり、大学の我々の分科には英国人が四、五人、米国人が八、九人、フランス人が一人、ドイツ人が二人、それから日本の助教授が数名いる。日本人は少数の例外を除いて洋服を着ていたが、支那の先生達はみな支那服であった。彼等は決して服装を変えないのである。
博物館は大きな立派な二階建で、翼があり、階下の広間の一つは大きな図書室になっている。また、細長くて広い部室は、欧洲及び米国から持って来た教育に関する器具――現代式学校建築の雛型ひながた、机、絵、地図、模型、地球儀、石盤、黒板、インク入れ、その他の海外の学校で使用する道具の最もこまかい物――の、広汎で興味ある蒐集で充ちていた。これ等の品物はすべて私には見慣れたものであるに拘らず、これは最も興味の深い博物館で、我国の大きな都市にもある可き性質のものである。我々の持つ教育制度を踏襲した日本人が、その仕事で使用される道具類を見せる博物館を建てるとは、何という聡明な思いつきであろう。ここに、毎年の予算の殆ど三分の一を、教育に支出する国民がある。それに対照して、ロシアは教育には一パーセントと半分しか出していない。二階には天産物の博物館があったが、これは魚を除くと、概して貧弱であった。然し魚は美事に仕上げて、立派な標本になっていた。この接待宴には、教員数名の夫人達を勘定に入れて、お客様が百人近くいた。いろいろな広間を廻って歩いた後、大きな部屋へ導かれると、そこにはピラミッド形のアイスクリーム、菓子、サンドウィッチ、果実その他の食品の御馳走があり、芽が出てから枯れる迄を通じて如何に植物を取扱うかを知っている、世界唯一の国民の手で飾られた花が沢山置いてあった。これは実に、我国一流の宴会請負人がやったとしても、賞讃に値するもので、この整頓した教育博物館で、手の込んだ昼飯その他の仕度を見た時、我々は面喰めんくらって立ちすくみ、「これが日本か?」と自ら問うのであった。
日本のお役人たちが、ドクタア・マレーその他手伝いを志願した人々と共に、いろいろな食物を給仕したが、日本人が貴婦人と紳士とが一緒に坐っている所へお皿を持って行って、先ず男の方へ差し出し、そこで教おそわったことを思い出して、即座に婦人へ出す様子は、まことに面白かった。我国では非常に一般的である(欧洲ではそれ程でもない)婦人に対する謙譲と礼譲とが、ここでは目に立って欠けている。馬車なり人力車なりに乗る時には、夫が妻に先立つ。道を歩く時には、妻は夫の、すくなくとも四、五フィートあとにしたがう。その他いろいろなことで、婦人が劣等な位置を占めていることに気がつく。海外から帰った日本人が、外国風にやろうと思っても、若し実際やれば、彼等の細君達は、きまりの悪い思いをする。それは恰度我国の婦人達が、衣服なり習慣なりで、ある進歩した考(例えば馬にまたがって乗ること)を認めはしても、目につくことを恐れて、旧式な方法を墨守するようなものである。この事実は、日本人の教授の一人が私に話して聞かせた。日本の婦人はこの状態を、大人しく受け入れている。これが、非常に長い間の習慣だからである。酌量としていうべき唯一のことは、日本の婦人が、他の東洋人種よりも、遙かに大なる自由を持っているということ丈である。
私が講義を始めた日、大学へ副綜理が私の召使いになる十四歳ばかりの男の子を連れて来た。すでに私は、彼が非常に役立つことを発見した。彼は実験室で瓶や貝を洗うのを手伝い、毎朝私の黒板を奇麗にする。今日私は試験してやるつもりで、いろいろな貝のまざったのを選り別けさせた所が、彼は「属」や「種」をうまく分けた。また淡水貝のある物を取りにやったら、沢山採集して持って来た。彼は、数年前すでに学生の制服としての役目をつとめ終えた一種の紺の上衣(今は制服は着ない)に、編んだ毛糸の股引をズボン代りにはき、頭は乾いて清潔な黒い頭髪の完全な雑巾箒モップで被われている。写生する間、立っていろといったら、彼は吃驚してドギマギした(図221)。私が部屋へ入って行くと、彼は、私が真似をしたら屹度背骨が折れるだろうと思う位、丁寧なお辞儀をする。

九月十二日、私は最初の講義をした。講義室は建物の二階にある。そこには大きな黒板一枚と、引出しがいくつかついている机と、それから私が講義を説明するのに使用する物を入れておく、大きな箱が一つある。張子製で、各種の動物の消化機関を示した標本のいくつ、及び神経中枢の模型その他の道具は、この課目にうまく役立つだろう。私の学級は四十五人ずつの二組に分れているので、一つの講義を二度ずつしなくてはならず、これは多少疲労を感じさせる。私はもう学生達に惚れ込んで了った。これ程熱心に勉強しようとする、いい子供を教えるのは、実に愉快だ。彼等の注意、礼儀、並に慇懃な態度は、まったく霊感的である。彼等の多くは合理主義者で、仏教信者もすこしはいるかも知れぬが、とにかく、かくの如き条件にあって、純然たるダーウィニズムを叙示することは愉快な体験であろうと、今から考えている。特に注目に値するのは、彼等が、私が黒板に描く色々な動物を、素速く認識することである。これ等の青年は、サムライの子息達で、大いに富裕な者も、貧乏な者もあるが、皆、お互に謙譲で丁寧であり、また非常に静かで注意深い。一人のこらず、真黒な頭髪、黒い眼、そして皆青味を帯びた色の着物を着ているが、ハカマが如何にも半分に割れたスカートに似ているので、まるで女の子の学級を受持ったような気がする。教授室と呼ばれる一つの大きな部屋には、さっぱりした藁の敷物が敷いてあり、椅子の外に大型の机が一つ、その上には横浜発行の朝刊新聞、雑誌若干並に例のヒバチがのせてある。ここで先生は、講義の時が来る迄、ひまをつぶすことが出来る。お昼前に小使が茶碗をのせたお盆と、とても上等なお茶を入れた土瓶とを持って来るが、このお茶は疲れをいやす。教授の連中はみな気持がいい。当大学の統合的の役員は、綜理一人、副綜理二人〔綜理心得〕、幹事、会計、書記であるが、いずれも極めて丁寧で注意が届き、私としては彼等と共にあること、並に、私が現に占めている位置よりも、気持のよいものはあり得ない。器具類に関して、私の欲しいと思うものは、即刻私の為に手に入れて呉れる。私が目下案を立てている箱類は、すぐ造らせてくれることになっている。
屋敷にある私の家では、私が月ぎめでやとった人力車夫が、私のために用達をし、私のいいつけで、理解出来ることなら、何でもよろこんでやる。別の車夫の神さんが――この女は忠義で正直だが、どっちかというと美人ではなく、黒い歯をしている。これは結婚した婦人が行う、実に気味の悪い醜化作用で、我々が歯を白くしようとするのと同じく、わぞわざ苦心して、ある種の染料で歯を黒くする――一ヶ月三ドルという素晴しい金額で、毎晩やって来ては、私のタオルを洗ったり、靴を磨いたり、その他部屋女中の役目をつとめる。私は家全体を占領しているので、隅から隅まで、物をちらかしておくことが出来る。車夫のお神さんに、机の上の物でも、床の上の物でも、断じてさわってはならぬと厳重にいい渡してあるので、彼女はそれを遵奉する。晩になると、いささか淋しいが、私は沢山書き物をするので、暇さえあればペンを持っている。
図222は、私の靴を修繕している支那人の靴屋である。東京及び横浜で、彼等は各種の職業を求めて、仕事を沢山持っているが、就中、洋服屋と靴屋としては、大いに成功している。彼等の中には、非常に上手な写真屋もいる。洗濯屋はいう迄もない。私はすでに洋服一着と、頑丈な靴一足とを支那人達につくらせたが、値段は米国に於るよりも大分やすい。

今日の午後、私はまた産業博覧会へ行った。今度は、博覧会の会長に宛てて、私に写生を許可することを依頼する、大学綜理の手紙を持って行ったのであるが、建物を写生することは許されても、出品物を写生するためには、各出品人の許可を得なくてはならぬという次第である。加藤さんは私のために、出品者に示すべき手紙を手に入れようと努力しておられるが、それ迄の間にも、私はもう数枚写生をしようとした。然し役人達が邪魔をしたり(疑もなく、命令に従ってであろうが)、見物人がスケッチを見ようとして集って来たりして、うるさくて仕方がないから、とうとう絶望して会場を立ち去った。私が会場にいた最後の一時間は、役人の一人が最も無関心な態度で、その実、私が一枚も写生をしないということを見届ける気で、私を尾行した。私はこれは面白いぞと思ったから、あちらこちらの隅々を出たり入ったり、一つの建物から別のに移ったり何かして、さんざん彼を引きまわしてやった。こんな真似をしながらも、私は若干の写生をすることが出来たが、その中の一つは、前から非常に写生したかった、壁にかける美しい板なのである。それは一種の濃紅に塗った簡単な額縁に入っていて、木理もくめをこすり出した虫喰いの杉板四枚に、漆で朝顔その他の植物をあらわし、終りに近い月〔三日月〕は磨いた真鍮で、葉は暗色の青銅で、朝顔の花は白と青の釉薬をかけた陶器で出来ている(図223)。これはすべて盛上もりあげ細工である。葉の端が摩れ損じてギザギザになっている、このような模様を製作するということは、我々には一寸思いつかぬことであろう。日本人はこれをよろこぶらしく、そしてこれは確かに美麗で、人の心を引きつけた。

横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、線路の切割に貝殻の堆積があるのを、通行中の汽車の窓から見て、私は即座にこれを本当の Kjoekkenmoedding(貝墟)であると知った。私はメイン州の海岸で、貝塚を沢山研究したから、ここにある物の性質もすぐ認めた。私は数ヶ月間誰かが私より先にそこへ行きはしないかということを、絶えず恐れながら、この貝墟を訪れる機会を待っていた。私がこの堆積の性質を話したのは、文部省督学のドクタア・マレーただ一人である。今や大学に於る私の仕事が開始されたので、私は堆積を検査する準備にとりかかった。先ず私は鉄道の監理者から、その所有地に入り込む許可を受けなくてはならぬ。これは文部省を通じて手に入れた。間もなく鉄道の技師長から次のような手紙が来た。
総ての線路工夫等等等へ
この手紙の持参人(文部省教授の一人なり)及び同伴の学生に、本月十六日日曜日、線路にそうて歩き、彼等が希望する工事の検査を許可すべし。
彼等は、列車を避け、且つすべての工事に干渉せざるべし。
工部省鉄道局建築技師長   エル・イングランド
当日朝早く、私は松村氏及び特別学生二人と共に出発した。手紙の文句で、線路上でシャベルや鶴嘴を使用することは許さぬことを知ったので、我々は小さな籠を二つ持った丈で、発掘道具は持参しなかった。我々は東京から六マイルの大森まで汽車に乗り、それから築堤までの半マイルは、線路を歩いて行った。途中私は学生達に向って、我々が古代の手製陶器、細工をした骨、それから恐らく、粗末な石器を僅か発見するであろうことを語り、次にステーンストラップがバルティック沿岸で貝塚を発見したことや、ニューイングランド及びフロリダの貝塚に就て、簡単に話して聞かせた。最後に現場に到達するや否や、我々は古代陶器の素晴しい破片を拾い始め、学生達は私が以前ここへ来たに違いないといい張った。私はうれしさの余りまったく夢中になって了ったが、学生達も私の熱中に仲間入りした。我々は手で掘って、ころがり出した砕岩を検査し、そして珍奇な形の陶器を沢山と、細工した骨片を三個と、不思議な焼いた粘土の小牌タブレット一枚とを採集した。この国の原住民の性状は、前から大なる興味の中心になっていたし、またこの問題はかつて研究されていないので、これは大切な発見だとされている。私は一般的な記事を『月刊通俗科学雑誌*』へ書き、次にもっと注意深い報告書**をつくり上げることにしよう。
* その後『月刊通俗科学雑誌』(Popular Science Monthly)の一八七九年一月号で発表。
** その後東京帝国大学から発表された。
九月十七日(月曜日)は国祭日で、大学も休みだった。私はこの日の変った経験を、ペンと鉛筆とで記録することが出来たら、どんなにかよいだろうと思う。私は学生達に、何か面白いことがあるのかと尋ねたが、はっきりしたことは何も確め得なかった。だが、私は、この日諸寺院で、ある種の重要な祭典が、音楽入りで挙行されるということを見出した。上野公園にある美しい寺院は、我々にその祭礼を目撃する機会を与えるだろうというので、我々は群衆にまざってぶらぶらしながら、人々を眺め、そして新奇な光景が沢山あるので、短気を起すことすら忘れていた。この大きなお寺の音楽は、十時に始った。ドクタア・マレー、チャプリン教授、及び日本人の通弁と一緒に、私は集って来た大群衆と共に赫々たる太陽をあびて立った。上野のお寺は日光のお寺に似ている。あれ程壮麗ではないが、極めて美しい。内部は日光同様な鍍金めっきと装飾とで光り輝いている。そしてあけはなしてあるので、内部でやっていることはすべて外から、明瞭に見える。私は自然、神官の神仕えよりも、音楽の方に興味を持っていたので、楽師たちが見える段々の上の方の端に、いい座席を占領した。私は学生から、お寺には各々教区、換言すれば教会の会員連があり、そしてその各々が寺院の一つに属する信仰を誓約しているということを聞いた。外廊はかかる信仰者の座席らしく、彼等はみな脚を身体の下に折り曲げて坐っていた。広々としたお寺の床は、神官達の奉仕や儀式のために留保してあったので、三、四十人集った信仰者達は、どっちかといえば我々の眼界を邪魔した。十時になると、大きな太鼓が鳴り始め、最初はゆっくりしていたが、段々速さが増すと、群衆は寺の前庭に群がり入り、広い階段の下で御祈祷をいい、両手をすり合わせ、そしてお寺の前に必ず置いてある大きな木の箱に、銭を投げ入れた。献金箱を廻すというようなことは、決して行われない。その代用をするものは、長さ四フィート、あるいはそれ以上の大きな箱で、廊下か地面に置かれ、角のある横木何本かが蓋になっているから、投げた銭は必ず箱の中にすべり込む。これが昼夜を通じて使用される。往来を行く人が、信心深い祈りをささげ、十フィート以上もはなれた所から銭を投げ、そして過ぎ去って行く。銭が箱に入らぬこともよくあるので、価格の低い銅銭が、廊下の附近にちらばっているのが見られる。我々と同じ服装をした非常な老人が、日本人がお祈りをする時によくやるように、懇願的な態度で両手をすりあわせながら、熱心に祈祷している有様は奇妙だった。ドクタア・マレーは、通訳に一ドル持たせて寺の裏へやり、寺の当事者に我々を内側へ入れることを許させ得るかどうかをためして見た。彼は間もなく、入ってもいいという許を得て帰って来た。そこで我々は寺の後へまわり、靴をぬいで、反対側に楽師達が坐っている場所に相当する所へ通された。ここには教区の会員達でさえ来ていない。何百人という日本人が、このような場所に三人の野蛮人が、いやに目立って坐っているという新奇な光景を、好奇心深く外から見つめるのには面喰った。紫、緑、その他の絽ろの寛衣を清らかに着た、ハキハキした利口そうな神官達は、荘厳な儀式を行いつつあった。お寺の床は、磨いた黒漆塗りの板を敷きつめたもので、鏡のように光を反射していた。如何に熱心に私がありとあらゆることを注視したことよ! 楽師は、私に多大の興味を持たせた。横笛が一つ、小さな竹笛が一つ、それから、楕円形の底部から、何本かの竹管が、垂直に立っている不思議な形の楽器が二つあった。この楽器は「ショー」と呼ばれ、写生図にある通り、両手で持って横から息を吹き込む。別々に各々四本の支持物の上に立つ、大きな太鼓と、小さな太鼓と、枠に入った平べったい鐘とがあった。図224は楽師達を写生したものである。曲節も旋律も、呑み込むことが出来なかった。音楽は薄気味悪く、壮重に聞えた。笙は、僅かに変化する継続的な音調(というよりも、むしろブーンブーンいう音)を立て続け、他の楽器は、時々それに入り込んだ。この寺院の平面図は、図225で示してある。それは主要な広間と、短い階段を下った所にある短い廊下と、この廊下の他端の、短い階段を上った所にある、内部の広間とから成っている。かかる非凡な寺院の内部の、彫刻や、手のこんだ装飾や、繊美な細部を記叙することは出来ない。私とても、それを試みようとは思わぬ。写生図で1は内部の広間で、そこにある机には食物の奉納品を置き、2は二列にならんだ神官の位置を示し、3は我々の位置で、4は楽師、5は御維新までは偉い大名であった神官の首領の子息を表し、外廊の小さな点は儀式につらなる会員達を示している。楽師達が長い間努めた後、今まで坐っていた神官の列が立ち上り、一番位の高いのが二人、厳かな足取りで内部の寺院へ入り、別の二人が短い階段を下りて通路に立ち(6)、更に二人が今迄神官が坐っていた所に、また別の二人が我々の背後に立った。彼等が頭にいただく物には、二種類あった。一つは儀式用の、黒い絹でつくった袋に似た品で、両側が平であって、これは位の低い者がかぶり(図226)、他は(図227)大名がかぶった儀式用の品である。これは横側に平べったくした、黒い漆塗りのもので、後の方をつき出してかぶる。儀式というのは、死んだ将軍のために、食物のお供物をのせたお盆を運び入れるのであった。入れる前に、神官は白い紙の帯を鼻と口との上にむすんで、お供物に息がかからぬようにする。お盆は、いう迄もないが、色を塗らぬ軽い木で出来ていて、浅く、四隅を削り落した四角形である。これ等は釉薬をかけぬ、淡赤色の陶器の台の上にのっている。食品のお供物は、米をひらたい球にしたもの二つを重ねたもの、魚、野菜、煎餅その他から成っていた。これはお盆を支える台と同じ陶器の浅い皿に入っている。台の高さは六インチか八インチ位である(図228)。これ等は以下のようにして運び入れられる――先ず広間の神官の一人が、両手でそれを持って来て、他の神官に近づくと、この神官は非常に低くお辞儀をしてから、それを受取る。すると最初の神官はそこで同じ様なお辞儀をする。次に第二の神官がそれを第三の神官へ持って行くと、彼は同様に恭々しくお辞儀をし、それを受取ると交互にお辞儀をする。第四の神官は受取ると、ゆっくりした、整然たる歩調で、階段を下りて通路へ行き、そこに立っている神官に、他の人々と同じような鹿爪らしいお辞儀をして、それを渡す。で、最後の神官は階段を上って、内陣の机に近くいる神官に渡すと、この神官はそこにいる別の神官に渡し、この神官に至って、ようやく御供物を机の上に或る位置で置く。神官の最後の二人は、以前は大名であった。お供物はすくなくとも二十あり、それに一々同じ様な厳かで恭々しい会釈えしゃくが伴うのだから、この儀式は、徹頭徹尾、興味はあったが、長い時間を要した。その間中、楽師達は気味の悪い神秘的な音楽をつづけ、外にいる群衆は、儀式と、好奇心に富んだ然し熱心な野蛮人とに、注意をふり分けるらしく思われた。

楽師その他すべての人々が坐っているので、我々も、脚は恐しく痛かったが、出来るだけうまく、坐るような風をしていた。然しこの光景は、たしかに興味が深かった。式が済むと、外廊にいた会衆は立ち上って、寺院の床を横切り、階段を下りて通路へ行った。神官は丁寧な態度で、我々に従えと招いた。寺の外側には細長い卓子テーブルがあり、その上には四角い箱に四角いお盆が乗った、軽い木の物置台が置いてあった。お盆の中には、各種の食品のお供物を入れた、釉薬をかけぬ皿があり、その前には、地面の上に、より大きなお盆があった。この、美しい漆器をつくる国で、白木の盆、机、その他の家具を見ると、まことによい感じを与えられる。この、絵具も漆も塗らぬ木と、釉薬をかけぬ陶器を使用するというのが、神道の法式なのである(図229)。神官が我々各々に酒を一杯呉れたが、それは今迄私が飲んだ酒の中で一番美味だった。盃は素焼の陶器で、中心に徳川家の紋章が浮き上っている。また、これも徳川の紋を捺した紅白二枚の煎餅も貰った。徳川家は、この寺院の保護者なのである。かくて我々は、神道の信仰の聖餐拝受につらなった。キリスト教の宣教師たちは、我々が偶像崇拝をやっていたと考えることであろうが、神官が我々を招き入れた程に寛裕であった以上は、我々も彼等同様に、宗教的の頑迷固陋から自由であり得る。

この物珍しい経験の後に、我々はすぐ近くにある産業博物館を、また見に行った。日本人ばかりで成立っている海軍軍楽隊は、西洋音楽を練習し、我々と同じ楽器を持ち、同じ様な制服を着ていた。顔さえ見なかったら、我々は彼等を西洋人だと思ったことであろう。日本人の指揮者は、遠慮深く指揮棒をふって指揮し、楽員の全部に近くが、殆ど目に見えぬ位の有様で、足で拍子をとっていた。君は、私が彼等の奏楽をどう考えたか知り度いであろう。我々のとはまるで違う楽器と音楽とを持つ日本人が、これ程のことをなし得るという驚く可き事実が、我々をして彼等の演奏を、どうしても贔屓目ひいきめで見るようにして了う。大喇叭ラッパの揺動と高音とは、よしんば吹きようが拙劣でも、必ず景気のいいものだが、而も批評的にいうと、演奏の十中八、九までは、我国の田舎のあたり前の楽隊が、簡単な音楽をやるのに似ていたといわねばならぬ。音楽の耳を持たぬ者には、これは非常によく思えたであろう。とにかく空中に音が充ちたのだから。然し、音楽を知っている者は、不調音を聞き、間違った拍子に気がつくことが出来た。小喇叭の独奏は、感心してもよい程の自由さを以て演奏された。彼等は、ちょいちょい急ぎ過ぎたが、やがてうまい具合に調子を合わせた。「バグダッドの酋長」の序曲で、調子が高く高くなって行く場所は、実に完全だった。私は日本へ来てから、まだ一度も、我々の立場から音楽といい得る物を聞いたことが無いので、日本人が西洋音楽をやるということは、私にとっては北米インディアンが突然インネスかビヤスタットGeorge Innes, 1825―1894.〔Albert Bierst※(グレーブアクセント付きA小文字)dt, 1830―1902. いずれも米国の風景画家〕を製作し得たと同様に、吃驚すべきことであった。演出曲目の中には、あの奇麗なダニューブ・ワルツ、マイエルベールの「ユグノー」のグランド・ファンタジア、グノウの「フアウスト」の選曲、その他同じようなものがあったが、いずれも最も簡単に整曲してあった。
街路を通行していると、時々英語で看板を書いたのを見受ける。これは、あるいは通りかかるかも知れぬ少数の外国人の注意を引くと共に、英語を学んだ日本人に取って、とても素敵なことのように見えるようにしたのである。洋服屋の店で見たのには The place build for making dresses according to the fashion of different countries〔各国の流行に従って衣服をつくる為に建てた場所〕とあった。これは英語の新聞に出た、ある広告に比較すれば、簡単である。
町で遊んでいる子供達の習慣や行為は、見れば見る程、我国の子供達のと似て来る。最初、変った着物を着、奇怪な有様で頭の毛を剃り落し、木製の草履ぞうりをはいてヒョコヒョコ不思議な足どりで歩いているのを見ると、子供ということは判るが、地球以外の星からでも来たように思う。彼等は紙鳶たこをあげ、独楽こまを廻し、泥で菓子をつくり、小さな襤褸ぼろの人形をつくる。襤褸人形には、実に妙な格好をしたのがある。私は一人の子供が別の子供の後にかけ寄り、両手を目の上にかぶせ、正しく言いあてる迄は手を離さないのを見た。お互に背負い合ったり、羽根をついたり、我々のジャックストンス〔お手玉に似たもの〕に似た遊技をしたりする。私は、彼等がマーブルス〔大理石、硝子ガラス等の玉を地面の穴へころがし込む遊技で、今はやっている〕をやっているのは、見たことがない。マーブルスが無いからである。また鞠まりも、我々がやるようにしては遊ばず、何度弾はねかえすことが出来るかを見る為に、地面に叩きつけて遊ぶ。もっとも彼等は、数えながら取り出す各種の遊びや目かくしや、その他並んだり、一列になって進行したりする遊戯はする。お母さんは、我々と同じようにして子供と「むずむず鼠」をして遊ぶが、只これは鼠でなくて狐である。彼等は大きな木の根元で遊んだり、砂に小さな路をつくったり、これは家だ、お寺だ、橋だ等といって、小さな物を地面につき立てるのが、特に好きらしい。私は屡々、人の家で、水を満した大きな浅い皿の中に、小さな植物がすこし生えた古いこんがらかった木の根を入れた物を見た。それには小径がうねっており、渓谷には橋がかかり、そこここに玩具の家が建っている。これ等は組になっているのを買うので、老幼を問わず、この、簡単な小さい風景を楽しむらしく思われる。このような、見受ける所如何にも子供らしい遊びを楽しむことが、我々に、日本人は本質的に女らしい国民だという観念を与えた。而も台湾の土民との戦や、最近の薩摩の謀反で、彼等は最も激烈な勇気と戦闘心とを示した。
人々が、屡々手をつなぎながら、一緒に歩いているのは、見ても気持がよい。婦人や子供は通常手をつないで歩く。大きくなった娘と、彼女のお母さんなりお祖母さんなりは、十中九まで手をつないで行く。お父さんは必ず子供と手をつなぎ、何か面白いことがあると、それが見えるように、肩の上に高くさし上げる。日本人は一体に表情的でないので、我々は彼等に感情が無いと想像する。彼等は決して接吻キスしないものとされている。お母さんが自分の子に接吻するのさえ珍しいが、それとても、鼻を子供の首にくっつける位である。私は外山教授に人々、あるいは恋人同志が接吻するかどうか、正直に話して呉れと頼んだ。すると彼は渋々、「うん、それはするが、決して他の人のいる所や、公開の場所ではしない」といった。私が彼から聞き得た範囲によると、日本人にとっては、米国人なり英国人なりが、停車場で、細君に別れの接吻をしている位、粗野で、行儀の悪い光景はない。これは、我々としては、愛情をこめた袂別か歓迎か以上には出ないのである。我々は、単に我々の習慣のあるもの――例えばダンスの如き――が、彼等にどんな風に見えるかを実認しさえすれば、彼等の同様に無邪気な風習が、我々にどんな風に思われるかを了解することが出来る。外山の話によると、彼がミシガン大学へ入学すべく米国へ行った時、最も不思議に思ったのは、停車場で人々がさよならをいっては接吻して廻り、学校の女生徒たちがお互に飛びついて行くことであったが、男がこんな真似をするに至っては、愚の骨頂だと思ったそうである。
今夜、何かの祭礼がある。私は一時間あまりも往来に立って、特に一時的に建設された舞台の上で行われる無言劇を、陽気に見ている群衆を見た。これを楽んでいる間に、色の淡い提灯を持った子供達が、車を二台、引張って来た。車は、乱暴に板でつくり上げた粗末な二輪車で、子供ならではやらぬ調子で太鼓を叩き、叫び、笑う子供達で一杯つまっていた。その上部の枠組は、紙の人形、色布、沢山の提灯ちょうちん等で、念入りに装飾してあった。車が人波にもまれて過ぎ行く時、私は辛じて、その外見の概念丈を得ることが出来た(図230)。大人も数名、車をしっかりさせる為か、方向をつける為かについて行った。子供が蟻のように群れ、人が皆笑い叫んでいる光景は、まことに爽快であった。日本はたしかに子供の天国である。そして、うれしいことには、この種の集りのどれでも、また如何なる時にでも、大人が一緒になって遊ぶ。小さな子供も、提灯で小さな車をかざり立て、大きな車の真似をしてそれを町中引き廻し、そして彼等のマツリ、即ち祭礼をする。図231は、子供がマツリ車をつくろうとした企てを写生したものであるが、彼等はこれで、あたかも大きな車を引いているのと同様、うれしがっていた。竹竿からさがっている提灯は、非常に奇麗な色の紙で出来ていて、この車を引いて廻ると、すべての物が踊り、そしてピョコピョコ動いた。また、先端に紙を切りぬいてつくった大きな蝶々をつけた、長い竹竿を持った子供もいた。子供が風に向って走ると、蝶はへらへらするように出来ている(図232)。

九月二十一日。市場は追々果物で一杯になって来る。柿の一種で、鮮紅色をしたのは美味である。葡萄も熟して来る。梨は、見た所未熟だが、常緑木ときわぎの葉を敷いた浅い桶の中に、三角形に積まれて奇麗に見える(図233)。市場にあるものは、すべて奇麗で、趣味深く陳列してある。実に完全に洗いこするので、葱ねぎは輝き、蕪かぶは雪のように白い。この国の市場を見た人は、米国の市場へ持って来られる品物の状態を、忘れることが出来ない。

一人の友人と共に、私は三人の日本の舞妓を見た。この三人は前から約束しておいたので、一人はまったく美しく、他の二人は非常に不器量だった。我々は襖を外して二間を打通した部屋を占めた。蝋燭が娘たちに光を投げるように塩梅あんばいされて置かれ、二人の娘がギターに似た物を鳴らし続ける間に、一人が舞踊をした。踊り手は、単調な有様で歩きまわり、身体をゆすり、頭、腕、脚はいろいろな形をした。舞踊には各名前がついているらしく、身振は、舟を漕ぐこと、花をつむこと等を示すのを目的としている。各種の態度に伴う可く、扇子はねじられたり、開かれたり、閉じられたりした。衣服は美麗な絹の縮緬ちりめんである。これをやっている最中に、この家の女中が、我々三人のために、ゆで玉子を十六持って来、続いて、十二人の腹のすいた人々にでも充分である位の、魚、海老えび、菓子、その他を持って来た。我々は晩飯を腹一杯食ったばかりなので、勿論何も食うことが出来なかった。そして私は内心、やる事がいくらもあって時間が足りぬ位なのに、こういう風にして大切な刻々を失うことを思って呻吟した。それで、この見世物が終った時にはうれしかった。もっとも、人類学的見地からすれば、この展覧会は甚だ興味があった。
九月二十二日。今日と昨日は、大森の貝塚のことを書き、そこで発見した陶器の絵を書くのに大勉強をした。この辺には、参考書が至ってすくないので、科学的の性格のものを書くのに困難を感じる。
我々が上野のお寺へ行った日には、お寺へ通じる道に沿っていくつかの舞台が建てられ、その上では男達が大小の太鼓と、鈴と、横笛とで音楽を奏していた。彼等はすこしも疲れたらしい様子を見せず、何時間でも続けてやる。私は、我々が音楽と思う所のものの曲調を捕えようとして、一生懸命に耳を傾けたが、結局それは無駄で、私は絶望して断念した。私には音楽が分らなかったばかりでなく、舞台を立てて一体何をやっているのか、そのこと全体も同様に分らなかった。図234はかかる音楽家達の外見を示している。一人の男は、頭の上に、ボネット〔前部がつば広の婦人帽〕に似たように畳んだタオルをのせている。

図235は、私の特別学生の一人が、標本を選りわけている所の写生図である。頭髪がモジャモジャしているのは、日本人が理髪という簡単で衛生的な方法を採用する迄は、頭のてっぺんを剃り、丁髷ちょんまげをつけていた結果なのである。何年も何年も剃った後なので、髪毛は容易に分れず、また適当に横にすることも出来ない。私は、文章では示すことが困難な日本の衣服を見せるために、この写生をした。これでも見えるように、袂は半分縫ってあるが、これが彼の持つ唯一のポケットなので、両方の袂に一つずつある。彼は外国風の下着を着ているが、これが無ければ腕はむき出しである。柏木氏の話によると、三百年前の日本人は我々と同じような、せまい袖を着ていたし、二百年前でさえも、袖は非常にせまかったそうである。スカートは、実のところ、横でひらいた、ダブダブなズボンで、後には直立する固い部分があり、サムライだけがこれを着る権利を持っている。サムライの娘たちも、学校へ行く時は、いく分かの尊敬を受けるために、これを身につける。図236と図237とは、予備校へ行っている少年たちを写生したものである。彼等はここで、大学へ入る前に英語をならう。私はよく実験室の窓から彼等を見るが、まことに眉目みめ麗しく雄々しい連中で、挙動は優雅で丁寧であり、如何にも親切そうにこちらを見るので、即座に同情と愛情とを持つようになる。悪意、軽蔑、擯斥等の表情は見受けないような気がする。私は日本人がかかる表情を持っていないというのではない。只、私はそれ等を見たことが無いのである。

博覧会が開かれてから、私は都合七回見に行き、毎回僅かではあるが、写生をして来ることが出来た。図238は、娘が髪を結っている所である。これは等身大で、木から高浮彫で刻み出し、纒衣きものは着色してあって、極めて優雅であった。群衆のまん中で写生をするのは困難であったが、その群衆とても米国の同様な博覧会群衆にくらべれば、平穏な海である。花、或は植木を入れる物(図239)は、器用な細工であるが、製作には多少の困難が伴う。一番下の桶を構成する桶板の中の三枚が延びて、上にある三個の小さい桶の構造中に入り込み、これ等の三個からまた桶板が一枚ずつ延びて、同じ大さの桶を上方につくっている。木材がまことに白くて清潔なので、この作品は完全そのものであった。図240は花を生ける桶である。前者に比して遙かに小さいが、構造の思いつきは同じである。高さは二フィート位で、この上もなく華奢きゃしゃに出来ていた。右側にある小さい桶は楕円形である。また磁器でつくった長さすくなくとも三フィートの植木鉢の、側面に藍色で横に松を描いた物に、倭生の松樹を植えたのは目立って見えた(図241)。この会の一隅には、私には全く目新しい、不思議な物が展観してあった。大きな竹の枠に、二枚の非常に細い網かモスリンか、とにかく向うが透いて見える一種の布が張ってあった。これ等は一インチばかり離れていて、一枚には暗い木立の前景と、遠方の丘の中景とが描いてあり、他の一枚には、あの雄大な富士の、力強い写生が描いてある。これは、網をすかすことによって遠く見えるようにしてあるのだが、その幻惑は完全であった。かかる驚くべき、額縁入りの装飾品の一つを、私は写生することが出来たが、それは図242である。これは腐った虫喰の杉の底部につくられ、木理が明かに見え、実によく出来ていた。長さは三フィート半で、濃紅色の額縁に入っていた。模様はある木の幹か、或は恐らく葡萄の蔓であろうと思われるものと、一枚の葉だけを見せている。これは竹で出来ていて、緑色をしているが、多分これは漆を塗ったのであろう。帆だけを額縁の上に出した三艘の船は、みな浮彫細工で、それぞれ骨か象牙と、真珠と、青銅或は青銅漆かで出来ていた。帆は細い布をかがってつくるのであるが、そのかがり目が、実にこまかく彫ってあり、全体の意匠が、日本の芸術家の意想をよく現していた。また細工のこまかい漆塗りの箪笥たんすもあった。これには引出が三つあり、意匠としては最も不思議な主題、即ち象牙で彫った車輪が、渦を巻いて流れる水に、半分沈んでいる、というものがついている(図243)。写生図で見える通り、車輪は完全に丸くはない。これは、水の流れが甚だ急であるとの感を強める為である。車輪の轂こしきは、引出しを引張り出すに用いる鈕つまみになっているが、箪笥の引出しの装飾に、ひん曲った車輪が半分水に浸ったのを使用するというような事は、日本人ならでは誰が思いつこうか? 世界をあげて、日本の装飾芸術に夢中になるのも当然である。ここで私は書かねばならぬが、日本の俗伝や神話に就ては、私はまだ何も学んでいない。私は現代のものに心を奪われていて、過去を振返る余裕が無いのであるが、我々にとって、かくも神秘的に見える装飾の主題の、全部とは行かずも多くは、疑もなく、日本のよく知られた物語か神話かに関連しているのであろう。

図244では、二種の鋤すきと耨くわとが示してある。断截端が僅か内側に彎曲しているので、地面を掘る時に草の根を確実に切断するが、我々が使用する鋤や耨は、そこが反対にまるくなっているから、ともすると根が横にすべって了う。鋤の木の柄は、我国の物のように鋲で止めはせず、金属部の溝の中へ入り込んでいる。図245は道路で使用する便利な耨の一種を示す。柄は長さ約三フィートの、軽くて丈夫な竹で、籠細工の胴体は鉉つるで柄とつらなり、鉄の縁がついている。労働者は掘ったり掻いたりする時、鉉をしっかりと希望の角度に押え、そして塵埃のかたまりは、鉉から手を離すと同時に、ドサンと落ちる。籠細工だから非常に軽い。
第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚
今日、ドクタア・マレー、彼の通訳及び私は、人夫二人をつれて大森の貝塚へ行った。人夫は、採集した物を何でも持って帰らせる為に、連れて行ったのである。大森の駅からすこし歩いて現場に達すると共に、人夫達は耨くわで、我々は移植鏝こてで掘り始めた。二時間ばかりの間に、我々は軌道に沿った深い溝を殆ど埋めた位多量の岩石を掘り崩し、そして陶器の破片その他を沢山手に入れた。泥にまみれ、暑い日盛で昼飯を食いながら、人夫に向かって、掘り崩した土をもとに戻して置かぬと、我々は逮捕されると云ったら、彼等は即座に仕事にとりかかり、溝を奇麗にしたばかりでなく、それを耨で築堤へつみ上げ、上を完全に平にし、小さな木や灌木を何本か植えたりしたので、我々がそこを掘りまわした形跡は、何一つ無くなった。大雨が一雨降った後では、ここがどんな風になったかは知る由もない。私は幸運にも、堆積の上部で完全な甕二つと、粗末な骨の道具一つとを発見し、また角製の道具三つと、骨製のもの一つをも見つけた。
ここ数日間、私は陶器の破片の絵をかいているが、装飾様式が種々雑多であることは著しい。甕及び破片は、特に記した物以外、全部実物の半分の大きさで描いてある。図246は埋積の底で発見された。この品の内側には鮮紅な辰砂しんしゃの跡が見られ、外側は黒く焦げ、その間には繩紋がある。図247に示すものは黒い壁を持つ鉢で、底部は無くなっている。図248は別の鉢で、この底部には簡単な編みようをした筵むしろの形がついている。図249と250はその他の破片で、辺へりや柄や取手もある。図250の一番下の二つは、奇妙な粘土製の扁片と唯一の石器とを示し、図251は骨及び鹿角でつくった器である。この事柄に大なる興味を持つ日本の好古者の談によると、このような物は、いまだかつて日本で発見されたことがないそうである。大学には石版用の石が数個あるから、私は発見したものは何によらずこれを描写しようと思う。大学は、この問題に関して私が書く紀要は何にまれ出版し、そして外国の各協会へ送ることを約束してくれた。私はこのようにして科学的の出版物をいくつか出し、それを交換の目的で諸学会へ送り、かくして科学的の図書館を建て度い希望を持っている。この材料を以て、私はすでに大学に於て、考古学博物館の発端ともいうべき小さな部屋を一つ開始した*。

* 現在大学にある大きな考古学博物館や、すでに数多の巻数をかさねた刊行物の発端は、実にこれなのである。
昨夜福井氏が私の絵を見に来た。私は日本の習慣に就て彼と長い間話をした。彼は私の聞いたことは何事にまれ、出来得るかぎり説明して呉れ、私はいろいろと新しいことを知った。サムライの階級――彼もそこに属していた――は、各地方の主なるダイミョーの家来であった。彼等は最高の階級を代表し、数年前までは二本の刀を帯おびることを許されていた。その短い方は、腰をめぐる紐の内側の褶ひだに、長い方は外側の褶にさし込まれるのであった。帯刀は勅令によって禁止されたが、君主に対する忠誠から、この勅令に従った際の犠牲が如何に大なものであったかは、西洋の国民には全然見当もつかないのである。両手で使う大きな刀は、敵と戦う為のもので、小さい刀は、大きな刀のした仕事を仕上げる為のものである。福井氏は私に、封建時代の死刑について話してくれた。彼は、そのあるものを目撃したことがある。職業的斬首刑吏は、最低社会階級なる特別の階級――事実、追放された人々――(政府は最近この区別を撤廃した)から選ばれた。斬首刑吏は犠牲者の着衣を貰うことになっていたので、非常に注意深くそれを首から押し下げ、膝から引き上げた。これは、処罰される者が、首を前方につき出して坐っている時、鋭い刀は電光石火、首をはねるばかりでなく、膝さえも切るので、斬首刑吏が配慮しなければ、着衣は役に立たなくなるからである。
サムライは、一年に一度、彼等の刀身を検査する目的で集合した。刀作者の名前は刀身の、柄の中に入り込む部分にきざんであり、柄は小さな木製の釘でとめてある。これ等の会合は、事実、あてっこをする会なので、刀身の作者の名は刀身、即ち鋼鉄の色合、反淬やきの深さ、やわらかい鉄へ鍛鉄した、鋼鉄の刃の合一によって出来る、奇妙な波のような線等を検査することによってのみ、決定されねばならぬ。すべての人々が彼等の推定を記録し終ると、刀から柄を取外して署名を読む。刀身を取扱う時には、外衣の長い袖の上にそれをのせ、決して手で触らず、また鞘から抜く時には、必ず刃を手前にする。福井氏は、「サムライの魂」と呼ばれる刀に関する多くの礼式を話してくれたが、私はそれ等を記録に残す程明瞭に了解しなかった。
私は往来を歩く若い男が、父親が小さな娘を連れている以外には、決して若い娘を伴うことがない事実に、何度も気がついた。娘は必ず一人でいるか、他の娘と一緒にいるか、母親と一緒にいるかである。青年が異性の一人に向ってお辞儀をしているのを見ることさえ稀である。私は福井氏に向って、あなたの知人の中に若い娘が何人いるか、一緒に博覧会を見に行こうと招待する位よく知っている娘は何人位かと、あけすけに質問した。すると彼はこんな思いつきを笑った上で、若い娘なんぞは只の一人も知らないと白状した。私には容易にそれが信用出来なかったので、我国では、青年どもが娘の友達を馬車遊山、ピクニック、音楽会、帆走、その他へ招待することを話したら、彼は驚いていた。まったく彼は卒直に吃驚して、そのような社会的の風習は、日本では知られていないといった。友人を訪問する時、何かの都合で姉妹なり娘なりがその場に居合せば、彼が子供の時の彼女を如何によく知っていたとしても、彼女は丁寧にお辞儀をして座を外し、また往来で偶然出合えば、娘は日傘なり雨傘なりを低く傾け、彼は顔をそむける。これは下級のサムライの習慣で、上級のサムライだと同様の場合、丁寧にお辞儀をするのだと、福井氏がいった。
その後外山教授に、彼の経験も同じであるかを質ねたら、彼もまた福井氏のいった事を総て確証した。「自分は、若い淑女は只の一人も知らぬ」と、彼はいった。夫と妻とが並んで往来を歩くようになったのも、ここ数年来のことで、而もそれは外国風をよろこぶ急進論者が稀にやるばかりである。夫婦で道を行く時、十中八、九、細君は五フィート乃至十フィート夫に後れて従い、また夫婦が人力車に相乗りするということは、極りの悪い光景なのである。「自分がこんな光景に接すると、その夫は顔を赤くする。若し夫が赤くならなければ、自分の方が赤くなる」と、外山教授はいった。彼は更に、このような男は、「鼻の中の長い毛」を意味する言葉で呼ばれるといった。鼻の穴の中に長い毛を持つ男は、細君に引き廻されることになっているので、つまり我々の所謂 henpecked〔牝鶏につつかれる。嬶天下〕なのだが、この言葉は、彼等の henpecked を意味する言葉が我々にとって不思議であると同様、彼等にとって不思議に思われる。
私にこの話をしてくれた日本人は二十二歳であるが、結婚する意志があるのかと質問したら、「勿論だ」と答えた。「然し」、私はまた質問した、「君の知人の間に娘の友人が無いのに、君はどうして細君を見つけることが出来るのか」、すると彼は、それは常に友人か「仲人」によって献立されるといった。ある男が結婚したいという意志を示すと、彼の家族なり友人なりが、彼の為に誰か望ましい配偶者を見出してくれる。すると彼は、娘の家族と文通して、希望を述べ、且つ訪問することの許可を乞い、そこで初めて、或は将来自分の妻になるかも知れぬ婦人と面会する。彼等が見た所具合よく行きそうだと、その報道が何等かの方法によって伝えられ、そして彼は結婚の当日まで彼女に会わない。私はそこで、「然し君にはどうして、彼女が怠者だったり、短気だったり、その他でないことが判るのだ」と聞いた。彼は、それ等の事柄は、婚約する迄に、注意深く調べられるのだと答えた。更に彼は、「この問題に近づくのに、米国風にやると、娘は必ず真実の彼女と違ったものに見える。彼女は男の心を引くように装い、男を獲るような行為をする。我々が遙かによいと思う我々の方法によれば、これ等は感情をぬきにした、双方の将来の幸福を考える、平坦な経路を辿る」とつけ加えた。この方法は我々には如何にも莫迦ばかげていて、またロマンティックで無いが、而も離婚率は我国に比べて遙かに低い。私の限られた観察によると、日本では既婚者たちが幸福そうにニコニコして、満足しているらしく見える。このように両性が社交的に厳重に分離されている日本では、青年男女が、非常に多くの無邪気で幸福な経験を知らずにいる。我国のピクニックや、キャンディ・パーティ〔若い男女が集まって、砂糖菓子等をつくる会合〕その他の集会や、素人芝居や、橇そりや、ボートや、雪すべりや、その他の同様な集りを思い浮べると、この点に関する社交的のやり方は、娘達にとってさえも、我国の方がずっといいような気がする。もっとも、いろいろなことに関する私の意見は、この国に於る経験に因って、絶えず変化するから、ハッキリしたことはいえない。
この前の月曜日に、私は進化論に就て力強い講義をした。今や私の学級は、この問題の課程を持ちたくて、しびれを切らしているが、来春アメリカから帰って来る迄は、それを準備する時間が無い。今日、別の級にいる学生が一人、私の講義を聞く許可を受けに来た。今迄のところ学生達は、非常な興味を持っているらしい。確かに学生達が、より深い注意を払ったことは、従来かつて無ったが、これは彼等が外国語の、而も幾分速口に喋舌しゃべるのに耳を傾けているのだから、自然であろう。
一階建の家屋が構成する一郭に、正面の入口が道路に向って開いた住宅が、四つ五つあるというのは、日本では新しい思いつきである。一八六八年の革命までは、このような家の形式は無かった。市中の住宅は、いずれもヤシキのように、内側に面して四角に建てられ、儀式の時にだけ開かれる大きな門が一つあり、その両側の小さな入口から人々は毎日出入した。我々が現に住んでいる加賀屋敷には、堂々たる門があるが、これは開いたのを見たことが無く、すこし離れた所に小さな入口があり、それに接した小さな部屋に住んでいる門番が、夜になるとこれを閉める。門番は内に住む人々を知っているので、夜更には門をあけて我々を入れてくれる。現在の建築様式の方が余程経済的であるから、将来はこれになるであろう。各家には、軽い竹の垣根にかこまれた、小さな庭がある。
東京市の一部分には、外国人の為に特定した小さな一区域があり、政府の役人でない外国人は、この場所以外に住むことは出来ない。帝国大学は政府が支持しているので、教師達は政府の役人と見られ、従って市中どこにでも住む権利を持っている。外人居留地から四マイル以上も離れた加賀屋敷にいる我々は、純然たる日本の生活の真中にいるのである。私は屡々ヤシキの門(そこには常に門番がいる)から出て、大通りをぶらぶらしたり、横丁へ入ったりして、いろいろな面白い光景を楽しむ――昼間は前面をあけっぱなした、小さな低い店、場合によっては売品を持ち出して、地面に並べたりする。半日も店をあけて出かけて行ったかも知れぬ店主の帰りを、十五分、二十分と待ったこともよくある。また、小さな、店みたいな棚から品物を取上げ、それを隣の店へ持って行き、そこの主人に、私がこれを欲したことを、どこかへ行っている男に話してくれと頼んだこともある。小さな品をポケットに一杯入れて逃げて了うことなんぞは、実に容易である*。
* このような正直さは、我国の小村では見られるが、大都会では決して行われぬ。然るに、何度もくりかえしたかかる経験は、東京という巨大な都会でのことなのである。日本人の正直さを示す多くの方面の中の一つに関連して、我々は、我々の都市では、戸外の寒暖計はねじ釘で壁にとめられ、柄杓は噴水に鎖で結びつけられ、公共の場所から石鹸やタオルを持って行くことが極めて一般的に行われるので、このようないやしい、けちな盗みから保護する可く、容器を壁に取りつけた、液体石鹸というようなものが発明されたことを忘れてはならぬ。
図252で私は私の部屋の写生を示す。これは長い、素敵な部屋で、事実長さ三十フィートの応接間であり、この後は畳み扉でしきられて食堂になっているが、私は寝室に使っている。学生洋燈ランプの乗っている卓テーブルまたは机で、私は日記や手紙を書き、次の机は雑物置として使用するのだが、どうした訳やら、他の卓もそれ等に属さぬいろいろな品物をのせて了う。一番遠方の丸い卓は、貝塚に関する仕事と、その問題に就ての若干の記録との為に保留してある。隅にある机は、私の科学的の覚書全部と、腕足類に関して私がやっている特別な研究とを含有しているので、私は必要に応じて洋燈を一つの卓から他へと持って廻る。この部屋では毎夜、全然訪問者に邪魔されることなしに書き続ける。戸外は完全な平和と静寂とが支配する。事実、耳に入る唯一の物音は、いささか酒に酔って、景気のよくなった男の歌う、調子の高い音が、遠くから響く丈である。日本人は酒に酔うと、アングロ・サクソンやアイルランド人、殊に後者が、一般的に喧嘩がしたくなるのと違って、歌い度くなるらしい。

先日私は曲げた竹の一端に、大きな木の玉をつけた、奇妙な品を売っているのを見た。どう考えても判らぬので、売っている男にそれが何であるかを聞くと、彼は微笑しながら彎曲線を肩越しに持ち、それを前後に動して、玉で文字通り自分の背中を叩いて見せた(図253)。このたたくことは、リューマチスにいいとされている。そして私は屡々、小さな子供が両方の拳固で、老人の背中を叩いているのを見る。この簡単な工夫によって、人は自分自身で背中を叩くことが出来、同時にある程度の運動にもなる。

紙幣を出す時、その辺へりが極めて僅かでも裂けていると、文句をいわれる。その結果、裂けた紙幣はごく少ししか流通していない。事実、折目の所がちょっと裂けたのを除いては、皆無である。用紙は我々のよりも厚く、もっとすべっこいように思われ、そして幾分よごれはしても必ず無瑕きずで、我国の紙幣のように、すりへらされた不潔な状態を呈したりしない。これは下層民が、紙幣というような額の大きい金銭を取扱わぬからかも知れないが、日本人が綺麗好きだということも、原因しているであろう。
図254は、大学に於る動物実験室の大略を写生したもので、私の特別学生達はここで勉強する。これは細長い部屋だが、私は廊下の向う側にもう二部屋持っている。図255は大学の主要建築の平面図である。道路に面した前面幅は、殆ど二百フィートに近いに相違ない。主要部建築から翼が三つ後につき出し、その間に一階建の長くて低い建物があり、これは狭い廊下で翼に連っているが、図236・237の男の子達の写生は、この廊下からしたものである。私はこれ等の長い建物の一つを占領している。1とした部屋は二階にある私の講義室で、その下に当る長さ二倍の広間は、私が博物館として将来使用しようとするものである。この建物の他に、独立した美事な会館や、図書館の建物や、採鉱、冶金の多くの建物や、学生その他の為の寄宿舎等があって、学生数百名、無数の事務員、小使、労働者等がいるので、それ等だけで一つの村落を構成している。

日本亜細亜アジア協会が十月十三日の会に際して、開会の辞を述べる可く、私を招待した。私は大森の陶器と、日本に於る初期住民の証跡とに就て、話そうと思っている。
土曜日の午後東京運動倶楽部クラブの秋季会合があった。これは殆ど全部が英国公使館員である所の英国人から成立している。横浜からも、その地の運動倶楽部を代表して数名やって来た。競技は帝国海軍学校の近くの広い練兵場で行われたが、これは広々した平坦な原で、そこに立った時私は、どうしても米国にいて野球の始るのを見ようとするのだとしか思えなかった。この日は、日本の秋の日は毎日美しいが、殊に美しい日であった。競技者は六、七十名いて、数名の日本人も混り、天幕テントには少数の婦人方が見えた。それは実に故郷にいるようで、且つ自然であったが、一度周囲を見廻し、全部が日本人で、無帽で、小さな子供や、婦人が赤坊を背負った、大小いろいろな群衆が、繩を境に密集しているのを見た時、この幻想は即座に消え去った。彼等はペチャクチャ喋舌ったの何の! 道路に添う煉瓦の上には日本人がズラリと並び(図256)、見たところは徹頭徹尾我国とは違っていたが、而も人間が持つ万国共通の好奇心――これは人類の最も近い親類である所の猿も持っている――をまざまざと見せていた。海軍学校に属する日本人の軍楽隊が音楽を奏したが、非常に上手にやった。雑糅曲メドレーの中に、「ヤンキー・ドードル」や「朝までは家へ帰らぬ」〔いずれも米国の流行歌〕の曲節があったのは、故郷を思い出させた。運動には徒歩競走、障碍競争、跳躍ジャンプ、鉄槌ハンマー投、二人三脚その他があった。私にとっては、これはいい休息になり、最も面白かった。
ヤシキへ帰るのに、ドクタア・マレーは二頭立の馬車に乗り、私は人力車に乗った。馬は勢よく速歩したが、私の車夫もやすやすと同じ速度で走り、距離が五マイルに近いのにもかかわらず、いささかも疲れた様子を見せなかった。これ等の人々の耐久力は、外国人にとっては常に興味ある問題である。馬車の後をついて行く間に、私は馬車とその乗り手とが、どれ程新奇なものであるかを理解する機会を持つことが出来た。誰でも必ず振り向いて、それを凝視したからである。馬車の去った後で私は、小さな女の子が二人、完全に真似をして頭をすこし横に動かし、彼等が見た英国の婦人の態度そのままに、お辞儀し合うのを見た。また先日、私が人力車で走り過ぎた時、一人の女が唇をとがらせて、シガーを吸う動作をするのを見た。もっとも私はこの時喫煙していはしなかったが……。
日曜日には、写生図板を持って、非常にいろいろな種類のある店の看板を写生する丈の目的で出かけた。我国には、どこにでもあるもの、例えば薬屋の乳鉢、煙草屋の北米インディアン、時計製造人の懐中時計、靴屋の長靴、その他僅かなのが少数あるが、この国ではあらゆる種類の店に、何かしら大きな彫刻か、屋根のある枠の形をした看板かが出ている。各の店舗の上には軽い、然し永久的な木造の日除があり、看板の多くは主な屋根からつき出て、かかる日除の上につっ張られた棒からぶら下っている。この支柱のある物には、看板の上に当る場所に小さな屋根がついているが、これは看板を保護する為か、或はそれに重要さをつけ加える為かである。図257は食料品店或は砂糖屋の看板で、大きな紙袋を白く塗り、それに黒で字が書いてある。図258は巨大な麻糸の房で網、綱、及びその類を売る店を示している。図259は非常に多くある看板で、長さ二、三フィートの板でつくり、白く塗った上に黒で店主の名を書き、日本の足袋の模型を現している。図260は地面に立っている看板で、高浮彫の装飾的象徴は、ここへ来れば筆が買えることを見せている。図261は煎餅屋を指示している。煎餅は薄くて大きなウェーファーみたいである。図262は眼医者のいることを示す看板で、黒塗に金で字を書き、真鍮の金具が打ってある。図263は、妙な格好の看板である。これは丸く、厚い紙で出来ていて白く塗ってあり、直径一フィート半程で、菓子屋が一様に出す看板なのである。この看板は日本の球糖菓ボンボンを誇張した形を示している。我国の球糖菓も同様な突起を持っているが、それが非常に小さい。図264もまた妙な看板で、これを写生した時、私はこれが何を代表しているのか丸で見当がつかなかった。何か叩く、不思議にガラガラいう音が聞えたので、店をのぞいて見ると、二人の男が金の箔を打ちのばしていた。そしてこの看板には、金箔が二枚現してある。図265は蝋燭ろうそく屋の看板で、黒地に蝋燭が白く浮き出ている。図266は大きな六角形の箱に似たもので、その底から黒い頭髪が垂れ下っている。店内で仮髪かつらを売っているのを見たから、これは人工的の毛髪を売る店を標示していることが判る。図267は印判師の看板で、これは必ず地面に立っている。殆ど誰でもが印を使用する。そして彼等は、印と、それに使用する赤い顔料とを、最小限度の大きさにして持って歩く、最もちんまりした、器用な仕組を持っている。彼等は書付、請取、手紙等に印を押す。印を意味する印判師の看板は、非常に一般的なので、私はこの字の一部が、頭文字のPに似ていることを観察して、最初の漢字を覚え込んだ。図268は両替或は仲買人の、普遍的な看板である。これは木製の円盤の両側を小さく円形に切りぬいたもので、銭を意味する伝統的の形式である。図269は櫛屋を指示していて、この櫛は長さが三フィートばかりもあった。図270は、傘屋を代表するばかりでなく、現代式外国風の洋傘を示している。油紙でつくった日本風の傘は非常に重く、且つ特別に取扱い難いので、日本人は我々式の傘を採用し、道路ではこれを日傘の代りに使用しているのも全くよく見受ける。

また看板には多くの種類があり、私は東京をブラブラ歩きながらそれ等の写生をしたいと思っているが、それにしても、かかる各種の大きくて目につきやすい品物が店の前面につき出ている町並が、どんなに奇妙に見えるかは、想像に難からぬ所であろう。これ等の店には一階建以上のものはめったに無く、ペンキを塗らぬか、塗っても黒色なので薄ぎたなく見え、看板とても極めて僅かを除いては白と黒とである。このような、鼠色の街頭を、例えば、日本の美しい漆器のように黒くて艶のある頭髪に、目も覚める程鮮かな色のオビをしめ、顔には真白に白粉をつけ、光り輝く紅唇をした娘が、この上もなく白い足袋に、この上もなく清潔な草履をはいて歩くとしたら、それが如何に顕著な目標であるかは了解出来るであろう。陰気な、古めかしい看板のある町の真中に、かかる色彩の加筆は、ことの他顕明であり、時として藍と白の磁器や、黄色い果実やをぎっしりと展観したものが、町通りに必ず魅惑的な外見を与える。これ等すべての新奇さに加うるに、魚売、煙管きせるや、ぶりき細工を修繕する者、古道具屋等の、それぞれ異る町の叫びがある。今日私は梯子を売る男の、実に奇妙至極な叫び声を聞いた。家へ帰ったら新聞屋の呼び声と梯子屋の叫び声との真似をするから、忘れずに注意して呉れ給え*。
* 悲しい哉、それ等は皆忘れて了った。
菓子の行商人は子供を集めて菓子を売る為に、ある種の小さな見世物をやる。一、二回、私は彼等を我国の手風琴師に近いものとみなして、銅貨若干を与えた。すると彼等は一つかみの菓子を呉れたが、味もなく、不味まずいことを知り過ぎている私は、あたりに子供がいなければ、折角だがといって返すのであった。最近私は烏や、豚や、家鴨あひるや、犢こうしの叫び声を完全に真似する行商人に逢った。また私は、気のいい一人の老人(図271)を写生した。この男は、子供を集める為に、硝子ガラスを多面体に切った物で、それを透して見ると多くの影像が現れる物を持っていた。彼はこれ等を柄のついた枠に入れた物をいくつか持っていて、それを子供達に渡し、自分が踊り廻って、ありとあらゆる滑稽な動作をするのを、のぞき見させた。彼はまた小さな棒のさきに、あざやかな色をした紙の蝶をつけた物を持っていて、これをくるくる廻した。売物の菓子は箱に入っている。私は彼を写生する間、人力車に坐っていて、時間がなかったので、只老人と一人の子供とだけを写生したが、この写生図を見る人は、黒山のように集った子供達と母親達とが、見物している光景を想像しなくてはならぬ。老人は、私が何をしているかを見た時、哄笑したが、道化を継続し、子供達もまた笑った。多くの人達が背中越しに絵を見つめるので、私は急いで写生を終った。そして二セントやると、彼は非常に低くお辞儀をした上、菓子の棒を十数本呉れた。私は、彼が踊るのは金を受ける為ではなかったのに、間違をしたことに気がついたが、然し謝辞を以て菓子は辞退した。そこで彼はこの菓子を人力車夫に提供したが、車夫も受取らぬので、残念そうに箱へ戻し、非常に幸福そうに演技と舞踊とを続けて行った。突然、この上もない名案を思いついた彼は、箱をあけて、再び一つかみの菓子を取出し、私に向って身ぶりをしながら、私には「シンジョー」「コドモ」「アナタ」という言葉だけが理解出来たことを何かいい、あたりに集った子供達にその菓子をすっかりやった。子供達はそれを受取り、ニコニコしながら私に礼をいった。数日後、私は再びこの老人が往来で芸当をやっているのを見た所が、彼は再び私に礼をいった。これは、横路へ入るが、我々を吃驚させる風習である。ある店で、何か詰らぬ物を買い、その後一週間もしてその前を通ると、店の人々はこちらを見覚えていて、またお礼をいう。

土曜日は、先週御誕生になった皇帝陛下の御子息に御名前をつけるべく取極められた日で、すべての店は白地に赤い丸を置いた国旗を掲げた。長い町々に、これは極めて陽気な外見を与えた。
お城を取りまく大きな堀に沿って人力車を走らせることは、非常に絵画的である。維新前までは、将軍が、この広い運河のような堀の水から斜に聳える巨大な石垣にかこまれた場所に住んでいた。廓内には、今や政府の用に使用される建物が沢山ある。お堀に沿った道路は平坦で、廓をかこんで一、二マイル続き、堀に従って時々曲っては、新しい橋や、石垣高く、あるいはその直後に、建てられた東洋風の建築(図272)やを目の前に持ち来す。間を置いて、強固な、古い門構が見られ、巨大な石塊でつくった石垣は、がっしりとして且つ堂々たるものであるが、堀の水へ雄大な傾斜をなしているので、余計堂々として見える。石垣の上には、松の古木が立ちならび、その枝には何百という烏がとまっている。幅の広いお堀のある箇所には蓮が勢よく茂り、花時にはその大きな薄紅色の花がまことに美しい。水面には渡って来た野鴨、雁、その他の鳥が群れている。大きな都会の真中の公園や池で、野生の鳥の群が悠々としていること位、この国民、或はこの国の少年や青年達の、やさしい気質を、力強く物語るものはない。我国でこれに似た光景を見ようと思えば、南部のどこかの荒地へ行かなくてはならぬ。私の住んでいるヤシキでは、時に狐を見受ける。

漆器の盃や掛物によく使用される装飾の主題は、鯉、あるいは滝をのぼる鯉であって、必ず尾を彎曲した形で描かれる。多分産卵するために、激流又は滝を登る魚を写生したものであろう。これは向上、又は固守の象徴であって、男の子たちに、より高い位置へ進むことを教える教訓である。
五月五日には、男の子達の為の国民的祭礼がある。話によると、その一年以内に男の子が生れた家族は、長い棒のさきに、紙か布かでつくった大きな魚をつけてあげる権利を持っている。この魚の口は環でひろげられ(この環でつるすのだが)、たいていの時は吹いている風が魚をふくらませ、そして最も自然に泳ぐような形でこれをなびかせる。ある物は長さ十フィートにも及ぶこれ等の魚が、この大きな都会いたる所でゆらゆらしたり、ばたばたしたりする所は、実に不思議な光景である。
私は京都から、博覧会で花の絵を画く為にやって来た、松林〔?〕という芸術家を訪問したが、誠に興味が深かった。彼は本郷から横へ入った往来に住んでいる。垣根にある小さな門を過ぎた私は、私自身が昔のサムライの邸内にいることを発見した。庭園の単純性には、クエーカー教徒に近い厳格さがあった。これは私が初めて見る個人の住宅で、他の家々よりも(若しそんなことが可能でありとすれば)もっとさっぱりして、もっと清潔であった。広い廊下に向って開いた部屋は、厳かな位簡単で、天井は暗色の杉、至る所に使った自然のままの材木、この上なく清潔な畳、床の一隅にきちんとつみ上げた若干の書籍、それから必ずある炭火を入れた箱、簡単な絵の少数が、この部屋の家具と装飾とを完成していた。このような部屋は、学生にとって理想的である。我国の通常の部屋を思出して見る――数限りない種々雑多の物品が、昼間は注意力を散漫にし、多くの品が夜は人の足をすくって転倒させ、而もこれ等のすべては、その埃を払い、奇麗にする為に誰かの時間を消費するのである。主人の芸術家は、丁寧なお辞儀で私を迎え、静かに彼の写生帖を見せたが、それには蜻蛉とんぼや、※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったや、蝉や、蝸牛かたつむりや、蛙や、蟾蜍ひきがえるや、鳥や、その他の絵が何百となく、本物そっくりに、而も簡明にかかれてあった。一つの写生帖には花が沢山かいてあったが、その中に、ある皇族の衣服の写生があった。封建時代、松林はこの方の家来だったのである。私が退出する時、彼は私が息がとまる程驚いたようなお辞儀をした。私は、頭が畳にさわるお辞儀は何度も見たが、彼の頭は、まるで深いお祈りでもしているかのように、数秒間畳にくっついた儘であった。日本人は脚を曲げて坐るが、お辞儀をする時、背中は床と並行すべきで、後の方をもち上げてはならぬ。
出て来た時、私は縁側の一端に、気の利いたことがしてあるのに気がついた。大きな竹の、下端に刻み目をつけた物が下っていて、この刻み目には水桶がかかり、そのすぐ上には浅い竹製の柄杓が釘にかけてある。手洗用のかかる仕掛は、どこの家でも見受ける所である(図273)。

往来ではよく、巡り歩く音楽家に出合う。彼は三味線をかきならして、低い、間のぬけたような調子で歌いながら、ゆっくり歩く。頭にいただく笠は巨大で、浅い籠に似ているし、衣服は着古したものではあるが清潔で、無数のつぎがあたっている。これ等の人々は、恐しく罅ひびの入ったような震え声で歌いながら、家から家へ行く。この写生図の歌手は非常な老人で、疲れ切っており、そして極めてぶざまな顔をしている(図274)。

ある町の傍の地面の上で、若い男と男の子とが将棋をやっているのを見た。男の子は十歳にもなっていなかったが、青年が吃驚したり、叫んだりする所から、私はこの子が彼にとっていい相手であるのだと判断した。何人かが周囲に立って、この勝負を見守っていたが、私もまた勝負を見るような様子をして地面にしゃがみ込み、競技者二人を大急ぎで写生した(図275)。

学校へ行く途中で、私は殆ど七十マイルも離れた富士を見る。これは実に絶間なきよろこびの源である。今日は殊に空気が澄んでいたので、富士は新しい雪の衣をつけて、すっくりと聳えていた。その輪郭のやわらかさと明瞭さは、誠に壮麗を極めていた。上三分の一は雪に覆われ、両側の斜面にはもっと下まで雪が積って、どの方角から雪嵐が来たかを示していた。
大学からの帰りには、長い坂を登らねばならない。私はきっと人力車を下りて歩く。一軒の店には、鎖でとまり木へしばりつけられた猿が四匹いる。一セントの十分の一出すと、長い棒のさきにつけた浅い木皿に、カラカラな豆若干、或は人参数切を入れたものを買うことが出来る。人々はちょっと立止って猿に餌をやり、私はポケットに小銭を一つかみ入れておいて、毎日猿と遊ぶ。私は猿共が往来の真中から投げられた豆でさえも捕り得ることを発見した。彼等は人間の子供が球を捕えるように両手で豆を捕えるが、どんなに速く投げても、決して失敗しない。今や彼等は、私を覚えたらしい。皿を、もうすこしで手の届く場所まで差出してからかうと、彼等は私に向って眉をひそめ怖しい顔をし、棲木とまりぎの上でピョンピョン跳ね、ドンドン足踏みをして、その場所の軽い木の建造物を文字通りゆすぶる。檻の内に閉じ込められている、大きな、意地の悪い老猿も、同情して鉄棒をつかみ、素敵な勢でガタガタやる。猿を見れば見る程、私は彼等が物事をやるのに、人間めいた所があるのを認める。彼等は、私ならば精巧な鑷子ピンセットを使わねばならぬような小さな物を、拇指と他の指とでつまみ上げる。
道路に面する大学と直角に、古い大名の住居、即ちヤシキへの入口がある。この建物は非常に古く、破風はふや、どっしりと瓦をのせた屋根や、大きな屋の棟や、岩畳がんじょうな入口は、かかる荘厳な住宅建築の典型的のものである。屋根の上の建造物は、換気通風の目的で後からくっつけたのである。ここは今は学校に使用されている(図276)。

私はここに私の『日本の家庭』に複写した写生図を再び出そうとは思わぬが、私が毎日通行する町の外見を示すこの本の図33・34・35及び図38に言及せざるを得ない。家の殆ど全部は一階建である。私が歩いて行くと、ある一軒からは三味線か琴かを伴奏としたキーキー声がする。隣の家は私立学校らしく、子供達が漢字を習い、声をかぎりに絶叫している。何という喧擾だろう! 更に隣の家では誰かが漢文を読み、その読声に誰かが感心するように、例のお経を読むような、まだるい音声を立てている。薄い建築と、家々の開放的な性質とは、すべての物音が戸外へ聞える容易さによって了解出来る。
東京博物館で私は、蝦夷えぞで発見され、古代アイヌの陶器とされている、有史前の陶器若干を見た。その中のある者は、大森の陶器にいくらか似た所を持っているが、余程薄く、且つ全部繩文がついている。
この日誌には、まれに弱い地震の震動が記録してある。まだまだ地震はあったのだが、私は人力車で走っているか、歩いているかで、感じなかった。然し、今夜は、大きな奴があった。私がC教授夫妻と、まさに晩餐の卓に着いた時、震動が始った。我々は即刻それが何であるかを知り、そして教授は吃驚したように「地震だ!」といった。そこで私は彼等に、それをよく味う為、静にしているように頼んだが、すっかり終って了う迄は、継続時間を測ることに思い及ばなかった。私は、地震というものを、初から終まで経験して見たかった。これは横にゆれる振動の連続で、航進し始めた汽船の中の船室にも比すべきである。地震が継続すると共にC夫人は蒼くなり、睡眠中の子供を見る為に、部屋を去り、教授も立ち上ろうとするかの如く、卓に両手をかけたが、振動が弱くなって来たので、彼は坐った儘でいた。後で一人の物理学者に逢ったら、彼はこの地震が震動一秒に二回半の割合で一分と三十秒続いたといった。私がこんなに平気でいたのは、何も私が特別に勇敢だったからではなく、地震の危険を理解する程長くこの国にいなかったからである。日本に前からいた人が私に、今に地震が決して私にとって面白いものではない時が来るぞ、といって聞かせたが、とにかく今日迄は、地震は非常にうれしく楽しい出来ごとであった。たった数日前、福世氏が一晩やって来て、二十二年前東京で起り、地震とそれに続いた大火の為に、六万人が生命を失った大地震の話をしてくれた。彼のお父さんは、長い距離にわたって、倒れた家々の上を、下に埋って了った人達の、腸はらわたをちぎるような叫び声を聞きながら走ったそうである。今度の地震が起った瞬間に、私は福世氏の話を思い出したが、いささかも驚愕を感じなかったばかりでなく、こいつは愉快だと思った。これは家屋をゆすぶる火薬製造所の爆発や疾風と違って、この堅固な大地それ自身が、大きな寒天の皿みたいに揺れ、我々もそれと一緒にゆらゆらするのであった。空気はまるで動かずそれがこの動揺を一層著しいものにした。
今日私はE教授と昼飯を共にした。彼はある丘の上の日本家に住んでいるので、そこからはこの都会のある部分がよく見える(図277)。私は写生をする気であったが、あまり込み入っているので、只朧気おぼろげにその景色がこんな風なものであるということを、暗示するに足るものが出来た丈である。左の隅の遠方に見える建物は陸軍省に属している。丘の上の、高い円屋根のあるものも同様である。煙出しや教会の尖塔の無いこと、屋根の高さが一般に同じで、所々に高い防火建築、即ちクラがあることに気がつくであろう。煙の無いことも観られる。事実煙や、白くて雲に似た湯気などはどこにも見えない。家の中の人工的の熱は、一部分灰に埋り、陶器、磁器、青銅等の容器に入った木炭の数片から得る。日本人は我々程寒気をいとわぬらしい。昨今は軽い外套を着る程寒いのだが、彼等は暑い夏と同じように、薄いキモノを着、脚をむき出して飛び廻っている。

横浜と東京とにアジア虎疫コレラが勃発したという、恐しい言葉が伝った。この国の政府の遠慮深謀と徹底さとには、目ざましいものがある。この尨大な都会は、ニューヨークの三倍の地域を占め、人力車が五、六万台あるということだが、その各が塩化石灰の一箱を強制的に持たされている。毎朝、小使が大学の廊下や入口を歩いて、床や筵に石炭酸水を撒き散し、政府の役人は、内外人を問わず、一人残らず阿片丁幾アヘンチンキ、大黄、樟脳等の正規の処方でつくった虎疫薬を入れた小さな硝子瓶を受取る。これには、いつ如何にしてこの薬を用うべきかが印刷してあるが、私のには簡潔な英語が使用してあった。
帝室のお庭に就ては、大部書かれたから、私は詳記しまい。これ等は、ニューヨーク中央公園の荒れた場所に似ているが、大なる築山や丘や、深い谷や、自然のままと見えるが検査すると、断層、向斜、背斜がごちゃまぜで、地質学のあらゆる原理が破ってあるので、そこで初めて平地の上にこれ等すべてを築き上げたのだということを理解する岩石の上を、泡立てて流れ落ちるいくつかの滝等によって、中央公園よりも、もっと自然に近く、もっと美しい。この目的に使用する大きな岩は、百マイル以上も遠い所から、文字通り持って来られたのである。この山間の渓流の横手には、苔むした不規則の石段があり、それを登って行くと頂上に鄙びた東屋あずまやがある。ここ迄来た人は、思わず東屋に腰を下して、この人工的の丘からの景色に見とれる。所が驚くことには、東屋から、美しい芝生と思われるものが、はるか向う迄続いている。こんな芝生が存在することが不可能であることを、徐々に理解する人は、席を離れて調べに行くと、最初は高さ六インチばかりの小さな灌木に出あい、それから緩傾斜を下りるに従って、灌木の背が段々高くなる。なお進むと、灌木はますます高くなり、小さな木になって来るが、それ等は上方で、完全な平面に刈り揃えてある。丘の麓に来た人は、大木の林の中へ入って行くのだが、これ等の梢も、他の木々の高さと同じ高さに刈り込んである。この庭は三百年の昔からあるので、かかる驚く可き形状をつくり上げる時は充分あったのである。写生図なしで説述しようとした所で無益だし、このような景色を写生することは私の力では出来ない。もっとも私は、根と枝とが殆どこんがらかった大木の輪郭だけを写生したにはしたが(図278)……大きな竹藪の美しさは目についた。花床は無かったが、風変りな石の橋や、小径や、東屋や、水平の棚に仕立てた大きな藤、その他があった。この場所は土曜日だけ開き、特別な切符を必要とするが、日本の習慣が我々のと反対である例はここにも現れ、切符は入場する時に手渡さず、出る時に渡す。

先日の朝、私は加賀屋敷の、主な門を写生した(図279)。塀の内側にある我々の家へ行くのに、我々はこの門を使用せず、住んでいる場所の近くの、より小さい門を使う。門構えの屋根は、大きな屋の棟があり、重々しく瓦が葺ふいてある。木部は濃い赤で塗られ、鉄の化粧表、棒その他は黒い。これは絵画的で、毎朝その前を通る時、私はしみじみと眺める。屋敷を取巻く塀は非常に厚く、瓦とセメントで出来ていて、頑丈な石の土台の上に乗り、道路とは溝を間に立っている。塀の上には、写生図にある通り、屋根瓦が乗っている。

