お雇い(御雇)外国人

お雇い(御雇)外国人 / お雇い外国人江戸から東京へ日本を絶賛した外国人
お雇い一覧
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雑学の世界・補考

お雇い(御雇)外国人

お雇い外国人
幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い。江戸幕府や諸藩、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘された。お抱え外国人とも呼ばれることもある。
「お雇い外国人」と呼ばれる人々は、日本の近代化の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産・官・学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。江戸時代初期にはヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、幕府の外交顧問や技術顧問を務め徳川家康の評価を得て厚遇された。幕末になり鎖国が解かれると、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが一時期幕府顧問を努め、レオンス・ヴェルニーが横須賀造兵廠の建設責任者として幕府に雇用された例などがある。
しかし、外国人の雇用が本格化するのは、明治維新以降である。例えば、法令全書の文部省医学教則をみれば、外国人教師による高度な内容の医学教育がすでに1872年の時点でなされており、このような教育を通じて西洋の最先端の知識や技術が急速に日本に流入したことをうかがわせる。
お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことが知られる。1871年(明治3〜4年)の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。その他グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円で雇用されており、1890年(明治23年)までの平均では、月俸180円とされている。身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であった。国際的に極度の円安状況だったこともあるが、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによる。お雇い外国人には後発国である日本を蔑む者も少なくなく、雇い入れ条件は次第に詳細になっていった。
多くは任期を終えるとともに帰国したが、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯あるいは生涯を終えた人物もいた。
出身国
ひと口に「お雇い外国人」とはいうものの、その国籍や技能は多岐に亘り、1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、『資料 御雇外国人』、『近代日本産業技術の西欧化』があるが、これらの資料から2,690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。また期間を1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている。
1890年(明治23年)までの雇用先を見ると、最多数のイギリス人の場合は、政府雇用が54.8%で、特に43.4%が工部省に雇用されていた。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5%がイギリス人であった。鉄道建設に功績のあったエドモンド・モレルや建築家ジョサイア・コンドルが代表である。
アメリカ人の場合は54.6%が民間で、教師が多かった。政府雇用は39.0%で文部省が15.5%、開拓使が11.4%であるが、開拓使の外国人の61.6%がアメリカ人であった(ホーレス・ケプロンやウィリアム・スミス・クラークなど)。
フランス人の場合は48.8%が軍の雇用で、特に陸軍雇用の87.2%はフランス人であった。幕府はフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化を図ったが、明治政府もフランス式の軍制を引き継ぎ、2回の軍事顧問団を招聘している。のちに軍制をドイツ式に転換したのは1885年(明治18年)にクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐を陸軍大学校教官に任じてからである。また、数は少ないが司法省に雇用され、不平等条約撤廃に功績のあったギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいる。
ドイツ人の場合は政府雇用が62.0%であり、特に文部省 (31.0%)、工部省 (9.5%)、内務省 (9.2%) が目立つ。エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍した。
オランダ人の場合、民間での雇用が48.5%であるが、海運が盛んな国であったことから船員として働くものが多かった。幕府は1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所を開設し、オランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらを招いたため海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となったが、幕末にイギリスからトレーシー顧問団が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは1873年(明治6年)にダグラス顧問団による教育が実施され、帝国海軍はイギリス式に変わっている。他に土木の河川技術方面でヨハニス・デ・レーケら多くの人材が雇用された(オランダの治水技術が関係者に高く評価された背景があるとされているが、ボードウィン博士兄弟との縁故による斡旋という説もある)。
イタリア人はその人数こそ多くなかったものの、工部美術学校にアントニオ・フォンタネージらが雇用された。またエドアルド・キヨッソーネが様々な分野で貢献した。
御雇の意味
「御雇」と御の字が付いたのは、御上(おかみ)すなわち政府が雇ったという意味である。明治政府が雇用した官雇外国人にならって、民間でも学校や会社に私雇外国人を多く採用した。在外公館で雇用されていた者や外国人居留地の警備に当たった者なども含まれるが、一般的には、欧米から技術や知識を学ぶために招いた人物を指す。本項では、便宜的に、私雇外国人を含めて記述する。
なお「御雇」の原義は、(特に外国人に限らず)武家でない身分の者をその専門技芸において幕府の「御用」に徴用することを指した。江戸期後半になって諸外国の動向が伝わってくるにつけ、武士である幕臣だけでは様々な専門分野に対応できず、一般民の中から専門に秀でた特に優れた人材を募り、この需要に充てたものである。しかし幕府の側からすると身分としてはあくまでも「御雇い」であり、臨時雇用の色合いの濃い立場の低い扱いではあったが、それなりの処遇(給与・住居など)は与えられて、なかには能力と功績が認められると正規の幕臣として取り立てられ、武家として称氏(氏姓、苗字を名乗ること)・帯刀・世襲が許される場合もあった。
墓所
お雇い外国人の中には日本に墓所が残されている者もいる。ハーンの墓所は島根県松江市の重要な観光資源にも位置付けられている。アーネスト・フェノロサはロンドン滞在中に亡くなったが、園城寺(三井寺)に埋葬された。
東京都にある青山霊園の青山外国人墓地では、関係者の所在が不明となり、管理料(2005年現在、年590円)が長年にわたって未納のままのものがある。通例であれば無縁仏として集合墳墓に改葬されるところだが、青山霊園の場合、2006(平成18)年度に東京都側が78基にのぼる管理費滞納お雇い外国人墓所を文化史的に再評価し史跡として保護する方針であることが2005年(平成17年)2月18日の読売新聞で報じられた。  
 
外国人の視点での、江戸から東京へ [日本の国際化]

 

1 はじめに
江戸が東京と名を改める19 世紀は、日本が西洋文化と本格的な接触を始めた時代であった。16 世紀に初めて西洋文化に触れた時と異なり、今回は社会全般にわたる変革を引き起こす衝撃的な出会いであった。アメリカのペリー提督が4 隻の艦隊を引き連れて浦賀に現れたのが1853(嘉永6)年、徳川幕府が崩壊し、明治政府が誕生するや日本は、近代国家を目指して遮二無二に走りはじめる。この時の日本人は、中国文化の衣から、いち早く西洋文化の服に着替えようとするかのように、近代化の御旗のもと西洋の文物、制度を採り入れ続けた。これほどの短期間での日本社会の変貌ぶりは、外国人からみると驚きの一言に尽きた。それと同時に、日本社会の行く末に危惧の念を抱く人々がいたのも事実であった。
76(明治9)年に東京医学校(翌年、東京大学医学部と改称)に着任したドイツ人ベルツは、彼の日記に次のように綴っている。
「 現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのまま!〕」とわたしに言明したものがあるかと思うと、……「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。……これら新日本の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです。 」(『ベルツの日記』)
このように性急な変革に邁進する日本人の姿が、彼の日記のそこここにとらえられているが、急ぐあまりに、安易に西洋文明の果実のみを取り込もうとする日本を危ぶむ思いも彼は表明している。日本在留25 周年を記念した祝賀の席での演説で、
「 西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われるのであります。人々はこの科学を、年にこれこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさすことのできる機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体でありまして…… 」(『同』)
と話している。
同様な心配をするのはベルツだけではない。70(明治4)年末に来日、福井藩校の明新館で理化学を教えた米人のウイリアム・グリフィスは、『明治日本体験記』に以下のように記している。
「 今、試みられている力強い改革が完成し、永遠なものになるだろうか。一国が根がなくてキリスト教文明の果実のみを占有できるだろうか。できないと信じる。 」
日本のような、キリスト教国でない野蛮な国が近代文明国になれるのだろうか、というのが当時、日本を訪れた多くの外国人が持った疑問と言える。駐日英国公使であったラザフォード・オールコックは『大君の都』に書いている。
「 実際ヨーロッパに存在するすべての文明は、キリスト教によって形成され、その最善の型の発達のすべてはキリスト教からきている。であるから、近代文明の成長をキリスト教の影響と切りはなして跡づけることが不可能だということはもちろんである。 」
日本が近代国家に向けてまっしぐらに駆けている姿を目の当たりにして次のような感慨を抱いた人もいた。駐日米国総領事であったタウンゼント・ハリスは、57(安政4)年、長い交渉の末にようやく実現した将軍に信任状を直接、奉呈するために江戸に行く途中、神奈川から川崎に向かう東海道で見物人の幸福そうな姿を見て、彼の日記の『日本滞在記』でこう述べている。
「 これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。 」
しかし現実は日本の近代化の勢いは止まらない。その結果がどうであったか。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、『神国日本』で次のような恐ろしい悪夢をみている。
「 この国のあの賞賛すべき陸軍も勇武すぐれた海軍も、政府の力でもとても抑制のきかないような事情に激発され、あるいは勇気付けられて、貪婪諸国の侵略的連合軍を相手に無謀絶望の戦争をはじめ、自らを最後の犠牲にしてしまう悲運を見るのではなかろうか、などと、悪夢はつづくのである。 」
幕末から明治にかけて来日した西洋人は、日本の社会についてどのような思いを抱いたのか、何に関心を持ったのか、彼らの日記、旅行記などを通して日本の国際化についてみていくことにしたい。  
2 オランダとの交流
日本が開国をする以前は、長崎の出島が西洋に通じる細いパイプであった。そこを通してオランダとの交流がなされ、西洋の文化が流入し、日本の文化が西洋に紹介されていた。出島にはオランダ東インド会社の商館が置かれ、そこに10 名ほどの社員が駐在していた。彼らの主な業務は貿易と江戸参府であった。江戸参府は、社員のうちの3 名、商館長(カピタン)と医師、書記が「貿易継続への感謝のため将軍に拝謁し献上品を贈る儀式として定例化した」(松井洋子『ケンペルとシーボルト』)ものである。
商館の医師として勤務するフィリップ・フリッツ・フォン・シーボルトが江戸参府に参加するのは、1826(文政9)年。この時の様子を彼は『江戸参府紀行』として書き残している。以下、それによって交流の実際を見ていこう。
彼は2 月15 日、出島を出発して陸路小倉に、そこから下関へ船で渡り、船を乗り換えて瀬戸内海を進み室に上陸、再び陸路で大阪に向かい京を経て、4 月10 日に江戸に到着している。下関に滞在中の2 月28 日の記事に、「晩に使節とわれわれは府中候の医官の訪問をうけた。22(文政5)年コック・ブロムホフ氏を訪ねてきたのと同じ人であった」とある。「17 世紀の段階では、オランダ人が参府の道中で日本人と接触することは禁じられ、厳しく監視されていた」(『ケンペルとシーボルト』)のが、地方の大名の医官が比較的自由に交流できたのは、「八代将軍吉宗は、実用的科学・技術の導入への関心から……幕府の医師たちや、実学の担い手として抜擢した青木昆陽・野呂元丈などを参府中のオランダ人のもとに派遣し対談させ、オランダの学術を学ばせようとした」(『同』)からである。いわゆる蘭学の誕生である。こうした訪問が度重なり習慣化するにつれ、禁じられていたことが空洞化していき、「キリスト教徒であるオランダ人への治安上の警戒も、当初の危機感が薄れ、形骸化していった。」(『同』)。
この日、シーボルトは医官に新しい薬品と本を贈った。この本は薬草とその代用品や新治療薬に関する簡明な薬品目録であって、フォン・シーボルトの弟子の高良斎が翻訳し、大阪で出版された。下関滞在中には、「もう一人の市長が使節のもとに来て挨拶したが、この人はオランダ人の熱烈な愛好者であって、彼はこういうものだとすぐに名刺を通じて名乗りでた。愛好者というのは、名刺にファン・デン・ベルフと書いてあったからである。」(『江戸参府紀行』)。この名は前の使節ゾーフが付けたそうで、「全くヨーロッパ風の家具を置いた部屋でわれわれを出迎えもてなしたのであるが、……オランダの衣装を着て出て来た」(『同』)。この衣装はゾーフの贈物で彼が将軍に謁見した時に着ていたものという。これほどにオランダ趣味の高じた人もいた(注によればこの人物は伊藤杢之允)。オランダ好きな人は大名にもいた。ファン・デン・ベルフは、前商館長のコック・ブロムホフが中津候に対して書いた詩を所蔵していた。そこには、「中津の殿、フレデリック・ヘンドリック候に捧ぐ」(『同』)、とあって、中津の殿とは奥平正高のことで、彼もこのようなオランダ風の名を持っていた。彼は薩摩藩主島津重豪の次男で奥平家の養嗣子となり、豊前中津藩を継いだ。父と子の二人とも「オランダ趣味を愛好する……収集家であるとともに……蘭学をめざす人びとのパトロンともなった」(『ケンペルとシーボルト』)』)大名であった。
使節一行は六郷川を渡って江戸の近づいたところで薩摩候と中津候の出迎えを受ける。薩摩候は若君(斉彬)を同伴していて、対談中にはオランダ語をはさみながらいろいろと質問が出た。中津候もフォン・シーボルトに対し、「ドクトル・シーボルト、私の方へ来たまえ。手紙と贈物を有難う」、とオランダ語で語ったそうだ(『江戸参府紀行』)。一行はこの日(4月10 日)、江戸の宿舎長崎屋に着いた。
蘭学を許された青木昆陽が「オランダのカピタンを宿屋に訪うては、横文字の読み方、書き方などを教わりました。」(『おらんだ正月』)とあるように、この長崎屋には使節の滞在中、蘭学者、医師だけでなく様々な人が訪問してきた。到着の翌11 日に訪ねてきた人々は、桂川甫賢(オランダ名、ウィルヘルムス・ボタニクス)、中津候の家臣の神谷源内(同名、ピーテル・ファン・デル・ストルプ)、医師大槻玄沢などで、大部分の人はオランダ名を持ち、オランダ語を話し、聞き分けることができたという。その夜は中津候も参加してヨーロッパ風にもてなし、「非常に楽しく、全くくつろいだ態度でこのオランダ人の愛好者と過ごした。……各人は非常にうまくめいめいの役を演じたので私はこらえていることができず、フランス語で、これは私が今まで見たことのない独創的な喜劇だと使節に耳うちした」(『江戸参府紀行』)。楽しいひと時は夜更けまで続いて、中津候は引き上げたという。翌12 日、使節たちが渡す贈物の整理に追われていたときには、島津候から贈物が届き、「夜には中津候がお忍びでみえ、夜更けまでおられた」(『同』)。13 日の記事には「日本の友人、医師多数来訪」とある。15 日の記事によると、晩に中津候および薩摩侯の正式の訪問をうけ、立派な贈り物があった。このときの話題は音楽、詩歌、書籍、機械類におよび、話は夜半まで続き、薩摩候は一羽の鳥を持参していて、彼の望みにこたえて、剝製にして見せた、とある。16 日には、最上徳内が訪れ蝦夷、樺太の地図を貸してくれたことを、ラテン語で記している。18 日、天文方高橋作左衛門が来訪、いわゆるシーボルト事件の当事者が登場する。
将軍家斉に拝謁する儀式は、名前を呼ばれ恭しく敬意を表して、何も言わずに引き下がってあっさり終わる。フォン・シーボルトは、ケンペルのときのような将軍の前で踊ったり歌ったりせずに済んだことに幸福だというべきだった、と感想を述べている。
医師ケンペルが踊ったり歌ったりしたのは、将軍綱吉に拝謁した1691(元禄4)年3 月のことで、彼の『江戸参府旅行日記』によってその時の様子を知ることができる。拝謁の儀式のあと一行は御殿の奥の部屋に案内された。御簾の後ろには将軍と夫人をはじめ将軍一族の姫たちや大奥の女性たちが集まり、老中や若年寄、その他高官、大名の子供たちなどが周りを囲んでじっとみつめているなかで、「バタビア総督とオランダの王とはいずれが権力を持っているのか」「癌とか体内の潰瘍に其方はいかに対処しているか」など、いろいろと将軍から尋ねられた。そしてこれだけで終わらずに、ケンペルのいう猿芝居がはじまった。立ち上がって歩かされたり、互に挨拶し、踊ったり、跳ねたり、酔払いの真似をさせられたりした。彼はドイツの恋の歌をうたいもした。結局2 時間にわたって見物された、と書き残している。
商館長らの江戸参府にあたっては、西洋の品々が献上品として将軍に送られ、お返しの贈物は、告別の拝謁の時に時服が渡された。時服は天子や将軍が臣下に賜る衣服のことで高級品である。これをオランダ人は次のように処分していたという。「この高価な絹製の衣装は、オランダ人の手によって海外に転売され、ヨーロッパの裕福な人々の間で、エキゾチックな遠い異国から来た衣服として、非常に珍重された。モーツァルトの歌劇『魔笛』……の台本には、第一幕で王子タミーノが『日本の服』を着て登場するよう記されている」(B.M・ボダルト=ベイリー『ケンペル』)。
フォン・シーボルトの『江戸参府紀行』に戻ると、4 日に将軍と世子に別れの拝謁があり、そのときに贈物の時服を拝領している。5 日に薩摩候が、7 日に中津候が来訪、その後、友人、知人多数の訪問を受け、18 日に江戸を発った。品川で82 歳になった薩摩候のもてなしを受ける。「老侯は少しばかりオランダ語を話し、かなり前に来日した商館長ティチングをよく知っていたという話をされた」と書いている。ティチングは1779(安永8)年、初めて来日し、80 年までと、81(天明元)年から83 年までの2 期、商館長を務めている。(『ケンペルとシーボルト』)
フォン・シーボルトの下関、江戸滞在は、大名をはじめ医師、学者、商人ら大勢のオランダ愛好者たちとの交流で彩られ、人々が外国語であるオランダ語を操り、交際を繰り広げるさまは、限られた場とはいえ、国際化が華やかに展開したひと時であった。
またフォン・シーボルトは、長崎奉行らの好意的な計らいにより、出島の外部である長崎郊外の鳴滝に塾を構えることができた。そこで、高野長英や岡研介ら各地から集まった日本人に医学や博物学、オランダ語を教えるかたわら、病人の診療も行った。
3 ペリーの日本遠征
フォン・シーボルトが日本地図などの禁制品を国外へ持ち出そうとしたことが発覚し、国外退去、再渡航禁止の処分を受けて(28 年シーボルト事件)、日本を去ってから24 年が経過した1853(嘉永6)年7 月、アメリカのマシュー・ペリー東インド艦隊司令長官兼特命全権大使が日本にあらわれた。『ペリー艦隊日本遠征記』によると、ペリー提督の日本遠征を聞いたフォン・シーボルトは、遠征隊に加わりたい希望を提督に伝えたが断られている。提督はシーボルト事件のことを知っていた。日本から追放された人物を同行することで生じる悪影響を避けようと、有力者の圧力を退けて彼の同行を拒否し続けた、という。日米和親条約の締結後のことであるが、「シーボルトはボンで『世界各国との航海と通商のために日本を開国させるにあたり、オランダとロシアが成し遂げた努力についての真実の記録』と題する小冊子を出版した」とあって、「明らかにこの冊子は、抑えつけられた、鬱積した虚栄心の産物であり、二つのあからさまな目的がはっきりと見てとれる。ひとつは著者自身に栄誉を与えること、そしてもうひとつは、合衆国とその日本遠征を非難することである」、と『同遠征記』に記されている。さらに、フォン・シーボルトのロシアとの親密な関係から、日本人が彼をロシアのスパイと疑ったこともまんざら間違いとは思えないといい、彼が遠征隊に同行しようとしたのはこの企てを失敗させようとしたからではないか、とまで指摘している。提督が彼の忠告に従ったことで条約締結に成功した、と平然と主張するような途方もない自負心の持ち主である、とフォン・シーボルトを非難し、彼の冊子に徹底的に反論している。『同遠征記』は、ペリーのフォン・シーボルトに対する不快感をはっきりと示している。
ペリー提督の率いる4 隻の艦隊(旗艦サスケハナ号)が、浦賀沖に現れたとき、艦隊は日本の番船に取り囲まれた。そのうちの1 隻が舷側で読めるように高く掲げた文書には、フランス語で、「艦隊は撤退すべし。危険を冒してここに停泊すべきではない」という趣旨の命令が書かれていた(『同遠征記』)。そして「横づけにした番船上の一人がまことにみごとな英語で『私はオランダ語を話すことができる』と言った」(『同』)。これが記録に残る、初めて日本人がアメリカ人に話した英語といえる。こうして米国側の英語・オランダ語の通訳と日本側の日本語・オランダ語の通訳を介して日米間の意思疎通が始まった。
幕府との交渉にあたって、提督のとった方針は「断固たる態度」をとることだった。これは、後に続く米英の外交官、タウンゼント・ハリスやラザフォード・オールコック、ハリー・パークスらがとった態度に通じるものがあり、ペリーは、来日前にすでにこうした方針を、「厳格に実行する決意をかためていた」(『同』)。そうすることの理由は、先例に反し、「文明国に対し当然とるべき礼儀にかなった行動を、権利として要求し、好意に訴えない、……狭量で不快な対応をいっさい許さない」ことが、提督に「課せられた使命を確実に成功させる最善の方策と信じていたからである」(『同』)。ただ断固たる態度には、最悪の場合、武力の行使までを含めていたことは留意していてよいだろう。日本研究家のバジル・チェンバレンは、日本を開国に導いた日米和親条約の締結(54 年3 月)にいたるぺリー提督の交渉について、「ペリーが勝利を収めたのは、弱くて無智で、全く不用意で、武備も不充分な日本人を脅かし、彼らの肝をつぶしたからである」、と『日本事物誌』に記している。
日本人の「知識や一般的な情報も、……優れていた」と『同遠征記』に記されているが、以下にそうした個所を拾い上げてみる。「オランダ語、中国語、日本語に堪能で、科学の一般原理や世界地理の諸事実にも無知ではなかった。地球儀を前において、合衆国の地図に注意を促すと、すぐさまワシントンとニューヨークに指をおいた。……イギリス、フランス、デンマークその他のヨーロッパの諸王国を指さした」「また、地峡を横断する運河はもう完成したのかともたずねたが、これはおそらく建設中のパナマ鉄道を示唆していたのであろう」「長崎のオランダ人を通じてヨーロッパから文学、科学、芸術、政治についての定期刊行物を毎年受け取っており、その一部は翻訳されて刊行され、帝国中に頒布されるのだという」。この定期刊行物はオランダ風説書のこととおもわれる。「ヨーロッパの戦争、アメリカの革命、ワシントン、ボナパルトについても彼らは明晰な会話ができた」「露土〔ロシア・トルコ〕戦争についてのわれわれの見解をたずねたりした」。露土戦争の開戦は53 年であるので、この質問が発せられたのは開戦直後のことになる。
日本人の科学の知識、技術力については、「日本人は土木工学の知識をある程度そなえ、数学、機械工学および三角法についてもいくらか知っている。そのため非常にみごとな日本地図も作成されている。彼らは高度計でいくつか山の高さを測り、立派な運河も建設し、水車や水力旋盤も作っている。また日本製の時計を見ると、彼らがいかに器用で巧みであるかが分かる」。医学については、「オランダ商館長が江戸へ行くと、同伴したヨーロッパ人の医師が必ず日本人医師の訪問を受け、専門的な事柄について質問されたということである」「彼らの最もよく理解しているオランダ語によって得られる知識は、すべて翻訳されている」。ただ、死体解剖がほとんど行われないため、「解剖研究が行われなければ、内科医や外科医の知識が不十分なのは明らかである」、と指摘している。天文学については、かなり進歩しているとして、「ヨーロッパ製の器具の扱い方を心得、その多くを日本の職人は非常にみごとに模造している。……日本人は月蝕を正確に算出し、年ごとの暦は江戸と内裏の大学で作成される」。日本製の器具は望遠鏡、クロノメーター、寒暖計、晴雨計などである。
日本人が示す好奇心についても書き留めている。ペリーの再訪時、アメリカ側から電信装置が贈られた。それを使って1 マイルほど離れた2 つの建物の間で通信の実験が始まると、「日本人は強烈な好奇心をもって操作法に注目し、一瞬のうちに伝言が英語、オランダ語、日本語で建物から建物へ伝わるのを見て、びっくり仰天した。毎日毎日、役人や大勢の人々が集まってきて、技手に電信機を動かしてくれるよう熱心に頼み、伝言の発信と受信を飽くことなく注視していた」「日本人はいつでも異常な好奇心を示し、それを満足させるのに、合衆国からもたらされた珍しい織物、機械装置、精巧かつ新奇な発明品の数々は恰好の機会を与えた。」
ペリー提督遠征隊が報告している日本の工業化の見通しは。100 年以上の時間を必要としたが、その通りとなった。
「 日本の職人の熟達の技は世界のどこの職人にも劣らず、人々の発明能力をもっと自由にのばせば、最も成功している工業国民にもいつまでも後れをとることはないだろう。人々を他国民との交流から孤立させている政府の排外政策が緩和すれば、他の国民の物質的進歩の成果を学ぼうとする好奇心、それを自らの用途に適用する心構えによって、日本人は間もなく最も恵まれた国々の水準に達するだろう。ひとたび文明世界の過去および現代の知識を習得したならば、日本人は将来の機械技術上の成功をめざす競争において、強力な相手となるだろう。 」
この遠征隊の中に一人の日本人がいた。遠征隊の仲間からはサム・パッチと呼ばれていたが、日本名は仙太郎、栄力丸に乗り組み紀州沖で遭難した漂流民である。サム・パッチは日本の役人に会い帰国するよう説得されたが、結局、日本に帰ることを希望せず、信仰の厚いゴーブルという海兵隊員と一緒にアメリカへ戻った(『同遠征記』)。その後のサム・パッチは、グリフィスの日記の72(明治5)年1 月31 日の記事中に登場する。「カステラ、菓子、鶏、卵などはたくさんあって持って行けないので、サム・パッチに残して行く。ペリー提督が1853 年、日本へ浮浪児として連れて帰ったあの正真正銘のサム。彼は今、クラーク氏の料理人を勤めている」。サム・パッチについて、その日の原注には、「本名はセンタロー。伊予の生まれ。……サミーの遺体は東京に近い王子の寺の墓地にいま眠っている。……」(『明治日本体験記』)とある。クラークはグリフィスの級友で当時、静岡で教師をしていた。 仙太郎の仲間の、他の船員には、ジョセフ彦、岩吉らがいた。後に岩吉は伝吉という名で英国駐広東領事のオールコックに雇われて、59(安政6)年、通訳として日本に戻ってくるが、翌年1 月、外国人殺傷事件が相次ぐなか、公使館の門前で刺殺されてしまう。彼は麻布光林寺に葬られた。  
4 外国人の観察
(1)コミュニケーション
日欧間の通信事情はどうであったのか。1866(慶応2)年に来日したフランス海軍の一士官であるエドゥアルド・スエンソンは次のように記している。「セイロンの小港プワント・ド・ガル(Pointe de Galle)は電信でヨーロッパと結ばれていた。……郵便船が、電報を受け取ってシンガポールへ。電報はそこで『海峡タイムズ』という名のもとに印刷されて、その形で……日本沿岸の港へも届けられる。このようにして汽船航路の終点である横浜で受け取られる最新情報は、いつも30 日程度遅れていた。それでも、手紙や新聞によって得るニュースよりも、14 日早いことになる」(『江戸幕末滞在記』)。より速い情報入手法が、聖ペテルブルグとキャフタ間の回線利用だと紹介するが、一般の通信用でなく高価であまり利用されていない、として、第三の道についてのべている。「1867 年1 月1 日より、……北米汽船会社がサンフランシスコ―横浜間に航路を開いたのである。第一船は航程を20 日でこなし、20 日しか経っていない英国からの情報を届けてきた」。
欧米各国の人々と話をするときに共通の言葉はオランダ語だったので、通訳は二人が必要になる。日本語・オランダ語の通訳とオランダ語・英語の通訳である。英語だけの場合に比べ時間はほぼ倍かかることになる。英国公使のオールコックは、これについて『大君の都』で、次のように述べている。「決断を要する重要な取引のために数時間にわたってこのような公式会見を行うときの退屈さと徒労とは、筆舌につくしがたいものがある。というわけは、なにからなにまで二重に翻訳する必要があるからだ。まずオランダ語に訳し、それを日本語に訳しなおし、それをもういちど逆もどりさせる」(彼は59 年11 月、初代駐日公使となる)。また彼は、「最初の言葉の真意なり精神なりがはたして日本人につうじたか、それとも語られざる誤差が残っているかどうかということが、全然わからない」、と不安も述べて、「これを改善する唯一の良薬は、時間だけである。有能な外国人がみずから通訳となって日本語を話すようになるまではだめだ」という。時間が解決するのは確かであるし、彼の不安については、常に通訳、翻訳には付きまとう不安であるが、少なくとも、通訳が一回分減れば、それだけ間違いも減るとはいえるだろう。彼は、「数年もすれば、オランダ語はまったく廃止されて、英語にとって代わられるであろう」と書いている。
実際、オランダ語の通訳を巡っては、様々な問題があったようである。何度かそうした記述が彼らの日記に現れる。まず日本人通訳の話すオランダ語が古いという指摘。米国駐日総領事として56(安政3)年9 月、下田に領事館を開いたハリスは、「日本人のオランダ語の知識は不正確である。彼らの知っているオランダ語は貿易業者や水夫の話すような言葉であり、そのオランダ語は250 年前のものであるばかりでなく、主題も上記の範囲に限られている。それであるから、抽象的な観念を彼らに理解させることは甚だ困難である。まして形容的に彼らに話すことは、ほとんど不可能だ」(『日本滞在記』)と、57 年4 月29 日の記事に書いている。6 月17 日には同趣旨のことを述べた後、「当座の役に立つような新語を少しも教えられていないので、条約や協約などに用いられるあらゆる言葉を全く知らない。……その上に彼らは、オランダ語の訳文の言葉を日本語そのままの順序でならべることを欲するのだ! ! 」と記している。この日、下田協約が結ばれていて、この協約に使用する用語の翻訳をめぐって、かなり苦労したことが想像される。
また、ハリスは日本人に経済学の初歩を教えるにあたっての苦労を話している。「未だ新しくて、適当な言葉すらないような事柄について彼らに概念をあたえるだけでなく、それを聞いた通訳がそのオランダ語を知っていない始末なのだから。これがため、極めて簡単な概念を知らせるだけでも、往々にして数時間を要することがある」(57 年12 月27 日)。このころ、ハリスが日本側に手渡した通商条約の草案について、彼は、その訳文が正確か否かをたしかめるため、次のような面倒な手順を踏んでいる。「日本の翻訳者をして日本語の訳文をよませ、且つオランダ語に口約させてヒュースケン君にきかせ、ヒュースケン君が(英文から)オランダ語に訳したものを持ちながら、それと対照した。それは莫大な骨折りであった」(58 年1 月23 日)。
オールコックも日本の通訳の話すオランダ語の古さにふれている。彼が赴任したころ、「それまでの江戸の通訳は、オランダ語しか話さなかった─しかも、そのオランダ語は2 世紀前のものであったから、ヨーロッパからやってきたばかりの人びとは、古くさい旧式の表現がつかわれるので、ひどく閉口させられたものである」(『大君の都』)と、嘆いている。さらに彼は、日本人は記憶力をたよりにして純粋のオランダ語を維持しているだけで、言語の進歩を無視し近代的な語法をにせもの扱いしている、と批判したうえで、外国「使節側の通訳であるオランダで育った一紳士〔ヒュースケンか〕と日本側の通訳たちとが、この問題にかんして論争するとは、驚きである。しかも、日本側の通訳が使節側の通訳のオランダ語は文法的にでたらめだと非難しているとは、おそれいる」(『同』)と、あきれる始末である。
英米との接触が増え、横浜などに居留する英米人が増えていくと、オランダ語を介しての意思疎通は、次第に英語によるものにとって代わられていくのは自然の流れだ。福沢諭吉が江戸に出た翌年の59(安政6)年に経験したことが、それをよく物語っている。ある日、彼は横浜を訪ねるが、オランダ語が通じないことを知る。そこで、「これからは一切万事英語と覚悟を極めて」、江戸で英語を知っているという噂の森山多吉郎を訪ね、英語を習うことにする。ところが、彼が忙しすぎて教える時間が取れないうえに、「森山という先生も、何も英語を大層知っている人ではない。ようやく少し発音を心得ているというくらい」と見切りをつけて、何も習わないまま彼を訪ねることを止めて、藩所調所に入門することになる(『福翁自伝』)。
日本人通訳である森山多吉郎について、オールコックは来日した当時(59 年)、「かれは、特筆するにあたいする。彼は通訳の主任であるが、その官職名が示しているよりもはるかに重要な人物だ」(『大君の都』)、と高く評価する。54 年にペリー提督と結んだ条約から60 年にプロシアと結んだ条約まで、「すべての条約の日本語の訳文作成という仕事を担当したのが」森山だからだ、という。森山がそもそも英語を習ったのが、米船の遭難者で日本に拘留されていた船員だったという話がペリーの遠征記に紹介されている。彼の英語の実力は、「その当時の森山は、英語はすこししか話さなかったが、その後に使節団〔2 都2 港延期のための遣欧使節〕とともにイギリスへも行き……ひじょうに語学が進歩していた」。この遣欧使節が出かけるのが61(文久元)年、森山も英語の通訳ができるようになる。次第に世の中は英語に切り替わっていく。
それからの英語の浸透ぶりは、少し時代が下がるが、大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースの見聞に現れる。最初に来日した77(明治10)年7 月、彼の部屋の近くの部屋で学生4 人が語学の勉強をしていて、「彼らの部屋からは、日本語、独逸語、英語がこんがらがって聞こえ、時々仏蘭西語で何かいい、間違えるといい気持ちそうな笑い声を立てる。彼等の英語は実にしっかりしていて、私には全部判る」(『日本その日その日』)。その年の10 月28 日、モースの送別の宴が開かれたときの様子を次のようにいっている。「彼等は大学の、若い、聡明な先生達で、みな自由に英語を話し、米国及び英国の大学の卒業生も何人かいる。彼等の間に唯一の外国人としていることは、誠に気持ちがよかった」(『同』)。この時代、日本人は英語が上手であった。
オールコックの期待したように、英国人にもアーネスト・サトウのような日本語を上手に話す外交官が現れる。サトウは43 年6 月にロンドンで生まれた。62(文久2)年9 月に通訳生として横浜に到着、68(明治2)年、日本語書記官に昇進、82(明治15)年、三度目の賜暇で帰国するまで20年間にわたって日本に滞在した。そして95(明治28)年に今度は公使として日本に戻り、以後5 年半、滞在した。幕末から明治初めにかけて外交官として存分に活躍しただけでなく、外交官の枠を超えて明治維新の動きをリードした人ともいえる。また、同じ外交官であり、サトウの後任の日本語書記官になるウィリアム・アストンや日本研究家のバジル・チェンバレンらとならぶ英国を代表する日本研究家でもあった。
サトウは日本語を話し、読み書きができた。彼は日本語の勉強法を回想録『一外交官の見た明治維新』に書いている。オールコックは日本語の習得には、はじめに漢字を覚えることが必要だとして、日本で働こうとする外交官は、まず北京に駐在して漢文の勉強をしてから江戸に来るのが、日本語習得の早道だという考えであった。実際サトウも北京で中国語の研修をしてから日本駐在となったが、サトウ自身は中国語の勉強が早道になるとは思わなかった。サトウは、彼の方法は「ラテン語の知識がイタリア語やスペイン語を学ぼうとする者にとって不可欠のものではないのと同様だ」、といっている。日本に来ると彼は、アメリカの宣教師S・R・ブラウン師に日本語入門の授業を受ける。教科書は同氏の著『会話体日本語』で、その中の文章を彼らが復唱するのを聞いて、文法の説明をするというものであった。「また『鳩翁道話』という訓話集の初めの部分を一緒に読んでくれたので、私にもいくらか文語の構成が分かりかけてきた」。日本人の教師高岡要(紀州和歌山出身の医師)には、サトウの同僚が病気で帰国したので、一対一で教えを受けることができた。「高岡は、書簡文を教え出した。かれは、草書で短い手紙を書き、これを楷書に書き直して、その意味を私に説明した」。サトウはその英訳文を作ると、数日間そのままにして、その間日本文のあちこちを読む練習をした。それから、自分の英訳文を取り出して日本語に訳し戻す。こうした翻訳作業を続けることによって、彼は覚えた成句をつなぎ合わせて、書簡文を作れるようになった、というのが彼の日本語勉強法であった。
さらに彼は書道の教授も受ける。やはり同書によれば、「当時は御家流が流行していた。運悪く、私はこの商人用式の書体を始めてしまった」と言うほど日本語に通じていたが、次の御家流の先生を経て、維新後に3 人目の唐様の高斎単山の教えを受けた。このひとは、「東京の能書家六人のうちの一人に数えられていた」。サトウはのちに彼から静山の号を与えられる。サトウ静山を日本風に書くと薩道静山となる(萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウの日記抄』)。97(明治30)年のことになるが、サトウがヴィクトリア女王即位60 周年式典でロンドンに戻ったときの晩餐会で、彼が日本語を話せることを知って驚いた女王が、日本語は非常に難しい言葉ではないのかという質問をすると、「ヨーロッパではその国の家庭に入って言葉を学ぶのが普通ですが日本では外国人が日本の家庭で生活しながら日本語を覚えることができないからです」(『アーネスト・サトウ公使日記』)、と彼は答えている。日本語が特別難しいわけではない、と言っているのは彼の語学の才ゆえなのだろうか。
当時の日常会話を紹介しよう。品物を並べた店先で店主は「みなたいへん安い all vely cheap」「たいへん上等 vely good」(なぜなら日本人の口からはr がほとんど聞こえない)というぐらいの英語は知っている(『大君の都』)。LとRの区別については、ベルツも同じことを言っている。「Lの音が日本語にないことは不思議に思われる。……何年間も英語を書いていた人でさえRのかわりにLを使い、またはその逆をする」(『日本その日その日』)と。買うときに外国人が覚えておかなければならない日本語は、「イコラ ナン モン(いくら、何文)」「タカイ、メッポウタカイ(高すぎる、あんまり高すぎる)」である(『同』)。スエンソンは次のようなやり取りを記録している。買い物のとき、最初のあいさつが「オヘイオー」(お早う)、店主は、だんだんに珍しいものを出してきて「イチバン! イチバン!」と叫ぶ。客の「クラ?」(いくら)の質問で取引が始まる。帰ってくる答えは実際の価格の3 倍である。そこで「アナタ! マコト、マコト?」(本当の値段は?)、これを繰り返して歩み寄って、最初の値段の半分で手を打つ。店主は「ヨロシイ! ヨロシイ!」と叫ぶ。スエンソンは、日本人は中国人にひけを取らないほど取り引きの才能を備えているという(『江戸幕末滞在記』)。商用のために作り出された言葉が、マレー語の駄目(ペケpeggi)と破毀(サランバン)に「アナタ」と「アリマス」を付け加えて、自分は複雑な取引をやる資格を持っていると、めいめいが思い込んでいた(『一外交官の明治維新』)。グリフィスは、来日早々、「少し待って」「いくら」「どこ」「よろしゅう」「早く」の五つの言葉を覚え、地図を持って東京の街に繰り出した(『明治日本体験記』)。
(2)消えた日本の美─ 天女のような女性
ラフカディオ・ハーンは1890(明治23)年4 月に来日、『知られぬ日本の面影』をはじめとする数多くの作品を通して美しい日本を紹介してきた。彼の『神国日本』は、彼が東大を解雇された後、米国コーネル大学での講義用に準備した原稿をもとにして、1904 年に出版された。そのなかで、日本女性について次のように述べている。「日本の作り出した最も不思議な審美的制作物は、……実はその女性だとよく言われるからである。……日本の婦人は倫理的には日本の男子とはちがった存在なのである。……この種の型の婦人は、今後十万年間はこの世に二度と再び出現しないだろう……この種の型は、近代風に作られた社会では作り出せるはずもない。……祖先崇拝の上に建てられている社会だけが、これを作り得たのである。」「日本婦人は……その細かな感受性、その無上な素直さ、その小児のように信心深くて信頼性をもち、その周囲を楽しくするためにはいろいろと実に見事に、こと細かに手段方法鑑別の才をもっている」と。このようにも言っている。「日本の婦人は少なくとも仏教での天女の理想を実現している。他人のためにのみ働き、他人のためにのみ考え、他人を喜ばせることにのみ幸福感を覚えるような人間……こうしたのが日本女性の特質なのであった」。
はじめ日本の女性を「美しいと思わな」かったベルツは、ある日、宴席で有名な洗い女の踊りを演じる少女をみると、「優しくて美しく、上品な面立ちで、特にその中の一人は断然あでやかだった。……ただもううっとりするばかりだった。自分はこの小娘に、ほとんど首ったけにならんばかりだった。どうしても女の名前を聞きださねばならん」(『ベルツの日記』1880 年3 月19 日)、というまでに惚れてしまう。同じ日の記事の後半部では、「これらの娘たちが若い頃から、日本式よりむしろ今少しわれわれの、いわゆるよい音楽と美しい動作を学んだとしたら、ほとんど無比の存在となることだろう」、とべたほめしている。
日本女性の美しさを見いだした二人は、当然のことのように日本女性と結婚する。ハーンは、90(明治23)年末、小泉セツ(節子)と結婚、95年に日本に帰化して小泉八雲を名乗る。1904 年、54 歳で亡くなる。三男一女を儲けた。ベルツはいつハナと結婚したのかはっきりしないが、彼の日記の1889 年5 月23 日の記事に「父になった!……妻(ハナ)は男の子を授けてくれた。今のところ、父という感じが全然しない!」とあるので、この1,2 年前のことと思われる。その後、長女が誕生するが3 歳で病死するという悲しい出来事に見舞われる。1900 年、長男はドイツに渡り、教育を受け始める。05 年にベルツはハナとともにドイツに帰国した。
日本女性と結婚したもう一人の外国人、英国人フランシス・ブリンクリーにふれておきたい。以下、昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書第13 巻』から摘記する。彼は1867 年、日本公使館武官補及び守備隊長として日本に赴任した。日本に愛着を感じたブリンクリーは、日本語の研究を始めた。彼の進歩は著しく、在留外国人中その比をみぬほどに正確流暢に常用日本語を話し得るようになった。日本語を習うのに「寄席」に行って落語家や講談師の話を聞いたりしたそうである。さらに漢字の読み書きもできるほどに上達した。71 年、海軍砲術学校の主任教師に招聘され海軍省御雇となった。78 年には帝国工部大学校の数学科教員に任命された。この年、水戸藩士の娘田中安子と結婚する。当時イギリス本国の法律ではイギリス人と日本人との婚姻は認められていなかったので、彼は英国法院に訴え、ついにこの訴訟に勝って日本人とイギリス人との正式の結婚に新例を作った。81 年、ブリンクリーは、ジャパン・メイル紙を譲り受けて、経営者兼主筆として健筆をふるった。彼の記者生活は亡くなるまでのほぼ30 年間続いた。また二人の日本人と共編で出版した『和英大辞典』は名著の評判をとる。家庭は2 男2 女が生まれ、1912(大正元)年10 月、71 歳で永眠した。
ブリンクリーにはまだ紹介したいところが多くあるが、ひとつだけ付け加えておく。グリフィスの日記によれば、福井に来るはずだった「第十イギリス連隊のブリンクリー中尉は帝国政府によって東京に引き留められた」(1871 年9 月30 日、『明治日本体験記』)。上述の海軍省御雇になったときである。その日の続きに、「福井にとって損失であったことが互いに相手の国の言葉を学びたい日本人と英語を話す人びとにとって大きな利益となった」といって、ブリンクリーの書いた『語学独案内』を、「1875 年に印書局で印刷された語学の自習書で、外国人により日本語で書かれた最初の独創的な仕事であると私は信じる。それは学問の生んだ傑作である」、と絶賛している。
ブリンクリーの赴任当時は、まさにサトウの活躍していた時期と重なるわけであるが、なぜかサトウの日記や回想録にブリンクリーの名はほとんど出てこない。しかし『遠い崖』によれば、サトウが出した『英和口語辞典』の序文の謝辞であげている個人名は、アストンとブリンクリーだけだそうである。付き合いがなかったわけではないだろう。『ベルギー公使夫人の明治日記』には、「サー・アーネスト・サトウ、ブリンクリー大尉が夕食に来た。……大変楽しかった」(1896 年4 月1 日)とある。
サトウは武田兼という女性と71 年頃に家庭を構え、二人の男子に恵まれたが、なぜか正式な結婚はしなかった。外交官だから赴任先の女性との結婚は、何か法的な問題があったからなのか、ブリンクリーの勝訴の後であれば問題もなかったと思われるが、よくわからない。サトウの同僚、医官のウィリアム・ウィルスが長兄の夫人ファニーに宛てた手紙には、「当地で結婚するのは、公務についている者にとって、賢明でないように思います。すくなくとも、まだ下級の身分の者にとっては、そうです」(64 年3 月1 日付)、と書き送っている(『遠い崖』)。1900(明治33)年、サトウは北京公使に転出する。家族と別れるにあたって、彼の日記(『アーネスト・サトウ公使日記』)には「源兵衛村で親子三人と最後の夕食をした。私が戻れない可能性については何も言わなかった」(4 月21 日)、「富士見町に別れを告げにいく」(5 月3 日)と書き、翌4 日に出帆した。源兵衛村とは大久保にあるサトウの別墅、富士見町とは家族のために残した住まいのことである。北京での勤めを終え帰国する途中の06 年5 月、東京に立ち寄り、22 日に家族と再会する。そして別れのとき、「富士見町へ行って、来年の9 月までの分として小切手数枚を渡す」(5 月26 日)、「富士見町へ朝早く別れを告げにいく」(5 月28 日)、と立て続けに記され、今度こそ最後と思ったのだろうか、別れがたく思う彼の気持ちが察せられる。サトウは家族に生活費として小切手を終生、送り続けたそうである(『遠い崖』)。
ウィリアム・ウィリスも日本女性の江夏八重と結婚し一男を儲けているが、兄嫁のファニー宛ての手紙には日本の女性のことは一切登場しない(『同』)。1895(明治28)年、サトウが公使として日本に戻ってきたとき、前年に亡くなったウィリスに、渡すように頼まれた正確な遺産の金額を八重に伝えている(96 年1 月15 日、『同公使日記』)。ウィリスにはもう一人遺産を渡す女性がいた。「吉田千野の消息を訪ねることにする」(同年6月29 日、『同』)とある、千野がそうである。また、サトウの同僚の外交官アルジャーノン・ミットフォードには、トミという女性との間に於密(おみつ)と名付けられた娘がいたとみられ、73 年彼がアメリカ旅行中にサンフランシスコから日本を訪ね、同じ道を引き返してアメリカに戻ったことは、おみつに関わることとみられている(『遠い崖』)。
プッチーニ作曲のオペラ『蝶々夫人』は、日本女性の蝶々さんとアメリカの軍人ピンカートンとの悲恋物語として人気のあるオペラだ。この原作はアメリカ人のジョン・ロングの書いた『マダム バタフライ』。彼の姉が宣教師の妻で、長崎で布教活動をしているときに耳にした話を姉から聞いて、彼は小説に仕立てたという。本当にあった話かどうかわからないが、長崎を舞台に似たような恋物語が、多く繰り広げられたのであろう。長崎でフォン・シーボルトは楠本たきと結婚するが、正式の結婚ではない。「アジアではオランダ女性を得られないので、現地人女性との結婚が奨励されたが、妻子を伴って帰国することは会社の規則で禁止されていた。そこで多くの者は内縁関係という便利本位な方式を選び……自国へ帰ってから、生涯を共にしようと望む理想の妻を選ぶことができたのだ」(『シーボルトの日本報告』解説)。この頃、彼は母に宛てた手紙(1823 年11 月15 日付)に、「ここに古きオランダの習慣に従って、一時的ではありますが、一六歳の日本娘と契りを結んでおります」(『同』)、と書いている。二人の間には娘が一人生まれ、伊祢(イネ)と名付けられた。
55(安政2)年に日蘭和親条約が結ばれたことでフォン・シーボルトの罪が許され、59 年、彼は30 年ぶりに長男のアレキサンダーを連れて日本を訪れる。フォン・シーボルトは63 歳になっていた。この当時、長崎の鳴滝に住むフォン・シーボルトをイギリス人の植物学者ロバート・フォーチュンが訪ねている。彼は、親切に迎えられ、彼の羨む住まいの周りにある植物園で、「シーボルト博士の大作『日本植物誌』の中に描写された、植物図の大部分の実物を見た」「シーボルト博士は日本語を自国語のように話し、周囲の人々に人気があり、また大きな感化を及ぼした。私は辞去する時、『博士!あなたは長崎の人々の間で、まるで君主のようですね』と言うと、彼は微笑をたたえて、『私は日本人が好きだ。そしてお互いに尊敬している』と答えた……」そうだ(『幕末日本探訪記』)。その後、フォン・シーボルトは、61 年に幕府の外交顧問に雇われるが、すぐに解雇され、江戸を退去することになる。アレキサンダーは、オールコックの願いでイギリス公使館の日本語通訳官に年俸300 ポンドで雇われる。このとき鳴滝の住まいは「私の娘おイネさんの名義にして鳴滝にある居宅や山林、畑地を購入した」(62 年4 月7 日、『シーボルト日記』)。日本にある資産をこのように始末すると、彼は翌月、長崎から帰国の途に就いた。
サトウは娘のイネと長崎で会っている。同僚のアレキサンダーの姉にあたるわけである。「彼女は四十歳になる美しい顔立ちの女性であるが、ヨーロッパ人の面影はどこにも見られなかった。……」(『遠い崖』)、と日記に感想を記している。66 年12 月のことである。  
(3)消えた日本の美─ 郊外の美しさと大仏
日本から消えた美しさに江戸近郊の風景がある。ただコンクリートの塊がならぶだけの現代の街並みからは、昔の様子をしのぶよすがもないが、オールコックは江戸郊外の美しさをこう述べる。「郊外に出るとすぐに、美しいないしさっぱりした風景を目にすることができる。この風景と太刀打ちできるのは、イングランド地方の生垣の灌木の列の美しさぐらいなものであろう」(『大君の都』)。フォーチュンは、江戸近傍の田園風景を「どこにもある小屋や農家は、きちんと小ざっぱりした様子で、そのような風景は、東洋の他の国ではどこにも見当たらなかった」、と『幕末日本探訪記』に書いている。何人かは江戸近郊を游渉した思い出を語っている。
サトウは、「毎日江戸の近郊を馬で乗りまわし、ローレンス・オリファントの本にきわめて輝かしい色彩で描かれている王子のきれいなお茶屋や、甲州街道の十二社の池、そのほか丸子への途中にある洗足の池、あるいは目黒のお不動さまへ出かけた」(『一外交官の明治維新』)という。12年ぶりに日本に公使として戻ると早速、「カークウッドと目黒に散歩に出かける」(1895 年9 月22 日)、と日記に記している(『アーネスト・サトウ公使日記』)。明治になって来日したグリフィスは、「私は次々と訪ね歩いた。王子(オリファントらがたびたび描写している)、目黒(その近くに『権八と小紫』という恋人同士の墓がある)、高輪(日本の忠義の発祥地で、四十七人の浪人と……主君の墓と像がある)、亀戸(神にまつられた殉教者、菅原道真の記念碑)、芝、上野、向島など住民や観光客によく知られ、それを見物すると、日本人にとって大事なものを全部見たいという欲望にますます駆られ」(『明治日本体験記』)た、と思いを述べている。
江戸近郊の目黒について、ミットフォードが “Tales of Old Japan(”『古い日本の物語』)に収められているThe Loves of Gompachi and Komurasaki (「権八と小紫の恋」)の話で、以下のように美しく描写している。
「 江戸から2 マイルほどだが、大都会での労苦と喧騒から遠く離れて目黒村がある。……目黒に近づくと、あたりの景色はますます田園風になって、美しさを増す。深い木々の陰に覆われた道は、イングランドにあるような立派に茂った生垣がならび、稲の育ったエメラルドグリーンに輝く水田がひろがる低地につづく。右にも左にも趣のある形をした丘が隆起している。丘の上はたくさんのスギやモミ、マツカサの格好をした木々が伸びている。そのまわりには柔らかな竹藪が生え、夏のかすかなそよ風にその葉を優雅にそよがせている。……この低地の東をみれば地平線が青い海と重なり、西は遠く山々が連なる。正面には、小ざっぱりした、ビロードのような茶色の草ぶき屋根の農家の前で、一団の元気な日焼けしたわんぱく坊主たちが、全くの裸で飛び回っている。……足元近くにきれいな川が流れ、何人かの農夫が野菜を洗っている。やがて肩に担いで、江戸の近郊の市で売るために運んでいく。はるか遠く、山々の輪郭が霞むことがないほど、澄んだ大気のなかで見る眺望もたいそう美しいが、もっと近くにあるこまごまとしたものが、強い日差しを真上から浴びたり、時には空を横切るふんわりとした雲が投げかける翳につつまれたりして、レリーフのようにくっきりと際立って見える。……私たちが見るものすべてが、ほれぼれするほど美しい。 」
安藤広重の「目黒夕陽か岡」(富士三十六景)をみても、この情景をいくらか思い浮かべることができよう。このあと、ミットフォードは目黒村の入り口近くにある古い神社にふれ、目黒不動堂(瀧泉寺)のいわれを詳しく述べた後、彼の筆は、白井権八と小紫の悲恋話と、二人の来世での幸せを願って建てられた、目黒不動堂のそばにある比翼塚に移る。『古い日本の物語』は、この話のほか赤穂浪士やおとぎ話、彼が実見したサムライの腹切りの話などを集め、海外の人に日本を紹介した本で、1871 年に英国で出版された。当時のベストセラーであった。新渡戸稲造の『武士道』にも引用されており、ハーンやイザベラ・バードも読んでいた。ちなみに、蘭学の祖青木昆陽は目黒不動堂の裏手にある小高い丘の上の墓地に眠っている。
目黒村の入り口にある神社というのは大鳥大明神のことであるが、その神社と目黒不動堂の間に蟠龍寺という浄土宗の寺がある。1871(明治4)年末、そこに二人のフランス人が現れる。銀行家でコレクターのアンリ・チェルヌスキーと彼の友人の美術評論家テオドール・デュレである。彼らの目的は、寺内にある丈六の阿弥陀如来像の購入であった。『江戸名所図会』にある蟠龍寺窟辨天祠の図を見ると、本堂に向かって左手にその像が描かれていて、これが目黒大仏といわれていた。霊雲山蟠龍寺の項には、「境内に丈六の阿弥陀如来の銅像あり。また後ろの方山崖の下に岩窟ありて、うちに弁財天を安置す」とある。幕末から明治にかけて活躍した写真師下岡蓮杖がこの像を撮影していて(『下岡蓮杖と臼井秀三郎の写真帖より』)、その写真にはローマ字とカナ文字で目黒大仏と書き込まれている。キャプションには「東京 目黒不動堂瀧泉寺の大仏」とあるが、間違いであろう。
デュレの著した“VOYAGE EN ASIE”(『アジア旅行記』)によれば、寺に着くと、すぐ持ち主と買取の交渉がはじまり、まとまると早速解体作業に移り、翌日に、その作業は終わってすべてを寺から運び出した。次の日、大仏が運び出されたことを聞いた地元の人々が総出で、彼らの宿に来て買い戻しの要求をし、数日やり取りがあったが、その間に梱包して横浜から送り出してしまった、とある。彼は、この如来像の表情から絶対的な静寂、執着を捨てた諦念を感じ取ることができて、これを得たことにより彼らの仏像のコレクションは完璧なものとなった、と満足気に記している。サトウは目黒大仏を、「彫刻美術の中での仏像制作の分野における近代の傑作としてM・セルヌシが所蔵する十八世紀後半につくられた目黒大仏を挙げて置こう」(『明治旅行案内』)、と紹介している。デュレは、像の高さは4 m 28cm と記し、廃仏毀釈時の日本の海外流出美術品では最大のものと言われている。現在、大仏はパリのチェルヌスキー美術館に展示されていて、ここのHPでも写真を見ることができる。大仏の解説文に購入額は総計500 両とある。明治4 年5 月に新貨条例が施行され通貨の呼称が両から円に変わり、旧1 両=1 円= 1 米ドルであった。
ついでにいえば、この旅行でチェルヌスキーが日本から連れ帰った狆を、作品名「タマ日本犬」として、マネとルノワールが描いている。現在、二つの絵は別々の美術館に所蔵されているが、それぞれの来歴から推すと、ルノワールはチェルヌスキーのために描き、マネはデュレのために描いたとみられる。マネの作品には「テオドール・デュレの肖像」もある。狆という犬種について、提督ペリーの遠征記には、日本の将軍からの贈物には必ず狆が含まれていると報告され、英国公使のオールコックはこのスパニエル犬種はスペイン原産で、17 世紀にイギリスに持ち込まれる一方、南蛮貿易で日本にも持ち込まれたのであろう、といっている。
ところで、鎌倉の大仏も危うく海外に流出しかけたという。ベルツが1880(明治13)年11 月8 日の日記に、ひとりで江の島、鎌倉に行ったことを書いているなかで、次のように言っている。「……名高い大仏、すなわち青銅の仏の座像がある。美しく上品な顔立ち。十年前に日本政府は日本の持つ最も立派なこの青銅像を、地金の値段で外人に売払うという、とんでもない考えを起こしたのであった! それほどまでに、信心と国粋に対する理解が全く失われていたのである。幸い、取引の話はさたなしで済んだ。……」。
5 宗教と葬送
(1)宗教
この時期に西洋から日本にやってくる人々にとって最大の関心事の一つは、日本人の信仰する宗教は何か、ということであった。仏教、儒教は理解できるが、それらの教えが伝来する以前からある神道とは何か。その存在は知ってはいるものの、よく分からなかった。
日本研究家チェンバレンによる神道の解説はこうである。「神道はしばしば宗教として言及されているが、……その名〔宗教〕に価する資格がほとんどない。神道には、まとまった教義もなければ、神聖なる本〔聖書・経典の類〕も、道徳規約(モラル・コード)もない」(『日本事物誌』)。
1874(明治7)年2 月、日本アジア協会(72 年7 月設立、英米系の日本研究団体)で外交官サトウが「伊勢神宮」と題して発表した。その発表後の出席者からの発言をみれば、日本をよく知る西洋人たちの神道理解が、どのようなものであるかがよく分かるので、『遠い崖』から紹介する。ヘボン式ローマ字で知られる同協会会長のジェームス・ヘボンは、「わたしは神道とは何かを究明しようとして、ずいぶん努力してみたが、いくら努力しても報われることがないので、この努力をずっと以前に放棄してしまった。……」。サトウは、「神道には道徳律がないというヘップバーン(ヘボン)氏の意見に同感である。……」。英国公使のパークスは、「わたしも他の諸君と同じように、神道とは何かが理解できなくて、失望している。一般に日本人も、神道をどう説明したらよいのか、途方に暮れているように思われる。……」。米国の宣教師ブラウンは、「わたしの考えでは、神道は言葉の正しい意味で宗教ではない。わたしはこの国に十四年以上も住んでいる。その間神道とは何かを知ろうと努力しなかったわけではないが、ヘップバーン(ヘボン)氏も述べているように、この国の文献を調べてみても、報われることはほとんどなかった。報われたことといえば、神道の中身がいかに空虚なものかを発見したことだけである」。彼ら欧米人の神道理解は、チェンバレンの解説と変わりはなく、神道は宗教でないというものであった。
ただサトウはこの後も神道の研究を続けている。この研究を進める上での彼の考え方が、論文「古神道の復活」(「伊勢神道」と併せて『アーネスト・サトウ神道論』に所収)に、次のように書かれている。「神道の本質とその起源についての結論は、歴史的に研究された通常の経典によって導かれるものでなくてはならない。」として、その効果的な方法は、『古事記』や『日本紀』、祝詞などの研究をすることであって、それらを正確に理解するためには、本居宣長が主張したように、「まずは『源氏物語』やその他の『物語』の言葉を丹念に読み解くことから始めなければならない。この作業は『万葉集』を理解するための鍵となる」。『万葉集』の正確な理解が、『古事記』、『日本紀』、祝詞などを正しく読み解くことにつながり、「正しい結論に到達することができる」と。彼は、その後、祝詞の研究についての論文を発表しているが、84(同17)年にシャム領事として転出してしまい彼の研究は中断してしまったようである。
「神道は宗教でない」という人々に対して、「いや、神道は日本の宗教である」と主張するのがハーンである。彼は「家庭の祭屋」(『神々の国の首都』)のなかで次のように述べている。「神道は宗教である─ただしそれは一般にいう宗教とは違って先祖代々伝わる道徳的衝動、倫理的本能にまで深められた宗教である。すなわち神道は『日本の魂』─この民族のすべての情動の源なのだ」。さらに、「神道の太初の性格は……あらゆる祭祀のうちで最古のもの─ハーバート・スペンサーの言葉を借りれば『すべての祭祀の根源』─死者に対する畏敬の念である。……神とは御霊であるから、すべての死者は神になる」という。『神国日本』ではこのように述べる。「いまなお全国民からいろいろの形で信仰されている日本の宗教は、すべての文化を誘導する宗教の土台であり、またすべての文化的社会の土台となってきたあの祭祀─すなわち祖先崇拝の祀である」。神道は祖先崇拝であり、祖先崇拝は家族の先祖を祀るだけでなく、地域社会の祭祀、国の祭祀を含むものであって、神道は日本文化の根底にある、「日本の魂」であるという。したがって、「日本人を論じて彼らは宗教には無関心だと説くほど、馬鹿げた愚論はまずあるまい。宗教は昔そうであったように、今もなお相も変わらず、この国民の生命そのものなのである」ということになる。
しかし、日本人が宗教に無関心だとみる欧米人は結構多い。ハリスは日記に、「特別な宗教的参会を私はなにも見ない。僧侶や神官、寺院、神社、像などのひじょうに多い国でありながら、日本ぐらい宗教上の問題に大いに無関心な国にいたことはないと、私は言わなければならない。この国の上層階級の者は、実際はみな無神論者であると私は信ずる。」(1857 年5 月27 日)と書いている。スエンソンは次のように記している。「聖職者には表面的な敬意を示すものの、日本人の宗教心は非常に生ぬるい。開けた日本人に何を信じているのかたずねても、説明を得るのはまず不可能だった。」(『江戸幕末滞在記』)と。英国人の旅行作家で1878(明治11)年に来日したイザベラ・バードは、『イザベラ・バードの日本紀行』で「日本人はわたしがこれまで出会ったなかで最も無宗教な人々である。日本人の巡礼はピクニックで、宗教的な祝祭はたんなる祭りである。」と言っている。
そんな日本人にキリスト教をどう広めようとするのか。そもそもキリスト教は、「政治的支配者の命令が主なる神に対する義務と相反するときには、……神にしたがわねばならぬ宗教」であり、東洋の諸国では「その性質からして反逆的なものなのである」、とオールコックは述べている(『大君の都』)。またキリスト教は、祖先崇拝を偶像崇拝につながるとして禁じている宗教でもある。バードはキリスト教の布教における障害を次のようにいう。「キリスト教を阻止するおもな障害は、わたしの判断が正しいとすれば、宗教的本能と宗教への渇望が全般的に絶えてしまっていること、国家信仰と日本人の祖先崇拝が結びついていること、最も影響力のある階層にまったく不信心な人々が多いこと、禁欲の福音にたじろいでいる不道徳性があまねくあること、イギリスから持ち込まれた不可知論がひろがっていることです。」。最後に挙げられたイギリス哲学の影響については、浄土真宗の「英語を話すお坊さん」である赤松連城から、すでに教えられていた。彼女は布教にあたる宣教師の不勉強についても、「宣教師たちは日本人の二大信仰についてほとんどなにも知りません。異教徒のさまざまある重要な儀式の意味を尋ねると、『どうでもいいことに興味はありません』とか『そんなこと知らなくてもかまいませんよ』……という答えがよく返ってきます」(『同』)と述べている。二大信仰とは、神道と仏教のことである。
バードによれば、1878 年時点で「一六一七人の日本人をプロテスタントへ改宗させ、一方ローマ・カトリックは二万人、ギリシャ正教は三〇〇〇人をそれぞれ改宗させたとしており」(『同』)、三四〇〇万人の日本人のほとんどが無神論者や物質主義者であるか、子供じみた迷信にのめりこんでいるという。彼女は、この信者の数を見て、布教における障害や宣教師の不勉強を知って、日本をキリスト教国化するのは難しいと思ったのかどうかはわからないが、「キリスト教を受け入れれば、高潔さと国民の立派さという真の道義を備えた日本は、最も高尚な意味において、『日出ずる国』となり、東アジアの光明となりうるかもしれないということである。」(『同』)と、書き残していることからすると、キリスト教の布教について楽観視していたのかもしれない。  
(2)葬送
野蛮な国、非キリスト教国の日本で死ぬようなことがあれば、一体どうなるのか。タイモン・スクリーチの『阿蘭陀が通る』によれば、「以前商館が平戸にあった頃には土葬が許されていた。平戸から一・五キロほどの沖合に浮かぶ横島がその地である。長崎ではヨーロッパ人の遺体を陸上で火葬することは許されていたが埋葬することは禁止されていた。しかし、ヨーロッパ人は火葬を認めておらずこれを受け入れられない。……ヨーロッパ人の遺体はただ海に投げ捨てられていたのである。」とある。土葬禁止を「野蛮で残忍な話」と悲しむオランダ人の抗議によって、17 世紀半ばにようやく許可される。1654 年、江戸参府中に亡くなったオランダ人の遺体は、棺を使いオランダの慣習に則って「浅草という名の寺」に埋葬された。翌年には、長崎で亡くなったオランダ人の船員は稲佐の梧真寺に葬られた。以後、「長崎で没したヨーロッパ人は、例外なく稲佐にある浄土宗の寺院、終南山梧真寺に埋葬された」ということである。
ペリー艦隊が2 度目に日本に来た1854 年3 月、ミシシッピ号所属の一人の海兵隊員が死亡した。その遺体の埋葬について日米間でやり取りがあった。『ペリー艦隊日本遠征記』によると、日本側は、外国人を埋葬するための寺院を長崎に用意してあるのでそこへ日本船で運ぶ、と提案したが、米国側はそれを拒否し、自らの停泊地に近い夏島(現横須賀市)に埋葬することを主張したが、日本側はこれを認めず、横浜にある寺院の隣接地を申し出て、同意に至った。葬式は従軍牧師が司り、遺体が埋められた後、仏僧が仏教特有の葬式を始めたそうである。この後も下田で一人、箱舘でも二人の水兵の葬式を行っている。この横浜の隣接地がのちの横浜外国人墓地となる。62 年9 月に起きた生麦事件の犠牲者のチャールス・リチャードソンもここに葬られた。米国公使ハリスの通訳兼書記として活躍したヘンリー・ヒュースケンは、赤羽接遇所から麻布の公使館に戻る途中に暗殺された(61 年1 月)。キリスト教徒である彼は土葬されなければならないが、「当時御府内では土葬が禁止されていたため、江戸府外であった光林寺に葬られた」(東京都港区教育委員会資料)という。英国公使オールコックの通訳であった伝吉が眠る地のすぐ後ろに彼の墓所がある。
最後の審判の日、復活して裁きを受けると信じるキリスト教徒にとって、火葬は「野蛮で残忍な」ことで土葬が当たり前だった。彼らが火葬場の見学を希望することは、どのような気持ちからだったのであろうか。バードは、78(明治11)年12 月、日本滞在の最後の日々を、江の島、鎌倉への小旅行や買い物、送別のパーティーなどで忙しく過ごすなかで、ある「見どころ」(one “sight”)という表現を使って目黒近くの桐ケ谷火葬場の見学に出かけている。『イザベラ・バードの日本紀行』にその模様を次のように書いている。火葬場の外見について、「厳粛な用途にはささやかすぎるように見える建物」は、高い屋根と煙突を持ち、「田園的なまわりのようすとあいまって、『火葬場』というより『農家』を思わせます」と書き、さらに、なかには四つの部屋があって御影石の台が並び、目に入るものはこれで全てで、料金は1 円(約3 シリング8 ペンス)、単独の火葬の場合は5 円、と料金を記す。遺体の納められた棺は午後8 時に火が点けられ、翌朝の6 時に小さな灰の山となるが、煙突が高いので近所の住民に迷惑をかけることがないと、遺体が無害で完全に消滅することを書き添えている。
モースも82(同15)年10 月に、日本美術品の収集家であるビゲロウとともに千住の火葬場を見に行っている。モースは、「陰気な小屋や建物のある、物淋しい場所をみるだろう」という事前の予想に反して、「掃き清めた地面、きちんとした垣根、どこでも見受ける数本の美しい樹等」、都会の公共の建物と変わらぬたたずまいを見た。レンガ造りの平屋の二棟は、その間にたつ煙突から左右に伸びた煙道でつながれている。分かりやすいように彼はそのスケッチを残している。棟の大きさは、長さが72呎(フィート)、幅が24 呎で、それぞれ3 つの部分に分かれている、という。「諸設備の簡単さと清潔さとは、大いに我々に興味を持たせた。」と書いた後、火葬の方法について詳しく記す。料金は最高が7 円、その次が2円75 銭(約1 ドル37 セント)、一番安いのが1 円30 銭である。最後に彼は、「我が国ではこの衛生的な方法を阻止する偏見が、いつまで続くことであろうかと考えたりした」という感想を書き残している(『日本その日その日』)。
グリフィスは71(同4)年3 月、福井に到着早々に火葬場の見学をしている。「火葬場には4 つの炉がある。葬式の行列を見、真宗の僧侶による儀式を火葬場の堂でまのあたり見た」。モースと同じく、火葬の実際を詳しく綴り、一本が木、もう一本が竹の箸でものを食べないという迷信が分かったという。そして、骨壺をしまう墓の形や墓を掃除する人々の話を書いている(『明治日本体験記』)。彼は火葬そのものより、日本人の死にかかわる一連の儀式に関心があったようで、火葬について特に感想は述べていない。
日本における火葬に興味をみせたこの西洋人3 人のほかに、日常的に火葬場を眺めていた西洋人が、ハーンである。彼は晩年、東京の市外(現新宿区)西大久保に住んでいた。散歩で自宅から落合の火葬場近くをよく歩いたそうである。妻小泉節子の思い出話によると、「落合橋を渡って新井の薬師の辺までよく一緒に散歩をしたことがあります。その度毎に落合の火葬場の煙突を見て今に自分もあの煙突から煙になって出るのだと申しました。」(『思い出の記』)。そのとき、「のぼりにし雲居ながらもかへり見よわれあきはてぬ常ならぬ世に」(『源氏物語』御法巻)の歌をハーンは思い浮かべていたのかどうか。ハーンは1904(明治37)年9 月、急逝する。葬式は瘤寺でおこなわれて雑司ヶ谷墓地に埋葬された。
 
日本を絶賛した外国人

 

ルイス・フロイス
ポルトガル人、宣教師、1563年(永禄6年)来日、日本製の鉄砲の性能と品質を世界最高と評した。
フランシスコ・ザビエル
スペイン人、宣教師(彼もスパイであった事は、現在当時の手紙から証明されている)、1549年(天文18年)に来日。彼は日本人を、清貧で名誉を重んじ、今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民と評した。欧州人の知る武器の全てを製造する事も、扱う事もできるので軍事力で征服するには適さない、と本国に報告している。
C・P・ツュンベリー
スウェーデン人、医師、植物学者、1775年(安永4年)来日。
「江戸参府随行記」 / 地球上の民族のなかで日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人にも劣らず。その国民性は堅実で熱意に溢れ、その他百を超す事柄に関し我々は驚嘆せざるを得ない。政府は独裁的でもなくまた情実にも傾かず、飢餓と飢饉はほとんどない。信じられない事ではあるがこれは事実なのである。日本人の親切なことと善良なる気質についても驚くべきことで、日本で商取引をしているヨーロッパ人の汚いやり方やその欺瞞に対しても、侮り、憎悪を持たず信義を通す。国民は大変に寛容でしかも善良である。
18世紀、識字率がロンドンで20%程度、パリが10%未満の時、江戸が70%以上だったと言われている。19世紀半ば欧米では識字率が世界最高と思われていたイギリスで男性25%程度、女性ほぼ0%の時、日本は男性40%、女性25%、江戸においては武士100%、男性79%、女性21%だった。明治になり福沢諭吉は「通俗国権論」で幕末の日本の識字率は世界一であると誇っている。考えてみれば世界最初の小説は日本の「源氏物語」1001年(長保3年)である。
マシュー・C・ペリー提督
アメリカ東インド艦隊司令長官、1853年(嘉永6年)に来航。ペリー提督一行も、どの様に日本という国を植民地化するかを分析する為の、偵察隊であった訳であるが。侍の高い戦闘能力を知り、また当時の日本に貸し本屋がいたる所にあり、そして町民から百姓にいたるまで手紙による意思伝達が広く普通に行われている事に驚き、この国の植民地化が簡単にはいかない事を思い知った。また、ペリーは当時日記に、「この国の国民の勤勉さと器用さは尋常ではない、将来工業製品で我が国をおびやかす存在となるであろう。」と書き残している。
タウンゼント・ハリス
初代米国総領事、1856年(安政3年)来日。
「日本滞在記」 / 日本人は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうで。一見したところ、富者も貧者もない。これが恐らく人民の本当の幸福というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの国の人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は他のどの国にも存在しない、質素と正直の黄金時代を日本に見い出した。
ラザフォード・オールコック
イギリスの初代駐日公使、1859年(安政6年)来日。日本征服戦略のために送り込まれた精鋭の一人で、最後まで日本人を非白人の劣等民族と見下していたが。清潔で手入れの行き届いた町並みに思わず意に反して世界にはこれに匹敵する都はないと感嘆を吐露している。日本人の器用さ、勤勉さ、生活態度も驚嘆に値する、とスパイらしく事細かにそれらを本国に報告している。
アレクサンダー・F・V・ヒューブナー
オーストリアの外交官、1871年(明治4年)来日。
「オーストリア外交官の明治維新」 / この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行きわたっているのだ。ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ。
「世界周遊記」 / 他の国では、自己の仕事の削減と他人の仕事増は大歓迎。しかし、これでは争いになるから、綿密な契約を作る、しかしトラブルは絶えないだろう。日本だけである、ニコニコ笑って自分の方がきつく厳しい思いをあえて選択するのは。どちらの精神の方が、戦争と平和という観点からも貴重であるか、明白の事であろうと思う。
バジル・ホール・チェンバレン
イギリス人、言語学者、1873年(明治6年)に来日し、後に東京帝国大学の文学部教師を務めた。彼は日本人のことを、逞しく健康的な国民で知的にも道徳的にもヨーロッパ人と比較して少しも劣ることなく、これほど技術の習得に優れ、戦争に際しては騎士道的で人道的な国民は他になく、日本の軍隊は規律正しく優秀で世界最強であると評した。高い精神性を持つ日本文化を西洋化するのは間違いで、欧米こそ日本に学ぶべきと説いた。
エドワード・S・モース
アメリカ人で東京帝国大学で生物学を講じた、1877年(明治10年)来日。
「日本その日その日」 / 外国人は日本に数カ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、他人の感情についての思いやり、これらは恵まれた階級の人々ばかりでなく、この国では最も貧しい人々も持っている特質である。
アーネスト・F・フェノロサ
アメリカ人、美術研究家、1878年(明治11年)来日、東京大学で政治学や哲学を教えた。美術行政にかかわり、東京美術学校創設などにも尽くした。日本文化に傾倒し、日本人よりも日本美術を愛したと評される。
「中国および日本の特徴」 / 日本のとるべき最上の道は、日本が東洋的伝統の理念をしっかりと保持して行くことだと私は信じている。この道こそ日本が人類に対して果たすべき重大なる任務であり、日本こそこの聖火を守る最後の国である。
イザベラ・バード
イギリス、女性旅行家、1878年(明治11年)来日、日本各地を旅した。
「日本奥地紀行」 / ヨーロッパの多くの国々や我イギリスでも、外国の服装をした女性の一人旅は、無礼や侮辱の仕打ちにあったりお金をゆすりとられることがあるが、ここでは私は一度も失礼な目にあったこともなければ、過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲まれても失礼なことをされることはない。馬子は私のことを絶えず気をつかい、荷物は旅の終わりまで無事であるように細心の注意を払う。私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何よりの美徳で、何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが子どもを脅したり手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は日本には見られない。庶民の振舞いに私は目を見張った。美しかった、とても育ちがよく親切だった。英国と何という違いだろう。老人と目の見えぬ者へのいたわりは、旅の間とてもはっきりと目についた。われわれの一番上品な振舞いだって、優雅さと親切という点では彼らにはかなわない。
アリス・ベーコン
アメリカ人、女性教育者、1881年(明治14年)来日、華族女学校(後の学習院女学校)の英語教師として活躍した。
「明治日本の女たち」 / 日本が芸術や造形、色彩を愛する国として欧米で知られているのは職人の功績である。職人は忍耐強く、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で納得できないものを作ることは決してない。日本人は貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで誰もが自然の中にも日用品の中にも、美を見い出し大切にしている。
エライザ・R・シッドモア
アメリカ人、紀行作家、世界各地を回って日本に魅せられ、1884年(明治17年)以降6度も来日した。ポトマック河畔の桜並木は、シッドモア女史からタフト大統領のヘレン夫人への提案で実現したもの。また、彼女は日露戦争時の日本のロシア人捕虜に対する人道的な扱いを題材とした小説「ヘーグ条約(ハーグ陸戦条約)の命ずるままに」を著し、アメリカでの対日理解に貢献した。しかし、1924年(大正13年)アメリカ議会が通過した「排日移民制限法」に憤って母国を捨てスイスに移住した。1928年死亡、日本政府の計らいで遺骨は横浜の山手外人墓地に眠る。
エドウィン・アーノルド
イギリス人、詩人、インドのデカン大学学長、1889年(明治22年)来日、帰英後はデーリーテレグラフ紙の編集者。
「ヤポニカ(Japonica)」 / この国以外世界のどこに、人生のつらいことも受け入れやすく品のよいものたらしめようとする広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動の普遍的な抑制、毎日の生活の絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然への愛、美しい工芸品への心からの喜び、楽しいことを楽しむ上での率直さ、子どもへのやさしさ、両親と老人に対する尊重、洗練された趣味と習慣の普及、異邦人に対する丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上での熱心、この国以外のどこに、このようなものが存在するというのか。
ヴェンセスラウ・D・モラエス
ポルトガル人、作家、海軍で世界各国を訪れたあと1889年(明治22年)来日。日本に魅せられ自国籍を返上して日本に帰化、1929年に亡くなるまで一度も故国を訪ねる事はなかった。日露戦争で東洋をロシアから守った日本を軍国主義と批判する欧米に対して、それなら植民地を持っている国家はすべて軍国主義であると反論した。
ロシアから守られたのはアジアだけではなかった、日露戦争のおかげでロシアの支配体制から抜け出ることができた、トルコ、ポーランド、フィンランド、スェーデン、ポルトガル等の北欧、東欧諸国はその影響で今でも親日の国が多い。特にトルコは自称世界一の親日国家で、私のトルコ人の知人はその事を語り出すともう止まらない。それなのに、日本人はトルコが19世紀からの親日国家である事を何もを知らないと言って残念がる。日露戦争だけでなく、1890年(明治23年)に来航したエルトゥールル号の遭難者を日本人が救助した際、その事後措置を手厚く行った事がトルコでは、何と現在でも語り継がれているのだ。また、フィンランドには、1992年(平成4年)まで、世界各国の提督の肖像をラベルにしたアミラーリ(提督)ビールがあり、日本は東郷提督になっていた。
小泉八雲(P・ラフカディオ・ハーン)
アイルランド人、新聞記者、小説家、1890年(明治23年)に来日して、その後日本に帰化した。
「知られざる日本の面影(日本瞥見記)」 / 将来まさに来ようとしている変革が、この国の道義上の衰退をまねくことは避けがたいように思われる。西欧諸国を相手にして、産業の上で大きな競争をしなければならないということになれば、結局日本はあらゆる悪徳を自然に育成していかなければなるまい。昔の日本が、今よりもどんなに輝かしいどんなに美しい世界に見えたかを、日本は思い出すであろう。古風な忍耐と自己犠牲、むかしの礼節、古い信仰のもつ深い人間的な詩情。日本はこれから多くのものを見て驚くだろうが、同時に残念に思うことも多かろう。
ハーバート・G・ポンティング
イギリス人、写真家、1901年(明治34年)来日、日露戦争にも従軍。
「英国人写真家の見た明治日本」 / 日本兵はロシア兵捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。松山ではロシア兵たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。何人かの勇士は病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵は過去のすべての歴史において、これほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。
アルジャーノン・B・F・ミットフォード
英国公使館の書記官、1866年(慶応2年)来日、1906年(明治39年)にガーター勲章使節団として33年ぶりに3度目の来日。
「ミットフォード日本日記」 / 東郷提督、黒木大将らの謙遜と自制心はまさに人々の心をとらえるものがあった、両者ともに誇らしげな様子は全く見られなかった。私が強調しておきたいのは、私の日本滞在中にいろいろな種類の多くの日本人と話をしたが、さきの日露戦争の輝かしい勝利を自慢するかのような発言を一度も耳にしなかったことである。戦争に導かれた状況と戦争そのものおよびその結果について、全く自慢をせずに落ち着いて冷静に話をするのが日本の人々の目立った特徴であり、それは全世界の人々の模範となるものであった。このような謙譲の精神をもってかかる偉大な勝利が受け入れられたことはいまだにその例を見ない。
ロマノ・ヴルピッタ
イタリア人、ローマ大学法学部卒。東京大学に留学、駐日イタリア大使館一等書記官、ナポリ東洋大学大学院現代日本文学担当教授、1975年(昭和50年)欧州共同体委員会駐日代表部次席代表、後に京都産業大学経営学部教授。
1910年(明治43年)に起きた第六号潜水艇の海水侵入事故について / 引き揚げられた潜水艇の中で、乗組員皆が取り乱すことなく自分の役目を最後の最後まで果たしながら亡くなっていた。これは世界の驚きだったわけですが(注:当時、外国の海軍に同様の事故があり、乗組員の醜態が世間に知られていたから)、大事なことは彼らが別に英雄を目指したわけでも何でもないということです。そこに、日本人の根本的な美しさがある。日本は何を外国に発信すべきか。私はそうした能動的な姿勢がことさら必要とは思わない。当たり前のこと、つまり日本人として本質を追求して立派な日本人として当たり前に振る舞う。それでいいのだと思うのです。それが世界のモデルになる。
この第六号潜水艇の事故についての当時1910年の「英紙、グローブ」の記事 / この事件は、日本人は体力的に勇敢であるだけでなく、精神的にも勇敢であることを証明している。このような事は世界に類を見ない。また、潜水艇と言えば。1942年(昭和17年)5月31日、オーストラリアのシドニー湾に停泊中の米軍大型艦船6隻からなる艦隊に小さな特殊潜航艇3隻に依る奇襲攻撃が敢行された。3隻とも自爆あるいは沈没をしたのだが、彼らの勇気と愛国心に感銘を受けた、当時のオーストラリア海軍シドニー要港司令官、ムーアヘッド・グルード少尉は、我が国にこれらの勇士の千分の一の覚悟でも持てる人が何人いるだろうか、と自国の船1隻と19名の海軍兵を失う被害にあったにも関わらず(まして白豪主義のかの国で)、周りの反対を押し切り自決した敵国の松尾敬宇大尉ら4名の遺体を引き上げ棺を日本国旗で包んで、スイス総領事らも参列し最高位の海軍葬で丁重に弔った。この模様は、ラジオで放送され、オーストラリア全土で感動を呼んだという。そして、4名の遺骨は戦時交換船を通して日本に送り届けられた。この時の特殊潜航艇は、後の回天とは違い特攻用に設計された物ではなかったが、この任務の内容は、生還することが不可能なものであった。松尾大尉は自ら志願し、遺書を遺して出撃した。
ラビンドラナート・タゴール
インド人、詩人、1916年(大正5年)来日。日本が日露戦争に勝利した時、ベンガル語で短歌を詠んで日本を称えた。後日来日して、日本文化の精神性の高さに感動し「日本紀行」を著した。
ポール・リシャール
フランス人、法律家、東洋の精神文化を求めてアジアを目指し、1916年(大正5年)最初数ヶ月の予定で来日したが日本に魅せられ4年間滞在。分裂し相争う世界を統合する事は日本にしかできないと主張、1919年(大正7年)、パリの講和会議で日本が「人種差別撤廃案」を提出した際も列国の要人に働きかけ協力をし、結果11対5で圧倒的多数決を得た。しかし議長のアメリカ大統領ウィルソンが平然と、全員一致ではなかったからと屁理屈をこねて否決を宣言。国際連盟議会のルールであった多数決に従う事を拒否した。彼は日本人に、植民地政策を転換しない欧米にもう期待する事をやめて、自分たちの力で「アジア連盟」を作る事を進言した。
コリン・ロス
ドイツ人、新聞社の海外特派員、1939年(昭和14年)来日。
「日中戦争見聞記、1939年のアジア」 / わたしたちの大型車メルセデスは、日本の狭い道路にとってあまりにも長大で重すぎた。しかし、車が町角の家にぶつかったり、耕作したばかりの畑に深い車輪のあとをつけても、人々は決して立腹した様子は見せなかった。車が故障で動かなくなったときは、いつもただちにいかにも当然であるかのように、援助の手が差しのべられた。その際謝礼を出そうとすると、彼らはまるで侮辱されたかのように驚きの表情をあらわにして拒否した。日本人は、全世界でもっとも友好的で上品だ。地球上で日本人に匹敵できるほど、親切で礼儀正しい国民はないであろう。
デール・カーネギー
アメリカ人、実業家、作家(鉄鋼王のカーネギーとは無関係)、1953年(昭和28年)来日。人間関係を良好にする秘訣を説いた「人を動かす」は世界で1500万部以上を売り上げ、聖書に次ぐ世紀のベストセラーとなった。来日して、「日本人は、私が生涯かけて発見した人間関係の法則を、既に何百年も前から実践していた」と驚嘆した。
アーノルド・J・トインビー
イギリス人、歴史学者、1929年(昭和4年)来日。
「英紙、オブザーバー」1956年(昭和31年)10月28日 / 第2次大戦において日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々の為に偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
アイヴァン・モリス
イギリス人、翻訳家、日本文学研究者。ロンドン大学で「源氏物語」の研究をし称賛、大岡昇平、三島由紀夫などの翻訳を通し日本文化の紹介に努めた。特攻という非合理な攻撃への志願は自発的ではなく脅迫、あるいは洗脳によってなされたに違いないという欧米人の考え方に疑問を持ち。日本人の歴史を丹念にたどり、ひとりひとりの若い特攻隊員にとっては、それが病的な狂信や暗愚とはほど遠い、日本人の古来からの美意識や気性にもとづくものであり、ひたむきな誠実さ、高貴なる精神の発露であったと語っている。
ベルナール・ミロー
フランス人、ジャーナリスト、特攻を深く掘り下げて研究をした。
「神風(KAMIKAZE)」 / 本書の目的は、皮相的な見方から一歩踏みこんで西欧から見た神風に、新たな脚光を浴びせることであった。また著者の意図したところは、この日本の自殺攻撃が集団的発狂の興奮の結果などでは断じてなく、国家的心理の論理的延長が到達した点であらわれた現象であり、戦局の重圧がそれをもたらしたものであることを明らかにすることにあった。このことを、我々西欧人は笑ったり、哀れんだりしていいものであろうか。むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。日本国民はそれをあえて実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最後の国民となったと著者は考える。たしかに我々西欧人は、戦術的自殺行動などという観念を容認することができない。しかしまた、日本のこれら特攻志願者の人間に、無感動のままでいることも到底できないのである。
アンドレ・マルロー
フランスの作家、冒険家、政治家、第二次世界大戦中はドイツへの抵抗運動に身を投じた。戦後はド・ゴール政権下で情報相や文化相を務めた。日本は戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。スターリン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナティックだったろうか、断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった、祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナティズムとは根本的に異質である。人間はいつでも偉大さへの志向を失ってはならないのだ。フランス人のなかには、なぜ若い命をと疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつも言ってやる。「母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見過ごせるものだろうか?」と。私は、祖国と家族を想う一念から、恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、潔く敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに、男の崇高な美学を見るのである。

私は、出撃時に特攻隊員数名で撮られた写真を何枚か持っているが、どの写真を見てもすべての隊員がまるでピクニックでもしているかのような穏やかで爽やな笑顔をしている事に驚かされる。また、1945年(昭和20年)8月20日、樺太へのソ連軍の違法な侵攻の際、最後の電話交換業務に志願し、民間人が避難するのを見届けた後、ソ連兵からの辱めを避ける為に服毒自殺を遂げた、真岡郵便局の9人の若き女性電話交換手のことも忘れることはできない。彼らは、少年航空兵出身の十八歳から十九歳の十人と学徒出陣の四名で、この写真に笑顔を残してから一時間半後の、昭和二十年四月二十二日午前十時ころ、台湾北部の桃園飛行場から沖縄本島方面に特攻出撃していった。彼らは五百キロ爆弾を搭載して沖縄本島周辺の敵艦に突入し、敵巡洋艦と貨物船を各一隻を撃沈した。
ここに信じてよい事がある。いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に滅びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に必ずや、日本民族は再興するであろう。  
 

 

 
お雇い外国人一覧

 

学術・教育
フレデリック・イーストレイク - 語学教育、慶應義塾教員、国民英学会創立参加(米)
トーマス・ブラキストン - 博物学、分布境界線研究、ブラキストン線提唱者(英)
ラフカディオ・ハーン - 語学教育 『怪談』(英)
エドワード・S・モース - 生物学 大森貝塚の発見(米)
ウイリアム・スミス・クラーク - 札幌農学校(現・北海道大学)初代教頭(米)
バジル・ホール・チェンバレン - 語学教育 『古事記』の英訳(英)
ラファエル・フォン・ケーベル - 哲学・音楽(露、但しドイツ系でドイツ語を母語とし、ドイツ哲学を基礎とした)
フィクトール・ホルツ - 多科目教育(独)
エミール・ハウスクネヒト - 教育学(独)
アリス・メイベル・ベーコン - 女子教育(米)
ジョージ・アダムス・リーランド - 体操伝習所教授(米)
ヘンリー・ダイアー - 工部大学校(現・東京大学工学部)初代都検(英)
ハインリッヒ・エドムント・ナウマン - フォッサ・マグナの発見、ナウマンゾウ(独)
ダビッド・モルレー - 文部省顧問(督務官・学監)(米)
ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデル - 東京大学理学部(当時)にて講義(米)
ホーレス・ウィルソン - 語学教育、野球を日本に紹介(米)
マリオン・スコット - 大学南校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)、東京大学予備門教員(米)
ルートヴィヒ・リース - 歴史教育、慶應義塾大学部、帝国大学、陸軍大学校教員(独)
エドワード・B・クラーク - 語学教育、ラグビーを日本に紹介、慶應義塾大学、京都帝国大学教員(英)
アーサー・ナップ - 語学教育、慶應義塾教員、日本ユニテリアン教会宣教師(米)
リロイ・ランジング・ジェーンズ - 語学教育、熊本藩藩校熊本洋学校英語教師、熊本バンド(米)
エドワード・ウォーレン・クラーク - 化学、語学教育、賤機舎の前身静岡学問所、東京開成学校(米)

ウィリアム・グリフィス - 福井、東京で教鞭(米) 
ジェームス・カーティス・ヘボン - 医療伝道宣教師、医師、ヘボン式ローマ字(米)
ニコライ・カサートキン - ロシア正教宣教師、ニコライ堂
セルギー・チホーミロフ - ロシア正教会修道士
セルギー・ストラゴロツキー - ロシア正教布教
メアリー・パトナム・プライン - 女性宣教師、共立女学校と偕成伝道女学校を創設、「日本の母」(米) 
メアリー・エディー・キダー - 女性教育者、フェリス女学院創設(米)
オーグスチン・ハルブ - 神父、長崎大分奄美などで布教活動、天草崎津教会(仏)
エリザ・ルアマー・シドモア - 著作家・写真家・地理学者、ポトマック河畔桜並木(米)
ハインリッヒ・シュリーマン - 考古学者、トロイ都市発掘(独)
カール・ブッセ - 詩人・作家、「山のあなた」(独)
イザベラ・バード - 女流作家、旅行家、「日本奥地紀行」「バード 日本紀行」(英)
パーシヴァル・ローウェル - 天文学者、「能登旅行記」(米)
メルメ・カション - 宣教師・医師、函館に教会・病院、アイヌの研究(仏)
エセル・ハワード - 教育者・英国婦人、元薩摩藩主島津家子息の教育(英)
ロバート・フォーチュン - 植物学者、プラントハンター、「幕末日本探訪記」(英)
ジョン・レディー・ブラック - 記者、「日新真事誌」「ジャパン・ヘラルド」(英)
ウィリアム・ホィーラー - 教育者・土木技術者、札幌農学校、札幌時計台(米)
ロバート・ルイス・バルフォア・スティーブンソン - 作家、「宝島」「ジキル博士とハイド氏」(英)
ファヴェル・リー・モーティマー - 児童文学作家、「不機嫌な世界地誌」(英)
クララ・ホイットニー - 勝海舟三男・梶梅太郎の妻(米)
ジョン・ミルン - 鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者、日本地震学の基礎(英)
法律
グイド・フルベッキ - 法律、旧約聖書の翻訳(蘭)
ギュスターヴ・エミール・ボアソナード - 刑法、刑事訴訟法、民法、司法省法学校教員、太政官法制局御用掛(仏)
アルベール・シャルル・デュ・ブスケ - 法律、軍事などの仏語資料を多数翻訳(仏)
アルバート・モッセ(独)
オットマール・フォン・モール - 宮廷儀礼、栄典制度(独)
ヘルマン・ロエスレル - 憲法、商法(独)
ヘルマン・テッヒョー - 民事訴訟法(独)
カール・ラートゲン - 国法学(独)
ウィリアム・M・H・カークウッド - 駐日英国公使館の法律顧問から司法省法律顧問(英)
ジョルジョ・ブスケ - 弁護士、「日本見聞記」(仏)
外交
シャルル・ド・モンブラン - 外国事務局顧問。駐仏日本総領事(仏)
フレデリック・マーシャル - 在仏日本公使館付情報員、顧問格(英)
ヘンリー・デニソン - 外務省顧問。下関条約・ポーツマス条約交渉(米)
アレクサンダー・フォン・シーボルト - 井上馨秘書他(独)

エラスムス・ペシャイン・スミス - 明治天皇の顧問
アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード - 英国公使館書記官、「ミットフォード日本日記」「昔の日本の物語」「英国外交官の見た幕末維新」
フランツ・フェルディナント - ハプスブルク帝国の皇位継承者、サラエボ事件
ヴェンセスラウ・デ・モラエス - ポルトガル軍人、外交官、文筆家
ウィリアム・ジョージ・アストン - イギリス公使館員、「日本紀」
芸術・美術
アーネスト・フェノロサ - 哲学、日本美術を評価(米)
エドアルド・キヨッソーネ - 紙幣・切手の印刷、明治天皇・西郷隆盛などの肖像(伊)
アントニオ・フォンタネージ - 絵画、工部美術学校(伊)
ルーサー・ホワイティング・メーソン - 西洋音楽の輸入。音楽取調掛教師(米)
フランツ・フォン・エッケルト - 現行「君が代」の編曲(一説では作曲も)(独)
ジョン・ウィリアム・フェントン - 軍楽隊の導入(英)
シャルル・ルルー - 音楽、特に軍楽の指導、陸軍分列行進曲(抜刀隊・扶桑歌)の作曲(仏)
ゴットフリード・ワグネル - 陶磁器、ガラス器などの製造指導(独)
ジョルジュ・ビゴー - 漫画家、風刺画家(仏)

ヴィンチェンツォ・ラグーザ - 彫刻家(伊)
エメェ・アンベール - 特名全権公使、スイス時計業組合会長
アドルフ・フィッシャー - 東アジアの美術史家・民族研究家、「明治日本印象記」
ハーバート・ジョージ・ポンティング - 写真家(英)
チャールズ・ワーグマン - 通信社特派員、漫画家、「ジャパン・パンチ」創刊(英)
医学
エルウィン・ベルツ - 医学(独)
フェルディナント・アダルベルト・ユンケル - 医師(墺)
テオドール・ホフマン - 軍医(独)
レオポルト・ミュルレル - 軍医(独)
ポール・マイエット - 太政官顧問、東京医学校(現・東大医学部)、慶應大学教員(独)
ウィルヘルム・デーニッツ - 東京医学校・解剖学、警視庁・裁判医学(独)

ヨンケル・フォン・ランゲッグ - 麻酔器、「瑞穂草」「扶桑茶話」
ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト - 医師、長崎医学伝習所
ヘンリー・フォールズ - 医師、指紋研究者(英)
ウイリアム・ウィリス - 医師、臨床医学の発展、東大病院創立(英)
建築・土木・交通
フランク・ロイド・ライト - 建築、山邑邸、帝国ホテル新館設計(米)
ヘルマン・エンデ - 建築(独)
ヴィルヘルム・ボェックマン - 建築(独)
ルドルフ・レーマン - 機械工学、語学教育(独)
ヨハニス・デ・レーケ - 河川砂防整備(蘭)
ローウェンホルスト・ムルデル - 利根運河、宇品港(広島港の前身)築港(蘭)
ジョージ・アーノルド・エッセル - 河川整備。版画家マウリッツ・エッシャーの父(蘭)
セ・イ・ファン・ドールン - 安積疏水の設計や野蒜築港計画に携わる(蘭)
トーマス・ウォートルス - 銀座煉瓦街(英)
ジュール・レスカス - 生野鉱山建設のほか、西郷従道邸宅(仏)
ジョサイア・コンドル - 鹿鳴館の設計、建築学教育(英)
エドモンド・モレル - 新橋〜横浜間の鉄道建設、初代・鉄道兼電信建築師長(英)
リチャード・ヴァイカーズ・ボイル - 京都〜神戸間の鉄道建設、E・モレルの後任(英)
リチャード・フランシス・トレビシック - 官設鉄道神戸工場汽車監察方。国産第1号機関車を製作。機関車の父リチャード・トレビシックの孫(英)
フランシス・ヘンリー・トレビシック - 鉄道技術を伝える。官設鉄道新橋工場汽車監督。リチャード・フランシスの弟(英)
レオンス・ヴェルニー - 横須賀造兵廠、長崎造船所、城ヶ崎灯台など(仏)
ベンジャミン・スミス・ライマン - 後の夕張炭鉱など北海道の地質調査(米)
フレデリック・ベルデル - (仏)
リチャード・ヘンリー・ブラントン - 各地で灯台築造・横浜の街路整備(英)
コーリン・アレクサンダー・マクヴィン - 灯台築造・工部大学校時計塔・関八州大三角測量の指導(英)
ヘンリー・S・パーマー - 横浜ほか、全国各地の水道網設計(英)
ウィリアム・K・バートン - 各地の上下水道を整備(英)
ジョン・ウィリアム・ハート - 神戸外国人居留地計画(英)
エドモン・オーギュスト・バスチャン - 横須賀製鉄所・富岡製糸場などの設計(仏)
シャルル・アルフレッド・シャステル・デ・ボアンヴィル - 皇居謁見所、工部大学校校舎など(仏)
ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペレッティ - 参謀本部や遊就館など(伊)
ジョン・スメドレー - 東京大学理学部で造営学、図学講師。都市開発提案など(豪)
リチャード・ブリジェンス - 新橋停車場、築地ホテル館
チャールズ・A・W・パウネル - 橋梁設計、帰国後も日本の鉄道全権顧問を委嘱(英)
チャールズ・A・ビアード - 鉄工業者、関東大震災前後における東京市復興建設顧問(米)
産業技術
エドウィン・ダン - 北海道の農業指導(米)
ウィリアム・ブルックス - 北海道の農業指導
ルイス・ベーマー - 北海道の農業指導
ホーレス・ケプロン - 北海道の農業指導、道路など(米)
ヘンドリック・ハルデス - 長崎造船所、製鉄所建設(蘭)
レオンス・ヴェルニー - 海軍工廠の建設指導など(仏)
オスカル・ケルネル - 農芸化学(独)
オスカル・レーヴ - 農芸化学(独)
ウィリアム・エドワード・エアトン - 物理学(英)
クルト・ネットー - 鉱業の技術指導(独)
ジャン・フランシスク・コワニエ - 鉱山技術、生野銀山にて帝国主任鉱山技師、日本各地の鉱山調査(仏)
トーマス・ウィリアム・キンダー - 大阪造幣寮首長
ウィリアム・ゴーランド - 造幣寮での化学・冶金指導など、古墳研究で考古学にも貢献(英)
カール・フライク - 帝国ホテル総支配人として西欧ホテル経営の基礎を伝える(独)
ポール・ブリューナ - 富岡製糸場の首長(責任者)、建設から近代製糸技術の導入まで(仏)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘルマン・ハイトケンペル - 革靴製造の指導(独)
ウォルター・ウェストン - 登山家、慶應義塾教員、日本山岳会名誉会員(英)
スネル兄弟 - 「死の商人」
軍事
シャルル・シャノワーヌ - 江戸幕府のフランス軍事顧問団(仏)
ジュール・ブリュネ - 榎本武揚率いる幕府軍軍事顧問(仏)
カール・ケッペン - 紀州藩の軍事顧問(普)
ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ - 近代海軍の教育(蘭)
アーチボルド・ルシアス・ダグラス - 海軍兵学校教官(英)
クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル - 陸軍大学校教官(独)

ルイ=エミール・ベルタン - 海軍技術者、呉・佐世保工廠
エドゥアルド・スエンソン - デンマーク海軍軍人、大北電信会社、海底ケーブル
ピエル・ロチ - 海軍士官、作家、「氷島の漁夫」「お菊さん」(仏)
テオドール・エードラー・フォン・レルヒ - オーストリア軍人、新潟県高田でスキーを伝る
アルフレッド・ルサン - 海軍士官、下関戦争、「五十年前の想い出」
ヴィットリオ.F.アルミニヨン - 軍人、外交官、蚕種(蚕の卵)調達、「イタリア使節の幕末見聞記」
ヘルハルト・ペルス・ライケン - 海軍軍人、長崎海軍伝習所教授
 
学術・教育

 

フレデリック・イーストレイク
Frederick Warrington Eastlake (1856-1905)
語学教育、慶應義塾教員、国民英学会創立参加(米)
アメリカ合衆国出身の英語教育家、慶應義塾教員、来日外国人。フランク・ウォーリントン・イーストレイク(Frank Warrington Eastlake)とも。言語学博士であり、23カ国語に精通し、「博言博士」の名で知られた。日本人女性の太田なをみと結婚し、東湖と号した。
アメリカ合衆国ニュージャージー州に生まれる。1860年(万延元年)、父ウィリアム・クラーク・イーストレイク(日本の近代歯科医学の父と呼ばれる歯科医)に伴われて来日。5歳でラテン語、ギリシャ語、フランス語、ドイツ語を、8歳の時に父に従って清国に行きスペイン語を学ぶ。米国に帰り、12歳でドイツのギムナジウムに入学。後にパリに移って医学、法学を修め、ベルリン大学で言語学の博士号を得た。さらにアッシリア、エジプトを遊歴して現地の言語を究めた後、香港に渡って3年間滞在、その間にインドを訪れてサンスクリット語、アラビア語にも親しんだ。
1881年(明治14年)に再び来日。1885年(明治18年)、元旗本の太田信四郎貞興の娘である日本人女性、太田ナヲミと結婚する。当時は外国人が居留地以外に住むことは禁じられていたが、福澤諭吉の好意により福澤名義で東京の一番町12番地に家を借り、居を構える。1886年(明治19年)から外国人教師の一員として慶應義塾で英文学講師となる。その他、『ジャパンメール』(後に『ジャパンタイムズ』と合併)などの新聞記者、教育者として活躍。妻ナヲミとの間には三男四女をもうける。
1888年(明治21年)、英学者磯辺弥一郎と共に国民英学会を設立する。のちに磯辺と不和になり、1891年(明治24年)、国民英学会から分裂して日本英学院を設立するも、経営に失敗する。このため、1896年(明治29年)に斎藤秀三郎と手を組んで正則英語学校の設立に加わり、教鞭をとった。
日本語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語は言文ともに自国語並み、英語は古代、中世、近代と三様に語り分けた。
『ウェブスター氏新刊大辞書和譯字彙』(三省堂刊)など英語辞書の和訳や、『英和比較英文法十講』など英文法書の執筆に寄与した。その他の著書に『香港史』、『日本教会史』、『日本刀剣史』、『勇敢な日本』などがある。
1905年(明治38年)2月18日、流行性感冒をこじらせて急性肺炎で病没。遺体は青山外人墓地に葬られた。青山外人墓地に墓碑と記念碑がある。
息子のローランド・パスカル・イーストレイクは教育者として、慶應義塾大学で教鞭をとった。
国民英学会
明治・大正期に著名だった日本の私塾、英語学校。単なる洋学校ではなく、旧制中学校から旧制専門学校相当の教育機関の要素があった。
1888年(明治21年)2月、慶應義塾の英語教師フレデリック・イーストレイク(イーストレーキ)と英学者磯辺弥一郎によって東京市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)に設立。当時、慶應義塾の人々が力を入れて推進していたのは、医学や英学であって実用英語ではなかった。これに不足を感じたイーストレーキら一部の慶應義塾の外国人教員らが慶應義塾大学と兼任する形で創立、やがて独立した。
舎主は磯辺弥一郎で、初めは授業料も無く月謝も極めて安かった。苦学生のための夜間部も開校し、1906年(明治39年)には別科の中に数理化を設立するまでに至った。
第一高等学校やナンバースクール、慶應義塾大学、学習院等を筆頭とする正規の学歴コースに乗れない生徒たちを対象とする学校であるにも拘らず、講師陣には高名な英語学者であるアーサー・ロイド(慶應義塾大学教授)、斎藤秀三郎(第一高等学校教授)、吉岡哲太郎(理学博士)、内藤明延、岡倉由三郎を迎えるなど講義の質が高く、人気を集めた。
しかし、やがて磯辺と反目した斎藤は、1896年(明治29年)10月、国民英学会から分裂する形で、同じ神田錦町3丁目に正則英語学校を開校し、校長に就任。斎藤みずから教鞭を執った他、上田敏、戸川秋骨、フレデリック・イーストレイクといった名講師を揃えた。このため国民英学会は正則に押されて勢いをそがれることとなったが、その後の大正・昭和初期にかけても学問機関として存続し、1945年ごろまで活動していたことが確認できる。 
杉村楚人冠 (すぎむら そじんかん、本名:杉村廣太郎)
随筆家、俳人でもあるジャーナリスト、1872〜1945。
和歌山県にて旧和歌山藩士 杉村庄太郎の子として生まれる。1875(明治8)年3歳の時、父と死別し、以来、母の手で育てられた。16歳で和歌山中学校を中退、法曹界入りを目指して上京。英吉利法律学校(のちの中央大学)で学ぶが、これも中退した。
アメリカ人教師イーストレイク(Frederick Warrington Eastlake)が主宰する国民英学会に入学し、1890(明治23)年18歳で卒業。彼の英語に関する素養は、ここで培われた。1891(明治24)年19歳にして「和歌山新報社」主筆に就任するが、翌1892(明治25)年再び上京し、自由神学校(のちの先進学院)に入学した。
その後、本願寺文学寮の英語教師を勤めながら「反省雑誌」(のちの「中央公論」)の執筆に携わるが、寄宿寮改革に関する見解の相違から、1897(明治30)年25歳の時、教職を棄て三たび上京。1898(明治31)年、社会主義研究会に加入し、幸徳秋水や片山潜などの知遇を得た。
1899(明治32)年、在日アメリカ合衆国公使館の通訳に就任。1900(明治33)年、「新仏教」を創刊。
そして1903(明治36)年31歳の時「朝日新聞社」に入社した。
入社当初の楚人冠は、主に外電の翻訳を担当していた。1904(明治37)年8月、レフ・トルストイが日露戦争に反対してロンドン・タイムズに寄稿した「日露戦争論」を全訳して掲載した。
戦争後、特派員としてイギリスに赴いた。滞在先での出来事を綴った『大英游記』を新聞紙上に連載、軽妙な筆致で一躍有名になった。彼はその後も数度欧米へ特派された。1908(明治41)年、世界一周会(朝日新聞社主催)の会員を引率して渡米した(3月18日〜6月21日)。
帰国後、外遊中に見聞した諸外国の新聞制度を取り入れ、1911(明治44)年6月、「索引部」(同年11月、「調査部」に改称)を創設した。これは日本の新聞業界では初めてだった。また1924(大正13)年52歳の時には「記事審査部」を、やはり日本で初めて創設し部長に就任した。縮刷版の作成を発案したのも彼だった。
これらの施策は本来、膨大な資料の効率的な整理・保管により執筆・編集の煩雑さを軽減するために実施されたものだが、のちに縮刷版や記事データベースが一般にも提供されるようになり、学術資料としての新聞の利便性を著しく高からしめる結果となった。
その他、校正係であった石川啄木(1909明治42年入社)の文才をいち早く認め、彼を選者として「朝日歌壇」欄を設けたり、「日刊アサヒグラフ」(のちの「週刊アサヒグラフ」)を創刊するなど、紙面の充実や新事業の開拓にも努めた。
楚人冠は制度改革のみならず、情報媒体としての新聞の研究にも関心を寄せており、『最近新聞紙学』(1915大正4年)や『新聞の話』(1930昭和5年)を世に送り出した。
外遊中に広めた知見を活かしたこれらの著作により、彼は日本における「新聞学」に先鞭をつけた。世界新聞大会(第1回は1915大正4年にサンフランシスコで、第2回は1921大正10年にホノルルで開催)の日本代表に選ばれたこともあった。
関東大震災(1923大正12年)後、それまで居を構えていた東京・大森を離れ、かねてより別荘として購入していた千葉県我孫子町(現 我孫子市)の邸宅に移り住み、屋敷を「白馬城」、家屋を「枯淡庵」と称した。この地を舞台に、「湖畔吟」「湖畔哲学」など湖畔文学というべき多くの作品を著した。
1924(大正13)年7月1日、アメリカで新移民法が施行された。同法には日本からの移民を禁止する条項が含まれていたため、日本では「排日移民法」とも呼ばれ、激しい抗議の声が上がった。楚人冠は「英語追放論」と題する一文を掲載して、同法を痛烈に批判した。
また、俳句結社「湖畔吟社」を組織して地元の俳人の育成に努めたり、「我孫子ゴルフ倶楽部」の創立に尽力し、「アサヒグラフ」誌上で手賀沼を広く紹介するなど、別荘地としての我孫子の発展に大いに貢献した。また、青少年に関心を寄せその指導に熱意を持っていた。
1929(昭和4)年 監査役、1935(昭和10)年 相談役に就任した。1945(昭和20)年10月3日、亡くなった。1951(昭和26)年、彼の指導下にあった湖畔吟社の有志により、邸宅跡地に句碑が建立された。陶芸家 河村蜻山(せいざん)が制作した陶製の碑で、「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」と刻まれている。
「楚人冠」の名は、項羽に関する逸話から採られたものである。『史記』に「人の言はく、『楚人は沐猴(もっこう)にして冠するのみ』と。果たして然り」とある。(「『項羽は冠をかぶった猿に過ぎない』と言う者がいるが、その通りだな」)杉村は、アメリカ公使館勤務時代に、白人とは別の帽子掛けを使用させられるという差別的待遇を受けたことに憤り、以来「楚人冠」と名乗った。
1933(昭和8)年に尋常小学校の唱歌として採用された「牧場の朝」(福島県鏡石町の宮内庁御料牧場であった「岩瀬牧場」を描いたといわれる)は、長年「作詞者不詳」とされてきたが、楚人冠が書いた紀行文「牧場の暁」が1973(昭和48)年に発見されたのを契機に、楚人冠が作詞者であるとの説が浮上。その後若干の曲折があったが、現在ではこれが定説とされている。
杉村楚人冠は、明治・大正・昭和にかけて朝日新聞社の記者・最高幹部として活躍した国際肌豊かな人物だった。反骨精神に満ち、辛辣、かつ風刺に満ちた評論で知られていたが、第二次大戦下に政府の弾圧を受け、筆を置いたまま、終戦直後に亡くなっている。
 
トーマス・ブラキストン

 

博物学、分布境界線研究、ブラキストン線提唱者(英)
Thomas Wright Blakiston (1832-1891)
イギリス出身の軍人・貿易商・探検家・博物学者。幕末から明治期にかけて日本に滞在した。津軽海峡における動物学的分布境界線の存在を指摘、この境界線はのちにブラキストン線と命名された。トマス・ブラキストンとも表記する。
イングランド、ハンプシャーのリミントンに生まれる。少年時代から博物学、とりわけ鳥類に関心をもつ。陸軍士官学校を卒業後、クリミア戦争にも従軍した。1857年から1858年にかけてパリサー探検隊に参加し、カナダにおける鳥類の標本採集やロッキー山脈探検などを行なう。1860年には軍務により中国へ派遣され、揚子江上流域の探検を行なう。1861年、箱館で揚子江探検の成果をまとめた後、一旦帰国。1862年には、揚子江の調査の功績に対して、王立地理学会から金メダルを贈られた。
帰国の後、シベリアで木材貿易をすることを思い立ち、アムール地方へ向かうが、ロシアの許可が得られなかった。そのため、彼は蝦夷地へと目的地を変更、1863年に再び箱館を訪れ、製材業に従事、日本初となる蒸気機関を用いた製材所を設立した。ただし、蝦夷地では輸送手段が未開発であったために、大きく頓挫することとなった。箱館戦争などの影響もあり、事業の成果ははかばかしくなかったが、そこで、貿易に力を入れることにした彼は、1867年、友人とともにブラキストン・マル商会を設立、貿易商として働いた。彼は20年以上にわたって函館で暮らし、市の発展に貢献した。函館上水道や、函館港第一桟橋の設計なども手がけ、また、気象観測の開始に寄与し、福士成豊が気象観測を受け継いだ(日本人による最初の気象観測)。
この間、北海道を中心に千島にも渡り、鳥類の調査研究を行なった。
1884年に帰国、のちにアメリカへ移住した。1885年にブレーキストンはジェームス・ダンの娘であるアン・メアリーと結婚する。従って、ブレーキストンとエドウィン・ダンは義理の兄弟ということになる。ブレーキストン夫妻は一男一女をもうけた。1891年、カリフォルニア州サンディエゴで肺炎のため没。墓はオハイオ州コロンバスにある。アン・メアリー夫人はブレーキストンの死から46年後の1937年3月にイングランドで亡くなった。
なお、1911年(明治44年)、函館図書館の主催で、彼の没後20年を期し、盛大な二〇年祭が行われた。
ブラキストン線発見を記念して、函館山の山頂にブレーキストンのレリーフをはめ込んだ石碑がある。
業績
ブレーキストンが北海道で採集した鳥類標本は開拓使に寄贈され、現在は北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園(北大植物園)が所蔵している。 1880年にプライアーとの共著で「日本鳥類目録」を出版、1883年に津軽海峡に分布境界線が存在するという見解を発表、お雇い外国人教師ジョン・ミルン(John Milne)の提案でこれをブラキストン線と呼ぶこととした。
Blakistonは、植物の学名で命名者を示す場合にトーマス・ブレーキストンを示すのに使われる。
ブラキストン紙幣事件
明治に入り、経営が悪化したブラキストン商会では、局面打開のため、清国向け貿易会社の設立を計画した。しかし自己資本が不足したことから、「現金100円を差し出すと、利息二割前渡しの120円の証券を渡す」という内容の証券を発行することとし、明治7年(1874年)、ドイツのドンドルフ・ナウマン社へ依頼したところ、別途同社に紙幣印刷を依頼していた明治政府の知るところとなり問題となる。
ブラキストン商会は届いた証券を流通させ始めていたが、外務省は、本証券は会社設立資本金集めの株券であり、発行差し止めはできないとの見解を示したのに対し、大蔵省はこれを紙幣とみなし、外国人が政府の許可なく国内で発行することは国権を侵す重大な問題であるとして、真っ向から意見が対立した。その後、明治政府と英国公使パークスとの交渉等により、ブラキストン商会の証券は通用禁止、イギリス側で回収することとなった。
ブラキストン線 (Blakiston Line)
動植物の分布境界線の一つである。津軽海峡を東西に横切る線であり、このことから津軽海峡線(つがるかいきょうせん)ともいう。
この線の提唱者はイギリスの動物学者のトーマス・ブレーキストンである。彼は日本の野鳥を研究し、そこから津軽海峡に動植物分布の境界線があるとみてこれを提唱した。また、哺乳類にもこの海峡が分布境界線になっている例が多く知られる。
この線を北限とする種はツキノワグマ、ニホンザル、ムササビ、ニホンリス、ニホンモモンガ、ライチョウ、ヤマドリ、アオゲラなどがある。逆にこの線を南限とするのがヒグマ、エゾモモンガ、エゾヤチネズミ、エゾリス、エゾシマリス、ミユビゲラ、ヤマゲラ、シマフクロウ、ギンザンマシコなどである。
また、タヌキ、アカギツネ、ニホンジカ、フクロウはこの線の南北でそれぞれ固有の亜種となっている。
ただし、エゾシカとホンシュウジカはかつては別亜種と見られていたが、近年の遺伝子研究では、どちらもニホンジカの東日本型に属するとされ、地域個体群程度の差でしかないとされるようになってきている。
その他、現在でも北海道の一般家庭ではゴキブリがほとんど見かけられないことから、かつてはゴキブリもブラキストン線を境界に北海道に棲息していないと言われていた。
最終氷期(約7万年〜1万年前)の海面低下は最大で約130mであり、最も深い所で140mの水深がある津軽海峡では中央に大河のような水路部が残った。このため、北海道と本州の生物相が異なる結果となったと考えられている。 
北海道開拓の先覚者
トーマス・ライト・ブラキストンは箱館に23年間も滞在し、その間蝦夷地の特有な動植物分布を調査研究、北海道の産業育成にも努めた人物であるが、彼はクリミア戦争にも参加している。
ブラキストンは1832年(天保3年)イングランドに生まれ、少年時代から鳥類に特段の興味を抱いていたといわれる。陸軍士官学校卒業後、イギリス軍の近衛砲兵将校としてクリミア戦争に従軍した。クリミア戦争はイギリスなどの同盟軍の勝利に終わったが、ブラキストンはロシアの黒海艦隊の基地となっているセバストポリ攻略にも参戦し、多大な戦果を挙げた。しかし、残念ながらこの戦争で弟のローレンスが戦死している。
クリミア戦争従軍後イギリスに帰還した1857年、ブラキストン24歳の時にカナダのハドソン湾やフォート・エドモンドでの地質調査をおこなっている。カナダ滞在中には独力でロッキー山脈も踏破した。
1860年(万延元年)、大尉に昇進して清国広東守備隊の指揮を命じられる。
翌1861年、5カ月にわたって揚子江流域調査を実施する。その探検記録を整理するために選んだ場所がなんと箱館。ここに3カ月間滞在する。この間に作成した研究レポートは優れたもので、翌年「英国王立地理学賞」が授与されている。
揚子江流域調査がきっかけとなって、ブラキストンはイギリスの「西太平洋商会」に雇われ、支配人として箱館に再度来訪する。商会では貿易船3隻を駆使し、手広く貿易業や製材業を営む。この時ブラキストン30歳。
この頃、日本で始めての蒸気式製材機を採用している。この機械は優れもので、箱館奉行所もその技術を学ばせるため多くの伝習生を送り込んだそうである。町民からは「木挽きさん」と呼ばれ親しまれたそうだ。
1867年(慶応3年)、「西太平洋商会」から独立し、英国人のジェームス・マルとともに「ブラキストン・マル商会」を設立。交易・製材業を拡張していった。
1868年(慶応4年)10月、戊辰戦争で幕府側の敗色が濃厚となり、榎本武揚は艦船8隻を率いて品川沖を脱出、渡島半島(今の森町近く)に上陸した。その後、榎本は五稜郭を拠点として「蝦夷島政権」を誕生させる。
当時箱館府の知事であった清水谷公考(きんなる)は青森口への撤退を余儀なくされる。箱館府の庇護下にあった「ブラキストン・マル商会」は、新政府軍のため武器・食料・石炭の調達に機動力を発揮。香港・上海・横浜を舞台に物資調達に全面協力した。一方、幕府脱走軍敗残兵たちを自社の船で東北地方に逃がしてやるなど、人道的な措置も施している。
さて、幕府が崩壊し維新戦争が終わると軍用物資の輸送が減少し、さらに新たに誕生した開拓使の事業が軌道に乗ってくると運送事業の競合相手も増え、ブラキストン・マル商会の保有船の動きが鈍くなった。その上、自社船の沈没もあり海運事業が困難になっていく。自己資金不足から、資金調達のため発行した「ブラキストン商会証券(今の株券)」にも新政府からクレームがつき、発行禁止となった。この証券の印刷はドイツの会社に依頼していたが、たまたま日本新政府の紙幣印刷も同じ会社であったため、明治政府の知るところとなったのである。大蔵省はこの株券を紙幣とみなし、その流通を差し止めたのだ。このため事業資金の調達が困難になっていく。
その後もブラキストンには不幸が重なった。使用人殺害の疑いで訴えられ(実際は盗みを働いた使用人を折檻し小屋に入れたところ、縛ったなわを解き首を吊って自殺)、またドイツ領事が殺害される事件が起き、1883年(明治16年)春、失意の中とうとう函館を去りアメリカに移ることになった。
ブラキストンは自尊心が強く、短気で気難しい一面を持っていた反面、驚くほど私利私欲の無い人物で、何よりも日本文化をこよなく愛していた。
鳥類に格別な興味を抱いていた彼は、函館滞在中、日本の野鳥を熱心に調査研究し、そこから津軽海峡に動物分布の境界線があるのではないかと推察した。
1883年2月、渡米の直前にブラキストンは「日本列島と大陸との過去の接続と動物的兆候」と題した研究成果を日本アジア協会の例会で発表する。
蝦夷地質学外伝によると、「蝦夷地ならびにそれより北方の諸島は、動物学的に申せば日本ではなく、北東アジアの一部なのであります。そこから、本州は津軽海峡という疑いのない境界線で断ち切られたのであります。。
こうして発見されたのが津軽海峡における動物分布境界線「ブラキストン・ライン」である。北海道の鳥類・動物はアムール川(黒竜江)から津軽海峡を境としてシベリア亜区に属することを証明したのだ。時にブラキストン50歳。この説は世界の学会に認められることになった。
ブラキストン・ラインを北限とする種は、ツキノワグマ、ニホンジカ、ライチョウ、アオゲラなどがあり、逆に南限とするのがヒグマ、エゾジカ、エゾシマリス、ヤマゲラ、シマフクロウなどである。ゴキブリもこの線を北限としており、北海道の一般家庭ではほとんど見かけない。
シマフクロウは北海道のシンボルだが、その学名は“bubo blakistoni Seebohm”と、ブラキストンの名前が付けられている。
ブラキストンは蝦夷(北海道)と日本は別なものとみなしており、どうも「蝦夷(北海道)」は好きだが「日本」は嫌いだったらしい。
函館山の山頂には黒御影石と白御影石の組み合わせで作られたブラキストンの碑が立っている。碑に刻まれている顔から、頑固で生真面目なブラキストンが偲ばれる。私も函館に住んでいた時分、何度か訪れたものだ。
アメリカに渡った1883年8月、ブラキストンはワシントン州で偶然にエドウイン・ダンに再会する。ダンは開拓使のお雇い外国人でケプロンやクラークとともに北海道に招かれ、長く酪農や畜産を指導してきた人物である。当然ブラキストンと親交があり、一緒に豊平川でマス釣りをした間柄である。
ダンの家に数日だけ滞在する予定であったブラキストンは、なんとダンの姉アンヌ・マリーに心を惹かれ、滞在を伸ばし熱心に彼女を口説き続けた。その努力が実を結び、滞在中に彼女の承諾を得ることができた。
1885年(明治18年)、53歳で彼女と結婚し2人の子供を授かったが、サンディエゴで肺炎になり58歳の生涯を閉じる。
彼の遺体は夫人の実家であるオハイオ州コロンバスに埋葬されている。 
蝦夷地質学 
1
トーマス=W.=ブラキストン(Thomas Wright Blakiston)である。ブラキストンの地質学的知識を示すことによって、当時の日本と欧米の知識人の地質学的知識の比較ができるだろうと思うからである。
ブラキストンという人物については知らなくても、「ブラキストン・ライン」という言葉を知っているひとは多い。ブラキストンの趣味は鳥撃ちで、たくさんの標本を集めていた。彼は職業学者ではなかったが、北海道を去ったあと、彼のコレクションからえたデータを横浜在住のプライヤーと共に1880年に発表した。この時にリストとともに津軽海峡を境に鳥類相が異なるという見解を公表した。三年後(1883.2.14.)、この津軽海峡動物相境界は「日本列島と大陸との過去の接続の動物学的兆候」となって結実する。
「蝦夷地ならびにそれより北方の諸島は、動物学的に申せば、日本ではなく、北東アジアの一部なのであります。そこから、本州は津軽海峡という疑いのない境界線で断ち切られたのであります。」
ブラキストンはその原因を地質学的過去に求めた。つまり、過去の氷期に津軽海峡が結氷し陸橋が成立することによって動物が行き来し、氷期のおわりに海峡が成立することによって分断され、現在本州と北海道の動物相の違いが生じたのである。ブラキストンのこの指摘に、工部大学校・教授のジョン=ミルン(John Milne: 1850-1913)が立ち上がった。そして、「津軽海峡という新境界線をブラキストン線(" Blakiston's line ")と呼ぶ」ことを提案した。ミルンはすでに、日本に氷河が存在したことを論じており、ブラキストン線の存在は、彼の理論を裏付けるものだったからである。「ブラキストン線」の名は、この日から始まったのである。
「ブラキストン・ライン」が有名なわりにはブラキストンという人物については知られていない。理由は不明である。考えられるのは、彼は民間人であること。つまり、「お雇い外国人」の範疇には入らず、歴史学者からは、ほぼ無視されてきたこと。生物学的な功績があるにもかかわらず、外国人でアマチュア学者であったため、科学史家からも無視されてきたことなどがあるのだろう。また、彌永芳子「トーマス・W・ブラキストン伝」によれば海外でもブラキストンについての資料を集めることは困難だったいう。海外では日本での動向が不明になっているのだそうだ。
そのため、ブラキストンという人物を語る書物はすくない。知っている範囲内ではたった二つだけである。いずれもすでに入手困難になっている。ひとつは、上野益三(1968)「お雇い外国人(3)自然科学」(鹿島出版会)中の「トーマス・ライト・ブレーキストン」である。もちろん、ブラキストンは「お雇い外国人」ではない。上野がブラキストンをこの本の最初に取り上げたのは、函館に二十三年もの間住み、複数のお雇い外国人と交流があり、キーマンであるからだ。もちろん、自然科学上の業績も無視することができないのはいうまでもない。
もう一つは、彌永芳子「トーマス・W・ブラキストン伝」である。これは、ブラキストン、T. W. 「蝦夷地の中の日本(近藤唯一、1979訳)」の付篇として発行されている。本の形態としては奇妙だが、一冊で、ブラキストンの旅行記と伝記が入手できるのはありがたい。この形態のためか高価になっているのは残念であるが。なお、「蝦夷地の中の日本」は原題が「" Japan in Yezo "」であり、「蝦夷の中の日本」が正確である。もちろん、「日本の中の蝦夷地」ではない。一般には“奇妙な表題”と思われるようだが、ブラキストンは、蝦夷と日本は別のものとみなしており、どうも、「蝦夷」は好きだが「日本」は嫌いだったらしい。あくまで「蝦夷」の旅行記であり、観察記である。その中にブラキストン・ラインを越えて、侵入してきた日本があるという意識なのだろうと思う。
ブラキストンの旅行記がもう一冊和訳されている。ブラキストン、T. W.「ブラキストン えぞ地の旅(西島照男、1985訳)」(北海道出版企画センター)である。これは、「ブラキストンが、1869(明治二)年、北海道を旅行した時の旅行記(" A Journey in Yezo ")を翻訳したものである」そうだ。原著は「1872(明治五)年、ブラキストンが英国王立地学協会誌に発表し、活字になったもの」を使用したそうだ。「英国王立地学協会」は「" Royal Geographic Society "」のことだと思う。
現在、ブラキストンのことを知る手がかりはこれだけだが、SF作家・豊田有恒がブラキストンを主人公に「北方の夢」(祥伝社)という小説を著している。
もひとつ。蛇足すれば、シマフクロウは北海道のシンボルであり、アイヌ民族からは「コタンコル-カムイ[kotankor-kamuy]」もしくは「カムイ-チカップ[kamuy-chikap]」として親しまれた。その学名はBubo blakistoni Seebohm, 1884 であり、もちろん、ブラキストンの名が付けられたものである。ブラキストンの標本をシーボウム(Henry Seebohm: 1832-1895)が記載するときにブラキストンの業績をたたえてつけたものだろう。
2
ブラキストンは、1832年12月27日、英国・ハンプシャー州レミントンに生まれた。家系は裕福で、軍人・政治家が多く、爵位を受けたものもいる。父はジョン=ブラキストン、軍人である。母は牧師・トーマス=ライトの娘ジェーン。二人の間には四人の息子が生まれ、二男がトーマス=ライト=ブラキストン。母方の祖父の名前をもらったことになる。
トーマスは王立陸軍士官学校を卒業(1851.12.6.)後、英国近衛砲兵隊に配属、少尉になる。クリミヤ戦争に出征し、勲功をたて、のちに大尉(captain)に昇進した。彼がしばしばキャプテン・ブラキストンと呼ばれるのはこのためである。
いつ頃からか、彼は博物学に興味を持ち始め、軍務で遠征した各地で鳥や植物を採集し、リストを学会誌に投稿したりしていた。この傾向は、1857〜1859年、パリサー探検隊に加わるころに一層顕著になる。パリサー探検隊とは正式名称を「北アメリカ学術探検隊」といい、西部カナダを探検した。探検の目的はカナダ・パシフィック鉄道のルート設定と植物の調査だった。隊長はパリサー(John Palliser)。隊員には地質学者で博物学者そして医者のヘクター(James Hector)、植物学者のバーゴー(Eugene Bourgeau)、数学者で天体測量士のサリバン(Johon W. Sullivan)らがいた。ブラキストンの担当は地磁気の観測であった。
ブラキストンは軍人らしく任務には忠実であったが、民間人であるほかの隊員とはソリが合わなかったようだ。何度かトラブルを起こした後、探検隊を辞任する。その後、独自にロッキー山脈の探検をおこない、鉄道ルートを発見した。この時採取した鳥類の標本は学会誌に報告されている。
彼は英国に戻り、軍務に戻った。
 1840年、アヘン戦争起きる(〜1842)
 1842年、南京条約締結
 1850年、太平天国の乱起きる(〜1864)
 1856年、アロー号事件、戦争に発展(〜1860)
 1860年、北京条約締結
英国に戻ったブラキストンは1860年、中国の広東守備隊の指揮をとることを命ぜられ、中国に向った。中国ではすでに北京条約が締結され、一応は安定化の方向に向っていた。平穏な広東地区の守備隊任務に飽きたブラキストンは、揚子江上陸の探検を企画、許可される。計画では揚子江を遡り、チベットからインドへ抜ける予定だったが、奥地はやはり混乱をきわめており、揚子江上流・金沙江河口付近の屏山(ピンシャン)までたどり着くのがやっとだった。1861年、上海に戻ったブラキストンは、この探検の詳細な報告書をまとめるために、暑さと喧騒を避け、涼しい箱館に向った。箱館は、1859(安政六)年に開港されたばかりだった。箱館では、探検の記録をまとめる一方で、周辺を探索したり、鳥類などの標本をつくっていたという。約三ヶ月を、ここで過ごして上海へ戻り、母国に帰った。
母国に帰ったブラキストンは除隊し、貿易会社と雇用契約を結ぶ。会社「西太平洋商会」は極東地域での貿易と製材事業の開発を目指していた。ブラキストンはある女性と結婚し極東地域に住み着くことを決意したようだ。この女性はブラキストンの生涯にあまり大きな位置を占めない。よって詳しいことは省略する。ただし、結婚したのは1862年7月17日とある。製材機器を船で送り込む一方で、ブラキストン夫妻は犬橇でシベリアを横断して極東へ向う。のちに政治家に転身した榎本武揚がやはり、犬橇でシベリア横断をしているが、決して楽しい旅とはいえないようだ。漂流人・大黒屋光太夫らもシベリア横断をしているが、その過酷さは大変なもので、なんで新婚早々の夫人を伴ってなのか理解に苦しむ。ともあれ、二人は(無事、かどうかはわからないが)アムール(黒竜江)河畔に着く。その後、アムール川を船で河口のニコラエフスクに到着した。ニコラエフスクといえば、1861(文久元)年に、武田斐三郎率いる亀田丸が入港。交易をおこなっていることを付け加えておく。要するに、ブラキストンと斐三郎はコンテンポラリーなのだ。
ブラキストンはニコラエフスクに到着したが、どうやら、開業はロシア当局の許可にはならなかったようだ。あきらめたブラキストンはその足で箱館に向う。箱館で借地契約をしたのが1863(文久三)年だというから、ほぼどういう時期に英国をでて、シベリア横断し、アムール河畔に着いたか推測できるだろう。ブラキストンはマール(J. Marr)と共同出資でブラキストン・マール社( Blakiston Marr & Co. )を設立し、貿易に力を注いだ。ブラキストン・マール社は「AKINDO」(丸・号)ほか数隻の帆船を所有し、国内外の物資輸送に活躍した。「AKINDO」とは商人(あきんど)のことである。また、ブラキストンは箱館在住の日本人商人のコンサルタントもおこない、日本人の友人もたくさん出来て、生活は安定していた。
箱館(函館)における気象観測は1854(安政元)年から1858(安政五)年まで、箱館奉行所で「風向・風力・天気・気温・ほか」が定時観測としておこなわれていた(函館市史・デジタル版)。これが知りうる最初の長期定点気象観測である。その後、1859(安政六)年から1860(万延元)年の間、ロシア人医師アルブレヒトが箱館付近の自宅で気象観測をおこなっていたことが記録に残っている。一時期はこれが日本最初の気象観測といわれたこともあるようだ。約三年間の空白を置いて、 ブラキストンが1864(元治元)年から1871(明治四)年までの八年間は雨雪日数を、1868(慶応四)年から1871(明治四)年までの四年間は、気温、気圧を観測した。これがこれが引き金となり、開拓使・三等属測量課長の福士成豊が官営測候所をつくり、ブラキストンの観測機器を引き継いで、日本最古の函館測候所に引継がれて今日に至っている。
さて、肝心のブラキストンによる蝦夷地探検であるが、実はよくわかっていない。唯一ハッキリしているのが、ブラキストン(1872)「えぞ地の旅(西島照男、1985訳:原題A Journey in Yezo)」のみである。原著は、“英国王立地学協会誌”に発表されたものとあるが、引用が不完全でよくわからない。これは1869(明治二)年に公用で北海道一周をした時の記録である。有名なのは1883年2月から10月にかけて「ジャパン・ガゼット(The Japan Gazette)」紙に連載された" JAPAN IN YEZO "(邦名「蝦夷地の中の日本」として近藤唯一訳)であるが、これは「1862(文久二)年から1882(明治十五)年の間に何回か行なわれた蝦夷島旅行の記録」であるとされている。実際には、何回かの旅行を地域別にまとめたものらしく、彼の旅程の復元には使えない。上野益三「お雇い外国人」には、ブラキストンの旅程を復元しようとした努力の跡が見られるが、著者が「遺憾」に思う通り、成功していない。ブラキストンが来日してから、かなりの間、外国人が自由に動き回れる範囲は制限されていた。どうやら、そのためにブラキストンは不法に旅行をしたらしい。もちろん、それには現地日本人の協力が必要なわけで、もしものことを考えて、ブラキストンは意図的に旅程をわかりにくいものしたらしいのだ。復元に困難があるのは当然であろう。一方で、公用でおこなわれた旅行の方は行程がハッキリしている。
以下、上野が示したブラキストンの旅行のうちわかるものを記す。
年不明の旅:函館から札幌往復 (函館を出発。駒ヶ岳西麓を通り、森へ。森から船で室蘭へ。室蘭から登別・白老・苫小牧を通り内陸部へ。美々・千歳から札幌へ。帰路は往路を室蘭まで。室蘭から陸路を噴火湾沿いに有珠・礼文華・静狩・長万部・黒岩・落部・森へ。森から函館へと帰った。)
1874(明治七)年の旅:函館から札幌へ (函館から現在の国道5号線のルートで、長万部から黒松内山道を通り、日本海海岸沿いを岩内へぬけまた現在の国道5号線に戻り、余市から小樽を通り札幌へ。)
年不明の旅:函館から森へ (函館から湯川・銭亀沢を通り、汐首岬・戸井・尻岸内を経て、恵山岬を回り、佐原・尾白内を通って森へでた。)
年不明の旅:函館から江差へ (函館から大沼を見てから西に向い、中山峠を越えて、厚沢部川沿いに、江差へでたとある:地形図を見てもこのルートは理解できない)。
年不明の旅:函館から江差へ (もう一つは木古内・知内・吉岡から、白神岬を見て、福山へ。それから、日本海岸を江良・石崎・上ノ国経由で江差へ。)
年不明の旅:江差から寿都へ (江差から乙部・熊石・久遠・太櫓をすぎ茂津多岬へ。茂津多岬から島牧・弁慶岬を通り、寿都へ。)
年不明の旅:函館から上川へ (函館から船で石狩へ。石狩平野を江別・幌向・美唄・神居古潭を通って上川へ。)
年不明の旅:函館から宗谷へ (函館から船で石狩へ。石狩から増毛・留萌・鬼鹿・苫前・天塩・稚内を通り、宗谷へ。)
1875(明治八)年の旅:函館から根室を経て、宗谷へ (苫小牧から太平洋岸沿いを南下、静内・三石・浦河・様似・幌満・幌泉から猿留山道を通り、東海岸へ。猿留・大津を通り、釧路原野へ。白糠・釧路・厚岸・浜中・落石を経て、根室へ。根室からは、西別河口・別海・野付岬・標津を通り、斜里にでた。さらに西へ進んで、網走・常呂・湧別・紋別・枝幸から宗谷へ)
上野は「ルートを記するのに、多くのページを費やしすぎた」を書いているが、そんなことはない。もっと詳しく書いてくれてもいいぐらいだ。もっといえば、このルートは何から引用したのか、何を分析したのかも語って欲しかった。
ほかに、以下の旅行がある。
1881(明治十四)年:択捉島渡航 (函館から船で裳岬沖経由、とまであるが、択捉旅行に関しては満足な記述がない)
1878(明治十一)年:小笠原諸島渡航 (詳細不明)
ブラキストンがその事業をやめ、故国英国へ帰るために日本を去ったのは、1883(明治十六)年とも1884(明治十七)年ともいわれている。そのまま英国に帰ってからアメリカに渡ったとも、帰国の途中にアメリカに渡ったともいわれている。アメリカではエドウィン=ダンと親交を結び、ダンの姉(妹という説もある)アンヌ=マリーに求婚した。ブラキストンは箱館につれて来た妻とすぐに別れてから独身であった。結婚の承諾を得たブラキストンはオーストラリア・ニュージーランドを旅行し、1884年、英国に一度帰った。再び渡米し、1885年にアンヌ=マリーと結婚。ブラキストンは五十二歳であった。ニューメキシコ州・シマロンに新居を定め、アンヌ=マリーとの間に一男一女を儲け、平穏な生活が続いた。1891年10月15日、カリフォルニア州サンディエゴ付近を旅行中、肺炎にかかり、五十八歳の生涯を閉じた。遺体はオハイオ州コロンバスへ運ばれ、そこで埋葬された。
3
大著である「蝦夷の中の日本」から引用したい所だが、旅行の行程が唯一ハッキリしている「えぞ地の旅」から引用することにする。なお、「蝦夷の中の日本」中にも驚くほど多彩な地質学用語・地質学的な解説がでてくることを記しておく。
1869(明治二)年9月15日(八月十日)、ブラキストンは箱館港を厚岸に向けてアキンド号で出帆した。後半になってから、旅の目的がわかるが、宗谷の海岸で遭難した英国艦・ラトラー号の積み荷の確認と処分の依頼を開拓使からうけていた。アキンド号は襟裳岬を回る。のっけから、日本の地図・海図に対する苦情が延々と書かれている。もちろん、当時の日本の地形図のレベルは蝦夷地質学のライマンのところで示したように、欧米のそれとは比較にならないものだったのは事実だった。
厚岸湾にはいってすぐに、海流・地形・植生そして地質について記述がある。和訳をそのまま引用しよう。
「地質的には、二次生統、礫岩、砂岩、及び石版状の頁岩がある。」
厚岸周辺にはいわゆる根室層群が分布しており、岩相の記載としては矛盾がない。ただし、「二次生統」という用語は現在の地質学にはない。その元の語を知りたい所であるが、たぶんアルディーノ(Arduino, G. :1713-1795)がイタリア山地の研究でつかった「第二系(secondary)」のことだろう。イタリアのそこでは、現在、海生化石を含む中・古生層が分布しており、上部白亜系が大部分をしめるとされる根室層群の位置付けと矛盾がない。
ブラキストンはアイヌの風俗についてふれたあと、厚岸湾口にある大黒島についてふれている。
「島が非常に軟らかい規則的なスレートの頁岩の層で出来ていて、…太平洋から押し寄せる大波に、いつも洗われているから」
そのうちに無くなって暗礁になるだろうとしている。二つの大黒島(大黒島と小島のこと)は今でも健在であるから、ブラキストンの予言は外れたことになるが、ブラキストンがこう予測したのは、昔のオランダ人ほかの航海者が記録している大黒島は陸続きになっているように描かれていたかららしい。これを、彼は記述の間違いではなく、実際にそうなっていたが急速な侵食のために島になったと考えたのだ。
やがて、アキンド号は出港し、ブラキストンは彼がクレームをつけた日本製の地図で、まだほかの外国人の誰もやったことがない旅行に出ることになった。明治が始まったばかりの当時、内陸部はもちろん、北海道の沿岸部の道といえば、ケモノ道程度の「こうでもしなければ、ほとんど通れない」というところだけ人手の入った難所続きであった。
10月6日、浜中(厚岸)をでる。根室半島の付け根を通り、北上する。知床半島の付け根を越し、斜里に入る。斜里から知床半島の山々が見える。
「ごく海岸に近い、この群れになった山の中の火山から、蒸気が見える。そこには大きな純粋の硫黄の層があるというが、会所の一番上の人の話によると、海岸が険しいので、採鉱が出来ないそうである。」
これは知床硫黄山のことだろう。
13日。斜里をでて、網走に向う。
砂浜を渡り、やがて、海と潟湖の間を通った。濤沸湖と藻琴湖だろう。
ブラキストンは網走に着く直前にある崖について記述している。
「…実に奇妙な崖がある。灰色の岩で出来、四辺形のブロックに割れていて、遠くから見ると、実に玄武岩とそっくりなので、すぐそばに行って見なければ、だまされる程である。」
では、なんであるかということは明示していない。場所的にはポンモイ岬にある通称ポンモイ玄武岩のことかと思われる(道東の自然史研究会編「道東の自然を歩く」)。すると、ブラキストンの第一印象は正しかったことになる。
翌日、網走から常呂へ向う。
網走川を舟で渡り、海岸沿いを海岸にでたり、山道に入ったりして進む。
「海岸は砂岩と礫岩の崖になっている。」
能取湖の岸にでて昼食。砂浜を行くと、
「所々で頁岩の高い崖の下を通り、崖の層は随分傾斜している。」
翌日、常呂から佐呂間を過ぎて湧別へ。
湧別川河口では、円礫になった「黒水晶が見付かった」ので、採集した。
16日、紋別会所に着く。
そのまま引用すると、「この会所は、…(地質学に関係ない記述なので省略)…で、赤みを帯びた、堅い二次性の岩石からなる、傾斜した岬の上にある」そうだ。
五万分の一地質図幅「紋別」(道立地下資源調査所)によれば、紋別山と紋別公園のある岡やその延長は、新第三紀の玄武岩となっており、一見、ブラキストンの観察と合わない。しかし、その基盤は「ジュラ紀〜三畳紀の諸滑層(珪質砂岩、頁岩)」であり、それが見えていたのだとしたら、「二次性の岩石」とは、前出のアルディーノの「第二系(secondary)」のことを意味しているのだろう。
10月18日、沢木から幌内へ。
「ここの地質上の構造は、東の海岸と異なり、堅い始原岩が、本来の場所や玉石の中にある。」
日本語としても、少し意味がとりにくいが、アルディーノのいう所の「始原系(primary)」のことだとすれば、風烈布あたりに分布する花崗岩もしくは内陸部の花崗岩類の礫が転石として落ちているのかも知れない。
19日、幌内からチカトムシ(現在の地名不明)へ
「台地は海岸で削られて、低い崖になり、岩が出たりあるいは粘土や砂礫の層が現れている。小さな成層岩が一つ、わずかに見えるが、チカトムシに近づくにつれ、花崗岩と、その外の硬い原成岩石が余計目に付く。」
チカトムシの現在の地名がわからないのでなんだが、前述のように風烈布あたりには花崗岩が分布している。「原成岩石」の原語は、なんなのか知りたい所だ。たぶん、「始原系(primary)」を専門用語とわからずに、訳者がその時その時、別な語に訳しているのだろうと思う。
20日。チカトムシから枝幸へ。
枝幸の役人から、1868年の夏に、遭難した「女王陛下のラトラー号」について訊く。海岸には、ラトラー号の部品と思われるオーク材の破片が打ち上げられていた。
枝幸から斜内へ。斜内から猿払へ。猿払から宗谷へ。
宗谷岬を回り、宗谷の会所に着いたのは24日だった。
25日は宗谷に滞在して、ラトラー号の積み荷・備品の処分をする。公用は終わった。
26日、日本海岸を南下するために出発する。秋も終りなので、紅葉が美しかった。
宗谷から抜海へ。抜海から天塩へ。
遠別川をすぎると、山が海岸にせり出している。
「海岸には粘土質の岩の崖が、一直線に続いている。高さは大体二百から二百五十フィートで、一番上は、粘土と砂利の層である。」
「この自然の壁を破る、雨溝があまりなく、崖は何マイルも続いている。」
私は大学院時代に、ここに微化石研究用の資料を採集しにいったことがある。すでに当初のもくろみは不可能なことがわかっていたので、人っ子一人いない海岸で立ち尽くしていたことを思いだす。
海岸段丘の研究でも有名な所である。
天塩から風連別へ。風連別から苫前へ。
30日、苫前から留萌へ。
小平川を渡る。
「この谷では石炭が発見されており、見本を見せられた。光ってはいるが、ごく小さいのを試して見ると、良く燃える石炭ではないらしい。おまけに、海から十里離れ、また川は船が通れないので、現在のところ、この石炭は何も価値がない。」
ここは空知炭田の末端部にあたる。小平蘂炭鉱、住吉炭鉱、青木炭鉱などと呼ばれ、昭和になってから採掘されたものだろう。一部では露天掘りが行なわれ、現在でも露頭が残っているそうである。青木炭鉱からの石炭は強粘結炭とされ、産出さえあれば商品になったというから、ブラキストンの見た標本は、たまたま質の悪い部分のものだったのだろう。
留萌では、在住の役人に石炭について意見を求められた。
増毛山道はすでに雪だというので、海岸沿いを舟で南下する。
雄冬岬をすぎる。
「景色は、実に雄大である。雄冬岬のすぐ北側に、明るい赤色の砂岩の、見事な高い垂直の崖がある。あちこちに、小さな滝があり、また、ある所には裂け目や、ほら穴や、礫岩と砂岩特有の面白い形をした、突き出た高い岩がある。また、硫黄泉が幾つかある。」
11月1日。浜益毛で昼飯をとり、再び舟に乗る。濃昼で泊まる。
濃昼から厚田に向う。
「海岸は粘土と頁岩の壁になっている。」
石狩を通って、小樽内へ。小樽内から忍路へ。忍路から余市へ。余市川を上り、留辺蘂(峠の手前)で泊し、岩内へ向う。堀株川へ出て岩内へ。岩内に泊まり、翌日目的地の茅沼炭鉱へ。
11月7日から11日まで、茅沼炭鉱に泊まる。
ブラキストンは、大島(高任)が茅沼炭鉱を発見したと書いてあるが、ブラキストンの勘違いだろう。
続けて、
「この人は、二人のアメリカ人鉱山技師の指示を受けていた。また、このアメリカ人は、1862年のある時期、えぞにいて、政府に雇われていた。」
二人のアメリカ人とは、もちろん、ブレ−クとパンペリーのことである。
「E. H. M. ゴウアー氏は、彼の兄弟──箱館駐在の女王陛下の領事──と一緒に、1866年にここを視察し、炭鉱の再開を宣言した。」
「ゴウアー氏は、その後技師長に任命され、その指示で、炭鉱から海までの軌道が始まった。」
「ゴウアー氏」とは、「蝦夷地質学の参」で紹介した「ガワー」のことである。
「この工事は、内戦で邪魔されたが、政府は1869年の秋、ジェームス・スコット氏をよこし、これを完成させようとした。氏は、私がそこへいった時、丁度これを完成したところで、石炭が初めて軌道を走るのを見て、満足していた。実際、日本最初の鉄道が出来たといって良いかもしれない。」
「内戦」とは、「箱館戦争」のことである。
以下、茅沼炭鉱についての記載がある。
「主要坑道は、厚さ七フィート半の炭層に沿い、北北東に進み、徐々に、少なくとも四十五度西北西に傾斜する。」
少し日本語が微妙だが、傾斜しているのは坑道ではなく、炭層だろう。
「坑道は、幅八フィート、高さ十フィートで、私がそこに行った時には、既に五十から六十ヤード掘っていた。それから小さい坑道が分かれていて、三フィート半の炭層にぶつかる。」
「トロッコが通れる主要坑道では、そこから分かれて、上と下へ一緒に掘り進むつもりであったが、まだこれは全然実施していない。」
「上の方へだけ掘ると思うが、その訳は、下の作業場からポンプで水を出したり、石炭を運び上げる労力があったら、山の低い方の同じ炭層へ、別の坑道を掘った方が良いからである。」
「炭鉱の入口に、平らな台地があるが、これは土地を切り開き、土を盛って作ったもので、そこに小屋が一軒建っている。ここに石炭を──冬など雪が深くてすぐ運べない時──貯蔵して置く。」
「私がそこへ行った時の職員は、役人三人と──といっても仕事はほとんどせず──それに四十三名の男で、この中に大工、鍛冶、監督、人夫、及び十九名の坑夫が含まれる。スコット氏が仕事を統括し、その指示で、万事順調に進んでいるようであった。」
「大工小屋、鍛冶場、エンジニアの仕事場が、軌道の低い方の終点近くの線路のそばに建っている。そこはまた、職人の何人かが住んでいるが、坑夫は主要軌道の始発点近くの家に住んでいる。そこは、炭鉱で働くのに、便利な場所だからである。」
炭鉱の状況が細部にわたって観察されている。次に、石炭の運搬に関する記述が続く。
茅沼で用いられている湾は非常に小さなもので、西風が吹くと避ける場所がないこと。そのため、利用できる船は悪天候時には陸揚げできる小さなものしか使えないことを見取った。大型船が使える波止場をつくるには、莫大なコストがかかるだろうとし、それでも、気候の安定した時期にしか使えないだろうことも予測している。
しかし、適切な管理の元では、海外より安く、日本のどこの石炭よりも質のいい石炭が供給できるだろうとしている。
11月11日、茅沼炭鉱を出て、岩内にむかう。往路をそのまま余市、小樽、石狩へと帰った。石狩にしばらく滞在し、11月19日、出発する。
石狩から札幌太へ。札幌から対雁へ。対雁から漁太へ。漁太から千歳川へ。千歳川から植苗へ。勇払会所には23日に着いた。
勇払から白老へ。
途中、
「浜から少し離れた泥炭地を行くと、絵のように美しい樽前の火山にぐんぐん近づいて来る。この山は、日本人の話によると、百六十年前と三百年前に噴火したそうである。」
白老から逢寄へ。逢寄から幌別へ。幌別から絵鞆へ。絵鞆から有珠へ。有珠から虻田へ。虻田から礼文華へ。
礼文華から舟に乗り、海岸を行く。
「見事な崖、高く突き出た岩、洞穴、谷、それに砂岩と礫岩質の岩特有の形をした岩が在り、この山岳地帯は主にこれらの岩で出来ているようである。」
静狩の海岸に上がる。長万部へ。羊蹄山、駒ケ岳、有珠岳が見える。噴火湾(Volcano bay)という命名に感心する。
長万部から黒岩へ。訓縫砂金場の情報が短く触れられている。
「黒岩では、高地が浜まで迫り、ぎざぎざした岩が、固まって少し海の方へ突き出ている。硬い火打ち石の岩で、その中に、白い、石英の縞と球形の団塊がある。」
これは玄武岩質安山岩の熔岩で、海底火山の活動によって出来たものとされている。球果状の瑪瑙が含まれている(地団研道南班「道南の自然を歩く」より)。
遊楽部から山越内を過ぎ、鷲ノ木にはいる。
山越内の手前で、「製鉄所を見た」と書かれている。が、その記述からは「たたら製鉄」であることを思わせる。噴火湾沿岸に多産する砂鉄を原料としている。
遊楽部の谷に、鉛鉱山があり徳川幕府が操業していたが、今はやっていない。
「四年前に、ある個人が鉛鉱(山)を再開し、現在鉛と共に、かなりの銀を生産している。この人も同様に、十分な資本を持っていない」
「この外に、山越内かあるいはその近くに、油井がある。しかし、そこを通った時、このことを聞くのを忘れてしまった。」
「更にまた、大野村近くの谷に、鉛鉱(山)が有ることをここに指摘しても良いだろう。これは、箱館からせいぜい十八マイルで、以前、政府がやっていたが、今では中止して何年かになる。」(()内は筆者が付加)
これは、大野鉱床のことで、大永鉱山ともいったらしい。銅・鉛・亜鉛を鉱種とし、閃緑岩を母岩とする鉱脈型鉱床である。安政期のほか明治四年頃採掘。昭和に入ってからも探鉱の対象となっている。
「まず、えぞで富を産むものの一つは、鉱山である。これで政府が収益を上げるのは、ほとんど不可能だろうが、このような事業が出来る資本と能力のある、会社か個人にうまく貸した方が良いかもしれない」
ライマンらも公営ではなく、民営でという意見だった。道内の鉱山について歴史的・系統的にまとめたものは見あたらないが、ライマンやブラキストンが考えたような開発は、おこなわれなかったように思う。そのようにおこなうには、鉱山技術者や経営者の養成が必要であるし、それにはまだまだ時間が必要だった。
翌日、鷲ノ木をたって、森、宿野辺、大野を通り箱館に着いた。11月29日であった。約千五百km、二ヶ月にわたる旅だった。
最後の章には、気象観測の創始者であるブラキストンらしく「箱館の気候について」述べているが、割愛する。
 
パトリック・ラフカディオ・ハーン (ヘルン・小泉八雲)

 

Patrick Lafcadio Hearn (1850〜1904)
語学教育 『怪談』(英)
    小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン)
モラエス、フェノロサと並ぶ日本紹介者で、この時代に来日した外国人の中でも最もよく知られた人物。父はアイルランド人、母はギリシア人。ギリシャのレフカダで生まれ、アイルランド、フランス、ロンドンで学び、アメリカの新聞社に勤務するなど根っからの「国際人」であった。1890年、ローウェルの『極東の魂』を読んで日本に興味を持ったハーンはまず新聞記者として来日。すぐに日本に魅せられ改めて島根県松江尋常中学校に英語教師として赴任。その後松江の士族の娘小泉節子と結婚、熊本の第五高等学校に転勤した。すっかり日本の虜となり、日本に馴染んだハーンは1896年帰化し、妻の旧姓から「小泉」、日本最古と言われる和歌「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに、八重垣つくるその八重垣を」に現れる、「出雲国」にかかる枕詞の「八雲立つ」に因んで「八雲」と名乗った。同年から上京して東京帝国大学や早稲田大学で英文学を講じながら、『日本瞥見記』『東の国から』などの随筆を書き、様々な視点から日本の姿を欧米諸国に紹介した。その中でも1904年アメリカで刊行された『怪談』は、日本の古典や民話などに取材した創作短編集であり、その中の『耳無し芳一』『雪女』『貉』などは日本人にもよく知られ愛された物語となっている。松江に残された居住跡は1940年に国の史跡に指定されている。妻の回想『思ひ出の記』にハーンの好きなもの嫌いなものリストがあり、彼の人物像が良く見えて面白い。好きなもの=西、夕焼、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱、マルティニークと松江、美保関、日御碕、焼津、ビフテキ、プラム・プディング、煙草。嫌いなもの=うそつき、弱いもの苛め、フロックコートやワイシャツ、ニューヨーク。「日本人は最も少ない費用をもって最も多い楽しみを味わう人種である」彼の残した言葉だが、日本人は精神的な楽しみを重んじる天才と謳っている。今の物質に依存した娯楽にあふれた日本を見たら彼は何て言うだろうか? 
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ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。
ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。
1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗る。「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。 日本の怪談話を英語でまとめた『怪談』を出版した。母がシチリア島またはマルタ島生まれのギリシャ人で、アラブの血も混じっていたらしく、のちに八雲自身、家族や友人に向かって「自分には半分東洋人の血が流れているから、日本の文化、芸術、伝統、風俗習慣などに接してもこれを肌で感じ取ることができる」と自慢していた。父母を通じて、地球上の東西および南北の血が自分の中に流れているという自覚が、八雲の生涯と文学を特徴づけている。異国情緒を求める時代背景もあったが、八雲は生涯を通じてアイルランドからフランス、アメリカ、西インド諸島、日本と浮草のように放浪を続けた。かつ、いかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかった。シンシナティでは州法を犯してまで混血黒人と結婚しようとし、のちに小泉セツと家庭を持つに際しても、何ら抵抗を感じなかった。
2016年11月、愛知学院大学の教授によって1896年(明治29年)当時の英国領事の書簡を元にした研究論文が発表され、小泉八雲がイギリスと日本の二重国籍だった可能性が高いことが示唆されている。(後述)

1850年、当時はイギリス領であったレフカダ島(1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父チャールス・ブッシュ・ハーンと、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島出身のギリシャ人の母ローザ・カシマティのもとに出生。生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いた。
父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ=アイリッシュである。イギリス軍の軍医少佐としてレフカダ島 (Lefkada) の町リュカディアに駐在中、キティラ島(イタリア語読みではセリゴ島)の裕福なギリシャ人名士の娘であるローザ・カシマティと結婚した。カシマティはアラブの血が混じっているとも伝えられる。ラフカディオは3人男子の次男で、長男は夭折し、弟ジェイムズは1854年に生まれ、のちにアメリカで農業を営んだ。
1851年、父の西インド転属のため、この年末より母と通訳代わりの女中に伴われ、父の実家へ向かうべく出立。途中パリを経て1852年8月、両親とともに父の家があるダブリンに到着。移住し、幼少時代を同地で過ごす。
父が西インドに赴任中の1854年、精神を病んだ母がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった。
フランスやイギリスのダラム大学の教育を受けた後、1859年に渡米。得意のフランス語を活かし、20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博す。
1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日。来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年結婚。
松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺した。日本では『雨月物語』『今昔物語』などに題材を採った再話文学で知られる。
私生活では三男一女をもうけ、長男にはアメリカで教育を受けさせたいと考え自ら熱心に英語を教え、当時、小石川区茗荷谷に住むイサム・ノグチの母レオニー・ギルモアに英語の個人教授を受けた。
1904年(明治37年)に狭心症で死去。満54歳没。彼が松江時代に居住していた住居は、1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。
年譜
1850年 - レフカダ島にて誕生。
1852年 - ダブリンに移住。
1854年 - 精神を病んだ母がギリシャのキティラ島へ帰国。
1856年 - 父母が離婚し、父は再婚。
1863年 - アショウ・カレッジに入学。フランスの神学校に移るも帰国し、ダラム大学セント・カスバーツ校入学。
1865年 - 寄宿学校で回転ブランコで遊んでいる最中にロープの結び目が左目に当たって怪我をし、隻眼となる(以後左目の色が右目とは異なって見えるようになり左を向いた写真ポーズを取るようになる)。
1866年 - 父が西インドから帰国途中に病死。大叔母は破産した。
1867年 - ダラム大学セント・カスバーツ校退学、ロンドンに行く。
1869年 - リヴァプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。
1872年 - トレード・リスト紙の副主筆。
1874年 - インクワイアラー社に入社。マティ・フォリーと結婚。オハイオ州では当時違法だった黒人との結婚で、正式な届け出が受理された形跡はない。結婚式は最初に頼んだ牧師から拒絶され、次に依頼した黒人牧師が司式した。
1875年 - マティとの結婚も一因となり、インクワイアラー社を退社。
1876年 - インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社。
1877年 - 離婚、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ行く。
1879年 - アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗。
1882年 - アイテム社退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。この時期の彼の主な記事はニューオーリンズのクレオール文化、ブードゥー教など。
1884年 - ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で農商務省官僚の服部一三に展示物など日本文化を詳しく説明され、この時、高峰譲吉に会う。
1887年 - 1889年 - フランス領西インド諸島マルティニーク島に旅行。
1890年 - ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカでのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。なお、来日の動機は、このころ英訳された古事記に描かれた日本に惹かれたとの説もある。 ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り、4月4日横浜港に着く。その直後、トラブルにより契約を破棄する。
  7月、アメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる。
  8月30日、松江到着。
1891年 1月 - 中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉セツ(1868年2月4日 - 1932年2月18日)と結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)。
  11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる。長男・一雄誕生。熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた。
1894年 - 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
1896年 - 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)。
1897年 - 次男・巌誕生。
1899年 - 三男・清誕生。
1902年3月19日 - 西大久保の家に転居する。
1903年 - 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子誕生。
1904年3月 - 早稲田大学の講師を務め、9月26日に狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。戒名は正覚院殿浄華八雲居士。墓は東京の雑司ヶ谷霊園。
1915年 - 贈従四位。
評価についての論争
東京帝国大学名誉教師となった日本研究者でハーンとも交友があったバジル・ホール・チェンバレンは、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。
ハーン研究者でもある比較文学者の平川祐弘はチェンバレンの説に反対して、ハーンは日本を愛し暖かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の太田雄三はこれに対し、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書)の書中で反論した。
また、平川・太田と同じ研究室(東大大学院・比較文学比較文化)出身の小谷野敦は著書『東大駒場学派物語』において、近年のハーン肯定論者の多くが同研究室の関係者であることを指摘している。
平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に一部誇張があったことを認めているが、現代の日本での支持は高い。
1904年の著作『Japan-An Attempt at Interpretation』は、太平洋戦争中、アメリカの対日本心理戦に重要な役割を果たしたとされる。当時のアメリカ軍准将であり、ダグラス・マッカーサーの軍事書記官・心理戦のチーフであったボナー・フェラーズは、当時のアメリカが利用できる、日本人の心理を理解するための最高の本であったと述べたという。
エピソード
身体、外見
もともと強度の近視であったが、さらに晩年は右目の視力も衰え、高さが98センチもある机を使用して紙を目に近づけランプの光を明るくして執筆を行った。
16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、白濁した左目を嫌悪し、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。
「 たゞ見る身材五尺ばかりの小丈夫、身に灰色のセビロをつけ、折襟のフランネルの襯衣に、細き黒きネクタイを無造作に結びつけたり。顔は銅色、鼻はやゝ高く狭く、薄き口髭ありて愛くるしく緊まれる唇辺を半ば蔽ひ、顎やゝ尖り、額やゝ広く、黒褐色の濃き頭髪には少しく白を混へたり。されど最も不思議なるは其眼なり。右も左を度を過ぎて広く開き、高く突き出で、而して其左眼には白き膜かゝりてギロギロと動く時は一種の怪気なきにしもあらず。されど曇らぬ右眼は寧ろやさしき色を帯びたり。』『やがて胸のポケットより虫眼鏡様の一近眼鏡をとり出て、之をその明きたる一眼に当てゝ、やゝさびしく、やゝ羞色あり、されど甚だなつかしき微笑を唇辺に浮べつゝ、余等の顔を一瞥されし時は、事の意外に一種滑稽の感を起さゞるを得ざりき。突如その唇よりは朗かなれど鋭くはあらぬ音声迸り出でぬ。英文学史の講義は始まれる也。出づる言葉に露よどみたる所なく、洵に整然として珠玉をなし、既にして興動き、熱加はり、滔々として数千語、身辺風を生じ、坐右幽玄の別乾坤を現出するに及びて、余等は全然その魔力の為めに魅せられぬ。爾来三年の間余は一回としてその講義に列するを以て最大の愉快と思はざるはなかりき。 」
執筆関係
非常に筆まめであり、避暑で自宅を離れている間、あとに残った妻セツに毎日書き送った手紙が数多く残されている。ハーンは日本語がわからず妻は英語がわからないため、それらは夫妻の間だけで通じる特殊な仮名言葉で書かれている。
「原稿は9回書き直さなければまともにならない」とし、文章にこだわった。例えば「雪女」の結文「Never again was she seen」のsの3連続を風呂鞏は代表例としてあげる。
著作の原稿料にはこだわっていたが貯蓄にまったく関心がなく、亡くなった当時小泉家には遺産となるものがほとんど残っていなかった。当時小泉家には妻の親類縁者が多く同居しており、著述業と英語教師としての収入はほぼ全額彼らの生活費に充てられていた。
アメリカで新聞記者をしていたとき、「オールド・セミコロン(古風な句読点)」というニックネームをつけられたことがある。句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたことを指している。
英語教師としては、よく学生に作文をさせた。優秀な学生には賞品として、自腹で用意した英語の本をプレゼントしていた。
アメリカ在住中に勤勉が習い性になり、日本では学校教育の傍ら14年間に13冊の本を書いた。
tsunamiという英語をみんなが知る英語にしたのはスマトラ島沖地震 (2004年)からであるが、最初に英語として紹介したのはハーンの 1897年の作品「生神」の英語版"A Living God"からである。2004年まではtidal wavesと地震と無関係の用語と混同されていた。
 
エドワード・シルヴェスター・モース

 

Edward Sylvester Morse (1838〜1925)
生物学 大森貝塚の発見(米)
アメリカの動物学・考古学者。小学校も卒業せず独学で生物学などを学び大学教授・博士になった。シャミセンガイを研究するため1877年来日、東大で生物学・動物学を講じ、ダーウィンの進化論などを紹介した。開通したばかりの汽車に乗り、横浜から新橋に向かう途中、車窓から貝殻のむき出しになった地層を偶然見つけ、さっそく発掘すると土器や石器が出土し日本の古代(縄文時代後期)の遺跡(大森貝塚)であることを発見。後の日本考古学・人類史研究の基礎を築いた。日本中を旅してまわり、日本人の生活の様子をスケッチし、生活用具や陶器を収集した。3万点に及ぶ民具はアメリカ・セイラムの博物館に収められている。その中には現在日本にも存在しない貴重な民具もある。 
2
アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。大森貝塚を発掘し、日本の人類学、考古学の基礎をつくった。日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介した。名字の「モース」は「モールス」とも書かれる。
メイン州ポートランドに生まれた。高校は入退学を繰り返し、製図工の勤めも長続きしなかったが、13歳ごろから採集し始めた貝類の標本は、学者が見学にくるほど充実していた。1854年、18歳で博物学協会に入会し、1857年に新種のカタツムリを協会誌上に報告した。
ダーウィンの『種の起源』が出版された1859年から2年余、貝類研究の縁で、ハーバード大学のルイ・アガシー教授の学生助手を務める。アガシーの教授を受ける中で、アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたのを疑問に思ったのが、腕足類研究を思い立ったきっかけであった。アガシーやジェフェリーズ・ワイマン(Jefferies Wyman)の講義を聴き、ワイマンの貝塚発掘にも関係した。生物学界に人脈も作った。1863年にエレン・エリザベス・オーウェン(Elen Elizabeth Owen)と結婚。
講演にたけ、その謝礼金が生活を助けた。1867年、ジョージ・ピーボディ(George Foster Peabody)の寄付を得て、3人の研究仲間とセイラムに『ピーボディー科学アカデミー』(1992年以降のピーボディ・エセックス博物館)を開き、1870年まで軟体動物担当の学芸員を務めた。1868年、セイラムに終生の家を構えた。
1871年、大学卒の学歴がないにもかかわらず、31歳でボウディン大学教授に就任し、ハーバード大学の講師も兼ねながら、1874年までボウディン大学で過ごした。1872年からアメリカ科学振興協会の幹事になった。
日本
進化論の観点から腕足動物を研究対象に選び、1877年(明治10年)6月、腕足動物の種類が多く生息する日本に渡った。文部省に採集の了解を求めるため横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝塚を発見。これが、後に彼によって日本初の発掘調査が行なわれる大森貝塚である。訪れた文部省では、外山正一から東京大学の動物学・生理学教授への就任を請われた。江ノ島に臨海実験所を作ろうとも言われた。
翌月にあたる7月、東大法理文学部の教授に就任。当時、設立されたばかりの東大の外国人教授の大半が研究実績も無い宣教師ばかりだったため、これに呆れたモースは彼らを放逐すると同時に、日本人講師と協力して専門知識を持つ外国人教授の来日に尽力。物理学の教授には、トマス・メンデンホールを、哲学の教授にはアーネスト・フェノロサを斡旋した。さらに、計2,500冊の図書を購入し、寄贈を受け、東大図書館の基礎を作った。
そして江ノ島の漁師小屋を『臨海実験所』に改造し、7月17日から8月29日まで採集した。9月12日、講義を始めた。9月16日、動物学科助手の松村任三や、生徒であった佐々木忠次郎、松浦佐用彦と大森貝塚を掘り始め、出土品の優品を教育博物館に展示した。9月24日、東大で進化論を講義し、10月、その公開講演もした。
大学での講義や研究の合間を縫って、東京各地を見物し、日光へ採集旅行もした。これらの間に、多くの民芸品や陶磁器を収集したほか、多数のスケッチを書き残した。
11月初め、一時帰国した。東大と外務省の了解を得て、大森貝塚の出土品の重複分を持ち帰ったが、この出土品をアメリカの博物館・大学へ寄贈し、その見返りにアメリカの資料を東大に寄贈して貰うという、国際交流を実行した。
二度目の来日
1878年(明治11年)(40歳)、4月下旬、家族をつれて東京大学に戻った。
6月末浅草で、『大森村にて発見せし前世界古器物』を500人余に講演し、考古学の概要、『旧石器時代』『新石器時代』『青銅器時代』『鉄器時代』の区分、大森貝塚が『新石器時代』に属することを述べ、出土した人骨に傷があり現在のアイヌには食人風習がないから「昔の日本には、アイヌとは別の、食人する人種が住んでいた」と推論した。演説会の主催および通訳は、江木高遠であった。(講演の中の『プレ・アイヌ説』は、考古学の主流にならなかった。)
7月中旬から8月末まで、採集に北海道を往復した。この間函館にも『臨海実験所』を開いている(矢田部良吉「北海道旅行日誌」鵜沼わか『モースの見た北海道』1991年)。10月の『東京大学生物学会』(現在の『日本動物学会』)の発足に関わった。日本初の学会である。
この滞日期には、『進化論』(4回)、『動物変進論』(3回)、『動物変遷論』(9回)の連続講義を始め、陸貝、ホヤ、ドロバチ、腕足類、ナメクジ、昆虫、氷河期、動物の生長、蜘蛛、猿、などに関する多くの学術講義や一般向け講演をした。江木高遠が主宰した『江木学校講談会』の常任講師であった。(『動物変遷論』は、1883年、モースの了解のもとに石川千代松が、『動物進化論』の名で訳書を出版した。)
貝塚の土器から興味が広がり、1879年初から、蜷川式胤に日本の陶器について学んだ。5月初めから40日余、九州、近畿地方に採集旅行をし、陶器作りの見学もした。
1879年7月、大森貝塚発掘の詳報、"Shell Mounds of Omori"を、Memoirs of the Science Department, University of Tokio(東京大学理学部英文紀要)の第1巻第1部として出版した。ときの東大綜理加藤弘之に、「学術報告書を刊行し、海外と文献類を交換するよう」勧めたのである。(この中で使われた"cord marked pottery"が、日本語の『縄文土器』となった。)
1879年8月10日、冑山(現在の熊谷市内)の横穴墓群を調査し、その31日、東京大学を満期退職し、9月3日、離日した。後任には、チャールズ・オーティス・ホイットマンを斡旋した。
再帰国(1879年9月 - )
この時期、大森貝塚発見報告について、『ネイチャー』誌上でフレデリック・ヴィクター・ディキンズに批判されており、モースはダーウィンに書簡を送り、その結果、ダーウィンの推薦文とモースの記事が『ネイチャー』誌に掲載されている。
1880年7月、古巣の『ピーボディー科学アカデミー』の館長となり、講義講演の活動を続けたが、日本の民具・陶器への執着はやまなかった。
三度日本へ
1882年(明治15年)(44歳)6月初、家族を残し、日本美術研究家のビゲローと横浜に着いた。東大側は歓迎し宿舎を提供した。あちこちで講演し、冑山の再訪もしたが、今回は民具と陶器の収集が目的で、民具は、『ピーボディー科学アカデミー』用であった。大隈重信が、所蔵の全陶器を贈った。
7月下旬から9月上旬まで、フェノロサ、ビゲローらと、関西・中国へ収集・見学の旅をした。そして武具や和書も集めたのち、1883年2月、単身離日した。
帰国
離日後、東南アジア・フランス・イギリスを回って収集し、6月ニューヨークに着いた。集めた民具は800点余、陶器は2900点に上った。
1884年(46歳)、アメリカ科学振興協会の人類學部門選出副会長、1886年、同協会会長となった。1887年、1888年、1889年にもヨーロッパへ、学会や日本の陶器探しの旅をした。
1890年(52歳)、日本の陶器の約5,000点のコレクションをボストン美術館へ売却して管理に当たり、1901年、その目録(Catalogue of the Morse Collection of Japanese Pottery)を纏めあげた。
晩年
1898年(明治31年)、東京帝国大学(後の東京大学)における生物学の教育・研究の基盤整備、日本初の学会設立などの功績により、日本政府から勲三等旭日章を受けた。1902年、60歳を越えたモースは、20数年ぶりに動物学の論文の執筆を再開し、1908年に渡米した石川に対しても「私は陶器も研究しているが、動物学の研究も止めない。」と述べるなど、高齢になっても研究に対する執念は尽きなかった。1913年、75歳となったモースは、30年以上前の日記とスケッチをもとに、『Japan Day by Day(日本語訳題:日本その日その日)』の執筆を開始。1914年、ボストン博物学会会長となった。1915年、『ピーボディー科学アカデミー』から改名した『ピーボディー博物館』の名誉会長になった。1917年、『Japan Day by Day』を書き終えて出版した。1922年(大正11年)、日本政府から勲二等瑞宝章を受けた。
1923年(85歳)、関東大震災による東京帝国大学図書館の壊滅を知り、全蔵書を東京帝国大学に寄付する旨、遺言を書き直した。
1925年(大正14年)、87歳になってもなお手術後の静養中に葉巻をふかすなど健康だったが、脳溢血に倒れ、12月20日に貝塚に関する論文を絶筆に、セイラムの自宅で没した。遺言により、脳は翌12月21日にフィラデルフィアのウィスター解剖学生物学研究所に献体され、1万2,000冊の蔵書が東京帝国大学に遺贈された。遺体はハーモニー・グローヴ墓地(Harmony Grove Cemetery)に葬られている。
死後
翌1926年(大正15年)、東京人類学会は『人類学雑誌』第41巻第2号でモースの追悼特集を組み、彼の教育を受けた研究者たちの回顧録が掲載された。
大森貝塚が取り持つ縁で、大田区とセイラム市とは、姉妹都市になっている。
埼玉県熊谷市の石上寺に銅像が設置され、2015年12月20日に除幕式が行われた。
人物
左右の手で別々の文章や絵を描くことができる両手両利きであった。『Japan Day by Day』に掲載されたスケッチも両手を使って描かれたもので、両手を使うので普通の人より早くスケッチを終えることが出来た。講演会でも、両手にチョークを持って黒板にスケッチを描き、それだけで聴衆の拍手喝采を浴びるほどであった。脳を献体するという遺言も、両手両利きに脳が与える影響を研究してほしいというモースの希望によるものである。
日本その日その日 JAPAN DAY BY DAY   石川欣一訳  
序 モース先生
石川千代松
一八八七年の春英国で科学の学会があった。此この時ワイスマン先生も夫それへ出席せられ、学会から帰られた時私に「モースからお前に宜しく云うて呉れとの伝言を頼まれたが彼れは実に面白い人で、宴会のテーブルスピーチでは満場の者を笑わせた。」夫れから後其年の十一月だと思ったが、先生がフライブルグに来られた事がある。其時折悪くワイスマン先生と私とはボーデンセイへ研究旅行へ行って留守であった。であったのでウィダーシャイム先生が先生を馬車に載せて市の内外をドライブした処カイザー・ストラーセに来ると、モース先生が、「アノ家の屋根瓦は千年以上前のローマ時代のものだ。ヤレ彼処にも、此処にも」と指されたので、ウィダーシャイム先生も始めて夫れに気付き、後考古学者に話して調べた処、夫れが全て事実であったと、ウィダーシャイム先生もモース先生の眼の鋭い事には驚いて居られた。先生の観察力の強い事では此外幾等も知れて居るが、先生はローウェルの天文台で火星を望遠鏡で覘いて其地図を画かれたが、夫れをローウェルが前に研究して画いたものと比べて見た処先生の方が余程委しい処迄出来て居たので、ローウェルも驚いたとの事を聴いて居た。夫れで先生は火星の本を書かれた。処が此本が評判になって、先生はイタリア其他二、三の天文学会の会員に選ばれたのである。私が一九〇九年にセーラムで先生の御宅へ伺った時先生は私に Mars and its Mystery を一部下さって云われるのに、お前が此本を持って帰ってモースがマースの本を書いたと云うたらば、日本の私の友達はモースは気が狂ったと云うだろうが、自分は気が狂って居ない証拠をお前に見せて置こうと、私に今云うた諸方の天文学会から送って来た会員証を示された。此時又先生が私に見せられたのは、ベルリンの人類学会から先生を名誉会員に推薦した証書で、夫れに付き次ぎの様な面白い事を話された。自分がベルリンへ行った時フィルショオが会頭で人類学会が開かれて居た。或る人に案内されて夫れへ行って見た処南洋の或る島から持って来た弓と矢とを前に置いて、其使用方を盛んに議論して居た。すると誰かがアノ隅に居るヤンキーに質して見ないかと云うので、フィルショオから何にか良い考えがあるならば話せと云う。処が自分が見ると其弓と矢とは日本のものと殆んど同じで、自分は日本に居た時弓を習ったから、容易にそれを説明した処が大喝采かっさいを博した。で帰って見たら斯んな物が来て居たと。先生は夫れ計ばかりでなく、実に多才多能で何れの事にでも興味を有たないものはなく、各種の学者から軍人、商売人、政治家、婦人、農民、子供に至る迄先生が話相手にせないものはない。殊に幼い子供を先生は大層可愛がられ、私がグロースターのロブスター養殖所へと行くと云うたら、先生が私に自分の友達の婦人を紹介してやると云われたので、先生に教わった家へ行って見ると、老年の婦人が居て、先生の友達は今直きに学校から帰って来るから少し待って下さいと云われるので、紹介して下さった婦人は或いは学校の先生ででもあるのかと思い、待って居ると、十四、五位の可愛い娘さんが二人帰って来て、一人の娘さんが、此方こちらは自分のお友達よと云うて私に紹介され、サー之これからハッチェリーへ案内を致しましょうと云われて、行ったが、此可憐の娘さんが、先生の仲好しの御友達であったのだ。先生は日本に居られた頃にも土曜の午後や日曜抔などには方々の子供を沢山集め、御自分が餓鬼大将になって能く戦争ごっこをして遊ばれたものだが、又或る時神田の小学校で講演を頼まれた時、私が通訳を勤めた。先生の講演が済んだ後、校長さんが、先生に何にか御礼の品物でも上げ度いがと云われるので、先生に御話した処自分は何にも礼を貰わないでも宜しい。今日講演を聴いて呉れた子供達が路で会った時に挨拶をして呉れれば夫れが自分には何よりの礼であると申された。
今云うた戦争ごっこで思い出したが、先生の此の擬戦は子供の遊戯であった計りではなく、夫れが真に迫ったものであったとの事である。夫れは当時或る日九段の偕行社の一室で軍人を沢山集めて、此擬戦を行って見せた事があったが、其時専門の軍人連が、之れは本物だと云うて大いに賞讃された事を覚えて居る。
斯様かように先生は各方面に知人があって、又誰れでも先生に親んで居たし、又直ぐに先生の友人となったのである。コンクリン博士が先生の事に就き私に送られた文章に「彼れは生れながら小さい子供達の友人であった計りでなく又学者や政治家の友人でもあった」と書いて居られるが実に其通りである。
先生が本邦に来られたのは西暦一八七七年だと思って居るが、夫れは先生が米国で研究して居られた腕足わんそく類を日本で又調べ度いと思ったからである。で其時先生には江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて暫くの間研究されたが、当時我東京大学で先生を招聘しょうへいしたいと云うたので、先生には直ぐに夫れを承諾せられ一度米国へ帰り家族を連れて直ぐに又来られたのである。此再来が翌年の一八七八年の四月だとの事であるが、夫れから二年間先生には東京大学で動物学の教鞭を執って居られたのである。
其頃の東京大学は名は大学であったが、まだ色々の学科が欠けて居た。生物学も其一つで此時先生に依って初めて設置されたのである。で動物学科を先生が持たれ植物学科は矢田部良吉先生が担任されたのであった。先生の最初の弟子は今の佐々木忠次郎博士と松浦佐与彦君とであったが、惜しい事には松浦君は其当時直きに死なれた。此松浦君の墓は谷中天王寺にあって先生の英語の墓碑銘がある。
先生は此両君に一般動物学を教えられた計りでなく、又採集の方法、標本の陳列、レーベルの書き方等をも教えられた。之これ等は先生が大学内で教えられた事だが、先生には大学では無論又東京市内の各処で進化論の通俗講演を致されたものである。ダーウィンの進化論は、今では誰れも知る様、此時より遙か前の一八五九年に有名な種原論が出てから欧米では盛んに論ぜられて居たが、本邦では当時誰独りそれを知らなかったのである。処が茲ここに面白い事には先生が来朝せられて進化論を我々に教えられた直ぐ前にマカーテーと云う教師が私共に人身生理学の講義をして居られたが、其講義の終りに我々に向い、此頃英国にダーウィンと云う人があって、人間はサルから来たものだと云う様な説を唱えて居るが、実に馬鹿気た説だから、今後お前達はそんな本を見ても読むな又そんな説を聴いても信ずるなと云われた。処がそう云う事をマカーテー先生が云われた直ぐ後にモース先生が盛んにダーウィン論の講義をされたのである。
先生は弁舌が大層達者であられた計りではなく、又黒板に絵を書くのが非常に御上手であったので、先生の講義を聴くものは夫れは本統に酔わされて仕舞ったのである。多分其時迄日本に来た外国人で、先生位弁舌の巧みな人はなかったろう。夫れも其筈、先生の講演は米国でも実に有名なもので、先生が青年の時分通俗講演で金を得て動物学研究の費用にされたと聴いて居た。
処が当時本邦の学校に傭やとわれて居た教師連には宣教師が多かったので、先生の進化論講義は彼れ等には非常な恐慌を来たしたものである。であるから、彼れ等は躍起となって先生を攻撃したものである。併し弁舌に於ても学問に於ても無論先生に適う事の出来ないのは明かであるので、彼れ等は色々の手段を取って先生を攻撃した。例えば先生が大森の貝塚から掘り出された人骨の調査に依り其頃此島に住んで居た人間は骨髄を食ったものであると書かれたのを幸いに、モースはお前達の先祖は食人種であったと云う抔など云い触し、本邦人の感情に訴え先生は斯様な悪い人であると云う様な事を云い触した事もある。併し先生だからとて、無論之れ等食人種が我々の先祖であるとは云われなかったのである。
此大森の貝塚に関して一寸ちょっと云うて置く事は先生が夫れを見付けられたのは先生が初めて来朝せられた時、横浜から新橋迄の汽車中で、夫れを発見せられたのであるが、其頃には欧米でもまだ貝塚の研究は幼稚であったのだ。此時先生が汽車の窓から夫れを発見されたのは前にも云う様に先生の視察力の強い事を語るものである。
斯様にして先生は本邦生物学の祖先である計りでなく又人類学の祖先でもある。又此大森貝塚の研究は其後大学にメモアーとして出版されたが、此メモアーが又我大学で学術的の研究を出版した初めでもある。夫れに又先生には学会の必要を説かれて、東京生物学会なるものを起されたが、此生物学会が又本邦の学会の嚆矢こうしでもある。東京生物学会は其後動植の二学会に分れたが、其最初の会長には先生は矢田部良吉先生を推されたと私は覚えて居る。
(先生が発見された大森の貝塚は先生の此書にもある通り鉄道線路に沿うた処にあったので、其後其処そこに記念の棒杭が建って居たが、今は夫れも無くなった。大毎社長本山君が夫れを遺憾に思われ大山公爵と相談して、今度立派な記念碑が建つ事になった。何んと悦ばしい事であるまいか。)
之れ等の事の外先生には、当時盛んに採集旅行を致され、北は北海道から南は九州迄行かれたが其際観察せられた事をスケッチとノートとに収められ、夫れ等が集まって、此ジャッパン・デー・バイ・デーとなったのである。何んにせよ此本は半世紀前の日本を先生の炯眼けいがんで観察せられたものであるから、誰れが読んでも誠に面白いものであるし、又歴史的にも非常に貴重なものである。夫れから此本を読んでも直ぐに判るが先生は非常な日本贔屓びいきであって、何れのものも先生の眼には本邦と本邦人の良い点のみ見え、悪い処は殆んど見えなかったのである。例えば料理屋抔の庭にある便所で袖垣根や植木で旨く隠くしてある様なものを見られ、日本人は美術観念が発達して居ると云われて居るが、まあ先生の見ようは斯こう云うたものであった。
又先生は今も云う様にスケッチが上手であられたが、其為め失敗された噺はなしも時々聞いた。其一は先生が函館へ行かれた時、或る朝連れの人達は早く出掛け、先生独り残ったが、先生には昼飯の時半熟の鶏卵を二つ造って置いて貰いたかった。先生は宿屋の主婦を呼び、紙に雌鶏を一羽画かれ、其尻から卵子を二つと少し離れた処に火鉢の上に鍋を画き、今画いた卵子を夫れに入れる様線で示して、五分間煮て呉れと云う積りで、時計の針が丁度九時五分前であったので、指の先きで知らせ何にもかも解ったと思って、外出の仕度をして居らるる処へ、主婦は遽あわただしく鍋と火鉢と牝鶏と卵子二つを持って来た。無論先生は驚かれたが、何にかの誤りであろうと思い、其儘外出され、昼時他の者達が帰って来られたので、聞いて見ると宿屋の御神さんは、九時迄五分の間に夫れ丈けのものを持って来いと云われたと思い、又卵子も夫れを生んだ雌鶏でなくてはと考えたから大騒をしたとの事であった。
之れは先生の失策噺の一つであるが、久しい間に又は無論斯様な事も沢山あったろう。併し先生は今も云うた様にただ日本人が好きであられた計りでなく、又先生御自身も全く日本人の様な考えを持って居られた。其証拠の一つは先生が日本の帝室から戴かれた勲章に対する事で、先生が東京大学の御傭で居られたのは二年であったので、日本の勲章は普通では戴けなかったのである。併し先生が日本の為めに尽された功績は非常なもので、前述の如く日本の大学が大学らしくなったのも、全く先生の御蔭であるのみならず、又先生は帰国されてからも始終日本と日本人を愛し、本統の日本を全世界に紹介された。であるから日清、日露二大戦争の時にも大いに日本の真意を世界に知らしめ欧米人の誤解を防がれたのである。其上日本から渡米した日本人には誰れ彼れの別なく出来る丈け援助を与えられボストンへ行った日本人でセーラムに立ち寄らないものがあると先生の機嫌が悪かったと云う位であった。であるから、我皇室でも初めに先生に勲三等の旭日章を授けられ其後又勲二等の瑞宝章を送られたのである。誰れも知る様外交官や軍人抔では夫れ程の功績がなくとも勲章は容易に授けらるるのは世界共通の事実であるが、学者抔で高級の勲章をいただく事は真に功績の著しいものに限られて居る。であるから先生が我皇室から授けられた勲章は真に貴重なものである事は疑いのない事である。処が先生は、日本皇帝からいただいた勲章は、日本の皇室に関する時にのみ佩用はいようすべきものであるとの見地から、常時はそれを銀行の保護箱内に仕舞い置かれた。尊い勲章を売る様な人面獣心の奴が日本人にもあるのに先生の御心持が如何に美しいかは窺われるではないか。
私は前に先生が左右の手を同時に使われる事を云うたが、先生は両手を別々に使わるる計りでなく、先生の脳も左右別々に使用する事が出来たのである。之れに付き面白い噺がある。フィラデルフィアのウィスター・インスチチュートの長ドクトル・グリーンマン氏が或る時セーラムにモース先生を訪い、先生の脳の話が出て、夫れが大層面白いと云うので先生は死んだ後は自分の脳を同インスチチュートへ寄贈せようと云われた。其後グリーンマン氏はガラス製のジャーを木の箱に入れて先生の処へ「永久之れを使用されない事を望む」と云う手紙を付けて送った。処が先生は之れを受け取ってから、書斎の机の下に置き、それを足台にして居られたと。先生が御亡くなりになる前年であった、先生の八十八歳の寿を祝う為めに、我々が出して居る『東洋学芸雑誌』で特別号を発行せようと思い、私が先生の所へ手紙を上げて其事を伺った処斯様な御返辞が来たのである、
“The Wister Institute of Anatomy of Philadelphia sent a glass Jar properly labelled …… in using for my brain which they will get when I am done with it.” (……の処の文字は不明)。
此文章の終りの when I am done with it は実に先生でなければ書かれない誠に面白い御言葉である。
斯様な事は先生には珍しくない事で、先生の言文は夫れで又有名であった。であるから何れの集会でも、先生が居らるる処には必ず沢山の人が集り先生の御話を聴くのを楽みにして居たものである。コンクリン博士が書かれたものの中に又次ぎの様なものがある。或る時ウーズ・ホールの臨海実験で先生が日本の話をされた事がある。此時先生は人力車に乗って来る人の絵を両手で巧に黒板に画かれたが、其顔が直ぐ前に坐って居る所長のホイットマン教授に如何にも能く似て居たので満場の人の大喝采を博したと。
併し先生にも嫌いな事があった。其一つは家蠅で、他の一つは音だ。此音に付き、近い頃日本に来る途中太平洋上で死なれたキングスレー博士は、次ぎの様な面白い噺を書いて居る。モースがシンシナチイで、或る豪家に泊った時、寝室に小さい貴重な置時計があって、其音が気になってどうしても眠られない。どうかして之れを止めようとしたが、不可能であった。困ったあげく先生は自分の下着で夫れを包み、カバンの中に入れて、グッスリ眠ったが、翌朝此事を忘れて仕舞い、其儘立った。二十四時間の後コロンビアに帰り、カバンを開けて大きに驚き、時計を盗んだと思われては大変だと云うので直ぐに打電して詫び、時計はエキスプレッスで送り返したと。
先生は一八三八年メイン州のポートランドに生れ、ルイ・アガッシイの特別な門人であられたが、アガッシイの動物学の講義の中で腕足類に関した点に疑問を起し、其後大いにそれを研究して、声名を博されたのである。前にも云うた様に先生が日本に来られたのも其の研究の為めであった。其翌年から前述の如く二年間我大学の教師を勤められ、一度帰られてから八十二年に又来朝せられたが之れは先生には主として日本の陶器を蒐集せらるる為めであった。先生にはセーラム市のピーボデー博物館長であられたり又ボストン美術博物館の日本陶器類の部長をも勤めて居られた。で先生が日本で集められた陶器は悉く此美術博物館へ売られたが、夫れは諸方から巨万の金で買わんとしたが、先生は自分が勤めて居らるる博物館へ比較的安く売られたのであると。之れは先生の人格の高い事を示す一つの話として今でも残って居る。夫れから先生は又此陶器を研究せられて、一大著述を遺されたが、此書は実に貴重なもので、日本陶器に関する書としては恐く世界無比のものであろう。
先生は身心共に非常に健全であられ老年に至る迄盛んに運動をして居られた。コンクリン博士が書かれたものに左の様な言葉がある。「先生は七十五歳の誕生日に若い人達を相手にテニスをして居られた処、ドクトル・ウワアヤ・ミッチェル氏が七十五歳の老人にはテニスは余り烈しい運動であると云い、先生の脈を取って見た処、夫れが丸で子供の脈の様に強く打って居たと。」私が先年ハーバード大学へ行った時マーク氏が話されたのに、モースが八十六(?)で自分が八十で共にテニスをやった事があると。斯様であったから先生は夫れは実に丈夫で、亡くなられる直前迄活動を続けて居られたと。
先生は一九二五年十二月廿日にセーラムの自宅で静かに逝かれたのである。セーラムで先生の居宅の近くに住い、久しく先生の御世話をして居たマーガレット・ブルックス(先生はお玉さんと呼んで居られた)嬢は私に先生の臨終の様子を斯様に話された。
先生は毎晩夕食の前後に宅へ来られ、時々夜食を共にする事もあったが、十二月十六日(水曜日)の晩には自分達姉妹が食事をして居る処へ来られ、何故今晩は食事に呼んで呉れなかったか、とからかわれたので、今晩は別に先生に差し上げるものもなかったからと申し上げた処、でも独りで宅で食うより旨いからと云われ、いつもの様に肱掛椅子に腰を下して何にか雑誌を見て居られたが、九時半頃になって、もう眠るからと云うて帰られた。夫れから半時も経たない内に先生の下婢が遽しく駈込んで来て先生が大病だと云うので、急いで行った処、先生には昏睡状態で倒れて居られた。急報でコンコードに居る御嬢さんが来られた時に少し解った様であったが、其儘四日後の日曜日の午後四時に逝かれたのである。であるから、先生には倒れられてからは少しの苦痛も感ぜられなかった様であると。
斯様に先生は亡くなられる前迄活動して居られたが八十九年の長い間には普通人に比ぶれば余程多くの仕事をせられたのである。夫れに又前述の如く、先生には同一時に二つの違った仕事もせられたのであるから、先生が一生中に致された仕事の年月は少なくとも其倍即ち一九八年にも当る訳である。
先生の此の貴い脳は今ではウィスター・インスチチュートの解剖学陳列室に収めてある。私も先年フィラデルフィアへ行った時、グリーンマン博士に案内されて拝見したが、先生の脳はドナルドソン博士に依って水平に二つに切断してあった。之れは生前先生の御希望に依り先生の脳の構造に何にか変った点があって夫れが科学に貢献する処があるまいかとの事からである。併しドナルドソン博士が私に話されたのには、一寸表面から見た処では別に変った処も見えない。先生が脳をアノ様に使われたのは多分練習から来たものであったろうと。
であるから「先生は生きて居られた時にも亦死んだ後にも科学の為めに身心を提供されたのである」とは又コンクリン博士が私に書いて呉れた文章の内にあるが、斯様にして「先生の死で世界は著名な学者を失い、日本は最も好い親友を失い、又先生の知人は楽しき愛すべき仲間を失ったのである」と之れも亦コンクリン博士がモース先生に就いて書かれた言葉である。
私がセーラムでの御墓参りをした時先生の墓碑は十年前に死なれた奥さんの石の傍に横になって居たが、雪が多いので、其時まだ建てる事が出来なかったとの事であった。
終りに茲ここに書いて置かなくてはならぬ事は、此書の出版に就き医学博士宮嶋幹之助君が大層骨を折って下さった事と、啓明会が物質上多大の援助を与えられた事と、モース先生の令嬢ミセス・ロッブの好意許可とで、之れに対しては大いに御礼を申し上げ度いのである。
夫れに又附言する事を許していただき度い事は私の子供の欣一が此書を訳させていただいた事で、之れは欣一が米国に留学して居た時先生が大層可愛がって下さったので、殊に願ったからである。
訳者の言葉
一 先ず第一に現在の私がこの著述の訳者として適当なものであるかどうかを、私自身が疑っていることを申し上げます。時間が不規則になりやすい職業に従事しているので、この訳も朝夕僅かな暇を見ては、ちょいちょいやったのであり、殊に校正は多忙を極めている最中にやりました。もっと英語が出来、もっと翻訳が上手で、そして何よりも、もっと翻訳のみに費す時間を持つ人がいるに違いないと思うと、私は原著者と読者とに相済まぬような気がします。誤訳、誤植等、自分では気がつかなくても、定めし存在することでしょう。御叱正を乞います。
二 原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。まことに穏雅な、親切な、而もエフィシェントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう。
三 Morse に最も近い仮名はモースであります。私自身はこの文中に於るが如く、モースといい、且つ書きますが、来朝当時はモールスとして知られており、今でもそう呼ぶ人がありますから、場合に応じて両方を使用しました。
四 人名、地名は出来るだけ調べましたが、どうしても判らぬ人名二、三には〔?〕としておきました。また当時の官職名は、別にさしつかえ無いと思うものは、当時の呼び名によらず、直訳しておきました。
五 翻訳中、( )は原著にある括弧、又はあまり長いセンテンスを判りやすくするためのもの。〔 〕は註釈用の括弧です。
六 ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵は大体に於て原図より小さくなっています。従って実物大とか、二分の一とかしてあるのも、多少それより小さいことと御了解願い度いのです。
七 価格、ドル・セントは、日本に関する限り円・銭ですが、モース先生も断っておられますし、そのままドル・セントとしました。
八 下巻の巻尾にある索引、各頁の上の余白にある内容指示、上下両巻の巻頭にある色刷の口絵は省略しました。
九 先輩、友人に色々と教示を受けました。芳名は掲げませんが、厚く感謝しています。
一〇 原著は一九一七年十月、ホートン・ミフリンによって出版され、版権はモース先生自身のものになっています。先生御逝去後これは令嬢ラッセル・ロッブ夫人にうつりました。この翻訳はロッブ夫人の承諾を受けて行ったものです。私は先生自らが
Kin-ichi Ishikawa With the affectionate regards of Edw. S. Morse
Salem  June 3. 1921
と書いて贈って下さった本で、この翻訳をしました。自分自身が適当な訳者であるや否やを疑いつつ、敢てこの仕事を御引き受けしたのには、実にこのような、モース先生に対する思慕の念が一つの理由になっているのであります。昭和四年夏   訳者 
緒言
私が最初日本を訪れた目的は単に日本の近海に産する腕足類の各種を研究するだけであった。それで、江ノ島に設けた小さな実験所で仕事をしている内に、私は文部省から東京の帝国大学で動物学の講座を受持つ可く招聘された。殆ど四年日本にいた間、私は国へ送る手紙の重複を避ける為に、毎日日記をつけた。私の滞在の一期限は、後になって発表してもよいと思われた題目に関する記録が出来上らぬ内に、終って了った。が、これは特殊な性質を持っていたのである。即ち住宅及びそれに関係した諸事物の覚え書きや写生図だった。これ等の備忘録は私の著書『日本の家庭及びその周囲』――“Japanese Homes and Their Surroundings”の材料となったのである。この理由で、本書には、この前著に出ている写生図の少数を再び使用した以外、家庭住宅等に関する記述は極めて僅かしか出て来ない。また私は私が特に興味を持っている問題以外に就ては、記録しようとも、資料を蒐集しようとも努めなかった。日本の宗教――(仏教、神道)――神話、民話等に大して興味を持たぬ私は、これ等を一向研究しなかった。また地理にも興味を持っていないので、横切った川の名前も通過した地域の名も碌ろくに覚えなかった。マレー、サトウ等が著した優秀な案内書や、近くは、ホートン・ミフリン会社が出版したテリーの面白い案内書のおかげで、私は私が旅行した都邑とゆうに於おける無数の興味ある事物に言及さえもしないで済んだ。これ等の案内書には、このような事柄が実に詳しく書いてあるからである。
私が何等かの、時には実に些細なことの、覚え書きか写生かをしなかった日とては一日もない。私は観察と同時に興味ある事物を記録することの重大さを知っていた。そうでないとすぐ陳腐になって了って、目につかぬ。ブリス・ペリー教授は彼の尊敬すべき著述『パーク・ストリート・ペーパース』の中で、ホーソンがまさに大西洋を渡らんとしつつある友人ホレーシオ・ブリッジに与えた手紙を引用している。曰く「常に、君の心から新奇さの印象が消えぬ内に書き始めよ。そうでないと、最初に君の注意を引いた特異な事物も、記録するに足らぬ物であるかのように思われやすい。而もこのような小さな特異な事柄こそ、読者に最も生々とした印象を与える、大切なものなのである。最少限度に於てでも特質を持っている物ならば、何物をも、記録すべくあまりに軽少だと思う勿れ。君はあとから君自身の旅行記を読んで、このような小さな特異性が如何に重大な、そして描写的な力を持っているかに驚くであろう。」
本書にして若もし価値ありとすれば、それはこれ等の記録がなされた時の日本は、数世紀に亘る奇妙な文明から目ざめてから、数ヶ年を経たばかりだという事実に立脚する。その時(一八七七年)にあってすら、既に、軍隊の現代的調練、公立学校の広汎な制度、陸軍、財政、農業、電信、郵便、統計等の政府の各省、及び他の現代的行政の各官署といったような変化は起っていて、東京、大阪等の大都会には、これ等新制の影響が僅かに見られた。それは僅かではあったが、而もたった数年前、武士がすべて両刀を帯び、男子がすべて丁髷ちょんまげに結い、既婚婦人がすべて歯を黒くしている頃の、この国民を見た人を羨ましく思わせる程、はっきりしていた。だがこれ等外国からの新輸入物は田舎の都会や村落を、よしんば影響したにせよ極く僅かしか影響しなかった。私の備忘録や写生図の大部分は田舎に於てなされた。私が旅行した地域の範囲は、北緯四十一度に近い蝦夷えぞの西岸オタルナイから三十一度の薩摩の南端に至るといえば大略の見当はつくであろう。これを私は主として陸路、人力車並ならびに馬によった。私の記録や写生図の大部分は一千年前につくられた記録と同じであろう。事実、この国は『土佐日記』(エーストン訳)の抄本が、私が毎日書いていた所のものによく似た光景や状態を描いている程、変化していなかったのである。
日記帳三千五百頁を占めるこの材料を、どういう方法で世に表わそうかということは、長年考えはしたが、はっきりした考えがつかなかった。まったく、友人ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ(私は同氏と一緒に三度目の日本訪問をなした)からの手紙がなかったら、この日記は出版のために準備されなかったことであろう。私は大得意でビゲロウ氏に手紙を出し、軟体動物並に腕足類に関するいくたの研究を片づけるために、セーラムのピーボディ博物館及びボストンの美術館から長い休暇を貰ったことを知らせた。それに対するドクタア・ビゲロウの返事は次の通りである――「君の手紙で気に入らぬことがたった一つある。外でもない、より高尚な、君ほどそれに就て語る資格を持っている人は他にない事の態度や習慣に就て時を費さず、誰でも出来るような下等動物の研究に、君がいまだに大切な時を徒費しているという白状だ。どうだ、君は正直な所、日本人の方が虫よりも高等な有機体だと思わないか。腕足類なんぞは溝へでも棄てて了え。腕足類は棄てて置いても大丈夫だ、いずれ誰かが世話をするにきまっている。君と僕とが四十年前親しく知っていた日本の有機体は、消滅しつつあるタイプで、その多くは既に完全に地球の表面から姿を消し、そして我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人であることを、忘れないで呉れ。この後十年間に我々がかつて知った日本人はみんなベレムナイツ〔今は化石としてのみ残っている頭足類の一種〕のように、いなくなって了うぞ。」
彼の論点は圧倒的で私に弁解の余地を与えなかった。私は渋々出版を目的として材料の整理を始めた。最初私は備忘録を、私が一八八一年から翌年にかかる冬、ボストンのローウェル・インスティテュートでなした日本に関する十二講の表題によって分類することに腹をきめた。その表題というのは次の通りである。一――国土、国民、言語。二――国民性。三――家庭、食物、化粧。四――家庭及びその周囲。五――子供、玩具、遊戯。六――寺院、劇場、音楽。七――都会生活と保健事項。八――田舎の生活と自然の景色。九――教育と学生。一〇――産業的職業。一一――陶器及び絵画芸術。一二――古物。
かかる主題のあるものは、すでに他の人々の手で、専門的論文の性質を持つ程度に豊富な※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵によって取扱われている。それに、私の資料をローウェル・インスティテュートの講義の順に分類することは大変な大仕事で、おまけに多くの新しい副表題を必要とする。やむを得ず、私は旅行の覚え書きを一篇の継続的記録として発表することにした。本の表題“Japan Day by Day”――エッチ・エー・ガーフィールド夫人とロリン・エフ・ディーランド氏とから個々に云って来られた――は、事実ありのままを示している。材料の多くは、この日記がちょいちょい描写する、街頭をぶらつく群衆のように、呑気でまとまっていない。然し今日稀に見る、又は全く跡を絶った多くの事柄を描いている。この日記中の重要な問題はすでに他で発表した。

かかる覚え書きは次の如く各種の記事や著述の形をとっている――『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』には「日本に於る健康状態」、「日本に於る古代人の形蹟」(※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画付)、「日本に於るドルメン」(※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画付)の三記事。『ユースス・コムパニオン』に「日本の紙鳶たこあげ」(※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画付)。『ハーパース・マンスリー』には「古い薩摩」と題する記事に四十九の物品を十一枚の木版画で説明して出した。また『日本の家庭とその周囲』と称する本には説明図が三百七図入っている。東京帝国大学発行の『大森の貝塚』には石版図のたたんだもの十八枚に説明図二百六十七図が納めてある。日本の陶器に関する記録はフォトグラヴィア版六十八枚、及び記事中に一千五百四十五個の製造家の刻印を入れた、三百六十四頁の四折判の本となって、ボストン美術館から発行された。また私を最初日本に導いた腕足類の研究の結果はボストン博物学会から出版された。これは八十六頁の四折判で石版図が二十三枚入っている。

ボストン美術館のジェー・イー・ロッジ氏は、私に本書に出て来る日本の物件のすべてに、その名を表す支那文字をつけることを勧告された。然しそれは、原稿を印刷のため準備するに当って、非常に労力を要するのみならず、漢字に興味を持つ少数の読者は、それ等に相当する漢字が見出さるであろう所のヘップバーンの日英辞典を、持っているなり、あるいは容易に手にすることが出来るであろうことを思って、私は遺憾ながらこの優れた申し出に従うことをやめた。序ついでにいうが、我国では漢字のよき一揃えを手に入れることは至難事であろう。かかる活字はライデン市のブリルにでも注文せねばあるまい。同様な理由でOを長く読ませる※(マクロン付きO小文字)をも除外した。
この日記の叙述には大ざっぱなものが多い。一例として日本人が正直であることを述べてあるが、私はかかる一般的な記述によって、日本に盗棒どろぼうがまるでいないというのではない。巡査がいたり、牢屋や監獄があるという事実は、法律を破る者がいることを示している。諺ことわざのようになっている古道具屋の不正直に関しては、三千世界のいずこに正直な古道具屋ありやというばかりである。私が日本人はスウェア(神名を妄用)しないということを書いたその記述は、日本人がスウェア語を持っていないという事実に立脚している。日本にだって神様も聖人も沢山いる。だがそれ等の名前は、例えばスペインで聖ペドロ、聖ユアンその他の聖徒の名前が、忌まわしい語句と結びつけられるような具合に、祈りに使用されたり、又は罵られたりしないのである。
必ず見出されるであろう所の多くの誤謬ごびゅうに就ては、私としては只当時最も権威ある典拠によったということをいい得る丈で、以下の記録をなした後の四十年間に、いろいろと新しい説明が加えられ得るものもあるらしい。一例として富田氏は、私に富士山のフジは、噴火山を意味するアイヌ語だとの手紙を呉れた。

私が日本で交をむすび、そして世話になった初期の友人に女子師範学校長のドクタア高嶺秀夫及び彼の友人宮岡恒次郎、竹中成憲両氏がある。宮岡氏はその後有名な弁護士になった。彼はそれ迄外交官をしていて、ベルリン及びワシントン大使館の参事官であった。九歳の彼は同年の私の男の子の遊び友達だった。彼はよく私の家へ遊びに来たもので、彼と彼の兄を通して私は諺、迷信、遊戯、習慣等に関する無数の知識を得た。なお実験室で親しく交際した私の特別な学生諸君にも感謝の意を表する。帝国大学の綜理ドクタア加藤、副綜理ドクタア浜尾、ドクタア服部、学習院長立花伯爵その他『日本の家庭』の序文に芳名を録した多くの日本人の学生、友人、茶ノ湯、音曲の先生等にも私は負うところが多い。屡々しばしば、質問のあるものがあまりに愚なので、笑いに窒息しかけながらも、彼等が私に与えてくれた、辛棒強くも礼義に富んだ返事は、私をして従来かつて記されなかった習慣の多くを記録することを得させた。私の対話者のある者は、英語を僅かしか知らなかった。加レ之しかのみならず私の日本語が同様に貧弱だったので、その結果最初は随分間違ったことを書いた。意見を異にするのは礼義でないということになっているので、質問者自身があることがらを了解したと考えると、話し相手も従順に同意するのである!
いろいろな点で助力を与えられた美術館の富田幸二郎氏及び平野ちゑ嬢に私は感謝する。また一緒に日本に行った私の娘ラッセル・ロッブ夫人は、私が記録しておかなかった多くの事件や経験を注意してくれた点で、ラッセル・ロッブ氏はタイプライタアで打った原稿の全部を批評的に読み、余計なところを削除し、句章を短くし、各方面にわたって粗雑なところを平滑にしてくれた点で、私は負う所が多い。最後に、呪詛じゅその価充分なる私の手記を読んでタイプライタアで打ち、同時に粗※(「米+慥のつくり」、第3水準1-89-87)そぞうなるを流暢に、曖昧あいまいなるを平易にし、且つ絶間なく私を鞭撻べんたつしてこの仕事を仕上げさせてくれたマアガレット・ダブリュー・ブルックス嬢に対して、私は限りなき感謝の念を感じる。   E・S・M 
第一章 一八七七年の日本   横浜と東京
サンフランシスコからの航海中のこまかいことや、十七日の航海を済ませて上陸した時のよろこびやは全部省略して、この日記は日本人を最初に見た時から書き始めよう。
我々が横浜に投錨した時は、もう暗かった。ホテルに所属する日本風の小舟が我々の乗船に横づけにされ、これに乗客中の数名が乗り移った。この舟というのは、細長い、不細工な代物で、犢鼻褌ふんどしだけを身につけた三人の日本人――小さな、背の低い人たちだが、恐ろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟に下した――が、その側面から櫓をあやつるのであった。我々を海岸まではこぶ二マイルを彼等は物凄い程の元気で漕こいだ。そして、彼らは実に不思議な呻り声を立てた。お互に調子をそろえて、ヘイ ヘイチャ、ヘイヘイ チャというような音をさせ、時にこの船唄(若もしこれが船唄であるのならば)を変化させる。彼等は、船を漕ぐのと同じ程度の力を籠めて呻る。彼等が発する雑音は、こみ入った、ぜいぜいいう、汽機の排出に似ていた。私は彼等が櫓の一と押しごとに費す烈しい気力に心から同情した。而しかも彼等は二マイルを一度も休まず漕ぎ続けたのである。この小舟には側面から漕ぐ為の、面白い設備がしてあった。図は船ばたにしっかりと置かれ、かつ数インチつき出した横木を示している(図1)。櫓にある瘤こぶが、この横木の端の穴にぴったりはまる。櫓(図2)は固く縛りつけられた二つの部分から成り、重く、そして見た所如何にも取扱いにくそうである。舟の一方で一人が漕ぎ、反対の側で二人が漕ぐ、その二人の中の一人は同時に舵をとるのであった。我々が岸に近づくと、舟子の一人が「人力車」「人力車」と呼んだ。すぐに誰かが海岸からこれに応じた。これは人の力によって引かれる二輪車を呼んだのである。

小舟はやっと岸に着いた。私は叫び度い位うれしくなって――まったく私は小声で叫んだが――日本の海岸に飛び上った。税関の役人たちが我々の荷物を調べるために、落着き払ってやって来た。純白の制帽の下に黒い頭髪が奇妙に見える、小さな日本の人達である。我々は海岸に沿うた道を、暗黒の中へ元気よく進んだ。我々の着きようが遅かったので、ホテルはいささか混雑し、日本人の雇人達が我々の部屋を準備するために右往左往した。やがて床についた我々は、境遇の新奇さと、早く朝の光を見度いという熱心さとの為に、恰度ちょうど独立記念日の朝の愉快さを期待する男の子たちみたいに、殆ど睡ることが出来なかった。
私の三十九回の誕生日である。ホテルの窓から港内に集った各国の軍艦や、この国特有の奇妙な小舟や、戎克ジャンクや、その他海と舟とを除いては、すべてが新しく珍しい景色を眺めた時、何という歓喜の世界が突然私の前に展開されたことであろう。我々の一角には、田舎から流れて来る運河があり、この狭い水路を実に面白い形をした小舟が往来する。舟夫たちは一生懸命に働きながら、奇妙な船唄を歌う。道を行く人々は極めて僅か着物を着ている。各種の品物を持っている者もある。たいていの人は、粗末な木製のはき物をはいているが、これがまた固い道路の上で不思議な、よく響く音を立てる。このはき物には長方形の木片に細い二枚の木片を横に取りつけた物と、木の塊から彫った物と二種類があった。第3図は人品いやしからぬ老婦人の足を写生したものであるが、このように太い紐がついていて、その前方が拇指おやゆびとその次の指との間に入るように工夫されている。人の通る道路には――歩道というものはないので――木製のはき物と細い人力車の轍わだちとが、面白い跡をのこしている。下駄や草履には色々な種類がある。階段のあたりに置かれる麦藁わらでつくった小奇麗なのもあれば、また非常に粗末な藁製の、一足一セントもしないようなのもある。これ等は最も貧乏な人達がはくので、時々使い古しが道路に棄ててあるのを見る。

運河の入口に新しい海堤が築かれつつあった。不思議な人間の杙くい打機械があり、何時間見ても興味がつきない。足場は藁繩でくくりつけてある。働いている人達は殆ど裸体に近く、殊に一人の男は、犢鼻褌以外に何も身につけていない。杙打機械は面白く出来ていた。第4図はそれを示しているが、重い錘おもりが長い竿に取りつけてあって、足場の横板に坐る男がこの竿を塩梅あんばいし、他の人々は下の錘に結びつけられ、上方の滑車を通っている所の繩を引っ張るのである。この繩を引く人は八人で円陣をなしていたが、私の写生図は簡明にする為四人にしておいた。変な、単調な歌が唄われ、一節の終りに揃って繩を引き、そこで突然繩をゆるめるので、錘はドサンと音をさせて墜ちる。すこしも錘をあげる努力をしないで歌を唄うのは、まこと莫迦ばからしい時間の浪費のように思われた。時間の十分の九は唄歌に費されるのであった。

朝飯が終るとすぐに我々は町を見物に出かけた。日本の町の街々をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。――不思議な建築、最も清潔な陳列箱に似たのが多い見馴れぬ開け放した店、店員たちの礼譲、いろいろなこまかい物品の新奇さ、人々の立てる奇妙な物音、空気を充たす杉と茶の香。我々にとって珍しからぬ物とては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光と位であった。ホテルの角には、人力車が数台並んで客を待っていた(図5)が、我々が出て行くや否や、彼等は「人力車?」と叫んだ。我々は明瞭に要らぬことを表示したが、それにも拘らず二人我々について来た。我々が立ち止ると彼等も立ち止る。我々が小さな店をのぞき込んで、何をか見て微笑すると、彼等もまた微笑するのであった。私は彼等がこんなに遠くまでついて来る忍耐力に驚いた。何故かなれば我々は歩く方がよかったから人力車を雇おうと思わなかったのである。然し彼等は我々よりも、やがて何が起るかをよく知っていた。歩き廻っている内に草疲くたびれて了うばかりでなく、路に迷いもするということである。果してこの通りのことが起った。一歩ごとに出喰わした、新しいこと珍しいことによって完全に疲労し、路に迷い、長く歩いて疲れ切った我々は、よろこんで人力車に乗って帰る意志を示した。如何にも弱そうに見える車に足をかけた時、私は人に引かれるということに一種の屈辱を感じた。若し私が車を下りて、はだしの男と位置を代えることが出来たら、これ程面喰わずに済んだろうと思われた。だが、この感はすぐに消え去った。そして自分のために一人の男がホテル迄の道のりを一と休みもしないで、自分の前を素敵な勢で馳けているということを知った時の陽気さは、この朝の経験の多くと同様に驚く可きことであった。ホテルへ着いた時彼等は十セントとった。この為に彼等は朝半日を全くつぶしたのである! かかる人々の驚く可き持久力は、まさに信用出来ぬ程である。彼等はこのようにして何マイルも何マイルも走り、而も疲れたらしい容子もしないということである(図6)。乗客をはこぶに際して、彼等は決して歩かず、長い、ゆすぶる様な歩調で走るのである。脛すねも足もむき出しで、如何に太陽が熱くても、たいていは無帽である。時として頭に布切れをくるりとまきつけ、薄い木綿でつくった藍色の短い上衣を着、腰のまわりに下帯を結ぶ。冬になってもこれ以上あたたかい服装をしないらしい。涼しいには違いなかろうが、我々の目には変に見える。それにしても人力車に乗ることの面白さ! 狭い街路を全速力で走って行くと、簡単な住宅の奇異な点、人々、衣服、店、女や子供や老人や男の子の何百人――これ等すべてが我々に、かつて見た扇子に描かれた絵を思い起させた。我々はその絵を誇張したものと思ったものである。人力車に乗ることは絶間なき愉快である。身に感じるのは静かな上下動だけである。速度は中々大きい。馬の代りをなすものは決して狂奔しない。止っている時には、彼は荷物の番をする。私が最初に長い間のった人力車の車夫はこんな風に(図7)見えた。頭のてっぺんは剃ってあり、油を塗った小さな丁髷ちょんまげが毛の無い場所のまん中にくっついていた。頭の周囲には白い布が捲きつけてあった。

誰でも皆店を開いているようである。店と、それからその後にある部屋とは、道路に向って明けっぱなしになっているので、買物をしに行く人は、自分が商品の間から無作法にも、その家族が食事をしているのを見たり、簡単なことこれに比すべくもない程度にまで引き下げられた家事をやっているのを見たりしていることに気がつく。たいていの家には炭火を埋めた灰の入っている器具がある。この上では茶のための湯が熱くされ、寒い時には手をあたためるのだが、最も重要な役目は喫煙家に便利を与えることにあるらしい。パイプと吸い口とは金属で、柄は芦みたいな物である(図8)。煙草は色が薄く、こまかく刻んであり、非常に乾いていて且つ非常にやわらかい。雁首には小さな豆粒位の煙草のたまが納る。これを詰め、さて例の炭で火を点けると、一度か二度パッと吸った丈で全部灰になって了う。このような一服でも充分なことがあるが、続けて吸うために五、六度詰めかえることも出来る。またお茶はいつでもいれることが出来るような具合になっていて、お茶を一杯出すということが一般に、店に来た人をもてなすしるしになっている。かかる小さな店のありさまを描写することは不可能である。ある点でこれ等の店は、床が地面から持ち上った、あけっぱなしの仮小屋を連想させる。お客様はこの床の端に腰をかけるのである。商品は――可哀想になる位品数のすくないことが間々ある――低い、段々みたいな棚に並べてあるが、至って手近にあるので、お客様は腰をかけた儘手をのばして取ることが出来る。この後で家族が一室に集り、食事をしたり物を読んだり寝たりしているのであるが、若しこの店が自家製品を売るのであると、その部屋は扇子なり菓子なり砂糖菓子なり玩具なり、その他何であろうと、商品の製造場として使用される。子供が多勢集ってままごとをやっているのを見ているような気がする。時に箪笥たんすがある以外、椅子、テーブルその他の家具は見当らぬ。煙筒えんとつもなし、ストーヴもなし、屋根部屋もなし、地下室もなし、扉ドアもなく、只すべる衝立ついたてがある丈である。家族は床の上に寝る。だが床には六フィートに三フィートの、きまった長さの筵むしろが、恰あたかも子供の積木が箱にピッタリ入っているような具合に敷きつめてある。枕には小さな頭をのせる物を使用し、夜になると綿の充分入った夜具を上からかける。

この国の人々がどこ迄もあけっぱなしなのに、見る者は彼等の特異性をまざまざと印象つけられる。例えば往来のまん中を誰れはばからず子供に乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける。また、続けさまにお辞儀じぎをする処を見ると非常に丁寧であるらしいが、婦人に対する礼譲に至っては、我々はいまだ一度も見ていない。一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。多くの町村では、道路に添うて井戸がある。この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みに来た三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼等が飲み終る迄、辛棒強く横に立っていた。我々は勿論彼等がこの婦人のために一バケツ水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それ所か礼の一言さえも云わなかった。
店に入る――と云った処で、多くの場合には単に敷居をまたいで再び大地を踏むことに止るが――時、男も女もはき物を残す。前に出した写生図でも判る通り、足袋たびは、拇指が他の四本の指と離れた手套てぶくろに似ているので、下駄なり草履なりを脱ぐのが、実に容易に行われる。あたり前の家の断面図を第9図で示す。店なり住宅なりの後方にある土地は、如何に狭くても、何かの形の庭に使用されるのである。

ある階級に属する男たちが、馬や牡牛の代りに、重い荷物を一杯積んだ二輪車を引っぱったり押したりするのを見る人は、彼等の痛々しい忍耐に同情の念を禁じ得ぬ(図10)。彼等は力を入れる時、短い音を連続的に発するが、調子が高いので可成り遠くの方まで聞える。繰り返して云うことはホイダ ホイ! ホイ サカ ホイ! と聞える。顔を流れる汗の玉や、口からたれる涎よだれは、彼等が如何に労苦しているかの証拠である。またベットー即ち走丁フットマン(めったに馬に乗ることをゆるされぬ彼は、文字通りの走丁である。)の仕事は、人が多勢歩いている往来を、馬車に先立って走り、路をあけることである。かくの如くにして人間が馬と同じ速さで走り、これを何マイルも何マイルも継続する。かかるベットーは黒い衣服に、丸くて黒い鉢のような形のものをかぶり、長い袖をぺらぺらと後にひるがえす。見る者は黒い悪魔を連想する。

いたる所に広々とした稲の田がある。これは田をつくることのみならず、毎年稲を植える時、どれ程多くの労力が費されるかを物語っている。田は細い堤によって、不規則な形の地区に分たれ、この堤は同時に各地区への通路になる。地区のあるものには地面を耕す人があり(図11)他では桶から液体の肥料をまいており、更に他の場所では移植が行われつつある。草の芽のように小さい稲の草は、一々人の手によって植えられねばならぬので、これは如何にも信じ難い仕事みたいであるが而も一家族をあげてことごとく、老婆も子供も一緒になってやるのである。小さい子供達は赤坊を背中に負って見物人として田の畔にいるらしく見える。この、子供を背負うということは、至る処で見られる。婦人が五人いれば四人まで、子供が六人いれば五人までが、必ず赤坊を背負っていることは誠に著しく目につく。時としては、背負う者が両手を後に廻して赤坊を支え、又ある時には赤坊が両足を前につき出して馬に乗るような格好をしている。赤坊が泣き叫ぶのを聞くことは、めったになく、又私はいま迄の所、お母さんが赤坊に対して疳癪かんしゃくを起しているのを一度も見ていない。私は世界中に日本ほど赤坊のために尽す国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界中にないと確信する。かつて一人のお母さんが鋭い剃刀かみそりで赤坊の頭を剃っていたのを見たことがある。赤坊は泣き叫んでいたが、それにも拘らず、まったく静かに立っていた。私はこの行為を我国のある種の長屋区域で見られる所のものと、何度も何度もくりかえして対照した。

私は野原や森林に、我国にあるのと全く同じ植物のあるのに気がついた。同時にまるで似ていないのもある。棕櫚しゅろ、竹、その他明らかに亜熱帯性のものもある。小さな谷間の奥ではフランスの陸戦兵の一隊が、意気な帽子に派手な藍色に白の飾をつけた制服を着て、つるべ撃ちに射撃の練習をしていた。私は生れて初めて茶の栽培を見た。どこを見ても興味のある新しい物象が私の目に入った。
はじめて東京――東の首府という意味である――に行った時、我々は横浜を、例の魅力に富んだ人力車で横断した。東京は人口百万に近い都会である。古い名前を江戸といったので、以前からそこにいる外国人達はいまだに江戸と呼んでいる。我々を東京へ運んで行った列車は、一等、二等、三等から成り立っていたが、我々は二等が充分清潔で且つ楽であることを発見した。車は英国の車と米国の車と米国の鉄道馬車との三つを一緒にしたものである。連結機と車台とバンター・ビームは英国風、車室の両端にある昇降台と扉とは米国風、そして座席が車と直角に着いている所は米国の鉄道馬車みたいなのである。我々は非常な興味を以てあたりの景色を眺めた。鉄路の両側に何マイルも何マイルもひろがる稲の田は、今や(六月)水に被われていて、そこに働く人達は膝のあたり迄泥に入っている。淡緑色の新しい稲は、濃い色の木立に生々した対照をなしている。百姓家は恐ろしく大きな草葺ぶきの屋根を持っていて、その脊梁には鳶尾とんびに似た葉の植物が生えている。時々我々はお寺か社を見た。いずれもあたりに木をめぐらした、気持のいい、絵のような場所に建ててある。これ等すべての景色は物珍しく、かつ心を奪うようなので、十七マイルの汽車の旅が、一瞬間に終って了った。
我々は東京に着いた。汽車が停ると人々はセメントの道に下りた。木製の下駄や草履が立てる音は、どこかしら馬が沢山橋を渡る時の音に似ている――このカラコロいう音には、不思議に響き渡る、どっちかというと音楽的な震動が混っている。我々の人力車には、肩に繩をつけた男が一人余計に加った――何のことはない、タンデム・ティーム〔竪に二頭馬を並べた馬車〕である――そして我々はいい勢で走り出した。横浜が興味深かったとすれば、この大都会の狭い路や生活の有様は、更に更に興味が深い。人力車は速く走る、一軒一軒の家をのぞき込む、異様な人々と行き違う――僧侶や紳士や派手に装った婦人や学生や小学校の子供や、その殆ど全部が帽子をかぶっていず、みんな黒い頭の毛をしていて、下層社会の人々の、全部とはいわぬが、ある者どもは腰のまわりに寛衣かんいの一種をまとった丈である――これは全く私を混乱させるに充分であった。私の頭はいろいろな光景や新奇さで、いい加減ごちゃごちゃになった。
かなり広い焼跡を通過した時、私は今までこんなに人が働くのを見たことがないと思った位、盛な活動が行われつつあった。そこには、小さな、一階建ての住宅や、吹けば飛ぶような店舗と、それから背の高い、堂々たる二階建ての防火建築との、二つの形式の建物が建てられつつあった。大きな防火建築をつくるに当っては、先ず足場を組み立て、次にむしろで被覆するのであるが、これはふんだんに使用する壁土が、早く乾き過ぎぬ為にするのである。かかる建物には、重い瓦の屋根が使用される。これは地震の際大いに安全だとされている。即ち屋根の惰性は、よしんば建物は揺れても、屋根は動かぬようになっているのである。一本の杖を指一本の上に立てようとすると困難である。だが、若し重い本を、この杖の上に結びつけることが出来れば、それを支えることは容易になるし、本をすこしも動かすことなしに、手を素速く数インチ前後に動かすことも出来る。〔蔵を建てるには〕先ず丈夫な骨組みが出来、その梁はりの間に籠細工のように竹が編み込まれ、この網の両側から壁土が塗られる。
建物が先ず板張りされる場合には、四角い瓦が、時としては筋違いに、時としては水平に置かれ、その後合せ目を白い壁土で塗りつぶすのであるが、これが中々手際よく、美しく見えるものである(図12)。商売人たちは毎年一定の金額を建築費として貯金する習慣を持っている。これは、どうかすると広い区域を全滅させる大火を予想してのことなのであるが、我々が通りつつあった区域は、長い間、このような災難にあわなかったので、こうして貯えた金がかなりな額に達した結果、他に比較して余程上等な建物を建てることが出来た。

古風な、美しい橋を渡り、お城の堀に沿うて走る内に、間もなく我々はドクタア・デーヴィッド・マレーの事務所に着いた。優雅な傾斜を持つ高さ二十フィート、あるいはそれ以上の石垣に接するこの堀は、小さな川のように見えた。石垣は広い区域を取りかこんでいる。堀の水は十五マイルも遠くから来ているが、全工事の堅牢さと規模の大きさとは、大したものである。我々はテーブルと椅子若干とが置かれた低い建物に入って行って、文部省の督学官、ドクタア・デーヴィッド・マレーの来るのを待った。テーブルの上には、煙草を吸う人の為の、火を入れた土器が箱に入っている物が置いてあった。間もなく召使いがお盆にお茶碗数個をのせて持って来たが、部屋を入る時、頭が床にさわる位深くお辞儀をした。
大学の外人教授は西洋風の家に住んでいる。これ等の家の多くは所々に出入口のある、高い塀にかこまれた広い構えの中に建っている。出入口のある物は締めたっきりであり、他の物は夜になると必ず締められる。東京市中には、このような場所があちこちにあり、ヤシキと呼ばれている。封建時代には殿様たち、即ち各地の大名たちが、一年の中の数ヶ月を、江戸に住むことを強請された。で、殿様たちは、時として数千に達する程の家来や工匠や召使いを連れてやって来たものである。我々が行きつつある屋敷は、封建時代に加賀の大名が持っていたもので、加賀屋敷と呼ばれていた。市内にある他の屋敷も、大名の領地の名で呼ばれる。かかる構えに関する詳細は、日本に就いて書かれた信頼すべき書類によってこれを知られ度い。大名のある者は大なる富、陸地を遙々はるばると江戸へ来る行列の壮麗、この儀式的隊伍が示した堂々たる威風……これ等は封建時代に於る最も印象的な事柄の中に数えることが出来る。加賀の大名は家来を一万人連れて来た。薩摩の大名は江戸に来るため家来と共に、五百マイル以上の旅行をした。これ等に要する費用は莫大なものであった。
現在の加賀屋敷は、立木と藪やぶと、こんがらかった灌木との野生地であり、数百羽の烏が鳴き騒ぎ、あちらこちらに古井戸がある。ふたのしてない井戸もあるので、すこぶる危い。烏は我国の鳩のように馴れていて、ごみさらいの役をつとめる。彼等は鉄道線路に沿った木柵にとまって、列車がゴーッと通過するとカーと鳴き、朝は窓の外で鳴いて人の目をさまさせる。
我々は外山教授と一緒に帝国大学を訪れた。日本服を着た学生が、グレーの植物学を学び、化学実験室で仕事をし、物理の実験をやり、英語の教科書を使用しているのを見ては、一寸妙な気持がせざるを得なかった。この大学には英語を勉強するための予備校が付属しているので、大学に入る学生は一人のこらず英語を了解していなくてはならない。私は文部卿に面会した。立派な顔をした日本人で、英語は一言も判らない。若い非常に学者らしい顔をした人が、通訳としてついて来た。この会見は、気持はよかったが、恐ろしく形式的だったので、私にはこのように通訳を通じて話をすることが、いささか気になった。日本語の上品な会話は、聞いていて誠に気持がよい。ドクタア・マレーも同席されたが、会話が終って別れた時、私が非常にいい印象を与えたといわれた。私はノート無しに講義することに馴れているが、この習慣がこの際、幸にも役に立ったのである。私は最大の注意を払って言葉を選びながら、この国が示しつつある進歩に就いて文部卿をほめた。
昼過ぎにはウィルソン教授(我々は同教授と昼飯を共にした)が私を相撲見物に連れて行ってくれた。周囲の光景がすでに面白い。小さな茶屋、高さ十フィートばかりの青銅の神様若干、それから例の如き日本人の群集。我々は切符を買った。長さ七インチ、幅二インチ半、厚さ半インチの木片で漢字がいくつか印刷してある。興行場は棒を立て、たるきを横に渡した場所に、天井に蓆むしろを使用し、壁もまた蓆で出来ていた。粗末な桟敷さじき、というよりも寧ろ桟敷二列がこの建物の周囲をめぐっているのだが、これもまた原始的なものであった。その中心に柱が四本立っていて、その間は高くなっており、直径二十フィートもあろうかと思われる円場どひょうが上に赤い布の天蓋を持って乗っている(図13)。柱の一本ずつに老人が一人ずつ坐っているのは、何か審判官みたいなものであるらしい。また厳格な顔をして、派手な着物を着た男がアムパイアの役をする。巨大な、肥えた相撲取りが円場にあらわれ、脚をふんばり、まるで試験をするように両脚を上下したり、力いっぱいひっぱたいたりした後、さて用意が出来ると顔つき合わせて数分間うずくまり、お互に相手の筋肉を検査する(彼等は犢鼻褌をしている丈である)有様は、まことに物珍しく且つ面白い観物であった。いよいよ準備が出来ると二人は両手を土につけ、そこで突然飛びかかる。円場から相手を押し出すか投げ出すかするというのが仕業なんである。この闘争が非常に短いこともあり、また活発で偉大なる力を見せたこともある。時としては単に円場から押し出され、時としては恐ろしい勢で投げつけられる。ある相撲取りは円場から投り出されて、頭と肩とで地面に落ちた。立ち上ったのを見るとそこをすりむいて血が流れていた。私がふり向いて見物人を見ることが出来るように、我々は円場にごく接近して坐った。場内は※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)ほぞ穴を持つ横木で、六フィート四方位の場所にしきられている。これがボックスなので、そのしきりの内の場所は全部あなたのものである。見物人のある者は筆を用意して来て、相撲の有様を書きとめていた。また炭火の入った道具と小さな急須とを持っていて、時々小さな茶碗に茶を注いで飲む見物人もあった。日本人たちが不思議そうに、ウィルソン教授の八つになる男の子を眺めるのを見ることは、私にとっては、他のいずれの事物とも同じ位興味があった。この可愛らしい子供は、相撲がよく見えるように、例のかこいの一方に腰をかけていた。見物人が全部膝を折って坐っているのにハリイだけが高い所にいるのだから、彼等は一人のこらず彼を眺めることが出来た。彼の色の濃い捲毛と青い目とは、まだ外国人が珍しい東京にあっては、まっかな目玉と青い頭髪が我々に珍しいであろう程度に、不思議なものなのである。所で、この色の白い、かよわそうに見える子供は、日本語を英語と同じようによく話す。彼がお父さんのために後をむいて、演技のある箇所を質問し、そしてそれを英語で我々に語った時の日本人たちの驚きは非常なものであった。彼が自分たちの言葉を話すと知った日本人たちのうれしそうな顔は、まことに魅力に充ちたものであった。私は相撲を見ている間に、何度も何度も、彼等の感嘆した顔が見たいばかりに、ハリイをして日本人にいろいろな質問を発せしめた。相撲取りたちは非常に大きくて、力が強かった。ある者は実に巨大であった。彼等は実際よく肥っている。だが彼等は敏捷さよりも獣的の力をより多く示すように思われた。幾度か彼等は取組み合うと、アムパイアが何か正しからぬことを見つけて彼等を止める。すると彼等は四本柱の一つに当る一隅に行く、そこで助手が飲水を手渡すと、彼等はそれを身体や両腕に吹きかけ、さて砂を一つかみ取って腋の下にこすりつけてから、円場の真中に来てうずくまる。正しく開始する迄に、同じことを六遍も八遍もやる。時に彼等はこのような具合(図14)になり、一人が「オーシ」というと一人が「オーショ」といい、これを何度もくりかえす。だが、その間にも相撲取りたちは各々自分の地位を保持するために、力いっぱいの努力を続けているのである。最後にアムパイアが何かいうと、二人は争いをやめて円場の外に出る。この勝負は明かに引き分けとなったらしい。巡査がいないのにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。上機嫌で丁寧である。悪臭や、ムッとするような香が全然しない……これ等のことが私に印象を残した。そして演技が終って見物人が続々と出て来たのを見ると、押し合いへし合いするものもなければ、高声で喋舌しゃべる者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。

ここを立ち去る時、私の友人は人力車を呼んで、日本語で車夫に私の行先きを話した。彼は先約があるので、私を停車場につれて行く訳に行かなかったのである。かくて私は三十分間、この大きな都会の狭い町並を旅していた。その間に欧米人には一人も行き会わず、また、勿論、私が正しい所へ行きつつあるのか、間違った方向へ行きつつあるのか、まるで見当がつかなかった。
汽車に乗って東京を出ると、すぐに江戸湾の水の上に、海岸と並行して同じような形の小さい低い島が五つ一列にならんでいるのが見える。これ等の島が設堡されているのだと知っても、別に吃驚びっくりすることはないが、只どんなに奇妙な岩層か、あるいは侵蝕かが、こんな風に不思議な程対称的な島をつくる原因になったのだろうということに、驚きを感じる。そこで説明を聞くと、これ等の島は人間がつくったもので、而もそのすべてが五ヶ月以内に出来上ったとのことである。ペリー提督が最初日本を去る時、五ヶ月の内にまた来るといいのこした。そこでその期限内に日本の人達は、単にこれ等五つの島を海の底から築き上げたばかりでなく、それに設堡工事をし、更にある島には大砲を備えつけた。かかる仕事に要した信じ難い程の勤労と、労働者や船舶の数は、我々に古代のエジプト人が行った手段となしとげた事業とを思わせる。只日本人は、古代の人々が何年かかかってやっとやり上げたことを、何日間かでやって了ったのである。これ等の島は四、五百フィート平方で約千フィート位ずつ離れているらしく見える。東京の公園で我々は氷河の作用を受けたに違いないと思う転石を見たが、あとで聞くと、それは何百マイルもの北の方から、和船ではこばれた石であるとのことであった。
我々は散歩をしていて時々我国の墓地によく似た墓地を見た。勿論墓石の形は異っている。我国で見るような、長くて細い塚は見当らず、また石屋の芸術品である所の見栄みえを張った、差出がましい代物しろものが無いので大いに気持がいい。日本人はいろいろな点で訳の分った衛生的な特色を持っているが、火葬の習慣もその一である。死体の何割位を火葬にするのか私は知らないが、兎に角多い。
夜中に時々、規則的なリズムを持つ奇妙なカチンカチンという音を聞くことがある。これは私設夜警が立てる音で、時間をきめて一定の場所を巡回し、その土地の持主に誰かが番をしつつあることを知らせるために、カチン カチンやるのである。
また昼夜を問わず、疳かん高い、哀れっぽい調子の笛を聞くことがある。この音は盲目の男女が彼等の職業であるところの按摩あんまを広告して歩くものである。このような按摩は、呼び込まれると三十分以上にもわたって、たたいたり、つねったり、こすったり、撲ったりする。その結果、それが済むと、按摩をして貰った人が、まるで生れ更ったかのように感じるような方法でこれを行うのだが、この愉快さを味って、而もたった四セント払えばいいのである! この帝国には、こうやって生活している盲人が何千、何万とある。彼等は正規の学校に通って、マッサージの適当な方法を学ぶ。これ等不幸な人達は疱瘡ほうそうで盲目になったのであるが、国民のコンモンセンスが種痘の功徳を知り、そして即座にそれを採用したので、このいやな病気は永久に日本から消え去った。我々は我国にいて、数字や統計の価値を了解すべく余りに愚鈍である結果、種痘という有難い方法を拒む、本当とは思えぬ程の莫迦者共のことを、思わずにはいられなかった。このような人達は適者生存の法理によって、いずれは疱瘡のために死に絶え、かくて民族は進歩の途をたどる。「私は盲です」という札を胸にかけている乞食は一人もいない――第一乞食がいないのである。それから、食物その他を売って歩く行商人の呼び声は、極めて風変りなので、ただちに人の注意を引き、その声を聞くために後をついて行くことさえある。花売りの呼び声は、死に瀕した牝鶏の鳴き声そのままである。
店で売る品物を陳列する方法は多く簡単で且つ面白い。一例として、団扇うちわ屋は節と節との間に穴をあけた長い竹を団扇かけとして使用する。穴に団扇をさし込むのである。台所でも同じような物に木製の匙さじや箆へらや串等をさし込む(図15)。

人力車に乗って町を行くと、単純な物品の限りなき変化に気がつく。それで、ちょっと乗った丈でも、しょっ中油断なくしていられ、興味深く、また面白がっていられる。二階のある家でいうならば、二階の手摺だけでも格子や彫刻や木材に自然が痕をとどめた物の数百の変種を見せている。ある手摺は不規則な穴のあいた、でこぼこな板で出来ていた(図16)。このような粗末な、見っともない板は、薪にしかならぬと思う人もあるであろう。然し日本人は例えば不規則な樹幹の外側をきり取つた板、それはきのこのためによごれていて、またきのこが押しつけた跡が穴になっている物のような、「自然」のきまぐれによる自然的な結果をたのしむのである。

大分人力車に乗ったので、乗っている時には全く静かにしていなくてはならぬことを知った。車を引く車夫は梶棒をかなり高く、丁度バランスする程度に押えている。だから乗っている人が突然前に動くと――例えばお辞儀をする――車夫は膝をつきお客は彼の頭上を越して前に墜ちる。反対に、友人が通り過ぎたのに気がついて、頭と身体とをくるりと後に向け同時に後方に身体をかしげると、先ずたいていは人力車があおむけにひっくりかえり、乗っている人は静かに往来に投げ落される。車夫は恐懼きょうくして頭を何度も下げては「ゴメンナサイ」といい、群衆は大いによろこぶ。
日本人の持っている装飾衝動は止るところを知らぬ。赤坊の頭でさえこの衝動からまぬかれぬ。両耳の上の一房、前頭部の半月形、頭のてっぺんの円形、後頭部の小さな尻尾――赤坊の頭を剃るにしても、こんな風に巧に毛を残すのである。
日本では我国と違って馬に蹄鉄を打たない。馬や牛が藁でつくった靴をはいているのは、すこぶる観物である。これは厚い、編んだ底を持っていて、ひづめの後に結びつけられる。往来にはこんな靴が棄ててある。四足の労役獣のばかりでなく二本足のも……。
第17図は子供を背中に負う一つの方法を示している。お母さんは背後に両手を廻し、そして赤坊の玩具を手に持っている。

東京の死亡率が、ボストンのそれよりもすくないということを知って驚いた私は、この国の保健状態に就いて、多少の研究をした。それによると赤痢及び小児霍乱コレラは全く無く、マラリヤによる熱病はその例を見るが多くはない。リューマチ性の疾患は外国人がこの国に数年間いると起る。然し我国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は、日本には無いか、あっても非常に稀であるらしい。これは、すべての排出物資が都市から人の手によって運び出され、そして彼等の農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかも知れない。我国では、この下水が自由に入江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す。そして腐敗と汚物とから生ずる鼻持ちならぬ臭気は、公衆の鼻を襲い、すべての人を酷い目にあわす。日本ではこれを大切に保存し、そして土壌を富ます役に立てる。東京のように大きな都会で、この労役が数百人の、それぞれ定った道筋を持つ人々によって遂行されているとは信用出来ぬような気がする。桶は担い棒の両端につるし下げるのであるが、一杯になった桶の重さには、巨人も骨を折るであろう。多くの場合、これは何マイルも離れた田舎へ運ばれ、蓋のない、半分に切った油樽みたいなものに入れられて暫く放置された後で、長柄の木製柄杓ひしゃくで水田に撒布される。土壌を富ます為には上述の物質以外になお函館から非常に多くの魚肥が持って来られる。元来土地が主として火山性で生産的要素に富んでいないから、肥料を与えねば駄目なのである。日本には「新しい田からはすこししか収穫が無い」という諺がある。
この国の人々は頭に何もかぶらず、殊に男は頭のてっぺんを剃って、赫々かくかくたる太陽の下に出ながら、日射病が無いというのは面白い事実である。我国では不節度な生活が日射病を誘起するものと思われているが、この国の人々は飲食の習慣に於て節度を守っている。
街路や小さな横丁等は概して撒水がよく行われている。路の両側に住む人々が大きな竹の柄杓で打水をしているのを見る。東京では水を入れた深い桶を担い棒でかついだ男が町を歩きまわる。桶の底の穴をふさぐ栓をぬくと、水がひろがって、迸ほとばしり出る。一方男はなるべく広い面積にわたって水を撒こうと、殆ど走らんばかりにして行く(図18)。水を運ぶバケツは、イーストレークがその趣味と実益とを大いに賞讃するであろうと思われる程、合理的で且つ簡単に出来ている。桶板の二枚が桶そのものの殆ど二倍の高さを持って辺の上まで続き、その一枚から他へ渡した横木がハンドルを形づくっている(図19)。

固い木でつくった担い棒は日本、支那、朝鮮を通じて、いたる所でこれを見る。棒の両端に大きなざるを二つ下げている人が、一つには一匹の大魚を、他にはそれとバランスをとるために数個の重い石を入れていることがある! これは精力の浪費だと思う人もあろう。飲用水を入れた深い桶をこのような担い棒にぶら下げたのを見ることもある。桶の中にはその直径に近い位の丸い木片が浮んでいる。この簡単な装置は水がゆれてこぼれるのを防ぐ。また桶板三枚が僅かに下に出て桶を地面から離す脚の役をつとめる、低い、浅い桶もある。この容器には塩水を満し、生きた魚を売って廻る。構造の簡単と物品の丈夫さと耐久力――すくなくとも日本人がそれを取扱う場合――とは、注意に値する。
この国に来た外国人が先ず気づくことの一つに、いろいろなことをやるのに日本人と我々とが逆であるという事実がある。このことは既に何千回となく物語られているが、私もまた一言せざるを得ない。日本人は鉋かんなで削ったり鋸で引いたりするのに、我々のように向うへ押さず手前に引く。本は我々が最終のページとも称すべき所から始め、そして右上の隅から下に読む。我々の本の最後のページは日本人の本の第一頁である。彼等の船の帆柱は船尾に近く、船夫は横から艪をこぐ。正餐の順序でいうと、糖果や生菓子が第一に出る。冷水を飲まず湯を飲む。馬を厩に入れるのに尻から先に入れる。
「茶を火にかける」建物は百尺に百五十尺、長く低い竈かまどの列(竈というよりも大きな釜が煉瓦に取りかこまれ下に火を入れる口がある)があって、中々面白い場所である。これ等の釜の列が広々とした床――それは土間である――を覆っている(図20)。釜は錫すずか亜鉛に似た合金で出来ていて、火は日本を通じての燃料である所の木炭によって熱を保つ。釜二個に対して人――男、女、娘――一人がつく。彼の任務は茶の葉を焦げぬように手でかきまわすことである。時として横浜の空気がこの植物の繊美な香で充満するということを聞くと、火を入れるために茶が香気を失うのではあるまいかと想像する人もあろう。ここの暑さは息づまるばかりであった。男は犢鼻褌一つ、年取った女の多くは両肌ぬぎ。どの人も茶道具を持っていた。小さなパイプを吸っている者も多かった。大小いろいろな嬰児こども達が、あるいは寵の列の間を走り廻り、又は煉瓦を組んだ上に坐っていた。母親の背中にいるのもある。子供達は殆ど如何なる職業にも商売にも、両親より大きな子供に背負われてか、あるいは手を引かれるかして、付き物になっている。日本人があらゆる手芸を極めて容易に覚え込みそして器用にやるのは、いろいろな仕事をする時にきっと子供を連れて行っているからだ、つまり子供の時から見覚えているからだ、と信じても、大して不合理ではないように思われる。

輸出向きの茶は、空気が入らぬようにハンダで密封する板鉛の箱に納めるにさき立って、先ず完全に乾燥しなくてはならぬ。すこしでも湿気があると黴かびが生えて品質が悪くなる。内地用の茶は僅かに火を入れる丈であるから、香気を失うことがすくない。その結果最初の煎じ出しに対しては微温湯ぬるまゆさえあればいいので、この点我国の「湯は煮たぎっているに非ざれば……」云々なる周知の金科玉条とは大部違う。
日本で出喰わす愉快な経験の数と新奇さとにはジャーナリストも汗をかく。劇場はかかる新奇の一つであった。友人数名と共に劇場に向けて出発するということが、すでに素晴しく景気のいい感を与えた。人通りの多い町を一列縦隊で勢よく人力車を走らせると、一秒ごとに新しい光景に、新しい物音、新しい香い(この最後は必ずしも常に気持よいものであるとはいえぬ)に接する……これは忘れることの出来ぬ経験である。間もなく我々は劇場に来る。我々にとっては何が何やらまるで見当もつかぬような支那文字をべったり書いた細長い布や、派手な色の提灯ちょうちんや、怪奇な招牌かんばんの混合で装飾された変てこりんな建物が劇場なのである。内に入ると我々は両側に三階の桟敷を持った薄暗い、大きな、粗末な広間とでもいうような所に来る。劇場というよりも巨大な納屋といった感じである。床は枠によって六百フィート平方、深さ一フィート以上の場所に、仕切られているが、これ等の箱が即ち桝ますで、その一つに家族一同が入って了うという次第なのである(図21)。日本人は脚を身体の下に曲げて坐る。トルコ人みたいに脚を組み合わせはしない。椅子も腰かけもベンチも無い。芝居を見るのも面白かったが、観客を見るのも同様に面白く――すくなくとも、物珍しかった。家中で来ている人がある。母親は赤坊に乳房をふくませ、子供達は芝居を見ずに眠り、つき物の火鉢の上ではお茶に使う湯があたためられ、老人は煙草を吸い、そしてすべての人が静かで上品で礼儀正しい。二つの通廊は箱の上の高さと同じ高さの床で、人々はここを歩き、次に幅五インチ位の箱の縁を歩いて自分の席へ行く。

舞台は低く、その一方にあるオーケストラは黒塗りの衝立によって、観客からかくしてある。舞台の中央には床と同高度の、直径二十五フィートという巨大な回転盤がある。場面が変る時には幕を下さず、俳優その他一切合財を乗せたままで回転盤が徐々に回転し、道具方が忙しく仕立てつつあった新しい場面を見せると共に今迄使っていた場面を見えなくする。観客が劇を受け入れる有様は興味深かった。彼等は、たしかに、サンフランシスコの支那劇場で支那人の観客が示したより以上の感情と興奮を見せた。ここで私は※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)句的につけ加えるが、上海に於る支那劇場は、サンフランシスコのそれとすこしも異っていなかった。サンフランシスコの舞台で、大きな、丸いコネティカット出来の柱時計が、時を刻んでいた丈が相違点であった。
劇は古代のある古典劇を演出したものとのことであった。言語は我々の為に通訳してくれた日本人にとってもむずかしく、彼は時々ある語句を捕え得るのみであった。数世紀前のスタイルの服装をした俳優――大小の刀をさしたサムライ――を見ては、興味津々たるものがあった。酔っぱらった場面は、大いに酔った勢を発揮して演出された。剥製の猫が長い竿のさきにぶらさがって出て来て手紙を盗んだ。揚幕から出て来た数人の俳優が、舞台でおきまりの大股ろっぽうを踏んで大威張りで高めた通廊を歩く。その中で最も立派な役者は、子供が持つ長い竿の先端についた蝋燭の光で顔を照らされる。この子供も役者と一緒に動き廻り、役者がどっちを向こうが、必ず蝋燭を彼の顔の前にさし出すのである(図22)。子供は黒い衣服を着て、あとびっしゃりをして歩いた。彼は見えないことになっている。まったく、観客の想像力では見えないのであるが、我々としては、彼は俳優たちとすこしも違わぬ程度に顕著なものであった。脚光が五個、ステッキのように突っ立った高さ三フィートのガス管で、目隠しもないが、これが極最新の設備なので、こんな風なむき出しのガス口が出来る迄は、俳優一人について子供一人が蝋燭をもって顔を照らしたものである。後見は我国に於るそれと異り、隠れていないで、舞台の上を故ことさらに歩き廻り、かわり番に各俳優の後に来て(私のテーブルはたった今地震で揺れた。一八七七年六月二十五日、――また震動があった。またあった)隠れているかのように蹲うずくまり、そして明瞭に聞える程の大声で助言する。図23は舞台の大略をスケッチしたものである。舞台の上には下げ幕として、鮮かな色の紙片を沢山つけた硬い繩がかたまって下っている。オーケストラは間断なく仕事した――日本のバンジョウを怠けたような、ぼんやりしたような調子で掻き鳴すのに持ってって、時々笛が疳高く鳴る。音楽は支那の劇場に於るが如く勢よくもなく、また声高でもなかった。過去に於る婦人の僕婢的服従は、女を演出する俳優(我々は男、あるいは少年が、女の役をやるのだと教わった)が、常に蹲るような態度をとることに依て知られた。幕間には大きな幕が舞台を横切って引かれる。その幕の上には、ある種の扇子の絵のような怪奇さを全部備えた、最も巨大な模様が目も覚めるような色彩であらわしてある。すべての細部にわたって劇場は新奇であった。こんな短い記述では、その極めて薄弱な感じしか出せない。

旧式なニューイングランドの習慣で育てられた者にとって、日曜日は面白い日であった。あらゆる種類の商売や職業が盛んに行われつつある。港の船舶は平日通りに忙しく、ホテルの向いの例の杙打機械は一生懸命働き、往来には掃除夫や撒水夫がいるし、内国人の店はすべて開いている。私の見た範囲では、日曜を安息日とする例は、薬にしたくもない。この日の午後、私は上野公園の帝室博物館を訪れるために東京へ行った。公園の人夫たちは忙しく働いている。博物館の鎧戸よろいどは下りていたが、裸の大工が二十人(いずれも腰のまわりに布をまいている)テーブルや陳列箱の細工をしていた。
博物館には完全に驚かされた。立派に標本にした鳥類の蒐集、内国産甲殻類の美しい陳列箱、アルコール漬の大きな蒐集、その他動物各類がならべてある。そして面白いことに、標示札がいずれも日本語で書いてある。教育に関する進歩並に外国の教育方針を採用している程度は、まったくめまぐるしい位である。
東京の町々を通っていて私はいろいろな新しいことを観察した。殆どすべての家の屋梁むねの上に足場があり、そこには短い階段がかかっている。ここに登ると大火事の経過がよく判る。まったくこの都会に於る火事は、その速さも範囲も恐る可きものが屡々しばしばある。人の住いはたいてい一階か二階建ての、軽い、見た所如何にも薄っぺらなものであるが、然し、かかる住宅の裏か横かには、厚さ二フィート、あるいはそれ以上の粘土か泥の壁を持つ防火建築がある。扉や僅かな窓の戸も、同じ材料で出来ていて非常に厚く、そして三つ四つの分離した鋸歯がついている点は、我国の金庫の扉と全く同じようである。家と家とは近接していはするが、一軒一軒離れている。大火事が近づいて危険になって来ると、この防火建築の重い窓の戸や扉を閉じ、隙き間や孔を粘土でふさぐ。その前に蝋燭数本を床の安全な場所に立ててそれに点火するのは、かくて徐々に酸素を無くし引火の危険を減ずるためである。日本人は燃焼の化学を全然知らぬものとされているが、実際に於ては彼等はその原論を理解し、且つ私の知る限り、他の国ではどこでもやっていないのに、その原論を実地に応用しているではないか。このような建物は godown と呼ばれる。これはインド語である。日本では「クラ」という。商人や家婦が大急ぎで荷物をかかる倉庫に納め、近所の人達もこのような保護を利用する。大火事の跡に行って見ると、この黒い建物が、我国の焼跡に於る煙突のような格好で立っている。焼け落ちた蔵を見ると、我国で所謂耐火金庫のある物で経験することを思い出す。
日本及び他の東洋の国々を訪れる者が非常に早く気づくことは、殆ど一般的といってもよい位、ありとあらゆる物品に竹を使用していることである。河に沿って大きな竹置場がいくつもあり、巨大な束にまとめられた竹が立っている。竹製品の一覧表を見ることが出来たらば、西洋人はたしかに一驚を喫するであろう。私は道路修繕の手車から、小さな石ころが粗末な竹の耨ホーでかき出されるのを見た。一本の竹の一端を八つに裂いてそれを箒のようにひろげると、便利な、箒に似た熊手レークが出来る。これは一本で箒ブルーム、熊手レーク、叉把ピッチ・フォークの役をする。
不思議な有様の町を歩いていて、アメリカ製のミシンがカチカチいっているのを聞くと妙な気がする。日本人がいろいろな新しい考案を素速く採用するやり口を見ると、この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような保守主義に、縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。
大学を出て来た時、私は人力車夫が四人いる所に歩みよった。私は、米国の辻馬車屋がするように、彼等もまた揃って私の方に馳けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異った麦藁を四本ひろい、そして籤くじを抽ひくのであった。運のいい一人が私をのせて停車場へ行くようになっても、他の三人は何等いやな感情を示さなかった。汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車の轂こしきにぶつかった。車夫たちはお互に邪魔したことを微笑で詫び合った丈で走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起る罵詈雑言ばりぞうごんとを比較した。何度となく人力車に乗っている間に、私は車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気がついた。また今迄の所、動物に対して疳癪を起したり、虐待したりするのは見たことが無い。口小言をいう大人もいない。これは私一人の非常に限られた経験を――もっとも私は常に注意深く観察していたが――基礎として記すのではなく、この国に数年来住んでいる人々の証言に拠っているのである。
箸という物はナイフ、フォーク、及び匙の役をつとめる最も奇妙な代物である。どうしてもナイフを要するような食物は、すでに小さく切られて膳に出るし、ソップはお椀から直接に呑む。で、箸は食物の小片を摘むフォーク、及び口につけた茶椀から飯を口中に押し込むショベルとして使用される。この箸の思いつきが、他のいろいろな場合に使われているのを見ては、驚かざるを得ない。即ち鉄箸では火になった炭をつかみ、料理番は魚や菓子をひっくり返すのに箸を用い、宝石商は懐中時計のこまかい部分を組み立てるために繊細な象牙の箸を使用し、往来では紙屑拾いや掃除人が長さ三尺の箸で、襤褸ぼろや紙や其他を拾っては、背中に負った籠の中にそれを落し入れる。
往来を歩いていると、目立って乞食のいないことに気がつく。不具者のいないことも著しい。人力車の多いのには吃驚びっくりする! 東京に六万台あるそうである! これは信用出来ぬ程の数である。あるいは間違っているのかも知れぬ。
旅行中の国の地方的市場を訪れることは、博物学の興味ある勉強になる。世界漫遊者は二つの重大な場所を訪れることを忘れてはならぬ。その土地の市場と、ヨーロッパでは土地の美術館とである。市場に行くとその地方の博物を見ることが出来るが、特にヨーロッパでは固有の服装をした農民達を見ることが出来るばかりでなく、手製の箱、籠等も見られる。横浜の市場訪問は興味深い光景の連続であった。莚を屋根とし、通路の幾筋かを持つ広い場所には、私が生れて初めて見た程に沢山の生きた魚類がいた。いろいろ形の変った桶や皿や笊を見る丈でも面白かったが、それが鮮かな色の、奇妙な形をした、多種の生魚で充ちているのだから、この陳列はまさに無比ユニークであった。縁ふちよりも底の方が広い、一風変った平な籠は魚を入れるのに便利である。こんな形をしていれば、すべっこい魚とても容易に辷り出ないからである(図24)。いろいろな種スペシスの食用軟体動物(色どりを鮮かに且つ生々と見せるために、水のしぶきが吹きかけてある)を入れた浅い桶には、魅せられて了った。我国の蒐集家が稀貴なりとする標本が、笊の中にザラザラと入って陳列されている。男の子が双殻貝の小さな美しい一種をあけていたが、中味を取って貝殻は惜気もなく投り出して了う。浅い桶に、我国の博物館では珍しいものとされている最も非凡な形をした大小のクルマエビや、怪異な形状で、奇妙な姿のカニが、ここにはいくつとなくある。大きな牡蠣かきに似た生物が一方の殻をはがれて曝されているが、心臓が鼓動しているのはそれが新鮮で生きている証拠である。真珠を産する貝 Haliotis カリフォルニア沿岸では abalone といい、ここでは「アワビ」というものが、食品として売り物に出ている(図25)。浅い竹籠に三つずつ貝を入れたのを売っていたが、その貝殻には美しい海藻や管状の虫がついていて、さながら海の生物の完全な森林を示していた。私が最も珍しく思ったのは頭足類で、烏賊いかも章魚たこ(図26)もあり、中には大きいのもあったが、生きたのと、すぐ食えるように茹ゆでたのと両方あった。

これ等各種の生物はすべてある簡単な方法によって生かされている。即ち低い台の上にのせた大きな円い水槽に常に水を満たし、その水槽から所々に穴をあけた長い竹の管が出ていて、この穴から水がかなりの距離にまで噴出するのである。槽に入れる水は人が天秤棒てんびんぼうの両端に塩水を入れた重いバケツをぶら下げて、海と市場とを往復するのであるが、私はこのようにして数マイルも海岸を距った地点にある市場へ海水を運ぶ人を見たことがある。噴き出す水を受けるのは浅い桶で、それには生魚が入っている。このようにして新鮮な海水が魚に与えられるばかりでなく、その水は同時に空気を混合される(図27)。食料として展観される魚の種類の数の多さには驚かざるを得ない。日本には養魚場が数箇あり。鮭は人工的に養魚される*。

* 合衆国漁業委員会最初の委員長ベアド教授の談によると、我国の近海にも日本の海に於ると同程度に沢山の可食魚類がいるのだが、我々が単に大量的に捕え得る魚のみを捕えるのに反して、日本の漁夫は捕った魚はすべて持ち帰り、そしてそれを市場で辛棒強くより分けるのである。
市場の野菜部は貧弱である。外国人が来る迄は極めて少数の野菜しか知られていなかったものらしい。ダイコンと呼ばれるラディッシの奇妙な一種は重要な食物である。それは長さ一フィート半、砂糖大根の形をしていて、色は緑がかった白色である。付合せ物として生で食うこともあるが、また醗酵させてザワクラウトに似たような物にする事もある。この後者たるや、私と一緒にいた友人の言をかりると、製革場にいる犬でさえも尻尾をまく程臭気が強い。往来を運搬しているのでさえも判る。そしてそれは屑ごみ運搬人とすれ違うのと同じ位不愉快である。トマトは非常に貧弱でひどく妙な格好をしているし、桃は小さく固く、未熟で緑色をしている。町の向う側で男の子が桃を噛る音が聞える位であるが、而も日本人はこの固い、緑色の状態にある桃を好むらしく思われる。梨はたった一種類しかないらしいが、まるくって甘味も香りもなく、外見と形が大きな、左右同形のラセットアップル〔朽葉色の冬林檎〕に似ているので、梨か林檎か見分けるのが困難であった。果実は甘さを失うらしく、玉蜀黍スイート・コーンは間もなく砂糖分を失うので数年ごとに新しくしなければならぬ。〔外国から苗種を輸入した植物のことであろう。玉蜀黍は数年ごとに直輸入の種子を蒔かぬと、甘さが減じて行くのであったろう。〕莢さや入りの豆は面白い形をした竹の筵に縫いつけられて売物に出ている(図28)。鶏卵は非常に小さい。我々が珍しいものとして保存するものを除いては、今迄に見たどの鶏卵よりも小さいのが、大きな箱一杯つまっている所は中々奇妙に思われた。

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入しても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また、今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚もって来た。この国の人々も所謂文明人としばらく交っていると盗みをすることがあるそうであるが、内地に入ると不正直というようなことは殆ど無く、条約港に於ても稀なことである。日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も閂かんぬきも戸鈕も――いや、錠をかける可き戸すらも無いことである。昼間は辷る衝立が彼等の持つ唯一のドアであるが、而もその構造たるや十歳の子供もこれを引き下し、あるいはそれに穴を明け得る程弱いのである。
ある茶店で私は始めて日本の国民的飲料である処のサケを味った。酒は米から醸造した飲料で、私の考ではラーガー・ビヤより強くはなく、我々が麦酒ビールに使用する半リッタア入りの杯マッグの代りに日本人は酒を小さな浅い磁器の盃から啜すする(図29は酒の盃実物大)。酒は常に熱くして飲むのである。私は冷たい儘をよりよしとなして数杯飲んだが一向に反応を感じなかった。確かにクラーレットよりも強くない程である。全体として私は酒をうまいものだと思った。私が今迄に味ったワインやリキュールのどれとも全く異っていて、ゼラニウムの葉を思わせるような香を持っている。今日までの所では、千鳥足の酔漢は一人も見ていない。もっとも夜中、時々歌を唄って歩く者に逢うが、これは飲み過ぎた徴候である。日本人はあまり酒をのまぬ民族と看做みなしてよかろう。日本人が物静かな落着いた人々である証拠に、彼等が指でコツコツやったり、口笛を吹いたり、手に持っている物をガタガタさせたり、その他我々がやるような神経的であることの表現をやらぬという事実がある。昨夜東京から帰りに私は狭い往来を口笛を吹きながら手で昆虫箱をコツコツ叩いて歩いた。すると人々はまるで完全な楽隊が進行でもしているかのように、明けはなした家から外を見るのであった。日本人は決して疳癪を起さないから、語勢を強める為に使用する間投詞を必要としない。「神かけて云々」というような起請オースはこの国には無い。非常に腹が立った時、彼等が使う最も酷い言葉は、莫迦と獣とを意味するに止る。而もジェントルマンはこのような言葉さえも口にしない。

有名なアメリカの医師で数年間日本で開業し、ここ二年間は東京医科大学に関係しているドクタア・エルドリッジは、彼自身が日本人を取扱ったことや、他の医師(中には十六年も、日本に滞在した人がある)の経験に就いて、私にいろいろなことを教えてくれた。日本の気候は著しくよいとされている。従来必ず流行した疱瘡は、政府が一般種痘のために力強い制度を布き、その目的のために痘苗製造所を持つに至って、今や制御し得るようになった。この事に於て、他の多くに於ると同様、日本人は西洋の国民よりも遙かに進歩している。猩紅熱しょうこうねつは殆ど無く、流行することは断じてない。ジフテリヤも極めて稀で、これも流行性にはならぬ。赤痢か慢性の下痢とかいうような重い腸の病気は非常にすくなく、肺結核は我国の中部地方に於るよりも多くはない。マラリア性の病気は重いものは稀で、軽い性質のものも多くの地方には稀である。急性の関節リューマチスは稀だが、筋肉リューマチスは非常に一般的である。腸窒扶斯チフス及び神経熱はめったに流行しない。殊に後者はすくない。再帰熱は時々見られる。皮膚病、特に伝染性のものは多い。話によると骨の傷害や挫折の治癒は非常に遅く、而も屡々不完全だそうである。米の持つ灰分は小麦の半分しか無く、おまけに水が骨に必要な無機物を充分に供給しないからである。
日本人の多くが美しい白い歯を見せる一方、悪い歯も見受ける。門歯が著しくつき出した人もいるが、この不格好は子供があまり遅くまで母乳を飲む習慣によるものとされる。即ち子供は六、七歳になるまでも乳を飲むので、その結果歯が前方に引き出されるのであると。日本人は既に外国の歯科医学を勉強しているが、彼等の特殊的な、そして繊細な機械的技能を以てしたら、間もなく巧みな歯科医が出来るであろう。日本は泰西科学のどの部門よりも医学に就いて最も堅実な進歩を遂げて来た。医学校や病院は既に立派に建てられている。外国から輸入されるすべての薬が純であるかどうか分析して調べるための化学試験所はすぐ建てられた。泰西医療術の採用が極めて迅速なので、皇漢法はもう亡びんとしている程である。宗教的信仰に次いで人々が最も頑固に固執するのは医術的信心であって、それが如何に荒唐無稽で莫迦げていても容易に心を変えぬ。支那の医術的祭礼を速に合理的且つ科学的な泰西の方法に変えた所は、この国民があらゆる文明から最善のものをさがし出して、それを即座に採用するという著しい特長を持っていることの圧倒的実例である。我々は他の国民の長所を学ぶことが比較的遅い。我々はドイツやイングランドには我国のよりも良い都市政制度があり、全ヨーロッパにはよりよき道路建設法があることを知っている。だが我々は果してこれ等の制度を迅速に採用しているであろうか。
我国の人々は、丸い真鍮製で中央に四角な穴のあいている支那の銭をよく知っている。日本にも同様なものや、またより大きく、楕円形で中心に四角な穴のあいたものもある。我々は屡々この穴が何のためにあるのかと不思議に思った。これは人が銭を南京玉のように粗末な藁繩で貫いたり、木片の上に垂直に立つ小さな棒に通して積み上げたりする為らしい(図30)。

いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供達の天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少く、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人々なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蠅うるさく愚図愚図ぐずぐずいわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長して了いそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如しくものはない。爾なんじの父と母とを尊敬せよ……これは日本人に深く浸み込んだ特性である。子供達は赤坊時代を過ごすと共に、見た所素直げに働き始める。小さな男の子が往来でバケツから手で水を撒いているのを見ることがある。あらゆる階級を通じて、人々は家の近くの小路に水を撒いたり、短い柄の箒で掃いたりする。日本人の奇麗好きなことは常に外国人が口にしている。日本人は家に入るのに足袋以外は履いていない。木製の履物なり藁の草履なりを、文字通り踏み外してから入る。最下層の子供達は家の前で遊ぶが、それにしても地面で直じかに遊ぶことはせず、大人が筵を敷いてやる。町にも村にも浴場があり、そして必ず熱い湯に入浴する。
バー・ハーバア、ニューポート及びその階級に属する場所等を稀な例外として、我国に於る防海壁に沿う無数の地域には、村落改良協会や都市連合が撲滅を期しつつあるような状態に置かれた納屋や廃棄物やその他の鼻持ちならぬ物が目に入る。全くこのような見っともない状態が、都鄙とひいたる所にあればこそ、このような協会も出来たのである。汽車に乗って東京へ近づくと、長い防海壁のある入江を横切る。この防海壁に接して、簡単な住宅がならんでいるが、清潔で品がよい。田舎の村と都会とを問わず、富んだ家も貧しい家も、決して台所の屑物や灰やガラクタ等で見っともなくされていないことを思うと、うそみたいである。我国の静かな田園村落の外縁で、屡々見受ける、灰や蛤はまぐりの殻やその他の大きな公共的な堆積は、どこにも見られない。優雅なケンブリッジ〔ハーヴァード大学所在地〕に於て二人の学者の住宅間の近道は、深い窪地を通っていた。所がこの地面はある種の屑で美事にもぶざまにされていたので、数年間にわたってしゃれに「空罐峡谷」と呼ばれた。日本人はある神秘的な方法で、彼等の廃棄物や屑物を、目につかぬように埋めたり焼いたり利用したりする。いずれにしても卵の殻、お茶の澱滓かす、その他すべての家の屑は、奇麗にどこかへ持って行って了うので、どこにも見えぬ。日本人の簡単な生活様式に比して、我々は恐ろしく大まかな生活をしている為に、多くの廃物ウェーストを処分しなくてはならず、而もそれは本当の不経済ウェーストである。我国で有産階級は家のあたりを清潔にしているが、田舎でも都市でも、貧民階級が不潔な状態の大部分に対して責任を持つのである。
日本人が集っているのを見て第一に受ける一般的な印象は、彼等が皆同じような顔をしていることで、個々の区別はいく月か日本にいた後でないと出来ない。然し、日本人にとって、初めの間はフランス人、イギリス人、イタリー及び他のヨーロッパ人を含む我々が、皆同じに見えたというのを聞いて驚かざるを得ない。どの点で我々がお互に似ているかを尋ねると、彼等は必ず「あなた方は皆物凄い、睨みつけるような眼と、高い鼻と、白い皮膚とを持っている」と答える。彼等が我々の個々の区別をし始めるのも、やはりしばらくしてからである。同様にして彼等の一風変った眼や、平な鼻梁や、より暗色な皮膚が、我々に彼等を皆同じように見させる。だが、この国に数ヶ月いた外国人には、日本人にも我々に於ると同じ程度の個人的の相違があることが判って来る。同様に見えるばかりでなく、彼等は皆背が低く脚が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い歯を現わし、頬骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊美で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かで丁寧で、晴々しい。下層民が特に過度に機嫌がいいのは驚く程である。一例として、人力車夫が、支払われた賃銀を足りぬと信じる理由をもって、若干の銭を更に要求する時、彼はほがらかに微笑し哄笑する。荒々しく拒絶した所で何等の変りはない。彼は依然微笑しつつ、親切そうにニタリとして引きさがる。
外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。こう感じるのが私一人でない証拠として、我国社交界の最上級に属する人の言葉をかりよう。我々は数ヶ日の間ある田舎の宿やに泊っていた。下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て、この米国人は「これ等の人々の態度と典雅とは、我国最良の社交界の人々にくらべて、よしんば優れてはいないにしても、決して劣りはしない」というのであった。 
第二章 日光への旅
日光への旅行――宇都宮までの六十六マイルを駅馬車で、それから更に三十マイル近くを人力車で行くという旅――は、私に田舎に関する最初の経験を与えた。我々は朝の四時に東京を立って駅馬車の出る場所まで三マイル人力車を走らせた。こんなに早く、天の如く静かな大都会を横切ることは、まことに奇妙なものであった。駅馬車の乗場で、我々は行を同じくする友人達と顔を合わせた。文部省のお役人が一人通弁として付いて行って呉れる外に、日本人が二人、我々のために料理や、荷ごしらえや、荷を担ったり、その他の雑用をするために同行した。我々の乗った駅馬車というのは、運送会社が団体客を海岸へ運ぶ為に、臨時に仕立てる小さな荷馬車に酷似して、腰掛が両側にあり、膝と膝とがゴツンゴツンぶつかる――といったようなものであった。然し道路は平坦で、二頭の馬――八マイルか十マイル位で馬を代える――は、いい勢で走り続けた。
朝の六時頃、ある町を通過したが、その町の一通りには籠や浅い箱に入れた売物の野菜、魚類、果実等を持った人々が何百人となく集っていた。野天の市場なのである。この群衆の中を行く時、御者は小さな喇叭ラッパを調子高く吹き鳴らし、先に立って走る馬丁は奇怪きわまる叫び声をあげた。この時ばかりでなく、徒歩の人なり人力車に乗った人なりが道路の前方に現われると、御者と馬丁とはまるで馬車が急行列車の速度で走っていて、そしてすべての人が聾つんぼで盲ででもあるかのように、叫んだり、怒鳴ったりするのである。我々にはこの景気のいい大騒ぎの原因が判らなかったが、ドクタア・マレーの説明によると、駅馬車がこの街道を通るようになったのはここ数ヶ月前のことで、従って大いに物珍しいのだとのことであった。
この市場の町を過ぎてから、我々は重い荷を天秤棒にかけて、ヨチヨチ歩いている人を何人か見た。大した荷である。私は幾度かこれをやって見て失敗した。荷を地面から持ち上げることすら出来ない。然るにこの人々は天秤棒をかついで何マイルという遠方にまで行くのである。また十マイルも離れている東京まで歩いて買物に行く若い娘を数名見た。六時半というのに子供はもう学校へと路を急いでいる。時々あたり前の日本服を着ながら、アメリカ風の帽子をかぶっている日本人に出喰わした。薄い木綿の股引きだけしか身につけていない人も五、六人見た。然し脚に何にもはかない人も多いので、これは別に変には思われなかった。
我々は水田の間を何マイルも何マイルも走ったが、ここで私は水車が灌漑用の踏み車として使用されているのを見た。図31は例の天秤棒で水車と箱とを運んで路を歩いて来る人を示している。同じスケッチで、一人の男が車を踏んで水を溝から水田にあげつつある。先ず箱を土手に入れ、車を適宜な凹に落し込むと、車の両側の泥に長い竿を立てる。人はこの竿につかまって身体の平衡を保ちながら、両足で車をまわすのである。

我々が通った道路は平でもあり、まっすぐでもあって、ニューイングランドの田舎で見受けるものよりも遙かによかった。農家は小ざっぱりと、趣深く建てられ、そして大きな葺ふいた屋根があるので絵画的であった。時々お寺やお社を見た。これ等にはほんの雨露を凌ぐといった程度のものから、巨大な萱かや葺屋根を持つ大きな堂々とした建築物に至る、あらゆる階級があった。これ等の建築物は、あたかもヨーロッパの寺院カセードラルがその周囲の住宅を圧して立つように、一般民の住む低い家々に蔽いかぶさっている。面白いことに日本の神社仏閣は、例えば渓谷の奥とか、木立の間とか、山の頂上とかいうような、最も絵画的な場所に建っている。聞く処によると、政府が補助をやめたので空家になったお寺が沢山あるそうである。我々は学校として使用されている寺社をいくつか見受けた(図32)。かかる空家になったお寺の一つで学校の課業が行われている最中に、我々は段々の近くを歩いて稽古に耳を傾け、そして感心した。そのお寺は大きな木の柱によって支持され、まるで明け放したパヴィリオン〔亭ちん〕といった形なのだから、前からでも後からでも素通しに見ることが出来る。片方の側の生徒達は我々に面していたので、中にはそこに立ってジロジロ眺める我々に、いたずららしく微笑ほほえむものもあったが、ある級は背中を向けていた。見ると支柱に乗った大きな黒板に漢字若干、その横には我々が使用する算用数字が書いてある。先生が日本語の本から何か読み上げると、生徒達は最も奇態な、そして騒々しい、単調な唸り声で、彼の読んだ通りを繰り返す。広い石の段々の下や、また段の上には下駄や草履が、生徒達が学校へ入る時に脱いだままの形で、長い列をなして、ならんでいた。私は、もしいたずらっ児がこれ等の履物をゴチャまぜにしたら、どんな騒ぎが起るだろうかと考えざるを得なかったが、幸にして日本の子供達は、嬉戯に充ちていはするものの、物優しく育てられている。我国の「男の子は男の子なんだから」boys will be boys という言葉――我国にとって最大の脅威たるゴロツキ性乱暴の弁護――は日本では耳にすることが決してない。

所で、これ等各種のお社への入口は tori-i と称する不思議な門口、換言すれば枠形フレーム(門ゲートはないからこう云うのだが)で標示されている。この名は「鳥の休息所」を意味するのだそうである。これが路傍に立っているのを見たら、何等かのお社が、あるいは林のはるか奥深くであるにしても、立っているのだと知るべきである。この趣向はもと神道の信仰に属したものであって何等の粉飾をほどこさぬ、時としては非常に大きな、白木でつくられたのであった。支那から輸入された仏教はこの鳥居を採用した。外国人が描いた鳥居の形や絵には間違ったものが多い。日本の建築書には鳥居のある種の釣合が図表で示してある。一例をあげると上の横木の末端がなす角度は縦の柱の底部と一定の関係を持っておらねばならないので、この角度を示すために点線が引いてある。鳥居には石造のもよくある。これ等は垂直部もまた上方の水平部も一本石で出来ている。肥前の国には大きな磁器の鳥居もある。
道路に添って立木に小枝の束が縛りつけてあるのを見ることがある。これは人々が集め、蓄え、そして、このようにして乾燥させる焚きつけなのである。
ある町で、私は初めて二人の乞食を見たが、とても大変な様子をしていた。即ち一人は片方の足の指をすっかり失っていたし、もう一人の乞食の顔は、まさに醗酵してふくれ上らんとしつつあるかのように見えた。おまけに身につけた襤褸ぼろのひどさ! 私が銭若干を与えると彼等は数回続けて、ピョコピョコと頭をさげた。一セントの十分一にあたる小銭は、このような場合最も便利である。ある店で六セント半の買物をして十セントの仮紙幣を出した所が、そのおつりが片手に余る程の、いろいろな大きさの銅貨であった。私は後日ここに来るヤンキーを保護するつもりで、貰ったおつりを非常に注意深く勘定する真似をしたが、あとで、そんなおつりを勘定するような面倒は、全く不必要であると聞いた。
午前八時十五分過ぎには十五マイルも来ていた。我々の荷物全部――それには罐詰のスープ、食料品、英国製エール一ダース等も入っている――を積んだ人力車は、我々のはるか前方を走っていた。而も車夫は我々と略ほぼ同時に出立したのである。多くの人々の頭はむき出しで、中には藍色の布をまきつけた人もいたが、同時にいろいろな種類の麦藁帽子も見受けられた。水田に働く人達は、極めて広く浅い麦藁帽子をかぶっていたが、遠くから見ると生きた菌きのこみたいだった(図33)。

目の見えぬ娘がバンジョーの一種を弾きながら歌を唄ってゆっくりと町を歩くのをよく見たし、またある場所では一人の男がパンチ・エンド・ジュディ〔操り人形〕式の見世物をやっていた。片手に人形を持ち、その頭をポコンポコン動かしながら、彼は歌を唄うのであった。
艶々つやつやした鮮紅色の石榴ざくろの花が、家を取りかこむ濃い緑の木立の間に咲いている所は、まことに美しい。
街道を進んで行くと各種の家内経済がよく見える。織おりものが大部盛に行われる。織機はその主要点に於て我国のと大差ないが、紡車いとぐるまを我々と逆に廻すところに反対に事をする一例がある。
路に接した農家は、裏からさし込む光線に、よく磨き込まれた板の間が光って見える程あけっぱなしである。靴のままグランド・ピアノに乗っかる人が無いと同様、このような板の間に泥靴を踏み込む人間はいまい。家屋の開放的であるのを見ると、常に新鮮な空気が出入していることを了解せざるを得ない。燕は、恰度我国で納屋に巣をかけるように、家の中に巣を営む(図34)。家によっては紙や土器の皿を何枚か巣の下に置いて床を保護し、また巣の直下の梁に小さな棚を打ちつけたのもある。蠅はすこししかいない。これは馬がすくないからであろう。家蠅は馬肥で繁殖するものである。

床を洗うのに女は膝をついて、両手でこするようなことをしないで、立った儘手を床につけ、歩きながら雑巾ぞうきんを前後させる(図35)。こんな真似をすれば我々の多くは背骨を折って了うにきまっているが、日本人の背骨は子供の時から丈夫になるように育てられている。

窓硝子ガラスの破片を利用して、半音楽的なものが出来ているのは面白かった。このような破片のいくつかを、風が吹くと触れ合う程度に近くつるすと、チリンチリンと気持のいい音を立てるのである。(図36)。

我々が通過した村は、いずれも小さな店舗がならぶ、主要街を持っていた。どの店にしても、我々が立ち止ると、煙草に火をつける為の灰に埋めた炭火を入れた箱が差し出され、続いて小さな茶碗をいくつかのせたお盆が出る。時として菓子、又は碌に味のしないような煎餅若干が提供された。私は段々この茶に馴れて来るが、中々気持のよいものである。それはきまって非常に薄く、熱く、そして牛乳も砂糖も入れずに飲む。日本では身分の上下にかかわらず、一日中ちょいちょいお茶を飲む。
この地方では外国人が珍しいのか、それとも人々が恐ろしく好奇心に富んでいるのか、とにかく、どこででも我々が立ち止ると同時に老若男女が我々を取り巻いて、何をするのかとばかり目を見張る。そして、私が小さな子供の方を向いて動きかけると、子供は気が違ったように泣き叫びながら逃げて行く。馬車で走っている間に、私はいく度か笑いながら後を追って来る子供達を早く追いついて踏段に乗れとさしまねいたが、彼等は即時すぐ真面目まじめになり、近くにいる大人に相談するようなまなざしを向ける。遂に私は、これは彼等が私の身振りを了解しないのに違いないと思ったので、有田氏(一緒に来た日本人)に聞くと、このような場合には手の甲を上に、指を数回素早く下に曲げるのだということであった。その次に一群の子供達の間を通った時、私は教わった通りの手つきをやって見た。すると彼等はすぐにニコニコして、馬車を追って馳け出した。そこで私は手真似足真似で何人かを踏段に乗らせることが出来た。子供達が木の下駄をはいているにもかかわらず――おまけに多くは赤坊を背中にしょわされている――敏捷に動き廻るのは驚く可き程である。上の図(図37)は柔かい紐が赤坊の背中をめぐり、両腋と足の膝の所を通って、女の子の胸で結ばれる有様を示している。子供はどこにでもいて、間断ない興味の源になる。だがみっともない子が多い。この国には加答児カタルにかかっている子供が多いからである。

日本を旅行すると、先ずどこにでも子供がいることに気がつくが、次に気がつくのは、いたる所に竹が使用してあることである。東屋あずまやの桷たるき、縁側の手摺、笊、花生け、雨樋から撥釣瓶はねつるべにいたる迄、いずれも竹で出来ている。家内ではある種の工作物を形づくり、台所ではある種の器具となる。また竹は一般に我国に於る唾壺だこの代用として使用されるが、それは短く切った竹の一節を火壺と一緒に箱に入れた物で、人は慎み深く頭を横に向けてこれを使用し、通常一日使う丈で棄てて了う。
田舎を旅しているとすぐ気がつくが、雌鶏の群というものが見あたらぬ。雌鶏と雄鶏とがたった二羽でさまよい歩く――もっともたいていはひっくり返した笊の内に入っているが――だけである。鶏の種類は二つに限られているらしい。一つは立派な、脚の長い、距けづめの大きな、そして長くて美事な尾を持つ闘鶏で、もう一つは莫迦げて大きな鶏冠とさかと、一寸見えない位短い脚とを持つ小さな倭鶏である。
歩いて廻る床屋が、往来に、真鍮張りの珍しい箱を据えて仕事をしている。床屋はたいていは大人だが(女もいる)どうかすると若い男の子みたいなのもいる。顔はどこからどこ迄剃って了う。婦人でさえ、鼻、頬、その他顔面の表面を全部剃らせる。田舎を旅行していると、このような旅廻りの床屋がある程度まで原因となっている眼病の流行に気がつく――白障眼そこひ、※(「火+欣」、第3水準1-87-48)衝きんしょうを起した眼瞼まぶた、めっかち、盲人等はその例である。
我々が休憩した宿屋の部屋部屋には、支那文字の格言がかけてある。日本人の通弁がその意味を訳そうとして一生懸命になる有様は中々面白い。我々として見ると、書かれた言葉が国民にとってそれ程意味が不明瞭であることは、大いに不思議である。読む時に、若し一字でも判らぬ字があると、通弁先生は五里霧中に入って了う。接続詞が非常にすくなく、また文脈は役に立たぬらしい。今 Penny wise pound foolish ――〔一文惜みの百損〕――なる格言が四個の漢字で書いてあると仮定する。この格言が初めてである場合、若し四字の中の一字が判らないと、全体の意味が更に解釈出来なくなる。つまり penny wise …… foolish とか、…… wise pound foolish とか(外の字が判らぬにしても同様である)いう風になって、何のことやら訳が判らぬ。我々の通弁が読み得た文句は、いずれも非常に崇高な道徳的の性質のものであった。格言、古典からのよき教え、自然美の嘆美等がそれである。このような額は最も貧弱な宿屋や居酒屋にでもかけてある。それ等の文句が含む崇高な感情を知り、絵画の優雅な芸術味を認めた時、私は我国の同様な場所、即ち下等な酒場や旅籠はたご屋に於る絵画や情趣を思い浮べざるを得なかった。
田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前の奇麗に掃かれた歩道、家内にある物がすべて小ざっぱりとしていい趣味をあらわしていること、可愛らしい茶呑茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤こぶ、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これ等の美しい品物はすべて、あたり前の百姓家にあるのである。
この国の人々の芸術的性情は、いろいろな方法――極めて些細なことにでも――で示されている。子供が誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙片をはりつけずに、桜の花の形に切った紙をはる。この、奇麗な、障子のつくろい方を見た時、私は我国ではこわれた窓硝子を、古い帽子や何かをつめ込んだ袋でつくろうのであることを思い出した。
穀物を碾ひく臼は手で廻すのだが、余程の腕力を必要とする。一端を臼石の中心の真上の桷たるきに結びつけた棒が上から来ていて、その下端は臼の端に着いている。人はこの棒をつかんで、石を回転させる(図38)。稲の殻を取り去るには木造で石を重りにした一種の踏み槌が使用される。人は柄の末端を踏んで、それを上下させる。この方法は、漢時代の陶器に示されるのを見ると、支那ではすくなくとも二千年前からあるのである。この米つきは東京の市中に於てでも見られる(図39)。搗ついている人は裸で、藁繩で出来たカーテン〔繩のれん〕によってかくされている。このカーテンは、すこしも時間を浪費しないで通りぬけ得るから、誠に便利である。帳として使用したらよかろうと思われる。

この上もなく涼しい日に、この上もなく楽しい旅を終えて我々は宇都宮に着いた。目新しい風物と経験とはここに思い出せぬ程多かった。六十六マイルというものを、どちらかといえばガタピシャな馬車に乗って来たのだが、見た物、聞いた音、一として平和で上品ならざるはなかった。田舎の人々の物優しさと礼譲、生活の経済と質素と単純! 忘れられぬ経験が一つある。品のいいお婆さんが、何マイルかの間、駅馬車内で私の隣に坐った。私は日本語は殆ど判らぬながら、身振りをしたり、粗末な絵を描いたりして、具合よく彼女と会話をした。お婆さんはそれ迄に外国人を見たこともなければ、話を交えたこともなかった。彼女が私に向って発した興味ある質問は、我国の知識的で上品な老婦人が外国人に向ってなすであろうと、全く同じ性質を持っていた。
旅館に於る我々の部屋の清潔さは筆ではいい現わし得ない。これ等の部屋は二階にあって広い遊歩道に面していた。ドクタア・マレーのボーイ(日本人)が間もなく我々のために美事な西洋料理を調理した。我々はまだ日本料理に馴れていなかったからである。ここで私は宿屋の子供やその他の人々に就いての、面白い経験を語らねばならぬ。即ち私は日本の紙に日本の筆で蟾蜍ひきがえる、バッタ、蜻蛉とんぼ、蝸牛かたつむり等の絵を書いたのであるが、子供達は私が線を一本か二本引くか引かぬに、私がどんな動物を描こうとしているかを当てるのであった。
六十六マイルの馬車の旅で疲れた我々は、上述の芸当を済ませた上で床に就いた。すくなくとも床から三フィートの高さの二本の棒に乗った、四角い提灯ちょうちんの形をした夜のランプが持ち込まれた。この構造の概念は、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵(図40)によらねば得られない。提灯の一つの面は枠に入っていて、それを上にあげることが出来る。こうして浅い油皿に入っている木髄質の燈心若干に点火するのである。日本では床の上に寝るのであるが、やわらかい畳マット*がこの上もなくしっかりした平坦な表面を持っているので、休むのには都合がよい。

* この畳に関する詳細は私の『日本の家庭』(ハーパア会社一八八六年)に図面つきで説明してある。Japanese Homes(Harper & Bros)
四角い箱の形をした、恐ろしく大きな緑色の蚊帳かやが部屋の四隅からつられた。その大きさたるや我々がその内に立つことが出来る位で、殆ど部屋一杯にひろがった。枕というは黒板こくばんふき位の大きさの、蕎麦殻そばがらをつめ込んだ小さな袋である。これが高さ三インチの長細い木箱の上にのっている。枕かけというのは柔かな紙片を例の袋に結びつけたものである。その日の旅で身体の節が硬くなったような気がした私は按摩あんま、即ちマッサージ師を呼びむかえた。彼は深い痘痕あばたを持つ、盲目の老人であった。先ず私の横に膝をつき、さて一方の脚を一種の戦慄的な運動でつまんだり撫でたりし始めた。彼は私の膝蓋骨を数回前後に動かし、この震動的な捏こねるような動作を背中、肩胛骨けんこうこつ、首筋と続けて行い、横腹まで捏ねようとしたが、これ丈は擽くすぐったくってこらえ切れなかった。とにかく按摩術は大きに私の身体を楽にした。そして三十分間もかかったこの奉仕に対して、彼はたった四セント半をとるのであった。
翌朝、我々は夙く、元気よく起き出でた。今日は人力車で二十六マイル行かねばならぬ。人力車夫が宿屋の前に並び、宇都宮の人口の半数が群をなして押しよせ、我々の衣類や動作を好奇心に富んだ興味で観察する有様は、まことに奇妙であった。暑い日なので私は上衣とチョッキとを取っていたので、一方ならず派手なズボンつりが群衆の特別な注意を惹いた。このズボンつりは意匠も色もあまりに野蛮なので、田舎の人達ですら感心してくれなかった。
車夫は総計六人、大きな筋肉たくましい者共で、犢鼻褌だけの素っぱだか。皮膚は常に太陽に照らされて褐色をしている。彼等は速歩で進んでいったが、とある村に入ると気が違いでもしたかのように駈け出した。私は人間の性質がどこでも同じなのを感ぜざる得なかった。我国の駅馬車も田舎道はブランブランと進むが、村にさしかかると疾駆して通過するではないか。
宇都宮の二十五マイル手前から日光に近い橋石に至る迄、道路に接して立派な杉(松柏科の一種)の並木がある。所々に高さ十二フィートを越える土手があり、その両側には水を通ずる為に深い溝が掘ってある。その溝のある箇所には、水の流れを制御する目的で広い堰せきが設けられている。二十七マイルにわたって、堂々たる樹木が、ある場所では五フィートずつの間隔を保って(十五フィート以上間をおくことは決してない)道路を密に辺取へりどっている有様は、まさに驚異に値する。両側の木の梢が頭上で相接している場所も多い。樹幹に深い穴があいている木も若干見えたが、これは一八六八年の革命当時の大砲の弾痕である。所々樹の列にすきがある。このような所には必ず若木が植えてあり、そして注意深く支柱が立ててある(図41)。時に我々は木の皮を大きく四角に剥ぎ取り、その平な露出面に小さな丸判を二、三捺おしたのを見た。皮を剥いた箇所の五、六尺上部には藁繩が捲きつけてある(図42)。このようなしるしをつけた木はやがて伐きられるのであるが、いずれも密集した場所のが選ばれてあった。人家を数マイルも離れた所に於て、かかる念入りな注意が払われているのは最も完全な保護が行われていることを意味する。何世紀に亘ってこの帝国では、伐木の跡には必ず代りの木を植えるということが法律になっていた。そしてこれは人民によって実行されて来た。この国の主要な街道にはすべて一列の、時としては二列の、堂々たる並木(主に松柏科)がある。奥州街道で我々は、村を除いてはこのような並木に、数時間に亘って唯一つの切れ目もないのを見ながら旅行をした。

密集した部落以外に人家を見ることは稀である。普通、小さな骨組建築フレーム・ウワークか、門ゲートの無い門構ゲート・ウェーが村の入口を示し、そこを入るとすぐ家が立ち並ぶが、同様にして村の通路の他端を過ぎると共に、家は忽然として無くなって了う。
道路の両側に電信柱がある。堤の上には柱を立てる余地が無いので、例の深い溝の真中に立ててあり、柱の底部に当って溝は手際よく切られ、堤の中に入り込んでいる(図43)。古いニューイングランド式の撥釣瓶はねつるべ(桿と竿とは竹で出来ている)が、我国に於るのと全く同じ方法で掛けてあるのは、奇妙だった。正午人々が床に横わって昼寝しているのを見た。家は道路に面して開いているので、子供が眠ている母親の乳房を口にふくんでいるのでも何でもまる見えである。野良仕事をする人達は、つき物の茶道具を持って家に帰って来る。山の景色は美しく、フウサトニック渓谷〔ニューイングランドを流れる川の一つ〕を連想させた。

仕事をするにも休むにも、日本人は足と脚との内側の上に坐る――というのは、脚を身体の下で曲げ、踵かかとを離し、足の上部が畳に接するのである。屡々足の上部外側に胼胝たこ、即ち皮膚が厚くなった人を見受けるが、その原因は坐る時の足の姿勢を見るに至って初めて理解出来る。鍛冶かじ屋は地面に坐って仕事をする(手伝いは立っているが)。大工は床の上で鋸を使ったり鉋かんなをかけたりする。仕事台も万力も無い大工の仕事場は妙なものである。
時々我々は不細工な形をした荷鞍の上に、素敵に大きな荷物を積んだ荷牛を見受けた。また馬といえば、何マイル行っても種馬にばかり行き会うのであった。東京市中及び近郊でも種馬ばかりである。所が宇都宮を過ぎると、馬は一つの例外もなく牝馬のみであった。この牡馬と牝馬とのいる場所を、こう遠く離すという奇妙な方法は、日本独特のものだとの話だが、疑も無くこれは支那その他の東方の国々でも行われているであろう。
村の人々が将棋――我国の将棋チェスよりもこみ入っている――をさしている光景は面白かった。私はニューイングランドの山村の一つに、このような光景をそっくり移して見たいと想像した。
あばら家や、人が出来かけの家に住んでいるというようなことは、決してみられなかった。建築中の家屋はいくつか見たが、どの家にしても人の住んでいる場所はすっかり出来上っていて、足場がくっついていたり、屋根を葺かず、羽目を打たぬ儘にしてあったりはしないのである。屋根の多くは萱葺きで、地方によって屋背の種類が異っている。柿葺(こけらぶき)の屋根もすこしはある。柿は我国のトランプ札と同じ位の厚さで、大きさも殆ど同じい。靴の釘位の大きさの竹釘が我国の屋根板釘の役をつとめる。一軒が火を発すると一町村全部が燃えて了うのに不思議はない。柿というのが厚い鉋屑みたいで、火粉が飛んで来ればすぐさま燃え上るのだから*……。
* 家屋の詳細は『日本の家庭』に就いて知られ度い。
日本人の清潔さは驚く程である。家は清潔で木の床は磨き込まれ、周囲は奇麗に掃き清められているが、それにも係らず、田舎の下層民の子供達はきたない顔をしている。畑に肥料を運ぶ木製のバケツは真白で、我国の牛乳鑵みたいに清潔である。ミルクやバターやチーズは日本では知られていない。然しながら料理に就いては清潔ということがあまり明らかに現われていないので、食事を楽しもうとする人にとっては、それが如何にして調えられたかという知識は、食慾催進剤の役をしない。これは貧乏階級のみをさしていうのであるが、恐らく世界中どこへ行っても、貧民階級では同じことがいえるであろう。
とある川の岸で、漁夫が十本の釣竿を同時に取扱っているのを見た。彼は高みに立って扇の骨のように開いた釣竿の端を足で踏んでいる。このようにして彼は、まるで巣の真中にいる大きな蜘蛛くもみたいに、どの竿に魚がかかったかを見わけることが出来るのであった(図44)。

日本の枕というのは奇妙な代物で、一寸見ると如何にも使い難くそうであるが、而し私は二時間の睡眠にこれを使用して見て、これはいいと思った。只、馴れぬ人が一晩中使用すると頸に痙攣けいれんが起る。この枕は特殊な方法で結った頭髪に適するために、出来たものである。婦人のこみ入った結髪、及び男子の固いちょんまげ――こってりと堅練り油をつけ、数日間は形を保つように仕上げたもの――は、それ等がこわれないような枕を必要とした。暑い時には空気が頸のまわりを吹き通して誠に気持がいい。図45はその一夜の用のために運び込まれた我々の枕で、図46は熟睡している有田氏をスケッチしたものである。

日本の部屋に敷いてある畳に就いては既に書いた。畳は一定の規則に従って敷きつめられる。図47は六枚畳を敷いた部屋を示している。宿屋では畳一枚に客人一人の割合なので、主人としては、一人で部屋全体を占領したがるのみならず、テーブルと椅子とを欲しがる外国人よりも、日本人の方を歓迎する。テーブルや椅子――手に入らぬ時は論外だが――には、いずれも脚に幅の広い板が打ちつけてある。そうでないと畳に穴があいて了う。加レ之、外国人はコックを連れて歩くが、このコックがまた台所で広い場所を取る。日本食に慣れるには中々時間がかかる。日本料理は味も旨味も無いように思われる。お菓子でさえも味に欠けている。私は冷たい牛乳をグーッとやり度くて仕方がなかった。パン一片とバターとでもいい。だが、その他のすべての事が如何にも気持よいので、目下の処食物のことなんぞは考えていない。

我々は東京行きの郵便屋に行きあった。裸の男が、竿のさきに日本の旗を立てた、黒塗の二輪車を引っ張って、全速力で走る。このような男はちょいちょい交代し、馬よりも早い(図48)。

道路の重要な曲り角や目につきやすい場所には、馬に慈悲をたれ給う神への顕著な記念碑が建っている、ここにその一つのスケッチがある(図49)。碑文を書くことは出来なかったので、いい加減なことを書いておいたが、我国の動物虐待防止会式の諫言、例えば「坂を登る時には支頭韁(はづな)をゆるめよ」とか「馬に水を飲ませよ」とかいうような文句が刻んであるのである。

萱葺屋根の葺きようの巧みさには、いくら感心しても感心しきれなかった。こんな風なことに迄、あく迄よい趣味があらわれているのである。よく葺いた屋根は五十年ももつそうである*。
* 『日本の家庭』には屋根のことが写生図と共にある程度まで取扱ってある。
日本の萱葺屋根の特異点は、各国がそれぞれ独特の型式を持って相譲らぬことで、これ等各種の型式をよく知っている人ならば、風船で日本に流れついたとしても、家の脊梁むねの外見によって、どの国に自分がいるかがすぐ決定出来る程である。画家サミュエル・コールマンはカリフォルニアからメインに至る迄どの家の屋根も直線の脊梁を持っていて、典雅な曲線とか装飾的な末端とかいうものは薬にしたくも見当らぬといって、我国の屋根の単純な外見を批難した。日本家屋の脊梁は多くの場合に於て、精巧な建造物である。編み合わした藁から植物が生える。時に空色の燕子花かきつばたが、美事な王冠をなして、完全に脊梁を被っているのを見ることもある。図50は手際よく角を仕上げ、割竹でしっかりと脊梁をしめつけた屋根を示している。軒から出ているのは花菖蒲の小枝三本ずつで、五月五日の男子の祭礼日にさし込んだもの。私はこの国で、多くの祭日中、特に男の子のための祭日が設けてあり、かつそれがかく迄も一般的に行われていること――何となればどの家にも、最も貧困な家にも、三本ずつ束にしたこのような枯枝が檐のきから下っていた――に心を打たれた。女の子のお祭りは三月三日に行われる。

日本の犂すきは非常に不細工に見える(図51)。だが、見た所よりも軽い。鉄の部分は薄く、木部は鳩尾ありさしのようにしてそれに入っている。これを使用する為には、ずい分かがまねばならぬが、この国の人々の深く腰をかがめたり、小さい時に子供を背負ったり、田植をしたりする習慣は、すべて、非常に力強い背中を発達させる役に立つ。赤坊や小さな子供が両手の力を藉かりずに床から起き上るのを見ると、奇妙な気がする。彼等の脚は、腕との割合に於て、我々のよりも余程短い。これは一般に坐るからだとされているがそんな莫迦なことはない。

この国の連枷からさおは我々のとは全く違う。柄は竹製、その末端を削って図52のように曲げ、そこに打穀部を取りつける。何人かがそろって連枷を使っているのを見るが、いい事に、この連枷は一つの平面のみにしか動かない。我国の連枷はどっちへでもくるくる廻る結果、下手な人がやると自分の頭を撲ったりするが、日本のだとそんなことは無い。穀物は家に近く、筵の上に奇麗にならべて日に乾す。鶏は自由自在に入り込むが、いまだかつて追っ払われるのを見たことがない。農夫は野から草や穀物を運ぶのに長い架しょいこを使う(図53)。その架は人間の背よりも高いので、背中の上の方に背負う。人が休むと架の下端は地面に着く。穀物は大きな束にして縛りつけるので、小さな乾草架なら、一杯になって了うであろう。

路に沿って我々は折々、まるい、輝紅色の草苺いちごを見たが、これは全然何の味もしなかった。今迄に私は野生の草苺を三種類見た。人家の周囲には花が群れて咲いている。蜀葵たちあおいは非常に美しく、その黄色くて赤い花はあまり色が鮮かなので殆ど造花かと思われる程である。いや、まったく、花束に入っていたのを見た時には、造花に違いないと思った。最も美しいのは石榴ざくろである。門の内には驚く程美事な赤い躑躅つつじの生垣があった。我国の温室で見るのと全く同じ美しい植物である。
小憩するために車を止めた茶屋で、我々はいたる所を見廻した。部屋は奇麗に取片づけられている、畳は清潔である、杉材の天井やすべての木部は穴を埋めず、油を塗らず、仮漆ニスを塗らず、ペンキを塗ってない。家の一面は全部開いて、太陽と空気とを入れるが、而も夜は木造の辷り戸で、また必要があれば、昼間は白い紙を張った軽い枠づくりの衝立で、きっちりと閉め切ることが出来る。室内の僅かな装飾品は花瓶とかけ物とである。かけ物は絵の代りに、訓言や、古典から取った道徳的の文句を、有名な人か仏教の僧侶かが書いたものであることがある。図54はそのような字句を簡単に額にしたものと、その額を保護する為の紅絹もみの小布団とである。

窓――それがある場合には――の形に現われる日本人の注意深さと趣味とは図55の通りである。これは鼠無地の壁を丸くくりぬいた、直径四フィートの窓であって、外側には松の立木を態々わざわざ曲げくねらせ、また石燈籠が見える。若しこの丸い眺望の中に山の峰を取り入れることが出来れば、それは理想的なものとされる。このような窓は瓢箪ひょうたんを二つ連ねた形であったり、四角であったりすることもあるが、形の如何を問わず、常によい趣味で出来ている。我々はこのような、物珍しくも古めかしく且つ美しい趣を見て、殆ど有頂天うちょうてんになった――我国の家屋にあっては決して見られぬ、然し取り入れてもよい趣味である。

図56は女髪結に髷まげを結ゆって貰いつつあった一婦人のスケッチである。木製の櫛と髪結の手とは練油でベットリしていた。彼女は使用に便利なように、自分の手の甲に練油を一とぬり塗りつけたものである。このようにして結った髷は数日にわたって形を崩さない。

この国の人々があく迄勤労する実例はいたる所で見られる。作物を植えることを語った時、私は何千エーカーという水田に稲の小さな束が手で移植されることを述べたが、大麦や小麦や蕎麦が事実何列も移植され、また徹底的な草取りが手で行われるのだとは、思いもよらなかった。聞く所によると、米の変種は二百七十種ある。主な種類は二つ――普通のと、それからねばねばしたのとである。 
第三章 日光の諸寺院と山の村落
我々は世界的に有名な日光の諸寺院に近い橋石〔括弧してストーン・ブリッジとしてあるが現在の日光町字鉢石はついしのことらしい〕で数日間逗留することになった。東京にくらべるとここは二千フィートも高い。この村は広い流床と高い河岸とを持つ、大きな、轟き渡る川に沿うて、細長く横たわっている(図57)。周囲全体はホワイト・マウンテン地方の荒地と同じように、岩の山脈や山の森林や乱れ繁る叢林で荒々しく見える。日光の寺院の無比にして驚嘆に値する特質を諒知するために、人はこの野生さと近づき難さとのすべてを、心に留めていなくてはならぬ。村の町通りは全体にわたって坂である。それは僅かに屈曲していて石が敷きつめてあり、丁度真中の所に石の溝があって、水が勢強く流れている。通りの両側にも溝がある(図58)。中央の溝は所々広がって四角い井戸になり、ここで女の人達が桶や手桶を洗ったり、手や足に浴したりする。この水は山間の渓流から流れて来るので、水晶のように奇麗である。飲料水は別の井戸のを使う。道路の各所に石段があるが、全体として、車輪のついた運搬機が、いまだかつてこの道路を使用していないことを示している。目に入るものは駄馬ばかり、人力車でさえも石段を越して行くことは困難である。

我々は村一番の宿屋に泊った。道路から古風な建物のいくつかが長く続いて、美しい廊下や、掃き清めた内庭や、変った灌木や、背の低い松や、石燈籠や、奇妙な塀や、その他すべてが、如何にも人の心を引きつける。我々はかくの如き建物の最終の部屋――下二間、二階二間である――を選定した。そこの廊下は殆ど部屋と同じ位広く、そして張り出した屋根で覆われている。我々はテーブルを廊下に持ち出し、夜は頭の上の桷からぶら下った、二つの石油洋燈ランプの光で、物を書く。これ等の洋燈は我々を除いては唯一の欧州、又はアメリカとの接触の形蹟である。我々が逢うのは日本人ばかり。新聞紙片、ポスター、シガレットの箱、その他外国の物は一つもない。今、午後十時、ここでこれを書いている私にとって、昆虫類は大いに歓迎はするが、うるさい。私は手近に昆虫箱を置き、誘惑に堪え兼ねて、蛾のあるものをピンでとめる。それ等はすべて実に美しいのである。その多くは、我国にいるのと同じ「属」に属するので見覚えがあるが、色彩や模様は異っている。時々、私の紙の上に、驚く程同じ様なのが落ちて来て止るが、それにしても相違はある。ここで書いて置かねばならぬのは、晩飯に食った野生のラズベリー〔木苺の一種〕のこと。形は我国のものの二倍位でブラックベリーのように艶つやがあり、種子は非常に小さく、香はラズベリーで味は野生的な森林を思わせるもの。実に美味で我国のとは全く異る果実であった。
落ついた所で我々は村落を見廻し、雄大な山の景色を楽しむのである。我々の背後で轟々ごうごうと音を立てる川は、私にカリゲイン渓流を思わせた。翌朝我々はこの島帝国に現在建っている最大の寺院、日光山の諸寺院に向けて出発した。これ等の寺院は第一の将軍と第三の将軍との埋葬地と関係がある。第一の将軍は二百五十年前に死んだ。我々は面白い形をした橋を渡ったが、この橋に近く並んでもう一つ、朱の漆を厚く塗った橋がかかっている。この橋は両端近くで、激流からそそり立つ高さ十五フィート直径二フィートの大きな石柱で支持されている。横木は石で、垂直の柱に※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)ほぞ穴にして嵌はめてある。橋の両岸には高い柵があって、何人も渡ることを許されない。過去に於て只将軍だけがこの橋を渡れたのであって、参詣に来た大名ですら渡ることを許されなかった*。
* この橋に関係のある面白い事実が一つ。グラント将軍が一八七九年世界一周の途次、日光を訪れた時、この柵を取りはらって彼が渡れるようにしたが、謙遜な将軍はこの名誉を断った。
これ等の寺院や墳墓は実に驚嘆すべきものである。精巧、大規模、壮麗……その一端を伝えることすら私には全然出来ないことを、ここに白状せねばならぬ。見ること二時間にして、私は疲れ果てた。私はこれ等の寺院の小さな写真数葉を持っているが、それ等はこまかい装飾や、こみ入った木ぼりや、青銅細工や、鍛黄銅しんちゅう細工や、鮮かな彩色や、その他記録され難い百千の細部の真の価値を殆ど現わしていない。かかる驚く可き建造物の絵も従来一つとして出来ていない。一つの門を日本語で「日暮門ひぐらしもん」という。その緻密な彫刻の細部を詳しく見るのに、一日かかるからである。
一般用の橋を渡ってから、我々は広い並木路を登って行った。この路は山の斜面を切り開いたものなので、六フィート或は八フィートごと位に石段があり、両側は巨大な石の壁、そしてあたり一面、我国メインの最も荒々しい地方に於るが如く、古い森林の木がすくすくと天をついて立つ。これ等建造物の宏大さを髣髴ほうふつさせようとした所でそれは無駄である。建物全体が山の険しい斜面に、原始的な松柏科の森林につつまれて建ち、この上もなくよい香を放つ蔓性植物や花の下生したばえが、人の手による精巧極まる仕事の豊かな骨組みをなしていることは、日光をして一層感銘深いものにしている。この自然のままの森林は、石垣や寺院の、それぞれの土台に近く接して生え、恰も、日光諸寺院の精密なる境界線が、先ずこの深林中に定められ、あらゆる物を取り去った後で寺や石墻かべやが建てられたかの感がある。最初の廟が建てられたのは千年以上も昔のことであるが、現在のも建ってから三百年は経過しているので、その間には森林がその周囲に生長し得たであろう。この美しい自然の景色に加うるに、日本の詩人が礼讃してやまぬ一種の鳥の、玄妙な笛のような声……我国のハーミット・スラッシの声と同じく魅力あり而して耳につきやすい……が、時折り聞える。
図59はドイツの地図からうつした日光寺院である。私は建物の二、三に文字を書いて符号とした。何故かというと、私のスケッチは到底これ等の建物の大さを現わさぬからである。Oは三つの大広間を持つ建築を示している。その中央の広間は四十フィートに六十フィートであり、点線で示す側間は四十フィートに二十五フィートである。この寸法はむしろすくな目に推測したものである。どの建物の壁も鮮かに彩色された、精巧な彫刻を施した鏡板で被われている。木彫は深く、枝や花は離れ、木材は彫刻に対して、暗い背地をなす程深くえぐられている。Fと記された平面図に於て、入口の一側には鏡板が十五枚あり、他の側には八枚ある。

かかる鏡板は長さ六フィートで各々異った構図を持っている。ある一枚には鶴、他の一枚には白鳥、更にスケッチ(図60)で示す一枚は高浮彫で美しく彫った神話の鳥……それは如何にも生々としていて、羽根や花は見事に極彩色されてある……である。大きな鏡板の下には、同様に精巧な彫刻を施した、より小さな鏡板があり、数多い真鍮の板にはこみ入った模様が切り込んである。この素晴しい偉業に面して、我々は息もつかず、只吃驚びっくりして立ちすくんで了うばかりである。

この仕事の多くは三百年近くの昔に始められ、各種の建築物は二百五十年前まで位の間に建て増しされたのであるが、それにもかかわらず一向古ぼけていないのを見ると、これ等神聖な記念物を如何に大切にして来たかが判る。室内にあっては漆細工、真鍮、鍍金めっき、銀、黄金製の品物、鏡板を張った天井、床には冷たい藁の畳が敷きつめられる。屋外は巨大な石の鋪床、石の塀、石の欄干、石の肖像と記念碑! そしてこの信じ難い程の手細工は、すべて、塀の外では朽木にも、また生え乱れる八重葎むぐらにも手をつけぬままの、荒々しく峨々たる山の急斜面に置かれ、石の土台さえも地衣や蘚こけに被われ、岩の裂目からは美しい羊歯しだの葉が萌もえ出ている。私は日本の芸術と細工との驚く可き示顕を、朧気おぼろげながらも描写しようとする企てを、絶望を以て放棄した。斜面の最高所にある墓に行く人は、大きな楼門を通りぬけ、古色蒼然たる広い石段に出る。この階段の幅は十フィート、一方の側は高い石墻、他方は長さ六フィート高さ四フィート半の一枚石から刻み出した欄干である。この石段の数二百、幅広く面積も大きい。ゆっくりと登りながら、がっしりした石の欄干ごしに、樅もみと松の素晴しい古い林の奥深く眺め入り、更に石段を登りつめて、自然その儘の、且つ厳かな林の中に、豊富に彫刻を施した寺院を更に一つ発見するその気持は格別である。かかる驚嘆すべき景観に接すること二時間、我々は精神的に疲れ果てて……肉体的にも多少疲れていた……宿屋に帰った。時々上の森から調子の低い、ほがらかな寺鐘の音が何か巨大な、声量の多い鳥の声のように聞えて来る。日本のお寺の鐘音がかくも美しいのは、我々のように内側にぶら下る重い金属製の鐘舌で叩かず、外側から、吊しかけた木製の棒の柔かく打ち耗へらされた一端で打つからである。また段々に速度を増す奇妙な太鼓の音は、祈祷その他の祭典の信号である。頭を剃った、柔和な顔つきの僧侶が行くのを見ると東洋に雲集する何百万人に対して仏教が持つ大勢力が目のあたり立証される。
このスケッチ(図61・62)は時代の色緑に、かつ万物を被う陰影によって湿気を帯びた、大きな石段の大略を示す。あたりを占めるものは、すべての密林に於るが如く、完全な沈黙で、それを破るものは只蝉の声と、鶇つぐみ(?)の低い、笛に似た呼び声とだけ。図62は欄干の石の一つを示す。単独の部分はいずれも一枚石から切り出され、各部分は真鍮の繋ぎで結びつけられてある。こんな仕事をするに要する労力は、定めし大変なものであろう! 遠方から石を運び、急な山腹を引きずり上げ、それを刻んで二百段の石段をつくることは、その仕事のすべてが蒸気機関も鉄道もない時代になされたが故に、我々の注意を強く引く。諸寺院の内部がまた外部同様に感銘的である。神龕の両側に厚重な鉢があり、それには竹の竿によって整枝された高さ四フィートの倭生松が植えてあるが、その全部――不規則な、曲った枝や、ざらざらした樹皮や、何百という針葉を持つ松の木、植木鉢、竹、その他すべて――が青銅製で、而も人造であることを確かめるためには、余程注意深く検査する必要がある位、真にせまっている!

お寺に近づいた時我々はお経のように響く妙な合唱を耳にして、これは何か宗教上の勤行ごんぎょうが行われつつあるのだなと思った。だが、それは、実のところ、労働者が多勢、捲揚機をまわして、建築中の一つの土台に大きな材木をはこんでいるのであった。我々は彼等が働くのを見るために囲いの内に入った。裸体の皮膚の赤黒い大工が多人数集って、いささかなりとも曳くことに努力する迄のかなりな時間を徒に合唱を怒鳴るばかりである有様は、誠に不思議だった。別の場所では、労働者たちが、二重荷車を引張ったり木挺てこでこじたりしていたが、ここでも彼等が元気よく歌うことは同様で、群を離れて立つ一人が音頭をとり、一同が口をそろえて合唱をすると同時に、一斉的な努力がこのぎこちない代物を六インチばかり動かす……という次第なのである。図63は荷車の形をしているが、例の無気味な音楽は我等の音譜ではどうしても現わし得ない。

お寺から帰る途中で、私は各一片の石からつくられた二つの大きな石柱の写生をした(図64)。それはたった今柱をとび越しはしたが、尻尾がひっかかったといったような形の神話の獣をあらわしている。

今まで研究していた目まぐるしい程の細工や奇麗な色彩や、こみ入った細部を後に、落付きのある部屋に帰ると、その対照は実に大きい。我々の部屋は階下のにも階上のにも、特に我々のために置かれた洋風の机と椅子とを除いて、家具類が一切無い。我々は床の上に寝るのである。階下の廊下から見える古風な小さい庭には、常緑樹と、花をつけた灌木若干と、塵もとどめぬ小径とがある。左手には便所(図65)へ通じる廊下があるが、これなどもニューイングランドの村で、普通見っともなくて而も目につきやすい事物を、このようにして隠す所に、日本人の芸術的洗練がよく現われている。日本の大工――というよりも指物師といった方が適切かも知れぬ――が、自然そのままの木を使用する方法に注意されたい*。木造部のすべては鉋にかけた状態そのまま、而もその大部分は自然そのままの状態である。私は辷る衝立によって塞がれた小さな戸棚が、昆虫箱その他を仕舞うのに便利であることを発見した。

* 『日本の家庭』には図65のうつしと叙述とが出ている。図66も書きうつし、説明をつけてこの本に出してあるが、この図は我々が寝た部屋の一つを示しているもので、日本間の簡単で上品な特質をよく現わしている。

街路に立ち並ぶ小さな店には土地の土産みやげ物があったが、どれを見ても付近の森で集めた材料から出来ていた。木質のきのこ(polyporus)をくりぬいて、内側に漆を塗った盃、虫の喰った木の小枝でつくった野趣に富んだ燭台、立木のいぼをくりぬいた鉢、内側に花を刻んだ美しい木の小皿、その他樹身や樹皮でつくった多くの珍しい品がそれである(図67)。

日本で名所として知られている多くの場所の土産物は、必ずそれ等の土地に密接した所から蒐集した材料でつくられる。我国に於ては、ナイアガラ瀑布、バー・ハーバアその他で、何千マイルも遠くから運んで来た、従ってその場所と全く無関係な品物が、土産物として売られる。事実、私はバー・ハーバアで、日本から持って来た土産物を見たが、店の者はそれを海岸で採集したのだといい、ナイアガラ瀑布では英国のライアス〔ジュラ紀時代の古部〕からの菊石を、滝のすぐ近くの岩石から掘り出した化石だといって売っている。
図68は高さ三フィートの青銅の鐘と、長さ八フィートの丸太棒と、それから、どんな風にそれをつるして鐘をつくかを示している。図69は私の昆虫箱を調べつつある日本の昆虫採集家。このスケッチをした時、彼はそれ等昆虫の日本名を私に教えていて、私は彼のいうことが一つも判らずに、つづけさまに礼をいうのであった。

日光付近で採集している間に、私は保護色の著しい例の二、三を見た。その一は路傍で見受ける小さな雨蛙が、常に大きな緑の木葉の上に坐っているのだが、その葉の緑と蛙の色とが全く同じであった。私は、また、緑色の蜘蛛くもが同様にして、樹の葉を占領しているのに気がついた。蜘蛛は沢山いて、そして面白い。ジオメトリックの種類〔我国の女郎蜘蛛の如く、幾何の図のように規則的な巣をつくる蜘蛛の種類〕に属する、ある奇妙な蜘蛛は、巣を垂直に近く張る代りに、水平的に張り、放射線の間は普通見受けるものよりも狭く、中心には多くの電光形線によって編まれた筵むしろがある。この筵の部分は、他の部分が殆ど見えない位なのに反して、色が白く非常に目につきやすい。蜘蛛は細長く、すらりとしていて、中心をすこし離れた所に、中心に面してとまり、巣をつつくと、荒々しくゆするのであった(図70)。もう一つの巣は、私がそれ迄に見たもののどれとも異っていた。それは直径一インチばかりの隠蔽した蛛網ウェッブの小さな巣で、不規則形に五、六本の細い帯が流れ出している。蜘蛛はその天蓋の下にかくれていて、放射している細帯が攪乱されると走り出す(図71)。

七月二日の月曜日の朝、我々は中禅寺に向って出発した。距離七、八マイル、全部登りである。日光は海抜二千フィート、中禅寺は四千フィート。我々はカゴを一挺やとったが、これは簡単な轎かごで二人がかつぎ、時々更代する男がもう一人ついている。別に丈夫そうな男が二人、袋や余分の衣類や、食料やその他全部を背中に負って行った。それは背中に長さ四フィート半の木の枠をくくりつけ、この架掛しょいこに我々の輜重しちょう行李をつけるのである。背中に厚い筵をあてがい、それの上にこの粗末な背嚢はいのう、即ち枠を倚り掛らせる。図72は二人の中の一人が昆虫網や杓子や採集瓶やその他を背負った所の写生である。これ等の重さは七十斤か八十斤あったに違いない。かくて召使い二人が行列の殿しんがりをつとめ、我々が往来を縦隊で進んで行くと土地の人々は総出で我々の進軍を見物した。我々は寺院へ通じる美しい並木路を登り、そこで左の谷へ入った。この所、川に沿うて家がすこしばかり集っている。が、深い木立の影になり、頭の上には山が聳える。山は皆火山性で、削磨作用のためにどの峰もまるい。図73は谷に入る時見た山々の輪郭を急いで書いたもので、我国の山とは非常に違う。道路は佳良で固く、その上礫を粉砕する車輪が無いために、埃ほこりは全くない。

二マイル歩いてから我々は道路を離れて、神社と、茶屋と、庭と、森林の間を流れ落ちる渓流の水晶のような水を湛たたえた池とがある小さな窪地へ降りて行った。この庭も、池も、家も、その他すべての物も、まっ盛りの躑躅つつじの茂った生垣に取りかこまれていた。岡の上から見た所は赤色の一塊であった。生垣は高さ四フィート、厚さ六フィート、そして我国の貧弱な温室躑躅などは足もとにも寄りつけぬ程美事に咲いていた。我々が廊下に坐って庭を見ながらお茶を啜すすっていると、湯元の温泉に入浴に行く旅人達がやって来た。その中の娘二人が肌をぬいで泉に身体を拭きに行ったのは、珍しく思われた。彼等は、我々が見ているのに気がつくと、外国人がこんな動作を無作法と考えることを知って、恥しそうに、然し朗かに笑いながら、肌を入れた。その総てが如何にも牧歌的であり、我々には異国にいることが殊のほか強く感じられた。
この魅力に富む場所を後にすると、道路はせまくなり、奔流する山の小川に出喰わした。水は清澄で青く、岩は重なり合い、坂は急に、景色は驚く可きものである。山々は高く嶮しく、水量は普通かかる場所に於て見られるものよりも遙かに多く、山間の渓流というよりも事実山の河川であった。狭い小径は大きな岩と岩との間をぬけたり、岩にそって廻ったり、小さな仮橋で数回川を越したりしている。この水音高く流れる川に沿うて行くこと一、二マイルにして登りはいよいよ本式になり、急な坂かはてしなき石段かを登ると、所々、景色のいい所に小さな腰掛茶屋がある。その一つは特に記憶に残っている。それは岬みさきみたいにつき出た上の、木立の無い点に立っていて、単に渓谷のすばらしい景色を包含するばかりでなく、三つの異る山の渓流が下方で落合うのが見られる。最初の休憩所で見た旅人達のある者が我々に追いついたので、しばらく一緒に歩いた。娘たちは、笑い笑い日本語で喋舌しゃべり、時々「オー、アツイ、アツイ」と叫ぶ。私に判った言葉はこれだけ。Hot を意味するので、その日はまったく焦げつくように暑かった。一人の老人が私に質問を発する。私はそれに応じて「汝不可解なる愚人よ、何故汝は汝の言論を作出しないか云々」というようなことをいうと、彼はそれに対して「ハイ」という。「ハイ」はイエスで、我々の逢う人達は、彼等の了解しないことのすべてに対して「ハイ」という。
我々一行中の二人は、かわり番こに「カゴ」に乗った。私も乗って見たが、こんな風にして人に運ばれるのは如何にも登山らしくないので、八分の一マイルばかりで下りて了った。駕籠かごは坐りつけている日本人には理想的だろうが、我々にとっては甚だ窮屈な乗物で、長い脚が邪魔になって、馴れる迄には練習を要する。私は一寸休んでいた間に急いで駕籠のスケッチをした。長い、丸い竿を肩にかつぎ、それからぶら下る駕籠を担いながら、屈強な男が二人、勢よく歩いて行く所は中々面白い。かごかきはそれぞれ長い杖を持って自身を支え、二人は歩調を合わせ、そして駕籠は優しく、ゆらゆら揺れる。その後からもう一人、これは先ず草疲くたびれた者に交代するためについて行く。図74はカゴで、図75は乗っている時内側から写生したものである。

ある場所で腐った木の一片をひっくりかえして見たら、きせる貝に似て巻き方が反対な、実に美しい陸貝があった。(私はこの「種」の形をフランスの一雑誌で見た覚えがある。)それ等と一緒にあった小さな貝は、明かにニューイングランドで普通に見受ける種の物と同一であった。また極めて美しい蝶が飛んでいて、私はその若干を捕えた。我々は路傍に立ち並ぶ石の像に興味を感じた。それ等の大多数――全部とまでは行かぬとしても――は仏陀の姿で、こわれているものも多く、中にはひっくり返った儘のもあるが、いずれも苔むし、その他いろいろと時代の痕跡をとどめていた。石の台の上にのっているのもあったが、その一つの両脚、両手の上には小石が積み上げてあった。この小石一つが一回の祈祷を代表するのである(図76)。渓流をさかのぼる時、小さな橋の上に佇んで下をほとばしり流れる水から立ち昇る空気に冷されるのは誠に気持がよい。氷河作用の証拠が見えぬのは不思議に思われた。漂石の中には、氷河作用によるものらしく見えるものが大略千個について一個位あるが、それ等もニューイングランドの漂石のように丸くはなく、また蝕壊されてもいない。旅人達が休み場として用いる無住の小舎で、私は初めて羽目や桷たるきに筆で日本文字の署名をしたのを見た。この時まで私は公共の場所を、我国で普通に行われるように、名前や、粗雑な絵や、文句でけがすことを見なかった。この無住の小舎は、然し人里を離れることが非常に遠いので、それを筆蹟帳として悪用することも、大した曲事とは思われなかった。

長い、辛い、然し素晴しい徒歩旅行を終えて、我々は中禅寺湖のほとりに着いた。この湖水は径二マイル、一方をめぐるのは一千五百フィート、あるいはそれ以上の急な山々で、北には有名な海抜八千フィートの男体なんたい山が湖畔から突如急傾斜をなして聳えている。湖床は明瞭に噴火口であったらしい。砂浜は見えず、岸にはあらゆる大きさの火山岩石が散在し、所々に熔岩や軽石がある。男体山は日本の名山の一つで地図には Nantai とあるが、ミカドが代ると共に新しい名前をつけたことがあるので、別名も数個持っている。一八六八年の革命の後、ミカドがこれに新しい名を与え、そして古い名は、それが何であったかはとにかく、放棄されて了った。これ――即ち古い名を変えること――は我々には、不思議に思われる。例えば江戸はこの革命の後に東京――東の首都――と名づけられた。だが、我々とても、それはインディアンの名を英語の名に代えたのではあるが、同様な変更を行った。シャウムウトがボストンになり、ナウムケーグがセーラムになった如きはその例である。
蜻蛉とんぼが何百万という程群むらがって飛んでいた。私はこんなに沢山いるのを見たことがない。彼等は顔につき当り、帽子や衣服にとまり、実にうるさいことこの上なしであった。また蜉蝣かげろうその他の水中で発生する昆虫類も多数いた。この日の午後を私は湖畔で採集をして送った。生きた軟体動物の、証跡は見あたらなかったが、水蛭みずびるはあちらこちらの岩の上にいたし、少数の甲殻類も目についた。蛙は二つの「種」のが沢山いた。また東京付近の田の溝に非常に多い蜆しじみが、ここには貝殻ばかりしかないのには驚いた。私は生きた標本をさがそうと思って、柄杓ひしゃくでかきまわしたが、無駄だった。後で旅館へ帰って聞いた所によると、政府はこの湖水に生きた蜆を一万個移植したのだが、それは全部死んで了ったとのことである。
この国で最も有難からぬ厄介物の一つは蚤のみである。山の頂上にでも野生している。彼等は人家に侵入しているので、夜間余程特別な注意を払わぬと人間は喰い尽されて了う。その噛みよう――刺しよう――は非常に鋭尖で、私の腕を刺した奴は、私をしてガバとばかり起き上らせた位であり、そしてうず痛さはしばらく残っていた。私の身体は所々蚤に喰われて赤く膨れ上っている。どこででも使用する藁の敷物が、彼等にこの上もない隠れ家を与える。我国の夜具の役をするフトンは木綿か絹の綿――最高級の家を除いてはめったに後者を使わぬ――を沢山入れた上掛である。その一枚を身体の下に敷き、上には何枚でも好きな丈かける。東京を出発する前に我々は大きな枕蓋か袋のような形の寝間着をつくらせた。夜になるとこの中に入りこんで、首のまわりで紐を締るのである。寝る時が来て我々が手も足も見せずに長々と床に寝そべる有様は誠に滑稽こっけいだった。我々はまるで死骸みたいだった。障子を明けるためには、ヨロヨロと歩いて行って、頭で障子を押す。これには腹をかかえた。だがこの袋のおかげで、蚤の大部分には襲われずに済んだ。
下層民が使用する食物の名を列記したら興味があるであろう。海にある物は殆ど全部一般国民の食膳にのぼる。魚類ばかりでなく、海胆うに、海鼠なまこ、烏賊いか及びある種の虫さえも食う。薄い緑色の葉の海藻も食うが、これは乾燥してブリキの箱に入れる。見受けるところ、これは普通の緑色海藻で、石蓴あおさ属の一つであるらしい。料理の或る物は見た目には食慾をそそるが、我々の味覚にはどうも味が足りない。私は大きに勇気をふるっていく皿かの料理を試みたが、実に腹がへっていたのにかかわらず、嚥のみ込むことが出来たのはたった一つで、それはスープの一種であった。はじめブリキの鍋で、水とウスターシイヤ・ソースのような濃い色の、醗酵した豆から造るソースとを沸し、これに胡瓜きゅうりみたいな物を薄く切って入れ、次には搾木を外したばかりの新しい白チーズによく似た物質の、大きなかたまりを加えるが、これは三角形に切ってあった。この最後の物質は豆を煮て、皮を取去るために漉こし、それを糊状のかたまりに製造するのである。このスープは確かに養分に富んでいたし、すこし練習すれば好きになれそうである。もう一つの普通な食品は、海藻からつくった、トコロテンと称するものである。これは長い四角形の白い物質で、必ず水につけてある。それを入れた浅い桶の横には、出口に二十四の間隙を持つ金網を張った四角い木製の水銃があり、この水銃の大きさに切ったトコロテンを喞子ピストンで押し出すと、針金がそれを長く細い片に切るという仕掛である。トコロテンはまるで味がなく、マカロニを思わせる。ソースをすこしつけて食う。図77は水銃と喞子とのスケッチで、出口の図は実物大〔原著〕である。

中禅寺の村は冬には人がいなくなる。今は七月の第一週であるが、それでも僅かの家にしか人が入っていない。然しもうしばらくすると、何千人という旅人が男体登山にやって来て、どの家にも部屋を求める人達が一杯になる。田舎の家や旅籠はたご屋は炊事に薪を使用するので、板の間はピカピカに磨いてあるが、台所の桷は黒くすすけている。
奥地へ入って見ると、衣服は何か重大なことがある時にのみ使われるらしく、子供は丸裸、男もそれに近く、女は部分的に裸でいる。
その夜非常によく眠て翌朝はドクタア・マレーと私とが男体山に登る事になっていたので、五時に起きた。我々は先ず一ドル支払わねばならなかった。これは案内賃という事になっていたが、事実僧侶の懐に入るのである。男が一人、厚い衣類や飲料水等を担いで我々について来た。往来を一マイルの八分の一ばかり行った所で、我々は石段を登ってお寺に詣り、ここで長い杖を貰った。お寺の正門の両側に長い旗が立っていた。細長い旗を竿につける方法が如何にも巧みなので、私はそれを注意深くスケッチした(図78)。(その後私は店の前やその他の場所で、同じように出来た小さな旗を沢山見た。)旗は竹竿の上端にかぶさっている可動性の竹の一片についていて、旗の片側にある環がそれをちゃんと抑え、風が吹くと全体が竿を中心に回転する。旗は漢字を上から下へ垂直的に書くのに都合がいいように長く出来ている。私は漢字を写す――というよりも寧ろそれ等がどんな物であるかを示すべく努力した。旗は長さ十五フィートで幅三フィート、依って私はその上半部だけを写した。漢字は寺院と山の名その他である。図79は石段の下部、両側の旗、及びそのすぐ後方にある鳥居の写生図である。古めかしい背の高い、大きな門の錠が外されて開いた。それを通り越すと、我々は直接に山の頂上まで行っている山径の下に出た。唐檜とうひが生えているあたり迄は段々で、それから上になると径は木の根や岩の上に出来ている。それは四千フィートの高さを一直線に登るので、困難――例えばしゃがんだり、膝をついて匐はったり、垂直面につまさきや指を押し込んだりするような――を感じるようなことは只の一度もなかったが、それにも拘らず、私が登った山の中で最も骨の折れる、そして疲労の度の甚しいものであった。径は恐ろしく急で、継続的で、休もうと思っても平坦な山脊も高原もない。図80は我々が測定した登攀とうはんの角度である。図81は段々の性質を示しているが、非常に粗雑で不規則で徹底的に人を疲労させ、一寸鉄道の枕木の上を歩いているようだが、続け様に登る点だけが違っている。またしても珍しい植物や、美しい虫や、聞きなれぬ鳥の優しい声音、そして岩はすべて火山性である。

上へ上へと登るに従って、中禅寺湖の青い水は木の間から輝き、山々の峰が後から見えて来る。果しないと迄思われた時をすごして唐檜の列まで来ると、今迄よりも見なれた花が多くなった。我々はバンチベリーの花を見た。これは我国のより小さい。またブルーベリーを思わせるベリーを見たが熟してはいなかった。その他、北方の植物系統に属する花があったが、それ等が亜熱帯の型式を備えたものと混合して咲いていたのは不思議である。頂上に近づくとあたりの山々の景色は誠に壮大であった。近い山は海抜八一七五フィートという我々の高度よりも遙かに低い。遠くの山の渓谷には雪が見られた。峰々の外貌は、ホワイト・マウンテンスのそれに比較すると、著しく相違している。登る途中所々に毎年巡礼に来る日本人たちが休んで一杯の茶を飲む休憩所があったが、かかる場所に来ることは気持がよかった。外国人は影も形も見えず、また空瓶、箱、新聞紙等が目に入らないのはうれしかった。時々我々は小さな屋根板のような薄く細長い板片をひろった。これには漢字が書いてあるが、それはお祈りであるということであった。
今や我々は絶頂から百フィートの所に来た。その一方の側は、千フィートをも超える垂直な面で、古い噴火口の縁である。絶頂のすこし下に真鍮で蓋った黒塗の頑丈な社がある(図82)。それを最高点から見た所は図83で示した。扉には鍵がかかっていたが、内部には仏陀の像があるとのことであった。前面の壇、即ち廊下には錆さびた銭若干があり、絶頂近くには槍の穂や折れた刀身が散っていたが、いずれも何世紀間かそこにあったことを思わせる程錆びて腐蝕していた。見受ける所これ等に手を触れた者は一人もないらしく、私は誘惑に堪え兼ねて小さな錆びた破片二つを拾った。これは神社へ奉納したものである。図83に見える最高所には岩に深く穴のあいた所があるが、昔ここで刀を折った。それよりもっと珍しいのは、犠牲、あるいは、立てた誓を力強めるためにささげた、何本かの丁髷ちょんまげである。話によると日本の高山の、全部とまでは行かずとも、殆どすべてには、神社があるそうである。驚く可き意想であり、彼等の宗教に対する帰依である。八月にはかかる場所へ、日出と共に祈祷をささげんとする人々が何千人と集る。その中には難苦を堪え忍んで、何百マイルの旅をする者も多い。私は我々の宗教的修業で、メソディスト幕営キャンプ集合以外、これに比すべきものは何も思い出せなかった。

我々は頂上に一時間いたが、百五十マイル向うの富士山が、地平線高く聳える景色は驚く可きものであった。高く登れば登る程、地平線は高く見える。この高さから富士を見ると、その巨大さと、またがる地域の広汎さとが、非常にはっきり理解出来る。図84の写生図に於て富士山の傾斜はあまりに急すぎるが、写生した時にはこう見えたのである。捲き雲の塊が富士の裾をかくしていたが、ワシントン山位の高さの山ならば、この雲の層に頂がかくれて了うことであろう。

下山は登山よりも骨が折れた。私はこんな際限もない段々をポッコリポッコリ下りるよりも、カリゲインを十二度下りた方がいい。頂上から麓までの距離は七マイルというが、麓に来る迄にもう二十マイルもあったように思われたので、我々はよろこんで一時間を休憩と睡眠とに費した。この時日本の木枕を使った。涼しいことは涼しかったが、どうも具合が悪かった。五時、八マイル向うの湯元に向けて出発。私は元気溌剌たるものであった。
路は二マイルばかりの間湖水に沿うている。これが中禅寺と湯元とを結ぶ唯一の街道なので、叢くさむらが両側から迫り、歩く人に触ったりするが、而もよく踏み固められてある。時々我々は半裸体の土民や背に荷を負った妙な格好の駄馬に行きあった。歩きながら赤坊に乳房をふくませる女が来る。間もなくもう一人、両肌ぬぎで日にやけた上半身をあらわし、駄馬を牽きながら片手で赤坊を荷物のようにかかえ、その赤坊がこんな風なぎこちない位置にいながら、乳を吸っているというのが来る。路は湖畔を離れて徐々に高い平原へ登る。ここ迄は深林中の、我国で見るような下生えの間を通って来たのである。今や我々は、暑くて乾き切った夕日が、一種異様の光で、これから我々が横切ろうとする何マイルかの平坦地を照す所に出て来た。この地域は疑もなく死滅した火山の床、即ち火口底なのである。黒蠅に似た所のある蠅が、我々を悩し始めた。刺すごとに血が出る。蝶はひっきりなしに見られた。大群があちらこちらに群れている。路には鮮かな色の甲虫類が沢山いた。またいたる所に、青と紫のあやめが、広い場所にわたって群生して咲いていたが、最も我々を驚かせたのは躑躅の集団で、我々はその中を文字通り何マイルも徒渉した。我々は男体山の頂上で、すでにこれ等の花が赤い靄もやのように見えるのに気がついていた。この高原は高い山でかこまれていたが、そのすべてに擢ぬきんでる男体は、遠く行けば行く程、近くなるように見えた。図85はここから見た男体である。再び我々が森林に入った時、あたりは全く暗かった。我々は疲れてはいたが、二マイル行った所にある美しい滝に感嘆することが出来ぬ程度に疲労困憊こんぱいしてもいなかった。

八時、我々は数軒の家がかたまり合って高い山の中心に巣喰っているような、湯元の小村に入った。茹ゆで玉子の奇妙な、気持の悪い臭気があたりに充ちていたが、これはこの地に多い硫黄いおう温泉から立ち上るものである。我々は素速く、外気に面して広く開いた一軒の旅籠を発見し、荷物はそのままに、畳の上に倒れて間もなく深い眠りに陥った。湯元に着いた時はもう暗かったので、何も見えなかったが、翌朝目を覚して素晴しい風景や、見馴れぬ建物や、珍しい衣類を身につけた(あるいは全然身につけぬ)国人を見やり、硫黄の臭に混った変な香を嗅ぎ、聞いたこともないような物音を耳にした時には、何だか地球以外の星に来たように思われた。早く見物をしたいという気に駆られて、我々は二つか三つ細い往来のあるこの寒村を歩き廻ったが、端から端までで一千フィートを越してはいなかった。だが出かける前に、我々はどこで顔を洗う可きかに就いて多少まごついた。日本の家には、いう迄もなく、手水ちょうず台、洗面器、水差というような便利な物は置いてないのである。この時まで我々は銅或は真鍮の皿と、バケツ一杯の水と、柄の長い竹の柄杓とを持って来させて顔を洗った。橋石には図65で示したような洗面用の高い流しがあった。我々は最後に廊下の一端に木造の流しと、水の入った手桶と真鍮の盥たらいとが置いてあるのを見出し、この盥でどうやらこうやら顔を洗ったが、前にかがまねばならぬので、誠に具合が悪かった。別の場所で私は棚、あるいは台ともいう可き物の上に手桶がのっているのを見た。それには図86に示す如く、呑口のようにつき出した管があり、呑口の代りに鉄の栓を引きぬく仕掛があった。噴き出す水の量は極めて僅かで、両手と顔とを洗う丈出すのにさえ大分時間がかかった。

浴場は道路の片側に並んでいる。前面の開いた粗末な木造の小屋で、内には長さ八フィート、幅五フィートの風呂桶があり、湯は桶の内側にある木管から流れ入ったり、単に桶の後方にある噴泉から桶の縁を越して流れ込んだりしている。一つの浴場には六、七人が入浴していたが、皆しゃがんで肩まで湯に浸り、時に水を汲んで頭からかけていた。然し最も驚かされたのは、老幼の両性が一緒に風呂に入っていて、而もそれが(低い衝立が幾分かくしてはいるが)通行人のある往来に向けて明け放しである事である。
ここで、一寸横道に入るが、私は裸体の問題に就いてありの儘の事実をすこし述べねばならぬ。日本では何百年かにわたって、裸体を無作法とは思わないのであるが、我々はそれを破廉恥はれんちなこととみなすように育てられて来たのである。日本人が肉体を露出するのは入浴の時だけで、その時は他人がどうしていようと一向構わない。私は都会ででも田舎ででも、男が娘の踵や脚を眺めているのなんぞは見たことがない。また女が深く胸の出るような着物を着ているのを見たことがない。然るに私はナラガンセット・ビヤや、その他類似の場所で、若い娘が白昼公然と肉に喰い込むような海水着を着、両脚や身体の輪郭をさらけ出して、より僅かを身にまとった男達と砂の上をブラリブラリしているのを見た。私は日本で有名な海水浴場の傍に十週間住んでいたが、このような有様にいささかなりとも似通ったことは断じて見受けなかった。男は裸体でも必ず犢鼻褌ふんどしをしている。かつて英国のフリゲートがニュージーランドのある港に寄り、水兵たちがすっぱだかで海水浴をした所が、土人たちは必ず腰のあたりに前かけか犢鼻褌かをしているので、村の酋長が士官に向って、水兵たちが何も着ずにいる無作法さに就いて熱烈な抗議をしたことがあると聞いている。
私は中禅寺へ向う途で、我々に追いついた旅人達のことを述べた。嶮しい所を登る時、私は二人の可愛らしい娘に手をかして、足場の悪い場所を助け上げようとした。私には彼女等にふざけてかかろうというような意志は毛頭無かったのであるが、湯元温泉へ向いつつある彼女等はそう考えたらしく、私の申出を遠慮深く「ゴメンナサイ」と言って断った。さて温泉に来て、ドクタア・マレーは管から流れ出る時の湯の温度を知り度いと思ったが、いくらか足が悪いので、寒暖計をそこに支え持つことを私に依頼した。これをする為には私は片足をうんと内側に踏み入れて、風呂桶の縁に立ち、湯の流に届くように腕を思い切り伸す必要があった。私がいささか気恥しく思い、桶の中にいる人達を見る勇気がなかったことは、誰でも了解出来るであろう。この時桶の中から「オハヨー」というほがらかな二人の声がする。その方を見て、前日のあの遠慮深い娘二人が裸で湯に入っているのを発見した私の驚きは、如何ばかりであったろう。事実をいうと彼等は子供のようで、私は日本人が見る我々は、我々が見る日本人よりも無限に無作法で慎みがないのであることを断乎として主張する。我々外国人が深く襟を切り開いた衣服をつけて、彼等の国にないワルツのような踊をしたり、公の場所でキスをしたり(人前で夫が妻を接吻することさえも)その他いろいろなことをすることは、日本人に我々を野蛮だと思わせる。往来を歩きながら風呂桶をのぞき込む者があれば入浴者は、恐らく我々が食卓に向っている時、青二歳が食堂の窓から覗き込んで行くようなことがあった場合に、いうようなことを、いい合うであろう。日本人のやることで我々に極めて無作法だと思われるものもすこしはある。我々のやることで日本人に極めて無作法だと思われることは多い。
道路に沿って浴場が数軒ある。屋根の無いのもあれば、図87のように小屋に似た覆いがあるのもある。地面から多量の湯――文字通り※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)にえくり返る泉で一秒間も手を入れていることが出来ぬ――がわき出ているのは実に不思議な光景だった。一つの温泉に十分間鶏卵を入れて置いたら、完全に茹って了った。これ等の温泉は、すべて同じ様な硫黄性の臭気を持っているらしく思われたが、而も村の高官の一人が我々の通訳に教えた所によると、それぞれ異った治療的特質を持っている。ある温泉は胸や脚の疼痛いたみに利くことになっている。もう一つ別なのは胃病によろしく、更に別なのは視力の恢復に効能があり、また別なのは脳病に、この温泉は何々に……という訳で、それぞれ異る治病効果を持っていることにされている。

ドクタア・マレーが手帳を持ち、私がかかる浴場に一つ一つ入っては、桶の隅に立って出口から流れ出る湯の方に寒暖計をさし出し、後には我々が何をするかと不思議に思ってついて来る老幼男女を随えて道路を歩いたのは、実に並外れな経験であった。ついて来る人達は入浴者を気にかけず、入浴者はついて来る人達を気にかけなかったが、これは全くしかあるべきである。それは実に礼節と単純さとの絶頂であって、この群衆の間には好色な猫っかぶりなどはいない。浴場にはそれぞれ二人乃至八人(あるいはそれ以上)の入浴者がいて、中には浴槽の縁に坐っているのもあったが、若い娘、中年の婦人、しなびた老人等が、皆一緒の桶で沐浴する。私は素直に且つ明確に、日本の生活のこの一面を説明した。それはこの国民が持つ特に著しい異常の一つだからである。我々に比して優雅な丁重さは十倍も持ち、態度は静かで気質は愛らしいこの日本人でありながら、裸体が無作法であるとは全然考えない。全く考えないのだから、我々外国人でさえも、日本人が裸体を恥じぬと同じく、恥しく思わず、そして我々に取っては乱暴だと思われることでも、日本人にはそうでない、との結論に達する。たった一つ無作法なのは、外国人が彼等の裸体を見ようとする行為で、彼等はこれを憤り、そして面をそむける。その一例として、我々が帰路についた時、人力車七台(六台には一行が乗り、一台には荷物を積んだ)を連ねて、村の往来をガラガラと走って通った。すると一軒の家の前の、殆ど往来の上ともいう可き所で、一人の婦人が例の深い風呂桶で入浴していた。かかる場合誰しも、身に一糸もまとわぬ彼女としては、家の後にかくれるか、すくなくとも桶の中に身体をかくすかすることと思うであろうが、彼女は身体を洗うことを中止せずに平気で我々一行を眺めやった。人力車夫たちは顔を向けもしなかった。事実この国三千万の人々の中、一人だってそんなことをする者はないであろう。私は急いでドクタア・マレーの注意を呼び起さざるを得なかった。するとその婦人は私の動作に気がついて、多少背中を向けたが、多分我々を田舎者か野蛮人だと思ったことであろう。また実際我々はそうなのであった。
湯元で水温調査を終えた我々は、この土地唯一の大きなゴンドラみたいな舟を借り、漕ぎ手として男二人をやとって、湖水の動物研究にとりかかった。舟子が舟に乗りうつる時、若い娘が例の火鉢と薬鑵やかんとを持ってついて来た。我々は何故招きもしない彼女が舟に乗って来たのか不思議に思ったが、とにかく舟を立去らぬので、私はあかとりから貝を取り出す時硝子ガラス瓶を持たせたり何かして、彼女に渡船賃をかせがせた。彼女は我々が標本をさがして舷ふなばたから水中を見る時、我々の帽子を持ったりした。やがて岸に帰りついて、彼女が実は舟の持主で、我々が彼女に舟賃を払わねばならぬと知った時の我々の驚きは推察出来るであろう。この国の人々は冗談を面白がる気持を多分に持っているから、定めし彼女も我々が彼女を取扱ったやり口を楽しんだことであろう。私はメイン州の「種」を思わせる Lymnaea の標本一つと、小さな Pisidiium とを見つけた。我々が岸を離れ、貝をさがすにはもって来いの新しい水蓮の茂った場所に来た時、烈しい風が吹き始め、舟子たちが一生懸命、漕いだり押したりしたにも拘らず、舟は自由にならなかった。彼等を助けようと思って私は竿を取ったが、間もなく竹竿が私にとっては全く珍奇なものであることを理解し、また舟その他すべてが我国にあるのと丸で違って奇妙な動きようをするので、うっかりすると水の中に墜ちる恐れがあるから、私は運を天にまかせた。我々は湖水を横断して、対岸の入江へ吹きつけられた。ここで風の止むのを待ってしばらく採集した後、舟子たちは舟を竿で押し戻そうとした。私は再び竿を取って見たが、あまり短気に、どこへでも構わぬから動かそうとした結果、暗礁にのし上げて了った。ここで我々はかなりな時間を徒費した。舟子はとうとう水中の岩に飛び降りて、そして恐ろしい努力の後に、ボートを持ち上げるようにして、岩から引き離した。と同時に、また風が舟をもとの入江に吹きつけたので、我々は皆岸に飛び上って湯元まで歩いて帰った。図88は舟から見た村を大急ぎで写生したものである。

宿屋に着くと我々は急いで荷造りをし、ドクタアは駄馬をやとい、十七マイルの距離を橋石まで歩いて帰ることにした。その日一日の経験の後なので、丘を上下し、平原や渓流を横切り始めた時には、いささか疲れていた。我々はかくの如くにして、七月四日の独立祭を祝ったのである。私は昆虫採集に時を費した為に取り残されて了い、私の日本語たるや「如何ですか?」「さようなら」「一寸待って」、その他僅かなバラバラの単語に限られているのに、数時間にわたって、英語の全く話されぬ日本の奥地に、たった一人でいるという、素晴しい新奇さを楽しんだ。この日は暑熱きびしく、私の衣服はすべて人夫が背負って先に持って行って了ったので、私は下シャツとズボン下とを身につけている丈であった。それも出がけにボタンが取れて了ったので、安全ピン一本でどうやら体裁をととのえ、かくて私はその日を祝うために「大砲ドンドン」「星の輝く旗」等を歌いながら、或は蝶々を網で捕え、或は甲虫を拾い、とにかく局面の奇異を大いに愉快に思いながら歩いて行った。私は熱い太陽を除けるために、てっぺんの丸い日本の帽子をかぶっていた。これで私の親友と雖いえども、私が誰だか判らなかったことであろう(図89)。日本人がこの焦げつくような太陽の下を、無帽で歩いて平気なのには実に驚く。もっとも折々、非常に縁の広い編んだ笠をかぶっている人もいるが……。平原地を通りぬけて再びあの深林中の小径に来た時、突如私の前に現われたのは一匹の面構え野蛮にして狼のような犬で、噛みつかんばかりの勢で吠え立てたが、路が狭くて通りこすことが出来ないものだから、後ずさりをした。我々はその状態を続けた。犬は逃げては吠えた。白状するが、私の僅かな衣類は極めて薄く思われ、私はピストルを持っていなかった。間もなく三人の日本人が現われた。犬は彼等の横を走りぬけ、我々は身体をすり合わせて通った。すると犬奴は彼等を見失うことを恐れ、思切って森の中に飛び込んで私と反対の方向に走った。何故犬が森を怖れたのか、私には訳が分らぬ。いずれにしても、犬が行って了ったことは悦しかった。もっとも、それ迄に見た犬から判断すると、この国の犬は害のない獣であるから、私も特別に恐れていはしなかったが……。

私は中禅寺で、休憩しながら私の来るのを待っていた一行に追いつき、食事をした後でまた歩き出した。橋石に向う途中の景色は、来た時よりも余程雄大である。下り坂なので、荒々しい切り立った渓谷を見下すことが出来るばかりでなく、上る時には暑くて疲労が激しい為に何も考えることが出来なかったが、今は深い谷の人に迫るような形状をつくづくと心に感じることが出来た。我々の食料はなくなりかけていた。赤葡萄酒や麦酒ビールは残っていたが――我々が極端な節酒家であることの証拠である――ビスケットは完全になくなって了った。(外国人は日本の食物や酒に馴れなくてはならぬ。私は一、二年後にすっかり馴れた。これは同時に運搬や調理の面倒と費用とを節約することになる。)我々は米、罐詰のスープ、鶏肉で、どうにかこうにか独立祭の晩餐をつくり上げ、ミカド陛下、米国大統領、並に故国にいる親しき者達の健康を祝して乾杯し、愛国的の歌を歌い、テーブルをたたいて、障子からのぞく宿屋の人々を驚かしたりよろこばしたりした。 
第四章 再び東京へ
二日間続けさまに雨が降って我々に手紙や旅行記を書く時間を充分与えて呉れた。朝の五時、我々は東京へ向けて出発した。人力車は旧式な二輪馬車みたいに幌をかけ、雨をふせぐ為に油紙を前方に結びつけた(図90)。我々は文字通り仕舞い込まれて了ったあげく、七台の人力車を一列につらねて景気よく出立した。車夫の半数は裸体で、半数はペラペラした上衣を背中にひっかけた丈である。確かに寒い日であったが、彼等は湯気を出して走った。時々雨がやむと幌を下させる。車夫たちは長休みもしないで、三十マイルを殆ど継続的に走った。急な傾斜のある場所では、溝に十フィート、あるいは十五フィート置きに堰せきが出来ていて、水流の勢を削ぎ、かくて水が勝手に流れ出るのを防ぐようになっているのに、気がついた。また立木は如何なる場所にでも斧で伐らず、鋸で引いて材木を節約する。時に大きな岩塊に、それを割ろうとした形跡のあるのを見たが、鑽孔は円形でなくて四角い。街道には変った人々がいた。我々がすれちがった一人の巡礼は、首にかけた小さな太鼓を時々たたき、口を開くことなしに、息を吹き出して了ったバッグパイプのような、一種間ののびた、つぶやくような曲節に似た、音を立てるのであった。この音は彼の祈祷で、巡礼中絶えず口にするものである。何百マイルも旅をして各所の神社仏閣に参詣するこれ等の人々の中には、大工や商人や百姓等などもいる。彼等はよく一銭も持たずに、たとえ家には充分金があっても、途中の食事と宿とは人々の施しを頼りにして、巡礼に出かけることがある。

我々が昼飯をとるために休んだある場所では、一人の男が詩だか何だかを朗誦していたが、彼の声には非常に緊張した不自然な調子があった。彼は二つの長い木片を持っていて、適当な時間を置いては彼の話に勢をつける為に、それを叩き合せた。家の近所にいた人は誰も彼に注意を払わないので、我々は一銭ずつ出し合って、彼になおしばらく朗誦を続けさせた。我々が旅した街道には、前にも述べたような立派な松や杉が、塀のように立ち並んでいた。他所に於ると同様、ここでも燕が家の中に巣をつくり、最も善い部屋にまで入り込む。床がよごれるのを防ぐ為に棚が打ちつけてある。
街道には短い間隔をおいて標があり、次の場所までの距離が示してある。三十五マイル来た時、路が非常に悪くなり、また風も著しく勢を増したので、我々の車夫は疲れて了い、引き返し度いといい出した。そこで賃銀を貰った彼等は、四銭出して食事をした後、帰って行った。我々が通過した村のある物は貧しげに見え、村民たちも明らかに貧乏やつれしていた。外国人がめったにやって来ないので、我々が通ると家族全体が出て見送り、我々が止ると人の黒山があたりを取巻いた。人々は最下層に属し、粗野な顔をして、子供は恐ろしく不潔で、家屋は貧弱であったが、然し彼等の顔には、我国の大都市の貧民窟で見受けるような、野獣性も悪性も、また憔悴しょうすいした絶望の表情も見えなかった。我々が昼食をしたある村では、お主婦かみさんが我々の傍に膝をついて坐り込み、我々が何か口に入れるごとに、歯をむき出してニタリニタリと笑ったり、大声を立てて笑ったりした。そして最後にうるさくてたまらぬ程になったので、ドクタア・マレーが日本語で、何がほしいのだと叱るように質たずねたら、彼女はその意味を悟って向うへ行った。この憐れむ可き女は何も知らず、そして極めて好奇心に富んでいるので、我々の顔色、服装、食物、動作、ナイフとフォーク、その他すべてのこまかいこと迄が全然新しく、見馴れぬものなのだった。彼女の態度は、たしかによくなかった。
このきたならしい町に於てですら、我々が立寄った旅籠屋を、ニューイングランドその他の我国の各所で私が見た宿屋と比較すると、面白いことが見出された。図91は我々の部屋の一面をざっと写生したものである。棚はざらざらした虫喰いの板、柱は自然のままの木の幹、それから簡単なかけもの。細部はしっかり建てられてあった。この部屋は美しい庭に面していて、庭には水をたたえた小さな木槽があった。その材木は海岸から持って来たのである。事実それは船材の一部分で、色は黒く、ふなくい虫が穴をあけたものである。その中には岩と水草と真鍮の蟹かにその他が入っていた(図92)。それは誠に美しく、我国にでもあったら、最も上等な部屋の装飾として、熱心に探し求められるであろうと思われた。この部屋の壁にかけられた書き物は、翻訳を聞くと、古典の一部であることが判った。私は米国の同じような場所の壁を飾る物――拳闘、道化た競馬、又は裸の女を思い浮べ、我々はいずれも、日本人の方が風流の点では遙かに優れていることに同意した。この繊細な趣味のすべてが、最も貧しい寒村の一つにあったのである。そしてこの異教人の国で、芸術的の事物を鑑識することが、如何に一般的に行われているかを示している。

此所で我々は、我々の人力車夫と喧嘩をした。彼等は我々が手も足も出ないような地位にあるのを見て、所謂文明国でよく行われるように、足もとにつけ込もうとしたのである。我々はステッキで彼等を威嚇した。すると彼等は大人しくなったが、事実彼等は悪人ではないので、事態は再び円滑になった。雨が絶間なくビショビショ降り、おまけに寒かったが、これ等の裸体の男共は、気にかける様子さえも示さなかった。日本人が雨に無関心なのは、不思議な位である。小さな赤坊を背中に負った子供達が、びしょ濡れになった儘、薄明の中に立っていたりする。段々暗くなるにつれて、人力車に乗って走ることが、退屈になって来た。低い葺き屋根の家々が暗く、煙っぽく見え、殆どすべての藁葺家根から、まるで家が火事ででもあるかのように、煙が立ち登る。茶をのむ為に休んだ場所には、どこにも(最も貧し気げに見える家にさえ)何かしら一寸した興味を引くものがあった。例えば繩、竹、又は南京玉のように糸を通した介殻さえも材料にした、簾のれんの器用なつくりようがそれである、これは戸の前に流蘇ふさのように下っていて、風通しがよく、室内をかくし、そして人は邪魔物なしに通りぬけることが出来るという、誠にいい思いつきである。村の一軒の小さな家の屋根が、鮑あわびの大きな完全な介殻や、烏賊いかの甲で被われていたことを覚えている。これ等は食料として海から持って来たもので、殻を屋根の上にのせたのである。
最後に人力車の旅の終点に着いた我々は、すべての旅館に共通である如く、下が全部開いた大きな家の前に下り立った。非常に暗く、雨は降り続いている。そして車夫たちが、長い間走ったので身体から湯気を立てながら、絵画的な集団をなして、お茶を――ラム酒でないことに御注意! ――飲み、着色した提灯のあたたかい光が、彼等の後に陰影を投げて、彼等の褐色な身体を殆ど赤い色に見せている所は、気味が悪い程であった。彼等は野蛮人みたいに見えた。この家には一体何家族いるのか見当がつかなかったが、すくなくとも半ダースはいたし、女も多かった。図93は戸外から我々を見つめていた子供達の群である。一室に通された我々は、草疲くたびれ果てて床の上にねころがった。

天井には長い棒から蚕かいこの卵をつけた紙片が何百枚となくぶら下っていた(図94)。これ等はフランスに輸出するばかりになっている。紙片は厚紙で長さ十四インチ、幅九インチ、一枚五ドルするということであった。いい紙片には卵が二万四千個から二万六千個までついている。紙片は背中合せにつるしてあって、いずれも背に持主の名前が書いてある。横浜の一会社が卵の値段を管制する。この会社は日本にある蚕卵をすべて買占め、ある年の如きは卵の値段をつり上げる為に、一定の数以上を全部破棄した。この家の持主らしい男は中々物わかりがよく、我々は通弁を通じていろいろと養蚕に関する知識を得た。彼には奇麗な小さな男の子がある。私は日本に来てから一月になり、子供は何百人も見たが、私が抱いて肩にのせさえした子供はこれが最初である。家の人達はニコニコして、うれしがっていることを示した。

磨き上げた黒い歯を持つ既婚の婦人達は、外国人にとってぞっとする程驚く可きものである。最初に黒磨料をつける時、彼等は色がよくしみ込むようにしばらく唇を離している。このように唇を引き離していることはやがて癖になる。とにかく、彼等はめったに唇を閉じていない。若い男が扇子を持ち出して、我々に名前を書いてくれといった。私が私の分に虫や貝を沢山書いてやったら、彼は大いによろこんで、返礼に菓子を一袋呉れた。砂糖漬の杏プラムはうまかったが、他の砂糖菓子は何等の味もしないので、外国人にはうまいとは思われぬ。
この地、野渡のわたで我々は舟に乗り、利根川を下ることになった。利根川の航行は野渡で始る。Nowata の最後のAがRのように発音されるので、そこから舟運が始まる場所の名前として no water〔水なし〕は適切であるように思われた。東京までの六十マイルを、我々をのせて漕いで行く舟夫が見つかった時は、もう夜の十時であった。一寸さきも見えぬような闇夜で、雨は降るし、殊に最後に河を下った時、河賊に襲われたというので、舟夫は容易に腰をあげなかった。ドクタア・マレーと私とは、我々二人が非常に物凄い人達で、よしんば河賊が何十人敢て現われようと、片っぱしから引きちぎってやるということを示した。この危険は恐らく、大いに誇張されていたものであろうが、それでもその時には、我々の旅行に興奮的の興味を加えた。それで気持のよい宿主達に「サヨナラ」を告げた後、我々は親切な男の子達が手にさげた紙提灯ちょうちんの光に照らされて、濡れた原や藪を通って河岸に行った。舟は長い、不細工なもので、中央部に接ぎ合した葺屋根に似た小さな莚の屋根を持つ場所がある。舟には、舵を取る邪魔になるというので、燈火がない。我々は手さぐりで横になる場所をさがした。私は一時間ほどの間坐ったままで、周囲の新奇さを楽しんだ。舟夫は無言のまま、長い、間断ない振揺で櫓を押し、人々は熟睡し、あたりは完全に静寂である――事実、多くの不思議な昆虫類が立てる疳かん高い鳴声を除いて、物音は全く聞えぬのであった。この鳴声の多くは、私が米国で聞き馴れているものに比べて、余程調子が高く、また金属性であるか、又はその拍子が我国のと違うかしていた。煙草を吸いながら、半分は夢を見ながら、私は時々私自身が、河岸に近い黒い物体を疑深く見詰めているのに気がついた。ピストルを持っていたのは私一人であるが、そのピストルもゴタゴタに詰めた鞄の底に入っている。弾薬筒がどこに仕舞ってあるか私は知らなかったし、また暗闇で荷物を乱雑に積み込んだのだから、空のピストルを見つけることさえも問題外である。いずれにせよ、眠ようと思って横になった時、私は若し河賊がやって来たら、竹竿を武器にして戦おうと考えた。夜明けにはまだ大部間のある時、何かに驚いた舟夫がドクタア・マレーを呼んだ。ドクタア・マレーは起き上って、しばらく見張りをしたが、最後に何でもないという結論に達した。(これは私が日本でピストルを持って歩いた最後なので、特にこの事件を記録する。)舟夫は恐らく賃銀を沢山貰おうとして、河賊が出るとうそをついたのであろう。日本に数年住むと、日本の最も荒れ果てた場所にいる方が、二六時中、時間のいつを問わず、セーラムその他我国の如何なる都市の静かな町通りにいるよりも安全だということを知る。
我々は六時に眼を覚ました。如何にも輝しい朝である。忠実なヤスが舟中で調理した朝飯を済ませて、我々は荷物の上に横になり、河、大小各種の船舶、面白い形の家等の珍しい景色を楽しんだ。河岸は低く、流れはゆるいので、我々は静かに進んだ。だが、静かといっても、いい写生図をつくるには早すぎた。河上の舟は、形は同じだが、大さが違う。ペンキを塗った舟は一艘もない。町の家にも、都会の家にも、ペンキが塗ってない結果、町通りが如何にも薄ぎたなく見え、家屋は我国の古い小屋や納屋を連想させる。使うとすれば、それは黒くて腐った糊みたいな不愉快な臭気を発するペンキである。写生図(図95)は我々が乗った舟を示している。図96は帆をあげた舟であるが、風が無いので舟夫は竿で押している。舟の帆は長い幅の狭い薄布を、三、四インチのすき間を置いて紐でかがったものである。帆は非常に大きく、かかるすき間は風が強い時に風圧を軽減する。長い竹竿は鉄で被覆してあって、巨大なペンに似ている(図97)。舟夫の耐久力は、人力車夫の力と耐久力とに全く等しい。一例として、我々の舟夫は夜十時に漕ぎ始め、途中で一、二度休んだきりで、翌日の午後四時まで一睡もせず、また疲れたらしい様子も見せずに、漕ぎ続けた。時々、我々は、河岸を修繕している人足の一団の前を通った。この仕事で、彼等は竹の堡塁を築き、杭を打ち込み、ある場合には、長さ十フィートの小枝や灌木の大きな束の、切口の方を河に向けて置いて、壁をつくるのであった。最も効果のあるのは、長い管状の竹籠で、直径一フィート、長さ十五フィート或は二十フィートのものに、大きな石をつめたものである。これ等の管は、河岸の危険な場所に、十文字に積まれる。河は非常に速に河岸を洗い流すので、絶間なく看視していなくてはならぬ。

我々は魚を網で取る巧みな方法を見た。網は二本の長い竹竿に張られ、竹竿の端は舟に取りつけられた簡単な枠構えに結びつけてある。この枠構えを前方に押すと竹竿が水中にひたり、網と一緒に水中に没する。しばらくして、枠構えを手前に引き寄せると、水から網が上って魚は舟に投り落される。図98は水中に入った網と引き入れられた網とである。河に添う家屋の型式は、図99で示す。図100はもう一つ別の舟である。

四週間日本にいて、私はやっと一目で男と女の区別がつくようになりかけている。彼等は同じ様に長い、青黒い衣類を身につけている。男は髭を生やしていず、田舎へ行くと、女の頭髪が男のと区別つかぬ程こんがらかっている。が、しばらくすると、相異が認められて来る。田舎の人々――農民――は、概して不器量である。男の方が女よりもいい顔をしていて、時々知的な顔を見受ける。私は奇麗ともいうべき娘を五、六人見た。
子供が赤坊を背負うことに就いては、既に述べる所があった。図101は大きな男の子が釣をしている処であるが、彼の背中には彼の小さな弟だか妹だかがぶら下っている。私は今迄に揺籃ゆりかごを見たことがない。また一人放り出されて、眼玉の出る程泣き叫んでいる赤坊も見たことがない。事実、赤坊の叫び声は、日本では極めて稀な物音である。
外国人の立場からいうと、この国民は所謂「音楽に対する耳」を持っていないらしい。彼等の音楽は最も粗雑なもののように思われる。和声ハーモニーの無いことは確かである。彼等はすべて同音で歌う。彼等は音楽上の声音を持っていず、我国のバンジョーやギタアに僅か似た所のあるサミセンや、ビワにあわせて歌う時、奇怪きわまる軋きしり声や、うなり声を立てる*。

* その後ある学生が話した所によると、我々の音楽は日本人にとってはまるで音楽とは思われぬそうである。彼は何故、我々が我々の音楽を、ギックリシャックリ、不意に切断するのか、了解出来ぬといっていた。彼にとっては、我々の音楽は「ジッグ、ジッグ、ジッグ、ジッグ、ジッグ、ジッガア、ジッグ、ジッグ」と聞える丈であった。
然し、男達が仕事をしながら歌う声は、余程自然的で心から出るように思われる。そして、我々が過日橋石で知った所によると、彼等はこの種の唱歌を事実練習するのである。我々は酒盛りでもやっているような場所を通ったが、聞く所によるとこれは労働者が大勢、物を揚げたり、杭を打ったり、重い荷を動かしたりする時に、仕事に合わせて歌う彼等の歌や合唱を、練習しつつあるのであった。歌のある箇所に来ると、二十人、三十人の労働者達が一生懸命になって、一斉に引く準備をしている光景は、誠に興味がある。ちょっとでも動いたり努力したりする迄に、一分間、あるいはそれ以上の時間歌を歌うことは、我々には非常な時の浪費であるかの如く思われる。
灌漑を目的とする水車装置は大規模であった。同じ心棒に大きな輪が三つついていて、六人の男がそれを踏んでいた。こうして広い区域の稲田が灌漑されつつあった。かかる人達は、雇われて働いているのか、それとも農夫達が交代でこの仕事をするのか、私はききもらした。
この国民に奇形者や不具者が、著しくすくないことに気がつく。その原因の第一は、子供の身体に気をつけること、第二には殆ど一般的に家屋が一階建てで、階段が無いから、子供が墜落したりしないことと思考してよかろう。指をはさむドアも、あばれ馬も、噛みつく犬も、角ではねる牛もいない。牝牛はいるが必ず紐でつながれている。鉄砲もピストルもなく、椅子が無いから転げ落ちることもなく、高い窓が無いから墜落もしない。従って背骨を挫折したりすることがない。換言すれば重大な性質の出来ごとの原因になるような状態が、子供の周囲には存在しないのである。投石は見たことがない。我国のように、都会で男の子供が党派戦をするということもない。我々からして見れば、日本人が彼等の熱い風呂の中で火傷して死なぬのが、不思議である。
東京から十マイルのところで向い風が起った。我々はそこで上陸して人力車をやとい、ボーイは荷物を持って来るために後に残した。人力車は我々をのせて新しい地域を横断した。ここは世界大都会の一つである東京の境界地なので、興味があった。家の形は多少異っていた。即ちある箇所、特に屋梁の取扱い方に、新しい所があって、百マイル北の家屋で見受けるのとは大いに違っていた。
塵芥を埋立その他の目的で運搬するのには、長い紐輪を持つ、粗末な筵を使用する。塵芥は耨くわでこの筵の中に掻き込まれ、そこで天秤棒を使って図102のように二人の男がそれを運搬する。

この広い世界を通じて、どこでも子供達が、泥のパイや菓子をつくるのを好むのは、面白いことである。日本の路傍ででも、小さな女の子が柔軟な泥をこねて小さな円形のものをつくっていたが、これは、日本にはパイもパンもないので、米でつくる菓子のモチを現わしているに違いない。
この国の人々が――最下層の人でさえも――が、必ず外国人に対して示す礼譲に富んだ丁寧な態度には、絶えず驚かされる。私は続けさまに気がついたが、彼等は私に話しかけるのに先ず頭に巻いた布を解いて、それを横に置くのである。一台の人力車が道路で他の一台に追いつき、それを追い越す時――我々は早く東京に着き度くて急いでいたのでこれをやった――車夫は必ず詫び、そして、通訳の言によると「お許しが出ますれば……」というようなことをいう。
我々は多くの美しい生垣を通過した。その一つ二つは、二重の生垣で、内側のは濃く繁った木を四角にかり込み、それに接するのは灌木の生垣で、やはり四角にかり込んであるが、高さは半分位である。これが町通りに沿うて、かなりな距離並んでいたので、実に効果的であった。日本の造園師は、植木の小枝に永久的の形がつく迄、それを竹の枠にしばりつけるという、一方法を持っている。私の見た一本の巨大な公孫樹いちょうは、一つの方向に、少なくとも四十フィート、扇のように拡がりながら、その反対側は、日光も通さぬ位葉が茂っていながらも、三フィートとは無かった。樹木をしつける点では日本人は世界の植木屋中第一である。この地方を旅行していて目についた花床は美しかった。ことに蜀葵たちあおい、すべりひゆの眩まばゆい程の群団、大きな花のかたまりを持つ青紫の紫陽花あじさい等は、見事であった。梅や桜は果実の目的でなく、花を見るために栽培される。有名な桜の花に就いては、今迄に旅行家が数知れず記述しているから、それ以上言及する必要はあるまい。変種いくつかが知られている。売物に出ている桃は小さく、緑色で、固く、緑色橄欖のように未熟であるが、人々はその未熟の状態にあるのを食う。私はいくつかの桃を割って見たが、五つに四つ位は虫がいた。
この国の人々が持つ奇妙な風習はいたる処に見え、そして注意を惹く。ある家の入口には、漢字を僅か書いた横に、指を広くひろげた手に墨を塗ったものが二つ、ペタンと押してあった*。
* 数年後、私はこの記号は、疱疽ほうそうを追い払うためにつくられたということを聞いた。
稀まれに我々は、聡明らしく見える老人が、前を通り去る我々を見詰めて、懐古的瞑想にふけりながら、厳格な態度で頭をふるのを見た。それは恰も彼等は旧式な派に属し、そして長い間近づけなかった、また軽蔑していた外国人に、好き勝手な所へ行かせることによって、日本人が無茶苦茶になって了うと信じているかの如くであった。私は彼等が我々に与えた表情的な顔付に、これを読むことが出来た。然し、このような自由は与えられていない。外国人は、四つの条約港に定められた境界線から二十マイル以上は、旅券無しでは出られない。出ればつかまって追いかえされる。この国の内地に入る為には、旅券は単に実際旅行す可き道筋を細記するにとどまらず、旅行に費す日数までも書かねばならぬ。我々が泊った旅宿では、どこででも宿主か或いは何かの役人が、先ず旅券を取り上げ、注意深く書き写したあげく、我々に面倒をかけたというので、非常に丁寧なお辞儀で詫をする。
東京の近くで我々は大きな材木置場を通り過した。板は我国のように乱雑に積み上げず木を切った通りに纏まとめて縛ってあるから、建築に取りかかる時、大工は材木の色も木理きめも同じ様なのを手に入れることが出来る。竹の大きな置場も見えた。竹はかたまって立ち、何等かの支柱によりかかっている。石置場もある。ここで五十ドルか百ドル出すと、佐渡か蝦夷えぞからでも来たらしい、奇妙な形の、風雨に蝕磨された石を買うことが出来る。日本人は庭園に石を置くが、その石は遠い所から持って来られる。形の変ったものなら何でもいいのだが、小鳥の飲み水を湛えるようなくぼみが自然に出来たのは、大事にされる。石燈籠をつくるために積み上げる石、小さな庭園の橋をつくる板石、詩文を刻む石、その他の目的に使用する石を日本人は熱心に求める。
大火事の経過を見張るために、家屋の屋根の上に足場をつくることに就いては、既に述べた。今や私は数軒の家の屋根に水を満した大きな樽と、屋根に振りかかる火の子を消す為の、刷毛のついた長い竿とが置いてあるのを見た。樽を籠細工でつつんで、見た所がいいようにしたのもあった。
行商人が商品を背中にしょって歩いているのに屡々逢った。ある行商人は小さな籠の入った大きな箱をいくつか運んでいたが、この籠の中には緑色の※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったが押し込められたまま、我国に於る同種のものよりも、遙かに大きな音をさせて鳴き続けていた。私は一匹買ってマッチ箱に仕舞っておいたが、八日後にもまだ生きていて元気がよかった。子供はこれ等の昆虫を行商人から買い求め砂糖を餌にやり、我々がカナリヤを飼うように飼うのである。小さな虫籠はまことに趣深く、いろいろ変った形で出来ていた。その一つは扇の形をしていて、仕切の一つ一つに虫が一匹ずつ入っていた。
再びドクタア・マレーの款待に接し、半焼けのロースト・ビーフ、本当のバタ、それから佳良なパンの正餐の卓に向った時は悦しかった。ミルクもバタもチーズもパンも珈琲コーヒーもない――今迄もかつて無かった――国ということを考えるのには骨が折れる。日本人にとって、バタは極めて不味まずいので、彼等は菓子にせよ何にせよ、バタを入れてつくった食品を食うことが出来ない。
帝国大学の動物学教授として招聘されて以来、私は夏期の実験所を計画し、学生九十名の級の為に課程を整え、博物館創立の計画に忙しく暮している。
大きな包を背負った人を、往来で屡々見ることがある。この包は青色の布で被われて、手風琴ハンドオルガンを思わせる。これは大きな書架……事実巡回図書館なのである。本はいたる処へ持って行かれる。そして日本には無教育ということがないので、本屋はあらゆる家へ行き、新しい本を残して古いのを持って帰る(図103)。

私が今迄に知り得た処では、この都会の町には、外国人がある一区画なり、橋なりの名をとって命名した、僅かな例を除いて、名前がない。最も広い大通りでもその通りである。主要な区画(多分すべての区画)には名があるが、町通りには決して無い。人はこれこれの区画に住んでいるので、その人を探す為には、その区画の四辺を――即ち四つの異った町なり露地なりを――歩き廻らねばならぬ。ドクタア・マレーは、私と一緒に、私が紹介状を貰って来た日本人を探しに出かけた。我々の人力車夫は、何度もくりかえしてその区画を質ねた後、さてそれが見つかると、今度は目的の家をさがし出す迄に四辺の三辺までを、家にはりつけた小さな木、又は紙の札を読み読み歩くのであった。これに関連して面白いのは、我国の職業的都市住所姓名簿製作人が名前を集める方法である。彼等は先ず一区画の一隅から始め、ありとあらゆる小路や入り込んだ場所に入りながら四辺を廻り、その一区画が済むと持っている地図でその区画を消し去って、新しい区画の一隅からまた仕事を始める。このようにして検査員は全都市を調査しつくす*。
* 気ぜわしない旅行家がよくやる、信頼出来ぬ叙述の例として、東京の町々に名前がないという以上の間違った記事(私の日記から書き写したもの)は誠に適切である。当時私は日本語とては一言も話さなかったので、この間違いは、東京にかなりの間いた米国人の仲間から聞いたものに相違ない。『日本亜細亜協会会報』の第一巻にはドクタア・W・E・グリフィスの「江戸の町及び町名」という面白い通信が出ている。これは一八七二年に読まれ、一八七四年、即ち私が以上の記録を私の日記になした三年前、すでに発行されている。私はこの記事を熱心に推奨する。これを読むと町名はいくらでもあり、フロント(前)、パイン(松)、ウィロー(柳)、シーダー(杉)等我国のと同じのもあれば、また「ありあまる喜悦」、「墓の戸」、「一つの色」、「山のそよ風」、「指の谷」及びそれに類似した、極めて奇妙な町名もある。
人々の住宅には仏教の廟を納めた棚――カミダナ、即ち神様の棚と呼ばれる――があり、そこに小さな燈火と食物の献げ物とが置かれる。かくの如き食物は、死んだ友人のために献げられるのである。
時々町通りで何かのお祭を祝っているのに出喰わす。先頃の夜、往来は売り買いをする人々で一杯だった。正式の市なのである。私は人ごみの中を一時間も歩いて、売物に出ている色々な奇妙な品物を観察したが、その多くは手づくりで、値段は一セントの半分あるいは十分の一というような僅かなものであった。町を照らすのは、螢に似た小さな蝋燭や提灯で、極めて弱い光を出すのが関の山だった。支柱にのった棚は趣味深く塩梅してあり、常緑樹の一種の短い小枝を、二つの竹片ではさんで、小さな垣根をつくったのも一つあった。多数の花束、小さな鉢植えの植木、可愛らしい木の小皿、いろいろな種類の玩具、それから精巧を極めた紙製の提灯等が見られた。ある提灯は紙で円筒形をつくり、その中には上部に風車を持つ木製の心棒があり、そして蝋燭の熱が心棒を回転させる。紙をきりぬいてつくった馬に乗っている人、人力車、人々の姿が心棒からつき出たものに下っている。提灯には小さな橋や風景が描いてあるので、人や馬が回転すると、蝋燭がその影を紙の円筒に投げ、かくてこれ等の物体が橋を渡るという活動写真が出来上る。子供にとっては最も興味のある玩具だが、而も値段は僅か一セント半であった。図104はその構造の概念を示している。別の円い形をした白い紙提灯には、新しい水滴と思われるものが表面についていた。最初私は、提灯の内側に硝子ガラス玉か透明なゴムの数滴かをつけて、この効果を出したものと思ったが、事実は内側に三、四個、銀紙でつくった大小の小円筒をはりつけたので、蝋燭の光が紙の上に光る一点を持つ陰影をつくり出し、それがまるで丸い水玉のように見えるのであった(図105)。これ等の行商人が売っている品の殆ど全部は、子供のためにつくられたのである。いろいろな慰み事もやっていた。その一つは竹の棒を立てた上に人形が三つ立っているもので、男の子達は小さなボタンに似たものを十個買い、四フィートはなれてこれをぶつける。そして人形一つに命中すると、褒美として卵を一つ貰う。又男の子達は竹の中から小さな矢を吹き出して――他ならぬ吹き矢である――いろいろな的を射ていた。
人力車に乗って町を通る人は、この国の人々が如何に自然物を愛するかに絶えず気がつく。一例として飲み屋――もっとも氷水、瓶詰めのソーダ水等より強い物は飲ませぬが――の店さきに、大きな、こんがらかった、何かの木の根の直径六フィートばかりのが立てかけてあり、顧客が使用する美しい磁器のコップがこの根のあちらこちらにかけてある(図106)。この根は、農夫達が根の垣根をつくる材料にするようなものであった。それを一層黒く見せるために、しょっ中水で濡らしてある。それで艶のいい磁器のコップと相伴って実に見事に見えた。またふなくい虫が穴をあけた黒色の舟板二枚の間に、竹の胴輪を入れてつくった植木鉢もあったが(図107)非常に効果的で、また無類であった。

東京の町を散歩している中に、私は小学校へ入って見た。先ず先生の許可を受けたが、先生は私の望みを理解して呉れた。私は部屋を一つ一つ見せて貰ったが、異った部屋に入るごとに先生は朗誦をやめ、号令をかけると生徒は皆立ち上り、もう一つの号令と共に一同――先生も含む――机にさわる位低くお辞儀をするのであった。その後朗誦は中絶することなしに続けられる。
日本人の顔面には強烈な表情というものがない。これは彼等の訓練の結果である。彼等は決して狂憤したり(興奮さえもしない)しないらしいので、外国人の顔に見受けるような深い皺などを惹起することは無い。
下層民の間には奇妙な入れ墨の方式が見られる。すくなくとも我々はそれを裸体の人力車夫に見る。背中、両腕、両脚等に青と赤とで奇怪極る模様を念入りに入れ墨するのであるが、その意匠のあるものは全く芸術的で、背中から両脚へかけて、最も精細に行った竜の入れ墨の如きは、その一例である。この遺風は如何に妖怪的な先祖から来ているのであろうか! 脚部に朽木のような物質を燃やした焼跡が、行列しているのを見ることも多い。苦痛の多い手術であるが、リョーマチスの療法だとされている。
日本人が倭生樹をつくるのに巧みであることは既に述べた。この間私は高さ二フィートの頑丈な林檎りんごの木を見た。この木はあたり前の茶瓶に植っていて、果実を二十個枝につけていた。果実も同様に小さかったが、かっちりしていた。我国の園芸家が、日本人の持つこの巧妙な芸術に注意を向けたならば、どんなに立派な食卓の中心飾りが出来ることであろう。
日本に着いてから数週間になる。その間に私は少数の例外を除いて、労働階級――農夫や人足達――と接触したのであるが、彼等は如何に真面目で、芸術的の趣味を持ち、そして清潔であったろう! 遠からぬ内に、私は、より上層の階級に近づき度いと思っている。この国では「上流」と、「下流」とがはっきりした定義を持っているのである。下流に属する労働者達の正直、節倹、丁寧、清潔その他我国に於て「基督教徒的」とも呼ばれる可き道徳のすべてに関しては、一冊の本を書くことも出来る位である。
東京でアサクサと呼ばれる一郭は、外国人に珍しい観物の一つである。大きな寺院が付近の低い住宅の上にそそり立っている。この寺院に達する路の両側には、主として玩具屋や犬の芸当や独楽こままわし等の小店が櫛比しっぴしている。お茶屋や菓子屋もないではないが、ここに於る活動と陳列との大多数は、子供の興味を中心にしたものである。鳩の餌を売っている場所もある。鳩は大群をなしてお寺の屋根から舞い降り、地面の上や、餌をやっている人々の上にとまる*。
* 我々はここ二十年間にこの点で大きに進歩した。今やボストン公園で、大人や子供が鳩の群に餌をやっているのを見るようになった。鳩は餌をやる人の頭、肩、手等にとまる。
薄暗い寺院の隅々では、涼しそうな服装をした僧侶が動きまわり、人々があちらこちらにかたまって祈祷をしていた。日本人は、私が今迄見た所によると、祈祷をする時以外に熱心そうな表情をしない。寺院の内にある奇妙な物象は、屡々人を驚かし、軽蔑の念をさえ起させる。この問題に関して米国の一宣教師雑誌は、この宗教的建築物の壁にかかっているある品物――太平洋の便船「シティ・オブ・チャイナ号」の石版画を額に入れたもの――を捕えて嘲弄の的にした。私はこれを信じることが出来なかった。それで初めてこの寺院に行った時、特に探した処が、なる程、他の記念品や象徴物の間に入って壁を飾っていた。それは記叙してあった通り、蒸汽船の、安っぽい、石版の色絵で、よごれた所から見ると何年かそこにかかっていたものらしい。硝子板の横の方に何か五、六行縦に書いてあった。数日後私は学生の一人と一緒にまた浅草寺へ行って、そこに書いてあることを翻訳して貰うと、大体以下のようなことが書いてあるのであった――「この汽船は難船した日本の水夫五人を救助して日本へ送り届けた。外国人のこの親切な行為を永く記念するために、当時の僧侶がこの絵を手に入れ、当寺の聖物の間にそれを置いた。」これは日本人が外国人に対して、非常な反感を持っていた頃行われたことで、僧侶達が本当の基督キリスト教的精神を持っていたことを示している。そして日本人はこの絵画を大切にする。
この寺院には、天主教の祭儀を思わせるものが沢山ある。事実、十七世紀の後半、オランダ使節に随って長崎へ来た同国の医師ケムペルは仏教の儀式や祭礼を研究し、坊主、尼、聖水、香、数珠、独身の僧侶、弥撒ミサ等を見ては“Diablo simulanti Christum”といわざるを得なかった。この寺には台にのった高さ三フィートばかりの木像があるが、それは手足の指が殆ど無くなり、また容貌も僅かにそれと知られる程度にまで、するするに撫で磨かれて了っている。身体に病気なり痛みがある時、この木像のその場所を撫で、その手で自分のその局部を撫でれば、痛みがやわらいだり、病気が治ったりする――下層民はこの像が、そんな功徳を持つものと信じている。この像を研究すると、その減り具合によって日本で、どんな病気が流行っているかが判る。目は殆ど無くなっている。腹の辺が大部分磨減しているのは、腸の病気が多いことを指示し、像の膝や背中が減っているのは、筋肉及び関節リョーマチスを暗示している(図108)。私はしばらく横に立って、可哀想な人達がいと厳かにこの像に近づき、それを撫でては自分の身体の同じ場所を撫でたり、背中に負った赤坊をこすったりするのを見た。信仰療法や局部を撫でることは一向差支えないが、眼の問題になると保健官吏の干渉があって然る可きだと思わざるを得ない。これでは伝染性の眼病が、いくらでもひろがるにきまっている。だが、こんな迷信を持っているのは、他の国々でも同様だが、下層民か無知な人々だけで、知識階級は余程以前、このような意味をなさぬ信心から超脱して了っている。

東京の往来は何度歩いても、何か記録に残すべき新しい事柄に出会う。砂糖を売る一軒の店で、八つか十を越しているとはどうしても思えぬ男の子達が、砂糖を鉄把秤スティールヤード――というより竹の把秤はかりだが――で量はかっては袋に入れ、おつりの勘定をする等の仕事を、すっかりやっていたのは面白かった。その日その日の、あるいは一週間分の、買物をする人が多数いたが、男の子達はまるで蟻のように敏活に働いていた。肉屋は数年前は非常に珍奇なものであったが、今でも大きな都会に僅かあるだけである。氷が非常に高価なので、冷蔵庫というものはない。一軒の店さきに牛肉の大きな一片があり、女が一人横に坐って、蠅を追うために団扇うちわでそれをあおいでいた。
大人が寛容で子供が行儀がいい一例として、どんなに変った、奇怪なみなりをした人が来ても、それに向って叫んだり笑ったり、何等かの方法で邪魔をしたりしない。私は帽子として大きな日本の蟹の甲羅をかぶっている人を見たことがある(図109)。これは日本の近海でとれる巨大な蟹で胴体の長さが一フィート以上に達し、爪は両方へ四、五フィートもつき出している。この男が歩いて行くのを多くの人が眺め、中には微笑した人もあった。殆ど全部の人々が頭を露出しているのに、これはまた奇妙な物をかぶったものである。

私は「河を開く」というお祭に行った。この正確な意味は聞かなかった。このお祝は隅田川で行われるので、東京中の人が何千人となく川の上や河岸の茶店に集って来る。我々三人は晩の八時に加賀屋敷を出た。この晩の人力車の走りようは、およそこれ程無鉄砲なことは無い位であった。そもそも出発したのが遅かったのだが、往来は人が一人残らず手に持っている紙提灯の、薄暗い光を除いては暗く、おまけに車夫は急いでいたので、全速力で走りながら、人々に通路をあけさせる為に「ハイ、ハイ、ハイ」と叫び続けるのであった。狭い所を無理矢理に通ったの通らぬの! 先に行く人力車が止ると、後のがそれにぶつかった。我々は曲り角を急にまがり、狭い通りを近路し、すべての人力車を追い越した。川の光景には思わず茫然とした。広い川は見渡すかぎり、各種のボートや遊山船で埋まっていた。我々はある大名の庭を横切ることを許されていて、この家の召使いが我々のために河の端に椅子を持って来て呉れた。数分間坐っていた上で、我々はもっと近く見物することにきめたが、恰度その時一艘の舟が、お客を求めながら、河岸に沿って静かに近よった。我々が乗ると、間もなく舟は群衆の真中まで漕ぎ出た。この時我々の眼前に展開された光景以上に不思議なものは、容易に想像出来まい。ありとあらゆる大きさの舟、大きな、底の四角い舟、日除や天蓋を持ったのが多い立派な伝馬船……それ等はいずれも、日除の端につるした、色鮮かな提灯の光で照らされている(図110)。そして舟の中央には必ず敷物がひろげてあり、その上では大小とりどりの皿や酒徳利をならべたのを取巻いて、家族が友人と共に坐り、芸者達は三味線をかき鳴して、奇妙な作り声で歌を歌う。広い川はかくの如き、提灯で照らされた舟で完全に被われている。ある舟では物静かな酒盛が行われ、すべての舟に子供が乗っており、そしてどちらを向いても、気のよさと行儀のよさとが見られる。河の向う岸では橋に近く光輝燦爛さんらんたる花火が発射されつつあり、我々はこの舟の迷路の中で、衝突したり、後退したり、時に反対の方向に転じたりしながら、一時間ばかりかかってやっとそこへ行くことが出来た。舟の多くが只水に浮んでいるのに、岸に着こうとしたり、又は他の場所へ行こうとして、我々と同じような難境にあった舟もあったが、それにも拘らず、荒々しい言葉や叱責は一向聞えなかった。近く寄って見ると、十人ばかりの裸体の男が、大きな舟に乗ってローマ蝋燭を発射したり、複雑な性質の花火を仕掛けたりしている。その有様には、まったく肝をつぶした。これは実に忘れられぬ光景であった――光に輝く男達の身体には火花が雨のように降りそそぎ、振りかえると花火の光輝に照らされた舟の群が水に浮んで上下し、新月は徐々に沈み、星は稀に見る光を放って輝き、川はすべての大さと色彩との何万という提灯の光を反射しながらもなお暗く、舟の動揺によって幾条の小川に別たれている――。乗船した河岸に帰ろうとして、我々は反対の方向に進む多くの舟とすれちがった。船頭達は長い竿で、舟を避け合ったり、助け合ったりしたが、この大混雑の中でさえ、不機嫌な言葉を発する者は一人もなく只「アリガトウ」「アリガトウ」「アリガトウ」或は「ゴメンナサイ」だけであった。かくの如き優雅と温厚の教訓! 而も船頭達から! 何故日本人が我々を、南蛮夷狄いてきと呼び来たったかが、段々に判って来る。

上陸してから我々は、また景気よく人力車を走らせて帰宅した。日曜の夜の十一時というのに、店舗の殆ど全部は開いていた。私は夜中まで起きていて、ドクタア・マレーと日本人の態度に就て話し合った。いろいろな話題の中で我々は火事のことを論じたが、ドクタア・マレーは、それ迄に火事場へ行ったことは、一度も無いが、今度あったら一緒に行こうと約束された。やがて我々は寝ることにして、彼は二階へ行き、私は文字通り蚊で一杯になっている地階の部屋へ退いた。私は蚊を一匹も入れずに蚊帳の中にもぐり込んだが、ブンブンいう声で眠つかれずにいると、間もなく警鐘が鳴った。警鐘は高い柱の上にあって梯子がかかっている(図111)。一人の男が梯子を登って行って、棒で区域の数を叩く。その音は粗硬で非音楽的であり、五百フィートの遠く迄も響くまいと思われる程莫迦ばかげて弱い。だが、このような鐘は、東京市中のいたる所に密接しているので、誰にでも聞える。私は即座に寝台を離れて、急いで衣服を身につけた。その時ドクタアが現われて、火事は遠くないといった。我々は屋敷を駆け出し、二人そろって一台の人力車に飛び乗った。そして半マイルも来ない内に、立木や日本人の群衆の顔を赤々と照らす、炎々たる火事の現場へ着いた。焼けていたのは、高い塀にかこまれた屋敷の、門のところに立ち並んだ、数軒の人家であった。私は日本に来てから、いろいろな奇抜なものを見たが、火事場で活躍している消防隊ほど奇抜なものはない。消火機械その物が、長さ二フィート半を越えぬ頑丈な木造の箱で、車輪なんぞは無く、二人の男がそれを担い上げ、上げ下げして水を揚げる長い柄を天秤棒の代りとして肩にかつぎ、何マイルも走ることが出来る位軽い代物なのである。写生図(図112)はその消火機械が、消防署の小屋みたいな建物の横側から出た二本の木釘にひっかかって、休息している所を示している。その下にかけてあるのは丈夫な竹でつくった梯子で、梯桟は木の小片をしっかり縛りつけたもの。軽くて強くて便利な梯子である。狭い往来をうまく舵が取れさえすれば、一人で安々とこれを持って走ることが出来る。蛇管は無い。長さ六フィートの木管が、消火機械の中心から垂直に出ている木管に接合しているのだが、その底部は、それが上下左右に動き得るような具合になって、くっ付いている。火を消すことを目的につくられたとしては莫迦気切った、そして最も赤坊じみたもののように思われた。我々が到着した時建物は物凄い勢で燃え、また重い屋根の瓦はショベルで掻き落されて、音を立てて地面に落ちていた。家屋の構造で焼けぬ物は瓦だけなのに、それを落すとは訳が判らなかった。地面には例の消火機械が二、三台置いてあり、柄の両端に一人ずつ――それ以上がつかまる余地がない――立ち、筒先き役は箱の上に立って、水流をあちらこちらに向けながら、片足で柄を動かす応援をし、これ等の三人は気が狂ったように柄を上下させ、水を揚げるのだが、柄を動かす度に機械が地面から飛び上る。投げられる水流の太さは鉛筆位、そして我国の手動ポンプにあるような空気筒がないので、独立した迸水ほうすいが連鎖してシュッシュッと出る。喞筒ポンプは円筒形でなく四角であり、何週間か日のあたる所にかけてあったので、乾き切っている。それで、筒から放出されるより余程多量の水が、罅裂すきまから空中に噴き出し、筒先き役は即座にびしょ濡れになって了う。機械のある物は筒の接合点がうまく行かぬらしく、三台か四台ある中で只一台が、役に立つような水流を出していた(図113)。消防隊は私設で、各隊に標章持ちがいる。この標章は部厚い厚紙でいろいろの形の幾何的構造物をつくり、白く塗った上に黒く機械の番号を書いたもので、長い竿の上にのっている。標章持ちは出来るだけ火事に近く位置を占める。燃えつつある家の屋根に立つことさえある。標章持ちが証拠になった消防隊は、焼失をまぬかれた家の持主から金若干を貰う。

この写生図で、私は水の洩る機械、水を運んでいる二人の男、屋敷の塀に立っている標章持ち等の概念を示そうと努めたのであるが、実際の火事場にはこんな機械が数台あり、その殆ど全部が洩り、人々が水を運搬し、梯子や、消火用の棒や杖を持って、叩いたり撲ったりして建物を引き倒し、すべての人が怒鳴り、十中八、九までが灯のついた提灯を持っている。そこはよろしく御想像下さい。前にもいったように、蛇管というような物が無いので、機械は火焔の極く近く迄引き寄せねばならず、従って裸体か、裸体に近い消防夫は、火傷をしはしまいかと思われる*。
* 其後知った所によると、消防夫は厚い刺し子でつくった制帽や甲やその他すべてを持っている。そして火事の進行を阻止するために風下の家を取りこわし、機械は焔に水をかけるのでなく、この仕事をする消防夫達に水をかけ、かくの如き小さな迸水装置は、迅速に取り上げて火事の現場へ持って行くことが出来る。提灯は暗い狭い町通りで消防夫達を助ける――と、こう聞くと日本の消防隊も、そんなに莫迦気た真似ばかりやっているのでもない。マサチューセッツ州セーラムのピーボディー・ミュージアムには、消防夫の身支度の立派な蒐集が陳列してある。
勇気と活気の点で、また熱と煙とに対する抵抗力に於て、彼等は我国の消防夫に比して決して劣ってはいないが、それ以外の点ではアメリカの少年達の方が遙かにうまくやりそうに思われ、彼等の間に立っていた私は、彼等の途法もないやり方に、何度も何度も腹をかかえて笑った。木造建築の薄っぺらな火を引きやすい性質が原因して、一年か二年ごとにこの都会の広い区域が焼け落ち、多額の財産はいうに及ばず、時に生命さえも亡ぼされるのに、何の不思議はない。日本人が建築法を変更して、薄い木片の羽目板を使用することを禁止し、そしてもっと役に立つ消火機械を持ち、ちゃんとした消防隊を組織しなくては、火災による大損害はいつ迄もあとを絶たぬであろう。
一時、火事場から家路についた時、何か商売がありはしまいかと思って開けている店が五、六軒あった。店といえば、その多くが晩の十時、或はその以後までも開いているのに気がつく。夜になると店全体が往来に溢れ出るらしく、何にしても往来の両側の建物の近くには(歩道がないので)木製品、金属製品、陶器、漆器、団扇、玩具、菓子その他を積み上げた莚がびっしり並び、それ等のすべては紙の燈心を持つ粗末な脂蝋から石油洋燈ランプにいたる、各種の燈火で照らされている。人口の大部分は、商売と交易とばかりを職業としているらしく思われる。店の多くは背後に部屋があり、そこを住居として使用する。
先日の午後伊藤氏という有名な老人が、ドクタア・マレーを訪問し、私も紹介されるの名誉を持った。彼は秀でたる植物学者で、一八二四年既に日本のある植物協会の会長であった。伊藤氏はマレー夫人に、この年最初に咲いた蓮の花を持って来たのである。彼は丁髷は棄てたが純日本風の礼装をしていた(図114)。私は最大の興味を以て彼を眺めた。そしてドクタア・グレーやドクタア・グッドエールが、この日本の植物に就いては一から十まで知っている、優しい物静かな老人に逢ったら、どれ程よろこぶことだろうと考えた。通弁を通じて私は彼と、非常にゆっくりした然し愉快な会話を交換した。彼が退出する時、私は私の備忘録の一部分の写しを贈呈したが、彼に判ったのは絵だけであった。数日後彼から日本の植物に関する全三巻の著書を贈って来た。

お城を取りまく堀と、そこから彎曲わんきょくした傾斜で聳そびえる巨大な石垣とに就いてはすでに述べた。この石垣は東京市の広い部分をかこみ込んでいる。堀は大きな運河みたいで、市中を人力車で行く時、何度もお堀にかけた橋を渡る。所によって堀は蓮でうずまっている。蓮は私に間違が無ければ、我国の睡蓮に極めて近いものである。葉は直径一フィート半で、水の表面より上に出ている。花は非常に大きくて、優美な桃色をしている。今や真盛りで、大きな葉が茂っているので、どこででも、生えている所では、事実下の水をかくしている。
東京のような大きな都会に、歩道が無いことは奇妙である。往来の地盤は固くて平であるが、群衆がその真中を歩いているのは不思議に思われる。人力車が出来てから間がないので、年とった人々はそれを避けねばならぬことを、容易に了解しない。車夫は全速力で走って来て、間一髪で通行人を轢ひき倒しそうになるが、通行人はそれをよけることの必要を、知らぬらしく思われる。乗合馬車も出来たばかりである。これは屋根がある四方あけ放しの馬車で、馬丁がしょっ中先方を走っては人々にそれが来たことを知らせる。反射運動というようなものは見られず、我々が即座に飛びのくような場合にも、彼等はぼんやりした形でのろのろと横に寄る。日本人はこんなことにかけては誠に遅く、我々の素速い動作に吃驚びっくりする。彼等は決して衝動的になったりしないらしく、外国人は彼等と接触する場合、非常に辛棒強くやらねばならぬ。 
第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所
私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。私はフンディの入江、セント・ローレンス湾、ノース・カロライナのブォーフォート等へ同じ目的で行ったが、それ等のいずれに於ても、只一つの「種」しか見出されなかった。然し日本には三、四十の「種」が知られている。私は横浜の南十八マイルの江ノ島に実験所を設けた。ここは漁村で、同時に遊楽の地である。私がそこに行って僅か数日経った時、若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した。日本語がまるで喋舌しゃべれぬことを述べると、彼は大学の学生は全部入学する前に英語を了解し、かつ話さねばならぬことになっていると答えた。私が彼を見覚えていないことに気がついて、彼は私に、かつてミシガン大学の公開講義で私が講演したことを語った。そしてその夜、私はドクタア・パーマアの家で過したのであるが、その時同家に止宿していた日本人を覚えていないかという。そのことを思い出すと、なる程この日本人がいた。彼は今や政治経済学の教授なのである。彼は私がミシガン大学でやったのと同じ講義を、黒板で説明してやってくれと希望した。ズボンと婦人の下ばきとの合の子みたいなハカマを、スカートのようにはき(割ったスカートといった方が適している)、衣服のヒラヒラするのを身に着けた学生が、一杯いる大きな講堂は、私にとっては新奇な経験であった。私はまるで、女の子の一学級を前にして、講義しているような気がした。この講義の結果、私は帝国大学の動物学教授職を二年間受持つべく招聘された。だがその冬、米国で公開講演をする約束が出来ていたので、五ヶ月間の賜暇をねがい、そして許された。これが結局日本のためになったと思うというのは、この五ヶ月間に、私は大学図書館のために、二万五千巻に達する書籍や冊子を集め、また佳良な科学的蒐集の口火を切ったからである。また私は江ノ島に臨海実験所を開き、創立さるべき博物館のために材料を集めることになっていた。
契約書は二ヶ国語で、書かねばならなかった。私は二人の書記が忙しく書類を調製する内、事務所に坐っていて、彼等の仕事ぶりを内々スケッチした(図115)。実験所のために、ガラス瓶、酒精アルコール、その他を集める日が、いく日も続いた。外国人は、この国の人々が何をやるのにもゆっくりしているので、辛棒しきれなくなるが、彼等は如何にも気立てがよく、物優しいから、悪罵したり、疳癪を起して見せたりする気にはなれない。植物学教授の矢田部教授――コーネル大学の卒業生で「グレーの摘要」を教えていた――が実験所の敷地を選び、そしてその建設の手配をするために、私と一緒に江ノ島へ行った。この日――七月十七日――は極めて暑かったので、我々は出発を四時までのばした。我々は各々車夫二人つきの人力車に乗った。車夫達は坂に来て立ち止った丈で――我々は下りて歩いた――勢よく走り続けた。殊に最後の村を通った時など、疲労のきざしはいささかも見せず、疾風のように走った。彼等の速力によって起る微風をたのしむ念は、こんな暑い日に走る彼等に対する同情で大部緩和された。彼等が日射病と過労で斃れぬのが不思議な位である。

南へ行くに従って、江ノ島まで位の短い内であっても、村々の家屋に相違のあるのが認められる。ある村の家は、一軒残らず屋根に茂った鳶尾とんび草を生やしていた。この人力車の旅は、非常に絵画的であった。富士山の魅力に富んだ景色がしばしば見られた。かくもすべての上にそそり立つ富士は、確かに驚く可き山岳である。時々我々は花を頂いた、巨大な門を通りぬけた。茶屋や旅籠屋には、よく風雨にさらされた、不規則な形をした木片に、その名を漢字で書いたものが看板としてかけてある。我々の庭で栽培する香のいい一重の石竹が、ここでは路傍に野生している。また非常に香の高い百合(Lilium Japonicum)を見ることも稀でなく、その甘ったるい、肉荳※にくずく[#「くさかんむり/寇」の「攴」に代えて「支」、1巻-125-上-12]に似た香があたりに漂っている。
江ノ島は切り立ったような島で、満潮時には水の下になる長い狭い砂洲で、陸地とつながっている。この島は突然見える……というのは、陸地を離れる直前に、我々は長い砂丘を登るので、その頂に立つと江ノ島が海中に浮び、太平洋から押しよせる白波でへり取られた砂浜と共に人の目に入る。この長い砂洲を横切る時、私は初めて太平洋の海岸というものを見た。私は陸上に見るべきものが沢山あるので、それ迄海岸を見ることを、私自身に許さなかったのである。私が子供の時、大切に戸棚に仕舞っておいたり、あるいは博物館でおなじみになったりした亜熱帯の貝殻、例えば、たから貝、いも貝、大きなうずらがい、その他の南方の貝を、ここでは沢山拾うことが出来る。これ等の生物の生きたのが見られるという期待が、如何に私を悦ばせたかは、想像出来るであろう。江ノ島の村は、一本の急な狭い道をなして、ごちゃごちゃに集っているのだが、その道は短い距離をおいて六段、八段の石段がある位、急である。幅は十フィートを越えず、而も木造の茶屋が二階、あるいは三階建てなので、道は比較的暗い。これに加うるに板でつくった垂直の看板、いろいろな形や色をした、これも垂直な布等が、更に陰影を多くするので、道路の表面には決して日が当らず、常にしめっている。路の両側には店舗がぎっしり立ち並んでいて、その多くでは貝殻、海胆うにその他海浜で集めたいろいろな物でつくった土産物を売っている。
私は日本の食物で暮すことに決心して、昼飯は一口も食わずに出て来たのであった。一軒の茶屋に入って、部屋に通されると、我々は手をたたいた。これは召使いを呼ぶ普通な方法で、家が明け放しだから、手をたたくと台所までもよく聞える。召使いは「ハイ」と長くひっぱって答える。部屋には家具その他が全く無く、あるものは只我々と旅行鞄とだけであった。先ずお茶、次に風味のない砂糖菓子とスポンジ・ケーク(かすてら)に似たような菓子が運ばれた。これ等は我国では、最後に来るのだが、ここでは最初に現われる。我々は床に坐っていた。私は殆ど餓死せんばかりに腹が空いていたので、何でも食う気であった。娘達が何かを差出すごとに、膝をついてお辞儀をする、そのしとやかな有様は、実に典雅それ自身であった。しばらくすると、漆器のお盆にのって食事が出現したが、磁器、陶器、漆器の皿の数の多さ! 箸は割マッチみたいにくっついていて、我々のために二つに割ってくれたが、これはつまり、新しく使い、そして使用後は折ってすてて了うことを示している。箸は図116のようにして片手で持つ。一本は拇指と二本の指とではさみ、物を書く時ペンを動かすようにして前後に動かす。もう一本の箸は薬指と、拇指と人差指との分れ目とで、しっかり押えられる。私はすでに、一寸箸を使うことが出来るようになった。これ等二本の簡単な装置が、テーブル上のすべての飲食用器具の代用をする。肉はそれが出る場合には、適宜の大さに切って膳に出される。スープは、我々の鉢に比べれば、小さくて深くて蓋のある椀に入っている。そして液体は飲み、固形分は箸でつまみ上げる。飯も同様な椀に入っていて、人はその椀を下唇にあてがって口に押し込む。だが、飯には、箸でそのかたまりをつまみ上げることも出来る位、ねばり気がある。飯櫃の蓋は、飯椀を給仕する時、よくお盆として使われる。料理番は、金網や鍋の食物をひっくり返すのに、金属製の箸を使用する。火鉢で使う箸は鉄か真鍮で、一端に環があって連結している。細工人は懐中時計を組み立てるのに細い箸を使う。往来の塵ひろいは、長さ三フィート半の竹の棒を二本持っていて、これで紙屑を拾い、背中にしょった籠の中に入れる。私は一人の老婦人が貝で花をつくるのを見たが、こまかい貝殻をつまみ上げるのに、我々が鑷子ピンセットを使用する所を、彼女は精巧な箸の一対を用いていた。若し我国の軍隊で箸の使用法を教えることが出来たら、兵隊の背嚢からナイフ、フォーク、スプーンを取り除くことが出来る。入獄人は一人残らず箸の使い方を教えらるべきである。公共の場所には、必ず箸が備えらるべきである。

だが、日本の正餐のことに戻ろう。いくつかの盆の上にひろがったのを見た時、私は食物に対すると同様の興味を、それ等を盛る各種の皿類に対して持った。床に坐り、皿の多くを持ち上げては食うのは甚だ厄介であったし、また箸にはしょっ中注意を払っている必要があったが、すべてに関する興味と新奇さに加うるに激しい食慾があったので、誠に気持のよい経験をすることが出来た。油で揚げた魚と飯とは全く美味だった。各種の漬物はそれ程うまくなく、小さな黒い梅に至っては言語道断だった。大きな浅皿の上には、絹糸でかがった硝子の棒の敷物があった。棒は鉛筆位の太さがあり、敷物は長さ一フィートで、くるくると捲くことが出来る。これは煮魚のような食物の水気を切るには、この上なしの仕掛けである。図117はそれが皿に入っている所を示している。この装置は日本の有名な料理、即ち生きてピンピンしている魚を薄く切った、冷たい生の魚肉に使用される。生の魚を食うことは、我々の趣味には殊に向かないが(だが我々は、生の牡蠣かきを食う)、然し外国人もすぐそれに慣れる。大豆、大麦、その他の穀物を醗酵させてつくるソースは、この種の食物のために特別に製造されたように思われる。私はそれを大部食った。そして私の最初の経験は、かなり良好であったことを、白状せねばならぬ。だが、矢田部氏に至っては、一気呵成かせい、皿に残ったものをすべて平げて了った。坐って物を食うのは困難な仕事である。私の肘は間もなく疲れ、脚もくたびれて恐ろしく引きつった。私は、どうやらこうやら、先ず満腹という所まで漕ぎつけたが、若しパンの大きな一片とバタとがあったら(その一つでもよい)万事非常に好都合に行ったことと思う。図118は、我々が食事を終えた時の、床の外見である。食事後我々は実験所に使用する場所をさがしに出かけ、家具の入っていない小さな建物を見つけた。我々はこれを一日三十セントで借りた。今晩、あるいは明日、我々は将来の大学博物館のために、材料の蒐集を始める。

朝飯はあまりうまい具合ではなかった。水っぽい魚のスープ、魚はどっちかというとゴリゴリで、その他の「飾り立て」に至っては手がつけられぬ。やむを得ず私は罐詰のスープ、デヴィルド・ハムやクラッカース等の食糧品や、石油ランプ、ナイフ、フォーク、スプーン等を注文した。この不思議な食物に慣れることが出来たら、どれ程面倒な目にあわずに済むことだろう。私が特にほしかったのは朝の珈琲である。日本人はお茶しか飲まぬ。よって珈琲も買わねばならなかった。
私は家屋内の装飾に関する、すべての事実を、記述し度いと思う。我々が往来を歩いていて通り過ぎた、明るく、風通しがよく、そして涼しい一軒の茶店のことを書き留める。天井から糸で細長い金銀の紙をつるしたのが、奇妙な効果を出していた。一寸でも風が吹くと、紙片はくるくる廻ってピカピカ輝き、非常に気持がよい。これ等の紙片は長さ三インチ、幅一インチ、約一フィートの間を置いて天上一面にぶら下っている。天井を飾るもう一つの方法は――もっとも、天井を飾ることはすくない、――大きな扇子の彩色画を以てすることである。十六フィート四方の部屋の天井に、こんな絵が二十も張ってあったが、そのある物は高価で非常に鮮かな色をしていた。日本人が天然物を便化する器用なやり方は顕著である。廊下の手摺板にいろいろな姿をした鶴を切りぬいたのがあった。また日除けには極度に紋切型にした富士と雲との絵がかいてあった(図119)。

洗面した時、我々は真鍮製の洗面器の横手に、木製の楊子が数本置いてあるのを発見した。それは細い木片で、一端はとがり、他端は裂いて最もこまかい刷毛にしてある。これ等は一度使用するとすてて了うものだが、使えば刷毛の部分がこわれるから、いつでも安心して新しいのを使うことが出来る(図120)。

日本の燭台にはいろいろな形のがあるが、非常に興味が深い。それは真鍮製で、床からの高さが三フィート近くもある(図121)。

翌朝我々は夙く起き、長い往来を通ってもう一軒の茶屋へ行った。ここは実に空気がよく、そして如何にも景色がよいので、私は永久的に一部屋借りることにした。海の向うの富士山の姿の美しさ。このことを決めてから、我々は固い岩に刻んだ段々を登って、島の最高点へ行った。この島には樹木が繁茂し、頂上にはお寺と神社とがあり、巡礼が大勢来る。いくつかの神社の背後で、島は海に臨む断崖絶壁で突然終っている。ここから我々は石段で下の狭い岸に降り、潜水夫が二人、貝を求めて水中に一分と十秒間もぐるのを見た。彼等が水面に出て来た時、我々は若干の銭を投げた。すると彼等はまたももぐって行った。銅貨ほしさにもぐる小さな男の子もいたが、水晶のように澄んだ水の中で、バシャバシャやっている彼等の姿は、中々面白かった。岩にかじりついている貝は、いずれも米国のと非常に異る。海岸の穴に棲んでいる小さな蟹かには吃驚する程早く走る。最初に小石の上を駈け廻っているのを見た時、私は彼等を煤すすの大きな薄片か、はりえにしだだろうと思った。彼等は一寸蜘蛛くもみたいな格好で動き、そしてピシャッとばかり穴の中に駈け込む。
非常につかれていた上に暑い日だったので、横浜へ帰る途中、私は殆ど居ねむりをしつづけた。だが、何から何までが、異国的な雰囲気を持っているのを、うれしく思った。ある点で男の子達は、世界中どこへ行っても同じである。粘土の崖を通過した時、小さな子供達が、(恐らく漢字を使用してであろう)名前をほっていた。私は米国でも、度々このような露出面に、男の子が頭文字を刻んでいるのを見た。
日本人が畳や、家の周囲の小路を掃く箒ほうきは、我国の箒と大して相違してはいない。只柄が短く、そしてさきが床に適するような角度で切ってあるので、我々のようにそれを垂直に持ちはしない。
私が汽車の中やその他で観察した処によると、日本人は物を読む時に唇を動かし、音読することもよくある。
横浜に住んでいる外国人の間にあって、日本人は召使い、料理人、御者、番頭等のあらゆる職を持っていて、支那人は至ってすくない。然し大きな銀行のあるものには支那人がいて、現金を扱ったり勘定をしたりしている。国際間の銀行事務、為替相場等を、すみからすみ迄知っている点で、世界中支那人に及ぶものはない。一例として、交易が上海シャンハイ、香港ホンコン及びサンフランシスコ、ロンドン、ボンベイ等に対し、いろいろな貨幣並に度量衡を以てなされる。今、我国の重量でいうと百斤を越すぴくるで米をはかり、それを他の場所で別な重量度を以て別な通貨で売り渡すというような場合、支那人の買※(「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50)ばいべんは即座に、算盤そろばん上にその差異を、日本の貨幣で計算する。米の値段は我国の麦に於ると同様、しょっ中上下している。これ等の買※(「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50)は、インドや支那の米価や、ロンドン、ニューヨーク等の為替相場を質問されるとすぐさま、而も正確に返答をする。同時に彼等は銭――銀ドル――を勘定し、目方の不足したのや偽物を発見する速度に就ても、誰よりもすぐれている。彼等が銀ドルの一本を片手に並べて持ち、先ずそれ等の厚さが正確であるかどうかを検べる為に、端をずーっと見渡し(彼等が使用する唯一の貨幣たるメキシコドルは、粗末に出来ている)そこでそれ等を滝のように別の手に落しながら、一枚一枚の片面を眺め、相互同志ぶつかり合う音を聞き、次に反対側を見るために反対の手に落し込むその速度は、真に驚くの他はない。一人の買※(「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50)がそれをやるのを見ながら、私は銀貨がチリンと音を立てるごとに、指でコツンとやろうと思って、出来るだけ速く叩いた結果、私は一分間に三百二十回ばかり、コツンコツンやったことを発見した。この計算は多すぎるかも知れないが、とにかく銀貨が一つの手から他の手に落される速さは、まったく信用出来ぬ程である。こうして買※(「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50)は一分間確実に二百枚以上の重量を感じ、銀貨を瞥見し、そして音を聴く。時々重さの足らぬ銀貨を取り出すのを、私はあきれ返って凝視した。だが、日本人が不正直なので、かかる支那人の名人が雇傭されるのだというのは、日本人を誹毀ひきするの甚しきものである。事実は、日本人は決して計算が上手でない。また英国人でも米国人でも、両替、重量、価値その他すべての問題を計算する速度では、とてもかかる支那の名人にかないっこない。
私は東京でもう一つの博物館を見学した。これは工芸博物館で、私は炭坑、橋梁、堰堤の多数の模型や、また河岸の堤防を如何にして水蝕から保護するかを示す模型等を見た。日本家の屋根の組立てもあったが、それには、その強さを示すために、大きな石がいくつか乗せてあった。橋の模型はいずれも長さ五、六フィートの大きなもので、非常に巧妙に、且つ美麗に出来ていた。また立木から繩で吊した歩橋の、河にかかった模型もあった。図122は橋脚の簡単な写生で、一種の肱木の建築法を示している。最初に井桁いげた枠をつくり、それに丸の儘の樹幹の根の方をさし込み、井桁枠に石をみたしてこれを押える。かくて次々に支柱を組立て、最後にその周囲に石垣を築く。

この博物館にはサウス・ケンシントン博物館から送った、英国製の磁器陶器の蒐集があった。陳列箱は上品で、硝子ガラスにはフランスの板硝子が使ってあった。広間は杉で仕上げてあった。一軒の低い建物にはウイン博覧会から持って来た歯磨楊子、財布、石鹸、ペン軸、ナイフ、その他、我国の店先きでお馴染なじみのいろいろな品が、沢山並べてあったが、恐らくこれはこの博物館の出品物と、交換したのであろう。日本の物品ばかりを見た後で、この見なれた品で満ちた部屋に来た時は、一寸、国へ帰ったような気がした。
私は郵便局の主事をしているファー氏に紹介された。同氏の話によると私宛の手紙を江ノ島へ転送することは、すこしも面倒でないらしい。昨年中に郵便切手を六千ドル外国の蒐集家に売ったそうである。米国へ行く郵便袋の各々に入っている手紙に貼った切手は、外国の蒐集家に、五十ドルから七十五ドルまでで売られるというが、何と丸儲ではないか。
この国の雲の印象はまったく素晴しい。空中に湿気が多いので、天空を横切って、何ともいえぬ形と色を持つ、影に似た光線が投げられることがある。日没時、雲塊のあるものは透明に見え、それをすかしてその背後の濃い雲を見ることも出来る。朝は空が晴れているが、午後になると北と西の方向に雲塊が現われ、そして日暮れには素晴しい色彩が見られる。
私は前に、私が今迄見た都会の町通りに、名前がついていないという事実を述べた。横浜では地面が四角形をいくつもならべたような具合に地取りしてある。聞く所によると、町通りはもとの区画に従わず、地所が小区域に転貸されると、それ等の場所へ達する町通りが、ここに出した図面に示すように、出来るのだそうである(図123)。どこでもさがそうとする人は、元の区域の番地を知っていなくてはならぬ。番地には引き続いた順序というものがない。一例として、グランド・ホテルは八十八番だが、八十九番は四分の三マイルもはなれた所にある。地所は最初海岸から運河まで順に番号づけられ、運河に達すると再び海岸に戻って、そこから数え出したのであった。

この国の庭園にはイシドーロ、即ち石の燈籠という面白い装飾物がある。形はいろいろだが、図124ではその二つを示した。これ等はたいてい苔で被われ、いずれも日本の庭園で興味あるのみならず、米国の庭に持って来ても面白かろうと思う。小さなランプか蝋燭を、特にこの目的でえぐり取られた上部に置く。これはその周囲を照しはしない。恰度海岸の燈台が航海者を導くように、夜庭園の小径を歩く人の案内者の役をつとめる丈である。

再び江ノ島へ(七月二十一日)。午後四時、熔鉱炉のように赫々と照りつける日の光を浴びて出発した。日光は皮膚に触れると事実焦げつく。日本人が帽子もかぶらずに平気でいられるのは、実に神秘的である。彼等はひどく汗をかくので、頭にまきつけた藍色のタオルをちょいちょい絞らねばならぬ程である。だが晩方は気持よく涼しくなり、また日中でも日陰は涼しそうに見える。前と同じ路を通りながら、私はつくづく小さな涼亭の便利さを感じた。ここで休む人はお茶を飲み煎餅を食い、そして支払うのはお盆に残す一セントの半分である。このような場所には粗末極まる小屋がけから、道路全体を被いかくす大きな藁むしろの日除けを持つ、絵画的な建造物に至るまでの、あらゆる種類がある。図125は野趣を帯びた茶店の外見を示している。我々はちょいちょい、農夫が牝牛や牡牛を、三匹ずつ繋いで連れて来るのに逢った。牡牛は我国のよりも遙かに小さく、脚も短いらしく思われるが、荒々しいことは同様だと見え、鼻孔の隔壁に孔をあけてそこに輪を通し、この輪に繩をつけて引き導かれていた。これ等は三百マイルも向うの京都から横浜まで持って来て、そこで肉類を食う外国人の為に撲殺するのである。彼等は至って静かに連れられて来た。追い立てもしなければ、怒鳴りもせず、また吠え立てて牛をじらす犬もいない。いずれも足に厚い藁の靴をはき、上に日除けの筵を張られたのも多い。私がこれを特に記すのには理由がある。かつてマサチューセッツのケンブリッジで、大学が牛の大群をブライトン迄送ったことがあるが、その時、子供や大人が、彼等を苦しめ悩ましたそのやり方は、ハーヴァードの学生にとって忘れられぬことの一つである。

道を行く農夫達は、よく四角い莚を肩にかけて背中にまとっている。これは日除けにも雨除けにもなる。竹や材木を山程積んだ駄馬にもちょいちょい出会うが、必ず繩で引かれて来る(図126)。駄馬や牛が沢山往来を歩いて行くにも拘らず、糞が落ちていないのに驚く。これは道路の清潔というよりも、肥料にする目的で、それを掃き集めることを仕事にしている、ある階級の人々が――ある階級とまでは行かないにしても、皆老人ではある――いるかららしい。図127に示すものは、このような農夫の一人が、道路清掃と背中にしょった赤坊の世話との、二重義務を遂行している所である。

稲がのびると共に、稲の上に大きな麦藁帽子と胴体だけを出した農夫達が、一層変な格好に見える(図128)。だが、人間が身体を殆ど二つに折り曲げて、終日焦げつくような太陽の下で働いているとは! 男も女もこの仕事をする。

家の前の道路に水をまくのには、図129のような長い木造のポンプを使用する。長さは三フィート半で、かなりな水流を発射する。これは防火にも使う。

ある村を通り過ぎていた時、私は新しく生れた赤坊を抱いて、奇麗な着物を着た婦人の周囲に、同じく奇麗な着物を着た子供達が、嬉々として集っているのを見た。彼等は我国の洗礼名つけ式みたいな儀式のために、近くの神社か教会かへ行った帰りだということを、私は聞いた。女の子は三十三日目に、男の子は三十一日目にこの儀式に連れて行くそうである。私は人力車の上から彼等に向ってほほ笑み、そして手を振った。子供の中には応じた者もあり、人力車が道路の角を曲って了う迄それをつづけた。
世界中、大抵の所で扇子や団扇は、顔をあおぐか、目に影をするかに使われるが、日本にはそれ等の変種が非常に多いばかりでなく、実にいろいろなことに使用される。油紙でつくった団扇は、水に入れて使うので、あおぐと空気が涼しくなる。火をおこす時には鞴ふいごの役をする。日本人はスープが熱いと扇でさます。舞い姫は優美な姿勢でいろいろに扇を使う。同時に扇は教育的でもあり、最もよい旅館や茶屋、或は地方の物産等の教示が一面に印刷され、反対面にはその地方の地図が印刷してあったりする。
我々が休んだある場所で、私は一人の男が、何でもないような扇を、一生懸命に研究しているのを見た。私にもそれを見せて呉れないかと頼むと、彼は私が興味を持ったことを非常によろこんだらしかった。その扇の一面には日本の地図があり、他の面には丸や、黒い丸や、半月のように半分黒い丸やを頭につけた、垂直線の区画が並んでいた。これは東京、尾張間の停止所の一覧表で、只の丸は飲食店、半黒の丸は休み場所、黒丸は旅人が「食い且つ眠り得る」場所を示している。道徳的の文句、詩、茶店の礼讃等もよく書いてある。封建時代には、大将達が、大きな扇を打ち振って、軍隊の運動を指揮した。これ等の扇には白地に赤い丸があったり、赤に黄金の丸があったり、黄金に赤い丸があったりした。日本の扇に関しては、大きな本が幾冊か出版されている。
小さい子供にちょいちょい見受ける腹部アブトミナルの、そして厭忌アボミナブルすべき、膨張は驚く程である。これは子供達に苦痛を与えるだろうと思われる。まったく彼等は、焼窯に入れるために腹に詰め物を押し込んだ鶏か何ぞ見たいに見える。これは事実上、胃壁を伸長させる米を、あまり無闇に食うから起るのである。
私は非常に興味を以て壁紙の模様を見た。私が今迄に見たのは平民階級の住宅ので、我国の安い壁紙同様に貧弱極るものであるが、只一つ、我国のよりも優れた点がある。それは決してケバケバしい色彩が使ってないことで、大体に於て薄い色をつけた地紙に、白くて光る模様を置いた丈である。模様は我々のとは全然違う。そしてくるくる巻いては無く、長さ一フィート半の細長い紙片になっている。一部屋で違う紙が何枚か見られることもある。私が写したのには五種類あった。一種は天井一種は壁の上部と部屋の二側、他は辷る衝立に張ってあった。これは決してよくはなかった。誰かがこの部屋を所謂欧米風にしようとした結果、みじめにも失敗したのである。ある模様には菱形と形式的な花とで充たした不規則な区域があり、その外に燕と蝶と蛾とがあった。図130には Paulowniaと呼ぶ水生植物の絵がある。これは徳川家の紋章に描出してある。また撫子、昼顔、葡萄、蔓草等を、雲形の輪郭にゴチャゴチャに入れたものや、小舎に入った兎もある。更にもう一つは川の早瀬を薪を積んだ、而も舟頭のいない舟が流れている所を示しているが、これには何か意味があるのだろう。これ等の模様は錦襴から模写したそうである。私はこれ等が最も目立たぬ点に興味を感じた。紙を余程丁寧に調べないと判らぬ位である。往来を越して見た家の襖は、竹の子の外皮を混じた紙ではってあった。これは松の木の内皮を細かく切った物のように見えたが、非常に濃い褐色で、実に効果的であった(図131)。又、紙をつくる時、繊維紙料に緑色の、糸みたいな海藻を入れることもあるが、これも見た目には非常に美しい。

江ノ島は有名な遊覧地なので、店には土地の材料でつくった土産物や子供の玩具が沢山ある。海胆うにの二つでつくった簡単な独楽こまがある(図132)。小香甲こうこうの殻を共鳴器とし、芦笛をつけた喇叭ラッパ(笛というか)もある(図133)。この独楽は長い間廻り、喇叭は長い、高い声を立てた。これ等は丈夫で、手奇麗につくってある。而も買うとなると、私の持っていた最少額の貨幣は日本の一セントだったがおつりを貰うのが面倒なので三つ貰った。小さな箱の貝細工、上からつるした輪にとまった貝の鳥、その他の上品な貝細工のいろいろを見た私は、我国で見受ける鼻持ならぬ貝細工――ピラミッド、記念碑、心臓形の品、ぱてをごてごてくっつけた、まるで趣味の無い、水腫にかかったような箱――を思い出さずにはいられなかった。

私の部屋の向うに、この家の一角が見える。そこには日本人の学生が四人で一部屋を占領していて、朝は寛かなキモノを着て一生懸命に勉強しているが、午後太陽がカンカン照る時には、裸になって将棊やゴをして遊ぶ。どちらも非常にむずかしい遊びである。彼等はよく笑う、気持のいい連中であって、午前中の会話を聞くとドイツ語を学んでいることが判る。一人が「私は明日父に逢いにロンドンへ行く」というと、もう一人がそれをドイツ語に訳していう。このようにして彼等の部屋からは日本語、ドイツ語、英語がこんがらかって聞え、時々フランス語で何かいい、間違えるといい気持そうな笑い声を立てる。彼等の英語は実にしっかりしていて、私には全部判る。
昨夜学生達の二人が、私の依頼に応じて碁のやり方を説明する為に、私の部屋へ来た。この遊技は元来支那から来たのであるが、今は日本人の方が支那人より上手にやる。熟練した打ち手の間にあっては、一勝負に数日を要し、一つの手に一時間かかることもある。盤は高さ八インチの低い卓子テーブルで、四本の丈夫な脚が厚い木の板を支えている(図134)。これは我々のチェッカー盤みたいに、四角にしきってあるが、チェッカー盤に比較すると、四角はより小さく、また濃淡に塗りわけてもなく、おまけにその数は十九に十九で三百六十一ある。棋子チェッカースに相当するものはボタンに似た平たい円盤で、黒い石と白い貝殻とから作られ、四角の上に置かずに線の交叉点に置く。打ち手の一人が先ず盤上の好きな点にこの円盤を置いて勝負を始めるが、目的は敵の円盤を、円盤の連続線で包囲して了うにある。一方がこれに成功すると、包囲された円盤は分捕りになり(図135)、そして勝負の終りに四角の数を数える。合戦は碁盤のいたる所で行われる。有名な打ち手には階級がある。第一階級の打ち手は第二級の打ち手に対して、最初一個の代りに二個の円盤を置く権利を与える。恐らく第三級の打ち手は、三個置く権利を持つのであろう。名人二人が、極めて僅かな円盤を碁盤の上に置いて、勝負しているのを見ると、中々奇妙である。長い間状態を研究したあげく、他の石から十数こまも離れた場所や、右手や隅のとんでもない所その他に、石を置いたりするが、その理由は只名人のみがこれを知るので、それに応じて打つ相手方の手も、また同様に憶測出来ぬようなものである。碁を打つ時、彼等は必ず人差指と中指(中指を人差指の上に重ねる)とで円盤をつまみ上げる。碁は最も玄妙な遊技で、これに通達している外国人はすくない。コーシェルト氏はこの遊技に関する一文を書き、八十四枚の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵を入れてドイツ・アジア協会の会報に提出した。

学生達は私のために、親切にも一勝負やって見せて呉れた。私の方に時間がなかったため、これは急いでやった。一方が七十一個の四角を、他は八十四個の四角を得た。この遊技には私に理解出来なかった点も若干ある。
同じ碁盤を使ってやる遊技がもう一つある。これは至って簡単で、我国の人々にも面白かろうと思われる。即ち円盤五個を一列にならべようとするのである。これは簡単な遊技ではあるが、人によって上手さに非常な差がある。私は学生達と数回やって見たが、いつでも僅かな石で負かされて了った。次に彼等がやると百個以上の円盤を使用した。若し一方が四個並ぶ線が二本ある状況をつくり上げれば、勝ちになる。相手はその一つをしか止めることが出来ないからである。図136はかかる位置を現わしている。AとBとはここにいう二つの線で、相手はその一本しか止めることが出来ない。碁の勝負と同じく盤上で各様の争点を開始することもある。

日本間には、壁の真中に柱が立っているのがよくある。これは屋根を支持する為なのかも知れぬ。屡々この柱に長さ五フィート、幅は柱のそれに近い位の、薄い木片がかけてある。そしてこの垂直な狭い表面に、日本の芸術家は絵なり、絵の一部分なりを描き、ちょっと明けた戸から見えるようにする*。
* 『日本の家庭』に掲載したものは、杉の木地に松の褐色の幹と緑の葉とを描いたもので、実に美しいというより外はなかった。反対側には別の絵が描いてあった。
江ノ島へ帰って見ると、私の部屋は私の為にとりのけてあった。荷物は安全に到着し、実験所として借りた建物は殆ど完成していた。私はドクタア・マレーに借りたハンモックを部屋の柱から縁側の柱へかけ渡した。蚊はいないということだったが、中々もって、大群が乱入して来る。私は顔にタオルをかけ、次に薄い上衣をかけたが、これでは暑くてたまらぬ上に、動いたり何かする為起き上ったりする度ごとに、チョッキ三枚及びズボンをシャツで包んで作った枕が転げ落ち、私は一々それをつくり直さねばならぬ。最後に私は絶望して、ハンモックにねることを思い切った。私のボーイ(日本人)が部屋全体にひろがるような蚊帳を持って来たので、私は畳の上に寝た。その時はもう真夜中を過ぎていた。私がやっと眠りにつくと、心配そうな顔をした男が片手に棒の先につけた提灯を、片手に手紙と新聞紙とを持って、私の部屋へ入って来た。彼は日本語で何か喋舌しゃべったが、それは恐らく「私が藤沢から特別な使者として持って来たこの包みはあなたに宛てたものか」といったのであろう。起された私は激怒のあまり、若しそれが故郷からの手紙だったら、どんなにうれしいことかを理解さえしなかった。名を見るとダンラップと書いてあるではないか。私はその男に悪魔にでも喰われてしまえといった。その調子で彼はいわれたことを知ったらしく、即座に引き下って行き、私はもう一度眠ろうとして大いに努力した。
日本人は夜、家族のある者や客人が、睡眠しているかも知れぬという事を断じて悟らぬらしい。この点で、彼等は我々よりも特に悪いという訳でもないのかも知れぬ。日本人の住居は我々のに比較すると遙かに開放的なので、極めて僅かな物音でも容易に隣室へ聞え、それが大きいと、家中の者が陽気な群衆の唱歌や会話によって、款待されることになる。障子を閉める音、夜一枚一枚押して雨戸をびしゃびしゃ閉める音は、最もうるさい。障子や戸は決して静かに取扱わぬ。この一般的ながたぴしゃ騒ぎからして、私は日本人は眠ろうとする時、こんな風な邪魔が入っても平気なのかと思った。然し訊ねて見た結果によると、日本人だって我々同様敏感であるが、多分あまり丁寧なので抗議などは申し出ないのであろう。
ここへ来てから、私は私の衣類を、無理にシャツに押し込んだものを枕として、床の上に寝ている。日本の枕は昼寝には非常に適しているが、慣れないと頸が痛くなるから、私には夜使う丈の勇気がない。
ここで再び私は蚤の厄介さを述べねばならぬが、大きな奴に噛まれると、いつ迄も疼痛が残る。私の身体には噛傷が五十もある。暑い時なのでその痛痒さがやり切れぬ。
今日食事をしている最中に、激しい地震が家をゆすり、コップの水を動揺させ、いろいろな物品をガタガタいわせた。それは殆ど身の丈四十フィートの肥った男が、家の一方にドサンと倒れかかったような感だった。いろいろな震動が感じられたのは、いろいろな岩磐に原因しているに違いない。震動を惹起する転位は、軟かい岩石と硬い岩石とによって程度の差がある筈である。
今日外山氏と彼の友人とが来た。彼等が食事をしている時、私も招かれ、そこで煮た烏賊いかを食う機会を得た。それは固い軟骨みたいに強靭で、水っぽい海老えびのような風味がする。私は又生の鮑あわびを食おうとして懸命になった。これは薄く切ってあったが、とても固くて噛み切ることはおろか、味を知ることすら出来なかった。まるでゴムみたいである。ある一つの事実に関して、私は明言することが出来ると思う。それは我々の食物は日本食にくらべてより栄養的、且つ合理的、そして消化しやすいということである。だが、私は脂肪のしみ込んだ食物の多くや、熱いビスケット等をばまで、この声明に入れはしない。日本人は熱心に我々の食物をとり、そしてそれは完全に彼等の口に合うが、我々は自然的に彼等の食物を好むことはない。
外山氏の友人というのは学者らしい人で、英語は一言も話さないが、実に正確に読み且つ翻訳する。彼は英語の著書をいろいろ日本語に訳した。そしてそれ等はよく読まれる。すでに翻訳された著書を列記したら、たしかに米国人を驚かすに足りよう。曰くスペンサーの『教育論』(これは非常に売れた)、ミルの『自由論』、バックルの『文明史』、トマス・ペインの『理論時代』の一部、バークの『新旧民権党』(すでに一万部売れた)、その他の同様な性質の本である。このような本は我国のある階級の人々には嫌厭されるが、この国では非常な興味を以て読まれる。図137は江戸湾の地図で、江ノ島の位置を示している。

昨晩私は将棋盤を使ってやる遊技を、三種類習った。学生の一人が私に日本の将棋を教えようと努めたが、私には込み入り過ぎていて了解出来なかった。だが私は将棋盤(図138)には四角が八十一個あり、形は碁盤とあまり違っていないことを知った。これ等の四角は彩色はしてないが、深い線が四角の境界を示している。将棋駒は黄楊つげ材製で着色してない、つまり自然の色のままである。

駒には大小があるが、形はみな同じである。王の一族が一番大きく、兵隊即ち卒が一番小さい。駒は迫持せりもちの楔石くさびいしに似た形をしていて細い方が薄く、黒漆でその名が書いてある(図139)。数は二十、宮廷関係の駒が第一列を占め、卒は第三列、それから二つの駒がその間、即ち第二列に置かれる。王は四角の第一列の中央に、その左右に黄金の将軍、次に銀の将軍がいる。黄金の将軍は斜に前進するほか、前方、及び左右にはまっ直に進むが、後方には直線に退く丈である。銀の将軍は我国の将棋でいうと僧正の役をつとめるが、同時にまっ直に前進することも出来る。飛竜の将軍は我々のルック〔飛車〕のように動き、一枚の斜進する将軍は僧正同様に動く。盤の右隅にいる一つの駒は前進することしか出来ぬが、敵の第三列に入ると黄金の将軍に変身する。馬兵と呼ばれる二つの駒は我々のナイト〔騎士〕と全く同様に動くが、只後進することは出来ない。これ等も敵の第三列に入れば、希望によっては、黄金の将軍になることが出来る。勝負の時には駒の細い方の端が敵に面するので、敵味方を区別するのはこれによる丈である。二人の者が植物性の蝋燭のうす暗い光の下で、盤上にそれと同じ様に黒ずんだ駒をのせて勝負している有様は、まことに物珍しい。駒を捕虜にする仕方は、我々と同様だが、只卒は一直線に進んで敵を捕える。この遊技で最も奇妙であり、またこれあるが故に我々の将棋が簡単なものと思わせる点は、捕虜にした敵の駒をいつでも、いかなる場所にでも、使い得ることで、従って形勢不利な場所には、このような囚人が後から後から出て来て敵に当り、攻撃される方でも同様にして彼の囚人を利用することがある。これは最もこみ入った遊技で、理解するには余程の知力を必要とする。脚をむき出しにした人力車夫達が、客を待ちながらこの遊技をしている有様は奇抜なものである。

今朝、外山氏及び二人の彼の友人と共に舟を賃かり、我等の入江からこぎ出して、外洋に面した島の岸へ廻った。ここには満潮痕跡に近く一つの洞窟があり、我々はこれを調査したいと思ったのである。鷹揚に我等の舟を上下させる、大洋の悠々たるうねりに乗って帆走するのは、誠に気持がよかった。島の前面の切り立った崖の上に松の木が並んだところは絵のようであった(図140)。汀に近い岩の上には、インディヤンみたいな色をした男の子が十数人、我々の投げ入れる銅貨を潜って取ろうとして、勢い込んで走り廻っていた。洞窟は岩に出来た巨大な割れ目で、以前海中にあった頃、波がまるくしたのに違いないと思われる。今は波は僅かに入口に達する丈である。岩は淡色をしているので、洞窟の暗い入口が一層際立って見える。百五十フィートばかり入った所に金箔を塗った神道の祠ほこらがあり、これが入口から入り込むいささかな光を反射して、暗い洞窟中で目立っている。この祠は高さも幅も十フィート近く、非常に精巧な彫刻が施してある。この暗い、湿った洞窟は、祠を置くには奇妙な場所であるが、而も日本では顕著な地形の所、例えば此所とか、山の頂上とか、絶壁や深い谷の口とかに、信心深い人達が彼等の教会なり神社なりを立てる。この祠の片側を通りぬけることが出来る。後方はまっ暗で、ここで灯を貰い、我々は数百フィート進んで行ったが、お仕舞しまいにはかがまねばならぬようになった。この辺は、我々の蝋燭の覚束ない光を除けば、絶対に暗黒である。洞窟のどんづまりには、ぼろぼろに腐った古めかしい板の壁があった。この壁の内には木の格子があり、そこからのぞくと直径十二インチばかりの、磨き上げた金属の鏡が見えた。これは神道の祠を代表している。帰りには一つの横穴に入ったが、ここにもどんづまりに格子があり、その間から見ると神社と鏡とがあった。この路は二人が並んで歩くことが困難な位で、壁には石に刻んだとぐろを巻いた竜、その他の神話を象徴した姿があった。私はジャヴァ、インド、支那等で、驚く可き岩石彫刻や巨大な寺院を残した、初期の信仰者達の、信仰と敬虔とを思わざるを得なかった。あるいは微光昆虫がいるかと思って、私は注意深く壁を精査したが、暗さが足りないので、典型的な洞窟動物は発見出来なかった。私は二匹の小さな蜘蛛と、二匹の非常に小さなワラジムシとを見つけてうれしく思ったが、殊に二匹の洞窟蟋蟀こおろぎは何よりもうれしかった。これ等は恐ろしく長い触角を持ち、我国のよりも遙かに小さく、鼠色をしていて実にいい複眼を具えている。私は初めて、日本の海水の水たまりを見て楽しんだ。私は引き潮の時、岩から大きなヒザラガイをいくつか拾い上げた。また、それ迄貝殻だけで見知っていた軟体動物が、生きて這い廻っているのを見たのは大いに愉快だった。

午後は横浜に向けて出発。途中小村藤沢に立ちよった。江ノ島に一番近い郵便局はここにある。サンフランシスコからの汽船が着いたので、私宛の郵便が転送されていはしまいかと思って寄って見た。我々が郵便局に着いた時、恰度郵便が配付され始めた。図141は郵便局長が、手紙や新聞の雑多なかたまりを前にして、坐っている所を示す。私宛の手紙を日本の小さな村で受取ること、及び局長さんが、私の名を日本語で書いた紙片をつけた手紙の束を、渡してくれた無邪気な態度は、まったく新奇なものであった。私が単に「モースさん」といった丈で、手紙の束が差出された。他の手紙の配分に夢中な局長さんは、顔をあげもしなかった。横浜郵便局長の話によると、日本が万国郵便連合に加入した最初の年に、逓信ていしん省〔駅逓局〕は六万ドルの純益をあげ、手紙一本、金一セントなりともなくなったり盗まれたりしなかったというが、これは日本人が生れつき正直であることを証明している。藤沢からの六マイル、私はゆったりして手紙を楽しんだ。だが、元気よくデコボコ路を走る人力車の上で、手紙をみな読もうとしたので、いい加減目が赤くなって了った。私は日本語をまるで話さず、たった一人で人力車を走らせることの新奇さを、考えずにはいられなかった。人々は皆深切でニコニコしているが、これが十年前だったら、私は襲撃されたかも知れぬのである。上衣を脱いでいたので、例の通り、人の注意を引いた。茶を飲むために止ると必ず集って来て、私の肩の上にある不思議な紐帯ちゅうたいにさわって見たり、検査したりする。日本の女は、彼等の布地が木綿か麻か絹で織り方も単純なので、非常に我々の着ている毛織物に興味を持つ。彼等は上衣の袖を撫で、批判的に検査し、それが如何にして出来ているかに就いて奇妙な叫び声で感心の念を発表し、最後に判らないので失望して引き上げる。あまり暑いので、私は坂へ来るごとに、人力車を下りて登った。一つの坂で、私は六人の男が二輪車に長い材木をのせて、大いに骨折っているのに追いついた。私の車夫二人は車を置いて、この荷物を押し上げる手伝いをしたが、私もまた手をかして押した時には、彼等は吃驚びっくりして了った。坂の上まで行くと、彼等は私にアリガトウと、ひくいお辞儀との一斉射撃をあびせかけた。その時は八時を過ぎていて月はまんまるで明るく、私は車上の人となり、あけはなした家々の中をのぞきながら、走って行く経験を再びした。

私は前に死んだ縁者を記念するためカミダナ(神の棚)に燈の光を絶やさぬ祭典のことを述べた。道路の両側の家には、いずれも神棚の、神道か仏教の意味を持つ二、三の事物の前に、一列、時としては数列の燈火がある。部屋は低く、神棚の上の木造部は煤けて黒い。図142はこのような家庭内の祠の一つを写生したのである。この上にならべてある品物の数は、多分信心と財布とに比例するのだろうが、非常に差がある。死人にそなえる米を入れた、小さな皿もある。神道の神社で使うかかる器には、釉薬うわぐすりがかけてなくまたある種の場合の為には、全然轆轤ろくろを用いず、手ばかりでつくる。花がすこし、それから死人の名前を薄い板に書いたものも棚にのっている。

旗は細長い布で輪によって縦に旗竿にかけられる。題銘はすべての漢字に於ると同様、縦に書かれる*。旗をあげる方法は図143に示す通りである。

* 忘れてならぬのは、日本人の使用する漢字が厳密に支那のものだということである。私の知るかぎり日本は漢字を一つも発明していない。これは我々が文字を発明しないと同じである。只日本人は漢字の音を使用してアルファベットを発明し、最後にそれ等の漢字を一つの線、あるいは二本の線位にまで単純化した。支那人はこれを全然やっていない。西方の国境にサンスクリットなる、発音による文字の形式の、いい実例を持ちながら、一億の国民の中で、彼等自身のアルファベットを考え出す丈の知恵を持った者が、一人もいなかったのである。大支那学者ドクタア・エス・ウェルス・ウィリアムは、支那を他の国々から隔離した最大の原因は彼等の言語だといい、絵画文字並に象形文字研究の大家、ギャリック・マロレー大佐は絵文字の使用は文明に属さぬといっている。そこで支那人に関して起る問題は――この国民は彼等の書法の結果として、不活発で且つ文明に遅れているのか、それとも他の方法を採用すべく余りに化石しているか? である。日本の一学者の言によると、日本語は漢字の輸入によって、大いに発達をさまたげられたそうである。
路傍の茶屋で人々に会う時、彼等のいうことが、一言もこちらに通じないことを、理解させることは、不可能である。彼等はかまわず話し続ける。こっちを聾つんぼと思って、大きな声で喋舌るのが普通である。そうでなければ、馬鹿か低能かとでも思っているような表情を、顔に浮べている。「自分には了解出来ぬ」という意味の日本語「ワカリマセン」を、いくら言っても無駄である。最後に私は熱心な有様で「カンサス・ネブラスカ交譲に関する貴下の御意見はどうですか」という。すると彼等は不思議そうに私の顔を眺め、初めて事情が判って、ぶつぶついったり、大いに笑ったりする。
江ノ島で必要とする品物数点を買い求めて正午出発、十八マイルの路を人力車で帰る。実にひどい暑さであった。汗は大きな水滴になって私の顔や手につき、車夫は湯気を立てんばかりであったが、蒸発が速いので耐え忍ぶことが出来る。恰も職人達が群をなして寺々を廻る時節なので(七月末)、街道には多勢巡礼がいた。これは実は田舎を歩き廻ることになるのだが、彼等はこの休暇に神社仏閣を廻って祈祷をいい、銅貨を奉納する信仰的精神をつけ加える。彼等は十数人位の団体をなして出かけ、二、三人ずつかたまってブラブラと道を歩く。彼等はたいてい同じような木綿の衣服――ゆるやかな寛衣かんいみたいなもの――を着ているので、制服を着ているようにさえ見える。中には腰のあたりに鈴をつけている者もある。これは一足ごとにチリンチリンいう。暑い時には裾をまくり上げて脚をむき出す。図144は巡礼二人である。彼等はいつでもいい機嫌で、こちらが微笑すると微笑し返す。

我々は途中で、恐らく寺の燈籠と思われる、大きな青銅の鋳物を運搬して行く群衆に追いついた。その意匠は透し彫だった。それは長い棒からつるされ、棒の前方には横木があって、その両端を一人ずつでかつぎ、後方は多分素敵な力持ちと思われる男が、一人で支えていた(図145)。これ等の人々は白地の衣服を着ていたが、その背中には右の肩から腰にかけて漢字が書いてあり、鋳物にも文字を記した小旗が立ててあった。彼等は休むために荷を下すと、みんなそろって奇妙きわまる、詠歌みたいなものを唄った。路上ではこのような珍しいものにいろいろと、行き違ったり、追いついたりする。

私の部屋から海を越して富士山が実に立派に見える。入江が家から五十フィートの所まで来ているので、面白い形をした舟にのっている漁夫達が常に見える。そして夜、獲物を積んで帰って来る時、彼等は唱応的に歌を唄う。一人が「ヒアリ」というと他の一人が「フタリ」といい――すくなくともこんな風に聞える――そして漁夫達は、片舷片舷交代で漕ぎながら艪ろの一と押しごとにこの叫びを上げる。日本の舟は橈かいで漕ぐのでなく舷から艫で漕いでやるのである。
横浜からの帰途例の砂洲を横切りながら私は長い、大きなうねりが太平洋から押し寄せて来るのに気がついた。これは外洋で、大きな暴風雨が起りかけていることを示している。其後風は勢を増しつつあったが、今や最大の狂暴を以て吹きつけている。そして、今こうやって書いている私の耳を風と波が一緒になった凄じい怒号が襲う。今日の午前、天地溟濛めいもうになる迄は、長いうねりが堂々と押し寄せ、陸から吹く風が波頭から泡沫のかたまりをちぎり取って、空中高く吹き廻す有様はまことに素晴しかった。入江はすくなくとも五マイルの幅を持っているが、うねりもその長さ全体に及びすくなくとも三百フィートの間隔を置いて、高さも非常に高く、そして寄せて来る半円形の波からちぎられた飛沫しぶきは、蒸気のように白くて、私が今迄に見た何物よりも荘厳であり、また海岸で立てる雷のような音は、陸地の数マイルはなれた場所ででも聞えたに違いない。この嵐は台風である。これがどれ程強くなるかは誰も知らないが、とにかく私が今迄経験したどの嵐よりも強く、そして益々狂暴の度を加えつつある。往来の最低部は波をよけて引き上げた漁夫の舟で完全に閉塞され、家はいずれも雨戸をとざし、空気は暑くて息づまる程である。私の部屋は特に嵐に面していはしないので、雨戸もしめてはない。だから嵐に閉じ籠められながら、私はこの記録を続けて行こう。 
第六章 漁村の生活
今朝我々の小実験所が出来上った。曳網の綱と、その他若干の品物とが届きさえすれば、すぐに仕事に取りかかることが出来る。私は戸に南京ナンキン錠と※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねとを取りつけた。仕事をしていると男、女、娘、きたない顔をした子供達等が立ち並んで、私を凝視しては感嘆これを久しゅうする。彼等はすべて恐ろしく好奇心が強くて、新しい物は何でも細かに検査する。現に今もこうして書いていると、家の女が三人、おずおず入って来て私が書くのを見つめている。日本人の物の書きようが我々にとって実に並はずれに思われると同様、我々の書きようも珍しいのである。彼等は筆を垂直に持って書くが、行はページの上から下へ到り、ページの右から始めて左の方へ進行する。我々はペン軸を傾けて持ち、釘のようにするどい金属の尖点を使用して、彼等の濃く黒い印度インドインクに比べると水っぽいインクで物を書く。日本のインクは、書くごとに、墨をすってつくらねばならぬのである。これ等の女は、私の机の上の物の一々に就いて、吃驚したような評論を与えた――瓶、壺、顕微鏡はまだしも、海泡石のパイプは、彼等の小さな、金属の雁首を持つパイプに比べたら、象みたいに大きく思われるに違いない。
戸に南京錠をつけた後、我々はアルコール二罐、私が横浜で買った沢山の硝子ガラスの壺、曳網その他、実験所用の材料を運び入れた。この建物は石の海壁のとっぱなに建っていて、前を小径が通っている。図146は江ノ島の略図である。四方すべて高く切り立っているが、只本土に面した方の鳥居を通りぬけて狭い砂洲に出る場所はそうでない。ここ迄書いた時、嵐は叫び声をあげる疾風にまで進んだ。私は実験所がいくらか心配になって来たので、雨外套を着て狭い往来を嵐と戦いながら降りて行き、その下の方では舟をいくつも乗り越した。その付近の家の住民達は、すべて道具類を島の高所にある場所に移して了った。我々の建物の窓から見た光景は物凄かった。大きな波が、今や全く水に覆れた、砂の細長い洲の上に踊りかかっている。その怒号とその光景! 危険の要素が三つあった。実験所の建物が吹き飛ばされるかも知れないこと、波にさらわれるかも知れぬこと、石垣が崩れるかも知れぬことである。我々が番人として雇った男がどうしても実験所で寝ることを肯じないので、彼及び他の人々の手をかりて、我々はその朝荷を解いて並べた壺を沢山の桶につめ込み、アルコール、曳網その他動かせる物を全部持って、やっとのことで本通りへ出、そして私の泊っている宿屋へ持って来た(図147)。床に入った後で、吹きつける雨が、戸がしまっているにも拘らず、私の部屋に入って来たので卓子テーブルその他を部屋の反対側へ動かした。私は畳の上に寝ていたが、まるで地震ででもあるかのように揺れ、夜中の間に嵐が直接に私を襲いはしまいかと思われる程であった。目をさますと嵐は去っていたが、海は依然として怒号を続けていた。実験所へ行って見た結果、この建物が、こんなに激しく叩きつけられても平気でいる程、しっかり建てられていることが判った。建物の両側の石垣は、所々流されていたが、幸にも我々の一角はちゃんとしていた。道路の低い場所は、四フィートの深さに完全に押し流されて了った。波は依然として、島と本土とをつなぐ砂洲を洗っているので、人々は両方から徒渉し、背中に人を背負ったのもいた(図148)。向う岸で巡礼の一隊が渡るまいかと思案していたが、大きな笠を手に、巡礼杖を持ち、小さな青旗をヒラヒラさせた所は、笠と杖とが盾と武具とに見えて、まるで野蛮人の群みたいであった。今使者が入って来て、実験所宛にいろいろな品が着いたが、波のために島まで持って来ることが出来ぬと告げた。波が鎮まったら初めて手に入れることになるだろう。

昨夕私は机を部屋の真中へ持出し、外山教授、彼の友人生田氏〔?〕及び私の助手の松村氏を招いて、石油洋燈ランプを享楽させた。これは植物性の蝋燭の、覚束ない光で勉強した後の日本人が、特によろこぶ贅沢ぜいたくなのである。生田氏〔?〕はやりかけの仕事、即ち『月刊通俗科学雑誌』に出ている「古代人の世界観」の翻訳を持ち込んだ。松村氏は私の著した小さな『動物学教科書』を勉強しつつある。外山教授は動物界の分析表を研究していたが、非常に熱心であった。
私が昨日横浜から来る途中で写生した図(図149)程、一般民衆の単純な、そして開放的な性質をよく示すものはあるまい。車夫は横浜市の市境線を離れると、とても暑かったので立止って仕事着を脱いで了った(市内では法律によって、何等かの上衣を着ていなくてはならぬのである)。彼等は外国人に対する遠慮から、裸で東京、横浜その他の大都会へ入ることを許されない。裸といったって、勿論必ず犢鼻褌ふんどしはしめている。

それを待つ間に、私は夜の燈明がついている神棚をスケッチするため、一軒の家へさまよい入って、その家の婦人が熟睡し、また乳をのませつつあった赤坊も熟睡しているのを見た。私は日本の家が入り込もうとする無遠慮者にとっては、文字通りあけっぱなしである事の例として、この場面を写生せざるを得なかった。若し彼女が起きていたら、私は謝辞なしには入らなかったことであろう。
七月二十九日 日曜日。若干の英国の店が閉められ、また政府の役所も閉められる(外国人に譲歩したのである)、大都会以外にあっては、日曜日を他の日と区別する方法は、絶対に無い。この役所も、私の短い経験によると、入って行けば用を達することが出来る。
旅につかれ、よごれた巡礼達が、神社に参詣するために、島の頂上へ達する狭い路に一杯になっている。各旅籠はたごやでは亭主から下女の末に至る迄、一人のこらず家の前にならび、低くお辞儀をしながら妙な、泣くような声を出して客を引く。家々は島帝国のいたる所から来た、このような旅人達で充ち、三味線のチンチンと、芸者が奇怪なつくり声で歌う音とは、夜を安息の時にしない。この狭い混み合う路を通って、私は実験所へ往復する。私はこの村に於る唯一の外国人なので、自然彼等の多くの興味を引くことが大である。彼等は田舎から来ているので、その大多数は疑もなく、それ迄に一度も外国人を見ていないか、あるいは稀に見た丈である。然し私は誰からも、丁寧に、且つ親切に取扱われ、私に向って叫ぶ者もなければ、無遠慮に見つめる者もない。この行為と日本人なり支那人なりが、その国の服装をして我国の村の路――都会の道路でさえも――を行く時に受けるであろう所の経験とを比較すると、誠に穴にでも入り度い気持がする。これ等の群衆は面白いことをしに出て来たのだから、恐ろしく陽気な人達も多いが、酔っぱらいはたった一人見た丈である。彼は路傍に静かに眠ていた。人々は悲しげに其の状態を見て通り、嘲笑する子供などは只の一人もいなかった。このような場合が、私をして二つの文明を心中で比較させ続ける。
著述家のノックス氏、『東京タイムス』の主筆ハウス氏、横浜のドクタア・エルドリッジ及びウェルトハイムバア氏が私の宿屋で一日一夜を送った。今朝彼等が出立した後、私は路の終りまで見送りに行った。砂の地頸〔地峡〕が台風で洗われて了ったので、彼等は舟に乗って本土へ越さねばならなかったが、叫び声! 押し方! 引き方! ある者は舳へさきに繩をつけて満員の舟を引き出そうとするその騒ぎは大変なもので、私が今迄見たものとは非常に相違していた。宿の主人や召使いもそこに来て、客人達に向って丁寧にお辞儀をし、別れを告げ、御贔屓ごひいきを感謝していた。
横浜の海岸に残された暴風雨の影響を見ると、波が如何に猛烈な性質を持っていたかが判る。海壁の重い覆い石は道路に打ち上げられ、道路は砂利や大きな石で一杯になっていた。大きな日本の戎克船ジャンクの残骸がホテルの前に散在し、また水路で二ヶ月間仕事をしていた大きな蒸気浚渫しゅんせつ船は、千フィートばかり押しながされて横っ倒しになり、浚渫バケツが全部むしり取られていた。
実験所には窓が二つあり、その一つからは海岸が、もう一つからは砂洲に沿うて本土が見える。図150は実験所から海岸を見た所で、一番手前は建築中のクラ、又は godown と呼ばれる、耐火建物である。足場は莚をかけ、壁土が早く乾き過ぎるのを防ぐ。砂洲が完全に流されて了ったので人々は舟で渡ったり、徒渉する頑丈な男に背負われたりする。

昨日横浜から来る途中、十八マイルの間で、異る場所に乞食を四人見た。今や道路に巡礼が充ち、今後数週間にわたって尚巡礼が絶えぬので、乞食も出て来るのである。彼等は不思議な有様で物乞いをする。人が見えると同時に、彼等は地面に膝をつき、頭を土にすりつけて、まるで動かず、そのままでいる。私が手真似で車夫に、この男が祈祷でもしているのか、それとも物乞いをしているのか、質問せねばならなかった位である。日本ではめったに乞食を見受けず、また渡り者、浮浪人、無頼漢等がいないことは、田園の魅力を一層大にしている。図151は我々の実験所で、私の知っている範囲では、太平洋沿岸に於る唯一の動物研究所の写生である。

二週間前の私は、かかる性質の研究所のために小舎を借り受ける努力を、書きとめることなどは、価値がないと思っていたであろう。米国にいれば私はイーストポートへかけつけ、波止場の建物の上階を借り、大工を雇って私の希望を伝え、保存罐を買い、かくて半日もあれば仕事に取りかかれるからである。私がドクタア・マレーに向って小さな家を手に入れ、それを特に私の研究のために準備するという案を話した時、彼は意味ありげに笑って、非常に多くの邪魔が入るに違いないといったが、まったくその通りであったといわねばならぬ。第一適当な建物を見つけて、その持主にそれを私の為に支度させるのを承諾させる迄に、大部時間がかかった。彼は来週それをするという。いや、今すぐでなくてはいけない。そうでなければまるで要らないのだ。それから万事通弁を経て説明する。日本にはテーブルなど無いから、田舎の大工の石頭に長いテーブルを壁の所に置くということを叩き込もうとする。日本人は床に坐るので椅子なんどは無いから椅子を四つ作らせる。棚をかけさせ、辷すべる仕切戸でしまる長い窓なるものを説明し、日本人は家に鍵をかけないから辷る窓とドアとに一々錠前をつけることをいって聞かせる。私に出来た唯一のことは、横浜へ行って南京ナンキン錠と※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねとを買い、それを自分で取りつけること丈であったが、同時にアルコール、壺、銅の罐等を手に入れるのも、たしかに一と仕事であった。壺に就いては、私は辛棒しきれなくなって、横浜へ行き、一軒の日本人のやっている古道具屋を見つけ出して、塩の瓶を買おうとした。だが、既に東京から申込みがあったので、他の壺は売れるがこれ等は駄目だという。三日後、東京から私に宛てた重い荷物を背負った男が四人乗り込んで来た。荷を解くと東京の硝子工場で製造した非常に優秀な壺が数箇以外に、私が横浜で買おうとして大いに努めた塩の瓶その物が、四十ばかり入っていた!
ドクタア・エルドリッジはこの建物と、壺、銅罐、小桶、篩ふるい、アルコール箱等の完全な設備を見て驚いていた。来週はドクタア・マレーが来る。私は一刻も早く、彼に、元気と激励と勢の強い言葉との充分な分量さえあれば、実験所の設備は出来上ることを見せたい。私の日本人の助手達は、何でもよろこんでするが、時間の価値をまるで知らぬ。これは東洋風なのだろうと思うが、それにしてもじりじりして来る。今朝三時、私は飛脚に起された。曳網の繩が届いたというのである。私はねむくって受取に署名しない位だったが、然し多くの経験に立脚して、日本人は夜中起されても平気だし、また他人の安眠を妨害することを何とも思わぬ国民だという概括をなす可く、余りにねむくはなかった。
子供が遊んでいるのを見たら、粘土でお寺をつくり、その外側を瓶詰めの麦酒ビールその他の蓋になっている、小さな円い錫の板で装飾していた。これは外国人が残して行ったのを、子供達が一生懸命に集め、そしていろいろな方法に利用するのである。お寺の付近には、小さな玩具の石燈籠や鳥居が置かれ、木の葉すこしで周囲を仕上げてあった。数度私は子供が砂や粘土で何かつくるのを見たが、彼等の努力が我国の子供達のと同じ方向に向っていることを見出した。
家々の屋根を眺めてすぐに気がつくのは、煙突がまるで無いことである。また小櫓、円屋根、その他のとび出た物も無い。都会だと屋梁むねの上に火事の進行を見るための小さな足場を見受ける。耐火建築は、多少装飾の意味も持つ巨大な端瓦を、屋梁にのせていることもある。図152は私の部屋から見渡した家々の屋根のスケッチで、あるものは萱葺き、他はすでに述べた薄い木片で覆れている。大きな装飾的の屋梁のあるのは耐火建築である。これ等の建物はごちゃごちゃにくっつき合っている。一度火事が起れば即座に何から何まで燃え上って了うことが、了解出来るであろう。

家の内外を問わず、耳を襲う奇妙な物音の中で、学生が漢文を読む音ぐらい奇妙なものはない。これ等の古典を、すくなくとも学生は、必ず声を出して読む。それは不思議な高低を持つ、妙な、気味の悪い音で、時々突然一音階とび上り、息を長く吸い込む。それが非常に変なので勢い耳を傾けるが、真似をすることは不可能である。
夜になると部屋は陰鬱になる程暗い。小さな皿に入った油と植物の髄の燈心とが紙の燈籠の中で弱々しく光っている。人はすくなくとも燈籠を発見することは出来る。この周囲にかたまり合って家族が本を読んだり、遊技をしたりする。蝋燭も同様に貧弱である。石油が来たことをどれ程日本人が有難がっているかは、石油及び洋燈ランプの輸入がどしどし増加して行くことによっても判る。
今朝(七月三十日)私は第一回の曳網を試みた。我々の舟は小さ過ぎた上に、人が乗り過ぎたが、それで外側へ廻って出て、絶え間なく大洋から寄せて来る大きなうねりに乗りながら、曳網を使用しようと試みた。十五尋ひろの深さで数回引っぱったが、我々の雇った二人の船頭は、曳網を引きずり廻す丈に強く艪を押さなかった。これは困難なことではあった。そして外山と彼の友人が船に酔ってグッタリと舟底に寝て了ったので、引き上げた材料は私一人で点検しなければならなかった。明日我々は、もっと大きな舟に船頭をもっと多数のせて、もっと深い所へ行く。我等の入江に帰った時、私はそもそも私をして日本を訪問させた目的物、即ち腕足類を捕えようという希望で一度曳網を入れて見た。私は引潮の時、この虫をさがしに、ここを掘じくりかえして見ようと思っていたのである。所が、第一回の網に小さなサミセンガイが三十も入っていたのだから、私の驚きと喜びとは察して貰えるだろう。見るところ、これ等は私がかつて北カロライナ州の海岸で研究したのと同種である*。
* この研究の結果は「生きた腕足類の観察」と題する記録の中に入っている。『ボストン博物協会記要』第五巻八号。
日本人は会話する時、変なことをする。それは間断なく「ハ」「ヘイ」ということで、一例として一人が他の一人に話をしている時、話が一寸ちょっとでもとぎれると後者が「ヘイ」といい、前者が「ハ」という。これは彼が謹聴し、且つ了解していることを示すと同時に、尊敬の念を表すのである。またお互に話をしながら、彼等は口で、熱いお茶を飲んで舌に火傷やけどをしたもんだから息を吸い込んで冷そうとでもするような、或は腹の空った子供等が素敵にうまい物を見た時に出すような、音をさせる。この音は卑下か尊敬かを示すものである。
今朝私は帆のある大きな舟に漁夫四人が乗ったのを手に入れ、朝の八時から午後四時まで曳網をやった。全体の費用が七十五セント、それで船頭達はすこしも怠けず懸命に働いた。外山は舟に酔うので来ず、彼の友人は東京へ帰ったので、私の助手の松村がやって見ようということになったが、出かけて一時間にもならぬ内に彼は曳網に対する興味をすっかり失って了い、その後しばらくしてからは舟酔いのみじめさに身をまかせて舟底に横になった儘、舟が岸に帰り着く迄動かなかった。彼は通弁することも出来ぬ程酔って了ったので、私は一から十まで手まね身振りで指図しなくてはならなかった。太陽が極めて熱く、私はまたひどく火傷をした。私は我国で太陽がシャツを通して人の皮膚を焼くというようなことをする覚えはないが、日本の太陽はこんな真似をする。今日は遙か遠くまで出かけ、曳網を三十五尋ひろの深さに投げ入れ、いく度も曳いた。私は実に精麗な貝殻を採った。その多くは小さいが、あるものは非常に美しかった。正午になると、漁夫達は艪をはなして昼飯の仕度にとりかかった。彼等は舟底の板を一枚外して、各々前日捕えた魚を手探りでつかまえた。私は漁夫の一人が昼飯を準備するのをよく見た。先ず魚の尻尾を切って海に投げ込み、内臓を取り除くと、大きな、錆びた、木の柄のついた庖丁で頭も目玉も骨も何もかも一緒に小さくきざんで、それを木の鉢に入れる。次に彼は籠をあけて冷たい、腐ったような飯を沢山取り出し、梅干二個とそれとを一緒に刻んでこれを魚の鉢にぶち込んだ。そこで非常に酸すい香のする、何でも大豆でつくった物を醗酵させた物質を箱からかけ、水少量を加えてひっかき廻した。これ程不味まずそうな物は見たことがない。然し彼が舌鼓を打って、最後の一粒までも食って了った所から察すると、すくなくとも彼には御馳走であるらしい。魚の生肉は非常に一般的な食料品で、ある種の魚は殊に珍重される。
人はみな煙管きせるに火をつけるのに火打石と火打鎌とを使い、台所には必ず火打箱がある。私がこの国で見たマッチはスウェーデン製の安全マッチである。
我々は何艘もの舟とすれちがった。釣をしている者も、網を手繰たぐり込んでいる者もあったが、皆裸体で、黒く日に焼けた身体と黒い頭髪とからして野蛮人みたいであった。舟の艫ともに坐って、船頭四人がいい機嫌で笑いながら調子をそろえて前後に動き、妙な歌を唄って力強く艪を押すのを見ることは実に新奇であった。図153は舟と、仕事中の漁夫が如何に見えたかの大体を示している。

私のコックが、私のシャツに、焼け穴をつくって了った。彼は悪気のないニタニタ笑いをしながら、炭火の入った土器とその上に透しのある竹籠の底を上にして被せた物とを見せて、事件を説明した。この籠の上に乾かそうと思う衣類を、図154のようにかけるので、自然炭が跳ねて衣類に焼けこげが出来る。私は一番薄い下着しか着ていないので、これ等はしょっ中洗っては乾かし、洗っては乾かしている。

ここに出した写生図は、宿屋に於ける私の部屋の三方の隅を示している。図155は私が食事をする一隅である。食卓にお目をとめられ度い――これが大工の外国人のテーブルに対する概念である。椅子は旅行家用の畳み椅子を真似たのであるが、畳めない。テーブルは普通のよりも一フィート高く、椅子は低すぎるので食事をする時、私の頭が非常に好都合にも、皿と同じ高さになる。だが食事をしながら、私は美しい入江と、広い湾と、遠方の素晴しい富士山とを眺める。景色は毎日変るが、今やこの写生をしている時の光景は、何といってよいか判らぬ位である。日没の一時間前で、低い山脈はみな冷かな薄い藍色、山脈の間にたなびく細い雲の流れは、あらゆる細部を驚く程明瞭に浮び出させる太陽の光線によって、色あざやかに照らされ、そのすべてにぬきん出て山の王者が聳えている。部屋の話に立ちかえると、テーブルが非常に高いので、肘をそれにのせぬと楽でない。隅には私の為に棚がつられ、その一つに私は木髄の帽子と麦藁帽子とをのせた。テーブルには朝飯の準備が出来ているのだが、多くの食事の為の食品も全部のっかっている。まるで野営しているようだ。その次の写生(図156)は私の執筆兼仕事テーブルで、塩の瓶に洋燈ランプがのっている。その上の棚には私の顕微鏡が一つ、アルコールの壺、及びパイプ、煙草等を入れた箱が置いてある。床にあるのは予備の曳網を入れたブリキ箱で、私はこれに足をのせる。テーブルの左にのっている瓶には殺虫粉、右の方のにはアルコールが入っていて、夜飛び込んで来る甲虫その他の昆虫を――時に蚤を――つかまえて入れる。この写生図(図157)は、私がここへ来てから混乱皇帝が君臨し続けている(私がいよいよ立ち去る迄はこの通りであろう)一隅である。この世界には、詰らぬことに気を使うべく、余りに多くの仕事がある。写生図は完全にごちゃごちゃな私の大鞄、私が眠る時使う日本の枕、蚊帳かやにかぶせた筵、箱に入った双眼鏡、椅子にのせた日本の麦藁帽子を、示している。この帽子は二十五セントだが、八ドルもする木髄製のナポレオン帽よりも遙かに遙かに楽でかぶり心地がいいから、私はしょっ中これをかぶっている。この上なしの目覆になるから、夜でも物を書く時にはかぶる。その上の棚には素晴しい六放海綿(ほっすがい科)を、いくつか入れた箱がのっている。その若干は箱から外につき出ている。

曳網で取った材料を選りわけることが出来たのは、実に助手達が手伝ってくれたからである。海底には海産物が非常に豊富である。で私が大事なサミセンガイを研究している間に、彼等は貝、海胆うに、ヒトデ等をそれぞれの区分に分ける。図158は彼等が働いている所を示す。右にいるのは外山教授で、彼は自分で費用を払うが採集の手助をする。中央は松村氏で、彼の費用は大学が払う。左は私が雇った男で、夜は実験所で寝泊りし、昼は新鮮な海水を運んで来たり、雑役をしたりする。この男は、日本人が誰でも一般的に理知的であることの、いい実例になる。彼は甲殻類、軟体動物、棘皮きょくひ動物等を説明された後で、材料を適当な瓶に選りわける。其後陸棲りくせいの貝を採集に郊外に出かけた時、人力車夫達が私のために採集の手伝いをすることを申し出た。そこで彼等に私がさがしている小さな陸棲貝を示すと、彼等は私と同じ位沢山採集した。私は我国の馬車屋が、このような場合、手伝いをしようと自発的に申し出る場面を想像しようとして見た。私はこの男を貝の多い砂地へ連れて行って、私の欲する顕微鏡的な貝殻を指示して見た。すると彼はこまかい箸を用いて、実に巧にその小さい貝殻をひろい上げたので、私は殆どしょっ中彼に仕事をさせた。

今著ついた新聞紙に台風の惨害が書いてあるが、沿岸で大部船舶が遭難し、人死にも多い。私は江ノ島の大通り――それは事実唯一の通りである――を写生しようとする誘惑に耐え兼ねた(図159)。遠近法がひどく間違っている上に、町の幅を広く書き過ぎたが、これ等の実行上コミッションの過誤と共に、この絵には多くの遺脱オミッションの過誤もある。私は旗をこの倍も書く可きであり、男、女、子供、猫、犬、鶏も同様である。鶏といえば、私はどの一羽にまでも近づいて行って、捕えることが出来る。捕えられると鶏はギャッギャッと鳴いて反抗の気勢をあげるが、逃げようとはしない。

嵐があってから、非常に潮の低い時以外には、本土へ渡ることが出来なくなって了ったので、何人かの船頭は団体をなしてやって来る巡礼達(一晩泊るだけのも多い)を渡して、大もうけをしている。巡礼の一隊に従って往来を登って行くと、非常に面白い。この往来にそって建っている家の殆ど全部が遊興の場所らしく、宿やの人々がすべて店さきに並んで客を引くので、恰もニューヨークで、辻馬車がズラリと並んだ前を歩くような騒ぎである。客引が間断なく立てる音の奇妙さは形容出来ぬ。第一の家で立てる騒音が第二の家で聞え、第二の家のは第三の家で聞え……とにかくいろいろな声で完全なヒンヒン啼きである。
ここ数日間、私の料理人は何度も叱られた結果、大いに気張って了い、今や私はとても贅沢な暮しをしている。今朝私はトーストに鶏卵を落したものと、イギリスのしたびらめに似た魚を焼いたものとを食った。正餐には日本で最も美味な魚である鯛、新しい薩摩芋、やわらかくて美味な塩づけの薑しょうがの根、及び一種の小さな瓜と梅干とが出た。
先日の朝、私は窓の下にいる犬に石をぶつけた。犬は自分の横を過ぎて行く石を見た丈で、恐怖の念は更に示さなかった。そこでもう一つ石を投げると、今度は脚の間を抜けたが、それでも犬は只不思議そうに石を見る丈で、平気な顔をしていた。その後往来で別の犬に出喰わしたので、態々わざわざしゃがんで石を拾い、犬めがけて投げたが、逃げもせず、私に向って牙をむき出しもせず、単に横を飛んで行く石を見詰めるだけであった。私は子供の時から、犬というものは、人間が石を拾う動作をしただけでも後じさりをするか、逃げ出しかするということを見て来た。今ここに書いたような経験によると、日本人は猫や犬が顔を出しさえすれば石をぶつけたりしないのである。よろこぶ可きことには、我国の人々も、私が子供だった時に比較すると、この点非常に進歩した。だが、我都市の貧しい区域では無頼漢どもが、いまだに、五十年前の男の子供がしたことと全く同じようなことをする。
日本人が丁寧であることを物語る最も力強い事実は、最高階級から最低階級にいたる迄、すべての人々がいずれも行儀がいいということである。世話をされる人々は、親切にされてもそれに狎なれぬらしく、皆その位置をよく承知していて、尊敬を以てそれを守っている。孔子は「総ての人々の中で最も取扱いの困難なのは女の子と召使いとである。若し汝が彼等に親しくすれば、彼等は謙譲の念を失い、若し汝が彼等に対して控めにすれば彼等は不満である」といった。〔唯女子与小人為レ難レ養也。近レ之則不レ孫、遠レ之則怨〕。私の経験は、何等かの価値を持つべく余りに短いが、それでも今迄私の目に触れたのが、礼譲と行儀のよさばかりである事実を考えざるを得ない。私はここ数週間、たった一人で小さな漁村に住み、漁夫の貧しい方の階級や小商人達と交っているのだが、彼等すべての動作はお互の間でも、私に向っても、一般的に丁寧である。往来で知人に会ったり、家の中で挨拶したりする時、彼等は何度も何度もお辞儀をする。往来などでは殆ど並ぶように立ち、お辞儀の方向からいうと相手を二、三フィートも外れていることもある。人柄のいい老人の友人同志が面会する所は誠に観物である。お辞儀に何分かを費し、さて話を始めた後でも、お世辞をいったり何かすると又お辞儀を始める。私はこのような人達のまわりをうろついたり、振返って見たりしたが、その下品な好奇心には全く自ら恥じざるを得ない。これは活動的な米国人には、時間を恐ろしく浪費するものとしか思われない。外山教授の話によると、大学の学生達はこのような礼儀で費す時間を倹約しつつあり、彼等の両親は学生生活は行儀を悪くするものと思っているそうである。
先夜東京から帰って来た時、江ノ島へ着いたのはもう真夜中に近かった。それは非常に暗い夜で、私は又しても下層民の住家が、如何に陰鬱であるかを目撃した。雨戸を閉めると、夜の家は土牢みたいであろう。開いた炉に火がパチパチ燃えるあの陽気さを、日本人は知らない。僅かな炭火で保温と茶を入れる目的とを達し、台所で料理用に焚く薪は上方の桷たるきを煙で黒くする。人力車で村を通過すると、夜の九時、十時頃まで小さな子供が家の前に置いた床几しょうぎに坐っているのを見る。紙を張ったすべる枠は、昼間は家の外側になり、気持のいい光線を部屋へ入れ、閉ざせば風をふせぐ。部屋に火をつけた蝋燭が沢山ある場合、住んでいる人達がかかる紙の衝立に投げる影には、滑稽なのが多い。北斎は彼の「漫画」に、このような影絵のある物の、莫迦げた有様を描いている。
私はポケットに百ドル入れ、車夫只一人を伴侶として、夜中暗い竹藪や貧乏な寒村を通り、時々旅人や旅人の群に出会ったが、私に言葉をかける者は一人もなかった。私はピストルはおろか、杖さえも持っていなかったが、この国の人々の優しい性質を深く信じているので、いささかなりとも恐怖の念を抱かなかった。ある殊の外暗い場所で、我々は橋を渡った。それは高く弓形に反っていて、上には芝土があり、手摺はなく、幅は人力車が辛じて通れる位であった(図160)。橋の真中で我々は、酒に酔っていくらか上機嫌な三人の男に出喰わした。その瞬間私は若し面倒なことが起れば、きっとここで起るなと思った。何故かといえば我々を通す為には、彼等は橋の端に立たねばならぬからである。私の大きな日除帽子と葉巻とによって、彼等は私が「外夷」であることを知っていた。で、一押し押せば人力車も何も二十フィート下の河に落ちて了う。だが彼等は何ともいわなかった。最後に私は疲れ切って眠て了った。幸い道路が平坦だったからよかったものの、そうでなかったら私は溝へ投り込まれていたかも知れぬ。目をさましていれば、人はデコボコな路で人力車が前後に揺れる時、無意識に自分の身体の釣合をとる。目をさますと、我々は海岸に来ていた。波が打ち寄せている。そしてあたりは、世界中どこへ行っても、只田舎だけが持つ、あの闇であった。人のいることを示す唯一の表示は、海の向うの家の集団から洩れる僅かな燈火と、海岸の所々にある明るい火――それをかこんで裸体の漁夫が網や舟を修繕している――とだけであった。私の人力車夫は、暗闇のどこからか、大きな籠を二つ見つけて来て、この中に持って来た荷物を入れ、それを長い天秤棒の両端にしばりつけて、煮えくりかえるような磯波の中を、ジャブジャブ渡り始めた。闇の中から一人の男が、これもどこからともなく現われ、私を負って渡ろうといった。そこで私は普通やるように、背中に乗ったが、これではいけないのであった。彼は私を落し、後に廻って彼の頭を私の両脚の間に押し込み、まるで私が小さな子供ででもあるかのように、軽々と持ち上げて肩にのせた。私は彼の濡しめった頭に武者ぶりつくことによってのみ、位置を保つことが出来たが、波が押し寄せて彼がぐらぐらする度ごとに、まだ半分眠っている私は、これはいつ海の中に投げ出されるか判らぬぞと思うのであった。

道路は何度通っても、何か新しいものか、面白いものを見せてくれる。私はある一軒の店で、大きな木槽の辺を越して、図161で示すかような硝子ガラスのサイフォンがかけてあるのを見た。この端から出る小さな水沫は、盆に入った小型な西瓜すいかを涼しげに濡らしつつあった。小さな小屋がけの店では、西瓜を二つに切り、切った面は薄い日本紙を張りつけて保護する。市場の西瓜は柄に小さな赤いリボンがついている。一度私は一人の男が西瓜を沢山市場へ持って行くのを見たが、一つ残らずこの赤い小さなリボンがついていた。西瓜は丸くて小さく、我国の胡瓜に比べてそう大して大きくはない。そして日本の南瓜かぼちゃに非常によく似ているので、間違えぬように例のリボンをつける。果肉の色は濃い赤(充血したような赤の一種)で、味は我国のに似ているが、パリパリしてはいない。英国人の多くは西瓜の種子も一緒に食って了う。梨は煮て食うと非常に美味だが、梨の味は更にしない。色は朽葉色の林檎に似ていて、形も林檎のように丸い。梅も煮ると非常に美味である。トマトは我国のそれと全く同じ味のする唯一の果実である。馬鈴薯じゃがいもは極めて小さく、薩摩芋は我国のによく似ているが、繊維が硬く味は水っぽい。横浜のホテルで、シンガポールから輸入した奇妙な果物がテーブルに出た。その名をマンゴスティーンと呼ぶ(図162)。皮は黒ずんでいて非常に厚い皮(このスケッチの点線は皮の厚さを示している)の内側は濃紫色で、その内の果実は、よくかきまわした鶏卵の白味に似た純白である。これは蜜柑みかんみたいに小区分に割れ、そして大きな種子を持っている。味はことのほかよく、私が今迄に味った物のどれとも違っているが、ほのかに林檎の風味を思わせる所があり、僅か酸味を帯びている。たしかに最も美味な果実で、フロリダあるいは南カリフォルニアで栽培出来ぬ筈はない。
図‐161 / 図‐162
過日東京へ行く途中、私と同じ車室に、何かの集りへ行く為に盛装した小さな子供が二人いた。彼等は五、六歳にもなっていなかったが、髪を最もこみ入った風に結び、眉毛を奇麗に剃そり落し、顔や首は白粉おしろいでまっ白。両眼の外端には紅で小さな線を描き、頭は所々剃ってあった。一人の女の子が車室の戸の所に立って外を眺めている所を、急いで写生した(図163)。頭のてっぺんの毛を剃った場所と、小さな辮髪べんぱつがその後にくっついている所とに、お目をとめられ度い。時間の関係上、私は彼女の衣装の簡単な輪郭を写生することしか出来なかったが、縮緬ちりめんで出来ていて、鮮かな色の大きな不規則な模様がついていた。腰のまわりの帯は模様のない派手な単色で、重くてかさばり、背後で大きく結ぶが、衣服にはボタンも紐穴もホックも鉤眼も紐も留針もない――まことに合理的な考である――ので、只この帯で衣類をひきしめる。長い袂の外側の辺には黄色い絹の紐が、しつけ糸のように通っていて、袂の一隅で黄色い房をなして終っている。

人力車に乗って田舎を通っている間に、徐々に気がついたのは、垣根や建物を穢なくする記号、ひっかき傷、その他が全然無いことである。この国には、楽書らくがきの痕をさえとどめた建物が、一つもない。而も労働者達は、我国のペン、あるいは鉛筆ともいう可きヤタテを持って歩いているから自分の名前や、気に入った文句や、格言を書こうと思えばいくらでも書けるのである。私はこのことを、我国の人々のこの点に関する行為と比較せざるを得なかった。我国の学校その他の建築物がよごれていることは、この傾向を立証している。
道路で私は、葉のついたままの、長い竹が立っているのを見た。葉には色とりどりの紙片がついている。何かの祭礼の飾りか、あるいは何等かの広告であろう。
東洋風の習慣の一つが、路傍なり、又は内々なりで話をして、人々をもてなし廻る公共的の談話家に見られる。日本の話し家は旅をしては、天幕の下にすみやかに聴衆を集める。日本語はまるで判らぬながら、私は話し家と、話しに聞きほれてよろこんでいる聴衆とを見て、楽しんだ。私は旅館に来た話し家の話を三十分間も聞いた(図164)。彼の顔面筋肉は不思議な働きをし、また違う人物を表示するために、突然声の調子を変化させる所は興味が深かった。彼の聴衆である所の学生達は、ある種の人物がゆっくりした、おせっかいな声で表現された時、声を立てて笑った。すると話し家も同じように嬉しがった。彼は低い机を前にして坐り(これは将棋盤を特に借りて来たのである)そして舞台道具として、三つの品物を持っていた。その一つは扇子で、時に右手で、時に左手で持つ。他の一つは閉じた扇子のような品で、これは薄い木片に紙をまきつけたもの。彼は話に調子をつける為に時々これで、強弱の差をつけて、机をひっぱたく。第三の品物は小さな木片で、彼はこれを屡々取り上げては、カチンカチンと机を叩く。

実験所の世話をやく男は大いに成績がいい。彼は曳網で上げた砂から小さな貝を取り出し、大きなのを洗い、自己の仕事に非常な興味を持っているらしく見える。彼は、一週間一ドル二十五セントという莫大な労銀で、四六時中我々のために、ありとあらゆる仕事をする。
今日(八月十四日)子供達はみな派手な色の着物を奇麗に着ている。何かの祭礼を祝うものと思われる。実験所に行って見ると、小使が自分の子供の頭を剃っている最中であった。一番下の子はすでにその苦難をすごして、姉さんの背中で眠ていた。彼等を写生しようとしている時に、赤坊が目を覚まして泣き始めた。姉さんはそこで腰かけから下り、背中の赤坊を、一種のゴトゴト動かすような運動でゆすぶりながら、歩き廻ったあげく、また腰かけに腰を下した(図165)。今日の祭礼は、彼等の先祖を祭るものだとのことである。午前中、子供は少量の米を、自分の家から持って来るなり、他人に貰うなりして、以前は海岸に置いた大きな釜でそれを煮たものだが、今は家の中で煮る。子供はめいめい塗椀を持って、自分の分け前を貰うために大勢集って来る。図166は子供を背負った婦人を示しているが、子供は手に漆塗りの飯椀を持って、自分の所に御飯の来る番を待っている。御飯には、お祭なので、赤いような色がつけられるが、これは我国の曲馬で売るレモン水が、桃色であるような訳合いなのだろうと思う。この色は米と一緒に煮る豆の一種から出る。私は子供達にまじって写生しようとしたが、彼等はあまりに私に不安を持ち過ぎ、殊に女の子達は私が一番みっともなくないチビ公(彼等は概してあまり奇麗でない)をつかまえようとしたものだから、大いに恐れを抱いて了った。私は日本人が我々の子供の一人を捕えようとしたら、彼等が恐ろしく思うと同じ理由を、この子供達が持っているということを、容易に理解出来なかった。男の子達は私のいることをよろこんだらしく、私は大きな声で笑いながら盛に彼等と騒いだ。

今日実験所の小使が子供の衣類をつくろっていた。彼の細君は私の宿屋の女中をしていて、こんな仕事をする暇がないのである(図167)。

日本人は実に器用に結びをつくる。彼等は藁で安い繩をつくり、紙で恐ろしく丈夫な紐をつくる。建築をする時の足場はすべて釘を打たずに繩でしばる。釘は材木を弱くするからである。接触点には繩を幾重にもまきかけて、非常に強い定着をつくり上げる。
横浜からの路上の一軒の宿屋(図168)には、外国の麦酒ビールがあるという小さな英語の看板が出ている。前面の、木造で物置に似た屋根にめぐらした流蘇ふさは、幅三フィートの青い布で、一フィートごとに半分程裂け、風が通るようになっている。
第七章 江ノ島に於る採集
昨日は実験所大成功だった。漁夫がバケツに一杯、生きたイモガイその他の大きな貝や、色あざやかなヒトデや、私が今迄生きているのは見たことがない珍しい軟体動物を持って来た。すっかりで漁夫は二十セントを要求した。我々は何か淡水貝を見つけることが出来るかも知れぬと思って、我々が渡る地頸に近く海に流れ込む川を遡さかのぼりながら採集し、若干の生きたシジミを発見した。また河口に近く、美事な Psammobia〔皿貝の類の大きな二枚貝〕数個と、更に上流で元気のいい、喧嘩早い蟹を何匹か捕えた。女や子供が数名、岸近くの水中を歩きながら、シジミをひろっていたが、これは食用品なのである。私はシジミの入った小さな籠を二つ、一つ二セントずつで買った。これ丈集めるのに、我々なら、半日はかかったであろう。水中のすべての生物は、下層民の食物になるらしい。貝類の全部、海老えびや蟹の全部、鮫、エイ、それから事実あらゆる種類の魚、海藻、海胆うに、海の虫等がそれである。私はハデイラ科のある物を煮たのを食ったが、決して不味くはなかった。あちらこちらに集った、舟や人々を配景として、川は絵画的であった。巡礼が川を下りて来る。老婆がシジミをひろっている。男が網を引いて餌をとっている。我々が戻ろうとしていた時、一艘の舟が、江ノ島へ行く巡礼の一隊をのせてやって来た。船頭は二セント出せば、我々四人を渡してやるという。恰度干潮で、川の水がすくなかった為に、我々は何度も飛び下りては、他の人々を助けて舟を押した(図169)ので、我々は文字通り、渡船賃をかせいだようなことになった。

普通の種類の蠅がいないことは、この国の特長である。時を選ばず、蠅を一匹つかまえるということは、困難であろう。私はファンデイ湾の入口にあるグランド・メーナンに於て、魚の内臓等をあちらこちらにまき散らす結果、漁村は我慢出来ぬ程蠅が沢山いたことを覚えている。江ノ島は漁村であるが、漁夫達は掃除をする時に注意深く※(「魚+荒」の「亡」に代えて「氓のへん」、第4水準2-93-59)くずにくを全部はこび去り、そしてこれを毎日行う。それに彼等は、捕えた物をすべて食うから、棄てられて腐敗するものが至ってすくない。加之、動物とては人間と鶏だけで、馬、牛、羊、山羊等はまるでいない。鶏も数がすくなく、夜になると籠を伏せた中に入れられる。夜、牡鶏や牝鶏が人家へやって来て、やがて入れられる籠のまわりを、カッカッいいながら歩き廻り、誰か出て来て一羽一羽籠の中に入れる迄それを続ける所は中々面白い。
前にも書いたことがあるが、町を行く行商人の呼び声は、最も奇妙で、そしていう迄もなく、世界中どこへ行ってもそうだが、訳が判らぬ。ある時、それ迄聞きなれたのとまるで違った呼び声を耳にして駆け出して見ると、一人の男が長い竹の管から、あぶくを吹き出していた。あぶくは、石鹸でつくったものよりも一層美しくて、真珠光に富んでいた。石鹸といえば、日本人は全然石鹸というものを知らない。溶解液は二つのほっそりした手桶に入っていて、それを子供達に売る(図170)。外山氏がこの男に液体の構成を聞いた所によると、いろいろな植物の葉から出来ていて、煙草も入っているとのことであった。裸体の男があぶくを吹き吹き、時々実に奇妙極る叫び声をあげながら往来をのさのさ歩いている有様は、不思議なものだった。

私の料理番は階下に、流しと二つの石の火鉢とから成る台所を持っている。これ等の火鉢はある種のセメントか、あるいは非常に軟かい火山岩を切って作ってある。勿論オーヴン〔窯〕は無く、火鉢は単に燃える炭を入れる容器であるに過ぎない。この上で料理番は煮たり焼いたりするが、鶏のロースト〔燔肉〕をつくる時には、四角な葉鉄ブリキを火の上に置いて鶏をのせ、その上に銅の深鍋をひっくりかえしにかぶせて、一時的のオーヴンを設け、銅鍋の底で炭火を起し、鶏がうまくロースト出来る迄、彼は辛棒強く横に立って炭をあおぐ。図171は料理番の簡単な写生図である。鶏の雛は一羽数セント、鯖さばに似た味のいい魚が一セント。私は何でもが安いことの実例として、これ等の価格をあげる。

車夫二人に引かせて人力で藤沢へ行った結果、私は大きな淡水産の螺にし(Melnia)の美事な「種」を壺に一杯集めることが出来た。車夫達がまるで海狸ビーヴァーのように働いて、これ等の貝を河床からひろい上げたからである。
私は特別な使を立てて郵便を藤沢へ送った。距離三マイル、賃銀十セント。亭主がやって来て、この使者は走る飛脚だから二セント多くかかるといった。私は丈夫そうな脚をした男がいい勢で走り出し、水を徒渉して向う側へ全速力で姿を消すのを見た。外山氏は郵便局長宛に、私の所へ来た外国郵便を特便で送るよう特に手紙を書き、それを持たせてやったが、その返事は同じ飛脚が、信じ難い程短い時間に持って帰って来た。彼は往復共、全速力で走り続けたに違いない。
昨日我々は、干潮で露出した磯へ出かけた。水溜りの大きな石の下面を、我々が調べることが出来るように、それを持ち上げてひっくり返す役目の男も、一人連れて行った。収獲が非常に多く、また岩の裂目に奥深くかくれた大きなイソガイ、生きてピンピンしている奇麗な小さいタカラガイ、数個のアシヤガイ(その貝殻は実に美しい)、沢山の鮑、軟かい肉を初めて見る、多くの「属」、及びこれ等すべての宝物以外に、変な蟹や、ヒトデや、海百合ゆりの類や、変った虫や、裸身の軟体動物や、大型のヒザラガイ、その他の「種」の動物を、何百となく発見する愉快さは、非常なものであった。今日我々はまた磯へ行き、金槌で岩石を打割って、ニオガイ、キヌマトイガイ、イシマテ等の石に穴をあける軟体動物を、いくつか見つけた。私はこれ等の生きた姿を写生するので大多忙であった。我々の建物は追い追い満員になって来て、瓶や槽の多くはもう一杯である。材料の豊富は驚くばかりである。顕微鏡をのぞいてばかりいるのに疲れた私は、休息として我々の小舎を写生した。海岸を見下す窓――というか、とにかく開いた所――で私は勉強するのだが、その外でいろいろな珍しいことが起るので、時としては中々勉強をしていられない。この写生図(図172)によって、実験所の内部の大体が判るであろう――枠に布を張り、その上でヒトデや海胆を乾燥もするが、このような仕事には、とかく、ガタピシャ騒ぎがつきものである。

前にもいったが、旅館の私の隣室には学生達がいる。実に気持のいい連中である。彼等の大多数は医科の学生で、大学では医学生はドイツ人に教わる為に、かかる若者達は、入学に先立って、ドイツ語を覚えねばならない。英語をすこし話す者もいる。私はちょいちょい彼等の部屋へ行って、彼等が勝負ごとをするのを見るが、それ等はみな我々のよりも、遙かに複雑である。日本の将棋のむずかしさは底知れぬ位で、それに比べると我国のは先ず幼稚園といった所である。碁は我々はまるで覚え込めず、「一列に五つ」は我等のチェッカースと同程度にむずかしい。私は彼等にチェッカースや、チョーキング・オン・ゼ・フロワ、その他四、五の遊びを教えた。腕を使ってやる面白い勝負がある。二人むかい合って坐り、同時に右腕をつき出す。手は掌をひろげて紙を表す形と、人さし指と中指とを延して鋏はさみを表す形と、手を握って石を表す形の、三つの中の一つでなくてはならぬ。さて、紙は石を包み、あるいはかくすことが出来、石は鋏をこわすことが出来、鋏は紙を切ることが出来る。で、「一、二、三」と勘定して同時に腕を打ち振り、三度目に、手は上述した三つの形の中の、一つの形をとらねばならぬ。対手が鋏、こちらが紙と出ると、鋏は紙を切るから、対手が一回勝ったことになる。然しこちらが石を出したとすれば、石は鋏を打ちこわすから、こちらの勝である。続けて三度勝った方が、この勝負の優勝者である。小さな子供達が用をいいつけられた時、誰が行くかをきめるのに、この勝負をするのを見ることがある。この時は只一度やる丈だから、つまり籤くじを抽くようなものである。
両手を使ってやる勝負が、もう一つある。膝に両手を置くと裁判官、両腕を鉄砲を打つ形にしたのが狩人、両手を耳に当てて物を聞く形をしたのが狐である。これ等は、片手でやる勝負と、同じような関係を持っている。即ち狐は裁判官をだますことが出来、裁判官は狩人に刑罰を申渡すことが出来、狩人は狐を射撃することが出来る。日本人は非常な速度でこの勝負をする。彼等は三を数えるか、手を三度動かすか、或いは両手を二度叩いて、三度目にこれ等三つの位置の一つをとるが、その動作は事実手だけを使ってやるのである。手をあげ前に出すと狐になり、両手で鉄砲を支えるような形をすると狩人になり、指を下に向けると裁判官になる。我々には、いくら一生懸命に見ていても、どちらが続けて三度勝ったのかは、とうてい判らない。この勝負は極めて優雅に行われ競技者は間拍子をとって、不思議な声を立てる。多分「気をつけて!」とか「勝ったぞ!」とかいうのであろう。見物人も同様な声を立て、一方が勝つと声を合せて笑うので、非常に興奮的なものになる。
私は外山と松村に向って、何事にでも「何故、どうして」と聞く。そして時々驚くのは、彼等が多くの事柄に就いて、無知なことである。この事は他の人々に就いても気がついた。彼等が質問のあるものに対して、吃驚したような顔つきをすることにも、気がついた。そして彼等は質問なり、その事柄なりが、如何にも面白いように微笑を浮べる。私はもう三週間以上も外山、松村両氏と親しくしているが、彼等はいまだかつて、我々がどんな風にどんなことをやるかを、聞きもしなければ、彼等が興味を持っているにも係わらず、私の机の上の色々なものが何であるか聞きもしない。而も彼等は、何でもかでも見ようという、好奇心を持っている。学生や学問のある階級の人々は、漢文なり現代文学なりは研究するが、ある都会の死亡率や、死亡の原因などを知ることに、興味も重大さも感じないのであろう。
外山に頼んで、女の子と男の子の名前――我国の洗礼名に相当するもの――と、その意味とを書いて貰った。
女の子の名前
マツ松 / タケ竹 / ハナ花 / ユリ百合 / ハル春 / フユ冬 / ナツ夏 / ヤス安らかな /  チョウ 蝶 / トラ虎 / ユキ雪 / ワカ若い /  イト糸 / タキ滝
男の子の名前
タロー第一の男子 / ジロー第二の男子 / サブロー 第三の男子 / シロー第四の男子 / マゴタロー孫の第一の男子 / ヒコジロー男性第二の男子 / ゲンタロー泉第一の男子 / カメシロー亀の子第一〔?〕の男子 / カンゴロー検査された第五の男子 / サタシチ 心の固い第七の男子 / カイタロー貝殻第一の男子
女の子は下層民でない場合、普通その名前の前に、尊敬前置称語として「お」をつけ、その他すべての場合「さま」を短くした「さん」を名前の後につける。これは尊敬をあらわす言葉だが、人の名につくばかりでなく、冗談に動物の名の後にもつける。この「さん」はミス、ミセス、及びミストルの役をする。日本人が「ベビさん」「キャットさん」といっているのを聞くこともある。だが、前置称語の「お」は、女の子の名前にかぎってつける。ミス・ハナは「お はな さん」になる。太郎、次郎等、第一、第二……を意味する男の子の名前はよくあるが、我国のジョンソンなる姓が、「ジョンの息子」なる意味を失ったと同様に、ある点で第一の男子、第二の男子の意味を持たぬようになった。外山氏の話によると、今や男の子達は、クロムウェル時代の風習の如く、忍耐、希望、用心、信実等の如き、いろいろな新しい名前を、沢山つけられているそうである。
山の名前を知る為に、外山は学生二、三名を応援として呼び込んだ。彼等が、僅か五、六の名を思い出そうとして、一生懸命になったのは、一寸不思議だった。私は殆ど無理に返答をひき出した程であったが、山の名のあるものは英語に訳すことが困難で、殊に「フジ」にはてこずったあげく、これは「富んだサムライ」を意味するといった。サムライは、封建時代、二本の刀を帯びることを許されていた人達である。山の漢字は「ヤマ」と呼ばれる。日本の山の名で、即ち支那語の漢字の名によったものである。現代の支那では、この漢字は、サンと発音する一地方を除いては、シャンである。外山は英語を完全に話し、且つ書くが、而も屡々、正確な英語の同意語を見つけるのに苦しんだ。彼が教えた名前の中のあるものを、以下にあげる。我国の山の名と同じような意味のものが多いことに気がつくであろう――。
オーヤマ大きな山 / ナンタイサン男性の身体の山 / ハクサン白い山 / カブトヤマ 甲の山 / シラネ 白い峰 / タテヤマ直立した山 / キリシマヤマ霧のかかった島の山 / ノコギリヤマ鋸の山
ノコギリはスペイン語の Sierra に相当するが、サクラメント市から見るシエラ山脈は、鋸の歯のようである。
犬の名には赤、黒、白等の色を用いるが、犬は自分の色を知っているらしく思われる! 馬の名で普通なのは「ハルカゼ」(春の風)、「キヨタキ」(清い滝)、「オニカゲ」(悪魔の影)。川の中には「早い」川や、「犀」川や、「大きな井戸」の川や、「天の竜」の川やその他がある。相撲すもう取は、この国では非常に尊敬されるが、「電光」「海岸の微風」「梅の谷」「鬼の顔の山」「境界の川」「朝の太陽の峰」「小さな柳」等の名を持っている。舟にもまた、極めて小さいもの以外は、皆一風変った名前がつけてある。
山を描くにあたっては、どの国の芸術家も傾斜を誇張する――即ち山を実際よりも遙かに嶮しく書き現わす――そうである。日本の芸術家も、確かにこの点を誤る。すくなくとも数週間にわたる経験(それは扇、広告その他の、最もやすっぽい絵画のみに限られているが)によると、富士の絵が皆大いに誇張してあることによって、この事実がわかる。私はふと、隣室の学生達に、富士の傾斜を、記憶によって書いて貰おうと思いついた。この壮麗な山は湾の向うに聳えていて、朝から晩まで人の目を引く一つの対象なのである。先夜、晩飯の時、輝く空を背に、雄々しく、非常に暗くそそり立つこの山を、出来るだけ注意深く描いて見た。そこで鋏を使用して輪郭を切りぬき、そしてそれを持って山にあてがうと私が努力したにもかかわらず、傾斜をあまり急に描き過ぎたことを発見した。私は紙に鋏を入れては山にあてがって見て、ついに輪郭がきちんと合う迄に切り、そこで隣の部屋へ入って、通弁を通じて、出来るだけ正確な富士の輪郭を書くことを、学生達に依頼した。私は紙四枚に、私の写生図に於る底線と同じ長さの線を引いたのを用意した。これ等の青年はここ数週間、一日に何十遍となく富士を眺め、測量や製図を学び、角度、円の弧等を承知している上に、特に、斜面を誇張しないようにとの、注意を受けたのである。図173は彼等の努力の結果で、一番下は私の輪郭図である。彼等は彼等のと私のとの輪郭の相違に、只吃驚するばかりであったが、この試験には非常な興味を見せた。彼等は不知不識しらずしらず、子供の時から見なれて来たすべての富士山の図の、急な輪郭を思い浮べたのである。彼等の角度が、殆ど同じなのは面白い。学生の一人が持って来て見せた扇には、斜面が正確に近く描いてあった。登山した人がその山の嶮峻さを誇張するのは、山は実際よりも必ず峻しく見えるものだからということが、想像出来る。

昨日長い砂浜で、漁師達が、長さ数千フィートの繩がついている、大きな網を引きあげた。殆ど全部が裸の、漁夫や男の子達が、仕事を手伝っている所は、誠に興味があった(図174)。大きなうねりがさかまいて押しよせた。人々は面白い思いつきの留木を用いて、繩にぶら下った。それは六フィートばかりの繩で、一端は輪になっており、これを腹のまわりにまきつけ、他端には大きなボタンみたいな木の円盤がついている。このボタンを巧みに投げると、それが網の繩にまきついて、しっかりと留まる。私は図175でそれを明瞭にしようと試みた。我国の漁夫も、この方法を知っているかも知れないが、もし知らぬならば真似をすべきである。これは繩を非常にしっかりとつかみ、取り外しも至極楽で、また速に繩にくっつけることが出来る。網が見え出すと、多数の人が何が捕れたかを見る為に、集って行った。私はこの裸体の人々の集団の中に無理に入って行って、バケツに一杯、各種の海産物を取った。私はそれ迄、自発的の群衆がこれ程密集し得るとは知らなかった。まるで鰯いわしの罐詰である。

この島の東端に、漁夫の家がかたまっていて、私はその何軒かを写生しようとしたが、老若男女が私の周囲にぎっしりかたまって了ったので、とうとう断念せざるを得なかった。彼等が喋舌しゃべったの喋舌らぬの! そして五歳ばかりの子供も大きな大人のように厳然たる口のききようをした。彼等は明かに、どの小舎を私が写生しつつあるかを、議論していた。最初私は、ある名前がハッキリいわれるのを聞くが、写生図(図176)に例えば大きな魚の籠といったような、新しい細部をつけ加えると、非常に誇りがましい笑い声が起る。だが、大きな魚の籠は一つより多くあるので、今度は別の主張者が叫び声をあげる番になる。私は小舎を三軒写生した丈で、辛棒がしきれなくなったが、頭髪のもしゃもしゃした、皮膚の黒ずんだ土人達の長い人間道ひとあいみちを通じて(まったく私はその間から向うを見ねばならなかった)見る光景は、不思議なものであった。私によっかかった者の一人、二人に対して、私がスペイン語で呪咀したら、彼等は哄笑こうしょうした。

日本人は漢字で文章を書くが、優秀な学生は三千字、四千字を知っている。これ等全部に書かれる時の形がある。日本人は同時に、四十八字のアルファベットを持っていて、それで言葉を発音通りに綴る。だが私はこのことを余りよく知らないから、興味を持つ読者は、ヘップバーンの「日英辞典」の序言を参照されるとよい。漢字の多くは、一つの点や線によって相違する。外山教授は大学へ手紙を出して網をたのんでやったが、先方はその漢字を、私が沢山持っている綱と読み違えた。日本人の手紙には Dear Sir も Dear friend もなく、突然始る。物を書く時には、図177のように筆を垂直に持つ。

Lの音が日本語にないことは、不思議に思われる。日本人が英語を書く際に、最も困難を感じることの一つは、LとRの音の相違を区別することで、何年間も英語を書いていた人でさえ、RのかわりにLを使い、又はその逆のことをする。日本人にはLを発音するのが恐ろしくむずかしい。外山の友人に、Parallel と発音して御覧なさいといった所が、彼は私がどんな風にそれを行うかと熱心に私を見つめながら、舌と両唇とを一生懸命に動かし、最後に絶望の極断念して了った。これは吃驚する程だった。反対に支那人は、Rの音を持っていないので、それを発音する困難さは、日本人のLに於ると同様である。
日光へ行った時、マッサージをやらせて、気持よくなったことを覚えていた私は、非常に疲れていたので、めくらのアンマ(マッサージ師はこう呼ばれる)を呼び入れ、彼は私の身体をこね廻したり、撫でたり、叩いたりした。松村氏は私の横に坐り、私は彼を通じて、色々な質問を発した。このアンマは、天然痘で盲目になったのである。天然痘は、この国で一時は恐るべき病疫であったが、幸いにも今は統制されている。外国人の渡来はよいことと思うかと聞いたら、彼は勢よく「然り」と答え、そして「若し外国人が二十五年も前に来ていたら、私を初め何千人という者が、盲目にならずに済んだことであろう」とつけ加えた。彼はまた、外国人は非常に金を使うともいった。同一の服装をしていても、日本人と外国人との区別がつくかと聞くと、彼は即座に「出来ます、外国人は足が余程大きい」と答えた。だが、若し外国人が小さな足をしていたらというと、「足の指がくっついていて、先の方が細い」との返事であった。彼は大きな太った男で、頭は禿げているというよりも、奇麗に剃ってある。仕事にとりかかると同時に、私に詫をいいながら衣を脱いだ。撫でる時には指が変に痙攣けいれん的にとび上って、歯科医が使用する充填機械に似た運動をする。
私が小使に新鮮な塩水(fresh salt water)を取って来てくれと頼んだら、彼はそれを混ぜるのかと聞いた。彼は英語で十まで勘定することを覚え、fresh water〔真水〕salt water〔塩水〕及び all right ということが出来る。松村氏も fresh salt water とは変だと思ったのである〔fresh water は真水であるが、fresh なる形容詞には「新鮮」の意味がある〕。そこで私は彼に真水は日本語で何かと質ねたら、それは「真実の水」で、他は「塩の水」であるとのことであった。これは最もいい呼びようらしく思われる。欧州人は真水を sweet water〔甘い水〕というが、真水は決して甘くはない。
私が部屋でやることのすべてが、他の部屋にいる好奇心の強い人々には、興味があるらしく、私の部屋を見ては、私の一挙手一投足を見詰める。彼等のやることが私に珍しいと同様に、私のやることも彼等には物珍しいのだということは、容易に理解出来ない。日本に来た外国人が先ず注意するのは、ある事柄をやるのに、日本人が我々と全く反対なことである。我々は、我々のやり方の方が疑もなく正しいのだと思うが、同時に日本人は、我々が万事彼等と反対に物をすることに気がつく。だが、日本人は遙かに古い文化を持っているのだから、或は一定のことをやる方法は、彼等のやり方の方が本当に最善なのかも知れない。
日本人が知識を得ようとする熱心さは、彼等が公開講演の会場を充満する有様でも知られるが、更に若い人達が、我々の為に働き、自分が受けた教えに対しては、日本語を訳す手伝いをしたり、家の内外で仕事をしたりして報いようとして、努めることでも分る。先日若い男が一人、私の家へやって来て、一通の手紙を置いて行くことを許され度いと願った。彼は加賀から東京まで、二百マイル近くも歩いて来たのである。この手紙は日本紙に筆で――これはむずかしい仕事である――立派な英語で書いてあった。それは学生が、外国の知識を得ようとする野心を示していると同時に、彼が私の「科学的動作」を観察することの重要さを、如何に感じているかを示して、興味が深い。
「先生、どうか私の乱暴な言葉と悪い文法とをお許し下さい。私の名前はT・DOKIであります。私は石川県から勉強するために東京へ送られた学生の一人であります。私は多くの理由によって自然の科学の一つを勉強する決心をしました。然しこれをする為に私は第一に、物理、化学、地質学、生理学、植物学、動物学その他の一般的科学を多少知っていなくてはなりません。そして私はこれ等の科学の知識は殆ど何も持っていません。そこで私が考えますに、私は先ずこれ等の準備的教課を勉強しなくてはならぬと思いますが、その為にはよい先生を得ねばなりません。然し私は色々な理由で東京大学の学生になることを欲しませんので私にこれ等の課目を教えて下さる程親切で暇のある先生を見出すことが出来ません。
あなたが有名な博物学者で我々の為に多くのよいことをなされ、またもっとなさろうとの御希望であることをききました。私は以下の請願のお許しを乞わずにはいられません。
あなたが非常にお忙しいということはよく知っておりますので、あなたが私を半召使い半学生としてお宅に生活させて下され、そしてお暇の時に一週間に三時間か四時間ずつ私が読んで判らぬ所を説明して下さらんことを希望いたします。かくて私は単に困難な点を説明して頂けるのみでなくあなたの科学的言辞を聞き、あなたの科学的動作を観察するの利益を得ることが出来ます。若しあなたが御親切に私のねがいを入れて下さるのならば私はよろこんで以下の条件に私自身を置きます――。
一 私は毎日二、三時間あなたの為に何でも(出来ることは)いたします。
二 私は以下の三条以外に何物をも要求いたしません。第一に毎週あなたの時間を三、四時間、第二にどんなものでも生きるに足る食物、第三にどんなのでも住むに足る場所。
三 私は若しあなたがお受取りになるなら三円以下に於て如何なる金額をも差出します。
これ等は私が自身を置こうとする条件のすべてではありませんが、一ヶ月三円以内の費用でこれ等の課目をいい先生の下で学ぶことが出来さえすれば私は如何なる条件にも服します。御慈悲深く御許可下さい。御慈悲深く御許可下さい。」
私の部屋の廊下に面して、家が面白い形に積み重なっている(図178)。これ等の建物中の三つは耐火建築で、村が火事の時火を避けるように、ここに建てたのである。然し若し我々のいる建物が火を出せば、家はみな密接している上に、非常に引火しやすい材料で出来ているから、村中燃え上って了うことであろう。

松村は日本人の多くと同様、絵を描くことに興味を持っている。図179は彼が子供を写生したものであるが、その筆致が如何に純然たる日本風であるかに注意せられたい。日本人の絵画に力強さと面白味とを与える一つの原因は、それが必ず筆で描かれることで、従って仕事の上に、太さの異る明瞭な線と、大なる自由とを得るのである。彼等が選ぶ主題、例えば木の葉とか人物とかは、彼等の持つ技術によって、写実的に描かれる。彼等の描く人物は、みなゆるやかな、前で畳み合せる衣服を着ている。男が普通に着るのは、典雅に垂れ下る一種の寛衣かんいであり、彼等の帽子は絵画的である。木の葉、竹、竹草、松、花その他は力強く、勢よく描かれる結果、日本の絵は非常に人を引きつける。

今日は曳網の運が、あまりよくなかった。私はサミセンガイを求めて、我々の入江に戻り、目的の貝を沢山と、大きなオキナエビス若干その他を得た。網を引いている間に、突然驟雨が襲って来て、私はずぶ濡れになったが、すぐ太陽が現われ、やがて衣類が乾いた。日本の舟夫達は優秀だとの評判があるにかかわらず、非常に臆病であるらしく、容易なことでは陸地から遠くへ出ない。今日私は遠方へ行くので、彼等を卑怯者といわねばならなかった。漁船は二マイルばかりの所に列をなしている。三十マイル程離れた大島へ行こうといい出したら、彼等は吃驚して顔色を変え、如何にも飛んでもない思いつきだと、いうように笑った。曳網を引き廻している最中に、舟から遠からぬ場所に、大きな魚が、長くて黒い鰭ひれを僅か水面に出して、さっと過ぎて行った。さァ大変! 舟夫の一人が艪を棄て、舳に近く坐っている私の所へ来て、熱心にこの魚を追いかけさせてくれとたのんだ。私には彼が何をいっているのか、丸で判らなかったが、彼の懇願的な態度は間違う可くもないので、私は「ヨロシイ」といった。そこで大活動が始った。曳網の綱が三十五尋ひろ入っていたので、先ず網を手ぐり入れるものと思った所が、彼等は長い竿三本を縛りつけ、曳網綱の末端をこの急造浮標うきに結んで、海の中に投げ込んだ。私は綱が解けるか、或はこれを発見することが出来ないと困るなと多少心配した。我々は鮫さめ――大きな魚は、鮫だった――を追って元気よく動き出した。銛もりは長い竿のさきに、鉄の槍をいい加減にくっつけた物で、綱がついているから、使用後には竿を引きぬき、倒鉤のある槍さき丈を、魚の身体に残すのである。小さな魚類が鮫を恐れて、共通な一点を中心に、かたまり合っているのは誠に興味があった。一網打尽ということが出来たであろう。我々は死物狂しにものぐるいで追いかけたが、鮫は遂に逃げ去った。で、舟夫達はもとの場所に帰り、安々と曳網の浮標を見つけた。彼等が鮫を追っている間に、私は漁船二、三を写生したが、まだ私は正しい線をつかんでいないので私の写生図には実物の優雅さが欠けている。図180の前帆は、舷側を越えている。帰途についた時風が出た。そこで竹の釣竿を翼桁とし、ダブダブな帆を環紐でそれに通して、これを竿を檣マストにしたものに取りつけ、帆の下端は手に持つという、実に莫迦らしい真似をしながらも、景気よく走ったものである。図181は舟中から見たその帆である。日本の舟には竜骨が無く、底荷を積みもしないが、めったに椿事ちんじが起らない。よしんば顛覆したにしても、舟はそれに縋りついていられる丈の人数の漁夫達と一緒に、ポカポカ浮いているし、水はあたたかく、漁夫は魚みたいに水に馴れているから、幾日でも舟にかじりついた儘でいられる。入江に帰った時、サミセンガイを求めて曳網を入れ、百五十個を獲た。又、珍しいものも入っていた。終日それ等を研究して来た所である。いろいろな新しい事実が判明して来ることは、驚く程である。私はノース・キャロライナの「種」は、かなり詳しく研究されているものと思っていたが、ここで捕れたのはノース・キャロライナのに非常によく似ているが、もっと透明であり、私はそれ迄に腕足類で見たことのない新しい器官をいくつか見た。

図182は実験所の流し場を、外から見た所である。この家を建てた人は、水の吐口ということを丸で考えなかったので、このような突出部を取りつけ、そこから水を自由に流すようにした。

ここ二週間、私は米と薩摩芋と茄子なすと魚とばかり食って生きている。私はバタを塗ったパンの厚い一片、牛乳に漬けたパンの一鉢その他、現に君達が米国で楽しみつつある美味うまい料理の一皿を手に入れることが出来れば、古靴はおろか、新しい靴も皆やって了ってもいいと思う。
この村の先生が私を訪問して、儀式ばった態度で“How do you do ?”といった。そのアクセントは、彼が英語を僅かしか知らぬことを示していたが、後で彼が白状したことによると、彼の英語の知識はこの挨拶と“Good-bye”とに限られているのである。彼が英語を知っている以上に、私が日本語を知っている――といった所で大したものではないが――と思うと、一寸気が楽になる。昨夜私は数週間前、最初に泊った向う側の宿屋の人々を訪問した。私は富士山が更によく見える場所をさがしている時、彼等と知り合いになったのである。結局私が坂をずっと上った所に宿を定めたに拘らず、彼等は私に会うと、前と同様気持よくお辞儀をした。行って見ると、家族は非常に忙しそうにしていた。彼等の中の四人はその日の会計をやりつつあって、銭を数えたり、帳面づけをしたりしていた。彼等は、いう迄もなく、床に坐っていたが、机は低い腰かけに似ていて、一人がその前に膝をついていた。日本の家屋の照明は至極貧弱なので、この時も暗すぎて、写生をする訳には行かなかった。私は日本人が、子供達に親切であることに、留意せざるを得なかった。ここに四人、忙しく勘定をし、紙幣の束を調べ、金を数え等しているその真中の、机のすぐ前に、五、六歳の男の子が床に横たわって熟睡している。彼等はこの子の身体を越して、何か品物を取らねばならぬことがあるのに、誰も彼をゆすぶって寝床へ行かせたりして、その睡眠をさまたげようとはしない。彼等は私に酒を出した。そして番頭の一人が、奇麗に皮をむいた桃を二つ皿にのせて持って来てくれたが、それは非常に緑色で煉瓦みたいに固かった。一口噛かじってから、私は気持が悪いことを表示し、無言劇の要領で胃のあたりを撫でて見せたら、彼等はその意味をすぐ悟った。今これを書いている時、往来の向うで召使いが二人、廊下の手摺によっかかって桃を食っている。この桃は未熟なので、噛むごとに事実その音がここ迄聞える程である。彼等はまるで最も固い林檎を食ってでもいるかの如く、桃をしっかり握りしめている。
私はこれ等の優しい人々を見れば見る程、大きくなり過ぎた、気のいい、親切な、よく笑う子供達のことを思い出す。ある点で日本人は、恰も我国の子供が子供染じみているように、子供らしい。ある種の類似点は、誠に驚くばかりである。重い物を持上げたり、その他何にせよ力の要る仕事をする時、彼等はウンウンいい、そして如何にも「どうだい、大したことをしているだろう!」というような調子の、大きな音をさせる。先日松村氏が艪を押したが、その時同氏はとても素敵なことでもしているかのように、まるで子供みたいに歯を喰いしばってシッシッといい、そしてフンフン息をはずませた。ある点で彼等は我国の子供によく似ているが、他の点では大きに違う。悲哀に際して彼等が示す沈着――というより寧ろ沈黙――は、北米のインディアンを想わせる。
図183は家庭内の祠ほこらを、写生したものである。小さなテーブルの上にならんでいるコップは真鍮製で、赤い色をした飯が盛ってある。右の下には薩摩芋と、一種の蕪かぶとに四本の木の脚をつけて、豚みたいな形にしたものがある。中の段には米の塊〔餅のことであろう〕が二つと、桃をのせた皿とがあるが、先祖の中に虎疫コレラで死んだものがありとすれば、桃の一皿はまことに暗示的なお供物であろう。もっともあまり気持のよくない思い出させではあるが――。祠の中央には仏陀の美しい像があった。これは最もみすぼらしい小舎にあった祠である。

今朝私はサミセンガイを調べに実験所へ行ったが、昨夜極く僅かしか眠ていないので、起きていることが全く出来ず、断念して部屋へ帰り、短くて不安定なハンモックが提供する範囲で、最も気持のよい昼寝をした。明日で、家庭を離れてから恰度三ヶ月になるが、その間、ホテルとドクタア・マレーの家とに泊った数夜を除くと、私は寝台という贅沢品を経験していない。三ヶ月間の一部分は、米国大陸を横断する寝台車にいた。また十七日間は、汽船の最も狭い寝床で暮した。そして其後はありとあらゆる品物を枕の代用品として、ハンモックか、固い畳の上かに寝ているのである。
今迄に私は理髪店というものを見たことがない。床屋は移動式で、真鍮を張った、剃刀かみそりその他を入れる引き出しのある箱(図184)を持って廻る。この箱は何か色の黒い材木で出来ていて、真鍮の模様があり、油とびんつけの香がぷんぷんする。鋏は我国で羊の毛を切る鋏に似ている。剃刀は鋼鉄の細長くて薄い一片で、支那の剃刀とはまるで違う。剃刀をとぐ砥石といしは、箱の下の方に見えている。引き出しには留針や、糸や、頭髪等が一杯入っている。箱の上の木製の煙出しに入っている、焼串のような棒は、頭髪を一時的一定の形に置くものであり、煙出しの端からぶら下っている真鍮の曲った一片は、顔を剃る時、こまかい毛を入れるもので、床屋はこの端に剃刀をこすりつける。私は学生の一人が剃らせるのを見た。顔を剃ることは前に述べたが、床屋がまぶたを剃ろうとは思わなかった。勿論まつ毛は剃りはしないが、顔中、鼻も頬もまぶたも、剃るのである。ここみたいな村の往来で写生をしようとすると、老幼男女が周囲を取り巻いて、ベチャクチャ喋舌り続けるから、非常に不愉快である。

私の頭は大きな貝を共鳴器として使用する歌い手、或は話し家に関係する騒音と新奇さとで、ガンガンする程である。彼の写生図(図185)は割によく似ている。彼は学生達の招きに応じて、往来の向うから、私の部屋へ入って来た。学生達は、私がこの男の立てつつある音に興味を感じたのに気がついて、呼んだのである。彼は低い、机に似た将棋盤の前に坐って恐ろしく陰気な音で吹き続けた。その音は、犢こうしの啼くのを真似したら出来そうであるが、然し調子には規則正しい連続があり、私にはそれが明かに判った。時に彼は咳をしては声を張り上げ、息を吸い込む時には、悲哀のドン底に沈んでいる人みたいな音を立てた。貝殻をブーブーやると同時に、彼は片手に、木の柄に何かの金属をつけて作った、奇妙なガランガランいう一種の鳴鐘器を持っていた。この金属の一端は半インチ足らず前後に動いて、カランカランと弱々しい音を立てた。しばらくこのような音を立てた上で、彼は喇叭ラッパを下に置き、歌を唄ったのと同じ調子で吟誦し、徐々に談話に移って行ったが、それにも時々歌と、それから貝殻が出す憂鬱な音とが入り込んだ。日本の学生達は彼の談話のある所々で、笑いを爆発させた。私は彼の貝殻、小さな木のかたまり、及び彼がピシャッと机を叩いて話に勢をつける扇形の木箆へらを更によく見ようと思ったので、彼のこの演技に対して十セント支払った。すると彼は私がこれ等の物品に興味を持っていることを知り、お礼がいいのを有難く思って、私に木片と、例の叩く物とを呉れた。図186は話し家の道具の一つを示している。

東京への途中、兵隊が多数汽車に乗って来た。東京へ着いて見ると、道路は南方の戦争、即ち薩摩の叛乱から帰って来る軍隊で一杯であった。停車場の石段には将校が何人かいたが、みな立派な、利口そうな顔をしていて、ドイツの士官を思い出させた。私は往来の両側を、二列縦隊で行進する兵士の大群――多分一連隊であろう――を見たが、私が吃驚する暇もなく、私の人力車夫は片側に寄らず、もう一台の人力車の後について行列の間に入って了い、この隊伍の全長に沿うて走った。私は兵士達を見る機会を得た。色の黒い、日にやけた顔、赤で飾った濃紺の制服、白い馬毛の前立をつけた短い革の帽子……これが兵士であり、士官はいい男で、ある者はまるで子供みたいだが、サムライの息子達で、恐れを知らぬ連中である。私を大いに驚かせ、且つよろこばせたのは、私に向って嘲笑したり、声をかけたりした者が、只の一人もなかったという事実である。彼等は道足で行進しつつあり、ある者は銃を腕にのせ、ある者は肩にになっていたが、それにしてもこれ程静かな感じのする、規律正しい人々を見たのはこれが最初である。事実彼等は皆紳士なので、行為もそれにふさわしかった。
今日、人を訪問する途中、私は東京市中の、私にとっては新しい区域を通って非常に愉快であった。それは実に絵みたいな場所で、大きな石垣と広い堀とがあった。平坦な道路を人力車で通り、文字通り苔に蓋われた石垣が彎曲した傾斜で四十フィートの高さに達し、その上には松その他の巨木が、まるでメイン州の森林のまん中に於るが如く、瘤こぶだらけな枝を四方に張って、野生そのままに自由に成長している景色が遙か続くのを見ることは、誠に興味が深い。ここかしこ、この縁を取る森林の間、或は石垣の角に、巨大な屋根を持つ古風な日本建築が見えた。これ等は赤か黒かで塗ってあったが、多分過去に於て兵営に使用したものであろう。石垣の下の堀には、蓮が実に美事に生えていた。繁茂しているので水が見えず、直径一フィートの淡紅色の花と美しい葉とは、水から抽ぬきんでたり、水面に浮んだりしていた。また蓮の生えていない場所もあったが、それには石垣や木の影がうつって素晴しい光景を見せていた。我々は変った橋をいくつか渡り、最も特徴のある門構えをいくつか通った。この驚くべき景色は何マイルも続いた。
こんな風に気持よく人力車を走らせた後、大学へ行って見ると、当局者が私の仕事に便利な部屋を、いくつか割当てておいて呉れた。博物館と講義室とにする大きな部屋が二つと、構内の別の場所に、実験室にする長い部屋が三つとってあった。七月分の月給を払うのに、私の契約書が七月十二日から始っているので、彼等は端銭を払ったばかりでなく、小さな銅貨を六つ呉れて、一セントの十分の六まで払った。彼等は如何なる計算も、一セントを十分の何々にした所まで勘定するとのことで、私は受取書にその価格まで書かねばならなかった。自分自身が、一セントの端数のことでゴチャゴチャやっているのに気がつくと、妙な気持がする。これは他の人達も同じ経験をしたと白状している。端銭チェンジ、即ち書付け以上の金額を払った者が受取る銭は、「ツリ」というが、この語は同時に魚を捕えること、即ち魚釣を意味する。
折々見受ける奇妙な牛車に、いささかでも似た写生図が出来ればよいと思う。図187で私はそれを試みて見た。牡牛一匹が二輪車に押し込まれ、柄は木製の環で背中の上を通って頸にのっかる。車にとりつけた大きな莚むしろの日除けは、牛に日があたらぬようにするものである。足も藁の草履をしばりつけて保護する。これによって、我々はかかる仏教の異教徒が、如何に獣類を可愛がるかに気がつき、そしてこれ等の動物が、カソリック教国のスペインで、どんな風に取扱われているかを思い出さぬ訳に行かぬ。

食料品を取りまとめた上で、私は再び江ノ島へ向けて出発した。原始的な漁村で一週間暮すのはいいが、それが殆ど二ヶ月近くの滞在となると、幾分巡礼に出るような始末になって来る。江ノ島へ着いて、私は第一夜を送った宿屋で食事した。この家の人々は私が別の宿屋へ移ったにもかかわらず、実に親切なので、私はその家族を私の部屋に招き、顕微鏡で不思議なものを見せることにした。私の無言劇的な会話はわかったらしい。宿の亭主と、彼の家族とだけを期待していた私は、彼等のみならず、この家の召使い、子供全部、及び向う側に住んでいる人達までが皆やって来た時には、面喰わざるを得なかった。だが、私は出来るだけのことをし、ベックの双眼顕微鏡で彼等に蠅の頭や、蜘蛛くもの脚や、小さな貝殻等を見せてやったが、彼等が示した驚愕の念、低いお辞儀と「アリガトウ」とは誠に興味があった。驚くのも道理である。彼等はそれ迄に、顕微鏡も、望遠鏡も聞いたことすら無いのである。若し彼等が何かを拡大して見たとすれば、それは天眼鏡を通じてであろう。私はまだ日本で天眼鏡を見たことがないけど、支那人が使っているから、日本にもきっとあるに違いない。これが今日の大愉快の一つであった。もう一つの愉快なことは、実に可愛らしい日本人の男の子と近づきになることであった。この子は私が今迄に見たたった一人の可愛らしい子供であり、多くの子供達と違って私を恐れなかった。一体子供が私を怖がるというのは、新奇な経験である。今朝私はこの子と両親と召使いとを実験所へ招待した。彼等が顕微鏡その他に対する興味を示した、上品で優雅な態度は、気持がよかった。父親は私と名刺を交換し、それを松村が翻訳したが、彼は大蔵省に関係のある役人だった。
昨晩私はカルタで不思議な経験をした。学生達が私のところへやって来て、その中の一人が、私の「君達はウイスト〔四人でやる一種の遊び〕を知っているか」という質問を、了解する丈の英語を知っていた。出来ると思う者もいたので、私は椅子若干を工面し、円卓を片づけて、さて札をくばって見ると、彼等が札の価値さえも知らぬことがわかった。彼等はジャックと女王とを区別するのにさえ骨を折った。私の質問が誤解されたのである。カードとウイストとは同意語であるらしい。だが、彼等は即座にこの遊戯に興味を持った。勿論それは無茶苦茶だったが、然し私は学生達が気がよくて丁寧なのをうれしく思った。椅子は彼等を痛めたらしく、しばらくすると彼等は畳の上に坐るように、椅子の上に坐って了った。
今日松浦という、はきはきした立派な男が、大学の特別学生として私に逢いに来た。松村及び料理番と石油ランプを二つ持って、例の洞窟を訪れ、ランプの光で洞窟蟋蟀こおろぎその他の昆虫をかなり沢山採集した。これ等はすべて石の下や、古い材木の下にいるのと同じような、薄明の形式をしていた。
日本人が油紙製の傘を装飾する奇妙な方法は、興味がある。ある場合、傘を黒く塗り、縁の一部分を白く残して新月を表す(図188)。また花、変な模様、漢字等も見られる。

昨晩、大きな波が、島から本土へかけた、一時的の歩橋の向う端を押し流して了った。天気が静穏で気持がいいのに、大きなうねりが押し寄せて来るのを見ると、たしかに不思議である。多分五百マイルも離れた所で嵐が起り、その大きな動揺が、やっと今岸に達したのであろう。波は夜中轟き渡った。
今日私は、新しい掛絵が、柱にかけてあるのに気がついた。ひっくり返して見ると、裏面にはもとの絵がかいてある。薄い杉板の、幅六インチ長さ五フィート半のものを、絵に利用する日本人は、巧みな芸術家といわねばならぬ。風景に竹の小枝を一本描き、狭い隙間から向うを見る効果を出すには、適当な主題を選ぶ技能を必要とする。
日本の家庭で如何に仕事の経済が行われるかは、室内の仕事を見るとわかる。一例として、部屋が沢山ある宿屋の仕事は、部屋女中の一人か二人で容易になされる。寝台はなく、客は畳に寝る。寝具は綿をつめたもの。枕は蕎麦殻そばがらをつめ込んだ、小さな坐布団みたいなものに、薄い日本紙をかぶせ、軽い木箱に結びつけたもの。洗面等は戸外でやる。朝になると布団を集め、縁側の手摺にかけて風を通し、その後どこかの隅か戸棚かにたたみ上げる。軽くて箱みたいな枕は、両腕にかかえて下へ持って行き、よごれた枕かけ、即ち単に一枚の紙を取り去って、新しい一枚をのせる。十枚位を同時に結びつけたのなら、一番上のをはがす丈で、その日の仕事は、寝室の用事に関するかぎり終るのである。図189は女中が二人、枕の紙をかえている所を示す。

図190は舟二艘の写生である。遠方のは「戎克ジャンク」という名で知られていて、ここに表したのよりも遙かに大きい。前にもいったが、舟にはペンキが塗ってなく、どれもこれも一様に、鼠がかった木材の色をしている。舟は一種の鉄釘で接合してあるらしく、これ等の釘の頭は材木の面より低く沈んでいて、その四角い穴には木片が填めてある。舟の先の方には穴があって、船尾から岸に引き上げた時、ここから水が流れ出る。

大学から手紙が来て、月曜の朝九時、他の教官達と教課目の時間割に就て、相談してくれとのことであった。私は日曜の正午に東京へ行く積りであったが、ハミルトン氏と彼の友人とが突然実験所を見に来て、そしてハミルトン氏は稀重な標本を瓶に詰めることを手伝うと約束し、私を晩方まで江ノ島に止るようにして了った。で、晩に出発し、十七マイルを横浜まで歩くことにしたが、これは五時間かかる。晩になると大風で、我々はそれがやむのを待って十時までいた。然し、やむ所どころか、風は暴力を増す一方であった。我々は向う側が流されていたことを承知しながらも、狭い橋を渡りかけた。下では波が凄い勢で狂い廻っている。末端まで来て我々は舟を呼んだが、この風ではどんな舟でも浮いていることは出来まい。徒渉しようかとも思ったが、十七マイルを、砂と水とで一杯になった靴で歩くことを考えて、やむを得ず引き返し、明朝三時もう一度やって見て、人力車で横浜へ行くことにした。私の英国人の友達は岸に近い宿屋にいたが、我々が一緒に出立出来るように、私にもその宿に泊れとすすめた。私は夜中、何度も何度も起き上った。第一回は合奏している犬に石をぶつける為に起き、次には雨戸を通して雨を吹き込む烈風を避けて、畳の上に新しい場所を見つける為に起きた。階段を下りると、家族の人達が床のあちらこちらに寝ているのが、薄暗いたった一本の蝋燭の光で見えた。この部屋は時代と煙とで黒く、外見は野蛮人の小舎みたいだった。階上の客間は、これも年代の色にそまっていはするものの、遙かに上等である。極めて僅か眠ったばかりで、おまけに私は、日本へ来て最初の風邪を引いたが、我々は三時には用意して出かけた。朝食はトーストパン一片とお茶一杯とであった。私は鞄と、こわれやすい標本の大きな包みと、それから風が強くて頭にのせていられない大きな日除帽子とを、持って行かねばならなかった。風は我々が台風突風と称する吹き様で襲い、波は橋板の間からとび上り、また橋板の上を越した。前に橋を渡ることが困難だったとすれば、今は、より多くの橋板が流されたので、不可能事だった。橋は揺れ、まっ暗なので、時々我々ははらん這いになって、向うの板を手さぐりにさぐらねばならなかった。風と波との音で、我々はお互に何をいっているのかまるで聞えず、そして我々は海水で膚まで濡れたが、幸い水は温かく、空気は暑かった。如何にして私が荷物を持って橋を渡ったかは、いまだに神秘である。私は橋の全長を、文字通り一インチずつ這って歩いたので、末端まで来て見ると、波は長さ三フィートでさかまいていた。我々は声をそろえて、嵐の中で我々を待っていた、人力車夫を呼んだ。やっと聞えると、彼等は波浪の間を辛じてやって来た。非常に困難したあげく、我々は彼等の肩に乗り彼等はヨロヨロしながらも、どうやらこうやら我々を、水の中でなく、陸地に投り出した。それから長い間、木製の雨戸をしっかり締め切った家があり、道路で犬がねている、静かな村々を通って、人力車は走った。風は竹の林をヒューヒュー鳴らしている。ある村では夜廻りが、時々太鼓を四つずつ叩いて廻っていた。四時であることを示していたのである。日出は実に素晴しかった。こんなに鮮かな赤の色は、かつて見たことがない。風がこれ程烈しいのに、恐ろしく暑いのは不思議だった。我々は十七マイルを通じて、上衣を脱いだ儘でいた。六時三十分、我々は横浜のさきの神奈川に着き、ここで私は東京行きの汽車に乗って、ついに集合時間迄に大学へ着いた。三時、私は暑いさかりの太陽を頭上にいただいて、江ノ島へ向けて帰途についた。
藤沢へ着く前に、私は奇麗な着物を着た人達が、街路をゾロゾロ歩いて行くのを見た。娘達(大人のある者さえも)は美しい紅色の下着を着ていたが、これは一般に見受ける藍色の衣類にくらべて、気持のよい変化であった。藤沢へ入ると、大変な群衆である。あるお寺の段々から白衣を身につけ、頭に自由帽(自由の表章として着ける半卵形の緊身帽)に似た茶色の帽子をかぶった男が四、五十人、肩に祠の雛形みたいな物を担いで下りて来た。先頭には太鼓があり、これをドンドンドンと三度ずつ、ゆっくりした単調な調子で叩く。明かに何事かが行われつつあるのである。私は身振り手振りで車夫達に、それが何であるにせよ、とにかく止って見たいのだということを伝えた。そこで彼等は横町に車を引き入れ、私はノロノロと子供、大人、玩具店の間を縫って歩いた。全部の光景は市に似ていた。ある種の芝居みたいなものを、やっている真っ最中だった。一人の男が勢よく太鼓を叩きながら、大きな声で、背後に並べられた人像彫刻のようなものに、人々の注意を引いていた。この見世物の入場料が、一セントの十分の一だということを知らぬ私は、二セント出した所が、男は非常にうやうやしく礼をいったあげく、入場券を渡したが、それは長さ一フィートの木の札だった。この見世物は一種の奇妙な天幕テントの内で行われ、長さ七フィートばかりの舞台があって、少数の観客がそのすぐ前に立っていた。この国の人達は皆背が低いので、彼等から見たら私は巨人と思えるであろう。いずれにせよ、私はまるで竹馬にでも乗ってるような具合に、彼等全部の頭ごしに見ることが出来た。だが見物人が見世物を見ないで私をみつめ、低い声で「イジンサン」といいあうのを聞くのは、いささかいやだった。「イジンサン」は「異った人々」で、即ち「外国人さん」の意味である。
舞台へは子供が二人、一緒に出て来た。その一人はカンガルーみたいな装をしていて、カンガルーみたいに飛び廻り、他の一人は小さな太っちょに扮し、それ迄に見たこともない程奇怪極るお面をかぶっていたが、その姿はジョン・ギルバートが描いたフォルスタフの絵を思わせた。こんなに背を低く見せるために、女の子は脚を曲げていたに違いない。彼等は暫時踊って子供達をよろこばせた。
この見世物の目新しさをしばし楽しんだ後、私はまた人力車に乗って、晩の八時頃海岸へ着いた。波は依然として荒れ狂い、岸には男が十人ばかり、盛に手真似身振りで、全力を尽して私に何事かを了解させようとしていた。真暗だったので容易に解らなかったが、気がつくとその朝三時、橋の末端をなしていた所には、大きな残骸の破片があるばかりで、橋は無くなっていた。私は舟をやとおうとした。すると男達は極めて簡単に手をひっくり返して見せて、舟もひっくり返るということを示した。今から思うと全く恥しい位私は激怒したものである。すくなくとも十二人は集っていたが、それに加うるに裸の漁師が二、三十人、中にはサケの香をプンプンさせているのもあり、皆手真似をしながら、大きな声で私に何かいって聞かせようとする。私は私で「エノシマ」と吐鳴どなりながら、今や行くことの出来ぬ島を指さした。私は吐鳴ったが、これは自分の言葉が通じないと、無意識に彼等を聾つんぼだと思うからである。彼等も同様な衝動に煽られていた。最後に私は横浜まで歩いて帰るといって威嚇し、すこし海岸から歩き去って、つかれ切っていたので、汐の引くのを、じりじりしながら待った。遂に私はある男の肩に乗って渡ったが、橋が完全に無くなっているのを見ては、驚かざるを得なかった。宿屋へ着いて聞くと、橋は我々が渡った直後に押し流されたそうで、事実、我々が渡っている最中に流されつつあったのである。危い所であった。
私の宿屋の亭主は、前日ハミルトン氏の一行から、言語道断の暴利をむさぼった。それで私は宿屋へ着くや否や、荷物を全部ひっくるめて、往来をはるか下った所にある別の宿屋へ行った。私の外日本人二人も一緒に引越し、また大学から私にあいに来たドクタア・ヴェーダーにも、移ることをすすめた。今迄いた家に次ぐいい旅館を持っている立花は、それ迄も私を親切に取扱ったが、よろこんで我々をむかえた。 
第八章 東京に於る生活
八月二十八日。今日は荷物を詰めるので大多忙だった。小使も、特別学生も、病気になったので、この仕事は松村と私とに振りかかって来た。我々がやとった車夫達は、例の通り手伝う事を申し出たので、私は彼等に麦藁をきざませたが、日本人はいろいろなことを器用にやるから、我々よりも上手に、荷を詰めたかも知れぬ。水曜日の朝、我々は人力車を五台つらねて出発した。箱、曳網、その他、及び人を四人のせた舟は、翌日まで出帆出来ないので、荷ごしらえの残部は小使にさせることにした。繊弱過ぎて詰めることの出来ない標本は、大きな、浅い籠に入れた。大きな、細い枝を出した珊瑚さんごは、板に坐布団をくくりつけてその上に置き、料理番がこれを東京へ着く迄膝の上に乗せて行った。我々はみな標本を入れた籠を一つずつ持ち、最後の人力車には荷物を積んだ。図191は、三十マイル以上を走って東京へ向うべく出発した時の一行の有様を、朧おぼろげながらも示したものである。我々はかなり、くっつき合って進んだが、人々が我々から受けた印象を見受けることは面白かった。彼等は不思議そうに先頭を瞥見し、二番目を眺め、吃驚して三番目に来る人を見詰め、そして我々がそろって膝の上に、かくも奇妙な物をのせている光景に、驚いて笑い声を立てる。我々は横浜で泊ることにした。翌朝我々は大切な珊瑚その他を、少しも傷けずに、東京へ着いた。金曜の朝には舟が着き、私は荷物が大八車二台に安全に積まれ、三人の男が曳いたり押したりして、最後に大学で私にあてがわれた部屋で下ろされるのを見た。これ等の部屋は博物館――日本に於る最初の動物博物館――の細胞核である。私は、私の契約期限が切れる迄に、これをしっかりした基礎にのせるようにしたいと希望している。

今、江ノ島に別れを告げて来て見ると、あすこに滞在した期限は、矢のように疾く過ぎたものである。私は六週間、あの小さな家がゴチャゴチャかたまった所で暮した。人々は過労し、朝六時から真夜中まで働き、押しよせる巡礼――時々外国人も来るが、すべて日本人――を一晩泊めるために、とても手にあまる程に沢山の仕事を持っている。訪れる人々は一日に四度も五度も、食事を要求するらしく思われ、絶間なくお茶や、煙草の火や、熱い酒やその他を求める。いろいろな年齢の子供達が、いたる所にかたまっていた。が、私は最も彼等に近く住んでいたにもかかわらず、滞在中に、只の一度も意地の悪い言葉を耳にしたことがない。赤坊は泣くが、母親達はそれに対して笑う丈で、本当に苦しがっている時には、同情深くお腹を撫でてやる。誰もが気持のいい微笑で私をむかえた。私は吠え立てる犬を、たった一本の往来で追いかけ、時に石を投げつけたりしたが、彼等は私のこの行為を、異国の野蛮人の偏屈さとして、悪気なく眺め、そして笑った丈である。親切で、よく世話をし、丁重で、もてなし振りよく、食物も時間も大まかに与え、最後の飯の一杯さえも分け合い、我々が何をする時――採集する時、舟を引張り上げる時、その他何でも――にでも、人力車夫や漁師達は手助けの手をよろこんで「貸す」というよりも、いくらでも「与える」……これを我々は異教徒というのである。
犬といえば、犬の名前を聞くと“Kumhere”だと返事をされる。これが犬の日本語だと思う人も多いが、この名は犬を呼ぶのに“Come here !”“Come here !”という英国人や米国人の真似をしたので、ここらにいる日本人はこれを犬の英語だと思っている。Dog は日本語では「イヌ」である。
小さな庭のつくり方や、垣根、岩の小径等は、この上もなく趣味に富んでいる。先日、朝早く村々を通過した時、私は多くの人々が、井戸端や家の末端で、顔を洗っているのを見たが、彼等は歯も磨いていた。これは下層民さえもするのである。加之、これ等の人々は、水を飲む前に、口をゆすぐのを例とする。
江ノ島の寺には沢山宝物があって、坊さん達が恭々うやうやしくそれを見せる。宝物には数百年前の甲冑や、五百年前の金属製の鏡で、その時代の偉い大名が持っていたもの等がある。坊さんは、固い物体の大きな一片を持ち出して、これは木が石になった物だといった。よく見ると抹香鯨まっこうくじらの下顎の破片である。そういって聞かせた私を見た彼の顔には、自分を疑うお前は実にあわれむ可き莫迦者だという表情があった。彼は同じ文句を何千遍もくりかえしては説明するので、いろいろな宝物の説明を非常に早口で喋舌り続け、松村がそれを訳すのに困ったりした。最後に坊さんは細長い箱の前に来て、如何にも注意深く蓋をあけると、中にはありふれた日本の蛇の萎しなびた死骸があり、また小さな黒い物が二つ、箱の中にころがっていた。坊さんはこの二つがその蛇の角だといった。そんな風な生物がいないことは、いう迄もない。ちょっと見た丈で、それ等が大きな甲虫の嘴であることが判る。だから、そういって聞かせた所が、彼はすこしも躊躇ちゅうちょすることなく、また嬉しい位の威厳と確信とを以て、彼の説明は書面の典拠によっているのだから、間違は無いといった。こうなると仏教の坊主達も、世界の他の宗教的凝り屋と同様、書面の典拠を以て事実と戦おうとしているのである。
今日私は往来で、橙色の着物を着た囚人の一群が、鎖でつながれ、細い散歩用のステッキ位の大さの鉄棒を持った巡査に守られているのを見たが、日本のように、無頼漢も乱暴者も蛮行者も泥酔者もいない所で、どこから罪人が出現するのか、不思議な位である。これ等の囚人達は、邪悪な顔をしていた。若し犯罪型の顔とか表情とかいうことに、いくらかでも真実がありとすれば、彼等は米国の犯罪人と同じように、それを明瞭に示していた。この少数の者共が、人口三千万を越える日本に於て知られている兇状持の全部だといって聞かせる人があったら、私は、限られた経験によってではあるが、それを信じたろうと思う。
昨日私は人力車夫を月極つきぎめで雇ったが、非常に便利である。彼は午前七時半にやって来て、一日中勤める。私が最初に彼の車に乗って行ったのは、上野の公園で開かれたばかりの産業博覧会で、私の住んでいる加賀屋敷からここ迄、一マイルばかりある。公園に着いた我々は、立派な樹木が並ぶ広い並木路を通って行ったが、道の両側には小さな一時的の小舎こや或は店があって、売物の磁器、漆器其他の日本国産品を陳列している。入場券は日曜日は十五セントで、平日は七セントである。入口は堂々たる古い門の下にあり、フィラデルフィアの百年記念博覧会の時みたいに、廻り木戸があった。大きな一階建ての木造家屋が、不規則な四角をなして建っている。美術館は煉瓦と石とでつくった、永久的建築である。図192は農業館の入口を簡単に写生したもので、これは長さ百フィートの木造建築である。内には倭生の松、桜、梅、あらゆる花、それから日本の植木屋の面喰う程の「嬌態と魅惑」との、最も驚嘆すべき陳列があった。松の木は奇怪極る形につくられる。図193はその一つを示している。枝は円盤に似た竹の枠にくくりつけられるのだが、どんな小枝でも、根気よく枠にくくりつける。面白い形をしたのは、まだ沢山あったが、時間がないので写生出来なかった。ちょっとでも写生しようとすると、日本人が集って来て、私が引く線の一本一本を凝視する。この写生をやり終るか終らぬかに、丁寧な、立派ななりをした日本人の役人がやって来て、完全な英語で「甚だ失礼ですが、出品者の許可なしに写生することは、禁じてあります」といった。私は元来写生をする為にやって来たのだから、これには閉口したが、知恵をしぼって、即座に米国の雑誌に寄稿することを決心し、この全国的博覧会の驚くべき性質を示す可く米国の一雑誌へ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画入りの記事を書こうとしているのだと云った。これで彼は大分よろこんだらしく、次に私に、それは商業上の目的でやるのかと質問した。そこで生れてから一度も、松の木も他の木も育てたことが無く、またこの年になって、そんな真似を始めようとも思っていないというと彼は名刺をくれぬかといった。私はいささか得意になって Dai Gakku(偉大なる大学)と書いた名刺を一枚やった。すると彼の態度は急変し、それ迄意匠を盗む怪しい奴と思われていた私が、すくなくとも一廉ひとかどの人間になった。彼はこの件を会長と相談して来るといった。一方私は、会長がどんな決議をするか知らぬので、大急ぎで各館をまわり、出来るだけ沢山の写生をした。

図194は長いテーブルで、娘が十人ずつ坐り、繭まゆから絹を紡つむいでいる所を写生した。これを百年記念博覧会に出したら、和装をした、しとやかな娘達は、どんなにか人目を引いたことであろう。紡ぐ方法は実に興味があった。私は一本の糸を繭から引き出してほぐすものと思っていた。繭は三十か四十、熱湯を入れた浅い鍋に入れ、写生図のテーブルの一隅にある刷毛を用いて、それ等を鍋の中でジャブジャブやる内に、繊維がほぐれて来て刷毛にくっつく。すると、くっついた繊維を全部紡ぐので、一本一本、切れるに従ってまた刷毛でひっかける。鍋の湯の温度は蒸気の管で保ち、上には紡のついた回転棒がある。

何百人という人々を見ていた私は、百年記念博覧会を思い浮べた。そこには青二才が多数いて、薑しょうがパンと南京豆とをムシャムシャやり、大きな声で喋舌ったり、笑ったり、人にぶつかったり、色々なわるさをしたりしていた。ここでは、只一つの除外例もなく、人はみな自然的に、且つ愛らしく丁寧であり、万一誤ってぶつかることがあると、低くお辞儀をして、礼儀正しく「ゴメンナサイ」といって謝意を表す。人々の多くは、建物に入るのに、帽子を脱いだ。だが三人に二人は、扇子か傘で日をよける丈で、頭をむき出しにしているので、脱ぐべき帽子をかぶっていない者も多い。
虫の蝕った材木、即ち明かに水中にあって、時代のために黒くなった板を利用する芸術的な方法に就いては、すでに述べる所があった。この材料で造った大きな花箱に、こんがらかった松が植えてあった。腐った株の一片に真珠の蜻蛉とんぼや、小さな青銅の蟻や、銀線でつくった蜘蛛の巣をつけた花生けもある。思いがけぬ意匠と材料とを使用した点は、世界無二である。長さ二フィートばかりの、額に入っていた黒ずんだ杉板の表面には、木理をこすって目立たせた上に、竹の一部分と飛ぶ雀とがあった。竹は黄色い漆うるしで、小さな鳥は一種の金属で出来ていた(図195)。別の古い杉板(図196)の一隅には竹の吊り花生けがあり、金属製に相違ない葡萄ぶどうの蔓が一本出ていた。蔓は銀線、葉と果実とは、多分漆なのだろうが、銅、銀等に似せた浮ぼりであった。意匠の優雅、仕上げ、純潔は言語に絶している。日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術に於て、かかる簡単な主題(Motif)を具体化する力とを示しているので、これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、そして最大な芸術家であるかのように思われる。彼等は誰も夢にだに見ぬような意匠を思いつき、そしてそれを、信用し難い程の、力と自然味とで製作する。彼等は最も簡単な事柄を選んで、最も驚く可き風変りな模様を創造する。彼等の絵画的、又は装飾的芸術に於て、驚嘆すべき特長は、彼等が装飾の主題として、松、竹、その他の最もありふれた物象を使用するその方法である。何世紀にわたって、芸術家はこれ等から霊感を得て来た。そしてこれ等の散文的な主題から、絵画のみならず、金属、木材、象牙ぞうげで無際限の変化――物象を真実に描写したものから、最も架空的な、そして伝統的なものに至る迄のすべて――が、喧伝けんでんされている。

この地球の表面に棲息する文明人で、日本人ほど、自然のあらゆる形況を愛する国民はいない。嵐、凪なぎ、霧、雨、雪、花、季節による色彩のうつり変り、穏かな河、とどろく滝、飛ぶ鳥、跳ねる魚、そそり立つ峰、深い渓谷――自然のすべての形相は、単に嘆美されるのみでなく、数知れぬ写生図やカケモノに描かれるのである。東京市住所姓名録の緒言的各章の中には、自然のいろいろに変る形況を、最もよく見ることの出来る場所への案内があるが、この事実は、自然をこのように熱心に愛することを、如実に示したものである。
播磨の国の海にそった街道を、人力車で行きつつあった時、我々はどこかの神社へ向う巡礼の一群に追いついた。非常に暑い日だったが、太平洋から吹く強い風が空気をなごやかにし、海岸に大きな波を打ちつけていた。前を行く三、四十人の群衆は、街道全体をふさぎ、喋舌ったり、歌ったりしていた。我々は別に急ぎもしないので、後からブラブラついて行った。と、突然海から、大きな鷲が、力強く翼を打ちふって、路の真上の樫の木の低い枝にとまった。羽根を乱した儘で、鷲は喧やかましい群衆が近づいて来るのを、すこしも恐れぬらしく、その枝で休息するべく落着いた。西洋人だったら、どんなに鉄砲を欲しがったであろう! 巡礼達が大急ぎで巻いた紙と筆とを取り出し、あちらこちらから手早く鷲を写生した有様は、見ても気持がよかった。かかる巡礼の群には各種の商売人や職人がいるのだから、これ等の写生図は後になって、漆器や扇を飾ったり、ネツケを刻んだり、青銅の鷲をつくったりするのに利用されるのであろう。しばらくすると群衆は動き始め、我々もそれに従ったが、鷲は我々が見えなくなる迄、枝にとまっていた。
維新から、まだ僅かな年数しか経ていないので、博覧会を見て歩いた私は、日本人がつい先頃まで輸入していた品物を、製造しつつある進歩に驚いた。一つの建物には測量用品、大きな喇叭ラッパ、外国の衣服、美しい礼服、長靴や短靴(中には我々のに匹敵するものもあった)、鞄、椅子その他すべての家具、石鹸、帽子、鳥打帽子、マッチ、及び多数ではないが、ある種の機械が陳列してあった。海軍兵学寮の出品は啓示だった。大きな索条ケーブル、繩ロープ、滑車、船の索具全部、それから特に長さ十四フィートで、どこからどこ迄完全な軍艦の模型と、浮きドックの模型とが出ていた。写真も沢山あって、皆美術的だった。日本水路測量部は、我国の沿岸及び測量部にならった、沿岸の美しく印刷した地図を出していた。又別の区分には犂すき、耨くわ、その他あらゆる農業用具があり、いくつかの大きなテーブルには米、小麦、その他すべての日本に於る有用培養食用産品が、手奇麗にのせてあった。学校用品は実験所で使用する道具をすべて含んでいるように見えた。即ち時計、電信機、望遠鏡、顕微鏡、哲学的器械装置、電気機械、空気喞筒ポンプ等、いずれもこの驚くべき国民がつくったものである。私が特にほしいと思った物が一つ。それは象牙でつくった、高さ一フィートの完全な人間の骸骨である。この骸骨の驚異ともいうべきは、骨を趾骨に至る迄、別々につくり、それを針金でとめたことで、手は廻り、腕は曲がり、脚は意の如く動いた。肋骨と胸骨とをつなぐ軟骨は、黄色い角で出来ていて、拵え作った骸骨の軟骨と全く同じように見えた。下顎は動き、歯も事実歯※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)しかの中で動くかのように見えた。
外国人向きにつくった金物細工、像、釦金とめがね、ピン等は、みな手法も意匠も立派であった。ある銀製の像には、高さ四インチの人像が二つあり(図197)、一人が崖の上にいて、大きな岩を下にいる男に投げつけると、下の男はそれを肩で受けとめる所を示している。それには松の木もあるが、皆銀でこまかく細工してある。ここに出した写生図は、人像の勢と力とを不充分にしか示していない。

今や私は加賀屋敷第五番に、かなり落着いた。図198は、私が住んでいる家を、ざっと写生したものである。これは日本人が建て、西洋風だということになっている。急いでやったこのペン画は、本物の美しい所をまるで出していない。巨大な瓦屋根、広い歩廊、戸口の上の奇妙な日本の彫刻、椰子やし、大きなバナナの木、竹、花の咲いた薔薇等のある前庭によって、この家は非常に人の心を引く。家の内の部屋はみな広い。私が書簡室即ち図書室として占領している部屋は、長さ三十フィート、幅十八フィートで高さは十四フィートある。これがこの家の客間なので、これに接する食堂とのしきりは折り戸で出来ている。床には藁の莚を敷いて、家具を入れぬ情況の荒涼さが救ってある。夜は確かに淋しい。頭の上では鼠が馳けずり廻る。天井は薄い板に紙を張った丈なので、鼠は大変な音をさせる。床は気温の変化に伴って、パリンパリンといい、時に地震があると屋根がきしむ。そして夜中には、誰でも、確かに歩廊を私ひそかに歩く足音が聞えたと誓言するであろう。だが、私は押込み強盗や掏摸すり等のいない、異教徒の国に住んでいるので、事実、故郷セーラムの静かな町にいるよりも、遙かに安心していられる。

今日裏通を歩いていたら(ここの往来はみな裏通みたいだ)パンみたいな物を、子供のために、山椒魚(図199)その他の奇妙な生き物の形に焼いたものがあった。聞く所によると、東京のある場所では、菓子かしを蟾蜍ひきがえる、虫、蜘蛛等のいやらしい物の形につくっているそうである。それは実に完全に出来ていて、ひるまずに食った人が勝負に勝つのだという。また砂糖菓子や寒天を使用して、実に鼻持ちのならぬような物をつくり上げる正餐もあるそうである。これ等はすべて食えば美味いのだが、むかつきやすい胃袋にとっては、とても大変な努力を必要とする。

町の子供達は昨今、長い竹竿を持って蜻蛉とんぼを追い廻している。また蜻蛉や※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったの胴体に糸をむすび、その糸を竿につけて、これ等が小さな紙鳶たこででもあるかのように、飛ばせているのもある。
今日の午後、私はまた博覧会へ行き、そこに充ちた群集の中を、歩きながら、財布を押え続けたりしないで歩き得ることと、洋傘をベンチの横に置いておいて、一時間立って帰って来てもまだ洋傘がそこにあるに違いないと思うことが、如何にいい気持であるかを体験した。「草を踏むべからず」とか「掏摸御用心」とかいうような立札は、どこにも見られぬ。私は今後毎週二回ずつここへ来て、芸術品を研究しようと思う。今日私は漆うるし細工の驚く可き性質――漆の種類の多さ、製出された効果、黄金、真珠等の蒔絵まきえ、選んだ主題に現われる繊美な趣味に特に気がついた。
装飾品としてかける扁額(国内用か輸出向きかは聞きもらした)は、いずれも美しかった。純黒の漆を塗った扁額には、海から出る満月があった。月は文字通りの銀盤だが、それが海面にうつった光は、不思議にも黄金色であった。我々をいらいらさせるのは、日本の芸術の各種に於る、このような真実違犯である。もっとも私は日本の絵画に、三日月が、我国の絵でよく見受けるように、逆に描かれたのは見たことがない。閑話休題、この扁額は、壁にかかっているのを一寸見ると、完全に黒く、真黒な表面が闇夜を表現し、月は実によく出来ていて、低くかかり、一部分は雲にかくれている。が、よく見ると海岸があって、数艘の舟が引き上げてあり、大きな戎克ジャンクが三つ海上に浮び、一方の側には遠方の岸と、水平線上の低い山とが見える。これ等の芸術家が示す控え目、単純性、及びそれに撞着するようではあるが、大胆さは、実に驚く可きである。誰が黒い背地に黒い細部を置くことを思いつこうぞ! 真黒な印籠の上の真黒な鴉! これは思いもよらぬことであるが、而も日本人が好んでやる数百のことがらの中の、たった一つなのである。
磁器でつくった美事な花環、桜の花、色とりどりな茨いばらや小さな花もあったが、これ等に比べると古いドレスデンやチェルシイの製品も弱々しく、パテでつくったように思われる。あっさりした象牙の扇子に漆で少数の絵を、実に素晴しく描いたものが九十ドル。雪景色を画いた屏風びょうぶが九十五ドル。金属製の花瓶かびんが六百ドル(後で聞いた所によると、これ等はみな外国へ売るためにつくったものである)。品物の多くについている値段を見ていて面白く思ったのは、一セントの十分の一までが書き込んであることである。通貨はエン=ドル、セン=セント、リン=一セントの十分の一である。リンは我国の古い五セント銀貨とほぼ同じ大さの、小さな銅貨である。この博覧会にあった二脚の彫刻した椅子(勿論外国人向き)は八円三十三銭七厘としてあった。こんなに細く区分するのでは、貯金も出来るであろう。一つの扁額(図200)は、竹の額も何もすっかり金属で出来ていた。長さは二フィートで、扁額は活字の地金に似ていた(後で聞いたのだが、この金属は多分シャクドウと呼ばれる、銅と金との合金であったろう)。蜻蛉は高浮彫りで銀、重なり合っている花や葉は金、銀、金青銅で出来ていた。これは実に精巧な出来で、値段は百三十五ドルであった。その他、非凡な扁額が沢山あった。ある一枚には貝類を入れた籠が低浮彫りで表してあった。籠から貝が数個こぼれていたが、「種」を識別することも出来る位完全に出来ていた。又別のには、秋の木葉をつけた小枝があった。異る色彩の縮緬ちりめんで浮き上らせてつくったいろいろな模様は、自然そのままであった。杉板でつくった十枚ひとそろえの懸垂装飾には、奇麗な小さい意匠がついていたが、その中のきのこの一枚は図201で示した。一組の定価が一ドル三十セント。この作品で人を驚かすのは、すべての意匠の独創と、自然への忠実と、それ等の優雅と魅力とである。我々はデューラーの蝕銅版画の草が真に迫っているのに感心し、彼の荒野の絵に夢中になる。だがこの博覧会には、あまり名前を知られていないデューラー何百人かの作品が出ている。漆と黄金と色彩とで、森林中の藪や、竹林や、景色を示した大型な衝立に至っては、美の驚異ともいうべきである。これ等は写生するには余りに込み入り過ぎていたので、最も簡単なものだけを書いた。大胆な筆致で色を使用して布に魚類を描いたものは、それ等の魚のとりまとめ方が実に典雅でよかった(図202)。最も顕著な出品の一つを図203で示す。これは木理を高く浮き上らせた樫の円盤で、樽の頭位の大さがある。その上に、縁に近く、黒い金属でつくった牡牛があり、背中に乗っている童子は、円盤の中央に書かれた何等かの文句を、口をあけ、驚いたような様子をして見ている。童子の衣服は真珠貝を切り取ったもの、手と顔と、牛の頸の上の紐は金。これは実に無比無双で、美麗であった。

九月八日。気持のいい天気で、新鮮な、勢をつけるような風が、故郷に於ると同様に、我々をシャンとさせる。私は追々我々のに比べると、時に恐ろしくじゃれる猫のやり方が、快活な犬とまるで違うように違う、日本の習慣に慣れて来る。この広い都会を歩くのにも、いくらか見当がついて来て、もう完全に旅人ではないような気がしている。昏迷と物珍しさとは、ある程度まで減じたが、これは私に古い事を更に注意深く観察し、新しい事をよりよく会得する機会を与える。人力車で町々を通ったり、何度も何度も大学へ往復したりするのは、常に新奇で、そして愉快な経験である。必ず何か新しい物が見えるし、古い物とて見飽きはしない。低い妙な家。変った看板や、バタバタいう日除け。長い袖を靡なびかせて、人力車の前を走りぬける子供達。頭髪をこみ入った形に結って、必ず無帽の婦人。老女は家鴨あひるのようにヨタヨタ歩き、若い女は足を引きずって行く。往来や、店さきや、乗っている人力車の上でさえも、子供に乳をやる女。ありとあらゆる種類の行商人。旅をする見世物。魚、玩具、菓子等の固定式及び移動式の呼び売人、羅宇らう屋、靴直し、飾り立てた箱を持つ理髪人――これ等はそれぞれ異った呼び声を持っているが、中には名も知れぬ鳥の啼声みたいなのもある。笛を吹きながら逍遙さまよい歩く盲目の男女、しゃがれた声と破れ三味線で、歌って行く老婆二人と娘一人。一厘貰って家の前で祈祷する禿頭の、鈴を持った男。大声で笑う群衆にかこまれて話をする男。興味のあるお客をのせて、あちらこちらに馳ける人力車。二人で引く人力車には、制服を着た士官が、鹿爪らしく乗っている。もう一台のでは、疲れ切ったらしい男が二人、居ねむりをして、頭をコツンコツンやっている。別のには女が二人、各々赤坊を抱いている。もう一台のには大きな子供を膝にのせた女が一人、子供は手に半分喰った薩摩芋を持ち、その味をよくするつもりで母の乳房を吸っている――これ等の光景の全部は、我々の目をくらませ、心を奪う。とても大きな荷物を二輪車に積んだのを、男達が「ホイ サカ ホイ、ホイダ ホイ」といいながら、曳いたり押したりして行く。歩道は無いので、誰でも往来の真中を歩く――可愛い顔をした、小さな男の子が学校へ行く。奇麗な着物を着て、白粉をつけた女の子達が、人力車をつらねて何かの会合へ急ぐ――そして絶間なく聞えるのは固い路でカランコロンと鳴る下駄の音と、蜂がうなるような話し声。お互に、糞丁寧にお辞儀をする人々。町の両側に櫛比しっぴする店は、間口がすっかり開いていて、すべての活動を、完全にさらけ出している。傘づくり、提灯づくり、団扇に絵を描く者、印形屋、その他あらゆる手芸が、明々と照る太陽の光の中で行われ、それ等すべてが、怪奇な夢の様に思われ、そしてこれ等の種々雑多な活動と、混雑した町々とを支配するものは、優雅、丁重、及び生れついたよい行儀の雰囲気である。これが異教の日本で、ここでは動物を親切に取扱い、鶏、犬、猫、鳩等がいたら、それを避けて行くなり、又はまたいで行くなりしなくてはならず、米国では最も小心翼々としている鴉でさえも、ここでは優しく取扱われるので、大群をなして東京へ来るのだという、争う余地のない事実へ、私の心はしょっ中立ち戻るのである。
大学での貝その他の海生物に関する仕事は、うまい具合に進行しつつある。私は展覧の目的で、貝のいろいろな「種」をテーブルにのせたり、標票ラベルをつけたりしている。今朝貝の入った皿を動かしていた時、私はすこし開いた扉に衝突して、貝のいくつかをこぼした。そこで私は、不幸にも且つ誤謬的に、涜神とくしん語の範疇に入れられてある古い純然たるサクソンの表現を、語気強く使用した。私が癇癪を起したのを見て、助手は微笑した。で、かねて私は、日本人が咒罵じゅばしないという事を聞いていたので、助手に向って、このような場合、脳の緊張を軽減するために、何かいわぬのかと質ねた。彼は日本人も時として呪語を使用すると白状した。これはいい、時々必要を感じる日本語の咒罵語が覚えられる――と私は思った。然るに助手が教えてくれたのは「厄介な」とか「面倒な」とかいうようなことを意味する言葉で――多分我国の“Plague take it !”〔罰あたり奴〕程度の表示であろう――これが日本人の涜神の最大限度なのである。しばらくしてから私は陶器の急須を落した。幸い割れなかったので、別に呪語めいたこともいわなかったが、助手に日本人はこんな場合、どんなことをいうかと聞いた所が、「俺に別れの挨拶をしないでこんな風に別れて行くお前は何と無礼であることよ!」という意味のことを、急須に向っていうだけだとのことであった。
大工が仕事をしているのを見てハラハラするのは、横材を切り刻むのに素足でその上に立ち、剃刀のように鋭い手斧を、足の指から半インチより近い所までも、力まかせに打ち降すことである(図204)。彼等はめったに怪我をしないらしい。私は傷痕や、指をなくした跡を見つけようとして、多数の大工を注意して見たが、傷のあるのはたった一人だった。私がその大工の注意をその傷痕に向けると、彼は微笑して、脚部にある、もっと大きな傷を私に見せ、手斧を指さしながらまた微笑した。

図205は、市場で薩摩芋を洗っている人の写生図である。桶には芋が半分ばかり、水にひたっている。二本の長い丸太棒は真中で結んであり、人は単に両腕を前後させる丈で、棒の先端を桶の中で回転させる。市場へ行ってすぐに気がつくのは、蕪、大根、葱その他すべての根生野菜が、如何にも徹底的に洗い潔めてあることである。

木版職人が仕事している所も、中々興味がある。彼等は我国でするように小口を刻みはせず、木理の面を刻むが、スーッスーッと非常に速く刀を使う。印形を彫るには、我国の木彫と同様、小口をきざみ、そして木も黄楊つげのように見えるから、我国のと同じものなのであろう。人は誰でもみな印形を持っている。買物をすると、受取書は赤い色の印形で調印される。印形の漢字は、我々が同様の目的に、古代英語の文字を使用するであろうが如く、古代の様式のが書かれる。図206は手当り次第集めた印形のいくつか〔?〕を示している。書物の多くは一頁大の版木から印刷される。写字者が一頁を、薄い透明な紙に書き、この紙を表面を下に版木にはりつけるから、透いて見える字はひっくり返しになる。彫み手はさきの鋭い小刀を、しっかりと手に持ち、それを手前へ素速く動かして、紙ごと木を彫む。字の輪郭を彫り終ると、円鑿のみで間にある木を取り去る。往来に面して開いた、ある小さな部屋で、七人の彫刻師が働いていた。四人が一列になり、残り三人はそのすぐ後に、これも一列になっていた。彼等は高さ一フィートの卓子テーブルを前に、例の如く床に坐って、人々が見つめ、時々光線をさえぎるのも平気で、働き続けた。

挽物ろくろ師が木の細工をする有様も、同様に奇妙である。旋盤は簡単な一本の回転軸で、それに皮帯を五、六回捲きつけ、皮帯の両端は環になっていて、挽物師はここに両足を入れる。彼は旋盤の一端に坐り、両脚を上下に動かして回転軸を前後に回転させ、この粗末で原始的な方法で、非常にこまかい入籠いれこの箱その他をつくる(図207)。別の場所では、一人の男が何等かの金属性のものを旋盤にかけ、男の子が皮帯を前後に引っぱっていた。

友人と一緒に浅草にある大寺院を訪れた。第一回に行った時のことは、この日記の、前の方のページに書いてある。加賀屋敷から歩いて行って一マイル位であろうが、途中いろいろと見る物があったので、二時間かかった。私は一軒の古本屋で、動物その他の威勢のいい写生図を、一枚一セントで買った。寺院への主要大通りの両側に、子供の玩具を売る店が立ち並んでいるのは、見ても面白い。広い階段は子供が占領して、人形と遊んだり、泥饅頭まんじゅうをつくったり、遊戯をしたりしていた。お寺は一週間七日を通じて、朝から夜まで、礼拝者の為にあけてある。その裏には手奇麗につくった長い廊下みたいなものがあり、ここでは弓矢で的を射ることが出来る。ある場所には鳩、やまあらし、猿その他の動物の見世物があった。非常に利口そうな猿が竿のてっぺん迄登って行き、登り切ると、登りながらつかんでいた繩についている籠を手ぐり上げた。猿が下りて来た時、私は彼と握手をしたが、彼は私の手を引っ張り、おしまいには両足を私の掌に入れて、数分間、如何にも満足したように大人しくしていた。猿の手の触感は子供のそれと全く同じで、あたたかくて、すこし湿っていた。指の線も人間のと同じで、多分我々同様、一匹一匹違っているだろう。猿の見世物の次に、我々は蝋人形を見に行った。私はこの人形で見たような、勢と熱情を、米国では絵でも彫刻でも見たことがない。男の人形は、実に極悪非道な顔をしていた。ある一つは特別に醜悪だった。それは襤縷ぼろを着た不具の老乞食が、車にうずくまっているのを、同様にぞっとするような、もう一人の乞食が、引いている所を見せていた。また蝋人形が踊り廻るように出来ている人形芝居もあった。ある一場面ではお姫様が七尾の狐に変化したが、この演技に関する話を物語る老人を見詰めることも、舞台上の口をきかぬ人形を見るのと同様な研究であり、おまけにオーケストラの立てる、途方もない音や、拍子をやたらに変える所は、私がそれ迄耳にした如何なるものとも丸で違っていた。お姫様は玉座みたいなものに坐り、その周囲には等身大の人形がいくつか、今にも恐ろしいことが起るぞというような表情で集っていた。突然玉座が真中から割れ、お姫様がバラバラになって姿を消すよと見る間に、尻尾が七つある巨大な狐となって現われ、とても物凄い有様で牙を喰いしばりながら舞台をうろつく。この狐は実によく狐に似ていた。私は日本の俗説を知らないので、いろいろな人形がどんな意味を持っているのか、とんと判らなかったが、それ等の持つ力と表情とによって、日本の芸術家が絵画に於る如く、彫刻にかけても偉いということを知った。
大変な景気で相撲をやっていたので、我々は一時間見物したが、これは前に見たのより、遙かに面白かった。相撲取は年も若く、前に見た連中みたいに太っていず、手に汗を握らせるような勝負をやり、高くはね飛ばしたりした。彼等の準備的運動、特に手を膝にのせて先ず片脚を、次に別の脚をもち上げ、固い地をドサンと踏むその莫迦げ切ったやり方は、実に面白い。それからお互にしゃがみ合って、取組合いを始めると、何故だか私には判らぬ理由によって審判官にとめられ、そこで又初めからやりなおす。私は一日中見ていることさえ出来るように思う。
横手の小さな寺院で、我々は不思議な信仰の対象を見た。それはゴテゴテと彫刻をし、色をぬった高さ十フィートか十五フィート位の巨大な木造の品で、地上の回転軸にのっている。その横から棒が出ていて一寸力を入れてこれを押すと、全体を回転させることが出来る。この箱には、ある有名な仏教の坊さんの漢籍の書庫が納めてあり、信者達がこれを廻しに入って来る。楽にまわれば祈願は達せられ、中々まわらなければ一寸むずかしい。この祈願計にかかっては、ティンダルの議論も歯が立つまい! 図208にある通り、私もやって見た。

往来を通行していると、戦争画で色とりどりな絵画店の前に、人がたかっているのに気がつく。薩摩の反逆が画家に画題を与えている。絵は赤と黒とで色も鮮かに、士官は最も芝居がかった態度をしており、「血なまぐさい戦争」が、我々の目からは怪奇だが、事実描写されている。一枚の絵は空にかかる星(遊星火星)を示し、その中心に西郷将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日本人は皆彼を敬愛している。鹿児島が占領された後、彼並に他の士官達はハラキリをした。昨今、一方ならず光り輝く火星の中に、彼がいると信じる者も多い。
近頃私は日本の家内芸術に興味を持ち出した。これは我国で樺の皮に絵をかいたり、海藻を押したり、革細工、貝殻細工その他をしたりするような仕事と同じく、家庭で使用する物をつくることをいう。意匠の独創的と、仕上げの手奇麗な点で、日本人は我々を徹底的に負かす。この問題に関する書物は、確かに米国人にも興味があるだろうし、時間が許しさえすれば、私はこの種の品物を片端から蒐集したいと思う。台所には、深いのや浅いのや、色々形の違ったバケツがあるが、そのどれにも通有なのは、辺から一フィートあるいはそれ以上つき出した、向きあいの桶板二枚で、それ等を横にむすぶ一片が柄になる。これ等各種のバケツは、それぞれ用途を異にする。桶もまた非常に種類があり、図209のような低いのは足を洗うのに使用し、他の浅い形のは魚市場で用いる。桶板のあるものが僅かに底辺から出て、桶を地面から離しているのに気がつくであろう。博覧会には結構な漆器、青銅、磁器にまざって、いろいろな木で精巧を極めた象嵌ぞうがんを施した、浅い洗足桶があった。装飾の目的に桶を選ぶとは変った思いつきであり、そして我々を驚かしたのは意匠、材料及び用途の聳動しょうどう的新奇さである。米国人で日本の芸術を同情的に、且つ鑑賞眼を以て書いた最初の人たるジャーヴェスは、欧州人と比較して、特にこれ等の特質を記述している。曰く「それは装飾的表現に於て、より精妙で、熱切で、変化に富み、自由で、真実に芸術的であり、そして思いがけぬことと、気持のよい驚愕と、更に教養のあらゆる程度にとって、理解される所の美的媚態と、美的言語の魅力とを豊富に持っている*。」

* ジェー・ジェー・ジャーヴェス著『日本芸術瞥見』一八七六年。(J. J. Jarves, A Glimpse of the Art of Japan.)
ある友人が、東京のごみごみした所で、昆虫や海老や魚類やその他の形をした、小さな懸かけ花生けをつくる、籠製造人を発見した。私は彼をさがし出して、数個の標本を手に入れた。図210は蔓のある瓢ひさごの形をしている。葉及び昆虫の翅のような平な面は、蓙ござ編みで出来ているが、他の細部はみな本当の籠細工である。裏に環があって、それで壁に懸け、内部には水を入れる竹の小筒が入っている。図211はザリガニを、図212は鯉を示すが、この写生図は、鯉の太って曲った身体や、尾の優美な振れ方を、充分にあらわしてはいない。図213は※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったで、かなりよく出来ているが、こんな物にあってすら脚の数は正しく、そして身体の適当な場所から出ている。図214の蜻蛉も、かなりな出来である。図215は籠細工で表現するにしては、奇妙な品だが、形は実に完全に出来ているから、菌類学者なら殆どその「属」を決定するであろう。これ等の藁製品は長さ六インチか八インチで、値段はやすく、十セントか十五セントであった。これ等及びこの性質のすべての細工に関する興味は、日本人が模製する動物の形態を決して誤らぬことである。昆虫の脚は三対、蜘蛛は四対、高等甲殻類は五対、そしてそれ等がすべて身体の正確な場所から出ている。これ等を正確にやり得る原因は、彼等が自然を愛し、かつ鋭い観察力を持っているからである。かかる意匠の多くは象徴的である。

停車場から来る途中で、道路に人だかりがしているのに気がついた。見ると片側に楽隊台みたいな小屋があって、そこで無言劇をやっている。身振りが実に並外れていて、また奇妙極る仮面を使うので、私は群集同様、熱心にそれを見た。オーケストラの、風変りなことは、サンフランシスコで聞いた支那楽以上であるが、あの耳をつんざくような喇叭ラッパの音がしないことは気持がよい。私は人力車を道路の一方に引き寄せて、この見世物を写生しようとしたが、肩越しにのぞき込む者が非常に多い上に、前に立って目的物をかくさんばかりにする者共もあったので、単にその光景の印象を得たに止った(図216)。竿から下っている提灯は濃い赤であった。

日本人が衣服や行為の風変りなのを大目に見るのは、うれしい性質である。日本人は好き勝手な身なりをした所で、誰も注意しない。若し、恐ろしく変ったなりをしていれば、微笑する者はあっても、男の子供が嘲弄したり何かすることはない――これは米国の大人や子供達の偏執な動作と、強い対照をなしている。また、日本人が、何人をも思いやり深く取扱うことも、彼等の性格の注目すべき特性である。米国にいると、我々は仕事のことばかり心に思って、急いで道路を歩いたり、密閉した車に乗っていたりするから、僅かな事しか気がつかないが、日本に来た私は、歩いていようと人力車に乗っていようと、とにかく四方八方明けっぱなしなのだから、この国に上陸した瞬間から今迄、絶えず色々なことを一生懸命に見、あらゆる状況や事件を心にとめた。私は今迄に不具者や、襤褸ぼろの着物を着た者や、変な着物が、ひやかされたり、騒ぎ立てられたりしたことを、只の一度も見ていない*。
* 先日ニューヨークの一新聞で、私はあわれむ可き老人が多数の無頼漢に、雪のかたまりをぶつけられて、死んで了ったという記事を読んだ。このような兇暴さが、如何に日本人の持つ我々が野蛮人だという意見を強くさせることであろう。
悪口をいったり、変な顔をして見せたりした結果、熊に食われて了った男の子の話は、この親切と行儀のいい国には必要がない。日本の役人には我々の衣服をつける者がかなり多く、大学の先生のある者も、時に洋服を着るが、何度くりかえして聞いても、嘲笑されたり、話しかけられたり、注目されたりした者は、一人もいない。私は、若し私が日本人のみやびやかな寛衣を着て、米国の都会の往来――田舎の村にしても――へ出たとしたら、その時経験するであろう所を想像しようと試みた。日本人のある者が、我々の服装をしようとする企ては、時として滑稽の極である。先日私が見た一人の男は、殆ど身体が二つ入りそうな燕尾服を着、目まで来る高帽に紙をつめてかぶり、何番か大き過ぎる白木綿の手袋をはめていた。彼はまるで独立記念日の道化役者みたいだった。図217は彼をざっと写生したものである。彼はみずぼらしい男で、明かに上流階級には属していない。当地の博覧会の開会式の時には、最も途方もない方法で、欧米の服装をした人々が見られた。一人の男は、徹頭徹尾小さすぎる一着を身につけていた。チョッキとズボンとは、両方から三、四インチ離れた所まで来たきり、どうにもならず、一緒にする為に糸でむすんであった。かなり多くの人々は、堂々たる夜会服を着て、ズボンを膝まで来る長靴の中に押し込んでいた。この上もなく奇妙きてれつな先生は、尻尾が地面とすれすれになるような燕尾服を着て、目にも鮮かな赤いズボンつりを、チョッキの上からしていた。衣服に関しては、日本固有のものと同様、我々のに比べてより楽な固有の衣服を固守する支那人の方が、余程品位が高い。だが私は、我国の人々が、日本風*に着物を着ようと企てる場合を思い出して、こんな変な格好をした日本人に大いに同情した。日本服といえば、私は大学で、教授のある者が時々洋服を着て来るのに気がついた。然し非常に暑い日や非常に寒い日には和服の方が楽だが、実験室では袂たもとが始終邪魔になるということであった。

* かかる企ての一つを、其後我々はギルバートとサリヴァンの「ミカド」の舞台で見た。日本人にはこれが同様に言語道断に見えた。
江ノ島で私は日本の着物をつくって貰った。これは一本のオビでしめるので、私には実に素晴しく見えた。裾は足の底から三インチの所まで来ていたが、外山にこれでいいかと聞くと、彼は微笑してそれでは短かすぎる、もう二インチ長くなくてはならないといった。だが一体どんな風に見えるかと、強いて質ねた結果、彼にとっては、我々が三インチ短いズボンをはいた田舎いなか者を見るのと同じように見えるのだということを発見した。換言すれば、如何にも「なま」に見えるのであった。かくて、ゆるやかな畳み目や、どちらかといえば女の子めいた外見で、我々には無頓着のように思われる和服にも、ちゃんときまった線や、つり合いがあるのである。支那を除けば、日本ほど衣服に注意と思慮とを払う国は、恐らく無いであろう。官職、位置、材料、色合い、模様、紐のむすび方、その他の細いことが厳重に守られる。
東京、殊に横浜には、靴屋、洋服屋その他の職業に従事する支那人が沢山いる。彼等は自国の服装をしているので、二、三人一緒に、青色のガーゼみたいな寛衣の下に、チュニック〔婦人の使用する一種の外衣〕に似たズボンを着付け、刺繍した靴をはいて、道をペラペラと歩いて行く有様は、奇妙である。彼等を好かぬ日本人の間に住んでいるのだが、日本人は決して彼等をいじめたりしない。一年ばかり前から、日本と支那とは、今にも戦争を始めそうになったりしているのだが、両国人は雑婚こそせざれ、平和に一緒に暮している。この国の支那人は、米国の東部及び中部に於るが如く、基督キリスト教的の態度で取扱われているが、太平洋沿岸の各州、殊にカリフォルニアで彼等を扱う非基督教的にして野獣的な方法は、単に日本人が我々を野蛮人だと思う信念を強くするばかりである。サンフランシスコにある、天主教及び新教の教会や、宗教学校や、その他のよい機関は、輿論よろんを動かすことは全然出来ぬらしい。宣教師問題、及び海外の異教徒達を相手に働いている諸機関を含むこれ等の事柄に触れることは、鬱陶しくて且つ望が無い。然し、まア、この位にしておこう。
材木を切る斧は非常に重くて、我国のと同様に役に立つらしく思われる。刃は手斧ちょうなと同じく、柄に横についている(図218)。

私が前に書いた薩摩芋を洗う男は、薩摩芋を※(「火+喋のつくり」、第3水準1-87-56)ゆでる店に属していることに気がついた。子供達はこの店に集って来て、薩摩芋一つを熱い昼飯とする。店の道具は大きな釜二つと、奇麗に洗った芋を入れた籠十ばかりと、勘定台にする小さな板とで、この板の上にはポカポカ湯気の出る薩摩芋若干が並べてある。このような店が、全市いたる所にある。我国の都会でも、貧乏な区域で、似寄った店を始めたらいいだろう。日本の薩摩芋は、あまり味がしないが、滋養分はあるらしい。
葡萄が出始めた。色は薄緑でまるく、葡萄としては非常に水気が多く、味はいささか酸すい。よく熟していないように見えるが、咽喉がかわいている時食うと非常にうまく、おまけに極く安い。大きな房が、たった二セントか三セントである。葡萄を売る店はどこもみな、興味の深い方法でそれを陳列している。板を何枚か縦に置いて、それに何かの常緑灌木をかぶせ、この葉から出ている小さな木の釘に、葡萄の房をひっかける(図219)。笊ざるの葡萄は常緑樹の葉を敷物にしている。果物店は、季節季節の、他の果物も売る。先日、大学で講義をした後で、咽喉がかわいた上に、埃っぽい往来を長い間行かねばならなかったので、私は人力車の上で葡萄を食おうとした。如何に巧みに口に入れても、日本人は見つけて微笑した。多分野蛮人の不思議な習慣に就いて話し合ったことであろう。

この国の魅惑の一つに、料理屋とお茶屋とがある。給仕人はみな女の子で、挙動はやさしく、身なりはこざっぱりしていて、どれも頭髪を品よく結っている。図220は流行のまげを示している。時々弓形の褶曲しゅうきょくが垂直に立っていて、より大きな褶曲が上にのっているのを見ることもある。

東京のような広い都会で、町や小径が一つ残らず曲っていて狭い所では、最も詳細に教えて貰ったにしても、ある場所を見出すことは殆ど不可能である、チャプリン教授と私とが、あの面白い籠細工の花生けをつくる男をさがそうとした時には、車夫達が全力をつくして、たっぷり二時間はかかった。その最中に、我々は広くて急な長い石段に出喰わしたが、その上から東京がよく見えた。この大きな都市を見渡して、その向うに江戸湾の海運を眺めた所は、誠に見事だった。煙筒えんとつは一本もなく、かすんでさえもいない有様は、煙に汚れた米国の都会に比して、著しい対照であった。勿論風も無かったのである。風の吹く日は非常に埃っぽく、万事ぼやっとなる。急な坂をのぼり切ると、低い小舎がいくつかあり、ここで休息して景色に見とれ、奇麗な着物を着た娘達の出すお茶を飲む。私は一人の娘に頭の写生をすることを承諾させた。有難いことに、遠慮を装ったものか、あるいは本当に遠慮したのか、とにかく向うを向いたので、私は彼女の頭髪を立派に写生することが出来た。 
第九章 大学の仕事
九月十一日。大学の正規な仕事は、今朝八時、副綜理ドクタア浜尾司会の教授会を以て、開始された。彼は先ず、綜理ドクタア加藤が、母堂の病あつき為欠席のやむを得ざるを、綜理に代って陳謝した後、ゆっくりした、ためらうような口調で、前置きの言葉を僅か述べ、この学期が教員にも学生にも、愉快なものであることを希望するといった。午後には先任文部大輔が、大学の外人教授たちを、上野公園の教育博物館へ招いて、接待した。これは、興味の深い会合だった。医科にはドイツ人が配置され、語学校には仏、独、英、支の先生がおり、大学の我々の分科には英国人が四、五人、米国人が八、九人、フランス人が一人、ドイツ人が二人、それから日本の助教授が数名いる。日本人は少数の例外を除いて洋服を着ていたが、支那の先生達はみな支那服であった。彼等は決して服装を変えないのである。
博物館は大きな立派な二階建で、翼があり、階下の広間の一つは大きな図書室になっている。また、細長くて広い部室は、欧洲及び米国から持って来た教育に関する器具――現代式学校建築の雛型ひながた、机、絵、地図、模型、地球儀、石盤、黒板、インク入れ、その他の海外の学校で使用する道具の最もこまかい物――の、広汎で興味ある蒐集で充ちていた。これ等の品物はすべて私には見慣れたものであるに拘らず、これは最も興味の深い博物館で、我国の大きな都市にもある可き性質のものである。我々の持つ教育制度を踏襲した日本人が、その仕事で使用される道具類を見せる博物館を建てるとは、何という聡明な思いつきであろう。ここに、毎年の予算の殆ど三分の一を、教育に支出する国民がある。それに対照して、ロシアは教育には一パーセントと半分しか出していない。二階には天産物の博物館があったが、これは魚を除くと、概して貧弱であった。然し魚は美事に仕上げて、立派な標本になっていた。この接待宴には、教員数名の夫人達を勘定に入れて、お客様が百人近くいた。いろいろな広間を廻って歩いた後、大きな部屋へ導かれると、そこにはピラミッド形のアイスクリーム、菓子、サンドウィッチ、果実その他の食品の御馳走があり、芽が出てから枯れる迄を通じて如何に植物を取扱うかを知っている、世界唯一の国民の手で飾られた花が沢山置いてあった。これは実に、我国一流の宴会請負人がやったとしても、賞讃に値するもので、この整頓した教育博物館で、手の込んだ昼飯その他の仕度を見た時、我々は面喰めんくらって立ちすくみ、「これが日本か?」と自ら問うのであった。
日本のお役人たちが、ドクタア・マレーその他手伝いを志願した人々と共に、いろいろな食物を給仕したが、日本人が貴婦人と紳士とが一緒に坐っている所へお皿を持って行って、先ず男の方へ差し出し、そこで教おそわったことを思い出して、即座に婦人へ出す様子は、まことに面白かった。我国では非常に一般的である(欧洲ではそれ程でもない)婦人に対する謙譲と礼譲とが、ここでは目に立って欠けている。馬車なり人力車なりに乗る時には、夫が妻に先立つ。道を歩く時には、妻は夫の、すくなくとも四、五フィートあとにしたがう。その他いろいろなことで、婦人が劣等な位置を占めていることに気がつく。海外から帰った日本人が、外国風にやろうと思っても、若し実際やれば、彼等の細君達は、きまりの悪い思いをする。それは恰度我国の婦人達が、衣服なり習慣なりで、ある進歩した考(例えば馬にまたがって乗ること)を認めはしても、目につくことを恐れて、旧式な方法を墨守するようなものである。この事実は、日本人の教授の一人が私に話して聞かせた。日本の婦人はこの状態を、大人しく受け入れている。これが、非常に長い間の習慣だからである。酌量としていうべき唯一のことは、日本の婦人が、他の東洋人種よりも、遙かに大なる自由を持っているということ丈である。
私が講義を始めた日、大学へ副綜理が私の召使いになる十四歳ばかりの男の子を連れて来た。すでに私は、彼が非常に役立つことを発見した。彼は実験室で瓶や貝を洗うのを手伝い、毎朝私の黒板を奇麗にする。今日私は試験してやるつもりで、いろいろな貝のまざったのを選り別けさせた所が、彼は「属」や「種」をうまく分けた。また淡水貝のある物を取りにやったら、沢山採集して持って来た。彼は、数年前すでに学生の制服としての役目をつとめ終えた一種の紺の上衣(今は制服は着ない)に、編んだ毛糸の股引をズボン代りにはき、頭は乾いて清潔な黒い頭髪の完全な雑巾箒モップで被われている。写生する間、立っていろといったら、彼は吃驚してドギマギした(図221)。私が部屋へ入って行くと、彼は、私が真似をしたら屹度背骨が折れるだろうと思う位、丁寧なお辞儀をする。

九月十二日、私は最初の講義をした。講義室は建物の二階にある。そこには大きな黒板一枚と、引出しがいくつかついている机と、それから私が講義を説明するのに使用する物を入れておく、大きな箱が一つある。張子製で、各種の動物の消化機関を示した標本のいくつ、及び神経中枢の模型その他の道具は、この課目にうまく役立つだろう。私の学級は四十五人ずつの二組に分れているので、一つの講義を二度ずつしなくてはならず、これは多少疲労を感じさせる。私はもう学生達に惚れ込んで了った。これ程熱心に勉強しようとする、いい子供を教えるのは、実に愉快だ。彼等の注意、礼儀、並に慇懃な態度は、まったく霊感的である。彼等の多くは合理主義者で、仏教信者もすこしはいるかも知れぬが、とにかく、かくの如き条件にあって、純然たるダーウィニズムを叙示することは愉快な体験であろうと、今から考えている。特に注目に値するのは、彼等が、私が黒板に描く色々な動物を、素速く認識することである。これ等の青年は、サムライの子息達で、大いに富裕な者も、貧乏な者もあるが、皆、お互に謙譲で丁寧であり、また非常に静かで注意深い。一人のこらず、真黒な頭髪、黒い眼、そして皆青味を帯びた色の着物を着ているが、ハカマが如何にも半分に割れたスカートに似ているので、まるで女の子の学級を受持ったような気がする。教授室と呼ばれる一つの大きな部屋には、さっぱりした藁の敷物が敷いてあり、椅子の外に大型の机が一つ、その上には横浜発行の朝刊新聞、雑誌若干並に例のヒバチがのせてある。ここで先生は、講義の時が来る迄、ひまをつぶすことが出来る。お昼前に小使が茶碗をのせたお盆と、とても上等なお茶を入れた土瓶とを持って来るが、このお茶は疲れをいやす。教授の連中はみな気持がいい。当大学の統合的の役員は、綜理一人、副綜理二人〔綜理心得〕、幹事、会計、書記であるが、いずれも極めて丁寧で注意が届き、私としては彼等と共にあること、並に、私が現に占めている位置よりも、気持のよいものはあり得ない。器具類に関して、私の欲しいと思うものは、即刻私の為に手に入れて呉れる。私が目下案を立てている箱類は、すぐ造らせてくれることになっている。
屋敷にある私の家では、私が月ぎめでやとった人力車夫が、私のために用達をし、私のいいつけで、理解出来ることなら、何でもよろこんでやる。別の車夫の神さんが――この女は忠義で正直だが、どっちかというと美人ではなく、黒い歯をしている。これは結婚した婦人が行う、実に気味の悪い醜化作用で、我々が歯を白くしようとするのと同じく、わぞわざ苦心して、ある種の染料で歯を黒くする――一ヶ月三ドルという素晴しい金額で、毎晩やって来ては、私のタオルを洗ったり、靴を磨いたり、その他部屋女中の役目をつとめる。私は家全体を占領しているので、隅から隅まで、物をちらかしておくことが出来る。車夫のお神さんに、机の上の物でも、床の上の物でも、断じてさわってはならぬと厳重にいい渡してあるので、彼女はそれを遵奉する。晩になると、いささか淋しいが、私は沢山書き物をするので、暇さえあればペンを持っている。
図222は、私の靴を修繕している支那人の靴屋である。東京及び横浜で、彼等は各種の職業を求めて、仕事を沢山持っているが、就中、洋服屋と靴屋としては、大いに成功している。彼等の中には、非常に上手な写真屋もいる。洗濯屋はいう迄もない。私はすでに洋服一着と、頑丈な靴一足とを支那人達につくらせたが、値段は米国に於るよりも大分やすい。

今日の午後、私はまた産業博覧会へ行った。今度は、博覧会の会長に宛てて、私に写生を許可することを依頼する、大学綜理の手紙を持って行ったのであるが、建物を写生することは許されても、出品物を写生するためには、各出品人の許可を得なくてはならぬという次第である。加藤さんは私のために、出品者に示すべき手紙を手に入れようと努力しておられるが、それ迄の間にも、私はもう数枚写生をしようとした。然し役人達が邪魔をしたり(疑もなく、命令に従ってであろうが)、見物人がスケッチを見ようとして集って来たりして、うるさくて仕方がないから、とうとう絶望して会場を立ち去った。私が会場にいた最後の一時間は、役人の一人が最も無関心な態度で、その実、私が一枚も写生をしないということを見届ける気で、私を尾行した。私はこれは面白いぞと思ったから、あちらこちらの隅々を出たり入ったり、一つの建物から別のに移ったり何かして、さんざん彼を引きまわしてやった。こんな真似をしながらも、私は若干の写生をすることが出来たが、その中の一つは、前から非常に写生したかった、壁にかける美しい板なのである。それは一種の濃紅に塗った簡単な額縁に入っていて、木理もくめをこすり出した虫喰いの杉板四枚に、漆で朝顔その他の植物をあらわし、終りに近い月〔三日月〕は磨いた真鍮で、葉は暗色の青銅で、朝顔の花は白と青の釉薬をかけた陶器で出来ている(図223)。これはすべて盛上もりあげ細工である。葉の端が摩れ損じてギザギザになっている、このような模様を製作するということは、我々には一寸思いつかぬことであろう。日本人はこれをよろこぶらしく、そしてこれは確かに美麗で、人の心を引きつけた。

横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、線路の切割に貝殻の堆積があるのを、通行中の汽車の窓から見て、私は即座にこれを本当の Kjoekkenmoedding(貝墟)であると知った。私はメイン州の海岸で、貝塚を沢山研究したから、ここにある物の性質もすぐ認めた。私は数ヶ月間誰かが私より先にそこへ行きはしないかということを、絶えず恐れながら、この貝墟を訪れる機会を待っていた。私がこの堆積の性質を話したのは、文部省督学のドクタア・マレーただ一人である。今や大学に於る私の仕事が開始されたので、私は堆積を検査する準備にとりかかった。先ず私は鉄道の監理者から、その所有地に入り込む許可を受けなくてはならぬ。これは文部省を通じて手に入れた。間もなく鉄道の技師長から次のような手紙が来た。
総ての線路工夫等等等へ
この手紙の持参人(文部省教授の一人なり)及び同伴の学生に、本月十六日日曜日、線路にそうて歩き、彼等が希望する工事の検査を許可すべし。
彼等は、列車を避け、且つすべての工事に干渉せざるべし。
工部省鉄道局建築技師長   エル・イングランド
当日朝早く、私は松村氏及び特別学生二人と共に出発した。手紙の文句で、線路上でシャベルや鶴嘴を使用することは許さぬことを知ったので、我々は小さな籠を二つ持った丈で、発掘道具は持参しなかった。我々は東京から六マイルの大森まで汽車に乗り、それから築堤までの半マイルは、線路を歩いて行った。途中私は学生達に向って、我々が古代の手製陶器、細工をした骨、それから恐らく、粗末な石器を僅か発見するであろうことを語り、次にステーンストラップがバルティック沿岸で貝塚を発見したことや、ニューイングランド及びフロリダの貝塚に就て、簡単に話して聞かせた。最後に現場に到達するや否や、我々は古代陶器の素晴しい破片を拾い始め、学生達は私が以前ここへ来たに違いないといい張った。私はうれしさの余りまったく夢中になって了ったが、学生達も私の熱中に仲間入りした。我々は手で掘って、ころがり出した砕岩を検査し、そして珍奇な形の陶器を沢山と、細工した骨片を三個と、不思議な焼いた粘土の小牌タブレット一枚とを採集した。この国の原住民の性状は、前から大なる興味の中心になっていたし、またこの問題はかつて研究されていないので、これは大切な発見だとされている。私は一般的な記事を『月刊通俗科学雑誌*』へ書き、次にもっと注意深い報告書**をつくり上げることにしよう。
* その後『月刊通俗科学雑誌』(Popular Science Monthly)の一八七九年一月号で発表。
** その後東京帝国大学から発表された。
九月十七日(月曜日)は国祭日で、大学も休みだった。私はこの日の変った経験を、ペンと鉛筆とで記録することが出来たら、どんなにかよいだろうと思う。私は学生達に、何か面白いことがあるのかと尋ねたが、はっきりしたことは何も確め得なかった。だが、私は、この日諸寺院で、ある種の重要な祭典が、音楽入りで挙行されるということを見出した。上野公園にある美しい寺院は、我々にその祭礼を目撃する機会を与えるだろうというので、我々は群衆にまざってぶらぶらしながら、人々を眺め、そして新奇な光景が沢山あるので、短気を起すことすら忘れていた。この大きなお寺の音楽は、十時に始った。ドクタア・マレー、チャプリン教授、及び日本人の通弁と一緒に、私は集って来た大群衆と共に赫々たる太陽をあびて立った。上野のお寺は日光のお寺に似ている。あれ程壮麗ではないが、極めて美しい。内部は日光同様な鍍金めっきと装飾とで光り輝いている。そしてあけはなしてあるので、内部でやっていることはすべて外から、明瞭に見える。私は自然、神官の神仕えよりも、音楽の方に興味を持っていたので、楽師たちが見える段々の上の方の端に、いい座席を占領した。私は学生から、お寺には各々教区、換言すれば教会の会員連があり、そしてその各々が寺院の一つに属する信仰を誓約しているということを聞いた。外廊はかかる信仰者の座席らしく、彼等はみな脚を身体の下に折り曲げて坐っていた。広々としたお寺の床は、神官達の奉仕や儀式のために留保してあったので、三、四十人集った信仰者達は、どっちかといえば我々の眼界を邪魔した。十時になると、大きな太鼓が鳴り始め、最初はゆっくりしていたが、段々速さが増すと、群衆は寺の前庭に群がり入り、広い階段の下で御祈祷をいい、両手をすり合わせ、そしてお寺の前に必ず置いてある大きな木の箱に、銭を投げ入れた。献金箱を廻すというようなことは、決して行われない。その代用をするものは、長さ四フィート、あるいはそれ以上の大きな箱で、廊下か地面に置かれ、角のある横木何本かが蓋になっているから、投げた銭は必ず箱の中にすべり込む。これが昼夜を通じて使用される。往来を行く人が、信心深い祈りをささげ、十フィート以上もはなれた所から銭を投げ、そして過ぎ去って行く。銭が箱に入らぬこともよくあるので、価格の低い銅銭が、廊下の附近にちらばっているのが見られる。我々と同じ服装をした非常な老人が、日本人がお祈りをする時によくやるように、懇願的な態度で両手をすりあわせながら、熱心に祈祷している有様は奇妙だった。ドクタア・マレーは、通訳に一ドル持たせて寺の裏へやり、寺の当事者に我々を内側へ入れることを許させ得るかどうかをためして見た。彼は間もなく、入ってもいいという許を得て帰って来た。そこで我々は寺の後へまわり、靴をぬいで、反対側に楽師達が坐っている場所に相当する所へ通された。ここには教区の会員達でさえ来ていない。何百人という日本人が、このような場所に三人の野蛮人が、いやに目立って坐っているという新奇な光景を、好奇心深く外から見つめるのには面喰った。紫、緑、その他の絽ろの寛衣を清らかに着た、ハキハキした利口そうな神官達は、荘厳な儀式を行いつつあった。お寺の床は、磨いた黒漆塗りの板を敷きつめたもので、鏡のように光を反射していた。如何に熱心に私がありとあらゆることを注視したことよ! 楽師は、私に多大の興味を持たせた。横笛が一つ、小さな竹笛が一つ、それから、楕円形の底部から、何本かの竹管が、垂直に立っている不思議な形の楽器が二つあった。この楽器は「ショー」と呼ばれ、写生図にある通り、両手で持って横から息を吹き込む。別々に各々四本の支持物の上に立つ、大きな太鼓と、小さな太鼓と、枠に入った平べったい鐘とがあった。図224は楽師達を写生したものである。曲節も旋律も、呑み込むことが出来なかった。音楽は薄気味悪く、壮重に聞えた。笙は、僅かに変化する継続的な音調(というよりも、むしろブーンブーンいう音)を立て続け、他の楽器は、時々それに入り込んだ。この寺院の平面図は、図225で示してある。それは主要な広間と、短い階段を下った所にある短い廊下と、この廊下の他端の、短い階段を上った所にある、内部の広間とから成っている。かかる非凡な寺院の内部の、彫刻や、手のこんだ装飾や、繊美な細部を記叙することは出来ない。私とても、それを試みようとは思わぬ。写生図で1は内部の広間で、そこにある机には食物の奉納品を置き、2は二列にならんだ神官の位置を示し、3は我々の位置で、4は楽師、5は御維新までは偉い大名であった神官の首領の子息を表し、外廊の小さな点は儀式につらなる会員達を示している。楽師達が長い間努めた後、今まで坐っていた神官の列が立ち上り、一番位の高いのが二人、厳かな足取りで内部の寺院へ入り、別の二人が短い階段を下りて通路に立ち(6)、更に二人が今迄神官が坐っていた所に、また別の二人が我々の背後に立った。彼等が頭にいただく物には、二種類あった。一つは儀式用の、黒い絹でつくった袋に似た品で、両側が平であって、これは位の低い者がかぶり(図226)、他は(図227)大名がかぶった儀式用の品である。これは横側に平べったくした、黒い漆塗りのもので、後の方をつき出してかぶる。儀式というのは、死んだ将軍のために、食物のお供物をのせたお盆を運び入れるのであった。入れる前に、神官は白い紙の帯を鼻と口との上にむすんで、お供物に息がかからぬようにする。お盆は、いう迄もないが、色を塗らぬ軽い木で出来ていて、浅く、四隅を削り落した四角形である。これ等は釉薬をかけぬ、淡赤色の陶器の台の上にのっている。食品のお供物は、米をひらたい球にしたもの二つを重ねたもの、魚、野菜、煎餅その他から成っていた。これはお盆を支える台と同じ陶器の浅い皿に入っている。台の高さは六インチか八インチ位である(図228)。これ等は以下のようにして運び入れられる――先ず広間の神官の一人が、両手でそれを持って来て、他の神官に近づくと、この神官は非常に低くお辞儀をしてから、それを受取る。すると最初の神官はそこで同じ様なお辞儀をする。次に第二の神官がそれを第三の神官へ持って行くと、彼は同様に恭々しくお辞儀をし、それを受取ると交互にお辞儀をする。第四の神官は受取ると、ゆっくりした、整然たる歩調で、階段を下りて通路へ行き、そこに立っている神官に、他の人々と同じような鹿爪らしいお辞儀をして、それを渡す。で、最後の神官は階段を上って、内陣の机に近くいる神官に渡すと、この神官はそこにいる別の神官に渡し、この神官に至って、ようやく御供物を机の上に或る位置で置く。神官の最後の二人は、以前は大名であった。お供物はすくなくとも二十あり、それに一々同じ様な厳かで恭々しい会釈えしゃくが伴うのだから、この儀式は、徹頭徹尾、興味はあったが、長い時間を要した。その間中、楽師達は気味の悪い神秘的な音楽をつづけ、外にいる群衆は、儀式と、好奇心に富んだ然し熱心な野蛮人とに、注意をふり分けるらしく思われた。

楽師その他すべての人々が坐っているので、我々も、脚は恐しく痛かったが、出来るだけうまく、坐るような風をしていた。然しこの光景は、たしかに興味が深かった。式が済むと、外廊にいた会衆は立ち上って、寺院の床を横切り、階段を下りて通路へ行った。神官は丁寧な態度で、我々に従えと招いた。寺の外側には細長い卓子テーブルがあり、その上には四角い箱に四角いお盆が乗った、軽い木の物置台が置いてあった。お盆の中には、各種の食品のお供物を入れた、釉薬をかけぬ皿があり、その前には、地面の上に、より大きなお盆があった。この、美しい漆器をつくる国で、白木の盆、机、その他の家具を見ると、まことによい感じを与えられる。この、絵具も漆も塗らぬ木と、釉薬をかけぬ陶器を使用するというのが、神道の法式なのである(図229)。神官が我々各々に酒を一杯呉れたが、それは今迄私が飲んだ酒の中で一番美味だった。盃は素焼の陶器で、中心に徳川家の紋章が浮き上っている。また、これも徳川の紋を捺した紅白二枚の煎餅も貰った。徳川家は、この寺院の保護者なのである。かくて我々は、神道の信仰の聖餐拝受につらなった。キリスト教の宣教師たちは、我々が偶像崇拝をやっていたと考えることであろうが、神官が我々を招き入れた程に寛裕であった以上は、我々も彼等同様に、宗教的の頑迷固陋から自由であり得る。

この物珍しい経験の後に、我々はすぐ近くにある産業博物館を、また見に行った。日本人ばかりで成立っている海軍軍楽隊は、西洋音楽を練習し、我々と同じ楽器を持ち、同じ様な制服を着ていた。顔さえ見なかったら、我々は彼等を西洋人だと思ったことであろう。日本人の指揮者は、遠慮深く指揮棒をふって指揮し、楽員の全部に近くが、殆ど目に見えぬ位の有様で、足で拍子をとっていた。君は、私が彼等の奏楽をどう考えたか知り度いであろう。我々のとはまるで違う楽器と音楽とを持つ日本人が、これ程のことをなし得るという驚く可き事実が、我々をして彼等の演奏を、どうしても贔屓目ひいきめで見るようにして了う。大喇叭ラッパの揺動と高音とは、よしんば吹きようが拙劣でも、必ず景気のいいものだが、而も批評的にいうと、演奏の十中八、九までは、我国の田舎のあたり前の楽隊が、簡単な音楽をやるのに似ていたといわねばならぬ。音楽の耳を持たぬ者には、これは非常によく思えたであろう。とにかく空中に音が充ちたのだから。然し、音楽を知っている者は、不調音を聞き、間違った拍子に気がつくことが出来た。小喇叭の独奏は、感心してもよい程の自由さを以て演奏された。彼等は、ちょいちょい急ぎ過ぎたが、やがてうまい具合に調子を合わせた。「バグダッドの酋長」の序曲で、調子が高く高くなって行く場所は、実に完全だった。私は日本へ来てから、まだ一度も、我々の立場から音楽といい得る物を聞いたことが無いので、日本人が西洋音楽をやるということは、私にとっては北米インディアンが突然インネスかビヤスタットGeorge Innes, 1825―1894.〔Albert Bierst※(グレーブアクセント付きA小文字)dt, 1830―1902. いずれも米国の風景画家〕を製作し得たと同様に、吃驚すべきことであった。演出曲目の中には、あの奇麗なダニューブ・ワルツ、マイエルベールの「ユグノー」のグランド・ファンタジア、グノウの「フアウスト」の選曲、その他同じようなものがあったが、いずれも最も簡単に整曲してあった。
街路を通行していると、時々英語で看板を書いたのを見受ける。これは、あるいは通りかかるかも知れぬ少数の外国人の注意を引くと共に、英語を学んだ日本人に取って、とても素敵なことのように見えるようにしたのである。洋服屋の店で見たのには The place build for making dresses according to the fashion of different countries〔各国の流行に従って衣服をつくる為に建てた場所〕とあった。これは英語の新聞に出た、ある広告に比較すれば、簡単である。
町で遊んでいる子供達の習慣や行為は、見れば見る程、我国の子供達のと似て来る。最初、変った着物を着、奇怪な有様で頭の毛を剃り落し、木製の草履ぞうりをはいてヒョコヒョコ不思議な足どりで歩いているのを見ると、子供ということは判るが、地球以外の星からでも来たように思う。彼等は紙鳶たこをあげ、独楽こまを廻し、泥で菓子をつくり、小さな襤褸ぼろの人形をつくる。襤褸人形には、実に妙な格好をしたのがある。私は一人の子供が別の子供の後にかけ寄り、両手を目の上にかぶせ、正しく言いあてる迄は手を離さないのを見た。お互に背負い合ったり、羽根をついたり、我々のジャックストンス〔お手玉に似たもの〕に似た遊技をしたりする。私は、彼等がマーブルス〔大理石、硝子ガラス等の玉を地面の穴へころがし込む遊技で、今はやっている〕をやっているのは、見たことがない。マーブルスが無いからである。また鞠まりも、我々がやるようにしては遊ばず、何度弾はねかえすことが出来るかを見る為に、地面に叩きつけて遊ぶ。もっとも彼等は、数えながら取り出す各種の遊びや目かくしや、その他並んだり、一列になって進行したりする遊戯はする。お母さんは、我々と同じようにして子供と「むずむず鼠」をして遊ぶが、只これは鼠でなくて狐である。彼等は大きな木の根元で遊んだり、砂に小さな路をつくったり、これは家だ、お寺だ、橋だ等といって、小さな物を地面につき立てるのが、特に好きらしい。私は屡々、人の家で、水を満した大きな浅い皿の中に、小さな植物がすこし生えた古いこんがらかった木の根を入れた物を見た。それには小径がうねっており、渓谷には橋がかかり、そこここに玩具の家が建っている。これ等は組になっているのを買うので、老幼を問わず、この、簡単な小さい風景を楽しむらしく思われる。このような、見受ける所如何にも子供らしい遊びを楽しむことが、我々に、日本人は本質的に女らしい国民だという観念を与えた。而も台湾の土民との戦や、最近の薩摩の謀反で、彼等は最も激烈な勇気と戦闘心とを示した。
人々が、屡々手をつなぎながら、一緒に歩いているのは、見ても気持がよい。婦人や子供は通常手をつないで歩く。大きくなった娘と、彼女のお母さんなりお祖母さんなりは、十中九まで手をつないで行く。お父さんは必ず子供と手をつなぎ、何か面白いことがあると、それが見えるように、肩の上に高くさし上げる。日本人は一体に表情的でないので、我々は彼等に感情が無いと想像する。彼等は決して接吻キスしないものとされている。お母さんが自分の子に接吻するのさえ珍しいが、それとても、鼻を子供の首にくっつける位である。私は外山教授に人々、あるいは恋人同志が接吻するかどうか、正直に話して呉れと頼んだ。すると彼は渋々、「うん、それはするが、決して他の人のいる所や、公開の場所ではしない」といった。私が彼から聞き得た範囲によると、日本人にとっては、米国人なり英国人なりが、停車場で、細君に別れの接吻をしている位、粗野で、行儀の悪い光景はない。これは、我々としては、愛情をこめた袂別か歓迎か以上には出ないのである。我々は、単に我々の習慣のあるもの――例えばダンスの如き――が、彼等にどんな風に見えるかを実認しさえすれば、彼等の同様に無邪気な風習が、我々にどんな風に思われるかを了解することが出来る。外山の話によると、彼がミシガン大学へ入学すべく米国へ行った時、最も不思議に思ったのは、停車場で人々がさよならをいっては接吻して廻り、学校の女生徒たちがお互に飛びついて行くことであったが、男がこんな真似をするに至っては、愚の骨頂だと思ったそうである。
今夜、何かの祭礼がある。私は一時間あまりも往来に立って、特に一時的に建設された舞台の上で行われる無言劇を、陽気に見ている群衆を見た。これを楽んでいる間に、色の淡い提灯を持った子供達が、車を二台、引張って来た。車は、乱暴に板でつくり上げた粗末な二輪車で、子供ならではやらぬ調子で太鼓を叩き、叫び、笑う子供達で一杯つまっていた。その上部の枠組は、紙の人形、色布、沢山の提灯ちょうちん等で、念入りに装飾してあった。車が人波にもまれて過ぎ行く時、私は辛じて、その外見の概念丈を得ることが出来た(図230)。大人も数名、車をしっかりさせる為か、方向をつける為かについて行った。子供が蟻のように群れ、人が皆笑い叫んでいる光景は、まことに爽快であった。日本はたしかに子供の天国である。そして、うれしいことには、この種の集りのどれでも、また如何なる時にでも、大人が一緒になって遊ぶ。小さな子供も、提灯で小さな車をかざり立て、大きな車の真似をしてそれを町中引き廻し、そして彼等のマツリ、即ち祭礼をする。図231は、子供がマツリ車をつくろうとした企てを写生したものであるが、彼等はこれで、あたかも大きな車を引いているのと同様、うれしがっていた。竹竿からさがっている提灯は、非常に奇麗な色の紙で出来ていて、この車を引いて廻ると、すべての物が踊り、そしてピョコピョコ動いた。また、先端に紙を切りぬいてつくった大きな蝶々をつけた、長い竹竿を持った子供もいた。子供が風に向って走ると、蝶はへらへらするように出来ている(図232)。

九月二十一日。市場は追々果物で一杯になって来る。柿の一種で、鮮紅色をしたのは美味である。葡萄も熟して来る。梨は、見た所未熟だが、常緑木ときわぎの葉を敷いた浅い桶の中に、三角形に積まれて奇麗に見える(図233)。市場にあるものは、すべて奇麗で、趣味深く陳列してある。実に完全に洗いこするので、葱ねぎは輝き、蕪かぶは雪のように白い。この国の市場を見た人は、米国の市場へ持って来られる品物の状態を、忘れることが出来ない。

一人の友人と共に、私は三人の日本の舞妓を見た。この三人は前から約束しておいたので、一人はまったく美しく、他の二人は非常に不器量だった。我々は襖を外して二間を打通した部屋を占めた。蝋燭が娘たちに光を投げるように塩梅あんばいされて置かれ、二人の娘がギターに似た物を鳴らし続ける間に、一人が舞踊をした。踊り手は、単調な有様で歩きまわり、身体をゆすり、頭、腕、脚はいろいろな形をした。舞踊には各名前がついているらしく、身振は、舟を漕ぐこと、花をつむこと等を示すのを目的としている。各種の態度に伴う可く、扇子はねじられたり、開かれたり、閉じられたりした。衣服は美麗な絹の縮緬ちりめんである。これをやっている最中に、この家の女中が、我々三人のために、ゆで玉子を十六持って来、続いて、十二人の腹のすいた人々にでも充分である位の、魚、海老えび、菓子、その他を持って来た。我々は晩飯を腹一杯食ったばかりなので、勿論何も食うことが出来なかった。そして私は内心、やる事がいくらもあって時間が足りぬ位なのに、こういう風にして大切な刻々を失うことを思って呻吟した。それで、この見世物が終った時にはうれしかった。もっとも、人類学的見地からすれば、この展覧会は甚だ興味があった。
九月二十二日。今日と昨日は、大森の貝塚のことを書き、そこで発見した陶器の絵を書くのに大勉強をした。この辺には、参考書が至ってすくないので、科学的の性格のものを書くのに困難を感じる。
我々が上野のお寺へ行った日には、お寺へ通じる道に沿っていくつかの舞台が建てられ、その上では男達が大小の太鼓と、鈴と、横笛とで音楽を奏していた。彼等はすこしも疲れたらしい様子を見せず、何時間でも続けてやる。私は、我々が音楽と思う所のものの曲調を捕えようとして、一生懸命に耳を傾けたが、結局それは無駄で、私は絶望して断念した。私には音楽が分らなかったばかりでなく、舞台を立てて一体何をやっているのか、そのこと全体も同様に分らなかった。図234はかかる音楽家達の外見を示している。一人の男は、頭の上に、ボネット〔前部がつば広の婦人帽〕に似たように畳んだタオルをのせている。

図235は、私の特別学生の一人が、標本を選りわけている所の写生図である。頭髪がモジャモジャしているのは、日本人が理髪という簡単で衛生的な方法を採用する迄は、頭のてっぺんを剃り、丁髷ちょんまげをつけていた結果なのである。何年も何年も剃った後なので、髪毛は容易に分れず、また適当に横にすることも出来ない。私は、文章では示すことが困難な日本の衣服を見せるために、この写生をした。これでも見えるように、袂は半分縫ってあるが、これが彼の持つ唯一のポケットなので、両方の袂に一つずつある。彼は外国風の下着を着ているが、これが無ければ腕はむき出しである。柏木氏の話によると、三百年前の日本人は我々と同じような、せまい袖を着ていたし、二百年前でさえも、袖は非常にせまかったそうである。スカートは、実のところ、横でひらいた、ダブダブなズボンで、後には直立する固い部分があり、サムライだけがこれを着る権利を持っている。サムライの娘たちも、学校へ行く時は、いく分かの尊敬を受けるために、これを身につける。図236と図237とは、予備校へ行っている少年たちを写生したものである。彼等はここで、大学へ入る前に英語をならう。私はよく実験室の窓から彼等を見るが、まことに眉目みめ麗しく雄々しい連中で、挙動は優雅で丁寧であり、如何にも親切そうにこちらを見るので、即座に同情と愛情とを持つようになる。悪意、軽蔑、擯斥等の表情は見受けないような気がする。私は日本人がかかる表情を持っていないというのではない。只、私はそれ等を見たことが無いのである。

博覧会が開かれてから、私は都合七回見に行き、毎回僅かではあるが、写生をして来ることが出来た。図238は、娘が髪を結っている所である。これは等身大で、木から高浮彫で刻み出し、纒衣きものは着色してあって、極めて優雅であった。群衆のまん中で写生をするのは困難であったが、その群衆とても米国の同様な博覧会群衆にくらべれば、平穏な海である。花、或は植木を入れる物(図239)は、器用な細工であるが、製作には多少の困難が伴う。一番下の桶を構成する桶板の中の三枚が延びて、上にある三個の小さい桶の構造中に入り込み、これ等の三個からまた桶板が一枚ずつ延びて、同じ大さの桶を上方につくっている。木材がまことに白くて清潔なので、この作品は完全そのものであった。図240は花を生ける桶である。前者に比して遙かに小さいが、構造の思いつきは同じである。高さは二フィート位で、この上もなく華奢きゃしゃに出来ていた。右側にある小さい桶は楕円形である。また磁器でつくった長さすくなくとも三フィートの植木鉢の、側面に藍色で横に松を描いた物に、倭生の松樹を植えたのは目立って見えた(図241)。この会の一隅には、私には全く目新しい、不思議な物が展観してあった。大きな竹の枠に、二枚の非常に細い網かモスリンか、とにかく向うが透いて見える一種の布が張ってあった。これ等は一インチばかり離れていて、一枚には暗い木立の前景と、遠方の丘の中景とが描いてあり、他の一枚には、あの雄大な富士の、力強い写生が描いてある。これは、網をすかすことによって遠く見えるようにしてあるのだが、その幻惑は完全であった。かかる驚くべき、額縁入りの装飾品の一つを、私は写生することが出来たが、それは図242である。これは腐った虫喰の杉の底部につくられ、木理が明かに見え、実によく出来ていた。長さは三フィート半で、濃紅色の額縁に入っていた。模様はある木の幹か、或は恐らく葡萄の蔓であろうと思われるものと、一枚の葉だけを見せている。これは竹で出来ていて、緑色をしているが、多分これは漆を塗ったのであろう。帆だけを額縁の上に出した三艘の船は、みな浮彫細工で、それぞれ骨か象牙と、真珠と、青銅或は青銅漆かで出来ていた。帆は細い布をかがってつくるのであるが、そのかがり目が、実にこまかく彫ってあり、全体の意匠が、日本の芸術家の意想をよく現していた。また細工のこまかい漆塗りの箪笥たんすもあった。これには引出が三つあり、意匠としては最も不思議な主題、即ち象牙で彫った車輪が、渦を巻いて流れる水に、半分沈んでいる、というものがついている(図243)。写生図で見える通り、車輪は完全に丸くはない。これは、水の流れが甚だ急であるとの感を強める為である。車輪の轂こしきは、引出しを引張り出すに用いる鈕つまみになっているが、箪笥の引出しの装飾に、ひん曲った車輪が半分水に浸ったのを使用するというような事は、日本人ならでは誰が思いつこうか? 世界をあげて、日本の装飾芸術に夢中になるのも当然である。ここで私は書かねばならぬが、日本の俗伝や神話に就ては、私はまだ何も学んでいない。私は現代のものに心を奪われていて、過去を振返る余裕が無いのであるが、我々にとって、かくも神秘的に見える装飾の主題の、全部とは行かずも多くは、疑もなく、日本のよく知られた物語か神話かに関連しているのであろう。

図244では、二種の鋤すきと耨くわとが示してある。断截端が僅か内側に彎曲しているので、地面を掘る時に草の根を確実に切断するが、我々が使用する鋤や耨は、そこが反対にまるくなっているから、ともすると根が横にすべって了う。鋤の木の柄は、我国の物のように鋲で止めはせず、金属部の溝の中へ入り込んでいる。図245は道路で使用する便利な耨の一種を示す。柄は長さ約三フィートの、軽くて丈夫な竹で、籠細工の胴体は鉉つるで柄とつらなり、鉄の縁がついている。労働者は掘ったり掻いたりする時、鉉をしっかりと希望の角度に押え、そして塵埃のかたまりは、鉉から手を離すと同時に、ドサンと落ちる。籠細工だから非常に軽い。
第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚
今日、ドクタア・マレー、彼の通訳及び私は、人夫二人をつれて大森の貝塚へ行った。人夫は、採集した物を何でも持って帰らせる為に、連れて行ったのである。大森の駅からすこし歩いて現場に達すると共に、人夫達は耨くわで、我々は移植鏝こてで掘り始めた。二時間ばかりの間に、我々は軌道に沿った深い溝を殆ど埋めた位多量の岩石を掘り崩し、そして陶器の破片その他を沢山手に入れた。泥にまみれ、暑い日盛で昼飯を食いながら、人夫に向かって、掘り崩した土をもとに戻して置かぬと、我々は逮捕されると云ったら、彼等は即座に仕事にとりかかり、溝を奇麗にしたばかりでなく、それを耨で築堤へつみ上げ、上を完全に平にし、小さな木や灌木を何本か植えたりしたので、我々がそこを掘りまわした形跡は、何一つ無くなった。大雨が一雨降った後では、ここがどんな風になったかは知る由もない。私は幸運にも、堆積の上部で完全な甕二つと、粗末な骨の道具一つとを発見し、また角製の道具三つと、骨製のもの一つをも見つけた。
ここ数日間、私は陶器の破片の絵をかいているが、装飾様式が種々雑多であることは著しい。甕及び破片は、特に記した物以外、全部実物の半分の大きさで描いてある。図246は埋積の底で発見された。この品の内側には鮮紅な辰砂しんしゃの跡が見られ、外側は黒く焦げ、その間には繩紋がある。図247に示すものは黒い壁を持つ鉢で、底部は無くなっている。図248は別の鉢で、この底部には簡単な編みようをした筵むしろの形がついている。図249と250はその他の破片で、辺へりや柄や取手もある。図250の一番下の二つは、奇妙な粘土製の扁片と唯一の石器とを示し、図251は骨及び鹿角でつくった器である。この事柄に大なる興味を持つ日本の好古者の談によると、このような物は、いまだかつて日本で発見されたことがないそうである。大学には石版用の石が数個あるから、私は発見したものは何によらずこれを描写しようと思う。大学は、この問題に関して私が書く紀要は何にまれ出版し、そして外国の各協会へ送ることを約束してくれた。私はこのようにして科学的の出版物をいくつか出し、それを交換の目的で諸学会へ送り、かくして科学的の図書館を建て度い希望を持っている。この材料を以て、私はすでに大学に於て、考古学博物館の発端ともいうべき小さな部屋を一つ開始した*。

* 現在大学にある大きな考古学博物館や、すでに数多の巻数をかさねた刊行物の発端は、実にこれなのである。
昨夜福井氏が私の絵を見に来た。私は日本の習慣に就て彼と長い間話をした。彼は私の聞いたことは何事にまれ、出来得るかぎり説明して呉れ、私はいろいろと新しいことを知った。サムライの階級――彼もそこに属していた――は、各地方の主なるダイミョーの家来であった。彼等は最高の階級を代表し、数年前までは二本の刀を帯おびることを許されていた。その短い方は、腰をめぐる紐の内側の褶ひだに、長い方は外側の褶にさし込まれるのであった。帯刀は勅令によって禁止されたが、君主に対する忠誠から、この勅令に従った際の犠牲が如何に大なものであったかは、西洋の国民には全然見当もつかないのである。両手で使う大きな刀は、敵と戦う為のもので、小さい刀は、大きな刀のした仕事を仕上げる為のものである。福井氏は私に、封建時代の死刑について話してくれた。彼は、そのあるものを目撃したことがある。職業的斬首刑吏は、最低社会階級なる特別の階級――事実、追放された人々――(政府は最近この区別を撤廃した)から選ばれた。斬首刑吏は犠牲者の着衣を貰うことになっていたので、非常に注意深くそれを首から押し下げ、膝から引き上げた。これは、処罰される者が、首を前方につき出して坐っている時、鋭い刀は電光石火、首をはねるばかりでなく、膝さえも切るので、斬首刑吏が配慮しなければ、着衣は役に立たなくなるからである。
サムライは、一年に一度、彼等の刀身を検査する目的で集合した。刀作者の名前は刀身の、柄の中に入り込む部分にきざんであり、柄は小さな木製の釘でとめてある。これ等の会合は、事実、あてっこをする会なので、刀身の作者の名は刀身、即ち鋼鉄の色合、反淬やきの深さ、やわらかい鉄へ鍛鉄した、鋼鉄の刃の合一によって出来る、奇妙な波のような線等を検査することによってのみ、決定されねばならぬ。すべての人々が彼等の推定を記録し終ると、刀から柄を取外して署名を読む。刀身を取扱う時には、外衣の長い袖の上にそれをのせ、決して手で触らず、また鞘から抜く時には、必ず刃を手前にする。福井氏は、「サムライの魂」と呼ばれる刀に関する多くの礼式を話してくれたが、私はそれ等を記録に残す程明瞭に了解しなかった。
私は往来を歩く若い男が、父親が小さな娘を連れている以外には、決して若い娘を伴うことがない事実に、何度も気がついた。娘は必ず一人でいるか、他の娘と一緒にいるか、母親と一緒にいるかである。青年が異性の一人に向ってお辞儀をしているのを見ることさえ稀である。私は福井氏に向って、あなたの知人の中に若い娘が何人いるか、一緒に博覧会を見に行こうと招待する位よく知っている娘は何人位かと、あけすけに質問した。すると彼はこんな思いつきを笑った上で、若い娘なんぞは只の一人も知らないと白状した。私には容易にそれが信用出来なかったので、我国では、青年どもが娘の友達を馬車遊山、ピクニック、音楽会、帆走、その他へ招待することを話したら、彼は驚いていた。まったく彼は卒直に吃驚して、そのような社会的の風習は、日本では知られていないといった。友人を訪問する時、何かの都合で姉妹なり娘なりがその場に居合せば、彼が子供の時の彼女を如何によく知っていたとしても、彼女は丁寧にお辞儀をして座を外し、また往来で偶然出合えば、娘は日傘なり雨傘なりを低く傾け、彼は顔をそむける。これは下級のサムライの習慣で、上級のサムライだと同様の場合、丁寧にお辞儀をするのだと、福井氏がいった。
その後外山教授に、彼の経験も同じであるかを質ねたら、彼もまた福井氏のいった事を総て確証した。「自分は、若い淑女は只の一人も知らぬ」と、彼はいった。夫と妻とが並んで往来を歩くようになったのも、ここ数年来のことで、而もそれは外国風をよろこぶ急進論者が稀にやるばかりである。夫婦で道を行く時、十中八、九、細君は五フィート乃至十フィート夫に後れて従い、また夫婦が人力車に相乗りするということは、極りの悪い光景なのである。「自分がこんな光景に接すると、その夫は顔を赤くする。若し夫が赤くならなければ、自分の方が赤くなる」と、外山教授はいった。彼は更に、このような男は、「鼻の中の長い毛」を意味する言葉で呼ばれるといった。鼻の穴の中に長い毛を持つ男は、細君に引き廻されることになっているので、つまり我々の所謂 henpecked〔牝鶏につつかれる。嬶天下〕なのだが、この言葉は、彼等の henpecked を意味する言葉が我々にとって不思議であると同様、彼等にとって不思議に思われる。
私にこの話をしてくれた日本人は二十二歳であるが、結婚する意志があるのかと質問したら、「勿論だ」と答えた。「然し」、私はまた質問した、「君の知人の間に娘の友人が無いのに、君はどうして細君を見つけることが出来るのか」、すると彼は、それは常に友人か「仲人」によって献立されるといった。ある男が結婚したいという意志を示すと、彼の家族なり友人なりが、彼の為に誰か望ましい配偶者を見出してくれる。すると彼は、娘の家族と文通して、希望を述べ、且つ訪問することの許可を乞い、そこで初めて、或は将来自分の妻になるかも知れぬ婦人と面会する。彼等が見た所具合よく行きそうだと、その報道が何等かの方法によって伝えられ、そして彼は結婚の当日まで彼女に会わない。私はそこで、「然し君にはどうして、彼女が怠者だったり、短気だったり、その他でないことが判るのだ」と聞いた。彼は、それ等の事柄は、婚約する迄に、注意深く調べられるのだと答えた。更に彼は、「この問題に近づくのに、米国風にやると、娘は必ず真実の彼女と違ったものに見える。彼女は男の心を引くように装い、男を獲るような行為をする。我々が遙かによいと思う我々の方法によれば、これ等は感情をぬきにした、双方の将来の幸福を考える、平坦な経路を辿る」とつけ加えた。この方法は我々には如何にも莫迦ばかげていて、またロマンティックで無いが、而も離婚率は我国に比べて遙かに低い。私の限られた観察によると、日本では既婚者たちが幸福そうにニコニコして、満足しているらしく見える。このように両性が社交的に厳重に分離されている日本では、青年男女が、非常に多くの無邪気で幸福な経験を知らずにいる。我国のピクニックや、キャンディ・パーティ〔若い男女が集まって、砂糖菓子等をつくる会合〕その他の集会や、素人芝居や、橇そりや、ボートや、雪すべりや、その他の同様な集りを思い浮べると、この点に関する社交的のやり方は、娘達にとってさえも、我国の方がずっといいような気がする。もっとも、いろいろなことに関する私の意見は、この国に於る経験に因って、絶えず変化するから、ハッキリしたことはいえない。
この前の月曜日に、私は進化論に就て力強い講義をした。今や私の学級は、この問題の課程を持ちたくて、しびれを切らしているが、来春アメリカから帰って来る迄は、それを準備する時間が無い。今日、別の級にいる学生が一人、私の講義を聞く許可を受けに来た。今迄のところ学生達は、非常な興味を持っているらしい。確かに学生達が、より深い注意を払ったことは、従来かつて無ったが、これは彼等が外国語の、而も幾分速口に喋舌しゃべるのに耳を傾けているのだから、自然であろう。
一階建の家屋が構成する一郭に、正面の入口が道路に向って開いた住宅が、四つ五つあるというのは、日本では新しい思いつきである。一八六八年の革命までは、このような家の形式は無かった。市中の住宅は、いずれもヤシキのように、内側に面して四角に建てられ、儀式の時にだけ開かれる大きな門が一つあり、その両側の小さな入口から人々は毎日出入した。我々が現に住んでいる加賀屋敷には、堂々たる門があるが、これは開いたのを見たことが無く、すこし離れた所に小さな入口があり、それに接した小さな部屋に住んでいる門番が、夜になるとこれを閉める。門番は内に住む人々を知っているので、夜更には門をあけて我々を入れてくれる。現在の建築様式の方が余程経済的であるから、将来はこれになるであろう。各家には、軽い竹の垣根にかこまれた、小さな庭がある。
東京市の一部分には、外国人の為に特定した小さな一区域があり、政府の役人でない外国人は、この場所以外に住むことは出来ない。帝国大学は政府が支持しているので、教師達は政府の役人と見られ、従って市中どこにでも住む権利を持っている。外人居留地から四マイル以上も離れた加賀屋敷にいる我々は、純然たる日本の生活の真中にいるのである。私は屡々ヤシキの門(そこには常に門番がいる)から出て、大通りをぶらぶらしたり、横丁へ入ったりして、いろいろな面白い光景を楽しむ――昼間は前面をあけっぱなした、小さな低い店、場合によっては売品を持ち出して、地面に並べたりする。半日も店をあけて出かけて行ったかも知れぬ店主の帰りを、十五分、二十分と待ったこともよくある。また、小さな、店みたいな棚から品物を取上げ、それを隣の店へ持って行き、そこの主人に、私がこれを欲したことを、どこかへ行っている男に話してくれと頼んだこともある。小さな品をポケットに一杯入れて逃げて了うことなんぞは、実に容易である*。
* このような正直さは、我国の小村では見られるが、大都会では決して行われぬ。然るに、何度もくりかえしたかかる経験は、東京という巨大な都会でのことなのである。日本人の正直さを示す多くの方面の中の一つに関連して、我々は、我々の都市では、戸外の寒暖計はねじ釘で壁にとめられ、柄杓は噴水に鎖で結びつけられ、公共の場所から石鹸やタオルを持って行くことが極めて一般的に行われるので、このようないやしい、けちな盗みから保護する可く、容器を壁に取りつけた、液体石鹸というようなものが発明されたことを忘れてはならぬ。
図252で私は私の部屋の写生を示す。これは長い、素敵な部屋で、事実長さ三十フィートの応接間であり、この後は畳み扉でしきられて食堂になっているが、私は寝室に使っている。学生洋燈ランプの乗っている卓テーブルまたは机で、私は日記や手紙を書き、次の机は雑物置として使用するのだが、どうした訳やら、他の卓もそれ等に属さぬいろいろな品物をのせて了う。一番遠方の丸い卓は、貝塚に関する仕事と、その問題に就ての若干の記録との為に保留してある。隅にある机は、私の科学的の覚書全部と、腕足類に関して私がやっている特別な研究とを含有しているので、私は必要に応じて洋燈を一つの卓から他へと持って廻る。この部屋では毎夜、全然訪問者に邪魔されることなしに書き続ける。戸外は完全な平和と静寂とが支配する。事実、耳に入る唯一の物音は、いささか酒に酔って、景気のよくなった男の歌う、調子の高い音が、遠くから響く丈である。日本人は酒に酔うと、アングロ・サクソンやアイルランド人、殊に後者が、一般的に喧嘩がしたくなるのと違って、歌い度くなるらしい。

先日私は曲げた竹の一端に、大きな木の玉をつけた、奇妙な品を売っているのを見た。どう考えても判らぬので、売っている男にそれが何であるかを聞くと、彼は微笑しながら彎曲線を肩越しに持ち、それを前後に動して、玉で文字通り自分の背中を叩いて見せた(図253)。このたたくことは、リューマチスにいいとされている。そして私は屡々、小さな子供が両方の拳固で、老人の背中を叩いているのを見る。この簡単な工夫によって、人は自分自身で背中を叩くことが出来、同時にある程度の運動にもなる。

紙幣を出す時、その辺へりが極めて僅かでも裂けていると、文句をいわれる。その結果、裂けた紙幣はごく少ししか流通していない。事実、折目の所がちょっと裂けたのを除いては、皆無である。用紙は我々のよりも厚く、もっとすべっこいように思われ、そして幾分よごれはしても必ず無瑕きずで、我国の紙幣のように、すりへらされた不潔な状態を呈したりしない。これは下層民が、紙幣というような額の大きい金銭を取扱わぬからかも知れないが、日本人が綺麗好きだということも、原因しているであろう。
図254は、大学に於る動物実験室の大略を写生したもので、私の特別学生達はここで勉強する。これは細長い部屋だが、私は廊下の向う側にもう二部屋持っている。図255は大学の主要建築の平面図である。道路に面した前面幅は、殆ど二百フィートに近いに相違ない。主要部建築から翼が三つ後につき出し、その間に一階建の長くて低い建物があり、これは狭い廊下で翼に連っているが、図236・237の男の子達の写生は、この廊下からしたものである。私はこれ等の長い建物の一つを占領している。1とした部屋は二階にある私の講義室で、その下に当る長さ二倍の広間は、私が博物館として将来使用しようとするものである。この建物の他に、独立した美事な会館や、図書館の建物や、採鉱、冶金の多くの建物や、学生その他の為の寄宿舎等があって、学生数百名、無数の事務員、小使、労働者等がいるので、それ等だけで一つの村落を構成している。

日本亜細亜アジア協会が十月十三日の会に際して、開会の辞を述べる可く、私を招待した。私は大森の陶器と、日本に於る初期住民の証跡とに就て、話そうと思っている。
土曜日の午後東京運動倶楽部クラブの秋季会合があった。これは殆ど全部が英国公使館員である所の英国人から成立している。横浜からも、その地の運動倶楽部を代表して数名やって来た。競技は帝国海軍学校の近くの広い練兵場で行われたが、これは広々した平坦な原で、そこに立った時私は、どうしても米国にいて野球の始るのを見ようとするのだとしか思えなかった。この日は、日本の秋の日は毎日美しいが、殊に美しい日であった。競技者は六、七十名いて、数名の日本人も混り、天幕テントには少数の婦人方が見えた。それは実に故郷にいるようで、且つ自然であったが、一度周囲を見廻し、全部が日本人で、無帽で、小さな子供や、婦人が赤坊を背負った、大小いろいろな群衆が、繩を境に密集しているのを見た時、この幻想は即座に消え去った。彼等はペチャクチャ喋舌ったの何の! 道路に添う煉瓦の上には日本人がズラリと並び(図256)、見たところは徹頭徹尾我国とは違っていたが、而も人間が持つ万国共通の好奇心――これは人類の最も近い親類である所の猿も持っている――をまざまざと見せていた。海軍学校に属する日本人の軍楽隊が音楽を奏したが、非常に上手にやった。雑糅曲メドレーの中に、「ヤンキー・ドードル」や「朝までは家へ帰らぬ」〔いずれも米国の流行歌〕の曲節があったのは、故郷を思い出させた。運動には徒歩競走、障碍競争、跳躍ジャンプ、鉄槌ハンマー投、二人三脚その他があった。私にとっては、これはいい休息になり、最も面白かった。
ヤシキへ帰るのに、ドクタア・マレーは二頭立の馬車に乗り、私は人力車に乗った。馬は勢よく速歩したが、私の車夫もやすやすと同じ速度で走り、距離が五マイルに近いのにもかかわらず、いささかも疲れた様子を見せなかった。これ等の人々の耐久力は、外国人にとっては常に興味ある問題である。馬車の後をついて行く間に、私は馬車とその乗り手とが、どれ程新奇なものであるかを理解する機会を持つことが出来た。誰でも必ず振り向いて、それを凝視したからである。馬車の去った後で私は、小さな女の子が二人、完全に真似をして頭をすこし横に動かし、彼等が見た英国の婦人の態度そのままに、お辞儀し合うのを見た。また先日、私が人力車で走り過ぎた時、一人の女が唇をとがらせて、シガーを吸う動作をするのを見た。もっとも私はこの時喫煙していはしなかったが……。
日曜日には、写生図板を持って、非常にいろいろな種類のある店の看板を写生する丈の目的で出かけた。我国には、どこにでもあるもの、例えば薬屋の乳鉢、煙草屋の北米インディアン、時計製造人の懐中時計、靴屋の長靴、その他僅かなのが少数あるが、この国ではあらゆる種類の店に、何かしら大きな彫刻か、屋根のある枠の形をした看板かが出ている。各の店舗の上には軽い、然し永久的な木造の日除があり、看板の多くは主な屋根からつき出て、かかる日除の上につっ張られた棒からぶら下っている。この支柱のある物には、看板の上に当る場所に小さな屋根がついているが、これは看板を保護する為か、或はそれに重要さをつけ加える為かである。図257は食料品店或は砂糖屋の看板で、大きな紙袋を白く塗り、それに黒で字が書いてある。図258は巨大な麻糸の房で網、綱、及びその類を売る店を示している。図259は非常に多くある看板で、長さ二、三フィートの板でつくり、白く塗った上に黒で店主の名を書き、日本の足袋の模型を現している。図260は地面に立っている看板で、高浮彫の装飾的象徴は、ここへ来れば筆が買えることを見せている。図261は煎餅屋を指示している。煎餅は薄くて大きなウェーファーみたいである。図262は眼医者のいることを示す看板で、黒塗に金で字を書き、真鍮の金具が打ってある。図263は、妙な格好の看板である。これは丸く、厚い紙で出来ていて白く塗ってあり、直径一フィート半程で、菓子屋が一様に出す看板なのである。この看板は日本の球糖菓ボンボンを誇張した形を示している。我国の球糖菓も同様な突起を持っているが、それが非常に小さい。図264もまた妙な看板で、これを写生した時、私はこれが何を代表しているのか丸で見当がつかなかった。何か叩く、不思議にガラガラいう音が聞えたので、店をのぞいて見ると、二人の男が金の箔を打ちのばしていた。そしてこの看板には、金箔が二枚現してある。図265は蝋燭ろうそく屋の看板で、黒地に蝋燭が白く浮き出ている。図266は大きな六角形の箱に似たもので、その底から黒い頭髪が垂れ下っている。店内で仮髪かつらを売っているのを見たから、これは人工的の毛髪を売る店を標示していることが判る。図267は印判師の看板で、これは必ず地面に立っている。殆ど誰でもが印を使用する。そして彼等は、印と、それに使用する赤い顔料とを、最小限度の大きさにして持って歩く、最もちんまりした、器用な仕組を持っている。彼等は書付、請取、手紙等に印を押す。印を意味する印判師の看板は、非常に一般的なので、私はこの字の一部が、頭文字のPに似ていることを観察して、最初の漢字を覚え込んだ。図268は両替或は仲買人の、普遍的な看板である。これは木製の円盤の両側を小さく円形に切りぬいたもので、銭を意味する伝統的の形式である。図269は櫛屋を指示していて、この櫛は長さが三フィートばかりもあった。図270は、傘屋を代表するばかりでなく、現代式外国風の洋傘を示している。油紙でつくった日本風の傘は非常に重く、且つ特別に取扱い難いので、日本人は我々式の傘を採用し、道路ではこれを日傘の代りに使用しているのも全くよく見受ける。

また看板には多くの種類があり、私は東京をブラブラ歩きながらそれ等の写生をしたいと思っているが、それにしても、かかる各種の大きくて目につきやすい品物が店の前面につき出ている町並が、どんなに奇妙に見えるかは、想像に難からぬ所であろう。これ等の店には一階建以上のものはめったに無く、ペンキを塗らぬか、塗っても黒色なので薄ぎたなく見え、看板とても極めて僅かを除いては白と黒とである。このような、鼠色の街頭を、例えば、日本の美しい漆器のように黒くて艶のある頭髪に、目も覚める程鮮かな色のオビをしめ、顔には真白に白粉をつけ、光り輝く紅唇をした娘が、この上もなく白い足袋に、この上もなく清潔な草履をはいて歩くとしたら、それが如何に顕著な目標であるかは了解出来るであろう。陰気な、古めかしい看板のある町の真中に、かかる色彩の加筆は、ことの他顕明であり、時として藍と白の磁器や、黄色い果実やをぎっしりと展観したものが、町通りに必ず魅惑的な外見を与える。これ等すべての新奇さに加うるに、魚売、煙管きせるや、ぶりき細工を修繕する者、古道具屋等の、それぞれ異る町の叫びがある。今日私は梯子を売る男の、実に奇妙至極な叫び声を聞いた。家へ帰ったら新聞屋の呼び声と梯子屋の叫び声との真似をするから、忘れずに注意して呉れ給え*。
* 悲しい哉、それ等は皆忘れて了った。
菓子の行商人は子供を集めて菓子を売る為に、ある種の小さな見世物をやる。一、二回、私は彼等を我国の手風琴師に近いものとみなして、銅貨若干を与えた。すると彼等は一つかみの菓子を呉れたが、味もなく、不味まずいことを知り過ぎている私は、あたりに子供がいなければ、折角だがといって返すのであった。最近私は烏や、豚や、家鴨あひるや、犢こうしの叫び声を完全に真似する行商人に逢った。また私は、気のいい一人の老人(図271)を写生した。この男は、子供を集める為に、硝子ガラスを多面体に切った物で、それを透して見ると多くの影像が現れる物を持っていた。彼はこれ等を柄のついた枠に入れた物をいくつか持っていて、それを子供達に渡し、自分が踊り廻って、ありとあらゆる滑稽な動作をするのを、のぞき見させた。彼はまた小さな棒のさきに、あざやかな色をした紙の蝶をつけた物を持っていて、これをくるくる廻した。売物の菓子は箱に入っている。私は彼を写生する間、人力車に坐っていて、時間がなかったので、只老人と一人の子供とだけを写生したが、この写生図を見る人は、黒山のように集った子供達と母親達とが、見物している光景を想像しなくてはならぬ。老人は、私が何をしているかを見た時、哄笑したが、道化を継続し、子供達もまた笑った。多くの人達が背中越しに絵を見つめるので、私は急いで写生を終った。そして二セントやると、彼は非常に低くお辞儀をした上、菓子の棒を十数本呉れた。私は、彼が踊るのは金を受ける為ではなかったのに、間違をしたことに気がついたが、然し謝辞を以て菓子は辞退した。そこで彼はこの菓子を人力車夫に提供したが、車夫も受取らぬので、残念そうに箱へ戻し、非常に幸福そうに演技と舞踊とを続けて行った。突然、この上もない名案を思いついた彼は、箱をあけて、再び一つかみの菓子を取出し、私に向って身ぶりをしながら、私には「シンジョー」「コドモ」「アナタ」という言葉だけが理解出来たことを何かいい、あたりに集った子供達にその菓子をすっかりやった。子供達はそれを受取り、ニコニコしながら私に礼をいった。数日後、私は再びこの老人が往来で芸当をやっているのを見た所が、彼は再び私に礼をいった。これは、横路へ入るが、我々を吃驚させる風習である。ある店で、何か詰らぬ物を買い、その後一週間もしてその前を通ると、店の人々はこちらを見覚えていて、またお礼をいう。

土曜日は、先週御誕生になった皇帝陛下の御子息に御名前をつけるべく取極められた日で、すべての店は白地に赤い丸を置いた国旗を掲げた。長い町々に、これは極めて陽気な外見を与えた。
お城を取りまく大きな堀に沿って人力車を走らせることは、非常に絵画的である。維新前までは、将軍が、この広い運河のような堀の水から斜に聳える巨大な石垣にかこまれた場所に住んでいた。廓内には、今や政府の用に使用される建物が沢山ある。お堀に沿った道路は平坦で、廓をかこんで一、二マイル続き、堀に従って時々曲っては、新しい橋や、石垣高く、あるいはその直後に、建てられた東洋風の建築(図272)やを目の前に持ち来す。間を置いて、強固な、古い門構が見られ、巨大な石塊でつくった石垣は、がっしりとして且つ堂々たるものであるが、堀の水へ雄大な傾斜をなしているので、余計堂々として見える。石垣の上には、松の古木が立ちならび、その枝には何百という烏がとまっている。幅の広いお堀のある箇所には蓮が勢よく茂り、花時にはその大きな薄紅色の花がまことに美しい。水面には渡って来た野鴨、雁、その他の鳥が群れている。大きな都会の真中の公園や池で、野生の鳥の群が悠々としていること位、この国民、或はこの国の少年や青年達の、やさしい気質を、力強く物語るものはない。我国でこれに似た光景を見ようと思えば、南部のどこかの荒地へ行かなくてはならぬ。私の住んでいるヤシキでは、時に狐を見受ける。

漆器の盃や掛物によく使用される装飾の主題は、鯉、あるいは滝をのぼる鯉であって、必ず尾を彎曲した形で描かれる。多分産卵するために、激流又は滝を登る魚を写生したものであろう。これは向上、又は固守の象徴であって、男の子たちに、より高い位置へ進むことを教える教訓である。
五月五日には、男の子達の為の国民的祭礼がある。話によると、その一年以内に男の子が生れた家族は、長い棒のさきに、紙か布かでつくった大きな魚をつけてあげる権利を持っている。この魚の口は環でひろげられ(この環でつるすのだが)、たいていの時は吹いている風が魚をふくらませ、そして最も自然に泳ぐような形でこれをなびかせる。ある物は長さ十フィートにも及ぶこれ等の魚が、この大きな都会いたる所でゆらゆらしたり、ばたばたしたりする所は、実に不思議な光景である。
私は京都から、博覧会で花の絵を画く為にやって来た、松林〔?〕という芸術家を訪問したが、誠に興味が深かった。彼は本郷から横へ入った往来に住んでいる。垣根にある小さな門を過ぎた私は、私自身が昔のサムライの邸内にいることを発見した。庭園の単純性には、クエーカー教徒に近い厳格さがあった。これは私が初めて見る個人の住宅で、他の家々よりも(若しそんなことが可能でありとすれば)もっとさっぱりして、もっと清潔であった。広い廊下に向って開いた部屋は、厳かな位簡単で、天井は暗色の杉、至る所に使った自然のままの材木、この上なく清潔な畳、床の一隅にきちんとつみ上げた若干の書籍、それから必ずある炭火を入れた箱、簡単な絵の少数が、この部屋の家具と装飾とを完成していた。このような部屋は、学生にとって理想的である。我国の通常の部屋を思出して見る――数限りない種々雑多の物品が、昼間は注意力を散漫にし、多くの品が夜は人の足をすくって転倒させ、而もこれ等のすべては、その埃を払い、奇麗にする為に誰かの時間を消費するのである。主人の芸術家は、丁寧なお辞儀で私を迎え、静かに彼の写生帖を見せたが、それには蜻蛉とんぼや、※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったや、蝉や、蝸牛かたつむりや、蛙や、蟾蜍ひきがえるや、鳥や、その他の絵が何百となく、本物そっくりに、而も簡明にかかれてあった。一つの写生帖には花が沢山かいてあったが、その中に、ある皇族の衣服の写生があった。封建時代、松林はこの方の家来だったのである。私が退出する時、彼は私が息がとまる程驚いたようなお辞儀をした。私は、頭が畳にさわるお辞儀は何度も見たが、彼の頭は、まるで深いお祈りでもしているかのように、数秒間畳にくっついた儘であった。日本人は脚を曲げて坐るが、お辞儀をする時、背中は床と並行すべきで、後の方をもち上げてはならぬ。
出て来た時、私は縁側の一端に、気の利いたことがしてあるのに気がついた。大きな竹の、下端に刻み目をつけた物が下っていて、この刻み目には水桶がかかり、そのすぐ上には浅い竹製の柄杓が釘にかけてある。手洗用のかかる仕掛は、どこの家でも見受ける所である(図273)。

往来ではよく、巡り歩く音楽家に出合う。彼は三味線をかきならして、低い、間のぬけたような調子で歌いながら、ゆっくり歩く。頭にいただく笠は巨大で、浅い籠に似ているし、衣服は着古したものではあるが清潔で、無数のつぎがあたっている。これ等の人々は、恐しく罅ひびの入ったような震え声で歌いながら、家から家へ行く。この写生図の歌手は非常な老人で、疲れ切っており、そして極めてぶざまな顔をしている(図274)。

ある町の傍の地面の上で、若い男と男の子とが将棋をやっているのを見た。男の子は十歳にもなっていなかったが、青年が吃驚したり、叫んだりする所から、私はこの子が彼にとっていい相手であるのだと判断した。何人かが周囲に立って、この勝負を見守っていたが、私もまた勝負を見るような様子をして地面にしゃがみ込み、競技者二人を大急ぎで写生した(図275)。

学校へ行く途中で、私は殆ど七十マイルも離れた富士を見る。これは実に絶間なきよろこびの源である。今日は殊に空気が澄んでいたので、富士は新しい雪の衣をつけて、すっくりと聳えていた。その輪郭のやわらかさと明瞭さは、誠に壮麗を極めていた。上三分の一は雪に覆われ、両側の斜面にはもっと下まで雪が積って、どの方角から雪嵐が来たかを示していた。
大学からの帰りには、長い坂を登らねばならない。私はきっと人力車を下りて歩く。一軒の店には、鎖でとまり木へしばりつけられた猿が四匹いる。一セントの十分の一出すと、長い棒のさきにつけた浅い木皿に、カラカラな豆若干、或は人参数切を入れたものを買うことが出来る。人々はちょっと立止って猿に餌をやり、私はポケットに小銭を一つかみ入れておいて、毎日猿と遊ぶ。私は猿共が往来の真中から投げられた豆でさえも捕り得ることを発見した。彼等は人間の子供が球を捕えるように両手で豆を捕えるが、どんなに速く投げても、決して失敗しない。今や彼等は、私を覚えたらしい。皿を、もうすこしで手の届く場所まで差出してからかうと、彼等は私に向って眉をひそめ怖しい顔をし、棲木とまりぎの上でピョンピョン跳ね、ドンドン足踏みをして、その場所の軽い木の建造物を文字通りゆすぶる。檻の内に閉じ込められている、大きな、意地の悪い老猿も、同情して鉄棒をつかみ、素敵な勢でガタガタやる。猿を見れば見る程、私は彼等が物事をやるのに、人間めいた所があるのを認める。彼等は、私ならば精巧な鑷子ピンセットを使わねばならぬような小さな物を、拇指と他の指とでつまみ上げる。
道路に面する大学と直角に、古い大名の住居、即ちヤシキへの入口がある。この建物は非常に古く、破風はふや、どっしりと瓦をのせた屋根や、大きな屋の棟や、岩畳がんじょうな入口は、かかる荘厳な住宅建築の典型的のものである。屋根の上の建造物は、換気通風の目的で後からくっつけたのである。ここは今は学校に使用されている(図276)。

私はここに私の『日本の家庭』に複写した写生図を再び出そうとは思わぬが、私が毎日通行する町の外見を示すこの本の図33・34・35及び図38に言及せざるを得ない。家の殆ど全部は一階建である。私が歩いて行くと、ある一軒からは三味線か琴かを伴奏としたキーキー声がする。隣の家は私立学校らしく、子供達が漢字を習い、声をかぎりに絶叫している。何という喧擾だろう! 更に隣の家では誰かが漢文を読み、その読声に誰かが感心するように、例のお経を読むような、まだるい音声を立てている。薄い建築と、家々の開放的な性質とは、すべての物音が戸外へ聞える容易さによって了解出来る。
東京博物館で私は、蝦夷えぞで発見され、古代アイヌの陶器とされている、有史前の陶器若干を見た。その中のある者は、大森の陶器にいくらか似た所を持っているが、余程薄く、且つ全部繩文がついている。
この日誌には、まれに弱い地震の震動が記録してある。まだまだ地震はあったのだが、私は人力車で走っているか、歩いているかで、感じなかった。然し、今夜は、大きな奴があった。私がC教授夫妻と、まさに晩餐の卓に着いた時、震動が始った。我々は即刻それが何であるかを知り、そして教授は吃驚したように「地震だ!」といった。そこで私は彼等に、それをよく味う為、静にしているように頼んだが、すっかり終って了う迄は、継続時間を測ることに思い及ばなかった。私は、地震というものを、初から終まで経験して見たかった。これは横にゆれる振動の連続で、航進し始めた汽船の中の船室にも比すべきである。地震が継続すると共にC夫人は蒼くなり、睡眠中の子供を見る為に、部屋を去り、教授も立ち上ろうとするかの如く、卓に両手をかけたが、振動が弱くなって来たので、彼は坐った儘でいた。後で一人の物理学者に逢ったら、彼はこの地震が震動一秒に二回半の割合で一分と三十秒続いたといった。私がこんなに平気でいたのは、何も私が特別に勇敢だったからではなく、地震の危険を理解する程長くこの国にいなかったからである。日本に前からいた人が私に、今に地震が決して私にとって面白いものではない時が来るぞ、といって聞かせたが、とにかく今日迄は、地震は非常にうれしく楽しい出来ごとであった。たった数日前、福世氏が一晩やって来て、二十二年前東京で起り、地震とそれに続いた大火の為に、六万人が生命を失った大地震の話をしてくれた。彼のお父さんは、長い距離にわたって、倒れた家々の上を、下に埋って了った人達の、腸はらわたをちぎるような叫び声を聞きながら走ったそうである。今度の地震が起った瞬間に、私は福世氏の話を思い出したが、いささかも驚愕を感じなかったばかりでなく、こいつは愉快だと思った。これは家屋をゆすぶる火薬製造所の爆発や疾風と違って、この堅固な大地それ自身が、大きな寒天の皿みたいに揺れ、我々もそれと一緒にゆらゆらするのであった。空気はまるで動かずそれがこの動揺を一層著しいものにした。
今日私はE教授と昼飯を共にした。彼はある丘の上の日本家に住んでいるので、そこからはこの都会のある部分がよく見える(図277)。私は写生をする気であったが、あまり込み入っているので、只朧気おぼろげにその景色がこんな風なものであるということを、暗示するに足るものが出来た丈である。左の隅の遠方に見える建物は陸軍省に属している。丘の上の、高い円屋根のあるものも同様である。煙出しや教会の尖塔の無いこと、屋根の高さが一般に同じで、所々に高い防火建築、即ちクラがあることに気がつくであろう。煙の無いことも観られる。事実煙や、白くて雲に似た湯気などはどこにも見えない。家の中の人工的の熱は、一部分灰に埋り、陶器、磁器、青銅等の容器に入った木炭の数片から得る。日本人は我々程寒気をいとわぬらしい。昨今は軽い外套を着る程寒いのだが、彼等は暑い夏と同じように、薄いキモノを着、脚をむき出して飛び廻っている。

横浜と東京とにアジア虎疫コレラが勃発したという、恐しい言葉が伝った。この国の政府の遠慮深謀と徹底さとには、目ざましいものがある。この尨大な都会は、ニューヨークの三倍の地域を占め、人力車が五、六万台あるということだが、その各が塩化石灰の一箱を強制的に持たされている。毎朝、小使が大学の廊下や入口を歩いて、床や筵に石炭酸水を撒き散し、政府の役人は、内外人を問わず、一人残らず阿片丁幾アヘンチンキ、大黄、樟脳等の正規の処方でつくった虎疫薬を入れた小さな硝子瓶を受取る。これには、いつ如何にしてこの薬を用うべきかが印刷してあるが、私のには簡潔な英語が使用してあった。
帝室のお庭に就ては、大部書かれたから、私は詳記しまい。これ等は、ニューヨーク中央公園の荒れた場所に似ているが、大なる築山や丘や、深い谷や、自然のままと見えるが検査すると、断層、向斜、背斜がごちゃまぜで、地質学のあらゆる原理が破ってあるので、そこで初めて平地の上にこれ等すべてを築き上げたのだということを理解する岩石の上を、泡立てて流れ落ちるいくつかの滝等によって、中央公園よりも、もっと自然に近く、もっと美しい。この目的に使用する大きな岩は、百マイル以上も遠い所から、文字通り持って来られたのである。この山間の渓流の横手には、苔むした不規則の石段があり、それを登って行くと頂上に鄙びた東屋あずまやがある。ここ迄来た人は、思わず東屋に腰を下して、この人工的の丘からの景色に見とれる。所が驚くことには、東屋から、美しい芝生と思われるものが、はるか向う迄続いている。こんな芝生が存在することが不可能であることを、徐々に理解する人は、席を離れて調べに行くと、最初は高さ六インチばかりの小さな灌木に出あい、それから緩傾斜を下りるに従って、灌木の背が段々高くなる。なお進むと、灌木はますます高くなり、小さな木になって来るが、それ等は上方で、完全な平面に刈り揃えてある。丘の麓に来た人は、大木の林の中へ入って行くのだが、これ等の梢も、他の木々の高さと同じ高さに刈り込んである。この庭は三百年の昔からあるので、かかる驚く可き形状をつくり上げる時は充分あったのである。写生図なしで説述しようとした所で無益だし、このような景色を写生することは私の力では出来ない。もっとも私は、根と枝とが殆どこんがらかった大木の輪郭だけを写生したにはしたが(図278)……大きな竹藪の美しさは目についた。花床は無かったが、風変りな石の橋や、小径や、東屋や、水平の棚に仕立てた大きな藤、その他があった。この場所は土曜日だけ開き、特別な切符を必要とするが、日本の習慣が我々のと反対である例はここにも現れ、切符は入場する時に手渡さず、出る時に渡す。

先日の朝、私は加賀屋敷の、主な門を写生した(図279)。塀の内側にある我々の家へ行くのに、我々はこの門を使用せず、住んでいる場所の近くの、より小さい門を使う。門構えの屋根は、大きな屋の棟があり、重々しく瓦が葺ふいてある。木部は濃い赤で塗られ、鉄の化粧表、棒その他は黒い。これは絵画的で、毎朝その前を通る時、私はしみじみと眺める。屋敷を取巻く塀は非常に厚く、瓦とセメントで出来ていて、頑丈な石の土台の上に乗り、道路とは溝を間に立っている。塀の上には、写生図にある通り、屋根瓦が乗っている。

一八七七年十月六日、土曜日。今夜私は大学の大広間で、進化論に関する三講の第一講をやった。教授数名、彼等の夫人、並に五百人乃至六百人の学生が来て、殆ど全部がノートをとっていた。これは実に興味があると共に、張合のある光景だった。演壇は大きくて、前に手摺があり、座席は主要な床にならべられ、階段のように広間の側壁へ高くなっている。佳良な黒板が一枚準備されてあった他に、演壇の右手には小さな円卓が置かれ、その上にはお盆が二つ、その一つには外国人たる私の為に水を充した水差しが、他の一つには日本に於る演説者の習慣的飲料たる、湯気の出る茶を入れた土瓶が(図280)のっていたが、生理的にいうと、後者の方が、冷水よりは咽喉によいであろう。聴衆は極めて興味を持ったらしく思われ、そして、米国でよくあったような、宗教的の偏見に衝突することなしに、ダーウィンの理論を説明するのは、誠に愉快だった。講演を終った瞬間に、素晴しい、神経質な拍手が起り、私は頬の熱するのを覚えた。日本人の教授の一人が私に、これが日本に於るダーウィン説或は進化論の、最初の講義だといった。私は興味を以て、他の講義の日を待っている。要点を説明する事物を持っているからである。もっとも日本人は、電光のように速く、私の黒板画を解釈するが――。

先日、植物学と動物学とに興味を持っている学生達が、私のすすめに従って一緒になり、生物学会を構成した。会員は日本人に限り、その多くは私の実験室で仕事をしている。すでに数回会合を開いたが、今迄のところ、なされた報告は、米国に於る、より古い協会の、いずれに持ち出しても適当と思われるであろうものばかりである。これ等は時に英語でなされ、書かれた時には必ず英語である。口頭の時には日本語だが、同義の日本語がないと英語を自由に使用するのは変に聞える。会員はすべて、外見が常にすこぶる優雅である日本服を着ている。彼等は自由に黒板に絵を書いて彼等の話を説明するが、多くは生れながらの芸術家なので、その絵の輪郭は目立って正確である。報告には概して参考品の顕微鏡標本が伴う。海外の諸学会と交換する為の雑誌を発行したいと思っている。
この写生図(図281)は、私の下女を現している。顔は苦痛な位みっともなく、唇はすこし開いて、磨いた黒い歯の一列を露出している。手に持っているのは、日本で出来た、然し外国向の、彼女同様に醜悪な水壜ピッチャーである。日本人は水壜は、どんな物でもまるで使用しない。

毎日、町を行く手品師か、音楽師か、行商人か、軽業師の、何かしら新しいのが出現するが、乞食はいない。図282は、貧しい服装をした三人のさすらいの人の一群を、ざっと写生したものである。一人は彼女の手に、竹に硝子をつけた妙な物を持っていたが、私はこれを何等かの装飾だと推定した。もう一人の女は三味線をひき、三番目のは四角い箱を持って、つづけさまにそして速口で、何か喋舌り立てた。私はこの一群をしばらく尾行したが、何事も起らないので、彼等を追い越して、男に一セントやったら、早速演技が始った。彼は花の一枝を粗末に真似たような物を取り、竹竿の下端を口にあてて、息を吹き込んだり吸い出したりして、全然非音楽的でもない、一種奇妙な、ペコンペコンという音を立てた。鐘の形をした装置を調べると、その口に当たる所に硝子の膜が張ってあり、この硝子の膜が出たり入ったりして、音を立てるのだということが判った。これをしばらくやった揚句、彼は竹の端を咽喉にあて、私には判らなかったある種の運動で、膜に音をさせた。次に彼は柄の長い煙管を取り上げ、二、三服した後で、吸口を咽喉に当て、前同様に勢よく吸い続けた。これはどうも大した謎である。煙草を吸う程の力で皮膚を動すことは、不可能らしく思われた。彼は着物の下に、腹で動すことの出来るふいごの一種を、かくして持っていたに違いない。私は彼が頸部にしっかりと布を巻いているのに気がついたが、多分これで腹部にあるふいごに連る管を、かくしているのであろう。それにしても、中々気の利いた芸当で、集って来た群衆も大いに迷わされたらしく見えた。

奇術師の手品といえば、先日私は奇術師が使用する各種の品物を売る店の前を通った。店の前には、人の注意を引き、その場所を広告する仕掛が二つ下っていた。その一つは糸でつるした、ボロボロにさけた一枚の薄い紙で、その下端に直径一フィートに近い石がぶら下っている。石が羽根のように軽い人工的の装置であるか、あるいは紙の裂けていない部分に、針金の枠が通っているかであるが、このような支持物は、透明な紙のどこにも見られなかった。もう一つの仕掛は、その中央を紐でしばり、天井から下げた木の水平棒で、その一端には見た所巨大な石が、他端には軽い日本提灯がついていた。これもまた、提灯に重い錘がついているか、石が人工品であるかに違いない。とにかく、棒が水平なのだから。
今日材木市場へ行って見て、薪を大きな汽罐にも、またストーヴにも使用することを知った。薪は我国に於るようにコード〔木材の立方積を測る単位〕や、或は大きなかたまりで売るのではなく、六本ずつの小さな束に縛りつける。私は薪のかかる小さな束を、ウンと積み上げたのを見た。これ等は一ドルについて二十束の値で売られる。薪の質はよく、我国でストーヴに使用する薪の二倍位の長さに切ってあった。
商店の並んだ町を歩くことは、それ自身が、楽しみの無限の源泉である。間口十五フィート、あるいはそれ以下で、奥は僅か十フィート(もっとも後の障子の奥には家族が住んでいる)の家が、何マイルにわたって絶間なく続いている。この大きさには殆ど除外例がないが、而も提灯屋、菓子屋、樽屋、大工、建具屋、鍛冶屋その他ありとあらゆる職業が、この限られた広さの中で行われ、そしてそれらは皆道路に向って開いている。大きな職場はなく、また芸術家と工匠との間の区別は、極めて僅かであるか、或は全然無いかである。親方は各、自分の沽券こけんをあげるらしく思われる弟子に限って教育を与えることを以て面目とし、今日にあってもよき芸術家や工匠は、彼等自身が名声を博す番が来る迄は、一般的に、誰の弟子として知られている。私は、ここに子供達の教育法があると思いついた――即ち彼等が日常親しく知っている物が、如何にして製造されるかを見ることである。彼等は往来をブラブラ歩いていて、ちょいちょい職人が提灯をつくったり、木に彫刻したりするのを、立ち止っては見る。米国の子供達はよく私に、熔解した鉄や、赤熱した鉄を見たことがなく、また或物が如何に製造されるかも見たことがないといった。店の多くで驚くのは、仕入品が極めてすくないことである。数ドル出せば、一軒の店の内容全部を買いしめることも出来よう。而も偶々売れることによる僅かな利益で、充分家族を養うことが出来るものらしい。この写生図(図283)は、一軒の鍛冶屋を示している。人はしょっ中、蹲うずくまった儘でいる。鉄床かなとこは非常に小さく、彼のつくる品物もまた小さい。図284は履物と傘とを売る店である。手のこんだ瓦葺の屋根を書くのには長い時間を要するから、私はやらなかった。左手には傘を入れた籃かごが見えている。帳カーテンの一隅を石にしばりつけて、飛ばぬようにしているところにお目をとめられたい。上にある長い布片は日除の性質を持っている。内部には草履や下駄が見える。

日曜日の午後にはチャプリン教授と二人で、いろいろな町を何マイルも歩いたが、その間に、しょっ中、何かしら新しい物に出喰わした。ある場所では一人の男が、※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったを食料品として売っていた。※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)は煮たか焙ったかしてあった。私は一匹喰って見たが、乾燥した小海老みたいな味がして、非常に美味いと思った。※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)は我国にいる普通の※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)と全く同一に見えた。我国でだって、喰えぬという理由は更に無い。ある場所では土方が道路を修繕していたが、塵や石を運搬するのに、面白いものを使用していた。大きな、粗末な、四角い形をした筵の四隅から環状の鉉つるが出ているのを地面におき、これに図285の如くショベルで塵埃をすくい込み、いい加減たまると環に棒をさし込み、筵をハンモックのようにぶら下げて、二人の男が棒を肩でかついで行く。手押車という物は日本には無いが、この装置がいい代用品になっている。私は労働者達が道路に土盛りしたり、一定の勾配にしたりする時、砂利を量る計器を使うことに気がついた。これは大きな板を釘で打ちつけた箱で、労働者達は上述したようにして持って来た鬆土あらつちを、この箱の中にぶちまけ、前もって契約した道路材料をはかり、そして代価を請求する。

図286は、街路工夫が、掘りかえした町の部分を、叩いてならしている所を示す。家屋の礎石も同様にして叩き下げる。叩く間、労働者達は、私には真似することも記述することも出来ない、一種の異様な歌を歌い続ける。

街頭に於る興味の深い誘惑物は、砂絵師である(図287)。彼はつぎだらけの着物を着た老人であった。彼が両膝をつき、片手で地面の平な場所を払った時、私には彼が何を始めようとするのか、見当がつかなかったが、集って来た少数の大人と子供達は、何が起るかを明かに知っているらしく見えた。充分な広さの場所を掃うと、彼は箱から赤味を帯びた砂を一握取り出し、手を閉じた儘それを指の間から流し出すと共に、手を動して顔の輪郭をつくった。彼は指と指との隙間から砂を流して、美事な複線をつくった。白い砂の入った箱も、使用された。彼は器用な絵を描き、群衆が小銭若干を投げたのに向って、頭を下げた*。

* 私はロンドンでも歩道に、群衆から銭を受けるという同じ目的で、同様な方法で絵が描かれるのを見た。合衆国人類学部の出版物によると、西部インディアンのある種族は、宗教的儀式に関連して、いろいろな色彩の砂を使用し、こみ入った模様を描くそうである。
町でよく見受けるのは、労働者が二輪車に、実のなった、あるいは花の咲いた――例えば椿――木をのせて曳いていることである。かかる木は屡々大きく、莚で包んだ根が直径五、六フィートあることもある。これ等は、よく花が咲いていたり実がなっていたりするが、日本人はそれに損害を与えずに運搬することが出来るらしく、木は移植されるや否や花を咲かせ続ける。土壌が肥沃で空気に湿気が多いから、移植に都合がよく、また多量の土を木と一緒に掘り出して、それをつけたまま運搬するし、それに何といっても日本の植木屋は、この芸術にかけては大先生である。時として荷物が非常に重いことは、四、五人の男が車を引いて行くのに、精一杯、引張ったり押したりしているのを見ても判る。
歩いている内に我々は、広いカラッとした場所へ出た。ここには竹竿を組合せ、布の帳をひっかけた安っぽい仮小屋が沢山あり、妙な絵をかいた旗が竹竿からゆらゆらしていた。図288はこのような仮小屋を示している。これ等の粗末な小屋は、ありとあらゆる安物を売る、あらゆる種類の行商人が占領していた。ある男は彩色した手の図表を持っていて、運命判断をやるといい、ある男は自分の前に板を置き、その上にピカピカに磨いた、奇麗な蛤貝を積み上げていた。これ等は大きな土製の器に入れた、褐色がかった物質を入れる箱として使用される。男は私に、この物を味って見ろとすすめたが、私は丁寧に拒絶した。彼の卓の上には、変な図面が何枚かあり、私はそれ等を研究して、彼が何を売るのか判じて見ようと思った。図面の一つは、粗雑な方法で、人体の解剖図を見せていたが、それは古代の世界地図が正確である程度に、正確なものであった。その他の数葉は、いくら見ても見当がつかないので、私はまさに立去ろうとしたが、その時ふと長い虫の画があるのに気がついて、万事氷解した。彼は私に、彼の駆虫剤をなめて見ろとすすめたのであった! ある仮小屋は、五十人も入れる位大きく、そこでは物語人ストーリーテラーが前に書いたように、法螺ほら貝から唸り声を出し、木の片で机をカチカチたたき、聞きほれる聴衆を前に、演技していた。これは我々にも興味はあったが、いう迄もなく我々には一言も判らないので、聞きほれる訳には行かなかった。この演芸は、明かに下層民を目的としたものらしく、聴衆は男と男の子とに限られていた。

両替屋は、うまい仕掛で素速く銭を数える。彼は柄のついた盆を、細い条片すじで各列に十個の区分のある十個の列の四角にわけた物を持っているが、条片の厚さは彼が勘定しようとする貨幣の厚さと同じであり、各種の貨幣に対して、それぞれ異った盆が使用される。一例として五ドルの金貨一つかみを盆の上に落し、それを巧みに振り動かすと、空所は即座に充され、貨幣は充された空所の上を辷って空いた所へ入り込む。両替屋は貨幣を十ずつ数え、同時にそれ等を瞥見して、偽物があるか無いかを見る。この仕掛は銀行や両替事務所で使用される。
昨日の午後、実験室を出た私は、迷子になろうと決心して、家とは反対の方へ歩き出した。果して、私は即座に迷子になり、二時間半というものは、誰も知った人のいない長い町々や狭い露地をぬけて、いろいろな不思議な光景や新奇な物を見ながら、さまよい歩いた。晩の五時頃になると、人々はみな自分の店や家の前を掃き清めるらしく、掃く前に水をまく者も多かったが、これは若し実行すれば、我国のある町や都会を大いに進歩させることになる、いい思いつき、且つ風習である。
帰途、お寺へ通じる町の一つに、子供の市が立っていた。並木路の両側には、各種の仮小屋が立ち並び、そこで売っている品は必ず子供の玩具であった。仮小屋の番をしているのは老人の男女で、売品の値段は一セントの十分の一から一セントまでであった。子供達はこの上もなく幸福そうに、仮小屋から仮小屋へ飛び廻り、美しい品々を見ては、彼等の持つ僅かなお小遣を何に使おうかと、決めていた。一人の老人が箱に似たストーヴを持っていたが、その上の表面は石で、その下には炭火がある。横手には米の粉、鶏卵、砂糖――つまりバタア〔麺粉うどんこ、鶏卵、食塩等に牛乳を加えてかきまわしたもの〕――の混合物を入れた大きな壺が置いてあった。老人はこれをコップに入れて子供達に売り、小さなブリキの匙を貸す。子供達はそれを少しずつストーヴの上にひろげて料理し、出来上ると掻き取って自分が食べたり、小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたりする。台所に入り込んで、薑しょうがパンかお菓子をつくった後の容器から、ナイフで生麪なまこの幾滴かをすくい出し、それを熱いストーヴの上に押しつけて、小さなお菓子をつくることの愉快さを思い出す人は、これ等の日本人の子供達のよろこびようを心から理解することが出来るであろう。図289は、この戸外パン焼場の概念を示している。老人の仮小屋は移動式なので、彼は巨大な傘をたたみ、その他の品々をきっちり仕舞い込んで、別の場所へ行くことが出来る。これは我国の都市の子供が大勢いる所へ持って来てもよい。これに思いついて、貧乏な老人の男女がやってもよい。

別の小屋では子供達が、穴から何等かの絵をのぞき込み、一人の老人がそれ等の絵の説明をしていた。ここでまた私は、日本が子供の天国であることを、くりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。彼等は朝早く学校へ行くか、家庭にいて両親を、その家の家内的の仕事で手伝うか、父親と一緒に職業をしたり、店番をしたりする。彼等は満足して幸福そうに働き、私は今迄に、すねている子や、身体的の刑罰は見たことがない。彼等の家は簡単で、引張るとちぎれるような物も、けつまずくと転ぶような家具も無く、またしょっ中ここへ来てはいけないとか、これに触るなとか、着物に気をつけるんだよとか、やかましく言われることもない。小さな子供を一人家へ置いて行くようなことは決して無い。彼等は母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見物する。日本人は確かに児童問題を解決している。日本人の子供程、行儀がよくて親切な子供はいない。また、日本人の母親程、辛棒強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。だが、日本に関する本は皆、この事を、くりかえして書いているから、これは陳腐である。
この前の火曜日に私は労働者を多数連れて、大森の貝塚を完全に研究しに行った。私は前に連れて行った労働者二人をやとい、大学からは、現場付近で働いて私の手助けをする労働者を、四人よこしてくれた。彼等はみな耨くわやシャベルを持ち、また我々が見つけた物を何でも持ち帰る目的で、非常に大きな四角い籠を持って行った。私の特別学生二人(佐々木氏と松浦氏)、外山教授、矢田部教授、福世氏も一緒に行った。なお陸軍省に関係のあるル・ジャンドル将軍も同行した。彼は日本人の起原という問題に、大いに興味を持っている。また後の汽車でドクタア・マレーとパーソンス教授が応援に来たので、この多人数で我々は、多くの溝や、深い壕を掘った。この日の発掘物は、例の大きな四角い籠を充し、別に小さな包みにしたものに対する運賃請求書には三百ポンドと書かれ、なお大事な標本は私が手提鞄ハンドバッグに入れて帰った。図290は、貝塚の陶器で充ちた大きな籠をかついで鉄道線路にそって帰る労働者達を写生したものである。前の時と同じように、労働者達は掘りかえした土砂を、耨やシャベルを以て元へ戻し、溝を埋め、灌木や小さな木さえも植え、そしてその場所を来た時と同様にした。彼等は恐しく頑張りのきく労働者達で、決して疲れたような顔をしない。今日の作業の結果を加えると、大学は最も貴重な日本古代の陶器の蒐集を所有することになる。すでに大学の一室にならべられた蒐集でさえ、多大の注意を惹起しつつあり、殆ど毎日、日本人の学者たちが、この陶器を見る許可を受けに来る。彼等の知識的な鑑賞や、標本を取扱う注意深い態度や、彼等の興味を現す丁寧さは、誠に見ても気持がよい。東京の主要な新聞『日日新聞』は、私の発見に関して讃評的な記事を掲載した。図291はそれである。

我々が発見した大森陶器中の、珍しい形をした物を若干ここに示す。図292は妙な形式をしている。横脇にある穴は、ここから内容を注ぎ出したか、或はここに管をさし込んで内容を吸い出したかを示している。図293は直径十一インチの鉢である。図294は高さ一フィート、これに似た輪縁の破片は稀でない。これ等の陶器はすべて手で作ったもので、轆轤ろくろを使用した跡は見当らない。

今朝起きた時、空気は圧えつけるように暖かであった。ここ一週間、よく晴れて寒かったのであるから、この気温の突然の変化は、何等かの気界の擾乱を示していた。お昼から雨が降り始め、風は力を強めるばかり。午後には本式の颱風にまで進んだ。屋敷の高い塀はあちらこちらで倒れ、屋根の瓦が飛んで、街路で大部損害があった。午後五時頃、雨はやんだが、嵐は依然としてその兇暴さを続けた。私は飛んで来る屋根瓦に頭を割られる危険を冒して、どんな有様かを見る為に往来へ出た。店は殆ど全部雨戸を閉め、人々は店の前につき出した屋根の下に立って、落日が空を照す美しい雲の景色に感心していた。町では子供達が、大きなボロボロの麦藁帽子をいくつか手に入れて、それ等を風でゴロゴロころがし、後から叫び声をあげながら追っかけて行った。この国の人々が、美しい景色を如何にたのしむかを見ることは、興味がある。誇張することなしに私は、我国に於るよりも百倍の人々が、美しい雲の効果や、蓮の花や、公園や庭園を楽しむのを見る。群衆は商売したり、交易したりすることを好むが、同時に彼等は芸術や天然の美に対して、非常に敏感である。
スコット氏が私に、この地に於る大火事の後の情景を話してくれた。彼は、焼け出された人々も必ず幸福そうにニコニコしているといった。また、大火事がまだ蔓延している最中に、焼けた跡に板でかこいをし、看板を出し、燃えさしを掃除している人々を見たといった。彼の話によると、保険というような制度は無いが、商人達は平均七年に一度焼け出されることに計算し、この災難を心に置いて、毎年金を貯える。加之のみならず、スコット氏の見聞によれば、人々は非常に思いやりが深く親切で、態々わざわざ火事のあった場所へ買物に行く結果、焼け出された所で大した苦にはならぬ。同氏の話にある火事は、三マイルにわたって、火勢が衰えることなしに続いた。
とうとう、私は家を五、六十軒焼いた、かなり大きな火事を見る機会に遭遇した。晩の十時半、スミス教授――赤味を帯びた頭髪と頬髭とを持つ、巨人のようなスコットランド人――が、私の部屋に入って来て、市の南方に大火事があるが見に行き度くないかといった。勿論私は行き度い。そこで二人は出かけた。門の所で一台の人力車を見つけ、車夫を二人雇って勢よく出発した。火事は低い家の上に赤々と見え、時々我々はその方に走って行く消防夫に会った。三十分ばかり車を走らせると、我々は急な丘の前へ来た。その向うに火事がある。我々は人力車を下り、急いで狭い小路をかけ上って、間もなく丘の上へ来ると、突然大火が、そのすべての華麗さを以て、我々の前に出現した。それ迄にも我々は、僅かな家財道具類の周囲に集った人々を見た。背中に子供を負った辛棒強い老婆、子供に背負われた頼りない幼児、男や女、それ等はすべて、まるで祭礼でもあるかのように微笑を顔に浮べている。この一夜を通じて私は、涙も、焦立ったような身振も見ず、また意地の悪い言葉は一言も聞かなかった。時に纒持まといもちの命があぶなくなるような場合には、高い叫び声をあげる者はあったが、悲歎や懸念の表情は見当らなかった。スミスと私とは生垣をぬけ、上等な庭を踏み、人の立退いた低い家々を走りぬけて、両側に家の立並んだ長い通へ出た。これ等の家の大部分は、燃えつつある。低い家屋の長い列の屋根は、英雄の如く働き、屋根瓦をめくり、軽いこけら板をシャベルで落し、骨組を引張ったり、切ったりしてバラバラにしている消防夫達で、文字通り覆われ、一方、屋の棟には若干の纒持が、ジリジリと焦げながら、火よりも彼等や消防夫に向ってより屡々投げられる水流によって、消滅をまぬかれて立っている。破壊的の仕事をやっている男が四人乗っていた広い張出縁が、突然道路に向って崩れ、彼等は燃えさかる木材や熱い瓦の上に音を立てて墜落したが、一人は燃えつつある建物の内部へ墜ちた。勿論私は、この男は助からぬと思ったが、勇敢な男達が飛び込んで彼を救い、間もなく彼はぐんなりした塊となって、私の横をかつがれて行った。死んだのかどうか、私は聞かなかった。この場所からスミスと私は別の地点へ急ぎ、ここで我々は手を貸した。一つの低い張出縁を引き倒すのに、消防夫達の努力が如何にもたわい無いので、私は辛棒しきれず、大きな棒を一本つかんで、上衣を破り、釘で手を引掻きながらも飛び込んで行った。私が我身を火にさらすや否や、一人の筒先き人が即座に彼の水流を私に向けたが、これはドロドロの泥水であった。私は私の限られた語彙から、出来るだけ丁寧な日本語で、彼に向ってやめて呉れと叫んだ所が、筒先きは微笑して、今度は水流をスミスに向けた。すると彼は、若し私が聞き違えたのでなければ、スコットランド語で咒罵した。だが我々の共同の努力によって、建物が倒れたのを見たのは、意に適した。かかる火事に際して見受ける勇気と、無駄に費す努力との量は、驚く程である。勇気は十分の一で充分だから、もうすこし頭を使えば、遙に大きなことが仕遂げられるであろう。纒持が棟木にとまっている有様に至っては、この上もなく莫迦気ばかげている。彼等は勇敢な者達で、屡々彼等の危険な場所に長くいすぎて命を失う。この英雄的な行為によって、彼等は彼等の隊員を刺激し、勇敢な仕業しわざをさせる。私はまた、彼等が立っていた建物が類焼をまぬかれると、彼等が代表する消防隊が金員の贈物を受けるのだということも聞いた。図295はこの火事のぞんざいな写生である。消防夫の多くは、この上もなく厚い綿入りの衣服を身につけ、帽子は重い屋根瓦から頭を保護する為に、布団に似ている。図296はかかる防頭品のいくつかを示している。火事で見受ける最も変なことの一つは、消防夫が火のついた提灯を持っていることである。

火事が鎮った時、我々は加賀屋敷まで歩いて行くことにした。その上、広い水田をぬけて、近路をすることにした。我々には大約の方角はついていたのだが、間もなく、小路の間で迷って了った。我々は路を問う可き人を追越しもしなければ、行き合いもしなかった。この地域は完全に無人の境だったのである。暗くはあったが、星明りで、小路はおぼろ気に照らし出されていた。最後に向うから提灯が一つ近づいて来て、午前二時というのにどこかへ向う、小さな男の子と出会った。我々は彼に、屋敷への方向を尋ねたが、私は彼が落つき払って、恐れ気もなく、我々――二人とも髯ひげをはやし、而も一人は大男である――の顔へ提灯を差し上げた態度を、決して忘れることが出来ない。静に方向を教えながら上へ向けた彼の顔には、恐怖の念はすこしも見えず、また離れた後にでも、我々を振り返って見たりはしなかった。
十月十三日の土曜日には、横浜の日本亜細亜アジア協会で「日本先住民の証跡」という講演をした。私はかつてこんなに混合的な聴衆を前にしたことがない。大部分は英国人、少数の米国人と婦人、そして広間の後には日本人が並んでいた。福世氏は私を助けて材料を東京から持って来て呉れ、私は稀に見る、かつ、こわれやすい標本を、いくつか取扱った。
私は冬の講演の為に米国へ帰るので、送別宴が順々に行われる。私は特別学生達を日本料理屋に招いて晩餐を供し、その後一同で展覧会へ行った。これは初めて夜間開場をやるので、美しく照明されている。海軍軍楽隊は西洋風の音楽をやり、別の幄舎パビリオンでは宮廷楽師達が、その特有の楽器を用いて、日本の音楽を奏していた。日本古有の音楽は、何と記叙してよいのか、全く見当がつかない。私は殆ど二時間、熱心に耳を傾けて、大いに同伴の学生諸君を驚かしたのであるが、また私は音楽はかなり判る方なのであるが、而も私はある歌調の三つの連続的音調を覚え得たのみで、これはまだ頭に残っている。それは最も悲しい音の絶間なき慟哭である。日本の音楽は、人をして、疾風が音低く、不規則にヒューヒュー鳴ることか、風の吹く日に森で聞える自然の物音に、山間の渓流が伴奏していることかを思わせる。楽器のある物は間断なく吹かれ、笛類はすべて調子が高く、大きな太鼓が物憂くドドンと鳴る以外には、低い音とては丸でない。翌日一緒に行った学生の一人に、前夜の遊楽の後でよく眠られたかと聞いたら、彼は、「あの発光体の虚想が私の心霊に来た為に」あまり眠れなかったといった。これは博覧会に於る点燈装飾のことなのである。
市立救貧院へ行った時は悲しかった。ここには何人かの狂人が入れられていた。これ等の不幸な人達が、長く並んだ、前に棒のある部屋に、まるで動物園の動物みたいに入っているのは、悲しい光景であった。番人達は、恐怖の念を以て彼等を見るらしく思われる。彼等は親切に取扱われてはいるが、全体として、狂人を扱う現代的の方法には達していない。私はニューヨーク州のユテイカにある大きな収容所で見たのと同じ様な、痴呆と欝憂病の典型的な容態を見た。私はある人々と握手をし、彼等はすべて気持よく私と話したが、彼等の静かな「サヨナラ」には何ともいいようのない哀れな或物があった。
先日私は松浦に、彼の書斎を見せて貰うことにし、一緒に大学の建物の裏にある、大きな寄宿舎へ行った。学生達の部屋は、奇妙な風に配列してある。寄宿舎は二階建で、その各階に部屋が一列に並び、広い廊下に向けて開いている。各二部屋に学生が七人入っているが、下の部屋が勉強部屋で、二階のが寝室である。これ等の部屋位陰欝なものは、どこを探しても無いであろう。寒くて、索莫としていて、日本の家の面白味も安楽さもなく、また我国の学生の部屋の居心地よさもない。人が一人入れる軽便寝台が七つ、何の順序も無く部屋に散在し、壁にはもちろん絵などはなく、家具も軽便寝台以外には何も無い。書斎の方は、壁に学生達がいたずらに筆で書いた写生図があったりして、いく分ましであった。これ等の部屋は非常に寒いが、ストーヴを入れつつあった。何物を見ても、最も激しい勉強を示している。
私は松浦に、彼等が秘密結社〔米国の大学にはよくある〕を持っているかと質ねた。彼は、結社はあるが、秘密なものではないと答えた。しばらく話をしている内に、私は松浦から、日本の学生達は一緒になると、乱暴な口を利き合ったり、隠語を使ったりするのだという事実を引き出し、更に私は、彼等が米国の学生と同様、外国人の教授達に綽名あだなをつけていることを発見した。一番年をとった教授は「老人」、四角い頭を持っている人は「立方体」、頭が禿げて、赤味がかった、羊の肋肉に似た頬髭のある英国人の教授は「烏賊いか」である。松浦は、両親達が大学へ通う子供達の態度が無作法になることに気がつき、彼等自身も仲間同志で、何故こう行為が変化するのか、よく議論したといった。私は彼に、米国の青年達も、大学へ行くようになると、無作法になり、先生に綽名をつけるという、同じような特質を持つにいたることを話した。(大学へ入る前に我々が如何に振舞うかは話さなかった。)私は更に松浦に向って、少年は本来野蛮人なのだが、家庭にいれば母親や姉に叱られる、然るに学校へ入ると、かかる制御から逃れると同時に、復誦へ急いだり、ゴチャゴチャかたまったりするので、いい行儀の角々がすりへらされるのだと話した。
(日本の学生及び学生生活に就ては、大きな本を書くことが出来る。ヘージング〔新入生をいじめること〕は断じて行わぬ。先生に対する深い尊敬は、我国の大学の教授が、例えば黒板に油を塗るとか、白墨を盗むとか、あるいはそれに類したけちな悪さによって蒙る、詰らぬ面倒から教授を保護する。我国で屡々記録されるこの非文明で兇猛な行動の例証には、プリンストン大学の礼拝堂から聖書と讃美歌の本を盗み出し、ハーヴァードのアップルトン礼拝堂の十字架に、一人の教授の人形を磔にしたりしたような、我国の大学生の不敬虔極る行動や、仲間の学生をヘージングで不具にしたり、苦しめたり、死に至らしめたりさえしたことがある。
日本の男の子は、我国の普通の男の子達の間へ連れて来れば、誰でもみな「女々しい」と呼ばれるであろう。我国では男の子の乱暴な行為は、「男の子は男の子」という言葉で大目に見られる。日本では、この言葉は、「男の子は紳士」であってもよい。日本の生活で最も深い印象を米国人に与えるものは、学校児童の行動である。彼等が先生を尊敬する念の深いことは、この島帝国中どこへ行っても変りはない。メイン、及び恐らく他の州の田舎の学校で、男の子たちが如何に乱暴であるかは、先生が彼等を支配する為に、文字通り、彼の道を闘って開拓しなければならぬという記録を、思い出す丈で充分である。ある学校区域は、職業拳闘家たる資格を持つ先生が見つからぬ以上、先生なしである。日本に於る先生の高い位置を以てし、また教育に対する尊敬を以てする時、サンフランシスコ事件――日本人学童が公立中小学校から追放された――程、残酷な打撃をこの国民に与えた事はない。ここにつけ加えるが、日本人はこの甚深な侮辱を決して忘れはしないが、このようなことを許した政治団体の堕落を理解して、そのままにしている。)
私は今迄に屡々、何故日本には尻尾の長い猫がいないのだろうと、不思議に思った。日本の猫はすべてマンクス種であるかどうか、とにかく尻尾が無い。日本人は、猫が後足で立って、いろいろな物を床に引き下すのを防ぐ為に、尻尾を切るのだと信じているが、そうすると猫はカンガルーみたいに、尻尾で身体の釣合いを取るものらしい。彼等はこの切断は代々伝わると考えている。これと同じ考が、キューバで行われている。キューバでは、猫が砂糖黍きびの畑をさまよい歩くことを防ぐ為に、耳を切断する。熱帯地方で突然降る雨は、それが耳に入れば入る程、猫を煩わすが、猫は特に水が耳に入ることを嫌う。その結果猫は、驟雨の時、すぐ雨宿りをすることが出来るように、家の近くを離れないでいる。
東京に沢山ある古道具屋で、時折り鉄の扇、というよりも、両端の骨が鉄で出来ている扇や、時として畳んだ扇の形をした、強直な鉄の棒を見受ける。この仕掛は昔、サムライ階級の人々が、機に応じて持って歩いた物だそうである。交戦時、サムライが自分の主を訪れる時、彼は侍臣の手もとに両刀を残して行かねばならなかった。習慣として、襖を僅に開け、この隙間に訪問者は頭をさし込むと同時に低くお辞儀をし、両手を下方にある溝のついた場所へ置くのであるが、彼はこの溝に例の扇を置いて、襖が突然両方から彼の頬をはさむことを防ぎ、かくて或は暗殺されるかも知れない彼自身を保護するのであった。これは老いたるサムライが私に語った所である。鉄扇はまた、攻守両用の役に用いることも出来ると彼はいった。
私の普通学生の一人が私の家へ来て、彼が採集した昆虫を見に来てくれる時間はないかと聞いた。彼が屋敷の門から遠からぬ場所に住んでいることが判ったので、私は彼と一緒に、町通りから一寸入った所にある、美しい庭を持った小ざっぱりした小さな家へ行った。彼の部屋には捕虫網や、箱や、毒瓶や、展翅板や、若干の本があり、典型的な昆虫学者の部屋であった。彼はすでに蝶の見事な蒐集をしていて、私にそのある物を呉れたが、私が頼めば蒐集した物を全部くれたに違いない。翌日彼に昆虫針を沢山やったら、それ迄普通の針しか使用していなかった彼は、非常によろこんだ。数日後彼は私の所へ、奇麗につくり上げた贈物を持って来た。この品は、それ自身は簡単なものだったが、親切な感情を示していた。これが要するに贈物をする秘訣なのである。
十月二十八日の日曜の夜、日本人の教授達が日本のお茶屋で、私の為に送別の宴を張ってくれた。この家は日本風と欧洲風とが気持よく融和していた。すくなくとも椅子と、長い卓とのある部屋が一つあった。彼等は大学の、若い、聡明な先生達で、みな自由に英語を話し、米国及び英国の大学の卒業生も何人かいる。彼等の間に唯一の外国人としていることは、誠に気持がよかった。出席者の中には副綜理の浜尾氏、外山、江木、井上、服部の各教授がいた。最初に出た三品は西洋風で、青豌豆グリンピースつきのオムレツ、私が味った中で最も美味な燔肉やきにく、及び焙鶏肉であった。だが、私は純正の日本式正餐がほしいと思っていたので、いささか失望した。然し四皿目は日本風で、その後の料理もすべて本式の日本料理だった。彼等は私に、私が日本料理を好かぬかも知れぬと考えて、先ず西洋風の食物で腹を張らさせたのだと説明した。これは実に思慮深いことであったが、幸にも私は、その後の料理を完全に楽しむ丈の食慾を持っていた。有名な魚、タイ即ち bream は、美味だった。生れて初めて味った物も沢山あったが、百合ゆりの球即ち根は、馬鈴薯の素晴しい代用品である。砕米薺みずたがらしに似たいく種かの水草もあった。魚をマカロニ〔管饂飩〕みたいに調理したものもあった。銀杏の堅果はいやだったが、茶を一種の方法で調製したものは気に入った。このお茶は細い粉で出来ていて、大きな茶碗に入れて出し、濃いソップに似ている。これは非常に高価で、すぐ変質する為に輸出出来ないそうである。我々は実に気持のよい社交的な時を送った。私の同僚の親切な気持は忘れられぬ所であろう。
月曜の夜には、大学綜理のドクタア加藤が、昔の支那学校〔聖堂?〕の隣の大きな日本邸宅で、私の為に晩餐会を開いてくれた。外国人は文部省督学のドクタア・マレーと私丈で、文部大輔田中氏及び日本人の教授達が列席した。長い卓子は大きな菊の花束で装飾してあった。献立表は印刷してあり、料理は米国一流の場所で出すものに比して遜色なく、葡萄酒は上等であり、総ての設備はいささかの手落もなかった。ドクタア・マレーは私に、この会は非常に形式的であるに違いないから、威儀を正していなくてはならぬと警告してくれたが、事実その通りであった。食後我々は、葉巻、珈琲コーヒー、甘露酒その他をのせた別の卓の周囲に集った。食事をした卓を、召使達が静に取片づける間、長い衝立が、それを我々から隠した。
このように席を退いてさえも、人々は依然として威厳を保ち、そして礼儀正しかった。私はやり切れなくなって来たので、日本のある種の遊戯が米国のに似ていることをいって、ひそかにさぐりを入れて見た。すると他の人々が、こんな風な芸当を知っているかと、手でそれをやりながら私に聞くようなことになり、私は私で別の芸当をやってそれに応じた。誰かがウェーファーに似た煎餅を取寄せ、それを使用してやる芸当を私に示した。この菓子は非常に薄くて、極度に割れやすい。で、芸当というのは、その一枚の端を二人が拇指と人差指とで持ち、突然菓子を下に向けて割って、お互により大きな部分を取り合おうというのである。我国でこれに最も近い遊戯は、鶏の暢ちょう思骨を引張り合って、より大きな部分を手に残そうとすることであるが、これはどこで鎖骨が最初に折れるか、全く機会によって決定されることである。次に私は、他の遊戯を説明し、彼等は代って、いろいろな新しくて面白い遊びを教えてくれた。拇指で相撲をとるのは変った遊戯であり、私はやる度ごとに負けた。これは右手の指四本をしっかり組み合せ、拇指で相手の拇指を捕えて、それを手の上に押しつけようと努めるのであるが、かなりな程度に押しつけられた拇指を引きぬくことは不可能である。とにかく、三十分も立たぬ内に、私はすべての人々をして、どれ程遠く迄目かくしをして真直に歩けるかを試みさせ、またいろいろな遊戯をさせるに至った。菊池教授が二人三脚をやろうといい出し、外山と矢田部とが右脚と左脚とをハンケチで縛られた。菊池と私とも同様に結びつけられ、そして我々四人は、他の人々の大いに笑うのに勇気づけられて、部屋の中で馳け出した。我々は真夜中までこの大騒ぎを続けた。ドクタア・マレーと私とは各大きな菊の花束を贈られたが、それを脚の間に入れて人力車に乗ったら、人力車一杯になった。ドクタア・マレーは繰返し繰返し、どうして私があんな大騒ぎを惹き起し得たか不思議がった。彼はいまだかつて、こんな行動は見たことが無いのである。私は四海同胞という古い支那の諺を引用した。どこへ行った所で、人間の性質は同じようなものである。
この春私が日本へ来た時、稲の田は植つけの最中であったが、今や田舎を通ると、盛に取入れが行われつつある。私は穀物その他の植物の畝うねが、地形図の等高線と全く同様に、丘をめぐって水平線に並んでいるのに気がついたが、これは雨が土壌を掘り出すのを防ぐ為で、我国の農夫も真似をしたら利益が多いであろう。水田の間に立ち並ぶ木は、その幹に稲の束を結びつけることに利用されるらしい。稲の藁は屋根を葺くこと、及びその他の用途の為に保存される。十月の末で寒いのにもかかわらず、全く裸で取入をしている男達がある。
先日河に沿って歩いていたら、迫持せりもちの二つある美事な石の橋があった。その中央の橋台には堅牢な石に亀が四匹、最も自然に近い形で彫刻してあるのに気がついた(図297)。

汽船は十一月五日に出帆することになっている。私は送別宴や、荷づくりや、その他の仕事の渦の中をくるくる廻っている。学生の一人は荷物を汽船へ送る手伝いをし、松村氏は私が米国へ生きた儘持って帰らねばならぬサミセンガイの世話をやいてくれた(これは生きていた)。私の同僚及び親愛にして忠実なる学生達は、停車場まで送りに来てくれた。横浜で私は一夜を友人の家で送り、翌日の午後は皇帝陛下の御誕生日、十一月三日を祝う昼間の花火の素晴しいのを見た。これは色のついた煙や、いろいろな物が空中に浮び漂ただよったりするのである。大きな爆弾を空中に投げ上げ、それが破裂して放射する黄、青、緑等の鮮かな色の煙の線は、空中に残って、いろいろな形を現す。その性質と美麗さとは、驚く可きものであった。夜間の花火は昼間程珍しくはなかったが、同様に目覚しかった。港の船舶は赤い提灯で飾られ、時々大きな火箭ひやが空中に打上げられて、水面に美しく反射した。
我々は十一月五日に横浜を出帆し、例の通りの嵐と、例の通りの奇妙な、そして興味のある船客とに遭遇した。然しこれ等の記録はすべて個人的だから略す。ただここに一つ書いて置かねばならぬことがある。船客中に、支那から細君と子供達とを連れて帰る宣教師がいた。この家族はみな支那語を話す。私は「ピース・ポリッジ・ホット」を子供達とやって遊び、彼等の母親から支那語の訳を習って、今度は支那語でやった。もう一人の宣教師は、立派な支那語学者で、私に言葉の音の奇妙な高低を説明してくれた。上へ向う曲折はある事柄を意味し、それが下へ向くと全然別の意味になる。我々は――すくなくとも私は――正確な曲折を覚えることが出来なかった。そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった。
頭 隠気な 帽子
     ┌苦痛が多い
頭 隠気な┤ぶるぶる 振える
     └同じこと
頭 隠気 歩く
古い 時の 寵(かまど)
彼はそこでそれを漢字で書き(私はそれをここへ出した。図298がそれである)、私には判らなかった曲折の形式を、漢字につけ加えた。

私は一人の日本人に「ピース・ポリッジ・ホット」を訳し、彼等の文章構成法に従って漢字を使用してそれを書いてくれと頼んだ。次にそれを別の日本人に見せ、済みませんが英語に訳して下さいと頼んだ結果、以下の如きものが出来上った。
Pea juice is warm
And cold and in bottle
And has already been
Nine days old.
〔 ピース・ポリッジ・ホットとは
Pease porridge hot,
Pease porridge cold,
Pease porridge in the pot
Nine days old
云々と、意味のないことをいって遊ぶ子供の遊戯の一である。〕
春、メットカーフ氏と一緒に日本へ来た時、我々はサンフランシスコに数日いたので、案内者をつれて支那人町を探検した。我々はこの都会の乱暴な男女の無頼漢共と対照して、支那人の動作に感心し、彼等が静な、平和な、そして親切な人々であるということに意見一致した。今や、半年を日本人と共に暮した後で、私は再びこの船に乗っている三百人の支那人を研究する機会を得たのであるが、日本人との対照は、実に顕著である。彼等は不潔で、荒々しく、これ等の支那人は、行儀の点では、サンフランシスコや支那にいる同階級の人々よりも、ずっと優れているのであるが、生活の優雅な温良に関しては、日本人の方が支那人より遙かに優秀である。 
第十一章 六ヶ月後の東京
一八七八年五月一日
再びこの日記を、以前記録の殆ど全部を書いた同じ家で始めることが、何と不思議に思われることよ! 米国大陸を横断する旅行は愉快であった。私は、平原地方では停車場でインディアンの群を研究し、彼等の間に日本人に似たある特徴が認められるのに興味を持った。これ等の類似が日本人との何等かの人類学的関係を示しているかどうかは、長い、注意深い研究をした上でなくては判らぬ。黒い頭髪、へこんだ鼻骨等の外観上の類似点、及び他の相似からして、日本人と米国インディアンとが同じ先祖から来ているのだと考える人もある*。
* これ等の類似の一例として以下の事実がある。一八八四年フィラデルフィアに於て、私はオマハ・インディアンのフレッシ氏を菊池教授に紹介した所が、同教授はただちに日本語で話しかけ、そして私が彼に、君はオマハ・インディアンに話しをしているのだといったら、大きに驚いた。
今日、五月五日には、男の子の祭礼がある。この事に就ては既に述べた。私は空中に漂う魚を急いで写生した。風が胴体をふくらませ、魚は同時に、まるで急流をさかのぼっているかの如く、前後にゆれる。一年以内に男の子が生れた家族は、この魚をあげることを許される(図299)。

男が小さな荷物を頸のまわりにむすびつけ、背中にのせたり、顎の下にぶら下げたりしているのは奇妙である(図300)。彼等は必ず、我国の古風なバンダナ〔更紗染手巾〕か、包ハンケチに似た四角い布を持っていて、それに包み得る物はすべてひっくるむ。私は一人の男が、彼の衣服のひだから、長さ一フィートの包を引き出すのを見た。

去年の六月に私が来た時と、今(五月)とは、景色がまるで違う。稲の田は黒いが、あちらこちらに咲く菜種のあざやかな黄色の花に対して、よい背地をなしている。菜種からは菜種油をとる。桜と李が沢山あって、そして美しいことは驚くばかりであるが、而もこれ等の花の盛りは、すべて過ぎたのだそうである。我国の林檎の木ほどの大きさのある椿の木には、花が一面についていて、その花の一つ一つが、我国の温室にあるものの如く大きくて完全である。小さな赤い葉をつけた矮生の楓樹は、庭園の美しい装飾である。葉は緑になる迄、長い間赤いままである。野や畑は、色とりどりの絨氈のように見える。何から何までが新鮮で、横浜、東京間の往復に際して景色を眺めることは、絶間なきよろこびである。
日本人がいろいろに子供の頭を剃ることは、我々がいろいろに我々の顔を剃る――髭くちひげだけで、鬚あごひげが無かったり、鬚だけで髭が無かったり、両方の頬髭ひげを残して顎を剃ったり、顎だけに小さな鬚ひげをはやしたり、物凄く見せかける積りで、頬髭を両方から持って来て、髭を連結させようとしたりする――ことが、彼等に奇妙に思われると同様、我々には奇妙に思われる。莫迦ばかげている点では、どっちも大差はない。
図301は大工の長い鉋かんなで、傾斜をなして地面に置かれ、他端は木製の脚立にのっている。鉋をかけらるべき木は、鉋の上を前後に動かされるのだが、常に大工の方に向って引張られる。旅行家が非常に屡々口にする、物事を逆に行うことの一例がこれである。鉋の代りに木を動かし、押す代りに手前へ引き、鉋それ自身はひっくり返っている。

先日私が見た抽斗ひきだしが四つある漆塗の箱は、抽斗に取手がまるで無いという、変な物であった。抽斗がぴったりとはまり込んだ無装飾の、黒くみがき上げた表面があるだけなのだが、抽斗の一つを開けるには、開け度いと思う分の上か下かの抽斗を押すと、それが出て来る。抽斗の背後に槓杆仕掛てこじかけがあって、それによって抽斗はどれでも出て来ることが出来るのである(図302)。

私は一人の男が紙に艶つやを出しているのを見た。竹竿の一端にすべっこい、凸円の磁器の円盤がついていて、他の一端は天井に固着してあるのだが、天井が床を去ること七フィート半なのに、竹竿は十フィートもあるから、竿は大いに彎曲している。その結果磨滑器に大きな力が加わり、人は只竹の端を紙の上で前後に引張りさえすればよい(図303)。いろいろな仕事をやる仕掛が、我々のと非常に違うので、すぐに注意を引く。彼等は紙に艶を出す装置のように、竹の弾力によって力を利用する。また私は二人の小さな男の子が、ある種の堅果か樹皮かを、刻むのを見た。刻み庖丁は、丸い刃を木片にくっつけた物で、この木片から二本の柄が出ていて、柄の間には重い石がある(図304)。子供達は向きあって坐り、単に刻み庖丁を、前後にゴロゴロさせるだけであった。

五月七日。大学の望遠鏡で、水星の太陽面通過を見た。支那の公使並に彼の同僚を含む、多数の人々がいた。太陽の円盤の上に、小さな黒い点を見ることは興味が深かったし、またこれを見ることによって、人はこの遊星が太陽の周囲を回転していることを、更に明瞭に会得することが出来た。
私はすでに、英語で書いた、奇妙な看板について語った。それ等の多くは微笑を催させ、私が今迄に見た少数のものの中で、正確なのは殆ど皆無である。また日本人は看板に、実に莫迦げた絵をかく。ある歯科医の看板は、歯医者が患者の歯を抜く所を示していたが、患者のパクンとあけた口と、歯医者の断々乎たる顔とは、この上もなく怪奇に描かれてあった。
私は下層民の間で、若い男達がお互の肩に手をかけて歩いているのに気がついた。女の子が、我国の子供達みたいに、小径をピョンピョン跳ねているのは、一度も見たことがない。事実、彼等の木造の覆物を以てしては、これは不可能であるらしく思われる。下層民の街頭における一般的行為は、我国の同じ階級の、すこし年の若い人々のと似ている。
最近私は博物館の為に、陳列箱の設計をしている。これは中央に直立した箱がある、二重式陳列箱なのだが、日本人の指物師が、それを了解することを、如何に困難に感じるかは、驚くばかりである。大学の建築技師が私の所へやって来て、私は通訳を通じて、断面や立面を説明するのであるが、最もこまかい細部を繰り返し繰り返し説明せねばならず、これをやり終ると、今度は箱をつくる男が来て、私はまたそれを全部くりかえさねばならぬ。我々がある事物を製図する方法は、日本人の方法とは全然違い、また我々がつくって貰い度いと思う物は、彼等がかつて造った物や見た物の、どれとも似ていないのだから、彼等が我々の欲する物に就て面倒がり、そして思いまどうのも無理はない。
屋敷の内で、私の家から一ロッド〔三間たらず〕もへだたっていない所に、井戸と石の碑とがある。後者は竹の垣根にかこまれ、廃頽して了っている。屋敷のあちらこちらには、垣根にかこまれた井戸や、以前は何等かの庭の美しい特色であった高い丘や、その他、昔加賀公が何千人という家来をつれて、毎年江戸の将軍を訪問した時の、大きな居住地の証跡がある。今から十年にもならぬ前には、将軍が権力を持っており、この屋敷を初め市中の多くの屋敷が、家来や工匠や下僕の住む家々で充ち、そして六時には誰しも、門の内にいなくてはならなかったのだ、ということは、容易に理解出来ない。外国人は江戸に住むことを許されなかった。また外国の政府の高官にあらずんば、江戸を訪れることも出来なかった。然るに今や我々は、この都会を、護衛もなしに歩き廻り、そして一向いじめられもしない。
五月十五日。昨日胆をつぶすような事件が起った。政府の参議の一人なる大久保伯爵が暗殺されたのである。彼はベットー二人をつれて、馬車で宮城から帰りつつあった。ベットーは馬の先に立って走っていたが、突然八人の男が馬車へとびかかり、先ず馬の脚をたたき切って走れぬようにし、次に御者と二人のベットーを殺し、最後に伯爵を殺した。暗殺者はそれから宮城へ行って、反政府の控訴状を差出し、彼等の罪を白状した。即刻巡査が召集され、暗殺者は牢獄へ連れて行かれたが、途中大声で自分達の罪を揚言した。このような悲劇的な事件は、ここ数年間日本で起らなかったので、この事は市中で深刻な感情を煽り起した。大久保伯爵は政府の最高官の一人で、偉大な知能と実行力とを持っていた。然し、政府の浪費が激しいというので、大いに苦情があったらしい。暗殺した人々は、加賀の国から来た。この事変は、大学から半マイルも離れていない所で行われた。大久保伯の令息の一人は、私の学級にいる。
朝刊新聞の一つが昨夕、ここに出した付録(図305)を発行し、購読者全部に配布した。高嶺氏が私に彼の分をくれた。それはこの悲惨な出来ごとを簡単に述べたもので、私は高嶺氏に、これ等の文字を順序に従って、直解的に訳してくれぬかと依頼した。右手の行のてっぺんから読み始めて、それは以下の如くである――“New morning great long keep Interior business minister 〔grammatical character〕red slope bite different in traitor of action by cut killed has been of 〔grammatical character〕terrible yet detailed fact 〔grammatical character〕 light day. 5 month, 10―4 day, special distribution reach”――新聞の名前は左の下部に出ている。これによっても人は、これから何等かの意味をつかみ出す為に、どれ程細かに調べねばならぬかということと、漢字を読むことは、よしんばそれを全部知っていても、如何に困難であるかが判るであろう。以下のものから、一つの成句を構成することは、困難と思われる――“Red slope bite different in traitor of action by cut killed has been”“Red slope”は暗殺が行われた場所の名前であり、“bite different”は道路が交叉する場所を示す語である。この成句を逆に読むことが、我々の成句の構成法になるらしい。日本語には冠詞は無いが、それをつけ加えて、我々は、“Has been cut and killed by the action of traitor in different bite of Red Slope”と読む可きである。“yet detailed fact light day”なる表現は、明朝もっと詳しいことを知らせるの意味である。本文中のある語は、発音字〔仮名〕で綴ってあり、他の字は高嶺氏に説明の出来ぬ、文法的の表現を代表している。

翌朝の新聞は、更に詳細を報道した。まだ若い犯人達は、ある秘密結社の会員であったが、手に負えなくなったので、追い出されたらしい。そこで彼等は東京へ出て来た。警察は彼等が何か悪事を企らんでいるという警告は受けたが、どこで何をやるかは判らなかった。事変後彼等は大人しく捕えられ、即刻裁決されて、手取早く死刑になった。感情的精神錯乱の歎願も、最初の告訴を誤ったので下手人が別の人で逃げて了ったということも、間違った法廷で審判することも、より上の裁判所へ上告することも、陪審員の意見が一致しない結果、犯人が最後に自由になるということも、一切無いのは興味が深い。すべて、それ等の結果は、世界最高の謀殺率を持つ、我がめぐまれたる米国で、事を行うのとは、非常に違う。
日本人の癖には、他の国民の癖に非常によく似たものがある。例えば、鍛冶屋が鉄槌を一振り振った後で、鉄床かなとこにその鉄槌をしばらく置くが如き、屋根葺き屋が屋根を葺くのに、竹の釘を口に含み、我国の屋根葺きや挽物ひきもの細工師が同じようなことをする場合と同様に、素速く手を前後に動かすが如き、あるいは理髪師が、お客の頭を洗うのに、印刷職工が植字をしたり解版したりする時にするように、身体を旋律的に前後に動かすが如きである。
五月のなかば――あたたかくて、じめじめし、植物はすべて思う存分生長している。我々の庭の薔薇ばらは実に見事である。最も濃い、そして鮮かな紅色をしている花は大きく、花弁は一つ残らず完全で、その香といったら、たとえるものも無い。町を歩きながら、私は塀や垣根から、蝸牛かたつむりの若干の「種」を採集する。この前の日曜日に、私は学生の一人と植物園へ行って、キセルガイをいくつか集めた。これは欧洲によくある、細長い、塔状渦巻のある貝の「属」で、いくつかの「種」がある。ビワと称する果実が、今や市場に現れて来つつある。その形は幾分林檎に似ているが、味は甘く、西洋李みたいで、林檎らしいところは少しも無い。種子が三個、果実全部を充す位大きい(図306)。

いろいろな仕事の労銀が、実に安い。懐中時計修繕人が、私のためにある仕事をしてくれた。彼が五十セントを請求したとしても、私は何等抗議することなく払ったであろうが、而も彼は只の六セントを要求した丈であった。また私の検微鏡用切断器の捻子ねじが一つ曲ったのを、真直にするのには、二セントかかった丈である。
大久保伯が暗殺されてから、政府の高官達は護衛兵をつれて道を行くようになった。より改進的な日本人達は、この悲劇によって、まったく落胆がっかりして了った。何故かといえば、このような椿事が起るのを常とした、封建時代に帰ったように思われるからである。
私は目下、貝殻や化石の蒐集のための、箱を製造することを差図している。先日私は殆ど完成した箱を検査する可く、指物師のところへ行った。職工の殆ど全部が、老人も誰も、裸でいるのは変な光景だった。板に鉋をかけるのに、彼等はそれを垂直の棒につける(図307)。大工用の腰掛とか、机とかいうものは、更に見当らぬ。彼等の鉋、大錐、手斧、鑿等の、それと知られる程度に我々のに近いのが、どっちかといえば粗末らしく見え、それが弱々しい小さな箱に入っているのを見、更に驚く可き接手つぎてや、鳩尾枘(ありぼそ)や、彼等のこの上もない仕事を見ることは、誠に驚嘆すべきである。我国の大工の、真鍮張りの道具箱に、磨き上げた道具が入っているのや、その他を思い浮べる人は、仕事をするのが鉄砲ではなく、鉄砲の後にいる人間だということを理解する。

図308は、ニューズボーイ〔新聞配達の男の子〕というよりも、ニュースマン〔同上の成人〕を示している。子供は新聞を配達させられるだけの信用を受けていない。彼は一本の棒の末端にぶら下げた箱に新聞を入れ、棒の他端にある鈴を間断なくチリチリ鳴らす。廻る所を廻って了うと、鈴を取りのぞく。

私の家の後に、天文観測所が建てられつつある。その基礎のセメントをたたき込むのに、八人か十人の男が足場に立ち、各々重い錘に結びついた繩を、一本ずつ手に持っている。彼等はこれを引張り上げ、それからドサンと落すのだが、それをやる途中、恐しく気味の悪い一種の歌を歌う為に、手を休める。私は去年日光で、同じものを聞いた。これはチャンときまった歌であるに違いないが、如何に鋭い耳でも、二つの連続した音調を覚え込むことは出来ない。つまり、彼等の音楽には、我々の音楽に於るような「呑込みのゆく」骨法が更に無いという意味なのである。彼等の音楽は、唱応的の和音を弾じないし、人は音楽的の分節というものを、只の一つも思い出すことがなく、家庭で、或は家族がそろって歌うということも聞かず、学校の合唱団もなければ、男子の群が歌ったり、往来で小夜曲セレナードを奏じたりすることもない。これは彼等の芸術、彼等の態度、彼等が花を愛する心、更に彼等の子供の遊び迄が、我々の心に触れる所がかくも多いだけに、一層特異なものに思われる。彼等の唱歌は、初めて聞くと実に莫迦げている。
昨日大学の綜理が、文部省に関係ある内外人の教授達を、正餐に招いた。婦人達は招待されなかったが、我々は午後彼等を呼びよせることを許された。招待会の行われた庭園は、数百年前、紀州の大名によって造園され、今や政府はそれを、外賓をもてなす目的で、大切に保存しつつある。この庭は八百フィート四方位であろうが、東京にある大きな庭園のある物に比べては、小さいとされている。日本の造園師がつくり出す景観は、実に著しく人の目を欺くので、この庭の大さを判断することは不可能であった。荒々しい岩石の辺にかこまれ、所々に小さな歩橋のかかった不規則形な池や、頂上まで段々がついている高さ二十フィート乃至三十フィートの小丘や、最も並外れな形に仕立てられた矮生樹や、かためられて丸い塊に刈り込まれた樹々や、礫や平な石の小径や、奇妙な曲り角や、あらゆる地点から新しい景色が見えることやで、この庭は実際のものの十倍も広く見えた。私はある地点から、急いで写生したが、それはこの庭の性質を極めて朧気に示すに止ったから、ここには出さない。この場所の驚く可き真価を示し得るものは、よい写真だけである*。
* 橋のあるものは『日本の家庭』に絵になって出ている。
歩橋の、この上もなく変った意匠は、図309で示してある。小径がこのように中断してあるのだから、闇夜にここを歩く人は、確実に水の中へ落ちるであろう。図310は長さ十フィート、幅四フィートの一枚石でつくった歩橋である。図311は興味の深い歩橋で、彎曲した桁が一つの迫せり台から他の迫台へかかり、その上には直径三インチの丸い棒を横にならべ、それを床として、上には土がのせてある。両端は草で辺どり、中央部は二フィートの幅に、どこかの海岸から持って来た、最も清潔な平な礫が敷きつめてある。この庭園全体は、泥土の平地を埋立てたので、丘は積み上げ、石は橋の或るものをつくる為に、何マイルも運搬された。丘の一つの上には、一本石が四本立っていた(図312)。これ等は高さ五、六フィートの四角い柱で、二百五十年に近い昔、六十マイル離れた富士から持って来られ、古い宮殿の門を構成していた。この庭園はシバ・リキューと呼ばれる。リキューは「外部の宮殿」を意味し、シバはこの庭のある区域である。これは私が日本で今迄に見た中で、最も意外な点の多い、そして結構な場所である。構内の建物は日本の家屋の多くが、皇帝の宮殿から、最も簡単な茅屋にいたる迄、みな一階建であるが如く、一階建であった。

晩方の饗応は、十四皿の華美な正餐に、多くの種類の葡萄酒が付属したものであった。賓客七十名で、その中には文部卿に任命されたばかりの西郷将軍もいた。私は彼を聡明な、魅力に富んだ人で、頭のさきから足の裏まで武人であると思った。美しく且つ高貴な花が食卓を飾り、殊にその両端と中央とには、高さ三フィートの薔薇のピラミッドがあった。また大広間は何かの香料で、うっすらと香いつけられていた。私はこの晩ほど、色々な言葉が喋舌しゃべられるのを、聞いたことがない。外国語学校の先生達である仏、独、支那の各国人、医学校の教授職を独占しているドイツ人、帝国大学の英、米、日の教授達といった次第である。誇張するのではないが、食卓たるや、私が米国で見た物のいずれに比べても劣らぬ位美事であり、また料理法はこの上なしであった。料理人は全部日本人であるが、最上級のフランス料理人から教えをうけた。私は非常に沢山の仕事を控えていた為に、九時半には退出しなければならなかったが、正餐は深夜に及んでようやく終った。
図313は、まっすぐな柄の鎌で草を刈っている男を示す。鎌はすべてこの種類である。

今日私は、先日菓子をくれたある人を見つけようと努めた。私は、彼の住所を明瞭に書いたものを、持っていたのであるが、而もこの図(図314)は、私が連れて行った日本人が、この場所をさがす為にとった、まがりくねった経路を示している。名前のついている町は僅かで、名前は四角な地域全部につけられ、その地域の中を、また若干の町が通っていることもあるのだということを、私は再び聞いた。それで我々は、目的地を見つける迄に、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、くるくる廻ったりしたのである。

今日鉢に植えた植物を売る男が前庭へ入って来た。我々は植物を、鉢も何もひっくるめて十四買い、一本について一セントずつ払った。その中の二つは真盛りの奇麗な石竹、二つは馬鞭草くまつづらで、その他美しいゼラニウム若干等であった。
日本人は我々の服装を使用するのに、帽子はうまい具合にかぶり、また衣服でさえも、彼等特有の理屈にかなった優雅な寛衣と対照すれば、必ず身に合わず、吃驚せざるを得ないような有様ではあるが、それにしても相当に着こなす。然し日本の靴屋さんは、見た所は靴らしく思われる物はつくるが、まだまだ踝くるぶしを固くする技術を呑み込んでいない。靴を見ることは稀であるが、見る靴はたいてい踵かかとのところが曲っている。図315は今日私がある男のはいていた靴を、正確に写生したものである。

高嶺氏がちょいちょい家へやって来る。彼はオスウェゴー師範学校の卒業生で、私とは汽船の中で知合になったが、気持のいい人であり、私のいろいろな質問に対して、腹蔵なく返事をする。彼は私の男の子のことを話し、如何に彼を抱きしめることが好きであるかをいった。そこで私は、愛情をあらわす方法が違っていることをいい出した。高嶺のお母さんは、立派な、聡明そうな婦人で、非常に気持のよい、親切な感じを人に与える。で私は高嶺に、二ヶ年半も留守にした後でお母さんに逢った時、君は彼女にとびついて、固く抱擁して接吻しなかったかと聞いた。すると彼は一寸黙っていたが、「いいえ、僕にはそんなことは出来ませんでした。そんなことは非常に極りが悪いのです。ですから僕は、母親の左の手をつかんで、握手しました。母は私が握手した勢に吃驚し、私が完全に外国化したと思いました」と答えた。そこで私は彼に向って、日本人が友人や親類、殊に自分の子供に対して持つ愛情は、我々に於ると同様に熱切だと考えるかと、質ねた。彼は素直に、そうは思わぬといい、かつ愛情と愛情的の表現は、養成することが出来ると信じることと、それから米国へ行く前にくらべて、彼は兄弟に対して、よりやさしい感情を持つようになったこととを、つけ加えた。
昨日、教育博物館からの帰途、私はお寺の太鼓が鳴っているのを聞き、公園の木立の間を近路して、寺院を取まく亭ちんの一つで、奇妙な演技が行われつつある所へ出た。俳優が二人、最もきらびやかな色で刺繍された衣を身につけ、人間の考の及ぶ範囲内で、最も醜悪な仮面をかぶって、舞台に現れた。一人は房々とした白髪に、金色の眉毛と紫色の唇とを持つ緑色の面をかぶり、他の一人は、死そのものの如き、薄気味の悪い白色の仮面に、長く黒い頭髪の、非常な大量を持っていた。彼等は、刀を用いて、白い髪の悪魔が退散する迄、一種の戦いを続けた(図316)。日本人は、私の見た中で、最もぞっとするような仮面をつくり上げる。これ等は木から彫ったもので、劇の一種に於る各種の人物を代表する可くつくられる。

数日前、私は大森の貝塚に就て、日本人が組織している考古学倶楽部クラブで講演する可く招かれた。この倶楽部は、毎月第一日曜日に大学内の一室で会合する。大学副綜理の服部氏が、通訳をすることになっていた。今日、六月二日の朝、私は会場へ行った。会員は各、自分の前に、手をあたため、煙管に火をつける役をする、炭火を灰に埋めた小さな容器を置き、大きな机を取りかこんで坐っていた。私は彼等に紹介され、彼等はすべて丁寧にお辞儀をした。私は隣室に、古代の陶器をいくつかの盆にならべたものを置いて、ここで話をした。私はこの問題の概略、即ち旧石器時代、新石器時代、青銅時代、鉄時代と、ラボックが定限した欧洲の四つの時代に就て語り、次にステーンストラップがバルティック沿岸の貝墟でした仕事を話し、最後に大森の貝塚のことを話した。かかる智力あり、且つ注意深い聴衆を前に話すことは、実に愉快であった。私の黒板画は、彼等をよろこばせたらしい。要するに私は、この時位、講演することを楽しんだ覚えはない。
今晩菊池教授が晩餐に来た。我々は十時までドミノ〔卓上遊戯の一種〕をして遊んだ。我々がそれをやっている最中に、彼の人力車夫が縁側へ上って来て、閉ざした鎧戸の間から声をかけた。日本の家屋には呼鈴というようなものがないので、彼も鈴を鳴らすことは知らなかったのである。彼は先ず低い声で(日本語であることはいう迄もない)、「一寸お願いがあります」といい、次に自分の主人がいるかどうかを質ねた。姿の見えぬ彼の声を聞くことは、実に奇妙だった。私は単に、日本人が生れつき丁寧であることの一例として、この出来ごとを記するにとどまる。
純日本風の生活をしている外山教授が、自宅へ我々一家族を、晩餐に招待してくれた。家へ入るに先立って、我々はすべて靴を脱ぎ、それを戸外に置いた。子供達は、水をジャブジャブやる時か、寝床へ入る時か以外に、靴をぬいだことなんぞ無いので、大きに面白がった。外山氏の夫人と令妹とが我々にお給仕をし、我々の食事が終ると彼等が食事をした。家へ入ると、先ずお茶と、一種の甘いジェリー菓子とが出た。正餐は四角な漆器に入れて持ち出され、我々は床に坐っていて、盆も我々の前に置かれる。子供達が、慣れ親んでいる食物とはまるで味の違う、いろいろな食品を食おうとする努力は、見ていて興味が深かった。私は徐々に、殆どすべての味がわかりつつあり、非常に好きになった料理もいくつかある。お汁が二種類出た。一つは水のように澄んでいて、中に緑色の嫩枝わかえがすこしと、何等かの野菜を薄く切ったものとが入っていた。他の一つはカスタード〔牛乳と鶏卵とを混ぜて料理したもの〕に似ていて、煮た鰻と茄子とが入っていた。次には一種のオムレツ、百合根、ヤム〔薯蕷〕の白いようなもの、それから色は赤味がかった緑色で、実に美味な一枚の長い葉とが出た。食品の主要部分は野菜である。外山の小さな姪が、我々のために彼女の母親の三味線に合わせて、踊って見せてくれた。この舞踊は、典雅な姿態と様子とからなり、誠に可愛らしかった。これは事実に於て無言劇で、歌い手が言葉で主題を提供し、舞い手は身ぶりによって、その物語の要点を真似するのである。
実験室の仕事はドンドン進んで行く。大学当局が助手として私につけてくれた、ハキハキした利口な男が、私が米国から持って来た蒐集品に、札をつけることを手伝う以外に、ボーイが一人いて、部屋を掃除し、片づけ、解剖皿から残品を棄て、別に用がなければ近郊へ行って、私のために陸産の貝や、淡水産の貝を採集してくれる。これ等の人々が如何にもいそいそと、そして敏捷に、物を学び、且つ手助けをすることは、驚くばかりである。学生の一人、佐々木氏は、人力車をやとって、市中の遠方へ採集に出かけた所が、車夫も興味を持ち出して採集した為に、材料を沢山持って帰ったと私に話した。
ジョンの日本人の友人達が、何人か遊びに来た。可愛がっている小宮岡もいた。私は彼を膝にのせ、彼の喋舌る風変りな英語に耳を傾けていたが、しばらくすると、彼は片手を上げて、静に私の髯に触れた。私は彼の手に、口でパクンとやると同時に、犬がうなるような音をさせた。驚いたことに、彼は飛び上りもしなければ、その他何等の動作もしなかった。米国の子供ならば、犬が本当にパクリと指に噛みついて来たかの如く、直覚的に手を引込ませるであろう。これを数回くりかえした上、彼に彼の両親がこんなことをしたことがあるかと聞いたら、彼は無いと答え、そしてこれが何を意味するのか知らないらしく見えた。で、これはつまり犬が噛みつく動作を現すのだと説明すると、彼は日本の犬は噛みついたりしないといった。ここでつけ加えるが、犬に注意を払う――例えば、頭を撫でたりして可愛がる――のは見たことがなく、また日本で見受ける犬の大多数は、狼の種類で、吠える代りにうなる。ジョン(私の子)は大いに日本人に可愛がられているが、彼の色の薄くて捲いた頭髪は、日本人にとっては驚く可き、そして奇妙な光景なのである。
私は塵芥車に(それは手車である)、如何にも便利に、また経済的に尾板を取りつけた方法を屡々見た。それは単に一本の棒に、窓掛みたいな具合に、一枚の粗末な莚をくっつけた物で、この短いカーテンの末端は、車の尾端からたれ下り、塵芥の重量は莚を押えつけ、棒は莚が落ちることを防ぐ(図317)。称讃すべきは、この物全体の簡単と清潔とである。かくの如き簡単な実際的の装置が、屡々我々の注意を引く。屋敷の中の道路の末端で、新しい地面を地ならししている。すでに出来上った場所の上を、塵芥車を引いて行く代りに、彼等はすべてのバラ土を莚に入れ、棒にひっかけて二人で肩に担う。遠くから見ると、蟻の群みたいである。

図318は、瓢形に吹いた硝子ガラス器である。板にとりつけ、中に金魚が入れてあるが、花生に使用することも出来る。

学校へ通う子供達は、外国風のインク瓶に糸を結びつけ、手にぶら下げる(図319)。いろいろな小さな物品は、こんな風に、糸を結び、手を通す環をつくってはこぶ。糸は紙で出来ていて、たいてい非常に強い。紙を長い条片に切って捩り、膝の上でまるめるのだが、一片一片を捩り合せる方法は、手に入ったものである。これで包をしばったりするが、我国の麻紐ほどの強さがあるらしく思われる。

晩方早く、日本の料理屋へ食事に来ないかという招待には、よろこんで応じた。我々は二階へ通され、部屋部屋の単純な美と清潔とを、目撃する機会を得た。このホテルは(若しホテルといい得るならば)、東京の、非常に人家の密集した部分にあるのだが、それでも庭をつくる余地はあった。その庭には、まるで天然の石陂いわだながとび出したのかと思われる程、セメントで密着させた、大きな岩石の堆積があった(図320)。その上には美しい羊歯しだや躑躅つつじが一面に生え、天辺てっぺんには枝ぶりの面白い、やせた松が一本生えていた。岩には洞穴があり、その入口の前には小さな池があった。我々以外はすべて日本人で、その殆ど全部が知人だったが、幸福な愉快な人々ばかり。私の小さな伜と、誰かしら絶えず跳ね廻っていない時は無かった位である。日本人の教授の外に、新聞記者が一人いたが、彼は気高い立派な人であった。彼等は皆和服を着ていた。これは彼等にとっては、洋服よりも遙かに美しい。服部氏は夫人を、江木、井上両氏は母堂を同伴された。

正餐の前にお茶と、寒天質の物にかこまれた美味な糖菓とが持ち出され、後者を食う為の、先端の鋭い棒も出された。床には四角な、筵に似た布団ふとんが一列に並べられ、その一枚一枚の前には、四角いヒバチが置かれた。布団は夏は藁で出来ているが、冬のは布製で綿がつめてある。食事は素晴しく、私も追々日本の食物に慣れて来る。私は砂糖で煮た百合の球根と、塩にした薑しょうがの若芽とを思い出す。日本のヴェルミセリ〔西洋素麪そうめん〕を盛った巨大な皿が出て、これは銘々自分の分を取って廻した。蕪の一種を薄く切ってつくった、大きな彩色した花は、非常に自然に見えたので、私はそれを真正の花に違いないと思った(図321)。日本人は食卓の為のこのような装飾的な細工を考え出して、彼等の芸術的技巧を示す。彼等の食物は常にこのもしい有様で給仕され、町で行商される食物にさえも、同様な芸術があらわれている。

食事中、三味線を持った娘が二人と、変な形の太鼓を持った、より若くて、奇麗な着物を着たのが二人と、出現した。一人は砂時計の形をした太鼓を二つ持ち、その一つを左の腋にはさみ、他は左手で締め紐を持って、右肩にのせた。この二つを、右手で、代る代るたたくのだが、それは手の腹で辺を打ち、指が面皮に跳ね当るのである。音は各違っていた。別の娘の太鼓は我々のと同じ形で、写生図(図322)にあるように、傾斜して置かれた。これは丸い棒で叩く。彼等は深くお辞儀をしてやり始め、私が生れて初めて聞いたような、変な、そしてまるで底知れぬ音楽をした。三味線を持った二人は、低い哀訴するような声で歌い、太鼓がかりは時々、非常に小さな赤坊が出すような、短いキーキー声と諸共に、太鼓を鳴らした。この歌が終ると、小さい方の二人が姿態舞踊をやった。ある種の姿勢と表情からして、ジョンはこの二人を誇りがましいと考えた。時々彼等が、特に人を莫迦にしたような顔をしたからである。美麗な衣装と、優雅な運動とを伴うこの演技は、すべて実に興味が深かったが、我々は彼等がやっている話の筋を知らず、また動作の大部分が因襲的なので、何が何だか一向判らなかった。舟を漕いだり、泳いだり、刀で斬ったりすることを暗示するような身振もあった。彼等が扇子をひねくり廻す方法の、多種多様なことは目についた。これが済むと、三つにはなっていないらしい、非常に可愛らしくて清潔な女の子が二人、この上もなく愛くるしい様子をして、我々の方へやって来た。ジョンは彼等に近づこうとしたが、彼等は薄い色の捲毛を持った小さな男の子が現れたので吃驚仰天し、そろってワーッと泣き出して了い、とうとう向うへ連れて行かれて、いろいろとなだめすかされるに至った。

次に我々は、手品を見せて貰った。最初男の子が、この演技に使用する各種の道具を持って、入って来た。彼は舞台で下廻がかぶるような、黒いレースの頭覆いの、肩の下まで来るのをかぶっていた。次に出て来たのは手品師で、年の頃五十、これからやることを述べ立てて、長広舌をふるった。そこで彼は箸二本を、畳の上のすこしへだたった場所へ置き、しばらくの間それを踊らせたり、はね廻らせたりした。続いて婦人用の長い頭髪ピンを借り、それも同様に踊らせたあげく、今度は私の葉巻用パイプを借りて、それをピョンピョンさせた。彼は紙をまるめて、粗雑に蝶々の形にし、手に持った扇であおいで空中に舞わせ、もう一つ蝶をつくり、両方とも舞わせ、それ等を頭の上の箱にとまらせさえした。勿論これ等の品は、極めて細い絹糸で結んであるのだが、糸は見えず、手際はすこぶるあざやかだった。手品の多くは純然たる手技で、例えば例の蝶の一つをとってそれをまるめ、片手に持った扇で風を送って、紙玉から何百という小紙片を部屋中にまき散した如き、手を一振振って、十数条の長い紙のリボンを投げ出し、それを片手で、いくつかの花絲にまとめて火をつけると、※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)々たる塊の中から、突如大きな傘が開いた如き、いずれもそれである。これ等の芸は、すべて非常な速度と、巧妙さとで行われた。その後彼は我々の近くへ来て、色々な品物を神秘的に消失させたり、その他の手技を演じたりした。日本人は実に楽しそうだった。彼等は子供のように、心からそれを楽しみ、大声で笑ったりした。引き続いて、井上氏が簡単に歓迎の辞を述べ、私は謝辞を述べねばならなかった。我々が帰宅したのは真夜中に近く、子供達は疲れ果て、私の頭も、その晩見た不思議な光景で、キリキリ舞いをしていた。図323は手品師の心像である。

六月十五日。大学から遠からぬ、ある寺院で花市が開かれた。道路の両側には、あらゆる種類の玩具や、子供の花かんざしや、砂糖菓子や菓子を売る、小さな一時的の小屋が立並び、道路はあらゆる種類の花の束や、かたまりで、殆どふさがっていた。機嫌のよい群衆が、あっちへ行ったりこっちへ来たりしていたが、人力車を下りて歩き出したジョンには、日本人の老幼が群をなして、感嘆しながらついて来た。ある小屋には木を植えた小さな植木鉢と、紙片に詩を書いた物とがある懸垂装置があった。この品は高さ三フィートばかり、不規則な輪郭の薄い木の板で出来ていて、それに小さな棚を支持する枝が固着してある。如何なる叙述よりも、図324の方がよく判るであろう。木材は熱で褐色にしてあり、古そうに見えた。

日本人は散歩に出ると、家族のために、おみやげとして、如何につまらぬ物であっても、何かしら食品を買って帰る。竹中は、これは一般的な習慣だという。彼等は不思議な贈物をする。尊敬をあらわす普通の贈物は、箱に鶏卵を十個ばかり入れたもので、私は数回これを受取った。金子を贈る時には、封筒なり包み紙なりの上に、「菓子を買うに入用な資金」ということを書く。パーソンス教授は、大久保伯爵家から贈物として、背の高い、純白の松のお盆に、種々な形と色の糖菓を充したものを贈られた。それ等の一つ一つに意味がある。私はそれを写生せずにはいられなかった(図325)。先端が曲った物の、小さな束は、彼等が食用とする羊歯の芽である。弓形を構成するように曲げられた大きな物の上には、いう迄もないが彩色した、完全な藤の造花がついている。お菓子の上には菊の花形が押捺してある。これ等は紅白で、豆の糊ペーストと砂糖とで出来ている。日本人は非常にこの菓子を好むが、大して美味ではない。お盆は高さ十八インチもある。糖菓の大きさも、推察されよう。全体の思いつきが清澄で、単純で、芸術的であった。

先週強い地震があった。私は横浜のホテルの二階にいた。これは、私が初めて「聞いた」地震の一つであるから、ここに記録する。ニューイングランドで我々が感じる弱い震動は、耳に聞き得る鳴動を伴うが、今迄のところ、日本の地震は、震動が感じられる丈であった。然るに今度の奴には、まるで沢山の車馬が道を行く時みたいな、鳴動音が先立った。数年間日本にいたハバード夫人が私に、これは重い荷をつけた荷車が通り過ぎる音だといい、私はそれについては、何も心にかけなかったが、次の瞬間、砕けるような、きしむような、爆発するような、ドサンという衝撃が、建物全体をゆり動かし、まったく、もう一度この激動が来たら、建物は崩壊するだろうと思われた。ハバード夫人は気絶せんばかりに驚き、ホテルの人々は当もなく、恐れおびえた様子で右往左往した。これは私が今迄に経験した中で一番強い地震で、私は初めて多少の興奮を感じたが、恐らく他の人々が恐怖の念を示したからであろう。
六月十六日。私はまたしても、家をゆすり、戸をガタガタさせ、そして三十秒ばかり継続した地震に、目をさまさせられた。
図326は、植物学を教える、巧妙な方法を示している。板はその上に描いた花を咲かせる木の材であり、額縁はその樹皮でつくり、その四隅は枝の横断面で出来ている。

今日高嶺夫人が、ジョンの遊び仲間である、小さな日本の子供達をつれて来られた。彼女は縮緬でつくった、針差みたいな小さな品を三つ持って来た。これ等は、背部に、木製の小楊枝ようじを入れる袋をそなえている。図327はその二個である。

先日、横浜から来る途中、私は汽車の窓から、滑稽な光景を見た。それは耙まぐわをつけた馬が一匹、気違いのように逃げて行くのを、農夫が止めようとしているのであった。今や田には水が満ちているので、耙がはね上っては、泥と水とを農夫にあびせかける有様は、実に抱腹絶倒であった。
私は丁髷ちょんまげの珍しい研究と、男の子、並に男の大人の髪を結ぶ、各種の方法の写生図とが出ている本を見た。これには百年も前の古い形や、現在の形が出ている。図328で、私はそれ等の意匠のある物をうつした。これ等の様式のある物は、よく見受けるが、およそ我々が行いつつある頭の刈りよう程、素速く日本人に採用された外国風のものはない。それが如何にも常識的であることが、直ちにこの国民の心を捕えたのである。頭を二日か三日ごとに剃り、その剃った場所へ丁髷を蝋でかため、しっかりと造り上げることが、如何に面倒であるかは、誰しも考えるであろう。夜でも昼でも、それを定位置に置くというのは、確かに重荷であったに違いない。漁夫、農夫、並にその階級の人々、及び老齢の学者や好古者やその他僅かは、依然として丁髷を墨守している。大学の学生は、全部西洋風の髪をしている。彼等の大部分は、頭髪を寝かせたり、何等かの方法でわけたりすることに困難を感じ、中には短く切った頭髪を、四方八方へ放射させたのもある。子供の頃から頭のてっぺんを剃って来たことが、疑もなく、髪を適当に寝かせることを、困難にするのであろう。

しばらくの間私と一緒に住んでいた一人の学生は、歩くのにびっこを引くので、リューマチスにかかっているのかと聞いて見た。すると彼は、これはある時争闘をして受けた刀傷が、原因していると答えた。私は好奇心が動いたので、ついに思いきって、どこかの戦争で、そんな傷をしたのかとたずねた。彼は微笑を浮べて、次のようなことを語った。初めて外国人を見、整髪法が如何にも簡単であるのに気がつき、そしてこのような髪をしていることが、如何に時間の経済であるかを考えた彼は、ある日丁髷を剃落して級友の前へ現れ、学校中を吃驚させた。一人の学生が特にしつっこく、彼が外国人の真似をしたとして非難した。その結果、お互に刀を抜き、私の友人は片脚に切りつけられたのである。だがその後半年も立たぬ内に、彼を咎めた学生も、外国風の整髪法が唯一の合理的方法であることを理解するに至り、丁髷を落して登校した。
今日の午後、我々は文部省から、古い支那学校で行われる音楽会へ招待された。音楽はキビガクとして知られる。二百年にもなる古い形式で、備前の国から来た。音楽会の開かれた広間には、敷物や椅子があり、椅子は広間の両側に三列をなしてならべられ、中央に空地を残してあった。二百人に近い聴衆の、殆ど全部は日本人で、その中には、女子師範学校と幼稚園の先生が、二十名いた。彼等はいずれも、立派な婦人達だった。お互に会うと、如何にも低く、そして儀礼的にお辞儀をしあうのは、興味があった。床の中央にはコト(図329)、即ち日本の堅琴が二台置かれてあった。この楽器は長さ五フィートに近く、支那から来た古い形式である。しばらくすると、総数六人の演技者が入って来た。琴に二人、歌い手が二人、他の二人の一人は笛を吹き、一人は古代の支那の書籍に屡々出て来る、ショーと呼ぶ奇妙な楽器(図330)を吹く。これは椰子やしの実を半分に切ったような、まるい底部から、長さの異る何本かの竹管が縦に出ているもので、吹奏口は底部の横についている。演奏者は写生図(図331)にあるように、それを両手で持つ。指導者は年とった男で、笛を吹き、時に途方もない音を立てる一種の短いフラジオレット〔篳篥ひちりき?〕を吹いた。

演奏は先ず例の老人が、不愛想な唸り声を、単調な調子でいく度か発することによって開始された。食いすぎた胡瓜が腹一杯たまっていたとしても、彼はこれ以上に陰欝な音を立てることは、出来なかったであろう。事実それは莫迦げ切っていて、私は私の威厳を保つのに困難を感じた。彼がかくの如き音を立てている間に、一人の演奏者が、琴でそれに伴奏をつけ出した。これが一種の序曲であったらしく、間もなく若い男の一人が歌い始め、老人は笛を吹き、楽器はすべて鳴り出し、筝はバッグパイプ〔スコットランド人の用いる風笛〕に似た音で、一つか二つの音色の伴奏を継続した。曲の一つ一つは、その名こそ大いに異れ、私にはいずれも非常に似たものに聞えた。この吉備楽は、聞いていて決して不愉快ではないが、我々の立場からは、音楽とは呼び得ない。ある曲には、「春の夜の月」という名がついていた。別のには、ある将軍の名がついていた。また別なのは、有名な川に寄題され、更にもう一つの、これはいつ迄立っても終らぬぞと思った曲は、誠に適切にも、「時」という名で呼ばれていた。
長い休憩時間に、私は室外へ出、葉巻に火をつけて、しばらく構内を散歩した。再び管弦楽が開始された時、私の葉巻はまだ残っていたので、私は注意深くそれを風が吹いても吹き散らさせぬ、一隅の、階段の上に置いた。次の休憩時間に、葉巻を求めて出て来た所が、それは失踪している。いく分不思議に思って見廻していると、巡査が一人来て、質問するような様子をしながら、厳粛に私が葉巻を置いた場所を指さした。私が日本語で「イエス」と答えると、彼は廊下の端に置いてある、いくつかの火の箱、即ちヒバチを指示した。行って見ると私の葉巻が、一つの火桶の端に注意深く、燃えさしが落ちても灰の中へ置ちるようにして置いてあった。日本人は火事に対しては、このように深く注意する。
一人の男が、日本の、緩慢な、そして上品な舞踊の一つを舞った。これは明確な意味に於るダンスではなく、足を踏みつけたり何かして、いろいろな身振をする劇なのである。これは劇の古い形式を示している点で興味が深かった。「これは我々の言葉の意味に於る音楽だろうか」という質問が、間断なく起った。音楽ではあるが、我々のとは非常に違う。演奏者の真面目な、受働的な顔に微笑が浮ぶというようなことは決してない。我々の歌い手は、歌詞に霊感を感じると、鼻孔を大きくし、眼を輝かし、頭を振るが、こんなことも丸でない。こんなに単調な音からして、霊感なり興奮なりを受けることは、不可能であろうと思われる。最も近い比較は、我国の、音楽のまるで分らぬ老人が、たった一人材木小屋にいて、間ののびた、どっちかといえば陰気な讃美歌を、ボンヤリ思い出そうとしていることである。この印象は、日本の音楽に就ては全然何も知らぬと、正直に白状した人が、感じた所のものなのである。我々は日本の絵画芸術のある形式、例えば遠近法を驚く程無視した版画や、野球のバットのような釣合の大腿骨を持ち、骨格は、若しありとすれば、新しい「属」として分類されるであろうような人体画やを、莫迦気ていると考えたが、而も我国の芸術家は、これ等の絵に感嘆している。だから日本の音楽も、あるいは、現在我々にはまるでわからぬ、長所を持っていることが、終局的には証明されるようになるのかも知れない。
文部省が外国人教授に聞かせてくれた音楽会の返礼として、大学教授が四人、四重唱団を組織し、いくつかの歌を練習した。四重唱団はメンデンホール、フェノロサ、リーランド及びモースの四教授から成立していた。我々が練習した歌の中には「巡礼の合唱」、アリオン集中の若干、「オールド・ハンドレッド」〔讃美歌の一〕、「すべての名誉を兵士に捧ぐ」その他があった。二百人という日本人の先生達が集ったが、各々が鉛筆と紙とを持ち、選曲は順序書に印刷され、そして先生達は、彼等の印象を記録することを委嘱された。これ等の記録は取りまとめられ、大部分は飜訳されずに、いまだに歌手の一人の手もとにある。「すべての名誉を兵士に捧ぐ」は大いに勢よく歌ったが、この感情が静かな日本人にとって、むしろいやらしかったと知った時、我々は多少耻しい気がした。その後我々は、日本人が、詩ででも散文ででも、戦争の栄光を頌揚したりしたことは、決して無いということを知った。
今朝私は、子供達と、劇場へ行った。その建物は新しく、日本では最善且つ最大で、一千五百人を収容することが出来る。照明には瓦斯ガスを使用し、換気法もよく行われ、総体としてよい興行館である。形は四角く、桟敷さじきは広間の左右と背後とにあり、舞台に面する桟敷は非常に低い。最もよい場所とされているのは、桟敷ボックスである。我国の劇場で、座席が列をなして並んでいるのとは異り、広間は六フィート四方、深さ一フィート強で、大人四人と子供二人とが坐り得る広さの区劃に、わけてある。通路はこれ等の区劃と同じ高さにあり、区劃の縁は幅四インチであるから、人は劇場に入ると先ず通路を歩き、次に釣合いをとりながら、これ等の区劃をしきる横棒の上をつたい歩いて、自分の場所まで行く。この建物は住宅のすべてと同様、自然その儘の木材で出来上っていて、ペンキ、油、ワニス等は更に使ってなく、填材などもしてない。天井は見受る所、幅三フィートの板で出来ていた。これから二つの大きな瓦斯集合燈架シャンデリアがぶら下り、また脚光にも瓦斯が使用してあった。図332は往来から、この劇場を極めてザッと写生したもので、その前面にかかっているのは、俳優達を色彩あざやかに描いた絵である。

この建物には、ずい分金がかかっているに相違ないが、防火建築の様式によって建てられた、最もしっかりした性質のもので、黒く光る壁や巨大な屋根瓦で、堂々としている。玄関は日本人の身長に合して出来ているので、天井が非常に低く、我々は※(「木+垂」、第3水準1-85-77)たるきで頭をうつ。靴は合札をつけられ、人は大きな木の切符を手渡されるのであるが、木製の履物が何百となく、壁上の小さな場所に並べてあるのは、奇妙な光景である。急な階段を上ると、狭い通路へ出る。ここにいくつかの戸があり、人はそれを通って観客席へ入る。舞台は非常に広いが、興行はない。舞台の中心には、床と同じ高さの大きな回転盤があり、ある書割の前で一つの場面が演じられつつある間に、道具方はその裏で、他の書割の仕度をする。そしてその場面が終ると、回転盤が徐々に廻って、新しい場面が出現する。桟敷から凹んだ四角にいる人々――家族全体、あるいは男女の群――を見下すと、誠に興味が深い。火鉢を持っているので、彼等はお茶に用うる湯を熱くすることが出来、持って来た昼飯をひろげ(或は近くの料理店の給仕が、昼飯なり晩の飯なりを盆にのせて来る)、炭火で煙管に火をつけ、彼等はこの上もなく幸福な時を送る。
演技は極めて写実的で、ある場面、例えばハラキリの如きは、ヅッとする程であった。ここではすべての儀式を、最後に頭が盆の上にのせられて、運び出されるに至る迄やる。細部はすっかり見せる。先ず腹を露出し、短い刀の柄と刀身とを両手で握って、左から右へ切り、刀身が過ぎた後の切口は青い線として現れ、そこから赤い血が流れ出し、そこでこの俳優は、頭を前方にガクリとつき出し、彼の友人がそれを刀で斬ろうとするが、苦痛に堪えかねて身体を横にして刀を落すと、別の男が急いでそれを拾い上げ、この悲劇の片をつけて了う。これは手品師の芸当みたいなものなのである。というのは、興奮している観客には、犠牲者の前を数名の俳優が通り過ぎたことが目に入らず、事実刀がこの男の頸に落ちたように思われるが、一方斬られる男は亀みたいに、ゆるやかな寛衣の中へ、頭をひっこめるのである。それはとにかく、血まみれの切口をした頭が転り出ると、ひろい上げて盆にのせ、審判官だか大名だかの所へ持って行くと、彼は犠牲者の目鼻立を認識して、この行為が遂行されたことを知る。友人達の悲劇的な悲哀は完全に演出され、夥しい観客の中には、泣く婦人も多い。この芝居は朝六時に始り、いくつかの幕を続けて、晩の九時に終った。劇のあるものは、演出に二、三日を要する。支那には、全部を演ずるのに、一ヶ月も二ヶ月もかかる劇もあると聞いた。
この芝居は十五時間を要し、初めの頃の一将軍の歴史を記録したものなのである。これを米国でやったら、大いに注意を引くに違いない。俳優達は、劇場の後方から二つの主要な通路に現れ、舞台に向いつつある時にも、また部屋へ退く時にも演技する。我国で見られる劇的の濶歩、その他の演技上の技巧も認められた。ある場面には一軒の古家があり、葦のまん中に舟が引き寄せてあった。舟には魚が積んであって、四周は沼沢地らしく見えた(図333)。この家は、後から出て来た二十人の人々を入れ得る程、大きなものであったが、しばらくの間は、年とった腰の曲った老婆が、たった一人いたきりである。彼女は燃えさしを煽いで、想像的な蚊を追っていた。時々彼女は蚊を追う為に、頸や脚を煽ぎ、また煙で痛む目を、静に拭いた。この役が若い男によって演じられていることは、容易に理解出来なかった。彼のふるまいや動作は、どれを見ても、ヨボヨボな、八十歳の老婆のそれであった。俳優はすべて男で、女の役も男が、調子の高い裏声を出して演じる。

古式演技の伝襲的な形態が残っているのもあるが、それは実に怪奇を極めている。その演技を記述することは、不可能である。そのある部分は、芝居よりは体操に近く、説明してくれる人がいなくては、何が何やら見当もつかぬ。たった一人の男――位の高いサムライ――が、扇子を一本持った丈で、刀や槍で武装した三十人の群衆を撃滅オーヴァスローしたりするが、彼等は空中に飛び上り、床に触れることなく後向きにもんどり打ったり、文字通りの顛倒オーヴァスローである。
また別の場合には、一人の男が、何度追っぱらってもまたかかって来る一群を相手に、せっぱ詰って短い階段をかけ上り、死者狂いで且つ英雄的な身振りを、僅かやったあげく、刀の柄をつかんで抜く真似だけをすると、群衆全部が地面にひっくり返って、脚を空中高く上げたものである! 実にどうも莫迦気た話であるが、而も群衆を追いはらったこの英雄が、扇子だけを用いて、万一彼が恐るべき刀を抜かねばならぬ羽目に陥った時には、こんな風な結果になるということを示したことは、農夫階級に対するある種の威力と支配権とをよく表していた。夜が来たことになっても、舞台は暗くならず、天井から舞台の上へ、三日月をきりぬき、後にある蝋燭で照らした箱がぶらりと下る(図334)。「今や夜である」という看板を下げたとしても、これ程莫迦らしくはあるまい。この事を米国に住んだことのある日本人に話したら、彼は、日本人はかかる慣習に馴れていて、我々が舞台で俳優が堂々たる城の壁〔書割〕によりかかって、それをユラユラさせるのを見慣れていると同様、何等の不適切さも認めないのだといった。この日本人は、事実米国の舞台で城壁がゆれるのを見て驚いたのであるが、而も米国人の観客は一向平気でいた。

舞台の右手には黒塗の格子があって、その内に囃方はやしかたがいる。ここから演技に伴う人声の伴奏をなす所の、大きな太鼓の音と、三味線の単調な音とが、演出される場面に従って、或は悲しく、或は絶望的に、聞えて来る。舞台の左手には桟敷と同じ高さに、格子でしきった場所があり、その内には、非凡な声を持つ男が一人坐っていた。彼は慟哭し、叫び、叱りつけ、悲鳴をあげ――まるで猫が喧嘩する時の騒ぎみたいだった――そして何時間も何時間も、悲劇的なると否とを問わず、演技に対するこの人声伴奏を継続した。それはまったく、場合場合によって、人を興奮させたり悲しませたりした。時にこの声が不吉で、予言的であると、観客は何等かの破局が必ず起ることを予期する。
日本の召使いの変通の才は顕著である。私は四人雇っているが、その各の一人は、他の三人の役目をやり得る。先日私は、ボーイと料理番とに、芝居へ行くことを許した。すると唯一の女の召使が、立派な正餐をつくり上げた。人力車夫でさえも、料理をし、自動回転窓掛をかけ、その他類似のことは何でもやり、又私が大がかりな晩餐をやる時には、素足で入って来て、花を実に見事に飾るので、我々は彼の技能に驚いて了う。彼は庭園の仕事を手つだい、用があれば何時でも飛んで行き、そして皿を洗うことを、彼の義務と心得ているらしい。一寸いうが、彼は皿を只の一枚も割ったり、欠いたりしたことがない。
私は宅へ来る日本の友人達が如何に早く遊戯を覚え込むかに気がついた。彼等は心的に敏捷である。
私の特別学生の一人で、私がことのほか愛していた松浦が、昨夜病院で、あの脚気という神秘的な病気が原因して死んだ。彼は大部長いこと病気していたので、私は度々病院へ見舞に行った。すると彼は、学校の仕事がどんな風に進行しているかを質ね、最後の瞬間まで興味を持ち続けていた。私は、私が埋葬地まで一緒に行ってやったら、彼の同級の学生達をよろこばせるであろうということを聞いた。彼の母や妹や親類たちは、五百マイルも南の方にいるので、来ることが出来なかった。学生は百人ばかり集り、我々は棺が出て来る迄しばらく待った。棺というのは長い装飾の無い箱を、白い布で包んだもので、四人が肩にかつぎ、その前には一人の男が長い竹の竿から、長くて幅の狭い布をさげた物を持って行った(図335)。私はこの旗を、同様な場合に見たことがあるので、聞いて見たら、単に死者の名前と生国とを、書いたものだとのことであった。最も先頭には、松浦の名前を書いた、長い木の柱をかついだ男が行った。これは一時的の墓標なのである。組織的な行列というようなものはなく、我々は自分勝手に遺骸に従ったが、而も態度は真面目で、秩序立っていた。学生はすべて和服を着ていて、女の学校の一学級に似ていた。彼等の多くは外国風の麦藁帽子をかぶり、彼等の下駄は固い土台道路で、奇妙な響を立てた。殆ど一マイル半ばかりも歩いて、我々は墓地へ着いた。ここは大きな木や、花や、自然そのままの景色に富み、非常に美しい場所であった。我々が通り過ぎた人々は、行列の中に外国人がいるので、いぶかしげに見送った。

墓地の入口には、一種の迎接小舎があり、ここで棺架ごと棺をこの木製支持台にのせ、墓標は、棺に立てかけた。間もなく、頭を奇麗に剃った、仏教の僧侶が一人、葉のついた小枝を持って現れ、それを棺の両端に近く一本ずつ立てかけ、次に華美な錦襴の衣を着、蝋燭に火をつけ、棺の横にひざまずいて、時々持って来た小さな鈴を叩きながら、祈祷をつぶやき始めた(図336)。彼が彼の唇で立てた音は、巨大な熊蜂が立てるであろう音を思わせた。私には明瞭な言葉は一つも聴取れなかったし、またつぶやくことには休止も無かった。学生が数名、近くに立っていた。他の学生達は道路の傍に立っていて、中には小さな日本の煙管を吸う者もあった。彼等はこの祭儀には、全然無関心らしく、見受けるところ、これはうるさい事だが、我慢しなくてはならぬのだと思っているらしかった。私と一緒にいた矢田部教授は、ここにいる百人の学生の中で、仏教なり神道なりを信じる者は、恐らく一人もあるまいが、而も彼等もすべて、母親や姉妹達が感情を害さぬ為、このようにして埋葬されることであろうといった。それにも拘らず、彼等は静かで真面目で、低い調子で話し、厳粛に、上品に、彼等の学友に対して、最後の回向えこうをするのであった。墓はすくなくとも七、八フィートという、非常に深いものであった。棺がその中へ降されると、学生の多くは傘で、土をすこし押し入れ、また一握の土を取りあげて、投げ込む者もあった。これ等の、真面目な顔をした若者達が、墓の周囲に集り、そして静かに四散して行く有様は、悲しい気持を起させた。

私は立派な墓石や、記念碑を、沢山見た。石脈から切り出したままの、不規則な外囲を持った、自然の板石で出来たのもある。岩の平たい割面には、字句が刻んであった。これ等は神道の墓であるとのこと。ここに、二つの非常に異る教の表号が、相並んで立っている……私は同じ宗教の二つの流派〔旧教と新教〕が、それぞれの墓地を、生きている時よりも遙か離れて持っている、我米国を想った。
矢田部教授と「四月莫迦の日エイプリル・フール」の話をしていたら、彼は、日本人は鹿つめらしく見えるが、中々悪戯いたずらをするのが好きだといった。これ等の悪戯の一つに、眠ている人の顔に、薄い赤い紙を非常に軽くはりつけ、そこで部屋中を、火事だ、火事だと呼びながら駈け廻って、彼を起すというのがある。眠ていた者は目をさまし、赤い閃光を見て大急ぎで飛び起きて、初めて自分がからかわれていたことに気がつく。日本のサムライは、外衣の袖と背中とに、白地の美しい模様をつける。これは絹を黒く染める時、白いままで残すのであるが、モンと呼ばれ、紋章、或は家族の飾章ともいうべきである。これ等の紋章は屡々、それを所有する家族が使用する可くつくられた、磁器、陶器、漆器その他についている。白い紙で、嫌われている家族を代表する紋を切りぬいてする、悪戯がある。その一面に、前もって糊を塗っておき、それを手にかくして持つ学生が、友人に近づき、愛情深く手を背中に置いて、紋を外衣に押しつける。すると紋はその場所へくっついて了い、通行人が笑止がるといった次第である。子供の頃、我々は同じようなことをした。白墨で手のひらに莫迦げた画をかき、その手でほかの子供の背中を叩くと、彼は背中にこの絵をくっつけた儘、何も知らずに往来を歩いて行く。
大工が仕事をしているのを見ると、いろいろなことを、我々のやり方とは、非常に違った方法でやり、また我々が必要欠くべからざるものと思っている器具を一つも使わないので、中々興味がある。柄の短い突錐で穴をあける場合、我々は柄を片手で握り、手を前後に動かして穴をあけるが、日本人は柄の長い突錐(図337)を使用し、開いた両手を柄にあてがい、それを迅速に前後に動して、柄を回転させる。手が次第に下へ下って来ると、彼等は即刻手を柄の上端へ持って来て、運動を続ける間、絶間なく下へ下へと押しもみ、このようにして、彼等は非常に早く穴をあける。彼等は大工用の細工台とか、我国の万力とかいうような仕掛は、まるで持っていない。鋸には長い、まっすぐな柄がついているが、彼等はこんな柄でも両手を使う事が出来る。日本人が万力の用途に使用するものは、実に不細工で不便である*。