一八七七年十月六日、土曜日。今夜私は大学の大広間で、進化論に関する三講の第一講をやった。教授数名、彼等の夫人、並に五百人乃至六百人の学生が来て、殆ど全部がノートをとっていた。これは実に興味があると共に、張合のある光景だった。演壇は大きくて、前に手摺があり、座席は主要な床にならべられ、階段のように広間の側壁へ高くなっている。佳良な黒板が一枚準備されてあった他に、演壇の右手には小さな円卓が置かれ、その上にはお盆が二つ、その一つには外国人たる私の為に水を充した水差しが、他の一つには日本に於る演説者の習慣的飲料たる、湯気の出る茶を入れた土瓶が(図280)のっていたが、生理的にいうと、後者の方が、冷水よりは咽喉によいであろう。聴衆は極めて興味を持ったらしく思われ、そして、米国でよくあったような、宗教的の偏見に衝突することなしに、ダーウィンの理論を説明するのは、誠に愉快だった。講演を終った瞬間に、素晴しい、神経質な拍手が起り、私は頬の熱するのを覚えた。日本人の教授の一人が私に、これが日本に於るダーウィン説或は進化論の、最初の講義だといった。私は興味を以て、他の講義の日を待っている。要点を説明する事物を持っているからである。もっとも日本人は、電光のように速く、私の黒板画を解釈するが――。

先日、植物学と動物学とに興味を持っている学生達が、私のすすめに従って一緒になり、生物学会を構成した。会員は日本人に限り、その多くは私の実験室で仕事をしている。すでに数回会合を開いたが、今迄のところ、なされた報告は、米国に於る、より古い協会の、いずれに持ち出しても適当と思われるであろうものばかりである。これ等は時に英語でなされ、書かれた時には必ず英語である。口頭の時には日本語だが、同義の日本語がないと英語を自由に使用するのは変に聞える。会員はすべて、外見が常にすこぶる優雅である日本服を着ている。彼等は自由に黒板に絵を書いて彼等の話を説明するが、多くは生れながらの芸術家なので、その絵の輪郭は目立って正確である。報告には概して参考品の顕微鏡標本が伴う。海外の諸学会と交換する為の雑誌を発行したいと思っている。
この写生図(図281)は、私の下女を現している。顔は苦痛な位みっともなく、唇はすこし開いて、磨いた黒い歯の一列を露出している。手に持っているのは、日本で出来た、然し外国向の、彼女同様に醜悪な水壜ピッチャーである。日本人は水壜は、どんな物でもまるで使用しない。

毎日、町を行く手品師か、音楽師か、行商人か、軽業師の、何かしら新しいのが出現するが、乞食はいない。図282は、貧しい服装をした三人のさすらいの人の一群を、ざっと写生したものである。一人は彼女の手に、竹に硝子をつけた妙な物を持っていたが、私はこれを何等かの装飾だと推定した。もう一人の女は三味線をひき、三番目のは四角い箱を持って、つづけさまにそして速口で、何か喋舌り立てた。私はこの一群をしばらく尾行したが、何事も起らないので、彼等を追い越して、男に一セントやったら、早速演技が始った。彼は花の一枝を粗末に真似たような物を取り、竹竿の下端を口にあてて、息を吹き込んだり吸い出したりして、全然非音楽的でもない、一種奇妙な、ペコンペコンという音を立てた。鐘の形をした装置を調べると、その口に当たる所に硝子の膜が張ってあり、この硝子の膜が出たり入ったりして、音を立てるのだということが判った。これをしばらくやった揚句、彼は竹の端を咽喉にあて、私には判らなかったある種の運動で、膜に音をさせた。次に彼は柄の長い煙管を取り上げ、二、三服した後で、吸口を咽喉に当て、前同様に勢よく吸い続けた。これはどうも大した謎である。煙草を吸う程の力で皮膚を動すことは、不可能らしく思われた。彼は着物の下に、腹で動すことの出来るふいごの一種を、かくして持っていたに違いない。私は彼が頸部にしっかりと布を巻いているのに気がついたが、多分これで腹部にあるふいごに連る管を、かくしているのであろう。それにしても、中々気の利いた芸当で、集って来た群衆も大いに迷わされたらしく見えた。

奇術師の手品といえば、先日私は奇術師が使用する各種の品物を売る店の前を通った。店の前には、人の注意を引き、その場所を広告する仕掛が二つ下っていた。その一つは糸でつるした、ボロボロにさけた一枚の薄い紙で、その下端に直径一フィートに近い石がぶら下っている。石が羽根のように軽い人工的の装置であるか、あるいは紙の裂けていない部分に、針金の枠が通っているかであるが、このような支持物は、透明な紙のどこにも見られなかった。もう一つの仕掛は、その中央を紐でしばり、天井から下げた木の水平棒で、その一端には見た所巨大な石が、他端には軽い日本提灯がついていた。これもまた、提灯に重い錘がついているか、石が人工品であるかに違いない。とにかく、棒が水平なのだから。
今日材木市場へ行って見て、薪を大きな汽罐にも、またストーヴにも使用することを知った。薪は我国に於るようにコード〔木材の立方積を測る単位〕や、或は大きなかたまりで売るのではなく、六本ずつの小さな束に縛りつける。私は薪のかかる小さな束を、ウンと積み上げたのを見た。これ等は一ドルについて二十束の値で売られる。薪の質はよく、我国でストーヴに使用する薪の二倍位の長さに切ってあった。
商店の並んだ町を歩くことは、それ自身が、楽しみの無限の源泉である。間口十五フィート、あるいはそれ以下で、奥は僅か十フィート(もっとも後の障子の奥には家族が住んでいる)の家が、何マイルにわたって絶間なく続いている。この大きさには殆ど除外例がないが、而も提灯屋、菓子屋、樽屋、大工、建具屋、鍛冶屋その他ありとあらゆる職業が、この限られた広さの中で行われ、そしてそれらは皆道路に向って開いている。大きな職場はなく、また芸術家と工匠との間の区別は、極めて僅かであるか、或は全然無いかである。親方は各、自分の沽券こけんをあげるらしく思われる弟子に限って教育を与えることを以て面目とし、今日にあってもよき芸術家や工匠は、彼等自身が名声を博す番が来る迄は、一般的に、誰の弟子として知られている。私は、ここに子供達の教育法があると思いついた――即ち彼等が日常親しく知っている物が、如何にして製造されるかを見ることである。彼等は往来をブラブラ歩いていて、ちょいちょい職人が提灯をつくったり、木に彫刻したりするのを、立ち止っては見る。米国の子供達はよく私に、熔解した鉄や、赤熱した鉄を見たことがなく、また或物が如何に製造されるかも見たことがないといった。店の多くで驚くのは、仕入品が極めてすくないことである。数ドル出せば、一軒の店の内容全部を買いしめることも出来よう。而も偶々売れることによる僅かな利益で、充分家族を養うことが出来るものらしい。この写生図(図283)は、一軒の鍛冶屋を示している。人はしょっ中、蹲うずくまった儘でいる。鉄床かなとこは非常に小さく、彼のつくる品物もまた小さい。図284は履物と傘とを売る店である。手のこんだ瓦葺の屋根を書くのには長い時間を要するから、私はやらなかった。左手には傘を入れた籃かごが見えている。帳カーテンの一隅を石にしばりつけて、飛ばぬようにしているところにお目をとめられたい。上にある長い布片は日除の性質を持っている。内部には草履や下駄が見える。

日曜日の午後にはチャプリン教授と二人で、いろいろな町を何マイルも歩いたが、その間に、しょっ中、何かしら新しい物に出喰わした。ある場所では一人の男が、※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったを食料品として売っていた。※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)は煮たか焙ったかしてあった。私は一匹喰って見たが、乾燥した小海老みたいな味がして、非常に美味いと思った。※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)は我国にいる普通の※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)と全く同一に見えた。我国でだって、喰えぬという理由は更に無い。ある場所では土方が道路を修繕していたが、塵や石を運搬するのに、面白いものを使用していた。大きな、粗末な、四角い形をした筵の四隅から環状の鉉つるが出ているのを地面におき、これに図285の如くショベルで塵埃をすくい込み、いい加減たまると環に棒をさし込み、筵をハンモックのようにぶら下げて、二人の男が棒を肩でかついで行く。手押車という物は日本には無いが、この装置がいい代用品になっている。私は労働者達が道路に土盛りしたり、一定の勾配にしたりする時、砂利を量る計器を使うことに気がついた。これは大きな板を釘で打ちつけた箱で、労働者達は上述したようにして持って来た鬆土あらつちを、この箱の中にぶちまけ、前もって契約した道路材料をはかり、そして代価を請求する。

図286は、街路工夫が、掘りかえした町の部分を、叩いてならしている所を示す。家屋の礎石も同様にして叩き下げる。叩く間、労働者達は、私には真似することも記述することも出来ない、一種の異様な歌を歌い続ける。

街頭に於る興味の深い誘惑物は、砂絵師である(図287)。彼はつぎだらけの着物を着た老人であった。彼が両膝をつき、片手で地面の平な場所を払った時、私には彼が何を始めようとするのか、見当がつかなかったが、集って来た少数の大人と子供達は、何が起るかを明かに知っているらしく見えた。充分な広さの場所を掃うと、彼は箱から赤味を帯びた砂を一握取り出し、手を閉じた儘それを指の間から流し出すと共に、手を動して顔の輪郭をつくった。彼は指と指との隙間から砂を流して、美事な複線をつくった。白い砂の入った箱も、使用された。彼は器用な絵を描き、群衆が小銭若干を投げたのに向って、頭を下げた*。

* 私はロンドンでも歩道に、群衆から銭を受けるという同じ目的で、同様な方法で絵が描かれるのを見た。合衆国人類学部の出版物によると、西部インディアンのある種族は、宗教的儀式に関連して、いろいろな色彩の砂を使用し、こみ入った模様を描くそうである。
町でよく見受けるのは、労働者が二輪車に、実のなった、あるいは花の咲いた――例えば椿――木をのせて曳いていることである。かかる木は屡々大きく、莚で包んだ根が直径五、六フィートあることもある。これ等は、よく花が咲いていたり実がなっていたりするが、日本人はそれに損害を与えずに運搬することが出来るらしく、木は移植されるや否や花を咲かせ続ける。土壌が肥沃で空気に湿気が多いから、移植に都合がよく、また多量の土を木と一緒に掘り出して、それをつけたまま運搬するし、それに何といっても日本の植木屋は、この芸術にかけては大先生である。時として荷物が非常に重いことは、四、五人の男が車を引いて行くのに、精一杯、引張ったり押したりしているのを見ても判る。
歩いている内に我々は、広いカラッとした場所へ出た。ここには竹竿を組合せ、布の帳をひっかけた安っぽい仮小屋が沢山あり、妙な絵をかいた旗が竹竿からゆらゆらしていた。図288はこのような仮小屋を示している。これ等の粗末な小屋は、ありとあらゆる安物を売る、あらゆる種類の行商人が占領していた。ある男は彩色した手の図表を持っていて、運命判断をやるといい、ある男は自分の前に板を置き、その上にピカピカに磨いた、奇麗な蛤貝を積み上げていた。これ等は大きな土製の器に入れた、褐色がかった物質を入れる箱として使用される。男は私に、この物を味って見ろとすすめたが、私は丁寧に拒絶した。彼の卓の上には、変な図面が何枚かあり、私はそれ等を研究して、彼が何を売るのか判じて見ようと思った。図面の一つは、粗雑な方法で、人体の解剖図を見せていたが、それは古代の世界地図が正確である程度に、正確なものであった。その他の数葉は、いくら見ても見当がつかないので、私はまさに立去ろうとしたが、その時ふと長い虫の画があるのに気がついて、万事氷解した。彼は私に、彼の駆虫剤をなめて見ろとすすめたのであった! ある仮小屋は、五十人も入れる位大きく、そこでは物語人ストーリーテラーが前に書いたように、法螺ほら貝から唸り声を出し、木の片で机をカチカチたたき、聞きほれる聴衆を前に、演技していた。これは我々にも興味はあったが、いう迄もなく我々には一言も判らないので、聞きほれる訳には行かなかった。この演芸は、明かに下層民を目的としたものらしく、聴衆は男と男の子とに限られていた。

両替屋は、うまい仕掛で素速く銭を数える。彼は柄のついた盆を、細い条片すじで各列に十個の区分のある十個の列の四角にわけた物を持っているが、条片の厚さは彼が勘定しようとする貨幣の厚さと同じであり、各種の貨幣に対して、それぞれ異った盆が使用される。一例として五ドルの金貨一つかみを盆の上に落し、それを巧みに振り動かすと、空所は即座に充され、貨幣は充された空所の上を辷って空いた所へ入り込む。両替屋は貨幣を十ずつ数え、同時にそれ等を瞥見して、偽物があるか無いかを見る。この仕掛は銀行や両替事務所で使用される。
昨日の午後、実験室を出た私は、迷子になろうと決心して、家とは反対の方へ歩き出した。果して、私は即座に迷子になり、二時間半というものは、誰も知った人のいない長い町々や狭い露地をぬけて、いろいろな不思議な光景や新奇な物を見ながら、さまよい歩いた。晩の五時頃になると、人々はみな自分の店や家の前を掃き清めるらしく、掃く前に水をまく者も多かったが、これは若し実行すれば、我国のある町や都会を大いに進歩させることになる、いい思いつき、且つ風習である。
帰途、お寺へ通じる町の一つに、子供の市が立っていた。並木路の両側には、各種の仮小屋が立ち並び、そこで売っている品は必ず子供の玩具であった。仮小屋の番をしているのは老人の男女で、売品の値段は一セントの十分の一から一セントまでであった。子供達はこの上もなく幸福そうに、仮小屋から仮小屋へ飛び廻り、美しい品々を見ては、彼等の持つ僅かなお小遣を何に使おうかと、決めていた。一人の老人が箱に似たストーヴを持っていたが、その上の表面は石で、その下には炭火がある。横手には米の粉、鶏卵、砂糖――つまりバタア〔麺粉うどんこ、鶏卵、食塩等に牛乳を加えてかきまわしたもの〕――の混合物を入れた大きな壺が置いてあった。老人はこれをコップに入れて子供達に売り、小さなブリキの匙を貸す。子供達はそれを少しずつストーヴの上にひろげて料理し、出来上ると掻き取って自分が食べたり、小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたりする。台所に入り込んで、薑しょうがパンかお菓子をつくった後の容器から、ナイフで生麪なまこの幾滴かをすくい出し、それを熱いストーヴの上に押しつけて、小さなお菓子をつくることの愉快さを思い出す人は、これ等の日本人の子供達のよろこびようを心から理解することが出来るであろう。図289は、この戸外パン焼場の概念を示している。老人の仮小屋は移動式なので、彼は巨大な傘をたたみ、その他の品々をきっちり仕舞い込んで、別の場所へ行くことが出来る。これは我国の都市の子供が大勢いる所へ持って来てもよい。これに思いついて、貧乏な老人の男女がやってもよい。

別の小屋では子供達が、穴から何等かの絵をのぞき込み、一人の老人がそれ等の絵の説明をしていた。ここでまた私は、日本が子供の天国であることを、くりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。彼等は朝早く学校へ行くか、家庭にいて両親を、その家の家内的の仕事で手伝うか、父親と一緒に職業をしたり、店番をしたりする。彼等は満足して幸福そうに働き、私は今迄に、すねている子や、身体的の刑罰は見たことがない。彼等の家は簡単で、引張るとちぎれるような物も、けつまずくと転ぶような家具も無く、またしょっ中ここへ来てはいけないとか、これに触るなとか、着物に気をつけるんだよとか、やかましく言われることもない。小さな子供を一人家へ置いて行くようなことは決して無い。彼等は母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見物する。日本人は確かに児童問題を解決している。日本人の子供程、行儀がよくて親切な子供はいない。また、日本人の母親程、辛棒強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。だが、日本に関する本は皆、この事を、くりかえして書いているから、これは陳腐である。
この前の火曜日に私は労働者を多数連れて、大森の貝塚を完全に研究しに行った。私は前に連れて行った労働者二人をやとい、大学からは、現場付近で働いて私の手助けをする労働者を、四人よこしてくれた。彼等はみな耨くわやシャベルを持ち、また我々が見つけた物を何でも持ち帰る目的で、非常に大きな四角い籠を持って行った。私の特別学生二人(佐々木氏と松浦氏)、外山教授、矢田部教授、福世氏も一緒に行った。なお陸軍省に関係のあるル・ジャンドル将軍も同行した。彼は日本人の起原という問題に、大いに興味を持っている。また後の汽車でドクタア・マレーとパーソンス教授が応援に来たので、この多人数で我々は、多くの溝や、深い壕を掘った。この日の発掘物は、例の大きな四角い籠を充し、別に小さな包みにしたものに対する運賃請求書には三百ポンドと書かれ、なお大事な標本は私が手提鞄ハンドバッグに入れて帰った。図290は、貝塚の陶器で充ちた大きな籠をかついで鉄道線路にそって帰る労働者達を写生したものである。前の時と同じように、労働者達は掘りかえした土砂を、耨やシャベルを以て元へ戻し、溝を埋め、灌木や小さな木さえも植え、そしてその場所を来た時と同様にした。彼等は恐しく頑張りのきく労働者達で、決して疲れたような顔をしない。今日の作業の結果を加えると、大学は最も貴重な日本古代の陶器の蒐集を所有することになる。すでに大学の一室にならべられた蒐集でさえ、多大の注意を惹起しつつあり、殆ど毎日、日本人の学者たちが、この陶器を見る許可を受けに来る。彼等の知識的な鑑賞や、標本を取扱う注意深い態度や、彼等の興味を現す丁寧さは、誠に見ても気持がよい。東京の主要な新聞『日日新聞』は、私の発見に関して讃評的な記事を掲載した。図291はそれである。

我々が発見した大森陶器中の、珍しい形をした物を若干ここに示す。図292は妙な形式をしている。横脇にある穴は、ここから内容を注ぎ出したか、或はここに管をさし込んで内容を吸い出したかを示している。図293は直径十一インチの鉢である。図294は高さ一フィート、これに似た輪縁の破片は稀でない。これ等の陶器はすべて手で作ったもので、轆轤ろくろを使用した跡は見当らない。

今朝起きた時、空気は圧えつけるように暖かであった。ここ一週間、よく晴れて寒かったのであるから、この気温の突然の変化は、何等かの気界の擾乱を示していた。お昼から雨が降り始め、風は力を強めるばかり。午後には本式の颱風にまで進んだ。屋敷の高い塀はあちらこちらで倒れ、屋根の瓦が飛んで、街路で大部損害があった。午後五時頃、雨はやんだが、嵐は依然としてその兇暴さを続けた。私は飛んで来る屋根瓦に頭を割られる危険を冒して、どんな有様かを見る為に往来へ出た。店は殆ど全部雨戸を閉め、人々は店の前につき出した屋根の下に立って、落日が空を照す美しい雲の景色に感心していた。町では子供達が、大きなボロボロの麦藁帽子をいくつか手に入れて、それ等を風でゴロゴロころがし、後から叫び声をあげながら追っかけて行った。この国の人々が、美しい景色を如何にたのしむかを見ることは、興味がある。誇張することなしに私は、我国に於るよりも百倍の人々が、美しい雲の効果や、蓮の花や、公園や庭園を楽しむのを見る。群衆は商売したり、交易したりすることを好むが、同時に彼等は芸術や天然の美に対して、非常に敏感である。
スコット氏が私に、この地に於る大火事の後の情景を話してくれた。彼は、焼け出された人々も必ず幸福そうにニコニコしているといった。また、大火事がまだ蔓延している最中に、焼けた跡に板でかこいをし、看板を出し、燃えさしを掃除している人々を見たといった。彼の話によると、保険というような制度は無いが、商人達は平均七年に一度焼け出されることに計算し、この災難を心に置いて、毎年金を貯える。加之のみならず、スコット氏の見聞によれば、人々は非常に思いやりが深く親切で、態々わざわざ火事のあった場所へ買物に行く結果、焼け出された所で大した苦にはならぬ。同氏の話にある火事は、三マイルにわたって、火勢が衰えることなしに続いた。
とうとう、私は家を五、六十軒焼いた、かなり大きな火事を見る機会に遭遇した。晩の十時半、スミス教授――赤味を帯びた頭髪と頬髭とを持つ、巨人のようなスコットランド人――が、私の部屋に入って来て、市の南方に大火事があるが見に行き度くないかといった。勿論私は行き度い。そこで二人は出かけた。門の所で一台の人力車を見つけ、車夫を二人雇って勢よく出発した。火事は低い家の上に赤々と見え、時々我々はその方に走って行く消防夫に会った。三十分ばかり車を走らせると、我々は急な丘の前へ来た。その向うに火事がある。我々は人力車を下り、急いで狭い小路をかけ上って、間もなく丘の上へ来ると、突然大火が、そのすべての華麗さを以て、我々の前に出現した。それ迄にも我々は、僅かな家財道具類の周囲に集った人々を見た。背中に子供を負った辛棒強い老婆、子供に背負われた頼りない幼児、男や女、それ等はすべて、まるで祭礼でもあるかのように微笑を顔に浮べている。この一夜を通じて私は、涙も、焦立ったような身振も見ず、また意地の悪い言葉は一言も聞かなかった。時に纒持まといもちの命があぶなくなるような場合には、高い叫び声をあげる者はあったが、悲歎や懸念の表情は見当らなかった。スミスと私とは生垣をぬけ、上等な庭を踏み、人の立退いた低い家々を走りぬけて、両側に家の立並んだ長い通へ出た。これ等の家の大部分は、燃えつつある。低い家屋の長い列の屋根は、英雄の如く働き、屋根瓦をめくり、軽いこけら板をシャベルで落し、骨組を引張ったり、切ったりしてバラバラにしている消防夫達で、文字通り覆われ、一方、屋の棟には若干の纒持が、ジリジリと焦げながら、火よりも彼等や消防夫に向ってより屡々投げられる水流によって、消滅をまぬかれて立っている。破壊的の仕事をやっている男が四人乗っていた広い張出縁が、突然道路に向って崩れ、彼等は燃えさかる木材や熱い瓦の上に音を立てて墜落したが、一人は燃えつつある建物の内部へ墜ちた。勿論私は、この男は助からぬと思ったが、勇敢な男達が飛び込んで彼を救い、間もなく彼はぐんなりした塊となって、私の横をかつがれて行った。死んだのかどうか、私は聞かなかった。この場所からスミスと私は別の地点へ急ぎ、ここで我々は手を貸した。一つの低い張出縁を引き倒すのに、消防夫達の努力が如何にもたわい無いので、私は辛棒しきれず、大きな棒を一本つかんで、上衣を破り、釘で手を引掻きながらも飛び込んで行った。私が我身を火にさらすや否や、一人の筒先き人が即座に彼の水流を私に向けたが、これはドロドロの泥水であった。私は私の限られた語彙から、出来るだけ丁寧な日本語で、彼に向ってやめて呉れと叫んだ所が、筒先きは微笑して、今度は水流をスミスに向けた。すると彼は、若し私が聞き違えたのでなければ、スコットランド語で咒罵した。だが我々の共同の努力によって、建物が倒れたのを見たのは、意に適した。かかる火事に際して見受ける勇気と、無駄に費す努力との量は、驚く程である。勇気は十分の一で充分だから、もうすこし頭を使えば、遙に大きなことが仕遂げられるであろう。纒持が棟木にとまっている有様に至っては、この上もなく莫迦気ばかげている。彼等は勇敢な者達で、屡々彼等の危険な場所に長くいすぎて命を失う。この英雄的な行為によって、彼等は彼等の隊員を刺激し、勇敢な仕業しわざをさせる。私はまた、彼等が立っていた建物が類焼をまぬかれると、彼等が代表する消防隊が金員の贈物を受けるのだということも聞いた。図295はこの火事のぞんざいな写生である。消防夫の多くは、この上もなく厚い綿入りの衣服を身につけ、帽子は重い屋根瓦から頭を保護する為に、布団に似ている。図296はかかる防頭品のいくつかを示している。火事で見受ける最も変なことの一つは、消防夫が火のついた提灯を持っていることである。

火事が鎮った時、我々は加賀屋敷まで歩いて行くことにした。その上、広い水田をぬけて、近路をすることにした。我々には大約の方角はついていたのだが、間もなく、小路の間で迷って了った。我々は路を問う可き人を追越しもしなければ、行き合いもしなかった。この地域は完全に無人の境だったのである。暗くはあったが、星明りで、小路はおぼろ気に照らし出されていた。最後に向うから提灯が一つ近づいて来て、午前二時というのにどこかへ向う、小さな男の子と出会った。我々は彼に、屋敷への方向を尋ねたが、私は彼が落つき払って、恐れ気もなく、我々――二人とも髯ひげをはやし、而も一人は大男である――の顔へ提灯を差し上げた態度を、決して忘れることが出来ない。静に方向を教えながら上へ向けた彼の顔には、恐怖の念はすこしも見えず、また離れた後にでも、我々を振り返って見たりはしなかった。
十月十三日の土曜日には、横浜の日本亜細亜アジア協会で「日本先住民の証跡」という講演をした。私はかつてこんなに混合的な聴衆を前にしたことがない。大部分は英国人、少数の米国人と婦人、そして広間の後には日本人が並んでいた。福世氏は私を助けて材料を東京から持って来て呉れ、私は稀に見る、かつ、こわれやすい標本を、いくつか取扱った。
私は冬の講演の為に米国へ帰るので、送別宴が順々に行われる。私は特別学生達を日本料理屋に招いて晩餐を供し、その後一同で展覧会へ行った。これは初めて夜間開場をやるので、美しく照明されている。海軍軍楽隊は西洋風の音楽をやり、別の幄舎パビリオンでは宮廷楽師達が、その特有の楽器を用いて、日本の音楽を奏していた。日本古有の音楽は、何と記叙してよいのか、全く見当がつかない。私は殆ど二時間、熱心に耳を傾けて、大いに同伴の学生諸君を驚かしたのであるが、また私は音楽はかなり判る方なのであるが、而も私はある歌調の三つの連続的音調を覚え得たのみで、これはまだ頭に残っている。それは最も悲しい音の絶間なき慟哭である。日本の音楽は、人をして、疾風が音低く、不規則にヒューヒュー鳴ることか、風の吹く日に森で聞える自然の物音に、山間の渓流が伴奏していることかを思わせる。楽器のある物は間断なく吹かれ、笛類はすべて調子が高く、大きな太鼓が物憂くドドンと鳴る以外には、低い音とては丸でない。翌日一緒に行った学生の一人に、前夜の遊楽の後でよく眠られたかと聞いたら、彼は、「あの発光体の虚想が私の心霊に来た為に」あまり眠れなかったといった。これは博覧会に於る点燈装飾のことなのである。
市立救貧院へ行った時は悲しかった。ここには何人かの狂人が入れられていた。これ等の不幸な人達が、長く並んだ、前に棒のある部屋に、まるで動物園の動物みたいに入っているのは、悲しい光景であった。番人達は、恐怖の念を以て彼等を見るらしく思われる。彼等は親切に取扱われてはいるが、全体として、狂人を扱う現代的の方法には達していない。私はニューヨーク州のユテイカにある大きな収容所で見たのと同じ様な、痴呆と欝憂病の典型的な容態を見た。私はある人々と握手をし、彼等はすべて気持よく私と話したが、彼等の静かな「サヨナラ」には何ともいいようのない哀れな或物があった。
先日私は松浦に、彼の書斎を見せて貰うことにし、一緒に大学の建物の裏にある、大きな寄宿舎へ行った。学生達の部屋は、奇妙な風に配列してある。寄宿舎は二階建で、その各階に部屋が一列に並び、広い廊下に向けて開いている。各二部屋に学生が七人入っているが、下の部屋が勉強部屋で、二階のが寝室である。これ等の部屋位陰欝なものは、どこを探しても無いであろう。寒くて、索莫としていて、日本の家の面白味も安楽さもなく、また我国の学生の部屋の居心地よさもない。人が一人入れる軽便寝台が七つ、何の順序も無く部屋に散在し、壁にはもちろん絵などはなく、家具も軽便寝台以外には何も無い。書斎の方は、壁に学生達がいたずらに筆で書いた写生図があったりして、いく分ましであった。これ等の部屋は非常に寒いが、ストーヴを入れつつあった。何物を見ても、最も激しい勉強を示している。
私は松浦に、彼等が秘密結社〔米国の大学にはよくある〕を持っているかと質ねた。彼は、結社はあるが、秘密なものではないと答えた。しばらく話をしている内に、私は松浦から、日本の学生達は一緒になると、乱暴な口を利き合ったり、隠語を使ったりするのだという事実を引き出し、更に私は、彼等が米国の学生と同様、外国人の教授達に綽名あだなをつけていることを発見した。一番年をとった教授は「老人」、四角い頭を持っている人は「立方体」、頭が禿げて、赤味がかった、羊の肋肉に似た頬髭のある英国人の教授は「烏賊いか」である。松浦は、両親達が大学へ通う子供達の態度が無作法になることに気がつき、彼等自身も仲間同志で、何故こう行為が変化するのか、よく議論したといった。私は彼に、米国の青年達も、大学へ行くようになると、無作法になり、先生に綽名をつけるという、同じような特質を持つにいたることを話した。(大学へ入る前に我々が如何に振舞うかは話さなかった。)私は更に松浦に向って、少年は本来野蛮人なのだが、家庭にいれば母親や姉に叱られる、然るに学校へ入ると、かかる制御から逃れると同時に、復誦へ急いだり、ゴチャゴチャかたまったりするので、いい行儀の角々がすりへらされるのだと話した。
(日本の学生及び学生生活に就ては、大きな本を書くことが出来る。ヘージング〔新入生をいじめること〕は断じて行わぬ。先生に対する深い尊敬は、我国の大学の教授が、例えば黒板に油を塗るとか、白墨を盗むとか、あるいはそれに類したけちな悪さによって蒙る、詰らぬ面倒から教授を保護する。我国で屡々記録されるこの非文明で兇猛な行動の例証には、プリンストン大学の礼拝堂から聖書と讃美歌の本を盗み出し、ハーヴァードのアップルトン礼拝堂の十字架に、一人の教授の人形を磔にしたりしたような、我国の大学生の不敬虔極る行動や、仲間の学生をヘージングで不具にしたり、苦しめたり、死に至らしめたりさえしたことがある。
日本の男の子は、我国の普通の男の子達の間へ連れて来れば、誰でもみな「女々しい」と呼ばれるであろう。我国では男の子の乱暴な行為は、「男の子は男の子」という言葉で大目に見られる。日本では、この言葉は、「男の子は紳士」であってもよい。日本の生活で最も深い印象を米国人に与えるものは、学校児童の行動である。彼等が先生を尊敬する念の深いことは、この島帝国中どこへ行っても変りはない。メイン、及び恐らく他の州の田舎の学校で、男の子たちが如何に乱暴であるかは、先生が彼等を支配する為に、文字通り、彼の道を闘って開拓しなければならぬという記録を、思い出す丈で充分である。ある学校区域は、職業拳闘家たる資格を持つ先生が見つからぬ以上、先生なしである。日本に於る先生の高い位置を以てし、また教育に対する尊敬を以てする時、サンフランシスコ事件――日本人学童が公立中小学校から追放された――程、残酷な打撃をこの国民に与えた事はない。ここにつけ加えるが、日本人はこの甚深な侮辱を決して忘れはしないが、このようなことを許した政治団体の堕落を理解して、そのままにしている。)
私は今迄に屡々、何故日本には尻尾の長い猫がいないのだろうと、不思議に思った。日本の猫はすべてマンクス種であるかどうか、とにかく尻尾が無い。日本人は、猫が後足で立って、いろいろな物を床に引き下すのを防ぐ為に、尻尾を切るのだと信じているが、そうすると猫はカンガルーみたいに、尻尾で身体の釣合いを取るものらしい。彼等はこの切断は代々伝わると考えている。これと同じ考が、キューバで行われている。キューバでは、猫が砂糖黍きびの畑をさまよい歩くことを防ぐ為に、耳を切断する。熱帯地方で突然降る雨は、それが耳に入れば入る程、猫を煩わすが、猫は特に水が耳に入ることを嫌う。その結果猫は、驟雨の時、すぐ雨宿りをすることが出来るように、家の近くを離れないでいる。
東京に沢山ある古道具屋で、時折り鉄の扇、というよりも、両端の骨が鉄で出来ている扇や、時として畳んだ扇の形をした、強直な鉄の棒を見受ける。この仕掛は昔、サムライ階級の人々が、機に応じて持って歩いた物だそうである。交戦時、サムライが自分の主を訪れる時、彼は侍臣の手もとに両刀を残して行かねばならなかった。習慣として、襖を僅に開け、この隙間に訪問者は頭をさし込むと同時に低くお辞儀をし、両手を下方にある溝のついた場所へ置くのであるが、彼はこの溝に例の扇を置いて、襖が突然両方から彼の頬をはさむことを防ぎ、かくて或は暗殺されるかも知れない彼自身を保護するのであった。これは老いたるサムライが私に語った所である。鉄扇はまた、攻守両用の役に用いることも出来ると彼はいった。
私の普通学生の一人が私の家へ来て、彼が採集した昆虫を見に来てくれる時間はないかと聞いた。彼が屋敷の門から遠からぬ場所に住んでいることが判ったので、私は彼と一緒に、町通りから一寸入った所にある、美しい庭を持った小ざっぱりした小さな家へ行った。彼の部屋には捕虫網や、箱や、毒瓶や、展翅板や、若干の本があり、典型的な昆虫学者の部屋であった。彼はすでに蝶の見事な蒐集をしていて、私にそのある物を呉れたが、私が頼めば蒐集した物を全部くれたに違いない。翌日彼に昆虫針を沢山やったら、それ迄普通の針しか使用していなかった彼は、非常によろこんだ。数日後彼は私の所へ、奇麗につくり上げた贈物を持って来た。この品は、それ自身は簡単なものだったが、親切な感情を示していた。これが要するに贈物をする秘訣なのである。
十月二十八日の日曜の夜、日本人の教授達が日本のお茶屋で、私の為に送別の宴を張ってくれた。この家は日本風と欧洲風とが気持よく融和していた。すくなくとも椅子と、長い卓とのある部屋が一つあった。彼等は大学の、若い、聡明な先生達で、みな自由に英語を話し、米国及び英国の大学の卒業生も何人かいる。彼等の間に唯一の外国人としていることは、誠に気持がよかった。出席者の中には副綜理の浜尾氏、外山、江木、井上、服部の各教授がいた。最初に出た三品は西洋風で、青豌豆グリンピースつきのオムレツ、私が味った中で最も美味な燔肉やきにく、及び焙鶏肉であった。だが、私は純正の日本式正餐がほしいと思っていたので、いささか失望した。然し四皿目は日本風で、その後の料理もすべて本式の日本料理だった。彼等は私に、私が日本料理を好かぬかも知れぬと考えて、先ず西洋風の食物で腹を張らさせたのだと説明した。これは実に思慮深いことであったが、幸にも私は、その後の料理を完全に楽しむ丈の食慾を持っていた。有名な魚、タイ即ち bream は、美味だった。生れて初めて味った物も沢山あったが、百合ゆりの球即ち根は、馬鈴薯の素晴しい代用品である。砕米薺みずたがらしに似たいく種かの水草もあった。魚をマカロニ〔管饂飩〕みたいに調理したものもあった。銀杏の堅果はいやだったが、茶を一種の方法で調製したものは気に入った。このお茶は細い粉で出来ていて、大きな茶碗に入れて出し、濃いソップに似ている。これは非常に高価で、すぐ変質する為に輸出出来ないそうである。我々は実に気持のよい社交的な時を送った。私の同僚の親切な気持は忘れられぬ所であろう。
月曜の夜には、大学綜理のドクタア加藤が、昔の支那学校〔聖堂?〕の隣の大きな日本邸宅で、私の為に晩餐会を開いてくれた。外国人は文部省督学のドクタア・マレーと私丈で、文部大輔田中氏及び日本人の教授達が列席した。長い卓子は大きな菊の花束で装飾してあった。献立表は印刷してあり、料理は米国一流の場所で出すものに比して遜色なく、葡萄酒は上等であり、総ての設備はいささかの手落もなかった。ドクタア・マレーは私に、この会は非常に形式的であるに違いないから、威儀を正していなくてはならぬと警告してくれたが、事実その通りであった。食後我々は、葉巻、珈琲コーヒー、甘露酒その他をのせた別の卓の周囲に集った。食事をした卓を、召使達が静に取片づける間、長い衝立が、それを我々から隠した。
このように席を退いてさえも、人々は依然として威厳を保ち、そして礼儀正しかった。私はやり切れなくなって来たので、日本のある種の遊戯が米国のに似ていることをいって、ひそかにさぐりを入れて見た。すると他の人々が、こんな風な芸当を知っているかと、手でそれをやりながら私に聞くようなことになり、私は私で別の芸当をやってそれに応じた。誰かがウェーファーに似た煎餅を取寄せ、それを使用してやる芸当を私に示した。この菓子は非常に薄くて、極度に割れやすい。で、芸当というのは、その一枚の端を二人が拇指と人差指とで持ち、突然菓子を下に向けて割って、お互により大きな部分を取り合おうというのである。我国でこれに最も近い遊戯は、鶏の暢ちょう思骨を引張り合って、より大きな部分を手に残そうとすることであるが、これはどこで鎖骨が最初に折れるか、全く機会によって決定されることである。次に私は、他の遊戯を説明し、彼等は代って、いろいろな新しくて面白い遊びを教えてくれた。拇指で相撲をとるのは変った遊戯であり、私はやる度ごとに負けた。これは右手の指四本をしっかり組み合せ、拇指で相手の拇指を捕えて、それを手の上に押しつけようと努めるのであるが、かなりな程度に押しつけられた拇指を引きぬくことは不可能である。とにかく、三十分も立たぬ内に、私はすべての人々をして、どれ程遠く迄目かくしをして真直に歩けるかを試みさせ、またいろいろな遊戯をさせるに至った。菊池教授が二人三脚をやろうといい出し、外山と矢田部とが右脚と左脚とをハンケチで縛られた。菊池と私とも同様に結びつけられ、そして我々四人は、他の人々の大いに笑うのに勇気づけられて、部屋の中で馳け出した。我々は真夜中までこの大騒ぎを続けた。ドクタア・マレーと私とは各大きな菊の花束を贈られたが、それを脚の間に入れて人力車に乗ったら、人力車一杯になった。ドクタア・マレーは繰返し繰返し、どうして私があんな大騒ぎを惹き起し得たか不思議がった。彼はいまだかつて、こんな行動は見たことが無いのである。私は四海同胞という古い支那の諺を引用した。どこへ行った所で、人間の性質は同じようなものである。
この春私が日本へ来た時、稲の田は植つけの最中であったが、今や田舎を通ると、盛に取入れが行われつつある。私は穀物その他の植物の畝うねが、地形図の等高線と全く同様に、丘をめぐって水平線に並んでいるのに気がついたが、これは雨が土壌を掘り出すのを防ぐ為で、我国の農夫も真似をしたら利益が多いであろう。水田の間に立ち並ぶ木は、その幹に稲の束を結びつけることに利用されるらしい。稲の藁は屋根を葺くこと、及びその他の用途の為に保存される。十月の末で寒いのにもかかわらず、全く裸で取入をしている男達がある。
先日河に沿って歩いていたら、迫持せりもちの二つある美事な石の橋があった。その中央の橋台には堅牢な石に亀が四匹、最も自然に近い形で彫刻してあるのに気がついた(図297)。

汽船は十一月五日に出帆することになっている。私は送別宴や、荷づくりや、その他の仕事の渦の中をくるくる廻っている。学生の一人は荷物を汽船へ送る手伝いをし、松村氏は私が米国へ生きた儘持って帰らねばならぬサミセンガイの世話をやいてくれた(これは生きていた)。私の同僚及び親愛にして忠実なる学生達は、停車場まで送りに来てくれた。横浜で私は一夜を友人の家で送り、翌日の午後は皇帝陛下の御誕生日、十一月三日を祝う昼間の花火の素晴しいのを見た。これは色のついた煙や、いろいろな物が空中に浮び漂ただよったりするのである。大きな爆弾を空中に投げ上げ、それが破裂して放射する黄、青、緑等の鮮かな色の煙の線は、空中に残って、いろいろな形を現す。その性質と美麗さとは、驚く可きものであった。夜間の花火は昼間程珍しくはなかったが、同様に目覚しかった。港の船舶は赤い提灯で飾られ、時々大きな火箭ひやが空中に打上げられて、水面に美しく反射した。
我々は十一月五日に横浜を出帆し、例の通りの嵐と、例の通りの奇妙な、そして興味のある船客とに遭遇した。然しこれ等の記録はすべて個人的だから略す。ただここに一つ書いて置かねばならぬことがある。船客中に、支那から細君と子供達とを連れて帰る宣教師がいた。この家族はみな支那語を話す。私は「ピース・ポリッジ・ホット」を子供達とやって遊び、彼等の母親から支那語の訳を習って、今度は支那語でやった。もう一人の宣教師は、立派な支那語学者で、私に言葉の音の奇妙な高低を説明してくれた。上へ向う曲折はある事柄を意味し、それが下へ向くと全然別の意味になる。我々は――すくなくとも私は――正確な曲折を覚えることが出来なかった。そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった。
頭 隠気な 帽子
     ┌苦痛が多い
頭 隠気な┤ぶるぶる 振える
     └同じこと
頭 隠気 歩く
古い 時の 寵(かまど)
彼はそこでそれを漢字で書き(私はそれをここへ出した。図298がそれである)、私には判らなかった曲折の形式を、漢字につけ加えた。

私は一人の日本人に「ピース・ポリッジ・ホット」を訳し、彼等の文章構成法に従って漢字を使用してそれを書いてくれと頼んだ。次にそれを別の日本人に見せ、済みませんが英語に訳して下さいと頼んだ結果、以下の如きものが出来上った。
Pea juice is warm
And cold and in bottle
And has already been
Nine days old.
〔 ピース・ポリッジ・ホットとは
Pease porridge hot,
Pease porridge cold,
Pease porridge in the pot
Nine days old
云々と、意味のないことをいって遊ぶ子供の遊戯の一である。〕
春、メットカーフ氏と一緒に日本へ来た時、我々はサンフランシスコに数日いたので、案内者をつれて支那人町を探検した。我々はこの都会の乱暴な男女の無頼漢共と対照して、支那人の動作に感心し、彼等が静な、平和な、そして親切な人々であるということに意見一致した。今や、半年を日本人と共に暮した後で、私は再びこの船に乗っている三百人の支那人を研究する機会を得たのであるが、日本人との対照は、実に顕著である。彼等は不潔で、荒々しく、これ等の支那人は、行儀の点では、サンフランシスコや支那にいる同階級の人々よりも、ずっと優れているのであるが、生活の優雅な温良に関しては、日本人の方が支那人より遙かに優秀である。 
第十一章 六ヶ月後の東京
一八七八年五月一日
再びこの日記を、以前記録の殆ど全部を書いた同じ家で始めることが、何と不思議に思われることよ! 米国大陸を横断する旅行は愉快であった。私は、平原地方では停車場でインディアンの群を研究し、彼等の間に日本人に似たある特徴が認められるのに興味を持った。これ等の類似が日本人との何等かの人類学的関係を示しているかどうかは、長い、注意深い研究をした上でなくては判らぬ。黒い頭髪、へこんだ鼻骨等の外観上の類似点、及び他の相似からして、日本人と米国インディアンとが同じ先祖から来ているのだと考える人もある*。
* これ等の類似の一例として以下の事実がある。一八八四年フィラデルフィアに於て、私はオマハ・インディアンのフレッシ氏を菊池教授に紹介した所が、同教授はただちに日本語で話しかけ、そして私が彼に、君はオマハ・インディアンに話しをしているのだといったら、大きに驚いた。
今日、五月五日には、男の子の祭礼がある。この事に就ては既に述べた。私は空中に漂う魚を急いで写生した。風が胴体をふくらませ、魚は同時に、まるで急流をさかのぼっているかの如く、前後にゆれる。一年以内に男の子が生れた家族は、この魚をあげることを許される(図299)。

男が小さな荷物を頸のまわりにむすびつけ、背中にのせたり、顎の下にぶら下げたりしているのは奇妙である(図300)。彼等は必ず、我国の古風なバンダナ〔更紗染手巾〕か、包ハンケチに似た四角い布を持っていて、それに包み得る物はすべてひっくるむ。私は一人の男が、彼の衣服のひだから、長さ一フィートの包を引き出すのを見た。

去年の六月に私が来た時と、今(五月)とは、景色がまるで違う。稲の田は黒いが、あちらこちらに咲く菜種のあざやかな黄色の花に対して、よい背地をなしている。菜種からは菜種油をとる。桜と李が沢山あって、そして美しいことは驚くばかりであるが、而もこれ等の花の盛りは、すべて過ぎたのだそうである。我国の林檎の木ほどの大きさのある椿の木には、花が一面についていて、その花の一つ一つが、我国の温室にあるものの如く大きくて完全である。小さな赤い葉をつけた矮生の楓樹は、庭園の美しい装飾である。葉は緑になる迄、長い間赤いままである。野や畑は、色とりどりの絨氈のように見える。何から何までが新鮮で、横浜、東京間の往復に際して景色を眺めることは、絶間なきよろこびである。
日本人がいろいろに子供の頭を剃ることは、我々がいろいろに我々の顔を剃る――髭くちひげだけで、鬚あごひげが無かったり、鬚だけで髭が無かったり、両方の頬髭ひげを残して顎を剃ったり、顎だけに小さな鬚ひげをはやしたり、物凄く見せかける積りで、頬髭を両方から持って来て、髭を連結させようとしたりする――ことが、彼等に奇妙に思われると同様、我々には奇妙に思われる。莫迦ばかげている点では、どっちも大差はない。
図301は大工の長い鉋かんなで、傾斜をなして地面に置かれ、他端は木製の脚立にのっている。鉋をかけらるべき木は、鉋の上を前後に動かされるのだが、常に大工の方に向って引張られる。旅行家が非常に屡々口にする、物事を逆に行うことの一例がこれである。鉋の代りに木を動かし、押す代りに手前へ引き、鉋それ自身はひっくり返っている。

先日私が見た抽斗ひきだしが四つある漆塗の箱は、抽斗に取手がまるで無いという、変な物であった。抽斗がぴったりとはまり込んだ無装飾の、黒くみがき上げた表面があるだけなのだが、抽斗の一つを開けるには、開け度いと思う分の上か下かの抽斗を押すと、それが出て来る。抽斗の背後に槓杆仕掛てこじかけがあって、それによって抽斗はどれでも出て来ることが出来るのである(図302)。

私は一人の男が紙に艶つやを出しているのを見た。竹竿の一端にすべっこい、凸円の磁器の円盤がついていて、他の一端は天井に固着してあるのだが、天井が床を去ること七フィート半なのに、竹竿は十フィートもあるから、竿は大いに彎曲している。その結果磨滑器に大きな力が加わり、人は只竹の端を紙の上で前後に引張りさえすればよい(図303)。いろいろな仕事をやる仕掛が、我々のと非常に違うので、すぐに注意を引く。彼等は紙に艶を出す装置のように、竹の弾力によって力を利用する。また私は二人の小さな男の子が、ある種の堅果か樹皮かを、刻むのを見た。刻み庖丁は、丸い刃を木片にくっつけた物で、この木片から二本の柄が出ていて、柄の間には重い石がある(図304)。子供達は向きあって坐り、単に刻み庖丁を、前後にゴロゴロさせるだけであった。

五月七日。大学の望遠鏡で、水星の太陽面通過を見た。支那の公使並に彼の同僚を含む、多数の人々がいた。太陽の円盤の上に、小さな黒い点を見ることは興味が深かったし、またこれを見ることによって、人はこの遊星が太陽の周囲を回転していることを、更に明瞭に会得することが出来た。
私はすでに、英語で書いた、奇妙な看板について語った。それ等の多くは微笑を催させ、私が今迄に見た少数のものの中で、正確なのは殆ど皆無である。また日本人は看板に、実に莫迦げた絵をかく。ある歯科医の看板は、歯医者が患者の歯を抜く所を示していたが、患者のパクンとあけた口と、歯医者の断々乎たる顔とは、この上もなく怪奇に描かれてあった。
私は下層民の間で、若い男達がお互の肩に手をかけて歩いているのに気がついた。女の子が、我国の子供達みたいに、小径をピョンピョン跳ねているのは、一度も見たことがない。事実、彼等の木造の覆物を以てしては、これは不可能であるらしく思われる。下層民の街頭における一般的行為は、我国の同じ階級の、すこし年の若い人々のと似ている。
最近私は博物館の為に、陳列箱の設計をしている。これは中央に直立した箱がある、二重式陳列箱なのだが、日本人の指物師が、それを了解することを、如何に困難に感じるかは、驚くばかりである。大学の建築技師が私の所へやって来て、私は通訳を通じて、断面や立面を説明するのであるが、最もこまかい細部を繰り返し繰り返し説明せねばならず、これをやり終ると、今度は箱をつくる男が来て、私はまたそれを全部くりかえさねばならぬ。我々がある事物を製図する方法は、日本人の方法とは全然違い、また我々がつくって貰い度いと思う物は、彼等がかつて造った物や見た物の、どれとも似ていないのだから、彼等が我々の欲する物に就て面倒がり、そして思いまどうのも無理はない。
屋敷の内で、私の家から一ロッド〔三間たらず〕もへだたっていない所に、井戸と石の碑とがある。後者は竹の垣根にかこまれ、廃頽して了っている。屋敷のあちらこちらには、垣根にかこまれた井戸や、以前は何等かの庭の美しい特色であった高い丘や、その他、昔加賀公が何千人という家来をつれて、毎年江戸の将軍を訪問した時の、大きな居住地の証跡がある。今から十年にもならぬ前には、将軍が権力を持っており、この屋敷を初め市中の多くの屋敷が、家来や工匠や下僕の住む家々で充ち、そして六時には誰しも、門の内にいなくてはならなかったのだ、ということは、容易に理解出来ない。外国人は江戸に住むことを許されなかった。また外国の政府の高官にあらずんば、江戸を訪れることも出来なかった。然るに今や我々は、この都会を、護衛もなしに歩き廻り、そして一向いじめられもしない。
五月十五日。昨日胆をつぶすような事件が起った。政府の参議の一人なる大久保伯爵が暗殺されたのである。彼はベットー二人をつれて、馬車で宮城から帰りつつあった。ベットーは馬の先に立って走っていたが、突然八人の男が馬車へとびかかり、先ず馬の脚をたたき切って走れぬようにし、次に御者と二人のベットーを殺し、最後に伯爵を殺した。暗殺者はそれから宮城へ行って、反政府の控訴状を差出し、彼等の罪を白状した。即刻巡査が召集され、暗殺者は牢獄へ連れて行かれたが、途中大声で自分達の罪を揚言した。このような悲劇的な事件は、ここ数年間日本で起らなかったので、この事は市中で深刻な感情を煽り起した。大久保伯爵は政府の最高官の一人で、偉大な知能と実行力とを持っていた。然し、政府の浪費が激しいというので、大いに苦情があったらしい。暗殺した人々は、加賀の国から来た。この事変は、大学から半マイルも離れていない所で行われた。大久保伯の令息の一人は、私の学級にいる。
朝刊新聞の一つが昨夕、ここに出した付録(図305)を発行し、購読者全部に配布した。高嶺氏が私に彼の分をくれた。それはこの悲惨な出来ごとを簡単に述べたもので、私は高嶺氏に、これ等の文字を順序に従って、直解的に訳してくれぬかと依頼した。右手の行のてっぺんから読み始めて、それは以下の如くである――“New morning great long keep Interior business minister 〔grammatical character〕red slope bite different in traitor of action by cut killed has been of 〔grammatical character〕terrible yet detailed fact 〔grammatical character〕 light day. 5 month, 10―4 day, special distribution reach”――新聞の名前は左の下部に出ている。これによっても人は、これから何等かの意味をつかみ出す為に、どれ程細かに調べねばならぬかということと、漢字を読むことは、よしんばそれを全部知っていても、如何に困難であるかが判るであろう。以下のものから、一つの成句を構成することは、困難と思われる――“Red slope bite different in traitor of action by cut killed has been”“Red slope”は暗殺が行われた場所の名前であり、“bite different”は道路が交叉する場所を示す語である。この成句を逆に読むことが、我々の成句の構成法になるらしい。日本語には冠詞は無いが、それをつけ加えて、我々は、“Has been cut and killed by the action of traitor in different bite of Red Slope”と読む可きである。“yet detailed fact light day”なる表現は、明朝もっと詳しいことを知らせるの意味である。本文中のある語は、発音字〔仮名〕で綴ってあり、他の字は高嶺氏に説明の出来ぬ、文法的の表現を代表している。

翌朝の新聞は、更に詳細を報道した。まだ若い犯人達は、ある秘密結社の会員であったが、手に負えなくなったので、追い出されたらしい。そこで彼等は東京へ出て来た。警察は彼等が何か悪事を企らんでいるという警告は受けたが、どこで何をやるかは判らなかった。事変後彼等は大人しく捕えられ、即刻裁決されて、手取早く死刑になった。感情的精神錯乱の歎願も、最初の告訴を誤ったので下手人が別の人で逃げて了ったということも、間違った法廷で審判することも、より上の裁判所へ上告することも、陪審員の意見が一致しない結果、犯人が最後に自由になるということも、一切無いのは興味が深い。すべて、それ等の結果は、世界最高の謀殺率を持つ、我がめぐまれたる米国で、事を行うのとは、非常に違う。
日本人の癖には、他の国民の癖に非常によく似たものがある。例えば、鍛冶屋が鉄槌を一振り振った後で、鉄床かなとこにその鉄槌をしばらく置くが如き、屋根葺き屋が屋根を葺くのに、竹の釘を口に含み、我国の屋根葺きや挽物ひきもの細工師が同じようなことをする場合と同様に、素速く手を前後に動かすが如き、あるいは理髪師が、お客の頭を洗うのに、印刷職工が植字をしたり解版したりする時にするように、身体を旋律的に前後に動かすが如きである。
五月のなかば――あたたかくて、じめじめし、植物はすべて思う存分生長している。我々の庭の薔薇ばらは実に見事である。最も濃い、そして鮮かな紅色をしている花は大きく、花弁は一つ残らず完全で、その香といったら、たとえるものも無い。町を歩きながら、私は塀や垣根から、蝸牛かたつむりの若干の「種」を採集する。この前の日曜日に、私は学生の一人と植物園へ行って、キセルガイをいくつか集めた。これは欧洲によくある、細長い、塔状渦巻のある貝の「属」で、いくつかの「種」がある。ビワと称する果実が、今や市場に現れて来つつある。その形は幾分林檎に似ているが、味は甘く、西洋李みたいで、林檎らしいところは少しも無い。種子が三個、果実全部を充す位大きい(図306)。

いろいろな仕事の労銀が、実に安い。懐中時計修繕人が、私のためにある仕事をしてくれた。彼が五十セントを請求したとしても、私は何等抗議することなく払ったであろうが、而も彼は只の六セントを要求した丈であった。また私の検微鏡用切断器の捻子ねじが一つ曲ったのを、真直にするのには、二セントかかった丈である。
大久保伯が暗殺されてから、政府の高官達は護衛兵をつれて道を行くようになった。より改進的な日本人達は、この悲劇によって、まったく落胆がっかりして了った。何故かといえば、このような椿事が起るのを常とした、封建時代に帰ったように思われるからである。
私は目下、貝殻や化石の蒐集のための、箱を製造することを差図している。先日私は殆ど完成した箱を検査する可く、指物師のところへ行った。職工の殆ど全部が、老人も誰も、裸でいるのは変な光景だった。板に鉋をかけるのに、彼等はそれを垂直の棒につける(図307)。大工用の腰掛とか、机とかいうものは、更に見当らぬ。彼等の鉋、大錐、手斧、鑿等の、それと知られる程度に我々のに近いのが、どっちかといえば粗末らしく見え、それが弱々しい小さな箱に入っているのを見、更に驚く可き接手つぎてや、鳩尾枘(ありぼそ)や、彼等のこの上もない仕事を見ることは、誠に驚嘆すべきである。我国の大工の、真鍮張りの道具箱に、磨き上げた道具が入っているのや、その他を思い浮べる人は、仕事をするのが鉄砲ではなく、鉄砲の後にいる人間だということを理解する。

図308は、ニューズボーイ〔新聞配達の男の子〕というよりも、ニュースマン〔同上の成人〕を示している。子供は新聞を配達させられるだけの信用を受けていない。彼は一本の棒の末端にぶら下げた箱に新聞を入れ、棒の他端にある鈴を間断なくチリチリ鳴らす。廻る所を廻って了うと、鈴を取りのぞく。

私の家の後に、天文観測所が建てられつつある。その基礎のセメントをたたき込むのに、八人か十人の男が足場に立ち、各々重い錘に結びついた繩を、一本ずつ手に持っている。彼等はこれを引張り上げ、それからドサンと落すのだが、それをやる途中、恐しく気味の悪い一種の歌を歌う為に、手を休める。私は去年日光で、同じものを聞いた。これはチャンときまった歌であるに違いないが、如何に鋭い耳でも、二つの連続した音調を覚え込むことは出来ない。つまり、彼等の音楽には、我々の音楽に於るような「呑込みのゆく」骨法が更に無いという意味なのである。彼等の音楽は、唱応的の和音を弾じないし、人は音楽的の分節というものを、只の一つも思い出すことがなく、家庭で、或は家族がそろって歌うということも聞かず、学校の合唱団もなければ、男子の群が歌ったり、往来で小夜曲セレナードを奏じたりすることもない。これは彼等の芸術、彼等の態度、彼等が花を愛する心、更に彼等の子供の遊び迄が、我々の心に触れる所がかくも多いだけに、一層特異なものに思われる。彼等の唱歌は、初めて聞くと実に莫迦げている。
昨日大学の綜理が、文部省に関係ある内外人の教授達を、正餐に招いた。婦人達は招待されなかったが、我々は午後彼等を呼びよせることを許された。招待会の行われた庭園は、数百年前、紀州の大名によって造園され、今や政府はそれを、外賓をもてなす目的で、大切に保存しつつある。この庭は八百フィート四方位であろうが、東京にある大きな庭園のある物に比べては、小さいとされている。日本の造園師がつくり出す景観は、実に著しく人の目を欺くので、この庭の大さを判断することは不可能であった。荒々しい岩石の辺にかこまれ、所々に小さな歩橋のかかった不規則形な池や、頂上まで段々がついている高さ二十フィート乃至三十フィートの小丘や、最も並外れな形に仕立てられた矮生樹や、かためられて丸い塊に刈り込まれた樹々や、礫や平な石の小径や、奇妙な曲り角や、あらゆる地点から新しい景色が見えることやで、この庭は実際のものの十倍も広く見えた。私はある地点から、急いで写生したが、それはこの庭の性質を極めて朧気に示すに止ったから、ここには出さない。この場所の驚く可き真価を示し得るものは、よい写真だけである*。
* 橋のあるものは『日本の家庭』に絵になって出ている。
歩橋の、この上もなく変った意匠は、図309で示してある。小径がこのように中断してあるのだから、闇夜にここを歩く人は、確実に水の中へ落ちるであろう。図310は長さ十フィート、幅四フィートの一枚石でつくった歩橋である。図311は興味の深い歩橋で、彎曲した桁が一つの迫せり台から他の迫台へかかり、その上には直径三インチの丸い棒を横にならべ、それを床として、上には土がのせてある。両端は草で辺どり、中央部は二フィートの幅に、どこかの海岸から持って来た、最も清潔な平な礫が敷きつめてある。この庭園全体は、泥土の平地を埋立てたので、丘は積み上げ、石は橋の或るものをつくる為に、何マイルも運搬された。丘の一つの上には、一本石が四本立っていた(図312)。これ等は高さ五、六フィートの四角い柱で、二百五十年に近い昔、六十マイル離れた富士から持って来られ、古い宮殿の門を構成していた。この庭園はシバ・リキューと呼ばれる。リキューは「外部の宮殿」を意味し、シバはこの庭のある区域である。これは私が日本で今迄に見た中で、最も意外な点の多い、そして結構な場所である。構内の建物は日本の家屋の多くが、皇帝の宮殿から、最も簡単な茅屋にいたる迄、みな一階建であるが如く、一階建であった。

晩方の饗応は、十四皿の華美な正餐に、多くの種類の葡萄酒が付属したものであった。賓客七十名で、その中には文部卿に任命されたばかりの西郷将軍もいた。私は彼を聡明な、魅力に富んだ人で、頭のさきから足の裏まで武人であると思った。美しく且つ高貴な花が食卓を飾り、殊にその両端と中央とには、高さ三フィートの薔薇のピラミッドがあった。また大広間は何かの香料で、うっすらと香いつけられていた。私はこの晩ほど、色々な言葉が喋舌しゃべられるのを、聞いたことがない。外国語学校の先生達である仏、独、支那の各国人、医学校の教授職を独占しているドイツ人、帝国大学の英、米、日の教授達といった次第である。誇張するのではないが、食卓たるや、私が米国で見た物のいずれに比べても劣らぬ位美事であり、また料理法はこの上なしであった。料理人は全部日本人であるが、最上級のフランス料理人から教えをうけた。私は非常に沢山の仕事を控えていた為に、九時半には退出しなければならなかったが、正餐は深夜に及んでようやく終った。
図313は、まっすぐな柄の鎌で草を刈っている男を示す。鎌はすべてこの種類である。

今日私は、先日菓子をくれたある人を見つけようと努めた。私は、彼の住所を明瞭に書いたものを、持っていたのであるが、而もこの図(図314)は、私が連れて行った日本人が、この場所をさがす為にとった、まがりくねった経路を示している。名前のついている町は僅かで、名前は四角な地域全部につけられ、その地域の中を、また若干の町が通っていることもあるのだということを、私は再び聞いた。それで我々は、目的地を見つける迄に、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、くるくる廻ったりしたのである。

今日鉢に植えた植物を売る男が前庭へ入って来た。我々は植物を、鉢も何もひっくるめて十四買い、一本について一セントずつ払った。その中の二つは真盛りの奇麗な石竹、二つは馬鞭草くまつづらで、その他美しいゼラニウム若干等であった。
日本人は我々の服装を使用するのに、帽子はうまい具合にかぶり、また衣服でさえも、彼等特有の理屈にかなった優雅な寛衣と対照すれば、必ず身に合わず、吃驚せざるを得ないような有様ではあるが、それにしても相当に着こなす。然し日本の靴屋さんは、見た所は靴らしく思われる物はつくるが、まだまだ踝くるぶしを固くする技術を呑み込んでいない。靴を見ることは稀であるが、見る靴はたいてい踵かかとのところが曲っている。図315は今日私がある男のはいていた靴を、正確に写生したものである。

高嶺氏がちょいちょい家へやって来る。彼はオスウェゴー師範学校の卒業生で、私とは汽船の中で知合になったが、気持のいい人であり、私のいろいろな質問に対して、腹蔵なく返事をする。彼は私の男の子のことを話し、如何に彼を抱きしめることが好きであるかをいった。そこで私は、愛情をあらわす方法が違っていることをいい出した。高嶺のお母さんは、立派な、聡明そうな婦人で、非常に気持のよい、親切な感じを人に与える。で私は高嶺に、二ヶ年半も留守にした後でお母さんに逢った時、君は彼女にとびついて、固く抱擁して接吻しなかったかと聞いた。すると彼は一寸黙っていたが、「いいえ、僕にはそんなことは出来ませんでした。そんなことは非常に極りが悪いのです。ですから僕は、母親の左の手をつかんで、握手しました。母は私が握手した勢に吃驚し、私が完全に外国化したと思いました」と答えた。そこで私は彼に向って、日本人が友人や親類、殊に自分の子供に対して持つ愛情は、我々に於ると同様に熱切だと考えるかと、質ねた。彼は素直に、そうは思わぬといい、かつ愛情と愛情的の表現は、養成することが出来ると信じることと、それから米国へ行く前にくらべて、彼は兄弟に対して、よりやさしい感情を持つようになったこととを、つけ加えた。
昨日、教育博物館からの帰途、私はお寺の太鼓が鳴っているのを聞き、公園の木立の間を近路して、寺院を取まく亭ちんの一つで、奇妙な演技が行われつつある所へ出た。俳優が二人、最もきらびやかな色で刺繍された衣を身につけ、人間の考の及ぶ範囲内で、最も醜悪な仮面をかぶって、舞台に現れた。一人は房々とした白髪に、金色の眉毛と紫色の唇とを持つ緑色の面をかぶり、他の一人は、死そのものの如き、薄気味の悪い白色の仮面に、長く黒い頭髪の、非常な大量を持っていた。彼等は、刀を用いて、白い髪の悪魔が退散する迄、一種の戦いを続けた(図316)。日本人は、私の見た中で、最もぞっとするような仮面をつくり上げる。これ等は木から彫ったもので、劇の一種に於る各種の人物を代表する可くつくられる。

数日前、私は大森の貝塚に就て、日本人が組織している考古学倶楽部クラブで講演する可く招かれた。この倶楽部は、毎月第一日曜日に大学内の一室で会合する。大学副綜理の服部氏が、通訳をすることになっていた。今日、六月二日の朝、私は会場へ行った。会員は各、自分の前に、手をあたため、煙管に火をつける役をする、炭火を灰に埋めた小さな容器を置き、大きな机を取りかこんで坐っていた。私は彼等に紹介され、彼等はすべて丁寧にお辞儀をした。私は隣室に、古代の陶器をいくつかの盆にならべたものを置いて、ここで話をした。私はこの問題の概略、即ち旧石器時代、新石器時代、青銅時代、鉄時代と、ラボックが定限した欧洲の四つの時代に就て語り、次にステーンストラップがバルティック沿岸の貝墟でした仕事を話し、最後に大森の貝塚のことを話した。かかる智力あり、且つ注意深い聴衆を前に話すことは、実に愉快であった。私の黒板画は、彼等をよろこばせたらしい。要するに私は、この時位、講演することを楽しんだ覚えはない。
今晩菊池教授が晩餐に来た。我々は十時までドミノ〔卓上遊戯の一種〕をして遊んだ。我々がそれをやっている最中に、彼の人力車夫が縁側へ上って来て、閉ざした鎧戸の間から声をかけた。日本の家屋には呼鈴というようなものがないので、彼も鈴を鳴らすことは知らなかったのである。彼は先ず低い声で(日本語であることはいう迄もない)、「一寸お願いがあります」といい、次に自分の主人がいるかどうかを質ねた。姿の見えぬ彼の声を聞くことは、実に奇妙だった。私は単に、日本人が生れつき丁寧であることの一例として、この出来ごとを記するにとどまる。
純日本風の生活をしている外山教授が、自宅へ我々一家族を、晩餐に招待してくれた。家へ入るに先立って、我々はすべて靴を脱ぎ、それを戸外に置いた。子供達は、水をジャブジャブやる時か、寝床へ入る時か以外に、靴をぬいだことなんぞ無いので、大きに面白がった。外山氏の夫人と令妹とが我々にお給仕をし、我々の食事が終ると彼等が食事をした。家へ入ると、先ずお茶と、一種の甘いジェリー菓子とが出た。正餐は四角な漆器に入れて持ち出され、我々は床に坐っていて、盆も我々の前に置かれる。子供達が、慣れ親んでいる食物とはまるで味の違う、いろいろな食品を食おうとする努力は、見ていて興味が深かった。私は徐々に、殆どすべての味がわかりつつあり、非常に好きになった料理もいくつかある。お汁が二種類出た。一つは水のように澄んでいて、中に緑色の嫩枝わかえがすこしと、何等かの野菜を薄く切ったものとが入っていた。他の一つはカスタード〔牛乳と鶏卵とを混ぜて料理したもの〕に似ていて、煮た鰻と茄子とが入っていた。次には一種のオムレツ、百合根、ヤム〔薯蕷〕の白いようなもの、それから色は赤味がかった緑色で、実に美味な一枚の長い葉とが出た。食品の主要部分は野菜である。外山の小さな姪が、我々のために彼女の母親の三味線に合わせて、踊って見せてくれた。この舞踊は、典雅な姿態と様子とからなり、誠に可愛らしかった。これは事実に於て無言劇で、歌い手が言葉で主題を提供し、舞い手は身ぶりによって、その物語の要点を真似するのである。
実験室の仕事はドンドン進んで行く。大学当局が助手として私につけてくれた、ハキハキした利口な男が、私が米国から持って来た蒐集品に、札をつけることを手伝う以外に、ボーイが一人いて、部屋を掃除し、片づけ、解剖皿から残品を棄て、別に用がなければ近郊へ行って、私のために陸産の貝や、淡水産の貝を採集してくれる。これ等の人々が如何にもいそいそと、そして敏捷に、物を学び、且つ手助けをすることは、驚くばかりである。学生の一人、佐々木氏は、人力車をやとって、市中の遠方へ採集に出かけた所が、車夫も興味を持ち出して採集した為に、材料を沢山持って帰ったと私に話した。
ジョンの日本人の友人達が、何人か遊びに来た。可愛がっている小宮岡もいた。私は彼を膝にのせ、彼の喋舌る風変りな英語に耳を傾けていたが、しばらくすると、彼は片手を上げて、静に私の髯に触れた。私は彼の手に、口でパクンとやると同時に、犬がうなるような音をさせた。驚いたことに、彼は飛び上りもしなければ、その他何等の動作もしなかった。米国の子供ならば、犬が本当にパクリと指に噛みついて来たかの如く、直覚的に手を引込ませるであろう。これを数回くりかえした上、彼に彼の両親がこんなことをしたことがあるかと聞いたら、彼は無いと答え、そしてこれが何を意味するのか知らないらしく見えた。で、これはつまり犬が噛みつく動作を現すのだと説明すると、彼は日本の犬は噛みついたりしないといった。ここでつけ加えるが、犬に注意を払う――例えば、頭を撫でたりして可愛がる――のは見たことがなく、また日本で見受ける犬の大多数は、狼の種類で、吠える代りにうなる。ジョン(私の子)は大いに日本人に可愛がられているが、彼の色の薄くて捲いた頭髪は、日本人にとっては驚く可き、そして奇妙な光景なのである。
私は塵芥車に(それは手車である)、如何にも便利に、また経済的に尾板を取りつけた方法を屡々見た。それは単に一本の棒に、窓掛みたいな具合に、一枚の粗末な莚をくっつけた物で、この短いカーテンの末端は、車の尾端からたれ下り、塵芥の重量は莚を押えつけ、棒は莚が落ちることを防ぐ(図317)。称讃すべきは、この物全体の簡単と清潔とである。かくの如き簡単な実際的の装置が、屡々我々の注意を引く。屋敷の中の道路の末端で、新しい地面を地ならししている。すでに出来上った場所の上を、塵芥車を引いて行く代りに、彼等はすべてのバラ土を莚に入れ、棒にひっかけて二人で肩に担う。遠くから見ると、蟻の群みたいである。

図318は、瓢形に吹いた硝子ガラス器である。板にとりつけ、中に金魚が入れてあるが、花生に使用することも出来る。

学校へ通う子供達は、外国風のインク瓶に糸を結びつけ、手にぶら下げる(図319)。いろいろな小さな物品は、こんな風に、糸を結び、手を通す環をつくってはこぶ。糸は紙で出来ていて、たいてい非常に強い。紙を長い条片に切って捩り、膝の上でまるめるのだが、一片一片を捩り合せる方法は、手に入ったものである。これで包をしばったりするが、我国の麻紐ほどの強さがあるらしく思われる。

晩方早く、日本の料理屋へ食事に来ないかという招待には、よろこんで応じた。我々は二階へ通され、部屋部屋の単純な美と清潔とを、目撃する機会を得た。このホテルは(若しホテルといい得るならば)、東京の、非常に人家の密集した部分にあるのだが、それでも庭をつくる余地はあった。その庭には、まるで天然の石陂いわだながとび出したのかと思われる程、セメントで密着させた、大きな岩石の堆積があった(図320)。その上には美しい羊歯しだや躑躅つつじが一面に生え、天辺てっぺんには枝ぶりの面白い、やせた松が一本生えていた。岩には洞穴があり、その入口の前には小さな池があった。我々以外はすべて日本人で、その殆ど全部が知人だったが、幸福な愉快な人々ばかり。私の小さな伜と、誰かしら絶えず跳ね廻っていない時は無かった位である。日本人の教授の外に、新聞記者が一人いたが、彼は気高い立派な人であった。彼等は皆和服を着ていた。これは彼等にとっては、洋服よりも遙かに美しい。服部氏は夫人を、江木、井上両氏は母堂を同伴された。

正餐の前にお茶と、寒天質の物にかこまれた美味な糖菓とが持ち出され、後者を食う為の、先端の鋭い棒も出された。床には四角な、筵に似た布団ふとんが一列に並べられ、その一枚一枚の前には、四角いヒバチが置かれた。布団は夏は藁で出来ているが、冬のは布製で綿がつめてある。食事は素晴しく、私も追々日本の食物に慣れて来る。私は砂糖で煮た百合の球根と、塩にした薑しょうがの若芽とを思い出す。日本のヴェルミセリ〔西洋素麪そうめん〕を盛った巨大な皿が出て、これは銘々自分の分を取って廻した。蕪の一種を薄く切ってつくった、大きな彩色した花は、非常に自然に見えたので、私はそれを真正の花に違いないと思った(図321)。日本人は食卓の為のこのような装飾的な細工を考え出して、彼等の芸術的技巧を示す。彼等の食物は常にこのもしい有様で給仕され、町で行商される食物にさえも、同様な芸術があらわれている。

食事中、三味線を持った娘が二人と、変な形の太鼓を持った、より若くて、奇麗な着物を着たのが二人と、出現した。一人は砂時計の形をした太鼓を二つ持ち、その一つを左の腋にはさみ、他は左手で締め紐を持って、右肩にのせた。この二つを、右手で、代る代るたたくのだが、それは手の腹で辺を打ち、指が面皮に跳ね当るのである。音は各違っていた。別の娘の太鼓は我々のと同じ形で、写生図(図322)にあるように、傾斜して置かれた。これは丸い棒で叩く。彼等は深くお辞儀をしてやり始め、私が生れて初めて聞いたような、変な、そしてまるで底知れぬ音楽をした。三味線を持った二人は、低い哀訴するような声で歌い、太鼓がかりは時々、非常に小さな赤坊が出すような、短いキーキー声と諸共に、太鼓を鳴らした。この歌が終ると、小さい方の二人が姿態舞踊をやった。ある種の姿勢と表情からして、ジョンはこの二人を誇りがましいと考えた。時々彼等が、特に人を莫迦にしたような顔をしたからである。美麗な衣装と、優雅な運動とを伴うこの演技は、すべて実に興味が深かったが、我々は彼等がやっている話の筋を知らず、また動作の大部分が因襲的なので、何が何だか一向判らなかった。舟を漕いだり、泳いだり、刀で斬ったりすることを暗示するような身振もあった。彼等が扇子をひねくり廻す方法の、多種多様なことは目についた。これが済むと、三つにはなっていないらしい、非常に可愛らしくて清潔な女の子が二人、この上もなく愛くるしい様子をして、我々の方へやって来た。ジョンは彼等に近づこうとしたが、彼等は薄い色の捲毛を持った小さな男の子が現れたので吃驚仰天し、そろってワーッと泣き出して了い、とうとう向うへ連れて行かれて、いろいろとなだめすかされるに至った。

次に我々は、手品を見せて貰った。最初男の子が、この演技に使用する各種の道具を持って、入って来た。彼は舞台で下廻がかぶるような、黒いレースの頭覆いの、肩の下まで来るのをかぶっていた。次に出て来たのは手品師で、年の頃五十、これからやることを述べ立てて、長広舌をふるった。そこで彼は箸二本を、畳の上のすこしへだたった場所へ置き、しばらくの間それを踊らせたり、はね廻らせたりした。続いて婦人用の長い頭髪ピンを借り、それも同様に踊らせたあげく、今度は私の葉巻用パイプを借りて、それをピョンピョンさせた。彼は紙をまるめて、粗雑に蝶々の形にし、手に持った扇であおいで空中に舞わせ、もう一つ蝶をつくり、両方とも舞わせ、それ等を頭の上の箱にとまらせさえした。勿論これ等の品は、極めて細い絹糸で結んであるのだが、糸は見えず、手際はすこぶるあざやかだった。手品の多くは純然たる手技で、例えば例の蝶の一つをとってそれをまるめ、片手に持った扇で風を送って、紙玉から何百という小紙片を部屋中にまき散した如き、手を一振振って、十数条の長い紙のリボンを投げ出し、それを片手で、いくつかの花絲にまとめて火をつけると、※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)々たる塊の中から、突如大きな傘が開いた如き、いずれもそれである。これ等の芸は、すべて非常な速度と、巧妙さとで行われた。その後彼は我々の近くへ来て、色々な品物を神秘的に消失させたり、その他の手技を演じたりした。日本人は実に楽しそうだった。彼等は子供のように、心からそれを楽しみ、大声で笑ったりした。引き続いて、井上氏が簡単に歓迎の辞を述べ、私は謝辞を述べねばならなかった。我々が帰宅したのは真夜中に近く、子供達は疲れ果て、私の頭も、その晩見た不思議な光景で、キリキリ舞いをしていた。図323は手品師の心像である。

六月十五日。大学から遠からぬ、ある寺院で花市が開かれた。道路の両側には、あらゆる種類の玩具や、子供の花かんざしや、砂糖菓子や菓子を売る、小さな一時的の小屋が立並び、道路はあらゆる種類の花の束や、かたまりで、殆どふさがっていた。機嫌のよい群衆が、あっちへ行ったりこっちへ来たりしていたが、人力車を下りて歩き出したジョンには、日本人の老幼が群をなして、感嘆しながらついて来た。ある小屋には木を植えた小さな植木鉢と、紙片に詩を書いた物とがある懸垂装置があった。この品は高さ三フィートばかり、不規則な輪郭の薄い木の板で出来ていて、それに小さな棚を支持する枝が固着してある。如何なる叙述よりも、図324の方がよく判るであろう。木材は熱で褐色にしてあり、古そうに見えた。

日本人は散歩に出ると、家族のために、おみやげとして、如何につまらぬ物であっても、何かしら食品を買って帰る。竹中は、これは一般的な習慣だという。彼等は不思議な贈物をする。尊敬をあらわす普通の贈物は、箱に鶏卵を十個ばかり入れたもので、私は数回これを受取った。金子を贈る時には、封筒なり包み紙なりの上に、「菓子を買うに入用な資金」ということを書く。パーソンス教授は、大久保伯爵家から贈物として、背の高い、純白の松のお盆に、種々な形と色の糖菓を充したものを贈られた。それ等の一つ一つに意味がある。私はそれを写生せずにはいられなかった(図325)。先端が曲った物の、小さな束は、彼等が食用とする羊歯の芽である。弓形を構成するように曲げられた大きな物の上には、いう迄もないが彩色した、完全な藤の造花がついている。お菓子の上には菊の花形が押捺してある。これ等は紅白で、豆の糊ペーストと砂糖とで出来ている。日本人は非常にこの菓子を好むが、大して美味ではない。お盆は高さ十八インチもある。糖菓の大きさも、推察されよう。全体の思いつきが清澄で、単純で、芸術的であった。

先週強い地震があった。私は横浜のホテルの二階にいた。これは、私が初めて「聞いた」地震の一つであるから、ここに記録する。ニューイングランドで我々が感じる弱い震動は、耳に聞き得る鳴動を伴うが、今迄のところ、日本の地震は、震動が感じられる丈であった。然るに今度の奴には、まるで沢山の車馬が道を行く時みたいな、鳴動音が先立った。数年間日本にいたハバード夫人が私に、これは重い荷をつけた荷車が通り過ぎる音だといい、私はそれについては、何も心にかけなかったが、次の瞬間、砕けるような、きしむような、爆発するような、ドサンという衝撃が、建物全体をゆり動かし、まったく、もう一度この激動が来たら、建物は崩壊するだろうと思われた。ハバード夫人は気絶せんばかりに驚き、ホテルの人々は当もなく、恐れおびえた様子で右往左往した。これは私が今迄に経験した中で一番強い地震で、私は初めて多少の興奮を感じたが、恐らく他の人々が恐怖の念を示したからであろう。
六月十六日。私はまたしても、家をゆすり、戸をガタガタさせ、そして三十秒ばかり継続した地震に、目をさまさせられた。
図326は、植物学を教える、巧妙な方法を示している。板はその上に描いた花を咲かせる木の材であり、額縁はその樹皮でつくり、その四隅は枝の横断面で出来ている。

今日高嶺夫人が、ジョンの遊び仲間である、小さな日本の子供達をつれて来られた。彼女は縮緬でつくった、針差みたいな小さな品を三つ持って来た。これ等は、背部に、木製の小楊枝ようじを入れる袋をそなえている。図327はその二個である。

先日、横浜から来る途中、私は汽車の窓から、滑稽な光景を見た。それは耙まぐわをつけた馬が一匹、気違いのように逃げて行くのを、農夫が止めようとしているのであった。今や田には水が満ちているので、耙がはね上っては、泥と水とを農夫にあびせかける有様は、実に抱腹絶倒であった。
私は丁髷ちょんまげの珍しい研究と、男の子、並に男の大人の髪を結ぶ、各種の方法の写生図とが出ている本を見た。これには百年も前の古い形や、現在の形が出ている。図328で、私はそれ等の意匠のある物をうつした。これ等の様式のある物は、よく見受けるが、およそ我々が行いつつある頭の刈りよう程、素速く日本人に採用された外国風のものはない。それが如何にも常識的であることが、直ちにこの国民の心を捕えたのである。頭を二日か三日ごとに剃り、その剃った場所へ丁髷を蝋でかため、しっかりと造り上げることが、如何に面倒であるかは、誰しも考えるであろう。夜でも昼でも、それを定位置に置くというのは、確かに重荷であったに違いない。漁夫、農夫、並にその階級の人々、及び老齢の学者や好古者やその他僅かは、依然として丁髷を墨守している。大学の学生は、全部西洋風の髪をしている。彼等の大部分は、頭髪を寝かせたり、何等かの方法でわけたりすることに困難を感じ、中には短く切った頭髪を、四方八方へ放射させたのもある。子供の頃から頭のてっぺんを剃って来たことが、疑もなく、髪を適当に寝かせることを、困難にするのであろう。

しばらくの間私と一緒に住んでいた一人の学生は、歩くのにびっこを引くので、リューマチスにかかっているのかと聞いて見た。すると彼は、これはある時争闘をして受けた刀傷が、原因していると答えた。私は好奇心が動いたので、ついに思いきって、どこかの戦争で、そんな傷をしたのかとたずねた。彼は微笑を浮べて、次のようなことを語った。初めて外国人を見、整髪法が如何にも簡単であるのに気がつき、そしてこのような髪をしていることが、如何に時間の経済であるかを考えた彼は、ある日丁髷を剃落して級友の前へ現れ、学校中を吃驚させた。一人の学生が特にしつっこく、彼が外国人の真似をしたとして非難した。その結果、お互に刀を抜き、私の友人は片脚に切りつけられたのである。だがその後半年も立たぬ内に、彼を咎めた学生も、外国風の整髪法が唯一の合理的方法であることを理解するに至り、丁髷を落して登校した。
今日の午後、我々は文部省から、古い支那学校で行われる音楽会へ招待された。音楽はキビガクとして知られる。二百年にもなる古い形式で、備前の国から来た。音楽会の開かれた広間には、敷物や椅子があり、椅子は広間の両側に三列をなしてならべられ、中央に空地を残してあった。二百人に近い聴衆の、殆ど全部は日本人で、その中には、女子師範学校と幼稚園の先生が、二十名いた。彼等はいずれも、立派な婦人達だった。お互に会うと、如何にも低く、そして儀礼的にお辞儀をしあうのは、興味があった。床の中央にはコト(図329)、即ち日本の堅琴が二台置かれてあった。この楽器は長さ五フィートに近く、支那から来た古い形式である。しばらくすると、総数六人の演技者が入って来た。琴に二人、歌い手が二人、他の二人の一人は笛を吹き、一人は古代の支那の書籍に屡々出て来る、ショーと呼ぶ奇妙な楽器(図330)を吹く。これは椰子やしの実を半分に切ったような、まるい底部から、長さの異る何本かの竹管が縦に出ているもので、吹奏口は底部の横についている。演奏者は写生図(図331)にあるように、それを両手で持つ。指導者は年とった男で、笛を吹き、時に途方もない音を立てる一種の短いフラジオレット〔篳篥ひちりき?〕を吹いた。

演奏は先ず例の老人が、不愛想な唸り声を、単調な調子でいく度か発することによって開始された。食いすぎた胡瓜が腹一杯たまっていたとしても、彼はこれ以上に陰欝な音を立てることは、出来なかったであろう。事実それは莫迦げ切っていて、私は私の威厳を保つのに困難を感じた。彼がかくの如き音を立てている間に、一人の演奏者が、琴でそれに伴奏をつけ出した。これが一種の序曲であったらしく、間もなく若い男の一人が歌い始め、老人は笛を吹き、楽器はすべて鳴り出し、筝はバッグパイプ〔スコットランド人の用いる風笛〕に似た音で、一つか二つの音色の伴奏を継続した。曲の一つ一つは、その名こそ大いに異れ、私にはいずれも非常に似たものに聞えた。この吉備楽は、聞いていて決して不愉快ではないが、我々の立場からは、音楽とは呼び得ない。ある曲には、「春の夜の月」という名がついていた。別のには、ある将軍の名がついていた。また別なのは、有名な川に寄題され、更にもう一つの、これはいつ迄立っても終らぬぞと思った曲は、誠に適切にも、「時」という名で呼ばれていた。
長い休憩時間に、私は室外へ出、葉巻に火をつけて、しばらく構内を散歩した。再び管弦楽が開始された時、私の葉巻はまだ残っていたので、私は注意深くそれを風が吹いても吹き散らさせぬ、一隅の、階段の上に置いた。次の休憩時間に、葉巻を求めて出て来た所が、それは失踪している。いく分不思議に思って見廻していると、巡査が一人来て、質問するような様子をしながら、厳粛に私が葉巻を置いた場所を指さした。私が日本語で「イエス」と答えると、彼は廊下の端に置いてある、いくつかの火の箱、即ちヒバチを指示した。行って見ると私の葉巻が、一つの火桶の端に注意深く、燃えさしが落ちても灰の中へ置ちるようにして置いてあった。日本人は火事に対しては、このように深く注意する。
一人の男が、日本の、緩慢な、そして上品な舞踊の一つを舞った。これは明確な意味に於るダンスではなく、足を踏みつけたり何かして、いろいろな身振をする劇なのである。これは劇の古い形式を示している点で興味が深かった。「これは我々の言葉の意味に於る音楽だろうか」という質問が、間断なく起った。音楽ではあるが、我々のとは非常に違う。演奏者の真面目な、受働的な顔に微笑が浮ぶというようなことは決してない。我々の歌い手は、歌詞に霊感を感じると、鼻孔を大きくし、眼を輝かし、頭を振るが、こんなことも丸でない。こんなに単調な音からして、霊感なり興奮なりを受けることは、不可能であろうと思われる。最も近い比較は、我国の、音楽のまるで分らぬ老人が、たった一人材木小屋にいて、間ののびた、どっちかといえば陰気な讃美歌を、ボンヤリ思い出そうとしていることである。この印象は、日本の音楽に就ては全然何も知らぬと、正直に白状した人が、感じた所のものなのである。我々は日本の絵画芸術のある形式、例えば遠近法を驚く程無視した版画や、野球のバットのような釣合の大腿骨を持ち、骨格は、若しありとすれば、新しい「属」として分類されるであろうような人体画やを、莫迦気ていると考えたが、而も我国の芸術家は、これ等の絵に感嘆している。だから日本の音楽も、あるいは、現在我々にはまるでわからぬ、長所を持っていることが、終局的には証明されるようになるのかも知れない。
文部省が外国人教授に聞かせてくれた音楽会の返礼として、大学教授が四人、四重唱団を組織し、いくつかの歌を練習した。四重唱団はメンデンホール、フェノロサ、リーランド及びモースの四教授から成立していた。我々が練習した歌の中には「巡礼の合唱」、アリオン集中の若干、「オールド・ハンドレッド」〔讃美歌の一〕、「すべての名誉を兵士に捧ぐ」その他があった。二百人という日本人の先生達が集ったが、各々が鉛筆と紙とを持ち、選曲は順序書に印刷され、そして先生達は、彼等の印象を記録することを委嘱された。これ等の記録は取りまとめられ、大部分は飜訳されずに、いまだに歌手の一人の手もとにある。「すべての名誉を兵士に捧ぐ」は大いに勢よく歌ったが、この感情が静かな日本人にとって、むしろいやらしかったと知った時、我々は多少耻しい気がした。その後我々は、日本人が、詩ででも散文ででも、戦争の栄光を頌揚したりしたことは、決して無いということを知った。
今朝私は、子供達と、劇場へ行った。その建物は新しく、日本では最善且つ最大で、一千五百人を収容することが出来る。照明には瓦斯ガスを使用し、換気法もよく行われ、総体としてよい興行館である。形は四角く、桟敷さじきは広間の左右と背後とにあり、舞台に面する桟敷は非常に低い。最もよい場所とされているのは、桟敷ボックスである。我国の劇場で、座席が列をなして並んでいるのとは異り、広間は六フィート四方、深さ一フィート強で、大人四人と子供二人とが坐り得る広さの区劃に、わけてある。通路はこれ等の区劃と同じ高さにあり、区劃の縁は幅四インチであるから、人は劇場に入ると先ず通路を歩き、次に釣合いをとりながら、これ等の区劃をしきる横棒の上をつたい歩いて、自分の場所まで行く。この建物は住宅のすべてと同様、自然その儘の木材で出来上っていて、ペンキ、油、ワニス等は更に使ってなく、填材などもしてない。天井は見受る所、幅三フィートの板で出来ていた。これから二つの大きな瓦斯集合燈架シャンデリアがぶら下り、また脚光にも瓦斯が使用してあった。図332は往来から、この劇場を極めてザッと写生したもので、その前面にかかっているのは、俳優達を色彩あざやかに描いた絵である。

この建物には、ずい分金がかかっているに相違ないが、防火建築の様式によって建てられた、最もしっかりした性質のもので、黒く光る壁や巨大な屋根瓦で、堂々としている。玄関は日本人の身長に合して出来ているので、天井が非常に低く、我々は※(「木+垂」、第3水準1-85-77)たるきで頭をうつ。靴は合札をつけられ、人は大きな木の切符を手渡されるのであるが、木製の履物が何百となく、壁上の小さな場所に並べてあるのは、奇妙な光景である。急な階段を上ると、狭い通路へ出る。ここにいくつかの戸があり、人はそれを通って観客席へ入る。舞台は非常に広いが、興行はない。舞台の中心には、床と同じ高さの大きな回転盤があり、ある書割の前で一つの場面が演じられつつある間に、道具方はその裏で、他の書割の仕度をする。そしてその場面が終ると、回転盤が徐々に廻って、新しい場面が出現する。桟敷から凹んだ四角にいる人々――家族全体、あるいは男女の群――を見下すと、誠に興味が深い。火鉢を持っているので、彼等はお茶に用うる湯を熱くすることが出来、持って来た昼飯をひろげ(或は近くの料理店の給仕が、昼飯なり晩の飯なりを盆にのせて来る)、炭火で煙管に火をつけ、彼等はこの上もなく幸福な時を送る。
演技は極めて写実的で、ある場面、例えばハラキリの如きは、ヅッとする程であった。ここではすべての儀式を、最後に頭が盆の上にのせられて、運び出されるに至る迄やる。細部はすっかり見せる。先ず腹を露出し、短い刀の柄と刀身とを両手で握って、左から右へ切り、刀身が過ぎた後の切口は青い線として現れ、そこから赤い血が流れ出し、そこでこの俳優は、頭を前方にガクリとつき出し、彼の友人がそれを刀で斬ろうとするが、苦痛に堪えかねて身体を横にして刀を落すと、別の男が急いでそれを拾い上げ、この悲劇の片をつけて了う。これは手品師の芸当みたいなものなのである。というのは、興奮している観客には、犠牲者の前を数名の俳優が通り過ぎたことが目に入らず、事実刀がこの男の頸に落ちたように思われるが、一方斬られる男は亀みたいに、ゆるやかな寛衣の中へ、頭をひっこめるのである。それはとにかく、血まみれの切口をした頭が転り出ると、ひろい上げて盆にのせ、審判官だか大名だかの所へ持って行くと、彼は犠牲者の目鼻立を認識して、この行為が遂行されたことを知る。友人達の悲劇的な悲哀は完全に演出され、夥しい観客の中には、泣く婦人も多い。この芝居は朝六時に始り、いくつかの幕を続けて、晩の九時に終った。劇のあるものは、演出に二、三日を要する。支那には、全部を演ずるのに、一ヶ月も二ヶ月もかかる劇もあると聞いた。
この芝居は十五時間を要し、初めの頃の一将軍の歴史を記録したものなのである。これを米国でやったら、大いに注意を引くに違いない。俳優達は、劇場の後方から二つの主要な通路に現れ、舞台に向いつつある時にも、また部屋へ退く時にも演技する。我国で見られる劇的の濶歩、その他の演技上の技巧も認められた。ある場面には一軒の古家があり、葦のまん中に舟が引き寄せてあった。舟には魚が積んであって、四周は沼沢地らしく見えた(図333)。この家は、後から出て来た二十人の人々を入れ得る程、大きなものであったが、しばらくの間は、年とった腰の曲った老婆が、たった一人いたきりである。彼女は燃えさしを煽いで、想像的な蚊を追っていた。時々彼女は蚊を追う為に、頸や脚を煽ぎ、また煙で痛む目を、静に拭いた。この役が若い男によって演じられていることは、容易に理解出来なかった。彼のふるまいや動作は、どれを見ても、ヨボヨボな、八十歳の老婆のそれであった。俳優はすべて男で、女の役も男が、調子の高い裏声を出して演じる。

古式演技の伝襲的な形態が残っているのもあるが、それは実に怪奇を極めている。その演技を記述することは、不可能である。そのある部分は、芝居よりは体操に近く、説明してくれる人がいなくては、何が何やら見当もつかぬ。たった一人の男――位の高いサムライ――が、扇子を一本持った丈で、刀や槍で武装した三十人の群衆を撃滅オーヴァスローしたりするが、彼等は空中に飛び上り、床に触れることなく後向きにもんどり打ったり、文字通りの顛倒オーヴァスローである。
また別の場合には、一人の男が、何度追っぱらってもまたかかって来る一群を相手に、せっぱ詰って短い階段をかけ上り、死者狂いで且つ英雄的な身振りを、僅かやったあげく、刀の柄をつかんで抜く真似だけをすると、群衆全部が地面にひっくり返って、脚を空中高く上げたものである! 実にどうも莫迦気た話であるが、而も群衆を追いはらったこの英雄が、扇子だけを用いて、万一彼が恐るべき刀を抜かねばならぬ羽目に陥った時には、こんな風な結果になるということを示したことは、農夫階級に対するある種の威力と支配権とをよく表していた。夜が来たことになっても、舞台は暗くならず、天井から舞台の上へ、三日月をきりぬき、後にある蝋燭で照らした箱がぶらりと下る(図334)。「今や夜である」という看板を下げたとしても、これ程莫迦らしくはあるまい。この事を米国に住んだことのある日本人に話したら、彼は、日本人はかかる慣習に馴れていて、我々が舞台で俳優が堂々たる城の壁〔書割〕によりかかって、それをユラユラさせるのを見慣れていると同様、何等の不適切さも認めないのだといった。この日本人は、事実米国の舞台で城壁がゆれるのを見て驚いたのであるが、而も米国人の観客は一向平気でいた。

舞台の右手には黒塗の格子があって、その内に囃方はやしかたがいる。ここから演技に伴う人声の伴奏をなす所の、大きな太鼓の音と、三味線の単調な音とが、演出される場面に従って、或は悲しく、或は絶望的に、聞えて来る。舞台の左手には桟敷と同じ高さに、格子でしきった場所があり、その内には、非凡な声を持つ男が一人坐っていた。彼は慟哭し、叫び、叱りつけ、悲鳴をあげ――まるで猫が喧嘩する時の騒ぎみたいだった――そして何時間も何時間も、悲劇的なると否とを問わず、演技に対するこの人声伴奏を継続した。それはまったく、場合場合によって、人を興奮させたり悲しませたりした。時にこの声が不吉で、予言的であると、観客は何等かの破局が必ず起ることを予期する。
日本の召使いの変通の才は顕著である。私は四人雇っているが、その各の一人は、他の三人の役目をやり得る。先日私は、ボーイと料理番とに、芝居へ行くことを許した。すると唯一の女の召使が、立派な正餐をつくり上げた。人力車夫でさえも、料理をし、自動回転窓掛をかけ、その他類似のことは何でもやり、又私が大がかりな晩餐をやる時には、素足で入って来て、花を実に見事に飾るので、我々は彼の技能に驚いて了う。彼は庭園の仕事を手つだい、用があれば何時でも飛んで行き、そして皿を洗うことを、彼の義務と心得ているらしい。一寸いうが、彼は皿を只の一枚も割ったり、欠いたりしたことがない。
私は宅へ来る日本の友人達が如何に早く遊戯を覚え込むかに気がついた。彼等は心的に敏捷である。
私の特別学生の一人で、私がことのほか愛していた松浦が、昨夜病院で、あの脚気という神秘的な病気が原因して死んだ。彼は大部長いこと病気していたので、私は度々病院へ見舞に行った。すると彼は、学校の仕事がどんな風に進行しているかを質ね、最後の瞬間まで興味を持ち続けていた。私は、私が埋葬地まで一緒に行ってやったら、彼の同級の学生達をよろこばせるであろうということを聞いた。彼の母や妹や親類たちは、五百マイルも南の方にいるので、来ることが出来なかった。学生は百人ばかり集り、我々は棺が出て来る迄しばらく待った。棺というのは長い装飾の無い箱を、白い布で包んだもので、四人が肩にかつぎ、その前には一人の男が長い竹の竿から、長くて幅の狭い布をさげた物を持って行った(図335)。私はこの旗を、同様な場合に見たことがあるので、聞いて見たら、単に死者の名前と生国とを、書いたものだとのことであった。最も先頭には、松浦の名前を書いた、長い木の柱をかついだ男が行った。これは一時的の墓標なのである。組織的な行列というようなものはなく、我々は自分勝手に遺骸に従ったが、而も態度は真面目で、秩序立っていた。学生はすべて和服を着ていて、女の学校の一学級に似ていた。彼等の多くは外国風の麦藁帽子をかぶり、彼等の下駄は固い土台道路で、奇妙な響を立てた。殆ど一マイル半ばかりも歩いて、我々は墓地へ着いた。ここは大きな木や、花や、自然そのままの景色に富み、非常に美しい場所であった。我々が通り過ぎた人々は、行列の中に外国人がいるので、いぶかしげに見送った。

墓地の入口には、一種の迎接小舎があり、ここで棺架ごと棺をこの木製支持台にのせ、墓標は、棺に立てかけた。間もなく、頭を奇麗に剃った、仏教の僧侶が一人、葉のついた小枝を持って現れ、それを棺の両端に近く一本ずつ立てかけ、次に華美な錦襴の衣を着、蝋燭に火をつけ、棺の横にひざまずいて、時々持って来た小さな鈴を叩きながら、祈祷をつぶやき始めた(図336)。彼が彼の唇で立てた音は、巨大な熊蜂が立てるであろう音を思わせた。私には明瞭な言葉は一つも聴取れなかったし、またつぶやくことには休止も無かった。学生が数名、近くに立っていた。他の学生達は道路の傍に立っていて、中には小さな日本の煙管を吸う者もあった。彼等はこの祭儀には、全然無関心らしく、見受けるところ、これはうるさい事だが、我慢しなくてはならぬのだと思っているらしかった。私と一緒にいた矢田部教授は、ここにいる百人の学生の中で、仏教なり神道なりを信じる者は、恐らく一人もあるまいが、而も彼等もすべて、母親や姉妹達が感情を害さぬ為、このようにして埋葬されることであろうといった。それにも拘らず、彼等は静かで真面目で、低い調子で話し、厳粛に、上品に、彼等の学友に対して、最後の回向えこうをするのであった。墓はすくなくとも七、八フィートという、非常に深いものであった。棺がその中へ降されると、学生の多くは傘で、土をすこし押し入れ、また一握の土を取りあげて、投げ込む者もあった。これ等の、真面目な顔をした若者達が、墓の周囲に集り、そして静かに四散して行く有様は、悲しい気持を起させた。

私は立派な墓石や、記念碑を、沢山見た。石脈から切り出したままの、不規則な外囲を持った、自然の板石で出来たのもある。岩の平たい割面には、字句が刻んであった。これ等は神道の墓であるとのこと。ここに、二つの非常に異る教の表号が、相並んで立っている……私は同じ宗教の二つの流派〔旧教と新教〕が、それぞれの墓地を、生きている時よりも遙か離れて持っている、我米国を想った。
矢田部教授と「四月莫迦の日エイプリル・フール」の話をしていたら、彼は、日本人は鹿つめらしく見えるが、中々悪戯いたずらをするのが好きだといった。これ等の悪戯の一つに、眠ている人の顔に、薄い赤い紙を非常に軽くはりつけ、そこで部屋中を、火事だ、火事だと呼びながら駈け廻って、彼を起すというのがある。眠ていた者は目をさまし、赤い閃光を見て大急ぎで飛び起きて、初めて自分がからかわれていたことに気がつく。日本のサムライは、外衣の袖と背中とに、白地の美しい模様をつける。これは絹を黒く染める時、白いままで残すのであるが、モンと呼ばれ、紋章、或は家族の飾章ともいうべきである。これ等の紋章は屡々、それを所有する家族が使用する可くつくられた、磁器、陶器、漆器その他についている。白い紙で、嫌われている家族を代表する紋を切りぬいてする、悪戯がある。その一面に、前もって糊を塗っておき、それを手にかくして持つ学生が、友人に近づき、愛情深く手を背中に置いて、紋を外衣に押しつける。すると紋はその場所へくっついて了い、通行人が笑止がるといった次第である。子供の頃、我々は同じようなことをした。白墨で手のひらに莫迦げた画をかき、その手でほかの子供の背中を叩くと、彼は背中にこの絵をくっつけた儘、何も知らずに往来を歩いて行く。
大工が仕事をしているのを見ると、いろいろなことを、我々のやり方とは、非常に違った方法でやり、また我々が必要欠くべからざるものと思っている器具を一つも使わないので、中々興味がある。柄の短い突錐で穴をあける場合、我々は柄を片手で握り、手を前後に動かして穴をあけるが、日本人は柄の長い突錐(図337)を使用し、開いた両手を柄にあてがい、それを迅速に前後に動して、柄を回転させる。手が次第に下へ下って来ると、彼等は即刻手を柄の上端へ持って来て、運動を続ける間、絶間なく下へ下へと押しもみ、このようにして、彼等は非常に早く穴をあける。彼等は大工用の細工台とか、我国の万力とかいうような仕掛は、まるで持っていない。鋸には長い、まっすぐな柄がついているが、彼等はこんな柄でも両手を使う事が出来る。日本人が万力の用途に使用するものは、実に不細工で不便である*。

* 然し我々は、大工の道具と彼等が仕事をする方法とに関する詳細を、『日本の家庭』について見なくてはならぬ。
しゃぼん玉を吹く子供は、長い竹の管を使い、石鹸と水との代りに、植物の溶液を使用する。この管から彼は速に、二十乃至三十の泡沫あわを吹き出すのだが、それが空中を漂って行く有様は、管から紙片を吹き出すようである。
営造物の名前の多くは、長い木片に書かれる。日本人は縦に書くので、絵画以外の記牌は、縦の方向に僅かの場所をとる丈である。医学校(これは屋根の上に鐘塔のある大きな建物で、外国風の巨大な鉄門を持っている)の門標は、幅一フィート、長さ六フィートの板に書いてあるが、これは単に学校の名を書いた丈なのである。標札、即ちある家の住人の名前は、木片に書き、入口の横手にかける(図338)。

七月四日〔独立記念日〕になった時、私の伜は、爆竹をパンパンやることが許されぬので、大きに失望していた。火事を起さぬ用心として、警察は屋敷内ですら、爆竹や、玩具のピストルや、それ等に類似したものを使用することを、許さなかった。
私は日本で初めて、日本人だけを聴衆にして行った、公開講義のことを書かねばならぬ。米国から帰った若い日本人教授達が、公共教育の一手段としての、我国の講演制度に大きに感心し、東京でこのような施設を設立しようと努力した。これは非常に新しい考なので彼等は一般民衆の興味をあおるのに、大きな困難を感じた。然しながら彼等は勇往邁進し、ある茶店の大きな部屋を一つ借り受けた。一般民衆は貧乏なので、入場料も非常に安くなくてはならぬ。同志数名が集って、この講演会に関係のある科学、文学、古代文明等に関する雑誌を起し、この人々が私に六月三十日の日曜日に、最初の講演をする名誉を与えてくれた。私は考古学を主題として選んだ。狭い路を人力車で通って、会場へ来て見ると、私の名前が大きな看板に、私には読めぬ他の文字と一緒に、日本字で書いてあった。人々が入って行く。私は通訳をしてくれることになっていた江木氏にあったので、一緒に河に面した部屋へ入って行った。例の方法で畳にすわった日本人が、多くは扇子を持ち、中には煙管を持ったりお茶を飲んだりしているのもあったが、とにかく、ぎっしりと床を埋めた所は巧妙だった。黒板が一つあった。部屋中に椅子がたった一脚、それに私は坐らせられた。
井上氏が先ず挨拶をされた。これは、後で聞くと、何等かの伝記的記事から材料を得て、私というものの大体を話されたのだそうだが、彼のいったことが丸で判らぬ私は、いう迄もなく顔一つあからめずにこの試練をすごし、さて聴衆に紹介された。通訳を通じて講演するのは、むずかしかった。会話ならば、これは容易だが、覚書を持たずに講義するとなると、通訳がどれ程よく覚えていることが出来るかが絶えず気にならざるを得ず、従って言論の熱誠とか猛烈とかいうものがすべて抑圧されて了う。私は先ず、考古学の大体を述べ、次に日本に於る広汎な、いまだ調査せられざる研究の範囲を語り、目の先にある大森の貝塚を説明し、陶器のあるものを示し、かくて文字通り一歩一歩、主題の筋を辿った。話し終ると聴衆は、心からなる拍手を送った。拍手は外国へ行って来た日本人の学生から、ならったのである。聡明そうに見える老人も何人かいたが、皆興味を持ったらしかった。講義中、演壇の横手に巡査が一人座っていた。
翌日江木氏が私の宅を訪問し、入場料は十セントで学生は半額、部屋の借代がこれこれ、広告がこれこれと述べた上、残りの十ドルを是非とってくれと差出した。こんなことは勿論まるで予期していなかったので、私は断ろうとした。然し私は強いられ、そこで私は、前日が、そもそも組織的な講演会という条件のもとに、外国人が講義をした最初だと聞いたので、この十ドルで何か買い、記念として仕舞っておくことに決心した。この会は私に、連続した講義をしないかといった。私は、秋になったら、お礼をくれさえしなければやると申し出た。主題はダーウィン説とする。 
第十二章 北方の島 蝦夷
一八七八年七月十三日
今晩私は、汽船で横浜を立ち、蝦夷へ向った。一行は、植物学者の矢田部教授、彼の助手と下僕、私の助手種田氏と下僕、それから佐々木氏とであった。大学が私に渡した費用からして、私は高嶺及びフェントン両氏から、ある程度の助力を受けることが出来た。海はことのほか静穏であって、航海は愉快なものである可きだったが、この汽船は、前航海、船一杯に魚と魚の肥料とを積んでいたので、その悪臭たるや、実にどうも堪えきれぬ程であった。船中何一つ悪臭のしみ込まぬものはなく、舳のとっぱしにいて、初て悪臭から逃れることが出来た。この臭気が軽い船暈ふなよいで余程強められたのだから、航海はたしかに有難からぬものになった。
土曜日の夕方、出帆した時には、晴天だった。日曜日も朝の中は晴れていたが、午後になると我々は濃霧に取りかこまれて了い、汽笛が短い間をおいて鳴った。月曜日には晴れ、我々は日本の北方の海岸をよく見ることが出来た。八マイルから十マイル離れた所を航行していながらも、地形の外面は、はっきりと識別することが出来た。このあたり非常な山国で、高い峰々が雲の中に頭をつき入れている。これ等の火山山脈――蝦夷から日本の南部に至る迄の山脈は、すべて火山性らしい――の、奔放且つ嵯峨さがたる輪郭の外形を、一つ一つ浮き上らせる雲の効果は素晴しかった。海岸に沿うた場所は、著しい台地であることを示していた。高さは海面から四、五百フィート、所々河によって切り込まれている(図339)。

火曜日の朝四時頃、汽罐をとめる号鐘の音を、うれしく聞いた私は、丸窓から外面を見て、我々が函館に近いことを知った。町の直後にある、高い峰が聳えている。船外の空気は涼しくて気持がよい。我々は東京から六百マイルも北へ来ているので、気温も違うのである。領事ハリス氏の切なる希望によって、私は彼と朝飯を共にすることにし、投錨した汽船の周囲に集って来た小舟の中から、一艘を選んで出かけた。この小舟は、伐木業者の平底船に似ていて、岸へ向って漕ぎ出すと、恐ろしく揺れるのであった。三日間、殆ど何物も口にしていない後なので、この朝飯前の奇妙な無茶揺りは、どう考えても、いい気持とはいえなかった。然し太陽が登り、町の背後の山々を照らすと共に、私も追々元気になって行ったが、それでも、港内の船を批評的に見た私は、どっちかというと、失望を感じたことをいわねばならぬ。何故ならば、ここに沢山集った大形の、不細工な和船の中で、曳網の目的に使用し得るようなものは、唯の一つも無かったからである。私がやろうとする仕事に興味を持ち出したハリス氏も、同様に途方に暮れたが、或は碇泊中の少数の外国船から、漕舟を一艘やとうことが、出来るかも知れないといった。
やがて奇妙な舟と魚の香のまん中に上陸した我々は、町を通りぬけて、小高い所にある、ハリス氏の住宅へ着いた。ここから見下す町の景色は、実によい。途中私は、路傍の植物にはっていた蝸牛かたつむり(オカモノアラガイ科)を一握りつまみ上げた。植物の多くは、我国のに似ている。輸入された白花のしろつめくさクローヴァーは、我国のよりも花が大きく、茎も長く、そして実によい香がする。町は殆ど島というべきで、本土とは砂頸によってつらなり(図340)。火山性の山の、高さ一千二百フィートのを、美しい背景として持っている。町の大部分は低地にあるが、上流階級の家はすこし高い所の、山の裾に建っている。家は重い瓦で覆われるかわりに、板葺の上に、大きな、海岸でまるくなった石をぎっしり並べ、見た所甚だ奇妙である。図341は砂頸へ通じる往来から見た町の、簡単な外見図である。私はしょっ中、メイン州のイーストポートのことを考えている。これ等二つの場所に、似た所とては更に無いが、爽快な、新鮮な空気、清澄で冷たい海水、魚の香、背後の土地はキャムポベロを思わせ、そして私のやっている曳網という仕事がこの幻想を助長する。

朝飯後矢田部教授と私とは、長官を訪問した。彼は威厳のある日本官吏である。我々が名乗りをあげるや否や、彼は、文部卿の西郷将軍から手紙を、また文部大輔から急信を受取っている、そしてよろこんで我々を助けるといった。私は彼に向って、言葉すくなく、我々が必要とする所のものを述べた。第一が実験室に使用する部屋一つ、これは出来るならば容易に海水を手に入れ得るため、埠頭にあること。第二が曳網に適した舟一艘。彼は我々を海岸にある古い日本の税関へ向わしめ、我々は一人の官吏につれられてそこへ行った。私は私が実験所として希望していたものに、寸分違わぬ部屋二つを、そこに見出した。それ迄そこに住んでいた人達は、私の方が丁寧に抗議したのだが、追放の運命を気持よく受け入れつつ、即座に追出された。次に私は遠慮深く彼に向って、私が二部屋ぶっ通しの机を窓の下へ置くことと、棚若干をつくって貰い度いこととを、図面を引いて説明しながら話した。一時間以内に、大工が四人、仕事をしていた。その晩九時三十分現場へ行って見たら、蝋燭二本の薄暗い光で、四人の裸体の大工が、依然として仕事をしていた。翌朝にはすべて完成、部屋は奇麗に掃除され、いつからでも勉強にとりかかれる。一方長官は、船長、機関士達、水夫二人つきの美事な蒸気艇を手に入れ、これを我々は滞在中使用してよいとのことであった。私の意気軒昂さは、察してくれたまえ。私は仕事をするための舟に就ても、部屋に就ても、絶望していたのである。然るに十二時間以内に、完全な支度が出来上った。私は江ノ島に於る私の困難と、舟や、仕事の設備をするのに、何週間もかかったことを思い出した。ここでは、この短い期間に、私が必要とする設備は、すべて豊富に準備出来たのである。
だが、まだ私の住居の問題が残っていた。私は日本食で押し通すことは出来ないし、この町には西洋風のホテルも下宿もない。役人が二人、町を精査するために差し出された。午後三時、彼等は西洋館に住んでいるデンマーク領事の所で、我々のために二部屋を手に入れたと報告した。そこですぐ出かけて行くと、この領事というのは、まことに愛嬌のある独身の老紳士で、英語を完全に話し、私が彼と一緒に住むことになってよろこばしいといった。一方長官の官吏は、下僕二人と共に、椅子二脚、用箪笥、卓子テーブル、寝台、上敷、枕、蚊帳その他ブラッセル産の敷物に至る迄、ありとあらゆる物を見つけて来た。かくて私は、私自身何等の経費も面倒もかけることなくして、最も気持よく世話されている。毎日正餐には、いい麦酒ビール一本とビーフステーキ――これ以上、人間は何を望むか?
翌日は強風で、岸には大きな波が打ちよせた。私は、これは色々な物が打ち上げられたに違いないと思った。そこで一行勢ぞろいをして、大きに期待しながら出かけたが、このような場合によくある如く、殆ど何も打ち寄せられていなかった。私は漁夫の残物堆から、面白い貝を若干ひろった。漁夫の家は、低くて、厚く屋根を葺いた奇妙な形をしていて、その各々が、屡々えらい勢で吹く風の力をそぐ為の、竹を編んだ垣根でかこまれている(図342)。同じ様に風の暴力にさらされる、ノース・カロライナ州ビューフォートの漁夫の小屋は、函館の小屋に似ている。私の家の外廊からは港がよく見え、二十五マイル向こうにはコモガタケ〔駒ヶ岳〕と呼ばれる火山が聳えているが、そのとがった峰は、周囲の優しい斜面と顕著な対照をしている。この火山は、今は休息していて、峰にかかる白い雲のような、静かな煙を出している丈だが、三十年前爆発した時には、火山岩燼や石を入江に投げ込んだ(図343)。

港内をあちらこちらと漕ぐ水夫達は、南の方の水夫達のそれとは全然違う、一種奇妙な歌を歌う。それは音楽的で、耳につきやすい。
水夫達は堂々たる筋骨たくましい者共で、下帯以外には何物も身につけず、朽葉林檎みたいに褐色である。船を漕ぐのに、彼等は橈かいを引かず、押すのであるから、従って舳へさきの方を向いている。橈の柄の末端には、木の横木がついている。彼等は一対ずつをなして漕ぎ、漕刑罪人を連想させる。橈座は単に舷に下った繩の環で、この中に橈を通す。写生図(344)は、米を積んだ舟である。舟によっては、片舷に六、七人漕手がいるのもあり、これ等の人々が口々に歌う奇妙な船唄が、水面を越して来るのを聞くと、非常に気持がよい*。

* 日本の極南方、鹿児島湾で、私は水夫達が同じ歌を歌うのを聞いた。その後米国へ帰った時、露国の芸人団がセーラムを訪問し、「ヴォルガ水夫の歌」と呼ばれる歌を歌ったが、これが非常に強く、函館の歌を思わせた。かかる曲節は、容易に北露からカムチャツカへひろがり、千島群島を経て蝦夷へ入り得るであろう。
今や港は、米を下し魚を積み込む日本の通商戎克ジャンクで、一杯になっている。図345はその一つの写生で、割によく出来ていると思う。檣マストのてっぺんは、折れているのではない。何等かの目的で、みなこんな風に傾いているのである。舟には全然塗料が塗ってなく、絵画的に見える。帆走しているのはめったに見当らないので、しょっ中碇を下しているように思われる。そして文字通り平底――竜骨は影も形もない――だから、追手の時だけしか帆走出来ない。舵は船に対して恐しく大きく、使用しない時には、妙な形に水から引き上げておく(図346)。鎖国していた時、政府は外国型の船舶を造ることを許さなかった。これは政府が、日本船のふたしかであることを知り、かかる船は嵐にあうと制御出来なくなるので、日本人はやむを得ず海岸近くを走っていたのだという。沿岸通商で、彼等は海岸に沿うて二日か三日帆走し、聊かでも、風や暴風雨の徴候が見えると、港湾に入り込み、嵐の来ること、或は嵐の吹き去るのを待つ。日本人は我々の船型が優秀であることを、即座に認めた。維新後外国風の船を造ることを禁ずる法律が撤廃され、今や彼等は、外国の船型に従って造船しつつある。この町にも、造船中のスクーナーが六、七艘あるが、いずれもいい形をしている。造船場は我国のと同じように見えるが、而も職工は全部日本人である。

道を修繕したり、盛土したりするのに使用する土は、鞍にかけた大きな藁の袋で運搬する(図347)。馬を五、六頭つなぎ合わせ、変な麦藁帽子をかぶり、前かけをかけた一人の女が、それ等の馬を導いて、町と丘とを往復する。袋の底は何等かの方法で、締めくくってある。積荷を投げ下す時には、その紐をぐいと引く、すると土がガラガラと地面へ落る。銜くつわは口の両側にある、大きな木片で出来た、妙な装置である。何等かの目的で、馬の外臀部にあてがってある繩には、磨傷をふせぐ為に、木の転子ころがいくつかついている。木の叉またでつくった鉤を両側に出した鞍の一種も、見受けられる(図348)。これは薪や長い材木を運搬するのに使用される。あらゆる物を馬背で運搬する。私は人力車以外の車を見たことがない。人力車も、ここでは非常に数が少ない。東京の車夫が、うるさく客を引くことから逃れた丈でも、気がせいせいする。

砂浜には、番人が時を打ったり、巡警の時間を知らせたり、また火事の時には猛烈に叩いたりするのに使用する、面白い音響信号の仕掛があった。これは幅二フィート、高さ一フィートの四角い樫の板で出来ていて、図349の如く棒からさがり、それを叩く木の槌は、紐によってぶら下っている。これが発する音の澄んでいて響き渡ることは、驚く程であった。農夫その他も、この考を採用して利益があろう。日本人はこの種の木でつくった装置を、色々な用途に使用する。劇場では幕をあげる信号に、四角な固い木片を二つ叩き合わせ、学校では講義の終りに、小使が木片二個を叩きながら、廊下を歩き廻り、夜番も拍子木を叩き、また庭園には、時に魚の形をした木の板がかけてあるが、これは庭園中の小さな家へ、茶の湯のために行くことを知らせるべく、木の槌でたたくものである。我国で、木をこのようにして使うのは、只、木琴の如く楽器とするか、或は拍子木かカスタネットかの如く、時間計器とすることか丈である。

先晩、私以外の一行の人々が宿っている茶屋へ行ったら、隣の部屋で小さな子が、例の疳高い一本調子で、何か読んでいた。何を読んでいるのか質ねたら、矢田部教授はしばらく耳をかたむけた後、それが、「両親が死ぬと、最も甘い食物も苦くなり、美しい花は香を失う」云々という、悲しい古典であるといった。
七月十九日、金曜日。今日最初の曳網をやった。蒸汽艇は、我々を津軽海峡という名の、蝦夷を日本本土から引き離している海峡へ、連れて行く準備をしていた。蒸汽艇が実に小奇麗で清潔だったので、私は曳網をすると、泥や水で恐しくきたならしくなることを説明し、小さな舟を曳いて貰って、その中で曳網をした。図350は、古い日本の税関を、ざっと写したものである。我々はこの建物の右半分を占領しているが、窓が五つ、相接してついているので、光線は実によく入る。屋根には重々しく瓦が葺いてあり、そして私が写生した時には、鴎かもめが数羽、皆同じ方向に頭を向けて屋梁むねにとまっていた。図351は蒸汽艇が和船を曳船している所を示す。この和船の内へ曳網をあげ、内容を出し、その後我々は貝、ひとでその他を、バケツに入れて、汽艇へ持ち込み、其所で保存したいと思う材料を選りわける。これ以上便利で贅沢な手配で、この仕事をしたことは、いまだかつて無い。最初の時は大雨が降って来て、私はズブ濡れになった。採集した材料は、より南方の地域のものとは非常に違っていた。貝は北方の物の形に似ていたが、而もある種の、南方の形式も混入していた。美しい腕足類があったが、その一つのコマホウズキガイは、薄紅色で、生長線がぎっしりとついている。これや、その他は、研究用に生かしておこうと思う。

昨日曳網の袋が裂けたので、我々は五マイルばかり離れた漁村へ行った。長い、泥深い町をぬけて行くと、長い砂浜へ出た。ここで我々は奇妙な貝を沢山ひろった。目的の村へ来た我々は、一軒の居酒屋を発見し、ひどく腹が減っていたので、不潔なのをかまわず食事をした。ここで休んだ後、我々は丘の方へ向かったが、たいてい膝まで水がある沼沢地みたいな所を、一マイルも一生懸命に行かねばならなかった。苦しくはあったが、背の高い草や、美しい紫の菖蒲しょうぶその他の花や、若干の興味ある小さな貝や、それから面白いことに、その分布が極の周辺にある、小さな、磨かれたような陸貝を一つ発見したりして、相当愉快だった。この陸貝は、北欧州と米大陸の北部いたる所で発見されるが、ここ、蝦夷にもあったのである! 私はまた欧州の Lymnaea auriculata〔モノアラガイ科〕に類似した、淡水の螺にしを見出した。最後に高地へ来ると、函館と湾とが、素晴しくよく見えた。帰途、我々はまた例の沼地と悪戦苦闘をやり、疲れ切って函館へ着いた。ここ四日間、私はズブ濡れに濡れ、或はそれに近い状態にいたが、而もこの上なしの元気である。帰る途中、我々は謀叛を起そうとして斬首された三人の日本人の、墓の上に建てられた記念碑の前を通った(図352)。簡単な濃灰色の石片の割面に、文字を刻んだものは、我国でも、墓地で見受ける或種の記念碑の代りとして、使用するとよい。

先日、新しい路を通って海岸へ行く途中、長さ三フィートばかりで、粗末な切石の礎石にのって並んでいる、石像を写生した。これ等は明瞭に仏陀であるが、それと直角に、それぞれ頭に小さな屋根を持つ四角い木柱が、一列になって並んでいた。これ等の柱には、字が書いてあった。柱には一つ残らず手で廻すことの出来る鉄の車があり、車には、それを廻すとジャラジャラ鳴る鉄の環が、いくつかついていた。これ等は「祈祷柱」と呼ばれ、鉄環の音は、神々の注意を歎願者に向けるのである。これは私の召使いの一人が話したことであるが、私は西蔵チベットの仏教徒たちの祈祷輪を思い出した。彼等にとっては車輪の一回転が一つの祈祷なので、その車輪を力まかせに廻すことによってウンとお願いすることが出来る。私はまだこの装置を、日本本土では見たことがない。あるにはあるだろうが――。図353は、石像と柱との写生図であり、図354は車輪と、ジャラジャラ鳴る環とを示している。

昨夜当町の別の区域で、ある種の祭礼が行われたので、私は群衆に混ってブラブラ出かけた。寺院へ通じる往来の両側は、四分の一マイルにわたって、二列の燈籠で照らされていた。その中の一列は、両側とも、多くは、滑稽な絵を描いた燈籠で、絵は皆違っていた。私は画家の変化性と技巧とに、感心せざるを得なかったが、而もそれ等の絵は、大急ぎでなすりつけたものであることが、明かに見られた。寺院の前は人の黒山で、廊下にある大きな箱に銅貨を投げ込み、手をたたき、熱心に祈っていた。僧侶達は、見受ける所、大法会をやり、そして天運を授与しているらしい。すくなくとも彼等は、戸の上に張りつけて悪霊の侵入をふせぐ、小さな紙片を売っていた。町の乞食――恐らく十人ぐらいいたであろう――は、道路の片側に一列に並び、手に持った鐘を、のろい単調な調子をとりながら、たたいていた。
それは不思議な光景であり、また私にとっては、かかる気のいい、ニコニコした人々の群の中を、「肘でかきわけ」て行くことが不思議に思えた。「肘でかきわける」というのは、日本では通じない言葉である。どんなにぎっしり立て込んでいても、周囲の人々に触れることはなく、「ゴメンナサイ」といいさえすれば、群衆は路をあける。加うるに、私は完全に家にいるような気がして、最初見たときには記録するのに多忙を極めた、多くの事物や出来ごとが、今や、更に私の注意を引かない。これによっても、日誌を書く人が、第一印象を即座に書きつけることが、如何に大切であるかがわかる。
図355は、私のいる所から筋かいの向こうに見える、古い家屋である。これは屡々見受ける所の、典型的なもので、防火建築の周囲に、家に似た建造物を建てたものである。火事が起こると、品物を片端から防火の部分にかつぎ込み、窓を泥土で目塗りする。

七月二十五日。我々は蝦夷の西海岸にある小樽へ向けて出発した。乗船は漕艇位の大きさの木造蒸汽船で、日本人が所有し、指図し、そして運転している。私は船中唯一の外国人であった。船員たちが何匹かの牛を積む方法と、能率的な指揮がまるで欠けているのを見た時、私は燈台のない岩だらけの海岸を、これから三百マイルも航海するということに、いささか不安を感じた。加之のみならず、従来この沿岸では、測量も行われず、航海用の海図も出来ていない。夜の十時出帆した時、空は暗く、如何にも悪い天気を予想させ、暗黒な津軽海峡へさしかかった時には、多少心配せざるを得なかった。衝突の危険は、もともと衝突すべき船がないのだから、全然無かったが、嵐の闇夜に舵手が行方をとりちがえるという危険はあった。函館を出ると間もなく、我々は濃霧の中に突入し、真夜中には雨を伴う早手の嵐に襲われ、我々は威風堂々それにゆらゆらと入り込んで、一同いずれも多少の船酔を感じた。船室には、長い銃架にスペンサー式の連発銃がズラリと並んだ外、小さな鋼鉄砲二門と、ゴルティング銃一挺とがあった。この海賊に対する用心は、この航海にある興奮味を加えた。夜中嵐が吹き、小さな船はひどく揺れて、厨房では皿が落ちて割れ、甲板では牛がゴロンゴロンころがった。朝飯として出された食事は日本料理で、とても恐しい代物だった。我々が函館港を出た時、横浜にいたフランスの甲鉄艦が、南方のきびしい暑熱を避けるために入港して来た。この軍艦は浮ぶ海亀に似ていた。舳は唐鋤みたいで、とにかく頑丈そうだった。港内には確かに百艘ばかりの戎克がかかっていたが、乾燥させるために、帆をひろげたものも多かった。
ここで一言するが、私はこの時まで、咒罵をしない水夫達や、横柄に命令をしない船の士官たちを、見たことが無い。が、この船では呪罵は更に聞えず、如何なる命令も静かな態度でなされた。このような危険な生活でさえも、この国民の態度を変えぬものらしい。
今朝目を覚ますと、日はあかるく照って、いい天気であった。遠方には五千五百フィート以上もある山が、その斜面の所々に大きな雪面をもって聳えている(図356)。この山はオカムイと呼ばれ、小樽の南三十マイルの所にある。我々が東京から千マイル近くにいて、カムチャツカや千島群島の方が、東京より近いのだということを考えると、興味が湧いた。北部温帯が持つ空気の新鮮さと香とがあったが、而も緯度からいえば、メイン州の中部より、そう北ではないのである。揺れる船に、よしんば短い時間にしろ、乗っていた人ほど、陸地の見えることを有難がる者はない。心配はすべて消え失せ、また事実は陸地から如何に遠く離れていようとも、彼は元気になる。港へ近づくと共に、我々は大きな岬をまわり、しばらくの間、磁石によると、南へ進んだ。我々が入って行った入江の両側には、山脈があった。そこには森が深く茂り、白人は誰も足跡を印していない。これ等の山の谿谷にわけ入った者はアイヌだけ、而もアイヌすら行っていない地域が多い。森には荒々しい熊が歩き廻り、政府はそれを退治た者に、高い褒美を与える。昨年一人の日本人が熊に食われたが、私の聞いたいろいろな話によると、熊は出喰すと、危険な動物であらねばならぬ。

小樽に近づくにつれて、私はオカムイから小樽を越した場所に至る迄の山脈を写生した(図357)。これ等の山々が見える通りを、一枚の紙に現すためには、AとA、BとBとを接続しなければならぬ。輪郭は非常に興味があり、私が南方で見た山々の外線とは、大いに相違していた。小樽の港に近づくと共に、海岸線は段々明瞭になって来て、我々は初めて、美しい山々が如何に海岸から遠くにあり、また直接海に接する低い丘が、如何に岩が多くて垂直であるかを理解した。

図358は小樽湾へ入るすぐ前の岬の、簡単な写生である。これ等の崖のあるものは、高さ六百乃至七百フィートで、殆ど切り立っている。そこを廻って小樽湾へ入る場所にある岬は、非常に際立っている(図359)。私は小樽滞在中に、これを研究しようと決心したが、我々が旅行の目的にあまり没頭したので、時間が無かった。沿岸全体が、大規模の隆起と、範囲の広い侵蝕との証跡を示し、地質学者には、興味深々たる研究資料を提供することであろう。私が判断し得た所によると岩は火山性であるが、而も小樽付近には鋭い北向きの沈下を持つ、明瞭な層理の徴証がある。この島の内部には、広々とした炭田が発見される。小樽の寒村は海岸に沿うて二マイルに、バラバラとひろがっている。

我々は十時頃上陸した。人々が我々をジロジロ見た有様によって、外国人がまだ珍しいのだということが知られた。我々は町唯一つの茶店へ、路を聞き聞き行ったが、最初に私の目についたのは、籠に入った僅な陶器の破片で、それを私は即座に、典型的な貝墟陶器であると認めた。質ねて見ると、これは内陸の札幌から来た外国人の先生が、村の近くの貝墟で発見したもので、生徒達に、彼等が手に入れようと希望している所の、他の標本と共に持って帰る事を申渡して、ここに置いて行ったのだとのことであった。私は直ちに鍛冶屋に命じて採掘器具をつくらせ、午後、堆積地点へ行って見ると、中々範囲が広く、我々は多数の破片と若干の石器とを発見した。私は札幌の先生が、もしこれ等を研究しているのならば、今日の発掘物も進呈しようと思っている。
我々が落つくか落つかないかに、役人が一人やって来て、函館から電報で、我々が小樽経由札幌へ向かうということを知らせて来たので、我々の為に札幌から馬を持って来たと告げた。上陸した時、私は小さな蒸汽艇に目をつけ、これを曳網に使用することは出来まいかと思った。矢田部と私は、この土地の最上官吏を訪問して名刺を差し出し、我々の旅行の目的を述べ、そして帝国大学のために採集しつつあるのだという事実を話した。次に、若し我々が数日間、あの汽艇を使用することが出来れば、大きに助かるということを、いともほのかにほのめかし、更に函館では同地の長官が、蒸汽艇の使用を我々に許してくれたことをつけ加えた。こう白々しく持ちかけたので、彼も断ることが出来ず、我々は汽艇を二日間使ってもよいことになった。何たる幸運! 我々は大きに意気揚々たるものであった。
港と海岸とは、非常に絵画的である。妙な形の岩が、記念碑みたいに、水面からつっ立っている。図360は、これ等の顕著な岩のあるものの写生である。層理の線は非常にハッキリしていて、擡挙は過度である。かかる尖岩を残すには、余程大きな浸蝕が行われたに相違ない。私にはこれ等を研究する機会が無かったし、またこの地方を地質学者が調査したかどうかを知らぬ。蝦夷に於るこのような性質の仕事の大部分は、経済的の立場からしてなされた。

図361は小樽の、石造の埠頭から見た景色である。色彩を用いたらば、面白い絵になることであろう。遠方の山、嵯峨たる岩、絵画的な舟や家、植物の豊富な色と対照、澄んだ青い水と、濃い褐色の海藻とは、芸術家の心をよろこばせるに充分であろう。

私は当地の日本人と、中央日本にいる日本人との間の、著しい相違に気がついた。ここの人々は、顔の色つやがよく、婦人は南にいる婦人にくらべて、遙に背が高い。日本の北方の国から、津軽海峡を越して来て、夏の間海岸に沿うて住み、魚類を取引して町々を売って歩く、一種奇妙な魚売女がある。彼等は背が低く、ずんぐりしていて、非常にみっともよくない。赤く爛ただれた眼をした、年はすくなくとも七十と見えるが、その実五十にはなっていまいと思われる、小さな老婆が、肩に天秤棒をかけて、往来をやって来た。その両端に下げた大きな籠には、巨大な帆立貝が入っていて、彼女はこれを行商しているのであった。私は彼女を呼び入れ、貝をいくつか買った後に、彼女がやったようにして荷物を上げて見ようとしたが、一方の籠を地面から離すこと丈しか出来なかった。私の日本人の伴侶も、かわるがわる試みたが、彼等にはあまりに重すぎた。老婆は非常に面白がったらしく、我々が一方の籠を持ち上ることすら断念した時、まるでうそみたいな話だが、静かにこの重荷を持ち上げ、丁寧に「サヨナラ」というと共に、元気よく庭を出て、絶対的な速度で往来を去って行った。この小さな、萎びた婆さんは、すでにこの荷物を、一マイルか、あるいはそれ以上も運搬したにかかわらず、続けさまに商品の名を呼ぶ程、息がつづくのであった。
茶店に落ついた我々は、実験の設備をさがした。役人が一人、我々と共にさがしに行ってくれ、やっとのことで、海岸に近い、以前は旅籠はたご屋だったあばら家に、一部屋発見することが出来た。看板にした古い柱は、まだ立っている。実にきたない所で、古い乾魚が筵の包や巻物になって一杯にあり、おまけにいろいろな徴候からして、ここはまた茶店としても使用されたことが知られた。だが、短時間の間に人夫二人が、どうにかこうにか掃除をした。そこで卓一脚、椅子数脚をはこび込み、我々は曳網、壺、酒精アルコールその他を入れた箱二個の荷を解いた。
図362はその建物を示す。我々の部屋は戸と、それからそれを通じて、何人かが夢中になって覗いている、入口とによって指示される。彼等の舌がガチャガチャいうことによって判断すると、我々の動作の一つ一つも、我々が取り出す瓶の一つ一つも、会話の題材となるらしい。彼等は従来動物採集者の群、おまけに「外国の蛮人」が加っているのなんぞは、見たことが無いのである。

最後に、彼等の不断の凝視がうるさくなって来た私は、図々しく彼等を写生することによって、追い払おうと努めた。然しながら、これは目的を達しなかった。でも、私は写生図を一枚得た。図363がそれである。我々の仕事部屋は、図364で示してある。

我々の曳網は大成功であり、また我々は村を歩いて産物を行商する漁夫たちから、多くの興味ある標本を買い求めた。土地の人達は、海から出る物は何でもかでも、片端から食うらしい。私は今や函館と、パンとバタとから、百マイル以上も離れている。そして、函館で食っていた肉その他の食物が何も無いので、私はついにこの地方の日本食を採ることにし、私の胃袋を、提供される材料からして、必要な丈の栄養分を同化する栄養学研究所と考えるに至った。かかる実験を開始するに、所もあろうにこの寒村とは! 以下に列記する物を正餐として口に入れるには、ある程度の勇気と、丈夫な胃袋とを必要とした――曰く、非常に貧弱な魚の羮スープ、それ程不味くもない豆の糊状物ペースト、生で膳にのせ、割合に美味な海胆うにの卵、護謨ゴムのように強靭で、疑もなく栄養分はあるのだろうが、断じて口には合わぬ holothurian 即ち海鼠なまこ、これはショーユという日本のソースをつけて食う。ソースはあらゆる物を、多少美味にする。
晩飯に私は海産の蠕ぜん虫――我国の蚯蚓みみずに似た本当の蠕虫で、只すこし大きく、一端にある総ふさから判断すると、どうやら Sabellaの属〔環形動物毛足類毛足多毛目サベラリア・アルベオラタ〕に属しているらしい。これは生で食うのだが、味たるや、干潮の時の海藻の香と寸分違わぬ。私はこれを大きな皿に一杯食い、而もよく睡った。又私の食膳には Cynthia属に属する、巨大な海鞘ほやが供され、私はそれを食った。私はちょいちょい、カリフォルニヤ州でアバロンと呼ばれる、鮑あわびを食う。帆立貝は非常に美味い。私はこの列べ立てに於て、私が名前を知っている食料品だけをあげた。まだ私は、知らぬ物や、何であるのか更に見当もつかぬ物まで喰っている。全体として私は、肉体と、その活動原理とを、一致させていはするものの、珈琲コーヒー一杯と、バタを塗ったパンの一片とが、恋しくてならぬ。私はこの町唯一の、外国の野蛮人である。子供達は私の周囲に集って来て、ジロジロと私を見つめるが、ちょっとでも仲よしになろうとすると、皆、恐怖のあまり、悲鳴をあげて逃げて行って了う。 
第十三章 アイヌ
我々は宿屋の召使いに、町の裏手のアイヌの小屋で、舞踊だか儀式だかが行われつつあるということを聞いた。私は往来でアイヌを見たことはあるが、まだアイヌの小屋へ入ったことがない。そこで一同そろって出かけ、大きな部屋が一つある丈の小屋の内へ招き入れられた。その部屋にいた三人のアイヌは、黒い鬚あごひげを房々とはやし、こんがらかった長髪をしていたが、顔は我々の民族に非常によく似ていて、蒙古人種の面影は、更に見えなかった。彼等は床の上に、大きな酒の盃をかこんで、脚を組んで坐っていた。彼等の一人が、窓や、床にさし込んだ日光や、部屋にあるあらゆる物や、長い棒のさきに熊の頭蓋骨を十いくつつきさした神社(これは屋外にある)にお辞儀をするような、両手を変な風に振る、単調な舞踊をやっていた。長い威厳のある鬚をはやした彼等は、いずれも利口そうに見え、彼等が程度の低い、文盲な野蛮人で、道徳的の勇気を全然欠き、懶惰らんだで、大酒に淫し、弓と矢とを用いて狩猟することと、漁とによって生計を立てているのであることは、容易に了解出来なかった。私と一緒に行った日本人が、私がどこから来たかを質ねた所が、彼等は私を、日本人と同じだと答えた。
泥酔した一人の老人が、彼等の持つ恐怖すべき毒矢を入れた箭や筒を見せ、別の男が彼に「気をつけろ」といった。彼が一本の矢を持ち、私の後を単調な歌を歌いながら奇妙な身振で歩き廻った時、私は多少神経質にならざるを得なかった。一人の男は弓弦を張り、彼等の矢の射ゆみいり方をして見せたが、箭筒から矢を引きぬく時、彼は先ず注意深く毒のある鏃を取り去った。この鏃は竹片で出来ていて、白い粉がついているのに私は気がついた。使用する毒はある種の鳥頭とりかぶとだそうで、アイヌ熊が殺されて了う程強毒である。
我々は彼等に、彼等の酒器を再び充すべく二十セントをやった。酒が来ると、我々は彼等と一緒にそれを飲まなくてはならなかったが、彼等の不潔な杯から酒を飲むことは、虫を食うより、もっといやだった。アイヌは自分等の順番になると、大きな漆塗の杯に、酒をなみなみとつぎ、彫刻した紙切りナイフに似た、長い、薄い木片を杯の上にのせ、腰を下してから、いろいろな動作をつづいて行った。先ず例の棒を取り上げ、その一端を酒にひたしてから、彼等自身の前に酒を僅かパラパラと撒いたが、これは牛乳から塵か蠅かを取りのぞくのに似ていた。彼等はこの動作を数回やり、酒の滴を四方八方に向かって捧げたが、私は彼等が神々に向かって、この大事な酒を、如何に僅かしか捧げないかに気がついた。次に彼等は房々した鬚を撫で、あだかも感謝の意を表するかの如く、手を上方へ、鬚の方へ向けて、変な風に動かした。この長い前置きがあった後に、彼等は杯を持上げて口に近づけ、棒を取って濃い口鬚を酒から離しながら飲んだ。これ等の棒は、口鬚棒と呼ばれる。興味のあるアイヌ模様を刻んだ物も多い。
小舎は単に大きな、四角い一部屋で、文字通り煤で真黒になっている。炉は土の床の中央部の四角い場所で、その上には天井から、鍋や薬鑵やかんをつるす、簡単な装置が下っている。彼等の家庭用品の多くは、日本製の丸い漆器に入っていた。いろいろな点、例えば歌を歌う時の震え声、舞踊、その他の動作で、日本人との接触の証跡が見られたが、これ等は或は数世紀前、アイヌが、全国土を占領していた頃、日本人がアイヌから習ったのかも知れない。小舎には戸口以外にも、一つか二つ隙間があったが、暗すぎてこまかい所は見えなかった。図365は、その暗い所でした写生図を、申訳だけに出したものである。アイヌの小舎については、今にもっと詳しいことを知り度いと思っている。

我々が小舎にいた時、アイヌ女が一人入って来た。彼女の顔は大きく粗野で、目つきは荒々しく、野性を帯びていた。彼女は一種の衣類を縫いつつあったが、ちょいちょい手を休めては蚤を掻いた。私は今迄にアイヌの女を三人見たが、皆口のまわりに藍色の、口鬚に似た場所を持っていた(図366)。これは奇妙な習慣であり、見た所は勿論悪いが、日本人の既婚婦人の黒い歯の方が倍も醜悪である。

七月二十九日に、我々は小樽を立って札幌へ向かった。我々が小樽で集めた標本は大きな酒樽に詰めた。標本というのは、大きな帆立貝の殻百個、曳網で採集した材料を酒精アルコール漬にした大きな石油鑵一個、貝塚からひろった古代陶器その他である。馬は宿屋の前まで引いて来られた。洋式の鞍をつけた二頭は、矢田部教授と私の為であり、他には荷物用の鞍がついていたので、毛布を沢山、詰絮つめわたとして使用する必要があった。我々の荷物は、大型の柳行李二個であった。供廻の馬子は別に乗馬を持っていたが、佐々木氏と下男とは歩く方がいいといった。日本人にとっては、三十マイルは何でもないのである。車も、人力車もないので、我々は札幌から先は、蝦夷を横断するのに、百五十マイルを馬に乗るか、歩くかしなくてはならぬ。毎日変った馬――而もそのある物は荒々しい野獣である――にのって、悪い路を、百五十マイルも行くことを考えた時、札幌から蝦夷の東海岸に至る道路は、割合によいとは聞いていたが、私はいささか不安にならざるを得なかった。私が生れてから一度も馬に乗ったことが無いというのは、不思議だが事実である。腕を折ったり、頭を割ったりした友人の思出や、鐙あぶみに足がひっからまった儘引きずられて死んだ人達の話が、恐怖の念を伴って私を悩した。然し私は馬に乗ることになっていたのだし、歩く時間はなし、よしんば落ちて頭を割った所で、私はそれを天意として神様を不敬虔に非難したりせず、私自身の教育に欠けた点があった結果と見ることにしよう。とにかく、土着民の面前で、醜態を演ずることを余り望まぬ私は、町の出口まで馬を曳かせ、私自身は歩いた。所が非常に気持がよいので、四マイルか五マイル歩き続け、そこで初めて小馬にまたがった。道路は十マイルの間、海に沿うていた。崖にトンネルをあけた所が二ヶ所あった。図367はその一つから小樽を見た景色である。新鮮な空気が海から吹きつけ、そして波は彼等の「永遠に続く頌歌」を歌った。岸を離れた漁夫達は、海藻を集めるのに忙しかった。それは大きなラミナリア〔昆布〕で、乾燥して、俵にして支那へ輸出する。漁夫達は長さ十フィートの棒のさきについた、一種のフォークで、棒の一端に横木のついた物を使用する。この棒を海藻の茂った場所につっ込み、数回くるくる廻し、海藻を繋留場から引きはなす様な具合に、からみつける(図368)。

はるか遠くには、函館へ帰って行く我々の乗船が見えた。美事な懸崖もいくつか過ぎたが、その一つには端の広い分派瀑がかかっていた。私は日本へ来てから、いまだかつてこれ程画家の為の題材の多い場所を見たことがない。鉛筆や絵筆を使用したい絶景が、実に多かった。図369はそれ等の景色の一つで、場所はカマコタン〔神威古潭〕と呼ばれ、長い、彎曲した浜を前に、高さ八百フィートの玄武岩の崖が聳えている。所々で、これ等の崖は、最も歪められた石理いしめを見せていた。玄武岩の結晶が完全なのである。非常な量で流れ出した熔岩が、冷却するに従って、次から次と、火のような流れが結晶したのである。石理は写生すべく余りに複雑であった。

数マイル行った所で、私は初めて馬に乗った。私は馬に乗りつけているような様子をして乗ったが、まことに男性的な、凛然たる気持がした。馬がのろのろしていて、余程烈しく追い立てぬ以上、走らずに歩き続けたことは事実であるが、それにも拘らず私は指揮官になったような気がして、あだかも世界を測量する遠征隊を率いているかの如く感じた。馬の運動に馴れるには、しばらく時間を要したが、間もなく万事容易になり、かなりな心配を以て馬を注視したことによって、私はある程度の平安さを以て景色を注視することが出来た。路の両側にはいたる所、大きな葉の海藻が日に乾してあった。十マイルにわたって路はデコボコな小径で、而もある個所は非常に嶮しかった。切り立った崖に沿うて行く時には、書物に所謂「一歩をあやまれば」、私は千仞じんの深さに墜落していたことであろうが、馬の方でそんな真似をしない。もっとも鞍の上でグラグラするので、私はいささか神経質になっていた。やがて平坦な路へ来たので、私は大胆にも馬に向ってそれとなく早く行くことを奨めて見た。だが私は、即刻それを後悔した。実に苦痛に満ちた震揺を受けたからである。四本の脚の一本一本の足踏が、私を空中に衝き上げ、その度に十数回の弾反はねかえりが伴った。私は早速馬を引きとめた。だが札幌へ着く迄に、私は馬の強直な跳反はずみに調子を合わせて身体を動かすコツを覚え込んだので、非常に身体が痛くはあったが、それでも、どうやらこうやら、緩い速度で走らせることが出来た。
我々が最初に休んだのは、ねむそうな家が何軒か集って、ゲニバク〔銭函〕の寒村をなしている所であった(図370)。我々が立寄った旅籠はたご屋には、昔の活動と重要さとのしるしが残っていた。誰も人の入っていない部屋が、長々と並んでいるのを見ると、蝦夷島を横断した大名の行列が思い出された。今やこの家は滅亡に近く、米は粗悪で、私は私の「化学試験所」に、何物にまれ味のある物を送るのに困難した。村を離れると路は広くなり、海岸から遠ざかった。今や暑熱は堪え難くなり、我国にいるものよりも遙かに大きい馬蠅が、何百となく雲集して来た。刺されると非常に痛いと聞いていた私は、彼等に対して恐怖の念を抱いた。一生懸命に蠅をよけたり蹴ったりしようとする馬は、立て続けにつまずいて、私を頭ごしに投げ出しかけたりした。時々馬は頭を後に振って、鼻で私の脚をひどく打った。私は真直に坐り、そして馬も真直にしていることが、非常に六角敷むつかしいことを知った。

札幌へ二マイルの場所には、西洋風に立てた大きな兵営があった。窓と煙筒えんとつとのある一階建の家が幾軒か、長く並んでいるのは、不思議な光景であった。兵隊はここに一年中住んでいるので、家族も連れて来ている。ここを過ぎると、英語を非常に上手に話す、この上もなく丁寧な日本人の官吏が一人、我々を出迎えた。彼は我々が小樽から来つつあるという通知を受けて、札幌まで案内し、矢田部教授を最上等の旅館へ、私をブルックス教授の家へ、連れて行くために来たのである。ブルックス教授は農学校の職員の一人で、私の世話をやいてくれることになっていた。町へ近づいた時、私は我国の議事堂に似た円屋根ドームを持つ、大きな建物があるのに気がついて、如何にも国へ帰ったような気がしたが、聞いて見ると事実これは蝦夷の議事堂だった。
札幌の町通は広くて、各々直角に交っている。全体の感じが我国の西部諸州に於る、新しい、然し景気のいい村である。政府の役人が住んでいる西洋館もいくつかあるが、他の家はみな純粋の日本建である。ブルックス教授は心地よく私を迎え、そして汗をふき、身なりをととのえ終った私を連れて、学校と農場とへ行った。学校は我国の田舎の大学と同じ外見を持っていた。設計にも、建築にも、趣味というものがすこしも見えぬ、ありふれた建物である。一つの部屋には、小樽の貝塚で集めた、器具や破片の、興味の深い蒐集があった。私は咽喉から手が出る位、それ等がほしかった。装飾のある特徴は、大森の陶器を思わせたが、形は全く違っていた(図371)。棚の上の、これ等並に他の品々(主として鉱物)を見た後、私は農場に連れて行かれたが、そこにはマサチューセッツ州のアマスト農科大学のそれに似せて建てた、大きな農業用納屋があった。昨年私はある機会から、この模範納屋の絵のある同大学の報告を見た。我々とは非常に異る要求を持つ日本人のために、このような建造物を建てることは、余りにも莫迦ばからしく思われた。然しこの地方を馬で乗り廻し、気候のことをよく知って見ると、私には我々が考えているような農業を、我々の方法で行うことが可能であることと、従って我々が使用する道具ばかりでなく、我々のと同じ種類の納屋も必要であることが理解出来た。納屋の内には、何トンという乾草があった。我々は円屋根に登って周囲の素晴らしい景色を眺め、下りる時には、梁木から遙か下の乾草の上へ、飛び降りたりした。これ等の事柄のすべてに牛の臭が加って、私を懐郷病ホームシックにして了った。ブルックス教授の家では、新鮮な牛乳を一クォート〔六合余〕御馳走になった。私自身が蝦夷の中心地におり、且つこの場所は僅か八年前までは実に荒蕪の地で只猛悪な熊だけが出没していたということは、容易に考えられなかった。この附近にまだ熊がいることは、去年四人の男を順々に喰った(その一人を喰うためには家をこわした)という、猛々しい奴が、一匹殺されたという、ブルックス教授の話が証明している。日本人が、単に農業大学を思いついたばかりでなく、マサチューセッツの農科大学から、耕作部を設立する目的で、一人の男を招いたことは、大いに賞讃すべきである。札幌は速に生長しつつある都邑である。ラーガア麦酒ビール〔貯蔵用ビール〕の醸造場が一つあって、すぐ使用する為の、最上の麦酒を瓶詰にしている。このことは、瓶に入った麦酒一ダースを贈られた時に聞いた。

札幌から見える山々は、高くはないが、デコボコしている。図372は北方に見える山を示す。これ等の峰の中で一番高いのは三千フィートばかりある。また火山で、いまだに煙を噴いているものも、札幌から見える(図373)。ブルックス教授は、学校の近くにあるいくつかの低い塚に、私の注意を向けた。その最大のものは直径二十フィートで、高さは二フィート半である。我々はその二つを掘り、地面のもとの水準に迄達したが、陶器は一つも見出せず、骨の破片が僅かあった丈である。それ等は概して図374のように見えた。