* 然し我々は、大工の道具と彼等が仕事をする方法とに関する詳細を、『日本の家庭』について見なくてはならぬ。
しゃぼん玉を吹く子供は、長い竹の管を使い、石鹸と水との代りに、植物の溶液を使用する。この管から彼は速に、二十乃至三十の泡沫あわを吹き出すのだが、それが空中を漂って行く有様は、管から紙片を吹き出すようである。
営造物の名前の多くは、長い木片に書かれる。日本人は縦に書くので、絵画以外の記牌は、縦の方向に僅かの場所をとる丈である。医学校(これは屋根の上に鐘塔のある大きな建物で、外国風の巨大な鉄門を持っている)の門標は、幅一フィート、長さ六フィートの板に書いてあるが、これは単に学校の名を書いた丈なのである。標札、即ちある家の住人の名前は、木片に書き、入口の横手にかける(図338)。

七月四日〔独立記念日〕になった時、私の伜は、爆竹をパンパンやることが許されぬので、大きに失望していた。火事を起さぬ用心として、警察は屋敷内ですら、爆竹や、玩具のピストルや、それ等に類似したものを使用することを、許さなかった。
私は日本で初めて、日本人だけを聴衆にして行った、公開講義のことを書かねばならぬ。米国から帰った若い日本人教授達が、公共教育の一手段としての、我国の講演制度に大きに感心し、東京でこのような施設を設立しようと努力した。これは非常に新しい考なので彼等は一般民衆の興味をあおるのに、大きな困難を感じた。然しながら彼等は勇往邁進し、ある茶店の大きな部屋を一つ借り受けた。一般民衆は貧乏なので、入場料も非常に安くなくてはならぬ。同志数名が集って、この講演会に関係のある科学、文学、古代文明等に関する雑誌を起し、この人々が私に六月三十日の日曜日に、最初の講演をする名誉を与えてくれた。私は考古学を主題として選んだ。狭い路を人力車で通って、会場へ来て見ると、私の名前が大きな看板に、私には読めぬ他の文字と一緒に、日本字で書いてあった。人々が入って行く。私は通訳をしてくれることになっていた江木氏にあったので、一緒に河に面した部屋へ入って行った。例の方法で畳にすわった日本人が、多くは扇子を持ち、中には煙管を持ったりお茶を飲んだりしているのもあったが、とにかく、ぎっしりと床を埋めた所は巧妙だった。黒板が一つあった。部屋中に椅子がたった一脚、それに私は坐らせられた。
井上氏が先ず挨拶をされた。これは、後で聞くと、何等かの伝記的記事から材料を得て、私というものの大体を話されたのだそうだが、彼のいったことが丸で判らぬ私は、いう迄もなく顔一つあからめずにこの試練をすごし、さて聴衆に紹介された。通訳を通じて講演するのは、むずかしかった。会話ならば、これは容易だが、覚書を持たずに講義するとなると、通訳がどれ程よく覚えていることが出来るかが絶えず気にならざるを得ず、従って言論の熱誠とか猛烈とかいうものがすべて抑圧されて了う。私は先ず、考古学の大体を述べ、次に日本に於る広汎な、いまだ調査せられざる研究の範囲を語り、目の先にある大森の貝塚を説明し、陶器のあるものを示し、かくて文字通り一歩一歩、主題の筋を辿った。話し終ると聴衆は、心からなる拍手を送った。拍手は外国へ行って来た日本人の学生から、ならったのである。聡明そうに見える老人も何人かいたが、皆興味を持ったらしかった。講義中、演壇の横手に巡査が一人座っていた。
翌日江木氏が私の宅を訪問し、入場料は十セントで学生は半額、部屋の借代がこれこれ、広告がこれこれと述べた上、残りの十ドルを是非とってくれと差出した。こんなことは勿論まるで予期していなかったので、私は断ろうとした。然し私は強いられ、そこで私は、前日が、そもそも組織的な講演会という条件のもとに、外国人が講義をした最初だと聞いたので、この十ドルで何か買い、記念として仕舞っておくことに決心した。この会は私に、連続した講義をしないかといった。私は、秋になったら、お礼をくれさえしなければやると申し出た。主題はダーウィン説とする。 
第十二章 北方の島 蝦夷
一八七八年七月十三日
今晩私は、汽船で横浜を立ち、蝦夷へ向った。一行は、植物学者の矢田部教授、彼の助手と下僕、私の助手種田氏と下僕、それから佐々木氏とであった。大学が私に渡した費用からして、私は高嶺及びフェントン両氏から、ある程度の助力を受けることが出来た。海はことのほか静穏であって、航海は愉快なものである可きだったが、この汽船は、前航海、船一杯に魚と魚の肥料とを積んでいたので、その悪臭たるや、実にどうも堪えきれぬ程であった。船中何一つ悪臭のしみ込まぬものはなく、舳のとっぱしにいて、初て悪臭から逃れることが出来た。この臭気が軽い船暈ふなよいで余程強められたのだから、航海はたしかに有難からぬものになった。
土曜日の夕方、出帆した時には、晴天だった。日曜日も朝の中は晴れていたが、午後になると我々は濃霧に取りかこまれて了い、汽笛が短い間をおいて鳴った。月曜日には晴れ、我々は日本の北方の海岸をよく見ることが出来た。八マイルから十マイル離れた所を航行していながらも、地形の外面は、はっきりと識別することが出来た。このあたり非常な山国で、高い峰々が雲の中に頭をつき入れている。これ等の火山山脈――蝦夷から日本の南部に至る迄の山脈は、すべて火山性らしい――の、奔放且つ嵯峨さがたる輪郭の外形を、一つ一つ浮き上らせる雲の効果は素晴しかった。海岸に沿うた場所は、著しい台地であることを示していた。高さは海面から四、五百フィート、所々河によって切り込まれている(図339)。

火曜日の朝四時頃、汽罐をとめる号鐘の音を、うれしく聞いた私は、丸窓から外面を見て、我々が函館に近いことを知った。町の直後にある、高い峰が聳えている。船外の空気は涼しくて気持がよい。我々は東京から六百マイルも北へ来ているので、気温も違うのである。領事ハリス氏の切なる希望によって、私は彼と朝飯を共にすることにし、投錨した汽船の周囲に集って来た小舟の中から、一艘を選んで出かけた。この小舟は、伐木業者の平底船に似ていて、岸へ向って漕ぎ出すと、恐ろしく揺れるのであった。三日間、殆ど何物も口にしていない後なので、この朝飯前の奇妙な無茶揺りは、どう考えても、いい気持とはいえなかった。然し太陽が登り、町の背後の山々を照らすと共に、私も追々元気になって行ったが、それでも、港内の船を批評的に見た私は、どっちかというと、失望を感じたことをいわねばならぬ。何故ならば、ここに沢山集った大形の、不細工な和船の中で、曳網の目的に使用し得るようなものは、唯の一つも無かったからである。私がやろうとする仕事に興味を持ち出したハリス氏も、同様に途方に暮れたが、或は碇泊中の少数の外国船から、漕舟を一艘やとうことが、出来るかも知れないといった。
やがて奇妙な舟と魚の香のまん中に上陸した我々は、町を通りぬけて、小高い所にある、ハリス氏の住宅へ着いた。ここから見下す町の景色は、実によい。途中私は、路傍の植物にはっていた蝸牛かたつむり(オカモノアラガイ科)を一握りつまみ上げた。植物の多くは、我国のに似ている。輸入された白花のしろつめくさクローヴァーは、我国のよりも花が大きく、茎も長く、そして実によい香がする。町は殆ど島というべきで、本土とは砂頸によってつらなり(図340)。火山性の山の、高さ一千二百フィートのを、美しい背景として持っている。町の大部分は低地にあるが、上流階級の家はすこし高い所の、山の裾に建っている。家は重い瓦で覆われるかわりに、板葺の上に、大きな、海岸でまるくなった石をぎっしり並べ、見た所甚だ奇妙である。図341は砂頸へ通じる往来から見た町の、簡単な外見図である。私はしょっ中、メイン州のイーストポートのことを考えている。これ等二つの場所に、似た所とては更に無いが、爽快な、新鮮な空気、清澄で冷たい海水、魚の香、背後の土地はキャムポベロを思わせ、そして私のやっている曳網という仕事がこの幻想を助長する。

朝飯後矢田部教授と私とは、長官を訪問した。彼は威厳のある日本官吏である。我々が名乗りをあげるや否や、彼は、文部卿の西郷将軍から手紙を、また文部大輔から急信を受取っている、そしてよろこんで我々を助けるといった。私は彼に向って、言葉すくなく、我々が必要とする所のものを述べた。第一が実験室に使用する部屋一つ、これは出来るならば容易に海水を手に入れ得るため、埠頭にあること。第二が曳網に適した舟一艘。彼は我々を海岸にある古い日本の税関へ向わしめ、我々は一人の官吏につれられてそこへ行った。私は私が実験所として希望していたものに、寸分違わぬ部屋二つを、そこに見出した。それ迄そこに住んでいた人達は、私の方が丁寧に抗議したのだが、追放の運命を気持よく受け入れつつ、即座に追出された。次に私は遠慮深く彼に向って、私が二部屋ぶっ通しの机を窓の下へ置くことと、棚若干をつくって貰い度いこととを、図面を引いて説明しながら話した。一時間以内に、大工が四人、仕事をしていた。その晩九時三十分現場へ行って見たら、蝋燭二本の薄暗い光で、四人の裸体の大工が、依然として仕事をしていた。翌朝にはすべて完成、部屋は奇麗に掃除され、いつからでも勉強にとりかかれる。一方長官は、船長、機関士達、水夫二人つきの美事な蒸気艇を手に入れ、これを我々は滞在中使用してよいとのことであった。私の意気軒昂さは、察してくれたまえ。私は仕事をするための舟に就ても、部屋に就ても、絶望していたのである。然るに十二時間以内に、完全な支度が出来上った。私は江ノ島に於る私の困難と、舟や、仕事の設備をするのに、何週間もかかったことを思い出した。ここでは、この短い期間に、私が必要とする設備は、すべて豊富に準備出来たのである。
だが、まだ私の住居の問題が残っていた。私は日本食で押し通すことは出来ないし、この町には西洋風のホテルも下宿もない。役人が二人、町を精査するために差し出された。午後三時、彼等は西洋館に住んでいるデンマーク領事の所で、我々のために二部屋を手に入れたと報告した。そこですぐ出かけて行くと、この領事というのは、まことに愛嬌のある独身の老紳士で、英語を完全に話し、私が彼と一緒に住むことになってよろこばしいといった。一方長官の官吏は、下僕二人と共に、椅子二脚、用箪笥、卓子テーブル、寝台、上敷、枕、蚊帳その他ブラッセル産の敷物に至る迄、ありとあらゆる物を見つけて来た。かくて私は、私自身何等の経費も面倒もかけることなくして、最も気持よく世話されている。毎日正餐には、いい麦酒ビール一本とビーフステーキ――これ以上、人間は何を望むか?
翌日は強風で、岸には大きな波が打ちよせた。私は、これは色々な物が打ち上げられたに違いないと思った。そこで一行勢ぞろいをして、大きに期待しながら出かけたが、このような場合によくある如く、殆ど何も打ち寄せられていなかった。私は漁夫の残物堆から、面白い貝を若干ひろった。漁夫の家は、低くて、厚く屋根を葺いた奇妙な形をしていて、その各々が、屡々えらい勢で吹く風の力をそぐ為の、竹を編んだ垣根でかこまれている(図342)。同じ様に風の暴力にさらされる、ノース・カロライナ州ビューフォートの漁夫の小屋は、函館の小屋に似ている。私の家の外廊からは港がよく見え、二十五マイル向こうにはコモガタケ〔駒ヶ岳〕と呼ばれる火山が聳えているが、そのとがった峰は、周囲の優しい斜面と顕著な対照をしている。この火山は、今は休息していて、峰にかかる白い雲のような、静かな煙を出している丈だが、三十年前爆発した時には、火山岩燼や石を入江に投げ込んだ(図343)。

港内をあちらこちらと漕ぐ水夫達は、南の方の水夫達のそれとは全然違う、一種奇妙な歌を歌う。それは音楽的で、耳につきやすい。
水夫達は堂々たる筋骨たくましい者共で、下帯以外には何物も身につけず、朽葉林檎みたいに褐色である。船を漕ぐのに、彼等は橈かいを引かず、押すのであるから、従って舳へさきの方を向いている。橈の柄の末端には、木の横木がついている。彼等は一対ずつをなして漕ぎ、漕刑罪人を連想させる。橈座は単に舷に下った繩の環で、この中に橈を通す。写生図(344)は、米を積んだ舟である。舟によっては、片舷に六、七人漕手がいるのもあり、これ等の人々が口々に歌う奇妙な船唄が、水面を越して来るのを聞くと、非常に気持がよい*。

* 日本の極南方、鹿児島湾で、私は水夫達が同じ歌を歌うのを聞いた。その後米国へ帰った時、露国の芸人団がセーラムを訪問し、「ヴォルガ水夫の歌」と呼ばれる歌を歌ったが、これが非常に強く、函館の歌を思わせた。かかる曲節は、容易に北露からカムチャツカへひろがり、千島群島を経て蝦夷へ入り得るであろう。
今や港は、米を下し魚を積み込む日本の通商戎克ジャンクで、一杯になっている。図345はその一つの写生で、割によく出来ていると思う。檣マストのてっぺんは、折れているのではない。何等かの目的で、みなこんな風に傾いているのである。舟には全然塗料が塗ってなく、絵画的に見える。帆走しているのはめったに見当らないので、しょっ中碇を下しているように思われる。そして文字通り平底――竜骨は影も形もない――だから、追手の時だけしか帆走出来ない。舵は船に対して恐しく大きく、使用しない時には、妙な形に水から引き上げておく(図346)。鎖国していた時、政府は外国型の船舶を造ることを許さなかった。これは政府が、日本船のふたしかであることを知り、かかる船は嵐にあうと制御出来なくなるので、日本人はやむを得ず海岸近くを走っていたのだという。沿岸通商で、彼等は海岸に沿うて二日か三日帆走し、聊かでも、風や暴風雨の徴候が見えると、港湾に入り込み、嵐の来ること、或は嵐の吹き去るのを待つ。日本人は我々の船型が優秀であることを、即座に認めた。維新後外国風の船を造ることを禁ずる法律が撤廃され、今や彼等は、外国の船型に従って造船しつつある。この町にも、造船中のスクーナーが六、七艘あるが、いずれもいい形をしている。造船場は我国のと同じように見えるが、而も職工は全部日本人である。

道を修繕したり、盛土したりするのに使用する土は、鞍にかけた大きな藁の袋で運搬する(図347)。馬を五、六頭つなぎ合わせ、変な麦藁帽子をかぶり、前かけをかけた一人の女が、それ等の馬を導いて、町と丘とを往復する。袋の底は何等かの方法で、締めくくってある。積荷を投げ下す時には、その紐をぐいと引く、すると土がガラガラと地面へ落る。銜くつわは口の両側にある、大きな木片で出来た、妙な装置である。何等かの目的で、馬の外臀部にあてがってある繩には、磨傷をふせぐ為に、木の転子ころがいくつかついている。木の叉またでつくった鉤を両側に出した鞍の一種も、見受けられる(図348)。これは薪や長い材木を運搬するのに使用される。あらゆる物を馬背で運搬する。私は人力車以外の車を見たことがない。人力車も、ここでは非常に数が少ない。東京の車夫が、うるさく客を引くことから逃れた丈でも、気がせいせいする。

砂浜には、番人が時を打ったり、巡警の時間を知らせたり、また火事の時には猛烈に叩いたりするのに使用する、面白い音響信号の仕掛があった。これは幅二フィート、高さ一フィートの四角い樫の板で出来ていて、図349の如く棒からさがり、それを叩く木の槌は、紐によってぶら下っている。これが発する音の澄んでいて響き渡ることは、驚く程であった。農夫その他も、この考を採用して利益があろう。日本人はこの種の木でつくった装置を、色々な用途に使用する。劇場では幕をあげる信号に、四角な固い木片を二つ叩き合わせ、学校では講義の終りに、小使が木片二個を叩きながら、廊下を歩き廻り、夜番も拍子木を叩き、また庭園には、時に魚の形をした木の板がかけてあるが、これは庭園中の小さな家へ、茶の湯のために行くことを知らせるべく、木の槌でたたくものである。我国で、木をこのようにして使うのは、只、木琴の如く楽器とするか、或は拍子木かカスタネットかの如く、時間計器とすることか丈である。

先晩、私以外の一行の人々が宿っている茶屋へ行ったら、隣の部屋で小さな子が、例の疳高い一本調子で、何か読んでいた。何を読んでいるのか質ねたら、矢田部教授はしばらく耳をかたむけた後、それが、「両親が死ぬと、最も甘い食物も苦くなり、美しい花は香を失う」云々という、悲しい古典であるといった。
七月十九日、金曜日。今日最初の曳網をやった。蒸汽艇は、我々を津軽海峡という名の、蝦夷を日本本土から引き離している海峡へ、連れて行く準備をしていた。蒸汽艇が実に小奇麗で清潔だったので、私は曳網をすると、泥や水で恐しくきたならしくなることを説明し、小さな舟を曳いて貰って、その中で曳網をした。図350は、古い日本の税関を、ざっと写したものである。我々はこの建物の右半分を占領しているが、窓が五つ、相接してついているので、光線は実によく入る。屋根には重々しく瓦が葺いてあり、そして私が写生した時には、鴎かもめが数羽、皆同じ方向に頭を向けて屋梁むねにとまっていた。図351は蒸汽艇が和船を曳船している所を示す。この和船の内へ曳網をあげ、内容を出し、その後我々は貝、ひとでその他を、バケツに入れて、汽艇へ持ち込み、其所で保存したいと思う材料を選りわける。これ以上便利で贅沢な手配で、この仕事をしたことは、いまだかつて無い。最初の時は大雨が降って来て、私はズブ濡れになった。採集した材料は、より南方の地域のものとは非常に違っていた。貝は北方の物の形に似ていたが、而もある種の、南方の形式も混入していた。美しい腕足類があったが、その一つのコマホウズキガイは、薄紅色で、生長線がぎっしりとついている。これや、その他は、研究用に生かしておこうと思う。

昨日曳網の袋が裂けたので、我々は五マイルばかり離れた漁村へ行った。長い、泥深い町をぬけて行くと、長い砂浜へ出た。ここで我々は奇妙な貝を沢山ひろった。目的の村へ来た我々は、一軒の居酒屋を発見し、ひどく腹が減っていたので、不潔なのをかまわず食事をした。ここで休んだ後、我々は丘の方へ向かったが、たいてい膝まで水がある沼沢地みたいな所を、一マイルも一生懸命に行かねばならなかった。苦しくはあったが、背の高い草や、美しい紫の菖蒲しょうぶその他の花や、若干の興味ある小さな貝や、それから面白いことに、その分布が極の周辺にある、小さな、磨かれたような陸貝を一つ発見したりして、相当愉快だった。この陸貝は、北欧州と米大陸の北部いたる所で発見されるが、ここ、蝦夷にもあったのである! 私はまた欧州の Lymnaea auriculata〔モノアラガイ科〕に類似した、淡水の螺にしを見出した。最後に高地へ来ると、函館と湾とが、素晴しくよく見えた。帰途、我々はまた例の沼地と悪戦苦闘をやり、疲れ切って函館へ着いた。ここ四日間、私はズブ濡れに濡れ、或はそれに近い状態にいたが、而もこの上なしの元気である。帰る途中、我々は謀叛を起そうとして斬首された三人の日本人の、墓の上に建てられた記念碑の前を通った(図352)。簡単な濃灰色の石片の割面に、文字を刻んだものは、我国でも、墓地で見受ける或種の記念碑の代りとして、使用するとよい。

先日、新しい路を通って海岸へ行く途中、長さ三フィートばかりで、粗末な切石の礎石にのって並んでいる、石像を写生した。これ等は明瞭に仏陀であるが、それと直角に、それぞれ頭に小さな屋根を持つ四角い木柱が、一列になって並んでいた。これ等の柱には、字が書いてあった。柱には一つ残らず手で廻すことの出来る鉄の車があり、車には、それを廻すとジャラジャラ鳴る鉄の環が、いくつかついていた。これ等は「祈祷柱」と呼ばれ、鉄環の音は、神々の注意を歎願者に向けるのである。これは私の召使いの一人が話したことであるが、私は西蔵チベットの仏教徒たちの祈祷輪を思い出した。彼等にとっては車輪の一回転が一つの祈祷なので、その車輪を力まかせに廻すことによってウンとお願いすることが出来る。私はまだこの装置を、日本本土では見たことがない。あるにはあるだろうが――。図353は、石像と柱との写生図であり、図354は車輪と、ジャラジャラ鳴る環とを示している。

昨夜当町の別の区域で、ある種の祭礼が行われたので、私は群衆に混ってブラブラ出かけた。寺院へ通じる往来の両側は、四分の一マイルにわたって、二列の燈籠で照らされていた。その中の一列は、両側とも、多くは、滑稽な絵を描いた燈籠で、絵は皆違っていた。私は画家の変化性と技巧とに、感心せざるを得なかったが、而もそれ等の絵は、大急ぎでなすりつけたものであることが、明かに見られた。寺院の前は人の黒山で、廊下にある大きな箱に銅貨を投げ込み、手をたたき、熱心に祈っていた。僧侶達は、見受ける所、大法会をやり、そして天運を授与しているらしい。すくなくとも彼等は、戸の上に張りつけて悪霊の侵入をふせぐ、小さな紙片を売っていた。町の乞食――恐らく十人ぐらいいたであろう――は、道路の片側に一列に並び、手に持った鐘を、のろい単調な調子をとりながら、たたいていた。
それは不思議な光景であり、また私にとっては、かかる気のいい、ニコニコした人々の群の中を、「肘でかきわけ」て行くことが不思議に思えた。「肘でかきわける」というのは、日本では通じない言葉である。どんなにぎっしり立て込んでいても、周囲の人々に触れることはなく、「ゴメンナサイ」といいさえすれば、群衆は路をあける。加うるに、私は完全に家にいるような気がして、最初見たときには記録するのに多忙を極めた、多くの事物や出来ごとが、今や、更に私の注意を引かない。これによっても、日誌を書く人が、第一印象を即座に書きつけることが、如何に大切であるかがわかる。
図355は、私のいる所から筋かいの向こうに見える、古い家屋である。これは屡々見受ける所の、典型的なもので、防火建築の周囲に、家に似た建造物を建てたものである。火事が起こると、品物を片端から防火の部分にかつぎ込み、窓を泥土で目塗りする。

七月二十五日。我々は蝦夷の西海岸にある小樽へ向けて出発した。乗船は漕艇位の大きさの木造蒸汽船で、日本人が所有し、指図し、そして運転している。私は船中唯一の外国人であった。船員たちが何匹かの牛を積む方法と、能率的な指揮がまるで欠けているのを見た時、私は燈台のない岩だらけの海岸を、これから三百マイルも航海するということに、いささか不安を感じた。加之のみならず、従来この沿岸では、測量も行われず、航海用の海図も出来ていない。夜の十時出帆した時、空は暗く、如何にも悪い天気を予想させ、暗黒な津軽海峡へさしかかった時には、多少心配せざるを得なかった。衝突の危険は、もともと衝突すべき船がないのだから、全然無かったが、嵐の闇夜に舵手が行方をとりちがえるという危険はあった。函館を出ると間もなく、我々は濃霧の中に突入し、真夜中には雨を伴う早手の嵐に襲われ、我々は威風堂々それにゆらゆらと入り込んで、一同いずれも多少の船酔を感じた。船室には、長い銃架にスペンサー式の連発銃がズラリと並んだ外、小さな鋼鉄砲二門と、ゴルティング銃一挺とがあった。この海賊に対する用心は、この航海にある興奮味を加えた。夜中嵐が吹き、小さな船はひどく揺れて、厨房では皿が落ちて割れ、甲板では牛がゴロンゴロンころがった。朝飯として出された食事は日本料理で、とても恐しい代物だった。我々が函館港を出た時、横浜にいたフランスの甲鉄艦が、南方のきびしい暑熱を避けるために入港して来た。この軍艦は浮ぶ海亀に似ていた。舳は唐鋤みたいで、とにかく頑丈そうだった。港内には確かに百艘ばかりの戎克がかかっていたが、乾燥させるために、帆をひろげたものも多かった。
ここで一言するが、私はこの時まで、咒罵をしない水夫達や、横柄に命令をしない船の士官たちを、見たことが無い。が、この船では呪罵は更に聞えず、如何なる命令も静かな態度でなされた。このような危険な生活でさえも、この国民の態度を変えぬものらしい。
今朝目を覚ますと、日はあかるく照って、いい天気であった。遠方には五千五百フィート以上もある山が、その斜面の所々に大きな雪面をもって聳えている(図356)。この山はオカムイと呼ばれ、小樽の南三十マイルの所にある。我々が東京から千マイル近くにいて、カムチャツカや千島群島の方が、東京より近いのだということを考えると、興味が湧いた。北部温帯が持つ空気の新鮮さと香とがあったが、而も緯度からいえば、メイン州の中部より、そう北ではないのである。揺れる船に、よしんば短い時間にしろ、乗っていた人ほど、陸地の見えることを有難がる者はない。心配はすべて消え失せ、また事実は陸地から如何に遠く離れていようとも、彼は元気になる。港へ近づくと共に、我々は大きな岬をまわり、しばらくの間、磁石によると、南へ進んだ。我々が入って行った入江の両側には、山脈があった。そこには森が深く茂り、白人は誰も足跡を印していない。これ等の山の谿谷にわけ入った者はアイヌだけ、而もアイヌすら行っていない地域が多い。森には荒々しい熊が歩き廻り、政府はそれを退治た者に、高い褒美を与える。昨年一人の日本人が熊に食われたが、私の聞いたいろいろな話によると、熊は出喰すと、危険な動物であらねばならぬ。

小樽に近づくにつれて、私はオカムイから小樽を越した場所に至る迄の山脈を写生した(図357)。これ等の山々が見える通りを、一枚の紙に現すためには、AとA、BとBとを接続しなければならぬ。輪郭は非常に興味があり、私が南方で見た山々の外線とは、大いに相違していた。小樽の港に近づくと共に、海岸線は段々明瞭になって来て、我々は初めて、美しい山々が如何に海岸から遠くにあり、また直接海に接する低い丘が、如何に岩が多くて垂直であるかを理解した。

図358は小樽湾へ入るすぐ前の岬の、簡単な写生である。これ等の崖のあるものは、高さ六百乃至七百フィートで、殆ど切り立っている。そこを廻って小樽湾へ入る場所にある岬は、非常に際立っている(図359)。私は小樽滞在中に、これを研究しようと決心したが、我々が旅行の目的にあまり没頭したので、時間が無かった。沿岸全体が、大規模の隆起と、範囲の広い侵蝕との証跡を示し、地質学者には、興味深々たる研究資料を提供することであろう。私が判断し得た所によると岩は火山性であるが、而も小樽付近には鋭い北向きの沈下を持つ、明瞭な層理の徴証がある。この島の内部には、広々とした炭田が発見される。小樽の寒村は海岸に沿うて二マイルに、バラバラとひろがっている。

我々は十時頃上陸した。人々が我々をジロジロ見た有様によって、外国人がまだ珍しいのだということが知られた。我々は町唯一つの茶店へ、路を聞き聞き行ったが、最初に私の目についたのは、籠に入った僅な陶器の破片で、それを私は即座に、典型的な貝墟陶器であると認めた。質ねて見ると、これは内陸の札幌から来た外国人の先生が、村の近くの貝墟で発見したもので、生徒達に、彼等が手に入れようと希望している所の、他の標本と共に持って帰る事を申渡して、ここに置いて行ったのだとのことであった。私は直ちに鍛冶屋に命じて採掘器具をつくらせ、午後、堆積地点へ行って見ると、中々範囲が広く、我々は多数の破片と若干の石器とを発見した。私は札幌の先生が、もしこれ等を研究しているのならば、今日の発掘物も進呈しようと思っている。
我々が落つくか落つかないかに、役人が一人やって来て、函館から電報で、我々が小樽経由札幌へ向かうということを知らせて来たので、我々の為に札幌から馬を持って来たと告げた。上陸した時、私は小さな蒸汽艇に目をつけ、これを曳網に使用することは出来まいかと思った。矢田部と私は、この土地の最上官吏を訪問して名刺を差し出し、我々の旅行の目的を述べ、そして帝国大学のために採集しつつあるのだという事実を話した。次に、若し我々が数日間、あの汽艇を使用することが出来れば、大きに助かるということを、いともほのかにほのめかし、更に函館では同地の長官が、蒸汽艇の使用を我々に許してくれたことをつけ加えた。こう白々しく持ちかけたので、彼も断ることが出来ず、我々は汽艇を二日間使ってもよいことになった。何たる幸運! 我々は大きに意気揚々たるものであった。
港と海岸とは、非常に絵画的である。妙な形の岩が、記念碑みたいに、水面からつっ立っている。図360は、これ等の顕著な岩のあるものの写生である。層理の線は非常にハッキリしていて、擡挙は過度である。かかる尖岩を残すには、余程大きな浸蝕が行われたに相違ない。私にはこれ等を研究する機会が無かったし、またこの地方を地質学者が調査したかどうかを知らぬ。蝦夷に於るこのような性質の仕事の大部分は、経済的の立場からしてなされた。

図361は小樽の、石造の埠頭から見た景色である。色彩を用いたらば、面白い絵になることであろう。遠方の山、嵯峨たる岩、絵画的な舟や家、植物の豊富な色と対照、澄んだ青い水と、濃い褐色の海藻とは、芸術家の心をよろこばせるに充分であろう。

私は当地の日本人と、中央日本にいる日本人との間の、著しい相違に気がついた。ここの人々は、顔の色つやがよく、婦人は南にいる婦人にくらべて、遙に背が高い。日本の北方の国から、津軽海峡を越して来て、夏の間海岸に沿うて住み、魚類を取引して町々を売って歩く、一種奇妙な魚売女がある。彼等は背が低く、ずんぐりしていて、非常にみっともよくない。赤く爛ただれた眼をした、年はすくなくとも七十と見えるが、その実五十にはなっていまいと思われる、小さな老婆が、肩に天秤棒をかけて、往来をやって来た。その両端に下げた大きな籠には、巨大な帆立貝が入っていて、彼女はこれを行商しているのであった。私は彼女を呼び入れ、貝をいくつか買った後に、彼女がやったようにして荷物を上げて見ようとしたが、一方の籠を地面から離すこと丈しか出来なかった。私の日本人の伴侶も、かわるがわる試みたが、彼等にはあまりに重すぎた。老婆は非常に面白がったらしく、我々が一方の籠を持ち上ることすら断念した時、まるでうそみたいな話だが、静かにこの重荷を持ち上げ、丁寧に「サヨナラ」というと共に、元気よく庭を出て、絶対的な速度で往来を去って行った。この小さな、萎びた婆さんは、すでにこの荷物を、一マイルか、あるいはそれ以上も運搬したにかかわらず、続けさまに商品の名を呼ぶ程、息がつづくのであった。
茶店に落ついた我々は、実験の設備をさがした。役人が一人、我々と共にさがしに行ってくれ、やっとのことで、海岸に近い、以前は旅籠はたご屋だったあばら家に、一部屋発見することが出来た。看板にした古い柱は、まだ立っている。実にきたない所で、古い乾魚が筵の包や巻物になって一杯にあり、おまけにいろいろな徴候からして、ここはまた茶店としても使用されたことが知られた。だが、短時間の間に人夫二人が、どうにかこうにか掃除をした。そこで卓一脚、椅子数脚をはこび込み、我々は曳網、壺、酒精アルコールその他を入れた箱二個の荷を解いた。
図362はその建物を示す。我々の部屋は戸と、それからそれを通じて、何人かが夢中になって覗いている、入口とによって指示される。彼等の舌がガチャガチャいうことによって判断すると、我々の動作の一つ一つも、我々が取り出す瓶の一つ一つも、会話の題材となるらしい。彼等は従来動物採集者の群、おまけに「外国の蛮人」が加っているのなんぞは、見たことが無いのである。

最後に、彼等の不断の凝視がうるさくなって来た私は、図々しく彼等を写生することによって、追い払おうと努めた。然しながら、これは目的を達しなかった。でも、私は写生図を一枚得た。図363がそれである。我々の仕事部屋は、図364で示してある。

我々の曳網は大成功であり、また我々は村を歩いて産物を行商する漁夫たちから、多くの興味ある標本を買い求めた。土地の人達は、海から出る物は何でもかでも、片端から食うらしい。私は今や函館と、パンとバタとから、百マイル以上も離れている。そして、函館で食っていた肉その他の食物が何も無いので、私はついにこの地方の日本食を採ることにし、私の胃袋を、提供される材料からして、必要な丈の栄養分を同化する栄養学研究所と考えるに至った。かかる実験を開始するに、所もあろうにこの寒村とは! 以下に列記する物を正餐として口に入れるには、ある程度の勇気と、丈夫な胃袋とを必要とした――曰く、非常に貧弱な魚の羮スープ、それ程不味くもない豆の糊状物ペースト、生で膳にのせ、割合に美味な海胆うにの卵、護謨ゴムのように強靭で、疑もなく栄養分はあるのだろうが、断じて口には合わぬ holothurian 即ち海鼠なまこ、これはショーユという日本のソースをつけて食う。ソースはあらゆる物を、多少美味にする。
晩飯に私は海産の蠕ぜん虫――我国の蚯蚓みみずに似た本当の蠕虫で、只すこし大きく、一端にある総ふさから判断すると、どうやら Sabellaの属〔環形動物毛足類毛足多毛目サベラリア・アルベオラタ〕に属しているらしい。これは生で食うのだが、味たるや、干潮の時の海藻の香と寸分違わぬ。私はこれを大きな皿に一杯食い、而もよく睡った。又私の食膳には Cynthia属に属する、巨大な海鞘ほやが供され、私はそれを食った。私はちょいちょい、カリフォルニヤ州でアバロンと呼ばれる、鮑あわびを食う。帆立貝は非常に美味い。私はこの列べ立てに於て、私が名前を知っている食料品だけをあげた。まだ私は、知らぬ物や、何であるのか更に見当もつかぬ物まで喰っている。全体として私は、肉体と、その活動原理とを、一致させていはするものの、珈琲コーヒー一杯と、バタを塗ったパンの一片とが、恋しくてならぬ。私はこの町唯一の、外国の野蛮人である。子供達は私の周囲に集って来て、ジロジロと私を見つめるが、ちょっとでも仲よしになろうとすると、皆、恐怖のあまり、悲鳴をあげて逃げて行って了う。 
第十三章 アイヌ
我々は宿屋の召使いに、町の裏手のアイヌの小屋で、舞踊だか儀式だかが行われつつあるということを聞いた。私は往来でアイヌを見たことはあるが、まだアイヌの小屋へ入ったことがない。そこで一同そろって出かけ、大きな部屋が一つある丈の小屋の内へ招き入れられた。その部屋にいた三人のアイヌは、黒い鬚あごひげを房々とはやし、こんがらかった長髪をしていたが、顔は我々の民族に非常によく似ていて、蒙古人種の面影は、更に見えなかった。彼等は床の上に、大きな酒の盃をかこんで、脚を組んで坐っていた。彼等の一人が、窓や、床にさし込んだ日光や、部屋にあるあらゆる物や、長い棒のさきに熊の頭蓋骨を十いくつつきさした神社(これは屋外にある)にお辞儀をするような、両手を変な風に振る、単調な舞踊をやっていた。長い威厳のある鬚をはやした彼等は、いずれも利口そうに見え、彼等が程度の低い、文盲な野蛮人で、道徳的の勇気を全然欠き、懶惰らんだで、大酒に淫し、弓と矢とを用いて狩猟することと、漁とによって生計を立てているのであることは、容易に了解出来なかった。私と一緒に行った日本人が、私がどこから来たかを質ねた所が、彼等は私を、日本人と同じだと答えた。
泥酔した一人の老人が、彼等の持つ恐怖すべき毒矢を入れた箭や筒を見せ、別の男が彼に「気をつけろ」といった。彼が一本の矢を持ち、私の後を単調な歌を歌いながら奇妙な身振で歩き廻った時、私は多少神経質にならざるを得なかった。一人の男は弓弦を張り、彼等の矢の射ゆみいり方をして見せたが、箭筒から矢を引きぬく時、彼は先ず注意深く毒のある鏃を取り去った。この鏃は竹片で出来ていて、白い粉がついているのに私は気がついた。使用する毒はある種の鳥頭とりかぶとだそうで、アイヌ熊が殺されて了う程強毒である。
我々は彼等に、彼等の酒器を再び充すべく二十セントをやった。酒が来ると、我々は彼等と一緒にそれを飲まなくてはならなかったが、彼等の不潔な杯から酒を飲むことは、虫を食うより、もっといやだった。アイヌは自分等の順番になると、大きな漆塗の杯に、酒をなみなみとつぎ、彫刻した紙切りナイフに似た、長い、薄い木片を杯の上にのせ、腰を下してから、いろいろな動作をつづいて行った。先ず例の棒を取り上げ、その一端を酒にひたしてから、彼等自身の前に酒を僅かパラパラと撒いたが、これは牛乳から塵か蠅かを取りのぞくのに似ていた。彼等はこの動作を数回やり、酒の滴を四方八方に向かって捧げたが、私は彼等が神々に向かって、この大事な酒を、如何に僅かしか捧げないかに気がついた。次に彼等は房々した鬚を撫で、あだかも感謝の意を表するかの如く、手を上方へ、鬚の方へ向けて、変な風に動かした。この長い前置きがあった後に、彼等は杯を持上げて口に近づけ、棒を取って濃い口鬚を酒から離しながら飲んだ。これ等の棒は、口鬚棒と呼ばれる。興味のあるアイヌ模様を刻んだ物も多い。
小舎は単に大きな、四角い一部屋で、文字通り煤で真黒になっている。炉は土の床の中央部の四角い場所で、その上には天井から、鍋や薬鑵やかんをつるす、簡単な装置が下っている。彼等の家庭用品の多くは、日本製の丸い漆器に入っていた。いろいろな点、例えば歌を歌う時の震え声、舞踊、その他の動作で、日本人との接触の証跡が見られたが、これ等は或は数世紀前、アイヌが、全国土を占領していた頃、日本人がアイヌから習ったのかも知れない。小舎には戸口以外にも、一つか二つ隙間があったが、暗すぎてこまかい所は見えなかった。図365は、その暗い所でした写生図を、申訳だけに出したものである。アイヌの小舎については、今にもっと詳しいことを知り度いと思っている。

我々が小舎にいた時、アイヌ女が一人入って来た。彼女の顔は大きく粗野で、目つきは荒々しく、野性を帯びていた。彼女は一種の衣類を縫いつつあったが、ちょいちょい手を休めては蚤を掻いた。私は今迄にアイヌの女を三人見たが、皆口のまわりに藍色の、口鬚に似た場所を持っていた(図366)。これは奇妙な習慣であり、見た所は勿論悪いが、日本人の既婚婦人の黒い歯の方が倍も醜悪である。

七月二十九日に、我々は小樽を立って札幌へ向かった。我々が小樽で集めた標本は大きな酒樽に詰めた。標本というのは、大きな帆立貝の殻百個、曳網で採集した材料を酒精アルコール漬にした大きな石油鑵一個、貝塚からひろった古代陶器その他である。馬は宿屋の前まで引いて来られた。洋式の鞍をつけた二頭は、矢田部教授と私の為であり、他には荷物用の鞍がついていたので、毛布を沢山、詰絮つめわたとして使用する必要があった。我々の荷物は、大型の柳行李二個であった。供廻の馬子は別に乗馬を持っていたが、佐々木氏と下男とは歩く方がいいといった。日本人にとっては、三十マイルは何でもないのである。車も、人力車もないので、我々は札幌から先は、蝦夷を横断するのに、百五十マイルを馬に乗るか、歩くかしなくてはならぬ。毎日変った馬――而もそのある物は荒々しい野獣である――にのって、悪い路を、百五十マイルも行くことを考えた時、札幌から蝦夷の東海岸に至る道路は、割合によいとは聞いていたが、私はいささか不安にならざるを得なかった。私が生れてから一度も馬に乗ったことが無いというのは、不思議だが事実である。腕を折ったり、頭を割ったりした友人の思出や、鐙あぶみに足がひっからまった儘引きずられて死んだ人達の話が、恐怖の念を伴って私を悩した。然し私は馬に乗ることになっていたのだし、歩く時間はなし、よしんば落ちて頭を割った所で、私はそれを天意として神様を不敬虔に非難したりせず、私自身の教育に欠けた点があった結果と見ることにしよう。とにかく、土着民の面前で、醜態を演ずることを余り望まぬ私は、町の出口まで馬を曳かせ、私自身は歩いた。所が非常に気持がよいので、四マイルか五マイル歩き続け、そこで初めて小馬にまたがった。道路は十マイルの間、海に沿うていた。崖にトンネルをあけた所が二ヶ所あった。図367はその一つから小樽を見た景色である。新鮮な空気が海から吹きつけ、そして波は彼等の「永遠に続く頌歌」を歌った。岸を離れた漁夫達は、海藻を集めるのに忙しかった。それは大きなラミナリア〔昆布〕で、乾燥して、俵にして支那へ輸出する。漁夫達は長さ十フィートの棒のさきについた、一種のフォークで、棒の一端に横木のついた物を使用する。この棒を海藻の茂った場所につっ込み、数回くるくる廻し、海藻を繋留場から引きはなす様な具合に、からみつける(図368)。

はるか遠くには、函館へ帰って行く我々の乗船が見えた。美事な懸崖もいくつか過ぎたが、その一つには端の広い分派瀑がかかっていた。私は日本へ来てから、いまだかつてこれ程画家の為の題材の多い場所を見たことがない。鉛筆や絵筆を使用したい絶景が、実に多かった。図369はそれ等の景色の一つで、場所はカマコタン〔神威古潭〕と呼ばれ、長い、彎曲した浜を前に、高さ八百フィートの玄武岩の崖が聳えている。所々で、これ等の崖は、最も歪められた石理いしめを見せていた。玄武岩の結晶が完全なのである。非常な量で流れ出した熔岩が、冷却するに従って、次から次と、火のような流れが結晶したのである。石理は写生すべく余りに複雑であった。

数マイル行った所で、私は初めて馬に乗った。私は馬に乗りつけているような様子をして乗ったが、まことに男性的な、凛然たる気持がした。馬がのろのろしていて、余程烈しく追い立てぬ以上、走らずに歩き続けたことは事実であるが、それにも拘らず私は指揮官になったような気がして、あだかも世界を測量する遠征隊を率いているかの如く感じた。馬の運動に馴れるには、しばらく時間を要したが、間もなく万事容易になり、かなりな心配を以て馬を注視したことによって、私はある程度の平安さを以て景色を注視することが出来た。路の両側にはいたる所、大きな葉の海藻が日に乾してあった。十マイルにわたって路はデコボコな小径で、而もある個所は非常に嶮しかった。切り立った崖に沿うて行く時には、書物に所謂「一歩をあやまれば」、私は千仞じんの深さに墜落していたことであろうが、馬の方でそんな真似をしない。もっとも鞍の上でグラグラするので、私はいささか神経質になっていた。やがて平坦な路へ来たので、私は大胆にも馬に向ってそれとなく早く行くことを奨めて見た。だが私は、即刻それを後悔した。実に苦痛に満ちた震揺を受けたからである。四本の脚の一本一本の足踏が、私を空中に衝き上げ、その度に十数回の弾反はねかえりが伴った。私は早速馬を引きとめた。だが札幌へ着く迄に、私は馬の強直な跳反はずみに調子を合わせて身体を動かすコツを覚え込んだので、非常に身体が痛くはあったが、それでも、どうやらこうやら、緩い速度で走らせることが出来た。
我々が最初に休んだのは、ねむそうな家が何軒か集って、ゲニバク〔銭函〕の寒村をなしている所であった(図370)。我々が立寄った旅籠はたご屋には、昔の活動と重要さとのしるしが残っていた。誰も人の入っていない部屋が、長々と並んでいるのを見ると、蝦夷島を横断した大名の行列が思い出された。今やこの家は滅亡に近く、米は粗悪で、私は私の「化学試験所」に、何物にまれ味のある物を送るのに困難した。村を離れると路は広くなり、海岸から遠ざかった。今や暑熱は堪え難くなり、我国にいるものよりも遙かに大きい馬蠅が、何百となく雲集して来た。刺されると非常に痛いと聞いていた私は、彼等に対して恐怖の念を抱いた。一生懸命に蠅をよけたり蹴ったりしようとする馬は、立て続けにつまずいて、私を頭ごしに投げ出しかけたりした。時々馬は頭を後に振って、鼻で私の脚をひどく打った。私は真直に坐り、そして馬も真直にしていることが、非常に六角敷むつかしいことを知った。

札幌へ二マイルの場所には、西洋風に立てた大きな兵営があった。窓と煙筒えんとつとのある一階建の家が幾軒か、長く並んでいるのは、不思議な光景であった。兵隊はここに一年中住んでいるので、家族も連れて来ている。ここを過ぎると、英語を非常に上手に話す、この上もなく丁寧な日本人の官吏が一人、我々を出迎えた。彼は我々が小樽から来つつあるという通知を受けて、札幌まで案内し、矢田部教授を最上等の旅館へ、私をブルックス教授の家へ、連れて行くために来たのである。ブルックス教授は農学校の職員の一人で、私の世話をやいてくれることになっていた。町へ近づいた時、私は我国の議事堂に似た円屋根ドームを持つ、大きな建物があるのに気がついて、如何にも国へ帰ったような気がしたが、聞いて見ると事実これは蝦夷の議事堂だった。
札幌の町通は広くて、各々直角に交っている。全体の感じが我国の西部諸州に於る、新しい、然し景気のいい村である。政府の役人が住んでいる西洋館もいくつかあるが、他の家はみな純粋の日本建である。ブルックス教授は心地よく私を迎え、そして汗をふき、身なりをととのえ終った私を連れて、学校と農場とへ行った。学校は我国の田舎の大学と同じ外見を持っていた。設計にも、建築にも、趣味というものがすこしも見えぬ、ありふれた建物である。一つの部屋には、小樽の貝塚で集めた、器具や破片の、興味の深い蒐集があった。私は咽喉から手が出る位、それ等がほしかった。装飾のある特徴は、大森の陶器を思わせたが、形は全く違っていた(図371)。棚の上の、これ等並に他の品々(主として鉱物)を見た後、私は農場に連れて行かれたが、そこにはマサチューセッツ州のアマスト農科大学のそれに似せて建てた、大きな農業用納屋があった。昨年私はある機会から、この模範納屋の絵のある同大学の報告を見た。我々とは非常に異る要求を持つ日本人のために、このような建造物を建てることは、余りにも莫迦ばからしく思われた。然しこの地方を馬で乗り廻し、気候のことをよく知って見ると、私には我々が考えているような農業を、我々の方法で行うことが可能であることと、従って我々が使用する道具ばかりでなく、我々のと同じ種類の納屋も必要であることが理解出来た。納屋の内には、何トンという乾草があった。我々は円屋根に登って周囲の素晴らしい景色を眺め、下りる時には、梁木から遙か下の乾草の上へ、飛び降りたりした。これ等の事柄のすべてに牛の臭が加って、私を懐郷病ホームシックにして了った。ブルックス教授の家では、新鮮な牛乳を一クォート〔六合余〕御馳走になった。私自身が蝦夷の中心地におり、且つこの場所は僅か八年前までは実に荒蕪の地で只猛悪な熊だけが出没していたということは、容易に考えられなかった。この附近にまだ熊がいることは、去年四人の男を順々に喰った(その一人を喰うためには家をこわした)という、猛々しい奴が、一匹殺されたという、ブルックス教授の話が証明している。日本人が、単に農業大学を思いついたばかりでなく、マサチューセッツの農科大学から、耕作部を設立する目的で、一人の男を招いたことは、大いに賞讃すべきである。札幌は速に生長しつつある都邑である。ラーガア麦酒ビール〔貯蔵用ビール〕の醸造場が一つあって、すぐ使用する為の、最上の麦酒を瓶詰にしている。このことは、瓶に入った麦酒一ダースを贈られた時に聞いた。

札幌から見える山々は、高くはないが、デコボコしている。図372は北方に見える山を示す。これ等の峰の中で一番高いのは三千フィートばかりある。また火山で、いまだに煙を噴いているものも、札幌から見える(図373)。ブルックス教授は、学校の近くにあるいくつかの低い塚に、私の注意を向けた。その最大のものは直径二十フィートで、高さは二フィート半である。我々はその二つを掘り、地面のもとの水準に迄達したが、陶器は一つも見出せず、骨の破片が僅かあった丈である。それ等は概して図374のように見えた。

翌朝は、馬に乗ったお影で節々が痛んでいたが、枯葉の下の陸生貝を発見したい望を持って、数マイル離れた森まで、照りつける太陽の下を歩いて行った。椈ぶなと樫の森は、蝸牛かたつむりをさがすには理想的である。私はかつて、ニューイングランドで発見したものと、同種であるらしく思われる「種」をいくつか見つけた。これ等の動物をさがす人は四つばいになり、濡しめった木葉や樹木の片をひっくり返しながら、匐はい廻らねばならぬ。しばらくの間このようにして、この小さな動物をさがしていた私の耳に、警告するような叫び声がいくつか聞えた。顔をあげて見ると、五十フィートか七十フィートか向うに、数人の鬚だらけなアイヌが一列にならんで、私に向って叫びながら、身振をしている。私は彼等の声が聞えたことの信号として手を振り、彼等はすべて多少日本語を解するので、日本語で「ヨロシイ」と叫び返した。すると彼等の身振は益々猛烈になり、中にも一人のアイヌは、どうも脅迫するような様子で、弓と矢とを連続的に、ぎこちなく振り廻した。突然私は、彼等が私を目して、殺人を敢てしてまで守る彼等の墳墓を探っているものと考えていると思いついた。そして鏃の致死的な毒を思い浮べて、私は渋々立ち上り、歩き去った。私は矢田部教授と一緒に彼等の敵意に充ちた示威運動の意味を質問し、そして私が単に木葉の下の、小さな蝸牛をさがしていたのであることを説明する可く、これ等の人々がやって来た部落を訪れた。すると彼等は、数日前仲間の一人が熊に殺されて喰われたので、大きな毒矢のある熊罠わなをしかけたから、私がそこを立ち去らぬと射られるかも知れぬと思って、警告を与えたのだと説明した。彼等自身も、どこに矢を射出す糸があるのか、はっきり知らなかったので、近づくことを恐れたのだという。私は、私を射る準備をととのえた罠の近くを、熊のように四足で匐い廻っていたのであった!
翌朝、我々の駄馬と鞍馬とが入口まで来た。一頭にはラーガア麦酒が二箱積まれ、他の一頭には標本を入れた、大きな四角い柳行李が二個つけてあった。長官が親切にも、我々が函館へ着く迄の期間、西洋式の鞍を二つ貸してくれた。私のための馬は大きな奴で、それに跨って動き出すと、前日の馬乗の結果たる身体の痛さが、彼の反鎚式跳反と剛直とを余計著しくして、私は完全に、かつ文字通り、たたき壊されたように感じた。それでも、しばらく私は頑張ったが、ついに絶望して思い切り、そして下馬して、再び乗る勇気が起る迄、数マイルを歩いた。大きな小屋組の橋を渡る時、私はその全長に対して、巨大な足代がかけてあるのに気がついた。何の為にこんな物があるのか、不思議に思って聞くと、橋にペンキを塗るのだとのことであった。ある種の事柄にかけて、日本人は著しく間がぬけている。我国であれば、梯子を持った一人の男が、足代をかける時間内に、こんな仕事はすっかり仕上げて了う。
要するに、馬に乗って、路傍の低い灌木越しに、向うの沼沢地や森林を見ながら進むことは、一種の贅沢である。我々は十五マイル行って馬を代えた。今度の馬は杖で撲なぐる度ごとに、蹴ったり竿立さおだちになったりする毛物けもので、大部せき立ててやっと伸暢駈足ギャロップを始めたが、それがまた偉い勢で飛んで行くのである。馬に関する知識の無い私にとって、伸暢駈足を敢てしたのはこれが最初であるが、驚いたことには、これは他のいずれの方法よりも、遙に楽である。私はその後十マイルの間に、二十回も鞍を離れた。これは研究材料にする蝸牛を捕える為であった。この地方にいる大きな蝸牛の習性は、我国の同様な物とは全く異る。ここのは小灌木の葉を食って生きているらしく、人は熟した果実を摘むような具合にして、それ等を採集する。途中、我々は淡水イガイ類の標本を二種得た。見た所真珠イガイ即カワシンシュガイと、
Unio Complanatus
〔烏貝の一種〕とに似たものである。この夜の宿泊地であるチトセ〔千歳〕に着いた我々は、そこに横浜から同じ船で来た、我々の友人たる、ドイツの医師がいたのを発見した。彼は今や蝦夷島横断旅行中である。私は麦酒の入った箱の一つをあけて、彼に六本やった。彼が如何によろこんだかは、想像出来るであろう。まったく彼は、いくらお礼をいっても、いい足らぬという有様であった。図375は千歳に於る旅館を示す。これはかつて、西海岸から首都へ向う大名と彼の家来とが使用した、旧式の家である。今やその部屋は、稀に来る客以外に、誰も使用しない。屋根の上に並んだ水桶は、煙筒みたいに見えるが、日本家には煙筒は無い。翌朝一行は早く起きた。この日は一回馬をかえて、三十マイル行くのである。私は馬を注意し、伸暢駈足をさせる事にばかり夢中になっていたので、駅から駅の間に何があったか殆どまるで覚えていないが、只正午近くなって、路がより平坦になり、そして砂が多くなって来たので、我々は東海岸に近づいたことを知った。正午我々はトモコマイ〔苫小牧〕と呼ぶ所で海を見た。ここで我々は、歩くことを選んだ佐々木と下男の一人とを待って、長いこと休んだ。私は彼等を浦山うらやましく思い、あるいは全行程を歩いたかも知れぬが、とにかく乗馬をならうにはこの上もない好機会なので、乗らざるを得なかった。図376は苫小牧にある古い旅館で、その屋根には、我々が見る多くの家と同様、草が生えている。屋根に西洋鋸草のこぎりそうその他の雑草や野生の植物が、いい勢で繁茂しているのは、不思議な光景である。海岸で私はアイヌの小屋二、三と眺望とを写生した(図377)。ここではアイヌの漁夫が数名、網をつくり、魚を乾物にしていた。路中いたる所で、我々が逢ったアイヌは、日本人に使われていたが、殊に彼等の馬の世話をしていた。アイヌは馬に乗るのに、胡坐あぐらをかき、鞍の上高くにちょこんと坐る。私の見たアイヌは一人残らず、全速力で馬をとばしていた。

海岸には戎克ジャンクの型をとって造った、長さ二十五フィートの日本の漁船が一艘あった。生地そのままの木材は、清潔なことこの上なく、舳と船尾とに黒色の装飾的意匠がすこしついている。この型の船の奇妙な特徴は、船尾にある舵のための大きな空所で、これは日本の戎克すべてに共通な特異点である。前にもいったが、擢架かいかけはなく、単に短い繩の環が舷から下り、これに擢をさし通す。舳へさきのすぐ内側には、鉋屑を束にしたものが下っている。これは危険を避け、或は幸運を保証する効果を持つと考えられる物であるが、恐らくアイヌの鉋屑の「神棒」から来たのであろう。神道の御幣ごへいは「神棒」から出来たものとされている。この舟はまるで指物細工みたいに出来ていた。合目あわせめは実に完全で、私が注意深く写生せざるを得ぬ程清潔で奇麗であった。図378は船尾から舟を見た所、図379は横から船尾を見た所、図380は舳である。舟には大きな捕魚網が積まれ、潮が満ちて来て浮き上るのを待っている。

沿岸いたる所、間をおいては(というよりも、小さな部落の各々に)、高い竿の上に建てられた、一種の粗末な見張場がある。これは漁夫が遠くの魚群を見たり、夜燈火を燃やしたりするのに使用する。図381は苫小牧にあるこれ等の見張場の一つを示している。一番上の粗雑な小屋がけは、難破船の破片あるいは、海岸に打ち上げられた他の不揃いな材木で、つくったらしく思われる。海岸で見受けるもう一つの特徴ある造営物は、水から舟を引き上げる為の巨大な捲揚機まきあげきである(図382)。

この地方の犬は、二種類にわかれている。その一種は、形も色もエスキモーの犬に似ているが、他の種類は色、形、動作、房々した尻尾等が、殆ど全く狐みたいである。若し狐と犬との混血児をつくることが出来るものならば、この種の動物には確かに狐の血が入っている。どの部落にも一群の犬がいる。夜になると彼等は、猫に似て、猫よりも一層地獄を思わせるような音を立て、甚だ騒々しい。彼等は唸ったり号泣したりするが、決して吠えぬ。ダーウィンは彼の飼馴動物の研究に於て、薫育された状態から半野生の状態に堕落した犬は、吠えることを失い、再び唸るようになると観察した。犬と関係のある野生動物は決して吠えず、唸るだけである。
苫小牧からは、タルマエ〔樽前〕と呼ばれる、奇妙な山が見える。図383はそれをザッと写生したものであるが、これによっても蝦夷の不思議な形をした山の観念は得られる。ここにはアイヌの小舎が何軒かあったが、我々はそれを調べるだけの時間を持たず、その上次の夜の宿泊地はアイヌの村だと聞いていたのでシラオイ〔白老〕へ向って進んだ。路は今や砂浜に沿うており、路それ自身が白くて砂地で、一方には絶間なく打ちよせる波が轟く広々した太平洋、他方には恐らくすべて火山性であろう所の奇異な形をした山々が見える。青色の眼鏡をかけていたにも拘らず、白い砂に反射する太陽はギラギラと目に痛く、数マイル行った時には、馬に乗っていることも単調になって来た。所々にアイヌの家が数軒かたまっていた。ある場所では一人のアイヌが、小さな女の子と男の子と、犬二匹とを連れているのを追い越した。子供達は全裸体で、女の子は頭帯によって包みを背中に負い、男は彼女の手を握って先に立っていた。男がノロノロしていて、女と女の子がすべての仕事をしているのは不思議に思われる。女は皆、見た所どっちかといえば粗野だが、親切で気がよく、態度は極端に遠慮深い。私が見たアイヌ女の殆ど全部は、子供が耻しがる時にするように、頑固に手を口に当てた。上述したように、彼等の口辺は必ず黒い区域で縁どられ、中には腕に、腕環みたいな環を連続的に描いたのもある。彼等がこの着色に使用する材料たるや、鍋の底の煤に過ぎぬことを、私はハッキリと知った。子供達は大きな眼と気持のいい顔を持っていて、欧洲人の子供に非常によく似ているが、極めて臆病で、はにかみやである。見知らぬ人がいると、女は習慣的に手を口に当てる。これは口の周囲の絵具を隠そうとするのだと思って見もするが、彼等にかかるこまかい気持があるとは信じられず、殊に子供迄がこの身振りをするに於ておやである。図384は頭帯で荷物を運ぶ女、図385はアイヌ女二人、図386は子供で、赤い布製の耳飾と、奇妙な形の垂前髪とを示し、図387は三人の子供が坐っている所である。彼等は暗い小舎にいて、我々がいた間、石像のようにじっとしていた。太い黒い毛を頭の周囲で真直に梳くしけずり、頸部で短く切り、耳の上に長く垂らし、前髪を大きく下げる。アイヌのある者の間には、絵に画かれることを恐怖する迷信があるので、私は彼等を写生するのに多くの困難を感じた。それで彼等を写生する時には何か別のことに興味を持っているような真似をし、彼等の注意が他方に向けられている時、チョイチョイ盗見をした。

彼等の小舎は非常に暗く、そしてまた非常にきたならしい。我々が入ると、彼等は我々が周囲を見ることが出来るように、樺の皮を捲いた物に火をつけるが、この照明があっても、細部を見きわめるには、小舎の内はあまりに暗い。図388で私は内部にある色々な品物が、概してどんな風に排列されているかを示そうと試みた。品物といえば、実際数え切れぬ程沢山あった――包、乾魚をまるめた物、乾すためにつるした大きな魚の鰭ひれ数枚、弓、箭筒……。火の上には燻製するために、魚の身がひっかけてあった。寝る場所は部屋の一方を僅か高めた壇で、この壇の上に短い四本の脚のある、蓋つきの丸い漆器があった。これ等の箱は、日本人がアイヌ向きにつくったらしく、どの小舎にもいくつかがあった*。これ等の中にアイヌは宝物を仕舞っておく。

* ピーボディ博物館〔セーラム〕にはこの箱が三個ある。私は老若の著名な日本人に、これを何に使用すると思うかと質ねたら、返事は皆違っていたが、多数は文学的な遊戯に使用する貝殻を入れる箱だろうと考えた。
壁には非常に古い日本の短刀、毒矢を一杯入れた箭筒、及びその他の狩猟器がかけてあった。小舎の内にあるものは、すべて煙で褐色を呈し、屋根や※(「木+垂」、第3水準1-85-77)たるきは真黒である。床は大地そのままだが、坐る時には藁筵わらむしろを敷く。我々が小舎へ入ると、彼等はきっと上の方の※(「木+垂」、第3水準1-85-77)から巻いた筵を取り下し、それを地面に敷いて我々を坐らせた。筵には、茶色と黄色の藁で簡単な模様が細工してある。
アイヌの写生図の多くは、白老でやった。ここには相当大きなアイヌの村がある(図389)。アイヌの家屋は左右同形に出来ていて、畝うねのある藁屋根は非常に清楚で、このもしくさえある。私はアイヌの村をいくつか通りぬけたが、整頓線の形跡を見た事がなく、往来の場所さえもない。狭い、不規則な小径が小舎から小舎へ、草の間を縫っているが、開けひらいた場所もなければ、子供が遊んだと思われるような、地面を踏み固めた場所もなかった。多くの家の周囲には、家を建てた材料と同じ薹すげ、或は蘆を束にした、高い垣根がある。アイヌの家は、六年か七年しかもたぬそうである。部落には家が三、四十軒ある。すくなくとも我々は、この位の人家の村を多く見た。家の多くにはL字形のもの、即ち玄関がついていて、見たところをよくしていた。屋根には、水平の畝をいくつか重ね、別に傾斜の急な棟が一つ、垂直に二フィート近くもつき立った上に丸い棒がのっている物を、構成するような具合に、葺ふいたものがよくある。この棒は棟の底部を横に貫く桁けたに、藁繩で結びつけられることによって、その位置を保っているらしい。この種の屋根は、私が日本で見たもののどれとも、全く異っている。図390は特殊な畝屋根を持つアイヌの家、図391は玄関のある別のアイヌ家屋、図392は玄関を大きく描いたものである。上にのっている熊手は、農業に使用するのではなく、海藻をかき集める粗雑な道具である。戸口から入る光線以外には、たった一つの四角い窓を通じて入るもの丈しかない。一軒の家には窓が二つあり、外側に粗末な板の鎧戸がかけてあった。

これ等の家屋の清楚と一般的な絵画美とは、一歩屋内へ足を踏み込むと共に消失して了い、下には固く湿った地面、上には黒くすすけた※(「木+垂」、第3水準1-85-77)があり、そして強い魚の臭気があらゆる物を犯している。四角な炉の近くには、食事の残りを入れた大きな鉢が置かれてあるが、それは如何なる場合にも、大きな、胸の悪くなるような魚の骨である。彼等の小舎の内で見受けた食物とては、燻した鰭及びその他の魚の身体部をつるした物と、子供の車の輪に似た固い、乾燥した菓子とだけである。この家の一本の棒からは、筵でつくった小鞄と、丸い固菓子と、魚の切身とがつるしてあった(図393)。道具類は大きな漆塗の盃、火にかけた薬鑵、その他若干(すべて日本製)と、アイヌがつくった木の食事椀とであった。図394は炉と、薬鑵を異る距離におく簡単な装置と、貝殻に魚油を入れ、割った棒の上にのせた燈火とを示す。図395は真鯵まあじと鰓えら蓋と鰭とを示し、図396は別の魚の切りようで、串をさし込んで切口を引きはなす。長い条片に切ることもある。図397は魚の頭二つ、その他、並に魚の鰾うきぶくろである。これ等の最後のものは、火の直上にかけてあった。これ等はすべて、屋内にかけ渡した竿からぶら下っていて、火から出る煙が結構それを乾し燻す。だが、時々新鮮な空気を吸うために、逃げ出さねばならぬ程、煙が濛々と立籠める家に住み、そして眠ることを考えて見給え!

小舎の一隅には、「神棒」として知られる、彎曲した鉋屑をぶら下げた棒が、何本かあった。私はその一本を買おうと努力したが、アイヌは金銀の価値をまるで知らず、また事実、最も簡単な算術の知識さえも持っていないので、百万ドル出した所で、それは十セント出したのよりも、一向効果的ではない。小舎の寝台の横には、銀の鞘に入った日本の短刀があった。これ等は全く古く、平べったい、卵形の木の小牌に取りつけてあったが、その小牌の柄にあたる部分には、いろいろの大きさの鉛盤が木に打ち込んであった(図398)。これ等の短刀が、我々が北西地方のインディアンの為に各種の品物を造ると同様に、アイヌ向きに造られたのであるかどうかは、聞き洩した。私と一緒にいた日本人は、これ等の刀は非常に古いものだといった。そしてアイヌ達は、これを非常に尊敬しているらしく見えた。小樽にいた老アイヌは、一本の短刀を袋に入れていた。彼はそれを私に見せたが、最も貴重な品とみなしているらしかった。柄はゆるくてガタガタしていたが、それはこの貴重さに一向影響しないらしく思われた。刀をかけた壁と直角をなす壁には、蓋を下につるして、三つの箭筒がかかっていたが、短刀を支持する木牌の形は、これ等の箭筒から来ている。図399はそれ等を写生したものである。私は箭筒を一つ買おうとした。然し一ドルから五百ドルまで値上をしても、いささかの利き目もなかった。然るに、驚く可し、アイヌは箭筒の一つを壁から外し、矢を一本取出して、注意深く毒を掻き除いた上で、それを私に呉れた。

彼等が乾したり燻したりした魚や魚皮を仕舞っておく納屋は、高さ四、五フィートの柱の上に建ててある。それ等の中のある物には、ニューイングランドの玉蜀黍とうきび小屋が、柱の上に置かれたブリキの鑵で、齧歯類の動物をふせぐのと同様に、柱の上にけばけばしい色の木箱がさかさまにのせてあった。かかる納屋の形式は図400・401に見られる。米を搗き砕く大きな木製の臼が家の内や外にある。図402に示したものは長さ三フィート、木の幹からえぐり出し、彫りぬいたものである。木の幹からえぐり出したアイヌの舟は、私が日本で見たどの「刳舟くりぶね」とも違った形をしていた。図403に示したものは長さ十四フィート、舳も船尾も同じで、船壁は薄く、彼等の材木細工の多くに於るが如く、至って手奇麗に出来ていた。

私がアイヌの写生を沢山した白老で、我々は多くの美しい蝸牛が、藪にくっついているのを見た。一つの種を除いて、他はすべて薄く弱々しかった。淡水貝も同様に薄く、そして陸産貝のある物は、殆ど無色であった。土壌に石灰がないので貝殻が薄いのだとされている。白老を出発した朝、我々は容易にアイヌの部落から我々を引き離すことが出来なかった。草や灌木で殆ど隠されていることもある小径を歩き廻り、ここかしこに、最も不規則な方法に配置されたアイヌの小舎を見出すことは、この上もなく興味が深かった。戸口に坐る老人達は、両手を顔へ挙げ、それを徐々に下げて、鬚を撫でるような身振で、我々に挨拶する。もっとも、子供も同じ身振をするから、これが鬚に全然関係のないことは判る。女の挨拶は、単に自分の鼻の横を、人差指でゆっくりこする丈にとどまる。
若し馬の絵を画くことが出来さえすれば、私は我々一行の興味ある写生をすることが出来たのである。図404は矢田部教授の助手を写生したもので、後から馬で行きながら写生した。彼は植物採集箱や包やをウンと身につけていたが、この写生をして間もなく、馬が突然後脚を空中に蹴上げ、助手先生まっさかさまに大地へ墜落し、重い荷鞍や、ブリキの箱や、包がガランガランと音を立てた。彼は立上り、一生懸命にしっかりした上、アイヌの先達せんだつに助けられて、再び馬に乗った。我々が乗った馬のあるものは、不埓きわまる毛物である。昨日私が最後に乗った馬は、私の身体をひどく痛くしたので、今日出発した時、乗馬する迄に私は十七マイル半も歩いた。路は全距離、海岸に沿うていた。

我々の旅隊は、一人のアイヌによって導かれた。彼は大きな、黒い頬鬚を生やした、毛だらけな男で、頭には直径一フィートの頭髪がある(図405)。頭髪の散るのを防ぐ為、頭に布をまきつけ、着物の背中には奇妙なアイヌ模様が細工してあった。鞍の上に胡坐あぐらをかいた彼は、まるで巨人みたいだった。この男は、馬を連れて帰る為に、一行に加った。彼の馬には、標本、衣類等を入れた例の柳行李を二つつけた馬が結びつけられ、更にこの馬には、我々が札幌で贈られた麦酒の箱をつけた馬が、結びつけられた。麦酒は我々が進行するにつれて、ドンドン減って行った。矢田部、彼の助手、高嶺、佐々木、私……これで馬八頭の騎馬行列が出来上った訳である。

我々はジャガジャガと路を進んだ。全くジャガジャガだったのである。鞦しりがいの木の滑子ローラーやその他をぶら下げているので、白い、砂地の路を、緩急いろいろに馬をやりながら進む我々は、多分の騒音と埃とを立てた。海岸はどこ迄行っても終らぬように思われた。突如、何等明白な理由なしに、八頭の中の三頭が、列を離れて駈け出し、その三頭の中の一頭には私が乗っていた。我々は止めようとしたが、何の役にも立たなかった。佐々木が先頭に立ち、次が高嶺、最後が私、そして騎馬行列の残部は、間もなく遙か後方に、そして見えなくなって了った。移動出来るものは総て脱落した。先ず帽子、次に紐や革紐が切れてブリキの植物採集箱や、袋や、包荷が一つ一つ落ち、道路にはそれ等の品物が、長い距離にわたって散在したが、これは後から来る仲間が、ひろってくれるものと信じた。
私の乗馬術が如何に上達したかは、私がありとあらゆる物につかまることが出来た事実が証明する。即ち木髄製の日除帽子、色眼鏡、火のついた葉巻をさし込んだ葉巻吸口等は、何ともなかった。馬が奔逸する直前に、高嶺が荷鞍の辛さを軽減する目的で、彼の赤いフランネルの毛布を畳んで、尻の下に敷いた。彼は私のすぐ前にいたが、彼が黒髪を風になびかせながら、ポコンポコンと跳ね上っている間に、毛布が解けて、すこしずつ一方にすべり、ついに路に落ちた。もっと馬の経験があれば、私は必ず馬が吃驚びっくりするであろうことを、予期した筈なのである。だが、そんなことをまるで考えぬ私は、高嶺がむき出しの鞍の上でポコンポコンやっているのを、大きに笑っていたのである。と、突然私の馬が、私をもうすこしで大地へ投げつける位烈しく側切れをやった。然しながら、馬の一跳ねごとに、私は僅かずつ、騎座の安定を取り戻した。この無茶苦茶な疾駈は、数マイル続いたあげく、開始の時と同じ様に突然停止した。即ち、路一杯にひろがった馬の一群に追いつくと共に、我々の馬も早速歩き出し、そして彼等の仲間入りをした。我々の馬は彼等と旅行しなれていたので、それ等の臭を認識したのである。
アイヌの駄馬は、実に不確な動物である。話によると、彼等は世界中のどの馬よりも遅く歩くそうだが、私はこいつら等よりも苦痛多く速足したり、また勢一杯疾駈する馬があるとは想像出来ない。もうちっと文明の程度の高い馬で稽古することが出来たら、私の乗馬練習の経験は、もっと気持がよかったろうと思う。図406は、荷鞍をつけた典型的な蝦夷の駄馬である。

モロラン〔室蘭〕に近づくにつれて、土地の隆起の証跡が明瞭に見られた。水に近い崖は、図407に示す如く、数フィートの高さに切り込まれていた。土壌は軽石で出来ているらしく思われたが、これは以前火山性の活動があったことを示している。白老からの長い道中、人家は一軒も見ず、人間の証跡とては、所々に粗末な、荒廃し果てた祠がある丈であった。荒廃はしていても、その前面に花が僅か供えてあるのを見ると、とにかくそれに気をつけている人があることが判る。ざっとした枠構えの下の像は、二個の石から成り立っていて、頭を代表する、より小さい石が、より大きな石の上にのっているに過ぎない。頭には長い糸を両側にたれた、布製の帽子がかぶせてあった(図408)。

室蘭に着く前の景色は実に目をたのしませた。低い山々、海の入江、長い黄色い浜を持つ室蘭湾は、画の主題としては何よりであろう。図409はこの附近の景色を、ざっと画いたものである。室蘭近くに、面白い形の日本家があった。屋根が並外れて高く、その平な屋梁むねには、一面に百合や、鳶尾いちはつや、その他の花が咲いていた。屋根は薄く葺いてあり、軒に近い小屋がけみたいな小屋根には、丸い石がのせてあった*。

* 『日本の家庭』四一図を見よ。
馬で行く内に我々は、二十頭の馬の一群が、路をふさいで進んで行くのに追いついた。我々がそれを追い越す前に、彼等は狭い小径へ曲り込んだ。この方が正規の路よりも、室蘭へは余程近いと聞いて、我々――といっても、仲間より遙かに前進していた矢田部と私とだが――もまた曲り、馬の群に従った。この小径は所々岩が多く、濡れていて、時に非常に急な山の背に達していた。小径は急な崖に沿うており、そしてそれ自身が傾斜している。私は若し馬がすべったら、どんなことになるだろうと考えた。こんな風にして三十分も行くと、我々は樫その他の木の密林をぬけて、尾根の一番高い場所へ出た。日の暮れ方で、気持のいい森の香や手を延して、上から下っている枝で捕えることの出来る奇妙な昆虫や、一列をなしてガラガラ進む変な馬や変な騎手たちによって、私は愉快な一時間をすごし、而もそのどの一分間をも、私は楽しんだ。私が危険に面したのは、只一ヶ所であった。矢田部と私とは、いつの間にか馬群の中にまぎれ込んでいたが、片側が傾斜した岩壁で、片側が急な絶壁という場所へ来た時、一頭の馬が、路の内側を通って私を追い越し、そして列のさきの方の、従来自分がいた位置へ行こうとした。騎手は全力を尽して馬を引きとめようとし、また私も、この馬が鞍にすこぶる大きな荷を二つ積んでいるのを見て、危険をさとり、馬の鼻さきを力一杯ひっぱたいて、ようやく彼を制御した。小径には一列で馬を進める幅だけしか無かったから、私はさきへ急ぐことは出来なかった。若しこの馬の努力が功を奏すれば、私の馬は崖に押し出されて了ったことであろう。我々は全く暗くなってから、室蘭へ入った。ここは美しい入江に臨んで只一本の長い町通があり、四方に丘陵や低い山が見られる。この日我々は三十マイル以上も旅をした。私はその内十七マイル半を歩き、馬に疾走され、その他いろいろな経験をした結果、疲れ果てて早く床についた。
翌朝は大雨。湾を越して森へ行く、汽船が出ぬ(森から函館まで、また馬に乗らねばならない)。この機会を利用して、私は家の内外を写生した。床の中央には、家の前部にも後部にも、砂を充たした大きな四角い構がある。これは炉で、あらゆる物をここで料理する。図410はこの旅籠屋の台所を示す。上方には掛架があり、魚はこれにひっかけて燻す。熱い炭火を中心に、こんなに沢山薬鑵がかたまっているのは、個人の住宅では見られぬ所である。図411は、一番立派な部屋の炉を示す。薬鑵をつるす装置は真鍮で出来ていて、ピカピカと磨き上げてあった。熱い湯を充した銅の箱には、酒の瓶を入れてあたためる。日本の、米製の麦酒は、必ず熱くして飲む。火箸は上部を輪で連結させた形をしている。これは一本を失えば、他の一本が役に立たなくなるからである。旅籠の使用人の多くは男で、その全部が頭髪を旧式な方法で結んでいたが、事実、丁髷ちょんまげをつけていない日本人を見ることは稀である。

反対に東京では、丁髷は、農夫、水夫、漁夫、工匠、老人等にあっては一般的だが、若い人々の間では急速に数が減り、ことに学生は全然洋風の頭をしている。
図412はお客様に差出す浩澣な書付を、一日中忙しく書いている番頭である。書付の長さには吃驚するが、項目を翻訳して貰うに至って、何が一セント半、何が一セントと十分三と聞いて大きに安心し、最後に晩飯、宿泊、朝飯すべてをひっくるめた合計が二十セント足らずであることを知る人は、文句なしに支払いをする。

図413は、命令を聞きに部屋へ入って来る時の、召使いの態度を示す。これに馴れるには長い時間を要したが、今でも私の前で、誰かがこんな風に彼自身を卑しくするのを見ると、私はいやな気持がする。膝をつく本式のやりようは両手を内側へ向けるのであるが、見ていると、そうしない者もよくある。これは握手するのに、左手を出すようなものである。ある大名のお小姓をしていた高嶺氏が、食物をのせたお盆を持って入る、正式なやり方を示して呉れた。両手で盆を目の高さに捧げ、大名に近づくと共に、膝をついてそれを差上げ、然る後膝をついた儘あとびっしゃりをし、立ち上って後向きに部屋から出て行く。

雨に閉じこめられて家にいた間にした写生の一枚は、家族が食事をしている所である(図414)。これは、町を歩いていながら、何百度と見る光景ではあるが、至って興味がある。そのこと全体が、我々がテーブルに向って椅子に坐り、各々前に皿と、ナイフと、フォークとを置くのとは、非常に異っている。ここでは、彼等は床に坐り、横には飯を入れた木製のバケツを置く。飯は木製の篦へらでしゃくい出す。

この小さな室蘭の村に、よく整った消火機関庫がある。図415はその外観をざっと書いたものである。これは道路に面して全部開き、道具はすべて、即座に手がとどくようにしてある。ここに置いてあった物は、布製バケツ二十七、小さい木製バケツ二十、大きなバケツ六、梯子二、竿六、繩、鎖、鉤、長い竿についた提灯二。

消防隊は必ず、長い竿についた提灯をかつぎ廻る。図416は提灯と鉤であるが、鉤は長い鎖のさきについていて、建物を引き倒すのに使用する。人々は、建物が木造で、薄いこけら板か萱葺かやぶきかの最も燃えやすい屋根があるので、火事に就ては非常に注意する。最近、大きな都会では、都市法によって、かかる可燃性の材料を屋根に使用することを禁じた。室蘭では毎夜きまった時間に、長さの異る三枚の樫の板を後に結びつけた子供が、長い往来を歩く。板は彼の一足ごとに、ぶつかり合って大きな音を立てる。彼が歩くと、カラン、カラン、カランと音がする(図417)。これは住民に、火の用心をし、そして火が消してあることを確めよと教えると同時に、この子が義務を果している証拠になる。

日曜日の朝、船が四時に出帆するというので、我々は二時半に起きて朝飯を食い、荷ごしらえをした。船は六時迄、埠頭を離れなかったが、我々は日出前に乗込み、山にふち取られた岸を持つ湾の、この上もなく美しい景色を見た。我々の通る路は、高い崖に沿うていたが、見下す谷の深い闇の中には、鉄工所の火が赤々と燃えていた。太陽は雲のすぐ後にあり、水は穏かで、絵画的な日本人の一群が我々と同じ路を歩いて行った。附近唯一の外国人であることは楽しかったが、事実札幌と、途中で逢ったドイツのお医者様とを除いて、外国人には一人も逢わなかった。図418は船から急いで室蘭を写生したものである。我々が乗った小さな蒸汽船は、日本人で一杯だった。見ていて興味の深い彼等の気持のいい礼譲は、岬を廻って噴火湾へ出れば消えて了うと思っていたが、果して一時間も立たぬ内に、船が激しく揺れ出し、彼等はすべて、ひどく船に酔った。図419は室蘭港から出て来た所にある、岬の輪郭図である。この写生図で、岩が水平線のところで切り込まれていることに気がつくであろう。これは土地が隆起した証跡である。全島火山性で、不安定である。私は汽船から、二、三枚の写生をしたが、私自身の状態が、他の船客のそれに近くなって来たことに気がついたので、ちょっと休むために船室へ下りた。我々の上陸地点、森へ近づいた時、機関の火路が一本破裂して、殆ど火を消しかけた為、しばらくの間、我々は風と波との意のままに、ブラブラした。若し暴風雨が起ったら、我々はどうにもこうにもならなかったであろう。風は強く、雨は降り、そして、こんなに陸地に近くいながら、岸へ着けぬというのは、誠に腹立たしかった。最後に我々は動き出し、正午、森へ上陸した。

図420は、室蘭湾から見たウスヤマ〔有珠山〕の輪郭、図421は継続的に上昇する湯気に、峰をかくされた駒ヶ岳である。この山は函館からよく見える。高さは四千フィートに近く、二十二年前に猛烈な噴火をした。昼飯後駄馬をやとい、矢田部と彼の下男とは駒ヶ岳に登山する為に残り、佐々木、高嶺及び私が前進した。山の支脈や、自然そのままの区域を馬で行くことは、極めて画的であった。山々の峰は霧にかくれ、時々雨が降りそうになった。我々は美しい湖水の横を通ったが、もう二時過ぎで、函館までは三十マイルもあるから、止ることは出来なかった。道路は全距離にわたって修繕中で、我々はしょっ中気をつけている必要があった。森から数マイル行った所で、我々は峠にさしかかった。ここの景色は素晴しかった。ある地点へ来た時、駒ヶ岳のゴツゴツした、円錐形の峰が突如雲を破って聳えた。側面が切り立っているので、峰は高さ十マイルもあるように見えた。しばらく降った雨がやんだので、空気は非常に清澄であった。

間もなく我々は峠の向う側を、調子のいい速歩で下りつつあった。私のすぐ前には佐々木が、固い荷鞍にのって進んだ。私は洋傘のさきを靴にさし込んだら、楽に持ち運び出来るだろうと思って、しきりにさし込もうとしたが、馬が揺れてうまく行かぬ。靴を見るために一方に傾きながら、私はどちらかというと性急に、先端を靴にさし込もうとしたが、どうした訳だか標的を外し、洋傘は馬の腹の下を撲った。馬は即座に側ぎれて、私は頭と肩を打ちながら地面に落ちた。私は只馬の蹄をよけて匐い出し、片足を鐙あぶみから外したこと丈を覚えている。私は馬の右側へ落ち、左の鐙を鞍越しに引きずったのである。目をあけると、佐々木もまた地面にいる。私は彼が私を助けるために、飛び下りたのだと思った。だが、彼の馬もまた側ぎれをやり、彼は荷鞍から投げ出されて、鞍の上にいた時と全く同じく、両膝をついて地面へ落ちたものらしい。まったく馬は、それ程急激に、側ぎれしたのであった。我々の馬は一目散に路を駈け下り、その後から我々もついて行った。若し見失えば、函館まで歩かねばならぬ。だが、間もなく彼等は、谿谷を上って来る馬の一群に出会い、その間へ走り込んだ結果、蹴ったり、鼻を鳴らしたりの大騒動が持上った。それにもかかわらず、我々は馬の中にわけて入り、重い荷にぶつかったり、蹴飛ばされるのを避けたりしながら、ついに我々の二頭をひっ捕えた。佐々木はその後六ヶ月間びっこを引き、私は数週間、左側ばかりを下にして寝た。
四時、峠を下り切った時には、函館の山々がはっきり見えたが、而も函館へ着いた時は、もう真夜中であった。最後の二マイルを、我々は歩いた。馬が路にあるバラ土の積堆や石の上で、一足ごとにけつまずいたからである。歩く我々も、時々路傍の溝の中にいたり、まだならしてない砂利の堆積の上を、四匐いになっていたりした。 
第十四章 函館及び東京への帰還
函館へ帰ってから数回、津軽海峡へ曳網旅行に出かけた。一度は素晴しい弁当、バスのエール〔一種の麦酒〕、その他いろいろなうまい物を持って、一日がかりで出かけた。ある地点で高嶺と私とは、六マイルばかり離れた海角にある古代の貝墟を、歩いて見に行く為に上陸した。我々は遙か向うに我々の小さな蒸気船を見ることが出来たが、目的の海角に着かぬ前に疾風が起り、我々が腕の痛くなる程ハンカチーフを振ったにも拘らず、彼等は我々を見出すことが出来なかった。我々は船が我々を十五マイルの遠方に残して函館へ向うのを、空しく見送らねばならぬ、悲惨な状態に陥った。小さな漁村で、我々は船の上にある御馳走のことを考えながら、一椀の水っぽい魚の羹あつものと、貧弱な米の飯とを食った。ここで土着の鞍をつけた駄馬を二頭やとったが、実に我慢出来ぬ鞍なので、時々下りて歩き、夜に入ってから疲れ切って、びっこを引き引き、函館へ着いた。途中、例の噴火山が非常に立派に見えたが、その輪郭は函館から見るのとまったく違う。噴火口の形は明瞭に見わけられ、斜面は淡褐色で、美しく日に輝いていた。図422はその外見を、簡単に写生したものである。

図423は前面から見た我々の実験所の、又別の写生図である。我々は、海峡を越え、青森から東京迄十二日かかる長い旅に出る準備として、今や荷物をまとめつつある。図424は私が函館へ来てから住んでいる家を示す。隣にはお寺の門がある。人々が礼拝のために門を入ったり、あるいは入口の前を通る人が、祈祷のために頭を下げたりするのを見ては、興味深く感じた。今日私は娘達や子供達がいい着物を着、沢山の花、殊に螢袋ほたるぶくろの一種が町へ運び込まれるのに気がついた。夕方には多くの人が、お寺に入って行った。私も寺の庭に入り、人々が広い段々を登るのを見た。老人や若い人が、先ず荷厄介な木の履物を、段々の下で脱いで上って行くのは、気持がよかった。上へ登り切ると、美しい着物を着た彼等の姿が、寺院内部の暗黒に対して、非常にハッキリ見られた。この光景を楽しみつつ家へ帰るとデンマーク領事のディーン氏が廊下から私に向って、まだまだ見るものは残っている、寺院の裏の丘にある墓地まで行って見給えと叫んだ。寺の構内をぬけて上の方の、高い杉の壮厳な林の中にある墓地までの路は面白かった。ここで人々は死者にお供物を捧げていた。先ず墓石の前の地面を平にし、持って来た奇麗な砂を撒きひろげ、その上に、小さな花生けのように立つ竹筒に、花を入れた物を置くと共に、赤味がかった煎餅若干も置くのだが、中にはとても素敵な御馳走もあった。一人の老婆が祈祷をつぶやきながら、石碑の周囲を平にし、花をいくつか、趣深く配置するのに没頭している。巨木の静寂な影、四角くて意匠の上品な灰色の石、奇麗な蝶々のように飛び廻る美装の子供何百人……それはまことに心を魅するような景色であった。これ等の人々もまた彼等の宗教を持っており、彼等が天主教徒と同様に熱心に祈り、その信仰の程度は天主教徒よりも深くさえあることを発見するのは、興味があった。朝、五時と六時との間に、必ず礼拝が一回行われ、この早朝の弥撒ミサには、老いさらばえた男女が、頑丈な親類の者に背負われて来る。往来では、寺院の前を過ぎると、人々は常に非常に低くお辞儀をし、祈りを唱える人も多い。

蝦夷島を横断して帰って来てから、我々は目ざましい曳網を数回やって、腕足類を沢山集め、その生きた物に就て興味のある研究をした。最終日の曳網には、当局者が大部大きな汽船(図425)を準備してくれ、我々は津軽海峡の、今までよりも遙か深い場所まで出かけた。何から何まで当局者がやって呉れたので、採集に関する我々の成功は、すべて彼等の配慮に原因する。陸路東京へ帰るに際して、私は矢田部教授、佐々木氏、及び矢田部氏の植木屋〔植物園の園丁〕が私と一緒に来、ナニヤ〔?〕、高嶺両氏は新潟で曳網するために日本の西海岸を行き、種田氏、私の従者、及び大学の小使は採集した物を持って、汽船へ帰ることにきめた。面白いことに、これ等の異る目的に行く三艘の汽船が、いずれも八月十七日に出帆した。我々は気持よく海峡を越して、大きな入江へ入った。ここへ入る前に、もう一つの大きな入江の入口を過ぎたが、その上端では更に陸地が見えなかった。海は完全に平穏で、我々は函館から青森までの七十マイルを、一日中航行した。この町は長くて、低くて、ひらべったい。これ等以外に、我々は何も気がつかなかった。翌朝六時、我々は四台の人力車をつらねて、五百マイル以上もある東京へ向けて出発した。十五日はかかると聞いたが、十日間で目的地へ着き度いというのが、我々の希望であった。

所々で我々は、北日本に特有と思われる、奇妙な看板の前を通った(図426)。これは樅もみか杉の枝を結んで、直径二フィートの大きな球にしたもので、酒屋の看板である。「よき酒は樹枝ブッシュを必要とせず」という諺言は、この国でも同様の意味を持っているかも知れぬ〔樹枝は西洋でも酒屋の看板になった〕。第一日は岩の出た山路を越して行くので、我々は屡々人力車夫の負担を軽くする為下りて、急な阪を登った。景色は非常によく、大きな入江や、面白い形をした山々がよく見えた。二日目は、夜に近くなってから、急な山脈を越す為、駄馬に乗った。この距離は十五マイルであった。我々の馬子は老人達で、十五マイルの間、絶間なく仲間同志、ひやかし合ったり、口喧嘩をしたりしていた。これ等の男の耐久力には、東京の労働者のそれよりも、更に驚く可きものがある。彼等はすくなくとも、五、六十歳であったが、最も急な阪路を、ある場所には馬を引張って上りながら、絶えず冗談をいったり、ひやかしたりする程、息が続くのであった。峠の頂上で私は下馬し、素晴しい景色を楽しむために長い間歩いた。ある場所で我々は、底部から八百フィート、あるいは千フィートあるといわれる断崖の上に立った。正面は河によってえぐられ、その河の堂々たる屈曲線は、つき出した絶壁の辺で、我々の足の下にかくされている。我々は凸凹激しく、曲りくねり、場所によっては恐しく急な小径を、馬を引いて下りて来る老盲人に逢った。彼はこの路を、隅から隅まで知っているらしかった。

通り過ぎた家に、奇妙な籠揺籃ゆりかごがあるのに気がついた(図427)。これは厚ぼったい、藁製の、丸い籠で、赤坊は暖かそうにその内へ詰め込まれていた。

山地から我々は長い平地で、いくらかアイオワ州の起伏した草原に似た場所へ出た。世界地図で見ると、日本は非常に小さいが、而もこの草原を越すには、まる一日かかった。村はすくなく、離れ離れに立っていた。我々が通過した部落は、それぞれ特徴を持っていて、ある物は貧弱で、見すぼらしく、他のものは非常にきちんとしていて、裕福らしかった。我々はまた一つの山脈に近づいたが、そこの村の人々は、急な渓流が主要道路の中央を流れるようにしていた。町は奇麗に掃いてあり、所々に美しい花のかたまりや、変った形をした矮生樹が川に臨み、ここかしこには、鄙ひなびた可愛らしい歩橋が架けてあった。平原には高さ十フィートの、電信柱みたいな棒が立っていたが、針金がなく、そして電信柱にしてはすこし間がひらきすぎていた。聞いてみると、これ等は冬、旅人が道路に添うて行くことが出来る為に建てたので、冬には路のしるしがすべて、深い雪の下に埋って了うのである。これは米国でも、場所によって真似してよい思いつきである。最近あった暴風雨が、大部ひどい害をしている。あちらこちらで橋が押流され、地辷りで街道が埋っていた。我々もいくつかの地辷りの鼻を、避けて廻った。ある所では、一部分崩壊した家が、小さな流れと見えるものの真中に建っていた。前にはこれが、烈しい激流だったのである。
朝から夜遅く迄旅行していて疲れたので、あまり沢山写生をすることが出来なかった。福岡という村は広い主要街の中央に小さな庭園がいくつも並び、そして町が清掃してあって、極めて美しかったことを覚えている。この地方の人々は、目が淡褐色で、南方の人々よりもいい顔をしている。子供は、僅かな例外を除いて、可愛らしくない。路に沿うて、多くの場所では、美味な冷水が岩から湧あふれ出し、馬や牛の慰楽のためにその水を受ける、さっぱりした、小さな石槽いしぶねが置いてある。この地方に外国人が珍しいことは、我々と行き違う馬が、側切れしたり、蹴ったりすることによって、それと知られる。古い習慣が、いまだに継続しているものも多い。一例として、我々と出合う人は如何なる場合にも馬に乗った儘で行き過ぎはせず、必ず下馬して、我々が行き過る迄待つのである。最初これに気がついた時、私は馬が恐れるので、騎手は馬を押えているために下馬するのだろうと思ったが、後から、低い階級の人々は決して馬に乗った儘で、より高い階級の人とすれちがわないという、古い習慣があることを聞いた。何人かの人が、路の向うから姿を現すと共に、早速高い荷鞍から下り、そして私が遙か遠くへ去る迄、馬に乗らぬのには、いささかてれざるを得なかった。また私は、只芝居に於てのみ見受けるような、古式の服装をした人も、路上で見た。
稲田を灌漑する奇妙な装置は、図428に示す所のものである。流れの速い川の岸に、水車を仕掛け、それは流れによってゆっくりゆっくり廻転する。車の側面についている四角い木の桶は、流れの中にズブリとつかって水で一杯になり、車が回転すると共に水は桶から、それを向うの水田へ導く溝の中へと、こぼし入れられる。

昼間通過した村は、いつでも無人の境の観があった。少数の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いずれも田畑で働くか、あるいは家の中で忙しくしていた。これはこの国民が、如何に一般的に勤勉であるかを、示している。人々は一人残らず働き、みんな貧乏しているように見えるが、窮民はいない。我国では、大工場で行われる多くの産業が、ここでは家庭で行われる。我々が工場で大規模に行うことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蝋の製造、その他の多くが行われているのを見る。これ等は家族の全員、赤坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁、老婆に至る迄が行う。私は京都の陶器業者に、殊にこの点を気づいた。一軒の家の前を通った時、木の槌を叩く大きな音が私の注意を引いた。この家の人々は、ぬるでの一種の種子から取得する、植物蝋をつくりつつあった。この蝋で日本人は蝋燭をつくり、また弾薬筒製造のため、米国へ何トンと輸出する。昨年国へ帰っていた時、私はコネティカット州ブリッジポートの弾薬筒工場を訪れた所が、工場長のホッブス氏が、同工場ではロシア、トルコ両国の陸軍の為に、何百万という弾薬筒をつくっているが、その全部に日本産の植物蝋を塗ると話した。ここ、北日本でも、同国の他の地方と同じように、この蝋をつくる。先ず種子を集め、反鎚そりづちで粉末にし、それを竈かまどに入れて熱し、竹の小割板でつくった丈夫な袋に入れ、この袋を巨大な材木にある四角い穴の中に置く。次に袋の両側に楔くさびを入れ、二人の男が柄の長い槌を力まかせに振って楔を打ち込んで、袋から液体蝋をしぼり出す。すると蝋は穴の下の桶に流れ込むこと、図429に示す如くである。

北日本の家屋の屋根梁の多くは、赤い百合で覆われている。村を通過しながら、家の頂が赤い花で燃えるようになっているのを見ると、中々美しい。東京附近では、青い鳶尾いちはつがこの装飾に好んで用いられるらしい。高くて広い、堂々たる古い萱葺の屋根が素晴しい斜面をなして軒に達し、その上に赤い百合が風にそよいで並ぶこれ等の屋根が、如何に美しいかは、見たことのない人には見当もつかない。これ等の萱葺屋根の軒には、厚さ三フィートに達するものもよくある。人々の趣味は、屋根を葺くのに、濃色の藁と淡色の藁とを交互に使用することに現れる。軒を平らに刈り込むと、濃淡二色の藁の帯が、かわるがわるに見える(図430)。

昨年私は日誌に、百姓が屋根梁の末端に彼の一字記号をきざみ、それを黒く塗ることを記録した。これはこの優雅に書かれた漢字を見て、自然に推定したことであった。我々が旅行しつつある地方で、同じ字が見られる。矢田部教授は、これが水を意味する支那語〔漢字〕であると語った。彼はこの文字が、火事を遠ざけるという、迷信があるのだろうと考えた。これは或は莫迦気ばかげているかも知れぬが、理解のある人が、ある種のことをいった後で木材を叩いたり、戸の上に蹄鉄を打ちつけたりすることだって、同様に莫迦げている。
馬に安慰を与える為の注意には、絶えず気がつく。我々も真似をしてよい簡単な仕掛は、馬の腹の下に広い布をさげることである。この布はしょっ中パタパタと上下して、最も届き難い身体の部分から、蠅を追い払う。
我々が通りがけに見た漆の樹の幹には、面白く切口がついていた(図431)。人々はここから液を掻いて集めるのであるが、まるで態々わざわざ入墨で飾ったように見える。

道路に添うて政府は、日本の全長にわたるべく電信を敷いている。この仕事を徹底的に行うやり方は、興味が深かった。電柱になる木は、地上一、二フィートの場所で伐らず、根に近く伐るので、底部は非常に広く、そしてこの部分は長持ちさせる為に火で焦す。この広い底部は大地に入って、しっかりと電柱を立て支える。柱の頂点には、雨を流し散らす為に角錐形の樫の木片を取りつける(図432)。

日本の北方の各地で、私は路の両側に、村から相当離れた場所に、大きな老木を頂に持つ大きな塚があるのに気がついた。これ等は村や町の境界を示すのだそうである。また路の所々に、瓜を売る小舎(図433)が建ててあった。瓜は我国のカンテロープ〔真桑瓜の一種〕に似ていない事もないが、繊維がかたく、水分を吸う丈の役にしか立たぬ。もっとも東京附近にある同じ果実は、美味である。これ等の小舎に関する面白い点は、その殆ど全部に人がいないで、値段を瓜に書きつけ、小銭を入れた箱が横に置かれ、人々は勝手に瓜を買い、そして釣銭を持って行くことが出来る! 私は見知らぬ土地を、付き添う人なしで歩く自由と愉快とを味いつつ、仲間から遙か前方を進んでいた。非常に渇を覚えたので、これ等の小舎の一つで立止り、瓜を一つ買い求めようと思ったが、店番をする者もいないし、また近所に人も見えぬので、矢田部が来る迄待っていなくてはならなかった。やがてやって来た彼は、店番は朝、瓜とお釣を入れた箱とをそこに置いた儘、田へ仕事に行って了ったのだと説明した。私はこれが我国だったら、瓜や釣銭のことはいう迄もなし、このこわれそうな小舎が、どれ程の間こわされずに立っているだろうかと、疑わざるを得なかった。

河を渡船で越し、道路に横たわる恐るべき崩壊の跡を数個所歩いたあげく、我々は一つの村へ近づいた。この時はもう暗くなりかけていた。我々は、非常に多数の人々が村からやって来るのに出会ったが、これ等の殆ど全部が酒に酔って、多少陽気になっていた。私は従来、これ程多くの人が、こんな状態になっているのに逢ったことがない。彼等は十数名ずつかたまって、喋舌しゃべったり、笑ったり、歌ったりして来たが、中にはヒョロヒョロしているのもあった。路の平坦な場所は極めて狭いので、多くの場合、我々は彼等の間を歩かねばならなかった。彼等にとっては外国人を見ることは大きに珍しいので、絶間なく私を凝視した。村に着いた時我々は、相撲の演技が行われていたことを知った。群衆がいたのは、その為である。私がこの事を書くのは、天恵多き我国のいずくに於てか、人種の異る外国人が、多少酒の影響を受け、而も相撲というような心を踊らせる演技を見たばかりの群衆の間を、何かしら侮蔑するような言葉なり、身振りなりを受けずに、通りぬけ得るやが、質問したいからである。
一番主な旅籠はたご屋へ行って見たら、部屋は一つ残らず満員で、おまけに村中の、大小いろいろな旅館を、一時間もかかってさがしたが、どこにも泊ることが出来なかった。たった数時間前、二百名の兵士の一隊が到着したばかりで、将校や兵士の多くが旅館に満ちていた。で我々は、一人の村人が村の有力者をさがし出し、我々の苦衷を説明し、何等かの私人的の便宜を見つけて貰う可く努める間、極度に空いた腹をかかえ、疲れ果てて暗闇の中に坐っていた。日本には、外国人が個人の住宅に泊ることを禁じた法律があるので、我々は全く絶望していた。最後に我々が休息していた満員の旅館の、ほとんど向う側にある個人の住宅に、泊めて貰えることになった。美麗で清潔な大きな部屋が一つ、提供されたのである。ここには蚤が全然いなかったが、すでに身体中に無数の噛み傷を受けていた私にとって、これは実に大なる贅沢であった。我々は美味な夜食の饗応を受け、翌朝は先ずその家の主人に、この歓待に対して何物かを受取ってくれと、大きにすすめて失敗したあげく、四時に出発した。村をウロウロしている田舎者以外に、長い行軍の後でブラついている兵隊も何人かいたが、私は敵意のある目つきも、またぶしつけな態度も見受けなかった。私は米国領事から数百マイルはなれた場所に、只二人の伴随者と共にいたのである。
我々が巡った村の一つで、私は何か新しい物はあるまいかと思って、町の後の方へ行って見たら、ある家の中央の炉の上に大きな藁の褥クッションがつるしてあり、それに各々小魚をつけた小さな棒が、沢山さし込んであった。これは、こうして燻製するのである。日本人は燻した鱒ますを好む。そして捕えるに従って、長い、細い竹の串につきさし、それを図434に示すように、褥につき立てる。

鶏卵を、輸送するために包装する、奇妙な方法を、図435で示す。卵を藁で、莢さやに入った豆みたいに包み、これを手にぶら下げて持ちはこぶ。

福岡を出てから我々は、急に登りにさしかかった。事実、我々は高い山脈の頂に達するのに、けわしい阪を登ったのであるが、遂に頂上に来た。ここには傾斜を緩和するために、深い切通きりとおしが出来ている。岩はこの山を構成している、軽い砂岩らしく思われた。切通の写生は図436に示す。岩層は僅か西に傾下し、私が津軽海峡で曳網した「種」と全く同じに見える、貝や腕足類の破片で充ちていた。この堆積は、地質学的には非常に新しいに違いなく、この島の北部で起った変化が、如何に新しく、且つ深甚であったかを示している。この地方は、化石から判断すると、かつて水面下三十尋ひろ、あるいはそれ以上の所にあったので、近い頃の地質学的時代に二、三千フィートも、もち上げられたものである。

我々は狭い町を通って、大きな、そして繁華な盛岡の町へ入った。町通の両側には、どっちかというと、くっつき合った人家と、庭園とが並んでいる。蜀葵たちあおいが咲き乱れて、清楚な竹の垣根越しに覗く。家はすべて破風の側を道路に向け、重々しく葺いた屋根を持ち、町全体に勤倹の空気が漂っていた。この町へ行く途中でエワタヤマ〔岩手山〕又はそれが富士山に似ていて、ナムボーといわれる地方に聳ゆるが故に「ナムボー・フジ」〔南部富士〕と呼ばれる山がよく見えた(図437)。盛岡では河が大いに広く、ここで我々は舟に乗らなくてはならなかったが、舟をやとうのに我々は、河岸にある製材所へ行けと教えられた。事務所は二階建で、部屋やすべての衛生設備は、この上もなく清潔であった。而もこれが、何でもない製材所なのである! 舟と船頭とを雇う相談をしている最中に、実に可愛らしい皿に盛った、ちょっとした昼飯とお茶とが提供された。我々は、盛岡には、ほんの短時間止まり、果実と菓子とを買い込んで、正午、北上川を百二十五マイル下って仙台へ出る、舟旅にのぼった。我々が雇った舟は、去年利根川で見た物とは違い、船尾が四角で高く、舳は長くてとがっていた。図438は舟を写生したもので、一人がこぎ、二人が竿を使い、乗組の四人目は熟睡している。舵は奇蹟によってその位置に支えられる。すくなくとも軸承じくうけは幅僅か三インチで、見受ける所、何にも無いものにひっかかっている。舟の中央部には、藁の筵を敷いた四角な場所があり、ここで我々は数日間食事をしたり、睡眠したりしなくてはならなかった。我々の頭上には、厚い藺いの筵が、屋根を形づくっていた。河は遅緩で、流れも大して役に立たず、おまけに舟夫たちは、気はいいが怠者のそろいで、しょっ中急ぎ立てねばならなかった。

河岸には釣をしている人々がいた。日本人は如何なる仕事をするにも、遊ぶにも、脚を折って坐る癖がついているので、これ等の漁夫もまた、軽い竹製の卓子テーブルを持っていて、岸や川の中でその上に胡坐あぐらをかき、我々は彼等がこの卓子の上にいたり、それを背負って水中を歩いていたりするのを見た。彼等の釣糸には釣針が二つついていて、その一つには囮おとりに使う生魚がつけてある。彼等は魚を市場で生きたまま売るので、釣った魚を入れる浮き箱を持っている。図439は漁夫達のこの上もなく粗末な写生図である。夜の十一時迄我々は、まことにゆるやかではあったが、とにかく水流に流されて行ったが、前方に危険な早瀬があり、かつまだ月が出ないので、舟夫たちはどうしても前進しようとしない。そこで我々は小さな村の傍に舟をつけ、辛棒強く月の出るのを待った。月は二時に登り、我々はまた動き出した。私は早瀬を過ぎる迄起きていたが、そこで日本の枕を首にあてて固い床に横たわり、翌日明るくなる迄熟睡した。図440は舟夫の一人が、布をボネット〔婦人帽の一種〕のように頭にまきつけて、煙草を吸っている所である。ここで私は、蝦夷では、最も暑い日にあっても、田舎の女が青い木綿の布で頭と顔とを包み、時に鼻だけしか見えぬという事実を書いて置こうと思う。図441は別の舟夫である。

翌朝我々は元気よく、夙く起き、そして気持のよい景色や、河に沿うた興味のある事物を、うれしく眺めた。馬の背中や人力車の上で、この上もなく酷い目にあった我々にとっては、こづかれることも心配することもなく漂い下り、舟夫達や、河や、岸や、その向うの景色を見て時間をつぶすことは、実に愉快であった。間もなく薬鑵の湯がたぎり、我々は米と新しい鱒とで、うまい朝飯を食った。図442は船上の我々の炉、図443は舟夫の二人が飯を食っている光景を髣髴ほうふつたらしめんとしたもの。

河上の景色は美しかった。一日中南部富士が見えた(図444)。我々は筵の下でうつらうつらして、出来るだけ暑い太陽の直射を避けた。飲料水とては河から汲むものばかりで、生ぬるくて非常にきたなかった。図445は船尾から見た我々の舟である。帆は上述した通り、かなりな間隙をおいて布の条片をかがったものであること、写生図の如くである。この河の船頭の歌は、函館の船歌によく似ている。図446は、フェノロサ教授が、その歌を私の為に書いてくれたもので、最初の歌は函館の歌、次の節は北上川の舟夫が歌う、その同質異形物である。時々舟乗が魚を売りに来たが、取引きをしながら、我々は一緒に、下流へ押し流される。図447は、我々の舟の舟夫が漕いだり、竿で押したりしている所である。図448は、航行三日目における舟夫の一人を写生したもの。丁髷ちょんまげが乱れて了い、彼はそれを、頭のてっぺんで束にして結んだ。剃った脳天と顎とには、新しい毛がとげのように生え、鼻は日に焼けて非常に赤い。彼は上陸すると先ず床屋を見つけ出し、剃刀かみそりを当てて貰い、丁髷の復興建築を行うことであろう。図449は河舟の別の型式で、底が平く、船尾は広い荷船である。この舟は溯行中で、船尾の下にいる男は、舟を砂洲から押し出しているのである。

ある場所で我々は絶壁の下で太陽が照りつけるのもかまわず、陸産の螺にしをさがす為に上陸し、そして短い間に、我々がそれ迄に採集したことのない新種を八つ見つけた。このような絶壁に、漁師は屯所を設ける。この屯所に使用する小舎(図450)は、河から三十フィート高い所にあり、漁夫は長い繩で網を引上げ、魚が入っているか否かを見る。実にお粗末極まる小舎にまで、梯子はしごがかけてある。図451は網の一つの形式を示す。河の全長にわたって、このような漁屯所が見られる。

仙台湾に近づくにつれて、河幅は広くなり、流れはゆるく、きたならしくなった。航行の最後の日には、水を飲むことが容易でなかった。沈渣おりが一杯入っていたからである。河岸では人々が、布や、自分等の身体やを洗っていた。烏が如何に人に馴れているかを示す、小さな写生図が一つある。女が一人、舷によって、見受けるところ魚を洗っていたが、そこから数フィートはなれた所に烏が一羽、舷にとまって、女のすることを見ていた(図452)。河口に近づくと、風が吹き上げ始め、舟夫は岸へ上って数マイル間舟を曳いた(図453)。これをやるのに彼等は檣マストを立てそのてっぺんに繩を結びつけ、そして舟を引張った。舟夫の一人は舟に居残り、長い竿を使用して、舟が岸にぶつかるのを防いだ。三日間も船中に立て籠り、その間の多くを居眠りしたり寝たりしたというのは、まことに懶惰なことであった。写生図454では、一行中の一人が、蚊をよける為に、顔に紙をかぶせている。

このような緩慢な河旅を数時間続けた後に、我々は時間を節約するため、最初の村で上陸し、仙台まで人力車で行くことに決定した。これは結局よいことであった、というのは、我々が入り込んだ村では、外国人を見る――もしそれ迄に外国人が来たとすれば――ことが非常に珍しいに違いなかった。人々は、老幼を問わず、大群をなして我々の周囲に集り、我々が立ち寄った旅籠屋では、庭を充し、塀に登り、まるで月の世界からでも来た男を見るように、私を凝視した。時に私は彼等に向って突撃した。これは勿論何等悪意があってやったのではないが、彼等は悪鬼に追われるように、下駄をガラガラいわせて四散した。我々が人力車で出立した時、彼等は両側に従って、しばらくの間、最大の好奇心と興味とを以て私を眺めながら、ついて来た。
私は我々が通過した町々の建築法に、非常な変化があり、家の破風はふ端に梁が変な具合に並べてあるのに気がついた。図455に示したものは典型的で、スイスの絵画的な建築を思わせた。自然そのままの木材は、いう迄もなく、年代で鼠色になっていた。我々は非常な勢で走って来たので、ゆっくり写生するだけの時間が無かったが、街道いたる所の家に美事な木細工がしてあるのには注目した。一階の上にある長い張出窓には、図456に示すように、松、竹、その他をすかしぼりにした繊美な木細工が、ちょいちょい見られる。

我々が通過した村々のある物の主要街路は、殆ど完全に筵で敷きつめられ、その上で人々が藍の葉を乾していた。女や子供は、手を青く染めながら、他の人々が持って来る藍の小枝から葉をむしっていた。路にはこれ等の筵や葉が一杯なので、我々の人力車はその上を走って行った。仙台が近くなると、車夫は目を覚ましたらしく、前より更に速く走った。道路もよくなり、舟旅の緩慢な単調の後でこのように速く動くのは、実に気持がよかった。村へ来ると車夫は気でも違ったかの如く疾駆し、路をあけろと絶叫するので、村民たちはどんな見世物があるんだろうと思って、一人残らず往来へ走り出る。彼等は米国人に負けぬ位、好奇心が強い。葉巻の吸殻を投げ棄てると、誰かがきっと拾い上げ、それが如何にして出来ているかを見る為に、やぶいて見る。
図457は高さ三フィートの奇妙な扇で、米から塵を煽ぎ出したり、あるいは穀物から籾殻もみがらを簸あおりわけたりするのに使用する。一本の竹でつくった縦の柄を握り、鞴ふいごを使う時みたいに両手を左右に動かすと、蝶々の翅はねに似た形の扇が開いたり閉じたりする。

人力車は一人乗りで狭く、そして背が高くて頭重だから、乗っている人は、しょっ中均衡に注意していなくてはならぬ。ひっくりかえることを恐れて、居眠りも出来ないのは辛い。私の前には美しい寛衣を着た坊さんが、頭を低く垂れて、眠ながら人力車に乗って行った。私は彼が必ずひっくりかえるだろうと思い、すっかり睡気をさまして一マイル以上も見つめていたら、果して彼はすってんころりと、路傍の湿った溝へころげ落ちた。車夫もまたころんだが、すぐはね起き、帽子をぬいで何度も何度も頭を下げて謝った。私は堪えられなくなって笑った。坊さんは私を見て、同情して笑った。
午後になって我々は、その夜仙台に着くことが困難であることを知ったので、有名な松島でとまった。再び塩風に当ったのは気持がよかった。干潮時だったので、海岸は海藻で覆われ、その香は心地よかった。我々は一部樹木にかくされた岬の上にある、奇麗な小旅館でとまった。松島へ入る前、道路は崖について廻るが、この崖には以前の海蝕の跡をとどめた大小の洞穴が、沢山あいていた。この摩滅作用は、非常に不思議である。岩の上層がより低い部分の上にのしかかること、雪の吹寄せのある形式に似ていた。図458はこのような岩が、海陸――仙台湾にはここに書いたような岩が何百となく存在する――を問わず装う形態の、かなり代表的なものである。島のあるものは長さ二十フィートに足らぬが、水面から二十フィートも聳え、そして面積も余程広いものもある。これは最も特殊な事実で、大がかりな侵蝕と、新しい隆起とを示している。

翌朝我々は暗い内から起き、九時頃仙台市へ着いた。雑鬧ざっとうする町々を人力車で行ったら、一寸東京へ帰ったような気がした。随行者の二人を採集するために松島へ残し、矢田部と私とは、東京へ向けての長い人力車の旅に登った。我々は身軽くする為に、出来るだけ多くの物を残し、人力車一台に車夫を二人ずつつけた。矢田部は東京へ電報を打とうとしたが、私人からの電報はすべて禁止されていると知って、大きに驚いた。何故こんな告示が出たのか、いろいろ聞いても判らぬので、彼は大きに心を痛めた。東京で革命が勃発したのか? 反外国の示威運動があったのか? 何事も判らぬままに、我々は東京迄陸路二百マイルの旅に出た*。この電報の禁止以後は、通り違う日本人がすべて疑い深く、私の顔を見るように思われた。仙台を出て二時間行った時、我々は間違った方向へ行きつつあることに気がついた。このひどい間違いのために、我々は仙台へ立ち戻り、半日つぶして了った。ここで食事をし、新しい車夫を雇って夜の十時まで走り続け、藤田へ着いた。旅館はすべて満員で、我々はあやしげな旅籠屋へ泊らねばならなかった。貧弱な畳、貧弱な食物、沢山あるのは蚤ばかり。それでも我々は苦情をいうべく、余りに疲れていた。
* 東京へ近づいた時、我々は東京の兵営で反乱が起ったことを知った。それで電報を禁じたのである。
翌日は白河まで七十マイル行かなくてはならぬ。そうでないと、その次の日、宇都宮へ着くことが出来ない。それで我々は日出前に出発したが、夜になる前、すでに我々はしびれる程疲れ切っていた。私は昼、何かを食うために、非常に奇麗な茶店にとまったことを覚えている。後の庭は奥行僅か十フィートであったが、日本人が如何に最も狭い地面をも利用するかを、よく示していた。我々が休んだ部屋から見たこの狭い地面は、実に魅力に富んだ光景であった。灌木は優雅に刈り込まれ、菖蒲は矮生に仕立てられ、ここかしこには面白い形の岩が積まれ、小さな常緑樹と日本の楓とが色彩を与え、全体の効果が気持よかった。午後中我々は旅行した。そして七時、我々はこれ以上行くことが不可能と思われる位疲れていたが、それでも飯を腹一杯食って、また次の駅へ向けて出発した。夕方の空気の中を行くことは涼しくて気持よく、また夜の村をいくつもぬけて、再び広々とした田舎の路に出るのは興味があった。この夜白河へ着くことが出来さえすれば、次の夜には宇都宮へ着くことが出来、宇都宮からは東京まで駅馬車がある。
十時、白河の町に近づいた時、路に多数の人がいることによって、我々は何か並々ならぬことが行われつつあるのを知った。町へ入って見ると建物は皆、提灯その他いろいろな意匠の透し画で照明されていた。旅館はいずれも満員で、我々は十時半にやっとその夜の泊を見出したが、この宿屋も満員で、また往来はニコニコして幸福な人々でぎっしり詰っていた。十一時、大行列がやって来た。人々はいずれも色鮮かな提灯を、長い竿の上につけたり、手に持ったりしていた。この行列が隊、あるいは集団から成立していた点から見ると、これ等は恐らく各種の職業、あるいは慈善団体を代表していたのであろう。一つの群は赤い提灯、他は白い提灯……という具合であった。最も笑止なのは、場合によっては長さ三十フィートもある、竹竿の上につけた提灯を持って歩くことで、持っている人はそれを均衡させる丈に、全力を傾け尽すらしく思われた。彼等は一種の半速歩で動いて行き、皆「ヤス! ヤス!」と叫んだ。
行列の真中には、十数名の男が肩にかつぐ、飾り立てた華蓋はながさがあった。これを運ぶのに、如何にもそれがいやいやながら運ばれるかの如く、男達のある者は冗談半分、引き戻そうとして争うらしく思われた。この景色は到底写生出来なかったが、読者は広い道路、両側に立並んだ低い一階建の日本家屋、軒の下の提灯の列、感心している人々で一杯な茶店、三味線や笛を奏している娘達、速歩で進む行列、高さ十五フィートの竿の上で上下する提灯、時々高さ三十フィートの竿についた提灯の一対……それ等を想像すべきである。それを見ている、唯一の外国人たる私に、過ぎて行くすべての人が目を向けたが、この大群衆中誰一人、私に失礼な目つきをしたり、乱暴なことをしたりする者はなかった。
翌朝我々は蝋燭の光を頼りに出発した。正午、我々は鰻のフライ〔揚物〕で有名な場所で休息し、美味な食事をした。午後我々は雨で増水した利根川を渡ったが、渡船を待つ間、渡船場の下流の、広い砂地が川に接した場所に、日本人の一群がいるのに気がついた。数時間前、徒渉しようとした男が溺死し、今や彼等は見つけ出した死体を、運ぼうとしつつあるとのことであった。私は群衆の中に入って行った。例の大きな木製の桶があり、火葬場へ持って行く死体が内に入っている。横では一人の女が、深い悲嘆にくれて泣いていた。数名の男が線香をたき、奔流、不毛の砂地、空を飛ぶ黒い雲等が、陰鬱な、心を打つような場面を形成していた。私が突然彼等の間に出現したのは、まるで幽霊みたいだったので、彼等は皆、私が雲から墜ちて来たかの如く私を見た。船が着いたので、私は渡船場へ急いだ。やがて雨が降り始め、午後中降り続いた。
晩の七時頃、我々は東京から六十七マイルの宇都宮へ着いた。ここは私が七月に東京を出てから、初めて見る馴染なじみの場所なので、家へ帰ったような気がした。去年日光へ行く途中、我々はここで一晩泊ったが、今度も同じ宿屋に泊り、私は同じ部屋へ通された。最初にここを訪れてから今迄の短い期間に、米国へ往復し、蝦夷へ行き、陸路帰り、そして、日本食を単に賞味し得るのみならず、欲しい物は何でも日本語で命令することが出来る位日本料理に馴れ、おまけにあらゆる物が全然自然と思われる程、日本の事物や方法に馴れたということは、容易に理解出来なかった。
駅馬車は翌朝六時に出発した。乗客はすべて日本人で、その中には日光へ行き、今や東京の家へ帰りつつある二人の、もういい年をした婦人がいた。彼等は皆気持がよく、丁寧で、お互に菓子類をすすめ合い、屡々路傍の小舎からお茶をのせて持って来る盆に、交互に小銭若干を置いた。正午我々は一緒に食事をしたが、私は婦人達の為にお茶を注いで出すことを固執して、大いに彼女等を面白がらせた。また私は、いろいろ手を使ってする芸当を見せて、彼等をもてなし、一同大いに愉快であった。この旅館で私は婦人の一人が午後の喫煙――といった所で、静に三、四服する丈だが――をしている所を写生した(図459)。この図は床に坐る時の、右足の位置を示している。左足はそのすぐ内側にある。足の上外部が畳に接し、人は足の内側と、脚の下部との上に坐る。

図460は宇都宮の旅館の後の庭にあるイシドーロー、即ち石の燈籠である。上部は一個の石塊から造り出し、台も同様で、木の古い株を現している。生えた苔から判断すると、この石燈籠は古いものである。我々は日本の町や村の殆ど全部に、美事な石細工、指物細工、その他の工匠の仕事があるのに驚く。これは彼等の仕事に対して、すぐれた腕を持つ各種の職業に従事する人々が、忠実に見習期間をすごして、広く全国的に分布していることを示している。

昼、我々はまた利根川に出て、大きな平底船で渡り、再び数マイルごとに馬を代えながら、旅行を続けた。東京へ近づくにつれ、特にこの都会の郭外で、私は子供達が、田舎の子供達よりも、如何に奇麗であるかに注意した。この事は、仙台へ近づいた時にも気がついた。子供達の間に、このような著しい外観の相違があるのは、すべての旅館や茶店が女の子を使用人として雇い、これ等の持主が見た所のいい女の子を、田舎中さがし廻るからだろうと思う。彼等は都会へ出て来て、やがては結婚し、そして彼等の美貌を子孫に残し伝える。これはすくなくとも、合理的な説明であると思われる。 
第一五章 日本の一と冬
我々は夕方の七時頃東京へ着き、私は新しい人力車に乗って、屋敷へ向った。再び混雑した町々を通ることは、不思議に思われた。私は何かと衝突しそうな気がして、まったく神経質になったが、馴れる迄には数日かかった。私は十一日にわたって、ニューヨークからオハイオ州のコロンバスへ行く程の距離の、長い田舎路を旅行し、而もその半分以上は日本人の伴侶只一人と一緒にいた丈であるが、遙か北方の一寒村で、老婆が渋面をつくったのと、二人の男が私を狭い路から押し出そうとしたのとを除いて、旅行中、一度も不親切な示威運動に出喰わしたことがない。この後の方の経験は全く自然なもので、田舎の路を歩いている二人の紳士が、向うからやって来た支那人の洗濯屋に、溝の中へ押込まれることを許さぬというようなことは、我国でもよく起るであろう。私は同伴者より半マイルも前方で、山の輪郭を写生しながら、狭い路の真中に立っていた。二人の男は私を外国の蛮人と認め、私もまた争闘を避けるためには、私自身を蛮人とみなして、横へ避るべきであったかも知れぬ。だが、彼等が明かに私をやっつける気でいることが見えたので、私はがんばった。そして、今や私につき当ろうとする時になって、彼等は両方に別れ、私に触れさえもしなかったが、彼等が過ぎて行く時、私は多少心配をした。
指や趾あしゆびの名前を聞いて知ったことだが、日本には「足の指」という以外に、趾を現す言葉がない。拇指は「大指」又は「親指」、食指は「人を指す指」、中央指は「高い高い指」、指環指は「薬指」又は「無名指」と呼ばれる。そして小指は、我々と同じく「小さい指」という名を持っている。スペイン語でも第三指、即ち指環指は「薬の指」というが、これはこの指が他に比して柔かいので、目に薬を塗ったり、目をこすったりするのに、十中八、九、この指を使用するからである。私が調べた僅かなインディアン語彙によると、趾は「足の指」と呼ばれる。歯もまた名前を持っている。門歯が「糸切歯」と呼ばれることは、日本の婦人達が我国の婦人達と同じ悪習慣を持っていることを示している。犬歯の日本語は「牙」である。臼歯は「奥歯」といい、智慧歯を「親無し歯」〔親知らず〕というのは、これが大抵、両親の死後現れるからである。眉は「目の上の毛」〔?〕、睫毛まつげは「松の毛」という。頸は「頭の根」〔?〕と呼ばれる。踝くるぶしと手頸とを区別する、明瞭な名は無く、脚と手との「クビ」で、踝の隆起点は「黒い隆起」〔クロブシ〕と呼ばれる。これは素足でいる日本人にとって、この場所が一番初めによごれが目立つからである。むかはぎは「ムコーズネ」と呼ばれ、日本人はここを撲られると、ベンケーでも泣き叫ぶという。弁慶は非常に強い男であって、彼の力に関する驚嘆すべき話がいくつもある。
先日日本人の教授夫妻が私の宅を訪問し、私は細君に頼んで写生することを許して貰った。この写生図の顔は、彼女の美貌を更に現していない(図461)。また私は日本の赤坊が熟睡しているところを写生することが出来た。

人は市場を何度も訪れて、そしてそれ迄に気のつかなかったことに気がつく。何から何まで芸術的に展示してあることと、すべてがこの上もなく清潔なことには、即座に印象づけられる。蕪や白い大根は、文字通り白くて、ごみは全然ついていなく、何でも優美に結ばれ、包まれている。隠元豆は、図462に示すように、藁でしばって小さく捆(か)らげる。

機械的の玩具は、常に興味を引く。構造はこの上もなく簡単で、その多くは弱々しく見えるが、而も永持ちすることは著しい。図463の鼠は、皿から物を喰い、同時に尻尾を下げる。横にある竹の発条ばねは、下の台から来ている糸によって、鼠に頭と尾とを持上げた姿をとらせているが、発条を押す瞬間に糸はゆるみ、頭と尾が下り、そして頭は皿を現す小さな竹の輪の中へ入る。鼠には色を塗らず、焦がした褐色で表面をつくってある。日本人はこの種類の玩具に対する、非常に多くの、面白い思いつきを持っている。それ等の多くは、棒についていて糸で動かし、又は我国の跳びはね人形のように動く。

玩具や遊戯の多くは、我国のに似ているが、多くの場合、もっとこみ入っている。一例として綾取あやとりをとれば、そのつくる形は、遙かに我々以上に進む。日本人は紙で種々なものをつくるが、それ等の多くは非常に工夫が上手である。普通につくられる物はキモノ、飛ぶ鷺、舟、提灯、花、台、箱であるが、箱は、我々が子供の時、捕えた蠅を入れるためにつくった物とは、全く相違している。
鳥、殊に烏が如何に馴れているかを示す事実が、もう一つある。私の車夫が人力車の後に灯をぶら下げておいた所が、人力車から三フィートとは離れていない所で私が外套を着ているのに、烏が一羽下りて来て、車輪にとまり、紙の提灯に穴をあけてその内にある植物性の蝋燭を食って了った。私は烏にそれをさせておいた。このような経験をする為には、百個の提灯や百本の蝋燭の代価を払ってもよい。烏は実際街頭の掃除人で、屡々犬と骨を争ったり、子供から菓子の屑を盗んだりする。日本の画家は、行商人が頭に乗せた籠から魚をさらって行く烏を描いた。烏は不親切に取扱われることがないので、非常に馴れている。まったく、野獣もすべて馴れているし、家畜は我国のものよりもはるかに人に馴れている。
昨今(十一月)子供達は紙鳶たこをあげ、毬まりあそびをし、独楽こまを廻している。彼等は我国の男の子達と同じ様に、木製独楽に戦いをさせるが、形は図464に示すように、我々のとは違っていて、そして他人の独楽を裂こうとする代りに、どの一つかが回転を止める迄、独楽同志を押しつけ合せる。毬遊びは、毬を地面にぶつけ、それを手の甲で受けて再び跳ねかえらせ、この事を最も多くやり得る者が勝つ。

男の子供は、我国のと同様、棍脚たかあしに乗って歩くことが好きである。棍脚はチクバと呼ばれるが、これは文字通りに訳すと「竹馬」である。子供の時からの友達のことを「チクバ ノ トモダチ」即ち「棍脚友」という。図465は棍脚の二つの型を示しているが、その一つは紐で二つの木片を竹に縛りつけたものである。足をのせる部分は、足に対して直角でなく、縦についているから、足の裏が全部それに乗る。もう一つのは全部木で出来ていて、これは数がすくない。棍脚の高さは四、五フィートに達することもあり、子供達は屡々片方の棍脚でピョンピョンはねながら、他の棍脚で敵手を引き落そうとして、盛な競争をやる。

十一月二十二日。我々は再び大森の貝塚へ、それを構成する貝殻の各種を集めに行き、次に海岸に打上げられた生きた標本を集めに行った。両者を比較するためである。すでに私は貝殻の大きさのみならず、釣合にも相違のあることに気がついていた。二枚貝の三つの種(
Arca granosa, lamarckiana, ponderosa
)は、いずれも帆立貝みたいに、放射する脈を持っているのだが、それ等は貝塚に堆積された時よりも放射脈の数を増し、バイの類のある種(Eburna)の殻頂は、現在のものの方が尖っているし、他の種(Lunatia)は前より円味を帯びている*。
* これ等、及びその他の相違は私の大森貝墟に関する報告の中に発表してある。貝殻の変化に関する観察の部分はダーウィンに送ったが、それに対して彼は、「全有機世界は何という間断なき変化の状態にあるのだろう!」と返事をした。(『続チャールス・ダーウィン書簡集』第一巻三八三頁)
鉄道軌道を歩いている内に我々は、日本の労働者が地ならしをするのに、シャベルや鉄棒の一振りごとに歌を歌うことを観察した。日本人はどんな仕事をするのにも歌うらしく見える。
我々は有名な料理屋へ昼飯を食いに行った。私の日本人の友人たちは、美しい庭園にある石碑の文句を訳すのに、思いまどった。矢田部教授はそれが大体に於て「梅の花の香は、書斎でインクの流走を起させる」という意味だといったらよかろうといった。つまり、花の香が詩人に詩を書かせるということである。このような日本、あるいは支那の古典から取った題句の多くが、家にかけてある額や、庭園の石に見られる。これ等を飜訳すると、我々には何だか大したものでないように思われるが、而も日本人は、それ等が書かれた漢字は、彼等には更に意味が深く、その精神は飜訳出来ないのだと固執する。私と一緒にいた学生達は、この題句を英語に訳そうと試みたが、非常に困難であることを発見した。彼等の一人は、次のようなものをつくり上げた――「梅の香は、人々が白い紙を仕舞っておく部屋でインクが流れるのに似ている」。矢田部夫人が私の書画帖に、支那の古典から取った趣情句を書いてくれた。これは非常によく出来ているとのことである。図466はそれ等の文字の引きうつしであって、「春、我々は花を愛して夙く起き、月を讃美して我々は夜遅く寝る」。

マカロニ〔西洋うどん〕の看板(図467)は、一枚の板の下に、房のように紙片がさがった物である。マカロニは蕎麦そばで出来ていて、汁と一緒に食うと非常にうまい。糊の看板は円盤で、その上に糊を表す字が書いてある(図468)。米国と同様、糊は売買されるが、日本人はより多い目的にこれを使用する。

昨今(十一月の終)は、木を動かす季節だと見えて、往来でよく木を動かす人々を見受ける。私はそれを扱うのに三十人も要する大きな木を見た。立木は何回もくりかえす移植に耐えるらしく、転々と売られては、図469に示すようにして、何マイルもはこばれて行く。

寒さが近づくにつれて、人々は厚い衣服をつけるが、下層階級の者はすべて脚と足とをむき出し、また家も見受ける所、みな前同様にあけっぱなしである。地面には霜が強く、町に並ぶ溝は凍りついているのに、小さい店は依然あけっぱなしであり、熱の唯一の源は小さな火の箱即ちヒバチで、人々はその周囲にくっつき合い、それに入れた灰の中で燃える炭に、手を翳かざしてあたためる。人力車夫が何マイルか走って、汗をポタポタたらしながら、軽い毛布を緩ゆるやかに背中にひっかけ、寒い風が吹く所に坐って、次のお客を待つ有様は、風変りである。人は誰でも頭を露出して歩く。彼等は帽子をかぶることに馴れていないので、学生も帽子をかぶって人を訪問し、帰る時にはそれを忘れて行く。そして一週間もたってから取りに来るが、これによっても、彼等が如何に帽子の無いことを苦にしないかが判る。寒い時、男は、綿をうんと入れた、後に長い合羽のついた、布製の袋みたいなものをかぶる。見た所、それは袋に、顔を出す穴をあけたようである(図470)。我国でも男の子達は、梳毛糸ウォーステッドでつくった、同じような物をかぶる。温い衣服に着ふくれた子供達は、滑稽である。外衣には厚く綿が入れてあり、袖は手が完全にかくれる位長く、支那の衣服に似ている。婦人達は長さ一ヤード四分一の布の一片でつくった、非常に似合う帽子フードをかぶる。それは図471の如く畳み、Aで縫いつけてあるが後は開いており、内側のBの所にある長い環を耳に引っかけてそれを前方に引き下げ、顔はDにあらわれる。二つの懸垂物EEは頸の後に廻し、前で結ぶ。これは非常に容易に身につけられ、我国でも鑑賞される可き装置である。普通紫色の縮緬ちりめんで出来ていて、これをかぶっていると、十人並以下の女でさえ、美しく見える。図472はこの帽巾フードをかぶった婦人を示す。

昨日今日市場に出ている蜜柑みかんは、すべて我々がタンジェリン〔モロッコの港市ダンジール産のもの〕と呼ぶ変種で、皮は非常に薄くて容易にむけ、房は殆どバラバラに散る。房が中心で出会っていないので、蜜柑のある物は皮ごしに中心を覗き見ることが出来る。大きさは英国の胡桃くるみ位の物から、我国の普通のオレンジ位のものに至る迄、いろいろある。小さい方には種子が無く、非常に大きいのはうまくなくて、装飾として用いられる。蜜柑を進物とする時には、竹製のすかし籠に、非常に奇麗に詰める。これ等の籠には竹の脚が三本ついており、また竹の条片は蜜柑から二フィートも上るまで延びていて、そこで二つの竹の輪によって、一緒にされる(図473)。上には常緑樹の小さな枝をのせ、緑の竹の繊美な薄板の間から蜜柑の濃い色をのぞかせた、かかる典雅な蜜柑容器を、趣深く並べた店は、誠に美しい。蜜柑を切る、面白くて、また解するに苦しむような一方法は、図474で示してある。図475はその半分を、末端から見た所で、点線は切りようを示す。皮がやわらかで、且つ離れやすいから、これをやるのはそれ程六つかしくないが、而も我国では、友人の一人が、あの皮の固いオレンジでこれをやった。

遊戯は我国に於ると同様、時季に適かなっていて、只今の所では紙鳶あげ、独楽廻し、追羽子おいばねが最もよく行われる。歩いていても、車に乗っていても、よく羽子板で叩かれるが、必ず微笑と謝罪の言葉とがそれに伴う。道具は我々のとは違っている。羽子板は板で出来ていて、その一面には有名な英雄か、あるいは俳優に主題をとった、色あざやかな縮緬のこみ入った押絵がある。羽子板のある物の装飾は、非常に数奇をこらしてある(図476)。羽子はソープベリイ〔米国産無患子の一種〕の種子(ムクロジ)で出来ていて、その一端では五本の羽毛が羽冠を形成する。これ等は五個を一組とし、竹のへげにはさんで売られる(図477)。これ等を売る店では、目もくらむばかりに美しく羽子を展観し、店外には普通、看板として大きな羽子板が出してある。図478は、幸運の神ダイコクである。これは金銀の糸を織り込んだ、美しい色の錦繍の布地から出来上っているが、非常に安い玩具なので、粗末につくってある。図479は、追羽子をしている女の子の態度である。我々の羽子板は、サム、サム、サムという音を立てるが、日本のは固い種子を木の羽子板で打つので、クリック、クリック、クリックと聞える。

今月(十二月)は、各所の寺院の近くで、市がひらかれる。売買される品は、新年用の藁製家庭装飾品、家の中で祭る祠、子供の玩具等である。大きな市はすでに終り、今や小さい市が、東京中いたる所で開かれる。このような屋外市につどい集る人の数には、驚いて了う。我々は屋敷から余り遠くないお寺で開かれた市に行って見た。路の両側には小舎がけが立ち並び、人々はギッシリつまり、中には買った物を僧侶に祝福して貰うべく、それがつぶされるのを防ぐ為に、頭上高くかかげてお寺へ向う者も多い。このような祭で売られる物が、すべて子供の玩具か、宗教的又は半宗教的の装飾物か、彼等の家庭内の祠に関係のある物かであるのは、興味が深かった。米国から来る新聞に、宣教師達が寄稿した、寺院は荒廃し、信仰は死滅しつつあるという手紙が出ているのを読み、そこで寺院に毎日群衆が参詣し、寺院は瓦を葺きかえられ、修繕され、繁栄のあらゆる証拠を示しているという実際の事実を目撃する時、私はこんな虚偽の報告に、呆れ返って了う。
新年用の装飾品は稲の藁で出来ていて、いろいろな方法にひねったり、編んだりしてある。それ等を家の入口の上と、家庭内の祠の上とにかける慣ならわしがある。意匠の多くは美しく、そのある物は構造上に多分の手並を示している。最も意匠が美しくまた最も普通なものの一つは、図480に示したものである。現物は長さ二フィート以上、下に下った部分は三フィートもあった。捲いた場所は舟を現しているらしいが、若し然りとすれば、この舟の積荷は、稲の藁でつくった球三箇、松の小枝、及び鮮紅色の漿果み若干である。下には稲の束がすこし下り、球の極には小さな金被せの葉がつき立ててあり、全体として華美で人の目を引く。別の物(図481)は藁の花輪で、稲の束と藁とが下っている。図482は戸の上にかける物で、藁をより合せて、最後に一つの点にまで細くしたものである。これ等のある物は、長さ六フィートに達し、この形式は神道の社でよく見受ける。図483は戸口の上にかける流蘇ふさ、図484は五インチの距離をおいて繩の股こが一つ下るように撚った、藁繩である。これは、巨大な玉総たまふさのように捲いておくが、捲きを戻して部屋の側壁にかけ、象徴的な形に切った白い紙を、垂下する股の間々で、繩に結びつける。ある場合、この種の装飾は、非常に手が込んでいる。図485は門の上にかける、複雑な構造物を現す。中央には乾燥した海藻を下につけた海老、その両側には乾した柿があり、羊歯しだの葉を懸垂させ、神道の様式に切った紙をつけ、そして全部が松の木によって支持される。色を使わないで、その花々しい外見を示すことは困難である。図486は、門の前にある装飾を示している。濃緑色の切り竹は高さ十二フィートで、巨大な風琴管オルガン・パイプのように見えた。これ等は松の小枝の群叢から聳え立ち、底部は藁繩でしっかりとくくられ、下には奇麗に盛土がしてあって、その土の散逸を防ぐ為に、藁の環があった。

年の初めに、町々をさまよい歩き、装飾の非常に多数の変種を研究することは、愉快さの、絶えぬ源泉である。表示された趣味、松、竹その他の象徴的材料を使用することに依て伝えられる感情は興味ある研究題材をつくる。元旦、私は廻礼をしていて、店の多くが閉ざしてあるのに気がついた。町は動作と色彩との、活々した光景を現示する――年賀に廻る、立派な着物を着た老人、鮮かな色の着物を着て追羽子をする若い人々、男の子はけばけばしい色に塗った大小いろいろの紙鳶を高低いろいろな空中に飛ばせる。上流階級の庭園では、華美なよそおいをした女の子達が、羽子を打って長袖をなびかせると、何ともいえず美しい色彩がひらめくのである。非常に多数の将校や兵士が往来にいた。いたる所に国旗がヒラヒラし、殆どすべての家が、あの古風な藁細工で装飾されていた。子供が群れつどう町々を見、楽器の音を聞き、そこここに陽気な会合が、食物と酒とを真中に開かれているのをチラチラ見ることは、誠に活気をつける。私が訪問した所では、どこででも食物と酒とが、新年の習慣の一つとして出された。食物でさえも、ある感情と、それから満足とを伝達するのである。新年には必ず甘い酒が出されるが、それに使用する特別な器は、急須のような注口を持っており、鉉つる即ち磁器なり陶器なりの柄は、器の胴体と同一片である。これが急須の蒐集の中に混合しているのを、よく見受ける。
膳部は皿と料理に就ては、本質的にみな同一だから、その一つを写生したものを出せば、すべてに通用する。図487は酒、菓子、その他の典型的な膳部で、私が写生帳を取出してもよい程懇意にしていると感じた、日本人の教授の一人の家で出たもの。この絵はいろいろな品が、畳の上に置かれた所そのままを見せている。甘い酒を入れた急須は右手にあり、松の小枝と、必ず贈物に添えられるノシとが、柄についている。普通の酒は低い、四角な箱に納る瓶に入って給仕される。積み重ねた三つの、四角い漆塗の箱には、食物が入っている。食物というのは、魚から取り出したままの魚卵の塊、砂糖汁と日本のソースとに入った豆の漬物、棒のように固い小さな乾魚、斜の薄片に切り、そして非常に美味な蓮根れんこん、鋭い扇形に切ったウォーター・チェスナット〔辞書には菱とあるが慈姑くわいであろう〕、緑色の海藻でくるくる捲いて縛った魚、切った冷たい玉子焼、菓子、茶、酒(図488)。

日本人は年頭の訪問を遵守するのに当って、非常に形式的である。紳士は訪問して、入口にある函なり籠なりに名刺を置くか、又は屋内に入って茶か酒をすこし飲む。その後数日して、淑女達が訪問する。元日には、日本の役人達がそれぞれ役所の頭株の所へ行く。また宮城へ行く文武百官も見受ける。外国風の服装をした者を見ると、中々おかしい。新年の祝は一週間続き、その間はどんな仕事をさせることも不可能である。この陽気さのすべてに比較すると、単に窓に花環若干を下げるだけに止るニューイングランドの新年祝賀の方法が、如何に四角四面で、真面目であることよ! ニューヨーク市で笛を吹き立てる野蛮さは、只支那人のガンガラ騒ぎに於てのみ、同等なものを見出す。
我々の家へ、大きな、ふとった※(「刀」の「丿」が横向き、第3水準1-14-58)鴨あいがも二羽の贈物が届いた(図489)。これ等は四本の短い竹の脚を持つ、四角くて浅い籠に入っていた。※(「刀」の「丿」が横向き、第3水準1-14-58)鴨は野菜と緑葉と、三個の丸い檸檬レモンとの上に置いてあった。※(「刀」の「丿」が横向き、第3水準1-14-58)鴨はお汁にし、檸檬はしぼってそれにかけるのだが、日本で物を贈る方法が、如何に手際よく、そして完全であるかは、これでも判るであろう。この国では贈物というものが非常に深い意味を持っている。そして如何に些少であっても、必ず熨斗のしがつけられる。

モチは新年に好んで用いられる食品で、恰度ニューイングランド人が感謝祭と降誕祭クリスマスとに、沢山ミンスパイや南瓜のパイをつくるのと同じように、日本人も餅を調製する。これは、ねばり気の多い米の一種でつくられるが、先ずそれを適当に煮てから、大きな木の臼に入れ、長い棒で力つよくかき廻す。餅をつくっているのは、昨今往来でよく見受ける光景である。図490は、人々が生麪なまこ様のものを、かきまぜている所である。次にそれに米の粉をふりかけ、大きな木の槌で打つ。非常にベタベタしているので、槌がへばりついて了うこともある。北斎は、へばりつく塊から槌を抜こうとしている男を、漫画にした。このようにして、適宜にこねた後、平たい丸い塊にするが、時にそれは直径二フィートもあり、そして巨大なプディングに似ている。伸して、薄い盤状にすることもある(図491)。餅は多くの店で売られ、日本人は非常にこれを好む。食うと恐しくねばり気があって、不出来な、重くるしい麪包パンを思わせるが、薄く切ったのを火であぶり、焦した、或は褐色にした豆の粉〔きなこ?〕と、小量の砂糖とをふりかけて食うとうまい。これは普通に行われる食い方である。図492は餅を供える一つの方法を示す。それは小さな竹製の机或は台で、下の棚には大な塊が二つあり、その周囲を稲の藁の環、常緑葉、条片に切った白紙、若干の羊歯しだの葉が取りまいている。

この季節(一月)、東京中の人が皆紙鳶たこを持っている。そして風の具合がいいので、空は大きさ、形、色の異る紙鳶で、文字通り充満している。そのある物は非常に大きいので、揚げるのに小型な繩を必要とする。又あるものには、色あざやかに、大きな竜が描いてある。これ等は時に八フィート四方もあり、手鼓に似た目玉が円い縁辺の中にかけてある。目玉の一面は黒く、反対面には銀紙がはってあるので、風がそれを回転させると、この怪物はまばたきしているように見える。私は、醜悪な外貌をした紙鳶が突然下りて来たので、その附近にいた鶏が、この上もなく気違じみた容子で飛び散るのを見た。紙鳶のある物は、長い袖を風にハタハタさせる子供の形、ある物は両翼を張った烏、また百足むかで、扇その他の面白い形をしている。紙鳶はこわれやすそうに見えるが、非常な力で地面にぶつかり、そして引き摺られても、破れたりしない。骨組は軽い竹の細長片で出来ていて、骨組の横の骨の両端から張った糸に依って、僅か後にそっている。これに、あの日本特有の強靭な紙を、太鼓の面皮を張るように張るので、前面は凸円形である。紙鳶はあらゆる方法であがる。長い尾を持たぬものも、下の隅から極めて長い尾を二本ぶら下げたものと同様に、空中で安定を保っている。これ等の二本の長い尾が、並行して垂れ下るところは誠に美しい。そして紙鳶が前後に揺れると、尾の優美な屈曲は、完全な一致を以て全長にわたる。ある紙鳶は力強く前後に動き、他のものは強風を受けて、頭の真上に上り、そして糸が殆ど垂直であるように出来ている。
男の子達は、単に紙鳶をあげてよろこぶばかりでなく、屡々紙鳶を戦わせるが、これは私が見た、彼等が仲間同志で戦う唯一の方法であることをつけ加えよう。紙鳶屋で、紙鳶の糸に取りつける、簡単な木製の装置を売っているが、この装置の深い刻み目に、図493に示す如く、鋭い刃がついている。紙鳶をあやつることによって、その糸を相手の糸の上に持って来ることが出来る。そして、それを引きよせている内に、糸は刻み目にすべり込んで切断される。異る街区の子供達は、お互に姿を見せずに、このような競争をする。男の子が自分の紙鳶を、殆ど直角に、その横に揚っている紙鳶まで近づける巧妙な方法を見ることは、私にとっては初めてであった。紙鳶には屡々、竹の弓でピンと張った、薄い鯨骨の平紐でつくった「歌い手」が取りつけられる。これは紙鳶の頭にしっかりとつけるが、風が鯨骨の平紐を震動させると、平削機、又は製材所を思わせるような、大きな、ブンブンいう音が出る。物を書いている時、千フィートも離れた所にいる子供があげる紙鳶が、自分の家の真上にあり、そして間断なくブンブン唸り声を立てると、時として大いにうるさい。このエオリアン風奏琴ハープに似た装置以外に、弓に似た竹片に単に一本の糸を張り渡し、それに短く切った紙をつけた物も見た。これ等は風に当って非常に速くはためく結果、鯨骨(時としては竹)製の平紐とは異る、一種奇妙な唸り声を立てる。図494は紙鳶の頭にとりつける、音楽的仕掛の写生である。

三十一日ある月と、三十日或はそれ以下の日数の月とを指示する、奇妙な工夫を、図495で示す。これは褐色にこがした不規則形な木片で、文字は白く書いてある。第一の行の先端には「小」さいことを示す字があり、二、四、六、九、十一なる数がそれに従う。これ等の月には三十日、或はそれ以下の日数しかない。三十一日ある日を並べた第二行には「大」を意味する漢字が先頭に立っている。底についている菌きのこは熱によって僅かに褐色にした紙で出来、本物そっくりで、市場で見受けるような、小さな藁製の物に入っている。私の娘はこれに一セント半払った。

先日我々は、弁当持ちで昼の十二時劇場へ行き、夜の十一時半までそこを去らなかった。俳優、舞台面、音楽、観客が、絶えず注意を引きつけ、十分か十五分かの休憩時間に、二畳敷きの区画に納った人々は家族の集合をたのしみ、劇場外の茶店の召使いは美味そうに見える弁当をはこび込む。隠蔽された合奏隊には、非常に高度の違う太鼓が二つあった。その一つは普通の太鼓に似ている所があったが、他の一つは、突然息がつまった人のような音を立てた。
舞台上の距離の幻想は、建物や舞台の側面を、誇張した遠近法に於るが如く、背後に向って狭くすることに依って、巧に成就してあった。舞台の奥行は五十フィート以下であるが、この方法によって十倍もあるように見えた。ある場面では一人のローニンが、残念そうに悲しい言葉をいい、手をふりながら、彼の屋敷の門を離れつつある。突然門が遠くの方にあるように見え、更にまた遠のくらしく思われる。まるで彼が速に門から離れて行くような気がするが、これは大きな門を描いた薄い板が前に倒れて、それと全く同じに描いた、より小さい門を現し、これがまた倒れて、もっと小さい門を現すことに依て起るのである。日本の古典劇は、人に宮廷衣装の観念と、或は僅かであるかも知れぬが、宮廷に於る礼義と式典との観念を与える。図496は俳優の一人の各種の態度を、急いで写生したもので、古い習慣を説明するものとして興味がある。両刀を帯した高官が、歩くにつれて足の下をズルズル引きずる、四フィート長すぎる下〔垂直的に〕着を着て舞台を歩く所は、中々風変りである。

幕が下ると、美しいよそおいをした子供達が観客席を離れて舞台へかけつけ、幕の両側から入り込んで、道具方が新しい場面を建てつつあるのを見つめることは、興味が深かった。幕を上げる合図として、拍子木が叩き合わされると、子供達は群り出て、観客席中の各自の場所へといそぐ。日本の男の子や女の子が、一般的に行儀のいいことを示す、これ以上の実証があろうか。勿論米国の舞台へ、子供達がこのように侵入することは、一秒間でも許されはしない。だが、同時に、若し我国の可愛らしい子供に、幕の後へ入ることを許したら、即座に釘をこぼし、ペンキをひっくり返し、その他ありとあらゆる悪事を働くにきまっている。日本では、子供達はどこへでも行き、何でも見ることを許されている。その権利を決して悪用しないらしく見えるからである*。
* これ等の子供達が、台湾、支那、ロシアに対する戦争に於て、勇敢な兵士になったことは、礼譲、やさしさ、行儀のよさが、戦場に於る完全なる勇気や耐久力と無関係ではないことを示している。
十二月上旬、東京市の各消防隊が集って、検閲を受けた。火事の半鐘が鳴り、消防隊は大きな広辻に集り、そこであらゆる種類の軽業かるわざを行う。彼等は梯子はしごを登り、競争をやり、その他の芸当をやり、非常に巧みに見えるが、実際の職務に当っては、勇敢なことはこの上なしであるが、外国人には、非常に能率的であるとは思われない。だが、彼等の問題は、我国の消防夫のとは非常に相違しているのだから、審判を与えることは公平ではない。日本の消防夫は、大火の道筋に当る建物を引き倒し、それを行いつつある者に水をあびせかけ、而もそれ等すべてを極めて急速に行うことを命ぜられている。
今年の冬、時々雪嵐があったが、人力車夫は一向雪を気にしないらしく、素足でその中をかけ廻り、立っている時には湯気が彼等のむき出しの足から立ち昇って見える。不思議なことだが、家屋も、夏に於ると同様、あけっぱなしであるらしい。子供達も夏と同様に脚をむき出し、寒さを気にかけず、雪の中で遊んでいる。雪嵐の後では人々が、鋤すきや板や奇妙な形の木製の鋤を持って現れ、それぞれの店や家の前の道路全面の雪をかき、その雪は道路の横を流れ、通常板で蓋のしてある溝の中へ入れる。図497は一枚の板の末端に繩の輪をつけて取手とした一時的の雪鋤である。雪は湿気を含んでいるので、子供は米国の子供がするのと同じ様に、それをまるめて大きな玉をつくり、また次のようにして大きな玉をつくる競争をする。小さな棒二本を、糸の末端で十文字に結び合わせ、これを湿った雪の中で前後に振り、雪がそれ自身の重さで落ちる迄に、どれ程沢山集め得るかをやって見るのである。

梯子の構造は興味がある。両側は丈夫な竹で、この竹は中央から両端へかけて外側へ開き、かくて立つ場合、土台になる部分はより広く、上には張開はりひらきがある(図498)。この方法で梯子は非常に力強くされている。桟さんは支柱に、しっかり縛りつけてある。我々の梯子は両側の部分に穴をあけるから、自然弱いものになる。

先日大森の貝墟へ行った時、私は人間の脛骨の大きな破片を発見した。これはプロカの板状脛骨に於て指示された如く、六〇の指数を以て側面に平べったくなっていた。現在の日本人の脛骨の指数は、我々のと同じく七六である。これによって、堆積物が、かなり古いことが知られる。
私の学生の一人が私に、以前には若し人がお城の堀に落ちて溺死すると、その死体を引き上げることは禁じてあった。それは、秘密にしてある水の深さが判る懼おそれがあるからだと話して聞かせた。このことは、確めはしなかったが、本当かも知れない。もっとも私は疑を持っている。
ここ数週間私は、昼飯を研究室で日本風に食っている。一度ためして見た所が、この昼飯は中々上等で、私はそれを蛇や虫や頭蓋骨が積み上げてある、大きな机の一隅で食わねばならぬのだが、私の食慾は一向周囲の状況に影響されない。木製のバケツには煮た米が入り(図499)、木製のシャベルは、それをしゃくい出すのに使う。またやわらかくて美味な、焙った魚――真鰺まあじ――の大きな切身と、塩漬にした薑しょうがと大根との薄片、及び何かの青い葉の束とを入れた、別の皿がついている。箸の使用法を覚え込んだ私は、それを、およそ人間が思いついた最も簡単で且つ経済的な仕掛けとして、全世界に吹聴する。

この季節(一月)に見受ける、矮生の梅の木には驚かされる。招待されて庭園へ行くと、いろいろな大きさの植木鉢の中に、枯死した株と思われる、蕾も芽も、けはいだに見せぬ、黒色の木塊がある。数週間後、再びその庭を訪れると、これ等の黒い株から、最も美しい花をつけ、緑の葉はまるで無い、長くてすんなりした枝が出ている。かかる、何ともいえず美しい色をした花と、それを生じる、黒くて見受ける所枯れた株との対照を見る人は、このような奇観をつくり出し得る庭園師の技巧に、吃驚びっくりせざるを得ない。図500に示すものは、樹齢四十年である。これは、このように生長するべく、訓練されている。あたたかい場所にかこっておくので、戸外に於る木よりも、余程早く花が咲く。松の木もまた図501のように、太い松の木から葉を出すように仕立てられるが、普通の矮正樹は、高さ三フィートの、百年にもなる本当の松で、枝でも何でもある。

二月二十八日。梅の真盛りである。この花は普通濃い桃色か薔薇ばら色で、いい香をはなつ。行商人は売物の梅の小枝や枝を持って、家から家を歩き廻る。
人が如何に徐々に、そして無意識に、日本の芸術手芸品に見出される古怪な点、変畸な点を鑑賞するようになるかは、不思議である。勿論芸術家は即座にその美を見わけるし、また誰でも刀剣の鍔つばその他の美しい細工には、感心せずにはいられない。然し、一例として、日本人の陶器をあげると、それには写生風の模様がついていて、形は不規則で態々わざわざへこませたりし、西洋人が見慣れている陶器とはまるで違うので、一体そのどこに感心してよいのやら、人には見当もつかない。だが彼をして、蒐集を開始せしめよ。若し彼が生れつきの蒐集家ならば、彼は必ず茶入その他の陶器の形態に、夢中になるであろう。私は小さな蒐集を始め、最近二つの品をそれに加えた(図502・503)。一つは醤油入れである。これは織部の赤津で、もう一つのは薩摩の土瓶である。二つともすくなくとも百五十年前のもの、或はもっと古いかも知れない。これ等を取扱っていると、実に気持がよく、そしてこのような宝物を、最も簡単な小骨董こっとう店で見出す面白さは、蒐集家の精神を持つ者のみが真に味い得るところである。骨董蒐集家にとって、日本は本当の天国である。彼はどこへ行っても、フルイ、ドーグヤ〔古道具屋〕と呼ばれる古物商の店に、陶器、金属及漆塗の細工、籠、刀剣、刀剣具その他あらゆる種類の古物が並べてあるのを見る。人力車で過ぎる、最も小さな村にさえ、古い物を僅か集めた、この種の店は見受けられる。我国の古物商が、古い家具、古い本、古い衣類等に限って売り、骨董品を含む店は、大都市中の若干にしか無いという事実を、思い浮べぬ訳に行かない。加之のみならず、日本の店にある品は、僅かな例外――支那及び朝鮮から来たもの――を除いては、国産品であるが、米国にある品は、必ず欧洲かアジアから来たもので、例えばオランダのデルフト〔十四世紀の当初オランダのデルフトで創製された陶器〕、イタリーのマジョリカ〔十六世紀頃イタリー人がスペイン領マヨリカ島から持ち帰った陶器〕、ドイツの鉄細工といった具合である。我々自身の国で出来たものに、保存しておく価値を持つ品が見当らぬというのは、意味の深い事実である*。

* もっとも最近三十年間に於て、国内の芸術、工芸運動、並に多数の窯が、芸術的の陶器を産出しつつあるから、将来の骨董店は「米国製」の芸術品を持つようになるであろう。
最近私は有名な好古者、蜷川式胤ニナガワノリタニと知合いになり、彼を自宅に訪問した。彼は日本に於る各種の陶器に関する書物を著している。この本には、石版刷の説明図が入っている。それ等は、どちらかというと粗末で、手で彩色したものだが、而も同じ問題に関するフランスや英国の刊行物に入っている、最も完全な着色石版画よりも、はるかによく陶器の特質をあらわしている。同書の初めの五部に描出してある品は、私が日本へ来る前、ある欧洲人へ売られて了ったのであるが、私はすでに描出された物に似た、代表的な品を手に入れんとしつつあり、蜷川はそれ等を私のために鑑定することになっている。若し私が、彼が記述し且つ描出したのと同じ種類の陶器を手に入れ得れば、蜷川の本に出て来る画の本体である、もとの蒐集に、殆ど劣らぬものが出来る。
蜷川を通じて、私は蒐集家及び蒐集に関する、面白い話を沢山聞いた。日本人が数百年間にわたって、蒐集と蒐集熱とを持っていたのは興味がある。彼は、日本人は外国人ほど専門的の蒐集をしないといったが、私の見聞から判断しても、日本人は外国人に比して系統的、科学的でなく、一般に事物の時代と場所とに就て、好奇心も持たず、また正確を重んじない。蜷川の友人達には、陶器、磁器、貨幣、刀剣、カケモノ(絵)、錦襴きんらんの切、石器、屋根瓦等を、それぞれ蒐集している者がある。錦襴の蒐集は、三インチか四インチ位の四角い切を、郵便切手みたいに帳面にはりつけるのである。彼は四、五百年になるのを見たことがある。有名な人々の衣から取った小片は、非常に尊ばれる。瓦は極めて興味のある品だとされ、彼は千年前の屋根瓦を見た。彼は、甲冑を集めている人は知らなかった。貝殻、珊瑚さんご、及びそれに類した物を集める人も僅かある。上述した色々な物すべてに関する本は、沢山ある。有名な植物学者伊藤博士に就ては、この日記の最初の方に書いたが、彼は植物の大きな蒐集を持っている。
図504は、あたたかい冬着を着た上流家庭の少女である。幼少時から老齢に到る迄、頭髪を結ぶ方法は、外国人にとっては興味と驚異との源泉である。小さな子供が、彼女のこみ入った髷まげを、如何にして一時間(三日間とはいうに及ばず)もそのままにして置けるかは、我々にはまるで見当もつかぬ。各様の髷を写生する機会が来た。T夫人、彼の令嬢、並に小さなI嬢が、私の家族を訪問し、彼等は大人しく私に髷を写生させてくれたが、それはこの訪問のために、特に結髪したもので、従って最も完全な状態にあった。これ等の型のそれぞれには、二十乃至三十のやり方があるので、我々としては何等の相違も気付かぬだろうが、日本人はすぐそれに注意する。若い婦人達が出会って、最初にするのは、これ等の各種の型を話し合うことだという。このような優雅な弓形や結目をつくるには、どうしても結髪師をやとうことが必要になる。そこで女の調髪師が家々を廻ってその仕事をするが、報酬は安い。田舎の人達は自分で結ったり、お互に結い合ったりする。結髪には植物蝋の調製物が使用され、適宜に出来上った髪は、実に艶々つやつやしている。弓形の上品な輪に、きちんと形を取らせておく為には、固い黒縮緬ちりめんでつくった一種のかたを使用する。図505と図506とは、K夫人の横と後とである。後を向いた方では、髪が鋭い竜骨をなしているが、これは鯨鬚くじらのひげ又は鉄製の挾はさみでその位置に保たれる。図507はT夫人で、前から持って来た細い辮髪べんぱつには、漆の櫛が横にさしてある。図508は図507の背面で、弓形をつらぬいている、末端の四角な品は、多分硬玉と思われる石で、これは支那風を真似まねたのである。図509はT夫人の令嬢。図510・511はI嬢で、年は十二位。花簪かんざしを示し、環の内側には赤い縮緬をくっつける。これはこの年頃の少女には、非常に一般的な髷である。街頭では、最も貧弱な衣服をつけた少女の髷が、実に美しく出来ているのを見受ける。四つか五つの小さな子にあってさえも、屡々衣服(ボロボロなことさえある)よりも頭髪の方に、より多くの注意が払ってあることを示している。乱れ髪はめったに見ぬ。これ等各様の髷の形式で、日本人は階級の相違を認める。下女(図512)、田舎の娘、若い貴婦人、非常に「けばけばしい」とされるある形式、最後に極めて最上の階級と皇室といった具合であるが、一方、絵画や舞台では、全然変った形が見られる。

私は植字室がどんな具合になっているかを見る目的で、日本語の新聞社を訪問した。印刷物を組み立てるのに使用する、文字の数を知っている私は、定めて大きな部屋で植字するものと思っていたので、三十フィート四方に足らぬ部屋を見て吃驚した。この新聞社が所有する漢字の数は、千を以て数える程である。普通新聞に使用する漢字の数は千二、三百であり、稀に使用するものが数百。これ以外に四十八の発音記号よりなる日本のアルファベットの活字があり、これ等は屡々漢字の横に日本語を綴り出して組み、読者が漢字の意味を知らぬ場合にそなえる。
図513は日本の新聞の一部で、日本のアルファベットの使用法を示している。読者は縦に並んだ漢字の活字の横に、簡単な字が添うているのに気づくであろう。活字箱は我国の印刷屋のそれとは違い、長さ二フィート、高さ八インチで、縦の仕切でわけてある。それぞれの箱に仕切が六十六あり、仕切の間の場所の幅は即ち活字の幅である。活字はこの仕切に、字面を上に向けて入れてあるから、植字工は一見して彼の欲する活字を知る。ここで漢字の説明をする必要があるが、この問題を了解するには支那語〔漢字〕研究家に問い合せねばならぬ。だが、漢字は構成的で、即ちそれには、それをある程度に分類する所の語根字がある、ということはいえる。かくて金銭に関係のある、例えば買うとか売るとか借とか貸とか値切るとかいう字には、金銭の語根字が入っており、感情に関係のある、例えば激情とか憎みとかいう字には、心の語根字があるといった具合で、漢字はその語根字によって、これ等の仕切に入れられる。植字工が左手に「ステッキ」〔植字架〕と原稿とを持ち、右手で所要の字をひろいながら、部屋の隅から隅まで走り廻っている所は、中々奇妙である。我国の印刷所で、職工がすべての字と、若干の数字と、句読点とを入れた活字箱を前に、立ったままでその場を離れないのとは、大違いである。ここでは八人の日本植字工が、適当な活字を求めて、部屋の中を前後に走りっこをしている。彼等は濃い紺の服装をしているので、部屋の外見は人をして、黒い蟻が絶間なくお互同志とすれちがっている、蟻塚を思わせた。図514は植字室で、活字箱の配列を示しているが、人間はこの図に出ている者よりも、遙かに多数いた。図515は活字を組みつつある植字工である。解版工(図516)は机に向って坐り、鑷子ピンセットを用いて同種類の活字を拾い出し、それ等を沢山ある箱の中の一つの、適当な場所へ返す。

図517は日刊絵入新聞の切りぬきである。この絵は実に生気に充ちている。この新聞の購読料は一ヶ月二十セントである。図518は何かの本のある頁の校正で、植字工は原稿に判らない漢字があると、漢字をひっくり返すから、それの底の方が印刷され、校正者は赤い筆で欄外に適当な漢字を書く。字は最初ベッタリ植字し、後から余白を入れる。日本語の原稿で、字を消し、後からそれを残しておいた方がいいと判ると、「生きている」ことを意味する「イキ」という字をカタカナで書く。印刷場で、我国に於ると同様に「生き」たり「死んだ」り〔解版すべき組版を dead form といったりする〕したという言葉を使用するのは、不思議である。

印刷術の、このこみ入った制度を見ると、日本は結局発音制度を樹立しなくてはならぬことが知られる。かくしてのみ、日本は現代式の植字機械を使用することが出来る。漢字を用いる言語は、日本人には重荷である。若しこの場合、彼等すべてが英語を解し得るならば、それは彼等が我々の方面に向って進歩することを、非常に助けるであろう。英語を書くことを学んでいる者は、英語の方を日本語よりも佳しとする。彼等はすべて、英語の方が、より正確だといい、英語を教える、大学の予備校へ行っている少年達は、その方が容易な為に、好んでお互同志英語の手紙を書く。私の、可愛らしい少年の友人は、必ず彼の弟に英語で手紙を書き、その弟は十三歳だが英語を学び、同時に、ドイツ語で教授が行われる医学校へ入るために、外国語の学校でドイツ語を習っている。彼は日曜ごとに私の家へ来るが、すでに上手に英語を話す。
三井の有名な絹店は、それが市内最大の呉服屋で、そして素晴しい商あきないをやっているのだから、見に行く価値は充分ある。勘定台も席もない大きな店を見ると、奇妙である。番頭や売子は例の通り藁の畳の上に坐る。お客様も同様である。道路から入ると、お客様は履物をぬいで、一段高まった床に上り、履物はあとへ残しておく。そこで一杯のお茶を盆に乗せて、誰にでも出す。買物をしてもしなくても、同様である。図519によってこの店の外観が、朧気おぼろげながら判るだろう。右手は道路、左手にいる番頭達は、必要に応じて、品物を取り出す巨大な防火建築に、出入出来る。店員はすべて純日本風の頭をしている。恐らく販売方と出納方との間に金の取次をするらしい小さな子供達は、その辺を走り廻り、時々奇妙な、長く引張った叫声をあげた。店員が彼等のすべての動作に示す、極度ののろさと真面目まじめさと丁重さとは、我国の同様な場所に於る混雑と活動とに対して、不思議な対照をなした。店の向うの端には、銅製の風雅な装置があった。これは湯沸わかし、換言すれば茶を熱する物である。一人の男が絶えずそれにつき添って茶をつくり、それを小さな茶碗に注ぎ込み、少年たちはお盆を持って、お茶を観客にくばる為にそこへ来た(図520)。炭火を入れた火鉢は、男女の喫煙家のために――もっともお客は概して女である――都合よく配置されてある。ここは実に興味のある場所だった。頭上の太い梁や、その他の木部は、すべて自然その儘の木材で出来ていた。色あざやかな絹、錦襴、縮緬、並に美しい着物を着た婦人達や、花簪をさした子供達が、この場面の美を大きに増していた。私のこの店の写生図には、もっともっと多くの人がいなくてはならぬのだが、こみ入った絵をかいている時間がなかった。

殆ど第一に人の目を引く物は、天井から下った、並々ならず大きく、そして美しい、神道の社の形につくった祠である。どの家にも、どの店にも、このようにして露出した、何等かの祠があり、住んでいる人は朝その前で祈祷をする。夜になると一個、あるいは数個の燈明を、祠の内に置く。ある大きな店にこの聖殿がぶら下っており、そして店主や店員がすべて、お客がいるといないとにかかわらず、朝その前で祈祷しているのを見た時は、不思議に感じた。私は我国の大きな店に宗教的の祠があり、そして店主達が日本と同じようにそれを信心するというようなことは、想像だに出来ぬ。

図522は、最新流行の髷である。私の娘が髪の編んであることに注意したが、これは日本の調髪には、全く新しいことなのである。これは外国人、殊に子供が、長い編髪を後に垂らしているのを真似たのである。この顔は私が写生した美しい婦人にはまるで似ていない。私は、彼等としては顔の写生をされることがいやだろうと思う。いずれにいせよ、私は決してそんなことはせず、目鼻をあとから書き入れる。

東京市の消防夫の多くは、建築師や大工で、火を消すと彼等は、手助をした者の名――消防隊のなり、個人のなり――をはり出し、そこで建物の持主に向って、贈物やあるいは家を建てる機会を請求する。図523は火事に焼けた家で、竹竿から札が下った所を示す。

非常に数の多い骨董品店で、人は屡々漆器、象嵌ぞうがん、籠細工、その他にまざって、色あせた錦の袋に入った、陶器の壺(図524)があるのに気がつく(図525)。壺には象牙の蓋があり、そして形も外観も、極めて平凡であることが多い。これ等が陶器中最も古いものの一種であることを知らぬ人は、その値段の高さに呆れる。これはチャイレと呼ばれ、喫茶のある形式に使用する粉茶を入れるべくつくられたものである。それを納めた箱(図526)の蓋には、品名と陶工の名とが書いてある。比較的新しく、安価なものも多い。普通な種類に親みを感じ始めるのにさえも、多少の時間を要するが、研究すればする程、茶入の外観は魅力を増して行く。

日本人は非常に多くの種類に紐を結ぶことに依って、彼等の芸術的技能を示す。その結びようの各々に、名がついている。これ等は贈物、袋、巻物、衣服を結んだり、その他の目的に使用される。粉茶を入れる小さな陶器の壺は、錦の袋に入っている。私はその袋の口を結ぶ結び方を覚え込み、茶入を袋に返してから、注意深く適当に紐を結んでは、いつでも商人の興味と同情とを呼び起した。私はかかる簡単な礼儀を守ることによって、陶器商間に於る私の好機を、大いに高めた。
先晩我々は、政府のために蝦夷の地質測量をしたドクタア・ベンジャミン・スミス・ライマンに、正餐に呼ばれた。彼は美しい衝立ついたてや、青銅細工や、磁器や、その他が充満した、日本家に住んでいる。お客様も数名あり、我々は六人のコト(即ち琴ハープ)演奏者と、一人のビワ演奏者とによってもてなされた。琵琶は現在では殆ど見られず、優れた演奏者は日本中に二、三人しか残っていない。この晩来たのは、最も優秀な者の一人である。図527はこの演奏者を写生したもので、彼は盲人であった。彼は幅の広い象牙の撥ばちで糸を打つ。三味線を引く者も同様な仕掛を使用するが、これ程幅が広くはない。琴を演奏する者は男女六人で、図528のようにならんだが、三人は盲目であった。彼等の音楽は極めて興味深く、また気持よかったが、何と説明してよいか判らず、とにかく一種の奇妙な旋律を以て、一同調子を合わせて奏楽するが、途切れることも停止することも無いのである。図529は、三人が合奏している所である。指には拡大した爪みたいな、角製の物をつけていた。ここに描写した各種の楽器は、もともと支那のもので、朝鮮を経て渡来したのである。舞踊をする子供の一群は、数ヶ月前、ある料亭で見たことがある。で、我々が食事を終えて別室へ入ると、彼等は驚き、またよろこんだらしく、我々のところへ駈けつけ、我々もまた彼等に逢って悦しく思った。彼等の年齢は三歳、四歳、五歳、六歳であった。従者が二人いた。図530は彼等である。三味線演奏者は図531で示してある。

オビと長い袂とのある男の子の着物は、女の子の着物に似ていて、性を見別けるのには、いくらか時間がかかる。もっとも頭髪を見れば即座に区別出来ることは、いう迄もない。ハカマは割れたスカートの一種で、後方に短い、切目のない燕尾服の尾をさかさまにつけたような、固い附属物がありその両端から出た紐を前方で結ぶ。これはサムライの階級だけが着用することを許可されたのであるが、面白いことに、女学生も、サムライの娘であれば袴をはき得るので、時々学校へはいて行くが、そうなると、彼等を男の子と区別することが、容易でなくなる。袴はあらゆる点で、典雅で、また身につけやすい衣類である。図532は袴をはいた十四歳の男の子を示す。

先夜私は、三マイル近くを、走ったり歩いたりして、東京の西郊に起った火事場まで行った。現場へ着いた時には、恰度ちょうど最後の家に火がうつり、燃え上った、これは誠に目覚しく、且つ光輝に充ちた光景だった。火事は厚い麦藁葺屋根を持つ、大きな家屋の一列を焼き、折からの烈風で、葺屋根の大きな塊が、いくつもいくつも、黄金の糸の雲の如く空中を漂い、最後に屋根が飛び去る火華の驟雨の中に墜ちた時、それは黄金の吹雪みたいであった。一度火が内側へ入り込むと、如何に早く家がメラメラと燃え上るかは、驚くの外はなかった。私は又しても消防夫達の勇敢さと、耐熱力とを目撃した。ある建物から、すくなくとも三百フィート離れた所にいてさえも、熱は、指の間から火事を見ねばならぬ程激しかったが、而も消防夫達は火焔を去る十フィート以内の所におり、衣類に火がついて焔となるに及んで初めて退去したが、かかる状態にも水流が彼等に向けて放射される迄は、気がつかぬらしかった。火事場へ向った時、暗い町を走りながら、一人の男に火事はどこだと聞くと、私の日本語がすぐ判り、彼は「スコシマテ」と答えた。で、彼と一緒に走って、警察署まで来ると、そこの外側には火事の場所と、燃えつつある物とを書いた報知が出ていたが、これは警鐘が鳴ってから、十分か十五分しか立たぬ時のことなのである。私は同じ報知が、我々が通りすぎた他の警察署にも出ているのに気がついた。勿論私には、それを読むことは出来なかったが、こまかいことを、一緒になった男が話してくれた。翌日、そのことに就て質ねると、出来る丈早く、火事の位置と性質とを書いた告知書を、すべての警察の掲示板にはり出すのが、習慣であるとのことであった。
市の労働者が、道路を修繕しているのはよく見受けるが、それは道路を三分した、中央の部分だけに就て行われる。調べて見ると、市の当局は道路の中央三分一だけの世話をし、両側の地主たちが残りの三分の一ずつを注意するのだということが判った。同様にして、我々は側道を清掃する義務を持っている。米国人が屡々雪を取り去ることを怠るのに比較して、この仕事がすべての人によって、如何に正直に行われつつあるかは、驚嘆すべきである。
今朝(四月八日)五時、半鐘が鳴った。恰も疾風の最中だったので、私は即座に衣服を着、二マイル走って火事場へかけつけたが、消防夫の奮闘を見るには、遅すぎた。然しながら、見て興味のあるものはあった。大火の範囲は、それが如何に速にひろがったかを見せていたし、また一部焼けた建物を見ると、消防夫の仕事が、外国人が考える程詰らぬものではないことが知られた。すくなくとも疾風中で火事の蔓延を喰いとめるには、偉大な努力と巧みさとを必要とするであろう。日本の家は火事が起ると共に、非常に速くひろがる程、かよわく出来ているので、消防夫の主要な仕事は、一般市民の助力をかりて、家屋からはぎ取ることの出来る物――襖ふすま、畳、薄い杉板で出来ている天井等――を、すべて取って了うことである。家屋の唯一の耐火被覆物である厚い屋根瓦を、シャベルで落しているのを見ると、如何にも莫迦ばかげているが、これは屋根板をめくり取るのを容易にする為で、かくすると※(「木+垂」、第3水準1-85-77)たるきから※(「木+垂」、第3水準1-85-77)へ火が飛びうつらぬことが観察される。この問題は、研究するに従って、消防夫の仕事に対する第一印象が誤っていたことが判って来、そして彼の手際に対する尊敬が増加する。私は初めて、警察部に所属する、消防機関の新しい型を見た。二輪車にとりつけてあって、機関の上に蛇管が巻きつけてある。これは水を吸い上げ、相当な水流を発射する。機関は車から取外し、六人か七人かがそれを扱う。これは最近、外国の型から採ったものである。図533はその一台が火事場へ向う所であるが、消防夫達は町々を走りながら、猫のような叫び声を出す。図534は建物を立った儘で救った、機関隊の名を出している消防夫である。

この火事があってから間もなく、又別の火事が起り、風が強かったので、私はそれへ向って走った。私はまた写生をしようとしたが、動く群衆がお互同志を押し合い又私をも押したり、その他の邪魔が入ったりしたので、至って貧弱な絵が出来て了った(図535)。かかる災難にあった人々が彼等の不運に直面して示す静かな態度は、興味深く感じられた。気持がよく、微笑していない顔は、一つも見られない。劇場では泣く女の人達が、大火事で住宅が完全にぶちこわされたのに、このように泰然としているのは、不思議である。持ち出した家財と共に、彼等は襖や箪笥たんすや畳を立てて一種の壁をつくり、その内に家族が集り、火鉢には火があり、お茶のために湯をわかし、小さな篝火かがりびで魚を焼いたり、僅かな汁をつくったりし、冬以外には寒くない戸外で、彼等は平素通り幸福そうに見える。
第十六章 長崎と鹿児島とへ
ここしばらくの間、私は南方への旅行に持って行く、曳網や壺やその他の品を、まとめつつあった。大学は私に、夏休になる前に出発することを許し、またこの旅行の費用を全部払ってくれる。我々は鹿児島湾、長崎、神戸で網を曳くことになっているが、その地方の動物は半熱帯的であるから、大学博物館の為に、いろいろ新しい材料を集めることが出来るであろう。一八七九年〔明治十二年〕五月九日、我々は神戸に向けて横浜を出帆した。荒海を、向い風を受けて航行した辛さは、記録に残さずともよかろう。この航海を通じて陸地が見えたのであるが、私はあまり陸を見なかった。水曜日の夜出帆して、神戸には金曜日の午後三時に着いた。階梯はしごが下されるや否や、私ははしけに乗りうつり、上陸するとホテルへかけつけて食事をし、その後町を散歩した。この町は背後に高い丘をひかえ、街路はどちらかというと狭く、店舗は東京のと全く同じである。女の髷は、北方のとは多少違っているらしく思われたが、どんな風に結んであったかは覚えていず、また写生をするには余りに疲れていた。子供達は確かに東京のよりも可愛らしく、顔立ちはより上品で、顔色の橄欖オリーヴ色も、より明澄であった。彼等はすべて頭髪を最もキッパリした形で垂前髪まえだれがみに切っているが、これは古い日本の風習で、外国人の真似をしたのではないのである。人力車は東京のよりもいささか不細工に見え、車夫はより肥え、男前がいいように思われた。提灯は北方に於るが如く手に持たず、梶棒の末端にぶら下げる。乞食も数名いたが、しつっこくは無く、穏和な種類とでもいう可きであろう。街頭を行く荷馬車には、頑丈な車輪が二つあり、長い繩で引張るのだが、後に一人、あるいは二人の男がいて、積荷の平衡をとる。横浜では荷を引くのに、勢よく唸ったり、歌ったりするが、ここではそんなことは無い。牡牛車は変な形の代物である。三輪で、その一つは前方に、二つは後方にあり、牡牛の背負っている鞍へ梶棒をくくりつける。三百マイル離れた丈で、風俗、習慣に、こんな相違があるのは不思議に思われる。
私は人力車の後を走って、成人した女の髷を写生した。弓形は東京のよりも遙かに小さくて、ペチャンと頭にくっついている(図536)。子供の髷は、東京のとはハッキリ違っている。図537は、八歳乃至十歳の少女の髷を示している。これ等は往来を歩きながら急いで写生したのであるが、人々は絶間なく凝視し、こっちが写生している物は、往来遙か遠方にあるので無く、彼等自身だということを発見すると、急いで逃げて了うから、これは中々容易ではない。

神戸のホテルは海に近く立っているので、私の部屋の窓から、積荷を下している日本の戎克ジャンクを写生する事が出来た(図538)。日本人は今や外国型の船舶を建造しつつあるから、このような船は、すぐに姿を消すことであろう。ホテルから十五分間歩いた所には、美しい渓流が流れている渓谷がある。ここはホワイト・マウンテンス中のある箇所を思わせた。この景色を写生することは出来なかったが、私に印象を与えたのは、実に渋い鄙ひなびた橋や、断崖の端に立つ魅力に富んだ小さな茶店や、お茶召せと招く派手な着物を着た娘達やである。

一行は、私の助手種田氏、召使い、矢田部教授の召使いである富とから成っていた。富は植物を採集し、それを手奇麗に圧するのが実に上手である。私の召使いも貝の採集は同様にうまく、種田氏は万事万般に気をくばり、善き採集家であると同様に通訳家、飜訳家として働く。滝からの帰途、我々はいくつかの貝を集めたが、その中のカヤノミガイの「種」は、日本では初めてで、フィリピンの「種」を思わせた。暗い町――最も貧しい地域である――を通って神戸に入る時、我々は家の列の前を過ぎた。これ等の暗いあばらやの薄闇を通して、私はその背後に日のあたる庭のあるのを見ることが出来、最も貧しい階級にあっても、このようなことに対する趣味が一般的であることを知った。
この日の午後、我々は長崎へ向う汽船に乗った。私は甲板から神戸と、背後の丘とを、急いで写生した(図539)。これ等の丘は九百フィートを越えぬといわれるが、汽船の船長はもっと高いと思うといった。航海はまことによかったが、瀬戸内海を通るのは夜になった。ここは世界で最も美しい航路の一とされている。夜甲板へ出て見たら、汽船は多数の漁船の傍を通っていた。漁夫たちは、我国の漁夫がブリキの笛を吹くように、貝殻の笛を吹き、燈火が無いので彼等は鉋屑かんなくずを燃したが、それは海面のあちらこちらで、気まぐれに輝くのであった。闇は測知し得ず、笛を吹き鳴らすことと、火光を閃めかすこととは、汽船が漁船と並行する迄続けられ、そこで一つ一つ、火は消え、騒ぎがやむ。かくの如くにして前面には、ここかしこに、この沢山の笛の奇妙な騒音と、燃え上る火とがあり、後方には音も聞えねば、火も見えぬ。まるで、汽船がそれ等を呑み込んで了ったかの如くであった。我々の汽船が外輪の音をはるか遠くに立て、衝突の危険を刻々近づけながら、近づいて来ることは、漁夫達にとっては大きに危懼すべきことであらねばならぬ。汽笛を鳴らし、外輪をバジャバジャいわせ、湯気や煙を出し燈火を輝かして汽船は勢よく過ぎて行く。船首からは巨大な波が梯陣をなして進軍して来る。そして、このような大きな怪物と衝突することの惨めな結果を考えると、船が横を通過するという事実だけでも、これは充分驚愕に値する経験である。

翌朝は豪雨で、あらゆる物がぼやけて見えた。午後二時、我々は下関海峡を通過したが、四大国が要塞と町とを砲撃し、続いて三百万ドルを賠償金という名目で盗み、この国民を大いに酷い目にあわせたことを考えた私は、所謂文明民族なるものを耻しく思った*。図540は下関の町を急いで写生したものである。我々が海峡にとどまった短い間、雨がひどく降り、周囲は甚だ朦朧としていたので、私は内海の方を見て、いそいで輪郭図を書くことしか出来なかった(図541)。

* 数年後合衆国だけ、この賠償金の自分の分をかえした。日本はこれを正義の行為として、十分にうれしく思っている。
晩の七時に我々はまた出帆し、海峡をぬけて再び大洋へ出た。濃霧の中、いささか荒れ模様の海を、岩や島の散在する沿岸に近く、我々は一晩中航行しなくてはならなかった。船客中に天主教の司教が一人いて、私はこの人と興味ある会話をとりかわした。十九年前、パリから来た時彼はフランシスコ派の牧師であったが、その後司教に任命され、ローマで開かれた大廻状会議にも列席した。彼は立派な頭と、大きな、同情深そうな眼とを持っていた。私は彼に、他に同じ事をしている牧師も多数いる上に、十九年間仕事をして、日本に天主教の帰依者が何人いるかと聞いた所、彼は二万人はいると思うといった。彼は仕事に熱中して居るのであるから、この数から二、三千人を引き去るとして、私は三千三百万人を改宗させるのに、どれ程長くかかるかを計算して見ようと思い、また全体として、その言葉で説服することが出来る彼自身の国民の罪人、及び母親の祈祷を覚えているかも知れぬ人々の間で改宗させる為の努力をした方が、如何に、よりよいかを考えた。加之のみならず、このようにすれば、日本人と接触する外国人の態度や行儀が、条約港に於てより良好な印象を残すに至ったであろう。司教は訓練された人であった。彼は英語、フランス語、日本語を流暢にあやつり、ラテン語はいう迄もなく、母語同様であった。私は彼にどれ程の金額を受取っているかを尋ねた所が、彼は一ヶ月二十ドルだと答えた。牧師は一ヶ月十ドルである。彼等は彼等の学校や、婦人慈善団体のために、フランスから醵金を受けるが、非常に倹約で、車馬に乗る代りに歩いたりさえする。彼等が独身で、彼等自身だけを支持すればよいのは事実である。新教の宣教師達は、一年に千ドル貰い、結婚していれば生れる子供一人に就て五十ドルずつ余計に貰う。私はこの司教に向って、彼の教会には絶対的に反対だといったが、彼はそれにもかかわらず、私と一緒に煙草を吸い、また別れた時にも、私の暗澹たる来世を考え、親切のあまり泣き出したりするような事はしなかった。だが、この偉大なる教会は、何という驚異で、そして力であることよ! 天主教徒が世界中どこへ行っても、同一の儀式と信仰とを持つ彼の教会を発見し得るとは、何という一致と、力強さとであろう! 新教の各教会も、現にそれ等を分離している詰らぬ教義をふりすて、すべての教会各派が、若干の簡単な信仰の行為に合致し得たら、それは如何に、より効果的になるであろう!
翌朝夙く起きて、長崎へ近づくのを見た。水上に岬や、岸を離れた小さな島々が、怪奇な形をとって現れる有様は、如何にも不思議だった。岸はすべて山が多く、そして丘や山の殆ど全部は頂上まで段々畑になっている。水平的な畑にある玉蜀黍とうもろこしや、小麦や、稲の農作物が、あらゆる方角に見える。それ等すべての新奇さと美しさとは、言語に絶している。図542は長崎から十六マイル離れた所にある、奇妙な突出物の一で、高さ百五十フィートである。中央に狭い口があり、それに発する間隙はてっぺん迄達している。図543に示すものは、より遠くにあり、海図には高さ二百五十フィートと記載してある。

私は初めて飛魚を見た。最初に見た二匹はくっつき合って飛んでいたが、私はそれ等を鳥が水から飛び出ようとする――恰も鴨が先ず水を離れる如く――のだと見誤った。私には彼等の鰭ひれが水を打つ音を聞くことが出来た。これは然し、或は尾鰭が急速に前後に揺れて、奇妙な尾の羽根みたいに見えたのかも知れない。彼等が姿をかくす迄、私はそれが飛魚であることに気がつかなかった。この動物が実際飛ぶことには疑はない。私は熱心に、次の魚の出現を待った。すると好運にも、船首のすぐ下に飛び上り、すくなくとも五百フィートの距離を、最初は一直線に、そして水に落ちるすぐ前には、優美な曲線を描いて飛んだ。それは水面上一フィート半の高さを、キチンと保って、この上もなく美事な典雅さを以て非常に速く飛んだ。その飛行の確実さは、私に蜻蛉とんぼを思わせた。それ迄話によってのみ承知していた私は、それがこんなに美しいものであるとは、夢にも思わなかった。
朝の八時、我々は長崎湾に投錨。私は急いで上陸し、正式に知事を訪問して、我々の派遣の目的を説明した。他ならず、港内並にその附近の海で曳網を行い、帝国大学の博物館のために、材料を蒐集するというのがそれである。我々の仕事を都合よくするには、実験室に使用するよき部屋を手に入れることが必要である。一時間と立たぬ内に、我々のために税関で、大きな部屋を一つ見つけてくれた*。我々は曳網、綱、鑵、瓶を取り出し、その他の荷を解き、なお充分時間があったので、私は当地の展覧会を見に行った。
* 私は日本の役人の手ばやく、そして事務家的なやり口を示すためにこの事を記述する。いたる所で私は同様の経験をしたからである。
五月十三日。我々は素晴しい曳網をやった。我々の舟の乗組は、男二人と女一人とであるが、この女も男と同様力強く櫓を押した。この附近では、女が石炭を運んだり、船に荷を積込んだり、舟を漕いだり、男のやる仕事をすべてする。私の眼は、絶えず曳網から雄大な景色――水ぎわから頂上まで欝蒼たる樹木に被われた高い丘にかこまれた長い入江、木々にかくれた小さな家、寺、神社、それ等に通ずる石段――の方に向うので、現に行いつつある仕事に注意を集中することは、容易でなかった。私は曳網で、熱帯性の貝や、棘皮動物や、甲殻類や、その他私には物珍しい種類を引上げつつあったのだが、而もこのような美しい眺望から眼を離して、曳網の泥土に頭をつっこんでいるということは、困難だった。
午後我々は湾の岸に沿って、干潮時の採集を行い、大きな石をひっくり返しては貝類の興味ある「種」を沢山採った。この努力に加わった舟子たちは、あだかもしょっ中採集をやっていたかの如く振舞った。採集家でなくては、彼にとって全然新しい、珍稀な熱帯性の貝をひろい上げることが、如何に愉快であるかは、見当もつかない。我々は暗くなる迄仕事を続け、強い追風に吹かれて帰った。明日は今日より大きな舟に、漕手四人を乗り込ませ、湾内数マイルの所まで出て行くことにした。
私はここで、長崎には狭い町通があり、その多くには長い、矩形の石が敷きつめられ、人力車が非常に平滑にその上を回転して行くことを述べ度い。牡牛の腹脇には鈴をつけた長い紐が下っているので、歩き廻るにつれ、ジャランジャランいうニューイングランドの橇そりの鈴を連想させるような音がする。もっとも、これはニューイングランドよりも十倍も大きな音である。長崎の住民は、長い間外国人と交際しているので、北の方の人々みたいに丁寧ではない。乱暴ではないが、「有難う」ということが無く、お辞儀もあまりしない。そして、店で何か見せて貰ったことに対して、私が礼をいうと、彼等は恰もそれ迄に、こんな風に外国人から丁寧に扱われたことが無いかの如く、吃驚したような顔をする。当地に於る私の僅な経験に依ると、外国人は日本人の召使いに対して、鋭くて厳格であり、あらけなく彼等に口をきき、極めてつまらぬ失策をしてさえ叱りつける。人力車は新型で、幌は旧式な日除帽子に似ている。子供達は我々の後から「ホランダ サン!」「ホランダ サン!」と呼びかける。これは“Hollander Mr”という意味である。
子供の頭は図544のように、奇妙な形に剃る。支那人の影響を受けたらしく見られる。

図545は犁すきをかついで仕事をしに行く百姓である。これは一匹の牡牛によって引かれる。末端には鉄がかぶせてあるが、これはこの地方の典型的のもので、日本には各地方によって、多くの犁の型がある。

図546は長崎特有の石垣である。これは海岸から持って来た、丸い、腐蝕された石を、白いしっくいの中に置き、注意深く平にしたもので、上には屋根瓦がのせてある。日本の塀や垣根の種類は、実に数が多く、垣根のみを研究しても興味が深い。

五月十七日には、曳網、綱、立網等を馬にのせ、半島を横断して、七マイル向うの茂木迄歩いて行った。道路はこの全長にわたり、岩や石で鋪装してあり、場所によっては平坦だが、他の場所では非常に凸凹している。我々は先ず嶮しい丘を登った。狭い小径の殆ど全部は粗雑な石段で出来ていたが、馬が如何にしてこれ等の段々を上るかは興味が深く、また下りて来る牡牛にも出会った。我々は扱いにくい荷を背負った一頭の牡牛に追いついた。例によって一人の男が、この動物を導いている。この場所の小径は狭くて泥深く、荷を積んだ牡牛は小径全体を占領していた。ある所では路の横の叢くさむらがあまり茂っていなかったので、私は素速く飛び、そして溝に添って疾駆することによって追い越すことが出来たが、私があまり突然出現したことと、私の大きい白い日除帽とが牡牛を驚かせ、彼は踊ったり蹴ったりし始めた。御者は死ぬ程胆をつぶし、まるで山が頭上に崩れかけでもしたかの如くに飛び上った。我々がはるか先に行ってもまだ、彼が驚愕した叫び声をあげたり、苦情をいったりするのが聞えたのは、面白かった。
最も興味の深い事象は、大きな石垣で支持され、いたる所の地景に跡をつけている段々畑である。これ等の石垣は耕作用の平坦な土地を支え、灌漑水は山の流から来て、壇から壇へと流れる。その儘で置かれれば荒蕪であるこれ等の丘の山腹は、かくて庭園、事実、都会の公園のように、見えるのである。
我々は最後に茂木に着き、そして主要な旅籠はたご屋を見つけた。図547は旅籠屋の向うの水に近く立つ、数軒の家を写生したものである。恰も干潮だったので、我々は採集するために、岸へかけつけた。

図548は茂木への途中にあった、石造の拱橋である。この村の路には、高い石の塀が添うている。それに添うて、海岸へ出る開いた場所を求めて歩いた私は、学校の庭を通りぬけた。男の子たちは恰度ちょうど休み時間で、みな石垣から紙鳶たこを上げていた。彼等はすべて私を見つめ、そして私が出て行くと共に声を揃えて「ホランダ サン」「ホランダ サン」といった。茂木の村は図549に示す如く、高い丘に閉じ込められている。茂木の向うの海岸に添った断崖は、如何にも不思議な形をしているので、このような変った形には、火山の活動が原因しているのではあるまいかとさえ思わせる。侵蝕は確かに、最も並々ならぬ山の輪郭を残している(図550)。

天主教の国々で人が道路に添うてその教会の象徴を見受ける如く、日本では到る所に仏教の象徴や祠が見られる。茂木の海岸には石の祠――扉も石で出来ている――があり、これ等の前で漁夫たちが祈祷する。図551はそれ等の中の二つを示しているが、高い方のは高さ三フィートである。

村を流れる細流にかかった橋の上で、数人の男の子が紙鳶をあげていたが、中には長い竹竿の末端に紙鳶をつけた子もある。このようにすると、風に達することが出来、また紙鳶をより容易に持つことが出来る(図552)。欄干らんかんがないので、この橋は非常にあぶなっかしく思われた。

長崎へ帰った我々は、その日採集した物を包装すると、疲れ切って畳の上に身を投げ出した。汽船は日曜日に、肥後と薩摩に向けて出帆する。我々は終日海岸にいて採集したり、曳網その他の物品を取りまとめたりした。横浜からの郵便は、予定の時に到着しなかったので、我々はそれを見ずに出発しなくてはならなかった。真夜中、我々は湾内にかかっている汽船に乗るべく、小さな小舟で岸を離れた。雨は土砂降りで、あたりは鼻をつままれても判らぬ位の闇、我々の小さな日本人の船頭が、汽船を見出し得るかどうかは、覚束なく思われた。汽船に着くや否や、我々は疲労困憊こんぱいの極、寝台にもぐり込んだ。翌日も降雨。正午肥後の岸に着き、海岸から五マイル離れた場所に投錨した。それ程遠浅なのである。この船は米を積込む為、翌日中碇泊するので、我々は全員豪雨を冒して上陸し、膚まで濡れながら海岸の岩の間で採集をした。我々はその夜の宿泊地である高橋の村へ行くのに、狭い川に添った狭くて非常に泥深い径を、六マイル歩かねばならなかった。川の船頭だちは、行きすぎる私を凝視し、我々に達する余程前に我々を看出しさえした。彼等は非常に慇懃いんぎんで丁寧であったが、我々が見えなくなる迄凝視するのであった。
図553は我々の宿屋から見た高橋の、ざっとした写生である。家々は川に臨み、反対側には竹叢がある。図554は高橋のある町通で、狭くて泥深い。我々は舟に乗って、川を下り、海に出たが、満潮だったので、漁夫の小家に近い貝殻の堆積の間から採集をし、完全な状態にある美事な標本を多く得た。塵芥堆ごみすてばの一つの内に、大形な緑色サミセンガイの貝殻を大多数発見した時、私は如何に驚いたであろう! この動物は食料に使用されたので、私は狂人のように走り廻りながら、どこで此等の貝を掘り出したのか、話してくれることの出来る人をさがし求めた。間もなく私は、それ等は干潮の時掘り出されるので、普通な食品であることを知った。ここにいるこの動物こそ、こればかりでも、最初私を日本へ導く原因をなしたのである。一瞬間、私はすべてを放擲して、私の全注意心をこの古代の虫に集中しようかと思った。だが、そんなことは出来ぬ。私の薩摩の仕事が終ったら、もう一度ここへ立寄ることにしよう。

肥後の海岸を立去る時、一人の漁夫が船側へ来た。彼の舟の中で、私は蟹かにや小海老えびの間に、奇妙な蟹を百匹ばかり手に入れた。これは後方の二対の脚が、見受けるところ場ちがいに、胸部から上向きにまがって、ついている。最後に私はその中の一匹が、円形の二枚貝(ヒナガイ)に被われているのを発見した。二つの小さな鉤爪かぎづめの役目は、それを背中に支持することなのである(図555)。この蟹の背中は人間の顔に、怪異的にも似ていて、これに関係ある伝説が存在し、それをこの漁夫は私に物語ろうとつとめた*。

* この蟹はヘイケ ガニと呼ばれる。ジョリイの尊ぶ可き著述『日本の芸術に於る伝説』には、平家蟹は小さな蟹で、それには奇妙な、迷信に近い伝説があると書いてある。一般にこれは一一八五年、壇ノ浦の戦でミナモト(源氏)に殺されたヘイケの戦士だちの、妖怪的な遺物であるとされる。これ以上の詳細に就ては上述の書〔Legends in Japanese Art by Joly〕の一一五頁を見られ度い。
前にも述べたが、日本を旅行する外国人は竹の用途が無限であることに必ず留意する。これは扇の骨というような最も繊細な装置のみでなく、家屋の雨樋あまどいにも使用する。図556は竹ばかりで出来た柄杓ひしゃくで、水入れ、柄、目釘の三部から成り、しっかりしていて、長持ちし、そして軽く、値段は多分一セント位であろう。

汽船は終日米を積み込んだ。米は如何にも日本らしい。筵の奇妙な袋に入り、艀はしけで運ばれて来る。出帆が遅れるのを利用して、私は遠方の山々を写生した。肥後の全沿岸は、ここに出した若干の写生によっても知られる如く、極めて山が多い。それは火山性で、暗礁や、鋭い海角があるので、航海は非常に危険であるとされる。山の高さは四、五千フィートを出ず、沿海線に近いものは、恐らく千五百フィート乃至二千フィートであろう。私は汽船から見える山々の、かなり正確な輪郭図を描くことが出来た。
海岸に沿うて航行するにつれて、山の景色の雄大なパノラマが展開した。南方へ下ると、多くの山は水際から直に聳えるらしく、その殆ど全部が火山性で、それ等の多くは煙を噴く火孔や、湯気を出す硫黄泉を持っている。図557を見る人は、山脈の大体の概念を得るであろう〔図557のabcは横に一枚に続く〕。薩摩の海岸に近づくと、山の景色は依然として継続するが、山は一層嶮しくなり、岸に近い岩は北方のものよりも更にギザギザしている。図558は薩摩の海岸にあるこれ等の山や岩の特性を示している。図559は南へ航行しながら近づいた野間崎で、鋸の歯のような尖端の、顕著な連続である。鹿児島湾の入口へ近づくのに、我々はこの岬を廻った。図560は薩摩の南端の海面から出ている、孤立した岩角を示す。

昨日、我々の汽船が米を積み込んでいる間、日本の戎克が一艘横づけになっていたので、私はそれを写生する好い機会を得た。その内で大きな舵が動く、深い凹所を持つ奇妙な船尾、後にある四角な手摺、その他の細部がこの舟を一種独特なものにしている。図561は船尾の図、図562は船尾を内側から見た所で、如何に其の場所が利用されているかを示す。舵柄は取り除いてある。こまごました物の中には料理用の小さな木炭ストーヴ、即ちヒバチがあり、また辷る戸のついた小さな食器戸棚は、料理番の厨室ギャラリーを代表している。

戎克のあるものは繊細な彫刻で装飾してある。図563は舳へさきにある意匠で、木材に刻み込まれ、線は広くて深く、緑色に塗ってあるが、これを除いては船体のどこにも、ペンキもよごれも見当らぬ。木部はこの上もなく清浄で、いつでも乗組の誰かが水洗いしている。乗客戎克の多くには、幾何学模様の各種の寄木よせぎで美しく装飾したものがある。古い戎克のある物は、その一風変った外観に慣れると、全く堂々として見える。それ等は非常に耐航性が無いといわれるが、竜骨が無いので風に向って航行することが出来ず、その結果常に海岸近く航海し、暴風雨が近づくと急いで避難港へ逃げ込む。

薩摩の漁船は非常に早く帆走するという話だが、高さの異る帆を舳から艫ともに並べた、変な格好の舟である。図564は極くざっと、それを描いたもの。舷には櫓や網や竿やその他がゴチャゴチャになっているので、我々の横を疾走して行く時、私は極めて朧気な印象を得た丈である。檣マストは三本。真中のは何か神秘的な方法で、他の二本によって支持されている。原始的な、そして覚束なくさえある帆の張りようは、誠に珍しいものであるが、而も引下さねば決して下りて来ぬらしい。

暗くなって、私は寝台へ入ったが、然し北緯三十一度の地点にある鹿児島湾へ船が入るのを見る為に、目を覚ましたままでいた。真夜中、私は再び甲板デッキに出たが、湾に入ることよりも遙かに興味があったのは、海の燐光である。その光輝は驚くばかりであった。そして極めて著しいことに、大小の魚のぼんやりした、幽霊みたいな輪郭が、それ等がかき立てる燐光性の体質に依って、明瞭に知られた。私はこの驚くべき顕示を、更によく見る可く、船首から身体を乗り出した。幽霊の如く鮫さめが船の下を過ぎた。すぺくとるに照された進路を持つ骸骨魚で、いずれの旋転も躱身かわしみも、朧に輪郭づけられる。真直な、光の筋を残して、火箭ひやの如く舷から逃れ去る魚もあり、また混乱して戻って来るものもある。魚類学者ならば、それぞれの魚を識別し得るであろう程度に、魚は明かに描き出され、照明されていた。私は遠方の海中に、光の際立った一線があるのを認め、それを海岸であろうと考えたが、海岸線は遙か遠くであった。近づいて見るとそれは、海にある何等かの潮流と界を接する燐光体の濃厚な集群で、海生虫の幼虫や、水母くらげやその他から成立していることが判った。船がそれを乗り切る時の美しさは、言語に絶していた。舷ごしに見ている我々の顔を照しさえした。光は、まったく、目をくらます程であったが、而もその色は、淡い海の緑色である。それは人をしてガイスラー管〔ハインリッヒ・ガイスラー発明の真空放電管〕の光輝を思わしめ、そしてそこを通り過ぎると、船痕の継続的波浪が到達するにつれて、暗い水から光の燦然たる閃光が起った。私が熱帯性の燐光を見たのは、これが最初である。この美しさは、いくら誇張しても、充分書きあらわすことは出来まいと思う。
間もなく夜があけた。如何にも景色がよいので、到底暑いむしむしする船室へ下りて行く気がしない。六時、我々は汽船から小舟に乗りうつって上陸した。鹿児島附近の景色は雄大である。町の真正面の、程遠からぬ所に、頂を雲につつまれた堂々たる山が、湾の水中から聳えている。これは有名なサクラジマ即ち桜の木の島である(図565)。図566は鹿児島の向うの桜島山の輪郭を、鹿児島の南八マイル、湾の西岸にある垂水たるみ〔大隅の垂水ならばこの記述は誤である。後から「湾の東にある元垂水」なる文句が出て来る〕湾を越して西に開聞嶽かいもんだけと呼ばれる、非常に高い火山がある。これは富士山のような左右均等を持っていて、四周を圧している。ここに描いた斜面は、疑もなく余りに急すぎるであろうが、私にはこんな風に見えた(図567)。市の背後には低い丘がある。

こんなに魅力に富んだ景色にかこまれていながら、汽船が翌朝夙く長崎へ帰船するので、たったこの日一日だけしか滞在出来ぬということは、誠に腹立たしかった。新しく建造された鹿児島市それ自身は、巨大な石垣に依って海に臨んでいる。家屋は貧弱で、非常にやすっぽい。二年前には、薩摩の反乱のために、全市灰燼に帰し、人々は貧乏で、往来は泥だらけで木が無く、家の多くは依然として一時的の小舎がけである。十年か十二年前、鹿児島は英国人に砲撃された。これは友人が警告したにもかかわらず、江戸へ向く途中の薩摩の大名の行列に闖入ちんにゅうして殺された、一人の高慢きわまる英国人の、かたきをとるためにやったことなのである。外国人が一般的に嫌われていることは、男の敵意ある表情で明らかに見られ、また外国人が大いに珍しいことは、女や子供が私を凝視する態度で、それと知られた。二百マイル以内に、外国人とては私一人なので、事実私はここに留っている間、多少不安を感じた。この誇りに満ちた町は、同時にアジアコレラの流行で苦しんでいたのであるが、我々は数時間後まで、そのことを知らずにいた。我々はみすぼらしい茶店へ導かれたが、そこの食事は如何にもひどく、私には御飯だけしか食えなかった。ああ、如何に私が珈琲コーヒー一杯をほしく思ったか!
この、気のめいるような食事の後で、私は助手を従えて、海岸と町の海堤とに添うて採集に行き、下僕二人は町の背後の丘へ、陸産の螺にしをさがしにつかわした。暑くてむしむしし、採集している中に我々は、この町の塵や芥を積み上げた場所へ来たが、これは最も並外れた光景なのである。我々は一種奇妙な二枚貝のよい標本を沢山と、腐肉を食う螺とを手に入れた。積み上げた屑物の中では、沢山のオカミミガイとメラムパスと、一つのトランカテラとを採った。悪臭は恐しい程で、日本の町は一般に極めて清潔なのに、これはどうしたことだろうと、私は不思議に思った。帰る途中で郵便局へ寄ったら、日本語で「コレラが流行している、注意せよ!」と書いた警報が出ているのを見つけた。最も貧弱な日本食を食うべく余儀なくされたので、私の胃袋はほとんど空虚であり、また始終非常に咽喉がかわくので、ちょいちょい水をのみながら、私は残屑物の山をかきまわしていたのである。その日一日中、私は気持が悪かった。
私は県知事を訪問して私の旅行の目的を話した。すると彼は非常に気持のよい日本人の官吏を一人、私の短い滞在期間中、私の助手としてつけてくれた。彼はまた我々の為に、清潔な、気持のいい宿泊所をさがしてくれた。正午、彼は舟をやとってくれた。裸体はだかの舟夫四人は、力強く漕いだばかりでなく、曳網に興味を持ち、曳いた材料から標本を拾い出すことを手伝った。薩摩の舟はこの種の中では最も能率的なもので、私がそれ迄に見た舟の中では最も速いものの一であり、台所の床――清潔で乾燥している場合の――みたいに奇麗である。舟首は図568に示すように、一つの木塊からえぐり出してあり、舟の平面図は右に輪郭図で示してある。我々は暗くなる迄網を曳き、沢山いい物を手に入れた。

翌朝は湾を十マイルか十二マイル下り、曳網をしたり、岸に沿うて採集したりすることになっていた。我々と同行すべく知事によって選ばれた官吏は、私に陸上の高所に貝殻の堆積があり、人々がそれを焼いて石灰をつくっている場所があると話した。彼の説明を聞いた私は、それを古代の貝墟に違いないと思った。我々は四時に起き、必要品を取りまとめてから、湾を下り始めた。風が無いので長いこと漕ぎ、湾の東岸にある元垂水という、非常に美しい場所に着いた。官吏は私と一緒に上陸し、種田氏と下僕とは曳網をしに舟を出した。こんな所へは外国人なんぞ来ないので、海ぞいの小さな漁村を通りすぎると、村民達は一斉に私を見に出た。私は、ある山間の渓流で飲んだ水が、非常にうまかったことを覚えている。我々は想定的貝墟まで、殆ど三マイル、海岸について歩いた。それは貝墟には違いなかったが、人工的なものではなく、海岸で磨滅された貝殻の巨大な堆積であった。比較的新しい時代に海岸が隆起し、これ等の貝を水面から、かなり高い所迄持ち上げたのである。ダーウィンは『博物学者の航海』で、チリー、コキムボに於る同様な海岸隆起を記述している。これは更に山容によって示された。この地方の火山性性質を証拠立てるものである。ここを歩くことは、古い習慣がすべて行われているので、誠に興味が深かった。子供達は遊びをやめて丁寧に私にお辞儀をし、男や女は私が通ると仕事を中止してお辞儀をした。これ等に対して私もまた丁寧にお辞儀をしかえした。練習の結果、私は日本風のお辞儀が大層上手になっていたのである。我々は鞍も鐙あぶみも日本古来の物をつけた馬に乗って来る人に逢った。万事日本風である。ある家の背方を過ぎた時、私はニューイングランドの典型的なはねつるべを見た(図569*)。

* この写生図は『日本の家庭』にも出ているが、私は再びそれをここに出さずにはいられない。
図570では、一種の粗末な厩を示す。日本の馬は頭の方から馬房に入って行かず、尻の方から後むきに入れられる。

上陸地への帰途、我々は古い陶器を見るために、ある紳士の家へ立寄った。同行した官吏が人々に向って、私が古い陶器に関して、非常に興味を持っていることを話したので、私は沢山の珍しい物を見る機会を得た。図571は、古い朝鮮の盃で直径六インチあり、内側の模様が如何にも変っているので、写生した。こんな奇妙な熊手や床几は、日本では見たことがない。私は大学博物館のためとて、変った形をした卵形の壺を貰った。これは高さ十四インチで、最大直径の部分に粘土のひもがついている。いう迄もないが赤い粘土で、厚くて重く、より北方で見出される如何なる陶器とも違ったものである。

古代の朝鮮及び日本の陶器を見て、この上もなく気持のよい時をすごした後、我々はまた、干潮なので岸に沿うて出立し、私は初めて熱帯性の貝がいくつか、生きているのを見て、大きによろこんだ。タカラガイ、イモガイ、ホネガイ等の科、及び精美な小さい一つのナツメガイがそれである。日のある内に風が無くなって了い、我々は数時間、遅滞させられた。知事は私を六時の正餐に招待してくれたのであるが、上陸点へ着いたのは九時であり、それも、途中で起った疾風のおかげで、そうで無かったら、十二時にはなっていたであろう。私は舟から飛び下り、旅館へ駆けつけて靴下と新しいシャツとを身につけ、同行した官吏と、助手との三人で、知事の家へ急いだ。
我々は大きくて広々とした美しい部屋へ通された。勿論私は靴をぬいでいた。この部屋へ歩いて入ると、知事が出て来て、懇ねんごろに私に挨拶したが、殆ど十時に近かったにもかかわらず、彼の態度には、いささかも待ちくたびれたような所が見られなかった。彼の庭園には菊の驚くべき蒐集があり、それ等は数百の燈火で照らされてあった。次に彼は私に数箇の薩摩焼その他を見せ、その興味は全然別の方向にあるものとされている外国人が、かくも早く、支那、朝鮮及び日本の陶器を鑑別することを覚え込んだことに就て、何度か驚嘆した。十時、我々は食事のために、二階へ呼ばれた。すべてで六人で、正餐は私に敬意を表する為とあって西洋風だったが、私はもう日本料理に馴れているので、日本風であったら、より喜んだことと思う。が、私は大いに食って、感謝の意を示した。朝の四時から、私が口に入れたものとては、小量のきたない荒塩をつけた薩摩芋たった二個なのである。
列席した一人の紳士は面白いことをするのが好きで、正餐が半分も終らぬ内に、両手で色々と変ったことをやり出した。私は彼のやったことをすべて真似することが出来たが、只指を曲げて腕につけることは出来なかった。そこで私は彼等に両手を反対の方向に廻し、お仕舞には右手を左手より速く廻すという芸当をやって見せた。彼等がこれをやろうとして死物狂になる有様には、実に笑わざるを得なかったが、誰にも出来なかった。
次に私は一寸の間刀を借して貰い度いと頼んだ。刀は絹の布に包まれて持ち出された。刀を抜くことに伴う権威と儀礼を承知している私は、先ず謝辞を述べ、僅かに横を向いてから、刃を私の方に向けて刀を抜いた。これは両手の甲を下に、柄を片手で、鞘さやの柄に近く別の手で握り、そこで刀を抜き、両手で完全にひっくりかえしてから、刀を鍔つばまで鞘に納めようというのである。所が誰にも刀と鞘とを並行にすることが出来ず、大抵は直角にするのであった。
私はまた彼等に、私が子供の時田舎の学校で覚えた、床でやる芸をいくつか見せたが、酒を飲んだり遊んだりしたので、一同大いに面白くなった。知事は彼がそれから酒を飲んだ薩摩焼の徳利を呉れた。これは何年か前、特に彼のためにつくられたのであるが、彼はこれでは酒の入りようが足らぬといった。図572はその徳利と、それに附属する深い函形の皿との写生である。深い木製の皿には相対した側に穴があり、それを清める時に、ここから布を引き出す。

午前二時、我々は別れを告げねばならなかったが、一同、非常に面白く、愉快だったといった。我々は暗い中を旅籠屋へ急ぎ、その日採集した物を包み上げ、恰も夜が明けようとする時汽船へ向けて出立した。我々は錨の捲きあげられる音を聞き、動き始めた汽船に乗り込んだ。私は二十四時間活動しつづけ、曳網を行い、殆ど何も食わずに赫々たる太陽の下を八マイルも歩き、今や疲労のあまり固い甲板の上にぶっ倒れて熟睡して了った。
長崎で手に入れそこねた米国からの私宛の郵便物が、陸路鹿児島へ転送されたということを、私はどうにかした方法で耳に入れた。が、汽船は定刻に出帆するので、待っている訳には行かず、又しても私はそれを見ずに行かねばならぬ。だが、郵便局に、それを長崎へ戻すことを命じた。私は長崎には一週間か、あるいはそれ以上滞在することになっていた。
日本の他の地方に言及する前に、記録しておかねばならぬことが二、三ある。あらゆる場所には、それぞれ特有の人力車の型があるらしく、鹿児島もその例に洩れない。ここの人力車の梶棒は、横木が車夫の頭の上へ来るような具合に彎曲しているので、乗る人はこれでよく自分が投げ出されぬなと、不思議に思う。この人力車の大体のことは写生(図573)で判るであろう。背面と側面とには、ペンキ漆がゴテゴテと塗ってあり、竜その他の神話的の事物や、英雄、豪傑の絵等が背面の装飾になっていたりする。薩摩と肥後の穀物畑では、変った型の犁すきが使用される(図574)。鉄の沓くつと剪断部とは、軽くて弱々しいらしいが、犁は土中で転石にぶつかったりしない。これは一頭の馬に引かれ、構造は原始的だが、充分役に立つらしく思われる。

この国には石造の拱橋が多い。古いのも多く、ある物はかなり大きく、そしていずれも絵画的である。拱橋がこれ程沢山あるのに、それ等の拱アーチに、我々が橋に於る非常に重大な要素と思う楔石を持ったのが一つも無いのは、不思議に思われるが、而も日本人はその必要を認めていない。我々には、日本の拱が不完全で不確実であるように見える。然しながら、私は弱さを示したものは唯の一つも見たことがなく、又、しかある可き理由も無い。それは景色に美しい特徴を与える――河や、小さな流れにさえ、時代の苔が緑についた、石の拱がかけ渡してある。鹿児島市中の小さな、狭い川には、一箇所に石の拱橋が三つかかり、三つの小さな歩径をつないでいた(図575)。

薩摩では古いニューイングランド型の跳つるべが見られるばかりでなく、図576に示すが如く、井戸が家の内にあって、跳つるべが外に立っているというのもある。鹿児島では、これは湯屋を現している。

日本人が小さな物をつくるのに、如何に速に竹を使用することを思いつくかは、興味がある。一例として、先日曳網をしている最中、私は長い鉄の鉗子ピンセットを忘れて来たことに気がついた。すると私の下男は、直ちに舟の細い竹の旗竿をとり、その一節を切って、間もなく美事な、長い鉗子をつくった。使って見ると便利なばかりでなく、軽くて都合がよかった(図577)。

錨いかりには数種の型がある。四個の外曲した鉤を持つ鉄製のものは、戎克ジャンクの写生図の一つに於てこれを示した。図578はまた別の型である。これは木製で、錘おもりは横材にくくりつけた二個の石から成っている。

肥後と薩摩――九州の他の地方でも多分同様であろう――では、馬具の尻帯に、長さ二インチの陶器の珠数、換言すれば円筒をつける。この装置によって綱は、擦傷をつけることなしに上下する。これ等は馬の脇腹を起す綱に交互につけられ、黄色緑色との釉うわぐすりがかけてある(図579)。蝦夷では同様にして、丸い木の玉が使用される。

岬の写生図二、三をここに示す。図580は鹿児島湾への入口、図581は肥後の海岸からつき出たもので、南に下傾する岩の層があり、図582は薩摩の西海岸にある岩で、高さが五十フィートあるというので「五十フィート岩」と呼ばれる。層畳した岩の、これ程明瞭なのは、従来見たことがない。
第十七章 南方の旅
鹿児島から島原湾へ至る航海は、実に愉快だった。海は堰水のように穏かで、いささかのうねりさえもなく、私は大きに日誌を書くことが出来た。翌朝汽船は、高橋川の河口を去ること五マイル以上の点に投錨した。その内に強風が起り、一方の舷には大きな波が打寄せた。小さな日本の艀はしけが如何に安全であるかは、何度もそれに乗って曳網をした私はよく知っているのであるが、それでも汽船の横で上ったり下ったりしている小舟を見た時には、いささか不安を感じた。我々は我々の荷物を艀に移すのに大いに苦心をし、続いて我々の為に下された船梯から、艀めがけて飛び下りねばならなかった。然しながら我々は、安全に上陸し、サミセンガイを掘り出し得るであろう場所をよく確めた上、私の下僕と、我々の所謂トミとを後に残し、目に入るかぎりのサミセンガイと、すべての海藻とを採集することに全注意を向けさせることにし、私は助手と一緒に四マイル近い内陸にある熊本へ向けて出発した。
我々は知事を熊本城に訪問した。彼は立派な老紳士で、我々の為に佳美な日本式の正餐を用意していてくれ、我々は大いにそれをたのしんだ。知事は城内を案内し、二年前の籠城の話をして聞かせた。この時、城は敵に包囲されること六週間に及び、建物の多くは焼け落ち、市民や兵士の殺された者も多く、そして熊本市は灰燼に帰した。知事は城にいたが、反逆兵達は、彼が住んでいるとされる建物を壊滅することに、特に努力した。建物はいずれも、あちらこちら打ちこわされ、銃弾の穴をとどめた箇所も多い。自分の経験を話しながら、この老人が興奮して行く有様は興味があった。
ここで、忘れぬ内に、私は我国で私が逢った智力ある人々の、百人中九十九人までは、月の盈虧みちかけと月蝕とを混同しているという事実を記録せねばならぬ。我々の汽船の船長(英国人)は、私が説明する迄は、この事実に関する何等の概念を持っていず、そしてその話をしている間に気がついたことだが、彼は引力の法則をまるで知らず、我々が大気の圧力に依て地球に押えつけられているものと思っていた。ここに我々の議論を再びくりかえして書く時間はないが、汽船を操縦し、隠れた岩や砂洲のある海岸を承知しつくしていながら、天文学の最も簡単な事実さえも知らぬ英国人の船長がいるのだから驚く。彼は私に向って、恥しそうな様子ではあったが、ダーウィンはアリストートル(彼はこの名と、それからこの名の持主が何世紀か前に生きていたことは、知っていたらしい)の時代の人か、それとも現代の人かと聞いた!
知事のことに話を戻すと、私は彼に我々の仕事の目的を話し、彼は私が三十四マイル南の八代やつしろへ行こうとしているので、役人を一人つけてくれるといった。この時は、もう午後遅かったが、而も我々は熊本市のまわりを廻って、長いこと歩いた。ここでも、鹿児島その他に於ると同様、人々が私を一生懸命見詰る有様によって、外国人が如何に珍しいかが知られた。
その晩知事が派遣した官吏が、我々の旅館へやって来た。非常に愉快な男である。彼はこの上もなく丁寧にお辞儀をした。私は床に膝をつき、私の頭が続け様に畳にさわる迄、何度も何度もお辞儀をすることが、如何にも自然に思われる私自身を、笑わずにはいられなかった。その上私は、息を口中に吸い込んで立てる、奇妙な啜るような音さえも、出すことが出来るようになった。
翌朝我々は五時に出発した。そして人力車で、凸凹の極めて甚しい道路を二十四マイルという長い、身のつかれる旅をして、大野村へ着くと、ここには私がさがしていた貝塚がいくつかあった。道はそれ等の間を通っている。ここから海岸までは、すくなくとも五マイルある。この堆積はフロリダの貝塚の深さに等しく、即ちすくなくとも三十フィートはあるかも知れない。貝殻の凝固した塊は
Arca granosa
〔アカガイの種〕から成っているが、他の貝の「種」もいろいろ発見された。我々は夕闇が近づく迄、調査したり発掘したりしたが、そこで八代へ向い、九時同地着、県知事へ報告した。知事は最も礼儀深い紳士で、如何なる動作も、如何なる行為も、優雅と洗練そのものであった。将軍時代、彼は非常に高い位にいたが、かく魅力のある態度のいずこにも、矯飾らしい点はすこしも見えなかった。彼は一人の商人に向って、我々のために宿泊所をさがすように命令した。助手の話によると、日本人はお客様を特に厚遇しようとする時、このように、彼を公開の家へ送らず、個人の住宅を開放してそこへ迎えることを習慣とするそうである。助手先生、知事に向って、私に関するどんな底知れぬ嘘をついたのかは、聞きもらしたが、多少つかれていた私は、事実ありがたくこの款待を受け入れた。我々が一夜を過した家は大きくて広く、部屋部屋は普通の家に於るより装飾が多く、広くもあった。襖と天井との間の場所には、多分灌漑を目的とするのであろう長い木の水樋を表した、美事な彫刻があった。草、樋の支柱、その他の細部は、美しく出来ていた*。
* このランマの写生図は『日本の家庭』に第一四九図として出ている。
翌朝知事は贈物として、高田の茶呑を四個持って来てくれた。彼の話によると、これは三十五年前、彼の父の命令に依てつくられたのだそうである。図583はその一つの写生である。日本の新古陶器に対して熱愛を持つに至った私は、これ等を所有することをうれしく思った。彼は茶入を沢山持っていて、それを私に見せる為、熊本へ持って来ようといった。彼は、私と一緒に大野村の貝塚を調べたいという希望を述べた。

我々は篠つく雨の中を大野村へ向って出発したが、間もなくずぶ濡れになり、終日この状態のままでいた。我々は、かぎられた時間で出来るだけ完全に貝塚の調査をした。我々は沢山の骨を手に入れたが、その中には大森の貝墟に於ると同じく、食人の証痕を示す人骨の破片もあった。一本の人間の脛骨は並外れに平たく、指数五〇・二という、記録された物の最低の一つである。また異常な形の陶器も発見された。一つの浅い鉢には、矢の模様がついていた(図584)。

最初に私に大野村の貝塚の話をしてくれた地質学者ライマン教授は、貝塚附近に奇妙な石の棺のあることも話した。我々は容易にそれを発見したが、巨大な石槨であった。蓋の末端はこわれ、また下向きになっていたが、埋葬に関する迷信が原因して、村民達に我々がそれをひっくり返すことを助力させるのは、困難であった。然し我々の人力車夫は一向おかまい無しで、石の周囲を掘り、桿さおを槓杆てこにして、我々はそれをひっくり返した。図585はこの外見をざっと写生したもので、内側は小間パネルに刻んである。この古さは千年、あるいは千二百年であると信じられる。八代の知事はこれに就て何も知らなかったので、最大の興味を以て見るのであった。

雨は終日降り続き、我々は濡れて泥にまみれた。正午、我々は急いで食事するために、仕事をやめた。車夫達は弁当を持って来ていた。つめたい飯と梅干と、それから恐くは例の醤油をつけた僅かな生魚とであろう。我々はどっちかというと貧しい漁師の家を見つけ、謙譲に飯を乞うた。すると漁師と彼の妻は丁寧に、そして取乱したような所はすこしも無く、我々の為に何か食う物――それは色の黒い飯と骨のような固い小さな乾魚何匹かとであった――を仕度し始めた。彼等は知事という高貴な人の存在を意識し、また彼等の屋根の下に「外夷」を入れたことは一度も無いのだが、食事の貧しいことに就て奴隷的な申訳をいったりせず、単純な品位を以て、款待ということが必要とする所を行った。知事の態度は精麗そのものであった。彼はこの貧しい食物を如何にもうまそうに食い、お辞儀されれば必ずお辞儀しかえした。私は彼がこの簡単な食事を明瞭に楽しむことによって、これ等の貧しい人々を欣喜させたやり方を、如何に描写してよいか、その言葉を見出すことが出来ぬ。彼は皇帝から、山海の珍味を以てもてなされたとしても、この時よりも力強く、鑑賞と感謝とを表すことは出来なかったであろう。
我々が食事をしている最中、数名の村民が、驚いたり、崇めたりする為にのぞき込んだ。その中で一人、丘の片側に洞窟があり、そこには陶器が僅か入っているということを話した。北方の洞窟で見出される陶器の特異な形式を知り、且つ洞窟は埋葬場で、そして器物が米や酒やその他の供物の為に洞窟内に置かれてあることを知っている私は、筆と紙とをかりて、洞窟内の器物の輪郭を画いて見た。知事はその絵を男達に見せ、この通りかとたずねた。すると彼等は奇妙に当惑しながら、実は自分達はその陶器を見たことが無く、彼等の父もまた見ていないが、彼等の祖父が、かつて丘のその側に細い路がつくられた時、土工たちが洞窟の屋根をつきやぶり、そして器物を見たことがあるという話を、語り伝えたのだといった。
昼食後、我々は彼等に案内させてその場所へ行った。どしゃ降りの雨の中を、殆ど半マイルの間、急な坂の泥をバシャバシャやって登ると、彼等は立止り、道路の崖の側を指さした。のぞき込むと十フィートばかり下に穴があいていて、そこから泥水が、まるで堰口みたいに流れ出ている。これが洞窟の入口なのである。こんな激流は、麝香鼠じゃこうねずみか海狸ビーバーに非んば、堰き止めることは出来ぬ。どこから一体水が流れ込むのだろうと思ってあたりを見廻すと、我々が立っている所で、あふれた溝が、その水の多くを失いつつある。知事はここで溝を掘る許可を得た。掘ると、洞窟の屋根にある穴を蓋おおう何本かの丸太が現れた。路のはるか上方で溝を堰き、水を急な土手越しに流すようにした。穴は直径二フィート位しか無い。
十数名集って来た村の人達に、穴の中へ入れば莫大な褒美をやるといったが、地下墓所へ入ることに関する迷信的の恐怖心が非常に強いので、誰も入ろうといわない。八代から連れて来た車夫達も頭を振り、私の助手もそれを志願しない。こうなれば私が入るばかりだ。知事は、そこにはかつて鉱坑が掘られたのだからといって、私を引き止めようとしたが、若しそうなら、私には、洞窟内の水は外側の流れと同じ水準であることが分っている。私は車夫二人に両手をつかませ、穴の中へ身体を下降させた。まるでポケットの中に入ったように暗く、そして雨空から来る僅かな光線は、穴の入口を暗くする、好奇心に富み、且つ恐怖に襲われた群によって遮られた。私は何かに触ろうとして脚をのばしたが何にもならず、最後に車夫達がつかむ手を無理に振りはなして、お腹のあたり迄、水の中に落ちた。
瞬間的の沈黙に引きつづいて、穴の口から恐愕の叫声がひびき入った。私は助手に向って、私が無事であることを叫んだ。すると彼は興奮しきった声で、穴の口から大きな有毒の百足むかでがはい出して来たというではないか! 私はつばの広い帽子をかぶり、すべすべした護謨外套ゴムマントを着ていたが、粗麁な穴の内側から崩れ落ちる土塊や小石だと思っていた物は、実は巨大な百足が私に降りかかるのであった。私は文字通り、有毒虫の流れの中に立っていた。彼等は吃驚びっくりした蜘蛛くもがするように、洞窟の壁を匐はい上り、そして天井からパラパラ落ちた。薄暗い光線に目が馴れると共に、私は数百匹の百足が水面を漂うのを見た。そして水流が彼等を漸竭するのを待って、私は陶器を求めて砂中をさぐった。土砂がそれ迄に沢山集っていて、深さ二フィート以上の堆積が底部全体を蓋っていた。それはまことに気味の悪い経験であったが、私のすべっこい外套とつばの広い帽子とが私を救った。というのは、百足は足がかりが無いので、私を襲うや否や水中に落ちたのであった。私は陶器のことで興奮していたればこそ、恐れ気もなく、こんな暗い、騒々しい洞窟中に、百足の雨をあびてしゃがんでいることが出来たのである。私は博物館のために、標本用の百足を三匹つかまえ、入口に向って洞窟の壁を写生し、そこで繩を下させ、引き上げて貰った。出て見ると、穴の附近には、匐い出すに従って踏みつぶされた百足の死骸が、沢山散らばっていた。
水は上流で堰き止め、洞窟からも流し去った。私はついに人力車夫二人に入らせることが出来た。彼等は耨くわを使用して注意深く砂を掻き去り、一時間一生懸命に掘ったあげく、陶器を四個発見した。その一つは完全で、一つは僅かに破損し、他の二つは器の大きな破片である。知事は写生図を取り出した。私は彼が村の人々に向って、海外一万「リ」の所から来た外国人である私が、彼等さえも見たことがない、これから発見されようとした器物の形を、これ程正確に描いたことを、驚いて話すのを聞いた。村民達は、外国の悪魔として私を眺め、私が陶器を持ち去る時、大いに不満を示した。知事は、これ等が大学の博物館に置かれるのであることを説明した。図586は、入口に向って見た洞窟の有様である。中央の拱門アーチは洞窟への入口で、外側にある入口は小さく、そこから洞窟へ向って拡がるのであるが、通廊と同様に曲線をなしている。両側にある拱門は、どこにも通じていない。

午後五時、我々は熊本まで二十四マイルの路を、人力車で行く可く出発した。雨は降りずめに降り、通路は極めて悪い――これ程惨憺たる、そして人を疲労させる人力車の旅は、私にとっては初めてであった。私は疲れ切っていた。そして身震いをした程寒く、また起きているのが困難であった程ねむたかったのであるが、一寸でもウトウトすると人力車が揺れて、頭がちぎれる程ガクンとなる。貝塚で発見した陶器その他の標本を荷ごしらえするために、種田氏は後に残ったので、私の唯一の伴侶は、英語を一言も解さぬ知事であり、また私の東京日本語――方言に近い――は、彼にとっては、殆ど判らぬものなのであった。八時、我々は車夫の数を増したが、彼等は全距離にわたって歌を歌い、交代に一人ずつ、一足ごとに唸ったり、調子を取ったりした。車夫が歌を歌うとは如何にも珍しいので、しばらくの間私は起きていたが、その珍しさもやがて失せ、熊本へ着いた時の私は、生きているよりも死んでいる方に近かった。熊本の知事は、我々の宿舎として私人の邸宅をあてがってくれたが、私はそのもてなしを充分味う可く余りに寒く、気持悪くさえあったので、靴をぬぐと共に、家の中へ這い込み、濡れた衣類を身につけたまま床にごろりと横たわり、丸太のように眠て了った。
翌朝私は熊本の知事を訪問し、世話になったことを感謝すると共に、我々が発見した物や、大野村にある奇妙な洞窟のことに就て話した。彼はそこで、城の岩石にいくつかの洞窟があるといった。私が即座にそれ等を見たいといった性急さに、彼は微笑したが、気持よく立上って、私を洞窟へ導いた。時間に制限があったので、ごくざっとそれ等を調べることしか出来なかった。入口は崖の面にあり、それ等の多くは、木の枝葉が上からかぶさって、かくしており、中には容易に到達出来ぬものもあった。私は洞窟の二、三に入って見た。形は四角である。一つの洞窟にはそれを横切る仕切が、また他の口はそのつき当りに、床から四フィートばかりの高さの凹所があり、それが棚をなしているのは、恐らく食物を供えた場所なのであろう。日本に於る洞窟を研究したら、興味が深いだろうと思われる。それ等は国中いたる所に散在し、私の知る範囲内では、埋葬用洞窟である。
午後高橋へ戻って見ると、残して行った者達は驚く程立派な採集をしていた。私は、大きな緑色のサミセンガイの入った樽をいくつか見て目をたのしませ、土地の人のするように、それをいくつか食って見た。食うのは脚部だけであるが、私はあまり美味だと思わなかった。
高橋川の川口にある小さな漁村に着いて見ると、暴風雨が来そうなので、汽船は翌日まで出帆をのばしたとのことである。これにはいやになったが、私はその日を、サミセンガイを研究して送った。泥濘ぬかるみの干潟をピョンピョン飛び廻っている生物がいた。最初私はそれを小さな蟾蜍ひきがえるか蛙だろうと思ったが、やっとのことで一匹つかまえて見ると、胸鰭が著しく発達した小魚である。これ等の小動物は、まるで仲間同志遊びたわむれているかの如く、跳ね廻っていた。ラマークが、如何にして、努力の結果が身体の各部分を変化させる云々という考を思いついたか、容易に判る。
高橋の紙鳶たこは、恐しく大きなものであった。八フィートあるいは十フィートの四角で、糸には太い繩を使用する。紙鳶の一つには、前にも述べた、ピカピカ輝く眼がついていた。
昨日大野村からの帰りに、我々は美事な老樹の前を通ったが、その後には神社があった。日本中いたる所、景色のいい場所や、何か興味の深い天然物のある場所に、神社が建ててあるのは面白いことである。図587はこの習慣を示している。樹木の形が変っていて面白いので、その後に神社を建てたのである。ここでは、人々の宗教的義務に注意を引く可く天然を利用し、我国では美しい景色が、肝臓病の薬の大きな看板でかくされるか、或はその他の野蛮な広告によって、無茶苦茶にされる。高橋には、人々が非常に大切にしている、形も大きさも実に堂々たる一本の樟樹くすのきがあり、地上十フィートの所に於る幹は、直径八フィートもある(図588)。

高橋から島原湾を越して西方には、温泉岳と呼ばれる秀麗な山塊が見える。これ等の火山の頂上は、たいてい雲にかくれているが、時々姿を見せる。図589に示した輪郭図は、割合に正確である。我々を長崎へはこぶ汽船は、島原の島と町とへ一寸寄った。そこへ着いたのは午後五時であったが、日本に於る最も絵画的な場所の一つである。小さな、ゴツゴツした島嶼の間をぬけて航行すると、やがて水際にある町へ着くのである。町のすぐ後に、温泉岳の岩の多い斜面が聳え立っている。我々は、一マイルを人力車で走って、一軒の有名な旅館へ行き、そこで美事な食事を命じた。それは美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)、煮た烏賊いか、あげた鰻うなぎ、御飯という献立で、どれも美味であった。たった二時間しか碇泊しない船へ帰る途中、我々は貝をさがし求めたが、土地の人々は我々を、いやそうな、非友誼的な目つきで凝視するのであった。この地こそ外国人の上陸に最後まで反対した場所なので、人々の目つき、動作、すべて外夷に対する反感を露出していた。

私は一つの石の橋を、急いで写生することが出来た。石の橋はいたる所で見受ける。その多くは木造の橋とまったく同じに建造されてあるが、横桁、支柱、手摺等は、図590に示す如く、石を刻んだものである。

七時、我々は長崎へ向けて出帆した。美しい小島が沢山あったことよ! 薩摩と肥後とで、いずれかといえば心身を疲労させるような、忙しい旅行をした後なので、家へ帰りつつあるような気持がした。我々の汽船は、私がこれ迄乗った船の中で、一番小さいものだった。それは、私が一方の舷へ歩いて行くと、その方向へ傾く程、小さくて、そしてグラグラしていた。船長が、天気が悪い為に数日出帆をのばしたのも、ことわりなる哉である。
翌朝我々は、長崎に着いた。ここで私は再び欧風の食物と、腰をかける可き椅子と、物を書く可き石油燈ランプをのせた卓子テーブルとを見出した。日本に住んで私は、食物よりも卓子の無いことに気がつく。日本の食物には段々馴れて来る。勿論珈琲コーヒーや牛乳やパンとバタが無くて暮すことは、物足らぬが、字を書き図を引く為に床の上に坐ることは、窮屈で苦痛で、疲れている時など、殆ど不可能である。私は長崎に数日滞在して、肥後から持って来た生きたサミセンガイと、ここの湾で網で曳いた小さな descina〔腕足類の一〕とを研究した。米国領事のマンガム氏夫妻は非常に親切にしてくれた。彼等は私の顕微鏡のために、彼等の家の立派な部屋を一つ提供してくれたばかりでなく、長崎にいる間は毎日正餐に来いと云い張った。ホテルが甚だ貧弱だったので、一日に一度ちゃんとした食事を口にするのは、誠にたのしいことであった。
町を貫いて流れる川には石の拱橋がいくつかかかっていて、そのある物は非常に古い。図591はこれ等の橋の形式を示している。男の子たちが橋からあげる紙鳶は図592で示す。北方の紙鳶には似ていず、二つの輪は全然黒い。別の形や意匠のもあるが、ここに現したものが最も一般的であるらしく思われる。

計器――液体用も乾燥物用も――の多くは、まるくなくて四角い。穀物をはかる乾燥物計器には、計器の上端と全く同じ高さに於て、一片が一つの隅から対角隅へ渡してある(図593)。図594は便利な柄のついた酒計器で、すぐ横に酒樽がある。

長崎は鼈甲べっこう細工で有名である。鼈甲の細工場を訪れたら面白かった。いかなる職であっても工人は床に坐るのであるが、ここでは前に述べた方法で坐らずに、トルコ人のように脚を交叉させて坐る(図595)。彼等が鼈甲の薄い板をこねたり溶解したりしてくっつけ合わせるらしいのには驚いた。彼等は巨大な鉄製のヤットコ鋏を火炉(図596)で熱して使用し、鼈甲板を押し合わせたり、屈曲したり、あるいは他の形をつくったりする。

長崎から神戸へ帰る途中、我々は再び下関海峡を通過し、低い家屋が長く立ち並ぶ下関村の沖に投錨した。ここの人々は外国人に対して非常に反感を持っていると聞いたが、数年前四つのキリスト教国の軍艦が残酷にも砲撃したことを思えば、それも当然である。我々は上陸し度いと思ったが、日本人の事務長に、外国人はめったに上陸しないといわれた。日本人がどこへ行っても丁寧であることに信頼している私は、私の旅券がこの場所は勿論地方さえも含んでおらぬにかかわらず、どうしても上陸しようと決心した。私は事務長に向って、干潮時に於るここの海岸を瞥見することは大学にとって極めて重大であると話した。そこで彼は私に、彼の小舟で岸まで行くことを許した。海岸を瞥見した私は、町の主要街路を歩き廻り、一軒ごとに店舗をのぞき込んだ。私には外国人が「有難からぬ人」であることが、すぐ判った。私は乱暴に取扱われはしなかったが、まったく相手にされなかったのである。子供達は、まるで私が悪魔ででもあるかの如く私から逃げ去り、一人の可愛い男の子は、私がたまりかねて頭を撫でると、嫌でたまらぬ外国人の愛撫を受けるのには、最大の勇気を必要とするとでもいった具合に、息を殺していた。
神戸で我々は曳き網をする可く数日滞在し、私は数度田舎へ遠足をした。ホテルで私は、長崎で私に郵便物の大きな包みを持って来て呉れた英国砲艦の軍医に会った。我々は食事を共にし、彼は私の郵便物に関する詳細を聞かせてくれた。この砲艦が鹿児島に向けて長崎を出帆する時、司令官は郵便物が来たら鹿児島へ廻送するようにといい残した。鹿児島へ着くと、郵便物の大きな包が届いたが、陸路長崎へ送り返されたということであった。附近二百マイル以内に外国人がいるということを知らぬ彼等は、自然この郵便物が彼等にあてたものであると思った。彼等は長い間故郷から手紙を受取っていないので、皆、郵便にかつえていた。鹿児島からの帰途、彼等は郵便を途中で受取るべくある場所に立ち寄ったが、それはすでにその地を通過した後であった。翌朝、沿岸のもっと北の方で、司令官以下の士官達が船室にいた時、郵便物の包が艦上に持ち来たされ、彼等はみな大よろこびで卓テーブルをかこみ、包を引き破った。司令官が宛名を読み上げた時、私の名前に投げられた言葉を聞いたならば、それは私の教育にはならなかっただろうと軍医がいった。それ等の言葉たるや、私を呪罵することから、一体こいつは誰なんだという質問にまで及んだ。一から十まで、私にあてた郵便だったのである!
大阪にいる間に、我々は大阪を去る十二マイルの服部川と郡川の村に、ある種の古代の塚があるということを聞いた。我々は人力車に乗って完全に耕された大平原を横切った。目のとどくかぎり無数に、典型的なニューイングランドのはねつるべがある。これは浅い井戸から灌漑用の水を汲み上げるのに使用する。塚はブルターニュやスカンディナヴィアにあるものと同じ典型的なドルメンで、巨大な塚がさしわたし十フィートあるいは十二フィートの部屋へ通ずる長い狭い入口を覆っている。我々はそれ等を非常な興味を以て調べ、そして一千二百年、あるいはそれ以前の人々が、如何にしてこれ等の部屋の屋根を構成する巨大な石を持上げ得たかを、不思議に感じた*。
* これ等の構造は、一八八〇年三月発行の『月刊通俗科学』の五九三頁に、「日本に於るドルメン」と題する一文に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画つきで記述した。
京都から奈良へと、涼しい旅をした。路は、気持のいい森や美しい景色の間を通っている。すでに数多い奈良の魅力に関する記述に、何物かを加えることは、私の力では及びもつかぬことである。この場所のある記憶は、永遠に残るのであろう――静かな道路、深い蔭影、村の街路を長閑のどかに歩き廻る森の鹿、住民もまた老幼を問わず同様に悪気が無い。ラスキンはどこかで、今や調馴した獣を野獣化することに努力しつつある人間が、同様の努力を以て野獣を調馴することに努めるような時代の来らんことを希望するといっている。事実、日本の野生の鳥類や哺乳動物は、多くの場合我国の家禽や家畜よりも、余程人に馴れている。
奈良は日本の古代の首都であった。神聖な旧古の精神がいまだにこの地に漂っている。人は荘厳な古社寺の研究に数週間を費し得る。高い柱の上にのっている驚く可き古い木造の倉庫は、千年前、当時の皇帝の所有物を保存するために建てられた。これは確かに日本の驚異の一つである。この建物の中には、事実皇帝が所有した所の家庭用品や道具類、即ち最も簡単な髪針ヘアピンから、ある物は黄金を象嵌した最も精巧な楽器に至る迄、及び台所道具、装飾品、絵画、書籍、陶器、家具、衣類、武器、歩杖、硯、墨、扇――つまり宮殿の内容全部が保存してある。この蒐集が如何に驚嘆すべき性質のものであるかを真に理解する為には、アルフレッド王に属した家庭用品を納めた同様な倉庫が、英国にあるとしたら……ということを想像すべきである。一年に一回、政府の役人がこの倉庫の唯一の入口を開き、内容が湿気その他の影響によって害されていることを確めるための検査を行う。幸運にも私は、この年一回の検査の時奈良に居合わせた。そして役人の一人を知っていたので、彼等と共に建物の内部に入ることと、古い陶器を写生することとを許可された。厳かな役人達の恭々しい態度には興味を覚えた。すべて白い手袋をはめ、低い調子で口を利いた*。
* 数年後日本の政府は、これ等の宝物を、それ等の多くの美しい絵と共に説叙した本を出版した。
奈良から京都へ至る人力車の旅は、この上もなく気持がよかった。道路は、茂った森林の間をぬけては魅力に富んだ開濶地に出、最も純粋な日本式生活が随所に見られた。この国の美を心行くまで味う方法として、人力車に乗って行くに如くものはない。人力車に乗ることは、まるで安楽椅子によっかかっているようで、速度は恰度身体に風が当たる程度であるが、而も目的地に向って進行しつつあることを理解させるに充分な丈の速さを持っている。ある場所で我々は河を越したが、深い砂地の堤を下りる代りに、平原の一般的高さよりも遙か高所にある河を越す可く、ゆるい傾斜を登るのであった。河は文字通り、尾根を縦走している! 何世紀にわたって河は、山から押流された岩屑を掘り出す代りに、両岸に堤を積み上げ積み上げすることに依て、その流路に制限されて来た結果、河床は周囲よりもきわ立って高くなり、まるで鉄道の築堤みたいになっている。路の両側には、徒渉場にさしかかろうという場所に、深い縦溝を掘った石柱があり、大水の時には水が道路を洗い流すのを防ぐ可く、これ等の溝に板をはめ込む。
京都の近郊は芸術と優雅の都、各種の点から興味の多い都のそれとして、如何にもふさわしいものである。清潔さ、厳粛さ、及び芸術的の雰囲気が人を印象する。数ある製陶の中心地――清水、五条坂、粟田――を訪れたことは、最も興味が深かった。粗野な近接地と、陶器の破片で醜くされた周囲と土地とは見出されず、まるでパリに近い有名な工房でも訪問しているようであった。奇麗な着物を着た附近の子供達は、我々が歩いて行くと、丁寧にお辞儀をした。製陶所の入口は控え目で質素であり(図597)、内へ入ると家長が出て挨拶し、即座に茶菓が供された。見受ける所、小さな男の子や女の子から、弱々しい体力で、ある簡単な仕事の一部を受持つ、老年の祖父までに至る家族の者だけが、仕事に携わるらしかった。製作高は、外国貿易の為の陶器(図598)で日本語では「ヨコハマ・ムケ」即ち横浜の方角、換言すれば輸出向きを意味する軽蔑的な言葉で呼ばれるものを除くと、僅少である。この仕事には、多数の家族以外の者が雇われ、十位の男の子が花、胡蝶その他、日本の神話から引き出した主題ではあるが、彼等の国内用品の装飾が繊美にも控え目であるのと反対に、これはまた胸が悪くなる程ゴテゴテした装飾を書きなぐっている。外国人の需要がある迄は、直系の家族だけが、心静かに形も装飾も優雅な陶器を製作していたのである。今や構内をあげて目の廻る程仕事をし、猫と杓子とその子供達とが総がかりで、バシャリバシャリ、何百何千と製造している。外国の代理人から十万組の茶碗と皿との注文があった。ある代理人が私に話した所によると、「出来るだけ沢山の赤と金とを使え」というのが注文なのである。そして製品の――それは米国と欧洲とへ輸出される――あわただしさと粗雑さとは、日本人をして、彼等の顧客が実に野蛮な趣味を持つ民族であることを確信させる*。而もこれ等の日本製品が我国では魅力に富むものとされている。

* 一年後、私は我国で同様な実例に遭遇した。ミネアポリスで私は招かれて、大きな百貨店を見物した。その店のある階床フロアには固護謨ゴム製の品を山と積んだ卓子が沢山あった。櫛、腕輪、胸にさす留針ピン、安っぽい装身具、すべて言語に絶した野蛮な物である。私はこのようなひどい物は、最も貧乏な生物でさえ身につけたのを見たことが無いので、一体誰がこれを買うのだと質問せざるを得なかった。返事によると、それ等は北西部地方への品だとのことであったが、本当の未開人だってこれ等に我慢出来る筈は無いから、恐らく混血児やアメリカインディアンと白人種との雑種が買うのであろう。だが、一体どこでこれ等は製造されるのかと、私はたずねた。製地はボストンを去る五十マイルのアットルボロであった!
前にもいったが陶器師の数はすくなく、製品を乾すために轆轤ろくろ台から棚へはこぶ幼い子供から、あるいは盲目であっても陶土を轢ひいたり(図599)、足で陶土をこねたり(図600)することが出来る老人にいたる迄、家族の全員が仕事をする。私は京都で陶器の細工や歴史に関して、非常に多くの質問をしなければならなかったが、それ等の会見談を得る為には、あらかじめ少額の金員を贈ると好都合だろうといわれた。希望する情報を得るために、あらかじめ一ドルか二ドル贈るとは変でもあり、また如何にも慾得ずくであるらしく思われるが、而も我等は忙しい人を、彼が費す時間に対する何等の報酬なしに煩す権利を持っているのか。更に私は、我国にあっては、百万長者でさえも、十ドルか二十ドルの餌を適当な報酬として釣り出さねば、忙しすぎて取締役会議に出席しないという事実に気がついた。これ等の会見談――それは陶工の歴史と起原、代々の数、各異の家族や代によって使用される各異の刻印の形状等を質問したもの――は、通訳を通じた辛抱強く且つは労苦多き質問の結果である。

私は支那の型に依てつくられた竈かまどの急いだ写生を沢山した*。竈は丘の斜面に建てられ、その各々が長さ八フィート乃至十フィート、高さ六フィート、幅三フィートで、一つの横に一つという風に並んでいる。図601はその排列を示している。それ等は煉瓦と漆喰しっくいとの単一の密実な塊である。竈は一端で開き、相互に穴で通じている。一番下の竈に火をつけると熱は順々にそれぞれの竈を通りぬけて、最後に上方の竈の粗末な煙筒えんとつから出て行く。この方法に依て熱の流れが最後の竈に到るまで、すべての熱が利用される。最初の竈が充分熱せられると、細長い棒の形をした燃料が第二の竈の底にある小さな口から差し入れられ、次に第三のという具合に、最後にすべてが充分熱くなり、陶器が完全に焼かれる迄行われる。このことは、各々の竈の上端にある口から、試験物を見て確かめる。

* その後広東カントンを去る四、五十マイルの内地で見た物にくらべると、これ等は余程丈夫でも密実でも無い。
日曜日ごとに蜷川が、私がその週間に蒐集した陶器を鑑定するべく、私の家へ来る。ある日私は彼を勾引し、拒む彼を私の人力車に乗せて写真師のところへつれて行き、彼の最初にして唯一の写真をとらせた。蜷川は京都人で、彼の姉はいまだに京都で、三百年になるという古い家に住んでいる。彼は私に、彼女への紹介状をくれたので、私は彼の写真を一枚持って彼女を訪問したが、蜷川の写真を見た彼女のよろこびは非常なもので、おかげで私はその家の内部や外部を詳しく調べることが出来た*。
* この家庭と庭園との写生図は、『日本の家庭』に出ている。
京都に於る私の時間の大部分は各所の製陶所で費され、それ等でも有名な道八、吉左衛門、永楽、六兵衛、亀亭等から私の陶器研究の材料を大いに手に入れ、彼等の過去の時代の家族の歴史、陶器署名の印象等を聞き知った*。
* このことはボストン美術博物館で出版された私の『日本陶器のカタログ』に出ている。
京都から我々は、大阪へ引きかえした。ここで私が東京で知合いになった学生の一人小川君が、私をもてなしてくれようとしたが、私が日本料理に慣れ且つそれを好むことを知らない彼は、西洋風に料理されそして客に薦められると仮定されている物を出す日本の料理屋へ私を招いた。日本人は、適当に教えられれば素晴しい西洋料理人になれる。私はそれ迄にも日本の西洋料理屋へ行った経験はあるが、何が言語道断だといって、この大阪に於る企みは、実にその極致であった。出る料理、出る料理、一つ残らずふざけ切った「誤訳」で、私は好奇心から我々の料理を食った日本人は、どんな印象を受けたことだろうと思って見た。
虎疫コレラが大流行で、我々は生のもの、例えば葡萄ぶどうその他の果実や、各種の緑色の物を食わぬようにせねばならぬ。加之しかのみならず、冷い水は一口も飲んではいけない。お茶、お茶、お茶と、朝昼晩及びその他あらゆる場合、お茶ばかりである。だがお茶といえば、友人の家でも商店でも、行く先で必ずお茶が出されるのは、日本に於て気持のいい特徴の一つである。その場所が如何に貧しく且つ賤しくとも、この礼儀は欠かぬ。同時に我々は、日本風の茶の入れようが如何にも簡単で、クリームも砂糖も入れずに飲むのであることを知っていなくてはならぬ。道路に沿うては、間を置いて小さな休憩所があり、そこでは通行人にお茶と煎餅数枚とをのせたお盆が差し出され、これに対して一セントの価格を持つ銭をお盆に入れる習慣がある。公開講演をする時には、おきまりの冷水を入れた水差とコップとの代りに、茶瓶と茶碗とをのせたお盆が机の上に置いてある。大学では先生達に出すお茶を入れるのに一人がつき切りで、一日中、時々彼は実験室に熱いお茶を入れた土瓶を持って来る。お茶は非常に弱いが、常に元気づける。数世紀にわたって日本人は、下肥しもごえを畑や水田に利用する国で、水を飲むことが如何に危険であるかを、理解し来ったのである。
紙屋の店で見受ける非常に綺麗な品は、封筒と書簡紙とである。封筒は比較的新しく、外国の真似をした。以前は恰度我々が封筒発明前にやったと同じく、手紙を畳む一定の、形式的な方法があった。書簡紙は、幅六インチあるいはそれ以上の長い巻物である。書くのは右から始め縦の行である。それには筆を使い、用あるごとに墨をする。巻物は弛んでいる方の端から書き始めるのだが、それ自身が書く紙を支持する役に立つ。一行一行と書かれるに従って、紙は巻きを解かれ、手紙が書き終られた時にはその長さが五、六フィートに達することもある。そこで紙を引き裂き、再び緩やかに巻いて、指で平にし、巻紙よりすこし長くて、幅は二インチあるいはそれ以上ある封筒の一端からすべり込ませる。封筒は――屡々書簡紙も同様だが――彩色した美しい意匠で魅力的にされている。書簡紙には書く文字の邪魔にならぬ程度の淡色で、桜の花、花弁、松の葉、時としてはまとまった山水等が、ほのかに出してある。封筒の絵はもっとはっきりしているが、宛名の邪魔にならぬように、概して辺に近く置かれる。この意匠が、数限りなく多種多様なのには驚かされる。主題の多くは外国の事物から取ったもので、この上もなく散文的であるが、達者な芸術家の手によって、魅力あるものにされている。意匠の多くは、日本の民話や神話を知らぬ者にとっては、謎である。が、即座にその意味の判るものもある。例えば、前景に湯気の立つ土瓶が、遠景に鉄道の列車があるものや、稲妻と電信柱とがあるものは、蒸気や電気の発見の原因が理解されていることを示す。
私の同僚メンデンホール教授は、この頃昆虫や蝸牛かたつむりの運動の速度に興味を持っている。蝸牛の大きな種の進行時間を注意深くはかった結果、彼はそれが一マイル進むのに十四日と十八分を要することを見出した。また蟻ありの普通な種の速度を計った結果、普通に歩いて蟻は、一マイル行くのに一日と七時間かかることを知った。これ等はごくざっとした計算である。
日本人は親の命日を神聖に記憶し、ふさわしい儀式を以てその日を祭る。祖父母の命日でさえも覚えていて、墓石の前に新しい花や果実を供えて祭る。仏教徒もまた、死者に対する定期の祭礼を持っている。この場合の為に奇妙な形をした提灯ちょうちんがつくられる(図607)が、二百年以上にもなる絵画にも、同じような提灯が出ている。

再び、一寸大阪を訪れた私は、沢山ある名所の二、三を見ることが出来た。この大都会には世界有数の青銅の鐘や、一千年前に朝鮮から持って来たという金色の仏陀のある古い寺や、その他興味のある事物が多い。これ等の場所はすべて面白くはあるが、私はそれ等が既に案内書や独特な紀要に書かれてあることを知り、本書では全体との釣合上、研究家や旅行者に依て看過される、些細なことのみを写生し、且つ記録することに努めたのである。
大阪を訪れる者は必ず、一五八三年に秀吉が建造した有名な城の跡を見るべきである。この廃墟は高地にあるが、その頃としては、この城は殆ど難攻不落であったに違いない。一六一五年、第二回の攻撃に逢って落城し焼かれたのであるが、城壁を構成する巨石の角々がまるくなっているのは、大火の高熱が原因している。私は勝手に歩き廻ることを許され、また自由に写生するのを、誰も制止しなかった。図608は城の最高所で、図609は外壁である。中央にある巨石は長さ三十五フィート、厚さ高さ各々十フィートを越している。これ等の石は五十マイル乃至百マイルの所から舟で運ばれて来たのであるが、その中のある物の巨大さを見ると、どうしてこれを切り出したか見当がつかぬ。更にそれ等を如何様に運搬し、現在廃墟の立っている高地まで如何にして曳き上げたかは、到底判らない。蒸気起重機、水力装置、その他の現代の設備によって、これ等の巨石を据えつけたのではない。而もエジプト人はその二千五百年前、すでに同様の不思議を行っている。日本人の小形な家や庭、可愛らしい皿、彼等の生活に関係のある繊細な物品等に馴れた人にとっては、日本人と巨大な建造物とを結びつけることが困難であるが、而も大阪城は、その城壁の巨人的構造に於て、実に驚異というべきである。京都と大阪の巨鐘、鎌倉と奈良の大仏、大きな石の鳥居、その他大きな建造物の例はすくなくないが、古い城や城壁や、また欧洲で教会堂が他のすべてを圧すると同様に、住宅の上に聳える寺院を除くと、建造物は普通小さくて繊麗である。

大阪では、天産物と製造物との展覧会が開かれつつあり、各種の物品で一杯だった。日本人の特性は、米国と欧洲とから取り入れた非常に多数の装置に見られた。ある国民が、ある装置の便利さと有効さとを直ちに識別するのみならず、その採用と製造とに取りかかる能力は、彼等が長期にわたる文明を持っていた証例である。これを行い得るのは、只文明の程度の高い人々だけで、未開人や野蛮人には不可能である。この展覧会には、大阪附近で発掘した舟の残部が出ていた。保存された部分は、長さ三十五フィート、幅四フィート半、深さ二フィートである。それは相鉤接した三つの部分から出来ていたが、その二部分を接合させる棒が通りぬける為の横匝線が残るように、木材が舟底で細工してあった。大分ひどく腐蝕していて、その構造の細部は鑑識が困難であった(図610・611・612)。それは千年以前のものとされていた。現在でも鹿児島湾で二つの部分に分たれた舟を見受けるのは、不思議である(図568)。

蚊は日本に於る大禍患である。既に述べた大きな、四角い、箱に似た網のお陰で、人はその中に机と洋燈ランプとを持ち込んで坐ることが出来る。私は、夏と秋とは、このようにして書き物をすることが出来た。
私の子供達は、彼等自身の衣服よりも夏涼しいというので、早速日本服を着用した。日本人の大学教授の多くも、長い袖や裾のある和服よりも洋服の方が便利だとて、洋服を着ているが、それにもかかわらず、和服は夏涼しく冬温かいことを発見し、寒暑の激しい時には和服を着る。 
第十八章 講義と社交
私の動物学の学級のための試験問題を準備するのに、多忙を極めた。今日の午後、私は四時間ぶっ続けに試験をしたが、私は学生達を可哀想だと思った。彼等はここ一週間、化学、地質学、古生物学、植物学の試験を受けて来たのである。これ等の試験はすべて英語で行われる。英語は、彼等が大学へ入学する迄に、完全に知っていなくてはならぬ語学なのである。
世界一周旅行の途にあるグラント将軍は、目下彼の夫人、令息及び著作家ヤング氏と共に日本にいる。東京と横浜の米国人が、上野公園で彼の為に晩餐と招待会とを開いた。私は、申込金は払ったが、かかる事柄に対する暇が無いので、特別に行き度いとも思っていなかった。然し友人達が私に適当なことはした方がいいとすすめるので、いやいやながら晩餐会に出席した。私は永い列をつくった他の人々と一緒に順番にグラント将軍に紹介され、彼に対して先入主的な僻見を持っていたにかかわらず、彼の静かな、品のよい、而も安易な声調に感心した。私と一緒に行った娘は、大きにこの会をよろこんだ。戸口の近くに立っていた娘に向って、グラント将軍は話しかけ、彼女の手を取り、そして六尺豊かの大きくて頑丈な彼の令息を「私の小忰」に関する諧謔的な言葉と共に、彼女に紹介した。彼を凝視した時、我国の新聞紙の言語道断な排毀に原因する私の僻見は、即座に消え去った。他の人々が子息たちをこの招待会に連れて来ているので、私は静かに退場し、人力車で加賀屋敷へ急ぎ、熟睡している私の九歳になる忰を起し、着物を着せ、そして急いで会場へ連れて行った。後年彼が、この偉大な将軍に会ったことを、記憶に残させようとしたのである*。
* その後好運なる偶然の結果、我々はグラント将軍と同じ汽船でサンフランシスコへ戻り、彼は私の忰に西洋象棋チェスのやり方を教えて呉れた。
食事の時グラント将軍は、酒類は如何なる物も一切口にせず、私は、彼が大酒家であるという噂が、飛んでもない誇張であるということを聞いた。工科大学に於る彼の招待会は、この上もなく興味が深かった。古風な、而も美しい宮廷服を着た王妃や内親王、奇妙な、装飾沢山な衣服に、赤い馬の尻尾のような羽根をぶら下げた白い円錐形の帽子をかぶった支那公使館員、風変りな衣裳に儀式用の帯を結び、類の無い頭装をした朝鮮人、勲章を佩おびた欧洲の役人達――これ等は私にとっては皆目新しく、そして興味があった。
四十人の若い娘の一級クラスを連れて来た、華族学校の先生数名は、非常に奇麗だった。彼等は皆美しい着物を着ていて、沢山いた外国人達を大いに感心させた。和服を着た人々の群を見ると、そのやわらかい調和的な色や典雅な折り目が、外国の貴婦人達の衣服と著しい対照を示す。小柄な体躯にきっちり調和する衣服の上品さと美麗さ、それから驚嘆すべき程整えられ、そして装飾された漆黒の頭髪――これ位この国民の芸術的性格を如実に表現するものはない。この対照は、彼等が洋服を着用するとすぐさま判る。その時の彼等は、時としては飛んでもない外観を呈するのである。少女達と彼等の先生との可愛らしい一群は、彼等が惹起した崇拝の念に幾分恥しがりながら、広間の中央に近く、無邪気な、面喰った様な容子で立った。私は一人の日本人に、彼等をグラント将軍が他の人々と一緒に、立って引見している場所へ連れて行かせた。其後私は、誰も彼等に氷菓アイスクリームや菓子ケーキを渡さぬのに気がつき、一人の日本人に手つだって貰って、彼等にそれ等をはこんでやった。彼等はすべて壁に添うて畳の上に一列に坐っていたが、彼等にとっては、氷菓と菓子のお皿を手に持つことがむずかしく、自然お菓子の屑が床に落ちた。また溶けて行く氷菓の一滴が美しい縮緬ちりめんの衣服に落ちたりすると、彼等は笑って、注意深く、持っている紙でそれを取り除く。この紙はまるでポケットに似た袂に仕舞い込み、最後に立ち去る時には、注意深く畳を調べ菓子の屑を一つ残らず拾い、あとで棄てるように紙につつむのであった。貴族の子女がかかる行儀作法を教え込まれているということは、私には一種の啓示であった。
私は華族の子弟だけが通学する華族学校で、四回にわたる講義をすることを依頼された。校長の立花子爵はまことによい人で、私が発した無数の質問に、辛抱強く返事をしてくれた。私の質問の一つは、長い間別れていた後に再会した時、日本人は感情を表現するかということであった。私は、日本人の挨拶が如何にも冷く形式的で、心からなる握手もしなければ抱擁もしないことに気がついたので、この質問を発したのである。彼は日本の貴族が、長く別れていた後では、抱擁を以て互に挨拶することも珍しく無いといい、実例を示す為に私の肩に両腕を廻し、そして愛情深く私を抱きしめた。その後、私は、私を彼の「アメリカのパパ」と呼ぶ可愛らしい少年(今や有名な法律家で、かつてドイツ及び北米合衆国の日本大使館の参事官をしていた)に、彼の父親が、長く別れていた後で、両腕に彼を抱き込まぬかと聞いた。彼は「そんなことは断じて無い」と答えた。「然しお父さんは如何にして彼の愛情を示すのか?」「彼はそれを目で示すのです。」その後私は、彼の父親が遠方の町から私の家へ来て、息子に挨拶するのを見たが、なる程彼の両眼には、この上もなく優しい親の慈愛が輝いていた。
華族学校は、間口二百フィート以上もある、大きな木造の二階建で、日本人が外国風を真似て建てた多くの建物同様、納屋式で非芸術的である。両端には百フィートあるいはそれ以上後方に突出した翼があり、それ等にはさまれた地面を利用して大きな日本の地図が出来ている。これは地面を山脈、河川、湖沼等のある浮彫地図みたいに築き上げたもので、湖沼には水が充してあり、雨が降ると河川を水が流れる。富士山の頂上は白く塗って雪を示し、平原には短い緑草を植え込み、山は本当の岩石で出来ている。都邑はそれぞれの名を書いた札によって示される。大海には小さな鼠色の砂利が敷き詰めてあるが、太陽の光線を反射して水のように輝く。この美しくて教育的な地域を横切って、経度と緯度とを示す黒い針金が張ってある。小さな娘たちが、彼等の住む町や村を指示する可く、物腰やさしく砂利の上を歩くところは、誠に奇麗な光景であった。日本の本州はこの地域を斜に横たわり、長さ百フィートを越えていた。それは日本のすべての仕事の特徴である通り、精細に、正確に設計してあり、また何百人という生徒のいる学校の庭にあるにもかかわらず、完全に保存されてあった。私はまたしても、同様な設置が我国の学校園にあったとしたら、果してどんな状態に置かれるであろうかと考えさせられた。
私はこの学校で初めて、貴族の子供達でさえも、最も簡単な、そしてあたり前の服装をするのだということを知った。ここの生徒達は、質素な服装が断じて制服ではないのにかかわらず、小学から中等学校に至る迄、普通の学校の生徒にくらべて、すこしも上等なみなりをしていない。階級の如何に関係なく、学校の生徒の服装が一様に質素であることに、徐々に注意を引かれつつあった私は、この華族女学校に来て、疑問が氷解した。簡単な服装の制度を立花子爵に質問すると、彼は、日本には以前から、富んだ家庭の人々が、通学する時の子供達に、貧しい子供達が自分の衣服を恥しく思わぬように、質素な服装をさせる習慣があると答えた。その後同じ質問を、偉大なる商業都市大阪で発したが、同じ返事を受けた。
この学校に於る私の最後の講義には、皇族方や、多数の貴族やその家族達が出席された。率直さや礼儀正しさによって、まことに彼等は貴族の名に辱じぬものがある。彼等の動作の、すこしもてらう所無き魅力は、言語に現し得ぬ。これは興味の深い経験であった。そして、通訳者を通じて講義せねばならぬので、最初は窮屈だったが、遂に私は一度に一章を云うことに慣れ、それを私の通訳者たる矢田部教授が日本語でくり返した。この最後の講義の後で、西洋風の正規の正餐が出たが、それは大したものであった。正餐に臨んだ人数は三百五十人で、私はひそかに彼等の動作や行動を視察した。静粛な会話、遠慮深い謝礼、お辞儀や譲り合い、それ等はすべて極度の率直さと、見事な品のよさで色どられていた。
私は福沢氏の有名な学校で講演する招待を受けた。日本で面会した多数の名士中、福沢氏は、私に活動力も知能も最もしっかりしている人の一人だという印象を与えた。私は、実物や黒板図に依て私の講演を説明し、自然淘汰の簡単な要因を学生達に判らせようと努力した。この種の経験のどれに於ても、私は、日本人が非常に早く要点を捕えることに気がついたが、その理由はすぐ判った。日本人は、米国人が米国の動物や植物を知っているよりも遙かに多く、日本の動植物に馴染を持っているので、事実田舎の子供が花、きのこ、昆虫その他類似の物をよく知っている程度は、米国でこれ等を蒐集し、研究する人のそれと同じなのである。日本の田舎の子供は、昆虫の数百の「種」に対する俗称を持っているが、米国の田舎の子供は十位しか持っていない。私は屡々、彼の昆虫の構造上の細部に関する知識に驚いた。
一例として、私が一人の小さな田舎の子で経験したことを挙げよう。私は懐中拡大鏡の力をかりて彼に、仰向けに置かれると飛び上る叩頭虫こめつきむしの、奇妙な構造を見せていた。この構造を調べるには鏡玉レンズが必要である。それは下方の最後の胸部環にある隆起から成っており、この隆起が最初の腹部切片にある承口にはまり込む。叩頭虫は背中で横になる時、胸部と腹部とを脊梁形に曲げ、隆起は承口を外れてその辺にのりかかる。そこで身体を腹面の方に曲げると、一瞬間承口の辺で支えられる隆起は激烈な弾き方を以てピンと承口の中へはまり込み、その結果虫が数インチ空中へ飛び上る。さてこの構造をよく知っているのは、我国では昆虫学者達にとどまると思うが、而もこの日本の田舎児はそれを総て知っていて、日本語では米搗つき虫というのだといった。蹴爪即ち隆起が臼の杵と凹くぼみとを現しているのである。彼は然し、この構造を精巧な鏡玉で見て大きによろこんでいた。
講演後福沢氏は私に、学生達の素晴しい剣術を見せてくれた。彼等は皆剣術の甲冑を身につけていた。それは頸部を保護する褶かさねと、前方に顔を保護する太い鉄棒のついた厚い綿入れの冑と、磨いた竹の片で腕と肩とを余分に保護した、つっぱった上衣とから成っている。上衣には綿入れの褶数片が裾として下っている。試合刀は竹の羽板を数本しばり合わせたもので、長い日本刀に於ると同じく、両手で握るに充分な長さの柄がついている。大なる打撃は頭上真直に来るので、両手で試合刀を縦に持ち、片方の手を前方に押すと同時に下方の手を後に引込ます結果、刀は電光石火切り降される。
学生達は五十人ずつの二組に分れ、各組の指導者は、自分を守る家来共を従えて後方に立った。指導者の頭巾ずきんの上には直径二インチ半で、糸を通す穴を二つあけた、やわらかい陶器の円盤があり、対手の円盤をたたき破るのが試合の目的である。丁々と相撃うつ音は恐しい程であり、竹の羽板はピシャンピシャンと響き渡ったが、もっとも撲った所で怪我は無い。福沢氏は、有名な撃剣の先生の子息である一人の学生に、私の注意を向けた。彼が群衆をつきやぶり、対手の頭につけた陶盤をたたき潰した勢は、驚く可きものであった。円盤は数個の破片となって飛び散り、即座に争闘の結果が見えた。学生達は袖の長い籠手こてをはめていたが、それでも戦が終った時、手首に擦過傷や血の出るような掻き傷を負った者がすくなくなかった。 
第十九章 一八八二年の日本
二ヶ年と八ヶ月留守にした後で、一八八二年六月五日、私は三度横浜に到着し、又しても必ず旅行家に印象づける音と香と光景との新奇さを味った。日本の芸術品を熱心に崇拝し、そして蒐集するドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウが、私の道づれであった。我々が上陸したのは夜の十時だったが、船中で死ぬかと思う程腹をへらしていた我々は、腹一杯食事をし、降る雨を冒して一寸した散歩に出かけた。ホテルに近い小川を渡り、我々は本村と呼ばれる狭い町をブラブラ行った。両側には小さな店が櫛比しっぴしているのだが、その多くは閉じてあった。木造の履物をカタカタいわせて歩く人々、提灯ちょうちんのきらめき、家の内から聞える声の不思議なつぶやき、茶と料理した食物との香、それ等のすべてが、まるで私が最初にそれを経験するのであるかの如く、興味深く感じられた。
翌朝我々は東京へ行き、人力車で加賀屋敷へ行った。銀座と日本橋とが、馬車鉄道建設のために掘り返されているので、我々はお城の苑内を通行し、お堀を越したり、また暫くその横を走ったりした。本郷へ来ると何等の変化がないので、悦しかった。角の時計修繕屋、顎の無い奇妙な小人、トントンと魚を刻む男、単調な打音を立てる金箔師、桶屋、麦藁帽子屋――彼等は皆、私が三年近くの前に別れた時と同じように働いていた。加賀屋敷には大変化が起っていた。前にドクタア・マレーが住んでいた家の後には、大学の建物の基礎を準備するために、大きな納屋がいくつか建ててある。ドクタア・マレーの家には大きなL字形がつけ加えられ、この建物は外国の音楽を教える学校になるのである。ボストン市公立学校の老音楽教師ドクタア・メーソンが教師とし雇われて来ているが、彼が今迄にやりとげた仕事は驚異ともいう可きである。彼は若い学生達と献身的に仕事をした結果、すでに信じ難い程度の進歩を示すに至った。外国人は日本の音楽を学ぶのに最大の困難を感じるが、日本の児童は我々の音楽を苦もなく学ぶものらしい。
日本へ来る船中で私は進化論に関する講演を三回やり、北米合衆国の汽船ペンサコラに救助されてサンフランシスコへ連れて来られた、十三人の日本の遭難漁夫のために、五十ドル以上を集めた。汽船の士官たちは、彼等の為に五十ドルを集め、彼等に衣服を与えた。ペンサコラという名のついた帽子をかぶって紺色の制服をつけた彼等は、まことに変な格好であった。我々は同船して来た日本の商人、田代氏と共に両替屋へ行き、私は私の金を日本の紙幣に替えて殆ど九十円を手にした。我々はそこで難破船の乗組達が、生れ故郷へ送り返されるのを待っている日本の旅館へ行った。田代氏は彼等の中の何人が家族を持っているかを確かめた。数学の大仕事をやった揚句、私は各人に三円、女房一人につき二円、子供一人につき一円ずつをやることが出来ることを算出した。彼等が示したうれしさと感謝の念とは、見ても気持がよかった。金額はすくないが、各人にとって、これは一ヶ月の収入、あるいはそれ以上なのである。陶器をさがした結果、意外な状態を見た。以前、骨董屋には興味ある品物が一杯あったのだが、今はそれがすくなく、茶の湯が復活して、茶碗、茶入その他の道具が再び使用されるようになったので、茶入は殊にすくなくなった。加之しかのみならず、英国とフランスとで日本陶器の蒐集が大流行を来たし、また米国でも少数の人が日本の陶器の魅力に注目し始め、美術博物館さえがこれ等を鑑識し出した。
二年前に別れた可愛らしい少年宮岡が、今夜私を訪れたが、私には一寸誰だか判らなかった位であった。彼は西洋風の服装をなし、立派な大人になっていた。英語もすこし忘れ、まごつくと吃どもった。翌朝博物館へ行って見ると、加藤総理の部屋に数名の日本人教授が私を待っていてくれた。菊池、箕作みつくり、矢田部、外山の諸教授と、服部副総理がそれである。間もなくドクタア加藤も来た。若し握手のあたたかさや、心からなる声音が何物かを語るものとすれば、彼等は明らかに、私が彼等に会って悦しいと同程度に、私に会うことを悦んだ。九谷焼の茶碗に入った最上のお茶と、飛切上等の葉巻とが一同にくばられ、我々はしばらくお互に経験談を取りかわして、愉快な時をすごした。事務員は皆丁寧にお辞儀をし、使丁達は嬉し気に微笑で私を迎え、私は私が忘れられて了わなかったのだということを感じた。動物学教授の箕作教授と一緒に、私は古い実験室へ入った。昔の私の小使「松」は、相好を崩してよろこんだ。石田氏は一生懸命に繊美な絵を描きつつあった。以前の助手種田氏もそこに居合わせ、すこし年取って見えたが、依然として職務に忠実である。彼は博物館の取締をし、松は今や俸給も増加して、大学の役員の一人になっている。
しばらく見物した上で、我々は往来を横切り、私の留守中に建てられた大きな二階建の建物へ行った。これは動物博物館なのである。帰国する前に行った私の最後の仕事は、二階建の建物の設計図を引くことであった。私の設計は徹底的に実現してある。私が最初につくった陳列箱と同じような新しい箱も沢山出来、そして大広間に入って、私の等身大の肖像が手際よく額に納められ、総理の肖像と相対した壁にかけてあるのを見た時、私は実にうれしく思ったことを告白せねばならぬ。私の大森貝墟に関する紀要に、陶器の絵を描いた画家が、小さな写真から等身大の肖像をつくったのであるが、確かによく似せて描いた。この博物館は私が考えていたものよりも、遙かによく出来上っていた。もっとも、すこし手伝えば、もっとよくなると思われる箇所も無いではないが――。
その午後ドクタア・ビゲロウと私とは、小石川にある高嶺氏の家へ、晩餐に招かれた。宮岡氏と彼の兄さんの竹中氏とが、道案内として我々の所へ来た。家も庭園も純然たる日本風であった。但しオスウエゴ師範学校出身の高嶺氏は、西洋風をより便利なりとするので、一つの部屋だけには、寝台、高い机、卓子テーブル、椅子、その他が置いてあった。高嶺氏は、いろいろ興味ある事物の中の一つとして、矢場を持っていた。私も射て見たが、弓の右に矢をあてがって発射する方法が、我々のと非常に異うので、弓が至極扱いにくい。彼はまたクロケー場も持っていて、敬愛すべき老婦人たる彼の母堂と、高嶺の弟とがクロケーをやった。若い高嶺夫人は魅力に富み、非常に智的で、英語を自由にあやつる。
六時頃、三人前の正餐が運び込まれた。婦人方や少年達はお給仕役をつとめるのである。それは純日本流な、この上もなく美味な正餐であり、そしてドクタア・ビゲロウがただちに、真実な嗜好を以て、出される料理を悉く平げたのは、面白く思われた。食事が終るに先立って、美しいコト(日本の竪琴ハープ)が二面持ち込まれ、畳の上に置かれた。その一つは高嶺夫人に、他は東京に於て最も有名な弾琴家の一人であるところの、彼女の盲目の先生に属するのである。高嶺夫人は、彼女が巧妙な演奏者であることを啓示した。次に彼女は提琴ヴァイオリンを持って来た。盲目の先生は、弦を支える駒を、楽器のあちらこちらに上下させて、それが提琴と同じ音調になるようにし、彼の琴を西洋音楽の音階に整調した。高嶺夫人が提琴のような違った楽器で、本当の音を出すことが出来るとは信じられぬので、私は、どんな耳をぶち破るような演奏が始るのかと心ひそかに考えた。いよいよ始ると、私は吃驚した。彼女は大いなる力と正確さとを以て、「オウルド・ラング・サイン」、「ホーム・スイート・ホーム」、「グロリアス・アポロ」を弾奏し、盲人の先生はまるでハープでするような、こみ入った伴奏を、琴で弾いた。高嶺夫人は曲譜なしで演奏し、盲目の弾琴家は、いう迄もないが、曲譜なぞは見ることも出来ぬのである。音楽は勿論簡単なものであるが、私を驚かせたのは、その演奏に於る完全な調和音である。彼女はたった四十七日間しか提琴を習っていない。私は、外国の、全然相違した楽器を弾いた高嶺夫人と、彼の楽器を変えて、彼にとってはまったく異物であるところの音調と音階とで、かかる複雑な演奏を行った弾琴家と、そのいずれに感心すべきか知らなかった。我々は、非常に遅くまで同家にいた。この経験は実に楽しかった。
六月十日。私の子供達が行きつけた呉服屋その他の場所で、私は即座に認識され、オ バア サン、ジョン サン、エディ サンはどうしているかと尋ねられた。以前私の車夫をしていたタツが、彼の小さい娘を連れて私を訪問し、次の日には彼の神さんが、タツからの贈物である所の、菓子の一箱を持ってやって来た。
六月十五日。ネットウ、チャプリン、ホウトンの諸教授を送る晩餐会に出席した。この会は、芝公園に新しく建てられた紅葉館という、日本人の倶楽部クラブに属する家で行われた。部屋はいずれも非常に美しく、古い木彫の驚く可き細工が、極めて効果的な方法でそれ等の部屋に使用してある。晩餐は、よい日本の正餐がすべてそうである如く、素晴しいものであった。食事なかばに、古い日本の喜劇が演じられたが、その一つは、一人の男が蚊の幽霊と争闘するものだった。また琴を弾く者達が、不思議な音楽をやった(私は一人の日本人に、ミュージックの日本語は、直訳すると「音のたのしみ」を意味するということを聞いた)。食事が済むと、ゲイシャ達が踊ったり歌ったりし、私が三年前に見た老人の手品師が一芸当をやって見せた。退出に際して、私は菓子と砂糖菓子とが入った箱を貰った。箱は八フィート四方で、薄い白木の板で出来、蓋についた小さな柄は緑色の竹から切り取ったものである(図613)。(私は高嶺から、竹が一年で成長するものであることを聞き知った)。

私は蜷川を訪問した。彼は私に会って、憂欝的メランコリーな愉快を感じたらしく見えた。彼は最後に会った時にくらべて、すこしも年取っていない。私は彼から陶器を百二十七個買ったが、その多くは非常に珍稀である。私は大学に於る生物学会に出席した。この会は、今や三十八人の会員を持っている。私は動物群の変化に就て一寸した話をした。石川氏は、甲殻類の保護色に関するある種の事実を報告した。私が設立した会が存在しているばかりでなく、正規的な月次会をやっているのを見ることは、興味深いものであった。
大学当局は私に、天文観測所のすぐ裏にある小さな家をあてがってくれた。この家には部屋が二つと(その一つをドクタア・ビゲロウが占領する)大きな押入と、日本人の下僕と彼の神さんの居場所とがある。家の後が狂人病院で、我々は時々急性な狂人が発する鋭い叫声によって生気づけられる。狂人の歌を子守歌として、眠りにつくのである。
約束がしてあったので、私の以前の車夫が、私を彼の家へ連れて行く可くやって来た。彼はこざっぱりした身なりをしていて、私が彼を道案内として私自身の人力車で行くことを提言したのに、彼は断じて耳を傾けず、意気揚々私をのせて三マイルの路を走った。彼は尾張に住む父親に貰ったいい家を所有している。彼の神さんと娘は一番上等な着物を着ていて、菓子やお茶が出され、私は彼等の歓迎をうれしく思うことを示そうと努力した。お互の言葉を話さぬ者の間にあっては、会話は困難であるから、我々はお辞儀や微笑によって会話しなくてはならなかった。私は晩飯を食って行かぬかとすすめられたが、他の約束があるので、これは断った。
今宵は精養軒で、日本の教授達が挙行して呉れた西洋式の晩餐会に列席した。ドクタア・ビゲロウもまた招かれた。彼等が私の旧友数名を招待したことを知った時の、私の驚きと悦しさは想像にまかせる。全部日本人で、出席者は三十二人、部屋を廻って一人ずつに挨拶した時、私は一人残らずの名前を覚えていたことを悦しく思った。ある日本人は、彼の英人教授と一年以上も交際しているのに、この英国人がいまだに彼の名前を正しく呼び得ないと語った! 私の以前の特別学生が、今や全部大学或は他の専門学校の教授になり、また私の助手だった人が一時的ならぬ博物館の役員となっているのは、うれしいことであった。外山教授が英語で歓迎の辞を述べ、報知新聞の藤田氏が日本語で演説した。また金子氏は彼の演説中、ドクタア・ビゲロウに言及する所があったので、ドクタアは答辞として、生れて初めての食後演説をやった。彼は、日本人が図画法と彩色法で、日本古来の方法によるべきことの、重大さと必要さとを力説した。この会は確かに私の経験中、最もたのしいものであった。
近所で一軒家が建ちつつあるので、私はその仕事のあらゆる細部を見ることが出来る。インドへ行く途中の、ボストンの建築家グリノウ氏は私に、日本の横材を※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)刺接ほぞつぎする方法は、奇妙ではあるが、別に米国の大工のやる方法より優れていはしないといった。確かに日本の※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)刺接法の設計は、非常にこみ入っている。グリノウ氏は、日本人が手斧を使用する方法に感心し、このような仕事がもっと米国で行われるといいのだといっていた。日本の道具は我国のものより鋭利であるらしく、鉋かんなをかけた板の面は手でさわると、気持のいい程ツルツルしている。ドクタア・ビゲロウは日本の鋸の歯が、柄の方では小さく、先端に近づくにつれて大きいという事実に、私の注意心を引いた*。屋根瓦は暗色のねばねばする泥土の中に埋め込むが、この泥はこねて球にまるめて、屋根に達する迄、一人から一人へと手渡す(図614)。

* 家屋建築の詳細は『日本の家庭』に書いた。
数日前、ドクタア・ビゲロウに沢山の刀と鍔つばとを買って貰った日本人の刀剣商人が、彼の友人達を屋敷に連れて来て、日本式の剣術を見せた。彼は有名な剣術家や相撲取数名と一緒に来た。彼等が家の前の芝生の上に集った光景は、興味があった。黒色の刀剣や漢字で装飾した、長い白地の幕を日除けとしてかけ、斜陽をふせいだ(図615)。漢字と刀の絵(図616。漢字は幕の裏から見たので逆になっている)とは、繰返して幕上に現れる。彼等は竹刀、槍、刀剣、及び「鎖鎌」といわれる武器で試合をした。この武器は封建時代に使用されたもので、その扱い方は非常に興味があった。「ジュージツ」と称する相撲の一種変った種類も行われたが、これは争闘に際し、武器無くして対手を殺すことを教えるものである。相撲のこの方法にあっては、弱い方の人が、強い人の力を如何に利用す可きかが教えられる。剣術者の動作が如何にも素速いので、その写生をすることは出来なかったが、彼等の武器の輪郭は若干写生した(図617)。剣術者は面を地面に置いて相対してうずくまる。名前を呼び上げられると彼等は面をしばりつけ(図618)、この上もなく地獄的な叫び声をあげながら、お互に勢よく撲りつけ合う。これ等の男達は、外国人に剣術の各種の型を見せる可く、特に屋敷へ来たので、無代ただで働いたのである。

お茶を入れる時には、若しお茶が上等な物だと、先ず急須に薬罐やかんから熱湯を注ぎ込む。そこで湯を棄て、即座に茶を入れると共に、茶碗に湯を入れる。茶は急須に残る湯気によって僅かに湿り、そこで茶碗の湯を急須に注ぐと、なまぬるくはあるが、いい香が出る。茶入罐から直接急須へ茶を入れぬように注意する。湯気が茶入罐の中の茶に影響するからである。茶は茶杓ちゃしゃくで取り出さねばならぬ。茶杓までもが、優雅の芸術品である。図619はその二、三の形を示したものである。宮岡はこの順序を示しながら、前夜酒を飲み過ぎた時には、このようにして作った茶の茶滓に醤油をすこしつけて食うと、この上もない解毒剤になると話した。

六月三十日に私は、生物学会主催の公開講演会で講演をした。会場は新しく建られた大きな西洋館で、千五百名分の座席がある。私が行った時には、ぎっしり人がつまっていた。有賀氏が私の通訳をつとめ、演題は人間の旧古で、人間の下等な起原を立証する図画を使用した。聴衆中には数名の仏教の僧侶と一人の朝鮮人とがいた。また見覚えのある顔も多く、彼等が私を親切な目で見詰めているのを見ると、旧友達の間へ立ち帰ったような気持がした。日本の婦人方も多数来聴され、タナダ子爵〔田中不二磨子〕及び夫人、蜷川その他の古物学者や学者達も来た。図620は入場券である。

先夜数名の朝鮮人が、彼等の監督ダン氏と一緒に天文観測所へ来た。私は団体としての彼等に紹介されたが、彼等は即座にお辞儀をして名刺を出し、我々は交換を行った。朝鮮人達は彼等が見たものに大きに興味を持ったらしく、また中々立派な人達であった。彼等の衣服は絹で出来ていて、日本服よりも支那服に近い。耳の後でリボンで結び、それを前に長く垂らした彼等の帽子は、蚊帳かやの布でつくった様に見えるが、実は馬の毛で出来ているので、その内に結び玉にした頭髪が見えた。彼等の言葉は、日本語と支那語の合の子みたいであった。私は、彼等と日本人の通訳を通じて話をしたが、この通訳が英語を知らぬので、先ずダン氏に英語で話し、ダン氏がそれを日本語に訳し、そこで通訳がそれを朝鮮語に直した。私はまた私の限られた日本語の知識を以て、直接彼等と話をした。彼等もここに住んでいる間に、私と同じ位の日本語を聞き囓っていたからである。出て行く時、彼等は懇ねんごろに握手をした。
図621は観測所の小使と彼のお神さんとが住む家の、粗末な写生図である。私の部屋(図622)は約十二フィート四方で、その中に私は二人用の寝台一台と、大鞄二個と、机一台と、衣裳戸棚二台と、椅子二脚と、手水ちょうず台一台とを持っている。衣裳戸棚は陶器や本や紙類やで完全に覆われている。これを以て、如何に私がゴタゴタした内にいるか想像出来ようが、而も私はいろいろな物を、文字通り手の届く範囲内に置くことが好きなのである。

竹中氏は医学校の生徒である。これはドイツの医者たちが教え、すべてドイツ語で教授するので、竹中氏は勿論ドイツ語に通暁しているが、また弟の宮岡から英語も教わった。彼は私にいろいろ興味あることを話した。彼が通っている医学校には、今年(一八八二年)一四五七人の学生があり、その内三九七人は予科の生徒、一五九人はドイツ語で医学と外科療法とを習い、八一八人は日本語で医学と外科療法とを学び、八三人が薬学を勉強している。日本人がかくも素速く漢法医学の古いならわしを放棄し、彼等の常識が道理と科学とに立脚したものであると教えるところを採用しつつあるのは実に驚く可きである。人間は信仰に次で医術上の習慣を、それが如何に愚なものであろうとも、墨守するという事実から見て、これは誠に非凡なことといわねばならない。
ドクタア・ビゲロウと私とは、吉川氏の家へ招待された。同家は三十代も続いた家で、吉川氏は以前周防すおうの大名であった。彼は眼鏡橋の近くに広大な土地と五軒の家とを持っている。我々が到着すると、大きな門がサッと開かれ、一人の供廻りが我々を礼儀正しく、一定の通路を通じて部屋部屋へ案内し、我々は吉川氏や同家の役員数名に紹介された。次に我々は二階の美麗な部屋へ導かれたが、この部屋は日本の家屋の内部の特徴である、例の細部の簡素と絶対的な清楚とを具えていた。中原氏が通訳の労をとった。部屋の隅々には、最も素晴しい黄金漆器や最古のカケモノがあった。同家の看守者――執事をこう呼んでもいいと思う――は、過去の愉快な精神それ自身であった。互に挨拶を換し、そこで我々が古い刀剣を見たいと希望すると、一つ一つ持ち出されたが、いずれも絹の袋につつまれ、吉川家の紋を金で置いた美事な漆塗の箱に入っていた。一番最初に見た刀は七百年にもなるので、吉川氏の先祖の一人がある有名な敵の頭をはねたものである。鞘は柄を巻いた紐と同じく革で出来ていた。その一部は年代の為粉末になって了っているが、その粉末がまた紙に包んであった。鞘、柄、鍔その他の部分が、非常に形式的に且つ重々しく畳の上に置かれ、我々は刀身を見よといわれた。他の刀も見せてくれたが、これ程美事な刀身のいくつかは、それ迄見たことがない。
これ等を見て、ドクタアは夢中になった。然し我々両人は、この夢中さを極度に押しかくした。吉川氏が不動の姿勢で膝まずき、すべての侍者達が彼等の威厳を一刻も忘れず、この上も無い謙卑と畏懼とを示す、とぎれとぎれなそして躊躇的な態度で、低音に、節度のある調子で話し合っているのは、興味深く覚えた。
我々は、壁凹の一つにある美しい漆器を見たいと申し出た。それを持って来た侍者は、一回の運動で膝から立ち上り、恭々しくその品に近づき、その前にひざまずき、静に両手でそれを取上げ、同様にして立ち上り、整然たる足取りで我々に近づき、再び膝をついて、その箱を我々が見得る場所に置いた。これ等の侍者は皆位の高い武士であったので、周防には彼等自身の家来を持っている。そこには吉川家の邸宅があり、そこにある見事な古陶器や漆器や絵画は、煉瓦建の防火建築が出来上り次第、東京へ持って来られることになっている。我々は門を入る時、この建物を見た。
我々が訪問している間に、間を置いては召使いが、半ば延ばした両腕に、美味な食物をのせた低いボン、即ち盆を持って部屋へ入って来た。我々はこの上もなく楽しい数刻を送った。そして古代日本の多くの興味深い趣の一つの、純真な瞥見をしたことを感じた。退出する時我々は、小さな周防のお土産を貰ったが、それは内側に金紙を張った、長さ約四インチの薄い木の箱で、横に細い黒い布が張ってあり、その上にはカワゲラの巣が七つ、糊づけにしてあった(図623)! これ等の、我国の河川で普通に見られる動物は、岩国を流れる川で見出されるのである。外側には桁構けたがまえの不思議な範式を持つ、驚く可き木造の拱橋の絵が書いてあった。

私は家の近くの狂人病院を案内された。癡呆デメンティア、憂欝病メランコリア、急性躁狂アキュトマニアその他の精神病にかかっている不幸な人々の顔面の表情が、我国の狂人病院で見受けるのと同じなのは、面白かった。
我々は日本の宮廷楽師の吹奏する、最も驚く可き笛の音楽を聞いた。笛は竹で出来ていて、我国の横笛より余程大きく、穴の数も位置も我々のそれとは違っている。我々にとっては音色と音色との間の絶妙な対照が、うれしいものであった。音調は長く、そしてこの上もなく純であった。これは我々には啓示であった。我々の音楽では、人は調和によってこの効果を得るが、日本の音楽には調和音は無く、諧調がある丈である。「聖パウロの聖劇楽」に於て我等の指揮者カール・ツェラーンは、「高きにいます神へ」の合唱の際、或る分節にある気持のいい最終音調を予期して、必ず特別に活発になる。
七月二日、私はメーソン氏が西洋式に歌うように訓練した、師範学校の学級の、公開演奏会に列席した。この会は古い支那学校〔聖堂〕のよい音響上の性質を持っている美事な広間で行われた。学級につぐに学級が出て来て、各種の選曲を歌った。音楽それ自身は、我国の小学校の音楽で、大して六角敷むずかしくはないが、彼等が我々の方式で歌うのを聞くことは驚く可きであった。彼等の声には、我国の学校児童の特色である所の溌溂たる元気は欠けていたが、而も日本人は教えれば西洋式に歌い得ることは疑ない。もっとも、我々式の音楽を彼等に扶植するのが望ましい事であるかどうかは、全然別問題である。ピアノの弾奏もあり、そのあるものは著しく上手だった。また提琴ヴァイオリン、クラリネット、フリュート、バス・ヴィオル等の管絃団オーケストラがあって、「栄光あるアポロ」、「平和の天使」、「ハーレックの人々」その他の曲を、まったくうまく演奏した。小坂三吉という五つになる小さな子供は、鍵板キーに手が届き兼ねる位なのだが、著しい巧妙さを以て、簡単な曲をピアノで弾いた(図624)。彼の演奏は大いに興味を引き起し、メーソン氏は彼を日本のモツアルトと呼んだ! 図625はメーソン氏がヴァイオリンで弾く音楽を、黒板に書いている三吉である。彼はそこでそれを歌ったが、彼が如何に速く音調を聞き知ったかは、実に目覚しいものであった。台が無くては黒板に手が届かぬ位彼は小さかったが、而も彼ははきはきした子供で、彼をざっと写生した図を見せてやったら、うれしく思ったらしかった。

ある朝私の召使いが、明らかに或る種の蠅の蛆うじと思われる虫の、奇妙な行列に、私の注意をうながした。彼等は三分の一インチほどの透明な、換言すれば無色な幼虫で、非常に湿っているのでお互にくっつき合い、長いかたまった群をなして、私の部屋の前の平な通路を這って行った。彼等は仲間同志の上をすべり、この方法によってのみ乾燥した表面を這うことが出来るのであり、またこの方法によってのみ、彼等は行列の両側をウロウロする、数匹の小さな黄色い蟻から、彼等自身を保護することが出来るのである。時に一匹の虫が行列から離れると、蟻は即座にそれを取りおさえ、引きずって行って了う。行列の先端が邪魔されると、全体が同時に停止する。私は行列の先方に長い溝を掘ったが、首導者連が扇形にひろがって、横断す可き場所をさぐり求める有様は、誠に興味が深かった。図626は長さ二フィートの行列の一部分で、図627は展開した行列の先頭である。行列は徐々に家の一方側へ行き、そこで割目へかくれて了った。この旅行方法が、保護の目的を達していることは明白である。蟻は、この一群から個々の虫を引き離すことが出来ないのだから。

七月五日、私は招かれて、日本水産委員会で智的な日本人の聴衆を前に、講演をなした。華族女学校で会った皇族の一人が出席され、非常に親切に私に挨拶された。私は欧洲や米国の水産委員会がやりとげた事業と、魚類その他海産物の人工繁殖による成功とに就て話をした。
竹中氏は私にいろいろ面白いことを話してくれる。我国の諺なり格言なりをいうと、彼は日本に於る同様なものを挙げる。例えば、「お婆さんが針で舟を漕ごうとする時いったことだが、どんな小さなことでも手助けになる」を日本では「貝殻で大海を汲み出す」或は「錐で山に穴を明ける」という。広間に人が一杯集ったのを「床に錐を立てる余地も無い」と形容する。我国の「馬が盗まれた後で納屋の戸に鍵をかける」に匹敵するものに日本の「喧嘩すぎての棒ちぎれ」がある。
日本人は本の巻頭に番号をつけるのに、普通の一、二、三以外に他の漢字を使用する。例えば三巻の書物があると、彼等は「上」「中」「下」を意味する漢字を使用し、二巻ならば「上」と「下」とを使用する。又、三巻の書物に「天」「地」「人」を意味する漢字を使用することもあり、二巻を「北西」「北東」を意味する漢字であらわすこともある。一般に何冊かの番号をつける時、番号に「巻物」を意味する漢字を前置する。これは古代書物が巻物の形をしていたからで、我々の Volume という語も、同じ語原を持っている。日本の十二宮は、我々と同じく動物の名で呼ばれる。磁石もまた十二宮を持つ十二の方位に分たれ、北は「鼠」、東は「兎」、南は「馬」、西は「鳥類」である。これ等の大きな方位の間に、二つの中間方位があり、北東に対して彼等は「丑虎」なる名を持つ。
日本人は以前、家屋の建築に就て、非常に多くの迷信を持っていた。これは、いまだに下流の者は信じている。竹中の話によると、彼が小さかった時、家族が東京へ移ったが、彼の父が磁石を調べた結果、家のある場所が正当な方向に位していないことが判り、その為に彼はその後しばらくして別の家へ移転したそうである。この迷信は、知識階級の者はすでに棄てて顧みぬ。友人達は会うと最後に会った時のことや、互に出した手紙のことを物語るのが普通である。
東京の一区域で浅草と呼ばれる所は、立派な寺院と、玩具店と奇妙な見世物とが櫛比する道路と、人の身体にとまる鳩の群とで有名である。ドクタアと私とは、かかる見世物の一つを訪れた。三、四十人を入れる小さな部屋には高く上げた卓子テーブルがあり、その後方に、我国の雀より小さくて非常に利口な、日本産の奇妙な一種の鳥を入れた籠がいくつかおいてある。彼等を展観した男は、この上もなく親切な態度と、最も人なつっこい顔とを持っており、完全に鳥を支配しているらしく見えた。小鳥達は早く出て芸当をやり度くてたまらぬらしく、籠をコツコツ啄つついていた。芸当のある物は顕著であった。見る者は、それ等の鳥が、如何にしてこのような事をするように馴らされたか、不思議に思う。
私は実に大急ぎで写生をしたが、それでもそれ等は、如何なる記叙よりも芸当が如何なるものであるかを、よく示すであろう。図628では籠が一フィートをへだて、お互に相面して開けてあり、その間に小さな玩具の馬が置いてある。この曲芸では、一羽が馬にとび乗り、他の一羽が手綱を嘴にはさんで、卓の上をあちらこちらヒョイヒョイと曳いて廻る。鳥が籠から出て自分の芸当をやるのが、如何にも素速いのは愛嬌たっぷりであった。又別の芸当(図629)では、鳥が梯子を一段々々登り、上方の櫓やぐらに行ってから嘴でバケツを引き上げる。たぐり込んだ糸は脚で抑えるのである。その次の芸(図630)では、四羽の鳥がそれぞれの籠から出て来て、三羽は小さな台に取りつけた太鼓や三味線をつつき、一羽は卓上によこたわる鈴やジャラジャラいう物やを振り廻す。勿論音楽も、また拍子も、あったものではないが、生々とした騒ぎが続けられ、また鳥が一生懸命に自分の役をやるのは、面白いことであった。

図631では、鳥が籠から走り出し、幾段かの階段を登って鐘楼へ行き、日本風に鐘を鳴らすように、ぶら下っている棒を引く。図632は弓を射ている鳥である。この鳥が実際行うのは、馬の頭(日本の子供に一般的である木馬)で終っている棒にある刻み目から、糸を外すことであるが、然し矢は射出され、的になっている扇がその支持柱から落ちる。

図633では、鳥が走り出して、神社の前にある鈴を鳴らす糸を引く。鳥はそこで一つの箱の所へ走り寄り、卓上から銅貨を拾ってそれ等をこの箱の内へ落し入れる。日本の教会或は寺院には、数個の鈴が上方に下げてあり、その横に紐が下っていて、この紐に依て鈴を鳴らすことが出来る。参詣者は祈祷する時これを行う。寄進箱は柄のついた小さな物で一週間に一度廻すというのでなく、長さ四、五フィート、深さ二フィートの大きな箱で、上方が開いているが、金属の貨幣が落ちる丈の幅をへだてて、三角形の棒で保護してある。この箱は一年中神社仏閣の前に置いてある。人は往来で立ち止り、祈祷をつぶやき箱の内に銭を投げ込むのだが、その周囲の地上に、数個の銭が散在していることによっても知られる如く、屡々的が外れる。

最も驚く可き芸当は、図634に示すものである。鳥は机の上から三本の懸物を順々に取上げ、小さな木にある釘にそれ等をかける。釘に届くために、鳥は低い留木にとび上らねばならぬ。小鳥を、このような行為の連続を行うべく仕込むには、無限の忍耐を必要とするに相違ない。別の芸当では、鳥が梯子をかけ上って台へ行き、偉い勢でいくつかの銭を一つずつ投げた。更に別の芸当では、傘を頭上にかざして長い梯子を走り上り、綱渡りをした。また一定の札を拾い上げ、箱に蓋をしたりした。鳥馴しの男は、喋舌しゃべる鸚鵡おうむと、大きな鸚鵡に似た鳥とを持ち出し、一羽ずつ手にのせてそれ等に「如何ですか」とか「さよなら」とかいう言葉を、勿論日本語でだが、交互に喋舌らせた。それは全体として、私が見たものの中で最も興味のある、訓練された動物の芸当であった。芸当のあるものは、例えば物をつまみ上げるとか、巣をかける時に糸を引張るとかいう風な、鳥が日常生活にやる自然的の動作そのものであったが、それにしても、どうして鳥を、絵画をひろい上げ、それをそれぞれに適当した釘にかけるように仕込んだかは、我々には想像も出来ない。

日本の蝋燭は植物蝋で出来ていて、変種も多い。会津で出来るものには彩色の装飾があり(図635)、そのあるものの図柄は浮彫りになっている。燭心はがらん胴な紙の管である。燭台には穴の代りに鉄の※(「金+饑のつくり」、第4水準2-91-39)かかりが出ていて、燭心の穴にこの※(「金+饑のつくり」、第4水準2-91-39)がしっかりと入り込む。かかる燭台は、余程以前に無くなったが英国にもあり、Pricket 燭台として知られていた。蝋燭は上方に燭心がとび出て、そしてとがるように細工してある。この形が如何に経済的であるかは、燃えて短くなった蝋燭を台から外し、すこしも無駄にならぬように、新しい蝋燭の上にくっつける時に判る(図636)。普通の蝋燭は上から下まで同じ太さだが、上等な物の中には、上部の直径が他の部分に比して大分大きく、かくて長く燃え続けるのもある。殆どすべての人が夜持って歩く提灯は、蝋燭を燃やす。図637・638及び639は、燭台の各種の形を写生したものである*。運搬用の蝋燭台もいろいろあり、そのある物は実に器用に出来ている。また蓋のついた竹筒もあるが、これで人は風呂敷包みの荷物の中へ蝋燭を入れて持って歩くことが出来る(図639は図638を畳んだところを示す)。

* セーラムのピーボディ博物館には、日本の燭台の大きな蒐集がある。そのある物は運搬用で畳むことが出来る。
薄い金属板で長旗をつくり、それが風になびいているように色を塗り、陰影をつけた、奇妙な風見がある(図640)。

七月十五日、私は東京女子師範学校の卒業式に行き、壇上ですべての演習を見得る場所の席を与えられた。主要な広間へ行く途中で、私は幼稚園の子供達が、可愛らしい行進遊戯をしているのを見た。そのあるものは床に達する程長い袂の、美しい着物を着た、そして此の上もなく愛くるしい顔をした者も多い、大勢の女の子達は、まことに魅力に富んだ光景であった。
これが済むと彼等は大広間に入って行ったが、子供達はヴァッサー大学卒業の永井嬢がピアノで弾く音楽に歩調を合わせて、中央の通路を進んだ。彼等が坐ると、先生の一人によってそれぞれの名前が呼び上げられ、一人ずつ順番に壇上へ来て、大型の日本紙の巻物と、日本の贈物の手ぎれいな方法で墨と筆とを包み、紐の下に熨斗のしをはさんだ物とを、贈物として受けるのであった。彼等は近づくと共に、非常に低くお辞儀をした。両手で贈物を受取ると、彼等はそれを頭の所へ上げ、また低くお辞儀をして、段々の所まで後退した。実にちっぽけな子供までが、ヨチヨチやって来たが、特別に恥しそうな様子の子が近づくと、壇上の皇族御夫妻から戸口番に至る迄一同が、うれし気な、そして同情に富んだ微笑を浮べるのは、見ても興味が深かった。
広い部屋を見渡し、かかる黒い頭の群を見ることは奇妙であった。淡色の髪、赤い髪はいう迄も無し、鼠色の髪さえも無く、すべて磨き上げたような漆黒の頭髪で、鮮紅色の縮緬や、ヒラヒラする髪針ヘアピンで美しく装飾され、その背景をなす侍女達は立ち上って、心配そうに彼等各自の受持つ子供の位置を探す可くのぞき込んでいる。小さな子供達が退出すると、次にはより大きな娘達が入場したが、そこここに花のように浮ぶ色あざやかな簪かんざしは、黒色の海に、非常に美しい効果を与えた。大きな娘達は、名前を呼ばれると主要道路を極めて静かに歩いて来て、壇上の皇族御夫妻並びに集った来賓に丁寧にお辞儀をし、机に近づき、また低くお辞儀をして贈物を受取り、それをもう一つのお辞儀と共に頭にまで持ち上げ、徐々に左に曲って彼等の席に戻った。彼等の中には卒業する人が数名いたが、それ等の娘達は、畳んだ免状を受取ると後向きに二歩退き、行儀正しく免状を開いて静かにそれを調べ、注意深く畳んでから、特殊な方法でそれを右手に持ち、再びお辞儀をして退いた。
卒業式が済むと来賓は、日本風の昼餐が供される各室へ、ぞろぞろと入って行った。ある日本間では卒業生達に御飯が出ていたが、私は永井嬢と高嶺若夫人とを知っているので、庭を横切って彼等のいる部屋へ行き、そこに集った学級の仲間入りをして見た。美しく着かざった娘達が、畳の上にお互に向き合った長い二列をなして坐り、同様に美しく着かざった数名の娘にお給仕されているところは、奇麗であった。私は彼等のある者と共に酒を飲むことをすすめられ、また見た覚えのない娘が多数、私にお辞儀をした。式の最中に、我々の唱歌が二、三歌われた。「平和の天使」「オールド・ロング・サイン」等がそれであるが、この後者は特に上出来だった。続いて琴三つ、笙三つ、琵琶二つを伴奏とする日本の歌が歌われた。これは学校全体で唄った。先ず一人の若い婦人が、長く平べったく薄い木片を、同じ形の木片で直角に叩くことに依て、それは開始された。その音は鋭く、奇妙だった。彼女はそこで基調として、まるで高低の無い、長い、高い調子を発し、合唱が始った。この音楽は確かに非常に妖気を帯びていて、非常に印象的であったが、特異的に絶妙な伴奏と不思議な旋律とを以て、私がいまだかつて経験したことの無い、日本音楽の価値の印象を与えた。彼等の音楽は、彼等が唄う時、我々のに比較して秀抜であるように聞えた。勿論彼等は、我等の音楽中の最善のものを歌いもせず、また最善の方法で歌いもしなかったが、それにもかかわらず、ここに新しい方向に於る音楽の力に関する観念を確保する機会がある。
米を搗つくのには、大きな木造の臼を使用する。槌或は杵は、大きくて非常に重く、頂上はるかに振り上げる(図641)。彼は杵を空中に持ち上げる時、その柄の末端を左脚に当てるので、そこに小布団をつけている。この仕事をするには、強い男が必要である。杵の面は深くくぼんで鋭い辺を持ち、臼の中には図642に示すような、藁繩の太い輪が入っている。杵で打つと、米は輪の外側に押し出されてその内側へ落ち込む。この方法によっては米は循環し、すべての米が順々に杵でたたかれるようになる。同様な場合にこんな事が行われるのを、私はこの時迄見たことが無い。搗いた米から出る黄色い粉末は、袋に入れて顔を洗うのに使用する。我国では玉蜀黍とうもろこしの粉を、同様に使う。この米の粉は、また脂肪のついた皿や、洋燈ランプを掃除するのにも使用する。
第二十章 陸路京都へ
七月十六日。私は、我々の南方諸国への旅行の荷造りをするのに、多忙であった。これは先ず陸路京都へ行き、それから汽船で瀬戸内海を通るのである。私の旅券は、すくなくとも十二の国々に対して有効である。中原氏が私に吉川氏の長い手紙を持って来てくれた。周防の国なる岩国にいる彼の親類に私を紹介したものである。封筒には先ず所と国との名前を、次に人の名前を書く。そしてその一隅には、手紙に悪い知らせが書いてないことを示すために「平信」という字を書く。この字が無ければ凶報が期待され、受信者は先ず心を落つけてから手紙を読むことが出来る。我々は古い日本の生活をすこし見ることが出来るだろう。私は陶器の蒐集に多数の標本を増加しようと思う。ドクタア・ビゲロウは刀剣、鍔つば、漆器のいろいろな形式の物を手に入れるだろうし、フェノロサ氏は彼の顕著な絵画の蒐集を増大することであろう。かくて我々はボストンを中心に、世界のどこのよりも大きな、日本の美術品の蒐集を持つようになるであろう。
七月二十六日。我々は駅馬車と三頭の馬とを運輸機関として、陸路京都へ向う旅に出た。三枚橋で我々は馬車に別れ、その最も嶮しい箇所箇所を、不規則な丸石で鋪道した、急な山路を登った。フェノロサと私とは村まで八マイルを歩き、ドクタアと一行の他の面々とは駕籠かごによった。ドクタアはこの旅行の方法を大いに楽しんだ。時々この上もない絶景が目に入った。自分の足をたよりに、力強く進行することは、誠に気分を爽快にした。路のある箇所は非常に急だったが、我々は速く歩いた。その全体を通じて、我々が速く歩き、また駕籠かきが一人当り駕籠の重さその他すべてを勘定して、殆ど百斤近くを支持していたにかかわらず、彼等が我々について来たことは、興味があった。時々我等は、重い荷を肩にかけた人が、これもまた速く歩いて峠を旅行するのに出会った。彼等は十二マイル離れた小田原へ行く途中なのであった。我々が通過した村には、どこにも新しい形式の張出縁や門口や、奇麗な内部やがあったが、このように早く歩いたので、二、三の極めて簡単な輪郭図以外には、何もつくることが出来なかった。この路は遊楽地へ行く外国人が屡々通行するので、日本人は一向我々に目をつけなかった。子供も、逃げて行ったり、臆病らしい様子をしたりしなかった。荷を背負って徒歩で行く人々以外に、重い荷鞍と巨大な荷物をつけた馬が、田舎者に引かれて行った。図643は荷鞍の写生で、馬の主人の日笠と雨外套レインコートと二足の草鞋わらじ以外に、荷はつけていない。尻尾の下には不細工な、褥しとねを入れたような物が通っている。

二つの部屋が相接する家にあっては、これ等の部屋は床にある溝と、上から下る仕切との間を走る、辷る衝立ついたてで分たれるに過ぎぬが、この仕切の上の場所は通常組格子の透し彫りか、彫刻した木か、形板で切り込んだ模様かで充してある*。これ等の意匠の巧妙と趣味、及び完全な細工は、この地方に色木の象嵌細工をつくるのに従事する人が多いことに因る。箱根は色をつけた木の、いろいろな模様によって、美しい効果を出した箱や引出のある小箱や、それに似たものを盛に製造する土地である。
* この細部を欄間と呼び、私が見た多くの興味ある形式は『日本の家庭』に記載してある。
各種の木片は、図644に示す如く、膠でしっかりくっつけて一の塊となし、それを図645のように横に薄く切ってその他の形式のものと共に、箱の蓋や引出の前面を装飾するのに用いる。以上二図は実物の二分一大である。図646は灰に埋めた僅かな炭火の上に膠壺を置き、細工をしている人を写生したものである。意匠は際限無くこみ入っているが、それに就て面白いことは、細工に用いる道具が、あたり前の大工道具に過ぎぬらしいことである。細工人は床に坐り、仕事台として大きな木片を使用する。

箱根に於る我々の旅舎は、石を投げれば湖に届く位のところにあり、向うには湖水をめぐる山々の上に、富士が高くぬきんでて聳えている。ここは海抜二千フィート、湖の水は冷くて澄み、空気は清新で人を元気にする。私の鉛筆は如何なる瞬間にも忙しく動いて、景色のいい場所を写生していた。図647は颱風に伴う強い風に抵抗するべくつくられた、丈夫な垣根の一種である。道路に沿うた家ではどこでも、紡いだり織ったりすることが行われつつある。図648は米の袋その他の荒っぽい目的に使用する、粗※(「米+慥のつくり」、第3水準1-89-87)な藁の筵を織っている女を示す。

翌朝は八マイルを駕籠で行く可く、夙はやく出発した。この運輸の方法は、如何に記述しても、それがどんなものであるか、まるで伝えない。第一、一台の駕籠に人が三人つき、彼等はかわり番に仕事をする。四年前の旅行記に、私は日本人が使用する普通の駕籠の写生をした。箱根には――恐らく他の場所でも同様であろうが――外国人向きにつくった、余程長く、そして重い特別な駕籠がある。彼等は駕籠を担って、道路を斜に行く(図649)。更代は屡々行われる。二人がかつぎ出して、坂路では約九十歩、平地では百四十歩を行き、そこで持っている竹の杖で駕籠を支えて肩を更え、再び同じ歩数を進むと、予備の男が前方の男と更代し、更に肩を更えた後、前に駕籠を離れた男が、後方の男と更代する。坂を下りたり、平地を行ったりする時には、彼等は一種のヒョコヒョコした走り方をし、連続的に奇妙な、不平そうな声を立てる。各人の肩にかかる重さは、すくなくとも百斤はあるが、これで休みなく、坂を上下して、八マイルも十マイルも行くのだから、体力も耐久力も、大きにある訳である。

この陸路の旅の旅程記を記憶することは困難であった。我々にはある日が一週の何曜日であるか一月の何日目であるか、判らなくなって了った。ある時の駕籠乗行は素晴しく、ある時は飽々させた。美しい景色を見た。広くて浅い河にかけた長い橋をいくつか渡った。興味のある茶店で休んだ。そしてあらゆる時に、この国民を他のすべての上に特長づける、礼儀正しい優待を受けた。我々は随所で、古い陶器や絵画やそれに類したものを探して、一時間前後を費し――浜松と静岡には一日いた――名古屋には数日滞在した。この旅行で気のついたのは、我々が泊った旅舎の部屋が、標語或は所感で装飾してあることで、そしてそれ等は翻訳されると必ず自然の美を述べたものか、又は道徳的の箴言、訓誡かであった。酒を飲む場所にあるものでさえ、これ等の題言の表示する感情は、非常に道徳的なものである。私は日本では酒場は見たことが無いが、これ等の上品な所感や、道徳的な格言を見た時、我国に於る同程度な田舎の旅籠はたご屋と、公開の部屋部屋で普通見受ける絵画とを、思い出さずにはいられなかった。このような所感の多くは、支那の古典から来ている。四つか五つの漢字が、如何に多くを伝えるかは、驚くばかりである。一例として、ここに Facing water shame swimming fish なる五つの漢字を並べたものがあるが、これを我々の言葉で完全に述べると、「魚が平穏と安易とを以て泳いでいる水のことを考えると、我々がこのように忙しい人間であることを恥しく思う」ということになる。これがどこ迄正しいか私は知らぬ。翻訳は我々の通辞がやったのである。
駿河の国の静岡に到着した時、そこでは虎列刺コレラが流行して、一日に三十人も四十人も死んでいた。大きな旅館は閉鎖してあり、我々は大分困難した上で、やっとその一つに入ることが出来た。主人は、万一虎列刺に因る死人が出ると、それが大きに彼の旅館の名声を傷つけるといった。我々は人力車を下りもしない内に、既に手早く消毒されて了った。人々は誰でも、簡単な消毒器を持っているらしかった。これは石炭酸の薄い溶液を入れた、小さな鉄葉ブリキの柄杓の上部に、ハンダで鉄葉の管をつけた物である。他の場所でも我々は、まるで我々が病毒を持って来たかの如く消毒液の霧を吹きかけられた。ドクタア・ビゲロウはある所で、一軒の家の入口に立っていた男が、彼に向って、宛かも刀で彼を斬り倒すような、力強い身振をしたといった。このような敵意のある示威運動は、極めて稀にしか行われぬことである。私はたった一度しか、これに似た敵意を含む身振を経験していない。東京で娘と一緒に歩いていた時、ゆっくりと千鳥足で歩いて行く三人の男を追い越した。我々は人に追いつき、そして断らずに彼を追い越すことが、失礼であるとされているのを知らなかった。我々の無礼を憤った一人は、先へ走って行き、振り向いて路を塞ぎ、我々を斬り倒す如く、空想的な刀を空中に振り上げた。彼の二人の仲間は、笑いながら彼を引き捕えて、連れ去った。明かにこの男は、多少酔っていたのである。ドクタアがこの経験をした直後、田舎路を歩いて行くと、二人の中年配の、相当な身なりをした日本人が、通り過ごす我々に向って、非常に丁寧なお辞儀をした。有賀氏は、この行為は彼等の外国人に対する尊敬を示すものであるといった。
我々は静岡で二泊し、まる一日を蒐集に費した。私は目的物がありそうな所へは、どこへでも入り込んだ。悪疫の細菌を持っていそうな物を決して食わず、また、これは元来日本ではめったにやらぬことだが、水を飲まぬように、常に注意している私には、この流行病はすこしも恐しくなかった。翌朝夙く我々はバネの無い、粗末な、ガタガタした駅馬車で出立し、およそこれ以上の程度のものは想像も出来ぬ位ひどく揺られた。正午、高い丘の脈の頂上に達した時、ドクタアは愛想をつかして馬車を思い切り、私もまたよろこんで彼の真似をした。フェノロサと有賀とは旅行を続けたが我々は午後三時迄仮睡し、各々二人引きの人力車をやとって、遠江とうとうみの浜松までいい勢で走らせ、そこで我々は泊った。その晩我々は富士の頂上へ向う多数の巡礼の、奇妙な踊を見た。彼等は道路に面して開いた大きな部屋を占領して、円陣をつくっていた。一人一人、手に固い扇子を持ち、それで拍子を取ってから、妙な踊と唱歌とをやったのであるが、先ずある方向を向き、次に他の方向を向き、円陣は一部分回転した。それは気味の悪い、特異的な光景であった。踊り手達は、我々が彼等の演技に興味を持ったことをうれしく思ったらしく、私に一緒に踊らぬかとすすめた。彼等は白い布で頭をしばっていた。この踊をする前に、私は彼等が二階の一室で、跪き、祷り、歌を唄うのを見たが、これは明かに富士の為に下稽古をするものらしかった。
幾分、憂欝な雰囲気で気をめいらせながら、虎列刺に襲われた浜松を後にした我々は、途中急な谿谷へさしかかり、車夫達は人力車を曳き上げるのに苦しんだ。半分ばかり登ったところで我々は、如何にも山間の渓流と見えるものが、谷の側面を流れ落ちるのに出合った。フェノロサと私とは、誘惑に打ち勝つことが出来ず、ドクタア・ビゲロウがその水を飲むなというのも聞かず、僅かではあるが咽喉を通した。すると水は、如何にも気がぬけていて、美味でない。やがて谷の頂上に達すると、そこには広々とした水田があり、我々が山間の渓流だと思ったのは、この水田の排け水だったのである! 我々がどんなに恐れ驚いたかは、想像にまかせる。
翌日は人力車で豊橋まで行き、次の朝には陶器狩りをやって、よい品をいくつか手に入れた。その次の朝は十一時に出発し、夕方大都会名古屋に着いた。ここで我々は四日滞在し、ドクタア・ビゲロウは漆器と刀の鍔を、フェノロサは絵画をさがし、私は陶器を求めて、あらゆる場所を探索した。私が陶器いくつかを買い求めた、権左と呼ぶ人のいい老人は、私の探索に興味を持ち、我々をこの都会の一軒の骨董屋から他の骨董屋へと案内する役を買って出た。物を買うごとに口銭を取ったかどうか私は知らぬが、とにかく彼は我々の包みを持ち、あまり高いと思うものは値切り、彼が連れて行ってくれねばとても判らぬような場所へ我々を案内し、商人共に彼等の宝物を我々の部屋へ持って来させ、最後に私が買った陶器を荷づくりすること迄手伝った。これは二つの大きな箱に一杯になったのを、東京へ送った。我々が泊った旅館には、大きな卓子テーブルや椅子があり、非常に便利だった。商人達はしょっ中我々の部屋へ来たが、同時に八人、十人と来たこともあり、そして商品を床の上にひろげた。我々はいよいよ出発という時まで買物をした。そして私は陶器の蒐集に、いくつかの美事な品を附加した。
権左は私を名古屋の外辺に住んでいる、彼の友人のところへ連れて行った。この男はフジミ〔?〕と呼ばれる窯の創業者であるが、私はここで午前中を完全に費した。儀式的な茶が私のために立てられ、この陶工が私の面前で茶を挽いた。彼が見せた古い陶器の蒐集中には、見事な品も多く、又彼は私に絵を画いてくれ、その代りとして私にも彼の為に絵を画くことをたのみ、私をその翌日茶の湯(茶の礼式)へ来いと招く等、我々は興味ある数時間を送った。家族の人々は私をこの上もなく親切に取扱ってくれ、私が坐っていた張出縁には冷水を充した、大きな浅い漆塗の盥たらいを置き、娘がこの水越しに私をあおいでくれた。このようにして出来た涼風は、誠に気持がよかった。
我々が招かれたお茶の儀式は、非常に興味が深かったので、私はいくつかの細部を見逃したには違いないが、それに関する丹念な心覚えを書きとめた。夏の茶の部屋は、母家から十フィートばかり離れた、独立した小さな家である。この、十五フィート四方の小さな建物は、特に茶の湯のためにつくられたので、すべての装備が極度に簡素であった。茶の家と母家との間には石の径があり、その一方の側には水を入れた大きな石の容器があった。粉末にした茶を儀礼的に供することを、真に評価する為には、これ等の細目を記述する必要がある。鐘が鳴って我々――権左と木村と私――は、茶の部屋に面した廊下の、丸い布団の上に坐った(図650のA)。茶の家の名は、長い陶製の瓦の上に、四字で書いてあった。直訳すると「風、月、清い、厩舎」であるが、完全に訳すと「風と水との如く清潔で明透な小さな家」ということになる(図651)。

我々がここに坐って、その家を眺めていると、その辷る衝立を横に押し明け、娘のみきが両手両膝で這い入り、石の水甕から漆塗の木造容器に水を充して元へ戻り、後から衝立を閉めた。彼女は最初に茶の家に入る時、地上のいくつかの石の上を歩き、そして石の階段の上に彼女の草履を、図652にある如く、一方を他方によりかけて脱いだ。数分後我々は茶の家に行けといわれた。木製の草履が我々の足もとに置かれ、我々がこれをはいて、真面目にヒョコヒョコ石甕の所へ行くと、そこに主人が立っていて、小さな木の柄杓で我々の手に水をかけ、我々に手拭を供した。手を拭き乾した我々は、衝立を明け、上から半分の所まで下っている組格子の衝立の下を、両手両膝で這って、家の内へ入った。我々は先ず床の間(部屋の壁龕)へ躙にじり寄って、極めてさっぱりした懸け物を眺め、次に落ち込んだ炉へと躙って行ったが、これは三角形の場所で、その中に若干の石があり、石の上に香の箱が置いてあった。そこで再び部屋の他の側へ行き、一列に並び、黙っていた。如何にも真面目で厳粛なので、茶の湯を宗教上の儀式だと記述した筆者もある。部屋は簡素を極めていた。天井は暗色の木材の、薄くて幅の広い片を、筵のように編んだもの、稜角や、出張りや引込みは竹、あるいは木の自然の枝で出来ていて、壁はあたたかい、褐色めいた土で塗ってある。この部屋の簡単さと、絶対的な清潔さとは、顕著なものであった*。

* この部屋は『日本の家庭』の一五三頁に描出してある。
間もなく我々に面した辷る衝立が、静かに横に押されてみきが出現し、三角形の漆器盆を一つ一つはこび込んだ。各種の皿は最上等の品で、飯皿と大きな飯匙とは陶器、酒入れは豪奢に細工をした金属、盃は美事な漆器であった。飯は一つの鉢に、漬物を添えた生魚は他の鉢に、揚げた鰻と瓜は別の鉢に、味噌汁と百合ゆりの根とは更に別の鉢に、それからそれを料理したその容器のままで膳に出す、最も美事な羹あつものは、蓋のある皿を充していた。主人は子息と一緒に、母家で同様の料理を供される。食事の間、客と共にいることは不適当とされているのである。我々は然し張出縁の向うにいる彼を、よく見ることが出来た。我々が食事をしている最中に、老主人は我々と共に酒を飲むべく入って来た。我々は先ずみきと酒を飲み、彼女の父親も同様にした。盃をゆすぐ杯洗は無く、盃は小さな台にのって、あちらこちら往復した。娘と飲んだ後、我々は主人と飲んだ。
次に非常に美しい漆塗の盆が出された。それには菓子の小さな堆積がのせてあり、又別の盆には何等かの野菜がのせてあったが、私は写生に忙しくてこれ等を食わなかった。菓子は我々の飯茶碗の蓋にのせられた。これが終ると残った菓子を二つの包みにわけ、娘はその一つを袂に入れ、老人は自分の手に持ち、二人とも退去した。そこで熱い湯が持ち出され、その少量ずつが我々が食い終った食器の各々に注がれた。礼儀上からいえば、私は各々の皿の内容全部を食うべきであったろうが、私はあまり暑いので多く食わなかった為に、他の人々が非常に注意深くやったように、皿を洗った湯を飲み、自分自身の皿を紙で拭うという、不愉快な必要事をやらずに済んだ。皿をそれぞれ徹底的に清めて膳に置くと、みきがそれを一つずつ持って行った。次に寒天菓子の四角い切を三つ入れた、漆塗の箱が持って来られ、菓子は美しい四角の漆器の皿にのせられて供された(図653)。寒天菓子を一本の箸で食い終ると、その箸はこの場合の記念として持って帰ることになっている。寒天菓子を食っている間に、みきが非常に形式ばった様子でかっかと燃える炭火を入れた鉄製の容器(図654)を持って入って来て、鉄の箸*でそれを一片ずつ沈下した炉に置いた。

* これ等はハシと呼ばれ我々の鉄鉗に相当する。
彼女は次に小さな釘にかけた大きな羽根を取り、入って来た入口に膝をついて注意深く畳を掃き、退出して襖をしめた。我々の仲間の一人がそこで小さな木皿を取りまとめて、みきが入った入口へそれを持って行った。このすぐ前に、みきが鉄の薬鑵やかんを持って来て、それを炭にのせた。一方老人は我々に香の箱を見せ、我々はそれを調べ、香を嗅ぐのであった。ここで我々は立ち上り、縁側へ歩いて出、履物をはき、水甕で手を洗い、主人の家へ渡り、休憩し、煙草を吸い、私はあらゆる病原菌を含まぬという説明つきの冷水を一杯飲んだ。
しばらくすると、最初のよりも余程深い音色のする鐘が鳴り、我々は手を洗い、茶室へ這い込むという、同じ形式をくりかえした。懸け物は取り掃われ、その代り簡単な花生けに、かかる人々のみが知っている方法で生けた花が入れて置いてあった。そこでみきが茶碗を持って現れたが、彼女は各種の器具を一つ一つ持って来る度に、膝をついては、襖を横に押すのであった。そこで儀式的に立ち上り、明けた場所を真直に歩いて通り、真四角に曲って炉に面し、一歩それに近づいて立ち止り、ぼんやりしたような有様で前方を眺め、それから膝をついて恭々しく品物を畳の上に置いた。彼女は手を畳につかずに立ち上り、前同様平静な態度で退出した。茶碗の後で彼女は繊細な竹の柄杓を持って来た。いい忘れたが、我々が部屋に入った時、水入れと壺とは、すでにそれぞれ然る可き場所に置いてあった。この時各種の品は、図655に示す如くであった。そこで茶入の紐を解き、袋を手の端で両方に押し下げ、その袋は羽根の塵掃いがかかっていた釘にぶら下げた。薬鑵から湯を汲み出して茶碗に注ぎ込み、茶筅ちゃせん(図656)をくるくる廻しながら茶碗の内をまるく回転させることに依て、茶碗と茶筅とを洗う。茶碗をそこで、白い木綿の布で拭うのだが、これにも一定の方法があった。この間誰も一言も喋舌しゃべらなかった。

次に細い竹の匙で、茶入から粉末茶をすくい出した。恒例である所の三匙をすくい出したみきが、やめかけると父親が低い声で「もっと」といい、更に「もっと多く」といったので、彼女は数回にわたって、茶碗に沢山茶を入れた。我々は彼女に面して、半円形に坐った。私が最左端、次が権左、次が木村、次が我等の主人役という順序である。そこで湯を注ぎ、勢よく茶をかきまぜたが、そのどの動作も極端に形式的に行われた。主人はそこで跪いたまま娘に近づき、丁寧にお辞儀をして茶碗を取り、私のところへ躙り寄って、また深くお辞儀して茶碗を私に差し出した。お茶は最も濃厚な、緑色の舎利別しゃりべつに似ていて、実に美味であった。私は一口飲み、茶碗の私の唇の触れたところを指で拭き、紙を持っていないので上衣の内側で指を拭き、それから茶碗を、それが次の人の手に渡った時、彼の唇がその辺縁の清潔な場所にあたるような具合に、くるりと廻した。この時機にあって、私は主人に向い、この茶が何であるかを質ねる義務を持っていたのでそれを行うと、主人は私に名を教えた*。それは事実有名な人に依てつくられ、日本に於る最も尊い茶とされていた。
* この茶は「はつむかし」と呼ばれ京都に近い宇治で出来たものである。それから、この茶の立て様の型、即ち流派は、太閤時代の利休のそれであった。
茶碗は転々して最後に主人の手に渡り、彼は残った茶を飲みほした。これをするのに彼は、まるで御祈祷をする時のように真直に膝で立ち、この上もなく加福的な顔つきで、大きに勢よく唇を鳴らした。茶を飲み終ると彼は、茶碗の底にとがった楕円形の部分が残るようにそれを拭った。そこで茶碗を手から手へ廻し、それが稀古な品であるので、それに就ていろいろと意見が述べられた。
これが終ると娘は道具類をすべて持ち去り、我々は老人が持ち出した箱の中に入ったいろいろな品物を見た。箱のある物は漆塗で、品目、陶器、及び製作者の名前が金文字で書いてあり、白木の箱には黒で記号をつけ、朱で作者の印が捺してあった。これ等を我々に見せながら主人は、使われる時にはこれ等が「虎」になり、然らざる時には鼠になるといったが、その意味は使われる時には虎のように有用になるが、使われぬ時には鼠のように無価値だというのである。
最後の日の午後、我々は名古屋城へ行った。これは日本に於て、最もよく保存された城の一つで高さ百五十フィート、壁は巨大で、部屋は広大である。一六一〇年から一二年にわたって建てられ、高く四周にぬきんでて立ち、その窓からは素晴しい景色が見られる。巨大な石垣と深い堀があたりを取巻いている。その周囲の建物には広々とした部屋があり、襖ふすまはその時代の最も有名な芸術家によって装飾され、木彫も有名な木彫家の手になったものである。ある部屋には高さ七フィートばかりの、この城の雛型があった。これは城それ自身が建てられる前に、それに依て建築すべき模型としてつくられたのであるから、非常に興味がある。
図657は番人が城内の当事者に我々の名刺を届けに行くのを待つ間に、いそいでした写生図である。これは極めて朧気おぼろげに城の外見の観念を伝えるに過ぎぬ。この建築の巨大さと荘厳さとは著しいものである。建築上からいうとこの城は、上を向いた屋根のかさなり、破風はふに続く破風、大きな銅の瓦、屋根の角稜への重々しい肋リブ、偉大な屋根の堂々たる曲線、最高の屋梁むねの両端に、陽光を受けて輝く、純金の鱗を持つ厖大な海豚いるか等で、見る者に驚異の印象を与える。黄金は殆ど百万ドルの三分一の価値を持っている。我々は頑丈な、石垣の間の通路をぬけ、幅の広い石段を上って、主要な城へと導かれた。厚い戸をあけると、そこは広々とした一室で、壁や天井の桁の大きさは、封建時代にあって、かかる建築が如何に強いものであるかを示していた。我々は階段をいくつもいくつも登り、登り切るたびに、しっかり出来上った広くて低い部屋へ出ては、百十二の高い段々を経て上方の部屋に達した。この勘定には、入口に達する石段や斜面の段は入っていない。上の広間の窓からは、あたりの範囲のひろい、そして魅力に富んだ景色が見られた。そこから流れ込む気持のいい風は、登って暑くなった我々にとって、誠に有難いものであった。

我々は名残惜しくも城をあとにし、急いで旅館へ帰って、七時京都へ向けて出発する迄に荷づくりをした。我々の人力車はのろのろと進んだが、景色や、輝しい入日や、休息はよろこばしかった。九時我々は河の畔に出、五マイルにわたって、その静な水面を長閑のどかに漕ぐ舟で行った。我々の上陸地は、万古ばんことして知られる陶器で有名な、四日市であった。そこは明々と照明され、遠方から見るとまるでニューイングランドの町みたいであった。石の傾斜面に上陸した時我々は、何等かの祭礼が行われつつあることを知った。河岸には氷を売る小さな小舎がけが立ち並び、我々も床几に坐って数回氷を飲んだ。氷は鉋かんなで削るので、鉋はひっくりかえしに固定してある。その鉋の上で一塊の氷を前後に動かすと、下にある皿が、いわば鉋屑ともいう可きものを受け、それに砂糖少量を加え、粉茶で香をつけるのだが、非常に涼味ある小菓で、我々が子供の時雪でつくった、アイスクリームに近いものである。氷は非常に高く、一斤十六セントから廿セントまでするが、これは一杯一セントで売られる。我が都市の貧しい区劃にも、同じ習慣を持って行ったらよかろう。
祭礼のために町は雑沓し、旅館はいずれも満員なので、我々は止むを得ず午前二時半に出発して次の町まで人力車を走らせたが、目的地へ着いた時には鶏が鳴き始め、夜も白々と明けかけていた。我々は疲れ切っていたので、よろこんで貧しい小さな宿屋で横になり、数時間睡った。私は八時に起き、貧弱な飯の朝飯を取った後、如何にして手づくりの万古がつくられるかを見出すべく、再び四日市へ引き返した。私は有名な半助に会ったが、この男は指だけで器用に粘土を捏ねて形をつくり、美しくも小さな急須を製出する。私はこの陶工に関する詳しい覚書を取り、幾枚かの写生をした。
二時三十分我々は出発し、山間の谿谷の最も景色のよい所を登って、ここも伊勢の国の、山にかこまれた坂下に着いた。我々はここで一夜を送り、翌朝は人力車一台に車夫二人ずつをつけて速く進み、二時半大津着、四時半京都に着いた。即座に我々は山の中腹高くに位置し、全市を見下す弥阿弥やあみホテルへと車を走らせた。
このホテルは日本風ではあるが、西洋風に経営されていて、それ迄の、各様な日本食の後をうけて、半焼のビフテキ、焼馬鈴薯じゃがいも、それからよい珈琲コーヒーは、誠に美味であった。我々のいる建物に達するには、長い坂と石段とを登らなくてはならぬが、これが中々楽でない。部屋にはいずれも広い張出縁と、魅力に富んだ周囲とがあり、佳良である。私は屋根の一つある、一間きりの小さな家を占領しているが、張出縁から小さな反り橋がこれに通じ(図658)、灌木の叢くさむらが床と同じ高さまで生え繁っている。私の写生帳は襖や格子細工や窓の枠や美しい欄間やで一杯である。それ等の意匠の典雅と美麗とは、即席の写生図で示すことは不可能である。薄板に施した形板きざみは完全で、例えば打ちよせる波は、奇妙な牧羊杖の手法と空中にかかる各々の水滴とで、あく迄月並ではあるが、而も速写写真が示す波の外見を、そっくり表している。数百マイルにわたってこの国を旅行する人が驚かずにいられぬのは、如何に辺鄙な寒村でも、これ等の仕事を充分やり得る腕を持つ、大工や指物師や意匠家がいることである。

一番よい部屋の天井に近く、燕の巣がかかっている家が多い。燕が巣をかけ始めるや否や、その下に小さな棚をつり、巣をつくる途中で落ちやすい泥が畳をよごすのを防ぐ(図659)。この鳥が、家の内では、外よりも余程繊細な、こみ入った巣をつくるのは面白いことである。事実燕は、彼等と一緒に住む人達の趣味を理解しているらしく思われさえする。

駿河、三河、尾張と来るにつれて、藁葺屋根の屋梁に変化が見えたのは興味があった。私は内部の台所から来る煤で、真黒になった藁葺屋根を、数人の男が修繕しているのを見た。壁土をこねる男が、巧妙に屋梁をかざり立てる方法は興味が深い。
その日我々は河を越したが、そこでは何人かが舟をつくっていた。私は二人の男が鉄の槌で舟板の端を叩いているのを見た。いわば木理きめを叩き圧えるのであるが、こうすると舟板を次の舟板に合わせる時、叩き潰された端は濡れるとふくれるから、しっかりと食い合う。
京都は確かに芸術的日本の芸術的中心である。いたる所で人はその証拠を見る――商店、住宅、垣根、屋根の上、窓、襖、それを辷らせる装置、格子、露台の手摺。看板さえも趣味を以て考案され、芸術と上品さとがいたる所にある。加之しかのみならず、私は日本中で京都ほど娘達や小さな子供が、奇麗な着物を着ている所を、見たことが無い。頭髪の結い方には特徴があり、帯の縮緬ちりめんと頭の装飾とは燦然としている。我々の旅館は、山の斜面に、立木と仏閣とにかこまれて立っている。この要害の地から人は、日没時、市を横切る陽光の驚く可き効果を見る。夕暮には、歌の声と琴の音と、笑い声とが聞える。声高い朗吟が聞える。そのすべてにまざって、近所で僧侶が勤行ごんぎょうをする、ねむくなるような唸り声が伝って来る。まったく、僧侶たちが祈祷する時に出す音は、昆虫の羽音と容易に区別しがたい。昨夜僧侶の誦経にまざって、急激な軽打とも鳴音ともいう可きものを聞いた。これは私が江ノ島で聞いた、そこで鈴虫と呼ばれる昆虫と、まったく同じであった。気温が高まるにつれて、このキーキー叫ぶ昆虫の声音は速くなって行く。私は懐中時計を取り出し、一分の四分の一に、三十五回の鼓拍を数えた。だが、寒暖計を見る前に、一人の召使いに、あんな音を立てるのはどんな虫なのかと聞いたところが、あれは僧侶の鈴の音だという返事であった。
この市の中を、幅の広い、浅い河が流れている。今や水がすくなく、あちらこちら河床が現れて、大きな、平べったい丸石が出ている。かかる広い区域には高さ一フィートで、畳一畳、時としては二畳位の広さの、低い卓子が沢山置かれる。日本人はこれ等の卓子を借り受け、多人数の会合が隣り合って場を占める。晩方には家族が集り、茶を飲み、晩食を取り、そして日没を楽しむ。河にかかった橋から見る光景は、台がいずれも色あざやかな、いくつかの燈籠で照明されているので、驚く程美しく、目のとどくかぎり色彩の海で、ところどころ、乾いた河床に篝火かがりびが燃えさかる。我々と一緒にいるグリノウ氏は、これはヴェニスの謝肉祭の光景に匹敵するといった。
今日(八月八日)私は画家の楳嶺ばいれいを訪問した。これは、彼が陶工六兵衛のために画いた、陶器製造の順序を画いた絵のうつしを画いて貰うためである。私は画の先生である楳嶺氏が、一群の生徒の中央にいる所へ入って行った。生徒はいずれも畳の上に、手本を前にして坐り(図660)、一生懸命勉強していたが、その中には十二歳、あるいはそれ以下の男の子も多かった。年長の生徒のある者は十年も通っていると、彼はいった。生徒達は朝八時に来て、夏は正午に、冬は晩の五時に帰って行くが、これを最近休日となった日曜以外、毎日やるのである。教授料は一ヶ月三十セントで、紙、筆、墨、絵具その他は先生が出す。六年すると生徒はうまく手本を模写するようになる。最初の稽古は簡単な線や、菱形模様等である。次の年彼等は花を描き、その次が山水風景、そして最後に人物であるが、先ず衣文を描き、次に生物からの裸体を描く。生徒のあるものは陶工その他、職業上意匠或は装飾を必要とする工芸家の家族から、他は武士の階級から来る。楳嶺氏の毎日の級には生徒が二十人、別に各家庭で稽古し、一週間に一度絵を持って批評を乞いに来る生徒も若干いる。興味のある会見を終って、私は立ち上った。すると生徒は全部、即座に丁寧なお辞儀をし、同時に楳嶺氏はその日の自分の学校での練習図である所の、大きな紙を巻いたものを私に贈った。花、果実、舟等を力強い筆の線で描いた美しい絵で、如何なる記述よりもよりよく、教授法と若い日本人の熟達とを示している。お茶と一緒に出たお菓子は、桜の花の形で、可愛らしい籠に入っていた(図661)。

我々にあっては、こわれやすい品を入れた箱に「硝子ガラス」と記し、欧洲では内容が脆弱であることを示すために、葡萄酒杯の絵を描くのが常である。日本の包装者は真珠貝(鮑)を、図662に示す通り箱にしばりつけ、あるいは箱にこの貝の絵を描く。

陶器を見に立ち寄った小さな店では、私に面白い形の容器に入れた、スパゲティ〔イタリー饂飩うどん〕の一種を供した。太さは日本綿糸よりすこし大きい丈である。これは、その一本を皿から取り上げると、それを箸にまきつけ得る迄に、二フィートもそれ以上も伸るので、食うのが大変むずかしい。小さな盃には汁が入っていた。これはヒヤムギと呼ばれる。それの入った器は支那製だという事であった(図663)。私がこれを食っている間、店主の小さな娘が一種のギタア〔六絃琴〕を弾いて聞かせてくれた(図664)。
第二十一章 瀬戸内海
我々は八月十日、京都を後にして瀬戸内海へ向った。途中大阪で二日を送ったが、ここで我々は、陶器と絵画を探っているフェノロサ、有賀両氏と落ち合った。河上でお祭り騒ぎが行われつつあったので、ドクタアは大きな舟をやとい、舞妓、食物、花火その他を積み込んだ。我々はグリノウ氏も招いた。それは大層楽しい一夜で、河は陽気な光景を呈した。遊山船は美しく建造され、底は広くて楽に坐れ、完全に乾いている。そしてゆっくりと前後に行きかう何百という愉快な集団、三味線と琴の音、歌い声と笑い声、無数の色あざやかな提灯ちょうちん、それ等は容易に記憶から消えさらぬ場面をつくり出していた。米国の都邑の殆どすべてに、河か入江か池か湖水かがある。何故米国人は、同様な祭日を楽しむことが出来ないのであろうか。だが、水上に於るこのような集合は、行儀のいい国でのみ可能なことではある。
我々は朝の五時、小さな汽船で、安芸国の広島に向って、京都〔?〕を立った。我々は汽船の一方の舷側に、かなり大きな一部屋を、我々だけで占領した。この船は日本人の体格に合わせて建造されたので、船室や通路が極めて低く、我々は動き廻る度ごとに、間断なく頭をぶつけた。航海中の大部分を我々は甲板で、美しい景色に感心した。午後六時広島の沖合に着き、我々を待っていた小舟に乗りうつって、一時間ばかり漕いで行ったというよりも、舟夫たちはその殆ど全部を、浅い水に棹さして、河の入口まで舟をはこばせた。それは幅の広い、浅い河で、我々は堂々と積み上げた橋の下を、いくつかぬけて、ゆっくりと進んで行った。両岸には、多く黒塗りの土蔵をのせたしっかりした石垣が並んでいた。まだ早いのだが、あまり人影は見えず、灯も僅かで、河上の交通は無い。この外観は我々に、非常な圧迫的な、憂欝な感を与えた。大阪の商業的活動と、この陰気な場所との対照は、極端なものであった。これは人口十万人の都会である。而もその人々は、虎列刺コレラが猖獗を極めているからでもあろうが、みんな死んで了ったかの如くである。
我々は旅館を見出すのにとまどった。あすこがいいと勧められて来た旅館は、虎列刺で主人を失ったばかりなのである。で我々は飢えた胃袋と疲れた身体とを持ちあぐみながら、黒色の建物の長い行列と、背の高い凄味を帯びた橋と、いたる所を支配する死の如き沈黙とに、極度に抑圧されて、一時間ばかり舟中に坐っていた。最後に我々を泊めてくれる旅館が見つかったので、河を下り、対岸に渡って、その旅館の裏手ともいうべき所へ上陸した。荷物を持ち出し、石段を上って、長い、暗い、狭い小路を歩いて行くと、我々はいまだかつて経験しなかった程小じんまりした、最も清潔な旅館に着いた。フェノロサと有賀とは、西洋料理店があることを聞き、我々を残して彼等がよりよき食物であろうと考えるものを食いに行ったが、ドクタアと私とは、運を天にまかせて日本食を取ることにし、実に上等の晩飯にありついた。
翌朝私は早くから、古い陶器店をあさりに出かけた。旅館の日本人の一人が私の探求に興味を持ち、親切にも私を、私が求める品を持っていそうな商人のすべてへ、案内してくれた。彼はまた商人達に向って、彼等が集め得るものを持って、私に見せるために旅館へ来いといった。その結果、その日一日中、よい物、悪い物、どっちつかずの物を持った商人の洪水が、我々の部屋へ流れ込んだ。前夜の、所謂西洋料理に呆れ果てたフェノロサは、広島と、これから行こうとする宮島及び岩国に対する興味をすべて失って了い、有賀と一緒に大阪と京都とへ向けて引き返した。
八月十五日、ドクタア・ビゲロウと私とは、清潔な新造日本船にのって、瀬戸内海の旅に出た。旅館を退去する前に、ふと私は日本の戎克ジャンクなるものが、およそ世界中の船舶の中で、最も不安定なものであり、若し我々が海へ落ちるとしたら、私の懐中時計は駄目になって了うということを考えた。それに、岩国では日本人達のお客様になることになっているのだから、そう沢山金を持って行く必要も無い。そこで亭主に、私が帰る迄時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快く承知した。召使いが一人、蓋の無い、浅い塗盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。で、それ等を彼女が私に向って差出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いた儘で、出て行った。しばらくの間、私は、いう迄もないが彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。然し下女はかえって来ない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと質ねた。彼女は、ここに置いてもいいのですと答える。私は主人を呼んだ。彼もまた、ここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も、他の品物も持っていないのであるといった。未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂かんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。
我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。米国や英国の旅館の戸口にはってある、印刷した警告や訓警の注意書を思い出し、それをこの経験と比較する人は、いやでも日本人が生得正直であることを認めざるを得ない。而も私はこのような実例を、沢山挙げることが出来る。日本人が我国へ来て、柄杓が泉水飲場に鎖で取りつけられ、寒暖計が壁にねじでとめられ、靴拭いが階段に固着してあり、あらゆる旅館の内部では石鹸やタオルを盗むことを阻止する方法が講じてあるのを見たら、定めし面白がることであろう。
閑話休題、我々の戎克には舟夫四人に男の子一人が乗組み、別に雑用をするために旅館から小僧が一人来た。我々は運よく、以前私が大学で教えた田原氏に働いて貰うことが出来た。彼は通訳として、我々と行を共にしたのである。時々風が落ちて、舟夫達は長い、不細工な櫓ろで漕いだ。世界中で最も絵画的な、美しい水路を、日本の戎克で航行するという経験は、まさに特異なものであった。船室の屋根の上に座を占めたドクタアが、如何にもうれしそうに楽々としているのを見て、私も実によろこばしかった。マニラ葉巻の一箱を横に、積み上げた薦こもによりかかった彼は、その位置を終日占領して、居眠りをするか、実に美しい変化に富んだ景色に感心するかであった。宮島を通過する時、田原氏は我々にこの島に関する多くの興味ある事実を物語った。我々は島の岸に大きな神社が、廊下の下に海水をたたえているのを見た。また海中からは、巨大な鳥居が、その底部を半ば潮にかくして立っていた。これ等はすべて、はじめは海岸を去る地点の島上に建てられたのである。この効果は素晴しい。島が、砂浜を除いては海中から垂直に聳え、相当な高さの山が甚だ嶮しく屹立しているからである。人は比較的新しい時代に於て、海岸線のこの低下を引き起した。途方もない震撼が、如何なるものであったかを考えることが出来る。沿岸いたる所に、人は隆起と低下のかかる証例を見受ける。
晩方になると風が出た。舟はその風に吹かれて、やがて小さな漁村に着き、我々はそこで十時に上陸した。我々の主人役は、我々を出むかえる役の人をそこに終日いさせたので、彼はいく度もお辞儀して我々に挨拶し、一人ずつの為に車夫を二人つけた人力車を用意していた。荷物のことですこし暇取った後、我々はそこから数マイルはなれた、美しい谷間にある岩国へ向った。それはまことに気持のよい夜であった。すべての物が目新しく見えた。棕櫚しゅろやサバル椰子やしは茂り、亜熱帯性の植物は香を放ち、車夫は狂人のように走り且つ叫んだ。一日中戎克の内に閉じこめられた後なので、実に気持よかった。それは忘れられぬ経験であった。
我々が岩国の村へ入ると、人々はまだ起きていた。彼等が町に並び、そして私がそれ迄に見たことのないようなやり方で、我々をジロジロ見たところから察すると、彼等は我々を待ち受けていたものらしい。最後に外国人が来てから、七年になるという。群衆から念入りに凝視されると、感情の奇妙な混合を覚える。ある点で、これには誠に面喰う。あらゆる動作が監視されつつあることを知ると共に、吾人は我々の動作のある物が、凝視者にとって如何に馬鹿げているか、或は玄妙不可思議であるかに違いないと感じる。吾人は無関心を装うが、而も凝視されることによって、威厳と重要さとが我身に加ったことを自認する。我等は特に彼等の注意心を刺戟するような真似をする。一例として、我国の現代の婦人と同様に、日本人はポケットなるものを知らぬのだが、何かさがしてポケットを裏返しにしたり、又、如何にもうるさそうな身振をして、笑わせたり、時に自分自身が、愚にもつかぬ真似をしていることに気がつくが、而もそれは、冷静で自然であることを示すべく、努力している結果なのである。
吉川氏の使者は我々を公でない旅館に案内した。ここは昔は、大名家の賓客に限って招かれ、そして世話された家なのであるが、今や我々のために開かれ、吉川家の宝物の中から美しい衝立やかけ物がはこばれて、我々が占めるべき部屋にかざられた。美味な夕餐が出た後、午前一時、我々は床についた。障子の間のすき間から覗くと、大きな一軒の小屋がけに薄暗い光が満ち、芝居が行われつつあった。その他にも小屋が数軒見え、呼売商人が叫んでいたことから、私は何等の市か祭礼かがあることを知った。それ等の後と上とは、完全な闇であった。
翌朝、障子を押し開いた我々の目に接した景色は、この上もなく美しいものであった。目の前は広い河床で、その底に丸い石や砂利は完全に姿を現し、その向うには絵画的な山が聳え、右にはあの有名な、筆や言葉では形容出来ぬ、彎曲した桁構けたがまえの橋がある。朝飯が終ると、吉川家に雇れている各種の役人が、敬意を表しに来たが、その一人の三須氏は、吉川氏がここに設立した原始的な木綿工場の支配人で、古い木版画に見るような顔をした、昔の忠義な家来の完全な典型である。また吉川家の遠縁にあたる吉川氏は、万般の事務を見る人だが、ニコニコした気持のいい、最も愛想のよい顔をしていた。その他名前を覚え切れぬ多数の人が来たが、皆我々の気安さに甚大の注意を払ってくれた。彼等はいう迄もなく日本服を着ていたが、それは完全なものであった。事実、この訪問期間を通じて、我々は外国風なものは一切見なかった。若し彼等が帯刀していたら、我々は封建時代に於ると同様の日本を見たことになったのである。動作、習慣、礼譲……刀を除いてはすべて封建日本であった。そしてそれは田園詩の趣を持っていた。
朝我々は町をあちらこちら、骨董屋を見て歩いた。正午正餐が終ると我々は屋根舟で、河上数マイルのところにある多田の窯の旧跡を見に連れて行かれた。これは百八十年前に出来たのだが、久しく廃れている。一人の男が舳に立って竿を使うと、別の一人が前方の水の中に入り、長い繩で舟を引く。そして我々は柔かい筵によっかかって、寒天菓子や砂糖菓子や生菓子やお茶の御馳走になるのであった。我々は早瀬をのぼり、何ともいえぬ程美しい景色の中を、暗い森林の驚く可き反影が細かく揺れる穏かな水面を、静に横切った。最後に、最も絵画的な場所で上陸すると、そこにはすでに数名の人が待っていて、我々に此上もなく丁寧なお辞儀を、何度もくり返した。すこし歩くと、窯の跡に出たが、今やまったく荒廃し、竹の密生で覆れている。ここの最後の陶工の一人であった老人が、我々に多田陶器とその製作順序とに就て話をし、しばらくあたりを見た後我々は一軒の家へ行き、そこで昼飯が出された。どうも二時間に一度位ずつ、正餐か昼飯かを御馳走になっているような気がする。この場所には多田、味名、亀甲等の標本があり、そのある物は我々に贈られ、他のものは機会があって私が買った。
八時頃舟へ向った。屋根の辺には派手な色の提灯がさがり、我々は岩国へ向って速く、気持よく舟を走らせた。侍者達は我々の到着を待ち受けており、すぐ我々をある建物へ案内したが、そこでドクタアと私とは風致に富む小さな茶の部屋で行われた茶の湯の会に参加し、美味な粉茶を飲んだ。この儀式的なことが終ると我々は隣室で正餐の饗応を受けた。それが済むと、今度は地方劇場の一つへ行ったが、観客は劇その物よりも我々の方を余程面白い見世物と思ったらしく、老若男女を問わず、私がそれ迄日本で経験したことが無い仕方で我々を凝視し、そして我々の周囲に集った。最後に我々は、その一日の経験で疲れ切って寝床に入った。この日の経験はすべて新奇で気持よく、もてなし振り、礼譲、やさしい動作等で、我々に古い日本の生々とした概念を与えた。
翌朝我々は、またしても忙しい日を送る可く、夙く起きた。十時、三須氏が、前に書いた木綿工場へ我々を案内するためにやって来た。将軍家がくつがえされた一八六八年の革命後、吉川公は東京に居を定めた。この地方の政府はミカドの復興に伴ういろいろな事件で混乱に陥り、家臣の非常な大多数が自力で生活しなければならなくなり、この大名の以前の隷属者達のために何等かの職業を見つける必要が起った。吉川公の家来であるところの紳士が数名、仲間同志で会社を組織し、そして紡績工場を建てた。この計画は吉川公も奨励し、多額な金をこの事業に投資した。今日では広い建物いくつかに、木綿布を製造するすべての機械が据つけてある。これ等は粗末な、原始的な、木造の機械ではあるが、而も皆、我国の紡績工場にある大きな機械に似ている。
百人以上の女と三十人の男とが雇れているが、男は全部袴をはき、サムライ階級に属することを示している。糸以外にこの工場は、一年に十万ヤードに近い木綿布を産出する。二人の強そうなサムライが、踏み車を辛抱強く踏んで、機械のある部分に動力を与えているのは、面白かった。また外にある部屋には、ある機械を動かす装置があり、これもまたサムライが廻転していたが、彼等は、我々が覗き込むと席を下りて丁寧にお辞儀をした。事実、建物の一つの二階にある長い部屋を歩いて行くと、事務員が一人残らず――事務員は多数いた――我々にお辞儀をした。部屋のつきあたり迄行くと、そこには床の上に大きな絨氈じゅうたんが敷いてあり、我々にお茶が出た。そこで事務所に雇れている事務員その他四、五人ずつやって来て、我々が膝をついた位置にいたので、膝をついてお辞儀をした。我々が工場の庭に入った時から、工場を見廻っていた最中、人々は皆三須氏と我々とにお辞儀をしたが、三須氏が職工に対して如何にも丁寧で親切であるのは興味深く思われた。彼はドクタアの強力な郭大鏡を借りて職工達に、織物は郭大するとどんなに見えるかを示した。
事務所の入口には、事務員、職工、従者等の名前がかけてあった。彼等は互助会を組織し、病人が出来た時に救うために少額の賦課を払う。我々をこの上もなく驚かしたのは、埃や油がまるで無いことであった。どの娘も清潔に、身ぎれいに見え、誰でも皆愉快そうで、この人達よりも幸福で清潔な人達は、私は見たことがない。ラスキンがこれを見たら、第七天国にいるような気がするだろう。
このような興味ある経験の後、我々は大きな部屋へ招かれた。そこには職工全部が、クエーカー教徒の集会みたいに、娘達は部屋の一方側に、男達はその反対側に席を占めていたが、驚いたことには、私に田原氏を通訳として、一場の講演をしろというのである。私は蟻を主題に選んだ。黒板は無かったが、彼等は皆非常に興味を覚えたらしく見えた。私の以前の学生の山県氏もそこにおり、六角敷むずかしいところへ来ると手伝ってくれた。
それが終ると我々は、この建物の三階の、一種の展望台になっているところへ登った。ここからは川の谷と附近の素晴しい景色が見られる。あたりに椅子を置いた食卓から、気分を爽やかにするような正餐が供され、数人のハキハキした娘が、奇麗な着物を着てお給仕をしてくれた。また三人の美少年も同様に給仕したが、その一人は、前日私につききり、持っている扇子で屡々私を扇いだ。その日すでに二度食事をしたにかかわらず、正餐は誠に美味であった。まったく日本料理が何度でも食えることは、驚くばかりである。私は田原氏から、どこか遠くの方にいる有名な料理番が特に呼ばれ、そしてこの地方で出来る最上の材料が集められたのだと聞いた。食卓と皿との外見は、実に芸術的であった。殊にある皿は、その中央から樹齢四十年という美しい矮生の松が生え、また刺身を入れた皿は、その中央に最も優雅な木の葉の細工を持つ、長さ五フィートの竹の筏いかだの上にのっていた。それ等は両方とも、漆塗の台で支えてあった。図665はそれ等を非常に乱暴に写生したものである。これは我々の送別宴で、この芸術的な、そして気持のいい事柄が行われた場所は、紡績工場の三階なのである!