翌朝は、馬に乗ったお影で節々が痛んでいたが、枯葉の下の陸生貝を発見したい望を持って、数マイル離れた森まで、照りつける太陽の下を歩いて行った。椈ぶなと樫の森は、蝸牛かたつむりをさがすには理想的である。私はかつて、ニューイングランドで発見したものと、同種であるらしく思われる「種」をいくつか見つけた。これ等の動物をさがす人は四つばいになり、濡しめった木葉や樹木の片をひっくり返しながら、匐はい廻らねばならぬ。しばらくの間このようにして、この小さな動物をさがしていた私の耳に、警告するような叫び声がいくつか聞えた。顔をあげて見ると、五十フィートか七十フィートか向うに、数人の鬚だらけなアイヌが一列にならんで、私に向って叫びながら、身振をしている。私は彼等の声が聞えたことの信号として手を振り、彼等はすべて多少日本語を解するので、日本語で「ヨロシイ」と叫び返した。すると彼等の身振は益々猛烈になり、中にも一人のアイヌは、どうも脅迫するような様子で、弓と矢とを連続的に、ぎこちなく振り廻した。突然私は、彼等が私を目して、殺人を敢てしてまで守る彼等の墳墓を探っているものと考えていると思いついた。そして鏃の致死的な毒を思い浮べて、私は渋々立ち上り、歩き去った。私は矢田部教授と一緒に彼等の敵意に充ちた示威運動の意味を質問し、そして私が単に木葉の下の、小さな蝸牛をさがしていたのであることを説明する可く、これ等の人々がやって来た部落を訪れた。すると彼等は、数日前仲間の一人が熊に殺されて喰われたので、大きな毒矢のある熊罠わなをしかけたから、私がそこを立ち去らぬと射られるかも知れぬと思って、警告を与えたのだと説明した。彼等自身も、どこに矢を射出す糸があるのか、はっきり知らなかったので、近づくことを恐れたのだという。私は、私を射る準備をととのえた罠の近くを、熊のように四足で匐い廻っていたのであった!
翌朝、我々の駄馬と鞍馬とが入口まで来た。一頭にはラーガア麦酒が二箱積まれ、他の一頭には標本を入れた、大きな四角い柳行李が二個つけてあった。長官が親切にも、我々が函館へ着く迄の期間、西洋式の鞍を二つ貸してくれた。私のための馬は大きな奴で、それに跨って動き出すと、前日の馬乗の結果たる身体の痛さが、彼の反鎚式跳反と剛直とを余計著しくして、私は完全に、かつ文字通り、たたき壊されたように感じた。それでも、しばらく私は頑張ったが、ついに絶望して思い切り、そして下馬して、再び乗る勇気が起る迄、数マイルを歩いた。大きな小屋組の橋を渡る時、私はその全長に対して、巨大な足代がかけてあるのに気がついた。何の為にこんな物があるのか、不思議に思って聞くと、橋にペンキを塗るのだとのことであった。ある種の事柄にかけて、日本人は著しく間がぬけている。我国であれば、梯子を持った一人の男が、足代をかける時間内に、こんな仕事はすっかり仕上げて了う。
要するに、馬に乗って、路傍の低い灌木越しに、向うの沼沢地や森林を見ながら進むことは、一種の贅沢である。我々は十五マイル行って馬を代えた。今度の馬は杖で撲なぐる度ごとに、蹴ったり竿立さおだちになったりする毛物けもので、大部せき立ててやっと伸暢駈足ギャロップを始めたが、それがまた偉い勢で飛んで行くのである。馬に関する知識の無い私にとって、伸暢駈足を敢てしたのはこれが最初であるが、驚いたことには、これは他のいずれの方法よりも、遙に楽である。私はその後十マイルの間に、二十回も鞍を離れた。これは研究材料にする蝸牛を捕える為であった。この地方にいる大きな蝸牛の習性は、我国の同様な物とは全く異る。ここのは小灌木の葉を食って生きているらしく、人は熟した果実を摘むような具合にして、それ等を採集する。途中、我々は淡水イガイ類の標本を二種得た。見た所真珠イガイ即カワシンシュガイと、
Unio Complanatus
〔烏貝の一種〕とに似たものである。この夜の宿泊地であるチトセ〔千歳〕に着いた我々は、そこに横浜から同じ船で来た、我々の友人たる、ドイツの医師がいたのを発見した。彼は今や蝦夷島横断旅行中である。私は麦酒の入った箱の一つをあけて、彼に六本やった。彼が如何によろこんだかは、想像出来るであろう。まったく彼は、いくらお礼をいっても、いい足らぬという有様であった。図375は千歳に於る旅館を示す。これはかつて、西海岸から首都へ向う大名と彼の家来とが使用した、旧式の家である。今やその部屋は、稀に来る客以外に、誰も使用しない。屋根の上に並んだ水桶は、煙筒みたいに見えるが、日本家には煙筒は無い。翌朝一行は早く起きた。この日は一回馬をかえて、三十マイル行くのである。私は馬を注意し、伸暢駈足をさせる事にばかり夢中になっていたので、駅から駅の間に何があったか殆どまるで覚えていないが、只正午近くなって、路がより平坦になり、そして砂が多くなって来たので、我々は東海岸に近づいたことを知った。正午我々はトモコマイ〔苫小牧〕と呼ぶ所で海を見た。ここで我々は、歩くことを選んだ佐々木と下男の一人とを待って、長いこと休んだ。私は彼等を浦山うらやましく思い、あるいは全行程を歩いたかも知れぬが、とにかく乗馬をならうにはこの上もない好機会なので、乗らざるを得なかった。図376は苫小牧にある古い旅館で、その屋根には、我々が見る多くの家と同様、草が生えている。屋根に西洋鋸草のこぎりそうその他の雑草や野生の植物が、いい勢で繁茂しているのは、不思議な光景である。海岸で私はアイヌの小屋二、三と眺望とを写生した(図377)。ここではアイヌの漁夫が数名、網をつくり、魚を乾物にしていた。路中いたる所で、我々が逢ったアイヌは、日本人に使われていたが、殊に彼等の馬の世話をしていた。アイヌは馬に乗るのに、胡坐あぐらをかき、鞍の上高くにちょこんと坐る。私の見たアイヌは一人残らず、全速力で馬をとばしていた。

海岸には戎克ジャンクの型をとって造った、長さ二十五フィートの日本の漁船が一艘あった。生地そのままの木材は、清潔なことこの上なく、舳と船尾とに黒色の装飾的意匠がすこしついている。この型の船の奇妙な特徴は、船尾にある舵のための大きな空所で、これは日本の戎克すべてに共通な特異点である。前にもいったが、擢架かいかけはなく、単に短い繩の環が舷から下り、これに擢をさし通す。舳へさきのすぐ内側には、鉋屑を束にしたものが下っている。これは危険を避け、或は幸運を保証する効果を持つと考えられる物であるが、恐らくアイヌの鉋屑の「神棒」から来たのであろう。神道の御幣ごへいは「神棒」から出来たものとされている。この舟はまるで指物細工みたいに出来ていた。合目あわせめは実に完全で、私が注意深く写生せざるを得ぬ程清潔で奇麗であった。図378は船尾から舟を見た所、図379は横から船尾を見た所、図380は舳である。舟には大きな捕魚網が積まれ、潮が満ちて来て浮き上るのを待っている。

沿岸いたる所、間をおいては(というよりも、小さな部落の各々に)、高い竿の上に建てられた、一種の粗末な見張場がある。これは漁夫が遠くの魚群を見たり、夜燈火を燃やしたりするのに使用する。図381は苫小牧にあるこれ等の見張場の一つを示している。一番上の粗雑な小屋がけは、難破船の破片あるいは、海岸に打ち上げられた他の不揃いな材木で、つくったらしく思われる。海岸で見受けるもう一つの特徴ある造営物は、水から舟を引き上げる為の巨大な捲揚機まきあげきである(図382)。

この地方の犬は、二種類にわかれている。その一種は、形も色もエスキモーの犬に似ているが、他の種類は色、形、動作、房々した尻尾等が、殆ど全く狐みたいである。若し狐と犬との混血児をつくることが出来るものならば、この種の動物には確かに狐の血が入っている。どの部落にも一群の犬がいる。夜になると彼等は、猫に似て、猫よりも一層地獄を思わせるような音を立て、甚だ騒々しい。彼等は唸ったり号泣したりするが、決して吠えぬ。ダーウィンは彼の飼馴動物の研究に於て、薫育された状態から半野生の状態に堕落した犬は、吠えることを失い、再び唸るようになると観察した。犬と関係のある野生動物は決して吠えず、唸るだけである。
苫小牧からは、タルマエ〔樽前〕と呼ばれる、奇妙な山が見える。図383はそれをザッと写生したものであるが、これによっても蝦夷の不思議な形をした山の観念は得られる。ここにはアイヌの小舎が何軒かあったが、我々はそれを調べるだけの時間を持たず、その上次の夜の宿泊地はアイヌの村だと聞いていたのでシラオイ〔白老〕へ向って進んだ。路は今や砂浜に沿うており、路それ自身が白くて砂地で、一方には絶間なく打ちよせる波が轟く広々した太平洋、他方には恐らくすべて火山性であろう所の奇異な形をした山々が見える。青色の眼鏡をかけていたにも拘らず、白い砂に反射する太陽はギラギラと目に痛く、数マイル行った時には、馬に乗っていることも単調になって来た。所々にアイヌの家が数軒かたまっていた。ある場所では一人のアイヌが、小さな女の子と男の子と、犬二匹とを連れているのを追い越した。子供達は全裸体で、女の子は頭帯によって包みを背中に負い、男は彼女の手を握って先に立っていた。男がノロノロしていて、女と女の子がすべての仕事をしているのは不思議に思われる。女は皆、見た所どっちかといえば粗野だが、親切で気がよく、態度は極端に遠慮深い。私が見たアイヌ女の殆ど全部は、子供が耻しがる時にするように、頑固に手を口に当てた。上述したように、彼等の口辺は必ず黒い区域で縁どられ、中には腕に、腕環みたいな環を連続的に描いたのもある。彼等がこの着色に使用する材料たるや、鍋の底の煤に過ぎぬことを、私はハッキリと知った。子供達は大きな眼と気持のいい顔を持っていて、欧洲人の子供に非常によく似ているが、極めて臆病で、はにかみやである。見知らぬ人がいると、女は習慣的に手を口に当てる。これは口の周囲の絵具を隠そうとするのだと思って見もするが、彼等にかかるこまかい気持があるとは信じられず、殊に子供迄がこの身振りをするに於ておやである。図384は頭帯で荷物を運ぶ女、図385はアイヌ女二人、図386は子供で、赤い布製の耳飾と、奇妙な形の垂前髪とを示し、図387は三人の子供が坐っている所である。彼等は暗い小舎にいて、我々がいた間、石像のようにじっとしていた。太い黒い毛を頭の周囲で真直に梳くしけずり、頸部で短く切り、耳の上に長く垂らし、前髪を大きく下げる。アイヌのある者の間には、絵に画かれることを恐怖する迷信があるので、私は彼等を写生するのに多くの困難を感じた。それで彼等を写生する時には何か別のことに興味を持っているような真似をし、彼等の注意が他方に向けられている時、チョイチョイ盗見をした。

彼等の小舎は非常に暗く、そしてまた非常にきたならしい。我々が入ると、彼等は我々が周囲を見ることが出来るように、樺の皮を捲いた物に火をつけるが、この照明があっても、細部を見きわめるには、小舎の内はあまりに暗い。図388で私は内部にある色々な品物が、概してどんな風に排列されているかを示そうと試みた。品物といえば、実際数え切れぬ程沢山あった――包、乾魚をまるめた物、乾すためにつるした大きな魚の鰭ひれ数枚、弓、箭筒……。火の上には燻製するために、魚の身がひっかけてあった。寝る場所は部屋の一方を僅か高めた壇で、この壇の上に短い四本の脚のある、蓋つきの丸い漆器があった。これ等の箱は、日本人がアイヌ向きにつくったらしく、どの小舎にもいくつかがあった*。これ等の中にアイヌは宝物を仕舞っておく。

* ピーボディ博物館〔セーラム〕にはこの箱が三個ある。私は老若の著名な日本人に、これを何に使用すると思うかと質ねたら、返事は皆違っていたが、多数は文学的な遊戯に使用する貝殻を入れる箱だろうと考えた。
壁には非常に古い日本の短刀、毒矢を一杯入れた箭筒、及びその他の狩猟器がかけてあった。小舎の内にあるものは、すべて煙で褐色を呈し、屋根や※(「木+垂」、第3水準1-85-77)たるきは真黒である。床は大地そのままだが、坐る時には藁筵わらむしろを敷く。我々が小舎へ入ると、彼等はきっと上の方の※(「木+垂」、第3水準1-85-77)から巻いた筵を取り下し、それを地面に敷いて我々を坐らせた。筵には、茶色と黄色の藁で簡単な模様が細工してある。
アイヌの写生図の多くは、白老でやった。ここには相当大きなアイヌの村がある(図389)。アイヌの家屋は左右同形に出来ていて、畝うねのある藁屋根は非常に清楚で、このもしくさえある。私はアイヌの村をいくつか通りぬけたが、整頓線の形跡を見た事がなく、往来の場所さえもない。狭い、不規則な小径が小舎から小舎へ、草の間を縫っているが、開けひらいた場所もなければ、子供が遊んだと思われるような、地面を踏み固めた場所もなかった。多くの家の周囲には、家を建てた材料と同じ薹すげ、或は蘆を束にした、高い垣根がある。アイヌの家は、六年か七年しかもたぬそうである。部落には家が三、四十軒ある。すくなくとも我々は、この位の人家の村を多く見た。家の多くにはL字形のもの、即ち玄関がついていて、見たところをよくしていた。屋根には、水平の畝をいくつか重ね、別に傾斜の急な棟が一つ、垂直に二フィート近くもつき立った上に丸い棒がのっている物を、構成するような具合に、葺ふいたものがよくある。この棒は棟の底部を横に貫く桁けたに、藁繩で結びつけられることによって、その位置を保っているらしい。この種の屋根は、私が日本で見たもののどれとも、全く異っている。図390は特殊な畝屋根を持つアイヌの家、図391は玄関のある別のアイヌ家屋、図392は玄関を大きく描いたものである。上にのっている熊手は、農業に使用するのではなく、海藻をかき集める粗雑な道具である。戸口から入る光線以外には、たった一つの四角い窓を通じて入るもの丈しかない。一軒の家には窓が二つあり、外側に粗末な板の鎧戸がかけてあった。

これ等の家屋の清楚と一般的な絵画美とは、一歩屋内へ足を踏み込むと共に消失して了い、下には固く湿った地面、上には黒くすすけた※(「木+垂」、第3水準1-85-77)があり、そして強い魚の臭気があらゆる物を犯している。四角な炉の近くには、食事の残りを入れた大きな鉢が置かれてあるが、それは如何なる場合にも、大きな、胸の悪くなるような魚の骨である。彼等の小舎の内で見受けた食物とては、燻した鰭及びその他の魚の身体部をつるした物と、子供の車の輪に似た固い、乾燥した菓子とだけである。この家の一本の棒からは、筵でつくった小鞄と、丸い固菓子と、魚の切身とがつるしてあった(図393)。道具類は大きな漆塗の盃、火にかけた薬鑵、その他若干(すべて日本製)と、アイヌがつくった木の食事椀とであった。図394は炉と、薬鑵を異る距離におく簡単な装置と、貝殻に魚油を入れ、割った棒の上にのせた燈火とを示す。図395は真鯵まあじと鰓えら蓋と鰭とを示し、図396は別の魚の切りようで、串をさし込んで切口を引きはなす。長い条片に切ることもある。図397は魚の頭二つ、その他、並に魚の鰾うきぶくろである。これ等の最後のものは、火の直上にかけてあった。これ等はすべて、屋内にかけ渡した竿からぶら下っていて、火から出る煙が結構それを乾し燻す。だが、時々新鮮な空気を吸うために、逃げ出さねばならぬ程、煙が濛々と立籠める家に住み、そして眠ることを考えて見給え!

小舎の一隅には、「神棒」として知られる、彎曲した鉋屑をぶら下げた棒が、何本かあった。私はその一本を買おうと努力したが、アイヌは金銀の価値をまるで知らず、また事実、最も簡単な算術の知識さえも持っていないので、百万ドル出した所で、それは十セント出したのよりも、一向効果的ではない。小舎の寝台の横には、銀の鞘に入った日本の短刀があった。これ等は全く古く、平べったい、卵形の木の小牌に取りつけてあったが、その小牌の柄にあたる部分には、いろいろの大きさの鉛盤が木に打ち込んであった(図398)。これ等の短刀が、我々が北西地方のインディアンの為に各種の品物を造ると同様に、アイヌ向きに造られたのであるかどうかは、聞き洩した。私と一緒にいた日本人は、これ等の刀は非常に古いものだといった。そしてアイヌ達は、これを非常に尊敬しているらしく見えた。小樽にいた老アイヌは、一本の短刀を袋に入れていた。彼はそれを私に見せたが、最も貴重な品とみなしているらしかった。柄はゆるくてガタガタしていたが、それはこの貴重さに一向影響しないらしく思われた。刀をかけた壁と直角をなす壁には、蓋を下につるして、三つの箭筒がかかっていたが、短刀を支持する木牌の形は、これ等の箭筒から来ている。図399はそれ等を写生したものである。私は箭筒を一つ買おうとした。然し一ドルから五百ドルまで値上をしても、いささかの利き目もなかった。然るに、驚く可し、アイヌは箭筒の一つを壁から外し、矢を一本取出して、注意深く毒を掻き除いた上で、それを私に呉れた。

彼等が乾したり燻したりした魚や魚皮を仕舞っておく納屋は、高さ四、五フィートの柱の上に建ててある。それ等の中のある物には、ニューイングランドの玉蜀黍とうきび小屋が、柱の上に置かれたブリキの鑵で、齧歯類の動物をふせぐのと同様に、柱の上にけばけばしい色の木箱がさかさまにのせてあった。かかる納屋の形式は図400・401に見られる。米を搗き砕く大きな木製の臼が家の内や外にある。図402に示したものは長さ三フィート、木の幹からえぐり出し、彫りぬいたものである。木の幹からえぐり出したアイヌの舟は、私が日本で見たどの「刳舟くりぶね」とも違った形をしていた。図403に示したものは長さ十四フィート、舳も船尾も同じで、船壁は薄く、彼等の材木細工の多くに於るが如く、至って手奇麗に出来ていた。

私がアイヌの写生を沢山した白老で、我々は多くの美しい蝸牛が、藪にくっついているのを見た。一つの種を除いて、他はすべて薄く弱々しかった。淡水貝も同様に薄く、そして陸産貝のある物は、殆ど無色であった。土壌に石灰がないので貝殻が薄いのだとされている。白老を出発した朝、我々は容易にアイヌの部落から我々を引き離すことが出来なかった。草や灌木で殆ど隠されていることもある小径を歩き廻り、ここかしこに、最も不規則な方法に配置されたアイヌの小舎を見出すことは、この上もなく興味が深かった。戸口に坐る老人達は、両手を顔へ挙げ、それを徐々に下げて、鬚を撫でるような身振で、我々に挨拶する。もっとも、子供も同じ身振をするから、これが鬚に全然関係のないことは判る。女の挨拶は、単に自分の鼻の横を、人差指でゆっくりこする丈にとどまる。
若し馬の絵を画くことが出来さえすれば、私は我々一行の興味ある写生をすることが出来たのである。図404は矢田部教授の助手を写生したもので、後から馬で行きながら写生した。彼は植物採集箱や包やをウンと身につけていたが、この写生をして間もなく、馬が突然後脚を空中に蹴上げ、助手先生まっさかさまに大地へ墜落し、重い荷鞍や、ブリキの箱や、包がガランガランと音を立てた。彼は立上り、一生懸命にしっかりした上、アイヌの先達せんだつに助けられて、再び馬に乗った。我々が乗った馬のあるものは、不埓きわまる毛物である。昨日私が最後に乗った馬は、私の身体をひどく痛くしたので、今日出発した時、乗馬する迄に私は十七マイル半も歩いた。路は全距離、海岸に沿うていた。

我々の旅隊は、一人のアイヌによって導かれた。彼は大きな、黒い頬鬚を生やした、毛だらけな男で、頭には直径一フィートの頭髪がある(図405)。頭髪の散るのを防ぐ為、頭に布をまきつけ、着物の背中には奇妙なアイヌ模様が細工してあった。鞍の上に胡坐あぐらをかいた彼は、まるで巨人みたいだった。この男は、馬を連れて帰る為に、一行に加った。彼の馬には、標本、衣類等を入れた例の柳行李を二つつけた馬が結びつけられ、更にこの馬には、我々が札幌で贈られた麦酒の箱をつけた馬が、結びつけられた。麦酒は我々が進行するにつれて、ドンドン減って行った。矢田部、彼の助手、高嶺、佐々木、私……これで馬八頭の騎馬行列が出来上った訳である。

我々はジャガジャガと路を進んだ。全くジャガジャガだったのである。鞦しりがいの木の滑子ローラーやその他をぶら下げているので、白い、砂地の路を、緩急いろいろに馬をやりながら進む我々は、多分の騒音と埃とを立てた。海岸はどこ迄行っても終らぬように思われた。突如、何等明白な理由なしに、八頭の中の三頭が、列を離れて駈け出し、その三頭の中の一頭には私が乗っていた。我々は止めようとしたが、何の役にも立たなかった。佐々木が先頭に立ち、次が高嶺、最後が私、そして騎馬行列の残部は、間もなく遙か後方に、そして見えなくなって了った。移動出来るものは総て脱落した。先ず帽子、次に紐や革紐が切れてブリキの植物採集箱や、袋や、包荷が一つ一つ落ち、道路にはそれ等の品物が、長い距離にわたって散在したが、これは後から来る仲間が、ひろってくれるものと信じた。
私の乗馬術が如何に上達したかは、私がありとあらゆる物につかまることが出来た事実が証明する。即ち木髄製の日除帽子、色眼鏡、火のついた葉巻をさし込んだ葉巻吸口等は、何ともなかった。馬が奔逸する直前に、高嶺が荷鞍の辛さを軽減する目的で、彼の赤いフランネルの毛布を畳んで、尻の下に敷いた。彼は私のすぐ前にいたが、彼が黒髪を風になびかせながら、ポコンポコンと跳ね上っている間に、毛布が解けて、すこしずつ一方にすべり、ついに路に落ちた。もっと馬の経験があれば、私は必ず馬が吃驚びっくりするであろうことを、予期した筈なのである。だが、そんなことをまるで考えぬ私は、高嶺がむき出しの鞍の上でポコンポコンやっているのを、大きに笑っていたのである。と、突然私の馬が、私をもうすこしで大地へ投げつける位烈しく側切れをやった。然しながら、馬の一跳ねごとに、私は僅かずつ、騎座の安定を取り戻した。この無茶苦茶な疾駈は、数マイル続いたあげく、開始の時と同じ様に突然停止した。即ち、路一杯にひろがった馬の一群に追いつくと共に、我々の馬も早速歩き出し、そして彼等の仲間入りをした。我々の馬は彼等と旅行しなれていたので、それ等の臭を認識したのである。
アイヌの駄馬は、実に不確な動物である。話によると、彼等は世界中のどの馬よりも遅く歩くそうだが、私はこいつら等よりも苦痛多く速足したり、また勢一杯疾駈する馬があるとは想像出来ない。もうちっと文明の程度の高い馬で稽古することが出来たら、私の乗馬練習の経験は、もっと気持がよかったろうと思う。図406は、荷鞍をつけた典型的な蝦夷の駄馬である。

モロラン〔室蘭〕に近づくにつれて、土地の隆起の証跡が明瞭に見られた。水に近い崖は、図407に示す如く、数フィートの高さに切り込まれていた。土壌は軽石で出来ているらしく思われたが、これは以前火山性の活動があったことを示している。白老からの長い道中、人家は一軒も見ず、人間の証跡とては、所々に粗末な、荒廃し果てた祠がある丈であった。荒廃はしていても、その前面に花が僅か供えてあるのを見ると、とにかくそれに気をつけている人があることが判る。ざっとした枠構えの下の像は、二個の石から成り立っていて、頭を代表する、より小さい石が、より大きな石の上にのっているに過ぎない。頭には長い糸を両側にたれた、布製の帽子がかぶせてあった(図408)。

室蘭に着く前の景色は実に目をたのしませた。低い山々、海の入江、長い黄色い浜を持つ室蘭湾は、画の主題としては何よりであろう。図409はこの附近の景色を、ざっと画いたものである。室蘭近くに、面白い形の日本家があった。屋根が並外れて高く、その平な屋梁むねには、一面に百合や、鳶尾いちはつや、その他の花が咲いていた。屋根は薄く葺いてあり、軒に近い小屋がけみたいな小屋根には、丸い石がのせてあった*。

* 『日本の家庭』四一図を見よ。
馬で行く内に我々は、二十頭の馬の一群が、路をふさいで進んで行くのに追いついた。我々がそれを追い越す前に、彼等は狭い小径へ曲り込んだ。この方が正規の路よりも、室蘭へは余程近いと聞いて、我々――といっても、仲間より遙かに前進していた矢田部と私とだが――もまた曲り、馬の群に従った。この小径は所々岩が多く、濡れていて、時に非常に急な山の背に達していた。小径は急な崖に沿うており、そしてそれ自身が傾斜している。私は若し馬がすべったら、どんなことになるだろうと考えた。こんな風にして三十分も行くと、我々は樫その他の木の密林をぬけて、尾根の一番高い場所へ出た。日の暮れ方で、気持のいい森の香や手を延して、上から下っている枝で捕えることの出来る奇妙な昆虫や、一列をなしてガラガラ進む変な馬や変な騎手たちによって、私は愉快な一時間をすごし、而もそのどの一分間をも、私は楽しんだ。私が危険に面したのは、只一ヶ所であった。矢田部と私とは、いつの間にか馬群の中にまぎれ込んでいたが、片側が傾斜した岩壁で、片側が急な絶壁という場所へ来た時、一頭の馬が、路の内側を通って私を追い越し、そして列のさきの方の、従来自分がいた位置へ行こうとした。騎手は全力を尽して馬を引きとめようとし、また私も、この馬が鞍にすこぶる大きな荷を二つ積んでいるのを見て、危険をさとり、馬の鼻さきを力一杯ひっぱたいて、ようやく彼を制御した。小径には一列で馬を進める幅だけしか無かったから、私はさきへ急ぐことは出来なかった。若しこの馬の努力が功を奏すれば、私の馬は崖に押し出されて了ったことであろう。我々は全く暗くなってから、室蘭へ入った。ここは美しい入江に臨んで只一本の長い町通があり、四方に丘陵や低い山が見られる。この日我々は三十マイル以上も旅をした。私はその内十七マイル半を歩き、馬に疾走され、その他いろいろな経験をした結果、疲れ果てて早く床についた。
翌朝は大雨。湾を越して森へ行く、汽船が出ぬ(森から函館まで、また馬に乗らねばならない)。この機会を利用して、私は家の内外を写生した。床の中央には、家の前部にも後部にも、砂を充たした大きな四角い構がある。これは炉で、あらゆる物をここで料理する。図410はこの旅籠屋の台所を示す。上方には掛架があり、魚はこれにひっかけて燻す。熱い炭火を中心に、こんなに沢山薬鑵がかたまっているのは、個人の住宅では見られぬ所である。図411は、一番立派な部屋の炉を示す。薬鑵をつるす装置は真鍮で出来ていて、ピカピカと磨き上げてあった。熱い湯を充した銅の箱には、酒の瓶を入れてあたためる。日本の、米製の麦酒は、必ず熱くして飲む。火箸は上部を輪で連結させた形をしている。これは一本を失えば、他の一本が役に立たなくなるからである。旅籠の使用人の多くは男で、その全部が頭髪を旧式な方法で結んでいたが、事実、丁髷ちょんまげをつけていない日本人を見ることは稀である。

反対に東京では、丁髷は、農夫、水夫、漁夫、工匠、老人等にあっては一般的だが、若い人々の間では急速に数が減り、ことに学生は全然洋風の頭をしている。
図412はお客様に差出す浩澣な書付を、一日中忙しく書いている番頭である。書付の長さには吃驚するが、項目を翻訳して貰うに至って、何が一セント半、何が一セントと十分三と聞いて大きに安心し、最後に晩飯、宿泊、朝飯すべてをひっくるめた合計が二十セント足らずであることを知る人は、文句なしに支払いをする。

図413は、命令を聞きに部屋へ入って来る時の、召使いの態度を示す。これに馴れるには長い時間を要したが、今でも私の前で、誰かがこんな風に彼自身を卑しくするのを見ると、私はいやな気持がする。膝をつく本式のやりようは両手を内側へ向けるのであるが、見ていると、そうしない者もよくある。これは握手するのに、左手を出すようなものである。ある大名のお小姓をしていた高嶺氏が、食物をのせたお盆を持って入る、正式なやり方を示して呉れた。両手で盆を目の高さに捧げ、大名に近づくと共に、膝をついてそれを差上げ、然る後膝をついた儘あとびっしゃりをし、立ち上って後向きに部屋から出て行く。

雨に閉じこめられて家にいた間にした写生の一枚は、家族が食事をしている所である(図414)。これは、町を歩いていながら、何百度と見る光景ではあるが、至って興味がある。そのこと全体が、我々がテーブルに向って椅子に坐り、各々前に皿と、ナイフと、フォークとを置くのとは、非常に異っている。ここでは、彼等は床に坐り、横には飯を入れた木製のバケツを置く。飯は木製の篦へらでしゃくい出す。

この小さな室蘭の村に、よく整った消火機関庫がある。図415はその外観をざっと書いたものである。これは道路に面して全部開き、道具はすべて、即座に手がとどくようにしてある。ここに置いてあった物は、布製バケツ二十七、小さい木製バケツ二十、大きなバケツ六、梯子二、竿六、繩、鎖、鉤、長い竿についた提灯二。

消防隊は必ず、長い竿についた提灯をかつぎ廻る。図416は提灯と鉤であるが、鉤は長い鎖のさきについていて、建物を引き倒すのに使用する。人々は、建物が木造で、薄いこけら板か萱葺かやぶきかの最も燃えやすい屋根があるので、火事に就ては非常に注意する。最近、大きな都会では、都市法によって、かかる可燃性の材料を屋根に使用することを禁じた。室蘭では毎夜きまった時間に、長さの異る三枚の樫の板を後に結びつけた子供が、長い往来を歩く。板は彼の一足ごとに、ぶつかり合って大きな音を立てる。彼が歩くと、カラン、カラン、カランと音がする(図417)。これは住民に、火の用心をし、そして火が消してあることを確めよと教えると同時に、この子が義務を果している証拠になる。

日曜日の朝、船が四時に出帆するというので、我々は二時半に起きて朝飯を食い、荷ごしらえをした。船は六時迄、埠頭を離れなかったが、我々は日出前に乗込み、山にふち取られた岸を持つ湾の、この上もなく美しい景色を見た。我々の通る路は、高い崖に沿うていたが、見下す谷の深い闇の中には、鉄工所の火が赤々と燃えていた。太陽は雲のすぐ後にあり、水は穏かで、絵画的な日本人の一群が我々と同じ路を歩いて行った。附近唯一の外国人であることは楽しかったが、事実札幌と、途中で逢ったドイツのお医者様とを除いて、外国人には一人も逢わなかった。図418は船から急いで室蘭を写生したものである。我々が乗った小さな蒸汽船は、日本人で一杯だった。見ていて興味の深い彼等の気持のいい礼譲は、岬を廻って噴火湾へ出れば消えて了うと思っていたが、果して一時間も立たぬ内に、船が激しく揺れ出し、彼等はすべて、ひどく船に酔った。図419は室蘭港から出て来た所にある、岬の輪郭図である。この写生図で、岩が水平線のところで切り込まれていることに気がつくであろう。これは土地が隆起した証跡である。全島火山性で、不安定である。私は汽船から、二、三枚の写生をしたが、私自身の状態が、他の船客のそれに近くなって来たことに気がついたので、ちょっと休むために船室へ下りた。我々の上陸地点、森へ近づいた時、機関の火路が一本破裂して、殆ど火を消しかけた為、しばらくの間、我々は風と波との意のままに、ブラブラした。若し暴風雨が起ったら、我々はどうにもこうにもならなかったであろう。風は強く、雨は降り、そして、こんなに陸地に近くいながら、岸へ着けぬというのは、誠に腹立たしかった。最後に我々は動き出し、正午、森へ上陸した。

図420は、室蘭湾から見たウスヤマ〔有珠山〕の輪郭、図421は継続的に上昇する湯気に、峰をかくされた駒ヶ岳である。この山は函館からよく見える。高さは四千フィートに近く、二十二年前に猛烈な噴火をした。昼飯後駄馬をやとい、矢田部と彼の下男とは駒ヶ岳に登山する為に残り、佐々木、高嶺及び私が前進した。山の支脈や、自然そのままの区域を馬で行くことは、極めて画的であった。山々の峰は霧にかくれ、時々雨が降りそうになった。我々は美しい湖水の横を通ったが、もう二時過ぎで、函館までは三十マイルもあるから、止ることは出来なかった。道路は全距離にわたって修繕中で、我々はしょっ中気をつけている必要があった。森から数マイル行った所で、我々は峠にさしかかった。ここの景色は素晴しかった。ある地点へ来た時、駒ヶ岳のゴツゴツした、円錐形の峰が突如雲を破って聳えた。側面が切り立っているので、峰は高さ十マイルもあるように見えた。しばらく降った雨がやんだので、空気は非常に清澄であった。

間もなく我々は峠の向う側を、調子のいい速歩で下りつつあった。私のすぐ前には佐々木が、固い荷鞍にのって進んだ。私は洋傘のさきを靴にさし込んだら、楽に持ち運び出来るだろうと思って、しきりにさし込もうとしたが、馬が揺れてうまく行かぬ。靴を見るために一方に傾きながら、私はどちらかというと性急に、先端を靴にさし込もうとしたが、どうした訳だか標的を外し、洋傘は馬の腹の下を撲った。馬は即座に側ぎれて、私は頭と肩を打ちながら地面に落ちた。私は只馬の蹄をよけて匐い出し、片足を鐙あぶみから外したこと丈を覚えている。私は馬の右側へ落ち、左の鐙を鞍越しに引きずったのである。目をあけると、佐々木もまた地面にいる。私は彼が私を助けるために、飛び下りたのだと思った。だが、彼の馬もまた側ぎれをやり、彼は荷鞍から投げ出されて、鞍の上にいた時と全く同じく、両膝をついて地面へ落ちたものらしい。まったく馬は、それ程急激に、側ぎれしたのであった。我々の馬は一目散に路を駈け下り、その後から我々もついて行った。若し見失えば、函館まで歩かねばならぬ。だが、間もなく彼等は、谿谷を上って来る馬の一群に出会い、その間へ走り込んだ結果、蹴ったり、鼻を鳴らしたりの大騒動が持上った。それにもかかわらず、我々は馬の中にわけて入り、重い荷にぶつかったり、蹴飛ばされるのを避けたりしながら、ついに我々の二頭をひっ捕えた。佐々木はその後六ヶ月間びっこを引き、私は数週間、左側ばかりを下にして寝た。
四時、峠を下り切った時には、函館の山々がはっきり見えたが、而も函館へ着いた時は、もう真夜中であった。最後の二マイルを、我々は歩いた。馬が路にあるバラ土の積堆や石の上で、一足ごとにけつまずいたからである。歩く我々も、時々路傍の溝の中にいたり、まだならしてない砂利の堆積の上を、四匐いになっていたりした。 
第十四章 函館及び東京への帰還
函館へ帰ってから数回、津軽海峡へ曳網旅行に出かけた。一度は素晴しい弁当、バスのエール〔一種の麦酒〕、その他いろいろなうまい物を持って、一日がかりで出かけた。ある地点で高嶺と私とは、六マイルばかり離れた海角にある古代の貝墟を、歩いて見に行く為に上陸した。我々は遙か向うに我々の小さな蒸気船を見ることが出来たが、目的の海角に着かぬ前に疾風が起り、我々が腕の痛くなる程ハンカチーフを振ったにも拘らず、彼等は我々を見出すことが出来なかった。我々は船が我々を十五マイルの遠方に残して函館へ向うのを、空しく見送らねばならぬ、悲惨な状態に陥った。小さな漁村で、我々は船の上にある御馳走のことを考えながら、一椀の水っぽい魚の羹あつものと、貧弱な米の飯とを食った。ここで土着の鞍をつけた駄馬を二頭やとったが、実に我慢出来ぬ鞍なので、時々下りて歩き、夜に入ってから疲れ切って、びっこを引き引き、函館へ着いた。途中、例の噴火山が非常に立派に見えたが、その輪郭は函館から見るのとまったく違う。噴火口の形は明瞭に見わけられ、斜面は淡褐色で、美しく日に輝いていた。図422はその外見を、簡単に写生したものである。

図423は前面から見た我々の実験所の、又別の写生図である。我々は、海峡を越え、青森から東京迄十二日かかる長い旅に出る準備として、今や荷物をまとめつつある。図424は私が函館へ来てから住んでいる家を示す。隣にはお寺の門がある。人々が礼拝のために門を入ったり、あるいは入口の前を通る人が、祈祷のために頭を下げたりするのを見ては、興味深く感じた。今日私は娘達や子供達がいい着物を着、沢山の花、殊に螢袋ほたるぶくろの一種が町へ運び込まれるのに気がついた。夕方には多くの人が、お寺に入って行った。私も寺の庭に入り、人々が広い段々を登るのを見た。老人や若い人が、先ず荷厄介な木の履物を、段々の下で脱いで上って行くのは、気持がよかった。上へ登り切ると、美しい着物を着た彼等の姿が、寺院内部の暗黒に対して、非常にハッキリ見られた。この光景を楽しみつつ家へ帰るとデンマーク領事のディーン氏が廊下から私に向って、まだまだ見るものは残っている、寺院の裏の丘にある墓地まで行って見給えと叫んだ。寺の構内をぬけて上の方の、高い杉の壮厳な林の中にある墓地までの路は面白かった。ここで人々は死者にお供物を捧げていた。先ず墓石の前の地面を平にし、持って来た奇麗な砂を撒きひろげ、その上に、小さな花生けのように立つ竹筒に、花を入れた物を置くと共に、赤味がかった煎餅若干も置くのだが、中にはとても素敵な御馳走もあった。一人の老婆が祈祷をつぶやきながら、石碑の周囲を平にし、花をいくつか、趣深く配置するのに没頭している。巨木の静寂な影、四角くて意匠の上品な灰色の石、奇麗な蝶々のように飛び廻る美装の子供何百人……それはまことに心を魅するような景色であった。これ等の人々もまた彼等の宗教を持っており、彼等が天主教徒と同様に熱心に祈り、その信仰の程度は天主教徒よりも深くさえあることを発見するのは、興味があった。朝、五時と六時との間に、必ず礼拝が一回行われ、この早朝の弥撒ミサには、老いさらばえた男女が、頑丈な親類の者に背負われて来る。往来では、寺院の前を過ぎると、人々は常に非常に低くお辞儀をし、祈りを唱える人も多い。

蝦夷島を横断して帰って来てから、我々は目ざましい曳網を数回やって、腕足類を沢山集め、その生きた物に就て興味のある研究をした。最終日の曳網には、当局者が大部大きな汽船(図425)を準備してくれ、我々は津軽海峡の、今までよりも遙か深い場所まで出かけた。何から何まで当局者がやって呉れたので、採集に関する我々の成功は、すべて彼等の配慮に原因する。陸路東京へ帰るに際して、私は矢田部教授、佐々木氏、及び矢田部氏の植木屋〔植物園の園丁〕が私と一緒に来、ナニヤ〔?〕、高嶺両氏は新潟で曳網するために日本の西海岸を行き、種田氏、私の従者、及び大学の小使は採集した物を持って、汽船へ帰ることにきめた。面白いことに、これ等の異る目的に行く三艘の汽船が、いずれも八月十七日に出帆した。我々は気持よく海峡を越して、大きな入江へ入った。ここへ入る前に、もう一つの大きな入江の入口を過ぎたが、その上端では更に陸地が見えなかった。海は完全に平穏で、我々は函館から青森までの七十マイルを、一日中航行した。この町は長くて、低くて、ひらべったい。これ等以外に、我々は何も気がつかなかった。翌朝六時、我々は四台の人力車をつらねて、五百マイル以上もある東京へ向けて出発した。十五日はかかると聞いたが、十日間で目的地へ着き度いというのが、我々の希望であった。

所々で我々は、北日本に特有と思われる、奇妙な看板の前を通った(図426)。これは樅もみか杉の枝を結んで、直径二フィートの大きな球にしたもので、酒屋の看板である。「よき酒は樹枝ブッシュを必要とせず」という諺言は、この国でも同様の意味を持っているかも知れぬ〔樹枝は西洋でも酒屋の看板になった〕。第一日は岩の出た山路を越して行くので、我々は屡々人力車夫の負担を軽くする為下りて、急な阪を登った。景色は非常によく、大きな入江や、面白い形をした山々がよく見えた。二日目は、夜に近くなってから、急な山脈を越す為、駄馬に乗った。この距離は十五マイルであった。我々の馬子は老人達で、十五マイルの間、絶間なく仲間同志、ひやかし合ったり、口喧嘩をしたりしていた。これ等の男の耐久力には、東京の労働者のそれよりも、更に驚く可きものがある。彼等はすくなくとも、五、六十歳であったが、最も急な阪路を、ある場所には馬を引張って上りながら、絶えず冗談をいったり、ひやかしたりする程、息が続くのであった。峠の頂上で私は下馬し、素晴しい景色を楽しむために長い間歩いた。ある場所で我々は、底部から八百フィート、あるいは千フィートあるといわれる断崖の上に立った。正面は河によってえぐられ、その河の堂々たる屈曲線は、つき出した絶壁の辺で、我々の足の下にかくされている。我々は凸凹激しく、曲りくねり、場所によっては恐しく急な小径を、馬を引いて下りて来る老盲人に逢った。彼はこの路を、隅から隅まで知っているらしかった。

通り過ぎた家に、奇妙な籠揺籃ゆりかごがあるのに気がついた(図427)。これは厚ぼったい、藁製の、丸い籠で、赤坊は暖かそうにその内へ詰め込まれていた。

山地から我々は長い平地で、いくらかアイオワ州の起伏した草原に似た場所へ出た。世界地図で見ると、日本は非常に小さいが、而もこの草原を越すには、まる一日かかった。村はすくなく、離れ離れに立っていた。我々が通過した部落は、それぞれ特徴を持っていて、ある物は貧弱で、見すぼらしく、他のものは非常にきちんとしていて、裕福らしかった。我々はまた一つの山脈に近づいたが、そこの村の人々は、急な渓流が主要道路の中央を流れるようにしていた。町は奇麗に掃いてあり、所々に美しい花のかたまりや、変った形をした矮生樹が川に臨み、ここかしこには、鄙ひなびた可愛らしい歩橋が架けてあった。平原には高さ十フィートの、電信柱みたいな棒が立っていたが、針金がなく、そして電信柱にしてはすこし間がひらきすぎていた。聞いてみると、これ等は冬、旅人が道路に添うて行くことが出来る為に建てたので、冬には路のしるしがすべて、深い雪の下に埋って了うのである。これは米国でも、場所によって真似してよい思いつきである。最近あった暴風雨が、大部ひどい害をしている。あちらこちらで橋が押流され、地辷りで街道が埋っていた。我々もいくつかの地辷りの鼻を、避けて廻った。ある所では、一部分崩壊した家が、小さな流れと見えるものの真中に建っていた。前にはこれが、烈しい激流だったのである。
朝から夜遅く迄旅行していて疲れたので、あまり沢山写生をすることが出来なかった。福岡という村は広い主要街の中央に小さな庭園がいくつも並び、そして町が清掃してあって、極めて美しかったことを覚えている。この地方の人々は、目が淡褐色で、南方の人々よりもいい顔をしている。子供は、僅かな例外を除いて、可愛らしくない。路に沿うて、多くの場所では、美味な冷水が岩から湧あふれ出し、馬や牛の慰楽のためにその水を受ける、さっぱりした、小さな石槽いしぶねが置いてある。この地方に外国人が珍しいことは、我々と行き違う馬が、側切れしたり、蹴ったりすることによって、それと知られる。古い習慣が、いまだに継続しているものも多い。一例として、我々と出合う人は如何なる場合にも馬に乗った儘で行き過ぎはせず、必ず下馬して、我々が行き過る迄待つのである。最初これに気がついた時、私は馬が恐れるので、騎手は馬を押えているために下馬するのだろうと思ったが、後から、低い階級の人々は決して馬に乗った儘で、より高い階級の人とすれちがわないという、古い習慣があることを聞いた。何人かの人が、路の向うから姿を現すと共に、早速高い荷鞍から下り、そして私が遙か遠くへ去る迄、馬に乗らぬのには、いささかてれざるを得なかった。また私は、只芝居に於てのみ見受けるような、古式の服装をした人も、路上で見た。
稲田を灌漑する奇妙な装置は、図428に示す所のものである。流れの速い川の岸に、水車を仕掛け、それは流れによってゆっくりゆっくり廻転する。車の側面についている四角い木の桶は、流れの中にズブリとつかって水で一杯になり、車が回転すると共に水は桶から、それを向うの水田へ導く溝の中へと、こぼし入れられる。

昼間通過した村は、いつでも無人の境の観があった。少数の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いずれも田畑で働くか、あるいは家の中で忙しくしていた。これはこの国民が、如何に一般的に勤勉であるかを、示している。人々は一人残らず働き、みんな貧乏しているように見えるが、窮民はいない。我国では、大工場で行われる多くの産業が、ここでは家庭で行われる。我々が工場で大規模に行うことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蝋の製造、その他の多くが行われているのを見る。これ等は家族の全員、赤坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁、老婆に至る迄が行う。私は京都の陶器業者に、殊にこの点を気づいた。一軒の家の前を通った時、木の槌を叩く大きな音が私の注意を引いた。この家の人々は、ぬるでの一種の種子から取得する、植物蝋をつくりつつあった。この蝋で日本人は蝋燭をつくり、また弾薬筒製造のため、米国へ何トンと輸出する。昨年国へ帰っていた時、私はコネティカット州ブリッジポートの弾薬筒工場を訪れた所が、工場長のホッブス氏が、同工場ではロシア、トルコ両国の陸軍の為に、何百万という弾薬筒をつくっているが、その全部に日本産の植物蝋を塗ると話した。ここ、北日本でも、同国の他の地方と同じように、この蝋をつくる。先ず種子を集め、反鎚そりづちで粉末にし、それを竈かまどに入れて熱し、竹の小割板でつくった丈夫な袋に入れ、この袋を巨大な材木にある四角い穴の中に置く。次に袋の両側に楔くさびを入れ、二人の男が柄の長い槌を力まかせに振って楔を打ち込んで、袋から液体蝋をしぼり出す。すると蝋は穴の下の桶に流れ込むこと、図429に示す如くである。

北日本の家屋の屋根梁の多くは、赤い百合で覆われている。村を通過しながら、家の頂が赤い花で燃えるようになっているのを見ると、中々美しい。東京附近では、青い鳶尾いちはつがこの装飾に好んで用いられるらしい。高くて広い、堂々たる古い萱葺の屋根が素晴しい斜面をなして軒に達し、その上に赤い百合が風にそよいで並ぶこれ等の屋根が、如何に美しいかは、見たことのない人には見当もつかない。これ等の萱葺屋根の軒には、厚さ三フィートに達するものもよくある。人々の趣味は、屋根を葺くのに、濃色の藁と淡色の藁とを交互に使用することに現れる。軒を平らに刈り込むと、濃淡二色の藁の帯が、かわるがわるに見える(図430)。

昨年私は日誌に、百姓が屋根梁の末端に彼の一字記号をきざみ、それを黒く塗ることを記録した。これはこの優雅に書かれた漢字を見て、自然に推定したことであった。我々が旅行しつつある地方で、同じ字が見られる。矢田部教授は、これが水を意味する支那語〔漢字〕であると語った。彼はこの文字が、火事を遠ざけるという、迷信があるのだろうと考えた。これは或は莫迦気ばかげているかも知れぬが、理解のある人が、ある種のことをいった後で木材を叩いたり、戸の上に蹄鉄を打ちつけたりすることだって、同様に莫迦げている。
馬に安慰を与える為の注意には、絶えず気がつく。我々も真似をしてよい簡単な仕掛は、馬の腹の下に広い布をさげることである。この布はしょっ中パタパタと上下して、最も届き難い身体の部分から、蠅を追い払う。
我々が通りがけに見た漆の樹の幹には、面白く切口がついていた(図431)。人々はここから液を掻いて集めるのであるが、まるで態々わざわざ入墨で飾ったように見える。

道路に添うて政府は、日本の全長にわたるべく電信を敷いている。この仕事を徹底的に行うやり方は、興味が深かった。電柱になる木は、地上一、二フィートの場所で伐らず、根に近く伐るので、底部は非常に広く、そしてこの部分は長持ちさせる為に火で焦す。この広い底部は大地に入って、しっかりと電柱を立て支える。柱の頂点には、雨を流し散らす為に角錐形の樫の木片を取りつける(図432)。

日本の北方の各地で、私は路の両側に、村から相当離れた場所に、大きな老木を頂に持つ大きな塚があるのに気がついた。これ等は村や町の境界を示すのだそうである。また路の所々に、瓜を売る小舎(図433)が建ててあった。瓜は我国のカンテロープ〔真桑瓜の一種〕に似ていない事もないが、繊維がかたく、水分を吸う丈の役にしか立たぬ。もっとも東京附近にある同じ果実は、美味である。これ等の小舎に関する面白い点は、その殆ど全部に人がいないで、値段を瓜に書きつけ、小銭を入れた箱が横に置かれ、人々は勝手に瓜を買い、そして釣銭を持って行くことが出来る! 私は見知らぬ土地を、付き添う人なしで歩く自由と愉快とを味いつつ、仲間から遙か前方を進んでいた。非常に渇を覚えたので、これ等の小舎の一つで立止り、瓜を一つ買い求めようと思ったが、店番をする者もいないし、また近所に人も見えぬので、矢田部が来る迄待っていなくてはならなかった。やがてやって来た彼は、店番は朝、瓜とお釣を入れた箱とをそこに置いた儘、田へ仕事に行って了ったのだと説明した。私はこれが我国だったら、瓜や釣銭のことはいう迄もなし、このこわれそうな小舎が、どれ程の間こわされずに立っているだろうかと、疑わざるを得なかった。

河を渡船で越し、道路に横たわる恐るべき崩壊の跡を数個所歩いたあげく、我々は一つの村へ近づいた。この時はもう暗くなりかけていた。我々は、非常に多数の人々が村からやって来るのに出会ったが、これ等の殆ど全部が酒に酔って、多少陽気になっていた。私は従来、これ程多くの人が、こんな状態になっているのに逢ったことがない。彼等は十数名ずつかたまって、喋舌しゃべったり、笑ったり、歌ったりして来たが、中にはヒョロヒョロしているのもあった。路の平坦な場所は極めて狭いので、多くの場合、我々は彼等の間を歩かねばならなかった。彼等にとっては外国人を見ることは大きに珍しいので、絶間なく私を凝視した。村に着いた時我々は、相撲の演技が行われていたことを知った。群衆がいたのは、その為である。私がこの事を書くのは、天恵多き我国のいずくに於てか、人種の異る外国人が、多少酒の影響を受け、而も相撲というような心を踊らせる演技を見たばかりの群衆の間を、何かしら侮蔑するような言葉なり、身振りなりを受けずに、通りぬけ得るやが、質問したいからである。
一番主な旅籠はたご屋へ行って見たら、部屋は一つ残らず満員で、おまけに村中の、大小いろいろな旅館を、一時間もかかってさがしたが、どこにも泊ることが出来なかった。たった数時間前、二百名の兵士の一隊が到着したばかりで、将校や兵士の多くが旅館に満ちていた。で我々は、一人の村人が村の有力者をさがし出し、我々の苦衷を説明し、何等かの私人的の便宜を見つけて貰う可く努める間、極度に空いた腹をかかえ、疲れ果てて暗闇の中に坐っていた。日本には、外国人が個人の住宅に泊ることを禁じた法律があるので、我々は全く絶望していた。最後に我々が休息していた満員の旅館の、ほとんど向う側にある個人の住宅に、泊めて貰えることになった。美麗で清潔な大きな部屋が一つ、提供されたのである。ここには蚤が全然いなかったが、すでに身体中に無数の噛み傷を受けていた私にとって、これは実に大なる贅沢であった。我々は美味な夜食の饗応を受け、翌朝は先ずその家の主人に、この歓待に対して何物かを受取ってくれと、大きにすすめて失敗したあげく、四時に出発した。村をウロウロしている田舎者以外に、長い行軍の後でブラついている兵隊も何人かいたが、私は敵意のある目つきも、またぶしつけな態度も見受けなかった。私は米国領事から数百マイルはなれた場所に、只二人の伴随者と共にいたのである。
我々が巡った村の一つで、私は何か新しい物はあるまいかと思って、町の後の方へ行って見たら、ある家の中央の炉の上に大きな藁の褥クッションがつるしてあり、それに各々小魚をつけた小さな棒が、沢山さし込んであった。これは、こうして燻製するのである。日本人は燻した鱒ますを好む。そして捕えるに従って、長い、細い竹の串につきさし、それを図434に示すように、褥につき立てる。

鶏卵を、輸送するために包装する、奇妙な方法を、図435で示す。卵を藁で、莢さやに入った豆みたいに包み、これを手にぶら下げて持ちはこぶ。

福岡を出てから我々は、急に登りにさしかかった。事実、我々は高い山脈の頂に達するのに、けわしい阪を登ったのであるが、遂に頂上に来た。ここには傾斜を緩和するために、深い切通きりとおしが出来ている。岩はこの山を構成している、軽い砂岩らしく思われた。切通の写生は図436に示す。岩層は僅か西に傾下し、私が津軽海峡で曳網した「種」と全く同じに見える、貝や腕足類の破片で充ちていた。この堆積は、地質学的には非常に新しいに違いなく、この島の北部で起った変化が、如何に新しく、且つ深甚であったかを示している。この地方は、化石から判断すると、かつて水面下三十尋ひろ、あるいはそれ以上の所にあったので、近い頃の地質学的時代に二、三千フィートも、もち上げられたものである。

我々は狭い町を通って、大きな、そして繁華な盛岡の町へ入った。町通の両側には、どっちかというと、くっつき合った人家と、庭園とが並んでいる。蜀葵たちあおいが咲き乱れて、清楚な竹の垣根越しに覗く。家はすべて破風の側を道路に向け、重々しく葺いた屋根を持ち、町全体に勤倹の空気が漂っていた。この町へ行く途中でエワタヤマ〔岩手山〕又はそれが富士山に似ていて、ナムボーといわれる地方に聳ゆるが故に「ナムボー・フジ」〔南部富士〕と呼ばれる山がよく見えた(図437)。盛岡では河が大いに広く、ここで我々は舟に乗らなくてはならなかったが、舟をやとうのに我々は、河岸にある製材所へ行けと教えられた。事務所は二階建で、部屋やすべての衛生設備は、この上もなく清潔であった。而もこれが、何でもない製材所なのである! 舟と船頭とを雇う相談をしている最中に、実に可愛らしい皿に盛った、ちょっとした昼飯とお茶とが提供された。我々は、盛岡には、ほんの短時間止まり、果実と菓子とを買い込んで、正午、北上川を百二十五マイル下って仙台へ出る、舟旅にのぼった。我々が雇った舟は、去年利根川で見た物とは違い、船尾が四角で高く、舳は長くてとがっていた。図438は舟を写生したもので、一人がこぎ、二人が竿を使い、乗組の四人目は熟睡している。舵は奇蹟によってその位置に支えられる。すくなくとも軸承じくうけは幅僅か三インチで、見受ける所、何にも無いものにひっかかっている。舟の中央部には、藁の筵を敷いた四角な場所があり、ここで我々は数日間食事をしたり、睡眠したりしなくてはならなかった。我々の頭上には、厚い藺いの筵が、屋根を形づくっていた。河は遅緩で、流れも大して役に立たず、おまけに舟夫たちは、気はいいが怠者のそろいで、しょっ中急ぎ立てねばならなかった。

河岸には釣をしている人々がいた。日本人は如何なる仕事をするにも、遊ぶにも、脚を折って坐る癖がついているので、これ等の漁夫もまた、軽い竹製の卓子テーブルを持っていて、岸や川の中でその上に胡坐あぐらをかき、我々は彼等がこの卓子の上にいたり、それを背負って水中を歩いていたりするのを見た。彼等の釣糸には釣針が二つついていて、その一つには囮おとりに使う生魚がつけてある。彼等は魚を市場で生きたまま売るので、釣った魚を入れる浮き箱を持っている。図439は漁夫達のこの上もなく粗末な写生図である。夜の十一時迄我々は、まことにゆるやかではあったが、とにかく水流に流されて行ったが、前方に危険な早瀬があり、かつまだ月が出ないので、舟夫たちはどうしても前進しようとしない。そこで我々は小さな村の傍に舟をつけ、辛棒強く月の出るのを待った。月は二時に登り、我々はまた動き出した。私は早瀬を過ぎる迄起きていたが、そこで日本の枕を首にあてて固い床に横たわり、翌日明るくなる迄熟睡した。図440は舟夫の一人が、布をボネット〔婦人帽の一種〕のように頭にまきつけて、煙草を吸っている所である。ここで私は、蝦夷では、最も暑い日にあっても、田舎の女が青い木綿の布で頭と顔とを包み、時に鼻だけしか見えぬという事実を書いて置こうと思う。図441は別の舟夫である。

翌朝我々は元気よく、夙く起き、そして気持のよい景色や、河に沿うた興味のある事物を、うれしく眺めた。馬の背中や人力車の上で、この上もなく酷い目にあった我々にとっては、こづかれることも心配することもなく漂い下り、舟夫達や、河や、岸や、その向うの景色を見て時間をつぶすことは、実に愉快であった。間もなく薬鑵の湯がたぎり、我々は米と新しい鱒とで、うまい朝飯を食った。図442は船上の我々の炉、図443は舟夫の二人が飯を食っている光景を髣髴ほうふつたらしめんとしたもの。

河上の景色は美しかった。一日中南部富士が見えた(図444)。我々は筵の下でうつらうつらして、出来るだけ暑い太陽の直射を避けた。飲料水とては河から汲むものばかりで、生ぬるくて非常にきたなかった。図445は船尾から見た我々の舟である。帆は上述した通り、かなりな間隙をおいて布の条片をかがったものであること、写生図の如くである。この河の船頭の歌は、函館の船歌によく似ている。図446は、フェノロサ教授が、その歌を私の為に書いてくれたもので、最初の歌は函館の歌、次の節は北上川の舟夫が歌う、その同質異形物である。時々舟乗が魚を売りに来たが、取引きをしながら、我々は一緒に、下流へ押し流される。図447は、我々の舟の舟夫が漕いだり、竿で押したりしている所である。図448は、航行三日目における舟夫の一人を写生したもの。丁髷ちょんまげが乱れて了い、彼はそれを、頭のてっぺんで束にして結んだ。剃った脳天と顎とには、新しい毛がとげのように生え、鼻は日に焼けて非常に赤い。彼は上陸すると先ず床屋を見つけ出し、剃刀かみそりを当てて貰い、丁髷の復興建築を行うことであろう。図449は河舟の別の型式で、底が平く、船尾は広い荷船である。この舟は溯行中で、船尾の下にいる男は、舟を砂洲から押し出しているのである。

ある場所で我々は絶壁の下で太陽が照りつけるのもかまわず、陸産の螺にしをさがす為に上陸し、そして短い間に、我々がそれ迄に採集したことのない新種を八つ見つけた。このような絶壁に、漁師は屯所を設ける。この屯所に使用する小舎(図450)は、河から三十フィート高い所にあり、漁夫は長い繩で網を引上げ、魚が入っているか否かを見る。実にお粗末極まる小舎にまで、梯子はしごがかけてある。図451は網の一つの形式を示す。河の全長にわたって、このような漁屯所が見られる。

仙台湾に近づくにつれて、河幅は広くなり、流れはゆるく、きたならしくなった。航行の最後の日には、水を飲むことが容易でなかった。沈渣おりが一杯入っていたからである。河岸では人々が、布や、自分等の身体やを洗っていた。烏が如何に人に馴れているかを示す、小さな写生図が一つある。女が一人、舷によって、見受けるところ魚を洗っていたが、そこから数フィートはなれた所に烏が一羽、舷にとまって、女のすることを見ていた(図452)。河口に近づくと、風が吹き上げ始め、舟夫は岸へ上って数マイル間舟を曳いた(図453)。これをやるのに彼等は檣マストを立てそのてっぺんに繩を結びつけ、そして舟を引張った。舟夫の一人は舟に居残り、長い竿を使用して、舟が岸にぶつかるのを防いだ。三日間も船中に立て籠り、その間の多くを居眠りしたり寝たりしたというのは、まことに懶惰なことであった。写生図454では、一行中の一人が、蚊をよける為に、顔に紙をかぶせている。

このような緩慢な河旅を数時間続けた後に、我々は時間を節約するため、最初の村で上陸し、仙台まで人力車で行くことに決定した。これは結局よいことであった、というのは、我々が入り込んだ村では、外国人を見る――もしそれ迄に外国人が来たとすれば――ことが非常に珍しいに違いなかった。人々は、老幼を問わず、大群をなして我々の周囲に集り、我々が立ち寄った旅籠屋では、庭を充し、塀に登り、まるで月の世界からでも来た男を見るように、私を凝視した。時に私は彼等に向って突撃した。これは勿論何等悪意があってやったのではないが、彼等は悪鬼に追われるように、下駄をガラガラいわせて四散した。我々が人力車で出立した時、彼等は両側に従って、しばらくの間、最大の好奇心と興味とを以て私を眺めながら、ついて来た。
私は我々が通過した町々の建築法に、非常な変化があり、家の破風はふ端に梁が変な具合に並べてあるのに気がついた。図455に示したものは典型的で、スイスの絵画的な建築を思わせた。自然そのままの木材は、いう迄もなく、年代で鼠色になっていた。我々は非常な勢で走って来たので、ゆっくり写生するだけの時間が無かったが、街道いたる所の家に美事な木細工がしてあるのには注目した。一階の上にある長い張出窓には、図456に示すように、松、竹、その他をすかしぼりにした繊美な木細工が、ちょいちょい見られる。

我々が通過した村々のある物の主要街路は、殆ど完全に筵で敷きつめられ、その上で人々が藍の葉を乾していた。女や子供は、手を青く染めながら、他の人々が持って来る藍の小枝から葉をむしっていた。路にはこれ等の筵や葉が一杯なので、我々の人力車はその上を走って行った。仙台が近くなると、車夫は目を覚ましたらしく、前より更に速く走った。道路もよくなり、舟旅の緩慢な単調の後でこのように速く動くのは、実に気持がよかった。村へ来ると車夫は気でも違ったかの如く疾駆し、路をあけろと絶叫するので、村民たちはどんな見世物があるんだろうと思って、一人残らず往来へ走り出る。彼等は米国人に負けぬ位、好奇心が強い。葉巻の吸殻を投げ棄てると、誰かがきっと拾い上げ、それが如何にして出来ているかを見る為に、やぶいて見る。
図457は高さ三フィートの奇妙な扇で、米から塵を煽ぎ出したり、あるいは穀物から籾殻もみがらを簸あおりわけたりするのに使用する。一本の竹でつくった縦の柄を握り、鞴ふいごを使う時みたいに両手を左右に動かすと、蝶々の翅はねに似た形の扇が開いたり閉じたりする。

人力車は一人乗りで狭く、そして背が高くて頭重だから、乗っている人は、しょっ中均衡に注意していなくてはならぬ。ひっくりかえることを恐れて、居眠りも出来ないのは辛い。私の前には美しい寛衣を着た坊さんが、頭を低く垂れて、眠ながら人力車に乗って行った。私は彼が必ずひっくりかえるだろうと思い、すっかり睡気をさまして一マイル以上も見つめていたら、果して彼はすってんころりと、路傍の湿った溝へころげ落ちた。車夫もまたころんだが、すぐはね起き、帽子をぬいで何度も何度も頭を下げて謝った。私は堪えられなくなって笑った。坊さんは私を見て、同情して笑った。
午後になって我々は、その夜仙台に着くことが困難であることを知ったので、有名な松島でとまった。再び塩風に当ったのは気持がよかった。干潮時だったので、海岸は海藻で覆われ、その香は心地よかった。我々は一部樹木にかくされた岬の上にある、奇麗な小旅館でとまった。松島へ入る前、道路は崖について廻るが、この崖には以前の海蝕の跡をとどめた大小の洞穴が、沢山あいていた。この摩滅作用は、非常に不思議である。岩の上層がより低い部分の上にのしかかること、雪の吹寄せのある形式に似ていた。図458はこのような岩が、海陸――仙台湾にはここに書いたような岩が何百となく存在する――を問わず装う形態の、かなり代表的なものである。島のあるものは長さ二十フィートに足らぬが、水面から二十フィートも聳え、そして面積も余程広いものもある。これは最も特殊な事実で、大がかりな侵蝕と、新しい隆起とを示している。

翌朝我々は暗い内から起き、九時頃仙台市へ着いた。雑鬧ざっとうする町々を人力車で行ったら、一寸東京へ帰ったような気がした。随行者の二人を採集するために松島へ残し、矢田部と私とは、東京へ向けての長い人力車の旅に登った。我々は身軽くする為に、出来るだけ多くの物を残し、人力車一台に車夫を二人ずつつけた。矢田部は東京へ電報を打とうとしたが、私人からの電報はすべて禁止されていると知って、大きに驚いた。何故こんな告示が出たのか、いろいろ聞いても判らぬので、彼は大きに心を痛めた。東京で革命が勃発したのか? 反外国の示威運動があったのか? 何事も判らぬままに、我々は東京迄陸路二百マイルの旅に出た*。この電報の禁止以後は、通り違う日本人がすべて疑い深く、私の顔を見るように思われた。仙台を出て二時間行った時、我々は間違った方向へ行きつつあることに気がついた。このひどい間違いのために、我々は仙台へ立ち戻り、半日つぶして了った。ここで食事をし、新しい車夫を雇って夜の十時まで走り続け、藤田へ着いた。旅館はすべて満員で、我々はあやしげな旅籠屋へ泊らねばならなかった。貧弱な畳、貧弱な食物、沢山あるのは蚤ばかり。それでも我々は苦情をいうべく、余りに疲れていた。
* 東京へ近づいた時、我々は東京の兵営で反乱が起ったことを知った。それで電報を禁じたのである。
翌日は白河まで七十マイル行かなくてはならぬ。そうでないと、その次の日、宇都宮へ着くことが出来ない。それで我々は日出前に出発したが、夜になる前、すでに我々はしびれる程疲れ切っていた。私は昼、何かを食うために、非常に奇麗な茶店にとまったことを覚えている。後の庭は奥行僅か十フィートであったが、日本人が如何に最も狭い地面をも利用するかを、よく示していた。我々が休んだ部屋から見たこの狭い地面は、実に魅力に富んだ光景であった。灌木は優雅に刈り込まれ、菖蒲は矮生に仕立てられ、ここかしこには面白い形の岩が積まれ、小さな常緑樹と日本の楓とが色彩を与え、全体の効果が気持よかった。午後中我々は旅行した。そして七時、我々はこれ以上行くことが不可能と思われる位疲れていたが、それでも飯を腹一杯食って、また次の駅へ向けて出発した。夕方の空気の中を行くことは涼しくて気持よく、また夜の村をいくつもぬけて、再び広々とした田舎の路に出るのは興味があった。この夜白河へ着くことが出来さえすれば、次の夜には宇都宮へ着くことが出来、宇都宮からは東京まで駅馬車がある。
十時、白河の町に近づいた時、路に多数の人がいることによって、我々は何か並々ならぬことが行われつつあるのを知った。町へ入って見ると建物は皆、提灯その他いろいろな意匠の透し画で照明されていた。旅館はいずれも満員で、我々は十時半にやっとその夜の泊を見出したが、この宿屋も満員で、また往来はニコニコして幸福な人々でぎっしり詰っていた。十一時、大行列がやって来た。人々はいずれも色鮮かな提灯を、長い竿の上につけたり、手に持ったりしていた。この行列が隊、あるいは集団から成立していた点から見ると、これ等は恐らく各種の職業、あるいは慈善団体を代表していたのであろう。一つの群は赤い提灯、他は白い提灯……という具合であった。最も笑止なのは、場合によっては長さ三十フィートもある、竹竿の上につけた提灯を持って歩くことで、持っている人はそれを均衡させる丈に、全力を傾け尽すらしく思われた。彼等は一種の半速歩で動いて行き、皆「ヤス! ヤス!」と叫んだ。
行列の真中には、十数名の男が肩にかつぐ、飾り立てた華蓋はながさがあった。これを運ぶのに、如何にもそれがいやいやながら運ばれるかの如く、男達のある者は冗談半分、引き戻そうとして争うらしく思われた。この景色は到底写生出来なかったが、読者は広い道路、両側に立並んだ低い一階建の日本家屋、軒の下の提灯の列、感心している人々で一杯な茶店、三味線や笛を奏している娘達、速歩で進む行列、高さ十五フィートの竿の上で上下する提灯、時々高さ三十フィートの竿についた提灯の一対……それ等を想像すべきである。それを見ている、唯一の外国人たる私に、過ぎて行くすべての人が目を向けたが、この大群衆中誰一人、私に失礼な目つきをしたり、乱暴なことをしたりする者はなかった。
翌朝我々は蝋燭の光を頼りに出発した。正午、我々は鰻のフライ〔揚物〕で有名な場所で休息し、美味な食事をした。午後我々は雨で増水した利根川を渡ったが、渡船を待つ間、渡船場の下流の、広い砂地が川に接した場所に、日本人の一群がいるのに気がついた。数時間前、徒渉しようとした男が溺死し、今や彼等は見つけ出した死体を、運ぼうとしつつあるとのことであった。私は群衆の中に入って行った。例の大きな木製の桶があり、火葬場へ持って行く死体が内に入っている。横では一人の女が、深い悲嘆にくれて泣いていた。数名の男が線香をたき、奔流、不毛の砂地、空を飛ぶ黒い雲等が、陰鬱な、心を打つような場面を形成していた。私が突然彼等の間に出現したのは、まるで幽霊みたいだったので、彼等は皆、私が雲から墜ちて来たかの如く私を見た。船が着いたので、私は渡船場へ急いだ。やがて雨が降り始め、午後中降り続いた。
晩の七時頃、我々は東京から六十七マイルの宇都宮へ着いた。ここは私が七月に東京を出てから、初めて見る馴染なじみの場所なので、家へ帰ったような気がした。去年日光へ行く途中、我々はここで一晩泊ったが、今度も同じ宿屋に泊り、私は同じ部屋へ通された。最初にここを訪れてから今迄の短い期間に、米国へ往復し、蝦夷へ行き、陸路帰り、そして、日本食を単に賞味し得るのみならず、欲しい物は何でも日本語で命令することが出来る位日本料理に馴れ、おまけにあらゆる物が全然自然と思われる程、日本の事物や方法に馴れたということは、容易に理解出来なかった。
駅馬車は翌朝六時に出発した。乗客はすべて日本人で、その中には日光へ行き、今や東京の家へ帰りつつある二人の、もういい年をした婦人がいた。彼等は皆気持がよく、丁寧で、お互に菓子類をすすめ合い、屡々路傍の小舎からお茶をのせて持って来る盆に、交互に小銭若干を置いた。正午我々は一緒に食事をしたが、私は婦人達の為にお茶を注いで出すことを固執して、大いに彼女等を面白がらせた。また私は、いろいろ手を使ってする芸当を見せて、彼等をもてなし、一同大いに愉快であった。この旅館で私は婦人の一人が午後の喫煙――といった所で、静に三、四服する丈だが――をしている所を写生した(図459)。この図は床に坐る時の、右足の位置を示している。左足はそのすぐ内側にある。足の上外部が畳に接し、人は足の内側と、脚の下部との上に坐る。

図460は宇都宮の旅館の後の庭にあるイシドーロー、即ち石の燈籠である。上部は一個の石塊から造り出し、台も同様で、木の古い株を現している。生えた苔から判断すると、この石燈籠は古いものである。我々は日本の町や村の殆ど全部に、美事な石細工、指物細工、その他の工匠の仕事があるのに驚く。これは彼等の仕事に対して、すぐれた腕を持つ各種の職業に従事する人々が、忠実に見習期間をすごして、広く全国的に分布していることを示している。

昼、我々はまた利根川に出て、大きな平底船で渡り、再び数マイルごとに馬を代えながら、旅行を続けた。東京へ近づくにつれ、特にこの都会の郭外で、私は子供達が、田舎の子供達よりも、如何に奇麗であるかに注意した。この事は、仙台へ近づいた時にも気がついた。子供達の間に、このような著しい外観の相違があるのは、すべての旅館や茶店が女の子を使用人として雇い、これ等の持主が見た所のいい女の子を、田舎中さがし廻るからだろうと思う。彼等は都会へ出て来て、やがては結婚し、そして彼等の美貌を子孫に残し伝える。これはすくなくとも、合理的な説明であると思われる。 
第一五章 日本の一と冬
我々は夕方の七時頃東京へ着き、私は新しい人力車に乗って、屋敷へ向った。再び混雑した町々を通ることは、不思議に思われた。私は何かと衝突しそうな気がして、まったく神経質になったが、馴れる迄には数日かかった。私は十一日にわたって、ニューヨークからオハイオ州のコロンバスへ行く程の距離の、長い田舎路を旅行し、而もその半分以上は日本人の伴侶只一人と一緒にいた丈であるが、遙か北方の一寒村で、老婆が渋面をつくったのと、二人の男が私を狭い路から押し出そうとしたのとを除いて、旅行中、一度も不親切な示威運動に出喰わしたことがない。この後の方の経験は全く自然なもので、田舎の路を歩いている二人の紳士が、向うからやって来た支那人の洗濯屋に、溝の中へ押込まれることを許さぬというようなことは、我国でもよく起るであろう。私は同伴者より半マイルも前方で、山の輪郭を写生しながら、狭い路の真中に立っていた。二人の男は私を外国の蛮人と認め、私もまた争闘を避けるためには、私自身を蛮人とみなして、横へ避るべきであったかも知れぬ。だが、彼等が明かに私をやっつける気でいることが見えたので、私はがんばった。そして、今や私につき当ろうとする時になって、彼等は両方に別れ、私に触れさえもしなかったが、彼等が過ぎて行く時、私は多少心配をした。
指や趾あしゆびの名前を聞いて知ったことだが、日本には「足の指」という以外に、趾を現す言葉がない。拇指は「大指」又は「親指」、食指は「人を指す指」、中央指は「高い高い指」、指環指は「薬指」又は「無名指」と呼ばれる。そして小指は、我々と同じく「小さい指」という名を持っている。スペイン語でも第三指、即ち指環指は「薬の指」というが、これはこの指が他に比して柔かいので、目に薬を塗ったり、目をこすったりするのに、十中八、九、この指を使用するからである。私が調べた僅かなインディアン語彙によると、趾は「足の指」と呼ばれる。歯もまた名前を持っている。門歯が「糸切歯」と呼ばれることは、日本の婦人達が我国の婦人達と同じ悪習慣を持っていることを示している。犬歯の日本語は「牙」である。臼歯は「奥歯」といい、智慧歯を「親無し歯」〔親知らず〕というのは、これが大抵、両親の死後現れるからである。眉は「目の上の毛」〔?〕、睫毛まつげは「松の毛」という。頸は「頭の根」〔?〕と呼ばれる。踝くるぶしと手頸とを区別する、明瞭な名は無く、脚と手との「クビ」で、踝の隆起点は「黒い隆起」〔クロブシ〕と呼ばれる。これは素足でいる日本人にとって、この場所が一番初めによごれが目立つからである。むかはぎは「ムコーズネ」と呼ばれ、日本人はここを撲られると、ベンケーでも泣き叫ぶという。弁慶は非常に強い男であって、彼の力に関する驚嘆すべき話がいくつもある。
先日日本人の教授夫妻が私の宅を訪問し、私は細君に頼んで写生することを許して貰った。この写生図の顔は、彼女の美貌を更に現していない(図461)。また私は日本の赤坊が熟睡しているところを写生することが出来た。

人は市場を何度も訪れて、そしてそれ迄に気のつかなかったことに気がつく。何から何まで芸術的に展示してあることと、すべてがこの上もなく清潔なことには、即座に印象づけられる。蕪や白い大根は、文字通り白くて、ごみは全然ついていなく、何でも優美に結ばれ、包まれている。隠元豆は、図462に示すように、藁でしばって小さく捆(か)らげる。

機械的の玩具は、常に興味を引く。構造はこの上もなく簡単で、その多くは弱々しく見えるが、而も永持ちすることは著しい。図463の鼠は、皿から物を喰い、同時に尻尾を下げる。横にある竹の発条ばねは、下の台から来ている糸によって、鼠に頭と尾とを持上げた姿をとらせているが、発条を押す瞬間に糸はゆるみ、頭と尾が下り、そして頭は皿を現す小さな竹の輪の中へ入る。鼠には色を塗らず、焦がした褐色で表面をつくってある。日本人はこの種類の玩具に対する、非常に多くの、面白い思いつきを持っている。それ等の多くは、棒についていて糸で動かし、又は我国の跳びはね人形のように動く。

玩具や遊戯の多くは、我国のに似ているが、多くの場合、もっとこみ入っている。一例として綾取あやとりをとれば、そのつくる形は、遙かに我々以上に進む。日本人は紙で種々なものをつくるが、それ等の多くは非常に工夫が上手である。普通につくられる物はキモノ、飛ぶ鷺、舟、提灯、花、台、箱であるが、箱は、我々が子供の時、捕えた蠅を入れるためにつくった物とは、全く相違している。
鳥、殊に烏が如何に馴れているかを示す事実が、もう一つある。私の車夫が人力車の後に灯をぶら下げておいた所が、人力車から三フィートとは離れていない所で私が外套を着ているのに、烏が一羽下りて来て、車輪にとまり、紙の提灯に穴をあけてその内にある植物性の蝋燭を食って了った。私は烏にそれをさせておいた。このような経験をする為には、百個の提灯や百本の蝋燭の代価を払ってもよい。烏は実際街頭の掃除人で、屡々犬と骨を争ったり、子供から菓子の屑を盗んだりする。日本の画家は、行商人が頭に乗せた籠から魚をさらって行く烏を描いた。烏は不親切に取扱われることがないので、非常に馴れている。まったく、野獣もすべて馴れているし、家畜は我国のものよりもはるかに人に馴れている。
昨今(十一月)子供達は紙鳶たこをあげ、毬まりあそびをし、独楽こまを廻している。彼等は我国の男の子達と同じ様に、木製独楽に戦いをさせるが、形は図464に示すように、我々のとは違っていて、そして他人の独楽を裂こうとする代りに、どの一つかが回転を止める迄、独楽同志を押しつけ合せる。毬遊びは、毬を地面にぶつけ、それを手の甲で受けて再び跳ねかえらせ、この事を最も多くやり得る者が勝つ。

男の子供は、我国のと同様、棍脚たかあしに乗って歩くことが好きである。棍脚はチクバと呼ばれるが、これは文字通りに訳すと「竹馬」である。子供の時からの友達のことを「チクバ ノ トモダチ」即ち「棍脚友」という。図465は棍脚の二つの型を示しているが、その一つは紐で二つの木片を竹に縛りつけたものである。足をのせる部分は、足に対して直角でなく、縦についているから、足の裏が全部それに乗る。もう一つのは全部木で出来ていて、これは数がすくない。棍脚の高さは四、五フィートに達することもあり、子供達は屡々片方の棍脚でピョンピョンはねながら、他の棍脚で敵手を引き落そうとして、盛な競争をやる。

十一月二十二日。我々は再び大森の貝塚へ、それを構成する貝殻の各種を集めに行き、次に海岸に打上げられた生きた標本を集めに行った。両者を比較するためである。すでに私は貝殻の大きさのみならず、釣合にも相違のあることに気がついていた。二枚貝の三つの種(
Arca granosa, lamarckiana, ponderosa
)は、いずれも帆立貝みたいに、放射する脈を持っているのだが、それ等は貝塚に堆積された時よりも放射脈の数を増し、バイの類のある種(Eburna)の殻頂は、現在のものの方が尖っているし、他の種(Lunatia)は前より円味を帯びている*。
* これ等、及びその他の相違は私の大森貝墟に関する報告の中に発表してある。貝殻の変化に関する観察の部分はダーウィンに送ったが、それに対して彼は、「全有機世界は何という間断なき変化の状態にあるのだろう!」と返事をした。(『続チャールス・ダーウィン書簡集』第一巻三八三頁)
鉄道軌道を歩いている内に我々は、日本の労働者が地ならしをするのに、シャベルや鉄棒の一振りごとに歌を歌うことを観察した。日本人はどんな仕事をするのにも歌うらしく見える。
我々は有名な料理屋へ昼飯を食いに行った。私の日本人の友人たちは、美しい庭園にある石碑の文句を訳すのに、思いまどった。矢田部教授はそれが大体に於て「梅の花の香は、書斎でインクの流走を起させる」という意味だといったらよかろうといった。つまり、花の香が詩人に詩を書かせるということである。このような日本、あるいは支那の古典から取った題句の多くが、家にかけてある額や、庭園の石に見られる。これ等を飜訳すると、我々には何だか大したものでないように思われるが、而も日本人は、それ等が書かれた漢字は、彼等には更に意味が深く、その精神は飜訳出来ないのだと固執する。私と一緒にいた学生達は、この題句を英語に訳そうと試みたが、非常に困難であることを発見した。彼等の一人は、次のようなものをつくり上げた――「梅の香は、人々が白い紙を仕舞っておく部屋でインクが流れるのに似ている」。矢田部夫人が私の書画帖に、支那の古典から取った趣情句を書いてくれた。これは非常によく出来ているとのことである。図466はそれ等の文字の引きうつしであって、「春、我々は花を愛して夙く起き、月を讃美して我々は夜遅く寝る」。

マカロニ〔西洋うどん〕の看板(図467)は、一枚の板の下に、房のように紙片がさがった物である。マカロニは蕎麦そばで出来ていて、汁と一緒に食うと非常にうまい。糊の看板は円盤で、その上に糊を表す字が書いてある(図468)。米国と同様、糊は売買されるが、日本人はより多い目的にこれを使用する。

昨今(十一月の終)は、木を動かす季節だと見えて、往来でよく木を動かす人々を見受ける。私はそれを扱うのに三十人も要する大きな木を見た。立木は何回もくりかえす移植に耐えるらしく、転々と売られては、図469に示すようにして、何マイルもはこばれて行く。

寒さが近づくにつれて、人々は厚い衣服をつけるが、下層階級の者はすべて脚と足とをむき出し、また家も見受ける所、みな前同様にあけっぱなしである。地面には霜が強く、町に並ぶ溝は凍りついているのに、小さい店は依然あけっぱなしであり、熱の唯一の源は小さな火の箱即ちヒバチで、人々はその周囲にくっつき合い、それに入れた灰の中で燃える炭に、手を翳かざしてあたためる。人力車夫が何マイルか走って、汗をポタポタたらしながら、軽い毛布を緩ゆるやかに背中にひっかけ、寒い風が吹く所に坐って、次のお客を待つ有様は、風変りである。人は誰でも頭を露出して歩く。彼等は帽子をかぶることに馴れていないので、学生も帽子をかぶって人を訪問し、帰る時にはそれを忘れて行く。そして一週間もたってから取りに来るが、これによっても、彼等が如何に帽子の無いことを苦にしないかが判る。寒い時、男は、綿をうんと入れた、後に長い合羽のついた、布製の袋みたいなものをかぶる。見た所、それは袋に、顔を出す穴をあけたようである(図470)。我国でも男の子達は、梳毛糸ウォーステッドでつくった、同じような物をかぶる。温い衣服に着ふくれた子供達は、滑稽である。外衣には厚く綿が入れてあり、袖は手が完全にかくれる位長く、支那の衣服に似ている。婦人達は長さ一ヤード四分一の布の一片でつくった、非常に似合う帽子フードをかぶる。それは図471の如く畳み、Aで縫いつけてあるが後は開いており、内側のBの所にある長い環を耳に引っかけてそれを前方に引き下げ、顔はDにあらわれる。二つの懸垂物EEは頸の後に廻し、前で結ぶ。これは非常に容易に身につけられ、我国でも鑑賞される可き装置である。普通紫色の縮緬ちりめんで出来ていて、これをかぶっていると、十人並以下の女でさえ、美しく見える。図472はこの帽巾フードをかぶった婦人を示す。

昨日今日市場に出ている蜜柑みかんは、すべて我々がタンジェリン〔モロッコの港市ダンジール産のもの〕と呼ぶ変種で、皮は非常に薄くて容易にむけ、房は殆どバラバラに散る。房が中心で出会っていないので、蜜柑のある物は皮ごしに中心を覗き見ることが出来る。大きさは英国の胡桃くるみ位の物から、我国の普通のオレンジ位のものに至る迄、いろいろある。小さい方には種子が無く、非常に大きいのはうまくなくて、装飾として用いられる。蜜柑を進物とする時には、竹製のすかし籠に、非常に奇麗に詰める。これ等の籠には竹の脚が三本ついており、また竹の条片は蜜柑から二フィートも上るまで延びていて、そこで二つの竹の輪によって、一緒にされる(図473)。上には常緑樹の小さな枝をのせ、緑の竹の繊美な薄板の間から蜜柑の濃い色をのぞかせた、かかる典雅な蜜柑容器を、趣深く並べた店は、誠に美しい。蜜柑を切る、面白くて、また解するに苦しむような一方法は、図474で示してある。図475はその半分を、末端から見た所で、点線は切りようを示す。皮がやわらかで、且つ離れやすいから、これをやるのはそれ程六つかしくないが、而も我国では、友人の一人が、あの皮の固いオレンジでこれをやった。

遊戯は我国に於ると同様、時季に適かなっていて、只今の所では紙鳶あげ、独楽廻し、追羽子おいばねが最もよく行われる。歩いていても、車に乗っていても、よく羽子板で叩かれるが、必ず微笑と謝罪の言葉とがそれに伴う。道具は我々のとは違っている。羽子板は板で出来ていて、その一面には有名な英雄か、あるいは俳優に主題をとった、色あざやかな縮緬のこみ入った押絵がある。羽子板のある物の装飾は、非常に数奇をこらしてある(図476)。羽子はソープベリイ〔米国産無患子の一種〕の種子(ムクロジ)で出来ていて、その一端では五本の羽毛が羽冠を形成する。これ等は五個を一組とし、竹のへげにはさんで売られる(図477)。これ等を売る店では、目もくらむばかりに美しく羽子を展観し、店外には普通、看板として大きな羽子板が出してある。図478は、幸運の神ダイコクである。これは金銀の糸を織り込んだ、美しい色の錦繍の布地から出来上っているが、非常に安い玩具なので、粗末につくってある。図479は、追羽子をしている女の子の態度である。我々の羽子板は、サム、サム、サムという音を立てるが、日本のは固い種子を木の羽子板で打つので、クリック、クリック、クリックと聞える。

今月(十二月)は、各所の寺院の近くで、市がひらかれる。売買される品は、新年用の藁製家庭装飾品、家の中で祭る祠、子供の玩具等である。大きな市はすでに終り、今や小さい市が、東京中いたる所で開かれる。このような屋外市につどい集る人の数には、驚いて了う。我々は屋敷から余り遠くないお寺で開かれた市に行って見た。路の両側には小舎がけが立ち並び、人々はギッシリつまり、中には買った物を僧侶に祝福して貰うべく、それがつぶされるのを防ぐ為に、頭上高くかかげてお寺へ向う者も多い。このような祭で売られる物が、すべて子供の玩具か、宗教的又は半宗教的の装飾物か、彼等の家庭内の祠に関係のある物かであるのは、興味が深かった。米国から来る新聞に、宣教師達が寄稿した、寺院は荒廃し、信仰は死滅しつつあるという手紙が出ているのを読み、そこで寺院に毎日群衆が参詣し、寺院は瓦を葺きかえられ、修繕され、繁栄のあらゆる証拠を示しているという実際の事実を目撃する時、私はこんな虚偽の報告に、呆れ返って了う。
新年用の装飾品は稲の藁で出来ていて、いろいろな方法にひねったり、編んだりしてある。それ等を家の入口の上と、家庭内の祠の上とにかける慣ならわしがある。意匠の多くは美しく、そのある物は構造上に多分の手並を示している。最も意匠が美しくまた最も普通なものの一つは、図480に示したものである。現物は長さ二フィート以上、下に下った部分は三フィートもあった。捲いた場所は舟を現しているらしいが、若し然りとすれば、この舟の積荷は、稲の藁でつくった球三箇、松の小枝、及び鮮紅色の漿果み若干である。下には稲の束がすこし下り、球の極には小さな金被せの葉がつき立ててあり、全体として華美で人の目を引く。別の物(図481)は藁の花輪で、稲の束と藁とが下っている。図482は戸の上にかける物で、藁をより合せて、最後に一つの点にまで細くしたものである。これ等のある物は、長さ六フィートに達し、この形式は神道の社でよく見受ける。図483は戸口の上にかける流蘇ふさ、図484は五インチの距離をおいて繩の股こが一つ下るように撚った、藁繩である。これは、巨大な玉総たまふさのように捲いておくが、捲きを戻して部屋の側壁にかけ、象徴的な形に切った白い紙を、垂下する股の間々で、繩に結びつける。ある場合、この種の装飾は、非常に手が込んでいる。図485は門の上にかける、複雑な構造物を現す。中央には乾燥した海藻を下につけた海老、その両側には乾した柿があり、羊歯しだの葉を懸垂させ、神道の様式に切った紙をつけ、そして全部が松の木によって支持される。色を使わないで、その花々しい外見を示すことは困難である。図486は、門の前にある装飾を示している。濃緑色の切り竹は高さ十二フィートで、巨大な風琴管オルガン・パイプのように見えた。これ等は松の小枝の群叢から聳え立ち、底部は藁繩でしっかりとくくられ、下には奇麗に盛土がしてあって、その土の散逸を防ぐ為に、藁の環があった。

年の初めに、町々をさまよい歩き、装飾の非常に多数の変種を研究することは、愉快さの、絶えぬ源泉である。表示された趣味、松、竹その他の象徴的材料を使用することに依て伝えられる感情は興味ある研究題材をつくる。元旦、私は廻礼をしていて、店の多くが閉ざしてあるのに気がついた。町は動作と色彩との、活々した光景を現示する――年賀に廻る、立派な着物を着た老人、鮮かな色の着物を着て追羽子をする若い人々、男の子はけばけばしい色に塗った大小いろいろの紙鳶を高低いろいろな空中に飛ばせる。上流階級の庭園では、華美なよそおいをした女の子達が、羽子を打って長袖をなびかせると、何ともいえず美しい色彩がひらめくのである。非常に多数の将校や兵士が往来にいた。いたる所に国旗がヒラヒラし、殆どすべての家が、あの古風な藁細工で装飾されていた。子供が群れつどう町々を見、楽器の音を聞き、そこここに陽気な会合が、食物と酒とを真中に開かれているのをチラチラ見ることは、誠に活気をつける。私が訪問した所では、どこででも食物と酒とが、新年の習慣の一つとして出された。食物でさえも、ある感情と、それから満足とを伝達するのである。新年には必ず甘い酒が出されるが、それに使用する特別な器は、急須のような注口を持っており、鉉つる即ち磁器なり陶器なりの柄は、器の胴体と同一片である。これが急須の蒐集の中に混合しているのを、よく見受ける。
膳部は皿と料理に就ては、本質的にみな同一だから、その一つを写生したものを出せば、すべてに通用する。図487は酒、菓子、その他の典型的な膳部で、私が写生帳を取出してもよい程懇意にしていると感じた、日本人の教授の一人の家で出たもの。この絵はいろいろな品が、畳の上に置かれた所そのままを見せている。甘い酒を入れた急須は右手にあり、松の小枝と、必ず贈物に添えられるノシとが、柄についている。普通の酒は低い、四角な箱に納る瓶に入って給仕される。積み重ねた三つの、四角い漆塗の箱には、食物が入っている。食物というのは、魚から取り出したままの魚卵の塊、砂糖汁と日本のソースとに入った豆の漬物、棒のように固い小さな乾魚、斜の薄片に切り、そして非常に美味な蓮根れんこん、鋭い扇形に切ったウォーター・チェスナット〔辞書には菱とあるが慈姑くわいであろう〕、緑色の海藻でくるくる捲いて縛った魚、切った冷たい玉子焼、菓子、茶、酒(図488)。

日本人は年頭の訪問を遵守するのに当って、非常に形式的である。紳士は訪問して、入口にある函なり籠なりに名刺を置くか、又は屋内に入って茶か酒をすこし飲む。その後数日して、淑女達が訪問する。元日には、日本の役人達がそれぞれ役所の頭株の所へ行く。また宮城へ行く文武百官も見受ける。外国風の服装をした者を見ると、中々おかしい。新年の祝は一週間続き、その間はどんな仕事をさせることも不可能である。この陽気さのすべてに比較すると、単に窓に花環若干を下げるだけに止るニューイングランドの新年祝賀の方法が、如何に四角四面で、真面目であることよ! ニューヨーク市で笛を吹き立てる野蛮さは、只支那人のガンガラ騒ぎに於てのみ、同等なものを見出す。
我々の家へ、大きな、ふとった※(「刀」の「丿」が横向き、第3水準1-14-58)鴨あいがも二羽の贈物が届いた(図489)。これ等は四本の短い竹の脚を持つ、四角くて浅い籠に入っていた。※(「刀」の「丿」が横向き、第3水準1-14-58)鴨は野菜と緑葉と、三個の丸い檸檬レモンとの上に置いてあった。※(「刀」の「丿」が横向き、第3水準1-14-58)鴨はお汁にし、檸檬はしぼってそれにかけるのだが、日本で物を贈る方法が、如何に手際よく、そして完全であるかは、これでも判るであろう。この国では贈物というものが非常に深い意味を持っている。そして如何に些少であっても、必ず熨斗のしがつけられる。

モチは新年に好んで用いられる食品で、恰度ニューイングランド人が感謝祭と降誕祭クリスマスとに、沢山ミンスパイや南瓜のパイをつくるのと同じように、日本人も餅を調製する。これは、ねばり気の多い米の一種でつくられるが、先ずそれを適当に煮てから、大きな木の臼に入れ、長い棒で力つよくかき廻す。餅をつくっているのは、昨今往来でよく見受ける光景である。図490は、人々が生麪なまこ様のものを、かきまぜている所である。次にそれに米の粉をふりかけ、大きな木の槌で打つ。非常にベタベタしているので、槌がへばりついて了うこともある。北斎は、へばりつく塊から槌を抜こうとしている男を、漫画にした。このようにして、適宜にこねた後、平たい丸い塊にするが、時にそれは直径二フィートもあり、そして巨大なプディングに似ている。伸して、薄い盤状にすることもある(図491)。餅は多くの店で売られ、日本人は非常にこれを好む。食うと恐しくねばり気があって、不出来な、重くるしい麪包パンを思わせるが、薄く切ったのを火であぶり、焦した、或は褐色にした豆の粉〔きなこ?〕と、小量の砂糖とをふりかけて食うとうまい。これは普通に行われる食い方である。図492は餅を供える一つの方法を示す。それは小さな竹製の机或は台で、下の棚には大な塊が二つあり、その周囲を稲の藁の環、常緑葉、条片に切った白紙、若干の羊歯しだの葉が取りまいている。

この季節(一月)、東京中の人が皆紙鳶たこを持っている。そして風の具合がいいので、空は大きさ、形、色の異る紙鳶で、文字通り充満している。そのある物は非常に大きいので、揚げるのに小型な繩を必要とする。又あるものには、色あざやかに、大きな竜が描いてある。これ等は時に八フィート四方もあり、手鼓に似た目玉が円い縁辺の中にかけてある。目玉の一面は黒く、反対面には銀紙がはってあるので、風がそれを回転させると、この怪物はまばたきしているように見える。私は、醜悪な外貌をした紙鳶が突然下りて来たので、その附近にいた鶏が、この上もなく気違じみた容子で飛び散るのを見た。紙鳶のある物は、長い袖を風にハタハタさせる子供の形、ある物は両翼を張った烏、また百足むかで、扇その他の面白い形をしている。紙鳶はこわれやすそうに見えるが、非常な力で地面にぶつかり、そして引き摺られても、破れたりしない。骨組は軽い竹の細長片で出来ていて、骨組の横の骨の両端から張った糸に依って、僅か後にそっている。これに、あの日本特有の強靭な紙を、太鼓の面皮を張るように張るので、前面は凸円形である。紙鳶はあらゆる方法であがる。長い尾を持たぬものも、下の隅から極めて長い尾を二本ぶら下げたものと同様に、空中で安定を保っている。これ等の二本の長い尾が、並行して垂れ下るところは誠に美しい。そして紙鳶が前後に揺れると、尾の優美な屈曲は、完全な一致を以て全長にわたる。ある紙鳶は力強く前後に動き、他のものは強風を受けて、頭の真上に上り、そして糸が殆ど垂直であるように出来ている。
男の子達は、単に紙鳶をあげてよろこぶばかりでなく、屡々紙鳶を戦わせるが、これは私が見た、彼等が仲間同志で戦う唯一の方法であることをつけ加えよう。紙鳶屋で、紙鳶の糸に取りつける、簡単な木製の装置を売っているが、この装置の深い刻み目に、図493に示す如く、鋭い刃がついている。紙鳶をあやつることによって、その糸を相手の糸の上に持って来ることが出来る。そして、それを引きよせている内に、糸は刻み目にすべり込んで切断される。異る街区の子供達は、お互に姿を見せずに、このような競争をする。男の子が自分の紙鳶を、殆ど直角に、その横に揚っている紙鳶まで近づける巧妙な方法を見ることは、私にとっては初めてであった。紙鳶には屡々、竹の弓でピンと張った、薄い鯨骨の平紐でつくった「歌い手」が取りつけられる。これは紙鳶の頭にしっかりとつけるが、風が鯨骨の平紐を震動させると、平削機、又は製材所を思わせるような、大きな、ブンブンいう音が出る。物を書いている時、千フィートも離れた所にいる子供があげる紙鳶が、自分の家の真上にあり、そして間断なくブンブン唸り声を立てると、時として大いにうるさい。このエオリアン風奏琴ハープに似た装置以外に、弓に似た竹片に単に一本の糸を張り渡し、それに短く切った紙をつけた物も見た。これ等は風に当って非常に速くはためく結果、鯨骨(時としては竹)製の平紐とは異る、一種奇妙な唸り声を立てる。図494は紙鳶の頭にとりつける、音楽的仕掛の写生である。

三十一日ある月と、三十日或はそれ以下の日数の月とを指示する、奇妙な工夫を、図495で示す。これは褐色にこがした不規則形な木片で、文字は白く書いてある。第一の行の先端には「小」さいことを示す字があり、二、四、六、九、十一なる数がそれに従う。これ等の月には三十日、或はそれ以下の日数しかない。三十一日ある日を並べた第二行には「大」を意味する漢字が先頭に立っている。底についている菌きのこは熱によって僅かに褐色にした紙で出来、本物そっくりで、市場で見受けるような、小さな藁製の物に入っている。私の娘はこれに一セント半払った。

先日我々は、弁当持ちで昼の十二時劇場へ行き、夜の十一時半までそこを去らなかった。俳優、舞台面、音楽、観客が、絶えず注意を引きつけ、十分か十五分かの休憩時間に、二畳敷きの区画に納った人々は家族の集合をたのしみ、劇場外の茶店の召使いは美味そうに見える弁当をはこび込む。隠蔽された合奏隊には、非常に高度の違う太鼓が二つあった。その一つは普通の太鼓に似ている所があったが、他の一つは、突然息がつまった人のような音を立てた。
舞台上の距離の幻想は、建物や舞台の側面を、誇張した遠近法に於るが如く、背後に向って狭くすることに依って、巧に成就してあった。舞台の奥行は五十フィート以下であるが、この方法によって十倍もあるように見えた。ある場面では一人のローニンが、残念そうに悲しい言葉をいい、手をふりながら、彼の屋敷の門を離れつつある。突然門が遠くの方にあるように見え、更にまた遠のくらしく思われる。まるで彼が速に門から離れて行くような気がするが、これは大きな門を描いた薄い板が前に倒れて、それと全く同じに描いた、より小さい門を現し、これがまた倒れて、もっと小さい門を現すことに依て起るのである。日本の古典劇は、人に宮廷衣装の観念と、或は僅かであるかも知れぬが、宮廷に於る礼義と式典との観念を与える。図496は俳優の一人の各種の態度を、急いで写生したもので、古い習慣を説明するものとして興味がある。両刀を帯した高官が、歩くにつれて足の下をズルズル引きずる、四フィート長すぎる下〔垂直的に〕着を着て舞台を歩く所は、中々風変りである。

幕が下ると、美しいよそおいをした子供達が観客席を離れて舞台へかけつけ、幕の両側から入り込んで、道具方が新しい場面を建てつつあるのを見つめることは、興味が深かった。幕を上げる合図として、拍子木が叩き合わされると、子供達は群り出て、観客席中の各自の場所へといそぐ。日本の男の子や女の子が、一般的に行儀のいいことを示す、これ以上の実証があろうか。勿論米国の舞台へ、子供達がこのように侵入することは、一秒間でも許されはしない。だが、同時に、若し我国の可愛らしい子供に、幕の後へ入ることを許したら、即座に釘をこぼし、ペンキをひっくり返し、その他ありとあらゆる悪事を働くにきまっている。日本では、子供達はどこへでも行き、何でも見ることを許されている。その権利を決して悪用しないらしく見えるからである*。
* これ等の子供達が、台湾、支那、ロシアに対する戦争に於て、勇敢な兵士になったことは、礼譲、やさしさ、行儀のよさが、戦場に於る完全なる勇気や耐久力と無関係ではないことを示している。
十二月上旬、東京市の各消防隊が集って、検閲を受けた。火事の半鐘が鳴り、消防隊は大きな広辻に集り、そこであらゆる種類の軽業かるわざを行う。彼等は梯子はしごを登り、競争をやり、その他の芸当をやり、非常に巧みに見えるが、実際の職務に当っては、勇敢なことはこの上なしであるが、外国人には、非常に能率的であるとは思われない。だが、彼等の問題は、我国の消防夫のとは非常に相違しているのだから、審判を与えることは公平ではない。日本の消防夫は、大火の道筋に当る建物を引き倒し、それを行いつつある者に水をあびせかけ、而もそれ等すべてを極めて急速に行うことを命ぜられている。
今年の冬、時々雪嵐があったが、人力車夫は一向雪を気にしないらしく、素足でその中をかけ廻り、立っている時には湯気が彼等のむき出しの足から立ち昇って見える。不思議なことだが、家屋も、夏に於ると同様、あけっぱなしであるらしい。子供達も夏と同様に脚をむき出し、寒さを気にかけず、雪の中で遊んでいる。雪嵐の後では人々が、鋤すきや板や奇妙な形の木製の鋤を持って現れ、それぞれの店や家の前の道路全面の雪をかき、その雪は道路の横を流れ、通常板で蓋のしてある溝の中へ入れる。図497は一枚の板の末端に繩の輪をつけて取手とした一時的の雪鋤である。雪は湿気を含んでいるので、子供は米国の子供がするのと同じ様に、それをまるめて大きな玉をつくり、また次のようにして大きな玉をつくる競争をする。小さな棒二本を、糸の末端で十文字に結び合わせ、これを湿った雪の中で前後に振り、雪がそれ自身の重さで落ちる迄に、どれ程沢山集め得るかをやって見るのである。

梯子の構造は興味がある。両側は丈夫な竹で、この竹は中央から両端へかけて外側へ開き、かくて立つ場合、土台になる部分はより広く、上には張開はりひらきがある(図498)。この方法で梯子は非常に力強くされている。桟さんは支柱に、しっかり縛りつけてある。我々の梯子は両側の部分に穴をあけるから、自然弱いものになる。

先日大森の貝墟へ行った時、私は人間の脛骨の大きな破片を発見した。これはプロカの板状脛骨に於て指示された如く、六〇の指数を以て側面に平べったくなっていた。現在の日本人の脛骨の指数は、我々のと同じく七六である。これによって、堆積物が、かなり古いことが知られる。
私の学生の一人が私に、以前には若し人がお城の堀に落ちて溺死すると、その死体を引き上げることは禁じてあった。それは、秘密にしてある水の深さが判る懼おそれがあるからだと話して聞かせた。このことは、確めはしなかったが、本当かも知れない。もっとも私は疑を持っている。
ここ数週間私は、昼飯を研究室で日本風に食っている。一度ためして見た所が、この昼飯は中々上等で、私はそれを蛇や虫や頭蓋骨が積み上げてある、大きな机の一隅で食わねばならぬのだが、私の食慾は一向周囲の状況に影響されない。木製のバケツには煮た米が入り(図499)、木製のシャベルは、それをしゃくい出すのに使う。またやわらかくて美味な、焙った魚――真鰺まあじ――の大きな切身と、塩漬にした薑しょうがと大根との薄片、及び何かの青い葉の束とを入れた、別の皿がついている。箸の使用法を覚え込んだ私は、それを、およそ人間が思いついた最も簡単で且つ経済的な仕掛けとして、全世界に吹聴する。

この季節(一月)に見受ける、矮生の梅の木には驚かされる。招待されて庭園へ行くと、いろいろな大きさの植木鉢の中に、枯死した株と思われる、蕾も芽も、けはいだに見せぬ、黒色の木塊がある。数週間後、再びその庭を訪れると、これ等の黒い株から、最も美しい花をつけ、緑の葉はまるで無い、長くてすんなりした枝が出ている。かかる、何ともいえず美しい色をした花と、それを生じる、黒くて見受ける所枯れた株との対照を見る人は、このような奇観をつくり出し得る庭園師の技巧に、吃驚びっくりせざるを得ない。図500に示すものは、樹齢四十年である。これは、このように生長するべく、訓練されている。あたたかい場所にかこっておくので、戸外に於る木よりも、余程早く花が咲く。松の木もまた図501のように、太い松の木から葉を出すように仕立てられるが、普通の矮正樹は、高さ三フィートの、百年にもなる本当の松で、枝でも何でもある。

二月二十八日。梅の真盛りである。この花は普通濃い桃色か薔薇ばら色で、いい香をはなつ。行商人は売物の梅の小枝や枝を持って、家から家を歩き廻る。
人が如何に徐々に、そして無意識に、日本の芸術手芸品に見出される古怪な点、変畸な点を鑑賞するようになるかは、不思議である。勿論芸術家は即座にその美を見わけるし、また誰でも刀剣の鍔つばその他の美しい細工には、感心せずにはいられない。然し、一例として、日本人の陶器をあげると、それには写生風の模様がついていて、形は不規則で態々わざわざへこませたりし、西洋人が見慣れている陶器とはまるで違うので、一体そのどこに感心してよいのやら、人には見当もつかない。だが彼をして、蒐集を開始せしめよ。若し彼が生れつきの蒐集家ならば、彼は必ず茶入その他の陶器の形態に、夢中になるであろう。私は小さな蒐集を始め、最近二つの品をそれに加えた(図502・503)。一つは醤油入れである。これは織部の赤津で、もう一つのは薩摩の土瓶である。二つともすくなくとも百五十年前のもの、或はもっと古いかも知れない。これ等を取扱っていると、実に気持がよく、そしてこのような宝物を、最も簡単な小骨董こっとう店で見出す面白さは、蒐集家の精神を持つ者のみが真に味い得るところである。骨董蒐集家にとって、日本は本当の天国である。彼はどこへ行っても、フルイ、ドーグヤ〔古道具屋〕と呼ばれる古物商の店に、陶器、金属及漆塗の細工、籠、刀剣、刀剣具その他あらゆる種類の古物が並べてあるのを見る。人力車で過ぎる、最も小さな村にさえ、古い物を僅か集めた、この種の店は見受けられる。我国の古物商が、古い家具、古い本、古い衣類等に限って売り、骨董品を含む店は、大都市中の若干にしか無いという事実を、思い浮べぬ訳に行かない。加之のみならず、日本の店にある品は、僅かな例外――支那及び朝鮮から来たもの――を除いては、国産品であるが、米国にある品は、必ず欧洲かアジアから来たもので、例えばオランダのデルフト〔十四世紀の当初オランダのデルフトで創製された陶器〕、イタリーのマジョリカ〔十六世紀頃イタリー人がスペイン領マヨリカ島から持ち帰った陶器〕、ドイツの鉄細工といった具合である。我々自身の国で出来たものに、保存しておく価値を持つ品が見当らぬというのは、意味の深い事実である*。

* もっとも最近三十年間に於て、国内の芸術、工芸運動、並に多数の窯が、芸術的の陶器を産出しつつあるから、将来の骨董店は「米国製」の芸術品を持つようになるであろう。
最近私は有名な好古者、蜷川式胤ニナガワノリタニと知合いになり、彼を自宅に訪問した。彼は日本に於る各種の陶器に関する書物を著している。この本には、石版刷の説明図が入っている。それ等は、どちらかというと粗末で、手で彩色したものだが、而も同じ問題に関するフランスや英国の刊行物に入っている、最も完全な着色石版画よりも、はるかによく陶器の特質をあらわしている。同書の初めの五部に描出してある品は、私が日本へ来る前、ある欧洲人へ売られて了ったのであるが、私はすでに描出された物に似た、代表的な品を手に入れんとしつつあり、蜷川はそれ等を私のために鑑定することになっている。若し私が、彼が記述し且つ描出したのと同じ種類の陶器を手に入れ得れば、蜷川の本に出て来る画の本体である、もとの蒐集に、殆ど劣らぬものが出来る。
蜷川を通じて、私は蒐集家及び蒐集に関する、面白い話を沢山聞いた。日本人が数百年間にわたって、蒐集と蒐集熱とを持っていたのは興味がある。彼は、日本人は外国人ほど専門的の蒐集をしないといったが、私の見聞から判断しても、日本人は外国人に比して系統的、科学的でなく、一般に事物の時代と場所とに就て、好奇心も持たず、また正確を重んじない。蜷川の友人達には、陶器、磁器、貨幣、刀剣、カケモノ(絵)、錦襴きんらんの切、石器、屋根瓦等を、それぞれ蒐集している者がある。錦襴の蒐集は、三インチか四インチ位の四角い切を、郵便切手みたいに帳面にはりつけるのである。彼は四、五百年になるのを見たことがある。有名な人々の衣から取った小片は、非常に尊ばれる。瓦は極めて興味のある品だとされ、彼は千年前の屋根瓦を見た。彼は、甲冑を集めている人は知らなかった。貝殻、珊瑚さんご、及びそれに類した物を集める人も僅かある。上述した色々な物すべてに関する本は、沢山ある。有名な植物学者伊藤博士に就ては、この日記の最初の方に書いたが、彼は植物の大きな蒐集を持っている。
図504は、あたたかい冬着を着た上流家庭の少女である。幼少時から老齢に到る迄、頭髪を結ぶ方法は、外国人にとっては興味と驚異との源泉である。小さな子供が、彼女のこみ入った髷まげを、如何にして一時間(三日間とはいうに及ばず)もそのままにして置けるかは、我々にはまるで見当もつかぬ。各様の髷を写生する機会が来た。T夫人、彼の令嬢、並に小さなI嬢が、私の家族を訪問し、彼等は大人しく私に髷を写生させてくれたが、それはこの訪問のために、特に結髪したもので、従って最も完全な状態にあった。これ等の型のそれぞれには、二十乃至三十のやり方があるので、我々としては何等の相違も気付かぬだろうが、日本人はすぐそれに注意する。若い婦人達が出会って、最初にするのは、これ等の各種の型を話し合うことだという。このような優雅な弓形や結目をつくるには、どうしても結髪師をやとうことが必要になる。そこで女の調髪師が家々を廻ってその仕事をするが、報酬は安い。田舎の人達は自分で結ったり、お互に結い合ったりする。結髪には植物蝋の調製物が使用され、適宜に出来上った髪は、実に艶々つやつやしている。弓形の上品な輪に、きちんと形を取らせておく為には、固い黒縮緬ちりめんでつくった一種のかたを使用する。図505と図506とは、K夫人の横と後とである。後を向いた方では、髪が鋭い竜骨をなしているが、これは鯨鬚くじらのひげ又は鉄製の挾はさみでその位置に保たれる。図507はT夫人で、前から持って来た細い辮髪べんぱつには、漆の櫛が横にさしてある。図508は図507の背面で、弓形をつらぬいている、末端の四角な品は、多分硬玉と思われる石で、これは支那風を真似まねたのである。図509はT夫人の令嬢。図510・511はI嬢で、年は十二位。花簪かんざしを示し、環の内側には赤い縮緬をくっつける。これはこの年頃の少女には、非常に一般的な髷である。街頭では、最も貧弱な衣服をつけた少女の髷が、実に美しく出来ているのを見受ける。四つか五つの小さな子にあってさえも、屡々衣服(ボロボロなことさえある)よりも頭髪の方に、より多くの注意が払ってあることを示している。乱れ髪はめったに見ぬ。これ等各様の髷の形式で、日本人は階級の相違を認める。下女(図512)、田舎の娘、若い貴婦人、非常に「けばけばしい」とされるある形式、最後に極めて最上の階級と皇室といった具合であるが、一方、絵画や舞台では、全然変った形が見られる。

私は植字室がどんな具合になっているかを見る目的で、日本語の新聞社を訪問した。印刷物を組み立てるのに使用する、文字の数を知っている私は、定めて大きな部屋で植字するものと思っていたので、三十フィート四方に足らぬ部屋を見て吃驚した。この新聞社が所有する漢字の数は、千を以て数える程である。普通新聞に使用する漢字の数は千二、三百であり、稀に使用するものが数百。これ以外に四十八の発音記号よりなる日本のアルファベットの活字があり、これ等は屡々漢字の横に日本語を綴り出して組み、読者が漢字の意味を知らぬ場合にそなえる。
図513は日本の新聞の一部で、日本のアルファベットの使用法を示している。読者は縦に並んだ漢字の活字の横に、簡単な字が添うているのに気づくであろう。活字箱は我国の印刷屋のそれとは違い、長さ二フィート、高さ八インチで、縦の仕切でわけてある。それぞれの箱に仕切が六十六あり、仕切の間の場所の幅は即ち活字の幅である。活字はこの仕切に、字面を上に向けて入れてあるから、植字工は一見して彼の欲する活字を知る。ここで漢字の説明をする必要があるが、この問題を了解するには支那語〔漢字〕研究家に問い合せねばならぬ。だが、漢字は構成的で、即ちそれには、それをある程度に分類する所の語根字がある、ということはいえる。かくて金銭に関係のある、例えば買うとか売るとか借とか貸とか値切るとかいう字には、金銭の語根字が入っており、感情に関係のある、例えば激情とか憎みとかいう字には、心の語根字があるといった具合で、漢字はその語根字によって、これ等の仕切に入れられる。植字工が左手に「ステッキ」〔植字架〕と原稿とを持ち、右手で所要の字をひろいながら、部屋の隅から隅まで走り廻っている所は、中々奇妙である。我国の印刷所で、職工がすべての字と、若干の数字と、句読点とを入れた活字箱を前に、立ったままでその場を離れないのとは、大違いである。ここでは八人の日本植字工が、適当な活字を求めて、部屋の中を前後に走りっこをしている。彼等は濃い紺の服装をしているので、部屋の外見は人をして、黒い蟻が絶間なくお互同志とすれちがっている、蟻塚を思わせた。図514は植字室で、活字箱の配列を示しているが、人間はこの図に出ている者よりも、遙かに多数いた。図515は活字を組みつつある植字工である。解版工(図516)は机に向って坐り、鑷子ピンセットを用いて同種類の活字を拾い出し、それ等を沢山ある箱の中の一つの、適当な場所へ返す。

図517は日刊絵入新聞の切りぬきである。この絵は実に生気に充ちている。この新聞の購読料は一ヶ月二十セントである。図518は何かの本のある頁の校正で、植字工は原稿に判らない漢字があると、漢字をひっくり返すから、それの底の方が印刷され、校正者は赤い筆で欄外に適当な漢字を書く。字は最初ベッタリ植字し、後から余白を入れる。日本語の原稿で、字を消し、後からそれを残しておいた方がいいと判ると、「生きている」ことを意味する「イキ」という字をカタカナで書く。印刷場で、我国に於ると同様に「生き」たり「死んだ」り〔解版すべき組版を dead form といったりする〕したという言葉を使用するのは、不思議である。

印刷術の、このこみ入った制度を見ると、日本は結局発音制度を樹立しなくてはならぬことが知られる。かくしてのみ、日本は現代式の植字機械を使用することが出来る。漢字を用いる言語は、日本人には重荷である。若しこの場合、彼等すべてが英語を解し得るならば、それは彼等が我々の方面に向って進歩することを、非常に助けるであろう。英語を書くことを学んでいる者は、英語の方を日本語よりも佳しとする。彼等はすべて、英語の方が、より正確だといい、英語を教える、大学の予備校へ行っている少年達は、その方が容易な為に、好んでお互同志英語の手紙を書く。私の、可愛らしい少年の友人は、必ず彼の弟に英語で手紙を書き、その弟は十三歳だが英語を学び、同時に、ドイツ語で教授が行われる医学校へ入るために、外国語の学校でドイツ語を習っている。彼は日曜ごとに私の家へ来るが、すでに上手に英語を話す。
三井の有名な絹店は、それが市内最大の呉服屋で、そして素晴しい商あきないをやっているのだから、見に行く価値は充分ある。勘定台も席もない大きな店を見ると、奇妙である。番頭や売子は例の通り藁の畳の上に坐る。お客様も同様である。道路から入ると、お客様は履物をぬいで、一段高まった床に上り、履物はあとへ残しておく。そこで一杯のお茶を盆に乗せて、誰にでも出す。買物をしてもしなくても、同様である。図519によってこの店の外観が、朧気おぼろげながら判るだろう。右手は道路、左手にいる番頭達は、必要に応じて、品物を取り出す巨大な防火建築に、出入出来る。店員はすべて純日本風の頭をしている。恐らく販売方と出納方との間に金の取次をするらしい小さな子供達は、その辺を走り廻り、時々奇妙な、長く引張った叫声をあげた。店員が彼等のすべての動作に示す、極度ののろさと真面目まじめさと丁重さとは、我国の同様な場所に於る混雑と活動とに対して、不思議な対照をなした。店の向うの端には、銅製の風雅な装置があった。これは湯沸わかし、換言すれば茶を熱する物である。一人の男が絶えずそれにつき添って茶をつくり、それを小さな茶碗に注ぎ込み、少年たちはお盆を持って、お茶を観客にくばる為にそこへ来た(図520)。炭火を入れた火鉢は、男女の喫煙家のために――もっともお客は概して女である――都合よく配置されてある。ここは実に興味のある場所だった。頭上の太い梁や、その他の木部は、すべて自然その儘の木材で出来ていた。色あざやかな絹、錦襴、縮緬、並に美しい着物を着た婦人達や、花簪をさした子供達が、この場面の美を大きに増していた。私のこの店の写生図には、もっともっと多くの人がいなくてはならぬのだが、こみ入った絵をかいている時間がなかった。

殆ど第一に人の目を引く物は、天井から下った、並々ならず大きく、そして美しい、神道の社の形につくった祠である。どの家にも、どの店にも、このようにして露出した、何等かの祠があり、住んでいる人は朝その前で祈祷をする。夜になると一個、あるいは数個の燈明を、祠の内に置く。ある大きな店にこの聖殿がぶら下っており、そして店主や店員がすべて、お客がいるといないとにかかわらず、朝その前で祈祷しているのを見た時は、不思議に感じた。私は我国の大きな店に宗教的の祠があり、そして店主達が日本と同じようにそれを信心するというようなことは、想像だに出来ぬ。

図522は、最新流行の髷である。私の娘が髪の編んであることに注意したが、これは日本の調髪には、全く新しいことなのである。これは外国人、殊に子供が、長い編髪を後に垂らしているのを真似たのである。この顔は私が写生した美しい婦人にはまるで似ていない。私は、彼等としては顔の写生をされることがいやだろうと思う。いずれにいせよ、私は決してそんなことはせず、目鼻をあとから書き入れる。

東京市の消防夫の多くは、建築師や大工で、火を消すと彼等は、手助をした者の名――消防隊のなり、個人のなり――をはり出し、そこで建物の持主に向って、贈物やあるいは家を建てる機会を請求する。図523は火事に焼けた家で、竹竿から札が下った所を示す。

非常に数の多い骨董品店で、人は屡々漆器、象嵌ぞうがん、籠細工、その他にまざって、色あせた錦の袋に入った、陶器の壺(図524)があるのに気がつく(図525)。壺には象牙の蓋があり、そして形も外観も、極めて平凡であることが多い。これ等が陶器中最も古いものの一種であることを知らぬ人は、その値段の高さに呆れる。これはチャイレと呼ばれ、喫茶のある形式に使用する粉茶を入れるべくつくられたものである。それを納めた箱(図526)の蓋には、品名と陶工の名とが書いてある。比較的新しく、安価なものも多い。普通な種類に親みを感じ始めるのにさえも、多少の時間を要するが、研究すればする程、茶入の外観は魅力を増して行く。

日本人は非常に多くの種類に紐を結ぶことに依って、彼等の芸術的技能を示す。その結びようの各々に、名がついている。これ等は贈物、袋、巻物、衣服を結んだり、その他の目的に使用される。粉茶を入れる小さな陶器の壺は、錦の袋に入っている。私はその袋の口を結ぶ結び方を覚え込み、茶入を袋に返してから、注意深く適当に紐を結んでは、いつでも商人の興味と同情とを呼び起した。私はかかる簡単な礼儀を守ることによって、陶器商間に於る私の好機を、大いに高めた。
先晩我々は、政府のために蝦夷の地質測量をしたドクタア・ベンジャミン・スミス・ライマンに、正餐に呼ばれた。彼は美しい衝立ついたてや、青銅細工や、磁器や、その他が充満した、日本家に住んでいる。お客様も数名あり、我々は六人のコト(即ち琴ハープ)演奏者と、一人のビワ演奏者とによってもてなされた。琵琶は現在では殆ど見られず、優れた演奏者は日本中に二、三人しか残っていない。この晩来たのは、最も優秀な者の一人である。図527はこの演奏者を写生したもので、彼は盲人であった。彼は幅の広い象牙の撥ばちで糸を打つ。三味線を引く者も同様な仕掛を使用するが、これ程幅が広くはない。琴を演奏する者は男女六人で、図528のようにならんだが、三人は盲目であった。彼等の音楽は極めて興味深く、また気持よかったが、何と説明してよいか判らず、とにかく一種の奇妙な旋律を以て、一同調子を合わせて奏楽するが、途切れることも停止することも無いのである。図529は、三人が合奏している所である。指には拡大した爪みたいな、角製の物をつけていた。ここに描写した各種の楽器は、もともと支那のもので、朝鮮を経て渡来したのである。舞踊をする子供の一群は、数ヶ月前、ある料亭で見たことがある。で、我々が食事を終えて別室へ入ると、彼等は驚き、またよろこんだらしく、我々のところへ駈けつけ、我々もまた彼等に逢って悦しく思った。彼等の年齢は三歳、四歳、五歳、六歳であった。従者が二人いた。図530は彼等である。三味線演奏者は図531で示してある。

オビと長い袂とのある男の子の着物は、女の子の着物に似ていて、性を見別けるのには、いくらか時間がかかる。もっとも頭髪を見れば即座に区別出来ることは、いう迄もない。ハカマは割れたスカートの一種で、後方に短い、切目のない燕尾服の尾をさかさまにつけたような、固い附属物がありその両端から出た紐を前方で結ぶ。これはサムライの階級だけが着用することを許可されたのであるが、面白いことに、女学生も、サムライの娘であれば袴をはき得るので、時々学校へはいて行くが、そうなると、彼等を男の子と区別することが、容易でなくなる。袴はあらゆる点で、典雅で、また身につけやすい衣類である。図532は袴をはいた十四歳の男の子を示す。

先夜私は、三マイル近くを、走ったり歩いたりして、東京の西郊に起った火事場まで行った。現場へ着いた時には、恰度ちょうど最後の家に火がうつり、燃え上った、これは誠に目覚しく、且つ光輝に充ちた光景だった。火事は厚い麦藁葺屋根を持つ、大きな家屋の一列を焼き、折からの烈風で、葺屋根の大きな塊が、いくつもいくつも、黄金の糸の雲の如く空中を漂い、最後に屋根が飛び去る火華の驟雨の中に墜ちた時、それは黄金の吹雪みたいであった。一度火が内側へ入り込むと、如何に早く家がメラメラと燃え上るかは、驚くの外はなかった。私は又しても消防夫達の勇敢さと、耐熱力とを目撃した。ある建物から、すくなくとも三百フィート離れた所にいてさえも、熱は、指の間から火事を見ねばならぬ程激しかったが、而も消防夫達は火焔を去る十フィート以内の所におり、衣類に火がついて焔となるに及んで初めて退去したが、かかる状態にも水流が彼等に向けて放射される迄は、気がつかぬらしかった。火事場へ向った時、暗い町を走りながら、一人の男に火事はどこだと聞くと、私の日本語がすぐ判り、彼は「スコシマテ」と答えた。で、彼と一緒に走って、警察署まで来ると、そこの外側には火事の場所と、燃えつつある物とを書いた報知が出ていたが、これは警鐘が鳴ってから、十分か十五分しか立たぬ時のことなのである。私は同じ報知が、我々が通りすぎた他の警察署にも出ているのに気がついた。勿論私には、それを読むことは出来なかったが、こまかいことを、一緒になった男が話してくれた。翌日、そのことに就て質ねると、出来る丈早く、火事の位置と性質とを書いた告知書を、すべての警察の掲示板にはり出すのが、習慣であるとのことであった。
市の労働者が、道路を修繕しているのはよく見受けるが、それは道路を三分した、中央の部分だけに就て行われる。調べて見ると、市の当局は道路の中央三分一だけの世話をし、両側の地主たちが残りの三分の一ずつを注意するのだということが判った。同様にして、我々は側道を清掃する義務を持っている。米国人が屡々雪を取り去ることを怠るのに比較して、この仕事がすべての人によって、如何に正直に行われつつあるかは、驚嘆すべきである。
今朝(四月八日)五時、半鐘が鳴った。恰も疾風の最中だったので、私は即座に衣服を着、二マイル走って火事場へかけつけたが、消防夫の奮闘を見るには、遅すぎた。然しながら、見て興味のあるものはあった。大火の範囲は、それが如何に速にひろがったかを見せていたし、また一部焼けた建物を見ると、消防夫の仕事が、外国人が考える程詰らぬものではないことが知られた。すくなくとも疾風中で火事の蔓延を喰いとめるには、偉大な努力と巧みさとを必要とするであろう。日本の家は火事が起ると共に、非常に速くひろがる程、かよわく出来ているので、消防夫の主要な仕事は、一般市民の助力をかりて、家屋からはぎ取ることの出来る物――襖ふすま、畳、薄い杉板で出来ている天井等――を、すべて取って了うことである。家屋の唯一の耐火被覆物である厚い屋根瓦を、シャベルで落しているのを見ると、如何にも莫迦ばかげているが、これは屋根板をめくり取るのを容易にする為で、かくすると※(「木+垂」、第3水準1-85-77)たるきから※(「木+垂」、第3水準1-85-77)へ火が飛びうつらぬことが観察される。この問題は、研究するに従って、消防夫の仕事に対する第一印象が誤っていたことが判って来、そして彼の手際に対する尊敬が増加する。私は初めて、警察部に所属する、消防機関の新しい型を見た。二輪車にとりつけてあって、機関の上に蛇管が巻きつけてある。これは水を吸い上げ、相当な水流を発射する。機関は車から取外し、六人か七人かがそれを扱う。これは最近、外国の型から採ったものである。図533はその一台が火事場へ向う所であるが、消防夫達は町々を走りながら、猫のような叫び声を出す。図534は建物を立った儘で救った、機関隊の名を出している消防夫である。

この火事があってから間もなく、又別の火事が起り、風が強かったので、私はそれへ向って走った。私はまた写生をしようとしたが、動く群衆がお互同志を押し合い又私をも押したり、その他の邪魔が入ったりしたので、至って貧弱な絵が出来て了った(図535)。かかる災難にあった人々が彼等の不運に直面して示す静かな態度は、興味深く感じられた。気持がよく、微笑していない顔は、一つも見られない。劇場では泣く女の人達が、大火事で住宅が完全にぶちこわされたのに、このように泰然としているのは、不思議である。持ち出した家財と共に、彼等は襖や箪笥たんすや畳を立てて一種の壁をつくり、その内に家族が集り、火鉢には火があり、お茶のために湯をわかし、小さな篝火かがりびで魚を焼いたり、僅かな汁をつくったりし、冬以外には寒くない戸外で、彼等は平素通り幸福そうに見える。
第十六章 長崎と鹿児島とへ
ここしばらくの間、私は南方への旅行に持って行く、曳網や壺やその他の品を、まとめつつあった。大学は私に、夏休になる前に出発することを許し、またこの旅行の費用を全部払ってくれる。我々は鹿児島湾、長崎、神戸で網を曳くことになっているが、その地方の動物は半熱帯的であるから、大学博物館の為に、いろいろ新しい材料を集めることが出来るであろう。一八七九年〔明治十二年〕五月九日、我々は神戸に向けて横浜を出帆した。荒海を、向い風を受けて航行した辛さは、記録に残さずともよかろう。この航海を通じて陸地が見えたのであるが、私はあまり陸を見なかった。水曜日の夜出帆して、神戸には金曜日の午後三時に着いた。階梯はしごが下されるや否や、私ははしけに乗りうつり、上陸するとホテルへかけつけて食事をし、その後町を散歩した。この町は背後に高い丘をひかえ、街路はどちらかというと狭く、店舗は東京のと全く同じである。女の髷は、北方のとは多少違っているらしく思われたが、どんな風に結んであったかは覚えていず、また写生をするには余りに疲れていた。子供達は確かに東京のよりも可愛らしく、顔立ちはより上品で、顔色の橄欖オリーヴ色も、より明澄であった。彼等はすべて頭髪を最もキッパリした形で垂前髪まえだれがみに切っているが、これは古い日本の風習で、外国人の真似をしたのではないのである。人力車は東京のよりもいささか不細工に見え、車夫はより肥え、男前がいいように思われた。提灯は北方に於るが如く手に持たず、梶棒の末端にぶら下げる。乞食も数名いたが、しつっこくは無く、穏和な種類とでもいう可きであろう。街頭を行く荷馬車には、頑丈な車輪が二つあり、長い繩で引張るのだが、後に一人、あるいは二人の男がいて、積荷の平衡をとる。横浜では荷を引くのに、勢よく唸ったり、歌ったりするが、ここではそんなことは無い。牡牛車は変な形の代物である。三輪で、その一つは前方に、二つは後方にあり、牡牛の背負っている鞍へ梶棒をくくりつける。三百マイル離れた丈で、風俗、習慣に、こんな相違があるのは不思議に思われる。
私は人力車の後を走って、成人した女の髷を写生した。弓形は東京のよりも遙かに小さくて、ペチャンと頭にくっついている(図536)。子供の髷は、東京のとはハッキリ違っている。図537は、八歳乃至十歳の少女の髷を示している。これ等は往来を歩きながら急いで写生したのであるが、人々は絶間なく凝視し、こっちが写生している物は、往来遙か遠方にあるので無く、彼等自身だということを発見すると、急いで逃げて了うから、これは中々容易ではない。

神戸のホテルは海に近く立っているので、私の部屋の窓から、積荷を下している日本の戎克ジャンクを写生する事が出来た(図538)。日本人は今や外国型の船舶を建造しつつあるから、このような船は、すぐに姿を消すことであろう。ホテルから十五分間歩いた所には、美しい渓流が流れている渓谷がある。ここはホワイト・マウンテンス中のある箇所を思わせた。この景色を写生することは出来なかったが、私に印象を与えたのは、実に渋い鄙ひなびた橋や、断崖の端に立つ魅力に富んだ小さな茶店や、お茶召せと招く派手な着物を着た娘達やである。

一行は、私の助手種田氏、召使い、矢田部教授の召使いである富とから成っていた。富は植物を採集し、それを手奇麗に圧するのが実に上手である。私の召使いも貝の採集は同様にうまく、種田氏は万事万般に気をくばり、善き採集家であると同様に通訳家、飜訳家として働く。滝からの帰途、我々はいくつかの貝を集めたが、その中のカヤノミガイの「種」は、日本では初めてで、フィリピンの「種」を思わせた。暗い町――最も貧しい地域である――を通って神戸に入る時、我々は家の列の前を過ぎた。これ等の暗いあばらやの薄闇を通して、私はその背後に日のあたる庭のあるのを見ることが出来、最も貧しい階級にあっても、このようなことに対する趣味が一般的であることを知った。
この日の午後、我々は長崎へ向う汽船に乗った。私は甲板から神戸と、背後の丘とを、急いで写生した(図539)。これ等の丘は九百フィートを越えぬといわれるが、汽船の船長はもっと高いと思うといった。航海はまことによかったが、瀬戸内海を通るのは夜になった。ここは世界で最も美しい航路の一とされている。夜甲板へ出て見たら、汽船は多数の漁船の傍を通っていた。漁夫たちは、我国の漁夫がブリキの笛を吹くように、貝殻の笛を吹き、燈火が無いので彼等は鉋屑かんなくずを燃したが、それは海面のあちらこちらで、気まぐれに輝くのであった。闇は測知し得ず、笛を吹き鳴らすことと、火光を閃めかすこととは、汽船が漁船と並行する迄続けられ、そこで一つ一つ、火は消え、騒ぎがやむ。かくの如くにして前面には、ここかしこに、この沢山の笛の奇妙な騒音と、燃え上る火とがあり、後方には音も聞えねば、火も見えぬ。まるで、汽船がそれ等を呑み込んで了ったかの如くであった。我々の汽船が外輪の音をはるか遠くに立て、衝突の危険を刻々近づけながら、近づいて来ることは、漁夫達にとっては大きに危懼すべきことであらねばならぬ。汽笛を鳴らし、外輪をバジャバジャいわせ、湯気や煙を出し燈火を輝かして汽船は勢よく過ぎて行く。船首からは巨大な波が梯陣をなして進軍して来る。そして、このような大きな怪物と衝突することの惨めな結果を考えると、船が横を通過するという事実だけでも、これは充分驚愕に値する経験である。

翌朝は豪雨で、あらゆる物がぼやけて見えた。午後二時、我々は下関海峡を通過したが、四大国が要塞と町とを砲撃し、続いて三百万ドルを賠償金という名目で盗み、この国民を大いに酷い目にあわせたことを考えた私は、所謂文明民族なるものを耻しく思った*。図540は下関の町を急いで写生したものである。我々が海峡にとどまった短い間、雨がひどく降り、周囲は甚だ朦朧としていたので、私は内海の方を見て、いそいで輪郭図を書くことしか出来なかった(図541)。

* 数年後合衆国だけ、この賠償金の自分の分をかえした。日本はこれを正義の行為として、十分にうれしく思っている。
晩の七時に我々はまた出帆し、海峡をぬけて再び大洋へ出た。濃霧の中、いささか荒れ模様の海を、岩や島の散在する沿岸に近く、我々は一晩中航行しなくてはならなかった。船客中に天主教の司教が一人いて、私はこの人と興味ある会話をとりかわした。十九年前、パリから来た時彼はフランシスコ派の牧師であったが、その後司教に任命され、ローマで開かれた大廻状会議にも列席した。彼は立派な頭と、大きな、同情深そうな眼とを持っていた。私は彼に、他に同じ事をしている牧師も多数いる上に、十九年間仕事をして、日本に天主教の帰依者が何人いるかと聞いた所、彼は二万人はいると思うといった。彼は仕事に熱中して居るのであるから、この数から二、三千人を引き去るとして、私は三千三百万人を改宗させるのに、どれ程長くかかるかを計算して見ようと思い、また全体として、その言葉で説服することが出来る彼自身の国民の罪人、及び母親の祈祷を覚えているかも知れぬ人々の間で改宗させる為の努力をした方が、如何に、よりよいかを考えた。加之のみならず、このようにすれば、日本人と接触する外国人の態度や行儀が、条約港に於てより良好な印象を残すに至ったであろう。司教は訓練された人であった。彼は英語、フランス語、日本語を流暢にあやつり、ラテン語はいう迄もなく、母語同様であった。私は彼にどれ程の金額を受取っているかを尋ねた所が、彼は一ヶ月二十ドルだと答えた。牧師は一ヶ月十ドルである。彼等は彼等の学校や、婦人慈善団体のために、フランスから醵金を受けるが、非常に倹約で、車馬に乗る代りに歩いたりさえする。彼等が独身で、彼等自身だけを支持すればよいのは事実である。新教の宣教師達は、一年に千ドル貰い、結婚していれば生れる子供一人に就て五十ドルずつ余計に貰う。私はこの司教に向って、彼の教会には絶対的に反対だといったが、彼はそれにもかかわらず、私と一緒に煙草を吸い、また別れた時にも、私の暗澹たる来世を考え、親切のあまり泣き出したりするような事はしなかった。だが、この偉大なる教会は、何という驚異で、そして力であることよ! 天主教徒が世界中どこへ行っても、同一の儀式と信仰とを持つ彼の教会を発見し得るとは、何という一致と、力強さとであろう! 新教の各教会も、現にそれ等を分離している詰らぬ教義をふりすて、すべての教会各派が、若干の簡単な信仰の行為に合致し得たら、それは如何に、より効果的になるであろう!
翌朝夙く起きて、長崎へ近づくのを見た。水上に岬や、岸を離れた小さな島々が、怪奇な形をとって現れる有様は、如何にも不思議だった。岸はすべて山が多く、そして丘や山の殆ど全部は頂上まで段々畑になっている。水平的な畑にある玉蜀黍とうもろこしや、小麦や、稲の農作物が、あらゆる方角に見える。それ等すべての新奇さと美しさとは、言語に絶している。図542は長崎から十六マイル離れた所にある、奇妙な突出物の一で、高さ百五十フィートである。中央に狭い口があり、それに発する間隙はてっぺん迄達している。図543に示すものは、より遠くにあり、海図には高さ二百五十フィートと記載してある。

私は初めて飛魚を見た。最初に見た二匹はくっつき合って飛んでいたが、私はそれ等を鳥が水から飛び出ようとする――恰も鴨が先ず水を離れる如く――のだと見誤った。私には彼等の鰭ひれが水を打つ音を聞くことが出来た。これは然し、或は尾鰭が急速に前後に揺れて、奇妙な尾の羽根みたいに見えたのかも知れない。彼等が姿をかくす迄、私はそれが飛魚であることに気がつかなかった。この動物が実際飛ぶことには疑はない。私は熱心に、次の魚の出現を待った。すると好運にも、船首のすぐ下に飛び上り、すくなくとも五百フィートの距離を、最初は一直線に、そして水に落ちるすぐ前には、優美な曲線を描いて飛んだ。それは水面上一フィート半の高さを、キチンと保って、この上もなく美事な典雅さを以て非常に速く飛んだ。その飛行の確実さは、私に蜻蛉とんぼを思わせた。それ迄話によってのみ承知していた私は、それがこんなに美しいものであるとは、夢にも思わなかった。
朝の八時、我々は長崎湾に投錨。私は急いで上陸し、正式に知事を訪問して、我々の派遣の目的を説明した。他ならず、港内並にその附近の海で曳網を行い、帝国大学の博物館のために、材料を蒐集するというのがそれである。我々の仕事を都合よくするには、実験室に使用するよき部屋を手に入れることが必要である。一時間と立たぬ内に、我々のために税関で、大きな部屋を一つ見つけてくれた*。我々は曳網、綱、鑵、瓶を取り出し、その他の荷を解き、なお充分時間があったので、私は当地の展覧会を見に行った。
* 私は日本の役人の手ばやく、そして事務家的なやり口を示すためにこの事を記述する。いたる所で私は同様の経験をしたからである。
五月十三日。我々は素晴しい曳網をやった。我々の舟の乗組は、男二人と女一人とであるが、この女も男と同様力強く櫓を押した。この附近では、女が石炭を運んだり、船に荷を積込んだり、舟を漕いだり、男のやる仕事をすべてする。私の眼は、絶えず曳網から雄大な景色――水ぎわから頂上まで欝蒼たる樹木に被われた高い丘にかこまれた長い入江、木々にかくれた小さな家、寺、神社、それ等に通ずる石段――の方に向うので、現に行いつつある仕事に注意を集中することは、容易でなかった。私は曳網で、熱帯性の貝や、棘皮動物や、甲殻類や、その他私には物珍しい種類を引上げつつあったのだが、而もこのような美しい眺望から眼を離して、曳網の泥土に頭をつっこんでいるということは、困難だった。
午後我々は湾の岸に沿って、干潮時の採集を行い、大きな石をひっくり返しては貝類の興味ある「種」を沢山採った。この努力に加わった舟子たちは、あだかもしょっ中採集をやっていたかの如く振舞った。採集家でなくては、彼にとって全然新しい、珍稀な熱帯性の貝をひろい上げることが、如何に愉快であるかは、見当もつかない。我々は暗くなる迄仕事を続け、強い追風に吹かれて帰った。明日は今日より大きな舟に、漕手四人を乗り込ませ、湾内数マイルの所まで出て行くことにした。
私はここで、長崎には狭い町通があり、その多くには長い、矩形の石が敷きつめられ、人力車が非常に平滑にその上を回転して行くことを述べ度い。牡牛の腹脇には鈴をつけた長い紐が下っているので、歩き廻るにつれ、ジャランジャランいうニューイングランドの橇そりの鈴を連想させるような音がする。もっとも、これはニューイングランドよりも十倍も大きな音である。長崎の住民は、長い間外国人と交際しているので、北の方の人々みたいに丁寧ではない。乱暴ではないが、「有難う」ということが無く、お辞儀もあまりしない。そして、店で何か見せて貰ったことに対して、私が礼をいうと、彼等は恰もそれ迄に、こんな風に外国人から丁寧に扱われたことが無いかの如く、吃驚したような顔をする。当地に於る私の僅な経験に依ると、外国人は日本人の召使いに対して、鋭くて厳格であり、あらけなく彼等に口をきき、極めてつまらぬ失策をしてさえ叱りつける。人力車は新型で、幌は旧式な日除帽子に似ている。子供達は我々の後から「ホランダ サン!」「ホランダ サン!」と呼びかける。これは“Hollander Mr”という意味である。
子供の頭は図544のように、奇妙な形に剃る。支那人の影響を受けたらしく見られる。

図545は犁すきをかついで仕事をしに行く百姓である。これは一匹の牡牛によって引かれる。末端には鉄がかぶせてあるが、これはこの地方の典型的のもので、日本には各地方によって、多くの犁の型がある。

図546は長崎特有の石垣である。これは海岸から持って来た、丸い、腐蝕された石を、白いしっくいの中に置き、注意深く平にしたもので、上には屋根瓦がのせてある。日本の塀や垣根の種類は、実に数が多く、垣根のみを研究しても興味が深い。

五月十七日には、曳網、綱、立網等を馬にのせ、半島を横断して、七マイル向うの茂木迄歩いて行った。道路はこの全長にわたり、岩や石で鋪装してあり、場所によっては平坦だが、他の場所では非常に凸凹している。我々は先ず嶮しい丘を登った。狭い小径の殆ど全部は粗雑な石段で出来ていたが、馬が如何にしてこれ等の段々を上るかは興味が深く、また下りて来る牡牛にも出会った。我々は扱いにくい荷を背負った一頭の牡牛に追いついた。例によって一人の男が、この動物を導いている。この場所の小径は狭くて泥深く、荷を積んだ牡牛は小径全体を占領していた。ある所では路の横の叢くさむらがあまり茂っていなかったので、私は素速く飛び、そして溝に添って疾駆することによって追い越すことが出来たが、私があまり突然出現したことと、私の大きい白い日除帽とが牡牛を驚かせ、彼は踊ったり蹴ったりし始めた。御者は死ぬ程胆をつぶし、まるで山が頭上に崩れかけでもしたかの如くに飛び上った。我々がはるか先に行ってもまだ、彼が驚愕した叫び声をあげたり、苦情をいったりするのが聞えたのは、面白かった。
最も興味の深い事象は、大きな石垣で支持され、いたる所の地景に跡をつけている段々畑である。これ等の石垣は耕作用の平坦な土地を支え、灌漑水は山の流から来て、壇から壇へと流れる。その儘で置かれれば荒蕪であるこれ等の丘の山腹は、かくて庭園、事実、都会の公園のように、見えるのである。
我々は最後に茂木に着き、そして主要な旅籠はたご屋を見つけた。図547は旅籠屋の向うの水に近く立つ、数軒の家を写生したものである。恰も干潮だったので、我々は採集するために、岸へかけつけた。

図548は茂木への途中にあった、石造の拱橋である。この村の路には、高い石の塀が添うている。それに添うて、海岸へ出る開いた場所を求めて歩いた私は、学校の庭を通りぬけた。男の子たちは恰度ちょうど休み時間で、みな石垣から紙鳶たこを上げていた。彼等はすべて私を見つめ、そして私が出て行くと共に声を揃えて「ホランダ サン」「ホランダ サン」といった。茂木の村は図549に示す如く、高い丘に閉じ込められている。茂木の向うの海岸に添った断崖は、如何にも不思議な形をしているので、このような変った形には、火山の活動が原因しているのではあるまいかとさえ思わせる。侵蝕は確かに、最も並々ならぬ山の輪郭を残している(図550)。

天主教の国々で人が道路に添うてその教会の象徴を見受ける如く、日本では到る所に仏教の象徴や祠が見られる。茂木の海岸には石の祠――扉も石で出来ている――があり、これ等の前で漁夫たちが祈祷する。図551はそれ等の中の二つを示しているが、高い方のは高さ三フィートである。

村を流れる細流にかかった橋の上で、数人の男の子が紙鳶をあげていたが、中には長い竹竿の末端に紙鳶をつけた子もある。このようにすると、風に達することが出来、また紙鳶をより容易に持つことが出来る(図552)。欄干らんかんがないので、この橋は非常にあぶなっかしく思われた。

長崎へ帰った我々は、その日採集した物を包装すると、疲れ切って畳の上に身を投げ出した。汽船は日曜日に、肥後と薩摩に向けて出帆する。我々は終日海岸にいて採集したり、曳網その他の物品を取りまとめたりした。横浜からの郵便は、予定の時に到着しなかったので、我々はそれを見ずに出発しなくてはならなかった。真夜中、我々は湾内にかかっている汽船に乗るべく、小さな小舟で岸を離れた。雨は土砂降りで、あたりは鼻をつままれても判らぬ位の闇、我々の小さな日本人の船頭が、汽船を見出し得るかどうかは、覚束なく思われた。汽船に着くや否や、我々は疲労困憊こんぱいの極、寝台にもぐり込んだ。翌日も降雨。正午肥後の岸に着き、海岸から五マイル離れた場所に投錨した。それ程遠浅なのである。この船は米を積込む為、翌日中碇泊するので、我々は全員豪雨を冒して上陸し、膚まで濡れながら海岸の岩の間で採集をした。我々はその夜の宿泊地である高橋の村へ行くのに、狭い川に添った狭くて非常に泥深い径を、六マイル歩かねばならなかった。川の船頭だちは、行きすぎる私を凝視し、我々に達する余程前に我々を看出しさえした。彼等は非常に慇懃いんぎんで丁寧であったが、我々が見えなくなる迄凝視するのであった。
図553は我々の宿屋から見た高橋の、ざっとした写生である。家々は川に臨み、反対側には竹叢がある。図554は高橋のある町通で、狭くて泥深い。我々は舟に乗って、川を下り、海に出たが、満潮だったので、漁夫の小家に近い貝殻の堆積の間から採集をし、完全な状態にある美事な標本を多く得た。塵芥堆ごみすてばの一つの内に、大形な緑色サミセンガイの貝殻を大多数発見した時、私は如何に驚いたであろう! この動物は食料に使用されたので、私は狂人のように走り廻りながら、どこで此等の貝を掘り出したのか、話してくれることの出来る人をさがし求めた。間もなく私は、それ等は干潮の時掘り出されるので、普通な食品であることを知った。ここにいるこの動物こそ、こればかりでも、最初私を日本へ導く原因をなしたのである。一瞬間、私はすべてを放擲して、私の全注意心をこの古代の虫に集中しようかと思った。だが、そんなことは出来ぬ。私の薩摩の仕事が終ったら、もう一度ここへ立寄ることにしよう。

肥後の海岸を立去る時、一人の漁夫が船側へ来た。彼の舟の中で、私は蟹かにや小海老えびの間に、奇妙な蟹を百匹ばかり手に入れた。これは後方の二対の脚が、見受けるところ場ちがいに、胸部から上向きにまがって、ついている。最後に私はその中の一匹が、円形の二枚貝(ヒナガイ)に被われているのを発見した。二つの小さな鉤爪かぎづめの役目は、それを背中に支持することなのである(図555)。この蟹の背中は人間の顔に、怪異的にも似ていて、これに関係ある伝説が存在し、それをこの漁夫は私に物語ろうとつとめた*。

* この蟹はヘイケ ガニと呼ばれる。ジョリイの尊ぶ可き著述『日本の芸術に於る伝説』には、平家蟹は小さな蟹で、それには奇妙な、迷信に近い伝説があると書いてある。一般にこれは一一八五年、壇ノ浦の戦でミナモト(源氏)に殺されたヘイケの戦士だちの、妖怪的な遺物であるとされる。これ以上の詳細に就ては上述の書〔Legends in Japanese Art by Joly〕の一一五頁を見られ度い。
前にも述べたが、日本を旅行する外国人は竹の用途が無限であることに必ず留意する。これは扇の骨というような最も繊細な装置のみでなく、家屋の雨樋あまどいにも使用する。図556は竹ばかりで出来た柄杓ひしゃくで、水入れ、柄、目釘の三部から成り、しっかりしていて、長持ちし、そして軽く、値段は多分一セント位であろう。

汽船は終日米を積み込んだ。米は如何にも日本らしい。筵の奇妙な袋に入り、艀はしけで運ばれて来る。出帆が遅れるのを利用して、私は遠方の山々を写生した。肥後の全沿岸は、ここに出した若干の写生によっても知られる如く、極めて山が多い。それは火山性で、暗礁や、鋭い海角があるので、航海は非常に危険であるとされる。山の高さは四、五千フィートを出ず、沿海線に近いものは、恐らく千五百フィート乃至二千フィートであろう。私は汽船から見える山々の、かなり正確な輪郭図を描くことが出来た。
海岸に沿うて航行するにつれて、山の景色の雄大なパノラマが展開した。南方へ下ると、多くの山は水際から直に聳えるらしく、その殆ど全部が火山性で、それ等の多くは煙を噴く火孔や、湯気を出す硫黄泉を持っている。図557を見る人は、山脈の大体の概念を得るであろう〔図557のabcは横に一枚に続く〕。薩摩の海岸に近づくと、山の景色は依然として継続するが、山は一層嶮しくなり、岸に近い岩は北方のものよりも更にギザギザしている。図558は薩摩の海岸にあるこれ等の山や岩の特性を示している。図559は南へ航行しながら近づいた野間崎で、鋸の歯のような尖端の、顕著な連続である。鹿児島湾の入口へ近づくのに、我々はこの岬を廻った。図560は薩摩の南端の海面から出ている、孤立した岩角を示す。

昨日、我々の汽船が米を積み込んでいる間、日本の戎克が一艘横づけになっていたので、私はそれを写生する好い機会を得た。その内で大きな舵が動く、深い凹所を持つ奇妙な船尾、後にある四角な手摺、その他の細部がこの舟を一種独特なものにしている。図561は船尾の図、図562は船尾を内側から見た所で、如何に其の場所が利用されているかを示す。舵柄は取り除いてある。こまごました物の中には料理用の小さな木炭ストーヴ、即ちヒバチがあり、また辷る戸のついた小さな食器戸棚は、料理番の厨室ギャラリーを代表している。

戎克のあるものは繊細な彫刻で装飾してある。図563は舳へさきにある意匠で、木材に刻み込まれ、線は広くて深く、緑色に塗ってあるが、これを除いては船体のどこにも、ペンキもよごれも見当らぬ。木部はこの上もなく清浄で、いつでも乗組の誰かが水洗いしている。乗客戎克の多くには、幾何学模様の各種の寄木よせぎで美しく装飾したものがある。古い戎克のある物は、その一風変った外観に慣れると、全く堂々として見える。それ等は非常に耐航性が無いといわれるが、竜骨が無いので風に向って航行することが出来ず、その結果常に海岸近く航海し、暴風雨が近づくと急いで避難港へ逃げ込む。

薩摩の漁船は非常に早く帆走するという話だが、高さの異る帆を舳から艫ともに並べた、変な格好の舟である。図564は極くざっと、それを描いたもの。舷には櫓や網や竿やその他がゴチャゴチャになっているので、我々の横を疾走して行く時、私は極めて朧気な印象を得た丈である。檣マストは三本。真中のは何か神秘的な方法で、他の二本によって支持されている。原始的な、そして覚束なくさえある帆の張りようは、誠に珍しいものであるが、而も引下さねば決して下りて来ぬらしい。

暗くなって、私は寝台へ入ったが、然し北緯三十一度の地点にある鹿児島湾へ船が入るのを見る為に、目を覚ましたままでいた。真夜中、私は再び甲板デッキに出たが、湾に入ることよりも遙かに興味があったのは、海の燐光である。その光輝は驚くばかりであった。そして極めて著しいことに、大小の魚のぼんやりした、幽霊みたいな輪郭が、それ等がかき立てる燐光性の体質に依って、明瞭に知られた。私はこの驚くべき顕示を、更によく見る可く、船首から身体を乗り出した。幽霊の如く鮫さめが船の下を過ぎた。すぺくとるに照された進路を持つ骸骨魚で、いずれの旋転も躱身かわしみも、朧に輪郭づけられる。真直な、光の筋を残して、火箭ひやの如く舷から逃れ去る魚もあり、また混乱して戻って来るものもある。魚類学者ならば、それぞれの魚を識別し得るであろう程度に、魚は明かに描き出され、照明されていた。私は遠方の海中に、光の際立った一線があるのを認め、それを海岸であろうと考えたが、海岸線は遙か遠くであった。近づいて見るとそれは、海にある何等かの潮流と界を接する燐光体の濃厚な集群で、海生虫の幼虫や、水母くらげやその他から成立していることが判った。船がそれを乗り切る時の美しさは、言語に絶していた。舷ごしに見ている我々の顔を照しさえした。光は、まったく、目をくらます程であったが、而もその色は、淡い海の緑色である。それは人をしてガイスラー管〔ハインリッヒ・ガイスラー発明の真空放電管〕の光輝を思わしめ、そしてそこを通り過ぎると、船痕の継続的波浪が到達するにつれて、暗い水から光の燦然たる閃光が起った。私が熱帯性の燐光を見たのは、これが最初である。この美しさは、いくら誇張しても、充分書きあらわすことは出来まいと思う。
間もなく夜があけた。如何にも景色がよいので、到底暑いむしむしする船室へ下りて行く気がしない。六時、我々は汽船から小舟に乗りうつって上陸した。鹿児島附近の景色は雄大である。町の真正面の、程遠からぬ所に、頂を雲につつまれた堂々たる山が、湾の水中から聳えている。これは有名なサクラジマ即ち桜の木の島である(図565)。図566は鹿児島の向うの桜島山の輪郭を、鹿児島の南八マイル、湾の西岸にある垂水たるみ〔大隅の垂水ならばこの記述は誤である。後から「湾の東にある元垂水」なる文句が出て来る〕湾を越して西に開聞嶽かいもんだけと呼ばれる、非常に高い火山がある。これは富士山のような左右均等を持っていて、四周を圧している。ここに描いた斜面は、疑もなく余りに急すぎるであろうが、私にはこんな風に見えた(図567)。市の背後には低い丘がある。