綿工場の外に製紙工場と、それに関係した印刷工場とがある。ここでは書物、冊子、その他印刷に関係のある仕事がすべて行われる。
四時、我々は工場を退去し、数名の紳士に伴われて宿舎に帰った。そこには人力車が待っていたので、最後のさよならを告げた。白い木綿の大きな四角い包が我々の各々に贈られた。ドクタアは、岩国の有名な刀鍛冶がつくった、木の箱に入った刀を二振ふり手に入れ、私は数個の古い岩国陶器を貰った。我々は世話をしてくれた二十二人の人々に、僅かな贈物をすることが出来た。旅館の勘定をしてくれというと、それは既に支払ってあるとのことで、更に海岸までの人力車も、支払済みであった。事実、我々は文字通り、これ等のもてなし振りのいい人々の掌中にあったのである。その後、我々は吉川氏が、我々をむかえる準備のために、人を一人、東京から差しつかわしたことを知った。最後に我々は、何百というお辞儀に取りまかれて出発した。そして日本民族、殊に吉川公と、政治的の変化があったにもかかわらず、吉川公に昔と同じ忠誠をつくす彼の忠義な家来達に対する、圧倒的な感謝の念と愛情とを胸に抱いて、速に主要街路を走りぬけて田舎に出た我々を、好奇心の強い沢山の顔が、微笑を以て見送るのであった。
気持よく人力車を走らせながら、牧場や稲田から静かに狭霧さぎりが立ちのぼり、暗色の葺屋根が白い霧に影絵のように浮び、その向うには黒い山脈が聳えるという、驚く可き空気的の効果の中で、我々は我々の顕著な経験を、精神的に消化した。海岸の小村に着くと、驚く可き庭園の中にある小さな茶店へ連れて行かれ、ここで茶菓の饗応を受け、最後に戎克に乗りうつるや、いくつかの箱に入った菓子箱が贈られた。
次に我々はそこから十二マイル離れた、日本で最も絵画的で且つ美しい景色の一とされている宮島の村へ寄った。風がまるで無いので、舟夫達は十二マイルにわたって櫓を押した。香わしい南方的の空気の中で、甲板に坐って八月の流星を見ながら、我々が楽しんだ特異的な経験を思い浮べることは、まことに愉快であった。ある、特に美しい流星は、私がドクタアの注意をそれに引いてからも、まだあきらかに姿を見せていた。
真夜中、宮島に着いた我々は、古めかしく静かな町々を通って、深い渓間にある旅館へ行き、間も無く床について眠た。翌朝(八月十七日)障子をあけた我々は、気持のよい驚きを感じた。目の前が、涼しくそして爽快な、美しくも野性味を帯びた谷なのである。鹿が自然の森林から出て来て、優しい目つきで我々を見た。その一匹は、我々の部屋の前のかこいの中にまで入って来て、西瓜の皮を私の手から食った。私は、これ等の鹿は一定の場所に閉じ込められ、餌馴されているのだろうと考えたが、数時間後町を歩いていると、そこにも彼等はいて、そして私は、彼等が幽閉されているのでもなければ、公園にいる標本でもなくて、山から下りて来たのであることを知った。換言すれば、彼等は一度も不親切に取扱われたことの無い、野生の鹿なのである。
有名な神社には、いろいろな画家の手になる絵で装飾した長い廻廊がある。絵の、ある物は非常に古く、その細部が部分的に時代による消滅をしているが、我々はそれ等を二時間もかかって調べた。古い竹根の形をした珍物や、六才の男の子が描いた興味の深い竹の画や、目につく鹿の彫刻等もあり、その彫刻の一つには彫刻家が使用した鑿のみがぶら下っていた。神社は古さ七百年程、廊下の一つの近くに立っている石灯籠も七百年を経たものである。図666はそれである。谿谷に近い町には、家々に水を供給する、奇妙な構造の導水橋がある。我々の旅舎の近くにあるものの構造は、非常に原始的である。石を大きく四角に積み上げたものの上に、これも大きな木造の水槽があり、その側面に開いている穴から出る水流が竹の導水管に流れ込むこと、図667に示す如くである。これらの導水管は、村の各家に達する地下の竹管に連っている。また別の谿谷では、竹の樋が水を遠距離にわたって導く。ある場所には、図668に示すように、箱に入れた竹の水濾しが使用してあった。これ等各種の装置に依て、宮島の村は、この上もなく清冽な山の清水の配給を受ける。

門を自動的に閉じる簡単な装置を図669で示す。上方の横木から錘おもりが下っていて、その重さによって門は常に閉じてあるが、人が入る時には、錘が数回、門にぶつかって音を立て、かくて門鈴の役もつとめる。村の主要街を自由にぶらつき廻る鹿が、ともすれば庭園内に入り込みやすいので、この装置をして彼等の侵入を防止する。

宮島は非常に神聖な場所とされているので、その落つきと平穏さとは、筆舌につくされぬ程である。この島にあっては、動物を殺すことが許されなかった。数年前までは、人間とてもここでは死ぬことが出来なかったそうである。以前は、人が死期に近づくと、可哀想にも小舟にのせられて、墓地のある本土へと連れて行かれた。若し、山を登っている人が偶然、血を流す程の怪我をしたとすると、血のこぼれた場所の地面は、かきとって、海中に投げ込まねばならなかった。これは召使いや木彫工や、店番や、その他どこにでもいるような村民が構成する村である。如何なる神秘に支配されて、彼等は行儀よく暮すのか? 何故子供達は、常にかくも善良なのか? 彼等は女性化されているのか? 否、彼等は兵士としては、世界に誇る可きものになる。
私は小さな舟にのって、広島へ帰る可く本土へ渡った。ドクタアは、もう一晩宮島で泊ることにした。沿岸を航行する人は、石で出来た巨大な壁が数マイルにわたって連り、海上からは防波堤のように見えるものがあるのに気がつく。広島への帰途、その上を人力車で走るにいたって、我々は初めてこれ等の構造物が持つ遠大な性質、換言すれば意味が判った。百年も前に建てられたこれ等の壁は、海底を、農業上の目的に開墾するためのものなので、かくて回収した土地の広さは、驚く程である。沿岸は截きり立っていて山が高く、山の尾根が海から岬角みさきのようにつき出て、その間々に広い入江をなしている。壁はこれ等の岬角の先端から先端へと築かれ、かこい込んだ地域には土を入れて、今や豊饒な耕作地となっている。壁の上には広い路があり、そこを人力車で行くことは愉快であった。八時に広島へ着いた私は、いう迄もないが、先ず時計と金とを求めて私の部屋へ行ったが、それ等は前にもいったように、そのままでそこにあった。
風邪を引いた上に、腹具合まで悪くなったので、翌日は終日床についていたが、骨董屋達が古い陶器を見せにやって来て、私は私の蒐集を大いに増大させた。通弁なしでも結構やって行ける。私は、日本中一人で旅行することも、躊躇しない気でいる。翌日ドクタアが到着して、群り来る商人相手に一日を送った。出かけるばかりの時になって我々は、商人達が大きな舟を仕立て、五マイル向うの汽船まで我々を送り度いといっていることを知った。舟にのって見て、これはとばかり驚いた。それは見事な遊山船で、芸者、立派な昼飯、その他この航行を愉快にするものがすべて積み込んである。このようにして彼等は、我々に対する感謝の念を示そうとしたのである。別の舟には我々の数名の日本人の友人が乗って送りに来たが、その中には数年前、私が大阪に近いドルメンを調べた時知り合いになった天草氏もいた。出発するすぐ前に、田原氏の知人が敬意を表しに来たので、私は私が提供し得る唯一の品なるブランデーを、すこし飲みませんかとすすめた。すると彼は、普通の分量よりも遙かに沢山注いだので、私は彼に、それが非常に強く、そんなに飲んだら参って了うと警告したが、彼は「ダイ ジョーブ、ヨロシイ」といった。彼が如何に早くこの酒の影響を受けたかは、興味も深く、また滑稽であった。我々が乗船した時には、彼はすでに怪奇的ともいうべき程度に酔っぱらって了い、最後に、河岸に上陸させねばならぬ程泥酔したが、そこで彼は、我々が見えなくなる迄、笑ったり、歌ったり鳴吐どなったりした。
我々は間もなく汽船に着き、気持のいい主人役の人々に別れを告げてから、明かに最も矯小な日本人の為につくられた、小さくて低い代物に乗りうつった。その結果、我々はすこしでも動き廻れば背中がつかえるか、頭をぶつけるかで、ドクタアはこの背骨折りの経験中、絶えず第三の誡命〔「汝の神エホバの名を、妄みだりに口にあぐべからず」〕を破った。
我々は夜の十一時に出帆し、その翌日と翌夜、時々止りながら航行を続け、朝神戸に着いた。この航海ぐらい惨めなものは無かった。たいてい雨が降り続き、我々は日本人の一家族と共に小さな室に閉じこめられていたが、隣の部屋には日本人が十八人入っていた。彼等は皆礼儀正しく、静かだった。彼等が他の国の住民であったなら、我々はもっと苦しんだ――これ以上の苦痛があり得るものとすれば――ことだろうと思う。寝台も棚寝床も無いので、我々は床にねむり、日本食は言語道断であり、私は広島に於る病気から回復していなかった。
神戸に着くと、我々は何かを食う為に、英国流の旅館へかけつけた。二週間以上も、我々は日本食ばかりで生きていたのである。その多くは最も上等であったが、それが如何によくっても、朝飯は我々を懐郷病ホームシックにする。で我々は、殆ど狂気に近い喜悦を以て、英国流の食事をたのしんだ。
ここ一週間、私は物を書くことと、食うことと以外に、大した仕事はしなかった。 
第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし
我々の瀬戸内海に於る経験は珍しいものであり、また汽船を除いては、この上もないものであった。今や我々は、紀伊の国の都会へ向けて出発せんとしつつある。それから奈良と京都とへ行くのであるから、私の紀行の覚書や写生図は、順序正しく書く機会無しに、どんどん集って行く。私はまた、陶器紀要に関する資料を沢山手に入れたが、これは情無い程遅れている。
朝鮮で恐るべき暴動が起り、数名の日本人が虐殺されてから、まだ一月にならぬ。日本の新聞がこの報道を受けた時、私は京都にいたが、この事件に関する興奮は、私に、南北戦争が勃発した後の数日を連想させた。大阪は兵士三連隊を徴募し、百万ドルを醵金することになり、北西海岸はるか遠くに位置する新潟は、兵士半個連隊を徴募し、十万ドルを寄附することになった。私は以下に述べる出来ごとの真価が、充分了解される為に、かかる詳細をかかげるのである。
国中が朝鮮の高圧手段に憤慨し、日本の軍隊が鎮南浦まで退却することを余儀なくされた最中に、私は京都へ行く途中、二人の朝鮮人と同じ汽車に乗り合わした。私も、朝鮮人はめったに見たことが無いが、車室内の日本人達は、彼等がこの二人を凝視した有様から察すると、一度も朝鮮人を見たことが無いらしい。二人は大阪で下車した。私も、切符を犠牲に供して二人の後を追った。彼等は護衛を連れていず、巡査さえも一緒にいなかったが、事実護衛の必要は無かった。彼等の目立ちやすい白い服装や、奇妙な馬の毛の帽子や、靴やその他すべてが、私にとって珍しいと同様、日本人にも珍しいので、群衆が彼等を取りまいた。私は、あるいは敵意を含む身振か、嘲弄するような言葉かを発見することが出来るかと思って、草臥くたびれて了うまで彼等の後をつけた。だが日本人は、この二人が、彼等の故国に於て行われつつある暴行に、まるで無関係であることを理解せぬ程莫迦ばかではなく、彼等は平素の通りの礼儀正しさを以て扱われた。自然私は、我国に於る戦の最中に、北方人が南方でどんな風に取扱われたかを思い浮べ、又しても私自身に、どっちの国民の方がより高く文明的であるかを訊ねるのであった。
六兵衛の製陶所にいた時、この老人は、数年前つくった水差しを見せながら、私にとっては新しい身振をした。それは二つの拳を、前後にならべて鼻の上に置いたことである。彼が何を意味するのか、私は不思議に思ったが、これは誇りを示すものだと教わった。天狗てんぐと呼ばれる聡明な老人が、面でも絵でも、並々ならず長い鼻を持っている人として表現されているので、知識又は褒めてよい誇りを現す時には、このように二つの拳を鼻の先へ持って行くのである。
神戸では窓から数名の労働者がくいを打ち込んでいるのを見た。その方法は、この日記のはじめの方で、すでに述べた。我々は今、彼等の歌の意味を知った。図670は足代の上で、重い長い槌を持ち上げる人々を示している。下にいる二人は、打ち込まるべきくいを支え、その方向をきめる。その一人が短い歌を歌うと、足代の上にいる者達は僅に身体を振り動し、槌をすこし持ち上げることによって、一種の振れるような拍手を取り、次に合唄コーラスに加り、それが終ると三、四回くいを叩き、次で下にいる男がまた歌を始める。歌は「何故こんなに固いのか」「もうすこし打てばくいが入る」「もうすぐだ」というような、質問、あるいは元気をつけるような文句で出来ている。この時数回続けて、素速く叩き下す。上にいる男達は屡々、独唱家の変な言葉に哄笑し、一同愉快そうに、ニコニコしながら働く。彼等は一日に、かなりな量の仕事を仕上げるらしいが、如何にもノロノロと、考え深そうに働くのを見ては、失笑を禁じ得ない。

神戸で三日滞在した後、我々は大阪へ行き、そこから紀伊の国の和歌浦へ向った。私は田原氏と先発し、あらゆる町で陶器を求めて骨董店をあさった。大阪平野を横断して、向うの山まで行く路は、単調ではあったが、いろいろ興味があった。全地域にわたって、絵画的な四、五の群をなす、大きな藁の稲叢いなむらがある。これは高さの違う高い棒の周囲に集められ、各々その中心をなす棒の先端である所の、小さな尖塔を持っている。これ等の稲叢の多くには、瓢箪ひょうたんや南瓜かぼちゃがからまり、又農夫達が休み場所にする小さな小舎をかけたのもある。図671はそれ等の外見である。近い距離をおいて、この土地の灌漑に使用する単式或は複式のはねつるべがある。重い方の端には円盤に似た形で、中央に穴のある荒削りの石があり、この穴の中に棒の末端がさし込んである。これ等が何千となく広い平原に散在し、その多くは使用されつつあった。灌漑が行われつつある範囲の広汎さは、恐らく支那を除いては他にあるまい。私はやがて支那へ行き度いと思っている。そこでは、はねつるべは、二千年も前からある。

川の流れを動力とする、非常に巧妙な水車(図672)があった。これは支那人が考えたもので、東京及びその以北には稀だが、南方諸国ではよく見受ける。車輪は径八フィート、あるいはそれ以上で、その外面の横側に、大きな竹の管が斜に取りつけてある。水流によって車が回転させられると、竹の管に水が充ち、それ等の管が上へ来ると水は流れ出して、車輪の中心に並行して置かれる深い箱型の水槽へ落ち込む。水はこの水槽から又別の水槽へ流れ込み、そこから灌漑溝へ行く。各々の竹が順番に水で充ち、車軸の上方へ来てはその水を水槽へこぼす、規則正しいやり方を見ていると、中々面白い。時に河岸に添うて、二、三個の水車が相接してあることもあり、一日中には多量の水が水田を灌漑する為に揚げられる。

紀伊のある所で、私は稲田の草を取るのに使用する、奇妙な道具を見た。それは底の無い箱で、その内側には二本の棒が横に渡してあり、それに木の留釘が打ってある。この箱から長い柄が出ていて、それで稲の列の間を押して行くのである。図673を見れば、その形がたいていは判るであろう。これは我々がそれを見た村の住人が発明したものである。

和泉と紀伊の国境をなす山脈を越える峠は、道路が完全で、見事な石の橋もあり、実に愉快だった。
人はいたる所で、山の洪水から道路を保護するために、念入りの努力が払われていることに気がつく。渓流の河床でさえも、激流が何等の害をしないように、道路同様に鋪石してある。図674を見る人は、朧気ながら、橋の迫持受せりもちうけと河床とを保護する方法を知るであろう。水があまりに早く流れることを防ぐために、橋の下方には大きな堰せきが出来ている。ここに出した橋は、和泉を去って紀伊に入った所の峠にあるものの一つである。

私は和泉で、屋根が奇妙な方法に処理してあるのを見た。先ず杮板(こけらいた)を薄く並べた上に、泥を薄く敷きつめ、その上から大きな木の槌で綿の種子を一層叩き込む。種子は油をしぼり取った残物であるが、油気があるので、泥が固くなり、太陽で焼かれる迄、防水上塗になるのである。
街道のある場所で休んだ時、よくある種の吸物に入っている、一種の変った食物を製造していた。これは艶々した黄色で、紙のように薄く、味とては別に無い。大豆から奇妙な、且つ簡単な方法でつくり出す。先ず豆を非常にやわらかくなる迄、大きな釜で煮、臼にかけて細かく挽いて糊状になし、水をまぜ、外国から輸入する、ある種の染料で色をつける(図675)。そこでこれを四角く仕切られた浅い水槽へ入れるが、その下には炭火があり、常にとろとろと煮立て続ける。するとその表面が煮た牛乳か、ココアの一杯に於るが如く凝結するので、かくて構成される薄膜を、細い竹の箸で巧みに取り上げ、ひっかけて乾燥させる(図676)。別の薄膜も、出来るに従って、忙しく働きつつある娘に、すばやく取り上げられる。

和歌山に近い紀伊の平原に入った時の景色は、まことに奇麗であった。ひろびろとした稲田のあちらこちらには、褐色の葺屋根と白い壁とを交えた黒い瓦屋根の百姓家が数軒ずつかたまり、その上には深く暗色に茂る葉の、面白い形の木が聳えるのだが、それがすべて何マイルにわたる最も艶々した緑色の、完全に平坦な敷物の上に散在している。和歌山の位置は、地平線上に高くぬきんでて、周囲の景色の中での目立つ特徴をなすお城によって、遠方からでもそれと知られる。
ある国から他の国へ旅行すると、いろいろなことが違っているのに気がつく。瓦葺きの屋根の変種に就ては、この日記ですでに述べるところがあった。図677は紀伊で使用される犁すきの型である。これは山城で用いられるものと同様であるが、それ程頑丈でもなければ、また優雅でもない。

我々は夕方の六時に、和歌山へ着いた。この都会は低い丘陵の上に、大きな立木に取りかこまれて位置する。五万か六万の人口を持っているのだが、それにもかかわらず、簡素で静かである。町の内を、人力車を走らせて行くと、人々は熱心な有様で我々を凝視した。ある場所を訪れる外国人の数は、そこで我々が受ける凝視の量と質とによって推測することが出来る。我々は、外国人がめったに和歌山に行かぬことと判断した。我々は清潔な旅籠はたご屋を見つけた。何かを喰い、そして床につくことは、よいものである。翌朝我々は、例の如く陶器をさがしに出かけて沢山手に入れた。翌日も、最初の日と同じことをくり返した。
その日の午後、田原氏と私とは、小漁村和歌浦へと人力車を走らせた。ここは海岸から一寸入った場所で、遠方には美しい山々が聳えている。その山の一つの中腹には、大きなお寺が落陽の光に輝いていた。我々が越した一つの小さな橋の上では、大人や子供の群が蜻蛉とんぼを捕えて遊んでいた。彼等は正規的な捕虫網を持っていたが、ある一人は両手を自由にしておくために、四匹の蜻蛉を翅はねを後に廻して、口でくわえていた。また一人の男の子は、同じようにした蜻蛉数匹を、指の間にはさんでいた。子供達は、蜻蛉の胸と腹との間に糸を結びつけて遊ぶ。虫は飛びながら、軽い糸を数フィートぶら下げている。これは日本いたる所で見受ける子供の遊びである。
寺院や道路には、過去に於る壮麗を物語るものが多かった。朽ちた鳥居が灌木類と草とのこんがらかった内に立ち、海水がその底部まで来たり(図678)、面白い形をした古い石橋が、そこへ行っている道路がまるで見えないのに、広い河にかかっていたりした。比較的近い時代に、陸地が低下したに相違なく、人間の仕事の痕跡は波にのみ込まれて了っている。我々が和歌山へ戻った時には、月が上り、空気は生き生きする程涼しくて、景色も実に気持よかった。翌日はドクタアも一緒に海岸へ行き、そこで我々は大いに泳いだ。

私は、老婦人たちが著しくよい顔立をしているのに気がついた。非常に優しく、母性愛に満ち、そして利巧そうな顔である。事実私は、日本で私が訪れた多くの土地の中で、ここに於る程立派な、そして智的な老婦人が多い場所は無いともいい度い。子供達もまた非常に可愛らしく、一般的な文化と典雅の気分が、旅行者を直ちに印象づける。恰も三日にわたる先祖祭の時に当ったので、子供は皆美しくよそおい、夜になると奇麗な色の提灯を持って歩くのだった。街々には仮小屋が立ち並び、かかる叫び声と陽気さとの活躍は、それ等のすべてを支配するこの上なしの礼譲と丁重さとが無かったら、殆ど取りのぼせる位であったろう。一晩、我々は花火を見に行った。それは高さ二十フィートに近い、筵でつくった大きなかこいの内で行われた。花火はいずれも簡単だが非常に美しく、群衆が驚嘆して発する音は、我国の人々が同様の場合に出す音と、全く同じであった。
和歌浦では、漁師が網に渋を引く為に、松の樹皮を煮ていた。何故舟の帆にも渋引きをしないのかと聞くと、帆は渋を引くとよくもたぬと答えた。図679は、その簡単な渋引場である。岸に引き上げられた漁船の形は、日本の他の場所に於るのと、多少異っていた。国々によって、舟に目立つ相違がある。もっとも、すべて著しく乾燥した舟で、荒い海に卵殻のように浮ぶ点は同一である。

どこへ行っても、都会の町々の騒音の中に、律動的な物音があるのに気がつく。日本の労働者は、働く時は唸ったり歌ったりするが、その仕事が、叩いたり、棒や匙でかき廻したり、その他の一様の運動である時、それは音調と律動とを以て行われる。これ等の音は、呻きの連続であることもあり、本当の歌であることもある。金箔師や魚刻み人は、必ず一種独特の拍子で、叩いたり刻んだりする。生の魚を調理する奇妙な一方法は、それを石の臼で糊状になる迄こするのである。臼は地上に置かれ、杵は長い棒であるが、仕事をする者は立ったままで、素敵な勢で働く。かきまぜる動作には、一種異様な口笛を吹くような音が伴うが、これが長くかき廻すことと、短くかき廻すこととによって中断される動作と、完全に一致する。鍛冶屋の手伝が使用する金槌は、それぞれ異る音色を出すように出来ているので、気持のよい音が連続して聞え、四人の者が間拍子を取って叩くと、それは鐘の一組が鳴っているようである。労働の辛さを、気持のよい音か拍子かで軽めるとは、面白い国民性である。
田舎の町で人々が、如何に目立たぬように、外国人が来たことを、お互に知らせ合うかを見ることは興味がある。彼等は、彼が彼等の戸口の前を過ぎる余程前から、彼の近づくことを知るらしい。屡々子供が走って行ってお母さんに知らせたり、お母さんが子供達の注意をこの不思議な光景に向けたりするが、それをするのに彼等は決して大声を出したり、指さしたりしない。東京、京都その他の大都会では、外国人も注意を引く程珍しくはないが、而も東京のような大都会でも、片隅へ行くといくらか注意を引き、また都会へ出て来た田舎者は、外国人に興味を持つことでそれと知られる。
和歌山への旅は興味深々たるものであった。八月三十一日、我々は和歌山を立って奈良へ向った。最も美しい谷間を、二日にわたって人力車で行くのであった。我々の日本の旅で、ここ程魅力に富んだいい景色の多い所は他に無かった。晩方、我々は大和の国の五条という町へ着いた。川に沿う路の途中で、私はその外見はコネティカット河の上流に於る段丘とまったく同じだが、原因はまるで異る、正式な段丘構成を見た。
五条では、一軒の家が建てられつつあって、恰も部屋の天井が如何に支持されるかが見られた。人は杉板ののっている細いたるきが、よしんば如何に杉板が薄いにせよ、それ等を支える可く余りに弱いことに気がつく。これ等の板の上側には長い桟が打たれ、この桟と、上方の屋根のたるきとに釘でとめた木が入れられる。天井の上と屋根の下の空間、即ち我国にあっては屋根裏部屋を構成する場所は、日本の家ではまるで利用されず、鼠の運動場になっている。五条で私は、消防小屋の写生(図680)をした。これは四年前、蝦夷の室蘭で写生した同様の家に似ている。喞筒ポンプは屋根の下にぶら下っていて、乾燥してひびが入っているので、火事に際して使用すると、木に水がしみ込む迄は吃驚する位、水が各方面へほとばしり出る。

大和の八木という町で見たいくつかの葺屋根(図681)は、葺材の縁が重って現れている点で、蝦夷のアイヌ小舎の葺屋根に似ているが、継続的な縁辺はアイヌの屋根に於るが如く、著しくつき出してはいない。

我々は、朝五条を立ち、一日中気持よく人力車を走らせた後、六時奈良に着いた。大和の国へ入ってから私は路傍のそこここに、千年以上も経た青色の、釉をかけぬ、旋盤ろくろで廻した陶器の破片を見た。古物学者はこの陶器を朝鮮のものとしているが、地面に沢山ちらばっていることからして、私はこれを、その製法は最初に朝鮮の陶工によって輸入されたが、日本のものであると考えた。これは墓や洞窟に関係があり、死を追念させる。奈良の近くで我々は最初の皇帝即ち神武天皇の墓所を通過した。それは大きな、四角い、上の平な塚で僅かに隆起し、清楚な、丈夫な石垣に取りかこまれている。それを見るべく主要路から入って行くと、恐しく暑く、私は写生を試みるべく余りにつかれていた。私はやっとのことで、奥の聖所の門を閉ざす南京錠を急いで写生した。これは大きな重々しい真鍮製の品で、皇帝の命令が無くては絶対にあけることが出来ない(図682)。

海岸に沿うた数個所で、農家へ通じる小径の入口に、細い杖の上にさかさまにした大きなきのこをのせた、奇妙な物があるのを見受けた(図683)。きのこの柄は紙につつまれ、また下方の杖にも紙がまきつけてある。これは家族に死人のあることを示すのだと聞いた。私はこんな物は他所で見たことが無いから、これは大和〔?〕特有なのであろう。何を意味するのかは判らなかった。

各種の寺院は、非常に興味が深い。ある場所で我々は、奇妙な服装をした四人の娘が、三人の神官の歌う伴奏につれて、珍しい宗教的舞踊をやるのを見た。
奈良では鹿が、森から出て来て町々を歩き廻る。私は手から餌を与えようとした。彼等は宮島の鹿程馴れていず、すくなくとも私は、彼等から十フィート以内のところ迄行くことが出来なかった。私にいくつかの握飯を売った老婆は大きにがっかりし、一生懸命に鹿達を私に近づかせようとしたが、駄目だった。日本人だと何の困難もなしに餌を手からやるが、鹿は外国人を即座に識別する。
私は和歌山を出た時と同じ人力車夫二人を連れていたが、彼等は実によく走った。彼等は二十九マイルの距離を、途中二回短時間休んだばかりで、走り続けた。我々が休んだある場所で、建物によっかかっていた高い木造の衝立が風で吹き倒され、梶棒を握っていた車夫が、それが人力車の上に倒れて来ることを防ごうとして均衡を失った為に、人力車は後方にひっくりかえり、私は鞄と、陶器を入れた箱もろ共、投り出されて了った。こんな時決して怪我をしない私は、無事に起き上ったが、二人は笑止な位、お互いを叱り合った。だが私が、事実この出来ごとを、笑っているのに気がつくと、彼等は私が久しく聞かなかった位気持よく、そして満足気に哄笑し、その後数マイルにわたって、私は彼等が思い出しては笑うのを聞くだけで、微笑することが出来た程である。
私が神戸から来た汽船には、東京へ行く数名の朝鮮使節がのっていた。彼等は愉快な、温情に富む人々で、私はすぐ彼等と知合いになった。私はひそかに彼等を写生した。彼等のある者が日本語を話すので私は非常に多くの質問を発し、そして返答を了解することが出来た。彼等の中の二人が大きな眼鏡をかけていたが、私はその鏡玉レンズを色硝子ガラスだろうと思っていた。彼等の許しを受けてそれを調べると、驚いたことに、それ等は鼈甲のわくに澄明な煙水晶をはめ込んだ物であった。私はまた彼等に射道に於て如何に矢を外すかを質ねたところが、それは日本の方法と同じで、腕当てを使用するのと、弓と弦とを回転させることを許さぬ点とだけが違っていることを知った。朝鮮の煙管きせるには日本の煙管よりも余程大きな雁首がついている。政府の役人は、両側と、背面は肩まで、さけ目のある上衣を着、すべての朝鮮人と同じく衣服の色は白い。図684は、上衣を脱いだ一人の朝鮮人を写生したものである。股引は非常にダブダブで、膝のところで別れている。その下で足を、綿を一杯につめた靴下の中に押し込む。あまり沢山綿が入っているので、靴下は靴の上辺からはみ出す。夏には、この綿入りの品はやり切れぬことだろう。胴衣ジャケットは短く、前方にポケットが二つついていて、淡黄色の南京ナンキン木綿に似た布で出来ている。肌着は無い。腕には手首から肘にまで達する袖がある。これ等は白い馬毛を編んだもので、布の袖を皮膚から離す目的で使用される。頭の周囲には、その直径が最も長い場所に、こまかく織った黒い馬毛の帯を、それを取り去ると額に深い線が残る位、きつくまきつける。これを身につけぬ時には、非常に注意深くまく。それは長さ約二フィート、幅二インチ半で両端に紐と、頭に結ぶ時紐を通す小さな黒い環とがついている。官吏帽の一つの型は二つの部分から出来ている。その一つは馬毛でつくった、簡単な袋みたいなもので、その内側にはてっぺんから、鼈甲製の留針ピンがぶら下り、これを頭上の短い丁髷ちょんまげにさし込んで、帽子が飛ばぬようにする。この上からこれも馬毛でつくった、箱のような代物を重ねてかぶるのだが、それは両方とも図685に示す如く、外に張開している。もう一つ別の朝鮮人の絵から判断すると、最も普通な帽子は高帽で、山は幾分上の方が細く、辺は非常に広く、僅かにそったものである。これは竹の最もこまかい繊維で出来、驚く程巧に織ってある。この帽子は高価で、十五円も二十円もする。図686はそれをかぶった老人である。

京都では、数日間田原氏と共に、有名な陶工を訪問するのに全時間を費し、彼等から家族の現代及び過去、各種の印の刷り、その他に関する知識を豊富に得た。六兵衛は私と再開してよろこんだらしく、すぐさま私が前に訪問した時つくった湯呑を持って来た。彼はそれを焼き、釉をつけたのである。私はそれ等の底にMと記号し、内側に貝を描いたが、六兵衛は外側に漢字で「六兵衛助力」と書いた。私はその一個を彼に与えた所が、彼は丁重にもよろこんだらしい様子をした。私は彼から、陶器づくりに使用する道具をひとそろい手に入れた。図687は庭から見た六兵衛の製陶場である。

六兵衛のところから、我々は楽の陶工吉左衛門のところへ行った。彼の家は質素なものであった。この老陶工は、三百年来「楽」といわれる一種独特な陶器をつくりつつある家族の第十二世にあたる。彼は我々を招き入れ、我々は六兵衛のところから来たといって、我々自身を紹介した。彼は、私の質問すべてに対して親切に返事をし、各代の作品を代表する楽の茶碗の完全な一組を見せてくれた。私は記号の輪郭と摩写とを取った。次に彼は仕事場を見せた。仕事をするのは家族の直接関係にある人々のみで、外来者は一向関係せぬらしい。窯は非常に小さく、殊に有名な茶碗を焼く窯は、窯碗一つを入れる丈の大きさしか無い。それ等の茶碗は旋盤ろくろ上でつくらず、手で形をつけ、両辺を削る。彼は我々に粉茶とお菓子とを出したが、我々がそれを飲んでいる間に、可愛らしい子供が出て来て私に抱かった。
彼の部屋には手紙を懸物かけものにした物があった。これは太閤時代の有名な将軍で、拳固で一と撲りしたら虎が死んだという噂のある加藤清正から来たもので、初代の楽に、茶碗をつくることを依頼した手紙である。家族は代々、それを大切に保存して来た。彼はまた初代の楽がつくった陶器を見せた。それは神話的の獅子で、これもこの一家の創立者の大切な家宝として伝って来た。信長が戦に破れ、彼の邸宅が全焼した時、第一世の楽がその廃墟からこの品を救い出したものらしい。私は恭々しくその話をしている老人と「信長の獅子」とを急いで写生した(図688)。

翌日は、日本有数の陶工の一人である永楽を訪問した。我々はここでも、他の製陶場に於ると同様、懇ねんごろにもてなされた。挽茶と菓子とが供され、永楽は非常に注意深く私の質問に耳を傾けた後、彼が十三代目にあたるその家族の歴史をすっかり話して聞かせた。田原氏がこの会話――それは私の陶器紀要に出ることになっている――を記録している間に、私は我々のいる部屋を写生した。天井にはめた驚く可き四角い樫の鏡板は、私が見た物の中で最も美しいものであった。永楽の家で私は、壁土の興味ある取扱いに気がついた。それは、壁を塗るとすぐに、鉄の鑢屑やすりくずを吹きかける。するとこの粉末が酸化して、あたたかみを帯びた褐色を呈するのである。
永楽から我々は、もう一つ別の清水の陶工蔵六ぞうろくを訪れたが、ここで私ははじめて、仁清にんせい、朝日その他の有名な陶器の贋物が、どこで出来るかを発見した。この件に関する不思議な点は、蔵六と彼の弟とが、自分等が贋物をつくっていることを、一向に恥しがらぬらしいことである。彼等は父親の細工を見せたが、その中には仁清の記号をつけた茶碗がいくつか入っていた!
蔵六から我々は四代目亀亭きていを訪れたが、ここでも極めて親切にむかえられ、彼の細工場を見るための、あらゆる便宜がはかられた*。彼の窯は一見、他のすべての人々のと同じく、小丘の中腹に横にいくつか並べてつくってあった。陶工達はよく他の陶工の窯で焼く。蔵六は彼のすべての陶器を亀亭の窯で焼き、永楽は自分の家から離れた場所にある窯で焼く。
* 亀亭の庭は『日本の家庭』の二五五頁に出ている。
私は再び楳嶺の画塾と住宅とを訪れ、二時間にわたって生徒たちが仕事をする巧な方法に見入った。膝を身体の下に折り曲げて床に坐るのは、如何にも窮屈らしく見えるが、楳嶺の話によると、生徒は数時間このようにしていて、而も疲れたらしい様子をしないそうである。仕事というのは、他の絵を写すのである。初歩の仕事の多くは引きうつしで、必ず筆を使用する。紙は、明瞭に絵が見える程薄くはないので、殆ど一と筆ごとに持ち上げる。紙はその上方に文鎮を置いておさえる。はじめ筆に墨汁を含ませ、それを別の紙でためして、適当な尖端をととのえるが、墨汁が多すぎれば、尖端をそこなわぬように、筆の底部からそれを吸い取る。
京都の南禅寺では、僧侶が陶器の小蒐集を見せてくれたが、大したものは一つもなかった。有名な茶人小堀遠州が二百五十年前に建てた茶室は、茶の湯の簡素と荘厳とに適わしい、意匠の簡単さのよい例である。
ドクタアは大阪で、面白いお寺の池を見つけた。そこには大きさの異る亀の子が、何百となくいる。池にかかっている小さな石橋の近くに小屋があって、亀の子が非常に好きな、米の粉でつくった提灯形の、内のうつろな球を売っている。これを水に投げ込むと亀の子が競泳を始め、何度も何度もパクンパクンやってはそれを遠くに投げ、それが水びたしになるか、池の辺をなす石垣へ押しつけられるかに至って、すぐさま破壊されて食い尽されるその光景は、実に珍無類である(図689)。提灯は赤いか白いかで、それを追って池を横切る亀の子は、提灯を先頭に立てた一種の行列を構成する。これ等は一セントで五つであるが、人は亀の子に餌をやって、相当な時間をつぶすことが出来る。亀の子がパクつく有様を見ていると、天井から糸でつるした林檎を囓りっこする遊びを思い出す。

大阪にいた時、一人の日本人が私に、米の取引所へ一緒に行かぬか、非常に奇妙な光景がみられるからといった。その建物に近づくと、奇妙な人の叫声の混合が聞えて来て、私にシカゴの穀物取引所を思い出させた。取引所に入ると、そこには同じような仲買人や投機人達の騒々しい群がいて、身振をしたり、手を振り上げたり、声をかぎりと叫んでいたりした。驚いた私は、私を連れて行った日本人に、一体いつこんな習慣が輸入されたのかと聞いたが、彼はまたこれと同じような集合を、シカゴ、ニューヨーク、ボストンその他の大都会で見ることが出来るという私の話を聞いて、吃驚して了った。この人達は米の仲買人で、まったく同一な条件と要求とが、同一な行為を惹起したのである。
神戸の塵芥車は、面白い形をした三輪車で、小さな中心輪ははるか前方にあり、二個の主要輪もろとも一枚の板から出来ている。心棒は固定し、車輪はその上を回転する。輪帯は一部分打ち込んだ固い木造の釘から成り、それ等のとび出た部分の間を縫って藁繩がまきつけてある。何故こんなことをするのか、恐らく釘が深く路面につきささるのを防ぐ為と思われるが、私は聞かなかった。図690は、横から見たところと設計図とである。この車は牡牛に曳かせる。
第二十三章 習慣と迷信
宮岡の話によると、手紙を書く時には句読点を使用せぬそうである。手紙は漢字で書くので、句読点をつけることは、受信人が漢文を正当に読めぬと做すことになり、これは失礼である。印刷では句の終りにまるをつけ、あるいは項の終りを示すために頭文字のLに似た形をつける。まるは支那の古典に用いられ、Lは他の主文に使用される。
以前は、手紙を書くのに、発信人の名前を受信人の名前の真下に書いた。現在では、発信人の名前を手紙の別の側に書く。旧式な人だと、発信人の名前を書いてない手紙は受取らぬこともある。過去に於ては、婦人に向けた手紙は、単にその家の長に宛てたものである。更に家長に宛てた手紙は、その外側に「何卒御自身でおあけ下さい」即ち「親展」としてない場合には、彼の妻、息子、親友等が開いて読んでも差支えないのであった。封筒が使用される迄は、一枚の紙を面白い方法で折って包み紙とした。図691に於る輪郭図一から十五迄は、この畳み方の順序を示している。最初に紙を一、二、三の如く折り、それを七、八の如くひろげ、手紙を入れてから、すでに出来た折目をしおりに、今度は別の折りようをしてたたみ込む。

大和の国で私は、張出縁や門口の屋根の縁辺を構成する装飾瓦の、非常に効果的な並べ方を見た。これは我国の建築家にも参考になると思う。大和では、私が旅行した他の国々のどこに於るよりもより多く、瓦を装飾の目的に使用する。装飾的な平瓦は、あまり一般に使用されぬらしい。少数を庭園の小径で見受ける。六兵衛の住居の庭にあるのを私は気がついた。
我国には、ほかのことでは学問があるのに、綴りを間違える人がある。日本でも同様なことがあり、それは漢字を正しく書き得ぬ学者である。普通の人間は、日本人が数千の漢字を覚え、その支那の名称と、それの日本語の同意語をも覚えていなくてはならぬことが、如何に途方もない重荷であるかを、考えた丈で目が廻る。こればかりで無く、それぞれの漢字に、草書と、印判の形と、正規な形とがあること、なお我国のアルファベットに、一例として頭文字のBと、それを書いた形と古い英国風の書体と、その他勝手な意匠をこらした※(「にんべん+悄のつくり」、第4水準2-1-52)字やつしがきがあるが如きである。日本歴史を研究する外国人は、一人の歴史的人物が持つ、いろいろ違った名前に迷わされる。この事は有名な陶工や芸術家の名前で、屡々私を悩した。すべての武士は先ず閥族の名を持つ。これは彼等の先祖であるところの古い家族、あるいは封建時代に彼等が隷属した家族の名である。これを「姓」と呼ぶ。彼等はまた「氏」と呼ぶ家族名と、「通称」と称する、我々の洗礼名に当る名とを持っている。更に「号」という学究的な名が与えられ、その上に「字あざな」と呼ばれる、これも学問上の名さえある。これに止らず、「諱いみな」*という名もあり、為替、請願書、証文、契約書等にこれを用いる。これ丈で沢山だろうと思うが、中々どうして、死んでも名前には煩わされるので、僧侶によって「戒名」という名をつけられる。一例として、五十年前に死んだ有名な歴史家頼山陽**は、次のような名を持っていた。
* ヘップバーンの辞書によると、この名は十五歳以後使用する由。
** この名前は、他の有名な学者の名前と共にボストンの公共図書館に記してある。
姓――閥族名――源
氏――家族名――頼
通称――洗礼名にあたるもの――久太郎
号――学問上の名――山陽
字――追加的学問上の名――子成
諱――契約書その他の為の法律的の名――襄
戒名――死後の名――私の教示者はこれを知らない*。
* 私は、この種類の材料は一千頁を埋める程沢山持っているが、記録しておく時間がない。陶器に関する私の紀要は、此日誌を踰越しているので、私は、日本の陶器に就ての興味ある本を書くに足る材料を持っている訳だ。
今日の午後長井嬢のところへ行って、葺屋根の端を写生した*。彼女の兄さんである増田氏は私に、この葺材は一種異様な藺いで、屋根葺に用いる普通の藁よりも高価であると共に、余程長くもつと語った。かかる屋根は非常に重く、完全に水を通さぬ。日本の屋根は、葺いたのでも瓦を敷いたのでも、我国の建築に現れた何物とも甚だ相違しているので、吾人はしょっ中屋根を写生していたい誘惑を感じる。屋根には変種が多く、それぞれの国に特異な型がある。我国の建築家が、棟木と軒の、固い直線に捕われていて、それから離れられぬのは、情無いような気がする。セント・ローレンス河に沿うフランスカナダ人の家屋は、軒を僅か上方に彎曲させてあるが、これがそれ等の外観にある種の典雅さを与えている。
* 『日本の家庭』を見よ。
友人竹中は、私のもとめに応じて、夏休中に、下層階級の間に行われる迷信と習慣とを、いくつか集めて記録した。彼は時々、私が執筆出来ぬ程つかれていない時に、手帖から読んで聞かせる。日本人は迷信を意味する一般的な名を持っていないが、迷信的な人は「御幣かつぎ」と呼ばれる。「御幣」は神官が持つ、奇妙な形に切った紙で、「かつぐ」は持って歩くことを意味する。こんな品を持って廻る人は、迷信的だと見られるのである。
人が死ぬと、死人の友人達は、通常、その家族に贈物をする。主として封筒に入れた金銭だが、この封筒の糸は赤と白とで無く、黒と白とでなくてはならぬ。赤は幸福の象徴で、幼児の衣服には必ず赤い糸か紐がついている。結び目は四角く結び、蝶結びその他の形であってはならぬ。封筒には普通「花のために」とか「線香のために」とか書く。線香は棒状の香である。然し、お金は何に使用しても差支えない。漆塗の器物に入れた、食品や菓子を持って行くこともある。受取った者はそれを出して皿にのせ、漆の箱には一回か二回折った一枚の紙、あるいはその紙の代りに薄い木片二個を入れる。これ等の供物は、死体がまだその家にある間か、又は葬式直後に於てなされる。家中が非常に悲しんでいる時や、死んだすぐ後だと、箱の中に紙を入れず、受取人はそれを注意深く清めるが、さもない時には、箱は洗わずに返す。
仏教の僧侶が四十九日間、七日目ごとに来てお経をあげる。葬式が済むと、主人なり主婦なりが、会葬者のそれぞれに、小麦でつくった菓子を五つずつやり、三十五日たつと菓子九つをそれぞれの家に届ける。赤が幸福の表徴であることは前にいったが、祝日には赤い色をした飯を供する。貧乏の神様は、赤い御飯や黒い豆腐が嫌いなので、この悪神を追払うために、それ等の食物を神棚や床間にのせておく。
それぞれの年には、特別な名がついている。今年(一八八二年)は馬〔午〕の年である。閹牛えんぎゅうの年〔丑〕に生れた者は、十五歳以上になったら鰻を食ってはならぬ。父親が四十一歳の年に生れた子は、よい子と認められぬ。いうことを聞かぬ子になるというのである。かかる場合、親はその子を連れて友人の所へ行き、この子を棄てるがひろってくれるかといい、往来へ置いておく。友人はそれをひろって家へ持って帰る。翌日親が、土産を持って友人を訪れ「私には子供が無い、あなたの子供をくれぬか」という。するとそれが行われるが、実は同じ子が返される迄の話で、而もこの莫迦ばかげた真似をすることによって、その子は持って生れた悪運から解放されたことになる。この場合贈物は通常「鰹節」(材木みたいに固く乾した魚)で、これには例の熨斗のしをつけない。魚を贈る時にはすべて熨斗(紙を一種異様な形にたたみ、中に鮑あわびの乾した肉片を入れたもの)をつけない。鰻を食うことに関しては、十五歳以上の子供がそれを食えば、利口にもならず、出世もしないとされている。
八月十五日(旧暦)、人は九月十三日までその場所にいなくてはならぬ。若し急用が起れば、立ち去ってもよいが、九月十三日にはそこへ帰って来ねばならぬ。これ等の日には、月に菓子を供えねばならぬ。毎月十五日、人は月を静視して、花と菓子を供えねばならぬ。一のつく日、即ち一日、十一日、二十一日には、木を伐ってはならぬ。二のつく日、即ち二日、十二日、二十二日には火の力が非常に強いから、リューマチスの反対刺戟材である艾もぐさを、その熱が他日より強いというので使用する。三のつく日には庭の土を掘ってはならず、四のつく日には竹を切ってはならず、五のつく日には食料品――米、豆、すべての種子――を家へ持って帰ってはいけないし、米を買ってもいけない。六のつく日には井戸替えすべからず、七のつく日には知らぬ人を家へ招くべからず、八のつく日に婚礼の話をすると後で夫婦別れが起り、九のつく日に茄子なすを食うと縁起がいい。九月九日は九月も第九の月にあたるので特にいいとされ、この日には茄子の形をした徳利を使用する。十のつく日、即ち十日、二十日、三十日には便所の掃除をしてはならぬ。これ等の禁を犯すと、不幸か悪運かに見舞われる。
大根を供する時には、必ず皿に二切をのせる。一切はヒトキリといい、一片を意味すると同時に「人切」を意味し、三切はミキレで、また「身切」を意味する。茄子その他の野菜類は大根を除いては縦に切り、輪切りにしない。輪切りにすると残酷に見えるからである。
二つで割り切れる数は運がいいとされているので、お菓子は二つに折った一枚の紙の上にのせて出され、また餅は、二、四、六、八その他の偶数で贈られる。
塩をまくことは清浄化することと思われているので、偶然塩をこぼすと縁起がいいとされる。葬式から帰って来た人には召使いが塩を振りかける。
眠る時には頭を南へ向けるのがよいとされる。人が危篤に陥ったり、あるいは死んだりした時には、頭を北向きにしなくてはならぬ。坐位で埋葬する時、死体はどっちを向いていてもよい。
耳たぼの大きい人は、幸福な素質を持っていると見られる。
足の人差指が拇指よりも長い人は、父親よりも高い位置を占める。長い舌や腕は泥棒のしるしである。
左利きは、母親が赤坊に初めて着物を着せる時、左手と左腕とを先ず着物に通すことから起る。
一度嚏くさめをするのは、誰かが讃めているしるし、二度すれば女が惚れている、三度すれば誰かがほめるなりけなすなりしている、四度すれば風邪を引いたのだ。備前の国では、一回の嚏は嫌われたしるし、二回は好かれ、三回と四回は風邪を引いたことを示す。
右の耳がかゆければいい事を聞く、左の耳なら悪い知らせ。婦人ではこれが反対である。
灯火のしんに滓かすがたまれば誰か来る。油と灯心とが入っている浅い皿は、別の皿によって支えられるのだが、滓を下方の皿に入れることが出来れば、来訪者は贈物を持って来る*。
* 同様な迷信が、米国や大英帝国に於て見出される。恐らくヨーロッパ大陸にもあるのだろう。
烏が屋根にとまるのは、その家で誰かが死んだしるしである。
夜、爪を切ってはならぬ、それは彼が狂人になるしるしである。
御飯を着物や畳の上にこぼした子供は、それを食わぬと盲になる。
腹切をしようとする人に飯を出すには、あたり前に出さず、飯櫃の蓋をお盆に使用する。
頭のかゆいのは幸福であるしるし、雲脂ふけが落ちるのは理智のしるし。
夏、すこし雷鳴がすれば、稲に危険な虫が沢山わく。
ある人が貧乏に、不運になると、「アノシト ノウチ ワ ヒダリ マイ ニ ナル」という言葉を使用する。それは「あの家の人は着物を左にたたむ」というので、これは縁起の悪いこととされる。死体には着物を左たたみに着せる。
病気、ことに疱瘡ほうそうを家に近づけぬには、馬の字を三つ紙に書き、それを戸口にはりつけると、非常にききめがあるとされる。また手に墨をつけ、それを紙に押したものを戸口につけても、この目的を達する。
中禅寺では、鹿の胎児四匹が、炉の上にぶら下っているのを見た。それ等は煙に乾燥して変色していたが、婦人産後の病にきくものとされている。
往来で櫛を見つけたら、ひろい上げる前に、左足からそれに近寄らねばならぬ。然らずんば一生涯を泣いて暮さねばならぬようになる。
男は、自分より四歳年長又は年少の娘と結婚してはならぬ。若し結婚すれば、家内に面倒が起る。それ以外ならば、いくつ違ってもかまわない。
芥子をまぜるには、怒ったような顔をしてかきまわさねばならぬ。そうすれば芥子は強く、ピリピリするが、まぜながら笑っていては、微温的な味なものになって了う。
ある種の神(妙見)に祈る人は、八種類の食物を食ってはならぬ。然らずんば、この神は祈りを聞き届けてくれない。これ等の食物は鰻、うみがめ、鯰、鯉、野鴨、鵞鳥、葱、それから葱と同じような野菜の一種である。
男にとっては三、七、十九、二十五、四十二、五十三という年齢が殊に悪く、女には十六、二十五、三十三、五十六、五十七が悪い。また一般に七と九で終る年齢はよくないとされる。
人が死んでから一年後に家族が集って荘厳な儀式をする。これは三年、七年、十三年、十七年、二十五年、三十三年、百年というように行われ、その後は五十年ごとに行う。
朝夙はやく烏がカー カー 即ち「女房」と鳴く。だから神さんは亭主よりも早く起きねばならぬ。
葬式の時には会葬者の名前を一枚の紙に書きしるす。この目的に使用する筆は、莢さやを脱がずに莢から押し出す。故に、それ以外の時にこんな真似をしては縁起が悪い。死体を家からはこび出す時、この役をつとめる人は、家に出入するのに履物を脱がぬ。だから新しい下駄を畳の上で履いて見ている人があると、友人が「どうぞそんなことをしないで下さい、縁起が悪いから」という。
お茶の葉が茶碗の中で縦に浮けば、幸運が来るかいい便りを聞くかである。芸妓達はこれ等の葉をつまみ上げて左の袂に入れ、同時にこのいい前兆を確実ならしめる為に、鼠の鳴くような啜音を立てることを慣とする。
手首と足首とに糸をまきつけておけば、風邪を引かぬという。
迷信的な人は、自分の歩いて行く道路の前方を鼬鼠いたちが横断すると、直ちにあと戻りをして旅行の目的を放棄する。若し極めて大切な用事があれば、別の路を行かねばならぬ。
二つの葬式がすれ違うのは、両方にとって縁起がよいが、一つが一つに追いつくことは悪い。
下駄の鼻緒が後方で切れるのはよいが、前方で切れるのは縁起が悪い。
朝鮮から海を越して来る鶴は、足に一種の植物を持っていて、海上に降りる時にはこの植物を浮うきに使用すると信じられている。
竜は竜巻たつまきと一緒に昇天するものとされている。その脚や足をチラリとでも見た人は、偉人になると信じられる。
日本人は、狐に関する奇妙な迷信を沢山持っている。狂人は狐につかれたとされる。狐の精神が指の爪から身体に入るというので、つまりこれが爪の下から侵入し、そして狂人をして狂人の行為をさせるというのである。以前は政府に狂人保持の規則があり、家族が狂人の世話をし、狂暴であれば檻に入れた。下流社会ではまた狐を信心することが盛で、狐を養った人が幸運によって金満家になったというような話が多い。若い狐を檻に入れ、然るべく養えば、裕福になると信じられている。
外国人がこの人々の間に科学を持ち来たしてから、かかる迷信はすみやかに消え失せつつある。
私は竹中に、退職した人は何をするかと質問した。彼は、概していうと、暮し向きの楽な人は、六十になると仕事をやめるといった。彼は事業上の業務をすべて息子にまかせ、隠退生活を送り、たいていは道楽に、珍しい植物、羊歯しだ、陶器、石器その他を蒐集する。彼は夏は五時、冬は六時に起きる。火鉢には茶を入れる水の入った鉄瓶を熱する為の火があり、彼は茶を濃く入れる。彼は寒天菓子の一種である羊羹と、醗酵した豆でつくった味噌汁とを取る。彼は歌をつくる。九時になると旧友をたずねたり、たずねられたりする。一日中碁を打つ。若し彼が飲酒家であれば、九時から飲み始めて床につく迄それを続ける。昼間、公園なり、田舎の景色のいいところなりへ、遠足することもある。
竹中は衛生局長から、徳川将軍時代には、今よりももっと飲酒が盛だったと聞いて来た。その頃訪問した友人には必ず酒を出し、それをこばむことは無礼とされていた。現在ではお茶が出され、若し酒が出るにしても、人は好みに従ってそれを飲んでも飲まなくても、礼を失することにはならぬ。その頃は、酒宴の席では、只一つの盃が用いられ、それは次の人に廻す前に、飲みほさねばならなかった。現在では各々が盃を持ち、気兼すること無しに飲酒を調節することが出来る。酒飲みは、生菓子や砂糖菓子のような、甘い物を好まない。
興味があるとか、奇妙であるとかいうことを意味する言葉はオモシロイで、直訳すれば「白い顔」となり、白い顔が奇妙な観物であった昔の時代から伝って来た。今日、滑稽新聞は、「興味ある」をオモクロイという。「黒い顔」の意味である。
日本の社会は今や公に、上流、中流、下流の三つにわけてある。現在の日本人は、以前にくらべて、人力車夫やその他の労働者に、余程やさしく口を利くようになった。
先日外山教授が私に、彼と矢田部教授ともう一人の友人とが、しばらくの間、シェークスピアその他の著者の作品を訳しつつあったと語った。これ等の翻訳は出版され、日本人に熱心に読まれる。これ迄すでに彼等は、以下のものを訳した――ハムレットの独白、カーディナル・ウォルゼーの独白、ヘンリー四世の独白、グレーの「哀詩」、ロングフェローの「人世の頌歌」、テニソンの「軽騎兵隊の突撃」、そして今や彼等は、他の作品を訳しつつある。日本人は過去に於て、英、仏、独の書物を沢山訳した。事実十六世紀の終りに、オランダ人が最初に長崎へ行った時、日本の学者達は歴史、医学、解剖その他に関する蘭書を翻訳するために、この上もなく苦心して、オランダ語を学んだものである。すでに翻訳された書物のある物の性質は、興味が深い。外山教授は英語から訳された本の名を、記憶にあるものから話してくれた。即ちダーウィンの「人間の降下」と「種の起原」、ハックスレーの「自然に於る人間の位置」、スペンサーの「教育論」(これは何千となく売れた)、モンテスキューの「法の精神」、ルソーの「民約論」、ミルの「自由に就て」、「宗教に関する三論文」及び「功利説」、ベンサムの「法律制定」、リーバァの「民事自由と自治政府」、スペンサーの「社会静学」、「社会学原論」、「代表的政府」及び「法律制定」、ペインの「理論時代」、バークの「新旧民権党員」。この最後の本はすでに一万部以上売れた。
翻訳について私が屡々気がついたのは、日本人は漢字が逆になっていてもすぐ識読するが、陶器の不明瞭な記印を読む時には、出来得べくんば漢字を、上は上にすることである。 
第二十四章 甲山の洞窟
八月六日。午後ドクタア・ビゲロウと私とは竹中を通弁として伴い、東京から四、五十マイルさきの甲山かぶとやまに根岸氏を訪問し、彼の住居に近い或種の洞窟を見るために東京を出発した。その夜我々は小村白子で送った。我々の部屋は本当の滝のある古風な小庭に面していたので、我々は滝の音を子守歌として眠入った。晩方には食事の時お給仕をつとめた娘が二人来て、我々と一緒に遊んだ。こんなに気のいい、元気な、よく笑う召使いは、世界中どこへ行っても見出し得まい。彼等はいつでもお客様達を、機智と諧謔とでもてなす心ぐみでいるが、而も一刻たりともお客様に狎なれることをなさぬ。
翌朝は九時に出発し、今迄に日本のどこで経験したものよりも一番気持のよい人力車の旅をした。涼しい日で、太陽は雲にかくれていたが、而も雨模様ではなかった。正午川越に着き、竹中の伯父さんの家で食事をした。この人は主要街に金物店を開いているので、我々は小さな店を通りぬけ、後方にある、おきまりの庭を控えた気持のよい部屋へ通された。家族は我々によく気をつけてくれたが、外国人をもてなしたのは初めてなのである。心からなる袂別の言葉に送られて、我々は甲山へ向った。
我々は東京から人力車一台について二人ずつの車夫を連れて来たが、これは旅程をはかどらす上に於て、またそれを愉快にする上に於て、非常な相違を来たす。道路のある部分は、最近の雨のお陰で泥深く、また我々が越したある広い河では、先頃の大水のあとが、現在の水準よりも十五フィート乃至二十フィート高いところに見られた。渡船場に近い家々は、棟まで水にひたったのである。根岸氏の所有地を去る半マイルのところ迄来た時、一人の紳士が出迎えて、丁寧に根岸氏が我々を待ち受けていると伝えた。更に根岸氏の家に近づくと、三人の紳士と根岸氏の独り息子とが、道路に出て我々を待っていた。我々は直ちに人力車から下り、彼等と最も形式的なお辞儀を交換し、そして彼等はいい勢で人力車を走らせる我々の後を急いで追った。家の門口へ来ると根岸氏が家族の数名の召使いとを従えて立ち、お辞儀をしながら我々を愉快に、懇切にむかえてくれた。我々は直ちに広々とした内庭を横切り、庭にある、独立した家になっている、一続きの部屋へ案内された。すべてが完全に清潔で美しく、殊に内庭は、我々の靴の踵が、平坦で固い土地に痕をつけたことが気になる位清浄であった。
間もなく晩餐が供され、ドクタアと私とは、それが日本で味ったうちで最も美味なものであることに同意し合った。この上もなく結構な吸物類や、元気をつけるような刺身があったが、此頃はドクタアも生魚が非常に好きになって来た。後から我々は、根岸氏が十五マイルさきから有名な料理人を呼んだということを知った。我々が食卓を離れた時はもう遅く、襖の上に稀に見る彫刻があり、すべて完全な趣味を示す、大きな立派な部屋には、絹の布団が寝床として、すでに敷いてあった。我々が占めた客家は、広い内庭を取りまく、不規則に並んだ建物の一部分を構成していた。それは独立した家屋で、他のものと同じく、建ってから殆ど三百年になる。屋根の葺材は特別な種類の藺いで、高価ではあるが五十年以上ももつという。木材の棟木その他の部分は黒く塗ってあり、全体の構造が非常に手奇麗に、精巧に出来ている*。
* 母屋、台所、内部のこまかい絵は『日本の家庭』に出ている。
翌朝、誰よりも早く起きた私は、屋敷内を沢山写生した。各種の建物に取りかこまれた内庭は、武士ではないが、普通の農夫階級の上に位する、富裕な農民階級の住居としては、典型的なものである。朝食後我々は、根岸氏が附近で蒐集した、千二百年以上も経過する陶器を見た。それ等は淡赤色のやわらかい陶器と、古い墳墓でよく発見される、固い青灰色の陶器との二種であった。私は今迄に、こんなに静穏な、魅力に富んだ人々が、この世に存在するとは、夢にも思わなかった。彼等のどの言葉にも行為にも、上品さと陶冶とが見られ、衒うところも、不自然な隔意もなく、我々に対する心づかいも、気安く、同情を以て与えられた。八十になる根岸氏の母堂は、私の席が彼女に隣っていたことに興味を持ち、通弁を通じていろいろな質問をしたが、それは皆筋の通ったものだった。彼女の興味の深い質問は、我国の上品で教養のある貴婦人が、日本人に聞くであろうと思われるようなものであった。それ迄、家の中に外国人が入ったことは一度も無く、この僻遠の村にあっては、外国人を見るのでさえも、稀な出来ごとである。暑い日で、どこででも私が坐ると二人の令嬢が扇いでくれたが、彼等の恥しそうな、半分恐しそうな態度は、一寸珍しいものであった。が、とにかく、これは気持のよい習慣である。
魅力に富んだ主人役の人々に別れをつげるすぐ前、車夫が待っている時に、根岸氏は内庭を横切って、向うにある小さな部屋へ行き、私には彼が忙しげに何か書いているのが見えた。私は彼が我々に托して東京へ持って行く手紙を書いているのだろうと思った。然るに驚いたことには、それは私に宛てた手紙で、さよならをいう時私に渡された。これは古い日本の習慣で、我国でも真似してよいことである。手紙を翻訳すると次のようになる。
日本武蔵むさし甲山
明治十二年八月八日
拝啓 あなたのお名前を東洋日本島上で耳にし始めてから長いことになりますが、私はあなたが武蔵国大里郡と横見郡との間にある洞窟を調べに来られるとは思っていませんでしたし、また三百年前に建てられた私の小屋にあなたをむかえるの光栄を持ち、あなたに古い陶器や石器をお目にかけるの愉快を持つであろうとも考えていませんでした。今、我々が三十年前の我国の有様に眼を転ずる時、我々は何を見るでしょうか。我々の島の人々も、また海の向うの人々も、お互をうたがい合わねばならなかったことを見ますが、今日我々の友情は、私があなたと共に日を送ることが出来る程度まで達しています。この理由で私は私の筆が辷ることを許し、我々の両国間に存在する深い友情の故を以て、私はあなたの長く、そして継続的な御繁栄を祈ります。
敬意を以て、あなたの友人   T・根岸
我々は洞窟に向った――日は照って暑く、また路も長かった。根岸氏の可愛らしい小さい子息は、私につききりで、路傍に見えるいろいろな物を説明して、私をもてなしてくれ、その会話のある物は、私に了解出来た。彼は完全な小紳士で、彼の父親の大きな土地をつぐ位置にある者としての責任を、感じているらしく見えた。暴風雨でこわれた橋は修繕してあり、我々の要求や安慰に対しては、最も行きとどいた注意が払われてあった。前の日、根岸氏は洞窟に通ずるすべての小径を切りひらかせたので、我々は非常に楽に洞窟を見ることが出来、充分な記録を取った。洞窟は崖の面にあり、もとは埋葬窟であったが、その後何度も避難民がそこに住った。遺物類は、すべて、大分前に無くなって了った。
午後、我々は川越へ向って出発した。そこでは、竹中の親類と共に一夜を送ることになっていた。根岸氏と彼の友人達とは、しばらくの間彼等の人力車で我々を送って来、別れる時には礼儀正しい袂別をなした。
再び路上に、そして又しても完全な一日と、変化に富んだ景色と! 日本に於るすべての道路の中で、川越経由の東京・甲山間の道路が、最も変化に富み、景色がいいように思われる。それは庭園みたいであった。あちらこちらの繁茂した農場、驚くべき富士を向うに、ひろびろとした稲田、美しい古い百姓家、丁寧な人々。我々は学校を出て来たばかりの子供の一群に出合ったが、彼等は路の側に立ち、我々が前を過ぎると丁寧に頭を下げた。私は子供達の同様な行為を、薩摩と、京都の製陶区域とで見た。
その夜を送る可き川越へ着いて見ると、竹中氏が私に、日本の古代民種に関する講演をさせる手筈をきめていた。黒板のたすけをかりて、私は貝墟その他の古代民種の証例を説明した。図692は講演の公告の複写で、私が出しなに料理屋から取って来たものである。我々は真夜中まで起きていて、家族と一緒に遊んだが、竹中の従姉妹である二人の娘と、家族の面々とが心からこの遊びに加ったのは気持よかった。臼の上に、片足を片足の上に平衡させて坐り、一つの蝋燭から他の蝋燭に火を点じるというのが、最も大騒ぎだった。我々は川越へ来た最初の外国人なので、一人の婦人が単に我々を見る丈の目的で、この家へやって来た。彼女はいとも丁寧にお辞儀をした上、十年前、特に外国人を見るため横浜へ行ったことがあるが、それ以来、一人も見ていないといった。翌朝は竹中の伯父さんが、我々の朝飯の最も択り抜きの部分を料理してくれた。これは前夜の晩餐についても同様だった。竹中は伯母さんから、瓶に一杯入れた煮た※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばったを、御飯につけてお上りとて貰った。ドクタアと私とはそれを何匹か食って見たが、小海老に似た味で、中々美味だった。※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)を副食物として食うのは、この地方では普通のことで、我国でも※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)をこのように利用出来ぬ訳は無いと思う。我国のあたり前の※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)と、一見すこしも違っていない。日本人はそれを醤油と砂糖と少量の水とで、水気が殆ど無くなって了う迄煮る。朝食後我々は、我国の田舎の会堂に相当する、小さな寺院を訪れた。その内部は最も美しく、そして精巧な彫刻のある貴重な陳列室みたいで、その彫刻のどの一片でも、我国では美術館の、板硝子ガラスを張った中に陳列されるであろう。我国の田舎の教会に、芸術品となすべきどんな物があるだろうかと考えた私は、事実何も無いのに、今更ながら吃驚した。我々はまた五、六十人の娘が、繭まゆから絹糸を繰っている、大きな建物に行って見た。工場を通って行くと、慎み深いお辞儀と、よい行儀の雰囲気とが、我々をむかえた。

急いで昼飯を済ますと、我々の主人役は、弟と二人の姪と共に、人力車で我々を町はずれまで送って来、そこの小さな茶店で別れのお茶を飲み、別れを告げた。町から出て来る途中、我々はある寺院を訪れたが、そこには高さ六フィートを越え、直径は三フィートもある巨大な繩のどくろを巻いた物があった。これは人の頭髪でつくったのである。天井からは、ある種の起請の誓約としてささげた、或は贖罪供物であるところの、女の毛髪や弁髪が多数ぶら下っていた。
図693は木造で、鉄を尖端にかぶせた面白い匙鍬シャベルを示したものである。匙鍬の部分は長さ三フィートを越え、柄は七フィートある。これはこの国(武蔵)の西部で使用され、犁すきの役目をつとめるらしく思われる。日本にあっても、米国と同じく、古い家の用材が大きくて重々しいのは、面白いことである。昔は材木が安く、また恐らく、よりすくない材料で、同様に強い枠をくみ立てる知識が、足りなかったからであろう。旅行者は屡々、田舎の家や旅館の木の床、殊に二階への階段が、ピカピカ光っているのに気がつく。私が聞いたところでは、この光輝は使用後の風呂の水で床を洗うことが原因している。つまり使用後の風呂水に含まれる油脂分が、この著しい艶を出すのである。
第二十五章 東京に関する覚書
十月十八日。私の部屋へ親子二人づれの朝鮮人が来た。父親は朝鮮政府の高官だったが、最近の叛乱に際して、身を以て逃れた。子息は東京の学校で日本語を勉強しつつあり、宮岡の友人である。宮岡がこの青年と相談して、父親を私のところへ連れて来させたので、私は若し出来れば彼から古物、陶器の窯、矢を射発する方法その他に関する話を聞くことにしてあった。彼等は名刺を差し出した(図694)。父親は非常に静かで威厳があったが、一種真面目な調子で深く私の質問に興味を持ち、子息は極めて秀麗で、日本人の顔の多くに現れる特異な愛くるしさを持っていた。二人とも美しい褐色の眼を持ち、二人とも、かつて日本にその芸術の多くを教えた、過去に於る祖国の智的高度が、今日の如く恐しく堕落し、腐敗したことを理解しているかの如く、陰気で悲しそうであった。私が望むところの教示を受けようとする父親に質問することは、幾分困難であった。私は先ず宮岡に話し、彼がそれを日本語に訳して子息に話すと、次に子息が日本語をまるで知らぬ父親に、それを朝鮮語に訳し、答えは同様な障害の多い路筋を通って返って来る。朝鮮語と日本語との音の対照は、際立ってもいたし、興味もあった。時として朝鮮語はフランス語に似ているようにも思われたが、フランス語と支那語と日本語とを一緒にしたようなものだというのが、一番よく朝鮮語の発音を説明するのであろう。子息が父親に話しかけるのに、必ず恭々しく、且つ上品な態度を取ったことは、目立った。質問に続くに質問が発せられたが、英語、日本語、朝鮮語の全域を通じて到達し、朝鮮語、日本語、英語を通じて返事が返って来るのだから、それは如何にも遅々たるものであった。

陶器はいまだに朝鮮でつくられる。白い石のようなものも、藍で装飾したものも、やわらかいものもあるが、すべてこの上なく貧弱な質である。製陶の窯は丘の横腹につくられ、父親が描いた怪しげな画から判断すると、日本のそれに似ているらしい。丘が無ければ、そのために斜面をつくる。その下部では熱が強すぎ、上端では不足するので、焼く時にかなり陶器が駄目になる。旋盤ろくろは足で蹴るので、昔この装置が朝鮮から輸入された肥前、肥後、薩摩が使用される物と同じい。大きな甕は粘土の輪を積み上げ、それを手でくっつけ合せてつくる。内側には四角か円かの内に切り込んだ、印版を使用するが、大きな品の内部にはよく銘刻が見られる。私は父親に、古筆氏が朝鮮のものだと鑑定した、数個の陶器を見せたが、彼もそれ等をそうであると認めた。私が持っている、古い墓から出た形式のある物を、彼は朝鮮では一つしか見ていないといったが、それも古い埋葬所から出たものであった。彼はドルメン〔卓石〕のことも貝塚のことも聞いたことが無く、更に彼は考古学の研究といったようなことは、朝鮮では耳にしたことが無く、古い物は極めて僅かしか保存されていないとつけ加えた。彼は、そのある物は大きく、人が住んだ形跡のあるという洞窟のことは聞いていた。日本の古代の埋葬場で発見される「曲玉まがたま」と呼ばれるコンマの形をした装飾品は、朝鮮では見たことが無いといった。
弓道では、朝鮮人は矢を引くのに、右手ばかりで無く左手も使用し、左手の方をよりよい手であると考える。方法を示すのに、父親は左手を用いた。弓はしっかりと握り、弓籠手こてをつける。また骨製或は金属製の拇指環をつける。朝鮮人は屡々百六十歩のところで練習をするが、これは恐らくヨークでの百ヤードの距離の定数箭放ちよりもえらいであろう。父親は紙をきりぬいて拇指環の雛型をつくった。彼は鉛筆を使うことはまるで出来ぬらしく、必ず紙の一片を取って、それをたたんだり、曲げたり、鋏で切ったりして、彼が説明しようとするところのものを示した。ドクタア・オリヴァ・ウェンデル・ホルムスは、かつて私に、自分は鉛筆では何もすることが出来ぬが、鋏で紙を切れば、好き勝手な形をつくることが出来ると語った。朝鮮の弓のある物は非常に強く、朝鮮の弓術家たちは、彼等の強力な弓を引くために、各種の運動によって特に筋肉をならす。この朝鮮人が、朝鮮には考古学的の興味がまるで無いことを正直に告白した言葉は、私の哀情をそそった。彼は、彼等が持つ唯一の遺物は彼等自身だといい、そしてそれをいった時、いずれといえば悲しげに笑った。彼等は日本人を西洋文明の前衛軍とみなしているが、若し一般の朝鮮人が日本に対して持つ憎悪の念を緩和することが出来れば、それこそ朝鮮にとってはこの上なしである。日本人は東方の蛮人から得た多くの事柄を、彼等に教えることが出来る。
図695は、日本の床が地面から上っているところを示す図である。縦の部分にある板には、よく形板で切り込んだ竹、松その他の月並な形が装飾として用いられている。これ等の板には取り外しの出来るものが多く、床下の空所は草履ぞうり、傘等を置く場所にする。日本の家屋には地下室が無く、このような形を切り込んだ板や格子が、床下の通風に役立つ。

日本を訪れる外国人は、先ず最初に、日本人が花を愛することの印象を受ける。どこにでも、庭内に、あるいは小さな水槽の中に、植木鉢やぶら下る花入れや立っている花入れがあり、そして外国人は、日本人が花を生ける方法の簡潔さと美しさとが、いたる所に顕れていることに気がつき出す。更に調べると、人に優雅で芸術的な花の生け方を教えることのみを務めとする、先生がいるという事実が判って来る。それにはいろいろな流儀があり、卒業する者には免状を与える*。
* ニューヨークのミス・メリー・アヴェリルは、日本で生花をならい、免状を受けた。彼女は日本の生花に関する本を書いたが、これはこの問題に興味を持つ人には大きに役立つであろう。またコンダアの『日本の花と生花の芸術』と題する著書は、この問題に関する重要なものである。
生花は決して女性のみのたしなみでは無く、大学の学生も、我国の学生が自分の手首の骨を脱臼させること無しに、他人の鼻を彼の顔の上でペシャンコにさせる芸術〔拳闘〕を稽古すると同じく、何等不自然なことなしに生花の稽古をする。図696は、若干の花を優雅に生ける懸かけ花入れの写生である。籠は非常に古く、署名つきである。事実籠をつくる人は、陶工、根付、印籠いんろうの作者、金属細工人、その他の細工人が彼等の作品に署名するのと同じく、自分の名を記す。米国に於る教義を思い出す人は、かかる事柄に関する日本人の芸術の真価をうれしく思う。古い支那学校で行われた午餐会には、床の間に三個の大きな花のかたまり、つまり花毬ブーケの高さ四、五フィートのものがあった。それ等は布をかけた台の上の簡単な円筒形の花生けに入っていて、松の大きな枝や小枝の間に花をあしらったものであった(図697)。

日本の犁すきに変種が多いことは、まことに興味がある。その基型は支那から来たのであるが、国々によって形に著しい相違がある。図698は日本で最も原始的な犁を示す。私は周防の国でこれが使用されるのを見た。この形は犁が耨くわの進化したものであるというイー・ビー・テイラーの説を裏書している。然しながら私は、殆ど三百年前に描かれた支那画で、匙鍬シャベルの形をした奇妙な道具を、牡牛が曳いているのを見た事がある。これによれば、犁が匙鍬から来たのかも知れぬと考えることも出来る。この形式の匙鍬は、今日日本で使用されつつある(図699)。図700は紀州の犁で、山城や大和で使用するものと似ているし、図701は一人の学生が筑前の犁を写生したものから取った。私は日本の犁を沢山写生した。山地では犁を曳くのに牡牛を使用するが、よりやわらかい土地だと、男の子にでも仕事が出来るように、牝牛を使用する。

先日午餐の時、蕈きのこにそっくり真似た砂糖菓子が出た。死白色の柄や菌褶きんしゅう、半透明で黄灰色な菌傘は、事実、それ等の特性を示していた。
京都には一一三二年に建てられた建造物の遺趾の上に立つ、六百年を越す建物がある。これは三十三間堂といい、二つの巨大な屋根梁が長さ三十三間(一間は六フィートに近い)あるところからこの名が来ている。この建物は長さ四百フィートに近く、幅は五十三フィートで、一つの後に一つという風な方陣に並べた女神、観音の像が無数に納めてある。その数は三万三千三百三十三であるという*。
* これ等の事実を私は案内記から引用した。
それをめぐる廊下は幅六フィートで、それを歩いて行くと一方側には厳重な棒で保護された戸口があり、その内にはこの聖人の林が、まるで観兵式の時の一連隊みたいに、密接した列をなして立っているのが見える。屋根は廊下から約十八フィート上に、廊下より外につき出し、そして桁や横木のこみ入った連鎖によって支持される。封建時代には、この長い廊下の一端に標的を置き、それを弓矢で射る習慣があった。弓は恐しく強力のものであらねばならず、射手もまた、十八フィートという限られた抛射弾道で四百フィート近くまで矢を射るためには、極めて強くなければならなかった。射手が何度となく失敗した証拠は、上方のこみ入った組立に、いまだに折れた矢がぎっしりつまってつき立っていることに見られる。人は第一印象として、大きな鳥が巣をかけようとしたのだなと考える。図702はこれ等の折れた矢をざっと写生したもので、それは桁を被う銅板の中につきささっている。この建物の横の原の一隅には小さな小屋があり、一セントで弓と十本の矢とを貸す。標的は原の中途のところにある。私は矢を三十本借り、非常に暑熱が激しかったにもかかわらず、数回標的にあてることに成功したので、弓をかす爺さんは吃驚して了った。私は弓籠手ごてを持っていず、また矢が絃を離れる時日本風に弓をひねることができないので、その後二週間も手首が赤くすりむけていた。書き加えるが、距離は半分であったが、私の抛射弾道は建物の、棟木ほど高かった。

人々が夏の夕方を楽しむ気持のよい方法は、いたる所で目立って見える。三河や伊勢で見たところでは、どんな風な河の岸にでも、それに沿うて足代が建てられ、家族がここに出て晩飯を食う。長い橋の上は晩方になると、まるで町中の人が総出になって、河の谷を吹く、より新鮮な空気を楽しんでいるように見える。
十月二十六日。ドクタア・ビゲロウと私とは、機会を得て東京千住の火葬場を見に行った。衛生局の長官から許可を受け、我々は午後九時、竹中氏と一緒に火葬場へ向って出発した。そこ迄は人力車で一時間かかった。私は陰気な小屋や建物のある、物淋しい場所を見ることだろうと予期していたが、それに反して私が見たのは、掃き清めた地面、きちんとした垣根、どこででも見受ける数本の美しい樹等、都会の公共造営物に関係のある事象であった。道の片側には火葬場があった(図703)。それは二つの、長さ七十二フィート、幅二十四フィートという煉瓦づくりの一階建の建物から成っている。この二つの建物は一列に並んでいるのだが、五十フィートの空間をさしはさんで、離れている。ここには高い四角な煙突が立っていて、この煙突に建物の屋棟から大きな鉄製の煙道が通じている。各々の建物は辷る戸のついた入口を持つ三つの部分にわかれている。写生図に示す如く、段々が煙突と煙道との交叉点にある足場まで達していて、ここには、多数の死体を同時に火葬する場合、上に向う通風をよくするために、石炭を燃す装置が出来ている。図704は、如何にして各室が上方の煙道に向ってひらいているかを示す。

死体を灰にするのに使用する諸設備の簡単さと清潔さとは、大いに我々に興味を持たせた。竈かまど(というよりも炉といった方がよい)は地面にあり、身を曲げた位置の死骸を、薪二本と少量のたきつけとから成る火葬堆の上にのせる。しばらく火が燃えてから、その上に藁製の米俵をかぶせる。炉は写生図(図705)にあるが如く、底石と二つの側石と一つの頭石とで出来ている。死体は三時間で焼き尽される。我々が見たのは、二時間燃焼したものである。杖で藁を押しのけたら、只大きな骨が僅か見えた丈であったが、それらも石灰化していた。部屋は煙で充ちていたが、それは死体からよりもむしろ燃える藁から出るので、事実、部屋の壁が煤で黒くなっているにもかかわらず、臭気は殆ど無かった。一隅には子供の為の小さな炉が二つあり、その一つでは火葬が行われつつあった。

最高の火葬料は七円である。これは中央に只一つの炉を持つ別個の建物(図706)で行われる。その次が二円七十五銭で、我国の金に換算して約一ドル三十七セントになる。これは大きな建物で行われ、死体はそれを入れて来た大型の木の桶に入れたまま焼く。第三の、そして最も安い階級は一円三十銭しかかからず、この場合棺桶は焼かずに、死体だけを焼く。火葬場の監督は近くに住んでいて、灰を入れる壺を保管している。これ等の壺は大きさによって、一個六セントから八セントまでする。彼はその一つを私にくれた(図707)。壺の内には小さな木の箱があり、これに注意深く灰からひろい上げる歯を納める。歯に関しては奇妙な迷信が行われつつあるらしく、昔時人々は一定の日に、彼等の歯がぬけぬことを祈り、供物をしたりした。火葬されつつあった死体は、当時東京で猖獗を極めた虎列刺コレラの犠牲者のそれであった。監督はじめ、この仕事に従事するものは、屡々墓掘に見受ける、あの陰気な顔をしていず、愉快で丁寧で気持のいい人々だった。我々はこの経験に最もよい印象を受け、我国ではこの衛生的な方法を阻止する偏見が、いつ迄続くことであろうかと考えたりした。

火葬場への往復に我々は、東京の最も貧しい区域を、我国の同様な区域が開いた酒場で混雑し、そして乱暴な言葉で一杯になっているような時刻に、車で通った。最も行儀のいいニューイングランドの村でも、ここのいたる所で見られる静けさと秩序とにはかなわぬであろう。これ等の人々が、すべて少くとも法律を遵守することは、確かに驚く可き事実である。ボストンの警視総監は、我国を最も脅かすものは、若い男女の無頼漢であるといった。日本には、こんな脅威は確かに無い。事実誰でも行儀がよい。
天文台に於る私の部屋は、この観測所の関係者の為に建てられた小さな家の中にある。私の唯一のストーヴは図708に示すもので、四角な木の箱の竹の中に灰を満たした円い土製の容器があり、鉄箸の形をした金鉗かなばさみはその一隅に、竹の管に入っている。外側では既に氷が張っているので、この小さな炭火が無ければ私の部屋は非常に寒いことであろう。私は炭酸瓦斯ガスに馴れて了った。もっともその大部分は、床の割目から下へ沈んで行く。あまり強くなれば窓をあける。私は質問を発した結果、日本人が唯一の保温法である炭を燃すことから、何等の不便を蒙らぬことを知った。私の火をつくる――というより、彼女自身の火鉢から僅かな熱い炭を持って来る――老婆は、瓦斯が有害であることなど聞いたことが無く、それが人を殺すことさえ出来るなどとは、夢にも思っていなかった。私の部屋は実に乱雑を極めている。集った陶器、セーラム博物館のための人類学上の標本、雑記帳、絵画等が、寝台と書卓を入れるにさえ決して大き過ぎはしない、小さな部屋に押し込んである。図709は書卓から見た私の部屋の、ざっとした写生である。

先日いい折があって、私はある婦人――私の小さな家の世話をやく男の神さんである――が、彼女の歯を黒く染めつつあるところを写生することが出来た。彼女は三日か四日に一度、これをしなくてはならぬといった。口をすすいだ水をはき出す特別な銅の器があり、それにかけ渡した金属板の上には、二つの真鍮の容器が置かれる。その一つは粉状で灰に似ている堅菓ナッツの虫瘻むしこぶを入れた箱で、他には鉄の溶液を含む液体が入っている。この溶液は彼女が古い壺を使用し、酢に鉄の一片をひたして、自分でつくる。刷毛は一端をささらみたいにした木の小片で、つまり普通の日本の歯楊子である。彼女はこれを鉄の水にひたし、次に堅菓の虫瘻に入れ、あたかも歯を清潔にしているかの如くこすり、時々横に置いた鉢の水で口をそそぎ、また鏡を取り上げて歯を充分黒くなったかどうかを見る。これは歯のためによいとされている(図710)。

菫すみれのことを一般的にスモー トリ グサと呼ぶが、スモー トリは「相撲取り」で、子供達が花をひっかけ合わせ、両方に引いてどっちが負けるかを見て遊ぶからである。
Ceiling を意味する日本語はテンジョウで、直訳すれば「天の井戸」となり、我々の語と同じ語原から来ている。
Fool の日本語はバカ。これは直訳すると「馬鹿うましか」である。Sea-sickness はフナヨイ「船酩酊」。
天皇陛下のお庭が、初めて特別な招待によって観覧のために開放された。数日前菊の展観に対する御招き状が、日本人と外国人とのすべての教授、並に恐らく同階級の日本人官吏のすべてに向って、発せられた。今明日がその日で、私は現在では大学と公式の関係は無いが、大学の役人と認められて、御招待にあずかった。今迄は只外国人にあっては外交団の人々のみが、お庭に入ることが出来た。一枚の切符について家族五人を連れて行くことが許されたので、どの一枚も最大限度にまで使用されたらしく思われた。貴婦人や子供達も多く、彼等は美々しく装っていた。子供達がこの上もなく行儀のよいのは、見ても気持がよかった。怒鳴どなったり、叫んだり、男の子がやたらに走り廻ったりするようなことは、更に無かった。庭園はそれ自体がすでに完全な楽園であった。私はその驚く可き美しさを記述する言葉も、才能も持っていない。そこは広く、もとは平坦だった場所に築園されたのである。起伏する丘や、渓流が流れる岩の谷や、谷や、橋や、ひなびた東屋あずまや等が建造され、そのいずれもが賞嘆に値した。
我々の仲間に、最近大学の教職についた背の高い外国人(米国人)がいた。彼はまるで瀬戸物店へ踏み込んだ牡牛だった。彼は庭園中を横行濶歩したが、何を見ても感心せず、事実、乱暴で莫迦気ばかげきったことばかりいうので、我々はついに彼をまいて了った。だが、その前に、我々は外国製の安っぽくてギラギラした赤色の絨氈じゅうたんによって、その内部を胆をつぶす程ひどくされた、美しい小亭へ来た。この男はここに於てか、初めて讃う可き物を発見し、自然そのままの木材でつくった最も繊細で美しい指物細工のこの部屋に、かかる吃驚するような不調和な物がある事実を丸で感じずに、その美しさを論評するのであった。
花は変化に富み、優雅にも美麗であった。それ等は竹と葦の簾とで趣深くつくった日除の下に排列してあった。もっと永久的な日除の出来た場所もあった。多くの驚く可き樹木の矮生樹があったが、その一つは直径二十フィートの茂った葉群を持ちながら、高さは二フィート半を越えず、幹の直径は一フィートである。また野趣に富んだ垣根、橋、美しい小湖もあった。日本人は造園芸術にかけては世界一ともいうべく、彼等はあらゆる事象の美しさをたのしむらしく見えた。外国人とても同様であったが、只例の背の高い教授だけは例外で、彼はマゴマゴしたのみでなく、断然不幸そうに見えた。
十一月三日、外務大臣井上侯爵が、皇帝陛下の御誕生日を祝う意味で盛大な宴会をひらいた。この宴会に招れたのは、外国の外交官全部、教授階級のすべての教師、並びに多数の高官たちである。招待状は千通発送された。井上侯爵の家は大きくて広々とし、全部西洋風である。庭園は迸出する瓦斯や提灯ちょうちんで輝かしく照明されていた。実にいろいろな衣裳が見られた。日本の貴婦人達は美しくよそおい、各国民――フランス、ロシア、スイス、ドイツ、イタリー、英国、米国等の大公使館の人々は、それぞれの制服を着ていたが、光まばゆい勲章をつけている人も多かった。支那人七人と朝鮮人八人とは、自国の服装をしていた。
私にとって最も興味が深かったのは、隣り合って席を占め、交互に吹奏した陸軍と海軍の日本軍楽隊であった。彼等は日本人の指揮者と、すべての現代的の楽器を持つ、非常に完備した楽隊で、古い作曲家達の音楽を、極めて正確に演奏した。私は彼等の演奏のハキハキしたこと、正確なこと及び四年間に於る彼等の進歩に驚かされた。何故かというに、私は四年以前、陸軍軍楽隊が奏楽するのを聞き、いまだに明瞭に、その演奏が如何にお粗末であったかを覚えていたからである。その時私は、たとえ日本人が如何に完全に外国の様式を取り入れ得るにしても、音楽に関するかぎり、その意味をつかみ、適当に演奏することは出来ぬであろうという結論に達した。私は二つの音楽が、全く相異しているので、このように思考したのであった。今や私は、この結論を変更し、我々の音楽に関しては、単に練習が必要であったのだといわねばならぬ。余程の達人にあらずんば、演奏しつつあるのが日本人であるか、それとも上手な外国人の音楽者であるか、判断出来まいと思われた。また数名の日本人の紳士淑女が舞踊に加っているのは面白く思われたが、彼等はよく踊った。地階でも一階でも、美味な小食が供され、葡萄酒、三鞭シャンペン、麦酒ビールが沢山あった。外庭では光まばゆい花火が打ち出され、すべてをひっくるめて、これは非常なもてなしであった。
私は茶の湯のこみ入った勉強を始め、日本人の組に加入した。先生の古筆氏は、私がこの芸術を習う最初の外国人だという。私が茶の湯を始めたという事実と、その時持ち出される陶器を素速く鑑定して茶の湯学校の爺さん達を吃驚させたという記事とが、新聞に出た。日本の新聞が、米国と同じく、あらゆる下らぬことや社交界の噂話等を聞き込むことは一寸奇妙に思われるが、これは要するに、人間の性質が、世界中どこへ行っても同じであることを示すものである。
日本人は発明の才を持っていないといわれるが、而も東京をあるいている中に、私は我国の工匠たちが真似てもよいと思われるような、簡単な機械的の装置を沢山見た。今日私は真珠貝を切っている男に気がついた。切断される可き貝の一片は、図711に示す如く、上方にある横木の下で曲げられた、弾力のある竹の条片で押えられる。鋸は挽かる可き片に垂直に置かれ、この作業に使用される砂は然る可き所に置かれる。これは瞬間的に調整され得る万力の簡単な一形式で、竹の条片の強弱によって、押える力を自由に変えることが出来る。桶には水が一杯入っているから、貝殻はすぐ洗える。

図712は仕事をしつつある鍛冶屋である。彼はすべての職工と同じく、地面、あるいは床の上に坐る。鞴ふいごは長い四角な箱で、その内にある四角い喞子ピストンを桿と柄とによって動かす。鍛冶屋は左足で柄をつかみ、その脚を前後に動かして鞴に風を吹き込むから、両手で鉄槌を使うことが出来る。この場合助手は立っている。道具は我国の鍛冶屋が使用するものと大差ないが、只私は大きな鉄槌のあるもの(あるいは全部かも知れぬ)にあっては、柄が鉄の部分の中央に押し込んでなく、一端に片寄っているのに気がついた。床には我国の鍛冶屋で見るのと同様な鉄棒の切れっぱしや、その他の破片やかけらが、ちらばっていた。時として子供が鞴を吹くが、これは手でやる。

東京市中のあちらこちらの町には、殊に屋敷の塀に沿って、ドブや深い溝がある。これらの場所はこの都会を悩ます蚊の発生地で、同時に蚊の幼虫を網でしゃくい、それを金魚の餌に売る大人や子供にとっては、生計のもとである。
ここ数日間、本物の荷づくり人が陶器を包装しにやって来つつあるので、床は箱や藁で被われている。彼等が各々の品をつつみ上げる方法を見ていると面白い。先ず藁を一握り取り上げ、指でそれを真直にくしけずり、その中央部でひねると、藁の両端が扇形にひらくから、その中心に茶碗を入れ、辺に添うてくるりと藁を内に畳み込む。茶入も同様につつむが、藁は上の方でひねる。凸凹のある、大きな円筒形のものだと、長い藁繩をつくり、それを品物のまわりにまきつける。料理番の小さな女の子とその遊び仲間とが、戸のところへ来てのぞき込んだ。標本が沢山あるので吃驚したのである。私は彼等を呼び入れて紙と鋏とを渡した。彼等が人形や鶏や鷺やその他を切りぬく巧な方法は、驚くばかりであった。私はそれ等をすべて取っておいた。それはセーラムの博物館へ行くのである。私は彼等に土瓶と茶碗二つを与えたが、彼等のなすところを見、いうところを聞くことは、誠に興味があった。一人がお茶をついでやり、そして茶碗が差し出されると、まるで貴婦人ごっこをしているように丁重にお礼をいう。が、彼等は貴婦人ごっこをしていたのではなく、かく丁寧にするように育てられて来た迄の話である。彼等はせいぜい九つか十で、衣服は貧しく、屋敷の召使いの子供なのである。
先日私は再び私の家の裏にある狂人病院を訪れた。主事は非常に親切で、すこし英語を話すので私の話す僅かな日本語と相俟って、我々は極めてうまい具合に話を進めた。私は病気の種類の割合や原因等に関して、いろいろと聞くところがあった。
刀剣商人の町田氏が一晩話しにやって来た。私はいろいろと質問を発して、彼を夜中まで引きとめた。以前彼は斬首人をやったので、非常に多くの罪人の首を斬り、そして私に物凄い話をして聞かせた。異る国が、如何に同一な行為を見倣すかは興味がある。ある国では、斬首人は嫌われ、社会ののけ者にされている。日本の職業的斬首人は特殊階級から出る。日本の紳士は、罪人の首を斬ることを、彼の刀身の調子をためす、いい機会であると考える。また別の理由もある。若し彼の友人が腹切りをすることがあれば、彼は首斬りの役を頼まれるかも知れない。何故かとならば、切腹の行為には、友人が素速く刀を振り下して首を斬ることが、すぐ後から行われるからである。人は劇場で「四十七人の浪人」が上演される時、この行為の目ざましい表示を見ることが出来る。罪人の首をはねることはよい稽古になる。町田氏は、胴体から首を切り離すには、そう大した力で打ち下す必要はないといった。彼は最初にこの行為を行った時、あまり力を入れ過ぎたので、地面にある石にぶつけて刀を折ったそうである。罪人の目には布をしばり、彼は筵の上に、身体を入れる丈の大きさの穴を前にして坐り、従者が両腕を後に押えている。そして頭が穴の内に落ちると同時に、その後へ身体を押し入れて筵をかぶせる。町田氏は、頬や唇の筋肉はしばらくの間震え、同じ運動が腕や、全身にわたってさえ見られるといった。彼はまた維新当時の上野に於る戦争に関する、面白い話をしてくれた。
十一月中、浅草寺の裏で興味ある市場がひらかれる。そこの町通りに大きな小屋がいくつも建ち、幸福と健康とを保証する奇妙なお守が売られる。これ等のお守は竹でつくり、色あざやかな、金銀の紙で被った小さな米俵、※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)よった藁その他の、豊饒と幸運との表徴である。ある物には七種の宝物をのせた幸運の舟があり、他のものは扇、又は熊手の形をしていて、その中心に幸福の女神であるオタフクの面があり、横にはいろいろなかざりがついている。狭い町や露地が人で埋り、両側には、このような不思議なお守や象徴の、そのあるものは直径五フィートを越える程大きなのを、ぎっしり詰め込んだ粗末な小屋が、ずらりと並んだ光景は、誠に奇妙である。祭礼の日には一日中、人々がこれ等の品を手に持ったり、人力車にのったりして家へ帰るのが見受られるが、大きいのだと旗みたいに上へささげる。これ等は必ず竹の棒の上についている。図713はこれ等のお守の二つを示す。小さい方は中心に桝が一つあり、米の枝がついている。これ等は皆粗雑につくってあり、そして如何にも弱そうだが、而も決してバラバラにこわれたりしないらしい。おまけにこれ等は装飾的な性質を具えている。近くには神道の社があり、その前では人々が七重八重に立って祈っていた。この社の前に、すくなくとも長さ八フィート、幅と深さとは三、四フィートもある、大きな賽銭箱が置かれ、それに紙につつんだ厘、天保、銭、あるいはそれ以上の銭が、雨のように絶間なく投げ込まれた。その傍のお粗末な舞台では、一刻も休まずに騒音を立て続ける太鼓と笛とにつれて、一種の芝居が行われつつあった。この混雑の中で、小さな子供達が甲高い声を出して、売物の名を呼び、両親達の手助けをしていた。広場の土の上に坐った二人の乞食だけが、この群衆中唯一の貧困の例証であった。一種変った芋を売っていたが、これは生でも料理しても食える。餅は大きな片に切って売り、最も安っぽい簪かんざし――只のヤスピカ物――も、この市のおみやげとして売っている。そして誰もが幸福そうに、ニコニコしていた。このお祝は私には初めてで、見る価値が充分あった。

桜井という、ふとった人のいい友人が、東京へやって来た。私は最初彼に名古屋であったが、その時は権左という名で呼び、同市で陶器をさがし、私を然るべき店へつれて行くことに大きに骨を折ってくれた。彼は瀬戸の初期の陶器に関する書類を持って来たばかりでなく、興味のある品をいくつか持って来て、私の荷づくりを手伝う為、かなりの費用を自分で出して、東京に滞在している。名古屋にいる彼の細君と娘とが、特別便で私に、或は元贇げんぴんと証明されるかも知れぬ、古い尾張の茶碗を送って来た。この贈物には片仮名で書いた手紙がついている。竹中が訳したところによると、それは以下の如きものである。
あなたに手紙を上げます。如何ですか。お達者ですか。私どもは、あなたが今度御丈夫であることをお祝いします。権左はあなたのところへ参り、あなたは彼からいろいろ買って下さいました。彼は私に沢山の金を送りました。私は大変にお礼を申します。私どもはこの茶碗を差上げ、私の感謝の意を表することをよろこびます。私どもは、あなたがこれをお国へお持ち帰り下さることを願います。私はこの茶碗を、ある屋敷で手に入れました。これは非常に古いのです。何卒御使用下さい。私どもは、あなたが無事に御帰国になることを、非常に望みます。私どもは、只僅か申上るだけです。私どもは幸福です。私どもはお祝いいたします。
モース様へ   十一月十九日
母 つる   娘 はく
日本人の身振については、我々と同じものがすこしあり、他はまったく違っている。竹中の話によると、友人に何か、例えば菓子のような物をくれという場合、その友人が普通にする身振は、目を引き下げて、あたかも「これが取れたらいいと思うだろうね」というように、一種、いやな目つきをすることである。手で人を呼ぶ時には、指は我々と同様に動かすが、手の甲を上にする。「否」という時には、手を顔の前で前後に動かす。日米両国人間の身体的表情の類似点を友人と話し合っている時、私は驚きやまどいの表情が、鼻をこすったりする点で同じであることに言及したが、不愉快を示す表情は違っている。我々だと、普通、眉をひそめて目を小さくするが、日本人は怒ると目を大きくひらき、子供は悪いことをすると叱られ、即ち、オメダマ チョーダイする。これは直訳すれば、「眼球の賜物」となる。指を一寸焼くと、奇妙な動作が行われる。それは即座に耳朶みみたぶをつかむので、耳は常に冷かであるから、苦痛を軽くする。
学校の寄宿舎で学生達は、如何なる種類の楽器も持つことを許されず、将棋や碁もしてはいけない。勉強の邪魔になるからである。彼等の勉強は朝早く始り、実にはげしいコツコツ勉強で、科目は我国の大学に於るものとまったく同じだが、すべて英語である。医科ではこれがドイツ語になる。武士の子は朝六時に起き、井戸の傍で顔を洗ってから、大きな声を出して本を読む*。
* 声を出して本を読むことは、慣例的である。そうしなければ、読みつつある物を了解することが出来ぬと彼等はいう。然し、大学に入ってだんだん学問が進んで来ると、この習慣はなくなって行く。
それぞれの寄宿舎の等級は、学生が読書に際して立てる騒音の差によって、それと知られる。早い朝飯の後で、子供は学校へ行き、六、七冊の本に字を書かねばならぬ。一冊に四十頁、一頁に大きな字を四つ書く。これ等の頁には、何度も何度も書くのだが、乾いた墨の上に、濡れた墨が明瞭に見える。怠け者の子は、時として紙の上に墨をはねかけるが、先生には大抵の場合、この悪だくみを発見することが出来、その子は放課後、刑罰として学校にのこされる。子供は必ず弁当箱を持って行き、「熊のように空腹」になって帰宅する。母親がお菓子を与えると、彼はそれを貪り食い、そこで晩飯まで遊び、翌日の予習をしてから寝る。
日本には、我国にそれと同じものを見出し得ぬ、ある階級の娘がいる。彼女等は芸者と呼ばれ、奥さんや令嬢達があらわれぬ宴会で、席を取り持つことをつとめとする。一例として、数名の友人を晩餐に呼ぶ人は、かかる娘を二、三人、或はそれ以上雇うことが出来る。すると彼女等は、単に酒を注ぐことを手伝うばかりでなく、気の利いた、機智的な会話で、あらゆる人をいい気持にさせる。彼等の多くは、中々奇麗で、皆美しい着物を着ている。一度私は、ある晩餐の席で、一方ならず美しくないばかりでなく、まったく年取った芸者にあったことがある。それ迄、芸者なるものが、彼女等の美貌と、恐らくは若さとの為に雇われるものと思っていた私は、彼女のことを日本人の友人にたずねたところが、彼女は東京に於て最も有名な芸者の一人であるとのことであった。
十数名の、政見を異にする政府の役人の宴会などに、この愛嬌と会話的妙技と機智とを持つ芸者が、短時間に調和と、よい機嫌と、行為の自由とを持ち来たし、その結果、しばらくの間、その人々を、気の合った一群にすることもある。我国でも、単に万事うまい具合にする丈の目的で、若い婦人を晩餐の席に招くことはよくやるが、彼女に金を払いはしない。日本では、これが職業であり、これ等の丁寧でしとやかな、気のいい、機智に富んだ、元気のある娘達は、宴会その他のあらゆる会合で人をもてなすことによって生計を立てる、大きな一階級を代表している。そして彼女等は、確かに、態度や才芸に於て、この社会以外の普通な娘達よりも、もてなし振りが上手である。これ等の娘達は、しばしばかかる場合に偶然知り合った人と結婚し、またこのようなお祝の酒盛で、時に恋愛的の婚姻が行われるというのも、真実である。
用箪笥だんすの後から物を引き出すのに矢を使用したところが、矢が折れた。これを見た竹中氏は、昔日本人は、故意に矢を極めて弱くつくり、敵が再びそれを使用することを防いだと話してくれた。
町田氏が、人力車にいっぱい武器を積み込んでやって来た。長い槍、各種の武具、軍隊信号に使用する扇、見事な弓と十二本の矢を入れた箭や筒、撃剣に使用する刀、槍その他すべての道具等がそれで、セーラムのピーボディー博物館のために、私にくれた。刀剣は来週持って来てくれる。私はピーボディー博物館のために、沢山の物品を貰ったが、町田のこの贈物は、何といっても白眉である。
昨日、私が既に数回あっている朝鮮人の父子が、暇乞に来た。父親が間もなく朝鮮へ帰るのである。子供の方が日本語を話すので、我々はうまい具合に会話を交えたが、私が父親に向って、別に大した必要もない朝鮮の品で、博物館のために私にくれるような物は無いかと聞こうとするに至って、行きつまって了った。これは私の日本語では云い得ぬことだった。それでしばらくまごついた揚句、日本人の友人を呼んで通弁して貰った。彼は、彼の部屋に何かあるかどうか、見て見ようといった。昨夜、八種の異る品物が私に与えられた。それ等は皆朝鮮の品で、いずれも興味がある。
日本の農夫は、一日に五、六回、主として米、大根、魚等の食物を食う。実際測ったところによると(医学生である竹中は私にかく語った)、日本人の胃は外国人のそれよりも大きい。これは、彼等が米を多量に摂取するからかも知れない。田舎の子供達が、文字通りつめ込んだ米のために、まるくつき出した腹をしているのを見ては、驚かざるを得ぬ。
女子師範学校の校長高嶺氏は、私と一緒に、製陶工場がいくつかある今戸へ行き、陶工について何か聞き出そうと努めた。然しそこの人々は、間がぬけていて、だらしが無く、そして冷淡なので、私は彼等のなかに、この問題に関する何等の興味を惹き起すことも出来なかった。私は最後に、彼等の間がぬけていること、或は反感は、ある乱暴な英国人の悪い影響から来ているのに相違ないという結論を以て、その場を立ちさった。京都の陶工達との対照は、ことのほか著しいものであった。
高嶺は私を彼の家へ正餐に招いた。お客様も数名あったが、私は一時間あまりも平気で膝を折って坐り、もう馴れて来た変った食物を箸で食い、米国でナイフとフォークを持って椅子に坐っているのと、まったく同様な気持でいた。食事後高嶺氏は、我々を茶室へ導いた。ここには茶の湯の道具が全部揃っており、私に儀式的な茶を立てろというので、私はどうにかこうにか、茶を立てた。
その後高嶺は、私を特定区域へ案内した。以前、彼等は不潔であると見られ、彼等は皮革の仕事をし、動物の死体を運搬し、概してこの都市の掃除人であった。この階級と結婚することは許されず、またそのある者は富裕であったにかかわらず、彼等は避けられ、嫌われていた。彼等は、人々から離れて、ある区域に住む可く余儀なくされ、誰もその区域を通行しなかった。今や法律的の制限はすべてなくなったのであるが、而も彼等は、彼等だけ一緒に住んでいる。主要街路は妙にさびれて見えた。人力車はどこにも見えず、店もあるか無しかである。看板はすこしあるが、店の前の紙看板や提灯は無い。私は太鼓を製造している場所五つの前を通った。太鼓をつくるのには革を取扱わねばならぬからである。子供達は幾分、粗暴であるように思えたが、私が予期していたような卑しい、あるいは屈服されたような表情は、誰の顔にも見受けられなかった。いたる所完全に静かで、落ついていた。子供達は他の場所に於ると同じく、独楽こまを廻したり、走り廻ったりしていたが、一種の真面目な雰囲気がただよっていることは、疑う可くも無い。
師範学校で私は蝦夷えぞの札幌から来た、教育のあるアイヌにあった。彼は典型的なアイヌの顔をしていて、日本語を流暢に話すことが出来る。私は彼に、アイヌに関するいくつかの質問をした。彼は、アイヌは陶器をつくらず、彼の知る限り、過去に於てもつくったことが無いといった。私はまた、彼から弓矢に関する詳細と、弓を引く時手をどんな風にするかを聞いた。アイヌは拇指と、曲げた人差指とで矢を引く。最も程度の低い野蛮人が、この簡単な発矢法を行い、そしてより程度の高い民族が、より複雑な方法を持っているかどうかを確めたら、面白いだろうと思う*。又私は、アイヌが、逃げて行く人の足を狙って矢をはなつということを知った。
* その後私は、程度の低い野蛮人が、ここに書いたような簡単な方法を持つことを確めた。マサチューセッツ、セーラム、エセックス・インスティテュートの時報(一八八五)『古代及び現代の発矢法に関する紀要』参照。『大英百科事典』の最新版にはこのことが、「マサチューセッツ、ウスタアのイー・エス・モースの古代及び現代の弓術、一七九二年参照」となっている。
周防では麻を調製するのに、大きな木造の円筒を使用する。それは樽みたいに出来ていて、上が細く、両端がひらいている。これに麻をつめ、それを地面にそなえつけた、釜の上に置く。釜は下から火をつける。しばらく水を熱すると、湯気が麻の間を通る。麻に充分湯気が廻ると、はねつるべのような装置で円筒を持ち上げる(図714)。

今日蜷川の葬儀が行われ、私も招かれて参加した。彼は虎列刺コレラで死んだので、その時は公な葬式が許されず、今や、三ヶ月後になって、それが行われるのである。私は早くから竹中と一緒に、上野の後方にある墓地へ行き、葬列の来るのを待つ間、墓石を二つ三つ写生し、そこで葬列が来たらそれをむかえる可く、主要な並木路を見ていた。間もなく葬列が来た。先ず竹竿のさきに新しい、白張の提灯をつけたのを持った男が十二人、彼等は白い衣服をつけ、絹製の奇妙な形をした、黒い儀式用帽子をかぶっていた(図715)。これに続いて、巨大な花束を持った男が二人、次に六人の男が肩でかついだ長い物、つまり棺。これは勿論からだが、蜷川の死骸を代表している(図716)。これに従うのが送葬者で、蜷川の姉と甥、その他私の知らぬ人が何人か、歩いたり、人力車にのったりして来た。私は屡々このような葬列を往来で見て、本物だろうと思っていたが、その多くが単に名義上の葬式であることを知った。棺架は、四方がひらいた、然し風で前後にはためく白い幔幕でかこまれた、大きな建物の内にはこび込まれた。まったく寒い日で、そこに帽子を脱いで坐っていることは、楽ではなかった。

図717は、式が始った時、この建物の内部を、急いで写生したものである。棺架は左方に、二つの支持脚の上に、のっている。花は棺架の端の花入台に入っている。次に漆塗の卓が二個、その一つは他よりも背が低く、大きい方の卓には、蜷川の名前を書いた木の札が立てかけてある。これは葬列が持って来たので、一時的の墓石として使用される。卓には磨き上げた真鍮の盃その他や、黒い漆塗の台にのせた食物や、簡単な木造の燭台に立てた六本の蝋燭等がのっている。

いずれも頭をまるめ鬚ひげを剃った僧侶が、美麗な錦襴の衣を纒って入って来て、写生図に示すような位置に坐った。両側の床几は主な会葬者の坐るところである。私は右側に、一人の高僧の隣に腰をかけた。この人は何等かの理由で他の僧侶達と一緒にならず、只祈りをいい続けた。坐っている僧侶は、祈祷書を開いて自分等の前の床上に置いたが、それはまるで見なかった。頭の僧侶が始めた、低い、つぶやくような音に、追々他の僧侶が加って行った。その音は、私が何一つ、明晰な語を聞き出すことが出来なかったことから判断すると、恐らくまるで意味が無いのであろうが、興味が無いことは無かった。それは悼歌のように聞えた。このつぶやきがしばし行われた後、一人の僧侶が一対の大きな鐃※(「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6)ぎょうばつを取り上げて数回ガチャンガチャンと鳴らした。すると他の僧侶達は短い祈祷をなし、両手の内で頭をぐるぐる廻し、頭をひょっと動かしてそれをやめ、再び誦経を始めたが、風は寒いし、これが永遠に続きそうな気がした。次に頭の僧侶(写生図に示す彼の頭は、実に正確に書いてある)が、再び鐃※(「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6)が鳴った後で立ち上り、紙を大きく畳んだものを開いて、悲哀に満ちた、葬式的な音調で、蜷川の略歴、つまり彼が何であり、何をなした云々というようなことを、読み上げた。
この時蜷川の姉が立ち上り、図718に“incense”と記してある卓の前に立った。この卓の上には炭火を入れた物があり、その両側に香を入れた小さな容器がある。彼女は先ず両手を握り合せて低くお辞儀をし、左手の箱から香の一片を取って炭の上にのせ、再び低くお辞儀をして、席に戻った。次に甥が同じようなことをすると、驚いたことに、私の隣に座っている日本人が、私に行けとつつくではないか。私は出来るだけの日本語で、彼に先にやってくれ、あなたのすることを一生懸命に見ているからと囁ささやいた。すると彼は、右側の箱から香を取った。いよいよ私が出て行かねばならなかったが、坊主が八人も並んでいる前で手を合わせ、低くお辞儀をし、右手の箱から香を出さねばならぬのだから、多少あわてざるを得なかった。
涙を流すこともなく、その他の悲嘆の情も見えなかったが、この儀式には確かに真面目さと、荘厳ささえもがあった。建物の近くには五、六十人が立っていたが、恐らく帽子をかぶらぬ外国人が、長いアルスター外套を着て、会葬者の中にいるという新奇な光景を、不思議に思った事であろう。焼香が済むと式は終った。蜷川の姉は六十を越した老婦人であるが、私のところへ来て、会葬してくれた親切を謝した。甥も私に感謝した。妻は翌日まで墓地へ行かない。この理由で蜷川夫人はこの式に列しなかった。図718はこの式の平面略図で、僧侶や会葬者の位置を示すものである。

図719は仏教の墓石で、これは古い形式である。石にあいている穴は、花を入れるためのものである。仏教の墓には、精神的の名前、即ち死後につける名前を使用する。神道だと、死者の本名と、彼の生涯の略歴とを刻む。神道の墓石は、それを切り出した時の、自然その儘の劈裂面を見せている。720と721の両図は神道の墓石である。

日本人は彼等の英雄を崇拝し、よしんば何百年前のものであっても、それ等の人々の墓を飾ることを忘れぬ。義貞は一三三八年、正統のミカドなる後醍醐天皇を再び王位におつけしようとする戦争で、討死した。今日に至る迄、彼の墓は注意深く守られ、新鮮な花で飾られる。一八七五年には、神社と記念碑とが建設された。同様に古い他の埋葬場にも、同じような注意が払われつつある。
葬式が終ると、私は高嶺の家へ急いだ。彼は、私が矢を引く時の手の有様を写生することが出来るように、北国の弓術家を招き、私のために矢を射させることにした。支那人は弓を引くのに拇指環を用いて弦をひっかける。日本人は手首の長い手袋で、指が二本か三本と、大きに厚くした拇指とがついている物を使用する。その底部には弦をひっかける溝があり、革紐によって手袋は手首にしっかりまきつけられる。722、723の両図は、弓を引く時の手の形であり、図724は弓術用の手袋を示す。放射法はかなりむずかしいが、弦を三本の指のさきで引く我々の方法と同様に、力強いものである。

私は、かつては高官であったが、過度の飲酒のために職を失い、今は破産人であるところの、一人の陶器に関する権威者を見つけ出した。彼は貧困がありありと見える、みすぼらしい家に住み、そして彼の状態は憐れなものであった。頸には大きな腫瘍があり、はげしく咳をし、家は取りちらしてあって、布団が敷いてあるところから見ると、彼はそれ迄横になっていたのに相違ないが、而も彼は躊躇せず、また弁解等もせずに、私を招き入れた。私はいろいろな陶器の権威者に就て質問した。彼は古筆氏はいいといい、また柏木氏への手紙をくれた。
もう六時に近く、そして暗かったが、私――私の車夫がともいえる――は柏木氏の住所をさがし、遂に広辻の一角に、三軒の蔵を発見した。高さ十五フィートの竹の垣根にある低い入口を通りぬけると、蔵(図725)の一に招じ入られた。柏木氏は私を三人の男に紹介したが、三人とも古物蒐集家であった。彼は非常に親切で、私にいくつかの興味ある品を見せてくれ、私は即座にそれ等を写生した。また彼は、それに関する知識を持っているらしい数種の陶器に就て、面白い話を沢山してくれた。彼は「薩摩の花装飾」が八十年以前からあるというような考は、愚劣なものだといった。陶器に関する彼の言葉は、私の陶器覚書に訳してある。彼は、日本の古銭の最も珍稀な蒐集や、一千年も前の陶器や、稀な絵画や、その他いろいろな物を持っている。この部屋にある物は一つ残らず古くて珍しかった。火鉢も非常に古く、その下半分は真珠貝を象嵌した漆塗で、装飾の主題は馬の銜はみである。

私はまた家について、新しい点を知った。日本人が、防火建築の大きな、寒い、納屋みたいな部屋を、気持のいい場所に変えてそこに住む方法は、図726に示す通りである。部屋の形と同じな、然しそれより小さい、四角な竹製の枠を立て、部屋の壁と枠との間には三フィート半の通路を残しておく。この枠は僅かに色をつけた布で覆ってある。この枠は部屋よりも小さいので、人はこの布と部屋の壁との間を通ることが出来る。彼は一七〇〇年に発行された古い本を見せたが、それにはこの枠の構造、布のかけ方等の、こまかいやり方が書いてあった。これは明かに古くからある思いつきで、かかる防火建築が居住の間まとして利用されたことを示している。今迄に何度も蔵の内へ入ったが、このような装置を見たのはこれが最初である。夏にはこの部屋は涼しくて気持がいいことだろう。蔵の壁には本棚や置戸棚が並び、柏木氏はそこに書物や宝物を仕舞っておく。幔幕をかかげると出入口が出来る。彼はさがす物があるとそこからもぐり込むのであるが、布を通じてかすかに輝く蝋燭の光によって、私は彼がどの辺を動いているのか知ることが出来た。

先日増田氏が、私にある古物蒐集家の話をして、一度あって貰い度いのだがといった。私は増田氏と、その人の家へ行く約束をしようと思っていた。昨晩私はまた柏木氏の家へ行ったが、彼は留守だった。しばらく待っていると、彼は増田氏と一緒に来た。増田氏は、私がいたので驚きもし、よろこびもして、私がどうしてこの家を見つけ出したかと、不思議がっていた。七、八人の古物蒐集家が集って来たので、柏木氏が持ち出す陶器その他の貴重な品に就て、彼等と会話を交え、意見をたたかわすことは、誠に愉快だった。私は陶器や古物の話を容易になし得る程度の日本語を会得しているので、通弁を必要としない。これ等の古い品物の鑑賞眼は何人も具えている。そして学者達は、あらゆる種類の物に就て意見を交換する為に会合する。これは彼等の長期にわたる、かつ高い文明を示す、幾百の例証の一である。
今日私は、伏見宮殿下から、上野精養軒へ正餐にお呼ばれした。来賓は二十一人で、殆ど全部が県知事であった。そこで私は、数年前私が長崎で曳網をした時、非常に親切にしてくれた長崎の知事にあった。私は殿下の右手に坐ったが、殿下は日本水産会の会長をしておられるので、この正餐は数ヶ月前、この委員会に向ってやった、私の講演に対するお礼なのであろうと思う。
かなり有名な古物蒐集家松浦竹四郎を訪問したところが、非常に親切にむかえてくれた。彼は最近、古物に関する二巻の、全紙二つ折の本を出版し、それには彼の蒐集中の貴重な品物の素晴しい絵が入っている。私は、大学の副総理服部氏の紹介状を持って行った。召使いが箱をいくつか持ち出すと、松浦氏は大きな束になっている鍵で、それ等の箱をあけた。鍵には一つ一つ、象牙の札がついている。彼が箱をあけている最中、下女が物立台を三個持って来て、それを床間に置いた。彼はそこで長い糸を通した玉――それは主としてコンマ形の石である曲玉まがたま、その他の石英、碧玉、及び他の鉱物でつくったもの――を取り出し、それを物立台にかけた(図727)。それ等の多くは非常に古く、大部分日本のもので、そしてすべて模糊たる歴史的過去時代に属する。これ等は皆埋葬場や洞窟から発掘されたので、中には土器の壺の中で発見されたのもある。曲玉は、南方琉球諸島から北日本にまで散布している。松浦氏は、曲玉が蝦夷や支那で発見されたことは聞いたことが無いが、支那では別種の石製の玉が発見される。彼はこれ等の品物の、日本一の蒐集を持っているので、小シーボルトの『日本の古物』に出ている材料は、すべて松浦竹四郎の蒐集から絵をかいたものである。彼はまだ曳出ひきだしに沢山の玉を持っている。私はその若干を写生した(図728)。

私は竹中に、米国の男の子は、非常に小さい時には、人形や紙の兵隊を持って遊ぶと話した。彼は、武士の男の子供達は、断じて人形やそんな様な物を持って遊ぶことは許されず、彼等の教育は、彼等を武士とすることを目的として行われ、他の人々が笑う時でも真面目でなくてはならぬのだといった。食事の時には、男の子達は、若し話をするにしてもそれは極めて稀で、だから外国人が食事中喋舌しゃべり続けることが、非常に妙に感じられる。彼等にとっては、我々の冗談のある物を了解することが困難であり、我々が「茶化す」と称するところのものは彼等にはまったくわからない。
図729*は、私が毎日大学へ行く途中でその前を通る、一軒の賤しい家に就て行ったものである。この家の住人が、私に見せ度い陶器を持っているというので、それを箱から出している間に、私はこの写生をした。古い難破船の大きな破片が、一般的の効果の中に利き目をあらわしている興味ある方法は、一寸類が無い。材木の濃い灰色、鉄錆のあたたか味を帯びた赤い染、ふなくい虫があけた小さな孔、古色……それ等はすべて日本人が愛好する点なのである。すぐ後に便所の戸があるので、この舟の破片は袖垣の役をしている。私は屡々、縁側あるいは家の横から出た、長さは四、五フィートを越したことの無い、一種異様な垣根を見た。それは縁側から目ざわりになる物をかくすので、我々が真似しても役に立つ。それはソデガキと呼ばれる。カキは「垣根」で、音便でガキと変ったもの。ソデは「袖」、日本の衣服の袖に似た形をしているからである**。

* この絵は『日本の家庭』に出ているのだが、それが日本趣味の特質を示すものとして、そのもとの写生図をここに出さざるを得なかった。
** 私はこの袖垣を沢山出した日本の本を何冊か持っている。また『日本の家庭』には、日本の家庭で写生した袖垣がいくつか出してある。
往来を歩いていると、よく女の人が、家や垣根に寄せかけた細長い板の上に、布を引きのばしているのを見受ける。この板の表面は非常にすべっこい。それは先ず、この目的で売られる、水に濡らすと寒天状の物質を出す、海藻でこする。湿った布をこの板の上に引きのばし、太陽で乾かす。板からはがすと、布は鏝こてをかけたように平に、糊をつけたようにピンとしている。我国で湿った手布ハンカチーフを窓硝子ガラスに張りつけるのと同じ考である。また柄のついた、底を磨き上げた金属製の皿みたいな物もある。これには炭火を入れ、我々が平鉄を使用するようにして使用する。染め上げた布を乾かすには、両端を突起でとがらせた小さな竹の条片を使用して、二本の棒の間にかけた布を引き離す。単一な布に、これを非常に沢山使用する。
先夜私は、屋敷の召使いの子供である小さな女の子を二人連れて、お祭が行われつつある本郷通を歩いた。私は彼等に、銅貨で十銭ずつやった。どんな風にそれを使うかに興味を持ったのである。それは我国で、同様な場合、子供に一ドルをバラ銭でやったのと同じ様であった。子供達は、簪を売る店に、一軒一軒立ち寄り、一本五厘の品を一つか二つしか買わぬのに、あらゆる品を調べた。地面に坐って、悲しげに三味線を弾いている貧しい女――即ち乞食――の前にさしかかると、子供達は、私が何もいわぬのに、それぞれ一銭ずつを彼女の笊ざるに落し入れた。
宮岡が泊りに来た。そしていろいろな話の間に、昔は、そして今でも迷信的な人は、人間が眠る時には、その魂がふらふら出て行くものと信じているといった。だから子供が眠る前には、彼が咽喉のどが渇いていようといまいと、とにかく水を一杯飲ませ、彼の魂がさまよい歩く間に咽喉を渇して、腐った水を飲むことを防ぐようにする習慣があると。
私は宮岡に、彼の個人的経費について聞いた。彼の炭と油とを含む賄料は、一ヶ月五ドル五十セントだとのことである。食物とては飯と野菜と魚とばかりであることは事実だが、それにしても、我国の物価にくらべると、何と安いではないか。高嶺氏の話によると、師範学校の使用人の多くは、家族を持っていながら、一日十五セントの日給で働いているそうである。
先日箕作みつくり教授と一緒に大学の構内から出て来ると、小使の一人が丁寧にお辞儀をして行き過ぎた。箕作氏は、この男は一八六八年の維新までは、武士よりも高く、大名のすぐ下に位する位置にいたのだと語った。維新の結果、彼は全然食って行けなくなり、只下男の役をつとめること丈しか出来なくなった。箕作教授は、これは封建制度のある点が如何に莫迦ばかげているかを示すいい例であり、同時に、これ等の人々が屡々、諦めと卑下とを以て奴僕の位置につく、辛抱強い態度を示し、また金を貰ったり借りたりするよりは、働いた方がいいと思っていることを、よく現しているといった。私は、人力車夫になった武士もあるということを聞いた。勿論高級な武士でなかったことは事実だが、それにしても彼等が働くというそのことは、我々の民族間に存在する、いつわりの誇が無いことを示している。私の実験室の雑役夫は一日に二十五セントを取り、それで神さんと、音楽の稽古をしている娘一人とをやしなっている。
昨日私は、ある町を通行した。そこからは五フィート以下の小さな路地が、いくつか横に入っていて、その路地の両側には住宅が立ち並んでいる。私にはそれが如何にもむさくるしく思われ、箕作は、そここそ東京で最も下等な最も貧しい区域だといった。私はゆっくり歩いて、順々にそれぞれの路地を検査した。私は声高い叫びも、呶鳴どなる声も聞かず、目のただれた泥酔者も、特に不潔な子供も見なかった。そして、この細民窟スラムスともいう可き場所――もっともここは細民窟スラムスではない――で、手当り次第にひろい上げた百人の子供に就て、私は彼等がニューヨークの第五街の上で手当り次第にひろい上げる百人の子供よりも、もっと丁寧で物腰はしとやかに、より自分勝手でなく、そして他人の感情を思いやることが遙に深いと敢ていう。
日本で生活していた間に、私はたった一度しか往来での喧嘩を見なかったが、それのやり方と環境とが如何にも珍しいので、私は例の如く、それを米国に於る同様のものと比較した。我国の往来喧嘩を記述する必要はあるまい。誰でも知っている通り、老幼が集って環をなし、興奮した興味を以て格闘を見つめ、ぶん撲れば感心し、喧嘩が終るか、巡査が干渉するかすれば、残念そうに四散する。日本の喧嘩では、二人が単に頭髪の引張り合いをする丈であった! 見物人は私一人。他の人々はいずれもこのような不行儀さに、嫌厭の情か恐怖かを示し、喧嘩している二人は、人々が事実避けて行くので、広い場所を占領していた。
都会の家はたいてい瓦葺きだが、杮葺きの家も多く、一歩出ると藁葺きの屋根も沢山ある。屋根が燃えやすいので、東京では大火事が度々ある。杮板はトランプの札みたいに薄く、藁葺屋根は火薬のように火を引きやすい。
私は数回柏木氏を訪れたが、今日はドクタア・ビゲロウと一緒に行った。彼は蒐集中の古い漆器の箱に、大きに興味を持った。はじめて土蔵の二階へ行って見たが、そこには時代のついた箱や、戸棚やその他の品が、一杯つまっていた。柏木氏は私が日本であった最も気持のいい人の一人である。彼はある質問に対しては、彼がそのことを知らぬというのを恐れず、また蜷川が何物にも正確な年代を与えようとつとめることに、賛成しない。柏木氏は古物に関する知識をすこぶる豊富に持っていて、先日懸物かけものの上部から下っている二本の錦繍の帯に就て、最も合理的な説明をしてくれた。以前懸物は宗教的な意味を持っていた。それをかける時には、枠によって支持し、長い帯が後方にたれ、短い帯は前方にたらした。そしてまく時には、これ等の帯でしばったのである。社寺はあけっぱなしで風が吹き通すから、懸物も枠から外すことなしにまかなくてはならなかった。今日懸物をまくには、それを取り外し、そして箱に入れて仕舞っておく。彼は同じような帯で幔幕をしぼり上げた絵の入っている、古い本を私に見せた。長い帯は無くなったが、前面の短い帯は、上衣の後にある釦と同じように残っている。この説明が正確であることの証拠として、これ等の帯は「ふうたい」とも「かぜおび」ともいわれる。後者は風の帯を意味する。
私は子供達が非常な勢で、両手を使ってする遊びをしているのを見た。駄句を呶鳴り終えると、彼等は手を三度叩いて、「裁判官」「狐」「狩人」の身振をする。私は彼等にその文句をゆっくりいって貰って書き取り、手のいろいろな形を写生した。私の聞き得た程度で、文句は次の如きものである――
イッケン キ ナ セイ (一度遊ぼう)
チョ ビスケ サン (小さいさん。小指を意味する)
ジャノメ ノ カラカサ (蛇目の傘)
サン ガイ エ デ (家の第三階)
シチ ク デッポー ゴ サイ ナ (?)
ム テッポー デ (鉄砲無し)
ヨイ! ヤ! ナ! (?)
図730はこれをいいながらする手の形を、ざっと写生したものである。

私は松浦竹四郎が私にくれた、蝦夷と樺太の煙管きせるの写生図を、ここに出す。彼がつくったそれ等の略図を、私は正確に写した。朝鮮の煙管は、日本やアイヌのそれに比較して、余程雁首が大きいが、それ以外の点は大きに似ている。三百年も前の日本の版画を見ると、日本人が非常に一般的に使用し、その後の版画にはくりかえして出ている煙管がまるで出て来ない。これは面白いことである(図731のAは鉄製の古い日本の煙管。B、Cはアイヌ。Dは満州。Eは樺太)。

今日(十二月十六日、日曜日)、私は矢田部教授の招待によって、日本音楽、講談その他を聞きに、川の向うの百畳敷の会館へ行った。この三月、八十人ばかりの会員を有する倶楽部クラブが設立され、社交的の会合に、はじめて淑女と紳士とを一緒にすることを目的とするのである。入って行って畳の上に坐ると、三十人ばかり、私の知っている人が、それぞれお辞儀をした。私の日本人の友人の多くが会員で、その中には高嶺夫人、高嶺若夫人、菊池夫人、菊池教授の小さい妹、服部、外山、小泉、松原、箕作の諸教授等もいる。会員は一人ずつお客様を招く権利を持っているので、その結果百人にあまる気持のいい、愉快な人々――はきはきした、教養のある男女と、少数の可愛らしい子供達――が、一堂に会したのである。会場は広い、がらりとした部屋で、聴衆は畳の上に坐り、お茶を飲んだり煙草を吸ったりした。会場の一端には、僅に上げた演壇、というよりむしろ長くて低い机に、赤い布をかぶせた物が置かれ、この上に演技者が坐ることになっている。第一が音楽で、琴二つ、三味線一つ、笛に似た楽器が一つ。次が話し家で、私には時々彼の言葉が判った丈であるが、話の中の異る人々を表現する彼の各種の身振は、見ていても面白かった。まごついた男は指を組み合わせる。田舎者の表情、絶間なく我鳴がなり立てる老婆――それ等は実に完全に表現され、皆を笑わせた。異った声の真似が、実に強く、そして即座になされるので、目を閉じていると三人の、別々な人が話をしているように思われる。時々、広場にある大きな天幕テントの横を通り過ぎると、その内から、まるで何人かが議論しているような音が聞えて来ることがある。内を見ると話し家が一人、周囲には一語も聞き落すまいとして、時々驚いて哄笑する聴衆が、彼の話に聞きほれている。婦人や娘達は、決してかかる場所へ行かぬ。我国でも弁士的の行商人を取りまく群衆中に、絶対に、あるいは極く稀にしか、婦人を見ぬと同じく、かかる場所へ行くことは、婦人に適さぬことになっている。
これが済むと、日本では非常に一般的な、一種異様な話が始った。これでは語り手は、彼の一部分を話し、一部分を歌う。もう一人の演技家が三味線で伴奏を弾くが、それにまた、話の役割に適した、奇妙な咽喉声や、短い音や、高いキーキー声や、啜泣の音や、吃驚したような叫び声に至る迄を含む、実に並外れなかけ声が加わる。変ではあるが人々は、この種の哀れな話を聞いて、涙を流す程感動させられる。この形式の講釈を聞く人は、それがこの上もなく莫迦げているという印象を受ける。馴れるに従って、どうやら、苦痛、怒、失望その他の情をあらわす声の助演の理由が判って来るが、それを記述することは、とても出来ない。三味線もまた、絃を震動させながら指を上下に動かすことによって、漸強音、啜泣、突発的な調子、気味の悪い調子等の、あらゆる音を出すので、大切な助奏器を構成する役を持っている(図732)。この礼儀正しく、教養ある聴衆が、かくもしとやかに、静粛に、そして讃評的であったことは、興味も深く、また気持よかった。彼等は一人ずつ入って来ると、畳の上に坐り、あちらこちらお辞儀をした。

六百年にも近い、古い巻物で、ある寺院の立面図をパノラマ式に書いたものを見ると、食物をのせるための皿は、漆器である。これは古代、土陶工芸が、何故一向に進歩しなかったかの説明になる。この時代には、極めて貧困な人々だけが陶器を使用した。釉をかけぬ、旋盤ろくろで廻した、あるいは手でこねた陶器は、埋葬場で供物用に用いられた。
アイヌの布や衣類をさがしていたら、永代橋の向うにある、ある場所へ行くといいといわれた。長い時間をついやし、何度も路を聞いた上、その家を見出すと、人々は私にアイヌの前掛その他を見せてくれた。値段を聞くと、只でくれるといって聞かぬ。それ等はピーボディ博物館へ行くのだといっても、同じことである。更に彼等は、十二月十九日に来れば、別のアイヌの品も見せるといった。それで今日また行くと、彼等はアイヌの着物と、脛すね当てと、針箱と、もう一つの前掛とを出して見せた。が、又しても彼等は断じて売ろうとせず、それ等を私に、ピーボディ博物館への贈物としてくれた。私は彼等につまらぬ贈物をし、日曜日に彼等を大学の博物館へ招き、その後私の気楽な寓居でお茶と酒とを出すことにした。この人々を私はまるで知っていない。これによっても、日本人が如何に大まかであるかが知られる。
そこには、アイヌの錨の模型(図733)、本物の舟の水くみ(図734)、柄の長さが十五フィートの重くて不細工なアイヌのしゃくい網(図735)、それからアイヌの漁船の模型(図736)があった。これ等はすべて上野公園の教育博物館へ行くものである。舟で奇妙なことは、各片を木造の釘でとめ合わせずに、紐でかがり合わせたことである。これは私が函館や小樽内で見たものと、大きに違っている。私の見たのは、日本の舟を真似てつくったのだからである。図737は、アイヌが舟から荷造場まで魚を運んで行く籠を示す。これは簡単な籠を板に取りつけた丈のもので、この板をまた、漁夫の背中に結びつける。私は鮭の皮でつくったアイヌの靴(図738)を一足貰った。脚部が非常に大きいので、足部が非常に小さく見える。脚部にも足部にも藁をつめ、足をあたたかくするとのことである。これ等の靴は、石狩川でアイヌが使用する。

高嶺氏が校長をしている女子師範学校が焼け、古い支那学校に近い美しい会堂も焼けて了った。支那学校は幸にして助かった。この火事の熱は恐しい程で、消防夫が近づいて仕事をすることが出来なかった。消防夫が示す勇気は無限ではあるが、いくら勇気があっても、使用する適当な武器が無くては、何にもならぬ。図739は、この火事の時急いでした写生図である。

土蔵の内容は、屋根部屋や小屋のそれとよく似ていて、古い箱、笊、乾燥中の穀物、家の廃物等を、いつかは役に立つこともあろうという倹約心から、棄てずに置いた物である。火事が起ると家の内容――それは要するに僅かな品になる――を、急いで土蔵に入れる。寝台、椅子、長椅子等は無く、書物がすこしある丈で、大切な絵や骨董品は常に土蔵に入っているのだから、これはすぐに出来る。すると戸を閉し、泥で空気の入らぬように密封する。泥は常々桶に入れて手近に置く。時として、商業区域などでは、店の前の地下に仕舞っておき、小さな揚蓋からそれを取るようにしてある。
私は特別学生の一人、佐々木氏を訪問した。彼は数ヶ月前結婚したのだが、私は今日までそれを知らなかった。結婚ということは、日本人が決して喋舌らぬ出来ごとらしく、誰かが結婚したことは、必ず後で聞いて吃驚する事柄である。二日前、私は箕作氏に一軒の料理屋へ招かれた。彼の奥さんと、数名の友人とにあう為なのである。私は今や日本の生活に馴れ切って了って、それが我国の生活と違っていることを、容易に感じないようになった。この料理屋の大きな広々とした部屋には、家具が全然置いてなく、只両側と一端とに四角い箱が一列に並んでいる丈であった。箱の中では灰の中に炭火があり、箱一つについて一枚ずつ、やわらかい四角な座布団が置かれた。この上に人が坐るのである。部屋に入ると入口の左に箕作夫人が、多数の人と一緒にいた。私は膝をつき、両手を前に出し、頭を畳につけた。私にとってはこうすることが、完全に自然的に思われ、彼女も同じことをした。一人一人、到着すると名前が呼び上げられ、一人一人、花嫁にお辞儀をした。私は殆どすべての人を知っていた。そして、かかる会合の多くに於ると同じく、私が唯一の外国人であることに気がついた。やがてお膳にのった食物が出ると、芸者や小さな女の子達がお膳をくばり、酒を注ぎ、踊り、歌い、そして万事を愉快にした。退出する時、食物の手をつけなかった部分が、家へ持って帰るように、この上もなく清潔な箱に入って我々に与えられた。 
第二十六章 鷹狩その他
この前の日曜日(十二月二十四日)ドクタア・ビゲロウと私とは、黒田侯に招れて、東京の郊外にある彼の別荘へ、鷹狩の方法を見に行った。我々は八時半その家へ着き、直ちに狩番小舎ともいう可き場所へ行った。これは広い、仮小舎みたいな物で、北風を避けて太陽に開き、中央には炭火を充した大きな四角い穴があり、人々はここで手足をあたためる。そこには卓子テーブルと椅子とがあり、葉巻、茶菓等が置いてあった。近くにある鴨の遊域とこことの間には、電気の呼鈴がかかっている。別の部屋には召使いがおり、鷹匠達は外側に住んでいる。長い托架には、長い竿のついた奇妙な形の網がいくつもあり、一方側には数箇の区ぎりのある小さな建物があって、そこには鷹が飼ってあった。
しばらく番小舎で待っていると鈴が鳴り、我々は遊域へ行くのだといわれた。我々の後から一人の鷹匠が、美事な、ほっそりした隼はやぶさを左手に支えてやって来た。鳥はいささかも恐怖のさまを見せず、黄色で黒い瞳の眼を輝かし、非常にまっすぐに、期待するところあるらしく立っていた。我々が入って行った場所には、両側に高い土手を持つ狭い通路がいくつか切り込んであり、土手の上には竹が密生している。我々は一方が竹の林、他方が同様な竹を上にのせた土手の間に、いくつかの入口のある、長い、ひらいた場所へ入った。これ等の竹の林や縁は、人を野鴨からかくして、それが吃驚びっくりするのを防ぐようにしたのであるが、日本の野生の鳥は、如何なる種類の隠蔽物をも必要としない位よく人に馴れている。
だが、先ず主要な沼と、この沼から来ている鴨をおびき込んで、そこから彼等がとび立つ時、場合に応じて変な形の網や鷹でそれを捕える運河とについて語らねばならぬ。鴨が必ず下降する、相当な大きさの池を選ぶなり、人工的につくるなりする。これを密生した竹叢で、ぐるりと取りまき、何人なりとも、たった二人が入れる丈の大きさの小舎に通ずる狭い路以外を通って、そこに近づくことは許されない。この小舎には小さな穴が二つあいていて、そこから池が見える。竹の密林によって、ぎっしり取りかこまれた平穏な水面を、チラリと見、何百という小さな太った鴨の背中に太陽が照り輝き、鴨のあるものは泳ぎ廻り、他のものは日陰にある薄い氷の上で休み、池の真中の小島では大きな鷺さぎが、安心しきって長閑のどかに一本脚で立っているのを見た時は、面白いなと思った。所々池の辺に黒く陰になっているのは、そこに鴨をおびき入れる運河である。図740は池と見張所と、池から入っている三本の運河とを示し、図741は運河の断面図である。これ等の運河は、幅は三フィート、あるいはそれ以上で、深さ四、五フィート、運河の両側は一フィート半ばかりの低い土手になり、それから十五フィートほどの空地を置いて高い土手になること、切断面図に示す如くである。この高い土手には竹が密生している。運河にはとびもしなければ、鷹を恐れもしない、馴れた鴨が飼ってある。それ等は屡々餌を貰うから、大きい池へ出て行かぬ。野生の鴨は、然しながら、運河に入って来るので、その末端にある見張所の小さな穴から見ていると、野鴨が入って来たかどうかが判る。

鴨がそこに入ったという事が発表されると、人々はつまさきで歩いて、運河の岸の空地まで行く。鷹匠は小さな土手の、野鴨がいると思う場所へ近づき、別の男が運河の池に近い端へ行って、手を振ると鴨は吃驚してとび立つ。鴨が低い土手の上に姿を現わすと、鷹匠は隼をそれに向って投げ、鴨と隼とは一緒にとび上る。隼は必ず鴨に追付き、その頭をつかんで地面に引き下し、鷹匠が来る迄翅を両方にひろげて待っている。鷹匠は、来ると注意深く鴨を取り上げ、翅を背中で組み合わせ、さて拇指を巧に押し込んで、事実鴨の心臓を取り出す。その血をいくらか啜った上で、鷹匠は隼がその次の鴨に対しても空腹でいるように、心臓の小さな一片をそれに与える。運河に沢山野鴨がいる時には、他の人々が岸に近く網を持って立ち、鴨が立てば捕えようとまちかまえる。
鴨が舞い上ると共に数名の人々が、長い柄の網を振り廻し、同時に二羽の隼が網をのがれてその上に出た鴨を追いかける光景は、まことに私の心を躍らせた。
図742はこれに使用する網の形で、図743は鷹匠の身体つきを示している。腕を大きく振り、鳥が手から離れる時までにその速度を増して行って隼を投げるには、技術を必要とする。投げようが速すぎると、恰も競争している子供を後から押すような具合になり、鳥は前にのめって了う。あまり激しく押すと子供がころぶのと同じ訳である。

隼を捕えてそれを訓練する方法は興味が深い。隼を捕えるには、真中が大きく、輪を入れてひろげた長い筒形の網の中へ、雀を入れたものを使用する。この両端を杙くいにしばりつけて、地面に置くこと、図744の如くする。この筒の網を横切って、極めて細い糸で編んだ、網目の広い大きな網を、二本の竿にかける。その大きさは高さ六フィート、幅八フィートか十フィートで、上方の細い竹竿と、地面にある割竹とから、容易に外すことが出来るようにかけてある(図745)。雀を捕えるには、鷹匠は頭上を雀の群がとんで行くのを見ていて、呼子で隼の鳴声に似た音を立てる。雀は驚いて直ちに地面に舞い下りるから、鷹匠は網を振り廻して容易に数羽を捕える。この一羽を筒形の網の内に入れ、おとりに使用する。野生の隼は網の上をとんでいて、雀が筒形の網の中にいるのを見つけ、それに向ってサッと舞い下ると、雀は網の他端へ逃げ、これを追う隼は縦網にぶつかって、直ちにこんがらかって了う。鷹匠は網の作用を私に説明する為に、紐をまるめた大きな球を網にぶつけた。すると網は即座に四隅から外れて、球はそれにつつまれた。捕えた隼は暗い部屋に入れ、食物も飲料も与えず、文字通り餓死させられかけ、ひょろひょろになるので、取扱うことが出来る。鷹匠はそこで顔を布でつつんでその部屋に入り、隼を一時間手でつかんだ上、それに雀の肉の小量を与える。これをしばらくの間、毎日くりかえす。

最後に彼は、布を取って部屋に入り、徐々に部屋に光線を入れ、一日ごとに光を強くして行く内に、隼は完全に馴れて飼主を覚える。こうなれば隼は、真昼の光線にあててもたじろがず、誰でもそれを持つことが出来る。それは決して逃げようとせず、箱を叩いて合図すると飼主のところへ来てその手にとまり、全体として合理的な、そして行儀のいい鳥である。鷹の訓練には三十日から四十日かかる。この日使用した隼の一羽は、一ヶ月ちょっと前までは、野生の鳥であった。鷹狩に適したこの場所は、二百年以上、この目的に使用されて来た。図746は、運河の一つの入口にある、小さな小舎兼見張所である。男は穀物を小さな漏斗に流し入れ、同時に穴から外を見張っている。何個かの木造の囮おとり鴨が、他の鴨と一緒に水の上に浮いていたが、如何にもよく似せてあるので、見わけるのが至極困難であった。

外国人は、何故日本人が、彼等が鳥に向ってバンバン発砲して廻ることに反対するのか、不思議に思う。発砲すると、広い区域にわたって、鳥が池から恐れて逃げて了う。上述のように、鷹狩をしたり網を用いたりしていれば、いつ迄も狩を続けることが出来る。
これは、たとえ鴨を食卓にのせる為に捕えるにしても、残酷な遊びのように思われた。すべてのことが静かに、いささかの興奮も無くして行われたことは、如何に屡々この遊びが行われるかを示していた。
我々は、初めて見たこの古い遊びに、大きに面白くなり、ドクタアは国へ帰ったらこれを始めると誓言したりした。
忙しい最中の紙鳶店は、奇妙な、そして新奇なものである。店の全面はあけはなしで、枠に布を張った大きな真烏賊の形をした、変った看板の、布製の腕は風にゆれ、それ全体があざやかに彩色してある。それを書く字は違うが、紙鳶も烏賊〔章魚〕も語は同じなので、烏賊を看板にする。
図747は紙鳶屋の一軒を、急いで写生したものである。内部には何百という紙鳶が積み上げてあり、二、三人の男が、もっともあざやかな色で鬼や、神話的のものや、気味の悪いお面や、その他の意匠を描いている。外側には大小とりどりの子供が立ち並び、熱心に紙鳶を見ている。前にいる子供の頭ごしに写生をしていると、一人の老人が気持よく微笑を洩し、別の職人も愛想よく私を見たが、彼等は小さいお客様の相手をするのに多忙を極めていたので、一瞬間たりとも仕事の手を休めなかった。見受けるところ、彼等の一年間の生活は、紙鳶をつくる数週間に集中されているらしい。値段は著しく安いように思われた。あざやかな色彩で、ごてごて装飾された大きな紙鳶が三セント半で売られ、とばせることの出来る小さなのは半セントである。子供が紙鳶を一つ買うと、店の人は糸目をつける。

図748は長さ三フィートもある紙鳶の写生図で、点線はその前面で、糸が紙鳶を支える主な糸に結びつく可くつけられる場所を示す。子供達は合衆国の子供達がすると同じように、紙の円盤を糸にのせて上へあがらせる。我々はこの紙を「使者」と称したが、日本の子供はこれを「猿」と呼ぶ。一つの提灯、屡々二つの提灯を送りあげるが、夜間にはそれに火を入れる。紙鳶から、それをあげる糸に結びつく糸は数が多く、そして非常に長い。これ等の糸は、枠をなす竹の条片が交る点から、上からも下からも出ているらしく、そして大きな紙鳶では、条片が上下左右斜にあるので、それ等の交叉点は沢山ある(図749)。我々の紙鳶あげは日本の方法や装置に比較すると、お粗末極るものである。男の子の群が、その殆どすべてが背中に赤坊をくくりつけて、紙鳶をあげているのは、奇妙な光景である(図750)。

長崎で普通に見受ける紙鳶は図751に示す。只一本のまっすぐな竹の条片の上部には、それを引っかける鉤があり、頂点から、数インチ下に長さ四フィートの竹の条片を縦の条片に結びつけ、それを弓のように彎曲させる。この弓の両端を引きしめる二本の糸は、四フィート下で縦の骨に結ばれる。この骨組の上に紙を張りつけ、約五分の一の円欠を形づくる。紐は弓の結び目と、紙鳶の底部とに取りつけ前方へ六フィート出ている。紙鳶の下には、非常に長い尾がぶら下る。

冷い寝床に入れるゆたんぽの代用として、日本人は大きな木の枠に保護される火鉢に、僅かの炭火を入れたものを使用する。これを布団の下に入れ、適当な熱を出させる。
図752は私の茶の湯の先生、古筆氏を写生したものである。彼は陶器に関する造詣が深く、非常に気持のよい人である。図753は古筆氏の下駄箱の写生図*。

* これは『日本の家庭』にも出ているが、日本人がこの絵を見ると懐郷的になるというから、もとの写生図からまたここに複写した。
古筆氏の家族は少数だが、その各々が履物を沢山所有している。低いもの、最上の着物を着た時使用する立派なもの、路の悪い日に使用するもの等があり、ある物は見受けるところ、もうすりへっている。事実、人は家の外に脱いである履物の外見によって、その家の内でこれから面会する未知の人の、社会的地位を判断することが出来る。
米国にもあるが、日本にはある種の格言を入れた菓子がある。図754は三角形の菓子の中に入ったものを示す。これは糖蜜で出来ていてパリパリし、味は生薑の入っていないジンジャースナップ〔生薑入の薄い菓子〕に似ていた。格言を意訳すると「決心は巌いわおでも徹とおす、我々が一緒になれぬことがあろうか」となる。これを訳した団氏は私に、これ等の格言が普通恋愛や政治に関係があることと、これは昔から行われつつあることとを話した。私は子供の時米国で、恋愛に関する格言を入れた同様な仕掛を見たことを覚えている。

元旦には以前の人力車夫の辰が、子供をつれ、蜜柑の大きな籠をおみやげに持ってやって来た。我々に忠実であった召使いの切愛心をよくあらわしている。翌日は前に使っていた料理番の吉が、羊羹(砂糖と豆とで出来た菓子)を一箱持ってやって来て、私に新年を祝った。二人とも私の家族がどうしているかをたずね、エディスやジョンの名前を覚えていた。料理番は、現在ある日本の料理屋で、いい位置にいるといった。
図755はヒキサワと称する巧妙な道具で、真鍮か銀かで出来ており、製図用のペンを持たぬ日本の図工が、筆で直線を引くのに使用する。筆を定規上によこたわる、Aから末端Bに至る溝にあてがい上端Cは平たくなっている。これで彼等は予備の線を引くのであるが、極めてこまかい線でも引くことができる。

昨日私は大隈氏の学校の開校式で講演するべく招れた。私の演題は進化論即ちダーウィニズムで私の以前の特別学生の一人である石川氏が、私のために通訳した。講演が終ると我々は、学校のすぐ裏にある、大隈氏の別荘へ招待された。これは美しい部屋のある家で、二十年前純日本風に建てられた。部屋は皆大きく美しく、床間もそれに相当した深さを持っていた。私は、大きな部屋の床間が非常に深く、懸物、花瓶、その他の装飾品も、それにつりあって大きいことに気がついていた。床間の前が名誉の席であるということは、興味があろう。
大隈氏は有名な盲人の琵琶弾奏家を雇っていた(図756)。この音楽は他の楽器に依る物と全然異り、ある種の音は哀調に充ち、心を動かした。

琵琶の絃馬は非常に高く、絃は絃馬と絃馬の間で圧しつけるが、その強弱によって、奇妙な、たゆとうような音色が出される。著しい音の抑揚が、この様にしてなされ、教養のある日本人も、名人の手に抱かれたこの楽器が発する、極めて美しく、そして魂を愛撫するような音色に感動して、涙を流すことさえよくある。撥はその平坦な末端にあっては、確かに一フィートの幅を持っている。しばらく弾奏した後、緑の葉を何枚か入れたコップが持ち出された。彼はその葉の一枚を取り、二本の指で下唇に押しあて(図757)、ある方法でそれを吹きながら、指の圧力を加減することによって、著しく透明な高低音を出した。私は一生懸命になって、このような音を出そうとしたが何も出来ず、しばらくやったあげく、キーッというような音を出すことに成功した。

この余興が終ると、我々は別の部屋へ案内され、そこで日本料理の御馳走が出た。私は日本で美味な料理を沢山味ったが、この時出たお吸物ほど結構なものは、それ迄に経験したことが無い。野猪の切身を入れたお吸物は、殊によかった。酢につけた生の魚肉も美味だった。私はもう一つ約束があるので、六時半、急いで退去しなくてはならなかった。
今日(一月十二日)私は大学で、鳥類の爬虫類的相似に関する講演をした。これは極めてダーウィン式なもので、学生達をよろこばせたらしかった。
最近私は富士の記号のある茶碗を発見したが、これについては日本の専門家達が、大きに迷った。古筆はそれを二百年になる清水の仁清だというが、このような刻印は見たことが無く、柏木は古い大和の赤膚だと鑑定し、安藤は大和の萩だといい、増田は古薩摩といい、前田は摂津の浪華であるかも知れぬと思い、更に別の、名前を忘れたが、一専門家は、それは尾張の志野だといった。私はこの一事を、日本の鑑定家達の意見がかくも相違することを示し、判らぬ品を鑑定するという仕事が如何に困難であるかを示すために、ここに書くのである。
ビゲロウ、フェノロサ、及び私の三人が、黒田侯の家へ食事に招れた。彼は以前、筑前の大名であり、有名な薩摩公の兄弟にあたる。彼は動物、殊に鳥類が非常に好きである。彼は私に、数年前私の蟻に関する講義を聞いてから、彼も蟻の習性を観察したといった。同侯は七十歳に近く、すこし弱っているが、科学的のことに、非常な興味を持っている。彼は大きな気持のいい部屋と、開いた炉とのある西洋館に住んでいる。我々は彼の高取陶器と懸物との蒐集を見て、三時間も同邸にいた。
一月十六日、ドクタアと私とは大学に近い大隈氏の都会邸宅へ、食事に招かれた。家は外国風で非常に美しく、ドクタア・ビゲロウはその設備を完全であると評した。食堂の床は美事な板張で、戸や窓の上には複雑な木彫があった。庭園は純日本風であるが、円形の芝生だけは、確かに日本風ではない。盆にのせ、箸を副えた日本料理が、我々が椅子に坐って向っている卓の上で供された。
日本の門は弱そうに見えるのも多いが、殆ど全部絵画的である。だが、破損したのや、修繕の行き届かぬのを見ることは、稀である。それ等は決して塗って無く、縦の柱は太くて丈夫だが、軽くて薄い板で出来ている。奇妙な、ねじれた小枝の出ている変った形の古い板材を、最も繊細な網代や、美しいすかし彫のある羽目の枠組として使用する。時として、縦に割った竹が、ある種の羽目の中心を形づくる。これ等の構造に魅力を附加するのは、これ等の強いものと軽いもの、荒々しいものと繊細な物との対照である。都会では垣根、壁等に、鄙ひなびた効果が見られる。
私は西川六兵衛という茶人で陶器にかけては中々食えぬ老人を訪問した。「花形装飾薩摩」〔錦手?〕が三百年も古いものだと思っているのは、この先生である。彼は蜷川、古筆その他あらゆる人の説を否認し、私がすべての証拠が彼とは反対のことを示しているといったら、図758のような顔をした。

私は西川氏と彼の陶器を見る約束をしたのであるが、家へ行って見ると、風が強いので蔵を封じて了い、それをあける気はしないから、僅かの品しか私に見せることが出来ぬといった。然し彼は戸棚から大きな籠に似た箱を引っ張り出し、その中から若干の陶器の標本を出した。この箱には人が背負うことが出来るように、紐帯がついていた(図759)。

ここ数日間、ひどい風が吹き続き、街頭いたる所で大火事に対する準備が行われつつある。商品は僅かしか陳列して無く、土蔵は半泥で封じられ、人々はいざ封じるという時の用意に、店の前の穴の中や、二階の窓の下のつき出た棚にのっている大きな甕の中の泥を、こねている。恐しい大火や、破壊的な地震のことを思えば、住宅建築があまり進歩しなかったのも無理ではない。一時的の小屋以上のものは、建てても無用である。
私の持っている古い本には、古筆家の系図が出ている。十四代にわたって彼等は茶人であり、陶器の専門家であり、古い陶器、書いたもの、懸物の鑑定にかけては、権威者であると見られている。
昨日の朝四時頃、私は突発的で激しい地震に、目をさまさせられた。私の床は地上二フィートの所にあるのだが、而もこの衝動は、棚の陶器を大きにガラガラいわせた程激しかった。まったく、これでは家が潰れるに違いないと思う位であったが、私がはっきり周囲の状況に気がついた時には、すでに地震はやんでいた。ドクタア・ビゲロウは旅館の二階にいるが、きっと家が崩潰すると思ったそうである。
一月十八日。まだ疾風はやまぬが、大人や子供は紙鳶をあげている。私は二人の男が、六フィート角以上の紙鳶につけた繩に、しがみついているのを見た。紙鳶は確かに我々のよりも強い。さもなくばこんな風で平気でいる訳が無い。日本人は我々以上に紙鳶あげをするので、大人も沢山あげている。
先夜私は面白い会へ招かれた。茶の湯の先生の谷村氏が毎月、古い日本の陶器に興味を持つ人々の会をする。それはあてっこする会で、名人が鑑別に困難な品を持って来る。これ等に番号をつけ、あてごと競争をやらぬ一人によって、表に記録される。その方法は、ちょっと変っている。参会者は蝋燭を中心に円くなって坐り、各人、底に自分の名を書いた漆塗の盃を持つ。茶入、茶碗、香合といったような陶器の標本が廻されると、各人はそれを調べ、そこで筆と墨を用いて彼の推察を、漆塗の盃の内側に記し、それを伏せて畳の上に置く。参会者が一人のこらず、彼の推察、或は意見を記すと、主人役は各の名前と意見とを、帳簿に記入する。このようにして我々は沢山の茶入、茶椀その他の検査をした。私が最も多数の正しい鑑定をしたことは、興味があろう。また私の間違が、私一人だけの間違でないことを知っては、うれしく思った。私が高取だといった茶入を、審判官は膳所ぜぜだといった。この名が、それの入っていた箱に書いてあったからである。だが、その箱のもとの内容が破損したり、失われたりした時、その箱に丁度具合よく入る代用品を入れることは、非常にちょいちょい行われるから、これは不安全な証拠といわねばならぬ。だが高取と膳所とは非常によく似ている。別の品で高田だといわれたのは、確かにそうでない。私はこの陶器に関しては、かなりしっかりした知識を持っているのだから。このような気持のいい人々に会うことは、興味が深かった。一人は学生、一人は医者、一人は日刊新聞の主筆、一人は有閑階級の紳士、そして主人は陶器鑑定の達人である。私が常に私の漆塗の盃をまっさきに伏せるので、彼等は皆私の決定の早いのに驚きの意を表した。他の人々はかわるがわる品を見、彼等の感情を奇妙な音で示し、変だとか、面倒だとかいい、うーんと唸り、最後の瞬間にきめたことを書く。図760はこの会を急いで写生したものである。

高嶺が私に、第一代将軍の時代の有名な裁判官、板倉に関するよい話を聞かせてくれた。彼は証言を聞く時、衝立の後に坐り、同時に茶を挽いた。石臼はまったく重く、茶を適宜にひくためにはそれをゆっくり廻さねばならぬ。彼は偏見を持つといけないので証人の顔を見ぬように衝立の後に坐り、また感情を抑制していなければならなかった。つまり、興奮して、石臼を余り速く廻せば、粉末茶を駄目にして了うからである。
今日の午後、私は日本の歌の最初の稽古をした。紹介状を持って私は――というより、私の人力車夫が――浅草南元町九番地に住んでいる、梅若氏の家にたどりついた。彼は能の歌と舞との有名な先生で、彼の家に接して、能の舞台がある。竹中が通弁としてついて来た。我々はお目通りをゆるされた。梅若氏は非常にもてなし振りがよく、外国人が謡を習うということを、よろこんだらしく見えた。竹中は、私がいろいろすることがあるので、すぐ稽古を始めねばならぬのだと説明した。梅若氏は私のために謡本を一冊持ち出し、私がこれから習う文句を、ゆっくり読んでくれ、私はそれを出来るだけそれに近く書き取った。私は日本風に、両脚を真下にして坐らねばならなかった。この坐り方は、外国人にとっては、初の間は、やり切れぬものであるが、今では私は一時間半、すこしも苦痛を覚えずに、坐っていることが出来る。彼は私の前に、小さな見台を据え、扇子をくれた。これを私は脚の上にのせて、持つのである。彼が一行歌うと私が彼を真似てそれを歌い、そこで彼が次の一行を歌うという風にして、この歌の十一行を歌った。それをこのようにして二度やってから、我々は一緒に歌った。私は彼の声が、如何にも豊富で朗々としていることを知った。また、彼の声は、すべて単一の音調子でありながら、高低や揚音で充ちているのに、私のは、如何につとめても平坦で、単調であるのに気がついた。私は私が行いつつある、莫迦気きった失敗を感じて、居心地悪くも面食い、一月の寒い日であるのに、盛に汗を流した。最後に死者狂になった私は、すべての遠慮をかなぐり棄て、何にしても彼の声音を真似てやろうと決心して、一生懸命でやり出した。私は下腹を力一杯ふくらませ、鼻から声を出し、必要な時には顫音発生装置をかけ、その結果数名の人々が、疑もなく絶望の念にかられて、襖の間から、このような地獄的な呶鳴り声で、名誉ある場所を冒涜しつつある外国人を、のぞき見することになった。何はとまれ、私の先生は初めて私の努力に対して賞讃するように頭を下げ、私が最初の稽古を終った時私をほめ、そして、多分はげます積りであったろうと思うが、私に一ヶ月もすれば能の演技で歌うことが出来るだろうといった。図761は先生と生徒との態度を示す。私は茶の湯や謡の実際の稽古をして、日本人の見解から、多くの事を知ろうと思うのである。謡の方法は横隔膜を圧し下げ、腹壁を太鼓のようにつっぱらせ、それに共鳴器の作用をさせるにある。だが声を酷使することは甚しく、歌い手は屡々歌っている最中に咳をする位である。

先日二人の子供に版画を見せたが、その時の彼等の行為には興味を持った。彼等は、我国の子供が行うと同じく、順々に並んでいる物を見ると、その数を勘定し始めるのであった。事実、私は日本の子供を見れば見る程、彼等が米国の子供に似ていることを見出す。彼等の遊戯には著しい相違もあるが、而も遊戯の多くは全く同じで、例えば鞠を手で打って地面に打ちつけたり、お手玉を、石の代りに豆を入れた小さな袋を以て遊んだりすることが、それである。この最後の遊戯では、彼等は奇麗にまとめた頭髪を、振り乱しさえする。また子供達は、両手を打ち合わせ、それで膝を叩いて一種の変った音を立て、それを「貨幣」と呼ぶが、我国の子供達も同じことをする。彼等はまた睨み合って、誰が一番長く笑わずにいられるかを見る遊戯もする。高嶺の話によると、子供達は蜜柑を食う時、その皮の切片で浅い盃をつくり、その切片の一端を噛み切って汁の数滴を盃の内にしぼり込み、そして酒を飲む真似をして遊ぶそうである。子供達は、このような品を玩具として使用する、いろいろな方法を持っている。
日本人の個人的名称には、すくなくとも私が名前を集めつつある陶工の間には、吉左衛門とか八左衛門とかいうように「左衛門」とか「右衛門」とかいうので終るのが多い。これ等の名前はそれぞれ「左を衛る門」と「右を衛る門」とを意味する。「六兵衛」に於るが如き「兵衛」は「兵士の護衛」の意味を持つ。彼等の名前の多くは、家族の先祖に武人があったことを示している。
最近富士は素晴しい外見を呈している。ここしばらく非常に寒く強い風が吹いていた。富士は麓まで雪で覆われ、ここ二晩、山の背後に沈む夕日は、山腹から雲のように吹き上げられる雪を照した。最も輝かしい黄金の辺を持ち、濃い薔薇色の後光との間に、影絵のように立つ濃鼠色の富士は、著しくも美しい景色であった。富士は東京から直線距離的四十マイルで、私は毎日、大学へ人力車を走らせる途中、その驚く可き景色を楽しむが、毎日、富士は変化する光線、影、雪の効果等で美しくある。図762の上は、富士と夕日に照らされる雪を示し、下は朝日に照らされ、雲の影のあるところを示す。先日の朝、富士は雲の影で黒く見え、影にならぬ場所はギラギラと白く輝いていた。

今日私は上野の墓地を、松浦の墓をさがして歩き、それを見出した(図763)。私は私の書いた碑銘が、どんな風に刻まれたか、見たかったのである。それは頭文字で奇麗に刻んであった。墓石は黒ずんだ粘板岩であった。学生の一人が書いた日本語の碑銘は、考え深く、意味深長である*。

* ロウエル・インスティテュートで講演をしている間に私はこの碑銘を読んだ。すると、あの愛すべき人ウィリアム・ジェームスは大きに興味を持ち、私にそのうつしを一つくれといった。
「彼の姓は松浦で名は佐与彦。土佐の産である。若くして学校に入り生物学の研究に身をゆだねた。精励して大きに進むところがあった。明治九年七月五日、年二十二歳、熱病で死んだ。彼の性質は明敏で人と差別をつけず交ったので、すべての者から敬慕された。彼の友人達が拠金してこの碑を建て、銘としてこれを書く。
胸に懐いていた望はまだ実現されず
彼は悄れた花のように倒れた
ああ自然の法則よ!
これは正しいか、これは誤っているか?
正五位日下部東作記。東京大学有志建。明治十二年七月八日。」
ここ一週間、私は助手と一緒に、蜷川の陶器に関する原稿のままの書物何冊かを、翻訳するのに多忙を極めた。彼の家族は、これが別に役に立つものとも思えぬのに、売ろうとしない。これ等の中には、いろいろと私に教える点が多く、そして蜷川が如何にたゆまず陶器を研究したかが、よく判る。
上流の婦人にあっては、靨えくぼは美しいものとされぬ。靨は笑に伴い、笑は上品でないからである。だが下女だと、靨のある、太った、ずっしりした身体つきが、好意を以て見られる。
一八八三年二月二日には、数年来かつてなかったような大雪が降り、地上一フィート近く積った。私を大学まで曳いて行くのに、二人かかった。子供達は素足に下駄をはき、学校へ行って何か乾いた物をはく為、足袋を袂に入れて登校した。人力車夫その他の労働者が、雪と雪解水との中で、素足素脚でいるのは、奇妙に見える。第一回の降雪の直後に、第二回のが、激しい風を伴って襲来した。雪は深い吹きだまりをなし、メイン州にあっても、この暴風雪は「どえらいこと」と思われるであろう。とにかく二日間、往来を歩くことが出来なかったのだから。この嵐の後で気温が下ったので数日間。雪が大きな吹きだまりをなして残りつつある。
日本人の芸術趣味が、彼等が雪でつくるいろいろな物にあらわれているのは面白いことである。非常に一般的なのに達磨がある。これは仏陀の弟子でよく絵にあり、金属や陶器でつくられ、象牙できざまれる。また沢山の橋や弓形門がつくられ、提灯をつけたのもあった。私はまた、小径や東屋や石灯籠やその他のある、箱庭も見た。餅の大きな球をつくり、形の小さいのを順々に積み上げたものも、沢山ある。二つのとがった岩の頂上から頂上へ藁繩をかけ、これから藁がぶら下っている絵は、極めて普通に見るところであるが、それも雪で見事につくってあった。また波間の旭も出ていた。波は品よく刻み込み、太陽は浅い盥に雪を押し込んで、大きな乾酪に似た円盤にしたものである。これ等や、その他の多くの意匠が、往来を人力車にのって行く者の注意を引く。歩き廻る人々の多く、殊に女子供は、竹の杖を持って、ころばぬ用心をする。彼等はこのような深い雪にあうと、完全に手も足も出ぬらしく、また市当局も、除雪すべく、何等の努力をしないらしい。
私はすでに数回謡の稽古をした。私の耳はかなり敏感なのであるが、いまだに継続する二つの調子を覚えることも、如何なる調子を思い出すことも出来ない。日本の音楽が、如何に我国の音楽と異っているかを知るのは、興味深いことであった。彼等の写本音楽には、楽譜もなければ、何事に関する指標もなく、只短い線を水平に引いたり、上を向けたり、下を向けたり、あるいは上下に波動させたりして、抑揚を示すものがある丈である。私の稽古は全然諳誦によるので、先生が先ず一行を歌い、私がそれに従って歌う。殆ど始るや否や、私は先生の歌いようが、そのたびごとに、すこしずつ違っていることに気がついた。時にある調子が嬰音にされ、時に同じところが半音下る。私の考では、謡は唱歌ではなく、ヨークシャの田舎者の会話に似た、抑揚のある朗誦である。数年前有名な生理学者の兄弟であるドクタア・フィリップ・ピー・カーペンタアは、彼がヨークシャの農民達の間で耳にした会話を、実際、楽譜にした。彼はそれを私に歌って聞かせ、私はそれをしょっ中覚えている。私が今習いつつある音楽は、短い線を、上へ向けたり、下へ向けたり、平にしたりして、書いたものである。私の先生は始める時、朗々たる声を出すためには、下腹部を拡げていなくてはならぬといった。これは絶間のない緊張で、中々どうして、容易なことではない。各種の日本の音楽――声楽でも器楽でも――を聞く外国人は、先ず面食い、次に大笑をする。古い音楽、それは日本人の目に涙を浮ばせるようなものが歌われる席に列し、そこで聴衆中の英国人が軽侮的な笑声を立てるのを聞いたりすると、誠に恐縮にたえぬ。東洋には、変った音楽がある。興味を刺戟する音楽もあれば、思わず足で拍子を取るような音楽もあるが、日本の音楽は、外国人にはまるで判らないのである。彼等の絵画芸術が、初めは我々には不可解であるが、それに親しみ、それを研究するに従って、追々その持つ抜んでた長所が見えて来ると同様に、日本の音楽も研究すれば、我々が夢にも見ぬ長所を持っているのだろうと、私は思う。この故に私は、日本の音楽の一つなる謡曲を学び、有名な先生の梅若氏についたのである。コーネル大学出身の矢田部教授は、外国からいろいろな事柄を取り入れることを心から賛成し、またそれ等が優秀であることを認めている一方、日本の音楽が我々のよりも優れていることを主張している。
図764は、東京にいる刀鍛冶を、ざっと写生したものである。これに関する覚書は無く、今になっては何も思い出すことが出来ぬ。助手の使用する鉄槌は、非常に変な形をしている。

私はすでに日本人が蒐集を好むことを述べ、彼等が集める品物に就て簡単に書いた。それを書いた後、私は他の多くの蒐集を見たがそれ等は陶器、磁器、布地、刀剣、刀剣の柄や鞘についている細部品、署名、貨幣、石器玉、錦襴――これは切手蒐集に於るが如く、その小片を帳面にはりつける――、絵、画、書物、古い原稿、戸棚や僧侶の机のような古い家具、墨、硯、屋根瓦、漆器、金属の装飾品等である。自然物を集める人は極めてすくない。もっとも昆虫、貝殻、植物を蒐集する人も、数名、私はあってはいる。
日本の細工物を調べる外国人は、それが如何なる種類のものであっても、その表面のいたる所が、同じ様に完全に仕上げてあることに、直ちに印象づけられる。青銅の像でも、漆塗の箱でも、印籠でも、根付でも、底部が目にふれる面と同様に、注意深く、そして正確に仕上げてある。また彫刻した昆虫の腹部や、動物の彫像の基部が、解剖学的な正確さで仕上げてあるのに、驚かされる。この、仕事に対する忠実さのいい例は、ある家族が、その家具を動かす時に見られる。勿論家具は多くはないが、而も箪笥や、低い机や、漆塗の戸棚や箱やその他が、積まれたのを見る人は、米国に於る同様な家具積み馬車との対照に気がつく。よしんば富豪の家のものであっても、かかる荷はかなり乱雑に見えるものであるが、日本では、貧乏人の家から出た荷でも、キチンとしている。
日本の子供――これに関しては全国民がそうだが――は、鉛筆も、白墨も、クレヨンも、ペンも液体のインクも持っていず、固い墨の一片に水をつけて何等かの容器――普通石の硯――内にインクを自分でつくる丈である。漆器あるいは木造の書き物箱には、硯が一面入っており、その両側にはそれで物を書く筆や、紙切小刀や、墨や、水を入れる小さな容器やを置く、狭い場所がある。水入には二つの小さな穴があいていて、その一つを指でおさえ、もう一つの穴から流れ出る水を加減する。墨がすでに出来ていない時には、水の数滴を硯にたらし、充分黒くなるまで墨をこする。そこで初めて手紙を書くのだが、いう迄もなくこれは縦に、巻紙に書き、一行一行と書くに従って紙の巻きを戻して行くから、手紙の長さによっては五、六フィートにもなることがある。次にそれを引きさき、またまき、手をのばして平にし、最近使用されるようになった細長い封筒に入れる。非常に腹を立てて、すざまじい見幕で手紙を書こうとする人でも、いざ書き始めるという迄には、充分冷静になる丈の時間がある。
矢立といわれる装置(図765)は、我国の万年筆の役目をつとめる。これは通常金属製で、筆を入れる筒があり、その上端にはそれと直角に、墨汁をひたした綿を入れる容器がついている。人は数個の字を書くに足る墨を、筆につける事が出来る。この様な品物で見受ける芸術的の細工は、刀の鍔その他の刀の金属的な装飾に比して、殆ど遜色が無い。意匠は数限り無くある。矢立は帯にさし込み、墨汁入が、それがすべり落ちることを防止する。大工は木造で、墨をひたした容器と、紐をまきつけた輪から成る道具を持っているが、紐はのばしたり、まき込んだりする時に、綿の中を通過するようになっている。紐の一端には錐がついていて、大工は紐を引き出し、錐を板にとめて、我国の大工が白墨の線を引くような場合、その紐をピンとはねて墨線をつける。これは、はっきりした、黒い、継続性のある線をつけるから、我国の大工もこの道具を使用したら、よかろうと思う。

子供が石盤の代りに使用するものに就ては、すでに述べるところがあった。子供は大きな筆をその目的に使用して、漢字を書くことを習い始める。紙を閉じた本の、より大きいのもよくあるが、六インチに九インチの大きさのものが、石盤の代用品である。これ等の紙に大きな字を書き、それを何度も何度も上から書く。ここに書いた本には、三十二葉あるが、その紙の一面のみが使ってある。新しく書いた字は、前日の乾いた墨の上に、はっきりと見える。図766はこれ等の本の外見である。

有名な寺院を訪れると、僧侶がお寺の名前とその他の字とを書いた紙片や、時としては木の札をくれる。これ等の符牒は、伝染病や悪い影響を避けるために、家の入口の横に取りつける。図767は男体山のお寺で出すこれ等の符牒の一つで、長さ五インチである。

東京(他の大都会でも同様であろうが)では子供に、その着物の下に、その子の名と、家の名と、住所とを書いた小さな木の札をまとわせる。巡査は単に迷子の襟に手を入れ、この札を引き出し、そして即座にその子を心配している母親のところに返す。図768はドクタア〔?〕竹中が、子供であった時に身につけていた札を示す。

外国人の目をひく事象の一つに、婦人、ことに小さな女の子達の髷がある。頭髪は殆ど例外無しに、普通幅の広い結びか、或は他の形で、頭の後に形式的に結髪される。この結びと頭との交叉点に、赤い縮緬が結びつけられ、ここに装飾的な頭髪針がさし込まれる。それ等はカンザシと呼ばれ、この品で人は、布、金紙、こまかい螺旋、藁、ギラギラ物、赤い珊瑚といったような簡単極る材料で、非常に多種なものがつくられる巧な方法を見出す。意匠の半分迄は花である。私は自然の花を頭にさしたり、身につけたりしたのは、見たことが無いと思う。簪の多くはある種の物語か行為かをあらわしている。懸物に絵をかいている子供(図769)、鳥籠(図770)、竹と小鳥(図771)等がそれである。中にはこみ入ったのもあるが、値段は安く一セントか二セント位である。何等かの贈物を持たずに人を訪問することは、殆ど無いといってよいが、これ等の簪は、よくこの目的に使用される。

仏教徒の家庭にあっては、よく主人公が食前、祝福の祈をすることがある。私式の正餐では、それぞれの人が上席を譲り合い、従って客人が坐る迄には時間がかかる。また供された食物を第一回目に受けることは丁寧でなく、二度目になって初めて受けることになっている。我国に来ている、事情に通じない日本の学生は、この形式の、よい行儀を守る結果、困ることが多い。日本人は彼等の子供、彼等自身、彼等の家庭、家、所有物等をけなしつける。これは支那の教によるものである。北斎は屡々彼の絵画に「一つの愚鈍の筆」を意味する漢字を署した。
鍋島侯爵が私を正餐に招いてくれた。恰もサミュエル・ブライト夫人が我々を訪れていたので、彼女もまたモース夫人と一緒に招れた。食卓には二十人以上の人がいたが、ブライト夫人は、そこに列る紳士達の宗教を知り度いといい出した。これはいささか困った質問だったのである。私は前もって彼女に教養ある日本人は、彼等がかつては持っていたであろう、仏教なり神道なりの信仰から、既に進歩して脱出して了っていることを、説明しておいたのである。この質問は鍋島侯爵によって巧に提出されたが、一人のこらず、ニコニコ笑いながら、宗教的の信仰から自由になっていることを自白した。
東京で銀座と呼ばれる一区域を除いては、歩道というものが無い。この銀座はある距離にわたって西洋風に出来ていて、煉瓦建の二階家の街衢や、煉瓦の歩道や、辺石がある。それ以外、東京のいたる所では、車道が往来の一側から他の側にまで達し、その中央は僅かに丸味を帯び、かなり固くて平滑である。人々は道路の真中へまで群れて出る。男も女も子供も、歩調をそろえて歩くということを、決してしない。時に二人が手をつないだり、一人が連の者の肩に手をかけたりする。我国では学校児童までが、歩調をそろえるのに、日本人は歩くのに全然律動が無いのは、特に目につく。我々は直ちに日本人が、我国のように一緒に踊ることが無いのに気がつく。その運動に、絶対的な旋律を必要とするワルツ、ポルカその他の旧式な舞踊や、学校からのピアノに合わせて出て来る練習やが、すべて我々の持つ行進の習慣に貢献している。
鑑定家の蜷川氏(彼のことはすでにこの著述のどこかで述べた。彼は一八八二年に死んだ。)は、ちょいちょい私を訪問した。別の鑑定家古筆氏も、時々やって来た。私が住んでいる小さな家の前面の方は、直接私が書斎、仕事部屋、寝室に使用している部屋にひらく。冬、この人々はやって来ると戸を叩き、私はすぐにそれを彼等のためにひらく。彼等は帽子を脱いで階段に置き、頸にまいた毛布を取って畳んで帽子の上にのせる迄は、決して、私がそこにいることに気がついた様子をしない。そこで初めて、二、三度丁寧にお辞儀をし、私がそれを返すに至って、彼等は家に入って来る。この二人は一度も一緒にやって来なかった。二人の間が面白くないかどうか私は知らぬ。私が日本で会った各種の鑑定家が、お互同志の仕事について、何も知らぬらしいのには驚かされた。蜷川は石版刷の美事な※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵のある、日本の陶器に関する面白い本を出版したのであるが、而も私が今迄にあった陶器の鑑定家は、その存在をまるで知らぬらしかった。
丁髷を廃止しつつある人の数によって、日本人が合理的であることがわかる。先ずこれを行ったのは、学生達である。田舎では誰でもが、丁髷をくっつけているし、都会でも下層界ではこれを見受ける。古い学者達も、まだこの風習を守っている。蜷川は始終髷をつけていたばかりでなく、彼の羽織には、いまだに彼が両刀を帯しているかの如く、裂け目があった。茶の湯の先生で陶器鑑定家である古筆氏は、日本の服装はしているが、数年前に丁髷をやめたのだといった。非常にすこししか頭髪の無い老人は、いまだにその僅かな髪を頭の後方で集め、蝋をつけて、爪楊子位の大きさの丁髷をつくる。ある時、群衆の中で私の前に、真中にこのような丁髷をつけた、禿頭があった。私はその丁髷が黒いのに気がついた。これは染めたか、墨を塗ったかしたに違いない。もっと近づいて調べると、禿げた頭に墨で、丁髷と同じ方向に、黒い線を一本引き、その丁髷を一インチばかり長く見せる工夫がしてある。いたずらな子供は本物の丁髷を、静かに横に押し度い誘惑を感じることであろう。
日本人は睡ている人を起すのに、興味の深い方法を用いる。大声を出したり、荒々しく揺すぶったりする代りに、睡眠中の人の肩を最もやさしく叩き、次第に力を増して行って、ついには力強く引っぱたく。だから睡っていた人は、いささかも衝撃を感じることなしに、一向吃驚しないで目を覚ます。病院の看護婦その他は、この方法を採用すべきである。
日本人の特に著しい性質は、彼等の自然に対する愛情である。彼等は単に自然を、そのすべての形状で楽しむばかりでなく、それを芸術家の眼で楽しむ。この性向は、東京市の案内書が数頁を費して、公園や郊外で、自然が最も見事な有様を示している場所を指示している位強い。以下にあげるものは「東京タイムス」から、これ等の頁を翻訳したものである。
雪景色――隅田川の岸、小石川、九段、上野、愛宕山。晩冬。
梅の花――向島、浅草、亀戸。二月下旬。
桜の花――隅田川の岸、王子、上野、日暮、小金井。四月中旬から。
桃の花――大沢村。四月中旬から。
梨の花――生麦村。四月下旬。
山吹――向島と大森。四月。
芍薬――染井庭園、寺島、目黒。五月中旬。
菖蒲――堀切。五月。
藤――亀戸、目黒、野田。五月下旬。
朝顔――染井、入谷の庭園。七月中旬から。
蓮――木母寺、上野、溜池、向島。七月下旬から。
秋の七草――寺島。八月下旬から。
萩――寺島の蓮華寺、亀戸。八月下旬から。
菊――目黒、浅草、染井庭園、巣鴨。十一月。
紅葉――鴻台、王子、東海寺、海安寺。十一月。
我々はこれに関連して、螢狩には初夏浅草、王子、小石川の水田や、隅田川の岸その他へ行かねばならぬと教えられる。王子と目黒とは同じ季節に、この上なしの、滝で行う釣魚が出来る場所としてある。また「よく鳴く虫」を捕えることが出来る場所も、数個あげられる。
この「思いつき」に関連して現れるもの以外に我々は、菊で有名な団子坂の庭園、桃花の田端、桜、紅葉、霧島の根津の日暮、滝と松の青山と浅草、あらゆる種類の花の四谷津守、美しい草の渋谷新富士、干潮時に釣の出来る須崎弁天、滝と紅葉の滝野川等があることを教えられる。
日本人が、同じ国の住人に忠実であることは、著しいものである。彼等は郷土から来た人は、それが親類であろうと、友人であろうと、あるいは全然知らぬ人であろうと、出来さえすれば、泊めてやり、食事を与える。私の日本人の友人の一人は、このようにして、まるで見たこともない六人の青年をもてなし、彼等を数日間泊めてやったと話した。
動物性の食料の大部分は、海から取れる。日本人は海に住む動物の殆ど全部を、食品として使用する。食料の過半をなすものは脊椎のある魚だが、而も然るべき大きさの軟体動物は、烏賊と共に市場で見られ、その他海胆うにの卵、蠕虫に似たサベラ、腕足類のサミセンガイ、海鞘属のホヤ、その他数種の海藻等もある。脊椎のある魚では、我国に於るよりも、遙かに多くの種類が食われる。我国の沿岸に、同様に、或はそれに近い程多くの種類がいないのではなく、我々の嗜好が僅かな種類に限られているものらしい。私が子供の頃には、誰も比目魚ひらめを食わなかったことを覚えている。以前、メイン州の海岸では、ハドック〔鱈の類〕を食える魚だと思っていなかった。日本人が捕える魚は、殆ど全部市場へ持って来られ、分類されて売られる。小さな舟にのった何千人の漁夫や、岩の上の大人や子供が、あらゆる魚を捕えている。我国では多数取れたり、網にかかったりする魚だけが、市場へ持って行く価値を持つものと思われる結果、食用魚が数種に制限されニューイングランドに於る主なるものは、鱈、ハドック、鯖、ハリバット〔比目魚の類〕だけである。我々の軟体動物即ち蛤、クワホッグ〔簾貝の類〕、牡蠣、海扇等に対する嗜好は極度に制限され、普通の糧食供給を構成するイガイに対しても稀である。輸入される種類のホラ貝は、イタリー人のために市場で見ることもある。これは英国では一般に食われ、美味で栄養がある。他の多くの事象と同じく、日本の各国に、それぞれ独自な釣針がある。図772は、越前、越後、羽後の各国の鱈針である。図773は、長い竿のさきにつける鰻針と、あたり前の魚切庖丁と、魚をよりわける手鉤とを示す。岩代では漁夫が鯖の一種なるボニト〔松魚〕を捕えるのに、ある種の釣針を使用する。その柄は鉛のかたまりで、横には細長い鮑貝の一片がはめ込んであり、その末端には釣針の周囲に、固い紙の条片がついている(図774)。引ずり釣には木の魚を用いる。それは金属の竜骨でまっすぐになり、尾には針の列が二重についている。これは炭火の上で茶色にこがし、両側に、より濃い色の点を焼きつける(図775)。

日本の骨董商人は、世界の他のすべてに於ると同じく、正直なので有名だということは無い。欧洲なり米国なりでつかませられた贋物、古い家具、油絵、特に「昔の巨匠」の絵、エジプトの遺物等を思い出す人は、日本の「古薩摩」(屡々窯から出たばかりでポカポカしている)や古い懸物やその他の商人を、あまりひどく非難しないであろう。悪いことではあるが、これ等のごまかしのある物が、実に巧妙であるのには、感心せざるを得ぬ。一例として商人が、横浜か東京の郊外に、古風な庭のある古い家を発見したとする。若し彼がその家の住人を数週間、「所持品ぐるみ」引っこしさせることが出来れば、彼は適宜な方法で、その家の中に懸物、青銅の品、屏風、漆塗の箱、その他を一杯入れる。更に彼がその家の主人をして――彼が上品な老紳士であれば――不運な事変のため貧乏になり、今や家宝を売らねばならぬという、落ちぶれた大名の役目を演じさせることが出来れば、それでもう囮つきの係蹄は完全に張られたことになる。上陸したばかりで、日本の芸術の逸品に対して夢中になっている外国人は、ふとしたはずみに商人から、この都会から数マイルしか離れていないところに引退した大名が住んでおり、この大名は今や零落して家財を売らねばならず、非常な値うちのある、且つ非常に古い家宝を手に入れる、このような稀な好機会は、一生に一度位しか起らぬのだということを聞く。人力車が雇われ、長く、気持よく走った上で、彼は、想定的大名のささやかなる住宅へ着く。商人は先に行って、彼が来たことを告げる。彼はそこで正式に、尊敬すべき老人に引き合わされ、老人はそこで何ともいえぬ丁重さで彼に茶と菓子と、それから恐らくはすこしの酒とをすすめる。彼は自分がこのように、無遠慮にも押しかけて来たことを恥じ、通弁を通じて前哨戦を行う一方、彼の目は慾深く部屋中を見廻し、自分の所有に帰するにきまっている品を選ぶ。同時に彼は商人によって催眠術にかけられ、愛すべき老人の、上品で、そして家宝を手ばなさずに済めかしと訴るような態度にだまされる。彼はその品、この品に関して慎み深くいわれる値段を、値切ることが恥しくなる。誇りがましい勝利の感情をいだいて、買物を積み込んだ人力車でホテルへ帰る彼は、すくなくとも今度こそは稀古の宝物を手に入れたという確信を持っているのだが、品物がすべて贋物であり、彼が途法もなく騙取されたのであることは、すぐ判る。これ等の商人が敢てする面倒と、巧妙さとは他の事柄にも示される。政府の役人か大学の先生で、毎日きまった路を通って勤めさきへ行くとすると、東京の遠方で見て感心し、買いかけたが、あまり高いのでやめた品が、毎日の通路にある商人の手にうつる。値段は前よりも安いので、どうしても買うことが多い。これが、同じ都会の他の場所で、買うことを拒んだ品ではあるまいかと疑って、即座にその遠方の商人のところへ行って見ると、前にほしかった品はすでに売られている。然し、更に買うことを拒み、再び遠くにいる商人を訪れると、その品はまた彼の手もとにあり、値段は安くなっている。私は数度、このような経験をした。
権左と呼ばれる老商人は、私が名古屋へ行った時、あの大きな都会中の骨董屋へ私を案内して大いに働いてくれ、この男こそは大丈夫だろうと思っていたのだが、その後私をだまそうとした。その方法たるや私が日本の陶器をよく知っていなかったら、ひどくだまされたに違いないようなものであった。私は古い手記から、初期の瀬戸の陶器のある物の、ある種の切込み記号を、非常に注意深く写し取った。これ等の写しを権左に送り、それ等の署名のある品をさがし出してくれ、そうすれば最高の値段を払うといってやった。数ヶ月後名古屋から箱が一つ私のところへとどいた。それには権左の、古い陶工の歴史を書いた手紙がついていた。そして私が彼に送った写しと同じような記号のついた、これ等の陶工がつくった茶入、茶碗その他が入っていた。私は一目してそれ等が、三百年昔のものではなく、精々三、四十年位にしかならぬことを知るに充分な位、日本の陶器に関する知識を持っていた。石鹸と水と楊子とを使うと、一度こすった丈で、なすり込んだ塵埃が取れ、切り込んだ記号が奇麗に、はっきりあらわれた。で、普通の虫眼鏡で見ると、この記号が、固く焼かれた品の上にひっ掻いてつけたものであることが知られた。本物だと焼く前に、やわらかい陶土に切り込むのだから、線の両端が持ち上っている。私はすぐさま、これ等の記号はすべて偽物であり、彼をやがて出版する日本の陶器に関する本に、ペテン師としてあげてやるという、激烈な手紙を彼に出した。数週間後に私は権左から手紙と、絹の水彩画を画いたもの(図776)とを受取った。以下はその手紙を竹中氏がざっと訳したものである。

モース先生
過日は私の経験足らぬ眼のために、私は陶器を批判することについて間違をしました。私は非常に恥入っています。私の欠陥に対して再び先生のお許を乞う可く私は今や私が誤っていた事を書き記してお送りします。この絵で椅子に坐り、陶器を見ておられるのはモース先生で、他は竹中様、他は木村様であります。彼等の前に坐り、お許しを嘆願しているのは権左であります。最後に私は先生が陶器に関する御本を出版なさるに当って、私に親切にして下さらんことを祈ります。先生が御出版なさらんとする御本のことを考えるごとに、私は先生に向って正しからぬことを致したことを、非常にくやみます。敬具   権左
絵に書いてある詩は「この世界では殆どすべてがかくの如くである。あなたは外側から、ある柿の内部の渋は見ることが出来ぬ。」という意味である。
日本から帰国する時、私は支那へ渡り、短期間滞在した後、海岸に沿うて下って安南に寄り、しばらくマライ半島とジャワとにいた。横浜から上海へ行く時、私はマサチューセッツ州エセックス郡出身の、コンナー船長と一緒になった。下関海峡を通過すると、コンナー船長は、岩の多い、切り立った島を指さして見せ、十一年前、彼と彼の夫人とが、この島で難波した船にのっていたと語った。海は穏だったが、非常な暗夜だった。遭難火箭を打ち上げると、間もなく漁夫が、何事にでも手伝うつもりで、本土のあちらこちらから漕ぎ寄せて来た。船客の所有物は舷ごしにこれ等の救助者に手渡され、救助者達は闇の中に消えて行った。翌朝日本政府の汽船が横に来て、船客と船員とをのせ、遭難現場から百四十マイル離れた長崎へ行って彼等を上陸させた。船客達は彼等の衣服全部その他を含む荷物を、如何にして取り戻すかに就て、いく分不安の念を抱いたが、船の士官は、政府が海沿いの往還に、これ等の荷物をとどける可き場所を書いた告示を出しさえすれば、それ等はすべてまとめられ、そして送られるに違いないと、丁寧にいった。数日以後、カフス釦からよごれた襟に至るまでの、すべての品が長崎へ送られ、紛失品は只の一つもなかった。コンナー船長は、微苦笑を浮べながら、数年前、彼等夫妻が十一月、ニュー・ジャージーの海岸で難船した話をつけ加えた。その時は非常に寒かった。彼等が受けた苛酷な取扱に関しては、彼等があらゆる物を盗まれたことを書く以外、何もいう必要はない。
日本人がすべての固信から解放されていることを示す、何よりの実例は、彼等が外国の医術の健全な原理を知り始めるや、漢法を棄てたことである。素速く医学校を建てたことや、米国人がどこへ行って医科教育を終えるかを質問することは、政府の賢明を示していた。我国の有名な医者や外科医が、ベルリンとノルウェーの医科大学や病院で研究したことが知られた。かるが故に、ドイツ人が医科大学の教師として招れ、学生達は入学する迄に充分ドイツ語の基礎を持っていなくてはならなかった。更に横浜には、輸入される薬品全部を検査して、その純粋であることを確めるのを目的とする、化学試験所が建設された。経験のみに依る支那の、莫迦げた薬学は既に放棄された。もっとも田舎へ行くと、天井から乾かした鹿の胎児(図777)や、ひからびた百足むかでその他、支那の、医療物として使用される、怪異な愚劣物が下っているのを、よく見受ける。

デモ医者は竹〔藪〕医者とよばれる。多分竹が軽くて空虚だからであろう。
私は東京に於る統計局の長をしている杉氏〔統計院大書記官杉亨二郎〕と知合になった。彼は日本の古物、茶の湯、及びそれに類するものに興味を持つ、非常に智的な人である。彼から私は東京の保健状況に関する、興味のある事実を沢山聞いた。ミシガン州ランシングの、州立保健局長官、ドクタア・ベーカアが、私に彼の一八七九年の報告書を送ってくれた。重要な統計中、その年八十七件の故殺が行われたことを私は発見した。その時のミシガン州の人口は、東京の人口よりすこし多いので、私は杉氏にその一年間、東京で何件の故殺が行われたかを質問した。彼は皆無だといった。事実過去十年間を通じて、東京では故殺が十一件と、政治的の暗殺が二件行われた丈である。
江木氏その他に、日本に於る最初の公開講演に関して質問したが、信頼すべき情報を得ることは困難であった。有名な福沢氏は私に一八七一年、数名の学者が集り、論文や評論を読んだと話してくれた。この会は非公開であった。一八七三―七四年には、明六社と称する会が、年長な学者達によって組織された。一般人は彼等の議論を聞くことを許された。会報もまた発行された。一八七四―七五年には、福地氏と沼間氏とが少数の講演をやり、僅かの入場料を取った。一八七五年の後半期、講談会という名の、講演協会が創立された。福沢、小幡、井上、矢野、江木の諸氏その他の学者が、月に二回集った。講演を聞くのに、少額の入場料を取ったが、最初は、入場料を取ることが、無礼であるのみならず、非常に不適当だというので、会員のある者は大きに反対した。一八七八年には、新講談会として知られる別の会が組織され、一八七八年九月二十一日に最初の会合をひらいた。江木氏は米国風に、公開講演を金の支払われる職業にしようと企てた。が、入場料を取るというので、辞職した会員が又数名あった。講演は日曜日に行われ、毎回四つか五つの講演があり、そのあい間に数分間ずつの休憩時間があった。最初の課程で講演した人々の中には、杉、西、外山、河津、加藤、江木、菊池、沼間、福沢、佐藤、藤田、中村の諸氏、並にメンデンホール、フェノロサ、モースの三米人がいる。講演者は帝国大学の日米教授、政府各部の役人、新聞主筆、仏教僧侶その他の名士であった。講演は大きな会館で行われ、聴衆は平均六百人から八百人で、最後まで数が減じなかった。聴衆が畳を敷いた床の上に、押し合わずに坐り、注意深く、そして見受けるところ熱心に、宗教、天体、動物界等に於る進化に関する講義を了解しようとしている有様は、興味深く見られた。演壇はほんのすこし、畳を敷いた床よりも高い丈である。会場に人工的な暖房装置が無かったことは、いう迄もない。時々、私が厚い冬の長外套を着たままで講演せねばならぬ位、寒かった。私は靴を脱ぐ可く余儀なくされるので、空しく一箇所に立とうと努め、然し講演の終には私の足は非常につめたくなっている。講演が済むと聴衆の多くが、会場の他の場所にいる友人と挨拶を交わす為に、立ち上る。私は太った来聴者の坐っている場所に目をつけ、若し彼が立つと彼が坐っていた跡があたたかいので、そこへ行って次の講演が始る迄、足をあたためたものである。日本に於る私の初期の講演に際して、刀を帯びた巡査が私の横で椅子に坐り、聴衆の方を向いていたことは、奇妙な経験であった。故人になった私の友人江木氏は、急進論者として知られており、彼が私の講演を通訳した。彼は、或は私をして、最も騒乱煽動的な文句を吐かしめたかどうか、僅かな日本語と表現としか知らなかった私には、知る由もない。その後講演をしている間に、私は時々通訳者の翻訳の意味をつかみ得る程度の日本語を覚え込んだので、二、三度、私は彼を訂正することを敢てした。私が彼等の言葉を了解し始めたことの実例であるこの事に対して、聴衆が示すうれしそうな、そして同情に富んだ表情は、まことに有難いものであった。
以下に示すものは、講談会の最初の課程に於る主題の表である。
九月二十一日
外山氏。 公開演説及び講演に就て。
河津氏。 代議議会の利害。
藤田氏。 協同の必要。
西氏。 祝辞。
福沢氏。 彼の「国民の権利」に対する批評。
モース氏。 祝辞。
十月六日。
長谷川ドクタア(市病院)。 不潔な水を飲む弊害。
沼間氏。 内外国法の衝突。
島地氏。 価値論。
菊池氏。 太陽系の進化。
大内氏。 婦人により社会的な権利をゆるす利益。
メンデンホール氏。 序論。
十月二十日
菊池氏。 太陽系の進化(続)。
モース氏。 昆虫の生活。
加藤氏(帝国大学総理)。 本居と平田の説に就て。
(この二人は日本には日本固有の文明があるのだから、支那の文明を棄てねばならぬと信じた、昔の日本の学者である。)
外山氏。 連想に就て。
杉氏。 道徳的統計。
十月二十七、二十八、三十一日及び十一月二日。
モース氏。 ダーウィニズム四講。動物界の進化。
十一月十日。
江木氏。 陸海軍に就て。
西氏。 練習は完全にする(続)。
フェノロサ氏。 宗教の進化。
小野氏。 言論戦(雄弁の説伏力を示す)。
藤田氏。 四十七浪士に就て。
十一月十七日
福沢氏。 国民の権利(治外法権)。
菊池氏。 太陽系の将来。
外山氏。 外国交際に関することは容易に変更し難し。
フェノロサ氏。 宗教の進化(続)。
十二月一日
河津氏。 社会主義の不条理。
フェノロサ氏。 宗教の進化(終結)。
モース氏。 氷河説。
辻氏。 美術に就て。
十二月十五日。
江木氏。 見せかけの美徳に就て。
菊池氏。 何がよき政府を構成するか。
藤田氏。 小切手の必要。
杉氏。 道徳的統計。
一月五日。
菊池氏。 広く進化に就て。
外山氏。 五官の錯覚。
モース氏。 動物生長の法則。
中村氏。 社会の善と悪。
加藤氏。 会員へ数言。
佐藤氏。 頭脳の涵養。
江木氏。 密告人に賞を与える弊害に就て。
日本人の智的活動に対する内観は、単に日本語に翻訳されて何千と売られる本によってのみならず、これ等の公開講演で取扱われる主題によっても、得ることが出来る。私はボストンに於るローウェル・インスティテュートの無料公開講演*のみを恐らくの例外として、それ以外北米合衆国に、これに比較すべき公開講演会のあるのを知らぬ。
* 我国に於る公開講演は、三十年前の高い標準から、幻灯の見世物、音楽の余興等に堕落し、思慮ある、或は科学的な講演は稀にしか無い。
聴衆の智的性格は、彼等が、僅かな休憩時間が間にありはするが、四つか五つの、各一時間かかる講義の間、辛抱強く坐り続けるという事実から判断することが出来る。米国あるいは他の国の、如何なる講演会の聴衆が、かかる試練に堪え得よう。
この協会の最初の課程で講義した人々のある者の、公人としての位置は以下の如くである。藤田氏は東京の日刊新聞主筆、西氏は以前兵部省の書記官、福沢氏は有名な先生で、新しい地方議会の代議員、長谷川氏は市立病院の医師、沼間氏は元老院書記官、島地氏は仏教の説教師、菊池氏は帝国大学数学教授でケンブリッジ大学数学学位試験一級及第者、大内氏は仏教雑誌の主筆、加藤氏は帝国大学総理で有名な蘭学者、外山氏は哲学の教授でミシガン大学卒業生、杉氏は統計局の長官、河津氏は元老院書記官、江木氏は帝大教授、小野氏は元老院書記官、辻氏は文部省書記官。
一八八二年秋、文部省が各県の主な先生達を東京に招集し、彼等の仕事に関する打合せをさせた。いろいろな質問が起った中に、学校に於る物理教育に関するものがあった。多くの人によって、この目的に使用する器械を購入することは彼等の力以上であり、そしてこれ等の器械が無くては、進歩が更にはかどらぬということが強調された。そこで東京師範学校の生徒達が、これ等の物理教授に必要な器械が、如何に安価に、容易に出来るかを示す目的で、いくつかの装置をつくることを決心した。会議が終る迄に、生徒達は五十六の器械をつくり、それ等を、それ等の構造に要した材料の一覧表と共に、演壇上に陳列した。材料というのが硝子や針金の小片、瓶、コルク、竹等、どこの屑物店ででも手に入れることが出来るような品である。ここにかかげる器械の表に依て、日本人が物理学を覚え込むに適した学徒であるのみならず、彼等がそれを標示するのに使用する道具をつくる上に、非常な巧さを示したことが知られる。私は学生がこのような原始的な器械の構造を研究し極め、そしてそれをつくることによって、どれ程物理学をはっきり会得するであろうかを考えざるを得なかった。このようなお手本は、我国の学生が、北部米国人特有の水兵小刀に対して持つ器用さと巧妙さとにより、更に住宅附近でもより多く手に入れ得る材料を使用して、真似をしても利益あることである。
装置の表
一 天秤 / 二 分銅ある天秤 / 三 振子 / 四 遠心力機 / 五 斜面路 / 六 重力の中心、二重円錐 / 七 振子つきの降下秤 / 八 重力の中心、平衡 / 九 槓杆均衡 / 一〇 ヘロス噴水 / 一一 吸上喞筒ポンプ / 一二 凝集文様 / 一三 斜面路あるベーカアの輪機 / 一四 押揚喞筒 / 一五 気圧の標示 / 一六 ガイスラーの空気喞筒 / 一七 吸引の標示 / 一八 微圧計のある空気受 / 一九 空気受のある気圧計 / 二〇 風車 / 二一 吸引の標示 / 二二 空気喞筒の排気と圧搾 / 二三 音叉 / 二四 鈴の震動 / 二五 二種の共鳴器あるサヴェール器 / 二六 弦のあるソノメータア / 二七 波動現象 / 二八 共鳴器 / 二九 高温計 / 三〇 固体の膨張 / 三一 角度鏡 / 三二 ラムフォードの光度計 / 三三 気体の流出 / 三四 光線の実験 / 三五 暗箱 / 三六 光線の連続 / 三七 光線の拡散 / 三八 空胴角擣 / 三九 目盛表示器つき気体の膨張 / 四〇 液体の膨張 / 四一 寒暖計の図解 / 四二 磁針 / 四三 磁針と台 / 四四 電気振子 / 四五 万能放電機 / 四六 電気毬 / 四七 電振子 / 四八 放電機 / 四九 絶縁台 / 五〇 警鈴 / 五一 電輪 / 五二 ナイルンの電気器 / 五三 ライデン瓶 / 五四 検流計 / 五五 電鍵 / 五六 引力電池
以下は構造に使用した物品の表である。銅・真鍮・鉄の針金、いろいろな形式の竹、糸と紐、大錐、ネジ錐、皿、端書、亜鉛板、鉄葉ブリキ、鉛の銃弾、古い腰掛、浅い木造の桶、箱の蓋、独楽、薄い板、葡萄酒の瓶、硝子の管、バケツ、洋灯の火屋、紙、厚紙、皮の切れはし、銅貨、貝殻、葡萄酒杯、水のみ、護謨管、水銀、蝋燭、硝子瓶、護謨毬、各種の縫針、麦藁、婦人用鋏、磁器の鉢、コップ、提灯、算盤玉、紙製の茶入、僧侶の鈴、製図板、鉤針、鏡面用硝子、並に普通の板硝子、拡大鏡、羽根、封蝋、硫酸、時計の発条、小瓶、漏斗。
粗野で侵略的なアングロ・サクソン人種はここ五十年程前までは、日本人に対し最も間違った考を持っていた。男性が紙鳶をあげ、花を生ける方法を学び、庭園をよろこび、扇子を持って歩き、その他女性的な習慣や行為を示す国民は、必然的に弱くて赤坊じみたのであると考えられていた。一八五七年の『大英百科事典』には「日本人はかつては東方の国民間にあって、胆力と軍隊的の勇気とで評判が高かった。然し現在ではそうでなく、吾人は彼等が本質的に弱々しく、臆病な国民であると見出されるであろうと思う。ゴロウニンによれば彼等は勇気に欠け、戦争の術にかけてはまったく子供である。これは、二世紀以上にわたって、すべての点で、外的と内的の平和をたのしんだ国民にあっては、事実であろうと思われる。苦痛や受難を、勇気深く、辛抱強く堪えること、更に死を軽侮することまでもが、活動的で侵略的な勇気の欠乏と矛盾しないことがあり得るのを、我々は知っている。」と書いてある。だが、こんな以前のことをいう必要はない。カーゾン卿は、一八九四年に出版された『極東の問題』と称する興味深い本の中で、日本人の野望に就て、以下の様にいっている。「現に、これ等の頁が印刷所へ行きつつある時、日本が朝鮮の混乱を利用して朝鮮で行いつつある、そしてそれは、支那との実際上の衝突とまでは行かずとも、重大な論争に日本を導く懼れのある、軍隊的の飾示は、同じ性急な盲目愛国主義の、其後の結果である。」更に進んで彼は、これ等の示威運動は「国家的譫妄状態の最も熱情的弁護者の口辺にさえも、微笑を漂わせる」という。最近の出来ごとは、このアングロ・サクソン人の審判が、如何に表面的であったかを示している。
欧洲の恐怖であった二強国、支那とロシアは、両方とも八年以内(一八九四―一九〇二年)に、日本によってやっつけられ、艦隊は完全に滅され、償金が支那から現金で、ロシアからは樺太の南半で、取られた。英国は初めて日本を注目の価値ありと認め、同盟を結んだ。まるで鉱夫同志の道徳である!
最近日本のことを書いたある筆者は、こういっている――「東郷の人々、即ち日本人は、愛国者の民族で、同時にまた勤労者で武士である。彼等の特質は、いまだに西洋の人々に完全に了解されていない。彼等は多数の表面的な観察者によって、独創的な行為がまるで出来ず、只他の人種の最もよき発明を選び、それ等をぶざまな方法で彼等自身の用に立てることしか出来ない、模倣国民であると伝えられた。これ程真実と違った話はない。この地上に、日本人位正確な知識の探求に熱心な国民はいない。この地上に、日本人より、より強い国家的感情に動かされる国民はいない。この地上に、日本人より、一般的な善のために、個人的な犠牲のより大なるものを払い得る国民はいない。この地上に、論理的思考力の明確と複雑とで、日本人に優る国民はいない。」
終に臨んで一言する。読者は日本人の行為が、しかも屡々我々自身のそれと、対照されたのを読んで、一体私は米国人に対して、どんな態度を取っているのかと不思議に思うかも知れぬ。私は我々が日本の生活から学ぶ可きところの多いことと、我々が我々の弱点のあるものを、正直にいった方が、我々のためになることを信じている。ボストンの警察署長、オーミアラ氏の言葉は、私に深い印象を与えた。彼は我国に対する最大の脅威は、若い男女の無頼漢的の行為であるといった。かるが故に私は対照として、日本人の行為をあげたのである。私の対照は、ひがんだ目で見たものではない。それ等は私が四十年前に見たところのものの、そのままの記述である。我々のこの弱点を感じることは、何も我等を劣等な国民として咎めることにはならず、我々はホール・ケインが『私の物語』に書いたような、米国を真に評価した文章を、誇の感情を以て読み、そして信じるのである。「我々はこの国民を愛する。彼等は世界の他の者が、あたかもひそかにするが如く見える自由を、彼等の権利として要求しているからである。私はこの国民を愛する。彼等がこの世界で、最も勤勉で、熱心で、活動的で、発明の才ある人々であり、そして、何よりも先ず、最も真面目だからである。何故となれば、表面的な観察者の軽薄な審判はともあれ、彼等は国民性に於て最も子供らしく、最も容易に哄笑し、最も容易に涙を流すまで感動し、彼等の衝動に最も絶対的に真実であり、賞讃を与えるに最も大度だからである。私は米国の男性を愛する。彼等の女性に対する挙止は、私がいまだかつて見たものの中で、最も見事に騎士的だからである。私は米国の女性を愛する。彼女等は疑う可くもない純潔さを、あからさまなる、そして不自然ならぬ態度と、性の美事な独立とで保持し得るからである。」
完 
 
ウイリアム・スミス・クラーク

 

William Smith Clark (1826〜1886)
札幌農学校(現・北海道大学)初代教頭(米)
「お雇い外国人」といえば日本人はまず彼を思い浮かべるのではないだろうか?化学・植物学を専門とする学者。マサチューセッツ州立農大学長だった時、新島襄、ケプロンの推薦と北海道開拓使の求めで来日、札幌農学校(後の北海道大学)の初代教頭に就任し創立時の学校運営と人材育成に尽力した。わずか9ヶ月間の滞在だったが、近代農業の講義のほかキリスト教精神による教育は、後に札幌農学校に学んだ内村鑑三・新渡戸稲造らに大きな影響を与えた。特に離日の際の「青年よ大志を抱け Boys,be ambitious」の言葉はあまりにも有名。 
2
アメリカ合衆国の教育者。化学、植物学、動物学の教師。農学教育のリーダー。 札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした。日本ではクラーク博士として知られる。日本人から見るといわゆる「お雇い外国人」のひとりである。
1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母としてマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年にアマースト大学に入学。Phi Beta Kappaの会員となる。1848年に同大学卒業。 1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得。成績が非常に優秀であったので、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となる。分析化学と応用化学を担当して教える(これは1867年まで担当する)。また化学だけでなく動物学と植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした。(動物学は1852年〜1858年、植物学は1854年〜1858年に担当)。じきにクラークは農業教育を推進しはじめる。というのはゲッティンゲン大学で学んでいた時期にすでにそれに着目していたのである。1853年には新しく設立された、科学と実践農学の学部の長になる。がこれはあまりうまくゆかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。
マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。 1860年〜1861年にHampshire Board of Agricultureの長(1871年〜 1872年も再度就任)。
途中、南北戦争に参加することになり、クラークのアカデミックなキャリアは一旦中断する。
アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語では President と表記することが開拓使によって許可され、ほとんど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を企画するが失敗。その後、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げたが、やがて会社は破産。その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされた。晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした8ヶ月間こそ私の人生で最も輝かしい時だった」と言い残したと伝えられる。彼の墓はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーにある。
家族
ドイツ留学から帰国して数カ月後の1853年5月25日に、Harriet Keopuolani Richards Williston ハリエット・ウィリストンと結婚した。ハリエット・ウィリストンというのは、William RichardsとClarissaの間に生まれた娘で、William Richardsはハワイ王国へミッション(宣教)へ行った人物である。 1838年にハリエットと弟の Lymanはウィリストン神学校で教育を受けるべく、ハワイから送り出されたのであった。(妻の父親(義理の父)のWilliam Richardsは1847年にハワイで亡くなることになる) クラークは妻のハリエットの間に11人の子どもをもうけた。ただし、うち3人は生後1年以内に死亡した。
息子のアサートン・クラークは、後年マサチューセッツ農科大学の理事になった。
息子のヒューバート・クラーク (Hubert Lyman Clark) は、ハーバード大学で動物学を研究した。 ヒューバートの息子のウィリアム・クラークは、シンシナティ大学の英文科科長となった。
3
1826年7月31日、米国マサチューセッツ州にて誕生。父は医師であるアサートン・クラーク、母はハリエット。1844年には故郷にある名門私立大学アマーストに入学し、1848年に同大学を卒業し、ドイツにあるゲッティンゲン大学に留学し、化学・植物学を学び始めますが、この留学期間中には既に農業教育の重要性にも気付いていたそうです。
成績優秀であったクラークは、1852年には早くも同大学にて化学の博士号を修得し、同年に帰国。母校であったアマースト大学の教授に就任し応用化学だけではなく、植物学・動物学の3つの専門を学生に教える活躍をするようになります。この時期に、クラークの教えを受けた生徒の中で、後に同志社大学を設立する新島襄が留学生として在学しており、日本政府にクラークをお雇い外国人教師として推薦しています。
1853年には勤務地であるアマースト大学に新設立された、化学課・実践農学課の課長に就任、4年間同職を勤め上げた後、マサチューセッツ農科大学(現・マサチューセッツ大学アマースト校農学部)の学長に就任し、更に農業教育に力を注ぎます。
教育者として、これまで順風満帆な人生を送っているクラークですが、農学校学長の地位を飛び出し(後に復職)、自ら志願してアメリカ南北戦争に北軍側として参戦します。この彼の果断な行動を見ても、只の文人学者ではない事がわかる一点景ですが、この戦争で、彼の教え子も参戦し戦死しています。この参戦体験が、後にクラークが札幌農学校で軍事教練を取り入れた要因となったと言われています。
1876(明治9)年7月、日本政府の強い要請によって、お雇い外国人教師の1人として、同年8月に新設された札幌農学校の初代教頭に8ヶ月という任期として就任します。初代校長は調所広丈でしたが、これは飽くまでも名目上であり、学校を差配していたのはクラークでした。
札幌農学校でもクラークの教育は熱心でした。教え子の殆どは貧しい士族の子弟でしたが、やけにプライドが高い連中ばかりの上、家の経済事情により止む無く農学校に入学したので、当初はクラークに結構反発したそうですが、クラークは辛抱強く付き合い、学生諸君を徐々に教育してゆきました。その中で、ろくに勉強せず毎晩夜遅くまで酒盛りばかりやっている学生達に飲酒を止めさせるために、無類の酒好きであったクラーク本人も禁酒したのは有名なエピソードです。またクラークが主に学生に教えていたのは、アマースト大学と同じく、植物学・動物学、実践農学でしたが、課外授業の植物採取の折に、珍しい植物を高い位置に発見した折には、教頭であるクラーク自らが地上に四這いになり、背中に学生を乗せ植物を採取させたりしました。これらの様なクラークの熱心かつ真摯ある教育態度に、荒くれ者が多い学生はクラークに対して尊敬の念を抱くようになります。
クラークは、農学校施設の強化にも力を入れ、開校早々の開校早々の1876(明治9)年に開拓使札幌官園の一部(現・北海道大学札幌キャンパスの東半分)の移管を受けて農校園を開設しました。その中で、特筆すべき建造物が、クラークの構想に基づき建設された米国式畜舎・『モデルバーン(模範家畜房)』でしょう。どの様な建築構造かと言うと、『最上階から干し草を落とし、それを牛が食べ、牛の糞尿を下に居る豚に与える設計』となります。極めて合理的です。この構造を見た当時の学生及び日本人は、感嘆したに違いありません。この刺激が北海道近代酪農、ひいては日本近代酪農躍進の起爆剤になったのではないでしょうか。
クラーク博士の精神を受け継いだ偉人たち
クラークの日本における農学教育の功績も大きいのですが、何よりも最大功績は、実質8ヶ月という短い在任期間ながら、新興小国・日本の将来を担う人物の育成に大きな貢献したという事が挙げられます。彼の直接・間接的に教えを受けた主な人物は以下の通りです。
農学校一期生
・佐藤昌介(日本初の農学博士 北海道帝国大学初代総長)
・渡瀬寅次郎(教育者 二十世紀ナシの命名者)
・大島正健(言語学者・宗教家 クラークの名言『少年よ、大志を抱け』を後世に伝えた人物)
・伊藤一隆(北海道道庁初代水産課課長。日本サケ・マスのふ化事業および北海道の水産業の発展に尽力。推理小説家・松本恵子の実父、タレント・中川翔子さんの母方の高祖父)
農学校二期生(クラークから直接薫陶は受けていませんが、彼の教育方針を受け継いだ農学校2代教頭ホイーラーに教育を受けました。とにかく凄い顔ぶれです。)
・新渡戸稲造(入学当時は太田姓。教育者・思想家・国際連盟事務次長、「武士道」の著者、旧5千円札の肖像としても有名)
・内村鑑三(文学者・キリスト教思想家・無教会主義者、。「代表的日本人」の著者)
・宮部金吾(植物学者、エゾマツ・トドマツなど植物の分布境界線「宮部線」にその名を遺しています)
・町村金弥(実業家・政治家。初代文部科学大臣や外務大臣を務めた町村信孝氏の祖父)
・足立元太郎(生糸・養蚕事業の貢献者。第42代内閣総理大臣・鈴木貫太郎の義父。貫太郎の後妻・たか夫人の父。)
以上の偉人達になります。どの人物もその後の日本の将来を背負って立ったお歴々ばかりです。特に直接クラークの薫陶を受けていないとは言え、第二期生の新渡戸稲造は日本紙幣の顔の1つになり、誰もが知る存在であります。そして、上記の列挙させて頂いた人物の中で、あまり周知されていない足立元太郎という方がいますが、彼の学んだ農学精神は、長女のたか、そして彼女の夫になる鈴木貫太郎に立派に受け継がれてゆく事になり、千葉県の酪農発展の礎となるのです。
「少年よ大志を抱け」とクラークの不遇な晩年
1877(明治10)年5月、クラークは任期を終えて横浜から離日、故郷の米国へ帰国しました。帰国に先立つ4月16日、札幌の南24キロの島松駅逓所(現・北海道北広島市島松)で昼食を摂った後、教え子達に別れの挨拶をした。その最後に言ったのが不滅のフレーズ『Boys, be be ambitious like this old man(この老人(私)のように、あなたたち若い人も野心的であれ)』です。
実は長らくこの言葉をクラークは言っていないと物議を醸し出した時期があったようですが、彼の教え子の1人であった大島正健は自著「クラーク先生とその弟子たち(教文館)」で、クラークとの別れを回想しています。以下がその文になります。
『先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔をのぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、Boys, be be ambitious like this old man!と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された。』
余談ですが、クラークは帰国途中の折に京都へゆき、同志社英学校を設立し、その運営に奮闘しているかつての教え子・新島襄を訪ねています。その時に同志社に金一封を寄付した上、札幌農学生の指導と援助を依頼しました。米国に帰国したクラークは晩年に至るまで不遇でした。マサチューセッツ農科大学学長を辞任し、その後は知人と共に鉱山経営に着手し、結果的に破産し、会社経営は失敗。その責任を追及され裁判沙汰にまで発展しました。これがクラークには相当堪えたらしく、体調を崩し、心臓病を患い、1886年3月9日アマーストでこの世を去りました。享年59歳。
臨終を看取った牧師に『我が生涯での慰めは日本の札幌にいた8カ月だけです』と言い遺したと言われています。この短い日本滞在の期間で、彼は日本近代酪農の発展・日本の偉人の育成に大きな貢献をした事は間違いないですが、クラーク博士にとってもこの時期が彼の人生で一番充実した時期であった事もまた間違いないようです。 
イエスを信ずる者の契約
「 ここに署名する札幌農学校の職員学生は、キリストの命じるところに従いキリストを告白すること、および十字架の死により我らの罪をあがなわれた貴き救い主に愛と感謝を捧げるためにキリスト者としてのすべての義務を真の忠誠をもって果たすことを願いつつ、また主の栄光のため、および主が代わって死にたもうた人々の救いのために、主の御国を人々の間に前進させることを熱望しつつ、ここに今より後、イエスの忠実なる弟子なるべきこと、および主の教えの文字と精神とに厳密に一致して生きるべきことを、神に対し、また相互に対して、厳粛に誓約する。さらに、ふさわしい機会があればいつでも、試験、洗礼、入会のため福音的教会に出向くことを約束する。
我らは信ずる、聖書が、人に対する神からの、言葉による唯一の直接的啓示であり、来たるべき栄光の生に向けての唯一の完全で誤りのない手引きであることを。
我らは信ずる、我らの慈悲深き創造主、我らの義なる至上の支配者でまた我らの最後の審判者である、唯一なる永遠の神を。
我らは信ずる、心から悔い、そして神の子イエスへの信仰によって罪の赦しを得るすべての者は、生涯にわたり聖霊によって恵み豊かに導かれ、天の父の絶えざる御心によって守られ、ついにはあがなわれた聖徒の歓喜と希望とが備えられることを。しかし福音の招きを拒むすべての者は、自らの罪の中に死に、かつ永遠に主の御前から追放されねばならぬことを。
我らは、地上の生涯にいかなる変転があっても、次の戒めを忘れず、これに従うことを約束する。
あなたは、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。また自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。
あなたは、生物・無生物を問わず、いかなるものの彫像や肖像を崇拝してはならない。
あなたは、主なるあなたの神の名を、いたずらに口にしてはならない。
安息日を憶えてこれを聖きよく守りなさい。すべての不必要な労働を避け、その日を、できるだけ聖書の研究と自分および他の人の聖い生活への準備のために捧げなさい。
あなたは、あなたの両親および支配者に聞き従い、彼らを敬いなさい。
あなたは、殺人、姦淫、不純、盗み、ごまかしをしてはならない。
あなたは、隣り人に対して何の悪もしてはならない。
絶えず祈りなさい。
我らは、お互いに助けあい励ましあうために、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして、聖書またはその他の宗教的書物や論文を読むため、話しあいのため、祈祷会のために、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導きくださることを。 」 ( 1877/3/5 札幌にて)
少年よ、大志を抱け この老人の如く
札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北広島市島松)でクラークが発したとされるクラークの言葉が、よく知られている。それは「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」として知られていた。しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代があった。1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われた。
しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明した。安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、これは「この老人(=私)のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味になる(ただし『恵林』には「Boys, be ambitions like this old man」と印刷されているが、「n」は「u」の誤植・倒置と思われる)。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌 Japan Christian Intelligencer, Vol.1, No.2 でのクラークについての記述で、全く同じ文章を使ったことも判明した。また大島は、次のように述べている。
「 先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔をのぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、"Boys, be ambitious!" と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された。  」 ( 「クラーク先生とその弟子たち」)
この時に他にも「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説もある。また「青年よ、利己のためや はかなき名声を求めることの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。

Boys, be ambitious.
Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame.
Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.
Boys, be ambitious like this old man.
少年よ 大志を抱け
お金のためではなく 私欲のためでもなく 名声という空虚な志のためでもなく
人はいかにあるべきか、その道を全うするために、大志を抱け
少年よ 大志を抱け この老人のように
クラークとカレー
クラークは学生にカレー以外のメニューの時の米飯を禁じ、パン食を推進したと言われ、カレーを日本に広めたのはクラークであるという説もある。しかし、『カレーなる物語』(吉田よし子、1992年)によれば、北海道大学には、当時のカレーに関する記録は1877年9月(クラーク離日後)のカレー粉3ダースの納入記録しか残っておらず、クラークの命令もあったのかどうかは不明とされる。ただし、1881年の寮食は、パンと肉、ライスカレーが隔日で提供されていたことは確認されている。クラークとカレーを結びつける文献として古いものは、『恵迪寮史』(1933年)があり、これによると、札幌農学校ではパン食が推進され、開学当時からカレー以外の米食が禁じられていたという。
北海道立文書館発行『赤れんが』81号(1984年)によれば、開拓使東京事務所では、クラーク訪日前の1872年からお雇い外国人向けにライスカレーやコーヒーが提供されていた。また、札幌農学校の前身である開拓使仮学校は、東京に設置されている。そもそも、北海道でパン食を推進したのは、クラークの前任者とされる開拓使顧問のホーレス・ケプロンであるとされ、札幌農学校とカレーとの関係は、クラーク以前の時代に遡る可能性もある。
「ライスカレー」という語はクラークが作ったという説もあるが、クラーク訪日前の開拓使の公文書『明治五年 開拓使公文録 八』(1872年)で、「タイスカレイ」(ライスカレーの意味)という語が使われている。
エピソード
内村鑑三は、「後世への最大遺物」において、「ものを教える」技能を有し教育で貢献する人物の例として挙げ、農学校時代にクラークを第一級の学者であると思っていたが、米国に渡ってみるとある学者に「クラークが植物学で口を利くなど不思議だ」と笑われた、と言い、「先生、だいぶ化けの皮が現れた」とした。しかし、青年に植物学を教え、興味を持たせる力があったとして、「植物学の先生としては非常に価値のあった人でありました」と高く評価した。
札幌農学校の校則について、開拓使長官の黒田清隆(後の内閣総理大臣)に「この学校に規則はいらない。“Be gentleman”(紳士であれ)の一言があれば十分である」と進言したと言われている。それまで雁字搦めの徳目に縛られていたのと比べると、これはいかにも簡潔なことであった。しかし、何をして良いのか、何をしてはいけないのかは自分で判断しなければならないため、自由でありながら厳しいものとなっている。ただし、開校日にクラーク自身が学生に提示した学則は、これよりはるかに多い。これは、クラークの前任者であるホーレス・ケプロンの素案をそのまま使ったためとも言われている。
離日後も黒田清隆や教え子との間で手紙による交流を続けた。 
クラーク博士の南北戦争
クラーク博士は教師であるとともに、南北戦争に北軍軍人として従軍し、大佐まで昇進して1個連隊を率いていた歴戦の勇士でした。
1877年4月16日とのことといいます。札幌農学校教頭の職を辞し、北海道を去ろうとするクラークの周囲に名残おしく集まった教え子や同僚に向かい、彼はひらりと馬に飛び乗るや「Boys, be ambitious(青年よ大志を抱け)」と叫び、駒とともに疎林へ消えました。
教え子の中には、後に北海道帝国大学総長となる佐藤昌介や、石橋湛山を育てた教育者・大島正健らがいました。また、後に彼らの薫陶を受けて農学校で育つ後輩には、新渡戸稲造や内村鑑三たちがいました。
このときこそが、クラークの人生の絶頂点でした。そう、つまり、この後のクラークの人生とは、ただひたすらに落ちていくものでしかなかったからです。
クラークは1826年7月26日、アメリカ北部のマサチューセッツ州アッシュフィールドに、医者の息子として生まれました。母方の祖父は上院議員まで務めた人物で、また父は土地の富豪と非常に親密な仲だったというのですから、間違いなく上流階級です。
成長したクラークは地元のアーマスト大学に入学し、化学を専攻します。しかしこのアーマスト大学は牧師の養成校としても知られた学校で、クラークはキリスト教への篤い信仰心をも、この学び舎で育みます。この信仰心が、後に札幌農学校の中に移入され、新渡戸や内村といった日本を代表するキリスト者たちへの系譜に連なっていくのです。
クラークはその後、ドイツに留学して博士号を取得。1852年に母校・アーマストで農芸化学の教授となります。後に北海道に渡り、日本の教育界に伝説的な名を残しているほどの彼です。教育者としての才は申し分なかったそうですが、また図書館建設のため募金活動や、火災で失われた寮の再建運動などにも見事な手腕を発揮し、マサチューセッツの名士となっていきます。
そんな1861年4月、アメリカを真っ二つに割る南北戦争が勃発します。同戦争の口火を切ったサムター要塞の戦いが行われた直後、クラークはアーマストで開かれた全学集会でアメリカ独立宣言を読み上げ、学生や同僚たちに合衆国(北部)への変わらぬ忠誠を呼びかけたといいます。
クラークは学生を集めて義勇連隊の結成を企図。結局これは実を結びませんでしたが、8月にはマサチューセッツ州第21連隊の軍人として、教職をなげうち出征するのです。
35歳の大学教授の行動と考えれば、現在の日本の価値観では驚く人も多いかもしれません。しかし当時のアメリカは北も南も、戦争への熱狂で興奮状態でした。クラークのごとく、年齢も社会的地位も乗り越えて軍に志願する人間は、山のようにいました。
クラークはその教養と社会的地位を買われ、最初から少佐として従軍します。土地の名士は兵隊集めの一種の「看板」にもなりましたから、こうした措置は当時、決して珍しいことではありませんでした。
21連隊はしばらく訓練に集中し、初陣を飾ったのは1862年の2月、ノースカロライナ州で行われたロアノーク島の戦いでのことでした。この戦いは北軍の大勝に終わったのですが、この「実際の戦闘経験」を得た辺りから、クラークの戦争への熱情には揺らぎが見え始めます。開戦時の高揚感から遠く離れ、実際に人が死傷する現場を見て、クラークはもう軍を辞めようと思うようになったのです。
ちなみにこの感情は、決してクラークが特別に臆病だったからではありません。開戦時の熱狂とともに軍に殺到した志願兵たちが、この時期に共通して持ち始めた感情で、末端の兵士たちの間ではすさまじい勢いで脱走が「流行」し始めます。
ただクラークは職務には忠実でした。ロアノーク島の戦いの1ヶ月後に行われたノースカロライナ州ニューバーンの戦いでは、勇敢に敵陣に突撃。敵の大砲を自ら馬乗りになって分捕り、北軍を戦勝に導く大活躍をしています。
「『来た、見た、勝った』(カエサルの言葉)という感じの勝ちっぷりだった。色あせ、銃弾で穴の開いた星条旗を掲げ、われわれは堂々と進んでいる」とは、戦闘後にクラークが友人に送った手紙の一節です。そして3月中に中佐に昇進したかと思うと、翌月には大佐に昇進。拡大する戦線に対応するため部隊を急造せねばならず、そのため指揮官さえをも急ごしらえでつくる必要性があった当時のアメリカでは、南北ともに、このような「乱暴な人事」がしばしば行われていました。しかしそれでも、無能者は「乱暴な人事」の恩恵にさえあずかれません。
「クラーク大佐ほど評判のいい指揮官はいない。司令部の評価も同じで、大佐が欲しがるものならば、国は何でも与えるだろう」
以上はクラークを評した当時の新聞記事ですが、学者上がりの「中年軍人」は、軍に志願して1年もたたずに、ここまでの栄光を手にしていたのです。
しかし1862年9月のチャンティリーの戦いで、21連隊は手ひどい打撃を受けます。南軍の猛将、トーマス・“ストーンウォール”・ジャクソン将軍に一蹴され、21連隊は壊走するのです。クラークも副官や従卒らをすべて殺され、たった1人で森に身を潜め戦場から離脱するなど、散々な目にあいます。
クラークの所在は一時不明となり、新聞には死亡記事までもが出ました。「『クラーク大佐が戦死し、遺族はその遺体の返還を望んでいる』か。どれ、自分自身で“返還”しに行くか」とは、生還後、その「自分の死亡記事」を読んでクラークがユーモアたっぷりに語った言葉といいますが、この敗北により、クラークはこれ以上軍人を続けていく気持ちをまったく喪失してしまします。クラークは将軍への昇進をひそかに狙っていたともいいますが、このような指揮ぶりを露呈し、その可能性も失われてしまいました。
「私はここに辞表を提出し、合衆国から名誉ある解任の命を承りたいと望む。その理由は、わが連隊の規模が縮小してしまい、現状況においては、私は軍隊よりも民間にあった方が、国家に貢献できると考えたからである」
1863年4月、クラークは上記のような辞表を提出し、軍を去りました。
しかしマサチューセッツにおいて、クラークの声望はまったく揺らいではいませんでした。むしろ「国家に尽くした偉大な愛国者」として迎えられ、戦後は新設のマサチューセッツ農科大学の学長に就任します。
1876年、クラークは日本政府から、北海道開拓使の札幌農学校教頭にと請われ、太平洋を渡ります。前年に設立された農学校を実質的につくりあげたのは、クラークと同じマサチューセッツ出身で、これまた同じく南北戦争時に北軍に従軍し、そして将軍となり、戦後、合衆国政府の農務局長を務めた農学者、ホレース・ケプロンでした。ケプロンはクラークと入れ替わりに日本を去っていますが、この縁があったからこそのクラーク来日でした。
本稿は、「日本時代のクラーク」を詳述することを目的としません。しかし日本滞在期間わずか8ヶ月でありながら、札幌農学校において生徒たちにただ1つ「紳士たれ(Be gentleman)」の校訓を示し、キリスト教の精神に裏打ちされた高潔な人格でもって北海道開拓の基礎となる有為の人材を育てた功績は、いまなお日本で広く語られています。離日時の「Boys, be ambitious(青年よ大志を抱け)」の声は、まさにその仕事の集大成であり、絶頂点でした。
しかし帰国後のクラークの生活は悲惨でした。クラークは「洋上大学」という、大型の船に学校施設を備え付け、世界中の青少年を教導して回ろうという途方もない構想に取り付かれ、見事に失敗。その後は山師的な人物にだまされて鉱山経営に乗り出し、破産して一文無しになってしまうのです。
もはやクラークはマサチューセッツの名士ではありませんでした。背負った借金による、いくつもの裁判を抱えた、みすぼらしい敗残者でした。不幸なことにクラークは心臓病にも侵され、寝たきりのような生活を強いられます。1886年3月9日、クラークは59歳でその生涯を閉じます。
現在のアメリカにおいて、クラークはまったく無名の人物です。彼は結局、学者としても軍人としても挫折者でした。
しかし日本での名声はご存知の通りです。そしてクラークを北海道に招いたケプロンとの間にあった「南北戦争」という縁がなければ、「札幌農学校クラーク教頭」の誕生もまたなかったのだと考えれば、日本人として、南北戦争と言うものの存在の大きさを感じざるを得ません。
 
バジル・ホール・チェンバレン

 

Basil Hall Chamberlain (1850〜1935)
語学教育 『古事記』の英訳(英)
イギリスの言語学者。俳句を英訳した最初の人物の一人であり、日本についての事典"Things Japanese"や『口語日本語ハンドブック』などといった著作で知られ、19世紀後半〜20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人。1873年23歳で来日、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教え、1886年からは東京帝国大学教授となり、39年に渡り日本に滞在し金田一京助ら日本の言語学者らを育てながら自身で研究を重ねた。『古事記』の英訳、アイヌ・琉球の研究、日本語文法などに関する書を多く著している。王堂、チャンブレンとも自称し和歌なども残している。
小泉八雲はチェンバレンの薫陶を受け、二人は交遊があり往復書簡が残されているが後に日本に対する姿勢の違いから次第に疎遠になっていった。その辺の事情は平川祐弘著『破られた友情―ハーンとチェンバレンの日本理解』に詳しい。  
2
イギリスの日本研究家。東京帝国大学文学部名誉教師。明治時代の38年間(1873年-1911年)日本に滞在した。アーネスト・サトウやウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston)とともに、19世紀後半〜20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人。彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり、日本についての事典"Things Japanese"(『日本事物誌』)や『口語日本語ハンドブック』などといった著作、『古事記』などの英訳、アイヌや琉球の研究で知られる。「王堂」と号して、署名には「チャンブレン」と書いた。
チェンバレンは1850年、ポーツマス近郊のサウスシー(Southsea)で、父親はイギリス海軍少将。母親は『朝鮮・琉球航海記』の著者であるイギリス軍人バジル・ホールの娘。後にドイツに帰化した政治評論家・脚本家のヒューストン・チェンバレンは彼の末弟であり、リヒャルト・ワーグナーはその舅で、ワーグナー家とも晩年交流があった。
1856年、彼は母親イライザの死によって母方の祖母とともにヴェルサイユに移住した。それ以前から英語とフランス語の両方で教育を受けていた。またフランスではドイツ語も学んだ。帰国し、オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した。
お雇い外国人
1873年5月29日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。1882年には古事記を完訳している(KO-JI-KI or "Records of Ancient Matters")。ついで1886年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、1888年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、1890年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、1899年初版、1905年第二版)などの多くの著作を発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造の著作BUSHIDOに触れているが愛国主義的教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(1891年)も執筆し、これは多くの版を重ねた。1904年ごろから箱根の藤屋(富士屋)に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、1911年離日、東京帝大名誉教師となった。以降はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道をチェンバレンの散歩道と別称している。
交友関係
チェンバレンはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と親交があった。この仲はのちにやや疎遠となってしまうが、往復書簡集が残っている。
チェンバレンとその秘書であり親子同然の間柄でもあった杉浦藤四郎(1883〜1968)の蔵書、書簡等よりなるチェンバレン・杉浦文庫が愛知教育大学にある。
君が代
1880年(明治13年)、日本の国歌として『君が代』が採用された。君が代は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する。
「君が代は 千代に八千代に  さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで」
   A thousand years of happy life be thine!
   Live on, my Lord, till what are pebbles now,
   By age united, to great rocks shall grow,
   Whose venerable sides the moss doth line.
   汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
   われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
   時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
   神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
この歌は皇統の永続性がテーマとされる。 和田真二郎 『君が代と萬歳』、小田切信夫『国歌君が代の研究』では、チェンバレンの英訳を高く評価している。
俳句
チェンバレン訳の芭蕉「古池や、蛙飛び込む、水の音」
The old pond, aye! / and the sound of a frog / leaping into the water.
批判
チェンバレンが日本語文法書を書いたことが国辱的と感じる谷千生や山田孝雄のような人もいた。また、彼の西洋中心主義も非難されるところであった。
チェンバレンは日本文学に対し、非常に低い評価をしており、「才能とオリジナリティ、思想、倫理的把握、奥深さ、幅広さが欠けており、詩歌も知性に欠けて可憐なだけである」と評したが、日本研究者のリチャード・バウリング(Richard Bowring)は、「チェンバレンによる和歌の翻訳は古色蒼然とした詩的表現のまわりに沢山のつぎはぎ」をしたものであり、チェンバレンの下した評価は彼が考える「英語で詩的なものとは何か」が「日本の詩歌に欠けている」という意味しかない、と批判している。また、アーサー・ウェイリーもチェンバレンの翻訳に不満を持ち、その日本文学論に反論、ラフカディオ・ハーンも、チェンパレンの『日本事物誌』の音楽、神道、文学などの項目について異を唱えた。
チェンバレンの見た日本
日本人の間に長く住み、日本語に親しむことによって、この論文の後半において簡単に述べた最近の戦争や、その他の変化の間における国民のあらゆる階級の態度を見ることができたが、これらの外国人すべてに深い印象を与えた事実が一つある。それは、日本人の国民性格の根本的な逞しさと健康的なことである。極東の諸国民は――少なくともこの国民は――ヨーロッパ人と比較して知的に劣っているという考えは、間違っていることが立証された。同様にまた、異教徒の諸国民は――少なくともこの国民は――キリスト教徒と比較して道徳的に劣っているという考えは、誤りであることが証明された。
過去半世紀間、この国のいろいろな出来事を充分に知ってきたものは誰でも、ヨーロッパの総てのキリスト教国の中に、日本ほど前非を認めるのが早く、あらゆる文明の技術において教えやすく、外交においては日本ほど率直で穏健であり、戦争に際してはこれほど騎士道的で人道的な国があろうとは、とうてい主張できないのである。もし少しでも「黄禍」があるとするならば、ヨーロッパ自身の良き性質にもまさるさらに高度の良き性質を、その新しい競争相手が所有しているからにほかならない。このように驚くべき成果が生じたのは、日本人が苦境に立たされていることを自覚し、断乎として事態を改善しようと決意し、全国民が二代にわたって熱心に働いてきたからにほかならない。 (注:「黄禍」=19世紀半ばから20世紀前半にかけて、アメリカ・ドイツ・カナダ・オーストラリアなど白人国家において、アジア人を蔑視し差別する「黄禍論」が現れた)

1877年(明治十年)薩摩の反乱(西南戦争)を鎮圧したとき、日本軍人は砲火の洗礼をあびた。日本軍人は日清戦争(1894〜5)において偉功を立て、外国の専門家たちを驚嘆させた。特に兵站部の組織は徹底的に行き届いたもので、峻烈な気候と貧しい国土にあって、敢然とその任務に当った。
統率もまずく栄養も不良で、生れつき戦争嫌いの中国人は、逃走することが多かった。日本人の胆力を示す機会はほとんどなかった。しかしながら1894年9月15日の平壌の戦闘、続いて満洲に進軍し、同年11月に旅順を占領したのは注目すべき手柄であった。
さらに1900年(明治三十三年)、北京救出のため連合軍とともに進軍した日本派遣軍は、もっとも華々しい活躍を見せた(北清事変)。彼らはもっとも速く進軍し、もっともよく戦った。彼らはもっともよく軍律に従い、被征服者に対してはもっとも人道的に行動した。
日露戦争(1904〜5)は同様のことを物語っている。日本は今や、その大きさにおいては世界最強の軍隊の一つを所有していると言っても過言ではない。この事実には――事実と仮定して――さらに驚くべきものがある。それは、日本陸軍が作者不明(という言葉を使わせてもらえば)だからである。世界的に有名な専門家がこのすばらしい機構を作りあげたのではない――フレデリック大王も、ナポレオンもいない。それは、狭い範囲以外にはほとんど知られていない人びとが作りあげたものである。

絵画や家の装飾、線と形に依存するすべての事物において、日本人の趣味は渋み――の一語に要約できよう。大きいことを偉大なことと履き違えているこけおどし、見せびらかしと乱費によって美しさを押し通してしまうような俗悪さなどは、日本人の考え方のなかに見出すことはできない。
(中略)金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。実に、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。ほんものの平等精神が(われわれはみな同じ人間だと心底から信ずる心が)社会の隅々まで浸透しているのである。
ヨーロッパが日本からその教訓を新しく学ぶのはいつの日であろうか――かつて古代ギリシア人がよく知っていた調和・節度・渋みの教訓を――。アメリカがそれを学ぶのはいつであろうか――その国土にこそ共和政体のもつ質朴さが存在すると、私たちの父祖達は信じていたが、今や現代となって、私たちはその国を虚飾と奢侈の国と見なすようになった。それは、かのローマ帝国において、道徳的な衣の糸が弛緩し始めてきたときのローマ人の、あの放縦にのみ比すべきものである。
しかし、日本が私たちを改宗させるのではなくて、私たちが日本を邪道に陥れることになりそうである。すでに上流階級の衣服、家屋、絵画、生活全体が、西洋との接触によって汚れてきた。渋みのある美しさと調和をもつ古い伝統を知りたいと思うならば、今では一般大衆の中に求めねばならない。

日本人の間に長く住み、日本語に親しむことによって、最近の戦争や、その他の変化の間における国民のあらゆる階級の態度を見ることができたが、これらの外国人すべてに深い印象を与えた事実が一つある。それは、日本人の国民性格の根本的な逞しさと健康的なことである。
極東の諸国民は ―少なくともこの国民は―ヨーロッパ人と比較して知的に劣っているという考えは、間違っていることが立証された。同様にまた、異教徒の諸国民は―少なくともこの国民は―キリスト教徒と比較して、道徳的に劣っているという考えは、誤りであることが証明された。
過去半世紀間、この国のいろいろな出来事を充分に知ってきたものは誰でも、ヨーロッパの総てのキリスト教国の中に、日本ほど前非を認めるのが早く、あらゆる文明の技術において教えやすく、外交においては日本ほど率直で穏健であり、戦争に際してはこれほど騎士道的で人道的な国があろうとは、とうてい主張できないのである。
日露戦争同様のことを物語っている。日本は今や、その大きさにおいては世界最強の軍隊の一つを所有していると言っても過言ではない。この事実には ―事実と仮定して―さらに驚くべきものがある。それは、日本陸軍が作者不明(という言葉を使わせてもらえば)だからである。世界的に有名な専門家がこのすばらしい機構を作りあげたのではない。フレデリック大王も、ナポレオンもいない。それは、狭い範囲以外にはほとんど知られていない人びとが作りあげたものである。
 
ラファエル・フォン・ケーベル

 

Raphael von Koeber (1848〜1923)
哲学・音楽(露)
ドイツ系ロシア人の哲学者。モスクワ音楽院ピアノ科ではルビンシュタインやチャイコフスキーに師事していたという異色の経歴を持つ。ドイツに留学してハイデルベルク大学などで哲学を学ぶ。井上哲次郎らの要請で1893年来日し東京大学でギリシア哲学、美学、美術史などを講義、夏目漱石、高山樗牛、岩波茂雄、阿部次郎、西田幾多郎らも聴講した。また東京音楽学校(現・東京芸大)の講師も務め滝廉太郎などを育てた。第一次世界大戦が勃発して帰国できなくなり、横浜のロシア総領事ヴィルム邸で晩年を過ごし、論文や歌曲を残した。夏目漱石や和辻哲郎は『ケーベル先生』という一文を残している。 
2
ロシア出身(ドイツ系ロシア人)の哲学者、音楽家。明治政府のお雇い外国人として東京帝国大学で哲学、西洋古典学を講じた。
ドイツ人の父とロシア人の母のもとニジニ・ノヴゴロドに生まれる。6歳よりピアノを学び1867年にモスクワ音楽院へ入学、ピョートル・チャイコフスキーとニコライ・ルビンシテインに師事し1872年に卒業した。しかし内気さ故に演奏家の道を断念し、ドイツのイェーナ大学で博物学を学ぶが、のち哲学に転じ、ルドルフ・クリストフ・オイケンに師事。30歳で博士号を得た後、ベルリン大学、ハイデルベルク大学、ミュンヘン大学で音楽史と音楽美学を講じた。
その後、友人のエドゥアルト・フォン・ハルトマンの勧めに従って1893年(明治26年)6月に日本へ渡り、同年から1914年(大正3年)まで21年間東京帝国大学に在職し、イマヌエル・カントなどのドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学も教えた。美学・美術史も、ケーベルが初めて講義を行った。学生たちからは「ケーベル先生」と呼ばれ敬愛された。夏目漱石も講義を受けており、後年に随筆『ケーベル先生』を著している。他の教え子には安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、小山鞆絵、九鬼周造、和辻哲郎、 深田康算、大西克礼、波多野精一、田中秀央など多数がいる。和辻の著書に回想記『ケーベル先生』がある。また漱石も寺田寅彦も、ケーベル邸に行くと深田がいたと記されている。
東京音楽学校(現東京藝術大学)ではピアノも教えていた。1901年(明治34年)の日本女子大学校(現日本女子大学)開校式のための「日本女子大学校開校式祝歌」はケーベル作曲という。1903年、日本におけるオペラ初演(クリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲「オルフォイス(オルフェオとエウリディーチェ)」の上演)の際、ピアノ伴奏を行った(学生の自主公演だったためオーケストラは使えず)。この際に訳詩を担当したのが教え子の一人である石倉小三郎その他のチームであり、上演資金を農学者・実業家の渡部朔が提供、弟で音楽学校学生の渡部康三や柴田環(後の三浦環)などが出演した。同時に瀧廉太郎のピアノ演奏に深い影響を与え、瀧のドイツ留学時には自らライプツィヒ音楽院あての推薦状を書いている。また幸田延の才能を評価し、欧米留学を薦めた。なお、夏目漱石と幸田延がケーベル邸を訪問した時の昼食レシピから、現在の松栄亭(淡路町)の「洋風かき揚げ」が生まれたというエピソードがある。
室内楽奏者としては、当初、ルドルフ・ディットリヒのヴァイオリンとの合奏が最高水準と言われたが、ディットリヒの帰国後、1899(明治31)年に、横浜でアウグスト・ユンケルのヴァイオリンを聴いて彼を東京音楽学校に推挙する。ユンケルはベルリン・フィルやシカゴ交響楽団の要職を歴任するも、風来坊的な性格から長続きせず、日本で役不足の仕事をしていたが、ケーベルに認められて日本楽壇を指導し、太平洋戦争中に生涯を終えるまで日本に永住した。ケーベルとユンケルの合奏も当時の日本で最先端の音楽であった。
1904年(明治37年)の日露戦争開戦の折にはロシアへの帰国を拒否したが、1914年になって退職し、ミュンヘンに戻る計画を立てていた。しかし横浜から船に乗り込む直前に第一次世界大戦が勃発し、帰国の機会を逸した。その後は1923年(大正12年)に死去するまで横浜のロシア領事館の一室に暮らした。墓地は雑司ヶ谷霊園にあるが、ロシア正教からカトリックに改宗して生涯を終えた。
3
ドイツ人の父とロシア人の母のもとニジニ・ノヴゴロドに生まれる。6歳よりピアノを学び1867年にモスクワ音楽院へ入学、ピョートル・チャイコフスキーとニコライ・ルビンシテインに師事し1872年に卒業した。しかし内気さ故に演奏家の道を断念し、ドイツのイェーナ大学で博物学を学ぶが、のち哲学に転じ、ルドルフ・クリストフ・オイケンに師事。30歳で博士号を得た後、ベルリン大学、ハイデルベルク大学、ミュンヘン大学で音楽史と音楽美学を講じた。
その後、友人のエドゥアルト・フォン・ハルトマンの勧めに従って1893年(明治26年)6月に日本へ渡り、同年から1914年(大正3年)まで21年間東京帝国大学に在職し、イマヌエル・カントなどのドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学も教えた。美学・美術史も、ケーベルが初めて講義を行った。
学生たちからは「ケーベル先生」と呼ばれ敬愛された。夏目漱石も講義を受けており、後年に随筆『ケーベル先生』『ケーベル先生の告別』を書いている。他の教え子には安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、小山鞆絵、九鬼周造、和辻哲郎、深田康算、大西克礼、波多野精一、田中秀央など多数がいる。和辻の著書にも回想記『ケーベル先生』がある。また漱石も寺田寅彦も、ケーベル邸に行くと深田がいたと記されている。
東京音楽学校(現東京藝術大学)でピアノも教えた。1901年(明治34年)の日本女子大学校(現日本女子大学)開校式のための「日本女子大学校開校式祝歌」はケーベルの作曲という。1903年、日本におけるオペラ初演(クリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲「オルフォイス(オルフェオとエウリディーチェ)」の上演)の際、ピアノ伴奏を行っている。
1904年(明治37年)の日露戦争開戦の折にはロシアへの帰国を拒否している。1914年には退職して、ミュンヘンに戻ることを計画するが、横浜から船に乗り込む直前に第一次世界大戦が勃発し、帰国の機会を逸した。
その後は1923年(大正12年)に死去するまで横浜のロシア領事館の一室に暮らした。墓地は雑司ヶ谷霊園にある。

「・・・日本人の精神ならびに性格を甚だしく醜くするところの傷所は−−遺憾ながら私はこの場合私の学生を全く除外するわけには行かない−−虚栄心と、自己認識の欠乏と、および批評的能力の更にそれ以上に欠如せることである。これらの悪性の精神的ならびに道義的欠点は、西洋の学術や芸術の杯から少しばかり啜ったような日本人においてとくに目立ってまた滑稽な風に現れる、従って主としては『学者』と言われ、『指導者』と呼ばれる人たちにおいて認められるのである。・・・」 (ケーベル博士随筆集)  
「ケーベル先生」 夏目漱石
木(こ)の葉の間から高い窓が見えて、其窓の隅からケーベル先生の頭が見えた。傍(わき)から濃い藍色の烟(けむり)が立つた。先生は烟草を呑んでゐるなと余は安倍君に云つた。
此前此處を通つたのは何時(いつ)だか忘れて仕舞つたが、今日見ると僅かの間にもう大分樣子が違つてゐる。甲武線の崖上は角並(かどなみ)新らしい立派な家に建て易へられて、何(いづ)れも現代的日本の産み出した富の威力と切り放す事の出來ない門構許(ばかり)である。其中に先生の住居(すまひ)だけが過去の記念(かたみ)の如くたつた一軒古ぼけたなりで殘つてゐる。先生は此燻(くす)ぶり返つた家の書齋に這入つたなり滅多に外へ出た事がない。其書齋は取も直さず先生の頭が見えた木(こ)の葉の間の高い所であつた。
余と安倍君とは先生に導びかれて、敷物も何も足に觸れない素裸の儘の高い階子段(はしごだん)を薄暗がりにがたがた云はせながら上(のぼ)つて、階上の右手にある書齋に入つた。さうして先生の今迄腰を卸して窓から頭丈を出してゐた一番光に近い椅子に余は坐つた。そこで外面(そと)から射す夕暮に近い明りを受けて始めて先生の顔を熟視した。先生の顔は昔と左迄違つて居なかつた。先生は自分で六十三だと云はれた。余が先生の美學の講義を聽きに出たのは、余が大學院に這入つた年で、慥(たし)か先生が日本へ來て始めての講義だと思つてゐるが、先生は其時から已(すで)に斯う云ふ顔であつた。先生に日本へ來てもう二十年になりますかと聞いたら、左樣(さう)はならない、たしか十八年目だと答へられた。先生の髮も髯(ひげ)も英語で云ふとオーバーンとか形容すべき、ごく薄い麻の樣な色をしてゐる上に、普通の西洋人の通り非常に細くつて柔かいから、少しの白髮が生えても丸で目立たないのだらう。夫(それ)にしても血色が元の通りである。十八年を日本で住み古した人とは思へない。
先生の容貌が永久にみづみづしてゐる樣に見えるのに引き易へて、先生の書齋は耄(ぼ)け切つた色で包まれてゐた。洋書といふものは唐本や和書よりも装飾的な背皮に學問と藝術の派出やかさを偲ばせるのが常であるのに、此部屋は余の眼を射る何物をも藏してゐなかつた。たゞ大きな机があつた。色の褪めた椅子が四脚あつた。マツチと埃及(エヂプト)烟草と灰皿があつた。余は埃及烟草を吹かしながら先生と話をした。けれども部屋を出て、下の食堂へ案内される迄、余は遂に先生の書齋にどんな書物がどんなに並んでゐたかを知らずに過ぎた。
花やかな金文字や赤やの背表紙が余の眼を刺激しなかつた許りではない。純潔な白色(はくしよく)でさへ遂に余の眼には觸れずに濟んだ。先生の食卓には常の歐洲人が必要品とまで認めてゐる白布(はくふ)が懸(かゝ)つてゐなかつた。其代りにくすんだ更紗形(さらさがた)を置いた布(きれ)が一杯に被(かぶ)さつてゐた。さうして其布(きれ)は此間迄余の家(うち)に預かつてゐた娘の子を嫁(かた)づける時に新調して遣つた布團の表と同じものであつた。此卓を前にして坐つた先生は、襟も襟飾も着けてはゐない。千筋(せんすぢ)の縮みの襯衣(しやつ)を着た上に、玉子色の薄い脊廣を一枚無造作に引掛けた丈である。始めから儀式ばらぬ樣にとの注意ではあつたが、あまり失禮に當つてはと思つて、余は白い襯衣と白い襟と紺の着物を着てゐた。君が正装をしてゐるのに私(わたし)はこんな服(なり)でと先生が最前云はれた時、正装の二字に痛み入る許(ばかり)であつたが、成程洗ひ立ての白いものが手と首に着いてゐるのが正装なら、余の方が先生よりも餘程正装であつた。
余は先生に一人で淋しくはありませんかと聞いたら、先生は少しも淋しくはないと答へられた。西洋へ歸りたくはありませんかと尋ねたら、夫程(それほど)西洋が好いとも思はない、然し日本には演奏會と芝居と圖書館と畫館(ぐわくわん)がないのが困る、それ丈(だけ)が不便だと云はれた。一年位暇を貰つて遊んで來ては何うですと促がして見たら、そりや無論遣つて貰へる、けれども夫(それ)は好まない。私がもし日本を離れる事があるとすれば、永久に離れる。決して二度とは歸つて來ないと云はれた。
先生は斯ういふ風に夫程(それほど)故郷を慕ふ樣子もなく、あながち日本を嫌ふ氣色もなく、自分の性格とは容れ惡(にく)い程に矛盾な亂雜な空虚にして安つぽい所謂新時代の世態が、周圍の過渡層の底から次第々々に浮き上つて、自分を其中心に陷落せしめねば已まぬ勢を得つゝ進むのを、日毎眼前に目撃しながら、それを別世界に起る風馬牛の現象の如く餘所(よそ)に見て、極めて落ち付いた十八年を吾邦で過ごされた。先生の生活はそつと煤烟の巷に棄てられた希臘(ぎりしや)の彫刻に血が通ひ出した樣なものである。雜鬧(ざつたう)の中に己れを動かして如何にも靜かである。先生の踏む靴の底には敷石を嚙む鋲の響がない。先生は紀元前の半島の人の如くに、しなやかな革で作つたサンダルを穿いて音なしく電車の傍(そば)を歩るいてゐる。
先生は昔し烏を飼つて居られた。何處から來たか分らないのを餌(ゑ)を遣つて放し飼いにしたのである。先生と烏とは妙な因縁に聞える。此二つを頭の中で結び付けると一種の氣持が起る。先生が大學の圖書館で書架の中からポーの全集を引き卸したのを見たのは昔しの事である。先生はポーもホフマンも好きなのだと云ふ。此夕(ゆふべ)其烏の事を思ひ出して、あの烏は何うなりましたと聞いたら、あれは死にました、凍えて死にました。寒い晩に庭の木の枝に留つたまんま、翌日(あくるひ)になると死んでゐましたと答へられた。
烏の序に蝙蝠(かうもり)の話が出た。安倍君が蝙蝠は懷疑(スケプチツク)な鳥だと云ふから、何故と反問したら、でも薄暗がりにはたはた飛んでゐるからと謎の樣な答をした。余は蝙蝠の翼(はね)が好(すき)だと云つた。先生はあれは惡魔の翼(はね)だと云つた。成程畫にある惡魔は何時でも蝙蝠の羽根を脊負(しよ)つてゐる。
其時夕暮の窓際に近く日暮しが來て朗らに鋭どい聲を立てたので、卓を圍んだ四人(よつたり)はしばらくそれに耳を傾けた。あの鳴聲にも以太利(イタリヤ)の連想があるでせうと余は先生に尋ねた。是は先生が少し前に蜥蜴(とかげ)が美くしいと云つたので、く澄んだ以太利の空を思ひ出させやしませんかと聞いたら、左樣(さう)だと答へられたからである。然し日暮しの時には、先生は少し首を傾むけて、いや彼(あれ)は以太利ぢやない、何うも以太利では聞いた事がない樣に思ふと云はれた。
余等は熱い都の中心に誤つて點ぜられたとも見える古い家の中で、靜かにこんな話をした。夫(それ)から菊の話と椿の話と鈴蘭の話をした。果物の話もした。其果物のうちで尤も香りの高い遠い國から來たレモンの露を搾つて水に滴らして飲んだ。珈琲も飲んだ。凡ての飲料のうちで珈琲が一番旨いといふ先生の嗜好も聞いた。夫から靜かな夜(よ)の中に安倍君と二人で出た。
先生の顔が花やかな演奏會に見えなくなつてから、もう餘程になる。先生はピヤノに手を觸れる事すら日本に來ては口外せぬ積(つもり)であつたと云ふ。先生は夫程浮いた事が嫌(きらひ)なのである。凡ての演奏會を謝絶した先生は、たゞ自分の部屋で自分の氣に向いたとき丈(だけ)樂器の前に坐る、さうして自分の音樂を自分丈で聞いてゐる。其外にはたゞ書物を讀んでゐる。
文科大學へ行つて、此處で一番人格の高いヘ授は誰だと聞いたら、百人の學生が九十人迄は、數ある日本のヘ授の名を口にする前に、まづフォン・ケーベルと答へるだらう。斯程(かほど)に多くの學生から尊敬される先生は、日本の學生に對して終始渝(かは)らざる興味を抱いて、十八年の長い間哲學の講義を續けてゐる。先生が疾(と)くに索寞たる日本を去るべくして、未だに去らないのは、實に此愛すべき學生あるが爲である。
京都の深田ヘ授が先生の家にゐる頃、何時でも閑な時に晩餐を食べに來いと云はれてから、行かずに經過した月日を數へるともう四年以上になる。漸く其約を果して安倍君と一所(いつしよ)に大きな暗い夜(よ)の中に出た時、余は先生は是から先、もう何年位(ぐらゐ)日本に居る積(つもり)だらうと考へた。さうして一度日本を離れゝばもう歸らないと云はれた時、先生の引用した“no more, never more”(ノーモアー ネヷーモアー)といふポーの句を思ひ出した。  
桜を考える
桜の美しさ
山田孝雄の『櫻史』という書がある。昭和16年(1941)の刊行であった。戦中ながら世に阿(おもね)ることのない論調は気高い。著者はある欧人の文を見たとして、その文章を引き批判して所論を述べる。この外国人は1893年から14年間東大で哲学と西洋古典学を講じたラファエル・フォン・ケーベルである。その文章。
「桜の花の頃こそ日本人を観察すべきである。これぞその牧歌的哀歌的なる天性の最も明かに現れる季節だからである。日本の国民的花は、堅い、硬(こわ)ばった、魂なき、凋むを知らざる菊ではない、絹の如く、柔(にこや)かなる華奢なる芳香馥郁たる、短命な桜こそ実に象徴である。日本人はこの美しき花の、束の間にしぼみ、さうして散りゆく、その中にわが生の無常迅速の譬喩(ひゆ)と、我が美と青春とのはかなさを見るのである。桜の花を眺めてゐる時、春の唯中に秋の気分が彼の胸に忍び入るのである。」と。
山田は、日本人が桜を愛することはこのような精神ではないと言う。感傷的に見るのが日本人の桜への愛ではない、そもそも桜そのものに悲哀が宿っているわけではないのである。
蕉門十哲の一、各務支考(かがみしこう)の句。
   歌書よりは軍書に悲し吉野山
たしかに吉野山を語る際に感傷的な詩歌は多いけれど、それは花そのものに悲哀が宿っているからではない。吉野朝の史実を絢爛たる花に対比させたとき、いっそうの悲劇性が感じられるところから、古来より歌に物語に取り上げられてきたのである。
花見には人の言う感傷性がなんら見られないではないか、と。
凄絶たる美
櫻史の著者山田孝雄(よしお)は自らの桜への思いを語って言う。
桜はやっぱり賀茂真淵の「うらうらとのどけき春の心よりにほひ出でたる山桜花」といふのが、日本人の魂にやどる桜の本体であらう、と。
春をのどかに感じ、桜もまたそのようなうららかな感じで咲きでている。のどかとは〈のんびりと落ち着いて静かなさま〉であり、うららかとは〈心さわやかで晴々しいさま〉である。
だが、桜に対する気持ちはそうしたものばかりではない。紀友則の古今集
   ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ
であっても、前段はうらうらとのどけき春の風情ながら、後段では散る花に心乱される。その落差が歌の興趣であり、叙景から転じる叙情歌ともなっている。
歌や文学は写生画ではない、自分の心象を詠ってこそ芸術だとの主張も首肯できる。
西行は花に酔った歌人として有名である。
桜に自らの心象を訴え、訴えても詮なきに佇み、ついには花の下にへたり込んだ。
   ねがはくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ
のままに、花吹雪を浴びつつ入寂し、幸福な生涯と言われる。はたしてそうか。
   吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき (後拾遺集)
一首は「吉野山の梢の花の美しさに心を奪われてから、心は身体から離れてしまい、ふわふわと浮遊したままである。どうしたらいいのだろう」である。
   花に染む心のいかでのこりけむ捨て果ててきと思ふわが身に (千載集)
こちらは「桜の花に染まっていたいなどと思う心がなぜ残っているのか。この世のすべてを捨て果てて出家したわが身であるのに」。
恩愛(おんない)深き妻子を捨て果て、現世を厭(いと)って墨染の衣に漂泊する身になったのに、花の美しさに戸惑うのはどうしたことだろう? 狼狽があり戦慄が襲う。それを幸福と評していいのか。間違っても悲惨ではないことは確かなのであるけれど、懊悩はある。
もう一人は梶井基次郎。『桜の樹の下で』に、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と記した。
ここにおいて桜は狂気となる。狂気でないとすれば、桜の美しさが度を超しているのだ。あまりの美しさに畏怖し、彼は怖気(おぞけ)を振るっている。
だが、西行や基次郎の眼には桜の花は映じていない。彼らは鋭敏すぎる感性を持ったがゆえに、美に胸を切り裂かれてしまった。
閾値(しきいち)を超えた美しさは暴力に転じる。まさに凄絶!
花見と桜
花見を山田孝雄は次のように述べる。
「桜の花盛りになると近世の日本人は花見といふことを催す。この花見には上にあげた人々のいふような点(*古今集から現代までの歌や句にある、桜や椿に罌粟など潔く散る感傷的な記述)が少しもないのはどうしたものであるか。しかもこれは近世だけでは無い。室町時代の謡曲にあらはれた花にしても又その前から連歌を花の下(もと)に催したことにしても、更に淵(さかのぼ)って、鎌倉時代から平安時代にかけても同様である。遠く花を尋ねては桜狩を催し、近く庭の花を愛しては花の宴を催した。源氏物語には巻の名さえ花宴といふのがある。これらは決して花の散るについて心を傷ましての催しでは無かった。花の散るを惜しむのは人世をはかなんでの事ではなかった。」
白幡洋三郎に『花見と桜〈日本的なるもの〉再考』という書がある。筆者は植物学や公園学を研究する農学者であるが、欧米での留学体験などをもとに花見が日本だけの風俗であることを見出した。
日本だけといっても沖縄にはない。梅桜桃にラベンダーも一斉に咲く北海道も、ないといえばない。なにやらゴルフのラウンドプレー分布みたいだ。(ハーフで昼食休憩をとるのは日本の本州四国九州だけ、ここを除く全世界は一気通貫で回る)。
白幡は花見を一本二本の桜ではない「群桜(ぐんおう)」、酒と肴の「飲食」及び一人二人ではなく大勢の人が集う「群衆」の具備された現象とする。
花を見に行くだけなら梅や躑躅に菊といった対象もあるが、飲食を伴った野外宴会をするのは桜だけである。
ワシントンのポトマック河畔に群桜と群衆は存在するが、そこにも飲食はない。人々は歩きつつ花を愛でるのみである。ヨーロッパもそれは変わらない。また、キリスト教には樹木霊への怖れがあり、愛でる習慣がないとも言われる。
韓国では寒食(カンシク)や秋夕(チュソク)の先祖詣り、あるいは春秋の野遊びで人々が飲食をともにする。しかし、花がない。花はあっても天を蓋うような花を愛でながら飲み食いすることがない。
日本の花見は中国から伝わる梅見の宴につながる貴族の花見と、農民が桜のころに酒や弁当を持って丘に登って飲み食いした春山入りの年中行事が合体したものである。春山入りは古くの嬥歌(かがい)や歌垣に元を発する。
桜の美しさは花そのものだけでなく、艶(つや)と煌(きらめき)をともなう華やぎをもつ。きっとそれは、冬を越して命をつないだ安堵と、春先の生き物特有の発情の熾火が交りあって、人々すべてが生命の饗宴を渇望するからであろう。
いざや、桜を愛でつ飲みかつ食はん!
 
フィクトール・ホルツ

 

(ヴィクトル・ホルツ ) Viktor Holtz (1848-1919)
多科目教育(独)
ドイツの教育家並びに日独科学技術交流・文化交流の先駆者。
「人生の10%は遭遇する出来事であり、残りの90%はそれに対するリアクションである。」 
Viktor Holtz : biography
3 May 1846 - 3 September 1919
Viktor Holtz (3 May 1846 – 3 September 1919) was a German educator and a pioneer of German-Japanese academic and cultural relations.
Holtz was born in Stolberg, Kingdom of Prussia, and studied, from 1865 to 1867, at the Royal Catholic Teacher's Academy in Kempen. He subsequently became a teacher in Aachen and in 1869, he was in charge of teacher training at the teacher's academy at Boppard. In 1870, at the request of the Meiji government of Japan the Prussian Minister of Education dispatched him because of his knowledge of foreign languages and his other qualifications as a foreign advisor on a 3-year contract to Tokyo. Together with the more famous military surgeons Theodor Eduard Hoffmann and Leopold Benjamin Müller, he belonged to the first group of Germans whom Prussia dispatched to modernize and westernize schools of higher education in Japan.
At first, Holtz was attached to the Southern College (Daigaku Nankō; a predecessor to Tokyo Imperial University); from 1872, Holtz' School was at least nominally independent. The name was changed from "First School of Foreign Learning" and "2nd Middle School" into "German School". Holtz remained the sole teacher for all eleven subjects. Due to a change of the Japanese educational policy, this school was merged into the Kaisei School in August 1873. At the same time, Holtz was transferred to the Tokyo Medical School (Tokyo Igakkō) for the remainder of his contract, which had been extended by 8 months twice. Therefore, inconsistent educational planning terminated the pioneer experiment of a German school in Japan without direct lasting effects.
In 1875, Holtz returned to Boppard and was transferred in 1877 to Prüm (near Koblenz), in 1889 to Schrimm and in 1902 to Poznań, Poland where he died in 1919.
[ 誤訳 ヴィクトルホルツ (5 月3日 1846-3 9 月 1919) ドイツの教育とドイツ語、日本の学術と文化の関係の先駆者だった。ホルツはシュトルベルク、プロイセンの王国で生まれ、ケンの王立カトリック教師のアカデミーで、1865から1867に、勉強した。彼はその後、アーヘンの教師になり、1869で、彼はボッパルトで教師のアカデミーで教師の訓練を担当していた。1870年、明治政府の要請により、プロイセンの文部科学大臣は、外国語の知識とその他の資格を東京に3年契約の外国人アドバイザーとして派遣した。より有名な軍事外科医テオドールエドゥアルトホフマンとレオポルドベンジャミンミュラーと一緒に、彼はプロイセンが近代化し、日本の高等教育の学校をかさに派遣ドイツ人の最初のグループに属していた。最初に、ホルツは南大学 (大学南; 東京帝大の前身) に取り付けられました。1872から、ホルツの学校は少なくとも名目上独立していた。名前は「外国語学習の最初の学校」および「第2中学校」から「ドイツの学校」に変わった。ホルツは全11教科の唯一の教師にとどまった。日本の教育方針の変更により、この学校は1873年8月に開成学校に併合されました。同時に、ホルツは、8ヶ月で2回延長された彼の契約の残りのために、東京医科大学 (東京 Igakkō) に移されました。したがって、一貫性のない教育計画は、直接的な効果なしで日本のドイツ語学校のパイオニア実験を終了しました。1875では、ホルツはボッパルトに戻り、1877に Prüm (コブレンツの近くで)、1889の Schrimm におよび1902のポズナン、ポーランドに彼が1919で死んだところで移された。 ]
 
エミール・ハウスクネヒト

 

Emil Paul Karl Heinrich Hausknecht (1853-1927)
教育学(独)
ドイツの教育者。お雇い外国人教師として明治時代中頃に来日し、東京帝国大学で3年間ドイツ語、教育学を講義。日本にヘルバルト教育学をもたらした。
ベルリンの北西、ノイルピーン郡トレスコウ(Treskow)の庭師の息子として生まれる。1827年春、地元のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム卒業。1872年 - 73年からベルリン大学で、古典学、近代語、歴史学を学ぶ。1873年、パリに移り、高等技芸学院に入学。その他に、パリ古典学校、コレージュ・ド・フランスでロマン語、フランス語を学ぶ。1874年-75年は、ロシアに滞在。1976年、イギリスに渡り、ロンドン郊外のグレイと・イーリング・スクールでアシスタントを勤める。1876年秋、再びドイツ、ベルリンに戻り、ベルリン大学で再度学生登録。1878年まで在籍し、専攻を言語学から哲学に変更。この時期、ヘルバルト主義教育学を学ぶ。 1879年、中等学校教員資格を取得、博士号を得て大学を卒業。1年間の兵役を経て、1881年、ベルリン・ライプニッツ・ギムナジウムの教員となる。1882年春、ファルク実家ギムナジウムに転任。 この時期、1881年、「バビロンのスルタンのロマンス」を英語でロンドンの出版社から出し、続けて「フィオリオとビアンチ・フィオーレの歌」(1884年)、「フローリスとブランチェフルール」(1885年)を発表。さらにエルンスト・グロップと共編で、「仏詩選集」(1885年)、「英詩選集」(1886年)を教科書として出版。いずれも多数の版を重ねた。
来日
日本から招聘を受け、1886年11月、日本に向けてベルリンを出発。1887年1月横浜へ到着。当時33歳。お雇い外国人教師として東京帝国大学で、ドイツ語、ドイツ文学、教育学を担当。3年間の滞在期間の後半は、東京帝国大学の特約教育生教育学科の指導を行ったが、これは彼の特記すべき業績であった。この学科は、ハウスクネヒトの建議により創設され、大学で初めて中等教育学校の教員養成を図ったもので、ドイツの大学の教育学ゼミナールを手本としたものだった。ここで指導を受けたものの中に、谷本富(たにもととめり)がいる。1890年、ハウスクネヒトは日本を去る。
その後
離日後、ハウスクネヒトは北米により、4ヶ月間、各地の大学を見学、教育制度の視察を行う。1891年春、ベルリンの第2実科学校へ招かれ、1892年秋からはヴィクトリア・リツェウムの英語学、英文学の講師を兼任。実科学校の研究誌に「アメリカの教育制度」(1894年)を発表。 1895年春、新設のベルリン第12実科学校の校長に就任。1895年、ヴィルヘルム・ライン編の「教育学百科事典」に「英語教育」の項目を執筆。 1900年から1906年まで、キール改革実科ギムナジウム(その後、フンボルトシューレと改称)の校長。この時期、神田乃武(ないぶ)、谷本富など複数の日本人教育関係者が、彼を訪問。彼は自らの強引な学校運営で教育行政当局や教員陣と軋轢を引き起こし、離職。 1906年秋から、1916年までローザンヌ大学の英語、英文学の員外教授。第一次世界大戦に自ら志願して、後備軍中尉。 キール在住時の1905年、26歳年下のマルゲリータと結婚。息子一人があった。1927年、12月19日、ロンドンで客死。
ヘルバルト主義教育
法と教育
「近代的法概念を形成する重要な契機の一つは、倫理性(Moralität)と適法性(Legalität)の区別にある。しかし朱子学的理解枠組みの中でこの区別は曖昧になり、両者の区別を支えていた自然権論が無視されて、卑近な実定法の教え込みが全面に登場した。とはいえ法概念の崩壊がもたらした結果は、上のような教授内容の変化にとどまらなかった。朱子学的理解枠組みの中で変容された法概念に沿って学校の規律が再構成されれば、訓育の方法も確実に変質するはずである」
日本におけるヘルバルト主義の受容 / ハウスクネヒト
「わが国にヘルバルトの名を最初に紹介したのは、恐らく小幡甚三郎『西洋学校軌範』上(明治3年)であろうが、ヘルバルト主義教育学を本格的に導入したのは、明治20(1887)年1月9日に来日した独逸人教師エミール・ハウスクネヒト(Emil Hausknecht, 1853-1927)である。彼はわが国の帝国大学で初めて教育学というものを講じた人物であり、同時に中等学校教員の特別養成のために文科大学に設けられた特約生教育学科の中心的存在でもあった」
「わが国にヘルバルト主義の教育理論を紹介したのはドイツ人 E. ハウスクネヒトであった。ハウスクネヒトは明治21年から23年まで東京帝国大学でドイツ語と教育学を講義し、その際、ヘルバルト学派の H. ケルン、G. リンドネル、W. ラインの書物を参考書として使用した。ハウスクネヒトの講義を聴講した谷本富〔とめり〕、湯原元一、稲垣末松、大瀬甚太郎らはそれぞれにやがて J. F. ヘルバルトやヘルバルト学派の人々の教育理論を講義し、翻訳出版して世に広めた。これとは別に、明治20年前後の頃、東京高等師範学校からドイツに留学を命ぜられ、教育学を学んだ野尻精一、日高真実、波多野貞之助らが伝えてきたものもヘルバルト主義の教育理論であった。こうして明治20年代から30年代にかけて、わが国の教育界にはヘルバルト主義の教育が大流行することになった」
「1890年代に日本に紹介されたヘルバルト(Herbart, Johann F. 1776-1841)の教育学は、「教育」には三つの側面があると解していた。すなわち、知識や技能を指導する「教授(Unterricht, instruction)」、道徳的な行動様式を習慣化せしめる「訓育(Zucht, discipline)」、および教授と訓育を可能にするための外的強制としての「統治(Regierung, government)」がそれである」
日本におけるヘルバルト主義の受容 / 儒教とヘルバルト主義
「周知のごとく明治ヘルバルト主義は、勅語の諸徳目や儒教倫理と結合対比されるという形で宣伝され、とりわけ仁義礼智信という五常とヘルバルトの5理念とのアナロジーが強調された」
「ラインによれば、教育目的は功利主義や幸福主義の倫理説によって定められるべきではなく、ヘルバルトの倫理説(カント倫理学を基礎とする理想主義的な倫理説)によって定められるべきである。ヘルバルトは「善良な意志」を重視し、意志は「道徳上の法則又は道徳上の理想」に堅固に拘束された観念をよりどころとして発達するのでなければならない、といい、五つの倫理的観念をあげる。(一)意志の活動と「実行的意見即良知」と調和した「内心の自由」、(二)「意志の多方、精力、凝集力、及び進歩」を必要とする「意志の勢力」、すなわち「完全」、(三)「幸福に向ひて我欲なく、他人の困難に向ひて同情の実行を表明」する「好意」、(四)抗争を避けるため、権利を相互に認める「正義」、(五)人間の行為の正、不正を公平に制裁する「公平」の五つである。人の意志がこれらの倫理的観念と結合一致する場合には「理想上の人と為り」ということができるし、その人は「強健なる道徳的品性の陶冶」を得たということができ、将来社会に出てよく職分を尽すこともできるのである」
「ヨーロッパのヘルバルト主義の教育者には道徳教育と宗教(キリスト教)とを結びつけて考える人が多いが、わが国ではそこまでとり入れることはしなかった。また五つの倫理的観念も儒教の五倫五常に近いと歓迎はしたものの、そのまま修身科の教育にとり入れることはしなかった。教育勅語をよりどころとする道徳教育にヘルバルト主義の教育理論を援用する、という形で展開していったのである」
ヘルバルト主義の採用した儒教
「ヘルバルト教育学は儒教倫理に牽強附会されることによって極めて政治的に利用されることになったのであるが、しかしそもそもこの儒教倫理そのもの自体が、日本に導入されることによって政治的に利用されたまさしく古典的代表なのである。平岡武夫によれば儒教の根本思想とは、「民心を安定せしめ得ぬことに於て、天が我を誅罰するならば、自分は怨むことは出来ない」という為政者の政治的態度の思想であり、同時に「革命」つまり天命が革まることを予想する思想である。天の思想は禅譲放伐という合理主義的な思想にも連なっているのであって、天はまさしく人間の理性の中にある」
「儒教倫理の重要な特徴の一つは、自然秩序と社会秩序を同一視する考え方であり、Sein をそのまま Sollen にする思想である。そこでは、自然界の Sein つまり空間的・物理的な上下関係が直ちに価値的上下関係と重ね合わされ、しかも人間界の価値的秩序関係に充当されていく。こうして現実に存在する上下差別に従うのが徳であるとする服従の倫理が生じる。この自然界の秩序と人間界の道徳とを連続的に把握する思想を、朱子は「理」概念の適用によって論理化した。つまり「理」は万物に対して普遍的に内在し、事物の場合には自然法則となり、人間の場合には本来的善たる「本然の性」となり、同時に社会関係(五倫)を律する根本規範(五常)ともなる。しかしながら万物には「理」の他に「気」も内在し、それによって万物に個別性が与えられる。これを人間に即して具体化すれば、人間にはすべて平等に「本然の性」が宿っているにもかかわらず人に聖賢暗愚の差が生じるのは、この「気」の作用によるということになる」
「けれどもここで次のことを再確認しておかなければならない。つまり朱子学の自然探求の目的は、自然界に内在する根源的倫理性すなわち秩序を認識することによって人間関係を支配する倫理「五倫」「五常」を納得し、そのア・プリオリな正当性を再確認することであってそれ以外であってはならないということである。「格物窮理」の結果そこに再確認する内容というのは、人間は天や地と同じように、生まれ落ちた時から既に一定の社会的地位や身分的上下の中に位置づけられていて、すべての人間は先天的に指定された地位に服従すべきであり、そのことが全社会秩序の安定性の基礎であるということである。このことが理解できない人間は、未だ「気」によって「理」が混濁している証拠であり、聖人には達していないことになる。ここには所与としての社会秩序に全面的に服従する人間像が描かれているのみであって、秩序に疑いを抱き、それを主体的に変えていこうとする人間の姿はみじんも存在しえないのである。そこではいつまでたっても、Sein と Sollen は分離しえないままである」」

ヘルバルト(Herbart, Johann Friedrich. 1776-1841) / 「ドイツの哲学者・教育学者。オルデンブルグに生まれる。早くよりカントに傾倒し、イェーナ大学では、ヘルダー、シラー、フィヒテらの影響を受けた。1802年にゲッティンゲン大学私講師となる。1809年よりケーニヒスベルグ大学のカントの講座後継者として哲学や教育学を講じる。1833年、再びゲッティンゲン大学に戻る。1837年に同大学で起きた「七教授事件」では、ハノーファー王に抗議し解雇されたグリム兄弟ら7人の教授に与しなかったため、大学内外から激しい批判を浴びた。だが、革命を嫌う彼の静的国家観は生涯変わることはなかった」 
官立山口高等中学校 / ハウスクネヒトの意見書
明治19(1886)年、政府は中学校令により全国を5学区(東京・仙台・京都・金沢・熊本)に分け、学区毎に高等中学校を1校ずつ設置することとした。
山口県は近畿・中四国地方とともに第3学区の京都に属したが、県民のための高等教育機関を是非とも県内に設置したいとの思いが教育界には強かった。そこで県当局は防長教育会と協議の上、(1)県立山口中学校の敷地、校舎、諸設備を新設する高等中学校に移す。(2)防長教育会は毎年1万九千円を寄付する。(3)管理要項を定め、新設する高等中学校は文部大臣の所管とする。ということで文部省に設立を請願し、認可された。
こうして明治19年11月、県立山口中学校は特例的に「諸学校通則」適用による官立山口高等中学校へと改称された。

防長教育会が行ってきた山口高等中学校の教育制度を語る上で、欠かせない資料がある。
同会の役員であり、また山口高等中学校商議委員であった井上馨と品川弥次郎は、当時、帝国大学に雇われていたドイツ人エミール・ハウスクネヒトに対して、山口高等中学校の学事視察を依頼し、提言を求めた。
明治22(1889)年6月22日、山口を訪れたハウスクネヒトは、4日間かけて授業等を観察し、教則や組織などを調査した。後日、ハウスクネヒトがまとめた資料が「山口高等学校教則説明書・同附録」と題する2冊の意見書である。
そもそも防長教育会は創立当初、県下の五中学の刷新を事業目的としており、その流れの中で、中学校令発布を受け、山口高等中学校を経営するに至った。そのために出来上がった独自の進学体系を、ハウスクネヒトは称賛。この意見書の中でドイツのギムナジウム(※)の制度に倣い、山口高等中学校と五学校を総合的組織体として、その教授法を説明した。
その内容は、あたかも防長教育会の運営方針を理論付けるものであったため、防長教育会もこれを信認し多大の期待をかけた。
明治23年8月には、帝国大学でハウスクネヒトの教えをうけた谷本富(たにもととめり)を教授に任命し、その理論の実施に備えた。以降、防長教育会による山口高等中学校の経営は、従来の独自の進学体系の方針にギムナジウムの制度を取り入れたものとして発展していった。
 
アリス・メイベル・ベーコン

 

Alice Mabel Bacon (1858〜1918)
女子教育(米)
アメリカの女子教育者。日本の初めての女子留学生大山捨松、津田梅子の親友で、彼女らの要請で1884年、華族女学校(後の学習院女学校)英語教師として来日。来日中の1年間の手紙をまとめたものは1894年『日本の内側』として出版し反響を呼ぶ。帰国後はハンプトン師範学校校長となっていたが、1900年、大山と津田の再度の招聘により東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)と女子英学塾(後の津田塾大学)の英語教師として赴任、1902年4月に任期満了で帰国するまで明治期の女子教育に貢献した。彼女の著作は後にルース・ベネディクトの『菊と刀』の重要な参考資料になった。
2
アメリカ人女性教育者。明治期の日本に招聘された教育者。『日本の内側』、その後に著した『日本の女性』(日本語訳題『明治日本の女たち』)は明治時代の日本の女性事情を偏見無く書いた史料として貴重であり、ルース・ベネディクトが『菊と刀』を執筆するときに参考文献とした。ちなみに『日本の女性』の前書きには「生涯の友人・大山捨松に捧げる」という一文が添えられ、捨松とは死ぬ直前まで文通を交わしていた。
父はコネチカット州 ニューヘイブンの牧師であったレオナルド・ベーコン、母はキャサリン。キャサリンは後妻で、アリスは14人兄弟の末娘であった。
父・レオナルドは牧師のほかイェール大学神学校の教師も務め、南北戦争の時、いち早く奴隷制に反対する論陣を張るなど、人望が厚く地元の名士であった。子沢山であったため生活は非常に苦しかったという。1872年、日本から来た女子留学生の下宿先を探していた森有礼の申し出に応じて山川捨松を引き取ったのは日本政府から支払われる多額の謝礼が目当てであったといわれる。しかし、レオナルド夫妻は捨松を娘同様に扱い、特に年齢の近かったアリスとは姉妹のように過ごした。
アリスは地元の高校・ヒルハウスハイスクールを卒業したものの、経済的な事情で大学進学をあきらめた。しかし1881年にハーバード大学の学士検定試験に合格し学士号を取得、1883年にハンプトン師範学校正教師となる。
日本
1884年には大山捨松や津田梅子の招聘により華族女学校(後の学習院女学校)英語教師として来日。来日中の1年間の手紙をまとめたものを1894年『日本の内側』(日本語訳題『華族女学校教師が見た明治日本の内側』)として出版し反響を呼ぶ。帰国後はハンプトン師範学校校長となっていたが、1900年4月、大山捨松と津田梅子の再度の招聘により東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)と津田梅子が建てた女子英学塾(現・津田塾大学)の英語教師として赴任、1902年4月に任期満了で帰国するまで貢献した。特に女子英学塾ではボランティアで教師を務め、梅子にかわって塾の家賃を代わりに支払うなど貢献は大であった。
帰国後
帰国後も教育に身を捧げ、一生独身であった。ただし、渡辺光子と一柳満喜子というふたりの日本女性を養女とした。一柳満喜子は女子英学塾の教師になることを期待されていたが、帰国後ウィリアム・ヴォーリズと結婚した。
3
「経験や知識は売買できないものだった。たとえば、医者は患者から治療費を請求することはなかったし、同じ藩士からは報酬を求めたり受け取ったりすることもなかった。一方、患者も誇り高いので、無料で治療してもらうことはなかった。ただし、それは治療に対する報酬ではなく、あくまで感謝のしるしとしての金だった。(中略) 教育は商売ではなく、あくまで教える側の好意なのである。だからといって、十分な謝礼が払われないことは絶対にないし、教師もその点について気をもむことはなかった。料金を確認する必要がそもそもなかったのである。」(「明治日本の女たち」)
アメリカ人女性教育者で1894年と1900年の2度にわたり英語教師として来日したベーコンは「人に益する心」と題し、「経験や知識は」商売道具ではないし、対価を得るものではない。何でも「お金」や「商売契約」となる欧米の考えに対して、日本では「好意」と「感謝」が一対になっていると主張しています。自分の利益を追求するだけの欧米に対し、日本には相手も自分も世間も良しとすべきという「三方良し」の考えがあり、その方が自分も皆も幸せになれることを日本人は潜在的に知っているのです。

幸福は、心の流れによって決まるもの。
幸せは目には見えないモノ・・・と言いたいですが、幸せは、人によって形をかえるモノです。
金や地位、それが手に入って、不幸を感じる人は少ないと思います。
世の中の、幸せとされるモノの大半が目に見えるモノでしょう、傍から見れば、とても幸せには見えない人、それ自体が偏見ですが、そう見える人が、『今、わたしは幸せです。』と言っても、自分に言い聞かせているんだろうな、とか、強がっている・見栄っ張りだな、とか、そう思う人はいるでしょう。
しかし、それが-幸せ-なんですよね。
今、自分がどんな境遇・状態だとしても、それを幸せと言える、今、自分が不幸だと感じる時、それは自分自身を、人生を、否定することになります。
どんな境遇・状態でも幸せと言える、それは決して、自分への慰めや、自分に言い聞かせているのではなく、事実なんですよね。
だからと言って、立ち止まるわけじゃなく、前に前に進むんです。
今、自分が幸せ、と感じれば、これ以上いいか、と思うことも、あると思いますが、今、幸せを感じるからこそ、今よりもっと、と歩み、戦い続けることが出来ると思います。
人間は幸せを心で決めるんです。
だから、どんな状態でも、自分の境遇を否定することなく、-幸せ-を感じて生きて行きたいですね。 
明治日本の女たち 1
明治維新の残照があった当時、失われていく江戸の文化と、新奇な西洋文明が入り交じり、社会は混沌としていたに違いない。筆者は当時の日本の女性たちを、実に細かくしかも温かい目で見ている。自分の信じるキリスト教を除いて、西洋文明を日本に強制することなく、日本独自の文化があることを素直に認めている。
筆者は、大山捨松つまり伯爵夫人と親交があったのだから、当然に当時の上流階級に属した。そこで見聞きする話は、上流階級に関するものが多い。しかし、筆者の目は、庶民階層にまで届き、上流階級と庶民階級で、男女関係がひどく違ったことも記している。まず離婚に関して次のように述べている。
「今でも日本人は、結婚生活を必ずしも一生のものと考えていない。夫と妻の双方から結婚を解消することができる。庶民は離婚に対して強い抵抗感もないので、結婚と離婚を幾度も繰り返す男性は珍しくない。女性だって、一度や二度離縁されても、再婚や再々婚することはしょっちゅうある。上流階級では、男と女の問題はスキャンダルとして噂の種になるので、勝手気ままに離婚するというわけにはいかないが、それでも離婚は珍しくないので、離婚経験のある上品で立派な人に会うことがよくある。」
当時は、財産の相続権が男性にのみあった。相続すべき財産を持った家庭では、とりわけ男性支配が強かった。そのうえ、子供の養育権が男性に独占されていた。だから、女性の自由が奪われていた、と筆者は記す。財産の有無に注目しているのは、何という鋭い視線であろうか。
当時アメリカはすでに、社会の基本は個人で、家庭は個人が集まったものに過ぎない、と考えられていた。そのため、家族の圧力が強いことを、理解しにくいと言っている。100年以上たった今日でも、家族の圧力が個人の自立を妨げているのは、あまり変わらない感じがする。
「上流階級と庶民では、妻と夫との関係が明らかに異なっている。商人や貧しい農民の妻は、天皇陛下の妻よりも、はるかに夫の地位に近い。明らかに身分がひとつ上がるたび、男性は同じ階級の女性よりも少しずつ偉くなるようだ。農夫とその妻はふたり肩を並べて畑仕事に励み、同じ荷物を運び、食事は同じ部屋で一緒にとる。家庭を支配するのは、性別の如何にかかわらず、気性の強い方である。夫婦のあいだに大きな溝はない。・・・」
「東京では朝になると、農夫とその家族が、薪や炭、田舎でとれた野菜などでいっぱいになった荷車を押しながら、ゆっくりと道をすすんでいくのをよく目にする。車輪をきいきい鳴らしながら、年配の男性とその息子、赤ちゃんを背負った息子の妻が、全員で必死になって重い車を押したり、引いたりしている。(中略)夕方になって帰るときは、売りさばいた荷物の代わりに、妻と赤ちゃんが荷台に乗っている。そのまま近隣の村にある家まで男たちに引かれて帰っていくのだ。ここにも、アメリカと同じような女性観がみられる。つまり、女性は立場が弱いのではなく、力が弱いのである。・・・」
「田舎ではどこでも、女性は野良仕事をし、お茶を摘み、穫入れし、収穫を市場へ持っていくのに加え、蚕を育て、絹糸や綿糸を紡ぎ、機を織るなどして直接生産に関わり家族に収入をもたらしている。このように女性が大切な労働力となっているところでは、一般にみられる男女間の地位の差は著しく狭まる。しかし、都市部の女性や、間接的にしか、あるいはまったく生産に関わらない女性には、他人にかしずくような、アメリカでは卑しいとしかみなされない奉公以外に仕事はない。このような理由で、階級が高くなればなるほど、また同じ階級であれば都市に近くなればなるほど、男女間の地位の差は明確になるのだと思われる。」
何という鋭くも暖かい視線であろうか。厳しい労働に従事する人間が、性別によって取り扱いを異にするなどあり得ない。とりわけ農耕社会では、家庭が生産組織だったから、男女が協力せざるを得なかった。ここでは男女差別は薄かった。労働を等しく担う人間を、差別的に扱ったら、社会が機能しなくなる。今日でも我が国のフェミニズムは、100年以上も前の筆者の視線にまで到達していない。
筆者は、女性の社会的な地位の低さにも、もちろん目配りをしているが、庶民の生活にはひときわ暖かい視線を投げかけている。老婆や女性、そして子供たちといった、社会の主流から外れたと見られがちな人間に、これだけの視線を配れるのは、本当に感激する。
本書を読んでいて、筆者が投げかける視線の優しさと、滅び行く文化を描写する様子は、筆舌に表しがたいほど素晴らしい。江戸という熟成し完結した文化がもつ美しさを、筆者はやや躊躇いながらも充分に評価している。今日、途上国に行った我々は、筆者のような視線を持てるであろうか。
「日本の女性のなかで一番自由で自立しているのは間違いなく平民の女性である。日本中どこでも、ほとんど働さづめで、贅沢とは縁のない生活をしているが、その仕事ぶりからは、自立心や知性が感じられる。アメリカ人女性と同じように、家庭ではとても尊敬され、大切にされている。上流階級の女性と比べて、生活は充実していて、幸せそうである。家計に大きく貢献しているから、家族も彼女たちの言うことに耳を傾けるし、一目おいてくれる。」
「一方、日本の上流婦人は、結婚と同時に自由を放棄し、夫と義理の両親に服従し、かれらの召使いとなる。年がたつにつれ、その表情には、あきらめと、自己犠牲ばかりが続く人生の苦労の痕跡がみられるようになる。一方、農民の女性は、結婚した後も夫と一緒に仕事をすることで、単調な家事以外の興味深いことも経験するようになる。裕福であまり働かない上流階級の女性と比べて、農家の女性の表情からは苦悩や失望は感じられなくなり、歳をとるにつれかえって個性豊かになり、人生をより楽しんでいるように見えてくるのだ。」
この文章が、今から100年以上も前に書かれたものだとは、とても信じられない。上流階級の婦人を、専業主婦に置きかえれば、この文章は今でも充分に通用する。共に働く男女は、仕事が与えてくれる実感を共有できる。我が国のフェミニストたちに、本書を是非読んで欲しいと思う。
農業従事者にとって、自然は男女の別なく襲ってくる。そこでは男女が協力しないと生きていけない。等しく労働を担う者の間では、差別はおきようがない。そして、長く厳しい労働の後に訪れる平穏もまた、労働を共有してきた人間には、自明のことだ。
「枯れ果てた顔、曲がった腰、小さな身体、しわくちゃの黄ばんだ手。日本人の老女の姿をどうして忘れることができようか。美しいと思える老人はほとんどいない。日本人の身体は年とともに萎んでしまうため、顔はまるで萎びた赤りんごのように皺だらけになる。若いうちは紅い頬と、美しい黒髪の輝さのおかげで、肌もつやつやと輝いているが、年とともに頬と髪の色は褪せ、肌は妙に黄色くなり、しまいには羊皮紙のように硬くなってしまう。にもかかわらず、皺くちゃの醜い日本人の老女の顔には、独特の魅力がある。」
日本人とは美意識のまったく違う筆者が、苦労を重ねた醜悪だろう老婆の姿に、独特の魅力があると断言する。この部分を読んだとき、思わず涙が出そうになった。もちろん筆者は日本の良いところだけを見ている、という批判がでるだろう。しかし、上流階級の女性と庶民の女性を、比較して論じているのだから、筆者の視線は公平に思う。筆者の人間を見る基盤には、本質を見通す力を感じる。
農耕社会には、工業社会や情報社会とは違った生き方しかできない。個人の自立を志向しない農耕社会での生き方は、農耕社会でのみ成立するものだ。そこに生きる人間は、他の社会と同じように喜怒哀楽をもち、その社会に適合して人格を形成していく。外部の人間が、農耕社会の人間を粗野だとか、遅れているというのは容易い。しかし、彼らの人生は、大地に足を下ろした確固たるものだ。
人口の90パーセントが農民だった時代、男女の関係がどうだったか。本書からは厳しい時代に生きた、人間たちの姿が浮かび上がってくる。先人たちの足跡には、頭が下がる。 
明治日本の女たち 2
 日本の礼儀作法について
「明治日本の女たち」という本があります。著者はアリス・ベーコンというアメリカ人です。彼女は1858年生まれで、1872年に、ベーコン家が岩倉使節団に連れられて渡米していた十二歳の山川捨松(後の大山巌伯爵夫人)のホスト・ファミリーとなったことから、当時十四歳のアリスとは姉妹同然に暮し、津田梅子らとも知り合いました。このような縁で、1888年に来日し、華族女学校や東京女子高等師範学校で英語を教え、
1899年に二度目の来日時には、津田塾大学の前身である女子英学塾の教壇にたちました。では、「明治日本の女たち」から一部見てみましょう。

日本では礼儀作法は行き当たりばったりに学ぶものではない。適当に周囲を見渡して真似するだけではだめである。作法は専門家について学ぶのだ。日常生活のこまごまとしたことすべてに決まりがあり、礼儀作法の師範はそれらを熟知している。こうした師範の中でも、とくに有名な人たちがいて、それぞれ流派を作っている。
作法は細かい点では異なっているが、主要なところはどの流派も同じである。お辞儀ひとつとっても、体と腕と頭の位置に決まりがある。ふすまの開け閉て、座り方と立ち方、食事やお茶の出し方など、すべてに細かい決まりがあり、若い女性に教え込まれる。
しかし、教えられるほうはうんざりしていることだろう。私が知っている今どきのふたりの若い女性は、礼儀作法のお稽古には飽き飽きしていて、できることならさぼりたいようだった。お作法の先生が帰ってしまった後に、彼女達が先生のしゃちこばったいかめしいしぐさを茶化して、ふざけているのを目にしたこともある。
ヨーロッパ風のマナーが、古くからある日本の日常の礼儀作法にどれだけ浸透していくのかはまだわからない。しかし、礼儀作法の師範のような人はじきに過去の遺物になってしまうのではないだろうかと、少しばかり残念に思う。日本の若い女性が、予期せぬことに直面してもけっして取り乱さないのは、しっかりと礼儀作法を教えこまれているからではないだろうか。アメリカの若い女性ならば、ぶざまにまごついてしまうような場面でも、日本の女の子は落ち着き払っている。・・・・・
ここまで、私は昔の日本で女性に許されていた教育について述べてきた。こうした教育は効果的で、じつに洗練されたものであった。ペリー提督によって眠りを覚まされる前に教育を受けた魅力的な日本の婦人を知る外国人は、誰もが昔の日本の女子教育のすばらしさを認めるだろう。こう書いていると、柔和な顔に輝く瞳をした、ある淑女の姿が目に浮かぶ。東京に住んでいたときに、彼女と親しくなれたのは幸運なことだった。夫に先立たれ、子供を抱えて文無しになった彼女は、東京にある官立学校で裁縫の先生をして、わずかな収入を得ていた。貧しくて多忙な日々を送っていたはずなのに、いつも完璧なまでに貴婦人然としていた。礼儀正しく、微笑みを絶やさず、知的で洗練された読書家で、質素で家事をそつなくこなす、日本で過ごした楽しい時間をふり返るたびに、彼女のことが思い出される。こうした女性こそが、昔の日本女性の教養をよく示している。
侍の女たち
侍の女性の心意気が今日でも健在であるのは1895年の日清戦争の際に彼女たちが示した優れた行動力と忍耐力からも明らかだ。自己を犠牲にする昔ながらの精神は、正しいとは言えないかもしれないが、多くの立派な行為を生み出した。日本の女性はアメリカ人には想像できないほどあらゆる面で男性に依存しているにもかかわらず、夫や兄弟、息子たちを笑顔と明るい言葉で危険と死の待つ戦地へと送り出した。愛する者をお国のために捧げるのに、悲しみの涙を見せるのは不忠であるとされた。最愛の者が戦死したという知らせを受けても、けっして取り乱しはせず、国家のために家族が犠牲になるのは家にとって栄誉なことだと言える忍耐力を持っていた。
このような献身的な日本女性の様子は、津田梅子氏がニューヨークの『インディペンデント』紙に書いた以下の記事からもわかるだろう。私の心に浮かぶのは、若いひとり息子を明るい笑顔で戦場に送り出した、ある年老いた女性である。晩年を迎えた彼女にとって、息子は唯一の頼れる存在であった。まだ若いうちに夫に先立たれ、辛く悲しい人生を送ってきたが、息子が教育を受けて良い人生が送れるよう、並々ならぬ努力をしてきた。
ようやく彼が職に就いて、家計を支え、大切に育ててくれた母親に報いることができるようになってほんの数年しか経ていなかった。息子とその妻をとても誇りにしている母親の姿は微笑ましいものだった。年老いた母はその小さな家庭で、安心して老後を送れるはずだった。しかし、一瞬にして、すべてが変わってしまった。息子が戦場へ送られることになったのだ。それでも、母親はまったく表情を曇らせることもなく、笑顔で、楽しげに出発準備の手伝いをした。ひとりでいるときも、他の人たちといるときも、ため息をついたり、悲しそうな表情を見せたりすることは一度もなかった。息子にでさえ、心配したそぶりを見せなかった。お国のために、そして自身の名誉のために出陣する息子の精悍な兵隊姿を見た彼女の顔は喜びで満ち溢れていた。戦場へ赴く兵士には、生死にかかわらず、名誉が与えられるのである。・・・・・
戦艦赤城を指揮し、黄海の戦いの最中に戦死した坂元艦長の年老いた母親についても、感動的な逸話が語り継がれている。艦長は母と妻、三人の子を残して死んでいった。戦死が確認されると、海軍より使者が派遣され、家族に悲しい知らせがもたらされた。まず、妻に伝えられたが、使者が家を去る前に、その知らせは母親の耳にも入った。母親は士官のいる部屋までよろめきながら出ていって、しっかりと礼儀正しく挨拶をした。目に涙はなく、声もはっきりしていた。そして、「お知らせを聞いて、息子が多少なりともお役に立てたことがわかりました」と言ったのだった。・・・・
このような例は枚挙にいとまがない。しかし、以上の話だけでも、今日の日本に残る精神を理解してもらえるだろう。このような教育を受けた女性が家庭を守っている日本が勇敢な国で、その兵士たちが戦に勝ち続けるのは当然であろう。今、世界を驚かせている日本の精神や勇気は、女性の存在に負う面もあるのだから、日本国中の妻や母親の栄誉もたたえられなければならないだろう。 
明治日本の女たち 3
1888年というと、明治21年、それでも、そのころの日本は、私たちが「戦前の日本」として思い描く姿よりも江戸時代に近かった気がする。たとえば、日本人は結婚を一生のものとは考えず、男はしょっちゅう妻を取り替えるし、女も再婚再々婚は珍しくない、と書いてある。また、日本人は商人を馬鹿にしてきたので、今も、商売人はあまり感心できない人たちが多く、不正直で全く信頼できない。イギリス人やアメリカ人は、似たようなビジネス感覚を持つ中国人と取引をすることをずっと好む、という。それから、アメリカでは使用人は主人の話に口を挟むことは許されないが、日本では、客は使用人にも正式な挨拶をし、敬語で話し、また、使用人も自分が知っていることがあれば、主人と客との会話にためらいなく口を出す。
しかし、この本でなにより印象に残ったのは、大正天皇夫妻のことだ。今でも、一定年齢以上の人は、大正天皇が書類を筒にしてのぞいていた、なんていううわさ話を知っているだろうし、原武史『大正天皇』という本に書かれていたように、「御脳力漸次低下」などと、新聞にまでその精神疾患をさらされ、昭和天皇を摂政にするよう追い込まれた天皇だ。この本には、そうして追い込まれていく前の大正天皇の姿が現れている。
古都の宮廷で育った父明治帝と異なり、大正天皇は東京の喧噪の中で育ち、町中で幌なしの馬車をのりまわしたり歩き回ったりした。才気煥発で勉強熱心。とりわけ外国の思想、感情、習慣を理解したいと思っている。先祖の時代と比べれば、国や皇室を取り巻く儀式からずいぶんと自由でいられるが、それにもかかわらず今以上に自由になりたいと考えているようだ。保守派が重んじる様々な格式張ったことを不要だと考えている。このような皇太子に保守派は時折手を焼いている。自分なりの考えや視点を持っているから思いのままに行動を取ることがあり、周囲のものをあわてさせる。犬の散歩をするときは他人任せではなく、自分でひもを引こうとする。道ばたで立ち止まり、人々がどのような仕事をしているのかを見ようとする。一般人が隣人を訪問するように、友人の家により、皇族を迎える心づもりを全くしていない家庭がどのような生活をしているのかをかいま見ようと知る。彼は国民の生活や気持ちを個人的によく理解しようとするので、今後あまり極端なことをしない限り、皇位を継ぐときが来ればよい天皇になるだろう。
当時22歳の、若く意欲に燃えた皇太子の姿が立ち現れる。そして、保守派との食いちがいや、「極端なことをしない限り」というさりげなく挟まれた言葉にあらわれる不吉な予感も。6歳下の節子妃は摂関家に生まれながら、3女であることと皇太子と年が離れていることから、いわゆる「后がね」の教育は受けてこなかった。当時の慣例通り、農家に預けられ、雨の日も風の日も裸足で帽子もかぶらず駆け回っていたという。東京に戻り、華族学校に入ってからも、級友たちと変わらず同じように本を抱えて通学していた。突然、皇太子妃になることが決まると、それまでの服はすべて捨てられ、部屋も新しく建てられて、父親まで敬語で話すようになったという。
この、若い、20世紀の新しいプリンスとプリンセスのその後を考えると、しみじみとつらく、悲しくなってくる。大正天皇がなくなり、様々なことが巷間ささやかれるようになって後も、節子妃は一生大正天皇を心からの愛で偲び続けたという。この本にはなかったが、夫妻でピアノを弾き合唱するる、モダンな新家庭であったともいう。 
明治日本の女たち 4
離婚 「今でも日本人は、結婚生活を必ずしも一生のものと考えていない。夫と妻の双方から結婚を解消することができる。庶民は離婚に対して強い抵抗感もないので、結婚と離婚を幾度も繰り返す男性は珍しくない。女性だって、一度や二度離縁されても、再婚や再々婚することはしょっちゅうある。」
夫婦間の地位 「上流階級と庶民では、妻と夫との関係が明らかに異なっている。商人や貧しい農民の妻は、天皇陛下の妻よりも、はるかに夫の地位に近い。明らかに身分がひとつ上がるたび、男性は同じ階級の女性よりも少しずつ偉くなるようだ。農夫とその妻はふたり肩を並べて畑仕事に励み、同じ荷物を運び、食事は同じ部屋で一緒にとる。家庭を支配するのは、性別の如何にかかわらず、気性の強い方である。夫婦のあいだに大きな溝はない。」
庶民の女性の立場 「東京では朝になると、農夫とその家族が、薪や炭、田舎でとれた野菜などでいっぱいになった荷車を押しながら、ゆっくりと道をすすんでいくのをよく目にする。車輪をきいきい鳴らしながら、年配の男性とその息子、赤ちゃんを背負った息子の妻が、全員で必死になって重い車を押したり、引いたりしている。〜中略〜 夕方になって帰るときは、売りさばいた荷物の代わりに、妻と赤ちゃんが荷台に乗っている。そのまま近隣の村にある家まで男たちに引かれて帰っていくのだ。ここにも、アメリカと同じような女性観がみられる。つまり、女性は立場が弱いのではなく、力が弱いのである。」
都市と農村 「田舎ではどこでも、女性は野良仕事をし、お茶を摘み、穫入れし、収穫を市場へ持っていくのに加え、蚕を育て、絹糸や綿糸を紡ぎ、機を織るなどして直接生産に関わり家族に収入をもたらしている。このように女性が大切な労働力となっているところでは、一般にみられる男女間の地位の差は著しく狭まる。しかし、都市部の女性や、間接的にしか、あるいはまったく生産に関わらない女性には、他人にかしずくような、アメリカでは卑しいとしかみなされない奉公以外に仕事はない。このような理由で、階級が高くなればなるほど、また同じ階級であれば都市に近くなればなるほど、男女間の地位の差は明確になるのだと思われる。」
身分の差と女性達の充足度 「日本の女性のなかで一番自由で自立しているのは間違いなく平民の女性である。日本中どこでも、ほとんど働さづめで、贅沢とは縁のない生活をしているが、その仕事ぶりからは、自立心や知性が感じられる。アメリカ人女性と同じように、家庭ではとても尊敬され、大切にされている。上流階級の女性と比べて、生活は充実していて、幸せそうである。家計に大きく貢献しているから、家族も彼女たちの言うことに耳を傾けるし、一目おいてくれる。一方、日本の上流婦人は、結婚と同時に自由を放棄し、夫と義理の両親に服従し、かれらの召使いとなる。年がたつにつれ、その表情には、あきらめと、自己犠牲ばかりが続く人生の苦労の痕跡がみられるようになる。一方、農民の女性は、結婚した後も夫と一緒に仕事をすることで、単調な家事以外の興味深いことも経験するようになる。裕福であまり働かない上流階級の女性と比べて、農家の女性の表情からは苦悩や失望は感じられなくなり、歳をとるにつれかえって個性豊かになり、人生をより楽しんでいるように見えてくるのだ。」 
「華族女学校教師の見た明治日本の内側」
令嬢たちの行儀作法の例、お箸の使い方。
「食事のときに箸の先が「一寸や一寸五分」も汚れる食べ方はは行儀が悪いとされ、ご飯やおかずに触れていいのはわずか「六分」だった。一寸は約三・〇三センチメートルで、一分はその十分の一である。つまり、六分は約一・八センチにすぎないわけで、箸をそれしか汚さずに食事をするのは至難の業だ。」
ある大名華族の結婚費用。
「某侯爵家には二人の令嬢がいて、一人は同族に嫁ぎ、一人は宮家に輿入れした。その宮家との婚礼はすべて洋風で、割に質素だったが、それでも衣装代に七千円、首飾りだけで五千円近くの品物を用意した。もう一人の同族に嫁いだ令嬢の場合は、古風で純粋な和式で、その当時でもめったに見られなくなった大名の姫様の婚礼だった。新調した箪笥十七棹には、着物をつめられるだけつめたので、東京随一の呉服店二軒への支払いが、なんと三万五千円にもなった。東京の呉服店にないものは、わざわざ京都の織元まで店員を行かせて、希望通りの品物を取り揃えさせたそうだ。特別仕立てで、七百円もした帯もあったという。」 
「知られぬ日本の面影」 日本人の微笑
日本人の微笑を誤解した事が度々甚だしく不快な結果を來して居る、たとへば以前横濱商人であつたT――の場合に起つたやうな。T――は何かの資格で(幾分日本語の教師としてと私は思ふ)立派な老さむらひを雇入れた、その人はその時代の習慣としてまげを結ふて大小さしてゐた。今日でも英人と日本人とは、相互に甚だよく理解して居るとは云へない、しかし今話した時代には一層理解が少かつた。初めのうち日本の召使は丁度えらい日本人に使へるやうなやり方(註)をした。そしてこの無邪氣な誤りは澤山の侮辱と殘忍を招くに到つた。最後に日本人を西印度のK奴のやうに待遇する事は甚だ危險である事が發見された。幾人かの外國人は殺されて、よい道コ上の效果があつた。
(註) 「讀者はミス・ベーコンの『日本人の少女と歸人』のうち、『奉公』と題する一章を參考にされるとよい。それには男女の召使に關するこの問題の面白い、又正しい説明がある。しかし詩的方面は取扱つてない。――クリスト教的見地から書いて居る人は同情しては書けないやうな宗教的信仰と非常に關係して居るからでらあらう。昔の奉公は宗教によつて形を變へると共に調節された、それに關する宗教的情操の力は、今もなほ行はれて居る佛教の諺からも推しはかられる――親子は一世。夫婦は二世、主從は三世。」
しかしこれは脇道である。T――はこの老さむらひが中々氣に人つた、もつともその東洋風の禮儀、その平身低頭、それから全くT――にはちんぷんかんである微妙な丁寧さで時々もつて來てくれた小さい贈物の意味は全く分らなかつた。或日老人はお願があると云つて來た。(私はその日は大晦日の晩であつたと思ふ。その日にはここに書いて居られない理由で誰でも金が要る時だから)その願は老人の大小のうち大の方を抵當にして金を少し貨して貰ひたいと云ふのであつた。それは甚だ綺麗な武器であつた、そしてその商人にもやはり甚だ貴重である事が分つたので直ちにそれだけの金を貸した。數週後に老人はその刀を取り戻す事ができた。
それから起つた不快の初まりは何であつたか今誰も覺えてゐない。多分T――の~經は狂つたのであらう。とにかく或日彼は老人に對して非常に怒り出した、老人は彼の憤怒の表情に對してお辭儀と微笑を以て服してゐた。これが彼をして一層怒らせた、そして彼は極端な罵倒を浴せた、しかし老人はやはりお辭儀をして、微笑してゐた、それで老人はその家を去る事を命ぜられた。しかし老人は引續いて微笑してゐた、そこでT――はすつかり自省の力を失つて老人をなぐつた。そしてその時T――は突然恐ろしくなつた、と云ふのは長い刀は不意に鞘を離れて、自分の頭上を渦卷いて、そして老人は老人とは思はれなくなつたからであつた。ところで、その使用法を知つて居る人の手にかかつたら、兩手で扱はれる剃刀のやうな日本刀の刄は、極めて無造作に人の頭をはねる事ができる。しかしT――の驚いた事には、その老さむらひは殆んど同時に熟練なる劔士の素早さでその刀身を鞘に納めて、踵をかへして、退いた。
それからT――は不思議に思つて、坐り込んで考へた。彼は老人に關する色々の良い事、ョみもしないのにしてくれたが返禮もしてやらなかつた澤山の親切な行爲、珍らしい小さい贈物、非難の餘地なき正直さ、を思ひ出して來た。T――は恥づかしくなつて來た。彼はかう考へて自分で慰めようとした、『まあいゝ、あれが惡いんだ、おれが怒つて居る事を知つてゐておれを笑ふやつがあるものか』實際T――は機會のあり次第埋合せをしようとさへ決心してゐた。
しかしその機分は決して來なかつた、何故なれば丁度その晩老人はさむらひ風に切腹をしたから。老人はその理由を説明した甚だ見事に書いた手紙を遺した。さむらひとしは無法な打擲を受けて復讐しない事は忍ぶべからざる屈辱である。彼はそんな打擲を受けた。外の場合ならそれに對し、復讐する事も出來たであらう。しかし今度の場合では事情は餘程奇態な物であつた。老人の名譽に關する道コ法は、一度必要に迫られて金錢のためにその刀を抵當にしたその人に對して、それを使用する事を許さない。そこでその理由から刀を使用する事ができないとすれば、老人、にとつては二つのうち、ただ名譽ある自殺の一法が殘つて居るだけであつた。
この話を餘り不快な物としないために、讀者は、T――は甚だ遺憾に思つて、老人の遺族に對し金錢上の助力を充分にした事を想像してもよい。しかし何故老人は侮辱と悲劇の原因となつたあの微笑をしたか、その理由をT――が考へる事ができたと讀者は想像してはならない。
解説
「ミス・ベーコンの『日本人の少女と歸人』」旧会津藩国家老山川尚江重固(なおえしげかた)の末娘山川捨松をホームステイさせたことでも知られるアメリカ人女性教育者のアリス・メイベル・ベーコン(Alice Mabel Bacon 一八五八年〜一九一八年)が一八九一年にボストンで刊行した“Japanese Girls and Women”(邦訳題「日本の女たち」)。ウィキの「アリス・ベーコン」によれば、『父はコネチカット州 ニューヘイブンの牧師であったレオナルド・ベーコン、母はキャサリン。キャサリンは後妻で、アリスは』十四人兄弟の末娘であった。『父・レオナルドは牧師のほかイェール大学神学校の教師も務め、南北戦争の時、いち早く奴隷制に反対する論陣を張るなど、人望が厚く地元の名士であった。子沢山であったため生活は非常に苦しかったという』。一八七二年(明治五年)に『日本から来た女子留学生の下宿先を探していた森有礼の申し出に応じて山川捨松を引き取ったのは日本政府から支払われる多額の謝礼が目当てであったといわれる。しかし、レオナルド夫妻は捨松を娘同様に扱い、特に年齢の近かったアリスとは姉妹のように過ごした』。『アリスは地元の高校・ヒルハウスハイスクールを卒業したものの、経済的な事情で大学進学をあきらめた。しかし』一八八一年に『ハーバード大学の学士検定試験に合格し学士号を取得』、二年後の一八八三年には『ハンプトン師範学校正教師とな』ったが、翌一八八四年(明治十七年)に『大山捨松や津田梅子の招聘により華族女学校(後の学習院女学校)英語教師として来日』、来日中の一年間の手紙を纏めたものを一八九四年(彼女の英語版ウィキでは一八九三年とする)に“Japanese Interior”(邦訳題 「華族女学校教師が見た明治日本の内側」)『として出版し反響を呼ぶ。帰国後はハンプトン師範学校校長となっていたが』、明治三十三年四月には再び、『大山捨松と津田梅子の再度の招聘により東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)と津田梅子が建てた女子英学塾(現・津田塾大学)の英語教師として赴任』し、明治三五(一九〇二)年四月の任期満了の帰国『まで貢献した。特に女子英学塾ではボランティアで教師を務め、梅子にかわって塾の家賃を代わりに支払うなど貢献は大であった』。『帰国後も教育に身を捧げ、一生独身であった。ただし、渡辺光子と一柳満喜子というふたりの日本女性を養女とした。一柳満喜子は女子英学塾の教師になることを期待されていたが、帰国後ウィリアム・ヴォーリズと結婚した』。『』先述した『日本の内側』、その後に著した『日本の女性』(日本語訳題『明治日本の女たち』)は明治時代の日本の女性事情を偏見無く書いた史料として貴重であり、ルース・ベネディクトが『菊と刀』を執筆するときに参考文献とした。ちなみに『日本の女性』の前書きには「生涯の友人・大山捨松に捧げる」という一文が添えられ、捨松とは死ぬ直前まで文通を交わしていた』とある。
「親子は一世。夫婦は二世、主從は三世」 誤解している向きがあるので、述べておくと「親子」の「一世(いつせ)」は現世(げんせ)でよいが、後の「二世(にせ)」は前世と現世、「三世(さんぜ)」は前世・現世・来世である。
 
 
ジョージ・アダムス・リーランド

 

George Adams Leland (1850-1924)
体操伝習所教授(米)
アメリカ合衆国の医師、教育者。日本政府の招聘により1878年(明治11年)に来日し、1881年(明治14年)まで体操伝習所教授として学校体操の指導者養成に尽力した。
1850年ボストンに生まれる。アマースト大学を経て1874年ハーバード大学医学部に入学。1878年医学博士となった。しかしここで一旦医学を離れることとなる。
これより先の1872年、札幌農学校のクラーク博士の紹介でアマースト大学を訪れた日本の文部大丞田中不二麿が体操場を見学した。エドワード・ヒッチコック博士、ユリウス・ハーレー・シーリー博士と面談した田中はここでの体操教育に深く感銘し、日本の学校でもアマースト式の体操を課そうと決意する。1876年、フィラデルフィアでの博覧会視察のため再度訪米すると、学長となっていたシーリーに対し体操教師招聘の交渉を行った。その結果適任者として推薦されたのがリーランドだった。
リーランドは1878年(明治11年)9月6日に来日するとまず各地の学校を視察し、日本の学校体操は軍隊式の操練の影響が強いと指摘した。同年10月には体操伝習所の開設が決裁され、初代主幹に伊沢修二が任命される。教授内容については当時アマースト大学で行われていた2種類の体操、器械を使ったドイツ体操いわゆる「重体操」と、ダイオ・ルイスが1860年に発表した女性・少年向けの「軽体操」のうち、日本の学校には軽体操が適すると判断した。翌年には軽体操で用いられる唖鈴(鉄アレイ)・球竿・棍棒・木環のほか、クロッケー・クリケット・ベースボール用具1式、握力器・胸囲巻尺・身長測器なども準備された。1879年(明治12年)4月7日、体操伝習所に第1期給費生25名が入学。そのうちの21名が2年後の1881年(明治14年)7月24日に卒業した。主に財政上の理由で契約が更新されなかったため、リーランドは同年7月31日付けで離職。日本を後にした。
その後の体操伝習所は1886年(明治19年)4月に廃止され、高等師範学校体操専修科に引き継がれた。軽体操はリーランドの通訳を努め自ら体操家となった坪井玄道によりその理論が構築され、「兵式体操」に対して「普通体操」と呼ばれるようになる。普通体操は1900年頃のスウェーデン体操の登場まで、学校体育の主たる形式としての地位を保った。
離日後のリーランドはヨーロッパで咽喉学、耳学の研究に専念した。1882年10月帰国。翌年のボストンYMCA体育館の医務責任者から医学の道を着実に進み、1912年米国咽喉学会会長就任。1914年ダートマス医学校咽喉科名誉教授となる。1919年日本政府から勲四等章を受章。1924年没。
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当時の官立体操伝習所(明治一一(一八七八)年十月に現在の東京都千代田区に設立された体育教員及び指導者の養成機関)教授ジョージ・アダムス・リーランド(George Adams Leland 一八五〇年〜一九二四年)。アメリカ合衆国ボストン生まれの医師・教育者。以下、ウィキの「ジョージ・アダムス・リーランド」によれば、明治十一年九月に日本政府の招聘によって来日し、明治一四(一八八一)年七月の離日まで体操伝習所教授として学校体操の指導者養成に尽力した。アマースト大学からハーバード大学医学部に入学、一八七八年医学博士となる。これより先、一八七二年に札幌農学校のクラーク博士の紹介でアマースト大学を訪れていた日本の文部大丞田中不二麿が体操場を見学、田中はここでの体操教育に深く感銘し、日本の学校でもアマースト式体操を課そうと決意、一八七六年にフィラデルフィアでの博覧会視察のために再度訪米した田中が同校学長に体操教師招聘の交渉を行い、その結果として適任者として推薦されたのがリーランドであった。リーランドは明治一一(一八七八)年九月六日に来日、各地の学校を視察して日本の学校体操は軍隊式操練の影響が強過ぎると指摘、同年十月には体操伝習所の開設が決裁され(初代主幹は伊沢修二)、リーランドが指導に当たった。教授内容については当時アマースト大学で行われていた二種類の体操(器械を使ったドイツ体操「重体操」と女性や少年向としてあった「軽体操」)から軽体操を当て、翌年には軽体操で用いられる唖鈴(鉄アレイ)・球竿・棍棒・木環、クロッケー・クリケット・ベースボール用具一式の他、握力器・胸囲巻尺・身長測器等も準備された。明治一二(一八七九)年四月に体操伝習所第一期給費生二十五名が入学、内二十一名が二年後の明治十四年に卒業している。同年七月三十一日附でリーランドは離職、離日した(主に財政上の理由で契約が更新されなかったためとされる。その後、体操伝習所は明治一九(一八八六)年四月に廃止されて高等師範学校体操専修科に引き継がれ、またリーランドもたらした軽体操は彼の通訳を努め自ら体操家となった坪井玄道によりその理論が構築され、「兵式体操」に対して「普通体操」と呼ばれるようになり、この普通体操は明治三三(一九〇〇)年頃にスウェーデン体操が登場するまで学校体育の主たる形式としての地位を保った)。離日後のリーランドはヨーロッパで咽喉学・耳学の研究に専念し、一八八二年十月に帰国、翌年のボストンYMCA体育館医務責任者から本来の医学の道に進み、一九一二年に米国咽喉学会会長就任、一九一四年にはダートマス医学校咽喉科名誉教授となった。大正八(一九一九)年、日本政府から勲四等章を受章した、とある。 
新島体育の発見
私は長年、今出川で体育の教師をしておりました。この一番同志社らしいハイライトシーズンに奨励をする機会を与えてくださったことを、とてもうれしく思います。
母校の体育を託されて
さて私は、1943年に女子大学の前身の同志社女子専門学校に入学いたしまして、ちょうど敗戦の年、1945年に卒業いたしました。ですからこの学校の卒業生の中でも一番、典型的な戦中派です。私の63年程の同志社での生活は本当に波乱万丈でした。だから皆さん方がこんな平和な時代に、勉強できるのがどんなに幸せなことか、どうか痛感してください。さて、私は卒業するのと同時に「さあ学徒動員で何にも勉強してないからどうしよう」と思い、恩師の先生のところに相談に行きました。その先生は、「あなたは体も大きし、声も大きいから、これから学校に絶対必要となる体育を勉強してくれないか」と言いました。その頃の私達の体育は、スポーツはおろか今の同志社本部の地下にあった武器庫から小銃を担いで、匍匐前進という教練で御所を這いずり回っていました。ほとんど訓練・鍛錬の体育しか知りませんでしたので、「私にできるかしら?」と思いました。でもその頃の学生は尊敬する恩師から、何かを申し渡されると絶対にしなくてはいけないという使命感がありました。
さて皆さんこの学校に来て何か心を打たれる言葉を聞きましたか?私は、入学の時に、新島講堂の入り口の右側に掲げられた、歴代総長の肖像画の三番目におられる牧野虎次先生が言われた式辞が、私のその後の同志社生活を決めたようです。それは「あなたは、今日から同志社の学生になったのではなくて、新島門下生になったのだ。つまり、新島先生の女弟子になったのだ。」という言葉でした。それがなんだかうれしくて、その時から、私は新島先生に捕まってしまいました。私はお会いしたことはないですが、その当時は新島先生を知っている方がまだ何人か生きておられました。ひょっとすると新島先生からの言葉かもしれないと思い、自分は不適格だと思いながらも体育の勉強をしました。ところが、東京から勉学を終えて今出川に帰ってくると、狭い空地とボールが2、3個あるだけで何もありませんでした。「さあどうしよう。一体、同志社の体育はどうやればいいのだろう。」私はそこで、新島先生はどういう体育を考えていたのかなと思って、自分の研究テーマにしました。そうすると、すばらしいことを次々と発見しました。今まで誰も新島先生と体育を研究したことがなかったからです。
新島先生と大学体育
まず、私は女性ですから新島先生のボディーサイズが知りたかった。それで、新島先生のボディーサイズを知ることができました。それはアーモスト時代の本の表紙に新島先生のご自分の字で身長は5フィート5インチ半、体重は123ポンドと書いてありました(先生26才)。つまり身長は今で言う165センチ強、体重は55.8キロ。皆さんは「なんだ・・・」と思うでしょう。今の男の子達の平均身長は、そろそろ170センチになりそうですものね。だから、「なんだ、普通の人」と思うでしょうが、その当時の全国的な兵隊検査の日本人の身長がだいたい156センチでした。当時の男の子にしてみれば、「僕らの新島先生はすばらしい体格だ」と思ったに相違ありません。なぜそんなメモが書いてあったかというと、新島先生の勉学なさったアーモスト大学は世界で初めて大学に体育を取り入れた学校でした。新島先生は当時、世界中で初めて大学体育を学んだ73人の男子の1人です。そして、その体育は近代体育でした。近代体育というのは、科学的な測定によって成り立つ体育です。ですから、身長、体重、体力測定をやってから大学の体育が行われたのです。新島先生の体育の先生は後に全米体育学会の初代会長になったエドワード・ヒッチコックです。先生のなさった体育は、Physical Educationではなく、Physical Culture。運動だけではなく、その人の持っている声、態度、話し方、動作などを含めた学習でした。新島襄はいわゆる立派な紳士としての言語、態度、肉体の表現するすべてのことをトレーニングされてきたわけです。
先生と日本の学校体育創始とのかかわり
次に私が驚いたことは、新島襄がいなくては日本の体育は始まらなかったということです。明治期の新しい学校教育で文部省は何が一番分からなかったかというと、音楽と体育です。今まで日本にそういう教育はなかったからです。それで音楽はドイツ、体育はアメリカに外人教師の派遣を求めました。そこで当時の新島先生の親友の、田中不二麿という文部大臣が「新島君のところでは、体育をやっているから紹介してもらおう」ということで、アーモストは新島のような見事な青年を出した日本の学校に、本学で最もすばらしい卒業生を送らなければいけない。そういって送ってきたのが、ジョージ・アダムス・リーランドという外人教師でした。その人が、今の筑波大学、もとの東京教育大学高等師範体操科、その前の体操伝習所。いわゆる体育の先生を養成する学校の主任教授になったわけです。新島先生がいなかったら、日本の学校体育は始まらなかったということを知り、私はとてもうれしく思いました。
同志社体育の伝統
新島先生が同志社を始めてからなさった体育は体育の日常化、つまり日常生活の中で体育を行うことです。それから、よく歩くこと。どうして歩くのか。同志社の一番初めの運動は歩くこと。なぜかというと、当時のキリスト教伝道は歩くしかなかった。もちろん女子部の生徒達も、歩くことが奨励されました。運動や学校生活の行事を通じて友情を深めること、自由と自治の精神を培うこと。そんなことが新島先生の主眼になっておられたようです。私は不適格ながらも一生懸命、学内の体育に対する関心を興すように努力いたしました。
先ほど歌っていただいた「正しく清くあらまし」は昭和36年に始めて今出川に建った純正館のテーマソングです。また、女子大学としては東洋一の体育館である、京田辺の恵真館の正面には今日読んでいただいた、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(新改訳聖書)という聖句が掲げられてあります。これは私が尊敬する卒業生の先輩、井深八重さんに頼んで書いてもらいました。ですから、私達は新島先生の体育的伝統の下に学んでいる。どうぞ、そのつもりで体育嫌いな人も好きになってください。 
テニス伝来
横浜・山手公園内のテニスコート(現YITC)入り口に、「日本庭球発祥之地」と彫られたローラーの記念碑がある。元デビスカップ(デ杯)選手の安部民雄の書になるこの碑は、1878(明11)年、横浜外国人居留地の人々が、自分たちのためにクラブとコートをつくった史実にちなんだもので、創設から100年後の1978(昭53)年に除幕された。
ここで行われたテニスは、もちろん、日本人に直接の関係はなかった。それならば、日本人には、いつ、どのようにしてこの競技が紹介されたのか。実は、残念ながら、これがはっきりしていない。
文部省が体育教員養成のため設置した「体操伝習所」(開講1879=明12年)で、米国人教師リーランドが用具を取り寄せて指導した、というのが、これまで最も有力な「事始め」説になっているが、この説は文献資料の上では確認されていないようだ。
1886(明19)年、伝習所を吸収した東京高等師範学校(高師=現筑波大)では、リーランドの通訳を務めた同校教授・坪井玄道の指導で、テニスが取り上げられ、ローンテニス部が設けられた。ただ、当時の用具は輸入に頼り、すこぶる高価だった。このため、最初はやはり輸入物ながら、玩具用ゴムマリを使っていたが、高師は同年に設立された「三田土ゴム」に国産ゴムマリの開発を依頼した。これにより、以後の日本ではゴムマリを使った「軟式(現在のソフトテニス)」が盛んになり、本来のテニス(硬式)は、一部の限られた人々の間で続けられることになった。
しかし、1913(大2)年に慶応義塾大が「軟式では国際交流ができない」として硬式採用に踏み切り、同年12月にマニラの東洋選手権に遠征した。軟式から転向間もない選手ばかりだったが、その一人、熊谷一弥は準決勝まで進み、軟式の技術が硬式にも十分、通用することを証明した。以後、全国主要校が続々、硬式採用を決め、本格的な硬式時代が始まった。
熊谷は、その後、数回にわたって渡米。米国のトップを次々に倒し、1919(大8)年には全米3位となった。翌年にはアントワープ五輪で銀メダルを獲得。柏尾誠一郎と組んだダブルスでも準優勝した。2つの“銀”は日本の五輪参加史上初のメダルだった。
一方、東京高商(一橋大の前身)出身の清水善造は、三井物産のカルカッタ駐在中、グラスコートのテニスを覚え、熊谷が五輪に出場したと同じ1920(大9)年には単身、ウィンブルドンに日本人として初参加。オールカマー決勝(前年優勝者への挑戦者を決める制度。現在の準決勝に相当)まで進んだ。
 
ヘンリー・ダイアー

 

Henry Dyer (1848-1918)
工部大学校(現・東京大学工学部)初代都検(英)
日本における西洋式技術教育の確立と、日英関係に貢献したイギリスの技師, 教育者である。
1873年から1882年まで工部省工学寮(1877年、工部大学校に改称、東京大学工学部の前身)の初代都検(教頭。実質的な校長)を務めた。電話機やフットボールをはじめて日本に持ち込んだ人物としても知られる。帰国後も、日本を「東洋の英国」と位置づけるなど、近代期の日英関係に貢献した。 彼は、日本人の特筆についてこう述べている。
「 これまでさんざん言い古されてきた、『日本人は非常にモノマネが巧みだが、独創性もなければ偉大なことを成し遂げる忍耐力もない』といった見方は、余りにも時代遅れというものである。 」
当時、ヨーロッパにおけるエンジニアリングの地位は、サイエンスに対して低く見られていた。ダイアーは、日本における工学教育の確立にあたり、「工学は『もの』を対象にして、それを扱う学問である。」とし、エンジニアリングを学問として確立することを目指した。また、理論より実践を重視した教育を目指し、学生に工場や土木現場で働くことを課した。また、全人的な教育を目指し、知識だけでなく、身体、精神の鍛錬を重んじた。当時、工部大学校には士族が多く学んだが、この教育により「サムライ」としての立場にとらわれず、「エンジニア」としての精神を身につけていったとされる。このことは、近代日本における工学の地位を高めるとともに、独立国家として発展する原動力となった。
ダイアーの教育思想を育んだ背景は、大英帝国の発展を支えた「機械の都」スコットランド・グラスゴーに根づく「エンジニアの思想」であったと考えられる。「エンジニアの思想」とは、ヴィクトリア期スコットランド人技師によって生み出されたもので、「エンジニアとは、社会進化の旗手であり、生涯、研究・創作していく専門職である」という考え方である。
ダイアーが初代都検として来日する機縁のひとつには、アンダーソンカレッジにおいて山尾庸三とともに学んだことが挙げられる。山尾庸三は、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助らとともに幕末期に英国に密航した「長州五人組」のひとりであり、工部省の工部大輔、工部卿を歴任している。また、ダイアーは、このアンダーソンカレッジの後身であるストラスクライド大学の設立にも尽力した。
また、工部大学校で、教鞭をとるうちに、彼は日本の学生たちの特筆に気が付く。彼の講演記録に、こう記している。
「 日本の学生は、何でも本から学ぼうとし、それよりもはるかに大切な観察と経験を疎かにする傾向がある。・・・工学に携わる人は、どんなに立派な理論を知っていても、知識だけの人にはなってはいけないし、また、どんなに器用でも、無知であってはならない。 」
経歴
1848年 ノース・ラナークシャーのボスウェル区マーマキン村(現在ベルシル町に統合)にて生まれる。
1857年 ベルズヒル近郊のショツ村に転居。ショツ鉄工所付属のウィルソンズ・スクール(Wilson's Endowed School)で学ぶ。
1865年 一家、グラスゴー転居。エイトキン鉄工所に勤務しつつ、アンダーソン・カレッジ(後のストラスクライド大学)の夜学で学ぶ。
1868年 スコットランド人として初めてウィトワース奨学金を受け、グラスゴー大学で学ぶ。
1873年 近代エンジニアリングの先駆者であるウィリアム・ランキン教授などに学び、グラスゴー大学を卒業。 明治政府により、工部省工学寮の都検(=教頭)に任命され来日。25歳。近代日本の技術教育の確立に尽力。
1882年 職を辞す。明治政府より、勲三等。
1883年 帰国。
1886年 グラスゴー・スコットランド西部技術カレッジ(前身はアンダーソン・カレッジ)およびグラスゴー・スコットランド西部農業カレッジの終身役員となる。
1891年 グラスゴー教育委員会のメンバーとなる。
1914年 グラスゴー教育委員会の教育長に就任。
1918年 70歳で死去。
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ヨーロッパとの技術格差を実感した明治政府指導者が、最初に取り組んだのは鉄道と電信であった。新橋―横浜間の鉄道敷設計画を策定した鉄道技術者エドモンド・モレル(英)は、工業化を進めるにはそれを推進する役所と技術者を養成する学校を設置する必要があると提案した。
工部省が設立されると、統括する工部大輔には長州藩出の伊藤博文、この補佐に同じく長州の山尾庸三があたることになった。2人とも幕末に密航してロンドン大学でウイリアムソン教授に学び、その後、山尾はグラスゴーに移り、ネピア造船所で働きながらアンダーソンズ・カレッジの夜学で技術を学んでいた。
工部省に技術者養成の工学寮(のちの工部大学校)が設立されると、教授の選定にあたった伊藤博文は自らの密航時に世話になったロンドンのマセソン商会に依頼した。
マセソンは当時のイギリス産業革命の中心地にあるグラスゴー大学の土木・機械学講座ゴルドン教授とランキン教授に人選を依頼したところ、近代工学の父と云われるランキン教授が愛弟子のヘンリー・ダイアーを都検(教頭、実質的な校長)に推薦してきた。ダイアー(1848−1918)はグラスゴー生まれ。工場の徒弟制度で技術を習得しながらアンダーソンズ・カレッジで学び、グラスゴー大学に初めて設立された土木工学部を卒業したばかりの弱冠25歳であった。
ところで当時のイギリスの教育は、大学は法律、哲学、宗教、医学、数学、物理学など高尚な学問の府であり、技術は工場の徒弟制度の中で学ぶしきたりであった。イギリスでは本格的な技術者教育がなされていない一方で、フランス・ドイツ・スイスなどイギリス産業革命を追いかける各国では、フランスのエコール・ポリテクニク、ドイツのベルリン工科大学、スイスのチューリッヒ総合技術学校など、基礎的技術教育や応用教育が整備されつつあった。ダイアーはこれらを研究・参考にしつつ、日本の工部大学校の教育計画を策定したと云われている。
ダイアーのエンジニア教育の主眼は、専門分野の学力をつけること、実践力を磨くこと、専門職に直接役立たないような教養も学ぶことであった。工部大学校は1873年に開校し、基礎・教養教育、専門教育、実地教育をそれぞれ2年とする6年制とし、土木学・電信学・機械学・造家学(建築)・化学・冶金学・鉱山学の7学科が設けられた。後に造船学と紡績学の2科が追加されたが、9名の教授陣はすべてイギリス人で占められた。
工部大学校は明治20年に東京大学に併合されて工科大学となるまでの、14年間に211名の卒業生を送り出している。卒業生は土木45名、鉱山48名、機械39名、化学25名、電信21名、建築20名などで、当時の産業界の要請傾向が覗われる。
化学科の教授はダイバースで、ダイアーの後任の都検となる実力者だ。化学科一期生の高峰譲吉は、卒業後の1880年にダイアーの出身校である英国グラスゴー大学に3年間留学、タカジアスターゼ、アドレナリンの発明者となる。
建築科教授コンドルは我が国西洋建築の基礎を築いた人で、設計した鹿鳴館や東京帝室博物館は現存しないが、ニコライ堂、旧岩崎庭園洋館、綱町三井倶楽部、旧古河庭園などが現存している。第一期生は辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵、佐立七次郎の4名。辰野金吾はイギリスに留学し、母校教授として後進の建築家を育て、自らも東京駅や日本銀行を設計した。
電信科の教授はエアトンで、日本で最初のアーク灯(電灯)を灯した人である。多くの電信技術者、電気技術者、教育者を育てている。一期卒業生は志田林三郎1人であったが、彼はグラスゴー大学に留学してケルビン卿に学び、母校教授と工部省電信局を兼務した、日本の通信事業の育ての親である。三期生は藤岡市助、中野初子、浅野応輔。藤岡市助は電灯事業(電球と発電機)に多くの実績を残した東京電力と東芝の創設者である。中野は東京大学工科大学教授で電気学会会長、浅野応輔は九州―台湾間の海底ケーブルを敷設した通信技術者である。
土木科一期生の石橋絢彦は灯台学の権威、同じく一期生の南清は鉄道技術者、五期生田辺朔朗は琵琶湖疏水の建設やわが国最初の蹴上水力発電所の建設者である。
鉱山科一期生の小花冬吉は八幡製鉄の建設、秋田鉱山専門学校初代校長、機械科一期生の三好晋六郎は卒業後イギリスに留学して造船学を学び工部大学校造船学科助教授、東京大学工科大学教授、工手学校(現工学院大学)初代校長で洋式造船学の先達。この他にも教育界、産業界、官庁で活躍した技術者たちは、とてもこの紙面には書ききれない。
工部大学校が成功した要因として挙げられるのは、1)明治政府が殖産興業の担い手を育てる工部大学校を好意的に支援したこと、2)専門分野に優れた教授たちが、教育に非常に熱心であったこと、3)工部大学校の責任者山尾庸三がダイアーとはグラスゴーのアンダーソンズ・カレッジで顔見知りで、意思疎通が良かったこと、4)学生たちの実地教育場として工部省付属の赤羽製作所があり、洋式機械が充実していたこと、などが挙げられている。
忘れられたダイアー
ダイアーは工部大学校都検を9年間務め、技術者教育制度を整え、多くの優れた技術者を育てた。帰国して母国イギリスで工業教育の基盤整備に努力した他、日本研究の第1人者として多くの著作を残している。しかしながら何故か、札幌農学校に僅か9ヶ月勤めたクラーク博士に比べると忘れられた存在である。
「ダイアーの日本」著者三好信浩氏は、ダイアーを我が国の近代化に貢献した恩人と高く評価しているが、ダイアーとクラークの知名度の違いを工学者と農学者との歴史認識の差であろうと説明している。工学者は過去の歴史より未来の技術開発の方が急務だからだろうと述べているが、少し違和感がある。
北政巳氏はその著書で、1880年代にプロシャが普仏戦争に勝って急速に近代化・工業化する中で、日本政府は英国流モデルからドイツ流社会モデルへ傾斜し、工部大学校が東京大学と合併して東京大学工科大学となる過程で、ドイツ人学者たちによりスコットランド人学者の教育上の業績も消去され、ダイアーの功績も日本近代史から消されたと述べている。  
「大日本」
ヘンリー・ダイアーHenry Dyer(一八四八〜一九一八)は、一八七三 (明治六)年、イギリス・スコットランドのグラスゴー大学卒業直後に二五歳の若さで来日し、現在の東京大学の前身である工部大学校の初代都検(教頭、現在でいうところの校長)に就任、九年間の滞在中、日本の工業技術教育の礎を築き、「わが国近代科学技術教育の父」と称えられる人物である。そして本書『大日本』は、グラスゴーヘ帰国後のダイアーが、一九世紀末のヨーロッパ・アメリカ社会に対して、「東洋の小国が、開国後わずか三〇年で近代科学技術の習得と社会近代化を達成した原動力とは何か」という主題をとおして、日本の歴史と社会を幅広く紹介した大著である。本書が出版された一九〇四年は、折しも日本が対ロシアの戦争で優勢に戦いを進め、独立国としての存在を世界に大きくアピールした時代であった。
ヘンリー・ダイアーは、一八四八年、グラスゴー市郊外のボスウェルに生まれた。当時のグラスゴーは、「イギリスが世界の工場」と呼ばれる時代に「西部スコットランドがイギリスの工場」と称された工業都市で、機械・鉄道・造船業の世界的成功を通じて、時代の先端をいくハイテク都市として注目を浴びていた。事実、ダイアーも、エイトキン工場の著名な海軍技師カータの下で徒弟修業をしながら、アンダーソン・カレッジ(その後のグラスゴー王立学院、グラスゴー・西部スコットランド技術力レッジ、現在のストラスクライド大学)に学び、一八六八年には、グラスゴー大学が生んだ蒸気機関の発明者ワットを記念して、ヴィクトリア女王によって同大学に欽定された世界最初の土木工学部に一期生として入学するという、まさに近代産業の申し子とでも言うべき経歴をたどった。グラスゴー大学におけるダイアーの指導教授は、「土木工学の父」と称えられたウィリアム・ランキンであった。ランキンはグラスゴー出身で、エディンバラ大学を卒業、アイルランドでの鉄道工事に従事したのちグラスゴー大学に奉職し、土木工学部初代教授ゴウドンや物理学教授のトムソン(のちのケルヴィン卿)の助手をしたほか、アンダーソン・カレッジからロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ教授を経て英国造幣局長となったグレアムと従兄弟の関係にあった。さらにランキンは、著名な鉄工業者ベアード、ダンロップ、ディクソン、ホールズワースらとも友人関係にあり、彼らと共に一八五七年にスコットランド機械・造船業者協会を設立した。ランキン教授は、ケルヴィン卿と共に大学保守派と争い、一八七二年には工学分野における世界最初の大学学位の認定に成功した。ダイアーはグラスゴー大学在学中、数学・物理学・機械工学・地質学で優秀な成績を収め、アーノット賞、ウォーカー賞、ワット賞を獲得するなど、ランキン教授の秘蔵っ子であった。ダイアーは一八七二年にグラスゴー大学から「工学技能証明書」を得たが、興味深いのは、同級生にネイビア造船所所長の息子ロバート・ネイビアや横浜在の海事技師スミスがいたことである。ダイアーは一八七二年の学業修了にあたり、恩師のランキン教授から日本政府工部省のロンドン代理人をつとめるマセスンの依頼として、東京に設立される近代工業技術力レッジ、すなわち工部大学校の都検就任の話を得た。そして、若きダイアーは、封建主義を脱して開国間もない東洋の小さな島国・日本に、グラスゴー大学を中心に編成された「お雇い教師団」を引き連れて一八七三年に来日する。
日本側でも、このカレッジ設立までにはドラマがあった。
伊藤博文は、長州藩時代の一八六三年、四人の長州藩士と共に、ジャーディン・マセスン社の斡旋でイギリスへ密航する。伊藤は長州事件の報を聞き、イギリスとの戦争回避のために急ぎ帰国したが、共に密航した一人である山尾庸三(やまおようぞう)は、ロンドンからグラスゴーに移り、「邦人初の西欧世界での徒弟」となって、ネイビア造船所で修業するかたわらアンダーソン・カレッジの夜学に学んだ。山尾はグラスゴーで技術習得に励み、明治維新後帰国する。明治政府の要職に就いた伊藤と山尾は、明治日本を、同じ小さな島国でありながら世界に君臨する英国を模範に「東洋のイギリス」とすることを目指し、まず近代工業技術習得のカレッジ設立構想を練り、山尾が立案する。一八七二年秋、岩倉具視道外使節団の副使として再びイギリスを訪問した伊藤博文は、密航に際して世話になったマセスンに、新しく日本に設立する近代工業技術力レッジの教員採用を依頼する。伊藤の意向はマセスンを介してグレアムからランキンに伝えられ、その愛弟子であったダイアーが中心職である都検職に就くことになったのである。ランキンがダイアーを強く推したことは、一緒に着任したエアトンがケルヴィン卿の弟子で、ダイアーよりも学術的には遥かに優秀であったにもかかわらず、ダイアーが都検に選ばれたことからもうかがえる。だが、彼の師ランキンは糖尿病のため、日本へのお雇い教師団の人選後、まもなく逝去する。ダイアーは、スコットランド人技師がイギリス産業革命の牽引役となり、さらにヨーロッパ、アメリカヘと技術伝播に向かう時代に生きた。そして彼らの奉ずる「エンジニア思想」、つまり「エンジニアは社会発展の原動力であり、旧来の専門職である牧師・医師・法律家に並び得る新しい専門職である」との思想を、明治日本へ導入した。長年の封建主義を脱して新しい価値観を模索していたわが国にとって、この「エンジニア思想」は、単に技術習得のみならず、社会的要請をも含んだ、貴重な示唆であったに違いない。ダイアーはまた、日本への航海の途1、アンダーソン・カレッジとグラスゴー大学での経験に加え、スイス、ドイツなどでの最も先駆的な工業技術力レッジのカリキュラムを研究し、新設される工部大学校のために最新の技術教育力リキュラムを作成した。それまで地球上に存在しなかった「工学部」という概念は、ダイアーによって、極東の島国においてはじめて具現化されたのである。しかしながら、ダイアーは単なる教育行政家ではなく、工部大学校生に対して「エンジニアは真の革命家であり、市民として同胞の精神的福祉を向上させる人となれ」と訴える一方、エンジニアは生涯学習の必要ありとして、土木工学会を創設した。今日、日本における各種学術・教育研究学会の数は世界一を誇るが、これもダイアーの移植したエンジニア思想の定着の一つの成果であろう。ダイアー自身、ダーウィンの「生物進化論」の影響下、当時のスコットランド技師たちの信ずる「社会進化論」の信奉者であり、彼にとって明治日本は、技術教育の歴史的成果を問う真の実験場であったに違いない。
ダイアーは、日本に残る記録では、一八八二年五月にスコットランド・グラスゴーへ帰国した。その背景には、わが国の教育組織の変革、つまり給料の高い外国人教師から邦人教師への切り替え、また国際的には彼らの給料として渡されていた銀価値の下落による、お雇い教師団の生活の逼迫が挙げられる。ダイアーには、日本で生まれたチャールズとロバートの男子二人、マリイという女子一人の三子がおり、帰国の原因は彼らの教育問題にあったとする見解もある。
帰国後のダイアーは、グラスゴー大学の造船学教授職やエディンバラのヘリオット・ワット大学の学長職に応募するが、不成功に終わる。指導教授のランキンは逝去し、滞日中は教育活動に注力したために、個人的な科学研究成果を挙げていなかったダイアーにとっては、鉄道・造船業の世界最先端の科学技術センターとして日進月歩の技術成果を誇る、グラスゴー大学のアカデミックな教授職に就ける可能性はなかった。しかしながらダイアーは、自らの信ずる「社会進化のダイナミックスの主人公こそエンジニアである」との主張を固持した。帰国後に最初の著書『工業進化論』を発刊するが、イギリス国内でもアカデミックな学者からは忌避され、「生活協同組合運動」を支持する急進的な社会改革論者としてのレッテルを貼られた。日本での反応はさらに厳しく、ダイアーの思想に社会主義的なものを感じ取った当局は、同訳書を発禁処分としたのである。この背景には、一八七〇年代にイギリスをモデルに近代化を目指したはずの明治日本が、プロシアが立憲君主制を確立し、一八八〇年には普仏戦争でフランスを破って急速に近代化・工業化を進めるにつれ、その姿に感銘を受け、イギリス型民主主義からプロイセン型君主国家にその路線を変更したことが挙げられる。このイギリスからドイツヘの傾斜は、工部大学校が東京大学に併合され、帝国大学工科大学となっていく過程のなかでも同様に見られ、ここにダイアーの功績が日本近代史から消された一つの理由が存在した。
帰国後のダイアーには、東洋の小国・日本に西欧近代技術を教えた偉大な技師として、教育評論家として活躍するほかは、エンジニア養成のカレッジ、グラスゴー・西部スコットランド技術力レッジ理事という名誉職しかなかったのである。また、世界を見てきたダイアーにとっては、極東・日本へ出発する前の世界に冠たる大英帝国の繁栄と、帰国した頃の諸外国の競争に直面して相対的に没落期をむかえた母国イギリスの現実との落差は、厳しいものに映ったに違いない。この自己の直面する理想と現実の懸隔が、みずからの教え子たちの指導下に、封建国家から近代国家への脱皮に成功した日本への新たな関心に向けられた。とりわけ日清・日露戦争における日本の台頭は、アジアの政治・経済史の流れを変え、ヨーロッパ人が日本に関心を持つに至る大きな要因となったのである。ダイアーの功績について、彼を後継して工部大学校の第二代都検となったダイヴァーズは、「日本人の養成になんらかの貢献をしたと主張するエンジニアの数は多いし、またなかには、かなりの貢献をした人もいるけれども、真実と公正をもって青い得ることは、日本がその組織立てられた精巧な工業教育制度を持つに至ったほとんど唯一というべき恩人は、現在グラスゴー・西部スコットランド技術力レッジの理事の一人であるヘンリー・ダイアー博士である」と称えている。しかし一般的には、ヘンリー・ダイアーの名前はまったくと言っていいほど知られていない。一八七六年にアメリカから来日し、僅か一〇ヵ月間札幌農学校(現在の北海道大学農学部)で教鞭をとっただけなのに、「少年よ、大志をいだけ」の名言と共にいまも日本史に残るウィリアム・クラークの評価と比較すると、さらに不思議に思われる。その最大の理由は、前述したように、ダイアーの主張する政治イデオロギーの急進性を警戒した明治政府が、彼の著書『工業進化論』を発禁吾として、わが国の歴史からの抹殺を図ったからにほかならないが、その一方で、近代日本を欧米世界に紹介するダイアーの仕事は、当時の日本政府にとって大変に貴重なものであった。それゆえ、彼の国際社会での日本のスポークスマンとしての役割を評価して、一九〇二(明治三五)年には東京帝国大学から「名誉教師」の称号が授けられると同時に、外務省からは「帝国財政及工業通信員」に任命されている。
このような一九世紀末から二〇世紀初頭の歴史的転換期にあって、当時の世界が最も注目をしつつあった極東の世界で、鎖国から開国、封建主義から近代国家への転換をなしとげ、何よりも近代工業技術を習得してアジアの一大強国に成長した日本を、主観・客観両面から観察できたダイアーの新聞・雑誌への寄稿は、多くの海外識者から歓迎された。またこれは、日本の政府指導者からみても歓迎されることであった。そして、学術世界への復帰の道を閉ざされたダイアーが、グラスゴーに持ち帰った資料・書籍をもとに、さらにみずからが愛情と情熱を注いだ工部大学校の教え子たちからの最新の日本情報をもとに執筆したのが、本書『大日本・東洋のイギリス国民進化の一研究』である。ダイアーはこの著作のなかで、日本の急速な成長を評価しながらも、他方では日本の将来を憂慮し、カントの『恒久平和論』の三点、民主主義勢力の台頭による国際関係の改善、知識の拡大と社会科学研究の進展による真理探究、これらを通じての世界平和の実現を挙げながら、日本の先導的役割を期待した。しかし、その後の歴史の展開は、私たちの知るところである。日本の国民倫理は軍国主義一辺倒になり、第一次世界大戦ではイギリスと友好国の関係を保ったものの、第二次世界大戦では敵対国として戦うことになる。ダイアーは、その悲劇をみることなく一九一八年に没したことが、せめてもの救いであったろう。ダイアーの子どもたちをみると、長男チャールズ、次男ロバート、三男ジェームズ、長女マリイの全員がグラスゴー大学に学び、チャールズはさらにケンブリッジ大学に進んで牧師になり、ロバートは海事技師として香港造船所の工場長になり、ジェームズはオクスフォード大学に進んでインド行政府の収税長官まで昇進した。娘マリイはフランス語、イタリア語に精通して活躍したといわれる。つまり彼らは、父ダイアーの信じたエンジニア教育の道を歩み、イギリス社会で成功したのである。しかし残念なことに直系の子孫は絶え、ダイアーの蔵書の多くは、グラスゴーのミッチェル図書館に寄贈され、現在もそこに保管されている。
明治期のお雇い外国人の研究は、最近多くなされている。しかしダイアーの業績については、いまだわが国では正当な歴史的評価が与えられていない。この偉大な「日本近代工業技術の父」としてのダイアーについて、あまりにも不明な部分が多かったからである。私は、スコットランド経済史の研究がきっかけで、グラスゴー大学の卒業生でスコットランド人技師であったダイアーの記録に行きあたり、彼の日本とのかかわりを紹介することができた。このダイアー研究の公表を通じて、本書の編集委員である石原研而・東京大学名誉教授や、グラスゴー大学に留学して橋梁の研究をされていた三浦基弘・東京都立田無工業高等学校教諭とのつながりもできた。さらに最近は、『東京大学百年史』や同大工学部の主催で行われた「ダイアー・シンポジウム」、広島大学名誉教授の三好信浩博士の著作を通じて、さらに多くの人がダイアーの業績に関心を持ちつつある。また現在、ダイアーの故郷スコットランドには、三〇〇社近くの日本企業が進出し、一世紀の歳月を経て「科学技術の逆移転現象」がみられている。東京にはスコットランド行政府経済開発局の事務所が置かれ、エディンバラには数年前から日本政山村の総領事館も設置された。
本書『大日本』の著作意義を改めて述べると、一九世紀後半、欧米社会で最も関心のあった話題は、非ヨーロッパ・非キリスト教社会の現状とその後の発展にあった。彼らの関心は、インドから治国・日本へ向けられつつあった。マルコ・ポーロの『東方見聞録』によって、閉ざされた「黄金の国」日本は、すでにヨーロッパ社会から興味を持たれていたが、もちろん未知なる国であった。それが、一九世紀後半に西欧諸国の外圧に直面したとき、いまだ「眠れる獅子の国」であった清国に比して、東洋の小島の日本は、アジアにあって唯一、しかも非キリスト教倫理の国でありながら、工業化に成功した。そればかりか、日清戦争では西欧技術を吸収して大国・清国を破り、さらに本書の執筆時は日露戦争の遂行中で、日本の優勢が伝えられていた途中にあった。そうしたなかで、西欧諸国の知識人が、「社会進化論」の実証者としての日本にいっそうの関心をいだいたのは当然の帰結であろう。ダイアーは、このような西欧知識人の関心を背景に、また欧米との不平等条約改正による近代国家の地位確立を願う日本政府の期待をもとに、幕末の封建時代から明治維新、さらに近代化・工業化を進めていく全体のダイナミズムを、進化論的な観点から、当時入手し得る最新かつ最高の資料をもとに執筆したのである。その関心の範囲は広範にわたり、明治維新の世界史的な位置づけから、日本社会の経済・産業・教育全体の歴史的変遷、幕末期からの日本と世界の関係性にまで及び、原書は四五〇ページの大著となっている。特に、近代日本が封建主義から明治維新を経て創成される歴史過程と、その近代日本の建設者として工部大学校の卒業生が「エンジニア思想」を体現して活躍する様子が強調されており、イギリスから日本に移植した「エンジニア思想」による工業教育の成功を世界史上で証明したのが、結果としての日清戦争の勝利、さらにいままさに決まりつつある日霹戦争の勝利であるとみる。そこでは、封建主義を脱して明治政府を設立した日本の指導者たちの直面した諸問題、西欧列強からの圧力に抗して不平等条約改正を求める姿が浮き彫りにされ、日本にはキリスト教国とは異なる民族的な伝統・慣習があり、それが社会的機能として大きく国の発展に寄与している点を強調する。また、わが国の芸術・美術にも高い評価を与えているが、一八八〇年代後半の明治政府の「日本人化政策」のなかで、日本の進路は明白に、イギリスではなくドイツ型立憲君主国家への移行が目標となり、海外では重宝されたダイアーも、日本国内では「発禁書の著者」といった評価しかなく、当時の歴史から抹殺されるに至ったわけである。
私は一九七五年の冬に、グラスゴー大学近くの古書専門店の書棚を物色中に、この『大日本』に出合った。一読し、非常に鮮烈な読後感を受けた。それは、第二次世界大戦の廃墟から出発し、わずか四、五〇年で世界最高の工業技術大国としての評価を受けた民主日本の戦後の蘇生・復活の歴史が、やはり前史である一九世紀後半の日本のたどった道のりを背景として理解されるべきであることを、ダイアーの書によって喚起されたからである。特に、現在のアジア、アフリカ、東ヨーロッパ、中南米諸国からみれば、西欧諸国とは異なる歴史・文化・宗教のもとで独自な工業化を達成した日本こそ、彼らの国の発展を願うときに西欧諸国のモデル以上に貴重な参考例であろう。このたび、実業之日本社から本署『大日本』の翻訳出版の企画を聞き、大きな感動を覚えたのは、私たち編集委員のみではない。一九世紀後半の世界史を概観したときに、圧倒的な西欧諸国の勢力を前にして、植民地化を回避したのみならず、世界史上類をみない見事な独自の工業化を達成した明治日本のサクセス・ストーリーは、海外諸国と比較するときに、私たちが最も知りたい関心事である。しかも、その真の立役者が誰であったのかに興味がいくことも、容易に理解できる。そして、一九世紀半ばにスコットランドのグラスゴーに生まれたヘンリー・ダイアーがその主役であるとわかったとき、この人物の思想と事業、生涯にさらなる関心が集まるのは当然のことであろう。ダイアーの名前は、つい最近、ようやく日本で復活・評価され始めたが、ダイアーが膨大なエネルギーを費やして苦いた本著を翻訳する試みは、あまりにも時間と労力のかかる作業であり、これまで誰も挑戦してこなかったことも事実である。しかしここに、平野勇夫氏の翻訳によって出版されることは、大きな喜びである。
一九九七年に、ダイアーの母校ストラスクライド大学(前述のように、ダイアーが夜学に通ったアンダーソン・カレッジや、帰国後の彼が終身理事をつとめたグラスゴー・西部スコットランド技術力レッジの後身)と東京大学で、ダイアー・シンポジウムが開催された。また本書の翻訳が完成に近づいた一九九八年七月、折しも東京で開催中の『大英国展』会場において、ストラスクライド大学出身で、日本在住の彫刻家ケイト・トムソン女史が二体制作したダイアー胸像の、東京大学への贈呈式が行われた(もう一体は、ストラスクライド大学へ贈呈された)。式典では、サー・ジョン・ライト駐日イギリス大使が「明治初期に苦労して来日したダイアー博士の日本の近代化・工業化への貢献」を称え、蓮見重彦・東京大学総長は「ダイアー博士は日本の近代工業技術の父」と称えていた。さらに式典会場には、一八七〇年にダイアーと共にアンダーソン・カレッジの夜学に学び、かつ来日後は彼の最大の理解者としてバックアップした日本工学界の父・山尾庸三工部卿の孫にあたる山尾信一氏も出席されていた。この式典に参加した私たち編集委員は、本署『大日本』が、明治から大正時代の日本をダイナミックに時代証言する大著として多くの人の目に触れるときとほぼ時を同じくして、ダイアーの近代日本史上の偉大な貢献について再評価がなされつつあることに、歴史の不思議なロマンを感じた次第である。
読者諸賢は、ダイアーの一世紀前の記述のなかから、彼の愛情溢れる日本理解に深い感動を受けられると思うが、それ以上に驚かされるのは、一世紀前の彼のメッセージの数々が、今日でも越せることなく私たちに謝しかけてくることであろう。日本は不幸にも第二次世界大戦を引き起こし、イギリスとも敵対するが、ダイアーの信じ、夢見た近代日本は、平和主義の国であり、アジア近隣諸国の向上に尽くす国であった。日本は、そのダイアーの期待を一度は裏切る歴史をたどったが、いま二一世紀を目前にして、再びダイアーの願ったような平和な、アジアの近代化を主導する工業国にならねばならないと、思いを新たに願うものである。  
日本における「科学技術」概念の成立 
はじめに
いうまでもなく、「科学」と「技術」は別概念であり、西欧においても「技」ars / techne と「知」scio / science(学問)は別個に生まれ発展した。人類の発生と火や道具という「技」は当初から結びついてきたのに対し、近代科学の成立は17世紀科学革命によって研究の方法と制度(学会など)が確立して以降といえる。しかし18世紀後半からスタートする産業革命は、科学に裏打ちされた技術の必要性を強く人々に印象づけた。フランス革命も合わさってギルド制や徒弟制に封じ込められていた職人技が、新興分野(例えばワットの数学器具製造人の職域)の台頭とともに、開放され始めた。さらに19世紀には、学校教育制度に取り込まれ、高等教育機関のエコール・ポリテクニクの創設(1794年)に象徴されるように、科学(数学・物理・化学)と技術(土木・建築・軍事)が理論的にも結びつきを強めていく。産業革命の本流のイギリスでも、スコットランドのグラスゴー大学、エディンバラ大学などで早くから自然科学の講義がなされた。英国初の化学実験室を1817年に持ったグラスゴー大学からは、わが国の工学体制の創始者となる工部大学校の初代教頭ヘンリー・ダイアーなどが来日して、明治日本の近代化を推進した。神学中心の大学制度を哲学部中心の近代的大学制度にいち早く変えたのは、ドイツで、1810年創立のベルリン大学が最初である。フンボルト精神と領邦間の競争が1825年のリービッヒによるギーセン大学化学実験室を生み、実験研究室という新制度によって、ドイツが科学と技術を結合させて、染料・有機化学・農業・医薬の分野で20世紀前半まで世界をリードする素地をつくった。
ひるがえって日本である。グラスゴー大学のランキンとケルヴィンの遺伝子を持ったダイアーが、科学と技術に強い関心のあった明治元勲伊藤博文の招きで工部省工学寮(1877年に工部大学校)に赴任、工学モデルを樹立する。明治政府は欧米の先行モデルを研究して、分野ごとに、理学や医学はドイツ、法学はフランス、農学はアメリカと、大学教育制度や試験研究機関の導入を図った。帝国大学令公布の1886年以降、大学はドイツ型が中心となり、科学者・技術者も増え、各種学会も生まれる。国民国家の形成に即応した産業・軍事・民生にトータルに係わる組織が生まれる。
19世紀後半からの化学産業と電機産業の世界的隆盛を背景に、まずドイツで、物理学と工学の融合した巨大研究機関、物理工学研究所が1884年に出現したのを皮切りに、1911年にカイザー・ウィルヘルム研究所が生まれるなど、研究所は1932年までに32を数えた。第一次大戦で精密機械・化学製品・医薬品等が欧米から入りにくくなったのを機会に、自主技術の開発が急務となった日本でも、1917年(大正6)に、理化学研究所、東大航空研究所、東北大金属材料研究所、京大科学研究所が相次いで設立される。しかし明治以来、絶えず実学か純正科学かで論争があり、例えば東京化学会(後の日本化学会)が1898年(明治31)化学会と工業化学会に分裂、ふたたび一緒になるのは第二次大戦後である。満州事変後、総動員体制下の日本で技術官僚が音頭をとって、「国家緊要ノ技術ヲ進展セシムルニ必要ナル研究事項ニツキ企画シ之ガ研究促進ノ方途ヲ講ズ」と唱った1941年(昭和16)の「科学技術新体制確立要綱」が確立し、公文書で「科学技術」という新用語が明確に使われた。「科学と技術」から「科学・技術」へ、さらに中黒「・」抜きの「科学技術」という概念が強調されるのは、その動きに連動する。占領政策を経て科学技術庁の誕生に至る過程で、「科学技術」は技術に比重を置いた新概念として定着する。この過程を報告する。
1 「科学」と「技術」という言葉の出現
「科学」という言葉は、幕末から明治初めにかけて、「諸科に分かれた学問」という意味で使われ始めた。『日本国語大辞典』(小学館)は、明治2年(1869)の「公議所日誌」から「科学は空文無益に成もの故、試官よく其人の正邪と実行とに、注意すべし」の一文を引用している。また、明治4年の井上毅の「学制意見」に、「語学ヲ教ヘ往々洋人ニ口伝シテ科学ニ渉ラシメントス」とある、との指摘もある。後者の例のように、わが国においては、宣教師たちによって、西欧の学問が諸科に分かれていることは知られていた。
遠藤周作の『沈黙』の主人公ロドリゴのモデルは、キリシタン禁制下の日本に潜入してすぐに捕らえられ、井上筑後守政重の尋問の前に転んだイタリア人イエズス会士、ジュゼッペ・キアラ(Giuseppe Chiara, 1602―85)とされる。処刑された武士の名、岡本三右衛門を名乗り、別の刑死者の妻と娘と一緒になって江戸切支丹屋敷に幽閉されること40年、十人扶持で切支丹改めに協力しつつ、『キリスト教要論』全3巻を書き、1685年(貞享2)7月25日、83歳で没した。
江戸後期の経世家、本多利明は『西域物語』で、このキアラを「大導師」、学問の大先生と呼んで尊敬し、近年の和算研究者の中には、キアラが高原吉種なる和算家と同一人物であり、関孝和や荒木村英の師として和算研究の上で重大な役割を果たした、と指摘している者もいる。
キアラの数学および自然科学の知識がどの程度のものであったかは不明である。しかし井上政重の後任北条安房守氏重の尋問に、キアラが答弁した1658年(明暦4)の記録は興味深い。後に白石がこれをよく読み、江戸期最後の潜入宣教師シドッティ(1668―1715)の尋問に当たった。その『西洋紀聞』の「岡本三右衛門筆記」になる11項目中6項目は、数学や科学に関するもの、算数・幾何・天文・地理・軍事・航海術である。
さらに「右十一品ノ学ハ三右衛門習不申候事」と専門に習ったことがないと申告している。しかし西欧の大学では自由七科(文法・論理学・弁証学の三学と多少専門的な算数・幾何・音楽・天文の四教を併せていう)を一般教養として学習し、さらにイエズス会の布教方針として、ザヴィエルやヴァリニャーノの書簡などに明らかなように、数学や天文学の知識が東洋、なかんずく日本においては有効なことは周知の事実であった。事実、宣教師で数学や天文学の得意なスピノラやゴメスの例もある。キアラは、新井白石に『西洋紀聞』等を書かせたシドッティと同じく、シチリアのパレルモで生まれた。パレルモは12世紀ルネッサンスの大翻訳運動期の、学術センターの一つであったことを思い出す必要がある。
こういう宣教師たちの話から、西欧の学問が諸科に分かれていたことはよく知られていた。「科学」という和製漢字は、学問領域では、明治7年(1874)に西周が「学」を意味する「サイエンス」(西の用語ではサイーンス)に「術」と対比して当てたとされる。「学ト術トハ其趣旨ヲ異ニスト雖トモ然トモ所謂科学ニ至テハ両相相混シテ判然区別ス可ラサル者アリ、譬ヘハ化学ノ如シ」とあるように、西がいう「科学」は、従来の学や術と違って学と術の「両相相混じ」たもの、つまりいまでいう「科学技術」であったことがわかる。日本語の「科学」は、「〈サイエンス〉の訳語というよりは、専門分化を遂げて複数形となった〈サイエンシーズ〉の訳語と言った方が正確であろう」という野家啓一の指摘は正しいと思う。
「技術」についていえば、古くから用語として確立されている。諸橋轍次の『大漢和辞典』その他の「技術」の項目を見れば、「てわざ・方術・方技」の意味でよく挙げられる文例は、『史記・貨殖列傳』第六十九の、「醫方諸食技術之人、焦神極能、為重糈也」(醫方ハモロモロノ技術ニ食はム人ナリ。神〔精気〕ヲ焦ガシテ能ヲ極ムルハ、糈かてヲ重ンズルガ為メ也)である。その他、『漢書・藝文志』の「漢興有倉公、今其技術曖昧」(漢ガ興ッテ倉公アリ、イマソノ技術曖昧ナリ)などの例文もある。後書によれば、およそ方技には三十六家あるという。西周は『百学連環』総論で、訳語の問題として、mechanical art とliberal art について、「原語に従うときは則ち器械の術、上品の芸という意味なれど、……技術、芸術と訳して可なるべし。技は肢体を労するの字義なれば、総て身体を働かす大工の如きもの是なり」と論じている。したがって、「技術」は東アジアにおける漢字圏では周知のことであり、問題は「科学」と、それが「技術」と一体化した「科学技術」というジャンルがどのようにして、いつ日本において成立したか、ということである。
「科学」という言葉は、一部の識者指導層の間ではかなり早期に浸透したようである。一例を、西周使用例の5年後に「科学」という表現を使っている伊藤博文の「教学大旨」の場合について見よう。伊藤の主張は、まず第一に用語法の上で「科学」が技術に重心を置いた「科学的技術」を意味していること、第二にその内容が法文系のエリート官僚vs.理工系の専門技官層という対立の芽を含んでいる点で、本稿にとって重要と思われる。
西南戦争後、体制維持のために教育令が明治12年(1879)に公布されるが、教育令は自由主義的色彩は濃いものの、この時提起された伊藤博文の「教学大旨」では、「科学」ないし「工芸技術百科ノ学」と「政談」ないし「法科政学」とが対比して使われている。ここで伊藤は、「科学」は「工芸技術百科ノ学」と等しいと見ていて、この「工芸技術百科ノ学」とは、すでに「技術」の用語を含むように、さまざまな技術の学、つまり広い意味での「工学」を指すともいえる。すなわち、伊藤の用語法に従えば、「科学」はいま問題とする「科学技術」を先取りしているのである。その上で、伊藤は国家経営に当たって、高等の学を学ぼうとする者の多くをもっぱら前者の「実用ノ学」に導き、後者は少数エリートの高等文官として登用する、という明治以来の文官優遇政策の基本線を敷いたことが重要である。すなわち、「教学大旨」には、国民の「政談ノ徒過多ナルハ、国民ノ幸福ニ非ス。……今其の弊ヲ矯正スルニハ、宜シク工芸技術百科ノ学ヲ広メ……浮薄激昂ノ習ヲ暗消セシムヘシ。蓋シ科学ハ実ニ政談ト消長ヲ相為ス者ナリ。茂シ夫レ法科政学ハ、其試験ノ法ヲ厳ニシ、生員ヲ限リ、独リ優等ノ生徒ノミ其入学ヲ許スベシ」と。
これは明治20年(1887)の「文官試験試補及見習規則」公布で、帝国大学法科大学卒業者を高等官僚・高等文官の特権的供給源であることを保証するものであった。6年後には若干修正されて、法科卒業生も文官高等試験合格を条件とするとされた。一方、帝国大学工科大学、農科大学、医科大学などを卒業して官僚になった技術官は、高等文官になれるとしても「特別ノ学術技芸ヲ要スル行政官」に限定され、法文系高等文官のような自由なジェネラリストとしての道は塞がれていく。
このことが、大正期以降の官庁系技術者の連合と自覚をもたらし、この動きから、以下に見るように、「科学技術」というイデオロギー的な用語法を成立させたといえる。そうした動きに警戒を強めた科学者の側からは、「理学」という用語法が好んで使われ、科学者が「科学」を警戒するという妙な状況が生まれていくのである。後者の問題は「理学」の成立について論じた拙稿に譲り、本論では、技術者側からの動きに注目していく。
2 「科学」と「技術」の吸引と反発
明治中期以降の日清戦争期ともなると、政策者と研究者との間に、科学に対する態度の解離が見られる。
例えば自由主義経済論を唱え、保護貿易論や政府の政策を批判しつづけていた人物である田口卯吉が総合雑誌『太陽』に寄せた論説、「歴史は科学に非ず」(第1巻11号)を見ると、科学には二種あるとする。すなわち地質学・本草学・解剖学等の「自然の有り様を其侭書[き]現したもの」を「叙述学」、天文学・物理学・化学・経済学・社会学・心理学等の「自然の作用を説明するもの」を「科学の本躰」としている。言い換えれば、記載的博物学と因果的科学の二種である。西欧でも17世紀科学革命の二大底流になったフランシス・ベーコン流の、アマチュアを裾野とする広いスペクトルに立つ自然誌路線と、デカルト、ガリレオ流の、自然の数理的統一的把握を目指す原理路線という、伝統的見解でもある。
しかしこのような科学の階層的解釈に猛然と反論しているのが、「叙述学」といわれた地質学者の佐藤傳造であった。佐藤は「田口卯吉氏の科学説を駁す」(第2巻第1号)で、大正期に明確になる純粋科学の思想を先取りして、こう述べるのである。なぜ地質学をgeography といわずにgeology というか、生物学をbiology、岩石学をlithology というのか、と反論して、「logos は論ずるの意なり」と述べ、例えば噴火孔から採取した岩石の化学成分が種々異なり「差異ある所以を其侭に記載する而巳に止まらず、併せて其差異の生ずる原因について考究するなり」と、科学という以上、どのような分野であれ「原因結果の理法」にかかわるのであり、「自然の作用を説明する」ことを意図しているとする。発達の程度の違いはあっても、同じ科学にどうして「本躰と支躰とあらんや」、と。ここに職業的科学者の「純正[粋]科学」(pure science)に賭ける自負が読み取れるのである。
明治期化学界の頂点にいたのはドイツ帰りの薬学者長井長義であり、化学工業、薬学などの実学派が長井をトップにして東京化学会を握っていた。これに対して長井より13歳年下だが英国帰りの桜井錠二が、独創性を重視する「純正化学」(pure chemistry の訳)と化学教育の立場から鋭く批判した。化学用語を統一するか否か、その使用を強制するか否か、両派はことあるごとに衝突した。こうして明治31年(1898)に東京化学会は化学会と工業化学会に分裂し、ふたたび合体するのは第二次大戦後である。
しかしこのような差はあっても、学の功利主義的側面の重視は明治期を通して踏襲され、かえってますます強化されていくのである。
『太陽』創刊号の発刊の辞「第二の維新」以下の諸名士の寄稿中、そのような意味で特に注目されるのは、久米邦武の「学界の大刷新」である。久米によれば、日清戦争勝利後の戦後こそ「多事となるべけれ」で、もはや兵学という「殺人機械の運用を講究する一科学」にかかずらってはいられないとする。「分業専科」はいよいよ進むから、学界の「各業各科」の面々は「今にも泰東の将来種々の望みをかけて、其の用意をなすこと肝要なるべし」と力説している。そして日清戦争の勝敗を決した彼我の差は、第一に分業専科の遅速にあること(「社会は知能の発達するに従ひ、何事も分業専科となり、科に科を分かつて進むものぞかし」)、第二は分業を妨げる長老階級政治と徳治主義にもとづく旧体制と、民権平等を旨とする立憲政治と法治主義に立つ維新体制の違い(「階級制に根を託して発生したる論議は既に廃滅に帰したり」)を述べ、学界における「温故知新」と専門化を力説しているのである。専門化は同時に純粋科学化でなく、国力に奉仕すべき学理の道なのである。
明治3年(1870)にアメリカに渡り、さらにイギリスで学んで帰国し、教育博物館長を経て東京工業学校長になっていた手島精一も、『太陽』(第1巻第2号)に寄せた「工業教育」で、「学理を工業に応用すること」が不可欠ということが維新以降認識されてきたと見る。いわゆる「科学的技術」の重視である。「十年前に較ぶれば蒸気、水力を工業上に用ゆる原動力は三十倍の多きになつた」ものの、仔細に見ると真の自立にはほど遠いと嘆いている。原材料でなく加工品の増加が望ましく、例えば白羽二重の輸出高は製茶を上回っているが、「外国にて模様を置いたり、又染めたりする有様」で、これは「学理を染物に応用せぬ結果」である。工業輸出品中第三位の焼物類は玩弄品ばかりで日用品になっていない。鉄道建設は距離数は増えているが、レールや機械の多くは外国から買わなければならない。綿糸紡績工業も工場数は四十有余になっているが、紡績機械はことごとく外国製ではないか、と。
実は明治期早々のお傭い外国人からも、産業技術の近代化、科学化の提案が相次いでいた。例えば、フライベルク鉱山大学出身のクルト・ネットーは、欧米ではどの国も自国の産物に工業の基礎を置いていて、原材料を輸入して工業を営むことは「極メテ少数」であり、工業の基礎をなす鉱業がふるわない日本の現状を分析、批判した上で、鉱業試験所の設置を提案した。特に民間鉱山業は資金不足、実業としての習熟不足もあるが、旧態然として「新式鉱業術ヲ信認セザルコト」が大きく、従来の鉱山術を科学的にするための、化学分析・採鉱・冶金の大規模実験場を持つ試験所の必要性を訴えた。学理を鉱工業に応用することは明治日本の鉱工業全体の課題であった。その上で、例えばゲッチンゲン大学出身のゴットフリート・ワグネルは、日本独自な「味ト美術心」という「意外ナル宝」を工業製品に生かし、「多ク品物ニ価値ヲ帯バシメル」、付加価値を高くすることを、数々の博覧会の評判などを踏まえて推薦した。このことはいまでも日本製品の競争力について通用する視点である。
大正2年(1913)米国から帰国した工学博士・薬学博士の高峰譲吉が、これからは理化学工業の時代でそれに対応した研究機関を、と提唱した。1911年創立のドイツのカイザー・ヴィルヘルム協会を念頭に置いたものだが、折から第一次大戦勃発で、欧米からの医薬品や工業原料、精密機械等の輸入が途絶え、産業の自立が急がれていた。学界はもとより政・財・官も一体となって財団法人理化学研究所が大正6年(1917)3月に誕生する。理研設立時の事業目的に、「本所ハ産業ノ発達ニ資スル為理化学ヲ研究シ其ノ成績ノ応用ヲ図ルコトヲ以テ目的トス」とある。
直木倫太郎は、後に満州の大陸科学院院長になる土木技師出身の技術官僚だが、大正年間の東京市技師時代から、イギリスのトレッドゴールド(Thomas Tredgold, 1788―1829)のシヴィル・エンジニアリング論に触発されて、大正3年(1914)創刊の『工学』誌上に論策を次々と発表した。それらは『技術生活より』(東京堂、大正7年)に纏められ、大正・昭和の戦争前期までの、ものを考える技術者たちに大きな影響を与えた。トレッドゴールドのシヴィル・エンジニアリング規定は、「人間にとっての利用と便益のために、自然にある偉大な力の源泉を統御する技術」というもので、1828年、世界に先駆けてロンドンに設立された「シヴィル・エンジニアズ協会」の理念になった。もともとcivil engineer という言葉は、ジェームズ・ワットの時代にやや先行して活躍したジョン・スミートン(John Smeaton, 1724―92)をシヴィル・エンジニア第1号とする、産業革命期に定立した民生技術者の称号である。直木はトレッドゴールドの論に共感しつつさらに拡大して、「技術即事業」論を展開した。技術者は特殊領域の専門家であることから事業全体を統御できる経営者・行政家たれ、という主張となっていく。いわゆるテクノクラート路線である。これに強く共鳴したのが、直木の大学土木工学科の後輩であり科学技術行政家になる宮本武之輔であった。もとを辿れば大正3年9月に設立された土木学会の初代会長となった日本技術界の元老、古市公威は、翌年1月の第1回総会の会長講演の中で、土木技師は「将校・指揮官ナリ」と論じていた。土木技師は他の分野の専門技師を使うという意味で「将ニ将タル人」でなければならず、そのため、工科大学の土木工学科の課程には工学に属さない科目「工芸経済学」や「土木行政法」が特設されているのだ、と鼓舞している。直木や宮本が出てきた背景には、こうした雰囲気があったことを考えておかねばならない。
3 「科学・技術」から「科学技術」へ
少し先回りしていえば、「科学技術」という一繋がりの用語の成立には、昭和15年を挟んで、各界のさまざまな思いが交錯していた背景がある。このことは、例えば『朝日新聞縮刷版』を大正期から昭和30年頃まで、「科学技術」で検索するとよくわかる。大正期には「科学技術」という使い方はわずか2件しか抽出されないが、それも現物の紙面には出てこないからおそらく間違いである。昭和期に入って初めて、昭和15年(1940)8月8日の「科学・技術力総動員、全団体の連合会結成」の三段記事に新用語「科学技術」が現れる。しかし初出記事の見出しは、中黒「・」入りの「科学・技術」であり、本文中もみな科学と技術を別々に並置して使っており、ただ、最終目標の「全日本科学技術団体連合会」の名称にのみ、初めて「科学技術」という用語が現れる。
ここで新用語「科学技術」の紙面頻出度を見ておくと、昭和15年(1940)の10件を皮切りに戦前は昭和18年の70件をピークとし、戦後は、昭和20年代は低調で30年から増え始め、科学技術庁が発足する昭和31年(1956)の翌年、228件と大きく跳ね上がっている。
いま問題の「全日本科学技術団体連合会」(全科技連)は、「全国の科学及び技術諸団体の間にはかねて“ 高度国防国家の完成、東亜新秩序建設には国内のあらゆる科学力及び技術力を動員すべきである” と強調されてゐた」ことを受けて、これまでに十分な科学技術界の横断的組織がなかったことを反省しての計画であった。昭和15年8月6日、企画院科学部長兼興亜院技術部長の宮本武之輔の呼びかけで、133団体(最終155団体)の賛同を得て、8月8日夜神田学士会館で全科技連の発会式を行う、という予告記事である。
これまで産業資本家や技術者の社交団体としては、大正7年4月創立の社団法人工政会(会長八田嘉明、常務理事小野俊一・田部聖・島崎孝彦、会員3,500名)があり、機関誌『工業国策』を持ち、工業生産会議や工業技術会議といった各種審議機関を運営し、国土建設院などへの建議書を提出してきた。また技術官僚偏重といわれたが、大正9年12月まず日本工人倶楽部として創立され、昭和10年4月に改称した社団法人全日本技術協会(会長有馬頼寧、副会長宮本武之輔・松前重義・岸良一・高野六郎・金子源一郎、常務理事篠原登・大西幸雄・立花次郎・松井達夫・安田誠三・野村進行、会員5,000名)は、機関誌『技術評論』を出し、各種啓蒙講演会を展開、中等学校生徒向け教育講座を開設していた。
ひき続き昭和15年8月9日付けの『朝日新聞』に、「技術新体制に集ふ/全国の科学人/ “ 会員” 橋田文相も熱弁」の記事が出てくるが、この見出しからもまだ、科学と技術はバラバラの使い方であることがわかる。この時、各界から150余人が参集し、興亜院の本多光太郎から経過説明があり、長岡半太郎を新連合会の理事長に選出した。今後は会員は第1〜第10の専門部会に分属して、電気学術研究審議会など10の相互連絡調整機関を作ることになった。9月26日付けで、この全日本科学技術団体連合会の初仕事として、冶金、合成化学、燃料、機械、航空、電気、食糧、衛生の8分野に重点を置くことを決めた、と記されている。つまり新連合会の内実は、工業・鉱業・農業・医学などの産業に直結する部門を優遇するということであり、先の「全日本科学技術団体」に名乗りを上げていた天文学会や地質学会、地震学会といった基礎科学系はすでに疎外感を味わったことだろう。「科学と技術」でなく、新用語「科学技術」を推進した人々の意図は、連合会発足の40日後、9月18日付けの三段記事で速報された「科学技術新体制/確立要綱案成る/内閣に技術院(仮称)の設置」で明確になってくる。ここでは『朝日新聞』の紙面でも見出しと本文において、すでに「科学技術」の用語使用にゆらぎがないことに注目したい。
公文書である「科学技術新体制確立要綱」の内容骨子には、その「根本理念」として「従来の我国の科学技術は自由放任の体制にあつて[、]科学技術の進歩発達はもとより産業の生産部門に重大なる欠陥と弊害を与へつつある現状に鑑み[、]この欠陥と弊害を抉除是正すると共に科学技術の飛躍的発展を期するため[、]「技術奉公」の建前からこれを国家目的に編成せんとするものであること」とあり、「目標」を、「大東亜共同体内における自給資源に基く科学技術の日本的性格を確立すること」とした。さらに、「方策」として、「従来の科学技術は利潤追及のための一手段たるの風を呈し[、]重要国防諸産業に内在する技術は日本的性格を持たず、ために原材料資源関係において相当なる困難を生ずるに至るべき虞がある。[以下略]」と述べる。この「要綱」を受けて1942年(昭和17)1月に技術院が設置された。その技術院官制に、「第一条 技術院ハ内閣総理大臣ノ所管ニ属シ科学技術ニ関スル国家総力ヲ発揮セシメ科学技術ノ刷新向上就中航空ニ関スル科学技術ノ躍進ヲ図ルヲ以テ目的トス」とある。
宮本らによる技術者の地位向上に始まる運動は、技術院の設置で技術者による国策の決定関与という当初の目的を達成したといえるが、振り返れば、この技術者運動としては、明治12年発足の工学会(工部大学校卒業生の団体)が中心になって工業家の連結の場として大正7年に工政会を発足させたのが始まりであった。前後して各省の技術官僚たちが農政会、林政会、医政団で団結した。これらの中心になって支えたのは、内務省技術官僚の宮本武之輔であり、大正9年には日本工人倶楽部を東京帝国大学土木工学科出身の技術官僚を中心に立ち上げる。この宮本を支えていったのは、逓信省技師の本多静雄と松前重義の二人であった。二人は逓信省内の技術者を集めた「逓信技友会」を昭和12年春に設立するが、本多起草の設立趣意書には、「科学」への言及がまったく欠けていることに気づく。曰く「各種技術を包含する逓信部内技術者の意志並びに技術の連絡強調を図り……日本的技術の創設進展に務め、更に日本技術者に対して新しい検討を加へ、協力一致日本文化の進展に一臂の力を致すは、……」である。本多は逓信省技官として名古屋逓信局勤務になったが、有能な技師たちが、「明治大正以来の法科万能の官庁組織後に中に組み込まれ、自由な発言や行動を封じられながら、ただ黙々として電信電話工事の建設と保守だけをやればいいという、いわゆる“叩き大工”のような立場を強いられていた」ことへの、すなわち法科支配体制への叛旗なのである。その年には、内務・鉄道・農林・逓信・大蔵・商工の六省技術者協議会が結成され、日本技術協会の発展につながる。全科技連発足の時機が熟していたのである。本多は宮本に深く傾倒し、宮本が興亜院技術部長に就任すると逓信省工務局試験課長から宮本の下に参じた。やがて宮本が新設の企画院次長に転ずると、本多はその後任技術部長に就く。
満洲大陸科学院の大立て者で、宮本の先輩に当たる直木倫太郎についても報告しよう。技術者の活動の場は、満州国の開発や興亜院の活動となっていったが、海外技術官僚のトップに立つ直木は、国内で技術立国を主導して企画院次長になった宮本に祝文を送っている。その前、康徳7年(1940)9月28日に新京日満軍人会館で開かれた満洲土木学会発会式における直木の挨拶文を見てみよう。日本国内において「科学技術新体制確立要綱」と「技術院設置」の方針が決まって10日しか経っていないことに注意しておく。
直木は、大学生活を終えてからの過去40年間の技術生活を振り返って、「今日見るか如き斯かる技術への社会的尊重を未た嘗て呼吸したることはない。否寧ろ技術家たることの不平不満に常に悶へ難[悩]みつつこれを諦むるより外なかつたのであります」が、いま「突如として、科学尊重、技術尊重への一大変転を国家的に将た全面的に理解し認識せしむるに至つた」と述懐した上で、「わけても東亜建設の聖業の為には、そこに科学と技術の躍進こそはその重大要素たるのであり、……我が国の科学が、技術が始めて社会の活舞台の上に輝やかな「フートライト」を浴ひて、天晴れ時代の立役者として立振舞ふに至つたのであります」と述べている。ここでは「科学」と「技術」は対句で出ているが、切り離されていて、一語ではなく、新語の「科学技術」はまだ使われていない。さらに後述する「科学技術」用語批判派の篠原雄が主張した「綜合技術」の用語も飛び出している。すなわち、「飽迄も専門的拠点に立ちて然る上にこそ更に時代の要求たる綜合技術の妙用に参画せねばならない」として、専門技術の足場を見失うことのないよう警告している。外地にいた直木にとって、宮本らの内地技術官僚によって提示され確立された新用語「科学技術」は、見知っていても、まだ馴染めないものであったのだろう。
「要綱」確立から1年以上も経って技術院が発足する。技術院の目的は「科学技術の新体制確立」であったが、枢密院でこの技術院の官制を審議するとき、科学技術という用語が念押しされたようだ。「科学技術は一熟語で、科学、技術の並列にあらずと[技術院側では]答へたと聞く。……この点に関しては全く同感である」と、『朝日新聞』1942年(昭和17)2月13日付け紙上で全科技連理事長の多田禮吉が論じている。多田にいわせれば、「科学」は「蓄えられたる知識知能」であり、「科学能力」は「ポテンシャル・エネルギーに比すべきもの」とする。「技術」は「物の形を作工する術」すなわち作動そのものであって、「技術能力」は働き動く「カイネテック・エネルギー」と考えたい、という。つまり、「科学技術」は科学的知識を技術化すること、という意味で「科学的技術」を指すことと考えられている。
昭和18年末の時点でも、すでに亡き宮本を支えてきた松前重義の論文「生産の総合強力體制」を見ると、「科学技術」という用語には違和感があったためか、あえて使っていない節がある。松前はこう論じる。今時戦争の性格は「作戦と生産とは不可分の関係」にして、「作戦と生産に対して国家の総力を奉仕するところにある」として、生産についていえば、まず「生産原料の獲得」と「これに必要な輸送力及び動力、すなはち電力、石炭の必要量の確保」が重要で、次に生産行政に向けて「加工製造工業における現有生産設備の能率性に関する生産行政の強力推進」と、「なおも足らざる生産工場の新設の促進」が必要であるとし、「科学的総合生産体制」と「技術動員」が重要だが、その意味からも「技術院の権限の強化と旺盛なる活動とは、生産増強への最大条件となった」と力説する。「科学的総合性の把握の欠如」にあるとはいっても、「科学技術」という使い方は避けているようだ。松前重義は、電気通信技師だが、長距離間の明瞭な通話を可能にする「無装荷ケーブル多重通信方式の研究」によって、昭和11年1月に電気学会から淺野奨学金をもらい、それを原資の一部として、武蔵野の一角三鷹に私塾「望星学塾」を作った。内村鑑三が昭和5年に亡くなる前の数年間、自宅で「聖書研究会」を開き、教育問題についても逓信省時代の仲間と研鑽を深めていた。後の東海大学設立の始まりであった。
同じ『中央公論』の号で「日本國民運動の新段階」を寄せた清水伸は、明確に「科学技術」という使い方をしている。「科学技術の問題は現下のわが國の重大な面でありながら、技術者の協力組織がいたづらなる部分的集團に分散し、その総合的統一を缺いてゐた。今般技術院の提唱によつて、やうやく全國的なる一元組織が誕生しようとしてゐることは、大いに慶すべきである」と。
4 用語「科学技術」の批判と技術論争
「科学技術」の用語は、科学を主とする文部省には技術をやれといわれ、技術を取り込む商務省には科学をやれといわれて、文部省や商務省の行政領域に抵触しない領域として、「科学技術」(と技術院)が考えられた、という本多静雄の証言がある。これは、後の科学技術庁誕生の伏線になる話で、行政的範囲でいえば文部省と商工省の狭間に技術院も生まれたのである。そういう裏が透かして見えるためか、「科学技術」という用語は確かに流布したとはいえ、容易には使わないばかりか批判する人もいたのである。
篠原雄たけしはその代表であった。篠原は持論の「綜合技術」の諸論文を発表し、宮本らを同志として「産業技術聯盟運動」を展開、わが国の産業界を一元的に再編成して強力に動員できる体制づくりを意図したのである。産業技術聯盟は華々しい挙行式を挙げてスタートしたにもかかわらず、いち早く別に「綜合技術」を唱えていた専売局技師黒野勘六(農学博士)や企画院次長の宮本らとの間で綜合「技術」の語義の広狭について意見が対立して、間もなく立ち往生して解散せざるを得なくなっていた。
昭和18年1月11日付けの自著『綜合科學・技術論』序文で、用語「科学技術」を批判して、篠原はこう書く。「標題を綜合科学・技術論にしたのは、綜合科学並びに総合技術に関する論集といふ意味であつて、近時流行的に用ゐられている、〈科学技術〉なる語との混同を避けるために、特に科学と技術の間に・を入れたものである」としている。篠原は、科学と技術が密接な関連を持つことは「何ら論議を要しない」が、「より高次の単一概念の下に両概念の止揚包摂することを欲し、茂し新語の造出を避けるならば、科学の語を排し、技術の語[綜合技術を唱える]をもつて……すべきであるとさへ考へてゐる」とする。篠原はこの序文で「著者の唱へるやうな広範且つ高次の綜合技術の意味は、少なくとも当時の自然科學的技術者即ち鉱・工・農業に関与する狭義の技術者達の教養と心情とでは甚しく理解に困難であつたもののやうである」と悪罵している。
篠原が科学と技術の関係について、「技術」ないし「綜合技術」を上位概念とし、その下に「科学」を包摂して考えるという立場は、当時においても後代においても、奇異に感ずる者が多かったであろう。しかし篠原のために弁ずれば、その考えは、篠原が生物学出身であり、アメリカ行動主義のデューイ哲学の信奉者であったことに深く関係しよう。すなわち、生物としての人間は、問題状況に直面した時、「知識」を「道具」として問題解決に利用するように行動する。ここでいう「道具」には物体的な道具・機械のような人工物から論理や数学、統計といった「思考の道具」も含まれる。ジョン・デューイに言わせれば、知識が本来の役割を演じることができるのは、それが具体的問題に適用され、「応用」される場合である。したがって、「知識は、数学や物理学においてよりも、[応用科学と呼ばれる]工学や医学、あるいは社会的技術においてのほうがより適切な形で存在することになる」。行動に直結する技術は、科学知を生かして使う、という意味で、「より適切な形で存在する」というのである。だから「綜合技術」というのだが、しかしこのような背景は、思想や哲学的教養に富む技術者でなければ、なかなか理解できないことであったろう。
このデューイないし篠原の主張は、宮本の持論、「技術あっての工学(応用科学)で工学あっての技術ではない」という主張と、実は平仄している。だからこそ、初めは「綜合技術」に共鳴もできたのだろう。宮本はいう。
「橋梁を架けるのは技術的施設である。アーチの理論や不静定力の理論が発達する前から架橋技術は存在した。唯その架橋技術を有効適切に遂行するために架橋の理論が発達したのである。架橋の理論が生まれてからその結果として架橋技術が生まれたのでは断じてない。……〈工学〉と〈技術〉との相違は是等の説明から会得される事と思ふが、そこが〈応用科学〉として〈純正科学〉と根本的に相違する点である。実際の施設[施策]を離れた理論の研究は応用科学の分野ではない。それは純正科学の領域である」。
しかし、その上でなお篠原の立場と決定的に違うのは、宮本らの技術官僚が指向していたのが、「科学知識や高度の管理能力を持つ官僚」であるテクノクラート(technocrat)が国家・企業を管理するべきであるという「テクノクラシー」であったという点である。テクノクラシーはフランスの空想社会主義者サン= シモンを源流とし、アメリカの社会経済学者ソースタイン・ヴェブレンによって体系化され、一般には大恐慌後のアメリカでハワード・スコットによって広められた思想である。宮本はこの理論をいち早く紹介した。社会機構の全部といわないまでも、一部には十分な技術の統御と支配を認めるべきである、という主張になる。技術の総合性という文脈は、行政機関の技術職が専門部局に押し込められるべきではないという主張と、表裏をなすのである。それは松前重義のいう「技術参謀本部」の構想に通じ、技術院の誕生に結びついていく。
なおこの時代、技術史家や哲学者、科学者の間で、激しい技術論争があった。この技術論争では、技術の定義が問題となった。例えば、ブハーリン以来の機械論的唯物論者は、相川春喜のように、技術を物から見て、「労働手段の社会的体系」と言ったが、この「労働手段体系説」では技術の物質的基盤が強調される一方で、技術的行為という人間的側面が抜け落ちてしまう。さればといって、三枝博音のように、技術とは「過程としての手段」であるという過程説をとってみても、作業工程の技能性や人間性は浮き上がるものの、近代技術の持つ計画性や科学性の広がりまでは掬いきれない。そこで武谷三男や星野芳郎らは、技術者の主体性を重視して、技術とは「人間の実践における客観的法則の意識的適用である」という「意識適用説」を唱えた。科学的技術の側面を言い当ててはいるが、問題は、これらの論争がみな、哲学思想の通奏低音ともいうべき主観と客観という二分法の土俵において、もっぱらマルクス陣営における論争であったことである。
その点、マルクス主義的教条主義を抜け出ている戸坂潤の技術論は、いまでも魅力があるといえる。戸坂はこう論じる。
本来、技術は、自然科学的メカニズムの目的的適用という意味で工学ないし応用科学であるという性格を持つが、同時に社会科学的制約、すなわち経済的社会的政治的制約下にあることは否めない、と。これは戸坂潤のいう技術の「二重性」、すなわち「技術というもの自身が純技術的契機と経済的契機とを自分自身の二重性として持っている」ためである。近年の「技術の解釈学」では、この「二重性」を露呈させる努力を重視する。日常生活の平易な技術的生産物(例えば水道の蛇口)でも、その背後には設計され制作された巨大な社会的技術的システム(例えば汚水処理場を含む巨大な社会的水道システム)が潜んでおり、これを白日の下に晒して脱構築し、政治的社会的行為に結びつけようというのである。
戸坂の技術論では、イデオロギーの側面と技術者の役割を重視しているのも意味がある。ただし、戸坂の言うのは、生産関係が上部構造のイデオロギーを決定するという、唯物弁証法論者の図式によるもので、技術は生産関係の下にあるから、技術がイデオロギーの決定者の一つ、だというのである。論者が戸坂の言説が面白いと思うのはここまでで、官界技術者たちのテクノクラシー的イデオロギーが「科学技術」という用語を決定した、という歴史的事実を重視したいと思う。ここには、戸坂が考えもしない、イデオロギーによる決定性があり、その例として、逆に面白い、と思うのである。
おわりに
以上、昭和15年前後に、技術立国と総動員態勢の中で、技術官僚を中心として新用語「科学技術」が提示され、定着していった事情を考察してきた。それを第一次定着期と呼ぼう。敗戦によって、財団法人理化学研究所31年の歴史にピリオドが打たれたのは勿論のことである。理研で仁科芳雄らが建設した、大小2基のわが国初の粒子加速器サイクロトロンに、原爆製造用に使ったという烙印を押し、敗戦の年の11月に破壊させ東京湾に捨てさせたのは、時の連合国最高司令官総司令部GHQであった。しかしまたその理研の復活と戦後の科学技術振興に手を貸したのも同じGHQであった。とくにGHQ経済科学局科学技術課にいた物理学者ハリー・C. ケリーは仁科芳雄と親交を結び、仁科を初代社長として、理研復活前の苦難の株式会社科学研究所時代を築くのにも貢献した。「科学技術」という用語は、この占領期を経て、講和条約締結後、科学技術庁や原子力委員会の創設となって完全に定着する。第二次定着期である。本論では、この第二次定着期はカットしてある。
 
ハインリッヒ・エドムント・ナウマン

 