こんなに魅力に富んだ景色にかこまれていながら、汽船が翌朝夙く長崎へ帰船するので、たったこの日一日だけしか滞在出来ぬということは、誠に腹立たしかった。新しく建造された鹿児島市それ自身は、巨大な石垣に依って海に臨んでいる。家屋は貧弱で、非常にやすっぽい。二年前には、薩摩の反乱のために、全市灰燼に帰し、人々は貧乏で、往来は泥だらけで木が無く、家の多くは依然として一時的の小舎がけである。十年か十二年前、鹿児島は英国人に砲撃された。これは友人が警告したにもかかわらず、江戸へ向く途中の薩摩の大名の行列に闖入ちんにゅうして殺された、一人の高慢きわまる英国人の、かたきをとるためにやったことなのである。外国人が一般的に嫌われていることは、男の敵意ある表情で明らかに見られ、また外国人が大いに珍しいことは、女や子供が私を凝視する態度で、それと知られた。二百マイル以内に、外国人とては私一人なので、事実私はここに留っている間、多少不安を感じた。この誇りに満ちた町は、同時にアジアコレラの流行で苦しんでいたのであるが、我々は数時間後まで、そのことを知らずにいた。我々はみすぼらしい茶店へ導かれたが、そこの食事は如何にもひどく、私には御飯だけしか食えなかった。ああ、如何に私が珈琲コーヒー一杯をほしく思ったか!
この、気のめいるような食事の後で、私は助手を従えて、海岸と町の海堤とに添うて採集に行き、下僕二人は町の背後の丘へ、陸産の螺にしをさがしにつかわした。暑くてむしむしし、採集している中に我々は、この町の塵や芥を積み上げた場所へ来たが、これは最も並外れた光景なのである。我々は一種奇妙な二枚貝のよい標本を沢山と、腐肉を食う螺とを手に入れた。積み上げた屑物の中では、沢山のオカミミガイとメラムパスと、一つのトランカテラとを採った。悪臭は恐しい程で、日本の町は一般に極めて清潔なのに、これはどうしたことだろうと、私は不思議に思った。帰る途中で郵便局へ寄ったら、日本語で「コレラが流行している、注意せよ!」と書いた警報が出ているのを見つけた。最も貧弱な日本食を食うべく余儀なくされたので、私の胃袋はほとんど空虚であり、また始終非常に咽喉がかわくので、ちょいちょい水をのみながら、私は残屑物の山をかきまわしていたのである。その日一日中、私は気持が悪かった。
私は県知事を訪問して私の旅行の目的を話した。すると彼は非常に気持のよい日本人の官吏を一人、私の短い滞在期間中、私の助手としてつけてくれた。彼はまた我々の為に、清潔な、気持のいい宿泊所をさがしてくれた。正午、彼は舟をやとってくれた。裸体はだかの舟夫四人は、力強く漕いだばかりでなく、曳網に興味を持ち、曳いた材料から標本を拾い出すことを手伝った。薩摩の舟はこの種の中では最も能率的なもので、私がそれ迄に見た舟の中では最も速いものの一であり、台所の床――清潔で乾燥している場合の――みたいに奇麗である。舟首は図568に示すように、一つの木塊からえぐり出してあり、舟の平面図は右に輪郭図で示してある。我々は暗くなる迄網を曳き、沢山いい物を手に入れた。

翌朝は湾を十マイルか十二マイル下り、曳網をしたり、岸に沿うて採集したりすることになっていた。我々と同行すべく知事によって選ばれた官吏は、私に陸上の高所に貝殻の堆積があり、人々がそれを焼いて石灰をつくっている場所があると話した。彼の説明を聞いた私は、それを古代の貝墟に違いないと思った。我々は四時に起き、必要品を取りまとめてから、湾を下り始めた。風が無いので長いこと漕ぎ、湾の東岸にある元垂水という、非常に美しい場所に着いた。官吏は私と一緒に上陸し、種田氏と下僕とは曳網をしに舟を出した。こんな所へは外国人なんぞ来ないので、海ぞいの小さな漁村を通りすぎると、村民達は一斉に私を見に出た。私は、ある山間の渓流で飲んだ水が、非常にうまかったことを覚えている。我々は想定的貝墟まで、殆ど三マイル、海岸について歩いた。それは貝墟には違いなかったが、人工的なものではなく、海岸で磨滅された貝殻の巨大な堆積であった。比較的新しい時代に海岸が隆起し、これ等の貝を水面から、かなり高い所迄持ち上げたのである。ダーウィンは『博物学者の航海』で、チリー、コキムボに於る同様な海岸隆起を記述している。これは更に山容によって示された。この地方の火山性性質を証拠立てるものである。ここを歩くことは、古い習慣がすべて行われているので、誠に興味が深かった。子供達は遊びをやめて丁寧に私にお辞儀をし、男や女は私が通ると仕事を中止してお辞儀をした。これ等に対して私もまた丁寧にお辞儀をしかえした。練習の結果、私は日本風のお辞儀が大層上手になっていたのである。我々は鞍も鐙あぶみも日本古来の物をつけた馬に乗って来る人に逢った。万事日本風である。ある家の背方を過ぎた時、私はニューイングランドの典型的なはねつるべを見た(図569*)。

* この写生図は『日本の家庭』にも出ているが、私は再びそれをここに出さずにはいられない。
図570では、一種の粗末な厩を示す。日本の馬は頭の方から馬房に入って行かず、尻の方から後むきに入れられる。

上陸地への帰途、我々は古い陶器を見るために、ある紳士の家へ立寄った。同行した官吏が人々に向って、私が古い陶器に関して、非常に興味を持っていることを話したので、私は沢山の珍しい物を見る機会を得た。図571は、古い朝鮮の盃で直径六インチあり、内側の模様が如何にも変っているので、写生した。こんな奇妙な熊手や床几は、日本では見たことがない。私は大学博物館のためとて、変った形をした卵形の壺を貰った。これは高さ十四インチで、最大直径の部分に粘土のひもがついている。いう迄もないが赤い粘土で、厚くて重く、より北方で見出される如何なる陶器とも違ったものである。

古代の朝鮮及び日本の陶器を見て、この上もなく気持のよい時をすごした後、我々はまた、干潮なので岸に沿うて出立し、私は初めて熱帯性の貝がいくつか、生きているのを見て、大きによろこんだ。タカラガイ、イモガイ、ホネガイ等の科、及び精美な小さい一つのナツメガイがそれである。日のある内に風が無くなって了い、我々は数時間、遅滞させられた。知事は私を六時の正餐に招待してくれたのであるが、上陸点へ着いたのは九時であり、それも、途中で起った疾風のおかげで、そうで無かったら、十二時にはなっていたであろう。私は舟から飛び下り、旅館へ駆けつけて靴下と新しいシャツとを身につけ、同行した官吏と、助手との三人で、知事の家へ急いだ。
我々は大きくて広々とした美しい部屋へ通された。勿論私は靴をぬいでいた。この部屋へ歩いて入ると、知事が出て来て、懇ねんごろに私に挨拶したが、殆ど十時に近かったにもかかわらず、彼の態度には、いささかも待ちくたびれたような所が見られなかった。彼の庭園には菊の驚くべき蒐集があり、それ等は数百の燈火で照らされてあった。次に彼は私に数箇の薩摩焼その他を見せ、その興味は全然別の方向にあるものとされている外国人が、かくも早く、支那、朝鮮及び日本の陶器を鑑別することを覚え込んだことに就て、何度か驚嘆した。十時、我々は食事のために、二階へ呼ばれた。すべてで六人で、正餐は私に敬意を表する為とあって西洋風だったが、私はもう日本料理に馴れているので、日本風であったら、より喜んだことと思う。が、私は大いに食って、感謝の意を示した。朝の四時から、私が口に入れたものとては、小量のきたない荒塩をつけた薩摩芋たった二個なのである。
列席した一人の紳士は面白いことをするのが好きで、正餐が半分も終らぬ内に、両手で色々と変ったことをやり出した。私は彼のやったことをすべて真似することが出来たが、只指を曲げて腕につけることは出来なかった。そこで私は彼等に両手を反対の方向に廻し、お仕舞には右手を左手より速く廻すという芸当をやって見せた。彼等がこれをやろうとして死物狂になる有様には、実に笑わざるを得なかったが、誰にも出来なかった。
次に私は一寸の間刀を借して貰い度いと頼んだ。刀は絹の布に包まれて持ち出された。刀を抜くことに伴う権威と儀礼を承知している私は、先ず謝辞を述べ、僅かに横を向いてから、刃を私の方に向けて刀を抜いた。これは両手の甲を下に、柄を片手で、鞘さやの柄に近く別の手で握り、そこで刀を抜き、両手で完全にひっくりかえしてから、刀を鍔つばまで鞘に納めようというのである。所が誰にも刀と鞘とを並行にすることが出来ず、大抵は直角にするのであった。
私はまた彼等に、私が子供の時田舎の学校で覚えた、床でやる芸をいくつか見せたが、酒を飲んだり遊んだりしたので、一同大いに面白くなった。知事は彼がそれから酒を飲んだ薩摩焼の徳利を呉れた。これは何年か前、特に彼のためにつくられたのであるが、彼はこれでは酒の入りようが足らぬといった。図572はその徳利と、それに附属する深い函形の皿との写生である。深い木製の皿には相対した側に穴があり、それを清める時に、ここから布を引き出す。

午前二時、我々は別れを告げねばならなかったが、一同、非常に面白く、愉快だったといった。我々は暗い中を旅籠屋へ急ぎ、その日採集した物を包み上げ、恰も夜が明けようとする時汽船へ向けて出立した。我々は錨の捲きあげられる音を聞き、動き始めた汽船に乗り込んだ。私は二十四時間活動しつづけ、曳網を行い、殆ど何も食わずに赫々たる太陽の下を八マイルも歩き、今や疲労のあまり固い甲板の上にぶっ倒れて熟睡して了った。
長崎で手に入れそこねた米国からの私宛の郵便物が、陸路鹿児島へ転送されたということを、私はどうにかした方法で耳に入れた。が、汽船は定刻に出帆するので、待っている訳には行かず、又しても私はそれを見ずに行かねばならぬ。だが、郵便局に、それを長崎へ戻すことを命じた。私は長崎には一週間か、あるいはそれ以上滞在することになっていた。
日本の他の地方に言及する前に、記録しておかねばならぬことが二、三ある。あらゆる場所には、それぞれ特有の人力車の型があるらしく、鹿児島もその例に洩れない。ここの人力車の梶棒は、横木が車夫の頭の上へ来るような具合に彎曲しているので、乗る人はこれでよく自分が投げ出されぬなと、不思議に思う。この人力車の大体のことは写生(図573)で判るであろう。背面と側面とには、ペンキ漆がゴテゴテと塗ってあり、竜その他の神話的の事物や、英雄、豪傑の絵等が背面の装飾になっていたりする。薩摩と肥後の穀物畑では、変った型の犁すきが使用される(図574)。鉄の沓くつと剪断部とは、軽くて弱々しいらしいが、犁は土中で転石にぶつかったりしない。これは一頭の馬に引かれ、構造は原始的だが、充分役に立つらしく思われる。

この国には石造の拱橋が多い。古いのも多く、ある物はかなり大きく、そしていずれも絵画的である。拱橋がこれ程沢山あるのに、それ等の拱アーチに、我々が橋に於る非常に重大な要素と思う楔石を持ったのが一つも無いのは、不思議に思われるが、而も日本人はその必要を認めていない。我々には、日本の拱が不完全で不確実であるように見える。然しながら、私は弱さを示したものは唯の一つも見たことがなく、又、しかある可き理由も無い。それは景色に美しい特徴を与える――河や、小さな流れにさえ、時代の苔が緑についた、石の拱がかけ渡してある。鹿児島市中の小さな、狭い川には、一箇所に石の拱橋が三つかかり、三つの小さな歩径をつないでいた(図575)。

薩摩では古いニューイングランド型の跳つるべが見られるばかりでなく、図576に示すが如く、井戸が家の内にあって、跳つるべが外に立っているというのもある。鹿児島では、これは湯屋を現している。

日本人が小さな物をつくるのに、如何に速に竹を使用することを思いつくかは、興味がある。一例として、先日曳網をしている最中、私は長い鉄の鉗子ピンセットを忘れて来たことに気がついた。すると私の下男は、直ちに舟の細い竹の旗竿をとり、その一節を切って、間もなく美事な、長い鉗子をつくった。使って見ると便利なばかりでなく、軽くて都合がよかった(図577)。

錨いかりには数種の型がある。四個の外曲した鉤を持つ鉄製のものは、戎克ジャンクの写生図の一つに於てこれを示した。図578はまた別の型である。これは木製で、錘おもりは横材にくくりつけた二個の石から成っている。

肥後と薩摩――九州の他の地方でも多分同様であろう――では、馬具の尻帯に、長さ二インチの陶器の珠数、換言すれば円筒をつける。この装置によって綱は、擦傷をつけることなしに上下する。これ等は馬の脇腹を起す綱に交互につけられ、黄色緑色との釉うわぐすりがかけてある(図579)。蝦夷では同様にして、丸い木の玉が使用される。

岬の写生図二、三をここに示す。図580は鹿児島湾への入口、図581は肥後の海岸からつき出たもので、南に下傾する岩の層があり、図582は薩摩の西海岸にある岩で、高さが五十フィートあるというので「五十フィート岩」と呼ばれる。層畳した岩の、これ程明瞭なのは、従来見たことがない。
第十七章 南方の旅
鹿児島から島原湾へ至る航海は、実に愉快だった。海は堰水のように穏かで、いささかのうねりさえもなく、私は大きに日誌を書くことが出来た。翌朝汽船は、高橋川の河口を去ること五マイル以上の点に投錨した。その内に強風が起り、一方の舷には大きな波が打寄せた。小さな日本の艀はしけが如何に安全であるかは、何度もそれに乗って曳網をした私はよく知っているのであるが、それでも汽船の横で上ったり下ったりしている小舟を見た時には、いささか不安を感じた。我々は我々の荷物を艀に移すのに大いに苦心をし、続いて我々の為に下された船梯から、艀めがけて飛び下りねばならなかった。然しながら我々は、安全に上陸し、サミセンガイを掘り出し得るであろう場所をよく確めた上、私の下僕と、我々の所謂トミとを後に残し、目に入るかぎりのサミセンガイと、すべての海藻とを採集することに全注意を向けさせることにし、私は助手と一緒に四マイル近い内陸にある熊本へ向けて出発した。
我々は知事を熊本城に訪問した。彼は立派な老紳士で、我々の為に佳美な日本式の正餐を用意していてくれ、我々は大いにそれをたのしんだ。知事は城内を案内し、二年前の籠城の話をして聞かせた。この時、城は敵に包囲されること六週間に及び、建物の多くは焼け落ち、市民や兵士の殺された者も多く、そして熊本市は灰燼に帰した。知事は城にいたが、反逆兵達は、彼が住んでいるとされる建物を壊滅することに、特に努力した。建物はいずれも、あちらこちら打ちこわされ、銃弾の穴をとどめた箇所も多い。自分の経験を話しながら、この老人が興奮して行く有様は興味があった。
ここで、忘れぬ内に、私は我国で私が逢った智力ある人々の、百人中九十九人までは、月の盈虧みちかけと月蝕とを混同しているという事実を記録せねばならぬ。我々の汽船の船長(英国人)は、私が説明する迄は、この事実に関する何等の概念を持っていず、そしてその話をしている間に気がついたことだが、彼は引力の法則をまるで知らず、我々が大気の圧力に依て地球に押えつけられているものと思っていた。ここに我々の議論を再びくりかえして書く時間はないが、汽船を操縦し、隠れた岩や砂洲のある海岸を承知しつくしていながら、天文学の最も簡単な事実さえも知らぬ英国人の船長がいるのだから驚く。彼は私に向って、恥しそうな様子ではあったが、ダーウィンはアリストートル(彼はこの名と、それからこの名の持主が何世紀か前に生きていたことは、知っていたらしい)の時代の人か、それとも現代の人かと聞いた!
知事のことに話を戻すと、私は彼に我々の仕事の目的を話し、彼は私が三十四マイル南の八代やつしろへ行こうとしているので、役人を一人つけてくれるといった。この時は、もう午後遅かったが、而も我々は熊本市のまわりを廻って、長いこと歩いた。ここでも、鹿児島その他に於ると同様、人々が私を一生懸命見詰る有様によって、外国人が如何に珍しいかが知られた。
その晩知事が派遣した官吏が、我々の旅館へやって来た。非常に愉快な男である。彼はこの上もなく丁寧にお辞儀をした。私は床に膝をつき、私の頭が続け様に畳にさわる迄、何度も何度もお辞儀をすることが、如何にも自然に思われる私自身を、笑わずにはいられなかった。その上私は、息を口中に吸い込んで立てる、奇妙な啜るような音さえも、出すことが出来るようになった。
翌朝我々は五時に出発した。そして人力車で、凸凹の極めて甚しい道路を二十四マイルという長い、身のつかれる旅をして、大野村へ着くと、ここには私がさがしていた貝塚がいくつかあった。道はそれ等の間を通っている。ここから海岸までは、すくなくとも五マイルある。この堆積はフロリダの貝塚の深さに等しく、即ちすくなくとも三十フィートはあるかも知れない。貝殻の凝固した塊は
Arca granosa
〔アカガイの種〕から成っているが、他の貝の「種」もいろいろ発見された。我々は夕闇が近づく迄、調査したり発掘したりしたが、そこで八代へ向い、九時同地着、県知事へ報告した。知事は最も礼儀深い紳士で、如何なる動作も、如何なる行為も、優雅と洗練そのものであった。将軍時代、彼は非常に高い位にいたが、かく魅力のある態度のいずこにも、矯飾らしい点はすこしも見えなかった。彼は一人の商人に向って、我々のために宿泊所をさがすように命令した。助手の話によると、日本人はお客様を特に厚遇しようとする時、このように、彼を公開の家へ送らず、個人の住宅を開放してそこへ迎えることを習慣とするそうである。助手先生、知事に向って、私に関するどんな底知れぬ嘘をついたのかは、聞きもらしたが、多少つかれていた私は、事実ありがたくこの款待を受け入れた。我々が一夜を過した家は大きくて広く、部屋部屋は普通の家に於るより装飾が多く、広くもあった。襖と天井との間の場所には、多分灌漑を目的とするのであろう長い木の水樋を表した、美事な彫刻があった。草、樋の支柱、その他の細部は、美しく出来ていた*。
* このランマの写生図は『日本の家庭』に第一四九図として出ている。
翌朝知事は贈物として、高田の茶呑を四個持って来てくれた。彼の話によると、これは三十五年前、彼の父の命令に依てつくられたのだそうである。図583はその一つの写生である。日本の新古陶器に対して熱愛を持つに至った私は、これ等を所有することをうれしく思った。彼は茶入を沢山持っていて、それを私に見せる為、熊本へ持って来ようといった。彼は、私と一緒に大野村の貝塚を調べたいという希望を述べた。

我々は篠つく雨の中を大野村へ向って出発したが、間もなくずぶ濡れになり、終日この状態のままでいた。我々は、かぎられた時間で出来るだけ完全に貝塚の調査をした。我々は沢山の骨を手に入れたが、その中には大森の貝墟に於ると同じく、食人の証痕を示す人骨の破片もあった。一本の人間の脛骨は並外れに平たく、指数五〇・二という、記録された物の最低の一つである。また異常な形の陶器も発見された。一つの浅い鉢には、矢の模様がついていた(図584)。

最初に私に大野村の貝塚の話をしてくれた地質学者ライマン教授は、貝塚附近に奇妙な石の棺のあることも話した。我々は容易にそれを発見したが、巨大な石槨であった。蓋の末端はこわれ、また下向きになっていたが、埋葬に関する迷信が原因して、村民達に我々がそれをひっくり返すことを助力させるのは、困難であった。然し我々の人力車夫は一向おかまい無しで、石の周囲を掘り、桿さおを槓杆てこにして、我々はそれをひっくり返した。図585はこの外見をざっと写生したもので、内側は小間パネルに刻んである。この古さは千年、あるいは千二百年であると信じられる。八代の知事はこれに就て何も知らなかったので、最大の興味を以て見るのであった。

雨は終日降り続き、我々は濡れて泥にまみれた。正午、我々は急いで食事するために、仕事をやめた。車夫達は弁当を持って来ていた。つめたい飯と梅干と、それから恐くは例の醤油をつけた僅かな生魚とであろう。我々はどっちかというと貧しい漁師の家を見つけ、謙譲に飯を乞うた。すると漁師と彼の妻は丁寧に、そして取乱したような所はすこしも無く、我々の為に何か食う物――それは色の黒い飯と骨のような固い小さな乾魚何匹かとであった――を仕度し始めた。彼等は知事という高貴な人の存在を意識し、また彼等の屋根の下に「外夷」を入れたことは一度も無いのだが、食事の貧しいことに就て奴隷的な申訳をいったりせず、単純な品位を以て、款待ということが必要とする所を行った。知事の態度は精麗そのものであった。彼はこの貧しい食物を如何にもうまそうに食い、お辞儀されれば必ずお辞儀しかえした。私は彼がこの簡単な食事を明瞭に楽しむことによって、これ等の貧しい人々を欣喜させたやり方を、如何に描写してよいか、その言葉を見出すことが出来ぬ。彼は皇帝から、山海の珍味を以てもてなされたとしても、この時よりも力強く、鑑賞と感謝とを表すことは出来なかったであろう。
我々が食事をしている最中、数名の村民が、驚いたり、崇めたりする為にのぞき込んだ。その中で一人、丘の片側に洞窟があり、そこには陶器が僅か入っているということを話した。北方の洞窟で見出される陶器の特異な形式を知り、且つ洞窟は埋葬場で、そして器物が米や酒やその他の供物の為に洞窟内に置かれてあることを知っている私は、筆と紙とをかりて、洞窟内の器物の輪郭を画いて見た。知事はその絵を男達に見せ、この通りかとたずねた。すると彼等は奇妙に当惑しながら、実は自分達はその陶器を見たことが無く、彼等の父もまた見ていないが、彼等の祖父が、かつて丘のその側に細い路がつくられた時、土工たちが洞窟の屋根をつきやぶり、そして器物を見たことがあるという話を、語り伝えたのだといった。
昼食後、我々は彼等に案内させてその場所へ行った。どしゃ降りの雨の中を、殆ど半マイルの間、急な坂の泥をバシャバシャやって登ると、彼等は立止り、道路の崖の側を指さした。のぞき込むと十フィートばかり下に穴があいていて、そこから泥水が、まるで堰口みたいに流れ出ている。これが洞窟の入口なのである。こんな激流は、麝香鼠じゃこうねずみか海狸ビーバーに非んば、堰き止めることは出来ぬ。どこから一体水が流れ込むのだろうと思ってあたりを見廻すと、我々が立っている所で、あふれた溝が、その水の多くを失いつつある。知事はここで溝を掘る許可を得た。掘ると、洞窟の屋根にある穴を蓋おおう何本かの丸太が現れた。路のはるか上方で溝を堰き、水を急な土手越しに流すようにした。穴は直径二フィート位しか無い。
十数名集って来た村の人達に、穴の中へ入れば莫大な褒美をやるといったが、地下墓所へ入ることに関する迷信的の恐怖心が非常に強いので、誰も入ろうといわない。八代から連れて来た車夫達も頭を振り、私の助手もそれを志願しない。こうなれば私が入るばかりだ。知事は、そこにはかつて鉱坑が掘られたのだからといって、私を引き止めようとしたが、若しそうなら、私には、洞窟内の水は外側の流れと同じ水準であることが分っている。私は車夫二人に両手をつかませ、穴の中へ身体を下降させた。まるでポケットの中に入ったように暗く、そして雨空から来る僅かな光線は、穴の入口を暗くする、好奇心に富み、且つ恐怖に襲われた群によって遮られた。私は何かに触ろうとして脚をのばしたが何にもならず、最後に車夫達がつかむ手を無理に振りはなして、お腹のあたり迄、水の中に落ちた。
瞬間的の沈黙に引きつづいて、穴の口から恐愕の叫声がひびき入った。私は助手に向って、私が無事であることを叫んだ。すると彼は興奮しきった声で、穴の口から大きな有毒の百足むかでがはい出して来たというではないか! 私はつばの広い帽子をかぶり、すべすべした護謨外套ゴムマントを着ていたが、粗麁な穴の内側から崩れ落ちる土塊や小石だと思っていた物は、実は巨大な百足が私に降りかかるのであった。私は文字通り、有毒虫の流れの中に立っていた。彼等は吃驚びっくりした蜘蛛くもがするように、洞窟の壁を匐はい上り、そして天井からパラパラ落ちた。薄暗い光線に目が馴れると共に、私は数百匹の百足が水面を漂うのを見た。そして水流が彼等を漸竭するのを待って、私は陶器を求めて砂中をさぐった。土砂がそれ迄に沢山集っていて、深さ二フィート以上の堆積が底部全体を蓋っていた。それはまことに気味の悪い経験であったが、私のすべっこい外套とつばの広い帽子とが私を救った。というのは、百足は足がかりが無いので、私を襲うや否や水中に落ちたのであった。私は陶器のことで興奮していたればこそ、恐れ気もなく、こんな暗い、騒々しい洞窟中に、百足の雨をあびてしゃがんでいることが出来たのである。私は博物館のために、標本用の百足を三匹つかまえ、入口に向って洞窟の壁を写生し、そこで繩を下させ、引き上げて貰った。出て見ると、穴の附近には、匐い出すに従って踏みつぶされた百足の死骸が、沢山散らばっていた。
水は上流で堰き止め、洞窟からも流し去った。私はついに人力車夫二人に入らせることが出来た。彼等は耨くわを使用して注意深く砂を掻き去り、一時間一生懸命に掘ったあげく、陶器を四個発見した。その一つは完全で、一つは僅かに破損し、他の二つは器の大きな破片である。知事は写生図を取り出した。私は彼が村の人々に向って、海外一万「リ」の所から来た外国人である私が、彼等さえも見たことがない、これから発見されようとした器物の形を、これ程正確に描いたことを、驚いて話すのを聞いた。村民達は、外国の悪魔として私を眺め、私が陶器を持ち去る時、大いに不満を示した。知事は、これ等が大学の博物館に置かれるのであることを説明した。図586は、入口に向って見た洞窟の有様である。中央の拱門アーチは洞窟への入口で、外側にある入口は小さく、そこから洞窟へ向って拡がるのであるが、通廊と同様に曲線をなしている。両側にある拱門は、どこにも通じていない。

午後五時、我々は熊本まで二十四マイルの路を、人力車で行く可く出発した。雨は降りずめに降り、通路は極めて悪い――これ程惨憺たる、そして人を疲労させる人力車の旅は、私にとっては初めてであった。私は疲れ切っていた。そして身震いをした程寒く、また起きているのが困難であった程ねむたかったのであるが、一寸でもウトウトすると人力車が揺れて、頭がちぎれる程ガクンとなる。貝塚で発見した陶器その他の標本を荷ごしらえするために、種田氏は後に残ったので、私の唯一の伴侶は、英語を一言も解さぬ知事であり、また私の東京日本語――方言に近い――は、彼にとっては、殆ど判らぬものなのであった。八時、我々は車夫の数を増したが、彼等は全距離にわたって歌を歌い、交代に一人ずつ、一足ごとに唸ったり、調子を取ったりした。車夫が歌を歌うとは如何にも珍しいので、しばらくの間私は起きていたが、その珍しさもやがて失せ、熊本へ着いた時の私は、生きているよりも死んでいる方に近かった。熊本の知事は、我々の宿舎として私人の邸宅をあてがってくれたが、私はそのもてなしを充分味う可く余りに寒く、気持悪くさえあったので、靴をぬぐと共に、家の中へ這い込み、濡れた衣類を身につけたまま床にごろりと横たわり、丸太のように眠て了った。
翌朝私は熊本の知事を訪問し、世話になったことを感謝すると共に、我々が発見した物や、大野村にある奇妙な洞窟のことに就て話した。彼はそこで、城の岩石にいくつかの洞窟があるといった。私が即座にそれ等を見たいといった性急さに、彼は微笑したが、気持よく立上って、私を洞窟へ導いた。時間に制限があったので、ごくざっとそれ等を調べることしか出来なかった。入口は崖の面にあり、それ等の多くは、木の枝葉が上からかぶさって、かくしており、中には容易に到達出来ぬものもあった。私は洞窟の二、三に入って見た。形は四角である。一つの洞窟にはそれを横切る仕切が、また他の口はそのつき当りに、床から四フィートばかりの高さの凹所があり、それが棚をなしているのは、恐らく食物を供えた場所なのであろう。日本に於る洞窟を研究したら、興味が深いだろうと思われる。それ等は国中いたる所に散在し、私の知る範囲内では、埋葬用洞窟である。
午後高橋へ戻って見ると、残して行った者達は驚く程立派な採集をしていた。私は、大きな緑色のサミセンガイの入った樽をいくつか見て目をたのしませ、土地の人のするように、それをいくつか食って見た。食うのは脚部だけであるが、私はあまり美味だと思わなかった。
高橋川の川口にある小さな漁村に着いて見ると、暴風雨が来そうなので、汽船は翌日まで出帆をのばしたとのことである。これにはいやになったが、私はその日を、サミセンガイを研究して送った。泥濘ぬかるみの干潟をピョンピョン飛び廻っている生物がいた。最初私はそれを小さな蟾蜍ひきがえるか蛙だろうと思ったが、やっとのことで一匹つかまえて見ると、胸鰭が著しく発達した小魚である。これ等の小動物は、まるで仲間同志遊びたわむれているかの如く、跳ね廻っていた。ラマークが、如何にして、努力の結果が身体の各部分を変化させる云々という考を思いついたか、容易に判る。
高橋の紙鳶たこは、恐しく大きなものであった。八フィートあるいは十フィートの四角で、糸には太い繩を使用する。紙鳶の一つには、前にも述べた、ピカピカ輝く眼がついていた。
昨日大野村からの帰りに、我々は美事な老樹の前を通ったが、その後には神社があった。日本中いたる所、景色のいい場所や、何か興味の深い天然物のある場所に、神社が建ててあるのは面白いことである。図587はこの習慣を示している。樹木の形が変っていて面白いので、その後に神社を建てたのである。ここでは、人々の宗教的義務に注意を引く可く天然を利用し、我国では美しい景色が、肝臓病の薬の大きな看板でかくされるか、或はその他の野蛮な広告によって、無茶苦茶にされる。高橋には、人々が非常に大切にしている、形も大きさも実に堂々たる一本の樟樹くすのきがあり、地上十フィートの所に於る幹は、直径八フィートもある(図588)。

高橋から島原湾を越して西方には、温泉岳と呼ばれる秀麗な山塊が見える。これ等の火山の頂上は、たいてい雲にかくれているが、時々姿を見せる。図589に示した輪郭図は、割合に正確である。我々を長崎へはこぶ汽船は、島原の島と町とへ一寸寄った。そこへ着いたのは午後五時であったが、日本に於る最も絵画的な場所の一つである。小さな、ゴツゴツした島嶼の間をぬけて航行すると、やがて水際にある町へ着くのである。町のすぐ後に、温泉岳の岩の多い斜面が聳え立っている。我々は、一マイルを人力車で走って、一軒の有名な旅館へ行き、そこで美事な食事を命じた。それは美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)、煮た烏賊いか、あげた鰻うなぎ、御飯という献立で、どれも美味であった。たった二時間しか碇泊しない船へ帰る途中、我々は貝をさがし求めたが、土地の人々は我々を、いやそうな、非友誼的な目つきで凝視するのであった。この地こそ外国人の上陸に最後まで反対した場所なので、人々の目つき、動作、すべて外夷に対する反感を露出していた。

私は一つの石の橋を、急いで写生することが出来た。石の橋はいたる所で見受ける。その多くは木造の橋とまったく同じに建造されてあるが、横桁、支柱、手摺等は、図590に示す如く、石を刻んだものである。

七時、我々は長崎へ向けて出帆した。美しい小島が沢山あったことよ! 薩摩と肥後とで、いずれかといえば心身を疲労させるような、忙しい旅行をした後なので、家へ帰りつつあるような気持がした。我々の汽船は、私がこれ迄乗った船の中で、一番小さいものだった。それは、私が一方の舷へ歩いて行くと、その方向へ傾く程、小さくて、そしてグラグラしていた。船長が、天気が悪い為に数日出帆をのばしたのも、ことわりなる哉である。
翌朝我々は、長崎に着いた。ここで私は再び欧風の食物と、腰をかける可き椅子と、物を書く可き石油燈ランプをのせた卓子テーブルとを見出した。日本に住んで私は、食物よりも卓子の無いことに気がつく。日本の食物には段々馴れて来る。勿論珈琲コーヒーや牛乳やパンとバタが無くて暮すことは、物足らぬが、字を書き図を引く為に床の上に坐ることは、窮屈で苦痛で、疲れている時など、殆ど不可能である。私は長崎に数日滞在して、肥後から持って来た生きたサミセンガイと、ここの湾で網で曳いた小さな descina〔腕足類の一〕とを研究した。米国領事のマンガム氏夫妻は非常に親切にしてくれた。彼等は私の顕微鏡のために、彼等の家の立派な部屋を一つ提供してくれたばかりでなく、長崎にいる間は毎日正餐に来いと云い張った。ホテルが甚だ貧弱だったので、一日に一度ちゃんとした食事を口にするのは、誠にたのしいことであった。
町を貫いて流れる川には石の拱橋がいくつかかかっていて、そのある物は非常に古い。図591はこれ等の橋の形式を示している。男の子たちが橋からあげる紙鳶は図592で示す。北方の紙鳶には似ていず、二つの輪は全然黒い。別の形や意匠のもあるが、ここに現したものが最も一般的であるらしく思われる。

計器――液体用も乾燥物用も――の多くは、まるくなくて四角い。穀物をはかる乾燥物計器には、計器の上端と全く同じ高さに於て、一片が一つの隅から対角隅へ渡してある(図593)。図594は便利な柄のついた酒計器で、すぐ横に酒樽がある。

長崎は鼈甲べっこう細工で有名である。鼈甲の細工場を訪れたら面白かった。いかなる職であっても工人は床に坐るのであるが、ここでは前に述べた方法で坐らずに、トルコ人のように脚を交叉させて坐る(図595)。彼等が鼈甲の薄い板をこねたり溶解したりしてくっつけ合わせるらしいのには驚いた。彼等は巨大な鉄製のヤットコ鋏を火炉(図596)で熱して使用し、鼈甲板を押し合わせたり、屈曲したり、あるいは他の形をつくったりする。

長崎から神戸へ帰る途中、我々は再び下関海峡を通過し、低い家屋が長く立ち並ぶ下関村の沖に投錨した。ここの人々は外国人に対して非常に反感を持っていると聞いたが、数年前四つのキリスト教国の軍艦が残酷にも砲撃したことを思えば、それも当然である。我々は上陸し度いと思ったが、日本人の事務長に、外国人はめったに上陸しないといわれた。日本人がどこへ行っても丁寧であることに信頼している私は、私の旅券がこの場所は勿論地方さえも含んでおらぬにかかわらず、どうしても上陸しようと決心した。私は事務長に向って、干潮時に於るここの海岸を瞥見することは大学にとって極めて重大であると話した。そこで彼は私に、彼の小舟で岸まで行くことを許した。海岸を瞥見した私は、町の主要街路を歩き廻り、一軒ごとに店舗をのぞき込んだ。私には外国人が「有難からぬ人」であることが、すぐ判った。私は乱暴に取扱われはしなかったが、まったく相手にされなかったのである。子供達は、まるで私が悪魔ででもあるかの如く私から逃げ去り、一人の可愛い男の子は、私がたまりかねて頭を撫でると、嫌でたまらぬ外国人の愛撫を受けるのには、最大の勇気を必要とするとでもいった具合に、息を殺していた。
神戸で我々は曳き網をする可く数日滞在し、私は数度田舎へ遠足をした。ホテルで私は、長崎で私に郵便物の大きな包みを持って来て呉れた英国砲艦の軍医に会った。我々は食事を共にし、彼は私の郵便物に関する詳細を聞かせてくれた。この砲艦が鹿児島に向けて長崎を出帆する時、司令官は郵便物が来たら鹿児島へ廻送するようにといい残した。鹿児島へ着くと、郵便物の大きな包が届いたが、陸路長崎へ送り返されたということであった。附近二百マイル以内に外国人がいるということを知らぬ彼等は、自然この郵便物が彼等にあてたものであると思った。彼等は長い間故郷から手紙を受取っていないので、皆、郵便にかつえていた。鹿児島からの帰途、彼等は郵便を途中で受取るべくある場所に立ち寄ったが、それはすでにその地を通過した後であった。翌朝、沿岸のもっと北の方で、司令官以下の士官達が船室にいた時、郵便物の包が艦上に持ち来たされ、彼等はみな大よろこびで卓テーブルをかこみ、包を引き破った。司令官が宛名を読み上げた時、私の名前に投げられた言葉を聞いたならば、それは私の教育にはならなかっただろうと軍医がいった。それ等の言葉たるや、私を呪罵することから、一体こいつは誰なんだという質問にまで及んだ。一から十まで、私にあてた郵便だったのである!
大阪にいる間に、我々は大阪を去る十二マイルの服部川と郡川の村に、ある種の古代の塚があるということを聞いた。我々は人力車に乗って完全に耕された大平原を横切った。目のとどくかぎり無数に、典型的なニューイングランドのはねつるべがある。これは浅い井戸から灌漑用の水を汲み上げるのに使用する。塚はブルターニュやスカンディナヴィアにあるものと同じ典型的なドルメンで、巨大な塚がさしわたし十フィートあるいは十二フィートの部屋へ通ずる長い狭い入口を覆っている。我々はそれ等を非常な興味を以て調べ、そして一千二百年、あるいはそれ以前の人々が、如何にしてこれ等の部屋の屋根を構成する巨大な石を持上げ得たかを、不思議に感じた*。
* これ等の構造は、一八八〇年三月発行の『月刊通俗科学』の五九三頁に、「日本に於るドルメン」と題する一文に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画つきで記述した。
京都から奈良へと、涼しい旅をした。路は、気持のいい森や美しい景色の間を通っている。すでに数多い奈良の魅力に関する記述に、何物かを加えることは、私の力では及びもつかぬことである。この場所のある記憶は、永遠に残るのであろう――静かな道路、深い蔭影、村の街路を長閑のどかに歩き廻る森の鹿、住民もまた老幼を問わず同様に悪気が無い。ラスキンはどこかで、今や調馴した獣を野獣化することに努力しつつある人間が、同様の努力を以て野獣を調馴することに努めるような時代の来らんことを希望するといっている。事実、日本の野生の鳥類や哺乳動物は、多くの場合我国の家禽や家畜よりも、余程人に馴れている。
奈良は日本の古代の首都であった。神聖な旧古の精神がいまだにこの地に漂っている。人は荘厳な古社寺の研究に数週間を費し得る。高い柱の上にのっている驚く可き古い木造の倉庫は、千年前、当時の皇帝の所有物を保存するために建てられた。これは確かに日本の驚異の一つである。この建物の中には、事実皇帝が所有した所の家庭用品や道具類、即ち最も簡単な髪針ヘアピンから、ある物は黄金を象嵌した最も精巧な楽器に至る迄、及び台所道具、装飾品、絵画、書籍、陶器、家具、衣類、武器、歩杖、硯、墨、扇――つまり宮殿の内容全部が保存してある。この蒐集が如何に驚嘆すべき性質のものであるかを真に理解する為には、アルフレッド王に属した家庭用品を納めた同様な倉庫が、英国にあるとしたら……ということを想像すべきである。一年に一回、政府の役人がこの倉庫の唯一の入口を開き、内容が湿気その他の影響によって害されていることを確めるための検査を行う。幸運にも私は、この年一回の検査の時奈良に居合わせた。そして役人の一人を知っていたので、彼等と共に建物の内部に入ることと、古い陶器を写生することとを許可された。厳かな役人達の恭々しい態度には興味を覚えた。すべて白い手袋をはめ、低い調子で口を利いた*。
* 数年後日本の政府は、これ等の宝物を、それ等の多くの美しい絵と共に説叙した本を出版した。
奈良から京都へ至る人力車の旅は、この上もなく気持がよかった。道路は、茂った森林の間をぬけては魅力に富んだ開濶地に出、最も純粋な日本式生活が随所に見られた。この国の美を心行くまで味う方法として、人力車に乗って行くに如くものはない。人力車に乗ることは、まるで安楽椅子によっかかっているようで、速度は恰度身体に風が当たる程度であるが、而も目的地に向って進行しつつあることを理解させるに充分な丈の速さを持っている。ある場所で我々は河を越したが、深い砂地の堤を下りる代りに、平原の一般的高さよりも遙か高所にある河を越す可く、ゆるい傾斜を登るのであった。河は文字通り、尾根を縦走している! 何世紀にわたって河は、山から押流された岩屑を掘り出す代りに、両岸に堤を積み上げ積み上げすることに依て、その流路に制限されて来た結果、河床は周囲よりもきわ立って高くなり、まるで鉄道の築堤みたいになっている。路の両側には、徒渉場にさしかかろうという場所に、深い縦溝を掘った石柱があり、大水の時には水が道路を洗い流すのを防ぐ可く、これ等の溝に板をはめ込む。
京都の近郊は芸術と優雅の都、各種の点から興味の多い都のそれとして、如何にもふさわしいものである。清潔さ、厳粛さ、及び芸術的の雰囲気が人を印象する。数ある製陶の中心地――清水、五条坂、粟田――を訪れたことは、最も興味が深かった。粗野な近接地と、陶器の破片で醜くされた周囲と土地とは見出されず、まるでパリに近い有名な工房でも訪問しているようであった。奇麗な着物を着た附近の子供達は、我々が歩いて行くと、丁寧にお辞儀をした。製陶所の入口は控え目で質素であり(図597)、内へ入ると家長が出て挨拶し、即座に茶菓が供された。見受ける所、小さな男の子や女の子から、弱々しい体力で、ある簡単な仕事の一部を受持つ、老年の祖父までに至る家族の者だけが、仕事に携わるらしかった。製作高は、外国貿易の為の陶器(図598)で日本語では「ヨコハマ・ムケ」即ち横浜の方角、換言すれば輸出向きを意味する軽蔑的な言葉で呼ばれるものを除くと、僅少である。この仕事には、多数の家族以外の者が雇われ、十位の男の子が花、胡蝶その他、日本の神話から引き出した主題ではあるが、彼等の国内用品の装飾が繊美にも控え目であるのと反対に、これはまた胸が悪くなる程ゴテゴテした装飾を書きなぐっている。外国人の需要がある迄は、直系の家族だけが、心静かに形も装飾も優雅な陶器を製作していたのである。今や構内をあげて目の廻る程仕事をし、猫と杓子とその子供達とが総がかりで、バシャリバシャリ、何百何千と製造している。外国の代理人から十万組の茶碗と皿との注文があった。ある代理人が私に話した所によると、「出来るだけ沢山の赤と金とを使え」というのが注文なのである。そして製品の――それは米国と欧洲とへ輸出される――あわただしさと粗雑さとは、日本人をして、彼等の顧客が実に野蛮な趣味を持つ民族であることを確信させる*。而もこれ等の日本製品が我国では魅力に富むものとされている。

* 一年後、私は我国で同様な実例に遭遇した。ミネアポリスで私は招かれて、大きな百貨店を見物した。その店のある階床フロアには固護謨ゴム製の品を山と積んだ卓子が沢山あった。櫛、腕輪、胸にさす留針ピン、安っぽい装身具、すべて言語に絶した野蛮な物である。私はこのようなひどい物は、最も貧乏な生物でさえ身につけたのを見たことが無いので、一体誰がこれを買うのだと質問せざるを得なかった。返事によると、それ等は北西部地方への品だとのことであったが、本当の未開人だってこれ等に我慢出来る筈は無いから、恐らく混血児やアメリカインディアンと白人種との雑種が買うのであろう。だが、一体どこでこれ等は製造されるのかと、私はたずねた。製地はボストンを去る五十マイルのアットルボロであった!
前にもいったが陶器師の数はすくなく、製品を乾すために轆轤ろくろ台から棚へはこぶ幼い子供から、あるいは盲目であっても陶土を轢ひいたり(図599)、足で陶土をこねたり(図600)することが出来る老人にいたる迄、家族の全員が仕事をする。私は京都で陶器の細工や歴史に関して、非常に多くの質問をしなければならなかったが、それ等の会見談を得る為には、あらかじめ少額の金員を贈ると好都合だろうといわれた。希望する情報を得るために、あらかじめ一ドルか二ドル贈るとは変でもあり、また如何にも慾得ずくであるらしく思われるが、而も我等は忙しい人を、彼が費す時間に対する何等の報酬なしに煩す権利を持っているのか。更に私は、我国にあっては、百万長者でさえも、十ドルか二十ドルの餌を適当な報酬として釣り出さねば、忙しすぎて取締役会議に出席しないという事実に気がついた。これ等の会見談――それは陶工の歴史と起原、代々の数、各異の家族や代によって使用される各異の刻印の形状等を質問したもの――は、通訳を通じた辛抱強く且つは労苦多き質問の結果である。

私は支那の型に依てつくられた竈かまどの急いだ写生を沢山した*。竈は丘の斜面に建てられ、その各々が長さ八フィート乃至十フィート、高さ六フィート、幅三フィートで、一つの横に一つという風に並んでいる。図601はその排列を示している。それ等は煉瓦と漆喰しっくいとの単一の密実な塊である。竈は一端で開き、相互に穴で通じている。一番下の竈に火をつけると熱は順々にそれぞれの竈を通りぬけて、最後に上方の竈の粗末な煙筒えんとつから出て行く。この方法に依て熱の流れが最後の竈に到るまで、すべての熱が利用される。最初の竈が充分熱せられると、細長い棒の形をした燃料が第二の竈の底にある小さな口から差し入れられ、次に第三のという具合に、最後にすべてが充分熱くなり、陶器が完全に焼かれる迄行われる。このことは、各々の竈の上端にある口から、試験物を見て確かめる。

* その後広東カントンを去る四、五十マイルの内地で見た物にくらべると、これ等は余程丈夫でも密実でも無い。
日曜日ごとに蜷川が、私がその週間に蒐集した陶器を鑑定するべく、私の家へ来る。ある日私は彼を勾引し、拒む彼を私の人力車に乗せて写真師のところへつれて行き、彼の最初にして唯一の写真をとらせた。蜷川は京都人で、彼の姉はいまだに京都で、三百年になるという古い家に住んでいる。彼は私に、彼女への紹介状をくれたので、私は彼の写真を一枚持って彼女を訪問したが、蜷川の写真を見た彼女のよろこびは非常なもので、おかげで私はその家の内部や外部を詳しく調べることが出来た*。
* この家庭と庭園との写生図は、『日本の家庭』に出ている。
京都に於る私の時間の大部分は各所の製陶所で費され、それ等でも有名な道八、吉左衛門、永楽、六兵衛、亀亭等から私の陶器研究の材料を大いに手に入れ、彼等の過去の時代の家族の歴史、陶器署名の印象等を聞き知った*。
* このことはボストン美術博物館で出版された私の『日本陶器のカタログ』に出ている。
京都から我々は、大阪へ引きかえした。ここで私が東京で知合いになった学生の一人小川君が、私をもてなしてくれようとしたが、私が日本料理に慣れ且つそれを好むことを知らない彼は、西洋風に料理されそして客に薦められると仮定されている物を出す日本の料理屋へ私を招いた。日本人は、適当に教えられれば素晴しい西洋料理人になれる。私はそれ迄にも日本の西洋料理屋へ行った経験はあるが、何が言語道断だといって、この大阪に於る企みは、実にその極致であった。出る料理、出る料理、一つ残らずふざけ切った「誤訳」で、私は好奇心から我々の料理を食った日本人は、どんな印象を受けたことだろうと思って見た。
虎疫コレラが大流行で、我々は生のもの、例えば葡萄ぶどうその他の果実や、各種の緑色の物を食わぬようにせねばならぬ。加之しかのみならず、冷い水は一口も飲んではいけない。お茶、お茶、お茶と、朝昼晩及びその他あらゆる場合、お茶ばかりである。だがお茶といえば、友人の家でも商店でも、行く先で必ずお茶が出されるのは、日本に於て気持のいい特徴の一つである。その場所が如何に貧しく且つ賤しくとも、この礼儀は欠かぬ。同時に我々は、日本風の茶の入れようが如何にも簡単で、クリームも砂糖も入れずに飲むのであることを知っていなくてはならぬ。道路に沿うては、間を置いて小さな休憩所があり、そこでは通行人にお茶と煎餅数枚とをのせたお盆が差し出され、これに対して一セントの価格を持つ銭をお盆に入れる習慣がある。公開講演をする時には、おきまりの冷水を入れた水差とコップとの代りに、茶瓶と茶碗とをのせたお盆が机の上に置いてある。大学では先生達に出すお茶を入れるのに一人がつき切りで、一日中、時々彼は実験室に熱いお茶を入れた土瓶を持って来る。お茶は非常に弱いが、常に元気づける。数世紀にわたって日本人は、下肥しもごえを畑や水田に利用する国で、水を飲むことが如何に危険であるかを、理解し来ったのである。
紙屋の店で見受ける非常に綺麗な品は、封筒と書簡紙とである。封筒は比較的新しく、外国の真似をした。以前は恰度我々が封筒発明前にやったと同じく、手紙を畳む一定の、形式的な方法があった。書簡紙は、幅六インチあるいはそれ以上の長い巻物である。書くのは右から始め縦の行である。それには筆を使い、用あるごとに墨をする。巻物は弛んでいる方の端から書き始めるのだが、それ自身が書く紙を支持する役に立つ。一行一行と書かれるに従って、紙は巻きを解かれ、手紙が書き終られた時にはその長さが五、六フィートに達することもある。そこで紙を引き裂き、再び緩やかに巻いて、指で平にし、巻紙よりすこし長くて、幅は二インチあるいはそれ以上ある封筒の一端からすべり込ませる。封筒は――屡々書簡紙も同様だが――彩色した美しい意匠で魅力的にされている。書簡紙には書く文字の邪魔にならぬ程度の淡色で、桜の花、花弁、松の葉、時としてはまとまった山水等が、ほのかに出してある。封筒の絵はもっとはっきりしているが、宛名の邪魔にならぬように、概して辺に近く置かれる。この意匠が、数限りなく多種多様なのには驚かされる。主題の多くは外国の事物から取ったもので、この上もなく散文的であるが、達者な芸術家の手によって、魅力あるものにされている。意匠の多くは、日本の民話や神話を知らぬ者にとっては、謎である。が、即座にその意味の判るものもある。例えば、前景に湯気の立つ土瓶が、遠景に鉄道の列車があるものや、稲妻と電信柱とがあるものは、蒸気や電気の発見の原因が理解されていることを示す。
私の同僚メンデンホール教授は、この頃昆虫や蝸牛かたつむりの運動の速度に興味を持っている。蝸牛の大きな種の進行時間を注意深くはかった結果、彼はそれが一マイル進むのに十四日と十八分を要することを見出した。また蟻ありの普通な種の速度を計った結果、普通に歩いて蟻は、一マイル行くのに一日と七時間かかることを知った。これ等はごくざっとした計算である。
日本人は親の命日を神聖に記憶し、ふさわしい儀式を以てその日を祭る。祖父母の命日でさえも覚えていて、墓石の前に新しい花や果実を供えて祭る。仏教徒もまた、死者に対する定期の祭礼を持っている。この場合の為に奇妙な形をした提灯ちょうちんがつくられる(図607)が、二百年以上にもなる絵画にも、同じような提灯が出ている。

再び、一寸大阪を訪れた私は、沢山ある名所の二、三を見ることが出来た。この大都会には世界有数の青銅の鐘や、一千年前に朝鮮から持って来たという金色の仏陀のある古い寺や、その他興味のある事物が多い。これ等の場所はすべて面白くはあるが、私はそれ等が既に案内書や独特な紀要に書かれてあることを知り、本書では全体との釣合上、研究家や旅行者に依て看過される、些細なことのみを写生し、且つ記録することに努めたのである。
大阪を訪れる者は必ず、一五八三年に秀吉が建造した有名な城の跡を見るべきである。この廃墟は高地にあるが、その頃としては、この城は殆ど難攻不落であったに違いない。一六一五年、第二回の攻撃に逢って落城し焼かれたのであるが、城壁を構成する巨石の角々がまるくなっているのは、大火の高熱が原因している。私は勝手に歩き廻ることを許され、また自由に写生するのを、誰も制止しなかった。図608は城の最高所で、図609は外壁である。中央にある巨石は長さ三十五フィート、厚さ高さ各々十フィートを越している。これ等の石は五十マイル乃至百マイルの所から舟で運ばれて来たのであるが、その中のある物の巨大さを見ると、どうしてこれを切り出したか見当がつかぬ。更にそれ等を如何様に運搬し、現在廃墟の立っている高地まで如何にして曳き上げたかは、到底判らない。蒸気起重機、水力装置、その他の現代の設備によって、これ等の巨石を据えつけたのではない。而もエジプト人はその二千五百年前、すでに同様の不思議を行っている。日本人の小形な家や庭、可愛らしい皿、彼等の生活に関係のある繊細な物品等に馴れた人にとっては、日本人と巨大な建造物とを結びつけることが困難であるが、而も大阪城は、その城壁の巨人的構造に於て、実に驚異というべきである。京都と大阪の巨鐘、鎌倉と奈良の大仏、大きな石の鳥居、その他大きな建造物の例はすくなくないが、古い城や城壁や、また欧洲で教会堂が他のすべてを圧すると同様に、住宅の上に聳える寺院を除くと、建造物は普通小さくて繊麗である。

大阪では、天産物と製造物との展覧会が開かれつつあり、各種の物品で一杯だった。日本人の特性は、米国と欧洲とから取り入れた非常に多数の装置に見られた。ある国民が、ある装置の便利さと有効さとを直ちに識別するのみならず、その採用と製造とに取りかかる能力は、彼等が長期にわたる文明を持っていた証例である。これを行い得るのは、只文明の程度の高い人々だけで、未開人や野蛮人には不可能である。この展覧会には、大阪附近で発掘した舟の残部が出ていた。保存された部分は、長さ三十五フィート、幅四フィート半、深さ二フィートである。それは相鉤接した三つの部分から出来ていたが、その二部分を接合させる棒が通りぬける為の横匝線が残るように、木材が舟底で細工してあった。大分ひどく腐蝕していて、その構造の細部は鑑識が困難であった(図610・611・612)。それは千年以前のものとされていた。現在でも鹿児島湾で二つの部分に分たれた舟を見受けるのは、不思議である(図568)。

蚊は日本に於る大禍患である。既に述べた大きな、四角い、箱に似た網のお陰で、人はその中に机と洋燈ランプとを持ち込んで坐ることが出来る。私は、夏と秋とは、このようにして書き物をすることが出来た。
私の子供達は、彼等自身の衣服よりも夏涼しいというので、早速日本服を着用した。日本人の大学教授の多くも、長い袖や裾のある和服よりも洋服の方が便利だとて、洋服を着ているが、それにもかかわらず、和服は夏涼しく冬温かいことを発見し、寒暑の激しい時には和服を着る。 
第十八章 講義と社交
私の動物学の学級のための試験問題を準備するのに、多忙を極めた。今日の午後、私は四時間ぶっ続けに試験をしたが、私は学生達を可哀想だと思った。彼等はここ一週間、化学、地質学、古生物学、植物学の試験を受けて来たのである。これ等の試験はすべて英語で行われる。英語は、彼等が大学へ入学する迄に、完全に知っていなくてはならぬ語学なのである。
世界一周旅行の途にあるグラント将軍は、目下彼の夫人、令息及び著作家ヤング氏と共に日本にいる。東京と横浜の米国人が、上野公園で彼の為に晩餐と招待会とを開いた。私は、申込金は払ったが、かかる事柄に対する暇が無いので、特別に行き度いとも思っていなかった。然し友人達が私に適当なことはした方がいいとすすめるので、いやいやながら晩餐会に出席した。私は永い列をつくった他の人々と一緒に順番にグラント将軍に紹介され、彼に対して先入主的な僻見を持っていたにかかわらず、彼の静かな、品のよい、而も安易な声調に感心した。私と一緒に行った娘は、大きにこの会をよろこんだ。戸口の近くに立っていた娘に向って、グラント将軍は話しかけ、彼女の手を取り、そして六尺豊かの大きくて頑丈な彼の令息を「私の小忰」に関する諧謔的な言葉と共に、彼女に紹介した。彼を凝視した時、我国の新聞紙の言語道断な排毀に原因する私の僻見は、即座に消え去った。他の人々が子息たちをこの招待会に連れて来ているので、私は静かに退場し、人力車で加賀屋敷へ急ぎ、熟睡している私の九歳になる忰を起し、着物を着せ、そして急いで会場へ連れて行った。後年彼が、この偉大な将軍に会ったことを、記憶に残させようとしたのである*。
* その後好運なる偶然の結果、我々はグラント将軍と同じ汽船でサンフランシスコへ戻り、彼は私の忰に西洋象棋チェスのやり方を教えて呉れた。
食事の時グラント将軍は、酒類は如何なる物も一切口にせず、私は、彼が大酒家であるという噂が、飛んでもない誇張であるということを聞いた。工科大学に於る彼の招待会は、この上もなく興味が深かった。古風な、而も美しい宮廷服を着た王妃や内親王、奇妙な、装飾沢山な衣服に、赤い馬の尻尾のような羽根をぶら下げた白い円錐形の帽子をかぶった支那公使館員、風変りな衣裳に儀式用の帯を結び、類の無い頭装をした朝鮮人、勲章を佩おびた欧洲の役人達――これ等は私にとっては皆目新しく、そして興味があった。
四十人の若い娘の一級クラスを連れて来た、華族学校の先生数名は、非常に奇麗だった。彼等は皆美しい着物を着ていて、沢山いた外国人達を大いに感心させた。和服を着た人々の群を見ると、そのやわらかい調和的な色や典雅な折り目が、外国の貴婦人達の衣服と著しい対照を示す。小柄な体躯にきっちり調和する衣服の上品さと美麗さ、それから驚嘆すべき程整えられ、そして装飾された漆黒の頭髪――これ位この国民の芸術的性格を如実に表現するものはない。この対照は、彼等が洋服を着用するとすぐさま判る。その時の彼等は、時としては飛んでもない外観を呈するのである。少女達と彼等の先生との可愛らしい一群は、彼等が惹起した崇拝の念に幾分恥しがりながら、広間の中央に近く、無邪気な、面喰った様な容子で立った。私は一人の日本人に、彼等をグラント将軍が他の人々と一緒に、立って引見している場所へ連れて行かせた。其後私は、誰も彼等に氷菓アイスクリームや菓子ケーキを渡さぬのに気がつき、一人の日本人に手つだって貰って、彼等にそれ等をはこんでやった。彼等はすべて壁に添うて畳の上に一列に坐っていたが、彼等にとっては、氷菓と菓子のお皿を手に持つことがむずかしく、自然お菓子の屑が床に落ちた。また溶けて行く氷菓の一滴が美しい縮緬ちりめんの衣服に落ちたりすると、彼等は笑って、注意深く、持っている紙でそれを取り除く。この紙はまるでポケットに似た袂に仕舞い込み、最後に立ち去る時には、注意深く畳を調べ菓子の屑を一つ残らず拾い、あとで棄てるように紙につつむのであった。貴族の子女がかかる行儀作法を教え込まれているということは、私には一種の啓示であった。
私は華族の子弟だけが通学する華族学校で、四回にわたる講義をすることを依頼された。校長の立花子爵はまことによい人で、私が発した無数の質問に、辛抱強く返事をしてくれた。私の質問の一つは、長い間別れていた後に再会した時、日本人は感情を表現するかということであった。私は、日本人の挨拶が如何にも冷く形式的で、心からなる握手もしなければ抱擁もしないことに気がついたので、この質問を発したのである。彼は日本の貴族が、長く別れていた後では、抱擁を以て互に挨拶することも珍しく無いといい、実例を示す為に私の肩に両腕を廻し、そして愛情深く私を抱きしめた。その後、私は、私を彼の「アメリカのパパ」と呼ぶ可愛らしい少年(今や有名な法律家で、かつてドイツ及び北米合衆国の日本大使館の参事官をしていた)に、彼の父親が、長く別れていた後で、両腕に彼を抱き込まぬかと聞いた。彼は「そんなことは断じて無い」と答えた。「然しお父さんは如何にして彼の愛情を示すのか?」「彼はそれを目で示すのです。」その後私は、彼の父親が遠方の町から私の家へ来て、息子に挨拶するのを見たが、なる程彼の両眼には、この上もなく優しい親の慈愛が輝いていた。
華族学校は、間口二百フィート以上もある、大きな木造の二階建で、日本人が外国風を真似て建てた多くの建物同様、納屋式で非芸術的である。両端には百フィートあるいはそれ以上後方に突出した翼があり、それ等にはさまれた地面を利用して大きな日本の地図が出来ている。これは地面を山脈、河川、湖沼等のある浮彫地図みたいに築き上げたもので、湖沼には水が充してあり、雨が降ると河川を水が流れる。富士山の頂上は白く塗って雪を示し、平原には短い緑草を植え込み、山は本当の岩石で出来ている。都邑はそれぞれの名を書いた札によって示される。大海には小さな鼠色の砂利が敷き詰めてあるが、太陽の光線を反射して水のように輝く。この美しくて教育的な地域を横切って、経度と緯度とを示す黒い針金が張ってある。小さな娘たちが、彼等の住む町や村を指示する可く、物腰やさしく砂利の上を歩くところは、誠に奇麗な光景であった。日本の本州はこの地域を斜に横たわり、長さ百フィートを越えていた。それは日本のすべての仕事の特徴である通り、精細に、正確に設計してあり、また何百人という生徒のいる学校の庭にあるにもかかわらず、完全に保存されてあった。私はまたしても、同様な設置が我国の学校園にあったとしたら、果してどんな状態に置かれるであろうかと考えさせられた。
私はこの学校で初めて、貴族の子供達でさえも、最も簡単な、そしてあたり前の服装をするのだということを知った。ここの生徒達は、質素な服装が断じて制服ではないのにかかわらず、小学から中等学校に至る迄、普通の学校の生徒にくらべて、すこしも上等なみなりをしていない。階級の如何に関係なく、学校の生徒の服装が一様に質素であることに、徐々に注意を引かれつつあった私は、この華族女学校に来て、疑問が氷解した。簡単な服装の制度を立花子爵に質問すると、彼は、日本には以前から、富んだ家庭の人々が、通学する時の子供達に、貧しい子供達が自分の衣服を恥しく思わぬように、質素な服装をさせる習慣があると答えた。その後同じ質問を、偉大なる商業都市大阪で発したが、同じ返事を受けた。
この学校に於る私の最後の講義には、皇族方や、多数の貴族やその家族達が出席された。率直さや礼儀正しさによって、まことに彼等は貴族の名に辱じぬものがある。彼等の動作の、すこしもてらう所無き魅力は、言語に現し得ぬ。これは興味の深い経験であった。そして、通訳者を通じて講義せねばならぬので、最初は窮屈だったが、遂に私は一度に一章を云うことに慣れ、それを私の通訳者たる矢田部教授が日本語でくり返した。この最後の講義の後で、西洋風の正規の正餐が出たが、それは大したものであった。正餐に臨んだ人数は三百五十人で、私はひそかに彼等の動作や行動を視察した。静粛な会話、遠慮深い謝礼、お辞儀や譲り合い、それ等はすべて極度の率直さと、見事な品のよさで色どられていた。
私は福沢氏の有名な学校で講演する招待を受けた。日本で面会した多数の名士中、福沢氏は、私に活動力も知能も最もしっかりしている人の一人だという印象を与えた。私は、実物や黒板図に依て私の講演を説明し、自然淘汰の簡単な要因を学生達に判らせようと努力した。この種の経験のどれに於ても、私は、日本人が非常に早く要点を捕えることに気がついたが、その理由はすぐ判った。日本人は、米国人が米国の動物や植物を知っているよりも遙かに多く、日本の動植物に馴染を持っているので、事実田舎の子供が花、きのこ、昆虫その他類似の物をよく知っている程度は、米国でこれ等を蒐集し、研究する人のそれと同じなのである。日本の田舎の子供は、昆虫の数百の「種」に対する俗称を持っているが、米国の田舎の子供は十位しか持っていない。私は屡々、彼の昆虫の構造上の細部に関する知識に驚いた。
一例として、私が一人の小さな田舎の子で経験したことを挙げよう。私は懐中拡大鏡の力をかりて彼に、仰向けに置かれると飛び上る叩頭虫こめつきむしの、奇妙な構造を見せていた。この構造を調べるには鏡玉レンズが必要である。それは下方の最後の胸部環にある隆起から成っており、この隆起が最初の腹部切片にある承口にはまり込む。叩頭虫は背中で横になる時、胸部と腹部とを脊梁形に曲げ、隆起は承口を外れてその辺にのりかかる。そこで身体を腹面の方に曲げると、一瞬間承口の辺で支えられる隆起は激烈な弾き方を以てピンと承口の中へはまり込み、その結果虫が数インチ空中へ飛び上る。さてこの構造をよく知っているのは、我国では昆虫学者達にとどまると思うが、而もこの日本の田舎児はそれを総て知っていて、日本語では米搗つき虫というのだといった。蹴爪即ち隆起が臼の杵と凹くぼみとを現しているのである。彼は然し、この構造を精巧な鏡玉で見て大きによろこんでいた。
講演後福沢氏は私に、学生達の素晴しい剣術を見せてくれた。彼等は皆剣術の甲冑を身につけていた。それは頸部を保護する褶かさねと、前方に顔を保護する太い鉄棒のついた厚い綿入れの冑と、磨いた竹の片で腕と肩とを余分に保護した、つっぱった上衣とから成っている。上衣には綿入れの褶数片が裾として下っている。試合刀は竹の羽板を数本しばり合わせたもので、長い日本刀に於ると同じく、両手で握るに充分な長さの柄がついている。大なる打撃は頭上真直に来るので、両手で試合刀を縦に持ち、片方の手を前方に押すと同時に下方の手を後に引込ます結果、刀は電光石火切り降される。
学生達は五十人ずつの二組に分れ、各組の指導者は、自分を守る家来共を従えて後方に立った。指導者の頭巾ずきんの上には直径二インチ半で、糸を通す穴を二つあけた、やわらかい陶器の円盤があり、対手の円盤をたたき破るのが試合の目的である。丁々と相撃うつ音は恐しい程であり、竹の羽板はピシャンピシャンと響き渡ったが、もっとも撲った所で怪我は無い。福沢氏は、有名な撃剣の先生の子息である一人の学生に、私の注意を向けた。彼が群衆をつきやぶり、対手の頭につけた陶盤をたたき潰した勢は、驚く可きものであった。円盤は数個の破片となって飛び散り、即座に争闘の結果が見えた。学生達は袖の長い籠手こてをはめていたが、それでも戦が終った時、手首に擦過傷や血の出るような掻き傷を負った者がすくなくなかった。 
第十九章 一八八二年の日本
二ヶ年と八ヶ月留守にした後で、一八八二年六月五日、私は三度横浜に到着し、又しても必ず旅行家に印象づける音と香と光景との新奇さを味った。日本の芸術品を熱心に崇拝し、そして蒐集するドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウが、私の道づれであった。我々が上陸したのは夜の十時だったが、船中で死ぬかと思う程腹をへらしていた我々は、腹一杯食事をし、降る雨を冒して一寸した散歩に出かけた。ホテルに近い小川を渡り、我々は本村と呼ばれる狭い町をブラブラ行った。両側には小さな店が櫛比しっぴしているのだが、その多くは閉じてあった。木造の履物をカタカタいわせて歩く人々、提灯ちょうちんのきらめき、家の内から聞える声の不思議なつぶやき、茶と料理した食物との香、それ等のすべてが、まるで私が最初にそれを経験するのであるかの如く、興味深く感じられた。
翌朝我々は東京へ行き、人力車で加賀屋敷へ行った。銀座と日本橋とが、馬車鉄道建設のために掘り返されているので、我々はお城の苑内を通行し、お堀を越したり、また暫くその横を走ったりした。本郷へ来ると何等の変化がないので、悦しかった。角の時計修繕屋、顎の無い奇妙な小人、トントンと魚を刻む男、単調な打音を立てる金箔師、桶屋、麦藁帽子屋――彼等は皆、私が三年近くの前に別れた時と同じように働いていた。加賀屋敷には大変化が起っていた。前にドクタア・マレーが住んでいた家の後には、大学の建物の基礎を準備するために、大きな納屋がいくつか建ててある。ドクタア・マレーの家には大きなL字形がつけ加えられ、この建物は外国の音楽を教える学校になるのである。ボストン市公立学校の老音楽教師ドクタア・メーソンが教師とし雇われて来ているが、彼が今迄にやりとげた仕事は驚異ともいう可きである。彼は若い学生達と献身的に仕事をした結果、すでに信じ難い程度の進歩を示すに至った。外国人は日本の音楽を学ぶのに最大の困難を感じるが、日本の児童は我々の音楽を苦もなく学ぶものらしい。
日本へ来る船中で私は進化論に関する講演を三回やり、北米合衆国の汽船ペンサコラに救助されてサンフランシスコへ連れて来られた、十三人の日本の遭難漁夫のために、五十ドル以上を集めた。汽船の士官たちは、彼等の為に五十ドルを集め、彼等に衣服を与えた。ペンサコラという名のついた帽子をかぶって紺色の制服をつけた彼等は、まことに変な格好であった。我々は同船して来た日本の商人、田代氏と共に両替屋へ行き、私は私の金を日本の紙幣に替えて殆ど九十円を手にした。我々はそこで難破船の乗組達が、生れ故郷へ送り返されるのを待っている日本の旅館へ行った。田代氏は彼等の中の何人が家族を持っているかを確かめた。数学の大仕事をやった揚句、私は各人に三円、女房一人につき二円、子供一人につき一円ずつをやることが出来ることを算出した。彼等が示したうれしさと感謝の念とは、見ても気持がよかった。金額はすくないが、各人にとって、これは一ヶ月の収入、あるいはそれ以上なのである。陶器をさがした結果、意外な状態を見た。以前、骨董屋には興味ある品物が一杯あったのだが、今はそれがすくなく、茶の湯が復活して、茶碗、茶入その他の道具が再び使用されるようになったので、茶入は殊にすくなくなった。加之しかのみならず、英国とフランスとで日本陶器の蒐集が大流行を来たし、また米国でも少数の人が日本の陶器の魅力に注目し始め、美術博物館さえがこれ等を鑑識し出した。
二年前に別れた可愛らしい少年宮岡が、今夜私を訪れたが、私には一寸誰だか判らなかった位であった。彼は西洋風の服装をなし、立派な大人になっていた。英語もすこし忘れ、まごつくと吃どもった。翌朝博物館へ行って見ると、加藤総理の部屋に数名の日本人教授が私を待っていてくれた。菊池、箕作みつくり、矢田部、外山の諸教授と、服部副総理がそれである。間もなくドクタア加藤も来た。若し握手のあたたかさや、心からなる声音が何物かを語るものとすれば、彼等は明らかに、私が彼等に会って悦しいと同程度に、私に会うことを悦んだ。九谷焼の茶碗に入った最上のお茶と、飛切上等の葉巻とが一同にくばられ、我々はしばらくお互に経験談を取りかわして、愉快な時をすごした。事務員は皆丁寧にお辞儀をし、使丁達は嬉し気に微笑で私を迎え、私は私が忘れられて了わなかったのだということを感じた。動物学教授の箕作教授と一緒に、私は古い実験室へ入った。昔の私の小使「松」は、相好を崩してよろこんだ。石田氏は一生懸命に繊美な絵を描きつつあった。以前の助手種田氏もそこに居合わせ、すこし年取って見えたが、依然として職務に忠実である。彼は博物館の取締をし、松は今や俸給も増加して、大学の役員の一人になっている。
しばらく見物した上で、我々は往来を横切り、私の留守中に建てられた大きな二階建の建物へ行った。これは動物博物館なのである。帰国する前に行った私の最後の仕事は、二階建の建物の設計図を引くことであった。私の設計は徹底的に実現してある。私が最初につくった陳列箱と同じような新しい箱も沢山出来、そして大広間に入って、私の等身大の肖像が手際よく額に納められ、総理の肖像と相対した壁にかけてあるのを見た時、私は実にうれしく思ったことを告白せねばならぬ。私の大森貝墟に関する紀要に、陶器の絵を描いた画家が、小さな写真から等身大の肖像をつくったのであるが、確かによく似せて描いた。この博物館は私が考えていたものよりも、遙かによく出来上っていた。もっとも、すこし手伝えば、もっとよくなると思われる箇所も無いではないが――。
その午後ドクタア・ビゲロウと私とは、小石川にある高嶺氏の家へ、晩餐に招かれた。宮岡氏と彼の兄さんの竹中氏とが、道案内として我々の所へ来た。家も庭園も純然たる日本風であった。但しオスウエゴ師範学校出身の高嶺氏は、西洋風をより便利なりとするので、一つの部屋だけには、寝台、高い机、卓子テーブル、椅子、その他が置いてあった。高嶺氏は、いろいろ興味ある事物の中の一つとして、矢場を持っていた。私も射て見たが、弓の右に矢をあてがって発射する方法が、我々のと非常に異うので、弓が至極扱いにくい。彼はまたクロケー場も持っていて、敬愛すべき老婦人たる彼の母堂と、高嶺の弟とがクロケーをやった。若い高嶺夫人は魅力に富み、非常に智的で、英語を自由にあやつる。
六時頃、三人前の正餐が運び込まれた。婦人方や少年達はお給仕役をつとめるのである。それは純日本流な、この上もなく美味な正餐であり、そしてドクタア・ビゲロウがただちに、真実な嗜好を以て、出される料理を悉く平げたのは、面白く思われた。食事が終るに先立って、美しいコト(日本の竪琴ハープ)が二面持ち込まれ、畳の上に置かれた。その一つは高嶺夫人に、他は東京に於て最も有名な弾琴家の一人であるところの、彼女の盲目の先生に属するのである。高嶺夫人は、彼女が巧妙な演奏者であることを啓示した。次に彼女は提琴ヴァイオリンを持って来た。盲目の先生は、弦を支える駒を、楽器のあちらこちらに上下させて、それが提琴と同じ音調になるようにし、彼の琴を西洋音楽の音階に整調した。高嶺夫人が提琴のような違った楽器で、本当の音を出すことが出来るとは信じられぬので、私は、どんな耳をぶち破るような演奏が始るのかと心ひそかに考えた。いよいよ始ると、私は吃驚した。彼女は大いなる力と正確さとを以て、「オウルド・ラング・サイン」、「ホーム・スイート・ホーム」、「グロリアス・アポロ」を弾奏し、盲人の先生はまるでハープでするような、こみ入った伴奏を、琴で弾いた。高嶺夫人は曲譜なしで演奏し、盲目の弾琴家は、いう迄もないが、曲譜なぞは見ることも出来ぬのである。音楽は勿論簡単なものであるが、私を驚かせたのは、その演奏に於る完全な調和音である。彼女はたった四十七日間しか提琴を習っていない。私は、外国の、全然相違した楽器を弾いた高嶺夫人と、彼の楽器を変えて、彼にとってはまったく異物であるところの音調と音階とで、かかる複雑な演奏を行った弾琴家と、そのいずれに感心すべきか知らなかった。我々は、非常に遅くまで同家にいた。この経験は実に楽しかった。
六月十日。私の子供達が行きつけた呉服屋その他の場所で、私は即座に認識され、オ バア サン、ジョン サン、エディ サンはどうしているかと尋ねられた。以前私の車夫をしていたタツが、彼の小さい娘を連れて私を訪問し、次の日には彼の神さんが、タツからの贈物である所の、菓子の一箱を持ってやって来た。
六月十五日。ネットウ、チャプリン、ホウトンの諸教授を送る晩餐会に出席した。この会は、芝公園に新しく建てられた紅葉館という、日本人の倶楽部クラブに属する家で行われた。部屋はいずれも非常に美しく、古い木彫の驚く可き細工が、極めて効果的な方法でそれ等の部屋に使用してある。晩餐は、よい日本の正餐がすべてそうである如く、素晴しいものであった。食事なかばに、古い日本の喜劇が演じられたが、その一つは、一人の男が蚊の幽霊と争闘するものだった。また琴を弾く者達が、不思議な音楽をやった(私は一人の日本人に、ミュージックの日本語は、直訳すると「音のたのしみ」を意味するということを聞いた)。食事が済むと、ゲイシャ達が踊ったり歌ったりし、私が三年前に見た老人の手品師が一芸当をやって見せた。退出に際して、私は菓子と砂糖菓子とが入った箱を貰った。箱は八フィート四方で、薄い白木の板で出来、蓋についた小さな柄は緑色の竹から切り取ったものである(図613)。(私は高嶺から、竹が一年で成長するものであることを聞き知った)。