Heinrich Edmund Naumann (1850〜1927)
フォッサ・マグナの発見、ナウマンゾウ(独)
ドイツの地質学者。1875年明治政府の招きで来日し東大で地質学の初代教授となる。日本中の地質調査を実施し日本列島の成り立ちを明らかにした。本州の新潟から静岡・関東に至る巨大な地溝帯を発見しフォッサマグナと命名した。浜松・長野などで発見された古代のゾウは彼の名を取って「ナウマンゾウ」と名づけられた。  
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ドイツの地質学者。いわゆるお雇い外国人の一人で、日本における近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成。またフォッサマグナを発見したことや、ナウマンゾウに名を残すことで知られる。来日七年後の1882年、下僚のオットー・シュミットが彼の妻と関係をもったことに怒り白昼公然と乱闘事件を起こした罪で、裁判で三百マルクの罰金刑を受けている。
ザクセン王国マイセンで生まれた。
1875年(明治8年) - 1885年(明治18年)、明治政府に招聘され、日本に滞在。東京帝国大学(現:東京大学)地質学教室の初代教授に就任。地質調査所(現:独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)の設立に関わり、調査責任者として日本列島の地質調査に従事。
調査は本州、四国、九州と広範囲にわたり、距離は10,000kmに及んだと伝えられている。また、当時存在した地形図には等高線が記されておらず、海岸線の輪郭が記される伊能図を基に、地形図の作成と並行して地質調査をするという膨大な作業を成し遂げた。
ナウマンは貝塚を2、3発見し、ハインリヒ・フォン・シーボルトの貝塚研究を助けた。
1884年12月にナウマンの雇用は終了したが半年延長され、1885年(明治18年)6月、天皇に謁見して勲4等を叙勲し、7月に離日した。
ドイツに帰ってから、ナウマンは1886年にミュンスター大学で私講師(正雇いではなく講義ごとに学生から受講料を取る教師)となり、地質学や地理学を講じた。後年、ドイツ東亜博物学民俗学協会で日本の貝塚について講演している。ベルリンでの地質学会議に参加して論文『日本列島の構造と起源について(Über den Bau und die Entstehung japanischen Inseln)』を発表し、さらに同名の著書を出版してフォッサ・マグナ説を提案した。
1886年3月にドレスデン東亜博物学・民俗学協会で講演した際には、日本人の無知、無能ぶりを嘲笑したため、森林太郎がそれに反駁して論戦し、新聞にも反論を投稿した。
1923年に関東大震災で東大図書館が焼け落ちたときには、自分の蔵書を寄贈した。
ナウマンゾウ
日本に生息していた代表的な古生物の一つ。 明治時代初期、横須賀で最初の化石が発見され、ドイツのお雇い外国人であり当時の東京大学地質学教室の初代教授ハインリッヒ・エドムント・ナウマンによって研究・報告された。その後1921年に浜名湖北岸、現在の静岡県浜松市西区佐浜町の工事現場で牙・臼歯・下顎骨の化石が発見された。
京都帝国大学理学部助教授の槇山次郎は1924年に、インドに生息した古代のゾウ「ナルバタゾウ」の新亜種であるとしてこれ等の化石を模式標本とし、ナウマンにちなんでエレファス・ナマディクス・ナウマンニと命名した。一方同じ年に、東北大学教授の松本彦七郎は臼歯の形からアフリカゾウに近いと考えて同じ化石にパレオロクソドン・ナウマンニと命名した。現在では本種もナルバタゾウもエレファス属ではなくパレオロクソドン属と判明しているが、種小名により和名はナウマンゾウで呼ばれることになった。
1962〜1965年まで長野県の野尻湖で実施された4次にわたる発掘調査で、大量のナウマンゾウの化石が見つかり、多くのことが分かった。また東京都内でも1976年に地下鉄都営新宿線浜町駅付近の工事中に3体分の化石が発見されて以来20箇所以上で発見されている。
特徴と生息地
体高2.5〜3メートルで、現生のインドゾウと比べるとやや小型である。中国大陸のは日本にいたものよりもかなり大型だった(マンモスも最大種の「松花江マンモス」は中国産である)。日本産のは、同じく日本列島で最も成功した象類であるトウヨウゾウ/アケボノゾウに近い大きさで、体高は2メートルまたは2.4メートル程度だったと思われるが、これが日本列島における「島しょ矮小化」と呼ばれるサイズシフトの安定型である可能性はある。
日本列島は元々狭くて国土の大半が険しい地形に占められており、食べ物が限られている&大陸と繋がったり離れていたりを繰り返しただけでなく、海水面の上昇や気温の変動によって何度も生物淘汰が起こってきた。結果、「島しょ巨大化」が一部の生物で起こるものの、一般的には哺乳動物が小型化しやすく、メガファウナの種類も生態系のニッチ毎に限られやすい。
だが、決して最小の種類ではなく、小さな島などにいた種類は体高が人間の腰にも満たなかった。ナウマン象に近縁な象類に限っただけでも、最大と最小ではこんなに差がある(マンモスの系譜でも大きな種族差があった)。だが、恐竜はもっと極端な差があった(画像は、ブラキオサウルス科では最小のエウロパサウルス)。
当初は熱帯性の動物で長い毛を持っていないと考えられていたが、野尻湖発掘によりやや寒冷な気候のもとにいたことが判明した。氷期の寒冷な気候に適応するため、マンモスのように皮下脂肪が発達し全身は体毛で覆われていたと考えられている。北海道では一時期マンモスと共存していたことも判明している。牙は発達しており、雄では長さ約240センチ、直径15センチほどに達した。牙は小さいながらも雌にも存在し、長さ約60センチ、直径6センチほどであった。
日本各地に生息し、栃木県、東京都、千葉県の印旛沼方面など、長野県、愛知県、北海道などで化石が見つかっている。また中国などユーラシア大陸の一部でも生息していた。
人間との関わり
野尻湖畔からは本種などの化石と共に旧石器時代の石器や骨器が見つかっており、本種もマンモスと同様に当時の人類の狩猟の対象であった可能性が高い。日本では約2万年前に絶滅したとされるが、これは日本列島に現生人類が現れた後期旧石器時代にあたる。
ナウマンゾウなどのように大型の動物の歯や骨の化石は「龍骨(竜骨)」と呼ばれ、古くから収斂薬、鎮静薬などとして用いられてきた。正倉院に宝物として保存されている「五色龍歯」は本種の臼歯の化石である。
オオツノジカ、マンモス、ケナガサイ、メガテリウム、ホラアナグマ、モア、巨大ウォンバット、バーバリーライオン、バリトラなど、数々の巨大動物(通称「メガファウナ」)やそれを餌とするホラアナライオンなどの捕食者が、人間に適応してきたアフリカ大陸や南方のアジア圏の動物群と違い、人間&進化し続ける石器&付随してきた家畜やネズミなどの動物たち&彼らが運んできた細菌やウィルスなどに免疫がなかったため、次々に絶滅していった。現代において、大型動物の大半がアフリカや一部のアジアなどに限定されているのはこのためである。草食動物などが絶滅してそれが原因で肉食動物なども絶滅することを「共絶滅」という。
もし共存が成功していたら、現代の日本でもナウマンゾウやオオツノジカの子孫、オーロックス、バイソン、ヘラジカ、サイ、オオヤマネコ、ヤマネコ、ヒョウ、トラ、ライオン、ヒグマ(本州)、ワニ(イリエワニは明治時代まで西表島に少数が漂流定着した記録がある)、大型のリクガメ(沖縄にいた「オオヤマリクガメ」)などがいたのかもしれない。
沖縄に棲息したキョンやシカは、「国内」で「外来種」というレベルであれば偶然的に再導入された形である(全ての外来種が害ではないとする意見もあるのは、元々いた生物に近いものが偶発的に導入された場合があるからである)。鹿児島県口之島や長崎県葛島にて野生化している最後の純粋な和牛たちも、現在の国内の畜産種「よりは」オーロックスに近いとも言われている。
UMAの範疇に入るが、対馬にいると言われる「ツシマオオヤマネコ」(ピューマなどに近い見た目)や西表島の「ヤマピカリャー」(ウンピョウに近いと言われている)に近い存在も、もしかしたら日本にかつて存在していたのかもしれない。  
フォッサマグナ 1
フォッサマグナ(羅: Fossa magna、意味:大きな溝)は、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本と西南日本の境目となる地帯。中央地溝帯(ちゅうおうちこうたい)、大地溝帯(だいちこうたい)とも呼ばれる。端的に言えば、古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に新しい地層が溜まっている地域である。本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断位置する。西縁は糸魚川静岡構造線(糸静線)、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線となるが、東縁には異説もある。フォッサマグナはしばしば糸静線と混同されるが、糸静線はフォッサマグナの西端であり、フォッサマグナそのものではない。地図の上でもフォッサマグナが「面」であるのに対し、糸静線はその一方の境界を成す文字通りの「線」であることが一目瞭然である。
フォッサマグナの西側を西南日本、東側を東北日本という。西南日本に当たる飛騨山脈は(地表は新しい火山噴出物で覆われているが)大部分が5億5,000万年前 - 6,500万年前の地層(中生代や古生代の地層=中・古生層)であるのに対し、北部フォッサマグナにあたる頸城山塊付近は大部分が2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物(新第三紀・第四紀の地層=新第三紀層・沖積層・洪積層)である。この大きな地質構造の違いは通常の断層の運動などでは到底起こり得ないことで、大規模な地殻変動が関係していることを示している。
境界線
ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund NAUMANN)はこの地質構造の異なるラインが糸魚川から静岡にまで至るのを発見し、1885年に論文 "Über den Bau und die Entstehung der japanischen Inseln"(「日本群島の構造と起源について」)として発表した。但し、発表論文「日本群島の構造と起源について」のなかで同じものに "grosser Graben der Bruchegion" との表記も使用している[1]が、翌1886年にはFossa Magna(フォッサマグナ)と命名した。この論文は1893年に初発表され、論文名に初めて「フォッサマグナ」が登場した。彼は南アルプス山系から八ヶ岳や関東山地を眺望した際、巨大な地溝帯の存在を思いついたとされる。
フォッサマグナ内部の地層が褶曲していることはアルフレッド・ウェゲナーの『大陸と海洋の起源』において、陸地の分裂・衝突の証拠として紹介された。しかし、ナウマンの考えたフォッサマグナは、伊豆地塊が日本に接近したことで日本列島が割れた「裂け目」であった。一方で原田豊吉は、旧富士火山帯とほぼ同一のラインでシナ地塊とサハリン地塊(シベリア地塊)が衝突してできたものだとする富士帯説を発表、両者の間で激しい論争となった。
その後フォッサマグナ説が大方支持されるようになっていった。しかし、ナウマンが考えていたフォッサマグナの東縁は新潟県直江津と神奈川県平塚を結ぶラインであったが、新潟県柏崎と千葉県銚子を結ぶラインも提唱されるようになった。そして、1970年には山下昇が柏崎と千葉県千葉市を結ぶ「信越房豆帯」説を発表、1988年に加藤芳輝が柏崎〜銚子のラインの北部を修正した新潟県上越と銚子を結ぶラインを発表した。後に北部を大きく修正した新潟県新発田と同県小出を結ぶライン(新発田小出構造線)が提案された。このように、東縁については諸説出ており現在も結論は揺れ動いている。
東縁が諸説出た背景には、フォッサマグナ南部の関東山地(長野県南東部・山梨県・埼玉県西部・東京都西部・神奈川県北西部)に西南日本や東北日本と同じ年代の地層を含む山塊がぽつんと取り残されて存在していて、混乱が生じたことが挙げられる。この山塊は後述のように、フォッサマグナが開いてから再び閉じる間に西南日本か東北日本から切り離されて、フォッサマグナの新しい地層とともに圧縮され一体化したものと考えられている。
地学的知見
現在のプレートテクトニクス理論ではフォッサマグナは北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界に相当するとされる。1983年の日本海中部地震前後までは、北海道中部の日高山脈付近が両プレートの境界と考えられていたが、地震を契機に日本海東縁部〜フォッサマグナを境界とする説が広く支持されるようになった。フォッサマグナの厚さは、地下約6,000(平野部) - 9,000m(山地)にも及ぶ。これより深い所は基盤岩とよばれ、西南日本や東北日本と同じ地層の並びになっていると推定されている。フォッサマグナ本体は第三紀の火山岩と堆積岩によって埋積されている。地質断面図で見ると、年代の異なる地層の境界がU字型に形成されている。
フォッサマグナ北部では第三紀層の褶曲によって生じた丘陵地形が際立って目立っている(頸城丘陵、魚沼丘陵など)。また、褶曲に伴って形成されたと考えられる天然ガスや石油の埋蔵も多い。一方、南部ではフィリピン海プレートによって運ばれ、日本列島に衝突した地塊が含まれる(丹沢山地、伊豆半島など)。
また、フォッサマグナの中央部を、南北に火山の列が貫く。北から新潟焼山、妙高山、草津白根山、浅間山、八ヶ岳、富士山、箱根山、アルプス山脈などである。これらの成因の1つとして、フォッサマグナの圧縮によってできた断層にマグマが貫入して、地表に染み出やすかったことが考えられている。
西縁の糸魚川静岡構造線上および東縁の一部と考えられている群馬県太田断層[2][3]では、マグニチュード7規模の地震が繰り返し発生している。
北部フォッサマグナの東側(信越地域:長野県北部から新潟県頚城地域)には、大峰面[4]と呼ばれる第四紀の70万年前に海岸平原であったとされる頃に形成された花崗岩質の礫及びシルトによる平坦な地形が広がっていた[5]が、その後の地殻変動により浸食され現在は、標高900m前後の山々に痕跡が残る[6]。
フォッサマグナの誕生
この地域は数百万年前までは海であり、地殻が移動したことに伴って海の堆積物が隆起し現在のような陸地になったとされる。
原始の日本列島は、現在よりも南北に直線的に存在して、アジアに近い位置にあったと考えられている。約2,000万年前に、プレートの沈み込みに伴う背弧海盆の形成が始まった。背弧海盆とは、沈み込んだプレートがマグマとなって上昇し、海溝の内側のプレートを押し広げてできるものであるが、これによって日本海が現在のように広がり、日本列島もアジアから離れていった。
ただ、日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフと日本海溝の2つだったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、砂や泥などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。この時、間にあった海が徐々に隆起し、新生代の堆積物は現在陸地で見られる地層になったと考えられている。
火山
フォッサマグナの「面」に属する活動中の火山を挙げると、北(日本海側)から南(太平洋側)へ順に、新潟焼山、妙高山、浅間山、八ヶ岳、富士山が列んでいる。 
フォッサマグナ 2
「冨山は地震とか津波はないんですか?」 「能登半島がぐっと突き出しているでしょ。あれが防波堤の役割を果たすんでしょうか?津波はひどいことはないですね。地震は、僕らはフォッサマグナのこちら側ですから、地溝帯が緩衝になるんでしょう。東北の地震は影響がないですね。逆に西のほうの地震はかなり感じます」
フォッサマグナは、地震の巣のように思っているが、緩衝帯としても機能することがあるとは初めて。
フォッサマグナは、明治初期に日本に招聘され、東京帝国大学(現:東京大学)地質学教室の初代教授となったドイツ人地質学者「ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann)」により発見された。
長く、フォッサマグナとは糸魚川静岡構造線のことと思っていた。実際は、糸魚川―静岡構造線はフォッサマグナの西端のラインであり、フォッサマグナは、その糸魚川―静岡構造線から東へ、100km以上の幅で本州 中央部を南北に 横切る地域だった。ナウマンが発見したU字谷とは、糸魚川から姫川を遡り、安曇野から松本への谷のことではなく、それを西端とする巨大なU字谷の中に地層が堆積し、火山が噴出した、幅だけでみればアフリカの大地溝帯(幅は35km−100km)をも凌駕する壮大な地形なのである。
それでも、ナウマンが考えたフォッサマグナの東縁は新潟県直江津と神奈川県平塚を結ぶラインであった。その後、新潟県柏崎と千葉県銚子を結ぶラインが提唱され、さらに1970年には柏崎と千葉県千葉市を結ぶ「信越房豆帯」説、1988年には柏崎〜銚子のラインの北部を修正した新潟県上越と銚子を結ぶラインが発表される。或いは、北部を大きく修正した新潟県新発田と同県小出を結ぶライン(新発田小出構造線)も提案され、東縁については諸説出ており現在も結論は揺れ動いている。東端の取りようによっては、我々の住む東京も、フォッサマグナの中に浮かぶ島のようなものなのだ。
フォッサマグナは、アルフレート・ヴェーゲナーの「大陸と海洋の起源」にも紹介されていて、大陸移動説の傍証にもなっている。ナウマンが帰国後にヴェーゲナーに伝えたものであろう。
もっとも、今日でこそ常識となった大陸移動説も、庄司薫が、学生時代の記憶に「大陸移動説」を空想と、教師が笑い飛ばした話しを書いているから、1960年前後までは、発表以来約半世紀、「大陸移動説」は異端と捉えられていたわけだ。 
フォッサマグナ 3
1.ナウマンとフォッサマグナ
日本列島の中央部に位置する糸魚川〜西頸城地域を語るとき、きまってヒスイ やフォッサマグナ、 糸魚川〜静岡構造線など地質的な話題がよく聞かれます。
1875年に来日したドイツの地質学者ナウマン博土 (E.Nauman 1 854〜1927)は、このような地域に注目し、1885年糸魚川から静岡に 至る特徴ある地形をGrosser Graben(大地溝帯)として「日本群 島の構造と生成」という論文に発表しました。翌年には、これをラテン語のFo ssa Magnaに改めて報告しています。ナウマンはフォッサマグナを、弧 状山脈を成す一体の陸地が伊豆七島山脈の接近により誘発された横断裂け目の痕 跡であって、陥没地形ではないと考えたのです。現形は造山過程を通してフォッ サマグナの中央に大きな裂け目が走り、そこに噴出した八ヶ岳、蓼科山など一連 の火山寄生物を抱えた長大な横断低地とみられたのです。フォッサマグナの西縁 は、富士川〜釜無川〜諏訪湖〜塩尻峠〜仁科三湖〜姫川のラインで、千曲川上流 から野尻湖の線が東縁の一部とされていました。
1918年東北大学の矢部長克博士(1878〜1969)は、この西縁断層 を糸魚川静岡構造線と名づけました。フォッサマグナの成因について、東京大学 の原田豊吉博士(1860〜1894)はナウマン説に反論し、北翼(北日本) と南翼(西日本)がシナ山系とサハリン山系の別々の地殻の衝突によって形成さ れたとみて、これを富士帯という成因説で発表しました。このように、フォッサ マグナをめぐるナウマン、原田両博士の成因論争は大変激しいものだったといわ れています。その後、1970年信州大学の山下昇博士は信越房豆帯を発表し、 1988年金沢大学の加藤芳輝助教授(当時)は当時フォッサマグナの東縁とい われていた柏崎〜銚子線を、重力の分布差からみて上越〜銚子線ではないかと発 表されています。
いずれにしましても、フォッサマグナの西縁は、日本列島の中央部を横断して 西南日本と東北日本を分ける姫川から静岡に至る250Kmの大横断地溝帯であ ることは明らかです、一般的に、フォッサマグナと糸魚川〜静岡構造線は一体的 にみられていますが、フォッサマグナが面的広がりを持った範囲とすれば糸魚川 〜静岡構造線が、その西縁ラインという関係になります。
2.フオッサマグナの誕生
本列島は、2500万年ほど前からユーラシア大陸の一部がいくつかの地殻 に分かれて海嶺ができ、横ずれ断層によって移動して形成されたといわれていま す。このとき日本海が開き、フォッサマグナが形成されたのです。糸魚川〜静岡 構造線は、ユーラシアプレートと北米プレートが衝突する接線でもあり、北米プ レートが下にもぐり込んでユーラシアプレートを押し上げているため、西側が隆 起して日本アルブスが形成されたとみられています。東側では、太平洋プレート のもぐり込みにより富士火山帯の活動が活発になり、フォッサマグナの中央部に 火山を噴出し、最北部に今も活動を続けている焼山火山があります。
このように、日本列島周辺は、フィリピン海プレートを含む4つのプレートが 衝突しているため、地震多発地帯にもなっているのです。
3.糸魚川〜青海地方の地質的特徴
当地方は、北部糸魚川〜静岡構造線の姫川をはさんで東西の地質分布に著しい 差があります。
西側は飛騨外縁帯に属する古生代シルル紀後期の青海蓮華変成岩、石炭紀〜ペ ルム紀の青海石灰岩、中生代ジュラ紀〜白亜紀の来馬層堆積岩など古期岩層が広 く分布しています。これら古期岩類の蛇紋岩メランジ帯には、当地が誇るヒスイ 原石や青海石、奴奈川石、鋼玉などの稀石宝石類が含まれています。青海川、小 滝川産のヒスイ原石は、国の天然記念物に指定されていますが、川原や海岸の漂 石はすでに4000年前の縄文中期より人類社会に利用されて、世界最古の硬玉 ヒスイ文化を遺したのです。黒姫山、明星山の石灰岩は、日本列島内帯随一の埋 蔵量を誇り、多種類の古生物化石と奴奈川カルストといわれる豪雪地特有の山岳 溶蝕地形が発達しています。大規模な地下川のある福来口鍾乳洞や深度500m の堅穴を連続する洞穴群は、未開の魅力を秘めた超一級の天然資源です。飛騨山 脈の北延主稜は、3000〜0mのアルプスから日本海に至る山並み(栂海新 道・朝日岳〜親不知日本海)を連ね、地質、地形、植生に大きな特徴があります。 犬ヶ岳(1593m)周辺の来馬層にはアンモナイト、羊歯類などの化石を産し、 恐竜発見の可能性もあります。
姫川東部は、西側の古生層が落ち込んだ基盤上、つまりフォッサマグナ帯に堆 積した新生代の地層と、その上部を覆う火山岩より成っています、地溝帯の深度 は天然ガス試掘の結果によると姫川右岸で700〜800m下がり、能生町藤崎 では3300mより遙か深部に落ち込んでいます。すなわち、フォッサマグナ帯 は新第三紀中新世以後の地層が厚く堆積し、その間隙に噴出したヒン岩、玄武岩、 安山岩、流紋岩、集塊岩などにより海谷峡谷、雨飾山、妙高山、焼山などの頸城 アルプスが形成されているのです。
このように、当地方はフォッサマグナを起因とした、糸魚川〜静岡構造線を境 に東西に生い立ちを異にする北アルプス・頸城アルブスがそびえ、新旧多種類の 岩石を分布して日本列島の中心的位置づけを成しているのです。  
鷗外・ナウマンとの論争 1
鷗外のドイツ留学中のエピソードに、ナウマンとの論争があります。
ナウマンというのはナウマン像を発見してその名の由来となった、明治初期にお雇い外国人として日本に来ていたドイツ人学者、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンのことですが、彼はドイツに帰国後、日本について自らが見聞してきたことをある会合にて講演を催したのですが、その場には留学中の鷗外も来ていました。
鷗外の目の前でナウマンは、日本は明治維新を経て列強に必死で追いつこうと改革を続けているが所詮は真似をしているに過ぎず、列強と肩を並べる事など到底不可能だと主張しました。
するとそこで聞いていた鷗外はやおら立ち上がると流暢なドイツ語にてナウマンに対し、日本人として今の発言は黙って聞き流す事は出来ない。もし発言を撤回しないのであれば日時と場所を指定するので決闘を申し込むと言い放ってきたのです。もちろん周りはドイツ人ばかりで、唯一鷗外にくっついてきた同じく留学中の乃木稀典はドイツ語が理解できなかったまでも周囲の剣呑な雰囲気を読み取り、「も、森君、どうしちゃったの?」と慌ててたそうです。
この思わぬ鷗外の反論に対してナウマンは侮蔑するつもりではなかったと弁解するも鷗外は一向に譲らず、最終的にはナウマンが引いて発言を撤回したことで場が収まった、とされています。 
鷗外・ナウマンとの論争 2
森鷗外は明治17年(1884年)、弱冠23歳の時に、明治政府から陸軍衛生制度調査および軍陣衛生学研究のためにドイツ留学を命じられる。8月に横浜を出航、10月にベルリン着。同年からライプツィッヒのホフマン教授に師事、翌明治18年(1885年)10月からはドレースデンに移る。後にふれるナウマンとはドレスデンで顔を合わせている。明治19年(1886年)3月、25歳の鷗外はミュンヘンへ移り、衛生学の権威ペッテンコーファーに師事する。「鷗外・ナウマン論争」はこの地を舞台にくりひろげられた。明治20年(1887年)4月、鷗外はベルリンに移り、ローベルト・コッホの下で学ぶことになる。翌明治21年(1888年7月にベルリンをたち、9月に帰朝、その後陸軍軍医学舎の教官に任じられた。この時鷗外は28歳になっていた。
ミュンヘンで繰り広げられた「鷗外・ナウマン論争」の経過は以下の通りである。明治19年(1886年)3月6日、ドレスデンで行われた地学協会の年次講演会において、居合わせた鷗外は、日本で技師として10年間を過ごしたエドウムント・ナウマンの口から、祖国日本に対する軽蔑的な発言を聞くことになった。ナウマンは旭日章を佩びてドイツに帰国した、偉大な業績をあげた地質学者であったが、「何故にか頗る不平の色」を見せていた、と鷗外は言う。社交的な場所柄ゆえ、鷗外が直接的な反論を加えることはなかったが、乾杯の挨拶のおりに鷗外はナウマンの言質を取って、ささやかな応酬を試みている。両者の間にこうして燻り始めた火種が一挙に燃え上がったのが、ミュンヘンの大新闘「アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙上で同年6月から始まったいわゆる「鷗外・ナウマン論争」である。
この論争の詳細については小堀桂一郎の浩瀚な研究書『若き目の森鷗外』に詳しい。小堀は同書で、もちろんドイツ語で行なわれた論争をすべて翻訳し、議論の争点となった部分をいくつかの項目にまとめて示し、論争全体への評価も加えている。小堀の精緻な整理にしたがえば、この論争における争点は8つの項目に分類できる。そのうち最も重要なのは最後の2項目、すなわち「日本の近代化運動の是非」ならびに「日本の将来」にあった。この2項目、つまり明治日本における急激な近代化の利点と欠点、ならびにそれが日本の将来に持つ意味の評価は、加藤周一の約言を借りれば、「つまるところ西洋の近代文化と徳川時代以来の文化的遺産との対決と総合」という問題に帰着する。そしてこの2つの文化的対決を「もっとも広い範囲にわたって生き」、2つの文化の「もっとも洗練された総合を試みた人物」こそが、森鷗外なのである。鷗外の生涯には日本が近代化していく過程のほとんどすべての問題が含まれているのであり、そういう意味で「鷗外は時代の人格化であった」と言うことができる。
ナウマンの日本批判の要諦は、外圧によって開国させられた日本が、西洋文明をただ安易に、しかも皮相に受容しているという点、さらにそれに伴い日本の伝統文化が日本人自身によって否定されつつあるという点にあった。これに対する鷗外の反論の力点は、西洋文明の移入が日本にとっていかに合理的で自然なものであるかということにあった。しかしながら鷗外は、もちろんすべてを西洋一辺倒にすればよいとは考えない。問題は、選択的に何を西洋化するのか、またそれと同時に日本の伝統文化の何を評価するのかという点にある。このような問題に関して、25歳の鷗外はまだ明確な見通しを持つことができていなかった。まさに「西洋化の尖兵jとしてドイツの学問、技術のみならず文化一般を吸収しようと意気込んでいた鷗外は、何のための西洋化なのか、どのように、何を移入すべきか、それによって日本から失われるものは何かといった、留学生としての自らの存在意義に関わる核心的問題に、ナウマンとの論争において対峙することになったのである。
単純な西洋化が日本の弱体化を招くということを、鷗外はナウマンとともに認識していた。しかし日本の何を評価し、維持していくべきかについて、鷗外は暗中模索の状態にあった。西洋文化と伝統的な日本文化という2つの文化の対決は、帰朝後の鷗外の態度に明確に表れる。鷗外はつまり、この対決を一身に体現し、その結果分裂的にならざるを得なかったのである。学問に関する限り鷗外は「徹底的な西洋化論者」であった。一方日本語の表記法、都市計画、兵食や日常の食品に関しては、急進的な西洋化が浅薄であることを主張し、日本の伝統に学ぶべきことを説いた。いわゆる「洋行帰りの保守主義者」、あるいは「本の杢阿弥説」の誕生である。
鷗外がこれほどまでにナウマンの日本批判に 一あるいはそれをそもそも「批判」として感受するほどに一 敏感であったのは、畢竟鷗外に、生成しつつある明治国家と自分との一体感があったからに他ならない。ナウマンに対する反論はつまり「故国の為に冤を雪ぎ讐を報」ずるために行なわれたのであり、これは生松敬三の言葉を引けば「異邦にあってますます強められたであろう心外のパトリオティズムの発現」であると言わねばならない。
そもそも鷗外が留学した目的は、衛生学の習得にあった。ドイツの衛生制度を日本に移入することは、国民の福祉に利するというよりは、主に日本陸軍にとって重要な案件であった。
鷗外は富国強兵を進めていた明治政府、ひいては明治国家の総体に確実に触れている、その枢要な部分に関わっている自分を確認することができた。たとえば兵食に関して言えば、海軍が洋食化したのに対し、陸軍は鷗外の提案により、洋食化しないことが後に決定されたのである。鷗外はドイツ留学の最初、ベルリンに到着してから3日目の1885年(明治17年)10月13日、当時のドイツ公使、青木周蔵に会いに行く。「容貌魁偉にして髭多き」公使は鷗外に次のように言ったと「独逸日記」は伝えている。
「衛生学を修むるは善し。されど帰りて直ちにこれを実施せむこと、おそらくは難かるべし。足の指の間に、下駄の緒挟みて行く民に、衛生論はいらぬ事ぞ。学問とは書を読むのみをいふにあらず。欧州人の思想はいかに、その生活はいかに、その礼儀はいかに、これだに善く観ば、洋行の手柄は充分ならむといはれぬ。」
衛生学を修めるべき若い国費留学生に青木公使が語った言葉は、勉強ばかりではなく、思想、生活から風俗習慣まで、よく観察して帰れ、というものであった。これは留学生活を存分に満喫せよ、それだけで「洋行の手柄は充分」であると言っているに等しいであろう。青木周蔵の門外への励ましは、山崎正和の言葉を借りれば「『足の指に、下駄の緒挟』んだいじらしい国家が、ひとりの若い才能に無条件の外国体験をゆだねている言葉」と解釈しなくてはならない。
また鷗外の留学した頃のドイツも、この若い留学生を実に暖かく迎え入れている。当時ドイツ帝国はまだヴィルヘルム1世の治世下であった、明治国家がなによりもドイツを範としたのは、ヨーロッパの「後進国」ドイツが、急速な資本主義化と工業化に成功し、富国強兵を強力に推進していたからであった。またドイツ帝国は、鉄血宰相ビスマルクがユンカー出身であったことが象徴するように、プロイセンの保守的・封建的な勢力とも妥協し、社会民主党勢力を徹底的に弾圧した。冨国強兵が左翼の主張する自由を犠牲の上に推し進められたのは、日本における自由民権運動の弾圧と軌を一にする。新興ドイツが明治の為政者に手本と映った所以である。東洋の一小国、「『足の指に、下駄の緒挟』んだいじらしい国家」が教えを請いに来たとき、この時期のドイツは「先進国として寛大な指導と好意の手をさし伸べられる位置と状況にあった」のである。
しかしヴィルヘルム2世時代になると状況は変化する。わずか110日間だけ帝位にあったフリードリヒ3世の死後、ヴィルヘルム2世が即位したのは奇しくも鷗外が帰朝した年1888年(明治21年)であった。ビスマルクを廃して(1890年)軍備拡張政策を進めたヴィルヘルム2世にとって、日本はもはや「いじらしい国家」ではなく、帝国主義的拡張の妨げとなる対等の敵国と映ったのである。事実明治27、28年(1894、1895年)の日清戦争後、三国干渉を主導し、遼東半島の清への返還を迫ったのはヴィルヘルム2世のドイツであったし、明治37、38年(1904、1905年)の日露戦争後に喧伝されたいわゆる「黄禍論」を煽ったのも、このドイツ皇帝であった。このような事情を考えると鷗外の留学(明治17年から21年、1884年から1888年)は「時期的にきわめて幸運な留学であった」27と言わねばならないであろう。 
ナウマンが見た立山信仰
明治時代、非常に交通が不便であった北陸に来た外国人たちは、果たして立山をどのように記録しているのだろうか。
立山に最初に来たのは、ウィリアム・ガウランドとエドワード・デュロンというイギリス人で、明治8年、信州から立山を訪れている。ガウランドは明治5年に大阪造幣寮の化学と冶金の技師として招聘された人で、初めて日本の古墳を発掘して、「日本考古学の父」と呼ばれている人物でもある。英国王立地理学協会の『例会議事録』に載っているガウランドの報告には、「1873年、私たちが登ることができたのは御岳(御嶽)だけでした。この2年後には北方の立山に登り、ヤケヤマという7600フィートの面白い火山に登り当域の西端を経て下山しました」とある。このヤケヤマとは、恐らく飛騨の焼岳を指すと考えられるが、ガウランドは初めて「ジャパニーズ・アルプス」という言葉を使ったことで知られる。
立山信仰の最古の記録を残したのは、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンというドイツの地質学者である。ナウマンが日本に来たのは1875年(明治8年)で、そのときは弱冠二十歳だったが、翌年に東京大学地質学教室の初代教授になっている。ナウマンゾウの命名者としても有名な人である。彼は、明治9年夏、政府の依頼で地質調査・鉱物資源の調査のために立山に来て、滑川から船に乗って直江津へ向かっている。ちなみに彼は、10年間かけて日本全土を約1万km歩き、詳細な地質図を残す一方、日本の地図に初めて等高線を書き込んだことで有名である。また、彼はフォッサマグナを発見した人でもある。ナウマンは先日噴火した御嶽山など、その辺に連なる火山の噴火による堆積物を取り除くと大きな溝ができるはずだと主張したのだが、その大きな溝のことをラテン語で「フォッサマグナ」と名付けたのである。以下は、ナウマンが見た立山信仰の模様である。
「立山は、富士山や鳥海山と同様に、年々多数の参拝者が集まる有名な山の一つである。その楔のような形の山稜には、南側の斜面を登って到達することができる。この山稜を登ると、小さな台地のようなところに出る。そこから南方に、ごつごつとした信濃飛騨山脈の壮大な眺めを楽しむことができる」。
ナウマンは立山ばかりでなく、富士山、鳥海山にも行っているが、この三つの山で共通するのは、かつて修験道が盛んであったことである。私は今年の9月、鳥海山に登った。鳥海山は秋田と山形の県境にある山で、高さは2236mとそんなに高い山ではないが、富士山のような独立峰である。山頂から少し下った所に大物忌(おおものいみ)神社があり、古来、修験道が非常に盛んだったという。
立山の記述に戻ろう。「日の出の時刻には、仏教の僧侶が豪勢な衣装をまとい、山稜の中ほどにある小さい祠のある台地に立って祈りを捧げる。僧侶が祈りを捧げる山頂にたどり着こうとして、何百もの参拝者が険しい断崖の間をめぐる狭い径を動いていくのは、生命と色彩にあふれた光景である」。
この時代は、新政府の政策により神仏分離が行われていた。しかし、立山では、いまだ僧侶の衣装で参拝者を導いていたことがうかがえる。さらに、立山の一ノ越、二ノ越などには、小さな祠がある。なぜ祠があるかというと、その周辺に出っ張った岩があり、これは修験者たちが山を巡って修行をするとき、恐らく自分たちを守ってくれる結界するための石、護法石(ごほうせき)を設定し、そこに祠を設けたのだろうと考えられている。一ノ越は仏の膝、二ノ越は仏の腰、三ノ越は仏の肩、四ノ越は仏の首、五ノ越は仏の額と見なされており、そこを通って山頂に至る。鎌倉時代初期には既にこうした名称があったようで、この五つの祠は今も存在している。五ノ越は峰本社の下にある。裏側にあって分かりにくいが、機会があればぜひ見ていただきたい。
ナウマンは、参拝者が一個一個の祠に祈りを捧げながら歩いていることに非常に驚いているのだが、その後の記述が興味深い。
「10年近く前(明治9年)、私は多数の参拝者の群れにまじって立山に登った。その中に、目の悪い足の弱い70歳ほどの老人と、そのお供をしている孫で、背が高くて美男の15歳くらいの若者がいた。老人は、今にも死にそうにみえた。その老人が、急峻で岩ごつごつの山稜を登るのを助けるために、4人の人夫が懸命に働いていた。私は、自分のこの目で見たのでなかったら、立山のような険しい山を、こんな状態の人間が登るなどとは、とても信じなかったことであろう」。
ここで私が驚いたのは、明治時代に70歳近くなる老人が立山に来ていたということである。一般的に言って、立山信仰は江戸時代には盛んだったが、明治時代の廃仏毀釈で寺院などの建物が壊されて、壊滅的な大打撃を受けたといわれる。従って、この時代は立山に登拝する人も減っていたはずである。しかし、ナウマンの記録を見ると、青年に加えて老人までが参拝に来ている。これはどういうことか。このことに関連して、実は最近、ある古文書が発見され、NHKでも放送されているものがある。「立山禅定人止宿覚帳」という史料である。これは立山に登りに来た人たちが宿坊に泊まった際、その名前や職業などを記録した宿泊簿である。この記録を見ると、明治時代に60代の人が39人、70代の人が9人登っており、最高年齢が79歳であったことが分かる。従って、ナウマンが見た光景は何ら珍しいものでなかったのである。 
大森貝塚の発見者
明治10年9月29日(1877年。 140年前の9月29日) 、佐々木忠次郎(20歳)がモース(39歳)の指示で大森貝塚にやって来たところ、同地に、フォッサマグナの発見者として知られるナウマン(23歳)がいたというのです。
現在、大森貝塚の発見者といえばモースですが、彼が大森貝塚を本格的に発掘する以前、ナウマンも同地の貝塚に目をつけ、その発掘を計画していたようなのです。ナウマンはモースより2年早い明治8年、明治政府から招聘されて来日。地質学者でしたが、シーボルトの貝塚研究を助けていたのです。
シーボルト(ハインリッヒ・フォン・シーボルト。フィリップ・フォン・シーボルト<幕末オランダ商館の医師として来日し高野長英らに影響を与えた>の次男。当時25歳)はさらに6年早い明治2年に来日。外交官でしたが考古学者としても活躍した人です。何と、モースが大森貝塚を発見したとされる明治10年よりも4年も前の明治6年、東京・横浜間にある貝塚から石斧と石鏃を発掘してコペンハーゲンの国立博物館に寄贈した実績があるとのこと。「東京・横浜間にある貝塚」が「大森貝塚」ならば、その発見者はシーボルトに譲らなくてはならないのかもしれません。
こういった複雑な事情があるのに、「大森貝塚の発見者はモース」とすっかり知られるようになるのは、彼が勤め先の東京大学を通して東京府に、自らが大森貝塚の発見者であることと、発掘の独占を認めさせたことによるようです。モースが発見者の栄誉を得るのは、もちろんその後の発掘・研究が認められてのことですが、最初に独占的な発掘権を得て、ナウマンやシーボルトらを排除するのに成功したことにもよるでしょう。

考古学上の成果を巡ってのいざこざといえば、馬込文学圏(羽田)生まれの悲劇のアマチュア考古学者・相沢忠洋のことが思い出されます。
彼は、日本には存在しないと考えられていた旧石器時代の遺跡を初めて発見した人です。彼の考古学は独学でなんの学閥にも属していませんでした。納豆売りの仕事の合間に群馬県岩宿で発掘、とうとう旧石器の欠片を見つけます。
ところが、彼が発見した旧石器の欠片を評価する学者はおらず、その後、ほぼ完全な形の旧石器が見つかりますが、その報告を受けた明治大学の杉原荘介は独自に岩宿を発掘して、旧石器を発見、自らの成果として発表してしまいます。最初の発見者の相沢は学会やマスコミから無視されただけではなく、一部からは売名・詐欺師と中傷されることとなりました。
しかし相沢は、その後も挫折することなく発掘を続け、岩宿での発見から18年をへて、ようやく「旧石器時代の遺跡の発見者」として正当な評価を受けるようになります。
 
ダビッド・モルレー (マーリまたはマレー)

 

David Murray (1830〜1905)
文部省顧問(督務官・学監)(米)
アメリカの教育行政の専門家。森有礼の推薦で1873年に来日し文部省学監となり、小学校他新しい学校制度、教育制度を設置するのに尽力した。1878年帰国。 
2
アメリカ合衆国の教育者、教育行政官。オルバニー・アカデミー校長、ラトガース・カレッジ教授、日本国学監、ニューヨーク州大学校理事会事務局長を歴任した。明治初期に日本政府が招聘したお雇い外国人の一人であり、1873年(明治6年)から1878年(明治11年)まで文部省顧問として教育制度の整備に貢献。東京大学、東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)および同校附属幼稚園、教育博物館(国立科学博物館の前身)、東京学士会院(日本学士院の前身)の設立を助けたほか、中央集権的な「学制」改正案をまとめた。ダビット・モルレー、デイビッド・マレーなどとも表記される。
1830年10月15日、ニューヨーク州デラウェア郡ボバイナに生まれる。両親はスピガ山のふもとで農業を営むスコットランド移民であり、ダビッドには5人の兄姉、2人の妹がいた。デルハイのデラウェア・アカデミー、ダベンポートのファーグソンビル・アカデミーを経てスケネクタディのユニオン・カレッジに編入学し、優秀な成績で卒業。カレッジ在学中には、「批判学」の講義を担当した学長エリファレット・ノットから強い影響を受けている。
カレッジを卒業した1852年、州都オルバニーにあるオルバニー・アカデミーの校長ジョージ・クックに招かれて同アカデミーの講師となり、翌年に教授となった。1857年には校長に就任し、生徒数の減少によって経営危機に直面していたアカデミーの改革を推進。成績管理制度、学年別クラス制度、卒業証書授与制度の導入などによって教育水準の向上につとめ、生徒数を増加させることに成功した。
1863年7月、ニュージャージー州ニュー・ブランズウィックのラトガース・カレッジ教授となっていたジョージ・クックに再び招かれ、ラトガース・カレッジの数学と自然哲学の教授に就任。就任後、モルレーはクックとともにモリル法適用によるラトガース・カレッジ科学校設立を計画し、1865年に開校を実現させたほか、口頭試問に代わる全校一斉筆記試験および科目選択制の導入を推進した。1863年にはニューヨーク州大学校から哲学博士号を取得し、さらに1873年にラトガース・カレッジ、1874年にユニオン・カレッジからそれぞれ法学博士号を取得。またこの間、ジョン・ニールソン博士の養女マーサ・A・ニールソンと結婚している。
なお、ラトガース・カレッジでは幕末以来多数の日本人留学生が学んでおり、1866年頃には付設のグラマー・スクールを含めると40名以上の日本人が在学していた。モルレーは彼らに関心を持ち、自宅に招いてもてなしたという。交流のあった学生の中には杉浦弘蔵(畠山義成)、平山太郎、勝小鹿、旭小太郎(岩倉具定)がいた。1872年には、ワシントン駐在の日本国外交官森有礼が学長ウイリアム・キャンベルに寄せた教育問題に関する質問状への回答を依頼され、長文の回答書を執筆した。これが目にとまり、教育調査とともに教育顧問招聘の任務を帯びて訪米していた岩倉使節団の副使木戸孝允と理事官田中不二麿はモルレーの招聘を検討。報酬月額600ドル、3年間の予定で契約が交わされることになった(なお、報酬を月額700ドルに増額し雇用期間を2年6か月延長するという新契約が1875年に交わされ、翌1876年にはラトガース・カレッジに辞表が提出された)。
モルレーは夫人とともに1873年(明治6年)6月に来日した。はじめは学校督務兼開成学校教頭、1874年(明治7年)10月からは学監として諸般の教育事務に対する助言・建言を行い、空席の文部卿に代わって省務を統括していた文部官僚田中不二麿を助けた。東京大学、東京女子師範学校および同校附属幼稚園、教育博物館、東京学士会院の設立や官立諸学校の教則制定・改正はモルレーの協力によって実現したと言われている。1874年12月の金星日面通過に際して各国から観測隊が来日するにあたっては、文部省に対し観測の意義を解説するとともに観測隊への協力を要請し、自らも長崎に赴きダビッドソン率いる米国観測隊に参加した。1875年(明治8年)10月には、翌年5月から11月まで開催されるフィラデルフィア万国博覧会での教育情報収集と、教育博物館設立に必要な諸物品等購入のため米国出張を命じられ、ただちに渡米。日本政府の意を受けて下関賠償金返還を求めるロビー活動を行い、合衆国議会の外交委員会にも出席し意見を述べている。博覧会会期中には各国の展示を視察したほか、博覧会に合わせて開催されていた三つの国際教育会議に出席し、諸外国の教育家との交流を通じて各国の教育制度に関する知識を深めた。教育会議を含む博覧会の報告書は『慕邇矣禀報』として文部省から出版された。1876年(明治9年)12月に日本に戻ってからは、「学制」改正の参考資料とするための改正案作成に従事し、「学監考案 日本教育法」「学監考案 日本教育法説明書」をまとめた。この改正案は、全国の教育を標準化するために公立小中学校の教則、府県学校監督官、教員免許、学位、教科書などに対する管理権限を文部省に認めるという、「学制」よりも中央集権的なもので、1879年(明治12年)に制定された教育令にはほとんど反映されなかったが、翌年公布された改正教育令に強い影響を与えた。1878年(明治11年)12月に契約満期を迎えたモルレーは翌年1月に日本を発ち、エジプト、ヨーロッパを巡って米国に帰国した。
帰国後は、1880年1月にニューヨーク州の中等・高等教育行政機関であるニューヨーク州大学校の理事会事務局長に就任。中等教育機関への州の補助金配分の基準となる、一定水準の学力を持った学生数を割り出すためのリージェント試験制度の拡充や、中等教育機関の教育内容の標準化・画一化をすすめる指導・助言、教員養成に対する査察の強化を行い、中央集権的な学校管理を押し進めた。1886年、髄膜炎の発作で倒れ、長期休養を経て翌年1月に復職したが、全快に至ることなく1889年7月に辞職。1882年から務めていたユニオン・カレッジ評議委員も退き、ニュー・ブランズウィックに移り住んだ。
晩年は文筆と講演に力を注いだほか、ラトガース・カレッジ評議委員、ジョン・ウェルス記念病院会計局長、ニュー・ブランズウィック神学校特別委員会事務長を務めた。1905年3月6日、74歳で死去し、ニュー・ブランズウィックのエルムウッド墓地に葬られた。没後、東京帝国大学はモルレー夫人より1000ドルの寄附を受け、モルレー博士紀念数学賞を創設している。モルレー夫妻には子がなかった。1929年に夫人が死去した際、遺産は分割して親類と各機関に譲渡され、ラトガース・カレッジとユニオン・カレッジには夫妻の遺志によってダビッド・モルレー奨学金が創設された。
学制の実施
学制の着手順序と文教施策
学制は近代教育制度の全般について企画し、将来に向かっての構想を示したものであるといえる。文部省は学制の実施に当たって着手の順序を定めており、全面的な実施は将来に期していたことが知られる。そのことについては、学制を制定する際に文部省が学制原案に添えて太政官に提出した文書の中に学制の着手順序を述べたものがある。この文書には、「後来ノ目的ヲ期シ当今着手之順序ヲ立ル如 レ 左」と前書きして、次の九項目をあげている。
一 厚クカヲ小学校ニ可用事
二 遠ニ師表学校ヲ興スヘキ事
三 一般ノ女子男子ト均シク教育ヲ被ラシムヘキ事
四 各大学区中漸次中学ヲ設クヘキ事
五 生徒階級ヲ踏ム極メテ厳ナラシムヘキ事
六 生徒成業ノ器アルモノハ務テ其大成ヲ期セシムヘキ事
七 商法学校一二所ヲ興ス事
八 凡諸学校ヲ設クルニ新築営繕ノ如キハ務テ完全ナルヲ期ス事
九 反訳ノ事業ヲ急ニスル事
右によって、文部省は学制の実施に当たってまず小学校に力を注ぎ、これを整備した上で、その基礎の上に中学校等をしだいに充実しようとしたことが知られる。また小学校と関連してその教員養成が急務であるとしており、師範学校の設立も小学校とともに重視した。
学制は明治五年八月公布とともにただちに実施されたわけではなかった。府県において学制を実施するために学区を定め、学区取締を置き、小学校が設立されはじめたのはおおむね六年四月以後であった。学制公布後、府県では実施の体制をしだいに整えたが、旧来の伝統も強く、また実施のための財政的裏づけもじゅうぶんでなかったために、学制を一挙に実施することは実際上困難であった。学制を実施するための国庫交付金すなわち府県への委托金(小学扶助委托金)は五年十一月にその金額が決定されたが、文部省はこれを交付する条件として、六年一月に中学区小学区の設定と学区取締の設置を府県に要求している。多くの府県ではこのころからようやく学制の実施に本格的に着手している。
文部省では六年三月欧米視察を終えて帰国した田中不二麻呂が中心となって学制の実施に当たった。また同年六月には文部省顧問としてアメリカから招かれたダビット・モルレー(David Murray)が着任し、その協カと指導のもとに細部の規則等を定め、具体的施策を講じて府県の教育を指導し、学制を実施した。文部省内の督学局の官員は各大学区を巡視して実情をは握するとともに、中央の政策を地方に浸透させることに努めた。学制の規定をそのまま実施することは当時の日本の社会の実情から見て困難であったが、地方の教育関係者の協カと非常な辛苦によって、学制はしだいに地方に定着していったのである。
学監モルレーと田中不二麻呂
学制期において、文部省では主として田中不二麻呂が文教政策の中心的地位にあった。また学監(文部省顧問)として、これに協力し、教育行政に参画して、わが国における近代教育の確立に指導的役割を果たしたのはダビット・モルレーであった。学制期の教育行政はこの二人の緊密な協力によって企画実施され、日本の近代教育の端緒が開かれるとともに、将来の発展の基礎が固められたといえる。
アメリ力人ダビット・モルレーは明治六年六月着任、同年八月督務官、七年十月から十一年十二月まで文部省において「学監」の職にあった。これより先、モルレーは米国にあってラトガース・カレッジの数学教授の地位にあったが、一八七二年(明治五年)駐米日本弁理公使森有礼の書簡に答えて、日本の教育についての綿密な意見を返書として送ったことがある。そしておそらくこの間の事情、その他日本からの留学生との関係などがもととなって文部省の招へいするところとなったのであろうと伝えられている。
森有礼は公使としてアメリカに駐在していたが、外交に努めるとともに日本文化の進展、特に教育の改革方針をたてることについても努力するところがあった。彼は開国後における日本の教育をいかにすべきかについて考え、この教育政策を樹立する参考としてアメリカの知名人に書簡を送り、日本における教育方策についての意見を求めたのである。一八七二年二月三日付け書簡に対して、モルレーを含む一三人から返書を得た。その返書を集めたものが、一八七三年ニューヨークで刊行された『日本の教育』"Education in Japan"である。
モルレーはその書簡において、教育問題は政治家にとってまず何よりも重要視すべきであることを明らかにした後に、森の質問に答えて、五項目からなる日本教育改革論を述べている。いまその第一項を見ると、「各国民は自国民の要求に適する教育制度をつくること」とあるが、その中で彼は各国の教育制度はそれぞれの国民的特性をしんしゃくすべきであって、伝統と慣習にそわなければならないとし、さらに成功する学校制度は国民の要求から自然に成長するものでなければならないといっている。そして一国の教育制度を改革する場合には、すでに存在する教育機関をできるだけ保存することに努めなければならない。日本の学校はすでに国民生活を構成する要素となっているのであるから、日本は根本的な教育の変革を願うベきでないといっている。これによっても彼の教育意見がいかに堅実なものであったかがうかがわれる。学制起草にも関係した辻新次が、明治初年には文部省の日本人が急進論者であり、雇年国人がかえって保守論者であったといっているが、これはモルレー学監をさしたものである。
モルレーは六年八月から督務官次いで学監の地位についたのであるが、彼は自分の地位をスーパーインテンデントと称していた。文部省においてはモルレーに重要な学事を諮問することとし、七年四月督学局創設後、同年十月に「督学局職制及事務章程並学監事務取扱規則」を定めた。さらに同年十一月に改正された規則によってみると、まず各課において立案された「学制教則舎則教科書等ノ正定及当省並官立学校雇人外国教師進退外国人往復書類官立学校試験ノ方法年報書並ニ統計表ノ体裁海外留学生事務等」はすべて督学局に提出して、学監の審査を経ることとなっていた。また学監の任務は「官立各学校ヲ巡察シ教員ノ学力品行生徒学カノ進否ヲ検査シ学校管理ノ方法及授業ノ学科等ニ付其意見ヲ陳ヘ或ハ其景況ヲ当省へ申報シ将来盛旺ニ進ムヘキ方策ヲ建議」することのほか、さらに「外国書類ヨリ教育上ニ関シ緊要ナル事件ヲ得ルトキハ之ヲ撮抄シテ」文部省へ提出すべきことと定めていた。
モルレーはこのような学監の地位にあって、学制発布以後の教育指導者として、わが国の教育行政に参与して大きな功績を残したのであった。彼は六年十二月および八年二月に、「学監ダビット・モルレー申報」を文部省に提出している。前者は彼が着任してはじめて日本の教育についての意見を発表したものであり、今後日本の教育がどのような努力をなすべきかを論じたものであった。そこにおいて彼は、英語あるいは仏語をもって日本の国語を改良すべしという改革論に反対して、国語を変更すべきでないことを論じ、日本語の教科書を編纂して西洋の学術を教授するの必要を説き、教員養成の急務を論じ、また大いに女子教育を奨励すべきことを唱えているが、当時当局者を啓発するところが大きかったであろうと思われる。彼はまたしばしば各地の教育事情を視察しているが、長崎・兵庫・大阪・京都を巡回した際の報告書は明治七年の申報(八年二月提出)として提出されている。そこで彼は実地に視察した諸学校の長短得失を批評し、特に外国語教授法・中学校設置・教科書・教員養成等に関して建策している。その後も十一年七月に、「東京府下公学巡視申報」を文部省に提出している。
田中不二麻呂は明治維新後新政府に仕え、明治二年十月大学校御用掛となり、その後教育行政に参画することとなった。四年十月文部大丞に任ぜられ、欧米派遣岩倉大使一行に理事官として加わり、欧米諸国を巡歴して六年三月帰国した。彼は主として各国の教育事情を調査し、その報告書を『理事功程』として提出している。これは文部省が六年から八年にわたり、全一五巻として出版し、海外諸国の教育を明らかにする参考書とした。この書には、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・オランダ・スイス・デンマーク・ロシアの教育制度を実地の調査研究によって詳細に述べている。
六年四月文部卿大木喬任が参議に転じて後は、田中不二麻呂が主として省務を管理したが、文部省における教育行政の首脳としての彼の活動は注目すべきものがあった。彼は海外の教育制度と行政とを実地に当たって研究した省内の唯一人者であったから、モルレーと協力して学制の実施と改善に努めた。十二年九月に公布された教育令の立案は、彼の業績であると認めなければならない。彼はその後教育令に対する世評もあって十三年三月司法卿に転じ、明治初年以来外国の教育事情を調査研究しつつ築きあげてきた文教府内の地位から全く離れることになった。
明治九年すなわち西暦一八七六年はあたかも米国が独立してから百年に相当したので、それを記念してフィラデルフィア市に開国百年期博覧会が開催された。日本にも出品を依頼してきたので、時の文部大輔であった田中不二麻呂は、その博覧会の教育部に、日本の教育に関する資料を出品することとして、種々企画するところがあった。その一つとして、文部省は日本の教育を紹介するために特に『日本教育史略』を編集したが、これはモルレーの指導と協力によって作られたものである。この際田中不二麻呂は四人の随行員とともに渡米して観覧し、またモルレーはこれを機会に一度帰国して博覧会を巡視し、特に教育部の視察報告を提出したが、これが『大璧慕邇矣稟報』(明治十年)として刊行された。田中不二麻呂はその機会に米国各州の教育行政を調査し、帰国後、米国各州の教育法規を翻訳して、十一年に『米国学校法』として文部省から出版している。彼は米国の教育行政の様式を優れたものと認め、その制度をわが国にとり入れようと考えたのである。
田中不二麻呂は、学制実施の経験からその改革が必要であることを認め、欧米特にアメリカ合衆国の制度を赤照して教育令の起草に当たった。モルレーは明治十年に『学監考案日本教育法』と題する学校制度案を起草して、これをその参考資料として文部大輔田中不二麻呂に提出している。すでに述べたように、モルレーは学監としての学校実地視察によって得た改革意見を申報などを通じて述べてきたのであったが、この日本教育法は、いわば机上案であった学制を、その実施後の経験とわが国の実情とに基づいて改革しようと試みた新制度案である。その内容は、第一篇学政。第二篇学区。第三篇学校区別及編制。第四篇学校保護。第五篇教員。第六篇生徒。第七篇学校付属物。付録。第「小学教則。第二中学教則。第三外国語学校教則。第四下等(小学)師範学校教則。第五上等(中学)師範学校教則。第六小学所用器物。第七中学所用器物。第八学位証書等の程式からなっている。
右の第一篇から第七篇までは教育規程の案文であって一二〇の条章をもって編成されている。さらに別冊として『学監考案日本教育法説明書』を添付し、この制度案の根本方針およば重要な条項の説明書を提出しているが、その中に次のように述べている。それによってこの改革法案の趣旨を明らかにすることができるであろう。
由是観之初メテ学制ノ布告アリシ日ノ形勢ハ今日二至テ大二変換シ、当時緊切ナル事件ト認シモノ今日ハ翻テ省略ヲ要スルニ至り、或ハ当時二切ナラサリシ事件二シテ今日ハ却テ立法上欠クヘカラサル要項トナルニ至リシ類モ亦小少ナラサルコトヲ知ルヘシ。此数年間ノ経歴ハ学政二与レル人ノ為メニハ多少ノ実験ヲ与へタルト、加フルニ此間政府ノ改革アリシト人民ノ進歩セシトハ学校管理法ノ上二於テ大二変革ヲ起シタリ。又或ハ意外ノ事件等現出シ学制条款中ニモ亦多少ノ変更ヲ起スニ至レリ。右等ノ変革ハ時々文部省或ハ太政官ヨリ布令セラレシトコロニシテ、学制布告ノ日ヨリ今日二至ル官庁記録中二散見シ頗ル教育法ノ一体ヲ成セリ。今如此散見セル布告等ヲ纂輯シテ一法典ヲ編ミ、且ツ加ルニ近時経験二因テ発明スルトコロノモノ及ヒ他邦ノ教育法ヲ参考シテ得ルトコロノモノヲ以テセンニハ、宜シク学制ヲ改訂シテ之ヲ布告スヘキコト至便ナリトス。余ハ此緊要艱難ノ事業二就キソノ万一ヲ補助センカ為メ広ク万国ノ教育法ヲ拾索研究シテ、日本国今日ノ景状二適スヘキ者ヲ簡択シ下条数章ヲ得タリ。因テ之ヲ余力研究上ノ結果トシテ以テ閣下二奉呈ス。
この法案が実際にどの程度参考とされたかは明らかではないが、ここに見られる学監モルレーの学制およびその改革についての見解は、また文部大輔田中不二麻呂の見解と一致するところがあったと思われる。田中はこれらを参照し、さらに自分の米国教育行政制度の研究と結びあわせて法令案の起草を進め、これを原案として十二年九月二十九日の「教育令」が成立したのである。
 
ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデル

 

John Alexander Low Waddell (1854-1938)
東京大学理学部(当時)にて講義(米)
アメリカ合衆国の土木技術者である。とりわけ橋梁を数多く設計した。明治時代初期、お雇い外国人として時の政府に招かれ、東京大学で講じた。J.A.L.ワデル、ジョン・アレキサンダー・ワデルとも称される。
ワデルは、1854年にカナダのオンタリオ州ポート・ホープで生まれた。長じて1875年に土木の学位を取得したのはニューヨーク州トロイのレンセラー工科大学(RPI)であった。
学位取得後すぐにカナダに移り水産海洋省にて働いた後、カナダ太平洋鉄道へと移った。その後、再びアメリカ合衆国に戻り、今度はウエストバージニア州の炭鉱会社で鉱山設計に携わった。1878年にはレンセラーに戻り、1880年まで機械学を講じた。そして再度カナダに戻り、ケベック州モントリオールのマギル大学にてさらなる学位を取得し、三度渡ったアメリカのアイオワ州カウンシルブラフスのレイモンド・アンド・キャンベル(Raymond & Campbell)社に勤めた。
日本
1882年7月、日本の明治政府に招かれ、お雇い外国人として東京大学理学部(当時)にて4年間、土木工学の講義を行った。その間、ワデルは代表作となる著書を2冊上梓している。
当時の本州の鉄道はイギリスの流儀で造られていたが、1885年(明治18年)、ワデルは横浜で刊行されていた英字新聞の紙上で「経験則から作られるイギリス製橋梁に対して、アメリカ製橋梁は理論で作られている。今後はアメリカ製を採用すべきである」旨の議論を提起する。イギリス側は、チャールズ・ポーナル(1873年建築師長として来日、以後橋梁設計のほとんどを手がけた。1896年帰国)が反論したが、鉄道の発展とともにポーナルが設計した橋梁の設計荷重では不足するようになり、ポーナルが帰国したのち、次々とアメリカ製橋梁に架け替えられていった。
1897年(明治30年)、岩越鉄道岩越線(現在の磐越西線)が郡山駅から喜多方駅の区間の建設を開始した。喜多方以西では、流量が多く水深も深い阿賀野川(阿賀川)を数度に渡り渡河する必要があったため、すでにアメリカに帰国し、名声を得ていた(後述)ワデルに調査を依頼した。ワデルは、カンチレバー式架設工法(張出し式架設工法)、すなわち中央スパンの両側のスパンをアンカーとして中央スパンとなるべき桁を張り出し、中央で接合する方法の見通しを立ており、これを提案した。1913年(大正2年)、径間300フィート(90メートル)の阿賀野川釜ノ脇橋梁(荻野駅 - 尾登駅間)が竣工。ワデルの提唱から15年が経過していた。この阿賀野川釜ノ脇橋梁は、日本で初めてこの工法で架設された橋梁であった。
アメリカへ
1886年、ワデルはアメリカに戻り、翌年にかけてカンザスシティに新しく設計事務所を設立した。この会社は、今日でもハーデスティ・アンド・ハノーバー(Hardesty & Hanover.)として存続している。ワデルはいくつもの挑戦的な設計を行い、それらはすぐに強度に優れるというデモンストレーションになった。
1892年、ミネソタ州ダルースは、運河開削により孤立した陸地となったミネソタ・ポイントへの交通手段を公募した。ワデルは 昇開橋を提唱し、優勝した。しかし、建設間際に戦争省(現在の国防総省)がこの設計に反対し、昇開橋の建設は見送られた。結果として、フェリーやゴンドラで対岸に渡る運搬橋、エアリアル橋が1905年に完成した。
やがてエアリアル橋の輸送能力が追いつかなくなり、。結局、もとの運搬橋のデザインを残したまま、昇開橋に改造されることになった。皮肉なことに、この改造を請け負ったのはかつてワデルが創設した会社を受け継いだ会社であった。
ワデルがミネソタ・ポイント用に設計した橋は、後にオリジナルよりも若干スケールアップしたものが1893年にシカゴにサウス・ハルステッド通り可動橋(South Halsted Street Lift-Bridge)として建設された。これはワデルの処女作となった。ワデルは生涯で100を超える可動橋を設計し、彼が設立した会社は各種の可動橋を製作した。
1920年、ワデルはニューヨークに移り、ガーサルズ橋(Goethals Bridge)やマリン・パークウェイ・ギル・ホッジス・メモリアル橋(Marine Parkway-Gil Hodges Memorial Bridge)の建設コンサルタントとして活動した。
1934年、妻が死去。その4年後、1938年にワデル自身も死去した。
ワデルの主な仕事
ワデルは高架鉄道システムの基準を作り、長大スパンの橋梁に適する素材開発にも力を注いだ。その最大の功績は、蒸気動力の昇開橋の開発である。橋梁設計者として広く尊敬を集め、技術者にはクオリティ・トレーニングが必要であると提唱した一人でもある。
生涯で設計した橋梁の数は、アメリカとカナダだけで1000を超え、メキシコ、ロシア、中国、日本、ニュージーランドにもある。現在でもなお供用中のものも多く、それらの多くは歴史的ランドマークとして知られている。よく知られているのはミズーリ州カンザスシティのアーマー・スイフト・バーリントン橋(ASB橋)であり、いまなおBNSF鉄道により使用されている。
アメリカ式トラス桁の導入
わが国にアメリカ式の鉄道橋梁技術が導入された時期は大きく二つに分けられよう.最初は幌内鉄道の建設が行われた1880年代始めの頃、次は官設鉄道がそれまでのイギリス式を捨ててアメリカ式を採用した1897年以降である。
1) 幌内鉄道の建設
石炭輪送を主目的としたこの鉄道は、本州で政府がイギリス人技師の指導のもとに鉄道建設を進めたのと同じように、北海道の開拓使がアメリカ人のクローフォード(Joseph U, Crawford, 1842-1924)を招いて幌内鉄道の技師長とし、レンセラー工科大学(Rensselaer Polytechnic Institute)出身の松本荘一郎(1848-1903)を副長に任命して建設を進めた。同大学出身の平井晴二郎(1856-1926)も建設に加わっている。この鉄道は明治13年(1880)11月28日、手宮・札幌間が開業、15年(1882)11月13日には札幌・幌内間が開通し、手宮・幌内間が全通した。橋梁はアメリカ式の木造トレッスル、ハウトラスなど木橋が主体であったが、錬鉄製のトラスも4連が輸入・架設された。アメリカでは19世紀半ばから、じつにさまざまな形式の鉄製トラスが発明されたが、1880年頃には引張材にアイパー(eye bar)を使用したピン結合のホイップルマーフィートラスやプラットトラスが鉄道橋の標準形式として多く用いられるようになっていた。幌内鉄道はちょうどこれら2つの代表的形式を採用したことになる。しばらくして入船町陸橋の木造トレッスルを鉄橋に改築したが、このとき架設した上路トラスは平井晴二郎が設計したもので、日本人が設計した最初のトラス桁だとされている、しかしこのあと他鉄道などに普及するには至らず、19世紀末までアメリカからの新たな導入はなかった。
2) クーパー形トラス桁の採用
本州の官設鉄道や私設鉄道はイギリス式の橋梁を標準としてきたが、設計荷重の小さい在来のポニーワーレントラスやダブルワーレントラスでは機関車の大型化に対応できなくなってきた。そこで今後の活荷重の増大を見越した新しいトラス桁が必要になってきたが、官設鉄道の選択はイギリス式トラスの改良ではなく、当時橋梁技術の最先端を歩んでいたアメリカ式橋梁の導入であった。イギリス人建築師長パウナルが明治29年(1896)帰国すると、翌年アメリカの著名な橋梁技師クーパー(Theodore Cooper)とシュナイダー(Charles Conrad Schneider)の二人に新しい一連の標準トラス桁の設計を委嘱したのである。クーパー形構桁と呼ばれる径間100ftから300ftの上下路トラス10種類が1898年から1903年にかけて設計され、官設鉄道〜 鉄道院だけでも約250連余が架設された・その大多数はアメリカ製であるが、イギリス製と国産も少しある。官鉄以外では、関東私鉄の雄、東武鉄道と台湾総督府が採用した。
このような大転換に至る下地はかなり以前から次第に整えられつつあった。東京大学土木工学科教師(橋梁学担当)として明治15年から19年の間滞在したカナダ人ワデル(John Alexander Low Waddel)は、横浜の英字新聞紙上で英米鉄製橋梁の優劣を論じ、イギリス人技術者と紙上大論争を行なった。豊かな経験則を生かしたイギリス式の橋梁と理論的・構造的に明快なアメリカ式橋梁の相違を浮き彫りにする結果となって、これがわが国橋梁界に与えた影響は大きいといわれている。
明治26年(1893)にはイギリスで技術教育を受けた井上勝が鉄道庁長官の地位を去り、かわってアメリカで技術教育を受けた松本荘一郎が長官となったことも無関係ではないであろう。
引張材にアイパーを使ったアメリカ式のピン結合トラスは、確かにトラス理輪に合致した構造であったが、年数を経ずしてその欠点も当時の技術者たちに明らかとなってきた。鉄道院では明治末期にはやばやとりベット結合トラスへの転換を決め、アメリカ式ピン結合トラスが標準形式であった期間は10年余りに過ぎなかった。
明治45年(1912)に至り、鉄道院は釧鉄通橋設計示方書を公布した、これは米国鉄道保線協会(AREA)制定のものにほぼ同じであった。昭和3年の示方書も明治45年版の改訂版であって、アメリカ製品の輸入が終わる頃からアメリカ流の示力書による橋梁の国産化が始まるのである。
 
ホーレス・ウィルソン

 

Horace Wilson (1843-1927)
語学教育、野球を日本に紹介(米)
アメリカ合衆国メイン州出身で、日本で英語などを教えた教師。
1871年(明治4年)からお雇い外国人として来日し、第一番中学(現在の東京大学)で教鞭をとった。そのときに生徒に野球を教え、その後全国的に広まっていった。
2003年に野球を伝えた功績を称え、「新世紀表彰」として野球殿堂 (日本)入り。
日本への野球伝来
1871年(明治4年)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科(その後旧制第一高等学校、現在の東京大学)で教え、その後「打球おにごっこ」という名で全国的に広まった。従って、日本国内の野球の創世記の歴史は、そのまま大学野球の創世記の歴史と重なっている(詳細については当該記事を参照のこと)。なお、ホーレス・ウィルソンは2003年(平成15年)、その功績から日本野球殿堂入り(新世紀表彰)している。ただし野球を「試合」と定義すると明治6年4月下旬,開拓使仮学校で既に始められていた可能性がある。ウィルソンが試合を始めたのは開成学校に運動場が完成した明治6年8月以降のことである[4]。
1878年、平岡ひろしが日本初の本格的野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を設立し、1882年駒場農学校と日本初の対抗戦を行った。なお記録上で日本ではじめて国際試合を行ったのは青井鉞男が投手時代の旧制一高ベースボール部で、1896年(明治29年)5月23日、横浜外人居留地運動場で横浜外人クラブと対戦し29対4で大勝した。また、記録上で日本ではじめて米国人チームと試合を行った(日米野球)のも同部で、同年6月5日、雪辱戦として横浜外人クラブから試合を申し込まれ、横浜外人居留地運動場で当時の米国東洋艦隊の選りすぐりによるオール米国人チームと対戦し32対9で連勝した。
急速な人気の高まりから、野球に対して賛否両論が巻き起こることもあった。1911年に東京朝日新聞が「野球と其害毒」と題した記事を連載し、野球に批判的な著名人の談話などを紹介したが、これに対して読売新聞などが野球擁護の論陣を張り、次第に野球に対するネガティブ・キャンペーンは沈静化していった(野球害毒論を参照)。
大学野球の盛り上がりは高校(旧制中学)にも広がり、1915年8月に大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開催され京都二中が優勝。第3回大会からは兵庫の鳴尾球場で開かれたが、観客増により手狭になったため1924年からは阪神電車甲子園大運動場で行われることになった。また夏の大会の盛況をうけ、同年春からは名古屋市の山本球場で全国選抜中等学校野球選手権大会が開催され、翌年からは甲子園球場で行われた。1927年には企業チームによる都市対抗野球大会が明治神宮野球場で開かれた。 
明治5年に野球を伝えた外国人教師
南北戦争に従軍後、お雇い外国人教師として来日する。明治5年に第一大学区第一番中学で英語や数学を教える傍ら生徒に野球を教えた。同校は翌年から開成学校(現東京大学)となり、立派な運動場ができると攻守に分かれて試合ができるまでになった。これが「日本の野球の始まり」といわれている。同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)、その他の学校へと伝わり、そこで野球を体験した人達が中心となって野球は日本全国へと広まっていった。現在の繁栄する日本野球の種をまいた人としてその功績は計り知れない。

日本に野球を伝えたとされる人物。それがホーレス・ウィルソンだ。だが、どういう人物だったのかは、あまり知られていなかった。野球殿堂博物館の嘱託、新(あたらし)美和子学芸員が1876年(明9)の日米野球の記録に接した時は、顔写真も、どんな人生を送ったかも分からなかった。
ニューヨーク・クリッパー紙にウィルソンの名前を見つけた新は、協力者のフィリップ・ブロックとともに、まずウィルソンの調査に取りかかった。手に入れたいのは経歴と顔写真。手がかりを求めて、国会図書館などでお雇い外国人関連の資料を閲覧して回った。
1876年の当時はまだ来日している外国人の総数が少なく、調べることが可能だった。その調査の過程で出てきた事実をもとに米国のゲティズバーグカレッジに手紙を出した。若くして南北戦争に参戦したウィルソンは、大学を卒業していなかったが、日本でお雇い外国人として働く中、パーソンという友人の紹介で名誉修士号を取得していた。その修士号を取得した大学がペンシルベニアカレッジ。今のゲティズバーグカレッジだった。
野球のことになると国境はない。ゲティズバーグカレッジの担当者も迅速に動いてくれた。偶然だが、同大は南北戦争の研究で有名で、名誉修士号を取得した当時のウィルソンとの書簡のやりとりと一緒に、米国立公文書館へ資料請求をするための書類を送ってくれた。「南北戦争に参戦しているなら、恩給をもらうために政府ともやりとりしているはず。その履歴はワシントンの国立公文書館に保管されている」と教えてくれた。
必要書類に記入して送付すると、国立公文書館も素早く対応してくれた。すぐに12ページにわたる個人情報が送られてきた。そこにはウィルソンの人生が記してあった。メーン州のゴーラムで生まれ、南北戦争後にサンフランシスコに移り、お雇い外国人教師として日本へ渡る。日本で仕事した後はサンフランシスコに戻り、図書館で働きながらサンフランシスコ市長の手助けなどをしていたという。今はサンフランシスコ近郊のコルマという町にあるサイプレスローンという墓所に眠っている。
余談だが、100メートルと離れていないところに、読売「巨人軍」の名付け親で、1951年(昭26)に来日した大リーグ選抜の監督なども務め、日本球界の発展に多大な貢献をしたフランク・オドールの墓所がある。広大な墓地の中に、日本で野球殿堂入りを果たした2人が並ぶように眠っている。ちなみに日本の野球殿堂博物館では、正岡子規の殿堂レリーフの両隣が、ウィルソンとオドールだ。
その後、協力者のブロックが、ウィルソンの生まれ故郷のゴーラムで親戚を発見し、顔写真も手に入った。謎だったウィルソンの人生。それをひもとくきっかけとなったのも、1876年の日米野球を伝えるニューヨーク・クリッパー紙のコピーだった。
だが、ウィルソンが米国からもたらした野球は、今の野球とはかなりかけ離れたものだった。「ピッチャー、振りかぶって、第1球、投げました」。そんなラジオで聞くようなシーンはない。「高め、お願いします!」。打者のそんなかけ声から始まる、不思議なスポーツだった。
 
マリオン・スコット

 

Marion McCarrell Scott (1843-1922)
大学南校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)、東京大学予備門教員(米)
アメリカ合衆国の教育者。明治時代に来日したお雇い外国人の一人であり、1872年(明治5年)に設立された師範学校(筑波大学の前身諸校の一つ)で実物教授法・一斉教授法を指導した。
ケンタッキー州生まれで、南北戦争の最中にバージニア大学を卒業する。その後、カリフォルニア州で教師をしていたが、当時アメリカに外交官として駐在していた森有礼に乞われて、1871年に来日して大学南校の英語教師となる。
翌年学制公布に際し、教師育成の為に設置された師範学校(後の東京高等師範学校→東京教育大学)唯一の教師として教育学を講義した。アメリカの公教育をモデルとした近代的な教育(一斉教育法やペスタロッチ主義直感教授法)を伝授した。1874年に師範学校退職後も各種の公立学校の語学教師を務めるが、政府の方針との対立から1878年に解雇され、1881年に帰国した。
帰国後はハワイに移住して現地の視学官や地元のマッキンレー・ハイスクールの校長を務める一方、日本に関する論文発表やハワイに移住した日系人と現地のアメリカ人との融和に尽くすなど日米友好に努めた。
明治の子供と学校
文明開化の教育政策 / 西洋教育情報受容の経路
文明開化のスローガンの下で、近代化は西洋化であるという認識が一般化するような政策がとられて、教育も西洋化ということを目標としていきます。その時教育の分野ではどうやって西洋に倣っていったのか、という質問を留学生の方や、現在教育開発に携わっている方からよくいただきます。日本の場合、最も早く用いられたのは、文献を通して外国の情報を輸入するという方法で、これはご存知のように幕末から洋学という形で学問の内容が日本に入ってきておりますので、幕末から始まっております。こうして書物によって、我が国の教育の近代化は専門教育から緒についており、先ほどのように「学制」の研究も他の国の教育法規を入手して翻訳するということから始まります。維新後の教育の近代化に貢献したのは、外国人教師いわゆる「お雇い外国人」です。このお雇い外国人の雇用というのが、さらに日本の専門学芸の輸入を促進してまいります。
外国人が明治期にどのくらい来日していたかということについては、実は正確な数字はありません。政府が政府のお金で雇っている外国人についてはもちろん把握できるのですが、それでも数百人を下らない外国人が入っております。最近の研究では千人以上入っていたとか、2千人くらいとか、説は分かれておりますが、たとえば学校だけをみても、私学とか府県雇いのレベルでみていきますとかなりの数になります。
ちょっと話はそれるのですが、専門教育から日本の教育が近代化したということをご理解いただくのに非常に分かりやすい例として、当時の各省庁の学校を例にしましょう。たとえば、工業促進のための工部省という役所がありまして、そこには工部大学校という専門学校がありました。つまり、専門の人材を各省庁がエリートとして養成するという構造が明治の最初にはすでにできあがっていまして、軍隊のことですと兵部省、法律のことですと司法省、というふうにですね、各省庁が専門の人材養成を行っていました。お雇い外国人も各省庁が雇い入れています。たとえば、工部省ですと、世界の工場といわれ、最初に産業革命に成功したイギリスからお雇い外国人を招聘して、イギリス人によって工業教育を行う。あるいはご存知の美術ですと、フェノロサがイタリアから。そして札幌農学校の場合は、農商務省の管轄でしたが、大規模開拓農業のアメリカから、というふうに専門分野毎に、当時その学問の最先端の研究が行われていた国から教師を雇い入れるという、国別の雇い入れ方をしていました。
では数千人にも及ぶような外国人がなぜ日本に来たのか、ということが疑問として起こってまいります。ちょうど私たちが、いわゆる発展途上国に、例えばアフリカのあまり名前も知らないような国に協力に行くというような感覚で、当時外国人が日本に来たと考えられます。当時、欧米では日本に行くと風土病を罹って死ぬとか、土着民が刀を振り回しているとか、いろいろな噂が流れておりまして、皆そんなにこぞって行きたいような所ではなかったはずなのですが、千人を下らない外国人が日本に来たのはなぜでしょうか。それは給料が良かったからです。どのくらい良かったかといいますと、学制に記された授業料は5銭でした。当時、中学校の校長をしますとだいたい月給10円もらえたといわれていました。お雇い外国人の場合は、標準的な人で月給200円、非常に高給になりますと600円をもらっていますので、高給取りの中学校校長の20?60倍の給料をもらえました。次に、どうやって日本政府はそれを払っていたかという話になるのですが、当時の日本は緊縮財政で外貨もほとんどありません。もちろん日本の紙幣をもらって帰っても役にたちませんので、給料を何で払っていたかといいますと、ほとんどの場合は「銀」で払っていました。日本の銀の埋蔵量は当時は豊富で、ほとんどがこの明治初期に海外に流失したといわれていますが、それは西洋の専門学芸と引き換えに銀を支払っていたためと考えられます。こうして沢山の外国人が来日し、専門学芸を伝授しました。いまの東京大学、昔の帝国大学では、教授はすべて外国人教師で構成されていました。日本人の教授はいたのに、なぜ全員が外国人で構成されていたと申したかといいますと、正規の授業はすべて外国人教授が受け持ち、これを「正則」といいますが、いわゆる補習にあたるような授業のみ日本人教授が行うことになっていました。外国人教師が行う授業は「正則」、日本人教授が行う授業は「変則」とされていたのです。そうして専門教育は充実していったのですが、それに比べて初等教育の整備は遅れていました。そこでアメリカの小学校に倣って日本の小学校を作ろうということになったのですが、何せアメリカの小学校でやっていることが分かる人がおりません。教員養成制度を作らないことにはアメリカの小学校を日本に持って来れないということで、東京に師範学校が置かれまして、そこにお雇い教師として一人だけ、マリオン・スコットというアメリカ人を雇い入れました。マリオン・スコットからアメリカの小学校が何をやっているのか、どんなものを使っているのかを教えてもらい、さらに教材・教具をスコットを通して輸入するという形で小学校教育に着手しました。時代が下ってまいりますと留学生も多数派遣されました。彼らは帰ってきてから日本の教育の自立化を進めていくことになります。こうしてアメリカの小学校と同じ小学校を日本にも作ろうということで努力が始まりました。
授業 / 文部省「小学教則」
先ほどは教科目を見ていただきましたが、学制に示されたのが教科目だけでしたので、多くの人は教科目の名前だけ見ても何をどうやって教えるのか分かりませんでした。現場では従来通り、読み・書き・算盤というような寺子屋式の授業をほとんどの場合がしていただろうと考えられます。そのうちに文部省は、「小学教則」といいまして、いわゆる今の学習指導要領の原型に当たるようなものを提示いたします。「小学教則」は、本文は学習指導要領のように文章や箇条書きなのですが、ここではそれを表に直したもの「小学教則概表」というものを見ていただきます。どのような教科が作られているかといいますと、文部省の場合、綴字と書いて「カナヅカイ」と、フリガナをふってあるのでその通り読みますが、カナヅカイ、テナライ、コトバノヨミカタ、ヨウホウサンヨウ、ギョウギノサトシ、コトバノソラヨミ、コトバヅカイ、ヨミカタ・・・というふうに煩雑な教科目が並んでおります。
文部省が作った初めてのカリキュラム、小学教則の第一の特徴は、自然科学、数学の内容を非常に重視しているということで、小学校の全授業時間の40%が自然科学の教授に当てられています。その他の特徴としては、海外の知識あるいは道徳、といいましても後の修身ではなくて、権利や義務の概念、自由の概念というような市民道徳が説かれて、そういうものを志向している特徴がございます。しかし程度が高すぎてとうてい普通の小学校で行えるものではありませんでした。実際、一般の小学校に明治の初期に普及していったのは、東京師範学校が作ったカリキュラムだといわれています。先に紹介しましたマリオン・スコットという外国人が、アメリカの初等学校カリキュラムを紹介し、東京師範学校で小学校向けのカリキュラムを作った。こちらは東京師範学校で作った明治6年の小学教則ですが、このカリキュラムが全国的に普及していきます。このカリキュラムの目玉は何かといいますと、「読物」です。一番左にあるのですが、読物がなぜ目玉になったのかといいますと、読物という教科は地理、歴史、修身、物理、化学といった内容のものを読ませるという総合的内容教科となっていましたので、全体としてのカリキュラムはすっきりとして、読物の時間の中で内容教科が教えられるという形になっています。そしてこの読物とペアになっていて当時のカリキュラムとして非常に重要なものが、左から5番目にあります「問答」という教科で、問答は読物と同じ教材を使ってその内容を問答の形式で教授するという明治初期のカリキュラムの大きな目玉になる教科でした。
授業 / 「問答」科の創設と形式化
この問答という教科について、少し説明いたしますが、教科目ですので問答科と呼ばせていただきます。問答という教科はアメリカ人スコットが、アメリカのオブジェクト・レッスンズというものを日本に紹介し、オブジェクト・レッスンズの語を翻訳して「問答」としました。
オブジェクト・レッスンズとは何なのかと申しますと、これを説明すると教育原理の授業になって1時間必要ですので、簡単に説明させていただきます。当時欧米では、学校の教授法の第一原則というのは、ペスタロッチ主義という、ペスタロッチという人が説いた教授原則に基づいていました。たとえばですね、オーラル・ティーチングなどというのは、現在も初等教育原理の大原則ですが、小学校の児童に対して会話形式で授業を進めていく。つまり前近代的な、書物中心の学習、日本の場合もイロハが読めるようになると四書五経や往来物を意味が分からなくてもいいから読みなさい、暗唱しなさいとやらせていましたが、こういうやり方はダメだということです。ペスタロッチ主義によると、まず会話によって分かるように教えなければなりません。オーラル・ティーチングだとか、あるいは直観教授といいまして、先程ご覧いただきました掛図なども、この直観教授の原則を履行するための実物教授として用いられました。直観によって、まず理解する。外部のものを内面化するのは直観である。したがって概念から教えてはダメで、前近代的な暗記だの、意味も分からず素読することはいけない。簡単に言えば、まず最初に分かったうえで概念化するという方向をとるのだというのが、ペスタロッチ主義の教授原則です。授業のときよく例に出すのは、「赤い」、つまり色の赤をどう教えるかです。皆さんにきくと誰も教育原理など習っていなくても、「赤いものを見せてこれが赤よね、といえばいいじゃないですか、先生」と言います。その通りで、赤を直観として感じ、それに赤という概念をつけて内面化させるということをやるのが、いわゆる直観教授です。ところがですね、たとえば目が見えない方に「赤」を教えるときどうしますかと学生さんに聞くと、とたんに困ってしまうのですね。赤をどうやって教えたらいいか、言葉で「情熱の色」と教えようかとか、いろいろ考えます。このように人があることを内面化するときに、どのようにそれが行われているのかということを、私達はあまり意識はしていないのです。では先に概念を教えたらどうか、たとえば見たことがない植物を百科事典で引いてみましょうといって、たとえばザクロの項を読んでみると、何とか地方に生息する何々科の植物で、どんな実をつけ・・・、そこをたとえば暗記します。暗記してそれがテストに出た時、その説明は何の説明かと問われたらザクロと書けば、この人はザクロを理解しているということで丸がもらえるかもしれません。ところが、この人が町を歩いていてザクロの実を八百屋で売っていてもそれがザクロの実だと分からない、ということが起こることはよくあります。つまり概念から入るということは、子どもの認識過程に合った教授ではないのではないという考え方で、ペスタロッチ主義の教授法の場合は概念から入るということを否定します。
明治の初期にこのペスタロッチ主義を輸入した日本人は、暗唱なんかやってはいけない、素読なんかやっては前近代的だということで、近世までの教授法を否定して、いわゆるペスタロッチ主義に基づく学校教育をとり入れたわけですね。それを入れたのはいいのですが、問答という教科で直観教授をやりましょうと東京師範学校で考えて、問答科という科を作った。ところが、いまの総合学習と同じで、作った人は一生懸命考えて、こういう理念をこういう科の中で、こういうふうに体験的に、教科横断的にやったらいいのではないかと作ったのですけれども、それを小学教則として受け取った現場の先生たちは、一体この教科は何をするのだろうと、困ってしまったわけです。
そこで、この問答科を行える先生は少なかったので、文部省は教授本を作りました。この時間にはこういうことをやったらいいでしょうといった一種のハウツー本です。見本を示したら皆それができるだろうということで、まず文部省が、当時オブジェクト・レッスンズがはやっていましたアメリカの教授法書を翻訳しました。画面はノルゼントという人の、“Teachers’ Assistant”という本です。左側のページの下から4行目から問答が始まるのですね。「私は何を持っているかな?」と先生が聞いて、子どもが「羽根です」と答えると、先生は「そうですね。ではこの羽根をどこから持ってきたのかな?どこにあったのかな?」と聞きます。生徒は「それは鳥」、「鳥のものです」と答える、といった問答が繰り返されていきます。
この発問で授業導入するような例の部分を翻訳したものが次の画面です。これは明治9年に文部省から出されましたもので、今見ていただいた部分が右のページの7行目から始まりますが、先生が「今我ガ手中ニ持スル物ヲ何トカ為ス」と聞くと生徒が「之ハ羽ト為ス」と答えるのですね。先生が「羽ハ之ヲ何者ヨリカ得ル」と問い、生徒が「鳥類ヨリ得ル所ナリ」と答える。先ほどの翻訳教科書とまったく同じパターンの翻訳教授本ができあがったわけです。これが広く教師の間に流布しました、何せ問答って何をやるか分からないものですから。教師がこれを読んだ結果どのような実践を教室の中で行ったかといいますと、実は一般的な当時の日本人は「問答」と聞いて、何をイメージしたかというと、いわゆる「カテキズム」をイメージしました。カテキズムとは宗教的な教義の問答集のことで、日本ですと禅問答のようにはじめから想定される問いと答えが型通り決まっている、そういうものをイメージしました。教室で先生はこれを使って「いいか、先生がこれからこう聞くから、君、こう答えろ。」となるわけです。ではそのとおりやってみましょうと先生が聞いて、次の子が答えると、「よくできました。では次はこう聞くから、あなた、こう答えて」と続くのです。こういうふうに、問いと答えを形式的に覚えて、それをくり返す時間になったと考えられています。なぜ、そう考えられるかといいますと、当時は試験をやっていました。等級制と申しまして、半年に一級ずつ進級するのですけれど、進級するときに進級テストをしていました。そのテストの試験問題や成績表に、「問答」というのがあるのです。つまり、問答のテストをやっていたのです。問答ですから先生が発した問いに対して、ちゃんと答えられるかを採点していたのです。そういうふうに問答をテストとしてやっていたということは、従来の、本来目指されていたオブジェクト・レッスンズが形骸化していて、何の役にもたたなかったということの証明なのです。
このように教則とか、時間割とか、学校の校舎とか、机とか、そういう形のあるものは非常に短期間にアメリカに倣って整えてきたことがお分かりいただけたかと思います。この他にも、「唱歌」の例は有名ですね。学制には唱歌という授業が設けられていたのですが、「当分の間之を欠く」とされていました。歌を歌うなどということは楽しみごとで、学校で楽しいことはやってはいけないというような考え方があってなかなか定着するまでに時間がかかった教科です。けれども中には唱歌を行った学校もありました。どのようなふうにやっていたかといいますと、「唱歌」は歌を唱えるわけだから、皆で裏山に行って一人ずつ大きな声で百人一首を叫びなさいという試みがあったり、例をあげれば暇がないのでやめておきますが。このようにその時間を設けてそれらしいことをやったけれども、本来その教科で目指していたようなことがされていたかどうか、非常に疑問であるというのが明治初期の小学校の本当の姿ではないかと思います。 
マリオンM.スコットと日本の教育 
1. はじめに
マリオンM.スコット(Marion McCarrell Scott, 1843-1922)は、1871(明治4)年から1881(明治14)年までの約10年間、わが国においてお雇い外国人教師として活動したアメリカ人である。特に東京に設立された官立師範学校最初の教師として、日本に教員養成法及び近代教授方法を最初に導入した人物として知られている。
師範学校の設立趣旨によれば、外国の制度を模倣して設置され、外国人教師により外国の教育方法・内容に従って小学校教員を養成し、また小学教則を編成することを目的としていた。この外国人教師にスコットが選出されたことによって、その本国であるアメリカ合衆国の教育方法・内容に範を置き、教員養成がおこなわれるようになる。また彼を通して従前の近世教育とは異なる、近代教育の方法が米国よりもたらされた。
ここで、この近代的教育の方法として期待された、スコットの教授(カリフォルニアを中心としたアメリカ合衆国の教育方法・内容)の実質に注目したい。
従来、スコットが日本でおこなった教育の実態について明らかにしうる資料が極めて乏しいために、その具体的な研究は不十分であった。もっとも、彼の伝えた教授法の分野に関しては、教授法書等を主として扱った研究がいくつかあり、教育内容についても、スコット影響下と目される師範学校附属小学教則は、その下等小学の分については、ほぼアメリカ合衆国の教則の翻案であると指摘されている。
スコットの教授の実質を実証的に解明するためには、これらの教授法書及び小学教則の内容を分析し、また相互の影響関係を考察する必要がある。本稿では、アメリカ合衆国の教則「亜米利加合衆国プライメリースクール教則」・「亜米利加合衆国プライメリーグランマル学校教則」及びRulesand Regulations of the Public Schools of the City and Comty of San Francisco, 1871をとりあげ、師範学校附属小学教則と比較してその影響を明らかにしながら、教授法書とも比較対照することにより、スコットが日本でおこなった教授方法及び教育内容の実質について考察してみたい。 
2. 師範学校における授業
師範学校におけるスコットの指導の実際について記録された資料はなく、今日これを詳細に知ることはできないが、通弁官であった坪井玄道や文部権大書記官であった辻新次らが後年に残した回想録からその情況を推察することができるであろう。
創業当時のエピソードとしてあげられるのは、「学科授業法は勿論、何でも洋風に机と腰掛で授業をするのでなければいけないといふので、わざわざ昌平校の畳を剥がして、穴だらけになった板の間を教場に用ゐた」ことであり、「スコットの命ずる通りの黒板をこしらへ、それから教師が教鞭を持(中略)此方の流儀でなく、彼の国の事をそっくり取ってやる」ということであった。このように従前の教育(寺子屋・藩校など)とは、教育形態(教室・教具・方法など)を異にするアメリカ合衆国方式へと変えられていった。スコット自身、後年記した小論文"Education in Japan"の中で、「(日本の)教育方法や教具類は全て変えられ、教科書・教具・掛図類は新しく作られ、あるいは日本人の要望にたえるよう翻訳された。(中略)我々(アメリカ合衆国)の方式に従って変えられていった」と語っている。また、その授業方式としては当初の計画通りに一種の助教制度(モニトリアル・システム)が用いられていた。そして、この師範学校でスコットに指導を受けた者、卒業生たちが各地へ伝播することにより近代教授方法が徐々に普及していくのである。 
3. 教授方法
前述のような直接的伝承方法だけでなく、それに加えて間接的な、教授法書を通しての普及が大きな役割を果たしていた。東京や各府県の師範学校関係者たちによって著された初期の教授法書の内容は、スコットの伝えた方法に基づくものであり、ここでその内容について検討する必要がある。
初期の代表的な教授法書としてあげられる、当時の師範学校長諸葛信澄の『小学教師必携』緒言には、「小児ノ教育ハ、学術ヲ授クルニアリト雖モ、始メハ勉メテ、小児ノ感受力ヲ挑発シ、智力ヲ培養スルヲ以テ、第一トス、蓋シ智力ヲ培養スルハ、万物ニ就テ、其性質ヲ考究シ、用法ヲ思慮セシムルニアリ、就中、小児ハ、感覚鋭敏、思考迅速ニシテ、万物ニ遷リ易キモノナレバ、宜シク、此期ヲ過ルコトナカルベシ」とあり、実物教授また開発教授の考えを示している。ただ必ずしも実物を教材として用うべきことを強調しておらず、掛図類を用いて授業を進めることとした。また多くの教授法書は、この諸葛の著作に従って書かれている。
スコットが伝えた教授法が実物教授(object teaching)の方法であったことをより一層示す例が、金子尚政訳による『小学授業必携』である。序文に、「此書原本ハ千八百七十一年鏤板米人何爾京氏著ス所ノ『ニュープライメリーヲブジュクトレススン』(物体教授ト訳ス)題セル泰西小学授業ノ方法ヲ載スル書ニシテ東京師範学校ノ創業ニ際シ此書ヲ以テ授業ノ範則ト為セリ」とあり、アメリカ合衆国で当時台頭していたオオブジェクト・レッスンがもたらされたのである。
また全教科の教授法の基本となっているのが、掛図あるいは実物を用いて教師と生徒とで問答をするという授業であり、当時の教授法書には例外なく「問答」の教授例が示されている。前掲諸葛『小学教師必携』から下等小学第8級の問答科教授例をあげると、「柿ト云フ物ハ、如何ナル物ナリヤ、○柿ノ木ニ熟スル実ナリ、」「何ノ用タル物ナリヤ、○果物ノー種ニシテ、食物トナルナリ、」「如何ニシテ食スルヤ、○多ク生ニテ食シ、稀ニハ、乾
シテ食スルモノナリ」というように問と答とがワンセットの文章となった分解発問である。そして生徒からの問いではなく、教師から問い、あらかじめ統一された答えを復唱させ、記憶させる方法であった。問答の目的は、「智力ヲ、培養スルノ基」とされてはいたが、その開発的意味よりもむしろ知識の蓄積(暗唱)と理解されている。しかしそれは日本に近代教授が導入される過程において、スコットによって暗記注入に変えられたのではなく、当時のアメリカ合衆国の現状が、まさに授業イコール記憶(recitation)であるとされていたのである。 
4. 教科、教育内容
すでに述べたように、師範学校の目的は単なる教員養成のみではなく、近代教授法の伝習とともに小学教則を制定することにあった。当然その教則には近代的教授法がもり込まれることになる。
スコット指導下の1873(明治6)年2月に師範学校附属下等小学教則が創定され、そして同年5月に改正下等小学教則及び上等小学教則が制定された。下等小学教則の2つには、多少教科の進み具合が違うほかはその内容に大差はない。また師範学校附属小学校は1873(明治6)年4月開校であるから、そこでの実践に基づいて制定されたのではなかった。それは前述のように、当時の実情を考えたというよりも、ほとんどそのままアメリカ合衆国の教則を訳して当てはめたものと思われるからである。その原本は学習院大学図書館所蔵の「亜米利加合衆国プライメリースクール教則」と、「亜米利加合衆国プライメリーグランマル学校教則」であると思われるが、スコットがいたサンフランシスコの小学教則である可能性が高い。
ここで、師範学校附属小学教則(2月創定教則及び5月改正教則の下等8級分)と上記のアメリカ合衆国版と目される教則とを比較対照してみよう。なお、以後教則名を次のように略記する。明治6年2月創定師範学校附属小学教則を「創定小学教則」、明治6年5月改正のものを「改正小学教則」、 2つに特に差がない時に総称として「師範小学教則」。「亜米利加合衆国プライメリースクール教則」を「PS教則」、「亜米利加合衆国プライメリーグランマル学校教則」を「PG学校教則」。そしてRmles and Regulations of the Pmblic Schools of the City and Comty of San Prancisco, 1871を「SF小学教則」。さらに、「SF小学教則」は「PG学校教則」の原本であるから、共通している部分は「PG学校教則」のみをあげておく。誤訳あるいは違いのある部分では、あらためて「SF小学教則」を示すこととする。
まず全体の教科配列をみると、「師範小学教則」では下等第8級から1級まで、読物、算術、習字、書取(「改正小学教則」は5級から作文)、問答、復読(1級は諸科復習)、体操、が教科目としてあげられている。
「PS教則」では第4ノ分から(第8級から5級に対応する)、綴字、読方、書取、石版習字(習字)、算術、進退、問答、字韻、体操、 3級から図法、音楽が加わっている。
「PG学校教則」第8級からは、算術、読方綴字、習字(6級から文法)、問答(6級まで)、音楽、 6級から地学、 3級から語解、 2級から史学、 1級に日記、と以上のような配列となっている。「SF小学教則」と教科配列が同一である。
主要教科については、読方綴字が読物となり、あとは算術、習字、書取、問答、とほぼそのままとりいれられている。削除された教科や内容については後述する。
次に各教則の下等小学第8級分をあげる。「師範小学教則」については、表1を参照。
[表1] (略)
○「PS教則」
[綴字]、[読方]
牌(カアヅ) 自一至八 ウィルソンス プライメリスペルレル初篇廿章マデ
ウィルソンス懸図自一至六 ウィルソンス プライメル
[算術]
自一至百算 自一至十二羅馬数字位取 自一至十加算 九々呼法自一至六
[石版習字]
エビシ 数綴字
[書取]
ウィルソン懸図自四至六
[問答]
通常物 指示部分及物質懸図自一至二 顔色 正色七 第十三ノ懸図
[体操]
([字韻]と[進退]は略する。)
○「PG学校教則」
[読方・綴字]
ウィルソンス懸図 ウィルソンス第一リードル
[算術]
自一至十加算 由数記説 羅馬数字
[習字]
草書簡易頭文字
[問答]
五感 機関 通常物 家畜物 正色 間色
([音楽]は略する。)
○「SF小学教則」 REGULATION OF PRIMARY SCHOOLS.
EIGHTH GRADE
Arithmetic---Counting, reading and writing numbers to 100; lessons illustrated by the use of the numeral frame; Roman numerals in connection with the reading lessons; adding small numbers.
Reading---Charts from 1 to 6; First Reader; spelling from the charts and spelling and readers, orally.
writing---Script letters and easy capitals.
Oral lessons---The five senses, their organs and use; common objects; conversational lessons on domestic animals; primary and secondary colors.
Vocal Music---(略) Mason's National Music Teacherをテキストに使用。Time……at least ten minutes, daily.
以上、最下級の分、第8級について対照させたが、教科数だけでなく、その内容についても翻訳といっ七よいほどの強い類似性をもっている。例えば「師範小学教則」の第8級算術と、「SF小学教則」のArithmeticとで比べてみても、ローマ数字を教えることが入らないものの、 100までの数字を読み、書き、数えさせる。thenumeral frameを使っての解説(日本では算盤を使用)、簡単な加算を授けるなど、同一の内容となっている。
次に各教科別に、第8級から1級まで、各教則を比較、分析する。 
4-A 「読物」(読方・綴字)
「師範小学教則」は、「創定小学教則」よりも「改正小学教則」のほうが進み具合、内容がやや高度になっているが、両者に大きな違いはない。
アメリカ合衆国の教則を互いに比較すると、「PS教則」よりも「PG学校教則」のほうが全体の進行が早い。しかし内容に大差はなく、やや「PS教則」に具体的な教材の指定がみられたりする。
日米で対照すれば,第8級で小学読本第1巻を示しているのが「PG学校教則」と同様である。またウィルソン(Wilson, M.)とカルキンス(Calkins, N.A.)による学校家庭用掛図(School and Family Charts)は、これをもとに師範学校で各種の掛図が作られたと思われるが、このウィルソン掛図類を使用する点は、全てのアメリカ側教則と共通している。第7級で小学読本を使用することも教材が米国の教則と共通する。第6級「改正小学教則」の読本第3巻は「PG学校教則」と同一である。また「PS教則」第7・6級分が、「師範小学教則」の第8・7級に一致し、日本の教則の方が少し進み方が早くなっていた。さらに6級から教材に地理関係書が加えられたが「PG学校教則」に同級から「地学」があったことが関係していると思える。第3級では「改正小学教則」に早くも歴史関係書が採用されている。「PG学校教則」では第2級から「史学」がある。してみると「読物」については日本の教則の方が少し進んでいたと考えられる。また、地理や歴史などの関係書(他教科のテキスト類)を使用するという方法は、「SF小学教則」にもそういう採用法があったのである。このように教材面に関しては、ほぼ翻訳版であったといえよう。
4-B 「算術」
「師範小学教則」は、「創定小学教則」、「改正小学教則」の2つとも、内容に大差なく、ほぼ同じである。ただしアメリカ合衆国の教則と比べて、全体的に初歩段階で終わっていて進行が遅かった。それは、当時、和算から洋算への変換時であり当時の子どもたちにとって算術(洋算)が難解であると考えられていたことを示しているといえよう。
米国の教則同士では、「PS教則」と「PG学校教則」の第8級教授内容については、ほぼ一致し共通している。しかし7級以降についての記述内容は違っている。
第8級分は、前述のように「師範小学教則」にアメリカ合衆国の教則からの影響がかなり強くみえる。ちなみに「改正小学教則」には第7級からローマ数字が加えられた。第6級から1級まで、算術のテキストとして小学算術書(ロビンソン算術書)を使用する点で、「PG学校教則」と共通している。このテキスト訳出の原本となった。Robinson's First Lessons in Mental and Written Arithmeticは、進歩的なペスタロッチー直観主義思想に基づいており、当時アメリカ合衆国における最新の算術書が日本へ直ちに輸入されたことになる。しかしそうした最新の教材も、実際にはきわめて注入主義的に用いられたと考えられるが、学校現場において当時どのように用いられたかについてはここでは特に言及はしないこととする。
4-C 「習字」
「師範小学教則」では、「創定小学教則」「改正小学教則」の両者ともに、ほぼ内容が一致している。
アメリカ合衆国の教則では、互いにその記述に具体的な共通点はない。ただし「PG学校教則」は、筆記体や大文字を書かせるのであるから「PS教則」と同様である。「PS教則」では、エビシ……つまり筆記体や大文字、または数字を書くとある。つまり「PG学校教則」の部分の書く対象例を示している。また「PG学校教則」では第6級から「習字」は省かれている。この点から「SF小学教則」のWritingは、「改正小学教則」の「書取」にあたるものとも思える。いずれにしても、黒板を使用して手本を示すという教授方法は共通している。
「師範小学教則」とアメリカ合衆国の教則とを比較すると、文字の書き方、文字自体を教えるということでは共通しているが、記述に具体的な共通点はみられない。日本流に文字の教え方をあてはめたのであろう。「師範小学教則」における習字図や習字本といった教材、テキストについては、アメリカ合衆国の教則には示されていない。ただ「SF小学教則」で各学校学級に必ず"Paysonand Dunton's Penmanship Charts"を置いて教授することになっていた。また師範学校における授業は、「米国の『ABC』を『いろは』に、又庶物掛図の品物を日本品物に代へるといふ如く、悉皆直写主義の教授を行った」のであるから、アメリカ式掛図のABCをイロハと例えて教授したという意味において、アメリカ合衆国の教則と大同小異といえる。
4-D 「書取」
「創定小学教則」、「改正小学教則」の両方ともほぼ同じ内容が示されている。ただし「改正小学教則」では第5級から省かれ、かわりに「作文」が入った。「PG学校教則」の第6級から「習字」が省かれ「文法」が加えられたのに対応している。「PG学校教則」には「書取」の教科名があげられていなかった。
日本と米国とで比較して、「PS教則」第8級の分の掛図4-6が五十音図や単語図であれば、その教材が共通していることになる。また第6級で「PG学校教則」の「文法」でリーダーを使用するが、その点は「改正小学教則」と共通している。他教科のテキスト類を授業に用いるという様式が、ここでもとりいれられていた。
4-E 「問答」
「師範小学教則」では、地理や歴史関係書の使用が「改正小学教則」の方が1級分早くなっている(読物科と同様)他は大差ない。
アメリカ合衆国の教則間の関係は、第8級はほぼそのまま共通している。7・5級もいくらか共通点がみられるが、 6級については完全に別質のものである。全級にわたって掛図類が大要として示されている点で同様であるが、「PS教則」第6級分に限り、「雨、霰、雪、霧、光(以下略)」といった具体的な天候気象、自然現象等を示すものとなっている。
「師範小学教則」と対照すれば、第8級の単語図の内容(諸物の性質や用い方)を通常物と解釈すれば、アメリカ合衆国の教則全てと一致する。ただ米国版教則の色図については、第7級に組み込まれた。その7級では、通常物は日米の全教則に共通し、人体については「PS教則」と、色図については「PG学校教則」と各々一致し、ほぼ影響を等分に受けたとみられる。第6級の形体線度については、「PG学校教則」に平面、線、角度があった。しかし色図はとりいれられていない。「創定小学教則」同級の果物図は、「PS教則」では第5級にあった。「改正小学教則」には地理関係書が加えられたが、読物科に対応して米国側教則に「地学」があったことが影響していると考えられる。「創定小学教則」第5級には「PS教則」の草木が入っているが、「SF小学教則」の「動物及び植物」に一致する。4級以降はアメリカ合衆国の全ての教則に問答はない。前述のように「地学」「史学」があったので教材として、地理問答、歴史事物に関する問答が組み込まれたと考えられよう。
4-F 「復読」及び「体操」
「復読」あるいは「諸科復習」という科目は、前日学んだことを一人ずつ読ませ、復習させる教科である。近世教育の継承ともいえる暗唱を重視して、知識の蓄積を目的とする当時、そのための有効な手段としてとりいれられた。例えば、小倉庫二『小学教方筌蹄』中の「習業時間割付表」によれば、毎日の一時間めの授業として(9時より10時まで)、「前日伝ヘタル所ヲ一人毎ニコレヲ読マシメ、畢リテ其次ヲ授ク」るとされている。しかしアメリカ合衆国の教則には、「復読」科は設定されていなかった。
「体操」についても「改正小学教則」に「体操図」が教材として示されてはいたが、前掲『小学教方筌蹄』時間表によれば一教科というよりも各教科間5分程を利用した業間体操として行われていたことがわかる。また諸葛の前掲『小学教師必携』緒言11項目にあるように、各授業間(放課時)は必ず生徒を外で遊歩させて教師はそれを監視することとあった。
「PS教則」には第7級(第3ノ分)から体操があげられている。また「PG学校教則」にはなかったが、その原本「SF小学教則」には各教科と並べて示されてはいないものの、教授の総則中に「Physical Exercisesは、各クラス少なくとも1日に2回以上授けること」とあり、正課というよりも業間体操であったと考えられる。学校における体操・体育という概念がまだ定着していない当時、体操の導入はまさにアメリカ合衆国教則からの影響によるものであったと考えられる。
4-G 削除された教科
主要教科については、ほぼ全面的にアメリカ合衆国の教則からの影響がみられるが、省略された教科もある。
「PS教則」から「進退」「字韻」「音楽」「図法」が、「PG学校教則」からは「地学」「史学」「語解」「日記」「音楽」が削除されたと思われる。さらに「SF小学教則」からはDrawingも省かれた。「進退」「字韻」は教科内容について詳しく分析することができない。「音楽」については「学制」第27章に、唱歌は「当分之ヲ欠ク」とあり、当時まだ音楽という教科を維持しうるだけの条件はなかったと思える。また「SF小学教則」でも、 Vocal Musicは毎日10分程度授けるとあり、正課でなかった。さらにDrawingBook-Keeping(簿記、「PG学校教則」では日記となっている)も週に30分から1時間程度、もしくは男児生徒のみなどの変則的な教科であるのでとりいれられなかったと考えられる。「地学」「史学」については「問答」に組み込まれていた。
4-H 教材における影響
以上のように、主要教科数や配列順については、ほぼ同程度であるが幾分「PS教則」に近い。しかし内容の記述については第8・7級については同等の影響を受けているものの第6級以降は明らかに「PG学校教則」との共通点が多い。「PS教則」は原本が不明であり詳細なことはわからないが少なくとも同じ実物教授に基づく教材の入ったカリキュラムといえよう。ある程度「師範小学教則」に影響を与えている。
教材面に関しては「PS教則」「PG学校教則」の両者から強く影響を受けていた。「師範小学教則」にかかげられた教科書は、スコットの新教授法とともに全国へ急速に普及する。その内容は近代的な性格をもち、小学校用テキストとしての意図をもって作成されたのが大きな特徴であった。この点において、これらの教科書は、教則とワンセットで編纂されており、近代教科書成立の基礎をなすものとして教科書史上注目すべきものである。
倉沢剛『学制の研究』では、「SF小学教則」に「『ウィルソンリーダー』(Wilson's Readers)、ミッチェルの地理書、ロビンソンスの算術書、グードリッチの合衆国史などの初等教科書が見え」、日本で翻訳刊行されることになったのは、この「SF小学教則」に従ったためと説明されている。しかし、これは明らかな誤りであって、「SF小学教則」と翻訳版の「PG学校教則」とではテキストが完全には一致していない。例えば「PG学校教則」で、ウィルソン.リーダー、ミッチェル地理書、グードリッチ合衆国史をあげているが、それに対して「SF小学教則」では、マクガフィー・エクレクティック・リーダー(McGuffey's Eclectic Reader)、モンテース地理書(Monteith's Dntroduction)、スウィントン合衆国史(Swinton's Condensed History of the United States)が使われることとなっている。
この差異は何故か。ウィルソン・リーダー等はどこから入ってきたのであろうか。実ひ「PG学校教則」にあげられている教材類は、師範学校設立以前に南校教頭G・H・F1フルベッキが、小学教科書に適するものとして文部省にその採用を進言していたものである(明治5年3月)。それを受けて米国へ注文したのが「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」時であろう。その後、師範学校へ取り寄せられたこれらアメリカ合衆国のテキストを、「SF小学教則」訳出の段階であてはめたものと思われる。従って完全なる訳出版とはいえない。ある程度現実を加味する行為があり、翻訳し、テキストを組み入れ、整理されたものが「師範小学教則」である。  
5. 教授法書との関係
当時の教授法書は、スコットが示した授業の具体的行為を記したものであるが、その孝授例の示し方は一様に「師範小学教則」そのままとなっている。例として代表的な教授法書を次にあげる。
諸葛信澄『補正小学教師必携』(1875年)
 読物、算術、習字、書取(5級から作文)、問答、(体操と復読)
筑摩県師範学校編纂『上下小学授業法細記』(1874年)
 読物、復読、書取(5級から作文)、問答、算術、習字
林多一郎『小学教師必携補遺』(1874年)
 復読、読物、書取、問答、譜算及解算(算術)、習字、体操略
生駒恭人『小学授業術大意』下、(1876年)
 復読、授読、問答、書取、作文、算術、習字
青木輔清編『師範学校改正小学教授方法』(1876年)
 復読、読物、書取(5級から作文)、算術、習字、業間体操、問答法
金子尚政訳高橋敬十郎編『小学授業必i携』(1875年)、慶林堂
「此書ノ順序バー二東京師範学校頒布ノ小学教則ニ基ク(略)」
ほとんど教科の示し方は「師範小学教則」に従っている。また例えば前掲『小学教師必携』第7級「算術」で、ローマ数字が入り、「問答」6級から地理初歩のテキストが入るなど、「改正小学教則」から教材とその使用まで一致している。教授法についても教則そのままが多く、大きくその範囲を越えるものではない。問答法の具体例や、例として掛図類をつけ合わせた内容となっている。 
6. おわりに
スコットの伝えた教授法を検討するために、本稿では師範学校制定による小学教則についてみてきた。スコットの教授論の内容については、彼自身が体系的な論説を残していないので詳細にはわかりにくい。ただ彼によって伝えられた教授法は当時アメリカ合衆国で台頭していたオブジェクト・レッスンであり、その特質は「問答」教授の法であった。近代学校制度への転換により、個別指導から一斉教授へ形態が変えられていく。多量の教材を多数の子どもたちに、少ない費用をもって効率的に教授するには一斉教授法は不可欠だったといえる。初期の一斉教授では暗記による知識の蓄積が目的とされた点において注入主義がその方法原理となっていた。オブジェクト・レッスンもその本来の志向から離れて、注入主義的なベースをもって、単に示教方式を変更したに過ぎない場合があった。近代化を開始した当時の学校においては、一般にいかに教えるかよりも、何を教えるかが問題とされていた。教材論、教育内容にかなりの重点が置かれていた。スコットの教授には限界があったものの、当時この教授方法が唯一の近代的方法として、卒業生や教授法書を通して各府県へと普及されていった(この普及過程の実状については、さらに実証的研究を深める必要がある)。そして新しい教育内容、教材の入った師範学校の小学教則が、教授論上において注目されるのであった。
本稿の考察によれば、アメリカ合衆国(特にサンフランシスコ)の教則が原本となり、翻訳.整理されて師範学校附属小学教則が成立し、その教則に合わせて実際の授業がおこなわれ教員養成が進められたと考えられる。また教科書・教具も、この原本に合わせて訳出・準備され、教授法書も教則に従って著された。この点において、スコットはまさに日本近代教育の実質的パイオニアであったといえる。
 
ルートヴィッヒ・リース

 

Ludwig Riess (1861〜1928)
歴史教育、慶應義塾大学部、帝国大学、陸軍大学校教員(独)
ドイツのユダヤ系歴史学者、お雇い外国人。
プロイセン王国・西プロイセンのドイチュ・クローネ(現在のポーランド・西ポモージェ県ヴァウチ)生まれ。
ベルリン大学のレオポルト・フォン・ランケのもとで、厳密な史料批判を援用する科学的歴史学の方法を学ぶ。 1887年、26歳の時に東京帝国大学史学科講師として来日。科学的歴史学の方法を教えるとともに、1889年の史学会創設を指導した。1902年まで日本に滞在し、慶應義塾大学、陸軍大学でも教えた。妻は来日時に結婚した大塚ふくで、一男四女をもうけた。
帰国後はベルリン大学講師、次いで助教授となり新聞に日本事情を伝える連載をもった。 帰国の際には一人息子の応登(オットー)だけを伴った。1928年、ベルリンにおいて享年67歳で死去。
阿部秀助は、リースの娘を妻とし、リース『欧州近世史』を日本語に翻訳した。
「歴史を記述する」ということ
御雇外国人ルートヴィヒ・リース
史学会の創立を語る上でどうしても欠かすことができないのは、帝国大学の招聘を受けて来日したドイツ人歴史家、ルートヴィヒ・リースの存在です。明治維新後、欧米の先進文化を取り入れるため、政治、法律、軍事、経済などあらゆる分野の御雇(おやとい)外国人が日本にやってきましたが、リースもそのうちの一人でした。彼が日本にもたらしたものは、レオポルト・フォン・ランケらによって樹立された近代歴史学、すなわち史料(歴史資料)を収集し、それを批判的に分析し、事実を再構成するという実証的な歴史研究の手法です。
ベルリン国立図書館所蔵のリース書簡および帝国大学での講義録や著作などを研究した東京大学大学院法学政治学研究科長の西川洋一教授は、当時のリースの授業について次のように説明します。
「ドイツの大学では歴史研究の方法を学生に学ばせるため、演習(ユープンク)という授業形式を重視していましたが、リースは日本でもそれを採用しました。たとえば1888(明治21)年の演習で取り扱われた島原の乱の研究では、日本側の史料だけでなく、オランダ商館やキリスト教会関係などヨーロッパ側の史料を集め、それらを比較検討しながら蜂起の経過から鎮圧の過程に至るまでを再構成し、成果は論文として発表されました。学生たちは単にリースの講義を聴講するだけでなく、日本語の古文書を英訳するなどして史料分析に積極的に関わることで、近代的歴史学の手法に習熟したのです」。
正岡子規は随筆『墨汁一滴』で、自分が帝国大学を落第したのはリースの授業を落としたからで、その後もしばしば試験に苦しめられる悪夢を見ること告白していますが(6月16日の稿)、そのような学生は子規だけに留まらなかったようです。
「講義録を読むと、リースはドイツの大学で行われていたものと遜色のない、高いレベルの授業を行っていたことがよくわかります。リースを知る在日ドイツ人の書簡には、彼が学生に対して厳しすぎるので大学と揉めている、といった記述を見つけることができます」。
日本に早く根づいた近代歴史学
リースはまた、帝国大学に国史科が開設したことを機に同僚の重野安繹教授らに学会の設立と雑誌の刊行を勧め、その結果1889(明治22)年11月1日には、史学会発表会を兼ねた第1回学会が文科大学第10番教室で行われ、同年12月15日には『史学会雑誌』(後の『史学雑誌』)の第1号が発行されました。研究者のネットワークとしての史学会、および研究成果公表のためのフォーラムとしての『史学雑誌』を設けることによって、東京大学に日本の近代歴史学は誕生したのです。今から125年前のことでした。
ところで、現在まで続く主要な歴史学雑誌としては最古のものであるドイツの『Historische Zeitschrift』の創刊は1859年、イギリスにおける歴史学雑誌『English Historical Review』の創刊は1886年、アメリカ歴史学会の『American Historical Review』の創刊は1895年であることを考えると、ヨーロッパで生まれた近代歴史学の基礎は、驚くほど早い時期に日本に根づいたことがわかります。『史学雑誌』は2014年現在で123編におよび、毎年1 回開催されている史学会大会も関東大震災や第二次世界大戦、東大紛争による中止をのぞき、現在まで続けられています。・・・ 
歴史の読み方
日本には、三つの歴史文化が存在する。西洋史と、東洋史と、日本史である。この三つは、それぞれ独立の伝統があって成立しているものだが、それがたがいに重なり合って、日本人の歴史の認識を混乱させる原因になっている。だいいち、歴史を三本立てにするのは、日本だけのことだ。日本以外では、韓国を除いて、どこにも見つからない。
この三つの歴史文化は、明治の日本人が直面した、西ヨーロッパ・アメリカと、中国と、日本の現実に、それぞれ根源がある。
まず西洋史だが、これはルートヴィヒ・リースがはじめたものだ。リースはドイツ系ユダヤ人、一八六一年の生まれ、西プロイセン出身で、一八八〇年、ベルリン大学に入り、一八八四年、中世イギリス議会制度史の研究で博士号を取得した。この当時、ドイツの偉大な歴史学者レオポルト・フォン・ランケが、ベルリン大学教授だったから、リースもその門下生だったわけだ。
一八八六年(明治十九年)、日本の文部省が「帝国大学令」を公布して、東京大学を帝国大学と改称した。その翌年の一八八七年(明治二十年)、文部省はリースを招聘して、帝国大学の文科大学に「史学科」を開設し、そこでランケ史学を講義させた。当時、リースは二十六歳だった。
それから十五年、四十一歳で一九〇二年(明治三十五年)に帰国するまで、リースは、ドイツなまりの英語で講義し、ヨーロッパの最新の実証史学を、日本に移植するのに功績があった。弟子に、村上直次郎(一八六八―一九六六年)、幸田成友(一八七三―一九五四年)、辻善之助(一八七七―一九五五年)らがある。
リースは、帰国後はベルリン大学講師になり、ついで助教授となり、一九二八年、没した。六十七歳であった。
西洋史の伝統は、紀元前五世紀の「歴史の父」ヘロドトスにはじまる。ヘロドトスは、その本を、つぎのように書きはじめている。
「本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人の果した偉大な驚嘆すべき事蹟の数々――とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人々に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査(historiai)したところを書き述べたものである。」
この本はペルシア戦争について記したもので、ペルシア帝国のそもそものはじめから、紀元前四八〇年のサラミスの海戦で、ペルシア王クセルクセスがギリシア人に敗れて、命からがらアジアに逃げ帰るまでを叙述する。 この本は『ヒストリアイ』と題されているが、これは「研究調査」という意味である。ヘロドトスまでは、「ヒストリア」は「研究調査」という意味しかなかったが、ヘロドトスがこの題名で、世界最初の歴史を書いてから、「歴史」という意味を持つようになったのだ。
ヘロドトスはこれに続けて、つぎのように書いている。
「私はただ、ギリシア人に対する悪業の口火を切った人物であることを私自身がよく知っている、その人物の名をここに挙げ、つづいて人間の住みなす国々(polis)について、その大小にかかわりなく逐一論述しつつ、話を進めてゆきたいと思う。というのも、かつて強大であった国の多くが、今や弱小となり、私の時代に強大であった国も、かつては弱小であったからである。されば人間の幸運が決して不動安定したものでない理りを知る私は、大国も小国もひとしく取り上げて述べてゆきたいと思うのである。」
これはたいへん、意味深長だ。世界最初の歴史を書くにあたって、歴史の意味を、強大であった国が弱小となり、弱小であった国が強大になることわりを記述することだ、と宣言しているのだ。
これからはじまって、地中海世界や西ヨーロッパ世界で、マケドニア帝国、ローマ帝国、フランク王国を経て、仏・独・英の三強にいたるまで、列国の勢力の消長・交替を記述する歴史が書きつがれて、今日に至っている。ヘロドトスの伝統は、やはり強い。
そのつぎの日本史は、やはりルートヴィヒ・リースと関係がある。
史学科と並んで、帝国大学の文化大学に、日本史を扱う「国史科」が設けられたのは、一八八九年(明治二十二年)である。これに先だって、渡邊洪基帝国大学総長はリースの意見を徴し、リースはこれに答えて詳細に、国史科の課程と運営につき意見を述べている。
もともと、日本史には、七世紀の後半にさかのぼる、古い伝統がある。壬申の乱で大友皇子を倒して、日本天皇となった天武天皇が、六八一年に詔して、帝紀、及び上古の諸事を記し定めさせたのにはじまって、七二〇年、元正天皇のときに『日本書紀』三十巻となって結実した。
これがもとになって、『続日本紀』(七九七年)、『日本後紀』(八四〇年)、『続日本後紀』(八六九年)、『日本文徳天皇実録』(八七九年)、『日本三代実録』(九〇一年)の、いわゆる六国史ができた。
この日本史の建前は、日本は紀元前六六〇年、神武天皇が大和の橿原で即位した時にできたことになっているが、これは、秦の始皇帝が紀元前二二一年、中国をはじめて統一したときよりも、ずっと古い。そういうわけで、日本は中国よりも古い起源があるんだ、と主張しているわけだ。
日本では、それから九世紀近く、韓半島があることさえ知らなかったが、二〇〇年になって、神功皇后が「宝の有る国」新羅があることを察知して、海を渡って遠征に出かけた、ということになっている。
これは日本の歴史の独自性の主張だ。日本は六六八年の建国以来、内では、万世一系の皇統を堅持する一方、外の中国・韓半島に対しては、一貫して独立を守ってきた。この鎖国の伝統が破られたのは、一八七一年(明治四年)、清国とのあいだに締結された日清修好条規がはじめてである。
そういうわけだから、前五世紀のヘロドトスにはじまる西洋史の伝統と、八世紀の『日本書紀』にはじまる日本史の伝統では、まず水と油で、どうにも混じりようがない。このことは、リースが気にしていたようだ。
その証拠に、リースの高弟の村上直次郎が日欧交渉史を専攻、欧文史料を駆使して対外関係史の基礎を確立したとされ、おもな業績に『耶蘇会士日本通信』、『長崎オランダ商館の日記』などの翻訳がある。またおなじくリースの高弟の幸田成友には、『日欧交通史』の著書がある。
その後、史学科、国史科と並んで、中国史を対象とする「漢史科」というものが設置されたらしい。リースの帰国後の一九〇四年(明治三十七年)になって、国史・史学・漢史の三科は新しい「史学科」に統合され、そのなかに「支那史学」と「西洋史」という分野が公認された。その後、一九一〇年(明治四十三年)、支那史学は「東洋史学」と改称された。これで国史、東洋史、西洋史という三つの分野が出そろったわけである。文科大学が文学部と変わり、単一の史学科が三つに分かれて、国史学科・東洋史学科・西洋史学科という、それぞれ独立の学科になるのは、一九一九年(大正八年)からである。ただし現在では、ふたたび統合されて、「歴史文化学科」となり、そのなかに日本史学、東洋史学、西洋史学、考古学、美術史学の五つの専修課程が含まれるようになっている。
さて、中国世界は、地中海世界と並んで、独自の歴史文化を持っている。その「歴史の父」は、紀元前二世紀から一世紀のはじめの、前漢の司馬遷である。
司馬遷は、中国の「正史」の第一である『史記』を書いて、「紀伝体」をはじめた。その第一篇「五帝本紀」では、「天下」(中国)を支配すべき「天命」は、「禅譲」によって伝わるという。ついで夏・殷・周では、天命は「放伐」によって、徳のある者から徳のある者へと伝えられ、やがて秦の始皇帝が紀元前二二一年、中国を統一して最初の皇帝になる。つぎに秦が亡びて、項羽が一時、覇を唱えるが、やがて前漢が起こって、高祖、呂太后、孝文皇帝、孝景皇帝とつづき、とうとう「今上本紀」、すなわち司馬遷の仕えた前漢の武帝に至るまでを記述する。
これはまったく政治史だが、これと対応する「列伝」でもその通りで、本人の容貌・体格はもとより、生没の年月日まで、書いてないことが多い。その代わりに、どの皇帝のどの政策と関係したか、詳細に書いてある。
『史記』の体裁は、やはり紀伝体の班固の『漢書』や、陳寿の『三国志』によって後世に伝えられたが、そのさい、いちばん強調されたのは、その王朝が天命をどうやって受け継いだかだった。だから『三国志』では、天命は後漢から魏が受け継いだことになっている。蜀でも呉でもない。これは魏から天命を受け継いだ王朝が晋であり、『三国志』の著者の陳寿が晋に仕えたことを考えれば、魏を重要視するのはうなづける。
しかしその結果、これからあとの中国は、どの時代をとっても、『史記』が描写する、前漢の武帝の時代と変わりがないことになった。中国には、時代ごとの変化がない。黄帝以来、すこしの変わりもなく、おなじ中国がつづいている。
そんなはずはない。いくら中国だって、時代ごとの発展があるはずだ、というのが、湖南・内藤虎次郎の考えだった。湖南は、京都帝国大学に、一九〇六年(明治三十九年)文科大学が開設されると、翌年(明治四十年)講師に迎えられて、東洋史第一講座を担当し、ついで二年後(明治四十二年)には、教授に昇任している。
湖南は、一九一四年(大正三年)『支那論』を発表して、中国の歴史を「上古」・「中世」・「近世」の三つの時代に分ける考えを出した。とくに、北宋の時代(十―十二世紀)から皇帝の権力が強くなるいっぽう、貴族階級が消滅して平民が台頭し、商業がそれまでになく盛んになったというところをとらえて、十世紀までが中国の中世であり、十世紀からあとが中国の近世である、と考えた。この内藤湖南の考えは、日本の東洋史学者に歓迎されたし、欧米のシナ学者にも影響を与えた。
しかしこれをもって、東洋史と西洋史が統一された、と喜ぶのは早計である。日本史と、東洋史と、西洋史は、今でも「歴史文化学科」のなかで、自分の領分を主張しあっていて、その矛盾が、近く解決される見込みはない。結局、日本には、あい矛盾する三つの歴史文化が存在するのである。 
19世紀学・ヨーロッパ・歴史学
・・・以上に紹介したオスターハンメルの『世界の変貌』は、「19世紀学」研究を展望する上でも、様々な示唆を与えてくれている。
まず、「19世紀」いう時間的な枠について。『世界の変貌』が示すとおり、19世紀を、今日の我々が慣れ親しんでいるカレンダー上の100年間に限定せず、また、ヨーロッパ史に引きずられた「長い19世紀」概念に縛られることもなく、1760年代から1920年代にいたる「より長い19世紀」として緩く把握することは、「19世紀学」にとっても生産的と思われる。法制史研究の大家である石井紫郎は、「19世紀学」学会の設立に際して、日本史には19世紀という枠組よりも「19.5世紀」、つまりペリー来航あたりから第二次世界大戦までの100年を一括りにする枠組の方が妥当ではないかという提案をした79。こうした日本史の視点も、「より長い19世紀」は受け止める余裕を持つように思われるからである。と同時に、「より長い19世紀」は、「近代」や「モデルネ/モダニティ」という社会学的概念の一元性や曖昧さとは無関係であることも80、その魅力の一つであろう。
次に、「ヨーロッパ」という枠組みについて。『世界の変貌』は、19世紀のヨーロッパの意義をアプリオリに自明とせず、グローバルな検討を行い、結果的にそれの特殊な位置価を明確にした。とくに、19世紀ヨーロッパの知あるいは文化 ―― 具体的には、様々な理念や学問、その制度的基盤 ―― が、世界中の準拠枠として一極化したという指摘は、「19世紀学」の出発点とも重なり合う81。例えば、日本における近代歴史学も、明治政府のお雇い外国人であるドイツ人ルートヴィヒ・リース(1861−1928)の影響の下に始まった82。しかし、21世紀を迎え、世界の中でのヨーロッパの重要性は、19世紀に比べて大きく後退した。グローバル・ヒストリーは、そうした変化への歴史学研究の対応の一つとして登場した。にもかかわらず、「〔グローバル・ヒストリー研究にかかわる〕諸組織、フォーラム、議論などはこれまで通り『西洋』のもの」とみなされてもいる83。事実、『世界の変貌』は、アジアからではなくヨーロッパから生まれ、著者自身も認めるとおり84、それは「ヨーロッパ中心主義」的な要素も多分に持つ。「『ヨーロッパ』に帰属意識を持つ人々が『ヨーロッパ』に帰属意識を持つ人々のために歴史を記せば、それはどうしてもヨーロッパ中心史観となる85」という指摘は正鵠を射ている。「ヨーロッパ」という概念自体の問い返しがなされない限り、「ヨーロッパ中心主義を批判する人々が、いくらヨーロッパ史の見直しを試みても無駄86」、という挑戦的な発言を、「19世紀学」はきちんと受け止めていく必要があるだろう。
最後に、「学問」について。『世界の変貌』は、出版後1年ほどで5刷が出された。大部の ――しかも、文字通り飾り気のない ―― 専門書としては、例外的な売れ行きである。歴史家にとっての本書の魅力は、主に前節で取り上げたいくつかの特徴にあると言えるだろう。しかし、本書を手にしたのは、歴史家だけではない。一般の読者層にとって『世界の変貌』が持つ魅力は、何よりもグローバル・ヒストリー自体の面白さと、それを遺憾なく伝えるオスターハンメルの巧みな表現力にあると思われる87。グローバル・ヒストリーのダイナミズムは、既存の国家の枠組みを前提とし、それを比較煙煙するインターナショナルな思考法に加え、その枠組みを超え、様々なレベルでの関係性煙煙煙を問うトランスナショナルな発想法に由来していると言えるだろう。同様にそれは、狭義の歴史学にとどまらず、社会学、政治学、経済学、文学、あるいは外国事情研究、地域研究などに基づく知的関心にも応じる可能性を持つ。そこには、既存の学問の枠組みを前提とした学際性=インターディシプリナリティにとどまらず、それを乗り越える「トランスディシプリナリー」という概念も見え隠れしている88。「19世紀学」も、様々な分野や関心の研究に開かれた学煙の構築を目指していくべきではないだろうか。 
戦後史学における歴史否定の問題とその相克 
一 ヘーゲルか、ディルタイか?
「あらゆる歴史は、過去である」
「あらゆる歴史は、現代史である」
ここに二つの文章を設定してみた。前者は、広辞苑による歴史の定義、すなわち歴史とは、「人類社会の過去における変遷・興亡のありさま」から必然的に導かれる文辞である。
後者は、イタリアの歴史家クローチェによる、つとに知られる命題である。ところで、我々が通常に持つ語感からすれば、当然歴史とは過去のものであり、その意味では前者の文辞に断然説得される。しかし、歴史とは単純に過去に属するものであり、現在とは無縁のものであると、そう簡単には切り離し得ない。その意味で、後者のクローチェの命題にこそ、歴史というものの真髄があるのは言うまでもない。
「あらゆる歴史は、過去である」との文辞は、歴史哲学の領域でいえば、ヘーゲルの拠って立つ立場から必然的に導かれるものである。ヘーゲルの歴史哲学は、歴史を理性や精神といった高みからとらえる。いや、むしろ歴史は、理性や精神がその未熟な段階から理想的なそれへと自己発展を遂げる場の意味しか与えられず、その自己発展の過程を弁証するものに他ならない。したがって、理性や精神の自己発展の過程である歴史は、何よりも進歩の歴史であり、過去よりは現在、現在よりは未来のあり方が優れたものと認識される。逆に過去は、現在、未来という高みからは厳然と切り離された未熟なものであり、その高みから容赦なく断罪される運命を背負ったものとなる。
頭で逆立ったヘーゲルの観念論を元に戻したとするマルクス流唯物史観もその呪縛から解き放たれてはいず、やはり歴史は未熟な社会から輝かしい共産社会へと至る道程を弁証するものでしかない。ここでも過去は現在、そして未来に仕える奴隷たる地位を免れない。この奴隷をいかように扱おうが、それは現在、未来の人間の自由である。
それに対し、「あらゆる歴史は、現代史である」とのクローチェの命題は、歴史哲学的にはディルタイのそれから導き出されるものである。理性哲学の対極にある「生の哲学」を基盤としたディルタイの歴史認識は、歴史を理性や精神という高みからとらえない。「理解」という言葉とともに知られる彼の歴史認識は、認識者自身の歴史存在への「追構成」、「追体験」がその前提としてある。つまり認識者自身が歴史に身を投じ、歴史的疑似体験を経ることで、その創造的再現を試みるのである。その営為自身が、過去は、現在、未来と密接に関わるものということを前提としており、無論、現在、未来の高みから過去を断罪するという方法論からは解放される。まさに「あらゆる歴史は、現代史」であり、過去の苦しみ、過ちは、現在の我々がそれらを共有すべきものであり、逆に現在の呻吟は過去にその淵源を求めうるものとなる。
もちろん、ヘーゲル流の歴史認識であれ、ディルタイ流のそれであれ、それらはともに完璧なものではない。前者は過去をいたずらに犠牲にしがちであり、後者はともすれば、過去に情けを置きがちになる傾向は避け得ない。しかし、マルクス流唯物史観の大波にさらわれた戦後史学は、余りにも前者の歴史認識にシフトしすぎた。しかも、その眼前には、断罪するにこれほどの好餌があるかという太平洋戦争が存在する。その赴くところ、太平洋戦争とそこに収斂される近代日本史の過程は、基本的には暗闇につつまれたものであり、できうれば我々日本人の記憶から一刻も早く消し去りたい歴史の過程に他ならないものとなる。そうした歴史認識の典型的な例を我々は家永史観に求めることができ、今もってその残滓が拭い去られたとはいえない。 
二 家永史観と教科書叙述の現状
自身が執筆した高等学校用日本史教科書が文部省検定によって不合格とされ、それを不服として起こされた、いわゆる「家永教科書裁判」で知られる家永三郎は、その著『太平洋戦争』の中で、この戦争を「汚辱の歴史」として、次のように記す。
太平洋戦争の歴史は、日本の歴史上に前例のない汚辱の歴史であり、人民惨苦の歴史であった。日本史の研究者はこの動かすことのできぬ厳然たる事実をたじろがぬ勇気をもって見つめることが必要であり、美化された偽わりの歴史に代わる客観的な史実を国民の前に明らかにすることが、科学的研究を生命とするものの義務であると確信する(『太平洋戦争』岩波書店、昭和六一年)。
家永が「汚辱の歴史」とするそのシンボルが、南京事件であり、従軍慰安婦問題であり、七三一部隊となるのだろうが、家永は『太平洋戦争』では悪罵の限りを尽くしこれらの問題に触れるも、検定不合格を受けてその不合格教科書を世に問うた『検定不合格 日本史』(三一書房、昭和四九年)では、さすがに教育の現場ということを配慮したのか、意外にもこの三点には触れない。
逆に、教科書上における「汚辱の歴史」追求に関しては、むしろ近年ますますエスカレートする。今、私の手元にある四社の教科書(山川出版社、三省堂、桐原書店、実教出版株式会社)では、南京事件、従軍慰安婦問題については記述の差こそあれ、全ての教科書で触れられ、七三一部隊については、そのうちの二つ、桐原書店、実教出版の教科書で触れる。とりわけ桐原書店のそれは、上記三点を強調する傾向が最も強く、七三一部隊については他社とは異なり、本文中でその所業を記述する。加えて同部隊を「細菌戦部隊」と太字で紹介し、研究棟の写真までが掲載される。
家永史観であれ、それを受けた現在の教科書叙述であれ、前節で触れた二つの歴史哲学のスキームでは、ヘーゲル、マルクス流の歴史哲学が生み出した赤子である。その意味で、こうした教科書叙述の現状に異を唱えるべく立ち上げられた「新しい歴史教科書をつくる会」の設立趣意書の中に、ディルタイにおける歴史哲学上重要な術語である「追体験」という言葉が見えるのは何とも興味深い。それに言う。
「わたしたちのつくる教科書は、世界史的視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写します。私たちの祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です」。
そう考えれば、家永史観と現在の教科書叙述と、対するに「つくる会」の設立とは、歴史哲学的には、一方におけるヘーゲル、マルクス流歴史認識と、他方におけるディルタイ流歴史認識のそうした対立軸がその根底にあるものと言える。 
三 歴史から人が消えた!
太平洋戦争とその前史が、マルクス流の唯物史観の仮借ない洗礼を浴びる様は、家永史観に加え、遠山茂樹、今井清一、藤原彰の共著による『昭和史』(岩波書店、昭和三〇年)がその顛末をあますところなく伝える。発売わずか四〇日余で六刷りを数えたベストセラーでもある。
経済的下部構造を重視する中、人間の主体的な営みを軽視するこの史観に異を唱え、後に「昭和史論争」と呼ばれる論争のきっかけを作ったのが亀井勝一郎であった。亀井は『文芸春秋』に、「現代歴史家への疑問」(昭和三一年三月号)と題する論文を寄せる。亀井は言う。「『昭和史』を私は通読したが、また現代歴史家の欠点を、これほど露出してゐる本もない」。
亀井がそう断じた批判の専らは、唯物史観に付随する人間の営みの軽視、あるいはその描写の乏しさに向けられる。その点を亀井は、「この歴史に人間がゐない」、あるいは「個々の人物の描写力も実に貧しい」とした上で、「昭和史は戦争史であるにも拘らず、そこに死者の声が全然ひびいてゐない」と苦言する。さらにこう断罪した。
「要するに歴史家としての能力が、ほぼ完全と云つていいほど無い人人によつて、歴史がどの程度死ぬか、無味乾燥なものになるか、一つの見本として『昭和史』を考へてよい」。
それに対し、著者の一人遠山茂樹は『中央公論』に、「現代史研究の問題点」(昭和三一年六月号)と題する文章を寄せ、亀井の批判に応える。人間がそこにいないという亀井の批判に対し、「その言葉に異議はない」と同意した上で遠山は、そもそも歴史学と文学とでは人間の描き方に違いがあるとしてこう述べた。
「私がはつきりさせたいことの一つは、歴史社会科学で人間をえがくことと、文学芸術で人間をえがくことの、内容上のちがいである」。
そしてその点をはき違えると、「歴史は科学の分析の外にはみ出し、感動すべきもの、非科学になつてしまう」として、自己の立場を弁じた。
この論争の中にもまた、人間の具体的描写を通じ、歴史をディルタイ流の「理解」に沿って構成すべきだとする亀井の立場と、一方、上部構造にすぎない人間の営みを通じて歴史をみるのではなく、あくまで下部構造によって規定されるところの歴史的法則に歴史を沿わせようとするマルクス流唯物史観の対立がある。
いずれにせよ、ディルタイ流の歴史認識とは対極に振れすぎた家永史観、そして『昭和史』史観によって、太平洋戦争とその前史が極めて空疎なものとなってしまったうらみは消えない。 
四 丸山真男の功罪
戦後論壇の寵児となり、文字通り戦後思潮をリードした丸山真男が、政治学上に残した足跡はあくまでも偉大である。戦前の京都学派に代表されるように概念的、形而上的傾向が強かった政治学を、しかと社会科学の中に位置づけるなど、西洋合理主義的観点から政治学を根拠づけようとした功績は、いかようにしても否定しきれるものではない。しかし、理性の高みから歴史を分析するという、その合理主義的手法が効果を上げているかという点については疑問が残る。
敗戦に打ちひしがれた多くの人々の心をとらえた有名な論文「超国家主義の論理と心理」(『世界』昭和二一年五月号)もまた、戦前日本の歴史分析としては物足りない点が残る。
そのゆえんは、丸山がヨーロッパの国家のあり方を一つの理想として、その高みからそうはなり得ていない戦前の日本を断罪することに終始している点にある。
例えば、丸山はヨーロッパの近代国家の特長が、カール・シュミットの言う「中性国家」、すなわち国家そのものが真理や道徳などの価値については中立的立場をとる点にあるとした上で、日本の場合、天皇制国家に象徴されるように如何にそうなり得ていないかの叙述に終始する。つまるところ丸山の手法の欠点は、なぜそうならざるを得なかったのかのゆえんにつき、過去に自らを投じ、その点から歴史を理解し分析するということの欠如にある。
それは戦前を分析した丸山の他の論文でも見受けられる。「日本におけるナショナリズム」と題する論文において丸山は、ヨーロッパの古典的ナショナリズムのように日本は、それとデモクラシーの諸原則との「幸福な結婚」がなかったとし、それゆえに日本のナショナリズム、ひいては戦前の日本が、民主化が目的とする「国民的解放の課題を早くから放棄」せざるを得なかったと分析した。しかしながら、考えてみれば日本とヨーロッパとでは近代国家への歩みのタイミングやその諸条件は全く異なっていることは言うをまたない。そうしたことをすっぱりと捨て去った上で、単にヨーロッパのナショナリズムをひとつの基準に、日本のナショナリズムのありようを批判する丸山の方法論には最終的には合点しかねる。要するに丸山が言うように、「中性国家」が理想としても、ナショナリズムとデモクラシーとの「幸福な結婚」が望ましいとわかっていながらも、それには日本と英仏とでは余りにも客観情勢が異なりすぎていたとの点には顧慮が払われない。
このような丸山の歴史に対するとらえ方の対極にあるのが、彼の好敵手とも言うべき小林秀雄のそれである。過去への「理解」の下、過去をしてじかに語らせることで、現在にその像を浮かび上がらせるべきとする小林は、本居宣長に仮託しそうした方法論の必要なるゆえんを説く。宣長をはじめ、古人の歴史に対処する姿勢を、「事物に即して、作り出し、言葉に出して来た、さういふ真面目な純粋な精神活動」(「本居宣長」)と評価する小林は、以下のようにも記す。
彼の古学を貫いてゐたものは、徹底した一種の精神主義だつたと言つてよからう。むしろ、言つた方がいい。観念論とか、唯物論とかいふ現代語が、全く宣長には無縁であつた事を、現代の風潮のうちにあつて、しつかりと理解することは、決してやさしい事ではない(同上)。
戦後歴史学の不幸は、以上に挙げた亀井や小林をはじめ、歴史認識における合理主義や理性過剰を戒める役割を担ったのが文学者たちであり、あるいは単にそれが文学者一流の直感にすぎないと受け取られたことにある。それは「三角帽子」なる匿名で服部達、遠藤周作、村松剛という文学者三名が、唯物論や合理主義に抗し形而上の復権を意図して始めた実験とその挫折にうかがえる。昭和三十年、「メタフィジカルの旗の下のもとに」とのタイトルで『文学界』での連載が始まるが、その試みが、服部達の自殺という悲劇的な出来事があるも、わずか一年で終焉したことにもうかがえる。文学者たちによるささやかな抵抗を尻目に、そしてその火の粉を振り払いつつ、丸山流の理性による歴史認識が大手を振って闊歩していったことは、必ずしも戦後史学を豊かにしたとは言いがたい。 
五 「先祖に対して抱く共通の誤解」も必要
「民族とは、先祖に対して抱く共通の誤解と、隣人に対して抱く共通の嫌悪感とによって結び合わされた集団である」、との言がヨーロッパにはある。一般にこの言葉は、所詮は民族なるものは幻影にすぎないとの例証として引用される場合が多いが、しかし、民族であれ、国家であれ、そうした集団がある種のアイデンティティを確立する際には、「先祖に対して抱く共通の誤解」、すなわち歴史が必要であることをも併せて伝える。
もっとも、アイデンティティの確立に際し、歴史を必要とするのは何も民族や国家ばかりではない。個人にとっても、自己のアイデンティティを確立する上で自らの来し方を振り返ることは必要である。例えば、心理学者、榎本博明は、自己のアイデンティティの確立を期し、自らの歴史を振り返ることで語られる「自己物語」の重要性を指摘する。
青年期の自己の探究とかアイデンティティの確立とか言われるものは、このような自己物語の構築を意味するものと言ってよいであろう。自分なりに納得がいき、なおかつ自分のことを理解してもらいたい周囲のひとたちを納得させることのできる自己物語の探究がいわゆる自己の探究であり、そのような自己物語が構築できたときにアイデンティティが確立されたという。このような自己物語をもつことにより、過去から現在に至る生活史の諸要素が一定の流れのもとに配置され、そこに人生の意味というものが現れてくる。自己物語が確立されていないと、自分としてのまとまりをつける求心力が欠けるため、日々の生活の諸要素がバラバラに散逸してしまう。アイデンティティの拡散とは、まさに自己の生活史をまとめあげる物語の欠如を指すと考えることができる(『〈私〉の心理学的探究』有斐閣、平成一一年)。
自己のアイデンティティ確立について記す上記の文章中、「自己」を「国家」に、さらに「自己物語」を「自国史」と置き換え読む。と、なるほど国家アイデンティティの確立には自国史への深い理解が必要だと合点される。
昨今、愛国心ということが喧しく語られるが、自国を愛すなどと口に出すことに面映ゆさを覚えるならば、それを国家アイデンティティの確立と言ってもよい。国を愛すなどということに嫌悪感を催すものも、よもや国家アイデンティティの確立までは否定しまい。その確立に何としても歴史が必要であるとすれば、歴史の否定は国家アイデンティティの崩壊を意味することは言うをまたない。
しかし、現今の日本を顧みるに、すでに国家アイデンティティの崩壊は至る所に散見される。 
六 国際的「ひきこもり国家」=日本
今、世上をにぎわす不登校、ひきこもりが、自己アイデンティティを確立しえないところから起こるのは言うまでもない。自己アイデンティティの未確立は、自己否定と軌を一にする。心理学でいうところの、「I am not OK」である。逆に自己アイデンティティの確立と「I am OK」とはパラレルな関係にある。この自信が、「You are OK」にもつながる。
この関係を国家としての日本に置き換えると、一国平和主義といい、アメリカをはじめ余りにも諸外国に自己主張できない日本は、いわば国際的ひきこもりという宿痾に罹患していると言ってもよい。ひきこもりの背景に自己否定があるとするならば、自国の歴史をこれまでかと否定する日本が、国際的にひきこもるのは余りにも明快にすぎる。
国際的ひきこもりを克服するかぎは、自国史への深い理解以外にはないが、それはまた良き国際人たる要件にもつながる。自国の文化であれ、歴史であれ、そこに土台を置かない者に、良き国際人たる資格はない。国際官僚として長きにわたり国連に奉職した明石康の次の言葉はそのことを伝える。
国際公務員になることは、抽象的な世界主義に殉じることでもなければ、自国以外のすべての国を愛するディレッタントになることでもない。自国社会での適応に失敗して海外逃亡をはかる根なし草的人間と、職場としての国連とは無縁である。……国際官僚は自国でも立派に通用する人でなければならない。自国の文化なり思考様式なりに対する理解にたって、よい自国紹介者であることが必要な資格といえるのである(『国際連合』岩波新書、昭和六〇年)。
ギリシャ神話にも比すべき古事記の荘厳な神々の世界を詠じ、また、絢爛豪華な一大絵巻とも言える源氏物語をそれにふさわしい言葉で語る。そのような日本人の育成を、今や日本の歴史教育は放擲し去った。それは同時に良き国際人たることの放棄でもある。
日本史への誇りと矜持の喚起をもはや日本人自らに期待することはできない。以下の話はそのことを物語る。 
七 ライシャワーの慧眼と「明治デモクラシー」
理性の高みから歴史を眺め、場合によってはこれを裁くというスタンスではなく、過去への「理解」から虚心坦懐に明治以来の近代日本史を跡づけ、これに一定の評価を与えた一人が、ライシャワーという外国人であるというのは何とも皮肉である。
ライシャワーは、大正デモクラシーは言うに及ばず、明治のしかも初期に「非常にリベラルな傾向」がすでに存在し、それがそのまま戦後の民主主義につながっているとし、次のように記す。
どうやら、戦争直前の時代や明治時代のことから日本を考える人は多いが、大正から日本を見る人は少ないようです。ですが、明治前半には非常にリベラルな傾向が存在しました。それから明治後半に、強烈な帝国憲法時代へのスイングがきました。日清・日露の戦争と第一次世界大戦の時代です。それからまた、大正デモクラシーへと流れが変わりました。ついで、またもやスイング、反対の方へ曲がって戦争がきます。リベラルな方への二度のスイングと、反対への二度のそれと、どちらが重要なスイングでしょうか。リベラルです。ですから、明治初期、大正デモクラシーそして現代日本というのは、ほんとのひとつながりなのです(松尾尊允『大正デモクラシー』岩波書店、平成二年)。
こうしたライシャワーの戦前期デモクラシーの評価と軌を一にするものとして、近年興味深い本が出版された。『明治デモクラシー』と題するこの本の著者、東大名誉教授の坂野潤治は、早くも明治時代に確たるデモクラシーが存在し、それが戦後の民主主義につらなるとした。この著の「はじめに」で坂野は次のように記す。
本書が明らかにするように、「主権在民」の思想は一九四五年の敗戦によって生れたものではない。それよりも六五年前の明治一三年(一八八〇)には、この思想は国民的運動の一角を支配していた。また、自由民主党の一党支配に対抗する、政権交代を伴った議院内閣制の主張も、最近の一〇年間に初めて生れたものではない。それは明治一二年(一八七九)には明確な形で定式化され、昭和七年(一九三二)まで、民主主義論の有力な一角として存在しつづけたのである(『明治デモクラシー』岩波書店、平成一七年)。
ところで、すでに明治の初期にデモクラシーの基礎ができあがっていたとのライシャワー、坂野の所説は、理屈を超えて純粋に日本人としての誇りを回復させてくれる。先に『昭和史』の執筆者のうちの一人の遠山が、歴史社会科学の領域で人間を描くことが歴史をして「感動すべきもの、非科学的になってしまう」と警鐘したが、歴史を理性のうちに閉じ込め、それを感動と誇りの対象外においやったことで、我々日本人はいかほどのことを得たのであろうか。少なくとも現行の教科書がそうした感慨を呼び覚ますことはないし、それはもはや期待できない。
その点、ここにどうしても記述しておきたい文章がある。それは常に私に日本人としての誇りを担保させてくれる私の最も愛してやまない歴史叙述であるが、それがまた外国人ネルーであるというところに一抹の悲しさを覚える。この文章はまた、暗黒に満ちたとされる戦前期の日本に一つの光明を与えつつ、その歴史的事件についての最も客観的公正な評価をなしたものとしても白眉である。それは日露戦争に関わることである。
かくて日本は勝ち、大国の列にくわわる望みをとげた。アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとなが、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。ナショナリズムはいっそう急速に東方諸国にひろがり、「アジア人のアジア」の叫びが起こった(大山聡訳『父が子に語る世界歴史』第三巻、みすず書房、昭和四〇年)。 
八 「History」ではなくなった日本の「歴史」
ここで一言、ランケ史学の問題点についても触れておかねばならない。近代歴史学の確立にランケが果たした役割は如何様にも否定できるものではない。とりわけ、未だ文学の領域と不分明であった歴史学に史料批判という科学的方法論、すなわち実証主義を導入した功績は、たとえ彼に批判的立場を有するとしてもあくまで評価されなければならない。しかし、彼が抱懐する西洋中心史観は、当時世界の中でヨーロッパが置かれた位置がそうなさしめたとはいえ、その後も長く歴史学の世界を呪縛し、その意味で批判の俎上に上げざるを得ない。バイエルン国王マクシミリアン二世への進講集ともいえる『世界史概観』(原題は「近世史の諸時代について」" Uber die Epochen der neueren Geschichte"、岩波文庫、昭和三六年)の中で彼は記す。
「一切の古代史は、いわば一つの湖に注ぐ流れとなってローマ史の中に注ぎ、近世史の全体は、ローマ史の中から再び流れ出るということができる」。
ランケに典型的に現れるこうした歴史認識は、時代区分法としては、「古代ギリシャ・ローマ時代」、「中世」、「近代」の三区分法として人口に膾炙する。言うまでもなく、マルクス流唯物史観の歴史区分はこれを踏襲したものに他ならない。本来ヨーロッパ史を枠づけるものでしかないこうした歴史区分が、ヨーロッパ以外の国の歴史を無惨にも引き裂いたのは言うをまたない。こうした歴史認識は、日本へは明治一〇年以来、東京大学で歴史学を講じランケの忠実な弟子でもあったルートヴィッヒ・リースによってもたらされる。ランケ史学に影響を受けた唯物史観と、西洋中心史観が、とりわけ戦後、日本史を実り豊かな物語とすることを妨げる。
一方、ランケ流実証主義が、歴史を魅力のないものにしたことは否めない。それはまた、ランケを生んだドイツ史学の特徴かもしれない。ドイツ語で「歴史」を意味する「Geschichte」は、「geschehen」、すなわち「生じる、起こる」という動詞の名詞形であり、したがって「Geschichte」がもつ語感からすれば、歴史を「過去に起こったこと」ととらえているといえる。そうだとすれば、ともすれば歴史をして単に過去の出来事の陳列物としがちであり、その赴くところ過去の出来事をひたすら忠実に拾いあげようとする過度の実証主義を胚胎するその基盤を提供することにもなる。
一方、英語の「history」は、同じく「歴史」を意味しながらも「Geschichte」とは好対照をなす。その語源、ギリシャ語の「historeo」は、「探究した結果を叙述する」という意味をもち、その語感からすれば歴史を本来「物語るもの」とみなしているといえる。もちろん、歴史は、「Geschichte」と「history」の両要素によって構成されるが、日本が影響を受けたドイツ流実証主義は、とりわけアカデミズムにおける専門主義の影響もあって、歴史をして単に過去の出来事の陳列としてきたことは否めない。ランケは歴史を文学から切り離そうとしたが、その行き着くところ彼の亜流たちによって歴史から「物語」の要素は捨て去られた。先に、昭和史論争の中で遠山茂樹が、歴史を文学芸術とはきちがえると、「社会科学の分析の外にはみ出し、感動すべきもの、非科学になってしまう」と述べたことを紹介したが、こうした極めて有害な謬論が歴史から物語の要素を排除した先に跋扈する。
いずれにしてもランケ流の西洋中心史観、そしてその鬼っ子ともいうべき唯物史観、さらには合理主義という名のもと追求された実証主義によって、戦後に描かれる日本史はもはや人をひきつけるものではなくなった。 
九 歴史否定の相克を目指して
――オルテガの歴史認識をヒントに
本稿の冒頭で私は、ヘーゲル、マルクス(あるいはランケ)流の理性的歴史認識を一方に据え、他方に、理性哲学に抗すものとしてある、生の哲学を背景としたディルタイの歴史認識を置き、そのスキームの中で、戦後史学の問題点を考えてきた。太平洋戦争という尋常ならざる国難もあり、戦後史学が歴史を断罪し否定するベクトルを指し示しているとすれば、それは上記二つのスキームのうち、戦後史学が大きく理性的歴史認識にスイングしすぎたことと無縁ではない。もし歴史に正当な光を投じ、これに的確な評価を与えようとするならば、反対方向に振れすぎた振り子を呼び戻す以外に方法はない。そのヒントになりうるものが、理性的歴史認識とは異なる、ディルタイに代表される歴史認識であることもまた言うをまたない。
実はこのディルタイを敬愛し、彼に極めて高い評価を与え、その方法論に沿って歴史を認識しようとした一人にオルテガがいる。オルテガはディルタイをして「十九世紀後半における最も重要な思想家」(「体系としての歴史」)としたが、本稿は、戦後史学の中で歴史否定の相克に向けヒントになりえる極めて重要な歴史認識を提示したものとして、オルテガのそれを見ることで結びとしたい。
そもそもオルテガにとって過去とは、理性的歴史認識がそう考えるように、過去は現在と断絶されたものではない。そもそも人間をもって「存在を累加し、過去を蓄積し続ける」存在とするオルテガにとって、「人間の真正の『存在』は、その全過去をひろげてよこたわっており」(同上)、「過去は、かなたに、その日付けのところにあるのではなくて、ここに、私のうちにある」(同上)。
それゆえにこそ、現在的生の立脚点は過去の省察により見出される。
「現在とは、過去の要約である。そして、過去を分析するということは、今日にいたるまでの人間の運命についてのパースペクティヴを現在的なもののなかに見ることを意味する」(「危機の本質」)。
こう説くオルテガは、「過去を忘れたり過去に背を向けたりすることは、今日われわれが直面しているような結果を、つまり人間の野蛮化をもたらす」(「観念と信念」)とまで警鐘した。過去が深く現在と結び合わされているとすれば、それは未来も同様である。当然、「すでになしてきた生の経験は、人間の未来を制限する」(「体系としての歴史」)のは言うまでもない。
時間の概念をこのように考えるオルテガにして、時系列を細切れにする理性的歴史認識とその典型たるヘーゲルは彼に敵するものである。「形式主義の彼の論理を歴史に注入したヘーゲル」(「体系としての歴史」)。オルテガはこのようにヘーゲルの歴史哲学を批判した。
このヘーゲルを一つの典型とする、理性による歴史認識こそ、オルテガが克服せねばならないと考えたものである。したがってその淵源をなすデカルトもまた批判の俎上にのぼる。
「近代合理主義の祖デカルトの体系の中では、歴史はその場所をもたない、と言うよりはむしろ追放されている」(「現代の課題」)。そのゆえんは、理性なるものが、「時間を貫いて不易不変に運動し、生けるもののしるしである有為転変には無関係の、非現実的な妖怪」(同上)だからである。したがってそれは、過去の人間の生をまるごと引き受ける歴史の実体をとらええない。人間を、「存在を累加し続けてゆく、すなわち過去を蓄積し続けてゆく」(「体系としての歴史」)存在、換言すれば、「彼の経験の弁証法的連続において存在をみずから形成し続けていく」(同上)存在とみなすオルテガにとって、そうしたものをとらえうるのは、「論理的理性のそれではなくして、まさしく歴史的理性のそれ」(同上)であった。そうであればあるだけ、デカルトの罪は深い。
「デカルトにとっては、人間とはいかなる変化もなしえぬ純理性的存在であった。だから、かれには歴史は人間における非人間的なものの歴史と見られることとなり、われわれを理性的存在たることからたえず引きはなし、反人間的な事件へとおとしいれる罪深き意志を決定的に歴史に帰することとなったのである」(「哲学とは何か」)。
そうしたオルテガにして、理性に代え、ディルタイの言う「解釈」や「理解」という概念を歴史に投じようとしたのは先に述べた通りである。オルテガは言う。
「歴史とは、その最も根源的な原理、その固有の研究形式からしてすでに解釈であり、注解(嵌めこみ)であって、これは、個々の事実をひとつの生、ひとつの生きた体系のなかに組み入れることを意味するのである」(「危機の本質」)。
以上のオルテガの歴史に対するとらえ方は以下の言葉に尽くされる。少し長い引用になるが、オルテガの歴史に対する姿勢が過不足なく、また遺憾なく開陳されており、歴史否定を相克しうるヒントがここにこそある。その言葉をもって本稿の結びとしたい。
歴史とはまさに、かつてあったことをふたたびよみがえらせ、それを理念のなかでもう一度体験しようとする試みにほかならない。歴史はミイラの陳列であってはならぬ。歴史は、それが現実にあるところのものとならねばならない。それは蘇生への、復活への熱烈な試みだといってよい。死にたいする光栄ある戦いなのである。だから、一切の人間的なものが、というのは人間の生が、そこから湧きでてくるところの、そして、そこにおいてのみ生が現実性をもっているところの、あの永遠の泉――この泉からどのようにして湧きだしてくるかをしめさないかぎり、なにかをほんとうに物語ったとか、歴史的に叙述したとかいうことはできない。このような意味で、わたしが歴史という語によって理解しているのは、一切の事象をばその過去性を越えて、それの生の源泉にまでつれもどす仕事をいうのである。こうすることによって、わたしは、それの誕生に立ち会う――いや、むしろこういいたい――もう一度成立し存在するようそれを強いるのである。それをいわば新生児として、生まれたときの状態(status nascendi)に置かねばならないのである。歴史というものは、われわれが人間の過去全体をはかりしれざる潜勢的な現在に変え、現実にわれわれのものであるところのものを澎湃たる巨大な力にまでひろげることを得させてくれるものである(同上)。
 
エドワード・B・クラーク

 

Edward Bramwell Clarke (1874‐1934)
語学教育、ラグビーを日本に紹介、慶應義塾大学、京都帝国大学教員(英)
在日イギリス人の英語教師。田中銀之助と共に、日本にラグビーを伝えた人物とされる。
イギリス人の両親の元に横浜市で生まれた。クラークの父親はパン屋を経営しており、妻の死後に日本人女性と再婚した。
14歳の時にクイーン・ヴィクトリア・パブリック・スクールに入学。ラフカディオ・ハーンより作文の添削を受けたほか、日本でのラグビー普及に努めた田中銀之助とも出会った。卒業後は両親の母国であるイギリスへ留学して、ケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジへと入学、ロマンス語やイギリス文学を専攻したほか、ラグビーやクリケットなどの競技にも打ち込んだ。
帰国後は迎えられた慶應義塾大学の英語講師として働く傍ら、日本ラグビーの普及に田中銀之助とともに尽力した。1907年には右ひざの関節のリウマチが発症し、足を切断することになった。その後は学問に打ち込むようになり、多くの書物を読破したことからブリタニカ百科事典(E・B)クラークと呼ばれるようになった。
上田敏の後任として京都帝国大学で再び講師として迎えられた際にはイギリス(特にシェイクスピアなど)を講義した。定年の翌年である1934年、脳出血により死去。神戸市立外国人墓地に葬られている。
日本のラグビーにおけるクラーク氏と田中銀之助氏
学習院とラグビーの関りを語るに当たって、日本のラグビー競技の発展に貢献した田中銀之助と高木喜寛の二人を忘れてはならない。日本で最初にラグビーを始めたのは慶応義塾大学であるが、明治32年にこの競技を伝えたクラーク教授はイギリスオックスフォード大から帰朝したばかりの田中銀之助の助けを借りて普及に努めた。そしてこの田中銀之助が学習院の出身者であることから学習院にも同時期にラグビーが伝えられたのである。また、初代の日本ラグビー協会会長を務めて戦前のラグビーの発展に大いに貢献した高木喜寛もやはり学習院の出身者だった。
1899年(明治32年)日本ラグビーの父ともいうべきE・B・クラーク(Edward Bramwell Clarke)が慶応義塾の塾生にラグビーを手ほどきしたのは今から110年程前のことである。クラーク自身の手による紹介によると「私が慶応義塾の私のクラスにラグビーを紹介したのは、彼らが晩夏から冬にかけて屋外では何もすることが無いように見えたからです。冬の野球はまだ行われていなかったし、若者たちは時間と秋の素敵な天気を無駄にして、のらくらしていたのです。私はもし彼らにラグビーへの興味を覚えさせられたなら、午後の自由時間にあんなに退屈しなくてもすむだろうと思いました。私の日本語は間に合わせ程度のものなので、知っている言葉の数もごく少なく、ラグビーの細かい点まで説明するわけには行きませんでした。そこで私は友人の田中銀之助に援助して貰うよう依頼しましたところ、彼は喜んで非常な熱意をもって事に当たってくれ、こうしてゲームが始められたのです。今世紀の始め、仙台ヶ原で普通の靴を履いて練習した頃には、30年後に君達がプレーし、日本全土に普及し、日本チームが外国チームと対等に戦って、これを破るとは思っても見ませんでした。」(これは昭和6年に慶応義塾大学が30周年の記念としてYCACと記念祭を行う時に当時京都帝大で教鞭をとっていたクラークに招待状を送ったところ辞退の返信として届いたものという〜慶応蹴球部100年史による)
クラーク氏は当時新任の英語教師であった。彼は明治7年(1874年)に横浜で生まれた。父は当時渡来した英国人に常食のパンを製造して販売するパン屋さんだった。横浜のクィーンズ・ビクトリア・パブリックスクールで一年半学んだ後、ジャマイカの大学を経て1893年に英本国に帰り、ケンブリッジ大学のカーバス・クリスティ・カレッジに入学した。1897年まで文学、法律を学ぶかたわらラグビーやクリケットの戸外スポーツを楽しんだ。その際横浜時代の友人である田中銀之助と再会している。そして卒業後は第二の故郷である日本に戻り、1899年(明治32年)に慶応義塾大学予科の語学講師に就任した。クラーク氏は1910年まで慶応義塾大学教授で、その間に旧制第一高等学校の講師も兼ね、そのあと東京高等師範(現:筑波大)の講師を経て1913年に旧制第三高等学校の講師となり1916年に京都帝国大学英文科教授となって1934年(昭和9年)に現職のまま61歳の生涯を終えている。
クラーク教授とともに協力者としてラグビーの発展に努めたのが田中銀之助である。祖父は明治初年に開国の好機に乗じて生糸貿易で財を成した「天下の糸平」こと田中平八でで、銀之助は明治6年1月20日平八氏の養子の菊次郎の長男として誕生した。明治17年に学習院初等科に入学している。丁度11歳の時であるから5年編入くらいではないかと思われるが、その前に横浜のパブリックスクールに通っていてクラーク氏と知り合ったのではなかろうか。幕末に英国留学したこともある平八氏の遺志を継いで明治20年学習院在学中の14歳の時に英国に留学した。英国のパブリックスクールを経てケンブリッジ大学のトリニティーホール・カレッジに学び、かねて横浜で知り合ったクラーク氏と再会するのである。そしてともにラグビーを楽しんだのだという。在留8年を経て帰国した銀之助は家業の田中銀行を皮切りに、北海道炭鉱汽船、田中鉱業の経営者としても敏腕を振るうと同時に私財を投じて赤坂に体育クラブをつくるなど、ラグビー以外のスポーツ振興にも力を尽くした。こうした時に旧知のクラーク氏から頼まれて本場英国ラグビーを慶応義塾に教えることとなったのである。しかし相手が居なくては試合も出来ない事からかつての母校の学習院にもラグビーを教えた。
慶応でクラーク氏から直接ラグビーの手ほどきをうけた草分けの一人である松岡正男氏(昭和5年当時日本ラグビー協会副会長)は協会の機関誌「ラグビー」の創刊(昭和5年10月)にあたり「回想」と題してラグビー発祥の頃を振り返っているがその中で「田中銀之助氏はラグビーの普及を計画され、まず氏の母校である学習院にこれをすすめ、海江田氏と私は田中氏に招かれ学習院の人々と同氏邸で西洋流正式の晩餐の饗を受け、少なからず面食らった事もその頃の思い出である。私は明治37年に卒業した」と記している。
 
アーサー・ナップ

 

Authur May Knapp (1841-1921)
語学教育、慶應義塾教員、日本ユニテリアン教会宣教師(米)
アメリカ・ユニテリアン協会が日本に派遣した宣教師である。
ハーバード大学で学ぶ。当時のハーバード大学神学部はユニテリアンの立場にあった。1887年(明治20年)にアメリカ・ユニテリアン協会から派遣されて日本に来た。ナップは1889年(明治22年)、宣教師クレイ・マコーレーと共に再来日する。旧尾張藩主侯爵徳川義礼はナップに金銭の援助を与えた。また金子堅太郎はユニテリアン招致の重要な役割を果たした。
ユニテリアン宣教師ナップにおける日本宗教観 / 宗教多元主義との関連 
1 はじめに――課題と要旨
戦後の日本では、キリスト教と諸宗教の対話の必要を説く議論がくりかえし現れた。この種の議論において、1980 年代以降大きな影響力をもっていたのはジョン・ヒックの「宗教多元主義」だろう。彼は他宗教による救いの可能性を認めない、従来の「キリスト中心」の神学を批判する。そして、諸宗教は唯一の神に対する異なった仕方での応答であるとする「神中心」の神学モデルを提示し、キリスト教もその他の宗教も等しく救済的価値をもっていると主張した。多くの批判もあるとはいえ、諸宗教の神学において、ヒックの宗教多元主義に代わるほどの影響力のある議論はなお現れていないといえよう。
ただ、土屋博政によれば、キリスト教と諸宗教に等しく価値を認める思想は、過去にユニテリアンの人々によってすでに提示されており、この意味でヒックの思想は新しいものではないという。実際、ユニテリアンの人々の思想はジョン・ロックの寛容論に影響を与えるなど、近世ヨーロッパの寛容思想の源流の一つとなった。そして後述するように、日本にやってきたユニテリアン宣教師の議論にも、今日の宗教多元主義と重なりあう主張が含まれている。
ユニテリアンは1886 年、矢野龍渓(1850-1931)によって、本格的に日本に紹介された。そして1887 年の末には、最初のユニテリアン宣教師アーサー・M・ナップ(1841-1921)が来日し、一時、多くの有力者から歓迎された。もっとも以下で検討するように、宣教師ナップの宗教論は、当時の日本において、「多元主義」や「寛容」とは相容れないような動向とも結びつくことになった。では、ナップの日本宗教論はどのようなものであったのか。そして欧化主義から国粋主義へと移行していく当時の日本において、彼の議論はどのような意味をもったのか。本稿ではこれらの点について、当時の思想状況を踏まえつつ明らかにしていく。この作業により、これまで充分に問われなかった、宗教多元主義的思想を日本という非西洋社会において説く際に生じる問題点について考えてみたい。
以下、2章では、ナップが日本に派遣された背景について、1880 年代の欧化主義との関連を踏まえつつ説明する。3章では、ナップの日本宗教論がどのようなものだったのか、そして彼の議論が当時の日本においてどのような意味をもつことになったのか、明らかにしていく。4章では、ナップの議論が今日の宗教多元主義思想に対して提起する問題について述べる。 
2 欧化主義とユニテリアン宣教のはじまり――矢野龍渓のユニテリアン論を中心に
この章では、ユニテリアン宣教師ナップが日本に派遣された経緯について、当時の欧化主義との関連で述べていくことにしたい。
はじめに欧米のユニテリアンについて、ごく簡単に触れておこう。ユニテリアンの教義上の特徴は、三位一体およびキリストの神性を否定し、唯一の神のみを信じる点にある。またこの他の特徴として、学問的な聖書批評を重視する合理主義的精神をあげることができる。近代ヨーロッパにおいて、三位一体を否定する思想は、エラスムスのギリシア語聖書出版(1516)をきっかけに聖書原典への関心が高まる中で現れ、弾圧を受けながらもイギリス、ポーランド、トランシルヴァニアなどに広まった。一方アメリカのユニテリアンはヨーロッパとは独立して、18 世紀にリヴァイヴァル運動に対抗して現れた。なお、日本にユニテリアン宣教師が派遣された19 世紀末には、英国ユニテリアン協会と米国ユニテリアン協会の間にも協力関係が成立していた。
では、ユニテリアンはどのような仕方で日本に紹介されたのだろうか。鈴木範久によると、1876 年に発行されたチャンバース『百科全書洋教宗派』(若山儀一訳)に、ユニテリアンについての記事がみられる8。しかし日本にユニテリアンが本格的に紹介されたのは、矢野が1886 年9 月から『郵便報知新聞』に連載した欧州外遊の報告、「周遊雑記下巻の内宗教道徳の部」が最初である。矢野はこの連載において、ユニテリアンを日本の国教にすべきだと提案した。矢野は、福沢諭吉の慶応義塾で学び、当時郵便報知新聞社の社長をしていた人物であり、政治小説家、改進党系の政治家、大隈重信のブレーンとしても重要である。ここで、矢野がどのようにユニテリアンの国教化を説いたのか、確認しておこう。
矢野はこの連載のはじめで、キリスト教が日本で勢力を拡張しつつあることに触れ、それが日本に不利な場合はこれを防ぎ、有益な場合は上流の人々がその伝播を助けねばならないと述べる。すなわち矢野は、日本にとって有益か否かという功利主義的な観点から、ユニテリアンの採用を説いているわけである。このように宗教を功利主義的観点から捉える姿勢は、当時の啓蒙思想家に一般的なものであった。
彼によると、日本では、現世の道徳にかかわることは儒教が教え、来世の幸福にかかわることは仏教が教えるという、宗教上のすみ分けがある。これに対し、キリスト教は現世の道徳と来世の幸福についての教義を兼ね備え、「自慰」(幽冥の幸福によって現世の不幸を補って自らを慰めること)、「求援」(自らの力の及ばないことついて幽冥からの助力を得ること)、「恐怖」(幽明の何者かの目を意識することで悪事をなすのを防ぐこと)の三情に一つの宗教だけで応えることができる。またキリスト教は、多数者の幸福を追究する「平均教」である点で、「服従教」である儒教に勝る。さらに、「欧州進歩の社会」の移植に不可欠な欧州の「学術と其智恵の仕組」と両立する点でも、既存の仏教や儒教より「改良」されている。もっとも三位一体説のような「神怪不稽」の説を含む既存のキリスト教では、結局のところ「理、智」の攻撃に耐えられない。ゆえに「今日無数なる西洋の宗教諸派中に於て最も著るしく改良し居るものあらんには……此教派を採用すべき」だという。
そして矢野によれば、この基準を満たすのがユニテリアンである。ユニテリアンは神怪不稽の説を含まず、科学や社会の進歩と両立する。また宗教は人々の愛国心を強化するがゆえに、敵国を防ぎ、国家の独立を維持する役目も果たす。ゆえに政治的視点からも、ユニテリアンのような一派を「我国教と定め」ることが重要だという。
以上が、矢野が「周遊雑記」で展開したユニテリアン国教化論の概略である。矢野は、文明化=欧化と両立する、儒教・仏教にかわる道徳、愛国心の基礎として、ユニテリアンに期待をかけたのだ。矢野はユニテリアンの合理性、および道徳性を高く評価したわけである。また後述のナップとは対照的に、矢野は基本的に、儒教や仏教といった日本の既成宗教に積極的な意味を認めておらず、それらをユニテリアンによって乗りこえられるべきものとして捉えている。
矢野はこの後もしばらくの間、『郵便報知新聞』紙上でユニテリアンの普及に努め、さらに英国ユニテリアン協会に宣教師派遣の要請も行った。英国ユニテリアン協会は経済的理由から日本宣教を断念したが、代わりに米国ユニテリアン協会に宣教師を派遣するよう依頼した。これがきっかけとなり、米国ユニテリアン協会は1887 年8 月にナップを日本に派遣することを決めた。ナップは1887 年12 月に日本に到着し、視察や講演などの活動を開始した。
矢野がユニテリアンの国教化を説いた背景には、1880 年代の日本における欧化主義と、キリスト教採用論がある。当時の日本では、不平等条約を改正するために、欧化を加速させ、日本を西洋と同等の「文明国」とすることが重要であるとの考えが広くみられた。そして矢野の師である福沢25 をはじめ、一部の人々は、欧化主義の延長で日本もキリスト教を採用するべきであると説いた。彼らは西洋列強から「文明国」として認められるためには、西洋文明の基礎にあるキリスト教の受けいれが不可避だと考えたのだ。キリスト教徒の側も、キリスト教を「文明の宗教」として位置づけることで、そのころ実際にその勢力を拡大させていった。矢野の議論は、欧化=文明化と両立する、もっとも「改良」されたキリスト教としてのユニテリアンに注目したものであり、欧化主義的なキリスト教採用論の一種とみることができる。
なお1891 年11 月にナップが米国ユニテリアン大会で行った演説によると、矢野の他、森有礼、吉田清成、金子堅太郎からも、宣教師派遣を求める声があったという。これらの人々はまとまったユニテリアン論を展開していないため、どのような考えからユニテリアン宣教師の派遣を求めたのか知ることは難しい。ただ彼らはいずれも、欧米に滞在した経験をもつ、欧化主義的な政治家である。先ほどから名前の出ている福沢諭吉も、来日決定直後から、ナップの活動を支援しつづけた。矢野を含め、こうした欧化志向の強い有力者たちによって、ナップ派遣のきっかけがつくられたといってよいだろう。
もっとも1880 年代後半になると、鹿鳴館外交や、条約改正案への反対などから、欧化路線への批判が高まる。このとき台頭した勢力のひとつが、1888 年に三宅雪嶺、志賀重昂らが設立した政教社である。政教社は国粋主義を掲げて日本固有の文化を保存することを主張し、政府の欧化主義を批判した。そして以下でみるように、ナップの日本宗教論は欧化主義よりも国粋主義と親和性が高いものだった。
それではナップはユニテリアンとして、日本宗教をどのように考えていたのだろうか。また彼の議論は、当時の言説状況の中でどのような意味をもったのだろうか。次章で検討していきたい。 
3 宣教師ナップの日本宗教観
(1)キリストにおける神性と人性の関係
ナップの宗教論は、彼のキリスト論、特に神性と人性の関係についての議論と密接に結びついている。そこでまず、ナップの論文「ユニテリアン教の歴史、主義、及勢力第二主義」を参照しつつ、彼のキリスト論について確認しておきたい。本稿のはじめで述べたとおり、ユニテリアンの特徴は唯一の神のみを認め、三位一体、キリストの神性を否定する点にある。ただしナップの場合、キリストの神性に関しては、単純に否定しているわけではない。
ナップによれば、ユニテリアンは、物質と精神、現世と他界、人類と神など、一見二元論的に対立したものの根底に「唯一の権力」、つまり神の働きを見出す。そしてユニテリアンが神学上の問題を実際に解釈する際には、この「唯一の思想」を基準として適用するという。それでは、「唯一の思想」を基準とした場合、キリストにおける二つの性質、すなわち神性と人性の関係は、どのように理解されるのか。
「ユニテリアン教徒は基督に於ける二箇の性質(……)の唯一なることを宣言す、実に基督は単純純良なる人類なりしなり、ユニテリアン教は基督に於ける神性も嫌はされは亦た其人性も嫌はさるものなり、神人両性は彼実に之を有せるを信ず、即其徳殆んと人類の企て及ふべからざるの点に於ては、彼れは実に神聖なりき、故に基督の人生は彼に神性を与へ、而して其神性は即ち高尚純粋なる人生なりき」
ナップにとって、キリストはあくまでも人間である。だがキリストは、その徳の高さにおいて比類がなく、この意味で神聖である。つまり神性とは、人性における優れた部分のことであり、神性と人性は本質的には一つということになる。さらにナップはつづける。
「ユニテリアン哲学の基督に向て言ふ所は、即ち総ての人に向て言ふ所なり、(……)ユニテリアン教徒は唯一を信するかゆへに、人類と上帝との間に懸隔あるを信せざるものなり、否ユニテリアン教徒は人類と上帝との間に懸隔なきのみならす、却て取り除くべからさる関係の存するを信するものなり、(……)要之、ユニテリアン教徒は神性と人性とは同一にして、人類は上帝の子孫てふ単純なる事実を認むるものなり」
ナップは、キリストと同じく、すべての人間が神性を有した「神の子」であると考える。キリストとそれ以外の人間の相違は、つまるところ程度の差であり、キリストは、特権的な神の子ではなく、「倣ふべき嚮教者」ということになる。
このようにナップは、キリストにおける神性と人性の区別を否定し、さらにキリストのみならず、すべての人間が神性を有すると主張した。すなわち正確にいうと、ナップはキリストの神性を否定したわけではなく、キリスト「のみ」に神性を認めることを否定したわけである。そしてこうした思想が、ナップの日本宗教論の基礎にある。
次節では、以上の議論を踏まえつつ、ナップがユニテリアンとして、どのような意識をもって日本にやってきたのか、明らかにしていきたい。
(2)ナップの「宣教」論
ナップは、来日前の1887 年11 月6 日にボストンで、また来日後の1888 年4 月15 日には交詢社で、それぞれ演説を行っている。二つの演説はともに、「正統的」キリスト教宣教師のあり方を批判しつつ、日本宣教に臨む自らの姿勢について述べたものである。本稿では、交詢社での演説を参照しつつ、ナップがどのような意識をもって日本にやってきたのか、確認したい。
ナップによれば、従来の宣教師は、キリスト教を絶対視し、他の宗門を奉ずる人々にキリスト教への帰依を求めてきた。しかしユニテリアンには、こうした意味における宣教師を派遣することができないという。それはなぜか。
「ユニテリアンは世界に存在せる有ると有ゆる宗教を以て皆是れ人類の宗教に於ける情性より自から発生したる結果なり現象なりと信じ如何なる法にても其宗教を奉ずる人民の情性に適ふものなれば決してこれを蔑視することなく身は仮令へ耶蘇教熱心の信者なりと雖も他宗異教の人を目して諸君の知る通り無知の意を示すヒーズン(heathen)と云ふが如き傲慢の語を用ふることなきなり各国の人民は各々其人種あり各々其習慣あり各々其境遇あり境遇習慣及び人種の別に由て宗教を異にするは猶ほ国土に応じて食物の同じからざるが如し」
ナップの考える諸宗教とは、「人類の宗教的情性」、すなわち万人が有する唯一の神性が、人種、習慣、境遇といった諸条件の中で異なった形態をとったものである。したがって諸宗教の相違は優劣の指標ではなく、キリスト教徒が他宗異教の人を蔑視する根拠はないことになる。
それゆえナップにとっての「宣教」とは、「正統的」キリスト教徒がいうところの宣教とは異なり、相手を改宗させるためのものではない。それは、互いに自らの宗教の善いところを教えあい、学びあうことであるという。そしてユニテリアンは「宗派」ではなく、むしろ超宗派的な運動だという。
ナップの論文「ユニテリアン教と仏教との類似及差別」は、こうした「宣教」論を、仏教研究に適用したものとして理解できる。彼は、ユニテリアンと仏教の共通点として、創造を出来事でなく進歩と捉える点、霊魂の永遠性を説く点、釈迦やイエス以外に複数の仏・神がいるとする点、自然法則に正義をみいだす点などをあげ、両者が「根本の主義に於て(……)親密の関係を」有し、「正統的」キリスト教と対立する思想をもっていると指摘する。その上でナップは、ユニテリアンと仏教の相違点のひとつとして、前者が「楽天的」であるのに対して、後者は「厭世的」「受動的」であることをあげる。ナップによれば、ユニテリアンの輸入は、仏教の厭世的、受動的特質を除去し、東洋に「進歩」をもたらす。ただしユニテリアンは、この進歩への貢献をもって満足し、仏教徒に「改宗」を求めることはしないという。彼はユニテリアンを触媒にして、仏教および東洋のいっそうの発展を促そうとしたのだ。ここでナップがみせているような、キリスト教の優位性を否定し、客観的な立場から諸宗教を捉えようとするユニテリアンの姿勢が、のちにリベラルな仏教徒たちや、日本宗教学の開拓者である岸本能武太らに影響を及ぼしていったといえよう。
(3)ナップの日本宗教観――多元主義的宗教論と国粋主義の結合
ナップは、政教社発行の『日本人』に掲載された演説「文明と独立独行の関係」(1888 年12 月9 日、掲載時の題名は「ナップ氏の国粋論」)において、日本宗教がどのような道を歩むべきかについて論じている。この演説を検討することで、ナップの日本宗教論のもつ意義と問題点について、さらに検討していきたい。
ナップのみるところ、日本は「東方」(アメリカを指すのだろう)から流れてきた世界文明に接し、鎖国の眠りから覚めた。今や日本は文明の先導者として、「西方」に進もうとしている。こうした状況にある日本にとっては、文明とは何か、どのように文明の先導者の役をつとめるべきか、といった問いが重要だという。
ナップによれば、文明は、単純から複雑へと不断に成長発達する。「野蛮」な時代においては、人は動物のように互いを「模倣」するのみである。だが人は互いに切磋琢磨するなかで、やがて他人と異なるところを生じ、複雑な、自立したものになっていく。文明は、こうした複雑化、自立化の結果生じるものである。したがって文明とは「独立独行人性の謂ひ」であり、模擬模倣は「野蛮の域に還る」「退歩の徴候」である。よって日本が文明化のために採るべき道は、他文明を模倣するのではなく、独立独行によって、鎖国によって生じた独自の特質を専有し、他国を制することであるという。
少し話がそれるが、こうした文明論との関連で興味深いのは、ナップの戦争論である。ナップは、「世界戦争と云はるる大戦争は、皆吾人として今日の吾人たらしむるが為めの目的に外ならざるなり」と述べ、世界戦争を独立独行=文明化のための動きとして位置づける。この意味で、ナップは戦争にも積極的な要素を認めていたわけである。もっとも近代日本の歴史が示すように、日本の「独立独行」への希求は、日本以外のアジアの「独立独行」を脅かすものに他ならなかった。1889 年の日本ではこうした問題はまださほど明確ではなかったといえるが、ナップは、ある国の独立独行の追究が、他の国の独立独行の追究と矛盾する可能性を考慮に入れていなかったといえる。
話を戻そう。ナップは、宗教についても独立独行を是とする。彼はいう。
「余は諸君に云はんとす、「宗教の事に於ても諸君が先づ第一に貴国固有の宗教に忠実ならんは、諸君の為めに最も必要なり」と、諸君が尊敬する所即ち貴国祖宗の威霊は決して卑む可く除く可き者に非ずして、貴国将来の高等宗教の為に基礎となす可き者なり(……)仮令に貴国固有の宗教より数倍善良なる宗教ありとするも、貴国にして之を用いんとするならば先づ貴国旧来の宗教に対して忠義を尽したる後に於て始て然るを得るなり」
ナップの考えでは、日本の「高等宗教」は、外国宗教の模倣によってではなく、むしろ「迷信」とみなされがちな、祖先崇拝に代表される日本旧来の宗教を追究することでもたらされる。外国宗教を導入するにしても、それは充分に日本旧来の宗教を追求したあとでなされるべきだというのが、彼の見解だった。あらゆる宗教に唯一の神の働きを認め、改宗を否定するナップにとって、日本旧来の宗教の追究が日本人にとっての高等宗教への道であると説くのは、当然のことであっただろう。
日本宗教を積極的に評価するナップの議論は、欧化主義的な矢野のユニテリアン国教化論とは明らかに異なる。『日本人』の編者は、ナップの「所論は大に余輩の国粋主義に合致する」と評価した。ナップの演説は、日本の政治状況に具体的に言及したものではないが、内容的には、キリスト教国教化論を含む欧化主義に対する批判となっている。より大きなコンテクストでいえば、西洋列強からの、宗教的・文化的側面も含めた圧力に対する批判ともなっている。「文明と独立独行の関係」が、国粋主義を掲げる政教社の雑誌『日本人』に掲載されたことには、充分な理由がある。
ナップの日本宗教論は、当時の他のキリスト教思想との関連で捉えた場合も、かなり特異なものといってよい。キリスト教指導者である小崎弘道は、1880 年代、矢野のような啓蒙知識人と同様に、キリスト教を優秀な西洋文明の宗教と位置づけることで、キリスト教導入の意義を弁証しようとした。またナップと同じく、いわゆる「新神学」の紹介者だった、ドイツ普及福音教会の宣教師シュピンナーは、諸宗教に真理の契機を認めつつも、キリスト教を宗教の最高の発展段階とする立場を維持した。ナップこれらのキリスト者と同じ欧化主義の時代にありながら、西洋文明/キリスト教を相対化し、非西洋的/非キリスト教的な文明化・進歩の可能性を認める立場をとっている。ナップの議論の積極的な意義のひとつは、この点に認めることができよう。
とはいえナップの議論に対する批判も、早い段階からよせられていた。上述の小崎弘道は1888 年に、「一にも二にも我国の文物を讃賞し我国人士の懼心を得んとするが如き」ナップの姿勢は、宗教家としてその教えを他に伝えるものには相応しくないと批判している。横井時雄も、1890 年に同様の観点からナップを批判した。そして小崎や横井の批判は、的外れなものとはいえない。このことが明確になるのは、少し時代が下った1897 年のFeudal and Modern Japan(『封建時代と近代の日本』)である。なおナップは1890 年の末に病気のため帰国し、日本ユニテリアンの代表の座をマコーリィに譲っていたが、彼は1897 年に私人として再来日し、同年に『封建時代と近代の日本』を発表した。
ナップは「文明と独立独行の関係」において、日本において追究されるべき「旧来の宗教」がなんであるのかについて、さほど踏み込んだ議論は展開していなかった。『封建時代と近代の日本』では、この点についての彼の考えが明白に述べられている。
「外国の信仰はただのゲストとしてこの国にあるにすぎない。それらは国民生活に調和していない。多くの日本人は仏教徒で、一部は儒教徒であり、キリスト教徒はわずかだ。しかし、すべての人が国民的な信仰をもっている。神道は国家の宗教であるだけでなく、この帝国のすべての臣民の心であり、生命でもある。」
このようにナップは、仏教、儒教、キリスト教などの「外国」の宗教を包摂する真の国民宗教として、神道を位置づける。ナップによれば、仏教、儒教、キリスト教といった外国宗教は、神道を本質的な点でかえることはできず、「この帝国の古来のそして唯一の宗教の(……)そえものや補完物」になるのが限度だった。仏教は一見勢力をもっているようにみえるが、実際は神道の別形態に過ぎず、神道が養った精神はそのまま残っている。仏教は神道の神々に新たな名前を与え、神道の祭日を仏教の聖者の日とすることで、日本において外見上勢力を得ることができたという。すなわちナップは、本地垂迹に、日本で外国宗教が勢力を伸ばすための重要な契機をみていたわけである。先述の仏教論において、ナップは仏教の受動的、厭世的側面をユニテリアンが除去すると述べていた。しかし、この『封建時代と近代の日本』では、日本に仏教はそもそも定着していないとの見解をとっていることになる。16 世紀のイエズス会の宣教が初期に成功をみせたのも、観音を聖母マリアと同一視することなどによって、既存の信仰をそのまま継承したからだという。このような宗教性のゆえに、外国宗教を受け入れたあとでも、日本人の信仰はなお国土への忠誠の観念に要約でき、最高の宗教的義務は天皇のために死ぬことにあるという。
そしてナップと同時代の日本キリスト教においても、ミッションからの独立を目指す動きや、教義を日本の伝統、習慣、宗教に一致させるべきだとの主張がすでに現れてきた。それゆえにナップによれば、日本に定着できるキリスト教は、古来の忠誠心に基礎づけられ、それに同化した「本質的に日本的な」キリスト教以外にありえないという。
ナップは、この『封建時代と近代の日本』において、日本「貴国旧来の宗教」を、神道一つに収斂させたといってよい。こうした神道と諸宗教の関係についてのナップの議論が、歴史的分析として正しいかどうかは措いておく。むしろナップは、「非宗教」としての神道が事実上の国教の位置にある、近代日本の宗教状況をかなり的確に描き出したといえよう。だが土屋も指摘するとおり、先述の「ユニテリアン教と仏教との類似及差別」の仏教論とは異なり、この『封建時代と近代の日本』に神道への批判的な視線はみられない。あらゆる宗教に神の働きを認めるナップの思想が、国民宗教化した神道の無批判な肯定につながってしまったといえよう。
教育勅語(1889)が発布され、近代天皇制が整備されていく1890 年代に入って、国民宗教化した神道のもつ問題点は、不敬事件、教育と宗教の衝突論争など、とりわけキリスト教との関係において顕在化していた。この時期以降の日本においては、単に外国宗教の排他性を問題化するだけではなく、国民宗教としての神道に対し、いかに批判的な視点をとるかということが大きな問題だったといえる。おそらくこの本において、ナップは、「迷信」とみなされてきた神道の意義を、英語圏の人々に弁証しようとしていた。だが、日本宗教を擁護することに力を注ぐあまり、ナップが「国民宗教化」した神道がもつ問題性を無視してしまったのは、やはり問題というべきであろう。
なおナップの手によるものではないが、教育勅語発布以前から、ユニテリアン派の機関誌である『ゆにてりあん』には、自らの教義にもとづいて天皇や祖先への崇拝を行うことができるとの議論が掲載されていた。「国民宗教」への同調は、ナップ個人の思想ばかりでなく、当時のユニテリアン神学そのものに由来する面も強かったといえよう。 
4 おわりに
以上、ナップの日本宗教観について検討してきた。矢野龍渓をはじめ、ユニテリアン宣教師派遣を要請した人々は、もっぱら欧化主義的な観点から、ユニテリアンを評価していたといってよいだろう。多くのユニテリアン論を残した矢野の場合、ユニテリアンを進歩の先端を行く西洋宗教とみなし、それに儒教および仏教に代わる、文明化=西欧化と両立する道徳心・愛国心の基礎としての役割を期待した。
もっとも宣教師ナップは、来日当初から、日本の欧化、キリスト教化にはむしろ批判的で、その思想も国粋主義との親和性が高かった。ナップは、キリスト教以外の諸宗教にも等しく神の働きを認める立場から、キリスト教と諸宗教の優劣や、「改宗」目的の宣教を否定した。彼は西洋文明・キリスト教を模倣することを批判し、日本在来の文物・宗教を追求することこそが重要であると主張した。彼の議論のひとつの意義は、欧化主義の時代にあって、西洋あるいはキリスト教を安易に評価することを斥け、西洋とは異なった文明化の可能性を提示した点に求められるだろう。
イギリスの宗教学者アラン・レイスは、キリスト教が他宗教とであった場合にとる態度として、排他主義、包括主義、多元主義という有名な三類型を提示した。キリスト教と他宗教の優劣を否定し、東洋宗教に積極的な意義を認める点で、ナップは、多元主義の立場をとっているといえよう。冒頭で述べたとおり、土屋博政は、ナップに代表されるユニテリアンの諸宗教論に、ジョン・ヒックの思想に通じるものをみいだしているが、こうした見方もある程度妥当なものといえる。もちろんナップは、ヒックのような精緻な宗教哲学的議論を展開してはいない。だが、諸宗教が唯一の神に異なった形でかかわっているとする点、イエス・キリストの特権性を否定する点、キリスト教と諸宗教に等しく価値を認める点など、重要な点でナップの主張はヒックのそれと重なりあっている。
とはいえナップの宗教多元主義的な思想は、上に述べたような積極的な意義をもつ反面、国民宗教化した神道を神学的に正当化し、それが生みだす問題性、排他性を看過することにもつながってしまった。ナップの宗教論からいえば、国民宗教と一致しない「外国」の信仰にも、人類共通の宗教的情性は働いていることになるはずだ。ナップがこのことにアクセントをおいて議論していれば、国民宗教化した神道を相対化できたかもしれない。だが彼は、こうした方向へ議論を展開させることはなかった。
ナショナリズムと結合した宗教にいかに批判的な視点を確保するかという問題に関しては、ヒックの宗教多元主義思想も必ずしも答えきれていないように思われる。この意味で、ナップの議論にみられる問題は、過去のものになってはいないといえる。諸宗教に真理の契機を認める宗教多元主義的な思想は、ナショナリズムと結合した土着の精神伝統を神学的に正当化する役割も果たしうる。それゆえに非西洋社会において宗教多元主義を説く者は、キリスト教の排他性を批判するだけではなく、土着の精神伝統に対していかに批判的な距離を維持するか、という問題をつねに意識しなければならないだろう。また、宗教的多元性を擁護する言説が、実際的な水準でどのような意味をもつことになるのか、個々の状況を踏まえつつ、絶えず検証していくことも重要であろう。
 
リロイ・ランジング・ジェーンズ

 

Leroy Lansing Janes (1838〜1909)
語学教育、熊本藩藩校熊本洋学校英語教師、熊本バンド(米)
アメリカの宣教師・教育家。名門ウエスト・ポイント陸軍士官学校を卒業し、1871年来日、開校されたばかりの熊本洋学校で教鞭を取り、文学、算術、地理、化学、測量、作文、演説などをすべて一人で英語で授業を行った。男女共学、キリスト教に基づく博愛主義などは向学心に燃える若者たちに大きな影響を与え、徳富蘇峰ら多くの優秀な人材を育てた。熊本にはジェーンズが住んだ洋学校教師館がジェーンズ邸として残されている。ここは後に博愛社=日本赤十字の発祥の地となった。 
2
アメリカ陸軍の軍人。退役後は日本で熊本洋学校を設立し、熊本バンドの礎を築いた。L.L.ジェーンズと表記されるのが一般的である。明治時代日本では善斯(ゼンス)と呼ばれた。また、L.L.ジェインズとも表記される。
1838年(1837年とも)アメリカオハイオ州に生まれる。米陸軍士官学校を卒業して、南北戦争で北軍少尉として従軍する。最終階級は砲兵大尉。
戦後、ニューヨークのスカッダー家の女性であるハリエット・スカッダー(Harrriet Scudder)と結婚する。
結婚後の1871年8月、アメリカ・オランダ改革派教会宣教師のグイド・フルベッキの斡旋で来日して、陸軍士官学校とイギリスのラグビー校を目指して熊本洋学校設立に参加し、全教科を一人で教えることとなった。最初の頃キリスト教については言及しなかったが、三年目に、毎週土曜日に自宅で聖書研究会を始めた。
この参加者の中からキリストを信じるものが起きた。1876年1月30日に洋学校の「奉教趣意書」を朗読して、小崎弘道、海老名弾正、金森通倫、宮川経輝、横井時雄、浮田和民、不破唯次郎ら35人が署名した。この出来事が問題になりジェーンズは解任され、洋学校は閉鎖された。閉鎖後、生徒は同志社に転校して、これが熊本バンドと呼ばれるキリスト教の源流の一つになる。
熊本洋学校が1876年10月に閉鎖された後、大阪英語学校(旧制三高の前身)で英語を教える。ジェーンズは同志社に招聘される予定であったが、1878年にアメリカに帰国した時に婦人から離婚訴訟を起こされる。
ジェーンズはかつての教え子横井時雄の斡旋で再来日する。お雇い外国人として1883年から1899年まで京都第三高等学校と鹿児島高等中学校造士館で英語を教える。
1885年に妻ハリエットは実弟ドリマス・スカッダーと共に再来日して新潟に行く。
ジェーンズは1899年に帰国し、米国では不遇な晩年を送りサンノゼで死去した。
3
1837年アメリカオハイオ州ニューフィラディルフィア市に生まれ、1909年3月27日、72回目の誕生日に亡くなる。
米陸軍士官学校を卒業して、南北戦争で北軍少尉として従軍する。最終階級は大尉。
長い戦争で体調を崩し、戦争がないときの軍人は何の役もたたないと考え、軍隊をやめてメリーランド州セント・デニスに妻と生まれたばかりの娘・エリザベスを連れてエルク・リッジ農場で農業に励む。
明治4年8月、34歳のとき、二人目の妻ハリエット・ウォーター・スカッダと子ども同伴で来日して熊本洋学校を設立する。
最初の頃キリスト教については言及しなかったが、明治5年秋頃から毎週土曜日に自宅で聖書研究会を始めた。この参加者の中からキリストを信じるものが起きた。1876年1月30日に洋学校の『奉教趣意書』を朗読して、小崎弘道、海老名弾正、金森通倫、宮川経輝、横井時雄、浮田和民、不破唯次郎ら35人が署名した。この出来事が問題になりジェーンズは解任され、洋学校は閉鎖された。閉鎖後、生徒は同志社に転校して、これが熊本バンドと呼ばれるキリスト教の源流の一つになる。
ジェーンズは長い鎖国時代の封建制がもたらした弊害を取り除くことに尽力。
熊本の野菜は種類が少なく、栄養価を感じ、アメリカからキャベツやカリフラワー、レタス等の野菜の種を取り寄せて栽培し、熊本に広めました。
また食生活がよくないと感じたので飼っていた牛を殺して牛肉と野菜入りのシチューを洋学校の生徒たちに食べさせました。
このことが熊本の人たちに初めて牛肉、牛乳、パンを食べさせるきっかけとなりました。
みかんの接木や摘果を教えて品種改良ができることを知らせました。
アメリカから取り寄せた印刷機が九州で2番目となった白川新聞の発行に一役買いました。
ジェーンズが来る前には田畑を耕すのも人が鍬を使って行っていましたが、牛や馬に引かせる鍬を取り寄せて家畜を使う能率的な農業を紹介した。 
熊本洋学校教師ジェーンズ邸
「熊本洋学校教師ジェーンズ邸」は明治4年10月に建てられた熊本で最も古い西洋建築物です。熊本洋学校に教師として招かれたリロイ・ランシング・ジェーンズが家族と一緒に住んだ邸宅です。  ジェーンズは1837年にアメリカ合衆国オハイオ州ニューフィラディルフィア市に生まれカリフォルニアのサンノゼで1909年3月27日、72回目の誕生日に亡くなりました。 ニューヨークのウェストポイント陸軍士官学校出身の軍人です。有名なリンカーン大統領が奴隷解放をめざした南北戦争ではリンカーン側の北軍に参加して、砲兵大尉になりました。北軍の勝利で戦争は終わりましたが、長い戦争で体調も崩したことと「戦争がないときの軍人は何の役にもたたない」と考えて、軍隊を辞めてメリーランド州セント・デニスに妻と生まれたばかりの娘、エリザベスを連れて「エルク・リッジ」農場で農業にはげんだのでした。
一方日本では、江戸時代の終わりごろから明治時代にかけて熊本から偉大な人が出ました。その人の名を横井小楠(よこいしょうなん)といいます。小楠は福井(越前)の藩主、松平(まつひら)春嶽(しゅんがく)に招かれ、新しい日本をつくるために福井や江戸でたくさんの人を指導したのです。現在熊本市と福井市が姉妹都市となっているのはこのためです。この小楠の甥の横井(よこい)大平(たいへい)が明治2年末に勉強していたアメリカから帰ってきて、熊本知藩事、細川護久(ほそかわもりひさ)に洋学校をつくることを勧めました。護久はその勧めを受け入れ洋学校をつくり、熊本の少年たちに外国の文化を取り入れて新しい日本をつくるための学問を教えることにしました。そこに教師として招かれたのがジェーンズだったのです。 熊本洋学校が始まった最初の年には、10歳から15歳までの少年、約500名の入学希望者が集りましたが、試験を受けて入学を許されたのはわずかの46名でした。ジェーンズが熊本にいた5年間に約200名の生徒が洋学校に入ってきました。
ジェーンズはこの生徒たちに英語だけで勉強を教えたのです。生徒たちは生まれて初めて会ったアメリカ人が全く日本語を使わないので大変苦労しましたが、自分たちは新しい日本をつくるという考えで、頑張ったので、まわりが目を見張るほどの力をつけていきました。
徹底した自学自習、を基本としました。答えは教えずに自分で調べたり、深く考えたりするように指導したのです。自習中はジェーンズの厳しい、しかし愛情豊かな監督があったので、一言も話し声がありませんでした。また毎日成績順に机を入れ替えたので「毎日が試験のようだ」と皆真剣に勉強していきました。
横井小楠の娘「みや子」とジェーンズの教え子である、徳富蘇峰(とくとみそほう)の姉「初子」がこの洋学校で男の生徒に混じって勉強を始めました。日本最初の「男女共学」もジェーンズによってこの熊本洋学校で始められたのでした。
洋学校ができて3年目ごろからジェーンズは自宅でキリスト教の聖書研究会を始めました。その中から熱心なキリスト教信者がでてきました。この人たちは明治9年の1月30日に熊本駅のそばにある花岡山に登りました。そこで賛美歌を歌い聖書を読んだ後に用意してきた「奉教趣意書」を読み上げこれに自分の名前を書き入れました。この奉教趣意書の内容は「キリスト教は勉強すればするほど素晴らしいことが分かったので、これを日本に広めて、素晴らしい国をつくろう」というものでした。キリスト教を耶蘇教といっていた時代です。この誓いに一番驚いたのは家族や親戚で、どうにかしてキリスト教を辞めさせようとしましたが彼等の決意は固く、様々な迫害がおきても信仰を続けました。しかしこの花岡山での誓いが一般にも知れわたったために、洋学校は明治9年7月の卒業式を最後として閉校となりました。
ジェーンズは洋学校の生徒たちに京都の同志社英学校に行くことを勧めました。これは新島襄(にいじまじょう)がアメリカから帰ってきて開いたばかりの学校でした。生徒たちは同志社に集りました。彼等は同志社の中では大変目立った存在になりました。ジェーンズから4年、あるいは5年も教育を受けていたので学生でありながら、指導者としての力も持っていたのです。これを見て同志社の先生たちは熊本からきたジェーンズの教え子たちを、熊本からきた集団、あるいはグループという意味で「熊本バンド」とよぶようになりました。熊本バンドは札幌バンド、横浜バンドと並ぶ日本三大バンドと呼ばれるようになり、このバンド出身の人たちは後に日本の宗教界、教育界、実業界のリーダーとなっていったのです。
ジェーンズは長い鎖国時代の封建制がもたらした弊害を取り除くことにも力を尽しました。熊本の野菜は種類が少なく、栄養価も少ないと感じたのでアメリカからキャベツやカリフラワー、レタス等の野菜の種を取り寄せて栽培し、熊本に広めました。また食生活がよくないと感じたので飼っていた牛を殺して牛肉と野菜入りのシチューを洋学校の生徒たちに食べさせました。このことが熊本の人たちに初めて牛肉、牛乳、パンを食べさせるきっかけとなりました。みかんの接木や摘果を教えて品種改良ができることを知らせました。アメリカから取り寄せた印刷機が九州で2番目となった白川新聞の発行に一役買いました。ジェーンズが来る前には田畑を耕すのも人が鍬を使って行っていましたが、牛や馬に引かせる鋤を取り寄せて家畜を使う能率的な農業を紹介したのでした。
このように、学校の先生としてだけでなく、熊本の近代化に大きな貢献をしたのが洋学校の教師、ジェーンズであったと言うことができるのでしょう。
明治10年の2月に熊本を舞台として西南戦争が始まりました。この時、官軍の総督として有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)がこのジェーンズ邸を宿舎としました。この戦争を心配した佐賀県出身の元老院議官佐野常民(さのつねたみ)は敵味方の区別なく負傷者を助けたいと考え有栖川宮に博愛社設立の許可を求めにやってきました。有栖川宮は5月3日に設立許可を出したので佐野は泣いて喜んだそうです。激戦で有名な「田原坂」の隣にある木の葉町の「正念寺」「徳成寺」というお寺、あるいは民家を病院として官軍、薩軍の傷兵約1400名を助けました。その後佐野の粘り強い努力の結果、博愛社の組織が大きくなり充実した明治19年(1886年)、日本政府はジュネーブ条約に調印しました。博愛社が明治20年(1887年)世界赤十字の仲間入りをしたときに日本赤十字社と名称を変えました。このジェーンズ邸の二階で博愛社設立の許可がおりたことから、ジェーンズ邸は「日本赤十字発祥の地」と呼ばれています。前庭にある「愛の手、とこしえに」は日本赤十字生誕100周年を記念して作られたものです。
「ジェーンズ邸」は最初は熊本城内の古城(ふるしろ)と呼ばれるところに建てられていました。現在、熊本県立第一高校が建てられているところです。その後、明治20年に熊本県庁が南千反畑町に新築された時にジェーンズ邸も庁舎の北側に移転し、県の物産館、県立女学校の仮校舎、日露戦争時のロシア人将校の捕虜宿舎として使用されました。昭和7年からは水道町に移転し日赤の県支部、及び血液センターとして使用され、昭和45年に現在の水前寺に移転し、熊本県重要有形文化財となっています。
 
エドワード・ウォーレン・クラーク

 

Edward Warren Clark (1849-1907)
化学、語学教育、賤機舎の前身静岡学問所、東京開成学校(米)
アメリカ合衆国の教育者、牧師。明治時代の日本で、教育者として活動し、その経験を帰国後に著書『Life and Adventure in Japan』(1878年)にまとめた。ミドルネームは「ワレン」と表記される場合もある。
ニューハンプシャー州ポーツマス出身。ウィリアム・グリフィスとラトガース大学で同窓生だった。駿府藩が徳川の旧幕臣たちのために静岡に設立した「駿府学問所」(のち、「静岡学問所」に改称)の教員を探していた勝海舟は、知り合いのグリフィスに相談し、クラークを推薦された。その結果、1871年に勝の招きで来日する。
来日後は静岡学校(後の賤機舎)で旧幕臣の師弟に倫理、歴史、語学、物理、化学、数学を教えた。カナダ・メソジスト教会の宣教師デイヴィッドソン・マクドナルドと一緒にバイブルクラスを行った。クラークと学問所との契約ではキリスト教の布教が禁じられていたが、勝の計らいで不問にされた。そこで、キリスト教に入信した人たちが静岡バンドを形成した。
1873年、東京開成学校の科学の教授になる。東京でもバイブルクラスを行い、その時出席した中村正直に感化を与えた。1875年にアメリカに帰国し、ニューヨークに住む。後にフィラデルフィア神学校に入学して、牧師になる。
1894年に再来日して勝海舟に再会し、勝との対話から『幕府始末』を著した。
2
エドワード・ウォーレン・クラークは、1871から1874年まで日本に住み、働いていた。初めの2年間は現在の静岡市に滞在した。彼はお雇い外国人でありそれは本来、日本政府に雇われた近代化を助ける外国人の専門家を意味している。当初の2年間クラークは、静岡の科学専門学校の教師としての職を得た。その後東京に移り、東京帝国大学で化学を教えた。クラークは日本での経験を“American Tract Society”によって1878年に出版された本“Life and Adventure in Japan”に記録している。全ての引用はこの初版から引いている。
クラークは横浜に到着してすぐに、静岡に旅立った。それはまるまる5日間の行程であった。静岡に近づいた頃、彼は地方役人と興奮した群衆を近郊の村々で目にした。クラークは記している。『近隣の全ての人々は“外国人”のような不思議な見かけの生き物の到着に大声をあげていた』。彼の静岡への道のりの記述は、この外国人の登場に対する当地の人々の反応の詳細が見事な豊かさで表現されている。『現地の役人が私たちに会うためにやって来た。二本差の上級役人だったにも関わらず、私たちの馬の前で跪き、頭を地面につけてお辞儀をした』。この最上の歓迎は、彼が静岡に着くまで続いた。このセレモニーのために特別に用意されたテーブルと2脚の椅子のある部屋での駿河藩主との会合にその頂点を迎えることとなる。
静岡でクラークは、寺に住んでいた。彼が下条と呼んだ通詞と2人の少年(役人の大久保の息子と日本戦艦の船長の息子)そして彼の料理人のサム・パッチ(乗っていた船が座礁してしまい、アメリカ船に助けられた後、アメリカで何年か過ごした。これはペリーが日本を訪れる前の出来事である)。彼らがクラークと共に住んでいた。
“お雇い”としての彼の役割は、将来性のある日本人の理科教師に科学の手ほどきをすることであった。クラークは彼の生徒を賞賛している。『特に子どもたちは、決してケンカ腰でも問題児でもない。彼らは言うことを聞き、両親や先生方に従い、そうすることが彼らを更に幸せにさせた。学校では、混乱のかけらさえも目にすることはなかった』。クラークを感心させたことは、生徒のマナーに関してだけでなく、彼らの勉学への前向きさにも驚愕している。『これらの少年たちは科学の探求に熱心であり、上級の勉強に対するやる気にも非常に驚かされた。アメリカの大学生ですら難しいと感じる教科書を彼らは容易に学び、そして綿密に勉学に熱情を注いでいる。このことは、こんな生徒たちに教えることができる私を喜ばせた』
寺に住んで1年が経った後、駿府城の跡地に家を建てる資金が提供された。家を建てるのに、なんと6ヶ月もかかり、何百人もの大工や石工が雇われた。日本人建設作業者が西洋風建築についてほんの少ししか、あるいは全く知識がなかったので、それは本当に大変な作業であったに違いない。クラーク自身もほとんど建築の知識はないことを認めていた。彼はそんな計画に携わった難しさを綴っている。『仕事は子どもの遊びとは異なる。図面をひき、設計するだけではなく、精密に計画を立てなければいけない。そして全ての内装、外装について説明の必要があった。日本人に説明するのは、月に住む人にするのと同じ位難しかった。ドア、窓、階段、クローゼット、煙突、その他どんな些細なことも建設計画に書き込まなければならなかった。そして図面と寸法を棟梁に示す必要があった』。全ての困難を成し遂げ、クラークはその結果に満足した。静岡の人々もまたクラークの家に感激し、それが完成した後、何百人もの人々が家を見に訪れた。
年の暮れにクラークは、クリスマスパーティを開いた。たくさんの日本人ゲストが招かれ、家の中を見て回る機会を得た。『案内人は内部を見せて歩き、1時間かけて家の中を出たり入ったりして回った。彼らは見るもの全てに驚き、賞賛の声を上げ、感嘆した』。その夜、40人のゲストがクリスマスディナーに招待された。クラークのその出来事に対する面白い記述を引用しようと思う。『ローストした鴨、チキン。コーン、グリーンピース、豆、トマト、サコタッシュ(豆料理)、じゃがいも。そしてたくさんのパイ、ケーキ、ゼリー、デザート。30分後には、大分量も減ってきたと同時に、慣れないナイフを使うカタカタという音も小さくなった。この時になって、大きな七面鳥が登場する場面になり、もちろんこれが、初めて目にする一番珍しいシーンであったのだが・・・私は、自分の分として1枚の上等の肉かドラムスティックが回って来るように秘かに強く望んで、計画的に配っていたのだが、なんと!私の願いはむなしく、自分のためのドラムスティックはいざどこに・・・。七面鳥のおいしそうな姿はゲストを更に空腹にし、食べる作業に再度没頭させた。私は忙しく七面鳥を切ってサービスしていたので、私の視界から自分の分の肉があっという間に消えてしまったことに気づかなかった。やっとわかった時には、何も残っていなかった』

静岡市にいる間、エドワード・クラークは近郊の田舎への小旅行を楽しんだ。彼の本“Life and Adventure in Japan”の中の“Excursions and Comical Experiences”の章の中でその旅の幾つかをまとめている。
ある小旅行でクラークと彼の生徒たちの小さなグループは、現在の富士宮市にある“白糸の滝”を訪れた。不運にも目的地近くで嵐に遭ってしまい、農家で雨宿りをしなければならなかった。クラークは濡れた服を乾かす間、お風呂に入ろうと考えたが、その風呂が入り口近く、家の真ん中に位置しているのに気付いて落胆した。家中の女や子供たちが風呂のまわりに集まり『唐人が風呂に入るのを見ることを楽しみに待っている』姿を見て動揺したに違いない。もちろん“唐人”はしばしば“野蛮人、異邦人”と訳される。更に悪いことには、風呂は彼が求める清潔さのレベルに達していなかった。そんなに『ヌルヌルした風呂』に今まで入ったことはなかったと言う。クラークはまた、何人もの人々が同じお湯を使うことに驚いた。『私が湯から出るか出ないかのうちに、次の人が入って来る。そしてその人が出るとすぐ、更に次の人が入っている。私が数えたところによるとその夜、少なくとも10人以上の人々が次から次へと同じ風呂の同じ湯に入ったことになる』
ついにクラークとその一行は、滝に着いた。彼はもちろん『美しい』とその滝について感想を述べている。実際彼は、その地域を『私が日本で訪れた最も素晴らしい場所』だと表現している。
他の小旅行でクラークは、イノシシ狩りに出掛けている。この時彼は生徒たちではなく、彼のお気に入りの護衛者を伴った。狩猟が行われた地区の地方役人は、200人の男たちを集め、狩りをやり易くするようにイノシシを追い詰めて、準備をした。この200人の人手というのは、たった一人の外国人の狩りの旅に伴うには異常に多いと思われる。しかしながら、静岡においてクラークが役人たちから、非常に高い配慮がなされていた、ということがわかるエピソードである。
次の引用によって、クラークは、彼の同行の猟師たちの技術にがっかりさせられたことがわかる。『彼らは下枝や高い草に隠れるのだが、その音は驚くほどうるさい。彼らは悪魔のように叫び、すぐに銃を使った。その間、犬たちは狂ったように吼え続けるし・・・』。彼の仲間の猟師たちの弱腰にも関わらず、狩りは大成功でクラークは2匹の鹿と3匹のイノシシを持ち帰った。3匹のうちの1匹のイノシシは、特に素晴らしい獲物だった。『一番大きなイノシシは200ポンド近くもあり、恐ろしい姿をしている。町まで運ぶのに8人の男の手を必要とした』猟師たちの手伝いのお返しに、クラークは役人に鹿肉のステーキ肉とイノシシ肉をプレゼントした。
静岡市の北にある湖でカモ狩りを行った時のことである。クラークは日本人の猟師から、敵意を示された。『彼らは悪意ある目付きで私をとらえ、彼らが外国人を憎んでいることがわかった』。彼の記述では、カモ狩りそれ自体もぞっとするような粗暴なものだったようだ。『カモが私たちの頭のすぐ上を飛んでいるのに、その真ん中を狙って見境なく撃った。それはカモの群れに恐怖に溢れた混乱を引き起こして、散り散りにした』。この狩りで撃たれたのは、カモだけではなかった。クラークは自分が日本人猟師のターゲットにされていた、と書いている。幸いにも弾は逸れた。クラークは、撃ち返すことも考えたが、彼の通詞に諭された。そんなことをすれば、二人の命は更に危険にさらされることになると。しばらくしてから、再びクラークは標的にされた。再度、クラーク暗殺計画は失敗に終わった。しかし今回は、間違って少年に当たり、怪我を負ってしまった。数日後その怪我が原因で、その少年は息を引き取った。
これらはこの章の中でクラークが綴っているうちの、たった3つの出来事である。この本の中で、格段に面白い章であることは確かであり、是非全体を読破することを薦める。
彼の記述を読んで最終的に、明確になったことがある。クラークは日本人に対して、敬意の念を更に深く抱くようになったことである。そして、外見や服装の違いなどから来る、まやかしの迷信は、信じるに値しないということを悟った。『日本人は世界中で最も礼儀正しい人々である。裸足で生活したり、アメリカ人よりも質素な見かけをしているにも関わらず、である。自分たちのことを“文明的”だと考えるたくさんの民よりも日本人は、確かに思いやりに溢れ、親切な人々である』 
カナダメソジスト教会の伝道
明治維新後、静岡藩では旧幕臣のための学校である駿府学問所(後に静岡学問所に改称)が設立されます。勝海舟はこの学問所の教師にアメリカ人教師を招聘、牧師でもあったエドワード・ウォーレン・クラークがアメリカから来日(1871年)し、理化学や語学などを教える傍ら、日曜日に自宅でバイブル・クラスを開いていました。1872年、クラークの後任としてカナダメソジスト教会の宣教医デイヴィッドソン・マクドナルドが赴任。同年、静岡学問所は廃止されますが、「賤機舎」と改称して再出発し、マクドナルドも教師を続けます。マクドナルドも英語、化学、歴史などを教える傍ら毎週日曜日に牧師館で聖書講座を開催し、伝道に努めていました。キリスト教の布教は禁止されていましたが、黙認されていた模様です。1874年9月、マクドナルドは11名の学生らを洗礼し、日本における初めてのメソジスト教会となる静岡教会(現・日本基督教団静岡教会 静岡市葵区西草深町)が組織され、受洗した山中笑、土屋彦六、山路愛山、今井信郎らは「静岡バンド」と呼ばれています。この静岡バンドのメンバーらは、静岡教会を中心に精力的な伝道を行い、清水市、浜松市、藤枝市、島田市、川崎町、焼津市、掛川市、沼津市の各地に多数の教会を誕生させたそうです。
カナダメソジスト教会はマクドナルドともに宣教師のジョージ・コクランも一緒に来日させていました。コクランは横浜で伝道を始めましたが、中村正直の開設した私塾「同人社」の教師になり東京に移動。1876年に牛込教会(現・日本キリスト教団 頌栄教会)を創立しています。
1876年、チャールズ・イビー宣教師とジョージ・ミーチャム宣教師がカナダメソジスト教会から更に派遣されます。イビーは、甲府の英学塾の教師に就任し、山梨県下を巡回して多数の教会や講義所を設立します。ミーチャムは静岡県沼津で伝道し、沼津教会を設立した後、東京に戻り、下谷メソジスト教会を設立しました。
カナダメソジスト教会は、この様にして伝道活動を開始し、東京で麻布メソジスト教会(現・鳥居坂教会)、東洋英和女学院と麻布孤女院を、静岡で静岡メソジスト教会、静岡英和女学院と静岡ホームを、山梨で甲府メソジスト教会、山梨英和学院と甲府YMCAを設立することになるのです。
静岡教会
静岡教会の始まりは、カナダ・メソジスト教会宣教師デイヴィッドソン・マクドナルドが、1874年4月9日に静岡学問所の後身である私立賤機舎(シズハタ シャ)教師として招かれ、妻と共に来任したことによります。その翌日から自宅で朝夕の礼拝と聖書研究を行い、学生の間に伝道しましたが、既にエドワード・ ウォーレン・クラークによる伝道の素地があったため、同年9月27日に11名の学生らが受洗し、直ちに教会が組織されました。これが、日本における初めて のメソジスト教会の誕生でした。その後、多数の優れた人材も生まれ、静岡教会より県下各地に伝道がなされて、10を超える教会が設立されました。静岡教会 はカナダメソヂスト教会、日本メソヂスト教会、そして日本基督教団の教会として歩み、今日を迎えています。隣接する静岡英和女学院、また、かえで幼稚園、 児童養護施設・保育園の静岡ホームと共に主にある働きを続けています。これまで会堂を三度にわたって焼失しましたが、1958年12月には草深の地に現在 の教会堂が建設されました。現在、新会堂建築への祈りを献げながら、福音伝道に励んでいます。 
海舟伝を書いたアメリカ人
明治37(1904)年ニュ―ヨ―クで『カツ・アワ・日本のビスマルク』として海舟の伝記が英文で出版された。表題は『KATZ AWA』その下に「 THE BISMARUCK OF JAPAN 」とあり、さらに 「OR THE STORY OF A NOBLE LIFE 」としてある。 「高貴なる生活の物語」という副題がついているところに 著者エドワード、ウォーレン、クラーク の著作意図がある、クラークは海舟を、「キリスト教国、異教国とを問わず、これまで会った何人よりも尊敬する」という。
「彼はキリスト教徒ではなかったが、彼以上にナザレ人の人格を備えた人を未だかって見たことがない、世界を三周したけれども」
「彼の穏健性、忍耐力は抜群で、また彼の持つ先見性のため多くの人々との間に確執を生み誤解されるがそれを乗り越える能力、苦境中の沈黙、死に対する覚悟、しかも指導者としての注意深さ、彼が一日にして生きると予言したとおり、回天の事業を大成したのも偶然ではない」
「勝安房の政治的手腕として特記すべきは、公武合体を達成し、日本国を統一せる遺業である」と、更に「ビスマルクのドイツ統一は血なまぐさい戦争の結果であるが、勝の場合は平和的手段による。我が米国も1860年代、百万の生命を賭して始めて南北統一を達成した。日本では幕府の謙譲と犠牲的精神により、一挙に王政維新を出現した。地方分権を打破して国内統一を果たしたのは、日、独、米、とも一つであるが、リンカーンやビスマルクと違って、勝は軍略に長じ、300年鍛えに鍛えた武士の後援のもと、自発的な道理と忠義によって、将軍の恭順を引き出した」とある。
勝は平和主義を唱えたため、「先ず勝の首を血祭りにあげよ」という幕臣に囲まれた。しかし 「余は正道を歩み、俯仰天地に恥じぬ」 「今無辜の民を救い得るなら、我を犠牲にするのは当然である!!」 として、死を恐れず、一歩も後へ引かなかった。この時、勝の背後に、抜刀した日本の軍神 スサノウを観た幕臣がいて天の意志を知り、息を飲み気勢をそがれたという。
「人間は一時に両面を見ることは出來ないが、勝にはそれが出來た。勝の勝たる特色はここにある」とも書かれている。そして海舟の一生は「富でなく価値を得るために送られた一生」であつたとしめくゝる。
明治4年10月から、静岡藩学校で3年間教鞭をとったアメリカ人ウォーレン、クラークの言葉である。
 
ウィリアム・グリフィス 

 

William Griffis (1843〜1928)
    グリフィスの福井生活
米・フィラデルフィア生まれ。フルベッキとその門下生で留学生だった福井藩士・日下部太郎の紹介で1870年来日、まず福井藩の教育に当たり明新館で教鞭をとる。その後政府に雇われて1872年、南校(後の東大)に移り、理学や化学を教え、同時に日本人向けの英語の教科書作りを目指し、現在でも使われているような身近な生活に題材を取った挿絵入りの教科書を作った。1875年に帰国。帰国後は日本の紹介に務め、講演や執筆活動を行った。1876年にアメリカで刊行した『The Mikado's Empire』( 『ミカドの帝国』、『皇国』または『ミカド』)は日本と明治天皇を紹介する書籍として広く読まれた。 
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アメリカ合衆国出身のお雇い外国人、理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者である。明治時代初期に来日し、福井と東京で教鞭をとった。帰国後は日本の紹介につとめたほか、朝鮮についても紹介した。
1843年、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアに、ジョン・メリバーナとアンナ・マリア・ヘスの4番目の子供として生まれる。オランダ改革派教会系の大学であるニュージャージー州のラトガース大学を卒業。
ラトガース大学で福井藩からの留学生であった日下部太郎と出会い、親交を結ぶ。その縁により明治4年(1871年)に日本に渡り、福井藩の藩校明新館で同年3月7日から翌年1月20日まで理科(化学と物理)を教えた。天窓のついた理科室と大窓のある化学実験室を設計したが、これは日本最初の米国式理科実験室であったらしい。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県により契約者の福井藩が無くなった。明治5年(1872年)、フルベッキや由利公正らの要請により10ヶ月滞在した福井を離れて大学南校(東京大学の前身)に移り、明治7年(1874年)7月まで物理と化学、精神科学など教えた。
明治8年(1875年)の帰国後は牧師となるが、米国社会に日本を紹介する文筆・講演活動を続けた。1876年にアメリカで刊行したThe Mikado's Empire(『ミカドの帝国』あるいは『皇国』と訳される)は、第一部が日本の通史、第二部が滞在記となっている。
日本滞在中に記した日記や書簡、収集した資料は、グリフィス・コレクションとしてラトガース大学アレクサンダー図書館に収蔵されている。日下部やグリフィスの縁で、ラトガース大学のあるニューブランズウィック市と福井市は1982年に姉妹都市提携を結んでいる。 
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ウィリアム・グリフィス (William Elliot Griffis, 1843~1928) は米国の牧師・東洋学者で、1870〜74(明治3〜7)年に日本に滞在し、福井と東京で西洋式教育制度の導入に尽力した。
帰国後の1876年に出版した『皇国(The Mikado's Empire)』がベストセラーになり、東洋学者としての名声を確立した。1882年に初版が出た『隠者の国・朝鮮』も非常によく売れ、1911年までに9版を重ねた。キッシンジャー社から出ている復刻版は、1904年の第7版によるものである。
グリフィスは朝鮮を訪れたことはなく、本書は英語・フランス語・ドイツ語・オランダ語等で書かれた既存文献と、日本・中国の史料に依拠している。しかし米国では、最初のまとまった朝鮮関連書として多大な影響力を持ち、「隠者の国」というフレーズは朝鮮の代名詞として有名になった。
『隠者の国・朝鮮』
本書は三部構成になっており、第一部は、日本人・朝鮮人とも扶余の子孫とし、日本に対する朝鮮の文化的影響を強調する一方、軍事的には日本が支配者だったとする。中世史は、ほとんどが文禄・慶長の役と、ハメルらオランダ人一行の朝鮮幽囚の記述に割かれている。第二部は主にダレの『朝鮮教会史』に依拠し、両班の横暴を最大の社会病理として指摘している。刑罰の恣行、男尊女卑、民衆の怠惰、建築の貧弱さ、暴食の習慣等の記述も、ダレのものを引き継いでいる。第三部では、朝鮮を日本・中国・ロシアの三大国いずれかの餌食となるべき、特に後進的で弱体な国と描き、自主独立の可能性は全く認めていない。
これは朝鮮_人による歴史の塗装作業の良い見本である。つらい現実には国産塗料を塗りたくり、黄金に見せかける。さらに後世の事件に対しても、公的な虚飾が巧妙に施され、敗戦すら輝かしい勝利に変えられる。
朝鮮は人にたとえられ、王はその頭、貴族は胴、人民は足である。胸と腹は膨れる一方、頭と下肢はやせ細っている。貴族はその強欲で人民の生き血をすするのみならず、王の大権をも侵している。国は充血を起こし、官僚主義の浮腫を患っている。
拷問の豊富さは、朝鮮がいまだに半文明国にとどまっていることを示すに十分である。法院と監獄の発明品としては、鉄鎖、背中を打つための竹、尻を打ち据えるためのパドル状の器具、肉が裂けるまでふくらはぎを叩くための鞭、肉と内臓を苛むためのロープ、手かせ、杖、そして膝とむこうずねを叩くための板等がある。
結婚後は、女との接触は不可能である。女はほとんど常に内房に引きこもり、許しを受けずに家の外を覗くことすらできない。隔離があまりに厳しいため、部外者の指が触れたというだけで父は娘を、夫は妻を殺し、妻は自殺することがある。
朝鮮の建築はきわめて原始的な状態にある。城郭、要塞、寺院、修道院および公共建築は、日本や中国の壮麗さにまるで及ばない。この国は古い歴史を誇っているのに、石造の遺跡がほとんどない。住居は瓦葺きか藁葺きで、ほとんど例外なく一階建てである。小都市では規則的な通りに配置されておらず、あちこちに散在している。大都市や首都でも、通りは狭くて曲がりくねっている。
約85パーセントの人々は読むことも書くこともできない。ただし地域差は大きい。
朝鮮にはサムライがいない。日本にあって朝鮮に欠けているものは、心身ともによく鍛えられ、兵士であると同時に学者であり、忠誠心と愛国心と自己犠牲の高い理想をかかげる文化的集団である。 
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19世紀、欧米諸国による国際秩序の再編という危機の中、安全保障と産業の基礎となる「理化学」を修めた人材の養成は日本国の急務でした。福井藩は米国に天才留学生日下部太郎(くさかべたろう)を派遣しましたが、無理な学業がたたった日下部は首席での大学卒業を目前にして現地で亡くなります。その年の末、福井の藩校で理化学の基礎を少年たちに教えるべく、藩に採用されて来日した牧師志望の神学生こそ、語学講師として日下部と出会い友人となり、その葬儀にも参列していたW.E.グリフィスでした。
生来の真面目な性格と、新日本の発展に寄与したいという使命感から、契約上の科目だけでなく、もてる幅広い知識・教養を学校の内外で精力的に伝えようとするグリフィスは、藩士の深い信頼を得ました。由利公正たちとの交友から、グリフィスは明治維新という革命を高く評価し、日本という国には本格的研究に値する歴史・文化があると確信し、足で、馬で、舟で、あらゆる事物への関心を露わに越前の地をその目で見てまわりました。ただでさえ、かつての日本の美しい風景と、細やかで開けっぴろげな人情は、その頃来日した多くの西洋人同様にグリフィスを魅了してやまないものでした。
廃藩はグリフィスの滞日中もっとも印象的な事件であり、自分がまさに歴史的な瞬間に身をおいているという実感を彼に与えた事は、その主著「ミカドズ・エンパイア」に鮮やかに描かれています。グリフィスは封建制の清算と中央集権体制の成立をポジティヴにとらえましたが、それは彼が1年足らずで任地を去る主因ともなりました。しかしその一度きりの春夏秋冬の間に、彼は確かに福井という地の科学教育の礎を築いたという事実が、当館の開設にまでつながる記憶の原点となっています。
東京大学の前身となる学校での二年半の教職の後、帰国してからのグリフィスはいわゆる二足の草鞋を履く事になります。牧師として、作家として。それは後年、本人が実り多き人生として回顧するに足るものでした。還暦を迎えてからそのうちの一足を脱いで、文筆に専念するのですが、残された作品は伝記、歴史物語、フェアリーテイルなど多岐にわたります。そこでとりあげられた題材にはM.C.ペリー、T.ハリス、G.フルベッキ(グリフィスを日本に招いた宣教師)、あるいは日本人にはおなじみの昔話など、27歳の日に海を越えて赴任した国に関わる事柄が多く、その地で送った数年間が、その後の長い創作活動の絶えざる源泉となったといえます。
その日々は老いていよいよ美しく彼の記憶の中にありました。明治という時代を代表するジャパノロジストとして名声を確立したグリフィスの人生の最後に、昭和と改元されて間もない日本を再び訪れる機会が待っています。追憶の彼方にあった国がその後たどった半世紀間の、自らが種を蒔いた近代国家としての発展の、成果を確認する事になる文字通り皇国全国を巡る大旅行。その時の大歓迎が、当館の開館に至る福井とグリフィスのその後の一世紀の、新たな始まりでした。  
『皇国』
はじめに
明治時代初期にアメリカからウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis, 1843-1928)という神学を修めた科学者が来日しました。彼は福井や東京で教鞭を執る傍ら、幅広い分野の日本研究を行い、帰国して“The Mikado's Empire”(『皇国』)をはじめ多くの研究書を刊行しました。
彼が牧師を務めながら書き残した著作は、日本関係の書物も含めて50冊にのぼるともいわれています。本書はその合間を縫って40年近くにわたって、版が重ねられました。
ここでは、彼が日本に関心を持つことになった理由などを振り返ってみたいと思います。
化学を学ぶグリフィスと日本人留学生たち
グリフィスは1843年の9月にペンシルバニア州のフィラデルフィアに生まれています。青年時代に勃発した南北戦争では北軍に従軍し、戦いが終わった1865年に伝統校であるラトガース大学に入学して理学を学びました。在学中にグラマースクールの教師としてラテン語やギリシア語を教えており、人文科学系にも通じた優秀な学生であったようです。
このグラマースクールで、日本人で福井藩から派遣されていた日下部太郎と福井藩主松平春嶽の政治顧問を務めていた横井小楠の甥で熊本藩士の横井左平太・太平兄弟らを教えることになります。彼らは1866(慶応二)年から幕府の許可を得て留学していたもので、教師グリフィスと生徒である彼ら日本人とは年齢も大きく
違わないことから、接し合ううちにグリフィスの日本への関心が高まっていったと考えられます。
神学も学んで日本へ
グリフィスはラトガース大学を卒業して、さらに神学校で学びました。この間、留学生の日下部が1870(明治三)年、大学在学中に肺結核を患い客死しました。こうした中、長崎に滞在するオランダ人宣教師グイド・フルベッキ神父を通して福井藩の要請を受け、グリフィスはお雇い外国人として来日を決意し、この年の12月に横浜に到着したのでした。
彼にとって南北戦争の終了したアメリカと戊辰戦争を終えて国内統一を成し遂げた日本とが近い存在に感じられ、日本が将来に向かう姿に好感を抱いていたとも考えられます。
教員として福井から東京へ
彼は、翌1871(明治四)年3月に日下部の故郷、越前福井へ赴任し、藩校である明新館で物理学と化学を教えています。ここでは欧米の事情も語っていたようです。
しかし、この年の7月に廃藩置県が行われたことによって福井藩は消滅し、10 ヶ月余り滞在した福井に別れを告げます。1872(明治五)年の2月には東京へ移り大学南校(東京大学の前身)で化学や物理を担当しました。
グリフィスは、この学校で教員が不足していたことから、専門の自然科学分野だけでなく、法学、地理学、文学、語学なども担当し、自分自身の学問領域を広げていたようです。この頃、明治天皇の御成りがあり、天覧の場で授業を行っています。彼の研究対象となる「ミカド」との出会いでした。
しかし、安息の日曜日を巡る見解の違いから文部省との契約更新は行われず、1874(明治七)年に帰国します。グリフィスは日本で過ごした約3年の間に人々の生活や歴史、文化、思想などを細かく観察していました。南校の教員として、学問領域を広げていた経験が文化の分析や研究に役立ったようです。
帰国すると再びキリスト教の研究を志してニューヨークのユニオン神学校で学び、1877(明治十)年に卒業して牧師を務めることになります。この学校に在学している最中の1876(明治九)年に代表的な著作である『皇国』をニューヨークで刊行します。神学を学ぶ傍ら、日本滞在中の記録や論文を整理して著述活動を進めていたのでした。
日本人のグリフィス観
本書は二部からなり、第一部が皇紀元年とされる紀元前660年から明治天皇を中心にした維新までの通史で、第二部は福井・東京間の往復の旅行、同地や横浜での経験を中心にした滞在記です。いずれも変革期の現実を書いた数少ない外国人による研究書といえます。
グリフィスは、「心理上の相違」から外国人が日本史を書くことの困難さを指摘されたことについて、本書の序文で「私はその言葉、書物、習慣から日本人の精神的視差を決定し、日本人の思想、感情を発見するよう努めてきた」と、異なる風俗と習慣の違いを観察力と分析力で克服したことを述べています。
第二部を翻訳した山下英一氏は、こうしたグリフィスについて「熱心なキリスト教徒としての愛、自然科学の学徒としての観察、さらに好奇と判断を必要とする歴史家としての偏見のなさ」を三つの要素として捉え、彼が本書を二部構成にしたことは聖書の旧約と新約に因んだ形式と推測しています。
また、グリフィスが明治天皇の崩御後に刊行した別書“The Mikado: institution and person”を翻訳した亀井俊介氏は、同書の中で彼の日本観をラフカディオ・ハーンのそれと対極に据え、グリフィスが日本の「西洋化、ないし近代化を喜ぶ」と評しています。
話は遡りますが、グリフィスは1905(明治三十八)年に新渡戸稲造の“Bushido”(『武士道』)刊行のため「緒言」を贈り、キリスト教中心主義に立脚して同書の執筆を「東洋と西洋の調和と一致の解決に対する著しい寄与」と讃えました。ここにグリフィスが求めていた文明観の一端が見て取れるのです。
40年近くも読まれ続けた名著
日本で宗教活動は行わなかったものの、神学を学んだ敬虔なキリスト教徒としてのグリフィスの『皇国』は、戦国時代の我が国を幅広い筆致でヨーロッパに紹介したキリスト教宣教師たちの布教報告書に通じるものがあります。彼自身が神学を修めてきた中で、布教報告書の持つ価値はいつの世でも普遍であることを認識して本書を執筆したとも考えられます。重ねていえば、後に牧師として活動することになるグリフィスの使命感にあふれた書物ともいえるのです。
本書が好評であったことや日本の国際的な地位の台頭などを背景にして、ヨーロッパでの日本研究に遅れをとっていたアメリカでも研究者が増加します。新たな人たちによる成果が生まれても、本書をはじめとして、彼がその後に著した日本研究書は依然として人気を維持し続けます。
このように、アメリカでの研究体制面で重要な意味を持つ『皇国』は、初版の刊行から37年を経た1913(大正二)年に第12版が発行されましたが、この間に日本国内の環境は大きく変化していました。版を重ねる過程でアメリカに在住していたグリフィスが、情報収集や分析に苦しむこともあったと考えられます。そのためか、史実と異なる記述があることも指摘されています。
グリフィスが多くの書物で日本の歴史と明治初期の文化を紹介したことに対し、日本政府は1908(明治四十一)年と1926(大正十五)年の二度にわたり、叙勲という顕彰方法で応えました。これはアメリカ最大の知日家として、明治と大正の変革を見続けてきた人物に対する感謝で、彼のような外国人の見解を特に大切にしたい時代だったのではないでしょうか。  
『ミカド』
ひとことで言えば、外国人の書いた明治天皇伝であり、明治という時代を外国人の目で振り返った、極めて興味深い書である。サブタイトルに「日本の内なる力」とある。
著者は明治維新の頃来日、福井藩の松平春嶽公に雇われたアメリカ人である。維新から廃藩置県、西南戦争、憲法発布、日清、日露戦争そして明治天皇の崩御までつぶさに俯瞰し、それぞれ外国人らしいコメントを残している。たとえば、
「この偉大な人物(勝安房)は、旧と新との両方の日本の代表であり、また封建主義と近代国家への指向との間に立つ連結者であり、精神と理性を武力や蛮力よりも上のものとして信じた人であった。」
おそらく適確な勝海舟評であろう。また、現在沖縄の基地が焦点になっているが、その沖縄についてこんなことを書いている。
「この小さな南の島の住民は顔つきや血統や言語が証明するかぎり起源は日本人であるが、大昔からシナの配下門弟に属していた。(中略)1875年、東京からの命により、島民たちは今後シナに貢物を送ることを禁じられた。」 
著者の関心の範囲が沖縄という地方にまで及んでいることに驚く。さらに、日本人を鋭く洞察しているこんな指摘もある。
「日本人には、その最初から今日にいたるまで、個人の人格ということの意識が弱かった。(中略)日本語の名詞に性や数や格の変化がないこと、動詞が語尾変化しないこと(中略)― これには歴史的な理由がある。個人は無であり、氏族や部族や共同体がすべてなのだ。」
ここに挙げたのはほんの一例で、論評は歴史的出来事にとどまらず、人物論であり、ときに日本人論、日本文化論として広範に展開されおり、その作者の目は、近代化に驀進していく明治時代を、好意的に見守っているようなところがある。そして、その近代化の象徴的な存在として明治天皇を置き、その英邁さを賞賛するのである。
 
ジェームス・カーティス・ヘボン (ヘプバーン)   

 

James Curtis Hepburn (1815〜1911)
アメリカ人宣教師。14歳でプリンストン大に入学した秀才で、ペンシルバニア大医学部卒の医師でもある。ペリーの報告書を読んで日本に興味を持ち、妻クララとともに1859年来日。医療活動の他、宣教のため日本語習得を研究を重ね、美国平文の名で1867年英和辞典『和英語林集成』を発行、聖書の和訳などにも貢献、またヘボン式ローマ字を考案した。1863年(文久3年)横浜にクララとともにヘボン塾を開設、後に明治学院大学を設立、初代学長になり、化学・衛生学などを教え日本人の教育に務める。門下からは島崎藤村、高橋是清など逸材を輩出した。33年に渡り日本で活動したのち帰国した。
当時の日本語表記は「ヘボン」だが英語のスペルはオードリー・ヘップバーンやキャサリン・ヘップバーンと同じHepburnである。  
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米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師。ペンシルベニア州ミルトン出身。ヘボン式ローマ字の考案者として知られており、これは彼が編纂した初の和英辞典である『和英語林集成』における日本語の表記法が元になっている。姓の「ヘボン」は原語の発音を重視した仮名表記とされており、本人が日本における名義として用いたことで彼固有の表記として定着したものだが、Hepburn 全般の音訳としては「ヘプバーン」「ヘップバーン」が普及したことから、彼の姓もそれに従って表記される場合がある。幕末に訪日し、横浜で医療活動を行った。宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。その功績を称えて、横浜市立大学医学部にはヘボンの名を冠した講堂「ヘボンホール」がある。また、東京で明治学院(現在の明治学院高等学校・明治学院大学)を創設し、初代総理に就任。日本の教育にも貢献した。聖書の日本語訳にも携わったことで知られる。
1832年、プリンストン大学卒業、ペンシルベニア大学医科に入学。
1836年、ペンシルベニア大学卒業、医学博士(M.D.)の学位を取得。
1840年、クララ・メアリー・リート(Clara Mary Leete,1818-1906)と結婚。
1841年3月15日、ボストンを出航し7月シンガポールに到着。ギュツラフ訳日本語訳聖書「約翰福音之傳」を入手。
1843年、マカオを経由して廈門に到着する。
1845年11月13日、廈門を出発。
1846年、ニューヨークに到着し、病院を開業。
1859年(安政6年)4月24日、北アメリカ長老教会の宣教医として、同じ志を持つ妻クララと共にニューヨークを出発。香港、上海、長崎を経由し、1859年10月17日(安政6年9月22日)に横浜に到着する。成仏寺 (横浜市)の本堂に住まい、宗興寺(現在の横浜市神奈川区)に神奈川施療所を設けて医療活動を開始。ここから横浜近代医学の歴史が始まったといわれる。
1860年(万延元年)、フランシス・ホール、デュアン・シモンズ博士夫妻らと神奈川宿近くの東海道で大名行列を見物した。尾張徳川家の行列の先触れに跪くよう命じられたがヘボンとホールは従わず、立ったまま行列を凝視したため、尾張藩主もヘボンらの前で駕籠を止めオペラグラスでヘボンらを観察するなど張り詰めた空気が流れたが、数分後尾張侯の行列は何事も無く出発し、事なきを得た。
1862年9月14日(文久2年8月21日)、生麦事件の負傷者の治療にあたった。
1863年(文久3年)、横浜に男女共学のヘボン塾を開設。その後、ヘボン塾は他のプロテスタント・ミッション各派学校と連携。箕作秋坪の紹介で眼病を患った岸田吟香を治療する。その後、当時手がけていた『和英語林集成』を岸田吟香が手伝うようになる。
1866年、『和英語林集成』の印刷の為に岸田吟香と共に上海へ渡航する。
1867年(慶応3年)、三代目沢村田之助の左足切断手術。日本最初の和英辞典『和英語林集成』を編纂し、美国(中国語でアメリカ合衆国の通称。3版から米國に変わる。)の下に平文の名で出版。日本語を転写する方法として英語式の転写法を採用。第3版まで改正に努め、辞典の普及に伴い、ヘボン式ローマ字の名で知られるようになった。
1871年(明治4年)、ヘボン塾の女子部が同僚の宣教師、メアリー・キダーにより洋学塾として独立。洋学塾は、後にフェリス女学院の母体となる。
1872年(明治5年)、横浜の自宅で第一回在日宣教師会議を開催、同僚の宣教師らと福音書の翻訳を開始。
1874年(明治7年)9月、横浜に横浜第一長老公会(現在の横浜指路教会)をヘンリー・ルーミスを牧師として建てる。
1880年(明治13年)頃、旧約聖書の和訳を完成。
1886年(明治19年)、『和英語林集成』第3版を出版。当時外国人の所有を許されなかった版権を丸善に譲渡する。利益は、後に明治学院へ寄付された。
1887年(明治20年)、私財を投じて東京都港区白金の地に明治学院(現・明治学院高等学校・同大学)として統合し、明治学院初代総理に就任した。
1892年(明治25年)、『聖書辞典』を山本秀煌と編纂。10月22日に妻の病気を理由に離日。
1893年(明治26年)、ニュージャージー州イーストオレンジに居を構える。
1905年(明治38年)3月13日、勲三等旭日章が贈られる。
1911年(明治44年)、病没。
「ヘボン」という名前
「ヘボン」は、彼自身が日本人向けに使った名前である。他に「平文」の表記を使用していた。
○アカデミー賞女優キャサリン・ヘプバーンはヘボンと同じHepburnの一族である。
○『ヘボンの生涯と日本語』にジェームス・カーティス・ヘップバーンはテノールのよく響く声で、自ら「ヘボンでござります」と名乗っていた、という記述がある。
○慶応3年(1867年)に出版された『和英語林集成』初版の表紙に「『美国平文』編訳」と見える。
○1892年(明治25年)に出版された『聖書辞典』の表紙にも「平文」と見える。
○『和英英和林語集成』第5版1894(明治27)年発行の「501/509」に奥付に書かれている著作者は「ゼー・シー・ヘボン」となっている]。
日本語で「ヘボン」が使われている。
○ヘボンが宿舎にした成仏寺の門前の名主源七による『御用留』(1861年7月頃)に「ヘボン」(ヘホン)と書かれている。
○1872年(明治5年)に出版された『新約聖書馬可傳福音書』の表紙裏を見ると「この書はヘボン訳なり」と注記がある。
○1888(明治21)年4月19日付の右の郵便報知新聞の新聞広告で、『和英英和語林集成 第4版』が「博士ヘボン氏著」と紹介されている。
James Curtis Hepburnが創設したり、創立に深く関わった学校や教会は現在でも「ヘボン」表記を大事に伝えている。
James Curtis Hepburnについての研究や解説で「ヘボン」を使っており、書名・論文名にも採用されている。
一方、"James Curtis" の発音・表記は、変遷し、混乱してきたと思われる。Jamesについてはジェームズを、Curtisについてはカーチスを参照のこと。
「ヘボン」の祖先
Hepburnの名は、HebronまたはHebburnという町に由来する。またヘボンの遠い祖先は、スコットランドのボスウェル伯に連なるという。そして近い祖先は、イギリス国教による長老派迫害を逃れてサムエル・ヘップバーン(曾祖父。父と同名)が1773年アメリカへ渡ったのが始まりで、子ジェームス、孫サムエルと続き、サムエルの長男がジェームス・カーティス・ヘボンである。
ヘボンの日本語
来日前(1841年シンガポール滞在中)にカール・ギュツラフ著『約翰福音之伝(ヨハネふくいんのでん)』を手にいれ、1859年航海中には『日本語文法書』とともに利用し学習した。マカオでサミュエル・ウィリアムズ宅に滞在して簡単な日本語を習い、来日後「コレハナンデスカ?」と聞いてまわり、メモを取った。
神奈川到着前にしばらく滞在していた長崎では、数度上陸し、かなり多く英語と日本語を対照してことばをあつめ、ちょっとした会話は出来るがまだ貧弱だ、としている。
1881(明治14)年、頼山陽の『日本外史』の大部分を原文のままで読んだ。
ヘボンと医学
日本に来て、医療を武器に信用を獲得していった。専門は脳外科であったが、当時眼病が多かった日本で名声を博したという。横浜の近代医学の歴史はヘボン診療所によって始まったといわれる。日本人の弟子を取って教育していたが、奉行所の嫌がらせもあり、診療所は閉鎖になった。博士のラウリー博士宛ての手紙によると、計3500人の患者に処方箋を書き、瘢痕性内反の手術30回、翼状片の手術3回、眼球摘出1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の手術13回、痔ろうの手術6回、直腸炎1回、チフスの治療3回を行った。白内障の手術も1回を除いて皆うまくいったという(1861年9月8日の手紙)。また、名優澤村田之助の脱疽を起こした足を切断する手術もしている。その時は麻酔剤を使っている。一度目の手術は慶応3年(1867年)であるが、その後も脱疽の進展にともない切断を行っている(横浜毎日新聞1874,6,11日付)。専門が脳外科であることを考慮すると足の切断術は見事であると荒井保男は述べている。  
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生い立ち
明治学院大学の創設者であるヘボン博士(James Curtis Hepburn,1815-1911)は、1815年3月13日ペンシルバニア州ミルトンに生まれました。ヘボン家の祖先はスコットランドから北アイルランドへ移ったスコッチ・アイリッシュです。信仰心の厚い両親に守られて成長したヘボン博士は、米国長老教会(The Presbyterian Church in the United States of America)が教職者養成を目的として設立したプリンストン大学に1831年に進学しました。卒業後、医学の道を志してペンシルバニア大学に進み36年に卒業しています。
結婚と中国における伝道
開業医として医療に携わりながらも海外伝道に使命感を持っていたヘボン博士は、同じく海外伝道に関心を持っていたクララ(Clara Mary Leete,1818-1906)と邂逅しました。1840年に結婚した二人は、米国長老教会のシャムへの宣教師派遣計画に応募して翌41年3月ボストン港を出帆しました。
1841年7月シンガポールに到着しました。夫妻は航海中に夫人クララの流産という悲しみを経験しています。シンガポールで宣教地を当初のシャムから中国のアモイに変更しましたが、アヘン戦争のため直ちに渡航できず、アモイ到着は2年後の43年11月まで待たねばなりませんでした。この間ヘボン夫妻は一児を生後わずか数時間で失うという不幸にも遭遇しています。
風光明媚な反面、アモイは水が悪く、マラリアが猛威を振るっていました。クララはこの地で男子を出産し、サムエル・デビットと命名しました。夫妻の子供で成人したのはこのサムエルだけです。クララは産後の肥立ちも悪く、加えて夫妻ともにマラリアに罹り、伝道を断念せざるをえませんでした。家族3人は46年3月ニューヨークに帰りました。
帰国後のニューヨーク生活
帰国後ヘボン博士はニューヨークで医療活動を開始しました。旧世界から怒濤のように押し寄せる移民で溢れていた当時のニューヨークは、衛生状態も最悪で疫病が蔓延していました。ヘボン博士は、コレラに罹った患者に対して適切な治療を施し医師としての評判を高めました。また、卒業したペンシルバニア大学伝統の眼科にも精通していたため、病院は繁盛して自ずと財をなすことができました。しかし、繁忙のため帰国後に生まれた子供三人(2歳、3歳、5歳)を病気(猩紅熱と赤痢)で相次いで失うという悲運に見舞われています。ヘボン博士は弟スレーターに宛てた手紙(1855年8月1日付)で次のように記しています。
「私の胸は張り裂けるほどだ。おおニューヨークは何と恐ろしい所であろうか。私に翼があったらどこか寂しい所に飛んで行きたい。これらが悪しき思いならば、神よ許し給え。」
日本における伝道志願と来日
米国は1858年幕府と日米修好通商条約を締結しました。この情報が伝わると、ヘボン博士は同年の暮れに米国長老教会海外伝道局を訪ねて日本への派遣を申請しました。翌59年1月に申請は認められました。
ヘボン博士は両親の理解を得られないままに、唯一の息子サムエル(14歳)を知人に託し、賑わった病院を閉じて、1859年4月24日ニューヨーク港を出帆しました。喜望峰回りで、香港と上海に寄港した後、10月17の夜半に神奈川沖に到着しました。ヘボン博士は後年ニューヨークのミッション本部宛書簡(1881年3月16日付)において次のように記しています。
「日本に行くべき招命を受けたとき、わたしの心を家郷に結びつける幾多の繋累をたち切り、喜びいさんで出て行ったのであります。いつも思うことですが、中国におけるわたしの最初の宣教師としての生活と経験とは日本における第二の、そして更に最も重要な伝道事業のためであったと考えています。」
神奈川における医療活動
神奈川の浄土宗成仏寺を居に定めたヘボン夫妻は、1860年を迎えると近くの日本人と親交を結ぶようになりました。当時日本人にキリスト教を布教することは幕府より禁じられていましたが、医療行為は黙認されました。ニューヨークのミッション本部に宛てた書簡(1860年5月14日)をご覧下さい。
「わたしどもが街路を歩いている時なども、みんな楽しそうにほほ笑んで会釈してくれます。まだその人々には大して薬をあげていませんが、この数日間に四人の患者の手当をしました。その三人はわたしどもの番所の係の立派な武士たちでありました。わたしはちょっとした手術を施しましたが、みな苦痛がとれてとても喜んでいたようです。」
評判を聞きつけて各地からヘボン博士に治療を願う日本人が数多く訪れるようになりました。医療活動を考えると成仏寺では手狭となり、1861年の春に近くの宗興寺に施療所を移しました。ところが、宗興寺の施療所における医療活動開始半年後の9月になって、幕府から施療所閉鎖の命令が出されました。ニューヨークのミッション本部に送った書簡(1861年9月8日付)には次のように記されています。
「わたしの施療所は閉鎖されました。その歴史は短いものでした。五ヶ月間ばかりつづいただけです。最初患者はわずかでしたがまもなく非常に増加し、その後三ヶ月間は一日平均百人の患者を診察しました。助手がいなかったのでほとんど満足な記録をつけることができませんでしたから、人数だけ申し上げますが、計三千五百人の患者に処方箋をかきました。それは毎回ちがった患者で延人員ではなかったのです。他の手術以外に瘢痕性内反(眼疾の一種。トラホームのためまつ毛が角膜に向い刺激する症状)の手術三十回、翼状片の手術三回、眼球を摘出したのが一回、脳水腫の手術五回、背中のおでき切開一回、白内障の治療十三回、痔瘻の手術六回、直腸炎一回、チフスの治療三回行いました。そのうち一回だけ白内障の手術はうまくいかず、他はみな上出来でした。」 1870年からヘボン博士と親しく交わったW.E.グリフィスは自らの著書において、当時の日本の衛生状態を次のように記しています。ヘボン博士の医療活動が日本人にどれほど感謝されたか理解していただけるはずです。
「ちまたには乞食が多いのに加えて、神が創られた人間の姿を、見るに耐えないほど醜く歪める不潔と、忌まわしい病気とが蔓延していた。日本には病院はなかった。」
医療活動の開始とほぼ同時期に、ヘボン博士夫妻は日本人に対する教育活動を開始しています。ヘボン塾の原形ともいうべきものであり、後の明治学院そしてフェリス女学院に繋がる一粒の麦の種が蒔かれました。1861年6月22日付の書簡には次のように記されています。
「わたしどもは学修者や学者の小クラスを集めております。施療所に興味をもってわたしの助手となる二人の学生が数日のうちに来ます。日本語の教師(ヘボン博士に日本語を教える日本人・・・引用者)とわたしどもの下僕の息子とがクラスを作って、妻が、毎日午後一時間または二時間、英語を教えるのです。二人とも辛抱づよく勤勉な生徒です。」
横浜における教育と辞書編纂活動
横浜居留地39番に新築された住宅にヘボン博士が移転したのは1862年12月でした。住宅に付設した施療所を利用する教育活動も翌年秋からヘボン夫人の尽力で本格化し、ヘボン塾の名が生まれました。高橋是清(日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣を務め、二・二六事件で反乱軍の凶刃に斃れた)、林董(はやしただす)(駐英公使として日英同盟締結に尽力し、外務大臣、逓信大臣を歴任)、そして益田孝(三井物産の創設者)をはじめとする優れた人材がヘボン塾に学んでいます。特に、林董は後々までヘボン夫妻の学恩を忘れず、自分の履歴書の学歴にヘボン塾出身を明記したと言われています。
アメリカ・オランダ改革教会(Dutch Reformed Church in America)宣教師キダー(Mary Eddy Kidder,1834-1910)が70年にヘボン塾に着任しましたが、72年独自に女子教育をおこなうためにヘボン塾から独立しました。後のフェリス・セミナリー(現フェリス女学院)へと発展します。
聖書の日本語訳のためにも辞書の必要性を認めていたヘボン博士は、医療をおこないながら熱心に日本語研究と語彙の蒐集に取り組みました。1864年11月28日付書簡には次のように記されています。
「この辞書の完成の暁には、日本人ならびに外国人にとっても最大の恩恵となるでしょう。なぜならば、これを望んでいるは外国人ばかりでなく、日本人も等しく求めているからです。わたしは自分の企てたこの大きい事業と、重い責任を考えて自ら戦慄を感じる次第です。けれども、天にいます父の助けにより、これを完成することができるよう望みます。そして、神にのみすべての栄光があらんことを祈ります。」
当時存在していた唯一の英和辞書は、江戸幕府の洋学調所が1862年に発行した『英和対訳袖珍辞書』です。これは英語と日本語の単語それぞれ一個が対置された、いわば単語帳のようなものでした。ヘボン博士は来日8年目の1867年、日本で最初の本格的な和英・英和辞書である『和英語林集成』を出版するに至ります。その後も語彙の増補だけでなく用例等内容の充実に努め、1886年に第三版の出版が伝えられたときには大変な評判となり、予約だけで18000部にも達したと伝えられています。
『和英語林集成』を超える辞書の出現は、1896年に三省堂が発行したブリンクリー・南条・岩崎共編の『和英大辞典』まで待たねばなりません。その29年間、ヘボン博士の辞書は日本社会において揺るぎない地位を占めました。辞書を編纂するときに考案されたヘボン式ローマ字表記法が、100年以上を経過した現在においても、文部科学省の訓令式ローマ字表記法を凌ぐ支配力を持っていると言うことは、ヘボン博士の辞書の日本社会に対する影響の広がりと深さを示すものです。
バラ夫妻へのヘボン塾の移譲
ヘボン博士は齢を重ねただけでなく、聖書翻訳作業に時間をとられるようになったという事情もあって、1875年に至り学校教育の専門家であり信仰心厚いバラ(John Craig Ballagh,1842-1920)と夫人にヘボン塾を委ねることにしました。ヘボン塾はバラ学校と呼ばれるようになります。さらに、76年には施療所も閉鎖して横浜山手に住まいを移しました。ヘボン博士はバラの教育者としての力量を1882年4月6日付書簡で次のように高く評価しています。
「氏ほど学校の経営をやれる人はありません。しっかりした辛抱強い親切な人で、学校についても、最も深い関心をもっています。バラ氏は生徒らの父となり、友となって、実によく彼らを統御します。もしあなたが日本の青少年のことがおわかりならば、バラ氏のやっていることは相当なものだということもおわかりになりましょう。もののわからぬ人々は、日本の青少年のことを天使だなどというけれども、むしろ無智でなまいきで、我儘で、言うことをきかない連中なのです。」
東京一致神学校の設立
米国長老教会、アメリカ・オランダ改革教会、そしてスコットランド一致長老教会(United Presbyterian Church of Scotland)の三つのミッションは、1877年協力して東京築地に《東京一致神学校》を設立しました。このとき、例えば、アメリカ・オランダ改革教会のブラウン(Samuel Robbins Brown,1810-1880)が横浜山手に開いていたブラウン塾(その跡地に現在の横浜共立学園があります)をはじめ、各ミッションの宣教師が主宰する神学塾は東京一致神学校に合流しました。この東京一致神学校は後に明治学院の設立に参加することになります。
ヘボン塾の後身である東京一致英和学校および英和予備校
バラ学校と呼ばれたヘボン塾は1880年に東京築地に移り、カレッジ・コースを整えて築地大学校と改称されました。この築地大学校は、神学校教育の予備教育をおこなっていた横浜山手の先志学校を1883年に合併して《東京一致英和学校》と改称されます。ヘボン塾の後身であるこの東京一致英和学校は4年制の大学と2年制の予備科から成り、大学の授業はすべて英語でおこなわれました。その後、予備科は東京神田淡路町に移されて《英和予備校》となりました。この東京一致英和学校と英和予備校も明治学院の設立に参加することになります。
明治学院の創立と白金キャンパスの開設
宣教師ブラウンの神学教育に発する《東京一致神学校》、そして、いずれもヘボン塾の後身である《東京一致英和学校》と《英和予備校》という三つの教育機関の合同によって1886年に《明治学院》が設立されました。1886年に開催された最初の理事員会は明治学院創立案を制定しました。東京一致神学校は明治学院邦語神学部、東京一致英和学校は明治学院普通部本科、英和予備校は明治学院普通部予科と改称され、校地は現在の明治学院大学がある白金に定められ、翌87年に校舎と寄宿舎が竣工しています。
校舎はサンダム館と呼ばれました。一方、寄宿舎は当時東京随一と言われた木造大建築として威容を誇り、ヘボン館と呼ばれて白金の丘に聳え立ちました。『明治学院五十年史』(1927年)はこの2棟の建物について次のように記しています。
「サンダム館はその後殊に二階の講堂の大きな洋燈の下で毎週一回金曜の夜に行はれた文学会によつて、可成り深く在学生の印象に残つたし、ヘボン館の方はその五階の櫓が非常によい眺望を占めて居た事、西には武蔵野から秩父の山々の彼方に富士を見渡し、東には品川湾の海水の彼方に房総の山々を眺んで、広やかな眺望を占めて居た事、及び有志の人々が其処で朝な朝な早天祈祷会をした事、又澤山の窓から静かな夜の校庭に懐しい燈の光を放つて居た事などによつて、矢張り在舎生の脳裡に深く刻まれてゐた」
明治学院第一回卒業式
1891年6月に明治学院の第一回卒業式がとりおこなわれました。第一回卒業生は、島崎藤村、馬場狐蝶、戸川秋骨など20名でした(馬場と戸川は後にいずれも慶應義塾教授)。そのときの様子を、島崎藤村は自伝的小説『桜の実の熟する時』において、次のように記しています(文中の「捨吉」は島崎藤村)。
「学校の先生方は一同をチャペルに集めて、これから社会へ出て行かうとする青年等のために、前途の祝福を祈つて呉れた。聖書の朗読があり、賛美歌の合唱があり、別離(わかれ)の祈祷があつた。受持々々の学科の下(もと)に、先生方が各自(めいめい)署名して、花のやうな大きな学校の判を押したのが卒業の証書であつた。やがて一同は校堂(こうどう)から出て、その横手にある草地の一角につど集つた。皆で寄って集(たか)つてそこに新しい記念樹を植ゑた。樹の下には一つの石を建てた。最後に、捨吉は菅や足立と一緒にその石に刻んだ文字の前へ行つて立つた。
『明治二十四年 ― 卒業生』」
この時の卒業生であった馬場狐蝶の卒業証書が遺族から寄贈されて明治学院資料館に保存されています。卒業証書左側の署名< President of Board of Directors J.C.Hepburn >は初代総理ヘボン博士のものです。右欄にはバラ、ワイコフ等々の教授のサインと担当科目が記されています。左下には藤村がいうところの「花のような大きな学校の判」(「普通学部の章」)が押されています。明治学院大学の卒業式は110年以上を経た今でもこのような雰囲気を受け継いでいます。
帰国と生涯を貫く信念 "Do for Others"
日本に33年間滞在した後、1892年の秋、ヘボン博士はアメリカに帰国しようとしていました。白金の明治学院で開催された送別会で、別れを惜しむ人々に、次のように語りかけています。
「私は誠に此(この)三十三年間、此(この)国に駐(とど)まって、日本の人を助ける力を尽しましたることを神に感謝します、嗚呼(ああ)私は本国に帰ります、私の仕事は終りました、本国に少しの間休みまして天にある親たちの国へ参ります。」
老いて日本を離れようとしているヘボン博士の胸には万感迫るものがあったはずです。ヘボン博士は、次のようにも言っています。
「余等夫婦の残年僅少(わず)かなるべしといへども永く日本を忘るること無かるべし。」
1906年3月4日クララは88歳でこの世を去り、ヘボン博士はその5年後の1911年9月96歳の生涯をニュージャージー州イーストオレンジにおいて終えました。私達は、日本人と明治学院を、今でも清澄な眼差しで見守り続けてくれているであろうヘボン博士の生涯に思いを馳せます。「此三十三年間、此国に駐まって、日本の人を助ける力を尽し」たヘボン博士の生涯を貫く信念は"Do for Others"に他なりません。
ヘボン塾に学んだ頃、とりわけクララ夫人から可愛がられ、駐英公使として日英同盟締結に尽力し外務大臣にも就いた林董(はやしただす)は、ヘボン博士を次のように回想しています。
「その生涯は信念に基づく行為に、絶えず迷うことなく専心没頭することを彼に要求し続けた。博士は私の国に福音を宣べ伝えるために生涯の最良の時代を惜しみなく費やされた。博士が与えられた義務を全うするために献身された様は、世界の多くの公人の業績がその行為の故に人類の賞賛を集めたような華々しさではなかったにせよ、その生涯は高潔で、尊ばれるべきであった点では、彼らに優るとも劣りはしない。」
生涯を貫く信念と現在の明治学院大学
明治学院大学はヘボン博士の教育機関です。明治学院大学は、創設者ヘボン博士の生涯を貫く信念である"Do for Others"を、教育の理念として今に受け継いでいます。この理念は明治学院大学の歴史と現在に脈々として息づいています。
大学の基本的な機能は「研究」と「研究成果の教授」すなわち「教育」にありますが、明治学院大学では、「研究成果を運用する人間の人格を問う教育」という機能があると考えています。より具体的には、「"Do for Others"という教育理念を尊重するキリスト教の立場からの人格教育」ということになります。
例えば、学生と教員の個人的接触の過程で「その人格教育」がなされる場合もあるかもしれません。あるいは、クラブ活動の過程で実現する場合もあるかもしれません。しかし、それらは偶然偶々(たまたま)であって、システム化されたものではありません。キリスト教主義教育を標榜する以上、教育システムとしての体裁と内実を備えていなければなりません。その教育システムは、ボランティアセンターであり、国際センターであり、そしてキャリアセンターであると考えています。
ボランティアセンターは、阪神淡路大震災のときに自然発生的に生まれた学生のボランティア活動を契機として、1998年に大学の組織の一部として設置されました。"Do for Others"という教育理念を長きにわたって培ってきたキャンパスに生まれるべくして生まれました。大学組織内に取り込まれているにもかかわらず、専任コーディネーターと学生スタッフが、主体性と自主性を尊重されて活動しています。
ボランティアセンターは常に用意されている1500件を超えるボランティア情報で学生をサポートするだけでなく、横浜市国際交流協会の国連機関インターンシップ、あるいは、本学独自の海外ボランティアなど多彩なプログラムを学生に提供しています。明治学院大学ボランティアセンターは、先進性と独自性の点で全国の大学のボランティア活動に対して指導的な立場にありますが、それを十分に自覚して一層の拡充に努めようとしています。
国際センターは、本学の学生293名を海外の大学に留学生として派遣し、109名の留学生を海外から受け入れています(2014年度実績)。国際センターは、明治学院大学で学ぶ留学生と日本人学生との交流を促し、お互いに理解を深め成長を促しあえるような、"Do for Others"という教育理念を実現する教育システムとしての完成度を高めようとしています。そのためにも、今後なお一層送り出しと受け入れ体制の充実が必要であると自覚しています。
キャリアセンターは自らを、学生に対する就職情報と就職技術の提供という機能に特化することなく、さらに一歩踏み込んで、"Do for Others"という教育理念を実現する人格教育の場としても位置づけています。キャリアセンターの職員は、人間として社会に貢献することの意義を学生と共に考えながら学生をサポートすると同時に、その過程で、学生本人が気づかないような潜在能力を引き出すことができるように日頃より研鑽を重ねています。 
ヘボンの書簡にみる救療事業 
本稿は、開国後の来日宣教医および来日アメリカ人医師の第1号であるヘボンが本国に送った書簡を中心に、彼が行った救療事業について述べたものである。ヘボンが行った救療事業は、キリスト教宣教の手段であった。ヘボンは1861年4月から9月までの神奈川宗興寺における6ケ月間と、さらに1862年12月に横浜の居留地39番に居を移してから1879年春までの合計18年間、救療事業を行った。ヘボンの書簡の中に記されている内容は幕末・維新期にかけてのわが国の民衆の疾病状況あるいはヘボン自身が行った手術などを詳細に知らせてくれる。ヘボンの行った救療事業は完全無料であり、当時わが国に欠けていた社会事業を補完するものと考えてよい。 
1 はじめに
わが国のキリスト教は、天文18年(1549)7月に鹿児島に来たフランシスコ・ザビエルによってもたらされたものである。その後弘治2年(1557)にポルトガル人ルイ・アルメイダが豊後の府内(現在の大分)にわが国で最初の西洋医学による総合的な病院を建てている。この病院はキリシタン大名大友宗麟の手厚い保護の下でベット数約100床のものであったといわれている。この間の事情について富士川游の「日本医学史」のなかを要約すると次のようになる。
「アルメイダ時二年三十、此人ハ其志極メテ善良ニシテ、学浅ケレドモ、才多ク、救済院ヲニ箇所設ケ、又同年、豊後ノ国主大友宗麟ガ耶蘇教ヲ信奉シ、救済院ヲ設ヶ、歳月ヲ経ズシテ府内へ救済院ヲ設ケラレシコト三箇所二及ベリ、一ハ幼児ノタメ、一ハ癩病ノタメ、一ハ窮民病者ノタメナリ。コレ実二西洋人ガ我ガ邦二来タリテ医術ヲ施シタル嗜矢、云々」。現在大分市には、アルメィダを記念して同市医師会立アルメイダ病院がある。
豊後の救済病院は大友氏の滅亡とともに消え、他の場所で行われていたキリスト教宣教のための救療事業はその時の権力者の意志によって左右され、基盤の弱いものであつた。
その後、天正15年(1587)にはキリスト教布教禁止令がだされ、翌年には豊臣秀吉によりキリスト教徒の長崎からの追放が行われ、年を経るにしたがいこの措置は厳重になっていった。そして寛永12年(1635)の鎖国令により、キリスト教の宣教は事実上終息した。江戸時代の西洋からの医学の導入はキリスト教と直接関係なく、オランダ医学が中心であった。
ここでは安政5年(1858)、わが国が諸外国と通商条約を結んだ後に次々に来日した宣教医のうちのひとり、J.C.ヘボンの行った救療事業を中心に述べる。ヘボンは来日宣教医の最初で、また来日アメリカ人医師の第1号でもあった。幕末から維新にかけては数多くのお雇い外国人医師が来日しているが、このヘボンはキリスト教の宣教を主要目的にし、その手段として救療事業を行い、特異な功績を示した。
ヘボンは米国長老教会(Broadof Foreign Missions of the Presbyterian Church in the United States of America) に所属し、この長老教会にあてたなかぼ公式の宣教報告の書簡121通が高谷道男氏によりまとめられ「ヘボン書簡集」として出版された。また、同じく高谷氏によって、ヘボン夫妻が弟スレーター・ヘップバーン牧師に宛てた手紙のうち52通を抄訳したものを「ヘボソの手紙」として1冊にまとめあげられた。ここでは「ヘボン書簡集」を書簡集と、「ヘボソの手紙」を単に手紙と略した。前者の書簡集はミッショソ本部に報告し允日本における宣教の状態の報告、日本の政治、外交、会社、宗教などのことがらが中心であり、後者のものはきわめて個人的な内容であった。書簡集、手紙の2つをみることにより、ヘボソが行った幕末・維新から明治初期にかけての救療活動を知ることができる。しかも、わが国の医学がドイツ医学の導入確立する間の空間を埋めるものとして、また幕末・維新から明治初期の民衆の医療状態などを示しているために、ヘボソの実施した救療事業を知ることは興味のあることである。 
2 James Cuxtis Hepburnのこと
Hepburnのことをわが国ではヘボンと呼んでいるが、正しくはヘップバーンと発音すべきものであるが、彼自らが「平文」と号しており、またヘボン式ローマ字であまりにもよく知られているためにヘボソと呼んだ方が一般に理解される。本稿でもこれに従っている。
ヘボンは1815年3月13日アメリカ合衆国ペソシルヴァニア州ミルトソに生まれ、長じてプリンストン大学を卒業し、次いでペンシルヴァニア大学医学部に学び、1836年2l歳で医師の免許を得た。
ヘボンが医学を学んだ時期は1910年に、フレクスナー一報告がだされる以前であり、アメリカの医学教育が現在のように確立されていず、医学校の乱立と医師の乱造をまねいており、医師の社会的地位も低かった。21歳で医師になったヘボンは〔生活するに善い地位を尋ねてここ1年、かしこ1年、所々に住み〕9)6年をアメリカに過した。しかし、アメリカには〔医者が多くありまして余計過ぎて居りました〕。ヘボンは1840年に外国宣教の精神において共鳴したクララ・リート嬢と結婚し、次いで外国宣教の精神の高まりにより1841年から中国の厘門で医療伝導の救療事業を始めたが、夫人の病気により5ケ月で帰国した。
ヘボンは1846年から13年間、ニュヨーク市で眼科を開業していたが、日米通商条約の締結とともに、キリスト教宣教のために安政6年(1859)10月18日に神奈川に第一歩をしるした。
ヘボソは日本に来た理由とその後のわが国での生活を明治25年(1892)10月25日送別会の席上で次のように述べている。〔私はシナに居る時も度々日本のことを思い出しました。また予て日本の評判を聞きましたにはキリスト教を嫌い、イエスの信者を殺すとのことでございました。けれどもこの日本から医者或はイエス・キリストを愛する所の信者のできることを願いました〕と宣教医の精神の発露をわが国にもとめてきた。神奈川での救療事業は幕府の妨害により短期間で終ったが、横浜の居留地に移ってからの救療事業は15年間続いた。〔療治…タイテイ病人を療治した事15年…、幾万の病人を助けたいと力を尽しましたけれど、私も自分が病気になりまして能く働くことができませぬ様になって苦痛で困りました。そしてモウこの時日本に医者が多くなり医学校も東京に設けられ、矢張り西洋の国から上手な医者が参りまして日本の人を助けますから、私の療治をすることは無駄と思いまして、その代り日本人の益をなさんがために聖書(新約、旧約の双方の邦訳)または字引(和英語林集成)を翻訳…友だちと共に聖書の翻訳しました。字引を持えて今日まで日本人のために力を尽しました(かっこ内筆者注)〕。
ヘボンは明治25年(1892)10月まで、満33年間在日し、アメリカに帰国した。そして1911月9月21日、ヘボソはイースト・オレソジの自宅で96歳の生涯をと'じた。
ヘボンの帰国の際の記事は中野操著「増補日本医事大年表」の明治25年(1892)10月25日の項に次のように簡潔に記されている。
明治25年10月25日
ヘボン米国ニ帰ル。三十年前横浜ニ来リ布教ト同時ニ施療医院ヲ開キ救療事業ニ尽ストコロ少カラズ。邦訳聖書及ヘボソ辞書大ニ世ニ行ハル。後ソノ功績ヲ嘉賞シ勲三等ニ叙シ旭日章ヲ授ク。 
3 ヘボンの救療事業
ヘボソの救療事業についてはすでに高谷氏が「人物叢書ヘボン」のなかで要領よくまとめている。ここでは書簡集を中心に用い、適宜手紙を利用しながら説明を加えてゆく。
〔〕に示してあるものは書簡集あるいは手紙の本文である。
1860年3月7日
2月29日の日記で32歳の医者がヘボンの日本人教師になったことを記してあり、この3月7日の書簡でアメリカ公使館附の医師となり、神奈川の成仏寺における生活が始まったことを知らせている。
1860年5月14日
〔この数日間に4人の患者の手当をしました。その3人はわたしどもの番所の係の立派な武士たちでありました。わたしはちょっとした手術を施しましたが、苦痛がとれてとても喜んでいたようです。わたしも喜んで施療所を開きたいと思いますが、まだ言葉が充分に話せませんし、役人からもその開設にはやかましい反対が起りそうですから〕〔外国人の間にも患者があって診療してあげました。〕
また、1860年5月5日の手紙のなかでヘボンは日本の社会の複雑さと、キリスト教宣教の障害の多いことを書き送っており、その宣教の足場として施療所の開設を望み、住民に対し救療事業を行いたいとしていた。アメリカ公使のハリスとの会談でもヘボンは施療の方針をあくまでも無料であることを表明していた。しかし、外国、人が家か部屋を借りるためには奉行に願い出なければならず、そのことと日本語の会話が不十分であったためにヘボソは施療所の開設を憂慮していた。
1860年6月5日
〔わたしの職柄の医術についても人々に何かお役に立つような機会がふえてきました。患者はまだ武士だとか、ここに居住している外国の下僕ぐらいですが、それでも幾人かは病気が癒えたので、非常に感謝しているようです。それに患者はこの地域に住んでいる公使や領事ばかりでしたから、自然に日本の人々にもかなりよく知られるようになってきたのです。〕
このようにヘボソは忍耐強く、日本人に対し外国人とーキリスト教に対する不安と偏見をとり除く努力をした一が、この時期にはキリスト教の宣教行為を慎重にも行わなかった。それは日本語が十分に話せなかったばかりでなく、オラソダ人の殺害事件や井伊大老の暗殺など血生臭い事件を知っていたからである。そして施療の患者は増加していったために、ヘボンは施療所を開きたいと思っていたが、成功の見込みはたっていなかった。この間にも施療は行っており、幕末横浜開港当時来日していたフランス公使ベルクールが馬から落ちて負傷しヘボンの治療をうけたこともあった。
1861年4月17日
〔宗興寺を施療所兼病院として1、2ケ月試験的に借りることにいたしました。毎日幾人かの施療患者と1人の入院患者がおります。〕
この宗興寺の救療事業も純粋に医学的なものであったから実施できたものであり、もしこの時期にキリスト教の宣教の意図が表面化したら、この救療行為も直ちに中止になることは間違いのないところであった。ヘボンは4日15日の手紙で〔おだやかな方法で宣教糸口をつけよう〕と思っていたと本音を本国に知らせていた。
1861年5月17日
〔最初にわたしの扱った患者はほとんど江戸からやってきた人々でした。江戸で医者をやっていた日本語の教師から、わたしのことをきいた2、3人の江戸の医者の紹介でわたしのところへよこしたものです。江戸の医者たちは彼らの手に負えない難病ばかりをよこしました。不治の病、例えば肺結核、神経麻痺、脳病、つんぽ、めくら、びっこの類です。治癒という点では、がっかりするものばかりでしたが、こういう病人にわたしの考えを話して、何ら手のつくしようがないので、かえしてしまいました。しかし、わたしはまた医者たちを生徒として置いております。今でも15名から20名くらいの患者を毎日診察しており、このほか2人の入院患者もあります。多くは眼科の患者ばかりです。わたしは癩痕性内反という眼病の手術をしてやりました。神奈川や江戸や田舎からやってきましたが、中には両刀をさした武士、足軽、幕府の役人もいました。〕〔医療事業は民衆の偏見をとりのぞき、日本人と自由に交際する途をひらく上に大いに役立つことでしょう。〕
このようにヘボソの救療事業は盛況になり、とくに眼科医としての実力を発揮していた。当時の江戸から横浜までの距離は普通人の徒歩で1日がかりであった。このことからもヘボソの施療の人気がわかる。古典落語に犬の目というのがある。これは眼病の患者の眼を町医者がとりだし洗って縁側のひなたに干しておいたら、近所の犬が食べてしまったので、その犬の眼を取り、かわりに患者にいれたら夜も見えるようになったという話である。この町の眼科医が横浜のヘボン先生の弟子のシャボン先生に習ったと言っている。この落語に示されているようにヘボソの名前は江戸の庶民のなかにあった。しかしこの時期キリスト教宣教のことは一言半句も患者にはつげていないことから、いかにヘボンの忍耐が強かったかがうかがわれる。
1861年6月22日
〔患者もなかなか多くなりました。最初新しい患者を迎えるために毎日開いていたのですが、診察したり薬の処方をしたりするぽかりでなく、薬の調合をやり、そのほとんどに薬をのませたりしなけれぽならないのでわたしの力ではやりきれないということがわかりました。今では月曜、水曜、金曜だけ開くことにしました。外来患者は100人から150人くらいで、先月は1、000人以上の処方箋を書きました。患者は田舎からも沢山来ましたが、江戸からは特に大勢来ました。幾人かの入院患者には手術を施しました。〕
ヘボンは救療事業に使用した薬品類はミッション本部に請求しており、ヘボソが行った施療は完全に無料であった。そのため江戸の庶民で医学の恩恵にあずからないものは神奈川の宗興寺の施療所まできて治療を受けた。
1861年7月11日
〔病院と施療所は繁昌しています。月曜、水曜、金曜ときめた曜日に治療した人数は100人から150人ぐらいになります。〕
1861年9月8日
〔わたしの施療所と病院とは閉鎖されました。その歴史は短いものでした。5ヵ月ばかりつづいただけです。最初患者はわずかでしたがまもなく非常に増加し、その後3ケ月間は1日平均100人の患者を診察しました、ほとんど助手がいなかったので満足な記録をつけることができませんでしたから、人数だけ申し上げますが、計3、500人の患者に処方箋をかきました。それは毎回ちがった患者の延人員ではなかったのです。他の手術以外に廠痕性内反の手術30回、翼状片の手術3回、眼救を摘出したのが1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の治療13回、痔痩の手術6回、直腸炎1回、チフスの治療3回行いました。そのうち1回だけ白内障の手術はうまくいかず、他はみな上出来でした。多数の患者の病苦を軽減し、これを治癒し、またわたしのようなものがこういう貧しい人々に何かお役に立つようなことをしたことを知って嬉しく思います。〕
ヘボンが施療所を事実上閉鎖することになったのは、幕府が施療を受ける手続きを複雑にし、患者がヘボソに近づけないように妨害したためである。ヘボソが宗興寺でわずかな期間に上記に示した数多くの手術を行ったことは宣教医の性格を端的に表わしていた。
ヘボンの神奈川宗興寺における救療事業は約5ケ月間の短期で終ることになったが、施療所の閉鎖後も役人から許可書をもらった患者が訪ねてくれば処方箋を書いていた。その後横浜に移るまでは数名の患者を相手に日本語の勉強をしていた。ヘボソがミッション本部に送った書簡のなかにわが国の伝染病について書かれているものがあった。たとえば1862年9月1日付の書簡では6月17日から8月11日にいたる56日間にわたりコレラ患者567、713人中、江戸だけで73、158人が死亡したと書いている。このコレラの流行は江戸市中において安政5年のコレラ大流行より死亡率が高かったと言われている。またこの年ははしかの流行もはげしかった。
1862年12月29日にヘボンは神奈川から横浜の外人居留地39番地に居を移住した。そしてそこで本格的な救療事一業と宣教を始めるのであった。
1863年6月15日
〔今日、この地域に配備されている日本の軍隊配属の1人の医者の訪問をうけました。この医者は癩病、結核、リュウマチの治療について聴き)r、YVきたのです。また手術に用いる医療器械をみに来たのです。彼は特に医療器械に興味をもっていました。〕
ヘボソの横浜での救療事業は最初の10年間は毎日行い、はじめの頃の患者数は平均1日5、6人で眼疾が多一かった。
この時期になるとヘボンは患者たちに宣教をはじめている。
1864年7月25日
〔毎朝、わたしの施療所に20人ないし30人の患者が来ます。〕
1864年9月2日
〔毎日30名ばかりの患者の診療や往診、ときには患者の家庭で手術をやることもあります。〕
1865年3月16日
〔施療所はなお毎日開いていますが、冬は寒のためと早朝7時から8時までのため患者は他の季節より少ないです。数日前日本人の砲兵の腕を切断しました。この武士は鉄砲の事前発火によって重傷を負ったので治療を必要としたのです。こうした手術は少なくともこの地方、または江戸においても日本人に施されたのはこれが初めてです。これは日本の医師たちの証言でそう判断した次第です。〕
この日本人砲兵の腕の切断術はヘボソが眼科に秀いていただけでなく、外科手術の技術の水準も高かったことを示したものであった。この頃になるとへボンの施療所に2、3人の若い医学生と1、2人の老人の医者が毎日来てヘボンのやる医療や手術を見学するようになった。患者の種類はあいかわらず眼疾に苦しんでいる人達が多かった。
1865年10月13日
〔施療所は満足の盛況です。患者は1日平均35人、その10の6は眼病で、かなり多くの手術を行いました。腕の切断は1回、兎唇の手術1回、弾:丸の摘出1回、白内障の手術4回、痔の手術数回、その他直腸炎の手術および搬痕性内反や翼状片などの眼疾のかずかず、おできの切開、抜歯、膿瘍の切開などでした。〕
ヘボンは救療事業に忙しい中でも、本来の目的である宣教活動を行っていた。患者に福音を説き、ヘボンのもう1つの仕事であった辞書の編集をおし進めていた。この年にヘボンによる最初の日本人のキリスト教改宗者がでている。
1866年6月2日
〔施療所では患者が大勢きております。現在は毎日平均50名ばかり、どれも大部分が眼病です。色々の種類の治療を沢山やっており、患者の種類は上は御老中から下は路傍の癩病やみの乞食にいたるまで、あらゆる階層にわたっております。診察している患者の大部分は老人で不治の病人です。〕〔日本人の死亡率はかなり高いのです。この国民ほど肉慾の罰に耽って恥じない国民をみたことがありません。彼らの罪悪はその健康を害し病気におかされて死亡を早め、よく死なたいまでも婦人やその子供たちは遺伝的に虚弱な身体と梅毒や結核などの病気に犯されているのです。〕
5月25日の手紙によれば〔前年度において10、000人を越える患者に処方箋を書きました〕とある。ヘボソは1865年度の毎日30名以上の患者を診療していた。
1867年6月22日
〔施療所は日曜日以外毎朝患者の数によって9時から10時半あるいは11時まで時には12時まで開いており、それで毎日患者を大体15人から20人くらい診察しております。〕
1867年10月22日
〔患者は大体以前と同数で晴天の時は1日30人ばかりです。患者は各地からやってきます。病気はおもに慢性でその多くは不治の病人です。眼や耳や皮膚の病気が多く、その他梅毒、凛痙、結核胃病、リュウマチの類です。手術はかなり多く行いましたが、その中でも今年は下顎の一部分を切断したのと腿の手術をしたのと2つがそのおもなものでありました。〕
このなかにある腿の手術とはおそらく俳優の沢村田之助が脱疽を患ったのを治療するために、左の股から切断したことを指しているものとみられる。この手術はクロロホルム麻酔下で行われ、翌年4月にアメリカの義足を田之助に装着した。この手術と義足が世間でいかに評判を呼んだかは錦絵になったことでもわかる。「医制百年史」の口絵のなかに「フランスの名医足病療治」というものがあるが、このフラソスの名医はアメリカ人のへボンのことであった。
ここでヘボンの救療事業の経済的裏づけについて述べる。ヘボンの施療所が順調に運営できたのは十分な寄附が得られたからである。1867年10月22日付の書簡によると〔この地ではわたしが金のいることをほのめかす.と、いつでも援助してくれる友人が気前よく金を出してくれるので、ミッション本部に負担をかけずにやって行けるのです。右の寄附のうちイギリス公使サーハリー・パークスより100ドル贈られ、スミス・アーチャー商会から50ドル、フランク・ホール氏から105ドルの価格の薬品l箱寄贈せられました。施療所の1年間のミッションの経費は50ドル程度を超過しておりません〕とある。この内容にあるようにヘボンの救療事業は外国人や外国商会の援助や寄附によって運営され、ほとんどミッション本部の負担にはならなかった。ヘボンの救療事業、が円滑に長続きした原因の1つに経済的な裏づけを求めてもよいであろう。
1868年に入るとヘボンは今まで使用していた救療所が小さく、腐ってぎたので同じ敷地内に新しい施療所を建設することにした。
1868年以後のヘボンの書簡のなかには明治維新のたたかい、伝導の状況、横浜の発展、長崎浦上のキリシタソの迫害などが触れられていた。
1869年10月26日
〔施療所は9時から11時まで、医学生のクラスは12時まで、翻訳は午後1時から4時までです。〕
このなかにある医学生のクラスというのは1週間に23日、5人から10人ぐらいの医学生をヘボンが教育していたものであった。1871年2月16日付の手紙のなかで、〔約10名の知識に飢えた医学生が几帳面に9時にきてわたしを待っているのです。医学の知識のパンくずのようなもので彼らを養うのです〕とあるように、これは幕末・維新期に江戸周辺に西洋医学が系統だてて教育されているところがなかったために、ヘボンの名声をしたって向学心に強い青年が横浜に集まったものである。
ヘボソの施療所には各階層の患者がつめかけてきており、1870、1871、1872年と毎日ヘボンは施療していた。
1874年1月22日
〔わたしは再び施療所を開き、昨日から施療をはじめて週2回水曜日と土曜日に患者のために開いております。〕
1874年9月25日付の手紙のなかでも〔わたしは1週間2回施療所を開いております。あらゆる種類の患者が多勢来ます。大部分は治癒できません。〕1日おおよそ20人前後の患者を施療していた。あるいはヘボン夫妻が地方に旅行しても医者だとわかると患者が殺倒した。
1876年に入るとヘボンが施療所で働くのは1週間に土曜日1日だけとなった。
1877年7月11日
〔エルドリッジ博士の助力を得て、施療事業をはじめました。〕
この時期のエルドリッジは横浜で開業していた時にあたる。石橋長英、小川鼎三著、お雇い外国人医学のなかのエルドリッジの項にはヘボンと一緒に仕事をしたことについてふれられていない。
以上が「ヘボン書簡集」および「ヘボンの手紙」にあらわれた、ヘボンが行った救療事業の項目のほとんどである。
ヘボンの救療事業は1879年(明治12年)の春まで続けられた。ヘボンが救療事業を打ち切った理由は、本人が健康を害したこと、旧訳聖書翻訳の中央委員会の代表になり多忙になったため、それからいま1つは日本に医師がふえてきたためである。 
4 おわりに
ここでは開国後の来日宣教医の最初であり、また来日アメリカ人医師の第1号であったヘボンが本国に送った書簡より、わが国の幕末維新期および明治初期の救療事業の一端をのぞいた。ヘボンが行つた救療事業はキリスト教宣教の手段であったが、この救療事業が完全に無料で行われたことは、当時のわが国に欠けていた社会事業を補完するものであった。
ヘボンが18年間にわたって救療事業を行ったことは、医師としての力量が十分であったぼかりでなく、キリスト教に支えられた愛の業績と考えることができる。
クララとヘボンの「ヘボン塾」  
1 神奈川宿時代に
1859年10月18日横濱に上陸したヘボン夫妻は神奈川宿内の〈成佛寺〉を仮寓として日本での生活を始めた。ヘボンは米国長老教会派の医療宣教師。それより2週間ほど遅れて、米国オランダ改革派の宣教師S.R.ブラウンらが横浜に到着。当時神奈川宿内の寺院のほとんどが外国公使領事館及び外国人宿舎として使用されていた。この寺の借用については、ヘボン自身で折衝したのではなく、米国領事館が神奈川奉行所に申し入れて提供を受けたのである。幕府は〈体の大きな外国人〉が生活し易い建物としては〈仏教寺院〉が適当として〈お上の命令〉で、仏像・仏具を片付けさせて調達していた。しかし〈家賃〉は適当額を定めて借り手に支払わせていたようである。因みに〈成佛寺の家賃〉は月に16ドル(12両)「1両を現在価で8万円に換算すると96万円」本堂の広さは49坪、ヘボンは是を大小8部屋に仕切った。「正面の3部屋をひとつにして日曜礼拝のための部屋となる」と報告している。ブラウンは隣接する〈庫裏―住職の住居〉に住むことになり、本堂より少し大きい広さで、家賃の半額〈8ドル〉を負担することになった。
1859年11月13日の日曜日には日本におけるプロテスタント教会最初の主日礼拝がもたれた。出席者は、S.R.ブラウンに同行来日した宣教医のシモンズ、米国通信社特派員のフランシス・ホール、そしてヘボン夫妻。又、神奈川、横濱に居住する領事館・商館の関係者で、おそらく十数名程度であったと考える。日本での最初のプロテスタントの礼拝は〈仏教寺院の本堂〉で行われ、聖書朗読、讃美歌が寺院から流れたことは記念すべきことである。ヘボンやS.R.ブラウンは近所を歩いて、できるだけ多くの日本人に挨拶をし、言葉を交わす努力をしている。ヘボンは自分の名前と同時に医者であることも
紹介していった。英語のHepburnという発音が日本人には「ヘボン」と聴こえた。
1861年4月、改革派が借りていた〈宗興寺〉で施療―Medical service given gratuitously〉を開始した。当初は江戸から〈神奈川宿に泊まっての〉患者が多かったが、やがて近隣、周辺の住民も増え、一日に30人を超すようになったという。何しろ、診察を受け、薬をもらい、場合によっては手術を受け、入院してもすべて無料である。しかも先端の西洋医学による診療であり、片言であるが、日本語が通じる親切な外国人医師である。診療を受けた日本人の全てが〈外国人に対する恐怖心〉は払拭されていったようである。このような状況で患者が増えていったので、週に3日間の診察としたが一日に100〜150人の来診があったという。しかし、8月のとある日(施療開始から4か月過ぎた頃)、奉行所は突如この施療所を閉鎖した。寺の周りを高い塀で囲み、寺の入り口に門番を配置して患者の来診を禁止する処置をとった。これで〈施療所は5か月弱で閉鎖せざる〉を得なくなった。この間にヘボンは約3500人に医療を施して〈カルテ〉を書いたという。
2 神奈川でのクララのクラス
1861年6月22日付けのヘボンのミッション本部への報告書の中で「日本語の教師と私どもの下僕の息子とがクラスをつくって、妻が毎日午後1時間又は2時間英語を教えるのです。二人とも辛抱づよく勤勉な生徒です。」と書いている。二人だけのクラスで、このクラスがどのくらいの間続いたかの記録はない。しかもクララは間もなく帰米しているので、すぐに消滅したと思われるし、人数は増えたのかどうか―などの疑問だけが残るだけである。従ってこの〈神奈川宿でのクラス〉をヘボン塾の出発点と考えることはできない。
1862年11月の下旬に、供まわり従えた名の高官が幕府の委託学生として、ヘボンに英語の教授を受けるため来訪して来た。彼らは学識豊かな武士たちで、「数学では彼らを凌駕するほどの米国の大学卒業生はあるまい」と評価されるほどの能力をもっていた。しかし、幕府側は彼らの氏名、身分、職歴、学歴などの紹介は―一切ない〈匿名受講者〉であった。この授業は1863 年初めまで続いたが政情不安により解散している。この委託学生のクラスを〈ヘボン塾〉の流れとするのは大きな間違いである。
3 居留地39 番に家を建て、転居
クララの帰米中の1862 年12 月29 日、ヘボンは〈横濱居留地39 番〉の借地権を取得して家を新築した。この敷地内には住居用住宅と別棟で、施療所、集会所兼礼拝堂も建築した。翌年(1863 年)になるとヘボンの住居を知った人達が施療を受けるために訪ねてくるようになった。そのほとんどが〈役人〉であったという。ヘボン転居の情報をいち早く知ることができるのは、役人であろうから、当然
といえよう。この敷地の総面積は646 坪〈居留地リストより〉であった。
1863 年3 月30 日、クララは米国より横濱に戻って来た。新しい住居と施療所集会所兼礼拝堂、そして住居の両側には花壇にできる広さの庭があるのを見て、さぞ喜んだことであろう。彼女は結婚前
に教師の経験があるので、この建物を活用して〈女子のための英学教育〉を始める計画をもったと言っても不思議はない。
4 クララのクラスの開校日
クララの計画による〈クラス〉の出発時期については、ヘボン研究の権威者・高谷道男の説では「ヘボン夫人が帰って来て、その年(注1863 年)の11 月から林洞海の依頼により、その養子・林董に英語を教授することになり、それ以来いわゆるヘボン塾なるものが設立せられるようになったものとみえる」(人物叢書・ヘボン92 頁より)であり、これが〈ヘボン塾創設の時〉とされて来た。しかしこの説には〈疑問〉がある。そもそもクララの塾は林董のために始めた塾とは言えないし、クララは女子のためのクラスを計画していたのである。
明治學院五十年史の102 頁には「ヘボン博士は治療に従事し、夫人は子弟の教育に手を染め始めた。高橋是清氏、林董氏はその頃各々幼童として女生徒と共に夫人の前で洋楽を修めたものである。その男女混淆のヘボン夫人の家塾…‥」と書かれており、更に「服部綾雄氏が十歳で横濱に参りヘボン塾に託せられし時は、まだ女学生と一緒(注―1973 年頃?)に勉強したものであった。―と述懐している。」と書かれてある。
高橋是清(第11 代首相)はその自伝の中で「横濱に出てからドクトルヘボンの夫人について英語の稽古をしておった。たまたまヘボン夫妻が日本を離れるようになったので(注―和英辞典発刊のため上海へ)『バラ−』という宣教師の夫人に託していった。」と書いている。クララは英学塾を始めてまだ3 年強のときなので、休むことはせずに上海滞在中(1866 年5 月より1867 年5 月までの間)J.H.バラの夫人マーガレットに塾の授業を依頼していたことがわかる。
1864 年4 月4 日付けで義妹のアンナに出したクララの手紙の中に「私はまだ董三郎(注−林董の幼名)を教えています。生徒の中の2 人が幕府のヨーロッパ派遣使節一行で随行(注―幕府は派遣の留学生として1866 年12 月に出発)します―と書いており、又、ヘボンの代筆でミッション本部へ出した1864 年11 月15 日付の報告の中には「私の小さな学校(注−My little school )はとても盛んです」と書いているが、その中に女子生徒が何人いるか―は記されていない。そしてその〈小さな学校〉の出発の時も明確に記されていない。クララは米国で教師の経験があるので、たとえば[小さな学校]であっても、それを始めるなら〈新学期の開始月〉の9 月ではなかっただろうか。従って、ヘボン塾誕生の時を〈1863 年9 月〉と推理するのである。
歴史を語る際、推理することがたいせつである。複数の信頼すべき情報を基として、その時代の環境を把握した考証で〈仮説〉をたてるものである。この推理により〈ヘボン塾誕生の時は1863 年9 月〉と定めることとする。
5 「ヘボン塾」という名称
現在でも〈横濱居留地39 番のヘボン邸〉の入口に「ヘボン塾」という表札が掲示されていた―と想像する人がいる。おそらく〈J.C.Hepburn〉という表札も存在していなかったであろう。「ヘボン塾」という名称が活字となって印刷され、登場したのは「明治學院五十年史」発刊以後、明治學院の関連文書に使用され出し、やがて一般的に定着していったものと考えられる。従って「ヘボン塾」という名称の誕生は〈昭和二年十一月・明治学院五十年史発刊のとき〉といえよう。
クララは〈学校―school〉と呼び、ヘボンはその報告書の中で〈妻の家塾―wife’s Class〉と記しているが、生徒の数が増えて来ると〈妻の学校〉となり、教師も増えて来ると“our school”とも “the school”などと表現が変化している。
かつて「クララ夫人が始めたクラスなのだから〈クララ塾〉であるべき」と主張した人がいた。ヘボンはFamily nameなのだから「クララ」でも「カーティス」でも〈ヘボン〉でまちがいないのである。
 
ニコライ・カサートキン(聖ニコライ) 

 

Nikolai (Ioan Dimitrovich Kasatkin) (1836〜1912)
ロシア正教の宣教師。ニコライは修道士名。1861年に来日、函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。日本ハリストス正教会を創建後、上京し神田駿河台に本部となる通称ニコライ堂を建て布教を行った。日露戦争中も日本に滞在し日露の友好に努めた。関東大震災で消失したと思われていた日記が近年になって発見され2007年に日本語版が出版された。 
2
日本に正教を伝道した大主教(肩書きは永眠当時)。日本正教会の創建者。正教会で列聖され、亜使徒の称号を持つ聖人である。「ロシア正教を伝えた」といった表現は誤りであり(後述)、ニコライ本人も「ロシア正教を伝える」のではなく「正教を伝道する」事を終始意図していた。ニコライは修道名で、本名はイヴァーン・ドミートリエヴィチ・カサートキン。日本正教会では「亜使徒聖ニコライ」と呼ばれる事が多い。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属聖堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり、日本で永眠した。
スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザの輔祭、ドミートリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は5歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。
在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。ミラ・リキヤの奇蹟者聖ニコライは東方教会において重視される聖人であり、好んで聖名(洗礼名)・修道名に用いられるが、ニコライも奇蹟者聖ニコライを守護聖人として「ニコライ」との修道名をつけられている。
函館
翌1861年に箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、元大館藩軍医の木村謙斉から日本史研究、東洋の宗教、美術などを7年間学んだ。また、仏教については学僧について学んだ。
ニコライは慶応4年4月自らの部屋で密かに、日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨、函館の医師酒井篤礼、南部藩出身浦野大蔵らに洗礼機密を授けた。この頃、木村が函館を去った後の後任として新島襄から日本語を教わる。新島は共に『古事記』を読んで、ニコライは新島に英語と世界情勢を教えた。
懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った以後、精力的に正教の布教に努めた。
明治2年(1869年)日本ロシア正教伝道会社の設立の許可を得るためにロシアに一時帰国した。ニコライの帰国直前に、新井常之進がニコライに会う。
ニコライはペテルブルクで聖務会院にあって首席であったサンクトペテルブルク府主教イシドルから、日本ロシア正教伝道会社の許可を得ることができた。1870年(明治3年)には掌院に昇叙されて、日本ロシア正教伝道会社の首長に任じられた。ニコライの留守中に、日本では沢辺、浦野、酒井の三名が盛んに布教活動を行った。
明治4年(1871年)にニコライが函館に帰って来ると、沢辺の下に身を寄せていた人々が9月14日(10月26日)に洗礼機密を受けた。さらにニコライは仙台地方の伝道を強化するために、小野荘五郎ほか2人を派遣した。ニコライは旧仙台藩の真山温治と共に露和辞典の編集をした。
東京
明治4年12月(1872年1月)に正教会の日本伝道の補佐として、ロシアから修道司祭アナトリイ・チハイが函館に派遣された。明治5年ロシア公使館が東京に開設されることになった。函館の領事館が閉鎖されたが、聖堂は引き続き函館に残されることになったので、ニコライはアナトリイに函館聖堂を任せて、明治5年1月に築地に入った。ニコライは仏教研究のために外務省の許可を得て増上寺の高僧について仏教研究を行った。
明治5年(1872年)9月に駿河台の戸田伯爵邸を日本人名義で購入して、ロシア公使館付属地という条件を付け、伝道を行った。明治5年9月24日東京でダニイル影田隆郎ら数十名に極秘に洗礼機密を授けた。
明治7年(1874年)には東京市内各地に伝教者を配置し、講義所を設けた。ニコライは、神奈川、伊豆、愛知、などの東海地方で伝道した。さらに京阪地方でも伝教を始めた。
明治7年5月には、東京に正教の伝教者を集めて、布教会議を開催した。そこで、全20条の詳細な『伝道規則』が制定された。
明治8年(1875年)7月の公会の時、日本人司祭選立が提議され、沢辺琢磨を司祭に、酒井篤礼を輔祭に立てることに決定した。東部シベリアの主教パウェルを招聘して、函館で神品会議を行い、初の日本人司祭が叙任された。このようにニコライを中心に日本人聖職者集団が形成された。さらに、正教の神学校が設立され、ニコライが責任を担った。
明治9年(1876年)には修善寺町地域から岩沢丙吉、沼津市地域から児玉菊、山崎兼三郎ら男女14名がニコライから洗礼を受けた。
明治11年(1878年)、ロシアから修道司祭のウラジミール・ソコロフスキーが来日して、ニコライの経営する語学学校の教授になり、明治18年までニコライの片腕になった。
明治12年(1879年)にニコライは二度目の帰国をし、明治13年に主教に叙聖される。その頃の教勢は、ニコライ主教以下、掌院1名、司祭6名、輔祭1名、伝教者79名、信徒総数6,099名、教会数96、講義所263だった。同じ年、正教宣教団は出版活動を開始し、『正教新報』が明治13年12月に創刊された。愛々社という編集局を設けた。
明治13年(1880年)イコンの日本人画家を育成するために、ニコライは山下りんという女性をペテルブルグ女子修道院に学ばせた。3年後山下は帰国し、生涯聖像画家として活躍した。
明治15年(1882年)に神学校の第一期生が卒業すると、ロシアのペテルブルグ神学大学やキエフ神学大学に留学生を派遣した。
明治17年(1884年)に反対意見があり中断していた、大聖堂の建築工事に着手して、明治24年に竣工した。正式名称を復活大聖堂、通称はニコライ堂と呼ばれた。
明治26年(1893年)ニコライの意向により、女流文学誌『うらにしき(裏錦)』が出版された。明治40年まで存続し明治女流文学者の育成に貢献した。
明治37年(1904年)2月10日に日露戦争が開戦する前の、2月7日の正教会は聖職者と信徒によって臨時集会を開き、そこでニコライは日本に留まることを宣言し、日本人正教徒に、日本人の務めとして、日本の勝利を祈るように勧めた。
内務大臣、文部大臣が開戦直後に、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように指示した。強力な警備陣を宣教団と敷地内に配置したので、正教宣教団と大聖堂は被害を受けることがなかった。
神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。
不朽体
1970年、谷中墓地改修の際に棺を開けると不朽体が現れた。同年、ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれる。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)。
ニコライが伝道した「正教」
ニコライが「ロシア正教を伝えた」とする媒体が散見されるが、「ロシア正教会」「ロシア正教」は最も早くに見積もっても1448年に成立した独立正教会の組織名であり、教会の名ではない。「正教を伝えた」が正しい表現である。ニコライは「(組織としての)ロシア正教会に所属していた」とは言えるが、あくまで「正教を伝えた」のであり、「ロシア正教会」という「組織」を伝えた訳ではない。
正教会は1カ国に一つの教会組織を具えることが原則であり各地に正教会組織があるが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会に教義上、異なるところは無く、相互の教会はフル・コミュニオンの関係にあり、同じ信仰を有している。 
ニコライの宣教の神学
1 プロローグ
ソ連邦が解体したとき、旧ソ連邦の教会はどうなっていたであろうか。教育や医療・福祉といった、歴史的に教会が担っていた役割は、 革命後ことごとく政府に取り上げられてしまっていた。聖書や神学書等の印刷さえ政府の統制下におかれ、「宗教は阿片である」と、反社会的な存在として苛烈な弾圧を受けていた。
1917年にロシア革命が起こったとき、ロシアの正教会においては、大聖堂は次々と破壊され、小さな聖堂も破壊されたり世俗的目的のホールに転用されたりした。 後に世界遺産に登録されることとなったソロヴェッキー諸島の修道院群は何と強制収容所に転用された。1921〜23年の間に主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、 他に信徒多数が処刑されたとする文献もある。1891年から1年弱の間、日本でニコライ・カサートキンを補佐したことのあるペルミの聖アンドロニク・ニコリスキーは、 自ら掘った墓穴に生埋めにされたうえ、銃殺されるという壮絶な最期を遂げた。なおこうした破壊行為は他の教派・宗教にも及んでいる。また説教・聖歌・埋葬など、 教会の活動もかなりの制約を受けた。こうした弾圧は緩んだり強化されたりしながら続いたが、1985年に始まったペレストロイカ時代からかなり緩和され、 ソ連邦崩壊後は衰えていた教勢は一気に回復し、ロシアの正教会は復興を遂げた。救世主ハリストス大聖堂やカザン・クレムリンの正教会の大聖堂が再建され、 またイスラームのモスクも両方再建されるなど、宗教復興を果たすこととなった。
呵責無き弾圧と窮乏にもかかわらず、ロシアの正教会は生き残り、その信仰を守り抜いてきた。かなりの信徒が教会を離れていったし、 教会の中に政府におもねる裏切り者も輩出し、深いしこりを残してはいるが、教会の灯火を守り抜いてきた。それは教会がなすべき根源的な使命とは何かということについて、 重要な示唆を我々に与えてくれた。それは宣教師ニコライの日本伝道の姿に重なるように思えてならない。
2 渡日
ニコライ・カサートキンが来日したのは、1861年6月のことである。邦暦では万延2年、江戸末期である。徳川家茂と皇女和宮の婚儀が公布された年であり、 尊皇攘夷派の異人殺傷事件が何件か起こり、各地で打ち壊しが頻発している。海外では南北戦争が勃発している。前年に桜田門外の変、翌年に生麦事件が起きるなど、 まさに激動と大騒乱の黎明といった時代であった。ちょうどこの年に内村鑑三が誕生している。
彼がサンクトペテルブルグを発ったのは1860年8月初日、単身馬車を駆ってシベリアの茫漠寂寥とした広野に向かい、同月末にはイルクーツクに達した。それからアムール河を小舟で下った。 途中強風と波浪によって沈没寸前になったが、天の助けによって事なきを得た。10月にはニコライフスクに到着したが、既に冬期になっていたため渡航できず、 その地で越年せざるを得なかつた。セッカチでやる気満々であった青年は忸怩たる思いであったが、幸いなことに彼の地で先達たるインノケンティ・ヴェニアミーノフ主教 (後に「アメリカおよびシベリアの使徒」と称される)と出会い、知遇を得た。主教の博識に感嘆すると同時に宣教のためのかけがえのない実践的ノウハウを習得し、 日本伝道への熱い決意をますますたぎらせた。翌年4月、航海が再開されたので、軍艦アムールに乗船した。函館に到着後、直ちに領事ゴシケーヴィチと会見し、 箱館領事館付司祭としての職に就いた。しかし領事館付司祭の役割は、領事館員のため司祭の職務を執行することだけに限定されていた。 もっとも、ゴシケーヴィチはそれではいけないと思い、意気盛んな若くて宣教師になれそうな人を求めていた。その点ニコライは適任であったし、ニコライにとっても適地であった。
日本のキリスト教禁令が解かれたのは1873年である。ニコライは上陸以来日本語や思想背景、宗教の習得につとめ、典礼文や聖歌の翻訳を進めた。 大政奉還の翌年(1868年・明治元年)、14条から成る「宣教規則」を定め、伝道の方針を建てている。週2度の集会があること。信経、天主経、十戒を中心に伝道すること。 録名帖(メトリカ)を作ること。500人の信徒ができたらその中から司祭を選立することなど、近づきつつある伝道の開始を見据えた方針を立てたのであった。 この年、榎本武揚らが五稜郭に篭もり官軍と抗戦(戊辰戦争)し、翌1869年箱館は函館と改称され、松前藩と蝦夷地は合併して北海道となり、松前奉行に代わって北海道開拓使が置かれた。 そして諸藩であぶれた者たちが新天地・北海道目指して陸続と流入を始めている。
このような場所は地縁・血縁といった日本的なしがらみに囚われている者が比較的少ない。神戸などとともに伝道の適地であったと言えるだろう。
函館神明社の宮司であった沢辺琢磨はニコライを「僧衣を纏ったスパイ」と思い込み、1865年某日、一刀両断をも覚悟で大刀を手に、 外国人居留地にあったニコライの居室を襲った。ところがニコライから正教の話を聞くに及び、それを学んでみたいという心境の一大変化が起こった。 そして親友であり医師である酒井篤礼と浦野大蔵を誘って正教の学びを始め、1868年4月、秘密裏にこの三人の洗礼式が行われた。 なお沢辺琢磨は元土佐藩士で坂本竜馬の従弟である。まさに命がけの伝道である。翌年、ニコライは日本宣教支援を要請する目的で2年間帰国し、 1871年2月に石版印刷の機材を携えて帰任、同年4月「日本伝道会社(宣教団)」の設立認可を受け、掌院(修道院長クラス)に叙せられる。函館に伝教学校を設立し、 (信徒)伝道者の育成に努め、伝道の現地化と教勢の拡大を図った。
3 東京進出
かくしてニコライは1872年、東京に進出する。正教会は各国の首都に宣教の拠点を置いている。従って日本正教会の本部は東京に置かれるべきであるからだろう。 そこでニコライは各国から来ていたプロテスタントやカトリックの宣教師に出会い、情報交換を行うようになった。 しかしニコライはプロテスタント各派がしていたような学校や幼稚園、病院の設立〜文化を切り口とした伝道〜はしていない。 この時期、人・物・金といった伝道の資源は全て宣教に向けられた。とはいえ、彼が設立したロシア語学校や神学校は、文学・芸術の上で文化の花を咲かせるようになる。
東京にやってきて、まず講義所を開いたのは当然であったが、副島種臣外務卿ほかの実に広範囲な人物と交際するようになった。人脈も重要な伝道資源としているのである。 また、上京後芝の増上寺に行って仏教全般、般若経、法華経を学んだ。学習を怠っていないのである。それは増上寺の僧侶を正教に改宗させようという目論見から始めたのであったが、 これは日本人に正教を布教する上で役立ったものと思われる。異教を蓋然的に否定するのではなく、まず異教は何か、徹底的に調べ上げたのである。これも伝道の資源である。
1972年9月、神田駿河台の小高い丘にロシア公使館付属の土地として会堂の用地を取得した。同時に10人の受洗者が与えられた。うち2名は政府の密偵であったが、 ニコライに触れるうちに正教の信仰を本当に持つようになった。宣教が進み、全国の信徒数は1880年に6,099名、1885年には12,546人になった。
1891年2月にビザンチン様式の瀟洒な大聖堂が建ち、翌月成聖式(建堂式)が行われた。「教会とは建物ではない」とされるが、丘の上に立つ大きな洋式の建物は、 遠くから望むことができ、鐘楼の鐘の音はお茶の水一帯に響き渡り、人々を惹き付けたことであろう。会堂は目に見える恵みと信仰の証であり、伝道資源である。
4 日露戦争
1904〜05年に日露戦争が行われた。公使・領事等ロシア人外交官は帰国してしまい、公使館としての役割は日本に留まったニコライらが行うようになった。 05年9月にポーツマス条約が締結され、講和がなったのであるが、条約の内容に不満な群衆が日比谷焼打事件を起こした。その民は正教の会堂にも襲いかかったのであるが、 近衛兵や警察官がニコライ堂ほかを警備し、事なきを得た。
正教会に属する者たちにとって、この時期は非常につらい試練の時であった。スパイ扱いされたり、蔑視されたり、改宗を迫られたりした。 軍人たる信徒の中には「戦場に行くので祈ってほしい」と無神経にニコライを訪ねてくる者も居た。 戦争が終わり、「戦勝祝いに学校は二日間休むので、うちの神学校も休みにしたい」というイオアン瀬沼の提言に対し、 「・・・祝い喜ぶがよい。そうする完全な権利を愛国者として持っている」と答えている。ニコライ自身も愛国者であったのである。日本とロシアという二国の。
戦争捕虜となった数万のロシア兵は全国27カ所に分散して収容された。その内には正教会もいればカトリックも居たが、彼らの霊的ケアーが必要であった。 しかしロシア人の教職は殆ど帰国してしまっていた。それで各地にある正教会の日本人の教職が礼拝奉仕とケアーに当たったが、告悔に対応できるほど語学力のある者は僅少であり、 一方で捕虜の数は膨大であった。3000人余が告悔を望んでいた松山の教会が「一斉痛悔」を許可するようニコライに求めてきたので、「罪の一斉痛悔」という冊子を配布し、 それを実行させた。(ニコライはそれでは不十分であると考え、ロシア語の語学研修はそれまで以上に重要視されるようになった。)
復活大祭用の卵数千個を荷車に乗せて捕虜収容所に届けたり、冬場に帰還船に乗る引き揚げ者に毛の下着や靴下を配ったりしたニコライの行為は博愛主義として当時の民衆に評価された。 ただ、母国のロシアでは敗戦の影響で1月革命が起こるなど、混乱が進んでいたため、日本正教への支援は細ってきた。そのためニコライは米国の正教会に援助を求め、 これを得るようになった。
5 日記
1912年2月、宣教地日本においてニコライ・ドミートリエヴィチ・カサートキンは息を引き取り、天に召された。明治天皇崩御の年である。 その時の信徒数は34,111名を数えていた。彼の業績は聖書や祈祷書の翻訳・出版など多岐にわたっていて、彼の訳したやや難解な文語新約聖書はいまだに礼拝用に使われている。
ニコライは膨大な日記を書き残していて、30冊が現存している。それがそのまま世相や伝道の生きた証になっている。1907年大晦日の日記にはプロテスタント、 特に組合派の伝道について次のように記している。
果たして彼らの成功はその通りであろうか。どこか疑わしい。彼ら自身は、成功は自分たちに広い信仰の自由があるからだとしている。 だれが何を信じてもよい。キリスト教徒でありさえすればいいということだ。キリストを神と信じようが、単なる教師としてだろうが、聖三位一体を信じようが、 信じまいが、「福音経」の奇跡を認めようが、それらを敬虔なる作り話だと考えようがいいとしているのである。正教会の扉もそういうふうに広く開け放てば、 少なからぬ者がそこから入ってくるだろうとも思えるが、そんなことは長もちするだろうか、、、、どれほど多くのプロテスタントの信徒が信仰を捨てているか、、、、 プロテスタントでは、疑問の余地なき教理という確固たる根拠に基づかない、中身のない教えを貧弱にしか与えられないことのために離れるのである。
それは1917年以来ソビエト共産党独裁政権下にあった教会がどうして生き残ることができたか、解き明かしてくれる鍵になる重要なポイントであろう。 キリスト教本来の教理による信仰・霊性が世俗化によって失われないように、頑なに伝統的な教理・奉神礼(礼拝)を守ってきたのである。 
聖ニコライ
1 ロシア領事館と箱館聖堂
幕末になると日本には諸外国からの使節が次々と訪れるようになる。それまでわずかに長崎を開港し、限られた国との交渉はあったが、鎖国を捨てて開国を余儀なくされるようになったのである。
ロシアは1852年(嘉永5年)プチャーチン提督を条約締結のための使節として派遣するが容易にまとまらず、1854年(安政元年)末に初めて日露和親条約の調印にいたる。この結果箱館に領事を置くことが定められ、初代領事が赴任したのは1858年(安政5年)の秋であった。約7ヶ月の旅を終えロシア本国から赴任したのはイオシフ・アントノーヴィチ・ゴシケヴィチであった。当初日本が用意した建物は狭く、領事一行を収容できなかった。領事家族の他に書記官、武官、医師夫妻、領事館付司祭、下男、下女ら十数名が共に来日したからである。
箱館奉行は日蓮宗の実行寺をロシア領事館仮止宿所として貸し渡し、居住区の他には仮祈祷所を設けた。領事ゴシケヴィチは、サンクトペテルブルグ神学大学を出た人で、中国の北京にあったロシア正教会宣教団にいたこともあった。領事館付司祭としてイオアン・マアホフ神父、またビサリオン・マアホフ誦経者も赴任した。彼らの指導により実行寺境内の仮祈祷所は完成した。安政6年4月の実行寺図面(北海道立文書館「異船諸書付」)には「祭祠堂」として記されている。その説明には「未正月廿日地所貸渡、コンシュル自普請約十五坪祭祠堂」とあり、正門脇に位置していた。11月14日(旧暦)日本で最初の主日公祈祷が行われたのは仏教寺院境内に建てられた祈祷所でのことだった。翌年には早速領事館や付属施設の建設に取り掛かるが、それに先立ってゴシケヴィチは箱館奉行宛に用地使用の申し入れをしている。
「大工町上の地東西四拾間南北五拾間を露西亜コンシュル館の為都合せり故に日本政府の決定来る迄コンシュル方家々を建てる為其れを仮に用ゆる事を予承諾す。」
日付、差出人は「千八百五拾九年三月二十日、四月二日、安政六年二月二十八日露西亜コンシュル館イ・ゴスケウイツ」。翻訳の不備の為に意味が不明の部分もあるが、露暦、西暦、旧暦を書き付けたゴシケヴィチの要請は受け入れられたようである。この「大工町上の地」こそ現在の函館正教会の敷地であり、領事館他次々に必要な建物が建てられていった。そして6月にはイオアン・マアホフ神父の義父ワシリイ・マアホフ長司祭も着任し、この時領事館の備品や調度品と共に建設が予定されていた聖堂の聖器物や聖像も届けられた。
聖堂工事に着手したのは初秋のころで、雪の降る前に基礎工事を終え、すべての工事が完了したのは1860年の6月であった。6月17日(旧暦)にはニコラエスクからインノケンティ大主教が長輔祭以下十数名の教職と聖歌隊を率いて箱館に到着。6月20日(旧暦)聖神降臨祭の日に成聖式が挙行された。新聖堂はハリストスの復活を記憶し「箱館復活聖堂」と名付けられ、後に鐘の音から「ガンガン寺」の愛称で箱館の人々から親しまれる。聖堂建設工事は奉行所出入りの棟梁、浦川要作が請け負い、辻造船所が鉄骨工事を担当した日本人の手になる初めての正教会の聖堂であった。しかし、当時はまだキリスト教は邪教視され「切支丹宗門禁制」の時代であり、この聖堂はあくまで領事館のロシア人たちのためのものであった。
日本に正教の種が播かれる「宣教」ということが為し得るには「日本の光照者、亜使徒聖ニコライ」待たねばならなかった。
2 聖ニコライの渡来
聖ニコライが箱館領事館付司祭として渡来したのは1861年である。前年領事館の敷地内に復活聖堂が完成したが、領事館付司祭であったマアホフ親子は病気等により相前後して帰国していた。ゴシケヴィチ領事は外務省を経由してロシア聖務院に後任の司祭派遣を要請する。サンクトペテルブルグの神学大学在学中にゴロウニンの書いた「日本幽囚記」を読み日本に興味を抱いたと伝えられる聖ニコライが箱館領事館付司祭として来日したことは、天の配剤と言うべきものだろう。「宣教師になる」という漠然とした希望が確かなものになったのは、日本の箱館領事館付司祭を募る聖務院の文書を偶然目にした時であった。
聖ニコライは応募者四名の中から選ばれ、1860年6月22日(露暦)剪髪式を受けて修道士となり名をイオアンからニコライと改めた。6月27日には輔祭、さらに6月30日(露暦)ペトル・パウェル祭の日にサンクトペテルブルグ神学大学の十二聖使徒聖堂で司祭に叙聖された。聖ニコライは後に日本での伝道活動が軌道に乗ってくると、このペトル・パウェル祭の日を神品会議の日と定め、日本における伝道方針を定める会議の日とした。これは現在まで続き、公会の日程はそれを基準に開催されている。
聖ニコライが親兄弟たちと別れ日本に向けてシベリヤ横断の旅に出たのは8月1日(露暦)であった。この別れの時に父デミトリイからもらったハリストスの聖像は生涯聖ニコライの自室にあったという。聖ニコライの事蹟をまとめた「大主教ニコライ師事蹟」には日本までの旅が簡潔に記されている。
「1860年8月1日彼は萬里遠征の途に上つたのである。乃ち一輌の馬車を購ひ、自ら御して途をシベリヤに取り、交通未だ開けず、狼群の横行する策漠の曠野を、單身孤笈飄然として跋渉し、8月末にイルクーツクに着したのである。それからアムール河を小舟で下つたが、途中風浪の厄に遭ひ、覆没せんとしたのを天佑に依つて免れた。10月に至りニコライフスクに着したが、時恰も冬期に入つたので、日本への航路は断たれ、どうしても此地に越年せざるを得なかつた。性急で前途に多大の抱負を有する彼としては、途中に荏苒を送らざるを得ざる苦痛は堪へ難き所であった。然るに此時カムチャツカの主教インノケンテイ師―後にモスクワの府主教となった高徳の人―も越年の為此地に滞在中であつた。之が為に途中の障碍は却て僥倖となり、此に於て先輩の知遇を得、其教訓を受け、未開の民を教化せる實歴談を聴いて、益々前途の希望を堅固にしたのであつた。翌年(我文久元年)の4月に航路が開けたので、諸港灣を廻航する軍艦アムールに乗り、同年6月2日(我14日)に函館に到着した。露都出発以来幾んど一個年、直ちに領事ゴシケウイチに會見した。」
1861年、単身箱館の地に降り立ったのは二十代の修道司祭聖ニコライであり、この年は日本正教会にとって記念すべき日となる。
ここで改めて聖ニコライの生い立ちを記してみよう。聖ニコライはイオアン・デミトリヴィチ・カサートキンといった。1836年8月1日(露暦)ロシアのスモレンスク県ベリョスキ郡ベリョーザ村(別名エゴリヤ村)に生まれた。父は村の教会の輔祭を務め、デミトリイ・イワノヴィチ・カサートキン。母は輔祭アレキシイ・サヴィンスキイの娘でクセニヤといった。この両親のもとに長男ガウリイル、長女オリガ、次男イオアン(聖ニコライ)、三男ワシリイが生まれた。ガウリイルは生後5ヶ月で夭折し、母クセニヤも聖ニコライが5才の時に35才の若さで永眠した。姉は嫁ぎ、弟ワシリイはスモレンスクの神学校を卒業し司祭となる。なお父親デミトリイは1867年に隠退し、ワシリイ神父のもとで老を養い、1878年3月10日(露暦)に永眠した。
「大主教ニコライ師事蹟」では「イオアン・ディミトロウィチは身体強大、意志剛毅で、而も父の薫化に因り敬虔、熱心、克己、堅忍の性格を備えた」と記しているが、まさに聖ニコライの生涯を表していると言えよう。1857年スモレンスクの神学校を首席で卒業し、官費生として同年、首府サンクトペテルブルグ神学大学に入り、1860年に卒業し、日本に向かう。
明治44年7月に刊行された「ニコライ大主教宣教五十年記念集」の緒言には本の表題を「来朝」とせず「宣教」としたのは「師が日本へ渡航した本来の目的は遥かに偉大で、将来我が日本全国を基督教化せんとの大望であった」からであるとわざわざ説明している。
聖ニコライが渡来した当時の箱館は開港間もなく活気に満ちた町であった。幕末の混沌とした世であったが、主として東北出身の有為の人材が野心をいだいて続々と集まっていた。浪人のほか、医者、商人、神官、僧侶などあらゆる階層の人々で、南の長崎と同じような様相を呈し、攘夷論、開国論をいだく者たちが右往左往していた。
1861年6月、聖ニコライは箱館領事館付司祭としての職務に就くが、領事館の司祭は館員の為に宗教上の聖務を掌るだけに限られたものであった。この年の9月に、先にニコラエスクで知遇を得たインノケンティ大主教がカムチャッカに行く途中に船が暴風に遭い箱館に寄港した。インノケンティ大主教が箱館からガウリイルという神父に送った手紙には「わたしは領事館で世話になり、領事館で食事をしている。・・・ニコライ神父はお元気で十六人もの書生をもっている・・・」と記されていたという。この人たちがどのような人たちであったか確認できないが、数ヶ月の間に多くの日本人との接触があったことは間違いない。
日本語や日本の文化の教師をしたのは秋田大館の医師木村謙斉であった。木村は藩命により秋田藩兵が北海道に渡り、警備についた時に軍医として渡島した人で、一度帰郷の後再び箱館に来て、医業と私塾を設け、北海道警備の武士たちに漢籍を講じていた。この木村のもとに通訳を連れて国史、神道、仏教など東洋の宗教や学問を研究したが、それに伴い様々な階層の日本人との接触も広がっていく。
アメリカに渡航する新島七五三太(襄)が聖ニコライと親交を持つのもこのころである。
約8年間を日本語の修得や風俗習慣の研究をした聖ニコライだが、伝道の確信と希望をこめて、1868年(明治元年)いまだ一人の日本人の信者がいない中、自ら布教伝道の方針を建て、14条から成る「宣教規則」を定めている。集会が週に2度あること。信経、天主経、十戒を中心に伝道すること。録名帖(メトリカ)を作ること。500人の信徒ができたらその中から司祭を選立することなど、近づきつつある伝道の開始を見据えた大方針を明らかにしたのであった。このころ日本はさらに動乱と混乱の時に入り、箱館にもこれまでに増して内地から多くの者が入ってきた。維新戦争で敗れた諸藩の行き場のない者や様々な理由で新天地を求めて来た者たちであった。時代の変革に身の置き所を求めた者たちと聖ニコライとの出会いにより、日本における正教伝道という道筋が啓かれることになる。
3 宣教と初穂
ロシア領事ゴシケヴィチは1865年(慶応元年)帰国し、後任にはケウゲニイ・カルロヴィチ・ビュッオフが赴任した。そのころ館員たちに剣道を習うことを希望する者がいて師匠を探した。その任に招かれたのが澤邊琢磨であった。後に日本人最初の正教の洗礼を受け、最初の日本人司祭となる澤邊と聖ニコライの出会いとなるきっかけである。
澤邊は元土佐藩士で、坂本竜馬の従弟であった。江戸に出て千葉周作に剣術を学んだ熟達の腕であった。事情があって江戸を離れ箱館に渡り、神明社の宮司澤邊氏の女婿となっていた。
領事館に出入りするようになると、自然聖ニコライのことを知ることになる。熱心な尊王主義者で鎖国攘夷論者であった彼は、箱館が北海の要地となって多数の外国人が往来するのを快く思っていなかった。自身、宮司の娘を妻としていたせいか、ことのほかキリスト教を嫌っていた。
司祭である聖ニコライこそ日本国を毒する禍根であるとし、論争を持ちかけ、その答弁いかんによっては殺害しようとした。領事館の聖ニコライの部屋での両者の緊迫した対話は良く知られているが、澤邊は聖ニコライの「未だ自ら識らざるのハリストス教を、何故に憎むべきの邪教と名付けらるるか、もし自ら識らずんばこれを研究して、然る後に正邪如何を決すべきにあらずや」の言葉に従うことになる。そして3日目の正午頃になって聴くことを筆記するようになり、それからは熱心に聖ニコライの教えを請うようになった。
澤邊は正教を信じると、その熱烈な性格からこれに熱中し、他人にも正教の信仰を奨めるようになる。しかし、世間の人々は彼が以前には憂国の志士で攘夷論者と知られていたので発狂したと思い、耳を傾ける者はなかった。
澤邊の知人に医師の酒井篤礼がいた。本姓は川股で、奥州の陸前国金成(宮城県金成町)の出身で緒方洪庵の適塾で学んでいた。澤邊は親交ある酒井に正教を奨めるが、温厚で思慮深く篤学の酒井をなかなか説得できなかった。酒井に論駁されると澤邊は聖ニコライのもとに来て教えを受け、また酒井に向った。
こうしたことが一年近く続いたが、酒井自らが聖ニコライを訪れ教えを受け、正教を信じるようになる。澤邊は南部宮古出身の浦野大蔵や箱館の鈴木富治を信仰に導いていき、正教の教理の研究が少数の日本人の間に芽生え、仲間に加わる者も増えてきた。この時代、切支丹禁制の高札は全国いたるところにあって江戸幕府の末期とはいえ切支丹に関わることは国法を犯すことであった。
1867年(慶応3年)将軍徳川慶喜が大政を奉還し、王政復古となる。新政府の体制はまだ確立されていなかったし、戊辰戦争も東方地方で行われており、箱館も混乱するようになる。新任の箱館奉行は京都の公卿でありキリスト教を禁圧するという風聞がたち、キリスト教を信仰する者や学ぶ者たちは動揺した。聖ニコライのもとで正教を学ぶ者たちも同じで、教えを捨てる者や離れていく者たちが続いた。しかし、澤邊たちの信仰は固く正教の伝道に志を燃やした。鈴木富治は、澤邊、酒井、浦野に身を隠すことを勧めるが、どこに行っても危険な状況は避けられないとの判断から、どのような事が起こっても良いようにと聖ニコライに洗礼を受けたいと申し出た。
聖ニコライもかねてからその事を予期しており、直ちに承諾した。しかし、密告迫害の恐れを警戒し、聖堂では行わず領事館内の聖ニコライの居室で行うに至った。聖ニコライ自ら聖器物を運び、部屋の外では領事館付誦経者サルトフが外を見張る中秘かに洗礼機密が執行された。澤邊はパウェル、酒井はイオアン、浦野はイヤコフの聖名を受け式は無事終る。時に1868年4月(慶応四年)のことであった。聖ニコライが正教伝道の志を持って来日してから7年目の「初実の果」である。神の摂理によって迫害者サウロが改心によって聖使徒パウェルとなったように、澤邊琢磨もパウェルの名にふさわしい生涯を歩むことになる。
洗礼を受けた澤邊、酒井、浦野、そして酒井の妻(後にエレナ)と女児(後にテクサ)は箱館を出る。困難の旅の末、酒井は故郷の金成の刈敷村に身を潜め、浦野は宮古の近くの金沢村に帰った。
澤邊は一時浦野宅に寄寓し江戸に向ったが、時あたかも戊辰戦争の最中であり交通も自由でなかった。途中幾度か難に遭い江戸に行くことは不可能と判断し箱館に戻ることになる。
このころ箱館は幕軍の脱兵や仙台藩をはじめとする奥州諸藩の脱兵が集まり、官軍に抵抗しようとしており騒然として切支丹の問題は忘れられていた。そして聖ニコライは日本国内の混乱、仏教の衰え、神道の無気力な現実を見て布教の好機が到来したと判断する。ロシアで有志を募り日本伝道会社を設立することを考え、聖務院に帰国の請願を送りその許可を待ち、聖務院の許可を得て、 1869 年(明治2年)の初めに一時帰国した。
4 上京と教勢拡張
明治4年、聖ニコライはロシアから帰国した。多くの人々がまた彼のもとに集まり、教書出版の必要が生じてきた。彼が持ち帰った石版印刷機を用いて、彼自らが使用して、天主経、日誦経文、東教宗鑑、教理問答、聖書入門、祭日記憶録、聖経実蹟録、「朝晩祈祷および聖体礼儀祭文」、露和字典等を刊行した。恐らくこれは日本における石版印刷の初めであろう。
明治4年(1871)12月、日本の伝道を補佐するためにロシアから修道司祭アナトリイ師が函館に到着した。聖ニコライはこの人に函館における伝道事業を任せて、明治5年1月函館を出航、海路横浜に着いた。すでにこの頃新教各派の宣教師は盛んに活動しており、フランス領事館付きの司祭によって天主堂が建てられているのを見た。聖ニコライが東京に着いたのは明治5年(1872)2月4日であった。築地に貸家を見つけそこに住み始めたが、2月16日の火災で終わり、後築地入船町に居を構えて正教伝道を始めた。
彼はこのころ芝の増上寺で、仏教の教えを学僧から聞いて研究していた。上京以来、次第に彼の名声も高まり、多くの名士らも訪問。明治5年にロシアの皇族アレクサンドル公が来日したおりには明治天皇との間に通訳の役割を果し、外人宣教師として謁見の先例を開いた。その後も皇族や政府関係者等の交流は深まっていく。
聖ニコライは、当初市中にでかけ人々の家々を一軒一軒訪ねて、正教を説いた。しかし、本格的な正教伝道のために態勢を整える必要を感じ、東京市中を巡覧し、将来の大聖堂建立、宣教の中心をどこにすべきか探し歩いた。そして今の復活大聖堂(ニコライ堂)の建つ場所、神田駿河台の高台を気に入り、2300坪と数戸の廃屋を併せて買った。当時外国人の内地雑居が認められなかったのでロシア公館付属地という形式で登記し、ここの本拠地が定まった。
本拠地が定まるころ、東北各地から教理研究のために上京したものも多く、東京のものからも信仰に進んだ人もでてきた。聖ニコライは正教を学び教役者になろうとする者のために「伝道学校」を開き、また宣教館などの建物を整備していった。
明治7年には東京の布教活動も大きな進歩を遂げた。四谷、浅草、本所には講義所が設けられ伝教者を配置した。続いて日本橋や神田にも広がった。聖ニコライが上京すると、名古屋、岡崎などの東海地方、さらには京阪地方での布教が始った。そこで聖ニコライは明治7年5月、初めて布教会議を東京で開いた。このとき、「伝道規則」が定められ、伝教者の義務、幼児の正教教育、議友(執事)の役目、公会の日時などを決めた。聖ニコライの人格に偉大な影響を受け、福音伝道への熱が燃え上がり、明治10年前後には、教勢は東北地方は仙台を中心として付近一帯、関東も東京を中心に広まった。その後関西地方、大阪を中心に有力な伝教者を置いて、本格的に伝道される。明治8年(1875)7月12日、東京で公会が開かれた。出席議員は28名。信徒の増加に伴い司祭の必要が叫ばれ、邦人司祭選立の議が起った。そこで、沢辺を司祭に、酒井を輔祭に立てることが決められ、この年東部シベリアの主教パウェル師を招聘して、函館において神品機密(神父、輔祭の神品を叙聖する儀式)を行った。これが日本における司祭の叙聖の最初である。
明治7年には聖歌教師ヤコフ・チハイ氏が来日し伝道学校で聖歌を教えた。明治8年には修道司祭モイセイ師とエウフィミィ師が来日するが、両氏とも明治12年までに帰国する。明治12年には修道司祭ウラジミル師来日。語学校の教授として学校を盛んにする。
5 明治文化とニコライ
教勢の発展に伴い、神学校や出版事業などが活発化され整備されてくると、聖ニコライの門下から優秀な人材が続出した。
黒野義文は日本ではほとんど知られていないが、ペテルブルグ大学で日本語を教授した人で、その門下からはロシア、アメリカ、ヨーロッパに日本学の伝統を築いた学者たちに日本語を教えた人である。また、小西増太郎はトルストイとの関係で著名であり、その交流については「トルストイを語る」(小西増太郎 桃山書林)に詳しい。彼は明治29年(1896)庄司鐘五郎の発案企画で、佐藤叔治らと東京飯田町に露語学校を開設した。その佐藤は東京正教神学校に学び明治17年(1884)カザンの神学大学に入学した。明治21年に帰国し神学校教授となったひとである。
金須嘉之進は、大聖堂指揮者として著名である。彼はロシア帝室音楽学校に学び、ヴァイオリン、聖歌指揮を修得。明治26年に帰国し、50年間デミトリイ・リオフスキーと共に男女正教神学校の聖歌指揮者として活躍した。
明治17年(1884)3月には、懸案の大聖堂建築の工事に着手した。信徒数も一万を超え、毎年の受洗者も千人をはるかに超え、増加発展する教会のために信者のシンボルが必要と考え、大聖堂の建立に着手したのである。明治24年(1891)3月、大聖堂は竣工し成聖式が行われた。7年の月日を費やした大工事で、その壮大さ、優麗さ、堅牢さ、優美さは東洋一と称された。成聖の祭典は数日間にわたって執り行われ、各界名士、各国大使、公使、他教派代表、信徒、一般参拝者でいっぱいとなった。また、このときに臨時公会も開催され、司祭19名、輔祭6名、伝教者124名、代議員(信徒代表者)66名の出席があった。復活大聖堂は明治、大正、昭和にわたって聖ニコライの偉大な事業をたたえ、一般の人々からいつからともなく「ニコライ堂」と呼ばれるようになった。残念ながらこの大聖堂は大正12年(1923)の関東大震災のときに、鐘楼がドームの上に倒れ崩壊し、内部を焼損してしまったが、聖ニコライの後継者であった府主教セルギイによって、昭和4年に修復復興し、現在に至る。
明治時代は日本における近代化の重要な時期であった。急激な社会の発達をもって日本も明治中期には世界の列強と肩を並べるまでになった。日清戦争後、日露の関係も対立の様相を帯びてくる。明治24年の大津事件はまさにそのような情勢の中で起きた事件であった。日本政府は日露関係の悪化を恐れ内相、外相の引責辞職、明治天皇は元老や閣僚を従えて病床にあるロシア皇太子を見舞った。聖ニコライも神戸港に停泊中の皇太子の乗る艦船に行き、親しく皇太子を見舞った。これは聖ニコライが政府関係者にも心から信頼される一つの機縁となった。
しかしながらその後も日露関係が思わしくなく、ロシアから日本に送られる伝道資金も減少、一時はストップする事態もあった。明治36年、聖ニコライは教書を発し、経済危機を脱し独立するための献金募集を行った。明治37年、とうとう日露の国交は断絶し戦争状態となる。ロシア公使館の引き揚げに伴い、聖ニコライにもロシア政府からその進退を決するように勧告された。そして、彼は日本にとどまることを決めその旨を訓辞として在京の司祭、教役者の集会において明らかにした。戦争は日本の勝利に終るが、その間に捕虜になったロシア将兵は全国27ヶ所に収容された。日本政府はこれら捕虜を厚遇し、日本正教会も聖ニコライの計画指導のもと、各収容所に司祭を派遣し、聖体礼儀やその他の祈りをロシア語で行った。ロシア語の福音書や祈祷書、パンフレット等も発行され、このようなことは日本正教会の博愛的精神の名を高めることとなり、聖ニコライの偉大な人格を広く知らせることとなった。
聖ニコライは教勢の内容充実を図るために、出版事業と文書伝道に重きをおいた。種々の出版物は信徒の啓蒙となったばかりではなく、明治時代の精神界、文学界にも影響を与えた。「正教新報」また明治26年には「うらにしき」(裏錦)という女流文学雑誌が正教女子神学校を背景とする尚絅社から出版された。キリスト教家庭雑誌としては「正教要話」がありこれは大正7年まで刊行される。聖人伝や訓話などが豊富に掲載されたものである。また、神学、哲学の学術雑誌として「心海」が明治26年創刊され、日本のキリスト教神学、当時の思想界に大きな影響を及ぼした。また、聖ニコライの偉業の一つに数えられることとして、聖書、諸祈祷書の翻訳があげられる。中井木?麻呂とともに聖書、聖典の翻訳を行い、日本正教会の体制形成は、これらの出版によって築かれていった。明治17年「時課経」、明治27年「奉事経」、明治28年「聖事経」、明治37年「三歌斎経」、明治43年「祭日経」、「八調経」というぐあいに、各種奉事用の祈祷書が次々と出版され、儀式奉事に関して一応完備することとなった。
6 地上の教会から天上の教会へ
聖ニコライは幾度となくロシアから勲章を与えられている。彼は勲章について「なんのために祝いなさる。勲章を賜る陛下の気持ちはありがたいが、実をいうと勲章などというものは、宣教師や聖職にある者にはまったく不適当です。ならば、このような制度はわたしたちのためにまったく廃したほうがよいです。」と自ら語ったと伝えられている。明治43年(1910)12月、聖ニコライはロシア皇帝ニコライ2世から聖ウラジミル一等勲章ならびに親署の勅語を賜った。この勲章は当時ロシア最高勲章につぐもので、当時のロシアの聖職者中この勲章を受けたものは稀であったということである。
聖ニコライの生涯は、一貫して伝道活動に終始した。晩年においてももっぱら布教伝道と牧会とにその関心はあった。後継者としてはセルギイ主教が身近にあった。彼はよく全国各地を巡回し、戸別訪問をして、聖ニコライのなした伝道の畑の手入れと強化を図った。明治44年(1911)は聖ニコライが日本に渡来されて50年にあたった。このことと大主教への昇叙とを祝って盛大な祝典が挙行された。このときの教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝道師121名、年間の洗礼者1,099名と、一大教団となっていた。
明治43年(1910)11月、聖ニコライは心臓病を患った。医師は重症との診断をくだし、静養をすすめたが、彼はきかなかった。明治44年の祝典の後も病状は進んだが、平素の教務をやめなかった。明治45年(1912)1月の降誕祭にも祈祷に立ち、14日にも奉神礼に参加し、その日の午後苦しみだして医師の往診を受けた。24日聖ルカ病院に入院するも、翻訳の仕事をすすめ2月3日に終える。退院後、聖務院への報告書を書きあげた。そして、2月16日夕方6時半永眠、76歳であった。大主教の永眠を知らせる大聖堂の鐘が打ち鳴らされた。
聖ニコライの逝去の報が四方に伝わると内外の高官や朝野の有名な人々、信者、名も知れない人々が大聖堂に安置された棺に集まった。22日、埋葬式が執り行われ、3000人を越える会葬者は聖堂内外を埋め尽くした。華族、軍人、政府の顕官ら、外国武官、外国宣教師、新聞記者、通信社員、各教派の代表たちが列席。埋葬祈祷は、主教セルギイ師の司祷によって、30数名の司祭が式に参列して執り行われた。宮内省より侍従によって御賜の花環が贈呈され、拝受した。
祈祷ののち会葬者は谷中の墓地まで十字行を行った。沿道には2月の寒風に吹きさらされた人々が、聖ニコライの棺を見送った。埋葬のとき、セルギイ主教は土塊を棺の上に置いた。棺は「人を愛する救世主や」という聖歌の歌われる中に、静かに墓穴に下ろされた。日本の亜使徒大主教聖ニコライは永遠の眠りにつかれたのである。
昭和45年(1970)4月10日、日本正教会代表団はモスクワにおいて総主教アレクセイより、日本正教会の聖自治教会(アウトノミヤ)の祝福を得た。これを契機に1917年のロシア革命による関係断絶、及び第2次大戦終戦後の在米ロシア正教会との関係を経て、日本正教会はロシア正教会と正常な教会法的関係に復帰し、聖自治教会として再出発を果すこととなる。また、同日、日本の亜使徒、大主教ニコライを聖人の列に加えることが決定され今日に至るのである。 
ニコライ大主教と日本の聖歌 
始めに
日本に正教が伝えられて150年、日本の聖歌史もまた同じ長さを持つ。信徒の多くは聖歌を歌うことで祈祷に参加し、聖歌をきっかけに教会の門を叩いた人も多い。私たちは当たり前のように五線譜に書かれた音符と日本語の歌詞を見ながら歌っているが、ニコライ大主教や周辺の人たちは、どのようにしてロシア聖歌から日本語の祈りの歌を作り出したたのであろうか。また、もとになった当時のロシア聖歌はどういう性質のものだっただろうか。祈祷書のことばを日本語に訳し、ロシアの聖歌のメロディに当てはめ、ヨーロッパの音楽など聴いたこともない当時の日本人に歌えるようにするには大変な苦労があったはずだ。外部からは、正教会の聖歌は明治期の洋楽発展に大きく貢献したと評価をされてきたが、ここでは、聖歌を歌う一人の信徒の立場から、日本の聖歌誕生の歴史を探り、祈りの歌として、また信仰の学びの歌として、神が日本教会に与えられた「聖歌」をもういちどとらえなおしてみたいと思う。
1853年(嘉永6)黒船来航、二百年にわたる鎖国政策が幕を閉じる。アメリカに続いて、イギリス、オランダ、ロシアと和親条約が結ばれ、函館にロシア領事館が開かれた。初代領事はイワン・ゴシケヴィッチ、1858(安政5)年に赴任する。ゴシケヴィッチ自身が、聖職者の家庭に育ち、ペテルブルグ神学校卒業後一〇年近く中国宣教に従事したという経歴を持ち、日本における宣教の可能性と、それに値する人物の派遣を宗務院に進言しており(中村健之介『ニコライ大主教と明治日本』岩波新書)、後のニコライ師による宣教を先見していた。
イワン・マアホフの後任の函館領事館付き司祭として、二五歳の青年修道司祭ニコライ(カサートキン)が、1861年6月14日に来函する。領事館付属聖堂で、奉事を執行するかたわら、日本語、漢学、日本の宗教、文化を学び、宣教準備を始め、1868(明治1)年、キリスト教禁令下で、パウェル澤辺琢磨を始めとした三人の日本人受洗者を得た。 
日本語で祈る
正教会はその国の言語で祈る。日本人への宣教活動が始まると、まず日本語の祈祷書が必要となる。正教会の祈祷は半分以上が聖歌で占められるが、聖歌の歌詞は、『時課経』、『八調経』など様々な祈祷書に収録された祈祷文そのものからなる。正教会の聖歌は祈祷の飾りや背景ではなく、祈りそのものを分担し、神のメッセージを伝え、信徒の神学教育の働きを持つので、早急な祈祷書翻訳が必要であった。祈祷書のテキストは膨大なので、とりあえず、朝夕の祈祷、日曜日の聖体礼儀、土曜日の徹夜祷に最低限必要なテキストから訳し始めた。
1868(明治1)年10月のインノケンティ師に宛てた手紙に、「漢文から、『四福音書』、『使徒行実』、『使徒の公書』、『使徒パウェルの書札(パウロ書簡)』若干、『聖史略』、『教の鑑』、『教理問答』、『朝夕の小祈祷書』が訳され、スラブ語から『啓蒙礼儀』と『帰正式』を訳したこと」が書かれている。(三井道郎の訳書『宣教師ニコライと明治日本』)
初期の信徒の多くは士族出身者で、漢文は武士の教養であった。ニコライ師自身もすでに漢籍を学んでおり、双方にとって漢文(中国語訳)からの和訳は一番手っとり早い方法であった。聖書は一八六五年頃上海で出版された聖書と1864年に正教会で漢訳された二巻本の『新遺詔聖経』を用いられ、当時中国宣教団ではその他に、『聖詠経』、『聖事経』、『奉事経』、などの祈祷書が漢訳されていた(牛丸康夫『日本正教会史』日本正教会)。 ニコライ師の手許に、どれだけの漢訳聖書や祈祷書があったか不明だが、ゴシケヴィッチが中国伝道に携わっていた事実からも函館にもたされていた可能性はある。
ところが、まもなくニコライ師は中国語の聖書テキストに疑問を抱き、ロシア語訳、教会スラブ語訳を調べ、さらにラテン語訳聖書(ウルガータ)や英訳聖書も参照し、ギリシア語新約聖書も入手し、各版で一行一行を確かめ、さらに金口イオアンの解釈も見ながら翻訳しなおしていった。この方法で聖使徒パウェルの書札のうち、ガラティヤ、エフェソ、フィリピ、コロサイとロマ書半分を訳したこと、また先に訳した四福音書と使徒行実も訳しなおす必要を述べている(『キリスト教読本』1869年1月号/ポズニーニエフ・中村健之介訳『明治日本とニコライ大主教』)。
ニコライ師は最初の帰国時1869〜71(明治2〜4)年にロシアから石版印刷の機材を持ち帰り、1872年(明治5)年に上京、一層活発な出版活動を始めた。
奉神礼に用いる本格的な装丁の祈祷書が出版されるのは、1884(明治17)年の『時課経』を待たねばならないが、それに先だって暫定的な聖歌譜、祈祷書が印刷されていた。ニコライ師は、とりあえず毎日、毎日曜日の祈祷が行えるように暫定的な版を作り、実践しながら訳文の推敲、改訂を重ねた。比較すると、同じ文が、『聖歌譜』(明治10年以前から)、『時課経』(1884明治17年)、『聖詠経』(1899明治22年)『八調経』(1909明治42年)で、版を重ねるたびに、より正確な訳へと改訂されているのがわかる。
また、最初に『八調経略』(1885明治18年)を出版して、主日の祈祷に必要なものを作り、後に『八調経』(1909明治42年)全体を出版する、あるいは、大斎、受難週の『奉事式略』(明治35年)を出して、後に三歌斎経(1911明治44年)完訳を出版するという方法は、ニコライ師の翻訳方針が日々祈祷を実施していくことに主眼が置かれ、極めて実際的であったことがうかがわれる
訳文の変化の例 「シメオンの祝文」
聖歌譜 (明治二六年)ただし、明治一〇年頃の版の再版と思われる。
主よ今爾の言に循って爾の僕を釋し、安然としてさらしむべし。蓋我が目はすでに爾の救を見る。爾万民の前に備へるところのもの、光となりて異邦を照らし爾の民イズライリの榮を見るによる。
時課経 一八八四(明治一七)年
主宰や今爾の言循ひ爾の僕を安然として逝かしめ給ふ蓋我が目は爾万民の前に備へし救を見たり是れ異邦人を照らすの光と爾がイズライリ民の榮なり
大斎第一週奉事式略一九〇二(明治三五)年
主宰よ、今爾の言循ひて、爾の僕を釋し、安然として逝かしむ。けだし蓋我が目は爾の救を見たり、爾が萬民の前に備へし者なり、是れ異邦人を照らす光、及び爾の民イズライリの榮なり。  
日本語で歌う
日本語の聖歌は、かなり早い時期から歌われていた。パウエル澤辺は、ニコライが上京した後、アナトリー神父に協力して函館で祈祷を行った。1873(明治6)年頃のことと思われる。澤辺自身のことばによれば
東京にて未だ公祈祷が行われなかったときに函館には始められてあった(略)しかし併其時ロ露シア西亜の人も居らない故詠隊と云って別にありません。斯く申す私が詠隊者讀経者であった。(略)最初に私は「主憐れめよ」一句だけを日本の言葉にして、それから段々と露語を日本語にして、日本の言葉で詠隊が出来るようになりました。(1894明治27年3月1日『正教新報』318号)
また、大正12年に笹川清吉が編纂した『仙台基督正教会創立五十年記念』誌にも、明治4年頃サルトフの補佐によって日本人聖歌隊が組織されていたことが記されている(中村理平『キリスト教と日本の洋楽』大空社)。
函館以外でも、各地で日本語による祈祷が行われ始めていた。仙台教会詠歌隊の記録によれば、1873(明治6)年9月に「聖天主、聖勇毅、聖常生なる者、我等を憐れめよ」「主の独一子及び言なるもの・・・・・」の聖歌が出版され歌われていた(三浦俊三郎、『本邦洋楽変遷史』日東書院) 後に「聖なる神、聖なる勇毅、聖なる常生の者よ・・・」「神の独生の子」と改訂された。明治7年にロシアで発行された『我が正教会創業時代』(三井道郎の訳書)に、聖体礼儀が日本人の聖歌隊によって日本語で歌われていること、メロディはロシア教会のものと殆ど同じであること、終夜祷(徹夜祷)も翻訳ができあがって日本語で行われることになったことが書かれている(『本邦洋楽変遷史』)。
さて、日本語で日本人が聖歌を歌い始めるにあたって、いくつかの困難が考えられる。前述した祈祷書の翻訳の問題に加えて、二つ目はロシア聖歌のメロディを翻訳したテキストに当てはめること、三つ目は歌えるように日本人に音楽教育を施すことがあった。
澤辺は前掲文で「そのうちにヤコフさんが参られて日本の言葉に譜をつけて、本当の歌が出来ました」と記しているが、これがアナトリー神父の弟、ヤコフ・チハイで、1873(明治6)年に来日する(在任:1873-1880)。函館で兄を助けて聖歌指導をした後、1874(明治7)年に上京、日本語聖歌譜の作成、四声聖歌隊の指導、詠隊学校での聖歌教師の育成を行い、日本語聖歌の基礎を作った。チハイはモスクワあるいはペテルブルグの音楽院の出身とも(大沼魯夫)、教会のレーゲント学校(聖歌指揮者養成学校)の出身とも(ポズニーニェフ)言われるが、いずれにせよ西洋音楽を修めた人で、チェロ、ピアノの演奏家で聖歌指導にはヴァイオリンを用いた。
上京後のチハイの大仕事は、日本語聖歌の音楽付けであった。前述した澤辺の回想にあるように、最初は「主憐れめよ」から、順次日本語の歌を増やしていった。チハイの来日によって、単音(ユニゾンで歌う単旋律聖歌)、ついで四声の聖体礼儀、徹夜祷などの主日聖歌、次に祭日聖歌が音楽付けされた。後年はチハイの日本語も公使館の通訳として働けるほど上達したようだが、初期の翻訳、音楽付けにはニコライ師の力が欠かせなかったと思われる 。
つい最近まで用いられてきた通称『横長』(19.5×25.0cm)の石版刷り聖歌譜あるいはその前身は明治6年以前から出版されていたと考えられる 。上記の仙台詠歌隊の記録と『我が正教創業時代』の記述の他に、1878(明治11)年の報告書には東京では四声の詠隊が、また地方ではチハイ氏によって日本語の歌詞を付けられた単音の石版刷りの楽譜がすでに全国に配布され、各教会に楽譜の読めるものがいて単音で歌われていたとあり(中村健之介訳『明治の日本ハリストス正教会 ニコライの報告書』教文館)、明治14年のニコライ師の日記にも、上州東北巡回時に各地の信徒が楽譜を持って歌っていた様子が書かれている(中村健之介等訳『宣教師ニコライの日記抄』北海道大学図書刊行会)。 
音楽教育
本来正教会聖歌の伝統は、歌詞となる「ことば」そのものの持つ抑揚やリズムが発展したものであって、拍子も拍もなく、音階も今私たちが馴染んでいるドレミファとは異なるものであったが、日本にもたらされた聖歌は、ロシアの西欧化によっておおむね西洋音楽の音階や記譜法(五線譜)が用いられており、日本人には、正教会固有の音楽としてよりも、西洋音楽の一つとして受け入れられた。
現代の私たちは、西洋音楽にすっかり馴染んでいるが、当時の日本人にとっては大変な苦労だった。前述の澤辺の回想でも、澤辺の「ヘルビムの歌」を聞いてロシア人たちが大笑いした、あるいはシメオン三井道郎はドレミファが歌えずに、しばらく耳を慣らすように言われ、聖歌隊に入れなかったというエピソードを述懐している(三井道郎『回顧断片』三井道郎回顧録)。澤辺の歌を直に聞いた人の話を大沼魯夫は、「日本の謡曲の節が七分に義太夫節が二分、後の一分が端唄のような節で形容できない面白い節だった」と伝えている(舊時新題―『楽界回顧録』其の五、『楽星』第4巻2号/『キリスト教と日本の洋楽』から引用)。大沼は、澤辺の「我が霊」をチハイが採譜し、短音階和音をつけ、四声の曲としてアレンジし、今も歌われていると話しているが、明治40年の聖歌譜では「我が霊」番外(デ・リウォフスキー作曲)、「パウエル渡辺師の曲による」とサブタイトルのついたものがこれであろう。渡辺師は澤辺師の誤植ではないかと思われる 。「我が霊」1番を西洋音階に慣れていない日本人が、日本旋法(陰旋法)に近いもので歌うと、このようになるかもしれない。
函館における聖歌指導の様子は『正教音楽に就きて』(著者不明)に、言葉も通ぜず、ドレミファも知らない生徒に教える苦労がうかがわれる。
今其の一例を挙ぐれば、チハイ師が、初生徒の発音を試みるや、無名称音階を用いて、単に「ア一」「ア二」「ア三」「ア四」といふが如く、順序を逐ひて七音を出さしめたり。次に有名称音階を示して「ド一」「レ二」「ミ三」「ファ四」「ソリ五」「リャ六」「シ七」といふが如く唱へしめしに、生徒は斯く曰ずして、悉く七音の前に「ア」の字を冠らして「アド」「アレ」「アミ」と唱へしが如し、然れども、これ故意に出でしにあらずして、言語の通ぜざると耳のいまだ開発せざりしとによるなり。
詠隊学校は1872(明治5年)に開かれた。ニコライ師は祈祷における聖歌の役割を重要視しており、聖歌隊の養成と聖歌教師による正教伝道を試みた(牛丸康夫著『日本正教史』)。チハイと後にリウォフスキーが中心になって指導にあたり、聖歌の他に誦経、聖体礼儀式順を重点的に学び、その他に伝教者学校の講義を聴講した。希望者には、バイオリンやピアノなどの器楽演奏、和声学などの作・編曲も教えられ、当時としては最高水準の音楽教育が施されていた(『キリスト教と日本の洋楽』)。大沼魯夫は明治20年から7年間詠隊学校で学ぶが、音楽用語としてフランス語が用いられ 、ソルフェージュを教えられ、絶対音感教育を受けていたこと、声によって厳しくチェックされて、合唱班に編入されたことを述べている(大沼魯夫『正教音楽に就いて』)。神学校詠隊学校から日本人の聖歌指導者、音楽家が生まれていった。ロマン千葉忠朔、アレキセイ小原甲三郎、ペトル東海林重吉、インノケンティ金須(旧姓中川)嘉之進(1891年から3年間ペテルブルグ音楽院に留学)、イアコフ前田河進近、イオアン中島六郎などの名が見られる(『キリスト教と日本の洋楽』)。
また、1875(明治8)年末、聖歌隊のためにデスカント(ソプラノ)とアルトが必要になり女学校を開設した。(1878(明治11)年の報告書『明治の日本ハリストス正教会 ニコライの報告書』) ロシアでは、高声部は声変わり前の少年が受け持ったが、日本ではいち早く女声を採用した。
チハイによる音楽指導は目覚ましい進歩を見せ、1878(明治11)年の報告書によれば、東京教会では、神学校生徒と女学校生徒からなる聖歌隊が四声部で、他の教会は単声部(単音)で歌った(『明治の日本ハリストス正教会 ニコライの報告書』)。詠隊学校で指導を受けた生徒も、各地へ散って聖歌教師として伝道した。『宣教師ニコライの日記抄』に、1881(明治14)年の上州、東北巡回の際、ロマン千葉等、卒業生の指導によって聖歌が上達した様子が描かれている、
しかし、文明開化の時代、西洋文化を取り入れることに熱心だった日本人には、聖歌は祈りとしてよりも、優れた西洋音楽の一つとして内外から賞賛、愛好される傾向があった。正教会の神学校詠隊学校、あるいはロシアへ留学して学んだ者が、生活のために音楽教師として働いたり、通訳などとして外部へ引き抜かれていったことも多く、必ずしも教会の宣教活動に十分貢献できたとはいえない。理由の一つには、俸給の問題があるだろうが、その他にも、キリスト教を福音として、精神的なものとしてではなく、先進国の進んだ文化、なにかハイカラな知的文化として受け入れる傾向があり、ニコライ師自身も日本人との意識の違いに当惑を感じていた(牛丸康夫『日本正教会史』日本正教会)。 
日本聖歌のもとになったロシア聖歌
西洋音楽との違い
今、私たちの歌う「聖歌」は西洋音楽の歌唱法や音感、和声などを用いている。西洋音楽の知識や技術は聖歌を歌う際にも大変有用であるが、「聖歌」のとらえ方の根本がローマカトリックの宗教音楽やプロテスタントの教会の賛美歌と異なる。ローマカトリック教会がグレゴリオ聖歌だけを「聖なる」歌として祝福したときから、西洋においては他の音楽領域は人間中心の文化として発展した。宗教的なテーマも作曲家のモチーフの一つになり、教会を離れて聴衆の前で演奏されるようになった。もちろん、深い信仰的理解と祈りの心がなければ優れた宗教音楽は生まれないし、それはそれで感動を与えうるが、その作品はあくまで作曲者のものであり、演奏者は自分の演奏を聴衆に聴かせるものである。
正教会の聖歌は、教会が、集まって祈るために存在する。聴衆はいない。鑑賞するためでもなければ自己表現の場でもない。聖歌のことばは神からの信徒へのメッセージで、同時に信徒から神へ向けての感謝のことばである。それを運ぶのにふさわしい乗り物としての音楽が与えられる。ことばは音楽と一つになることで、ことばのもつ感情面がサポートされ、たましいの奥深くまで運ばれる。イコンが「宗教画」と違うのと同じである。聖歌は神のものである。奉事の飾りや添え物ではなく、祈りそのものである。
従ってレーゲント(聖歌指揮者)の役割も、おのずと西洋音楽の場合とは異なってくる。基本的な音楽的技術や知識はもちろん必要だが、その上に、祈祷の構造を知り、祈祷文に表された内容を理解し、祈りを生かす音楽の働きへの深い洞察が求められる。具体的には、祈りの流れを把握し、教会の状態(聖歌隊が代表して歌うのか全員で歌うのか、四声か単音か、伝統聖歌か近代音楽によるものか、聖堂の広さ、聖職者の声の質、歌う者の技量など)、その日のテーマ祭日か平日か斎か、司祭祈祷か主教祈祷か)などを考慮してふさわしい歌を選び準備し、実際の奉事の時には神品やそのほかの動きを絶えず察知しながら、教会全体が息を合わせ、祈祷が滞りなく進むように支える。祈りはひとつにならねばならない。
ニコライ師は聖歌に大変厳しかったと言われるが、日記を見ると、歌の上手下手ではなく、声が揃わなかったとき、聖歌が奉事の流れを乱したときに、聖歌指揮者を呼んで厳しく叱責している。祈り全体に影響を与えてしまう聖歌の役割の大きさをよく知っていたからである。
19世紀のロシア聖歌とオビホード
正教会の聖歌史をながめると、その場、その時代の状況に応じた調整が何度も行われてきたのがわかる。よくキリスト教本来の伝統を正しく伝えるのが正教会だと言われるが、それは特定の目に見える形を寸分たがわず保持することでもなく、いつでもどこでも使えるお手本があったのでもない。それぞれのおかれた現実の中で、聖神の導きに従って、個々の時代、個々の教会が祈りの中で選んできたことそのものが正教会の伝統といえる。
たとえばビザンツの時代には異端論争の結果が反映された聖歌が加えられ 、聖堂や奉神礼の発展に応じて聖歌の歌い方や内容が変化した。ロシア伝道ではスラブ語への翻訳が行われ、ビザンツの聖歌者を招いて、もとのメロディを保持しようとしたが、言語構造の相違や民族性を反映して、ズナメニーと呼ばれる独自の聖歌群が生まれていった。地域性、民族性、近代では西洋の影響をうけて、音楽面は常に変化してきた。ラテン語のグレゴリオ聖歌だけを世俗音楽と切り離して保存したローマカトリック教会と異なり、正教会の聖歌は常にその時代、その地域の音楽を反映してきた。言い換えれば、その時代の人々とともにあった。
日本に正教会が伝えられた19世紀までに、ロシアは西洋音楽の多大な影響を受けていた。かなり以前からキエフなど南西ロシアを中心に西洋音楽の影響があったが、17世紀に始まるピョートル大帝以来の強力な西欧化政策によって音楽のみならず教会の組織全体が西欧化の波にのみこまれた。総主教制が廃されたのに 伴って、それまでロシア聖歌のモデル的存在だった総主教付き聖歌隊が事実上解散に追い込まれ、それに代わって、より西欧指向の強いペテルブルグの宮廷付属聖堂の聖歌隊がロシアを代表するようになる。初代団長はイタリア音楽を学んできたボルトニヤンスキーであった。ロシアの各地で様々なヴァリアントをもって歌われてきた単旋律の伝統聖歌(chant/роспев) に代わって、イタリア、後にドイツの音楽手法を取り入れた多声合唱聖歌が主流になってゆく。明治26年発行の『横長』聖歌譜の奥付に「其の過半は有名なる作曲者リヲフバフメテフ両師著作の四重音譜を故ヤコフ・チハイ師の翻訳(音楽付けの意)せるものなり」とある。リヲフとはアレクセイ・リヴォフ、バフメテフはニコライ・バフメテフである。彼等は相次いで、ペテルブルグ宮廷付属聖堂の聖歌隊音楽長を務め、新作聖歌の検閲を行い、伝統聖歌もすべて和声付けして西洋音楽風にアレンジし、教会標準聖歌集『オビホード』 (リヴォフ版1848、バフメテフによる改訂版1869)を出版し、さらに全ロシアの教会が『オビホード』のとおりに歌うことを強制した。
日本宣教団もロシア教会の1つであったから、当然この『オビホード』に従う義務があったと思われる。オビホードは五線譜を用いた四声別冊のパート譜で書かれ、バスはヘ音記号、他の三パートはアルト記号で「ド」の位置が示される。オビホードには伝統聖歌を和声付けしただけのものと全く近代西洋音楽の手法によって書かれた作品が混在している。伝統聖歌からの歌は、下記のオスモグラシアをもとに和声付けされて作られている。
オスモグラシア
さて、日本にもたらされたロシア聖歌は、楽譜になった四声のオビホードの他に、ニコライ師やロシア人教役者が記憶していたオスモグラシア(八調、オクトエコス)という歌い方がある。これはロシアでは教役者の身につける基本的技能で、調(グラス)によって異なる簡単な旋律定型の組み合わせと繰り返しを用いて、祈祷書を見ながら、随時、微調整しながら即興でメロディを当てはめて歌う。これは一声でも、二声三声四声の即興でハーモニーをつけることもでき、今でも聖歌の基本となっている。
このオスモグラシアは地方によって多少の差があり、日本の聖歌はペテルブルグの伝統を受け継いだものと考えられる。ニコライ師がペテルブルグ神学校の出身であること、現在ペテルブルグで標準的に歌われているトロパリ、スティヒラ、イルモスなどと比較すれば明らかである。
チハイが神学校のレーゲントクラスの出身であれば、オスモグラシアの基本的メロディは熟知していたはずだし、ニコライ師や他のロシア人聖職者も当然身につけていた。
歌うときは句読点や祈祷書の区切りなどに注意して旋律行に分け、決められた定型のセットを順次あてはめてゆき、さらに、冒頭や末尾の語のアクセント位置やイントネーションに従って微調整を行う。しかし、オスモグラシアはスラブ語という言語そのものが元来持っている音楽から派生してきたものなので、簡単に即興で当てはめて歌うことができるが、イルモスに限ってはメロディもことばも複雑なのであらかじめ譜面に書かれることが多いようである。
日本で歌われているトロパリやスティヒラも、簡単なメロディの繰り返しがうかがわれるが、オスモグラシアのルールに従って祈祷文に音楽付けし、楽譜化したものである。
基本的にはこの二つを参考にして、日本語の祈祷文にメロディが当てはめてられ、日本語の聖歌の楽譜が順次作成出版されていった。
オビホードと日本の聖歌譜(四声)の比較
さて、1869年にロシアで出版されたバフメテフ版オビホード と1891(明治26)年版の聖体礼儀(四声)の楽譜を比較してみたが、収録された曲目も、音域も異なるので、オビホードをそのまま利用したというより、ニコライ師、チハイやリウォフスキーが日本の四声聖歌隊のために作った新しい曲集と考えられる。チハイ、リウォフスキーが新たに作曲したものも多く含まれる。連祷を比較すると、オビホード1869年も日本の四声も開離(ソプラノとアルトの間が6度以上あり、広い音域を必要とする)の編成を取っているが、オビホードはソプラノが日本のものよりも、さらに高く、バスとの幅がさらに広い設定になっている。「神の独生子」「安和の憐れみ(親しみの捧げ物)」なども同様である。この場合主旋律はソプラノにあると思われるが、日本の場合は同じメロディがアルトにあり、テノールのメロディがソプラノに移動している。
しかし、日本のものもソプラノとアルトが6度あり、華やかではあるが、音程を取るのが難しい開離を選んだ理由はわからない。ロシアの宮廷聖堂では開離の編成が好まれ、バフメテフもこれを採用したが、地方教会の実用に合わないと当時から批判が相次いでいた。1901年のオビホードでは密集(音域の狭いハーモニー)に改訂されている。しかし、1869年のオビホードでも、聖体礼儀のアンティフォン「我が霊」は密集で書かれているが、日本の譜面は開離の設定になっている。
特記したいのは、19世紀ロシアでは、検閲制度 によって聖歌の作曲が著しく制限されていたが、日本だからこそチハイに活躍の場が与えられ、思うままに作曲し、実施することができたともいえる。明治26年、40年の聖歌集にもチハイの作品が多く含まれる。
ロシアでは検閲制度が有名無実になる19世紀末から、1917年の革命直前まで、すぐれた聖歌作品が次々と生まれる。古い伝統聖歌(ズナメニーなど)が見直され、それをモチーフにした聖歌や、伝統のメロディに新しい和声付けをしたものも数多く作られ、各教会で自由な選択ができるようになった。オビホードも1901年に改訂され、今まで収録されていなかった新曲、他の地域の伝統聖歌も多数掲載された。日本では1907(明治40)年に新刊聖歌譜が出版され、古い版には収録されなかった歌がリウォフスキー、金須嘉之進、小原甲三郎、東海林重吉などによって、日本語のことばにあてはめられた。ロシアの1901年のオビホードはト音記号、ヘ音記号で記載されている。日本のものは以前と同じ「ド」の位置を示すアルト記号で書かれている。
オスモグラシアの旋律定型と日本聖歌(単音)の比較
ペテルブルグのオスモグラシアの楽譜と日本の聖歌を比べると、いくつかのメロディの変形に気づく。特に、単音譜に顕著で、いくつかのトロパリ、スティヒラなどのメロディが変えられている。これは半音の細かい進行があったときに現れる。日本人が半音の動きが苦手で正しく歌えないことに配慮したためと思われる。
たとえばトロパリ4調では、最初のフレーズの最後の部分(→)のFの音を同じ和音内のAに変えた。ロシアでは1音上がり半音下がる動きが、日本の単音では大きく上がって下がるだけの動きになっている。(ただし、この場合和音としては変わらない。)
また、スティヒラ1調では、1の部分のメロディで、(→)の音を省いて単純化した。さらに、4種類の旋律定型の繰り返しと終結部だったものを、二種類の旋律定型の繰り返しと終結部に縮小した。
このような例がスティヒラ2調と3調に、旋律定型の逆転現象がトロパリ5調と7調などに見られる。半音を含む上がり下がりの動きを避けたのは、当時の日本人が半音を取りにくかったために敢えて避けたのではないかと思われる。
パスハのトロパリ「ハリストス死より復活し」も同じ理由で旋律を変えたと思われる。しかし、4声のものは原曲通りの半音進行のメロディを用いたために、4声と単音が別の歌になってしまった。当時と現代では音楽レベルに格段の差があるので、現代の私たちから見ると、易しくしたはずが、かえって難しくなっていることがある。
東京の聖歌隊では、当時最高と言われる西洋音楽教育を受けた神学校詠隊学校の生徒が中心となって左右2隊の大合唱が行われていた。卒業生たちは各地に散って聖歌を教えるが、地方で西洋音楽と縁遠い人々と歌う単音聖歌は別のものとして感じられたであろう。また実際、上記のトロパリのように、4声と単音が違う歌になってしまったものも多い。
本来、オスモグラシアでは、臨機応変にハーモニーが付けられて、二声でも三声でも歌うことができ、4声と単音という区別はありえないのに、日本では4声は4声、単音は単音と分離固定されて考えられ、さらに、4声は先進のハイカラ文化として羨望の目で見られ、単音を劣ったものとして見る誤った風潮を生む原因になってしまった。 
スラブ語と日本語の違い 日本語を生かす聖歌の模索
ボルトニヤンスキーなど近代的西洋音楽の手法で書かれたものは別に考えねばならないが、もともと、スラブ語のオスモグラシアのメロディ定型は、ことばの音節数、アクセントの位置などによって伸び縮みし、フレーズの冒頭や末尾の細部を調整することができ、音楽にことばを当てはめるのではなく、「ことば」に音楽を当てはめてゆく手法である。
だからスラブ語のできあがったトロパリやイルモスのメロディに日本語をそのまま押し込めただけでは、不自然でわかりにくい歌になってしまう。オスモグラシア本来の「ことばを生かして調整する」という機能が生かして、日本語祈祷文に合わせてメロディを調整する必要があるが、日本語はスラブ語に比べて平板で音節数が多く困難を極めた。たとえば、「神は我等と偕にす」は11音節だが、スラブ語は「С нами Бог」たった3音節である。また日本語の高低アクセントにも留意しなければならない。またスラブ語ではフレーズの最後に重要な単語がくることが多く、その単語の力点に変化に富んだメロディが置かれていることが多いが、日本語では助動詞の「〜なり」や「〜せん」にあたってしまうことが多い。また、「主憐れめよ」も「ゴスポヂ ポミールイ」の「ミー」の部分にアクセントがおかれ、最後の「ルーイ」が伸ばされるが、日本語にそのまま当てはめたので「憐れめよ」では、歌いづらい「エ」の母音を持つ「れ」と「め」が強調されてしまった。また、日本語の鼻音の《ン》の処理で苦労したことも記されている(『明治日本とニコライ大主教』)。
実際に祈祷で使い、歌ってみながら、改良していったのであろう。年に一度の祭日聖歌に比べると、毎週回ってくる主日の聖歌は、改良が重ねられ、ことばと音楽のバランスがとれているように思われる。また、明治17〜8年の『時課経』、『八調経略』の祈祷書出版に合わせて、ことばも変化しており、大幅な改訂が行われたと思われる。ところが、祭日聖歌の譜面はは、ことばの面から見ても、明治初期の訳をそのまま踏襲しており、訳の正確さ、日本語としてのわかりやすさ、聞き取りやすさという点では十分な検討が行われたとは思えない。また、単音譜を作るにあたって、ニコライ師やチハイの記憶していたメロディ以外に、4声の楽譜を参考にしたと思われるが、単純にアルトから単音譜のメロディをとった場合があるが、ソプラノが主旋律であることも多いので、歌いにくいものも多い。美しい日本語の聖歌、わかりやすい聖歌という点でまだまだ工夫の余地が残される。 
楽譜を見て歌う
ニコライ師は当時の日本人の状況に応じて様々な工夫を行った。ロシアの諸習慣に妄信的に従うのではなく、歩み始めたばかりの日本人信徒たちが祈祷に専念し、祈りの中で神の恩寵にふれられるように様々な、ロシアの常識から考えれば「例外的」と言われるような配慮も臨機応変に行った。
たとえば、ロシアでは高音部は少年が歌うのが普通であったのに日本では女声を採用したこと、半音進行を避けてメロディを変えたことは既に述べたが、「楽譜」を見て歌うこともその一例にあげられる。前述したように、通常ロシアでは簡単な歌は楽譜を用いず祈祷書のみで歌うのが基本だが、日本ではすべて五線譜の「楽譜」に書いて配布し、それを見ながら歌わせた。
ロシア人にとっては民謡のように慣れ親しんだ単純なメロディの繰り返しであっても、日本固有の旋律とは全く異なるメロディであり、暗記して歌うことなどできなかっただろう。そこで、ひとつひとつ楽譜に書き起こし、全員が声を合わせて歌えるように考えた。ニコライ師は日記で「楽譜を持っているにもかかわらず、揃わない。」と述べているが、ロシアでは楽譜に書かずに歌うのが当然だったからで、「揃って歌えるようにわざわざ楽譜に書いたのに揃わない。」と不満をこぼしているのである。
こうして信徒のためを考えて作られた楽譜だが、百年たった今、さまざまな問題点を含む。たとえば、楽譜に書いたために、祈祷書ではなく楽譜をたよりに歌うことが当たり前になってしまい、音符を追うことが優先され「ことば」への注目度が下がってしまったこと、また、細かな節回しは、教会や聖歌隊の状況に応じてレーゲントの判断に任されていたものが、楽譜通りに歌わねばならないという「くびき」になってしまったこと、楽譜に書かれていなければ歌えないという状態を生んでしまったことなどがある。また、ニコライ師は死の直前まで祈祷書の訳文の推敲改訂を行ったが、楽譜の歌詞には反映されず、楽譜の歌詞にはニコライ師から見れば不本意な初期の翻訳がそのまま残り、祈祷書のことばとの不一致が起こってしまった。 
日本における土着化
ニコライ師は正教が日本の土壌に根付くことを望んでいた。日記には、聖枝祭の枝はロシアではネコヤナギと定められているが、東京では「ここ二、三日にほころびかけた桜の小枝」(1901年4月6日)であったこと、信徒の葬儀で「2旒の長い旗の1本には白い十字架を、もう1本には赤い十字架を描いて柩の前に立てて進む」という「全く自発的な新しいやり方」を喜んでいる。(1892年10月7日『宣教師ニコライと明治日本』)
それは聖歌においても同様で、聖歌のメロディが日本風に変わり、地方色が現れていても、ほほえましく受け取っていた。
たとえば、徳島の脇町で6人の娘たちが歌った聖歌は「実に風変わりな歌い方」であったが、「とても気に入った」。「メロディは全く新しい、いささかもの哀しいメロディになってしまっていた。しかしすべて声がよく揃っていた。・・・・・すべての声が常に真に正確なユニゾンをなしていた。聞きながら、ここへ歌唱教師を派遣したものだろうか、このままにして置いた方がよいのではいだろうかと迷いが生じた。独自のメロディが出てくるはよいではないか。歌を一つの形に押し込めねばならぬ必要がどこにある」(1892年6月4日)
また、郡山教会の和風聖歌を気に入って、「歌は大変上手だ。・・・・・『ハリストス復活し』はかなりメロディが作りかえられているが、わたしはすっかり好きになった。この歌にも日本の歌特有の、短調のもの哀しいトーンが加えられている。」(1893年5月11日)
ニコライ師は、聖歌が儀式の流れを損ねたり、調和を乱したりすると容赦なく叱りつけた話が日記の各所に見られるが、それは聖歌の上手下手を取りざたしたのでも、原曲を正確に歌うことを望んだのでもない。信徒が、集まって、日本語で、教会が一つになって祈ることにふさわしければ、歌そのものについては全くこだわりがなく、日本風のメロディが生まれてくるのを歓迎していた。
しかし、実際には、口述伝承ではなく楽譜に書かれたことによってメロディが固定され、日本人特有のきまじめさから楽譜通り寸分たがわず歌うことが伝統保持と思われ、また優れた文化としてロシア合唱聖歌がもてはやされ、ロシア風であることが正教会の伝統であるという誤解もあって、日本独自の聖歌はその後あまり生まれてこなかった。
しかし、例えば「天の王」やアンドレイの大カノンに代表される6調のメロディも、ロシアではもっと力強くリズミカルに歌われ、日本では哀愁を帯びた雰囲気を持つ。これも一種の民族性による変化と考えてよいだろう。 
課題と展望
日本における聖歌導入の歴史をふりかえってきたが、正教会の聖歌が祈祷の飾りや鑑賞物ではなく、奉神礼の欠くことのできない部分として、神の教えをたましいに運び、教会が一つの声で祈るように促すという大切な役割を担っていると理解するのなら、いくつかの課題が見つかるだろう。
正教会の奉神礼は、役割分担して祈ることが多い。連祷では神品と会衆(聖歌)が掛け合い、至聖所で祈られる祝文の時間を聖歌が満たし、聖入などの動作を支える。連祷の祈願のことばと、「主、憐れめよ」は、音の高さの点だけでなく、双方が息を合わせて一つの流れになることが望まれるだろうし、聖入などでは神品の祈りや動きに時間的にも雰囲気的にもぴったり寄り添うような聖歌が求められるだろう。
また正教会の伝統では、参祷者ひとりひとりが理解して、祈りに参加するために、必ず現地のことばで祈られる。聖歌はひとりよがりであってはならない。音楽は祈りを助けるものだ。『誦経の手引き』(シマンスキー)に「(自分の、そして聞く人の)たましいが祈れるよう」とあったが、それはそのまま聖歌にも当てはまる。
聖歌を歌う者は祈祷書に盛られた神のメッセージを正確にわかりやすく伝える務めがある。しかし早急な改訳論議に走らなくとも、フレーズに区切って歌う、ことばをはっきり発音する、ちょっとした間を取るなど、今すぐにできることがあるだろう。その上で、ニコライ師が死の直前まで努力を重ねたように、日本語の抑揚に配慮した音楽付けの工夫や、日本のオスモグラシア(8つの調のための旋律定型)も考えていったらよいだろう。音楽的な理解に加えて、奉神礼や祈祷文の内容の理解を深め、小さな工夫を積み重ねてゆけば、ことばの内容とメロディの性格が一致した聖歌、日本人の感性にあった、日本正教会の「祈りの歌」の伝統も、いつか、ごく自然に生まれてくるのではないだろうか。
教会として神に集められたひとりひとりがお互いに心を懸け合い、心を尽くして祈り歌う時、教会は神の愛に満たされ、本当に美しい聖歌が恩寵として私たちに与えられるだろう。
最後にニコライ師ご自身が聖歌について語られたことばを引用する。
「教会では(聖職者や詠隊が)しっかりと朗読し歌い、祈る者はそれに心を込めてじっと聴きさえすればよいのだ。そうすれば、海のようなキリスト教の教えがたましいに流れ込んでゆく。その教えの海は教義を教えて知性を明るく照らし、聖なる詩情(ポエジー)によって心に生気を与え、人々の意志を励まし、人の意志を聖なるもろもろの先例に従わせる。・・・・・・・我々の祈りの歌は、明るい、生きた、権威ある説教であり、祈りなのだ。全世界の教会の口を通して、神のしん~(霊)を受けた聖師父たちの声によって歌われるものなのだ。そして聖師父たちは全体としては、教会の祈祷の指揮者たる福音書記者たちや使徒たちにも劣らない権威を持っているのだ」(1904年12月24日)
 
セルギー(セルギイ)・チホーミロフ  

 