私は蜷川を訪問した。彼は私に会って、憂欝的メランコリーな愉快を感じたらしく見えた。彼は最後に会った時にくらべて、すこしも年取っていない。私は彼から陶器を百二十七個買ったが、その多くは非常に珍稀である。私は大学に於る生物学会に出席した。この会は、今や三十八人の会員を持っている。私は動物群の変化に就て一寸した話をした。石川氏は、甲殻類の保護色に関するある種の事実を報告した。私が設立した会が存在しているばかりでなく、正規的な月次会をやっているのを見ることは、興味深いものであった。
大学当局は私に、天文観測所のすぐ裏にある小さな家をあてがってくれた。この家には部屋が二つと(その一つをドクタア・ビゲロウが占領する)大きな押入と、日本人の下僕と彼の神さんの居場所とがある。家の後が狂人病院で、我々は時々急性な狂人が発する鋭い叫声によって生気づけられる。狂人の歌を子守歌として、眠りにつくのである。
約束がしてあったので、私の以前の車夫が、私を彼の家へ連れて行く可くやって来た。彼はこざっぱりした身なりをしていて、私が彼を道案内として私自身の人力車で行くことを提言したのに、彼は断じて耳を傾けず、意気揚々私をのせて三マイルの路を走った。彼は尾張に住む父親に貰ったいい家を所有している。彼の神さんと娘は一番上等な着物を着ていて、菓子やお茶が出され、私は彼等の歓迎をうれしく思うことを示そうと努力した。お互の言葉を話さぬ者の間にあっては、会話は困難であるから、我々はお辞儀や微笑によって会話しなくてはならなかった。私は晩飯を食って行かぬかとすすめられたが、他の約束があるので、これは断った。
今宵は精養軒で、日本の教授達が挙行して呉れた西洋式の晩餐会に列席した。ドクタア・ビゲロウもまた招かれた。彼等が私の旧友数名を招待したことを知った時の、私の驚きと悦しさは想像にまかせる。全部日本人で、出席者は三十二人、部屋を廻って一人ずつに挨拶した時、私は一人残らずの名前を覚えていたことを悦しく思った。ある日本人は、彼の英人教授と一年以上も交際しているのに、この英国人がいまだに彼の名前を正しく呼び得ないと語った! 私の以前の特別学生が、今や全部大学或は他の専門学校の教授になり、また私の助手だった人が一時的ならぬ博物館の役員となっているのは、うれしいことであった。外山教授が英語で歓迎の辞を述べ、報知新聞の藤田氏が日本語で演説した。また金子氏は彼の演説中、ドクタア・ビゲロウに言及する所があったので、ドクタアは答辞として、生れて初めての食後演説をやった。彼は、日本人が図画法と彩色法で、日本古来の方法によるべきことの、重大さと必要さとを力説した。この会は確かに私の経験中、最もたのしいものであった。
近所で一軒家が建ちつつあるので、私はその仕事のあらゆる細部を見ることが出来る。インドへ行く途中の、ボストンの建築家グリノウ氏は私に、日本の横材を※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)刺接ほぞつぎする方法は、奇妙ではあるが、別に米国の大工のやる方法より優れていはしないといった。確かに日本の※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)刺接法の設計は、非常にこみ入っている。グリノウ氏は、日本人が手斧を使用する方法に感心し、このような仕事がもっと米国で行われるといいのだといっていた。日本の道具は我国のものより鋭利であるらしく、鉋かんなをかけた板の面は手でさわると、気持のいい程ツルツルしている。ドクタア・ビゲロウは日本の鋸の歯が、柄の方では小さく、先端に近づくにつれて大きいという事実に、私の注意心を引いた*。屋根瓦は暗色のねばねばする泥土の中に埋め込むが、この泥はこねて球にまるめて、屋根に達する迄、一人から一人へと手渡す(図614)。

* 家屋建築の詳細は『日本の家庭』に書いた。
数日前、ドクタア・ビゲロウに沢山の刀と鍔つばとを買って貰った日本人の刀剣商人が、彼の友人達を屋敷に連れて来て、日本式の剣術を見せた。彼は有名な剣術家や相撲取数名と一緒に来た。彼等が家の前の芝生の上に集った光景は、興味があった。黒色の刀剣や漢字で装飾した、長い白地の幕を日除けとしてかけ、斜陽をふせいだ(図615)。漢字と刀の絵(図616。漢字は幕の裏から見たので逆になっている)とは、繰返して幕上に現れる。彼等は竹刀、槍、刀剣、及び「鎖鎌」といわれる武器で試合をした。この武器は封建時代に使用されたもので、その扱い方は非常に興味があった。「ジュージツ」と称する相撲の一種変った種類も行われたが、これは争闘に際し、武器無くして対手を殺すことを教えるものである。相撲のこの方法にあっては、弱い方の人が、強い人の力を如何に利用す可きかが教えられる。剣術者の動作が如何にも素速いので、その写生をすることは出来なかったが、彼等の武器の輪郭は若干写生した(図617)。剣術者は面を地面に置いて相対してうずくまる。名前を呼び上げられると彼等は面をしばりつけ(図618)、この上もなく地獄的な叫び声をあげながら、お互に勢よく撲りつけ合う。これ等の男達は、外国人に剣術の各種の型を見せる可く、特に屋敷へ来たので、無代ただで働いたのである。

お茶を入れる時には、若しお茶が上等な物だと、先ず急須に薬罐やかんから熱湯を注ぎ込む。そこで湯を棄て、即座に茶を入れると共に、茶碗に湯を入れる。茶は急須に残る湯気によって僅かに湿り、そこで茶碗の湯を急須に注ぐと、なまぬるくはあるが、いい香が出る。茶入罐から直接急須へ茶を入れぬように注意する。湯気が茶入罐の中の茶に影響するからである。茶は茶杓ちゃしゃくで取り出さねばならぬ。茶杓までもが、優雅の芸術品である。図619はその二、三の形を示したものである。宮岡はこの順序を示しながら、前夜酒を飲み過ぎた時には、このようにして作った茶の茶滓に醤油をすこしつけて食うと、この上もない解毒剤になると話した。

六月三十日に私は、生物学会主催の公開講演会で講演をした。会場は新しく建られた大きな西洋館で、千五百名分の座席がある。私が行った時には、ぎっしり人がつまっていた。有賀氏が私の通訳をつとめ、演題は人間の旧古で、人間の下等な起原を立証する図画を使用した。聴衆中には数名の仏教の僧侶と一人の朝鮮人とがいた。また見覚えのある顔も多く、彼等が私を親切な目で見詰めているのを見ると、旧友達の間へ立ち帰ったような気持がした。日本の婦人方も多数来聴され、タナダ子爵〔田中不二磨子〕及び夫人、蜷川その他の古物学者や学者達も来た。図620は入場券である。

先夜数名の朝鮮人が、彼等の監督ダン氏と一緒に天文観測所へ来た。私は団体としての彼等に紹介されたが、彼等は即座にお辞儀をして名刺を出し、我々は交換を行った。朝鮮人達は彼等が見たものに大きに興味を持ったらしく、また中々立派な人達であった。彼等の衣服は絹で出来ていて、日本服よりも支那服に近い。耳の後でリボンで結び、それを前に長く垂らした彼等の帽子は、蚊帳かやの布でつくった様に見えるが、実は馬の毛で出来ているので、その内に結び玉にした頭髪が見えた。彼等の言葉は、日本語と支那語の合の子みたいであった。私は、彼等と日本人の通訳を通じて話をしたが、この通訳が英語を知らぬので、先ずダン氏に英語で話し、ダン氏がそれを日本語に訳し、そこで通訳がそれを朝鮮語に直した。私はまた私の限られた日本語の知識を以て、直接彼等と話をした。彼等もここに住んでいる間に、私と同じ位の日本語を聞き囓っていたからである。出て行く時、彼等は懇ねんごろに握手をした。
図621は観測所の小使と彼のお神さんとが住む家の、粗末な写生図である。私の部屋(図622)は約十二フィート四方で、その中に私は二人用の寝台一台と、大鞄二個と、机一台と、衣裳戸棚二台と、椅子二脚と、手水ちょうず台一台とを持っている。衣裳戸棚は陶器や本や紙類やで完全に覆われている。これを以て、如何に私がゴタゴタした内にいるか想像出来ようが、而も私はいろいろな物を、文字通り手の届く範囲内に置くことが好きなのである。

竹中氏は医学校の生徒である。これはドイツの医者たちが教え、すべてドイツ語で教授するので、竹中氏は勿論ドイツ語に通暁しているが、また弟の宮岡から英語も教わった。彼は私にいろいろ興味あることを話した。彼が通っている医学校には、今年(一八八二年)一四五七人の学生があり、その内三九七人は予科の生徒、一五九人はドイツ語で医学と外科療法とを習い、八一八人は日本語で医学と外科療法とを学び、八三人が薬学を勉強している。日本人がかくも素速く漢法医学の古いならわしを放棄し、彼等の常識が道理と科学とに立脚したものであると教えるところを採用しつつあるのは実に驚く可きである。人間は信仰に次で医術上の習慣を、それが如何に愚なものであろうとも、墨守するという事実から見て、これは誠に非凡なことといわねばならない。
ドクタア・ビゲロウと私とは、吉川氏の家へ招待された。同家は三十代も続いた家で、吉川氏は以前周防すおうの大名であった。彼は眼鏡橋の近くに広大な土地と五軒の家とを持っている。我々が到着すると、大きな門がサッと開かれ、一人の供廻りが我々を礼儀正しく、一定の通路を通じて部屋部屋へ案内し、我々は吉川氏や同家の役員数名に紹介された。次に我々は二階の美麗な部屋へ導かれたが、この部屋は日本の家屋の内部の特徴である、例の細部の簡素と絶対的な清楚とを具えていた。中原氏が通訳の労をとった。部屋の隅々には、最も素晴しい黄金漆器や最古のカケモノがあった。同家の看守者――執事をこう呼んでもいいと思う――は、過去の愉快な精神それ自身であった。互に挨拶を換し、そこで我々が古い刀剣を見たいと希望すると、一つ一つ持ち出されたが、いずれも絹の袋につつまれ、吉川家の紋を金で置いた美事な漆塗の箱に入っていた。一番最初に見た刀は七百年にもなるので、吉川氏の先祖の一人がある有名な敵の頭をはねたものである。鞘は柄を巻いた紐と同じく革で出来ていた。その一部は年代の為粉末になって了っているが、その粉末がまた紙に包んであった。鞘、柄、鍔その他の部分が、非常に形式的に且つ重々しく畳の上に置かれ、我々は刀身を見よといわれた。他の刀も見せてくれたが、これ程美事な刀身のいくつかは、それ迄見たことがない。
これ等を見て、ドクタアは夢中になった。然し我々両人は、この夢中さを極度に押しかくした。吉川氏が不動の姿勢で膝まずき、すべての侍者達が彼等の威厳を一刻も忘れず、この上も無い謙卑と畏懼とを示す、とぎれとぎれなそして躊躇的な態度で、低音に、節度のある調子で話し合っているのは、興味深く覚えた。
我々は、壁凹の一つにある美しい漆器を見たいと申し出た。それを持って来た侍者は、一回の運動で膝から立ち上り、恭々しくその品に近づき、その前にひざまずき、静に両手でそれを取上げ、同様にして立ち上り、整然たる足取りで我々に近づき、再び膝をついて、その箱を我々が見得る場所に置いた。これ等の侍者は皆位の高い武士であったので、周防には彼等自身の家来を持っている。そこには吉川家の邸宅があり、そこにある見事な古陶器や漆器や絵画は、煉瓦建の防火建築が出来上り次第、東京へ持って来られることになっている。我々は門を入る時、この建物を見た。
我々が訪問している間に、間を置いては召使いが、半ば延ばした両腕に、美味な食物をのせた低いボン、即ち盆を持って部屋へ入って来た。我々はこの上もなく楽しい数刻を送った。そして古代日本の多くの興味深い趣の一つの、純真な瞥見をしたことを感じた。退出する時我々は、小さな周防のお土産を貰ったが、それは内側に金紙を張った、長さ約四インチの薄い木の箱で、横に細い黒い布が張ってあり、その上にはカワゲラの巣が七つ、糊づけにしてあった(図623)! これ等の、我国の河川で普通に見られる動物は、岩国を流れる川で見出されるのである。外側には桁構けたがまえの不思議な範式を持つ、驚く可き木造の拱橋の絵が書いてあった。

私は家の近くの狂人病院を案内された。癡呆デメンティア、憂欝病メランコリア、急性躁狂アキュトマニアその他の精神病にかかっている不幸な人々の顔面の表情が、我国の狂人病院で見受けるのと同じなのは、面白かった。
我々は日本の宮廷楽師の吹奏する、最も驚く可き笛の音楽を聞いた。笛は竹で出来ていて、我国の横笛より余程大きく、穴の数も位置も我々のそれとは違っている。我々にとっては音色と音色との間の絶妙な対照が、うれしいものであった。音調は長く、そしてこの上もなく純であった。これは我々には啓示であった。我々の音楽では、人は調和によってこの効果を得るが、日本の音楽には調和音は無く、諧調がある丈である。「聖パウロの聖劇楽」に於て我等の指揮者カール・ツェラーンは、「高きにいます神へ」の合唱の際、或る分節にある気持のいい最終音調を予期して、必ず特別に活発になる。
七月二日、私はメーソン氏が西洋式に歌うように訓練した、師範学校の学級の、公開演奏会に列席した。この会は古い支那学校〔聖堂〕のよい音響上の性質を持っている美事な広間で行われた。学級につぐに学級が出て来て、各種の選曲を歌った。音楽それ自身は、我国の小学校の音楽で、大して六角敷むずかしくはないが、彼等が我々の方式で歌うのを聞くことは驚く可きであった。彼等の声には、我国の学校児童の特色である所の溌溂たる元気は欠けていたが、而も日本人は教えれば西洋式に歌い得ることは疑ない。もっとも、我々式の音楽を彼等に扶植するのが望ましい事であるかどうかは、全然別問題である。ピアノの弾奏もあり、そのあるものは著しく上手だった。また提琴ヴァイオリン、クラリネット、フリュート、バス・ヴィオル等の管絃団オーケストラがあって、「栄光あるアポロ」、「平和の天使」、「ハーレックの人々」その他の曲を、まったくうまく演奏した。小坂三吉という五つになる小さな子供は、鍵板キーに手が届き兼ねる位なのだが、著しい巧妙さを以て、簡単な曲をピアノで弾いた(図624)。彼の演奏は大いに興味を引き起し、メーソン氏は彼を日本のモツアルトと呼んだ! 図625はメーソン氏がヴァイオリンで弾く音楽を、黒板に書いている三吉である。彼はそこでそれを歌ったが、彼が如何に速く音調を聞き知ったかは、実に目覚しいものであった。台が無くては黒板に手が届かぬ位彼は小さかったが、而も彼ははきはきした子供で、彼をざっと写生した図を見せてやったら、うれしく思ったらしかった。

ある朝私の召使いが、明らかに或る種の蠅の蛆うじと思われる虫の、奇妙な行列に、私の注意をうながした。彼等は三分の一インチほどの透明な、換言すれば無色な幼虫で、非常に湿っているのでお互にくっつき合い、長いかたまった群をなして、私の部屋の前の平な通路を這って行った。彼等は仲間同志の上をすべり、この方法によってのみ乾燥した表面を這うことが出来るのであり、またこの方法によってのみ、彼等は行列の両側をウロウロする、数匹の小さな黄色い蟻から、彼等自身を保護することが出来るのである。時に一匹の虫が行列から離れると、蟻は即座にそれを取りおさえ、引きずって行って了う。行列の先端が邪魔されると、全体が同時に停止する。私は行列の先方に長い溝を掘ったが、首導者連が扇形にひろがって、横断す可き場所をさぐり求める有様は、誠に興味が深かった。図626は長さ二フィートの行列の一部分で、図627は展開した行列の先頭である。行列は徐々に家の一方側へ行き、そこで割目へかくれて了った。この旅行方法が、保護の目的を達していることは明白である。蟻は、この一群から個々の虫を引き離すことが出来ないのだから。

七月五日、私は招かれて、日本水産委員会で智的な日本人の聴衆を前に、講演をなした。華族女学校で会った皇族の一人が出席され、非常に親切に私に挨拶された。私は欧洲や米国の水産委員会がやりとげた事業と、魚類その他海産物の人工繁殖による成功とに就て話をした。
竹中氏は私にいろいろ面白いことを話してくれる。我国の諺なり格言なりをいうと、彼は日本に於る同様なものを挙げる。例えば、「お婆さんが針で舟を漕ごうとする時いったことだが、どんな小さなことでも手助けになる」を日本では「貝殻で大海を汲み出す」或は「錐で山に穴を明ける」という。広間に人が一杯集ったのを「床に錐を立てる余地も無い」と形容する。我国の「馬が盗まれた後で納屋の戸に鍵をかける」に匹敵するものに日本の「喧嘩すぎての棒ちぎれ」がある。
日本人は本の巻頭に番号をつけるのに、普通の一、二、三以外に他の漢字を使用する。例えば三巻の書物があると、彼等は「上」「中」「下」を意味する漢字を使用し、二巻ならば「上」と「下」とを使用する。又、三巻の書物に「天」「地」「人」を意味する漢字を使用することもあり、二巻を「北西」「北東」を意味する漢字であらわすこともある。一般に何冊かの番号をつける時、番号に「巻物」を意味する漢字を前置する。これは古代書物が巻物の形をしていたからで、我々の Volume という語も、同じ語原を持っている。日本の十二宮は、我々と同じく動物の名で呼ばれる。磁石もまた十二宮を持つ十二の方位に分たれ、北は「鼠」、東は「兎」、南は「馬」、西は「鳥類」である。これ等の大きな方位の間に、二つの中間方位があり、北東に対して彼等は「丑虎」なる名を持つ。
日本人は以前、家屋の建築に就て、非常に多くの迷信を持っていた。これは、いまだに下流の者は信じている。竹中の話によると、彼が小さかった時、家族が東京へ移ったが、彼の父が磁石を調べた結果、家のある場所が正当な方向に位していないことが判り、その為に彼はその後しばらくして別の家へ移転したそうである。この迷信は、知識階級の者はすでに棄てて顧みぬ。友人達は会うと最後に会った時のことや、互に出した手紙のことを物語るのが普通である。
東京の一区域で浅草と呼ばれる所は、立派な寺院と、玩具店と奇妙な見世物とが櫛比する道路と、人の身体にとまる鳩の群とで有名である。ドクタアと私とは、かかる見世物の一つを訪れた。三、四十人を入れる小さな部屋には高く上げた卓子テーブルがあり、その後方に、我国の雀より小さくて非常に利口な、日本産の奇妙な一種の鳥を入れた籠がいくつかおいてある。彼等を展観した男は、この上もなく親切な態度と、最も人なつっこい顔とを持っており、完全に鳥を支配しているらしく見えた。小鳥達は早く出て芸当をやり度くてたまらぬらしく、籠をコツコツ啄つついていた。芸当のある物は顕著であった。見る者は、それ等の鳥が、如何にしてこのような事をするように馴らされたか、不思議に思う。
私は実に大急ぎで写生をしたが、それでもそれ等は、如何なる記叙よりも芸当が如何なるものであるかを、よく示すであろう。図628では籠が一フィートをへだて、お互に相面して開けてあり、その間に小さな玩具の馬が置いてある。この曲芸では、一羽が馬にとび乗り、他の一羽が手綱を嘴にはさんで、卓の上をあちらこちらヒョイヒョイと曳いて廻る。鳥が籠から出て自分の芸当をやるのが、如何にも素速いのは愛嬌たっぷりであった。又別の芸当(図629)では、鳥が梯子を一段々々登り、上方の櫓やぐらに行ってから嘴でバケツを引き上げる。たぐり込んだ糸は脚で抑えるのである。その次の芸(図630)では、四羽の鳥がそれぞれの籠から出て来て、三羽は小さな台に取りつけた太鼓や三味線をつつき、一羽は卓上によこたわる鈴やジャラジャラいう物やを振り廻す。勿論音楽も、また拍子も、あったものではないが、生々とした騒ぎが続けられ、また鳥が一生懸命に自分の役をやるのは、面白いことであった。

図631では、鳥が籠から走り出し、幾段かの階段を登って鐘楼へ行き、日本風に鐘を鳴らすように、ぶら下っている棒を引く。図632は弓を射ている鳥である。この鳥が実際行うのは、馬の頭(日本の子供に一般的である木馬)で終っている棒にある刻み目から、糸を外すことであるが、然し矢は射出され、的になっている扇がその支持柱から落ちる。

図633では、鳥が走り出して、神社の前にある鈴を鳴らす糸を引く。鳥はそこで一つの箱の所へ走り寄り、卓上から銅貨を拾ってそれ等をこの箱の内へ落し入れる。日本の教会或は寺院には、数個の鈴が上方に下げてあり、その横に紐が下っていて、この紐に依て鈴を鳴らすことが出来る。参詣者は祈祷する時これを行う。寄進箱は柄のついた小さな物で一週間に一度廻すというのでなく、長さ四、五フィート、深さ二フィートの大きな箱で、上方が開いているが、金属の貨幣が落ちる丈の幅をへだてて、三角形の棒で保護してある。この箱は一年中神社仏閣の前に置いてある。人は往来で立ち止り、祈祷をつぶやき箱の内に銭を投げ込むのだが、その周囲の地上に、数個の銭が散在していることによっても知られる如く、屡々的が外れる。

最も驚く可き芸当は、図634に示すものである。鳥は机の上から三本の懸物を順々に取上げ、小さな木にある釘にそれ等をかける。釘に届くために、鳥は低い留木にとび上らねばならぬ。小鳥を、このような行為の連続を行うべく仕込むには、無限の忍耐を必要とするに相違ない。別の芸当では、鳥が梯子をかけ上って台へ行き、偉い勢でいくつかの銭を一つずつ投げた。更に別の芸当では、傘を頭上にかざして長い梯子を走り上り、綱渡りをした。また一定の札を拾い上げ、箱に蓋をしたりした。鳥馴しの男は、喋舌しゃべる鸚鵡おうむと、大きな鸚鵡に似た鳥とを持ち出し、一羽ずつ手にのせてそれ等に「如何ですか」とか「さよなら」とかいう言葉を、勿論日本語でだが、交互に喋舌らせた。それは全体として、私が見たものの中で最も興味のある、訓練された動物の芸当であった。芸当のあるものは、例えば物をつまみ上げるとか、巣をかける時に糸を引張るとかいう風な、鳥が日常生活にやる自然的の動作そのものであったが、それにしても、どうして鳥を、絵画をひろい上げ、それをそれぞれに適当した釘にかけるように仕込んだかは、我々には想像も出来ない。

日本の蝋燭は植物蝋で出来ていて、変種も多い。会津で出来るものには彩色の装飾があり(図635)、そのあるものの図柄は浮彫りになっている。燭心はがらん胴な紙の管である。燭台には穴の代りに鉄の※(「金+饑のつくり」、第4水準2-91-39)かかりが出ていて、燭心の穴にこの※(「金+饑のつくり」、第4水準2-91-39)がしっかりと入り込む。かかる燭台は、余程以前に無くなったが英国にもあり、Pricket 燭台として知られていた。蝋燭は上方に燭心がとび出て、そしてとがるように細工してある。この形が如何に経済的であるかは、燃えて短くなった蝋燭を台から外し、すこしも無駄にならぬように、新しい蝋燭の上にくっつける時に判る(図636)。普通の蝋燭は上から下まで同じ太さだが、上等な物の中には、上部の直径が他の部分に比して大分大きく、かくて長く燃え続けるのもある。殆どすべての人が夜持って歩く提灯は、蝋燭を燃やす。図637・638及び639は、燭台の各種の形を写生したものである*。運搬用の蝋燭台もいろいろあり、そのある物は実に器用に出来ている。また蓋のついた竹筒もあるが、これで人は風呂敷包みの荷物の中へ蝋燭を入れて持って歩くことが出来る(図639は図638を畳んだところを示す)。

* セーラムのピーボディ博物館には、日本の燭台の大きな蒐集がある。そのある物は運搬用で畳むことが出来る。
薄い金属板で長旗をつくり、それが風になびいているように色を塗り、陰影をつけた、奇妙な風見がある(図640)。

七月十五日、私は東京女子師範学校の卒業式に行き、壇上ですべての演習を見得る場所の席を与えられた。主要な広間へ行く途中で、私は幼稚園の子供達が、可愛らしい行進遊戯をしているのを見た。そのあるものは床に達する程長い袂の、美しい着物を着た、そして此の上もなく愛くるしい顔をした者も多い、大勢の女の子達は、まことに魅力に富んだ光景であった。
これが済むと彼等は大広間に入って行ったが、子供達はヴァッサー大学卒業の永井嬢がピアノで弾く音楽に歩調を合わせて、中央の通路を進んだ。彼等が坐ると、先生の一人によってそれぞれの名前が呼び上げられ、一人ずつ順番に壇上へ来て、大型の日本紙の巻物と、日本の贈物の手ぎれいな方法で墨と筆とを包み、紐の下に熨斗のしをはさんだ物とを、贈物として受けるのであった。彼等は近づくと共に、非常に低くお辞儀をした。両手で贈物を受取ると、彼等はそれを頭の所へ上げ、また低くお辞儀をして、段々の所まで後退した。実にちっぽけな子供までが、ヨチヨチやって来たが、特別に恥しそうな様子の子が近づくと、壇上の皇族御夫妻から戸口番に至る迄一同が、うれし気な、そして同情に富んだ微笑を浮べるのは、見ても興味が深かった。
広い部屋を見渡し、かかる黒い頭の群を見ることは奇妙であった。淡色の髪、赤い髪はいう迄も無し、鼠色の髪さえも無く、すべて磨き上げたような漆黒の頭髪で、鮮紅色の縮緬や、ヒラヒラする髪針ヘアピンで美しく装飾され、その背景をなす侍女達は立ち上って、心配そうに彼等各自の受持つ子供の位置を探す可くのぞき込んでいる。小さな子供達が退出すると、次にはより大きな娘達が入場したが、そこここに花のように浮ぶ色あざやかな簪かんざしは、黒色の海に、非常に美しい効果を与えた。大きな娘達は、名前を呼ばれると主要道路を極めて静かに歩いて来て、壇上の皇族御夫妻並びに集った来賓に丁寧にお辞儀をし、机に近づき、また低くお辞儀をして贈物を受取り、それをもう一つのお辞儀と共に頭にまで持ち上げ、徐々に左に曲って彼等の席に戻った。彼等の中には卒業する人が数名いたが、それ等の娘達は、畳んだ免状を受取ると後向きに二歩退き、行儀正しく免状を開いて静かにそれを調べ、注意深く畳んでから、特殊な方法でそれを右手に持ち、再びお辞儀をして退いた。
卒業式が済むと来賓は、日本風の昼餐が供される各室へ、ぞろぞろと入って行った。ある日本間では卒業生達に御飯が出ていたが、私は永井嬢と高嶺若夫人とを知っているので、庭を横切って彼等のいる部屋へ行き、そこに集った学級の仲間入りをして見た。美しく着かざった娘達が、畳の上にお互に向き合った長い二列をなして坐り、同様に美しく着かざった数名の娘にお給仕されているところは、奇麗であった。私は彼等のある者と共に酒を飲むことをすすめられ、また見た覚えのない娘が多数、私にお辞儀をした。式の最中に、我々の唱歌が二、三歌われた。「平和の天使」「オールド・ロング・サイン」等がそれであるが、この後者は特に上出来だった。続いて琴三つ、笙三つ、琵琶二つを伴奏とする日本の歌が歌われた。これは学校全体で唄った。先ず一人の若い婦人が、長く平べったく薄い木片を、同じ形の木片で直角に叩くことに依て、それは開始された。その音は鋭く、奇妙だった。彼女はそこで基調として、まるで高低の無い、長い、高い調子を発し、合唱が始った。この音楽は確かに非常に妖気を帯びていて、非常に印象的であったが、特異的に絶妙な伴奏と不思議な旋律とを以て、私がいまだかつて経験したことの無い、日本音楽の価値の印象を与えた。彼等の音楽は、彼等が唄う時、我々のに比較して秀抜であるように聞えた。勿論彼等は、我等の音楽中の最善のものを歌いもせず、また最善の方法で歌いもしなかったが、それにもかかわらず、ここに新しい方向に於る音楽の力に関する観念を確保する機会がある。
米を搗つくのには、大きな木造の臼を使用する。槌或は杵は、大きくて非常に重く、頂上はるかに振り上げる(図641)。彼は杵を空中に持ち上げる時、その柄の末端を左脚に当てるので、そこに小布団をつけている。この仕事をするには、強い男が必要である。杵の面は深くくぼんで鋭い辺を持ち、臼の中には図642に示すような、藁繩の太い輪が入っている。杵で打つと、米は輪の外側に押し出されてその内側へ落ち込む。この方法によっては米は循環し、すべての米が順々に杵でたたかれるようになる。同様な場合にこんな事が行われるのを、私はこの時迄見たことが無い。搗いた米から出る黄色い粉末は、袋に入れて顔を洗うのに使用する。我国では玉蜀黍とうもろこしの粉を、同様に使う。この米の粉は、また脂肪のついた皿や、洋燈ランプを掃除するのにも使用する。
第二十章 陸路京都へ
七月十六日。私は、我々の南方諸国への旅行の荷造りをするのに、多忙であった。これは先ず陸路京都へ行き、それから汽船で瀬戸内海を通るのである。私の旅券は、すくなくとも十二の国々に対して有効である。中原氏が私に吉川氏の長い手紙を持って来てくれた。周防の国なる岩国にいる彼の親類に私を紹介したものである。封筒には先ず所と国との名前を、次に人の名前を書く。そしてその一隅には、手紙に悪い知らせが書いてないことを示すために「平信」という字を書く。この字が無ければ凶報が期待され、受信者は先ず心を落つけてから手紙を読むことが出来る。我々は古い日本の生活をすこし見ることが出来るだろう。私は陶器の蒐集に多数の標本を増加しようと思う。ドクタア・ビゲロウは刀剣、鍔つば、漆器のいろいろな形式の物を手に入れるだろうし、フェノロサ氏は彼の顕著な絵画の蒐集を増大することであろう。かくて我々はボストンを中心に、世界のどこのよりも大きな、日本の美術品の蒐集を持つようになるであろう。
七月二十六日。我々は駅馬車と三頭の馬とを運輸機関として、陸路京都へ向う旅に出た。三枚橋で我々は馬車に別れ、その最も嶮しい箇所箇所を、不規則な丸石で鋪道した、急な山路を登った。フェノロサと私とは村まで八マイルを歩き、ドクタアと一行の他の面々とは駕籠かごによった。ドクタアはこの旅行の方法を大いに楽しんだ。時々この上もない絶景が目に入った。自分の足をたよりに、力強く進行することは、誠に気分を爽快にした。路のある箇所は非常に急だったが、我々は速く歩いた。その全体を通じて、我々が速く歩き、また駕籠かきが一人当り駕籠の重さその他すべてを勘定して、殆ど百斤近くを支持していたにかかわらず、彼等が我々について来たことは、興味があった。時々我等は、重い荷を肩にかけた人が、これもまた速く歩いて峠を旅行するのに出会った。彼等は十二マイル離れた小田原へ行く途中なのであった。我々が通過した村には、どこにも新しい形式の張出縁や門口や、奇麗な内部やがあったが、このように早く歩いたので、二、三の極めて簡単な輪郭図以外には、何もつくることが出来なかった。この路は遊楽地へ行く外国人が屡々通行するので、日本人は一向我々に目をつけなかった。子供も、逃げて行ったり、臆病らしい様子をしたりしなかった。荷を背負って徒歩で行く人々以外に、重い荷鞍と巨大な荷物をつけた馬が、田舎者に引かれて行った。図643は荷鞍の写生で、馬の主人の日笠と雨外套レインコートと二足の草鞋わらじ以外に、荷はつけていない。尻尾の下には不細工な、褥しとねを入れたような物が通っている。

二つの部屋が相接する家にあっては、これ等の部屋は床にある溝と、上から下る仕切との間を走る、辷る衝立ついたてで分たれるに過ぎぬが、この仕切の上の場所は通常組格子の透し彫りか、彫刻した木か、形板で切り込んだ模様かで充してある*。これ等の意匠の巧妙と趣味、及び完全な細工は、この地方に色木の象嵌細工をつくるのに従事する人が多いことに因る。箱根は色をつけた木の、いろいろな模様によって、美しい効果を出した箱や引出のある小箱や、それに似たものを盛に製造する土地である。
* この細部を欄間と呼び、私が見た多くの興味ある形式は『日本の家庭』に記載してある。
各種の木片は、図644に示す如く、膠でしっかりくっつけて一の塊となし、それを図645のように横に薄く切ってその他の形式のものと共に、箱の蓋や引出の前面を装飾するのに用いる。以上二図は実物の二分一大である。図646は灰に埋めた僅かな炭火の上に膠壺を置き、細工をしている人を写生したものである。意匠は際限無くこみ入っているが、それに就て面白いことは、細工に用いる道具が、あたり前の大工道具に過ぎぬらしいことである。細工人は床に坐り、仕事台として大きな木片を使用する。

箱根に於る我々の旅舎は、石を投げれば湖に届く位のところにあり、向うには湖水をめぐる山々の上に、富士が高くぬきんでて聳えている。ここは海抜二千フィート、湖の水は冷くて澄み、空気は清新で人を元気にする。私の鉛筆は如何なる瞬間にも忙しく動いて、景色のいい場所を写生していた。図647は颱風に伴う強い風に抵抗するべくつくられた、丈夫な垣根の一種である。道路に沿うた家ではどこでも、紡いだり織ったりすることが行われつつある。図648は米の袋その他の荒っぽい目的に使用する、粗※(「米+慥のつくり」、第3水準1-89-87)な藁の筵を織っている女を示す。

翌朝は八マイルを駕籠で行く可く、夙はやく出発した。この運輸の方法は、如何に記述しても、それがどんなものであるか、まるで伝えない。第一、一台の駕籠に人が三人つき、彼等はかわり番に仕事をする。四年前の旅行記に、私は日本人が使用する普通の駕籠の写生をした。箱根には――恐らく他の場所でも同様であろうが――外国人向きにつくった、余程長く、そして重い特別な駕籠がある。彼等は駕籠を担って、道路を斜に行く(図649)。更代は屡々行われる。二人がかつぎ出して、坂路では約九十歩、平地では百四十歩を行き、そこで持っている竹の杖で駕籠を支えて肩を更え、再び同じ歩数を進むと、予備の男が前方の男と更代し、更に肩を更えた後、前に駕籠を離れた男が、後方の男と更代する。坂を下りたり、平地を行ったりする時には、彼等は一種のヒョコヒョコした走り方をし、連続的に奇妙な、不平そうな声を立てる。各人の肩にかかる重さは、すくなくとも百斤はあるが、これで休みなく、坂を上下して、八マイルも十マイルも行くのだから、体力も耐久力も、大きにある訳である。

この陸路の旅の旅程記を記憶することは困難であった。我々にはある日が一週の何曜日であるか一月の何日目であるか、判らなくなって了った。ある時の駕籠乗行は素晴しく、ある時は飽々させた。美しい景色を見た。広くて浅い河にかけた長い橋をいくつか渡った。興味のある茶店で休んだ。そしてあらゆる時に、この国民を他のすべての上に特長づける、礼儀正しい優待を受けた。我々は随所で、古い陶器や絵画やそれに類したものを探して、一時間前後を費し――浜松と静岡には一日いた――名古屋には数日滞在した。この旅行で気のついたのは、我々が泊った旅舎の部屋が、標語或は所感で装飾してあることで、そしてそれ等は翻訳されると必ず自然の美を述べたものか、又は道徳的の箴言、訓誡かであった。酒を飲む場所にあるものでさえ、これ等の題言の表示する感情は、非常に道徳的なものである。私は日本では酒場は見たことが無いが、これ等の上品な所感や、道徳的な格言を見た時、我国に於る同程度な田舎の旅籠はたご屋と、公開の部屋部屋で普通見受ける絵画とを、思い出さずにはいられなかった。このような所感の多くは、支那の古典から来ている。四つか五つの漢字が、如何に多くを伝えるかは、驚くばかりである。一例として、ここに Facing water shame swimming fish なる五つの漢字を並べたものがあるが、これを我々の言葉で完全に述べると、「魚が平穏と安易とを以て泳いでいる水のことを考えると、我々がこのように忙しい人間であることを恥しく思う」ということになる。これがどこ迄正しいか私は知らぬ。翻訳は我々の通辞がやったのである。
駿河の国の静岡に到着した時、そこでは虎列刺コレラが流行して、一日に三十人も四十人も死んでいた。大きな旅館は閉鎖してあり、我々は大分困難した上で、やっとその一つに入ることが出来た。主人は、万一虎列刺に因る死人が出ると、それが大きに彼の旅館の名声を傷つけるといった。我々は人力車を下りもしない内に、既に手早く消毒されて了った。人々は誰でも、簡単な消毒器を持っているらしかった。これは石炭酸の薄い溶液を入れた、小さな鉄葉ブリキの柄杓の上部に、ハンダで鉄葉の管をつけた物である。他の場所でも我々は、まるで我々が病毒を持って来たかの如く消毒液の霧を吹きかけられた。ドクタア・ビゲロウはある所で、一軒の家の入口に立っていた男が、彼に向って、宛かも刀で彼を斬り倒すような、力強い身振をしたといった。このような敵意のある示威運動は、極めて稀にしか行われぬことである。私はたった一度しか、これに似た敵意を含む身振を経験していない。東京で娘と一緒に歩いていた時、ゆっくりと千鳥足で歩いて行く三人の男を追い越した。我々は人に追いつき、そして断らずに彼を追い越すことが、失礼であるとされているのを知らなかった。我々の無礼を憤った一人は、先へ走って行き、振り向いて路を塞ぎ、我々を斬り倒す如く、空想的な刀を空中に振り上げた。彼の二人の仲間は、笑いながら彼を引き捕えて、連れ去った。明かにこの男は、多少酔っていたのである。ドクタアがこの経験をした直後、田舎路を歩いて行くと、二人の中年配の、相当な身なりをした日本人が、通り過ごす我々に向って、非常に丁寧なお辞儀をした。有賀氏は、この行為は彼等の外国人に対する尊敬を示すものであるといった。
我々は静岡で二泊し、まる一日を蒐集に費した。私は目的物がありそうな所へは、どこへでも入り込んだ。悪疫の細菌を持っていそうな物を決して食わず、また、これは元来日本ではめったにやらぬことだが、水を飲まぬように、常に注意している私には、この流行病はすこしも恐しくなかった。翌朝夙く我々はバネの無い、粗末な、ガタガタした駅馬車で出立し、およそこれ以上の程度のものは想像も出来ぬ位ひどく揺られた。正午、高い丘の脈の頂上に達した時、ドクタアは愛想をつかして馬車を思い切り、私もまたよろこんで彼の真似をした。フェノロサと有賀とは旅行を続けたが我々は午後三時迄仮睡し、各々二人引きの人力車をやとって、遠江とうとうみの浜松までいい勢で走らせ、そこで我々は泊った。その晩我々は富士の頂上へ向う多数の巡礼の、奇妙な踊を見た。彼等は道路に面して開いた大きな部屋を占領して、円陣をつくっていた。一人一人、手に固い扇子を持ち、それで拍子を取ってから、妙な踊と唱歌とをやったのであるが、先ずある方向を向き、次に他の方向を向き、円陣は一部分回転した。それは気味の悪い、特異的な光景であった。踊り手達は、我々が彼等の演技に興味を持ったことをうれしく思ったらしく、私に一緒に踊らぬかとすすめた。彼等は白い布で頭をしばっていた。この踊をする前に、私は彼等が二階の一室で、跪き、祷り、歌を唄うのを見たが、これは明かに富士の為に下稽古をするものらしかった。
幾分、憂欝な雰囲気で気をめいらせながら、虎列刺に襲われた浜松を後にした我々は、途中急な谿谷へさしかかり、車夫達は人力車を曳き上げるのに苦しんだ。半分ばかり登ったところで我々は、如何にも山間の渓流と見えるものが、谷の側面を流れ落ちるのに出合った。フェノロサと私とは、誘惑に打ち勝つことが出来ず、ドクタア・ビゲロウがその水を飲むなというのも聞かず、僅かではあるが咽喉を通した。すると水は、如何にも気がぬけていて、美味でない。やがて谷の頂上に達すると、そこには広々とした水田があり、我々が山間の渓流だと思ったのは、この水田の排け水だったのである! 我々がどんなに恐れ驚いたかは、想像にまかせる。
翌日は人力車で豊橋まで行き、次の朝には陶器狩りをやって、よい品をいくつか手に入れた。その次の朝は十一時に出発し、夕方大都会名古屋に着いた。ここで我々は四日滞在し、ドクタア・ビゲロウは漆器と刀の鍔を、フェノロサは絵画をさがし、私は陶器を求めて、あらゆる場所を探索した。私が陶器いくつかを買い求めた、権左と呼ぶ人のいい老人は、私の探索に興味を持ち、我々をこの都会の一軒の骨董屋から他の骨董屋へと案内する役を買って出た。物を買うごとに口銭を取ったかどうか私は知らぬが、とにかく彼は我々の包みを持ち、あまり高いと思うものは値切り、彼が連れて行ってくれねばとても判らぬような場所へ我々を案内し、商人共に彼等の宝物を我々の部屋へ持って来させ、最後に私が買った陶器を荷づくりすること迄手伝った。これは二つの大きな箱に一杯になったのを、東京へ送った。我々が泊った旅館には、大きな卓子テーブルや椅子があり、非常に便利だった。商人達はしょっ中我々の部屋へ来たが、同時に八人、十人と来たこともあり、そして商品を床の上にひろげた。我々はいよいよ出発という時まで買物をした。そして私は陶器の蒐集に、いくつかの美事な品を附加した。
権左は私を名古屋の外辺に住んでいる、彼の友人のところへ連れて行った。この男はフジミ〔?〕と呼ばれる窯の創業者であるが、私はここで午前中を完全に費した。儀式的な茶が私のために立てられ、この陶工が私の面前で茶を挽いた。彼が見せた古い陶器の蒐集中には、見事な品も多く、又彼は私に絵を画いてくれ、その代りとして私にも彼の為に絵を画くことをたのみ、私をその翌日茶の湯(茶の礼式)へ来いと招く等、我々は興味ある数時間を送った。家族の人々は私をこの上もなく親切に取扱ってくれ、私が坐っていた張出縁には冷水を充した、大きな浅い漆塗の盥たらいを置き、娘がこの水越しに私をあおいでくれた。このようにして出来た涼風は、誠に気持がよかった。
我々が招かれたお茶の儀式は、非常に興味が深かったので、私はいくつかの細部を見逃したには違いないが、それに関する丹念な心覚えを書きとめた。夏の茶の部屋は、母家から十フィートばかり離れた、独立した小さな家である。この、十五フィート四方の小さな建物は、特に茶の湯のためにつくられたので、すべての装備が極度に簡素であった。茶の家と母家との間には石の径があり、その一方の側には水を入れた大きな石の容器があった。粉末にした茶を儀礼的に供することを、真に評価する為には、これ等の細目を記述する必要がある。鐘が鳴って我々――権左と木村と私――は、茶の部屋に面した廊下の、丸い布団の上に坐った(図650のA)。茶の家の名は、長い陶製の瓦の上に、四字で書いてあった。直訳すると「風、月、清い、厩舎」であるが、完全に訳すと「風と水との如く清潔で明透な小さな家」ということになる(図651)。

我々がここに坐って、その家を眺めていると、その辷る衝立を横に押し明け、娘のみきが両手両膝で這い入り、石の水甕から漆塗の木造容器に水を充して元へ戻り、後から衝立を閉めた。彼女は最初に茶の家に入る時、地上のいくつかの石の上を歩き、そして石の階段の上に彼女の草履を、図652にある如く、一方を他方によりかけて脱いだ。数分後我々は茶の家に行けといわれた。木製の草履が我々の足もとに置かれ、我々がこれをはいて、真面目にヒョコヒョコ石甕の所へ行くと、そこに主人が立っていて、小さな木の柄杓で我々の手に水をかけ、我々に手拭を供した。手を拭き乾した我々は、衝立を明け、上から半分の所まで下っている組格子の衝立の下を、両手両膝で這って、家の内へ入った。我々は先ず床の間(部屋の壁龕)へ躙にじり寄って、極めてさっぱりした懸け物を眺め、次に落ち込んだ炉へと躙って行ったが、これは三角形の場所で、その中に若干の石があり、石の上に香の箱が置いてあった。そこで再び部屋の他の側へ行き、一列に並び、黙っていた。如何にも真面目で厳粛なので、茶の湯を宗教上の儀式だと記述した筆者もある。部屋は簡素を極めていた。天井は暗色の木材の、薄くて幅の広い片を、筵のように編んだもの、稜角や、出張りや引込みは竹、あるいは木の自然の枝で出来ていて、壁はあたたかい、褐色めいた土で塗ってある。この部屋の簡単さと、絶対的な清潔さとは、顕著なものであった*。

* この部屋は『日本の家庭』の一五三頁に描出してある。
間もなく我々に面した辷る衝立が、静かに横に押されてみきが出現し、三角形の漆器盆を一つ一つはこび込んだ。各種の皿は最上等の品で、飯皿と大きな飯匙とは陶器、酒入れは豪奢に細工をした金属、盃は美事な漆器であった。飯は一つの鉢に、漬物を添えた生魚は他の鉢に、揚げた鰻と瓜は別の鉢に、味噌汁と百合ゆりの根とは更に別の鉢に、それからそれを料理したその容器のままで膳に出す、最も美事な羹あつものは、蓋のある皿を充していた。主人は子息と一緒に、母家で同様の料理を供される。食事の間、客と共にいることは不適当とされているのである。我々は然し張出縁の向うにいる彼を、よく見ることが出来た。我々が食事をしている最中に、老主人は我々と共に酒を飲むべく入って来た。我々は先ずみきと酒を飲み、彼女の父親も同様にした。盃をゆすぐ杯洗は無く、盃は小さな台にのって、あちらこちら往復した。娘と飲んだ後、我々は主人と飲んだ。
次に非常に美しい漆塗の盆が出された。それには菓子の小さな堆積がのせてあり、又別の盆には何等かの野菜がのせてあったが、私は写生に忙しくてこれ等を食わなかった。菓子は我々の飯茶碗の蓋にのせられた。これが終ると残った菓子を二つの包みにわけ、娘はその一つを袂に入れ、老人は自分の手に持ち、二人とも退去した。そこで熱い湯が持ち出され、その少量ずつが我々が食い終った食器の各々に注がれた。礼儀上からいえば、私は各々の皿の内容全部を食うべきであったろうが、私はあまり暑いので多く食わなかった為に、他の人々が非常に注意深くやったように、皿を洗った湯を飲み、自分自身の皿を紙で拭うという、不愉快な必要事をやらずに済んだ。皿をそれぞれ徹底的に清めて膳に置くと、みきがそれを一つずつ持って行った。次に寒天菓子の四角い切を三つ入れた、漆塗の箱が持って来られ、菓子は美しい四角の漆器の皿にのせられて供された(図653)。寒天菓子を一本の箸で食い終ると、その箸はこの場合の記念として持って帰ることになっている。寒天菓子を食っている間に、みきが非常に形式ばった様子でかっかと燃える炭火を入れた鉄製の容器(図654)を持って入って来て、鉄の箸*でそれを一片ずつ沈下した炉に置いた。

* これ等はハシと呼ばれ我々の鉄鉗に相当する。
彼女は次に小さな釘にかけた大きな羽根を取り、入って来た入口に膝をついて注意深く畳を掃き、退出して襖をしめた。我々の仲間の一人がそこで小さな木皿を取りまとめて、みきが入った入口へそれを持って行った。このすぐ前に、みきが鉄の薬鑵やかんを持って来て、それを炭にのせた。一方老人は我々に香の箱を見せ、我々はそれを調べ、香を嗅ぐのであった。ここで我々は立ち上り、縁側へ歩いて出、履物をはき、水甕で手を洗い、主人の家へ渡り、休憩し、煙草を吸い、私はあらゆる病原菌を含まぬという説明つきの冷水を一杯飲んだ。
しばらくすると、最初のよりも余程深い音色のする鐘が鳴り、我々は手を洗い、茶室へ這い込むという、同じ形式をくりかえした。懸け物は取り掃われ、その代り簡単な花生けに、かかる人々のみが知っている方法で生けた花が入れて置いてあった。そこでみきが茶碗を持って現れたが、彼女は各種の器具を一つ一つ持って来る度に、膝をついては、襖を横に押すのであった。そこで儀式的に立ち上り、明けた場所を真直に歩いて通り、真四角に曲って炉に面し、一歩それに近づいて立ち止り、ぼんやりしたような有様で前方を眺め、それから膝をついて恭々しく品物を畳の上に置いた。彼女は手を畳につかずに立ち上り、前同様平静な態度で退出した。茶碗の後で彼女は繊細な竹の柄杓を持って来た。いい忘れたが、我々が部屋に入った時、水入れと壺とは、すでにそれぞれ然る可き場所に置いてあった。この時各種の品は、図655に示す如くであった。そこで茶入の紐を解き、袋を手の端で両方に押し下げ、その袋は羽根の塵掃いがかかっていた釘にぶら下げた。薬鑵から湯を汲み出して茶碗に注ぎ込み、茶筅ちゃせん(図656)をくるくる廻しながら茶碗の内をまるく回転させることに依て、茶碗と茶筅とを洗う。茶碗をそこで、白い木綿の布で拭うのだが、これにも一定の方法があった。この間誰も一言も喋舌しゃべらなかった。

次に細い竹の匙で、茶入から粉末茶をすくい出した。恒例である所の三匙をすくい出したみきが、やめかけると父親が低い声で「もっと」といい、更に「もっと多く」といったので、彼女は数回にわたって、茶碗に沢山茶を入れた。我々は彼女に面して、半円形に坐った。私が最左端、次が権左、次が木村、次が我等の主人役という順序である。そこで湯を注ぎ、勢よく茶をかきまぜたが、そのどの動作も極端に形式的に行われた。主人はそこで跪いたまま娘に近づき、丁寧にお辞儀をして茶碗を取り、私のところへ躙り寄って、また深くお辞儀して茶碗を私に差し出した。お茶は最も濃厚な、緑色の舎利別しゃりべつに似ていて、実に美味であった。私は一口飲み、茶碗の私の唇の触れたところを指で拭き、紙を持っていないので上衣の内側で指を拭き、それから茶碗を、それが次の人の手に渡った時、彼の唇がその辺縁の清潔な場所にあたるような具合に、くるりと廻した。この時機にあって、私は主人に向い、この茶が何であるかを質ねる義務を持っていたのでそれを行うと、主人は私に名を教えた*。それは事実有名な人に依てつくられ、日本に於る最も尊い茶とされていた。
* この茶は「はつむかし」と呼ばれ京都に近い宇治で出来たものである。それから、この茶の立て様の型、即ち流派は、太閤時代の利休のそれであった。
茶碗は転々して最後に主人の手に渡り、彼は残った茶を飲みほした。これをするのに彼は、まるで御祈祷をする時のように真直に膝で立ち、この上もなく加福的な顔つきで、大きに勢よく唇を鳴らした。茶を飲み終ると彼は、茶碗の底にとがった楕円形の部分が残るようにそれを拭った。そこで茶碗を手から手へ廻し、それが稀古な品であるので、それに就ていろいろと意見が述べられた。
これが終ると娘は道具類をすべて持ち去り、我々は老人が持ち出した箱の中に入ったいろいろな品物を見た。箱のある物は漆塗で、品目、陶器、及び製作者の名前が金文字で書いてあり、白木の箱には黒で記号をつけ、朱で作者の印が捺してあった。これ等を我々に見せながら主人は、使われる時にはこれ等が「虎」になり、然らざる時には鼠になるといったが、その意味は使われる時には虎のように有用になるが、使われぬ時には鼠のように無価値だというのである。
最後の日の午後、我々は名古屋城へ行った。これは日本に於て、最もよく保存された城の一つで高さ百五十フィート、壁は巨大で、部屋は広大である。一六一〇年から一二年にわたって建てられ、高く四周にぬきんでて立ち、その窓からは素晴しい景色が見られる。巨大な石垣と深い堀があたりを取巻いている。その周囲の建物には広々とした部屋があり、襖ふすまはその時代の最も有名な芸術家によって装飾され、木彫も有名な木彫家の手になったものである。ある部屋には高さ七フィートばかりの、この城の雛型があった。これは城それ自身が建てられる前に、それに依て建築すべき模型としてつくられたのであるから、非常に興味がある。
図657は番人が城内の当事者に我々の名刺を届けに行くのを待つ間に、いそいでした写生図である。これは極めて朧気おぼろげに城の外見の観念を伝えるに過ぎぬ。この建築の巨大さと荘厳さとは著しいものである。建築上からいうとこの城は、上を向いた屋根のかさなり、破風はふに続く破風、大きな銅の瓦、屋根の角稜への重々しい肋リブ、偉大な屋根の堂々たる曲線、最高の屋梁むねの両端に、陽光を受けて輝く、純金の鱗を持つ厖大な海豚いるか等で、見る者に驚異の印象を与える。黄金は殆ど百万ドルの三分一の価値を持っている。我々は頑丈な、石垣の間の通路をぬけ、幅の広い石段を上って、主要な城へと導かれた。厚い戸をあけると、そこは広々とした一室で、壁や天井の桁の大きさは、封建時代にあって、かかる建築が如何に強いものであるかを示していた。我々は階段をいくつもいくつも登り、登り切るたびに、しっかり出来上った広くて低い部屋へ出ては、百十二の高い段々を経て上方の部屋に達した。この勘定には、入口に達する石段や斜面の段は入っていない。上の広間の窓からは、あたりの範囲のひろい、そして魅力に富んだ景色が見られた。そこから流れ込む気持のいい風は、登って暑くなった我々にとって、誠に有難いものであった。

我々は名残惜しくも城をあとにし、急いで旅館へ帰って、七時京都へ向けて出発する迄に荷づくりをした。我々の人力車はのろのろと進んだが、景色や、輝しい入日や、休息はよろこばしかった。九時我々は河の畔に出、五マイルにわたって、その静な水面を長閑のどかに漕ぐ舟で行った。我々の上陸地は、万古ばんことして知られる陶器で有名な、四日市であった。そこは明々と照明され、遠方から見るとまるでニューイングランドの町みたいであった。石の傾斜面に上陸した時我々は、何等かの祭礼が行われつつあることを知った。河岸には氷を売る小さな小舎がけが立ち並び、我々も床几に坐って数回氷を飲んだ。氷は鉋かんなで削るので、鉋はひっくりかえしに固定してある。その鉋の上で一塊の氷を前後に動かすと、下にある皿が、いわば鉋屑ともいう可きものを受け、それに砂糖少量を加え、粉茶で香をつけるのだが、非常に涼味ある小菓で、我々が子供の時雪でつくった、アイスクリームに近いものである。氷は非常に高く、一斤十六セントから廿セントまでするが、これは一杯一セントで売られる。我が都市の貧しい区劃にも、同じ習慣を持って行ったらよかろう。
祭礼のために町は雑沓し、旅館はいずれも満員なので、我々は止むを得ず午前二時半に出発して次の町まで人力車を走らせたが、目的地へ着いた時には鶏が鳴き始め、夜も白々と明けかけていた。我々は疲れ切っていたので、よろこんで貧しい小さな宿屋で横になり、数時間睡った。私は八時に起き、貧弱な飯の朝飯を取った後、如何にして手づくりの万古がつくられるかを見出すべく、再び四日市へ引き返した。私は有名な半助に会ったが、この男は指だけで器用に粘土を捏ねて形をつくり、美しくも小さな急須を製出する。私はこの陶工に関する詳しい覚書を取り、幾枚かの写生をした。
二時三十分我々は出発し、山間の谿谷の最も景色のよい所を登って、ここも伊勢の国の、山にかこまれた坂下に着いた。我々はここで一夜を送り、翌朝は人力車一台に車夫二人ずつをつけて速く進み、二時半大津着、四時半京都に着いた。即座に我々は山の中腹高くに位置し、全市を見下す弥阿弥やあみホテルへと車を走らせた。
このホテルは日本風ではあるが、西洋風に経営されていて、それ迄の、各様な日本食の後をうけて、半焼のビフテキ、焼馬鈴薯じゃがいも、それからよい珈琲コーヒーは、誠に美味であった。我々のいる建物に達するには、長い坂と石段とを登らなくてはならぬが、これが中々楽でない。部屋にはいずれも広い張出縁と、魅力に富んだ周囲とがあり、佳良である。私は屋根の一つある、一間きりの小さな家を占領しているが、張出縁から小さな反り橋がこれに通じ(図658)、灌木の叢くさむらが床と同じ高さまで生え繁っている。私の写生帳は襖や格子細工や窓の枠や美しい欄間やで一杯である。それ等の意匠の典雅と美麗とは、即席の写生図で示すことは不可能である。薄板に施した形板きざみは完全で、例えば打ちよせる波は、奇妙な牧羊杖の手法と空中にかかる各々の水滴とで、あく迄月並ではあるが、而も速写写真が示す波の外見を、そっくり表している。数百マイルにわたってこの国を旅行する人が驚かずにいられぬのは、如何に辺鄙な寒村でも、これ等の仕事を充分やり得る腕を持つ、大工や指物師や意匠家がいることである。

一番よい部屋の天井に近く、燕の巣がかかっている家が多い。燕が巣をかけ始めるや否や、その下に小さな棚をつり、巣をつくる途中で落ちやすい泥が畳をよごすのを防ぐ(図659)。この鳥が、家の内では、外よりも余程繊細な、こみ入った巣をつくるのは面白いことである。事実燕は、彼等と一緒に住む人達の趣味を理解しているらしく思われさえする。

駿河、三河、尾張と来るにつれて、藁葺屋根の屋梁に変化が見えたのは興味があった。私は内部の台所から来る煤で、真黒になった藁葺屋根を、数人の男が修繕しているのを見た。壁土をこねる男が、巧妙に屋梁をかざり立てる方法は興味が深い。
その日我々は河を越したが、そこでは何人かが舟をつくっていた。私は二人の男が鉄の槌で舟板の端を叩いているのを見た。いわば木理きめを叩き圧えるのであるが、こうすると舟板を次の舟板に合わせる時、叩き潰された端は濡れるとふくれるから、しっかりと食い合う。
京都は確かに芸術的日本の芸術的中心である。いたる所で人はその証拠を見る――商店、住宅、垣根、屋根の上、窓、襖、それを辷らせる装置、格子、露台の手摺。看板さえも趣味を以て考案され、芸術と上品さとがいたる所にある。加之しかのみならず、私は日本中で京都ほど娘達や小さな子供が、奇麗な着物を着ている所を、見たことが無い。頭髪の結い方には特徴があり、帯の縮緬ちりめんと頭の装飾とは燦然としている。我々の旅館は、山の斜面に、立木と仏閣とにかこまれて立っている。この要害の地から人は、日没時、市を横切る陽光の驚く可き効果を見る。夕暮には、歌の声と琴の音と、笑い声とが聞える。声高い朗吟が聞える。そのすべてにまざって、近所で僧侶が勤行ごんぎょうをする、ねむくなるような唸り声が伝って来る。まったく、僧侶たちが祈祷する時に出す音は、昆虫の羽音と容易に区別しがたい。昨夜僧侶の誦経にまざって、急激な軽打とも鳴音ともいう可きものを聞いた。これは私が江ノ島で聞いた、そこで鈴虫と呼ばれる昆虫と、まったく同じであった。気温が高まるにつれて、このキーキー叫ぶ昆虫の声音は速くなって行く。私は懐中時計を取り出し、一分の四分の一に、三十五回の鼓拍を数えた。だが、寒暖計を見る前に、一人の召使いに、あんな音を立てるのはどんな虫なのかと聞いたところが、あれは僧侶の鈴の音だという返事であった。
この市の中を、幅の広い、浅い河が流れている。今や水がすくなく、あちらこちら河床が現れて、大きな、平べったい丸石が出ている。かかる広い区域には高さ一フィートで、畳一畳、時としては二畳位の広さの、低い卓子が沢山置かれる。日本人はこれ等の卓子を借り受け、多人数の会合が隣り合って場を占める。晩方には家族が集り、茶を飲み、晩食を取り、そして日没を楽しむ。河にかかった橋から見る光景は、台がいずれも色あざやかな、いくつかの燈籠で照明されているので、驚く程美しく、目のとどくかぎり色彩の海で、ところどころ、乾いた河床に篝火かがりびが燃えさかる。我々と一緒にいるグリノウ氏は、これはヴェニスの謝肉祭の光景に匹敵するといった。
今日(八月八日)私は画家の楳嶺ばいれいを訪問した。これは、彼が陶工六兵衛のために画いた、陶器製造の順序を画いた絵のうつしを画いて貰うためである。私は画の先生である楳嶺氏が、一群の生徒の中央にいる所へ入って行った。生徒はいずれも畳の上に、手本を前にして坐り(図660)、一生懸命勉強していたが、その中には十二歳、あるいはそれ以下の男の子も多かった。年長の生徒のある者は十年も通っていると、彼はいった。生徒達は朝八時に来て、夏は正午に、冬は晩の五時に帰って行くが、これを最近休日となった日曜以外、毎日やるのである。教授料は一ヶ月三十セントで、紙、筆、墨、絵具その他は先生が出す。六年すると生徒はうまく手本を模写するようになる。最初の稽古は簡単な線や、菱形模様等である。次の年彼等は花を描き、その次が山水風景、そして最後に人物であるが、先ず衣文を描き、次に生物からの裸体を描く。生徒のあるものは陶工その他、職業上意匠或は装飾を必要とする工芸家の家族から、他は武士の階級から来る。楳嶺氏の毎日の級には生徒が二十人、別に各家庭で稽古し、一週間に一度絵を持って批評を乞いに来る生徒も若干いる。興味のある会見を終って、私は立ち上った。すると生徒は全部、即座に丁寧なお辞儀をし、同時に楳嶺氏はその日の自分の学校での練習図である所の、大きな紙を巻いたものを私に贈った。花、果実、舟等を力強い筆の線で描いた美しい絵で、如何なる記述よりもよりよく、教授法と若い日本人の熟達とを示している。お茶と一緒に出たお菓子は、桜の花の形で、可愛らしい籠に入っていた(図661)。

我々にあっては、こわれやすい品を入れた箱に「硝子ガラス」と記し、欧洲では内容が脆弱であることを示すために、葡萄酒杯の絵を描くのが常である。日本の包装者は真珠貝(鮑)を、図662に示す通り箱にしばりつけ、あるいは箱にこの貝の絵を描く。

陶器を見に立ち寄った小さな店では、私に面白い形の容器に入れた、スパゲティ〔イタリー饂飩うどん〕の一種を供した。太さは日本綿糸よりすこし大きい丈である。これは、その一本を皿から取り上げると、それを箸にまきつけ得る迄に、二フィートもそれ以上も伸るので、食うのが大変むずかしい。小さな盃には汁が入っていた。これはヒヤムギと呼ばれる。それの入った器は支那製だという事であった(図663)。私がこれを食っている間、店主の小さな娘が一種のギタア〔六絃琴〕を弾いて聞かせてくれた(図664)。
第二十一章 瀬戸内海
我々は八月十日、京都を後にして瀬戸内海へ向った。途中大阪で二日を送ったが、ここで我々は、陶器と絵画を探っているフェノロサ、有賀両氏と落ち合った。河上でお祭り騒ぎが行われつつあったので、ドクタアは大きな舟をやとい、舞妓、食物、花火その他を積み込んだ。我々はグリノウ氏も招いた。それは大層楽しい一夜で、河は陽気な光景を呈した。遊山船は美しく建造され、底は広くて楽に坐れ、完全に乾いている。そしてゆっくりと前後に行きかう何百という愉快な集団、三味線と琴の音、歌い声と笑い声、無数の色あざやかな提灯ちょうちん、それ等は容易に記憶から消えさらぬ場面をつくり出していた。米国の都邑の殆どすべてに、河か入江か池か湖水かがある。何故米国人は、同様な祭日を楽しむことが出来ないのであろうか。だが、水上に於るこのような集合は、行儀のいい国でのみ可能なことではある。
我々は朝の五時、小さな汽船で、安芸国の広島に向って、京都〔?〕を立った。我々は汽船の一方の舷側に、かなり大きな一部屋を、我々だけで占領した。この船は日本人の体格に合わせて建造されたので、船室や通路が極めて低く、我々は動き廻る度ごとに、間断なく頭をぶつけた。航海中の大部分を我々は甲板で、美しい景色に感心した。午後六時広島の沖合に着き、我々を待っていた小舟に乗りうつって、一時間ばかり漕いで行ったというよりも、舟夫たちはその殆ど全部を、浅い水に棹さして、河の入口まで舟をはこばせた。それは幅の広い、浅い河で、我々は堂々と積み上げた橋の下を、いくつかぬけて、ゆっくりと進んで行った。両岸には、多く黒塗りの土蔵をのせたしっかりした石垣が並んでいた。まだ早いのだが、あまり人影は見えず、灯も僅かで、河上の交通は無い。この外観は我々に、非常な圧迫的な、憂欝な感を与えた。大阪の商業的活動と、この陰気な場所との対照は、極端なものであった。これは人口十万人の都会である。而もその人々は、虎列刺コレラが猖獗を極めているからでもあろうが、みんな死んで了ったかの如くである。
我々は旅館を見出すのにとまどった。あすこがいいと勧められて来た旅館は、虎列刺で主人を失ったばかりなのである。で我々は飢えた胃袋と疲れた身体とを持ちあぐみながら、黒色の建物の長い行列と、背の高い凄味を帯びた橋と、いたる所を支配する死の如き沈黙とに、極度に抑圧されて、一時間ばかり舟中に坐っていた。最後に我々を泊めてくれる旅館が見つかったので、河を下り、対岸に渡って、その旅館の裏手ともいうべき所へ上陸した。荷物を持ち出し、石段を上って、長い、暗い、狭い小路を歩いて行くと、我々はいまだかつて経験しなかった程小じんまりした、最も清潔な旅館に着いた。フェノロサと有賀とは、西洋料理店があることを聞き、我々を残して彼等がよりよき食物であろうと考えるものを食いに行ったが、ドクタアと私とは、運を天にまかせて日本食を取ることにし、実に上等の晩飯にありついた。
翌朝私は早くから、古い陶器店をあさりに出かけた。旅館の日本人の一人が私の探求に興味を持ち、親切にも私を、私が求める品を持っていそうな商人のすべてへ、案内してくれた。彼はまた商人達に向って、彼等が集め得るものを持って、私に見せるために旅館へ来いといった。その結果、その日一日中、よい物、悪い物、どっちつかずの物を持った商人の洪水が、我々の部屋へ流れ込んだ。前夜の、所謂西洋料理に呆れ果てたフェノロサは、広島と、これから行こうとする宮島及び岩国に対する興味をすべて失って了い、有賀と一緒に大阪と京都とへ向けて引き返した。
八月十五日、ドクタア・ビゲロウと私とは、清潔な新造日本船にのって、瀬戸内海の旅に出た。旅館を退去する前に、ふと私は日本の戎克ジャンクなるものが、およそ世界中の船舶の中で、最も不安定なものであり、若し我々が海へ落ちるとしたら、私の懐中時計は駄目になって了うということを考えた。それに、岩国では日本人達のお客様になることになっているのだから、そう沢山金を持って行く必要も無い。そこで亭主に、私が帰る迄時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快く承知した。召使いが一人、蓋の無い、浅い塗盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。で、それ等を彼女が私に向って差出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いた儘で、出て行った。しばらくの間、私は、いう迄もないが彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。然し下女はかえって来ない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと質ねた。彼女は、ここに置いてもいいのですと答える。私は主人を呼んだ。彼もまた、ここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も、他の品物も持っていないのであるといった。未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂かんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。
我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。米国や英国の旅館の戸口にはってある、印刷した警告や訓警の注意書を思い出し、それをこの経験と比較する人は、いやでも日本人が生得正直であることを認めざるを得ない。而も私はこのような実例を、沢山挙げることが出来る。日本人が我国へ来て、柄杓が泉水飲場に鎖で取りつけられ、寒暖計が壁にねじでとめられ、靴拭いが階段に固着してあり、あらゆる旅館の内部では石鹸やタオルを盗むことを阻止する方法が講じてあるのを見たら、定めし面白がることであろう。
閑話休題、我々の戎克には舟夫四人に男の子一人が乗組み、別に雑用をするために旅館から小僧が一人来た。我々は運よく、以前私が大学で教えた田原氏に働いて貰うことが出来た。彼は通訳として、我々と行を共にしたのである。時々風が落ちて、舟夫達は長い、不細工な櫓ろで漕いだ。世界中で最も絵画的な、美しい水路を、日本の戎克で航行するという経験は、まさに特異なものであった。船室の屋根の上に座を占めたドクタアが、如何にもうれしそうに楽々としているのを見て、私も実によろこばしかった。マニラ葉巻の一箱を横に、積み上げた薦こもによりかかった彼は、その位置を終日占領して、居眠りをするか、実に美しい変化に富んだ景色に感心するかであった。宮島を通過する時、田原氏は我々にこの島に関する多くの興味ある事実を物語った。我々は島の岸に大きな神社が、廊下の下に海水をたたえているのを見た。また海中からは、巨大な鳥居が、その底部を半ば潮にかくして立っていた。これ等はすべて、はじめは海岸を去る地点の島上に建てられたのである。この効果は素晴しい。島が、砂浜を除いては海中から垂直に聳え、相当な高さの山が甚だ嶮しく屹立しているからである。人は比較的新しい時代に於て、海岸線のこの低下を引き起した。途方もない震撼が、如何なるものであったかを考えることが出来る。沿岸いたる所に、人は隆起と低下のかかる証例を見受ける。
晩方になると風が出た。舟はその風に吹かれて、やがて小さな漁村に着き、我々はそこで十時に上陸した。我々の主人役は、我々を出むかえる役の人をそこに終日いさせたので、彼はいく度もお辞儀して我々に挨拶し、一人ずつの為に車夫を二人つけた人力車を用意していた。荷物のことですこし暇取った後、我々はそこから数マイルはなれた、美しい谷間にある岩国へ向った。それはまことに気持のよい夜であった。すべての物が目新しく見えた。棕櫚しゅろやサバル椰子やしは茂り、亜熱帯性の植物は香を放ち、車夫は狂人のように走り且つ叫んだ。一日中戎克の内に閉じこめられた後なので、実に気持よかった。それは忘れられぬ経験であった。
我々が岩国の村へ入ると、人々はまだ起きていた。彼等が町に並び、そして私がそれ迄に見たことのないようなやり方で、我々をジロジロ見たところから察すると、彼等は我々を待ち受けていたものらしい。最後に外国人が来てから、七年になるという。群衆から念入りに凝視されると、感情の奇妙な混合を覚える。ある点で、これには誠に面喰う。あらゆる動作が監視されつつあることを知ると共に、吾人は我々の動作のある物が、凝視者にとって如何に馬鹿げているか、或は玄妙不可思議であるかに違いないと感じる。吾人は無関心を装うが、而も凝視されることによって、威厳と重要さとが我身に加ったことを自認する。我等は特に彼等の注意心を刺戟するような真似をする。一例として、我国の現代の婦人と同様に、日本人はポケットなるものを知らぬのだが、何かさがしてポケットを裏返しにしたり、又、如何にもうるさそうな身振をして、笑わせたり、時に自分自身が、愚にもつかぬ真似をしていることに気がつくが、而もそれは、冷静で自然であることを示すべく、努力している結果なのである。
吉川氏の使者は我々を公でない旅館に案内した。ここは昔は、大名家の賓客に限って招かれ、そして世話された家なのであるが、今や我々のために開かれ、吉川家の宝物の中から美しい衝立やかけ物がはこばれて、我々が占めるべき部屋にかざられた。美味な夕餐が出た後、午前一時、我々は床についた。障子の間のすき間から覗くと、大きな一軒の小屋がけに薄暗い光が満ち、芝居が行われつつあった。その他にも小屋が数軒見え、呼売商人が叫んでいたことから、私は何等の市か祭礼かがあることを知った。それ等の後と上とは、完全な闇であった。
翌朝、障子を押し開いた我々の目に接した景色は、この上もなく美しいものであった。目の前は広い河床で、その底に丸い石や砂利は完全に姿を現し、その向うには絵画的な山が聳え、右にはあの有名な、筆や言葉では形容出来ぬ、彎曲した桁構けたがまえの橋がある。朝飯が終ると、吉川家に雇れている各種の役人が、敬意を表しに来たが、その一人の三須氏は、吉川氏がここに設立した原始的な木綿工場の支配人で、古い木版画に見るような顔をした、昔の忠義な家来の完全な典型である。また吉川家の遠縁にあたる吉川氏は、万般の事務を見る人だが、ニコニコした気持のいい、最も愛想のよい顔をしていた。その他名前を覚え切れぬ多数の人が来たが、皆我々の気安さに甚大の注意を払ってくれた。彼等はいう迄もなく日本服を着ていたが、それは完全なものであった。事実、この訪問期間を通じて、我々は外国風なものは一切見なかった。若し彼等が帯刀していたら、我々は封建時代に於ると同様の日本を見たことになったのである。動作、習慣、礼譲……刀を除いてはすべて封建日本であった。そしてそれは田園詩の趣を持っていた。
朝我々は町をあちらこちら、骨董屋を見て歩いた。正午正餐が終ると我々は屋根舟で、河上数マイルのところにある多田の窯の旧跡を見に連れて行かれた。これは百八十年前に出来たのだが、久しく廃れている。一人の男が舳に立って竿を使うと、別の一人が前方の水の中に入り、長い繩で舟を引く。そして我々は柔かい筵によっかかって、寒天菓子や砂糖菓子や生菓子やお茶の御馳走になるのであった。我々は早瀬をのぼり、何ともいえぬ程美しい景色の中を、暗い森林の驚く可き反影が細かく揺れる穏かな水面を、静に横切った。最後に、最も絵画的な場所で上陸すると、そこにはすでに数名の人が待っていて、我々に此上もなく丁寧なお辞儀を、何度もくり返した。すこし歩くと、窯の跡に出たが、今やまったく荒廃し、竹の密生で覆れている。ここの最後の陶工の一人であった老人が、我々に多田陶器とその製作順序とに就て話をし、しばらくあたりを見た後我々は一軒の家へ行き、そこで昼飯が出された。どうも二時間に一度位ずつ、正餐か昼飯かを御馳走になっているような気がする。この場所には多田、味名、亀甲等の標本があり、そのある物は我々に贈られ、他のものは機会があって私が買った。
八時頃舟へ向った。屋根の辺には派手な色の提灯がさがり、我々は岩国へ向って速く、気持よく舟を走らせた。侍者達は我々の到着を待ち受けており、すぐ我々をある建物へ案内したが、そこでドクタアと私とは風致に富む小さな茶の部屋で行われた茶の湯の会に参加し、美味な粉茶を飲んだ。この儀式的なことが終ると我々は隣室で正餐の饗応を受けた。それが済むと、今度は地方劇場の一つへ行ったが、観客は劇その物よりも我々の方を余程面白い見世物と思ったらしく、老若男女を問わず、私がそれ迄日本で経験したことが無い仕方で我々を凝視し、そして我々の周囲に集った。最後に我々は、その一日の経験で疲れ切って寝床に入った。この日の経験はすべて新奇で気持よく、もてなし振り、礼譲、やさしい動作等で、我々に古い日本の生々とした概念を与えた。
翌朝我々は、またしても忙しい日を送る可く、夙く起きた。十時、三須氏が、前に書いた木綿工場へ我々を案内するためにやって来た。将軍家がくつがえされた一八六八年の革命後、吉川公は東京に居を定めた。この地方の政府はミカドの復興に伴ういろいろな事件で混乱に陥り、家臣の非常な大多数が自力で生活しなければならなくなり、この大名の以前の隷属者達のために何等かの職業を見つける必要が起った。吉川公の家来であるところの紳士が数名、仲間同志で会社を組織し、そして紡績工場を建てた。この計画は吉川公も奨励し、多額な金をこの事業に投資した。今日では広い建物いくつかに、木綿布を製造するすべての機械が据つけてある。これ等は粗末な、原始的な、木造の機械ではあるが、而も皆、我国の紡績工場にある大きな機械に似ている。
百人以上の女と三十人の男とが雇れているが、男は全部袴をはき、サムライ階級に属することを示している。糸以外にこの工場は、一年に十万ヤードに近い木綿布を産出する。二人の強そうなサムライが、踏み車を辛抱強く踏んで、機械のある部分に動力を与えているのは、面白かった。また外にある部屋には、ある機械を動かす装置があり、これもまたサムライが廻転していたが、彼等は、我々が覗き込むと席を下りて丁寧にお辞儀をした。事実、建物の一つの二階にある長い部屋を歩いて行くと、事務員が一人残らず――事務員は多数いた――我々にお辞儀をした。部屋のつきあたり迄行くと、そこには床の上に大きな絨氈じゅうたんが敷いてあり、我々にお茶が出た。そこで事務所に雇れている事務員その他四、五人ずつやって来て、我々が膝をついた位置にいたので、膝をついてお辞儀をした。我々が工場の庭に入った時から、工場を見廻っていた最中、人々は皆三須氏と我々とにお辞儀をしたが、三須氏が職工に対して如何にも丁寧で親切であるのは興味深く思われた。彼はドクタアの強力な郭大鏡を借りて職工達に、織物は郭大するとどんなに見えるかを示した。
事務所の入口には、事務員、職工、従者等の名前がかけてあった。彼等は互助会を組織し、病人が出来た時に救うために少額の賦課を払う。我々をこの上もなく驚かしたのは、埃や油がまるで無いことであった。どの娘も清潔に、身ぎれいに見え、誰でも皆愉快そうで、この人達よりも幸福で清潔な人達は、私は見たことがない。ラスキンがこれを見たら、第七天国にいるような気がするだろう。
このような興味ある経験の後、我々は大きな部屋へ招かれた。そこには職工全部が、クエーカー教徒の集会みたいに、娘達は部屋の一方側に、男達はその反対側に席を占めていたが、驚いたことには、私に田原氏を通訳として、一場の講演をしろというのである。私は蟻を主題に選んだ。黒板は無かったが、彼等は皆非常に興味を覚えたらしく見えた。私の以前の学生の山県氏もそこにおり、六角敷むずかしいところへ来ると手伝ってくれた。
それが終ると我々は、この建物の三階の、一種の展望台になっているところへ登った。ここからは川の谷と附近の素晴しい景色が見られる。あたりに椅子を置いた食卓から、気分を爽やかにするような正餐が供され、数人のハキハキした娘が、奇麗な着物を着てお給仕をしてくれた。また三人の美少年も同様に給仕したが、その一人は、前日私につききり、持っている扇子で屡々私を扇いだ。その日すでに二度食事をしたにかかわらず、正餐は誠に美味であった。まったく日本料理が何度でも食えることは、驚くばかりである。私は田原氏から、どこか遠くの方にいる有名な料理番が特に呼ばれ、そしてこの地方で出来る最上の材料が集められたのだと聞いた。食卓と皿との外見は、実に芸術的であった。殊にある皿は、その中央から樹齢四十年という美しい矮生の松が生え、また刺身を入れた皿は、その中央に最も優雅な木の葉の細工を持つ、長さ五フィートの竹の筏いかだの上にのっていた。それ等は両方とも、漆塗の台で支えてあった。図665はそれ等を非常に乱暴に写生したものである。これは我々の送別宴で、この芸術的な、そして気持のいい事柄が行われた場所は、紡績工場の三階なのである!