(1871〜1945)
ロシア出身のハリストス正教会の府主教。1908年来日、ニコライの後を継いだが太平洋戦争中はソ連のスパイの疑惑がかけられ特高に捕らえられ拷問を受け、それがもとで亡くなった。  
2
ロシア人の聖職者で、ロシア正教会の修道士。のちに日本正教会の府主教を務めた。
セルギイは1871年にノヴゴロド近くのグツィ村で、地元の聖職者チホミーロフ家のアレクセイとして生まれた。勉学に優れ、ペテルブルクの神学校に進学して1896年に卒業した。1895年、アレクセイはセルギイの名で修道士の誓いを立てる。のちにペテルブルクの神学大学で神学を教え、1899年に掌院に昇叙されて神学大学の監督官となる。1905年、司教に昇格し、イアンブルク(Yamburg)の主教に叙聖され、35歳でペテルブルクの大主教となった。神学大学での在職期間を通じて、セルギイは伝道者として成果を上げるとともに、出身地のノヴゴロド地方における教会の歴史について多くの著作を残した。
日本
1908年、セルギイは大主教ニコライ・カサートキンの後任として日本に送られた。日本に馴染み、短い間に日本語を覚えたセルギイは、日露戦争の結果、日本が獲得した樺太で没収された資産を信徒に返還するため、正教徒のスポークスマンとして活動した。1912年にニコライが永眠すると、セルギイはそのあとを継いで日本正教会の主教となった。息つく間もなく、セルギイはロシア革命によって起きた、日本正教会の命運にかかわる恐るべき困難に直面した。ロシアからの援助の停止は、教会予算のほぼすべてを失うことを意味した。この結果、伝道活動はひどく抑制され伝教者の多くを解雇せざるを得ず、著しく教勢は衰えつつも、教会自体は何とか継続された。
1923年、関東大震災によりニコライ堂の半壊をはじめ、日本正教会の本部施設は大きな損害を受けた。その後数年間、セルギイと日本人信徒は大聖堂を再建するための基金の創設を中心に活動し、彼らは独自に莫大な金額を集めて1929年にニコライ堂の復興(一部意匠・設計を耐震性を強化して変更)にこぎ着けた。1931年、主教のセルギイはモスクワ総主教により府主教に昇叙された。しかし1930年代の日本では、キリスト教や外国の事物に対する強い偏見を伴った新たな風潮とともに軍国主義や国家主義が台頭した。1940年9月にセルギイは日本正教会の首長の地位を追われた。日本政府は同年4月に施行した宗教団体法により、日本の宗教団体を統括する聖職者はすべて日本人とすることに応じるよう要求したのである。
セルギイは1941年1月、ニコライ堂を出て世田谷区太子堂にあったプロテスタントの旧宣教師館を借りて移り住んだ。同年10月より祈祷所を開き、希望する信徒に聖事をおこなっていた。セルギイは「共産主義を擁護する演説をした」として日本の白系ロシア人から反感を買っていたこともあった。しかし、やがてそれらの人々や日本人の信徒から援助が送られるようになった。
セルギイは1944年5月、1940年以降検閲を理由に取りやめていたモスクワの総主教庁とのやりとりをソ連大使館経由で再開した。ソ連側はソ連国籍の取得を認め、セルギイのソ連入国を画策していたことがロシア国立古文書館(GARF)所蔵の文書に残されている。ロシア正教会の総主教選立のための公会に招かれるが、季節や体調を理由に断念した。
1945年5月にソ連のスパイ容疑で憲兵隊に連行された。検束されるまでにセルギイは健康を害していた。最終的にセルギイは不起訴となり、6月16日に釈放された。しかし、宣教師館はそれに先立つ5月25日の空襲で焼失しており、板橋の仮住まいに移った。8月10日に、終戦まであと5日というタイミングで心臓麻痺により亡くなった。セルギイの墓は谷中墓地のニコライの墓に並んで建てられている。この墓碑は永眠から4年後の1949年に全国の信徒からの募金により建立されたものである。
日本ハリストス正教会
キリスト教の教会。自治独立が認められている正教会所属教会のひとつである。ハリストスは「キリスト」の意。英語表記は"Orthodox Church in Japan"である。通称・略称として日本正教会とも呼ばれる。1970年以前、自治正教会となっていなかったころにも、日本の正教会は日本人正教徒およびロシア人正教徒から「日本正教会」と呼ばれていた。正教会は一カ国に一つの教会組織を置くことが原則だが(日本正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉しているわけでは無く、同じ信仰を有している。19世紀後半(明治時代)に、ロシア正教会の修道司祭聖ニコライ(のち初代日本大主教)によって正教の教えがもたらされ、これがその後の日本ハリストス正教会の設立につながった。聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)、函館の復活聖堂、豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財。 
日本の府主教セルギイとソビエト下のロシア正教会 
要旨
ロシア革命を機にロシア正教会は国内外で分裂し、モスクワ総主教庁はソビエト政府と妥協したにもかかわらず、日本正教会を率いるセルギイ府主教はモスクワ総主教庁こそ純粋な正教を守っていると考えた。これによりセルギイはまずは反ソビエトの在日ロシア人から、次に日本人神父や信徒からソビエトを支持していると見なされた。セルギイは教会内で孤立していき、ついには教会を追われ、ソビエトのスパイ容疑で逮捕されるにまで至る。こうした経緯から、セルギイが親ソビエト的であるとの見方は現在まで修正されていない。だがそれは彼が正教徒として、また主教としての立場を貫き、カノン(教会法)に従ったためで、そこには政治的な含みは一切ない。ところがそれが周囲に理解されることなく、ソビエト支持者として次第に追いつめられていったところに、彼の悲劇があったように思われる。 
1 セルギイはソビエトを支持していたか
1861年に来日した修道士ニコライ・カサトキンによって東方正教は日本に伝道された。ニコライが1912年に永眠した時、日本の正教会は東京のニコライ堂をはじめとして266の聖堂、会堂、祈祷所、33,000人の信者を有する教団に成長していた。
ニコライの後を継いで日本の正教会を率いたのは、セルギイ・チホミーロフである。セルギイは1871年ロシアのノブゴロド生まれ、92年ペテルブルグ神学大学に入学した。95年、修道士の誓願を立て、修道輔祭となり、同年、修道司祭に叙聖された。翌96年、神学大学を卒業したセルギイは、ペテルブルグ神学中学幹事となり、99年には神学校校長に就任、合わせて掌院になった。1905年に彼は神学博士号を取得し、ペテルブルグ神学大学総長に任命され、同時に主教に昇叙された1。セルギイが来日したのは1908年、そこからニコライの補佐として宣教活動に従事した。
ニコライの死後、セルギイ体制となってから5年後の1917年、ロシア革命が勃発すると、革命により成立したソビエト政権によって教会および聖職者は弾圧を受け、ロシア正教会は国教としての立場から一転、存立の危機に立たされることになった。当時の日本正教会は精神的・財政的にロシアに依存していたので、ロシア革命は日本正教会にとって大きな打撃となり、その後の日本正教会の行方に大きな影響を及ぼした。
ロシア正教会は国内外で分裂したが、日本正教会を率いるセルギイはソビエト下のモスクワ総主教庁に一貫して忠実であった。このため、まず政治的に反ソビエト的立場にある在日ロシア人(白系ロシア人)の間に彼は親ソビエト的、あるいは共産主義者という見方が広がった。この動向は外事警察に監視され、当局もセルギイをソビエト寄りと見なすようになる。こうした見方はやがて日本人神父や信徒にも拡大し、彼らとの間に亀裂を生み、セルギイは教会内で孤立していき、ついには教会を追われ、ソビエトのスパイ容疑で逮捕されるにまで至る。以上の経緯により、長縄光男氏がセルギイは「ソビエトを礼賛する立場」あったと言うように2、現在までセルギイが親ソビエトであるとの見方は引き継がれている。
しかし、ロシア革命以来のセルギイの言動を検討していけば、今まで理解されることのなかったセルギイの真の意図が見えてくる。セルギイはソビエトを支持していたからモスクワ総主教庁に従ったのではない。セルギイ自身が繰り返すように自分は共産主義者ではなく、純粋に宗教的、教会的な立場を保っており、そこに政治的な含みは一切なかったのである。 
2 ロシア革命と教会憲法の制定
18世紀初頭、ピョートル一世は総主教制を廃止し、代わりに宗務院制度を導入、ロシア正教会を政府の管理下に置いた3。さらにピョートルは定期的に開かれるべき公会4 も召集せず、以来、200年近くにわたって公会は開催されなかった。だが19世紀後半からの社会変動にともない、教会でも改革の気運が高まり、1905年に全ロシア地方公会の準備会議が開かれ、1917年8月に公会の開催が実現した。公会の議題の中心となったのは総主教制の復活で、11月にティーホンが第11代目のロシアの総主教に選出される。
このロシア正教会の改革は、革命のまっただ中で行われた。1917年2月に臨時政府が成立、3月にニコライ二世が退位、そして10月には社会主義革命が起こる。新たに支配者となったボルシェビキにとって、教会は旧体制の枢軸であり、弾圧の対象に他ならなかった。教会財産は没収され、聖職者が迫害を受ける中、新しい総主教ティーホンはソビエト政権を破門するが、弾圧はとどまらず、ティーホン自身が自由を奪われてしまう。
当時、日本正教会は活動資金の大部分をロシアに依存していたが、革命後はロシア正教会からの資金援助は望めず、日本正教会はたちまち財政難に陥った。そこでセルギイは1919年3月に革命の波が未だ押し寄せていない極東ウラジオストックで日本正教会の窮状を訴えて寄進を呼びかけた。それは一定の成果はあったが、一時しのぎにすぎず、日本正教会は財政上の自立を強いられるようになった。
財政上の自立は、実を言えば、日本正教会の長年の課題であった。すでに前任者ニコライはロシアからの送金に頼らず、教会の経費は教会ごとに負担すべきとして、信徒に献金の強化と意識の改革を呼びかけていた。1904年に始まった日露戦争時には、ロシアからの送金が縮小または停止することも想定して、「日本ハリストス正教会維持財団」が設立されたが、その後、十分な資金的基盤が整う前にロシア革命を迎えてしまったのである。
1918年の公会議事録によれば、管轄教会の献金によって生活している神父は約半分、残りの4分の1は東京からの資金に依存しており、8分の1は東京から半分、8分の1は自給、伝教者にいたってはほとんどが東京からの資金に頼っていた。ロシアからの送金停止後、1919年には50年続いた神学校が廃校、神父や伝教者は生活難から教会を離れるなど日本正教会は大幅な活動縮小を余儀なくされてしまう。このことはただでさえニコライと比較され、力不足と見られていたセルギイの権威を低下させ、信徒の間に彼に対する不信感を植え付けることになった。
従来、ロシアからの資金は1870年に設立されたミッション(在日本ロシアミッション)に入り、そこから教団に渡され、神学校の運営、出版、教役者の給与などの活動資金に充てられていた。ニコライは強烈な個性とカリスマで日本正教会を指導したが、時には独裁的な振る舞いがあったことも確かである。それが可能であったのは、一つにニコライが財政を一手に握っていたからである。ところが、財政上の権力を失ったセルギイ主教が独裁的に教団を運営することは不可能であり、主教の権限も制約するような教会憲法が1919年の公会で審議されることになる。
憲法草案によれば、ロシアからの送金も含めて財務に関しては、総務局と相談することになっている。これに対しセルギイは、「私は此伝道会社の首長たり又責任者たるなり、独立して居る伝道会社の独立し居る首長なり。首長たる私の手は決して日本教会の憲法に依りて縛られざるなり。私の勤めと働きとは一切是れ自由なり」 と反論している。ロシアからの資金は宣教団の長であるセルギイ宛に送られてきており、資金を利用する権利も使途を報告する義務を負っているのも自分だと言うのである。
またセルギイが異議を唱えるのは、憲法草案がロシア正教会について一切触れておらず、日本正教会の所属が明らかではない点である。セルギイによれば、日本正教会は経済的にも、信徒の数や質でもロシアから独立できるほど成熟しておらず、依然として母教会のロシア正教会からの物心両面での援助が必要である。セルギイは、自分は革命前のロシア正教会から派遣されており、それはティーホン総主教の下にある現教会も同様で、日本正教会が総主教とその教会を認めない場合には現職にとどまるわけにはいかないと言っている。
さらに憲法草案の中には総務局に関する約款に「主教の進退」云々という言葉があり、それは病気のことという回答が委員からあったにせよ、「進退」となれば主教の排斥にもつながるとセルギイは指摘する。
正教会において主教は使徒の権利を引き継ぐとされており、日本正教会の教権も主教に属さなければならない。主教の権利は絶対的な不可抗力であり、それを超えて教会憲法が最高権威になることはできないはずである。ところがロシア革命を契機としてセルギイの意に添わない点をかかえつつ、この憲法草案は修正の上、採択され、1919年6月に「日本ハリストス正教会教会憲法」として発布された。 
3 日本正教会の独立問題と在外シノドとの関係
1921年から翌年にかけてロシアでは革命に続く内戦と旱魃が原因で大飢饉が発生すると、ソビエト政府は飢餓救済のためとして、教会の聖器物の供出を布告したが、教会は独自に救済策を講じており、総主教ティーホンは政府の要求を拒否するよう命じた。それにより各地で政府と教会の間に衝突が生じ、教会への圧力はこの時期から再び強まる。ティーホン総主教も反革命運動を指導したという理由で、自由を剥奪され、修道院に幽閉されてしまう。そこでティーホンは総主教代理として府主教アガファンゲルを指名するが、彼もまた政府に阻止されてモスクワにたどり着けなかった。
指導者不在の中、政府に支援された「生ける教会」が結成される。それはソビエトに迎合的な司祭が主教アントニンを戴いて結成し、ソビエト政権への忠誠と支持、総主教制の廃止、妻帯主教制の導入、修道院の廃止を唱えたものである。1921年から23年にかけて「生ける教会」はかなりの勢力を保ち、ティーホン総主教の罷免を決議するなどしたが、1923年ティーホンが釈放されると総主教の元へと戻る者が続出し、その後は急速に勢力を失っていく。
他方、ロシア国外に目を向けると、最大の亡命者の教会はセルビアのカルロフツィにあった。1921年11月21日から12月3日までカルロフツィ会議が開かれ、府主教アントニイを指導者とする在外シノド(Russian Orthodox Church outside of Russia)9 が成立する。アントニイは1917年の総主教選挙で候補者にもなった徳望ある主教であり、在外ロシア人への影響力は大きかった。この在外シノドはモスクワ総主教庁とその下にある教会をソビエトに屈服したと見なし、自分たちこそロシア正教会を指導する立場にあると宣言した。
こうしてロシア正教会が国内外で分裂する中、1923年の日本正教会の公会では、日本正教会の独立問題が建議されている。そこでは日本正教会はロシア正教会の出張所ではないことを明らかにして、これに属さないことを内外に宣言することが要求された。
セルギイはロシア正教会が大病を患っているとし「其の病中に此様な建議案の出たる事を見て私驚きます。母の病気を慰むる事は宜敷事であります。病気の母を棄てて別れる事は徳義に合わぬ事でしょう」10 と言っている。獄中の総主教代理アガファンゲルは当分の間指令を出せないので、各主教が独自に教会を治めよ、という内容の公書を出す。それに基づきセルギイは独立して日本正教会を治めている、すなわち日本正教会は依然としてモスクワ総主教庁の下にあるとセルギイは言う。一方、彼は「生ける教会」を、ソビエト政府におもねって教会の権力を手中にしようとして混乱を招いており、決して認められないとする。この発言はソビエトを支持していなかった一つの証と言えるだろう。
セルギイは教会の独立に関して次のように説明する。正教会には「アウトケハーリア(独立)」と「アウトノミア(自治)」の二つがある。アウトケハーリアは日本の正教会が全く独自に運営することであり、アウトノミアは人事と財政において独立だが、最高位の聖職者はロシア正教会で祝福を受けるといった制約のもとでの自治である。セルギイによれば、当時の日本正教会はロシア正教会との関係は金銭面だけで、事実上、50年前からアウトノミアである。今回の建議はアウトケハーリアを望むようだが、もしそうならば1ロシア正教会の承認が必要、2全信徒の要望でなければならない、3すべてに独立した運営が可能でなければならない。しかし、公会は定数を満たしておらず、またロシアからの送金がなければ、財政的な自立は困難として、セルギイは独立を望む建議案を否決する。
しかし、同年9月、関東大震災が起こると、ニコライ堂が倒壊してしまい、教会の独立どころではなく、大聖堂の復興が教団をあげての事業となる。ロシアからの献金が期待できない中、日本正教会は独力で復興を成し遂げなくてはならなかった。セルギイは各地の信徒を一軒一軒訪問し、47回に及ぶ全国巡回を行って献金を募った。
この間、ロシアではティーホン総主教が1925年に永眠した。ティーホンは生前から三人の後継者を挙げていたが、そのうち府主教キリル、府主教アガファンゲルはともに政府によって修道院に幽閉されていて、府主教ペトルが総主教代理となった。しかし間もなくペトルもモスクワを追放されてしまい、総主教代理にはペトルが後継者とした府主教セルギイ(ストラゴロツキー)が就任する11。そのセルギイ(S)から1927年、日本正教会の事情を問い合わせる手紙が送られてきた。
セルギイは返事に「日本教会はロシア教会から生まれたものとしてロシア教会を母なる教会とし、日本教会を娘と思っている」12 と書き、その上で事実上、日本正教会は自治教会なので、モスクワ総主教庁に対し正式に自治の許可を求めた。約一ケ月後の返事では、1従来通りセルギイが日本正教会を治めること、2日本正教会はモスクワ総宗教庁の直轄であること、3自治に関しては、現在のシノドは総主教の代理を首座とする臨時のものであり、さらにセルギイ(S)は代理の代行にすぎず、日本正教会の独立を承認する権限をもたない、今後召集される地方公会または新たに就任する総主教によって許可を受けるべきである、というものであった。つまり自治はいずれ正式に認めるので、それまでは待つようにということである。
1929年、関東大震災で倒壊したニコライ堂の復興が成る。成聖式ではモスクワから祝電が届き、それは信徒の前で読み上げられた。これについてセルギイは成聖記念誌に「私たちを生命に導いた母教会が私たちのことを思いだしてくれた。母がその若い娘、日本教会のために喜び、祈ってくれている。母なる教会が娘である教会に祈りを乞うていることに感動する」13、「日本教会は、日本の穢れなき正教の源は、今日にモスクワ総主教庁及び主教品であることを信じ続けている」14 と書いている。
ニコライ堂の復興が一段落すると、独立をめぐる問題が再燃し、1930年の公会では、「一 日本教会は名実共に独立し、ロシアミッションを認めざること、二 日本正教会はソヴエト・ロシア正教と関係なきことを明らかにすること」という建議がなされた。
まず建議一について、セルギイはロシアミッションを認めないことを「私此の問題は御免蒙ります」とはっきりと拒否している。セルギイの説明はこうである。
ロシアミッションは、現在ロシアからの送金がなく、活動を停止しているが、今も存続していて、日本正教会とは財政も独立であり、別組織である。将来もしロシアから別の人がミッション長として派遣されれば、自分は日本の大主教のみとなるが、それまでは二つを兼任する。誤解がないようにするならば、他の教派のように教会とミッションとは別の場所にあった方がよいのかもしれない。将来的には国分寺か池袋に土地を買って、そこにミッションを移し、伝道、慈善事業、文化事業を興すことを考えている。
セルギイは後述するように、ミッションの名称を「在日本ロシアミッション」から「在日本正教ミッション」に変更して、建議一を「日本教会は「在日本正教ミッション」とは全然別箇のものたること」としている。
建議二のようにロシア正教会との関係が問題化した背景には、ソビエト国内の宗教事情がある。1920年代後半になるとスターリンにより急激な工業化と農業集団化が推し進められ、一時中断されていた教会への弾圧は再び強まった。こうした中、総主教代理セルギイ(S)は1927年7月29日、一通の書簡を表す。それは基本的に1922年のティーホン総主教の声明を踏襲してはいるが、祈祷の中で現政権の安寧を祈り、海外のロシア人に反ソ活動を禁止し、モスクワの総主教庁への復帰を促すなどさらにソビエト政権に妥協するものであった。これをもって「セルギエフシチーナ(セルギイ路線)」が始まる。セルギイ(S)としては、国家に市民として忠誠を誓うことで、教会の活動を円滑に行おうとしたのだろうが、実際、セルギイ路線において教会を取り巻く状況は悪化したので、セルギイ(S)はソビエトに妥協したと見られ、彼への不満が高まった。
これに対し、公会でセルギイはロシア国内の動きに関係なく、モスクワ総主教庁の管轄下にあるべきとして、次のように言う。ソビエト政府は「サタナよりの政府」と思うが、「政府は唯臨時に冠った帽子と同じ」である。セルギイ(S)をはじめ、教会が政治や経済の問題に触れず、宗教家としての分を守っていれば、迫害もされず、自由な活動が可能である。もしモスクワ総主教庁の管轄に入らないなら、日本正教会はどこに属するのか。モスクワ総主教庁も日本正教会を自治教会として認めようとしているのだから、その下で自治を計るべきである。
1928年、セルギイはモスクワ総主教庁からダイヤモンド入りの十字架を受けたが、それをモスクワ総主教庁の正当性を認めた見返りとする非難文が1930年の公会で提出された。これに対しセルギイは長い反論を行っているが、そこで彼はモスクワ総主教庁とセルビアの在外シノドとの関係についてかなり詳しい説明している。
在外シノドの主教たちについて、セルギイは牧群を捨てた牧者であるとし、在外シノドがロシア正教会全体を管轄しようとするのは、逃げた主教が逃げない主教とその教会を司ろうとすることであり、おかしなことだと言う。
在外シノドが発足した1921年、シノドよりセルギイ宛に書簡が送られ、自分たちを承認するように言ってきたが、彼は返事を書かなかった。1923年、ニコライ堂が震災で倒壊した際に、セルギイはモスクワとセルビアに報告したが、セルビアからの返事は「お気の毒なことです」という言葉だけで一切の見舞はなかった。1925年、セルギイは在外シノドとの関係を明確にするため書簡を送っている。その中では日本正教会の現状と降誕祭を新暦で祝うことについての考えが述べられている。
この手紙は受け取った側である在外シノドの方からも裏付けることができる15。在外シノドも一枚板ではなく、主導権をめぐる争いがあったが、府主教アントニイは、在外シノドの正当性を否定した主教エヴロギイに宛てに1926年8月4日、手紙を書いた。それによれば、7月21日から29日付で、日本のセルギイはいくつかの祝祭を新暦で祝うことの許可と「在日本ロシアミッション」の名称を「正教ミッション」と変更する必要性について回答を求めている。この手紙を根拠にアントニイは日本のセルギイが自分たち在外シノドを認め、それに参加していると主張する。
この手紙の内容のうち、祝祭日の変更については、日本正教会やロシア正教会は旧暦(ユリウス暦)を用いていたが、それでは降誕祭が新暦(グレゴリウス暦)の1月7日に当たり、祭日前が正月となって斎(精進)ができないために、降誕祭のみを新暦で祝おうということである。この問題はこの時期1930年前後の公会で何度も問題となっており、1928年の公会において新暦で祝うことになっている。
もう一つ宣教団の名称については、1930年の公会でのセルギイの説明では、「在日本ロシアミッション」では、宣教師をロシア人に限っているようであるので、「ロシア」を削り、さらにカトリックやイスラムとの区別がつかないとして「正教」を加え、「正教ミッション」に変更するということである。
こうして確かにセルギイはセルビアのアントニイに手紙を書いたのだが、両者の意図には齟齬がある。セルギイから言えば、「即ち自分の考だけを書いたので願いではありませんでした」16 が、アントニイにすればセルギイは自分たち在外シノドの正当性を認め、いくつかの変更の許可を求めてきたということになる。つまりアントニイは自己の正当性の根拠としてセルギイの手紙を利用したのである。
1927年、総主教代理セルギイ(S)はティーホン時代から三度目となる在外シノド解散命令を発しているが、それによりシノドはモスクワ総主教庁からの独立を発表した。在外シノドからの誘いに対し、セルギイの返事は、「セルギイ(S)の言葉に従わなくてはならない。若し之に従わず貴下が独立を発表するなら之れ教会の内に大乱を起す事であるから、私は大乱の中に入りません。そしてモスクワパトリアルヒヤの管轄に入ります」17 というものであった。セルギイは一貫してモスクワ総主教庁に忠実であり、長縄光男氏が在外シノドに「おうかがいを立てる」とか「心を寄せたこともある」18 と言うのは異なり、そういったことは一度もなかったのである。 
4 ソビエトに関する説教と府主教への昇叙
1931年3月19日、セルギイはニコライ堂でロシア人を前にロシア語で説教を行った。それは彼の故郷からの手紙に基づいて、ソビエトの現状について述べたものだったが、民衆や教会の迫害を認めない内容だったため、在日ロシア人社会に大きな波紋を呼んだ。ロシア人達の動揺は、日本の外事警察に調査されており、そこから事態の推移を知ることができる。事件の発端となったセルギイの説教の内容は次のようなものであった。
四ケ月前、故郷ノブゴロドの輔祭から手紙が届いた。それによれば教会の奉事は従来通り行われ、食料も豊富にある。亡命ロシア人が新聞で伝えるのはロシアの暗い側面ばかりだが、明るい面もあり、新聞には真実が書いてあるわけではない。それを証拠に自分がロシアについて文章を書いて、新聞に投稿したところ、ロシアに対して批判的な内容でないとして掲載を断られ、返却されたことがある。また、モスクワ総主教庁こそ正統な正教会であり、モスクワで発行されている宗教雑誌を高く評価できる一方で、在外シノドでは高位聖職者が互いに誹謗中傷を繰り返しており、それは「醜態」であり「下水溝」である。来る復活祭はロシアでも盛大に祝われるであろうし、鐘が響き渡るであろう。ロシアは悪いばかりではない。もしそうならば民衆が蜂起するであろう。もうすぐあなたたちは祖国へ帰れるであろう。
この説教は在日ロシア人の反発を招いたが、4月12日の復活祭にセルギイがモスクワ総主教庁から府主教に昇叙されたことは、彼らにとればセルギイがソビエトに帰順したことの褒賞に他ならず、さらに反セルギイの気運が高まった。
4月19日には東京のロシア人によって反セルギイの集会がもたれている。そこでは今後、政治的なことを教会で持ち出さないことをセルギイに約束させることが求められた。その後、セルギイを排斥し、新教会の設立が目指されたようだが、具体的な動きがあった形跡はなく、この計画は頓挫したようである。反セルギイの気運は東京だけではなく、北海道、横浜などにも波及したが、中でももっとも大きな動きがあったのは神戸である。神戸教会は1922年に亡命ロシア人によって設立された教会で、管轄司祭はボグロフというロシア人だった。ボグロフはセルギイの府主教昇叙に祝意を示したが、ロシア人信徒の反感を買い、また従来からボグロフの高圧的な態度に不満が蓄積していたため、問題は拡大していった。結局、反ボグロフ派の人々が在外シノド下のハルピンから司祭を招聘し、新教会を設立するという事態にまで発展した。
外事警察の調書に記録されているロシア人の証言には、セルギイは贅沢な生活を送り、多額の蓄財をしているとか、青年時代より革命思想を捧持し、日露戦争時には暴動を起こした水兵の追悼を催した結果、投獄され、シベリアに追放された後、ニコライによって日本に招聘された、などといった話もある。シベリアへの追放云々という話は確認できないので、おそらく事実無根であろうが、後年までこういった類の噂がセルギイの身の回りには絶えることがなかったようで21、どこまでが事実であるかはともかく、セルギイを追いつめていったことは想像に難くない。
また件のセルギイによる説教の影響は海外にまで波及した。6月24日上海のロシア人主教シモンは上海で発行されていたロシア語の新聞『ことば』にセルギイ批判の一文を掲載した。セルギイは改めて自分の考えを明らかにする必要を感じ、シモンに充てて相当な長さの弁明の手紙を書いている。
以下、その概要を見ていくと、シモンはセルギイがソビエトの迫害を否定していると言うが、情報が不足している中、なにが真実かはわからない、病人にはすぐ診断をくだすのではなく、診察が必要なように、まずは事実を確認しなければならないとセルギイは言う。現在のモスクワ総主教庁の陣営とそこが発行する雑誌から判断して、ロシア正教会は比較的自由に活動しているように思われる。またシモンはセルギイが「革命以前のロシア正教会を汚している」と言うが、革命前のロシア正教会では総主教制は廃され、公会も開催されず、教会は政府に管理下にあり、本来の姿ではなく、それを批判したから非難されるのは不当である。
セルギイ(S)が求めたソビエトへの忠誠宣言にセルギイが応じたという指摘に彼はモスクワ総主教庁をロシア正教会の正統な中心として認めるが、それはソビエトへの忠誠ではないとする。ロシアという祖国は現在ソビエト連邦の領土内に存在しており、それ以外のどの地域にもない。祖国と政権とは別物であり、政権は「帽子」のように変化する。キリスト教徒であることとソビエト国民であることは両立しないことはない。
またシモンはセルビアの在外シノドの長アントニイを全ロシア正教会の首座として認めるべきで、そうしない者は正教から脱落したと言うが、セルギイの考えはこれと異なる。アントニイは総主教の候補の一人であったが、最終的にティーホンが総主教となり、その後、ティーホンが後継者にしたのがペトルで、ペトルから総主教の権限を譲渡されたのが、セルギイ(S)である。この手続きは正当で、セルギイ(S)が全ロシア正教会の首座とするになんら問題はない。モスクワの総主教庁は三度、在外シノドに解散命令を出しているし、またコンスタンティノープル、アレキサンドリア、アテネの総主教達もモスクワ総主教庁を正統な教権の継承者として認め、在外シノドを認めない点から言って、モスクワ総主教庁に従うのがロシア正教会の一員であることだ、とセルギイは主張する。そして幹部が「精神的にはリアサ23 を着た革命家」である「生ける教会」とセルギイ(S)とは異なるとセルギイは言う。
セルギイの1931年の説教と主教シモンへの手紙を前年の公会での発言と比べてみれば、セルギイは基本的には同じことを言っているがわかる。それは時の政権を「帽子」と言っていることからも分かるように、政治的変動を度外視して、教権の継承者を在外シノドではなく、依然としてモスクワ総主教庁とするのである。
その後のロシア正教会とセルギイとの関係について、二、三のエピソードを挙げておくと、この手紙が原因なのかは確認できないが、この年の秋、セルギイはモスクワ総主教庁との関係を絶たないために在外シノドから絶縁宣言を受け、これ以降在外シノドとの公的な交わりは途切れる。1932年、セルギイは二度目となる日本正教会の自治申請をモスクワ教会に送付しているが、この時は返事さえなかった。翌1933年、中国天津の一教会が管轄教会を在外シノドからモスクワ総主教庁へと変更した際、モスクワへの仲介をセルギイに依頼したというが、その教会は「赤い教会」として、他教会の信徒から投石などの嫌がらせを受けたという24。1934年には在外シノドがハルピンにいた主教ネストルに朝鮮教区を管轄させるという通達を出すが、セルギイは朝鮮は日本の領土として、自分の管轄権を主張し、それが在外シノドにも認められ、先の通達が取り消されるという出来事があった。 
5 モスクワへの絶縁宣言とセルギイの引退
1931年の在日ロシア人による騒動の際、日本人信徒は事態の推移を注意深く観察しつつも、「対岸の火災視」25 して、セルギイの府主教昇叙には祝意を示し、1933年には来日25周年を祝う記念誌を発行している。ところが戦時下になると、日本人信徒もセルギイとソビエトの関係を問題視するようになる。
1940年の公会では「日本ハリストス正教会は我が国の国情と相容れざるモスクワ教権と一切関係なきものなるを茲に声明す」という緊急動議が提出された。教会がモスクワ総主教庁と関係があれば、ソビエトとの関係を疑われるなどあらぬ疑惑を受ける可能性がある、ロシア革命からモスクワ総主教庁とは実質的に関係がなくなっているのだから、関係が曖昧なままにしておくのではなく、ここで絶縁を内外に宣言すべきだというのである。
これに対しセルギイは「革命後モスクワと関係ないと言いますが、関係があります」と言い、1917年のロシアの地方公会に代表を送ったこと、モスクワ総主教庁からセルギイが大主教、府主教に昇叙されたこと、長老の神父にミトラ(冠)が送られたことなど関係の実例を挙げ、続けて「関係を断つ! 今にコムニズムも赤も失くなって立派な露国になります。その時関係を断ったと云う記録を出して見たら恥ずかしくなります」26 と反論している。先述のように、独立を望む声は以前からもあって、セルギイは日本正教会の教勢から考えて「アウトケハーリア(独立)」は難しくとも、「アウトノミア(自治)」ならば可能だとして、1927年と1932年の二度にわたりモスクワ総主教庁に自治を申請している。しかし、今回、信徒達が望むのは「独立」でも、ましては「自治」でもなく、「絶縁」であった。セルギイは今回も教会法にのっとりモスクワ総主教庁に独立を申し出て、祝福を受けて円満に独立を果たすべきある、もし一方的に絶縁を宣言すれば岐教だと主張するが、それさえも反対に会う。信徒の側からは、来るか来ないかわからない返事を待つよりも、この際、絶縁を宣言すべきだと意見が大勢を占め、先の動議は採択される。「藤平副議長 もう一度緊急動議を朗読致します。(朗読)この声明に不賛成の人は起立して下さい。(起立するもの一人も無し)満場一致可決。(府主教発言せんとしたるも再び議場の秩序乱る)」27という公会議事録から、この時の議場の混乱ぶりが十分に伺える。
この公会から二ケ月後の9月、セルギイは半ば追われるような形で引退する。きっかけは国家による宗教団体の統制を目的として、1939年に公布、翌40年に施行された宗教団体法である。宗教団体法は教団の代表者を日本人とは定めていないが、外国人では法人の資格が降りないとの憶測が広まっていたようで、現に外国人の宗教活動が制限を受けようになったため、キリスト教各教派でも外国人聖職者からの独立や彼等の引退が相次ぐようになった。日本正教会でも1939年に設置された宗教団体法委員会により日本人が代表者と定められ、セルギイに引退を要望し、委員の報告によれば、セルギイは、かねてから自分は日本正教会の最後の外国人の主教となる覚悟があり、代表を日本人に譲ることを「衷心より喜んで賛成」すると言って「快諾」したという。ただ後にセルギイが語るところによれば、主教辞任の理由は宗教団体法の施行により外国人が主教でいられなくなったこと、またニコライ堂の信徒が二派に分かれて抗争し自分が其の渦中に巻き込まれることを避けるためで28、本当に「快諾」したのかは疑問である。
セルギイの引退後、教団の代表者となった岩澤丙吉は、ロシアで神学士の学位を取得したが、聖職者にはならず、神学校教授を勤める傍ら、陸軍大学でも教鞭をとった人物である。岩澤は主教とならず、俗人のまま代表者となったので、多数の反対派が現れ、岩澤は教団をまとめきれず、1941年1月の全国教役者信徒大会にて藤平新太郎神父を主教候補とすることで一端事態は落ち着く。ところが岩澤を支持する一派は、セルビアの在外シノドのアナスタシイ府主教と連絡をとり、小野帰一神父を主教候補に擁立し、小野は1941年4月6日ハルピンで主教に叙聖された。しかし小野主教は藤平派によって拒否され、同年5月、事態を重く見た文部省の仲介により、小野を主教として認めること、藤平の主教叙聖の実現を条件として両者は和解した。だが藤平は戦局の悪化によって、ハルピンに行けないまま、1946年1月に死去してしまう。
一方、引退後のセルギイは、世田谷の太子堂に移り、主にロシア人相手に祈祷を行うようになった。セルギイは「年金」として教団から、当時としてはある程度の生活が送れたはずの月200円を支給されることになっていたが、年金は1940年9月から翌年6月までの十ケ月支払われただけで、以後は停止してしまう。このためセルギイは「乞食のような生活」 を送らざるをえなくなったが、1941年の秋からロシア人、翌年からは日本人信徒からも援助が来るようになり、小康を得ることができた。
ロシアでは1944年、前年総主教に就任したセルギイ(S)が永眠し、後任にアレクシイ府主教が指名された。そのアレクシイから1944年5月27日、日本のセルギイに宛てて、日本正教会の現状を知らせるようにとの電報が送られる。それに応えてセルギイは、1940年以降の日本正教会について報告し、それ以後、セルギイはソビエト大使館を通じて、モスクワ総主教庁とやりとりをするようになり、9月にセルギイはソビエト国籍を取得30、またアレクシイが総主教に就任することになった1945年1月のロシア正教会の公会への参加を打診されたようである。さらにロシア正教会としては帰国後のセルギイに新しい管区を与えることも考えていたらしい。
しかし、セルギイのソビエト帰国は実現しなかった。その理由は健康状態ということだが、ソ連側の見方はそれを「日本人が考えたものだとしている」32。さらにソ連側の報告によれば「(セルギイは)1944年の夏にはソ連国籍となり、帰国しようとしたが、日本当局は、府主教セルギイが37年も日本に住んでおり、いろいろなことを知っているため、再び日本正教会の管理に当たらせることはできないか打診し始めた。が、府主教セルギイが否と答えるであろう、ソ連に帰りたいとの考えであると判明した。すると、1945年5月、府主教セルギイは逮捕された」。
セルギイは1945年5月、ソビエトのスパイ容疑で逮捕された。セルギイは取り調べで逮捕の理由を次のように語っている。「自分が検挙せられた理由として思い当る点は1自分方に蘇連領事館員ボルギンが屡々話に来ること、2自分がモスコーと文書の往復をして居た為に非ずか。然しボルギンが如何なる意図にて自分方を来訪し居りたるものや自分には分らぬ。又モスコーとの文書往復に何等不穏の点なし。自分はモスコーのギリシャ教会本部より主教に任ぜられて居り其の命によりニコライ堂の模様を知らせて居たもので、之は主教としての任務を果して居たに過ぎず。若しモスコー本部との連絡不可ならば何時でも主教の地位を返上する意思あり。モスコーに帰る意思なく日本に30年以上も滞在して居るので此方で骨を埋める意思なり」34。セルギイはモスクワに帰るつもりはないと言っているが、それは「同志マリク在日本ソ連大使は、府主教セルギイに公会への招待状を手渡し、このことを広く知らせないように助言」 したためかもしれない。
結局、セルギイは容疑不十分のまま、6月18日に釈放され、さらに不自由な生活を強いられるようになった。世田谷の自宅は空襲で焼失したため、彼は板橋の六畳一間に移り、そこでは「生活上の器物も殆んど無いと云う有様で、僅かにお鍋一つで、その一つの鍋で配給のご飯を炊き、その同じ鍋で副食を炊いていられる」36 という生活だった。ソ連が日本に参戦した翌日の8月10日の午後、セルギイは自宅で息を引き取る。74歳だった。セルギイの葬儀は12日、出棺、埋葬は17日に行われたが、その様子は終戦前後の混乱の中、大八車が一台あるだけで、花もなく、およそ主教の葬儀とは思えないほど寂しいものだったという。 
6 教会法(カノン)に忠実であったセルギイ
ここまで時系列に沿ってセルギイの言動を追ってきたが、ここで彼の立場を整理しておきたい。晩年までソビエトとの繋がりをもち、最後にはソビエトのスパイ容疑で逮捕されたセルギイはソビエトとの関係を疑われ続けた。確かに1931年の説教などを見れば、ロシアの状況をあまりに楽観視していると言わざるをえない。だがそれもソビエトが崩壊し、当時の様子が明らかになった今でこそ言えるのであり、それを情報が錯綜していて、なにが真実なのか決めかねた当時に求めるのは適切ではないだろう。むしろこの説教は、ソビエトにおいて外国への手紙はすべて検閲済みで、ソビエトに不利なことが書かれていれば、おそらく日本に届かなかったことが予想されるのに、手紙の内容をそのまま信じるセルギイの政治的なナイーブさを表していると言える。セルギイを知る在朝鮮ロシア宣教団の掌院ポリカルプはセルギイを評して「ご存じの通りセルギイ座下は外交家ではありませんでした」と言い、あるロシア人がセルギイに自分の意見や見解を赤裸々に発言しないように進言していたと伝えている。
確かにセルギイは政権を「帽子」に喩えているように、政治的なものを本質的とは考えなかった。彼は教会と国家が相互に独立であることを理想とし、教会を国家から切り離そうとした。ソビエト人のニコライ堂への出入りを咎める人に対し、「宗教信仰上には赤白の区別あることなし。徒に赤系なりとて之を排除することは神の教えに悖るものに非ずや」39 とセルギイは語ったという。セルギイは革命前のロシアで労働者への説教で雄弁をならしたほど進歩的な考えの持ち主で、帝政時代を理想化しなかったが、同時に彼は自身が様々な機会に述べているように共産主義者でもなかった。1931年の説教も反ソビエトではないが、事態を冷静に見極めようとしており、「ソビエトを礼賛する」というほど積極的なソビエト支持ではない。セルギイは「私はソヴィエトの人ではありません。即ちハリストス(キリスト)の使徒、ハリストスに属するものであります。どの様な政治的色彩も持ってはおりません」40 と言い、言うなれば政治的には自由主義的な考えをもっていたが、反ソビエトを積極的に標榜しなかったばかりにソビエト支持者、共産主義者と見なされるようになったという見方が正確である。
またセルギイは終始、モスクワの教会に従ったが、それは必ずしもモスクワへの隷属を意味しない。1927年と32年の二度「アウトノミア(自治)」の申請を行っているように、彼は日本正教会の実力には「自治」がふさわしいと考えていた。セルギイの頃とさほど教勢は変わらない現在の日本正教会が、1970年以来40年近く自治教会として運営されているところから見て、この判断は妥当と言えるだろう。本来、信徒や聖職者の数や質、神学校や修道院などいくつもの条件が整っていて教会は「独立」できる。ところが、1940年日本正教会は、政治的な理由からモスクワと絶縁、独立した。日本正教会は国策に忠実であろうとし、日本人主教を立て、教会の脱ロシア化、日本化を図った。かつてセルギイは「日本教会は国家と教会が、より正確には国家と宗教が分離している国で生まれた。キリスト教に対する理解は「ハリストスの穢れなき正しい教え」以外の何ものでもない。そこには政治的ふくみはなにもない」41 と日本正教会を讃えたが、今や「セルギイ府主教に従属することは何故に悪いのか、セルギイ府主教の血管には反国家的な血が流れているからである。(中略)宗教は決して国家の立場を無視すべきではない」42 と言われるなど、政治的なものが時代に迎合する形で日本正教会内にも入り込んでくるに及んだ。
ロシア革命とそれに続く変革は、ロシア国内外の正教会にも大きな影響を与えた未曾有の変化であったが、セルギイがモスクワをロシア正教会の教権の正統な継承者と見なしたのは、ソビエトを支持したからではなく、教会法(カノン)に従ったためである。カノンの問題は、聖公使徒の教会から祝福を受けた主教が教会を司っているかどうかである。そこから言えば、いかなる政治的変革があろうとも、日本正教会がロシア正教会を母教会として、その下にあることに変わりはない。しかしカノンの問題が日本正教会の信徒たちや在日ロシア人にどこまで理解されていたかはかなり疑問である。セルギイは機会に応じて委曲をつくして説明しているが、それは理解されることはなく、彼は時代の波に押し流され、追いつめられていったのである。単に政治的な面からだけでなく、教会的な面からも検証することによって、セルギイがとった立場を明確にすることが必要である。
 
セルギー(セルギイ)・ストラゴロツキー  

 

(1867〜1944)
ロシア出身のキリスト教伝道者。サンクト・ペテルブルグ神学大学卒業。ハリストス正教会掌院、ロシア革命後初の総主教などを務める。1890年来日、日本でのロシア正教布教に努めた。1898年に北海道を旅し『蝦夷旅行記』を記した。帰国後にモスクワ総主教となった。  
共産主義政権による弾圧
1917年のロシア革命によって無神論を奉じるソヴィエト政権が成立すると、多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。
聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され致命した。日本正教会の京都主教を務めていたことのあるペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされた上で銃殺されるという特異な致命を遂げたことで知られている。ニコライ2世をはじめとする皇帝一家も、皇妃、皇女、幼少の皇子に至るまで全てが銃殺刑に処された。
1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑されたが、1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2千人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5千の司祭が銃殺もしくは投獄された。1937年と1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された。
当初は無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたモスクワ総主教ティーホン(チーホン)は、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動はなお著しく制限された。政府の迫害を恐れ、多数の亡命者も出た。1927年のセルギー府主教によるソ連政権への「忠誠宣言」は反発を招き、カタコンベ系諸正教会が形成された。彼らは主流派正教会からは古儀式派と同じく分離派と蔑称された。カタコンベ系諸正教会の側はセルギー府主教の「忠誠宣言」を受け入れる主流派ロシア正教会を「セルギー派」と呼び非難した。この分裂は現在も継続している。
教会は文化面でも多大な弾圧を被った。当時最も活躍しており多作な聖歌作曲家の一人であったパーヴェル・チェスノコフも革命以降は聖歌作曲を禁じられ、同様に全ての音楽家が聖歌に関わることを禁止もしくは制限された。革命後、ソ連時代を通じてペレストロイカより前に聖歌の録音が許されたのは、セルゲイ・ラフマニノフの作品『徹夜祷』を世俗合唱団が録音した一回のみである。
1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂がダイナマイト爆破された。他にもクロンシュタットのイオアンが奉職していた聖アンドレイ大聖堂や、カザン・クレムリン(世界遺産)の生神女福音聖堂(ブラゴヴェシェンスキー聖堂・破壊は1930年)も破壊されている。
弾圧の度合いの濃淡
ソ連時代を通じてロシア正教会は過酷な弾圧の下にあったが、その度合いは一様ではなかった。先述したように腐敗していたロシア正教会につき、当初ボリシェヴィキ・ソ連政府は弾圧を加えればあっさり瓦解し消滅すると考えていたのだが、多数の致命者を出してもなお正教会の信仰が消滅しないことにみられた強固な信仰の存在という現実を目の当りにして、一定程度の宥和策をとる方向へ方針転換する必要が認められたからであった。ただし宥和策といってもあくまで相対的なものであって、教会が抑圧の対象であることには変わりなかった。
1943年のナチス・ドイツの侵攻に対してソ連人民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていた総主教の選出を認めた。この時選出されたのがセルギイ・ストラゴロツキー総主教である。それまで禁止されていた教会関連の出版物が極めて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。
だがスターリンの死後、フルシチョフが再度、ロシア正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復することはなかった。
このように、ソ連邦時代は確かに統制の程度に濃淡はあったものの、総じてロシア正教会にとっては受難の時代以外の何物でもなかった。神父は聖堂での奉神礼の中で行われるもの以外には説教を禁じられた。埋葬式の際にロシアに伝統的であった、聖歌隊と司祭が信徒達を先導して聖堂から墓地まで聖歌を歌いつつ永眠者の棺を運んで行進するという習慣などは勿論認められず、墓地における埋葬の際には司祭は祭服の着用を聖堂外では許されておらず、墓地において最後の祈りを捧げることも許されなかった。出版物には厳重な検閲が行われた。全ての宗教を弾圧するソ連にあって、計画経済の下で聖書や祈祷書・聖歌譜の印刷などに割り当てられる資材はごく僅かであり、聖職者や神学生達は限られた印刷物を使いまわしたり先人からのお下がりを貰い受けたりするなどして物理的不足をしのいだ。勿論当局に対する批判は許されず、スパイも活用した秘密警察によって一般社会と同様、教会は監視を受け続けた。
他方で、弾圧を緩和して信徒を守るため、ソ連当局に対して一定の協力を行った、あるいは強制された聖職者達が居たのは事実である。これには「やむをえない」面もありそのためにロシア正教会は存続することができたのは確かだが、同時に「当局との癒着」の疑義も生まれてしまうこととなった(事実、癒着していた聖職者も居た)。この疑義は現在に至るまでロシア正教会への不信感の源となっており、ロシア正教会自身にとっても解決の容易でない頭痛の種となっている。
弾圧・抑圧は、ペレストロイカ時代に至ってようやく緩和された。
ただし、このような弾圧時代においても一般の正教徒から抵抗が全く無かった訳ではなく、ピアニストであるマリヤ・ユーディナのように、半ば公然と体制に対して正教徒としてのアイデンティティを表明し抵抗した者も居た。
亡命者達の動向
ヨーロッパや北アメリカに亡命した信徒や聖職者は、すでに移民していたロシア移民が建てた各地のロシア系正教会に拠り、信仰を守った。それによりパリやニューヨークでロシア正教会の神学校が建ち、20世紀における神学研究の1つの中心となった。亡命後、第二次世界大戦時にユダヤ人を救済していた事でゲシュタポに連行されラーフェンスブリュック強制収容所で致命した母マリヤが暮らしていたパリの家が、亡命した正教徒達の知的・神学的議論の中心的存在の一つともなっていたことも、フランス等に亡命した人々により信仰生活・知的活動が守られていたことの一例である。
亡命した著名なロシア人神学者・哲学者の中には、母マリヤの痛悔担当神父でもあったセルゲイ・ブルガーコフ、ニコライ・ベルジャーエフ、ウラジーミル・ロースキイ、パーヴェル・エフドキーモフらがいる。
現地にあった既存の正教会教区に拠る亡命者がいた一方で、新たな教会組織を設立・存続させていくグループも存在した。これを在外ロシア正教会と呼び、1922年にセルビアのスレムスキ・カルロヴツィ(Sremski Karlovci) に集った亡命ロシア人主教達によって設立された。在外ロシア正教会は1927年にソヴィエト政府に対する忠誠の誓約を要求した総主教代理代行セルギイ(・ストラゴロツキー)の総主教位継承を認めず、セルギイの後継者達に対しても長くその正統性を認めなかった。他方、さまざまな事情から亡命先の各地正教会とも若干の摩擦が起こり、その教会法上の立場の不安定性から、長く他の正教会との間に正常な関係が構築されないままとなった。 
寿都(すっつ)にハリストス正教会があった 
はじめに
寿都には、かつてハリストス正教会、いわゆるロシア正教・ギリシャ正教の教会があった。信者もたくさんいて、著名な宣教師も訪れたことが記録に残っている。明治期の話なので、直接それを知る人は現在ではもちろんいないが、その事実を書いた資料が残っている。それらを紹介しつつ、寿都のハリストス正教会の歴史を振り返りたい。
これまでの調査
寿都のハリストス正教会については、渡部源次郎『寿都キリスト教史 実在した寿都ハリストス正教会』(1990年)にすでに報告されている。そこでは主に、『掌院セルギイ北海道巡回記』(宮田洋子訳 、1972年)と『札幌正教会百年史』(1987年)という二つの資料を元にして記述している。
その報告ののち、日本ハリストス正教会の祖であるニコライの日記が和訳され出版されている(『宣教師ニコライの全日記』、2007年)。また今回、当時の文献や新聞記事も発見できたので、それらを含めて、寿都ハリストス正教会史をまとめてみたい。
ハリストス正教会の日本への伝道
日本ハリストス正教会は宣教師ニコライの布教から始まった。ニコライは、サンクトペテルブルク大学在学中に、在日本ロシア領事館附属礼拝堂付ロシア司祭の募集を知り、応募、1861年に着任した。日本語と日本文化を学び、函館において布教活動を開始した。1872(明治5)年に東京に進出し、1912(明治45)年に亡くなるまで、布教を続けた。そのとき、日本国内の信徒数は3万4千人余名になっていたという。1970(昭和45)年には、ロシア正教会により「亜使徒・日本の大主教ニコライ」として列聖された。
寿都への伝道
正教がいつ寿都に伝道されたのか、はっきりした年月は分からない。『札幌正教会百年史』によると、1882(明治15)年6月の公会(全国教役者・信徒会議)議事録に「大日本正教会略図」が付けられていて、全国の聖堂・会堂・講義所の位置が書かれているという。北海道では、函館に聖堂、七重・有川・福山・寿都・小樽・札幌に会堂が示されているという。また、寿都の主徒11人と伝えている。このことから、この頃には、寿都で一定の布教に成功していたことが分かる。
1886(明治19)年の公会で、ティト小松という司祭が、寿都・札幌・幌内・根室の各所に伝教者を派遣する必要性を力説している。黒松内周辺には中の川・作開などの集落が農林業を中心に発達しつつあり、また寿都は日本海岸を南北に連ねる鰊漁業の中心地であり、船舶による交通の要衝であるので、寿都に専従者を置くことが適切であると建言したのである。この時、寿都・黒松内には伝教生ペトル湯村吉造という人が配置された。
 ペトル湯村の担任地区はその後広がっていき、1889(明治22)年には、岩内・永豊(島牧村)が加えられた。
聖堂の設置
『開拓指鍼北海道通覧』(久松義典、1893年)に、「教門」という一項があり、寿都外三郡については次のように述べている。
宗派に依て多少の差異なきにあらざるも、仏教全体より見るときは先ず盛んなるものなり。而して当寿都には外教中「グリーキ教」あり。十九年より寿都渡島町に聖堂を設置し、伝教師一人を置きて布教に従事せしめたるを以て、該教を信ずるもの日に月に加はり、此の景気を以て行くときは数年を出ずして、地方の老若男女を教化せしむることを得ベき観あり。然るに、其の後に至り、一時盛昌を極めたる「グリーキ教」も現今は聖堂門前に雀蘿(じゃくら)を設くべき有様に至りたりと云ふ。(以上引用)
1886(明治19)年に聖堂が設置されたが、わずか7年後にはすでに衰退していたことが読みとれる
「グリーキ教」とは「ギリシャ正教」すなわち正教会を指している。また、「雀蘿」とは雀を捕まえる網のことである。雀の網を張れるほど人の往来がないことを「門前雀羅」という四字熟語で表現するが、ここでも同じ意味で使っているのだろう。
勢いのあった寿都の正教会がどうして短期間のうちに衰えていったのか。(2)以降で、当時寿都にやってきた宣教師の日記を紹介し、その謎を解き明かしたい。  
函館新聞記事より
1886(明治19)年に会堂が建てられたことは(1)でも書いたとおりだが、当時の函館新聞にも掲載されている。6月24日付の記事によれば、「会堂設置。基督教徒大高某は渡島町官舎の隣地同人所有地内へ表口七間裏行二間の講義所を自費にて建築最中なり」とある。
また、翌1887(明治20)年11月9日付の函館新聞にも、キリスト教についての記事がある。
去月廿一二日の頃、破邪鉄槌党員とかの佐藤某氏が大磯町入千印方にて仏教演説会を開きしに、傍聴者は満場立錐の余地なきまでに詰め掛け、少し遅れて至りし者は街頭に立って僅かに之を得しのみ。また其の後、二三日を経て、新栄町芝居座に於いて、同会の催しあり。また一両日を経て、耶蘇教派の演説会を同座に開きしものあり。一時は宗教演説を以て寿都を騒がせしなどとの事なりき。(以上引用、は読みとれず。)
この頃は正教会が一定の力を寿都で持っていたことが分かる。
北海道毎日新聞記事より
1891(明治24)年3月4日付の北海道毎日新聞に「黒松内村に於る仏教演説会」という記事が掲載されている。
寿都郡黒松内村は戸数四十二戸ありて何れも開墾に従事し居る小村なるが、宗教二派に分かれ、一は基督教を奉じ、一は仏教を信じ、互いに中原の鹿を争い、双方負けず劣らず熱心に布教に尽力中。(以上引用)
記事は続けて、仏教側が佐藤保詮という人に演説会を頼み、キリスト教が国体上に害があると説き伏せたために、仏教信者が増えている、と伝えている。
ニコライ主教の寿都訪問
日本ハリストス正教会の創設者、ニコライ主教は何度も地方周りをして、各地で伝道している。その日記『宣教師ニコライの全日記』の中に、寿都・黒松内にやって来た事実が書かれている。この日記は2007年に邦訳出版されたばかりであるためか、寿都が登場していることを着目した人はまだいないようだ。
寿都にニコライ主教がやってきたのは1891(明治24)年のことである。1886(明治19)年に聖堂が建てられた5年後である。日記には詳しく寿都・黒松内の正教の様子が書かれている。また、そればかりではなく、当時のまちや交通の様子も伝わってくる貴重な資料となっている。以下に、寿都・黒松内関係部分を引用する。
 なお、日付が二つ書かれているが、ニコライは使っているのはロシア暦(ユリウス暦)であり、日本人が使用していたのは現在も我々が用いているグレゴリウス暦である。カッコ内にグレゴリウス暦を記している。

1891年7月30日(8月11日)、火曜。江差、寿都に向かう。
寿都行きの船が朝の5時に出ると言っていたが、もう8時なのに船のフの字もない。(中略)。しかし、船はまだ来ない。ああ困った!時間の余裕がないのに。昼の11時を過ぎたのに、船はまだ来ない。町を見て回った。(中略)。
わたしはなにもすることがなく風呂に行った。旅館の中の公衆浴場である。風呂は清潔で、人はまだだれもいなかった。なんとすばらしい!広々としてお湯の中で泳げるほどだ。30年の日本暮らしで初めてきのうときょう銭湯に入った(もっとも早い時間で他人はいなかったが)。江差はこのことで記憶に残るだろう。ほかのところではこんなにいい風呂に入ったことはない。駿河台の風呂もこれほどではない。風呂場は欄干のようなもので男湯と女湯の二つの部分に分かれているが、両方とも互いに丸見えである。こういうのは東京にはもうないだろう。(中略)。
夕方の5時過ぎに船「シトクマル」に乗った。なんともひどい船で、船長もきわめて粗暴だ。寿都までの一等の乗船券を一人一円八十銭で買ったが、入り口が米でふさがれていたので一等には入れなかった。屋根の上に席を取ったが、かなり揺れ始め、海に落ちる危険があり、しかも寒くなり、雨も降ってきたので、屋根の下に入れてくれるよう船長に頼んだ。すると「一人一円五十銭出せば、入れてやる」と言う。これこそまさに強奪だ!
他に場所がないので、われわれは汚い甲板の天幕の下の甲板室の入り口の近くに座ることにした。雨に濡れ、汚れたござからは蚤が這い出てきたので、寝付けなかった。鞄も雨に濡れてしまうし、まったくろくでもない夜だった。
1891年7月31日(8月12日)、水曜。寿都。
朝の7時に寿都に着いた。信徒たちが伝教者ペトル湯村を先頭に大きな船で手に日の丸と赤い十字架の旗を持って汽船の近くで出迎えてくれた(※)。いちばん喜んでいたのは、幼いティト越山とその母ソフィアのようであった。ほかの信徒たちは岸で待っていた。わたしとアルセニイ師は体を洗い、着替えるために旅館に立ち寄り、すぐに教会へ向かった。リティヤを執り行い、説教をし、教会の状態について情報を集め、こどもたちが祈祷を覚えているか試験を行った。
(※)『札幌正教会百年史』によると、ペトル湯村は本名、湯村吉造。宮城県中新田の人で明治10年代からティト小松司祭とともに、北海道での伝道に従事するようになった。明治時代を通して、岩内、寿都、黒松内、倶知安などで伝道を続けたという。晩年は地元の中新田に還り、そこで亡くなった。
教会はきちんと整えられており、驚いた。十字架の形をした建物には東向きの至聖所と西向きの伝教者の部屋があり、150人ほどの祈祷者が入ることができる。この教会はエフレム・オオタカ(※)という年配の商人が自分の資金で建てたものである。宝座の向こうにあるクロム石版画の復活のイコンはヴラジミル師がもってきたものであり、壁には洗礼や復活などの聖なる画像のイコンが掛かっており、教会全体に全部で八つのイコンがある。宝座と経案はすべて、古いものであるが日本の錦のおおいをかぶせられている。ただ教会の外観は貧相だ。とくに道の反対側に日本の学校の豪華な建物が並んで建っているので、板葺きの屋根で周りに花もなければなんの飾りもなく、教会があまりに単純な建物のように見える。
(※)エフレム・オオタカは、函館新聞記事にある大高某のことだろう。
寿都の信徒は、16軒の家に41人おり、新しい有望な聴教者が4、5人いる。信仰が弱まった者が2人おり、そのうちの1人は占い師になり、もう1人のエフィミイ佐藤はかつてしばらく神学校にいたことすらあったのにいまは役者になった。かれらは教会には通わず、それを恥じているが、しかしよそで異教徒と口論がある時にはキリスト教の側に立つことはやめないし、いかなる場合も宣教の邪魔をすることはない。
ここの信徒は次のとおりである。医師ドミトリイ後藤(函館のイアコフ後藤の養子[異母弟])とその妻は熱心な信徒である。(しかし、第一子に冬に洗礼を受けさせることを「風邪を引くから」と言って怖がり、結局第一子は洗礼を受けないまま死んでしまった)。ニコライ山部は伝教者だったロヂオンの兄[弟?]であり、ここにある政府の測候所で気象観測をしている(※)。かれも妻があり、妻は学校で教師をしている。ほかに役人と商人が何人かいる。たがいに平和に暮らしている。マトフェイ高橋は以前ここの校長だったが、いまは退職し私的な事業をしようとしている。アキムの妻のマリヤ婆さんは信濃の出身で、自分のことをマグダリナと言っている。このマトフェイ高橋とマグダリナだけがときどき不遜な態度をとったり、噂話などをしたりして平和をかき乱すことがある。マトフェイ高橋にはわたしは会わなかった。いま札幌にいるそうだ。マグダリナ婆さんは尊大で、すぐに女子修道院長のような態度を取る。どこでもわたしについてきて、だれよりも先にあらゆることを並べ立てる。幸いなことに、この婆さんは夫ともうすぐ信濃に行くそうだ。
(※)医師ドミトリイ後藤は、『函館新聞』1889(明治22)年5月11日付記事「寿都の雑録」に登場している。「病院は院長佐藤氏の外に近頃近来の後藤氏あり(江差に居られし後藤氏令弟)」とある。また、測候所職員のニコライ山部の名は『寿都測候所の歴史』中の「所長及び所長代理」に名前がある。本名は山部亦三である。1885(明治18)年5月18日から1886(明治19)年1月14日まで所長代理を務め、その後1892(明治25)年5月23日まで寿都測候所に在職している。
伝教者ペトル湯村は以前思っていたよりも比較にならないほど良い。以前わたしはかれのことを悪く思っていたが、それはかれがほとんどまったく手紙をよこさないからだった。かれは見たところまず何よりも深い信仰心をもった人であり、そしてそれとともに自分の職務に熱心である。かれの教区内の信徒はたがいに非常に離れて住んでいるものの、すべてかれの管理下にある。リティヤを行う際にもここの聖歌隊の歌の正確さに驚かされた。8人の少年少女と湯村の妻マリヤが斉唱した「天の王」と「天に在ます」は、どこのだれよりも正確で上手だった。しかし、「常に福(さいわい)にして」はまったく不正確で美しくなかった。かつてティト[小松]神父がここに函館から聖歌の教師を呼んで、少し歌を教えていたのだが、残念ながら、それ以上のことを教えていなかったのだ。生神女のイコンをやり、「我生神女を信ず」と「十戒」も覚えるように言った。
湯村はここの教区についての小さな統計表をあらかじめ用意していた。そこには次のように書かれている。
10時に兄弟たちを訪ねに出発し、正午までに全員を訪ね終わった。最後の家はニコライ山部の家で、そこの測候所からの寿都とその周辺の眺めはすばらしかった。樽岸の湾は、もし北風にさらされていなかったら、船のいい投錨地となったはずだ。対岸には漁師の家が岸に沿って4マイルほど連なっている。信徒の中であそこに住んでいるのは、伝教者イオアン野々村の兄であるパウェル野々村だ。
昼食(米とイモ、さやいんげん)がすむと樽岸村に2軒の信徒たちを訪ねに出発した。そのうち1軒は家というよりも小屋であり、ペトル佐藤の親戚である佐沼出身のマトフェイ佐藤のものである。妻とこどもは信徒だが、父と母はまだ信仰に入っていない。もう一軒は漁師のエリセイの家であり、こどもは洗礼を受けているが、妻は信仰していない。道すがらペトル湯村が教会の内部事情や財産の状況を話してくれた。教会には菜園の土地が一町六反ある。4年ほど前に信徒全員から集めた30円で買ったものだ。この土地からの収入を信徒たちはいままで知らなかったが、実は4円ほどある。この土地の管理を任されているマトフェイ高橋がその報告をしなかったのだ。いま集まっている金が20円ある。ティト[小松]神父の提案によるもので、これは聖歌指導のためのオルガン用に集められているものだ。現在は成聖式などの教会の費用として毎月10人から10銭ずつ、全部で1円だけ集められている。それですべてだ。信徒たちはペトル湯村の食費などは出さず、湯村夫妻は宣教団からの支給しかもらっていない。
夜に次のような提案があった。晩課を執り行い、説教をし、親睦会を開いて、ここの男性信徒がまず先に、そして女性信徒が次に、それぞれ準備した話を共同で行うというものだ。しかし、近隣の異教徒たちが説教を聞きたいという要望を出してきた。そこで、教会いっぱいに集まった異教徒に対してまず訓話をした。はじめは湯村が「知恵の始まりは神を畏れることである」という主題で話したが、とてもしっかりとした話だった。そのあと、わたしが異教徒に対する初歩的な話をした。説教が終わってから晩課を行ったが、もう10時になっており、集会を行うには遅かった。きょうは出迎えのためにまだ夜が明ける前に起きたので、みんな疲れ切っていたのだ。というわけで、親睦会はあすの夜に行うことにした。
1891年8月1日(8月13日)、木曜。寿都と黒松内。岩内に向かう。
朝、アルセニイ師がある信徒のためにパニヒダを行った。その信徒は娘と一緒に遠くからわれわれに会いにやってきたのだった。パニヒダがかれの16歳の息子を偲んで行われたが、その息子は200人以上が一度に遭難した船の事故で亡くなった。なにかを学びに両親の家を出て函館に向かったのだが、その途中で不幸にも亡くなってしまったのだ(※)。その後、われわれは黒松内に向かった。アルセニイ師、ペトル湯村とその妻マリヤ、そしてわたしだ。
(※)パニヒダとは正教会で行われる死者のための祈りである。この年の7月11日に、北海汽船会社の汽船瓊江(たまえ)丸が白神岬沖で汽船三吉丸と衝突して沈没、270余名が溺死した。故郷に帰る漁夫たちを乗せた瓊江丸は小樽港を出発し、寿都港を経由して青森に向かう途中だった(『北海道毎日新聞』1891年7月28日付)。寿都1人、歌棄郡1人の死者が出ている(『北海道毎日新聞』1891年7月25日付)。亡くなった16歳の息子というのは、この瓊江丸に乗船していたのではないだろうか。
舗装道路が函館まで通っており、ここから函館まで乗合馬車が走っている。正午ごろに[黒松内に]到着したが、信徒たちはまだ集まっていない。待ちながら川で水浴びし、イモと米の昼食をとった。信徒たちが集まると、こどもたちが泣き騒ぐ中でリティヤを行い、短い説教をし、そして信徒の家を訪問した。信徒たちは裕福でないものの、不自由なく暮らしている。どの家でも、イコンがきちんと置かれ、その前に経案があった。それは、湯村の指示によってここの信徒たちは日曜の共同祈祷のために順番にそれぞれの家に集まってきているからである。信徒たちの中に信仰心が見て取れ、もう祈祷所を建てたいとも思っているようだ。昨年そのためにトネリコ材が準備されていたが、川の氾濫で流されてしまった。村の家々は道に沿って狭い空間に点在しており、全部で50軒ある。
3時に帰途についたが、作開村のダヴィド厨川のところに立ち寄った(※)。かれはここの小学校の教師をしており、小柄だが元気な妻と三人の小さな子がいる。このダヴィドはかつて伝教学校に在籍していたことがあるが、目の病気のために退学した。いまもキリスト教を奉じ、それを広めることまでしている。かれの影響を受けて、以前やはり教師だった、ここに住む裕福な男が、キリスト教徒になった。ダヴィドの妻が学校の広い部屋でコーヒーとりんごをごちそうしてくれた。
(※)ダヴィド厨川は本名、厨川末吉といい、作開小学校の教諭であった(『寿都キリスト教史 実在した寿都ハリストス正教会』)。
くたくたになって宿に着いた。馬があまりにがたがたでのろく、乗って座っているだけで疲れきってしまうほどだ。
信徒たちの夕飯のご馳走が始まったが、出てくるのはジャガイモばかり。かろうじてワルナワが気がついて、魚を一切れ出してくれた。ここのイモはたしかに良くておいしいが、「デミヤンの魚スープ」もやはりおいしかった。
7時に信徒たちの集まりが開かれた。はじめは男の子たちが聖歴史から話をし、そして自分たちの純朴な長い話をした。それに続いて女の子たちが聖歴史の本を読み上げた。しかし本をそのまま読み上げるべきではなく、本を使ってでもいいから自分自身のものを準備すべきだった。ヴェラ越山(ティト神父の妻の弟で薬剤師のモイセイ佐藤の婚約者)の話の途中で、岩内行きの船がすぐに出るから行かなくてはいけない、と呼びにきた。集会は中断され、信徒たちがみなわたしとアルセニイ師と湯村を見送るために船に向かって出かけた。ティト越山とニコライ高橋という少年たちが提灯が上についている旗を持って歩いていたが、これはだれよりもかれら自身にとっておもしろい出来事だったようだ。ニコライ高橋は「オモシロイ」と言っていた。
汽船「グンギョウ丸」には一等船室があり、船長も礼儀正しかった。船室で昼の疲れを癒すことができるくらいだ。ただあとでわかったのは、ろくでもない虫[ノミ?]が寄ってくることだ。夜中の12時に岩内に停泊した。おしゃべりな連中との相部屋であったが、宿屋に部屋が見つかりうれしかった。
1891年8月2日(8月14日)、金曜。岩内と小樽。
岩内で朝早くペトル湯村が、ステファン和井内(片目でかつて伝教者だったが、いまはここで役人をやっている)と妻メラニヤとリヤ(イオアン野々村伝教者の母親)を連れてきた。(中略)。
岩内の町は寿都よりも小さいが、同じく新しい町であり、湾に沿って左側に、寿都と同じく大きな漁師の村落が見える。伝教者がいればここでも宣教を行えるのだが。湯村は寿都と黒松内の方に多くの仕事を持っているが、たまにでも岩内を訪れることができないのだろうか。(以下略)

ニコライ主教の日記では、寿都の正教会が衰えてきているという記述は見られない。むしろ、商人・医師・測候所員・教諭など様々な信者がいて、盛んだったように見える。
岩内が寿都よりも小さな町だと記録されており、当時の寿都がいかに栄えていたのかもよく分かる。
ニコライが寿都に来たのは、この一度きりのようだ。この8年後、1899(明治32)年に再びニコライは北海道を訪れている。その時には寿都には寄らずに帰京したが、随伴したセルギイ司祭が寿都に来ている。  
1896(明治29)年の請願書
ニコライ主教が寿都・黒松内を訪問した5年後、1896(明治29)年6月に、北海道寿都正教会・北海道後志十字正教会・作開及黒松内正教会により「桜井司祭定住及び新司祭増立之件に付請願」という請願書が出されている(『札幌正教会百年史』)。
北海道の正教会の実態を訴え、司祭を定住させるようにという請願である。連名に入っているのは、寿都正教会のワルナワ重松約・ミハイル池田鐵男、後志十字正教会のイロデオン山部盛哉・ペトル苫米地金次郎・ニコライ苫米地金太郎・ダニイル苫米地酒弥、作開及黒松内正教会のダヴィド厨川末吉・フィラレト加藤信明・フィリップ菅原富三郎・アンドレイ森喜三郎・カシアン有川熊太郎・パウェル宮下勝治・ルカ広岡司馬太郎となっている。黒松内は7人入っているが、寿都は2人しかいない。寿都の正教会が衰退し始めていたのだろう。
セルギイ司祭の寿都訪問−1899(明治32)年
ニコライ主教は1899(明治32)年に再び北海道を訪れている。この時の目的地は根室や色丹島方面であったため、寿都には来ていない。しかし、伴をしたセルギイ司祭が、帰京するニコライと別れたあとに寿都・島牧・黒松内を訪れている。
セルギイ・ストラゴロツキー(1867〜1944)は、二回来日しており、そのうちの一回目(1890〜1893)に、北海道にやってきた。セルギイはのちにロシア正教会の総主教まで上りつめ、ロシア革命後の2代目総主教として、ソ連政権下においてロシア・ハリストス正教会の進む道を決意した人である。寿都を訪問したことのある外国人のなかでは最も世界的に有名な人かもしれない。
(2)で紹介したニコライの寿都訪問(1891(明治24)年)の8年後、寿都の正教会は衰えを見せ始めていた。邦訳出版されたセルギイの日記から、寿都・島牧・黒松内への訪問の部分を引用して紹介する。なお、セルギイの日記は邦訳は、宮田洋子訳『掌院セルギイ北海道巡回記』(1972年)と佐藤靖彦訳『ロシア人宣教師の「蝦夷旅行記」』(1999年)の2つある。ここでは後者の訳から引用する。

寿都。十月五日。
朝、やっと明るくなったころ、船から、「急に」出航することになったという知らせが来た(※)。私たちは大急ぎに支度をし、宿の主人たちとやって来た信徒たちとなんとか別れをして、七時前には、せまくるしい汽船の船室に乗りこんだ。けれども、「急に」というのは日本式の言い方であったことが分かった。船が最後の、本当に最後の汽笛を十回も鳴らしてから、ついに海に出るまで、ほとんど三時間、停泊したまま揺れに悩まされてしまった。
(※)寿都に来る前、セルギイは岩内に滞在していた。この頃の日本の交通は今と全然違って極めて時間にルーズだったことが分かる。岩内から寿都に来るには、船に乗りたくなければ、雷電峠を徒歩で超えるしかなかった時代である。1900(明治33)年の寿都旅行「海辺巡り」も参照(「其一〜其四 」、「其十六〜其十九 」)。
行程は南へ全部で二時間ほど行けばよかった。急勾配で海に落ち込んでいる雷電山の巨大な山並みをぐるっと回って行った。雷電山の後ろに広々とした盆地が広がっている。かなり肥沃な平原だという。そこに、尻別、島古丹などがある。ここのあちらこちらに信徒たちが住んでいる。ある場所には、二人の兄弟が一緒に住んでいて、みな結婚し、彼ら自身と家族はみな信徒である。彼らを訪間したいと思ったが、悪天候のために岩内から行くことができなかった。
寿都にちょうど十二時についた。岸には出迎えの人は誰もいなかったので、まっすぐ旅館に向かった。この時、ニコライ・サクライ神父は、きっと、伝教師は隣の村に出かけていて、教会も本も鍵がかけられているだろうというかなり悲観的な予想をした。信徒たちのところを回るだけで、奉神礼もすることもできないし、ここの教会の公の状況を知ることもできないと言うのである。
宿屋の主人は、かなり太った、年配の男で、短い頼ひげをはやし、それほど良い感じの日本人ではなかったが、宣教師たちの扱いはうまかった。私たちをカトリックの司祭として迎え入れ、自分はカトリックだと名乗り、誰がここではカトリックで、彼らはどこに住んでいるかを教え始めようとした。それで、私たちがどういう者かを説明すると、彼は少しも動揺することなく、正教の教会と教えをほめ始めた。この地で正教の布教を始めた時から、私たちの布教のことを彼は知っていることが判明した。正教の最初の伝教師がここへ来た時、住居を見つけることができなかった。みんなは「ヤソキョウ」を受け入れることをにべもなく断った。この宿屋の主人だけが寛大にも自分の旅館に住むようにと伝教師に申し出たのである。人々は石を投げて、窓ガラスを割ったりした(※)。主人はこのことすべても耐え、その自分の寛大さの代わりに少し高い宿賃を請求しただけであった。もちろん、彼が伝教師を住まわせてくれたことに感謝しなければならない。さもなければ、ここでの布教はできなかったであろう・・・彼自身も、伝教師から教えを聞いており、自分の聖書を持っている(おそらくは、プロテスタントの宣教師の誰かが贈ったのであろう)。
(※)正教の布教には様々な障害があったことが読みとれる。
二時ごろに教会に出かけた。それは窓のある洋風の建物で、屋根には小さな十字架もあり、大体において、すべてが聖堂風になっている。祈りの部屋は十字架の形をしている。函館の聖堂がモデルになっているのである。部屋はかなり広くて、五〇人以上が収容できる。聖障(イコノスタス)も高壇(アルタリ)もある。しかし、まるでうち捨てられたかのような、何か空虚さの感じがしていた。
幸いなことには、伝教師は在宅していた。ただ、私たちの船が到着したことに気がつかなかっただけであった。信徒たちを呼びにやった。信徒たちが来てから、晩課を始めた。
十人ぐらい集まったが、そのうち大人は六人だけであった(伝教師も入れてである)。「先生(伝教師)」と信徒の男の一人が歌ったが、二人とも自分の節回しとメロディーで歌っていた・・・だが、祈りの部屋は広く、空っぽのような、居心地の悪く感じられた・・・楽しげではない・・・信徒たち自身も、まるで自分たちの数が少ないことをわびるかのように、なんとなく卑屈に立っていた。だが、かつては、この教会は蝦夷でその名をとどろかせていたのである。
かつての壮大さの名残を見るのは悲しかった。信徒たちの疲れた顔を見るのも楽しいものではない。予言者イリヤの「残ったのは私一人であったので、私の魂は探し求められる。」という言葉が思い出された。このテーマで、私は信徒たちに挨拶代わりの説教をし、彼らに気を落とさないように、自分の信仰と互いの愛を持ち続け、互いに支え合うように元気づけた。活動をしている教会が無成果であるはずがない、新しい息子たちを引き寄せるであろうと話した。奉神礼の後で、信徒名簿(メトリカ)に目を通した。教会が開かれてから洗礼を授けられた者は一一九人と記録されているが、現在は在籍しているのは十四人にすぎず、そのうち成人は八人である(※)。集団虐殺を受けたみたいである。しかし、本当は、多くの者は近隣の村々から来て洗礼を受け、その後、その住居に戻ったのである。しかし、それでもやはり、昔と比べると、まったくおもしろくない。
(※)ニコライの寿都訪問時には、寿都町だけで41人の信徒がいたのに、8年後には14人と激減している。
この教会には独自の歴史がある。かつて、ここにかなり裕福な男、オオバタケという人物が住んでいた(※)。その資産によるのでなく、彼の、性急で不屈な、誰に対しても遠慮しない性格のおかげで、彼はこの町の有力者になった。当時、寿都の町も繁栄していた(今はその栄光は他の町、とくに岩内に移ってしまった)。恐ろしいほどの放蕩者で、喧嘩好きで異教徒であったオオバタケが、ハリストスを信じたかと思うと、同じようなひたむきさで信徒になったのである。大酒や喧嘩は、もちろん、やめてしまったが、オオバタケはその押さえのきかないエネルギーのために、静かには座ってはいなかった。自分が正教を信じていることを誰にも分かるようにして、町中の知り合いのところに出かけたのである。どこへ行くにも、服の上から十字架をかけた。すべての人とハリストスのことを話し合い、洗礼を受けるように説得した。彼に説得され、切願されて、多くの者が洗礼を受けた。オオバタケは祈祷所も建て、そこに伝教師のための住居も作った。信徒たちの数は十分ではなかったが、将来のために祈祷所は建てられたのである。祭日ごとに奉神礼がおこなわれた。いつも、ほとんどすべての人が集まった。近隣の村々からもやって来た。オオバタケは誰にも怠けさせなかった。教会の活動は湧き上がるほどであった。ところが、「君主を当てにするな、人の子らを当てにせよ・・・」だったのである。オオバタケが死ぬとすべてが終わってしまった。水泡に帰すまでには行かないまでも、それに近い状態になってしまった。
(※)「オオバタケ」とあるが、これはニコライの日記にも出てくる「大高」のことである。独力で聖堂を建てた実力者である。『寿都キリスト教史 実在した寿都ハリストス正教会』(1990年)によれば、本名を大高多三郎といい、古い土地台帳にその名が残っているという。
オオバタケの運命そのものは特筆されるものである。この熱心な信徒で祈祷所の建設者であるこの男は、遠く離れた、しかも、司祭も信徒もいないような場所で亡くなった。異教徒たちが彼を埋葬した。彼の妻は、信徒だったのが、すぐに信仰を捨て、今は寺の僧侶の近くで暮らしている。彼女のもとに、亡き夫の非常にすばらしい高価な聖像はある。夫はその聖像を飾るのが好きであった。忠実な信徒として留まった娘が、母に父の所有していた聖物をくれるように頼んだが、 母親はその代価として三百円を要求しているのである。他の娘たちは、洗礼を受けているのであるが、都に住んでいるのに、まったく教会からは離れ、「寺」に通いさえして、仏陀を拝礼している。しばしば夫を変えることでも、町で知られている。娘の一人だけが教会とハリストスに忠実なままで、彼女は岩内で測量技師シブヤに嫁いでいる(※)。驚くべき運命である・・・見ての通り、家族に対しての扱いにおいて過度の熱心さは、きわめて不確かな結果しかもたらさない。父親は、きっと、自分の権威で、自分の意思で娘たちの信仰の誠実さを変えることができると思ったのであろうが、悪い結果になってしまった。誰もハリストスと人の間には立つことはできない。もし良心がハリストスと結びついていなければ、その人をわざとキリスト教に留めようとする努力はすべて無駄である。
(※)シブヤの本名は渋谷力といい、岩内の教会建設用に土地を寄付したことから、1903(明治36)年にニコライ主教から聖画が贈られている。その絵がいまでは札幌正教会に飾られているという(『北海道新聞』1991年4月27日付)。
ちょうど同じように、故人オオバタケに無理やりに教会に行くようにされた多くの人たちも今では熱が冷めて、私たちとは「これ以上一緒に歩むことはない」。
教会は衰え、だめになってしまった。この不幸をさらに仕上げるかのように、すべてが衰退したので、ここへはそれほど熱心でない伝教師が来るようになった。しかし、このことには多くの点でこの町の衰退が原因となっている。この町から人々はさまざまな場所へ散り、信徒たちの多くも郊外に引っ越してしまった・・・
この教会には「親睦会」がなく、しかも集まる人は誰もいない。成人(伝教師を除いて)は全部で四人である。私は伝教師に、せめて信徒たちの子どもたちでもいいから日曜日ごとに集めて、彼らに信仰を、例えば、祈り、聖史などを教えるようにと助言した。
晩は教会の隣の家、シゲマツ(七人家族で、全員が信徒である)のところで過ごした。この男は非常に尊敬すべき人物で、ここでもっとも古い信徒で、もっともよき教会の活動の日々を見ている。私たちは彼とたくさんのことを話した。彼は昔のことを語ってくれた。私は彼に、ロシア人の信徒たちの生活のことや、ギリシャの教会の活動のことなどで彼が興味を持っていることを話して聞かせてやった。まったく気がつかないうちに夜遅くになってしまっていた。まったく夜中に、私たち自分たちの旅館に戻った。シゲマツ老人自身が「提灯(長い取ってのついた透き通った紙で覆われた灯火)」を持って私たちの前を進んで行って、旅館まで案内してくれた。

セルギイは、寿都の正教会が衰えた理由として、熱心な信者だった大高が亡くなったことと、それに加えて寿都の町自体が衰退したことを原因にあげている。
しかし、この頃はニシンもまだ良く獲れていた時代であるし、寿都の人口も増えていた時期である(「寿都に3万人も住んでいた?」参照)。町が極端に衰退し始めていたとも思えないが、すでにその兆候が現れ始めていたのだろうか。
この後、セルギイは島牧と黒松内の信徒を訪問している。 
セルギイ司祭の島牧訪問
セルギイは、寿都から島牧・黒松内にも足をのばしている。(3)に続いて、セルギイの日記から、島牧訪問の箇所を紹介する。

歌島。十月六日。
朝、寿都から三里ぐらい離れたところにある小さな漁師村、歌島へ二人で馬に乗って出かけた。そこには、信徒が二家族住んでいる。彼らもここの伝教師の管轄に入っている。道はずっと海岸沿いに通じていて、まったく未開そのままの、狭い小道であった。絶えず、上りになったり下りになったりし、小道は傾斜にそってジグザグに通じていた。馬の向きを変えると、その尻尾は断崖の外に出てしまう。きわめてよくない状態であった。何よりもよくなかったのは、鞍がきちんととめられていなくて、下りにさしかかると、馬の首の方にずり落ちてしまい、乗り手はバランスを取って、品位をたもたなければならないことであった(※)。
(※)政泊から歌島のあいだの七曲を行くのは苦労したものらしい。1900(明治33)年の寿都旅行「海辺巡り」其一〜其四にも、同じような体験談が残されている。
歌島では、まっすぐ小学校へ向かった(村には家は五〇軒から六〇軒しかないのに、小学校は立派な建物であった)。そこの教師が信徒で、妻と子ども、養子も信徒である。主人その人は、私たちが着いた時は、授業をしていていなかったが、後でやって来た。少しどぎまざしていた。きっと、彼のかなりよい住居に聖像が飾られていないせいだろう。飾れないのだと言う。聖像を飾ったところ、村で騒ぎになり、村から俸給をもらっている手前、やめたのだという。もちろん、このことではハリストスに対する献身的な熱心さに欠けているが・・・けれども、彼も、彼の家族もキリスト教徒だということはみなに知られている。
そこから、村のもう一方の端に向かった。そこには、イオアン・イズミの小屋がある。昼食の時についた。その老人は、絵のモイセイのままに、大きな白いひげをはやし、本当の家長らしく、家族全員(九人)と座っていた。養子の一人を除いて、全員が信徒である。全員がきちんと、手を組んで、司祭に接吻をするというロシア式で祝福を受けた。明らかに、一家はキリスト教徒として訓育されているのであろう。これは、主として、この老人その人のおかげだろう。彼はよく教えを知っている。教会の習慣も知っていて、それを熱心に守ろうとしている。
昔は、この老人はかなり資産家であったが、次第に貧乏になり、今では、漁業と写真屋でなんとか糊口をしのいでいる。スタジオは天井の代わりに、青天井のついた野外で、スクリーンは小屋に間近に切り立っている山々である。それで、どうして、イオアンの家のドアの上に、下手な写真が大きな額縁に納められて掛けられているのかが分かった。これは看板だったのである。近隣の若者たちの写真を取るのである。このような僻地でもカメラマンの仕事があるとは。まったくアメリカのようだ。
老人はニシンのような魚を獲っている。その魚はそのまま釜で煮て、干して、肥料として売っている。
家族の一人、養子はまだ信徒ではない。けれども、教えは知っていて、信じていて、以前から、キリスト教徒のように祈りをおこなっている。ニコライ・サクライ神父がもっとここへ頻繁に来ていれば、彼に洗礼を授けられたのに。信徒名簿にも記載され、信徒だと宣言もされているこの男はまだ聖名を持っていなかった。私は、彼に聖使徒アンドレイの小さな聖像を与え、彼をアンドレイと名づけた。神のお力で、私たちのアンドレイがよい信徒になりますように。初期に彼を教育する人はいるのだから(※)。
(※)このように、島牧でも一定の数の信徒がいたことが分かるが、『島牧村史』にはハリストス正教会については何も書かれていない。『寿都町史』も同様である。
宿屋に食事をしに行った。年取った女将は、にこにこしながら、何かもぐもぐ言いながら、私たちを部屋に案内してくれた。壁には絵−仏陀の絵が飾られていた。部屋の隅の神棚には香炉と同じ仏陀の掛け物があった。けれども、このことすべてのおかげで、私たちの食欲が落ちることはなかった。その老婆の都会づれしていないことは、茶代を取らないことに現れていた。
信徒たちと別れをして、私たちは寿都に向かった。晩の五時ごろにもどり、深夜まで信徒たちと話をして、時を過ごした。
ついでに、今後の私の旅についても相談して決めた。日曜日に、九日にここに「ウラト丸」が来航し、江刺に寄って函館に向かうと言う。江刺には小さな信徒の集団いるので、もし都合が良ければ、訪間する必要がある。だから、時間を無駄にできないので、やはり信徒たちのいる黒松内に行くことにした。土曜日に、徹夜祷までに戻って来て、日曜日の朝に、二人の子どもたちに洗礼を授け、それから、ニコライ・サクライ神父はここに残り、私は先へ行くということにした。
江刺で、信徒たちにほとんど会えそうもなかったが、上陸してみたかった。ここは、キリスト教徒嫌いで有名な土地である。三千軒ほどの町で、ほとんどが加賀、越後地方から来た人たちである。仏教が非常に根付いている。金持ちの教信者たちがすべての人たちを掌中におさめ、支配し、好きなように操っている。キリスト教徒たちからは何も買わないし、教会のために家も貸してくれない。教会(す わち伝教師の家)に寄ることさえできない。すぐに、なぜ行ったのか、教えを聞きたかったのではないかとか問いただされる。そして、キリスト教に共鳴していると疑われると、罰せられる。このような考えで固まり、そういった習慣が力を有しているのは、蝦夷でも、この地は、日本人が昔に移住して来て、日本の本州とほとんど同様にこの地に慣れてしまい、人が移り住んで来る植民地に特有な、アメリカ的な個人の自由というものは失われているからである。それで、江刺で信徒になっているのはまったくのよそ者か商売に関係なく周囲の人に無関係に暮らせる人である。官吏とか警察官などである。もちろん、そこの商人たちも洗礼を授けられているけれども、ひそかにである。彼らのうちの誰かが姑息なことをせずに堂々としたいと思ったら、別の場所へ引っ越さなければならなかった。村の有力者たちがキリスト教を信じてここに残ることを許さなかつた。ここ(寿都)の信徒の一人は江刺で洗礼を受けた者である。前の晩に、口実を思いついて、家を出て教会に向かい、夜中に生地を裁って、自分のために洗礼用の白い着物を縫ったという。さらに多くの者が聖像を持って隠れている。ニコライ・サクライ神父と伝教師が一生懸命、私に江刺に上陸しないように、そこで信徒たちを探すことを思いとどまるようにと説得した。そんなことをしたら彼らの商売のじゃまになるなどというのである(後で知ったのであるが、反対に、そこの信徒たちは私と「神父」に喜んで会えたし、私たちが彼らを避けて行ってしまったことを非常に悲しんでいた)。
以前、江刺に教会があり、伝教師がいて、信徒名簿(メトリカ)もあった。現在、そこには四軒ぐらい信徒の家があり、なんとか暮らしているが、その多くが信仰がうすれている。信徒名簿(メトリカ)、聖像、そして他の物は一人の信徒のもとに置かれているが、その妻と家族は異教徒である。この信徒が死んだら、あとはどうなるのであろうか?もし信徒名簿(メトリカ)が異教徒の手にわたったら、よくない。信徒名簿(メトリカ)を消滅させるのは具合が悪い。江刺という町の教会の名前が忘れ去られてしまう。司祭が持つのが一番良い。家でも記入することはできる。
したがって、江刺においても寿都での出来事が繰り返されたのである。町が衰退するに連れて、教会も廃れたのである。寿都のように会堂の建設を急がなかったことはよかった。少なくとも、かつての壮大さの跡は見ないですむし、放置された者たちには騒々しい教会の建物は必要はない。

寿都に戻ったセルギイは翌日、黒松内の信者に会いに行っている。  
セルギイ司祭の黒松内訪問
セルギイは、寿都から島牧・黒松内にも足をのばしている。(4)に続いて、セルギイの日記から、黒松内訪問の箇所を紹介する。

黒松内。十月七日。
朝、黒松内に向かった。すばらしい国道を通って、ここから五里の道のりであった。しかし、馬で行くほかなかった。途中で、方々の信徒たちの家を訪問した。例えば、サカイという村には信徒の家が一軒あり、若い夫婦と一人の子どもがいる(※)。主人はいなかっだ。腰掛けて、妻と話した。つい最近、信徒になったのであるが、すべての点から判断して、心より信じている。ただ、台所の鴨居の上に小さな「宮」、神棚があった・・・これは「おっかさん(母)」がしたことですと言っていった。ところで奇妙な風習がある。夫の実の母は、寡婦で、彼らとは一緒に暮らしていない。夫はこの家に養子に来て、この家の姓を名乗っているので、実の母を放っておいて、養母と暮らさなければならない。そのような例を岩内でもあったことが思い出される。やはり、ある信徒の家には養母が住んでいて、生みの母親(寡婦)はわずかな仕送りをもらって暮らしている。「もちろん、私は彼女(生みの母)を食べさせる義務はありませんが、それでもやはり、放ってはおけませんから。」と、彼は言っていた・・・まったく奇妙な考え方だ。肉親の関係、血縁がまったく外面的な、法律上の関係に負けてしまっている。けれども、日本人たちにおいてはこのことは多くの点で目につく。それから、彼らは、本当のところ、生まれでなく、継いだ名前だけを大事にしているので、日本人の著名な家系は非常に長く続いた、何世紀にも渡ったものになっている。同じ名字であっても、その人たちは、時には、まったく血縁関係がないことがある。
(※)サカイとは作開のことだろう。
黒松内には信徒の家は全部で五軒ある(信徒は二五人)。二軒は村から離れた耕作地にあった。私たちは最初にそこに寄った。川を渡らなければならなかった。そこには渡し場があったが、舟は壊れていた。こちら側にも、向こう岸にも人っ子一人居なかった。私たちがしばらく対岸に叫ぶと、人が現れた。これが信徒のメフォディー・カサワラである(※)。私たちが誰であるか分かると、彼は服の一部を脱いで、川に飛び込んで、私たちのところによって来て、慇懃に私たちの馬を向こう岸に渡しましょうと申し出てくれた。
(※)1991年4月27日付の北海道新聞に、この子孫が今でも信仰を守っていると紹介されている。記事内では「メフォーデ笠原」さんとされている。
メフォディーの小屋(小さな、本当に未開人の小屋のようで、藁で葺いた掘建て小屋)はそばにあった。妻と四人の子どもたちはみな信徒であった。喜んで、純朴そうに、町の人とは違った風に、私たちを迎え入れてくれた(※)。おそらくは、よい信徒たちであろう。純朴な、未だ若い母親であったが、彼女は自分の子どもたちを信徒として育てることができている。二、三言葉を交わしてから、主人たちは、私たちのためにカボチャを煮ることにした。彼らがカボチャを煮ている 間に、私たちは、耕作地を通って、潅漑用の用水路と畔を渡って、もう一軒の信徒の家に、ステファン・サトウのところに出かけた。
(※)子孫によると、メフォーデ笠原さんは「大主教らが訪ねてきた時、生き神様が来たようにはいつくばった」という(『北海道新聞』)。8年前に黒松内を訪ねたニコライ主教の日記に、笠原という名前は出てこないが、会ったものと思われる。
この家も子どもは四人で、みんな小さかった。そのうちの二人は未だ洗礼を受けていなかった(一人はつい最近生まれたばかりであった)。私たちは明日、教会で洗礼をおこなうことを相談して決めた。主人夫婦と話を少しし、麦茶(焼いた麦の粒で入れた茶)を飲み、ゆでたトウモロコシを食べて、メフォディーのところヘカボチャを食べに行った。このような純朴な人たちと少し話をするのは心地よかった。自然のそばにいると、人は常になんとなくよくなるものである。
村には、本当の意味での、祈祷所、特別に借りた家はない(※)。祈りの時には、信徒たちはある百姓の信徒の家に集まっている。その男は同時に郵便配達もしている。彼の家には教会用の大きな聖像、祈祷書、洗礼盤などがある。ここの信徒たちは教会の習慣をよく知っていて、どうやら、一緒に集まって祈ることに慣れているようである。各々が祈りの時に自分の役日と場所を知っている。全員が祝福を受けることができる。長い期間、ロシア人の司祭か昔の信徒たちのそばにいたことがあった信徒たちだけがそのようにできる。ここの信徒たちには自分たちの「会堂」を建てようという考えも持っていて、このために三〇円さえ貯めている(そのうち十五円は宣教師、アルセニー神父が出したものである)。今は、信徒が増え、金がたまる時を待つだけである。これはよいことである。「会堂」の建設を急ぐことはない。諺に言う通り、狭くても、皆がうまくやっていればいいものである。会堂の建設を急いで、後で空っぽの教会を見て悩むより、建設は遅らしたほうがよい。現在の信徒の数では、アリカワの家の部屋でまったく十分だ。
(※)セルギイは祈祷所はないと書いているのだが、。『黒松内町史(上)』には、1889(明治22)年10月に字黒松内30番地にハリストス正教会の集会所が建設されたとある。なくなった年月は不明だという。
八時に徹夜祷をおこなった。話し合いの中で、私は、信徒たちは、ハリストスにしたがって、自分の日々の仕事にかまけて、自分の永遠の使命を忘れるなどと言うことがないように、教会と絶えず関わりを持ち、祈り、教会の規則を守り自分の信仰を確かなものにするようにと話した。十一時ごろに信徒たちは散会し、私たちも、寒さのためにちぢこまりながら、寝る支度を始めた。
十月八日。
九時に洗礼を始めた。それにはすべての信徒たちが参加し、あの耕作地の二家族も すべての子どもたちを連れてやって来た。それから、楽しい語らいのために「火鉢」の回りに座った。すべての信徒たちが相互に同意し合って、友好的な関係を持っているのを見るのはうれしいものだ。おおむね、この教会は、現在の信徒たちが留まりさえすれば、多くのことを将来約束している。
寿都へ戻らなければならなかったが、私たちの案内人はどこかへ消えてしまっていた。酒場で見つけたが、もう酔っ払っていた。寿都へ戻るために出発した。再び、前のように、私が先頭を進んだ。前のように、馬はどんな小道でもどんどん進んで行こうとした。そして、広い堀を超えて進もうとして、ジャンプした。その時、案内人がなぜかニコライ・サクライ神父の馬を鞭で打たなければならないと考えた。それで、彼の馬が私の馬に突き当たってしまった。私は馬もろとも掘りの向うに飛んで、倒れてしまった・・・ありがたいことに(神に光栄あれ)、向こう側はやわらかな耕地で、倒れても平気であった。それに馬もうまく倒れて、きっと、慣れていたのであろうが、乗り手にまったく怪我をさせなかった・・・それなりの大騒ぎをし、案内人に説教を言い、少し支度を整えてから、出発した。
途中で、大分前から寿都の教会と関係を絶っている信徒の家を訪間した。彼のことを完全に「冷淡」だと見なしていた。海岸の村に、非常に貧しい小屋に住んでいた。靴を脱がずに、家(日本では、これも家と言うことができる)の敷居のところに腰掛けた。少し話してみた。非常に心地よく話し、教会のことはすべて、どうやらよく知っているようであった。すまなそうな、おどどした顔をしていた。色々たずねて分かったことであるが、彼は私たちの『正教新報』さえ予約して読んでいる。これはよい兆候である。教会との関係を絶たず、教会の生活に興味を持ち、教会で起こっていることすべてに関心を持っているのである。さもなければ、自分の最後の金を雑誌の購読に使うはずはない。しかし、寿都の教会には足を踏み入れない。ニコライ・サクライ神父が後で説明してくれたが、この人の過去がそこへ現れるの邪魔しているのだという。彼は教会の土地を売り、利子でもうけようと、その金を利子を取って貸したが、借り手が何も払わないで、逃げてしまった。それで、エンドウ(この信徒の名前)は儲けられず、教会は財産を、土地を失ってしまったのである(※)。
(※)エンドウは、樽岸村に住んでいた本名・遠藤五郎左エ衛門で、樽岸の除籍謄本に名があるという(『寿都キリスト教史 実在した寿都ハリストス正教会』)。
寿都の近くに着くと、船名は分からないが、かなり大きな船が熱心に汽笛を鳴らしてから、錨を上げて、海へ出て行ってしまった。まさか私が乗るつもりであった「ウラト丸」ではないだろうなと心配した。旅館で、私たちの心配が当たったことが分かった。これは、まさに「ウラト丸」であった・・・だまされたことが心底腹立たしかった(※)。黒松内からならまっすぐ陸路で函館へ行けたのであるが。今となっては修正もできない。より早くて、より快適に旅をしようと願ったのに、今は逆のことになってしまった。晩に、日曜日の徹夜祷をおこない、福音書のこの日に該当する部分をもとに説教をした。成人は全員集まった。ここでは奉神礼をサボる者はいないという。
(※)9日に出港予定の「ウラト丸」が8日に出ていってしまったのである。

セルギイの寿都滞在は予定外に長引いていく。 
寿都を去るセルギイ司祭
島牧・黒松内に足をのばしたセルギイ司祭は、寿都に戻った。本当は、寿都から函館行きの船に乗るつもりが、黒松内からの帰り道にその船が出ていくのを目撃し、腹を立てている。黒松内から函館に陸路で行くことも出来たのだ。

函館への戻り。十月九日。
九時に教会に集まって、二人の子どもの洗礼式を始めた。それから、聖体代式をし、(最近起こった洪水のことで)施しで物惜しみしないことについて使徒教を読んで説教した。  
一日、信徒たちと話をして過ごした。教師のクリヤガワのところに行った。大家族で、みんな小さな子どもたちなのに、給料は多くはない。おそらくは、耐乏生活をしているのであろう。彼の長男は官立の小学校で学んでいるが、いずれは神学校にやりたいと考えている。もちろん、そうすれば、父親は楽になる。神学校では授業料を取らないばかりか、生活費さえ与えてくれる。
夕飯の後で、旅館に私たちを伝教師、クリヤガワ、それから他の信徒が二、二人訪ねて来た。長いこと私と、そして自分たちで話をした(※)。注目すべきは、彼らが互いに話していることは多くの場合、布教と教会の活動全般のことであった。どの伝教師や司祭がどのように布教しているとか、信徒たちがどのようにその人たちに接しているかということなどである。明日には私が江刺に行くための船のことが分かるのではないかと期待しながら、床に着いた。
(※)クリヤガワとは、ニコライの日記にも出てくるダヴィド厨川末吉であろう。『寿都キリスト教史 実在した寿都ハリストス正教会』によると、1989年8月の作開小学校開校100周年に、この孫に当たる函館ハリストス正教会の厨川元司祭が、写真を初めて作開小学校に掲げたことが話題になったという。
十月十日。
いかなる船もなく、予定もない。船乗りたちの嘘をこぼしながら、一日過ごした。私は、また小樽を回って行く便であろうとも、最初に出る船で行くことにした。夕方近く、ニコライ・サクライ神父は教会へ移った。明日、彼は伝教師と一緒に、私たちが小樽から来た時に訪ねられなかったイソヤという村に出かけることになっている。そこには数軒の信徒の家があり、とくに三兄弟が熱心だという(※)。二人とも結婚しているが、一家族で暮らしている。
(※)1896(明治29)年の嘆願書に出てくる後志十字正教会のペトル苫米地金次郎・ニコライ苫米地金太郎・ダニイル苫米地酒弥という3人が、セルギイの言う三兄弟に該当すると思われる((3)参照)。
夕飯の後で、出発するという期待がすべてだめになったと思った時に、「コウライ丸」が入航し、すぐに小樽へ出航するという知らせを「番頭」が持って来た・・・もっといい便を待ってもしょうがないので、すぐに支度をして、大人の信徒のほとんどすべてと宿屋の主人に送られて、いくつかの提灯の光を頼りに、波止場へ向かった。七時ごろには、私は船尾のござの上に腰を下ろしていた。隣には数人の労働者がいるが、彼らはかなりどぎまぎしながら私により多くの空間を提供してくれた。その場所は狭くて、大井が低く、船も小さかった。もし船が揺れたら、私たちはどうなるのであろうか?・・・幸いなことには、下甲板に長くいないですんだ。私は上に、新鮮な空気を吸いに出た。暗かった。船は風で傾き、甲板にはじぶきが飛んで来ていた。寒くてじめじめしていた。航海士の一人が私と話して、岩内で、席が空くので、上甲板に移してやると約束してくれた。岩内まで二時間足らずだったので、そのまま上にいることにした。航海士はキリスト教のことを、正確に言えば、ミッションスクールのことを少し知っていた。彼の親戚の女性がミッションスクールで学んだと言う。娘たらをミッションスクールにやることはきわめて有益である。彼女たちはおしとやかになるというのである。この日本人は、彼の観点からだけで見れば、正しいであろう。おしとやかな妻が必要だ、だからキリスト教が必要だというのである。日本でしばしばキリスト教の有用性について口にされている。そして、なんとしばしば、文化、国家に対するキリスト教の功績について語られることだろうか。このことによって、人々はキリスト教を信じ、教会を支えなければならないということを証明しようとしているのである。だが、そのような人たちは、このことによってキリスト教を卑しめているにすぎないのだということに気がついていない。キリスト教徒になることができ、そしてならなければならないのは、ただハリストスのためにだけである。さもなければキリスト教は自己欺嚇と偽善となり、何の意味もなくなってしまう。

セルギイは小樽から汽車に乗って室蘭に到着、室蘭から船に乗って函館へ向かった。結果的には、きわめて遠回りをすることになった。
セルギイはロシアに帰国後、ペテルブルグ神学大学の学長となり、晩年の1943年9月、ロシア正教会の総主教に選出され、1944年5月15日に死去した。
宣教師の訪問箇所から寿都が外れる 
この後も司祭や主教が北海道を訪れているが、寿都は訪問されなくなっていく。
『札幌正教会百年史』に、1901(明治34)年の伝教者と管轄地一覧表がある。ここでは、寿都・島牧・歌棄・黒松内・訓縫・磯谷の担当としてイサイヤ関という伝教者の名前がある。セルギイの寿都訪問の2年後であり、この頃にはまだ寿都の教会が残っていたのだろう。(イサイヤ関は本名、関藤右衛門。宮城県中新田出身。寿都方面を中心に伝教し、大正はじめに色丹島で亡くなったという。)
1904(明治37)〜1905(明治38)年に、桜井司祭が北海道を巡回している。この時には、倶知安→小沢→黒松内→寿都→島牧→黒松内→国縫を順に訪れている(『札幌正教会百年史』)。
1906(明治39)年に、三井長司祭と石川喜三郎が、北海道を訪れ、巡回記録を記している(『札幌正教会百年史』)。黒松内について以下のように触れている。「戸数六、七十戸の町で関伝教者が住んでいるが、フィリップ笠原、村井他三、四戸の信者がいるにすぎない」。他に、岩内・小沢などを訪れているが、寿都には来ていない。また、伝教者の関が寿都から黒松内に移り住んでいたことが分かる。
1908(明治41)年に、セルギイ主教(さきのセルギイとは別人)が日本正教会に赴任した。1909(明治42)年に北海道を巡回している。11月10日に黒松内の信者宅を訪問しているが、寿都には立ち寄っていない。
1910(明治43)年にも、セルギイ主教が北海道を訪れているが、瀬棚・国縫・黒松内・蘭越・熱郛・狩太へ行ったとされるものの、寿都の名はない(『札幌正教会百年史』)。
大正はじめにはすでに消滅 
1914(大正3)年1月22日付の函館毎日新聞に「寿都の耶蘇教会 十年前の迫害地」という記事がある。
寿都町に美以美(メソジスト)教会を設立することとなり、二十二日開堂式を行ふ由にて、目下受洗者及び受洗志望者二十余名あり。何れも有為の青年のみなりと云ふが、同町は従来仏教旺盛の地にて、耶蘇教に対する迫害甚だしく為に、せっかく設けたる教会も維持すること能はずして引き上げたる程なり。十数年前より黒松内村に正教会の伝道行われ、今なお飯村伝道者が教会を牧し、教勢依然として盛んなるが、其の当時即ち今より十年前に寿都町にも正教会の会堂ありて伝道者、関孫左エ衛門(ママ)氏布教に従事し、また別に美以美教会あり。鍋倉某氏専ら伝道に勤め、大道演説などを試みて熱心に布教したるも、反対者の迫害烈しく、ついに一人の信者も得ずに引き上げたり。(中略)
十年前の迫害地に於ける居住者が進んで教会の設立を計るに至れるは、時代の要求に依るは言ふ迄もなきことながら、当時を追憶して今昔の感に堪へず。今後の状況如何に依り、各教派競ふて同地方に伝道を試むべく。従って仏教側の興奮を見るに至るべければ、今後同地方の宗教界に新しき活気充溢すべし。(以上引用)
司祭や主教たちの訪問記録とこの記事をあわせて考えると、1905(明治38)年頃には、寿都の正教会はまだ活動していたようだ。しかし、その数年後には司祭たちの訪問ルートに入れる価値のない土地になり、会堂も消滅してしまったのだと思われる。
おわりに
寿都の正教会は、熱心な信者だったエフレム大高多三郎が盛り上げ、その人が亡くなると廃れていった。また、仏教側からの圧力すなわち宣教師に対する嫌がらせなどが布教への障害になり、衰退の原因にもなったと思われる。セルギイが書いているように、寿都の町の勢いが無くなっていたことも、正教会が衰える一因だったのかもしれない。
一方、黒松内においては、その後も継続して信仰を守る人たちがいた。しかし、黒松内にあった集会所もいつの頃かに無くなっている。また、島牧の正教会信者についてはその後の記録は見当たらない。
『札幌正教会百年史』によれば、寿都の最後の正教会信徒は、ニコライの日記にも登場するティト小松司祭のお孫さんだという。寿都高校の第18代校長として1959(昭和34)年に寿都に赴任されたことにより、最後の信徒となった。『寿都高等学校創立80周年記念誌』に回想記を寄せられている。その中に「私が当地にお世話になったのも、遠く明治二十年代に当町島牧にいた信者を訪ねた基督教牧師ハリスト正教会司祭の祖父と、父もこちらの何処か網元の帳場でその頃数年働いていた由、因縁、出会いに心打たれ、これ偶然にあらずと襟を正した次第です」と記している。
札幌のハリストス正教会には、「寿都教会備付公物」と墨で書かれた聖壇用の聖書が保管されている。また、函館ハリストス正教会には、寿都の洗礼者名簿が保存されているという(『寿都キリスト教史 実在した寿都ハリストス正教会』)。
 
メアリー・パトナム・プライン 

 

Mary Putnam Pruyn (1820〜1885)
1872年から1875年の間、宣教師として日本の横浜に滞在したアメリカ人女性。教師としてアメリカン・ミッション・ホーム(現在の横浜共立学園)を設立するなど女子教育に心血を注いだ。故国の3人の孫に宛てて書いた手紙集「グランドママの手紙」が翻訳されて出版されている。 
2
横浜共立学園の前身・共立女学校と共立女子聖書学院の前身・偕成伝道女学校を創設した女性宣教師の一人である。横浜の宣教師たち大きな影響を与え、「日本の母」と慕われた。
1820年3月31日、父イライシャ・パトナムと母エステル・ジョンソンの11番目の末子としてニューヨーク州オールバニに生まれた。パトナム家は代々スコットランド長老派教会の教会員だった。
1832年に12歳で信仰告白をした、オルバニー第一長老教会の会員になった。1838年にサムエル・プラインと結婚した。先妻の子供5人と、自分の子供8人と暮らす。結婚と同時にオルバニー第二改革派教会に転会した。その教会は社会奉仕活動に熱心な教会で、メアリーは日曜学校教師、聖書研究会の主催、婦人厚生施設の設立と運営、南北戦争の支援活動、工科学校の設立と運営などの活動を中心的に行った。同じ教会に後に日本に宣教師として派遣されたケイト・M・ヤングマンがいた。
1862年2月、夫サムエルが病死すると、メアリーは残された人生を奉仕活動にささげる決心をした。1869年J・H・バラが横浜から、米国に一時帰国してメアリーを訪ねた。6週間滞在して、メアリーの活動を見て、横浜の混血児のための養育施設を設立するにあたり責任者に適していると確信し、日本での活動を要請した。
メアリーは自分が支部副会長を務めていた米国婦人一致外国伝道協会WUMSにこの計画を諮ると、横浜に宣教地を設け事業を開始することが決定された。
米国婦人一致外国伝道協会の理事会は、ルイーズ・ピアソン、ジュリア・クロスビーの二人を同行者に選出し、3人は来日した。三人は横浜に到着して2ヵ月後に8月28日に横浜山手48番地にバラの家屋を借りて、アメリカン・ミッション・ホームを建設した。プラインは初代総理になり、WUMS横浜宣教地とホームの責任者になった。クリスマスまでに18人のホームの家族になった。混血児の問題が薄れると、日本人の子供も預かるようになる。
1872年に山手212番地に移転した。超教派の伝道会ではWUMSが経営する集会には、どの教派の人も容易に参加できる雰囲気があったので、横浜ユニオン・チャーチや日本人を強めて日本人最初の教会、日本基督公会の設立の源になった。
1873年の千葉伝道旅行に行った、J・H・バラ夫妻と娘2人と小川義綏夫妻にプラインも同行する。
1875年に日本の気候が合わず、健康を害したプラインは、1875年9月に帰国する。後任はジュリア・クロスビーが2代目総理になった。
帰国し静養したプラインはWUMSの副会長として活躍して、1882年12月宣教師として清国に赴く。上海の女学校を設立のために働いた。1884年に脳溢血のために倒れ帰国した。1885年2月10日に死去した。  
横浜共立学園
建学の精神
「主(神)を畏れることは知恵のはじめ」(箴言1 章7 節)
「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』また、『隣人を自分のように愛しなさい』」(ルカによる福音書10 章27 節)などの聖書の言葉に基づき、「人は何のために生きるか」という、自分の人生の目標を追い求めて歩んでいく、生徒一人ひとりの助けとなり、力となることを目標にしています。
教育の根底にあるもの、それは「ひとりの人間を無条件に尊重し愛する」精神です。
女子教育において先駆的な歴史をもつ横浜共立学園では、女性としての在り方や生き方を深く考えるとともに、女性として自立するために必要な知識・技術を磨きつつ、創立者の三人の女性宣教師のように、これからの新しい時代を拓き、世界の平和を求める力となることを目指しています。
創立
横浜に数年間滞在するうちに、女子教育と混血児救済の必要性を痛感したジェームズ・H・バラの要請に応えて、ミセス・プライン、ミス・クロスビー、ミセス・ピアソンの三人の女性が日本宣教のために献身しました。
1871 年(明治4)男性でも危険の多い日本へ来た三人の女性は、先住の宣教師たちから驚異の目で迎えられましたが、助けたのはバラだけでした。彼女たちは、まず伊藤藤吉を雇います。伊藤の英語力はまだおぼつかないものでしたが、通訳兼雑用係として忠実に働き、三人の信頼に応えました。
バラの持ち家だった山手の48 番館を借り、同年8 月28 日〈アメリカン・ミッション・. ホーム〉が正式に開設。これが、現在の横浜共立学園の前身です。しかし、キリシタン禁制の高札が撤去される2 年前だったため、しばらくの間は混血児も、日本の少女も来ませんでした。
はじめは、母親を無くしたイギリス人の二人の幼い姉妹の養育から始まりました。新任のE・W・クラークを迎えるために横浜に来てミッション・ホームに滞在したことをきっかけに、静岡学問所の教授であった中村正直が日本初の「生徒募集・入学案内」を書いてくれました。宣伝文の効果があって、混血児や女生徒の入塾希望者が増え、また英語を勉強して将来に役立てようとする、実学目的の熱心な青年たちもやって来ました。彼らの中には、キリスト教の真理に触れて受洗する者も多く出て、のちに教育、伝道、実業など多様な分野で重要な働きをしました。
1872 年(明治5)10 月、山手212 番のロシア公使のために用意されていた土地を借り、広い校地に移りました。ここが、現在の横浜共立学園です。移転後は、男子通学生は断わり、日本で最初の女子寄宿学校がつくられました。同年12 月〈日本婦女英学校〉と改組しましたが、相変わらず〈ミッション・ホーム〉と呼ばれたり〈212 番〉、WUMS の初代会長の名にちなんで、〈ドリーマス・スクール〉などと呼ばれました。
1875 年(明治8)横浜の全ミッショナリーの精神的母であったミセス・プラインは、健康を害しアメリカに帰国。このころUnion を「共立」と表現して、〈共立女学校〉と改称しました。
創立の背景と歴史
ミセス・メアリー・P・プラインは、アメリカ婦人一致外国伝道協会(WUMS)のオルバニー支部副会長でした。統率力と包容力を兼ね備えた温かい人柄で、日曜学校を受け持ち、孫もいる婦人でした。1869 年(明治2)1 月、横浜で7 年間活動していたバラが帰国して、プラインの所に滞在し、日本の実状をつぶさに訴えました。特に混血児問題はキリスト教に対する非難に結びつき、宣教の妨げになっていました。プラインは「自分がやることではない」と思い込み、ただ、いつも祈っていましたが、ある日キリストに招かれていると気がつき、日本で行なう初めての特別任務に就くことを承諾しました。健康を損ない日本を去ったのちに、再び中国宣教に奉仕しました。
ミス・ジュリア・N・クロスビーの家系には、父母ともに先祖にアメリカ独立戦争時の将軍がおり、独立宣言の署名者 フロイド将軍の血筋を引いています。
ミセス・ルイーズ・H・ピアソンは、アメリカに帰化したフランス人の家系で、結婚して四人の子供に恵まれましたが、28 歳で夫を亡くし、子供たちも次々に亡くしました。派遣宣教師の呼びかけに応じたピアソンに、友人は日本の乞食の一群の写真を持ってきて、「この人たちを兄弟姉妹として愛することができるか」と迫りました。断食をしてひたすら祈ったピアソンは、7 日目にエステル記4 章16 節の聖句「われもし死ぬべくば死ぬべし」に触れて確信し、人々の反対を押し切って、日本行きを決意したといいます。1881 年(明治14)設立した〈偕成伝道女学校〉(のちの共立女子神学校)の校長も務めました。
高い志を持って来日した彼女たちは、神奈川県知事を通して、都の高貴な人物の教育係の要請があったときも、使命に邁進するためにこの申し出を断っています。
バラからの借家 山手48 番館は学校とするには狭過ぎたので、英国駐屯所であった隣接地 山手178 番を貸与する嘆願書を出し、5 カ月後に外務卿 副島種臣、外務大輔 寺嶋宗則よりアメリカ合衆国特派全権大使のデロング宛に貸与許可の回答を得ます。しかし、アメリカ政府が海兵隊の病院建設地として手離さなかったため、使用できませんでした。結局、この土地はフェリス女学院が譲り受けています。
創設後もキリシタン禁制のお達しに阻まれ、入学者が現れなかったミッション・ホームを救ったのは、静岡学問所の教授であった中村正直です。中村は、カナダ・メソジスト教会宣教師 ジョージ・コクランから洗礼を受けていました。1871 年(明治4)10 月、ベストセラーとなった『西国立志編』の翻訳者で、東京・湯島の〈昌平黌〉で儒学者として最高位である「御儒者」でもあります。ピアソンらの優れた教育を実際に見た中村は感銘を受け、キリスト教禁制下であることを充分配慮して、名称を〈亜米利加婦人教授所〉とし、キリスト教についてはまったく触れないという卓越したアイディアで、我が国最初の「生徒募集・入学案内」の一文を書いて、ミッション・ホームを社会に紹介しました。
祈祷会も行なわれるようになり、この祈祷会を原動力として1872 年(明治5)外国人のユニオン・チャーチと、日本人の日本基督公会(のちの横浜海岸教会)の二つの教会が設置されています。 
 
メアリー・エディー・キダー 

 

Mary Eddy Kidder (1834〜1910)
アメリカの女性教育者。1869年、35歳で来日し、ヘボンの門下でクララ夫人のヘボン塾で英語を教えた。その後本格的な女子教育の活動に従事し横浜・山手に学校(後のフェリス女学院)を創設した。 
2
(Mary Eddy Kidder、結婚後は Mary Eddy Kidder Miller) 日本に派遣されて定住した最初の独身の女性宣教師である。フェリス女学院の創立者として知られる。
1834年にヴァーモント州ウィンダム郡のワーズボロという山間の村に、父ジョン・エディ・キダーとキャサリン・ターナーの間に生まれた。
メアリーは地元の小学校で学んだ後、1850年からタウンシェンド・アカデミー英語部に在籍した。その間に、回心して、北ワーズボロの会衆派教会の一員になった。1852年の秋にサックストンズ・リヴァー・アカデミーの古典部在籍した。キダーは妹のマルヴィナと共に、マンソンの町に下宿した。
1856年に母キャサリンが亡くなり、翌年ジョンが再婚した。後の同僚、S・R・ブラウンが1853年以来牧師業の傍ら、教会近くのオーバンのスプリングサイドで男子校を経営していた。キダーはこの学校の教師になり、ブラウンの教会の会員になった。
キダーが着任して、2年後、1859年ブラウンはマリア・マニヨンとキャリー・アドリアンスの二人を伴い日本宣教に旅立った。キダーは一行をニューヨーク港に見送った。
1860年秋から、キダーはニュージャージー州オレンジ女学校で教え始めたが、翌年閉校になる。しかし、数人に生徒を集めてオレンジに2年間留まった。1860年に妹にオレンジの学校を譲り、キダーはブルックリンのミス・ラニーの学校で教え始めた。
1867年、33歳の時、キダーはブラウンから一時帰国の知らせを受け、日本宣教に志願するように誘いを受けた。そして、1869年2月にアメリカ・オランダ改革派教会海外伝道局のジョン・メイソン・フェリスの面接を受けて、ブラウンらの推薦により、日本の宣教師に任命された。
そして、1869年にオランダ改革派の宣教師としてブラウン夫妻と共に来日した。
横浜
新潟で1年を過ごした後、1870年に横浜の居留地に着いた。
その後、多忙だったヘボン塾で英語を教えていた妻クララ・ヘボンから生徒を引継ぎ、ヘボンの施療所で授業を始めた。1872年ヘボン夫妻が上海での長期出張から戻ったのをきっかけに、神奈川県令大江卓の助力で、野毛山の県庁舎の一部として建てられた日本家屋に塾を移した。
1874年には、山手178番地のアメリカ伝道局の資金で校舎を建設を開始し、アイザック・フェリス・セミナリー(後の、フェリス女学院、オランダ改革派海外伝道局総主事の名前に由来)という名称になった。
結婚
1873年7月10日にエドワード・ローゼイ・ミラーと結婚する。1875年に校舎と寄宿舎が完成すると、夫妻は学校に転居した。
1879年5月メアリーは来日十周年を迎えて、初めての賜暇休暇を得て、アメリカに夫婦で帰国した。ミラー夫妻はフィラデルフィア郊外のミラーの妹宅を拠点に全米各地を訪ねて一年半をアメリカで過ごした。
1880年12月にニューヨーク港を出向して、1881年4月ヨーロッパ経由で横浜港に帰着した。
二年ぶりに戻ると、フェリス・セミナリーが普通の学校に変貌したことにメアリーはショックを受けた。一時は、先志学校に校舎を譲ることを真剣に考えた。そこで、ユージーン・ブース夫妻を招聘し、ブースに後事を託して、フェリス・セミナリーの経営から離れた。
東京
1881年7月ミッション宣教拠点の東京ステーションに戻り、築地居留地20番のスコットランド一致長老教会宣教師館に転居した。ミラーは東京一致神学校の教授に就任して、メアリーは麹町教会と下谷教会(現、日本基督教団豊島岡教会)の日曜学校を受け持ち、両国教会の三浦徹牧師と協力して、月刊誌『喜の音』(よろこびのおとずれ)の編集を始めた。
ミラー夫妻は1882年に築地居留地29番に壮大な洋館を建てて伝道活動を行うことになった1883年4月16日の第二回宣教師大会で、メアリーは分科会で「女性と教育」と題する講演を行った。1884年にミラーが東京一致神学校の教授を辞任して、直接伝道に多くの時間を割くようになった。1884年初めには上州高崎を訪問し、11月には高知を訪問して一ヶ月半滞在した、1885年ミラー夫妻が高知を訪問した時に、高知教会が誕生した。ミラーが初代仮牧師に選ばれ、二ヶ月高知に留まった1886年1月には三度目に高知を訪問し、長老片岡健吉の紹介で民家に4月半ばまで来在した。米国南長老教会のグリナンとR・E・マカルピンに後事を託して高知伝道に区切りをつけた。その後仙台に行き、押川方義の伝道を応援した。
1886年4月に東京一致神学校、東京一致英和学校、英和予備校の三校が合同宣教師委員会で決定され、明治学院として開校したその時、ミラーが再び神学部講師になった。
1887年にミラーが肺炎かかり回復後に、主治医の勧めで北海道に約2ヶ月間出かけた。スミス女学校(北星学園)の開校式出席した。その場には、新島襄・八重夫妻も出席していた。
盛岡
夫妻が東京に戻り一か月後に、仙台の押川方義が訪ねてきて東北の拠点である盛岡に伝道を要請した。メアリーは三浦と出版している『喜びの音』の出版を続けたかったので反対した。しかし、押川が三浦徹を説得して、ミラー夫妻と三浦一家が盛岡へ赴任することになった。
1888年(明治21年)6月からミラー夫妻は盛岡に着任する。メアリーは『喜びの音』『小さき音』の雑誌発行を続けながら、夫のバイブルクラス、英語クラスを手伝った。翌年、1889年(明治22年)7月には35人の信徒と集会を持つようになった。
1892年(明治29年)5月、ミラー夫妻は二度目の休暇でアメリカに帰国した。1893年(明治30年)12月に、盛岡に戻り牧師館、宣教師館の建設に取り掛かり、1894年(明治31年)2月に完成した。
死去
1900年(明治33年)メアリーは体調の不調を訴えて、東京の聖路加病院で検診を行った。その結果、乳がんが発覚して、手術を受けた。その後、療養のために1902年(明治35年)に東京に戻る。1904年に夫婦で三度目の帰国をする。1906年に日本に戻ると、日本永住のために麹町区(現・千代田区麹町)平河町に洋館建てて住むことになった。
1909年(明治42年)「宣教開始五拾年記念会」が外国宣教団と日本人教会の教会で開かれた。ミラー夫妻は記念会の実行委員長として奉仕した。メアリーは10月7日の婦人会の部に招待を受けた。
1910年(明治43年)6月25日にメアリーは、平河町の自宅で76歳で亡くなった。墓地は最初東京染井墓地に埋葬されたが、横浜外国人墓地にある。 
フェリス女学院
建学の精神
フェリス女学院は、アメリカ改革派教会から派遣された宣教師メアリー・キダーによって1870 年(明治3)に創立され、以来、日本で最も古い歴史を持つ女学校として、一貫してキリスト教信仰に基づく女子教育をその使命としてきました。
フェリス女学院において永く守られてきたモットーは“For Others”の一句です。これは、ある特定の人物が言い出したものではなく、学院に集う人々の心のなかに自然に生まれ、学校教育のなかに定着してきたものです。
フェリス女学院では、この永い伝統のなかで培われたモットー“For Others”のもと、自由と学問を尊重し、自主的で、かつ社会にあっても自己中心ではなく神と人とに奉仕する人生を送り、つねに新しい社会を切り拓いていく自覚と責任とをもつ女性の育成を目指しています。
創立
1870 年(明治3)7月、新潟の宣教活動から横浜に戻ったメアリー・E・キダーは、9 月より居留地39 番のヘボン夫人の私塾を引き継ぎ、授業を開始しました。しだいに評判を呼び、翌年には女子のみを教えるようになり、〈キダ−さんの学校〉と呼ばれるようになりました。
ヘボン施療所が手狭になったため、新たな学校施設を求めていたキダーに、時の県権令(県知事代理)の大江卓は、伊勢山(現在の神奈川県立音楽堂付近)に建設中の県役人宿舎の一棟を貸し与え、机や黒板その他の備品を整えてくれました。また、山手の住いから伊勢山までの3km の道のりは、歩いて毎日通うには大変だろうと、大江は自分のポケットマネーで人力車を用意しました。キダーはとても規律正しい性格で毎日同じ時刻に通るので、町の人は彼女が通るのを時計代わりにしたといわれています。
江戸時代から続いたキリシタン禁制の高札が撤去されたのは1873 年(明治6)のことですから、キダーの伝道はかなり危険を伴なうことだったと思われます。
キダーは1873 年(明治6)7 月10 日に10 歳年下のロゼィ・ミラーと結婚します。結婚後は、夫のミラーが長老派からアメリカ改革派へ移ることによって、夫婦で協力して学校運営を続けました。また宣教師たちは、熱心に地方を回って名家を訪ね、新しい時代の女子教育の必要性を説いたので、汽車もない時代に、山手の丘にできた異人の学校に、日本各地から少女たちが集まってきました。菅笠をかぶり、わらじ履きで、何日もかかってたどり着く者もいたといいます。
ミセス・ミラーとなったキダーは、日本伝道にとって女子教育こそが必要であり、そのため本格的な学校を建設したいとアメリカ改革派外国伝道局本部に訴えた結果、建築費5500 ドル(主に日曜学校児童献金による)が寄贈され、1875年(明治8) 6 月、山手178 番に寄宿学校が完成しました。校名はアメリカ改革派教会外国伝道局総主事アイザック・フェリスとジョン・メーソン父子の名を記念して〈フェリス・セミナリー〉と名づけられました。
創立の背景と歴史
メアリー・E・キダーは、アメリカ・バーモント州の小都市に生まれ、21 歳のとき、多くの宣教師を輩出しているモンソンアカデミーに入学しました。のちにキダーを女性宣教師として推薦するサミュエル・R・ブラウンとはこの学校時代に出会ったと思われます。1858 年にはニューヨーク州オーバンにあるブラウンの学校の教師となりました。
1859 年(安政6)にブラウンが日本への宣教に出発した後、プライベートスクールなどの教師をして自活する一方、ブルックリンでの慈善事業や日曜学校運動に積極的に参加していました。
1869 年(明治2)8 月、35 歳で女性宣教師として横浜へ到着。ブラウンの任地である新潟に向かいました。当時の新潟には、せいぜい20 〜 30 人ほどしか外国人がいなかったため、人々の好奇の目にさらされながらも、日本の環境を積極的に学び、英語を教えました。新潟海岸の松林によく散歩に出かけたらしく、群生するオオマツヨイグサ(月見草)は、キダーがその種を蒔いたのが始まり、といわれています。
1882 年(明治15)4 月、ミラー夫妻はフェリスを退きました。在任期間は1870 年(明治3)から1881 年(明治14)でしたが、彼女の働きはフェリスにとって大きな財産となりました。東京・築地の居留地29 番に住いを移し、地方伝道の仕事に専念、高知、広島、信州、仙台、盛岡、北海道を訪れ、布教活動を行ないました。また、三浦徹牧師の協力のもとキリスト教月刊誌『喜の音(よろこびのおとずれ)』、『小さき音(ちいさきおとずれ)』の編集・発行を引き受け、全国各地に予約購読を広め、キリスト教関係雑誌の中で最大の発行部数となりました。
1888 年(明治21)6 月寒冷の地 岩手の盛岡に移り、14年間にわたり伝道活動にあたりました。ミラーはバイブルクラスと英語クラスを開き、ミセス・ミラーも雑誌の編集を続けつつ夫のクラスを手伝い、教会堂の建設や信徒の獲得に力を注ぎました。以前から身体の不調を訴え、休むことが多くなっていましたが、1900 年(明治33)5 月、66 歳のミセス・ミラーは東京で乳がんの手術を受けました。手術後は盛岡の住まいを引き払い、日本永住を決めた夫妻は、治療のために東京に戻り、ミラーは明治学院理事として学校経営にあたりました。70 歳を過ぎたミセス・ミラーは再び体調を崩し、1910 年(明治43)6 月、苛酷な闘病生活の末、76 歳の生涯を閉じました。亡骸は染井墓地に埋葬されましたが、1940 年(昭和15)フェリス創立70 周年の際、卒業生の希望により、横浜・山手の外国人墓地に移されました。
ミセス・ミラーの跡を受けて2 代目校長に就任したユージン・S・ブースは、41 年間、文字通り生涯をフェリスに捧げました。強い信仰の持ち主だっただけでなく、優れた実務家として手腕を発揮し、フェリスを塾から学校へと発展させた功労者です。ブースは、フェリスを宣教師主導ではなく、日本人主導の日本の学校にすべき、というはっきりした意志を持っていましたが、文部省に認可された高等学校は宗教教育が制限されるため、断固とした態度で「各種学校」の地位に甘んじました。1941 年(昭和16)英語が敵性語とされた時代には、学校の存在する地名を冠して〈横浜山手女学院〉に校名を変更しましたが、 1950 年(昭和25)再び〈フェリス女学院〉と改称して現在に至っています。  
 
オーグスチン・ハルブ 神父    

 

Augustin Halbout (1864〜1945)
1889年に来日し、長崎、大分、奄美大島などで布教活動を行い、天草に崎津教会を建てたフランス人神父。幼稚園の設置など子供たちの教育にも尽くした。 
2
1864 フランス・セエズに生る
1888 司祭に叙階
1889 来日 (明治22年に来日し、大分での日本語学習の後、臼杵に着任。1893年には奄美大島での活動を指示され、奄美では教会建築に携わった。27年間の長い奄美大島での任務の後、1920 年に黒崎の司祭職に任命された。しかし、1929 年には天草の崎津の司祭職に任ぜられ、この最終赴任地の崎津にてその長い布教活動の一生を終えた。)
1927 ア津教会に赴任 (昭和2年にア津に赴任しました。63歳。)
1934 ア津カトリック教会を建立  ( ひっそりとした漁村にたたずむゴシック様式の教会堂です。 建物は、明治4年(1871)まで絵踏みが行われていた庄屋屋敷跡を、 昭和2年に赴任してきたフランス人宣教師ハルブ神父が買い取り、 昭和9年(1934)に鉄川与助の設計によって建てられたゴシック風の木造教会です。 )
1945 56年間の宣教生活を終え當地で帰天
ア津カトリック教会(天主堂)の由来
ア津教会は、アルメイダ神父により永禄12年(1569年)2月23日に建てられ、ここを中心にして、キリスト教は天草に栄えたのでした。然しながら、寛永15年(1638年)の禁教令が天草で実施されてからア津では特に激しい迫害の嵐が吹きあれました。
公然と信仰を明らかにすることを禁じられたキリスト教徒は、隠れキリシタンになり、ひそかに真夜中に一緒に集まって神を礼拝し、お祈りを献げていました。隠れキリシタン達は、生命や財産の危険をもかえりみず信仰こそ何物にも勝る宝であり、幸福の源泉であると 確く信じていました。この宝を子孫に伝えるために7人の村人を先生として選び、「水方(みずかた)」と名付けました。此の名は水方の仕事の一つである洗礼の儀式から取られたものです。即ち、洗礼の儀式では魂の浄めのシンボルとして、水を注ぐことが必要とされるからです。
キリスト教を狩り出すために、踏絵が毎年行われました。
明治5年(1872年)にキリシタン禁制の高札が廃止されるや、神父は、240年ぶりに再びア津に帰ってきて、隠れキリシタンから熱烈な歓迎をうけました。かくして2世紀半の間、文字通り隠れて守り抜いた先祖代々の信仰を 公に行うことの出来る新しい時代が訪れたのです。此の教会は明治以来3度建て直され、現在のものは長崎の鉄川与助の施工によるゴジック風建築であります。正面の祭壇のある場所で迫害時代に厳しい踏絵が毎年行われていました。現在この教会ア津の400名のキリシタン信者の祈りの家として、毎日使用されます。  
崎津・今富の信仰と習俗
ア津・今富の文化的景観を形成する要素の中には、目に見えない要素である信仰や民俗も関係しています。富津は16世紀後葉以降、 アルメイダ修道士によるキリスト教の布教から、現在まで複数の信仰が共存し継続している地域です。
禁教下において、潜伏キリシタンは洗礼やオラショをひそかに伝承し、禁教令が解かれるまでの250年以上もの間、信仰を守り続けました。
なかでもア津の潜伏キリシタンは、メダイやロザリオのほかにアワビやタイラギ貝など海に関するものを聖遺物として信仰したことが特徴です。
また潜伏キリシタンが発覚した「天草崩れ」ではア津諏訪神社が異仏取調べの舞台となりました。信者は「何方江参詣仕候而も矢張あんめんりゆすと唱申候」と言い、寺社へ参詣したときにも 「あんめんりうす=アーメンデウス」と唱えていました。
ア津
ア津のキリシタン時代の記録は少ないですが、禁教下における記事が地誌類に記録が散見しています。ア津教会は、長崎の建築家・鉄川与助により設計されたゴシック様式の教会で、昭和9年に建てられました。建てられた土地は、 ア津教会の神父であったハルブ神父の強い希望で、弾圧の象徴である絵踏みが行われた吉田庄屋役宅跡が選ばれています。この絵踏みが行われた場所に、現在の祭壇が配置されたと言われています。 教会内部は国内でも数少ない畳敷きで、畳に座ってミサを行うことは、日本と西洋の文化の融合を示しています。
両集落ともに水方を中心とした組織を作り、仏教儀礼や年中行事などにキリシタン信仰を反映しながら、潜伏キリシタンとして信仰を継続していました。
ア津では禁教下の潜伏から、仏教への転宗、その後の教会への復活という歴史があります。禁教下において、仏教や神道へ転宗していたア津の信者は、潜伏キリシタンとして信仰を継続し、明治期のキリスト教解禁以降には、今富字大川内に建てられたといわれるカトリック教会が、 現在のア津諏訪神社横に移され、信者も教会に帰依するようになりました。このようにキリスト教復活と共に潜伏としての信仰は途絶え、今日まで複数の信仰が共存している地域です。
今富
対する今富ではキリスト教や神道、仏教などの宗教的要素と山岳修験などが土着することで形成した、民俗的要素が共存しあうことで文化的景観を形成しています。禁教令以前はキリスト教を信仰していましたが、禁教下においては仏教や神道に転宗する一方、潜伏キリシタンとして信仰を継続しました。しかしキリスト教解禁以降、復活するものはほとんどおらず、 かくれキリシタンとして信仰を継続したため、表面上ではキリスト教は衰退の一途をたどっています。
文化2年 (1805) の天草崩れでは潜伏キリシタンの一斉検挙により、 信仰内容や代表者信者数、信仰対象地など文献に記録されていたため、当時の様相を伺うことが出来ます。集落を取り巻く後背山には、聖水汲み場をはじめ、天草崩れで取り壊されたとある「弓取りの墓」や「ウマンテラサマ」といった墓地や信仰地が集落とセットで配置されており、聖遺物として鏡や木彫仏、土人形、石仏を再加工したキリシタン遺物が残り、地域の歴史や特色を色濃く反映しています。
解禁後、復活せずにかくれの道を選んだ今富集落は、仏教や神道を継続したため、キリスト教は途絶えたものの、年中行事を行う際には、キリシタンの要素を含む装飾をするなど「かくれ」信仰が根付いた地域で、今日までその痕跡を見ることが出来ます。  
天草のア津集落
ア津は、天草諸島の下島の南部に位置する漁村で、土地が狭いため海上に柱を立てたカケ(作業場)や、密集した民家の間にトウヤ(※)が発達する。隣の今富集落とともに、2012年に「天草市ア津・今富の文化的景観」として国の重要文化的景観に指定され、このうち「天草のア津集落」が世界遺産候補となっている。
戦国時代、領主の天草氏は1566年に布教を許し、教会が建てられた。その後、キリシタン大名・小西行長が肥後南部を支配すると、天草氏は配下になり、秀吉の伴天連追放令後も宣教師を庇護した。禁教後、この地の潜伏キリシタンは島原天草の乱には加わらず、信仰を続ける。1805年、ア津周辺で5,000人以上が摘発される「天草崩れ」が発生するが、「心得違いをしていた」とみなされて放免された。
1873年に信教の自由が黙認されると、カトリックへの復帰が始まる。現在の教会は1934年頃、ハルブ神父の時代に鉄川与助が設計施工した。木造で、正面の尖塔部分は鉄筋コンクリート、内部は畳敷きで祭壇はかつて絵踏みが行われていた位置に当る。背後の海に溶け込み「海の天主堂」とも呼ばれている。
天草の潜伏キリシタンの集落として知られるア津や大江は、天草諸島で最も大きい下島の南西部(下天草)に位置する。東シナ海から深く入り込む羊角湾の入口に当る天然の良港で、古くから遣唐使船や朝鮮船の漂着があるなどアジア諸国との交流が深い地であった。農地は少なく、生業は漁業で、江戸時代は代官所が漁に出ることを許した水夫「荷子(かこ)」が集う「定浦」のひとつであった。土地が狭いため、シュロの木を柱にして陸地から海に突き出したカケ(※1)が多く見られる。また、密集した民家の隙間を通って海やカケに出るため、トウヤ(※2)が発達し、特異な漁村景観を形作っている。
ア津から内陸に入ったところに今富がある。ここは農業主体の集落で、ア津からメゴイナイと呼ばれる行商が雑漁を売りに来る一方、今富から米や野菜を供給、また漁船の労働力を提供するという相互依存関係にあった。この異なる生業を持つ2集落によって一体的に形成される「天草市ア津・今富の文化的景観」は、2012年に国の重要文化的景観に選定された。このうち、「天草のア津集落」が世界遺産候補とされている。
ア津地区が属する河内浦では、下天草を支配する天草氏が南蛮貿易を狙い、1566年にアルメイダ修道士らを受入れ、同年にはア津に教会が建てられる。1571年には、ガブラル神父により、領主の天草鎮尚(ミゲル)とその子・久種(ジョアン)が洗礼を受けて領内にキリストが広がり、1592年には15,000人もの信者がいたとされる。その後、キリシタン大名として知られる肥後国の小西行長が支配すると、天草氏らは反乱「天草合戦」を起こすが平定され、後に和解して従うようになり、キリスト教が根付いた。豊臣秀吉の伴天連(ばてれん)追放令後も、天草氏は宣教師らを庇護し、人目につきやすい有馬領からコレジヨ(※3)やノヴイシアド(※4)が天草に移転した。コレジヨは「天草学林」とも言われ、天正遣欧使節が持ち帰ったグーテンベルク印刷機で、教理本や日本・ポルトガル辞書、源氏物語などの「天草本」が印刷された。
その後禁教の時代を迎え、一部の信者は潜伏キリシタンになる。島原天草の乱後、一揆に関連した者は根絶やしにされたが、乱に加わらなかった下天草のキリシタンは潜伏信仰を続けた。ところが1805年に「天草崩れ」が発生、ア津、大江、今富村など10,000人余のうちの半数5,200人がキリシタンであると判明する。あまりの多さに厳重な処罰はかえって難しく、「心得違いをしていたが改心した」とみなして放免したため、多くは信仰を捨てなかった。
明治時代に入り、1873年2月、キリシタン禁制の高札が撤去されると、4月には長崎・神ノ島の伝道士が天草・大江村に入り、カトリックへの復帰が始まる。ア津村では1876年に多くがカトリックに改宗し、1882年にフェリエ神父が着任、1885年には教会が建てられた。明治中期にはア津村600戸のうち550戸がキリスト教徒であったとされる。現在の教会は1934年頃、ハルブ神父の時代に鉄川与助が設計・施工した。基本的には木造であるが、正面にそびえる尖塔部分等は鉄筋コンクリート造り、内部は珍しい畳敷きで、祭壇はかつて絵踏みが行われていた位置に当る。海をバックに集落の中心に建つこの教会は「海の天主堂」とも呼ばれている。 
神社と共生した潜伏キリシタン
島原・天草一揆に参加した天草の村々は荒廃し、新しい領主によって復興されていきました。一方で乱に参加しなかった村のうちいくつかの集落では、その後もひそかに信仰が継承されていきました。
現在、入り組んだ湾のほとりに美しい教会がそびえたっているア津集落はそのうちのひとつです。この集落では禁教の時代に神社と共生するという方法で、信仰を継承していったのです。
一揆後の天草
島原・天草一揆のあと、一揆に参加した天草の村々は島原半島とおなじく荒廃しました。天草の領主は代えられ、新しい領主は離散した領民の呼び戻しや新田開発、富岡城の再建などに取り組みました。その後、天草は幕府直轄の天領地となります。
復興される一方で、各地に寺院が設けられ、領民は必ずどこかの寺院の檀家になるという寺請制度もはじまりました。それぞれの村の庄屋宅では定期的に踏み絵が行われ、キリスト教禁制の高札が設けられるなど、生活の隅々まで取り締まりが徹底されていきます。
当時、こうした宗教の統制は天草のみならず、幕府によって全国的におこなわれていました。しかし、そうした中でもひそかに信仰を受け継いでいった地域があったのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 / 羊角湾にのぞむア津集落
神社との共生
天草の入り組んだ羊角湾のほとりに位置するア津集落はその1つです。住民の多くは漁業を営み、江戸時代は海路でなければ通行もままならないという隔絶された土地でした。外部の人の往来があまりないこの集落のキリシタンは、表向き仏教徒を装いながら、ひそかに洗礼やオラショを伝承していきました。
独自の信徒組織も営まれ、集落の長老格が「水方」とよばれる指導者となり、子どもの誕生時に洗礼をさずけたり、仏式葬儀のときに経消しを唱えたりしたそうです。
ア津の潜伏キリシタンは、アワビ殻や一文銭、鏡などを聖器として信仰する一方、集落を見下ろす山の斜面に建つア津諏訪神社も大切にしていました。この神社に潜伏キリシタンが参拝する際には「あんめんりゆす(アーメン、デウス)」と唱えていたという記録が残っています。自らの信仰と神社の様式をうまく摺り合わせながら共生していったことがうかがえます。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 / ア津諏訪神社
天草崩れ
1805年、ア津をはじめ今富、大江、高浜の4村の潜伏キリシタンが「宗門心得違者」として摘発されます。これらの村では講会と称して夜分集まったり、神前で変わった参拝をする風習があるようだと、長崎奉行所や江戸幕府に報告されたのです。その結果、5千人あまりが摘発されました。
ただし彼らはキリシタンとしてではなく、「心得違いの者」として摘発されました。関わった役人は潜伏キリシタンであると事実をつかんでおきながら、婉曲して報告したのです。事を大きくせずに穏便に済ませようとしたことが読み取れます。
摘発された人々は村から出ないよう出郷差し止めとなり、信仰していた聖器は「異物(仏)」として没収されました。幕府や奉行所もこの天草崩れを深追いする事はなく、潜伏は明治維新までつづくことになります。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 / ア津集落の様子
ア津教会の建設
明治に入り禁教令が解除されると、ア津諏訪神社のとなりに木造の教会が建てられました。その後、ア津にやってきたフランス人司祭・ハルブ神父が集落の中心にあった庄屋屋敷跡を買い取ります。この屋敷はかつて踏み絵が行われていた場所だったのです。
1934年、その屋敷跡に現在の教会堂が建設されます。設計・施工を行ったのは鉄川与助でした。外観はゴシック建築でありながら内部は畳敷きという珍しい教会です。様式をうまく摺り合わせるという工夫がここにも見てとれます。
踏み絵が行われていた場所には現在、祭壇が置かれているそうです。禁教の時代およそ250年間、状況にあわせて形は変えていったものの、根底の意志は堅く受け継いだという信者たちの想いが伝わってきます。 
 
エリザ・ルアマー・シドモア 

 

Eliza Ruhamah Scidmore (1856-1928)
『ナショナルジオグラフィック』の紀行作家であり地理学者。女性として初めて米国地理学協会の理事に就任し、東洋研究の第一人者として活躍した。世界中を旅したが、兄が駐日領事館副領事だったことで1884年に来日以来、日本には3度も訪れて合計3年間滞在し全国を行脚して様々な記録を残した。隅田川に沿う向島の桜に心惹かれ、後にタフト大統領夫人に進言してワシントン・ポトマック河畔の桜植樹に尽力した。スイスで死去したが、墓は横浜外人墓地にある。 
2
アメリカの著作家・写真家・地理学者。ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事となった。1885年から1928年にかけて度々日本を訪れた親日家であり、日本に関する記事や著作も残している。ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜並木を作ることを提案した人物である。
1856年10月14日、アイオワ州クリントン(英語版)に生まれ、オーバリン大学に学ぶ。旅行に関心を抱いたのは、1884年から1922年まで極東に務めた生え抜きの外交官の兄ジョージ・シドモアに因る所が大きい。エリザはしばしば兄の任務に同行し、外交官という地位を借りて、一般の旅行者にはアクセスできない地域へも渡航することができた。
1885年には初著『アラスカ、南海岸とシトカ諸島』(Alaska, Its Southern Coast and the Sitkan Archipelago)を刊行。1890年には設立間もないナショナルジオグラフィック協会に参画して正規の記者となり、後に最初の女性理事となった。
東洋への旅行も引き続き行い、これを基に『日本・人力車旅情』(Jinrikisha Days in Japan)を著し、1891年刊行された。続けて短編ガイド『西回り極東への旅』(Westward to the Far East、1892年)を出す。ジャワ島への旅は『ジャワ、東洋の園』(Java, the Garden of the East、1897年)にまとめられ、また中国・インドへも訪れて『ナショナル・ジオグラフィック・マガジン』へ数度寄稿、また『中国、悠久の帝国』(China, the Long-Lived Empire、1900年)、『冬のインド』(Winter India、1903年)の2作を著した。
1896年には明治三陸地震津波の被災地に入って取材し、"The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan"を『ナショナル・ジオグラフィック・マガジン』1896年9月号に寄稿している。英語文献において「津波」 Tsunamiという言葉が用いられた、現在確認できる最古の例とされる。
日露戦争期間中にも日本に滞在したが、これが知られる限り唯一のフィクション『ハーグ条約の命ずるままに』(As the Hague Ordains、1907年)の基礎となった。この作品は、ロシア人俘虜となった夫に松山市の俘虜用病院で再会する妻の手記という形を取ったものである。
『ハーグ条約の命ずるままに』の後、エリザが新著を出すことはなく、『ナショナル・ジオグラフィック』への寄稿も徐々に減っていった。最後の記事は1914年の「日本の子どもら」(Young Japan)と題するものだった。1928年11月3日、ジュネーブで死去。72歳没。 横浜外国人墓地に墓所がある。
ポトマック河畔の桜並木
エリザは、1885年にワシントンへ帰国する際に、ワシントンD.C.に日本の桜を植える計画を着想した。しかし当時エリザはその着想にさほどの関心を払わず、むしろ初著で題材としたアラスカの印象の方により関心を割いていた。
エリザの桜並木計画は、1909年、大統領となったウィリアム・タフトの妻ヘレン・タフト(英語版)が興味を示したことで、現実化に向けて動きだした。ファーストレディの精力的な支援により計画は急速に進んだが、当初の努力は病害虫への懸念から徒労に終わらざるを得なかった。しかし、更なる努力が実を結び、今日では西ポトマック公園(英語版)等ワシントン各地の桜を観に多くの人々が訪れ、特に全米桜祭り期間中は盛大である。
横浜外国人墓地にあるエリザの墓碑の傍らには、1991年にポトマック河畔から「里帰り」した桜が植えられ、「シドモア桜」と名付けられている。  
3 100年前の日本を愛し世界に伝えた女性記者
1883年、エライザ・シドモアは、アラスカ行きの郵便船に飛び乗った。
ワシントンD.C.での生活にうんざりしていた彼女は、ナチュラリストのジョン・ミューアがサンフランシスコの新聞に寄稿した感動的な風景に心を動かされた。米国は1860年代にロシアからアラスカの地を購入したが、そこを訪れた米国人はまだほとんどいなかった。恐れを知らない27歳の記者兼写真家は、未知なる大地を自分の目で確かめることに決めた。
シドモアは毎朝6時に起き、コーヒーとロールパンの朝食をとると、オーロラを見たり、手紙を書いたりしながら1日を過ごした。後年、彼女はインタビューで、「水彩画のような風景でした」と振り返っている。
シドモアが米国の新聞に寄稿したアラスカの記事は人々の心を奪い、当時の偉大な探検家たちに感銘を与えた。それらの記事を1冊にまとめた旅行記(おそらくアラスカについて書かれた史上初めての本だろう)を読んだある批評家は、彼女を「米国で最も優れた女性記者の一人」とたたえた。
アラスカへの旅から戻って数十年のうちに、シドモアはナショナル ジオグラフィック誌の読者におなじみの存在となった。その間、15本の記事を書き、同誌にとって初めてのカラー写真をいくつか撮影した。同誌初の女性記者、女性写真家であり、ナショナル ジオグラフィック協会の理事に選ばれた最初の女性だ。
ナショナル ジオグラフィック協会の初代会長ガーディナー・グリーン・ハバードとナショナル ジオグラフィック誌初期の編集者ギルバート・H・グロブナーは、シドモアを高く評価し、同誌を成長させていくため、彼女のアドバイスを求めた。シドモアはカラー写真を増やすよう提言することで、この誕生したばかりの学術誌の変革を助けた。
生い立ち
エライザ・シドモアは1856年、ウィスコンシン州マディソンに生まれた。その後間もなく、一家はワシントンD.C.に引っ越した。母親は下宿屋を営み、エイブラハム・リンカーンからウィリアム・タフトまでの大統領を全員知っていると言っていた。
この人脈は後に、旅を夢見るシドモアの人生を後押しすることになる。1870年代、女性の新聞記者が少しずつ誕生し始めたが、シドモアはその一人だった。19歳のときに初めて「National Republican」紙のコラムを担当し、その後、「New York Times」紙を含むさまざまな新聞に、ワシントンD.C.の社会に関する記事を寄稿した。「E・R・シドモア」や「E・ルアマー・シドモア」という名前で記事を書くこともあったため、多くの読者に男性だと思われていた。
シドモアは非常に多くの記事を書き、1880年代には、1週間に1000ドルを稼ぐようになった。これは現在の2万6000ドル(約300万円)に相当する。ある新聞記事によると、シドモアはこれを元手に、子供のころからの旅の夢をかなえたという。
シドモアは日本に夢中になった。当時の日本は、西洋からの訪問者に対して門戸を開いたばかりだった。兄が外交官として駐在していたため、日本の社会に入り込むことができた。
シドモアは日本から記事を送るようになった。女性ファッション誌「Harper’s Bazaar」では、日本女性の地位の高さを称賛し、当時は家庭向け雑誌だった「Cosmopolitan Magazine」では、急須を紹介した。「American Farmer」誌に寄せた日本の蚕に関する記事では、「細心の注意を払って育てられた貴族のような虫」と書いている。
さらにシドモアは、桜を「この世で最も美しいもの」と呼び、ワシントンD.C.に写真を持ち帰ると、ポトマック河畔に桜の木を植えるよう当時のグロバー・クリーブランド政権に嘆願した。
生まれながらの旅人
1890年、シドモアはインタビューで、旅は「生まれたときから私の中にあったのです」と述べている。そして、地図や地理の勉強をした子どもの頃を振り返って、「いつも見知らぬ国のことばかり考えていました」と語っている。
同じ年、シドモアはナショナル ジオグラフィック協会の一員になった。まだ発足2年の組織で、女性会員は10人余りしかいなかった。2年後、男性ばかりの理事会が満場一致で、彼女を通信担当者に選出した。
シドモアは、さかんになりつつあった協会主催の講演活動に、探検家や外交官を講師として招いた。自身も登壇し、極東やアラスカについて語った。
1890年代後半、ハバード会長はシドモアに、まだ若いナショナル ジオグラフィック誌についての意見を求めた。シドモアはヨーロッパにある同様の出版物を調査し、「大改革」が必要かもしれないと助言した。
「素晴らしい船出を果たし、著しく成長しています。でも、もっと飛躍させて、本格的で一流の地理雑誌にしなくてはなりません」
大改革の手段に選ばれたのは写真だ。文字でびっしり埋め尽くされた誌面に初めて写真が掲載されたのは1890年。しかし、写真が雑誌の中心的存在となり始めたのは1905年にチベット、ラサを写した世界初の写真で11ページの特集が組まれてからだ。その数カ月後、グロブナー編集長はフィリピンの写真138枚を掲載し、翌1906年には、丸ごと一冊を野生生物と自然の写真で構成した特集号を発表した。
こうした改革のおかげで、わずか2年の間に会員数は3000人から2万人に増加した。
写真による改革
1890年代、スミソニアン協会の前身となった組織がシドモアにコダックのカメラを渡し、インド、日本、中国、インドネシアのジャワ島への旅を記録するよう依頼した。シドモアはおそらく、ナショナル ジオグラフィック初の女性写真家でもあるのだ。(参考記事:「ナショジオの女性写真家たち」)
1909年、シドモアはグロブナーに次のような手紙を書いている。「カラー写真を買いませんか? 緑の木々の中に赤や黄の寺院が立ち並び、地面には雪が積もっている、そんな写真に賭けてみてもよいのではないでしょうか」
当時、カラー写真はあまり使われていなかった。非常に高価であるだけでなく、雑誌の内容が薄くなってしまうのではないかと理事会が心配していたためだ。しかし、雑誌を成長させようというグロブナーの決意は固く、遠く離れたアジアの地でカラー写真の撮影を始めたシドモアは貴重な存在だった。
1910年、グロブナーはシドモアに手紙を書いた。「私たちのカラー写真の技術は画期的な進歩を遂げました。新しい特集を組むため、手を貸してもらえませんか?」
シドモアはすぐに女性たちや子供たちの写真を送った。同封されていたメモには次のように書いてある。「色鮮やかな写真に仕上がっていますから、きっと今回の特集も大きな称賛を受け、新たに数千人の会員を得られるでしょう」
1914年、「若き日本」と題された特集記事に11枚の写真が掲載された。ナショナル ジオグラフィック誌にとって、ほとんど例がなかったカラー写真であり、自然の色を再現した最初のオートクローム写真も含まれていた。
シドモアは450ドル(現在なら100万円相当)の報酬を受け取った。グロブナーはいつも彼女の写真と文章に普通よりも高い報酬を支払った。グロブナーは電報で、「素晴らしい写真だ」と絶賛している。
外国での人生と死
シドモアは断続的に日本で暮らし、米国の親善大使を務めた。同時に彼女はナショナル ジオグラフィック協会との親密な関係を維持し、グロブナーと頻繁に手紙をやり取りしていた。
1916年までに協会の会員は50万人に達し、グロブナーは会員数の維持に苦労していた。それでも、グロブナーはシドモア宛の手紙にこう書いている。「もし名誉名簿にあなたの名前が載り続けていなかったなら、ナショナル ジオグラフィック協会の土台はこれほど強固なものとはなっていなかったでしょう」
シドモアは第一次世界大戦にも関心を持ち、スイスのジュネーブに拠点を移して、発足したばかりの国際連盟に関する記事を執筆した。中国の皇太后の玉座など、それまでに集めた記念品が置かれた自宅は、すぐに外交官たちのたまり場となった。
1928年、72歳のとき、シドモアは虫垂炎による合併症で入院した。彼女は1枚のはがきに、「ちっともよくならず、計画が台無しです」とつづっている。よい患者ではなかったようだ。シドモアを看病していたいとこは「食事も治療も拒絶しています」という電報を米国に送っている。
1928年11月3日早朝、シドモアは死去した。遺灰は兄と母とともに日本に埋葬された。
生き続ける遺産
残念ながら、ナショナル ジオグラフィックのアーカイブにシドモアの手紙はあまり残されていない。シドモアの死後、彼女の親友が手紙をすべて破棄するよう求めたためだ。シドモアのいとこは、「彼らがやり取りした手紙には極秘情報が含まれているそうです」と、その求めに応じた。
故郷ウィスコンシン州のある新聞はシドモアの死を受け、「あれほど国際的な友人を持ち、多様な仕事をした米国人女性はいない」という追悼記事を掲載した。
しかし、シドモアが歴史に刻んだ功績はほとんど忘れ去られている。シドモアの伝記を執筆しているダイアナ・パーセル氏は、先駆的なジャーナリストが歴史に埋もれてしまったのは、女性の生涯が夫の物語の脚注として扱われていた時代に、シドモアが独身を貫いたことも関係しているのではないかと考えている。
しかし、春になるとワシントンD.C.にやって来る人々は、それと知らずにシドモアの遺産を守り続けている。シドモアは1885年に初めて日本を訪れてから30年近く、その間6度交代した政権に対し、ポトマック河畔のタイダルベイスンに桜の木を植えるよう陳情し続けた。1912年、大統領夫人のヘレン・タフトが3000本の桜の最初の1本を植樹したとき、シドモアも立ち会った。(参考記事:「100年前、米国に桜をもたらした3人の米国人」)
現在、毎年150万人の観光客がタイダルベイスンの桜を見にやってくる。大統領夫人だったエレノア・ルーズベルトは「Reader’s Digest」の記事で次のように述べている。「この素晴らしい光景を見ると、いつも思い出します。エライザ・シドモアという1人の米国人のエネルギーとビジョンへの感謝を」  
 
ハインリッヒ・シュリーマン 

 

Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann (1822〜1890)
    旅行記 清国と日本
ドイツの考古学者。事業に成功し実業家として活躍した。40歳過ぎてから考古学に本格的に取り組み、ギリシア神話に出てくるトロイの都市を発掘し実在することを証明した。1864年世界漫遊に旅立ち、幕末に日本を訪れ、約3ヶ月に渡って江戸を中心に旅を続け、日本を絶賛する詳細な記録を残している。 
 
カール・ブッセ 

 

Carl Hermann Busse (1872〜1918)
ドイツ出身の新ロマン派の詩人。1905年、上田敏の訳詩集『海潮音』に収められた詩『山のあなた(Uber den Bergen)』でよく知られている。
『 山のあなたの空遠く 「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ。  』
だが、それ以前の1887年、来日して東大で5年に渡り哲学を講じていた。ブッセはドイツに帰国後に大学教授となり、1892年出版した『詩集』で認められ、以後『新詩集』『放浪者』などの詩集を発表、小説や評論、ヘルマン・ヘッセら新人を発掘した。つまり来日後に世界的な名声を得た人である。因みに上田敏は東大大学院で小泉八雲に師事していた。ブッセと面識は無い。  
2
ドイツの詩人・作家。ドイツ帝国ポーゼン管区ビルンバウム近郊のリンデンシュタット(現在のポーランド・ヴィエルコポルスカ県ミェンジフト)生まれ。新ロマン派に属した。ヘルマン・ヘッセの詩才を高く評価し、ヘッセの『詩集』を、自ら編集する「新進ドイツ抒情詩人」シリーズに加えている。日本では、上田敏が1905年(明治38年)に訳詩集『海潮音』に収めた「山のあなた」で知られる。上田の名訳のおかげで「山のあなた」は国語教科書にもたびたび取り上げられた。そのため、ドイツ本国ではほとんど無名のブッセの名は日本でのほうがはるかに有名、とされている。オトマール・シェック、アルバン・ベルク、下総皖一がこの詩による歌曲を作曲している(下総は上田敏訳による)。冒頭の一節は、2代目三遊亭歌奴(後の3代目三遊亭圓歌)が新作落語『授業中(山のあな)』でネタにして人気を博し、後年、後輩の5代目鈴々舎馬風が新作落語『会長への道』の作中で「あれであの人(圓歌)は落語協会会長になったようなもの」と評した程の一時代を築いた。 
「山のあなた」1
中学生か高校生の時に読んだ上田敏の海潮音に収録されている、カールブッセの「山のあなた」という詩がとても心に残りました。
私が現在でもなお口ずさむことができる外国の詩と言えば、このカール・ブッセの「山のあなた」一つだけです。
唄ならカラオケで歌詞をみないで明日の朝まで歌い続けることができるだけの曲数が頭の中に入っている方は多いと思いますが、詩の場合はどうなのでしょうね。
   山のあなたの 空遠く
   「幸(さいはひ)」住むと 人のいふ
   噫(ああ)われひとと 尋(とめ)ゆきて
   涙さしぐみ かへりきぬ
   山のあなたに なほ遠く
   「幸」住むと 人のいふ
大学4年生の時に、大学の研究室で当時指導を受けていた坂田助教授(当時。後に大阪大学教授)の独語による講義の際、助教授がさらさらと独語で黒板にこの詩を書いたことから、特に印象に残っています。
助教授が黒板に書いている途中でカールブッセの「山のあなた」だと気付いたので、助教授の黒板に書くスピードに合わせて日本語訳を口ずさんだところ、研究室中、すげーと沸きました。独語をほぼ同時通訳しているように外部からは見えたのでしょう。
ところが当時も今も独語の詩の内容は全く分かりません。独語でカールブッセの「山のあなた」をどのように表現するかも、当時も今も全然知りません。
事実はたまたまカールブッセの「山のあなた」の上田敏の日本語訳を覚えていただけです。
なぜ彼方ではなくあなたなのか
坂田助教授の書いた黒板を見ながら、なぜ「山の彼方」ではなく、上田敏は「山のあなた」と訳したのだろう、と不思議に思っていました。
これはティーンエイジャーの頃からの疑問で、この疑問がきっかけでずっとカールブッセの「山のあなた」が私の心の中に残っていました。
大学生の頃の私は、「山の彼方という表現では聞いたときの語感が鋭すぎるため、あえて山のあなたとの訳を当てることにより、より柔らかい語感に整えたのだろう」、と勝手に思っていました。当時はそれ以上追及することも深く考えることもありませんでした。
そしてそれから20年近くの時が経ったのち・・・・
電車に揺られながら窓から外の風景をみていた時、突然、かみなりに打たれたように閃きました。
「山のあなた」は「山の彼方」をよりマイルドに表現したものではない、と。
「山のあなた」に出てくる「あなた」は文字通り、「あなた」を指すことに気が付きました。ここでいう「あなた」とは、あなた、つまり、この詩を今、読んでいる読者自身のことを指すということに気が付きました。
「山のあなたの空遠く」との表現は、暗喩として、「未だ出会っていないずっと遠くにいる自分自身」のことを意味することになります。
「他の人が山の向こうに幸せがあると言ったので山の向こうに行ってみたが、そんな幸せなどなく、私は涙を流しながら帰ってきた。
そうすると人々は、山のもっとずっとずっと向こうに幸せはあるんだよ、というのです。」
というのは直訳ですが、ここにはもっと深い暗喩が隠されています。
山の向こうにある幸せとは、「未だ出会っていない将来の自分自身」のことです。
物理的な距離を移動するだけでは「未だ出会っていない将来の自分自身」には出会うことはできません。
今の自分自身を越えて、また別の成長した自分自身と出会うことができてはじめて、幸せを見つけることができる、と人々は言っているのです。

〈山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ。ああ、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く「幸」住むと人のいふ〉
さて、「幸」とは何だろうか。私は長い間、ずっとずっと、それは「愛する人と一緒にいることだ」と思っていた。だから、上の詩は「山の向こうの、遠い遠い所に『愛する人』がいるはずだ。その人を求めて行ってみたが、会えずに帰ってきた。でも、思い切れない。今でも、山の向こうの、遠い遠い所には、きっと『愛する人』がいるはずなんだ」というような意味だと解していたが、最近、、この詩のことが気になって読み返してみたところ、新しい疑問が湧いてきた。もし、引用した原文に間違いがないとすれば、〈「幸」住むと人のいふ〉のヒトは「人」という漢字であらわし、〈ああ、われひとと尋めゆきて〉のヒトは「ひらがな」であらわしているのは何故だろうか。ドイツ語の原文では、Ach,und ich ging im Schwarme der andern という箇所が該当するとおもわれるのだが・・・。ある人は、〈われひとと尋めゆきて〉を「私とおなじように“幸”を探しているたくさんの人がいた。でもやっぱり見つからなかった」と解している。つまり、「ひと」イコール「人」ということである。だとすれば、私はこの詩の解釈を以下のように改めなければならないだろう。「山のむこうの、遠い遠い所に「幸」の地があると、みんなが言っている。私は「愛する人」と一緒に、その地を探しに行ったが、見つけられずに悲しく帰ってきた。それもそのはず、「愛する人」と「一緒に」いるだけで「幸」な筈なのに、それ以上の「幸」を求めるなんて「欲張り」にもほどがある。だから、みなさい。あなたの「愛する人」さえ、悲しく(絶望して)帰ってきて、(なおかつ、去って行って)しまったではないか。山の向こうの、遠い遠いところに「幸」が住んでいるという人々の声が、今も私の耳に(むなしく)聞こえる」
いずれにせよ、この世で「幸」を手にすることなんて「できるがずがない」という諦めが肝要ではあるまいか。

先日見たテレビドラマの中で主人公が「山のあなたの空遠く・・」に始まる詩の一節をつぶやいていた。かいつまんでこの場面の背景を述べれば、この詩をともに読んだかっての同僚は自殺していて、彼はこの詩が「幸せはどこにもない」と言っているのだ考えていた。今を生きる主人公はこの詩が「幸せはきっとどこかにある」と言っているのだと考えている。同じ詩から受けた啓示を互いに逆に解しているのである。
この詩、「山のあなた」はドイツの詩人、カール・ブッセの「Uber den Bergen」を、日本の上田敏が訳したものであるが、原詩よりも上田敏の名訳によって有名になったものである。それを裏付けるかのような話であるが、かって私が仕事でドイツを訪れたときに、原語で諳んじていたこの「Uber den Bergen」を、ともに仕事をした青年たちに語って聞かせたところ、誰ひとり知っているものはいなかった。もっとも彼らが工学系の技術者であったことにくわえ、日本語なまりの拙い私のドイツ語では、かくなる裏付けが妥当なのか否かは、今となれば疑問ではあるのだが・・。
旅と酒をこよなく愛した歌人、若山牧水はこの詩に触発され、以下の短歌を、第1歌集「海の声」(明治41年7月刊)に残している。
   幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく
カール・ブッセは「幸せの住む国」を探しつづけ、牧水は「寂しさの終てなん国」を探しつづけたことでは少々異なるが、ともに人間が求める「永遠の桃源郷」を探しつづけたことには違いはない。その桃源郷が「あるとして生きる」のか、それとも「ないとして生きる」のか・・ライフスタイルの違いもあろうが、「ない」と言ってしまっては身も蓋もない。
以下蛇足ではあるが、もしドイツ人であった私が日本を訪れ、同様に牧水の「幾山河 越えさり行かば・・」を、ドイツなまりの日本語で、ときの青年たちに語り聞かせたとして、はたしてそのうちの何人がこの歌を知っていると答えるのであろう・・昭和は遠くなりにけり・・しかして、明治はさらに遠くなりにけりの感慨しきりである。

上田敏の名訳で日本ではすっかり有名になりました。この詩はさらに「ああ、われひとと尋(と)めゆきて涙さしぐみかへりきぬ。山のあなたのなお遠く幸住むとひとのいふ」と続きます。訳はー 「ああ、私もみんなと一緒に行って涙ぐんで帰ってきた。山のかなたのさらに遠くに幸が住んでいると人が言う。」となります。
その意味を「幸せは山のかなたにあるのでなく、足元にある」とみる人もいますが、ブッセがどういう心境だったかは分かりません。「なお遠く幸住む」というあたり西欧人の飽くなき欲求、未練が感じられないでもありません。一方、メーテルリンクの「青い鳥」という話を皆さんも子供の頃聞かれた記憶があるでしょう。これも西欧の話ですが、ここでは「幸せの青い鳥は、外に求めても求められず足元にあった」という主題がはっきりしています。
今回のキーワードでは、実は、このことがいいたかったのです。
今、いろいろ悩みや問題を抱えている人も多いと思います。
しかし、戦時中、命を脅かされた時代、戦後の貧しかった頃を知っている私たちから見れば、「平和で、経済的に豊かになって何が不足があるのか。」
ということも多いような気がします。
いや、今でも、イラクやパキスタン、アフガニスタンのように始終爆弾テロの危険に曝されている地域もあれば、内戦に明け暮れる地域、自然災害に叩き潰され、住む家も食べるものもない人々が、この地球上には何百万、何千万人と存在していることを思えば、一般に日本人は何と恵まれた環境の中で生活しているか、ということが分かるはずです。
日常生活の中で、不平、不満、悩みや苦しみ、迷いなどは付きもの。でも、そういう思いに悩まされたとき、以上のようなことに思いをめぐらせれば、
足元にあるはずの幸福を見失い、忘れていたことに気付くかもしれません。いや、きっと、気付くはずです。
そういえば、『生き方』『幸せ』について考えさせられる童話の秀作としておすすめは「ピノキオ」。
木の人形のピノキオは、いたずらなどこにでもいる腕白小僧です。「今日こそは、まじめに生きよう」「勉強しよう」
「正直になろう」と思いながら、いつも悪い友達の誘惑に負けてしまいます。
さんざんな目に遭いながら、ついに人間にしてもらうピノキオは、人間の「弱さ」「愚かさ」そして「善良さ」「たくましさ」をそのまま表現している見事な作品です。
これは、子供の読み物というよりも、むしろ、大人が読み直すとためになる作品だと私は考えています。
あなたが『山のあなたの空遠く幸住む』と信じて、幸せを求め続けるか、それとも、足元を見直して、足元にあったはずの幸せ、忘れかけていた幸せに気付くかー まさに、あなたの心がけ次第だと思います。
日本の昔話にも素晴らしいものがあります。「浦島太郎」は、高齢社会で、面白おかしく生き、比較的恵まれた一生を長生きした人々の老後の哀歓を連想させるものがあります。
助けた亀に連れられて、絵にも描けない美しい竜宮城で乙姫様の歓待を受け、タイやヒラメの舞い踊りにうつつをぬかしているうちに、ふと気がついて、家路を急ぐ浦島太郎。帰る途中の楽しみは土産にもらった玉手箱-とここまでは、いつか歌った童謡の歌詞の通りですが...故郷に帰ってみると、元住んでいた家はなく、太郎を知っている人はみんなあの世へ行き、玉手箱をあけたら、たちまち白髪のおじいさん...なんとも、はかなく、淋しい結末。こうならないように、一日、一日をしっかり生きなければなりませんね。
「一寸法師」「かぐや姫」などは一連の恋物語、昔の日本人のロマンが子供の話に生き生きと描かれています。見方によっては、源氏物語にも匹敵するラブロマン、それに人生の哀歓がにじみ出ているのです。
「山のあなた」2
さて、みなさん、みなさんは20世紀初頭のドイツの詩人カール・ヘルマン・ブッセの「山のあなた」という詩をご存じですか?。みなさんのお爺さん・おばあさんの時代からこの詩は上田敏の名訳て日本では非常に有名になりました。
   山のあなたの空遠く
   <幸さいわい>住むと人のいふ。
   噫あゝ、われひとと尋とめゆきて、
   涙さしぐみ、かへりきぬ。
   山のあなたになほ遠く
   <幸>住むと人のいふ。
このブッセの詩を主題にして、大阪落語の名人・今は亡き桂枝雀が同名の落語「山のあなた」を創作しました。この作品は、彼が私たちに残してくれた心の形見・宝物だと、落語ファンの私は思っています。今日は皆さんのめでたいはなむけにこの作品をたどってお話ししたいと思います。桂枝雀さんは神戸生まれの関西人。彼の高座は生粋の関西弁での語りですが、私には上方言葉は語れませんので標準的な日本語でお話し致します。
仕事に疲れた中年のサラリーマンが、ふと乗った休日の電車で、都会から遠く離れた郊外の山裾の駅まで連れていかれる。電車を降りて足のおもむくままに山路を辿っていくと、いつしか峠にたどり着き、そこにみすぼらしい茶店があって、老婆が一人店番をしています。この場面、さすがに教養人の枝雀さんのこと、「分け入っても・分け入っても・青い山」と深山幽谷を山頭火の句で表現しています。
男はおばあさんに声をかけます。
「『山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う』なんていう詩があるけれど、本当にここらには幸い云うもんが棲んでいるだろうねえ?おばあさん!」
するとおばあさんは平然として、
「はいはい、おります、おります。さいわいならここらに仰山おりますですよ。」
といとも簡単に答えます。冗談のつもりの男は驚いて、
「おります、おりますって、どこに幸いが居るっていうんです?」
と聞き返します。
するとおばあさんは遠くを指さしながら
「ほら、ほら、あのずぅっと向こうに山が見えるでしょう?そこの手前の山じゃなくてそのもう一つ向こうの、ほら若草の生えたお山、あそこに行けば<さいわい>いうもんがいっぱい棲んでいますけんね。何なら貴方行ってみたら如何です?」
とますます乗ってきます。男は馬鹿馬鹿しくなってきました。
「あの二つ向こうの山に<さいわい>がいるって、どうしておばあさんには分かるんですか?」
と話をやめようとするのに対して、おばあさんはなお平然としてこんなことを言い出します。
「じゃ、話して聞かせましょうかね。実はね、私、今じゃあ年を取って少しは見られるような顔にはなったんですがね、私の若い頃ってのはとってもみっともない顔をしていましてねぇ。自分ながら鏡を見るとプーっと吹き出したくなるような、それはそれはおかしな顔をしていましたですよ。私が生まれるとすぐに二親は死んでしまいましてね。だっから私は親の顔を知りません。親類の家に預けられたんですが、年端もいかない子供の頃から炊事・洗濯・水汲み・子守り・掃除に・畑仕事・・・。ろくろく食事も与えられないままに働きづめに働らかされてねぇ。何のためにこの世に生まれてきたのかと何度思ったかしれませんでしたよ。やがて、年ごろになると町の工場に働きに出されました。しかしそこでも、友達は一人もできませんでした。私の顔って、おかしいだけじゃなくって、泣き出したくなるような寂しい顔でしたからねぇ。年頃の女の子だっていうのに、男の人の誰一人として私に声をかけてくれる人っていませんでしたよ。実に、寂しい青春を送っておりましたでねぇ。そのうちに重い病気にかかりましてね、お医者さんに診てもらいましたら「もうとても助からん、間もなく死んでしまうだろう」って。私、考えましたです。なんでこんな不幸に生れついたのかって、ね。ひとつ、あの世に行って、死んだお父さんとお母さんに思いっきり悪口を言ってやりたい。そしてから二人にきつう抱きしめてもらおうと思いましてね。<ミドロが淵>という湖のほとりに行って、土手の上から真っ逆さまに飛び込もうとしていると、後ろから大きな声がしました。『死んじゃあいかん!』 振りむいてみると長が〜い白い髭を伸ばして杖をついたお爺さんが一人立っておりました。『おい、おまえに<しあわせ>ちゅうもんを見せてやるから俺についてこい!』とおじいさんは言いましてね、有無を言わせずに連れていかれましたですよ。その場所が、ほら見えますか? あそこ、その手前の山じゃなくてもう一つ向こうのかなたの山。緑の若草の生えているお山。・・・・・そこへ行ってみますとね、白い綿菓子のような、ゴム風船のようなものがふわーりふわーりといっぱい飛んでいるんです。どこが頭だか尻尾だか分からないような白くてふわふわした丸いようなものが。おじいさんの言うには『これが<しあわせ>というもんだ。とらまえてみろ!』って。『お前のその胸に抱けるようになったらお前も幸せになるじゃろう』ってね。」
「そこで私は一心不乱にその白い風船のような綿菓子のようなものを追いかけましたですよ。ところがこれがどっこい難しい。ぐっと抱こうとするとふわっと上の方に、またあわててわしづかみしようとすると今度は下へするっと、どうしてもつかまえられない。するとおじいさんが『ここへ毎日来て、練習しろ。二、三年も練習すればとらまえられるようになるじゃろう』って、おじいさんはそう言ってここにこの茶店を作ってくれたんです。それからというもの茶店にお客の無いときは、見えますか?、あの二つ向こうのお山?。あのお山に毎日のように行って、私は<さいわい>を捕まえる練習に励みました。しかしどうしても捕まえられない」
「『もういいわ、どうせ私には幸福なんて縁がないんだ』って、そう思った瞬間に小さな<さいわい>がむこうから私の胸に抱きついてきたんです。あの山に初めて来たあの日から数えてちょうど三年の月日が流れとりました。こうしてとうとう私は<さいわい>を捕まえることに成功しました。おかしなもので、捕まえようと一生懸命に追いかけていた時には捕まえられなかったのに、無理して捕まえようと思わなくなった途端に向こうから胸の中に入ってきたんです。力いっぱいつかまえるのではなくて、抱くような抱かないようなそんな気持ちで抱いてやる。分かりますか? 私の言うことが、分かりますか?」
・・・・・
旅人は、いつのまにかおばあさんの話を信じてもよいような気持になってきました。するとおばあさんは、
「あなたもあのおじいさんのところへ行って修業したらどうです?」
と言います。男はそれには答えずに、
「そうですか、やっぱりカール・ブッセの『山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う』ってのは本当だったんですね。山のあなたというのだからやっぱり、私が棲んでいるごみごみした都会なんかじゃなくて、あの二つ向こうの山のように「山のあなたのなお遠く」でないと<さいわい>は棲んでいないんです、ね?」と言いました。
それを聞いたおばあさん、
「いえ、いえ、それは違いますですよ。あなたの住んでいる都会から見れば、あの二つ向こうのお山は、<山のあなたのなお遠く>かも知れませんが、あのお山から見たらあなたの住んでいる都会もまた<山のあなたのなお遠く>なんですよ。都会と言えどもそこもまた「幸い住むと人の言う」そういう世界なんですよ。」
・・・・・
これが、名人桂枝雀の落語のオチでした。幸福の青い鳥が思いがけず窓辺の鳥かごの中にいたように、幸せの黄色いハンカチが貧しい炭鉱住宅の物干し竿にへんぽんと翻っていたように、<さいわい>はすべての人々のそれこそすぐ傍にいること。<さいわい>は焦って捕まえようとしても捕まえられないが、ごく平凡な日常生活の中にこそあるのだと枝雀さんは主張したかったようです。
みなさんは、今日巣立ちます。そして、明日からそれぞれに独りぼっちで山のあなたに向かうことになります。あの枝雀さんのおばあさんが教えてくれた流儀に倣って<抱くような抱かないようなそんな気持ち>で<さいわい>を捕まえましょう。皆さんの「しあわせ」を心から祈っています。
 
イザベラ・バード 

 

Isabella Lucy Bird (1831〜1904)
    イザベラバードの見た明治日本
イギリスの女流作家。当時の女性としては珍しい「旅行家」として、世界中を旅した。1878年、47歳で来日し東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(ヘボン博士の紹介で「伊藤」という従者兼通訳の日本人男性一人のみが同伴した)。後に京都や伊勢神宮などを巡る関西地方も旅行し、これらの記録を『日本奥地紀行』『バード 日本紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)として残した。特にアイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献で貴重。以下は日本について語った有名な一文。
「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」  
2
イサベラ・L(ルーシー)・バードは、19世紀後半から19世紀末にかけて世界各地を巡ったイギリス人旅行作家です。 1831年10月15日、イギリス・ヨークシャーのバラブリッジという所で、牧師夫妻の長女に生まれました。日本では、江戸時代が後期〜末期へと向かいつつある頃の、天保(てんぽう)2年になります。22歳の時に初めての本格的な海外旅行でカナダやアメリ力を訪れ、見聞を記録・出版した旅行記がデビュー作でした。その後、オーストラリアやニュージーランド、ハワイ、日本、マレー半島、朝鮮半島や中国、チベット、インド、ペルシア、アルメニア、トルコなどの大旅行を繰り返し、多くの著作を発表しました。
最後の長期旅行となったのは、19世紀最後の年である1900年(明治33年)〜1901年のモロッコヘの旅で、1904年(明治37年)、エディンバラで病没しました。満72歳でした。まさしく、20世紀の開幕とともに旅を終えたといえるでしょう。バードは幼い頃から病弱で、脊椎(せきつい)も病んでいました。 22歳以降の大旅行には、医者の奨めによる転地療養の意味もあったといわれます。彼女の日本旅行記を見ると、「背中の痛み」についての記述が何度も出てきます。そのためもあってか彼女は長距離を歩くのが苦手だったらしく、得意な乗馬や、船や、日本では人力車も多用しました。
しかし馬や人力車といっても、健康な人でさえ長時間乗り続ければ身体のあちこちが痛んできます。しかもバードは、しばしば険しい峠越えや山道、土砂降りや洪水、時には川床や藪の“道なき道”をくぐり抜けたのです。肉体の辛さにもかかわらず苦難の旅を支えたのは、彼女の強靭な精神力と、人生への姿勢だったのかもしれません。
バードの頃の世界は、女性の「自由」が今より遥かに制限されていました。未知の異国を女性がたった独りで長旅するだけでも極めて異例だった時代、バードは「自由」を求めて広い世界に旅立った「女性」でもありました。行き先によって現地の通訳やガイドを雇いましたが、覚悟としては<女独り旅>です。おまけにバードは、旅先の見聞・体験を非常に詳しく、しかもできるだけ客観的に記録しました。その文章も、時にはユーモアを交え、時には詩情豊かで心に沁み、情景が生き生きと伝わってくる優れたものでした。バードは、西洋女性が単身外国を旅して記録するという“レディートラベラー”の、先駆けの一人ともいわれています。
バードの旅と信仰
バードは英国国教会牧師の家庭に生まれ育ち、敬虔なキリスト者でした。 1860年にエディンバラに定住した後のバードは、しばらく本格的な旅行をしていません。この時期の彼女は、信仰に基づく慈善活動や困窮者救済に熱心に取り組みました。その後の日本旅行をはじめとする極東や中央アジアなどの旅には、西欧人がほとんど行ったことのない<未踏(みとう)の地>を踏みたいという気持とともにキリスト教布教の最前線を見聞し<もっと奥の世界に>分け入りたいという思いもあったようです。彼女の旅の動機には、健康回復のための転地療養や探険心や「自由」への希求だけでなく、宗教的な関心もあったのです。
バードの人柄
バードは、どんなに困難な旅の中でも、驚くほど落ち着いていました。自分が危険なのに周囲の人々や風景を眺めたり、自分自身のことをも客観的に見つめる目を持っていました。冷静沈着、感受性豊かで肝が座り、勇敢で情に厚く繊細で…。そんな彼女の性格を一言ではなかなかまとめ切れませんが、人柄を窺(うかが)わせる場面は日本旅行記にもたくさん登場します。
たとえば手ノ子(山形県飯豊町)駅逓の場面。人々の親切と金銭に卑しくない態度に深く心打たれたバードは、「私は日本を思い出す限り、いつまでもあなた方を忘れないでしょう」と伝えて別れを告げました。
たとえば米代川(よねしろがわ。秋田県北)の場面。記録的豪雨続きのため渡河禁止令が出ていた渦巻く激流を小舟で渡ったバードは、木の葉のように流されてきた大型屋形船に激突されかかりました。通訳の日本人青年イトーは死を覚悟して顔面蒼白でしたが、バードは屋形船の乗客のことが心配の余り自分に迫る危機を何とも思わず、ただイトーの様子を「おかしく」眺めるだけでした(屋形船は船頭8人が遭難、乗客の安否は不明)。間一髪で命を落としていたほどのピンチだったにもかかわらずバードは、その日の旅の「唯一の獲物」と称して途中どこかで百合の花を摘み取り、宿の主人にプレゼントしました。
またたとえば大嵐の津軽海峡を小型蒸気船で函館に渡ったバードは、吹き荒(すさ)ぶ風と豪雨と雷に“北海の荒ぶる声たち”を聴き、故郷の嵐を想い起こして<自分を歓迎してくれている>と嬉しがっています。
こうした姿勢は、彼女の生れつきの資質と、キリスト教信仰が合わさって培われたのでしょうか。
バードは49歳の時(1881年3月)、亡き妹ヘンリエックの侍医をしていたジョン・ビショップ博士と結婚しました(彼女にとって唯一度の結婚)。しかし夫は5年足らずで病没。もちろん旅行作家「イサベラ・L・バード」の名はずっと前から欧米知識人社会に知られていましたが、バードは以後も「ビショップ夫人」を名乗り続けました。こんなところにも、彼女の人柄の一端が表れているのかもしれません。
バードはその後、亡き夫と妹を偲び、カシミールのスリナガルという所に「ジョン・ビショップ記念病院」を、アムリッツァルという所に「ヘンリエッタ・バード記念病院」を創設しています。
バードの仕事と評価
バードの著作の幾つかは、出版当時からベストセラーとなりました。自身が著名な旅行作家だった彼女は、欧米各国の著名人・知識人・有力者たちと面識や交流がありました。バードの旅と記録の実績はイギリス国家(大英帝国)からも認められ、1891年(明治24年)、王立スコットランド地理学協会の特別会員に選ばれました。翌年には王立地理学協会(ロンドン)の特別会員に迎えられています。女性として初の特別会員の一人でした。 1893年(明治26年)には、ヴィクトリア女王への謁見を許されました。
バードは探検家や旅行作家として地理学に貢献しただけでなく、日清戦争前後の朝鮮半島情勢を報道写真家兼ジャーナリストとして取材し、新聞に寄稿しました。日本によって謀殺された閔妃(ミンピ:朝鮮国王・高宗の王妃)とは、親しい友人関係まで築いていました。歴史的現場の中枢近くまで食い込んで、世界に伝え得る立場にあったといえるでしょう。
彼女の活動には更に、イギリス政府の“お墨付き”を得た軍事外交情報エージェントの性格も窺(うかが)えるそうです(京都大学大学院教授の金坂清則さんの研究によります)。バードはまた、前述したように、熱心で有力なキリスト教医療伝道・福祉活動の支援者でもありました。
こうしてバードは様々な方面で活躍しましたが、彼女が遺した著作や原稿は、単なる旅行記以上の「歴史資料」としても、貴重な記録となっているのです。
『日本奥地紀行』
バードは明治11年(1878)5月から12月にかけて横浜〜東京〜北関東〜会津〜越後〜山形〜秋田〜青森〜北海道と関西などを旅し、行く先々で郷里の妹へニー(ヘンリエッタ・バード)宛てに手紙を綴りました。これをもとに出版した旅行記が、『Unbeaten Tracks in Japan』(アンビートン トラックス イン ジャパン。日本の未踏の道筋。1880年、上下2巻)です。1ヵ月で3回も増刷するほどの人気を博し、旅行作家バードの名を更に高めたといわれます。4年後、この本のうち関西方面などの部分を除き、一般の読者にとっては煩雑すぎると思われそうな記述もカットした“短縮普及版”(1巻本)が出版されました。それから約90年後の1973年(昭和48年)、この普及版を日本語に訳して出版されたのが、『日本奥地紀行』です。
邦訳者の高梨健吉さん(慶応大学名誉教授)は山形県置賜地方の小松町(今の川西町小松)に生まれ、「日本に来て日本のことを記述した人の本を調べる勉強がしたくて」、大学で英語学を専攻。チェンバレンという日本学者の著書を通じ、バードに興味を持ったそうです。昭和の戦後、古本屋でバードの日本旅行記(普及版)を手に入れ読み終えた高梨さんは、バードが故郷の小松を通って大変気に入っていたことや、小松を含む置賜盆地(バードは「米沢の平野」と表現)が「アジアのアルカディア」と激賞されていたことを知りました。余りに誉められ過ぎの気がしてか、「面映ゆい(照れくさいような)文章だった」と後に書いています。バードの日本旅行記については、もちろん原文で読んでいた専門家の方々もいました。一部を翻訳したり、ほぼ全訳出版したケースもありました。最近では、“完全版”全体を邦訳刊行する動きも出ています。しかし、最も早い時期に分かりやすい文章で訳出され、最もポピュラーに読みつがれてきたのは、『日本奥地紀行』でした。短縮1巻本ではありますが、私たち日本の一般読者の多くにとってはこの『日本奥地紀行』こそ、バードの世界と出会う最初の道標だったといって良いでしょう。
難関「十三峠越え」
北日本旅行のバードが山形県置賜地方に最初の一歩を印したのが、「十三峠(じゅうさんとうげ)越え」の道でした。越後下関(新潟県関川村)から玉川(山形県小国町)〜小国(同)〜手ノ子(飯豊町)などを経て小松(川西町)に進むには、背骨のような山脈を越えなければなりません。奥深い飯豊山系の北につながる、山道ルートです。 越後側から順にいうと、「鷹巣」「榎」「大里(おおり)」「萱(かや)」(または「萱野」とも)「朴ノ木(ほうのき)」「高鼻」「貝淵」「黒沢」「桜」「才ノ頭(さいのかみ)」「大久保」「宇津」「諏訪」という大小13の峠が含まれ、一般に「十三峠」と総称されます。 この道は越後と米沢城下(山形県米沢市)を結んだ旧米沢街道の一部で、米沢側(置賜側)からは越後街道と呼びました。近年、旧街道の保存整備や“地域興し”をしている人々の間では「越後米沢街道」と通称されています。どちらから進むにしても、大変な難路でした。バードはこの十三峠越え区間を、明治11年7月11日から13日にかけて、歩いたり馬や牛に乗ったりして踏破しました。ほぼ半分が、土砂降りの中での移動でした。この間の彼女の記述には地名の前後関係などに多くの矛盾が見られ、疲労困憊(ひろうこんぱい)して記憶が混乱したり、日付感覚がマヒしたのではないかとさえ想像されます。そんな苦難をくぐり抜けてようやく辿りついたのが、米沢の平野(置賜盆地)でした。十三峠については、本ウェブサイトの「越後米沢街道十三峠」でも詳しく紹介していますので、御覧ください。
「米沢平野」
「十三峠」最後の諏訪峠を下ったバードは、小松の町を含む「米沢の平野」(置賜盆地のこと)をとても気に入り、次のように表現しました(書いたのは、小松の次の宿泊地の上山です)。「米沢の平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には人々がしばしば訪れる湯治場の赤湯があって、まったくエデンの園である。(略)豊饒(ほうじょう)にして微笑む(ほほえむ)大地であり、アジアのアルカディアである」「繁栄し、自立し、その豊かな大地のすべては、それを耕す人々に属し、圧制から解き放たれている。これは、専制政治下にあるアジアの中では注目に値する光景だ」「美しさ、勤勉、安楽に満ちた魅惑的な地域」「どこを見渡しても豊かで美しい農村」−−。
「アルカディア」というのは、ギリシアに実在する地域名です。ギリシア神話世界の神々の故郷の一つとされ、ヨーロッパの人々にとっては古くから、憧れを込めた「牧歌的楽郷」の代名詞のようになってきました。バードは、「エデンの園」なと様々な言葉を尽くして置賜盆地の素晴らしさを誉め挙げただけでなく、楽土の象徴ともいうべき「アルカディア」に重ねたのでした。ちなみに「エデンの園」は人間が神の懐にあった世界=神と一緒に暮らしていた世界でもありますが、この言葉をバードが北日本旅行記の中で使ったのも、ここ置賜盆地の場面しかありません。ほかには唯一、北海道・礼文華(れぶんげ)山道から眺めた壮大な光景を「Paradise(楽園)」と表現しているだけです(「P」と大文字にすると、「エデンの園」も意味するそうです)。ともかく、バードが置賜盆地に、北日本の旅全体を通じて最大級の賛辞を贈っているのは間違いないでしょう。なぜそんなに誉め讃えたのでしょうか。
置賜盆地をアルカディアに重ねた理由
バードの足取りと当時の置賜盆地の様子を突き合わせると、幾つかの背景が想像されます。そしてここには、彼女が“アジアのアルカディア”を<何処から>眺めたのかというテーマも絡んできます。
1. バードは脊椎に病を抱える身で、奥羽山脈横断の「十三峠越え」を果たしました。この区間で初めて置賜盆地が目に飛び込んだ宇津峠 (12番目の峠)の場面に、彼女はこう書いています。「その頂上から私は、歓び迎えてくれるような陽光の中、米沢の気高い平野を満ち足りた思いで見下ろすことができた」(一部意訳)。
実際は最高地点という意味での頂上からは見えませんが、確かに盆地の一部が突然視界に入るポイントがあります。そこから垣間見た光り輝く風景は、険しい山越え区間の終わりが近いことを告げ、疲労困憊だったバードの心身に感動的だったでしょう。“アルカディア”の第一印象は、この時すでに芽生えたのかもしれません。
2. 最後(13番目)の諏訪峠は標高も低く比較的楽なのですが、ここを越えると眼前に置賜盆地が広がります。宇津峠を下った後は盆地は見えませんので、<ついに山越えが終わった>光景は、更に間近に感動的だったことでしょう。“アルカディア”の印象は、この時に大きく膨らんだとも考えられます。バードは以前から、チャールズ・ヘンリー・ダラス※という人が書いた『置賜県収録』という短い地誌のようなものを読んでいました。これが知識の面でも、<繁栄する地域>の印象を予めインプットしていたのかもしれません。
※チャールズ・ヘンリー・ダラス(1842-1894)イギリスのロンドンで生まれる。明治4年10月、米沢興譲館洋学舎(現米沢興譲館高校)に全国で四番目の外国人教師として迎えられる。探究心旺盛な教養人であり、米沢牛を全国に知らしめた恩人。国際的結社のフリーメーソン横浜第二代支部長でもあった。
3. 喜びと安堵感で諏訪峠を下り荷を解いたのは、美しい小松の町の、旧“本陣格”だった快適な宿でした。小松を発って赤湯温泉方面に向かったバードの目に、置賜盆地中央部の光景が展開して行きます。周囲を飯豊や吾妻や蔵王につながる山々に囲まれ、だだっ広くもなく狭過ぎることもなく程よい広がりの田園地帯に集落が点在する様子は、今でも素晴らしい風景です。おまけに小松から先の旅は(正確には市野野(いちのの)を出て以降の旅は)、十三峠越えのほぼ半分が土砂降り続きだったのとは対照的に、からっとした晴天の「快適な夏の日」でした。
4. バードが置賜盆地の人々の暮らしぶりを「アジアの専制政治」との対比で見ている点も重要でしょう。日本の他の農山村との比較だけなら、美しさは讃えても「アジアのアルカディア」まで登場するでしょうか。当時の東洋世界の大半は、“アジア的専制”とも呼ばれる体制下にありました。これが念頭にあったからこそ、<何とこれは!>と感激し、まるでここはアジアの中のアルカディアだ!>と評したのだと思われます。彼女の目に多くの小作農民の存在が見えなかったとすれば、つまり「地主」と「小作人」についての予備知識がなかったとすれば、<農民たちは自立し、豊かな楽土を営んでいる>と映っても不思議ではないでしょう。
5. 江戸時代の上杉氏は、会津120万石〜米沢30万石〜米沢15万石と石高を減らされたにもかかわらず、上杉謙信以来の“誇り”を失うことなく、大大名並みの数の家臣をほとんど減らしませんでした。大きなリストラをしないで抱え続け、財政改革と質素倹約に努めたのです。このため“貧乏藩”のイメージが強いのですが、何度かの大飢饉の時に一人の餓死者も出さなかったといわれています。全くゼロだったかどうかはともかく、日頃の備荒対策(凶作への備え)や「かてもの」(普段の主要な食材以外で食糧にできる山野の恵み)の知恵などもあってか、見事にピンチを乗り越えたのは事実でした。
 米沢藩領(ほぼ置賜地方全域を含む)にはまた、草木にも魂(たましい)があるのを感じ取り供養する「草木塔」(そうもくとう)という異色の石碑群が、たくさん建立されてきました。「草木塔」については本ウェブサイトの「草木塔」の項で詳しく紹介していますので御覧ください。
こうした風土と人々の心構えや心持ちを考えると、これに1〜4までの要因も全て合わさって、バードが置賜盆地に「アルカディア」を重ね見る背景になったのかもしれません。
「アルカディア」のメッセージ力
バードが「アジアのアルカディア」を何処で見たのか、場所として一つに特定することはできません。しかし小松を含む今の川西町域での印象と、川西町域からの風景が大きなインパクトになったのは確かでしょう。川西町埋蔵文化財資料展示室の前庭に昭和60年(1985)9月、「イサベラ・バード記念塔」が建てられました。彼女にちなんだものでは、山形県北部の金山町にある昭和53年(1978)11月建立の記念碑に次いで早い時期のものです(ちなみに金山町も、バードに“ロマンチックな町”と称賛されています)。置賜盆地の北端に位置する南陽市の公共温泉保養施設「ハイジアパーク南陽」(第3セクター)には、ロビー奥にバードの記念コーナーが併設されています。もちろん<赤湯温泉(南陽市)を含む置賜盆地を“アルカディア”とまで絶賛してもらった>ことにちなむものですが、「ハイジア」はギリシア神話の医神アスクレピオスの娘(健康の女神)ですから、施設名自体、やはりアルカディアに触発された命名でしょう。記念コーナーには、バードの著作の原書や挿し絵、彼女が中国などで撮影した写真や使用した「旅行許可証」、ビクトリア朝時代の英国女性の衣服や旅道具など、<よくこれだけ集めたものだ>と感心するほどの資料が収集展示されています。スペースは小さいものの、こうした常設展示場は全国初で、おそらく今も唯一ではないでしょうか。
“アジアのアルカディア”は山形県内陸南部の置賜盆地を指した表現ですが、この言葉は全県に浸透し、1世紀以上の星霜を経て山形県の第7次総合開発計画「新アルカディア構想」に採用されました。同構想には、森林や大地など自然環境との調和も、大事な柱の一つに盛り込んであります。 21世紀に向けて描かれた“楽郷”作りの夢とグランドデザインに、バードの心象がメッセージを伝えたといえるかもしれません。
この構想に基づいて平成3年(1991)、山形県立自然博物園が開園しました(西村山郡西川町大字志津)。豊かな生態系を残す月山(がっさん)山系・姥ヶ岳(うばがたけ)南麓から中腹にかけての、約245ヘクタール。広大なエリアを自然体験と自然学習のフィールドとして整備し、拠点施設のネイチャーセンターを設置したのです。このエリアは、山形県内陸部と庄内地方(日本海側)を結ぶ出羽三山信仰の道「六十里越街道」ルート沿いでもありました。平成9年以降、民間の有志と関連自治体、民俗研究者たちが協力して、六十里越街道の旧道を整備し活用する取り組みが進みました。これに触発され、六十里越街道や湯殿山信仰圏の自然風土を愛する鶴岡市朝日地区の住民有志や商工会員などをメンバーに「アルゴディア研究会」が誕生しました。
会の名前は、方言の「歩ごでゃ(歩こうよ)」に、「アルカディア」を重ねたそうです。
一方、山形県は新アルカディア構想の精神にそって「アルカディア街道復興計画」を策定。文化的・歴史的価値が大きい古道を現代に甦らせ活かして行こうと、県内の多くの主要街道と地域を対象に指定しました(六十里越も含まれ、志津はモデル地区指定されています)。
こうして、イサベラ・バードが残した「アルカディアというメッセージ」は、新たな姿で今に息づいているのです。 
3人の外国人と伊藤鶴吉との出会い
バードは旅の準備を行った横浜〜東京に滞在した間に、様々な在留外国人に出会っています。
ハリー・パークス駐日公使
当時の日本では、外国人が居住・商売できる場所が、横浜・長崎・東京・神戸・大阪・函館・新潟の開港場に制限され、「パスポート」がないと開港場から半径40キロを超えて移動すらできず、さらに期間もルートも限定されていました。しかし、パークス駐日公使がバードのために用意したパスポートは、こうした制限が一切なく日本国内を自由に動き回れる特別な免状でした。
ファイソン夫妻
バードが東京の外国人居留地にある英国教会伝道協会に立ち寄った際に出会った夫妻で、新潟からやって来ました。夫のフィリップ・ファイソン氏はケンブリッジ大学を卒業後1874年に来日し、東京で日本語を学び新潟で7年間伝道に従事しました。バードが新潟を経由するコースを採用した理由は、ファイソン夫妻の新潟における伝道の様子を視察したかったからではないかと思われます。
ジェームス・カーティス・ヘボン氏
米国長老派教会系の宣教医であり、有名なヘボン式ローマ字の創始者でもあります。幕末の1859年に来日して神奈川に住み、横浜で施療所を新築し医療活動に従事しました。バードは数日間滞在したヘボン氏宅において旅行に帯同する通訳兼従者の面接を行い、多くの応募者の中から、最後に登場した(一見怪しげだった)若者の素質を見抜いて採用しました。ヘボン氏の邸宅で雇った若者こそ、バードの旅の成功を影でサポートした「イト(Ito)」こと伊藤鶴吉氏です。バードの通訳兼従者の「イト(Ito)」は長らく謎の人物とされてきましたが、バード研究者の金坂清則氏の調査で神奈川県生まれの伊藤鶴吉氏であることが判明します。日本の通訳業界では「通訳の名人」「通弁の元勲」なとど評され横浜通訳協志会の会長も務めるなど、それなりの人物として活躍された方であったようです。
伊藤鶴吉氏 1
バートと出会った時は若干20歳でしたが、それまでの経歴も若いながら大変経験豊かで、かつて米国公使館で働いていたり、イギリス人の植物学者の通訳兼従者として、東北から北海道をすでに回っていたりと、目を瞠るものがありました。そして何より、英語で不自由なくバードと会話が交わせたことが、最終的な決め手となったようです(※面接したほぼすべての者が会話もできなかったらしい)。
バードは外国人である自分が行く先々で注目を浴びるため、屈強だが小柄でのっぺりした面持ちの伊藤氏の外見が平均的な日本人らしく気を引かない点も気に入りました。また、外見の第一印象とは裏腹に、時折のぞかせる頭の回転が速く抜け目がなさそうな表情などもバードは見取っており、実際に雇った次の日から伊藤氏は仕事を完ぺきにこなすなど、バードの人の素質を見抜く慧眼は証明されました。
伊藤鶴吉(1857〜1913) 2
神奈川県三浦郡菊名村出身、後に「横浜通訳協志会」会長となり当時の通訳の第一人者として活躍。
バードは横浜で通訳兼従者を雇うためにヘプバーン博士(1815〜1911)立会いの下で応募者と面談を行い、三人目の応募者と契約しそうになったところへ、四人目の応募者である伊藤がなんの推薦状も持たずに現れる。以前植物採集家のマリーズ氏と東北や北海道を旅したことがあるという。(後で伊藤の背信行為がばれる)
バードは伊藤を信用できず気に入りませんでしたが、伊藤にはバードの英語が分かりバードには伊藤の英語が分かる。早く旅に出たいこともあり伊藤を月12ドルで雇うことにし、伊藤の頼みで一カ月分の賃金を前払いした。
伊藤は18歳(20歳という説もあり)で身長は150p足らず。
『がに股ながら、よく均整のとれた頑丈そうな体軀の持ち主です。顔は丸顔で妙にのっぺりしており、きれいな歯と細い目をしています。それに重そうに垂れたまぶたはまるで日本人によくあるまぶたを戯曲化したようです。』
『伊藤はその割におしゃれがえらく好きで、歯を白くしたり、鏡の前で丁寧に顔に粉をはたいたり、日に焼けるのをひどく嫌がったりするのです。手にも粉をはたいていますし、爪を磨き、外に出るときは必ず手袋をはめます。』
旅の途中(藤原)では、
『伊藤はとても頭がよく、いまでは料理人、洗濯人、一般的なお供、それにガイドと通訳をすべて兼ねるほど有能で(中略)彼は強烈に日本人的で、その愛国心には自分の虚栄という弱みと強みがしっかりとあり、外国のものは何でも劣ると思っています。』
伊藤は頭がよく、旅支度などは指示されなくとも手際よく整え、人との交渉においてもその能力を遺憾なく発揮している。
伊藤という通訳者無しでは今回の旅は成し得なかったかもしれないし、バードの手紙も内容は乏しいものになったことが想像できる。また、週に一度長い手紙を母宛に送っているし、送金もしており親孝行な若者といえる。旅行中の唯一の楽しみは夜の按摩だったという。
バードは函館で伊藤と別れるときこう書いている。
『愉快な蝦夷の旅を終えるのがひどく心残りで、(中略)この若者と別れるのがとても残念だったのです。』、『今日は大変残念に思いつつ、ついに伊藤と別れました。伊藤は私に忠実に仕えてくれ、(中略)わたしは既に彼を恋しく思っています。』  
『日本奥地紀行』 阿賀流域
バードにとって「悪名高き道」だった会津街道 / (悪名高い道)
昨日[7月1日]の旅はこれまでで最も厳しいものの一つだった。10時間もの大変な旅だったのに、わずか15マイル[24キロ]進んだだけだった。車峠から西に向かう道はたいへん悪名高い道なので、一部の宿駅は1マイル[1.6キロ]そこそこの間隔で設けられている。しかし、多くの町がある会津平野[盆地]とその奥の広大な地域の農・工産物の新潟への移出は、少なくとも津川川[阿賀野川]に出るまではこの道によるしかない。この道は近代的なものの考え方をまったく無視し、山を、推測で言うのも怖いぐらいの急勾配で、真っすぐに上ったり下ったりしている。さらにぬかるみの連続になってしまっているうえに、大きな石が放り込まれて角だけが上に出たり、ぬかるみの中に完全に没したりしている。馬に乗って通った道でこんなにひどい道はこれまでなかった。よくも道などと言えるものである!
日本の村落の貧困を憂いたバード / (粗野な習性と無知)
宝沢[宝坂の誤記]や栄山に着いた時、この地方の集落の汚らしさはここに極まれりと感じられた。人々は木を燃やす煙で黒く煤けた小屋に鶏や犬や馬と一緒に群がるように住まい、堆肥の山からは液体が井戸に流れ込み、男の子供たちはすっ裸だった。たいていの男は〈マロ〉[揮(ふんどし)]以外ほとんど身につけていなかった。女たちも上半身は裸で、腰から下に身につけているもの[腰巻]も非常に汚く、単に習慣によって身につけているだけのように思えた。大人たちには虫に刺された炎症が、子供たちには皮膚病が全身に広がっていた。家は汚かった。…(略)…彼らは礼儀正しいし心優しいし勤勉だし、重罪とは無縁ではある。…(略)…もし人々がこれほど礼儀正しくも心優しくもなかったならば、彼らの置かれている状況にこれほど心を煩わされることもないのかもしれない
日本の三大川港・津川に宿泊
(津川の宿屋 − 品の良さ − 「礼儀正しい−異人さんにしては」)
ここ[津川]で私は満員の〈宿屋〉に泊まったが、私は野次馬の目に触れない庭にある気持ちのよい部屋を二間、用立ててもらった。伊藤はどこに着いた時も私を部屋に閉じこめ、翌朝の出発まで厳重に監視された囚人のようにしておきたがった。しかしこの宿では自由を得、〈台所〉に腰を下ろして楽しい一時を過ごした。この宿の主人は今や厳密にはなくなっている〈武士(サムライ)〉つまり二本差しの階級の人物である。低い階級の人々に比べて顔は面長で唇は薄く、鼻は高くて鼻筋がよく通っていた。また立ち居振る舞いにも明らかな違いがあった。私はこの人との興味深い会話を大いに楽しんだ。
この開けっ放しの部屋には漆塗りの机に座って書き物をする番頭や裁縫をする一人の女性がいたほか、〈板間〉では人足が足を洗い、〈囲炉裏〉の回りでは数人の人が胡坐をかいて煙草を吸ったり茶を呑んだりしていた。番頭が書き物をしている机は横長で低く両端が反ったものであるが、この形状はごくありきたりのものである。また、下男が私の夕食のための米をといだり、女が夕食をこしらえたが、この仕事をする前に男は着ているものを脱ぎ[揮一つになったし]、女は〈着物〉を諸肌に脱いだ。こうすることがちゃんとした女性の習わしになっているのである。宿の女将と伊藤は憚ることもなく私についてしゃべっていた。何を話しているのかと尋ねた私に、伊藤は「女将はあなたがとても礼儀正しい方だと申しております」と答え、「異人さんにしては」と付け加えた。そこで彼女がそう思うわけを尋ねると、畳に上がる前に私が靴を脱いだし、女将が〈煙草盆〉を手渡した時にお辞儀をしたからですとのことだった。
阿賀野川の交易の要衝だった津川 
私たちは明日の川の旅で食べるものを見つけるために町じゅう歩いてみた。だが手に入れることができたのは、砂糖入りの卵白でこしらえた薄い軽焼き菓子と砂糖入りの麦粉でこしらえた団子、そして砂糖を絡めた豆[豆板]だけだった。美しく趣きのある茅葺き屋根は姿を消した。津川の家の屋根は板葺きで大きな石で重しをしてある。しかし、切妻造りの家が通りに面して並び、庇の下が通路(ベランダ)[雁木(がんぎ)]となって続いており、しかも通りは右端で二度にわたって屈折し[鈎形をなし]、下手は川の堤防上にある宮[住吉神社]の境内で終わっているので、ほとんどの日本の町ほど単調ではない。人口は3,000人で、多くの物資がここから新潟に舟で送られる。今日は駄馬がたくさんいた。…(略)…[夕食に]出された鮭の切り身はこれまで味わったことがなかったほど美味しかった。私は陸路の旅の第一行程を終えることができた。新潟へは明日[七月三日]の朝、舟で向かう。
艜(ひらた)船に乗って出航したバード / 快適な舟旅
新潟行きの舟は八時に出ることになっていたが、伊藤は五時に、みんな出ていっています、舟が満員です、と言いながら私を叩き起こした。それで大あわてで出発した。宿の主人は私の大きな荷物の一つを背中に担いで川[常浪川の船着場]まで走ってくれ、そこで「客の道中の安全を祈って別れを告げた」。二つが合流して一つになった川[阿賀野川]は、もっとゆっくりできればうれしいのにと思えるほどに美しかった。朝には[朝焼けのため]不思議なほど色彩豊かで柔らかかった陽の光は、昼にはギラギラと照りつけることのない輝くような美しい光へと変化した。暑さも酷くはなかった。
・・・この「定期船」は造りのしっかりした舟で、長さが45フィート[13.5m]、幅が6フィート[1.8m]あり、一人の男が船尾で艫櫂(ともがい)を使って漕ぐ一方、もう一人の男が幅広の水かきをもつ擢を漕いで進んだ。その擢は舳先(へさき)に取り付けた藤綱の留め具の中で動く。またこの擢には長さ18インチ[約45p]ほどの小槌の柄が付いていて水をはじくようになり、一回かく度に左右に動く仕掛けになっている。この二人の船頭は立ちっぱなしで、頭には雨笠をかぶっていた。舟の前方部と真ん中には米俵と木枠に詰めた陶器が置かれ、後部は藁屋根で覆われ客席になっていた。
イザベラ・バードが辿った津川・新潟間の航路は、小阿賀野川を経由するルート
出発した時には25人の日本人がいたが川沿いの集落で次々と下り、新潟に着いた時には3人だけになっていた。私は、積み荷の先端に持参の椅子を置いて腰を下ろし、この川の旅が、日に15〜18マイル[24〜29キロ]しか進めない、ぬかるみを這うような旅とは雲泥の差のある快適なものであることを実感していた。この旅は「津川の急流下り」と言われている。約22イル[19キロ]にわたって両岸に高い絶壁が続き、水面に姿を現したり水中に没したりする岩が散らばり幾度か鋭く曲流し浅瀬をなす[危険な]部分も多い川を、舟は木の葉のように下っていくからである。水難はよく起こり死に至ることもあり、それを防ぐには船頭の長い経験や熟練、冷静さが必要だと言われている。いくつもの急流部がありはするものの、規模は小さく手に負えないものでもない。現在のような水位でなら舟は45マイル[72キロ]を8時間で下る。その料金はわずか1シリング3ペンスに相当する30銭にすぎない。ただ、[津川まで]遡る際には5日ないし7日もかかり、棹を使ったり岸から舟をひいたりという苛酷な労働を伴う。
バードが驚嘆した「廃墟なきライン川」を、昔の写真とともに振り返る
赤銅色の船頭から藁葺きの屋根、帆柱にぶら下げられた乗客全員の笠に至るまで、舟はまさに「土着」のものだった。日がな一日、瞬時瞬時を楽しんだ。川を静かに下っていくのは賛沢な喜びだったし、空気はおいしかった。また、津川川[「阿賀野川」の誤記]が美しいとはまったく聞いていなかったので、うれしい驚きが湧き起こってきた。そのうえ、1マイル[1.6キロ]進むたびに待ち望んでいた母国からの手紙へと近づいていくのである。津川を出てすぐに、下ってゆく川の流れは幻想的な山々に行く手をさえぎられる感じになった。舟が通れるだけの幅で岩の門が開いたかと思うと、次には再び山にさえぎられるようになったのである。繁茂する木々の間から何も生えていない赤らんだ岩が、その尖塔のような姿を突如現した。まるで裸地なき[緑豊かな]キレーン[※スコットランド離島にある山]、廃嘘なきライン川であり、美しさの点ではいずれにも勝っていた。馬の背ほどの幅もないような尖んがった小さな稜線が無数にある山々があるかと思えば、灰色の巨岩がせり出した山々があったし、いくつもの細流が深い裂け目をなして流れ込み、高処には仏塔のある寺院が見えた。また、花の咲く木々の向こうには、勾配のきつい茅葺き屋根の民家が明るい陽ざしを浴びて見え隠れし、近くの山々の隙間からは雪をかぶる高い[遠くの]山々がちらっと見えた。
阿賀野川中流域から小阿賀野川への分岐地点まで / (安息の一日)
うっとりするような風景が32イル[19キロ]にわたって続いた急流下りが終わると、津川川[阿賀野川の誤記]は、川幅の広い水量豊かな流れとなって木立の多いほとんど真っ平らな農村地帯を大きくうねるように流れた。背後が雪をかぶる山々によって画されているところもあった。川面に展開する活動は、見ていてとても心地よかった。多くの丸木舟が野菜や小麦を積んだり、学校から家路につく少年少女を乗せたりしながら往き交っていた。白帆をたたみ12艘が一体となって水深の深い川をゆっくりと進んでいったり、陽気に大声をかけあう船頭にひかれて浅瀬を進んでいく平底舟(サンパン)の姿もあった。
いつ阿賀野川から小阿賀野川へと入ったか?
その後、川は幅が広く水深が深くなり、浮遊する大量の水草が発する沖積平野特有の匂いを漂わせながら堤防[自然堤防]の間を静かに流れるものへと変化した。堤防には木々や竹が茂り、また辺りの田園を隠すほどに高かったから、家はほとんどと言ってよいほど見えなかったけれど、人がたくさんいる気配はずっと感じられた。ほぼ100ヤード[約90メートル]ごとに狭い小道が[堤防の]茂みを抜けて川まで通じ、その傍らには一艘の丸木舟がつながれていた。また、桶と、石が両端に付き上下に動く竹棒を備えた絞首門のような構築物が途切れることなく姿を見せるので、給水を川に依存する家が近くにあることがわかった。さらに、堤防のうち川に出られる所では馬が柄杓で水をかけて背中を洗ってもらったり、子供たちがぬかるみの中でころげ回ったりする光景をいつも目にするし、家鴨(あひる)のガーガーという鳴き声や人間の話し声、活動に伴ういろんな音が草木の茂る岸辺の向こうから私たちの舟に向かって流れてきた。このため、たとえ姿は見えずとも岸辺にたくさんの住民が住んでいることを感じ取れた。暑く静かな午後、起きているものは船頭と私を除いてだれ一人いなかった。まるで夢を見ているような心地よい午後だった。ゆったりと下っていくと、時折、葡萄の枝が水平な棚に這うようにされたブドウ畑が見えるようになった。竹を横木にしたその棚は40フィート[12メートル]もの長さがあり、杉の棒を真っすぐに立てて釘で固定した支柱の高さは20フィート[6メートル]あった。そして棚がまだ葡萄の枝でいっぱいでなかったので、大麦の小さな束が横木にまたがるように掛けて乾してあった。
木立が増え、どんどん夢見るような風景になっていったのが、そのあと木立も豊かな植生もともに姿を消すと、川の両岸は砂と砂利からなる堤防のある低地が展開するようになり、[午後]3時には新潟の町外れにやってきた。
新潟に1週間滞在したバード
木立が増え、どんどん夢見るような風景になっていったのが、そのあと木立も豊かな植生もともに姿を消すと、川の両岸は砂と砂利からなる堤防のある低地が展開するようになり、[午後]三時には新潟の町外れにやってきた。屋根に石を並べた背の低い家々が広々とした砂地の上に列状に続き、その背後は樅(もみ)[正しくは松]の林の砂丘になっていた。川岸にはたくさんの張り出し縁側のある茶屋が並び、芸者をあげて酒[酒宴]に興じる人々の姿が見えた。しかし、川沿いの通りは全般にみすぼらしく寂れていたし、内側の通りも本州西岸の大きな都市とはいえ、思ったほどではなかった。海は見えず、領事館の旗がどこにもひるがえっていなかったから開港場だとは信じがたかった。私たちの乗った舟は産物や製品の輸送路になっているたくさんの堀の一つを、何百という荷舟の間を縫いながら棹を使って進み、町の真ん中で上陸した。それから何度も人に尋ねたあげく、ようやくにして伝道所[宣教師館]にたどり着いた。県庁の建物に近接してあるここで、私たちはファイソン夫妻のこの上ない歓迎を受けた。この建物は木造で、張り出し縁側もなく木も植えられていなかった。
建物は簡素で造りも単純なうえ、不便なほどに狭かったが、[西洋風の]扉と壁はとても賛沢に思えた。いつまでもがやがやとうるさく不作法な日本人の下で過ごしてきたあとで洗練されたヨーロッパ人の家庭の暮らしがどれほどありがたいものであったか、読者には想像もつかないと思う。
新潟を出発して通船川へ
私が新潟を発つ時、二人の外国人女性とやはり二人の金髪の幼女、そして毛の長い外国の犬一匹と外国人紳土一人が[船着場まで]ついてきてくれた。このため、もし外国人紳士一人だけだったら人目をひかなかっただろうに、多くの群衆が親切心からとはいえ堀の岸辺までついてくる羽目になった。住民の二人がその二人の子供を肩車にすると、ファイソン夫妻は私に別れの挨拶をしようと堀の際ぎりぎりまで歩いてきてくださった。〈通い舟〉(サンパン)[アンコ船]が幅の広い信濃川の渦巻く流れへと勢いよく飛び出した時、私はとても寂しい気持ちに襲われた。船は信濃川を横切ると、両岸を堤防に囲まれた狭い新川を棹をさして遡り、次いで[長雨で]増水した阿賀野川をやっとのことで渡った。
北蒲原の交通の要衝・木崎を通過して、阿賀野川流域外へ
狭くて濁った加治川ではむかむかするような肥料を積んだ小舟に何度も行く手を阻まれたり、延々と続く西瓜や胡瓜の畑と、川面の風変わりな活動に驚いたりした。船は棹を使いながら六時間の間苦労して進み、木崎に着いた。ちょうど10マイル[28キロ]来たことになる。ここからは、三台の〈人力車〉をひく車夫が一里[4キロ]当たり四銭五厘という安い料金で私たちを乗せ、足取りも軽く20マイル[32キロ]走ってくれた。…(中略)…沿道の多くの部分に連なる農業集落−築地(ツイジ)、笠柳(カサヤナゲ・かさやなぎ)、真野(モノ・まの)−はこぎれいで目隠しのため道側に笹垣を設けてある家が多かった。…(中略)…砂丘と砂丘の間の砂地では、肥料を大量に施して[英国の]菜園のような[集約的な]栽培が行われ、胡瓜、西瓜、南瓜、里芋、薩摩芋、玉蜀黍、茶、鬼百合、大豆、玉葱などの作物がみごとに栽培されていた。胡瓜は豌豆(えんどう)のように支柱仕立てになっていた。林檎や梨の木が高さ8フィート[2.4メートル]の格子状の棚の上で、横方向に枝を伸ばした果樹園が広々と続く風景も目新しかった。 
イザベラ・バードの日朝中
イザベラ・バードはイギリスの旅行家・探検家で、世界各地を旅して数多くの旅行記を残した。日本・朝鮮・中国の旅行記から、これら三国の社会や国民に関する評価を見る。
『日本奥地紀行』
バードは1878(明治11)年6月に来日、日光・新潟・山形・秋田を経て北海道に渡り、アイヌ人の村落を調査した。バードにとっては、初めてのアジア地域での旅行だった。日本人に対しては、容姿の貧弱さ、礼儀正しさ、山村の貧困、治安の良さに関する記述が目立つ。不道徳あるいは堕落しているという評価は、よくわからないが、キリスト教徒でなくイギリス紳士のようでもないということかもしれない。当時のヨーロッパ人としては当然だが、キリスト教を最高の価値体系と考えている。アイヌ人については、正直さ、物静かさ、深酒、容貌の醜さについての記述があるが、ここでは割愛した。
上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者がひとりもいないことであった。街頭には、小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが優しそうな顔をした連中がいたが、いずれもみな自分の仕事をもっていた。
日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである。
私はそれから奥地や北海道を一二〇〇マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている。
私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。
いくつかの理由から、彼らは男の子の方を好むが、それと同じほど女の子もかわいがり愛していることは確かである。子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。
見るも痛々しいのは、疥癬、しらくも頭、たむし、ただれ目、不健康そうな発疹など嫌な病気が蔓延していることである。村人達の三〇パーセントは、天然痘のひどい跡を残している。
そこで私はキサゴイ(小佐越)という小さな山村で馬を交替したときは、ほっとした。ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子どもたちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、酷い労働と焚火のひどい煙のために顔もゆがんで全く醜くなっていた。その姿は彫像そのもののように見えた。
仕事中はみな胴着とズボンをつけているが、家にいるときは短い下スカートをつけているだけである。何人かりっぱな家のお母さん方が、この服装だけで少しも恥ずかしいとも思わずに、道路を横ぎり他の家を訪問している姿を私は見た。幼い子どもたちは、首から紐でお守り袋をかけたままの裸姿である。彼らの身体や着物、家屋には害虫がたかっている。独立勤勉の人たちに対して汚くてむさくるしいという言葉を用いてよいものならば、彼らはまさにそれである。
ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。
ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、彼は、旅の終りまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。
彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。しかし、私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない。
日本の大衆は一般に礼儀正しいのだが、例外の子どもが一人いて、私に向かって、中国語の「蕃鬼」(鬼のような外国人)という外国人を侮辱する言葉に似た日本語の悪口を言った。この子はひどく叱られ、警官がやってきて私に謝罪した。
日本人は子どもに対して全く強い愛情をもっているが、ヨーロッパの子どもが彼らとあまり一緒にいることは良くないことだと思う。彼らは風儀を乱し、嘘をつくことを教えるからだ。
家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく団扇をもってきて、まる一時間も私をあおいでくれた。料金をたずねると、少しもいらない、と言い、どうしても受けとらなかった。彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなことがあったら恥ずべきことだ、と言った。
吉田は豊かに繁栄して見えるが、沼は貧弱でみじめな姿の部落であった。しかし、山腹を削って作った沼のわずかな田畑も、日当たりのよい広々とした米沢平野と同じように、すばらしくきれいに整頓してあり、全くよく耕作されており、風土に適した作物を豊富に産出する。これはどこでも同じである。草ぼうぼうの「なまけ者の畑」は、日本には存在しない。
おいしい御馳走であることを示すために、音を立てて飲んだり、ごくごくと喉を鳴らしたり、息を吸いこんだりすることは、正しいやり方となっている。作法ではそのようなことをするようにきびしく規定してあるが、これは、ヨーロッパ人にとって、まことに気の滅入ることである。私は、もう少しで笑い出すところであった。
どこでも警察は人びとに対して非常に親切である。抵抗するようなことがなければ、警官は、静かに言葉少なく話すか、あるいは手を振るだけで充分である。
警察の話では、港に二万二千人も他所から来ているという。しかも祭りに浮かれている三万二千の人びとに対し、二十五人の警官で充分であった。私はそこを午後三時に去ったが、そのときまでに一人も酒に酔ってるものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。どんなに人が混雑しているところでも、彼らは輪を作って、私が息をつける空間を残してくれた。
朝の五時までには豊岡の人はみな集まってきて、私が朝食をとっているとき、私は家の外のすべての人びとの注目の的となったばかりでなく、土間に立って梯子段から上を見あげている約四十人の人々にじろじろ見られていた。宿の主人が、立ち去ってくれ、というと、彼らは言った。「こんなすばらしい見世物を自分一人占めにしてるのは公平でもないし、隣人らしくもない。私たちは、二度とまた外国の女を見る機会もなく一生を終わるかもしれないから」。そこで彼らは、そのまま居すわることができたのである!
私はどこでも見られる人びとの親切さについて話したい。二人の馬子は特に親切であった。私がこのような奥地に久しく足どめさせられるのではないかと心配して、何とか早く北海道へ渡ろうとしていることを知って、彼らは全力をあげて援助してくれた。馬から下りるときには私をていねいに持ち上げてくれたり、馬に乗るときは背中を踏み台にしてくれた。あるいは両手にいっぱい野苺を持ってきてくれた。それはいやな薬の臭いがしたが、折角なので食べた。
私の宿料は《伊藤の分も入れて》一日で三シリングもかからない。どこの宿でも、私が気持ちよく泊れるようにと、心から願っている。日本人でさえも大きな街道筋を旅するのに、そこから離れた小さな粗末な部落にしばしば宿泊したことを考慮すると、宿泊の設備は、蚤と悪臭を除けば、驚くべきほど優秀であった。世界中どこへ行っても、同じような田舎では、日本の宿屋に比較できるようなものはあるまいと思われる。
日本の女性は、自分達だけの集まりをもっている。そこでは人の噂話やむだ話が主な話題で、真に東洋的な無作法な言葉が目立つ。多くの点において、特に表面に現れているものにおいては、日本人は英国人よりも大いにすぐれている。しかし他の多くの点では、日本人は英国人よりはるかに劣っている。このていねいで勤勉で文明化した国民の中に全く溶け込んで生活していると、その風俗習慣を、英国民のように何世紀にもわたってキリスト教に培われた国民の風俗習慣と比較してみることは、日本人に対して大いに不当な扱いをしたことになるということを忘れるようになる。この国民と比較しても常に英国民が劣らぬように《残念ながら実際にはそうではない!》英国民がますますキリスト教化されんことを神に祈る。
しばらくの間馬をひいて行くと、鹿皮を積んだ駄馬の列を連れて来る二人の日本人に会った。彼らは鞍を元通りに上げてくれたばかりでなく、私がまた馬に乗るとき鐙をおさえてくれ、そして私が立ち去るとき丁寧におじぎをした。このように礼儀正しく心のやさしい人びとに対し、誰でもきっと好感をもつにちがいない。
日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である。
伊藤は私の夕食用に一羽の鶏を買って来た。ところが一時間後にそれを絞め殺そうとしたとき、元の所有者がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来た。彼女はその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びない、というのである。こんな遠い片田舎の未開の土地で、こういうことがあろうとは。私は直感的に、ここは人情の美しいところであると感じた。
『朝鮮奥地紀行』
バードは朝鮮を四度訪問している。1894年1月に釜山に上陸し、ソウルに滞在した後、4〜6月に漢江流域を踏査し元山に達した。同年11〜12月にはロシア領内の朝鮮人社会を視察した。1895年1月には、ソウルで高宗に謁見した。同年11月には、陸路でソウル・平壌間を往復した。さらに1897年にも朝鮮を訪れ、ソウルに滞在した。李朝末期の朝鮮社会に対しては、役人の腐敗と民衆の無気力を絶望的と評価し、自主独立の可能性は全く認めていない。日本びいきのバードも閔妃暗殺事件にはさすがに呆れたのか、ロシアが朝鮮を支配すればよいと思っていたらしい。
朝鮮人は、優れた知力を気前よく授けられている。特にスコットランドで「判りが速い」といって知られている類の生まれつきの才能がある。外国人教師は朝鮮人の機敏さともの判りの良さに就いて喜んで証言する。朝鮮人には天分があって言語をとても速く習得し、中国人や日本人よりも流暢に、またずっと良い発音で話せる。朝鮮人には猜疑、狡猾、嘘を言う癖などの東洋的な悪徳が見られ、人間同士の信頼は薄い。女性は隔離され、ひどく劣悪な地位に置かれている。
政府、法律、教育、礼儀作法、社会関係そして道徳における中国の影響には卓越したものがある。これら全ての面で朝鮮は、強力な隣人の弱々しい反映に過ぎない。
朝鮮人は目新しい印象を作り出している。中国人にも日本人にも似ないで、そのどちらよりもずっと立派に見える。その体格も日本人よりずっとすばらしい。
私は北京を見るまではソウルを地球上でもっとも不潔な都市、また紹興[中国浙江省北部の県]の悪臭に出会うまではもっとも悪臭のひどい都市と考えていた!大都市、首都にしてはそのみすぼらしさは名状できない程ひどいものである。礼儀作法のために、二階家の建造が禁じられている。その結果、二十五万人と見積もられている人びとが「地べた」、主として迷路のような路地で暮らしている。その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしか無い。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い縁によって一層狭められている。
それにも拘わらず、ソウルには美術の対象になるものが何も無く、古代の遺物ははなはだ少ない。公衆用の庭園も無く、行幸の稀有な一件を除けば見せものも無い。劇場も無い。ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。ソウルには古い時代の廃墟も無く、図書館も無く、文学も無い。しまいには、他には見出せないほどの宗教に対する無関心から、ソウルは寺院無しの状態で放置されている。一方、未だに支配力を維持しているある種の迷信のために、ソウルには墓がないままにされている!
外国人は絶対安全である。しばしば急流で小舟を引っ張る退屈な作業の間、ミラー氏と召し使いが綱を強く引っ張っている時、私はしょっちゅう川岸沿いに独りぼっちで、二時間か三時間ぶらついていた。その小道が淋しい所かまたは村に通じていようがいまいが、私は、ひどく躾の悪い遣り方で示された好奇心以上の不愉快なものには、一度も出会わなかった。そしてそれは、主として女性によるものであった。
清鳳やその他の所でも普通の人びとは、その圧倒的な好奇心にも拘わらず、無作法ではなかった。通常相当遠くに引き下がって、私たちに見とれていた。ところが私は、全ての衙門の周りにしっかり縋り付いている学者階級の者どもの、躾の悪い無礼な目にずいぶん沢山遭った。そのある者は、船員が止めるよう丁重に求めた時、その船員をどやしつけながら私の部屋のカーテンを持ち上げ、頭と肩を入れる程であった。
その肩に税の重荷が掛かっている人びとつまり特権を持たない厖大な大衆が両班にひどく苦しめられているのは、疑いない事である。両班は代金を支払わないで、人びとを酷使して労働させるばかりでなく、さらに貸し付け金の名目で、無慈悲に強制取り立て[収奪]を行なっている。ある商人か農夫がある程度の金額を蓄えたと噂されるか知られると、両班または役人が貸し付け金を要求する。
女の人たちと子供たちは山のようになって、私の寝台の上に坐った。私の衣服を調べた。ヘアピンを抜いた。髪を引き下ろした。スリッパを脱がした。自分たちと同じ肉や血なのかどうか見るために、私の着物の袖を肘まで引き上げて、私の腕を抓った。私の帽子を被ってみたり、手袋を嵌めてみたりしながら、私のわずかばかりの持ち物を詳しく調査した。
長安寺から元山への内陸旅行の間、私は漢江の谷間でよりも、朝鮮の農法を見る良い機会に恵まれた。日本のこの上なく見事な手際のよさと、中国の旺盛な勤勉に比べて、朝鮮の農業はある程度無駄が多く、だらしない。
朝鮮では、私は朝鮮人を人種の滓と考え、その状況を希望の持てないものと見做すようになっていた。しかしプリモルスクで、私は、自分の意見をかなり修正する根拠となるものを見た。自らを富裕な農民階級に高めた朝鮮人、またロシアの警察官、開拓者や軍の将校から等しく勤勉と善行の持ち主だ、というすばらしい評判を受けた朝鮮人たちは、例外的に勤勉で倹約する質朴な人では無い事を心に留めておかなくてはなるまい。彼らはたいてい飢饉から逃れて来て飢えに苦しんだ人びとであった。そして彼らの繁栄とその全般的な振舞は朝鮮に居る同国人が、もしもいつか正直な行政と稼ぎの保証がなされるならば、徐々に人間になれる事であろう、という希望を私に与えてくれた。
私は、国王は、その目の輝きに従って見るに、心の底では愛国的な君主である、と信じている。改革の邪魔になっているどころでは無い。国王は、提案されたものは殆ど全て受け入れて来た。ところで、その布告が国法になる男には不幸な事であり、国にはもっと不運な事であるが、国王は、彼の聞く耳を得た最後の人物の説得に服している。国王には背骨が無く、目的に固執しない。最良の改革案の多くが、国王の意志薄弱の所為で早産している。
徳川を出発する前に、無感動できたなく、ぽかんと口を開け、貧しさにどっぷり浸っている群集に包囲されて宿屋の中庭のごみ、むさ苦しさ、がらくた、半端物の真ん中でじっとしていた時、朝鮮人は見込みのない、無力で哀れな痛ましい、ある大きな勢力に属している単なる羽に過ぎない、と私は感じた。そして若しロシアの手中に握られ、その統治の下で、軽い税金同様勤勉の利得が保証されない限り、千二百万人若しくは千四百万人の朝鮮人に希望は一つも無い、と感じていた。
もしある人が小金を溜めた、と伝えられると、役人がその貸与かたを要求する。仮にその要求を承諾すると、貸し手は往々にして元金または利息に二度と会えなくなる。もしその要求を拒絶すると、その人は逮捕され、破滅させるために捏造されたある種の罪で投獄される。そして要求された金額を差し出すまで、彼か親類の者が鞭打たれる。
狭量、千篇一律、自惚れ、横柄、肉体労働を蔑む間違った自尊心、寛大な公共心や社会的信頼にとって有害な利己的個人主義、二千年来の慣習や伝統に対する奴隷的な行為と思考、狭い知的なものの見方、浅薄な道徳的感覚、女性を本質的に蔑む評価などが朝鮮教育制度の産物と思われる。
要約して、以下のような意見を思い切って述べる事にする。多くの人口を抱えている朝鮮の状況は、日本かロシアの孰れかの援助を得て次第に改善されるよう運命付けられている。
朝鮮の大きくて普遍的な災難は大勢の強壮な男たちが、少しましな暮らしをしている親類か友人に頼るか「たかり」に耽る習慣である。それを恥としないし、非難する世論も無い。少ないけれども一定の収入がある人は多くの親類、妻の親類、大勢の友人、親類の友人たちを扶養しなくてはならない。この事が、官職への殺到とその官職を売れ口のある必需品にしている訳を一部説明している。

一八九七年の明確に逆行する動きにも拘わらず私は、この国の人びとの将来に希望が無いとは決して思わない。だが、次の二つの事が非常に重要である。
   一、朝鮮は、内部からの改革が不可能なので、外部から改革されねばならない事。
   二、君主の権力は、厳しくて永続的な憲法上の抑制の下に置かねばならない事。
『中国奥地紀行』
バードは三度目の朝鮮訪問である1895年11月のソウル・平壌間旅行の後、12月に上海に渡った。上海から揚子江を万県まで遡り、さらに陸路を保寧府、成都まで進んだ。そこから山岳地帯を梭磨まで進み、チベット人社会を調査した。帰りは成都から揚子江を重慶経由で下り、1896年6月上海に戻った。中国社会の活力と公正さを高く評価しているが、最悪の朝鮮社会を見た直後だったからかもしれない。他には中国人の冷酷さや国際情勢への無知に関する記述が目立つ。日朝に比べ外国人嫌いの感情が強く、バード自身も被害にあっている。チベット人に対する記述は割愛した。
中国のほかの地域の住民についてもいえることなのだが、揚子江流域の住民の在り方を我々が評価するに際しては、以下の諸点をはっきりと認めることが大切である。その一つは、わが西洋思想が対面しているのが、野蛮さとか堕落した道徳観ではなく洗練された古代以来の文明であるということである。これは衰退などしていないし、不完全ながら我々が尊敬し感銘さえして当然のものを含んでいる。
中国人には、自らの大変狭い世界に生きる保守的で順応性もある農民と、きわめて国際的で、成功を収めている華僑の両方が存在する。そしてこの両者の存在や、孝を重んじること、粘り強さ、機知に富むこと、結束力、法と文学を尊ぶ心などが力になって、中国人はアジア諸国の先頭に立ってきている。
中国人は明敏だし機敏でもあるが、保守的で、何事についてもすぐに感化されるということがない。商売の才には舌を巻いてしまう。生まれながらの商売人である。
本書で以下、ある程度敷衍したいと考えているが、杭州や漢口のような大都市から四川省の商業都市に至るまでの揚子江流域において旅行者が強く印象づけられることとしては、ほぼ次のようなことが挙げられる。すなわち、中国人の社会組織や商業組織がしっかりしていること。耕作技術がすぐれ丹念に耕作されていること。目的に対する対処の仕方が適切なこと。
しかし、中国人の並外れた活力や適応性・勤勉さは、一面では「黄禍」とみられるけれども、他面では、黄色人種の希望の源ともみることができる。つまり、国民性を失わないままで完全にキリスト教化するならば、この帝国には東アジアにおける支配的勢力を保つ可能性があるのである。
中国人は無学であるし、信じがたいほど迷信深い。だが、概していえば、いろいろな欠点はあるにしろ、ひたむきさという点では他の東洋民族にはないものがあるように思われる。
〈文人階級〉の多くの人々の無知さ加減はひどい。それは宿坊での会話の中にとめどもなく現われてくる。軍のある高官は、劉を頭とする黒旗軍[清末の将軍劉永福が創設した軍事組織]が台湾から日本人を駆逐したとか、劉が神々に誓った誓いと祈りが功を奏して台湾海峡が大きく口を開いたとか、ロシア、イギリス、フランス、日本の海軍が戦渦に広く巻き込まれ、やられてしまったとか言って憚らなかった!
中国で仁が重んじられているという印象は日常生活からはさほど受けない。中国人の性格に関するこの国での一般的な見解は、冷酷、残忍、無慈悲で、徹底して利己的であり、他人の不幸に対して無関心であるというものである。
中国人が慈善を、無欲で行うとか〈個人的な〉親切心や厚意から行うのでないことは明白である。彼らの徳行は集団としての人間のために大規模になされ、個人的な問題は見落とされてしまう。そこでは、愛や感謝の念を生むことになる、慈善を与える者と受ける者との間の個人的で健全なつながりや個人的な克己は度外視される。
耕作の見事さといったらなく、入念な手入れによって雑草はほとんど生えていなかった。避難村のある崖の麓まで階段状に耕作され、幅がわずか一八インチ[四五センチ]しかないような岩棚にさえも作物が実っていた。その日の旅にあっては、人が横になれるほどの空き地は道の上のほかには、全くなかった。
彼女たちの質問はまことに軽薄だったし、好奇心は異常なまでに知性を欠いていた。この点で日本人の質問とは好対照だった。ここには、していることに目新しさも多様さもなく、食べることと書くことだけをしている人間を何時間にもわたってジロジロ見ることに費やすという、大人としての異常なまでの無神経さが見てとれた。
群集はどんどん増え、囃し立てたり怒鳴ったりして、どんどんやかましくなった。口々に「〈洋鬼子〉(外国の悪魔)!」とか「吃孩子[子供食い]!」と叫ぶ声がどんどん大きくなり、怒号と化していくのがわかった。狭い通りはほとんど通れなくなった。私が乗った轎は何度も何度も棒で叩かれた。泥や嫌な臭いのするものが飛んできて命中した。ほかの連中よりも大胆なのか臆病なのかわからないが、一人の身なりのよい男が私の胸を斜めに強打した。叩かれたところはみみず腫れになった。後ろから両肩を強打する連中もいた。わめく輩は最悪だった。激昂した中国の暴徒だった。
信じられないような汚さ、古期英語を用いないと表せないようなひどい悪臭、薄汚なさ、希望のなさ、騒がしさ、商売、そして耳障りな騒音は中国の都市に共通する特徴であるが、それにしても渠県の騒音は、耳をつんざかんばかりだった。
中国の町のごろつき連中は、無作法で、野蛮で、下品で、横柄で、自惚れが強く、卑劣で、その無知さ加減は筆舌に尽くせない。そして、表現することも信じることもできないような不潔さの下に暮らしている。その汚さといったら想像を絶するし、その悪臭を言い表せる言葉は存在しない。そんな連中が日本人を、何と、「野蛮な小人」と呼ぶのである!
役人の給与が「生活賃金」ではないような制度の下でなら、多額の横領が起こる結果になるが、中国はそうでない上に重税国家でもない。また国民も役人の管理の下で援助を全く受けられないわけでもない。この上なくひどい腐敗も存在はするが、世の中全般の安全と秩序は保たれており、この二世紀近くの間、中国の富と人口は増加してきてる。
この制度は評判が悪いのは確かだが、トルコやペルシャ、カシミール、朝鮮を[私のように]数年にわたって旅したことがある人なら、中国の人々が虐げられた国民などではさらさらないことがわかって驚くことになる。また、現制度下にあってさえ、賄賂はあるものの税は軽く、働けば金になり、理にかなった自由もかなりあることがわかって驚くことになる。
大勢の薄汚い役人が何もせずにぶらぶらしているといったことはなかった。この点は朝鮮の〈衙門〉とは異なっていた。私を困らす者はだれもいなかった。
私は、私の知る東洋のどの国の女性よりも中国の女性が好きである。彼女らには多くのよい素質があるし、気骨もある。もしこのような女性がキリスト教徒になれば、きっと完璧なキリスト教信者になるだろう。親切心にあふれているし、大変慎み深くもある。また、忠実な妻であるし、彼女らなりによい母親でもある。
出自や富とは全く関係なく、学問と文筆に通じていることだけが、男が公職に就き、名誉や利益を得る方法なのである。この点は、皇族の子息であれ、農民の息子であれ変わらない。だから、中国は実のところ世界で最も民主的な国家だといってよいのである。
私が伝えようとしたことが以上によってはっきり伝えられたとすれば、小学校における中国の教育が、道徳と義務と礼儀の指導に限定されていることは明白である。知力を育むような教育は欠落しているし、教養学習もない。従って、精神修業における調和が強く求められている反面、もし寛大で分別のある心を育て損なったならば、誇張が進み、歪曲が生じるのが関の山といったことになるにちがいない。
それから私たちには石が次々と飛んできた。飛び道具は手近にいくらでもあった。石の一部は轎や轎かきに当たったし、私の帽子にも当たって帽子が飛ばされてしまった。「外国の悪魔」とか「外国の犬」という叫び声のすさまじさといったらなかった。石が轎めがけて雨霰のように投げつけられた。そして一つの大きな石が私の耳の後ろに命中した。このひどい一撃によって、私は前に倒れ込み、気を失ってしまった。
病気の苦力は木の下に横たえられた。そこで私はその男の燃えるような額に濡れたハンカチを当ててやった。その時、中国人の潜在的な残虐性が現われた。あの実に愛らしい創造物である観音が広く崇拝されているのに、この連中には何の感化も及ぼしていないことがわかった。何も運んでいない苦力が五人いたので、一匹のラバの荷物を五人で分け合い、病気の男をラバに乗せるように提案してみたけれど、拒絶したのである。この十二日間、寝食をともにしてきた男なのに、である。しかも、お前達はこの男をここに置き去りにして死なせるつもりかと尋ねると、彼らはせせら笑いながら、「死なせればいい。もう何の役にも立ちませんぜ」と宣った。病気の男が懇願した水が目と鼻の先にあったにもかかわらず、それをやろうとさえしなかった。
本書をここまで多少とも興味をもって読んでくださった方々は、四川省が少なくとも衰微しているとは、よもやお考えにはなるまい。商工業の活力は失われてはいないし、ジャンクの大群も港や直線流域で朽ちてなどいない。旅行者は行く先々で産業が盛んで、活気に満ち、物があふれ、完璧な労働組織も商業組織も存在するのを見かける。商業の信用貸しの水準は高く、契約は守られ、労働者は従順で教えやすく、知的でもある。またその賃金は保証されており、法も秩序もほぼ行き及んでいる。

総じて、平和と秩序、かなりの繁栄が、帝国全体に行き及んでいる。労働に対する報酬は確実にあるし、税金には賄賂がつきまとうが、それでも田舎ではめったに厳しくないし、都会ではきわめて軽い。中国の農民には「虐げられた」という表現が当てはまらないのである。完全な信教の自由もある。同業組合・商業組合やそのほかの組合は何にも邪魔されずにそれぞれの制度を維持している。結びつくことに対する中国人の天賦の才は何の束縛も受けない。実際のところ、中国人は実生活の面では世界で最も自由な国民の一つなのである!  
 
パーシヴァル・ローウェル(ローエル) 

 

Percival Lowell (1855〜1916)
アメリカ出身の日本の研究家であり世界的な天文学者。ハーバード大学で物理や数学を学び、後実業家となった。1883年来日し日本の研究を始め、その後3度再来日した。石川県能登などや日本を代表する山、その信仰をテーマに『極東の魂』など4冊を著した。この『極東の魂』の本を読んでハーン(小泉八雲)は来日を決めたといわれる。帰国後は本格的に天文学者となり冥王星の存在を「予知」した。 
2
アメリカ合衆国ボストン生まれの天文学者であり、日本研究者。
ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、数学の才能があり、火星に興味を持って天文学者に転じた。当時屈折望遠鏡の技術が発達した上に、火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が当時高まっていた流れもあった。私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え、1895年の「Mars」(「火星」)など火星に関する著書も多い。「火星」には、黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されている。運河の一部は二重線(平行線)からなっていた。300近い図形と運河を識別していたが、火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている。
また、小惑星 (793) アリゾナを発見している。
最大の業績は、最晩年の1916年に惑星Xの存在を計算により予想した事であり、1930年に、その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより冥王星が発見された。冥王星の名 "Pluto" には、ローウェルのイニシャルP.Lの意味もこめられている。
なお、彼の業績に対して天文学者のカール・セーガンは「最悪の図面屋」、SF作家のアーサー・C・クラークは「いったいどうしたらあんなものが見えたのだろう」と自著の中で酷評している(しかし一方で、前者は「彼のあとにつづくすべての子どもに夢を与えた。そして、その中からやがて現代の天文学者が生まれたのだ」と子供たちに天文学を志すきっかけを与えた面を、後者は「数世代のSF作家たちが嬉々として発展させた神話の基礎を、ほとんど独力で築き上げた」とSFの分野に影響を与えた面を評価した)。 一部の眼科医はローウェルは飛蚊症だったのではないかという仮説を述べている。  だが彼の建てたローウェル天文台はその後の惑星研究の中心地となった。アリゾナ州フラッグスタッフという天体観測に最適な場所を見出したのも評価されている。また、ローウェルの火星人・運河研究は、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』、E・R・バローズの『火星のプリンセス』、ブラッドベリの『火星年代記』にインスピレーションを与えるなど、SF小説・映画などのエンターテインメント分野にも影響を与えたことも評価されている。
日本
1889年から1893年にかけて、明治期の日本を5回訪れ、通算約3年間滞在した。来日を決意させたのは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だった。彼は日本において、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・スタージス・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンと交流があった。神道の研究等日本に関する著書も多い。
彼が旅の途中で訪れた穴水町にローエル顕彰碑が置かれ、彼が訪問した5月9日にはローウェル祭を開き、天文観測会や講演会が行われている。
日本語を話せないローウェルの日本人観は「没個性」であり、「個性のなさ、自我の弱さ、集団を重んじる、仏教的、子供と老人にふさわしい、独自の思想を持たず輸入と模倣に徹する」と自身の西洋的価値観から断罪する一方で、欧米化し英語を操る日本人エリートたちを「ほとんど西洋人である」という理由から高く評価するといった矛盾と偏見に満ちたものであったが、西洋の読者には広く受け入れられた。  
3
ローエルの「NOTO」旅行だが、彼自身が言っているように、そのきっかけは、たまたま日本地図を見ていて、日本海沿岸の北側に奇妙な形で突き出た能登半島の形を見て、惹き付けられたことによります。 少し「NOTO」の最初の章で、動機など書かれた「見知らぬ土地」の文章をここに転記してみましょう。
「ある日の夕方、東京の自宅で別に当てもなく、日本地図をあちらこちら、ちょうど誰もがダンスホールに来ている連中を見渡すように眺めているうちに、私の目は西方の海岸に奇妙な形を見せて突き出している1つの半島に惹き付けられてしまった。それは深く入り組んだ内海や、(おそらく南北の七尾湾のことだろう←私・畝の註)たくましい岬のある地形(珠洲の禄剛埼のことだろう←私・畝の註)を見せていたが、地図にはNOTOと記されており、この地名すらも私の心を喜ばせた。
その母音の持っている音色、子音の響きさえもすっかり気に入ってしまった。流れるようなNの音、確信を暗示するTの音、気まぐれな言い方かもしれないが、女性らしさと男性らしさの2つを同時に現しているのだ。その半島を眺めれば眺めるほど、憧れの心がつのり、足のあたりがむずむずしてき、とうとう能登まで足をのばす破目になってしまった。他人の恋人のことなど誰も分かってくれなくても結構なのだ」
ローエルもその後正直に「結局、能登は遠い国であったには相違ないが、あまり他の土地と違っていなかったという事実を白状しなければならない」と書いています。しかし、お陰で我々は、欧米人の目から見た貴重な明治維新時の能登の姿を、現在読むことができるのす。
それに、この「NOTO」は、別に能登だけの記録ではない。東京を出発して、碓氷峠、長野、直江津、親不知子不知を通り、富山県から荒山峠を越えて能登に入り、帰りは、また富山、長野、塩尻峠、諏訪、木曽地方を通って天竜下りをして、浜松に出るというコースを採っているが、そのコースの全てを記録している。能登の記録だけでなく、当時の中部地方の様子を知る貴重な資料とも言えるでしょう。
ただこの本を読むと、特に能登の人には、彼の植民地人を見下ろす西欧人的見方や、せったくよく宣伝してもらいたいところ、皮肉った表現や酷評をしている箇所が何箇所か見られ、不機嫌にさせるかもしれない。この点は、同じく七尾を訪れた有名な英国外交官アーネスト・サトウやミットフォードなどと比べると、いくらハーバードを出たとは言え、人格的に劣るのであろう。またアメリカ人という開拓者の子孫だけに、洗練された英国人以上に、そういう態度が出るのかもしれません。
最後に、明治期の日本に興味のある人には、ここに書いてある抜粋だけでなく、実際に入手して読むことをお勧めします。きっと明治に対する新しい視野が開けることと思います(参考:能登の図書館には大体この本が置いてあります)。
略歴
「人類がいままでに確認できなかった太陽系の惑星の中で、もっとも外側にある冥王星の数学的計算による予知発見者として、またユニークな火星の研究によって世界の天文学者に不滅の業績を残したパーシヴァル・ローエルは、1855年3月13日に、アメリカ合衆国、マサチューセッツ州、ボストン市に、オーガスタス・ローエル(1830-1900)の長男として誕生した。」(『NOTO』の訳者・宮崎正明氏の解説から)
パーシヴァルは、ボストンの旧家ローエル家の父祖から(彼と同名で1639年英国ブリストルから米国マサチューセッツ州に渡来した)数えて十代目であった。彼の一家は、いわゆる学者を多く輩出した家で、父親はハーバード大学出身の富裕な実業家だが、弟のアボット・ローレンス・ローエルは、後にハーバード大学の総長になっているし、妹のエミイ・ローエルは、20世紀初頭のイマジズム詩の代表的詩人として知られている。また叔父方のジェームズ・ラッセル・ローエルは、19世紀後半のアメリカ文壇の大御所的存在で、ハーバード大学教授、詩人、文芸評論家、アトランティック・マンスリー誌の名編集長であった。
パーシヴァル・ローエルは、13歳(1868年)の時から天文に興味を持ち始め、口径2インチ4分の1の望遠鏡で、毎夜天空の星を観察するのに熱中し、特に火星の存在に異常なほどの興味を示した。長じて、ハーバード大学に入学し、数学、古典、文学、物理学などを学び、卒業時の論文は「星雲説」であった。彼はまた文才にも恵まれ、在学時代に書いた論文でボードウィン賞をもらったりしている。
1876年に大学を卒業すると、甥でクラスメートでもあった、ハートコート・エモリーと共に、英国からシリアにかけての大旅行を試み、当時、セルビアとトルコの間に勃発していた戦争に参加しようと計画したが、これは失敗に終わった。しかし、この旅行はその後の彼の生涯を通して旅行と、飽くなき冒険心の原動力になった。
その後、6年間ほど、祖父ジョン・アモリー・ローエルの許にあって綿会社の経営事務に携わるが、退屈な実務には飽き足らなかったらしく、1883年(明治16年)の春、同郷の親友で医者であったスタージス・ビゲロー(1850〜1926)の後を追って、アメリカ大陸を横断し、太平洋を渡って、日本へと渡った。ビゲローは、日本の美術品を約16000点買い集め、アメリカに持ち帰って、ボストン美術館(世界でおそらく最高数の貴重な日本美術品を収蔵する美術館)の日本美術部の基礎を作った人です。
ローエルは日本に着いて以後は、東京で家屋を借り、日本人の召使いを雇い、日本語の学習に専念した。その後、来日して間もないその年の8月、ローエルは在日アメリカ合衆国の公使館から通達を受け、朝鮮国からアメリカの首都ワシントンに派遣される特別外交使節団の随員(外国人秘書官の役職)を依頼された。彼自身は、自分の亊を過少評価しているが、彼の短期間の学習による日本語の習熟ぶりは他のアメリカ人が舌を巻くほどのものだったらしい。使節団と共に8月17日に日本を出航、9月2日には、サンフランシスコに着いている。9月18日、ニューヨークでアーサー大統領に謁見した。そして、首都ワシントンを中心に、6週間滞米した後、日本経由で、12月24日、京城に帰着した。国賓待遇で、京城の城壁内の官邸に居住した。
1884年(明治17年)2月、約3ヶ月の朝鮮滞在を終えて、日本に帰着。その年の夏には、。シンガポール、インド、欧州という西回りの経由で秋には故郷のボストンに帰っている。1886年(明治19年)には、2年前(1884年)12月始めに京城で起きた甲申の変に関する論文「A Korean Coup d'Etar」を書き、アトラティク・マンスリー誌11月号に掲載している。また朝鮮での見聞記「朝鮮−朝の静けさの国」も出版している。そして翌年には「The Soul of the Far East(極東の魂)」を出版している。
1889年(明治22年)1月8日、日本着。2月11日、大日本帝国憲法の発布の日に暗殺された森有礼の事件を取り上げ、「The Fate of a Japanese Reformer(ある日本改革者の宿命)」と題する論文を書き、アトラティク・マンスリー誌の1890年11月号に掲載した。また英吉利法律学校で講演し、「劣悪なる欧米人になるなかれ、優秀なる日本人たれ」と強調した。
5月能登旅行を決行した。
6月、帰米し、ハーバード大学の卒業式に出席した。ザ・ファイ・ベイター・カッパーの詩会に招待され、自作詩「Sakura no saku」朗読を行なった。
1890年(明治23年)1月末、欧州(スペイン)へ旅行、ロンドンを回り5月帰米した。また冬には、また欧州経由で日本へ向けて出発、インド、ビルマを経由。
1891年(明治24年)4月1日、日本へ着いた。その年、「NOTO」をアトラティク・マンスリー誌の1月号から4月号に連載した。そして「NOTO」も出版。5月、チェンバレンの紹介で、1890年に来日し、当時島根県の松江に住んでいたラフカディオ・ハーンと交友関係を結んだ。6月23日、築地の日本アジア協会年会で、「A Comparison of the Japanese and Burmese Languages(日本語とビルマ語の比較論)」と題して講演した。これは後に、印刷されています。8月6日には、アガシイと共に木曾の御岳山に登山した。また神習教官長、芳村正乗につき神道の研究を始めています。10月20日すぎには、日本を出帆。
1892年(明治25年)12月25日、口径6インチの望遠鏡を携帯して横浜に着く。その後、日本が天文台設置に適するかどうか調査した。
1893年(明治26年)3月、日本アジア協会誌に、「Esoteric Shinto(秘境的」の連載を始める。4月には、熊本在住のハーンを訪問する計画をたてるが、実現に至らず。8月、箱根宮の下ホテルで、チェンバレンなどと共に過ごす。秋には、「Esoteric Shinto(秘境的神道)」の連載を完了した。伊勢神宮を参拝、年末、日本を永久に去り、帰米した。
1894年(明治27年)、「Occult Japan(神秘的な日本)」を出帆した。アリゾナ州、フラグスタッフにローエル天文台を創設し、火星の研究に没頭しはじまる。
1895年(明治28年)、火星研究の成果である「Mars(火星)」を発表し、火星に高等生物が棲息し、その表面に見える細線状のものは、彼らの構築した運河であるという説を唱えた。(他にローエルの天文学に関する著書は、「Mars as the Abode of Life(生命の居住地としての火星)」(1908)、「The Genesis of the Planet(惑星の起源)」(1916)などがある。これらの書物は、H・G・ウエルズの「宇宙戦争」などその後のSF小説や、宇宙人論に強い影響力を与えた。)
1908(明治41年)、ローエルは52歳にて、コンスタンス・サヴェージ・キイスと結婚した。その後、欧州へ新婚旅行し、ロンドンでは夫妻は気球に乗り、彼は空中から市街を撮影した。また同年、フランスのソルボンヌ大学で講演を行なった。
1916年(大正5年)数学的計算により、海王星の彼方に惑星Xが存在することを予知確認した。同年11月12日、ローエルはフラグスタッフで死去した(享年61歳)。
1917年(大正6年)1月24日、日本アジア協会のローエル追悼会で、クレー・マッコーレー(Clay Maccauley)がローエルの追悼の演説をする。
1930年(昭和5年)1月23日と29日の夜、ローエル天文台のクライド・トムボー(Clyde Tombaugh)は、ローエルの予知に従って観測中、惑星Xを望遠鏡内に捕らえ、写真撮影に成功した。3月13日、ローエルの誕生日に新惑星の発見を公式に発表した。プルートー(冥王星)と命名される。 
「NOTO」 (能登旅行記)
荒山峠を越える
私の心を決めた能登の地に、第1歩を印する日の朝が3階の私の寝室に飛び込み、私は目を覚ます。障子を開いて見ると、これ以上も望みようもない快晴であった。
目に入ってくる全ての物からは、花嫁のヴェールにも似た、微かな靄(もや)が立ち昇り、澄み切った青空が覗いていた。それは憧れの朝であり、まだ明けきらぬ羞らいを含んだ乙女のような朝だが、まがいなく快適な暖かい一日を展開してゆくことを、厚味のある大気が約束していた。
私は急いで表へ飛び出し、朝の大気の中に身を置いた。宿の玄関先には、人力車が3台我々を待機しており、全従業員の「さよなら」の別れの挨拶に送られ、多くの町の人たちの感歎の声を後にし、この町(氷見←畝源三郎の註)の本通りを意気揚々と出発する。
温気を含んだ空気が頬にキスをして走り去り、日光は細長くあわいスカーフのような光芒を、東の方に横たわる丘陵に投げかけられていた。車を引く男達はそれに元気づけられてか、威勢のいい掛け声で、お互いに気合を入れつつ、足音も軽く駆け出してゆく。田畑で仕事をしていた農夫達も、白い歯を見せて、にこやかに我々を見送ってくれた。
人間は苦労をして得たものほど、その有難味が身にしみてわかるものだ。道路もこの理屈に則って、我々に苦難を味わらす意図なのか、だんだん先細りになってゆき、氷見の町が視界から去ってしまった頃には、車輪の跡のあちこちに、穴ぼこが数珠つなぎにできるようになってしまった。こんな道とは呼べない荒野原を、乳母車まがいの乗物で走ってゆくのだから、身も心もくたくたになってしまうのは当然だ。
そんな苦労にさいなまれながら、5マイルほど前進すると、車はついに走る機能を完全に奪われてしまい、我々は荒山峠の麓の谷間にある、1軒の茶店の前で下ろされてしまった。右手には、なだらかな山が立ちはだかって海を遮断し、左手には能登と越中の境界をなす山脈が、高く聳立っている。
ここでは、近くの田畑に働いている農夫に頼み込んで、荷物の運搬をやってもらうことにする。我々が情況のせいで、徒歩旅行にならざるを得なかったと同じように、彼らも臨時の荷担ぎ人夫になってくれたのであえる。
このあたりでは、荷物の運搬は人間の肩に頼る他はないので、彼らは自分たちの荷物を運ぶのと同じやり方で、荷物を背中に括りつけた木の枠に載せて運んだ。このやり方は日本の何処の地方でも見られるものだが、1つだけ目を引いたのは農夫達の、驚嘆に値する几帳面さである。
彼らは、我々が先を急いでいることなど目もくれず、1人分ずつの荷物を長さ6フィートもある天秤棒にかけて目方を計り、算盤をはじいて運賃を計算した。私は要求された金額を手渡したのだが、それは男と男の実に公正な取引きであり、こちらが損したのは、それに費やした費用であった。こうして我々は出発した。
谷間の茶店から先に続く道は、およそ原始的なものであったが、急坂をなしており、後方の谷は見る間に小さくなっていった。天候は出がけに予想された通り温かくなっていき、道端にうつらうつらと、心地良さそうにヘビが1匹日向ぼっこをしており、それはそっくりそのまま、人夫たちの気持ちのように思われた。
もし速く歩くことが人間の命を縮めるものならば、この連中は随分と長生きする人種に相違あるまい。彼らはまるで、懸命になって急いで歩くのを拒否しているかのようである。
もし私が彼らを生涯雇ったのならば、彼らが体力の消耗にそんなにも留意していることは、寧ろ満足に思うべきかもしれないが、残念ながら、私は臨時に雇ったのである。一歩一歩機械のような節度で、彼らが歩いているのを眺めていると、こちらの方が疲労を覚えてしまう。
普通の歩行者ならば、彼らと歩調を合わせて歩くのは不可能に近く、そのまろやかな加減は、ショッピングをやっている女でなければ決して真似のできるものではないだろう。眺めているとカタツムリが動いているようでもあり、目を離すと歩行を中止したのではないかと疑ってしまうほど遅くなってしまい、時には後戻りをしているのではないかとさえ思われた。
能登へ通じている道は2本しかなく、我々が選んだ道は人が滅多に通らない方であった。つまり裏街道で山脈の北側を走る道であり、表街道を山脈の向こう側に沿って抜けているのである。
能登半島を、本土から遮断している人跡未踏の山脈は、半島の付け根を走って海まで達しているが、同時にそれは、左手に能登と加賀連結する低地帯を残している。加賀から越中に至るためには、この山脈の南の部分を越えねばならぬ。
我々が横断を試みた地点は、荒山峠と呼ぶ海抜1500フィートほどの高所だが、その十倍もある高さの峠を思わせるほどの形状をなしている。
頂上への最後の1ファーロング(1マイルの1/8)は道がジグザグをなして非常に険しく、その中ほどまで登り詰めた所で、後を振り返って見た。渓谷は広大な越中平野に至るまで、なだらかに尾を引き、くねくねした山道があちらこちらに顔を出しているが、ここからは荷物を運んでいる人夫の姿は、その影すらも目に入ってこない。
左手に低く連なる幾つかの山稜の向う側には、海が横たわり、広大な三日月形の海岸が、その果てを見極めつきかねるほど遠くまで延びている。背後には越中平野が広まっているのだが、その果ての平野を取り巻く山々には春霞に包まれて視界に入ってこなかったのである。立山連峰(能登半島石川富山県境に近いあたりからみた)
私の目は機械的にどんよりと潤んだ青空を見渡したが、思いがけなくも、1つの真っ白い雲に捕らえられた。しかし、雲にしては少し変だなと目を擦りながらよく見直すと、それは紛れもない雪であり、雪に被われて雄然とそそり立つ孤峰の頂上であった。
見つめていると、その雪の塔は言語に絶する威容さで私に迫り、かすかなサフラン色を帯びていた。目を更に高く上げると、こちらにも1つ、あちらにも1つと、同じような雪の峰が平野の上空に、聳えているのが見えてきた。しかし、どれもこれも巨大なカゲロウのように1本の線、いわば雪の線から下の部分は消えてしまって見えず、雪と地面の中間には、青空のようなものが横たわっていた。
これは5月の空に漂う霞が、遠い山を隠しているのであり、頂上の雪だけがくっきりと浮かびあがって見えるのである。これらの山々は立山連峰の雄姿で、人間の登攀を許さぬ荘厳さを示して、私に対峙していたのだ。
峠の頂上には、2軒の茶店が互いに競い合うようにして客を待っていた。この峠も、日本の峠はどこでもそうであるように、刀の刃を立てたような地形に位置していた。歩みはそれに委せなかったかもしれぬが、私は息をはずませながら頂点に到達した。
そして左右の茶店の「お客さん、どうぞ一服なさって」の呼び声を耳に入れずに通り過ぎ、向う側の断崖の際まで行き、西の方角に展開された、数千フィートの広がりを持つ土地に眺めいった。能登の国は、眼前に立つ新緑の若葉をつけた1本の枝々の隙間を通し、私のすぐ足の下にその全容を現したのだ。
とは言うものの正直なところ、宿願を果たした歓喜の一瞬が過ぎると、能登との対面はある種の幻滅にとって代わった。色々と想像をたくましくして期待したその場所には、私の期待を裏切って眼前には、低い山脈を背にした段々になった水田があるだけで、緑色と茶色のタイルの寄木細工を見るような気がした。未練めいた言い方だが、これは当然のことであり、今眺められるのは能登のほんの入り口に過ぎず、半島の中心の町である七尾や、それの面する内海など、行手の山々に隠されてまだ見えないのである。
つまり、私なりの理屈をつけるならば、これは眺望にはつきものの、一種の風刺とでも言えようか。景色の眺望というものは、実は痛ましいほど平凡なものであり、うまくいっても地図を眺めるのと大差はない。ただ高い所に立っているので、眼下のものはすべて、、同一平面上にあるかのように見えるだけの話なのだ。田畑、森林地帯、市街、湖水などはそれぞれの色彩を見せて、印刷されたように並んで目に映る。
そんなことならいっそ、正確な地図を床の上に広げておき、自分は椅子の上にでも立って眺めれば事が足りる訳で、こんな風に考えながら、実際の風景を戯画化して眺めるのも新鮮な味わいがするだろう。
このあたりの住民達は、彼らの地図をより整ったものにする目的で、一切の苦難も厭わずに努力したものらしく、細部にわたって田畑の幾何学的な線が、滑稽なほどはっきりと描かれている。まるで子供が丹念に多くの線を、ただ機械的に入り交じらせてできあがった地図のように。
2軒ある茶店は、峠を登ってきて疲れた男や女の旅人でとても繁盛している。茶をすすりながら話に興ずる客があるかと思うと、弁当を食べているものもあったが、草鞋(わらじ)を脱ぐのを面倒がって我々のように敷居に腰をかけて休んでいるだけの者がほとんどだった。
茶店のお内儀さんは、なかなか女らしさに溢れた人で、亭主の方は遠慮して、店の奥の方で何かをしているらしかった。お内儀さんは1人々々の客に対して親切に愛嬌よく応対し「いらっしゃいませ」、「毎度ありがとうございます」と、店に入ってくる客、出て行く客の区別なく、挨拶の言葉を絶やさないでいた。峠を登ってくる重労働と、山のすがすがしい空気のせいで、誰もが腹ぺこになっているのだ。西洋人の価値判断からすると、彼女の請求する代価は話にならないほど安いものだが、それでもきっといい商売になっているのだろう。
人夫を伴って旅をする者にとり、昼食の一休みは神の恵みに値するほど有難い。人夫達はいやでも足を速めて追いつかなければならないし、彼らが姿を現したら雇傭主である私は、小言を言うこともできるのだ。
また、たとえ小言が功を奏さなくても、憂さ晴らしぐらいにはなるだろう。ところが彼らはなかなか姿を現さず、小言を言う機会を逸したかと気にもしたが、腹ごしらえが終わると、そんな事は取るに足らぬ事だと思いはじめた。
そこへ人夫達は忽然と姿を現した。幸いにも、彼らはほんの少しの休息を要求しただけであったし、能登へ下る山道は越中からの山道より急だったので、30分ほど歩くと人力車の通れる平坦地へ着いた(鹿島町芹川と思われる←私・畝の註)。邑知潟地溝帯(ローエルが荒山峠を越えて歩いた最初に歩いた能登の平野)
樹木が繁み合っている、イギリスの田舎道を思わせるくねくねした小道を抜けると、我々は1軒の茶店の前に出た。ここで馬車を注文していると、1かたまりの子供達が我々の見物にやってき、これは、こちらにとっては最初の能登の住民に対面する機会となった。
彼らは一般の日本人達よりも、大きく見開いた目をしている事に気がついたが、いや、これは彼らが驚きのあまりの表情なのだとも思った。子供たちが目を大きく見開いて、栄二郎(ローエルが連れているボーイ兼コックの日本人)と私を眺めいっているのは、無言の歓迎と思ってよいのだろう。
こちらを、なおも見続ける子供たちをその場に残して、一路、七尾を目指して馬車を走らせつづけ、ひときわ高くなって草の生い繁った一角に差し掛かった時、七尾の町がちらちら見えてきた。
この港町は内浦の手前から延びた陸地に囲まれた湾に面しており、沖合いは申し訳のように船があちこちに碇泊していた。七尾は思ったより大きな所で、予想していたよりも活気を呈していると思われた。町の周辺のそこここに立ちはだかり、町を外界から隔てているかに見える小高い山々は、町の繁栄には何らの影響を与えていないように窺がわれた。
温泉で有名な和倉が、七尾の僅か6マイル先と聞いたので、まだ日も高いし先にそちらへゆき、七尾見物はその後にしようと心に決めた。後でというのが実際には翌日の夜になってしまったのだが、そう期待したこともなかった。
和倉温泉は木炭と並んで、能登では天下に知られており、その評判は我々が信州ですでに耳にしたところである。しかし、その地に近づくにつれて名声が拡大されていった。
この温泉について話をしてくれるどの人も、評判になっていることを話す場合の常として、その事を話す事自体が一種の誇りであり、信仰心のような雰囲気を漂わすのであった。こちらは、立ち寄らざるを得ないという気持ちに追い込まれてしまった。
七尾から和倉に抜ける途中には、見るべきものは2つしかなく、1つは観光客に公然と勧められるもので、もう一つはそうした性質でないものである。
前者は湾を背にして立っている、奇妙な形をした岩石で、その周辺が砂地なのは、これは近くの川から転げ出してきた玉石の迷い子なのだろう。頂上には祠が鎮座し、下の方にも少し大き目のもう一つの祠が岩を背にして立ち、岩の上におごそかに刻みこまれた凹みは、祠への参道と前庭を兼ねている(七尾市小島町の妙観院のこと?←私・畝の註)。
人にすすめられないもう1つのものは、すぐ近くで目撃した田圃であり、その周辺にはカエルが1フィートほどの棒切れに、田楽刺しにして立ててあり、同族の進入者への見せしめになっていた。
粘土質の切り通しを幾つか通りすぎてゆくと、納屋のような粗末な建物の一群の前に我々は出たが、これが和倉温泉らしい。湯治の季節にはまだ早いので、宿に泊まっている客はちらほらだった。
しかし、温泉の効能書に書き立ててある病名は数え切れぬほどで、泊まろうと目星をつけた宿屋の敷居に腰掛け、ここの温泉にきく病名の数々を説明されて、肝を冷やしてしまった。彼は温泉の効能について質的にも量的にも流暢に述べ立てたが、実際の効能は彼が誉めれば誉めるほど下落してゆくことに気がついていないのである。
彼が得意になって並べ立てる多くの病気の1つぐらい、私が持っているとでも思っているのであろうか?私はもう居たたまれなくなって、その宿を飛び出してしまおうかとさえ思った。
日本の宿屋では色々な設備が、極端に共用となっているので、現在は客は少ないにしても、病菌はいたる所にうようよ潜んでいるに相違ないと思う。しかし当初の休息の方が、先の心配より大切だと思ったので、私はこの宿に落ち着くことに決めた。
当てがわれた部屋は、すぐ庭に面しており1階にあった。部屋に入って間もなく、私は誰かに後ろから眺められている気配を感じたので、振り向くと、相手の男は急におどおどした態度を見せ、その付近を散歩しているような風を装った。
なんの事はないこの男は、物見高い大部隊の先鋒だったのである。隣室の泊り客である我々に少なからず興味を抱き、こちらに無礼にならない限りの手段を尽くして、何とか私を一目見ようと努力した結果、ついに思いを果たしたのであろう。
遠く離れた部屋の客達はと見れば、用事もないのに縁側をぶらぶら歩いて、こちらが相手に目を向けていないと見ると、素早く私に視線を浴びせかけた。
女中達は呼びもしないのに、私の部屋に押しかけてき、座り込んで長話をするので、客達に羨ましがられた。
そんな具合で私はすっかり、有名な存在になってしまったが、西洋人なら誰でも良かった訳で、そんな有名さなら今後欲しいとは思わない。
あとで、聞いたのだが、栄次郎は台所で、私に劣らないくらい多くの人たちの人気を集めていたそうで、そうでなかったならばもっと大勢の見物人が、私の方に流れてきたことだろう。
2人は色々とこの土地の話を聞いたのだが、その中で心嬉しからぬことが1つあった。それは私がこの和倉までやってきた、最初の外国人ではないということである。
ここは、つい最近まで外国人にとって未踏の処女地であったのだが、昨年の夏、2人のヨーロッパ人が意外にもやってきたというのだ。この2人は加賀の金沢で化学を教えていた連中で、この温泉の名声に誘われて、泉質の試験をしにきたらしい。(これはおそらく間違いと思われる。七尾には、幕末英語教師としてパーシヴァル・オーズボンが1年間ほど滞在したから、たぶん和倉にもきたはずである←私・畝の註)
事前に彼らが私に相談してくれたら、私はその通りの予言をしてやってもよかったのだが、それもせずに和倉に乗り込み、この土地のほんの少しの珍しさを味わっていたに過ぎないのだ。ともあれ、私は心から口惜しくてならなかった。
この事実は地球の表面が、近年になっていかに踏みあらされているかを物語っている。世界のどんな片隅でも、見るだけの価値があってすでに見られているか、まだ見られていないが、見る価値がないかの、2つのうちのどちらかに属する。この和倉温泉はすでに見られているが、見る価値を欠くという理由で、この2つの分類に跨っているように思われる。
1人で食事をしながら、そんな事を頭の中で考えていると、栄次郎がやってきて面会人があるという。通すように言うと、この土地の警察署長が案内されて入ってきた。
旅券を調べるのが表面上の用件なのだが、そんな事なら普通の警察官で充分できることだ。本当の目的は、何の事はない評判になっている外人を、自分も見たくなったのに他ならないのだ。
彼自身の旅券を見せる代りに、かつて東京に住んでいたという、、彼の自伝の1くさりを自慢そうに語りはじめた。彼の考えによると、その事実は彼と私が兄弟分であり、周囲の人達より高級なエリート意識を強調するものであった。
彼が懐かしげにその後の東京の様子を尋ねると、私はそれに答え、まるで2人の心は期せずして東京の郷愁に満たされてしまったみたいで、これは一種のコメディだと思った。なぜかというに、相手が芝居していることを、お互い認め合った会話であったからだ。
ともあれ、2人はきわめて愉しげに話を交わしつづけ、東京っ子である2人の間では、旅券のチェックなど固苦しいことなのだが、法律の定める所に忠実に、彼は私の旅券を一瞥した。
顔がタマゴ型だとか、鼻の格好は普通だとか、皮膚の色は中位とかの詳細な点については、私の旅券には記載されていない。つまり彼はこの旅券1枚で、私を見定めることはできなく、私の述べる事柄をそのまま認めるより他はないのである。
警察署長はそんな事には無頓着に、和服の袂から筆記具を取り出し、速やかに記入を終えると改めて丁寧に頭を下げ、今夜はゆっくり睡眠をとるようにと言って、私の部屋から出ていった。
内海
昨夜耳に挟んだ話によると、この一般にはまだよく知られていない内海に通う小型蒸気船の便があり、1日置きに朝早く七尾を出、和倉には間もなく立ち寄るとのことであった。幸いにもその日は、船が寄る日と知り、我々もそれに乗り込む手筈にした。
正直にいって船の上に乗っけられたという感じで、船室はあるにはあるのだが、中に入ってみようとは仮にも思えぬ代物だった。平つくばいになり首をかしげて入り口から船室の内部を覗いてみたが、それをするのも私にはやっとであった。
船体は救命ボートをひとまわり大きくした位の大きさだが、心臓部のエンジンだけは船体に似合わず強力で、盛んに鼓動を続けて船体を揺さぶるので、今にも船もろとも爆発を起こすのではないかと気が気でなかった。
それに乗客の全員が日本人ばかりであることは、何か私に不安感を抱かずにはおかせなかった。
猫の額くらいの甲板があるので、港を出て少し経ってからそこへ這い上がり、パイプタバコを一服楽しもうと腰を下ろした瞬間、背中の方の船員室から、舵をとるのに邪魔だから退いてくれと怒鳴られた。それからは、鳥がしゃがむような格好で船べりに腰掛けていることにした。
船は快適に湾の中央まで舳先を進めた。海は眠ったように穏やかで、朝方の赤味を帯びた靄の下に、磨きたての真珠のようであり、陸地は見渡すかぎり、四方八方に絵のような姿態を浮かべている。ある地点では対岸は1マイル半くらいに近接するかと思うと、船の方向が変わると海は両側の平たい陸地の間にせりだしてき、それが延々10マイルもつづいたりした。
しかし、このあたりで、夢の中にいるような幻想的な雰囲気の中に私を置いたのは、黄金色もまばゆい大気であった。それは地球の上の一隅を孤立した幸福な谷間のように隔絶し、私のふかすパイプの煙は、この地の仏達に供えた香のように、船尾の方へとたゆたいながら流れて行くのであった。
船客達と言えば、集団ピクニックの連中から、奥地探検隊まで実に多種多様で、男女の年齢差もまちまちである。ある者達は後方の船室の中に屯(たむろ)し、他の者達は船の中央部あたりに三々五々固まっていた。
船室に収まっている連中は、そんな窮屈な所に押し込められていながら、余分な料金を払わされているので、特権階級のような目つきで甲板の上の連中を眺め、我々をザコくらいに思っていた。言わば、この船旅は小型の遠洋航海のようなものであった。
ちょうど船客達が下船の準備をし始めた頃、対岸の樹木を背景に姿を現したのは、私が生まれて初めて見るような、世にも不思議な水上構築物であった。
創世記に出てくるノアの大洪水以前にあった掘っ立て小屋の骨組を、これも有史以前の怪鳥ロックが見つけて、巣に選んだ場所とでも形容できようか。
それは海中に4本の傾斜して立つ丸太ん棒よりなり、海面から3/4ほどの高さで互いに交叉しており、頂上には気球の吊し籠に似た、小枝を編んで作った籠が乗っていて、そのへりからは人間の頭が突き出している。
籠の中にいる男が、我々の方を見やりながら頭をあちこち巡らせている様子は、餌食の引っかかるのを待ち構えている巨大なクモの化物を想像させるのに充分だった。初めの中はその男がどういう風にして、籠までよじ登ったのか合点がゆかなかったが、船の位置が移動し、構築物の向こう側が眺められる所まで来ると、それは理解できた。丸太ん棒2本の中間には、横木が幾本も取り付けられてあり、梯子の役目をなしているのだ。
さて彼が登った方法は飲み込めたが、何の用でそんな高所へ登る必要があるのかという疑問が湧いてきた。どう考えても合点がゆかないので、栄次郎に説明を求めたが彼も首を横に振り、傍らの客にまた聞いた。
私の質問は理屈の通ったものだったが、相手の選択を誤まったのであり、その男は「あれは魚を獲っているのですよ」と答えた。しかし魚を獲っているにしては、私はその籠の中の男ほど、それらしく見えない男を今だかつて見たことがない。
栄次郎に答えた男の言う通り、事実この丸太ん棒のヤグラは網でヤナの入口に繋がれており、籠の上の男はボラという名の大きな魚のやってくるのを待機している、見張り番だったのである。ボラの群が網の入口から入り込むやいなや、男は素早く綱を引っ張って入口を閉じてしまう仕掛けだ。
彼の座っている見張り場所は、海面よりはるかに高く位置しているので、海の深い所まで見透かせるのである。残念ながら私が目を配っている間には、網の中へ遊泳してくる好奇心の強い魚はいなかったので、この仕掛けの巧妙なカラクリは観察できなかった。しかし、漁師がああして日がな一日を費やして番をしているのは、きっと魚が獲れることもある証拠なのであろう。
この寄港地は目立った港でもないので、数人が下船しただけで、船はすぐさま方向を変え、両岸が差し迫った水路を進んで次の湾に入っていった。
この付近はボラのお気に入りの海と見え、海際近く例のボラ待ちヤグラが、あちこち海中に立っていた。互いに邪魔にならぬように適当な距離を置いて、波打ち際から少し離れて深くなった所にあり、人の乗っているものもあり無人のものもあった。
この湾で印象に残った事の1つは、たまたま天を仰いで太陽を眺めると、その周りに大きな暈(かさ)がかかっていたことであった。薄い雲のヴェールが青空になびき、太陽の光が少しやわらいでいるのに気が付き、頭上の天頂に目を向けると、それを見つけたのである。
気象学の本にはよく出ているので、この現象は絵で馴染みになっていたが、滅多に本物には見られないので、実際に目撃すると少し不気味な気がした。最初にそれが目に止まった瞬間には、この神秘な光芒を放って太陽を取り巻く輪は、能登の国に出現する魔法のたぐいかもしれぬと思った。
月がこのような帽子を被ったのを眺めるのは、日本人達が言うように夜の情緒を添えるもので、そんなに珍しいとは思わないが、夜の暈を日中、天空にかかげるのは、太陽に魔法の冠を頂かせるようなものであろう。
波の上には白帆が点々と浮び、その中の1隻の舟が私の船に向かって、真正面に突き進んできたのを今でもまざまざと思い出す。近接するにしたがって、舟はその全体の姿をだんだん大きくし、すぐ間近にまで来て交叉したので、挨拶代わりに花束を投げてやりたいと私は思った。
その舟は揺れることもなく、疾風のようなスピードで、まるで我々の船の存在など目にもくれないと言った様子だったが、傍らを通り過ぎてしまうと、こちらの船の水尾のあおりで、急に女のような媚体でゆらめき、別れの挨拶を幾度となく送ってよこすのであった。
穴水にて
よっぽど今日という日は、奇妙な魚を獲る道具に出くわすようになっているとみえ、いよいよ穴水に上陸した時、最初に私の目をとらえたのは、女性がスカートをふんわりと見せるために着用する、張の入ったクリノリンのような珍しい道具だった(イサザ(シロウオの一種)とりの網のことと思われる)。穴水港は、内海航路の終着点にあたり、船はここで客たちを下ろすと、外洋の日本海へ回り、能登半島の突端の東にあたる小さな港で、一泊することになっている。
穴水の町は海岸から少し離れて横たわり、船は入江になって運河のように狭あたりを、船着場に向かって入ってゆく。
我々乗客達は、艪で漕ぐ小船に乗せられ、水路が尽きる所までくると、波打際に1人の老婆がぺったり座り込んでいる。よく見ると、竹竿の先から吊り下がったフープ・スカートまがいの漁具が、下半分、水につかっているのを老婆はじいっと眺め続けているのが見えてきた。
この漁具がクリノリンと大きく異なっている点は、それが骨の上端で寄り集められていて、クリノリンのように腰を入れる余分が残されていないことである。その下端は水中に没しており、その部分には釣針が幾本も取り付けられているのだそうだ。
老婆の態度は、比較するものがないほどの無神経さであり、我々がすぐ傍を通りすがっても、まばたき1つするものでもなかった。道を少しばかり下がってゆくと、反対側の岸辺に動かない人がもう一人座っており、次の一人はすぐその先にいた。
これらの心暖まる老女達は、まるで瞑想にふけるカエルのように、水のほとりに座っているのだが、彼女達がいったい何者かは、直観的に知ることが出来た。
私に言わせれば彼女達は、常信の浮世絵の中に、幾百年でもじっと座っている“すなどりびと”であり、掛軸の中の人物さながらに、自分達の占めている場所を動こうとはしないのである。私はこの風景の片隅あたりに、常信の落款が押してはなかろうか、探してみたい衝動にかられそうになるのであった。
話によるとこれらの尊敬に値するお婆さんたちは、隠居さんたちである。隠居とは社会から絶縁された立場に置かれる老人をいい、このお婆さんたちの場合は、寡婦でない未亡人とでも解釈していいだろう。
というのは夫婦ともどもに社会的立場や、財産を断念してしまったからなのであり、彼女たちの嫁さんたちは、家庭の労働を引継ぎ、婆さん達は毎日こうした気晴らしを送っているのである。
このあたりは、運河のある地方のように狭く入り組んだ地形のためか、あるいはあちこちに屯(たむろ)する老女たちのためか、それともこの風景を包む大気のせいか、私にはふっとオランダの風景を思い起こさせた。またこのような雰囲気の中に身を置いたことは、生まれて初めてのようにも感じられた。
人間がその知覚するものの中から、せっせと糸をたぐり1つの織物を織るにも似た作業をするのは、なんと神秘な精神の作用であろうか。1つの得も知らぬ動機がもとになって、忘れられていた1本の古い糸を探し当てると、なんの理由もなしに過去の体験の一場面が、ありありと胸中に映じ始めるのである。
背景のみが思い出されている間は、なんとなく物足りなさを覚えるのだが、それは織物の細部は織り出されているが、人は縦糸の存在に気がつかないのである。そしてすべてが織りあがって完成すると、全部の横糸の存在が急に意識されてくるのだ。
雰囲気というものは、芳香のそれにも似て、過ぎ去り忘れ去った事柄を思い起こされるような作用をするものである。
穴水については、心に刻まれた1つの思い出があり、それは1時間ほど休憩した宿屋の1部屋にまつわるものである。
その部屋はこんな片田舎にしては、想像もし得ないほどの場所であった。これから若松(輪島の誤り)へ帰るのだと言っていた、船で見知った男にとっては、この宿は特別な感じを与えた訳ではないらしく、彼は隣の部屋で楽しそうに、昼食をとっている物音が聞こえてきた。
私にとっては、同じ宿でも少しの場所の持つ意味が違っていて、穴水は旅の終わりでもあり、旅の終わりのはじめでもあるのだ。なぜならば、私はこの地点を最後として帰路につく決心をしたからである。
私の旅も、ちょうど障子を隔てて外が真昼であるように、正午にさしかかったのであり、1つの安堵を味わう時がついにやってきた。
今までは、前方から訪れてくる様々な事件は、その影を私の前に投げかけ、私はそれを追いかけて来たのだが、今や能登の国の中央部に到達し、太陽は天頂を通過したので、これから全ての物事は、東を指して戻ってゆくものである。
眩しい表の日の光は、室内の影の色を濃くし、暗さが深まったように思われた。私は成功を遂げた刹那に、チラリと心をよぎる悲哀感が、静かに忍び寄るのを覚えた。私の場合の成功とは、旅の目的地にたどり着いたという、実に些細な事にほかならないのだが。
大きいにしろ小さいにしろ、また真実のものにしろ、全ての成功には同質のある悲哀感がつきまとうものなのだ。人間の心情の働きは、不思議な程、目のそれに類似する。
1つの色彩に目を長く向けた後で、目をそらしてもその補色が知覚されると同様に、心に長く抱いていた1つの感情が満足の域に達すると、ゆるんだ神経は全く別の感情に襲われるのである。
私の目には、ずいぶん以前に見た日本の宿のたたずまいが、長い年月の間を縫って思い出されれてき、名残り惜しい気持ちがつのってくる。そして真昼のひとときのまどろみの楽しい夢の中に、半日ずつ2度した徒歩旅行が向かい合わせになって現れてきた。
そして今は、遠くに消え去ってしまったその時の道連れのことも、思い出されてくるのであった。それはあたかも短音階の旋律を聞いた後で、それがより複雑な変奏曲の和音となって再現し、情緒豊かなシンフォニーに展開してゆき、私は時々、最初の単純なモチーフに連れ戻されているようでもあった。
そしてこのような私の勝手な空想の舞台の上に、パントマイムの俳優のような、口をつぐんだ茶店の女が、現れたり消えたりした。
穴水から奥の地方には、特に風変わりな所もないのだろうと思いつつも、一方では、ひょっとしたらそこには黄金の国があるやもしれずという、心残りが私の胸の中にはあった。ここから連なる丘陵地帯はあまり高くはなく、18マイルほどゆくと、日本海に面した若松(輪島の誤り)に到達するが、そこからは海だけしか見えず、海の向こうは朝鮮なのだそうだ。
無理をして歩いていってみたところで、その労に報いる程のことは無いのは明らかだ。たまたま、街頭でうっとりするような後姿に出遭っても、その女の顔を見ようとするのは愚行というものだ。そんな事をすれば、幻滅を覚えるのが関の山なのだから。
ふたたび海へ
能登の真ん中で白昼夢をむさぼっていた私は、出発の準備が橋の下流のあたりでできたという知らせを聞いて、正気に連れ戻された。帰りの船はくる時に乗ったような小型蒸気船ではなく、あの船はもう遠くへ行ってしまったのである。
今度の船は、帰りのために借り切った粗末な田舎の舟である。舟を借りるのに世話を焼いてくれた好人物の宿の主人は、親切にもわざわざ船着場まで、我々2人を見送りに出てくれた。
ほとんどの日本の小舟のように、この舟もアメリカのゴンドラとかリゾートと呼ばれている小舟に似た構造である。その設計は「舟を操るのは、立ってやるより腰を下ろしてやる方がましだ」という、人類がまだ舟を進ませる方法を考案した、以前の形式によるものである。
これを利用した方が七尾へ早く着けるとのことであった。舟乗りたちは、ここから七尾まで海上6里、つまり15マイルはあるといい張った。私の思い違いだったかもしれないし、事実を知らなかったのかもしれぬが、実際はその半分くらいと推定した。
(畝源三郎註:このローエルの推測は間違いである。海上6里が正しい。ローエルは日本人をどっかの植民地人と同様に馬鹿にしたところが、ところどころ見受けられる。残念なことである。)
彼らの意見を認めず、料金を負けようとも、推測される所要時間を短縮しようともしないのである。
舟の前後にの舷側には、ピンで長い艪がそれぞれつけてあり、中間あたりには帆柱が嵌め込まれていて、必要とあれば帆をあげられる仕組みになっていた。
帆布は布を縦に縫いあわせてある。これは日本の舟とシナのジャンクを見分ける相違点で、シナの舟の帆の縫い目は水平となっているのが特徴である。
さて、穴水から七尾までの距離の推定については、双方で1つの妥協点を見出し円満に解決がついた。それはできる限り、艪で漕ぐ時間を短縮するという条件で、それを希望する理由はお互いに違っているのだが、双方とも自分達の理由を述べようとしないので、意見の食い違いは問題にされようにもなかった。
そうこうしている中に、舟は両岸の差し迫った、運河のような水路を乗り出していた。
フープの入ったスカートで魚をとっている例のお婆さん連中は、あれから数時間も経っているのに、そのままの位置でじいっと坐りこんでいた。何もせずにいることに、一生懸命になっていて、こちらの方へは目を向けようとさえしなかった。
できることなら、その漁具の中を覗かせてもらいたいものだと思ったが、我を忘れてじいっとしている、彼女達の邪魔をするのは悪いと感じたので止すことにした。
それにひょっとして婆さん達の無感動さが、舟乗りたちに伝染しては困ると懸念されたのである。彼らは、我々と荷物を輸送するために雇われてきたのだが、いざ仕事となると、たとえ1日かかっても平気といった態度であった。
しかし、私には舟が少しぐらい遅れようとも、舟乗りたちの仕事ぶりがたるもうとも、是非とも見ておきたいものが1つあった。
それは来る時に見た見張台で、その時は船の甲板から眺めただけなので、今度は何とかして接近して、ゆっくり観察したい気持ちが強く胸の底にあったのである。見張台は、対岸のあちらこちらに、灯のない灯台のように立っていたので、私の欲望は容易に満たすことができた。
私は最初に目に飛び込んで来た艪に、舟の舵を向けさせようとしたのだが、漁師達は少しでも労力を節約しようという魂胆なので、進行方向に見える岬の裏側にも1つあるというのである。
胸の中に立ち騒ぐ好奇心を抑えて、少し待っていると果たせるかな、岬の端を回ると、その一基が姿を見せてき、幸いにもその見張台の上には漁師が乗っかっていた。舟を近寄らせ「こんにちは」と挨拶してから「その櫓(やぐら)の上に登らせてくれませんかね」と尋ねると、櫓の上の男は心よく「さあ、どうぞ」と承知してくれた。
梯子をよじ登って櫓の頂上に出てみると、籠の中には2人の漁師が乗っていた。2人だけでも目方は十二分にかかっており、そこへもう一人の訪問客は無理であろうに、よくも私の申し出を承知してくれたものと感謝の気持ちでいっぱいだ。
しかし、彼らにしてみれば、見物人を一人ぐらい乗っけても、櫓は大丈夫だと信じているように見えた。梯子の役をしている横木の間隔は、ある箇所で思い切って大股を開かなければ登れぬほど広く、私より足の短い見張台の漁師にとっては、これは大きな離れ業に相違あるまいと思った。
上に登るにしたがって、横木の丸太は細くなってゆくので、私は肝を冷やされそうな戦慄を覚えながら、やっとの思いで籠にたどり着くや、そのままその中に這いつくばってしまった。
櫓がゆらゆら揺れ動く毎に、二人の漁師ともども、海中に放り出されてしまうのではないかと、本気になって心配したほどだ。こんな状態トップ・ヘビィ(頭でっかち)とでも言うのだろうが、言葉の巻時だけではそれがどんなものかは、実感を体験した者でなければ説明できない。
奇妙なことには、この見張台が揺れ動いているのは、海上から望見しただけでは気付かないものである。このように見える立場によって、同一の実態が違って見える例は、今までに幾度か体験したことがある。
その時私の視野に広々とした海浜の風景が飛び込んできた。舟から百ヤードほど離れた波打際は、少しく前方で小さな村落につづき、それからは、半分海中に没した岩石が、飛び石のように前方に連なっている。
そしてその海岸線が果ててしまうあたりに、もう一基の櫓が立っている。これが間近に見える唯一のもので、、その他の櫓は、遥か彼方の波打際に沿って、ちょうどクモが巣を張ったように、微かな姿を見せているだけであった。ここの入江は、周辺がくまなく陸に囲まれて内海を形作っており、東の方だけが切れていて、日本海への入口が望まれる。
傍から見た目には、この櫓は海面から20フィートくらいの高さぐらいにしか見えないだろうが、乗っている者には、それよりもはるかに高い位置にいるような感じがする。
また二人の漁師はきわめて居心地よさそうに籠の中にいるのだが、私の偽らざる実感は、腰を据えて坐っていたいという気持ちと、一刻も早くここから降りてしまいたい気持ちの間を、往復しているといったものであった。
しかし、ギリギリの実感というものは、ふっと全く意想外の感情に切り換えるものである。本人の気持ち次第で、この丸太ん棒の上に組まれた鳥の巣のような場所を、のんびりと快適な環境にすり替えることも可能であり、一人っきりで小説を読むにはこの上ない場所なのだ。
美しい五月の朝のひととき、小舟を漕ぎ寄せて櫓の下に一目に触れないようにつなぎ、この巣に登ってたった一人っきりで、空中の鳥のようにじいっとしていたら、きっと新鮮な感情の中に浸れるだろう。そして慣れてしまえば、この新しい棲家に愛着の心もおのずとわくだろう。
口にはパイプをくわえ、タバコの煙をゆらせながら、ここはフランスの小説を読みふけるには最適な場所だと、私の心はある種の誘惑すら覚えている。
自分が坐っている所が不安定であることが、小説の中身の面白味を倍加させるとさえ考えられるのだ。
漁師達は、「有り難う」と言う、私の礼の言葉を愛想よく受け、我々の舟が遠くなってゆくのを、なかば好奇心を抱きながら見送ってしまおうと籠の中で以前の黒い影になり、半昏睡状態に戻って行った。そして彼らの鳥の巣は、艫(とも:船尾のこと)の後方へと流れ去ってゆき、だんだん低くなり、瞬間、湾を囲む山影にその姿を没してしまった。
待ち焦がれた順風は、つに吹いてこなかった。これではタバコを一服吸う気も起きず、船乗り達ががっかりした様子だった。
一度だけ帆柱を立て、帆をあげてみた、彼らがしばしば骨休めできるとほっとしたのも束の間、わずか数分で帆を下ろさなければならず、再び、彼らは艪を漕がねばならなかった。
舟の周辺は美しい眺めであった。前方には鏡のような海面が広がり、舟はあたかも進行を忘れたかのようで、なめらかな微風は巨大な楯の表面のような海の面に、掻き傷のような細かい皺を。あちらこちらに作り、それは舟が静止している時でなければ近寄ってこなかった。
低い丘陵は、幾重にも重なり合って遠景を作り、小さな漁村の聚楽が海際近くを陣取ってあちらこちらに見える。そして絵のように美しい風光の一部をなすように、ゆるやかな舟ばたの左右の二挺の艪のきしむ音が、うっとりするようなリズムの音楽を奏で、聴覚と視覚の微妙なハーモニーを織っていた。
時折、帆を張った舟が前方からやってきてゆっくりとすれ違うのに出会ったが、私たちの目にはそれらの舟が風をゆたかに孕んで走っているのが、羨ましく見えた。またこちらと同じ方向に進んでゆく舟が、帆を張っていないにも拘わらず、すぐ側まで接近したかと思うと、見る間にこちらを追い越していった。
他の舟に追い越されても、わが舟乗りたちは平気の様子なのでいたたまれなくなり、この事実を訴えた。すると彼らは口を開いて「向こうの舟は目方が軽いからでしょうよ」と答える始末だ。
もともとこの種の舟を選んだ理由は、目方が軽いという特徴を買ってのことだったのに、彼らはそんな事は忘れ果てているようだ。そのように答えられて、こちらは真に受けるとでも決め込んでいるのだろうか。そのような見え透いた嘘つき連中と、その嘘を見抜いているこちらとでは、どっちが間抜けなのだろうか。
しかし舟は絶えず目指す七尾に向かって進んでいるのは確かであり、日の長い春の午後いっぱいに、両岸の景色は舟の傍らを絶え間なく通りすぎて行った。かと思うと、今度は景色が舟の方に近寄ってきて、水路が狭くなり、しばらく水晶のように澄んだ水の上を走り過ぎると、前面がまた開けてき、和倉湾に入っていった。
この付近はボラの好みに合わぬらしいが、他の魚たちには天国であった。イルカの一群が海面をトンボ返りして、我々の目を楽しませてくれたし、海中を覗くとクラゲの赤ん坊たちが、あちこちにさまよい泳いでいた。
左側に目を向けると、猿島という島があった。話によると、猿を心から愛していた老人が住んでいたのでそう名付けられたとのことであった。しかし、彼が死んでしまうと、お腹をすかした猿の一族たちは四散し、今ではこの島は、屏風のように切り立った粘土質の断崖があることで知られている。
長い年月の間に、風雨に削りとられてきたこの断崖の上面は完全に水平であり、屏風岩の名に背かず、側面もまた平坦で、断崖と平坦の両面を備えている。
日没が迫ったが、舟はまだ湾内を走り続ける。夕闇が黒い海の底から吐き出された息のようにあたりに満ち、空気が急に冷え込んでいった。屏風岩の前を横切ろうとした時、海面を転がるような歌声が耳に入ってきた。農夫達の歌によくあるような、それは物悲しさを秘めた歌であった。
それは島から帰ってくる舟から流れ聞こえてくるものだと分かってき、その舟は私たちの舟とは直角に交叉していた。歌声は女性の声ばかりだったのは近づいて見て分かり、舟に乗っていたのは女ばかりであった。
彼女たちは、島へ薪にする木の枝を刈りにきたのであり、舟の中ほどには、粗朶(そだ)が山と積み上げられていて、舟の前と後で女達は艪を漕ぎながら歌っているのであった。全て目に映るものは夕闇のヴェールの中に被い隠された海の中で、彼女たちの歌声だけが、まるで思いのたけを訴えでもするように響きわたっているのである。
歌といっても、誰でもが知っているようなものなのだろうが、夜の海の上ではそれが得も言われぬ哀切さを漂わせる。歌声は我々の左側から右側へと通り抜けてゆき、遠くなるにつれて、メロディが途切れてゆき、ついには、我々を再び真っ暗な夜の海に置き去りにして消えていった。
舟はなおも漕ぎつづけられた。あたりは完全に暗く、寒く、風はなくなってしまったが、七尾に着くにはまだ大分かかる模様だ。力いっぱい漕ぎ進んで1つの岬を回ると、七尾の町と港の灯が、ぽつるぽつりと、陸地の突端から見えはじめてきた。そして、まず前衛部隊、ついでに本隊と船の灯火がつぎつぎに旋回し、長い行列になって進み、やがてそれぞれ定位置に着く。
こうして眺めていると、どの灯火が近くにあるのか判断に苦しむ。真夜中に港の中に入っていくのは、神秘的なものである。昼間だったら船は遠近法にしたがって整然と差別がつくのだが、暗闇の中を這うように進んでゆくと、船の灯のまたたきだけで、船の位置を定めるのは、ほとんど不可能に近い。
時には、最も明るい灯の船が最も遠くにあったり、見た目にはぼんやりとした灯の船が、すぐ近くにいることに驚かされることもある。他の船の位置を見極めるのは、自分の船が移動して初めて可能なのだ。
もし、人間が宇宙空間を飛行できるとしたら、星のむらがりに出っくわした時、その中のどの星が最初に自分達の太陽になるのだろうかという、感動あふれる疑問を抱くであろう。30分程の間に、灯火は我々の舟をぐるっと取り囲み、近くの灯火は船体の様々な部分を照らし出してみせたが、遠くのものは光りだけしか視野に映じない。また、海岸沿いに立ち並ぶ茶店は、銀河を眺めるようである。
しかし、あたりの灯火の間を縫いながら進むにつれ、それらは星たちにくまどられた影絵に変わっていった。舟はそれに沿って迂回し、ついに薄暗い岸壁に到着した。ここで栄次郎に宿を探させるために上陸させたが、時計は十時を指していた。私の推測した時間は、とっくに舟が湾の中ほどを過ぎる頃に通り越してしまい、船乗り達のオーバーな推測ですら、実際では短かったのだ。六時間もかけてしまった訳で、今になって私は船乗りの選択を誤まったのに気がついたのである。それにまだ航海は完了したとは言えないのだ。なぜならば栄次郎が帰ってくるまでさらに一時間以上も船乗り達と一緒に待っていなければならなかったのだから。
退屈しのぎに、私は一人で舟から波止場に上がってみることにした。ここは何とも陰気な感じのする所で、ずうっと突端近くまで歩いてゆくと、明らかに自殺を考えているらしい一人の男が、うろついているのに出会った。しかし、彼の直面しているイキサツは、本人にとりどうしようもない所まできていると直感したので、部外者の私がどう意見しても無駄に過ぎぬと私には分かった。
ところが、相手は私が説得をしかけようとしているとでも感じとったのか、あたふたと背を向けて立ち去っていった。それは彼の思い過ごしであり、私はその時、彼が自殺したい気持ちには寧ろ同調していたのである。たとえ、どんな理由が彼をそこまで追いつめたのかは、私には理解されなかったにしても。
波止場では、胸の迫る思いをさせられたので、足を町の方へ向けてみたが大したことはなかった。波止場からまっすぐ続いている街路には、人影は見当たらず、町全体が波止場のような、世界の果てのような雰囲気に包まれていた。大半の家々は墓地のように暗く、障子だけがちらちら覗かれるだけで、こぼれ聞こてくる物音や、障子に映る家の中の人影などは、私を冷笑しているように思われた。そうした私の感傷をより深めるように、二人連れの男女がひそひそ話しをしながら、私の傍らを通り過ぎていった。
宿屋探しに出かけた栄次郎は、まだ帰ってくる気配がない。数分毎に舟の繋いである所へ歩いてゆき、彼の帰りを待った。
石畳の上に山積みにされている柳行李が「いったい、私たちは何処へゆくんでしょうね」と、行先の定まらない移民のように私に訴えかけてくるように思われた。
私は、いたたまれぬ気がして、またしてもその場所を離れるのであった。少しでも光りらしいものの射す場所に出かけては、ポケットから懐中時計を引っ張り出して幾度となく時刻を確かめようとする私の姿は、この世の果てにいるような寂しさに満ちたものであった。
そうこうして時間をつぶしている中に、やっと栄次郎が警官を伴って姿を現した。その警官は親切にも案内のために来てくれたのであり、真っ暗な路地を幾つとなく、くぐり抜けて、とある一軒の宿屋に我々一行を連れていった。宿屋は見掛けのよい所ではなかったが、中に入ると人間の温かさが感じられ、二人はここでやっと夕食、いや、その時はもう夜中を過ぎていたので、朝食にありつくことが出来た。
能登街道
あくる朝、私は人力車に乗って栄次郎のいう本街道を出ていった。この街道は、能登と他の地方を結ぶ幹線道路になっており、日本では昔からの幹線には中山道とか、東海道とかの名称があるが、この街道には名前が無い。
一般的な意味で本街道としか呼ばれておらず、この国での道路の重要性は、大都市に連結しているかいないかで価値が決まる。つまり田舎の地方だと、たとえ大きな街道でも特定の名称をつけられず、それは田舎にある裕福な親戚ぐらいな扱いを受けている。こうした道路は、都市から離れるにしたがって貧弱になってゆき、ついには見る影もない姿になってしまう。
天下に名の知れた東海道を通過しても、これでも大街道の一部かと、疑いたくなるようなみすぼらしい箇所が、都市と都市の中間にはある。しかし、街道は山野を畝々(うねうね)と、巡っている中に、時には山の中で大木の抱擁を受け、あるいはよく耕された平地では、松や杉の並木の間を延々と続いて、そこを旅する人の目を喜ばせるのである。
この能登街道には整然と立ち並ぶ歩哨のような並木は少なく、貫禄はあまり無いが、周囲の景色が絵のように美しいのだけは、決して他所の街道にひけをとるまい。旅の同伴として申し分ない美しさをもっている。
往来する旅人も多く、どの人を見ても元気そうで、商用かなにかの旅だろうが生気が身体中に溢れ、身体から外部へ放射しているようにさえ見える。他の人達が何と言おうとも、私は日本人は地球上でも最も幸福な民族であるといいたく、それは彼らに接すると、こちらの心が強く魅きつけられる事実でも明らかだ。
日本の道路のたたずまいや、道路上で出会うこの国の人達に共通の快活さ以外には、別に私の心を奪うものもないままに、旅は続いていた。その中に1つの滑らかな粘土の急坂が山の突端から出ており、道路上までそれはのさばり出ていた。
その坂では三人のいたうら小僧達が、着物の尻を地につけて、頂上から道路に向けてすべりっこして楽しんでいる。私も彼らの仲間になって遊びたかったのだが、大人である私はズボンの汚れるのが気になり、その勇気は無くなってしまった。
子供たちは、こちらが眺めているのに気がつくと、恥ずかしそうにスベリっこを止めてしまったので、私は母親の思惑も忘れて彼らに少しばかり小遣いをはずんで、遊びを続けさせることにした。この際、衣服の汚れることなどは誰も気にしなくていいのだ。いや、これは小遣いというよりも、サービスの入場料か、児童委員会のもと会員からスポーツ奨励補助金と考えた方が適切なのかもしれない。
こちらの身体の調子が悪くて、そのスポーツに参加できない場合には、後援者になるのが一番だ。この降って湧いた事件から推し量ると、能登の子供達は、世界のどこの子供達にも負けないほど、愉快な日々を送っていると断言できる。
粘土の坂ですべっている子供たちと別れるのは、淋しい思いであったが、次に私の目に映った光景は、様々な荷物を積んだ車を、女性達が牽きながら七尾へ向かう場面であった。これは、子供たちとは全く違った状況下に、彼女たちが置かれている実状を物語っていた。こうした女性の労働を目撃するのは、決して心地よいものではない。年老いた女の人に混じって、まだ若々しい美貌を保っている女性がいることが、私の胸を締め付けた。
能登は決してエデンの園ではないのだ。ここのアダムは筋肉労働という呪いを、こんなにも多くのイヴの弱々しい肩の上に背負わせている。kれはドイツの北部地方にみられるのと同じくらい、忌まわしいことである。能登へ入る途中、荷物の運搬に女の人夫を提供されようとしたが、あれは明らかにこの地方に潜む因襲の一つであったのだ。
日本へやってくる時、船の中で親しくなった日本の青年が、人力車の問題を取り上げて激しい反対論を述べた。人間を馬の代用にすることは、人間の尊厳も傷つけるのも甚だしいと極論したあの青年は、こ女性の荷車引きをみたらどのような言葉を吐くであろうか。
彼はドンキホーテ風の若者で、外国に学び多くの新しい思想を身につけて、帰国の途次であった。彼が身につけた新思想を自分の国で、実際に適用していこうとする意図に対して私は賛辞を惜しむ者ではない。しかし、それにより恩恵を受ける筈の、日本の現在の社会組織は、そう容易にそれを受け容れるとは考えられない。
人力車を1マイル走らせると、1セント3分の2の金が懐に入る魅力はそう安易に捨て切れるものではあるまい。
我々2人は、今日の旅程で43マイルの距離をリレー式に運んでもらうことになり、古い車夫はゆく先々で、新しい車夫と交代していく方法である。これは水面に生じる波の動きに似た性格を持ち、水の分子は往復運動するだけなのに、波はずんずん前方へ進んでいく。
しかしこの振動も意外に大きな場合があり、車夫の中には、25マイルも走りつづけた者があった。走っている間に時々、小休止をするだけですぐに駆け出し、道の悪い箇所や上り坂では、速度が落ちることが間々あったにせよ、彼らの持続力は一驚に値する。そうこうしながら、微笑んでいるような田畑の景色を通り抜け、左手に聳え立つ山々に慰められ、右手にやがて現れるであろう海の気配を感じながら、車の走るままに運ばれていった。
一時間ごとに天候は快適になってゆき、城のような形をした白雲を浮かべた青空は、私の空想力を益々高め、地上の道路は躍り狂うように、曲折する川のように谷間を巡り、村という村を訪れまわった。
あたり一面、いままさに田畑の耕作の最中で、風景はたくましい農夫達を点在させてその最盛期を誇っている。農村の建物は、あたかもその場所に地から生えているように見え、茅葺き屋根はその下の土にまでめりこみ、付近には色々な種類の草花が庭園のように生い茂っている。
樹木は花壇に化け変わり、そこに生えた草花は、風が吹くごとに通行人に愛嬌を振りまいている。家の周囲にこのように、ぼうぼうと草花を生い茂らせているこの家の住人は、きっと毎日を満足して過ごしている人なのだろう。芝や土の下に眠り、毎早く起きて仕事に精がが出せるということは、農夫達の自慢できるすばらしい特権だ。
加賀の国へ入る曲がり角までくると、我々は左側へ急カーブして越中の国へ通ずる峠(倶梨伽羅峠)にさしかかった。狭い谷間の道をぐるぐる回りながら登ってゆく間に、夕日の光があたりの山々の山腹を赤く染め始め、太陽は雲の間に逃げ込む準備をしているように見えた。
樹木たちは夕日の虹色の温かさに包まれ、年老いた太い幹の松の木さえ茂りあった枝々を紅潮させ、幹の地肌の出た部分は、太陽の「おやすみなさい」という最後のキスを受けていた。
その後の方には、夕闇が紫色を帯びた弓状をなして松林の付近を静かに上昇していった。私は峠の頂上に人力車よりも先に到着して、左手の急斜面を登った。先着に与えられた特権なのだと思いながら、高い箇所から峠のあちこちを眺め、特に今自分が駆け上がってきた道の反対の方をゆっくり眺めた。
コルクの栓抜きのように、螺旋状に曲がりくねった道を目が追いかけ、はるか下の方を見やると数百フィート下に茶店が一軒見え、さらにその大分先の低地には橋、そしてその向うはおおむね平坦で、道は間もなく峡谷に没している。道のあちこちには、せっせとしかし遅い速度で登ってくる旅人たちが見え、あたりの山々は、中腹ぐらいまでしか覗かせていなかった。
こうして私があたりの風景に見惚れている間に、人力車は一台ずつ右側の斜面から姿を現しては、左の坂へと下っていった。しんがりの車が大分前へ走っていってしまってから、置いてきぼりにされたのをくすぐったく感じ、私は傾斜面を這い下り、道路へ飛び降りて連中の後を追いかけた。
最後の車が、茶店の前で待っていてくれ、私を乗せるが早いかがらがら車輪の音を響かせながら坂を下っていった。我々は平気な気持ちでいるのだが、道路はそれ自身の急角度に遠慮したのか、数百フィート進むごとに、ゆるいカーヴを設けて車を右に左に回転させた。しかし、その度ごとに車の中の我々はぐらっと揺さぶられ、つぎのカーヴに駆け下りたかと思うと、再び車の振動に身を委せなければならなかった。
車夫達は大変な興奮の仕振りで、それこそ欣喜雀躍して、そのあまり叫び声さえ立てる仕末であった。峠の頂上まで登りきるまでに、苦心惨澹して蓄えたエネルギーの蓄積を、数分間で消耗し尽くすのに、誰も彼もが喜びの頂点を味わったのだ。橋の上では車輪の音をがらがら鳴らして渡り、平地をしばらく駆け続けてから峡谷に入ると、道路はまた下降していった。
十分くらいでこの坂を下りきって、平野に出、心理的な惰力に誘導されるまま、とうとう石動の町まで一気に意気揚々の中に乗り切ってしまった。
 
メルメ・カション 

 

Mermet Cachon (1828〜1889)
フランスの宣教師・医師。1859年琉球を経て函館に来日、教会に併設した病院で布教と治療に従事した。その傍らアイヌの研究をしアイヌ語辞典を著した。1864年ロッシュの助手として再来日し通訳などを務めた。 
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ウジェーヌ・エマニュエル・メルメ・カション(Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon、1828年9月10日-1889年3月14日)は、幕末に来日したフランス人の神父。日本語に堪能で、レオン・ロッシュの通訳を務めたが、単なる通訳以上の働きをしていたとも言われている。「和春」という和名も用いた。
カションは1828年9月10日フランス東部ブーシュウ(現ジュラ県)に生まれ、1852年7月11日パリ外国宣教会神学校に入学、1854年4月1日には司祭叙階された。
カションはジラール神父、ルイ・テオドル・フューレ神父と共に、1855年2月26日(安政2年1月10日)にリヨン号で琉球王国の首里に到着した。3月2日(1月14日)には上陸を許され聖現寺に住んだが厳重な監視下にあり、カトリックへの改宗者は1人も獲得できなかった。しかし、この間に日本語を習得した。
体調を崩したこともあり、1856年10月(安政3年9月)には一旦香港に戻る。1858年6月(安政5年5月)、日仏修好通商条約締結のフランス特命全権使節として日本に派遣される予定のジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵に、通訳として採用された。同年10月9日(安政5年9月3日)、日仏修好通商条約は調印された。このときの日本側全権、外国奉行水野忠徳は、カションが日本語を流暢に話すのに驚いている。芝の真福寺に逗留した後、上海経由で香港に戻った。
1859年11月25日(安政6年11月2日)、礼拝堂建設のため箱館に到着。ここでフランス語を教え始め、また箱館奉行竹内保徳(のち文久遣欧使節正使)の協力を得て病院の建設にも着手したが、病院の方はロシア正教会司祭団が先に建てたため、実現はしなかった。しかし、この計画の中で、竹内や栗本鋤雲と親しく付き合うようになった。また、箱館滞在中に『英仏和辞典』『宣教師用会話書』『アイヌ語小辞典』などを編集した。塩田三郎(のち清国在住特命全権公使)や立広作(文久遣欧使節の通訳)の2人は、カションと同居していたようである。
1863年春頃(文久3年)に箱館を離れ、初代駐日フランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールの通訳として、江戸のフランス公使館に居住するようになる。7月頃、「家庭の事情」でフランスに向けて日本を離れる。このためにフランス外国宣教会から除名された。しかし、フランス滞在は短期間で、1864年4月(文久4年)には日本に戻り、第2代フランス公使として着任したレオン・ロッシュの通訳となった。
1865年4月1日(元治2年3月6日)、横浜仏語伝習所が設立されると、そこの実質的な校長となり、フランス語を教えた。この際、塩田を助手として指名している。メリンスお梶(江戸駒込、光源寺観音堂の堂守の娘)というラシャメンと懇ろだったと言われている。
1866年10月27日(慶応2年9月19日)に日本を離れ、フランスに戻った。当初は再び日本に戻る予定であったようだが、1867年徳川昭武が使節団を率いて渡仏すると、フランス政府からその世話係に任命され、フランスに留まることになった。カションは欧州に5年間留学の予定であった徳川昭武や他の留学生の指導と教育も担当する予定であったが、これに対して使節の向山一履が大反対した。結局、使節が4月28日ナポレオン3世に謁見した際には通訳を務めるという名誉は得たが、教育係からは外されてしまった。すると、カションは5月1日に「日本は一種の連邦国家であり、幕府は全権を有していない」という論説をパリの新聞に寄稿したが、これはアーネスト・サトウやシャルル・ド・モンブランら薩摩寄りの人物と同一の主張であった。この論説をフランス政府も無視できず、結果として小栗忠順が成約したフランスからの600万ドル借款が取り消されてしまっている。
1889年3月14日カンヌにて死亡したが、その墓はパリのペール・ラシェーズ墓地(Cimetière du Père-Lachaise)にある。 
人物
宣教師として来日したが、江戸に移ってからは宗教活動はほとんど行っていない。日本語が話せることを活かし、幕府とフランスの関係強化に大きな役割を果たした。ただ、悪徳商人のような動きをしたようで、西郷隆盛からは「奸物」、勝海舟からは「妖僧」と言われている。
親友とも言える関係にあった栗本鋤雲も、「小人」であると述べている。実際、徳川昭武の教育係から外されたというだけの理由で、幕府が最もフランスの支持を必要としていたときに、反幕府的な発言をするにいたった。
お梶という日本人女性と事実婚関係にあった。
幕末に来日した外国人の中でもその日本語能力は特に秀でており、「ひとかまい 別れ世界や さくら花」などといった俳句を詠んでいる。
3
せっかく京都の朱雀高校に入ったのに、父は強引に「横浜の元町に着物の店を出すんだ」といって、われわれ家族を横浜山手町に引っ越させてしまった。ゲラシモフというロシア人がオーナーの、安っぽい2階建て洋館が新しい住処(すみか)になった。白いペンキで塗り立てられたハウスに、門は白い柵、玄関はノブ一つの木製のドア。すぐにワックスをかけて光らせるフローリングの床は傷だらけで、窓はパテが剥がれかかっている。坂の途中の家だったので、上の隣家からよく見えるので、母が困っていた。洗面所はタイルばかりで、トイレは西洋便器。母は「お風呂と便所が一緒なんていやや」と言い、妹は「どっこも白すぎるわ」と言っていた。京都中京の町屋から見れば当たり前だが、それにしても、あまりにもすべてがチープきわまりない。ただ、ここは隣近所もみんなこんなハウスばかりなのである。文句をつけるなら、この元町・山手町の界隈そのものが文句の対象になる。
が、家から10分もかからない元町のユニオン・スーパーマーケットでの買い物に慣れるようになり、ときどき喜久屋で食べるケーキがやたらにおいしいことや、遊びにくる親戚筋の叔父や叔母が「えらいエキゾチックどすな」と言ってくれるようになると、みんな横浜がすっかり気にいっていた。ようするに「住めば都」なのだ。それに、なんといってもここはヨコハマだ。京都にあるものは何もないかわりに、京都にないものがすべてある。だいたいわが洋館の前は、毎朝、鳥がいっぱいくる「フランス山」で(この名称の由来はあとでわかった)、家から2分でパノラマ展望の「港が見える丘」、3分で「外人墓地」なのである。ここまで対照的だと、かえってキモチいい。根っからの京都人の母も、そのうち「お父さんが選らばはった町やさかい、あんじょう楽しませてもらうわ」と言って、老人ゲラシモフとちゃっかりロシア語など遊びはじめた。ぼくも慣れてきた。そのころはまだ草ぼうぼうの「港が見える丘」から眺める港は外国のようだったし、外人墓地を散歩していると、セント・ジョセフ校の青い目の少年たちがニコニコしてくるのも可愛いかった。剣道を始めたので、よく竹刀を持って散歩していたのだが、これがガイジンには妙にウケた。それに隣にはエンジェリカ・レリオというギリシア混血の高校一年のとびきりファンタジックな少女がいて、ぼくは毎日ドキドキしていた。これは京都じゃない。
こうして高校は横浜から東京都立の九段高校に通った。元町の入口の谷戸橋からバスに乗って桜木町へ、そこから京浜東北線でお茶の水か秋葉原、そこで中央線に乗り換えて飯田橋である。そんな毎日が続くと、ときに桜木町からの帰りに山下公園や大桟橋に遊びに行ったり、日曜日には横浜開港記念館から馬車道を通って伊勢佐木町に足をのばすようになる。こうしてしばらくすると、ぼくは馬車道の「オリンピック」という床屋でさっぱり散髪をして、そのあと「有隣堂」で本を眺めてお気にいりを買うというコースに凝りはじめるようになった。こういうヨコハマに、高校1年から大学4年間をへてそのあと3年ほどの10年を過ごした。15歳からの10年間だから、人並みに最も多感な時期で、そのあいだずっとシルクホテルやニューグランドホテルやバンドホテル、中華街や本牧や黄金町、カンカン虫や船上生活者、霧笛や銅鑼や爆竹と親しんだのだから、これがぼくに影響を与えていないはずがない。しかも京浜東北線と中央線をつかっての通学は大量の群衆の流れとの闘いでもあって、京都ではまったく身につかなかった人間との距離の取り方もわかってきた。ちなみに元町の着物屋はつぶれた。本格的な京呉服など、鷲が翼を広げているガウンが好きな外人さんにはとうてい手が出る物語ではなかったのである。
横浜時代にはいろいろ寄り道をおぼえたのだが、なかでも一番好きなお店が有隣堂だった。この書店は伊勢佐木町の入口にあって、とてもモダンな店内で、京都にはこんな書店はなかった(まだ駿々堂京宝店などなかった時代である)。本書はその有隣堂が版元として刊行している「有隣新書」の一冊なのだ。このシリーズは横浜かその近辺に因んだものばかりを扱って、『ヘボンの手紙』『原三渓』『ボンジュールかながわ』『中居屋重兵衛』『ロチのニッポン日記』『横浜のくすり文化』などの、なかなかシャレた新書となっている。いまでもやっぱり横浜贔屓のぼくはこの新書が好きで、なんだかんだと買ううちに結局はだいたい揃えてしまっている。ここに採り上げた『メルメ・カション』は最初に買った一冊。メルメ・カションという文字の響きが変で、いかにもヨコハマらしかったせいだろう。「幕末フランス怪僧伝」とサブタイトルにあった。
メルメ・カションは1855年にフランス船リヨン号で日本に向かった3人の宣教師のうちの一人である。リヨン号は琉球の首里に着いた。船長のボネはここで布教をしたいと申し出るのだが、首里王府は受け付けない。やむなく船長は3人を置き去りにして出港した。いつも思うのだが、こういうところが宣教師軍団のすごいところで、ともかく一人の活動の未来というものを互いに確信しあっている。王府はやむなく置き去りの3人を聖現寺に入れ、カションらはさっそく日本語(琉球語)にとりくむのだが、まったく歯が立たない。「日本語は複雑で難しく、日本人は知的で鋭敏である」と書いている。それから3年、フランス政府がナポレオン3世の親書をもって、全権公使グロを江戸幕府に送りこんできた。ペリーに続く黒船の波である。このときカションは通訳として抜擢され、最初は本牧沖に、ついでは品川沖に入りこみ、やがて上陸して親書を幕府に手渡した。このときの外国奉行の水野筑後守は、この青い目の一団にはやけにフランス人で日本語に達者なのがいて驚いた、と書きのこしている。カションの上達は早かったようだ。その後、カションらの一団は芝の真福寺に逗留し、ここはその後は「フランス御殿」の名をほしいままにした。いま真言宗の真福寺はビルになってしまっているが、ぼくはここでときどき密教21フォーラムを司会している。これも何かのご縁なのだろう。
歴史に残されたメルメ・カションについては、栗本鋤雲との交流とレオン・ロシュ公使の補佐役を努めたことが有名である。栗本鋤雲とは函館に行ったときに親しくなっている。鋤雲はカションとの座談記録『鉛筆紀聞』をのこしていて、かつて亀井勝一郎が鋤雲の整然たる質問の仕方に感嘆していたものだったが、これはおそらくカションの支えもあったことだろう。この時期、カションは函館に病院をつくろうとしたり、仏英和辞典を編纂しようとしたり、アイヌの部落を訪れてアイヌ文化を記録しようとしている。もはや日本人のために何でもしようという決意なのである。ロシュがカションを通弁官として雇おうとしたのは、むろんカションの日本語能力がますます鞭撻になっていたからだった。のちに福地桜痴が『懐往事談』で、「フランス公使にはカションがいたし、イギリス公使にはシーボルトがいて、日本人の通訳などまったく必要がなかった」と舌を巻いて述懐しているほどなのだ。こうしてロシュに招かれ、カションは横浜に来ることになる。
横浜でのメルメ・カションは「横浜仏語伝習所」の先生としても有名である。ここには栗本鋤雲もはるばる設立の手伝いに駆けつけていた。カションは実質上の校長先生だったのである。そのころ横浜の外国人居留地には、いまでも錦絵で知られるような英一番館(ジャーディン・マゼソン商会)、亜米一(ウォルシュ・ホール商会)などの商館がずらりと並び、文久2年(1862)の時点でも、イギリス39、アメリカ11、フランス9の商館数を誇っていた。福沢諭吉がここに来て目をまるくした話は有名だ。外国商館のお目当ては生糸で、ヘクト・リリアンタルが館主の和蘭八番館を中心に、ここにリヨンからの生糸検査技師ポール・ブリューナなどが加わって、大いに賑わった。貿易だけでなく、カションが大活躍したフランス語学校(横浜仏語伝習所)、ポール・サルダ設計の「ゲーテ座」などの劇場、横浜製鉄所などもひしめいていた。ところがそこへ生麦事件がおこり、外国人も警戒をせざるをえなくなっていく。そこでつくられたのが各国の軍隊兵舎で、そのうちのフランス軍隊の兵舎があったのが通称「フランス山」だったのである。ぼくの家の前の山はこの兵舎跡のことだった。わが高校大学時代までは、そのフランス山の下には“日本で最もファンキーなスポット”と言われていたバンドホテルがあったものである。
なんとなくメルメ・カションに事借りて、あまり触れてはこなかったぼくの横浜時代を懐かしんでみた。しかし、ぼくはカションが好きなのだ。この“怪僧”は宣教師であるのにずいぶん浮名も流していて、ときには「ひとかまひ別れ世界やさくら花」なんていうへんてこりんな俳句をつくったり、カションを「和春」ともじったり、勝海舟からは「ちかごろ和春というフランス人に心酔する者が多くて困る」と言わせているし、メリンスお梶という美人とはいわゆる“ラシャメン(洋妾)関係”になっていたとも言われている。カションは横浜をはじめ、まさに港町ブルースのように日本の港でフランス文化を植え付けた遊び人でもあったのである。そのカションも徳川昭武を団長とする一行がパリ万国博覧会に参加するのを手伝って、ついにパリに帰って行った。 
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(幕末期、箱館で布教活動しながらもフランス学校を開講し、アイヌに関する研究書を刊行、日仏交渉の舞台裏で活躍したフランス人神父、メルメ・ド・カション)
1828年(文政11年)9月10日、フランス東部のレ・ブーシュウ地区のラ・ベスという寒村に農夫の父・アレキス・メルメ・カションと母・マリ・クロディーヌ・バルブの5人兄妹姉妹の次男として生まれる。
1858年(安政5年)6月4日、日仏修好通商条約締結のためフランスから派遣された全権公使グロ男爵の通訳として同行する。同年9月3日、日仏修好通商条約の調印が行われ、翌年の6月2日、横浜・長崎・箱館の3港が開港されるや、すでに宣教師として箱館派遣を任命されていたカションは、待機地の香港から上海へ、そこからロシアの通報艦に便乗して長崎に向かい、長い船旅の後、1859年(安政6年)11月25日、箱館の地に足を印す。宣教師として働らく最初の任地が、箱館だった。
しばらくの間、フランス政府代理領事を兼ねていたイギリス領事ホジソンのもとに身を寄せ、称名寺に仮寓し、やがて境内にある家に移り住む。住居を司祭館とし、箱館奉行所から聖堂建築用地を称名寺境内に借り、小聖堂を建て、布教活動をはじめる。
カションに日本語の補習指導を行ったのが、医師で進取の気性に富んだ人物、栗本鋤雲だった。彼は、交換にカションからフランス語を学ぶとともに積極的にフランスの政治・経済・軍事・風俗習慣など各分野にわたって質問をし、後に「鉛筆紀聞」として出版している。
1860年(万延元年)、フランス学校を開いて、奉行所の若い役人たちや町の人々にフランス語を教え始める。カションが如何にこの学校に情熱をそそいだかは、当時、上司へ宛てた手紙の中で、「私の遠大な希望のすべては箱館に設立した私のフランス語学校のうちにあります・・・」とまで述べていることからも窺える。
同年6月以降、イギリス領事ホジソン夫婦らとともに、幾度か北海道南部各地の探訪騎馬旅行をして、その際訪れたアイヌ部落の印象をまとめた「アイノー起原・言語・風俗・宗教」という探訪記をパリで刊行する。
当時、箱館には眼病や皮膚病の患者が多く、内科疾患も少なくなかったので、カションは、奉行や栗本鋤雲らの協力を得て施療院を開設する。さらに、フランスから正規の医者を呼んで、医学校を付属させた本格的な病院建設を奉行に提案し、賛同を得て順調に進んだかのように見えたが、不運が重なり実現には至らず、また、健康も思わしくなかったこともあって、愛してやまなかった箱館を去る決意をせざるを得なくなった。
1863年(文久3年)の夏、家庭の事情という表面上の理由により、箱館を去り江戸に向かった。
1870年(明治3年)、ニースで死去。  
通訳・外交官としての宣教師メルメ・カション
はじめに
1858年に締結された条約(いわゆる「安政五ヶ国条約」)によって、鎖国という国是を守り続けてきた日本は少しずつ西洋列強に開かれ、先ず五つの港が開港地となった。そこに、条約によって信仰の自由が認められた西洋人の信者のために、聖職者として宣教師も現れ始めた。彼らは、日本人に未だ認められていない信仰の自由の実現を期待しながら、キリスト教の布教を行う機会を待っていたのである。
日本におけるカトリック派の布教の独占権を握っていたのは、1663年に創設されたパリ外国宣教会(Missions Étrangères de Paris、略MEP)である。19世紀半ばにアジアでの本拠地をポルトガル領のマカオから、イギリス領の香港に移動させ、日本や朝鮮、満州へ派遣された宣教師は全員香港に滞在してからその使命を果たしに赴いたのである。
その流れで、1844年に初めてパリ外国宣教会の宣教師が沖縄に派遣された。フォルカード(Théodore-Augustin Forcade (1816-1885))神父である。琉球王国が日本の支配下にあったという考えに基づいて、沖縄において日本語を勉強しながら日本本土に渡る機会を待つのは当初の計画であった。しかし幕府の厳しい監視のもと、その計画が失敗に終わり、フォルカード神父が香港に戻らざるを得なかった。それにもかかわらず、パリ外国宣教会は琉球ルートを通じて日本に入ろうという考えにこだわり続き、その後も日仏条約が1858年に締結されるまで、何度か宣教師を沖縄に滞在させた。それらのうちの一人が、後に日本とフランスの関係の曙において重要な役割を果たしたメルメ・カション(Eugène Emmanuel Mermet-Cachon, 1829-1889)であった。
1 メルメ・カションの略歴
メルメ・カションは、1829年9 月にフランス東部ジュラ山脈の小さな村落ラ・ペース(La Pesse)の農家に生まれた。少年時代について詳細が分からないが、宗教的な教育を受けたのではないかと考えられる。というのは、1852年にパリ外国宣教会の神学校に入学してからわずか2 年で、1854年6 月11日に司祭に叙階されたので、宣教会に入る前から何らかの形で宗教教育を受けていたと推測できる。
そして神父になったメルメは、その年の8月25日に使命の地である日本へと出発した。当時は長くて危険な度であった極東への道は、南仏の第一の港マルセイユ(Marseille)に始まり、地中海を経てエジプトのスエズ(運河がまだ開設されていなかったが)へと続き、インド洋を渡りシンガポール、そして香港に終わった。アジアへ派遣された宣教師は皆一時的に香港にとどまり、そこで色々な情報を収集し勉強しながら更なる指示を待っていた。メルメに出された指示は、琉球に渡り、日本語を学習するということであった。
その結果、1855年2 月に、同じパリ外国宣教会所属の二人の宣教師フュレ神父(Louis Théodore Furet (1816-1900))とジラール神父(Prudence Séraphin Barthélémy Girard (1820-1867))とともに琉球の那覇に到着した。しかし、以前沖縄に滞在した宣教師と同様に、幕府の厳しい監視のせいで、宣教活動がほぼできないままだった。そのかわり、日本語(とある程度琉球語)の勉強に取り組んだメルメは、同僚のフュレ神父の証言によれば割りと早い上達を見せたようである。しかし健康が優れていないメルメは、沖縄の気候になかなか慣れることができず、1856年10月に香港に戻らざるを得なかった。そこでも、日本から流れてきた漂流民のもとで、日本語を学び続けたという。
その日本語能力が正式に認められたようで、メルメがフランスと中国そして日本との条約交渉のために東アジアまでやってきたフランス全権グロ男爵(Jean-Baptiste Louis, Baron Gros (1793-1870))の通訳として採用されたのである。1858年10月9 日に締結された日仏条約の交渉は、他の条約と違って、オランダ語ではなく直接に日本語で行われたのも、メルメの存在のおかげであると言える。
そして、メルメの協力で締結された条約によって開かれた三つの港に、パリ外国宣教会の宣教師が赴くこととなった。ジラール神父は日本における宣教団のリーダー的な存在として第1 次フランス領事デュシェーン・ド・ベルクール(Gustave Duchesne, Prince de Bellecourt、1817‒1881)の通訳として、神奈川・横浜・江戸に滞在することに決めた。長崎にはしばらくMEP の宣教師がいなかったが、フュレ神父が1863年にその地を担当することとなった。メルメに関しては、健康が相変わらずすぐれていないにもかかわらず、当時蝦夷地の第一都市として発展していた箱館へと向かって、1859年11月25日にそこに到着した。
箱館において宣教活動が禁じられていたメルメはフランス語の学校を開き、栗本鋤雲(文政5 年(1822)−明治30年(1897))などの幕吏にフランス語を教えて日本語も教わり、他の列強の外交官・商人とのネットワークを築き、アイヌ村落を観察し、日英仏辞典に携わり、様々な活動を行うことで幕府の信頼も受けたようである。
しかし、未だに明らかにされていない何らかの理由によって、メルメは急に1863年6 月頃帰国することにした。「家族の事情」という口実をパリ外国宣教会に伝えたが、詳細が分からない。とにかく、もう一度極東とヨーロッパを結ぶ長い度に出て、同年8 月の始めにマルセイユに戻っていた。フランスでの滞在が11月半ばまでで短い期間だったが、その間メルメはまた様々な活動を繰り広げた。ここで特に記述に値するのは、アイヌに関するパンフレットの刊行、そして日英仏辞典の刊行へのやり取りを外務省との間で行ったということであろう。
結局自分の使命が待っていたかのように、メルメは再び香港を通じて1864年4 月末日本に戻っていた。香港において日本の第2 回遣欧使節(横浜鎖港談判使節、池田使節とも)に面会し、箱館で自分の生徒であった通訳の塩田三郎とも話せたようである。日本に戻ったメルメは、1864年5 月初頭に第2 次駐日フランス公使ロッシュ(Michel Jules Marie Léon Roches(1809‒1900))によってフランス公使館付通訳・書記官として採用され、そこから後述するように宣教師としてではなく、むしろ外交官としての道を歩むことになった。ロッシュの側近としてのメルメの活動は先行研究において明らかにされている点が多く見られる。例えば、幕府が西洋風の陸軍を作り上げようとした際に士官養成機関として必要とされた横浜のフランス語学校の創設にメルメが関わり、事実上の校長を務めた。また、横須賀製鉄所の設立交渉にも参加し、栗本鋤雲や小栗上野介との信頼関係が役に立ったと言える。ただし、先行研究に明らかにされてこなかった点も残っており、本論文のテーマである日伊条約の交渉(1866年7 〜 9 月)に参加したメルメの役割はその一つなのである。
様々な活動を繰り広げたメルメは、1866年10月に完全に帰国してしまったが、その後の活動については、史料不足のためまだ詳細が分からない。ただし、最近明らかになったのは、メルメが長い間信じられてきたように1870年頃ニースで亡くなったのではなく、1889年3 月14日に南仏のカンヌ(Cannes)にて死亡したということぐらいであるが、パリにある彼の墓地の墓石には「元フランス領事」と刻まれているのが不思議な記述で未だに説明されていないものである。
2 多面的な活動家としてのメルメ・カション―先行研究を踏まえて
以上のような人生を送ったメルメは、幕末期の日仏関係において重要な役割を果たしたことで、多少ではあるが日本では研究されてきた人物である。その中に、特にメルメが第2 次フランス公使ロッシュの側近として活動したことがかなり知られており、それによってメルメは「日仏交流の父」の一人として位置づけられている。その評価は主に、前述した1865年4 月に幕府によって設立された横浜仏語伝習所の事実上の校長を務めたこと、1866年に建設された横須賀造船所の創立に関する交渉において小栗上野介とともに関わったことによるものである。また、日本語ができなかったロッシュの通訳、情報収集役としての役割もフランスと幕府との関係を強化するにあたって重要であったに違いない。
更に、富田仁は、メルメの著作が「熟達した文章で綴られ、文学的芳香が感じられる」と、メルメを「文化人ないし知識人」として高く評価しており、メルメ自身も自分のことを「文化人」と自称している評価に一致する。しかし、今まで日本でもフランスでも第一史料に基づいたメルメに関する研究がなく、主な資料としてマルナスというパリ外国宣教会の宣教師が後年著した『日本キリスト教復活史』(Francisque Marnas、La «Religion de Jésus» (Jaso ja kyô) ressuscitée au Japon dans la seconde moitié du XIXe siècle、パリ、1896)に編集・修正された書簡が使用されてきたのである。ところが、今回筆者がその利用が許されたメルメ自筆の書簡において、フランス語の文法や綴りの間違いが非常に多く見られ、先行研究で評価されているほどメルメが「文化人」であったという評価に対して疑問を抱いているのを否めない。
また、メルメの多面的な活動の中でほとんど研究されてこなかった面も残っている。メルメが箱館に滞在していた時期にアイヌの村落を観察する許可を得て、アイヌの文化、宗教、歴史等に関するパンフレットを1863年に刊行したにもかかわらず、それに対する研究がなされていない。更に、同時期に幕府の諸役人を一覧表のように紹介する「日本のヒエラルヒーに関する研究」という論文も執筆したが、それもまた研究どころか、紹介すらされてこなかったものである。執筆活動を続けたメルメは、新聞記者でもあり、少なくとも日本滞在の前半(一時帰国する前)にL’Univers(「宇宙」)やLa Patrie(「祖国」)というフランスの新聞に日本に関する記事をいくつか提供したのである。
日本の文化をフランスの読者に伝えようとしたメルメは、日本の言語にも興味を持ち、琉球に滞在した時期から辞典を編集しようと努力した。1866年に刊行された日英仏辞典がその成果であるが、実際は一時帰国の1863年の夏秋に、メルメが外務省にその出版費用を依頼した結果、2 万フランと見積もられた出版費用の半分(5000フランを二回)を1863年12月と1864年2 月に外務省から頂くことになった。しかしこの日英仏辞典の刊行は、メルメと日本語学者のパジェス(Léon Pagès (1814-1886))との対立など、様々なトラブルの影響で半分にとどまらざるを得なかった。これもまた研究されてこなかったテーマである。
しかし宣教師であったメルメが歴史にその名を残したのは、言うまでもなくフランス公使ロッシュの側近・通訳として活躍したからである。つまり、グロ男爵が率いるフランス使節の通訳から選ばれてから密接に結んでいた外交界との関係によるものなのである。メルメが通訳官、外交官として活躍したからこそ幕末の日仏関係だけではなく日本の対外関係に影響力を及ぼしたと言えよう。ところが、メルメがイタリア使節の通訳として1866年に締結された日伊条約の交渉にも関わったことがあるにもかかわらず、それについては先行研究において一言も述べられていないのが不思議である。唯一確認できる記述は、島崎藤村の『夜明け前』に関する研究を通じて栗本鋤雲とメルメの関係に偶然に気付いた赤尾利弘であるが、赤尾はイタリア使節団長アルミニヨン(Vittorio F. Arminjon (1830-1897))が著した回想録『伊国使節幕末日本記』を基に、メルメが出て来る箇所を列挙する作業にとどまっている。
本論文では、以上の先行研究を踏まえ、イタリア使節団長アルミニヨンの回想録の原版のイタリア語版と日本側の資料を基に、メルメとイタリア使節の関係を整理してみたい。
3 「宣教師」としてのメルメ・カション?
メルメとイタリア使節との関係を理解する上で、先ず一つの問題に触れなければならない。それは、日本においてその布教が厳しく禁じられていたカトリック派の宣教師が幕府との交渉に正式な立場に立って参加できたのか、ということである。
1866年6 月にイタリア使節が来日した時に、メルメがフランス公使館付通訳・書記官として務めていたのは確実である。しかし、もとの身分である宣教師のままであったのかという点について、議論の余地が残っている。先行研究の富田仁を見てみると、メルメは「今度はパリ外国宣教会の宣教師ではなくて、フランス政府の対日外交政策を円滑に行うための駐日フランス公使の通弁官として来日し」、「パリ外国宣教会本部の資料でもミッションを離れたことが記されているが、その年月日はあきらかにされていない」という記述が見られる。つまり、時期が定かではないにしても、メルメは1864年の春にロッシュに採用される前に既に宣教師ではなくなっていたという説を唱えているのである。それに対して、もう一つの主な先行研究である西堀昭はロッシュ公使の書簡を引用し、その中にメルメが「メルメ神父」(«Mr l’abbé Mermet»)と4 回のうちに3 回呼ばれていることから、ロッシュにとってまだ宣教師、少なくとも聖職者であったという印象が与えられる。
ところが、メルメ自筆書簡において、身分についてどう記されているのだろうか。1864年4 月26日付の書簡において、「誰かが私を宣教会から追い出す口実を探そうとしているように信じ始めました。〔略〕私の所有している全てのもの、そして私自身も、日本宣教団のものです。それは私が宣教会から追い払われる日まで。」という記述がある。つまり、ここでは自分が宣教師であると強く自意識している。また、1864年5 月26日付の書簡において、「ムニク氏〔もう一人の宣教師〕は〔略〕、私が恥ずべき方法で隠密に宣教団長の地位をしばらくの間もらったという理由で宣教会から追い払われていると皆に伝えています。」という記述から、他の宣教師に宣教会から追い払われそうな状態が危うくなっていることが分かる。更に、1864年9 月19日付の書簡において、「私の可哀想な日本の宣教地を諦めざるを得ないことが実際に分かってきました。私にとって祖国や家族よりも大事だったこの宣教地。諦めざるを得ないのは、非聖職者として仕えることを選ばない限りではありますが。しかしそれは不可能としか思えません。」という記述からは、この時点で、パリ外国宣教会会長のルセイユ神父からの7 月14日付の書簡を受けて、宣教団から外されたという事実を受け取った様子が窺える。
つまり、先行研究で言われてきたのと違い、メルメは日本に戻ってきた時点でまだパリ外国宣教会の宣教師であったが、様々な理由によって1864年7 月頃追い出されてしまったということが明らかになったと言える。
さて、本論文のテーマであるイタリア使節との関係に関連して、イタリア使節の構成員から見たメルメはどんな人だったのだろうか。使節団長アルミニヨンは、メルメと同時期に来日し横浜と江戸を担当していたジラールという宣教師を「ジラール神父」(«padre Girard»)と称しているのに対して、メルメのことを必ず「ド・カション氏」(«il sig(nor) (M.) de Cachon»)と記しているので、宣教師・聖職者として意識していないことが窺えるのである。ただし、アルミニヨンにとってメルメはロッシュの通訳だったので、アルミニヨンの判断がその肩書きに基づいて行われたのかも知れない。
4 イタリア使節へのメルメ・カションの協力
1866年7 月に、イタリア使節は網代の温泉に休暇をとっていたフランス公使ロッシュに接近し、アルミニヨンはその初対面についてこう述べている。
史料1
「その晩、私はフランス公使と一緒に夕食を取り、そして私たちは私の使命について語り合い始めた。私はロッシュ氏がその影響力で私を支持してくれることと、そして日本人と交渉するためにフランス公使館の書記兼通訳官を貸してくれることを依頼した。〔略〕ロッシュ氏は誠実に援助を約束してくれた。そして書記兼通訳官としてメルメ・ド・カション氏を勧めてくれた。彼は長い間日本に滞在している著名なフランス人で、1858年にグロ男爵のもとで同上の役割を立派に果たした人である。メルメ・ド・カション氏は日本人の友達で、全ての外国奉行、そして大評議会〔=老中〕と第2 評議会〔=若年寄?〕の全ての会員をも知っていた。私はパリで彼の話を非常に有力な人たちから聞いていたので、ロッシュ氏の提言を受諾するのにためらわなかったのである。ド・カション氏にイタリアのために働いて欲しいということを同氏に伝えるようにロッシュ公使に依頼した。」
以上の史料から、アルミニヨンがロッシュの援助を求めたところ、ロッシュは自ら自分の書記兼通訳官であるメルメを提供してあげることにしたこと、そしてアルミニヨンはメルメが日本に長く滞在した間に外国奉行や他の幕府の役人との密接な関係を結ぶことができたことが窺える。更に、アルミニヨンがメルメの高い評判をパリに滞在した時に既に耳にしていたという記述もフランスにおけるメルメのイメージ・認識を考えると興味深いものである。その結果、アルミニヨンはロッシュの提案にすぐ手を打ったのである。
ところで、そもそもイタリア使節はどうして日本においてフランスの援助を求めたのかという疑問が残るので、それについて説明を加えよう。アルミニヨン自身はその理由について特に述べてはいないが、横浜に到着した時に、在日西洋外交官のリーダー的存在であったロッシュもイギリス公使のパークス(Sir Harry Smith Parkes (1828-1885))もいない状況だった。そこで、パークスが出掛けていた長崎より、ロッシュが滞在していた網代の方が近くて便利だったという単純な理由が考えられるが、もう一つのもっと重要な理由として、ナポレオン三世のイタリア統一ヘの深い関わりが挙げられる。
サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2 世の首相カヴール (Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, Conte di Cavour (1810-1861))がプロンビエールの密約(Accordi di Plombières)によってフランス皇帝ナポレオン3 世の援軍を要請し、イタリア統一に対する最大の難問でしかもナポレオン3 世の宿敵だったオーストリア帝国をイタリアから追放することができた。1861年にはローマ教皇領とヴェネツィアを除き、イタリアは統一され、イタリア王国が成立し、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレはイタリア国王として1861年3 月に即位し、首都をフィレンツェに置いた。そのような仏伊関係だったので、若きイタリア王国が日本においてフランス帝国の援助を求めたのは当然のことだと言える。
そして、援助を求められたメルメは、7 月8 日にフランスのキエン・シャン号に乗って、病気で横浜に残っていたイタリア参議院議員デ・フィリッピ(Filippo De Filippi (1814-1867))と一緒に網代に到着した。アルミニヨンの依頼を快諾してから江戸に戻ったが、イタリア使節の到着とフランスによる援助という情報を直接に口頭で老中に伝えることを約束した。日伊条約交渉に関する幕府とイタリア使節とのやり取りの書簡等を収録する『続通信全覧』第152巻(「伊太利条約一件 一」)では、「丙寅六月朔日」(1866年7 月12日)以前の書簡が存在しないことから、メルメは確かに口頭で老中にそれらの情報を伝えたことが推測できるのである。しかも同じ日付の、外国奉行柴田日向守(文政6 年(1823)- 明治10年(1877))よりメルメ宛の以下の書簡が載っている。
史料2
丙寅六月朔日
以手紙致啓上候昨日面晤之砌意太利亜国使節より書翰差出次第明日ニも尋問いたし候□り御咄申置候處腫物痛み強く歩行罷儀いたし候間其地出張日限□三日延引可相成ニ付其段可然御会置有之度候
謹言
慶応二年丙寅六月朔日     柴田日向守
          和春様
追啓意太利亜使節出府いたし候□□不都合ニ付貴君御取計を以出府無之様いたし度此段御頼申候以上
つまり、メルメ(以上の史料には「和春(カ シュン)」と記されている)は慶応2 年5 月晦日(1866年7 月11日)に外国奉行柴田日向守に面会し、アルミニヨンからの伝言を伝えたということが読み取れる。柴田は病気のためイタリア使節に面会しに行けず、イタリア使節がしばらく待つようにとメルメに伝えていることも分かる。そしてメルメはその口頭の回答を持って、7 月11日の夜イタリア軍艦マジェンタ号に戻り、幕府の回答をアルミニヨンに伝えた。それらのことによって、メルメの役割は通訳官にとどまらず、条約交渉の過程においてイタリア使節と幕府とを結ぶ仲介人という重要な役割をも担っていたことが分かる。表1 を見ると、メルメの仲介人としての役割が交渉中続くことが分かるのである。
5 日伊条約締結とメルメ・カション
8 月6 日にようやく江戸に上陸することが許されたイタリア使節一行は、同月11日より三田小山の大中寺に止宿することになった。幕府との条約交渉は間もなく開始されたが、開始当日はメルメが現れなかったので、最初の交渉は塩田三郎を通じて進んでいった。塩田三郎(天保14年(1843)−明治22(1889))というのは、箱館においてメルメにフランス語(と英語)を習った人で、栗本鋤雲にも師事し、後に幕府の通訳官になった人物である。1863年12月にフランス軍艦ル・モンジュ号に乗って出帆した横浜鎖港談判使節団(第2 回遣欧使節、池田使節団)の一員となり、1864年1 月頃香港でメルメに再会していることがメルメの書簡から推測できる。この塩田三郎の協力によって行われた交渉がどのような過程で進んでいったのだろうか。以下の史料に反映されているのでそれに参考されたい。
史料3
「正午に三人の日本人の委員が書記と通訳官を連れて馬に乗って到着した。〔略〕カション氏は来られなかった。しかし日本の通訳官は頭が良くて、英語もオランダ語も話していた。そして塩田はフランス語を良く知っていたので、我々は互いに理解し合えたし、我々の条約案と他国の条約を照合するのに必要な全ての文章について話し合うことができた。〔略〕 翌日、我々は条約案の検討を終わらせ、6 月25日の通商協定を我々の条約に完全に取り入れることが定められた。そして条約をイタリア語、オランダ語と日本語で執筆すべきことになった。しかし後に、イタリアであまり知られていないオランダ語をフランス語に変えることが決められ、後者がある条項の価値や意味について意義が生じた場合には唯一の正しい文章となることが定められた。条約は、批准の交換ができるだけ早く行われるのを期待しながら、1867年1 月1 日より実施されるべきことになった。カション氏は都合よく13日の朝やって来て、それまで未解決のままだったいくつかの形式上の問題を決定するのを手伝ってくれた。我々は条約の調印のため8 日または10日後に再会することを約束してついに別れた。〔略〕」
以上の史料から、日伊条約の交渉自体が三日で終わったこと、初日にメルメがいなかったものの、塩田三郎の協力のおかげで交渉は円滑に行われたことが読み取れる。更に、江戸時代を通じて日本における外交用語として使用されてきたオランダ語がイタリア(だけではなく、西洋全体)においてあまり知られていない言語であったため、条約の交渉は当時世界の外交用語であったフランス語で行われたことも興味深い。というのは、安政5 年(1858)の条約の際は、アメリカ、オランダ、イギリスと幕府との交渉はオランダ語で行われ、フランスの場合は日本語で行われたという状況とかなり異なるのである。
しかも、日伊条約の本文は安政五年の五つの修好通商条約と異なり、日本語/締結国語/オランダ語で作成されたのではなく、日本語/イタリア語(締結国語)/フランス語で作成され、しかも問題が生じた場合に基準となる文章はフランス語と定められたのである。つまり、開国によって様々な西洋国が日本にやってくる過程において諸言語学習に専念した幕府は、もはやオランダ語にこだわらなくなっていたと言えるし、また条約という生産物に表現される幕府の外交政策が様々な状況に対応できるようになっていたことも窺える。この点について、以下の幕府の史料も言語と外交政策に対する同様の適応性を示している。
史料4
「丙寅七月
 河内守殿
    仏文及訳之儀ニ付申上候書付
                     柴田日向守
                     朝比奈甲斐守
今般伊太里国御条約為す取替相成候ニ付て者彼方おいて蘭文出来候者無之差支候間御条約書仏文を以証といたし度旨申立候右者尤之儀とも被存候間彼方請求通決定仕候就て者支配向之内仏文出来候者壱両人ならでハ無之及訳ニ差支候間横浜表仏学伝習生徒之内両人右及訳御用為取扱候様仕度奉存候勿論右者仏公使よりも伝習生御用□相成可然旨申聞候依之此段川勝近江守江被□渡可被下候以上
 寅七月」
つまり、相手国の言語的な状況に合わせるのは、開国と条約を要求しにきた西洋側のイタリアではなく、むしろ開国を余儀なくされた幕府というわけである。西洋の近代的外交が発展していたはずにもかかわらず、言語教育の面では、日本側の方がその適応性が優れていたのではないかと考えられる。
6 おわりに
イタリア使節と幕府との間に結ばれた条約についていくつかの指摘ができる。先ず、最初の修好通商条約である安政5 年の日米条約や日仏条約の場合と同様に、イタリアに対しても幕府は必ず時間稼ぎという作戦を使用した。つまり、病気や将軍の不在など、様々な口実によって海外使節の辛抱を試そうとしたのである。
また、安政5 年の5 つの条約に加え、ポルトガル、スイス、プロシアなどとの間にも条約を結んできた幕府の外交政策は段々効率をあげてきた結果、日伊条約の交渉は素早いペースで進んでいった。その意味では、フランス公使の通訳官だったメルメを動員したイタリア人にとって最も便利な言語であったフランス語を、塩田三郎などを動員して使用した幕府の積極的な適応性は、その外交政策がある程度成熟したということを意味すると言える。以上見てきた日伊条約の交渉は、日仏条約の交渉の際に既に通訳という役割を果たしたメルメは、日伊条約の場合も非常に重要な役割を果たし、宣教師出身だったにもかかわらず、フランスに帰国する直前まで立派な外交官になっていたことを物語っているとも言えよう。
日伊条約交渉の流れ
日付 和暦(全て慶応二年丙寅) / 洋暦(全て1866年)   出来事   
五月二十四日(?) / 7 月6 日(?) 網代においてアルミニヨンはロッシュと夕食。ロッシュはフランスの援助を約束し、メルメを通訳官として貸す。メルメに書簡が送られる。
五月二十六日 / 7 月8 日 カションは網代に到着してから、アルミニヨンに面会し、その依頼を快諾する。イタリア使節の到着とその要求を老中に口頭で伝えるために江戸に赴く。
五月二十七日 / 7 月9 日 イタリア使節は網代を出帆し、横浜へ向う。
五月二十八日 / 7 月10日 老中はイタリア使節の到着を知らされる。
五月二十八日 / 7 月10日 イタリア使節横浜で待機。
五月二十九日 / 7 月11日 メルメは外国奉行・柴田日向守と面会する。
五月二十九日 / 7 月11日 メルメは老中の口頭の回答を持って夜横浜に到着。大坂にいる大君の命令なしには幕府は動けないし、イタリアはその要求をプロシアと同様のものに限定させないと条約交渉は断られると。アルミニヨンはイタリア使節が14日に江戸湾に到着する意志を書簡に書き留めてメルメに渡す。アルミニヨンはこの書簡をイタリア語で書いてフランス語の訳文を添え、メルメはそれを日本語に訳す。
六月朔日 / 7 月12日上記の書簡は江戸に送られる。
六月朔日(受:三日) / 7 月12日 上記の書簡の内容。横浜に於いて。「以太利国王マゼチテーの全権アルマンジョ」より「日本国帝マゼステーの外国事務執政閣下」宛の書簡(条約を締結するための全権を与えられた。メルメは仲介人の役割を果たしてくれる。日本政府は条約締結に反対しているようだが、再び考えて欲しい。イタリア使節は14日に江戸に到着する予定。イタリア人を他国人と同様に扱って欲しいと。)
六月朔日 / 7 月12日 「意太里亜国王の全権使節アルマンジョ」より「外国事務閣老衆」宛の書簡(上記と同様。)
六月朔日 / 7 月12日 柴田日向守より和春(=カション)宛の書簡(イタリア使節からの書簡を請け取ったが、病気のため出張できない。その間イタリア人が出府しないようにと。)
六月二日 / 7 月13日 二人の役人と通訳官がイタリア軍艦マジェンタ号に乗船し、イタリア人が日本の武器を網代で購入したという理由で審査する。ただし幕府はアルミニヨンの江戸へ赴く決意に対して不満に思う結果とも言える。幕府はメルメに使者を派遣し、イタリア使節の江戸出発を延期して欲しいと。
六月二日(受:四日) / 7 月13日 熱海に於いて。「日本在留仏国全権ミニストル・レオン、ロセス」より「大君之ミニストル御老中各台下」宛の書簡(イタリア使節がロッシュのところに援助を求めにきて、そのためメルメを貸した。イタリアとの条約を最近締結されたプロシアとの条約と同様のものにすれば日本にとって何の差支もない。応じてくれない場合の脅迫。国帝殿下=将軍が軍旅に出掛けているとの知らせを受け取った。)
六月二日 / 7 月13日 和春より柴田日向守宛の書簡(前回の書簡の内容を受け取るが、イタリア人の出府をやめさせるのが難しい。お大事にと。)
六月二日 / 7 月13日 和春より柴田日向守・朝比奈甲斐守様宛の書簡(イタリア使節は六月三日= 7 月14日に当港=横浜を出帆し翌四日に江戸に着く予定。それに対して、塩田三郎ともう一人の役人を軍艦まで送った方がいいと。)
六月二日 / 7 月13日 老中はカションの許に使者を派遣し、江戸入港を数日延期して欲しいと。柴田日向守は老中の命によってマジェンタ号を訪問。
六月三日 / 7 月14日 マジェンタ号に乗ったイタリア使節は江戸湾に進出。
六月五日 / 7 月16日 老中は役人を大坂に派遣したのでその回答を待って欲しいと非公式にカションに通告する。そうしなければ状況は悪化しそうと脅迫。
六月五日(受:五日) / 7 月16日 江戸港に於いて。アルミンジョーより朝比奈甲斐守君・メルメットデカション宛の書簡(早く老中と面会したいのに、大坂からの返答を待つ可との要求を受け取った。明後日フランス公使と共に伺うが、その際「使臣館」(=老中のいる場所?)を訪問できるか。とにかく速やかに幕府の代理人と面会したいと。)
六月五日 / 7 月16日 メルメはフランス語の生徒の「モトベ」をマジェンタ号に連れて来る。武士ではないので商人との面会でしか役に立てない。
六月?日 / 7 月?日 「仏国カションより差出候書翰之儀ニ付申上候書付」。外国奉行の菊池伊予守・柴田日向守・星野備中守・江連加賀守・朝比奈甲斐守・石野筑前守・水野良輔の署名有り。(メルメの引合人としての役割について?)
六月六日(受?) / 7 月17日 「仏国公使・申立候大意」。(幕府はイタリアとの条約を断るつもり。フランス公使はイタリアを援助するつもりだし、イギリス公使も同様であろう。……
六月九日 / 7 月20日 イタリア使節は大坂からの回答を待つため横浜に戻る。信任状は未だ老中に提出できず。
六月十一日(受:十三日) / 7 月22日 横浜に於いて。「仏蘭西全権ミニストル・レヲンロセス」より「御老中様」宛の書簡(ロッシュは長崎に赴かなければならないが、留守している間イタリア条約の件がうまく進むように側近のメルメを残すことにした。8 月上旬に横浜に帰港するまでのことをメルメに任せる。それまでにイタリアとの条約を締結するようにと。)
六月十四日 / 7 月25日 水野和泉守・井上河内守・松平周防守より「伊太里全権使節」宛の、12日付の書簡への回答(将軍は軍旅で大坂に出ているので、条約の交渉は始まることはまだ無理と。)この書簡を外国奉行菊池伊予守がマジェンタ号に渡しに来る。アルミニヨンは菊池伊予守に信任状を渡す。
六月十五日 / 7 月26日 アルミニヨンに前日の信任状の受領書とその英訳文が届けられる。
六月十六日 / 7 月27日 菊池伊予守の書付(?)(外国事務執政=外国奉行宛に出されたイタリア使節の委任状=信任状の写しとそのフランス語の訳文を受け取った。)
六月十六日(受:十七日) / 7 月27日 和春より「外国方御役人中様」宛の書簡(翌十七日にイタリア人士官一人が江戸を見物するために上陸するので、「護衛掛り御役人」を提供して欲しいと。)
六月十七日 / 7 月28日 菊池伊予守はメルメに大坂に関する良くない情報を伝える。大君は長門と戦っている最中なので諸大名の会議を開くことができず、イタリア使節はまた待たなければと。
六月?日 / 7 月?日 周防守殿より柴田日向守・朝比奈甲斐守宛の「伊太里国仮条約為御取替相成候ニ付取扱申渡候支配向江儀申上候書付」(役人の一覧表。注意:「通弁御用頭取」は箱館においてメルメと面識のあった名村五八郎。)
六月二十日 / 7 月31日 イギリス郵船はヨーロッパにおいて戦争が6 月18日に開始したという情報をもたらす。
六月二十五日 / 8 月5 日 井上河内守・松平周防守よりイタリア全権宛の書簡(大君はようやく日伊条約への許可を下り、柴田日向守と朝比奈甲斐守をその責任者と任命した。止宿所は三田小山の大中寺に決まったので、上陸出府して良いと。)
六月二十五日 / 8 月5 日 柴田日向守・朝比奈甲斐守より和春宛の書簡(イタリアとの条約に引合可能。ただしプロシアとの条約程度しか許されない。しかも条約締結後、帰帆を急ぐべきと。プロシア条約の蘭文を差出す(「草稿之侭」)。メルメは報告をする可。)
六月二十六日 / 8 月6 日 アルミニヨンは上記の書簡を受け取る。
六月二十七日 / 8 月7 日 朝比奈甲斐守より和春宛の書簡(朝イタリア使節に条約に関する書簡を出したが、「和文のミ」であったため、税則の蘭文も送ると。また白耳義=ベルギーの条約の和文も差出すと。)
六月二十七日 / 8 月7 日 柴田日向守・朝比奈甲斐守より「伊太里全権使節ヱキセルレンシーウヱヱフアルマンジョン」宛の書簡(イタリア使節は「明日出府」する予定ということをメルメから聞いたが、「執政同列之内不快之ものも」いるし、「公務繁劇寸隙も無之」ということなので、面会を断りたいと。)
六月二十七日 / 8 月7 日 アルミニヨンは、いつ江戸へ赴こうと考えているか、そして老中の病気のため上陸を延期して欲しいという柴田日向守と朝比奈甲斐守よりの書簡を受け取る。
六月二十九日 / 8 月9 日フランス郵船はヨーロッパでの戦争の終戦とオーストリアの敗北という知らせをもたらす。
七月朔日 / 8 月10日 イタリア使節江戸へ出帆し、午前11時に江戸に到着。三田小山の大中寺を見学し、幕府の全権3 人に使節の到着と翌日面会したいという要求を伝える。
七月二日 / 8 月11日 昼に柴田日向守、朝比奈甲斐守と大目付の牛込忠左衛門は大中寺にやってきて、交渉が開始される。メルメは現れないが、塩田三郎がいるので、交渉をフランス語で行うことができる。会議は16時に終わる。イタリア使節は夕飯をとりにマジェンタ号に戻る。
七月三日 / 8 月12日 朝比奈甲斐守丞・柴田日向守より和春宛の書簡(イタリア使節との条約について差支がないし、メルメが周旋することも承知であるとのこと。しかし出府しないのか、それともいつするのかという先日の朝比奈甲斐守よりの書簡と同様に伺いたいと。前の使者の嶋屋に問題があるので新しい使者の七之丞を派遣する。)
七月?日 / 8 月?日 柴田日向守・朝比奈甲斐守より河内守宛「仏文及訳之儀ニ付申上候書付」(イタリア使節においてオランダ語ができる者はいないので条約文をフランス語で書く可。そのため、フランス語ができる人を支配向のうち1 、2 人もいなければ、「横浜表仏学伝習生徒之内」から選んでいいし、「仏公使よりも伝習生御用」を使ってもいい。とにかく川勝近江守(横浜仏語学校校長?)にその旨を伝えると。
七月?日 / 8 月?日 浅野□□守・小笠原筑後守・小栗上野介・朝比奈甲斐守・早川能登守・川勝近江守・万年真太郎・牛込忠査衛門(大砲差図役頭取栗本貞次郎・歩兵差図役務方長田_之助)より河内守宛「語学生徒之内翻訳御用取扱候儀申上候書付」(以上のイタリア条約に関する以上の翻訳の件について、書面の者に伝えるとのこと。))
七月三日 / 8 月12日 条約案の検討が終わる。条約を日本語・イタリア語・フランス語(あまり知られていないオランダ語の代わりに)で書くことが定められる。
七月四日 / 8 月13日 形式上の問題が残されたが、メルメはその手伝いに午前にやって来る。交渉は完全に終了し、最終的に調印は8 〜10日後に行われることが約束される。イタリア使節はマジェンタ号に乗って横浜へ戻る。
七月五日 / 8 月14日 午前9 時頃、ロッシュとメルメは座礁したフランス船の救出をイタリア使節に求め、アルミニヨンは快諾する。マジェンタ号は午後3 時頃横浜に戻る。イギリス公使パークスも長崎から帰って来る。
七月六日 / 8 月15日 お祭り(聖母マリアの……)
七月六日〜十三日 / 8 月15〜22日 イタリア使節は条約を写す作業を行う。
七月十三日 / 8 月22日 アルミニヨンはマジェンタ号を横浜に残し、大中寺に止宿。
七月?日 / 8 月?日 祭りの日、浅草見物。茶屋で少なくとも5 倍の値段を払わされ、その領収書をとっておいて後にメルメに訳してもらう。
七月十六日 / 8 月25日 条約調印の日。メルメと日本側の通訳官・学者は条約の日本語とフランス語の写しを何時間も校合する。午後4 時に幕府の全権3 人とアルミニヨンは条約に署名し印鑑を押す。
七月十七日 / 8 月26日 午前10時に、イタリア使節の主な構成員は老中と面会。アルミニヨンは井上河内守と?の前で礼の言葉を言い、塩田三郎はそれを通訳する。
七月十八日 / 8 月27日 イタリア使節は大中寺を離れて江戸湾へ戻る。アルミニヨンは中国への出発を9 月1 日に決める。
七月十九日 / 8 月28日 将軍家茂が死去。アルミニヨンはその出来事を9 月末〜10月初めに北京にて耳にする。(実際の将軍の死は翌日の29日だった。)
七月二十一日 / 8 月30日 イギリス郵船はリッサの海戦でのイタリア海軍の敗北を伝える。アルミニヨンは老中に書簡を書き、お礼を述べながら9 月1 日の出発を報告する。
七月二十二日 / 8 月31日 午前2 時頃、アルミニヨンは老中からの返事をもらう。午後1 時頃、若年寄立花出雲守種恭、神奈川奉行早川能登守、柴田日向守、朝比奈甲斐守、塩田三郎と他の役人はイタリア使節を訪問。
七月二十三日 / 9 月1 日 ロッシュとメルメの援助を感謝して、イタリア使節が上海へと出帆する。
 
エセル・ハワード 

 