綿工場の外に製紙工場と、それに関係した印刷工場とがある。ここでは書物、冊子、その他印刷に関係のある仕事がすべて行われる。
四時、我々は工場を退去し、数名の紳士に伴われて宿舎に帰った。そこには人力車が待っていたので、最後のさよならを告げた。白い木綿の大きな四角い包が我々の各々に贈られた。ドクタアは、岩国の有名な刀鍛冶がつくった、木の箱に入った刀を二振ふり手に入れ、私は数個の古い岩国陶器を貰った。我々は世話をしてくれた二十二人の人々に、僅かな贈物をすることが出来た。旅館の勘定をしてくれというと、それは既に支払ってあるとのことで、更に海岸までの人力車も、支払済みであった。事実、我々は文字通り、これ等のもてなし振りのいい人々の掌中にあったのである。その後、我々は吉川氏が、我々をむかえる準備のために、人を一人、東京から差しつかわしたことを知った。最後に我々は、何百というお辞儀に取りまかれて出発した。そして日本民族、殊に吉川公と、政治的の変化があったにもかかわらず、吉川公に昔と同じ忠誠をつくす彼の忠義な家来達に対する、圧倒的な感謝の念と愛情とを胸に抱いて、速に主要街路を走りぬけて田舎に出た我々を、好奇心の強い沢山の顔が、微笑を以て見送るのであった。
気持よく人力車を走らせながら、牧場や稲田から静かに狭霧さぎりが立ちのぼり、暗色の葺屋根が白い霧に影絵のように浮び、その向うには黒い山脈が聳えるという、驚く可き空気的の効果の中で、我々は我々の顕著な経験を、精神的に消化した。海岸の小村に着くと、驚く可き庭園の中にある小さな茶店へ連れて行かれ、ここで茶菓の饗応を受け、最後に戎克に乗りうつるや、いくつかの箱に入った菓子箱が贈られた。
次に我々はそこから十二マイル離れた、日本で最も絵画的で且つ美しい景色の一とされている宮島の村へ寄った。風がまるで無いので、舟夫達は十二マイルにわたって櫓を押した。香わしい南方的の空気の中で、甲板に坐って八月の流星を見ながら、我々が楽しんだ特異的な経験を思い浮べることは、まことに愉快であった。ある、特に美しい流星は、私がドクタアの注意をそれに引いてからも、まだあきらかに姿を見せていた。
真夜中、宮島に着いた我々は、古めかしく静かな町々を通って、深い渓間にある旅館へ行き、間も無く床について眠た。翌朝(八月十七日)障子をあけた我々は、気持のよい驚きを感じた。目の前が、涼しくそして爽快な、美しくも野性味を帯びた谷なのである。鹿が自然の森林から出て来て、優しい目つきで我々を見た。その一匹は、我々の部屋の前のかこいの中にまで入って来て、西瓜の皮を私の手から食った。私は、これ等の鹿は一定の場所に閉じ込められ、餌馴されているのだろうと考えたが、数時間後町を歩いていると、そこにも彼等はいて、そして私は、彼等が幽閉されているのでもなければ、公園にいる標本でもなくて、山から下りて来たのであることを知った。換言すれば、彼等は一度も不親切に取扱われたことの無い、野生の鹿なのである。
有名な神社には、いろいろな画家の手になる絵で装飾した長い廻廊がある。絵の、ある物は非常に古く、その細部が部分的に時代による消滅をしているが、我々はそれ等を二時間もかかって調べた。古い竹根の形をした珍物や、六才の男の子が描いた興味の深い竹の画や、目につく鹿の彫刻等もあり、その彫刻の一つには彫刻家が使用した鑿のみがぶら下っていた。神社は古さ七百年程、廊下の一つの近くに立っている石灯籠も七百年を経たものである。図666はそれである。谿谷に近い町には、家々に水を供給する、奇妙な構造の導水橋がある。我々の旅舎の近くにあるものの構造は、非常に原始的である。石を大きく四角に積み上げたものの上に、これも大きな木造の水槽があり、その側面に開いている穴から出る水流が竹の導水管に流れ込むこと、図667に示す如くである。これらの導水管は、村の各家に達する地下の竹管に連っている。また別の谿谷では、竹の樋が水を遠距離にわたって導く。ある場所には、図668に示すように、箱に入れた竹の水濾しが使用してあった。これ等各種の装置に依て、宮島の村は、この上もなく清冽な山の清水の配給を受ける。

門を自動的に閉じる簡単な装置を図669で示す。上方の横木から錘おもりが下っていて、その重さによって門は常に閉じてあるが、人が入る時には、錘が数回、門にぶつかって音を立て、かくて門鈴の役もつとめる。村の主要街を自由にぶらつき廻る鹿が、ともすれば庭園内に入り込みやすいので、この装置をして彼等の侵入を防止する。

宮島は非常に神聖な場所とされているので、その落つきと平穏さとは、筆舌につくされぬ程である。この島にあっては、動物を殺すことが許されなかった。数年前までは、人間とてもここでは死ぬことが出来なかったそうである。以前は、人が死期に近づくと、可哀想にも小舟にのせられて、墓地のある本土へと連れて行かれた。若し、山を登っている人が偶然、血を流す程の怪我をしたとすると、血のこぼれた場所の地面は、かきとって、海中に投げ込まねばならなかった。これは召使いや木彫工や、店番や、その他どこにでもいるような村民が構成する村である。如何なる神秘に支配されて、彼等は行儀よく暮すのか? 何故子供達は、常にかくも善良なのか? 彼等は女性化されているのか? 否、彼等は兵士としては、世界に誇る可きものになる。
私は小さな舟にのって、広島へ帰る可く本土へ渡った。ドクタアは、もう一晩宮島で泊ることにした。沿岸を航行する人は、石で出来た巨大な壁が数マイルにわたって連り、海上からは防波堤のように見えるものがあるのに気がつく。広島への帰途、その上を人力車で走るにいたって、我々は初めてこれ等の構造物が持つ遠大な性質、換言すれば意味が判った。百年も前に建てられたこれ等の壁は、海底を、農業上の目的に開墾するためのものなので、かくて回収した土地の広さは、驚く程である。沿岸は截きり立っていて山が高く、山の尾根が海から岬角みさきのようにつき出て、その間々に広い入江をなしている。壁はこれ等の岬角の先端から先端へと築かれ、かこい込んだ地域には土を入れて、今や豊饒な耕作地となっている。壁の上には広い路があり、そこを人力車で行くことは愉快であった。八時に広島へ着いた私は、いう迄もないが、先ず時計と金とを求めて私の部屋へ行ったが、それ等は前にもいったように、そのままでそこにあった。
風邪を引いた上に、腹具合まで悪くなったので、翌日は終日床についていたが、骨董屋達が古い陶器を見せにやって来て、私は私の蒐集を大いに増大させた。通弁なしでも結構やって行ける。私は、日本中一人で旅行することも、躊躇しない気でいる。翌日ドクタアが到着して、群り来る商人相手に一日を送った。出かけるばかりの時になって我々は、商人達が大きな舟を仕立て、五マイル向うの汽船まで我々を送り度いといっていることを知った。舟にのって見て、これはとばかり驚いた。それは見事な遊山船で、芸者、立派な昼飯、その他この航行を愉快にするものがすべて積み込んである。このようにして彼等は、我々に対する感謝の念を示そうとしたのである。別の舟には我々の数名の日本人の友人が乗って送りに来たが、その中には数年前、私が大阪に近いドルメンを調べた時知り合いになった天草氏もいた。出発するすぐ前に、田原氏の知人が敬意を表しに来たので、私は私が提供し得る唯一の品なるブランデーを、すこし飲みませんかとすすめた。すると彼は、普通の分量よりも遙かに沢山注いだので、私は彼に、それが非常に強く、そんなに飲んだら参って了うと警告したが、彼は「ダイ ジョーブ、ヨロシイ」といった。彼が如何に早くこの酒の影響を受けたかは、興味も深く、また滑稽であった。我々が乗船した時には、彼はすでに怪奇的ともいうべき程度に酔っぱらって了い、最後に、河岸に上陸させねばならぬ程泥酔したが、そこで彼は、我々が見えなくなる迄、笑ったり、歌ったり鳴吐どなったりした。
我々は間もなく汽船に着き、気持のいい主人役の人々に別れを告げてから、明かに最も矯小な日本人の為につくられた、小さくて低い代物に乗りうつった。その結果、我々はすこしでも動き廻れば背中がつかえるか、頭をぶつけるかで、ドクタアはこの背骨折りの経験中、絶えず第三の誡命〔「汝の神エホバの名を、妄みだりに口にあぐべからず」〕を破った。
我々は夜の十一時に出帆し、その翌日と翌夜、時々止りながら航行を続け、朝神戸に着いた。この航海ぐらい惨めなものは無かった。たいてい雨が降り続き、我々は日本人の一家族と共に小さな室に閉じこめられていたが、隣の部屋には日本人が十八人入っていた。彼等は皆礼儀正しく、静かだった。彼等が他の国の住民であったなら、我々はもっと苦しんだ――これ以上の苦痛があり得るものとすれば――ことだろうと思う。寝台も棚寝床も無いので、我々は床にねむり、日本食は言語道断であり、私は広島に於る病気から回復していなかった。
神戸に着くと、我々は何かを食う為に、英国流の旅館へかけつけた。二週間以上も、我々は日本食ばかりで生きていたのである。その多くは最も上等であったが、それが如何によくっても、朝飯は我々を懐郷病ホームシックにする。で我々は、殆ど狂気に近い喜悦を以て、英国流の食事をたのしんだ。
ここ一週間、私は物を書くことと、食うことと以外に、大した仕事はしなかった。 
第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし
我々の瀬戸内海に於る経験は珍しいものであり、また汽船を除いては、この上もないものであった。今や我々は、紀伊の国の都会へ向けて出発せんとしつつある。それから奈良と京都とへ行くのであるから、私の紀行の覚書や写生図は、順序正しく書く機会無しに、どんどん集って行く。私はまた、陶器紀要に関する資料を沢山手に入れたが、これは情無い程遅れている。
朝鮮で恐るべき暴動が起り、数名の日本人が虐殺されてから、まだ一月にならぬ。日本の新聞がこの報道を受けた時、私は京都にいたが、この事件に関する興奮は、私に、南北戦争が勃発した後の数日を連想させた。大阪は兵士三連隊を徴募し、百万ドルを醵金することになり、北西海岸はるか遠くに位置する新潟は、兵士半個連隊を徴募し、十万ドルを寄附することになった。私は以下に述べる出来ごとの真価が、充分了解される為に、かかる詳細をかかげるのである。
国中が朝鮮の高圧手段に憤慨し、日本の軍隊が鎮南浦まで退却することを余儀なくされた最中に、私は京都へ行く途中、二人の朝鮮人と同じ汽車に乗り合わした。私も、朝鮮人はめったに見たことが無いが、車室内の日本人達は、彼等がこの二人を凝視した有様から察すると、一度も朝鮮人を見たことが無いらしい。二人は大阪で下車した。私も、切符を犠牲に供して二人の後を追った。彼等は護衛を連れていず、巡査さえも一緒にいなかったが、事実護衛の必要は無かった。彼等の目立ちやすい白い服装や、奇妙な馬の毛の帽子や、靴やその他すべてが、私にとって珍しいと同様、日本人にも珍しいので、群衆が彼等を取りまいた。私は、あるいは敵意を含む身振か、嘲弄するような言葉かを発見することが出来るかと思って、草臥くたびれて了うまで彼等の後をつけた。だが日本人は、この二人が、彼等の故国に於て行われつつある暴行に、まるで無関係であることを理解せぬ程莫迦ばかではなく、彼等は平素の通りの礼儀正しさを以て扱われた。自然私は、我国に於る戦の最中に、北方人が南方でどんな風に取扱われたかを思い浮べ、又しても私自身に、どっちの国民の方がより高く文明的であるかを訊ねるのであった。
六兵衛の製陶所にいた時、この老人は、数年前つくった水差しを見せながら、私にとっては新しい身振をした。それは二つの拳を、前後にならべて鼻の上に置いたことである。彼が何を意味するのか、私は不思議に思ったが、これは誇りを示すものだと教わった。天狗てんぐと呼ばれる聡明な老人が、面でも絵でも、並々ならず長い鼻を持っている人として表現されているので、知識又は褒めてよい誇りを現す時には、このように二つの拳を鼻の先へ持って行くのである。
神戸では窓から数名の労働者がくいを打ち込んでいるのを見た。その方法は、この日記のはじめの方で、すでに述べた。我々は今、彼等の歌の意味を知った。図670は足代の上で、重い長い槌を持ち上げる人々を示している。下にいる二人は、打ち込まるべきくいを支え、その方向をきめる。その一人が短い歌を歌うと、足代の上にいる者達は僅に身体を振り動し、槌をすこし持ち上げることによって、一種の振れるような拍手を取り、次に合唄コーラスに加り、それが終ると三、四回くいを叩き、次で下にいる男がまた歌を始める。歌は「何故こんなに固いのか」「もうすこし打てばくいが入る」「もうすぐだ」というような、質問、あるいは元気をつけるような文句で出来ている。この時数回続けて、素速く叩き下す。上にいる男達は屡々、独唱家の変な言葉に哄笑し、一同愉快そうに、ニコニコしながら働く。彼等は一日に、かなりな量の仕事を仕上げるらしいが、如何にもノロノロと、考え深そうに働くのを見ては、失笑を禁じ得ない。

神戸で三日滞在した後、我々は大阪へ行き、そこから紀伊の国の和歌浦へ向った。私は田原氏と先発し、あらゆる町で陶器を求めて骨董店をあさった。大阪平野を横断して、向うの山まで行く路は、単調ではあったが、いろいろ興味があった。全地域にわたって、絵画的な四、五の群をなす、大きな藁の稲叢いなむらがある。これは高さの違う高い棒の周囲に集められ、各々その中心をなす棒の先端である所の、小さな尖塔を持っている。これ等の稲叢の多くには、瓢箪ひょうたんや南瓜かぼちゃがからまり、又農夫達が休み場所にする小さな小舎をかけたのもある。図671はそれ等の外見である。近い距離をおいて、この土地の灌漑に使用する単式或は複式のはねつるべがある。重い方の端には円盤に似た形で、中央に穴のある荒削りの石があり、この穴の中に棒の末端がさし込んである。これ等が何千となく広い平原に散在し、その多くは使用されつつあった。灌漑が行われつつある範囲の広汎さは、恐らく支那を除いては他にあるまい。私はやがて支那へ行き度いと思っている。そこでは、はねつるべは、二千年も前からある。

川の流れを動力とする、非常に巧妙な水車(図672)があった。これは支那人が考えたもので、東京及びその以北には稀だが、南方諸国ではよく見受ける。車輪は径八フィート、あるいはそれ以上で、その外面の横側に、大きな竹の管が斜に取りつけてある。水流によって車が回転させられると、竹の管に水が充ち、それ等の管が上へ来ると水は流れ出して、車輪の中心に並行して置かれる深い箱型の水槽へ落ち込む。水はこの水槽から又別の水槽へ流れ込み、そこから灌漑溝へ行く。各々の竹が順番に水で充ち、車軸の上方へ来てはその水を水槽へこぼす、規則正しいやり方を見ていると、中々面白い。時に河岸に添うて、二、三個の水車が相接してあることもあり、一日中には多量の水が水田を灌漑する為に揚げられる。

紀伊のある所で、私は稲田の草を取るのに使用する、奇妙な道具を見た。それは底の無い箱で、その内側には二本の棒が横に渡してあり、それに木の留釘が打ってある。この箱から長い柄が出ていて、それで稲の列の間を押して行くのである。図673を見れば、その形がたいていは判るであろう。これは我々がそれを見た村の住人が発明したものである。

和泉と紀伊の国境をなす山脈を越える峠は、道路が完全で、見事な石の橋もあり、実に愉快だった。
人はいたる所で、山の洪水から道路を保護するために、念入りの努力が払われていることに気がつく。渓流の河床でさえも、激流が何等の害をしないように、道路同様に鋪石してある。図674を見る人は、朧気ながら、橋の迫持受せりもちうけと河床とを保護する方法を知るであろう。水があまりに早く流れることを防ぐために、橋の下方には大きな堰せきが出来ている。ここに出した橋は、和泉を去って紀伊に入った所の峠にあるものの一つである。

私は和泉で、屋根が奇妙な方法に処理してあるのを見た。先ず杮板(こけらいた)を薄く並べた上に、泥を薄く敷きつめ、その上から大きな木の槌で綿の種子を一層叩き込む。種子は油をしぼり取った残物であるが、油気があるので、泥が固くなり、太陽で焼かれる迄、防水上塗になるのである。
街道のある場所で休んだ時、よくある種の吸物に入っている、一種の変った食物を製造していた。これは艶々した黄色で、紙のように薄く、味とては別に無い。大豆から奇妙な、且つ簡単な方法でつくり出す。先ず豆を非常にやわらかくなる迄、大きな釜で煮、臼にかけて細かく挽いて糊状になし、水をまぜ、外国から輸入する、ある種の染料で色をつける(図675)。そこでこれを四角く仕切られた浅い水槽へ入れるが、その下には炭火があり、常にとろとろと煮立て続ける。するとその表面が煮た牛乳か、ココアの一杯に於るが如く凝結するので、かくて構成される薄膜を、細い竹の箸で巧みに取り上げ、ひっかけて乾燥させる(図676)。別の薄膜も、出来るに従って、忙しく働きつつある娘に、すばやく取り上げられる。

和歌山に近い紀伊の平原に入った時の景色は、まことに奇麗であった。ひろびろとした稲田のあちらこちらには、褐色の葺屋根と白い壁とを交えた黒い瓦屋根の百姓家が数軒ずつかたまり、その上には深く暗色に茂る葉の、面白い形の木が聳えるのだが、それがすべて何マイルにわたる最も艶々した緑色の、完全に平坦な敷物の上に散在している。和歌山の位置は、地平線上に高くぬきんでて、周囲の景色の中での目立つ特徴をなすお城によって、遠方からでもそれと知られる。
ある国から他の国へ旅行すると、いろいろなことが違っているのに気がつく。瓦葺きの屋根の変種に就ては、この日記ですでに述べるところがあった。図677は紀伊で使用される犁すきの型である。これは山城で用いられるものと同様であるが、それ程頑丈でもなければ、また優雅でもない。

我々は夕方の六時に、和歌山へ着いた。この都会は低い丘陵の上に、大きな立木に取りかこまれて位置する。五万か六万の人口を持っているのだが、それにもかかわらず、簡素で静かである。町の内を、人力車を走らせて行くと、人々は熱心な有様で我々を凝視した。ある場所を訪れる外国人の数は、そこで我々が受ける凝視の量と質とによって推測することが出来る。我々は、外国人がめったに和歌山に行かぬことと判断した。我々は清潔な旅籠はたご屋を見つけた。何かを喰い、そして床につくことは、よいものである。翌朝我々は、例の如く陶器をさがしに出かけて沢山手に入れた。翌日も、最初の日と同じことをくり返した。
その日の午後、田原氏と私とは、小漁村和歌浦へと人力車を走らせた。ここは海岸から一寸入った場所で、遠方には美しい山々が聳えている。その山の一つの中腹には、大きなお寺が落陽の光に輝いていた。我々が越した一つの小さな橋の上では、大人や子供の群が蜻蛉とんぼを捕えて遊んでいた。彼等は正規的な捕虫網を持っていたが、ある一人は両手を自由にしておくために、四匹の蜻蛉を翅はねを後に廻して、口でくわえていた。また一人の男の子は、同じようにした蜻蛉数匹を、指の間にはさんでいた。子供達は、蜻蛉の胸と腹との間に糸を結びつけて遊ぶ。虫は飛びながら、軽い糸を数フィートぶら下げている。これは日本いたる所で見受ける子供の遊びである。
寺院や道路には、過去に於る壮麗を物語るものが多かった。朽ちた鳥居が灌木類と草とのこんがらかった内に立ち、海水がその底部まで来たり(図678)、面白い形をした古い石橋が、そこへ行っている道路がまるで見えないのに、広い河にかかっていたりした。比較的近い時代に、陸地が低下したに相違なく、人間の仕事の痕跡は波にのみ込まれて了っている。我々が和歌山へ戻った時には、月が上り、空気は生き生きする程涼しくて、景色も実に気持よかった。翌日はドクタアも一緒に海岸へ行き、そこで我々は大いに泳いだ。

私は、老婦人たちが著しくよい顔立をしているのに気がついた。非常に優しく、母性愛に満ち、そして利巧そうな顔である。事実私は、日本で私が訪れた多くの土地の中で、ここに於る程立派な、そして智的な老婦人が多い場所は無いともいい度い。子供達もまた非常に可愛らしく、一般的な文化と典雅の気分が、旅行者を直ちに印象づける。恰も三日にわたる先祖祭の時に当ったので、子供は皆美しくよそおい、夜になると奇麗な色の提灯を持って歩くのだった。街々には仮小屋が立ち並び、かかる叫び声と陽気さとの活躍は、それ等のすべてを支配するこの上なしの礼譲と丁重さとが無かったら、殆ど取りのぼせる位であったろう。一晩、我々は花火を見に行った。それは高さ二十フィートに近い、筵でつくった大きなかこいの内で行われた。花火はいずれも簡単だが非常に美しく、群衆が驚嘆して発する音は、我国の人々が同様の場合に出す音と、全く同じであった。
和歌浦では、漁師が網に渋を引く為に、松の樹皮を煮ていた。何故舟の帆にも渋引きをしないのかと聞くと、帆は渋を引くとよくもたぬと答えた。図679は、その簡単な渋引場である。岸に引き上げられた漁船の形は、日本の他の場所に於るのと、多少異っていた。国々によって、舟に目立つ相違がある。もっとも、すべて著しく乾燥した舟で、荒い海に卵殻のように浮ぶ点は同一である。

どこへ行っても、都会の町々の騒音の中に、律動的な物音があるのに気がつく。日本の労働者は、働く時は唸ったり歌ったりするが、その仕事が、叩いたり、棒や匙でかき廻したり、その他の一様の運動である時、それは音調と律動とを以て行われる。これ等の音は、呻きの連続であることもあり、本当の歌であることもある。金箔師や魚刻み人は、必ず一種独特の拍子で、叩いたり刻んだりする。生の魚を調理する奇妙な一方法は、それを石の臼で糊状になる迄こするのである。臼は地上に置かれ、杵は長い棒であるが、仕事をする者は立ったままで、素敵な勢で働く。かきまぜる動作には、一種異様な口笛を吹くような音が伴うが、これが長くかき廻すことと、短くかき廻すこととによって中断される動作と、完全に一致する。鍛冶屋の手伝が使用する金槌は、それぞれ異る音色を出すように出来ているので、気持のよい音が連続して聞え、四人の者が間拍子を取って叩くと、それは鐘の一組が鳴っているようである。労働の辛さを、気持のよい音か拍子かで軽めるとは、面白い国民性である。
田舎の町で人々が、如何に目立たぬように、外国人が来たことを、お互に知らせ合うかを見ることは興味がある。彼等は、彼が彼等の戸口の前を過ぎる余程前から、彼の近づくことを知るらしい。屡々子供が走って行ってお母さんに知らせたり、お母さんが子供達の注意をこの不思議な光景に向けたりするが、それをするのに彼等は決して大声を出したり、指さしたりしない。東京、京都その他の大都会では、外国人も注意を引く程珍しくはないが、而も東京のような大都会でも、片隅へ行くといくらか注意を引き、また都会へ出て来た田舎者は、外国人に興味を持つことでそれと知られる。
和歌山への旅は興味深々たるものであった。八月三十一日、我々は和歌山を立って奈良へ向った。最も美しい谷間を、二日にわたって人力車で行くのであった。我々の日本の旅で、ここ程魅力に富んだいい景色の多い所は他に無かった。晩方、我々は大和の国の五条という町へ着いた。川に沿う路の途中で、私はその外見はコネティカット河の上流に於る段丘とまったく同じだが、原因はまるで異る、正式な段丘構成を見た。
五条では、一軒の家が建てられつつあって、恰も部屋の天井が如何に支持されるかが見られた。人は杉板ののっている細いたるきが、よしんば如何に杉板が薄いにせよ、それ等を支える可く余りに弱いことに気がつく。これ等の板の上側には長い桟が打たれ、この桟と、上方の屋根のたるきとに釘でとめた木が入れられる。天井の上と屋根の下の空間、即ち我国にあっては屋根裏部屋を構成する場所は、日本の家ではまるで利用されず、鼠の運動場になっている。五条で私は、消防小屋の写生(図680)をした。これは四年前、蝦夷の室蘭で写生した同様の家に似ている。喞筒ポンプは屋根の下にぶら下っていて、乾燥してひびが入っているので、火事に際して使用すると、木に水がしみ込む迄は吃驚する位、水が各方面へほとばしり出る。

大和の八木という町で見たいくつかの葺屋根(図681)は、葺材の縁が重って現れている点で、蝦夷のアイヌ小舎の葺屋根に似ているが、継続的な縁辺はアイヌの屋根に於るが如く、著しくつき出してはいない。

我々は、朝五条を立ち、一日中気持よく人力車を走らせた後、六時奈良に着いた。大和の国へ入ってから私は路傍のそこここに、千年以上も経た青色の、釉をかけぬ、旋盤ろくろで廻した陶器の破片を見た。古物学者はこの陶器を朝鮮のものとしているが、地面に沢山ちらばっていることからして、私はこれを、その製法は最初に朝鮮の陶工によって輸入されたが、日本のものであると考えた。これは墓や洞窟に関係があり、死を追念させる。奈良の近くで我々は最初の皇帝即ち神武天皇の墓所を通過した。それは大きな、四角い、上の平な塚で僅かに隆起し、清楚な、丈夫な石垣に取りかこまれている。それを見るべく主要路から入って行くと、恐しく暑く、私は写生を試みるべく余りにつかれていた。私はやっとのことで、奥の聖所の門を閉ざす南京錠を急いで写生した。これは大きな重々しい真鍮製の品で、皇帝の命令が無くては絶対にあけることが出来ない(図682)。

海岸に沿うた数個所で、農家へ通じる小径の入口に、細い杖の上にさかさまにした大きなきのこをのせた、奇妙な物があるのを見受けた(図683)。きのこの柄は紙につつまれ、また下方の杖にも紙がまきつけてある。これは家族に死人のあることを示すのだと聞いた。私はこんな物は他所で見たことが無いから、これは大和〔?〕特有なのであろう。何を意味するのかは判らなかった。

各種の寺院は、非常に興味が深い。ある場所で我々は、奇妙な服装をした四人の娘が、三人の神官の歌う伴奏につれて、珍しい宗教的舞踊をやるのを見た。
奈良では鹿が、森から出て来て町々を歩き廻る。私は手から餌を与えようとした。彼等は宮島の鹿程馴れていず、すくなくとも私は、彼等から十フィート以内のところ迄行くことが出来なかった。私にいくつかの握飯を売った老婆は大きにがっかりし、一生懸命に鹿達を私に近づかせようとしたが、駄目だった。日本人だと何の困難もなしに餌を手からやるが、鹿は外国人を即座に識別する。
私は和歌山を出た時と同じ人力車夫二人を連れていたが、彼等は実によく走った。彼等は二十九マイルの距離を、途中二回短時間休んだばかりで、走り続けた。我々が休んだある場所で、建物によっかかっていた高い木造の衝立が風で吹き倒され、梶棒を握っていた車夫が、それが人力車の上に倒れて来ることを防ごうとして均衡を失った為に、人力車は後方にひっくりかえり、私は鞄と、陶器を入れた箱もろ共、投り出されて了った。こんな時決して怪我をしない私は、無事に起き上ったが、二人は笑止な位、お互いを叱り合った。だが私が、事実この出来ごとを、笑っているのに気がつくと、彼等は私が久しく聞かなかった位気持よく、そして満足気に哄笑し、その後数マイルにわたって、私は彼等が思い出しては笑うのを聞くだけで、微笑することが出来た程である。
私が神戸から来た汽船には、東京へ行く数名の朝鮮使節がのっていた。彼等は愉快な、温情に富む人々で、私はすぐ彼等と知合いになった。私はひそかに彼等を写生した。彼等のある者が日本語を話すので私は非常に多くの質問を発し、そして返答を了解することが出来た。彼等の中の二人が大きな眼鏡をかけていたが、私はその鏡玉レンズを色硝子ガラスだろうと思っていた。彼等の許しを受けてそれを調べると、驚いたことに、それ等は鼈甲のわくに澄明な煙水晶をはめ込んだ物であった。私はまた彼等に射道に於て如何に矢を外すかを質ねたところが、それは日本の方法と同じで、腕当てを使用するのと、弓と弦とを回転させることを許さぬ点とだけが違っていることを知った。朝鮮の煙管きせるには日本の煙管よりも余程大きな雁首がついている。政府の役人は、両側と、背面は肩まで、さけ目のある上衣を着、すべての朝鮮人と同じく衣服の色は白い。図684は、上衣を脱いだ一人の朝鮮人を写生したものである。股引は非常にダブダブで、膝のところで別れている。その下で足を、綿を一杯につめた靴下の中に押し込む。あまり沢山綿が入っているので、靴下は靴の上辺からはみ出す。夏には、この綿入りの品はやり切れぬことだろう。胴衣ジャケットは短く、前方にポケットが二つついていて、淡黄色の南京ナンキン木綿に似た布で出来ている。肌着は無い。腕には手首から肘にまで達する袖がある。これ等は白い馬毛を編んだもので、布の袖を皮膚から離す目的で使用される。頭の周囲には、その直径が最も長い場所に、こまかく織った黒い馬毛の帯を、それを取り去ると額に深い線が残る位、きつくまきつける。これを身につけぬ時には、非常に注意深くまく。それは長さ約二フィート、幅二インチ半で両端に紐と、頭に結ぶ時紐を通す小さな黒い環とがついている。官吏帽の一つの型は二つの部分から出来ている。その一つは馬毛でつくった、簡単な袋みたいなもので、その内側にはてっぺんから、鼈甲製の留針ピンがぶら下り、これを頭上の短い丁髷ちょんまげにさし込んで、帽子が飛ばぬようにする。この上からこれも馬毛でつくった、箱のような代物を重ねてかぶるのだが、それは両方とも図685に示す如く、外に張開している。もう一つ別の朝鮮人の絵から判断すると、最も普通な帽子は高帽で、山は幾分上の方が細く、辺は非常に広く、僅かにそったものである。これは竹の最もこまかい繊維で出来、驚く程巧に織ってある。この帽子は高価で、十五円も二十円もする。図686はそれをかぶった老人である。

京都では、数日間田原氏と共に、有名な陶工を訪問するのに全時間を費し、彼等から家族の現代及び過去、各種の印の刷り、その他に関する知識を豊富に得た。六兵衛は私と再開してよろこんだらしく、すぐさま私が前に訪問した時つくった湯呑を持って来た。彼はそれを焼き、釉をつけたのである。私はそれ等の底にMと記号し、内側に貝を描いたが、六兵衛は外側に漢字で「六兵衛助力」と書いた。私はその一個を彼に与えた所が、彼は丁重にもよろこんだらしい様子をした。私は彼から、陶器づくりに使用する道具をひとそろい手に入れた。図687は庭から見た六兵衛の製陶場である。

六兵衛のところから、我々は楽の陶工吉左衛門のところへ行った。彼の家は質素なものであった。この老陶工は、三百年来「楽」といわれる一種独特な陶器をつくりつつある家族の第十二世にあたる。彼は我々を招き入れ、我々は六兵衛のところから来たといって、我々自身を紹介した。彼は、私の質問すべてに対して親切に返事をし、各代の作品を代表する楽の茶碗の完全な一組を見せてくれた。私は記号の輪郭と摩写とを取った。次に彼は仕事場を見せた。仕事をするのは家族の直接関係にある人々のみで、外来者は一向関係せぬらしい。窯は非常に小さく、殊に有名な茶碗を焼く窯は、窯碗一つを入れる丈の大きさしか無い。それ等の茶碗は旋盤ろくろ上でつくらず、手で形をつけ、両辺を削る。彼は我々に粉茶とお菓子とを出したが、我々がそれを飲んでいる間に、可愛らしい子供が出て来て私に抱かった。
彼の部屋には手紙を懸物かけものにした物があった。これは太閤時代の有名な将軍で、拳固で一と撲りしたら虎が死んだという噂のある加藤清正から来たもので、初代の楽に、茶碗をつくることを依頼した手紙である。家族は代々、それを大切に保存して来た。彼はまた初代の楽がつくった陶器を見せた。それは神話的の獅子で、これもこの一家の創立者の大切な家宝として伝って来た。信長が戦に破れ、彼の邸宅が全焼した時、第一世の楽がその廃墟からこの品を救い出したものらしい。私は恭々しくその話をしている老人と「信長の獅子」とを急いで写生した(図688)。

翌日は、日本有数の陶工の一人である永楽を訪問した。我々はここでも、他の製陶場に於ると同様、懇ねんごろにもてなされた。挽茶と菓子とが供され、永楽は非常に注意深く私の質問に耳を傾けた後、彼が十三代目にあたるその家族の歴史をすっかり話して聞かせた。田原氏がこの会話――それは私の陶器紀要に出ることになっている――を記録している間に、私は我々のいる部屋を写生した。天井にはめた驚く可き四角い樫の鏡板は、私が見た物の中で最も美しいものであった。永楽の家で私は、壁土の興味ある取扱いに気がついた。それは、壁を塗るとすぐに、鉄の鑢屑やすりくずを吹きかける。するとこの粉末が酸化して、あたたかみを帯びた褐色を呈するのである。
永楽から我々は、もう一つ別の清水の陶工蔵六ぞうろくを訪れたが、ここで私ははじめて、仁清にんせい、朝日その他の有名な陶器の贋物が、どこで出来るかを発見した。この件に関する不思議な点は、蔵六と彼の弟とが、自分等が贋物をつくっていることを、一向に恥しがらぬらしいことである。彼等は父親の細工を見せたが、その中には仁清の記号をつけた茶碗がいくつか入っていた!
蔵六から我々は四代目亀亭きていを訪れたが、ここでも極めて親切にむかえられ、彼の細工場を見るための、あらゆる便宜がはかられた*。彼の窯は一見、他のすべての人々のと同じく、小丘の中腹に横にいくつか並べてつくってあった。陶工達はよく他の陶工の窯で焼く。蔵六は彼のすべての陶器を亀亭の窯で焼き、永楽は自分の家から離れた場所にある窯で焼く。
* 亀亭の庭は『日本の家庭』の二五五頁に出ている。
私は再び楳嶺の画塾と住宅とを訪れ、二時間にわたって生徒たちが仕事をする巧な方法に見入った。膝を身体の下に折り曲げて床に坐るのは、如何にも窮屈らしく見えるが、楳嶺の話によると、生徒は数時間このようにしていて、而も疲れたらしい様子をしないそうである。仕事というのは、他の絵を写すのである。初歩の仕事の多くは引きうつしで、必ず筆を使用する。紙は、明瞭に絵が見える程薄くはないので、殆ど一と筆ごとに持ち上げる。紙はその上方に文鎮を置いておさえる。はじめ筆に墨汁を含ませ、それを別の紙でためして、適当な尖端をととのえるが、墨汁が多すぎれば、尖端をそこなわぬように、筆の底部からそれを吸い取る。
京都の南禅寺では、僧侶が陶器の小蒐集を見せてくれたが、大したものは一つもなかった。有名な茶人小堀遠州が二百五十年前に建てた茶室は、茶の湯の簡素と荘厳とに適わしい、意匠の簡単さのよい例である。
ドクタアは大阪で、面白いお寺の池を見つけた。そこには大きさの異る亀の子が、何百となくいる。池にかかっている小さな石橋の近くに小屋があって、亀の子が非常に好きな、米の粉でつくった提灯形の、内のうつろな球を売っている。これを水に投げ込むと亀の子が競泳を始め、何度も何度もパクンパクンやってはそれを遠くに投げ、それが水びたしになるか、池の辺をなす石垣へ押しつけられるかに至って、すぐさま破壊されて食い尽されるその光景は、実に珍無類である(図689)。提灯は赤いか白いかで、それを追って池を横切る亀の子は、提灯を先頭に立てた一種の行列を構成する。これ等は一セントで五つであるが、人は亀の子に餌をやって、相当な時間をつぶすことが出来る。亀の子がパクつく有様を見ていると、天井から糸でつるした林檎を囓りっこする遊びを思い出す。

大阪にいた時、一人の日本人が私に、米の取引所へ一緒に行かぬか、非常に奇妙な光景がみられるからといった。その建物に近づくと、奇妙な人の叫声の混合が聞えて来て、私にシカゴの穀物取引所を思い出させた。取引所に入ると、そこには同じような仲買人や投機人達の騒々しい群がいて、身振をしたり、手を振り上げたり、声をかぎりと叫んでいたりした。驚いた私は、私を連れて行った日本人に、一体いつこんな習慣が輸入されたのかと聞いたが、彼はまたこれと同じような集合を、シカゴ、ニューヨーク、ボストンその他の大都会で見ることが出来るという私の話を聞いて、吃驚して了った。この人達は米の仲買人で、まったく同一な条件と要求とが、同一な行為を惹起したのである。
神戸の塵芥車は、面白い形をした三輪車で、小さな中心輪ははるか前方にあり、二個の主要輪もろとも一枚の板から出来ている。心棒は固定し、車輪はその上を回転する。輪帯は一部分打ち込んだ固い木造の釘から成り、それ等のとび出た部分の間を縫って藁繩がまきつけてある。何故こんなことをするのか、恐らく釘が深く路面につきささるのを防ぐ為と思われるが、私は聞かなかった。図690は、横から見たところと設計図とである。この車は牡牛に曳かせる。
第二十三章 習慣と迷信
宮岡の話によると、手紙を書く時には句読点を使用せぬそうである。手紙は漢字で書くので、句読点をつけることは、受信人が漢文を正当に読めぬと做すことになり、これは失礼である。印刷では句の終りにまるをつけ、あるいは項の終りを示すために頭文字のLに似た形をつける。まるは支那の古典に用いられ、Lは他の主文に使用される。
以前は、手紙を書くのに、発信人の名前を受信人の名前の真下に書いた。現在では、発信人の名前を手紙の別の側に書く。旧式な人だと、発信人の名前を書いてない手紙は受取らぬこともある。過去に於ては、婦人に向けた手紙は、単にその家の長に宛てたものである。更に家長に宛てた手紙は、その外側に「何卒御自身でおあけ下さい」即ち「親展」としてない場合には、彼の妻、息子、親友等が開いて読んでも差支えないのであった。封筒が使用される迄は、一枚の紙を面白い方法で折って包み紙とした。図691に於る輪郭図一から十五迄は、この畳み方の順序を示している。最初に紙を一、二、三の如く折り、それを七、八の如くひろげ、手紙を入れてから、すでに出来た折目をしおりに、今度は別の折りようをしてたたみ込む。

大和の国で私は、張出縁や門口の屋根の縁辺を構成する装飾瓦の、非常に効果的な並べ方を見た。これは我国の建築家にも参考になると思う。大和では、私が旅行した他の国々のどこに於るよりもより多く、瓦を装飾の目的に使用する。装飾的な平瓦は、あまり一般に使用されぬらしい。少数を庭園の小径で見受ける。六兵衛の住居の庭にあるのを私は気がついた。
我国には、ほかのことでは学問があるのに、綴りを間違える人がある。日本でも同様なことがあり、それは漢字を正しく書き得ぬ学者である。普通の人間は、日本人が数千の漢字を覚え、その支那の名称と、それの日本語の同意語をも覚えていなくてはならぬことが、如何に途方もない重荷であるかを、考えた丈で目が廻る。こればかりで無く、それぞれの漢字に、草書と、印判の形と、正規な形とがあること、なお我国のアルファベットに、一例として頭文字のBと、それを書いた形と古い英国風の書体と、その他勝手な意匠をこらした※(「にんべん+悄のつくり」、第4水準2-1-52)字やつしがきがあるが如きである。日本歴史を研究する外国人は、一人の歴史的人物が持つ、いろいろ違った名前に迷わされる。この事は有名な陶工や芸術家の名前で、屡々私を悩した。すべての武士は先ず閥族の名を持つ。これは彼等の先祖であるところの古い家族、あるいは封建時代に彼等が隷属した家族の名である。これを「姓」と呼ぶ。彼等はまた「氏」と呼ぶ家族名と、「通称」と称する、我々の洗礼名に当る名とを持っている。更に「号」という学究的な名が与えられ、その上に「字あざな」と呼ばれる、これも学問上の名さえある。これに止らず、「諱いみな」*という名もあり、為替、請願書、証文、契約書等にこれを用いる。これ丈で沢山だろうと思うが、中々どうして、死んでも名前には煩わされるので、僧侶によって「戒名」という名をつけられる。一例として、五十年前に死んだ有名な歴史家頼山陽**は、次のような名を持っていた。
* ヘップバーンの辞書によると、この名は十五歳以後使用する由。
** この名前は、他の有名な学者の名前と共にボストンの公共図書館に記してある。
姓――閥族名――源
氏――家族名――頼
通称――洗礼名にあたるもの――久太郎
号――学問上の名――山陽
字――追加的学問上の名――子成
諱――契約書その他の為の法律的の名――襄
戒名――死後の名――私の教示者はこれを知らない*。
* 私は、この種類の材料は一千頁を埋める程沢山持っているが、記録しておく時間がない。陶器に関する私の紀要は、此日誌を踰越しているので、私は、日本の陶器に就ての興味ある本を書くに足る材料を持っている訳だ。
今日の午後長井嬢のところへ行って、葺屋根の端を写生した*。彼女の兄さんである増田氏は私に、この葺材は一種異様な藺いで、屋根葺に用いる普通の藁よりも高価であると共に、余程長くもつと語った。かかる屋根は非常に重く、完全に水を通さぬ。日本の屋根は、葺いたのでも瓦を敷いたのでも、我国の建築に現れた何物とも甚だ相違しているので、吾人はしょっ中屋根を写生していたい誘惑を感じる。屋根には変種が多く、それぞれの国に特異な型がある。我国の建築家が、棟木と軒の、固い直線に捕われていて、それから離れられぬのは、情無いような気がする。セント・ローレンス河に沿うフランスカナダ人の家屋は、軒を僅か上方に彎曲させてあるが、これがそれ等の外観にある種の典雅さを与えている。
* 『日本の家庭』を見よ。
友人竹中は、私のもとめに応じて、夏休中に、下層階級の間に行われる迷信と習慣とを、いくつか集めて記録した。彼は時々、私が執筆出来ぬ程つかれていない時に、手帖から読んで聞かせる。日本人は迷信を意味する一般的な名を持っていないが、迷信的な人は「御幣かつぎ」と呼ばれる。「御幣」は神官が持つ、奇妙な形に切った紙で、「かつぐ」は持って歩くことを意味する。こんな品を持って廻る人は、迷信的だと見られるのである。
人が死ぬと、死人の友人達は、通常、その家族に贈物をする。主として封筒に入れた金銭だが、この封筒の糸は赤と白とで無く、黒と白とでなくてはならぬ。赤は幸福の象徴で、幼児の衣服には必ず赤い糸か紐がついている。結び目は四角く結び、蝶結びその他の形であってはならぬ。封筒には普通「花のために」とか「線香のために」とか書く。線香は棒状の香である。然し、お金は何に使用しても差支えない。漆塗の器物に入れた、食品や菓子を持って行くこともある。受取った者はそれを出して皿にのせ、漆の箱には一回か二回折った一枚の紙、あるいはその紙の代りに薄い木片二個を入れる。これ等の供物は、死体がまだその家にある間か、又は葬式直後に於てなされる。家中が非常に悲しんでいる時や、死んだすぐ後だと、箱の中に紙を入れず、受取人はそれを注意深く清めるが、さもない時には、箱は洗わずに返す。
仏教の僧侶が四十九日間、七日目ごとに来てお経をあげる。葬式が済むと、主人なり主婦なりが、会葬者のそれぞれに、小麦でつくった菓子を五つずつやり、三十五日たつと菓子九つをそれぞれの家に届ける。赤が幸福の表徴であることは前にいったが、祝日には赤い色をした飯を供する。貧乏の神様は、赤い御飯や黒い豆腐が嫌いなので、この悪神を追払うために、それ等の食物を神棚や床間にのせておく。
それぞれの年には、特別な名がついている。今年(一八八二年)は馬〔午〕の年である。閹牛えんぎゅうの年〔丑〕に生れた者は、十五歳以上になったら鰻を食ってはならぬ。父親が四十一歳の年に生れた子は、よい子と認められぬ。いうことを聞かぬ子になるというのである。かかる場合、親はその子を連れて友人の所へ行き、この子を棄てるがひろってくれるかといい、往来へ置いておく。友人はそれをひろって家へ持って帰る。翌日親が、土産を持って友人を訪れ「私には子供が無い、あなたの子供をくれぬか」という。するとそれが行われるが、実は同じ子が返される迄の話で、而もこの莫迦ばかげた真似をすることによって、その子は持って生れた悪運から解放されたことになる。この場合贈物は通常「鰹節」(材木みたいに固く乾した魚)で、これには例の熨斗のしをつけない。魚を贈る時にはすべて熨斗(紙を一種異様な形にたたみ、中に鮑あわびの乾した肉片を入れたもの)をつけない。鰻を食うことに関しては、十五歳以上の子供がそれを食えば、利口にもならず、出世もしないとされている。
八月十五日(旧暦)、人は九月十三日までその場所にいなくてはならぬ。若し急用が起れば、立ち去ってもよいが、九月十三日にはそこへ帰って来ねばならぬ。これ等の日には、月に菓子を供えねばならぬ。毎月十五日、人は月を静視して、花と菓子を供えねばならぬ。一のつく日、即ち一日、十一日、二十一日には、木を伐ってはならぬ。二のつく日、即ち二日、十二日、二十二日には火の力が非常に強いから、リューマチスの反対刺戟材である艾もぐさを、その熱が他日より強いというので使用する。三のつく日には庭の土を掘ってはならず、四のつく日には竹を切ってはならず、五のつく日には食料品――米、豆、すべての種子――を家へ持って帰ってはいけないし、米を買ってもいけない。六のつく日には井戸替えすべからず、七のつく日には知らぬ人を家へ招くべからず、八のつく日に婚礼の話をすると後で夫婦別れが起り、九のつく日に茄子なすを食うと縁起がいい。九月九日は九月も第九の月にあたるので特にいいとされ、この日には茄子の形をした徳利を使用する。十のつく日、即ち十日、二十日、三十日には便所の掃除をしてはならぬ。これ等の禁を犯すと、不幸か悪運かに見舞われる。
大根を供する時には、必ず皿に二切をのせる。一切はヒトキリといい、一片を意味すると同時に「人切」を意味し、三切はミキレで、また「身切」を意味する。茄子その他の野菜類は大根を除いては縦に切り、輪切りにしない。輪切りにすると残酷に見えるからである。
二つで割り切れる数は運がいいとされているので、お菓子は二つに折った一枚の紙の上にのせて出され、また餅は、二、四、六、八その他の偶数で贈られる。
塩をまくことは清浄化することと思われているので、偶然塩をこぼすと縁起がいいとされる。葬式から帰って来た人には召使いが塩を振りかける。
眠る時には頭を南へ向けるのがよいとされる。人が危篤に陥ったり、あるいは死んだりした時には、頭を北向きにしなくてはならぬ。坐位で埋葬する時、死体はどっちを向いていてもよい。
耳たぼの大きい人は、幸福な素質を持っていると見られる。
足の人差指が拇指よりも長い人は、父親よりも高い位置を占める。長い舌や腕は泥棒のしるしである。
左利きは、母親が赤坊に初めて着物を着せる時、左手と左腕とを先ず着物に通すことから起る。
一度嚏くさめをするのは、誰かが讃めているしるし、二度すれば女が惚れている、三度すれば誰かがほめるなりけなすなりしている、四度すれば風邪を引いたのだ。備前の国では、一回の嚏は嫌われたしるし、二回は好かれ、三回と四回は風邪を引いたことを示す。
右の耳がかゆければいい事を聞く、左の耳なら悪い知らせ。婦人ではこれが反対である。
灯火のしんに滓かすがたまれば誰か来る。油と灯心とが入っている浅い皿は、別の皿によって支えられるのだが、滓を下方の皿に入れることが出来れば、来訪者は贈物を持って来る*。
* 同様な迷信が、米国や大英帝国に於て見出される。恐らくヨーロッパ大陸にもあるのだろう。
烏が屋根にとまるのは、その家で誰かが死んだしるしである。
夜、爪を切ってはならぬ、それは彼が狂人になるしるしである。
御飯を着物や畳の上にこぼした子供は、それを食わぬと盲になる。
腹切をしようとする人に飯を出すには、あたり前に出さず、飯櫃の蓋をお盆に使用する。
頭のかゆいのは幸福であるしるし、雲脂ふけが落ちるのは理智のしるし。
夏、すこし雷鳴がすれば、稲に危険な虫が沢山わく。
ある人が貧乏に、不運になると、「アノシト ノウチ ワ ヒダリ マイ ニ ナル」という言葉を使用する。それは「あの家の人は着物を左にたたむ」というので、これは縁起の悪いこととされる。死体には着物を左たたみに着せる。
病気、ことに疱瘡ほうそうを家に近づけぬには、馬の字を三つ紙に書き、それを戸口にはりつけると、非常にききめがあるとされる。また手に墨をつけ、それを紙に押したものを戸口につけても、この目的を達する。
中禅寺では、鹿の胎児四匹が、炉の上にぶら下っているのを見た。それ等は煙に乾燥して変色していたが、婦人産後の病にきくものとされている。
往来で櫛を見つけたら、ひろい上げる前に、左足からそれに近寄らねばならぬ。然らずんば一生涯を泣いて暮さねばならぬようになる。
男は、自分より四歳年長又は年少の娘と結婚してはならぬ。若し結婚すれば、家内に面倒が起る。それ以外ならば、いくつ違ってもかまわない。
芥子をまぜるには、怒ったような顔をしてかきまわさねばならぬ。そうすれば芥子は強く、ピリピリするが、まぜながら笑っていては、微温的な味なものになって了う。
ある種の神(妙見)に祈る人は、八種類の食物を食ってはならぬ。然らずんば、この神は祈りを聞き届けてくれない。これ等の食物は鰻、うみがめ、鯰、鯉、野鴨、鵞鳥、葱、それから葱と同じような野菜の一種である。
男にとっては三、七、十九、二十五、四十二、五十三という年齢が殊に悪く、女には十六、二十五、三十三、五十六、五十七が悪い。また一般に七と九で終る年齢はよくないとされる。
人が死んでから一年後に家族が集って荘厳な儀式をする。これは三年、七年、十三年、十七年、二十五年、三十三年、百年というように行われ、その後は五十年ごとに行う。
朝夙はやく烏がカー カー 即ち「女房」と鳴く。だから神さんは亭主よりも早く起きねばならぬ。
葬式の時には会葬者の名前を一枚の紙に書きしるす。この目的に使用する筆は、莢さやを脱がずに莢から押し出す。故に、それ以外の時にこんな真似をしては縁起が悪い。死体を家からはこび出す時、この役をつとめる人は、家に出入するのに履物を脱がぬ。だから新しい下駄を畳の上で履いて見ている人があると、友人が「どうぞそんなことをしないで下さい、縁起が悪いから」という。
お茶の葉が茶碗の中で縦に浮けば、幸運が来るかいい便りを聞くかである。芸妓達はこれ等の葉をつまみ上げて左の袂に入れ、同時にこのいい前兆を確実ならしめる為に、鼠の鳴くような啜音を立てることを慣とする。
手首と足首とに糸をまきつけておけば、風邪を引かぬという。
迷信的な人は、自分の歩いて行く道路の前方を鼬鼠いたちが横断すると、直ちにあと戻りをして旅行の目的を放棄する。若し極めて大切な用事があれば、別の路を行かねばならぬ。
二つの葬式がすれ違うのは、両方にとって縁起がよいが、一つが一つに追いつくことは悪い。
下駄の鼻緒が後方で切れるのはよいが、前方で切れるのは縁起が悪い。
朝鮮から海を越して来る鶴は、足に一種の植物を持っていて、海上に降りる時にはこの植物を浮うきに使用すると信じられている。
竜は竜巻たつまきと一緒に昇天するものとされている。その脚や足をチラリとでも見た人は、偉人になると信じられる。
日本人は、狐に関する奇妙な迷信を沢山持っている。狂人は狐につかれたとされる。狐の精神が指の爪から身体に入るというので、つまりこれが爪の下から侵入し、そして狂人をして狂人の行為をさせるというのである。以前は政府に狂人保持の規則があり、家族が狂人の世話をし、狂暴であれば檻に入れた。下流社会ではまた狐を信心することが盛で、狐を養った人が幸運によって金満家になったというような話が多い。若い狐を檻に入れ、然るべく養えば、裕福になると信じられている。
外国人がこの人々の間に科学を持ち来たしてから、かかる迷信はすみやかに消え失せつつある。
私は竹中に、退職した人は何をするかと質問した。彼は、概していうと、暮し向きの楽な人は、六十になると仕事をやめるといった。彼は事業上の業務をすべて息子にまかせ、隠退生活を送り、たいていは道楽に、珍しい植物、羊歯しだ、陶器、石器その他を蒐集する。彼は夏は五時、冬は六時に起きる。火鉢には茶を入れる水の入った鉄瓶を熱する為の火があり、彼は茶を濃く入れる。彼は寒天菓子の一種である羊羹と、醗酵した豆でつくった味噌汁とを取る。彼は歌をつくる。九時になると旧友をたずねたり、たずねられたりする。一日中碁を打つ。若し彼が飲酒家であれば、九時から飲み始めて床につく迄それを続ける。昼間、公園なり、田舎の景色のいいところなりへ、遠足することもある。
竹中は衛生局長から、徳川将軍時代には、今よりももっと飲酒が盛だったと聞いて来た。その頃訪問した友人には必ず酒を出し、それをこばむことは無礼とされていた。現在ではお茶が出され、若し酒が出るにしても、人は好みに従ってそれを飲んでも飲まなくても、礼を失することにはならぬ。その頃は、酒宴の席では、只一つの盃が用いられ、それは次の人に廻す前に、飲みほさねばならなかった。現在では各々が盃を持ち、気兼すること無しに飲酒を調節することが出来る。酒飲みは、生菓子や砂糖菓子のような、甘い物を好まない。
興味があるとか、奇妙であるとかいうことを意味する言葉はオモシロイで、直訳すれば「白い顔」となり、白い顔が奇妙な観物であった昔の時代から伝って来た。今日、滑稽新聞は、「興味ある」をオモクロイという。「黒い顔」の意味である。
日本の社会は今や公に、上流、中流、下流の三つにわけてある。現在の日本人は、以前にくらべて、人力車夫やその他の労働者に、余程やさしく口を利くようになった。
先日外山教授が私に、彼と矢田部教授ともう一人の友人とが、しばらくの間、シェークスピアその他の著者の作品を訳しつつあったと語った。これ等の翻訳は出版され、日本人に熱心に読まれる。これ迄すでに彼等は、以下のものを訳した――ハムレットの独白、カーディナル・ウォルゼーの独白、ヘンリー四世の独白、グレーの「哀詩」、ロングフェローの「人世の頌歌」、テニソンの「軽騎兵隊の突撃」、そして今や彼等は、他の作品を訳しつつある。日本人は過去に於て、英、仏、独の書物を沢山訳した。事実十六世紀の終りに、オランダ人が最初に長崎へ行った時、日本の学者達は歴史、医学、解剖その他に関する蘭書を翻訳するために、この上もなく苦心して、オランダ語を学んだものである。すでに翻訳された書物のある物の性質は、興味が深い。外山教授は英語から訳された本の名を、記憶にあるものから話してくれた。即ちダーウィンの「人間の降下」と「種の起原」、ハックスレーの「自然に於る人間の位置」、スペンサーの「教育論」(これは何千となく売れた)、モンテスキューの「法の精神」、ルソーの「民約論」、ミルの「自由に就て」、「宗教に関する三論文」及び「功利説」、ベンサムの「法律制定」、リーバァの「民事自由と自治政府」、スペンサーの「社会静学」、「社会学原論」、「代表的政府」及び「法律制定」、ペインの「理論時代」、バークの「新旧民権党員」。この最後の本はすでに一万部以上売れた。
翻訳について私が屡々気がついたのは、日本人は漢字が逆になっていてもすぐ識読するが、陶器の不明瞭な記印を読む時には、出来得べくんば漢字を、上は上にすることである。 
第二十四章 甲山の洞窟
八月六日。午後ドクタア・ビゲロウと私とは竹中を通弁として伴い、東京から四、五十マイルさきの甲山かぶとやまに根岸氏を訪問し、彼の住居に近い或種の洞窟を見るために東京を出発した。その夜我々は小村白子で送った。我々の部屋は本当の滝のある古風な小庭に面していたので、我々は滝の音を子守歌として眠入った。晩方には食事の時お給仕をつとめた娘が二人来て、我々と一緒に遊んだ。こんなに気のいい、元気な、よく笑う召使いは、世界中どこへ行っても見出し得まい。彼等はいつでもお客様達を、機智と諧謔とでもてなす心ぐみでいるが、而も一刻たりともお客様に狎なれることをなさぬ。
翌朝は九時に出発し、今迄に日本のどこで経験したものよりも一番気持のよい人力車の旅をした。涼しい日で、太陽は雲にかくれていたが、而も雨模様ではなかった。正午川越に着き、竹中の伯父さんの家で食事をした。この人は主要街に金物店を開いているので、我々は小さな店を通りぬけ、後方にある、おきまりの庭を控えた気持のよい部屋へ通された。家族は我々によく気をつけてくれたが、外国人をもてなしたのは初めてなのである。心からなる袂別の言葉に送られて、我々は甲山へ向った。
我々は東京から人力車一台について二人ずつの車夫を連れて来たが、これは旅程をはかどらす上に於て、またそれを愉快にする上に於て、非常な相違を来たす。道路のある部分は、最近の雨のお陰で泥深く、また我々が越したある広い河では、先頃の大水のあとが、現在の水準よりも十五フィート乃至二十フィート高いところに見られた。渡船場に近い家々は、棟まで水にひたったのである。根岸氏の所有地を去る半マイルのところ迄来た時、一人の紳士が出迎えて、丁寧に根岸氏が我々を待ち受けていると伝えた。更に根岸氏の家に近づくと、三人の紳士と根岸氏の独り息子とが、道路に出て我々を待っていた。我々は直ちに人力車から下り、彼等と最も形式的なお辞儀を交換し、そして彼等はいい勢で人力車を走らせる我々の後を急いで追った。家の門口へ来ると根岸氏が家族の数名の召使いとを従えて立ち、お辞儀をしながら我々を愉快に、懇切にむかえてくれた。我々は直ちに広々とした内庭を横切り、庭にある、独立した家になっている、一続きの部屋へ案内された。すべてが完全に清潔で美しく、殊に内庭は、我々の靴の踵が、平坦で固い土地に痕をつけたことが気になる位清浄であった。
間もなく晩餐が供され、ドクタアと私とは、それが日本で味ったうちで最も美味なものであることに同意し合った。この上もなく結構な吸物類や、元気をつけるような刺身があったが、此頃はドクタアも生魚が非常に好きになって来た。後から我々は、根岸氏が十五マイルさきから有名な料理人を呼んだということを知った。我々が食卓を離れた時はもう遅く、襖の上に稀に見る彫刻があり、すべて完全な趣味を示す、大きな立派な部屋には、絹の布団が寝床として、すでに敷いてあった。我々が占めた客家は、広い内庭を取りまく、不規則に並んだ建物の一部分を構成していた。それは独立した家屋で、他のものと同じく、建ってから殆ど三百年になる。屋根の葺材は特別な種類の藺いで、高価ではあるが五十年以上ももつという。木材の棟木その他の部分は黒く塗ってあり、全体の構造が非常に手奇麗に、精巧に出来ている*。
* 母屋、台所、内部のこまかい絵は『日本の家庭』に出ている。
翌朝、誰よりも早く起きた私は、屋敷内を沢山写生した。各種の建物に取りかこまれた内庭は、武士ではないが、普通の農夫階級の上に位する、富裕な農民階級の住居としては、典型的なものである。朝食後我々は、根岸氏が附近で蒐集した、千二百年以上も経過する陶器を見た。それ等は淡赤色のやわらかい陶器と、古い墳墓でよく発見される、固い青灰色の陶器との二種であった。私は今迄に、こんなに静穏な、魅力に富んだ人々が、この世に存在するとは、夢にも思わなかった。彼等のどの言葉にも行為にも、上品さと陶冶とが見られ、衒うところも、不自然な隔意もなく、我々に対する心づかいも、気安く、同情を以て与えられた。八十になる根岸氏の母堂は、私の席が彼女に隣っていたことに興味を持ち、通弁を通じていろいろな質問をしたが、それは皆筋の通ったものだった。彼女の興味の深い質問は、我国の上品で教養のある貴婦人が、日本人に聞くであろうと思われるようなものであった。それ迄、家の中に外国人が入ったことは一度も無く、この僻遠の村にあっては、外国人を見るのでさえも、稀な出来ごとである。暑い日で、どこででも私が坐ると二人の令嬢が扇いでくれたが、彼等の恥しそうな、半分恐しそうな態度は、一寸珍しいものであった。が、とにかく、これは気持のよい習慣である。
魅力に富んだ主人役の人々に別れをつげるすぐ前、車夫が待っている時に、根岸氏は内庭を横切って、向うにある小さな部屋へ行き、私には彼が忙しげに何か書いているのが見えた。私は彼が我々に托して東京へ持って行く手紙を書いているのだろうと思った。然るに驚いたことには、それは私に宛てた手紙で、さよならをいう時私に渡された。これは古い日本の習慣で、我国でも真似してよいことである。手紙を翻訳すると次のようになる。
日本武蔵むさし甲山
明治十二年八月八日
拝啓 あなたのお名前を東洋日本島上で耳にし始めてから長いことになりますが、私はあなたが武蔵国大里郡と横見郡との間にある洞窟を調べに来られるとは思っていませんでしたし、また三百年前に建てられた私の小屋にあなたをむかえるの光栄を持ち、あなたに古い陶器や石器をお目にかけるの愉快を持つであろうとも考えていませんでした。今、我々が三十年前の我国の有様に眼を転ずる時、我々は何を見るでしょうか。我々の島の人々も、また海の向うの人々も、お互をうたがい合わねばならなかったことを見ますが、今日我々の友情は、私があなたと共に日を送ることが出来る程度まで達しています。この理由で私は私の筆が辷ることを許し、我々の両国間に存在する深い友情の故を以て、私はあなたの長く、そして継続的な御繁栄を祈ります。
敬意を以て、あなたの友人   T・根岸
我々は洞窟に向った――日は照って暑く、また路も長かった。根岸氏の可愛らしい小さい子息は、私につききりで、路傍に見えるいろいろな物を説明して、私をもてなしてくれ、その会話のある物は、私に了解出来た。彼は完全な小紳士で、彼の父親の大きな土地をつぐ位置にある者としての責任を、感じているらしく見えた。暴風雨でこわれた橋は修繕してあり、我々の要求や安慰に対しては、最も行きとどいた注意が払われてあった。前の日、根岸氏は洞窟に通ずるすべての小径を切りひらかせたので、我々は非常に楽に洞窟を見ることが出来、充分な記録を取った。洞窟は崖の面にあり、もとは埋葬窟であったが、その後何度も避難民がそこに住った。遺物類は、すべて、大分前に無くなって了った。
午後、我々は川越へ向って出発した。そこでは、竹中の親類と共に一夜を送ることになっていた。根岸氏と彼の友人達とは、しばらくの間彼等の人力車で我々を送って来、別れる時には礼儀正しい袂別をなした。
再び路上に、そして又しても完全な一日と、変化に富んだ景色と! 日本に於るすべての道路の中で、川越経由の東京・甲山間の道路が、最も変化に富み、景色がいいように思われる。それは庭園みたいであった。あちらこちらの繁茂した農場、驚くべき富士を向うに、ひろびろとした稲田、美しい古い百姓家、丁寧な人々。我々は学校を出て来たばかりの子供の一群に出合ったが、彼等は路の側に立ち、我々が前を過ぎると丁寧に頭を下げた。私は子供達の同様な行為を、薩摩と、京都の製陶区域とで見た。
その夜を送る可き川越へ着いて見ると、竹中氏が私に、日本の古代民種に関する講演をさせる手筈をきめていた。黒板のたすけをかりて、私は貝墟その他の古代民種の証例を説明した。図692は講演の公告の複写で、私が出しなに料理屋から取って来たものである。我々は真夜中まで起きていて、家族と一緒に遊んだが、竹中の従姉妹である二人の娘と、家族の面々とが心からこの遊びに加ったのは気持よかった。臼の上に、片足を片足の上に平衡させて坐り、一つの蝋燭から他の蝋燭に火を点じるというのが、最も大騒ぎだった。我々は川越へ来た最初の外国人なので、一人の婦人が単に我々を見る丈の目的で、この家へやって来た。彼女はいとも丁寧にお辞儀をした上、十年前、特に外国人を見るため横浜へ行ったことがあるが、それ以来、一人も見ていないといった。翌朝は竹中の伯父さんが、我々の朝飯の最も択り抜きの部分を料理してくれた。これは前夜の晩餐についても同様だった。竹中は伯母さんから、瓶に一杯入れた煮た※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったを、御飯につけてお上りとて貰った。ドクタアと私とはそれを何匹か食って見たが、小海老に似た味で、中々美味だった。※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)を副食物として食うのは、この地方では普通のことで、我国でも※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)をこのように利用出来ぬ訳は無いと思う。我国のあたり前の※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)と、一見すこしも違っていない。日本人はそれを醤油と砂糖と少量の水とで、水気が殆ど無くなって了う迄煮る。朝食後我々は、我国の田舎の会堂に相当する、小さな寺院を訪れた。その内部は最も美しく、そして精巧な彫刻のある貴重な陳列室みたいで、その彫刻のどの一片でも、我国では美術館の、板硝子ガラスを張った中に陳列されるであろう。我国の田舎の教会に、芸術品となすべきどんな物があるだろうかと考えた私は、事実何も無いのに、今更ながら吃驚した。我々はまた五、六十人の娘が、繭まゆから絹糸を繰っている、大きな建物に行って見た。工場を通って行くと、慎み深いお辞儀と、よい行儀の雰囲気とが、我々をむかえた。

急いで昼飯を済ますと、我々の主人役は、弟と二人の姪と共に、人力車で我々を町はずれまで送って来、そこの小さな茶店で別れのお茶を飲み、別れを告げた。町から出て来る途中、我々はある寺院を訪れたが、そこには高さ六フィートを越え、直径は三フィートもある巨大な繩のどくろを巻いた物があった。これは人の頭髪でつくったのである。天井からは、ある種の起請の誓約としてささげた、或は贖罪供物であるところの、女の毛髪や弁髪が多数ぶら下っていた。
図693は木造で、鉄を尖端にかぶせた面白い匙鍬シャベルを示したものである。匙鍬の部分は長さ三フィートを越え、柄は七フィートある。これはこの国(武蔵)の西部で使用され、犁すきの役目をつとめるらしく思われる。日本にあっても、米国と同じく、古い家の用材が大きくて重々しいのは、面白いことである。昔は材木が安く、また恐らく、よりすくない材料で、同様に強い枠をくみ立てる知識が、足りなかったからであろう。旅行者は屡々、田舎の家や旅館の木の床、殊に二階への階段が、ピカピカ光っているのに気がつく。私が聞いたところでは、この光輝は使用後の風呂の水で床を洗うことが原因している。つまり使用後の風呂水に含まれる油脂分が、この著しい艶を出すのである。
第二十五章 東京に関する覚書
十月十八日。私の部屋へ親子二人づれの朝鮮人が来た。父親は朝鮮政府の高官だったが、最近の叛乱に際して、身を以て逃れた。子息は東京の学校で日本語を勉強しつつあり、宮岡の友人である。宮岡がこの青年と相談して、父親を私のところへ連れて来させたので、私は若し出来れば彼から古物、陶器の窯、矢を射発する方法その他に関する話を聞くことにしてあった。彼等は名刺を差し出した(図694)。父親は非常に静かで威厳があったが、一種真面目な調子で深く私の質問に興味を持ち、子息は極めて秀麗で、日本人の顔の多くに現れる特異な愛くるしさを持っていた。二人とも美しい褐色の眼を持ち、二人とも、かつて日本にその芸術の多くを教えた、過去に於る祖国の智的高度が、今日の如く恐しく堕落し、腐敗したことを理解しているかの如く、陰気で悲しそうであった。私が望むところの教示を受けようとする父親に質問することは、幾分困難であった。私は先ず宮岡に話し、彼がそれを日本語に訳して子息に話すと、次に子息が日本語をまるで知らぬ父親に、それを朝鮮語に訳し、答えは同様な障害の多い路筋を通って返って来る。朝鮮語と日本語との音の対照は、際立ってもいたし、興味もあった。時として朝鮮語はフランス語に似ているようにも思われたが、フランス語と支那語と日本語とを一緒にしたようなものだというのが、一番よく朝鮮語の発音を説明するのであろう。子息が父親に話しかけるのに、必ず恭々しく、且つ上品な態度を取ったことは、目立った。質問に続くに質問が発せられたが、英語、日本語、朝鮮語の全域を通じて到達し、朝鮮語、日本語、英語を通じて返事が返って来るのだから、それは如何にも遅々たるものであった。

陶器はいまだに朝鮮でつくられる。白い石のようなものも、藍で装飾したものも、やわらかいものもあるが、すべてこの上なく貧弱な質である。製陶の窯は丘の横腹につくられ、父親が描いた怪しげな画から判断すると、日本のそれに似ているらしい。丘が無ければ、そのために斜面をつくる。その下部では熱が強すぎ、上端では不足するので、焼く時にかなり陶器が駄目になる。旋盤ろくろは足で蹴るので、昔この装置が朝鮮から輸入された肥前、肥後、薩摩が使用される物と同じい。大きな甕は粘土の輪を積み上げ、それを手でくっつけ合せてつくる。内側には四角か円かの内に切り込んだ、印版を使用するが、大きな品の内部にはよく銘刻が見られる。私は父親に、古筆氏が朝鮮のものだと鑑定した、数個の陶器を見せたが、彼もそれ等をそうであると認めた。私が持っている、古い墓から出た形式のある物を、彼は朝鮮では一つしか見ていないといったが、それも古い埋葬所から出たものであった。彼はドルメン〔卓石〕のことも貝塚のことも聞いたことが無く、更に彼は考古学の研究といったようなことは、朝鮮では耳にしたことが無く、古い物は極めて僅かしか保存されていないとつけ加えた。彼は、そのある物は大きく、人が住んだ形跡のあるという洞窟のことは聞いていた。日本の古代の埋葬場で発見される「曲玉まがたま」と呼ばれるコンマの形をした装飾品は、朝鮮では見たことが無いといった。
弓道では、朝鮮人は矢を引くのに、右手ばかりで無く左手も使用し、左手の方をよりよい手であると考える。方法を示すのに、父親は左手を用いた。弓はしっかりと握り、弓籠手こてをつける。また骨製或は金属製の拇指環をつける。朝鮮人は屡々百六十歩のところで練習をするが、これは恐らくヨークでの百ヤードの距離の定数箭放ちよりもえらいであろう。父親は紙をきりぬいて拇指環の雛型をつくった。彼は鉛筆を使うことはまるで出来ぬらしく、必ず紙の一片を取って、それをたたんだり、曲げたり、鋏で切ったりして、彼が説明しようとするところのものを示した。ドクタア・オリヴァ・ウェンデル・ホルムスは、かつて私に、自分は鉛筆では何もすることが出来ぬが、鋏で紙を切れば、好き勝手な形をつくることが出来ると語った。朝鮮の弓のある物は非常に強く、朝鮮の弓術家たちは、彼等の強力な弓を引くために、各種の運動によって特に筋肉をならす。この朝鮮人が、朝鮮には考古学的の興味がまるで無いことを正直に告白した言葉は、私の哀情をそそった。彼は、彼等が持つ唯一の遺物は彼等自身だといい、そしてそれをいった時、いずれといえば悲しげに笑った。彼等は日本人を西洋文明の前衛軍とみなしているが、若し一般の朝鮮人が日本に対して持つ憎悪の念を緩和することが出来れば、それこそ朝鮮にとってはこの上なしである。日本人は東方の蛮人から得た多くの事柄を、彼等に教えることが出来る。
図695は、日本の床が地面から上っているところを示す図である。縦の部分にある板には、よく形板で切り込んだ竹、松その他の月並な形が装飾として用いられている。これ等の板には取り外しの出来るものが多く、床下の空所は草履ぞうり、傘等を置く場所にする。日本の家屋には地下室が無く、このような形を切り込んだ板や格子が、床下の通風に役立つ。

日本を訪れる外国人は、先ず最初に、日本人が花を愛することの印象を受ける。どこにでも、庭内に、あるいは小さな水槽の中に、植木鉢やぶら下る花入れや立っている花入れがあり、そして外国人は、日本人が花を生ける方法の簡潔さと美しさとが、いたる所に顕れていることに気がつき出す。更に調べると、人に優雅で芸術的な花の生け方を教えることのみを務めとする、先生がいるという事実が判って来る。それにはいろいろな流儀があり、卒業する者には免状を与える*。
* ニューヨークのミス・メリー・アヴェリルは、日本で生花をならい、免状を受けた。彼女は日本の生花に関する本を書いたが、これはこの問題に興味を持つ人には大きに役立つであろう。またコンダアの『日本の花と生花の芸術』と題する著書は、この問題に関する重要なものである。
生花は決して女性のみのたしなみでは無く、大学の学