Ethel Howard (1865〜1931)
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の皇太子、シャム国王の甥などを教育した英国婦人。1901(明治34)年日本に招かれ、約7年に渡って元薩摩藩主島津家の忠重ら5人の子息の教育を託された。そのときの日記が残されており、そこには当時の上流社会の家庭の様子と日本の風俗や日本人の気質が綴られている。 
明治日本見聞録 1
明治時代に7年間にわたり薩摩の島津家の家庭教師を勤めたイギリスの女性エセル・ハワードEthel Howard(1865-1931)の回想記です。当時の日本のさまざまな風俗・習慣・日本人の気風、気質をこまごまと記録しています。普段は日常的なものはあまりにも当たり前すぎ、当然のことなので,それらを仔細に記録に残すことが少ないものです。その結果その当時のことは時が過ぎたら忘れられるものです。そんな中、外国人の女性から見た古き日本はどんなものだったのか、激動の明治時期の特に上流社会の姿が描かれているので一緒に歴史旅行をするかのような気持ちになりました。
島津家の4人の男の子たちを英語を使い育てていくのです。島津富次郎 諄之介 あき之進 陽之介 の4人で9歳8歳7歳6歳という年子でもある。そして彼らの顧問として松方正義、西郷従道(隆盛の弟)大山巌などが選ばれていたのです。松方正義は日本銀行を設立し、総理大臣にもなった財政家でもあります。その彼にも「私としては信頼できる友人というふうに感じていたので、何でも彼には自由に話すことができた」とあります。
日露戦争後には、あるときは東郷平八郎の隣に座ることもあり、日本のネルソン、日本海軍の父と言われた東郷提督を称えています。青山墓地で英霊を称えて弔辞読んだときなどは「深い思慮と宗教心を具えた人物」とであると感じています。朝鮮への旅行時には当時の韓国統監の伊藤博文と会い彼は英語で子供たちに話した。「非常に愛想よく私の仕事などをいろいろと褒めてくれた」とあり伊藤の家を訪問したときその「質素」なことと「富を象徴するような飾り物が一切ないことに心を打たれた。」と記しています。 
明治日本見聞録 2
1901年から1907年まで日本に滞在し、島津家の家庭教師をしていた著者の体験記
ニュージーランドは日本人にとって理想の土地である。彼等は日本人に好意を持ち、いつも熱狂的に歓迎してくれる。これは確かに海軍に関しては事実であった。ニュージーランドとその他の国々を訪問して帰ってきた日本の艦隊の士官たちは、現地での温かい歓迎ぶりを、口では言い表せないほどだと語った。彼等は土地の人々を愛し、その景色や、その国の富や産物に夢中になったらしい。
日露戦争当時のある出来事 / 日本の軍司令官の前に、一人の兵隊がロシア人の捕虜の両手を縛って連れてきたので、司令官は驚いていった。「どうして捕虜にそんな扱いをするのだ?」「閣下、彼は私を噛もうとしたのです」というのが答えだった。事の真相は、捕虜がその兵隊からお茶やよい食べ物やたくさんのタバコなどをもらったお礼に、侮辱となるとは露知らず、感謝のつもりでキスをしようとしたのだった。
どう考えても私によくわからない習慣として、全く血のつながりのない家族へ息子を養子にやる制度があった。確かその弟の一人だと思っていた人が、いつの間にか全く違う名前で私に紹介されるということが何度もあった。この事実に対する説明としては、ある家族に、長男の他に年若い息子がいて、他の家族に跡継ぎがない場合、その家族へ養子として出すことはしばしば行われることであり、それによって爵位が継承されることになるのである。
日本の婦人はまだ極めて若いうちに、髪が大部分抜け落ちてしまう。その新鮮な美しさをすっかり失ってしまう。たいてい皺が寄り始め、髪が大部分抜け落ちてしまう。しかし、多くの場合、彼女の顔には生活の闘いと苦しみから生み出された、優しさと辛抱強さの表情が浮かんでいるのが目に付く。西洋の夫人の場合は、こういう老いの印を拭い去ろうとするのがごく当たり前になっており、顔のマッサージに頼ったり、いろいろな人為的な方法を用いたりするのである。しかし、これは一番賢い方法であろうか?秋も春と同じような魅力があることは確かであり、年をとればそれにふさわしいりっぱな精神的な美しさが具わるものである。西洋の中年の夫人の強さと活動力には、大いに賞賛に値する物がある。老齢と衰弱に逆らわずに身を任せる東洋の婦人たちに比べて、西洋の婦人たちはどんなに多くの仕事を成し遂げるか、そして、年取った婦人たちが、死ぬまで元氣で仕事が出来るというしあわせを得ることがどんなに多いか。もし西洋と東洋の婦人たちがこの問題でお互いに少しずつ知恵を借り合えば、双方の国民にとって大きな利益となるであろう。
(文脈から、子供の頃の昭和天皇のことを言っていると思われる。) 彼は西洋風のボタン掛けの編み上げ靴を履いていたが、新しい靴を履かせてもらったこと、それにたくさんのボタンがついているので、上気して大層お喜びの様子だった。彼は全く素直な子供で、健康と陽気さに恵まれていた。彼は突然私の姿に気づいたが、私が言われていたとおりにお辞儀すると、小さい皇太子は、子供らしい喜びの最中だったにもかかわらず、自発的に自分の小さな手を帽子のところへ持ち上げて大変威厳を持って敬礼をした。たった三歳の幼児に過ぎなかったのに、彼の体の中には誇り高き血が流れているのは誰の目にも明らかであった。私の心のなかに次のような考えがひらめいた。「あなたはどこからどこまで皇帝です。いつの日にか、あなたは逞しく力強い指導者となられるでしょう」  
明治日本見聞録 英国人家庭教師夫人の回想
英国人女性エセル・ハワードは、明治34年(1901)から明治41年(1908)まで、島津家の家庭教師として日本に滞在した。滞在中のことは『明治日本見聞録 英国人家庭教師夫人の回想』という一冊にまとめられている。これまで多くの外国人による幕末明治の記録を読んできたが、いずれも日本人の姿を知る上で貴重なものばかり。特に日露戦争という有事の記録には「日本民族の真価」が際立っており、驚きと感動を禁じ得ない。ハワード女史は折しも日露戦争中の日本に滞在しており、日露戦争の中に、当時のことが断片的にまとめられている。
冷淡な日本人?
日本人は冷淡なのだろうか?西洋人のほとんどが、必ず一度箱の疑問を抱く。そして、しばらく滞在するうちに、それはまったくの誤解であることに気づくのだ。ハワード女史もやはりそうだった。
女史は、「出征する陸軍や海軍の兵士たちが親戚や友人たちと別れの挨拶を交わす様子を見て、なんて冷淡なのだろうと驚くことが多かった」と記している。小柄で美しい妻が、海軍士官である夫に別れを告げる際のお辞儀を、「よそよそしい」と感じて、「なんて変わっているのだろう」と不審に思っている。
「私には、彼らの動作になんら感情の表れが感ぜられず、その別れ方は全く愛情に欠けているように思えた。」
やがて汽車がゆっくりと動き始める。女史の目の届くところで、その士官は妻と子に敬礼をして黙ったまま静かに立っている。車両には、ハワード女史と、その士官しかいない。やがて士官は女史から最も離れた座席に腰掛けた。
ハワード女史が衝撃を受けたのは、それから間もなくだった。
ふと目をやった士官の顔は大理石のように青ざめており、強くむせび泣く声が聞こえてくる。そして、まるで気絶したかのように、後方に崩れ落ちてしまった。このような様子を見れば、誰であろうと強い悲しみにうちひしがれていることがわかる。ほどなく士官は姿勢を正し、なにごともなかったかのように端座する。その顔には、もはや悲しみの断片も無い。しかし、ハワード女史は痛烈に理解したのだった。
「一見きわめて冷淡に見える態度は、深い感動の産物にほかならないのである。」
日露戦争における、こうした別離の風景については、イギリス人の従軍記者であったポンティングも、素晴らしい記述を残している。親日家であり日本の風習や文化に理解のあったポンティングは、この「冷淡な別れ」について、まるで痛々しくてたまらないといわんばかりに、弁護している。特に女性について、「あの可憐でかわいい日本女性が、このような悲しみに耐えるのは、どれほど大変なことであろうか」という、敬愛を込めた表現で綴っている。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に至っては、この「冷淡な別れ」こそが、世界中どこを探しても見つけることはできないであろう、孤高の精神、「日本民族の高潔さ」のあらわれであるとしている。八雲は、西洋人の日本人に対するこの誤解を解くために、実に多くの頁を割いている。
日本人の記録の中では、杉本鉞子の『武士の娘』がある。鉞子はアメリカで生活する中で、西洋人の愛情表現に息苦しさを抱く。そして、「日本人は感極まったときに、その思いをどう表現するのか」という問いかけに、こう答える。 「ただ、お辞儀をするのです」と。心を込めた礼、それが、精一杯の、最大限の、相手に伝える「心」であったのだ。
いま、私たちが、妻子との別れを、お辞儀や敬礼だけで終える、そんな光景を見たのなら、まちがいなく、「なんてあっさりしているんだろう」と思うだろう。「たいして愛し合っていなかったに違いない」とさえ思うかも知れない。
戦前の日本人、特に、幕末明治の日本人の姿は、遠くなるばかりである。
けれど、どれほど時代が移り変わろうとも、これが日本人の真の姿であったこと、そして、西洋人が賛美した「高潔な日本民族の姿」であったこと、さらには、その血筋を、間違いなく私たちが受け継いでいることを忘れないでいたい。私たちは根底に、きっとこの姿を内包している。私は、そう強く信じることができる。 
日本人
柔和な教育
エセル・ハワードは、日本人の気質は「一部は訓練によるものである」と言ったが、その一端はカロンの「日本大王国志」にも見受けられる。カロンは江戸の鎖国前後を見た外国人である。彼は日本人の子供の教育に着目した。
「日本人は子供を注意深く、また柔和に養育する。たとえ終夜やかましく泣いたり叫んだりしても、打擲することはほとんど、あるいは決してない」
日本人は辛抱強く待ち続けるというのである。子供の理解力が発達するのを。子供たちが分かるようになるまでは、「辛抱と柔和」とをもって宥(なだ)めるというのである。
「柔和と良教育とをもって誘導せねばならぬ、というのが彼らの解釈である」
日本の社会では、大人がその背中をもって、その生き様を示していたのだという。それゆえ、子供たちも自制することを覚えるようになる。そのため、「打って教え込む必要はなかった」とカロンは記す。
カロン自身、「日本人は忠実にして信頼するに足る」と、本国オランダで激賞していたとも。
負けて静かに…
幸いにも日本はロシアに勝ったが、不幸にもアメリカには負けた。第二次世界大戦の敗戦後、台湾にいた日本人60万人は日本へと帰国の途につく。その様を、林茂生は歌に詠んでいる。
「天を恨まず、地に嘆かず、黙々として整々と去る。日本人、恐るべし」
彼が「日本人、恐るべし」と表現したのは、敗戦という屈辱的かつ過酷な運命に際しても、日本人たちがパニックに陥らずに粛々と引き揚げていったことに強い衝撃を受けたからであった。台湾にいた日本人たちは、半世紀にわたり台湾で築き上げてきた全財産を中国に接収されたにも関わらず、粛々としていたのだ。
その引き際の美しさもさることながら、その運命の受け入れ方は、台湾人・林茂生の常識を超えていたのである。
「彼らの、物事を当然のこととして受け入れる態度は、西洋人も見習うべきではないかと思う」
こちらはエセル・ハワードの「明治日本見聞録」にある言葉である。彼は薩摩藩・島津家の家庭教師を務めた人物であった。
「この平静さは日本人の特徴であって、一部は生来の気質からくるものであり、一部は訓練によるものである」  
エセル・ハワードの『日本の想い出』 明治日本における西洋文化受容例 
第1節 レディ・トラヴェラーの系譜とエセル・ハワード
「明治日本における西欧文化の受容」という問題を文学史の観点から見るにあたり、本論考では受容の結果ではなく、その過程の分析に重点をおく。西欧化されてゆく明治日本を「西欧化した当事者」がどのように観察し、その結果自身のアイデンティティについてどのような認識の変化がもたらされたか、という異文化交流の相互作用的な側面に着目したい。幕末・維新期の日本社会の変容については、西欧人による多くの日本見聞録や日誌、紀行文が出版されているが、その観点は多くの場合、好奇の目で異国の文化を見るエキゾチシズムの域を出ていない。西欧の列強諸国によるアジア圏支配の要の一つと目された日本の開国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシアなどの注目する項目であった。アーネスト・サトウやA・B・ミットフォードらイギリス外交官の記述を読むと、彼らが日本の観察者にとどまらず、その政治的動向を左右する大英帝国経営の一員でもあったことがわかる。そのため、彼らの記述の関心が政治的な場面・観点に偏りがちであるのは否めない。それらと比較すると、直接に政治やアカデミックな制度の一員として活躍することのなかった(たとえば、ヴィクトリア朝の代表的なレディ・トラヴェラー、イザベラ・バードは地理学会で旅行の成果を発表することが許可されなかった)女性の手になる日本見聞録からは、男性の記述からは聞こえてこない異文化交流の実態が浮かんでくる。
ドロシー・ミドルトンの定義によれば「レディ・トラヴェラー」とは、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、アジア・アフリカなどのいわゆる「未開」地域を単身、みずからの意志と資金で旅行し、その記録を残した白人(おもにイギリス人)女性のことで、ほとんどの場合ミドルクラスかそれ以上の社会階級に属しており、コヴェントリー・パトモア(1823−1896)のよく知られた詩のタイトルに由来し、ヴィクトリア朝社会に蔓延した「家庭の天使」(“The Angel in the House”)という女性像にならって、礼儀作法や道徳観を身につけていた(Middleton 1965, 3)。このレディ・トラヴェラーに関する評価はフェミニズムの勃興や深化するジェンダー研究の方向性によって大きく変容してきた。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、多くの白人女性たちは現地人を救済し、男性による帝国主義的支配のありようをわずかでも改善するべく、善意と義務感をもって海外の植民地へ向かった。しかしその真の動機はやはり、当時の男性中心社会において十全な開花を望めない自分のアイデンティティを本国外で再構築することにあったのでは、という議論が、ポストコロニアル研究とフェミニズムの交差するところで起きている。近年では、「白人男性の共犯者」という罪を問うばかりでなく、彼女らが置かれた海外植民地の政治・経済・社会的な力学のなかでその経験を問い直そうとする、歴史地理学の観点から研究が行われている。
植民地における西欧人女性の存在と役割という問題をめぐり、ここで本論が取りあげる人物は、ヴィクトリア朝後期のイギリスに生まれ、1901(明治34)年から1907年までの7年間を明治日本の薩摩藩の家庭教師として過ごしたエセル・ハワード(Ethel Howard,1865−1931)である。大家族の中産階級家庭に生まれた彼女は、若くして父親から古典と数学を学び、ヴィクトリア朝に女性が選択できる数少ない適正な職業、家庭教師の道に進む。シャム国王の甥を教える仕事を成功させたエセル・ハワードは、次にドイツ皇帝ウィルヘルム二世の子供たちの英語の教師に推薦を受け、王室からの正式な任命を受けて1895年ドイツに着任した�u57037 .�u57047 .。このときの体験は『ポツダム・プリンセス』という回想録にまとめられ、1916年に出版されている。1898年、健康上の問題で辞任し、イギリスに戻っていたハワードは、このドイツ宮廷での経験が買われ、1900年、当時の駐日代理公使ホワイトヘッドからの斡旋依頼により、島津忠義公爵の男児5人の家庭教師として招聘され、1907年まで在職した。イギリス人女性の家庭教師の招致を主唱したのは、島津家の顧問の一人で、旧薩摩藩出身の総理大臣経験者、松方正義であったといわれる(『明治日本見聞録』、長岡祥三、あとがき、289)。島津家の家庭教師としての日本見聞録はJapanese Memories(『日本の想い出』)と題して、1918年、ロンドンで出版された。
『日本の想い出』の特徴のひとつは、著者の中途半端な立場ではないだろうか。つまり、本書は文化人類学的関心を持った研究者である旅行者や、ローレンス・オリファントのように公的人物に対して思想的影響力の強かったジャーナリスト、あるいはクロード・マクドナルドら著名な外交官たちのような、いわば日本にとっては「外部」の人間によって書かれたものではない、という点である。この書の「序」の冒頭には次のように書かれている:「この本の内容は、日本の貴族の家庭に七年間滞在した私の主として個人的な体験であり、私の日記に書き留めたことや私が未だに憶えているいろいろな想い出から拾い集めたものである」。また、日本での仕事を引き受けるか否か迷っていた折、イギリスの親日家ジャーナリスト、エドウィン・アーノルド卿から「東西の架け橋をつくることができたとすれば」価値の高い業績となる、と奨励され、「この点に関して実際に私の仕事がどれだけ役に立ったか疑問に思うこともあるが、日本の貴族中の貴族ともいうべき薩摩の殿様の家庭に住み込んだ最初の外国人女性として、この本を書く資格があるのではないか」(下線による強調は論者)と述べており、あくまで文化人類学や国際関係問題に関しては「素人」の私的な見解ではあるが、異国の「内部」に潜入した最初の外国人としての親密な観察であることを巧みに強調している。
そんなハワードは自分の立場についてきわめて意識的で、日本に出発する前に「私の地位を示す正式の呼び名」がなかなか決まらなかったことが懸念であったと書いている。ガーディアン(保護者)という意見を出すが賛成を得られず、ガヴァネス(住み込みの家庭教師)という呼び名に対しては「私が親のない子供たちの親代わりを勤めるわけだから不十分である」と彼女自身が反対している。ヘッド・オブ・ザ・ハウス(一家の長)でも不十分だ、といい、「公式な身分や正式の法律上の契約も未確定のまま」1901年の大晦日、「どちらかといえば中途半端な状態で」日本に向けて出発している。結局、後に彼女が確認したところでは、島津公爵家の家職(顧問)の日誌にはハワードについて「単に『家庭教師』と記されて」いたという。この正式な呼び名へのこだわりと「単に…」という軽い失望の表現には、独身女性の選択できる例外的に「リスペクタブル」な職業であった家庭教師という地位に対する彼女自身の複雑な思いと、貴族の子弟を教育するのだという自負をアピールしたい、イギリス人特有の階級感覚を感じ取ることができる。 
第2節 明治日本の国際化と日英同盟
子弟を国際的な指導者へと養成することを望む日本の貴族階級と、ヴィクトリア女王崩御の直後という象徴的なタイミングで来日したイギリス人女性エセル・ハワードとの出会いが持つ、その社会史的価値は無視できない。そしてエセル・ハワードが島津家の家庭教師として来日した背景には、20世紀初頭に緊密になった日英関係が欠かせない。そこで、ハワードが記録したエピソードとからめて、その時代背景を説明したい。
オックスフォード大学から日本近代史に関する論文を刊行している英国近代史研究家の都筑忠七によれば、西洋文化の受容という観点から見るとき、近代日本はその始まりと経過の重要な部分をイギリスに負っている。生麦事件と、それに対するイギリスの薩摩藩への報復(軍艦による砲撃)が、日本と「西洋」とを初めて正面から向き合わせた。その出会いから生まれた一連の事件は、薩摩出身の陸軍大将・黒木為禎のことばを借りれば、近代化前夜の日本という「熱い鋼を打って鍛える」結果(ポンティング、270−71)となり、逆説的に薩摩藩を親英にさせ、幕末の開国を早める結果を生んだのである。
それから30年あまり、19世紀末には、極東とくに満州におけるロシアの脅威が見逃せないものになってきていた。ことに1899年に起きた義和団事変解決の密かな見返りとして中国北部の満州を獲得したロシアに対して、日本とイギリスはなんらかの対抗策を打たねば、という意向で一致し始めていたのである。当時南アフリカでボーア戦争の泥沼にはまりつつあったイギリスは、単独では中国における覇権を維持できず、極東におけるロシア監視役として、日本の協力を必要としていた。植民地弁務官ジョセフ・チェンバレンは非公式にではあるが、駐英公使の加藤高明に対して「将来的に有望な同盟国日本」との合意に達する可能性がある、という示唆的な発言をしている。
日英同盟の具体的な準備が行われたのは、1900年から1906年にかけて駐英公使であった親英派の外交官、林董が在ロンドンであったときのことである。義和団事変による西欧各国への中国の損害賠償を定めた北京会議が1901年に終わったが、その経過で起きた「三国干渉」によって再びロシア脅威を認識し始めた林に、一時帰国していた駐日イギリス公使のクロード・マクドナルド(先の義和団事変当時、包囲された大使館内にいた)が接近し、イギリス政府は日本との同盟調印への準備に入ったことを告げた。林の通達によってこれを知った日本の元老会議も、イギリス側の提案を合議し始めた。
ロシアとの協調政策に傾いていた伊藤博文は1901年秋ロシアを訪ね、外相、財務相と会談するが、ロシア側の応対に失望する。一方で、訪欧の最終目的地ロンドンでは当時の首相ソールズベリに歓待され、日英同盟の実現の可能性がはるかに高いことを認識した。明けて1902年1月30日、日英同盟は調印され即日発効した。この同盟はまず5年間実働し、相互の港湾使用や艦隊への燃料補給を義務づけたもので、2年後の日露戦争では大いに日本を助ける結果となる。こうした国際社会を背景に、1898年まで2度総理大臣を務めた松方正義が旧薩摩藩士であったこと、また彼が日露戦争開戦の主唱者であったことを考えると、その松方の依頼で、駐日イギリス公使マクドナルドの人脈を通じて薩摩藩の子弟教育のために派遣されてきたイギリス人婦人家庭教師、エセル・ハワードの存在は、幾重にも象徴的といわなければならない。
以上のような当時の国際情勢を見てくると、ハワードの見聞録の第18章「朝鮮への旅行」が、この書を特徴づけている政治的穏健さとユーモラスな基調を乱すように感じられる理由も、わかってくる。彼女は1907年、島津家の男児3人を韓国(当時大韓帝国は日本の植民地政策下にあった)と中国(満州)にいわば精神修養の旅につれてゆくが、章の冒頭には「私にとって、これら貴族の子弟の教育に捧げた私の永年の仕事の最後を飾るものという思い」で遂行されたという記述があり、ハワード自身が抱く旧弊な封建制度へのノスタルジーを色濃く感じさせる。「日本の勇敢な兵士たちがあのように雄々しく戦い、そして死んでいった戦場の跡を訪ねることによって……天皇陛下と祖国と同胞へ奉仕すべき義務を負っていることを深く心に刻みつけるのが、この旅の目的であった」と彼女が日露戦争の道義を問い直すことなく回想する背景には、時代の空気、すなわち日本国内の反ロシア世論、韓国と中国への覇権拡大という欲望、国外では対ロシア共同戦線を条件に日本の「国際化」、すなわち一人前の国家として教育水準から軍事力にいたるまで指導し向上させることを約したイギリスの思惑が存在しているといってよい。  
第3節 エセル・ハワードの日本観「風景・教育・風俗習慣」
3−1
薩摩の大名島津家の家庭教師としてイギリスから招聘されたエセル・ハワードは、1901年に来日し、日露戦争をはさんで1907年まで在職した。22章から成るこの回想録の観察の対象は、女性ならではの日常生活の細々とした場面から、当時の国際情勢を反映した公的な場での政治家や軍人への批評にいたるまで多岐にわたる。この節では、ハワードの回想録を具体的に調べ、とくに「日本の風景」「教育」「風俗習慣」にまつわる記述に注目して章を分け、彼女の日本観を考察したい。
日本に到着したハワードが実質的に日本を目にする最初の地は神戸で、ここでの港の人足の印象は気味の悪いものであった。「その男がわれわれのほうに駆け寄ってきたとき、両袖がぶらぶらと揺れて、どうしても腕なしとしか見えない恰好であった」ので、彼女は「驚きのあまり飛び下がり、」日本通である同行の船客に笑われる。男は寒さから手を守り暖めるため、ねずみ色の綿入れの中に両手をたくし入れていたのである。また、寺の境内である女の子が赤ん坊を背負うスタイルで子犬を背負っているのを見て、それを奇形児だと思い込み「驚いて真っ青になった」。
そんな無知な新参者ならではの「ダメな観察者」であることを告白するハワードの、専門的な観察者ではない、というこの態度こそが、受容する側である日本人との緊張関係を緩和させているとも考えられる。もちろん、回想録には書き手の選択意識や記憶を美化したい欲望が働くものであるし、見る╱見られる者の間の不平等な関係は当然生まれてくる。しかし、当時の男性の旅行記はもちろんレディ・トラヴェラーの記述にも、イギリス人の尊厳あるいはそのイメージを崩さないように大きな注意を払ったことが見いだされることと対比すれば、ハワードの書き方には、「民俗学者」や「外交官」という職業者のもつ権威の感覚が薄い。そこには、生身の人間が異質な世界で感じるショックや苦労が前景化されており、むしろ宣教者の苦労譚、といった趣である。たとえば、最終地点の横浜港に到着したときに富士山を宗教的な感慨をもって眺める、という回想の記述で、ハワードの持つ「低い」視点を読みとることができる。
われわれは、二月十七日早朝横浜に到着した。同行の友人たちが日本で一番美しい山である富士山を見ましょうと誘ってくれたので、甲板へ出てみた。山は雪にすっぽり覆われ、その斜面に朝日が輝くのが見えたとき、なんとすばらしい景色であろうと思った。この時の印象は、おそらく一生忘れられないだろう。私はいつも寂しく頼りない気持ちになると、「私は山に向かって目をあげる。わが助けはどこから来るであろうか」という詩篇を思い出す。そして、そのとおりにしたものだった。
マリー・ルイーズ・プラットの指摘のとおり、ヨーロッパの旅行文学の伝統では、高みから異国の風景を見下ろす、という仕草はしばしば、その風景を「発見」し、象徴的に「征服」することに他ならない。それに比べてハワードの記述は、「私」は富士山に向かって「見上げる」、つまり異文化に対しては「低い」者であり、キリスト教的な文脈でも「目をあげる」、つまり「助けを乞う」者として自分を意識している点が特異である。
その後も、出迎え人を探し出したものの「われわれは握手を交わし、彼は英語で私に話しかけたが、私にはほとんど一言も理解できなかった」という記述があり、母国語への逃避とその失敗、という心理的な動揺が描かれている。また汽車の切符を見て「それは『発行日限り通用』と印刷され、英国の切符とあまりによく似ていたので大事にとっておいて、降りるときも渡したくないくらいであった」と述べたときのハワードの心情は、鉄道システムに象徴される祖国、先進国イギリスに対するホームシックの様相を呈している。そのホームシックを和らげたのは、英国公使官邸で引き合わされた教え子、島津公爵家の4人の少年たちの可愛らしさであった。しかしここでも、彼らの描写は「華族学校の初等科の制服を着ており、それは赤い縁取りの入った黒い制服で、英国の郵便配達夫の服装によく似ていた」と、祖国の風物を比喩に用いずにはおられない彼女の心境が強調されている。
また、これが到着の場面であることも重要である。プラットによれば、古典的なエスノグラフィーにおける到着の場面はそれ以後に展開されることになる民族学的記述が、民族学者本人の自伝的経験から生み出されたものに他ならないことを強調することで、その記述の真正性を保証するという重要な役割を担っている、という。ところが、ハワードの『日本の想い出』の日本到着の場面において「私」は心理的に脅かされ、驚愕し、頭を垂れる、弱い存在として描かれているのが、当時のイギリス人による見聞録としては特異な点である。
とはいえ、外国の見聞録である以上、語り手の個人的な体験が異文化摩擦という高次の現象を表象するのは当然である。続いてハワードが語る苦難のほとんどが「英語が話せない日本人たち」に囲まれた孤独感との葛藤であることは、帝国主義時代のイギリスの植民地政策(日本は厳密には植民地ではないが)の最前線に置かれた「弱い」人間のジレンマの戯画であるといえるだろう。そして、その西欧化教育が広めた文明(物質)と文化(精神)のバランスの悪さが、通訳として雇われながら「全く言葉の通じない」女中コマ、ハワードが「幸福に居心地よく過ごせるよう」注意深く整えられた寝室の、ヴィクトリア朝のインテリアに欠かせなかった「ベルギー製のカーペット」、水の出ない飾り物の蛇口が二つ付いた「英国式のバス(タブ)」、ナイフとフォークを使ってはいるが「大いに改善の余地があった」島津家の子供たちの食事作法などの、ちぐはぐな珍現象に現れている。西欧式の生活マナーを教えようにも、その土台である「言語」は届いていない場所に、彼女の葛藤は起因している。
ハワードが旧弊さの残る旧薩摩藩の旧家で外国人の家庭教師として成功してゆくカギは、彼女がこの日本の文明開化の実態を汲み取り、周囲の日本人の不条理にみえる振る舞いを絶対的に正しい西欧人の目から見て「異常」であるとか「理解不可能」とは決して表現しなかったことだろう。言葉が通じない環境にあって、なお共通の人間性を見出すには、まず自分が「見られる」必要があった。この点で興味深いエピソードとして、盆栽の話がある。東京の島津家の屋敷でその室内のみすぼらしさに驚き失望していたハワードが唯一美しいと思ったのが、食堂の片隅に置いてあった梅の木の盆栽であり、「それを見ていると、お伽の国を覗いているような」気がして眺めていた。すると、「しばらくして私の寝室にも同じような盆栽が置かれたので、私の鑑賞眼を彼らが認めてくれたことがわかった」。これはいわば、本来優位に立っている(見る)べき先進国がその文化を教えるべき「未開」の相手から認められる(見られる)、そして見られた、という事実をまた感知する、というミシェル・フーコーが主張したところの「視線の支配力学」が働いた、異文化交流においては重要な瞬間であったといえるだろう。
語り手ハワードが社会的・心理的に「弱い」立場として日本の風景や事物を見ることにより、本書はヨーロッパ人によって書かれた多くの伝統的な紀行文・見聞録が示してきた西欧中心主義の体験談とは一線を画している。ここでは異文化体験とはルールの無い試合であって、相手を見ようとする両サイドの「窯変」を促すものだということが明らかにされている。 
3−2
これまで説明してきたように、『日本の想い出』は外部から来た「弱い者」による変則的な見聞録と考えることができるが、招聘された目的である日本の大名子弟の「西洋教育」という点においては、ハワードは優位者である。そのヴィクトリア朝的な超「正道」な教育方法が、むしろ実験的に見えるのが興味深い。たとえば、「男の子らしい性向をのばして」やるために、ハワードは昔かたぎな藩の年寄りたちの猛反対と、自身の内心の不安と恐怖を押し隠して、子どもたちに木登り、乗馬、射撃、水泳、ボート漕ぎからヨット帆走にいたるまで体を張って指導する。こうしたハワードと屋敷の使用人たちや子どもたちとの具体的な対話、行った教育的指導の内容、そして教育の一環としての旅行体験の記録が本書の核にあたる。第5章は「子供たちとの生活」と題され、子どもたちを「西洋式に教育する」苦労や、滑𥡴な勘違いの数々など、ほほえましいエピソードがつづられている。興味深いのは、彼らの関係が西洋対東洋、教師対生徒、という支配的な図式が与える印象よりも、はるかに穏やかで文化的制約の少ないものである点である。
ハワードにとって「身分の高い」階級の子弟を、本来イギリスのブルジョワ階級の規範である「リスペクタビリティ」に沿って養育するのは重責であったに違いないが、彼女はその洞察力をもって適切な対処で切りぬけてゆく。しかしまた子どもたちの方にも、異なる文化を想像する力が育まれていることがうかがえる。たとえば、その行為のもつ文化的な意味の違いとショックを考え、ハワードは来日したときから子どもたちにキスはしないと強く決心していた。しかし、子どもたちは簡単にその境界線を越えてみせるのである。
しばらく経ったある日のこと、ガッティ夫人の『自然界のたとえ話』を声高に読んでやっていたとき、驚いたことには末の子が私の手をつかんで、キスしたのだった。それ以前のある日、私の所へ友達が来た際、私が当然のこととして彼女にキスしたときには、子供たちからどっと笑い声が起こったのであった。そして、後で「どうしてあの人は先生を舐めたの」と聞くのだった。これが、子供の目にした初めてのキスだったのだ。しかし、彼の鋭敏な感覚はそれを愛情の表現と感じとるのにいたったのであった。
また、ハワードはキリスト教について子どもたちに話すことを禁じられていたため、道徳的な問題についての質問への答えに窮する場面がしばしばあった。ある日、いじめられていた猫を庇う彼女に、子どものひとりが突然「先生はクリスチャンだから、あの猫を可愛がるのですか􌗉」と尋ねる。儒教的な沈黙と瞑想のうちに日々を過ごすよう躾けられてきた彼らには、絶対的な存在に対する個人の責任、という観点からの「善行」は新鮮な概念だったのである。とはいえ、ハワードが無条件にキリスト教を絶対化していたとは思われない。それは第13章の「日本人と刀」において、ある若い日本人の貴族との対話のなかで、キリスト教の祈りは「静かに心の中で称えるのだ」というハワードに対して、その若者は父親からもらい受けた刀を「自分の部屋にいつも(その刀を)掛けておいて毎晩それを持って立ち、一日を振り返ってみて刀に値しないようなことを何かしたか反省するのだ」と語ったという。ここでハワードは、歴史の異質さや教義の違いといった点を越えて、自分の具体的なふるまいを律する内的な行為の具現を「日本の刀」にも見出している。
彼女の柔軟な感性を示すもう一つのエピソードは、感情教育にまつわる苦労に関するものである。封建制度の名残りの強い当時の日本において、彼ら名家の子弟は、他人の前で喜びや感謝の意を表すことは好ましくないと教えられて育っていた。当初はそれに驚き、憤慨していたハワードも、やがてそれが単なる無作法ではなく文化と習慣の違いであることを認識し、すこしずつ「西洋式に」喜怒哀楽の感情を表すことを教えてゆく。ところがその教育の結果、子供たちは長いあいだ束縛されてきた自然な感情をあらわにし過ぎることがあり、ハワードとしては皮肉にも、家じゅうに鳴り響く笑い声や泣き声を「あまりに品がなく卑しいと思われないように、抑止しなければならない」こともあった。このように内面の文化的境界線の柔らかさが相互理解への努力を可能にするが、また同時に、そのような努力、すなわち異文化のひとである相手の立場やものの考え方に対して想像をめぐらせるという行為こそが、異文化間の境界線を柔らかくするともいえる。
それにしても、本書において、先進国イギリスからの家庭教師と日本人の子弟との人間らしい交流と、それを可能にする双方の寛容な想像力と互いに対する畏敬の念が繰り返し語られることは、どのような意味をもつのだろうか。
論者の意見では、このようなハワードの姿勢は、イギリスと明治日本の関係が支配被支配の一方的なものでなく、日本の文明開化と帝国列強への参入はイギリスと日本の「共同作業」であったと考え、イギリス中心の歴史観に対する修正を目指すものである。明治40余年で達成された日本の目を見張るような近代産業国家への変貌は、イギリスの教育的指導に多くを負っている、という考え方が、19世紀から20世紀の変わり目のイギリスでは一般的であったという。帝国大学工部省の実質的な初代校長であり、日英関係に大きく貢献したヘンリー・ダイアーは、折りしもハワード在職中である1904年に出版した著書『大日本』に「東洋のイギリス」という副題を添えた。そして、この命名は日本人の賛同も得たと見え、当時の中学校の地理の教科書(1896年発行)には次のような一節がある。
一般的にいってイギリスはわれわれ日本になぞらえることができる。日本とのこの類縁性は、島国、大陸との関係、その領土と人口の規模、海洋性の気候と海岸線の性質といったイギリスの特徴をなす諸点で特に顕著である。それゆえわれわれは、イギリスは西欧の日本であるというべきであろうか。(イギリス人は日本を東洋のイギリスとみなす)
上の引用からわかるように、イギリスと明治日本との出会いとそのゆくえには、奇妙なところがある。当時のイギリス側の交渉者(エルギン卿、パーマストン卿ら)はもちろん対外強硬政策を推進する帝国主義者ではあったが、実際に日本で科学技術と西欧思想や言語の移植につとめた「お雇い外人」は多分にヴィクトリア朝後期の理想主義と進歩主義を抱いた善意の人たちで、相対する日本人は、西欧諸国を大いに楽しませ、助けたい気持ちにさせる優秀な生徒だったという。また、19世紀後半にヨーロッパを席巻した芸術面でのジャポニスム(日本趣味)ブームが生み出す日本観―― 墨絵や木版画、陶磁器に描かれた植物モチーフの模様のように「変化しない、また変化していない静態的社会」というイメージ―― に目をくらまされたイギリスは、日本がほんの一世代で富国強兵を成し遂げ、当のイギリスの競合相手になるなど想定もしなかった。「東洋のイギリス」、「西欧の日本」などと言い交わす「自称」強者同士のややロマンティックで自己欺瞞的な相互認識から、ハワードと島津家の子弟の人間的な交流が生まれたことは歴史の不思議である。 
3−3
ハワードが自分と教え子たちとの人間的な関係を強調するのはなぜか、という問いに、前章では、そこには当時のイギリスの技術移植に偏重した西洋中心主義・物質主義に基づく文化交流を修正する意図があったから、と答えた。しかし語り手のその意図がもっとも鮮やかに読者に印象づけられるのは、皮肉にもその意図が挫折するとき、自分を含めた西欧人によって裏切られるときである。ハワードの任務が日本の若者を「西洋教育」によって改善し進歩させることであったことを考えるとき、その任務に充分に成功した家庭教師自身が「日本を内面化」させた自分を発見するということは、一種の敗北感を伴ったとしても不思議ではない。極東での同国人の失礼な振る舞いを不愉快と思った次の瞬間に、その不愉快さが自分にはね返ってくる次の一節は、「自分」というものの根拠の頼りなさを痛感させ、印象的である。
ある日、子供たちと汽車の旅をしたときのことであるが(…)同じ車内の一人の婦人が、われわれの一行が大人数なので入っては困ると大声で抗議し、さらに一緒の車室にたくさんの小猿がいるのはいやだとつけくわえた。この言葉は、わたしの生徒たちにもはっきり理解できた。私はこのように西洋人が日本人のことを赤い顔をした日本の猿に似ていると言うのをよく耳にしたが、私が同じような経験をしていなかったらもっと驚いたに違いない。全く日本人だけの間に数ヶ月暮らした後、ある日、鎌倉の海岸に出てみると、数人の外国人が木綿の着物を着て泳いでいるのに出会った。彼らの際立って青い眼や巨大な体格や赤ら顔は、その瞬間私に赤い猿を思い出させたのである。
このようにハワードは日本滞在中に、しばしば同国人であるイギリス人の無作法で敬意を欠いた言動に「大層恥ずかしく腹立たしい思い」をさせられる。伝統的な価値観を持つハワードは外国にあってはしばしば日本人を擁護し、「植民地で会うようなタイプの人間は、本国の人間とは全然違っていて、その特性を少しも具えていないのだと人々を説得する」ために骨を折ったという。
しかし、日本に伝えるべき伝統的なヴィクトリア朝イギリスの世界とその価値観を取り戻そうとする試みは、失敗する運命にあった。なぜなら、20世紀初頭のボーア戦争敗退など象徴的な出来事の積み重ねにより、ハワードが精神の拠りどころとする「本国」自体の価値観・倫理が大きく変化していたからである。そのことを示唆するように、ハワードが日本で出会った若い西欧人女性たちの驚くべき振る舞いについてのエピソードが、先の引用の続きにあげられている。一人目は欧州社交界では有名な「非常に活発で威勢のよい性質で、海外で出会うことの珍しくない超近代派に属する」若い女性で、公式の晩餐会の席上でふざけて、自分の白粉用のパフで隣の紳士の顔をはたいた。これを「この種の女性は海外に出ると、社会の慣習を無作法に無視することを、自分の誇りとする人たちなのである」とハワードは厳しく批判している。またあるとき、燃えさかる火の上を飛んで歩く仏教の厳粛な儀式に参列していたハワードは、「あるきわめて近代的な女性の旅行者」が「突然靴と靴下を脱ぎ捨て、回りの外交官や他の観衆の茫然として驚くのを尻目に、裸足でこの芸当をなしとげた」のを目撃し、「列席したきわめて感じやすい日本の人たちの心中はどんなであったか」とても言い表せない、と憤慨している。
上記の例に挙げられたいずれの女性も、古い世代からはいわゆる「ニュー・ウーマン」の典型的なすがた、と考えられていた人物像である。一方でハワードは日本人の女中「ハナ」を回想するが、その人物はあたかもヴィクトリア朝の女性モデル「家庭の天使」の具現化である。いわく、その気立ての良さ、勤勉さ、亡き母親に代わり家の中心となって兄弟を養う自己犠牲の精神と、勤務時間外に英語を独学しようとする向上心、雇い主ハワードに倣ってキリスト教徒になる無邪気な信仰心―― 􌓕神様がちゃんとうまくしてくださいますよ」―― 。後に再来日した折に重病にかかったハワードを看病し、その回復を記念して、家の家宝だという貴重な品を贈ってくれる女中ハナは、ニュー・ウーマンの出現に押されて本国でも消滅しつつある、ヴィクトリア朝的価値観と道徳の体現者ではないだろうか。いまや語り手の「私」は、彼女が信奉してきた過去の祖国も、西欧化してゆく以前の「無垢」な日本も、取り戻すことが不可能であることに気づきはじめている。  
第4節 明治日本の「異文化受容」のゆくえ
エセル・ハワードが来日した1901年とは、年明け早々にヴィクトリア女王が崩御した年であり、当時ロンドンに留学中であった夏目漱石が、帝国イギリスの衰退を感じとったことはよく知られている。続く1900年代には、遠く今日にまで延びる近代化の道が整えられ、第一次世界大戦までの束の間、楽観的な気分と迫り来る近代化への不安が共存していたことが、ハワードの在日した数年間の刊行物にも見てとれる。1901年にはキプリングの『キム』、1902年にはコンラッドの『闇の奥』、1903年にはギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』、1905年にはベアトリクス・ポターの児童文学『ピーター・ラビット』が登場し、同年にはアインシュタインの『相対性理論』が発表されている。その間、日本は1902年の日英同盟締結を経て、1904年には日露戦争に勝利するが、その戦後処理と不平等な条約内容に反発して、国内には開国後はじめての排他的ナショナリズムが生まれてくる。日英同盟によって双方の親日感、親英感が最高潮に達し、イギリスのエドワード七世から明治天皇へのガーター勲章(当時西欧の皇室・国王にしか授与されていなかった)の贈呈があった1905年の日本の社会的な騒動は、A・B・ミットフォードら当時のイギリス外交官の回想録にも詳しく報告されている。
ハワードの「世の中で占めている地位によって要求される社交的な務めのより広い側面に順応させる」という教育計画が功を奏し、教え子のうちの長男であった島津公爵は、後にサンフランシスコ市の歓迎晩餐会で海軍を代表して英語での簡潔で高尚なスピーチを行い、好意的な報道記事を書かれるなど、国際的交流におおいに貢献した。その公爵によるスピーチの一節を引用して誇らしげに紹介しているハワードはかつて、「東と西の架け橋をつくることができたとすれば」価値のある仕事である、との奨励を受けて日本に来たことはすでに紹介した。この回想録の語り手「私」は、イギリスと日本とのあいだの言語の障壁をはじめとする差異と断絶を一旦は認識しながら、ことばやイメージの流用によってその近似性を示唆する。そして、自分が体現する19世紀イギリスの教育哲学の後継者として若い国際的な日本人を養成することで、「私」は失われた過去の祖国イギリスと現代世界とを連続させることに成功したといえるだろう。
本書の末尾には松方正義侯爵からハワードへの公式な感謝状の全文が掲げられており、ハワードの喜びの大きさが伺えると同時に、西洋文化の受容を急務と考え、保守的な大名家の子弟にイギリス人(しかも女性)の教育係をつけることを実現させた、当時の政治家たちの大いなる「賭け」の重大な意図にも気づかされる。感謝状の「(…)貴嬢は誠実と熱意に溢れかつ辛抱強いやり方で、侯爵と弟君の勉学のみならず健康の管理までも、根気強くまた細心の注意を払って従事されたことによって、貴嬢の努力は成功の実を結び、(…)かかる立派な成果を生んだのは、貴嬢の該博なる知識と豊かなる経験のお蔭であることはもちろんでありますが、それに加えて公爵と弟君の教育に対する貴嬢の熱意溢れかつ自己を捨てた献身の賜であると信じております」という文章からも、旧弊な道徳観の持主である松方が高く評価しているのはハワードの「ニュー・ウーマン」としての一面を示す専門的な知識よりもむしろ、彼女の誠実さ、献身、辛抱強さ、熱意といった、ヴィクトリア朝に信奉された特性であることが伝わってくる。この前年の1907(明治41)年、ハワードは7年間の勤務を終えて帰国し、婚約者ハリー・ベルと結婚した。
こうして、教え子を通じて達成されるべき「先進国」の代弁者としてイギリス人ハワードが献身的に日本人に伝えたものは、実質的には前世紀の遺産であるヴィクトリア朝文化の精神であった。この矛盾する性質をもつ任務のはざまでハワードが行った日本人教育は、ある意味では当時の本国イギリス社会の抱えた美点と欠点、進歩と衰退の諸相を反映する鏡像であったと言えるだろう。ハワードは自分の体験を若い教え子たちの成長と自立、国際社会への飛翔に重ねて描くことで、ヴィクトリア朝の終わりとともに揺らぐ「イギリス人・未婚女性・職業人」といった重層的なアイデンティティを再構成しようと試みた。そのため、この回想録自体もまた、一筋縄ではいかない多面体である。しかし本書は、時代のはざまで新世代の教育にたずさわる女性として、あるいは覇権の陰りを見せはじめた先進国の国民として、多義的な存在であることを引き受けながら、知性、ユーモアと強い意思で、可能なかぎりの自己実現を願った一女性の記録であることは間違いない。  
老獪な支那人の子供
子供らしい日本の子供
子供文化は日本の特徴である。欧米の子供が来日したら、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して、マンガ図書館や仮面ライダー・ショー、フィギア・ショップなどを訪れ、夢のような時間を過ごすだろう。アジア人の子供は日本に旅行できただけで喜んでしまうから、日本文化の魅力云々どころの話ではない。欧米だと子供は早く大人になるよう教育されるが、日本では子供は子供らしく素直に育てばよいとの考えだ。フランスの子供など、容姿は可愛いが、妙にませている。少女のくせに“エレガンス”を求めたり、少年だと一人前の男みたいに“主導権(イニシアティヴ)”を取りたがるのだ。日本人は大学生やビジネスマンになっても、電車内で恥ずかしくもなくマンガ雑誌を読んでいるから、欧米人は呆れてしまう。「大人文化」が主流の彼らからすれば、女子大生までもが、少女のような仕草をして平気なのには驚いてる。
現在ではどこの先進国にも似たような子供がいる。日本で戦隊ヒーローに夢中になる子供と、パワー・レンジャーやドラゴン・ボールが大好きなアメリカ人の子供は大して変わりがない。しかし幕末や明治の頃に来日した西洋人が、日本の子供について述べている滞在記を読むと、今の我々も意外な一面を知ることが出来る。幕末に、フランス海軍士官として来日したエドワルド・スエンソン(Edouard Suenson)は、横浜で体験した事柄を描写している。デンマーク出身の海軍士官スエソンは、日本に対しての好印象や嫌なところを率直に記述していて、現代の我々からしても気持ちがいい。彼は好奇心を持って寄港地横浜を見学したのである。高下駄を履いて、頬を赤く染めながら笑う娘や、面白い遊びに興じて歓喜をあげたり、はね回っている子供をスエソンは目にした。彼にとっては、まだ小さい日本の子供は女の区別がつきにくかったが、
みんな黒目が笑っており、頬も赤く、白い歯が光っている。どの子供も健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほどに愛らしく、仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる。(『江戸幕末滞在記』)
明治になるともっと多くの西洋人が日本にやって来た。薩摩の島津家に家庭教師として雇われたエセル・ハワードという英国婦人の体験も、我々にとっておもしろい。島津忠義が明治30年に若くして亡くなったので、四男忠重が公爵となり島津の家督を継いだ。島津家には忠重(14歳)の他に富次郎(9歳)、諄之介(8歳)、韶之進(7歳)、陽之助(6歳)の兄弟がいた。住み込みのハワード氏は、この子供たちにマナーや英語を教える過程で、日英の様々な文化的相違を体験したという。たとえば、西洋人なら挨拶程度のキスも、日本の慣習にそぐわないので、彼女は極力避けていた。ある時、ガッティ夫人の『自然界のたとえ話』を朗読してやったところ、驚いたことに末っ子の陽之助(ようのすけ)が、彼女の手を掴んでキスをしたのである。それは以前、ハワード氏の所に友人が訪ねてきた際、島津家の子供が初めて見る光景であった。彼女がその友人にキスをしたら、子供たちは皆どっと笑ったという。後に子供らはハワード氏に「どうしてあの人は先生を舐めたの?」と聞いたそうだ。しかし、陽之助らには、愛情の表現だと解っていたらしい。ハワード氏が母親のような愛情をもって接していたので、子供たちも敏感に感じていたのだろう。(エセル・ハワード 『明治日本見聞録』)
この陽之助は人を惹きつけるような愛くるしさで、茶目気もあり、ハワード氏もこの末っ子を可愛がっていた。彼女は陽之助に「タイニー」という仇名をつけ、無口な彼を色々と面倒を見ていたという。ある日のこと、陽之助はドアをバタンと閉めた後、突然「ご免なちゃい」と言って彼女を驚かせた。陽之助は後に色々な「ご免なちゃい」の言い方を発明した。少しばかり悪いことをした時には、穏やかに彼女を見上げて「ちょっとご免なちゃい」と言い、もっと悪いことをした時には、「たくさんご免なちゃい」と言ったそうだ。子供ながらに謝り方を工夫したのだろう。数え年で六歳の陽之助は、現在でいえば五歳くらいの幼稚園児だ。言葉が通じない西洋婦人に対して、何とか気持ちを伝えようと考えた子供の努力は、いかにも微笑ましい。
可愛いらしさがない支那人の子供
明治以降、日本人は漢籍の勉強が影響していせいもあって、現実を顧みず、支那人に対して幻想を抱いてしまうのだ。支那人は日本人と根本的に違っている。これが鉄則。不動の定理だ。支那人は子供の頃から既に支那人気質を見せる。戦前、支那大陸をちょくちょく訪れていた中央大学の法本義弘教授は、とても興味深い体験をしたという。(法本義弘 『支那覚え書』)
ある事情で、法本氏は唐という支那人宅に住み込むこととなった。被服廠(ひふくしょう/服の工場)の役人であった唐は、羽振りのよい中流階級の支那人であった。彼の邸宅も中々のもので、庭が六つもあるばかりか、普通の支那人家庭と違って屋内に便所だってある。
法本氏は自分の部屋から便所へ行くには、必ず通らなければならないのが、唐家の子供部屋であった。唐家には子供が5人いて、その子供らが通る度に、いつも待ちかまえたようにして、揃って大声でわめくのである。法本氏に向かって何か言っているのだが、彼は支那語が分からぬので、問い返すことも出来ず、黙って知らぬ顔をしていたそうだ。
けれども次第に言葉が分かってくるにつれ、子供たちは「打倒日本帝国主義」だの「小日本喝涼水(小さい日本の冷や水飲み)」と言っているのが解った。癪(シャク)に触った法本氏は、ひとつとっ捕まえて懲らしめてやろうと思ったらしい。ところが、ある晴れた日曜日に、子供ら五人がそれぞれ自分で作った紙の旗を持って、わいわい言いながら庭から庭へ行進をしていた。法本氏がふと覗いてみると、その旗にはそれそれ「打倒日本」と書いてあった。彼が庭へ出てみると、柱や壁の至る所に「打倒日本」と書いた色紙が貼り付けてあった。つまり、子供たちは「打倒日本ごっこ」をしていたのである。
5人兄弟で下の女の子と男の子はまだ学校へ行く年頃ではなかった。上の三人が学校へ行っている間は、おとなしく庭の隅にうづくまって、ぼんやりと空を眺めている。法本氏が観察していると、二人は半日くらいはそうしてをり、子供のくせに悠然と景色を眺めていたのだ。こんなことは日本人の子供には見られない。
5人兄弟のなかで法本氏が仲良くなったのは、下の子二人であった。女の子の名前は「勉治」といって、日本でなら男のような名前で、男の子の方は「小牛」といった。法本氏は、「小牛?随分変な名前だな、お前の名は」と聞くと、勉治が代わりに答えた。「本当は、他に名前があったのだけど、あたし達みんなで付けててやったのよ、だから小牛なの、この子は」と。そこで彼女は法本氏に「この字を何て読むか知ってる?」と尋ねた。その少女は地面に「打倒日本」と書いた。(「日本」は90度右に傾けて書いた。)
法本氏は「打倒日本ぢゃないか。でもこの下の二字はどうして横に書くんだ」と聞いた。
「あら、だって、打倒しちゃったんですもの」と、その女の子は答えた。
「誰に一体こんな事を教わるんだい」と質問する法本氏。
「お兄ちゃんや、お姉ちゃんだわ。だってお兄ちゃんも、お姉ちゃんも、学校で教わんのよ。あたしも、来年学校へ行くようになったら、教わんのよ。もっと他のことだって・・・」
「他のことって何だい」と聞く法本氏。
「どっさりあるわ。中国領土は日本の何倍ありますか、だの、中国の敵は何国ですか、だの、いろいろなことだよ」と答える勉治。
すると小牛が「先生、中国はお前の国の何倍あるか知っているかい」と法本氏に聞いてきた。
法本氏は小癪(コシャク)な子供だな、と思ったそうだ。支那人の子供とは小さな老人だ。日本人の大人だって、こんな支那小僧の前では小童(こわっぱ)である。ある日のこと。日本公使館のY氏が、友人の法本氏を訪ねたらしい。すると唐家の6歳になる男の子が、「お名前は?」と聞いてきたので、流石のY氏も驚いた。もちろん法本氏もビッくり。そして「郷里は?」「職業は?」と続けざまに聞いてきたのである。Y氏と法本氏は共に開いた口が塞がらない。しばし呆然としていたらしい。
北京に法本氏の古い友人A氏がいて、この話を伝えたところ、A氏はある出来事を語ったという。A氏があるイスラム教徒で支那人の子供を連れて、非イスラム教徒の支那人の家を訪れた。その家でお茶が出てきて、当然その子供にもお茶が渡された。しかし、異教徒の家で煮炊きされたものは、たとえ子供でも口にしてはならない、というイスラム教の誡律があった。お茶を勧めてから、その家の主人がこの誡律に気づいた。主人は「これは差し上げてはいけなかったのですね」と言うと、その子供は「これは私どもの宗教の短所でございます」と言って椅子を離れて、立ち上がり頭を垂れたそうである。その子は9歳か10歳くらいだったという。  
唐家の子供たちに毎日接しているうちに、法本氏は支那人の子供は小さな大人だ、と考えるようになった。支那人の子供には、子供らしい所がない。唐家の子供らは毎日伯父さんから小遣いとして銅貨五六枚もらうらしい。そのお金で子供たちは飴玉や串刺しの棗(なつめ)を買うのだ。子供相手の果物屋とか菓子屋が、いつも決まった時間に門の所に来て、大声で呼び出す。すると子供らは奥から門の所に出て行って、各人好きなものを買うのである。
  「この飴いくら?」と聞く子供。
  「二つで一銭」と答える菓子屋。
  「二つで一銭なんて高すぎるよ。三つで一銭にしろよ。」
  「そりゃ駄目です。元値が切れます。」
  「じゃあ、お前の所では買わないから、あっちへ行きなよ。」
  「それなら、どうです坊ちゃん。五つ二銭なら。」
わいわい騒ぎながら、こんな交渉をしているのだ。結局、二つ一銭の飴玉を五つ二銭で買ったそうだが、その駆け引きは、大人の支那人と同じであったという。まだ学校へ上がらない幼児がこんな値切りをできるのだ。支那人とは恐ろしい。
唐家には法本氏と一緒に寄宿していた京都大学のY君がいた。このY君が留学が終わって帰国することになった。彼が可愛がっていた仔猫を唐家の子供たちは欲しがったのである。子供たちは皆で相談し、ある晩ご飯の時に主人の伯父さんに、その件を申し出たのである。子供らは「お昼はみんなで食べさせるから、晩は伯父さんが食べさせてください」と頼み、とうとう伯父さんを説得してしまった。伯父さんが承知すると子供たちは大喜びしたという。約束通り昼は自分たちの食べ物を少しづつ集めて餌にし、これを猫に食べさせ、晩は料理部屋から色々な残り物を持ってきて食べさせたそうだ。法本氏はその丸々と太った猫を見ながら考えた。日本人の子供なら、仔猫を欲しがるときに大人の思惑や餌のことなど考えず、ただ飼いたいとせがむだろう。法本氏はつくづく支那の子供に「大人の支那人」を見た気がしたという。
支那に詳しい評論家の黄文雄によると、日本人は子供が生まれると、「元気で素直(正直)な子に育って欲しい」と望むが、支那人は「他人に騙されない人間に育つよう」望むらしい。生存競争が激しく、異民族が入り乱れている支那社会は、残忍な独裁者が支配することで、一応の秩序が保たれている。むかし、英国の哲学者トーマス・ホッブス(Thomas Hobbes)が「人間は人間にとって狼である(Homo homini lupus est)」を引用して警告したが、支那人にとっては狼くらいなら心配しない。毛沢東は虎や狼よりも怖かった。支那では女子供だって容赦しない匪賊が横行するので、女子供が用心深くなるし狡賢くなるのだ。殺人鬼でなければ詐欺師というのが支那人の特徴なので、一般支那人は常に他人を警戒し、騙されぬよう用心する習慣がある。もっとも、その女子供でさえ、他人を騙して利益を得ようとするのだから、支那人とは海千山千の策士であろう。「日中友好」を掲げて支那人がどれほど日本の富を収奪したか、支那人好きの日本人は思い出すべきである。支那人は赤子の手をひねるように日本人からお金を巻き上げたのだ。せめて政治家と官僚は大人になってもらいたい。 
 
ロバート・フォーチュン 

 

Robert Fortune (1812〜1880)
英国スコットランド生まれ。エディンバラ王立植物園の園丁を経てロンドン園芸協会へ。後、英国東インド会社の依頼で中国からインドに茶の木を移植して有名になる。キク、ラン、ユリなど東洋の代表的観賞植物も英国に紹介。1860年と61年訪日。長崎、江戸などを歴訪。稲や養蚕、金柑などの多くの栽培を研究・記録を残し、また団子坂や染井村の植木市など各地で珍しい園芸植物を手に入れるだけでなく、茶店や農家の庭先、宿泊先の寺院で庶民の暮らしぶりを自ら体験。日本の文化や社会を暖かな目で観察する一方、桜田門外の変、英国公使館襲撃事件や生麦事件など生々しい見聞も残した。キンカン属の学名Fortunellaは、彼に献名されている。 
2
スコットランド出身の植物学者、プラントハンター、商人。中国からインドへチャノキを持ち出したことで有名。
バーウィックシャー(現在のスコティッシュ・ボーダーズ)のKelloe出身。
エジンバラ王立植物園で園芸を修め、ロンドン園芸協会で温室を担当し、北東アジアの植物に興味を持つ。1842年、南京条約ののち、中国で植物を集めるために派遣され、中国人に変装して当時外国人の立ち入りが禁止されていた奥地へ潜入し、中国産の多くの美しい花をヨーロッパへもたらした。英国東インド会社の代表として1848年から3年間インドに旅行し、ダージリン地方への20,000株のチャノキ苗の導入に成功し、重要な成果をあげた。彼の努力によってインドとセイロンの茶産業が成長し、ヨーロッパの茶市場における中国茶の独占を終了させた。また、紅茶および緑茶が同じ種類のチャノキから生まれることを発見する最初のヨーロッパ人となった。後の旅行では、台湾と日本(1860年)を訪れて、養蚕および稲の栽培について記述し、キンカンを含む多くの樹木および花を調査、収集しヨーロッパに導入した。ロンドンで歿。
日本
「日本人の国民性の著しい特色は、庶民でも生来の花好きであることだ。花を愛する国民性が、人間の文化的レベルの高さを証明する物であるとすれば、日本の庶民は我が国の庶民と比べると、ずっと勝っているとみえる」という言葉を著書『幕末日本探訪記―江戸と北京』に残している。
他にも「サボテンやアロエなど中国で知られていない物がすでに日本にある。これは日本人の気性の現れである」、「イギリス産のイチゴが売られていて驚愕した」などと長く鎖国を続けていた島国の日本の文化に驚いた様子が伺える。  
3
スコットランド生まれの植物学者ロバート・フォーチュンが日本を訪れた時の出来事を書き綴った「幕末日本探訪記」と言う本があります。ここではその中のあるエピソードの感想だけを書くつもりでした。
しかしこのページを作るためにフォーチュンの活動を調べてみると、精力的に中国や日本で植物を採取しただけでなく、嵐や海賊にあったり高熱で死にかけたり、幕末の日本で生麦事件や英国公使館焼き討ち事件や井伊直弼の暗殺などを見聞きして、まるで冒険家の話のようで面白い出来事もいくつか出てきます。
それでいて、学者らしく素直にありのままを書き綴っているので、歴史の裏側を見るのに人物も著書も打ってつけの材料です。
植物学者 ロバート・フォーチュン
ロバート・フォーチュンは1812年9月16日にスコットランドのバーウィックシャーで生まれました。学校を出たあとエジンバラ近くの庭園や植物園で働いていましたが、園芸に対する才能を認められて1842年にはロンドンの園芸協会の新しい植物収集遠征隊に選ばれました。※
30才近くになっていたフォーチュンは1843年2月26日英国を出発、約4ヵ月後の7月に新しい植民地の香港に到着しました。その後中国に1845年12月まで(第1回目の旅)滞在しますが、その間、台風に遭って死にそうになったり船が吹き寄せられた土地で住民に襲われて物を取られたり召使が殺されそうになったり、許可されていない蘇州を調査するため、頭を辮髪にし中国人の服を着て旅に出かけたり、盗賊に遭ったり、山中でイノシシの罠に落ちかけたりと散々な目にあいますが、それでも挫けずに植物の収集を続けます。
1848年8月フォーチュンは中国に第2回目の旅をします。前回ほど冒険的ではありませんでしたが、ヒマラヤ山脈の麓でお茶に関する調査をするため東インド会社による派遣でした。この時、フォーチュンによりお茶農園がアッサムとシッキム地方で確立されました。
フォーチュンは更に中国へ二つの旅を行ないました。初めの第3回目の旅(1853〜56年)は、タイ系諸族のPing革命のため途中で崩壊しました(タイ王国の「王様と私−Shall We Dance?」の頃)。彼の旅行の中であまり目立たない第4回目の旅(1858〜59年)はアメリカ合衆国政府の代理で調査に赴いたものでしたが、アメリカの南北戦争の影響で再び計画が打ち砕かれました。
彼の第5回目の旅行(1860〜62年)は目的地を日本に切り替えました。この旅行は、個人的な思い出深い旅行になりました。当時の日本は国内を外国人が旅行することは、いつでも刀という鋭い武器の犠牲者になりうる危険な所でしたが、フォーチュンにとっては中国の旅行よりも気楽に旅行を楽しめた日本での時間でした。彼はどのような不快な事件や危険でもうまくかわせることが出来たようです。
その後、フォーチュンは1862年1月に英国に戻ると、ケンジントン(ロンドン)に住みつきました。そこで18年の快適な引退生活を楽しみました。収入は、出版の成功と東洋から持ち帰った骨董品の販売によって得られました。しかし、フォーチュンが残した最も偉大な遺産は中国からインドへお茶の木を移植しインドでのお茶の栽培を確立させたことです。
「( 詳しい話 ※の続き)
30才近くになっていた彼はアヘン戦争が終ったばかりの中国に向けて、1843年2月26日英国を出発、約4ヵ月後の7月に新しい植民地の香港に到着しました。しかし、そこは最悪の熱病が流行り、夜になると盗賊が通りを徘徊するようなところでした。この不健康な環境の中でしばらく過ごした後フォーチュンは厦門に向けて出帆します。9月3日に厦門に着いたフォーチュンは、これまで見た最も不潔な町のひとつだと感想をもらしています。内陸で幾つかの植物を収集した後ここではあまり時間を費やさずにすぐに北に向いますが、ちょうど台風の時期で、港を出る間もなく暴風雨にあってしまいます。
大嵐の最中、あろうことか30ポンド(13〜14s)もある大きな魚が天窓を突き破って海水と共になだれ込んで来たりして、船は近くの港に非難します。そこで別の船に乗り換えて再び出発しましたが、更に強烈な暴風が帆を引きちぎり吹き飛ばしてしまい、船は台湾海峡をさまよいながら押し戻されてしまいます。風に波に船が木の葉のようにもまれている中、猛烈に船が押し上げられたと思った瞬間天窓が敗れてガラスが雨のようにフォーチュンに降り注ぎ、キャビンにも海水が流入し始めました。救命ボートと船員がデッキの向こうに危険な状態で嵐の夜に飛び出しそうになっているのがフォーチュンの目にも入ってきます。3日もの間強風の中でもてあそばれた後、船は近くの陸に吹き寄せられました。嵐が収まった後でフォーチュンが荷物を調べると、厦門からの積んできた植物を入れた保護箱が二つ壊れていました。 (この後住民に襲われたり、ポケットからものを掏り取られたり、召使がナイフで襲われたり...) 」
・・・とこの面白そうなフォーチュンの人生を書きたいのですが、また機会がありましたら続けるということで、本来書きたかった日本での出来事に話を移します。
狂女の祈り
2004年あたりから一般の日本人にも伝わり始めた中国や朝鮮の反日感情。しかし彼等が問題としているのは現在の日本人の行動ではなく、過去の日本人の行動に対してであり、それはある意味とてもおかしなこと。(おかしな人種だ、民族以上の隔たりを感じる)
そんな騒動の中、本当に過去の日本人は悪いことをしたのか。それらの特定の国を除くと他のアジアの国々は過去の日本人の行動を肯定的に捉えているし、世界のほとんどの国が日本に好意的である。
それでも確認のため、さらにはその特定国が行なっている誹謗や中傷に反論するため、過去の日本や日本人がどのような評価を受けていたのか。日本を旅行し滞在した外国人の書残したものを徒然に読んでいる。
中には日本の文化や日本人の感性を理解しきれずに少し違うなと思うところもあるが、概ね日本の文化や日本人の資質に好意を寄せさらには称賛している場合も少なくない。
その読んだものの一つにイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンの「幕末日本探訪記」(原題「江戸と北京」)がある。学者らしく植生や地理風土だけでなく、風俗や風習について見たまま素直に記述してある。所々、日本人の心の機微が分かっていないと思われる部分もあるが、滞在日数からすればよく観察し理解したものだと思う。
このフォーチュンの紀行の中に、一人の狂女がでてくる。彼女は鎌倉にいた。
フォーチュンは、友人と誘い合わせて日本の古い都の一つである鎌倉に出かけた。前方に見えてくる富士や江ノ島等の絶景を堪能しつつ鎌倉に入った。
その部分を引用してみる。
「あわれな狂女   この村にはいった途端、われわれが日本に来ていたことをはっきり意識したほどの、まったく不意を打たれた意外なことが起こった。片手にきせる、一方の手に煙草だの雑多な物を容れた箱を持った一人の女が、店から飛び出して来るなり、道の真中にすわり込んだ。私の直感では、彼女はきせるを差出して、歓迎するつもりか、または箱の中の品を売りたいのか、どちらかだと思った。ところが、彼女にはそんな意思はなく、さらに驚いたことには、いきなり着ていた一枚きりの着物を脱ぎすて、裸体姿になるやいなや、きせるをくわえて煙草をすぱすぱ吸いはじめた。村のあちこちから駈け出して来た人達は、われわれの面前で見せている異様な仕草を、明らかに見慣れている様子だった。驚愕からわれに返ると、この哀れな女は気が狂っていたことに気づいたが、この結論は後で事実と判った。
その日は日蔭でも〔華氏〕一〇〇度くらいの暑さだったので、十五分ほど茶屋で休憩することにした。茶屋の亭主やきれいな女中達に歓迎され、あけ放した窓から村を見晴らせる二階の部屋に案内された。われわれは数時間も炎暑に曝された後だったので、うちわで煽ぎながら、屋内で涼んでいる間にも、茶屋の前の路上には、外国人を一目でも見たがっている群集がひしめいていた。にわかに彼らの間に動揺が見え、われわれの部屋から見えない横丁から、誰かが茶屋の方へ来るのを見るために、われ勝ちに走って行った。初めこの騒ぎは、神奈川からわれわれの後を追って、仲間に参加する約束をした外国人が到着したのかと思った。ところが、ほどなくかの狂女があらわれ、寺か墓に参詣するつもりらしく、小枝の束と線香を抱えていた。可哀想な彼女は、精神錯乱していても悪意はないようであった。子供たちも彼女が近づくと逃げては行くが、ひどく恐れている風には見えなかった。彼女はまもなく寺から戻って来ると、宿の前に繋がれているわれわれの馬に、水や雑草をやりながら、その傍らで何やら念仏をぶつぶつ唱えていた。彼女のそんな仕草を見ていると、馬を恰好の崇拝の対象にして、満足している様子であった。 」
時期は7月5日前後の夏で、フォーチュンの一行はこの後、昼前の日差しの中を大仏参拝に出かけ少し疲れ気味で昼食のため宿屋に戻ってくる。
「食後のひる寝  
出発前に昼食を注文しておいたので、帰ると十分な御馳走が待っていた。この海でとりたての上等な魚を、日本の醤油で調理してあったが、実に美味であった。それに精選した白米にオムレツ、これは少々甘すぎたが、とにかく、すこぶるうまかった。宿の井戸から汲み上げたうまい冷水に、持参したブランデーを混ぜて、喉に流し込む。われわれは日本酒よりもやはりブランデーを好む。鎌倉の宿には、西洋の食卓に見られるナイフ、フォークのような幼稚な食事用具はなかった。箸は四千万人以上の日本民族を養うのに必要な文明的食事用具で、われわれも箸で食事をしなければならなかった。友人たちは箸が扱いにくいと、苦情を言っていたが、私はシナで使い慣れていたので、日本でも楽に使えた。食事の間、宿の女中が給仕をしてくれた。強いて正直に言えば、彼女達は取立てて美しくはなかったが、親切丁寧に、われわれの望み通りに働いてくれた。
(「箸は四千万人以上の日本民族を養うのに必要な文明的食事用具」・・・フォーチュン独特の逆説的ユーモアだと思う・・・sadagoro)
午前中の活動で疲れたので、部屋に敷きつめた清潔な畳の上に横になって、すぐに快い午睡を楽しんだ。私が最初に覚めて隣室を覗くと、奇妙なおもしろい光景が目に入った。仲間の一人はまだよく眠っていたが、そのかたわらに今朝見た哀れな狂女がうずくまって、彼の頭を煽いでいた。時折りその動作を止めると、手を合わせて朝方馬にしていたように、彼のために何やら祈りの言葉をつぶやいていた。眠っていた友人は、自分が拝まれているとも知らず、また見てもいないのが、実に愉快だった。哀れな女は四杯の茶と、一握りの白米を持って来て、われわれに供えるようにして部屋に置いた。友人が眼を覚まして、彼女の仕草に注目していると見るが早いか、静かに立ち上がって、われわれには眼もくれずに部屋から出て行った。 」
1861年(文久元年)のことである。このちょっとした出来事を読んで、最初に思ったことは彼女は気が狂っていたがゆえに一世紀半が過ぎた今日でも存在していたことを知ってもらえる。フォーチュンの「幕末日本探訪記」がある限り、その本を読む人がいる限り、名前もわからない彼女は存在し続ける。
それは、フォーチュンが言葉を交わしたはずの宿屋の主人よりも、付き従った従者やあるいは警護の武士よりも、あるいは同行した友人よりも印象深い。
歴史上の事実の一つであるという点では、私にとって紫式部や清少納言と同じくらいの存在感がある。気が狂っていなかったらフォーチュンに書きとめられることもなく、私にも意識されなかった。
そして、勝手な思い込みかもしれないが、私はフォーチュンにただの出来事を書きとめただけではない優しさを感じる。またこの狂女の仕草にも、何か哀しさと同時に優しさも感じる。ふと「隅田川」を思い出した。あまりに高尚過ぎて私には全く縁の無い謡曲の世界だが、それでも「隅田川」の話くらいは知っている。鎌倉のこの女を狂わせたものは一体なんだったのだろうか。もちろん、事実はもう確かめようも無い。しかし数行の文章の中に書かれた彼女の仕草の中には愛するものへの想いが感じられる。それは最愛の伴侶に対するものよりも最愛の我が子に対する想いである方が似つかわしい。
果たして、今彼女はあの世でその最愛の人とめぐり会ってその想いを確かめているだろうか。
百年以上も前の鎌倉での出来事だけど、まるで自分が見てきたことのような懐かしさと優しさを感じた。
・・・ 後日の話
この文章を書いてしばらくしてから読み直してみた。そしてふと思った。
ここに出てきた哀れな対象が狂った女だったから、言葉にもなったし絵にもなった。
もし、男だったら絵にもならないし言葉にもならない。「狂女」という言葉は聞いても「狂男」という言葉はあまり聞かない。
それはもうただの狂った男でしかない。この差は一体何なのだろうか。昨今流行の男女差別でもないと思うのだが、本当に一体何なのだろうか。
フォーチュンが出会ったのが狂った男でなくて狂女で良かった。
紅茶
名産地の起源と品種
インド北東部の山岳地帯ダージリンは、エベレスト、K2に次ぐ、世界第3の高峰カンチェンジュンガ(8586m)の麓(ふもと)に広がる景勝地。1835年にイギリス東インド会社が当時のシッキム王国よりこの地を買収してから、涼しい山の気候が好まれ、在印英国人の避暑地、英国人子弟を中心とした学校の街、そしてヒマラヤ地方への登山基地として発展しました。
この地で本格的な茶栽培が開始されたのは1852年。スコットランド出身の植物採集家(プラントハンター)ロバート・フォーチュンが、中国福建省・武夷山(ぶいさん)などから持ち出した2万株の茶樹や茶の種を植樹したことに始まります。当時、紅茶の製法は中国清朝がほぼ独占する国家機密でしたが、戦乱などで国土が弱体化していたこともあり、フォーチュンは選りすぐりの茶樹とノウハウを中国から持ち出すことに成功したのです。
開墾(かいこん)当初、ダージリンに植樹した茶樹は、環境の変化のためほとんど枯れてしまいました。もしこの時に全滅していたら、現在の紅茶産地としてのダージリンの名声はなかったでしょう。幸運にも、わずかに生き残った茶樹を元手に、子孫を繁殖することに成功。19世紀末には、現在とほぼ同規模である約2万ヘクタールの茶園がダージリンに開かれていました。
この時の茶樹の子孫は中国種(チャイナ)と呼ばれています。爽やかな滋味と自然な香気、小さな茶葉が特徴です。ダージリンの茶樹は、特に香り高いタイプの品種を含んでいたようです。
もうひとつの系統
実は英国が最初に開墾した紅茶産地はダージリンではありません。ダージリンの南東に広がる盆地、インド北東部アッサム地方で1823年に野生茶樹が発見され、先に紅茶の生産が開始されていたのです。
これらの茶樹はアッサム種と呼ばれる中国種とは別の系統。暑さに強く大きな茶葉を持ち、紅茶にするとミルクや砂糖の風味に負けない力強い風味とコクが醸される特徴があります。
あまり知られていませんが、標高600〜2500mにわたるダージリンの茶園は、標高の高低によって大きな温度差があるため、標高の低い地域では暑さに強いアッサム系の品種を、標高の高い地域では耐寒性のある中国種系の品種を中心に栽培しています。
現代の主流
お茶の種から苗木を作り育てる伝統的な実生(みしょう)の茶樹に対して、挿し木などで増殖させたクローナルは、近年、ダージリンで栽培される茶樹の主流になりつつあります。
クローナルというと、すこし難しそうですが、現代の日本茶は「やぶきた」を中心としたクローナルの品種がほとんどを占めています。実は日本の私たちにも親しみ深い栽培方法なのです。
ダージリンのクローナルは、中国種とアッサム種、これらを交配させた交雑種(ハイブリッド)の中から、特に品質や耐病性、収量などにすぐれた茶樹を選抜し母樹にしたもの。単一の遺伝子を持つクローナルの茶樹は、同じ環境であれば新芽を同時期に計画的に収穫できる、また品質が安定しているなどの大きな利点があります。
クローナルの秘密
現在のダージリンで栽培されるクローナルは主要なものだけでも約30種。それぞれの茶園で誕生し、門外不出となっている品種もあります。なかでもキャッスルトンやマーガレッツホープなど名園を代表するスペシャルティーとして使われているAV2(茶葉写真)は、花のように甘い圧倒的な香りと、みずみずしく繊細な風味で有名です。しかし、このような単品としての使用例は一部の高級茶に限られています。
茶園によって状況は異なりますが、多くのクローナルの茶葉は、最終的にその個性と特徴に準じてバランスを調整し、ブレンドされて出荷されます。
経験深いマネージャーや管理者によって、品種の異なるクローナルの育成状況がチェックされ、味わいのベースとなる茶葉、香りのアクセントとなる茶葉など最終的な仕上がりの配合を事前に計算してから茶摘みを行うことで、生葉の段階でブレンドされ製茶されることも少なくありません。
これからの可能性
遠く中国の名産地に由来する伝統の中国種と、原産地にもほど近いアッサム種の2つの系統。これらダージリンで栽培される茶品種は、他の紅茶産地とは比べ物にならないほど豊かな多様性を持っています。
また今後、私たちがまだ出会ったことのない新品種がこの土地で誕生する可能性も秘めています。
春のダージリンへ
ダージリンはコルカタを州都とするインド西ベンガル州の最北部、ヒマラヤ山麓の山岳地帯です。おたより取材班が現地を訪れたのは3月下旬。山の斜面には茶摘みをする女性たちの姿があちらこちらで見られます。
今回の取材は、初めてのダージリン訪問となる新米スタッフが担当。誰もが知る「紅茶の聖地」に自然と胸が高鳴ります。茶園マネージャーたちの邸宅を訪れると、どのお宅も美しい花々に囲まれ、とてもすてきな雰囲気。さて、お茶の専門家はどのようにファーストフラッシュを楽しんでいるのでしょうか。
「ファーストフラッシュは飲み口が軽く、1日に何杯でも飲める。お気に入りの紅茶です」と話すのはマーガレッツホープ茶園マネージャーのチャトルジー氏。お砂糖を少量加えるのが彼の好み。そうすることで香りがより強く感じられるのだそうです。
キャッスルトン茶園マネージャーのガジメール氏は「今年のファーストフラッシュは雨が少ない分、茶葉の成長がゆっくり進んだので、香りや味わいがしっかりとしたお茶に仕上がった」と自信たっぷり。他の茶園でも今年の出来は上々のようです。
英国風の伝統的な建物が並ぶ中心地ダージリンタウンは、多くの商店が軒を連ねるにぎやかな街でもあります。人と車でごった返し、静かな茶園とは対照的な風景です。ダージリンは紅茶だけでなく、世界遺産のヒマラヤ山岳鉄道トイ・トレインなどがある高原のリゾート地としても、ますます注目されている地域なのです。
 
ジョン・レディー・ブラック  

 

John Reddie Black (1827〜1880)
幕末に来日、横浜で「ジャパン・ヘラルド」をはじめ新聞事業を次々に手がけたイギリス人記者。横浜と江戸を中心に、近代化への夜明けを迎えた日本の状況や風俗などを記録した。息子は落語家初代快楽亭ブラック。  
2 ( 誤訳 )
スコットランドの出版業者、ジャーナリスト、作家、カメラマンおよび歌手だった。彼のキャリアの多くは、中国と日本で彼は極東、オリジナルの写真で説明隔週雑誌を含むいくつかの新聞を発表した。
ジョン Reddie ブラックは、英国の両親に略し、ファイフ、スコットランドで生まれました。リトルは、黒の初期の生活で知られているが、1854で彼は海軍の将校としてのキャリアの可能性を可決し、オーストラリアに彼の妻と一緒に移動しました。彼の最初ビジネス投機が失敗したときに、黒は歌のキャリアに着手した、オーストラリア、インド、中国および最終的に日本を巡回しなさい。1864年の香港と上海での公演は、同年6月と7月に横浜での公演を行ったとして、地元のマスコミで熱狂的なレビューを受けた。彼は日本に滞在するつもりはなかったが、彼は別の11年以上のために残っていた。
日本
1864、アルバートハン、日本ヘラルドの所有者 (日本で初めての英語新聞の中で)、彼のオークション事業では、j. r. ブラックの仕事を提供し、1865で彼に新聞のパートナーシップを提供した。1867 では、ハンとブラックのパートナーシップは、破産を宣言したが、その同じ年の黒は、幕末の改革運動のカバレッジを提供し、自分の新聞、日本ガゼット、成功した毎日の夕刊を設立しました。彼はその後、極東を設立, 1870 で, "世界の外の世界と最も古い帝国王朝の主題との間の親善と同胞団" を促進するためのビューで. 最初の問題は、1870 5月30日に登場しました。
極東は、日本の歴史、芸術、風俗、慣習に関する記事を提供し、製版の複製がまだ幼少期にあった時に、貼り付けられたオリジナルの写真で示されたという点で顕著であった。同紙の社内カメラマンは、オーストリア、マイケル·モーサーが、黒、アマチュア写真家自身、彼自身とのモーサーの画像を補っていた。その仕事も新聞に登場した重要なカメラマンは、内田うちだ、エルダー鈴木伸一、とウィリアムサンダース含まれています。黒は極東を出版することの早い難しさのいくつかに注意した: 写真のローカル天候の有害な効果、適切の写真化学薬品およびペーパーの劣等そして珍事、および日本のカメラマンが作り出すイメージの悪い質 (彼の目で)。1873まで、黒ができなかったか、または貢献してから特に落胆欧米のカメラマンを持っている必要があります写真のために行く率を支払うことを不本意。しかし、1873から彼は彼が公開された写真のための "謝金" を支払うようになった。 7 月1874から、極東は上海で出版された。従って、新聞に現われる写真の主題は今主に中国語だった。 12 月1878の後で極東のそれ以上の出版物の証拠がない。
極東を設立して間もなく、日本ガゼットを維持しながら、ブラックは、日本語新聞を立ち上げるために働いた。彼は外国の和解の他の居住者からのこの努力の少しサポートを受け取った、しかし、日本語で出版された高品質の新聞の必要性を確信し、そして、日本語と管理に精通したポルトガル人の友人である f. da ローザの助けを借りて、彼は日本の編集者の政府とサービスの許可を得て日清射殺し (日新真事誌) を設立した 最初の問題は、1872 4 月23日に登場しました。同じ年の黒人は、政府の政策と太上天皇館 (太政官)、または国務院の議事録の記事を公開する承認を受けた。黒は公然と言論の自由を含む政治改革を提唱し、民主主義を大きくし、彼はますます影響力のある政府は、同時に慎重に英国当局との論争を避けるために、彼を黙らせるために manoeuvred となった。1874では、政府は、太上天皇-館の商工会議所 (左院) の行政区画に外国人アドバイザーの重要なポストを提供するが、唯一の条件は、彼は日清射殺しから辞任する。彼はその条件と立場を受け入れた。次の年の新しい法律は、政府の批判を禁じ、日本の新聞を編集する外国人を除いて導入されました。法律が実施された1週後に、黒は翻訳局のより低い位置に移され、その後すぐに彼は退去した。報道規制にもかかわらず、ブラックは別の新聞、万国新聞 (万国新聞) を発売した。政府は英国の新聞を出版するイギリスの市民に対して禁止を出す彼がした介入するためにイギリスの大臣、ハリーパークスを、説得した。黒はロンドンの裁判所で禁止を戦ったが、不成功、すぐに日本を去り、上海で解決した。
中国
1876ブラックでは、ポートフォリオやアルバムなどのアート作品や写真を販売するために上海で極東芸術庁を設立しました。彼は40年のために出版され続けた新聞1879の上海の水星を進水した。黒は、しかし、彼は未亡人と3人の子供を残して、1880 6 月11日に死亡したが、横浜に戻った。彼の息子、ヘンリージェームスの黒 (1858-1923 年) は、Kairakutei の名前の下で日本でよく知られていたようになった黒 (快楽亭ブラック Kairakutei Burakku? 国の唯一の外国生まれの家、または公共の落語家として。 
3 
John Reddie Black
Modern Japanese newspaper was greatly influenced by newspapers in English in the middle of the 19th century. Among the newspapers were The Nagasaki Shipping List and Advertiser (1861), The Japan Herald (1861), The Daily Japan Herald (1863) and The Japan Gazette (1867)
John R Black, chief editor of The Japan Herald published The Japan Gazette in Yokohama after the death of Hasard, president of The Japan Herald.
Then about 500 foreigners lived in a foreign settlement there, and those who were interested in newspapers were limited in number .The Japan Herald had only the circulation of 200 copies.
John R Black with military and business career was not an ordinary businessman but a man of rich sensibility for different civilization and a sharp criticism of the world history and international situations.
He went to China on business in 1864, when the army of the Ch' ing dynasty army recaptured Nanking at the Taiping Rebellion. He became acquainted with Hansard and became chief editor of the Japan Herald. In those days there were only a few Japanese subscribers to the newspaper.
In those days the Japan Express and the Japan Commercial News have been issued but the Japan Herald had advantage over them referring to management and contents. Charles Rickerby, manager of the Yokohama First Bank bought the Japan Commercial News, which was reissued under the new title of the Japan Times. After Hasard' death in 1867, Black became independent from the Japan Herald and published the Japan Gazette (evening paper) in cooperation with B.N.Hegt in Yokohama in 1867.
Black recalled that time in his memoir of "Young Japan"," Our writers said that they could publish by filling space with the news and articles excerpting from overseas press.
One of the reasons why Black published the Japan Gazette was to support the Shogun Yoshinobu Tokugawa, accoding to Junjiro Hosokawa of clansman of Tosa.
S. Cocking, one of the writers said that he was an well-educated gentleman of splendid physique and also bohemian.
For some reason, Black resigned from the publisher of the Japan Gazette and passed the paper into another possession. At the end of 1870 he started the Far East (fortnightly English paper), which not only published editorial, news and entertainment but also articles with pictures for the household. The coverage was Japan, China, Korea, Taiwan and other countries in the Far East. Black wanted Japanese people, foreigners in the settlements in the Far East and home readers to read the newspaper.
When the Japan Gazette was on the track, Black decided to publish the Nishinshinjishi(Japanese newspaper).Black called the paper "The Reliable Daily News". It was on March 17,1872 that the first issue had been published. The paper was in a position to hold the monopoly of the Government publications anticipating other press,and served a role of the Purveyor of the Government to achieve the freedom of press and Japanese modernization.
Black put up the lantern hung on poles which patronization of the purveyor to Sain( an organ of the Cabinet ) was written on in front of the newspaper office and pasted the printed off issue on the wall of the building. They started to sell the paper at the newspaper stands of Shinbashi station and Yokohama next year. Black showed Japanese people how the standpoint of newspaper should be by his paper. There were all kinds of news home and abroad and editorial including the readers' column on the paper.
Taisuke Itagaki(former vice minister) advocated that we should establish the parliament by the representatives elected by the people on January 18, 1874. Newspapers supported by the people's right and the Government authority insisted the pros and cons of the proposal on the newspapers.
The Nishinshinjishi supported by the people's right became gradually political. In 1973 The Cabinet issued the provisions of Articles 18 of publishing newspaper, which prohibited the interference of national law and the leakage of national secrets. But there was no provisions to punish those who broke the law .
The law was made by the proposal of the Ministry of Justice and Junjiro Hosokawa.
As Black was protected by extraterritoriality, it was impossible for the Government to punish him even if he published the articles in danger of breaking the law.
The Nishinshinjishi was in a position superior to Japanese press for a few years after its publication but Japanese journalists learned how to succeed in managing newspaper from Black's newspaper. Soon after the Nichinichishinbun was published, the editors knew what people want to know more than those of the Nishinshinjishi and the former was more popular than the latter.
Newspapers were so expensive that people could not subscribe to them. They could read newspaper only at the newspaper reading room set up in Tokyo and other cities.
As postal service was established, newspaper was delivered to the remote places and people could enjoy reading newspapers.
After Black was hired as an official in the Government, the Nishinshinjishi was published in the name of a Japanese and stopped issuing in less than one year. After that Black was discharged from the service in August, 1875 but Black did not disclose the truth in detail even in his memoir, "Young Japan" in the Far East (English language paper). The office of the Nishinshinjishi was transferred to the Choyashinbun.
In January 1876 Black published the Bankokushinbun(evening paper) in the settlement of Tsukigi ,Tokyo. Then the Japanese Government refused the publication because the paper was against the Newspaper Article. The Minister of Foreign Ministery,Munenori Terashima discussed the problem of the publication with Harry S.Parkes, British Minister to Japan. Parkes explained the right of Black to the Japanese side but after all Black did not continue to publish his paper any more.
Black went to Shanghai to publish the New Series of the Far East, English monthly (July of 1876 - November of '78 )and issued The Shanghai Mercury in cooperation with J.Clark and C.Rivington.
Black was forced to return to Japan because of his sickness. If he had not fallen ill, he could not have had an unpleasant experience with Japan. He planned to stay for ten days in Yokohama at first but he was advised to take a longer rest by his doctor because of his serious sickness. Black died of cerebral hemorrhage unnoticed to his family on June 10,1880. He was 53.He was buried at the Yokohama Foreign Cemetery.
Black was survived by his wife, sons and a daughter.
His wife devoted herself to take after Black for 30 years after their marriage and gave English lesson to Japanese people including the Fukuzawa family. She also did missionary work as a member of Church of England and died at the age of 90 at Hirogane, Minato ward, Tokyo.
Black' first son, Henry married a Japanese daughter called Ishii to divorce a year later, and became a hanashika(Japanese tale-teller) professionally known as Kairakutei Ishi Black and was popular among people and died unhappy at Meguro ward, Tokyo at the age of 66.
Black left his footprint on Japanese journalism to be the pioneer. He has been one of unforgettable people to Japan.
( 誤訳 John Reddie Black
近代日本の新聞は、19世紀半ばの英語の新聞に大きく影響された。新聞の中には、長崎シッピングリストと広告主 (1861)、日本ヘラルド (1861)、デイリー・ジャパン・ヘラルド (1863)、日本官報 (1867) があった。
日本ヘラルドのジョン・ r ・ブラック氏は、日本ヘラルドのランダム大統領の死後、横浜で日本官報を出版した。
そこで外国人居留地に約500人が住んでおり、新聞に興味を持った人は数が限られていた。日本ヘラルド紙は200枚の部数しか流通していなかった。
軍事とビジネスのキャリアとジョン r ブラックは、通常のビジネスマンではなく、さまざまな文明のための豊かな感性と世界史と国際的な状況の鋭い批判の男だった。
彼は1864年にビジネスで中国に行きました、ときに、ch ' ing 王朝陸軍の軍隊は、太平反乱で南京を奪還ました。 ハンと知り合い、日本ヘラルド編集長に就任。当時、新聞には日本人の購読者が少なかった。
そのころ、日本通運と日本コマーシャル・ニュースが発行されていますが、日本ヘラルド紙は管理と内容を参考にしていた。横浜第一銀行のチャールズ・ Rickerby は、日本タイムズの新タイトルのもとで再発行された日本コマーシャル・ニュースを買った。1867年にランダムの死後、黒は日本ヘラルドから独立し、1867に横浜の Hegt と協力して日本ガゼット (夕刊) を出版した。
ブラックは、"若い日本" の彼の回顧録でその時間を思い出した、"私たちの作家は、彼らが海外報道から抜粋ニュースや記事とスペースを埋めることによって公開できると述べた。
黒が日本官報を出版した理由の一つは、将軍徳川慶喜を土佐のクランズマンの細川淳二郎にウインチに支援することだった。
s ・かしげさんは、作家の一人が立派な体格の教養のある紳士でもあり、ボヘミアンでもあると言っていました。
何らかの理由で、黒は日本官報の出版社から辞任し、別の所持品に紙を渡した。1870の終わりに、彼は、社説、ニュースとエンターテイメントしかしまた家庭のための絵をもつ記事を単に公表しなかった極東 (隔週英語紙) を始めました。取材は日本、中国、韓国、台湾など極東の国々だった。黒人は日本人を求む、極東の集落では外国人や読者が新聞を読むことになる。
日本ガゼットが軌道に乗っていたとき、黒は Nishinshinjishi (日本の新聞) を出版することにした。ブラックは、紙 "信頼性の高い毎日のニュース" と呼ばれる。これは、最初の問題が公開されていたことを1872年3月17日にあった。紙は、他の報道を先取りした政府出版物の独占を保持する立場にあり、報道の自由と日本の近代化を実現するために政府の御用達の役割を務めた。
黒は、御用達の patronization がサイン (内閣の臓器) の上に書かれた電柱の上に提灯をつるし、新聞社の前に貼って、建物の壁面に印刷された問題を貼り付けた。彼らは来年、新橋駅と横浜の新聞台で紙を売り始めた。黒は新聞の立場がどのように彼の紙であるべきであるか日本の人々を示した。ニュースのホームと海外のすべての種類と紙の上に読者の列を含む社説があった。
板垣泰輔 (元副大臣) は、1874年1月18日に国民が選出した代表者によって議会を樹立すべきだと提唱した。国民の権利と政府当局によって支持された新聞は、新聞で提案の賛否両論を主張しました。
人々の権利によって支えられる Nishinshinjishi は次第に政治になった。1973では、内閣は、国民の法律の干渉と国民の秘密の漏洩を禁止した出版新聞の第18条の規定を発行した。しかし、法律を破った人を罰するための規定はありませんでした。
法は法務省と細川淳二郎の提案で作られた。
黒が治外法権によって保護されたので、彼が法律を壊すことの危険の記事を出版しても政府が彼を罰することは不可能だった。
Nishinshinjishi は出版物の後の数年の間日本の出版物より優秀な位置にあったが、日本のジャーナリストは黒い新聞からの新聞の管理で成功する方法を学んだ。Nichinichishinbun が出版された後すぐに、編集者は人々が Nishinshinjishi のそれらより知りたいと思うものを知り、前者は後者より人気があった。
新聞は、人々がそれらを購読することができなかったので、高価だった。彼らは、東京と他の都市で設定された新聞読書室でのみ新聞を読むことができます。
郵便サービスが確立されたように、新聞は遠隔地に配達され、人々は新聞を読むことを楽しむことができる。
黒人が政府の役人として雇われた後、Nishinshinjishi は日本人の名前で出版され、1年足らずで発行を停止した。その黒が8月にサービスから排出された後、1875しかし黒は彼の回顧録で、極東の「若い日本」 (英語のペーパー) でも細部の真実を明らかにしなかった。Nishinshinjishi の事務所を Choyashinbun に移した。
1月に1876ブラックは、東京月木の決済で Bankokushinbun (夕刊) を公開しました。その後、日本政府は新聞記事に反対していたため、出版を拒否した。外務省の寺島宗則外相は、日本におけるハリー・ s ・パークスとの出版の問題について論じた。パークスは、日本側に黒の権利を説明したが、すべての黒は、これ以上彼の論文を公開し続けていない後。
ブラックは、極東の新シリーズを公開するために上海に行きました, 英語月刊 (の7月 1876-11 月の ' 78) と j. クラークと c. リヴィントンと協力して上海マーキュリーを発行.
黒は病気のために日本に戻らざるを得なかった。彼が病気で倒れていなければ、日本との不愉快な経験をしたはずがない。彼は最初は横浜に10日間滞在する予定だったが、彼は深刻な病気のために彼の医者によってより長い休息を取るように勧められた。黒は1880年6月10日に彼の家族に気付かれた脳出血で死亡した。彼は 53. 横浜外国人墓地に埋葬された。
ブラックは、妻、息子と娘によって生き残った。
妻は結婚後30年間、黒の後をとり、福沢家を含む日本人に英語のレッスンを与えた。また、英国国教会の一員として布教活動を行い、東京都港区 Hirogane で90歳で亡くなりました。
黒人の最初の息子、ヘンリーは、1年後に離婚するために石井と呼ばれる日本人の娘と結婚し、Kairakutei として専門的に知られているはなしか (日本の物語テラー) となり、人々の間で人気があり、66歳で東京都目黒区で不幸に死亡した
ブラックは日本のジャーナリズムに足跡を残した。彼は日本にとって忘れられない人々の一人であった。)  
『日新真事誌』の創刊者  ジョン・レディ・ブラック
はじめに
幕末か『ら明治初年にかけて、日本に「新聞紙」というニュー・メディアが出現した。この新たな媒体は、その後さまざまな曲折を経て現在に至るが、その揺籃期の幕末から明治初期に、横浜や東京で英字新聞、邦字新聞を発行した英国人ジョン・レディ・ブラック(John Reddie Black)は、日本のジャーナリズム史の上で忘れてはならぬ重要な人物のひとりである。日本における彼の活動の中でも、とりわけ明治5年3月(1872年4月)に東京で刊行した邦字紙『日新真事誌』は、当時の新聞読者や諸新聞はもとより、時の日本政府に対しても少なからぬ影響を与えた。しかしながら、日本におけるブラックの活動とその評価については、従来必ずしも充分明らかにされているとはいいがたい。外交官で日本研究家であったサンソム(Gerge B. Sansom)は、著書『酉欧世界と目本』の中で、ジャーナリスト・・ブラックにふれて次の様に述べている。
「彼はこのほかに最初の定期的な日本語新聞をもひとつ創刊した。それは『日新真事誌』という新聞で、みずから筆をとったり、日本人の論説家に書かせたりした論説によって、ある程度の影響力をもった。国会開設運動の盛んなころには政府を攻撃し、彼の敵対的論評を黙らせようとした日本政府から官職を提供されたりした。日本のジャーナリズムに対する彼の影響は相当に大きいものであるにもかかわらず、日本ではそのことがいつも十分に認められているとはかぎらない。」
この文章は今から約40年前に書かれたものだが、現在でもこの事情はそれ程変っていないといってもよい。
ここでは、これまで未紹介の資料などを用いて、『日新真事誌』を中心とする彼の活動と同紙の形態と内容とに焦点をあてて検討することにしたい。それにより、これまでの誤りを訂正し、従来空白であった部分の一部なりを埋めることとなるだろう。
なお、本稿では未紹介の公文書の類から長文にわたるものでも煩をいとわず引用したが、その際漢字は当用のものに、変体仮名はカタ仮名に改め、適宜句読点を補った。また、年月日の記載はすべて和暦で記し、西暦を併記した。
1 邦字紙創刊までのブラック
ブラックの生涯の中で、来日以前の活動歴については現在のところ断片的にしか判っておらず、それも回顧談や伝聞といった資料的裏付けに乏しいものが多い。ここでは、新たに判明した事実をおりまぜながら、彼の足跡を追ってみたい。
J.R.ブラックは、文政9年12月11日(1827年1月8日)英国スコットランドのFife州Dysartに生まれた。少年時の教育をロンドンのグライスツ・ホスピタル(Christ’s Hospital別名ブルー・コート・スクールとも呼ばれる)で受けると、家代々の習慣に従い海軍士官となった。だが、海軍士官としての栄達が望めないことから、オーストラリアへの移住を考え、妻エりザベス・シャーロット(Elizabeth Charlotte)を伴い、嘉永7年9月8日(1854年10月29日)オーストラリアのアデレイド(Adelaide)に到着した。約9年にわたるオーストラリア滞在中の活動は詳らかでなく、伝えられるところでは商業活動た従事したが成功せず、金鉱などでコンサート歌手をしていたこともあるといわれている。その間、安政5年11月18日(1858年12月22日)には、のちに快楽亭ブラックと名乗り寄席の高座に出演して人気を博した長男のヘンリー・ジェイムズ(Henry Janies)が誕生している。文久2年(1862年)頃、バララート(Ballaarat)で日本から戻ったばかりの人物から未知の国日本についての話を聞かされ、大いに興味をそそられた。このことが日本に立ち寄ってみたいと彼に思わせた原因のひとつだったかも知れない。結局、オーストラリアでは思うにまかせず帰国することとなりi妻子を先に英国に帰し、文久3年11月(1863年12月)頃に単身で来日した。
当初ブラックは、横浜で競売人として活動し、元治元年10月(1864年11月)ハンサード(A.W. Hansard)のHansqrd &Co.の共同経営者となる。さらに半年後の元治2年4月2日(1865年4月26日)には、ハンサードの刊行する英字紙『ジャパン・ヘラルド』(The Japan Herald)の共同編集人となり、社名もHansard&Blackと変更された。
おそらく元治元年の前半頃すでにブラックとハンサードとはなんらかの接触があったものと思われる。こうして経済的な基盤を確立し、日本定住の意志も固めると、英国から妻子を呼び寄せようと考えたのであろう。慶応元年9月20日、(1865年11月8日)横浜着のグラナダ号で妻子が来日した。
この頃、『ジャパン・ヘラルド』の記事を熱心に翻訳していたひとりの日本人がいた。福沢諭吉である。福沢は翻訳した記事を諸藩の江戸留守居役に売り、それで得た報酬を小幡篤次郎ら中津藩子弟の学費にあてていたのである。ブラックは著書『ヤング・ジャパン』の中で、当時『ジャパン・ヘラルド』の日本人による定期購読は僅か6部程であったと誌している。その後事業の失敗などのトラブルから、慶応3年6月(1867年7月)『ジャパン・ヘラルド』はハンサードの養子ワトキンス(A.T. Watkins)にその経営権が移った。程なくヘラルド社から離れたブラックは、ヘフト(M.J.B.Neerdhoek Hegt)の協力を得て、同年9月15日(10月12日)本格的な日刊新聞『ジャパン・ガゼット』(The Japan Gazette)を毎夕発行することとなる。同紙は次第に好評を博し、そのため競争紙である『ジャパン・ヘラルド』も対抗上日刊紙を毎夕刊行せざるを得なくなった。この新聞から、彼がいついかなる事情で離れたのかは今のところ明らかではないが、明治3年5月1日(1870年5月30日)には、P.0.印画紙に焼きつけた写真を直接紙面に貼りつけた写真入英字誌『ファー・イースト』(The Far East)を創刊した。専属カメラマンとしてオーストリア人のモーゼル(M.Moser)が撮影を引き受け、印刷は離れたとはいえジャパン・ガゼット社でおこなうことができた。この頃には、長男の他に次男ジョン・レディ(John Reddie)、長女エリザベス・ポーリン(Elizabeth Pauline)が生まれており、ブラックは3人の子の父親となっていた。
明治時代早々から、彼は邦字紙の刊行を考えており、同国人ファウンズ(C.J.Pfounds)の勧めもあって、一度は上海の美華書院(Presbyterian Mission Press)からカタ仮名の活字を取り寄せたこともあった。だが、日本語の新聞を発行するには漢字の活字が必要であることに気づき、またファウンズに他の仕事が持ち込まれたことなどから、この計画は実現するに至らなかった。邦字紙発行の動機について、ブラックは後に自著の中でこう
述べている。
「私はいつも日本語の新聞を発行したい、と強く望んでいた。というのは、私が始めて日本に到着して以来、たまたま会ったサムライのなかには、外国のことについて、子供のように無知であり、同時に知識と教育を得たいと熱望している者が大勢いたので、彼らの望むものを与えるには、新聞の記事をおいて、他にそれ以上の良法はない、と考えていたからだ。」
2 『日新真事誌』創刊前後
横浜で発行していた『ファー・イースト』が初年度刊行後に再刷を出せる程に刊行が軌道にのった明治4年11・12月(1872年1月)頃、東京で知人のポルトガル人フランシスコ・ダ・ロ一ザ(Francisco da Roza)と会った。邦字紙発行を強く勧めるダ・ローザに対しブラックは、以前からその意思はありながら、実現に至らなかった困難な点をいくつかあげている。まず、彼自身日本語が片言の会話程度しかできず、そのうえ書き言葉の知識がまったくないこと、日本語の新聞には漢字が是非必要であること、新聞発行について日本政府の許可が不可欠だがそれが容易でないこと、等々である。これらブラックのあげた問題点に対して、日本語に堪能であったダ・ローザは、権限をまかせてくれるのならば柘植で木活字を作れる職人を捜すこと、編集者にはもと箱館奉行の組頭を勤めた日本人の学者を紹介すること、支配人として信頼に足る日本人を雇うこと、文部卿に紹介して新聞発行の許可が得られるよう尽力することなどを約束した。ダ・ローザは、マカオ生まれといわれるポルトガル人で、来日時期は不明だが、すでに幕末の文久3年(1863年)に横浜で英字紙『ジャパン・コマーシャル・ニューズ』(The Japan Commercial News)を発行した経験もあり、新聞刊行のうえではブラックの先輩でもあった。母国語の外に、英語、日本語にも通じるなど語学の才能があり、また日本政府高官ともつながりを持っていた人物である。おそらくダ・ローザの協力がなかったならば、邦字紙の刊行は実現をみなかったであろう。ダ・ローザという恰好の協力者を得て、邦字紙発行の計画は実現に向けて具体的に動き始めたのである。
ところで、東京都公文書館所蔵の『書翰留』(明治五年)には、’ブラックの邦字紙創刊にかかわるr件記録が収められている。この資料はこれまで紹介されることがなかったと思われるので、適宜引用しながら『日新真事誌』の創刊に至る動きをたどってみよう。
英国臨時公使アダムス(F.0.Adams)は、外務卿副島種臣に宛てた明治5年2月3日(1872年3月11日)付の書簡で、横浜で英字紙を刊行していたブラック氏が、今度東京で日本語の新聞を発行する計画があり、この件で貴下に面談したいと希望しているので、よろしく配慮して欲しい、との依頼をしている。2月5日(3月13日)頃ブラッグは外務省におもむき、邦字紙発行の意義を書面をもって説明し、その手続等につき尋ね、刊行を許可して欲しい旨依頼していた事情が2月7月(3月15日)付の外務省から東京府宛の文書によって窺える。外務省の見解は、「英国公使ノ紹介ニテ当省へ罷出、別紙書面ノ趣聞届呉候様申出候二付、勘弁致候処、右ハ差許候テモ不都合ノ儀有之間敷と存候。」というもので、さらに、東京で刊行し手続上のこともあるので、築地の運上所にて指図を受けるよう指示したので取計って欲しい、とある。2月15日(3月23日)には、英国東京副領事マーチィン・ド一メン(Martin Dohmen)からも、東京府知事由利公正に宛てて、ブラックの請願書の写しを添えた書簡が送られ、「何卒別紙ニテ其懇願せる事情御承知下サリ、東京府より右御許事相成候様、拙者〔に〕おひても希望いたし候。」と重ねて刊行許可を依頼している。添付されたブラックの書面によれば、すでに2月14日(3月22日)の時点で文部卿の大木喬任と面談し、布告類掲載許可の内諾を得ていたことが知れる。こうして2月25日(4月2日)文部省は東京府宛の文書で、
「英人テーアルフレツキ氏、日本新聞日々刊行ノ儀、別紙免許状壱通差送候間、同人へ御渡可相成候。」
と邦字紙刊行を許可し、免許状を東京府へ差送った。これを受けて東京府は、副領事ドーメンに宛て、新聞刊行が認可された旨を伝えると共に、免許状を本人に渡し、かつ新聞発行の都度3部納付するよう連絡方を依頼した。
   英国人 テーアルフレッキ氏
   右東京二於て日本文新聞紙毎日出板願ノ通免許候事
   但刻成ノ都度ニハ三部上納可致事
      壬申二月    文部省
上記の免許状がブラックに与えられた。こうした一連の発刊のための準備活動には、ダ・ローザの尽力が与って大きかった。
ブラックらの邦字紙創刊の動きは、同じ頃同様に日刊紙の創刊を計画していた条野伝平ら『東京日日新聞』創立メンバ一の耳にも入ってきた。創設者のひとり西田伝助は、のちに創刊時を回想して次のように述べている。「翌明治5年1月の末頃と覚えました。或日条野が参ってきて聞けばブラックといふ英国人が新聞(日新真事誌)を始めるさうだ。夫に米沢町の名主の小西義敬も新聞(郵便報知)を始めるということだから、同じやるなら一日も早く出した方が宜ろうといふので、夫から急に騒ぎ立て、段々運びを附けて往った。」
こうした事情もあってか、『東京日日新聞』はブラックらに先駆けて、明治5年2月21日(1872年3月29日)に創刊された。また、前年の4月から刊行されていた『新聞雑誌』第31号(明治5年2月)にも、
「三月朔日ヨリ東京二於テ、英人『ケプレッキ』我国語ヲ以テ毎日新聞ヲ刊行シ、西洋風二毎朝八字ヲ限り府中二分配セル由、此挙ハ邦人合議シテ起セル事ナルベシ。」
との記事がみえる。この記事にあるように、あるいはブラック自身3月1日(4月8日)創刊を期していたのかも知れない。ところが、文部省が刊行を許可した翌日の2月26日(4月3日)午後3時頃、和田倉門内にある元会津藩邸から出火し、折からの強風にあおられて火は燃え拡がり、「京橋西紺屋町并二銀座二丁目、大通ハ銀座一丁目ヨリ尾張町二丁目迄、(中略)新島原南側残ラズ、小挽町一丁目ヨリ五丁目迄、西本願寺中残ラズ、築地南飯田町ヨリ『ホテル』迄焼失ス」といった大火災がおこった。そして、この大火事により『日新真事誌』の事務所も類焼してしまった可能性が強い。というのは、『日新真事誌』創刊号は築地新栄町5丁目から発行されたが、前述『書翰留』中の東京府から文部省宛の文書に、「場所ハ築地小田〔原〕町二於テ開店ス」と朱書されているからである。つまり、当初築地南小田原町に事務所を設けたが、この大火事で焼失ないしは類焼したため、僅かに焼け残った新栄町に事務所を移し、当初の予定を遅らせて創刊したものと考えられる。こうした思わぬ災禍にもかかわらず、ブラックはさらに新聞創刊のための準備を進め、3月5日(4月12日)付で東京府知事宛に願書を提出した。それは太政官をはじめ諸官省からの布告・命令等を派遣する代理人によって書き取らせて欲しいこと、府下六大区の各区庁への取材、相場について問屋への取材、内外船の出入りに関する運上所からの告知、以上につき格別の助力を乞うというものである。さらに追記として、「尚以貪人ハー々コノ新聞誌買入難ク、仍テ府下ノ辻々へ新聞掲示普ク人民へ告知申度、此段御差許被下ベク候也」と新聞掲示板設置の許可をも依頼している。東京府は各省に代理人派遣の可否を問い合せたところ、すべて差し支えなしとの回答があった。また、その他取材の希望も認められ、新聞の掲示については、運上所の役人がブラック側の者と同道のうえ、設置場所を特定することとなる。ブラック側の予定した新聞掲示板設置場所は、浅草雷神門前、両国橋前、日本橋、尾張町、神明町、筋違橋内、九段坂上、永代橋前、上野山下、四谷御門外、牛込御門外、本郷片町(のち本郷六丁目に変更)、品川駅、赤坂御門外の計14カ所である。このうち差し支えのある尾張町を除く13カ所が認められた。、
こうした曲折を経て、ついに明治5年3月17日(1872年4月24日)『日新真事誌』は創刊された。1枚刷4面建の同紙は、当時すでに刊行されていた邦字紙に較べて格段の内容と体裁をもつものであった。第1面の〈告白〉と題する社告欄では、
「人々ノ聞見ヲヒロクシ、万事ノワケコノ新聞誌ヲー目見レバ世ノ中ノ事が知レ、人々ノ世渡リノ道ヲノミ込、ジット
シテ天下ノヲトヅレ事情ヲ知ル便利ナルモノ」
であることを告げている。創刊の翌4月中には発行所を築地から芝増上寺内の源興院に移した。火災後の築地ではなにかと新聞刊行上の不都合があったものと思われる。こののち、品川・横浜問で鉄道が仮開通すると、ブラックは井上勝鉄道頭に駅構内での新聞販売を願い出ると共に、駅での新聞販売人に鉄道寮の法被を与えて欲しい旨の請願書を提出している。6月1日(7月6日)付の請願書には.
「過日縷述仕候通リ、新聞紙普ク世上へ売弘ノ為、ステーションニ於テ汽車ノ乗客往復ノ者相捌度、就テハ売捌人御寮ノ法被ヲ御授与、鉄道中更二故障ナク御免許早々御尽力ノ程、伏テ奉懇願候。」
とあり、これを受けた井上鉄道頭は、
「御差免二相成候而不苦様相考候」と意見を付して決裁を求めた。これに対し山尾庸三工部少輔は、6月15日(7月20日)付で鉄道頭に次のように回答している。
「英人ブラック義、鉄道ステーション於テ新聞紙売弘メ致シ度旨申出候趣ニ付云々申越候段、致承知候。願出ノ通売弘メ候而不苦候間、其段ブラックへ御達有之可然候。此段御回答候也。」
鉄道寮の法被を着た販売人がどの駅で立売りを始めたのかは明らかではないが、いつれにせよこれは駅構内における物品販売の嚆矢といえよう。新橋・横浜間で正式に鉄道業務が開始されると、以後紙面に「汽車出発時刻及賃金表」が毎号掲載されることとなる。
『日新真事誌』が創刊して程なく、既刊の『横浜毎日新聞』『新聞雑誌』『東京日日新聞』3紙が大蔵省により毎号3府72県各3部、計225部購入されることとなる。これは政府の新聞奨励策の一環とみられるものだが、7月8日(8月11日)には『日新真事誌』も前3紙と同様購入されることとなった。政府側のこうした奨励策もあって、同紙の刊行は順調に軌道にのっていった。
ブラックは自ら論説の筆を執って、教育を論じ、議会制度の由来を説き、遣欧使節への批評を述べるなど、日本人の啓蒙のため大いに論陣を張ったのである。
3 左院御用の契約
創刊かち半年を経ずしで『日新真事誌』は内容・体裁とも日刊紙としぞ主導的地位を確立するに至るが、さらに政府側の情報面を一層充実させることになるのが、同年11月(12月)に結ばれた左院御用申付の約定である。この契約について述べる前に、左院について簡単にふれておきたい。
廃藩置県が断行された直後の明治4年7月29日(1871年9月13日)、それまでの政府機構を根本的に改める太政官職制と事務章程が制定された。太政官職制は、「天皇ヲ補翼シ庶政ヲ総判」する正院と、「当務ノ法案ヲ草シ諸省ノ議事ヲ審調スルヲ掌ル」右院、及び「議員諸立法ノ事ヲ議スル」左院の三院かちなる。左院事務章程では左院は、
「新二制度条例ヲ創立シ、或ハ従来ノ成規定則ヲ増損更革ジ、及未ダ例規ナキ事ヲ考定スル等、正院ノ下輩ト本院ノ建議トヲ論セス、都テ議長議員ノ衆論ヲ尽シテ之ヲ判決シ、鈴印ノ後正院二上達ス。」
と定められている。その後3度にわたる職制・事務章程の潤飾・改定により、左院の権限が大幅に削減されたり、また復活して強化されたりもしたが、明治8年(1874年)4月14日詔勅をもって左院は廃止と決定、変って元老院が設置されることになる。左院の設置期間は3年8ヵ月程であった。議事制度導入への積極的な姿勢や言路洞開への開明的傾向が窺える左院は、政府部内では反主流派といってよい位置にあった。
さて、話をもどすと、明治5年10月(1872年11月)左院議長後藤元樺(象二郎)と、同副議長伊地知正治の連名をもって次の上申がなされた。
「別冊新聞紙ノ儀、御允可於被仰付ハ、英人貌刺屈先前ヨリ文部省ノ許可ヲ受ケ新聞紙致再行居候二付、右へ申付三ケ年位ノ期限ヲ定メ御用為相勤度、左候得ハ旁ラ英国法律等ノ儀モ同人へ尋問致シ、無給料ニテ御用弁ニモ相成可申奉存候。猶同人へ引合方条約等ノ儀は、本院へ御任セ被下度、此段申上候以上。」この上申は10月30日(11月30日)付で「伺之通」と許可された。左院と『日新真事誌』との間に結ばれた約定は全10条と追加2条とからなる。
・・・約定略・・・
この約定は、3年間の期限付ながら左院の議事・議案・布告・建白書等の掲載・刊行の御用を『日新真事誌』が務めるというもので、いわゆる外国人の御雇いとはまったく性格の異なるものである。つまり、左院の資料・情報を独占的に掲載できるとする契約であったことは上記の「定約ノ条例」によって明らかである。それ故、著名な新聞通史にブラックは「報道自由の信念から左院議事や建白の掲載を願い出で、その許可を得て、左院議事御用の六字をかかげたが、それは左院の御用をつとめるという意味ではなかった」とあるのは誤解を招く表現ではないだろうか。この左院との契約は、『日新真事誌』の名を権威付けると共に、同紙に有形無形の利益をもたらすことどなった。以後、新聞題字の右側には「左院御用」の文字が掲げられ、第1面には〈左院録事〉の見出しをもって左院からの情報が掲載されることとなる。ブラックは社前に「左院御用」の高張提灯をかかげて大いに喜んだとのエピソードが伝えられている。
4 〈財政改革に関する奏議〉の掲載
明治6年(1873年)に入ると『日新真事誌』は、2月からそれまで日曜日であった休刊日を1・6日(1と6のつく日)に改めた。
この頃、正院印書局から史官宛に興味ある願書が提出されている。「貌刺屈新聞并海外新聞差廻方ノ儀ニ付用度課ヘノ御達案相添願書」がそれで、内容はこれ迄東京・横浜の二新聞が日誌課から差廻されてくるが、海外の情報に乏しいのでブラックの『日新真事誌』及び翻訳局開版の『海外新聞』を差廻して欲しい。ついては用度課への御達案を添えて願う、というものである。しかし結果は、「各局共未々行届不申候二付、御下渡不相成候事」と却下されている。印書局にそれまで差廻されていた東京・横浜の二新聞とは『東京日日新聞』と『横浜毎日新聞』であったと思われるが、この願書は政府部内においても『日新真事誌』の豊富な外国情報に注目していたひとつの証左といえよう。
明治6年における『日新真事誌』の報道で最も大きな話題を投げかけたのは、5月10日に掲載されたく財政改革に関する奏議〉の記事であった。前年かちくすぶり続けていた大蔵省と他省との紛議は、明治6年に入ると一層混迷の度を増し、ついに5月司法省、文部省、工部省などの予算増額要求に対し、大蔵省がこれを大幅に削減したことをめぐって抗争はその頂点に達した。その結果、大蔵大輔井上馨と同三等出仕渋沢栄一が連袂辞職するという政治的事件にまで進展した。辞職に際して井上・渋沢は連署して〈財政改革に関する奏議〉を政府に提出する。この機密文書に類する奏議そのものが5月10日付『日新真事誌』に掲載された。他に『新聞雑誌』や横浜の英字新聞にも遅れてこの奏議は掲載されたため、政府に大きな衝撃を与えることとなった。渋沢は、辞職前すでにまとめていた意見書の草案を、文才のある江幡五郎(那珂通高)に依頼して文飾を整え、井上の一閲を経たのち奏議として政府に提出したものであることを回顧談で述べている。新聞への公表については、渋沢から井上宛書簡の追伸によって渋沢の発想にかかるものであったことがわかる。
「昨夜呈御覧候奏議、今朝より那珂と共二頻二推敲いたし、漸浄書仕候間、乃チ調印ノ上差上申候、明日正院へ奉呈候儀ハ宜御取計被下度候、尤も生ハー紙ノ置手紙を添て、今夕之を大隈へも相廻し置候
右申上度、勿々頓首
  五月六日   渋沢栄一
  世外老台
尚々何卒新聞紙にも出し申度、其辺よろしく御取計被下度候」
この奏議が新聞に公表されたことに対して、江藤新平などはほとんど朝敵同様な事だと激怒したという。また、この1カ月程前の4月10日には、「在官中ノ事務ハ勿論、或ハ外国交際ノ妨碍トナルヘキ類ハ、瑣細ノ件ト雖トモ私ニ新聞紙へ令掲載候儀不相成候事」(太政官布告第131号)と公布されたばかりであったから、政府上層部には焦燥と不安が募るばかりであった。司法省はこの機密漏洩に対し井上らの徹底的糾弾を求め、その結果司法臨時裁判所から、機密漏洩の廉をもつて井上馨に贖罪金3円、同省6等出仕岩橋轍輔に贖罪金6円の処罰が下されることとなった。渋沢が罪をまぬがれたのは、井上が彼は無関係であるとかばっだことによる。
同年7月30日、ブラックは、これまで発行所としていた増上寺内源興院ではなにかと手狭となったため、島田善右衛門所有の銀座4丁目9番地(現在の和光のあたり)煉火石家作を借受け、ここに移転する旨を届け出た。ところがこの移転に東京府から外国人の居留地外住居にあたるとしてクレームがつき、ついには居留地外居住の免許状交付をめぐって左院事務総裁と外務卿との交渉にまで至るが、結局移転は認められた。のちに新聞各社は銀座に進出することになるが、『日新真事誌』の銀座移転はその先駆けを成すものであった。
5 〈民選議院設立建白書〉掲載の波紋
銀座に進出したのち明治6年12月には、活字をそれまでの木活字から鉛活字に変更、従来に較べて紙面の体裁が整った。12月9日の紙面には、不用となった木活字8万本の売却広告が載せられている。ブラックにとって、創刊以来念願していた印刷態勢がここでやっと整ったことになる。
この少し前、政府内では〈征韓論〉をめぐって西郷隆盛、板垣退助らと岩倉具視、大久保利通らによる確執が深刻になっていた。結果、岩倉・大久保側が勝利を得るに至ると、彼等と対立していた西郷を始め、板垣、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らの参議があいついで辞職するといった政治的事件にまで発展した。いわゆる〈明治6年政変〉といわれるものである。翌明治7年(1874年)1月17日、下野した副島、後藤、板垣、江藤ら前参議に加えて由利公正、小室信夫、岡本健三郎、古沢滋の8名は連署して〈民選議院設立建白書〉を左院に提出。この建白書が翌18日の『日新真事誌』に掲載された。「臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室二在ラス、下人民二在ラス而、独有司二帰ス」で始まるこの建白書の公表をきっかけに、『日新真事誌』はもとより『新聞雑誌』『東京日日新聞』『明六雑誌』などの諸新聞雑誌に知識人による賛否両論の論説や投書がしばしば掲載され、大きな反響をよぶこととなる。『日新真事誌』は加藤弘之の「疑問」と題する民選議院尚早論やそれに対する板垣、後藤、副島らの「対問」と題した反論をも掲載するなど、賛否両論を掲載する方針をとったが、議会制度の国英国出身のブラックにとって民選議院設立は前々からの持論でもあった。彼は創刊早々、「選挙ノ方法ナキ政府ハ宛モ眼ナキ入ノ如シ…… 」(明5.5.17)といった議会設立を望む論説を述べている程で、民選議院問題による議論百出は望ましいことであった。なお、この建自書が新聞に掲載された事情について、『自由党史』には次のように記されている。
「木戸は建白の稿本を一見せんことを請ふ。板垣即ち小室に命じて之を送らしむ。小室事情を察せず、先づ之を日新真事誌に掲げ、然る後ち其新聞紙を木戸に送る。木戸見て為めに頗る感触を害せりといふ。而して未だ幾ならずして武市等刺客の変起り、更に猜眼以て板垣等を視、交情遂に相疎隔するに至る。」
民選議院設立問題は、それまで報道中心であった諸新聞が、政論を中心にと変化していくひとつの起爆剤の役割をはたす結果ともなった。そして、諸新聞の中にあって世論の喚起を主導したのが、『日新真事誌』であったといってよい。しかし、建白書による議会開設の議論沸騰に相前後しておこった岩倉具視暗殺未遂事件や、佐賀における江藤新平らの蜂起は、政府上層部に大きな危機意識をもたらした。2月17日、政府は院省使府県に対して、佐賀の乱に関係する軍事情報を新聞に報知することを一切禁止する達 (太政官達第22号)を公布した。この達は、2月15日付陸軍大輔西郷従道から三条実美に宛てた「軍事関係ノ事件新聞二掲載差止ノ儀伺」を受けたものである。この事態に対してブラックは、2月20日付で左院長官宛に建白書を提出した。その一節に、
「目下日本鎮西ノ動揺ノ如キ、巷議紛々、民或ハ無根ノ浮説二惑溺シ、其心洶々トシテ頗ル平穏ナラス、思フ国家ノ憂患焉ヨリ大ナルナシト、且ツ謹テ承ル、佐賀県下動揺二因テ己に兵ヲ出ス故二、軍事二関ズル件諸官庁ヨり新聞紙二掲載セシムルコトヲ禁スト、嘗テ聞ケリ、軍機デ未発二漏泄スルハ名将ノ最モ忌ム所ト、故二軍律亦其罰ヲ存ネ、然レトモ既往ノ事之ヲ覆ハント欲スル、果シテ得ヘカラサルナリ、若シ敢テ之ヲ覆ハント欲セハ、民官報ノ確々タル実況ヲ知ル能ハス、徒二巷議街説二惑溺シ、却テ人心ノ動揺ヲ醸サン」
とある。さらに2月23日付、〈論説〉欄においても、政府の誤った措置を正すべき旨を論じている。この建白書は左院において審議を受けたが、2月25日に内務省が取消の達を出したこともあって、28日付の左院の回答は、25日以後は掲載してもよいので建議者に篤とその旨を説明し、建白書を差し戻すというものであった。
さらにこの翌月、『日新真事誌』に掲載されたひとつの投書が筆禍を受けるという事件がおこった。3月12日に掲載された、三重県東菰野村の小学校教員龍崎潜の投書がそれで、投書中の「大姦小姦政府に阿諛する小人を有才として御登用」などの一節が「著述シテ政体ヲ妨害スル者」(改定律例第291号)として、自宅監禁70日の処罰を受けることとなった。この事件で、投書した者が処罰されながら、投書を掲載した新聞の発行者であるブラシクにはなんらの処罰が及ばなかったのは、治外法権に守られる外国人であるが故であった。そのため、後述する左院御雇いの策略を政府になさしめた誘因のひとつがこの事件であったといってもよいだろう。そしてこの年の秋には、大蔵省側が『日新真事誌』の記者に書類等の下渡しを拒否するという事態がおこった。大隈重信宛ブラックの書簡がそれを示している。
「然ル処当局ノ報知者大蔵省へ罷出候折柄、以来右御書言言御下渡シ相成兼趣御達有之候、附テハ甚タ恐入候得共、何卒従前ノ如ク諸書類当真事誌局へ御下渡相成直様、閣下ヨリ御下命有之度奉願候」
もし書類を写すのが手数であるならば、当方の記者が写し取るので、従来通り書類を閲覧させて欲しいとの願は、おそらく聞き届けられることはなかっただろう。
同じ頃内務省から、これまでの院省使府県に対する諸新聞紙官費購入(『日新真事誌』や『東京日日新聞』など4紙。明治7年から大蔵省より内務省に管轄が変更)を廃止したい旨の伺が出されていた。左院での審議の結果従前の通りで差し支えなしとの判断が下されたにもかかわらず、結局『東京日日新聞』一紙のみ内務省の費用で購入すること(院省使は従来通り)との指命が10月29日に下された。なお、左院はこの決定に対して不服であったようで、この指令の文書には、「前議ヲ可トス、因テ調印不仕訳」(前議とは左院の意見を指す)と記した伊地知議長を含む7名の左院議官の捺印がある紙葉が添付されている。
新聞刊行に対する政府側の姿勢が、明治7年あたりから大きな変化をみせ始めていることが、こうした一連の動きからも容易に見ることができる。
6 左院への御雇い
ブラックの邦字紙刊行に対してなんらかの対策をこうじなければという焦燥と危機感は、明治7年の秋頃から政府有力者の間に兆していたと考えられる。たとえブラックの新聞が「新聞紙発行条目」(明治6年10月19日公布)に反する記事を掲載したとしても、日本の法規の埒外にある外国人の彼を処罰することは不可能であった。政府の権力を行使してまでブラックの邦字紙刊行を断とうとすれば、ことは外交問題にまで発展することは自明であり、政府がその対応に大いに苦慮したことは想像にかたくない。そこで発想されたのが、彼を左院に雇い、「御雇い外国人」としたうえで商業活動を封じるという一策であった。この左院御雇い一件については、新聞取締りに熱心な左院二等議官細川潤次郎が中心となり、彼がブラックを訪ね左院御雇いを強く勧誘し、ブラックも快諾したとする説が従来ほぼ定説のように伝えられている。しかし、これから紹介する公文書や書簡によって、細川潤次郎はブラックを訪ねておらず、それのみか左院はこの御雇いに対して消極的ないしは反対の態度であったことが明らかである。つまりこの一件は、左院からの発意では決してなく、政府部内の上層部、それも参議クラスがこの策の遂行を強く指示・推進したものと言ってよい。左院御雇いの打診がブラック側におこなわれたのは、おそらく明治7年の11月下旬から12月初めにかけての頃と思われる。左院御雇いの勧奨にブラックを訪ねた人物が細川潤次郎でなかったことはすでに述べたが、細川はこの当時左院二等議官であり、院内でも議長、副議長にほぼつぐ地位にあった人物である。官尊の強い当時にあって、左院上層部に位置する彼が、外国人とはいえ一新聞発行者を直接訪ねていったとは考えにくい。・・・
当時の官員録によれば左院の二等書記官に細川広世という人物がおり、この二等書記官が政府上層部の意を受けてブラックを訪ねるととは不自然とはいえない。さらに資料をあげれば、後年の『万国新聞』刊行停止事件の折、副領事ドーメンに宛てたブラック書簡中に、“Mr. Hosokawa Hiroyo、 one of the secretaries of Sain called at my oflice…・… とある。これらのことから、ブラックに左院御雇いを打診したのが緬川潤次郎でなく細川広世であったことは明白である。細川はまず民選議院設立への協力を求め、左院の御雇いになることをブラックに勧めた(なお、この交渉には『日新真事誌』の荒木政樹、日野春草の両名が仲介役となっている)。民選議院設立への協力はブラックにとって異存のある筈はなく、喜んでその旨を伝えた。次に給与の件となり、細川からあまり高額を望むと拝命がむつかしくなるとのことで、この件は政府に一任することにした。条約書の草案作成の段になり、雇い期間は2年間でまとまつたが、御雇いになるについては新開の所有者を日本人に譲渡するように求められた。ブラックは強くこれに反対し、「相談ハ雷同止マントスルノ勢戟vに及んだ。ところが助言する者があって(想像するに荒木か日野のいずれかではなかったか)、新聞の所有者を日本人にすれば、民選議院設立りのちはその御用を勤める新聞になる筈とのことであったので、「二君ヲ信ジ、且ツ日本ノ皇帝陛下ノ政府ヲ信シ候二附キ、枉ケテ之二従ヒ」新聞・・・
解雇の項目があり、これについても苦情を申し込むと、この一項は、左院が廃止となり民選議院が設立となれば、民選議院に転雇されるためのものとの説明を受け、ブラックはこれを信じた。こうした曲折を経て、左院御雇いあ約定は結ばれることになる。
実は、この御雇いについて左院から提出された大変興味深い伺が残されている。少し長文にわたるが、左院の御雇いそのものに関する重要な資料なので、その全文をここに引いてみることにしたい。日付は明治7年12月10日付、三条の印と智歯議長の花押、中村・井上・日下部、細川・本田の各印が捺されている。
・・・中略・・・
以上がそのすべてである。冒頭近くに付された傍点部分が左院へ内命された内容であり、そこには外国人による邦字紙刊行が「到底政治上ノ妨害モ難計」という危機意識から、御雇申付によって「自然弊害ヲ除去」しょうとする政府上層部の本音が吐露されている。左院はこの内命に対し、いくつかの理由をあげて御雇いそのものに反対の意思を表明し、再考を促している。「ひとつは、経済的に大きな失費を伴う上に、申付ける用向もなく無益であること。また、諸外国において新聞刊行を禁止させる法的実例があるのかという問題、さらた、将来公布する新聞法規を外国人にも厳守させ取締れば不都合がないこと。その上、明治8年末の解約でブラックとは関係が断てること(明治5年11月の左脚御用申付けの約定を指す)などをあげて再審議を望んだ。左院側にしてみれば、政府上層部の策媒はあまりに無益で姑息な手段とみえたに違いない。しかし、左院からのこの伺には付箋が付され、そこには「上申ノ趣、御詮議ノ次第モ有之候条、左院雇入ノ見込ヲ以テ条約書案取調、更二可伺出事」と記されている。岩倉、大隈、寺島、伊藤ら各参議の捺印が認められ、その他に「詳謙ノ次第モ不存候ニ付、鈴印難致候」と、この件に関しては埒外にあったと思われる島津久光(当時右大臣)の署名がある。こうした参議らの指示にそれ以上抗し得ず、左院は12月25日作成した約定の草案を提出し高裁を仰いだ。許可されたのは12月27日である。こうして、ブラックと左院議長伊地知正治との間に以下の契約が交わされることとなった。
・・・中略・・・
この他に通訳の月給50円、別掲図面にみられるブラックの詰所新築営繕費として200円、備品類購入費として170円といった見積の記録も残されている。
左院法制課に御雇いとなったブラックは、その後僅か1カ月を経ずして政府にあざむかれていたことを知る。御雇い後、仕事らしい仕事も与えられず苦情を訴えると、民選議院設立のための規則の起案・翻訳の手伝いを命じられたが、彼にとっては不本意きわまりない処遇であった。しかも、4月には左院が廃止となり、それに伴い正院所属となる。政府は、6月28日に「新聞紙条例」を公布し、その条例中に「持主若クハ社主及編輯人若クハ仮ノ編輯人タル者ハ、内国入ニ限ルベシ」(第4条)との一項を設けていた。この一条が、ブラックびとりを標的とした措置であることは明白である。政府は邦字紙刊行にブラックが戻れないよう法的措置を完了すると、7月10日翻訳局へ転属させ、2月後には2カ月の休暇を命じるといった具合に、一歩一歩解雇への布石を打っていった。休暇を命じた同日付で翻訳局長から、当局ではさしあたりブラヅクに申付ける用事もないので、条約書第2条に従い解雇してはどうかとの伺が出される。この伺が決裁され、ついに7月27日午前10時にブラックを出頭さぜると、同月31日付をもつて解雇との辞令を交付した。これに対してブラヅクは、2度にわたって不服申立ての書簡を太政官宛に送り、政府の詐術に満ちた処置を批判すると共に、命ぜられた休暇は雇用期間中であることを強く主張した。その結果、2ケ月の休暇は雇い期間と認められ、9月12日をもって正式解雇となった。こうして、政府上層部の策略は功を奏したことになるが、このために出資した金額は半年あまりで約4500円もの高額にのぼった。
一方『日新真事誌』は、左院御雇いの打診があった頃の明治7年12月2日から、紙面の大きさを従来の半分に縮少すると共に、定価を値下げする大改革を断行した。新聞の体裁については前々から、「料紙過大ニシテ閲覧二便ナラサル」との苦情が読者からしばしばあり、また価格についても、「其定価ノ低カラサル、往々之ヲ購求セント欲シテ、貧民ノ未タ其美志ヲ果サザル聞エアリ」との事情があって、新聞紙刊行上なんらかの対応をせまられる状態にあった。12月2日紙上の改正定価表によれば、1部3銭5厘、1月分74銭、1年分8円とある。
ブラックが去った明治8年(1975年)の第1号(1月4日付)から、それまでの4面建を8面建と倍増し、末尾の刊記は「貌刺屈社改称一新社」「編輯者 高見沢茂、斎木貴彦、印刷人 萩原春行」と改まっている。しかし、明治8年以降の同紙を見てみると、紙面構成上に大きな変更はないものの、報道記事や論説にかつての生彩が薄れていることは否めない。例えば他紙に次のような投書が載っている。同年4月30日の『読売新聞』に鳥越甚内橋の西洋床からの投書で、その一節に「日新真事誌の先生が私どもの旗のことを書いて新聞に出されましたが、いかに貌刺屈さんが居なくなって上等の種とりが無いにしろ、余りつまらねえ事を書いて出します。アノ新聞こそ、人の自由を妨げるというものだ」とある。さらに、投書のあとに記された『読売新聞』記者のコメントで、「一新社さ んも実のない新聞が多いと評判が悪くなりますから、成たけよい種をおかき成さい」と皮肉られている。また10月には、掲載した投書の住所と氏名を誤って載せなかったことから、編集長め斎木貴彦が取調べられるといったこともあった。結局、過誤によるものとのことで処罰の対象にもならなかったが、一新社の主脳陣に新聞刊行の意欲が少しずつ失せつつあったのかも知れない。
ついに明治8年12月5日の紙面に、「本社発兌スル所ノ日新真事誌ハ、今回止ヲ得サル事故アリテ、本号ヲ限り当分休業セリ、然レドモ他日又当二改革スル所アリテ尚新紙ヲ刊行スベシ。庶幾クハ期二臨ミー層ノ愛顧ヲ垂レ玉ハン事ヲ。此ニ一言ヲ広告シ、併セテ将来ヲ祈ル。」
との社告を第1面に載せ、『廃刊することとなった。翌6日の『東京日日新聞』は、「此ごろ追々新規な新聞屋の殖る中に、親玉株が休業するとは、定めて深き思召あることとは察すれども、何とぞ早く御開業を祈ります」とライバル紙の休刊を惜むかの一文を載せているが、「定めて深き思召あることとは察すれども」のあたりに何かの含みを感じるのは思い過ごしだろうか。
廃刊について、ブラック自身は反対であったようだが、同紙の主だった者達に押しきられる形となったようで、ある。
7 『万国新聞』問題から死去まで
日本政府に対するブラックの憤懣は、やがて『万国新聞』無届け発行の形となって表面化した。明治9年(1876年)1月6日、築地南小田原町3丁目貌刺子社から編集長兼印刷人英人貌刺屈の名をもって創刊された同紙は、治外法権を楯に「新聞紙条例」を無視するものであり、政府に対するひとつの挑戦でもあった。『万国新聞』の発行は政府側に少なからぬ波紋を投げかけ、伊藤博文は1月12日付大久保利通宛書簡の中でこの問題にふれ、
「外国人『ブラック』ナル者、此節無許可ニテ日字新聞発兌候ニ付、甚不都合ト奉存、早速尾崎ヘ一両日前申聞候処、己二内務省ニテモ気付居候事二付、直ニ着手差止メ可申トノ事」
と述べると、同日付大久保の返書には、この一件につき明日参院の上直談したい旨が誌されている。ブラックは1月13日、司法官藤田高之からの呼び出しに応じ、『万国新聞』刊行について事情聴取を受けだ。翌日、東京府権知事楠本正隆は英国副領事ド一メンに、同紙の発行をすみやかに差し止めるべく取計って欲しい旨の警告書を送った。これに対しドーメンは、新聞刊行を差し止める理由を具体的に示して欲しいこと、また、ブラックの新聞が讒謗にわたる記事を掲載したのならばその旨を領事宛に訴えるのが至当である、との回答を楠本に送った。その後再度書簡の往復があったのち、ドーメンはこの問題を英国公使パークス、(Harry S. Parkes)の判断にゆだねるべく依頼し、その旨楠本へも通達した。楠本もこの事を外務卿寺島宗則に伝えこの一件はパークスと寺島との外交交渉へと発展した。3回にわたるパークスと寺島との交渉内容については、『日本外交文書』第9巻に詳しく記録されている。結局、2月8日付でパークスは、日本在留英国人に対し日本語新聞の発行を禁止する特別布告を発し、この問題は結着をみた。その後賜暇で離日したパークスに代わってプランケッド(F.R. Plunket)がブラックへの損害賠償につきパ一クスの意を受けて寺島と交渉を続けたが拒否されている。
邦字紙刊行の道を断たれて失望したブラックは、同年4月15日コロンビア号に乗船して妻と上海に向かった。上海では『ファー・イースト』の新編を刊行し、また明治12年(1879年)4月には英字紙『上海マーキュリー』(The Shanghai Mercury)を創刊した。しかし、上海において健康を害した彼は、同年6月頃保養を目的として再び日本に戻ると、横浜に落着いた。ここで、かつて自分が編集発行した『ジャパン・ヘラルド』『ジャパン・ガゼット』のバックナンバーや『ファー・イースト』『日新真事誌』などを読み返し、幕末から明治初年の変転きわまりない日本の姿を記録に留めようと考え、執筆を始めた。これが、彼の唯一の著書となった『ヤング・ジャパン』である。この頃のブラックは、ジャーナリストとしての情熱をこの著書にそそぎ込むべく執筆を進める一方、ゲーテ座で音楽会を開き、その美声は在留外国人を大いに楽しませた。だが、体調の急変により明治13年(1880年6月11月、『ヤング・ジャパン』第2巻の西南戦争時西郷隆盛暗殺計画の条りを執筆中、脳卒中により急逝した。53歳であった。葬儀iは翌12日午後4時から、横浜居留地16番の自宅においておこなわれた。英字・邦字の各新聞は死亡記事を掲載して彼の死を悼んだ。墓は横浜の外人墓地にある。、
8 『日新真事誌』の形態と内容
これまで『日新真事誌』を中心とするJ.R.ブラヅクの活動の跡をたどってきたが、本節では邦字紙『日新真事誌』そのものを考察の対象とし、同紙の形態と内容とについて各項目ごとに述べることとする。
A 創刊・廃刊日(号数)
○創刊日:明治、5年3月17日(1872年4月24日)
○廃刊日:明治8年(1875年)12月5日
○通号:1039号(明5年:204号、6年:285号、7年:285号、8年:265号)
一般によく利用され定評のある基本文献に、『日新真事誌』の創・廃刊目が誤って記述されている例がある。それら基本文献が誤記している理由のひとつは、太陽暦(以下西暦)と太陰暦(以下和暦)の取り違いに起因している。知られる通り、明治5年12月2日を限って政府は和暦を廃して西暦に改め、12月3日をもって明治6年1月1日とした。『日新真事誌』創刊号の題字下には「明治5年壬申小三月十七日」ど印刷されていて、和暦を採用していることは明らかである。また、前述の東京都公文書館所蔵の文書の日付によってもこのことは裏付けられる。明治5年3月17日は西暦1872年4月24日である。外国人のブラックが刊行する新聞が日付を和暦のみで記載しているのに対し、僅か前に条野伝平らによって創刊された『東京日日新聞』が両暦を併記しているのも興味深い。ブラヅクの和暦記載は、日本人のために刊行する新聞であるので、出来るだけ日本の慣習をとり入れようとの配慮からかも知れない。一方『東京日日新聞』の方には杉浦嚢、渋沢栄一といったすでに外国を見聞して来た人物が後援者として助言・、協力していたことによる影響と考えられる。
号数の付し方は通号表記ではなく、創刊から明治6年4月末まで通し号数を付し、5月2日から「第2周年第1号」と
改め、翌7年5月から「第3周年第1号」と周年毎に号数を改めている。そして明治8年1月4日から、また新たに第1号が始まる。従って各年別の号数は上記の通りで、総発行日数は1,039日ということになる。
B 刊行頻度・休刊日
○明治5年3月中ーー隔日刊、同年4月〜廃刊一一日刊
○明治5年3月〜6年1月末丁一一日曜日休刊、明治6年2月〜廃刊一一1・6日休刊
創刊早々の3月中は、発行態勢が未だ充分整っていなかったためであろう、隔日刊とし、4月以降日刊となった。
休刊日は、初年度中英国人ブラックの新聞らしく日曜日休刊としていたが、創刊の翌年早々から1・6日(1と6の付く日)に変更している。これは、当時大半の日本人にとって日曜日休業の意識がなかったことと、1・6日が当時の官庁の休業日であったことから、休刊日をあわせたものと考えちれる。因みに、官庁において日曜日休業が実施されるのは、明治9年4月1日からである。
C 発行部数        
○明治7年7月〜8年6月 総発行部数528、660部、1日宰均1、855部(発行日i数285日)明治8年7月〜同年12月 総発行部数194、444部、1日平均1、568部 (発行日数1124日)
○明治7年中逓送集計(1月〜12月)231、807部、1日平均813部(発行日数285日) 
明治初年の新聞発行部数を記録している統計として見ることの出来る最も古い資料は、明治9年の『内務省第1回年報』である。この年報は暦年統計ではなく、7月から翌年6月までを統計年度としている。この年報により主要新聞の総発行部数をみてみると(明治7年7月〜8年6月の数値)、『東京日日』2、229、115部、『郵便報知』2、143、293部、『朝野』548、119部、『東京曙』(『新聞雑誌』の改題)799、864部、『横浜毎日』293、265部となっていて、明治7・8年の時点では『東京日日』、『郵便報知』の2紙が部数において断然他を圧している。『日新真事誌』
は『朝野』とほぼ同程度の発行部数であったことが知れる。
逓送集計は、『郵便報知新聞』明治8年2月9日付録に掲載のものである。明治7年の1月〜12月の正確な発行部数が判明していないので確実な事はいえないが、発行部数の4割程度が地方郵送分ではなかっただろうか。  
D 価格              
○明治5年3月17日〜7年11月30日 1部1朱、「1カ月1両1分、1年12両
○明治7年12月『2日〜廃刊 1部3銭5厘、1カ月75銭 1年8円
明治初年の新聞紙の価格は、現在に比較して全体的に高額であったが、とりわけ高価だったのが『日新真事誌』である。値下げをおこなったのちの時点で他新聞の価格と較べてみても、『東京日日』は1蔀3銭、1カ月70銭、『朝野』が1部2銭3厘、1ヵ月50銭、『横浜毎日』1部2銭5厘、1カ月60銭、『読売』などは1部1銭、1カ月20銭であった。これによっても『日新真事誌』が他紙に較べていかに割高であったかがわかる。明治7年12月に紙面縮少と価格の値下げを断行するが、それ以前から、もっと廉価にして欲しいという要望が投書を通じて読者から数多くあった。ただ、ひとつ注意しておいてよいのは、読者からの要望もさることながら、前月の12日、それまでの各府県3部の政府による新聞購入が廃止となつたことである。大蔵省(のち内務省に管轄変更)による各府県あての購入は、『日新真事誌』側にとって大きな、しかも確実な収入源であった。この大事な収入源に不安定要素が生じた訳で、ブラック始め社内の幹部達にとっては大問題であり、何らかの対応策が協議されたであろうと想像される。その結果が紙面の縮少と定価の値下げであり、これによって一般購読者の拡大を企図しようとしたことが窺われる。
E 販売
創刊当初、新聞を購読できない者のために新聞掲示板の設置を東京府に願い出て許可を得たことは前に記した。ここに番人1人を置き、新聞販売スタンドともいうべきもの(高さ7尺、横5尺5寸)を建て、希望の者には新聞を販売することもあった。販売部数など無論不明だが、おそらく販売量はこぐわずかではなかったかと想像される。というのも、多くの使用人を持つ商店の主人でざえも、新聞が日々違った記事を載せて毎日刊行されるということがどうしても理解できなかったという、ブラックが自著に記している有名なエピソードからも知られるように、この頃はまだ新聞に対する認識がきわめて薄かったからである。それ故、明治5年7月の大蔵省による各府県宛3部の購入は、最も安定した販売先を確保できたことを意味する。
明治5年11月からな琴平町の静霞堂に販売が委託されることになるが、それまでの販売態勢は、官庁への納入の他は、駅や販売スタンドでの立売りと少数の定期購読者への配送といった程度ではなかつたか。静霞堂は明治10年以前の早い時期から新聞・雑誌の売捌きをおこなった新興書店で、明治7年刊の『東京独案内』に「新聞紙屋」として名が載っているという。この静霞堂に加えて、翌6年2月からは弘暦社(のち頒暦商社と改称)が加わり、各地に売捌所が設けられる。弘暦社は明治4年4月に、その名の示す如く公用暦本の製本・売捌きの認可を受けた暦の販売者グループであるが、翌年3月には東京・大阪に商社設立を願い出て許可されている。弘暦社はその販売網を活用すべく、暦や新聞だけでなく、布告類の全国販売の許可をも明治6年4月に得ている。その伺書には、「御差支無之分ハ、左院新聞紙売弘所ノ例二傲ヒ、御許可相成度」との一節があるが、「左院新聞紙売弘所ノ例」とは言うまでもなく『日新真事誌』の売捌所開設を指す。さちに同年7月の『横浜毎日新聞』に次の広告が掲載されている。「来る八月七日より当社中にて左の各種を前金割引を以て取次可申候。(略)尤港内は無賃配達引受可申。」とあって、『東京日日新聞』『新聞雑誌』などと並んで『日新真事誌』も前金割引で横浜毎日新聞社が取扱う旨をうたっている。
こうして、創刊当初の貧弱な販売態勢は、ほぼ1年後には販売網をもつ売捌所に委託することによって安定した販売態勢を確立するに至った。
F 印刷
○料紙 明治5年・3月17日〜6年5月12日 西洋紙  明治6年5月13日『〜廃刊 日本紙
○活字 明治5年3月17日〜6年12月2日 木活字 明治6年12月3日〜廃刊 鉛活字
○判型 明治5年3月17日〜7年11月30日縦48cm、横32cm 明治7年12月2日〜廃刊 縦32.5cm 横24cm
それまでの西洋紙から日本紙に変更した理由は、郵送料金の改定に伴う送料の負担を極力少なくすることにあった。明治6年5月13日の社告に、「是迄真事誌洋紙ヲ以テ出版ノ処、今後郵便賃目方ヲ以テ御改正ニ付、洋紙ハ量目ヲ増シ徒ニ逓送無益ノ費ヲナシ不便二付、本日ヨリ日本紙二改正」とある。
活字の問題は、創刊当初からブラックの頭を悩ました重要課題のひとつであった。明治5年5月14日の社告欄には、
「余是迄発兌スル所ノ新聞紙ハ、活字摺道具ヲ始メ極便利ノ活版機械英国へ注文シ、其品物到着スル迄全クー時ノ用ヲ弁センが為、俄二拙劣ノ諸工ヲ雇ヒ、木刻ノ活字ヲ以テ新聞ヲ開版セシニ、最前注文スル処ノ活版諸機械及ヒ図画彫刻ノ諸職人ニイタル迄、近日到着スルノ報告ヲ得タレバ、更ラニ体裁ヲ改正シ」
とあって、近々にも活版印刷に変更するかの如き予告を誌しているが、実現するまでにはさらに1年半程も待たなければならなかった。英国へ注文したという活版印刷の機械がなんらかの事情で到着しなかったのであろうか。なお、『日新真事誌』の木活字を彫った職人として、南伝馬町の芦野楠山、南鍋町の小林東馬(彼とは活字納入の遅延から訴訟問題に発展)、その息子市蔵といった彫師達の名前が伝わっている。
紙面の大きさは、創刊から明治7年末に縮少するまでは現在のタブロイド判より少々大き目の寸法で、この体裁が永く続いた。縮少後は、現在のB4判をひとまわり小さくした大きざとなるが、読者から紙面が大き過ぎて扱いに不便であるとの苦情は当初からあり、当時の読者にはなかなかなじめなかったようである。新聞を読み捨てにすることなく保存する読者も少なくなかったから、発行側と読者側の間には新聞に対する認識にギャップのあったことも確かで、読者側のそうした要望を受入れた結果が紙面の縮少であった。
G 紙面構成
○創刊〜明治7年ll月30日 本紙4面+付録2面、(第1面 3段組、第2面以下 4段組、1行17字詰)  明治7年12月2日〜廃刊 本紙8面十付録2面、(全面、段組、1行18〜20字詰)
題字は創刊以来横組で右から「日新真事誌」と書かれ、左院御用以後は中央上部に横組で「官許」、右端に縦組で「左院御用」、左端に「貌刺屈」(後に「貌刺屈社中」)と印刷され、題字部分はこの形が永く維持された。活字組は1面3段組、2面以下4段組で、1行17字詰で統一されている。明治6年12月の活版印刷に変事後は、1行22字詰と収録活字数が大幅に増加した。ブラックが去った明治8年以降は、面建がそれまでの倍の8面にふえ、全面3殺組とし、面により活字の大きさが異なることもあって、1行の字詰は18〜20字と同一ではない。
本紙の他に付録1枚(2面建)が付いているが、、付録添付がいつから開始されたのかは原紙が欠号めため特定でぎないが、確認できる最も早い時期のものは明治5年10月29日付の付録である。付録は廃刊まで続くが、その紙面は、東京・横浜の諸相揚の実況と引札(広告)とからなる。おそらく付録は、本紙の間に挿まれて毎号配達されたものと思われる。
次に、ある1日の紙面構成の例をあげると、以下の通りである。左院録事、官令、東京新聞、県新聞、英国新聞、横浜新聞、香港新聞、論説、、投書、月潮時報、貿易之景況、告白(明治6年5月3甘の例)。
日によって掲載記事に多少の異同はあるが、おおむね前記の如くである。後には〈裁判公報〉や〈電報〉の欄が新たにつけ加わることになった。〈東京新聞〉〈県新聞〉〈芙国新聞〉とあるのは、東京、各府県、英国のニュースといった意味で、〈論説〉は現在の社説にあたり、〈告白〉は社告あるいは広告の謂である。なお、この当蒔の用例として、「新聞紙」はニュース・ペーパーを、「新聞」はニュースまたは情報を指す用語であり、この2語は明らかに使い分けちれていた。
H 論説
現在の新聞の社説にあたる論説の第1号については、石井研堂や小野秀雄の説が今でもよく引用される。石井の『明治事物起原』及び小野の「東日の歴史」(『東京日日新聞』、昭和6年2月21日掲載)において、最初に論説を紙上に掲載じたのは明治7年12月2日の『東京日日新聞』であり、福地桜痴の創意にかかるとするもので、その後他紙もこれにならって論説を掲載するようになったという。、これに対し宮武外骨が『公私月報』第7号(昭
和6年3月15日)で石井・小野の説に反論し、これ以前の明治7年9月18日以降の『日新真事誌』、同年10月5日以後の『朝野新聞』に論説の欄タあることを指摘して、社説掲出の嚆矢が『東京日日新聞』でないことを明らかにした。さらに外骨は、『公私月報』の第37号(昭和8年10月5日)にその後の調査結果を記し、前紙2紙よりさらに前の明治7年5月25日付『郵便報知新聞』にすでに論説が掲載されているとしている。ところが、明治5年3月17日創刊の『日新真事誌』は、創刊号から特に〈論説〉欄を設けてはいないものの、論説とみてよい記事がすでに掲載されている。特に〈論説〉と明記された欄が初めて設けられたのは、明治6年1月6日からである。この日付は、外骨が指摘した『郵便報知新聞』よりさらに1年半程遡る訳で、『日新真事誌』が社説掲載の第1号といっても過言ではないだろう。1月6日の〈論説〉は2つの事象について述べている。ひとつは、和暦から西暦に改正されたことに賛同し、これを機に日本人が一層各自の才能を研き、「万国ト峙立ノ権利ヲ保全シテ、真二文明開化ノー面目ヲ改ン事」を希望している。いまひとつは、オーストリアのウイーンで開らかれた博覧会に出品予定の諸品を、事前に旧薩摩邸において一般に展覧したことについて述べたもので、その主旨は詳細な展示品目の目録を作成して配布すべきことを奨めている。
『日新真事誌』における〈論説〉記事は、そのすべてがとは断言できないが、大半はブラックの執筆にかかるものと考えてよいだろう。そう言い得る根拠として、(1) 記事末尾に「日本寄留ノ英民貌刺屈ナリ」といった署名があって明らかなこと、(2)署名はないものの、記事中に「我が英国政府ハ……」とか「如此贅言ヲ費スモノハ日本二寄留スル英国人ナリ」の字句があること、(3)署名やブラックを示唆する字句もないが、記事全体が英国人でないと書き得ない内容を含んでいること、といった事があげられる。無論、ブラック執筆の記事とするには疑問のものもない訳ではないが、『日新真事誌』から離れるまで、論説欄の執筆は彼にとって余人にはまかせられぬ重要な任務であったと思われる。もっともブラック自身が述べているように、彼の日本語力はカタコトの会話程度で日本文を書くことができなかったから、彼の英文原稿を誰かが日本語に翻訳した筈である。蛯原八郎はその著書『日本欧字新聞雑誌史』の中で、「同紙の社説は、ブラックが英文で書下したものを、皆此ローザが邦訳したのであると云はれてゐる。」と述べているが、実際に各論説を読んでみると、たとえ日本語に堪能であったといわれるダ・ローザをしても、難解な漢文脈の日本文を書き得たとはとうてい思えない。つまり、ブラヅクの英文原稿をダ・ローザが簡単な日本語に下訳するか、口述したものを日本入記者がさらに文飾を整えて書き上げたものではなかったか、と考えられる。なお、ダ・ローザは、明治7年4月から後藤猛太郎(後藤象二郎長男)に舶来品商事支配人として雇用されている記録が残っているので、明治7年春頃には『日新真事誌』の仕事から離れていたとも考
えられ、ダ・ローザ退社後は英文を解する日本人記者が直接翻訳したのかも知れない。『日新真事誌』の論説にはごく一部論題を付したものがあるが、大半のものは論題がない。論題の一部をあげてみると、「新茶ノ説」「学校論」「支那ト日本ノ条約二付テ論ス」「禁浮言説」「英魯国情論」「支那行使節ノ詳論」などで、題目だけからもわかるように産業論から教育論、政治・外交論、社会・風俗論に至るまで幅広いテーマをとりあげている。な
かでも教育問題は何度も論説の主題にとり上げ、教育の普及による人材の育成を説いている。また、大半の日本人にとっては未だ未知の制度であった火災保険制度を紹介し会社設立を奨励したり、英国の政治制度を数回にわたって解説するなど、日本人啓蒙のため大いにその筆を揮っている。なかには、浅薄な理解から発想された論説もあって、後日日本人からの投書により反論されるということもあった。ブラックが、論説欄の執筆を新聞刊行上の重要な使命のひとつと考え、同時にその反響や効果が期待できる場であるとの認識を持っていたことは確かである。ある論説の中で彼は、新聞のあるべきモデルとして英国の『タイムズ』をあげ、『日新真事誌』もなんとかその御手本にならった新聞にしたいとの思いを述べている。
〈民選議院殼立建白書〉の掲載以後、ブラッグはこの問題を一再ならず論説でとり上げ、また読者の側からも賛否を問わず多くの投書が寄せられ、『日新真事誌』を舞台に民選議院問題の議論がたたかわされたことは、彼にとって最も望むところであったに違いない。明治7年2月5日の論説で、こうした議論百出の状況はようやく日本にも民権が自由に論じられるに至ったかのようで喜びにたえないと述べたあと、彼はなおいささか按じられる三つの点をあげて注意を喚起している。第一に、民選議院なるものは、人々が国政に関して充分にその是非を論じる自由が得られなければならないこと。第二に、民選議院設立を発議した者も、それを論難する者もこれによって双方が仇敵視することのないこどを望む。第三に、賛成する者、反対する者共に平静心をもって説を述べ、論を聞くことがなければ、たんなる空しい争い事にすぎず、人心の一致をみることは困難であること。論説欄を通してこうした注意を促がすことにより、いたずらに徒党を組んで私闘に陥ることのないことを呼びかけている。
I 投書
新聞への投書は、「明治7(1874)年ごろから記事のなかから投書欄が独立し、投書なることばが新聞界や一般読者に使われだすようになった」といわれているが、『日新真事誌』はそれより早く、すでに明治5年11月の紙上に独立した投書欄を設けている(投書欄設置の時期はさらに前と思われるが、原紙欠号のため確認できない)。『日新真事誌』にとって投書は論説と並んで紙上に欠かせぬ読者とのコミュニケートの場であった。掲載されたものをみても、多種多様な問題をとり上げた投書が数多く社に寄せられたであろうことがわかる。たとえば、井上・渋沢らの財政意見に関するものや民選議院問題に対する投書といった政治問題にわたるものから、人力車夫の横暴に対する批判や銭湯の湯が熱過ぎるといった日々の生活上におこるこまごました問題に至るまで、読者は投書という手段によって自己の主張を開陳している。そうした様々な投書に対して、編集側は送られた投書のすべてを無原則に掲載していた訳ではない。明治6年1月27日の紙上で、次のように採用の規準を述べて投書上の注意を促がしている。「我が社へ投書シテ新聞紙上へ記載ヲ乞フ者、亦陸続トシテ堆ヲ成ス」程であるが、「条理ト事柄二寄リ」採用するものとしないものがある。「事慵慨激烈ニ出ルト雖、真実国家ノ為二直言シ、稗補ノー助トナルヘキ」ものは採用するけれど、「天下ノ公理二反シ私論二渉ル者、或ハ妄二朝憲ヲ嘲弄シ政府官員ヲ誹議スル類、其他無名氏ニテ出所詳ナラサル者、或ハ珍怪異聞ヲ唱へ、確証ナクシテ浮説二出ル類」は一切採用しないので、投書者はこれらのことを了解して公明正大の議論をして欲しいとある。こうした採用規準に照して掲載された投書に対して、時には記者のコメントを付載している場合がある。投書や報道記事の後に記者の所感を記すことは『日新真事誌』に限ったことではなく、当時の諸新聞にしばしば見られるひとつの特徴であった。そうした一例として、当時の読者の新聞に対する認識が窺える興味深い投書をみてみよう。明治6年1月10日の紙上に掲載された佐渡の相川に住む含翠庵主人の投書である。その主旨は、『日新真事誌』はとてもすばらしい新聞だが、残念なことに料紙が大き過ぎて読むのに不便なだけでなく、時々破けてしまうので、冊子に綴じて後々に復読して楽しむことができない。この点が未だ貴紙を定期購読しない理由で、今後ば硬い紙を使つた冊子体とし、何度も繰返し読むととができれば文明進歩の効果もあがり、貴紙の名誉も増すであろう、というものである。この投書に編集側は「我社一片ノ陋言ヲ副ス」と付記して、そもそも新聞というものは、昨日の出来事を今日には知らしめるもので、朝読めば夕方にはもう反古のようにして再読するものではない。それ故に簡潔と迅速を旨とし、文章も懇切・平易でなければならない。新聞を永く保存して後年に読み返すなどとは、いわゆる陋民の井蛙論というべきもの。本紙の名誉を願っての忠告には感謝するが、投書の意見に従えば新聞本来の意味を失ってしまう。新聞のこの本旨を投書者が佐渡全島に広めてくれることを本紙は大いに希望する、というものである。この投書がなされた明治6年初め頃の新聞は、『日新真事誌』のような大判一枚刷のものと、『新聞雑誌』や『郵便報知新聞』のごとく冊子体形式のものとが併存していた時期であり、前記佐渡の投書者と同様の考えを持つ読者は他にも少なくなかったであろう。
ここで、掲載された様々な投書の中から、新聞・雑誌や書籍に関する投書の二、三を紹介してみたい。兵庫県の学生から、「而シテ独り恨ムラクハ、新著新訳書籍ノ報告各種新聞紙中二載スルヲ見ズ、願ハクハ此等ノ書籍発兌アラバ、速二其書名、著述者ノ姓名、売弘ノ書肆及其巻数、定価等迄詳記シ、且其書中ノ大意ヲ撮録シ広ク報告アラバ、文学日進ノ今日、新書ヲ求ムルニ汲々タル者ノ大幸ナラン」(明6.2.13)といった新聞に書籍紹介記事の掲載を望むこの投書は『日新真事誌』側もまったく同意するところで、「本章ノ論最モ至当」、として、今後新書を発行した者から当社に報告があれば「即時告白二上木シテ普ク天下二布カン」と述べている。また、京橋畳町で新聞縦覧所を開く開知軒主人からの投書もある。新聞縦覧所の看板を出したが、高学の士が数人と兵隊と書生風とがやって来ただけ。市井の工商の人で新聞の何たるかを知らざる者は十のうち七、八、知ってはいるが読む能わざる者一、二。過日の論説に、新聞縦覧所でも書籍を縦覧させよとあって同感するところだけれど、「今資本乏シク、未ダ万巻ノ書ヲ供スル協力ノ徒ヲ得ザルノミ、方今訳書ノ類貸観スル者府下両三戸有ルヲ知ル、然レドモ前文ノ景況欺息二堪ズ、冀ハクハ区々ノ長タル者、町々へ勧奨シ漸次ノ顧ミサルノ徒ノ如キヲシテ看読セシメハ、自然億兆二波及シ真二開化ノ稗補二至ラン」(明6.3.23)。諸新聞30紙を備えた新聞縦覧所主人の溜息が聞こえてきそうな投書である。一方、書生と覚ぼしき吉井某から、「希クハ有志ノ輩、訳書数百巻ヲ集メ、従来ノ貸本屋ニ傚ヒ数日ヲ期シテ之ヲ貸サバ、都下ノ寒生モ蓋ク其書ヲ見ルヲ得、貸主モ其利ヲ期スベシ」(明6.3.24)といった店舗をかまえた貸本屋を望む声もある。こうした投書にまじって、「東京ノ平民横浜寄留神奈垣魯文」からの投書(明6.6.18)も掲載されていて興味をひく。社に寄せられる数多くの投書は、必ずブラックの査閲を経て紙上に掲載されていたごとが、明治6年7月14日の〈稟告〉によって窺える。6月20日の紙面に「明カニ掲載ス可カラザルーツノ投書」があり(工部省御雇いの外国人インジニ一ルからのものを指す)、それは「社長木在二当テ来札シタレバ、遂二社長ノ検査ヲ得ズ、即日記載シタルナり」。ところがこの投書は工部省の上司を中傷する内容であったから、工部省においても調査したところ、まったくの事実無根であることが判明した。「素ヨリ社長、如此キ誣言二類スル来札ヲ見レバ直チニ之ヲ退ク可キニ、況テ其論不正ナルヲ聴テ、大二新聞上二記載セシヲ悔ユ」。それ故、前掲の投書は取消すとの報告である。このく稟肯〉からも、ブラック自身各投書を検査の上、規準に反するものは載せない方針を貫いていたことが知れる。では、自社に寄せられる投書をブラックはどのようにみていたのだろうか。ある論説の中で彼は、投書についてこう述べている。
「是迄弊局工送致アル投書中、其論意善良ニシテ且ツ正直ナルヲ看テハ、余等ガ喜何事力之ニ如ン。然ルニ今実ヲ以テ言ヘバ、彼ノ投書家ノ意見、偶余等力持論ト符合スル者ハ十ガ一二過ズ。而テ其符合スルヤ否ヲ論セズ、皆之ヲ紙上ニ掲載スルハ、人々各自由二善論誠説ヲ述ン事ヲ望ムノミ。」(明6.7.9)。
『日新真事誌』の投書欄は、編集側と読者とのコミュニケートの場であると共に、読者同士が意見をたたかわす媒介の役割をもほたした。その摘例が民選議院問題であった。新聞を読む読者の中から、投書活動によつで自らの意見を表明する行為が漸次おこり始めた。民選議院問題をきっかけに、『東京日日新聞』『朝野新聞』『郵便報知新聞』といった諸新聞にも読者からの投書が多く寄せられることとなって、新聞が世論を反映する媒介であり、そのコミニュケ一ションの回路としての役割をはたしたのが、明治初年の新聞投書欄であった。 
『ジャパン・ヘラルド』のジョン・レディ・ブラック
「ジャーナリスト」としての原点
はじめに
本稿はこれまで発表してきたジョン・レディ・ブラック John Reddie Black(1826〜1880)に関する私の3つの論文 に続くものである1。ブラックについては、「近代日本ジャーナリズムの父 the father of modern Japanese journalism」という評価2がされていることを既発表論文で紹介し、私自身、その評価に全面的に同意することも明らかにしている。本稿は既発表の3論文と同様、ブラックの包括的評伝に向けた作業の一環として書かれる。
既発表の3論文では、イギリス・スコットランドのダイサートでの生誕からオーストラリア移住、さらにオーストラリアでの活動、インド、中国を経て幕末に来日し、横浜で発行されていた英字新聞『ジャパン・ヘラルド The Japan Herald』の編集・発行人として「新聞人」としての人生をスタートさせるまでを追った。来日以前のブラックの履歴に関しては従来、確かな事実はほとんど明らかになっていなかった。私の3論文はこの点で新事実を明らかにし、ブラックの伝記的な研究を多少とも前進させたと考えている。
本稿では既発表の3論文との重複は基本的に避ける。しかし、叙述の必要上、ごく一部既発表論文と重なる部分があることをお断りしておく。
さて、本稿は『ジャパン・ヘラルド』を舞台にしたブラックの言論活動を具体的に検討し、「ジャーナリスト」としての彼の基本的視点を明らかにすることを目指す。
ブラックを「近代日本ジャーナリズムの父」と呼ぶかはともかく、日本ジャーナリズム史におけるブラックの業績に対する高い評価そのものはすでに定着している3。しかし、その評価は1872年(明治5年)、彼が創刊した日本語日刊新聞『日新真事誌』によるものと言っていいだろう。むろん、私もそれを否定しようとは思わない。
ブラックはたしかに『日新真事誌』によって、近代日本ジャーナリズム史にその名を大きく刻むことになった。だが、当たり前のことだが、《『日新真事誌』のブラック》は突然生まれたわけではない。すでに幕末、ブラックは『ジャパン・ヘラルド』を舞台に言論活動を行っていたのである。『ジャパン・ヘラルド』とブラックのかかわりはむろん、すでに自明のことである。だが、そこにおけるブラックの言論活動についてはどうだろうか。残念ながら、『ジャパン・ヘラルド』におけるブラックの言論活動の内容を具体的には検討した先行研究を目にしない。本稿はブラックが『ジャパン・ヘラルド』に執筆した社説―特に日本の政治・外交問題に関して―を検討することを通じて、ジャーナリストとしてのブラックの原点を明らかにする、ささやかな試みである。
1 「攘夷」の時代の終わり
『ジャパン・ヘラルド』はイギリス人のアルバート・ウィリアム・ハンサード Albert William Hansard が横浜で創刊した週刊の英字新聞である。ハンサードは、『英国議会報 Parliamentary Debates』に冠名を残す印刷業ハンサード家の出身である。創業者ルーク・ハンサード Luke Hansard(1752〜1828)の孫として、1821年1月22日、ロンドンで生まれた。ロンドンで印刷業の修業を経て、1849年にニュージーランド・オークランドに渡り、不動産業などを行っていた。来日時期は分からないが、1861年6月22日(文久元年5月15日)、長崎で英字紙『ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドヴァタイダー The Nagasaki Shipping List and Advertiser』を創刊した。英字紙であるが、日本における本格的な新聞の嚆矢とされる。8月27日(文久元年7月22日)まで週2回28号まで刊行された。
この後、ハンサードは、江戸に近いこともあって居留地として長崎をすでに凌駕していた新興の港町・横浜に移り、11月23日(文久元年10月21日)、毎週土曜日刊行の週刊新聞『ジャパン・ヘラルド』を創刊する。ブラックが『ジャパン・ヘラルド』の共同経営者として姿を見せるのは、1865年4月29日(元治2年4月5日)である。
この日、同紙にハンサード名で「共同経営告知 CORPARTNERY NOTICES」というタイトルの広告が初めて載った4。4月26日をもって「ジョン・レディ・ブラック氏」が、『ジャパン・ヘラルド』の新聞発行事業とそれに付随する印刷事業の共同経営者になることを承認したという内容で、同日から彼が『ジャパン・ヘラルド』の編集責任者になることも明記され、さらに社名を「Hansard & Black」とすることが告知されている。これを受けて、『ジャパン・ヘラルド』の次号5月6日紙面の末尾には、次のように表示された。
Edited , Printed , Published by the Proprietor , Hansard & Black , Yokohama , Japan
こうしてブラックは新聞人として仕事を始め、以後精力的に『ジャパン・ヘラルド』で論陣を張る。その内容を検討する前に、この時期、日本はどういう時代状況だったのかをごく簡単に見ておきたい。ブラックは具体的な政治状況の中で、言論活動を展開していた。その状況を知ることは本稿の課題を果たす不可欠な前提である。
米国のペリーが前年に続いて軍艦七隻で来航し、日米和親条約を締結したのが、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)だった。1858年7月29日(安政5年6月19日)には、日米修好通商条約が結ばれる。同年中には、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約が締結された(安政五カ国条約)。「開国」した日本は激動の時代に突入する。
ブラックが『ジャパン・ヘラルド』編集人になる2年前、1863年9月30日(文久3年8月18日)、公武合体派のクーデタで京都を追われた長州藩は、翌年8月(文久4年7月)、京都において幕府軍などと戦闘を繰り広げ、敗れた(禁門の変)。続いて第一次征長の役があり、9月5日(文久4年8月5日)には、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの4国連合艦隊が下関海峡で長州藩砲台を砲撃し、翌日砲台を占拠する(下関戦争)。
1865年(元治2年・慶応元年)には、第二次征長が決まる一方、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの4国代表による条約勅許を求める動きが加速する。11月4日(慶応元年9月16日)には、4国連合艦隊が兵庫沖に来航して、交渉を求めた。こうした列強の圧力を前に、朝廷は11月22日(慶応元年10月5日)、兵庫開港は不許可としたものの安政五カ国条約に勅許を与える。
幕府が「開国」に踏み切った後、日本国内には「攘夷」の嵐が吹き荒れた。1864年から65年は、この嵐がようやく収まり、時代の流れは薩長同盟を結んだ長州と薩摩を主軸とする「倒幕」へと大きくカーブした時期だったと言えるだろう。幕末史における大きな画期にブラックは新聞人としてデビューしたのである。時に39歳。もう若いとは言えない。だが、その仕事ぶりは実に精力的である。ロンドンからオーストラリアに移住したのが、28歳のときだった。漂泊の時を送って11年、ブラックは、ようやく「天職」に巡りあった思いではなかっただろうか。
2 社説の執筆―日本の政治・外交を論じる
毎週土曜に刊行された『ジャパン・ヘラルド』には毎号、「THE JAPAN HERALD」という紙名と同じタイトルの欄がある。タイトルにうたっているように、この欄は直面する諸問題に対して『ジャパン・ヘラルド』としての意見を開陳した社説である。二つのテーマが取り上げられていることもあるが、社説として論陣を張った文章は毎号一つの場合が多い。『ジャパン・ヘラルド』の紙面は一ページが縦に五つに区分されている。小さな活字でびっしり組まれた社説は、たいていこの一区分をはるかに超える長文である。署名はない。
後にふれるように、ブラックは『ヤング・ジャパン―横浜と江戸』5の中で、自分が『ジャパン・ヘラルド』に書いたある社説の経緯とその反響についてふれているが、この社説だけでなく、毎号の長文の社説はすべてブラックの手になるものと考えていいだろう。
『ジャパン・ヘラルド』のこの欄は創刊号からあり、編集人がブラックに変わる前にも時に長大なものがないわけではない。だが、執筆者がブラックになった後、長大な社説は明らかに増えている。「実業」に失敗し、「歌手」としては相当な成功を収めたブラックだが、文章力に隠れた天分があったようだ。英語の文章の巧拙を判定する能力は私にはないが、素人目にはある種の「格調」も感じられる。ときにラテン語の成句やフランス語がはさまれたりしているのは、若き日のクライスツ・ホスピタルの教育の結果かもしれない。
ブラックが社説を執筆した時期の『ジャパン・ヘラルド』で参照できたのは、1865年5月6日(慶応元年4月12日)発行紙から同年12月9日(慶応元年10月22日)発行紙まで、途中欠落があるため合計20号だった。この20号すべてに社説は掲載されている。1日に2本の社説が掲載されている日もあるので、社説の数は26本である(特にタイトルがないまま、この欄に収録されているが、内容的には通常の記事と考えられるものもあり、それらは除外した)。
数として一番多いのは、直接日本の政治・外交にかかわるもので、26本のうち11本を数える。次に多いのは、横浜居留地に関連した問題で、9本ある。残る6本のうち、6月24日掲載分は、ブラック自身が『ヤング・ジャパン』でふれている異例とも言うべき社説だ。これについては後にふれる。残り5本は、イギリス国内の話と一分銀の両替に関するものである。
横浜居留地関連の社説が多いのは当然と言えば当然だろう。『ジャパン・ヘラルド』にとって、それはまさに「地元」の問題である。具体的なテーマの一つは居留地内の湿地に関するもので、3回取り上げられている。伝染病の発生源になるなどの問題を指摘し、幕府当局に改善を要求するべきと主張している。もう一つの重要問題は、横浜居留地住民が国籍を超えて居留地の自治組織として設立した参事会 The Municipal Council である。規則や運営などの問題点にかかわるものが6回。各国領事団からの入金が少なく、十分な活動を行うには資金が不足していることなどが指摘されている。横浜居留地の参事会に関係する問題は、『ヤング・ジャパン』にもたびたび登場している。
参照できた社説はごく短い期間のものだが、ブラックは日本の政治・外交問題を積極的に取り上げていたことが確認できる。では、そこで彼はいかなる主張を展開していたのか。この点について、いくつかの具体的な社説を対象に検討したい。
3 下関戦争の賠償金をめぐって
「攘夷」を求める朝廷に対して、この時期、幕府が直面していた政治・外交課題は、下関戦争の賠償金支払いと長州藩に対する制裁(第二次征長)、そして列強が求める朝廷による安政五カ国条約の勅許への対応だった。
下関戦争で、4国艦隊側の人的被害は、イギリスが死者8人、負傷者48人、フランスが死者2人、負傷者9人、オランダが死者2人、負傷者3人(アメリカは人的被害なし)だった7。4国側は300万ドルの賠償金を要求し、幕府はこれに応じることにした。5月6日、13日、20日の『ジャパン・ヘラルド』社説が、これらの問題を論じている。
6日の社説は、「幕府が300万ドルの賠償金を支払う代償として、長州藩の領地を没収することを決めたと伝えられている」と記した後、長州藩の態度や他の諸藩の動向などについてふれているが、「われわれは残念ながらそれらが真実であるかどうか確認することができない」と、日本における情報収集の困難さを率直に語っている。「率直さ」という点では、次の部分は、ブラックが新聞編集に対する態度、つまりはジャーナリズムのあり方について語ったものとして興味深い。少し長くなるが、私訳して引用する(以下、『ジャパン・ヘラルド』の記事の引用は、いずれも私訳。こなれない日本語ではあるが、大意の意訳では私の恣意的な理解と受け取られるおそれがあると考え、極力直訳した)。
「われわれはセンセーショナルなニュースの重要性を過大に評価しない。われわれは遅かれ早かれ、作り話 fiction は現実 reality に場所を明け渡さなければならないことを知っている。しかし、それでも現実の禍がもたらされることはあるし、無節操な記者によってそれが行われてしまってもいる。われわれの能力が及ぶ限りで、こうした作り話が真実ではないと証明するために、われわれは、この地で起こった出来事、あるいは前の週に知り得たこと、そして根拠の十分な事実と考えられるようになったことを、定期的に記事として掲載していくつもりである。」
ここで、ブラックが言おうとしていることは、今日ただいま、新聞報道に携わっている人間にも十分通用する心構えと言っていい。センセーショナリズムへの不断の禁欲を保ちつつ、冷静に事実をフォローし、持続的な報道を続けることによって事実を確定していくというのである。
150年も前、横浜というまだまだ小さな開港場に過ぎなかった地で発行されていた英字新聞の一編集人が、このような見解を表明していることに、私は率直に驚いた。先にブラックの先達とも言うべきハンサードの見事なジャーナリズム観を紹介した。ブラックはハンサードに学びつつ、ジャーナリズムのあるべき姿について、具体的な報道の仕方というレベルで、このときすでに確固とした自己の考えを確立していたのである。
こうした姿勢のもと、この日の社説では、「江戸政府」(幕府)が300万ドルの賠償金を支払う意向であることを4国側に伝え、4国側はこれを受け入れるだろうと述べ、これによって新たな港の開港は当分延期されることになるとの見通しを示している。4国側は兵庫開港を繰り上げるなら、賠償金を免除すると提案していた。賠償金支払いが決まれば、4国側はこの提案を引っ込めざるを得なくなるというわけだ。
こうした見通しを示したうえで、社説は「われわれはこうした事態を悔やまない」と述べる。新しい港が開港し、貿易の利益が増えたとしても、それは大したものではないのだから、というのがその理由である。オーストラリアにおいて貿易商社の経営者として失敗したブラックならではの主張という気がしないではないが、重要な主張はその後に続く。
社説は「もしわれわれの代表団が、何らかの額の現金を手にして、それで全ては解決済みと考えるならば、われわれはまことに遺憾に思う」と4国側の姿勢にも釘を差す。そして、問題は金ではなく、われわれの尊厳 dignity をどう守るかなのだと強調する。
下関戦争は、長州藩の「攘夷」実行の結果として起きた。「攘夷」は西欧人を「夷狄」として蔑む考え方である。われわれの尊厳を傷つける、こうした対外観が払拭されない限り、真の問題解決にはならないのだというわけである。
ことの本質を捉えた鋭い主張と言っていいだろう。
4 幕府の立場への理解
5月13日の社説でも、ブラックはこの「尊厳論」を展開しているのだが、まず幕府が置かれている厳しい財政状況を分析している。
「過去数年間、実際の収入を上回る支出をしてきた幕府は、豊かな状態には程遠い」として、具体的に過去にはなかった新しい支出を列挙する。外国との交際を促進するために新しい職務が作られ、多くの高級、下級官僚たちへの手当が増えた。最大の費用がかさむ改革が海軍・陸軍双方に導入された。欧米に送る外交使節の費用や外国人に関して支払われる損害賠償金その他の項目も従来の予算にはなかったものだ。
次に、こうした状況にもかかわらず、日本の政治経済の仕組みが未熟であることも指摘される。国債や紙幣の発行、あるいは欧米諸国においてはごくふつうに行われる財政的な操作はできない。幕府は富裕な商人に資金提供を強要することや、外国との貿易に不法に干渉することによって得た金を収入に繰り入れることができるだけだ。
社説は、続いてイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四つの大国 four powerful nations にとっては、各約70万 ポンド(総額300万ドルを4等分してイギリス通貨に換算した数字)の損害賠償金は大したものではないと述べる。ここにはブラックの「大国意識」がほのみえるが、彼の主張はここでも、問題は金ではなく、われわれの尊厳をどう守るかにあるのだという点に集約されていく。
生麦事件の犠牲者リチャードソンら「攘夷」の犠牲になった人々の名前を次々に挙げた後、社説は次のように述べる。
「彼ら[外国人を排撃する日本人]は、自然に外国人の命を品物と同じように金で買うことができると考えるようになるだろう。彼らは諸外国の名誉に加えたいかなる損害に対して、どんな場合でもドルのかたちで支払うようになるだろう。われわれは、こうした事態は許しがたいと主張する。」
もちろん社説は「損害賠償金はいらない」と言っているわけではない。財政的苦境にあるにもかかわらず、幕府首脳に根強く見られる「金で解決すればいい」という精神的態度を強く批判しているのである。そして、この日の社説は、幕府に対してまことに情誼あふれる説得で終わる。「損害賠償金支払いに関して、あらゆる可能な便宜が幕府に対して与えられるべきである」とした後、社説は次のように説く。
「偉大な西欧列強 the great western powers は、彼らが法的な請求権を持つ一定の金額を失ってもいっこうに困らない。しかし、彼らは自分たちの尊厳に対して当然与えられるべき尊敬がどんなわずかなかたちであっても無視されることは許容しないだろう。将軍 Tycoon9は、この点を理解させるべきである。」
ここにも露骨と言っていいほど、「大国意識」が現れていることはたしかである。だが、幕府の財政的苦境に対する冷徹な思考と「外国人」に対する精神的な態度の転換を求める理念的な要求とがあいまった社説は、ジャーナリストとしてのブラックの優れた力量を十分に教えてくれる。
5 幕府を高く評価
5月20日の社説は、この段階におけるブラックの状況認識を示すものとして興味深い。まず、幕府による長州藩に対する2回目の武力行使が明確になったことが指摘される。8日から10 日ほど前、数人の幕府や尾張藩などの高官が横浜を訪れ、大量の武器を調達していったというのだ。
この状況を社説は「内乱 civil war の前夜」と表現している。そして、「文明の歴史は血の文字で描かれる」と述べ、こうした内乱は、文明の進歩にとって不可避であるとする。「日本はいまや歴史の新しい時代に入った」として、次のように書く。
「西洋文明と接触するようになって以来、日本は全構造に及ぶ強大な衝撃を受け続けている。その衝撃は何百年もの間まどろんでいた日本を進歩の道へと急速に駆り立てている。そして、この突然の動きは、似たような状況にあったヨーロッパには知られている同じ現象を伴うに違いない。」
ここに「進んだ西洋/遅れた東洋」を対比するオリエンタリズムを読み取ることも可能だが、今日、私たちが「西洋の衝撃 western impact」という概念で知る歴史状況を的確に指摘していることもたしかである。「歴史の経験」を知る者として、ブラックは「われわれが、この革命状況の直接の原因である」という冷静な認識を示しつつ、「われわれの利益から考えれば―義務という点でも同じだが―最終的に勝利するはず分派 fraction、すなわち自由を掲げる党派 party 、進歩と文明の党派を援助しなければならない」と述べる。
では、この「党派」は具体的にどこなのか。社説の主張は、明確に「将軍」である。幕府と長州がふたたび戦火を交える可能性が強くなってきた。「歴史の進歩」に棹さす立場からは幕府こそを擁護しなければならないというのである。
社説は幕府との政治的関係が満足すべき状態からはるかに隔たっていることを率直に指摘する。しかし、ここでも幕府の苦境への深い理解が示される。「外国人との約束を履行するために将軍が遭遇している巨大な困難」を考慮に入れる必要があるというのだ。この「巨大な困難」は、「ミカド、諸大名、そして外国人による止むことないせっかちな要求―それらは、相互にほとんど真正面からぶつかる―によるもので、将軍はこの要求によって絶えず悩まされている」という状況認識を語る。
「ミカド」「諸大名」だけでなく、将軍に「巨大な困難」を与えている存在として「外国人」を挙げているところには、ジャーナリスト・ブラックの公正な認識を読み取ることができるだろう。先にブラックのオリエンタリズム的思考を指摘したが、この日の社説を読むと、彼がシンプルな西欧至上主義者ではまったくないことも分かる。
この後、社説は、中国(清)、コーチシナ(現在のベトナム南部。後にフランス領インドシナの一部となる)、インドなどの東アジア地域と日本の状態を比較する。これらの国々ではいずれも西欧諸国の覇権が確立されてしまっているのに対して、日本ではそうではない。将軍は非難されるよりむしろ同情されるべきだとして、社説は次のように述べる。
「将軍はしばしば条約の内実を履行することに失敗してきた。しかし、半文明国 semi civilized country の支配者―法的にはいまだ完全に認められていないようには見えるが―に期待できるほぼすべてのことを行ってきている。」
「法的にはいまだ完全に認められていないようには見えるが」という部分は、ブラックをはじめ当時の外国人にはなかなか理解できない朝廷と将軍との関係に関するものだ。「半文明国の支配者」という表現に抵抗感を感じる必要はない。当時の日本が「半文明」の域にあったことはまちがいない(ちなみに、文明の段階論から日本を「半開の国」としたのは、『文明論之概略』の福沢諭吉である)。ブラックによる将軍=幕府に対する評価は極めて高いと言っていい。
6 将軍への熱い期待
先に「日本はいまや新しい時代に入った」という、この日の社説の表現にふれた。「新しい時代」について、社説の敷衍するところを聞こう。
まず「一つ、おそらくはいくつかの君主制 monarchy が古い封建的システムの崩壊の後に樹立される歴史的局面を日本は進みつつある」という。ここでブラックが使っている「君主制」という言葉は、私たちの用語で言えば、「絶対君主制」に近いように思える。別のところでは「権力ある君主制の設立」という表現が使われている。ともあれ、「古い封建的システム」が崩壊しつつあるというのが、彼の認識のポイントである。そして、「古い封建的システム」の盟主 champion が長州藩なのだ。
「封建制度の盟主たる長州藩が、君主制原理の、したがって進歩の道を代表している将軍を打ち負かすようなことになったら、日本にとっても日本とわれわれの関係にとっても大きな不幸である。[……]将軍の敗北のありうべき結果は、暴力が日本を支配する長い空白期、混乱と無秩序の時間となろう。その間、たいていの有力大名が独立の主権者として認めるよう要求することになるだろう。」
以上の認識から導かれる社説の結論は明快である。内乱になった場合、西欧諸国はそれぞれの国家の法律が許す範囲内で幕府を援助するべきであり、当然、幕府の「敵側」への援助は行ってはならないという主張である。ある国の内部で紛争が起きた場合、外国がとる一般的姿勢は「局外中立」だろう。ブラックはその立場を選ぶことなく、強力に幕府支援の言論を展開したのである。
幕府による第二次征長は実際にはこの社説が掲載された翌1866年7月(慶応2年6月)にずれ込む。この間に長州藩をめぐる情勢は大きく変動する。鋭く対立していた薩摩と長州が手を結んだ薩長同盟が締結されたのは、1866年3月(慶応2年1月)である。「古い封建的システムの盟主」はいつの間にか、「革命」の駆動者の一方になった。
その意味では、1865年5月におけるブラックの見通しは現実のものにならなかった。だが、「見通しが甘かった」と彼を批判するのは正しくない。
イギリスをはじめとした西欧諸国と通商修好条約を結び、日本を「開国」したのは徳川幕府だった。一方、朝廷と長州藩は「攘夷」を唱え、その決行を幕府に求めた。この時期、「進歩」は明確に幕府のものであった。実業家としての経験も持ち、何よりも「先進国」の人間であるブラックが、徳川幕府こそが日本を文明国へと前進させられる唯一の存在と考えたのは当然だっただろう。
ブラックは、将軍が全国に割拠する諸藩の代表者という立場から抜き出て、主権国家の主として真に統一国家の君主になることを期待したのである。
ブラックの「親幕府」の姿勢は、明治以後になっても貫かれる。むろん、「幕府」は実体としては滅亡して存在しないのだが、かれは最晩年の著書『ヤング・ジャパン』の中で、幕府、とりわけ最後の将軍となった慶喜を高く評価している。時間的な流れからすると、これまでふれた『ジャパン・へラルド』の社説執筆から15年も後のことになるのだが、ここで『ヤング・ジャパン』の記述を2か所紹介しておくことにする。
まず、14代将軍家茂が死去した後の将軍職継承問題にふれた部分である。一橋慶喜は当初、固辞していた将軍職継承を受け、主要大名を集めた会議で、自己の所信を表明する。ブラックは、こうした経過を述べた後、次のように記している。
「この会合から、最良の結果が予想された。この後に起こったすべての事件をわれわれが回顧するとき、われわれは一橋に対して強い同情を禁じえない。[……] われわれは、条約勅許を得るにあたって、彼がいかに卓越した役割を果たしたかを見てきた。最後まで、日本に課せられた協定に対して、彼は極めて誠実であった。現[明治]政府がしたといわれている改革を、彼は創始した。[……]もし彼が望むとおりに活動できたならば、後に起こったような革命の惨禍や、度重なる内乱の勃発もなく、これまでなし遂げてきた程度の急速な進歩を、日本が行ったことであろうというのが、私の確信である 。」
次は、1867年5月2日(慶応3年3月26日)、慶喜が大坂城で、イギリス、フランス、オランダの公使と会見したことを述べた部分。将軍側の丁重なもてなしのもと、会見が友好裡に終わったこと記した後、ブラックは『ヤング・ジャパン』全巻の中では珍しく熱弁をふるう。
「[私は]今日の進歩をほめるだけで、旧制度の支配者の悪口をいう人たちの誤った考えを訂正したいのである。私はこの意見を常に主張していたし、今でも持っているが、もし一橋が思う通りに計画を遂行することができたとすれば、今日までに今われわれが見ているのとまったく同じ大進歩が見られたことであろう。そして、その進歩は、今のよりも健全で、確実なものであったろう。血なまぐさい革命もなかったろうし、ミカドは全権力を回復していたであろう。このことは、すでに慶喜の計画の一部として、報じられていた。今よりずっと前に衆議院も開かれていただろう。」
さて、1865 年に戻ろう。次は6月10日の社説を検討する。現下の国内情勢をめぐってブラックはここでも将軍への支持を要請する。その論理的な手続きはなかなかに周到である。
まず安政5カ国条約が西欧列強の直接ないしは暗黙の圧力のもとで結ばれたものだったという認識を示す。幕府は、条約締結を拒否した場合、英米との戦争に巻き込まれるという恐怖から、仕方なく条約を結んだというのだ。つまりは砲艦外交である。
日本の対外関係が、こうした歪んだかたちでスタートしたことが、その後の事態の成り行きを大きく規制したというのが、ブラックの出発点である。やむなく結ばされた条約が広い支持を得るはずはなかった。条約への軽視は全国に広がり、条約が正当に機能することに対する嫌悪が生まれてもおかしくない状況になったというのである。そして、問題を決定的にデッド・ロックにしてしまったのが、ミカドの存在であるとして、次のように述べる。
「ミカドは条約の勅許を拒み、「醜い夷狄」をこの国から追い出せと将軍に命令した。さらに[ミカドより]大きな力を持つ有力大名の幾人かは怒って条約に異議を申し立て、反抗を行うことを宣言した。」
この後、社説は、京都の治安に対する憂慮を語り、「攘夷実行」を強く求めたミカドの将軍宛ての書簡とそれに対する将軍の返信の一部を引用する。そして、「この[書簡の]抜粋から、外国人の最良の友人が誰であるかは、まごうことなく明確に知ることができる」と述べる。むろん、ここで「最良の友人」とは幕府にほかならない。
薩英戦争と下関戦争の痛い経験からいまや「攘夷」を捨て「開国」に転じた薩摩と長州についても語られている。ブラックの見解は一言で言えば、「薩摩も長州も信用できない」ということになるだろう。薩摩も長州も将軍を非難し、いまや開港が望ましいと言い出した。「しかし、たかだか最近になって転向しただけで、ついこの間まで彼らはわれわれに対するもっとも激しい敵対者だった」ではないか、というのである。
イギリスなどの諸国が条約を締結した相手は将軍なのであって、現在ただいま多くの問題を抱えていることはたしかだが、薩摩や長州に頼って問題が解決する保証はまったくない――ブラックの確信はゆるぎない。
幕末、日本に派遣されたイギリスをはじめとした西欧諸国の外交団を悩ませたのは、「ミカド」の存在だった。彼らは将軍が日本という国家の唯一の主権者であることを疑うことなく、条約を結んだ。幕府の側の応対もそれに応じたものだった。ところが、やがて複雑な事態が明らかになる。ブラックもむろん、この問題を理解していた。たとえば、6月17日の『ジャパン・ヘラルド』社説は、その一節で次のように指摘している。
「以下のことを否定する日本人には会ったことがない。ミカドだけが日本の正統的な皇帝 legitimate Emperor であり、将軍は、他のすべての諸侯より圧倒的に権力を持っているとはいえ、実際のところ、世襲的な権威という点では、ミカドの周辺にいる数人の高位の公職者や皇族と同等でさえない。」
社説は、さらに「将軍が最終的に勝利することを確信している」と留保しつつ、ミカドが「日本の正統的な皇帝」とされている以上、「ミカドが支持しない政策に反対して将軍に戦いを挑む敵対者」が出てくるのは今後も不可避だと指摘する。
「ミカドと将軍」「朝廷と幕府」という問題について、ブラックはこのようにリアルな認識を持っていた。したがって、外国人が安全を保障されて日本に住み、貿易を進展させるためには条約勅許が不可欠とも当然考えていた。では、どうすれば、ミカドによる条約勅許が得られるのか。この点に関するブラックの考え方を、この日の社説で見てみよう。
西欧諸国に関する情報が、ミカド(朝廷)には決定的に不足しているというのが、ブラックの基本的に認識である。正しい情報を得れば、態度を変えざるを得ないはずだというわけである。「しっかりとした情報を得ている日本人の大半は、西欧諸国の力について完璧に正しい認識を持っている」と述べた後、社説は次のように指摘する。
「物理的な力で外国人を追い出すことができると想像するような、情勢を見る目のない少数の党派が日本には存在する。京都の朝廷はこうした事実について正確な知識を持つべきなのだ。」
「われわれは暴力に類することは一切勧めない」と書きつつ、別のところでは「[勅許の拒否は]要するにきわめて少数の軍事力 REAL POWERに基礎を置いているに過ぎないミカドの地位を致命的に傷つけることになろう」と、「脅し」と受け取られかねない表現も使っている(「REAL POWER」は強調するために大文字になっている)。
しかし、ブラックの基本的立場は、繰り返して言えば、ミカド(朝廷)が正しい状況認識を持っていないという点にある。だから、条約勅許の可能性に関しても、正当なかたちで提示すれば勅許は拒否されないだろうという楽観的な見通しを示している。
この見通しそのものについて言えば、必ずしも当たらなかった。すでに述べたように、11月4日(慶応元年9月16日)、イギリスなど4国連合艦隊が兵庫沖に来航して、条約勅許と兵庫開港を求めた。朝廷は圧力に屈したかたちで、11月22日(慶応元年10月5日)、兵庫開港は不許可としたものの安政5カ国条約に勅許を与えたのである。
7 日本人への高い評価
これまでブラックが日本の政治・外交上の問題を論じた『ジャパン・ヘラルド』の社説を検討した。最後に直接、政治・外交上の問題ではないが、ブラックの日本に対する親近感を教えてくれるものとして、6月3日の社説にふれたい。日本においては西欧諸国と違って商人が自立した立場を与えられていないという点を指摘した社説だが、その前段で中国人と日本人の比較を試みている。次は、まずその前段。
「もっとも目につく日本人の特色の一つは―おそらく自分たちの未来の進歩に対する健全このうえない希望に基づくものだろうが―どういうところであれ自分たち自身のものより優れている点が見つかった外国の作法や習慣を取り入れる能力である。
実例として、古代における漢字や哲学の採用、現代における外国語、科学、技術、産業の学習を挙げる。そして、中国人との比較が続く。
「西欧人との長い交流の後にも、中国人は彼らの文明の想像的古さから、われわれを見下しているようにふるまい続け、野蛮人として扱っている。中国人は野蛮人からどんな教えを受けることにもほとんど恥を感じるのだろうが、他方、日本人は―政治的同盟者としてのわれわれの価値についての見解はどうあれ―われわれを模倣する努力を続けて、つねに公然とわれわれの優越性を認めている。そして頻繁に外国人を訪ね、率直に自分たちの無知を告白して情報を求める。」
ブラックは上海や香港に滞在した経験があり、この比較は実感に基づくものと言えるだろう。この後、長崎における蘭学や江戸や横浜における盛んな外国語学習などの状況にも言及している。
ブラックは『ヤング・ジャパン』の中でもたびたび日本人に対する高い評価を記している。ここでは「まえがき」から引いておく。
「日本と日本人に対する私個人の共感は非常に強く、本書で描こうとしている光景のなかで、あまりに頻繁に使わざるを得なかった陰気な色調は避けることができればよかったと思う。実際は、私がときとして[日本と日本人に対して]あまりに好意的すぎたと語る人がたくさんいることは承知している。しかし、そうではないのだ。正直に言って、非難するにせよ、賞賛するにせよ、もっともっと詳しく書くことは簡単だろう。かなりの余白が残っている。」
つまり、賞賛している場合もそれなりに筆は抑制しているのであって、日本と日本人を賞賛しようと思ったら、もっと書くことはある、というわけだ。
引用した『ジャパン・ヘラルド』社説における中国人に対する見解の当否はともかく、ブラックが日本人を本当に好ましく思っていたことはまちがいない。それゆえにこそ、日本語の新聞を出すことが彼の念願となったのである。
おわりに ジャーナリスト・ブラック
以上、限られた事例ではあるが、この時期日本が直面していた政治・外交的課題について、ブラックが『ジャパン・ヘラルド』の社説において、どのような主張を展開していたかを見てきた。激動の時期だっただけに、ジャーナリスト・ブラックの「ものの見方」をかなり鮮明にすることができたと考える。以下、その特質を整理してみたい。
第一に、今日ただいま日本で起きている問題を、大きな歴史的射程でとらえていることである。ブラックは、古い封建的システムが崩れて新しい統治の仕組みができるまでの産みの苦しみの時期に日本はいると考えていた。
そして、進歩と文明への流れを加速できる勢力として将軍(幕府)への肩入れを隠さなかった。外国人殺害など多くの問題が起き、条約の正しい履行も行われていない不満足な状況をたびたび指摘しつつ、こうした状況を正常化できるのは幕府だけであるとブラックは繰り返し主張した。
次に、現に起きている日本の混乱の依って来る所以が自らの母国であるイギリスを含めた西欧列強による力による「開国」にあったことを正しく認識している点が注目される。同時代にこうした自己省察的な見解を書き残した外国人が他にいるだろうか。私はここにはジャーナリスト・ブラックの公正さを強く感じる。
この点については『ヤング・ジャパン』にも記されている。ここで検討している『ジャパン・ヘラルド』社説をブラックが書いたのは1865年である。『ヤング・ジャパン』の執筆はそれから15年後の1880年。ブラックの考えは最後まで変わることがなかった。次に『ヤング・ジャパン』から1カ所だけ引いておく。
「[……]ペリー提督にしろ、ハリス氏にしろ、エルギン卿にしろ、外国の交渉者はすべて、条約を獲得するためには、この国の法律を無視し、友情と見せかけて、実際には威嚇で目的を達したことを忘れてはならない。」
下関戦争の賠償金については、ブラックは金銭上の決着では根本的な解決にはならないとして、尊厳を強調した。これは条約勅許に関して朝廷の正しい状況認識の欠如を指摘したこととつながっているだろう。現実を冷静に認識しつつ、ブラックは常に精神のあり方や理念的なものを重要と考えていたように思える。
ブラックがここで検討した社説を書いていた時期から1872年(明治5年)、念願の日本語の新聞『日新真事誌』を創刊するまで後7年の年月がある。花園兼定がブラックを「近代日本のジャーナリズムの父」と呼んだのは、何よりも『日新真事誌』を舞台にした彼の活動によるだろう。むろん、私もその点は否定しない。だが、1865年、ジャーナリスト・ブラックはすでに確かな存在として、その姿を見せていたこともまちがいない。
補論
ブラックと池田長発(ながおき)
ブラックの『ジャパン・ヘラルド』の社説を取り上げた本稿を閉じるに際し、ぜひともふれておきたいことがある。ジャーナリスト・ブラックの「ものの見方」に直接関係するわけではない。だが、後に「近代日本のジャーナリズムの父」と呼ばれることになるブラックにまことにふさわしいエピソードである。
ブラックは『ジャパン・ヘラルド』の社説に関連した話を『ヤング・ジャパン』に書いている(第31章の冒頭部分)。要約すると、次のような内容である。
『ジャパン・ヘラルド』編集人をしていたブラックはある日、若い日本人紳士の訪問を受ける。同僚とともに外国語学校の一つで外国人の指導を受け、軍事教練も受けているという人物だった。彼は、前年8月にフランスで使命を果たせなかった幕府の使節が江戸で幽閉され、いまだに監禁されていると語り、このことを『ジャパン・ヘラルド』に載せ、釈放を勧告してほしいという秘密の依頼をブラックにした。
ブラックは1865年6月24日の『ジャパン・ヘラルド』の社説で、この問題を取り上げた。その後、ブラックは再びその人物の訪問を受ける。彼は『ジャパン・ヘラルド』紙上での勧告は成功したと語り、ブラックに感謝して帰った。
ブラックは依頼してきた人物については名前を伏せている。この時期、「取材源の秘匿」といった倫理があったわけではないが、『ヤング・ジャパン』執筆時(1880年・明治13年)には相当な「大物」だった故に、名前を出すことをはばかったのだろう。ブラックは、この人物について、次のように書いている。
「一八六五年に私を訪問してきた紳士は、今では、外国人からも、日本人からも、高く評価されている、非常に勢力のある人物だ。彼は、日本人の間で、しっかりした進歩―単に変化のための変化ではない―の最も有能な、終始一貫した、熱心な支持者の一人である。彼は、日本と外国人との間の友好感情、愉快で有益な交際を進めるために、最も目立った役に立つ努力を行っている。」
いったい誰だろうか、という興味が湧いてくるが、残念ながら、これだけでは特定はできそうにない。一方、この「ナゾの人物」が「釈放」を求めた人物の方はまちがいなく、池田長発である。彼は必ずしも広く知られた人物ではないだろう。だが、私は、近代日本ジャーナリズム史に最初に登場しておかしくない、優れた「先人」であると考えている。
池田長発と「近代日本ジャーナリズムの父」と―2人が、こんなかたちで「交錯」していたことに私はささやかな歴史のドラマを感じる。
正使に「抜擢」された俊英
池田長発は、1837年8月23日(天保8年7月23日)、江戸で生まれた。備中国井原(現・岡山県井原市)に領地を持つ1200石の旗本・池田家を継ぐ。幼いころから俊才ぶりを発揮し、『岡山県人物伝』は、「昌平黌に入り才学文章常に同輩に超越す」14と記している。
幕府は1863年(文久3年)、すでに開港していた横浜の閉鎖(横浜鎖港)を欧米8カ国(イギリス、フランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル、スイス、アメリカ)と交渉するための使節団を派遣することになった。この使節団の正使に選ばれたのが池田だった。当時、26歳。外見上、相当の抜擢と見えないことはない。だが、事情はいくぶん複雑だ。
この年10月14日(文久3年9月2日)、現在の横浜市南区井土ヶ谷で、フランス陸軍士官3人が攘夷派の浪人3人に襲われ、1人が死亡する井土ヶ谷事件が起きた。事件は未解決のままに推移し、フランス側は幕府の対応を強く非難した。一方、外国人を「夷狄」と恐れる孝明天皇の「叡慮」もあって、国内には「攘夷」を求める声が強まっていた。
こうした状況の中で、幕府は使節団派遣を決めたのだった。フランスに対して井土ヶ谷事件の謝罪と解決への努力を表明するとともに、「攘夷」の声に応えるべく、条約締結国に横浜鎖港を求めるというものだった。だが、この時期、西欧諸国との交渉にそれなりの経験を重ねていた幕府は、横浜鎖港が実現するとは考えていなかったにちがいない。使節派遣は、つまりは攘夷派懐柔の「時間稼ぎ」だった。
幕府のねらいを察知する立場にあった有力幕臣たちは正使になることを避け、その結果、外国との交渉に経験のない、若い池田にお鉢が回ってきたというのが、おそらくは「抜擢」の真相だろう。
だが、いきさつはともかく、その後の過程をたどると、幼くして俊才をうたわれていた池田長発が高い知的能力を持っていたことはまちがいない。「先見の明」があったと言ってもいい。その「先見の明」が時代の流れの先を行き過ぎていたところに、彼のこの後の悲劇が生まれた。
過激な提案で処分
パリでの交渉経過や締結したパリ約定などの内容や文明の姿をその目にした池田らの衝撃については、稲田雅洋が簡潔にまとめている。
横浜鎖港交渉はまったく、相手にされなかった。逆に前年、長州藩がフランス船を砲撃したことに対する賠償金14万ドル支払いや関税などに関するパリ約定を締結する。池田は横浜鎖港がとうてい不可能であることを知り、他の国との交渉を断念して、1864年8月18日(元治元年7月17日)、横浜港に戻ってきてしまった。
一行はフランスに約2カ月滞在し、その間、シェルブールの軍港や海軍の設備、蒸気機関の工場、金銀のメッキ工場、造幣局、活版印刷工場などを見学した。稲田は「当時のフランスは、ナポレオン三世が絶頂を極めていた時期であり、イギリスと並んで最先端の技術を誇っていた。短い滞在ながらも、その西欧体験は、彼らに強い衝撃を与え、その文明観を大きく転換させることになった」と的確に指摘している。
帰国した池田らはただちに帰国の報告書と上申書を提出した。その内容は、ヨーロッパ各国への弁理公使駐在、留学生の派遣、西欧諸国の新聞の定期購読などを求めたものだった。進んだ西欧に学び、世界の状況を知る重要性を指摘したのである。
幕府首脳は大いに戸惑っただろう。上申書の求める方向は理解したとしても、提案はつまりは過激すぎた。パリ約定は破棄され、池田ら3人(正使の池田のほか、副使と監察)は「狂人」とされ、それぞれ処分を受けた。池田は免職の上、領地を半減され、隠居・蟄居を命じられた。
社説で処分破棄を求める
『ヤング・ジャパン』に自ら執筆の経緯を記した6月24日の社説を読んでみよう。
ブラックは『ヤング・ジャパン』やこの社説で、池田が逮捕され、いまだ獄中にあると書いている。事実は「隠居・蟄居」だから、相当にニュアンスが違う。これはブラックに秘密の依頼をした人物が外国人に理解してもらうために分かりやすく説明した結果かもしれない。もっとも、ブラックが社説で問題にしているのは、池田が処分を受けたままであるという状況なのだから、この点は社説の論旨には関係しない。
社説はことの経過を説明した後、横浜鎖港が交渉不調に終わったにもかかわらず、池田が派遣された使命の目的を完遂するべく最大の努力をしたことを評価する。これはむろん幕府が破棄するに至ったパリ約定調印を指している。
池田は交渉失敗の結果、処罰が待っていることは承知していた。しかし、できる限りのことをした上で帰国し、現実のヨーロッパの状況を幕府に知ってもらうことを選んだのである。そして、逮捕、投獄され arrested and imprisoned、10カ月が過ぎてしまい、人々は彼らのことを忘れてしまっているではないか。このような認識を示した後、社説は「それゆえにわれわれは将軍とその政府に、この要求 appeal を行う」と、社説が幕府に向けたものであることを明確にする。
「要求」の内容は、要するに処分の撤回なのだが、社説はそれを次のように説く。
「あまりに厳しく、あまりに恣意的なものであって、その結果、使節たちが苦しむことになった判決の破棄は、使節たちが促進しようと願った進歩の政策の一部をかたちづくることになろう。」
幕府は池田らが努力して調印したパリ約定を破棄した。だが、その条項のかなりの部分はいまや実行されつつあるではないか、と社説はさらに迫る。パリ約定の規定を列挙して主張の裏付けもしている。ダメ押しは「ヨーロッパであれば」という前置きで述べられる。「国家のために忠誠を尽くして働いた臣下を罰するような君主は暴君の烙印を押され、笑いものにされるだろう。その一方、処罰を受けた者は殉教者とされるだろう」。なかなかに手厳しい。
最後は、次の通り。幕府に向けて書かれた社説にしてはいくぶん妙な終わり方である。
「使節たちはもう十分な期間、長く苦しみを受けた。条約列強の代表団が使節団の釈放を実現するように影響力を発揮するならば、それは思いやり深い優しさを持った上品な行いだろう。」
条約締結国の代表団に、池田らの処分破棄を幕府に働きかけるように求めている。しかも「大上段」からではなく、もうそれなりに処罰の効果はあったのだから、といったニュアンスをただよわせている。池田らを釈放(「赦免」が正しいだろうが)しやすいよう、幕府に誘いかけている感じもする。
「新聞」の役割に着目
その後の池田長発については後にふれるとして、ブラックが『ジャパン・へラルド』の社説において、彼のことを取り上げたことについて、「ささやかな歴史のドラマ」と記した意味について述べなければならない。
池田らは上申書の項目をさらに敷衍した文書を幕府に提出した。その1つが「新聞紙社中へ御加入之儀申上候書付」17である。次は、その冒頭の部分(適宜、ルビと句読点を補った)。
「西洋各国於て新聞紙と相唱候ものは、各国会同征伐をはしめ閭巷瑣末之事に至る迄見聞之及候処悉戴具書仕或は毎日或は毎周刊刷致し播伝仕候儀にて、固より訛伝等も有之候得共、采覧仕候ものは座から四方之事情相弁へ、殊に在上之もの抔下情に通し候為には必要之品にて、耳目を開き智識を博め候一助と仕候事は申迄も無之、就中パブリツクオヒニオン(公論之儀)と相唱へ候は右新聞紙之一種にて、各国政府或は匹夫にても存寄有之候ものは新聞紙取扱候社長へ相託し、名前を載せ候とも又は匿名致し候とも都合次第、其議論を所載致し、宇内衆人之観覧に供候て其公同之議論を相試候ものにて、互に問答往復弁論いたし候事等も有之」
大意は、次の通りである。
西洋各国には、日刊ないしは週刊の新聞紙(現在の「新聞」の意味)というものがあって、国際会議や戦争から民間の些細なことに至るまで掲載されている。上に立つものが民間の事情を知るには必要であり、もちろん知識を広めることに役立つ。とりわけパブリック・オピニオン(公論)という言葉が使われていて、誰でもその意見を新聞に掲載して、広く世間に受け入れられるかどうかを試すことができる。論争が起きることもある。
もう1カ所引く。
「一体西洋各国之風儀は御国抔とは違ひ、君民同権之政治に御座候て、上下議院之論一致不仕候儀は政府にても制服為致候権は無之候間、政府へ引合候外又国民之心を取り候事大切に御座候間、右往復弁論之内には彼是之事情相通し自然至公至平之議論を得候て、強弱小大之勢を以て鉗制仕候様之儀先は無之都合に相成居候。既に彼方之諺にも筆戦と唱候て一張之紙数行之墨にても時に寄候ては百万之兵卒にも勝り候威力御座候抔申唱へ候位之儀に御座候」
政治を有効に行うには上下両院の議論が一致しないとだめで、そのために「国民の心」をつかむことが大事だというわけだ。後半の傍点部分は、つまりは「ペンは剣より強し」ということである。
この文書は「パブリック・オピニオン」という言葉が日本語で記された嚆矢ではないかと思われる。池田は新聞の必要性を理解し、しかもそれがパブリック・オピニオンの形成に大きな役割を果たすと正しく認識したのである。その意味では、日本において初めて「ジャーナリズムの思想」を語った人物と言えよう。
その池田をブラックはまさに「筆戦」によって擁護したのである。
効果があった?ブラックの「社説」
先にふれたように、この社説によって池田は赦免され、秘密の依頼をしてきた人物から感謝されたと、ブラックは『ヤング・ジャパン』に記している。ブラック自身は「当時、[『ジャパン・ヘラルド』の]日本人購読者はたった約6人しかいなかった」 と述べており、社説が何か影響力を発揮するとは思っていなかったようだ。
池田は蟄居を解かれ、1867年4月(慶応2年3月)に軍艦奉行に復帰している 。ブラックの社説が『ジャパン・ヘラルド』に掲載されたのは、1865年6月24日(慶応元年閏5月2日)だから、秘密の依頼をした人物がブラックに感謝の意を伝えに来たのは確かとしても、時期的には直接の「因果関係」を見るのは少し無理な気がする。
軍艦奉行に復帰した池田は、しかし、まもなく病を得て、岡山に移る。領地の井原に青少年のための学校を建てる構想を持っていたとも言われるが、結局岡山に留まったまま、1879年(明治12年)9月12日、43歳の若さで亡くなった。 
『快楽亭ブラック 忘れられたニッポン最高の外人タレント』 イアン・マッカーサー著
イアン・マッカーサー / 1950年オーストラリア生まれ。クイーンズランド州立大学と慶応大学で、日本語と日本文学を学ぶ。「ザ・デイリーヨミウリ」に記者として勤務の後、特派員として「メルボルン・サン新聞」などを含む九つのオーストラリアの新聞に寄稿。オーストラリア放送協会(ABC)で日本を紹介するラジオ教育番組の脚本家もつとめる。1990年から、共同通信社国際局海外部の記者。著書に『英語で挑戦!不思議日本語』『英語なんてa piece of cake』がある。日本に留学経験のある、オーストラリア人ジャーナリストが、著者イアン・マッカーサーである。あのマッカーサーとは、何ら縁戚関係はなさそうだ。
プロローグ
横浜山手外人墓地の裏手からの上り坂は、正門にたどり着くまでの距離が実際よりもはるかに遠くに感じられるほど、急である。
まだ坂にかかるまえから、わたしはもう汗ばんでいた。東京からの電車で石川町駅に着いてから、ほとんど走りづめだったし、むしむしする残暑もきつかった。
この1985年9月19日という日は、いっぷう変わった話に個人的な興味を抱いたオーストラリア人ジャーナリストにとって、重要な日だった。
じぶんの道楽といったほうがいいのかもしれない。いま、坂の上で起ころうとしていることは、東京駐在の外国人特派員の書くべき、おかたいニュースのたぐいではなかった。石炭の価格交渉でもなければ、首相や閣僚の訪日でもない。そもそも今日のイヴェントを記事にしたところで、オーストラリアのデスクが認めてくれるかどうかさえ、わからなかった。
だが、いまは、時間どおりに坂の上までたどり着くことが先決だ。
(中略)
でも、大丈夫だった。坂をのぼりきったところで、遅れてきたのはわたし一人ではないことがわかり、ほっとした。墓に菊花を供える行列は、まだつづいていた。
わたしは意識して黄色い大輪の花を選ぶと、最終目的地の墓前へとすすんだ。
特別な集まりだった。オーストラリア大使のニール・カリー卿が、テレビでおなじみの人気落語家、三遊亭円楽と冗談を交わしている。大使館のアリソン・ブロイノフスキー文化アタッシェも出席しているほか、もちろん、今日の式典の立役者である、上智大学の森岡ハインツと津田塾大学の佐々木みよ子両氏の、二人の学者の姿もあった。また、この催しはマスコミの関心も引いていた。NHKのカメラに、ラジオ日本の記者、地元新聞の記者たち、雑誌『フォーカス』のカメラマンがそろっていた。
参列者たちは、おたがいに初対面のひとが多かったが、ある人物を共通項として集まっていた。
ヘンリー・ジェームズ・ブラックである。
真新しい墓碑の側面にはめこまれた九万円の銅札には、こう書かれている。
『快楽亭ブラック(1858-1923)J・R・ブラックの長男で、オーストラリア生まれの落語家。両親に連れられて来日。初舞台は1879年松林伯円の下、横浜清竹亭であった。三遊派に参加し、1891年快楽亭ブラックと称し、日本に帰化。各地の寄席で新作人情噺や落とし話を口演した。三遊亭円朝と競って西洋人情噺の翻案物を刊行した。1903年、落語や浪曲をレコードに吹き込み、これが日本最初のレコードとなる。 1985年9月19日』
だが、ヘンリー・ブラックほどの波瀾万丈の生涯を、ちっぽけな銘板一枚に凝縮してしまうことができるだろうか。

1985年9月19日、35歳のオーストラリアの新聞の日本特派員イアン・マッカーサーは、横浜の山手、港が見える公園にある外人墓地にある、ヘンリー・ブラックの墓石の前にいた。
この追悼の会の由来について調べてみた。
快楽忌
イギリス領オーストラリア生まれの、日本最初の青い目の芸人、初代快楽亭ブラック(Henry James Black)。明治の横浜を皮切りに日本の寄席で活躍し、大正12年、64年の生涯を閉じ、横浜外国人墓地に眠っています。
快楽忌は1985年から開催されていましたが、2007年に休止。その後、没後90年にあわせて2013年に復活、これを機に、再び毎年開催されるようになりました。
今回も多くの方々がご参加くださいました。ありがとうございました。

イアンがプロローグで書いていたのは、第一回の「快楽忌」だったわけである。「快楽」と「忌」という言葉の組合わせが、なんとも不思議な印象を与える。
なお、第一回「快楽忌」の場に居合わせた、イアンいわく、式典の立役者、研究者の森岡ハインツと佐々木みよ子の両氏は、この式典の翌1986年に、共著でブラックの本をPHP研究所から上梓しているようだ。また、探すべき本が、増えた・・・・・・。
さて、その快楽亭ブラックをたどるイアンの旅が、始まる。
第一章は、イアンがオーストラリアのアデレードに、友人のダグを伴い、ブラック一家の足跡を探す旅から始まっている。しかし、その旅で発見した成果は、決して多いとはいえない。
この本全体に言えることなのだが、イアンは、自分の体験や自分の祖先のことも元に、ブラックの欠落した歴史のピースを埋めようとする。
第一章の、「祖父母」から引用する。これはイアンの祖父母のこと。
祖父母
わたしの祖父母は、第一次大戦の直後、ロンドンから出港した。祖父は第一次大戦で負傷していた。傷が痛むので、医者はもっと温暖な土地へ移るよう勧めていた。祖父自身もゴルフ・インストラクターになりたがっていたのだが、当時のスコットランドでは、ゴルフ関係は世襲的で、祖父には、いい縁故がなかった。そこで祖父は残された、ただひとつの道を選んだ。オーストラリアにいき、一年とたたないうちに、ゴルフ・インストラクターとして独立したのだ。
ジョン・ブラックがどういう状況でオーストラリアにいこうとしたかは、想像の域をでない。彼はスコットランド、ファイフ洲ダイサートの生まれである。クライスツ・チャーチ、またの名を、制服が丈の長い青いコートに革のベルトだったことから「ブルーコート・スクール」とも言われた学校で教育を受けた。のちにジャーナリストとして身を立てることになるが、人生の第一歩は、イギリス海軍だった。
彼とエリザベスが、最初にオーストラリアのことを耳にしたのは、教会だったかもしれない。十九世紀の中頃、アデレードは移住先として大いに宣伝されていた。オーストラリアの東海岸の植民地が、囚人や、密造酒の密売をくわだてる腐敗したエリート軍人の問題に直面していたため、もうひとつの移住先として注目されたのだ。
ちなみにその後、1896年になって、ヘンリーは読売新聞のインタビューに応じ、後半生によく話に尾ひれをつけていた習いで、じぶんの郷は英国の倫敦で、先祖はスコットランドのエディンバラから遠くない、ファイフ洲ダンファームリンの出だ、と語っている。

このブラックの出身地をめぐる“尾ひれ”をつけた話は、興津さんの『落語家-懐かしき人たち』を元に書いたブラックの記事の前篇で紹介した、彼の談話を元にした自伝(「快楽亭ブラック自伝」、明治三十三年十月、文禄堂刊『当世名家・蓄音機』所収)とも共通する。
この後、イアンは、ジョン・レディと父、エリザベスを母とするブラック一家の、歴史的な大きな転換点について語っている。
帰国
1862年のいつか、ブラック夫妻がオーストラリアにきてから八年がたち、息子のヘンリーが南半球の夏のある日にトレンス川のほとりでピクニックをしていたと思われるころ、ジョン・レディはオーストラリアを離れ、イギリスにもどる決意をしたようだ。そこにいたるまでの状況は明らかではない。わかっているのは、1863年に彼が横浜に着いたことだけである。横浜到着までには、数ヶ月を要し、インドから上海か香港、そして長崎を経由したことだろう。
たぶん、イギリスにもどれば、オーストラリアの植民地での知識をいかした仕事にありつけるはずだと計算していただろう。海運会社なんかに口があるかもしれない。少なくとも今の彼には、商売として、イギリスから金鉱掘り向けにどんな品物を送ってやればいいかという目星がついていた。のちの風聞では、どうやら彼はオーストラリアの金鉱地帯の大キャンプファイアやホールで、金鉱掘りをまえにスコットランド民謡を歌って生計を立てたり、収入の足しにしていたらしい。そのホールのなかには、ゴールドラッシュでうるおった金で造られた、非常にりっぱな建物もあった。歌手としての彼の評判はよかったが、独立した実業家としては見るべき成果はあげていない。
 わたしはダグとアデレードへもどる道をたどりながら、エリザベスが同じ道を馬車で揺られていく光景を思い浮かべた。エリザベスは思いきって手袋を投げ捨ててやりたい気持ちだったかもしれない。でも、アンナが向かいあって座っているので、使用人の手前、手本を示さないわけにはいかなかった。イギリスに帰ることになりそうだが、そこはオペラやコンサートの優雅なひとときに、ご婦人方が手袋のしわをなでつけるお国がらである。いっぽう、植民地では規範というものが欠如していた。かるはずみに羽目をはずし、裸足になってトレンス川の冷たい水に足を浸したことがあるとわかれば、ロンドンの友人たちは何と言うだろうか。

イアンの推測ではあるが、ジョン・レディ・ブラックがイギリスへ戻ろうとした決意とは裏腹に、ジョンは日本の横浜で長居をすることになり、日本で人生を全うするのだった。

やはり父であるジョン・レディ・ブラックについても、ある程度書いておかないとならないと思ったからである。
当たり前だが、初代快楽亭ブラックの誕生は、彼が日本に来ないことにはありえなかったことだ。
父、ジョン・レディ・ブラックが、まず日本に来て、妻エリザベスとヘンリーを後から日本に呼んだと推察できるのだが、その詳細については情報が少ない。
著者イアンは次のように書いている。
日本へ
ジョン・ブラックは日本に永住するつもりなど、まったくなかったらしい。彼に関する死亡記事や、横浜で彼を知る同時代の人びとの思い出によると、彼はオーストラリアでの事業に挫折したあと、イギリスに帰国するつもりだった。ということは、イギリスへ帰る途上で日本に立ち寄り、感銘をうけたあまり、ふと永住の決意をしたのである。ジョンが日本に着き、エリザベスとヘンリーが来日するまでの間、二人はどうしていたのか、その記録はまったく見つからなかった。いくつかの可能性が考えられる。草創期の新聞は、船で到着、出発する人びとの名簿を掲載するのが習わしだった。わたしが見たアデレードの新聞には、ブラック一家の出発を記録したものはなかった。オーストラリアの別の町から出港したのだろうか?もしそうなら、ほかに出港地として考えられるのはメルボルンである。そこは、ジョンも滞在したことがあると書いているゴールドラッシュの町ベンディゴもふくむヴィクトリア州の州都だ。
ジョンが日本にいくことが事前にわかっていたら、エリザベスはヘンリーとオーストラリアに残ったかもしれない。しかし、あらゆる点から、ジョンはオーストラリアを去るにおよんで、一路イギリスにもどるつもりだったことが明らかであるから、一家そろって出発したという仮定も成りたつ。その旅の途中で、ジョンが寄り道をして、イギリスに帰るエリザベスとヘンリーを残して、ひとりで日本に旅行したのかもしれない。だが、ジョンが単身オーストラリアをたち、エリザベスとヘンリーには、イギリスから送金できるようになるまで、暮らしていけるだけのものを残していったという可能性も捨てきれない。
いずれにせよ、ジョンからの、いま横浜にいて、職も見つけ、二人にできるだけ早くきてほしいという手紙を受け取ったとき、二人は仰天したことだろう。

オーストラリア人のイアンは、ブラック家が住んでいたアデレード周辺を友人と一緒に調査したが、なかなか、ブラック家の足跡を見出すことはできなかった。
だから、新聞などの記録を元に、欠けたピースをつなぐためには、イアンの想像力を逞しくする必要があったことが、本書ではいたるところで確認できる。
ともかく、ジョン・レディ・ブラックは、横浜で新聞発行の仕事を見つけることができた。

アルバート・ハンサードという、競売や代理業務をとりしきり、しかも在日イギリス人ジャーナリストの草分けだった人物が、ジョン・ブラックを『ジャパン・ヘラルド』という、毎土曜日の夕方、横浜で発行されていた週刊新聞の主筆として招いたのだ。ハンサードは、この新聞を1861(文久一)年11月二十三日に創刊している。
この申し出に、ジョン・ブラックはずいぶん魅力を感じたにちがいない。確たる当てもないまま。イギリスにもどりそうになっていたからだ。とにかくやるだけはやってみようと思って、仕事を引き受けたのだろう。彼の見込みでは、横浜は急速に発展しつつある町で、良質の新聞が必要とされるはずだった。ジョン・ブラックは呼びかけに応じた。そこそこの時間がたって、新しい仕事が安定した将来を保証してくれるものと判断したところで、彼はエリザベスに手紙を書き、息子のヘンリーを連れて、横浜にくるよう手配した。

この、アルバート・ハンサードを検索すると、彼は「ジャパン・ヘラルド」創刊の前に長崎で、1861年6月22日(文久元年5月15日)から10月1日(8月27日)までという短期間ながら、「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」という船の来航情報などを中心とする英字新聞を発行しており、これが日本で初の英字新聞とのこと。幕末から明治にかけてのジャーナリズム史におけるハンサードの足跡なども、調べてみれば一つの冒険譚になりそうだ。
Wikipedia「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」
ハンサードも日本の新聞の歴史に名を残す人物で、ジョンに多大な影響を与えたようだが、ジョン自身も横浜で、「日本初」の外国人による邦字新聞発行を成し遂げることになる。

ヘンリーが十三歳のとき、ジョン・レディ・ブラックは新たな事業に取りくもうとしていた。『日新真事誌』という日本語新聞の発行である。1872(明治5)年4月のことだった。彼の意図は日本人記者に、本場西洋の新聞がどんあ形式と内容のものであるかを示すことだった。ブラックは、日本人読者と他の日本語新聞の発行者とを同時に教育するのが自分の務めだと感じていたようだ。
著書の『ヤング・ジャパン』で、『横浜毎日新聞』と『東京日日新聞』という、産声をあげたばかりの日本語新聞二紙についてこう述べている。
「両方とも論説を書こうとせず、その日の事件についても、真面目に解説するものではない。その紙面はいつも猥褻な小記事で塗りつぶされていて、外国人の目には、情けないと言うよりも害毒を及ぼすように見えた。それでも日本人は楽しんでいるようだった。大部分の日本人は、新聞のなんたるかも、その効用も知らなかったからだ」
1872年、『日新真事誌』発刊直後、ジョン・ブラックは東京に移った。
(中略)
ジョン・ブラックは新聞を利用して論陣を張った。ほとんど今の新聞のやり方に近い。たとえば警察の行為をよしと判断すると、警察を称賛するような記事を書く。ただし後日お礼にやってきた警察関係者に、将来は痛烈に批判することがあるかもしれないとわざわざ説明している。また、彼がヴィクトリア朝における文明化のしるしと考えていたある種の自由や規範が、度を越して濫用されると、大いに批判することもあった。

少し前に発行された日本の新聞を読んで、ジョンはずいぶん不満を感じたに違いない。
しかし、“紙面はいつも猥褻な小記事で塗りつぶされていて、外国人の目には、情けないと言うよりも害毒を及ぼす”新聞、今の世にもたくさんある。
本書を読みながら、私の好奇心は、初代快楽亭ブラックとともに、その父、ジュン・レディ・ブラックにも向けられていた。
 
ウィリアム・ホィーラー 

 

William Wheeler (1851〜1932)
札幌農学校の第2代教頭。土木工学を専門とし多くの優秀な門下生を育てた。札幌の時計台の基本設計を行った人物として知られている。   
2
アメリカの土木技術者であり、教育者である。
ホイーラーはマサチューセッツ農科大学を1871年に卒業した。彼の以前の教授だったウィリアム・スミス・クラークが札幌農学校(現在の北海道大学)の設立のために日本政府に招かれたとき、同じくマサチューセッツ農科大学の卒業生のデビッド・P・ペンハローとともに、数学、土木工学、英語を教えるために来日した。開拓使に科学的な助言をするため、小さな気象観測所を設け、考えられる交通ルートについて調べ、運河の建設を監督した。
クラークがアメリカに戻った後、ホイーラーは1877年から1879年まで札幌農学校の教頭を務めた。彼は少しの間アメリカに戻り、1878年7月17日にファニー・エレナー・ハバード(Fannie Eleanor Hubbard)と結婚した。彼らはホイーラーの任期の最後の年を札幌で過ごし、1879年12月にアメリカに戻った。
アメリカではホイーラーは治水技術者として働き、ビジネスの世界で活躍したほか、1887年から1929年までマサチューセッツ農科大学の理事も務めた。 
文明の衝突
内外の先人二人の知られざる話を通じて、西欧の科学文明と対蹠的に捉えられる東洋の漢字文明の考えさせられる話を紹介してみましょう。

江戸時代後期の画家に司馬江漢(1747−1818)という人がいました。日本史の教科書には日本最初の銅版画家と記すだけなのでその人物像は何も見えないですが、この人、相当の変わり者でした。61歳の時に70歳と年齢を9つも余計に加えて、以後それで通したり、自分で自分の死亡通知を出して世間の反応を見たりしています。
江漢は画家だけでなく、若い頃から西洋文明にあこがれ蘭学の世界にも足を踏み入れています。そんなことから、コペルニクスの地動説を各地で紹介するという、鎖国日本での科学の先駆者でもありました。
江漢と同じ時代を生きた人に、大槻玄沢(1757−1827)という蘭学の第一人者がいました。前野良沢、杉田玄白を日本における蘭学勃興の一世代とすれば玄沢は二世代の蘭学者でありました。名前からして、玄白から玄、良沢から沢の1字をもらっているほどです。
この大槻玄沢と司馬江漢は蘭学を通じた交流が多く、お互い出版物に序文を贈ったり、挿絵を挿入したりするほど仲が良かったのです。ところが、これは付き合いだして最初の頃だけでした。後には仲違いすることになります。人間世界の難しいところです。
当時の蘭学界のボス的存在となっていた玄沢の一門からタバコに関する随筆本が出版されたことがあります。ところが、これは全文漢文で書かれた難しい本でした。江漢はこれに噛み付きました。「日本の学者は漢文ばかり勉強して、中国の本をたくさん読んでは物知りを競う。西洋では表音文字という簡単な文字のおかげで科学が発達している」と痛烈に漢字文明を批判したのです。この批判をきっかけに二人は仲が悪くなりました。

時代はずっと下がって、明治初期の北海道。有名なクラークの後をついで、札幌農学校、第2代目の教頭を務めたのがウィリアム・ホィーラー(Wheeler;米1851−1932)という人でした。有名な札幌時計台の設計者でもあったといいます。
札幌農学校といえば、後世の人がよく知る新渡戸稲造、内村鑑三といった有名人は第2期の卒業生であり、彼らは任期期間が8ヶ月と短かったクラークとはすれ違っています。彼らが直接、薫陶を受けたのはホィーラーの方です。
ホィーラーは専門が土木工学で、明治初期のいわゆるお雇い外国人の一人でありました。農学校の教頭を兼務しながら4年間ほど北海道の開拓活動に貢献した後、帰国の途につきました。帰国後、出身母校の要請で日本の教育について寄稿しています。それが以下のような内容のものでした。
「日本は何世紀もの間、自然、社会における法則、規則に関心を示さずにきた。中国の活力のない古い知識を大切にして尊敬しすぎたことも大きな飛躍が出来なかった理由である。膨大な量の文字を習得することが唯一の知識人たりえる手段……」
事程左様に、日本の科学の遅れは漢字文明に浸り、極端な文字教育にあったという論が昔からあります。本エッセイ第12話の中で少し紹介しました有名人の漢字廃止論者もいた歴史もあります。西欧の進んだ科学文明を前にすると中国を中心とした漢字文明は分が悪い。
“文明の衝突”という言葉が使われて久しいですが、日本では漢字文明と科学文明という相容れない2つの文明の古くて長い軋轢が今後も続いていくのでしょうか。  
広井勇 (ひろいいさみ)
近代土木の先駆者 高潔無私の人格 札幌農学校で洗礼
苦学生であった広井勇は、自費でアメリカに留学。留学といっても、大学にこもって勉強したわけではない。滞在費用を捻出するため、土木の現場で働かざるを得なかった。そうした実体験の中で技術を身につけた。その上、当時必携といわれた本まで出版してしまったのである。
近代土木の先駆者
広井勇は土木技術者であり、近代日本の揺籃期に土木界を牽引した先駆者である。小樽港をはじめ、港湾、橋梁、ダムなど、彼の事業は全国各地に残され、今なおその輝きは失せていない。しかし、彼の最大業績はこれら建造物を世に残したこと以上に、札幌農学校および東京帝国大学の教授として、優れた門弟たちを世に送り出したことである。
広井勇は、幕末の1862年9月2日、土佐藩(現在の高知県)の佐川村内原(現在の佐川町上郷)に生まれた。父の熊之助は土佐藩の筆頭家老深尾家に仕える藩士で主に土佐藩の会計を担当する任に付いていた。母は寅子。勇はこの二人の長男で、幼名は数馬と言った。広井家は代々、藩を代表する儒学者の家系で、数馬はものごころついた頃から、祖父や父について漢書の素読や習字を学び、また武士の子として武芸で鍛えられた。
徳川幕府の崩壊、それは武士の時代の終わりを意味した。彼らは禄(給与)を止められ、一気に没落。広井家では、それに追い打ちをかけるかのように、明治3(1870)年、父が37歳の若さで他界。家には、祖母と母、二人の子供が取り残された。長男であった数馬は9歳の若さで広井家の主人(跡取り)となったのである。彼らは高知に移り、知人宅の離れを借り、そこで赤貧の生活が始まった。名を勇に変えたのはこの頃のことである。
東京へ
広井勇の人生に大きな転機が訪れた。東京で明治天皇の侍従を務める叔父の片岡利和が、帰省の折、広井家に立ち寄ったときのことである。勇は叔父に懇願した。「東京に出て勉強したい。自分を書生に使ってほしい」と。片岡はためらった。まだ10歳の少年である。しかし、少年の意志は強固で、その熱意が家族と片岡を動かした。
1872年、勇は叔父に連れられて、土佐の浦戸で東京行きの船に乗った。岸壁には母と姉が手を振っている。少年は目に涙をためながら、姉が別れ際に語った言葉を思い出していた。「お前もサムライの子です。『学、もし成らずんば、死すとも帰らず』の気概を持ちなさい」。
勇は片岡家の邸宅で玄関番を命じられた。日中は、英語、数学、漢学などを学ぶため私塾に通い、暇を見つけては片岡家の書斎の本を借り受け、貪るように勉強した。その後、東京外国語学校の英語科に入学。当時、最難関の学校に満12歳で入学を果たした。もちろん最年少である。その後、理工科系では名門中の名門であった工部大学校予科へ転学したものの、そこを中退。北の未開の大地北海道に向かうのである。片岡家に頼る生活を断ち切りたかったからであった。
札幌農学校
広井勇が札幌農学校2期生として北海道に渡ったのは、1877年9月。15歳の誕生日を迎えたばかりであった。前年に教頭として赴任していたウイリアム・クラークの感化により、1期生はほとんどクリスチャンになっていた。同校は官立ではあったが、さながらミッションスクールのようであり、クラークが帰国した後ではあったが、キリスト教信仰の熱気に溢れていた。そこに飛び込んできたのが広井ら2期生。その中には、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾など錚々たる俊英がいた。そこでも広井は最年少であった。
クラークの教育方針は、キリスト教を基本とする人格教育で、この伝統は、その後2代目教頭となるウイリアム・ホィーラーによっても引き継がれていた。ホィーラーは26歳の若さであったが、土木工学、測量、数学、図学などを学生に教え、2期生に与えたその影響力は計り知れない。このホィーラーや1期生の感化により、広井ら2期生の大半は翌年の6月に、キリスト教の洗礼を受けることになる。
彼らは毎週聖書研究会を開催。礼拝も学生が持ち回りで担当するような素朴なものであったが、彼らには確かな内的覚醒が芽生えていった。特に広井の信仰は、後に日本を代表するキリスト者となる内村鑑三をして次のように言わしめた。「一時は、私が今日おるべき地位(伝道師)に君が立つのではあるまいかと思われたくらいであった」。
しかし、広井は伝道師になる道を選ばなかった。聖書を教える代わりに土木工学を通して、貧乏国の日本を富ますこと、つまり「世俗の事業に従事しながら、いかに天国のために働こうか」を考えていた。これこそがクリスチャンである自分に与えられた天命と感じていたのである。
自費留学
広井ら2期生10人が卒業したのは、1881年7月。北海道に残り開拓使に勤めたが、翌年には開拓使が廃止。広井は工部省に転じ、東京生活を余儀なくされた。この頃、広井の心を占めていたのは、「是非ともアメリカに渡って、土木工学を極めたい」という熱い思いであった。彼は渡航経費捻出のため、生活費を切りつめ貯蓄に努めた。服装は粗末のまま。意味もなく金銭を浪費する会合などには一切顔を出さなかった。同僚たちは彼を「守銭奴」と陰で呼んでいたほどである。
そうまでして金を集めたのは、自費での渡米にこだわっていたからだ。先輩を差し置いて、年少の自分が国費で渡米することを潔しとしなかったのである。ついに念願が叶い、1883年12月、21歳の広井を乗せた蒸気船が横浜を出港した。アメリカ4年、ドイツ2年の長きに及んだ彼の海外生活がこうして第一歩を踏み出したのである。
滞在先は西部開拓の拠点セントルイス。ここに下宿し、ミシシッピー川の河川改修事業(堤防構築、川底浚渫)に携わった。その後、設計事務所に雇われ、設計と施工を手がけた。さらには、鉄道会社や橋梁会社の技師となることで、鉄道の橋梁の設計、施工に従事することになる。広井の場合、留学といっても、大学にこもって勉学したわけではなく、土木の実際の現場を体験した。滞在費用を自分の手で稼がなければならなかったからではあるが、結果的には、それが土木技術者として彼の大きな財産となった。
仕事に励む傍ら、彼は勉学を怠ることはなかった。同僚は彼の部屋の明かりが消えているのを見たことがなく、「日本の青年はこうも勉強するものか」と感心していたと言う。仕事と勉強、そして読書三昧の日々。こうした現場体験の中、彼は英文の論文を書き上げ、それを本として出版した。『プレート・ガーダー(鈑桁橋)建設法』と題したこの本は、大変高い評価を受け、橋梁工学者の間では必携のハンドブックとされた。主要大学の理工科系大学図書館には、今でも蔵書されているという。25歳の快挙である。
小樽築港
約6年間の留学生活を終えて、帰国したのは1889年7月のこと。帰国後、母校の札幌農学校教授として迎えられ、札幌に居を構えた。その後の広井の活躍は目覚ましい。札幌農学校で教育するかたわら、北海道庁の技師を兼任し、北海道の港湾建設の大半に携わり、それを指揮した。その中でも小樽港は広井が指揮した代表例である。小樽築港事務所長として、10年に及ぶ一大公共事業に臨んだ広井はそこに持てる全てを投入した。工事は困難を極めた。暴風雨により、積み上げたコンクリートブロックが何度も散乱。その上、日露戦争のあおりで予算が大幅に削減された。
不利な条件下で完成したこの工事は、今なお「模範工事」と称賛されている。築港から百年以上たった今でも機能しているその優れた技術力の故であり、広井の指導力と周密な計画により、予算を余しての完成となったからである。
広井は常に第一線に立ち、現場で指揮を取った。ある年の12月25日、突然の嵐が防波堤を襲った。資材が次々と流される。多額の国家予算を投じて作られた巨大クレーンも大波にさらされていた。これが流されてしまえば、このプロジェクトは水泡に帰す。
広井は大自然の猛威を前に立ち尽くすばかりであった。人事を尽くして天命を待つの心境で、荒波を前に夜を徹して祈った。翌朝、駆けつけた作業員たちは驚いた。かちかちに凍てついたカッパを着て、祈る広井がそこにいたのである。幸いにも、クレーンは少し傾いただけ。防波堤も怒濤に耐え抜いた。この時、広井は胸に密かにピストルを忍ばせていたという。万が一の場合、責任を取って防波堤と共に死する決意であった。
人材育成
1899年9月、広井は東京帝大工科大学(現在の東大工学部)から教授として招聘された。学生には常に「工学者たるものは、自分の真の実力をもって、文明の基礎付けに努力しておればいい」と言って、学閥におもねる立身出世主義をたしなめた。授業は常に真剣勝負。一人でも遅刻者があると、広井は怒りで顔を真っ赤にして、その日の講義はほとんど聞き取れないものになったという。広井から直接指導を受けた教え子から、運河技師の青山士、台湾のダム建設に当たった八田與一など実に多くの傑出した人材が育っていった。まさに東京帝大土木工学科の一大黄金時代を築いたのである。
仙台市の広瀬橋、北海道の渡島水力電気工事、鬼怒川水力ダムなど、広井が顧問として関わった工事は数多い。どれも広井の助言で新技術を導入して完成させたものである。しかし、彼は一切の報賞金を受け取らなかった。金品を渡そうとすると、「費用に余裕があるならば、その資金で工事を一層完璧なものにしていただきたい」と言って拒絶することが常だった。
贈収賄が当たり前の土木建設業界にあって、彼は常に身辺を清く保った。贈答品や金品には一切手を触れようとはしなかったし、宴会嫌いでも有名だった。また大学で発明した機器類は決して自分の特許とせず、自分の利益とすることはなかった。還暦(60歳)の祝い金として寄せられた祝金も、みな母校の北大工学部と土木学会に寄付してしまった。
1928年10月1日、高潔無私を貫いた広井勇は、66年の生涯に幕を下ろした。亡き友の葬儀で内村鑑三は、葬儀の追悼演説で語った。「君の堅実な信仰は、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。しかし、広井君の事業よりも広井君自身が偉かったのであります。君自身は君の工学以上でありました」。
 
ロバート・ルイス・バルフォア・スティーブンソン 

 

Robert Louis Balfour Stevenson (1850〜1894)
『宝島』(1883)、『ジキル博士とハイド氏』(1886)でよく知られるイギリスの作家。来日したことは無いが、知り合った日本人正木泰造(当時開成学校教授で後に東京職工学校=現・東工大の初代校長)から彼の師だった吉田松陰の事を聞かされて感銘を受け、1880年3月、英国の雑誌に『ヨシダ・トラジロウ』という伝記を発表した。これが世界で最初に書かれた松陰の伝記であり、彼は松陰の業績や思想を絶賛している。因みに彼の祖父ロバート・スチーブンソンは灯台技師でブラントンの師に当たる。 
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イギリスのスコットランド、エディンバラ生まれの小説家、冒険小説作家、詩人、エッセイストである。弁護士の資格も持っていた。「スティーヴンスン」「スチーブンソン」とも表記される。
父トーマス、祖父ロバートは共に灯台建設を専門とする建築技術者だった。母がマーガレット・バルフォア。彼もエディンバラ大学の土木工学科に入学するが、のち法科に転科、弁護士になる。18歳の時、名前の間に入っていたバルフォアを外し、セカンドネームの「Lewis」を「Louis」に変更。以後、名前を略称するときはRLSと名乗る。生まれつき病弱で、若い頃から結核を病み、各地を転地療養しながら作品を創作した。
処女作は1874年に雑誌に発表したエッセイ『南欧に転地を命ぜられて』。1877年にパリで後に妻となるファニー・オズボーンと出会う。オズボーンは既婚で2人の子どもがいたが、1879年に夫が病気を患い、離婚。翌年サンフランシスコでスティーヴンソンと結婚する。この頃、スティーヴンソンは2篇の紀行文『内陸の旅人(内地の船旅)』(1878年)、『驢馬の旅(旅は驢馬をつれて)』(1879年)を出版。2人の子どもとオズボーンを連れてイギリスに帰り、精力的に創作に取り組んだ。1881年にはエッセイ『ヴァージニバス・ピュエリスケ』を出版する。
1882年『新アラビア夜話』およびエッセイ『わが親しめる人と書物』を出版した。同年、フランスに家を買ったが、父の病気が悪化したのでボーンマスに移り住んだ。1883年には一躍彼の名を高からしめた『宝島』を出版、1885年『プリンス・オットー』を出版、1886年『誘拐されて』を出版、同年にはいま一つの代表作『ジキル博士とハイド氏』を出版した。
1887年、父が死亡したのを機に、妻子と共にアメリカへ移住し、あらたな転地先を物色する。
検討の末、スティーヴンソンは以前スクリブナーズ出版社の依頼で取材した南太平洋の島々の気候が自身の健康のために良いと考え、1890年に家族とともに南太平洋のサモア諸島中のウポル島に移住し、残りの生涯を同地ですごした。彼は島人から「ツシタラ(語り部)」として好かれ、自らも島の争いを調停するなどの仕事をした。島での暮らしは健康に恵まれ、多くの作品を発表した。
1894年12月4日、スティーヴンソンは妻との会話中、ワインの栓を抜こうとしたときに脳溢血の発作を起こし、2時間後に死亡。倒れる直前まで口述していた小説『ハーミストンのウエア』が未完のまま遺稿となった。 
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島を巡る生涯
スティーヴンソンはスコットランド出身のエッセイストで詩人であるとともに、『宝島』に代表される冒険小説や、『ジキルとハイド氏』のような恐怖小説を著した小説家として多彩な才能を発揮しました。
1850年、ロバート・ルイス・スティーブンソンはエディンバラで生まれました。祖父はイギリスの灯台建築で名を馳せた人物で土地の名家でしたが、彼は幼いときから結核に苦しみ、子ども時代はほとんど寝て過ごしました。  エディンバラ大学では工学や法学を学びましたが、卒業後は父親の反対を押し切って文学の道に入りました。1879年、スティーブンソンは11歳年上の既婚女性ファニーに恋をし、彼女の住むアメリカへ渡って、間もなく結婚します。その後、物書きとして地歩を固めていきました。
けれども、彼の健康はその後もあまり回復しませんでした。医者が暖かいところでの養生を勧めたため、彼は妻とともに温暖な地域を旅することにしました。1887年のことです。この間、南太平洋のあらゆる島々を航海しました。彼らはハワイにも滞在しましたが、それは1889年と1893年のわずかな期間にすぎません。
作品のなかのハワイ
スティーブンソンのハワイに関する著作はいくつかあります。いずれも短編ですが、『The Bottle Imp(壜の小鬼)』や『Open Letter to the Rev. Dr. Hyde of Honolulu(ホノルルのドクター・ハイドへの公開状)』、『The Isle of Voices(声の島)』、『To Princess Kaiulani(カイウラニ王女へ)』、それに晩年の作品のひとつで、妻ファニーの連れ子であるロイド・オズボーンとの共著『The Eight Islands(八つの島)』などがあります。
これらのなかで彼がもっとも気に入っていたのは『The Bottle Imp』で、サモアに移り住んだときにはサモア語にも翻訳する力の入れようでした。実直な人生を歩んできた主人公に与えられたものは、望むものはなんでも手に入るという魔法の小瓶でした。しかし、彼はこの小瓶を死ぬまでに購入した価格より安く他人に譲らないと地獄へ堕ちることになっていました。人の欲望をめぐるとても象徴的な寓話です。
モロカイ島のカラウパパには、かつてハンセン氏病患者の隔離施設があり、ベルギー出身のダミアン神父が献身的な奉仕をしたことで知られています。しかし、当時、彼は曲解されて評判がよくありませんでした。義憤を感じたスティーブンソンはいくつかの著作で彼に触れて擁護していますが、とくに『八つの島』は神父を題材にして書かれています。
長い航海の末、スティーヴンソンは家族とともにサモアへ家を建てて住みつきました。つかの間、彼は健康を取り戻したようにみえましたが、家を建てるとき、スティーブンソンはここが終の棲家となることを決意していたようです。内面の悲壮感とは裏腹に、財政的に裕福だった彼は20人もの使用人を使い、何不自由のない生活を送りました。そして1894年、脳出血で命を引き取りました。
スティーブンソンゆかりの場所
ホノルル市内にはスティーブンソンにまつわる場所がいくつかあります。ひとつはマノア地区のワイオリ教会の敷地にある質素なわらぶき小屋です。当時、この小屋はワイキキ海岸にあって、ホテルのコテージとして使われていました。彼はこのコテージで執筆作業をしており、当時の机と椅子が復元されています。執筆していたのは、代表作である『宝島』だと言う説が一部にありますが、この作品が出版されたのは1883年ですから、それ以外の作品だったでしょう。
ワイキキの端にもスティーブンソンにゆかりの場所があります。現在、カイマナ・ビーチ・ホテルがあるところは、スティーブンソンが滞在していた当時、「サンスシ(快適な場所)」と呼ばれていました。彼はここの光景がとても気に入り、よく訪れていました。現在は「Hau Tree Lanai(「ハウの木のあるベランダ)」というレストランになっています。
もうひとつは現在のシェラトン・モアナ・サーフライダーの中庭です。通称、バニヤン・ベランダと呼ばれていますが、この庭の中央にそびえるバニヤンの木は、スティーブンソンがハワイを最初に訪れたわずか4年前に植えられたものです。彼はここで、悩みを抱えていたカイウラニ王女といろいろな話をしました。その一部をまとめたものが『To Princess Kaiulani』です。 
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スティーブンソンのような幸福な生涯もあるものだ。『ジーキル博士とハイド氏』はわずか数日で書きあげて、大ヒットした。30歳後半からは南太平洋の島が好きになってここへ移住、島人たちから“ツシタラ”(酋長)と慕われ、世界中の訪問者をもてなしながら暮らした。まことに羨ましい生涯である。それなら自分もと思いたくなる者も多いだろうが、真似をするには三つの条件がいる。第一に子供時代からずっと病弱であることだ。これなら立候補したい者は多いだろう。ただし肺疾患で空気がよいところを選ぶような病弱でなければならず、優しくて教養のある乳母が付き添っている必要がある。第二に、文才があって、執筆に静かな環境を選びたがることである。別荘好きで、家族に囲まれながら恐怖や幻想を書くという趣味もなければならない。ぼくはどこでも書けるので失格だ。第三に、深い思索や哲学などに溺れないことである。ごくごくバランスのとれたコモンセンスとユーモアで生きられることが必要なのである。これもぼくは失格だろう。かくて、スティーブンソンとは世の中から見ると、いかにも別種の人間なのだ。しかし、ある伝統や文化から見ると、最も理想的で羨ましい人物なのである。その、ある伝統や文化とは、イギリスやスコットランドが培ってきたジェントルマンシップというものである。このことを知らないと、スティーブンソンの文学のサブジェクトとテイストは見えてこない。
スティーブンソンは1850年という時代の境目に生まれた。ぼくが最も注目する時代で、万国博と百貨店によって欲望の展示が確立し、ドストエフスキーとポオとネルヴァルとメルヴィルによって人間の描写が確立した。生まれたのはスコットランドのエディンバラ、祖父の代から2代続く土木家に育った。父親はスコットランドの海岸にいくつかの灯台を建てて尊敬され、母親は牧師の娘だった。さきほど書き忘れたが、スティーブンソンを見習うには、こうした人に尊敬される裕福な家柄に生まれ育つ必要もある。幼年のころから肺疾患に悩み、ちょっと外出するだけで気管支炎になる体質だったのだが、そのために自宅に籠もっているときに乳母から優しくされ、聖書やスコットランドの物語を聞かせられた。なかなかこうはいかないものである。やがてエディンバラ大学に進んで父を継ぐべく工学を収めるのだが、やはり体のせいで法科に転進、弁護士を選ぼうとする。ところが激しい人間の軋轢の渦中に介入するより、想像力の中で人間を想う気質が弁護士には不向きであることがわかって、これは静養させるしかないという父の勧めで地中海のリヴィエラに行く。簡単にリヴィエラに生ける境遇なんて、これまた容易ではない。
こうして紀行文や随筆などを書くうちに、パリでアメリカ人の人妻に恋をする。「パリのアメリカ人」というのは、ナタリー・バーネイの項目でも書いたように、当時は最も人気のあるエトランゼの典型なのである。人妻に恋をするというならぼくも得意なところだが、得意なだけでは幸運はつかめない。この人妻がアメリカに帰ってから病気に罹り、そこへ会いに行ったスティーブンソン自身が大西洋の長旅のためにもっと重病に罹るのである。これがぴったり夫人の心を動かした。めでたく二人は結婚をする。連れ子があった。ただし結婚するといっても、病身のスティーブンソンを救いたくなったということなのだ。そのため、この家族は夏はピトロクリやブレーマーで、冬はスイスのダボスで過ごした。そのくらいには夫婦ともに豊かなのである。しかも夫人の連れ子が冒険物語好きだったことが、よかった。スティーブンソンはこの子のために物語を聞かせるのだが、それがそのまま『宝島』になった。空想の地図をつくり、それをもとに毎日一話ずつを語ってみせたのだ。ぼくも子供がいる人妻が好きになったときは、子供にお話を聞かせなければならない。これで自信をもったスティーブンソンは、1882年には『新アラビアンナイト』を、数年後には夢に見た話をそのまま『ジーキル博士とハイド氏』にまとめた。空前のベストセラーであった。世の中には「ホワイト・クリスマス」一曲で、一生印税生活が送れる者もいるのだが、一夜の夢をちゃんと書ければうっかり大ヒットすることもあったのである。
その後、1887年に父が死んで、アメリカに移った。そこへ有力な出版社から南洋旅行の旅行記を頼まれる。さっそくありあまる印税の余分でヨット「キャスコ号」を買って、家族で南太平洋をまわる。これが大いに気に入り、やがてサモア諸島のウポール島に広大な土地を買い、一家でここに移住する。未開の島は「ヴィリマ」と名付けられた。まるで夢のような計画、夢のような実現である。むろん幸運だけではない。島人をよく世話し、教化にもつとめた。世界中からスティーブンソンを訪れる客は、この楽園の生活に憧れ、その噂を広めた。中島敦の『光と風と夢』はこのときのスティーブンソンを描いた作品である。
さて、こんな羨ましい人生を送ったスティーブンソンが、なぜ永遠の名作を次々に書けたのか。いろいろな説があるのだが、ひとつは最初に書いたようにスティーブンソンがコモンセンスに徹していたからだった。コモンセンスというのは、常識を重んじるということではない。それもあるのだが、コモンセンスとは「好ましさ」とは何かを追求するということなのである。イギリス社会にとっての「好ましさ」とは議会主義であり女王崇拝であり、紅茶を飲み、クリケットやテニスやダービーを見守り、紳士淑女が優雅に交流することである。それとともに「好ましからざること」(unpleasantness)をしっかりと見つめることをいう。スティーブンソンがジーキル博士とハイド氏の二重人格を描いたことは、この「好ましからざること」の表明だった。日本でいえば歌舞伎の勧善懲悪のようなもので、日本人にはこれは忠臣蔵でも義経ものでも水戸黄門でも、必ず受ける。このばあい、歌舞伎や水戸黄門がそうであるように、悪はあくどく、悪人はあざとく描かれている必要がある。スティーブンソンがした基本的なこととはこれなのである。
しかし、これだけでスティーブンソンの筆名が上がるということはない。やはり、スティーブンソンの書き方に妙がある。たとえば『ジーキル博士とハイド氏』では、同一人格内部でハイドがジーキルを憎むという設定がいい。また、ハイドがジーキルを凌駕する意識を、うまく場面で分けている。読者にはその二つのペルソナがしだいに接近するサスペンスをつくっている。逆にジーキルはハイドを理解できない偏狭をかこっている。このペルソナの葛藤こそ、イギリス人がそれを卓越することを好んできたテーマなのである。ペルソナ(仮面性)とはパーソナルの語源であって、パーソナリティの根本にある動向のことをいう。スティーブンソンはそうした英語の背後にある意味のアンビバレンツにも長じていた。スティーブンソンは、おそらく日本には絶対に生まれえない作家であった。それはそれでいいことである。だからこそ、われわれはイギリス文学という午後の紅茶を飲む楽しみがある。 
吉田松陰について初めて発表したイギリス人
吉田松陰のわずか30年の生涯を扱う伝記は、これまで多々書かれていますが、最初に彼のことを一文にまとめて発表したのは「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」知られるイギリスの文豪、R・L・スティーブンスンでした。
スティーブンスンは1880年に、松陰刑死後21年後のことですが、「コーンヒル・マガジン」という雑誌上でヴィクトル・ユーゴ、ホイットマン、ソロー、フランソワ・ヴイヨン、ジョン・ノックスなどの伝記を連載します。3月に「YOSHIDA-TORAJIROU」(吉田寅次郎)として松陰について紙面をさいています。その後、連載は「FAMILIAR STUDIES OF MEN AND BOOKS(人物と書物に親しむ)」という表題の単行本にまとめられます。
松陰門下生正木退蔵による口コミで
どうやってスティーブンスンは松陰のことを知ったのでしょうか。
後に東京工業大学の前身の東京職工学校の初代校長となる、松陰の門下だったという長州人・正木退蔵が、外国人のお抱え教官を探すために渡英していました。スティーブンスンは、その退蔵と共通の知り合いだったエジンバラのジェンキンスという大学教授宅での晩餐会に同席し、退蔵から聞いた松陰の話を伝記にまとめたのでした。
無名だがいつか有名になる!
「YOSHIDA-TORAJIROU」でスティーブンスンは「吉田寅次郎という人物は、おそらく英国の読者諸君にとっては全く知られていない人物だと思う。しかし、この人物はいつかガルバルディ(イタリアの愛国志士)やジョン・ブラウン(米国の急進的奴隷廃止論者/後に絞首刑)のようになじみのある名前になるだろう」と冒頭述べています。
「大丈夫はむしろ玉となりて砕くべし、いずくんぞ瓦となりて全することあたわず(志士は瓦となって生命を全うするより、玉となり砕け散るべし)」との松陰が特に好んだ言葉、あるいは精神に魅かれての起筆だったといいます。
松陰は東北への遊歴を行う際に、友人の仇討ちを助けることを計画したことから、藩主・毛利敬親に迷惑が及ぶのを恐れて脱藩します。この脱藩劇についてもスティーブンスンはふれています。
ところが、このわが国藩政期(江戸時代)特有の主従間に通じていた機微によって松陰がとった「脱藩」という行動については、英国人たるスティーブンスンの理解の外にあったようで、正直に「このことに関しては、私は充分に説明できない」と断りを記しています。
このスティーブンスンによる松陰伝記については翻訳家・よしだみどり氏が知られざる「吉田松陰伝」-『宝島』のスティ-ヴンスンがなぜ? (祥伝社新書173)として一書にまとめているところです。
国内で初めて書かれた松陰伝は明治二十四年(1891)に維新史史料の編纂を手がけた野口勝一と富岡政信の共著によるものです。スティーブンスンの「YOSHIDA-TORAJIROU」の刊行は、同書発刊の11年前のことです。 
名言
誰でも、今いる場所にたどり着くためには、かつていた場所から歩き始めなければならなかった。
我々の務めは成功にあらず。失敗にたゆまずして、さらに前に進むことにある。
多忙は生気が欠乏する兆候である。そして、怠ける能力は大いなる嗜好欲と、強い個性の意識とを意味する。
我らの目的は成功することではなく、失敗してもたゆまず進むことである。
希望は永遠の喜びである。人間の所有している土地のようなものである。年ごとに収益が上がって、決して使い尽くすことのできない確実な財産である。
希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである。
我々はだんだん大人になってくると、大人の考えになってきて、抱いていたあらゆる希望が崩れてしまう。それは渇いた土に水が浸…
(大人になるにつれて)いくら希望が失われてしまったといっても、根こそぎ失せてしまったのではない。少年時代には少年とし…
人間は希望を持っていないと、一日としてこの激しい生活に耐えて生きていけないのである。
どんな重荷も夕暮れまでならだれでも背負える。どんなにきつい仕事でも一日だけならだれにでもできる。日が沈むまでなら誰でも優しく辛抱強く愛に満ち溢れ、純粋に生きることができる。これこそ人生というものだ。
結婚は人生そのもの。戦場であって、バラの園ではない。
結婚は討論によって妨害される永い一連の会話だ。
結婚を尻込みする人間は、戦場から逃亡する兵士と同じだ。
一度結婚してしまうと、善良であること以外には何事も、そう、自殺でさえも残されていない。
最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は既婚者の中にいる。
ここに善意に満ち少し試み多く失敗せる人眠る。多分これが彼の墓碑銘かもしれない。しかし、そのことで彼が恥じる必要は毛頭な…
幸福になる義務ほど過小評価されている義務はない。幸福になることで、人は世間に匿名の慈善を施している。
恐れは、あなたの中にしまっておきなさい。でも、勇気は、人々と分かち合いなさい。
あなたは弱さから逃げることはできない。時には最後まで戦わなければならないし、死んでしまうこともある。戦うなら、何故今で…
いつも楽しく暮らすよう心がければ、外的環境から完全にあるいはほとんど解放される。
あらゆる人々を喜ばせることはできない。批判を気にするな。人の決めた基準に従うな。
独創的になるには、そう生まれつくしかない。
友達とは、自分への贈り物だ。
最も残酷な嘘はしばしば沈黙のうちに語られる。
最も不鮮明な時代は現在である。
虚栄心はなかなか死なない。執念の強い場合には、人間よりも長命のときもある。
卑劣な格言は、実際生活のうえでは重んじられていないが、理論のうえでは確固とした地位を築いている。
お互いに愛し合い知り抜いた間柄では、無味乾燥な「はい」や「いいえ」ですら、輝かしいものとなる。
自分自身になること、そして、自分がなれるものになることこそ、人生の唯一の目的である。
毎日を、刈り取った収穫ではなく、まいた種で判断しなさい。
あらゆる人間関係の中で最も親密な関係、すなわち確固たる、何もかも分かち合う愛の関係においては、まるで円を作って遊んでい…  
正木退蔵
(弘化3年-明治29年 1846-1896) 明治時代の教育者、外交官。旧萩藩士で、維新後ロンドンに留学し、開成学校講師で化学を教えた。その後、同校留学生監督として再び渡英し、帰国後東京職工学校初代校長に就任、晩年は在ハワイ王国総領事を務めた。正五位勲六等。
長州藩
弘化3年(1846年)10月24日、周防国萩城外土原村渡り口筋で、萩藩大組士正木治右衛門の三男として生まれた。間もなく佐伯丹下の養子となったが、後に正木姓に復した。
安政5年(1858年)松下村塾で数ヶ月間吉田松陰に学んだ後、毛利元徳小姓として長州正義派に与し、大村益次郎の三兵学科塾で蘭学、兵学、三田尻海軍学校で英学を学んだ。
最初の渡英
1870年(明治3年)井上馨に従って東京に上り、1971年(明治4年)、大蔵卿となった井上馨により、造幣技術習得のため木戸正二郎と共にイギリスに派遣された。
イギリスでは、先に長州五傑が学んだロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン化学教室に入り、教官チャールズ・グラハム宅に下宿しながら、アレキサンダー・ウィリアムソンに化学を学び、またロバート・ウィリアム・アトキンソンとも知り合った。1872年(明治5年)には岩倉使節団を迎え、私的に面会した。
1974年(明治7年)春帰国し、開成学校教授補として、同年教授として招聘されたアトキンソンを補佐し、化学を講義した。1975年(明治8年)10月病気が悪化し、生死を彷徨ったが、テオドール・ホフマンの尽力で快復した。
二度目の渡英
1876年(明治9年)6月、開成学校のイギリス留学生監督として、穂積陳重、岡村輝彦、向坂兌、桜井錠二、杉浦重剛、関谷清景、増田礼作、谷口直貞、山口半六、沖野忠雄の計10名を引率し、アメリカ合衆国経由で再びロンドンに渡った。現地からは文部省に留学生の就学状況を報告し、また『教育雑誌』に最新の教育事情を伝えた。
また、お雇い外国人の周旋も任務の一つであり、1878年(明治11年)夏、エディンバラ大学フリーミング・ジェンキン宅で物理学者ジェームズ・アルフレッド・ユーイングを紹介され、東京大学に招聘した。また、この場にはロバート・ルイス・スティーヴンソンも同席していたが、退蔵による吉田松陰の話に感銘を受け、後に伝記Yoshida-Torajiroを著している。
東京職工学校
1881年(明治14年)、九鬼隆一によって日本に呼び戻され、9月27日、創立間もない東京職工学校校長に就任した。学則改正、煉瓦校舎建設、学生募集に当たった後、化学工芸科実験工場を設立、ドイツ人化学者ゴットフリード・ワグネルを招聘し、また地方へ出張して染物、焼物の調査を行った。
1882年(明治15年)、大蔵省造幣寮に勤務していた次兄林武造が海外出張先で客死したため、1884年(明治17年)8月、武造の遺児タケ、ヒデを養女とし、9月には先妻クリと入籍した。
ハワイ領事
1890年(明治23年)、ハワイ王国領事に就任、5月9日妻子を連れて移民船山城丸でホノルルに着任した。ホノルルでは、日本人移民の賃金調停や本国送金の事務に当たったが、1891年(明治24年)横浜正金銀行ホノルル支店を開設させ、これまでサンフランシスコ支店経由だった事務を簡略化した。
1893年(明治26年)1月ホノルル駐在を解かれ、3月公職から離れ、1896年(明治29年)4月5日死去した。墓所は染井霊園。
 
ファヴェル・リー・モーティマー (モーティマー夫人)  

 

Favell Lee Mortimer (Mrs.Mortimer)  (1802〜1878)
19世紀に活躍した著名な児童文学作家。16冊の児童書を残すが、処女作『夜明けに』は38カ国で翻訳され、少なくとも100万部を売るベストセラーになった。日本に来たことはないが、想像で日本を描いた『不機嫌な世界地誌』の中に「邪悪な風習、ハラキリのある国」という章がある。 
2
ヴィクトリア朝イギリスの福音派児童文学作家。旧姓はファヴェル・リー・ベヴァン(Favell Lee Bevan)。
ロンドンのラッセル・スクウェアで、母ファヴェル・バーク・リー(Favell Bourke Lee, 1780年 – 1841年)と、バークレイズ銀行の共同創設者のひとりであった父デヴィッド・ベヴァン(David Bevan, 1774年 - 1846年)の間に、8人兄弟の3番目として生まれた。ファヴェルが6歳のときに、一家はロンドンの北東の郊外であったウォルサムストウ(Walthamstow)のヘイル・エンド(Hale End)に転居したが、ここで母は、ジョージ・コリソン(George Collison)牧師と、一家の家庭教師クララ・クレア(Clara Claire)から、福音派の強い影響を受けた。ファヴェルが20歳のとき、一家はロンドン中心部に戻ってアッパー・ハーレー・ストリート(Upper Harley Street)に居を構え、大いに社交を楽しみ、父はロンドン北部の郊外イースト・バーネット(East Barnet)に屋敷を買って、それをベルモント(Belmont)と名付けた。この屋敷で1831年に、ファヴェルは、弟ロバートのハロウ校以来の友人だったヘンリー・マニング(Henry Manning)(後のカトリック枢機卿)と知り合った。マニングはファヴェルより6歳年下だったが、ふたりは宗教的問題への強い関心を共有しはじめた。やがて1832年5月にファヴェルの母がふたりを遠ざけ、恋愛らしきものがふたりの間にあったとしても、父の死後の1847年まで、ふたりの関係は途絶えた。マニングは両親を失ったファヴェルに弔意を表した上で、彼女に寄せた自分の手紙全部を、自分のもとにあるファヴェルの手紙と交換することを申し出た。ベヴァン家の伝記を書いたオードリー・ギャンブル(Audrey Gamble)の記述によれば、ファヴェル・モーティマーは、ヘンリー・マニングの人生において重要な影響を与えた3人の女性のひとりであったと、マニングの伝記作家が記しているという。
1841年、39歳のファヴェルは、 ロンドンのグレイズ・イン・レーン(Gray's Inn Lane)のEpiscopal Chapelで、人気のある説教師として主任牧師を務めていたトマス・モーティマー牧師(the Reverend Thomas Mortimer)と結婚した。モーティマー師は先妻を亡くしており2人の娘がいたが、上の娘は幼くして亡くなり、下の娘は深刻な抑うつ状態になって家族から長期間離れなければならないことが多く、ファヴェルにも多くの苦悩を与えた。モーティマー師は、後にシュロップシャー州ブローズリー(Broseley)の教区牧師(vicar)となった。ファヴェルの伝記を書いた姪は、1850年にモーティマー師が亡くなるまで続いたこの結婚が、幸福なものであったとしている。しかし、ファヴェルの甥エドウィン・ベヴァン(Edwyn Bevan)は、ファヴェルの処女作にして最も広く読まれた『夜明けに (Peep of Day)』出版100周年に際して『タイムズ』紙に寄せた文章で、トマス・モーティマーには暴力的な気質があり、ファヴェルに残酷な仕打ちをすることもあったことを示唆している。この結婚からは子どもが生まれなかったが、夫妻は1848年ころに神学校の生徒だったレスブリッジ・ムーア(Lethbridge Moore)を養子を迎えた。レスブリッジは、後にノーフォーク州クローマー(Cromer)に近いラントン(Runton)の教区牧師となり、夫モーティマー師の死去後、モーティマー夫人はまずロンドン北西部の郊外ヘンドン(Hendon)へ転居し、次いでノーフォーク州に移って、何人もの孤児たちに教育の機会を与え、職業に就くまで育て上げた。モーティマー夫人は友人や親類を訪問するため広く国内各地を旅行したが、晩年には一連の発作に見舞われて徐々に衰弱し、最期はラントンで家族や友人たちに見守られて亡くなった。
結婚前のファヴェル・リー・ベヴァンは、ウィルトシャー州フォスベリー(Fosbury)の父の屋敷でも、イースト・バーネットの屋敷でも、小さな子どもたちの宗教的教育の面倒を見ていたが、そうした経験から教育的な著作を書くことに関心をもつようになっていった。彼女は、子どもに字の読み方を教えるために、伝統的なホーンブック(hornbook)ではなく、フラッシュカード(flashcard)の原型となるようなカードを用いる独自の方法を開発した。彼女の教授法に関する文章は、後に編集されて、『夜明けに (Peep of Day)』や『涙とさようなら—簡単にできる読み方 (Reading without Tears)』などの著作に収録された。トッド・プルーザン(Todd Pruzan)によれば、「19世紀の大半の時期において、モーティマー夫人は母国イングランドでも国外でも、その著作に感銘を受けた読者たちにとって一種の文学上のスーパースターであった 。」という。とりわけ処女作『夜明けに』は大人気を博し、原典版だけで50万部以上が売れた。英語では多数の異版が出版され、さらにReligious Tract Societyによって37言語に翻訳され、出版された。1950年3月4日号の『ザ・ニューヨーカー』誌に寄稿したモーティマー夫人の大姪ロザリンド・コンスタブル(Rosalind Constable)は、子どもたちに、その罪と魂の救済を拒むことによって落ちてしまう、地獄の苦しみについて印象づけなければならない、とする大伯母の信念に言及し、この本を「かつて書かれた中で、最もあからさまにサディスティックな児童書のひとつ」と評している。
多くの女流作家の作品がそうであったように、モーティマー夫人の本も、当初は匿名で出版され、作者は「『夜明け』の作家による」などと紹介された。モーティマー夫人は生涯に2回しか母国イングランドの国外を旅行したことはなかったが、他の国々や異文化の紹介に力を注いだのは皮肉であったといえよう。モーティマー夫人は、ノーフォーク州ラントンで死去し、アッパー・シェリンガム(Upper Sheringham)の教会墓地に埋葬された。小さな子どもたちのために宗教的理念を単純化して教えるモーティマー夫人の手法は、同時代においても一部から批判を浴びた。現代の読者にとっては、モーティマー夫人の敬神的な姿勢は、受け入れ難かったり、面白おかしく感じることであろうし、彼女が描いてみせた他文化の姿は、不愉快なステレオタイプによって悪意に満ちたものと映ることであろう。しかし、19世紀の児童文学を研究する者にとっては、モーティマー夫人のテキストは学ぶべきところが多い。 
モーティマー夫人の不機嫌な世界地誌 1
 可笑しな可笑しな万国ガイド
世界のどんな場所とでも、瞬時に情報のやりとりが出来る時代になったところで国境とか、人種とか宗教といった“壁”が消えることはないし、そこから生まれる偏見が拭い払われることもない。
それは偏見が空想の産物ばかりとは限らないからで、ひとつの事実をきっかけに、長い年月にわたって隔てられた“壁”の向こうとこちらがわで、事実の理解と運用が行われた結果、偏見となり心に染みついて、なかなか落とせなくなっているからだ。
さすがに今時、アメリカ人はどこに行くにもテンガロンハットを被っているんだとか、ドイツ人はソーセージとビールが主食だとか、名古屋人はエビフライを毎日のように食べていると思っている人はいないだろう。
ジョークの種にはなっても事実ではないと、活発になった交流から理解できる事柄を、いつまでも引きずるほど人間は愚かではない。仮にそういう認識があったとしても、ネガティブなイメージとして相手を迫害する理由に、これらはあまり成り得ない。
日本人は出っ歯で眼鏡をかけていて、カメラを首からかけていると外国人が抱く偏見も些細なことだ。放っておいても害はない。むしろ、何か起こったり誰か有名人がいれば、街頭であろうとレストランであろうと、ところ構わず携帯電話を向けて撮影する日本人の多さを見れば、偏見どころか真実に近いのかもしれないと、外国人から思われたって仕方がない。偏見には理由があるのだ。
問題はだから、偏見が単なる偏見に止まらず、他人を傷つけ自分を弱らせ、新たな偏見を生んで行くことにある。
19世紀のロンドンに生きた、児童文学作家のモーティマー夫人が書いていたという、世界の国々についてのガイド「モーティマー夫人の不機嫌な世界地誌」は、実に多くの偏見と思いこみに溢れた本だ。例えば。
ドーバー海峡を挟んだ隣国フランスについては分かっているようで、流行に敏感でおしゃれな人たちだと誉めている。けれどもスペイン人については怠け者の上に陰気で残酷と言い、ロシア人は金持ちは傲慢で貧乏人は不正直でずるがしこいとと容赦ないと書く。ドイツ人は働き者だが女性は空想の世界を描いた小説ばかりを読んでいて、それなら何も読まない方がましだと痛烈に皮肉る。
日本に至っては、誰もが礼儀正しいけれども切腹という邪悪な風習があって、その作法を5歳の時から学び始める恐ろしい国だと書く。中国人は弁髪をしているため常に帽子を被っていると書くのは、ある意味で正解か。確かに当時はそうだった。しかし中南米やアフリカについても、それぞれに事細かく書いては野蛮だ不潔だ不信心だと批判するのはいただけない。
なぜならモーティマー夫人、現地を見聞したことは皆無で、それどころか1度も英国から出ることはなかったというからたまらない。そんな人物が、欧州にアジアに北米南米アフリカと、世界のほとんどすべての国々について知ったような記事を書いた文章が、真実であるはずがない。伝聞による推量と書物の記述のみから描いた虚構を非難する、ドン・キホーテの如き蛮勇としか言いようがない。
そういった観点からとらえるならばこの本は、西洋の文明人が異国の未開の人たちを半ば見下して書いた、思い込みに根ざした傲慢ぶりを現代の視点から嗤い、予断と偏見は慎むべきだと学ぶ、反面教師的な役割を担うようトッド・プリュザンに編まれ、刊行されたのだと見てとれる。
冒頭の前書き部分でプリュザンは、カナダのトロント市長がケニアを称して「原住民たちがぐるぐる踊り回る光景が目に浮かぶ」と言い、イタリアのベルルスコーニ首相がドイツを称して「ドイツ人がユーモアのセンスに恵まれているなんて思ったこともない」と言い、米国務次官代理のボイキンがソマリアにおけるイスラム教徒との戦いに関して「わたしの神は、彼の神より偉大だった」と言ってのけた現代に残る偏見の具体例を挙げる。
地位も教養もある人たちですら、偏見に溢れているこの事実を鑑みれば、世界に通じていなかったモーティマー夫人が、予断による偏見に溢れていたって、それを嗤うことなっど出来ない。そして人間には今も“壁”が生み育んだ偏見が渦巻いているのだということをクローズアップし、改めるべきだと啓発しているのだと、この本が位置づけられても仕方がない。
けれども、果たしてモーティマー夫人をただ嗤って良いのだろうか? 理由は何であっても日本人が作法として切腹を幼少より覚え、責任を果たすために腹を切っていたのは事実だ。スペイン人への偏見も、かつて英国がスペインと激しく覇権争いをしていた時代を思い浮かべれば、英国人として仕方のないことだろう。
米国の黒人奴隷についてモーティマー夫人は、恥ずべきことであり即刻奴隷は解放すべしと書いている。これのどこが偏見なのか。なるほど奴隷が常態化していた当時としては、機能していると南部の米国人たちが信じていた奴隷制度に対するネガティブな偏見だったのかもしれない。けれども現代から見れば、これは偏見どころか開明的な見解だ。今だって学ぶべきスタンスだ。
だから偏見の是非が問題なのではない。ここに挙げられているモーティマー夫人の偏見がどういう理由から生まれたのだということを探求する方が重要で、それを突き詰め誤解があるなら糺し、理解に務めようとする努力の方が、偏見をただ嗤うよりも大切なのだ。
ただ嗤っているだけでは、それこそ相手に対する偏見でしかない。誰かに偏見を持たれているなら、どこに原因があるかをまず探ること。逆に他人への偏見を抱いているなら、原因を探り誤解を認め、考えを改めること。謙虚に務め冷静に考えることの大切さというものを、編者や版元がそうは意図していなかったとしても、くみ取ることの方がより前向きで建設的ではないのだろうか。
副題には「可笑しな可笑しな万国ガイド」とあるが、嗤って楽しむべき本ではない。嗤っているその態度こそが、嗤われているのだと知るべきだ。  
モーティマー夫人の不機嫌な世界地誌 2
十九世紀ヴィクトリア朝の大英帝国。敬虔な福音主義のキリスト教徒で児童文学作家のモーティマー夫人は、子どもたちのために世界の国々についての本を書いた。最大の問題は、夫人が十代の頃家族とパリ、ブラッセルに旅行した以外は一度も英国を出たことがなかったということ・・・。
いやもう笑った。よくもまあこれだけ自信たっぷりにあることないこと書けますねえ。とはいえ、完全な嘘というわけではなく、微妙に真実を衝いているからよけいにおかしい。おそらく、これを書くに当たっては無数の旅行記を読み、その中で印象に残ったことをピックアップしたのでしょう。その旅行記の作者がたまたま遭遇した珍しい事象をまるで日常茶飯であるかのように書いているから、こんなふうになるんですよね。
アイルランドの項を例に出すとこんな感じ。
「アイルランドの小屋やコテッジほどみすぼらしい住居はそうありません。窓はどこにあるのでしょう? 煙突は? どこにもありません。ドア代わりの四角い穴があるきりです。そこから煙を出し、光を取り込みます。中も床がなく、じめじめした地面があるだけです。雨が降ると、屋根の穴から漏ってきて、豚の上にぽたぽたと落ちます。部屋の隅にわらを重ね、毛布をかけたものがベッドです。もうひとつある汚れたねわらが豚の寝床です。もちろん、すべての家がそんなにみすぼらしいわけではなく、窓と煙突がある家もありますし、椅子が一、二脚とお皿が二、三枚とベッドが置いてある家もあります。」
フォローがフォローになっていなくて、追い打ちの一撃になっているところが素晴らしいです。大体どこもこんなふうに書かれています。その国の人が読んだら怒る、前に笑っちゃうかな、今だったら。
シドニーはこんなふうに書かれています。
「オーストラリアでいちばん大きな町で、悪の巣窟です。多くの受刑者がこの町に送られてきたため、住人の多くは受刑者の子どもで、ひどい育てられ方をしました。このような町ですから、盗難の件数もロンドンよりはるかに多いのです。こんなところに住みたいと思う人がいるでしょうか!」
とはいえ、偏見に凝り固まったヴィクトリア朝人と頭から馬鹿にするわけにもいかないのです。アヘンに耽溺する中国人を咎める一方でその阿片を売っているのがイギリス人であることを指摘したり、アフガニスタンで大勢のイギリス人が殺されたのは他国の政治に介入しようとしたのだから自業自得だと冷静に分析しています。こうした公平に物を見る目と、ローマン・カトリックやイスラム教を頭から否定する狭量さとがどうして両立するのだろうと不思議に思えます。
日本について
「日本は大きな帝国です。主な島は三つあり、あわせるとイギリスよりも広くなります。そのそばに四番目の島があり、エゾと呼ばれ、ここにも多くの日本人が暮らしています。
日本についてはあまりお話できることはありません。外国人は入国できず、日本人も外国に来ることはできないからです。イギリスの船も厳しく見張られ、日本に行くことはめったにありません。
日本人はどういう人たちでしょうか。
日本人はとても礼儀正しい国民です。中国人よりはるかに礼儀正しく、とても誇り高い人々です。学問があって、読み書きができ、地理と算術と天文学の知識があります。
気候も穏やかで、冬は短く、日差しも中国ほど強くありません。ですから紳士淑女はヨーロッパ人に近い肌の色をしていますが、労働者は浅黒い肌をしています。
しかし、日本は数々の災害にさらされています。嵐と水と火ーーこの三つが最大の敵と言っていいでしょう。岩だらけの海岸に大波が押し寄せ、恐ろしいハリケーンが襲い、地震と火山から噴きだされる溶岩が人々を恐怖に陥れます。
しかし、何よりも恐ろしいのは、人間の罪ーーそう、日本には邪悪な風習があります。自らの命を絶つのは大きな罪ですが、日本では皇帝を怒らせた廷臣は自らの剣で体を切り裂く風習があるのです。少年はほんの五歳のときから、この恐ろしい技を学び始めます。本当に切ることはしませんが、やり方を教わり、大人になったときに、優雅な所作で命を絶てるようにするのです。なんて恐ろしいことでしょう!」
 
クララ・ホイットニー 

 

Clara A. N. Whitney Kaji (1861〜1936)
勝海舟の三男梶梅太郎の妻。1875年、15歳の時、商法講習所(一橋大学の前身)の教師として招かれた父親に従い来日。梅太郎と結婚し一男五女をもうけるが、後離婚、子供を連れて帰国した。日本にいた1875から1891年までの膨大な日記が残されているが、明治の要人らや風俗などが詳細に描かれている。 
2
クララ・ホイットニーは、1861年にアメリカのニュージャージー州に生まれた。父ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーが商法講習所(一橋大学の前身)の教師として赴任するのに伴い、母アンナ、兄ウィリス、妹アデレイドとともに来日した。そして家事の手伝いをする傍ら、当時の上流階級に浸透し始めた英語やピアノ、オルガンを教えた。後に勝海舟の三男梅太郎と結婚し、一男五女をもうけたが1899(明治32)年に実質的な後援者である義父勝海舟が亡くなると、子どもの教育を理由にアメリカに帰国したのである。クララは、日本滞在中に17冊に及ぶ日記を遺しているが、その中で、日記を書き続けた理由を次のように述べている。
「喜びや悲しみを伴って一日一日が早足に過ぎ去っていく。私は喜びも悲しみも平静に受け止めようと心掛けている。困難にもかかわらず、私たちは無事に毎日を送っている。新しい日記帳を始める度に、私は最初の日記帳のことを思い出す。母からそれを貰った時の喜びと感激、そしてその純白の頁に字を書くのが勿体なくてしかたがなかったこと。それ以来、日記をつけることが私の第二の天性になってしまい、日記をつけないと気持ちが落ち着かない。(1877年11月19日)」
この文章から彼女の日記への強い思いを読み取ることができる。『クララの明治日記』はその抄訳􌛖􌛑􌛗である。その原本はクララの末娘であるヒルダ・ワトキンズから勝海舟の曾孫である一又民子に託されたものである。一又の他に高野フミ、岩原明子、小林ひろみに拠って翻訳されたが、1976(昭和51)年に出版されて以来多くの人々に読まれ、様々な文章の中でこの日記の内容について言及されている。1996年には文庫本として出版された。抄訳された1875(明治8)年から1887(明治20)年までの日記の中には約300名の日本人の名前と、ほぼ同じ数の外国人の名前が書かれており、多くの知識人との交流があったことが窺い知れる。またこの日記には開国後間もない明治初期の風俗が詳しく記述され、明治の礎を築いた要人である勝海舟・福沢諭吉・森有礼らの日常の姿やお雇い外国人たちの姿が生き生きと描写されている。また日本の生活や文化・教育など、当時の世相や事件が感受性豊かなアメリカ人少女の目を通して数多く綴られており、社会的・歴史的意義のあるものとなっている。
クララが見た日本
冒頭、「いよいよ日本に着いた」で日記は始まっている。その言葉の中には、初めて見る日本という異国への大きな期待と不安が含まれていたに違いない。そして日本の生活に慣れていくに従い、クララは日常生活に於けるいくつかの風俗や習慣について驚きをもって記している。はじめに、漁船に乗っている人々が下帯姿で働いていたことに大きなショックを受けている。しかし一方では「景色のすばらしさは格別で起伏する丘が重なり合い実に鮮やかな緑におおわれていた。『日出ずる国』は本当に美しくてどの眺めも快く(略)」(1875年8月3日)と、日本の景色の素晴らしさに感嘆の声を上げている。また、日本人の接客マナーについて次のように述べ、日本とアメリカの習慣の違いを確認し、それ以降の自分の取るべき態度を明らかにしている。
「日本の人々は天性洗練されていて、「エチケットの手引き」みたいな人々である。人のもてなし方をよく知っていて、人をとても気楽な気分にさせてくれる。だがあの低いお辞儀には閉口だ。さようならを言う時、富田さんは床にひざをつき、畳に額をすりつけていた。だがアメリカの自由な娘がそのように卑屈で屈辱的な習慣をどうして学べるだろう!だから私はアメリカ式に軽く会釈してアメリカの礼儀通り、元気に「サヨナラ」と言って、みんながまだ埃の中にひれ伏しているうちに人力車に乗ってしまった。みるとみんなまだひれ伏したままだったがあまり気持ちのよいものではない。(1875年10月15日)」
その他お世辞についても言及している。クララは日本人が礼儀をわきまえていることに感心する一方で、受け入れることのできない習慣については独自の方法で対応し、催事や社会的活動の参加ほか互いの自宅を訪問するなど、日本文化に関わりをもちながら日常生活を大いに楽しんでいたことが窺える。 
『勝海舟の嫁 クララの明治日記』 1
勝海舟の三男・梅太郎の妻となったアメリカ女性、クララ・ホイットニーが25年に亘り、こまめに書き続けた日記である。
この日記の魅力は3つある。第1に、1886(明治19)年に勝海舟の三男と国際結婚し、一男五女を儲けたアメリカ女性の日記であること。第2に、米国から遥々日本にやってきたクララの目に映った明治時代の日本が率直に生き生きと描かれていること。第3に、クララが間近に接した勝海舟、福沢諭吉、明治天皇らの人柄や温かみが伝わってくること。
上巻は、1875(明治8)年、14歳のクララが、商法講習所の教師として招かれた父に従い、一家で来日するところから始まる。
同年10月5日には、「日本での生活はますます面白くなってくるので、しばらくしたら、きっとこの美しい島(日本)が祖国のように好きになり、離れるのが残念になるだろう」、11月16日には、「芝の福沢(諭吉)氏のお宅にうかがった。・・・福沢氏は二階に案内して、江戸湾のすばらしい眺めを見せてくださった。・・・やがて福沢氏が夕食をどうぞと言ってくださったので、階下に下りてみると、食卓が半分洋式、半分日本式に用意されていた。・・・福沢氏はとても親切にもてなしてくださって、『またいらっしゃい』と念を押され、どうぞお風呂をお使いくださいと三度も言われた」、12月1日には、「私は日本語の勉強を始めた。むろんとても面白いが、初めは正しい文字を書くのは少し難しかった」と綴られている。
1976(明治9)年3月11日は、「(私の)生徒たちは毎日来る。授業をしている時は面白いと思うのだが、こうして『キャット』だの『ドッグ』だのを教えていると、時々くたくたに疲れてしまう。しかし、生徒たちはとても進歩が早い。そして(日本の)若い女の人たちは何よりもよく笑う」、8月24日は、「勝(海舟)家のお逸(海舟の三女・逸子)が今日十二時に来た。・・・かわいい優しい少女で、私は同国人の友達のように大好きだ。お逸が英語をしゃべれるか、私が日本語をしゃべれるかしたらいいのにとつくづく思う。でも二人は片言同士でなんとかうまくやっているのだ。丸顔で日本人にしては大きないたずらっぽい黒い目をした美少女で、十六歳だが日本では若い淑女なので、結婚の申し込みがたくさんある。でも結婚などしてはいけない! <もしできたら>アメリカに連れて帰りたい」と正直だ。
1877(明治10)年1月1日は、「勝氏がご自身で贈り物を持って来てくださった。・・・なんだか勝氏は、うちの家族に普通の親切以上に気を遣ってくださるような気がする」、2月17日は、「ああ、今日はなんとすばらしい日だったことだろう! 日記さん、前に私たちが将軍(徳川宗家16代当主・徳川家達)のお邸へ招待されたと書いたのを覚えている? え、忘れたって。それならペンでつっついて思い出させてあげよう」と、茶目っ気を発揮している。
1978(明治11)年2月16日は、「いつも親切にしてくださるので私は先生(福沢諭吉)を尊敬している。強い男らしい方で、いろんな有益な本を日本語に訳しておられる。先生の学校(慶応義塾)は弁論で有名だ。また先生は非常にリベラルな考えの持主である。開校した当時は杉田武氏がただ一人の学生だったが、今では大きい学校になっている」、5月16日は、「今月十四日の朝に恐ろしい暗殺事件があった。大久保利通氏が太政官への途中、赤坂の官邸から五町と離れていない地点で六人の男に殺されたのだ。・・・しかし警察や護衛が到着した時にはすでに大久保氏の頭は二つに割られ、胸には刀が柄まで突き刺さり、両手は切り落とされ、そのほか体中傷だらけであった」と生々しい。
下巻の1879(明治12)年11月26日には、「勝夫人は模範的な女性である。洗練された女性でしかも行届いた主婦である。それはご主人にとってありがたいことだ」、11月26日には、「ウィリイ(兄・ウィリス)は勝氏に会いに行って、長話をしてきた。勝氏は現在の事態をきびしく批判され、西郷(隆盛)氏の死後は日本には正直な人間は一人もいないと断言された」と、貴重な証言が残されている。
1880(明治13)年1月25日は、「勝氏についてすてきな話を聞いた。彼は、厳寒の大晦日に、粗末な着物に身をやつし、人力車も伴もつれずに、貧困に打ちのめされた徳川旧藩士も家を歩きまわって、『餅代』を置いてきたという」と、海舟の人間性を伝えている。
1984(明治17)年4月25日は、「今日初めて日本の天皇様(明治天皇)にお目にかかった。・・・写真から想像していたより、ずっとご立派に見えた。背丈は約五フィート八インチか、多分もう少し低いかもしれない。お顔の色は明るいオリーブ色でやや重厚なお顔立ち。お顔には小さい山羊ひげと口ひげがあり、快活で温和な表情をしておられた」と、明治天皇の印象を書き残している。  
『勝海舟の嫁 クララの明治日記』 2
まず「はしがき」を参照してクララの足跡を追ってみよう。
クララの父、ウィリアム・ホイットニーはニュージャージー州で実業学校を開いていた。日本にも欧米流の商法、簿記を教える学校が必要だと考えていた森有礼は、ウィィリアムのいとこと知り合いだったこともあって彼に白羽の矢を立てる。学校の経営状態が思わしくなかったウィリアムはこの誘いを受けて一家で日本へ向かう。
ところがいざ来日してみると準備はまるで整っておらず、一家はあやうく路頭に迷いそうになる。この窮状を救ったのが勝海舟だった。海舟は千ドルを寄付し、ホイットニー一家は日本での生活をなんとか始めることができた。この縁もありクララは勝家の人々と親しく交際する。中でも同い年の三女逸子とは親友となる。
その後いろいろとあった末にクララは海舟の息子梅太郎(正妻の子どもではなく、海舟が長崎で生ませて引き取って育てていた)の子どもを身ごもる。結局梅太郎とクララの間には六人の子どもができる。子どもたちの日本名はいずれも海舟がつけたそうだ。梅太郎は海舟の鷹揚というかずぼらなところが遺伝したのか、いわゆる甲斐性がないタイプであった。海舟の死によって勝家に経済的に依存し続けることはできないと考えたクララは梅太郎と別れ、アメリカに帰国することを決意する。
日記は1875年(明治八年)、クララが15歳になる直前に日本に到着するところから始まる。
確認しておくと、黒船来航が1853年、大政奉還が1867年、彰義隊の上野戦争が1868年、そして西南戦争が1877年のことである。
はるか昔と思うか結構近いと感じるかは人それぞれであろうが、クララが体験する赤穂浪士の墓に詣でたり、鎌倉の大仏見学に箱根旅行、能を見ては隅田川の花火大会に、なんてことは今でも観光スポットとしてはあまり変わってないかも。
大久保利通暗殺は1878年のことだが、クララは西南戦争の原因を大久保と西郷の個人的いさかいとしている。そして親しくしている大久保一翁は(利通と違って)人望があるとし、徳川政府は「最近不思議に人気が出てきた」ともしている。他にも海舟がいかに立派な人かを説く人がいるなど、クララが勝家と親しいということを割り引いても当時の新政府の不人気ぶりが窺える。
ここらへんのことだけでも興味深いが、なんといっても登場人物がすさまじい。「はしがき」から引用すると「外国人としては、東京、横浜在住の有名人で出てこないものはない」。例えば「アメリカ公使のビンガム、イギリス公使のパークス、ヘボン式ローマ字で今も有名なドクター・ヘップバン、ボアソナード、フェノロサ、グラント将軍」などなど。日本人でも津田一家との会話で幼くしてアメリカに渡った梅子が日本語ができなくなってるのではと心配したり(後に帰国した梅子とは親しくなる)、新島襄が顔を出したかと思えばば内村鑑三の結婚式に出席していたりもする。この時代の予備知識が豊富な人ならさらに興味深く楽しめたのだろう。
ホイットニー家には福沢諭吉も目をかけるのだが、海舟と諭吉といえば不仲であるともされる。ここらへんも頭に入れておくといろいろ味わい深い。来日して最初のクリスマスに諭吉はホイットニー家に招待されていたのだが欠席する。まさか勝家の子どもたちが来ていたために……というのはさすがにうがち過ぎで、その後海舟と諭吉が同席している場面も登場する。ここらへんの記述を読むとクララは海舟と諭吉の微妙な関係には気づいていないようである。
長らくクララは諭吉をベタ誉めしていた。例えば1879年8月の日記では「福沢氏は思想上完全な革命を遂げられた。というのは、洋式の家、洋式の生活様式を捨てられたばかりでなく、もう洋服は召されないし、私たちのような挨拶の仕方もなさらない。しかしあの方は今まで通りの方で、東京の三著名教授(福沢・中村正直・津田仙)の中で一番好きな人である。彼は熊だけれども、やさしい熊である」 としている。しかしそれから間もなく、同年12月には一変する。ホイットニー一家が帰国する際に、先行して出発する父の見送りに諭吉が現れなかったことに過剰なほど腹を立る。「福沢家の人々がクリスマスのデコレーションを見に三田からやってこられた。子供さんたちはきわめて行儀が悪く粗野で、親切なジョー夫妻に対する行動があまりに私をいらだたせたので、まったく構わないことにして、子供たちや福沢氏にただお辞儀だけをした。福沢氏は父にお別れにこれなかった言い訳を、くどくど述べはじめられたが<富田夫人も憤慨して、福沢家を訪問しなくなった>、私はお辞儀をしただけで一言も答えずさっさと部屋から出てしまった。福沢氏は驚かれたと思うが、父に対して、大変失礼な仕打ちをされたのだ」 以後諭吉に言及することはない。確かに頭にはきたのだろうが、これだけが原因にしてはやり過ぎのようにも思える。もしかするとこの間に海舟と諭吉の関係に気づいたのかも、なんてことを勘ぐってしまう。
話は戻って最初のクリスマスの日、クララは「勝」はCatsと発音するので子どもたちはKittens(子猫)という冗談を気に入ったようだが、ここらへんからもわかるように、この日記の楽しさは少女がつけていたことも大いに貢献している。
これは不満な部分となるのだが、来日時15歳目前ということもあって、クララは日本に対して「文化人類学的関心」とでもいうものをあまり抱いていない。歴史や言葉を学ぶことにはそれなりに熱心なのだが、限られた特権階級の人のみと交際することに疑問や不満を抱くことはない。日本に到着したその日に、漁船に乗っている人が「素裸」なのに衝撃を受ける。さすがに局部は露出してなかったのだろうが、肌をあそこまで露出するということに大いに戸惑う。また初めて風呂に入るときも、使用人などが平気でウロウロすることに神経をとがらすのだが、ここらへんの日本とアメリカとの裸に対する意識の違いというものを深く考察することはない。来日当初、町を出歩くと貧しそうな人やら子どもやらが白人の存在にものめずらしげにゾロゾロついてくる事に閉口するのだが、このような庶民がどのような暮らしを営んでいたかということにもあまり興味がないようだ。
同時にこれの利点としては、感情的とも思えるほど忌憚のない人物評もあるし、なによりもかなり特殊な環境に置かれた少女の心の中を覗けてしまうというのはやはり興味を惹かれてしまう。
クララがどの程度「普通」だったかと考えるのはなかなか難しい。現在から見れば白人、自民族中心的な価値観が垣間見えるが、当時のことを考えればむしろ穏やかなほうなのかもしれない。一方で、よく言えば信仰心厚い、悪く言えばやや狂信的なところもある。アメリカ帰りの無神論者だという矢田部良吉が遊びに来て、クララはそれなりに楽しく過ごすのだが、安息日の掟を破ったのだということに気づく。「私の良心を麻痺させたのはきっと悪魔だったのだろう」 と、冗談めかしてではなくどうも本気で書き残していたりもする(ちなみに当時の日本は1と6のつく日が休みという決まりだったようで、これが日曜が休みに変わるということにクララは喜ぶ)。一度帰国したホイットニー一家が再来日するのには母や子どもたちの信仰心から来る使命感も作用していたようだ(父のウィリアムは再来日の途中に客死してしまう)。
海舟の子どもたちは、一時は宣教師になろうと決意する梅太郎をはじめ何人かがキリスト教徒となり、海舟自身にも「自分のヤシキに教会をもっている、という評判が長いことたっ」たという。ホイットニー一家が帰国中も勝の「ヤシキ」では小さな集会が続いており、門には「ヤソキョウ」という表札もかけていたというが、これが事実なら海舟もまんざらではなかったのかもしれない。津田仙(梅子の父)から「勝氏は今は未だ受け入れられてはおられないが、やがてクリスチャンになるだろうと言わ」れて歓喜する。クララは海舟のような影響力のある人物がキリスト教徒になってくれればと願う。「ヤシキの人たちは皆改宗するであろうし、ここに教会をもちたいという我々の心からの願いもかなえられるであろう」 ここらへんは「純粋」な信仰心からなのかもしれないが、キリスト教に限らず信仰というものを持たない僕のような人間からすると少々ぞっとしてしまったというのが正直なところでもあるのだが。
日記のもつ性格もクララのキャラクターを難しくさせる。なかったことをあったと日記に書くのは少数派だろうが、あったことをあえて書かなかったり、出来事や心の動きなどを歪めて記することもある。例えば教師としての父親の仕事は順風満帆からは程遠い過程を辿ることになるのだが、一緒に暮らしていたとは思えないほど父親の記述が欠けていたりする。特にクララの場合、この日記が後に公開されることを意識しているフシがあるし(実際こうして刊行された)、小説を書こうとしていたりもするだけになおさらである。
「信仰心が厚い」というと性的には保守的なことが連想されようが、「書かれていない」ことから推測するに、クララは異性に対してむしろ結構積極的だったのではとも思わせるところもある。例えば来日してすぐにアメリカ時代からの知り合いの中原国三郎と仲良くなるのだが、それにしてもというくらい行動を共にする。中原が結婚したかもという噂を聞いた時のぷんすか具合からすると気があったと考えたほうがよさそうであるが、そうとは書かれていない。クララの前にはストーカーまがいの行動を取る人物が何人か現れるのだが(先に名前を出した矢田部もその一人)、向こうからしたら「そっちがその気にさせたんじゃないかい!」ということなのかもしれない。日記によると当時の日本の上層階級では結婚前の若い男女が親しくするということはないという習慣だったようで、クララのあっけらかんとした男性への態度が「男の勘違い」を招いたのかもしれないが。このように行間を読んでいくというのも覗き見の楽しさをなかなか高めてくれる。それにしても百年越しでストーカー的行為を暴露されるというのも辛いよのう。
梅太郎はクララより4歳年下である。二人の出会いはクララ15歳、梅太郎11歳の時であろうが(日記に登場するのはもう少しあと)一体いつクララは梅太郎を「男」として意識したのだろうか。ちなみに二人は1886年にいわゆる「できちゃった結婚」をする。残念ながら日がたつにつれ日記が丁寧につけられることはなくなり、二人が結ばれたあたりはすっぽりと書かれていない。また日記はクララが最初の子どもを生んだところで終わっており、海舟爺様が「青い目の孫」にどう接したかというところもわからない。ホイットニー家は一時帰国し、約二年後に再来日するのだが、83年にクララは19歳となった梅太郎に再会し、彼ががキリスト教徒となり、みちがえるようになっているのを喜ぶ。もしかするとこのころもうすでに、いや出会ったころから実は……なんて妄想をいろいろ膨らませたりしちゃったりして。
と、なにせ大部なものでいちいち感想を書き出していけばきりがないのだが、それにしてもこんな魅力的な題材、なぜ今までドラマや映画になることがなかったのだろうか(それとも知らないだけでされていたのだろうか)。今これをやるカネがあるのはNHKくらいなものだろうが、ぜひとも『クララの明治日記』を映像化してもらいたいものである。思わず吹き出してしまうようなユーモラスなシーンや、涙なくしては読めないようなところも満載なのですから。
例えばこんな場面はどうだろうか。海舟の次女孝子の息子の玄亀はクララのお気に入りだ。「クララさん」だの「おクララさん」だのとまとわりつく。1880年の新年早々やってきた玄亀はこう話しかける。「クララさん、どうしてそんなに鼻が高いの。ああわかった、外国人だからだね。でも僕のみたいにかっこよく低くしたいなら、ただ『ぼくぼく』って言えばいいんだよ」そして「見えないほど小さい自分の鼻を、小さな人差し指でトントンと叩」き、「でも小さい時にこれを知らなかったから、きっとこうしたんだね。『ぼくぼく』」なんてことを言いながら小さな鼻をつまみあげる玄亀のかわいらしいことといったら!。
あるいは83年2月の大雪の日のこんな場面。「正午頃には雪はやんだ。間もなく得体の知れない種々雑多ななりをした男の子や女の子の群れが、勝家の門からヤシキの広い空き地に現れた。そこでその子たちははめをはずして大笑いしながら、猛烈に雪つぶてを投げあった。一方は勝家の若奥様が、女中たちに囲まれて攻撃の指揮をし、他方は梅太郎が男の子の一隊を率いていた。(中略)それは面白い眺めで、見物人も雪合戦に加わっている人たちと同じくらい大笑いした」。
しかしこの場面は微笑ましいだけではない。海舟の長男小鹿(ころく)はアメリカで海軍兵学校の留学を終えて帰国した快活な青年として登場するのだが、この頃にはすっかり体調を崩し、「発作」を繰り返すという有様で、医者からも匙を投げられていた。「勝家の若奥様」とは小鹿の妻のおたてのことであろう。クララはおたてを「日本に来て今までに会った人たちの中で一番の美人」 としている。「今日の午後に小鹿さんの奥様が来られ、木挽町から持ってきた大きな背の高い雨水を入れる水槽は、私の風呂桶かときかれた。高い円筒形の水槽なのにまったく滑稽である」 なんてちょっと天然入ってたりもする。そのおたては、翌84年には病を得て、7月に満二十歳で死去する。死の間際に会ったクララの兄によると「私はこのようなことを信じます。私はキリスト教徒です」と言って意識を失い、そのまま亡くなったという。小鹿はこの日だけで「発作」を三回も起こしてしまう。
このころは医療事情のせいで、かなりあっさりと人がバタバタ死んでしまうのですが、ちょびっとしか登場しないものの、おたてのなんと不憫なことよ!なんて思ってしまった。
結局小鹿はもう少し生きることになる(とはいえ父海舟より先に逝く)。そして再婚して子どもをもうけ、その女の子の娘婿として徳川慶喜の十男精(くわし)を迎え、この精が勝家の跡取りとなったりするのだが、それはまた別のお話。
訳者のひとりの一又民子さんは海舟の曾孫にあたる(次女孝子の孫。ところであのかわいい玄亀はどうなったのだろう)。その一又さんはアメリカを訪れクララの末娘(つまり海舟の孫)ヒルダと会う。その時ヒルダが着ていたのは「クララが杉田家を訪問したさいに見せていただいた婚礼衣装で、同家の長男武さんがクララが結婚するときにあげると約束したもの」で、杉田夫人も同じ約束をしていたという。当該ページをのぞくと確かにある! 
「食後に婚礼衣装を見せていただいた。(中略)どれもとてもすばらしく美しいものだった。よしさんと私はこの着物を着せてもらって、貴婦人のようにお辞儀をしたり、気取って微笑したりして部屋の中を歩きまわった。武さんは私が結婚する時に一枚くださるとおっしゃった」(1877年11月)「杉田夫人からご自分の結婚式のお話をうかがった。すばらしく美しい衣装<これは私の結婚式の時にくださるとおっしゃった>をお召しになり、提灯や箱や槍を持った男たちを先頭に、腰元を従えて駕籠に乗って行かれたそうである」(1878年1月)。わざわざ念押しするとはよほど気に入っていたのでしょうね。
「私は杉田家の二人がきちんと約束を守られ、その結婚衣装が百年余りの間アメリカで大切に保管されていたことに感動した」。どうです、ドラマのオープニングシーンにぴったりじゃありませんかね。
それにしても文庫刊行時の96年、ヒルダは百歳で存命中だったとは! 
最期に夫に愛想をつかした良妻 勝民子
勝民子は勝海舟(勝隣太郎)の妻で生年不詳、元は元町の炭屋・砥目茂兵衛の娘で深川の人気芸者だったが二十五歳のときに二歳年下で二十三歳の勝海舟(麟太郎)と結婚したといわれている。当時、勝海舟が住んでいた本所入江の地主で旗本・岡野孫一郎の養女となって輿入れした。(海舟の父・小吉とは深い付き合いで実家の男谷家を出て転居を繰り返したうちの最も永く住んだのが岡野家の敷地だった。)勝家は当時、小普請組の四十一石取り無役小身の旗本で三畳一間の極貧生活を余儀なくされたが民子は不満1つ言わずに蘭学の本を読みふける夫を支えた(冬の寒い日には天井板を剥がして燃やし暖をとり家の中でも空が見えたという暮らしだった。)夫婦は中睦ましく結婚翌年の弘化三年には長女・夢子が生まれ、その後次女の逸子、嘉永五年には長男の小鹿が生まれ麟太郎・民子夫婦は二男二女をもうけ幸せな生活を送ったと晩年に語った。この頃には海舟は蘭学の私塾を開いていたがペリーの黒船が来航して幕府はその対応に苦心していた。海舟(麟太郎)は幕府に海防の意見書を提出し老中・阿部正弘に認められ安政二年に長崎海軍伝習所を創設して海事研究を始め二年後には伝習所教授に就任した。海舟(麟太郎)はこの地で「おひさ」(おくま)という十四歳の未亡人を妾にし男の子を生ませたという。その後、貧乏生活から脱した麟太郎は糸の切れた凧のように各地で妾を作り維新後には自宅にも二人の妾(女中の増田糸と小西かね)と同居して本妻の民子に苦労を掛けたという。また、梅屋敷別邸に森田栄子、長崎の西坂に前述の「おひさ」(梶玖磨)を囲った。正妻の民子は自分の子、二男二女と妾たちの子、二男三女の九人の子供たちを分け隔てなく育て上げ愛妾達から「おたみさま」と慕われたという。だが嫡男の小鹿が四十歳で急逝し小鹿の長女・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精(くわし){当時十一歳}を迎えて勝家を相続させが伊代子が早逝すると実父・徳川慶喜同様に女と趣味に情熱を燃やし写真やビリヤード、当時発売されたばかりのオートバイ(ハーレーダビットソン)に熱をいれ屋敷内にオートバイ専用鉄工所を設けて国産大型オートバイ「ジャイアント号」を完成させた(後にこのメンバーが目黒製作所を作り川崎重工の吸収によってカワサキのオートバイへと発展していった)妻の伊代子亡き後は女中の水野まさという人を妾にしていたがその愛人と服毒心中した。話を元に戻すが海舟は嫡男・小鹿の死や嫡孫に当たる精(くわし)の非行などの心労によって明治三十二年に脳溢血で倒れ「これでおしまい」と言葉を残して帰らぬ人となり富士の見える所の土になりたいとの遺言により別邸千束軒のあった洗足池公園に葬られた。その六年後の明治三十八年に民子は亡くなるのだが最後に「頼むから勝のそばに埋めてくれるな、私は(息子の)小鹿の側がいい」という遺言を残し青山墓地に葬られたが後に嫡孫・精の独断で洗足池の勝海舟の墓のとなりに改葬され現代にいたる。余談だが前述の長崎の愛妾・おくまが生み民子が引取って育てた三男・梅太郎(後に実母の実家・梶家を継いだ)は明治政府の依頼で日本の商業教育に招いたアメリカ人のウィリアム・ホイットニー家族を勝海舟は邸内に住まわせて世話をしたがその娘・クララ・ホイットニーと国際結婚し一男五女を儲けたが後に離婚してアメリカに帰国した。
 
ジョン・ミルン 

 

John Milne (1850〜1913)
イギリスの地震学者。ロンドン大学キングス・カレッジなどで地質学を学ぶ。1876年日本政府工部省の顧問として招かれ、工部省工学寮(後の工部大学校)で鉱山学・地質学を教えた。1880年、横浜で大地震に遭遇して以来、自ら開発した地震計を使って地震の研究を進め日本地震学会を創設、多くの論文を発表した。因みにこれが「世界初の地震学会」。イギリスではほとんど地震が無いのでミルンはよっぽどビックリしたに違いない。また石器時代の遺跡の発掘やアイヌ研究でも大きな成果を挙げている。日本人トネと結婚し1895年に帰国してからは、イギリス南部のワイト島(ジミヘンの晩年のコンサートでも有名ですな)に水平振子地震計を備えた地震観測所を作り、世界地震観測網の構築に努めた。トンボの一種「ミルンヤンマ」は彼の名に因んで付けられた。  
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イギリス・リバプール出身の鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者。東京帝国大学名誉教授。日本における地震学の基礎をつくった。
1850年(嘉永3年) イギリス国リバプールに生まれる。
1876年(明治9年) 工部省工学寮教師に招かれて来日する。
1877年(明治10年)函館で研究調査しアジア協会誌に「渡島の火山を訪れて」と題した報告論文を発表する。浅間山に登り、活火山が珍しかった英国で報告した。
1878年(明治11年) モース、ブラキストンらと共に函館の貝塚を発掘する。根室市の弁天島で貝塚を発見する。縄文時代の大森貝塚の絶対年代を2640年前と推定した。
1880年(明治13年) 日本地震学会を創設する(明治25年(1892年)に解散する)。
1881年(明治14年) 願乗寺(西本願寺函館別院)の住職・堀川乗経の長女・堀川トネと結婚する。「日本の石器時代についての論文」(東大理学部生物学科図書室蔵・松村文庫283)を発表する。
1886年(明治19年) 東京帝国大学の設置とともに工学部で、鉱山学・地質学を担当する。著書「地震とその他の地球の運動」を出版する。
1887年(明治20年) 王立協会フェローに選出される。
1892年(明治25年) 「THE GREAT EARTHQUAKE OF JAPAN」(濃尾地震の被害についての写真集)をウィリアム・K・バートンとの共著で出版する。
1894年(明治27年) 「ミルン水平振子地震計」(重要文化財、国立科学博物館で展示)を制作する。
1895年(明治28年) トネ夫人と共にイギリスに帰国し、住居を南イングランドのワイト島シャイドに構えて研究を続ける。その後、東京帝国大学名誉教授の称号を受ける。
1898年(明治31年) 著書「地震学」を出版する。
1913年(大正2年) イギリスで63歳で死去する。
トネ・ミルン 1
堀川トネは英語を学ぶために開拓史仮学校女学校に進んだが、幼い頃から患っていた病気が悪化し、志半ばにやめざるを得なくなる。周りからの冷たい目、そこへ最愛の父の急死。人生のどん底にいた時にミルンと出会い、2人は大恋愛の末、情熱的な結婚をする。函館の外国人墓地で出会ってから1年の間に2度しか会わなかったにもかかわらず、10何通にも及ぶラブレターのやりとりが2人の気持ちを近付けたのだった。
3度目に会った時にトネは、ミルンに一生治らない病を持っていることを告白。「あなたが受けた屈辱と悲哀の経験をもとに、より広い視野で大きく物事を見ることが本当の勉強だ。私は地震と火山の研究に夢中だ。あなたも英語の勉強がしたいと言っていたね。二人でそんな生活を共にしよう」。ミルンはプロポーズでトネの不安をはね除けた。翌年函館に来るはずのミルンを待ちきれず、トネは単身東京に向かい、霊南坂教会で式を挙げた。ミルン30歳、トネ20歳だった。婚姻届は後に渡英が決まってから出されたが、その時にトネは英国での永住を覚悟し、函館に永遠の別れを告げた。自分の意志で外国人との恋愛結婚を貫くトネには、病に悩む姿はもう見られず、強く逞しい女性となっていた。
シャイドではミルンの研究生活を支えながら、各地からの訪問者の接待に忙しい毎日を過ごした。ミルンの没後も6年間、神経痛に耐えながら1人でシャイドに留まったが、やがて帰郷を決意。甥っ子がはるばる迎えに来てくれ、1920年に函館に帰郷。晩年のトネはいつも「私はミルンによって生き返ることができた女です」と語っていたという。
堀川 トネ (1860〜1925) 2
堀川トネは、万延元年11月願乗寺(西本願寺函館別院の別名)の住職堀川乗経の長女として生まれた。当時の函館は、奉行所のあった大町を中心として、既に市街を形成しており、トネ誕生の1年前には貿易港として開かれ、各国居留外国人も珍しくなかった。明治5年9月、12歳のトネは函館から選ばれた他の5人と共に東京芝増上寺の開拓使仮学校女学校へ入学する。単身上京したトネは、不幸にして病となり志なかばで帰函する。
明治8年10月、函館に帰ったトネは、15歳になろうとしていた。しかし故郷函館もけっして住み良い所ではなかったようだ。特にトネが士族出で開拓使出仕の若者との縁談を断わってから、街の人々の風当たりは強まった。明治11年6月、トネの最大でかつ唯一の理解者だった父乗経が急死した。この時、将来英語の私塾を開きたいと決意する。この夏、傷心のトネはブキストンからジョン・ミルンを紹介される。ジョン・ミルンは、明治9年にお雇い外国人教師として、英国から工学寮に招かれて来日。鉱山学、地震学を教えていた。地震学会設立の中心的人物であり、地震学の父といわれた。知り合ってから1年後ミルンと再会したトネは、自分の過去を打明けて結婚の約束をする。翌明治13年、トネはただ独りで東京のミルンのもとへと函館をあとにした。翌年5月、霊南坂教会で2人は結婚式を挙げた。ミルン満30歳、トネ満20歳であった。「2人が多くの問題に直面するのは避けられなかった。しかし何よりも難しい障害は宗教の違いだった。トネは住職の娘であり、家族は長い間深く僧職に関係していた。他方、ジョンはキリスト教徒で、大学時代神学を勉強して、キングス・カレッジの評議員になっていた。トネの父が他界してことはよけいめんどうになっていた。ミルンが前年の夏住職に会っていなければ、トネのことについて”口をきいて”いなければ、もはや親の祝福を求めることはできなかった。」(ミルン伝より)教会で式は挙げたものの、婚姻届けが出されたのは、2人が渡英する寸前であった。ここに、世間一般の形式的なものにこだわらず自分の意志で外国人との恋愛結婚を貫いた新しい女トネをみる。トネは夫について永住覚悟で明治28年6月、日清戦争の勝利に沸く日本を去る。ジョン・ミルンが帰国を決意したのは、国粋主義的風潮の高まりの中、彼の指導を受けた日本人が専門家として一人立ちし、ミルンが地震学において「重要な人」ではなくなったためと言われている。直接の契機は、原因不明の火災で住宅と観測所が全滅したためらしい。
ミルン夫妻は、気候が温和で地震観測に最適な南イングランドのワイト島シャイドに居を構え、観測に、各地からの多くの訪問者の接待にと多忙な生活を送った。
大正元年、ミルンが東京から連れていった協力者広田忍氏が病となりその妻と共に帰国。翌2年、最愛の夫ジョン・ミルンが亡くなった。身近かに日本語を解する者もなく一人となったトネは、神経痛に耐えながら6年間シャイドで過ごした。夫ジョンのねむる土地を去り難かったようだ。やがて欧州大戦となり、大正8年に帰国、6年後の大正14年湯の川通りの自宅で67歳の生涯を閉じた。英学への意欲と挑戦、単身上京、お見合い話しを断わり外国人と恋愛そして結婚、永住覚悟の渡英等々波瀾万丈の人生であった。  
ジョン・ミルン没後100年
1.ワイト島を訪ねて
明治の始めに来日して日本の地震学及び地震工学の基礎を築いた英国人ジョン・ミルンについては、以前から深い関心を持っていた。宇佐美龍夫先生監訳によるレスリー=ハーバート・ガスタ/パトリック・ノット著の「明治日本を支えた英国人-地震学者ミルン伝」を大変興味深く読んだ。
今から127年前の1876年(明治9)、東京大学工学部の前身である工学寮(後に工部大学校)に、26歳の若者ジョン・ミルン(1850‐1913)が鉱山・冶金の主任として招かれた。彼はロンドンからイルクーツクを経てモンゴルを横断し、北京、上海から東京まで、汽車、船、馬車、駱駝による7ヶ月の大旅行を行ない、日本にやってきた。そして、日本での地震体験から地震現象に非常な興味をもち、精力的な研究を行なって近代地震学の基礎を築く。日本女性堀川トネと結婚して19年を日本で過ごした後、トネを伴って英国に帰り、世界規模の地震観測をワイト島で続け、そこで亡くなった。
彼のパイオニアとしての優れた業績、情熱と冒険に溢れた人生にはどんな背景があるのだろうか、私はかねがね知りたいと思っていた。2010年にトルコのドガンベイにあるメテ・ソーゼン教授の別荘を夫婦で訪れた後、思い切ってミルンが後半生を過ごしたワイト島へ行ってみることにした。
ワイト島は面積384km2、人口14万人で、英仏海峡に面した自然の美しい島である。淡路島に比べて面積は2/3、人口はほぼ同じである。ヴィクトリア女王は気候の良いこの島の別荘オズボーンハウスを大変好んで度々訪れ、1901年にそこで亡くなっている。ロンドンのウォータールー駅からポーツマスまで電車で行き、フェリー20分でワイト島のライド埠頭に着く。そこから昔のロンドン地下鉄で使われた背の低い旧型電車で中心地のニューポートへ向かい、予約しておいたベッド&ブレックファストの宿に泊まった。
翌日、中世からの城の中にあるカリスブルック城博物館を訪ねた。ここはピューリタン革命の後、チャールズ1世が1649年に処刑されるまで幽閉された場所として知られ、様々な歴史資料が陳列されている。お願いしておいた学芸員のビショップ氏にミルン関係の展示と資料を案内して頂いたが、その豊富さに一驚した。ミルンの様々な研究業績と日本及び英国での生涯の足跡が写真パネルで示され、天皇からの勲三等旭日章を含む様々な勲章もそこにあった。博物館の階段下には、実際に常時動いている小型の地震計が設置され、ミルンがこの型の地震計を開発したこと、ここワイト島で初の世界地震観測を行ったことなどが説明文に記されていた。
そこで、誠に幸いなことに、ミルン伝の著者の一人、パトリック・ノット先生にお目にかかることが出来た。ビショップ氏が予めお願いして下さっていたのである。ノット先生は大変お元気で、自分の車を運転され、この後ミルンの色々な資料が収集されている近くの資料局の建物へ案内して頂いた。絵が上手だったミルンのアイスランド探検の時の水彩画、大森房吉の英文論文、それに中学校時代のミルンの通信簿まで、沢山の貴重な資料が未整理のまま保存されていた。
ミルンはニューポートの郊外シャイドに家を構え、そこに最初の世界地震観測所を設けた。その広い敷地も今はいくつかの住宅に変っているが、わずかに昔のミルンの建物の柱と塀の一部が残っている。ノット先生が頼んで下さって、現在住んでおられる方の室内を拝見すると、“EARTHQUAKE OBSER­VATORY 1900 M.H.GRAY J.MILNE.”と記した記念のボードがあった。
ミルンはゴルフが大好きだった。自宅から坂道を少し登った所にあるニューポートゴルフクラブも訪れた。1896年創立の、小さいが楽しいコースである。伝記によれば、彼はうまいというよりも熱心だった。クラブにはミルンを記念して彼の死の翌年1914年に始まったミルンカップの優勝者リストの長いボードがあり、展示のミルンカップには前年の優勝者の名前も刻まれていた。
ノット先生の運転でワイト島の美しい景色を堪能しながら港に戻り、お別れした。ノット先生とビショップ氏のご好意により、ミルンが暮したこの町の空気と歴史にじかに触れることが出来た旅であった。ワイト島の多くの人々がジョン・ミルンを大切に思い、“忘れられた郷土の偉人”として、彼の業績を語り継いでゆこうとする心を強く感じた。
2.日本地震学会と濃尾地震
1880年2月(明治13年)の横浜地震は、横浜で煙突の破損が多く、家屋の壁が落ちた程度の地震であったが、来日4年目のミルンに強い衝撃を与えた。この地震をきっかけに、その年日本地震学会(Seismo­logical Society of Japan、会長は東京大学の服部一三、ミルンは副会長)が発足し、ミルンはその最も熱心な推進者であった。英文の学会報告第1号の冒頭にミルンの論文“Seismic Science in Japan” があり、地震計の開発、地震観測網の整備、地震に関する諸現象の調査など、彼の広い学問的関心がここに述べられている。ちなみに、アメリカの地震学会は1911年の発足である。
横浜地震のあとで、ミルンは今のアンケート震度に相当する先駆的な調査も行なっている。ミルンは工部大学校の同世代の同僚のユーイング(機械工学、4年間在日)、グレイ(電信工学、5年間在日)と共に地震計の開発に力を注ぎ、精力的に地震観測を行なった。また、耐震建築、免震建築についても熱心な研究を行なった。東京上野の科学博物館には、ミルン等の地震計が展示されている。
1891年濃尾地震(明治24年)は日本最大級の内陸地震で、愛知県、岐阜県一帯に死者7273人の大きな被害をもたらした。外国からの輸入工法であるれんが造建物が多数倒壊し、多くの死者を出した。濃尾地震の後でミルンは東京帝国大学の衛生工学科のバートン及び写真師の小川一真と共に被災地に赴いて総合的な調査を行ない、優れた写真を含む報告書「The Great Earthquake of Japan, 1891」を著わしている。
この貴重な報告は、1992年にその初版本(緑表紙)が梅村魁・青山博之により(縮刷)、また1993年に第2版(茶表紙)が土岐憲三により(原寸)復刻されている。第2版では古藤文次郎による有名な根尾谷断層の写真が加わっている。
なお、バートンは濃尾地震の前年1890年に完成した凌雲閣(浅草12階、れんが造)の設計者である。凌雲閣は後の1923年関東地震で大破し、工兵隊により取り壊された。
濃尾地震をきっかけとして、翌1892年に震災予防調査会が菊池大麓(1855‐1917)等の強い推進により文部省内に作られた。東京帝国大学の地震学、地質学、数学、物理学、工学の教授や、技術者、建築家などから構成されたこの会は、地震の研究と予知及び地震災害の軽減という2つの任務を課せられた。ミルンの尽力により活動が続いていた日本地震学会は解散の状態になり、その後は、震災予防調査会においてもっぱら日本人の手による地震学と耐震構造の研究が進展する。その中心になったのは大森房吉であった。
濃尾地震から4年後の1895年、自宅の火事でミルンは貴重な資料の殆どを失った。日本での役割も終わったと彼は思った。この年、19年の日本での生活の後、ミルンはトネと共に英国に帰国し、ワイト島シャイドで世界規模の地震観測を行い、そこで生涯を終える。
大森房吉(1868‐1923)は、1890年帝国大学物理学科を卒業した後、ミルンの研究を発展させて日本の地震学に多大の業績を残し、また地震工学の面でも重要な研究を多く行った。調査会報告にある大森の振動台実験ならびに建物固有周期の測定は地震工学の先駆的な業績である。震災予防調査会の多方面にわたる活動は1923年関東大震災まで続き、その成果は調査会報告第1号〜第104号として取りまとめられた。耐震設計における震度の概念を提唱した佐野利器(1880‐1956)の「家屋耐震構造論」は調査会報告第83号の(甲、1916)及び(乙、1917)として刊行されている。
濃尾地震から32年後に起こった1923年関東大震災は首都東京及び関東地域に甚大な被害を齎した。この地震の詳細な調査報告は震災予防調査会報告第100号(甲)〜(戊)として取りまとめられ、これが調査会の最後の大仕事になった。関東地震の翌年1924年、市街地建築物法(1919年制定)の中に初めての耐震規定(水平震度0.2)が作られた。また、2年後の1925年には東京大学地震研究所が設立された。
3.トネとの結婚
ミルンは来日の翌年1877年に函館を訪れ、その後も鉱山関係の仕事等でしばしば北海道に行き、函館のブラキストン(貿易商、鳥類研究家、ブラキストン線の提唱者)と親友になった。ブラキストンの紹介で、ミルンは函館の僧侶堀川乗経の娘トネ(1860‐1925)と知り合うことになる。トネは、1872年11歳の時、東京の芝増上寺に設置された開拓使仮学校女学校に入学した。黒田清隆開拓次官の、北海道開拓には女子教育が緊急に必要との強い主張により開設されたものである。函館からは6人、全体で44人が入学した。この前年には8歳の津田梅子ら5人が開拓使女子留学生として米国へ留学している。1875年に女学校は札幌に移転するが、トネは病のため残念ながら退学し、函館に戻る。トネは当時の最新の教育を受けた進取の気性を持つ女性であった。そして函館でミルンと出会い、1881年に霊南坂教会で結婚式を挙げる。ミルン30歳、トネは20歳であった。
ミルン夫妻は初め赤坂の山口屋敷、次いで本郷の加賀屋敷に住む。ミルンは日本の文化に非常な興味をもった。彼の大量のコレクションが、ワイト島のカリスブルック城博物館に保存されている。
ミルンは1895年にトネと助手の広田を伴ってイギリスに帰国し、ワイト島シャイドに私設の地震観測所を設けて地球規模での遠隔地震の観測研究を続けた。1913年にミルンは62歳で死去する。ワイト島のミルンの墓碑には、“In Loving Memory of My Dear Husband John Milne who was born De­cember 30th 1850 and fell asleep July 31th 1913”の銘と“His genius, enthusiasm and devotion to the work which he loved, made seismology an inter­national science.” の言葉が刻まれている。
その横にはミルンの母(1897年死去)と父(1907年死去)のもう一つの墓碑が同じ形で建っている。トネは英国で3人の死を見送っていた。
ミルンの死の6年後、1919年にトネは日本に帰国し、函館で1925年に64歳の生涯を閉じる。トネとミルンの墓は函館山の麓にある。堀川トネの生涯については、トネと同じ函館生まれの森本貞子氏(元東京大学地震研究所長森本良平氏夫人)の「女の海溝」に広い視野から興味深く詳細に述べられている。
4.ミルン没後100年
2013年はミルンの没後100年に当たる。ワイト島では、“Earthquake Milne”と呼ばれた彼の業績を様々な形で顕彰する計画を立てている。Isle of Wight Society のホームページにはミルンの生涯を顕彰する様々な計画が詳しく出ている。ニューポートの街角に大きな記念のエナメル画を設置するパブリックアートのコンペが終り、Kevin Dean氏の作品が決まった。また、ミルンのご親族であるWilliam Twycross氏(オーストラリア在住)が2011年春に来日して東大など様々な場所を取材され、ミルンの伝記ドキュメンタリーがほぼ完成している。日本語版も準備中とのことである。わが国でも様々な機関で記念の行事が企画されている。
災害防止の原点は、過去の歴史を正しく見つめ、その記憶を忘れることなく後世に伝えることである。長い過去の事実とその記憶が、私達の今の暮しに深く関わってくることを、私達は肝に銘じなければならない。
この機会にジョン・ミルンの業績と生涯を改めて振り返ることは、地震災害に関する諸学問のあり方と今後の進め方を再考するための極めて良い機会になるだろう。 
日本地震学の父 ジョン・ミルン
3月11日、東日本を襲った地震と大津波の想像を絶する破壊力に、世界中の人々が言葉を失った。研究により約千年に1度の割合で、三陸地方が同規模の被害に見舞われていることも報告され、改めて『地震大国』日本の苛酷な宿命に思いをめぐらせた人も多いことだろう。ところが、この日本で「地震学」が確立されたのはそう昔のことではない。しかも、その礎を築いたのはある英国人だった。名をジョン・ミルン博士という。
ランカシャー訛りで質問攻め
1876年3月8日、ひとりの若き英国人科学者が明治政府の招聘で日本にやって来た。
政府の役人に迎えられ、これから3年間を過ごすことになる日本家屋に案内された。その来日初日の夜、この英国人を突然襲ったのが「ぐらぐらっ」という不気味な揺れ。床にへたり込み、しばらくは口もきけなかった。この英国人こそが「日本地震学の父」にして「西欧地震学の祖」とも言われるジョン・ミルンだった。やがて正気を取り戻した時ミルンの頭の中には様々な疑問が次々と浮かんできた。あの不思議な現象は何なのか? あれだけの揺れがどこから来るのか? なぜ日本に起こって、英国には起こらないのか? 持ち前の探究心が刺激されたミルンは、この不思議な「揺れ」に大いに興味を覚えた。
ジョン・ミルンは1850年、スコットランド人の両親の間にリバプールで生まれ、ランカシャーのロッチデールに育った。生涯故郷を深く愛し誇りに思い、常にランカシャー訛りの英語を話したと言われている。子供の頃から『知りたがり屋』で、いつも周りの大人を質問攻めにしていた。小学校に上がった時に母親がホッとしたのも無理は無かった。
学校では数々の賞を受賞する優秀な子供だった。高校生の時に受賞した報奨金で湖水地方を旅したことがあったのだが、他の受賞者は旅が終わると満足して自分の町に帰って行ったのに対し、ミルンは海を渡ってアイルランドに向かった。道中パブでピアノを弾いて小銭を稼ぎ、ダブリンとアイルランド南部を回るという、冒険心、探究心の強い少年であった。
やがて一家はロンドンに移り、17歳になったミルンはロンドン大学キングス・カレッジの応用科学部に入学し、数学、機械学、地質学、鉱山学等を学んだ。卒業後、地質学と鉱山学を専門分野に王立鉱山学専門大学に進んだ。積極的に実地調査を行い、ランカシャーやコーンウォール、さらに中央ヨーロッパ各地の鉱山を回った。23歳になる頃にはジョン・ミルンは、地質学と鉱山学の分野で頭角を現し始めていた。
極東の地へのオファー
学位と現場経験の両方を持ち合わせたミルンは就職にも困らなかった。1873年、王立鉱山学専門大学の推薦を受け、ミルンはサイラス・フィールド社に鉱山技師として2年契約で雇われる。ニューファンドランド島(現在はカナダの一部)での石炭と鉱物資源の発掘調査が主な任務だった。ミルンは島の岩石の種類や構造を論文2本にまとめ、地理学会誌に発表した。また、氷河にも興味を持っていたミルンは、氷と岩石の相互作用についての調査も行っている。
地質学者・鉱山学者としてのミルンは引っ張りだこで、王立地理学会から北西アラブへの調査隊に同行して欲しいという依頼を受けた。チャールズ・ビーク博士の調査はシナイ山の正確な位置を確定するのが目的で、地質学者が必要だった。ビーク博士の研究は宗教色の強いものだったため、シナイ半島での研究結果は論議を巻き起こしたが、ミルン自身は宗教的なコメントは控えた。この調査中も、ミルンはシナイ半島の地質調査の機会を逃さなかった。帰国後、収集した化石の全てを大英博物館に寄付している。
1875年、ミルンが次に受けた職のオファーは、きわめて意外な雇い主からのものだった。日本政府が新設した工部大学校の地質学・鉱山学教授職への招聘で、近代化を目指す明治政府のいわゆる「お雇い外国人」政策の一環である。ミルンは、極東のミステリアスな島国日本で働けることを喜び、すぐに承諾した。この時からミルンと日本とのつながりが始まる。
日本までの旅路は容易ではなかった。船酔いをするミルンは船旅を嫌い、周囲の猛反対を押し切って、ヨーロッパ、ロシア、シベリア、モンゴルそして中国へと至る陸路を選んだからだ。しかしミルンにとってこの旅程は、足を踏み入れたことの無い地域で地質学の研究を深めることができる最高のチャンスだった。壮大な旅は、全行程に11ヵ月を要した。
貪欲に火山を調査
ミルンにとって工部大学校の環境は幸運だった。学長が同じくスコットランド人でグラスゴー大学出の技師ヘンリー・ダイアーだったこと、そして同僚の中には英国で既に顔なじみであったジョン・ペリー教授がいたからだ。ペリーとミルンは研究者仲間として、生涯の友人として、長くつきあうことになる。外国人教員達のスケジュールはびっしり詰まっていたが、20代後半という若いミルン教授は、活力に満ち高い評判を築いていった。豊富な知識と内容の濃い授業で学生を魅了し、研究活動にも余念がなく、教材が不十分だと自ら教科書を作った。特に結晶学の教科書は非常に専門性の高いもので、後に英国で書籍として出版されている。また、持ち前の好奇心旺盛な性格は、教授の椅子にじっと座っていることを許さず、時間の許す限り実地調査に出掛け、日本社会の歴史、そして火山と地震についての知識を深めていった。
1876年に伊豆大島の三原山が噴火した時にミルンは、「こんな貴重な研究材料を逃すまい」と現地へと急いだ。自らの身の危険を心配するよりも研究を優先するのがミルンだった。
噴火が収まって間もない噴火口に近づいた時ミルンが言ったという。「噴火口は見上げるものだと思っていたが、今の私は何と、見下ろしている」と。直径1キロ、高さ100メートルという岩石の円形競技場のような噴火口を、ミルンは注意深く調べて回った。この伊豆大島の地質調査により、ミルンは火山の生成過程に関する知識を深めた。同時にこのような噴火が地震の原因となるのではないだろうかという仮説を立てた。
この後もミルンは浅間山、千島列島、富士山を含め、日本中の50の火山に登って観測を実施した。総合的な研究の結果、ミルンは、火山活動は地震の原因では無いという結論に達している。ミルン自身の説明によると「我々の体験する地震のほとんどは火山から発するものでも無ければ、直接つながりがあるものでも無さそうである。日本の中央は山岳地帯で火山が多い地域があるが、そこは全く地震の無い地域でもある」。このように大学での休暇を利用した「小探検旅行」をミルンは満喫しながら着実に研究成果を挙げていった。
堀川トネとの出会い
その「小探検旅行」で、ミルンは1878年に函館にやって来た。英国のハンプシャー出身の自然学者トーマス・ブラキストンに出会い意気投合する。ブラキストンは日本の鳥類学の基礎を作った人で、ミルンと同じく学者としての名声を求めるよりも、謎を解き知識を深めることに集中するタイプの学者だった。ブラキストンはミルンよりもずっと長く日本に住んでいたので、日本のしきたりやマナー、そして日本語をミルンに教えることができた。さらにブラキストンの果たしたもう一つの大きな役割は、堀川トネをミルンに紹介したことだった。
トネは1860年、函館山の願乗寺(今の西本願寺別院)の僧侶堀川乗経の娘として生まれた。日本はその頃、桜田門外の変での井伊大老の暗殺、幕府が力を失い始めるという激動の時代だったが、函館は貿易港として栄えていて、外国人居留者も多かった。ブラキストンもその一人で堀川家とは長いつきあいがあった。父乗経は函館市内の浄水工事に大きく貢献した人で、工事竣工日に娘が生まれ、「利根川の水のように豊かに育つように」との願いを込めて「トネ」と命名したという。
トネは東京にできたばかりの開拓使仮学校女学校で学んでいたが、脳の病気(詳しい病名は不明)を患い、函館に戻って来ていた。1878年に父が突然亡くなり、その墓参りに行った墓地で、ブラキストンに同行していたミルンと出会う。そして2人は遠距離恋愛の末、1881年に結ばれるのである。
新しい学問分野へ
火山や民俗学研究へと活動を広げる一方でミルンは、工部大学校の同僚達の間で「地震」に対する関心が高まりつつあることを認識し、地震研究を発展させる時機に来ていると感じた。特にジェームズ・ユーイングとトーマス・グレイが着任してからは、時間があれば地殻運動に関する話に熱中した。ミルンは「朝食、昼食、夕食にも地震だよ」と冗談を交え、ランカスター訛りの英語で日本の地震事情を披露した。世界的に神話や迷信で地震の原因を説明していた時代である。ミルンも「実際のところ誰も知らない」と何度も繰り返した。しかしミルンの場合はそこで留まらなかった。
実は当時、既にイタリアで地震に対する学問的認知があり、揺れを感知する感震器も使われていた。この感震器は、1883年にグレイ・ミルン式地震計が開発されるまで日本でも使われた。が、イタリアでの発展を待たず、日本の工部大学校にいたミルン、ユーイング、グレイに引き継がれたのだった。
ミルンは地震研究を二つのアプローチから行った。一つは正確なデータをできるだけ多く集めることだった。そのツールとして地震の頻度、大きさ、波動の幅と方角、そして時刻を記録することができる計器を開発しなければならなかった。「優れた計器が問題の解明につながる」と信じていたからだ。そしてもう一つのアプローチは、組織だった研究機関を立ち上げることだった。地質学、鉱山学の専門家としての経験から、新しい科学を学問分野として設立するには、専門家集団が情報交換し共同研究できる場が必須であることを痛感していた。
ミルンが「地震学者」へ移行する決定的な瞬間は、1880年2月だったと言ってもいいだろう。マグニチュード五・五の横浜地震直後のことである。「激しい揺れのために部屋の中を歩くこともできなかった」と後にミルンが話しているように大地震だった。部屋に実験的に設置していた2つの長い振子が、この衝撃の大まかな方角を測定していた。この装置がグレイ・ミルン式地震計の前身である。
この実験で地震を「測定」することができたミルンは触発された。そしてより広範囲に地震のデータをとる必要があること、そしてそのデータを分析すれば地震のメカニズムが解明できるということを確信した。
まだ地震計が不十分であったため、最初の全国調査は人海戦術だった。各地の役所に、その地域で年間平均何度地震が起こるか、去年起こった地震についての詳細な記述をするように依頼した。各地から多数の回答があり、日本では平均1日に3、4回の揺れがあることがわかった。
さらにミルンは葉書調査を考案した。東京周辺圏の町や村に依頼し、週単位で揺れの記録を葉書に書き留め返信してもらったのだ。この結果、揺れのほとんどが東または北東海岸線から派生しており、西または南西海岸線からのものがほぼ無いということがわかった。19世紀終わりの時点でこのような地震の実態が把握できたことは、東日本大震災の例からも驚くべきことだと言えよう。この葉書調査はその後、東京から約700キロ北部の地域まで拡張して続けられた。
地震屋ミルン
実験や葉書調査と並行して、専門家集団の形成も進められた。ミルン、ユーイング、グレイが中心になって日本地震学会が設立された。当然ミルンが会長になるものと予測されたが、ミルンは断り、代わりに日本人の役人である服部一三(はっとり・いちぞう)を推薦した。
1880年4月26日、地震学会第一回大会が開催され、最初の論文を発表する栄誉がミルンに与えられた。地震学の現段階での功績と今後の課題を論じた。そして振子地震計を開発し、15個を武蔵野平原に設置して観測を行うと発表。地震計を電報局の中に置き、揺れが起こった時刻も記録する予定だった。この地震計はグレイとミルンの開発によるもので、「グレイ・ミルン式地震計」と呼ばれた。当時の地震計がどのように機能したかというと、地球が震動を起こす度に、精密なガラスの針が作動して、回転ドラムに巻かれた、黒煙で色付けされた感度の高い紙に線を描く。これが震動を表し、波動が極端であればあるほど、大きな地震ということになった。
グレイ・ミルン式地震計は解像度と正確性を高めるために何度も改善が施される。1883年に地震測定に有効な三成分の地震波の同時記録に成功したことから、地震学会が東京気象台での公式地震計として採用した。学会でのミルンの最後の論文によると、グレイ・ミルン式地震計により、1885年から1893年までの間に8331の地震が記録されている。
このように地震学会が1892年に解散するまでの12年間に、学会紀要の発行や地震計の開発の実現を通し日本の地震学の土台を築いたのだ。ちなみに「地震」という言葉も、この頃に初めて使われるようになったと言われている。
ミルンの探究心は留まる所を知らず、地震の起こりやすい環太平洋地帯の国々も調査して回った。学会の会長にこそならなかったが、ミルンがこの新たな科学領域のリーダーであることは誰もが暗黙のうちに了解していた。同僚達はミルンを敬意と親しみを込めて「地震屋ミルン」と呼んだという。
ワイト島から世界へ観測に明け暮れる日々
1895年2月、不運な出来事がミルン家を襲った。自宅と観測所が原因不明の火事で焼け落ち、地震計や文献を含むそれまでの研究成果全てを失ってしまった。火事は大きな打撃となり、これが潮時だと感じたミルンは、大学を辞め英国に戻ることを決意した。大学側も辞表願を受け入れた。同年6月、帰国直前にミルンは明治天皇から招待を受け謁見している。
7月にミルンはトネと共に渡英、気候が比較的穏やかで暮らし易いワイト島に住むことを選んだ。英国高等科学研究所(British Association of Advanced Science)の認可を得て、シャイドShideという町でシャイド・ヒル・ハウスを地震観測所として研究を続けることになった。
ミルン水平振子地震計をシャイド・ヒル・ハウスと3キロ程離れたカリスブルック城の2ヵ所に設置した。日本から連れて来た助手の広田忍と協力し合い、連日記録をとった。とはいうものの、シャイド1ヵ所で世界中の地震を同時に観測することには限界があった。ミルンは以前から考えていた地球規模の地震観測網の必要性を痛感していた。少なくとも20の観測所を世界各地に設置し、相互に協力体制を敷き、共同で研究活動を行うのだ。この大掛かりな構想は、ミルン個人の力では到底実現不可能だった。ミルンは王立協会を説得した。観測所はまず英国に7つ、ロシアに3つ、カナダに2つ、アメリカ合衆国東海岸に3つ建設された。
ここにミルンの政治力を見ることができる。ミルンは19年間という長い期間、日本政府に雇われ、日本の高等教育機関で教育と研究に従事し、日本人の配偶者を得て日本社会に深く関わった人物。英国政府が日本の内情聴取にミルンを利用しなかった方が不思議だ。日本は日清戦争(1894〜5)を経て、そして日英同盟(1902〜3)や日露戦争(1904〜5)を控えていたのだから、英国政府にとっては情報の欲しい国だった。ミルンはおそらく、この際に築かれた政府とのコネクションを利用して、世界規模の地震観測網の実現をアピールしたのではないか。ミルンの頭の中の世界時図には「太陽の沈まない、大英帝国」の友好国が当初から浮かんでいたに違いない。友好国に地震計を設置できれば、地球上の主要な地域をカバーできたからだ。
1900年には地震学者の同僚から資金援助が得られたお陰でシャイド地震観測所も設備が整い、本格的な観測を始めることができた。
ミルンは人がほとんど感じることの無い地殻変動の研究、つまり微小地震(地震とは無関係の小さな地動)と遠地地震(遠くで起こった地震が原因で起こる地動)の研究に集中した。東京でグレイと共同で開発した水平振子地震計を大いに活用。国内と世界各地の観測所新設計画も進められ、水平振子地震計が合計40設置された。日本では東京帝大構内に拠点が設けられた。南極点を目指したスコット探検隊(1910〜12)にも働き掛けて、地震計を南極にも置いて来てくれるように依頼した。
このように世界中で測定されたデータは全てシャイドに送られて分析された。データ量は相当のもので、広田助手の存在にミルンは心から感謝することになる。ミルンが、英国高等科学研究所内に新しく設置された地震学調査委員会の主事の役目を果たすことができたのも、広田助手のサポートあってのことだった。委員会を通して、また、「シャイド地震機関誌」の紙面で地震学の分野に国際的な学術交流が必要であることをミルンは強く訴えた。この後20年間、シャイド地震観測所は世界の地震学の中枢となるが、ミルンの熱意が実を結んだからと言えるだろう。 ミルンは数々の論文をまとめて2冊の本として出版している。バートンとの共著で「地震とその他の地球の運動」を1886年に、「地震学」を1898年に刊行。これらの著書は地震学の貴重な教科書として活用された。
実験、そして開発
ワイト島での生活に慣れることはミルン夫妻、特にトネにとって容易では無かったものの、徐々に地域に溶け込んでいった。シャイド・ヒル・ハウスへはとにかく訪問客が多かった。地震学関係の専門家はもちろんのこと、学生やジャーナリストが頻繁に訪れた。そんな中、トネは日本からの来客を特に心待ちにしていた。インターネットの無い時代、何より日本のニュースを知りたかっただろうし、日本語での会話を楽しみたかったに違いない。 ところで、英国人の訪問客の中に、バーミンガムの近くで質屋を営んでいたジョン・ショウという人がいた。アマチュア地震マニアで、ミルンに非常に影響を受け、自宅地下室を地震観測のための実験室に造り替えたという。後にミルンとショウは共同でミルン・ショウ式地震計を開発するまでに至る。後にグレイ・ミルン式地震計は1924年で姿を消し、以降はミルン・ショウ式地震計が取って代わることになる。 研究に没頭する中、わずかな余暇の時間をミルンはフルに活用したようだ。ミルンはゴルフやクローケーが好きで、ゴルフに出掛ける時はいつも愛犬ビリーを連れて行ったという。加えて、広田助手と共に写真も趣味にし、ワイト島写真クラブの会長を務めていたとされる。ミルンは何事も懲り出すととことん追求するタイプだったのだ。
謙虚な愛妻家、逝く
シャイドでの地震観測に二人三脚で取り組んできた広田助手が体調不全から1912年12月に日本へ帰国、その後間もなく亡くなった。ミルンもつられるように具合を悪くしていた。ブライト病に冒されており、絶えず頭痛に苦しめられていた。1913年7月半ばにはベッドから起き上がれず、月末に昏睡状態に陥り62歳で亡くなった。 葬儀はニューポートの教会で執り行われ、多くの人が弔意を表すために足を運んだ。日本からは九条男爵が大正天皇の代役として参列した。井上大使は弔意で「英国と世界の科学界にとって、そしてその名前が決して忘れられることのない日本にとって大きな喪失です」と述べている。ミルンは同じくニューポートのセント・ポール教会に埋葬された。 ミルンの突然の死は、学術界に「ショック・ウェーブ」を巻き起こした。英国高等科学研究所や国際地震学協会がミルンの功績を振り返り敬意を表し、偉大な科学者の他界を惜しんだ。 研究者としてだけではなく、人間的にも多くの人に影響を与えたことは、日本時代からの同僚かつ友人であったジョン・ペリーの言葉からもわかるだろう。「ミルンの才能は、自分の研究にあらゆる人を惹きつけることができたことだ。一方でミルンは謙虚だった。地震学以外の分野にも興味を示し、他の研究から学ぼうとした。そしてミルンは最高の友人だった。日本でもシャイドでもいつも時間を作ってくれ、大切にもてなしてくれた」。 ミルンはまた、妻思いの良き夫だった。トネを残して逝くことを非常に懸念し、トネが経済的にも社会的にも困らないようにあらゆる配慮を行っていた。トネは一人になってからもシャイドでの生活をしばらく続けたが、体調を崩してしまう。函館への恋しさも募り、また、トネを英国に引き留めるものもなくなり、トネはついに帰国。愛する函館で、1919年に生涯を終えた。1926年に函館墓地で、ジョンとトネ・ミルンの追悼式が催され、2人の墓石が立てられている。
今に生きるミルンの情熱
「地震学の父」ミルンの業績は日英の各団体から認識され称賛された。1895年、英国に戻った直後、明治天皇から異例の勲三等旭日章と年千円の恩給が授与された。英国王立協会からは誰もが望むロイヤル・メダルを、オックスフォード大学からは名誉学位を、そして東京帝国大学からは名誉教授の称号が授与された。これらは受章の数々のごく一部だ。
工部大学校での教え子や日本地震学会の同僚の中には、ミルンに強く影響を受けその後の日本の地震研究に大きく寄与した者も枚挙にいとまがない。初の日本人地震学教授となった関谷清景は、開成学校(現東京大学)の地震研究所でミルンの指導を受け、地震計の完成に協力している。関谷の後継者の大森房吉は、ミルンと共に、1891年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。濃尾地震が与えたショックは大きく、大森等が中心になり帝国議会に地震の専門研究機関の設置を申請。18年間にわたる地道な活動を経て、1929年に現在の形の日本地震学会が創立されたのだった。
大森はミルンの地震計の改良も行った。1898年に、世界初の連続記録可能でより精密に振動を探知する大森式地震計を開発し、その後に続く国内での地震計開発の基盤を築いた。
英国ではミルンの死後も、地震学においては、ミルンが強調した優れた地震計による正確なデータの収集と、学術協力体制の整備が進められた。シャイド観測所は地震学調査委員会の会長に引き継がれ、1919年にオックスフォードに移転した。日本では日本地震学会が帝国地震調査委員会へと発展。地震観測所国際ネットワークの発足は、国際協力と地震観測網を夢見たミルンを大変喜ばせたことだろう。
ミルンが後世に残したものは、ひと口にまとめることができないほど大きい。科学と地震学における実質的な研究成果は言うまでもないが、さらに広い視野で将来を見据えた共同研究、日英連携、国際協力の基盤を築くために、彼が注いだ情熱は、火山の大噴火を招くマグマのように、今も強いエネルギーを発し続けているのである。
 
法律

 

グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック
Guido Herman Fridolin Verbeck (1830〜1898)
法律、旧約聖書の翻訳(蘭)
オランダ人宣教師。母国で工学を学んだ後、アメリカに移住。1859年来日し、幕府が長崎につくった英語伝習所(済美館)の英語講師となり、維新後は上京し東大の前身である開成学校の講師(初代教頭)、南校の教頭、そして明治学院で講師・理事を務めた。南校時代の月給は太政大臣の三条実美が800円、参議が500円の時代に600円という高給だった。坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、勝海舟、桂小五郎など幕末の主な志士たちを集めて撮ったといわれる謎の「フルベッキ写真」でも有名。 
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オランダ出身で、アメリカ合衆国に移民し、日本に宣教師として派遣され活躍した法学者・神学者、宣教師。日本で発音されやすいようフルベッキと称したことから、現在に至るまでこのように表記されている。
1830年にオランダ、ユトレヒト州のザイストで資産家の父カールと教育者の母アンナとの間に8人兄弟の6番目の子供として生まれた。フルベッキ家は代々モラヴィア派に属していたので、フルベッキはモラヴィア派の学校に通い、同派の学校でオランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を習得している。また、同派で洗礼を受けた。ただしザイスト市の資料では、家族全員がルター派として登録されている。フルベッキはモラヴィア派の影響で、宗派的な対立には寛容であったとされる。少年時代、中国宣教師のカール・ギュツラフにより東洋宣教の話を聞き、海外伝道に興味を持っていた。モラヴィア派の学校を卒業後、ユトレヒト工業学校に進学し、工学を学んだ。
アメリカ移住
1852年9月2日、22歳のフルベッキはニューヨーク州オーバン市にいた義理の兄弟の招きでアメリカに渡り、ウィスコンシン州の鋳物工場で働くようになる。1年後にニューヨークに移動、更にアーカンソー州でエンジニアとして働くことを選び、橋や機械類をデザインした。同じ時期に南部の奴隷たちの状態を見て心を痛め、またハリエット・ビーチャー・ストウの兄弟であったヘンリー・ウォード・ビーチャーの教えにも心を動かされる。その後1854年の夏にコレラにかかり重症となるが、完治した暁には宣教者になることを誓った。奇跡的に回復したフルベッキは1855年にニューヨーク市にある長老派のオーバン神学校に入学した。神学生の時に、サミュエル・ロビンス・ブラウンの牧会するサンド・ビーチ教会で奉仕をした。これをきっかけに、ブラウンと共に日本に宣教することになる。
1859年オーバン神学校を卒業する時に、ブラウン、シモンズと一緒に米国オランダ改革派教会の宣教師に選ばれた。直後の3月22日長老教会で按手礼を受けるが、翌日改革教会に転籍して、正式に米国オランダ改革派教会の宣教師に任命された。4月18日にマリア・マンヨンと結婚し、5月7日にサプライズ号で、ブラウン、シモンズと共に日本へ向けてニューヨーク港より出版した。
長崎
上海に一時寄港した後、ブラウンとシモンズは先に神奈川に渡り、上海に妻マリアを残して11月7日に、日本語習得のために長崎に一人で上陸した。フルベッキは長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。長崎では聖公会のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズに迎えられ、崇徳寺広徳庵に同居した。その後、12月19日に妻マリアを上海より呼び寄せた。1860年1月26日には長女を授かり、エンマ・ジャポニカと命名するが、生後2週間で死去する。
長崎では、開国後も依然としてキリシタン禁制の高札が掲げられており、宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていた。1862年には、自宅でバイブルクラスを開いた。また1861年から1862年にかけては佐賀藩の大隈重信と副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けている。1863年(文久3年)の生麦事件をきっかけとした薩英戦争の時は上海に避難して、1864年に長崎に戻った。また大隈重信と副島種臣はこの頃から、フルベッキから英語の個人授業を受けている。大隈はフルベッキの授業によってキリスト教に興味を抱いたと述懐している。
1864年(元治元年)には、長崎奉行より幕府が長崎につくった長崎英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所→済美館→広運館などと呼ばれた)の英語講師への招聘があり、フルベッキはお雇い教師として幕府に雇われることになった。済美館の教え子には何礼之、平井希昌がおり、また大山巌も学生の一人であったといわれている。なお、上野彦馬が撮影したフルベッキの写真(済美館の生徒と共に写る集合写真)が長崎歴史文化博物館に残されている。何礼之はその後私塾を開き、前島密、陸奥宗光、高峰譲吉、安保清康、山口尚芳らを輩出した。何礼之私塾の塾生はフルベッキのアドバイスや援助も受けていた。
慶応3年11月、佐賀藩前藩主の鍋島直正等と親交があった関係で、佐賀藩がフルベッキを雇用することになった。しかし佐賀藩が外国人の立ち入りを認めなかったため、フルベッキのために長崎に藩校「蕃学稽古所(慶応4年8月25日以降は致遠館)」が設立された。英語、政治、経済などについて講義をしている。また、オランダで工科学校を卒業した経歴から工学関係にも詳しく、本木昌造の活字印刷術にも貢献している。同年には佐賀藩家老の村田若狭と弟綾部恭に洗礼を授け、1868年には仏僧清水宮内に洗礼を授けた。伊藤博文はフルベッキの門弟だったといわれることもあるが、伊藤は長崎に長期滞在したこともなく、直接の関わり合いを示す文書は残っていない。しかし伊藤はフルベッキが滞在していた大徳寺に宿泊したことがあり、フルベッキの弟子である何礼之の弟子、芳川顕正を大徳寺に呼び寄せて英語を学んでいたことから、両者の間に何らかの接触があったと見られている。またほかに相良知安、山口尚芳、本野盛亨らを輩出している。
慶応3年から4年にかけては薩摩藩や土佐藩によるフルベッキの引き抜きが行われようとしたが、大隈らが1000両の給金を支払うよう藩にかけあったことで決着している。明治元年には岩倉具視の子、岩倉具定と岩倉具経が門弟となり、致遠館で学んだ。
東京
1869年(明治2年)2月13日に、フルベッキは突然明治政府より、大学設立のために江戸に出仕するように通達を受ける。到着したばかりの後任宣教師ヘンリー・スタウトに伝道を引き継ぎ、江戸に向かった。江戸では、法律の改革論議の顧問と大学の設立の仕事だった。
1868年6月にフルベッキは大隈重信に、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、1871年11月に欧米視察のために使節団を派遣することになった(岩倉使節団)。直前までフルベッキが岩倉に助言を与えていた。1877年には、日本政府より勲三等旭日章を授与された。
1868年に復興した開成学校(旧幕府開成所)の教師を務めながら、学校の整備を行い、1869年12月には大学南校と改称した(1873年には再び開成学校)。
大学南校在職中の1870年10月から1873年まで教頭を務め、規則や教育内容の充実に努めた。大学南校在職中の1871年(明治4年)10月5日、明治天皇より学術の功績への感謝と更なる発展への期待を希望する旨の勅語を賜わる。1872年には、福井藩明新館で教師をしていたウィリアム・エリオット・グリフィスを呼び寄せて、化学の教授をさせた。ダビッド・モルレーが文部省より督務館として召還されたときには大変信頼し、高橋是清に家を探させた。
1873年(明治6年)に政府左院において翻訳顧問となり、1875年(明治8年)から1877年(明治10年)まで元老院に職を奉じた。この間の1874年(明治7年)にラトガース大学より神学博士の学位を授与された。しかし、宣教師としての活動に意欲を見せるようになり、1877年(明治10年)9月に官職を退き、東京一致神学校や華族学校(学習院)の講師を務めた。
1878年7月には一時アメリカに帰国するが、翌1879年には宣教師として再来日する。
1886年(明治19年)明治学院の開学時には、理事と神学部教授に選ばれて、旧約聖書注解と説教学の教授を務めている。1888年には明治学院理事長を務める。
1884年には高崎や高知に、1885年には板垣退助と共に高知市に渡り、伝道活動をした。また、長崎にもたびたび伝道旅行をした。1883年4月大阪で開かれた宣教師会議で「日本におけるプロテスタント宣教の歴史」について講演した。1878年には日本基督一致教会中会で旧約聖書翻訳委員に選ばれ、文語訳聖書の詩篇などの翻訳に携わった。1888年2月の旧約聖書翻訳完成祝賀会では、フルベッキが聖書翻訳の沿革について講演した。
1898年(明治31年)3月10日昼頃、フルベッキは赤坂葵町の自宅で心臓麻痺のために急死した。葬儀は、3月13日に芝日本基督教会で行われ、ディビッド・タムソン宣教師が司式し、ジェームス・ハミルトン・バラが説教をした。遺体は青山墓地に埋葬されている。
龍馬に小五郎、明治天皇が一緒に フルベッキ写真の謎
幕末の著名人たちが一緒に写っている謎の写真がある。一般にフルベッキ写真といわれるものだが、当時、敵対関係にあった者たちが同じ写真に収まっているのはおかしいと、その真偽については謎だ。
日本人とカメラの関係は深い。欧米人が日本人に抱くイメージは、眼鏡をかけており、小柄でいつも首にカメラを下げているというビジュアルが多い。われわれ日本人は、見るものすべてを映像として残しておきたいという欲求に駆られる民族なのであろうか。日本における写真の歴史は江戸末期までさかのぼる。1841年、鎖国中の日本と交易をしていたオランダから長崎へと技術が伝来した。島津藩の御用商人である上野俊之丞がカメラを購入し、当時島津藩主であった島津斉彬へと献上された。さらに1862年には上野俊之丞の四子・上野彦馬が長崎で日本初の写真館を開設した。だが、当時の庶民が写真に抱くイメージは、「写真を撮ると魂を吸い取られる」という疑心に満ちたものであった。そのため、当初は客足が少なかった。
しかし、坂本龍馬を初めとした西郷隆盛、中岡慎太郎など幕末の志士たちが次々と写真撮影をしていることがうわさで流れ、人々は写真撮影を好んで行うようになっていった。幕末時に撮影された写真は、現在でも残されており、当時を知る貴重な資料になっている。
その中でも最も貴重な写真として世間で喧伝されているワンショットがある。それがフルベッキ写真である。フルベッキ写真とは、法学者であり宣教師でもあったオランダ人のフルベッキを中心に、坂本龍馬や勝海舟、中岡慎太郎、西郷隆盛、桂小五郎、高杉晋作、さらには明治天皇まで写っているという非常に不可思議な写真である。この写真は現在でも実際に存在する。フルベッキ写真には確かに幕末の志士と思われる人物たちが写っている。しかし、不思議であるのは長崎という土地に藩や組織を超えて一同に会し、集合写真を撮っているという点である。そのため、フルベッキ写真は偽造された写真ではないかとの見解が強い。しかし、フルベッキ写真が本物であった説を推している研究家たちも存在する。彼らの説では、フルベッキ写真は1865年に撮影されたと推定されている。だが、実際にこの年に撮影されたとなると、大きな矛盾が生じる。当時犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩が共に写真を撮影するだろうか。坂本龍馬が薩摩・長州の間を取り持つのは、この後のことである。現在のところ、フルベッキ写真に写っているのはフルベッキとその弟子たちであったとの説が強い。当時、フルベッキは長崎において法学や神学を教えていた。その弟子たちが、著名な幕末の志士たちに酷似していたというのだ。謎のフタを開けてみればなんとも単純なこの写真。しかし、フルベッキ写真が本物であったとすれば、非常に貴重な当時の資料となる。

「フルベッキ写真」とは、フルベッキとその子を囲んで撮影された集合写真の俗称。
この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』(博文館)で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文を発表した(2年後の1976年にはこの論文の続編を同誌に発表)。島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。佐賀の学生達として紹介された理由は、「敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした。
この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていた。また、1985年(昭和60年)には自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという。また、2004年(平成16年)には、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。
2009年現在、朝日新聞と毎日新聞は「フルベッキ写真の陶板」広告を掲載し続けている。
この写真の話題は間歇的に復活して流行する傾向がある。ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は22人であったが、流通する度に徐々に増加、現在では44人全てに維新前後の有名人物の名がつけられている。
現在でも土産物店などでこの説を取り入れた商品が販売される事がある。
また、大室寅吉という名で後の明治天皇が写っているとした説や、「明治維新は欧米の勢力(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」説等の陰謀論、偽史の「証拠」とされた例もある。 
『明治維新の極秘計画』書評 
刺激的な本書の書名となっている「明治維新の極秘計画」とは何か? 
それはズバリ、副題にある「堀川政略」である。
詳細については、本書を購入して読んでもらうしかないが、著者がこの「極秘計画」に想到するに至るには10年20年という永い年月がかかったことが窺われる。
本書には「さる筋」という正体不明の情報源が随所に登場するが、その人物が洩らした片言双句を書き留め、永い年月をかけてじっくりと吟味し、また関連する史実を丹念に拾い集め、それらを素材として堂々たる一大建築物に築き上げたのが、本書である。
著者の真摯かつ不撓不屈の探究心がもたらした成果と言えよう。そもそも、わが国要所によって「堀川政略」にいたる一大戦略を準備する必要が痛感された契機は、ナポレオン戦争後のヨーロッパにおける国際秩序を取り決めた「ウィーン議定書」(1815年6月9日成立)が結ばれ、続いて同年9月26日にロシア皇帝アレクサンドル1世の呼びかけで「神聖同盟」が成立したことにあったと著者は言う。
鎖国時代のわが国にとって遙か彼方の世界の無縁な出来事と言うべき、ヨーロッパ列強間に結ばれた「神聖同盟」に対して、なにゆえにわが国要所が危機感を抱いたか。
ここが「落合史観」の面目躍如たるところで、通説では例えばウィキペディアに説くように「これはキリスト教的な正義・友愛の精神に基づく君主間の盟約であり、各国を具体的に拘束する内容があったわけではなかった」とするが、著者は「しかしながら、神聖同盟の真の意味は、実は『欧州王室連合』の成立にあり、それは將來の『世界王室連合』を睨んだものだったのです。つまり欧州各王室の目は、この時すでに、遠く極東の日本皇室に向けられていました。欧州王室連合は世界王室連合に向かって発展するために、日本皇室に参加を求める方針を建てたのです」と説くのである。
そして著者に拠れば、このことをもっとも敏感に察知されたのが、第119代光格天皇(在位1779〜1817)である、とする。すなわち、光格天皇に始まる危機意識の結実こそ「堀川政略」である、と見るのである。
おそらくは著者によって初めて命名された「堀川政略」なるものの詳細とその担い手については、実際に本書に当たってもらうしかないが、倒幕をも視野に入れた公武合体策を骨子とするこの変革計画が、なにゆえに薩長土肥による「民衆革命的様相」を色濃くするに至ったのかについては、著者の説明が充分ではないように思われる。
本書は「落合秘史''T」と銘打たれているから、あるいは続編たる「落合秘史U、V」で明らかにされるのかも知れないが、期待も込めて、ここに愚見を述べておきたい。
欧州王室連合から世界王室連合への動きを捉え、これに対応する必要をわが皇室が察知されていたとするのは著者の炯眼と言うほかないが、このいわば「上からの世界戦略」と軌を一にして「下からの世界戦略」が用意されていたのではないかと疑われる節がある。
それは「民衆こそ神である」と標榜したジェノヴァ人ジウゼッペ・マッチーニを宣伝塔として起用した「世界青年党運動」である。「世界青年党運動」と言っても耳慣れない言葉で、せいぜいフリーメーソンの世界革命運動で、そういえば100年後のケマル・アタチュルクによる「青年トルコ党」がトルコ革命の中核となって近代国家トルコの誕生をもたらした、というくらいの知識しかわれわれは持ち合わしていない。
だが、ウィーン議定書による欧州新秩序ウィーン体制から生まれた「神聖同盟」に大英帝国が不参加だったこと、および原参加国の3国が100年後に勃発する第一次世界大戦により消滅したという史実に鑑みれば、ロンドンのシティを拠点とするフェニキア=ヴェネツィア世界権力の仕掛けた世界戦略の主眼が「世界王室連合」の結成にではなく、「世界青年党運動」の連鎖的発動にあったことは間違いない。
「世界青年党運動」は実に、英国を簒奪したヴェネツィア党が仕掛けた一大世界革命戦略であって、あまりにも巨大なその世界的広がりと規模の甚大さによって世界史の通説からすっぽりと見落とされているが、「神聖同盟」の向こうを張った「人民神聖同盟」が「青年ヨーロッパ党」として結成されたのを始め、深甚な影響をもたらした各国の例を試みに挙げてみると、「青年イタリア党」「青年スイス党」「青年コルシカ党」(マフィア同盟)「青年フランス党」「青年アルゼンチン党」「青年ボスニア党」「青年インド党」「青年ロシア党」「青年アメリカ党」「青年エジプト党」「青年チェコ党」「青年トルコ党」「青年ペルー党」……など一一挙げるのも面倒なほどで、「青年ユダヤ党」も結成され、それは「ブナイ・ブリス」(契約の子)と呼ばれることになる。
わが国の明治維新が「堀川政略」の企図した公武合体路線から逸脱して薩長土肥による士族・下士革命へと偏向したのは、薩摩藩論転換と薩長同盟の結成を契機としたとすれば、そのいずれにも英国が関与していることに鑑みると、世界的青年党運動の日本版が「薩長同盟」だったと見ても強ち外れてはいまい。
すなわち、「薩長同盟」を中核とする薩長土肥の士族・下士によって結成された「青年日本党」が明治維新の実行部隊であった、と言えるのではなかろうか。そして、わが国に「青年日本党」を誕生させ育成する役割はオランダの改宗ユダヤ人(マラーノ)であるグイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck)、すなわち日本表記でフルベッキ(1830〜1898)に委ねられたと見るべきであろう。
「大楠公崇拝」が明治維新に向けた「堀川戦略」による一大思想運動だったことを本書によって教えられたが、上に述べた世界的人民革命の暴力的破壊性を辛くも凌いで、よく日本風に緩和した功績こそ「大楠公崇拝」思想運動に帰せられるべきではないかとも思うのである。
いずれにしても、鳥羽伏見の戦いや彰義隊の戦闘、あるいは奥州列藩同盟の戦い、ひいては西南の役などの戦闘行為はまったものの、わが国が幕府を支援するフランスと薩長を使嗾する英国による代理戦争の戦場になった末に両国の植民地に分割される運命を免れ、今なお日本語を使い続けていられるのは、明治維新を計画し遂行した先達の辛苦の賜物と考えなければならない。  
わが国固有の文明を破壊して日本を日本でなくそうとする世界権力の圧力は日米安保やTPPを始めとして今日もまた厳然として降りかかっているが、明治の大変革をいかに準備し、いかに遂行したか、その功罪と瑕疵とを充分に認識することが最大の指針となることは間違いない。
その意味で、維新の内実に一歩も二歩も踏みこんで、「堀川政略」の存在を探り当て、この政略なくしては維新そのものがあり得なかった、と結論する本書は、今日の世界的な一大転換期においてわが国のために出るべくして出た必然の書であると言うことができる。 
従来の通説において、惰弱怯懦の人格に貶められてきた徳川十五代将軍慶喜公の顕彰を果したことも本書の功績の一つである。
「一身を以て幕藩体制を終わらせ日本近代化に決定的役割を果した慶喜公に関する尊称の省略は心苦しく感じますが、文中では史筆の常道に従い、原則として省略いたします」と断った上で、著者は言う。
「しかし慶喜は、これを自ら本来の運命と受け取り、戊辰戦争では怯懦を装い敢えて無為に徹し、幕藩体制の大リストラを間接的に敢行しました。戊辰戦争では多少の犠牲を伴いましたが、いかなる革命においても不可避とされる階級抗争による大流血と、それに付けこむ外国の内政介入を防いだことは、家康の元和偃武(天下の平定)と並ぶ日本史上最大の偉業であることは論を俟ちません。しかも、渋沢と同じく吾人をして感動せしめるのは、敢えて天下の不評を一手に引き受けながら、この世を去るまでその心情を一切洩らさなかった人格の高潔さであります。慶喜こそ正に、出るべくして世に出てきた運命の英傑であります」。
慶喜公に対するこの顕彰に、愚生もまた満腔の賛意を感ずるものである。
渋沢栄一翁とその末裔歴代の出処進退に敬服の念を禁じえない愚生は維新後における慶喜公の影響を薄々とは感じていたが、慶喜公がこれほどの人物であったことを教えられたのは本書のお蔭である。
この感慨が愚生一人の経験でないことは、我々の仲間内で東洋文庫版『徳川慶喜公伝』(全四巻)を早速に購入して読みはじめた者が他にもあることから明らかである。
なぜなら、著者が「堀川政略」に想到したのは、「さる筋」による片言双句の示唆によるとはいえ、この渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』を熟読味読して眼光紙背に徹した結果であることが語られているからである。誰の前にもあった資料を熟読吟味して言わんとするところを正確に汲み取り、また言わんとしても言えなかったことにも思いを致して勘案を巡らしたからこそ、本書が生まれたのだとも言えるからである。 
裏天皇の正体
 明治維新の極秘計画 
「そもそもわが国要所によって「堀川政略」にいたる一大戦略を準備する必要が痛感された契機は、ナポレオン戦争後のヨーロッパにおける国際秩序を取り決めた「ウィーン議定書」(1815年6月9日成立)が結ばれ、続いて同年9月26日にロシア皇帝アレクサンドル1世の呼びかけで「神聖同盟」が成立したことにあったと著者は言う。
鎖国時代のわが国にとって遙か彼方の世界の無縁な出来事と言うべき、ヨーロッパ列強間に結ばれた「神聖同盟」に対して、なにゆえにわが国要所が危機感を抱いたか。ここが「落合史観」の面目躍如たるところで、通説では例えばウィキペディアに説くように「これはキリスト教的な正義・友愛の精神に基づく君主間の盟約であり、各国を具体的に拘束する内容があったわけではなかった」とするが、著者は「しかしながら、神聖同盟の真の意味は、実は『欧州王室連合』の成立にあり、それは將來の『世界王室連合』を睨んだものだったのです。つまり欧州各王室の目は、この時すでに、遠く極東の日本皇室に向けられていました。欧州王室連合は世界王室連合に向かって発展するために、日本皇室に参加を求める方針を建てたのです」と説くのである。そして著者に拠れば、このことをもっとも敏感に察知されたのが、第119代光格天皇(在位1779〜1817)である、とする。すなわち、光格天皇に始まる危機意識の結実こそ「堀川政略」である、と見るのである。
欧州王室連合から世界王室連合への動きを捉え、これに対応する必要をわが皇室が察知されていたとするのは著者の炯眼と言うほかないが、このいわば「上からの世界戦略」と軌を一にして「下からの世界戦略」が用意されていたのではないかと疑われる節がある。それは「民衆こそ神である」と標榜したジェノヴァ人ジウゼッペ・マッチーニを宣伝塔として起用した「世界青年党運動」である。「世界青年党運動」と言っても耳慣れない言葉で、せいぜいフリーメーソンの世界革命運動で、そういえば100年後のケマル・アタチュルクによる「青年トルコ党」がトルコ革命の中核となって近代国家トルコの誕生をもたらした、というくらいの知識しかわれわれは持ち合わしていない。だが、ウィーン議定書による欧州新秩序ウィーン体制から生まれた「神聖同盟」に大英帝国が不参加だったこと、および原参加国の3国が100年後に勃発する第一次世界大戦により消滅したという史実に鑑みれば、ロンドンのシティを拠点とするフェニキア=ヴェネツィア世界権力の仕掛けた世界戦略の主眼が「世界王室連合」の結成にではなく、「世界青年党運動」の連鎖的発動にあったことは間違いない。
「世界青年党運動」は実に、英国を簒奪したヴェネツィア党が仕掛けた一大世界革命戦略であって、あまりにも巨大なその世界的広がりと規模の甚大さによって世界史の通説からすっぽりと見落とされているが、「神聖同盟」の向こうを張った「人民神聖同盟」が「青年ヨーロッパ党」として結成されたのを始め、深甚な影響をもたらした各国の例を試みに挙げてみると、「青年イタリア党」「青年スイス党」「青年コルシカ党」(マフィア同盟)「青年フランス党」「青年アルゼンチン党」「青年ボスニア党」「青年インド党」「青年ロシア党」「青年アメリカ党」「青年エジプト党」「青年チェコ党」「青年トルコ党」「青年ペルー党」……など一一挙げるのも面倒なほどで、「青年ユダヤ党」も結成され、それは「ブナイ・ブリス」(契約の子)と呼ばれることになる。
わが国の明治維新が「堀川政略」の企図した公武合体路線から逸脱して薩長土肥による士族・下士革命へと偏向したのは、薩摩藩論転換と薩長同盟の結成を契機としたとすれば、そのいずれにも英国が関与していることに鑑みると、世界的青年党運動の日本版が「薩長同盟」だったと見ても強ち外れてはいまい。すなわち、「薩長同盟」を中核とする薩長土肥の士族・下士によって結成された「青年日本党」が明治維新の実行部隊であった、と言えるのではなかろうか。そして、わが国に「青年日本党」を誕生させ育成する役割はオランダの改宗ユダヤ人(マラーノ)であるグイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck)、すなわち日本表記でフルベッキ(1830〜1898)に委ねられたと見るべきであろう。」

「わが国の明治維新が「堀川政略」の企図した公武合体路線から逸脱して薩長土肥による士族・下士革命へと偏向したのは、薩摩藩論転換と薩長同盟の結成を契機としたとすれば、そのいずれにも英国が関与していることに鑑みると、世界的青年党運動の日本版が「薩長同盟」だったと見ても強ち外れてはいません。すなわち、「薩長同盟」を中核とする薩長土肥の士族・下士によって結成された「青年日本党」が明治維新の実行部隊であった、と言えるのではないでしょうか。そして、わが国に「青年日本党」を誕生させ、育成する役割はオランダの改宗ユダヤ人(マラーノ)であるグイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck)、すなわち日本表記でフルベッキ(1830〜1898)に委ねられたと見るべきです。
薩長土肥の下士たちが「薩長同盟」を中核として、いわば「青年日本」党を結成し、これが、明治維新の実行部隊となった可能性を指摘する天童は、結論として、幕末日本に「青年日本」党を誕生させて育成する役割が、オランダの改宗ユダヤ人のフルベッキに委ねられていたと推断します。委ねた者について天童は明言しませんが、ヴェネツィア党(世界秘密結社ワンワールド勢力)を指していることは文脈上明らかです。
世界中を席巻したマッツィーニの青年党運動はヴェネッツィア党(ワンワールド勢力)が世界中で一斉に仕掛けた「下からの社会改革思想」によるものであって、日本だけ例外扱いする訳はないと考えます。
そこでウラ天皇はワンワールド勢力の日本侵入に先手を打ち、予め導入しておいた青年党思想を逆利用して、国内の体制不満のガス抜きをすることでした。
いわば、「下からの改革に対する上からの対策」です。この奇策の目的は、同胞相撃つ悲劇を最小に止めながら、新しい社会体制度にむけて改革を進める為ですが、改革に必要な旧体制の破壊を避けては通れません。
欧州では、社会改革の主体がこの頃に中産階級から労働者階級に移ります。1848年2月にフランスで起こった市民革命が、欧州各地に飛び火して三月革命となり、「諸国民の春」とよばれますが、この年に欧州各地で発生した市民革命はウィーン体制を事実上崩壊させたと観られて「1848年革命」と総称されます。
鍋島藩士副島種臣の実の兄で、同じく鍋島藩士の枝吉神陽が鍋島藩に楠公義祭同盟を結成し、各藩の楠公尊崇運動の魁を成します。
伏見海外ネットワークの工作で来日したフルベッキを、長崎で待ち受けた矢野玄道の指示を受けた鍋島藩士副島種臣は彼から得た世界青年党思想を京都の矢野玄道に届けると、玄道は何と、楠公義祭同盟で枝吉神陽が唱道している楠公尊崇とこれを結びつけ、楠公精神復興運動を以て、日本流の「青年日本党」運動とすることを図ったのです。
ウラ天皇が固より青年党運動の日本への波及を憂慮したが、それは当時の日本人が未だ欧州流のテロリズムのなんたるかを知らなかったからである。
ゆえに、先手を打って欧州テロリズムを導入し、国民をしてこれに慣れさせ、自ら対応策を編み出させることにしました。
つまりウラ天皇が尊王攘夷運動を発起させ、旧体制への不満を少しずつ発散させ、大きな破壊的暴動になることを押さえ、更に欧州からの文化テロリズムに対する予行練習です。」

ここまでの内容を一端整理してみましょう。倒幕運動、薩長同盟が欧州青年党運動の日本版という落合氏の提起はその通りです。しかし、それが欧州テロリズムの侵入を防ぐ為に、裏天皇が仕組んだガス抜きという説は間違いだと考えるべきです。下記引用は尊王=倒幕となった詳しい経緯を説明した一文です。
尊皇=倒幕
「一方、高杉晋作ら過激派テログループの悲願は「倒幕」。 つまり攘夷なんかよりも、自分らが日本の政権を握ることに野心を燃やしていた。
いわば、高杉ら過激派の活動は、攘夷の邪魔にこそなれ、長州藩の思惑とはまったく関係のないところで動いていたわけである。
だからこそ、長州正規軍と高杉率いる奇兵隊は相容れず仲が悪い。
それは同年に起きた「教法寺事件」で、奇兵隊が長州正規軍を襲撃したことで表れている。
これも、そういった実情を考えれば不思議なことではない。
この過激派テログループの自分らが日本の政権を握る野望と、幕府を倒して公家の時代を到来させたい過激公家たちが結託して掲げたスローガンが「尊皇=倒幕」である。
いつの時代でも、世情不穏になるとその黒幕になって国家転覆を企むのは公家の伝統行事みたいなものである。
こうして過激派テログループや倒幕派公家たちの陰謀によって攘夷運動がいつの間にやら尊皇(倒幕)思想に巻き込まれていき、京都に長州や各地のテロリストたちが結集、「天誅」の名の下に攘夷テロの嵐が吹き荒れることになる。
ここで確認であるが、「尊皇」と「攘夷」は本来別モノ。
「倒幕」を企むテロリストたちが、公家たちにそそのかされ掲げたのは「尊皇」、当事者である孝明天皇が掲げていたのは「攘夷」である。
孝明天皇はこの倒幕派公家と過激派テロリストたちを危険視する。 当たり前である。」

上記引用を踏まえて考えると下記のような事実が浮かび上がってきます。
幕府の攘夷論は年々高まる西欧侵略圧力に対応するために、尊王論は江戸末期から幕府体制の不安定化に対応する秩序化(社会統合)期待から登場しました。
元々は別物で共に倒幕は意図していませんでした。
その後、尊王攘夷論として合流します。それが裏天皇と幕府が形成した公武合体論(朝廷と幕府が一体となって、西欧の侵入圧力に対応する)です。当初は薩摩も公武合体論に賛成の立場でした。
一方、尊王論、攘夷論→倒幕論へ無理矢理すり替えたのが、長州過激派と倒幕派公家の一部で、共に金貸しの手先でした。次いで薩摩も公武合体論の裏天皇、幕府を裏切り、倒幕論へ転向しました。これも金貸しの指示でした。
金貸しは薩長同盟VS幕軍の内乱をけしかけ、日本支配を図りました。
裏天皇と慶喜の大政奉還で内戦を回避しましたが、内戦回避によって、明治政府内には裏天皇派と金貸し派(薩長)の対立(並立)構造は温存される結果となりました。
もともと尊王論も攘夷論も倒幕を意図したものではありませんでした。
倒幕論は1864年から金貸しの手下の長州過激派と公家が仕掛けたものです。
その倒幕論からどのようなことが起こったのか?また、それに対して天皇と裏天皇はどのような対応をしたのか?
 
ギュスターヴ・エミール・ボアソナード

 

Gustave Emil Boissonade (1825〜1910)
刑法、刑事訴訟法、民法、司法省法学校教員、太政官法制局御用掛(仏)
パリ大学卒のフランスの法学者。グルノーブル大学、パリ大の助教授などを経て明治政府の招きで1873年来日。刑法・治罪法・民法を草案した。このうち民法は日本の風俗習慣に適さずとして反対され施行はされなかった。司法省法律学校、東京大学で教鞭をとり、西欧法学の移入に尽くした。 
2
フランスの法学者、教育者。日本の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務顧問、国際法顧問、法律取調委員会委員等を歴任。勲一等旭日大綬章受章。呼称については、ボワソナード、古くはボアソナド、ボワソナドとも表記される。
ヴァル=ド=マルヌ県ヴァンセンヌ出身。父ジャン・フランソワ・ボアソナードはパリ大学教授で著名な古典学者(ギリシャ語の研究)。普仏戦争ではパリに篭城した。 明治初期に来日したお雇い外国人の一人。幕末に締結された不平等条約による治外法権に代表される不平等条項の撤廃のため、日本の国内法の整備に大きな貢献を果たし、「日本近代法の父」と呼ばれている。司法省明法寮、司法省法学校のほか、東京法学校(現法政大学)、明治法律学校(現明治大学)、旧制東京大学でも教壇に立ち、東京法学校では教頭も務めた。これらの学校は日本法学の草分けとなる人材を多く輩出した。行政・外交分野でも日本政府の顧問として幅広く活躍し、旭日重光章(外国人として最初の叙勲)、勲一等瑞宝章、勲一等旭日大綬章と日本の勲章を三度受章した。
日本法の近代化
明治政府の最大の課題は日本の近代化であった。そのためには不平等条約撤廃の前提として列強各国が日本に対して要求していた近代法典(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法の5法典。参照六法。)を成立させる必要があった。
そこで、日本政府はヨーロッパで評価の高いナポレオン・ボナパルトの諸法典をモデルとすることを決め、有意の人物を捜していたが、ボアソナードがパリの川路利良ら司法省の西欧視察団(8人)に法律の講義をしていたのがきっかけで明治政府により法律顧問として招聘を受けた。彼は当初日本に渡航することに難色を示していたが、パリ大学の教授ポストが当分空かないことなどの事情から日本渡航を決意したといわれている。
ボアソナードは、来日後、法律顧問に就任し、司法省法学校において10年にわたってフランス法の講義をしたが、自然法原理主義者であった。
彼は、単に外国法を丸写しするような法律の起草には反対して、日本の慣習法などを斟酌して日本の国情と近代的な法制との合致を重んじた態度で法典整備を進めるべきだと主張して、時の司法卿大木喬任から信任を得て、日本の国内法の整備にあたる様になった。
刑事法の起草
法典の編纂はまず、刑法典と治罪法典(現在の刑事訴訟法)から行われた。その理由は、江戸時代までは各藩が独自の法度を制定し、藩によって刑罰がまちまちであったためその統一が急務であったからである。明治期に入り明治政府が仮刑律(1868年)、律綱領(1870年)、改定律例(1873年)と立て続けに刑事法の制定を行ったのも刑罰権を新政府が独占するためである。しかし、その骨子は従前同様中国法を直接継受して作られたもので、これまでの日本における律令と大きな違いはなく、改定律令は西洋刑法思想を取り入れ律的罪刑法定主義ともいわれるほど個別の犯罪要件を個別的に明確に規定していたものの近代刑法と呼ぶに及ばないものであった。そこでボアソナードに母国フランスの刑法、治罪法を模範として刑法典ならびに治罪法典の起草が命じられた。
ボアソナードは近代刑法の大原則である『罪刑法定主義』を柱とした刑法、ならびに刑事手続の法を明文化した治罪法をフランス語で起草し、それを日本側が翻訳するという形で草案がまとめられた。起草された草案は元老院の審議を経て旧刑法(明治13年太政官布告第36号)、治罪法(明治13年太政官布告第37号)として明治13年(1880年)制定され、2年後施行されるに至った。
明治初期の刑事手続では、江戸時代の制度を受け継いだ拷問による自白強要が行われていたが、これを偶然目にした彼は自然法に反するとして直ぐさま明治政府に拷問廃止を訴えた(1875年)。お雇い外国人の中で拷問廃止を訴えたのはボアソナードだけだったと言われている(正式に拷問が廃止されたのは1879年)。
民事法の起草
1878年、司法省民法編纂会議の下で編纂されていた民法草案は完成を見たが(いわゆる「明治11年民法」)、フランス法の直訳であり修正すべき点が多いとの理由で廃棄されることとなった。
刑事法の編纂が決着したことから、明治12年(1879年)からボアソナードが民法典の起草に着手した。
不平等条約撤廃の交渉過程で列強各国が民法をはじめとする近代法典の不在を治外法権の正当化理由としていたことから、幕府に引き続き明治政府も早くから既に民法典の編纂に着手していたのであるが、日本に民法典が存在しなかったこともあってその起草は容易ではなく、箕作麟祥らがナポレオン法典を翻訳し民法の草案が幾度も作成されたが司法卿大木喬任は直輸入的な草案を拒絶し、日本の実態に即した民法典の起草をボアソナードに命じたのである(なお、家族法の部分については伝統や習慣の影響が極めて大きいため日本人の手によって起草)。
なお、民法典の起草にあたって重要な参考資料とするために、大木は全国の慣例や習俗を2度に渡って調査し、『全国民事慣例類集』を編纂している(これは全国各地の習慣を各土地の長老や有力者から聞き取り調査したものをまとめたもので、幕末から明治期における日本の風俗や習慣を知る上で貴重な史料である)。
ところが、1886年(明治19年)に旧東京大学が帝国大学と改称しイギリス法学を導入し始めると元老院民法編纂局は閉鎖されることとなり、大木が内閣を介してボアソナード草案を元老院へ提出するも、審理は外務卿井上馨の要請により保留され、新たに設置された外務省法律取調委員会が草案を審理することとなった。
起草を始めてから10年の歳月を経た明治23年(1890年)、全1762条からなる民法(明治23年法律第28号及び第98号の旧民法)が公布されたが、民法典論争の結果、旧民法は施行が延期され、結局施行されることなく、民法が公布・施行され、これにより旧民法は廃止された。
もっとも、ボアソナード自身が起草した草案は施行されることこそなかったが、民法典の出来る前には、一時事実上の法源として法曹・法学者に研究・利用された。当時の国家試験の主要科目でさえあったという。また、物権や債権、財産権などの原理原則は現行民法に受け継がれ、全条文のうち少なくとも半分くらいはフランス法の影響があると主張する論者もいる(星野英一など)。そのため、現在においてもフランスに留学する民法学者が少なくない。
フランス法を基礎にした民事訴訟法についても施行されず、1890年にはドイツ法を基礎にしたヘルマン・テッヒョーの民事訴訟法草案に基づく刑事訴訟法(明治23年10月7日法律第96号)が施行された。こうした英独のお雇い外国人の活動により、日本法におけるフランス法理論の影響は薄められることとなった。
日本法学への貢献
法学教育にも力を注いだが、民法起草者の一人で「日本民法典の父」といわれる梅謙次郎(法政大学初代総理)、明治法律学校(現明治大学)の創設者岸本辰雄らに多大な影響を与え、弟子の宮城浩蔵は東洋のオルトランと呼ばれた。ちなみにオルトランはボアソナードの師である。
司法省法学校で教鞭をとり、1881年5月に法政大学の前身である東京法学校の講師、1883年9月には東京法学校の教頭として着任。10年以上に渡り近代法学士養成と判事・免許代言士(現在の弁護士)養成に尽力し、法大の基礎を築いたため、法政大学の祖とされている。また、明治法律学校では刑法、治罪法、自然法、相続法の講義を行い(通訳は杉村虎一)、東京大学法学部では旧民法の草案について講義するなど、日本の法学教育に大きく貢献した。
ボアソナードの講義について、加太邦憲は「以って自ずから秩序無く、時には横道に入り、遂には本道への戻り道を失することありて、到底初学の者には了解し難く」と述懐しておりボアソナード流の講義に慣れるまで苦労したようである。また、ボアソナードは講義をするにあたって法律書など一切携行してくることはなく、前日の講義の末尾を学生に尋ねその続きを講義するといった形で講義をしていたと加太は記している。ボアソナードに先立ち初の法律政府顧問としてフランス人弁護士ジョルジュ・ブスケ (Georges Hilaire Bousquet) がフランスから招かれフランス法の講義をしていたことについて加太が「大幸福」とその感想記していることからも、ボアソナードの講義は高度で且つ難解であった。
外交への貢献
ボアソナードは、当時国際法にも通ずる数少ない人物であったため、台湾出兵後の北京での交渉に補佐として、日本側代表大久保利通に同行。条約締結の成功に貢献した。これを受け、瑞宝章授与。現在も法務省赤レンガ棟の資料室で一般公開されている。
日中朝三国同盟の献策
1882年(明治15年)、朝鮮で壬午事変が起こった際、ボアソナードは外交顧問として軍乱勃発直後より何回も諮問を受けており、同年8月9日付の「朝鮮事件に付井上議官ボアソナード氏問答筆記」では、日本にとって最も恐るべき隣国はロシアであると説き、日本、中国、朝鮮が提携するアジア主義をすすめた。
3
フランスの法学者。1873(明治6)年に(江戸時代に欧米列強が弱小国日本に対しその優越的な立場から強制的に結ばせた)不平等条約改正のため近代法典編纂(へんさん)を急務の課題としていた明治政府によって司法省嘱託として招かれて来日。日本の立法事業や法学教育に携わり多数の法律家を養成。最初の刑法・治罪法・民法の法典を起草する等、日本の近代法整備に大きな業績を残し、「日本近代法の父」といわれている。
バンセンヌに生まれ、パリで弁護士として実務についたあと、グルノーブル大学教授を経て、パリ大学助教授となる。フランスでは主に相続法、親族法を研究、『遺留分史』(1873)、『残存配偶者の諸権利について』(1874)などの著書がある。
来日以来、ボアソナードは、(1867年幕命によりフランスヘ渡り、フランス諸法典の翻訳・紹介にパイオニア的業績をのこした洋学者)箕作麟祥(本名:貞一郎−みつくりりんしょう)と共に精力的に立法作業を行い、フランス法に範をとった刑法(旧刑法)と治罪法(刑事訴訟法=検事公訴主義、予審、保釈、裁判公開などの制が確立された。ボアソナードは、重罪裁判所の裁判については陪審制が必要としていたが、政府は時期尚早であるとして、これを削除した)を起草、同法は1882(明治15)年から施行された。
その後ボアソナードは、一般社会の基本的ルールを定める民法の起草に着手、1886(明治19)年3月、その成果が、民法第2編財産第1部物権(501条乃至813条)、人権(814条乃至1100条)、第3編財産獲得方法第1部特定名義ノ獲得法(1101条乃至1502条)として内閣に提出された。
つづいて1888(明治21)年12月27日、民法5編のうち第1編人事編と第3編財産獲得編の一部である包括名義による獲得方法(相続・贈与・遣贈・夫婦財産制に関する部分=身分法)を除く4編、すなわち第2編である物権、人権(債権)、第3編の第1部特定名義ノ獲得法、第4編債権担保、第5編証拠編(財産法)が民法草案として内閣に提出されるのであった。
ただ残部の身分法について政府は、財産法と異なり、日本古来の風俗・習慣を重要視する必要性のため、つまリ、天皇を頂点とする絶対主義国家を維持し支える基盤としての家族制度と直接関連を有するがゆえに、換言すれば、旧未の封建的家族制度を維持し、合法化するために、個人主義的イデオロギーを強く待っているボアソナードにこれを委ねず、熊野敏三・機部四郎等日本人に起草を命ずるのであった。しかし熊野・機部らは、身分法起草にあってもボアソナードの意見を聞きながらその作業を行ったため、やはり身分法の分野においてもボアソナードの思想は強く影響を与えることとなった。
それゆえ、身分法の草案が公表される以前から、その内容を推察し各方面から各種の批判がなされるのであったが、身分法の草案自体は、1888(明治21)年10月までに完成する(これが「民法草案人事編理由書2巻」に掲載されている全510条の法案、いわゆる第1草案である)。
政府は、財産法について1889(明治22)年1月に元老院の審議に付したが、同年7月元老院はこの草案を議決しこれを上奏、さらに草案は天皇の最高諮詢(しじゅん)機関(勅選の枢密顧間からなる合議制の機関)として設置された枢密院の諮詢を経て、1890(明治23)年4月2日公布され、1893(明治26)年1月1日をもって施行されることとなった。
身分法については、1890(明治23)年5月、内閣により元老院の審議に委ねられ、元老院は若干の修正をして同年9月に議決、上奏、さらに枢密院の諮詢を経て、財産法に遅れること6力月後の1890(明治23)年10月7月に公布され、財産法と同じ1893(明治26)年1月1日より施行すべきものとされた。これがいわゆる旧民法典で(旧民法)ある。
民法(旧民法)は、公布されたものの、とくにその家族法諸規定が日本の伝統的家族制度を崩壊にもつながる施行反対論が巻き起こって、「民法典論争」に発展した。それは、当時台頭しつつあったイギリス法学派との学閥的対立という側面ばかりではなく、政治的対立にまで至り、結局日の目をみなかった。
とはいえ、旧民法の基本理念は、当時の裁判上で生かされ、その後制定された現行民法典にも取り入れられている。またボアソナードの『民法草案注釈』全5巻(仏文・1882〜89)は今日でも価値を失っていないといわれている。
教育者としては司法省学校(後の東京帝国大学法科大学。現東京大学法学部)や明治法律学校(現明治大学法学部−明治法律学校では法律概論、刑法、治罪法〔刑事訴訟法〕、性法〔自然法−明治期の訳語〕などの講義を杉村虎一の通訳・翻訳で行なった)などで自然法論、フランス法を講じ、多くのリーダーを育成した。また、和仏法律学校(現法政大学法学部−=⇒ ボアソナ−ドタワー)は、ボアソナードを教頭として迎えた。
そのボアソナードは、激しい民法典論争を理解できないままに、22年間の日本生活を終え、失意のうちに帰国の途につくのであった。ボアソナードは帰国当時70歳、帰国後は、スイスに近い景勝の地アンチィブでその余生を送り、1910(明治43年)85歳の生涯を閉しることになる。 
日本近代法の父
ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビーという人物をご存じでしょうか。歴史の教科書には単に「ボアソナード」と紹介されているかもしれません。
ボアソナードはフランスの法学者で、明治時代に日本政府が招聘したいわゆる「お雇い外国人」の一人です。彼は1873年に来日し、司法省法学校のほか、様々な学校(現在の東京大学、明治大学、法政大学など)で教育をしました。当時の講義は「性法講義」という名称で現在に残されています。「性法」とは聞き慣れない言葉ですが、現在でいう「自然法」のことです。
また、ボアソナードは、日本の近代法制定に関する多大な貢献から、日本近代法の父とも呼ばれています。
明治初期の日本は、列強と不平等条約を締結しており、その改正交渉のために、近代法を整備することが喫緊の課題でした。このため、若い役人をヨーロッパに留学させたり、ボアソナードのようなお雇い外国人を招聘したりして、大急ぎで法典の編纂を行っていたのです。ボアソナードは、法典編纂の中心人物として、旧刑法、治罪法(現在でいう刑事訴訟法)、旧民法の起草をしました。
ボアソナードが起草した旧刑法と治罪法については、当時の日本で実際に施行されました。なお、ボアソナードが来日した頃には、日本ではまだ、時代劇に出てくるような凄惨な拷問が行われていました。ボアソナードは拷問の現場を目撃し、涙を流して強く拷問の廃止を訴えたそうです(その甲斐もあり拷問は廃止されましたが、100年以上が経過した近年でも捜査機関による不適切な取調べが行われることがあるのは、極めて残念なことです)。このように、刑事法に関しては、ボアソナードの努力は日の目を見ることになりました。
しかし、民事法に関しては、そうではありませんでした。ボアソナードが編纂した旧民法は、日本には合わないとの意見が出され、国を挙げての議論となった結果、施行されずに終わったのです(民法典論争)。この民法典論争では、反対派の学者から「民法出でて忠孝亡ぶ」という有名な意見が出されるなど、特に家族法の部分が日本の家父長制度に合致しないとして、批判がされました。
現在の日本では家父長制は廃止されていますが、昨今では夫婦別姓制度の導入についての議論があります。いつの時代においても、家族制度については様々な価値観があり、合意形成が難しいといえます。機会があれば、古くて新しい問題として、明治期の民法典論争に思いを馳せてみるのもよいかもしれません。

江戸時代には、各藩がそれぞれに罰則を設けて司法をしていました。しかし、中央集権国家になったからには、刑罰を統一しなくてはなりません。また、江戸時代には自白させるために多種多様な拷問が用いられていましたが、これはギュスターヴに反対され、廃止になっていきます。
実際に廃止されたのはギュスターヴの帰国後ですけれども、お雇い外国人の中で拷問廃止を主張したのは彼だけだったそうですから、功績といっても過言ではないかと。
そんなこんなで各地の調査や日本側との話し合いを重ね、草案ができたのは1890年(明治二十三年)のことでした。ギュスターヴの来日から10年後のことです。
結論を先に言ってしまうと、この起草がそのまま使われることはありませんでした。
が、日本の学者がこれを元に民法の研究を行い、ギュスターヴもまた日本における法学教育に注力してくれたおかげで、日本人自身が法律を作る下地ができていきます。その他、明治期における外交アドバイザーとしても日本に協力してくれました。 
BoisosonadeによるWigmore宛第5書簡
神奈川 1892.1.16
親愛なる友へ
米国法律雑誌に私の写真をお送りするとの先生の御要望をとても名誉なことと思います。
アメリカ人は堅苦しい服装で飾り立てたりしないそうなので、もっと略式の服装の写真を今持ち合わせていないことが残念です。
同封の写真は私の学生の求めで撮りました。併せてお送りする石版画は4年前の写真から作成されたものです。
雑誌掲載用の写真は先生がお選びください。まだ私は先生に御目文字かないませんのでその代わりに、もう一枚の写真は先生におかれまして御笑納ください。
私の名前のde Fontarabieの部分は私の姓ではありますが、その法律雑誌にお送り下さらないようお願いします。Boissonadeと短い名前の方がフランスの教養ある古典学者であった父の代から著名だからです。私は自分の完全な本名を用いるのは僅かに公文書においてのみで、公刊した印刷物においてさえ用いていません。そのためde Fontarabieというだけで私を名指しするならば、私はこれまでの業績の大半を失うことになりましょう。誰もそれが私であるとわからないでしょう。
末尾に雑誌読者のための短い紹介文を付記しました。
昨年、先生は土地所有権と保有の状況に関する日本前近代法についての研究に対し、私に教示を依頼されました。この歴史的問題に対し私は自分の知識はあなたの文献を充実させるには不十分と回答しました。先生が諸賢から優れた見解を得られることを望みます。加えて東京では2年前に山田伯の後援により新しい法律学校が設立されました。本校は日本法制史の教授・啓蒙を目的とします(日本orizou(ママ)学校 飯田町)。
これは既に先生にお伝えしたことかもしれません。
敬具
G Boissonade
アメリカの法律雑誌への紹介文
G. Boissonade氏は1825年パリ近郊で、フランスの博学な古典学者故F.F. Boissonadeの息子として生まれる。
M.G. Boissonade氏はパリ大学法学部で法律及び政治経済学を教授し、現在そこの名誉教授である。1873年以来日本政府及び司法省顧問として日本に滞在する。司法省顧問として施行後10年が経過している日本刑事法典2編の草案と、現在公布され来年から施行が予定されている民法典の草案を起草した。過去17年に渡り日本で自然法、民刑法を教授し、日本の法曹の多くは彼の門下である。
[彼はフランス学士院賞を2度受賞した。]
[欄外付記] 先生はフランス学士院賞受賞論文の前に、1891.11.27付のJapan Mail掲載の拙稿「中世複本位制」をお読みになりましたか。
1892(M25)年前後の出来事
1890山県内閣、府県制・郡制公布、第1回帝国議会(日)。Bismarck首相辞職、社会主義者鎮圧法廃止、社会主義労働者党が社会民主党に改称、Kochツベルクリンを創製(独)。frontier消滅宣言、Sherman Antitrust Laws成立(米)。アルバニア革命。清英間でシッキム条約(蔵印界約)。
1891松方内閣、大津事件、足尾鉱毒事件問題化、北里柴三郎, 伝染病研究所設立(日)。露仏協商。社会民主党大会エルフルト綱領(独)。シベリア鉄道起工(露)。タバコボイコット運動(イラン)
1892 伊藤内閣(日)。Populist Party結成(米)。ランカシャー紡績工のストライキ(英)。社会党結成(伊)。参事会法(印)。比の急進的民族団体Catipunans結成。
1893
 1.14 ハワイでアメリカ人支援のクーデターが起こる。
 1.23 衆議院、内閣弾劾上奏案を上程。
 2.10 軍艦建造費を捻出するための詔勅が出る。
富岡製糸場三井に払い下げ許可(日)。Cleveland大統領就任、Edison映画発明(米)。アイルランド自治法失敗(英)。自由労働組合連合結成(墺)。ラオスを保護国化(仏)。ガンディー, 南アに滞在。
1894日英通商航海条約調印。甲午農民戦争(朝鮮)。日清戦争(-95)。孫文, 興中会を組織。Dreyfus事件(仏)。エルザン, ペスト菌発見(仏)。NikolaiU即位(露)。アルメニア事件。
John Henry Wigmore (1863-1943)
Wigmoreは1890(M23)年慶應義塾大学部発足を目的として招聘された外国人教師の一人であり、法律科主任教授を務めた(岩谷十郎「ウィグモアの法律学校」法学研究69-1(1996)176)。1892年において彼は英米法科目(含国際公法・私法、法理学)を教授し、週30時間近く担当したこともあったようである(高柳賢三「ウィグモア先生について」法時7-6(1835)7)。
Gustave Emile Boissonade de Fontarabie (1825-1910)
Boissonadeは1825.6.7パリ東郊のヴァンセンヌ市で私生児として生まれた(大久保泰甫「ボアソナードの知られざる史実」朝日新聞夕刊1971.6.15)。彼が31歳の時、父母の婚姻による準正ではじめて父方の姓Boissonadeを名乗ることになる。それまでは母方の姓からGustave Boutryと名乗っていた。しかし両親は長い間同居しており、必ずしも不幸な生い立ちだったわけではないようである。書簡からも彼が父を誇りにしていることがうかがえる。
他方、彼はde Fontarabieという姓を用いることには消極的である。FontarabieとはGascogne地方の地名で、Boissonade家は貴族の出で代々そこの名家だったようである。Boissonadeは熱烈な反封建論者であっため(福島正夫「旧民法と慣行の問題」福島正夫著作集4(勁草書房1993)78)、自己の名から貴族的な要素を除去しようとしたのではないだろうか。以上は私の推測である。
グルノーブル大学在職中の「遺留分及びその精神的経済的影響の歴史Histoire de la reserve hereditaire et de son influence morale et economique, Paris 1873.」が1867年人文社会学学士院賞、パリ大学在職中の「生存配偶者の諸権利の歴史Histoire des droits de l’ epoux survivant, 2. vols., Paris 1874.」が1871年同賞を受賞した(石井芳久他・日本近代法120講(法律文化社1992)52(市原靖久))。前者は現代でもこの分野の参考文献として挙げられる(Ourliac et Malafosse, Histoire du droit prive, t. V (le droit familial), Paris (1968) 496.)。
Boissonadeはパリ大学のprofesseur agregeであった。これをパリ大学教授資格者と訳す文献もあるが、単に教授資格取得試験concouss d’agregationを通ったagrege d’universiteとは異なり、既にprofesseurである(野田良之「明治初年におけるフランス法の研究」日仏法学1(1961)48)。これは任期10年(再任可能 Statut du 20 decembre 1855, art. 30.)、各講座を担当する正教授professeur titulaireが病気その他の理由で出講できないときに代講するピンチヒッターであり、講座に空席ができた時正教授に昇進する有資格者である(潮見俊隆=利谷信義・日本の法学者(日本評論社1974)32(大久保泰甫))。
刑法
明治初期の刑法は明清律の流れを汲む新律綱領(1870(M3))、改訂律例(1873(M6))で西洋刑法とは程遠いものだった。そこで近代的刑法典の編纂が求められることになるが、初めはBoisosonadeを教師・助言者の地位に置き、日本人委員(刑法草案取調掛)だけで行われた。それが日本帝国刑法初案(1876(M9).4)で、フランス法を中心とする西洋刑法と綱領・律例の妥協的産物で元老院により不備として返還された(川口由彦・日本近代法制史(新世社1998)161)。
このためBoissonadeの直接の指導の下に日本刑法草案(1877.11)が起草された。編纂作業はBoissonadeと取調掛との間で仏刑法等の該当条文を参照しつつ彼の提出草案を修正増補しながら進められた(新井勉「旧刑法の編纂1」法学論叢98-1(1975)63)。
その後太政官刑法草案審査局で修正され、更に元老院で審議され公布(太政官布告36号)された(1880.7.7 山中永之佑・日本近代法論(法律文化社1994)119(吉井蒼生生))。これが旧刑法で、客観主義の立場を基本とし、国家刑罰権の行使をきちんと枠づけようとした点に特色があった(井田良・基礎から学ぶ刑事法(有斐閣1995)244)。尤も審査局修正で皇室に対する罪の設置等、権力的思想・反動思想も混入した(新井勉「旧刑法の編纂2」法学論叢98-4(1976)103)。Cf. Boissonade, Projet revise de Code penal pour l’Empire du Japon, accompagne d’un Commentaire, Tokio 1886.
治罪法
治罪法(現代の刑事訴訟法)の編纂は1876(M9)年から司法省で開始された。初めは刑法同様、Boisosonadeは講義と助言を与えるだけで日本人委員により進められたが、結局Boisosonadeに原案起草を依頼した(1977)。数次の校訂を経て治罪法草案が奏進された(1879(M12).12)。更に陪審に関する条文の削除等の修正を経て、公布(太政官布告37号)され(1880.7.17)、刑法とともに施行された(1882(M15).1.1 牧英正=藤原明久・日本法制史(青林書院1993)322)。Cf. Boissonade, Projet de Code de procedure criminelle pour l’Empire du Japon, accompagne d’un Commentaire, Tokio 1882.
司法省法学校
Boissonadeは来日した翌年のM7.4.9から先任の仏人法律家Georges Bousquetとともに明法寮(後の司法省法学校)で性法droit naturelを開講した(Boissonade, Ecole de droit de Jedo. Lecon d’ouverture d’un cours de droit naturel, dans la Revue de l’ egislation ancienne et moderne, 1874.野田良之「日仏法学研究の回顧と展望」日仏法学6(1972)13)。
「性法講義」の訳者井上操はM19年大阪控訴院評定官となり、最終官職は大阪控訴院部長判事であった。同じく明法寮生徒の加太邦憲は司法権少書記官、第7局副局長等を歴任した(池田真朗「ボアソナード「自然法講義(性法講義)」の再検討」法学研究58-8(1982)10)。
Boissonadeは司法省法学校の教壇に立ち「司法官や弁護士になることも大切ではあるが、封建思想に馴染んだ日本人に自己の権利を守るための法律を教える法学の普及が最も大切な急務」と説いた。こうした薫陶を受けた井上操・堀田正忠・小倉久・志方鍛・鶴見守義・手塚太郎らの若い司法官と、大阪で言論活動を展開していた自由民権の活動家吉田一士は、大阪控訴院長児島惟謙・大阪始審裁判所長大島貞敏らの指導・援助を受け、M19年11月4日、大阪西区京町堀の願宗寺を仮校舎として関西初の法律学校を設立した。これが関西法律学校(現関西大学)である。
山田顕義
山田顕義は1844(弘化元)年、現在の山口県萩市に生まれた。14歳で吉田松陰の松下村塾に入門し、高杉晋作、木戸考允、伊藤博文、山縣有朋ら維新史に名を残す錚々たる人物たちと深く交わり、その後の人生観・世界観に大きな影響を受けた。25歳のとき戊辰戦争で討伐軍の指揮官として活躍した際には、西郷隆盛をして「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」と言わしめたという。
しかし明治4年に岩倉具視を全権大使とする使節団の一員としてフランスを訪問した山田は、ナポレオン法典と出会い「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に打ち込んだ。そして明治16-24年の約9年間にわたり司法大臣として、近代国家の骨格となる明治法典(e.g.刑法、刑事・民事訴訟法、民法、商法、裁判所構成法)の編纂に当たり、”近代法の父”と呼ばれる。
日本法律学校
日本法律学校(現日本大学)は明治22年、東京府麹町区飯田町(現千代田区飯田橋)の皇典講究所内に創設された。当時の日本は、文化開花華やかな鹿鳴館時代であり、世を挙げて西洋崇拝の傾向であった。法学者の間でも英法、仏法、独法の3派に分かれ、激しい主導権争いが繰り広げられていた。そうした気運の中にあって、山田顕義司法大臣謙皇典講究所所長は「まず国家形成と国民意識の向上を確立しなければならない。日本の永い歴史の中で日本人としての主体性を尊重する重要な事項を講究する時期にある」ことを痛感し、日本の歴史的社会的伝統や慣習に根ざした教育の必要性を模索した。
皇典講究所では従来国法として古代法制の講座が開講されていたが、新時代を生きる青年を対象とするには決して満足のいくものではなかった。山田顕義はこうした日本の伝統的精神を生かしながら、更に新しく生まれる諸法をも積極的に研究対象として学べるような学校の設立を考え、M22年10月3日に日本法律学校の設立願書を同志多数の連名で東京府知事に提出、翌4日に認可をうけた。
日本法律学校の民法講師陣は仏法派で占められ法典論争では断行論といってよかった。しかし開校間もないこともあって学校が論陣に加わって論争に影響を及ぼしたことはなかった(荒木治・山田顕義と日本大学(大原新生社1972)197)。
Wigmore, J.H., Legal Education in Modern Japan I, The Green Bag, 5 (Boston Book Company 1893).
一般の旅行者がその訪れる地の性格・制度の知識を得ることができると考えるのは国内から出たことがない人々の迷信である。実際に経験すればこの迷信は霧散する。単に住んでいるだけでは教わることは少ないとわかるだろう。従って私は日本の法学教育についてほとんど知らず、誤りが含まれうることを予め述べておく。私が本論で述べるのは数人の法学者と私の個人的経験からえた印象のみである。
日本の法学教育について語るためには、1そこで教えられている法、2学校組織、3教育の一般的特徴について触れるのが良い。

日本の裁判官が判決を下す際に用いる規範は第一に制定法である。第二に慣習、第三に衡平である。ここでいう衡平とは裁判官が抱く正義感のことである。我々は先ず法典について手短に見ていく。
刑法典・刑事訴訟法典は著名なフランス人法学者であるM.G. Boissonadeにより編纂された。彼は69歳で1873年前まで20年間パリ大学法学部の講師を務めた。彼は今でもパリ大学の名誉職を維持しているが、この20年間日本政府の法律顧問及び帝国大学講師の任にある。私の記憶によれば彼は「法制史雑誌」の準編集員である。刑法典は彼により1874年に編纂が開始され、1879年に完成した。委員会に渡された後、1881年に施行された。民法典編纂作業も同様に彼により開始され(1879)、1889年4月に完了し、1890年公布され、1893年1月1日に施行される予定である。
民事訴訟法典はドイツ人の法学者により準備され、1886年に草案が公表され、1890年に公布、1891年1月1日に施行された。裁判所法はOtto Rudorffにより準備され、1890年11月1日に施行された。商法典も民法と同様、1893年1月1日に施行される予定である。改正刑法・刑事訴訟法が近々公布される予定である。全ての場合において法典の起草者がモデルとしたのは当然ながら自分たちが最もなじんでいる法制であった。その結果、仏法と独法の影響を半々に継受することになった。商法典は未だ欧文に翻訳されていないが、Rudorffはそれがドイツ商法典とほとんど変わらないものと述べている。民法典は仏民法典の模倣というより現代フランス法学の体現といえる。それは称賛に値する成果である。法文は明確・正確で、慎重かつ精密に作成されている。
ドイツ人起草者は可能な限り一般化する傾向にあるように思える。それに対して新しい日本民法典は細部にまで行き届いており、一般原理を繰り返すことをいとわない。そのためヨーロッパ法になじみの薄い学生にとっても理解しやすい。民法典における日本の慣習の位置づけについては議論されているが、些細な問題である。現在日本で主に研究されているのはフランス法である。フランス民法典は20年前に日本語に翻訳され、他の文献も翻訳されている。
大陸法の影響は近年増大しつつある。2年前までは英法が大多数の学生の人気科目だったが、1890年の新法典の公布を境に変化した。その時、法典に対する疑問が在野から生じた。法典は政府によって作成されたが、その作業に携わることができたのは少数だったため、その存在はほとんど知られていなかった。英語で訓練された法曹や有力な実業家は強く新法典に反対した。議会が開会されれば、政府は全ての企てを放棄させられる可能性があった。学校が確信をもって英法中心のカリキュラムを続けるのはこのような理由からである。あと1年も経たずに新しい法典が公布されようとしているその時に、特別に雇用された外国人講師によって部分的にも講義がなされ、その講義も専ら英法のみが内容となっているような法律学校が新設された事実から、法典の実現性を確信しえた人はなんと僅かであったか。しかし事態はそのようにはならなかった。1890年の勅令は法典の運命を定め、以後英法研究は衰退する。大陸法が国制の基礎となり、司法試験の出典となったため、学生も学校も自然と大陸法を専攻するようになった。
しかし英法は決して排除されたわけではない。英法は国家選択のレースで遅れをとったけれども、又、教科書の口述という最も望ましくない方法で教授されがちであるとしても、教科書は満足の行くものではないとしても、そのような障害にもかかわらず英法はそれでも帝国法典と並んで研究されている。帝国大学では英法科は学生数において独法科、仏法科に勝っている。我々の法体系の具体性は教科書の無味乾燥したページに押し込められている場合でも、多くの学生にとって大陸法典の単純だが漠然とした抽象性と比べて密かな魅力を持つ。英法の人気は下げ止まりになったと思われる。
 
アルベール・シャルル・デュ・ブスケ

 

Albert Charles Du Bousquet (1837〜1881)
法律、軍事などの仏語資料を多数翻訳(仏)
フランスの軍人。1867年フランス軍事顧問団の一員として来日し、幕府歩兵に調練を実施した。戊辰戦争後もフランス公使館通弁官として日本に残り、官営・富岡製糸場の建設などに力を尽くした。1881年45歳で死去。青山霊園の墓碑には「治部輔」と刻まれている。  
2
フランスの軍人、後に明治政府のお雇い外国人。
1837年3月25日、ベルギーに生まれる。1855年フランスに戻りサンシール士官学校に入学、卒業後少尉に任官された。アロー戦争に従軍、1860年英仏連合軍の北京占領にも参加した。第31歩兵連隊の歩兵中尉だった1866年、十四代将軍徳川家茂の要請でナポレオン三世が派遣した、シャルル・シャノワーヌ大尉を隊長とする第一次遣日フランス軍事顧問団に選ばれた。ジュール・ブリュネとは異なり、箱館戦争には参加しなかった。
幕府崩壊により軍事顧問団は解雇されたが、デュ・ブスケは帰国せず、フランス公使館の通訳として日本に残った。1870年(明治3年)兵部省兵式顧問に採用され御雇い外国人となった。1870年(明治3年)2月、大蔵少輔 伊藤博文、大蔵官僚 渋沢栄一から製糸業の専門家を紹介するように富岡製糸場の機械購入・技師招聘の相談を受け製糸技師ポール・ブリューナを推薦した。ブリュナはリヨンの絹業会で仕事をした後、横浜で日本から輸入する絹を検品する検査官の職にあった。1871年(明治4年)には翻訳官として元老院の前身である左院に雇用された。以後元老院の国憲按起草の資料などを含め、100以上の法律、軍事などのフランス資料を翻訳したほか、条約改正交渉に関して助言・建議した。当時の資料ではジブスケと呼ばれている。
1876年(明治9年)日本女性田中はなと結婚、6子をもうけた。日本政府との契約が満期完了した後も、フランス領事として日本に留まり、1882年6月18日に東京で死亡した。墓地は青山霊園、墓碑には「治部輔」と刻まれている。デュ・ブスケの棺には4人が付き添ったが、そのうちの一人はアーネスト・サトウであった。
3
私、林邦宏はAlbert Charles du Bousquetの曾孫としてライフワークとして曾祖父を調べております。ちなみに林は祖父三男 Charles Arthurが1907年帰化し林治信と改名しフランス語で似た林を表すBosquetから林という姓にしたと推測しております。
Albert Charlesは法律家の父Gustave ArnordとベルギーのOrban家から嫁いだ母Carolineから6人きょうだいの3男として1837年3月25日ベルギーで生まれました。Albertの祖父はナポレオンの多くの野戦に参加したフランス陸軍病院長Ambroise Michelです。
1855年フランスに戻りサンシール士官学校に入学、卒業後少尉に任官され1860年英仏連合軍の北京戦争に従軍、1866年第三十一歩兵連隊司令官となり十四代将軍徳川家茂の要請でナポレオン三世の命により第一次遣日フランス軍事顧問団に選ばれました。
1866年(慶応2年)11月19日マルセイユ港をメッサジュリー・アンぺリアル(帝国郵船)の郵便客船ラ・ペリューズ号で出発ししました。エジプトに向かい途中鉄道に乗り換え11月27日スエズよりメッサージュ・アンペリアルのカンボジア号に乗船し出発し、航海中は東アジアの歴史と地理を教えていました。
12月27日に香港に到着しアルフェ号に乗り換え上海経由し出港。
1867年(慶応3年)1月13日横浜港に52日間の航海の末上陸しました。
横浜
当時の横浜はすでに馬車道、伊勢佐木町辺りの中海は埋め立てられ賑わいもあった。
生麦事件以来、今の山下町や山手は英仏の外国人居留区になっていた。
到着早々、翌日から軍事顧問団は大田村にあった大田陣屋で幕府軍の軍事指導が始まった。
幕府軍といっても武士や流れ者、農民などの寄せ集め集団だったから身分社会では大変だったと思う。
大田陣屋跡は野毛山公園下の日ノ出町駅の側と判った。それから青木町にある甚行寺が初期のフランス公使館ということで訪ねた。そこにはフランス公使館跡の石碑だけが建っていた。
甚行寺からかなり歩き、当時外国人で賑わっていた弁天通りに出た。今はビジネス街の一方通行の裏通り。当時は商店などが並び賑やかな通りだったそうだ。
ここで1869年明治2年3月19日デュブスケは攘夷派の残存暴漢に襲われてしまう。幸い軽傷で事なきを得た。横浜開港時には、フランスは東洋のマルセイユにしようとの考えもあったらしい。
そこから山下公園沿いに歩き出した。オリエンタルホテル前にフランス桟橋があったそうだが今は氷川丸が留められている付近の山下公園では確認することは出来なかった。この辺一帯は、外国人居留区になっていた。
近くの中村川に架かるフランス橋を渡りフランス山に登ってみた。頂上には井戸水を汲み上げるためのモニュメントの風車と領事館跡が残っていた。
領事館が作られたのは、デュブスケの死後だが居留区のあったこの山には何度も登っていたに違いない。
しかしそれにしても、フランス山からも港の見える公園からも港風景は今は無粋なコンクリートのビルや高速道路に遮られている。パリの街並みのように歴史の面影を残すことは出来なかったのだろうか。残念だ。
横浜にはアイスクリームの発祥地、ボーリングの発祥地などやたら発祥地の碑がある。
製糸所
幕末、横浜港開港時はイギリス、アメリカ、オランダが早くも商館を建て、そこに商人が生糸などを売りつけたが大分粗悪品もあったようだ。後れを取ったフランスも積極的に幕府に働きかけた。幕府は最良の蚕種紙15000枚をナポレオン3世に贈呈した。幕末の頃、ナポレオン3世が将軍徳川慶喜にアラビア馬26頭を贈ったことは知っていたが、それは蚕種紙の返礼だとは知らなかった。
明治になり、政府も富国するためには貿易で外貨を獲得することが重要で生糸と蚕種の輸出に特別の力を入れるべく官営の製糸所を作るため渋沢栄一は懇意にしてた太政官、正院やフランス公使館で働いていたデュブスケに技術者紹介を依頼した。
デュブスケはフランス人製糸技師ブリュナ(François Paul Brunat)を紹介し主任技術者として明治3年に正式に契約をした。立地、設計、施工までブリュナが指導した。また一時帰国時ブリュナはフランスから技術者や女指導教師を呼び寄せ、またフランス製の製糸器械も日本の女性の体格に合わせて持ち込んだようだ。
明治8年ブリュナの雇用契約は満了し翌年帰国したが、日本の近代化に貢献したことは間違いない。
正門近くにカトリック教会があった。シスターに当時からあったのか訪ねたら当時は工場内にプロテスタントの教会はあったようで、ここの教会とは関係なかった。
 
アルバート・モッセ (アルベルト・モッセ)

 

Albert Mosse (1846〜1925)
(独)
ドイツの法学者。ロエスレルとともに来日し憲法・諸法令の起草をした。 
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ドイツの法律家。お雇い外国人として日本に招かれた一人。
ポーゼン大公国のグレーツ(現在のポーランド共和国グロジスク・ヴィェルコポルスキ(英語版))において、ユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれる。ベルリン大学修了後、ベルリン裁判所判事となったのちドイツ在日本大使館顧問に就任。伊藤博文ら日本から調査に訪れた代表たちに1882年から1883年にかけて師のルドルフ・フォン・グナイストと共に講義を行った。
1886年(明治19年)に訪日。モッセ以前にヘルマン・レースラーが既に招聘されていたが、モッセの憲法制定や地方制度の創設への貢献の方がより実質的な影響を与え、それゆえ、「明治憲法の父」といわれる。伊東巳代治はモッセの講義を『莫設氏講義筆記』として発表した。モッセは日本を気に入り、回想記に「すばらしい日本を忘れることはない」と記している。
1890年の帰国後はケーニヒスベルク高等裁判所判事、ベルリン大学法学部教授などを歴任した。
弟子にヴィルヘルム・ゾルフがおり、ヴァイマル共和政時代に駐日大使を務めた。
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アルバート・モッセ(Isaac Albert Mosse, 1846年10月1日 - 1925年5月31日)の名は、ヘルマン・ロェスラーと並び、日本の公法学・憲政史学の世界で知らぬ者のない存在ですが、当のドイツ、ないし彼の愛したベルリンにおいては、現在では知る人も少なくなっています。その歴史は、私がこの世に生を享ける前後にまで及ぶのですが、ベルリン滞在を機に、当地に散在するモッセの痕跡のいくつかを訪ねてみました。
彼が日本に来るまでの経歴を簡単に振り返ってみますと、1846年にGraetz(当時のプロイセンのPosen地方)で生まれたアルバートは、医者であったMarcus Mosse(1807-1865)とその妻Ulrike(1816-1888)がもうけた14人(!)の子供の7番目に当たります。兄弟たちのなかには洗濯業(Waeschehaendler)を営む者が多かったのですが、アルバートは兄弟の中で一番できが良く、兄たちのように職業訓練に進むのではなく、父の期待を背負いつつ、大学に進学することになりました。ベルリン大学で法学を修め(1865-1868)、最優秀の成績で卒業して、1868年・1873年に両次の法学国家試験に合格します(この間、普仏戦争では志願歩兵として従軍)。第1次国家試験の1868年では最優等の成績でプロイセンのGerichtsauskultatorとなり、ベルリン上級地方裁判所の試補見習(Referendar)に補職されました。
1873年の第2次国家試験で良い成績を修めて、同年1873年3月28日に司法官試補(Gerichtsassessor)となったアルバートは、1875年にベルリン・クライス(郡)裁判所の判事補、1876年にベルリン郊外・シュパンダウのクライス裁判所判事、1879年4月にはベルリン市裁判所判事(Stadtrichter)、次いで区裁判所判事(Amtsrichter)となった後、1886年にはついに地方裁判所判事(Landrichter)になります。この年にアルバートは、恩師グナイストの薦めもあって、日本政府の法律顧問として来日することになりますが(後述)、1888年には休職してすでに2年半日本に滞在し、ドイツを不在にしていたにもかかわらず、ベルリン地方裁判所参事となりました。これは洗礼を受けていないユダヤ人裁判官としては過去最高のポストであり、日本における彼の活動を高く評価した、駐日ドイツ公使ホルレーベンの推挽によるものでした。
この間、アルバートは、ユダヤ共同体のための活動にも尽力し、ベルリンのユダヤ共同体の代表者団体メンバーでもありました。ロシアにおけるユダヤ系ドイツ人の大量殺害(いわゆるポグロム)に際しては、子供たちの救出に尽力し、ベルリンに於ける彼らの教育にも献身的に努力しています。そして1883年、ユダヤ人法学者の娘であるCaroline Meyer(愛称Lina)と結婚し、1925年に永逝するまで、数カ国語に堪能なLinaと添い遂げることになります。
さて、そのアルバートが来日することになった経緯ですが、よく知られているのは、伊藤博文の滞欧憲法調査に際して、グナイストが憲法談義を行い、細かい法学的講義は(多忙のゆえに)愛弟子であったアルバートに委ねたという話です。しかしモッセは、そもそも1873年秋頃から日本人学生や外交官にドイツ公法を講じていた模様であり、おそらく、それが契機となって、1870年代後半に、グナイストの下で学んでいた若き外交官・青木周蔵と知己になりました。その縁で、彼がベルリン市裁判所判事であった1879年から数年間、在ドイツ日本公使館の顧問に就任したアルバートは、師グナイストと共に伊藤博文・土方久元・青木周蔵・大森鍾一などに講義を行いました。伊藤が上記の滞欧憲法調査を行ったのは、1882年〜1883年の頃に当たります(この時に勲四等を日本政府より授けられます)。それ以前にもモッセは、1880年5月-1881年6月に内務官僚・村田保に地方行政制度・行政裁判所制度を講義し、村田はこの講義で得た知識をもとに市町村制の立案に力を発揮することになります。また、1885-6年に伏見宮とその従者に42回の国法学講義を行ったことも伝えられています。
さて、この頃わが国で大きな問題になっていたのは、立憲制の導入のプロセスでした。モッセが伏見宮に国法学講義を行っていた1885年末、日本公使館は、ドイツ公使・青木周蔵の意向で、モッセに日本で働くかどうかの意向を打診することになります。これは山縣有朋が地方制度の優先的整備を考えて行った人事であり、1885年12月のプロイセン型内閣制度の導入を嚆矢として伊藤博文が主導していた、立憲制度への移行のあり方を問題にするものでした(なお、明治憲法の実際の制定が始まったのは1886年です)。すなわち、伊藤博文らはまず憲法を制定し、しかる後に地方自治制度を整えるべきだと考えたのでしたが、山縣有朋は、まず地方行政制度を優先的に改めることが将来の立憲制への移行に対する最善の備えであると考えました。これは青木周蔵や平田東助の意見を容れたもので、地方自治制度の充実を図ることによって、将来の立憲制の運用を担いうる識見・能力を備えた地方名望家を育成しようとしたのでした。伊藤博文が政党制度の進展を見据えた動態的な立憲制導入のプロセスを思い描いていたことは、滝井一博『伊藤博文』(中公新書)などの最近の研究によって指摘されているところですが、山縣も別の意味で「動態的」な立憲制への移行プロセスを想定していましたし、モッセの答議もまた、日本の現状と将来の発展を念頭に置いた、その意味で非静態的な立憲構想であったということができます。
こうして、山縣の推挽で日本に招聘されたお雇い外国人・モッセが最初に付託されたのは、市町村制案、国会議員選挙法案、行政組織法案の立案でした。1886年の段階で、すなわち明治憲法典の立案が始まった当初の段階で、彼が国会議員選挙法の立案を委ねられていたことは大変興味深いのですが、ただし、夏の間は非常に熱くて仕事にならず、国費で北方5県の視察旅行を行うことになりました。この際得られた日本の「後進性」についての見解は、基本的にはその後も変わらなかったとされ、林董はその回顧録でモッセの地方視察の結果が皮相的であると皮肉を込めて回顧していますが、ともあれ、これが日本の現状と、その後の発展を見据えた「動態的」な鑑定意見につながったことは確かです。
「市制・町村制の父」とされるモッセですが、廃藩置県以来の中央集権的な行政システムの構築が難航していた当時にあって、統一的な地方行政の実現は、明治政府の重要な課題でした。来日したモッセに提示されたのは町村制度稿案(明治18年6月)でしたが、これは、ドイツ・モデルとフランス・モデルが日本の慣習的な地方制度との連絡がないままに組み合わされた、キメラ的な存在で、「慣習法を蒐集し、地方制度を歴史的な連関を基にして再確立すべきだ」というモッセの提案に対し、内務省の役人は当初、「今歴史にかかずらっている時間はない」と対応したといいます。
この町村制度稿案が作成された背景には、「モッセ一族⑵」で触れた、伊藤博文と山縣有朋の路線対立があります。繰り返しますと、内務卿(官制改革で後に内務大臣)の山縣有朋は、憲法実施以前に町村自治の制度を確立する必要を痛感し、内務卿就任の明治16年に早くも関係の調査研究を指示して、明治11年に定められたフランス・モデルの地方三新法(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)により不完全ながら体系化されていた地方制度の改革を試みました。山縣は明治3年〜4年の欧州調査において、ナポレオン蹂躙後のプロイセンを救ったのがシュタインによる地方制度改革(同改革については「モッセ氏講義筆記」を参照)であることを学び、このシュタインに傾倒し、日本のシュタインたらんとしました(もちろん、Lorenz von Steinとは異なります)。その際山縣は、とくに、イギリス・ドイツの議会制度が自治制に立脚している点に自覚的でした(「日本自治制度とアルベルト・モッセ博士」)。
そして、内務卿就任後の明治17年末に省内に町村法調査委員をもうけて、町村制度の立案に当たらせ、ついに明治18年6月に上記の「町村制度稿案」をまとめ、これを来朝したモッセ、ロエスレルらのドイツ人学者に諮問した結果、大体においてモッセの意見が採用され、町村制案の内容が一変することになりました。モッセ答申(明治19年7月22日)では地方制度編纂委員の設置が提案され、その通りに設置された委員会では、これまたモッセ提出の要綱「地方官政及共同行政組織の要領〔数十項目〕」に基づく審議が行われ、また答申に基づいて市制・町村制の立案を担当したのも、モッセでした。モッセが起案した市制・町村制は、その理由書と共に地方制度編纂委員で審議され、内閣・元老院の議を経て、明治21年4月17日に公布されました。他方、府県制・郡制は、様々な政治情勢に翻弄されて、ようやく明治23年5月に発布されました。
さて、このようなモッセ案の背景にあったのは恩師グナイストの地方自治論でした。この理論においては、地方名望家の名誉職的な自治活動に大きな意義が認められ、これを基礎として法治国家における官僚統制を行うべきものとされていました 。すなわち、この地方名望家層から、行政活動に責任を負う国務院(Staatsrat)の構成員や議員をリクルートすべきものとされたのであり、議会制度の開設を控えたこの時期に、地方制度と議員選挙法が密接にリンクする話であったことが分かります。
それでは、モッセの立案になる市制・町村制において、両者はどのように関係していたのでしょうか。まず、市制・町村制においては民選の市会・町村会が設けられましたが、選挙権・被選挙権ともに財産要件により制限されていました。さらに町村における選挙は二階級選挙法、市における選挙は三階級選挙法によって行われました。こうして、市町村レベルにおける地方自治への関与は、実際上、地方名望家の手に委ねられることになります。その上で、1890年5月の府県制・郡制に基いて設けられた府県会・郡会では、間接選挙制が採用され、町村会が郡会の選出体となり、次いで郡会が県会を選出すべきものとされました。直接選挙は市町村レベルの、かつ財産要件により制限された限定的な範囲でしか認められませんでしたが、これはモッセが、民選議会を導入するほどに日本社会は成熟していない、と判断していたことを反映しています。もっとも、府県制・郡制は、モッセ自身の構想とは異なって、執行的決定を専ら官選知事ないし副知事の手に委ね、彼らに自治体代表者に対する大きなコントロール手段を与えていたことから、モッセはできあがった府県制・郡制には内心反対であったといいます(山縣有朋の強い意見でプロイセン・モデルのクライス制度が導入されたものでした)。
自治行政制度と議会制度との関連に話を戻しますと、先に見たようにモッセは、すでに1886年夏頃、国会議員選挙法の立案を付託されていたことに、再度留意する必要があります。日本社会が政治的に未成熟であることを根拠に、モッセは「下院Abgeornetenhausを──少なくとも次の世代については──自治行政体から選出し、国民による直接選挙を回避するべきだ」と考え。それゆえ国会議員たちは当面、地方議会の構成員から選出すべきものとされました。その際モッセが念頭に置いていたのは、もちろん、自らが立案の主導権を握った市制・町村制と、挫折はしましたが自ら構想していた府県制・郡制とにおける、地方議会の存在でした。このようにして彼は、議会が無難にスタートを切り、次第にその権限を拡充してゆくべきことを、思い描いていたのでした。
アルバート・モッセが明治憲法の制定に大きな役割を果たしたことについては、憲法制定の秘密として守秘義務が課され、ロエスラーと共に、彼の貢献は世にあまり知られないまま、時が過ぎることとなります。それゆえ、モッセは「一法師」として扱われ、実際には日本に来なかったグナイストやシュタインが大いに顕彰されたのに対して(政府関係者・官吏等による「シュタイン詣で」が起こったことは、bekanntlichなことだと思われます)、ロエスラーやモッセの存在は後景に追いやられました。もっとも、地方行政制度導入50年記念の1938年4月22日付け日独協会長のヴァルター・モッセ宛の書簡によれば、この頃には既に、モッセの憲法制定への寄与は一般の日本人にも明らかになっていたようですし、もちろん、1890年4月13日の首相あてホルレーベン書簡が示すように、ドイツ人政府関係者はモッセの憲法・憲法附属法制定への関与を当初から知っていました。
モッセが明治憲法の内容に与えた影響については、大臣責任や議会の役割を中心にいくつか指摘することができますが、総じて、地方制度の場合と同じように、議会制度の動態的発展を視野に入れた制度構想を示したものだ、と評することができるように思われます。詳しくはいずれ研究成果として示すとして、このように憲法典の立案が佳境を迎えていた1888(明治21)年末、日本政府は1889年春から3年の契約延長を提示しました。しかし、1888年12月に生まれたハンスや、ホームシックにかかった妻Linaのことを慮って、モッセはこの提案を拒否し、10ヶ月程度の延長に止めています。
ここでは彼のおかれた微妙な立場・環境への洞察が欠かせません。彼はユダヤ人であることから、当時のドイツ人社会では昇進など様々な面で制約を受けており、ユダヤ人裁判官の中での出世頭ではありましたが、更なる栄達は難しいという事情がありました(モッセ自身、すでに1887年の段階で、帰国後に裁判官として栄達を遂げることができるかどうか、大変に不安視していました)。加えて、日本での職責は刺激的で、報酬も一般のドイツ人に比べると想像を超えるほどの巨額に上りました。アルバートにとっては、日本政府の法律顧問としての契約を延長することも、十分に魅力的な選択肢であったはずです。しかし他方で、こういった栄達・報酬に由来する在日ドイツ人社会の中での妬みや孤立に、モッセ一家は苦しみました。これに輪を掛けたのが、在日ドイツ人社会の中でも根をはびこっていた反セム主義の暗い影でした。
一つのエピソードとして、質素で厳格なカソリック信仰を持っていたロエスレル夫人が、陰に陽にモッセ及びモッセ夫人のユダヤ出自をあげつらい、何時間にもわたって執拗に改宗を薦めたこともあり、これがLinaを辟易させる、という出来事がありました。モッセも同様のユダヤ人差別を実感していると、故郷ベルリンへの手紙の中で書き送っています。こうしてアルバートは、妻の健康(および第5子Erlichの出産予定(1891年))や子供達の教育を考慮して、1890年秋には離日を決意し、いったんの故国旅行であるとの口実のもとに帰国することになります。すなわち1890年2月の3年間の契約延長へのサインは、故郷で万が一適切な処遇が得られなかった場合に備えた、保険にすぎなかったわけです。
アルバート・モッセがドイツへ帰国する頃、ドイツ公使ホルレーベンは日本におけるモッセの対外的地位を高めることがドイツにとって有利であると考え、モッセの控訴院判事(Oberlandesgerichtsrat)への昇進を政府に打診しました。というのも、1889年12月には、かつて地方自治制度をともに作り上げた山縣が首相になり、またモッセの長年の知己である青木周蔵が外務大臣となっていたからです。ドイツにおいてモッセは、ベルリンで過ごしたいという妻リーナ及びモッセ自身の希望とは異なり、ケーニヒスベルクの地方裁判所判事に任命されましたが、このようなホルレーベンの推挽もあって、同年のうちに(1890年12月20日)ケーニヒスベルクの控訴院判事となり──洗礼を受けていないユダヤ人がプロイセンでそのような高い地位に就いたのは、これが初めての例でした──、そこで続く17年間を「同じポジションで」過ごすことになります。
教育界においては、1903年にはケーニヒスベルク大学法学部より名誉博士号を授与され、翌1904年8月19日には客員教授となったモッセですが(裁判所構成法、民事訴訟法、刑法を講じました。当初予定では憲法、行政法、民事訴訟法、プロイセン法史、商取引法も予定されていたようです)、学術面の貢献も看過し得ず、1871年以来版を重ねていたLitthauerの商法典コンメンタールは1905年にモッセの共同編集となり、「Litthauer-Mosse」は商法典の最良の解説文献だとの名声を博しました。こういった実務・教育・学術面の評価や、控訴院長の度重なる推薦にも拘わらず、しかし、モッセはベルリンの司法省により、ことごとく昇進を阻まれました。17年間の間に同僚はすべて、ライヒ裁判所や上級行政裁判所、または控訴裁判所長に栄転したにも拘わらず、彼は17年間を全く同じ、控訴院判事として過ごすことになります。法務大臣の妻が日本公使に漏らしたところに依れば、「われわれはベルリン上級裁判所を『純粋』に保たなくてはならない」というのがその理由でした。
落胆した彼は1907年10月1日に61歳で辞職し、ベルリンに帰ります。そこで彼は無給の名誉参事会員(Stadtrat)となり(1907年秋)、1919年には最長老参事会員(Stadtaeltesten)に選ばれました。職業面での栄達をユダヤ人であるがゆえに絶たれたアルバートは、その分、自らのアイデンティティーに率直に、厳格なユダヤ教徒として、ベルリン・ユダヤ人共同体の幹部構成員として、また兄のルードルフと共にドイツユダヤ人協会の副会長代理として、その他ユダヤ人社会の主要メンバーとして、多面的な活動を行います。ベルリンではTiergarten内のLichtensteinalleeに住んだモッセは、しかし、1916年の第1次大戦時におけるハンスの死(27歳)、および1918/1919年のドイツ帝国の崩壊を経験した後、沈みがちになり、1925年5月30日、ベルリンにて79歳で亡くなりました。
さて、アルバートの生涯をざっと見てきた訳ですが、ドイツに帰国した後も、モッセの日本との結びつきが切れることはありませんでした。日本政府の委託によって、日独通商航海条約についての鑑定意見を作成したことは特筆に値しますし、ドイツ帰国後30年経った1921年には、彼も関与した(内心は反対でしたが)クライス(郡)の廃止について日本政府からの連絡を受けたりしています。
しかし、一番大きなつながりが実感されたのは、長女マルタをめぐる出来事でした。アルバート・モッセが最も愛着を注ぎ、ある意味で甘やかして育てたのが、このマルタでした。アルバートには5人の子供がいましたが(Martha, Dora, Walther, Hans, Erich)、長女のマルタ(Martha Mosse, 1884 - 1977)は1884年5月29日、ベルリンで生まれました。1886年、父とともに来日したマルタでしたが、彼女に決定的な影響を与えたのは、両親よりも、日本まで付き添ったベビーシッターのキリスト者夫人・Neges Zuspruchであったといいます。父の帰国に伴い、ケーニヒスベルクの高等女学校(hoehere Toechterschule)に通ったマルタは、しかし、1902年にアビトゥアを得ることなく卒業しました。数年間の音楽活動や、その後の社会福祉事業への参加を経て、マルタは1916年にハイデルベルク及びベルリンで法学の講義を聴講する道を選びました。もちろんアビトゥアを得ていなかったため、正規の学生にはなれなかったのですが、「とりあえず出してみろ」と言われた論文『子供の教育を受ける権利』で、1920年8月、ハイデルベルクで法学博士号を取得するという不可思議な経歴をたどります (このときすでに36歳でした。ちなみに、次男Hansも1913年にボンで法学博士号を取得していますし、長男Waltherは第二次国家試験合格後に弁護士となり、三男Erichは1915年にベルリン大学医学部で博士号を取得しています。
不思議なことは続くもので、マルタは国家試験を受けていなかったにもかかわらず、特別にベルリン地方裁判所長の許可を得て、ベルリン・シェーネベルク区裁判所で半年間試補見習いをしました。そののち、プロイセン福祉省の補助員、1922年にはベルリン警察幹部(Berliner Polizeiprasidium)となり、劇場等での青少年保護問題を担当したマルタは、その功績が認められ、1926年には最初の女性警察参事官(高等官吏)となりました。プロイセンでは従来そのような例はなく、まさしく異例の昇進でした。この頃マルタは、1920年代半ばから、ベルリンはハーレンゼーで、非ユダヤ人の女性パートナーたるErna Sprengerと共に暮らしていました。このことが、後に彼女の人生に大きな影響を与えることになります。このErnaは後に結婚し、それ以来Stockと名乗ったのですが、どうやらErnaは夫と同居しなかった模様で、このStock氏の人となりや、この不可思議な婚姻の理由については、今日まで何も知られていません。Erna Stockはモッセ家の一員となり、家族同様に扱われていました。マルタにとって彼女は、まさしく人生の伴侶となります。
しかし、ナチスの政権獲得後、マルタの生涯は暗転します。すでにユダヤ人にとっては住みにくい社会となっていたベルリンでしたが、ナチス政権掌握後の職業官吏再建法3条により、ただちに休職に追い込まれたマルタは、1934年1月1日をもって解雇されました 。その後のマルタはベルリン・ユダヤ共同体で活動し、1939年5月以降は住居を失ったユダヤ人のための住宅斡旋部門の長となります。数日前に公布されたある法律により、ユダヤ人家族を「ユダヤ人居住所」に集め、家屋の非ユダヤ化がすすめられたことが背景にあります。そして1941年以降、ユダヤ人の強制収容所(KZ)への収容が始まると、マルタのポジションは、マルタ自身にとって極めて過酷な運命をもたらしました。
すなわち、1941年10月、ベルリンのゲシュタポ官吏から、1)ユダヤ人の「転居」を始めること、および2)ベルリン・ユダヤ共同体はこれに協力せねばならないこと、を告げられたユダヤ共同体幹部(すなわちLeo Baeck, Philipp Kozower, Martha Mosse)は、もし協力しなければより凄惨な形で、すなわちSA/SSによる強制実現を行うと威嚇されていたので、苦渋の決断により、これに協力することとしました(ちなみに、ニューヨークにあるこのLeo Baeckの記念館に、アルバートを含むモッセ家の個人資料が保管されています)。具体的には、ユダヤ共同体の構成員たちにアンケート用紙に記入させ、ゲシュタポが強制移送手段を編成する便宜を図った、ということでした。
こうしてベルリンのユダヤ人たちは順次、強制収容所に送り込まれていきましたが、1943年には彼女自身がアウシュビッツへ送り込まれる瀬戸際におかれていました。すでに亡き父アルバートが日本との間に築いた絆がマルタの命を救ったのは、この時のことです。彼女がアウシュビッツへ、すなわち絶滅収容所へ移送される対象になっていることを知った旧在日ドイツ大使の未亡人Hanna Solfは、在ベルリン日本大使館に働きかけ、日本に偉大な功績を残したアルバートの娘を救うべく、日本大使館がドイツ政府に介入するよう促したのでした(ちなみに彼女のサロンは、外交官を中心とする著名な反ナチス教養人グループSolf Kreisの集会場所となっていました)。紆余曲折の末、マルタは絶滅収容所行きを免れ、テレージエンシュタットのKZ(強制収容所)に来ることになります。この収容所でも多くの犠牲者が生まれたのですが、飢えと病で著しく健康を損ないながらもマルタは生き延び、1945年の夏には、ベルリンにすむ生涯の伴侶、Erna Stockのもとへ帰ってくることができました。
さて、何とか強制収容所生活を生き延びたマルタでしたが、1945年7月1日に解放されて後は、再びベルリンでの生活を始めました。ユダヤ共同体におけるマルタ・モッセの活動、とくにユダヤ人の強制移送の編成に果たした役割については、第2次大戦後に、しばしば感情的な議論を引き起こしました。先のエントリーで触れたように、仮にベルリン・ユダヤ共同体がこの協力を拒めば、より一層凄惨な「移送」を引き起こしたことは明らかで、その意味で、マルタら共同体の幹部にはいかなる責任も認められなかったのですが、これらに関与したという批判はその後もつきまといました。それでもマルタは、ニュルンベルク戦犯裁判においてアメリカ占領軍に協力し、翻訳者の役割を果たしたほか、自ら証言者となったこともあります。さらに、1948年8月から1953年に69歳で年金生活に入るまでの間、マルタは15年前に奪われたかつての職場、すなわちベルリンの刑事警察(Kriminalpolizei)および警察本部の交通部門で勤務したほか、1970年までベルリン夫人組合で活発な活動を行いました。
しかし、マルタ以外のアルバートの子供たちは、戦死したハンスを除き、困難なドイツでの生活から逃れて、アメリカなど新天地での生活を始めていました。なぜマルタは、人々から「ゲシュタポへの協力」を噂されながら、このベルリンにとどまる道を選んだのでしょうか。実際、アメリカ合衆国に住むマルタの妹は、マルタに国外移住を決心するよう奨めましたし、そのようになりかけました。しかし、1946年3月13日、マルタはこの妹に次のように書き送っています。「でも、Stock夫人〔Erna〕が一緒に来られないなら、私は行けないし、行きたくない。彼女は何年もの間、私のために非常に尽力してくれたし、〔ユダヤ人と共に暮らすことで〕危険に身をさらしてくれた。私はテレージエンシュタットで過ごす間、私たちがいつか昔のように、再び一緒に過ごすということだけを希望に暮らしていたの…」。マルタの生涯の伴侶、Erna Stockは、非ユダヤ系ドイツ人であったため、アメリカへの移住許可を得られず、マルタはこのErnaとベルリンで暮らす道を選んだのでした。
私がこの世に生を享けてから約2年後の1977年9月2日、マルタ・モッセは93歳でその生涯を閉じました。彼女の困難な生涯を反映して、その墓の所在は知られていません。
ところで、テレージエンシュタットにおけるマルタの苦難の生活を、間近に見ていたある女性の存在に言及しないわけにはいきません。マルタ自身は強制収容所内での生活について多くを語っていないのですが、彼女のいとこにあたるマックス・モッセ(マルタの父アルバートの兄であるTheodorの長男)の娘、Eva Noack-MosseがKZ内の様子を伝えることになります。ジャーナリストであった彼女は、アーリア人たるMoritz Noackとの混合婚のゆえに「ユダヤ人狩り」に遭わないですんできたのですが、1945年2月にはとうとう、テレージエンシュタットの強制収容所に送られることになります(マルタの場合に見たように、同収容所は、絶滅収容所に比べれば、という意味でまだ絶望的ではない収容所でした。しかし多くの犠牲者を産み、ベルリン・ヴァイセンゼーのユダヤ人墓地では、アウシュビッツの墓碑に次いで多くの弔いの小石が置かれていました)。彼女が眼にしたのは、栄養不足で顔色の悪い叔母、マルタの姿でした。マルタは食料泥棒など、収容所内での小さな規律違反を取り締まる役目を果たしていました。
エーファは強制収容所にいた間(1945年2月22日〜同7月2日)、規則正しく「テレージエンシュタット日記」を付けており、第2次大戦後に解放されてのち、1945年7月・8月、このメモ書きをもとにタイプ版に起こしています(計140頁)。同日記はLeo Baeck Institute New-York/ Berlinのウェブサイトで閲覧できますし(DigiBaeckという電子媒体で提供されています)、また同サイトではモッセ家史料の比較的詳細な情報や、一部の史料自体への直接のアクセスを行うことができます。
そして、この女性ジャーナリストの母親はRegina Laband(1878-1938)で、すでにお察しの通り、ドイツ帝国時代の偉大な公法学者で、わが国の公法学にも重要な影響を与えたPaul Laband(1838–1918)の、その姪でした。こうして、グナイスト、及びその愛弟子たるアルバート・モッセと、シュトラースブルクの公法学者パウル・ラーバントという、わが国に大きな影響を与えた3人のユダヤ系ドイツ人法学者の生涯が、崩壊してゆくドイツ帝国および第三帝国の歴史のうちに、交錯することになります。
下の写真は、テレージエンシュタットへのユダヤ人移送の出発点となったベルリン・アンハルター駅の遺構で、現在、その前には追悼プレートが建てられています。
アルバートの長女マルタに触れた次は、やはり、アルバートの兄、ルードルフ(Rudolf Mosse:1843年5月8日〜1920年9月8日)に触れないわけにはいきません。というよりも、ベルリンでモッセと言った場合、裁判官としてのキャリアを歩んだアルバートより、新聞王として巨万の富を築き「モッセ宮殿」まで建てたルードルフこそが、まずもって想起される人物です(ちなみに、日本でも多くの翻訳がある歴史家George L. Mosseは、ルードルフの孫に当たります(養子であった唯一の娘、Feliciaの息子)。
アルバートやルードルフの父マルクスは、ベルリンに来る前、現在のポーランド領ポーゼンで医者をしていましたが、同地で出版業の見習いをしたルードルフは、ライプツィヒおよびベルリンで印刷技術を身につけます。若きルードルフは鋭い嗅覚を活かし、1867年にベルリンで広告業を開業して(Friedrichstrase 60にAnnoncen- Expedition Rudolf Mosseを開業)、ドイツ語圏一体に及ぶ広範な広告業ネットワーク(250支店!)を構築しました。1872年に彼が創建した印刷会社はドイツ最大規模を誇り、自由主義左派の「ベルリン日報(Berliner Tageblatt)」や「ベルリン毎朝新聞(Berliner Morgenzeitung)」を発行して商業的に成功します。このベルリン日報の東京特派員として、1921年から13年間にわたり、大正末期から昭和初期の日本の諸問題をドイツに伝えたのが、アルバート・モッセと同じくユダヤ出自のゆえにドイツ圏の学界での栄達の途を絶たれ、東京帝大のドイツ法教師として来日することとなったTheodor Hermann Sternberg(1878 - 1950)でした(バルテルス=石川アンナ「テォドァ・シュテルンベルクのこと(下)」書斎の窓1999年10月号39頁)。これらの新聞社の社屋たるRudolf-Mosse Zentrumは、両次の大戦で損傷し、元の姿を失っていましたが、壁崩壊後の1995年〜1996年にかけて再建され、その名を今にとどめています。
しかし、ナチスの権力掌握直後、ルードルフの会社も「画一化」政策の対象となり、その姿を消すことになりました。彼自身は、このような不幸な時代になる直前、1920年にこの世を去り、プレンツラウアーベルク地区北部のJudischer Friedhof Berlin-Weissenseeに眠っています。
さて、一代で巨万の富を築き上げたルードルフは、慈善事業にも尽力し、被用者のための基金を創設したり(1892年・1895年)、ベルリン西部のヴィマースドルフに巨費を投じて孤児教育施設「Emilie- und Rudolf Mosse-Stiftung」を建設したりしました。冒頭の写真は今も残るこの建物ですが、その一画には、この建物がルードルフの寄付によるものであることを示すプレートが埋め込まれています。因みに、この一画は「モッセ地区(Mosse- Quartier)」と呼ばれ、目の前の公園はRudolf-Mosse-Platzですし、その前を通る道はRudolf-Mosse-Strasse、そこにあるバス停の名前もRudolf-Mosse-Platzです。
孤児の相談施設である「Emilie und Rudolf Cafe」もこの建物に入っていて、隔日で相談に応じているようです。訪れた日は金曜日で、残念ながら閉館日でしたが、もちろんEmilieとは、ルードルフの妻の名前です。
さらにまた、ルードルフは芸術パトロンとしても知られ、ベルリンで最も有名な場所の一つ、ポツダム広場の北側部分に「モッセ邸(Mosse-Palais)」を建築して、ここに芸術作品を蒐集し、一般に公開していました。第二次大戦の爆撃で完全に崩壊したモッセ邸ですが、1998年に全く新しい形で再建され、昨年オープンしたベルリン・モールの隣にたたずんでいます。しかし、その内部にあったはずの貴重な芸術作品たち(その作者のうちで最も重要な芸術家Max Liebermannは、アルバート・モッセと同じ、シェーンホイザー・アレーのユダヤ人墓地に眠っています。)は、他のユダヤ人家族の財産と同じように、ナチスの手によって強奪され、世界各地に転売されて現在に至っています。ルードルフが自由主義左派の政治志向を有していたことに加え、モッセ家は、ルードルフやアルバートの例が示すように厳格なユダヤ信仰をも持っていましたので、とくに容赦のない迫害の対象となりました(ルードルフの一人娘Felicaも1933年にフランスに逃亡しています。なお、彼女は生まれた年にルードルフ・モッセ夫妻に養子に迎えられ、20歳で結婚するときに初めてこの事実を知ったFeliciaは、終生この事実に苦しめられたといいます)。
そして政権掌握後のナチスは、モッセ家の同意を得ることなく「ルードルフ・モッセ基金(Rudolf Mosse Stiftung GmbH)」なる怪しげな団体を設立し、大戦の犠牲者の支援を名目にモッセ家の財産を没収し、これをドイツ政府のもとに「移転」しました。 迫害の中でルードルフの築き上げた会社が倒産すると、このモッセ家の財産は競売に掛けられ、この強奪された財産は世界各地に拡散することとなって、近年までその行方は杳として知れませんでした。
ところが、とくに1998年のナチス強奪品の返還に関するワシントン宣言を契機に、これらの美術作品の返還を求める運動(そしてそのために美術品の来歴を調査・公表する運動)が展開され、プロイセン文化財団もその所蔵品のいくつかがルードルフの蒐集作品に由来することを認めました。ルードルフの場合に限らず、ナチス強奪美術品の返還は、まさしく現在においてアクチュアルな社会・政治問題になっていますが、この運動は近年ようやく組織化され、専門家の関与による返還が行われつつあり、ルードルフの築いた芸術作品群も、いつの日か、すこしずつ元の姿を取り戻してゆくのかも知れません。
さて、アルバートの明治地方制度・明治憲法典への貢献から始まって、マルタの数奇な生涯、そして新聞帝国を築いたルードルフの興隆と挫折を見てきましたが、少し長くなってしまったようですので、この辺りで擱筆します。そろそろ日本では桜が満開を迎える頃でしょうか。 
大日本帝国憲法作成に関わったユダヤ人
大日本帝国憲法は伊藤博文らがドイツにいきプロイセン憲法を手本にして作成したものです。伊藤博文はビスマルクに会い、ベルリン大学の憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストの講義を受けます。グナイストはローマ法の教授だったことがあり、行政実務の経験もあり、イギリス法にも精通しており、かなりの人物でした。
グナイストはユダヤ人です。弟子にアルバート・モッセという人がおり、この人もユダヤ人で伊藤への講義はモッセも受け持っています。
アルバート・モッセは明治19年(1886年)に日本に招かれて4年にわたり滞在しました。モッセは憲法の起草を手伝っただけでなく、市、町、村、郡、府など近代的な行政区画単位を制定するのにあたっても助言して大きな役割を果たしました。
モッセは日本に魅せられて日本を深く愛するようになります。ドイツ帰国後、以下の詩を書いています。
   私は日本人を心から深く愛する。
   日本の風土を心から愛する。
   まるで、わたしにとっては母国のように思われる。
   日本での仕事は、毎日、忙しかった。
   だが、いつも日本人の笑顔によって囲まれていたから、快かった。
   そして、日本を去る日が巡ってきた。
   日本はすばらしい、身近な、大切な思い出として、片時だに忘れることができない。
モッセは1925年に生涯を閉じました。
第二次世界大戦がはじまったころ、駐日ドイツ大使を務めたW・ゾルフの未亡人が、ベルリンの街でモッセの娘マーサに出会います。ワイマール時代に二人は日本関係のパーティでしばしば顔を合わせていたのでした。マーサはまもなくユダヤ人収容所に送られると語りました。そこでゾルフ婦人はその足で日本大使館を訪れ、マーサとその娘エバを保護するように訴えました。日本大使館はアルバート・モッセのことはよく知っていたので、ドイツ政府に特別な配慮を与えるように要請しました。このためマーサもエバも収容所に送られることなく、日本大使館からの食糧、医療の援助を受け、大戦を乗り切ることができました。
ちなみに現在のGHQ憲法もユダヤ人が関わっています。ホロコーストを免れるために東京へきていたピアニストのレオ・シロタの娘ベアテ・シロタという人です。作曲家の山田耕作が一家を救い出して日本に招いていました。
ベアテ・シロタさんは、GHQ民政局に通訳要員として採用され、ホイットニー准将はベアテさんをはじめ25人に9日以内に憲法を作るように命じました。ベアテさんは驚いて途方にくれたといいます。もちろん、骨子は決まっていましたが、細部のところや整合性などはここで共産主義者らが作成した憲法案や世界の憲法をもとにして25人の素人によって憲法が作られたのでした。実をいうとシロタさんはアメリカ共産党員でした。
 
オットマール・フォン・モール

 

Ottmar von Mohl (1846-1922)
宮廷儀礼、栄典制度(独)
ドイツの外交官であり、日本の政府顧問である。
1846年、ローベルト・フォン・モールの息子として生まれる。フォン・モールは、テュービンゲン大学で法学を勉強し、1868年にバーデン大公国の第一次国家試験を合格し、同年ハイデルベルク大学で法学博士号を取得した。1873年にドイツ帝国の皇后アウグスタの秘書に任命される。その後、駐シンシナティ(1879年)、駐サンクトペテルブルク(1885年)のドイツ帝国領事を歴任する。
1887年から1889年にかけて、妻のワンダ・フォン・モール(元姓フォン・デア・グロウーベン伯爵)とともに、東京の宮内省の顧問になり、ヨーロッパの宮廷儀式を導入した。一方で、単純な洋風化には批判的で、ハンガリーやロシアに倣い民族衣装の保護などを主張したが、欧風化政策を志向していた伊藤博文以下、明治政府の首脳とは対立することもあった。
1897年から1917年まで、カイロのエジプト国家債務委員会にドイツ代表者として任務を果たしたが、1914年にエジプトの宣戦布告によって中断を余儀なくされた。
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ドイツの外交官・宮内官。明治大帝に宮廷顧問として仕え、日本の宮廷構築に尽力した人物。夫人も同様に勤務した。
モール家は、ドイツのヴュルテンベルク王国の学者の家系であり、貴族としては、オットマールの父で著名な法学者ローベルト(1799-1875)が、1837年に叙爵して世襲貴族に列されたことに始まる。爵位は無い。現存する家門で、系統不明の子弟が学者やモデルなどとして活躍している。
ローベルトの父ベンジャミンがこの家門の勃興に寄与したが、彼はヴュルテンベルク王冠勲章大十字章の一代貴族に叙されたため、子弟は平民であった。しかし、長男ローベルトと末子フーゴーが功名を挙げて別々に貴族に列されている。次男と三男も著名な学者で、ユーリウスは東洋学者、モーリッツは経済学者として活躍した。 オットマールの兄エルヴィンはプロイセン軍に出仕し、少将に昇っている。 姉のアンナはフォン・ヘルムホルツ博士の後妻であり、ヘルムホルツ博士の門下に田中正平がおり、モール家と日本の関係は意外な部分からも繋がっていた。息子のヴァルデマール・アルトゥールもまた法学に通暁し、反ナチに参加している。なお、彼は父母と共に、日本に居住している。彼の名を冠した街路がSegebergに存在している。
オットマールの功績は、明治宮廷の西洋化であるが、彼自身は日本の伝統や文化を愛し、しばしばその保存を主張している。この時期渡来したドイツ人は、フォン・ベルツ博士、フォン・ズィーボルト兄弟、青木伯爵夫人など、日本を愛し、日本の伝統や文化を保存しようとしてくれた人がたくさんいる。時代を先取りしてくれた彼らは、明治大帝や元勲たちとともに今の日本を守り作った人々と言ってよいだろう。明治宮廷を取り巻いた外国人の中には、投機的な或いは山師的な者たちもいたが、フォン・モール家の人々のように日本を愛した人々が日本人と共に切磋した事が、日本とそれ以外の国の明暗を分けたい一因ではないだろうか。フォン・ズィーボルト兄弟やフォン・モール家、フォン・ベルツ博士一家を見ていると、改めて、日本と日本人を考えさせられる。  
モールの明治宮廷記
日本は明治時代、近代化を急ぎ外人を多く雇い入れました。明治中期、宮中近代化のため招聘され2年間お雇い外人として日本に滞在したドイツ人の日本滞在記を「ドイツ貴族の明治宮廷記」 オットマール・フォン・モール著 金森誠也訳 講談社学術文庫から紹介します。
1887年(明治20年)3月、日本へ出発する前にベルリンで皇帝ウイルヘルム1世とアフヴスタ皇后との光栄あるお別れの席に臨みました。宰相ビスマルク侯爵の主催で、特別使節としてベルリンに滞在していた日本の海軍大臣西郷従道伯爵も招かれました。ぺテルスブルグ駐在のドイツ帝国領事であるモールは、宮廷の女官である妻のヴァンダと4人の子供たちの女性教師、侍女らの一行と一緒に、船で3月中旬ウイーンを経てスエズ運河から紅海を通りセイロン、シンガポールなどに寄港して石炭を補給しながら香港で「オーデル号」から「ヴエルダー号」(香港〜横浜間の定期船)に乗り換え、1887年4月29日横浜港に到着しました。横浜から1時間汽車に乗って東京(新橋)に着き、そこから宮廷貴族用の馬車で鹿鳴館に着きました。
首相兼内相の伊藤博文が直接の上司になりました。伊藤は40代半ば、背は高くなく黒ひげをはやし、礼儀正しく毅然として自己意識が旺盛なアメリカの政治家を思わす風格がありました。彼は貴族の出ではなく地方の士族生まれであったが、幕末尊王の旗印を掲げた雄藩の一つである長州の出身であり、己の才能が宮中内で重要な地位を占めることが出来ていました。伊藤伯は他の多くの日本の新しい政治家たちと同じように、急進的な見解を持っており、多くの旧来のしきたり、習慣、それに制度を廃止しようとし、廃止していました。まるで絵のように美しい宮廷の衣装は、いかにも俗悪な洋式衣装に取って代わられ、この点についても伊藤伯は頑固として譲りませんでした。
この頃の東京は3つの部分に分かれ、第一は円形の城壁により囲まれ庭園に恵まれた皇居地区、第二が昔の大名屋敷が立ち並び、今は次第に省庁や議会などの政府関係の建物が建てられつつある地区、そして第三が本来の市民と商業のための市街地でした。この第三の地区も掘割と城壁に囲まれていました。日本の木造建築について「日本が始めてヨーロッパに対し門戸を開いたあと日本にやって来た建築家たちは、地震の多い土台の上に長持ちする建物を作る方法を、まだ理解していませんでした。それに、その頃の人々は、なぜ日本人が1000年間の経験を通じて教えられてきた木造建築に固執し、冬の間の寒さや火事発生の危険にもかかわらず、洋風煉瓦作りの建物よりもこれを好んだかわかりませんでした。突然地震が発生した際、階上にある寝室から夜間、自分自身ばかりではなく家族を戸外に脱出させるのが難しいかを知っている者は誰しも、日本人の優秀性を表している木造平屋を、なぜ日本人が愛好しているかがわかるであろう、と著者は述べています。
日本の爵位について、「すでに万代から日本ではすべての文物の模範となった中国から借用した位階、爵位があり、漢字で表記されていました。彼らはヨーロッパからは、英仏両国で用いられた公候、伯子、男の爵位を取り入れ、これを中国と日本で世襲の位階に翻訳して用いていました。公爵は日本の、いわば三大豪族の徳川、薩摩、長州それに宮中貴族の中では元太政大臣の三条、王政復古を成し遂げた大政治家岩倉の子息にのみ与えられました。侯爵は、その他の大名の家族、古来からの貴族などに与えられましたが、後には伊藤博文ら、いくたりかの政治家もこの爵位に達しました。伯爵と子爵になったのは、それぞれの家柄によりますが、貴族、さらに軍人、閣僚、それに宮内省の官僚です。次に男爵はずっと多くの官史、軍人に与えられました。
モールは関西の旅に出かけています。「日本では全ての省庁を7月11日から9月11日まで、すなわち炎暑の季節を半ば休日にするという、誠に賞賛すべき習慣があった。この時期には仕事らしい仕事は行われず、ただごく少数の人間だけが各官庁に残り、緊急非常の仕事の処理にあたった。・・・中略・・・東京の役所では全員が休暇を取り、できる者は誰しも市外へ出かけてしまったので、私たちも京都へ情報収集のためもあって旅行する決心をした。ただ、宮中だけは例外であった。宮中勤務者でも現代感覚の若い男女は大変不満のようであったが、宮中が夏季避暑に出かけるのは皇室の伝統と習慣に反していたからである」と書いています。
明治20年7月23日、横浜から2日間の船旅をして神戸に着きました。神戸、大阪、奈良を見物しました。奈良では正倉院の宝物殿の鍵を東京から預って来たので、その門戸を開いて内部を見たましが”素人にとってはがらくたの集積にすぎないように思われた”と感想を述べています。奈良では東大寺の大仏、春日大社、法隆寺などを見物して京都に行きました。京都では京都御所、二条城、三十三間堂、清水寺、東本願寺の他、陶芸や絹織物の工房を見学しています。その後は、人力車で大津に入り琵琶湖周辺の三井寺、石山寺、唐崎などを見物して、彦根に立ち寄り長浜から名古屋へ汽車で向かいました。名古屋城では金の鯱(しゃちほこ)を見て、1873年ウイーン万国博に出展された帰途、開運会社の汽船が難破して海中に沈んだ鯱が、潜水夫によりサーベージするのに成功した話を思い出して書いています。名古屋から東京までの帰路は人力車に乗り岡崎、豊橋、浜名湖を見ながら静岡付近では富士山の雄姿に感激しています。静岡から三島への途中、富士川ではボロ舟で渡り三島から箱根に行きました。
箱根の素晴らしさを次のように書いています。「魅力的な芦ノ湖は森の多い高い山々をめぐらせている。そして山と山の間に空高くそびえる日本の象徴、霊峰富士を仰ぎ見ることが出来る。この湖はアーヘン湖あるいはコツヘル湖、ヴァルヒェン湖などチロルやバイエルン地方にある山と湖によく似ている。勾配の大きい山脈にも針葉樹が密生している。1番麓に茂る木々は濃緑色の鏡面のように静かで魚が豊富な芦ノ湖の中からそびえたっているかのようである。木々は枝をあたりの風景を映し出している湖面に広く伸ばしている。ざわめきつつ流れる小川と小川の間に、山の上の苔むした古い社に向かう古めかしい石段が見受けられる。特に美しいたたずまいを見せるのは、この地方の中心的神社、箱根権現である。湖を見下ろす厳しい丘の上に、近代的な洋館が輝いている。これは箱根御所だが無意味な建築様式なので全く目障りである。御所の背後の緑なす杉の古木の間、そして絵のように美しい元箱根の集落の遥か上方に箱根権現がすぐ近くにあることを示す赤い木製の鳥居が見える。この辺りは平穏そのもので、真の保養地として最適である。」
宮中における賓客応接の女性のための民族衣装(着物)を採用するよう提議したが、伊藤博文は”日本においては中世はすでに克服された。もっと、のちの世紀になって日本が民族衣装に復帰することがあるやもしれない。しかし、今や宮廷における女性の応接用衣服は洋装を厳守すると決定した”と述べ衣装問題は日本では政治問題であり、宮内省には決定的な権限はないと伝えてきました。そして彼は”この問題はすでに決定済みであり、既成事実について今更議論して大切な時間を空費すべきでない”と言明しました。
1889年4月30日、伊藤博文初代首相に代わり黒田清隆が首相になりました。外国人嫌いの黒田首相になって、外国から日本に招聘されていた多くの顧問の活動範囲が狭まってきました。ロシアはその頃、石油製品を除き外国に輸出する能力を持つほど工業力はなかったのでロシア公使シェーヴイチは、日本政府に何らかの影響をおよぼそうともしないし、将校や文官を日本政府で働かせることも望んでおらず、従って他国の公使達と違って日本に対して全くの中立的であり、いささかも押しつけがましいところのない態度を取ることが出来ると言明しました。こうした保証にもかかわらず、そして教養豊かなシェーヴイチ公使をもってしても、ロシアは特に極東におけるその驚異的な軍事力に対する日本政府の根深い不信感は取り除くことはできませんでした。この6年後に日清戦争、16年後には日露戦争が勃発しました。
1889年2月11日、神武天皇即位の日すなわち建国の日に新宮殿で大日本帝国憲法の発布式典が行われました。なんとこの日の朝、神道の礼拝に参加すべく大礼服を着用し皇居に向かった文部大臣森有礼子爵が狂信的な神主によって刺されたという信じられない報道が伝えられました。大臣の警護にあたっていた警察官により刺客の首を日本刀で切ってしまったため犯行の動機は明らかではないが、アメリカ仕込みの教育を受けた森文相が伊勢神宮に拝殿に土足で上がり込み、聖域を覆う垂れ幕をステッキで押し上げたため伊勢神宮の神官の怒りを買ったのだと噂されました。一方犯人は学生で、この男は文相のせいで大学の授業料が上がり、学問が続けることが出来ないため今回の犯行に及んだという説もありました。2月12日午前5時、この傷がもとで森文相は亡くなりました。
モールは1889年4月3日「ヴエルダン号」に乗って横浜を出港し、神戸から京都に行き2日間京都を見物して、4月6日神戸から長崎に立ち寄り、2年間滞在した日本を後に帰国しました。
明治初期には日本政府自体が己の力不足を、外国人顧問いわゆるお雇い外国人の力で補ってきました。モールが来日する2年前の明治18年までに少なくとも延べ3,000人の外国人顧問が政府の各分野で働いていました。その大半は工業技術部門でありましたが、政治に直接かかわりのある顧問の数も多く、宮内省も宮中制度の改革のためプロイセンで侍従を務め、その夫人も宮廷女官であったという経歴を持つドイツ人貴族のモールを日本に招聘しました。前回取り上げたオーストリア皇太子も、今回のモールも同じように書いていますが、日本伝統の着物や木造建築の素晴らしさは西欧化に向けて突っ走る当時の日本人には、理解できないことであったようです。 
「一つ屋根の大家族のように」
日本が早急な近代化を通じて、欧米諸国と伍してやっていくための明治天皇の努力がいかに世界から称賛されたかは、拙著『世界が称賛する 国際派日本人』で述べたが、社会福祉の分野で発展を実現してその一翼を担おう、というお志を皇太后は持たれていたようだ。そのため、欧米から戻った公使婦人や女子留学生を召しては、欧米の状況を熱心に聞かれた。
史上初めて洋服を着られ、外国人を謁見し、大勢の集まる集会でスピーチをする、などは、その努力の一環である。そして、その努力と、天性の慈愛と聡明さが、欧州の王室にも負けない気品を生み出した。英国公使のマクドナルドは、皇太后に拝謁するたびにこんな感想を語った。
「数カ国の宮廷に出入りしたが、日本の皇后のように風格が高いお方を見たことがない。皇后は実に慈愛と権威とを有する天使である。」(『昭憲皇太后さま』明治神宮)
明治20年前後に宮内省顧問として欧州式の宮廷儀式導入を助けたドイツ貴族のオットマール・フォン・モールは、皇太后の「思いやりのある人柄、おのずとにじみ出る心のあたたかさ、それにけだかい考え方」を称えて、皇后を「宮中のたましい」と呼んだ。
アメリカの新聞『クリスチャン・ヘラルド』紙の論説委員であるクロブッシュは、皇后が明治40(1907)年にノーベル賞候補者に推薦されていたことを明らかにした、と当時の新聞は伝えている。これは赤十字国際会議で、基金設立の発議を行う5年前である。皇太后の社会福祉への取り組みはすでに欧米でも高く評価されていたのである。
昭憲皇太后は皇室の伝統的な国民への仁慈を基盤として「社会福祉の精神を日本の社会に根付かせ」、さらに「昭憲皇太后基金」として「世界人類に向け、人種や国境を越えて福祉に寄与すべき」を示された。
それは神武天皇の「一つ屋根の大家族のように仲良く暮らそう」という理想がグローバルに広がった道であった。
 
カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル

 

Karl Friedrich Hermann Roesler (1834〜1894)
憲法、商法(独)
ドイツの法学者。明治初期伊藤博文らの招きで来日し明治憲法・商法など諸法令の起草をした。 
2
ドイツの法学者・経済学者。明治の日本でお雇い外国人の一人として活動したドイツ人である。なおロェスラー、レースラー、また一部ではロエスエルとも表記される。
1878年、外務省の公法顧問として訪日したが、一顧問にとどまらず、後に内閣顧問となり伊藤博文の信任を得て、大日本帝国憲法作成や商法草案作成の中心メンバーとして活動した。1881年、明治政府がプロイセン流立憲主義に転換し(明治十四年の政変)、井上毅が憲法の草案を作成したが、その草案は多くロエスレルの討議、指導によるものだったとされる。彼の提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが受け入れられ、大日本帝国憲法となった。
彼の思想は保守的で国家の権限強化する方向にある一方で、法治国家と立憲主義の原則を重んじるものであった(これは、彼から深い薫陶を受けた井上毅の思想にも影響する)。彼が訪日を承諾した背景には、時のドイツ帝国宰相であるビスマルクの政治手法が余りにも非立憲的である事を批判したことでドイツ政府から睨まれたからだとも言われている(その後、オーストリアで余生を過ごしたのもこうした背景によるものであるという)。経済学者としてはアダム・スミス批判で知られている。
1834年 フランケン地方ラウフ・アン・デア・ペーグニッツ(ドイツ語版)で誕生。
1878年 当時の駐独公使青木周蔵の周旋により、外務省の公報顧問として招聘される。
1881年〜1887年 明治政府において大日本帝国憲法の作成および、商法草案の作成に携る。
1893年 帰国(ドイツではなく妻子のいるオーストリアへ)。
1894年 ボーツェンにて死去。
「大日本帝国憲法」 とロエスレル
12月2日は、明治日本のお雇い外国人の一人として、「大日本帝国憲法」の制定に大きな役割をはたしたドイツの法学者・経済学者のロエスレルが、1894年亡くなった日です。
1834年、ドイツ・バイエルン地方のラウルに、弁護士の子として生まれたカール・フリードリヒ・ヘアマン・ロエスレルは、エルランゲン大学やチューリッヒ大学で法学や国家学を学んだ後、ロストック大学の教師となると、1861年に27歳の若さで同大学の国家学教授となりました。1878年に訪日するまでその地位にあって、イギリスの経済学者アダム・スミスを批判した書や社会行政法に関する書を著し、学界の指導者として知られていました。
ドイツ公使だった青木周蔵のあっせんにより、外務省の法律顧問として訪日したロエスレルは、1881年3月ころから民法の起草をするかたわら、岩倉具視の知恵袋といわれ、のちに大日本帝国憲法(明治憲法)の起草者のひとりとなる井上毅に、ドイツ(プロイセン)流の君主主義的憲法の採用をアドバイスしました。いっぽう大隈重信は、イギリスにならった開明的憲法をつくるように政府に提案していましたが、同年7月、岩倉によって憲法制定の根本方針は、ドイツ的立憲主義とすることが上奏され、他の事件とのからみもあって大隈は罷免されました(明治十四年の政変)。
その後ロエスレルは、内閣顧問にばってきされて伊藤博文の信任を得ました。1886年秋ごろから伊藤の私邸で伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎を中心に大日本帝国憲法の草案作成が極秘のうちに着手されると、ロエスレルも私邸近くに宿泊して助言を求められました。1887年夏に「日本帝国憲法草案」ができあがりましたが、その草案の多くは、ロエスエルが4月に提出した私案の大半が採用されたといわれています。そして、「日本帝国憲法草案」はそのまま受け入れられ、1889年に発布、1890年に公布されました。
その後ロエスレルは、商法を起草しましたが、民法とともに施行延期となっています。1893年に帰国、翌年に妻子の住むオーストリアに移って亡くなりました。  
「憲法制定とロエスレル」鈴木安蔵
「帝国憲法は我が国の政治の最高規範であり国民が永遠に遵奉すべき不滅の根本法である。しからば帝国憲法は如何なる根本精神をもって、如何なる経緯を経て起草・発布されたのであろうか。近来帝国憲法の制定過程に関する研究は漸次精緻を加え来たったのであるが、かかる研究自体の重要性に比すれば、その研究成果はなお極めて微小なりとせねばならぬ。憲法起草の社会的政治的根拠・背景、その起草前史の諸準備・先行諸事情についての分析においても我が憲法史学界は漸く学的研究の緒についたのみであり、憲法起草着手後の内的経緯については、殆どなお未開拓の感がある。私はこれら一切の事情、経緯を明らかにすることは、日本憲法史そのものの闡明のために不可欠であり、また憲法の正しき解釈の上に必要なるのみならず、起草関係者の苦心精励の跡を辿り、その刻苦献身の業績を顧みることは、我が帝国憲法制定が如何に周到にして綿密なる努力、注意、準備をもってなされたものであるか、関係者が如何に国家永遠の運命を慮って調査・研究に万遺憾なきを期したかを国民に知らしむるために極めて有益であって、かくしてまた欽定憲法の権威益々深く国民の胸裡に根ざすにいたるべきを確信する。」
以上の文章は、「憲法制定とロエスレル―日本憲法諸原案の起草経緯と其の根本精神」の冒頭に著者の鈴木自身が記した序文である。
尾崎秀実を反戦平和運動家として美化する左翼勢力の歴史偽造活動は、尾崎自身の戦時評論によって粉砕される。鈴木安蔵を日本国憲法の父として称揚し、日本国憲法を美化するために帝国憲法を中傷する左翼勢力の歴史偽造活動と護憲運動は、鈴木安蔵が「憲法制定とロエスレル」に掲載した憲法資料と鈴木自身の帝国憲法論によって粉砕される。
だから第一次資料集や我が国の敗戦前に出版された書籍は面白くて堪らないのである。
鈴木安蔵はヘルマン・ロエスレルの功績の一つとして日本における信教の自由の確立に寄与したことを挙げている。

最後に彼が日本滞在中、日々カトリック教徒として、模範的な信仰生活をつづけ、日本におけるカトリック教徒に対し、その国籍の独たると仏たるとを問わず、温かき保護と激励の手を差しのべた事実があるが、例えば前掲フランツ・フォン・エルの評伝に曰く、
「ロエスレルは、その稀代の天分と先見的洞察とをもって日本に無数の貢献をし、又国政上文化上この国によき指導と守護とを与えたのみならず、日本のカトリック教会の為にも大いに尽力し、且つカトリック宣教師にも絶大の助力を惜しまなかったのである。
一八九〇年−日本憲法は一八八九年二月十一日に発布され、翌九十年四月一日(ママ)より効力を発した−に信教の自由が日本にも採用されたのも、ロエスレルの功績であり、之によって宣教師に始めてその活動の自由が認められたのであって、全カトリック教会はそのためにも彼に感謝せねばならぬのである。自ら持する所は頗る淡く、しかも彼がカトリック布教のために投じたものは巨額に上っていたのである。
東京のみならず全国の宣教師や修道女等に対して彼は常に変わらぬ忠実な友であり助力者であり、又日本人に対しては、それが同僚たる下役たるとを問わず、何人にも親切鄭重を極めていた。彼は日本の風俗習慣をよく尊重し、貧者には常に暖かき手を差し延べ、飢饉年には進んで寄捨を以て幾家族かを餓死より救った。どんな卑賤の者の挨拶にも鄭重に答えざるはなく、殊に自分の下役の者の権利をどうかして擁護しようと常に心掛けていた。
こうしたわけで彼の一身に朝野の尊敬が集まったのは当然であって、所謂壮士の煽動によって全国に亙り殊に東京市民の間に激しい排外運動が起こって、帝都の唯中で屡々外人が襲われたような時代にあっても、ロエスレル一家には特別な敬愛が注がれたことは怪しむに足らない。」
但し我が帝国憲法に信教の自由の規定があることが直接ロエスレルの主張によると言い得る資料はない。日本における信教の自由確立に対しロエスレルが貢献せることはエリザベート・ロエスレルさん始め言及しているが、その具体的直接的資料は見出し得ない。
しかしエリザベートさんも語って折られるように、彼は伊藤博文始め井上毅、伊東巳代治等の理論的教師とも言うべき権威ある職にあったのであるから、彼の言説は何事についてでも常に伊藤等に傾聴されたに違いなく、また同様にロエスレルは伊藤博文等に機会ある毎にクリスト教徒に対する迫害禁絶のため助言したと思われ、それが我が国における信教の自由の実質的確立に間接に役立ったであろうことは容易に推定出来るのである
当時我が国に来朝していたカトリックの宣教師、尼たちは、多くフランス人であったが、ロエスレルは彼らすべてに事毎に尽力を惜しまず、真夏中休暇となって公務から多少離れることの出来た時は、ロエスレルはカトリック教徒として伝導に従事したという。また御殿場のライ病療養所や、ピール・レイ師の孤児院、自分の住んでいた麻生の教会には特に意を用い、他方貧しき人々には前述のごとく米塩の救援をも怠らなかった而してやむを得ざる公務に関する以外は一切の宴席、交際を辞して家庭にあって、妻子と共に静かな宵々を楽しみ、朝夕の礼拝を欠かさず、日曜毎に教会へ行くを常としたとは、エリザベートの追憶するところである。
彼が謹厳公平忠実、公務に孜々として励み、毫も倦むところなく、判断の冷静にして良心的なる、また一切の言動が確固たる信念に基づいておって、時としては伊藤、井上と見解を異にしても毅然として自説を主張せる態度は、惟うに彼ロエスレルが気高きカトリック教徒として神に仕えし美しき人であったからであろうと信ずる。

米ジョージタウン大 ケビン・ドーク教授は、以下のように述べて一般日本人にも通ずる歴史学者の誤解を正している。
「小泉純一郎首相の靖国参拝はいまや現代の政治課題にされてしまったが、その靖国問題に少し距離を置き、歴史をさかのぼってみよう。一般に靖国をめぐる論議は戦後だけのことと思われているが、実際には戦前の一九三〇年代にも似た現象があった。三〇年代の日本といえば、多くの歴史学者は個人の自由が抑制され、とくに宗教の自由は国家神道で阻害され、なかでも日本のキリスト教徒たちの自由や権利が、靖国神社により侵されていたとみなしがちな時代である。だが、現実はそうではなかった。日本では明治憲法で保障された宗教の自由が第二次大戦中までも保たれた。戦時の日本の政界や学会では今中次磨、田中耕太郎両氏らキリスト教徒が活躍した。」
筆者は、石原莞爾が東久邇宮稔彦王首相に内閣顧問として推薦した賀川豊彦を挙げる。賀川は神戸神学校在学中から貧民窟における伝道を行い大正期のベストセラー作家になったなど戦前から戦後にかけて活躍した代表的キリスト伝道者の一人である。
賀川豊彦とボランティア 新版付録4賀川豊彦の略年表は傑作である。これが明記しているように、賀川豊彦の生涯(1886〜1960)は、大日本帝国憲法が立派に信教の自由を保障していた何よりの証拠である。
もちろん大東亜戦争中は諸々の戦時統制があり、賀川自身も1940年と1943年に憲兵隊と警察の取り調べを受けた(陸軍の憲兵隊は臨時に司法大臣もしくは内務大臣の指揮下に入り司法警察もしくは行政警察を務めることがあった)。しかし容疑は反戦運動であり、反戦運動に対する官憲の取り締まりは宗派や組織を区別せず、キリスト教を信仰する自由それ自体は戦時中でも保障されていたのである。
ロエスレルの経歴と賀川豊彦の生涯、そして明治15年から昭和14年まで日本政府が神社神道の布教活動と葬儀を禁じていた事実(「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す)は、大日本帝国憲法下の信教の自由と、占領軍の神道指令に起源を持つ占領軍憲法の政教分離規定を比較考察する際の好材料であろう。 
大日本帝国憲法
1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法。明治憲法、あるいは単に帝国憲法と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けばアジア初の近代憲法である。1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行まで半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1947年(昭和22年)5月2日まで存続し、1946年(昭和21年)11月3日に第73条の憲法改正手続による公布を経て、翌1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行された。
制定までの経緯
1882年(明治15年)3月、「在廷臣僚」として、参議・伊藤博文らは政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ系立憲主義の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」というアドバイスをうけた。その結果、プロイセン (ドイツ)の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する井上毅をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない)。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。
1885年(明治18年)には太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣(首相)となった。井上は、政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレル(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)やアルバート・モッセ(Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。この草案を元に、夏島(神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、相州金沢(現:神奈川県横浜市金沢区)の東屋旅館に移り作業を継続する。しかし、メンバーが横浜へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生。そのため最終的には夏島に移っての作業になった。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は1889年(明治22年)1月に結了した。
1889年(明治22年)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出されるとともに大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。この憲法は天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となった。また、同時に、皇室の家法である皇室典範も定められた。また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められた。大日本帝国憲法は第1回衆議院議員総選挙実施後の第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。
国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った。自由民権家の高田早苗は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。また、福澤諭吉は主宰する『時事新報』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行わるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭い、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。中江兆民もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の幸徳秋水に溜息をついている。 
帝国憲法の発布式
明治初期において、日本が近代的国家体制を確立するために必要な根幹の一つとして重要なものが憲法の制定でした。いわゆる立憲国家を実現したかったのです。
ヨーロッパでの立憲的諸制度の調査を終えて1883年(明治16)に帰国した伊藤博文は、1886年(明治19)から井上毅(いのうえこわし)。伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎(かねこけんたろう)らとともに、ドイツ人法律顧問のロエスレル、モッセらの助言を得て、憲法及び付属諸法令の起草に取り掛かりました。
完成した憲法草案は、1888年(明治21)4月に新設された枢密院(すうみついん)に於いて、明治天皇の親臨のもとに非公開で審議されました。伊藤博文はこの時、首相を辞して枢密院議長となり、憲法草案の審議を主宰しました。この審議で多少の修正を経て、1889年(明治22)、紀元節という佳日を選んで大日本帝国憲法、そして皇室典範が発布されました。
憲法発布の式典は、2月11日の午前11時から内外の高官を招いて宮中正殿の大広間で盛大に行われ、天皇から内閣総理大臣黒田清隆(くろだきよたか)に憲法が手渡されました。
その式典で、天皇陛下を奉迎する際にどんな言葉で欣賀の誠を表すかという事について事前に議論がされたのです。決定したのは、文部省の「奉賀」を退けた臨時編年史編纂掛が提案した「万歳」でした。この「万歳」を「ばんぜい」と呼ぶか「まんざい」と呼ぶかについても検討され、結局外山正一(東京帝国大学文科大学長や総長を歴任した文学博士で教育家)の案で漢呉両音混合の「ばんざい」と呼ぶ事に決定したそうです。
この日には、全国で憲法発布の祝賀会が催されましたが、国民はお上から与えられた憲法の内容については、殆ど知らなかったのです。日本中が、憲法発布で浮かれるなかで、自由民権運動の指導者であった中江兆民は次のように嘆いて居ます。
「贈与せらるるの憲法、果たして玉か、はた瓦か。いまだその実を見るに及ばずして、ますますその名に酔う。わが国民の愚にして狂なる、何ぞかくの如くなるや」
思うのですが、この「わが国民の愚にして狂なる」という有様は、現在にも受け継がれた我が日本国民の特質なのかも知れません。
 
エードゥアルト・ヘルマン・ローベルト・テッヒョー

 

Eduard Hermann Robert Techow (1838-1909)
民事訴訟法(独)
ドイツの司法官、行政官。日本の教育顧問、民事訴訟法案の検討者、起草者等を歴任。勲三等旭日中綬章受章。呼称については、テッヒョウ、古くはテッチョウ、テショウ、テヒャウ、テヒョー、徹証、哲憑とも表記される。
プロイセン王国の東北隅、プロイセン州の主要都市、ケーニヒスベルク出身。テッヒョーの父フリードリヒ(Friedrich Techow)はギムナジウムの校長で、国民自由党(Nationalliberale Partei)の一員として帝国議会(下院(Reichstag))の議員をしていた。明治初期に来日したお雇い外国人の一人。幕末に締結された不平等条約による治外法権に代表される不平等条項の撤廃のため、日本の民事訴訟法の整備に大きな貢献を果たした。
1838年8月 ケーニヒスベルクで生れる。
ボン大学・ベルリン大学で学んだ後、司法官になる道を志し、修習生・試補生活を送る。
1867年4月 プロイセン州東部の三つの小都市の郡裁判所の判事・検事の職を歴任。
1878年4月首都ベルリンの州学務局の法務担当行政官(レギールンクスラート(Regierungsrat))に就任。
1883年8月 伊藤博文に託されたドイツ駐在公使青木周蔵との間で契約を結び日本の教育顧問として赴任することが決定。
1883年11月 アメリカ経由で来日。鹿鳴館を住居と定められた。
1884年4月 伊藤博文から民事訴訟法案について意見を述べるよう求められる。
1886年6月 民事訴訟法案を提出。
1886年 勲三等旭日中綬章。西回りで帰路をとりインドに立ち寄る。
1887年 帰独。ブレスラウ(Breslau)の宗務・教育部長に任ぜられる。
1890年 ベルリンにあるプロイセンの上級行政裁判所の裁判官に転じる。
1903年 同裁判所の部長(Senatspräsident)に昇格。
1908年 日本の行政裁判所の部長であり、かつて民事訴訟法案の翻訳を巡って苦楽をともにした渡辺廉吉の訪問を受ける。
1909年1月 在職のまま病没。
日本法の近代化
明治政府の最大の課題は日本の近代化であった。そのためには不平等条約撤廃の前提として列強各国が日本に対して要求していた近代法典(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法の5法典。)を成立させる必要があった。
民事訴訟法の起草
現在の民事訴訟制度は1890年に成立公布された旧々民事訴訟法(明治23年法律第29号)に直接由来する。それ以前にも、我が国固有の民事訴訟制度は存在していたが、明治政府は、近代国家としての法整備を第一義として、当時最新の法典であったドイツ民事訴訟法典(1877年)を翻訳的に継受したのである。
1884年3月、司法省は太政官に、「訴訟規則を制定せられんこと」を上申した。同年4月18日、参議兼宮内卿の伊藤博文が、すでに来日中のヘルマン・テッヒョーに対して、司法省で起案中の民事訴訟法案(立案120条)について意見を述べるよう求めた。同年同月20日、テッヒョーは伊藤宛に最初の手紙を送り、この中ですでに計30か条を起草していた。当時、いわゆるナポレオン諸法典の一つであるフランス民事訴訟法は、アンシャン・レジームのルイ14世時代の民事王令(1667年)の、いわば焼き直しと見做されており、評判が極めて悪かった。テッヒョーは、山田顕義司法卿の依頼を受けた伊藤博文の指令に基づき、制度取調局御用掛の山脇玄の通訳、同伊東巳代治の筆記により、1884年4月23日、28日、5月8日の3日間にわたって、鹿鳴館で、司法卿及び全国各地の裁判官たち計80数名に対して、「プロイセン司法制度の大綱」について講演を行った。1884年6月5日までには176か条が起草された。司法省は、同年7月末、南部甕男、栗塚省吾、中村元嘉、宮城浩蔵を訴訟規則取調委員に任命した。同年8月に深野達が事務局付となり、同年10月に玉乃世履、菊池武夫、岡村輝彦が、1885年3月に小松済治が、同年9月には今村信行、本多康直が取調委員に任命された。他方司法省は、1884年8月頃大審院を除く、各治安裁判所、始審裁判所、控訴裁判所あてにアンケートを行い、「現行民事訴訟手続」を取りまとめた。
1885年2月、テッヒョーは『第一次草案』を脱稿し、続いて、同年8月に『第二次草案』を司法卿山田顕義に提出した。この間、帰国した三好退蔵が司法少輔の地位を与えられ、あわせて制度取調局御用掛兼務となり訴訟法の取調委員会(三好委員会)の委員長に命じられ、テッヒョー第二次草案の再審議を行った。委員会の審議の結果は中間案として『委員修正民事訴訟規則』として発表された。『委員修正民事訴訟規則』に対して、テッヒョーは、『哲憑氏訴訟規則主意書』という意見書を提出した。
1886年6月、テッヒョーは、司法大臣山田顕義に対して、『訴訟草案(Entwurf einer Zivilprozessordnung für Japan)』を提出した。しかし彼の草案はあくまでも草案にとどまり、法律となるまでにはなお3年半ばかりの歳月を要し、内容的にも大幅な変更をこうむるに至る。
1886年8月、法律取調委員会が設置された。同年8月、裁判官シュルツェンシュタイン(Max Schultzenstein)がドイツ駐在公使品川弥二郎との間に、契約を交わし、『日本民事訴訟法草案に関する意見』と『日本民事訴訟法草案(翻訳)』と題するテッヒョー草案に対する2編の意見書を提出した。さらに弁護士ヴィルモウスキ(Gustav Karl Adolf von Wilmowski)は、ドイツに来ていた松岡康毅に依頼されてテッヒョー草案に対する意見書を送った。1887年10月21日、山田顕義司法大臣が法律取調委員会委員長に任命され、委員会の中に、民法組合、商法組合、訴訟法組合が設けられ、三好退蔵が訴訟法組合会長となった。
1887年11月、法律取調委員会は、裁判所構成法の審議を開始し、12月のはじめから民法、商法、民事訴訟法の審議を開始した。外国委員のアルバート・モッセが起草を途中でやめたため、訴訟法組合は、テッヒョー案とドイツ法(CPO)に基づきつつ、テッヒョー草案には欠けていた婚姻事件、禁治産事件、公示催告手続、仲裁手続も審議の対象に取り込んでいった。
1888年9月、法律取調委員会は、民事訴訟法案の再調査を開始した。同年11月に訴訟法組合長は三好退蔵から松岡康毅に交代した。民事訴訟における検事の立会いや民事執行における優先主義と平等主義の論点を審議して、1889年4月10日、民事訴訟法案は、山田顕義委員長により内閣総理大臣黒田清隆に提出された。山田顕義司法大臣兼法律取調委員長は、1890年11月29日に予定されていた帝国議会開会前の民事訴訟法公布を目指した。当時ある法案が成法となるためには、法制局、元老院、枢密院と、3つの機関の審議を受ける必要があった。当時の法制局長官は井上毅であった。法制局の実質審議は省略された。1889年4月29日、民事訴訟法案は元老院の審議に付された。法律取調委員会は、元老院の修正要求に応じ、新草案を内閣総理大臣三条実美を経て元老院に提出して、1889年12月9日、元老院はこの案を議定した。1890年3月14日、民事訴訟法案は、枢密院の大体議に付された。同年同月25日、天皇の臨御を得て、民事訴訟法案は枢密院への諮詢も終えた。同年同月26日、内閣は閣議を開いて、上諭案を上奏、翌27日、民事訴訟法案は、天皇の裁可を得た。
1890年4月21日、旧々民事訴訟法(明治民事訴訟法)が公布され、元老院による検視も終え、翌1891年1月1日から施行された。
 
カール・ラートゲン

 

Karl Rathgen (1855-1921)
国法学(独)
ドイツのヴァイマル生まれの法律学者・政治学者。 1882(明治15)年、東京帝国大学の招きで来日した。 新進気鋭の学者として8年間日本に滞在し、同大学で政治学や行政学の教鞭をとった。 その間、農商務省の嘱託として取引所関係法規の立案に参画し、ヨーロッパの経済システムの導入に尽力した。  
カール・ラートゲンとその同時代人たち / 明治日本の知的交流
抄録
お雇い外国人カール・ラートゲンは、自由主義経済とその上からの制御とを明治前期の日本において問う営みをしていた。彼の下からは阪谷芳郎をはじめとする俊英が輩出し、彼らは、日清・日露戦争を画期とする日本の経済的社会的国家的膨張を直接t旦った。そして、離日後も彼らとの緊密な関係を保っていたラートゲンは、その卓越した日本分析によって、マックス・ヴェーパーの日本社会論に大きな影響を与えた。
1 はじめに
筆者は、数年前から、マックス・ヴェーパーがその著作中で日本に言及した箇所の解読・分析をすすめ、その結果、ヴェーパ一日本論こそは、いまもなお比較社会学の見地からみて最良の日本理解をしめすものだと確信するにいたった(野崎敏郎1993/同1994)。そしてヴェーパーの社会理論と彼の日本論とを厳密に連結するために、彼が日本にかんしてもっていた知見の射程を確認しなくてはならないと考えた。そこで必要となるのが、彼の周辺の日本研究者たちの業績を掘り起こし、それらを(再)評価することである(野崎敏郎1998: 119)。本稿は、ヴェーパ一日本論にたいして大きな影響力をもっカール・ラートゲンに焦点を当て、ラートゲンとヴェーパーとを、彼らの生きていた時代のなかに再配置することを目的としている。
ラートゲンは、戦前においては、日本の政治学・統計学・財政学の基礎づけをなした人物として知られていた。戦後は、ラートゲンの業績を見直そうとする動きが断続的にあることはあるが、ほとんど忘れられかけている。しかし彼は、以下に論ずるように、傑出した分析家であるのみならず、同時代の日本人たちに大きな影響を与えた歴史的人物である。
こうした視野に立ち、明治日本にとってラートゲンはどのような存在だったのか、逆にラートゲンからみて明治日本とはどのような国家社会だったのか、また彼はヴェーパーにどのような影響を及ぼしたのか一一こうした脈絡を解明することは、幕末以来の日本の社会変動の社会学的意味づけのために有益で、あろう。本稿ではおおむねラートゲンと日本人たちとの人脈的関係にのみ論述対象を限定し、その関係の説明に必要なかぎりでのみ彼の著作内容に立ち入札最後にラートゲンとヴェーパーとのかかわりについて若干触れることにする。
2 ラートゲンの経歴
カール・ラートゲンは、ヴァイマールの枢密顧問官の息子として1856年12月19日に生まれた。1881年にシュトラースブルク大学法学・国家学部のクナップのもとで博士号を授与され、翌1882年4月に東京大学文学部に招傭された。月俸370円を給付され、他に宿料等の手当がついていた。契約は1885年と1887年に更新され、計8年間、国法学・行政学・統計学の教授として精勤した。その間、独逸学協会学校等にも出講した。1890年4月3日に満期解任され、同年5月20日に勲四等(旭日小綬章)に叙せられ5月24日に帰国した。1892年ベルリンで大学教授資格を獲得し、マールブルク大学員外教授(1893)、マールブルク大学教授(1895) を経て、 1900年にハイテソレベルク大学教授に就任し1903年には同大学のマックス・ヴェーバーのポストを継いだ。1907年に、新設されたハンブルクのDeutschesKolonial-Institutに移り、同研究所が1919年にハンブルク大学に移管されると、同大学の初代学長を勤めた。1921年に出版されたシュモラーの遺稿(講義録)の序文を書いたが、同年11月6日に没した。なお、 1907年には勲三等(瑞賓章)に勲位進級されている。
3 学位論文と来日
ラートゲンの招聘は、東京大学にとって、 ドイツ法学の本格的な導入の最初の事例であるという重要な意味をもつ。そこには、加藤弘之と穂積陳重との意向がつよく働いていた(穂積重行1966: 509-520)。一方、日本からの照会にたいするドイツ側の(ラートゲン周辺の人々の)対応がどのようなものであったのか、はっきりしたことは判っていない。シュトラースブルク大学における彼の指導教官のクナップや、その大学の学長である義兄グスタフ・シュモラーも彼の渡日にかんして何らかの意向をしめしたのかもしれなし、ただ、直接の推挙者はローレンツ・フォン・シュタインだったとも伝えられている(玉野井芳郎1971: 35)。
彼が渡日を決意するにあたって、日本への関心のありかがどのあたりにあったのか、学位論文(の要約)を手がかりにして考えてみよう。
彼の学位論文「ドイツにおける市場の形成」は1881年に提出され、翌年の『シュモラ一年報』に彼自身による要約が掲載されている。 それによると、経済生活の編成と、その時々の公法の構成との連関が主題である。 市場規則と市場特権との解明によって、市場形態、史の二つの画期と三つの時期区分とが明らかになる。第一期は「市(mercatus)」の賦与を特徴としていた。そして市の残余部分は公的官庁の監督のもとにありつづけた。900年頃を画期とする第二期においては、特許者たちの諸権利に罰令権が付け加えられた。これにたいして、十二世紀中頃を画期とする第三期においては、 ドイツ経済史はまったく異なった性格を獲得した。都市経済が出現したのである。「都市の意義は何よりもその市場に存している。 国家会計的な性格をもっ諸特権はしりぞいた。諸特権の目的は都市の経済的上昇である」(Rathgen 1882: 380)。
若いラートゲンの問題関心は、1経済生活のメカニズムと2それにたいする国家関与と3国家から相対的に自立した都市の意義とにあった。彼の言う第一期と第二期とにあっては、国家財政に寄与するかぎりでの市場の許容という大枠(つまりオイコス経済の枠)が確同たるものだったのであり、そこからの脱却が第三期すなわち現代の経済生活を特徴づけるものである。したがってまた、自由と自治とが現代経済にとって重要な意味をもつことになる。
こうした論旨をまとめたラートゲンは、日本からの招聴をどのように受け止めたのだろうか。彼は、 ドイツとは異なった杜会的文化的基盤に立ちながら、封建経済を打破し、資本主義化をめざす萌芽的国家のうちに、 「経済と国家」「自由経済と財政政策」 という彼の研究テーマを深めるための手がかりをえたのではなかろうか。実際、彼は、滞日中の講義のなかで、地方財政や地方自治について再三論及しているのであり、それは、経済史のラートゲン流解釈からして、地方団体のとくに都市の重要性を強調しなくてはならなかったからであろう。彼の日本における精力的な活動は、こうした問題意識にささえられているように感じられる。
4 門下生たちと助言者たち
8年間の日本滞在中、ラートゲンは、各方面の官僚・政治家、財界人、経済学者・財政学者・統計学者たちと知り合った。あるいはこうした人たちを育成指導した。その人間関係の一端をしめすものとして、帰国直後に公刊された大著「日本の国民経済と国家財政』の「序言」の謝辞が参考になる。 そこには、助力者・協働者として7人の門下生が挙げられ(Sakatani、Kiuchi und Ishizuka/ Nakagawa、K ume、K anai und Matsuzaki)、また4人の助言者が挙げられている(Nakaneund Hanabusa、G. Fukuchi、E. Shibusawa und andern) (Rathgen 1891: 医)。11人の配列にはある特徴があるが、そのことも交えながら、彼らの経歴について簡単に紹介しよう(典拠のうち、人名事典・職務補任録・死亡記事等は省略する)。
阪谷芳郎(1863-1941)は儒学者・阪谷素(朗鹿)の四男である。東大在学中もっとも私淑していたのはラートゲンであり、卒業後も親しい交際があったという(故阪谷子爵記念事業會編1951: 76、 78)。阪谷は、ラートゲンの指導のもと、 1883年から1884年にかけて、東京大学図書館所蔵資料に依拠して、 236頁に及ぶ論稿「旧政体における行政組織」をまとめたのだという(Rathgen1891: 27)。その猛勉強ぶりには睦目させられる。 『日本の国民経済と国家財政』のなかで、ラートゲンは、頼朝以降の国制発展史にかんして、主として「私の日本入学生のなかで最優秀の者」である阪谷の論述を利用したことを記している(ebd.: 26-27)。したがって、ラートゲンの日本史観はある程度まで阪谷の日本史観である。
阪谷は、 1884年卒業後、大蔵省に入省、大蔵省主計官、造幣支局長、総務局長、大蔵次官等を歴任した。日清戦争後に、その戦争賠償金の使用計画は、当時予算決算課長だ、った阪谷が中心になって立案された(長岡新吉1973: 133-144)。また日露戦争後の1906年1月から1908年1月まで彼は大蔵大臣の任にあった。つまり彼は、 日清・日露戦争にかかわる財政問題に取りくんだ当事者である。その後、東京市長、貴族院議員等を歴任し、国勢調査準備委員会の副会長や東京統計協会の会長を務めたほか、学術・産業諸団体の運営の任にもあたった。
木内重四郎(1866-1925) は、在学中、給費制度や私的な援助に頼って学費をやりくりしており、ラートゲンの日本財政・行政事項研究の助手をすることで、ラートゲンからも月額5円の手当を受け取っていた。これは1887年2月から大学卒業後大学院在学中まで継続したという(馬場恒吾1937: 51)。後出の金井延がラートゲンの私設助手を務めていたのが1886年6月までであり、その後金井は留学するので、ラートゲンは金井の作業の続きを木内に託したのだろう。ただ、木内はドイツ語に熟達していなかったはずで、金井同様の資料の翻訳作業をしたのかどうかはわからない。ドイツ語ではなく英語への翻訳ならできたのかもしれない。
木内は、 1888年帝大卒業後大学院に入り、自治行政事項を研究することとなり、ラートゲンを指導教師と定められた。同年10月、大学の命で、旧幕時代の市町村自治の旧慣を調べるため、静岡・京都・大阪・奈良に出張し、翌1889年4月にも、同様の目的で茨城・福島・宮城に出張した。このとき各府県の事情に精通することになったはずである(前掲書: 71)。
『日本の国民経済と国家財政』中には、非常にくわしい府県区分一覧(近世期の区分との対照表)が掲げられている(Rathgen 1891: 7-9)。そこに付せられた脚注には、 1887年の終わりに大阪府から奈良県が分離されたことと、 1888年の終わりに愛媛県から香川県が分離されたこととが記されている(ebd.: 7、 9)。この注記は、この対照表がもともと1887年以前のもので、それ以降そこに加筆がなされたことをしめしている。この加筆は、 1887年以降にラートゲンに協力し、各府県の事情にくわしい木内がおこなった可能性がある。
木内は、 1889年6月に法制局参事官補に任ぜられ、 7月から翌年5月まで、金子堅太郎に随行して渡欧し、欧米各国の議院制度の調査にあたった。したがって、ラートゲンの私設助手は、遅くとも1889年6月までには止めていたはずである。その後、帝国議会の議事規則その他の立案に参加し、貴衆両院の事務開始と同時に貴族院書記官に任ぜられ、 1891年に兼任で農商務省参事官を勤め、内務書記官兼行政裁判所評定官、農商務省商務局長(商工局長)、朝鮮総督府農商工部長官、貴族院議員、京都府知事などを歴任した。
1921年8月、木内は再び渡欧し、翌年ハンブルクにラートゲンを訪ねたが、一足遅く、ラートゲンは前年11月に亡くなっていたので、夫人に三万マルクとテーブル掛けを贈った。
石塚英蔵(1866-1942) は、 1890年帝大卒業後、司法省に入省、日清戦争中に韓国内閣顧問となり、その後、臨時政務調査委員、台湾総督府参事官長(1898-1905)、関東州民政署民政長官(1905-17)、朝鮮総督府取調局長官、同農商工部長官(1912)、東洋拓殖会社総裁(1916)、貴族院議員(1916-34)、台湾総督(1929-31)、枢密顧問官(1934)、 日本産業協会理事などを歴任した。「法制立案に於て独特の頭脳を有し植民政策に造詣頗る篤し民政系に属し上院の異彩たり」と評されている(現代名士惇記全集編纂部編1932: 526)。
ラートゲンは7人の門下生のうち、以上の3人(阪谷・木内・石塚)を第一グループとして記している(Rathgen1891: 医)。これは、ラートゲンのためにもっとも重要な貢献をした3人を年齢順に記したものではなかろうか。そうだとすると、いまのところ石塚の役割が具体的に判明していないのが問題であり、今後さらに調査を続けたい。続いてラートゲンが第二グループとして記している4人(中川・久米・金井・松崎)も年齢順に配列されている。
中川恒次郎(1863-1900) は、 1884年東大卒業後、大蔵省に勤務するかたわら、 『経済實學講義』二巻を著わした(中川恒次郎1886-87)。これは、主としてロッシャーに依拠し、歴史学派経済学の諸著作を纂輯して、経済学と隣接諸領域との関連をしめし、またアダム・スミス等をも援用しながら、生産・流通のメカニズムを解明しようとした野心的な著作である。1887年の国家学会創立時に、中川は雑誌委員として名を連ねている。同年に領事館書記生としてシンガポールに勤務したのを皮切りに、領事または公使館書記生として各国を渡り歩き、1900年にイタリアで病没した。元山・香港時代の楓爽たる仕事ぶりから、その果断な性格を窺い知ることができる(山本四郎1985)。
久米金弥(1864ワー1932) は、 1884年東大卒業後、内務省参事兼行政裁判所評定官、内務省宗教局社寺局長(1897-98) 等を歴任し、 1904年には、農商務省特許局長として工業所有権保護協会(現・発明協会)の創立に参加し、長く副会長を務めた(1917年に阪谷芳郎が会長に就任している)。 1905年から山林局長、 1907年から1908年まで農商務次官を勤めた。
金井延(1865-1933) は、一学年上の阪谷芳郎と親しく、寄宿舎では同室だったという(河合楽治郎1939: 282)。 1885年東大卒業後、 11月から翌年6月まで、毎週一回ラートゲンの家に通って統計年鑑その他の翻訳に従事した。このときの資料が、のちに『日本の国民経済と国家財政』に利用されたのであろう。金井がこの仕事を終えたとき、若干の謝金とロッシャーの三巻本を受け取ったという(前掲書: 45-46) 。 1886年、ラートゲンの勧めもあってドイツに留学し、ハレ大学でコンラードの演習に参加し、ベルリンでア一ドルフ・ヴァーグナーとグスタフ・シュモラーの演習に参加した。1890年に帰国し、帝国大学法科大学で社会政策・経済学・財政学を講じた。1908~ 09年に再度洋行したさいには、ハンブルクのラートゲンを訪ね、数日間行動をともにする(前掲書187)。 1919年に東京帝国大学経済学部の初代学部長となり、退官後は日本勧業銀行参与理事を勤めた。代表作に『社會経済學』がある。
松崎蔵之助(1866-1919) は、 1988年帝大卒業後、 1890年に農科大学助教授に就任した。ドイツ留学(1892-96) を終えて帰国すると、農科大学の教授(農政学経済学講座担任)となり、ほどなく法科大学教授(統計学講座分担)も兼任する。 1898年からは法科の専任となる。東京高等商業学校長を兼任していた時期もある。 『最新財政學』などの著作がある。
以上が7人の門下生たちである。つぎに4人の助言者について述べる。 この4人の配列は年齢順ではない。助力の濃度順なのだろうか。
中根重一(1850-1906) は東京医学校に学んだ(1874年に在学記録がある)。しかし医学を志していたわけではなく、経済学志望だった彼はドイツ語を習得したかったのだが、 ドイツ語は医学校でしか修められないのでそこに入るしかなかったという(夏目鏡子1929・12)。1877年から1881年まで新潟医学校に勤務し、 『眼科堤要』『虎列刺病論』を訳出した(杉野大津1957/蒲原宏1957: 57-58)。その後上京し、外務省翻訳官、内閣法制局参事官兼法制局書記官逓信省参事官、 貴族院書記官長( 1894-98)、 行政裁判所評定官、 内務省地方局長(1900-01)等を歴任した。グナイスト等の翻訳のほか府県制郡制や鉄道問題にかんする著述がある。
彼は、 1888年11月から1889年3月まで自治政研究会において十回にわたってラートゲンがおこなった地方財政学講義を訳出した(ラートゲン講述1889)。 自治政研究会規則には、モッセに「自治政学その他一般行政学及び憲法の主義」を講義させ、ラートゲンに「自治体すなわち市町村郡県並びに全国に関する一般の経済学」を講義させることが記されている。 また講義は毎週金曜日午後7時からで、毎月第一・第三週にはモッセを、第二・第四週にはラートゲンを招くことが定められている(内川芳美・松島栄一監修1984(4 ): 260)。
花房直三郎(1857-1921) は岡山の実業家・政治家花房端連の三男である(長兄に花房義質がいる)。東京医学校に学んだ(1874年在学)。中根とは医学校時代からの知人だと思われる。また医学校にすすんだ事情も中根と同様だったのかもしれない。ラートゲンの謝辞中に二人がN akane und Hanabusaととくにundでカップリングされているのはこの二人が共同でラートゲンに協力したことを窺わせるものである。花房は1879年から1881年まで東京外国語学校(のち廃校)のドイツ語教師であった。1882年から農商務省に出仕、同年10月に同省統計課兼勤となる。1883年に太政官御用掛となり、 1884年に外務省に転じ、 1885年には特派全権大使伊藤博文に随行して清国へ派遣される。1884年から1888年までの外務省在職中、レースラー(ロエスレル)の通訳を勤めるかたわら、彼のもとで法律学・経済学・統計学を学ぶ。1888年以降、枢密院書記官、伊藤・松方内閣の首相秘書官を経て、 1897年内閣統計課長、1898年から1916年まで内閣統計局長を勤め、国勢調査の準備や統計協会の育成指導などに貢献した。モッセの憲法講義録等の翻訳のほか、統計調査にかんする著作がある。
花房がどのようにしてラートゲンと知り合ったのかを推測してみると、阪谷芳郎の介在が濃厚である。阪谷は学生時代の1879~ 80年頃に花房と知り合っており、岡山県青年会(東京在住者の会で、花房らが1879年に設立した)の活動を通じて親しく交わったという(阪谷芳郎1921: 252)。阪谷が統計に興味をもっきっかけをつくったのは花房かもしれない。そして阪谷が花房をラートゲンに引き合わせたのであろう。
福地源一郎(1841-1906) は著名なジャーナリストである。 どのようにしてラートゲンと知り合ったのかは今回確認できなかったが、取引所条例がらみ、あるいは自治政研究会がらみであろう。
渋沢栄一(1840-1931) は、あらためて言うまでもなく明治財界の大御所である。 彼は、1881年から1884年まで、東京大学文学部政治学及理財学科で日本財政論を教えていた(渋沢青減|記念財団竜門社編1959(26): 758-765)。したがって、渋沢は、 1882年から1884年までの2年間ラートゲンと同じ学科に属していた。また渋沢は阪谷朗麗とは1865年以来の友人で、短い東大在任中に朗雇の子芳郎が同学科の学生だったのは奇遇としか言いようがない。芳郎は1888年に渋沢の次女琴子と結婚している。
渋沢とラートゲンとのかかわりについては今後調査するつもりだが渋沢がたんにラートゲンの所属する学科の講師であるという理由だけで、多忙な渋沢とラートゲンとのあいだに協力関係が成立するとは考えにくい。むしろ、阪谷芳郎と渋沢とのつきあいが始まり(そのつきあいは、教室における師弟関係から始まったものではないようだ)、阪谷を介してラートゲンが渋沢に会うという経緯があったのではないだろうか。あるいは、渋沢が自治政研究会の発起人の一人として活動するなかで、ラートゲンと親しく接したのかもしれない。
ラートゲンへの助力者・協働者・助言者は以上の11人だけではないが、いまのところ判明しているこの11人の思想と行動とが、ラートゲンの日本観・日本研究に何らかの影響を及ぼしているのであろう。 とりわけ阪谷芳郎は重要である。阪谷の周囲の人々一一たとえば父朗塵、穂積陳重、日本古今法制の科目担当者・宮崎道三郎などーーの維新経験や社会思想、や歴史観が、阪谷の筆を介してラートゲンに乗り移り、さらにそれがヴェーバーの日本観形成に大きな役割を果たしているように筆者は考えている。この〈阪谷ラートゲンーヴェーパー〉の緊密な連鎖関係を解明するために、阪谷の周辺について今後さらにくわしく調査するつもりである。また、阪谷・木内・金井以外の人々については、そのラートゲンへの具体的な協力関係をしめす資料をいまのところみいだしていないので、その探索に努めたい。
5 滞日時の足跡から
着任直後のラートゲンの授業について、山田一郎の回想から窺い知ることができる。「先生獨乙人で、英語を以て教へるのですから、捕は兎角廻はり悪い、それは勿論飽迄承知です、處がアドミニストレーション即ち行政法其物の講義が、誠に浅薄なもので、臓を噛むが如く、砂を噛むが如く、加ふるに是迄稀有なりし口述筆記の方法で、三枚か五枚の物を倣然として講義し、之を筆記せしむると云ふ其遣方も第一痛にさはります」といった調子で山田はラートゲンの授業を酷評している。 山田らはラートゲン排斥運動を起こし、幾度も事務室へ行って懸け合うことまでしている(薄田斬雲1906/93: 50)。これは1882年4月から6月にかけてのラートゲンの最初の授業にたいする学生の反応だが、この悪意、に満ちた評を、時代背景を勘案しながら読んでみると、ラートゲンの置かれていた状況がみえてくる。
前年10月に大隈重信が下野し、それに呼応して学生たちの政治活動が活発化し、山田一郎は小野梓の鴎渡会グループで論陣を張っていた。ラートゲンが着任した1882年4月には立憲改新党が旗揚げしている。山田の目には、加藤弘之の肝煎りで招聴されたこのドイツ人青年教師の存在そのものが好ましくないものだったのである。 山田の評言は、大隈派の学生が新任のドイツ人教師をどのような日でみていたのかという文脈において読まれるべきものである。
一方、阪谷芳郎は、山田が酷評した学期のすぐ次の学期から、ラートゲンの国法学(1882年秋~ 1883 年春)と行政学(1 883 年秋~ 1884年春)を受講し、ラートゲンにもっとも私淑することになる。また阪谷はフェノロサの哲学史や理財学にも傾倒していた(故阪谷子爵記念事業曾編1951: 76)。つまり阪谷は、山田が酷評したラートゲンとフェノロサにたいして傾倒することが深かったという。山田のラートゲン評と阪谷のラートゲン評とのあまりの落差をどのように考えたらいいのだろうか。
ラートゲンは、政治学・法学系の最初のドイツ人教師として、まず何よりも日本の学生たちがどういう水準の基礎教育を受けてきているのかを測りかねたことだろう。また、着任時にはすでに第三学期(学年末)に入っていたので、大急ぎで講義をし終えなくてはならない。したがって彼としては、内容をできるだけ絞り込んで臨まざるをえなかったのであろう(それにしても、一回分「三枚か五枚」という薄さはありそうにないが)。理解力の乏しい学生にたいしては、厳選した内容を噛んで、含めるように教えざるをえないのであり、逆に阪谷を初めとする俊英たちが集っている場合には濃密で、高度な授業になるのである。だから、山田の酷評は天に唾するものと言えよう。ラートゲンは、最初は急場しのぎで授業を切りぬけていったようだが、その後短期日のうちに自分の教師としてのスタンスを固めたものと思われる。
阪谷は、 1879年頃のノートに、 「人々ガ議論ガマシキ事ヲガヤガヤ言立テ居ルトキハ、己レハ沈黙シテ、其決局ヲ視ルヲ賢トス」と書き付けている(前掲書: 72)。山田らが大隈とともに政治運動の沸騰の渦中にいたのにたいし、その三歳年下にはこのまうな沈着な秀才がし、たのである。阪谷の学生時代は、日本の国家・社会・経済システムの再配置に向けての模索の時期と言えようが、彼はそうした動きにかんしても「其決局ヲ視ル」ことに徹Lたのであろう。
有山輝雄は、山田の世代を、「時代の激変で、半強制的にそれまでの漢学教育から英語教育に転向させられ、さらに東京大学に入学させられ、 しかもエリート教育の自負心を授与されながら活躍の場を保証されない」という不確実さから独特の気質が形成された世代とみている(薄田斬雲1906/93: 解説の3頁)。たしかに、教育制度自体が試行錯誤を繰りかえして揺れているうえに、官僚組織がしっかり確立されていないために、せっかく東京大学を出ても未来は保証されていない。こうした世代の不遇と苛立ちとはそのすぐ下の世代に属する阪谷たちがおおむね順調にエリートコースを駆け上がっていったのとは際立った対照をみせている。それは、とても同一大学の同一学部の同一学科に属する学生たちとは信じられないほどである。
こうした時代や世代の綾のなかで、おそらくはいくぶんの戸惑いをみせながらも、ラートゲンは、前節でみたように、いい門下生や助言者に恵まれていたので、彼の日本生活は全体として充実したものだ、ったとみなしてよかろう。 また、契約が二度にわたって更新され、その講義録が逐次訳出出版されたことから推察できるように、彼は、日本側にとって有益な助言者とみなされていたようである。 その傍証を挙げよう。
1884年に独逸学協会でラートゲンの行政学講義が始められると、品川弥二郎は、太政官文書局・制度取調局・参事院・内務省・農商務省の青年官吏を勧誘し、 「必ず講席に列して、講義を聴き、且っその講義録を讃習すること」を要求したという(村田峯次郎1910: 438)。 当時学生だった三並良の回想によると、そのラートゲンの行政学講義は神田の独逸学協会学校二階の大広間においておこなわれており、聴講者は「飴り多人数ではなく、多くて二十人位」であったらしいが、皆立派な人力車や馬車で乗りつけており、 「伊藤公も来て居られると云ふ話であった」という(三並良1935: 152-153)。
また、彼のもとには政府関係者が助言を求めに来ている。東京大学の「傭外国人教師・講師履歴書」のラートゲンの項には、「明治十九年中嘗テ農商務次官ノ嘱託ニヨリ各国相場舎所ニ関スル法律規則等取調ノ質疑ニ磨ゼリ」とある。 当時の農商務次官・吉田清成は、株ブームの沸騰によって横行していた投機的取引を抑制するため、取引所条例(1887年5月公布)の草案づくりをしていた。条例制定への動きは1886年7~ 8月頃に始まり、吉田は「端なくブールス〔取引所:引用者〕に左担し、果ては身を以ってこれが取調べに任じ、十月に早くも新取引所の草案」が成ったという(内川芳美・松島栄一監修1984(4): 562)。この経過から考えて、ラートゲンが吉田の質疑に応じたのは1886年7月一10月頃であろう。 自由市場にたいする上からの制御は歴史学派経済学の提示する方向性そのものだから、ラートゲンは吉田に積極的に協力したと思われる。ただし、自由取引派の激しい抵抗に遭って、この条例は短命に終わる。
帰国に先立つて叙勲されたときの上奏書には、「八ヶ年間常ニ職務ニ勉働シ皐生ヲ教導スル最モ懇篤ニシテ其成績顕著」だと理由づけられている(梅渓昇編1991(2): 308)。ここには、後年の同僚マックス・ヴェーパーによって、 「凡帳面」で「けっして羽目を外さなしづためにかえって人の神経を苦しめるところがある(Honigsheim1963: 224) と評されたラートゲンの穏和で、実直な人間像がすでに明瞭に記されている。
6 離日後の活動から (1) ラートゲンの明治維新論
学位論文要旨に記されていたように、国民内部に潜む自発的エネルギーをいかに国家が組織するのか、自由な経済活動をいかに法や社会組織が制御するのかが彼の年来の研究テーマの大枠である。それはまた幕末維新の日本の社会変動の諸要因をみようとするさいの視座をも構成する。 そうしたラートゲンの日本史認識の特徴をよくしめすものとして、日清戦争直後にドレースデンでおこなわれた講演の記録『近代日本の形成』がある。そのなかから、幕藩制の性格づけと維新変革の起動力とにかんする記述を拾ってみよう。
日清戦争によって日本が新しい大国として登場したとき、日本の国家変革の基盤と諸要因とにたいする関心が欧米人のあいだに生じた。とりわけ、東アジアとヨーロッパという「二つの文化領域がいつ衝突しかっ相互浸透したか」が問題である(Rathgen 1896: 4)。
徳川家の統治下において、「国土の三分の一以上は将軍家の直轄家産であった。270の藩のうち、半分は親藩(seineVerwandten) と譜代大名(seineVasallen) であり、 [残り〕半分の藩のみが天皇の直接の封臣(direkteLehnsleute des Kaisers) であった。しかし彼ら〔外様大名〕もまた将軍の監督に完全に服していた」(ebd.: 6)。しかも、頻繁に繰りかえされる転封によって、藩権力と領地との紐帯がいちじるしく弱まってしミく。このことから、その後藩権力が廃絶されるさいの容易さがある程度までは説明できる(ebd.: 6-7)。
こうした旧秩序を崩壊させた力は、西南の藩権力そのものに由来するのではなく、むしろ、ドイツ中世のミニステリアーレンと同様に大君主の隷属的従士(Gefolgsleutりから発達した騎士階級(家臣団)に由来する。 もっとも、 ドイツの騎士階級とは異なって、彼らの地位は物権化されたものではなく、地方知行はわずかであり、大多数の者は、たんに領主の穀倉から時米(Reisrente) をえているだけで、 しかもこの械の世襲がいつまでも確実であるわけではなかった。したがって、そこでは臣従とレーエン忠誠との人格的な紐帯だけがよく発達した。こうした層は教養ある軍人=官僚層をなし、その「侍層のなかから指導者たちが出現し、この指導者たちのなかから革命の戦士たちが出現した」(ebd.: 7)。
一方で領主権力の弱体化が進行し、他方で従士身分の政治的力量が高まっていくが、その従士身分の者たちの待遇はひどく悪化していくという内部矛盾が深化する。 ここに、いくつかの財政改革の試みにもかかわらず、発展する貨幣経済と、相変わらず現物経済に依拠しつづける幕藩財政との矛盾が広がっていったという事情も加わる(ebd.: 8)。このように、「長い平和の時代は実際には内的・精神的・物質的発展の時期であった。そして形態がほとんど変わらなかった国制は、その本質においては変化していたのである」(εbd.: 7)。
将軍は骨抜きにされ、実権は代理人たる重臣たちの手中に収まるC その重臣たちもまた配下の者たちに政事を委ねる。 このことは各藩においても同様で、すべての行政は中間の官僚層の手中に落ち、その中間官僚層のなかに不満が欝積していく(ebd.: 8)。しかも変革への理論的基礎づけは、将軍家の正統主義的理念の偏向(水戸学)から与えられた。こうして、 「幕府にとってますます危険になるにちがいない内的熟成が始まった」のである(ebd.: 9)。
さて、開港によって、一方では、幕府支配の権威が根底から揺り動かされ、他方では、経済状況が激変し、生活物資の高騰を招いた。それは俸椋生活者たる武士層の困窮を一層深刻化したので、彼らの憎悪はまず外国人に向けられた。しかしそれはやがて、むしろ有効な対策を講ずることのできない優柔不断な幕藩権力のほうに矛先を向けていった(ebd.: 10)。やがて彼らは外国人にたいして自分たちがいかに無力であるかを悟り「南部の侍のなかのもっとも進歩的な脳裏には、国の栄誉を護持するために、国民統合と中央集権化された強力な政権が必要だという認識が浮かびあがった」(ebd.: 10-11)。こうして「国民意識(NationalgefuhJ)が局地的郷党主義(Lokalpatriotismus) を乗り越えた。このとき、古い直接的天皇権力すなわち正統的天皇権力のもとへの帝国の統ーが、南部の侍たちと、貧窮のなかで、また天皇の周辺できびしい監督のもとに生きていた古い公家たちとの共通の目標になった」(ebd.: 11)。
ラートゲンは、幕末維新の変動を理解するために、一見平和で静的な国制の持続のなかで進行した官僚制化と経済矛盾とを基礎に据え、水戸学を援用した正統化を変革のための補強理念ととらえている。 これはおそらくラートゲンに助言を与えた日本人たちにほぼ共通した認識だったのであろうし、またヴェーパーの日本論に圧倒的な影響を及ぼした立論でもある。
7 離日後の活動から (2) ラートゲンの同時代日本分析
社会変動を、社会構造と、階層をなす諸個人のエートスとのかかわり(あるいは矛盾)を通して理解しようとするラートゲンの見地は、日本の現状についての分析にも生かされる。これは多岐にわたるが、佐藤進や長妻慶至の論稿で指摘されていることと重複しないかぎりで(佐藤進1961/長妻慶至1992)、いくつか挙げておこう。
ベルリンの週刊紙に掲載された「日本人の国民性」という評論のなかで、ラートゲンは、 ドライな功利主義と大仰なロマン主義と名誉・忠誠の精神とがごた混ぜになっていて、保守主義と改革主義とが交互に出現するという明治の日本人の特質を描出している。これは、先にみたような維新変革の経緯から、封建的な諸要素が「現代のなかへと突き出ている」からだと説明される(Rathgen1904a: 244-245)。
そのため、 日本は、 ヨーロッパの一一ーとりわけドイツの一一政治制度を導入して立憲国家を見かけ上樹立しながら、その運用実態はその制度の精神からいちじるしく詑離している。ラートゲンは、論文「日本の憲法と行政」のなかで、その異様な運営実態を描いている。国会における議論は貧弱であり、激しい政府攻撃があっても、政府・官僚の提出する案件は驚くほどあっさりと承認され成立する。明確な綱領を有する大政党は存在せず、政党が特定の経済的利害を代表するということもない。ただ、例外として、地租納税者の利害は重視されている(Rathgen 1911: 131-133)。このように、日本は「家父長的統治下にあり、非常に特殊な民主主義的混入物をともなった官僚・警察国家」なのであり(ebd.: 133-134)、新しい装いのなかに「旧日本的精神」がなお生きている(ebd.: 134) 。
こうした国家においては、経済と軍事とが社会のなかで肥大化し、他の文化的諸要素を押しつぶしてしまいがちである。 とりわけ日清戦争によって獲得された賠償金は、その傾向に拍車をかけることになる。1904年l月16日に週刊誌に発表した論説「日本の戦争準備財政」において、ラートゲンは、戦争遂行のための日本の財政基盤の分析をおこなっている。
ロシアとの戦争が焦眉のものとなるにつれ、経常・特別歳入出が肥大化しているが、それにともなう国民の負担増は問題にならないと彼は言う。日本の物価水準(たとえば米価)はそれまでの十年間下落してきたのであり、増税幅は「日本民族の繁栄と能力の向上の度合よりも小さかった」と推定できるからである(Rathgen1904b: 95)。したがって彼の予測は次のようなものになる。対露戦争が日清戦争よりも大きな犠牲を要するであろうことはもちろんだが、「戦争に突入するにちがいない。そして増税は、容易ならない治安困難に直面することもなければ、重大な経済困難に直面することもないだろう」(ebd.)。日本の戦争遂行能力は十分に蓄えられたわけである。そしてこの論説から一カ月足らず後に開戦されることになる。
以上のように、ラートゲンの日本研究は、綿密な歴史読解にもとづき、また財政分析や階層分析に依拠した合理的解釈に徹したものである。
ところで、彼がドイツにありながら日本の政治・経済の動向をいちはやくまた詳細に把握していたことから、離日後も、彼と日本人たち一一一とりわけ日本政府内にいる知人たちとのあいだの連絡あるいは情報交換が密であったことが窺われる。その傍証として、彼が勲三等に進級されたときの上奏書をみよう。 1907年8月初日付の外務大臣(林董)による上奏書には、前回叙勲以降の功労功績が次のように記されている(梅渓昇編1991(4): 372) 。
蹄園後モ尚専ラ本邦ノ事ヲ研究シ殊ニ帝園ノ財政ニ就テハ深ク研究ヲ為シ現ニ濁逸園皐者間ニ於テ日本財政通ヲ以テ許サル、ニ至レリ且本邦留皐生ノ為ニ斡旋霊力多大ノ便益ヲ奥フルノミナラス日露戦役ノ際ハ深ク我邦ニ同情ヲ寄セ著書ニ論文ニ講話ニ熱心懇切我邦経済上ノ後達ヲ説明シ財政ノ輩国ナルヲ紹介スルト共ニ其忠君愛闘ノ精神ニ富メルヲ稽揚シ我邦ニ封スル誤解謬見ヲ打破シ為ニ戦役上利便ヲ與ヘタルコト尠カラス
叙勲にかんする上奏書には、型通りの推薦文が記されているのが通例だが、彼にかんしては、ここに引用したように、多くの字数が費やされてその功労功績が詳細に報られている。とりわけ、直接的な軍事貢献をなしうるはずのない専門領域に属する異国の大学教授が、日本にたいして「戦役上利便ヲ輿ヘタルコト」がすくなくないのだという評価は尋常でない。これは、阪谷芳郎が1906年1月以来大蔵大臣として入閣しているという事情もあるのだろうが、それにしても、本節で紹介した「日本の戦争準備財政」という論説は、外国債獲得に躍起になっている日本政府にとってじっに都合のいい論調で書かれている。日本政府とラートゲンとのあいだには、なにかたんなる連絡関係を越えた連携が成立しているような気がする。
なお、この上奏書から、離日後にラートゲンが著わした著書・論文・講話類(1講話」とあるのはドレースデン講演録のことであろう)を日本人たちがよく読んでいたことがわかる。 現に、ラートゲンの論著・論文は、いちはやく日本の学術雑誌に紹介されているのである(執筆者不詳1891/瀧本美夫1906/美濃部達吉1912)。
8 ラートゲンのヴェーパーへの影響
維新変革の性格づけや日本資本主義形成の諸要因の確定は大きな論争問題であったし、現在もそうでありつづけている。資本主義と諸社会の倫理規範との関連を包括的に論じたのはマックス・ヴェーパーであり、ヴェーパーの立論そのものがまた大きな論争を呼んだ。彼はアジアにも目を向け、「ヒンドゥー教と仏教」のなかで日本を論じている。 その要点についてはすでに詳論したことがあるのでここでは繰りかえさない(野崎敏郎1993/同1994)。
ヴェーパーは、日本論の脚注において、「日本語の正確な知識にもとづく独自の観察によって、日本の精神文化と物質文化との発展をもっとも確かに叙述した二人のドイツ人著者は、(前者にかんして) K・フローレンツと(後者にかんして) K・ラートゲンとである」と記し(MWG I /20: 432)、二人を他の研究者たちと区別している。これはたんなる先行研究紹介ではなく、ヴェーパーは、ここで、自分が支持する論者が誰であるのかを明示している。
筆者は、以前、ヴェーパーの記述のなかに福田徳三の著書の痕跡をいくつか発見した。たとえば、ヴ、エーパーは、改易の事由として、忠誠義務違反と失政とのこつを記すのみで、後継者の不在という事由を抜かしている(ebd.: 435)。これは、福田の記述の不備(Fukuda1900:131)をそのまま踏襲したからだと推断した(野崎敏郎1993: 248~249) 。そこで、なぜヴ、ェーパーが『ヒンドゥー教と仏教』において福田の名を挙げることなく済ましたのかという疑問が浮かび、、筆者には、このことが最近まで釈然としないままであった。
しかし今回ラートゲンについて調べてみて、こうした疑問が氷解した。ヴェーパーが福田の名を記していないのは、べつに種本を隠そうとしたからではなかった。だいいち、福田の論著はドイツ語圏においてきわめてよく知られた文献であって、とても割窃・隠蔽できるものではない。実情はそういうことではなく、ヴェーパーは、日本の史実にかんして、何人かの著者たちから適宜引用しているが、彼は煩T貨な文献注をなるべく省き、おおむね、彼が支持する著者のみを、あるいは彼が重視すべきだと考える論者のみを脚注に記したのである。
こうして、今度は、筆者自身のこれまでのヴェーパ一日本論研究に反省を迫られることになった。つまり、ヴェーパーとその周辺の日本研究者たちとの関係は一様なものでないということをもっと重視しなくてはならなくなったのである。 ヴェーパ一周辺の日本研究者たちをー括して、ヴ、エーパーに有益な資料を提供したり影響を与えたりした人々とみなすのは正しくない。ヴェーパーの時代は、日清・日露戦争を契機として、日本理解をめぐる思想闘争が展開されていた時代であり、ヴ、エーパーは、その闘争のなかでもっとも妥当な実証社会学的理解を提示したラートゲン他の論者たちを支持し、彼らに依拠することに決めたのである。
9 おわりに
ラートゲンの日本研究やヴェーパーの日本論は、われわれ現代日本人が通常習ってきた日本史の通説とはかなり異質なものである。もちろん、そのことをもって二人の研究を低レベルのものだと推断しではならない。本稿で示唆したように、二人の日本理解は、阪谷芳郎を有力な媒介者として、ラートゲンへの助力者たち一一すなわち幕末・明治期の社会変革の当事者たち自身の日本観を引き継いだものである可能性が非常に高い。したがって、二人の論稿を歴史的文献として正当に扱うことが何よりも重要である。
ラートゲンは、 「東洋と西洋とはもはや分かつことができない」というゲーテの言を引き(Rathgen 1891: 727)、 日本が帝国主義世界に参入して西洋と同じ土俵に立ったことを象徴的に語った。しかし、東洋と西洋とが分かつことのできない時代に突入してから百年以上経過した現在において、日本の諸学と欧米の諸学とは、日本の歴史をめぐって、同じ地平に立って知的交流をなすことができていないように思われる(たとえばかつての日本近代化をめぐる論争)。打開の道はどこにあるのか。筆者は、ラートゲンとヴェーパーとがその手がかりを与えてくれるのではないかと考えている。

(1 ) 戦後、日本でラートゲンの業績を取りあげたのは、筆者を除くと、年代順で、服山政道・東井金平・佐藤進・玉野井芳郎・三瀦信邦・安部隆一・勝固有恒・長妻鹿至らである(文献一覧の各人の項を参照)。 1977年に編集公刊(復刻)された大塚三七雄の労作は基本的に戦前のものである。欧米では、ラートゲンの門下生であり、またヴェーパーとも親しかったパウル・ホーニヒスハイムの回顧的文章(Honigsheim 1949、 Ders. 1963) が知られているほか、日本研究者やラートゲンの孫バルトホルト・C・ヴイツテらがラートゲンの足跡、に言及している。さらに最近、パウル二クリスティアン・シェンクの大著『近代日本の法制・国制形成にたいするドイツの寄与』(Schenck 1997) が公刊された。
(2 ) 東京大学の「傭外国人教師・講師履歴書」によると、ラートゲンは1855年3月1日生まれであるQ 日本で刊行された古い事典類はおおむねこれに依拠している。 ところが、今日では1856年12月19日生まれというのが定説になっている。 本稿では、ひとまず1856年生誕説に依拠することにした。なお、以前拙稿で紹介したラートゲンの略歴には正確でない箇所がいくつかあった(野崎敏郎1997: 5)。 ここでは、 「傭外国人教師・講師履歴書」と、馬場誠・大塚三七雄・佐藤進・玉野井芳郎・安部隆ーらの記述とマックス・ヴェーパー全集記載の略歴(MWGI /5:750) と、 「東京大學百年史」(東京大皐百年史編集委員会編1986) とを参照して訂正・補充した。
(3 ) ラートゲンが着任したのは「東京大学文学部」であったが、所属していた「政治学及理財学科」のうちの理財学部門は1884年9月に法学部に移管され、残る政治学部門も1885年12月に法学部に移管され、法学部は「法政学部」と改称された。さらに翌1886年3月に、帝国大学令により、東京大学は、法・丈・理・医・工の五分科からなる「帝国大学」へと改組され、政治学部門は法科に置かれた。したがってこのときから退職(1890年)まで、彼の職場は「帝国大学法科大学政治学科」である。この大学が「東京帝国大学」となるのは1897年のことである。
(4 ) ラートゲンの姉がシュモラーと結婚したのは1860年代の終わり頃と推定されている。夫婦仲は非常に円満だ、ったそうである(田村信一1993: 15-16)。
(5 ) 1900年から1901年にかけて、木内は各国の取引所・商業会議所の調査のため、二度目の洋行を経験するが、ベルリンでシュモラーに会見したとき、木内らはドイツ語が得意ではなかったので、新渡戸稲造に通訳を頼んだという(馬場恒吾1937: 126)。一方、英語は学生時代から木内の得意とするところであった(前掲書: 47) 。
(6 ) ラートゲンの没年は、日本では戦後まで不明とされてきたが、木内はそれをいちはやく知っていたのであり、 「木内重四郎惇」(1937年刊行)のこの箇所には、ラートゲンが1921年11月に没したことがはっきりと記されている(馬場恒吾1937: 353)。どうやら、 日本のラートゲン研究者たちはこの伝記を見落としてきたようである。
(7 ) 中根重ーと、次に紹介する花房直三郎との在学記録は、上杉伸夫の鴎外論中に出ている(上杉伸夫1987: 7)。 1874年に両名は同学年で、森林太郎よりも一学年上級にいる。
(8 ) 阪谷芳郎は、 1884 -1885年頃にはすでに東京統計協会に入会している(故阪谷子爵記念事業曾編1951: 324)。
(9 ) 英語という「不熟練ナル外国語」で話すと「理義ノ通暢ヲ欠ク」ことがあることはラートゲン自身が認めている(ラートゲン1887: 35)。その英語は“itare" という表現を多用するものだったというから、学生はさぞ開きづらかったことだろう(朝比奈知泉1938: 268)。
(10) 山田は、フェノロサの理財学の授業にたいしても、 「彼の哲学者美術者が、皆片手間に教授して呉れる位の事」と榔撤している(薄田斬雲1906/93: 51)。 なお、フェノロサの授業については山口静ーの詳細な研究がある(山口静一1972)。
(11) ラートゲンは1882年4月に着任してただちに行政学の講義を始めたのだが、学年末まで8週間しかなかったので、彼は、大学の命により、毎週の授業時間を大幅に増やして、どうにか要点を論述し終えた(東京大学史史料研究会編1993: 184)。だから山田が受講していたときには、一回分の授業が「三枚か五枚」などという薄いものではなく、多くの分量を詰め込んだものになっていたにちがいないのである。山田は、ろくに授業に出ずに当て推量で難癖をつけているのではなかろうか。
(12) 史料では、この上奏書の日付が「明治四十八年八月二十日」になっているが、明らかに「明治四十年」の誤記である。
(13) ヴェーパーのこの評言にもかかわらず、ラートゲンは、 日本語の読み書き・会話があまりできなかったと筆者は考えている。というのは、門下生たちが英語かドイツ語に翻訳したと思われる文献を除いて、ラートゲンは日本語文献からの直接引用をおこなっていないからである。 また彼への助言者である中根・花房・福地・渋沢は独英仏語のいずれかに堪能な人々だからでもある。
(14) ただ、ラートゲンも日本の精神丈化について多くのことを語っているのであり、安部隆一は、精神文化面でも、ヴェーパーの日本理解にはフローレンツよりもラートゲンからの影響のほうが強いのではないかという見解をしめしている(安部隆一1974/92: 236-240)。
(15) ヴェーパー全集の編集者は、 「ヒンドゥー教と仏教」のこの箇所が、モーリス・クーランの論文「徳川時代の藩」の3頁に依拠したものだとわざわざ注記しているが(MWGI120:435) 、これはとんでもない誤りである。たしかに、 「藩(han)」というスペリングはクーランに拠ったものだが、その「藩」がいかなる場合に改易されうるのかについて、クーランは当該頁で一言も語っていない(Courant1904: 3)。したがって、ヴェーパーがこの頁に依拠して改易についての記述をひねりだすことはまったく不可能でLある。これはやはり福田からの借用とみるべきである。
 
ウィリアム・M・H・カークウッド

 

William Montague Hammett Kirkwood (1850-1926)
駐日英国公使館の法律顧問から司法省法律顧問(英)
Member of Inner Temple. Her Majesty’s Crown Advocate in Japan, and Legal Adviser, British Legation and Consulates, 1882-1885. Assisted in drafting the Japanese Constitution and Codes of Law. Has travelled extensively through the Far East. Spent several months amongst the head-hunting tribes of Formosa in 1897, and was engaged to organise the administration of that island when ceded to Japan. Legal Adviser, His Imperial Japanese Majesty’s Government, 1885 -1902; Knight Grand Commander of the Rising Sun; Knight Grand Commander of the Sacred Treasure; Japanese Constitution Medal.
[ 誤訳 内部の寺院のメンバー。日本では陛下の王冠の擁護者、法務顧問、イギリス公使館と領事館、1882-1885。日本国憲法と法規範の起草を支援した。極東を通じて広範囲に旅しています。1897年に台湾の頭狩りの部族の間で数ヶ月を過ごし、日本に譲られたときに、その島の管理を整理するために従事していた。法務顧問、彼の皇族の政府、1885-1902;ライジングサンの騎士グランド司令官;神聖な宝物の騎士グランド司令官;日本の憲法勲章。 ]  
日光 西六番園地
かつて日光中禅寺湖畔の一等地に、選ばれた者たちの夏の社交場、東京アングリング・エンド・カンツリー・倶楽部(TACC)のクラブハウスがあった。今日、その栄華の跡が残る公園が、西六番園地と呼ばれている。TACCは1925(大正14)年に在日外交官や皇族、政財界の代表者などで結成された社交クラブであった。メンバーは、中禅寺湖のクラブハウスに集まって会合を開き、明るいうちは鱒釣りやゴルフを楽しみ、夜はダンスパーティーに興じた。クラブハウスは中禅寺湖畔の絶景を望む一等地で、しかも日光の中心部につながる幹線道路沿いにあって、大変に便がよかった。しかし、この地に最初に目を付けたのは、TACCのクラブメンバーではない。TACCを設立した起業家のハンス・ハンターが、クラブのために買い取ったのは、ある老紳士の別荘跡地であった。その紳士とは、晩年中禅寺湖での釣りを心から愛した元長崎商人、トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)である。
T. B. グラバー
スコットランドのフレイザーバラで生まれたグラバーは、日本では長崎の観光名所、南山手のグラバー園でその名を知られる。ジョン・ルーサー・ロングの小説『蝶々夫人』と、その小説を元にしたプッチーニのオペラ『蝶々夫人』は、グラバー夫人、ツルとの共通点が多い。1859(安政6)年に21才で来日して、ジャーディン・マセソン商会(イギリス極東貿易の中心企業)の長崎代理店を引き継ぐと、グラバーは成功者の階段を瞬く間に駆け上がった。グラバー商会は、1866(慶応2)年頃からは貿易業の枠を超えて、企業規模を拡大していった。輸出入業から投機的な事業に進出し、利益は急上昇の後、瞬く間に下降線をたどった。そしてついに、1871(明治4)年に、グラバー商会は解散、破産整理に追い込まれた。
東京でのグラバー
複雑多岐に渡っていたグラバー商会の負債整理は、1877(明治10)年まで続いた。その間、グラバーは高島炭坑の経営に残留して黙々と働き、1874年(明治7)頃には、個人的な債務返済は、完了していたようだ。そして岩崎弥太郎の計らいで、グラバーは三菱の顧問となって東京に居を移した。また、1884(明治17)年、ノルウェー系アメリカ人コープランドの経営するビール工場、スプリングバレー・ブルワリーが倒産すると、日本のビール需要を見込んだグラバーは、出資者を募って早速これを買収し、ジャパン・ブルワリー・カンパニーを設立した。グラバーはドイツから醸造技師を招き、最新式の機材を投入して、1888(明治21)年、ついに国産新ビール、キリンビールの販売にこぎ着けた。グラバーの予測は当り、ビールの売り上げは順調に伸びて行く。ラベルの麒麟は、1889(明治22)年に漆工芸家の六角紫水が、太宰府天満宮の麒麟像を元に、グラバーのヒゲをイメージしてデザインしたものであると言われる。
グラバーと日光
ジャパン・ブルワリー・カンパニーの出資者の一人で、司法省の法律顧問だったウィリアム M. H. カークウッド(William Montague Hammett Kirkwood)は、1887(明治20)年に外国人として初めて日光中禅寺湖に別荘を持った。グラバーは、カークウッドとの交友から、日光へ足を運ぶようになったようだ。1893(明治26)年には、グラバーも中禅寺湖畔の大崎に自分の別荘を建て、地元の学校で教鞭をとる大島藤三郎と、しばしば釣りを楽しんだ。一日の仕事を終えて疲れて帰ってきた大島を捕まえて、グラバーはすまなそうに釣りに誘っていたという。やがて大島の次男久吉が成長すると、グラバーのお供は久吉に変わった。1897(明治30)年頃に、久吉がグラバーを、中禅寺湖上流の湯川の鱒釣りに案内した。奥日光の美しい森と透き通る水は、すぐにグラバーを魅了した。それは、遠く離れた故郷のスコットランドを思い出させたのかもしれない。
ブルック・マスの放流
グラバーは奥日光で釣りを楽しみながら、考えていた。この地にマスを定着させたい。1902(明治35)年2月、グラバーはアメリカのコロラド州から25,000粒のブルック・マスの卵を輸入した。中禅寺湖漁業組合が協力して卵をふ化し、5月に稚魚を放流したものの、その年の9月28日、巨大な台風が日光全域を襲った。台風が去った後、無惨にもマスは全滅していた。1904(明治37)年、グラバーは再度コロラドから魚卵を輸入した。二回目のふ化、そして湯川への放流は無事に行われ、ブルック・マスは湯川で繁殖していった。
事務的な手続きや現地での手配を行ったのは英国大使館員のハロルド・パーレットであったため、日光のブルック・マスはパーレット鱒と呼ばれるようになった。だが実は、これはグラバーの発案と出資によって放流されたものであった。
グラバーはまた、日本で初めて疑似餌を用いるフライ・フィッシングを行ったことで知られる。そのため釣り人たちの間では、日光はフライ・フィッシングの聖地と言われている。
西六番園地
1940(昭和15)年8月17日深夜、TACCのクラブハウス、西六番別荘は火焔に包まれて一夜のうちに失われた。火事の原因は、スイッチを切り忘れた大型コンデンサーのオーバーヒートだったと言う。前の晩、クラブではダンスパーティーが開かれていた。日光の社交場TACCは、突然終焉を迎えることとなった。
高く突き出た石造りの煙突が、大崎バス停の湖畔側に見える。それが西六番園地の目印である。公園内にはベンチやテーブルがいくつもあって、ピクニックに最適である。湖畔を散歩した後にベンチに腰掛ければ、適度な木陰と湖からの優しい風が気持ちいい。
かつて中禅寺湖畔には、たくさんの外国人別荘があった。船着き場からボートやヨットに乗ってクルージングを楽しんだり、互いに行き来をしてお茶会や食事会を催したりしていたようだ。西六番園地に残る船着き場は、当時の避暑地の様子を彷彿とさせる。  
 
ジョルジョ・ブスケ 

 

Georges Hilaire Bousquet (1846〜1937)
フランスの法学者。パリ控訴院弁護士だったが、1872年明治政府の顧問となり司法省法学校などで法律などの指導に当たった。司法卿江藤新平の要請で刑法・司法制・警察制度などの構築に貢献した。彼が日本国内で触れ・経験した文化や風俗などは日記に纏められて出版され当時の貴重な資料となっている。  
    日本見聞記  
2
フランスの弁護士。明治初期の4年間(1872-1876)滞日し、『日本見聞記』を著した。
パリに生まれ、パリ大学法学部卒業。1866年に弁護士登録。
1872年(明治5年)に訪日(日本で初めての御雇い外国人)。当初民法草案の策定にかかわり、ギュスターヴ・エミール・ボアソナード訪日後は、司法省明法寮(後、司法省法学校)で法学を講義した。1876年(明治9年)に帰国し、日本での見聞をまとめた『今日の日本』(Le Japon de nos jours)を出版。
1937年1月15日死去。モンマルトル墓地に埋葬された。
日本見聞記
1877年に刊行した『Le Japon de Nos Jours et les Echelles de l'Extreme Orient: Ouvrage Contenant Trois Cartes』の中で、ブスケは『日本の職人』について、こう記している。
「どこかの仕事場に入ってみたまえ。人は煙草をふかし、笑い、喋っている。時々槌をふるい、石を持ち上げ、ついでどうゆう風に仕事に取り掛かるかを論じ、それから再び始める。日が落ち、ついに時が来る。さあ、これで一日の終わりだ。仕事を休むために常に口実が用意されている。暑さ・寒さ・雨、それから特に祭りである。」
また、「日本人の生活はシンプルだから貧しい者はいっぱいいるが、そこには悲惨というものはない」と書き、日本人に欧米諸国の貧困層がもつ野蛮さがないことに驚嘆しつつ、次第に失われていくことを惜しんだ。 
3
明治五年に開校された司法省の法学校(明法寮)に集まった第一期生20名の写真を紹介したが、この学校でフランス法を教えるために来日した最初のフランス人法律家が、ジョルジュ・イレール・ブスケ(Georges Hilaire Bousquet)であった。しばしば混同されるが、左院御雇外人のアルベール・シャルル・ヂュ・ブスケ(Albert Charles Du Bousquet)とはまったくの別人である。第1期生であった本学創立者の岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操(岸本・宮城より遅れて入学)らも、G・ブスケの講義を聴いたのである。
G・ブスケは、1846年3月3日、パリ第16区シャイヨ通15番地(15, Rue de Chaillot) に生まれた。パリ大学を卒業後、パリ控訴院弁護士として活動中の1872(明治5)年1月12日、パリにおいて、鮫島尚信少弁務使との間で、司法省御雇法律顧問としての雇用契約が締結され、同年3月に来日した(26歳)。加太邦憲は、司法省法学校でのG・ブスケの講義について、ボワソナードと比較して、次のように述べている。ボワソナードは講義経験豊かな大家であったから、一冊の法律書も携えず、「その蘊蓄する所豊富なるが故に、講じたき廉々脳中に簇出し、止まる所を知らざるを以て自ら秩序なく、時には横道に入り、遂には本道への戻り道を失」うこともあって「到底初学の者には了解し難」かった。これに対してブスケは、年齢も若く学問も深くないため、講義の項目を予習して覚書を作って講義したので「秩序ありて初学の者にも解し易か」った。もしブスケによる1年有半の薫陶がなかったならば、とてもボワソナードの講義は理解しえなかったであろうから、ブスケに遅れてボワソナードが来日したのは、我々にとって「大幸福」であったと(加太邦憲『自歴譜』岩波文庫)。この加太の言によれば、ボワソナードの講義に1年以上先行して、G・ブスケから「薫陶」を受けたようだが、現時点では、明治7年4月9日に、ボワソナードによる最初の講義である「性法」(=自然法、実質的には民法の財産法原理)講義が始まったのち、G・ブスケが「商法」(明治7年9月17日〜9年2月27日、全61回)と「親族法」(不明)の講義を行ったと考えられているにすぎず、それ以前の「薫陶」の詳細は不明である。ちなみに、このときの講義筆記と思しき仏文が、数年前に、井上操(第1期生の1人)の子孫宅から発見されており、『仏国商法講義』(司法省蔵版、明治11年刊)がその全訳であると思われる(なお、講義の傍ら、G・ブスケは、司法省における民法・商法などの編纂事業にも関与しているが、ここでは触れない)。
およそ4年間の日本滞在を終え、明治9年5月に帰仏した後のG・ブスケの消息については、西堀昭氏の研究に詳しい。フランス司法省勤務を経て、1879年7月からフランス参事院(Conseil d'Etat) で請願委員などを、次いで、1898年1月末に関税局長(同年11月、日本酒の関税引下げなどに貢献した功労によって日本政府から勲二等旭日章を授与された)を勤めたりしたのち、1937年1月15日、ポルト・マイヨ(Pte Maillot)にほど近い、パリ第16区マラコフ通145番地(145, Avenue de Malakoff)で死去した。享年90歳であった。その墓は、パリ第18区のモンマルトル墓地にある。 
諸話
高崎
高崎が交通の要所であることから、多くの人の往来があった。そして、旅人が見たままの高崎を書き残している。
維新直後の新政府は、近代化を図るために多くのお雇い外国人を招いた。明治5年(1872年)にできた官営富岡製糸場は、高崎に外国人の姿を見るきっかけになり、また、外国人の訪れもあった。
中でもジョルジュ・イレェル・ブスケは、同胞の富岡製糸場の首長ポール・ブリユーナを訪れたときと日光を訪れたときの、二度高崎に来ている。
ブスケは、明治5年お雇い外国人の中で法律家として最初に来日し、9年に帰国するまでの四年間滞在、その間日本の法制度の近代化に大きな貢献をした人である。ブスケは、ナポレオン三世の第二帝政期のフランス産業資本主義の最盛期に育った。この26〜29歳の青春横溢する日本近代化の若き指導者ブスケは、仕事の傍ら、未知の国の真の文化の姿を求めて、交通機関の未発達な状況下に四国・九州を除いた日本全土を踏破している。
当時の日本は、文字どおりの大激動期・大転換期で、先ごろまでの鎖国の眠りから覚めて、西欧にその基本を求めての近代化への胎動をし始めた時であった。そして、その文化の著しい相違を鋭敏な感性でとらえ、それらを明せきに分析して『日本見聞記』を著した。
「高崎には一万戸の家がある。したがって住民は25,000人であると推定できる。(中略)ここには昔「シロ」があり、今は取り壊されているが、まだ500人の駐屯兵が住んでいる。(中略)私はあるとき歩き回っているうちに、一つの学校が開かれているのを見つける。私は子供の態度に心打たれる。空気と光とが至るところに流通している。この国には、普通の文字を読み書きできない一人の男も一人の女もなく、12歳を超える子供でそれができないものは一人もいないということが信じられるだろうか。」
これは、ブスケが日光への旅の途中に記した明治六年の高崎である。高崎は今大いに変ぼうを遂げようとしている。ブスケが見たらどのような言葉を聞かせてくれるだろうか。現代の日本社会の外ぼうは、ブスケの見た日本と比較できないほど変わった。『日本見聞記』から察すると、ブスケは「外ばうは変わっても、日本人の心はほとんど変わっていない」と言うであろう。つまり、精神の近代化は訪れていないということである。高崎が21世紀に向けて外ぼうだけでなく、市民一人ひとりがその精神の変ぼうへの努力をし、真の21世紀日本のシンボル都市を目指したい。まずは、文化に関心を持つことから、それは始まる。
富士山
「古来より知れ渡り神聖にして完全な山、富士山は、巨大な花の中心にあるおしべのようにバラ色に包まれてそびえている。」 フランスの弁護士、ジョルジュ・ブスケ(1846年-1937年)
「私は駕籠を止めてそれに見入った。その山は高くそびえて髪飾りのように青い空に突き刺さっていたが、下半分は雲の影に覆われていた。それは中国にある華山の宝石池に咲く白い蓮の花のように美しかった。」 第9回朝鮮通信使の記録官として1719年に日本を訪れたシン・ユーハン (1681年-没年不明)
「日本人も外国人も、芸術家も行楽客も、優美さと荘厳さが一体となった孤高の驚くべき山の前では、皆畏敬の念にひれ伏している。」 著名な日本研究家、バジル・ホール・チェンバレン (1850年-1935年)
「・・・我々は、「比類なき」富士山の美しさを目のあたりにした。それはほとんどが宿屋に隠されていたため地から飛び出して見え、横方向に渦巻いたり広がったりしている雲の上で薄青い空に美しい頭を突き上げているようであった。」 英国の外交官、アーネスト・サトウ (1843年-1929年)
「空の広がりの中に誇り高く突き出している富士の美しさは、日本で最も優雅な景観である。いや本当は、世界でも稀な雄大な景観なのだ。雪のない裾野はおしなべて青いため空と区別できず、人は雪を被り天国にも届く円錐形の山に見入るばかりだ。」 日本研究家兼作家、パトリック・ラフカディオ・ハーン (1850年-1904年)
不安な視線
1894年〜1895年の日清戦争と、そして何より1905年の日露戦争の勝利により、西欧の日本を見る目は変わります。ジョルジュ・ブスケはすでに1877年に『今日の日本』という先駆的な著作を書き、アジアの民衆が西欧に対して反乱を起こすことがあり得ると予測し、アジアの侵略が西欧にもたらす危険を不安と共に指摘しています。何より脅威と捉えられていたのは清でしたが、1895年に日本がその清に勝利したことは大きな驚きでした。
人足寄場
前非を悔いて正業に就いた者が年200名ほどいたというから人足寄場設置はその目的を達して大成功したといえよう。
平蔵は寛政7年(1795)5月10日に50歳で病没(病名・死因不明)したが、死後77年を経た明治5年(1872)日本政府に法律顧問として招聘されて来日したフランス人ジョルジュ・ブスケ(法学者)が人足寄場を訪ねてその様子を記録している。
「オガワ(大川)の河口にあるスクダ・シマ(佃島)には、我々の禁錮重労働の刑にほぼ等しい懲役刑に処せられた者が収容されている。訪問者はまず木造の建物で囲まれた四角形の大きな中庭に入る」「中庭の周りには種々の作業場が並んでいる。それらの各々では、被拘禁者の力、年齢および罪状の大小に応じ、彼らの今までの知識にできるだけ適した違った仕事をしている」「最初の作業場では、40人ほどの14歳ないし20歳の青少年が竹の枝を割いて扇にするためのきわめて細い竹片を作っている。もっと遠くでは(中略)杵で米をついている」「同僚のために衣服を仕立てている裁縫師がいる。この服はゆったりしたズボンから成っており、夏になると簡単な腰帯と上着とに取り替えられる。これらはすべて赤味をおびた汚れにくい綿布でできている」
ブスケは人足寄場の独創性と先進性におどろき、かつ高く評価している。
「労働にはきわめて僅かではあるが報酬が与えられ、給料を積み立てられて刑を終えてから免囚として職業を得るために用いられる。各受刑者はそこを出るときには職を身につけており、我々〔フランス〕の被拘禁者の境遇よりも遥かによい境遇である。〔我国では〕企業者は労働者を養成することを心がけず受刑者の労働を搾取するのであり、その者が監獄を出るときには職をもっていないのである」
海水浴
明治5年8月(1872)、フランスの法律家=ジョルジュ・ブスケ、カタシエ(片瀬)で夕食前に海水浴。
京都中村楼に宿泊
お雇い外国人ジョルジュ・イレール・ブスケ(1846−1937)はフランスの弁護士・法律家で1872年に江藤新平が呼び寄せ、日本の法曹階級の形成に寄与した。また、日本の法制度を機能させる為に、「法律学校見込書」を建白して司法省法学校を作るきっかけを与えた。
ボアソナードより一年先輩になる。フランス人法律顧問、並びに法学教師として日本に来たのは第一号である。
ほぼ4年間日本に滞在し、四国・九州を除く日本のほとんど全土を旅している。彼の眼にどのような日本が、またその頃の京都はどう映ったのか。
「日本見聞記」二巻を1877年に出版している。その中の(江戸から大阪への紀行)の第二節に(東海道と京都)があり、京都についての印象を記している。私が気にしたのは、ジョルジュ・ブスケはその頃、京都のどこに滞在・宿泊していたのか?という疑問である。也阿弥ホテルはまだ無かった。フランス公使レオン・ロッシュが相国寺に泊まったように、どこかのお寺だろうか?
京都ふらんす事始め、宮本エイコ著、を読んで、調べていると、答えが見つかった。
「京都でブスケが宿泊したところは中村楼で、、、、、、ちなみに中村楼は祇園、八坂神社、南楼門の茶屋から発展したところだが、江戸初期には、祇園豆腐が評判で、文人墨客が集まった。明治に入って、ホテルを開業して、京都のホテルの草分けとなった。」と書かれている。
八坂神社、南楼門前の中村楼だったのか、と問題が解け、安心した。宮本エイコ様に感謝します。
中村楼は現在、京料理で有名。格式のある玄関、二階大広間からの庭の景色が素晴らしい。最近一階にテーブル席をリニュアルされモダンな京料理を提供されている。外観は時代映画にロケてきそうな風情。かつて「祇園小唄」の歌曲をヒットさせた、映画「森羅万象」のロケ地にもなっている。現在は宿泊はされていない。12月クリスマス企画として、平山ミキさんのジャズ音楽ライブが行われている。昔ながらの茶屋では、コーヒやアイスクリーム、ぜんざい等が提供されている。夜の宴会時、舞妓さんの出入りが多い。
日本における歴史法学派
明治政府は1870年代、不平等条約改正のために近代法を必要とし、フランス人にフランス法教育を依頼している。この中で、ドイツ的歴史法学派 であったジョルジュ・ブスケの存在が、日本の法律学の成熟に多大な貢献をした。ボアソナードを除き、当時日本にやってくる御雇外国人は、本国では反主流ば かりであったのだが、それが功を奏した。
江藤新平は、自然法学派ではないが、フランス法をそのまま日本に持ち込もうとしていた。これに対しブスケは、歴史法学派の立場から、「フラン ス法は、フランス語を話し、長い歴史の上に出来上がったものであり、日本に持ち込んでも機能しない」と批判した。フランス法が芽吹くような、土壌を作るこ とが必要なのであり、まずは法学校を作れと、司法省に「法律学校見込書」を建白した。これを受けて、司法省明法寮をベースに、司法省仏国法律学科専門学校 が誕生したのである。後に来日する自然法学派のボアソナードは、歴史法学派の功績の上に名声を残したとも言える。また、自然法学派でありながら慣習法を重 視したボアソナードは、全く社会環境の異なる日本では、歴史法学派の正当性を認めざるを得なかったとも言える。
社会的類似性としても、日本の産業革命が1890年代であったことは、民法典施行が1898年であることからも忘れることはできない。不平等 条約の存在をドイツ帝国の立法権拡張とパラレルに見ると、法典編纂を成し得た社会環境のドイツとの類似性と、歴史法学派の実践したテーゼの正当性は、無視 し得ないであろう。
逝きし世の農村生活
では農村生活はどうだったのか。明治新政府の司法省顧問となったフランス人法律家のジョルジュ・ブスケは、当時の農民を以下のように表現している。「この性質たるや素朴で、人づきがよく、無骨ではあるが親切であり、その中に民族の温かい気持ちが流れている」と述べ、さらにまた「彼らはあまり欲もなく、いつも満足して喜んでさえおり、気分にむらがなく、幾分荒々しい外観は呈しているものの、確かに国民のなかで最も健全な人々を代表している。このような庶民階級に至るまで、行儀は申分ない」と称賛するのである。またドイツ商人のF.A.リュードルフは、下田を訪れた際に目にした日本の農村風景について、「郊外の豊饒さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている。恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている」と著書『グレタ号日本通商記』に記している。さらに勝海舟などの幕臣に近代海軍教育を施したオランダ海軍軍人のヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケは、日本の農業技術について「日本の農業は完璧に近い。その高い段階に達した状態を考慮に置くならば、この国の面積は非常に莫大な人口を収容することができる」と評価した。彼以外にも、たとえばアメリカの外交官であったタウンゼント・ハリスは「私は今まで、このような立派な稲、またはこの土地のように良質の米を見たことがない」と語り、長崎商館長を務めたヘルマン・フェリックス・メイランも「日本人の農業技術はきわめて有効で、おそらく最高の程度にある」といった。
また一方で、イギリスの女性紀行作家で『日本奥地紀行』を著したことで知られるイザベラ・バードは――僻地における極貧生活もつぶさに観察したうえで――米沢平野については「美と勤勉と安楽にみちた、うっとりするような地域」と表現している。そして「米沢平野は南に繁栄する米沢の町、北には人で賑わう赤湯温泉をひかえて、まったくのエデンの園だ。“鋤のかわりに鉛筆でかきならされた”ようで、米、綿、トウモロコシ、煙草、麻、藍、豆類、茄子、くるみ、瓜、胡瓜、柿、杏、柘榴が豊富に栽培されている。繁栄し自信に満ち、田畑のすべてがそれを耕作する人びとに属する稔り多きほほえみの地、アジアのアルカディアなのだ」と語るのである。その他、日本の農業技術の高さと田園風景の美しさに目を奪われた人物は数知れない。日本人に対して厳しい批判的なまなざしを送り続けた、あのイギリスの外交官で医師でもあったラザフォード・オールコックでさえも、日本農業のあり方には驚嘆している。そして欧米人観察者の、そのほとんどが、「幸せで満足そうな日本農民像」を記録にとどめているのである。
日本人と躾
昔むかし、あるところに、躾(しつけ)の厳しい国がありました。
その頃のその国は、まことに貧しく、まことに小さな国でありました。
「…でも、街中には子供達が溢れていて、朝から晩まで外の通りでわいわいと騒ぎ、転げまわっていた。そして、子供らの身体は頑丈そうで、丸々と太っていて、赤い頬が健康と幸福を示していた」…と、その国を訪れた何人もの外国人達が、街中の風景を同じように夫々の日記や報告書に綴っていました。
一方、その国の大人達はどうであったかと言うと、19世紀の中頃、つまり、1800年代の幕末から明治の草創期にかけて日本を初めて訪れた欧米人に共通していたことは「この国の人々は確かに満足しており、幸福であるという印象だった」ことでした。
例えば、1860年(万延元年)、通商条約締結の為に来日したプロシャ(現在のドイツ)のオイレンブルク使節団は、「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」と、その遠征報告書の中で述べています。
話を子供に戻すと、日本の子供は泣かない…というのが当時の訪日欧米人の共通感覚であり、日本についての定説でもあったようです。世界中を旅した旅行家・イザベラバードも同じ感想でした。
「私は日本の子供達がとても好きだ。私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子供が厄介をかけたり、言うことを聞かなかったりするのを見たことがない。英国の母親がおどしたり、すかしたりして、子供をいやいや服従させる技術や脅かし方を知らないようだ」…と。
また、大森貝塚の発見者で、明治10年代に東大教授であった、エドワード・モース(1838〜1925)は、「私は日本が子供の天国であることを繰り返し言わざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に扱われ、子供の為に深い注意が払われる国はない」とまで言っています。
時には、日本では放任主義か、あるいは、子供に阿(おもね)っているのではないか?と疑う欧米人もいたようですが、そんな人も日本人を観察する内に、それが間違いだったと気付いたといいます。
モースはさらに、「世界中で、両親を敬愛し、老人・年長者を尊敬する点で、日本の子供達に勝る者はいない」とまで言っています。
また、司法省顧問として来日したフランス人・ジョルジュ・ブスケは「日本の子供は確かに甘やかされているが、フランス庶民の子供よりはるかによく躾られている」と感想を綴っています。
そうです。 日本の親は子供を放任しているのではありませんでした。 日本の親の最大の関心事は(当時から)『子供の教育』でした。そして、子供達は小さい時から『礼儀作法』を仕込まれていたのです。 昔の日本人の親達は、子供に与える最初の教育が「躾」だと分かっていたのです。
前述のイザベラも、いつもお菓子を用意していて、子供達が来るとそれを出して与えていました。…でも、「彼らは、いつも、まず父か母の許しを得てからでないと受け取る者は誰一人としていなかった」と驚き、賞賛しています。そして、親の許しを得ると、ニッコリして頭を下げ、そして受け取ると、自分だけでなく他の子供達にも分け与えてあげるのが常でした。  
ジョルジュ・イレール・ブスケと鮫島尚信
司法職務定制の制定過程を考察するにあたっては、ジョルジュ・イレール・ブスケと鮫島尚信について述べておく必要があるものと思われます。ブスケ来朝の機縁は、鮫島との出会いにありました。
わが国にとって、近代法移植の先駆的貢献者ともいうべきブスケについて、かつては、その帰国後の消息は不明であるとされていましたが、近年では、この「尋常一様でない」傑出した法律家について、研究者の尽力により、その生涯および人物像がほぼ明らかにされています。
とりわけ西堀昭先生の、『日仏文化交流史の研究』、増訂版『日仏文化交流史の研究』、『日仏文化交流写真集』からは、ブスケや他の人物に関する研究成果とともに、その生涯について学ぶことができます。
また、野田良之先生、久野桂一郎先生共訳による『ブスケ日本見聞記』〔原著・LE JAPON DE NOS JOURS〕からは、「自由な証人」ブスケがみた明治初年の日本の制度や各地の様子を、時を越えて知ることができます。
1872年1月12日、ブスケはパリにおいて、日本国少弁務士鮫島尚信を対手として、日本国政府との間で法律顧問・法学教師としての雇用契約を結び、明治4年12月24日、マルセイユ港を出航し、明治5年2月16日、文明未だ覚めやらぬ東洋の島国日本へ、《mission》を果たすため来朝したのでした。
鮫島は日本政府より、法学者ではなく法律実務家を選定して日本へ招聘するよう指示を受けていました。すなわち「……英語独逸語ハ勿論希臘〔羅〕典語熟達ノ者ニテ是迄アホカー相勤候者ナレハ猶更都合宜候……」(『ブスケ日本見聞記』)と。
前記のアホカーはavocat(弁護士)のことであり、この指示には、日本政府の高い見識をみることができるように思われます。
ブスケの来日当時、司法省が司法職務定制の立案、審議のために忙殺されていたであろうことは容易に想像されます。ブスケは法律顧問・法学教師として、そのような司法省首脳および官員の需めによく応えたことでしょう。
記録によると、ブスケは司法省の官員に対して、例えば「公証人(ノテール)代書師(アウーエ)門監(ウシエー)書記(グレウィエー)及ヰポテーキ取扱役等ノ分課」などについても講述し、その訳は「明法寮翻訳課写本教師質問録初篇」に収められています。
ブスケのそれは、フランス公証制度を含むフランスの法制度全般に関するものと思われますが、蕪山嚴先生は「日本公証制度の黎明期」の中でつぎのように述べています。
「ブスケの講述はフランス公証制度の素描であって、彼が司法省官員から向けられた法制の広範な分野にわたる各種の質問に答えてなしたものの一つである。立法資料としては簡略に過ぎ、それがどのように役立ったか明らかでない。しかし、司法省官員に対する啓発力は少なくなかったであろう。講述の意義は後の立法活動の素地を提供した点に見るべきであろう。」
蕪山先生の研究から、ブスケの講述は司法職務定制の制定後の、法制度全般に関する「立法活動の素地を提供した」ところにあったと理解されます。したがって、正院への上呈まで4か月余という時間的制約の中での、定制の立法に関するブスケの貢献は、教示と助言のレベルにとどまるものだったのではないでしょうか。
『ブスケ日本見聞記』から、日本政府の立法活動に対するブスケの意見の部分を紹介しておきます。
「私は一八七二年〔明治五年〕に我々の立法の研究をここで始めるために招聘されたが、私は行われようとしているこの性急な仕事のやり甲斐の無さに間もなく気がつき、それを指摘した。あわてて法律を制定する代りに、かくも混乱しかくも区々な慣習的法制とヨーロッパの近代法の典型と考えられるフランス諸法律とを平行的に深く研究することが、この時にきまった。」
日本での4年余の任務を終えたブスケは、帰国後、フランス司法省の刑事第一局次長、コンセイユ・デタ(Conseil d’Etat)の宗教局長、大蔵省の関税局長などを歴任し、1937年1月15日、パリ16区において、91年のその尊い生涯を閉じました。
他方、ブスケが世を去る57年前、鮫島尚信は、駐仏公使として在任中の1880年12月4日早暁、パリにおいて激務による病のため、35歳の若さで世を去っています。
鮫島は、弘化2年(1845年)3月10日、薩摩藩に生まれ、慶応元年(1865年)3月から慶応4年(1868年)6月まで、薩摩藩第1次留学生として渡英し、ロンドン大学法文学部に学んだ俊秀でした。
同じく「若き薩摩の群像」の一人、森有礼駐英公使は、鮫島の重篤な病状を知り、急ぎドーバー海峡を渡り、死の直前まで一週間近く看病を続けました。
しかしその甲斐なく、森は、心友鮫島を喪くし、そのなきがらの前でつぎの弔辞を詠みあげます。
「鮫島!君がこの世で仕事をはじめた時からずっと、君は正義の最も忠実なしもべであった。君は懸命に働き、そして37年(35年:本稿筆者注)の生涯を充分にりっぱに過ごした。ああ高貴なる魂よ!ああ気高き働き人よ!ああ光り輝く星よ!もう君はいない。だが、多くの友の胸に、君は生き、働き、そして輝いている。僕をいちばんよく理解してくれたのは君だった!」
かくして、鮫島尚信はセーヌ川左岸パリ南部のモンパルナス墓地(Cimetière du Montparunasse)に、また、ブスケはセーヌ川右岸パリ北部のモンマルトル墓地(Cimetière de Montmartre)において、永遠の眠りについています。

日本政府とブスケとの、上記雇用契約書の一部、原文冒頭を掲げておきます。
「今般仏国巴里在留少弁務使当時レインホルタシス街弐六番ニ住スル鮫島氏其政府ニ代リ仏郎西国巴里リスリー街十二番ニ住スル代言人ジエラルジュピレール。ブスケー氏ト仏国巴里府ニ於テ互ニ取結ベル条約左ノ如シ
日本政府ニテ法律ヲ輯成スルヲ助ケンタメ法律関係諸務ニ助力ヲ借ランタメ司法省及学校ニ於テ法学教授ヲ為スタメ仏国法学家入用ニ付ブスケー氏此任ニ充テラレン事ヲ欲シ下文ノ条ゝヲ双方ニテ承諾イタシ候事」
 
外交

 

シャルル・ド・モンブラン
(シャルル・フェルディナン・カミーユ・ヒスラン・デカントン・ド・モンブラン)
Count Charles Ferdinand Camille Ghislain Descantons de Montblanc (1833-1894)
外国事務局顧問。駐仏日本総領事(仏)
フランス/ベルギーの貴族、実業家、外交官、日本のお雇い外国人。日本では「白山伯」(はくざんはく、ペーサンはく、モンブラン=白い山の伯爵から)の名で知られた。伯爵にしてインゲルムンステル男爵。
1833年、パリでシャルル・アルベリック・クレマン・デカントン・ド・モンブラン(1785年 - 1861年)の長男として生まれる。。母はヴィルジニ・ルイズ・ロック・ド・モンガイヤール(1812年 - 1889年)。モンブラン家の発祥は定かでないが、南仏の出身ではないかといわれる。父のシャルル・アルベリックは、ベルギーのフランデレン地域ウェスト=フランデレン州にあるインゲルムンステル(英語版)男爵領を、ドイツ人領主プロート家(英語版)から譲られ、ベルギーの男爵となった。アンシャン・レジーム期のフランス軍において、プロート家はモンブラン家の主筋であり、直系の後継者がいなくなったために譲渡を受けたものだが、プロート家のドイツの一族からは抗議があったといわれる。1841年、シャルル・アルベリックは、国王ルイ・フィリップより伯爵位を与えられ、ベルギーの男爵でありフランスの伯爵となった。父母がフランス人であったため、モンブラン自身はフランスで育ち、国籍もフランスだったが、弟たちはベルギー国籍となった。
日本への渡航
1854年(嘉永7年)アメリカ合衆国のペリー艦隊が日本を開国させたというニュースが流れるや、日本に対する興味を持ち、渡航を熱望するようになる。
1858年(安政5年)、フランス特命全権使節として清に派遣されたグロ男爵に随行し、9月に初めて来日。日仏通商条約の締結後、グロ男爵と別れて外務省から依頼された学術調査のためフィリピンに渡航した。その後フランスへ帰国し、父の死を看取る。
1862年(文久2年)、再び日本を訪れたモンブランは横浜に滞在し、公使のデュシェーヌ・ド・ベルクールと交流する。帰国に際し私設秘書として斎藤健次郎を伴い、日本語や日本文化の研究に勤しんだ。1863年(文久3年)末、江戸幕府が孝明天皇の強い攘夷の要望から横浜を鎖港するために外国奉行・池田長発を正使とする交渉団をフランスへ派遣した際には、これと積極的に接触し、使節団のパリ見学やフランス政府要人との会談を斡旋した。また1865年(慶応元年)に再び派遣された外国奉行・柴田剛中らが渡仏した際にも接触し、日本とベルギーとの通商条約締結を勧めたが、柴田からはあまり信用されなかった。
薩摩藩との接触とパリ万博
同じ頃、薩摩藩の密航留学生が新納久脩・五代友厚・松木弘安らに伴われ、ロンドンに派遣されていた。幕府使節との接触が不調に終わったモンブランは、斎藤を伴ってイギリスへ渡り、白川健次郎を介して薩摩藩留学団に接触し、その世話役を買って出た。さらに新納・五代に貿易商社設立の話を持ちかけている。富国強兵・殖産興業を目指していた薩摩藩はこの申し入れを喜び、早速予備交渉を行った。五代らが各国の視察のため大陸に渡った際にはモンブラン邸も訪れ、ともに狩りなどを楽しんでいる。慶応元年8月25日(1865年10月15日)にはブリュッセルにおいてモンブランと新納・五代との間で12箇条からなる貿易商社設立の契約書が交換された。その直後、モンブランはパリで開催された地理学協会で、「日本は天皇をいただく諸侯連合で、諸国が幕府と条約を結んだのはまちがいだ」というような、薩摩藩の主張にそった発表をしている。翌年には輸入品に関する契約が更新され、薩摩藩主・島津茂久からの商社設立内約の礼状がモンブランに贈られている。
また、密航留学生のうち中村博愛、田中静洲の二人をフランスに迎え、しばらく後には町田清蔵も加えて面倒をみた。さらに、慶応2年(1866年)の末には新納久脩の息子・新納竹之助、慶応3年(1867年)からは、薩摩藩家老・岩下方平の息子・岩下長十郎も、モンブランの世話でフランスで留学生活を送っている。
こうしたモンブランと薩摩藩との交流にともない、1867年(慶応3年)にパリで行われた万国博覧会においては、薩摩藩はモンブランを代理人として、幕府とは別名義の出展者として参加、出品することとなった。岩下方平は薩摩藩および琉球王国(当時、事実上薩摩藩の支配下にあった)の全権としてパリに派遣され、モンブランとともに万博の準備を進めたが、そこへ幕府から派遣された使節徳川昭武一行が到着して薩摩藩の出展に大いに驚き、随行した外国奉行・向山一履、支配組頭・田辺太一らは厳しく抗議し、特に出展者名から「琉球」の二文字と「丸に十字(島津家の家紋)」の旗章を削ること、および「琉球国陛下松平修理大夫源茂久」の名を「松平修理大夫」のみに改めることを求めた。薩摩藩代理人のモンブランは岩下とともに交渉し、「薩摩太守の政府」の名前は譲れないとして談判し、結局幕府側は「大君政府」、薩摩藩側は「薩摩太守の政府」とし、ともに日の丸を掲げることで妥協となった。モンブランはさらに『フィガロ』『デバ』『ル・タン』といったパリの有力紙新聞に、すでに地理学会で発表していた「日本は絶対君主としての徳川将軍が治める国ではなく、ドイツと同様に各地の大名が林立する領邦国家であり、徳川家といえども一大名に過ぎない」との論調の記事を掲載させるなど、交渉を有利に導くべく工作した。この年、日本を再訪したモンブランは薩摩藩から軍制改革顧問に招聘され、鹿児島に滞在するなど、薩摩藩との密着度を深めていく。
維新前後
しかし、薩摩藩は薩英戦争後、茂久の父・島津久光の方針によりイギリス式兵制を採用したり、英国公使ハリー・パークスとの交流から、親英政策を採っており、フランス(ベルギー)人であるモンブランに過剰に肩入れするのは危険と見られていた。英国からもフランス人の軍制顧問任命に難色を示され、薩摩藩留学生の吉田清成・鮫島尚信・森有礼らもモンブランを危険視する建言を藩庁へ提出していた。
1867年(慶応3年)、徳川慶喜が大政奉還を行い、それに対し朝廷からは王政復古の大号令が下され、小御所会議で徳川家領の朝廷への返還が決定されるなど、流動的な政局が続くが、薩摩藩要路の大久保利通は新政権の諸外国への承認獲得と外交の継続宣言をすべく、モンブランと松木弘安に、新政権から諸外国への通達詔書を作成させている。翌1868年(慶応4年)初め、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が旧幕府軍を破り優位に立つと、新政府に従う藩も増え、新たな日本の中央政権として認識されるようになる。そんな中で起きた外国人殺傷事件(神戸事件や堺事件)においては、モンブランは新政府の外交顧問格として、外国事務局判事の五代友厚を支え、パークスやフランス公使ロッシュとの交渉を担うなど、京都において新政府の外交を助けた。 これらの対処により、明治天皇の各国公使謁見が実現することになった。
日本総領事任命〜解任
このような功績から新政府の外国官知事・伊達宗城(元宇和島藩主)は、江戸に駐在していたフランス公使ロッシュに対し、モンブランをパリの日本公務弁理職(総領事)に任ずると通知している。その後、モンブランは大阪・神戸間に電信を架設する計画を立て新政府に願書を提出しているが、すでに新政府には自ら架設する計画があり機械も英国に発注していたためモンブラン提案を断った。1869年(明治2年)、モンブランは鹿児島で島津忠義(茂久)に謁見した後、今度は東京において、樺太の領有権問題や宗教問題(浦上弾圧事件により日本が諸外国から抗議を受けたもの)など、新政府の外交に助言をよせたが、ヨーロッパにいて直接交渉の必要があり、年末に、留学生の前田正名と御堀耕助(太田市之進)を伴ってフランスへ帰国した。
パリに到着後、モンブランはナポレオン3世の承認を受け、異例の日本総領事となる。モンブランはパリのティヴォリ街8番地の自宅を日本総領事館(日本公務弁理職事務局)とし、前田を住まわせるとともに領事任務に当たった。日本のキリシタン弾圧政策の弁明につとめるとともに、日露国交交渉に直接乗り出そうとしたが、フランス人であったため、日本外交の代表権を持つ公使就任をフランス政府に拒まれ、実現しなかった。普仏戦争(1870–71年)の勃発に伴い、プロイセン軍の包囲下でパリ・コミューンが成立するなどパリが混乱に陥ると、日本政府はモンブランを解任し、新たに鮫島尚信を弁務使として派遣することを決定した。
1870年10月28日付けで解任されたモンブランは、その後もパリにあって同好の士と共に日本文化研究協会 (Société des études japonaises) を作り、フランスにおける日本語・日本文化研究を推進した。著書に『日本事情』や、『鳩翁道話』(柴田鳩翁)のフランス語訳などがある。その後も西園寺公望ら、日本からの留学生と交流した。
1894年1月22日、パリにおいて独身のまま死去。日本の歴史記述においては、しばしば敬遠されたり山師扱いされたが、近代初期の日本外交において独特な活躍をみせた人物である。
日仏交流の始まり
来年2008年は、日本とフランスが修好通商条約を結んでから150年となる。そんなことから、文化、経済などあらゆる分野でさまざまな企画が立案されている。そこで、今回は日仏交流が始まった、当時の日本とフランスを振り返ってみたい。
皇帝ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン・ボナパルト)(1808-1873) / ナポレオン1世(1769-1821)の弟でオランダ王のルイ・ボナパルトと、ナポレオン1世の妻ジョゼフィーヌの連れ子オルタンス・ド・ボルネアの間に生まれた第3子。ナポレオン1世とは叔父甥の関係。1832年にナポレオン1世の子、ライヒシュタット公(ナポレオン2世)の没後、ボナパルト家の宗首となり、1848年にはフランス第2共和制初代大統領となり、1853年には、ナポレオン3世の名で、2代目皇帝に即位する。
日本を開国させたペリ提督、浦賀来航以来 フランスと日本の最初の条約締結まで
1854年2月13日、マシュー=カルブレース・ぺリ提督(1794〜1858年)らは再び浦賀に来航した(1回目は1853年7月8日)。同年3月31日、横浜村において徳川幕府は日米和親条約を締結。1856年には、タウンゼント・ハリスが総領事として下田に着任し、1858年6月19日、幕府は日米修好通商条約に調印した。
その年まで鎖国体制を維持してきた日本は、他の大国オランダ、ロシア、イギリスなどとも条約を締結し、フランスは皇帝ナポレオン3世(1808年4月20日〜1873年1月9日)の名において、ジャン=バティスト・ルイ=グロ男爵(1793〜1870年)が江戸にて1858年10月9日、日仏最初の条約にユージェヌ・メルメ師(1855年より琉球王国にあって日本語を学ぶ)通訳出席のもと水野筑後守との間に調印を交わした。そしてその1年後、グロ男爵に随行したデュシェーヌー・ド・ベルクール(1817〜1881年)は初代総領事として江戸に着任し、1861年には全権公使となる。
ナポレオン3世は第15代将軍徳川慶喜へフランス風の儀礼服一揃を寸法を合わせた上で送るなど、条約調印以来、日本とフランスは友好関係を保っていった。慶喜はますますフランスとの関係を強めながらフランス語を学び、なかでもフランス料理がたいそうお気に入りのようだった。こうして連携を深めていくなか、慶喜の最後の決定のひとつは、日本を1867年のパリ万国博覧会に参加させることであった。
日仏交流の前身は琉球王国(現在の沖縄)から / 現在の沖縄は、19世紀半ば琉球王国との貿易の拠点を構え、日本との通商の機会を願うフランスにとって沖縄は戦略的重要な地であった。1855年11月24日、フランス艦隊司令長官ゲランは琉球王国との間に11カ条の約条を結ぶ。
世界の資本主義の荒波に投げ出された日本
政治、軍事、経済、教育、文化の面で日本が得た最初の西洋知識は、オランダを介したものであり、オランダは西洋思想を伝える親善大使であると共に、ヨーロッパ特権的商人であった。
時代をさかのぼると、ルイ16世によりジャン=フランソワ・ド・ラ=ペルーズ(1741〜1788年)が命じられた調査航海において、「日本の地理的発見(1787年8月2日)、北方への通路の発見、日本の北東部の探検」など、ヨーロッパ人のアジア大陸日本に対する関心は高 かったと思われる。
こうしたなか、1857年の5カ国条約(アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランス)は「各国公使の江戸駐在」「国内の多数の港の開港」及び「自由貿易」を規定。これによって日本は、(翌年6月貿易開始に向けて)世界の資本主義の荒波に投げ出されたと言える。
1858年、開国直後の日仏関係は「技術と文化的援助」といった形で展開されており、例えば軍事援助と軍事教育、日本最初の軍港、製鉄所、軍艦、及び最初の灯台、絹製糸工場などさまざまな分野において技術的指導を受けている。また着眼すべきこれらは、日本は近代化に目覚めた幕府との協力の下に始められたことだ。
科学の分野、そして日本の近代法の父として知られるギュスターヴ・エミール・ボアソナード(1825〜1910年、パリ大学法学部教授)は、1873〜1895年まで日本に滞在し、1883年には大日本帝国民法典草案を国文社より、また日本に関する研究論などを両国で発表している。
1895年3月8日にフランスへ帰国したポワソナードは、パリに設立された日仏協会の名誉理事に就任し、1910年、コートダジュールのアンティーブにて世を去った。新生日本の法制度を近代化したその功績と研究により、彼は後に日本帝国学士院の会員に選ばれ日本 政府より動一等瑞宝章を授与されている。
ナポレオン3世第二帝政時代における最大の絹織物輸出国フランス
 日本の優れた生糸玉に救われる
1855年、フランス、リヨン市の絹織物技術は、当時スペインで発生した蚕の大病により危機に瀕する。被害はヨーロッパ全土に広がり、リヨン地方の養蚕業界はもとより絹織物業者も大被害を被る国家的災害となった。フランスも生産量を維持するために日本や中国から生糸、蚕卵の輸入に頼らざるを得ない状況に陥る。だが、当時極東からの生糸輸入はイギリスが独占しており、リヨンへの入荷はロンドン経由とされていた。
そんな中、1858年10月、日仏修好通商条約後、初代総領事デュシェーヌード・ベルクールの後任に任命され江戸公使館の2代目総領事兼代理公使となったレオン・ロシュ(1809〜1900年)は、日本との貿易の重要性を認識し、1863年10月7日、貿易実務に長い経験と外交官歴を生かした新政策を打ち出し、リヨン業者を横浜に進出させ独自の輸入航路を構築した。
当時、日本に居住する外国人登録者はアメリカ、イギリス、オランダ、ドイツ、スペイン、ロシアなど283人、その内フランス人は56名、17人が絹貿易関係者だった。
レオン・ロッシュが在日中行った近代化に対する業績(*1)は幕府から明治政府に引き継がれ、日本人に多大な影響を及ぼすと共に通商発展に功績を残した。
(*1)日仏貿易を円滑にするため1866年9月横浜にパリ国立割引銀行支店を開設した(1893年この銀行は閉鎖)。
シャルル・ド・モンブラン伯爵と1867年パリ万国博覧会
江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の最後の決定は幕府を万国博覧会に参加させることだった。慶喜の弟、徳川昭武は全権公使・向山隼人正を随行させ「中央政府の代表資格」として参加させることを決定した。ところが琉球王国(1855年11月24日フランスと約条を結ぶ)と薩摩藩(*2)が琉球王国薩摩藩として万国博覧会へ参加を申請したことで、双方の代表部が対立する。
その解決に乗り出したシャルル・ド・モンブラン伯爵(*3)は、権限上の争いをまず解決し、結局「幕府中央政府」と「琉球王国と結んだ薩摩藩」に対して『連合』という共通の紋章入りで展示品を区別させることになった。幕府はこの解決提案には不満であったが、モンブ ラン伯爵の仲裁で承諾した。
万国博覧会期間中、ナポレオン3世は日本の立場を支持しているモンブラン伯爵に日本の外交使節団がパリに常駐する間のパリ駐在日本領事の許可証を出している。万国博覧会参加の成功に力を得た日本は、以後パリで開催される博覧会に参加した。日仏親善に貢献した立役者モンブラン伯爵は、フランス王政復古に積極的な役割を果たし、1894年1月22日に亡くなった。
(*2)1609年薩摩藩の島津家久は3000人に及ぶ遠征軍と共に琉球諸島を侵略。しかし琉球王国は薩摩を通して日中両属となり1972〜79年に日本に属した。
(*3)27歳で来日し、刻苦精励して日本語を学ぶ、日本社会と封建政治制度に興味を抱き、1865年、パリにて「幕政の実務と薩摩藩 江戸の庶民文化、日本の歴史について」外国人の見た日本と題した講演で紹介する。
遣欧使節団一行、品川を出港
日仏修好条約調印以来、幕府政府はヨーロッパ6カ国(フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)への派遣外交使節団の人選を決定した。全権正使・竹内下野守(勘定奉行兼外国奉行56歳)、副使・松平石見守(神奈川奉行兼国奉行31歳)率いる総勢36名のヨーロッパ使節団参加の中には、第1回アメリカ(1860年)に派遣された福沢諭吉ら6名が同行した。
これに伴い、イギリス政府は日本の使節団を運ぶためのフリゲート艦オーディン号を用意。船内の日本人使節団員用の部屋には料理ができるように配慮され、日本食材、日本酒、お茶、食器類などが大量に積まれ(*4)、火鉢までもが持ち込まれたが、ジョン・ヘイ艦長より航海中の火鉢の使用は禁じられた。
1861年12月23日、予定通りオーディン号は品川を出港、横浜〜長崎を経由して香港〜シンガポールを経由してスエズに到着した。
一行はスエズから鉄道でカイロへ向かいエジプトに数日滞在した。その間、イギリスとフランスの総領事は一行の宿泊先ホテルを訪問し、日本を発つ前に未解決だった重要な問題「フランスとイギリスの訪問の順番で双方の国々で争いが起きた」ことに関して、日本領事が 仲介に入り、フランスへ先に訪れることが決定された。
その後、エジプトのアレキサンドリア港からイギリスの兵員輸送船ヒマラヤ号に乗り込み出港、途中2月25日にマルタ島に立ち寄り、1862年3月5日午後、地元の見物人で埋まったマルセイユ港口に無事到着した。使節団はフランス海軍の15発の祝砲が鳴り響くなか元気よく上陸。盛大な歓迎を受けた一行は、その2日後マルセイユよりリヨンへ列車で移動し、リヨン市内のベル クール広場で開かれた観兵式に参加。翌日、目的地パリへ向けて出発した。
故国日本を離れて2カ月あまり、一行を乗せた列車は予定通りパリのリヨン駅へ夜7時頃到着した。フランス第5連隊の軽騎兵楽隊及びフランス政府外務省高官ら多数の出迎えによる大変な歓迎を受けながら、政府が用意した数台の馬車に分乗して市内の宿泊先ホテルへ向かった。このホテルはチュイルリー宮殿近くにある。1855年創立の「ホテル・デュ・ルーヴル」(現在はルー ブル骨董店、以前はルーブル・デパート)。
その夜は、ホテル内にてフランス外務省主催日仏友好歓迎晩餐会が盛大に行われ、入り口には日章旗が揚げられた。ここでもまた、ホテルの周辺は日本使節団を見ようという大変な数の見物人で埋まる。またこの時の様子を、到着駅リヨン駅から一行を追いかけた、フランスの新聞「ル・タン」紙、「ル・モニトゥール・ユニヴェルセル」紙、さらにはイギリスから駆けつけた 「タイムズ」紙が大きく紹介した。
(*4)航海途中イギリス海軍士官から「臭い臭い」と苦情が出たため、味噌や醤油の半分以上を海中に投じてしまった。
フランス国皇帝ナポレオン3世との謁見
3月15日、朝からどんよりした空模様の中、豪華に飾り立てられた6台の馬車と礼服佩刀のフランス士官がホテル玄関先で出迎える。一方、フランスのナポレオン3世に謁見する日ということで、使節団の全権正使・竹内下野守、副正・松平石見守、目付・京極能登守の3使は古式にのっとり狩衣、鞘巻き、烏帽子、太刀を身につけて組頭・柴田貞太郎は布衣の衣服で列席した。
ホテルの周辺に詰めかけた大勢の群集が見守るなか、一行を乗せた馬車はチュイルリ宮殿玄関に到着。玄関前で近衛兵の捧銃礼を受け、謁見が行われる王座の間へと向かった。謁見の間にはナポレオン3世、ウージェニ皇后(1826〜1920年)、皇太子ウージェーヌ・ルイ・ナポレオン4世(1856〜1879年)が着座しており、フランス政府の高官、関係者ら数百名が侍立していた。全権正使・竹内下野守が大君から託された挨拶を述べた後、ナポレオン3世は「日本皇帝の名代と初めてお会い出来て嬉しく思います。日仏間で結んだ(1858年10月9日)日仏修好通商条約が両国のために良い結果を生むことを望みます」と挨拶した。謁見後、使節団一行は武部官に案内され、同じ道順で宿泊先のホテル・デュ・ルーヴルに戻り、ホテルで待ち構えていた写真師ナダールによって記念写真が行われた。
翌日からは「西洋文明の真髄と出会った幕末の日本人の初めてのパリ訪問」とあって各自別行動の探訪。専門分野に分かれて市内の博物館、美術館、軍事博物館、研究所、市場、公園、植物園、書籍や地図の買い付け、病院の見学や医療制度について、各工場、及びセーブル 陶器工場、銀食器のクリストフル、銀行などを訪れた。
宮殿のような格式高いこのホテルの一歩外に出れば、街路樹を引きも切らずに行き交う馬車と人間の波、華美な衣服を身にまとった紳士淑女の通行人の姿。使節団たちは別世界にいるような錯覚にとらわれた印象を与えたに違いない。
パリ訪問での最大の主な課題は外交的な交渉
日本側は物価騰貴などの理由に開市開港の無期延期を、フランス側はその開港問題と安全保障、及び産物交易などを要求。数回に渡り会談を行うが、これらの問題は解決出来ず、使節団一行は4月2日フランスの軍艦コルヌ号に乗り、第2の訪問国イギリスへ向かった。
他国の訪問を終え、7月29日、ベルリンより再びパリへ戻った一行は新築されたばかりのグランド・ホテルに滞在する。前回双方で棚上げになっていた外交問題を再び外相トゥヴネルとの間で協議し、フランス側は日本側の開市開港の無期延期について延期を承認する ことで調印した。
このように、開国した幕末の日本は2回に渡り使節団を欧米に送った。この遺欧使節団は、欧米の調査観察などさまざまな目的を果たした。そして使節団の持ち帰った多くの西洋思想、技術、文化は明治の新政府へと日本の近代化政策を進める上で、伊藤博文、岩倉具視、大久保利通に引き継がれた。  
五代友厚
新納久脩と五代友厚は、慶応元年(1865年)の滞欧中に、シャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)と薩摩=ベルギー合弁事業設立の条約を交わし、パリ万国博覧会への出品も決めて、その手配をモンブランに委ねていた。万博参加のため岩下方平を正使とする薩摩藩使節団一行がフランスに向け出帆したのは慶応2年11月10日(1866年12月16日)で、薩摩藩の在仏留学生朝倉盛明や中村博愛も現地で合流した。
パリ万博には幕府と佐賀藩も出品していて、陳列名義のことなどで薩摩と幕府のあいだには一悶着あったようだ。しかし、概ねその目的を果たした薩摩藩一行は、モンブランと仏人鉱山技師等数名をともない、上海、長崎を経由して慶応3年11月鹿児島に帰着。五代は上海まで彼らを迎えに行っている。
このころ薩摩藩は親英に傾きつつあり、財政にも余裕がなく、モンブランの来日は歓迎されざるものとなっていた。モンブランに対する不信の声もあったから、五代はまさに板挟みの辛い状態であっただろう。モンブランは鹿児島の田の浦に滞在後、五代とともに指宿に長らく逗留していたという。あるいはモンブランを軟禁するためだったかもしれない。
大政奉還、王政復古の大号令と京都の政情が緊迫する中、新納と五代はモンブランを連れ開聞丸で兵庫に向かった。慶応3年12月28日(1868年1月22日)、五代らは薩摩藩の定宿である小豆屋に入る。年が明けて1月3日に京都南郊で鳥羽・伏見の戦いが始まると、五代はモンブランを英公使ラウダ(John Frederic Lowder)のもとに送り、新納は丹波路を京都に向かった。小豆屋が幕兵に狙われていると知り、五代も密かに開聞丸に潜伏する。そして翌4日、大阪・兵庫沖で幕府・薩摩両軍艦による砲撃戦が始まった。

五代友厚が兵庫に到着して数日後、兵庫沖で幕艦が薩船に大砲を放ち、鳥羽街道と伏見では幕軍と薩長軍が戦闘状態になった。五代は潜伏していた開聞丸から、汾陽(かわみなみ)次郎右衛門、市来六左衛門、野村宗七に宛て、慶応4年1月6日(1868年1月30日)付で、江戸薩摩藩邸の焼討や大阪薩摩屋敷の焼失、阿波沖海戦、鳥羽・伏見の様子などを仔細に報告している。
外国人公使らとのやり取りにもふれ、1月1日には英国岡士代ラウダ(John Frederic Lowder)方で江戸の様子を知り、2日夜はラウダとウユートソンが訪ねて来たと言っている。3日にモンブラン(Charles de Montblanc)をラウダへ託し、小豆屋へは戻らず開聞丸に潜伏。4日、英艦潜伏を検討、ボートイム(Albertus Johannes Bauduin)との面会を模索、書状はガラバ(Thomas Glover)に頼めば届くとある。5日には、ボートイムから聞いたという話を伝えている。
手紙に出てくる外国人と五代は長崎で出会っている。手紙の受取人3名も長崎在勤の薩摩藩士だった。彼らにとって、外国人との交流は日常茶飯だったと思われるが、攘夷意識の強い藩士がもしこの手紙を見たら、心中穏やかではいられなかったかもしれない。
五代は「港内三里余の内にては・・・放発致候儀不相成万国公法にて」と言って、これ以上の砲撃を交えることは望んでいなかったようだ。兵庫・神戸港は慶応3年12月7日(1868年1月1日)に開港しており、そのとき集まった外国艦船がなお碇泊中であったから、それらを巻き込んでの争いは避けねばならないという思いがあっただろう。 
キースラガー(名野川鉱山) 
高知県西部、中津明神山東麓に位置する名野川鉱山。四国では数少ない秩父帯に属するキースラガー鉱床で、その形成過程も三波川帯のそれとは些か趣を異にしている。この標本は、黒色千枚岩に接する黄鉄鉱と黄銅鉱の塊状鉱で、研磨されているのでその様子がよくわかる。別子のように海底のブラックスモーカーが強い変成を受けて層状に形成されたものではなく、もともと鉱脈型の熱水鉱床が変成を受けたと考えられており、鉱床も層状というよりは、塊状、レンズ状、ポケット状など不規則に胚胎しながら、その鉱区内に散在していることが多い(「日本地方鉱床誌 四国地方」 朝倉書店)。いわゆる足尾で言う“カジカ”であり、多くの鉱体が立体的に独立して存在しているので、山師の探鉱能力の善し悪しがその鉱山の命脈を左右することになる。それに加えて秩父帯の銅鉱床は、金含有率が高いことも特徴で、野村鉱山の13~15g/ton を最高に、東向鉱山(12.5g/ton)、名野川鉱山(2~5g/ton)などが良く知られ、大鉱山会社が食指を伸ばして探鉱を積極的に行ったこともある。しかし、名野川鉱山が面白いのは、何といってもその歴史にある。すでに藩政時代から、本川鉱山(土佐郡)、田野口鉱山(幡多郡)、安居鉱山(吾川郡)、庵谷鉱山(長岡郡)とともに稼行され、下のような鉱山札まで発行されている。さらに「四国鉱山誌」には「慶応年間に仏人アントワンによって開坑された。」とある。四国の鉱山多しといえども、幕末に、外人によって開発された鉱山は名野川鉱山が唯一のものではないだろうか?・・果たして仏人アントワンとは何者なのか??・・そして、それは本当のことなのだろうか??・・そこでこの項では、小生がいままで調べた概略を述べ、アントワンを日本に連れてきた“雇い主”こそが、明治維新の影の「立て役者」であり「黒幕」だったという私見を述べさせていただきたい。
文久3年(1863)、尊皇攘夷の大義の下、血気にはやる長州藩は、5月10日を期して下関を航行する外国船に対して砲撃を開始、孝明天皇を大和に行幸させそのまま倒幕に向かって邁進する手筈だった。ところが前年、第一次寺田屋の変で倒幕派を一掃し薩英戦争で攘夷の不可能を悟った薩摩藩は、幕府と組んで長州を都から追い落としてしまった(八・一八の政変)。七卿とともに長州に逼塞して憤懣やるかたない志士達は藩主を動かし、高杉らの自重論を踏みつけて一年後に軍勢とともに大挙して都に攻め上ってきた。いわゆる蛤御門(禁門)の変である。勇壮な来島又兵衛の奮戦も空しく、満を持して待ち構えていた薩摩軍の前にあえなく潰滅し、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎など多くの松下村塾以来の有能な志士を失い、あげくに長州藩は朝敵となってしまった。同時にアメリカ、イギリス、オランダ、フランスの四国連合艦隊が下関砲台を占領、奇兵隊は蹴散らされて無力化し、ここに毛利家始まって以来の危急存亡の秋、世に言う「内憂外患の元治元年」となったのである。続く第一次長州征伐は毛利家恭順の下で粛々と進められ、福原、国司、益田の三家老切腹で辛うじて藩主の罪は不問とされ改易や減封は免れた。ただ藩内には幕府寄りの俗論党が台頭し、松島剛造や楢崎弥八郎など生き残りの改革派(十一烈士)や、毛利家累代の家老である清水清太郎(有名な備中高松城主 清水宗治の子孫)まで次々と投獄の上、切腹あるいは斬首され、正義派の精神的支柱と頼む周布政之助も自殺して果ててしまった。こうして長州藩が自壊していく絶体絶命の状況でひとり憤然と決起したのが高杉晋作である。自らが生み育てた頼みの奇兵隊も優柔不断な山県狂介(有朋)が自重論を説いて動かず、元治元年12月14日の夜、「今から長州男児の肝っ玉をお目にかけます。」と、雪の功山寺で五卿と別れの杯を交わした晋作に従う者はわずかに伊藤俊輔(博文)以下80人ばかりであったという。「高杉君、君は野山獄の苦しみを忘れたか?」と泣きながら諫める旧友の福田侠平を馬で飛び越えて去ってゆく晋作の姿は誠に悲壮で一幅の絵になる。この決起がなければ長州藩は俗論派に完全に席巻されていたのだから、維新回天の大きな要めの分岐点であったことには間違いないだろう。それゆえ、この時点で高杉に従った伊藤博文は、やはり何といっても明治の元勲の第一人者なのである。
高杉は萩藩のドル箱である下関会所を襲い武器弾薬を手に入れ、防府に取って返して遊撃隊と海軍局を説得、山口近在の大名主である吉冨藤兵衛や林勇蔵の協力も得て農民兵を結集し俗論党を伐つべく萩に向かって進軍を開始した。この段階でやっと山県狂介も重い腰を上げ、萩を進発した粟屋帯刀の俗論党軍と歳が明けた慶応元年1月6日に秋吉台近くの大田・絵堂で両軍は激突した。山県にとっては、この一戦こそが一世一代の大勝負であったに相違なく、後年、鹿鳴館の仮装舞踏会に、このときの奇兵隊の装束を羽織って大真面目で現れたというのも充分頷けるのである。数日に亘る激戦で奇兵隊は遂に勝利を収め、まもなく萩の俗論党は潰滅、ここに長州の国論は倒幕に向けて再び統一されたのである。こうした状況が甚だ面白くないのはもちろん幕府である。しばらく様子を見ていたが一向に改まる気配がないし、桂小五郎(木戸孝允)までが秘かに帰国して村田蔵六(大村益次郎)の指揮で再軍備を着々と固めているようである。折しもフランス公使に、軍人であるレオン ロッシュが任命されると幕府の軍艦奉行 小栗上野介(忠順)は軍隊をフランス式に増強するとともに横須賀造船所を建造、強大な陸海軍の軍事力を背景に一気に長州を叩きつぶすべく、第二次長州征伐を計画するに至った。もし今度こそ長州が滅びてしまうと幕府に対抗できる力は皆無となり徳川の力は再び盤石となるだろう・・、坂本龍馬はそうはさせじと長州と薩摩の間を熱心に周旋してなんとか同盟を結ばせて幕府に対抗させようと粉骨砕身の努力をしていた。その影でフランスに対抗心を燃やすグラバーを初めとするイギリス勢力があったことも見逃すことはできないのだが・・。しかし蛤御門の仇敵同士である薩摩と長州はそう簡単には和解できない。長州の志士は草鞋に「薩賊会奸」と書いて常に踏みつけている始末・・それでも紆余迂曲を経て桂小五郎は龍馬の説得でしぶしぶ京の薩摩屋敷にやっては来たものの、「助けてくれ。」とはどうしても切り出せない。西郷は桂のそんなせっぱ詰まった気持ちが分かっているのかいないのか、ただ憮然として顎を撫でるだけである。半月が空しく過ぎていった。そこに業を煮やした龍馬が乗り込んできて、「天下国家の大義の前におまんらの下らんその意地の張り合いは何ぜよ!」と両者を大声で叱咤罵倒し、一気に薩長同盟の合意を取り付けた。時に慶応2年1月21日であった。薩摩の合力を失った幕府は第二次長州征伐に失敗、その権威は地に墜ちそのまま瓦解へと突き進んでいくことになるのである。
以上、壮大な防長回天史の極く触り部分をハイライトで述べてみたが、やや冗長すぎたかもしれない。しかし、話はこれからである。先年の大河ドラマの「龍馬伝」や高知の展示館に行くと、薩長同盟を成功させたのは龍馬ひとりの功績であるかのように語られている。小生もそれを完全には否定しない。しかし、薩摩の腹は談合より前にすでに倒幕と決まっていたのだと小生は推測している。その鍵を握るのが、フランス国籍のベルギー貴族であるシャルル・ド・モンブラン伯爵である。彼は大の日本好きで前後3回ほど来日しているが、最初は横浜で幕府に取り入ろうと色々工作したようだが目的を果たせず帰国した。しかし、元治元年(長州、内憂外患の年)に幕府の遣欧使節がフランスに来ると、この機会に幕府とつるんで大儲けをしようと武器の商談を持ちかけて西洋に不慣れな役人をうまく丸め込んだ。ところが、翌慶応元年にやってきた使節の柴田剛中は、まったくモンブランを相手にせず、前年の約束も反故にしてしまった。柴田としては幕府の全権で来ている訳だから、個人的な商談などとんでもない話だし、おまけに第一次長州征伐が成功しロッシュという強力な公的な協力者もいる。今さら一民間貴族に過ぎないモンブランなど相手にする必要もないということだ。折りしも時を同じくしてフランスには、グラバーの援助で薩摩の密航留学生達が秘かに学んでいた。幕府に無視されたモンブランは急速に彼等に接近していくのである。中でも後に“大阪の父”とも呼ばれる五代才助(友厚)とは意気投合し自分のインゲルムンステル城に賓客として滞在させたりしている。このとき、モンブランは次のように五代に耳打ちしたという。「今、日本は長州が破れ、幕府と薩摩が連携しあっているが、幕閣の小栗らはロッシュと謀って長州の次は薩摩を滅ぼす番だと言っている。幕府にはくれぐれも気を付けたほうがいい。」と・・。驚いたのは五代である。ヨーロッパで、それもロッシュと同じフランス人の警告はさすがに聞き流すことができない。さっそくその内容をしたためた密書を国元に送り、間もなく薩長同盟が締結されたのである。この話がどの書籍に書かれてあったか、今どうしても思い出せないのだが、大佛次郎の「天皇の世紀(朝日新聞社) 昭和53年」には、勝海舟の話として、「・・知る如く、今、危急の際なり。政府、仏蘭西に金幣幾許、軍艦七隻を求む。到着次第、一時に長(州)を追討すべし。薩(摩)も亦、その時宜に依りて是を討たせん。然して後、邦内口を容るるの大諸侯なし。更にその勢いに乗じ、悉く(領土)削小して郡県の制を定めんとす。・・」とあるので、まんざら荒唐無稽の説とも言えないだろう。
モンブランとしては、自分の“売り込み”が幕府に通じない腹いせに、ちょっとした未確認?の機密情報を五代に漏らしたのだろうが、聡明な五代にとっては自分の生国に関わる極めて重大な事項であったのだ。残念ながら、それを証明する書簡や文書は一切残っていない。無事、薩摩に届いたとしても幕府に知られないよう西郷らの手によって抹消されてしまったことだろう。しかし、これが西郷の迷う心への一撃となって倒幕に一気に傾いたとすれば、モンブランこそ維新を成功させた影の功労者と言えるのではないだろうか?慶応元年の暮れまで公武合体派に近かった西郷がわずか一、二ヵ月の間に、一介の脱藩者に過ぎない龍馬の説得を素直に聞き入れて倒幕に180°方向転換した謎を解く一つの説として説得力は充分にあると小生は思うのである。
その後、モンブランは薩摩側にますます傾倒し、慶応3年のパリ万国博覧会では、彼特有の貴族的な狡猾なやり方で“憎き”幕府の鼻をあかすのに成功する。幕府は清水家の徳川昭武を将軍 慶喜の代理として派遣したが、薩摩を正式に対抗出品させることに成功したのだ。つまり、日本には2つの政府が存在するかのように世界にアピールしたのである。さらに薩摩が「薩摩琉球国勲章」なるものを作成しフランスの要人に配り、西洋人好みの演出を派手におこなったのもモンブランの手ほどきに依る。さすがの幕府側もこれには焦って類似の勲章を作成しようとしたが、時を経ずして明治維新となり幕府が消滅してしまったため幻の勲章となってしまった。このあたりの事情は、往年のNHK大河ドラマ「獅子の時代」で熱く語られていたのを思い出す。第一回の冒頭で、現代のパリ・リヨン駅の構内を当時の和服のままで徳川昭武一行が進んでいくロケ場面には度肝を抜かされたものである。パリ万国博覧会に始まり、秩父困民党事件に終わる山田太一書き下ろしのこのストーリーは、あまり知られていない明治維新の裏面史を扱った作品として小生は今も高く評価している。秩父事件が政府により弾圧され、仲間がどんどん去っていくのを「裏切り者だ。」と人々が罵倒するのを、菅原文太扮する平沼銑次が「最初、“自由自治元年”の旗の下にみんなが同じ志を持ったと言うことが大切なのだ。生きておれば、その思いは永く残る。去る者を非難してはいけない。」と諭す場面は、全50回の長いドラマが、この一言に凝集されているような気がして、学生運動から連合赤軍に至る現代の若者の長い苦闘の道のりをも重ね合わせながら秘かに涙したものだ・・今、奇しくも秩父のすぐ近くに住んでいるのだから、またその史蹟を尋ね歩いてみることにしよう・・
さて、パリ万博で薩摩に大きな貸しを作ったモンブランは、目出度く藩から「軍制改革顧問」に任命され、万博要人達とともに来日、しばらく薩摩に滞在することになった。このとき、取引用の多量の武器とともに、陸海軍士官、地質学者、商人を各々2名、従者1名を引き連れてやって来た。おそらくアントワンは、この陸軍士官の一人だと考えられるのである。(ヤレヤレ・・やっとアントワン君のご登場である。・・)彼の身分は砲兵隊一等士官であった。さらに驚きは、その地質学者の一人が、明治初年に政府御傭外人技師となって生野鉱山を再開発し、「日本鉱物資源に関する覚書」を著した、かのフランシスク・コワニエであることである。コワニエは手始めに薩摩の鉱山・地質を調査し、母岩の特長、鉱脈の様子、変成の状態、脈石、鉱物の性質などを詳細に報告している。数年後、別子銅山に来山し、ルイ・ラロックの契約にもコワニエが関係することを思えば、日本の近代鉱山の黎明期にモンブランが深く関与し援助を与えていたことが知られるのである(地質調査事業の先覚者たち 6)。また、幕末諸事情に非常に詳しい「郎女迷々日録 幕末東西」には、明治の著明な鉱山学者となった薩摩留学生 田中静州(朝倉盛明)や医師の中村宗見も、パリでモンブラン宅に寄寓しながら鉱山学を修めたことが記載されていて、彼が取引商品として日本の鉱物資源を狙っていたことが思いやられて興味深い。
モンブランは薩摩の軍制をフランス式に改革し、武器弾薬にいたるまで全て独占しようと目論んだようだが、さすがにこれはパークスやグラバーなどイギリス派の反対にあって挫折した。しかし五代友厚との二人羽織で幕末から明治に至る複雑な外交問題の顧問として活躍、遂にロッシュを差し置いて、日本総領事に任じられた。思えばこれが“策士”モンブラン伯爵の絶頂期であっただろう。明治2年には樺太問題や宗教事件など国の重要案件に助言を与えて一旦、批准のためフランスに帰国した。ナポレオン3世は彼を正式に日本総領事に任命し、政治的経済的に日本をさらにフランスに取り込もうとしていた矢先、普仏戦争が勃発、あえなくナポレオン3世は失脚し第二帝政は崩壊、これとともに日本総領事も解任され、モンブランは政治の表舞台から姿を消した。その後も、日本留学生の世話や日本文化を紹介するなど、ヨーロッパ空前の日本ブームを開花させる原動力として活躍したが、明治27年(1894年)、パリでその波瀾万丈の生涯を閉じた。一生、独身であったという。結局、政治的には薩摩と幕府の間に二股をかけるなど双方から猜疑の眼で見られ、またモンブラン商会を設立して独占貿易を強引に進めたことが裏目に出て、一般的な日本史では二重スパイのような胡散臭い人物として評価されることも多いが、幸運の女神がもう少しだけ彼に微笑んでおれば、おそらく幕末維新を推進した第一人者として高く顕彰されていたことだろう。根っからの日本好きの彼は、多くの日本人留学生の世話をし、金銭的援助も惜しまなかった。フランスから有能な鉱山技師を招いて積極的に鉱山開発もおこなったし、日本人が起こした国際的な事件や問題も日本側に立って弁護してくれた。彼の手から放たれた多くの人材が後年、近代国家の基礎を作り、富国強兵の有用な一翼を担ったことを思えば、もう少し高く評価されてもいいのではないだろうか・・日本人が「薩摩琉球国勲章」と幻の「日本国勲章」を授けるべき第一のフランス人は、やはりモンブラン伯爵こそが最も相応しいと小生は思うのである。
慶応2年(1866) 薩長連盟成立(1月21日)
 同         後藤象二郎 開成館開設(2月)  
 同         第二次長州征伐(6月〜8月)
 同         モンブラン来薩(11月8日) この時アントワンも来日(推定)
 同         アントワン、薩摩に雇用を断られる。
           その後、中国(清)で、伝習教師を勤める?
慶応3年(1867) 清風亭会見(坂本龍馬と後藤象二郎盟約)(1月13日)
 同         坂本龍馬「船中八策」立案(6月9日)
 同         薩土同盟(6月〜9月解消)
 同         パリ万国博覧会(4月〜9月)
 同         大政奉還(10月14日)
 同         坂本龍馬暗殺(11月15日)
 同         王政復古の大号令(12月9日)
慶応4年(1868) 鳥羽伏見の戦い(1月3日)
 同         江戸城開城(4月11日)
明治元年(1868) 9月6日より明治に改元
明治2年(1869) 戊辰戦争終結(5月18日)
 同         アントワン 土佐藩にフランス式兵学教官として仕官
明治3年(1870) 薩長土3藩から親兵を編成(2月)
 同         開成館廃止 寅賓館(迎賓館)となる。(10月)
明治4年(1871) 廃藩置県断行(7月14日)
明治6年(1873) 徴兵令公布(1月14日)
 同         アントワン 名野川鉱山を調査、開坑?(6月〜翌年7月)
 同         後藤象二郎、板垣退助ら参議を辞任(征韓論の敗北)(10月)
明治10年(1877)西南戦争(2月〜9月)
アントワンは、慶応2年にモンブラン伯爵とともに来日、さっそく薩摩に軍事教官として採用されることを期待したが呆気なく断られてしまった。その後、明治2年の書類に再登場するまでの2年間の足跡は不明である。その書類は、新政府から日本総領事に任じられたモンブランが樺太問題を政府に建白した中に、“不用”の注記とともに記されているもので、「・・再ヒ、カラフトヲ取戻ス迄ノ間ニ備ヘノ設ケヲ致ス可キ義ハ、先ヅ土工兵并ニ砲兵ヲ取立テルニ如クコトハナク、右ニ付テハ、幸ヒ仏国砲隊一等士官アントワント申ス者之有リ、既ニ伊達民部御殿(伊達宗城)ヘモ申上ゲ候人物ニテ、支那ニ於テ伝習教師ヲイタシ、漸ク業成リ当時不勤之身ト相成居リ候間、若シ日本政府ニテ急遽カラフトノ固メ等モ之有リ御用モ候ハバ、御下命次第奉職致ス可ク存ジ候。・・(一部改字)」とあって、アントワンがしばらく中国で職を得ていたことがわかる。残念ながらアントワンは“不用”の注記の通りに日本政府には用いられなかったのだが、幸いにもフランス式用兵を採用した土佐藩に兵学教官として雇われることになった。これもモンブランあっての抜擢と言えるだろうし、彼がはるばる連れてきた人材であるからこそ、責任を感じて熱心に推挙したのであろう。
一方、「四国鉱山誌(昭和32年版)」の名野川鉱山沿革には「慶応年間、仏人アントワンが蕗ヶ谷坑および滝野坑を開坑し、現地で精錬を行った。明治初年(1870年)頃、山内侯が隆盛地区、本坑区を開発し・・」とあるのだが、彼が慶応年間に高知で鉱山開発を行うのは到底不可能ではないかと思うのである。まず薩土同盟が結ばれたのは大政奉還が迫る慶応3年半ばであり、それまでは薩摩と土佐は距離を置いた存在であった。おまけに既に倒幕を藩是とする薩長と違って、土佐は山内容堂が筋金入りの公武合体派であり、尊皇派の武市半平太(瑞山)を死に追い遣り、土佐勤王党を潰滅させた経緯もある。そんな二者の同盟がうまく行く訳もなく、2ヶ月余りで盟約は解消されてしまった。剛毅な容堂自身も直後の大政奉還を成功させた迄が花道で、王政復古の小御所会議や、すでに鳥羽伏見に砲声が轟く土壇場でもしつこく徳川方を擁護し、小御所会議では、つい勢い余って、明治天皇を「幼冲の天子」と発言したことを岩倉具視に咎められ、「その言葉は英明な御上に対し甚だ不敬であろう!そんなに徳川がいいのなら、今からでも勝手に慶喜の処に行け!」と諸侯居並ぶ天皇の面前で罵倒されてしまった。土佐が明治政府に深い負い目を背負うのは正にこの時からであり新政府への登用も他藩に較べると随分と少なく、その劣勢を挽回するために、下野した板垣退助が中心となって自由民権運動に活路を求めるのである・・話が脇に逸れてしまったが、そのような緊迫した情勢の中、かのコワニエでさえ薩摩から出ることができずに藩内で活動していることを見れば、軍人であるアントワンが薩摩と国情の異なる土佐にのこのこと出かけて行ってお門違いの鉱山開発をするなどと言うのはまず無理というものだろう。おそらくモンブランが書いているように、薩摩に用いられないのがわかると、大陸に渡り自国の租借地辺りで辛うじて職を得たものと推測される。
一方、土佐藩が、藩内の物産の専売化や勧業、軍事需要を一元化することを目的に藩直轄の「開成館」を発足させたのは慶応2年2月のことであった。これも薩摩や長州の専売会所制度に較べると随分と遅れての発足である。総帥は後藤象二郎であった。三菱の創始者 岩崎弥太郎もこの開成館を土台にして手腕を発揮していくのである。館内は、軍艦局、貨殖局、関船局、鯨猟局、鉱山局、火薬局、鋳造局に分かれ、それぞれが奉行の下に統括されていた。中でも鉱山局はもっとも力が弱く軽視されていた衒いがある(「土佐白瀧鉱山史の研究」進藤正信著)。実際、明治3年に新政府に提出された答申書には、「・・一、銅鉱山二ヶ所、出高之儀は年々増減も御座候へ共、大様一ヶ年に左之通りに御座候 銅目方三万貫目計 土佐郡本川郷一ヶ所 同八千貫目計 吾川郡用居村一ヶ所 一、金銀産出之場所は御座無く候・・」と僅か2鉱山(本川銅山、用居(安居?)銅山)が記載されているだけで、名野川鉱山の名前は見えない。これからも慶応年間に名野川が開坑されたというのは大きな疑問符が付くのである。また、昭和15年に発行された「大日本鉱山史」には、「当鉱山発見の時代は明かでないが、明治初年に土佐藩主山内家に於て開発に着手して鋭意力を注ぎ、外人を招聘して採鉱に着手した事があると伝へられている。」とあって、「四国鉱山誌」の記述とは大分異なっている。今まで述べてきた経緯からすると、「大日本鉱山史」の方が正しいのではないかと小生は考えている。発見された時期は別として名野川鉱山の開坑は後述するように明治6年とするのが妥当ではないか? おそらく「四国鉱山誌」では、開成館鉱山局と名野川鉱山、さらにアントワンを結びつけた結果、誤解が生じてしまったのではないだろうか?・・このように本書は四国の鉱山沿革を知る最高の資料ではあるが全てが正しいという訳ではなく、それを鵜呑みにしてしまうと“誤りの連鎖”を引き起こし兼ねないので引用に際してはあくまでも慎重を期したいと思う次第である。
さて、明治2年に、アントワンはめでたくフランス式兵学指南として土佐藩に採用されたが、安寧の日々は長くは続かなかった。翌明治3年には藩兵から天皇親兵への移行、明治4年には廃藩置県が断行され、藩内の制度は全て廃止された。これにより開成館は閉鎖、藩用人は解雇され、おそらくアントワンもこのとき職を失ったのだろう。彼が其処で具体的にどのような仕事をしていたのか「皆山集」や「高知県誌」なども調べてみたが、名前を発見することはできなかった。
次にアントワンが登場するのは、明治6年の名野川鉱山開発に際してである。このあたりの経緯は「奇兵隊史録」や「海援隊始末記」で有名な平尾道雄氏の「土佐藩工業経済史(高知市立市民図書館 昭和32年)に詳しい。当時、名野川鉱山は長坂山鉱山と称し、島崎涼平と門田実平が、安岡喜八の協力の下に試掘を開始したものの資金繰りがうまく行かず、わずか1年余りで休止となった。その原因のひとつに安岡喜八の離脱が挙げられている。安岡は途中から単独行動を取って、東京よりアントワンを招き、長坂山の別鉱区開発に着手したのである。これがおそらく「四国鉱山誌」に言う“蕗ヶ谷坑”なのだろう。当時の外務省の認可状が残っている。
片岡小一郎 安岡喜八 雇
法郎西(フランス)人 アントアンヌ
鉱山地質調査   
   住所(欠)
   給料 一ヶ月日本紙幣四百円
   期限 明治六年第六月ヨリ同年十二月三十日迄  
右雇差許候事
但雇差止候節ハ此免状返上之事
明治六年六月二十五日  外務省   
これからすると、土佐藩を解雇されて後、2年ほどは東京に在住していたと考えられる。砲兵士官だった彼が急に鉱山開発とは一寸結び付かないし、住所が(欠)というのも少々気になるのだが・・おそらくこの2年の間に採鉱について勉強したか、あるいはモンブランが一緒に連れてきた鉱山技師を利用したのかもしれない。住所も各地の鉱山を転々と巡り歩いていた可能性もあるが、いずれにせよ、今となっては知る由もない。とにかく月給400円とは相当高額である。明治7年の統計によると、岩倉具視が600円、三条実美が800円、お雇い外国人では、5〜600円台が25名、800円以上が10名、1000円以上が3名だったというから、国賓レベルの破格の高待遇と言えるだろう。ちなみに別子銅山では、支配人の広瀬宰平が100円、ルイ・ラロックが600円、一般の日本人熟練工に至っては10〜15円程度の時代である。そんな訳で、アントワンも喜び勇みながら異国の何もない山中で鉱山開発に力を尽くしたに違いない。馴れない探鉱や精錬も積極的に試みたことだろう。それが今も名野川に彼が名を留める最大の理由でもある。ところが「土佐藩工業経済史」は続けて淡々と意外な事実を綴っている。「アントワンは翌年七月になっても給料の支払いをうけず、生活に窮して七月七日高知県参事 手代木勝任に救済を訴えた。調査してみると、安岡はアントワンに十四箇月分の給料をも払わず数回にわたって五千六百五十円を借用したまま行方をくらましたもので・・。」・・・なんと言うことであろうか!!・・アントワンは詐欺にあってしまったのだ。結局、安岡が捕まったか否かも、アントワンに給料が支払われたかどうかも一切不明で、その後の彼の行く末も杳として知れない。お気の毒としか言いようのない話だが、頼みのモンブランもすでに失脚し、フランス自体が普仏戦争に敗北して国威が失われている状態では泣き寝入りをせざるを得なかったのかもしれない。安岡と同じ日本人として、今も恥ずかしく慚愧に耐えない。失意のアントワンが去った名野川鉱山もまたしばらくは休山を余儀なくされるが、大正12年に至って白石鉱業が積極的に探鉱を行い、昭和にはいり高知県有数の鉱山として発展していくのを見れば、アントワンの鉱山見立も決して棄てたものではなかったことが証明されるのである。激動の時代とは言うものの、ほとほと運に見放された人と言う他ない。
ここに「SILK」という2007年に公開された日本−カナダ−イタリア合作の純愛映画がある。詳しくは省略するが、「郎女迷々日録 幕末東西」の管理人は、主人公であるエルヴェこそが、アントワンではないかと推測しておられる。エルヴェは、フランス軍人であったが、日本の生糸を入手するために美しい妻エレーヌを残して日本に旅をする。そこで謎の美少女に遭遇する。生糸(蚕の卵)買い付けは成功し無事フランスに帰還、巨万の富みを得るが、どうしてもその少女が忘れられない。少女に会うために何度も幕末の日本に密入国する。そんな中、自国に戻った彼に美しい日本語の手紙が届く。謎の美少女からだ!?・・愛の告白とも受け取れる内容に彼は喜び勇んで再度、日本に赴くのだが・・・時はすでに明治維新を迎え大混乱の中、肝心の少女とも会えず、やっとのことで手に入れた蚕の卵も台無しとなり、失意のどん底でフランスの自宅に引きこもってしまった。それに追い打ちをかけるように妻エレーヌは病死してしまう。ところが後で、日本語の手紙は謎の少女からではなく、エレーヌが人に頼んで書いてもらったものだと知る。美少女は寂しい思いを募らせるエレーヌの幻影だったのか・・妖しい謎に包まれて妻の墓前に泣き崩れる場面で映画は終わるのである。
本当にアントワンがモデルかどうかは議論のあるところだろうが、映画は創作なのだから深くは追求しないでおこう。しかし、幕府側に付いて戊辰戦争を戦った正規のフランス軍事顧問団でさえ、維新後、母国には帰還せず、日本で結婚し日本で死んだ軍人も多いという。帰国したところで第二帝政はすでに崩壊しており、軍人としての誇りも職位も保てないと言うのが大きな理由のひとつである。アントワンの場合はさらに悲惨だ。もともとモンブランに雇われた私兵のような存在で、薩摩にも容れられず、やっと手に入れた土佐藩軍事指南の職もわずか1年足らずで廃藩置県のために失った。見様見真似?で会得した鉱山開発も酷い詐欺にあって完遂できなかった。かの“郎女”様も仰るように、せめて日本でささやかな恋が成就し貧しいながらも幸せな結婚生活が送れたのだと自分なりに納得することがせめてもの慈悲だと小生も思うのである。そうすればこんなにも不運な日本に10年近く居続けた謎もおのずと解けるのではないだろうか?・・彼もまた、モンブランと同じく美しい日本に魅せられた一人だったのだろうな・・ひょっとすると最後は日本の土になったのかもしれない・・と、遙かな土佐の山々に彼を重ねて偲ぶにつけ、そんな切ない思いがこころを過ぎるのである。 
フリーメイソン
16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社。
現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は600万人を超え、うち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに、200万人は米国のグランドロッジに所属している。
「フリーメイソン」とは厳密には各個人会員の事を指しており、団体名としては英: Freemasonry(フリーメイソンリー)、仏: Franc-maçonnerie(フランマソヌリ)、伊: Massoneria(マッソネリア)、独: Freimaurerei(フライマウレライ)、露: Масонство(マソンストヴォ)である。以下、英語的な発音である「フリーメイソンリー」と記載するが、「フラン・マソン」や「マッソン結社」なども使われている。なお本項目は「フリーメイソン」と表記しているが、日本グランド・ロッジは「フリーメイスン」と表記している。
この友愛結社(組合)は、管轄上、独立したグランドロッジ(英語版)もしくは一部が東方社(オリエント、大東社系)の形で組織され、それぞれが下部組織(下位のロッジ)から成る自身の管区を管轄している。これらの多様なグランドロッジは、それぞれが認め合い、あるいは拒否し、境界を形成する。また、フリーメイソンリーの主要な支部には、関連した付属団体が存在するが、それらはそれぞれが独立した組織である。フリーメイソンリーは秘密結社または「semi-secret」(半分秘密の)団体と表現する場合があるが、いかなる団体であれ団体内部の秘密というものがあり、そうした視点においてフリーメイソンリーは広く知られた公開結社なのであるというフリーメイソンリー側の意見もある。「お前、秘密を漏らしたら首を切るぞ」と脅かして口伝で秘技を伝えた実務的メイソンの時代は400年間続いた。
西洋史に深いかかわりをもつ。帝国郵便を担うトゥルン・ウント・タクシス家出身の皇帝特別主席代理は全員がフリーメイソンであった。
フリーメイソンリーは「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つの基本理念がある。

起源とフリーメイソンリーに関して対外的な資料が少ないため、諸説存在する。レギウス・マニュスクリプトとして知られるある詩人は、およそ1390年頃と疑われる、としており、これは諸説あるメイソン起源説の中では、もっとも早くに上るものである。16世紀には、スコットランドにメイソンのロッジ(Masonic Lodge)が存在していた、とする証拠もある。例えば、スコットランドのキルウィーニングのロッジには、16世紀後半の記録があり、それは1599年にあった第二シュワー法に言及している。イングランドにおいては、17世紀中盤にはロッジが存在していたことを示す明白な書証がある。最初のグランドロッジである英国グランドロッジ(GLE、グランドロッジ・オブ・イングランド)は1717年6月24日に設立され、この日に、4つの既存のロンドンのロッジが合同で晩餐をしている。 こうして統括機関は素早く拡張され、殆どの英国のロッジが結合した。 しかし、少数のロッジは、GLEが企図した例えば第三位階の創設のような幾つかの近代化に憤然として、1751年7月17日にこれに対抗したグランドロッジを形成し、彼らはそれを古代英国グランドロッジと称した。この「近代」(GLE)と「古代」の二つのグランドロッジは、1813年9月25日に英連邦グランドロッジ(UGLE)に統合されるまで、互いに覇を競った。 アイルランド・グランドロッジとスコットランド・グランドロッジは、それぞれ1725年と1736年に形成された。 フリーメイソンリーは、1730年代までには古代、近代共に北米の英植民地に進出し、多様な州グランドロッジを組織した。 独立戦争後、米国のグランドロッジは独立し、それぞれの州に根を下ろした。 何人かは、ジョージ・ワシントンを初代グランドマスター(英語版)として、これらを股にかけた合衆国グランドロッジの組織を構想したが、多くのグランドロッジが統合によって、自分達の権威が低下するのを望まなかったため、このアイディアは短命に終わった。
古代であれ近代であれ、ロッジを運営するにあたって行なっているメイソンリーとしての活動内容に差はなかったのだが、こうした部門はF.& A.M.(Free and Accepted Masons)だったり、A.F.& A.M.(Antient Free and Accepted Masons)だったりと、そのネーミングに名残を見出し得た。
ヨーロッパの最も古い管区であるフランス大東社(GOdF)は、1733年に設立された。 しかしながら、大東社は至高の存在(メイソンでは、複数の宗教の会員がいることから各員が神と信じるものを最大公約数をとってこう表現する)への尊崇義務を会員規定から撤廃し、英語圏メイソンとの確執を引き起こし、両社は1877年頃、公式の関係を断絶した。こうした中で、グランドロッジ・ナショナーレ・フランセーズ(GLNF)が、一般に英連邦メイソンとの友好関係を保ち、世界と調和した唯一のグランドロッジとなった。 こうした経緯故に、しばしばフリーメイソンリーは相互に親善関係にない二つの系統から構成されるといわれている。
英連邦メイソンとそれに連なる管区(グランドロッジと呼ばれる)の伝統、そして
欧州大陸系の大東社とそれに連なる管区の伝統(グランドオリエントと呼ばれる)である。
ラテン系の地域においては、一説によると大東社系スタイルの大陸型メイソンが優勢を占めていたとされるが、英連邦メイソンと友好関係にあるグランドロッジも存在し、それは英メイソンと友愛関係を仲良く分かち合っている。 世界の他の地域においては、マイナーなバリエーションも存在するが、フリーメイソンリーの大部分は、英連邦メイソンのスタイルに近似の傾向にある。
通説
石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在した、とする説もある。こうした職人団体としてのフリーメイソンリーは近代になって衰えたが、イギリスでは建築に関係のない貴族、紳士、知識人がフリーメイソンリーに加入し始めた(思索的メイソンリー。「思弁的-」とも)。それと共に、フリーメイソンリーは職人団体から、友愛団体に変貌したとするのである。
または、実務的メイソンリーとの直接の関係はなく、その組織を参考に、貴族たちが別個に作ったのが、思索的メイソンリーであるともいう。中世ヨーロッパでは、建築はあらゆる分野の技術に精通する必要がある「王者の技術」とされ、建築学や職人の社会的地位は高かった。また、技術の伝承についても厳しい掟が設けられた。その神秘性から、実務的メイソンリーが貴族などに注目され、薔薇十字団の正体ではないかと期待する者もあった。もっとも、これについては実務的メイソンリーはあくまでも石工団体であり、期待は裏切られた結果に終わったようである。
石工団体を元にした名残りとして、石工の道具であった直角定規とコンパス(Square and Compasses)がシンボルマークとして描かれ、内部の階位制度には「徒弟(Entered Apprentice)、職人(Fellow Craft)、親方(棟梁とも訳す。Master Mason)」の呼称が残っており、集会においては、元は石工の作業着であるエプロンを着用する。なお、ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボルとするのはフリーメイソンだけではなく、啓蒙時代のヨーロッパにおいて啓蒙思想の立場をとる団体が好んで使用したシンボルであり、フランス人権宣言の上部にシンボルが描かれているのも、基本となる考え方が啓蒙時代の哲学的、政治学的諸原理に由来するためである。
友愛団体に変貌したフリーメイソンリーは、イギリスから、商業や文化のネットワークを介して、ヨーロッパ諸国、ロシア、アメリカ大陸、さらには西欧諸国従属下にあるアフリカやアジアの植民地にまで広まった。民間人を対象とする国際的な互助組織がない時代だったので、会員であれば相互に助け合うというフリーメイソンリーは、困難を抱えた人間にとって非常にありがたかった。ウィーンのロッジに加入していたモーツァルトは、同じロッジのフリーメイソンに借金の無心をした記録が残っている。 フリーメイソンリーが広まった時期は、絶対王政から啓蒙君主、市民革命へと政治的な激動が続く時代でもあり、特定の宗教を持たずに理性や自由博愛の思想を掲げるヨーロッパ系フリーメイソンリーは、特定の宗教を否定することから、自由思想としてカトリック教会などの宗教権力からは敵視された。とりわけフランス革命の当事者たちの多くがフリーメイソンであったため、しばしば旧体制側から体制を転覆するための陰謀組織とみなされた。ナチス・ドイツの時代にはマルクス主義や自由主義とともに民族の統一を阻む抹殺されるべき教説として扱われ、弾圧を受けた。独立戦争にかかわった多くの会員がいたアメリカにおいても白眼視される傾向があった。ちなみにニューヨークの自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物という側面もあり、台座の銘板にはその経緯とメイソンリーの定規・コンパス・Gの紋章がきざまれている。
フリーメイソンリーの入会儀式は秘密とされたが、そのために、かえってさまざまな好奇心をかきたてた。トルストイの『戦争と平和』では1810年代のロシアのフリーメイソンの会合が描写されている。またモーツァルトの『魔笛』にフリーメイソンリーの入会儀式の影響を指摘する意見もある。 
フリーメーソン日本史
最初の日本のメーソン
幕末から明治維新の激動の背後にあったロスチャイルド派ユダヤの動きを見ないと事態の真相に近づけない。日本が長い鎖国から解かれて開港したと聞くや、諸外国からメーソンがどっと流れ込んでいた。そして明治維新の大きな原動力となった。幕末、日本を支配しようとしていたのはロスチャイルド派フリーメーソン即ちイルミナティーだった。倒幕派を操作したのが英国系フリーメーソン・イルミナティーであり、幕府側に食い込んでいったのがフランス系フリーメーソン・イルミナティーというようにユダヤ特有の両建て戦略に基づき日本攻略作戦を発動していた。彼らは、それぞれ幕府と薩長をけしかけ、日本を泥沼の内戦に持ち込み、内戦で弱体化したのち植民地にしようとしていた。
フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュは、「グランド・オリエント」(大東社)を代表し、幕府を援助した。横須賀製鉄所を開かせ、幕府の軍制改革に助力している。倒幕側についたのが、イギリスのメーソン(スコティシュ)のトーマス・ブレイク・グラバーである。グラバーが来日した時には、既に多くのメーソンが入り込み、幾つかの商会が存在していた。彼は長崎の大浦海岸にグラバー商会を設立し、日本茶の輸出から商売に取りかかったが、次第に倒幕諸藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げ、成功を収めていった。先住の商人達が幕府と密接な取引をしていた為、入り込める余地がなかったからであった。そこで倒幕諸藩に絞った。それが功を奏して、彼はわずか数年で長崎随一の商人となる。(「グラバー考(「明治維新とグラバー」考)」)
その他、フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、薩摩藩の五代才助(友厚)に近づき、1865年、ブリュッセルで五代と共に商社を設立しているほどだ。又、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりしている。プロシア(独逸)のメーソン、エドワルド・スネルは、長岡藩の河井継之助に接近して、長岡城の戦い(1868年、官軍との戦い)を援助した。そして戊辰戦争の最後の戦いとなった五稜郭の戦いでは、フランスのメーソン、ブリュネが、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗したが、遂に敗れる。ここに戊辰戦争は終結を迎えるのだが、いってみれば、明治維新は、フランスを中心とするヨーロッパ系メーソンと、大英帝国系メーソンの代理戦争であった。どっちに転んでいいように、メーソン特有の”両面作戦”がとられた。そして結果的にはイギリス系のメーソンが勝利を収めた。
幕末フリーメーソンロッジが次々と設立される
アメリカ独立、フランス革命、イタリア統一、ロシア革命など、歴史の潮流の裏には必ずメーソンが絡んでいた。日本の近代化もその例外ではなかった。1842年の阿片戦争。この戦争によって英国領となった香港に、メーソンの極東ロッジが創立され、アジア進出の拠点となった。その香港から横浜の居留地警備の為に派遣されたのが、英国陸軍第20連隊だった。この連隊には、軍人結社スフィンクスがあった。アイルランド系の移動式ロッジで、駐屯地でメーソンの儀式を行った。アメリカ、カナダの植民地時代も、こうした軍隊の移動式結社が各地で展開され、その地にメーソンが浸透していった。スフィンクスのメンバーは、やがてメーソンの英外交官や貿易商と共に移動式ではなく、本格的なロッジを望む様になり、1865年、本国に新ロッジの設立を申請している。
幕末に横浜の居留地に英国が持ち込み、続いて神戸、長崎の開港地に英米系のフリーメーソンが生まれた。1866年、明治維新の2年前、それが認可され、日本の横浜にメーソンのロッジが初めて設立された。最初のロッジは横浜に作られた(「日本初のメーソンロッジは1866年、横浜で創立」)。第1回集会には、スコティシュ系メーソンの西インド地区の前副棟梁カートライトが出席し、初代ロッジ長にはウィリアム・モタ、二代目ロッジ長には英国近衛連隊将校G・M・スマイスが任命されている。こうして正式のロッジが横浜に設立されてからというもの、日本各地にい次々とロッジが開設された。
例えば、1869年に「オテントウサマ・ロッジ」(横浜)、1870年に「ロッジ・ヒューゴ・アンド・オオサカ」(兵庫・大阪)、1872年に「ライジング・サン・ロッジ」、こうした各地のロッジを統括する為、1873年、「日本グランド・ロッジ」が横浜に設立され、その初代グランド・マスターにチャールズ・ヘンリー・ダラスが就任している。
最初のフリーメーソン入会者・西、津田
1862(文久2)年、徳川慶喜の政治顧問の西周(にし・あまね)が、津田真道、榎本武揚らとともに幕命でオランダ留学し、法学や哲学、国際法などを学ぶ。1864.10月、西はライデン大学のフィッセリング教授から推薦を受け(入会には、会員の推薦を必要とする)、オランダのライデン市のフリーメーソン・ロッジ「ラ・ベルトゥ・ロッジNo7」に入会している。ライデン大学に西周の入会のサインが残されている。こうして、西が、日本のフリーメーソンの先駆けとなった。
phirosophy を「哲学」という翻訳語にしたのは西周といわれる。他にも「芸術」、「科学」、「技術」、「理性」、「権利」、「義務」、「文学」、「心理」、「科学」となど西洋の抽象概念を次々に日本語に訳出し造語している。西は、かな漢字廃止論者でもあった。五箇条の御誓文も西が草案を書いたし、軍人勅諭も彼の起草と云われている。
津田真道(つだ・まみち、法学博士、衆議院副議長)も然り。西と共にライデン大学に学び、1864.11月、フリーメーソンに入会している。
薩摩藩士五代友厚らもこの頃欧州留学している。五代友厚の「廻国日記(かいこくにっき)」は、五代がパリ滞在中12日間に亙って連日、幕生西・津田両人と面会し共にパリ見物や料理屋通いもしていたことなどを書き記している。西もパリで出逢っている。
1865.12月、西と津田が帰国。1867年、津田真道が「泰西国法論」を発表。1868年の明治維新後、西と津田は、フランス系メーソン人脈の福沢諭吉らと明六社を作り、文明開化に貢献した。他にも英語学校を開いた神田乃武(YMCAの創設者)も然り。
明治維新とフリーメイソン
フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュはグラントリアン(大東社)のメンバーで徳川幕府を支援し、横須賀製鉄所を開かせ幕府の軍制改革に助力し、一方、倒幕側にはイギリス系のメーソンであった、トーマス・ブレイク・グラバーがつき、倒幕諸藩に武器弾薬、艦船などを売り、軍事援助を行いました。
フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、1865年、ブリュッセルで五代友厚と商社を設立しているほど仲が良く、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりもしています。
プロシアのメーソン、エドワルド・スネルは、徳川につき、長岡藩の河井継之助と長岡城(1868年、官軍との戦い)でともに戦い、フランスのメーソン、ブリュネは、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗しましたが敗北し、戊辰戦争は終結を迎え、イギリス系のフリーメーソンが勝利を手にする事になります。 
このように、幕末の日本は、ヨーロッパのフリーメーソンに溢れ、彼らに大きな影響を受けていたのです。
グラントリアン(大東社)
ロンドンにあった4つのロッジが合併してグランドロッジが出来たのが1717年6月24日ですが、この団体はまたたく間にヨーロッパ中に広がり、フランスでは1725年にパリで初めてのロッジが設立されました。 
1756年にド・クレルモン伯爵をグランドマスターとし、グランドロッジが創設され、1771年にド・クレルモン伯爵が亡くなると、ド・シャルトル公爵(後のド・オルレアン公爵、自称フィリップ・エガリテ=「平等のフィリップ」フランス革命を歓迎してつけた名前)がグランドマスターになると、フランスのフリーメーソンの改革・再編を目指す運動が起き、パリで新憲章を作成するための集会が行われ、1773年にはグランドロッジの廃止とグラントリアン(大東社)の創設が決定されました。
グラントリアン(大東社)の創設は、イギリスのフリーメーソンからの独立を目指したもので、オリアン(東)は太陽の昇方向としての「光」を意味し、「フランスを導く偉大な光」という期待をこめて名づけられたものです。
ド・シャルトル公爵がグランドマスターになった時、フランスには104のロッジがありました。その内訳は、パリ23、地方71、軍隊ロッジ10です。1789年になると、パリ65、地方442、植民地に39など合せて600。フランス革命の直前には、ロッジ数600、会員が2万〜3万人と一大勢力となり、宮廷・議会・軍隊・教会など、フランスのいたるところにフリーメーソンはいたと言われています。
このド・オルレアン公爵は、一見品性があり優しそうな顔立ちをしていますが、トンデモない悪党で、フランス革命を扇動した一人でもありました。彼は、ルイ16世の妻、マリー・アントワネットの天敵としてよく知られていますが、首飾り事件をはじめ、イルミナティのヴァイスハウプトと組んで、ことごとくマリー・アントワネットを罠にかけてきた男です。
 
フレデリック・マーシャル

 

Frederic Marshall (1839-1905)
在仏日本公使館付情報員、顧問格(英)
イギリス生まれの弁護士・ジャーナリスト・実業家。1870年代以降、パリの在フランス日本公使館に雇用されて日本の情報発信に尽力したお雇い外国人。明治維新後の日本政府の長年の悲願となった条約改正に向けた活動の中で、大きな役割を果たした。
1839年イギリスで生まれているが、前半生はよく分かっていない。1840年代後半頃からフランスへ渡り、以後30年以上パリに居住した。1871年7月号の『ブラックウッズ・エジンバラ・マガジン』に、パリ・コミューンによる混乱の中にあるパリの様子を描いた文章を寄稿し、英国ジャーナリズム界に強烈な印象を与えた。その後、1871年11月から翌1872年8月にかけて同誌に「フランスの家庭生活」(French home life)を連載した。
鮫島との出会いと日本公使館
連載中の1871年、日本の在フランス公使としてパリに赴任した鮫島尚信に雇用され、日本の情報発信業務に従事する。当時、ヨーロッパ各国視察と不平等条約改正のための岩倉使節団がアメリカ合衆国での旅程を終え、ヨーロッパへ到着する直前であり、鮫島は日本の現状の制度や文化について一般市民に伝える必要を感じ、マーシャルにその発信を依頼したのである。雇用契約は半日勤務で月額50ポンド(≒250円≒1250フラン相当)、翌1872年秋からは全日勤務で月額80ポンド(≒400円≒2000フラン相当)だったという。さっそく同誌で日本に関する連載が始められたが、全般的にアジアに関心が薄かったヨーロッパ市民にはほとんど無視され、逆に英国の廉価月刊誌『マクミランズ・マガジン』にはマーシャル論文の情報源は信用できず、条約改正は時期尚早であるとの批判まで書かれる結果となった。
岩倉使節団の帰国後はブラックウッズ・マガジン誌に「国際的虚栄」(International Vanities)を連載。日本のように新たに欧米の外交クラブに参入した国の立場から見て、いかに西欧の外交慣習や儀礼・マナーというものが複雑で無駄の多いものかを力説するなど、ヨーロッパ文化を相対化・客観視する目を持っていた。明治日本政府は関税自主権の喪失や領事裁判権・片務的最恵国待遇という不利な点を持つ不平等条約の改正を国是としており、そのためにマーシャルの人脈と広報力に期待を寄せた。
条約改正への奮闘
1873年(明治6年)8月に米国との間で締結されていた日米郵便交換条約は翌1874年4月18日に批准交換されたが、イギリス・フランス両国は、日本国内の諸制度の整備の遅れから、日本の郵便主権を認めようとしなかった。鮫島は病気療養中で南仏トゥーロンに滞在中であったが、マーシャルは渡英して第2次ディズレーリ(ビーコンズフィールド)内閣の外相ダービー伯と非公式に会談、英国も米国と同様に日本と郵便条約を締結し、また関税自主権を認めるのが適当であると主張したが、英国側の不信感をぬぐうことはできず、条約締結には至らなかった(フランスもこれにならい、10月に郵便条約調印拒否を正式に回答した)。
この後、同年からマーシャルは鮫島とともに日本の外交官へ向けた外交慣習やマナーなどを説明した手引書の作成に尽力。全文英語で書かれた『Diplomatic Guide』(邦題は鮫島が「外国交法案内」と命名)として結実した(印刷はブラックウッド社が請け負った)。病身の鮫島が療養のため、できたばかりの著書を携えて一時帰国すると、駐英公使上野景範との間にパイプを築き、さらなる情報活動を進めた。1876年(明治9年)には寺島宗則外務卿が主導する条約改正への動きが始まり、マーシャルも上野の命により、パリ日本公使館を拠点に情報活動を再開。特に対日本政策で協調的な方針をとろうとする英仏両国を分断することを画策した。この企ては、日本における外国人の銃猟規則違反に伴う罰金の支払先についてフランス政府を説得し、英国外務省の方針と異なる対応をとらせるなど、ある程度の成功を見た。翌年以降も英仏間を往復し、駐仏ドイツ大使ホーエンローエ侯爵や、フランス外務大臣デュカス公爵とも親交を深めた。これらの交渉は1878年(明治11年)の吉田・エヴァーツ条約として結実するが、駐日英国公使パークスらの反対により、発効には至らなかった。しかし、これらの功績により同年日本政府より、勲四等旭日章を授与される。
鮫島の死と解雇
1880年(明治13年)、駐仏公使鮫島尚信が死去すると、マーシャルは南イングランドのブライトンに移住するが、翌1881年(明治14年)にはパリ日本公使館顧問格(Conseiller Hononaire)に就任。寺島に代わって外務卿(のち外務大臣)に就任した井上馨も条約改正には熱心であり、マーシャルの情報活動も継続された。1883年(明治16年)にフランス軍が安南(ベトナム)ハノイを占領する安南事件が発生すると、マーシャルは井上の内訓を受けて、安南に対する清国の宗主権問題についてフランス外務省と連携する用意があると打診。ここでフランスに恩を売ることで条約改正へ有利にする思惑であった。はじめ乗り気でなかったフランスもマーシャルの交渉に応じ、北平(北京)に駐在中のフランス公使フレドリック・ブーレーと日本公使榎本武揚との会談につながった。
井上外務卿は新通商条約の締結により、治外法権を除外して関税自主権の回復のみを狙う方針をとったが、依然パークスの反対により難航していた。マーシャルは当時憲法作成の調査のために滞欧中であった伊藤博文や、英国公使森有礼、駐仏公使蜂須賀茂韶らと連携しつつ、フランス外務省政務局長・商務局長に英国の方針に反対するよう働きかけた。6月20日にフランス外務省から日本案の受諾連絡を受けると、マーシャルはブリュッセルに赴き、対ベルギー交渉を開始。ベルギー外務次官ランベルモン男爵との会談内容を「ベルギー覚書(Belgian Nore)」として伊藤に詳細に報告した。これによりドイツも新条約に興味を示したが、結局これも失敗に終わる。しかしマーシャルの功績を重く見た蜂須賀公使は、日本政府に対しマーシャルへ褒賞金を賜与することを要請。マーシャルは賞与金10,000フランを下賜された。しかしその後、公使館の頭越しに井上・伊藤と連絡を取るマーシャルに対し蜂須賀が不快の念を抱き、両者は次第に疎遠となった。1885年(明治18年)パリ日本公使館に赴任した書記官原敬は、伊藤の内命を受けて、マーシャルと蜂須賀の和解を図っている。翌1886年(明治19年)6月には帰国する蜂須賀主催の晩餐会にマーシャル夫妻が招待され、関係の修復が伺える。マーシャルは、蜂須賀離任に伴って臨時代理公使となった原とも親交を続け、外交のノウハウを伝授した。1888年(明治21年)6月30日に日本政府は在外公館経費節約のため、マーシャルを解雇したが、一時金として月給3月分(6,000フラン)を下賜するとともに、多年の功労に報いるため、以後年額1,500円の終身年金(恩給)を与えることとなった。同時に勲三等旭日章を授与。1905年(明治38年)に没した。
鮫島尚信
(弘化2年- 明治13年 / 1845-1880 ) 明治時代の日本の外交官。旧薩摩藩士。通称は誠蔵。鮫島武之助の兄。
薩摩国鹿児島城下山之口馬場町の薩摩藩藩医、鮫島淳愿の子として生まれる。15歳で石河確太郎に蘭学を学んだあと、藩命により文久元年(1861年)に蘭医研究生として長崎に学び、医学のほか、瓜生寅が主宰する英学塾培社で英語を学んだ。 元治元年(1864年)に設立された藩立洋学校「開成所」で訓導(句読士)を務める。この時、長崎の培社の実質的な運営者だった前島密を英語講師に招いている。慶応元年(1865年)、薩摩藩の留学生として森有礼、長澤鼎、吉田清成、五代友厚ら15名でイギリスに留学しロンドン大学法文学部に約1年間学ぶ。慶応3年(1867年)、森有礼、長沢鼎、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵ら6名で渡米しトマス・レイク・ハリスの結社「新生社」に入り、ブドウ園で働きつつ学んだ。途中意見対立があり、森と鮫島は帰国、吉田、畠山、松村はフェリス牧師の仲介でニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学へ移った。
ハリスは王政復古後の日本政府で働くことを勧めたので鮫島は森有礼ともに帰国することとし、翌明治元年(1868年)、両名は日本に到着した。長澤鼎のみは、アメリカに残り、ブドウ栽培に携わった。同年10月、外国官権判事、東京府判事などを経て、翌年7月に東京府権大参事となり、明治3年(1870年)8月に外務大丞、同年の欧州差遣、少弁務使を経て、明治4年(1871年)にロンドンに着任した。明治5年(1872年)、中弁務使に進んだのちパリに着任し、弁理公使、特命全権公使と昇進した。この間、お雇い外国人のフレデリック・マーシャルとともに若い日本の外交官向けに『Diplomatic Guide』(邦題は鮫島が「外国交法案内」と命名)を作成した。明治7年(1874年)4月、帰国。翌年に外務省の次官である外務大輔となった。
明治11年(1878年)1月、再び在仏特命全権公使を任じられフランスに駐在した。このとき、外務卿の寺島宗則から条約改正交渉に入るよう訓令されている。 このときはベルギー公使を兼務した。条約改正については、ひとえにイギリスの意向にかかっており、鮫島はイギリスが同意するならばフランスもそれに倣うとの情報を得ている。
在仏公使在任中にパリで持病の肺病に倒れ、35歳で病没した。終世友人だった森有礼はその葬儀にかけつけ、弔辞で「気高き働き人」と述べたという。 
寺島宗則の他国との交渉開始
・・・以上の様に友好的なアメリカ政府の立場は判明したが、他の条約国との交渉も不可避である事も判明した。そこで外務卿・寺島宗則はいよいよ他の条約国との交渉を決断した。現地駐在日本公使などの情報から、改税交渉に当たってイタリヤやドイツなどからは恐らく異論は出ないだろうが、必ず異議を出すのはフランスやイギリスだろうと云うのが寺島の判断だった。寺島は明治9(1876)年11月27日付け書翰をイギリス駐在・上野景範公使とフランス駐在・中野健明臨時代理公使に送り、非公式かつ秘密裏に現地政府の意向を探るべく命じた。その結果あまり強い反対がなさそうなら、日本駐在のイギリスやフランスの公使達に公式な話を通そうとしたのである。
当時の在フランス日本公使館には、外務省・日本外交文書史料に 「マルシャル」と云う名前で登場する、フレデリック・マーシャル(Frederic Marshall)と云うイギリス人が雇用されていた。いわゆる現地公使館の「お雇い」とも呼べる立場の人物で、まだあまり名の通らない日本外交の情報発信を担っていたようだ。フランス駐在の中野代理公使はこのフレデリック・マーシャルを通じ、イギリス駐在上野公使とも連携し、イギリス政府の意向を探りに出た。当時のフランス政府の日本向け外交は、中野代理公使の言う 「全て英国の所為に習い取り計らう処があり、兎角英政府の返事を待ち、その上で何れへとも百方に着手仕るべくと、相控えて居ります」という状況だったからだ。
この様にして半年ほど経った頃、フランスの中野健明から寺島宗則に宛た明治10(1877)年5月4日付けの書翰が届いた。この書翰いわく、「イギリスの上野公使と協議し探りを入れたが、英仏両政府とも我が請求通り海関税権の談判に取り掛かる様子はない」と云うものだった。ここで外務卿・寺島宗則には多くの思案があったはずだが、結局アメリカ政府とだけでも更に煮詰めるべく決意したようだ。そして同時に、駐日各国公使とも話を始め、結局は主要国・イギリスの在日公使・ハリー・パークスとの談判が中心になって行く。
 
ヘンリー・デニソン

 

Henry Willard Denison (1846-1914)
外務省顧問。下関条約・ポーツマス条約交渉(米)
アメリカ合衆国出身の日本国の外交官、お雇い外国人。
1846年バーモント州ギルドホールで生まれる。ニューヨークのコロンビアカレッジ卒業後、1869年(明治2年)に日本へ渡り横浜の米国領事館裁判所判事となり、のち副領事に転ずる。1878年(明治11年)退職後、1880年(明治13年)5月に駐日米国公使デロングの推薦により、月給450円の待遇と「万国公法副顧問」の肩書きで、外務省のお雇い外国人となる(契約期間ははじめ3年、のち5年ごとに更改)。以後、1914年(大正3年)に没するまで、顧問の任にあり続けた。
条約改正への寄与
井上馨外務卿以来、歴代の外務卿・外相に顧問として仕え、当時の国家的課題であった条約改正案に関与する。1881年(明治14年)には最恵国待遇条款についての進言を行っている。さらに1884年(明治17年)11月には条約改正会議において改正案の英文を起草したのを始め、大隈重信・榎本武揚・陸奥宗光ら歴代の外務大臣が手がけた条約改正交渉の草案を作成している。不平等条約の重要点であった治外法権の撤廃にも尽力し、1886年(明治19年)に米国との間で逃亡犯罪人引渡条約を締結させることに成功した。
日清戦争と三国干渉
1894年(明治27年)に勃発した日清戦争に際しても、翌年下関で行われた講和会議において陸奥外相の顧問の資格で全権に随行した。下関条約締結直後に、遼東半島返還を要求するロシア・フランス・ドイツによる三国干渉が行われた際の対応を巡って、広島大本営における御前会議においては、列国会議を招集して干渉に対抗しようとする意見が大勢を占め、いったん方針が決定されたが、いたずらに列強諸国を刺激するのは下策として、伊豆で病気療養中の陸奥外相と伊藤博文首相・デニソンの三者会談により、三国干渉に対する処理と、下関条約の批准交換を分けて処理することとなり、決定は覆された。
1900年(明治33年)からは日本政府による指定でハーグの常設仲裁裁判所裁判官もつとめている(没年まで継続した)。1902年(明治35年)に日英同盟を締結する際も、小村寿太郎外相の要請を受けて反対派の元老・井上馨を説得するなど、国内の外務事項においても活躍し、日本外交の枢機に関与していた。
日露交渉での活躍
1904年(明治37年)から始まった日露戦争でも、対露宣戦布告文の起草にあたった(この間におけるエピソードについては後述)。また一方で、戦争開始直後から始まった小村外相・金子堅太郎による米国を介した講和交渉を全面的に支え、ロシア側への交渉文書はほぼすべてデニソンが手がけている。その名文ぶりに欧州各国から日本への好感を集めるきっかけともなった。ポーツマス条約の締結にも尽力した。
1914年(大正3年)、築地の聖路加病院で死去(68歳)。墓は、青山墓地内の、辛苦を共にした小村寿太郎の墓の近くに建てられた。
受章歴
数々の功績から、1888年(明治21年)には、旭日中綬章を与えられ、1895年(明治28年)には勲二等旭日重光章、1896年(明治29年)には勲一等瑞宝章および金10,000円、1902年(明治35年)旭日大綬章を与えられた。最終契約(1910年)での俸給は15,000円に達した。死後、旭日桐花大綬章を追贈された。
逸話
直接デニソンの薫陶を多く受けた外務官僚幣原喜重郎(のち外務大臣)による回想によれば、日露戦争時、小村外相と以下のやりとりがあった(1951年幣原『外交五十年』「デニソンを憶う」)。開戦の直前、駐露公使宛に対露交渉開始の電文を起草するよう、小村外相に依頼されたデニソンは小村の真意が分からず、「閣下の真意が分からないので書けません。相手が言うことを聞かないなら戦争をするという覚悟がありますか。それともどうしても戦争を避けるつもりですか。いずれかを聞かなければどちらにも通じる文案は書けません」と問うた。小村外相は「それは談判の経過による」と答え、デニソンはうなずいて柔軟な文面を書いて送った。後日、幣原はなぜ外相に質問したのか尋ねたところ、デニソンは「戦争の覚悟があるなら柔軟で平和的・妥協的な書き方にする。そうでないのなら強気の文章にして多少脅迫の文句も入れる」と答えたという。また日露戦争後、一時帰国のため書類を整理した際、日露講和交渉の草案が大量に出てきたため、幣原が後日の参考のために譲り受けたいと申し出たところ、デニソンはそれをストーブに入れて燃やしてしまった。曰く「君がこれを保存しておくと、それが後で人目に触れた時、日露交渉の主役が私であったように思われてしまうだろう。だが、あの交渉の功績はすべて小村さんのもので、私にはそれに参加する資格はない」。
デニソンは普段から「私は、新たに英文の文書を書けと言われれば書けるが、日本人が作成した英語の文章を直せといわれてもできない。文法的に正しいかどうかよりも、英国人や米国人の立場になって、その考え方を表現したものでなければ、人に感動を与える文章はできない」と述べていたという。
ポーツマスにおける日露戦争の講和会議で仲介役を務めたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは、日本側の事務を精力的にこなすデニソンの姿を見て「君はアメリカ人なのか、それとも日本人なのか?」と皮肉ったという。
上記のようにデニソンの日本外交案件、および外交交渉術を日本人へ伝授した貢献は非常に大きく、石井菊次郎(外務大臣)は「天が日本に幸いして天下らせたような人物」と評した。
若い頃は野球の名選手で、ワシントンのオリンピックスというクラブで主力選手として活躍していた。1876年に東京大学の学生チームと外国人チームの交流戦が行われたときは、4番捕手を務めている。この時のチームメイトには、日本に野球を伝えたホーレス・ウィルソンや、ジェームス・カーティス・ヘボンの息子がいた。
2
日清、日露の戦争(1895−1938)を通じて日本政府はアメリカ人の外交顧問を特別待遇で招聘した為、日本は、これら二つの戦争に勝利し、外交交渉をそつなく乗り切ることができたと筆者は考えている。
そのアメリカ人の名はヘンリー・デニソン(Henry Willard Denison,1846-1914)であった。彼はアメリカ野球の草分け頃に活躍し、今日のMLB創設に関係の深い人物でもあったと言われている。
デニソンの招聘に最も協力的であったのは井上馨であって、その主たる目的はペリーの来航以来、欧米諸国との間に不利な条件で締結されていた、所謂、不平等条約の改正の仕事であった。
デニソンは1846年(弘化3年)、アメリカ東部ヴァーモント州生まれ、コロンビア・カッレジ卒業後来日、アメリカ横浜副領事であったが、1880年((明治13)アメリカ公使、デ・ロングの推薦により外務省の顧問となった。
欧米流外交交渉に不慣れであった生後間もない若い国、日本にとって「外交」こそ最優先の国家事業であると気付き、諸々の条約規約を分析しながら外国と交渉、我が国に最も有利な、例えば「最恵国待遇条件」の手続きを語学と法律、欧米の習慣に手慣れている専門家を雇用して、ことに当らせたことは賢明な手段であったと考える。(但し、国家機密の漏えいについては一抹の不安が拭えない)
デニソンはその後、大隈重信、榎本武揚、陸奥宗光、小村寿太郎等の外相のアシスタントとして活躍、条約起草又は改正に具体案を示して政府の手助けをした。デニソンは「三国干渉」の会議にも参画して陸奥外相に意見を具申している。
デニソンの最大の仕事は、日露戦争終結段階でロシアに手渡した交渉文の作成であった。デニソンの条文を目にした英仏らはその卓越した言い回しに驚き、我が国の立場に同情が集まったと云われている。その時、アメリカ各地を巡って日本の立場に同情が集まるように演説に回っていた金子堅太郎も英文原稿をデニソンに依頼して作成させていたとも云われている。
結局、デニソンは日露停戦会議に小村外相と共にポーツマス条約締結の会議にも出席した。
デニソンはこの様にして日本政府に貢献したが、何の理由からか表だって彼の手柄や、仕事ぶりを公にされなかったのは何故だったのか、それを思う時、日本の典型的「役人政治」の狭量ぶりを感じずにはいられない。
デニソンは病を得て1914年に日本で亡くなった。これは第一次大戦勃発の年であり、今年から数えて丁度100年前のことであった。
第一次大戦で、日本は頼まれもしないのに、これに参戦、ドイツを山東省から追放、戦後に太平洋のマリアナ群島の日本自治の権利を得たことでアメリカの西進を遮ったとして非難され、後の第二次世界大戦の火種の一つとなったと思われる。
デニソンがもし、その後20年生き延びたなら(1934年迄)、日本をあのような悲劇的戦争から救っていたかも知れないと思うと残念でならない。

日清、日露両戦争で日本にとって掛け替えのない働きを果たしたアメリカ人を挙げるとしたら筆者は迷わずヘンリー ウイラード デニソンを推挙したい。ペリー来航以来、我が国は数多の条約を欧米角国と交わしたが、殆どが我が国には不利な条件で結ばれていた。
明治政府はこれら不利な条件を修正する仕事を依頼する目的でデニソンを外務省に招いた。(デニソン(Henry Willard Denison 1846-1914)
不思議にも我が国では、デニソンの名が広く知られていないのは何故だろうと思えてならない。
デニソンは1846年5月11日ヴァーモントに生まれ、その後、ニューハンプシャアー州ランカスターに移り住んだ。
その後、国防省に勤務、又、財務相にも勤務した。
いつの事かは分からないが、デニソンはオレゴン州のプロ野球団オリンピックス(Olympics,Oregon State)の一塁手を1867ー68年に務めている立派なプロ野球選手であった。
ジョージ ワシントン大学で法律を専攻し、1868年(明治元年)アメリカ横浜領事館勤務のため来日した。
一度帰国したが、再び日本政府の正式要請で1880年、来日し終世日本の外交業務に尽くした。
デニソンの関わった最初の任務は、日清戦争後の下関条約締結であった。外相、陸奥宗光の背後にあって、活躍、その後に起こった「三国干渉」事務での補佐の仕事であった。
広島で行われた「御前会議」にも参画、当時の日本の国力ではむずかしいが、全く「干渉拒否」の態度には消極的意見を述べたが、結局、デニソンの意見は通らず、ロシア、フランス及びドイツの要請を受諾、遼東半島の返還と決まり、「臥薪嘗胆」の言葉が生まれることとなった。
日露戦争の終結における「ポーツマス条約」にもデニソンは参加していることについても、日本ではあまり知られていない。
英米との外交交渉書類原稿作成、小村寿太郎や金子堅太郎の英文での草稿もデニソンの援助なくしてはなし得ていないのではとも思われる。
デニソンは、日本人の作った原稿を修正せよと言われてもとても直せないとも云っている。英語は正しいかどうかよりも、自分の能力で(英語能力で)書かなければ人に感動を与えられるものではないとも言っている。(梅渓昇著「お雇い外国人」116ページ。
ポーツマス条約の会見場でルーズヴェルト大統領に’君はアメリカ人か日本人かと問われたとも伝えられている。
金子堅太郎全権が会議の最中に、小村の用意した原稿を、デニソンに再度寄稿させるように進言したことから考えて、デニソンが如何に日本では重要視されていたかがわかる。
デニソンは30数年に亘って日本歴代外相の絶対的信用を得、謙虚な姿勢で日本を理解、日本外交に貢献し「影の外務大臣」を貫き、1914年(大正3年)第一次世界大戦勃発の年、外務省顧問在任中病を得て帰らぬ人となった。
このことはその後の世界での日本の立場を考えるとき誠に慙愧に堪えないしだいである。
デニソンは小村寿太郎と同じく青山墓地に葬られた。 
公使の不敬
アメリカの詩人ロングフェローの息子チャールズが日本に遊びに来たのは、明治4年6月下旬だったと、彼の「日本滞在記」にある。
そのチャールズがデロングアメリカ公使から「ミカドを見に行こう」と誘われる。
デロングは実はハワイ王国の全権代表も兼ねていた。というより、このころアメリカは、とっくにハワイ王国の実権を握っていて、日本との通商条約もアメリカ公使が勝手に締結できたということだ。
で、その公使がチャールズに与えた役割が、ハワイ王国の外交部書記官である。
アメリカ公使らは通商条約調印のため皇居を訪れる。明治天皇が武家支配にとどめを刺す廃藩置県の詔を出して、ちょうど1ヶ月という、まさに維新激動のさなかでのことだった。
明治天皇は公使一行を温かく迎え、随員の中に偽者が紛れているとも知らず、親しくお言葉をかけ、条約の成立を喜ばれた。翌日には、晩餐会にも臨まれている。
チャールズは拝謁した明治天皇について、「卵型をした、そう利発そうでもない顔立ち」と評し、その身なりは「奇妙な帽子を頭にくくりつけ」「笑いをこらえるのに苦労した」と自分の家族に書き送っている。
礼儀も知性もない若造チャールズを、外交官に仕立てて日本政府を欺き、宮殿奥深くまで立ちいらせる。白人国家同士では到底考えられない無礼を働いたこのオランダ系の公使は、もうひとりのアメリカ人を日本政府に口利きしている。
明治13年から大正3年まで、実に34年間の長きにわたって外交の指南をしたお雇い外国人ヘンリー・デニソンがそれだ。
この間にまさにデロングが押し付けた不平等条約の改正があり、日清戦争もあり、その付録で、フランス、ドイツ、ロシアの三国干渉もあった。
デニソンがいったいどれほどの外交指南をしたか、例えば、小泉八雲とか、JRのホテルチェーンに名を残すエドモンド・モレルとかほどには、名前を知られていないところを見ると、長く日本にいた割には、たいした功績はなかったと思われる。
ただ、ヘンリー・デニソンは不思議なところで、不思議な行動をしたという記録はある。  
幣原喜重郎 (しではらきじゅうろう)
喜重郎は明治五(一八七二)年八月、門真一番下村(大阪府門真市一番町)の幣原新治郎・シヅ夫妻の二男に生まれた。
先祖代々百姓代(庄屋)で富農の家筋だったが、同十八年六月の淀川大洪水で家運は傾いてしまう。天野川堤防(同府枚方市の京阪枚方市駅北付近)と三矢村(同市三矢町)の淀川本流の堤防が決壊、濁流は門真から東成郡をのみ大阪市域にあふれ込んだ。門真の被害は流失家屋四百、死者二十六、湛水期間百日に及ぶ。冠水した田畑は二年以上耕作不可能である。
幣原家の所有田畑はすべて流失、少し小高い所にあった家屋は辛うじて助かったが、難民たちが入り込み、身動きもできないありさまとなる。それでも父新治郎は私財を難民救済に注ぎ込んだため、幣原家の生活自体がたちまち困窮した。
ずば抜けて秀才だった喜重郎は、同二十八年、東京帝国大学英法科を卒業、農商務省に勤めながら勉強し、翌二十九年難関の外交官・領事官試験に合格、十月仁川(朝鮮京畿道の都市)領事館に勤務、外交官としてスタートを切る。
同三十二年五月、イギリスのロンドン総領事館に転勤、自信のあった英会話力が全く通じないのに飛び上がった。きっかけは外出して手間取り、馬車を呼び止め御者(ぎょしゃ)に日本の領事館まで送ってほしいと頼んだところ、ひげ面の御者がキョトンとしたことだ。身ぶり手まねまで交えたがうまくいかぬ。結局紙切れに書いたところ合点した彼は、「キミ、外交官のくせに発音が悪い」と大笑いする。
その時は教養のない者は困るとうそぶいた喜重郎だが、すぐにがくぜんとした。御者だから飾らずに本当のことを言ったのだ。反省した喜重郎は私費で家庭教師を雇いコーチを受ける。彼は二つのことを教えた。「日本で学んだ英語を忘れろ」「質の高い英文学の良書を読み、感心したフレーズを残らず暗記せよ」。
後年喜重郎の英語は欧米の政治家から高く評価され、「ユーモアのセンスにあふれており、教養・知識の広さはわれわれの国の文学者たちも及ばないだろう」と褒められ、彼の外交政策の最大の武器になるのだが、この二点が源である。
またアメリカ人ヘンリー・デニソンと親しくなったのも大きい。喜重郎はデニソンから、イギリス人たちが毛嫌いしていたアメリカ製英語を徹底的に学んだ。後年米軍司令官マッカーサーと渡り合い、何度もマッカーサーが表情を崩したのはこのおかげだ。
これらの努力を全権公使加藤高明は気に入り、同三十六年知人の男爵(だんしゃく)岩崎久弥の妹雅子との媒酌を務める。以後五十数年、夫妻は仲むつまじく暮らしている。
無類の語学力を買われた喜重郎は、明治三十七年、日露戦争が始まると呼び戻され、小村寿太郎外相の下で電信課長を務め、海外の情報分析にあたる。まだ若い彼は国家の機密を任されるが気後れせず、信頼するデニソンに頭を下げて外務省顧問に迎え、閉鎖的体質に穴を開け、外交官としての見識・機略などを学んだ。さらに軍部の戦勝気分に水を掛け、国民からの評判も悪かった小村寿太郎の和平を第一とする外交戦略の後押しをする。
「大国意識に酔うておる。神国ニッポンなどと神話の世界にひたるより、英・米両国の政策を手本にせよ」とのデニソンの教えに誰よりも深くうなずいた。
同四十五年、アメリカ大使館参事官に任命される。当時カリフォルニア州では排日移民法が制定され、日本人移民には不利、その改善が使命である。日露戦争のころから日本内地やハワイ在住の日本人労働者は、大挙してアメリカの太平洋岸に移住した。当然土地をめぐって地元住民たちとトラブルになり、同州議会は日本人の土地所有を禁じ、借地権も大幅に制限した土地法を可決した。
やがてこの運動はアメリカ十四州に広がり、十年後には米国最高裁判所が日本人には帰化権を認めないとの判決まで下している。
もちろん喜重郎の微力ではどうすることもできない。そこで彼はロンドン領事館勤務時代のコネを生かし、イギリスの駐米大使ジェームス・ブラウンにわたりをつけ、対米平和外交の秘訣(ひけつ)を学んだ。
 
アレクサンダー・ゲオルク・グスタフ・フォン・シーボルト

 

Alexander George Gustav von Siebold (1846-1911)
井上馨秘書他(独)
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で、幕末に在日英国公使館の通訳を務めた後、明治政府にお雇い外国人として40年間雇用された。不平等条約の最たるものとして知られる日墺修好通商航海条約協力の功によりオーストリア=ハンガリー帝国の男爵となった。
1828年にシーボルト事件のために日本を追放された父フィリップは、48歳となった1845年にヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚、ライデンに居を構えた。1846年8月16日、長男アレクサンダーが生まれる。2人の間には3男2女が生まれた。弟にハインリヒ・フォン・シーボルトがいる。
1858年(安政5年)に日蘭通商条約が結ばれ、父に対する追放令も解除された。フィリップは日本に戻ることを希望し、オランダ貿易会社顧問の職を得て、1859年4月、12歳の長男アレクサンダーを連れて日本へ出発した。
来日
親子は1859年(安政6年)8月、長崎に到着した。父にとっては30年ぶりの日本であった。アレクサンダーは二宮敬作やその弟子の三瀬諸淵、さらには近所の僧侶からも、習字も含め日本語を学んだ。1861年(文久元年)、父が対外交渉のための幕府顧問となったため、親子は江戸に出て、芝赤羽接遇所(プロイセン王国使節宿舎であった)に居住することとなった。直後に第一次東禅寺事件が発生し、2人は翌日に現場を見に行っている。長崎滞在中に、父はアレクサンダーをロシア海軍の通訳になるよう手配していた。
英国公使館通訳
ロシア海軍に勤務することに、健康上の理由もありアレクサンダーは不安を抱いていたが、父の親友の手助けもあって、1862年(文久2年)に英国公使館特別通訳生として雇用された。このときまだ15歳の少年であった。同年に父は帰国し1866年に死去、息子アレクサンダーとの再会はなかった。
ドイツ人であるアレクサンダーの英語は当初十分ではなかったが、1年後には完璧な英語を話せるようになった。当時、幕府には森山栄之助らオランダ語通訳がいるのみであり、日英間の交渉はオランダ語を介して行われていた。ある会議の休憩時に、アレクサンダーが懐中時計の説明を日本語で行い、幕府の役人がこれを理解したことから、両者の直接対話が始まったそうである。なお、生麦事件の交渉において、アーネスト・サトウとともに通訳として交渉に立ち会っているが、この頃はまだ正規の交渉はオランダ語を介して行われていた。
1863年(文久3年)8月、英国の国家試験に合格して正式の通訳・翻訳官に任命された。直後の薩英戦争では代理公使ジョン・ニールの通訳を務め、旗艦ユーライアラスに乗艦した。1864年(元治元年)8月の下関戦争、翌年に幕府と大坂で兵庫の早期開港交渉を行った際にも通訳として参加した。
1867年(慶応3年)、徳川昭武(当時14歳)がパリ万国博覧会に将軍・徳川慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられると、アレクサンダーはその通訳として同行した。一行は欧州をめぐった後パリに滞在していたが、その間に明治維新が起こり、一行は新政府からの帰国命令を受けて帰国した。アレクサンダーは一行の帰国後もしばらく欧州にとどまり、1869年(明治2年)初めに日本に戻ったが、このとき弟のハインリヒを伴った。
1869年、オーストリアの通商使節が来航したときにはこれを助け、その功績によりオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世より男爵位を与えられた。
お雇い外国人
1870年(明治3年)8月に英国公使館を辞職、文明開化の最中の新政府に雇用され、上野景範の秘書に任ぜられロンドンに派遣された。同時に英国に留学していた日本人の監督保護を担当した。その後フランクフルトに出張して、紙幣印刷の交渉を行う。さらに、ウィーン万国博覧会の参加交渉を行った。1872年11月に日本に戻ったが、1873年(明治6年)2月、駐オーストリア・イタリア弁理公使佐野常民への随行が命じられ、再び渡欧した。1874年(明治7年)末に日本に戻る。
1875年(明治8年)5月には大蔵省専属の翻訳官となる。1877年(明治10年)、母の死去に伴い6ヶ月間帰国。その間にロシアの財政報告を行い、1878年パリ万国博覧会の委員に任命された。同年11月、二等書記官としてベルリン赴任。1881年(明治14年)10月に日本に戻り、井上馨の秘書として条約改正の任にあたった。このときの条約改正は成功せず、1882年(明治15年)ベルリンに戻り、1884年(明治17年)にはローマに移り、1885年(明治18年)に日本に戻った。1892年(明治25年)からロンドンにおいて駐英公使青木周蔵の条約改正交渉を手伝い、1894年(明治27年)に日英通商航海条約の調印に成功した。
その後、日本政府に対する影響力は低下していったが、1910年(明治43年)8月、政府勤務40年の記念祝典が開催され、勲二等瑞宝章が贈られ、ドイツからもプロイセン第二等宝冠章を贈られた。
ドイツにおいては、玉井喜作が発行していた月刊誌『東亜(Ost-Asien)』によく投稿しており、後にこれらをまとめ『シーボルト最後の日本旅行』として出版された。
1911年1月、ジェノバ近郊のペリにて死去した。
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シーボルト父子
日本でシーボルトと言われると、真っ先に名前のあがるのは江戸時代、出島に来日したフィリップ・フランツ・フォン・ シーボルト(通称:大シーボルト)であろう。しかし、かつてはその有名な大シーボルトの歴史さえも日本の歴史では正確に伝えられているかというと必ずしもそうではなかった。最初の渡航の後、江戸末期に大シーボルトはその長男アレキサンデルを連れ再来日、その父の死後になるが今度はアレキサンデルが徳川昭武一行の通訳としてヨーロッパを歴訪した帰りに、本国で父の晩年の研究を手伝っていた弟ハインリッヒを連れて日本を訪れている。その後兄弟は、父の遺志を継ぎ、父の愛した国『日本』の為に身を粉にして働いた。兄は特に外交官としてその才能を発揮し、晩年は井上馨元外務卿の特別秘書として勲一等を拝受している。弟は、同じく外交官として兄と共に不平等条約の改正、ジュネーブ条約の締結、日本が初出展したウィーン万博の成功等、数々の実績を上げながら(晩年勲三等を拝受)同時に、父から受け継いだその溢れ出すような探究心によって考古学(考古説略を発表し、日本に考古学という言葉を根付かせる)、民族学等の研究を深め、その研究成果と彼の蒐集品の多さから後に研究史上では、父にちなんで小シーボルトと呼ばれることとなる。
この父、兄弟、さらに含めれば兄弟の義姉イネ、鳴滝塾塾生たちの歴史まで含めてが日本シーボルトの歴史である。そして、その歴史は業績的なことも然ることながら、シーボルト父子という青い目をした異国人がその人生を懸けてまでも愛した国家が、この日本に存在をしていたという証左なのである。
系譜
ハインリッヒ(ヘンリー)・フォン・シーボルト
(小シーボルト) Heinrich von Siebold / [1852年7月21日 - 1908年8月11日] 
考古学・民族学・民俗学・博物館学を学び、父の没後1869年に初来日。兄と共に諸外国との条約批准等外交に尽力。日本文化研究の功績も大きい。
父 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
(大シーボルト)Philipp Franz Balthasar von Siebold [1796年2月17日 – 1866年10月18日]
西洋人として初めて出島外に鳴滝塾を開校し、日本人に最新の医学を教えたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。彼の活躍によって、日本国内の医学は飛躍的に発展し、彼やその弟子の手によって多くの命が救われたのは良く知られた事実である。しかし、彼の功績はそこに留まらず、生物学、民俗学、植物学、地理学等の多彩な才能を活かして日本を研究し、帰国後は大著『日本』を出版。当時のヨーロッパにおいて日本学の祖として海外に日本のことを広めた。その後、幕府の外交顧問として再来日後も日本の研究を続け、生涯を懸けて日本を愛した彼の遺志は日本初の女医となる楠本イネ、外交官として外務省に奉職した長男アレキサンデル、同じく外交官として兄と共に日本が初出展したウィーン万博の責任的役割、日本赤十字社設立に繋がるジュネーブ条約への加盟、日露戦争に際してのヨーロッパ諸国でのロビイスト活動など日本外交における数々の実績を残した。
妻 はな
[1851年-1936年] 東京の日本橋の商店に生まれる。外国人との商売を積極的に進めた父吉兵衛がきっかけでハインリッヒと出会う。1872年(明治5年) 22歳の時にハインリッヒと結婚。学習院内の院生華族子弟の寮「主一館」で行儀指導役も勤めた。
兄 アレクサンダー・ゲオルク・グスタフ・フォン・シーボルト
Alexander George Gustav von Siebold [1846年8月16日 – 1911年1月]
兄アレキサンデルは1859年(安政6年)、父大シーボルトの再来日に伴って来日。1861年(文久元年)には英国公使館の通訳官となり、1867年(慶応3年)の徳川昭武公の使節に随行。その帰国時に連れて戻ったハインリッヒと共に、1869年(明治2年)にわずか10日程度の時間で日墺修好通商条約締結に成功。翌年より、日本政府に招かれ日本政府雇いとなる。墺洪帝国公使館勤めのハインリッヒと共に、ウィーン万国博覧会への日本国の参加への調査や勲章制度の導入に尽力し、また条約改正に向けて岩倉具視、伊藤博文の諮問に応じた。ウィーン万博では佐野常民の補佐役として出張。帰国後の1875年(明治8年)には大蔵省専属となる。1877(明治10)年、西南戦争の惨禍を憂い博愛社(現在の日本赤十字社)の設立を三条実美・岩倉具視に提言し、ハインリッヒとの綿密な連携協力のもと、博愛社設立。1878(明治11)年パリ万国博覧会の政府名誉委員となり、同年に外務省雇いとなり在ベルリン公使館に勤務。条約改正会議の舞台においては井上馨外務卿の秘書に就任し、改正案起草に加わった。その後も、日本と在外公使館を行き来し、1910年(明治43年)には枯れの日本政府への奉職40年に対し、勲一等瑞宝章を賜っている。翌年にジェノバ市近郊のペグリで死去、享年65歳。その活躍を見るにアレキサンデルは、父大シーボルトの政治・外交的才能を色濃く受け継ぎ、まさに父が志半ばであった日本政府に対する政治・外交面での功績を果たしたと言っても過言ではない。
義姉 楠本イネ
楠本 イネ(くすもと いね) [1826年-1903年] 大シーボルトと楠本滝の娘でハインリッヒの異母姉。
大シーボルトと楠本滝の娘であるイネは父の帰国後シーボルト門人の二宮敬作や石井宗謙に学び、女性で日本人初の西洋医学を学んだ産科医となった。また、村田六蔵(後の大村益次郎)からはオランダ語を学び、後年村田が襲撃された後、イネは彼を治療して、その最期を看取ったといわれている。ドイツ人と日本人の混血女児として差別をうけながらも宇和島藩主伊達宗城から厚遇され、1871年(明治4年)には異母弟のアレキサンデル、ハインリッヒの協力で築地に開業したのち、宮内省御用掛となるなど、その医学技術は高く評価された。ハインリッヒの第一子(夭折)もイネの助産で産まれている。1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まるが、女性であったイネには受験資格がなかったため、東京の医院を閉鎖、郷里・長崎に帰郷し、産婆として開業する。62歳の時、娘一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後はハインリッヒの世話となり余生を送った。1903年、食中毒のため東京の麻布で亡くなる。享年77歳。墓所は長崎市晧台寺にある。 
シーボルトの長男アレクサンダーが玉井喜作に出会った話
はじめに
江戸時代後期に長崎のオランダ商館で医師を務めたフランツ・フォン・シーボルトの長男アレクサンダー(1846-1911)は、高名な父の陰に隠れてしまって知名度の低い人物です。しかし、彼は江戸時代末期に日本を訪れ、明治時代中期にかけて日本とヨーロッパの国々との交渉で重要な役割を果たしました。日本を去り母国ドイツで暮らし始めてからも、一人の日本人と出会うことで、日独友好のための大きな仕事をすることになります。
シーボルト父子の来日
アレクサンダー・シーボルトは1846(弘化三)年に父が働いていた国、オランダのライデン郊外で生まれています。それも父の名を冠した「シーボルト植物園」内の「日本」と名付けられた別荘であったといわれます。1859(安政六)年、就学途中の13歳で父に伴われて日本へ向かいました。
ドイツ人である父のフランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は嘗て長崎にオランダ商館医として滞在し、同地の鳴滝に塾を開いて日本の蘭学医の水準を向上させました。また、博物学や民俗学の研究も進めていましたが、帰国の折りに徳川幕府によって禁制品とされていた日本地図などを持ち出そうとした、所謂シーボルト事件によって国外追放になりました。しかし、1858(安政五)年の日蘭通商条約の締結で追放令が解かれ、植物調査を目的とした再来日が叶ったのです。滞日中、請われて幕府の外交顧問に就きますが、多くの日本人処分者を出していた過去の事件の影響もあり、これを辞し、1862(文久二)年にアレクサンダーを残してヨーロッパに戻りました。そして、1866(慶応二)年にミュンヘンで逝去しました。
アレクサンダーの功績
来日時に13歳であったアレクサンダーは、来日して3年目の1861(文久元)年にはイギリス公使館に勤務し、生麦事件など日英関係の折衝に通訳として加わっています。また、1867(慶応三)年には同公使館勤務のまま、パリ万博への徳川武昭の遣欧使節にも同行し、大政奉還を経た1869(明治二)年に、後に知日家に成長する弟ハインリッヒを伴って日本へ戻りました。帰国後、明治政府とオーストリア・ハンガリー二重帝国との日墺通商条約の締結に貢献した後に、イギリス公使館を退職して日本政府に雇われます。その後は、勲章制度の導入や大蔵省での印刷局の設置に関わり、この間、ウィーン万博へ出張もしています。また、1878(明治十一)年に外務省へ移ると在ベルリン公使館勤務、さらには外務卿井上馨のもとで不平等条約改正に取り組み、その後もローマ公使館で勤務するなど、幕末から明治にかけての日本の外交に大きな貢献をしていました。
こうしたアレクサンダーも40歳を過ぎた1887(明治二十)年にヨーロッパへ戻り、結婚後の1889(明治二十二)年からはベルリンに定住します。この頃は父の遺稿の整理や日本に関する論文を執筆する日々であったようですが、1894(明治二十七)年以降に一人の日本人青年と出会いました。
玉井喜作との出会い
その青年は玉井喜作(1866-1906)といい、1866(慶応二)年に周防(現在の山口県)の造り酒屋に生まれていました。東京の独逸学校でドイツ語を身に付け、東京大学予備門の退学後のドイツ語私塾経営を経て札幌農学校の教員になりますが、ドイツへ行く夢を捨てきれず、1892(明治二十五)年にウラジオストックから厳寒のシベリアを横断してドイツへ到着していました。ベルリンでは大学で法律を学びながら、新聞記者として記事を書き、さらに、地理学の雑誌に日本関係の記事を寄稿していました。しかし、玉井はこれに満足せず、自分で雑誌を刊行することを考えるようになります。そして、1898(明治三十一)年に、シベリア横断体験をもとに、雑誌創刊の資金源となる“Karawanen-Reise in Sibirien.”(『西比利亜征槎紀行』)を刊行して好評を得ています。
現在の研究者にも玉井とアレクサンダーの出会いの詳細は分からないようですが、玉井はアレクサンダーがベルリンに居を構えた7年後の1894(明治二十七)年に同地に到着しています。アレクサンダーは1846年生まれ、玉井は1866年生まれなので二人の年齢は20年(歳)の差がありました。
玉井がベルリンに入った1894(明治二十七)年2月頃の日本に対するドイツの国内世論は決して良好ではなかったようです。これは、この時期が8月から始まる日清戦争の所謂、開戦前夜にあたり、他のヨーロッパ諸国と共に東アジアで利権を確立しようとするドイツに、「富国強兵」を掲げて台頭する日本への警戒心が芽生えていたことによります。従って、玉井が感じる危機意識を払拭するためにも日本の情報が必要であり、日清戦争も終わった1898(明治三十一)年に自ら筆を揮える場として、さらには日本とドイツの真の友好と通商の発展を願って月刊のドイツ語東洋情報誌『Ost=Asien(東亜)』を創刊することになります。
『東亜』から生まれた記念碑的著作
この頃のアレクサンダーにとって、玉井との出会いは大きな喜びであったと考えられます。自他ともに認める親日家として、自由に論陣を張れる絶好の場が生まれたのです。玉井にしても、日本の外交に関わったアレクサンダーが加わることで執筆陣が強化され、日本への理解が深まることに繋がるわけです。このように、二人の目的が一致して『東亜』の刊行が進みます。最終的にアレクサンダーは、刊行された全139号中、約90の号に執筆し、この雑誌の「論説委員的役割」を果たしていたという見方さえあります。
こうしたアレクサンダーの貢献に報いるためにか、玉井は彼の著作を発行するようになります。現在、彼の単行本は9冊あると確認されており、その内の3冊の刊行に玉井が関わっています。中でも代表作とされる“Ph. Fr. von Siebold’s Letzte Reise nach Japan 1859-1862.”(『フィリップ フランツ フォン ジーボルト最終日本旅行』)(写真)は、父のフランツとアレクサンダーが日本に滞在した安政から文久年間の様子が書かれたもので、1903(明治三十六)年にベルリンで発行されています。本書の日本語訳者である斉藤信氏は、出版の経緯を「(前略)『東亜』に連載したものを、さらに一本にまとめたものと思われる」と述べ、論文から著作に発展したものと考えています。
本書は序文と目次が9頁、本文は130頁で構成されているもので、けっして大著ではありません。しかし、標題紙のドイツ語と併記された日本語書名からは、日本を愛する著者とドイツ人を尊敬する日本人発行者の強い絆が窺え、まさに江戸時代末期にドイツ人の親子が日本と交流した結果を纏めた記念碑的な書物と捉えることができます。
なお、本学図書館所蔵本の標題紙には、著者アレクサンダーのものと思われる筆跡で“Ree, from the author”と献呈の日付“9-2-03”が記入されています。
玉井の没後も執筆を続けて・・・
玉井とアレクサンダーの協力で進んでいた『東亜』の刊行は、1904(明治三十七)年から2年にわたる日露戦争の期間を越えて進み、ドイツ人の対日理解の向上に貢献しました。しかし、この戦争が終わった翌年の1906(明治三十九)年、玉井はベルリンにおいて40歳の短い生涯を閉じます。
同誌の刊行は後継者に引き継がれて暫く続き、この間アレクサンダーも健筆を揮いますが、1911(明治四十四)年に遂に力尽きて65歳で世を去ります。日本政府はその前年に勲一等瑞宝章を贈って、来日以来の長年の労をねぎらっていました。
二人が希求した日独両国の友好関係は、その後の第1次世界大戦の一時期を除き弛まず発展し続け、おそらく現在は彼らが掲げた理想を凌駕するほどの素晴らしい状況を作り上げているのです。 
ハインリヒ・フォン・シーボルト
Heinrich von Siebold (1852-1908)
オーストリアの外交官・考古学者。父はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトで、研究分野において父との区別のため「小シーボルト」とも呼ばれる。兄は外交官で、井上馨外務卿の秘書となったアレクサンダー・フォン・シーボルト、異母姉に日本人女性として初の産婦人科医となる楠本イネがいる。ドイツ出身であるが、後に外交官としての功績が認められ、オーストリア=ハンガリー帝国の国籍を得る。
1852年にプロイセン王国領ライン地方のボッパルトで父フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと母ヘレーネ・フォン・ガーゲルンの次男として生まれる。2度の来日を終え、3度目の来日を準備する父の研究資料整理を手伝ったことで、ハインリヒは日本に強い興味と憧れを覚える。
父の死により、ハインリヒの親子揃っての来日は叶わなかったが、父が幕府外交顧問として再来日した際に同行した兄のアレクサンダーが父の帰国後も日本での職務についており、徳川昭武使節団に同行し一時帰国したため、その兄の再来日に同行して1869年(明治2年)初来日を果たす。日本では兄と共に諸外国と日本政府との条約締結などの職務に着手、その合間に父の手伝い中に学んだことを活かし様々な研究活動を始める。
勤務先となったオーストリア=ハンガリー帝国公使館では通訳、書記官を経て代理公使を務め、後にその功績を称えられて同国の国籍を得る。1891年には同国の男爵位を賜る。
日本が初の正式参加となったウィーン万国博覧会では、政府の依頼により兄とともに出品の選定に関わり、同万博には通訳としても帯同、シーボルト兄弟が関わった日本館は連日の大盛況で、成功を収める。その際に選定に共に関わった町田久成、蜷川式胤らとはその後も親交を続けた。
彼らとは好古仲間として、幾度も古物会を開催し、参加者の中には9代目市川團十郎などもその名を並べた。この頃の日本ではいわゆる考古学という学問が成立をしておらず、ただ古物愛好家達が珍品を収集、交換し、それぞれの品に特別な名前をつけて楽しんでいる程度であったが、蜷川たちはここでハインリヒと交流することで当時最先端であった欧州の考古学を学び、またハインリヒはここで彼らとより先史時代の遺物の名称や、どこに遺跡があるかなどを学んだ。
日本での生活とハインリヒの家族
日本橋の商家の娘岩本はなと結婚し、2男1女を儲けるが長男はハインリヒがウィーン万国博覧会に帯同中に夭折。その際の夫婦のやり取りを綴った手紙は子孫である関口家に保存されている(2008年、ハインリヒの没後100年に開かれた記念展で公開された)。その手紙には我が子を失った悲しみと共に、当時共に暮らしていた異母姉楠本イネに対して、憔悴しきっているであろう愛妻はなへの心配も綴られている。
その後、生まれた男子・於菟(オットー)は日本画家を目指し、岡倉覚三(天心)らの開いた上野の東京美術学校に見事一期生として合格するが、創作活動の中、体調を崩して25歳の若さで没した。
ハインリヒの妻、岩本はなは芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったと言われる。当時学習院の院長であった乃木希典はその宿舎主一館の躾け担当として若くして子供を亡くしたはなを指名することとなる。また後には福沢諭吉の娘の踊りの師匠も務めた。ハインリヒの娘の蓮もその指導を受け、長唄の杵屋流、琴の生田流の免許皆伝を受けている。
ハインリヒの帰国と死
晩年になり重病を患ったハインリヒは、公使館の職を辞して帰国。1907年にウィーンで手術を受けて一時回復し、フロイデンシュタイン城で呉秀三の『シーボルト』の翻訳に着手したが、親友で主治医でもあるエルヴィン・フォン・ベルツ博士の懸命の治療の甲斐なく、南チロル地方フロイデンシュタイン城にてその生涯を終える。享年56。
ハインリヒの功績
日本において、ハインリヒが残した功績は数多い。兄が父の外交的才能を受け継いだのに対し、ハインリヒは父の研究分野においての才能を色濃く受け継いだ。
考古学の分野においては、大森貝塚を始め多くの遺跡を発掘。考古説略を出版し日本に始めて考古学という言葉を根付かせた。エドワード・S・モース博士との大森貝塚発掘、アイヌ民族研究などの競い合いは日本の考古学を飛躍的に発展させた。しかし、1878年から1879年に日本での考古学的活動を終えている。
兄と共に、父の大著「日本」の完成作業を行い、当時欧州で人気であった欧州王家の日本観光に随行し、彼らの資料蒐集に関わったことも後のジャポニズムブームの起点にもなった。現在欧州に散らばるシーボルト・コレクションはその数、数万点にも及び、その約半数は小シーボルトこと、ハインリヒの蒐集したものであると言われている。
親族
○ シーボルトの娘楠本イネは異母姉であり、ハインリヒ夫婦とは同居をしていた時もある。日本人女性初の産婦人科医で、ハインリヒの長男(夭折)はイネが助産をした。
○ シーボルトの長男アレクサンダー・フォン・シーボルトは兄で、父シーボルト再来日時に日本に来ている。1859年(安政6年)以来日本に滞在、イギリス公使館の通弁官(通訳)を勤め、1867年(慶応3年)徳川昭武らのフランス派遣(パリ万国博覧会のため)に同行している。陸奥宗光・井上馨などの明治元勲との付き合いも深く、後年は井上馨外務卿の特別秘書となる。日本語訳は「シーボルト最後の日本旅行」(平凡社東洋文庫)
○ ヴュルツブルクには、次女ヘレーネの末裔ブランデンシュタイン・コンスタンティン・ツェッペリン(次女子孫がツェッペリン伯爵家と婚姻)が会長を務めるドイツシーボルト協会が既に存在し、また日本では次男ハインリヒの末裔関口忠志や国内のシーボルト研究家が集まり日本シーボルト協会の設立準備委員会が2008年に発足している。
交遊関係
○ 九代目市川團十郎:好古(骨董)仲間、赤坂のハインリヒ邸で古物会を共に開催。
○ 蜷川式胤:好古仲間、ウィーン万国博覧会の頃にハインリヒと知り合い交遊を深める。
○ エルヴィン・フォン・ベルツ:お雇い外国人で、ハインリヒの親友、主治医。家族ぐるみでの付き合いがあり、ベルツの日記にはハインリヒ夫婦と子供がベルツの別荘に海水浴に来たことや、ベルツがハインリヒの目黒の別荘に良く訪問していたこと、アレキサンデルやハインリヒ夫婦と共に歌舞伎見物をしたことなどが書かれている。
○ 大隈重信:ウィーン万国博覧会に向け、出品選定をハインリヒに依頼。
○ ハインリヒ・エドムント・ナウマン:ハインリヒに大森貝塚の存在を伝えたと言われている。
○ 十二代目守田勘彌:親友。後にハインリヒは外交官の仲間を誘い、彼の新富座へ引き幕を贈っている。
○ ウォルソ:ハインリヒの考古学の師。ハインリヒは日本での採集活動の成果をデンマークのウォルソに送り、指導を受けている。大森貝塚での採取品もこれに多く含まれていたと考えられる。
○ 福沢諭吉:娘の芸事指導を、ハインリヒ夫人の岩本はなに依頼する。
○ 榊原鍵吉:「最後の剣客」と呼ばれた直心影流剣術の名手。ハインリヒとは友人で、フェンシングの名手であったハインリヒは後にベルツと共に彼に入門している。
 
エラスムス・ペシャイン・スミス 

 

Erasmus Peshine Smith (1814〜1882)
アメリカ人。リンカーン大統領の経済顧問だった。外務省・明治天皇の顧問として招かれ、1871年から1877年まで滞在し新しい外交技術や法律を教えた。また、日朝間の調整など外交にも尽力した。  
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E. Peshine Smith
The ideas of the world’s foremost economist, Henry C. Carey, became magnified for the Japanese leadership when his friend, Erasmus Peshine Smith (1814-1882), the author of A Manual of Political Economy, arrived in Tokyo prior to the departure of the Iwakura Embassy.
Smith had practiced law in Rochester, New York and taught mathematics at the University of Rochester. He also wrote editorials for the local Democrat (a Whig newspaper), was editor of the Washington Intelligencer and coined the word “telegram.” In 1852, he became Superintendent of Public Instruction for the State of New York, and then Reporter for the Court of Appeals. During the Civil War he was assigned Commissioner of Immigration in Washington in 1864, and was then appointed by Secretary of State William H. Seward, his former classmate from Harvard Law School, to become Examiner of Claims for that agency. His knowledge of international law became an invaluable asset to the U.S. government. In 1871, when Mori asked Secretary of State Hamilton Fish to recommend an American who could serve as an adviser to Japan on international law, it was E. Peshine Smith who immediately came to mind. Consequently, with the approval of President Ulysses S. Grant, Smith became the first foreigner to be employed as a Japanese government official from 1871 to 1876, serving as a special adviser to Ministry of Foreign Affairs. He also consulted on economic matters with Ōkuma and Ōkubo, attended Cabinet meetings, and occasionally met with the Emperor.
E. Peshine Smith completely reorganized the Ministry of Foreign Affairs and intervened to lead a legal fight for Japan that would be a watershed action that ultimately ended the British Empire’s direction of the heinous trafficking in human flesh known as the “coolie trade.”
The ‘science of Progress and Hope’ prevailed in Japan in 1873 when, with the advice of E. Peshine Smith, Ōkubo Toshimichi established the Ministry of Home Affairs and within that the Industrial Promotion Board (kangyōryō). On August 1, 1873, the doors of the newly founded First National Bank of Japan opened its doors for business headed by Ōkuma Shigenobu. Those measures were modeled on Alexander Hamilton’s First National Bank of the United States that had allowed the advancement and industrialization of America – what became known as the American System. Japan now had the vehicle by which to develop, and the Asian banking monopoly controlled principally by Britain’s opium-dominated Hong Kong and Shanghai Banking Corporation was seriously threatened.
After leaving his post in the Japanese government and departing from the nation, a series of essays, believed to have been authored by E. Peshine Smith, appeared in The Tokio Times in 1877. For the first time since its initial publication, those essays – “Notes on Political Economy Designed Chiefly for Japanese Readers” – have been made available on this website. An introduction to this work, with a proof of “Why Those Essays Were Written by E. Peshine Smith,” is also available.
( 誤訳 e. Peshine スミス
世界有数のエコノミスト、ヘンリー c. キャリーのアイデアは、彼の友人、エラスムス Peshine スミス (1814-1882) は、政治経済のマニュアルの著者は、東京に到着したときに、日本のリーダーシップのために拡大した岩倉大使館の出発前に。
スミスはロチェスターの法律を練習していた, ニューヨークとロチェスター大学で数学を教えた. 彼はまた、ローカル民主党のための社説を書いた (ホイッグ新聞), ワシントンインテリの編集者であり、単語を造語 "電報." 1852で、彼はニューヨーク州のための公共指導の監になったし、控訴裁判所の記者。 内戦の間に彼は1864のワシントン州の移住の長官を割り当てられ、その後国務長官によって任命されたウィリアム h. スワード、ハーバードのロースクールからの彼の元クラスメートはその代理店のための要求の査定者になるため。 彼の国際法の知識は、米国政府にとって非常に貴重な資産となった。 1871年、森がハミルトン・フィッシュ国務長官に対し、国際法で日本のアドバイザーを務めることができるアメリカ人を推薦すると、すぐに頭に浮かんだのは e ・ Peshine ・スミスだった。 その結果、ユリシーズ・ s ・グラント大統領の承認を得て、スミスは1871から1876に日本政府高官として採用される最初の外国人となり、外務省特別顧問を務めました。 朝秀や大久保との経済問題についても協議し、閣議に出席し、時折天皇陛下と面会した。
e. Peshine スミスは完全に外務省を再構成し、「苦力貿易として知られている人間の肉の凶悪な人身売買のイギリス帝国の方向を最終的に終えた流域の行為である日本のための法的戦いを導くために介入した。
「進歩と希望の科学」は1873年に日本で勝った、と Peshine スミスの助言で、大久保俊道は内務省を設立し、その内に産業振興委員会 (kangyōryō)。 1873年8月1日、新たに設立された第1回全国銀行の門戸は、朝秀重信が率いる事業の門戸を開いた。 これらの措置は、アメリカの進歩と工業化を許可していたアレクサンダー·ハミルトンの最初の国立銀行にモデル化された–アメリカのシステムとして知られるようになったもの. 日本は今、開発するための車両を持っていた, と、主に英国のアヘン支配香港と上海銀行公社によって制御されるアジアの銀行の独占は、真剣に脅かされた。
日本政府に赴任し、国家を出発した後、Peshine スミスによって執筆されたと考えられる一連のエッセイが、1877年に東京タイムズに登場しました。 最初の出版以来、それらのエッセイ-"日本の読者のために主に設計された政治経済に関するノート"-このウェブサイト上で利用できるようにされている。 この作品の紹介は、"なぜこれらのエッセイは、Peshine スミスによって書かれた証明書で、" もご利用いただけます。 )  
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Erasmus Peshine Smith
SMITH, Erasmus Peshine, jurist, born in New York city, 2 March, 1814; died in Rochester, New York, 21 October, 1882. While he was quite young his parents removed to Rochester, New York, and his early education was received there. He was graduated at Columbia in 1832, and at the Harvard law-school in 1833, and entered upon the practice of law at Rochester soon afterward. During the early years of his practice he was an editorial writer on the Rochester " Democrat," and later he was editor of the Buffalo " Commercial Advertiser" and of the "Washington Intelligencer." He was called to the chair of mathematics in the University of Rochester in 1850, holding office two years, when he became state superintendent of public instruction at Albany. In 1857 he was appointed reporter of the court of appeals of the state of New York, and in this post he instituted the custom of numbering the reports consecutively through the entire series, and only secondarily by the name of reporter, a custom that has since been generally followed. He was appointed commissioner of immigration at Washington in 1864, which post he relinquished soon afterward to become examiner of claims in the department of state, where he exercised much influence in shaping the policy of the department under William H. Seward and Hamilton Fish, and where his great knowledge of international law was of value to the government. In 1871, See. Fish being asked by the Japanese government to name an American to undertake the duties of adviser to the mikado in international law (a post analogous to that of the secretary of state in the United States), Mr. Smith was recommended. He was the first American that was chosen to assist the Japanese government in an official capacity, and remained in Japan five years, making treaties and establishing a system of foreign relations. While thus engaged he rendered an important service to the world, as well as to the government by which he was employed, in breaking up the coolie trade. The Peruvian ship " Maria Luz," having a cargo of coolies, was wrecked off the coast of Japan, and, under Mr. Smith's advice, the 230 wrecked Chinamen were detained by the Japanese government. The case was submitted to the arbitration of the emperor of Russia, and under his decision, Mr. Smith representing the Japanese government, the coolies were sent back to China, with the result of breaking up the trade. Mr. Smith published a "~ Manual of Political Economy" (New York, 1853), in refutation of the theories of Ricardo and Malthus. It is "an attempt to construct a skeleton of political economy on the basis of purely physical laws, and thus to obtain for its conclusions that absolute certainty that belongs to the positive sciences." In this regard the work is wholly original, and has largely affected the work on later economists. It has been translated into French. Mr. Smith contributed a word to the English language in suggesting, through the Albany "Evening Journal," the use of "telegram " in place of cumbrous phrases, such as " telegraphic message" and " telegraphic despatch." He returned from Japan in 1876.
( 誤訳 エラスムス Peshine スミス
スミス、エラスムス Peshine、法学、ニューヨーク市で生まれ、3月2日、1814;1882年10月21日、ニューヨーク州ロチェスターで死去。彼はかなり若い彼の両親はロチェスター、ニューヨークに削除されたが、彼の早期教育がそこに受信された。彼は1832年にコロンビアで卒業し、ハーバード大学ロースクールで1833で、その後すぐにロチェスターでの法律の練習に入った。彼の練習の早い年の間に彼はロチェスターの編集作家だった「民主党員、」そして後で彼はバッファローの「商業広告者」およびのの編集者だった「ワシントン州インテリ.」。彼は、ロチェスター大学の数学の椅子に1850で、彼はアルバニーで公共指導の州監になった2年間、オフィスを保持呼ばれていた。1857で、彼はニューヨーク州の控訴裁判所の記者に任命され、この記事では、彼は連続して全体のレポートの番号付けのカスタムを提起し、唯一の第二のレポーターの名前によって、以来、一般的に続いているカスタム。彼は1864にワシントンで移民のコミッショナーに任命された、どのポスト彼は彼がウィリアム h. スワードおよびハミルトンの魚の下の部門の方針を形作ることの多くの影響を運動させた、そして国際的な法律の彼の大きい知識が政府に価値のだったところで州の部門の要求の査定者になるためにすぐにその後放棄。1871では、を参照してください。日本政府によって求められている魚は、国際法におけるミカドの顧問の職務を引き受けるためにアメリカ人に名前を付けました (アメリカ合衆国の国務長官のそれに類似した郵便)、スミス氏は推薦されました。彼は、日本政府を公的能力で支援するために選ばれた最初のアメリカ人であり、日本に5年残っており、条約を作り、対外関係の制度を確立している。このように従事していた彼は、世界に重要なサービスをレンダリングだけでなく、彼が採用された政府には、苦力貿易を破壊する。クーリーの貨物を持つペルー船「マリア・ルス」は日本の沖合で難破し、スミス氏の忠告の下、230難破した Chinamen は日本政府によって拘留された。事件はロシア皇帝の仲裁に提出され、彼の決定の下で、スミス氏は日本政府を代表して、クーリーは貿易を破壊した結果とともに、中国に送り戻された。スミス氏はリカルドとマルサスの理論の論駁で、"〜政治経済のマニュアル" (ニューヨーク、1853) を発表した。それは "純粋に物理的な法律に基づいて政治経済の骨格を構築するための試みであり、したがって、その結論を得るためには、正の科学に属している絶対的な確実性。この点では、仕事は完全に元であり、主に後のエコノミストの仕事に影響を与えている。これは、フランス語に翻訳されています。スミス氏は、アルバニー「イブニング・ジャーナル」を通じて、「電信メッセージ」や「電信送金」などの cumbrous 句の代わりに「電報」を使うことを示唆する英語の言葉に貢献した。彼は1876で日本から帰国した。 )  
マリア・ルス号事件
マリア・ルス(Maria Luz)号事件を国際法の見地から助言したのが、お雇い米国人・エラスムス・ペシャイン・スミスである。「Virtual American Biographies」に掲載されていたので、以下、訳出する。
「エラスムス・ペシャイン・スミスは、法律家であり、1814年3月2日、ニューヨーク市で生まれ、1882年10月21日、ニューヨーク州ロチェスターで没した。 幼少期、両親がニューヨーク州ロチェスターに移住したため、幼年期の教育は、同地で受けた。 1832年、コロンビア大学、翌1833年、ハーバード・ロー・スクールを卒業後すぐに、ロチェスターで法実務に従事した。 この間、当初は、ロチェスターの「デモクラット」のコラム作家兼編集者を、その後、バッファローの「コマーシャル・アドヴァータイザー(Commercial Advertiser)」、「ワシントン・インテリジェンサー(Washington Intelligecer)」の編集者になった。 1850年、ロチェスター大学から数学科の科長として招聘され、2年間務めた後、オルバニーの教育長に就任した。 1857年、ニューヨーク州の控訴裁判所の判例集編纂者(reporter)に指名され、第二回目にのみ編纂者が明記されたが、それ以降、判例全体を通じて番号を付す慣例を確立した。 1864年、ワシントンで移民長官に指名されたたが、その後すぐに、国務省の審判官(Examiner of Claims)に就任、ここで、彼は、ウィリアム・シュワードおよびハミルトン・フィッシュ下の国務省の政策形成に影響を与え、また、彼の国際法に関する知識が政府に多大な貢献をした。 1871年、日本政府から天皇の国際法に関する顧問(国務省に於けるのと同様の職責)の推薦を請われたフィッシュは、スミス氏を推薦した。 彼は、日本政府を公的資格で補佐する最初のアメリカ人であり、5年間滞在し、この間、国際関係においては、条約の締結や制度の確立に貢献した。 こうした重要な外交問題に携わる一方で、国内においては、苦力貿易の撤廃に関与した。 苦力輸送中のペルー船籍「マリア・ルス号」が日本沿岸で難破したが、スミスの助言に従い、230人の清国人は、日本政府によって抑留された。 事件は、ロシア皇帝により調停され、また、日本政府を代表する彼の判断で、苦力は、このような貿易撤廃という結果と共に、清国に送還された。 スミス氏は、リカルドやマルサスの理論を論駁する『Manual of Political Economy』(1853、ニューヨーク)を出版した。 これは、「純粋に物理法則に基いた政治経済学の骨子を構築する試みであり、それ故に、実証的科学に属する絶対確実な結論を得たものである」と述べている。 この点に関しては、この著作は全くオリジナルなもので、その後の経済学に大きな影響を与えた。 尚、この著作は、既にフランス語に翻訳されている。 スミス氏は、また、従来使われていた「テレグラフィック・メッセージ」や「テレグラフィック・デスパッチ」のような扱い難い語句に代わって、「テレグラム」という言葉を、オルバニーの『イブニング・ジャーナル』を通じて、英語として定着させた。 彼が、日本から帰国したのは、1876年のことである。」
(注1)ウィリアム・H・シュワード(William H. Sheward): 第24代国務長官(1861/03/06-1869/03/04)、リンカーン大統領およびアンドリュー・ジョンソン大統領
(注2)ハミルトン・フィッシュ(Hamilton Fish): 第26代国務長官(1869/03/17-1877/03/12)、ユリシーズ・グラント大統領
文中あるように、スミスには、米国における国際法の大家の感がある。 このことが、日本政府の要請に対して、フィッシュ国務長官が、スミスを推薦した理由であるように思える。 日本における法整備は、その経緯から対外的な法整備、すなわち、国際法に対する諸制度の確立が必要だった。 考えてみれば、国内法については、従来通りの法がある訳であり、漸進的に法制度を充実することも可能だった訳である。 しかし、それにしても、この人選は最適だったといえるだろう。 先ず、神奈川県による裁判、その後の仲裁裁判、そのいずれにも、スミスが深く関与していたことが窺える。 もし、スミスが居なければ、マリア・ルス号事件の経緯も大いに変わっていたのではないだろうか。
ところで、少々気になったのが、ロチェスター大学の数学科の科長(原文では、「Chair」だったことに、興味を覚える。 どう見ても、法律あるいは政治畑か報道畑を邁進したと思えるのだが、数学が出てくるとは。 政治経済学の著作があるところを見ると、統計学なのかもしれないが、数学に関心があったことに違いはあるまい。 先の略歴にもあるように、政治経済学を自然の法則あるいは自然科学的に解明しようとしたのが、『Manual of Political Economy』である。
当時、資本主義経済学は、ラセフェール(自由貿易主義)を唱えたイギリス学派とある程度の関税を認めたアメリカ学派に分かれていた。 スミスは、マシュー、ヘンリー・ケアリー親子の影響を受け、アメリカ学派に属すリーダー的存在でもあったようだ。 そこで、ケアリーいについて、説明する必要があるだろう。 また、経歴に中に興味深い事実があるので、オランダのグロニンゲン(Groningen)大学の資料から訳出する。
「A Biography of Henry Carey 1793-1879, "From Revolution to Reconstruction - an.HTML Project
ヘンリー・ケアリーは、マシュー・ケアリーの長男として生まれた。 父・マシューは、ベンジャミン・フランクリンによって創設されたアイルランド解放軍(Irish Freedom Fighter)として諜報部門に徴募され、フィラデルフィアに派遣されたが、そこで、後に米国でも最大となる出版社を設立した。 1814年に出版されたマシュー・ケアリーの著作『The Olive Branch』は、英国海軍提督コックバーンが、ワシントンD.C.を略奪し放火した直後に刊行され、当時、戦争遂行の主要な原因までなっていた連邦主義者(Federalist)と共和主義者間の分裂を暴露することによって、低下しつつあった市民あるいは軍隊の士気を高揚させるのに、多大な影響を与えた。
1817年1月1日、ヘンリー・ケアリーは、父親の出版社会社、ケアリー・リー&ケアリー社の共同経営者になり、ワシントンDCのアービングで出版事業を行った。 1835年、ロンドンの投資家が米国から撤退し始めた頃、これが1837年の恐慌の原因となるのだが、ケアリーは実業から退き、経済問題の研究に専念した。 彼の最初の著作『Essay on the Rate of Wages』は、その年に出版された。 『the Dictionary of American Biography』によると、ケアリーは、資本と人間の発明(技術)の応用は理論上の不毛の大地の限界を克服すると主張し、英国の自由貿易主義「ラセフェール(Laissez-faire)」を認める一方で、デイヴィッド・リカルドの貸借論(the doctrine of rent)を拒絶し、トマス・マルサスの人口論(実際には、「the Doctrine of Ever Scare Resourse」とある)を】論駁した。」
以上、途中まで訳したのだが、長くなるので次回に。 というのも、最近の事件から、学生時代の国際模擬裁判のことを思い出したからだ。 忘れぬ内に、書いておきたい。
学生時代、自分は、法学部政治学科に属していた。 何だか変な言い方だが、部活動は経済研究会、個人的な関心は英文学、特に近代英米詩に関心を持ち、本来の専門である法学あるいは政治学を疎かにしていた時期だった。 その政治学科の必須科目のひとつが国際法だった。 (法学科、経済学部は選択科目。) 最初は、余り関心が無かったのだが、授業が面白く、皆勤した。 教官は、当時、新進気鋭の波多野里望助教授、確か、留学から帰国されてすぐの頃だったと記憶する。 波多野先生のご尊父は、心理学者の波多野完治先生、母上は、当時、評論家としても有名だった波多野勤子先生で、里望先生は確か長男だったと思う。 先生の授業は独特で、学期の終わりには模擬裁判が行われた。 ペーパーテストも行われるのだが、この模擬裁判が期末試験なのだ。 人気のある授業だったので、学習院では二番目に大きな教室(旧講堂)で講義があった。 模擬裁判は、ここの舞台上で行われた。 学生は、それぞれ5名の弁護側(被告)と検事側(原告)に分かれて論争する。 ただし、判定委員は、裁判長が教官で、その他は、当事者以外の全学生である。 私は、この模擬裁判で、検事側に選任された。 確か、前期のテーマが、追跡権で、第二次世界大戦中のドイツ戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号事件で、後期のテーマが、人道主義と国際法だっただろうか、具体的な内容は忘れてしまった。 そこで、記憶が割と鮮明な前者に付いて紹介する。
シュペー号事件は、同艦が、英国艦隊に追われ、ウルガイのモンテビデオ港に避難したことから始まる。 ウルガイ政府は、中立国で、隣国アルゼンチンとの関係から、むしろ、ドイツに同情的な国だった(実際には、国ではなく、当時のモンテビデオの市長が、そうだったといわれている)。 シュペー号の入港は、そうした背景もあり、むしろ歓迎されたのである。 (歓迎レセプションやパーティが連日開催された。) 英国政府は、これに対し、国際法上の追跡権を主張し、ドイツ軍艦の停泊は、国際法上、違法であると、同艦の引渡し、あるいは、強制出港を求めた。 結果的には、シュペー号艦長ハンス・ランドルフの判断で、自沈、艦長は後に責任を取り、アルゼンチンのブエノスアイレスで自決した。 映画にもなったので、ご存知の方もあるだろう。
問題の焦点は、戦時下における中立国と追跡権の関係である。 追跡権とは、当事者国内で発生した事件は、公海上においても、当該船舶を継続的に追跡することによって、訴追の権利を留保できるというものだ。 事件の発生が、この場合、英国領内であれば、中立国の問題はクリアできる。 しかし、戦時中であり、英国とドイツは戦闘状況にあった。 私は、「戦闘が行われ、その後、継続的に該艦を追跡したのであれば、中立国に対しても追跡権は認められる」と弁論を展開した。 まあ、その時の経過は措くとして、問題は、追跡権と公海上における事件および中立国の関係だったのである。
今はどうか知らないが、大体、大学でも、国際法はマイナーな学問だった。 グローバル化とか、多国籍企業とか言われる割に、国際法についての認識は薄いのが実情ではないだろうか。 それだけに、国際法の重要性は日増しに増大している。 国際法に係る事件は、当事者国間の文化や価値観の拮抗でもある。 グロチウスは、その事を想定して、『戦争と平和の法』を書いた。17世紀のことである。
 
アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード
 (初代リーズデイル男爵)   

 

Algernon Freeman-Mitford, 1st Baron Redesdale (1837〜1916)
イギリスの外交官・著述家。英国公使館書記官として1866〜70年の間日本に滞在し、幕府および明治維新後の新政府との外交交渉に尽力した。『ミットフォード日本日記』『昔の日本の物語』『英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録』など、日本に関する著作がある。  
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イギリスの外交官、政治家、収集家、作家、貴族。幕末から明治初期にかけて、外交官として日本に滞在した。あだ名は「バーティ」。著名な「ミットフォード姉妹」の祖父に当たる。
アルジャーノン・ミットフォードは、ヘンリー・リブレー・ミットフォードの息子であり、著名な歴史家であるウィリアム・ミットフォードの曾孫にあたる。父方の祖先は地主階級(ジェントリー)で、ノーサンバーランドのミットフォード城を所有していた。母のジョージアナはアッシュバーナム伯爵の娘であった。ミットフォードが3歳の1840年に両親は離婚し、母は再婚している。詩人のアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンとは母方の従兄弟にあたる。ミットフォードはイートン・カレッジとオックスフォード大学クライスト・チャーチ校で学んだ。
外交官
ミットフォードは1858年に外務省に入省し、サンクトペテルブルク英国大使館の三等書記官に任命された。その後、北京の公使館に勤務後、日本に渡った。ミットフォードは北京で公使を務めていたラザフォード・オールコックの義理の娘であるエイミー・ラウダーと恋愛関係となったが、オールコックは社会的に不釣合いとの理由で結婚に反対し、2人を引き離すためにミットフォードを日本に転勤させたようである。
1866年10月16日(慶応3年10月20日)、29歳のミットフォードは横浜に到着し、英国公使館の二等書記官として勤務を開始した。当時英国公使館は江戸ではなく横浜にあったため、ミットフォードも横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ(当時23歳)、ウィリアム・ウィリス医師(当時29歳)と隣り合って住むこととなった。約1ヶ月後の11月26日、豚屋火事で外国人居留地が焼けたこともあり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移った。ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと2人で公使館近くの門良院に部屋を借りた。サトウによると、ミットフォードは絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見せている。また住居の近くに泉岳寺があったが、これが後の1871年に『昔の日本の物語』を執筆し、赤穂浪士の物語を西洋に初めて紹介するきっかけとなっている。
徳川慶喜が将軍に就任すると、大坂で各国公使に謁見することとなったが、ミットフォードはサトウと共に、その下準備のために大坂に派遣された(1867年2月11日から1週間程度)。実際の目的は京都の政治情報の調査であり、ミットフォードはこのときに明治維新で活躍する日本人と面識を得た。4月中頃、各国外交団は謁見のため江戸から大坂に向かった。英国公使ハリー・パークスは4月29日に徳川慶喜との非公式会見を行い、正式な謁見は5月2日に実施された。英国外交団は大坂に約5週間滞在したが、この間にミットフォードとサトウ、および画家のチャールズ・ワーグマンは宿舎をしばしば抜け出して、日本の実情に触れている。この後、サトウとワーグマンは陸路江戸へ向かったが(途中の掛川宿で暴漢に襲われている)、ミットフォードは海路を使って江戸に戻った。
安政五カ国条約では新潟が開港予定地となっていたが、貿易港としては適していないため、その代替地として七尾が候補となった。ミットフォードはパークスやサトウと共に箱館、新潟を経て、8月7日に七尾に到着した。その後パークスは長崎経由で海路大坂へ向かったが、ミットフォードとサトウは8月10日から8月22日にかけ、内陸部を通って大坂まで旅した。日本の内陸部を外国人が旅行するのは初めてのことであった。その後、ミットフォードとサトウは蜂須賀斉裕の招きで阿波を訪問することとなっていた。しかし、長崎で英国水兵殺害事件(8月5日)の報告を受けたパークスは、土佐藩の関与が疑われたため、2人に便乗し阿波経由で土佐に向かうこととした。このため、ミットフォードによると阿波訪問は「単なる表敬訪問」になってしまった。阿波でパークスやサトウと別れ、ミットフォードは江戸に戻った。
1868年1月1日に予定された兵庫開港の準備のため、11月30日、ミットフォードとサトウは大坂へ向かい12月3日に到着、パークスも24日に到着した。兵庫開港は無事に実行されたが、日本の政治は急速に動いていた。1868年(慶応4年)1月3日の王政復古の大号令を受け、1月6日には慶喜は京都を離れ大坂城に入った。8日にパークスはミットフォード、サトウを伴って、半ば強引に慶喜に拝謁した。1月28日には鳥羽・伏見の戦いが勃発して幕府軍は敗北、1月31日には慶喜は大坂城を脱出した。これに先立つ30日に、幕府は各国外交団に保護は不可能と通達したため、外交団は兵庫へと移動した。ミットフォードは護衛隊を引き連れて騎馬で兵庫へ向かった。
2月4日、備前藩兵が外国人を射撃する神戸事件に遭遇した。事件の背景や推移には様々な見解があるが、ミットフォードはこれを殺意のある襲撃だったとしている。なお、この事件の責任をとり、滝善三郎が切腹しているが、ミットフォードはこれに立会い、また自著『昔の日本の物語』にも付録として記述している。
3月5日に外交団は大坂に戻ったが、7日に山内容堂の治療のためウィリスが京都に派遣されることとなり、ミットフォードもこれに同行した。両名は土佐藩の屋敷に入ったが、8日は土佐藩の兵士がフランス水兵を殺害する事件(堺事件)が発生した。しかし、その後も両名は土佐藩邸に留まり、12日に大坂に戻った。
3月23日、パークス一行は明治天皇への謁見のために京都に向かったが、ここで2人の攘夷派に襲撃された。1人は同行していた中井弘蔵と後藤象二郎が斬殺したが、もう1人はミットフォードが捕らえた。この日の謁見は中止されたが、3月26日に拝謁は実現した。この際パークス以外の公使館員ではミットフォードのみが謁見できた。
3月29日、パークスらは江戸に戻ったが、ミットフォードは1人で大坂に残るように命じられた。 来日して1年半程度であり、また通訳官でもなかったが、1人で業務をこなせるほど日本語に上達していた。8月に江戸に戻ったが、ほどなく江戸は東京と改称され(1868年9月3日)、また明治への改元が行われた(10月23日)。
1869年(明治2年)9月4日、エディンバラ公アルフレートが来日したが、ミットフォードはエディンバラ公の宿舎となった浜離宮におよそ1ヶ月住み込んでその準備を手伝った。エディンバラ公が天皇に謁見した際には、通訳を務めている。その後オーストリア外交使節一行をサポートし、1870年1月1日、ミットフォードは日本を離れた。
再来日まで
1874年から1886年まで、建設省の長官を務めたが、この間にロンドン塔の修復やハイド・パークの造園に関わっている。1886年、従兄弟のリーズデイル伯爵ジョン・フリーマン=ミットフォードの死により、その遺産を受け継いだ。この際に、フリーマンの名前も引き継いだ。
1887年には英国行政委員会のメンバーとなった。1892年から1895年まで、ストラトフォード・アポン・エイヴォン選挙区選出の庶民院議員を努めた。1902年にリーズデイル男爵に叙され、貴族院議員に列した
再来日
1902年に日英同盟が締結され、1906年(明治39年)にはコノート公アーサーが、明治天皇にガーター勲章を授与するために訪日するが、ミットフォードも随伴した。このとき、明治政府は使節団を歓待するために大名行列を再演し、ミットフォードに勲一等旭日大綬章を授章した。
天皇に謁見する
『我々が部屋に入ると、天子は立ち上がって、我々の敬礼に対して礼を返された。彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった。彼は白い上着を着て、詰め物をした長い袴は真紅で婦人の宮廷服の裳裾のように裾を引いていた。(中略)頬には紅をさし、唇は赤と金に塗られ、歯はお歯黒で染められていた。このように、本来の姿を戯画化した状態で、なお威厳を保つのは並大抵のわざではないが、それでもなお、高貴の血筋を引いていることがありありとうかがわれていた。付け加えておくと、間もなく若い帝王は、これらの陳腐な風習や古い時代の束縛を、その他の時代遅れのもろもろと一緒に、全部追放したということである。』  
ミットフォードの見た幕末の石川
(「英国外交官の見た幕末維新・リーズデイル卿回想録」から。石川県の記述の箇所は、慶応3年、明治改元の一年前の話である。七尾に上陸した目的は、七尾を新潟の代港として、加賀藩に開港してもらう為の外交交渉であった。)
加賀から大坂への冒険旅行
我々は江戸へ戻って、次の数週間は暑さと蚊を呪いながら、日常業務を処理していつものように平凡に過ごしていたが、7月になって私とパークス公使は、蝦夷島(北海道)へ出かけることになった。私は、サー・ヘンリー・ケッペルと彼の指揮するサラミス号に乗り組み、公使はバジリスク号に乗船した。その旅は大変楽しい航海であったが、なかでも特に興味があったのはアイヌ民族を初めて見たことである。この航海の業務上の目的は日本の西海岸の商業について調査をすることにあり、特に外国貿易に適した港を見つけたいということであった。こうして8月7日に、サラミス号と、ヒューイット艦長が指揮するバジリスク号には、サトウが乗り組み、さらにブロック艦長の指揮する調査船サーペント号の合計3隻が能登の港、七尾湾に勢揃いした。七尾の港のある加賀の国は日本で一番裕福な貴族と言われる加賀侯が支配していた。
七尾湾は小さな島で一部がふさがれているので、パークス公使は開けた停泊地と油断できない砂州がある新潟よりはるかに役に立ち、外国貿易する港として価値がある港と考えた。彼が加賀藩との話し合いを切に要望したので、藩の首都である金沢から2人の重役が来て会議を開くことになっていた。これは少し予定より遅れて、8月9日金曜日に会議が行なわれた。
パークス公使は加賀侯の代表者に、薩摩や土佐や宇和島の諸藩のように外国人と親交を結ぶことによっていかに望ましいかを印象づけようと、あらゆる努力をしたが、彼の議論は大して役に立たなかった。加賀藩は差し迫った政争で、どちらの側に味方しようかか、まだ明らかに決心がつきかねていたのである。使者たちが七尾の港を外国貿易の門戸として開けない理由として訴えたのは、もしそうすれば大君の政府がそれに襲いかかって、昔から加賀藩の領地だったものを奪い取るに違いないということであった。使者たちは可能な限り反対を繰り返したが、彼らが反対すればするほど、パークス公使は何とか説き伏せようと決意を固めた。ついに彼は言葉を荒くして、彼の場合は特にそれが激しかったのだが、使者たちがそんな非友好的なら、自分の部下を2人、すなわちサトウと私を金沢へ派遣しなければならないと言った。それで、我々は内陸を通って公使とは大坂で出会うことになったのである。この申し出は、想像されたように、しぶしぶながら受理されることになった。このようにして会見は表面的には礼儀を外れない形で終わったのである。
ブロック艦長の調査旅行を助けるために派遣されていた大君の役人たちが、我々が内陸旅行を続けると聞いて大騒ぎし、とてもそんな事は不可能だと断言した。彼らの言い分は、我々の生命を保証できないし、政府の代理人として全ての責任を負いかねるということだった。大君の令書は、我々がこれから通らなければならない加賀や越前の地方には通用しないことが明らかであった。しかし、これらの事柄も公使の決意を変えさせることができなかった。
しかし、彼はまだ外国人が踏み入れたことのない西海岸の地方の知識を少しでも得ようとし、できうれば、そこの藩の人々と関係を保とうと決心していたのであったが、明らかに少し神経質になっていたようだ。というのは、我々が彼の所へ暇乞いに行った時、ケッペル提督とヒュ−イット艦長が我々が直面するであろう危険について、非常に心配していたし、いたわりの言葉さえかけてくれたのだが、彼はこの計画を思い付いたのは我々の無鉄砲さが原因だと主張しようとしたのである。これに対して私は、反駁して、我々は義務の問題として、その件について彼の命令に従うのはやぶさかでないが、単なる気まぐれからの旅行の計画など、決してすべきでないと思うし、それは本国にいる我々の身内に対しても正しいことではないと言った。公使はただ笑っただけであった。彼を正確に評価すれば、こういう旅行は彼自信が喜んでやりたい種類のものであたにすぎず、彼の今までの生涯はスペードのエースのように大きな賭けの連続だったのである。
我々は午後に上陸した。サラミス号は蒸気を上げて出航して行った。続いてバジリスク号も出航した。サーペント号だけがのんびりと錨を下ろしていた。その晩は、翌朝の出発の準備をして過ごした。大君の役人たちは何とかして我々を説き伏せて随行しようとしたが、我々は頑強に反対した。彼らは役に立たないばかりか、逆に有害な存在になったに違いない。彼らは下っ端役人にすぎず、我々の護衛の役に立たないばかりか、単なるスパイとして、我々が地方の人々と友誼を結ばないように、それを阻止するつもりであったのだろう。
我々は現在、彼らがその指揮下に入っているブロック艦長と一緒に残るのが彼らの義務だと指摘した。彼らは、もし何か悪いことが我々の上に起これば困った立場に違いなると色々泣き言を並べた揚句、結局、我々が彼らに決して責任を負わせないという条件でそのまま出発することに同意した。こうして最後に加賀藩の役人から、我々の身柄引き渡しに際して五体満足で無事引き渡したいという正式な受取文書を受け取って、サーペント号に戻って行った。
我々は8月10日に出発した。加賀藩の役人は前日に公使から受けた叱責で、まだ不機嫌な、怒った顔をしていたので、出発は意気揚々という訳にはいかなかった。しかし、日本人の性質として、いつまでも気難しい顔でいられる訳はなく、そのうえ、サトウの陽気で愛想の良い態度に悪感情も長くは抵抗できずに、我々と案内役とは期待以上に早く友好的な間柄になった。
我々2人には上等な籠が用意してあり、サトウの従者野口と私の中国人の召使リン・フーには普通の籠が用意されていた。両刀を差して長い棒を持ち、前田家の定紋である互い違いになった櫂の旗印を持った20人ほどの兵士が、我々の護衛を務めることになったが、それは見せかけだけなのか、本当の護衛なのか、見当がつかなかった。しかし、少なくとも町とか村や、家の集落のある所では、不思議な野獣(彼ら外国人を指す=訳者)をj一目見ようとして押しかける群衆を整理して我々を通らせる役には立ったのである。暑い日であたが、町をはずれて間もなく、籠の窮屈さに、我慢しきれなくなったので、籠から下りて南西の方向に向かう美しい谷に沿って歩くことにした。景色はすばらしかった。こちらに浅い入り江があるかと思えば、あちらには長く延びた浜辺がある。特に一番の絶景は、東にそびえる越中の山々で、1万フィートの高さがあるということだが、本当に「天にも届く山の頂」という表現そのものであった。どこもかしこも日本独特の緑の濃い森や林が広がっていた。こんなに絵のように美しい森や林が他のどこの国にあるだろうか。
我々は、空の色と同じように青い小波(さざなみ)が戯れる海際の砂浜沿いを歩いていったが、そこはちょうど日本人が好む昔の古い物語の背景にそっくりだった。それは一弦の琴の物語で、弓で弾く楽器ではないが、パガニーニのようなバイオリンの名人が喜びそうな話である。本当は、その話の舞台は遠く他の地なのだが、この場所にぴったりに思えたのは、このロマンチックな浜辺を歩いていた時、その話が私の心に浮かんできたからである。
ずっと昔のある時に、京都の宮廷にある公家がいたが、彼は天使様から大変寵愛を受けていた。しかし、彼が「宮廷連中をあまり信用してはいけない。彼らは女性のように気が変わり易いから」と言ったのはもっともなことだった。一時の気紛れから寵愛を失った公家は追放されて、須磨という遠く離れた貧しい漁師たちの住む寂しい村に住むことになった。来る日も来る日も彼は海辺で幸福は永遠に去ってしまったと思って悲しんでいた。ある日のこと、彼は浜辺で上げ潮が砂の上に運んできた難破船の投げ荷の一部と思われる海水で摩滅した板切れを見つけた。彼は熟達した芸術家であったので、それを見るなり不思議に思って、自分にこう問いかけたのである。「もし、私にそれだけの技術があれば、この壊れた板切れに生命を与えて、音楽を奏でることができるかもしれない」。それから彼はじっくりと思案し、知恵を絞って、どうしたら一本の弦と駒で音階をうまく調節することができるか、長いこと考えた。彼が考えに没頭していた時、突然、数羽の磯鴫(いそしぎ)が飛んできて、彼の目の前の波打ち際に止まったのである。その形は、彼に天啓のような啓示を与えた。もし、その形を、この板切れの上に写せば問題が解決するかもしれないと思った。彼がその通りに作って、試しに弾いてみると、嬉しいことに一弦の琴は立派に鳴ったのである。これが今日、須磨琴と言われているものの起こりである。
琴の美しい旋律は、彼の久しい孤独な生活の無聊さをこよなく慰めてくれた。みすぼらしい漁師小屋の生活は厳しかったが、小屋の中は清潔できちんとしており、藁葺き屋根には濃い青色の菖蒲(あやめ)が沢山の花をつけていた。年取った漁師の夫婦と落ちぶれた貴族は親しくなって、その16歳の娘は彼の甘美な音楽に魅せられて、何時間でもそばに座って耳を傾けていた。彼らは愛し合うようになって結婚し、彼女の美しさと優雅さのお陰で、彼の惨めな追放の生活は一転して幸福な生活となった。こうして数ヶ月が過ぎたある日、宮廷からの使者が来て、天子様が彼のことを哀れと思って許され、公家を昔の地位に戻すことになったと告げた。しかし、彼は彼女を深く愛していたので、身分卑しい妻を伴って京都へ行った。そこで、彼女は、立派な奥方になり、2人は、それからずっと幸せに暮らした。これが須磨の琴の物語である。(畝源三郎註:平安時代の歌人・在原業平が須磨に流された時の故事である。謡曲『松風』は、これを題材としたもの)
余談はさておき、本題へ戻ろう。ひどい暑さの中を我々はてくてくと歩いて、時々小奇麗な茶屋の気持ちよく涼しい座敷で休んで、この地方の名物である香りの良い西瓜や美味しいリンゴでもてなされた。いくつかの旅篭(はたご)は非常に感じが良く、人々は親切で好意的であった。加賀での我々の応対については、何ら不平を言う理由はない。加賀の侍は薩摩や土佐の侍のように、猛々しい戦士ではなく、また長州の指導者のように抜け目のない策略家でもない。我々の会った加賀の侍は、大人しくて穏やかのように見えたが、おそらく少しのろまなのかもしれないが、富裕の身分なのだろう。一方、加賀の藩主は私が言ったように、どちらかと言うと日和見主義の傾向があったが、その巨大な富のゆえに、この国で重要な位置を占めていた。
2日目の旅行は非常に景色のよい所を通って、高松を過ぎ、海岸に沿った絵のように美しい漁村で、宿場町として繁栄していた津幡に着いた。そこには上等な旅館があったので、一夜を過ごすことになり、すばらしい日本料理を味わうことができた。
8月12日月曜日の朝7時45分、3日目の徒歩旅行に出発したが、目的地は加賀の首都である金沢であった。我々は森本という村の、ある寺で、いつものように西瓜とリンゴでもてなされた。群集は、益々増える一方なので、案内者は我々が金沢へは入れるかどうか心配していた。1マイルばかり先の濃い松林の群落の間から白い城壁が見え隠れしていた。
我々は大坂やその他の場所で、見世物になるのはもう飽き飽きしていた上に、みすぼらしい旅行用の服を着ていたので、威厳のある体裁を整えることはとてもできないことがわかっていたため、花嫁のように慎み深く駕籠に乗ることにした。大勢の見物人が沿道を埋め、我々のために用意された、すこぶる美しい休憩所がよく見える蓮池のあたりも、右往左往する人で一杯であった。見物人は、あらゆる年代にわたり、そして様々な階層の人々であった。彼らの中には、かなり多くの顔立ちのよい娘たちが見られたが、加賀の女性は器量が良いことで有名である。曲がりくねった道を通って宿屋に着くと、そこで我々は日本の典型的なもてなし方で迎えられたのであるが、それは極めてもったいぶって、礼儀正しく丁重な歓待であった。居間には毛羽のあるビロードの絨毯が敷いてあり、どこからの寺から持ってきた赤い漆塗りの椅子が我々のために用意されてあったが、接待する側としては我々が日本に長く滞在して畳の上に座る習慣に慣れていることを知らなかったのだろう。間もなく藩主の使者が到着して、ひどい暑さなので藩主は我々の健康を案じていると見舞いの言葉を述べ、体が悪いので直接お目にかかれないのが残念であるとの挨拶を伝えた。私は、ハリー・パークス公使の代理として、日本と、特に加賀藩と永遠の友情を誓うものであると答えた。使者が主人役となってご馳走が運び込まれ、そのうち、見かけは良いが、大変座り心地の悪い椅子が届けられて、日本風の作法に従って酒を酌み交わした。しばらくするうちに、我々が医療や薬を必要とするかもしれない場合に備えて、藩公の侍医数名が現れた。
当時は、まだ漢方の医学が全盛の頃なので、なかでも鍼療法や灸治療が痛いけれどよく効くとされていたのだが、我々としては、その治療を敢えて受ける覚悟は出来ていなかった。そこで我々は、謝意を表し、治療を受けない口実として健康には全く心配ないと申し立てた。続いて話題は政治的なことに移ったが、完全に極秘の事項と思われるのに、誰でも入ってきて聞けるような状態で話が進められたので、重要な秘密を保つことは、まず期待できなかった。
しかし、それは我々の感知しないことである。大君の政府は、我々の訪問の目的が何なのか、そして我々が七尾を外国貿易のために開港させようとあらゆる力を尽くすだろうということをよく知っていたので、我々としては何も隠すことはなかったのである。加賀藩の役人の言うのは、昔からの議論の繰り返しであった。彼らは外国貿易を受け容れる準備は完全に出来ているが、彼らの港が貨物の荷揚げのための投錨地以上のものになることには賛成できない、きっとそれだけで済まなくなるからということだった。一番恐れているのは、もしそうなったら、大君がそれを召し上げようとすることなのだと何度も繰り返した。彼らが帰る頃には我々はすっかり親密になり、サトウは、これからも江戸から金沢と連絡をとるようにしようと約束した。加賀藩は前にも述べたように、当てにできる藩の1つであったから、これは大きな成果であった。サトウは、加賀藩から2人の藩士を弟子にしようとさえ申し出た。我々の聞いた話では、すでに2名の藩士が英国に留学中とのことであった。
公式会見が終わると、すぐに街の見物に出かけたが、大きな町で、丘があり、美しい樹木が植えられていて、その大きさは決して誇張ではなかった。人口は5万という話であった。絹織物や漆器や扇を売っている立派な店あったが、値段は途方もなく高かった。やっとのことで非常に古い漆器を1つと、その他2、3の貴重な品物を手に入れたが、この漆器は今まで私が手に入れたいくつかの名品の1つである。九谷は金沢の近くにあったので、我々も当然のこととして、そこの名産である変わった赤色をした焼き物を1つ、2つを買わざるを得なかった。立派な本屋も何件か見つけた。我々の会った藩の役人たちは、このうえなく丁寧で親切であった。夜になって、町奉行の方から滞在を延ばして近隣の土地へ遠出することを要請してきた。この招待は、大変強い懇願であったので、断りきれなかった。そして翌日、少しばかりの口銭を稼ごうとする誘惑に抗しきれなかった宿の召使の仲介で、高い買い物をした後で、4マイルばかり離れた金石(かないわ)という停泊地に向けて馬に乗って出発した。鞍は西洋風だったが、紙でできた模造革で作ってあり、馬勒は信じられないほどお粗末な代物であった。蹄鉄を打ってない小馬は、相変わらず乗り心地が悪かったが、日本は馬好きの国とは言えないので、仕方のないことであった。
この5マイルの行程には、途中2ヶ所の休み場所が設けてあり、最後の1つは、金石に作ってあった。目的地についても、大して見るべきものがなく、砂浜と開けた海とそこに流れ込んでいる小さな流れしかなかった。我々の親切な主人役が、なぜあれほど熱心にこんな場所に案内したのか、推量に苦しんだ次第である。暗くならないうちに金沢に帰り着いた。夜になって2人の藩士が夕食後の雑談にやって来た。彼らは七尾を外国貿易の港として開港する可能性を再び始め、思慮深い言い方で、密貿易と見られるようなやり方をするのは好ましいことではなく、外国船を入港させれば、かなりの量の物資交換が行われる見通しであると幕府(原註=大君の政府)に話すのが最善だと言った。我々は、江戸にそういう趣旨の書状を出すよう彼らに依頼した。次いで、一般的な政治の話になった。彼らの意見は現状では幕府は原則として支持されなければならないが、その権限は一定の範囲に制限されるべきだろうということにあった。我々は遅くまで話し込んだが、加賀藩は、その頃まだ確固たる方針を持っていなかったと確信している。加賀藩には、我々が他の藩で知り合ったような影響力のある指導者が一人もいなかったことは明らかであった。我々の受けた歓待に対して、サトウが日本語に訳した感謝状を私から手渡した。彼らは大変丁寧に別れを告げて去って行った。
翌8月14日の朝、再来を請う人々の声に送られて、名残を惜しみながら別れを告げ、再び旅の途についた。宿の主人は自分の義父がやっている薬屋に立ち寄って、あらゆる病気に効く万能薬で、硝石と麝香(じゃこう)から作った紫石(しせき)という素晴らしい薬を買うよう勧めた。物見高い見物人が、相変わらず大勢いたが、その中には器量の良い若い婦人も多く見られた。最初の休み場所から我々が心から親切に歓待された大きな都を振り返って眺めてみると、今や終焉間際の封建制度の象徴である城が、小高い地面の上に高く白い天守閣を見せて、下に広がる市民の家々を威圧するかのように、一面に植えられた松の木の間に堂々とそびえ立っていた。それは絵のような感動的な光景であり、幸せな思いであった。それは時代を経るに従って、ますますその価値を増していき、時の流れはすべての美しいものを包み込んでいくのである。
加賀の地方を通った残りの旅は、色々な出来事があった。いく先々で、金沢での滞在をあれほど楽しいものにしてくれた時と同じように、どこでも愛想よく期待以上の親切さでもてなしを受けた。この地方が非常に豊かであることに驚きの念を禁じ得なかった。人口2千の松任や、人口2千5百の小松の町を通ったが、どの町も加賀侯の温かい治世に恵まれて、人々は余所では見られないほど幸せそうであった。
15日に越前の国境に達したが、そこで出迎えたのは、一緒に来た加賀藩士が率直な怒りを表して言ったのだが、ただの下っ端役人に過ぎなかった。ここでも、加賀の役人は、越前の役人に、我々の身柄の受取書を書かせたのである。それは何と書いてあったのか、疑問に思っている。「1つ、英国人役人2人、身体に異常なく、受け取り申し候」とでも書いてあったのだろうか。その文章を見たいものだと思った。 
大名行列
・・・参勤交代に代表される大名行列は何と言っても江戸時代を象徴するものです。しかし、それは明治時代にも引き継がれ、かつ現代にまで続いていると思います。幕末の日本にミットフォードというイギリス人が滞在していましたが、彼は一九〇六年(明治三九)、イギリスの王エドワード七世から明治天皇へ勲章(Order of the Garter)を捧呈する使節団の主席随員として再来日しました。この時、明治政府は彼らを歓待するために大名行列を再演したのです。
ミットフォードは次のように書きました。「封建制度は終わったが、まだまだその幽霊に私はとりつかれているようだ。目を瞑ると、鎧に身を包んだ侍が東海道の並木にそって歩いている大名行列が見える。それに『したにいろ』『したにいろ』と大きな声で呼びかけているのも聞こえる。」後でも大名行列の再演について触れますが、ここでこの外国人にとっての江戸時代を考えると、そのイメージとして参勤交代が浮かんで来ます。明治初期の元老は徳川時代のすべてが封建的で、文明開化ではないということで、それを拒否していますが、明治維新のわずか三八年後に、江戸時代のシンボルとして大名行列を元老たちが喜んで許容するようになったのは驚くべき事ではないかと思います。・・・  
英国外交官の見た幕末維新
ある社会に生活している人は、その社会が所与として与えられている。だから、その社会の価値観を疑うことは少ない。ましてや日常の習慣に、違和感をもつことはない。そのため、同国人の書いたものには、驚きが少ない。そういう意味で、明治以前に来日した外国人たちが、書き残したものは、わが国の日常をくっきりと浮かび上がらせてくれる。古くはルイス・フロイスの「フロイス日本」などが、生活誌を知る上で有名である。
本書に限らず、明治期に来日した外国人の記録は、たくさん上梓されている。私はそうした書物を、好んで読んできた。なかでも、オールコック「大君の都:幕末日本滞在記」やアーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」などは、明治維新を考える上では必読文献だろうと思う。本書もまた同様に、重要な文献であり、かつ生活誌を知る上でも有用である。
まだ江戸さめやらぬわが国で、西洋人が生活するのは大変だったろう。習慣が違うことはもちろん、数少ない外国人は常に監視されていた。物見高い見物人がいたというのではない。いまでもある国へ行くと、外国人は監視されているのは事実である。外国人と当該国の利害は、必ずしも一致しないからだ。そこでは外国人に対する敵意が、存在すると言っても良い。
「・・・我々が日本との交際を始めた初期の頃の生活の状況を、今日では理解することが難しいであろう。ほとんど4年の間、書類を書く時は必ず机の上にピストルを置いておく習慣であったし、寝室に入る時は手もとにスペンサー銃と銃剣を必ず置いていたのである。現在では誰もが、京都や江戸の通りをしゃれた藤のステッキを振りながら、ロンドンのリージェント・ストリートか、ピカデリーを歩くのと同じように、全く安心して散歩できるのであるから、帯刀が法律で禁止された幸運を感謝しなくてはならない。・・・」
外交官とは因果な職業である。こうしたなかでも、日本人の生活の中へ入っていかなければならない。
「・・・建物の不便さに加えて、身辺を絶えず監視されている気分と別手組の詮索好きな警戒の目に、まるで囚われの身であるかのように感じられたので、サトウと私は、公使に近くの小さい寺に移る許可を求めた。公使は我々の考えに喜んですぐ賛成したが、それは彼が現在の自由を束縛された状態では、日本と本当の意味の友誼を結ぶにはきわめて不都合であり、それから抜け出すためにはあらゆる手段を尽くすのが当然のことと思っていたからである。そこで、サトウと私は、門良院という寺の一部を借りることになった。それは公使館から数百ヤード離れた丘の上に建っている小さな気持ちのよい寺で、眼下に江戸湾の美しい景色が広がっていた。我々は、この大きな町で、定められた区域外に住む最初の外国人であった。・・・」
習慣の違いとはいえ、文化の違いは人間性への、大きな違いをうみだす。何をどう感じるかは、文化の産物である。外国人が襲撃された備前事件にたいして、天皇は関係者の処刑を命じた。
「・・・パークス公使とオランダのファン・ポルスブルック総領事は、議論を戦わせ、実際に罪人に有利になるような投票をしたのである。しかし、2人は少数派であって、多数決で天皇の命令は履行されるべきであると決定した。これについて当時、私は賢明な措置だと思っていたし、現在も、その考えは変わらない。寛大な処置を嘆願する日本側の態度は熱意に欠けていた。天皇の閣僚として錚々たる者も含めて、政府高官としばしば話をしたが、彼らは外国代表団のとった措置を支持していた。彼らの見解も私と同様で、慈悲深い処置はかえって卑怯だと誤解を受けるということであった。・・・」
そして、堺事件にたいしては、大量20人の処刑が決定される。しかし、実際に処刑がおこなわれると、次のようになる。
「・・・殺人の罪を犯した20人の兵士の腹切りは、3月16日執行されることに決まった。それは最初、事件の現場である堺の波止場で行われる予定であったが、場所が変更されて、1マイルほど内陸にある寺の境内で行われることになった。デュ・プチ・トウアール艦長と約20人のフランス水兵が、この恐ろしい処刑の立会人となることになった。最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地を汚した忌むべき外国人に対する憎悪と復響の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、11人日の処刑が終わったところで−これは殺されたフランス人の数であったが−フランス人たちは耐え切れなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り9名を助命するように頼んだ。彼は、この場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。・・・」
外国人であるフランス人には、切腹に立ち会うことは耐えられなかっただろうが、当時の日本人には耐えられたのである。ここでは死に方に対する価値観の違いがはっきりとみてとれる。もちろん現在の日本人なら、当時のフランス人と同じように耐えられないだろう。
それにしても、わが国では歴史上の人物を、悪し様に言ってきたように思う。たとえば、伊藤博文は女狂いだったから朝鮮で暗殺されるのも当然だったとか、帝国主義を作った明治の元勲たちは、人物が卑しいといってきた。自国の歴史上の人物を悪く言うのは、どんなものだろうか。その後の昭和の歴史が戦争へだったから、すべての近代史が悪なるものとなったが、人物評価はもう少し別の角度から、行っても良いように思う。
本書では、伊藤博文にかぎらず、明治の元勲たちの多くは立派な人物として描かれている。母親が父親の悪口を言って子供を育てれば、子供は父親を尊敬しなくなる。歴史を悪し様に言うと、未来から復讐を受ける。わが国の教育の結果にも、同様なことがおきているのではないだろうか。  
鹿児島
アルジャーノン・B・ミットフォード(1837-1916)は、1866-70年に英国公使館の書記官として滞日し、1906年(明治39年)、イギリス国王エドワード7世から明治天皇にガーター勲章を贈るために訪日したコンノート公アーサー殿下一行の首席随員として 、ふたたび日本の土を踏んだ。本書は、その二度目の来日の際の日記(といっても出版された)を訳出したもの。原著は“The Garter Mission to Japan”(1906、ロンドン)。なお幕末来日時の記録については 、同じ訳者による『英国外交官の見た幕末維新』が刊行されている。 
一行は、1906年2月19日に横浜到着、翌20日にガーター勲章奉呈式を無事に済ませたのち、東京−静岡−鹿児島−広島−京都−奈良−名古屋−日光をめぐって、3月16日 、横浜から出航している。鹿児島には3月3・4日滞在した。その4日の日記に以下のような記述がある。
「県の主要産物の見本が展示されている大きな雑貨店のような場所で、我々一行は一緒になれて、ここで少し買い物をすることができた。最近つくられた薩摩焼は実に美麗で 、陶工の作の多くは往時のものに比べて確かにまさっていた。しかし、あるヨーロッパ工房の作品を模倣したものが幾つかあったが、それは適切な形容詞を見出せないほど俗悪なものだった。私は前にも 、このことについて言ったことがある。同じ非難をここに再び繰り返したのは、この土地は過去に最も美しい作品を作り出した中心地であり、現在も同じく多くの美しい作品が作られているのに 、こんなことをするからなのだ。ここの器用な職人が、これほど質を高めた技術を逆に低下させるために時間と工夫を浪費している事実ほど、じれったいものはない。」
薩摩焼について「実に美麗」「多くは往時のものに比べて確かにまさっていた」としながらも、一方で「あるヨーロッパ工房の作品を模倣したもの」に対しては、「適切な形容詞を見出せないほど俗悪」と酷評している。
ミッドフォードが来鹿した1906年頃というのは、近代薩摩焼の歴史において、ちょうどターニングポイントにあたる時期であった。
美術的には、1893年のシカゴ・コロンブス万博において、それまでの技巧主義的な「SATSUMA」の評価が下落し、さらに1900年のパリ万博では、まったく評価されなくなっていた。一方 、鹿児島県の陶磁器生産額は、第1次世界大戦のインフレの影響もあったであろうが、大正年間(1912-25年)まで引き続き増加している。しかしながら、1910年を境に 、全国の陶磁器総生産額の中で占める比率は、急速に低下していく。鹿児島の生産額も増加したが、全国的な生産額の増加は、それをさらに上回っていたわけである。
つまり万博という国際市場の最前線での評価の下落、その後、約10年ほどのタイムラグを置いての産業的な意味での衰退の始まり…1906年とは、ちょうどその端境期に位置すると言える。ミッドフォードのふたつの面での評価は 、そういった意味で、なんとも暗示的なものがある。  
堺事件
ケンカは、始めることより収めるほうが遥かに難しいものです。ちょっとした言い合いから始まって、殴り合いや言い合いになったり、謝れずに疎遠になってしまった……なんてこと、誰しも一度や二度はありますよね。これが国家間となると、最悪、断交や戦争になってしまいますが、当事者あるいは周囲の人々が和解に動けばどうにかなることもままあります。本日は、ほんの150年ほど前にあった、そんなお話です。
慶応四年(1868年)2月15日は、堺事件があった日です。
堺で起きたから堺事件……とはあまりにシンプルすぎて概要が全く伝わりませんが、平たくいえば「生麦事件の堺版」みたいな感じです。つまり、まだまだ西洋諸国との外交慣れしていない状態の日本で起きた、国家間のトラブルということになりますね。何となくイメージできたところで、詳しいことを見ていきましょう。
堺の港に停泊していたフランス海軍デュプレクス
この日、堺港にはフランス海軍の「デュプレクス」という船がやってきていました。日本に駐在していたフランス副領事と、中国・日本方面担当の司令官を迎えるためです。
遡ることこれより2ヶ月ほど前、大坂ではとある事故が起きていました。天保山沖にやってきていたアメリカ海軍のボートが転覆し、乗っていた提督(海軍のお偉いさん)を含む数名が溺死してしまったのです。そのため、フランス海軍は「アメリカの二の舞いにならないよう、どこが深くてどこが浅いのか、波の様子はどうか、調べておこう」としました。平たくいえば、港の測量です。
測量をするのに、一般の水兵の力はあまり要りません。暇になってしまった彼らは、大坂の町に繰り出して遊ぶことにしました。言葉も通じないのに、恐るべき行動力です。
しかも、かなりテンションが上ってしまっていたらしく、フランス水兵たちは日が暮れても船に帰ろうとしませんでした。ただでさえ外国人慣れしていない日本人が、警戒し始めるのも仕方のないことです。現代だって、外国人であろうと日本人であろうと、見慣れぬ一団が家の周りでうろついていたら怖いですよね。
住民たちは当時堺の警備を担当していた土佐藩士の警備隊に、「偉人たちがうろついていて怖いので、何とかしてください」と訴えました。
仏国公使「何もしていないのにいきなり発砲された」
通報を受けた警備隊は、フランス水兵たちに接触し、船に帰るよう促します。が、当然のことながら言葉が通じません。仕方がないので捕縛して連れて行こうとしました。
事の経緯が飲み込めないフランス水兵は、これまた当然のごとく抵抗します。そこで土佐藩の隊旗を奪うという無礼に出てしまいました。
言葉が通じないとはいえ、軍や国の旗を奪うというのは、相当失礼な行為です。しかもそれだけではなく、フランス水兵たちが逃げようとしたため、警備隊はやむなく発砲しました。銃撃戦の末、フランス水兵に多数の死傷者が出てしまいます。海に突き落とされて、溺死した者もいたようです。
非はもちろんフランス水兵にもありまたが、仏国公使レオン・ロッシュたちは「何もしていないのにいきなり発砲された」と受け取り、日本側へ下手人の処罰その他の処分を求めます。フランス水兵の葬儀を神戸居留地で執り行った際、ロッシュは弔辞として「私は諸君の死の報復をフランスと皇帝の名において誓う」と言っていましたので、静かに怒りを燃やしていたようです。
一方、日本側の当事者の上司である土佐藩主・山内容堂は、京でこの事件の知らせを受けました。たまたま京の土佐藩邸には、イギリス公使館職員アルジャーノン・ミットフォードが滞在しており、「この件に関わった藩士はきちんと処罰する、とフランス公使に伝えてほしい」と頼んでいます。ミットフォードはただちにロッシュに連絡を取り、日仏間で解決のために動き始めます。ロッシュは在坂中の各国大使と話し合った上で、下手人斬刑・陳謝・賠償などを求める抗議書を提出しました。
戊辰戦争真っ只中の日本側は強気に出ることができず……
時折しも戊辰戦争の真っ最中。明治新政府の軍はほとんど関東へ行っており、話をこじらせるわけにはいきません。もし砲撃でもされたら、堺や大坂の町が焼け野原になってしまいます。そうなれば、佐幕派が「何だ、官軍なんて大したことないじゃないかwww」と勢いづくおそれがあります。そのため、仕方なくフランスの要求を呑むことになりました。
しかし、三条実美や岩倉具視が「フランスの言い分をそっくりそのまま呑めば、世論が攘夷に傾いて今後に支障を来す」として、落とし所を探るべきだと主張。こうして政府代表の外国事務局輔・東久世通禧、外国事務局掛・小松帯刀、外国事務局判事・五代友厚らがフランス側と交渉を重ねました。朝ドラ『あさが来た』で一躍話題になった五代友厚もこの場にいたんですね。だから歴史は面白い!
最終的に隊士全員ではなく、隊長以下二十人を処刑することで、話はまとまりました。隊長を含めた4人がまず死刑と決まり、他の16名は隊員の中からくじ引きで選んでいます。くじ引きは土佐稲荷神社(現・大阪府大阪市西区)で行われました。室町幕府の六代将軍・足利義ヘのときもそうですが、昔はくじ引きそのものが神様の意志を尋ねるものとされていたので、必ずしもテキトーな方法ではないのです。結果、隊長の箕浦を含め、20〜30代の壮年20名が決まりました。
処刑は、事件から8日経った2月23日、堺・妙国寺で執行されました。フランス側からの立会は、艦長アベル・デュプティ=トゥアール以下水兵たち。ここで土佐藩士たちは、最後の最後でフランス相手に意地を見せつけています。
なんと腹を切った後、自らの腸を掴みだして恫喝したというのです。元々、土佐藩士たちは職務に忠実な人々でした。彼らの横行を糺しただけ、という無念さが拭えなかったのでしょう。
堺事件ではフランス側の記録にあった切腹の描写
そもそも切腹で腹を切り裂き、中から臓物を引きずりだすことなど、医学的に可能なのか?これに対し、当サイトの歴女医・馬渕まり先生は「出血によるショックで途中で気を失う可能性は否めないが、相当な気合とテンションで乗り越えることもできる」という趣旨の見解を切腹の記事で書かれております。
実はこれと同様のケースが、織田信長の息子・信孝でもありました。信孝は腹を切った後に壁に向かって臓物を投げつけ、切腹を命じた豊臣秀吉相手に怒りの辞世の句を詠んだというものです(同じくまり先生の切腹記事に記されておりますので興味がありましたらそちらへ)。同エピソードは否定される方も多いですが、堺事件のときはフランス側の記録があるため、おそらく事実でしょうね。
トゥアール艦長もさすがにショックが大きかったようで、フランス側の死者と同じ11名の土佐藩士が切腹したところで、処刑中止を要請しました。日本側もこれを受け入れ、残りの9名が助命されています。
艦長は「帰路で他の藩士に襲われることを懸念した」ともいわれていますが、本人の日記では「このような処刑では、戒めではなく侍の英雄視につながってしまうから中止させた」としているそうです。おそらくフランス側としては、フランス革命でのギロチンのような大量処刑をイメージしていたのでしょう。あれは罪の有無や大きさよりも、見せしめや復讐の意味が大でしたから、同事件の処理でも似たような効果を期待していたところ、実際に切腹を目にしてみて、これはそうではないことに気付いた……というところでしょうか。
その後、明治天皇からもロッシュへ謝罪と朝廷への招待を兼ねた使者が立ちました。ロッシュは「犠牲者と死刑執行済みの人数が同じになったので、他の9名は助命してかまわない」と伝え、招待にも応じています。ロッシュの参内時には明治天皇が直接謝意を伝え、無事に国家間の問題としては解決しました。もしかしたら、この経験が大津事件のときにも生かされたかもしれませんね。堺事件のとき、明治天皇は16歳という多感な年齢でしたから、強く印象に残ったことでしょう。
大坂では切腹した11人を「ご残念様」と呼び、参詣する者絶えず
この間、処刑を免れた9名は熊本藩や広島藩に預けられていました。彼らにはロッシュの参内が済んだ後、土佐の入田(現・高知県四万十市入田付近)への流罪が決まります。
「国のために異人と戦ったのに」ということで当初は納得できなかったようですが、「朝廷からのお達しだし、そんなに長くならないようにするから」ということで、何とか流罪を了承させたのだとか。流罪なのに自国内、しかも袴・帯刀・駕籠つき、かつ庄屋の宇賀佑之進預かりという扱いだったので、江戸時代の刑罰でいえば「所払い(元々住んでいたところから追放する)」くらいの感じでしょうか。
流罪というと「死刑よりちょっとマシ」「島流し」というイメージがありますが、実際にはそうとも限らず、いくつかの段階に分かれていました。江島生島事件の絵島も流刑になっていますが、離島ではなく、高遠藩(現・長野県伊那市)での幽閉になっています。
とはいえ、絵島は生活の大部分に厳しく制限を加えられていました。堺事件の生き残りたちはおそらくそこまでの扱いにはなっていないと思われます。「異性絡みのスキャンダルより、外国人をブッコロしてしまった罪のほうが軽いの?」と考えると、なんともスッキリしませんが、その辺は当時の社会通念・事の経緯・感情といった面が主な理由です。
それを示す逸話として、こんなものもあります。事件の舞台となった堺、そして大坂では、「土佐の攘夷が大当たり」などとはやす歌がはやり、切腹した11人を「ご残念様」と呼んで、お墓に参詣する者が絶えなかったそうです。また、助命された9人は「ご命運様」と呼ばれ、彼らの処刑後に遺体を入れられるはずだった大がめに入って、幸運にあやかろうとする者もいたとか。それもどうよ。
流罪になった9人は、明治時代に入ってから正式に恩赦が出て、自由の身になりました。それまでに病死してしまった人もいたそうなので、全員とはいきませんでしたが。日本が欧米と対等に付き合えるようになるまでには、堺事件のように日仏双方でも多大なる犠牲があったんですね。  
アーネストサトウとA.ミットフォード
幕末維新の日本にて、若き外交官生活を共にしたアーネストサトウとA.ミットフォードは、その後五十年間歩んだ道は違えども生涯の親友となった。

(歴史家・萩原延壽さんの文章から)
1916年(大正5)8月17日、ミットフォード(当時リーズデイル卿)が79歳で死亡した日のサトウの日記は、つぎのように記されている。
「8月17日、(前略) 散歩から帰ると、リーズデイル夫人の電報が届いていた。『主人は今朝安らかに息を引き取りました』と。早速悔やみの電報を夫人に送った。われわれがはじめて日本で会ったのは、1866年(慶応2年)の秋、リーズデイルが当時横浜にあったイギリス公使館の一員になったときである。それ以来、われわれはずっと親しい友人であった。わたしは彼の日本語の勉強の手助けをするため、初歩的な日本語の例文を書き、これを『会話篇』と名付けて印刷させた。彼は日本語を学びはじめたとき、すでに相当の数の漢字を知っていた。やがてパークス(公使)が公使館を江戸に移してからは、丁度公使館の門前に在って、泉岳寺とも向かい合っていた門良院という小さな寺を2人で借り、勤勉と放縦とが入り交じった生活、つまり、よく働き、よく学ぶといった生活を共にした。
われわれは数多くの冒険を共有したが、そのことは昨年彼が刊行した『回想録(Memories)』に述べられているとおりである。かれは、1837年(天保8)2月の生まれだから、わたしよりも約6歳年長である。わたしがかれのバッツフォードBatsfordの古い家にも、それを後にかれが建て直した新しい家にもよく泊まりにいったものである。最後に会ったのは、この7月23日、昼食を共にしたときだが、あの時は元気そうに見えたのだが。...」
「華やかなアマ」と「地道なプロ」の趣きがあったこの二人は、社会的出身や性格の相違がかえって幸いしたのか、五十年前に日本で結んだ親交を最後まで持ちつづけた。...

「華やかなアマ」ミットフォードさんの回想からいくか。ミットフォードは、若き日の勉強での外交官生活、帰国後間もなく外交官は辞し下院・上院議員をつとめる。従兄弟のリーズデイル卿を引き継ぎ、男爵家としては初代となる。ご子孫は最近までマスコミを賑わす。彼はわずか数年の日本滞在にもかかわらず、舌切雀・花咲爺などのお伽噺、赤穂四十七士、鍋島猫騒動までも書き、大の親日家となった。1906年、明治天皇へのガーター勲章授与のためのコンノート殿下使節団首席随員として40年ぶりに来日した彼は、新橋駅で明治天皇自らの出迎えを受け深く感激した。このとき徳川慶喜にも再会したときの感慨をも記している。以下、彼の回想録からほんのさわりを。
イートン校・オクスフォード出のエリートのミットフォードだが、中国現地採用・叩き上げのパークス公使のもと、通訳生のサトウ、アイルランド人医師ウィリスらの同僚ともなじみ、大英帝国の最前線として日本の王政復古の瞬間に居あわせた。
「...さらに、今日の日本を旅行するものがわたしのことを『ほら男爵』の二代目だと思わないように、わたしの書くことを確かだと保証し、もし事実でないことがあれば、それを咎める人が少なくとも一人は現存しているということを強調しておきたい。その人物はわたしの古い友人で当時の同僚であったサー・アーネスト・サトウであり、わたしの日本滞在中に、あのように輝かしい日々を送ることが出来たのは、多分にかれの助力によるものであり、我々があの当時の乱世の中で経験した冒険に満ちた出来事を、年老いて饒舌になった現在、絵のように美しく楽しかった思い出として語ることが出来るのも、まさに彼のお陰なのである。... 私が日本に到着した頃 、この国は政治的に熱病に罹った状態にあった。それは、世の中をひっくり返した地震の直前で、まだどんなことが起きるのかはっきりとは感知できない状況であった。この動乱に西洋人が一役買っているのだが、明らかな理由があって今までたいして注意されていなかったのである。しかし、それは実際には非常に重要な役割を果たしたのだ。1866年、パークス公使とフランスのレオン・ロッシュ公使の二人の間の支配権争いとなって現れたのである。...パークス公使とロッシュ公使はお互いに憎み合い、二人の女のように嫉妬し合っていたといっても言い過ぎではあるまい。大名と将軍の戦に際して、この猪武者は間違った馬を応援したのである。パークス公使の側近にはサトウという非凡な才能をもった男が控えていた。彼は昔のオランダ流外交術の蜘蛛の巣を払いのけて、日本の歴史風俗及び伝統を詳細に研究し、将軍の地位を理解してそれを正当に評価し、そのうえで天皇こそ日本の元首であることを世間に示したのである。そればかりではない。彼は、日本語に精通していたうえ、機知に恵まれ飾り気のない正直な性格であったので、日本を指導する立場に合った人々と友好関係を結ぶことが出来たのである。...もう一人の男は、長崎に住んでいた商人トーマス・グラバー氏で、今まであまり認められていなかったが同じ意味で大いなる協力者であった...ある日 、パークスは突然、私の部屋に旋風のようにやってきたが、いつもの興奮したときの癖で、彼の明るい赤い髪の毛は根元から逆立っていた。...『ロッシュのやつめが、私になんて言ったと思う?将軍の軍隊の訓練のためにフランス本国から陸軍教官団を呼ぶつもりだというんだ。構うことはない。絶対に彼に対抗してみせる。こちらは海軍教官団を呼ぼう』...」
さて「地道なプロ」サトウくんのほうは、天皇拝謁などの宮廷儀式では英国貴族のミットフォード君に役者を譲るが、旺盛な好奇心と努力でこつこつとプロの外交官の経験を積みつつあった。日本の諸藩のキーマンとの接触や交渉さらには助言、日本国内の情報収集と分析、外交政策の提言と、個性豊か過ぎる上司パークスのもとで獅子奮迅の動きをしていた。そのうえに精密な日記や膨大な古文書など当時の日本の世情の記録を残してくれた。ええじゃないかの乱舞の中をかいくぐって飲みにいったり、以下は慶応三年四月、陸路を江戸に下った時のこと。自分の眼でこの国を見ようとする意志と、旺盛な好奇心。掛川では、凶徒に宿舎を襲われる危険な目にも会う。この翌月に薩土密約、長崎では英軍艦イカラス号水兵事件と、まだまだ先行き見えぬ頃のこと。
このあと、激変の慶応四年にかけて新潟、佐渡、七尾、大坂、長崎と、西日本を飛び歩き、とうとう京都にまで入る。サトウと言葉を交わしつつ、刻々と変化する政局での覇権争いと連繋作戦を練るのは、西郷、大久保、小松帯刀、後藤象二郎、木戸、勝海舟、徳川慶喜、山内容堂、伊達宗城...そしてミカド。歴史の転換点において、プラスの側に振ることが出来た方向性の決定に大きな影響を及ぼした。
いまにして思えば、たいへんな夷人の若者であった。「攘夷」どころの話ではなかった!
「・・・ところで日本人は大の旅行好きである。本屋の店頭には、宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物、そのほかの旅行者の必要な事柄を細かに書いた旅行案内の印刷物がたくさん置いてある。それに相当よい地図も容易に手にはいる。精密な比例で描かれたものではないが、それでも実際に役立つだけの地理上のあらゆる項目にわたって書いてある。 ...あらゆる点から見て、東海道は日本国中のなかで最も往来の頻繁な、そして最も重要な道路であった。日本の色刷りの版画を収集している人々の中で、東海道の風物を描いた挿絵のある数多くの連続ものを知らない者があろうか。これらの絵には、日本人の生活がとても真に迫るように描かれている。日本の小説の中で最も有名なものの一つに、二人連れの愉快な男の、江戸から京都へ上る道中の珍談を扱ったものがあるし、東海道五十三次の宿場表は、日本の子供たちが読み書きを習う際に教えこまれる第一課の一つになっていた。途中の有名な景色はいうまでもなく、歴史上、伝説上の連想によってこの東海道が日本人の空想に占める地位は、ライン川がその昔イギリス人の旅行者の心をとらえていたのと等しいものがある。今ではローレライの巌にトンネルができて、無頓着な旅行者の群れがこの大河の岸を鉄道で数時間のうちに疾駆してしまうのであるが、昔は四頭だての馬車で、もったいらしく「やる」のが流行したものだ。どんな地図で最新に研究しようとしても、徒歩で実地に研究するにまさる地理学の勉強法はない。徒歩によれば、愉快、疲労、天気などの多くの連想を伴うことにより、地形学上のきわめて些細な事までが心に残って離れないものだ。また、歴史の研究者に対しては、戦争のいろいろな変遷をも理解させてくれる。 ...日本は、数世紀の内乱の中から特殊な政治組織が生まれた国であるから、国内の各地方を丹念に調べれば調べるほど、当時の敵国同士が外に攻め合った戦術上の問題などについて正しく理解がゆくというものだ。私は、こうした考えから陸路をとって江戸に帰ることを長官に許してもらおうと決心したわけではない。日本のあらゆる事物に対する貪欲な好奇心、冒険心、或いは軍艦内の生活に対する嫌悪の情が実際の動機だったのだが。...」
 
フランツ・フェルディナント 

 

Franz Ferdinand Karl Ludwig Josef von Habsburg-Lothringen (1863〜1914)
ハプスブルク(オーストリア=ハンガリー)帝国の皇位継承者。1893(明治26)年、世界一周の旅の一環としてオーストリア海軍の軍艦・エリザベート皇后号に乗って長崎に来日。一行はこれより約3週間の行程で長崎-熊本-下関-宮島-京都-大阪-奈良-大津-岐阜-名古屋-箱根-東京-日光と巡り、その時の様子は克明に日記に残されている。オーストリアの宮殿には日本庭園がある。サラエボで暗殺されこれが第一次世界大戦勃発のきっかけになった。 
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フランツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者、エスターライヒ=エステ大公。サラエヴォでセルビア人民族主義者によって暗殺された(サラエボ事件)。
1863年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟であったカール・ルートヴィヒ大公と両シチリア王フェルディナンド2世の長女マリア・アンヌンツィアータの長男としてグラーツで生まれた。1875年に従兄のフランチェスコ5世が死去し、オーストリア=エステ大公を相続した。
1877年にオーストリア=ハンガリー帝国軍に入隊して中尉に任官。その後も皇族として順当な昇進を続け、1885年に大尉、1890年に大佐、1894年に少将に昇進した。フランツ・フェルディナントは指揮官としての教練を学ばなかったが、司令官としての適性を認められ第9騎兵連隊長に任命された。また、特定の部隊の指揮権を持たない時期でも軍事機密に関わる書類を閲覧することができ、1913年には高齢のフランツ・ヨーゼフ1世に代わり全軍監察官に就任して軍権を掌握している。
1892年から約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かける。イギリス領インド帝国を訪問した後、1893年に訪れたオーストラリアではカンガルーやエミューの狩りをして過ごした。その後はヌメア、ニューヘブリディーズ諸島、ソロモン諸島、ニューギニア、サラワク、香港、大日本帝国を訪れた。横浜からRMS エンプレス・オブ・チャイナ(英語版)で太平洋を横断してカナダ・バンクーバー、アメリカ合衆国を訪れヨーロッパに戻った。
皇位継承者指名
1889年1月、従兄ルドルフ皇太子がマリー・フォン・ヴェッツェラと共に情死した。このため、父カール・ルートヴィヒが皇位継承者となった。
1895年、フランツ・フェルディナントは当時不治の病とされた結核の疑いがあると診断されていたことから、軍隊の旅団長の地位を降りることをフランツ・ヨーゼフ1世に申し出た。皇位継承者には弟のオットー・フランツ大公が選ばれるであろうという憶測も流れ、フランツ・フェルディナントに見切りをつけてオットー・フランツに媚びを売る者もいたが、南チロルのメラーノで療養につとめた結果、フランツ・フェルディナントは一年半ほどして健康を回復した。1896年に父カール・ルートヴィヒが腸チフスで死去すると、フランツ・フェルディナントが伯父フランツ・ヨーゼフ1世の皇位継承者に認定された。結核の療養を済ませたフランツ・フェルディナントは、この頃から政治活動を開始するようになった。
結婚
オーストリア皇室では、フランツ・フェルディナントが皇位継承者として認定されるようになると結婚話を進めるが、彼にはボヘミアの伯爵家出身でテシェン公フリードリヒの妃イザベラの女官であったゾフィー・ホテクという恋人がいた。
二人は1894年にプラハで出会い恋に落ち、それ以降フランツ・フェルディナントはプレスブルクのテシェン公家の別荘を頻繁に訪れるようになった。ゾフィーはフランツ・フェルディナントの結核回復を祝う手紙を彼の療養先のロシニ島に送っている。2人は周囲に関係が露見しないように細心の注意を払っていた。
しかし、フランツ・フェルディナントが蓋付き腕時計をテシェン公家に忘れたことがきっかけで2人の恋が露見することになった。当時腕時計の蓋の裏に意中の女性の肖像画を描くのが流行しており、忘れ物を預かったイザベラは、彼が足繁く通うのは長女マリア・クリスティーナに気があるからだと信じて時計の蓋を盗み見たため、ゾフィーとの恋が露呈した。
オーストリア皇室は由緒ある王家の出身者以外との結婚を認めておらず、次期皇帝がチェコ人の女官のような身分の低い女性と貴賤結婚するのに反対したが、フランツ・フェルディナントはゾフィー以外の女性との結婚を拒否した。最終的に、フランツ・ヨーゼフ1世はゾフィーが皇族としての特権を全て放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚を承認した。
1900年7月1日に2人の結婚式は挙行されたが、フランツ・ヨーゼフ1世は出席を拒否し、彼の弟妹や他の皇族が出席することも許可しなかった。結婚後もゾフィーは冷遇され続け、公式行事においては幼児を含む全ての皇族の末席に座ることを余儀なくされていた。また、それ以外の公の場(劇場など)でもフランツ・フェルディナントとの同席は許されなかった。このような複雑な経緯もあって、フランツ・フェルディナントは「皇太子」とはあまり呼ばれず、「皇位継承者」と遠回しな呼ばれ方をされるようになった。
1913年11月22日にゾフィーと共にイギリス・ノッティンガムシャーのウェルベック修道院を訪れ1週間滞在し、その後はウィンザー城を訪問してジョージ5世、メアリー・オブ・テック夫妻と共に1週間過ごした。回顧録によると、フランツ・フェルディナント夫妻はウェルベック修道院の式典に出席した後に同地の射撃大会に参加したが、そこで銃の暴発事故に遭ったという。
フランツ・フェルディナントは当時のヨーロッパ貴族の中でもとりわけトロフィー・ハンティング(英語版)を愛好し、彼の日記には約30万頭の動物を仕留めたことが記されている(その内5,000頭は鹿だったという)。彼の城には仕留めた10万頭の動物の頭部が展示されており、他にも様々な骨董品をコレクションしていた。
暗殺
1914年6月28日、フランツ・フェルディナントはゾフィーを伴い共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(英語版)の首府サラエヴォの軍事演習視察に出かけた。しかし、1878年のベルリン会議以来オーストリア=ハンガリーが占領し、1908年には正式に二重君主国に併合されていたボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人も住んでおり、大セルビア主義者にとってはオーストリア=ハンガリーに侵略された土地だった。ロシア帝国を後ろ盾とする汎スラヴ主義に沸くバルカン半島では、オーストリア大公はテロの標的となっていた。
午前10時15分、フランツ・フェルディナント夫妻の乗った車列がサラエボ市内に入った。青年ボスニア(英語版)のメンバーで秘密組織黒手組のメンバーだったボスニア系セルビア人(英語版)ネデリュコ・チャブリノヴィッチ(英語版)が手榴弾を投げ付けたが、手榴弾は後続の車に当たり乗員が負傷した。夫妻を乗せた車は市庁舎に逃げ込み、フランツ・フェルディナントは「爆弾を投げ付けるのが君たちの歓迎のやり方なのか!」と激怒した。
しばらくして落ち着きを取り戻したフランツ・フェルディナントは、爆弾で負傷した人々を見舞うために病院を訪問することに決めた。午前10時45分、夫妻を乗せた車は市庁舎を出発したが、運転手に行き先が変更されたことが伝わっておらず、車は脇道に入り込んでしまい、病院に向かうため方向転換した。車が方向転換しようとした通りのカフェには、暗殺に失敗した黒手組のガヴリロ・プリンツィプが偶然居合わせ、彼は拳銃を取り出し車に近寄り発砲した。プリンツィプは1発目をゾフィーの腹部に、2発目はフランツ・フェルディナントの首に向けて発砲し、フランツ・フェルディナントは泣き叫ぶゾフィーの上に身を乗り出した。周囲の人々が夫妻に駆け寄った時にはフランツ・フェルディナントは生きており、ゾフィーに「ゾフィー、死んではいけない。子供たちのために生きなくては」と語りかけていたという。総督官邸に入った側近たちはフランツ・フェルディナントの手当てを試みようとしたが、彼は数分後に死亡し、ゾフィーも病院に向かう途中で死亡した。
暗殺者たちへの尋問で、彼らの所持していた武器は黒手組指導者でセルビア軍大佐のドラグーティン・ディミトリエビッチから提供されたものだと判明した。このサラエボ事件の後、オーストリア=ハンガリーは報復としてセルビア王国に宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発した。フランツ・フェルディナントの死によって第一次世界大戦が勃発することになった。
フランツ・フェルディナント夫妻の葬儀は2人合同で行われた。貴賤結婚のために、ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々が埋葬されるカプツィーナー納骨堂に入れないことを生前から悟っていた夫妻は、居城であったアルトシュテッテン城(ドイツ語版)内の納骨堂に埋葬された。
政治思想
フランツ・フェルディナントは保守カトリック主義者で中央集権的な国家を目指した反面、異民族へのリベラルな姿勢を持っていた。チェコ人と結婚したこともあり親スラヴ的な傾向があり、アウスグライヒによって帝国内における権利を抑圧されていたチェコ人と南スラヴ系住民の自治権拡大を提唱していた。また、セルビアに対しても慎重な姿勢を示し、参謀総長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフなどの軍部強硬派に対し、「セルビアへの高圧的な態度はスラヴの盟主ロシア帝国との戦争を招き、やがては両帝国を破滅させる」と警告している。フランツ・ヨーゼフ1世のボヘミア王戴冠による三重君主国への帝国改編(ドナウ連邦構想)を望んでいた時期もあった。
その一方で、フランツ・フェルディナントはハンガリー人を嫌悪しており、1904年には「ハンガリー人は大臣、貴族、兵士、農民、従僕などあらゆる階級に関係なく革命的である」と述べ、ハンガリー首相ティサ・イシュトヴァーンを「革命思想の裏切者」と批判している。彼はハンガリーのナショナリズムをハプスブルク朝の脅威と見なしており、第9騎兵連隊長時代には部下が公用語として認められているハンガリー語を話しているのを見て激怒したという逸話がある。また、ハンガリー軍を潜在的な敵対勢力と見なして信用しておらず、ハンガリー軍の砲兵部隊編制予算について反対している。
1900年に勃発した義和団の乱での軍事的失策は、大国としての威厳を損ねたとしてフランツ・フェルディナントを失望させた。彼は「ドワーフのようなベルギーやポルトガルさえ軍隊を中国に駐留させていたにも関わらず、我が国は1兵も駐留させていなかった。しかし、我が国は"国際救援隊"として八カ国連合軍に参加し、軍隊を派遣した」と述べている。軍事面では陸軍優位で海軍を軽視していた国内の中で海軍の増強を主張しており、フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺された際には、軍艦フィリブス・ウニティスが夫妻の遺体を乗せて栄光を称えた。
日本との関わり
1892年に出発した世界一周の見聞旅行の途上で、1893年に日本を訪れ1か月をかけて長崎から東京まで旅している。
箱根において左腕に龍の刺青を彫ってもらっている(日本を訪れたら刺青を彫ってもらうのが、当時のヨーロッパの男性王族にとってある種の伝統となっていた)。一説によると、フランツ・フェルディナントは胸にも蛇の刺青を彫っており、サラエボ事件ではその蛇の頭が銃弾に貫かれていたという。
フランツ・フェルディナントはこの時の日本の風物や伝統文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されている。なお、シェーンブルン宮殿にある日本庭園は、日本文化に触れた彼の命令で作られたものである。 
サラエボ事件
セルビアの野心
オスマン帝国の支配力が弱まり、バルカン戦争が起こったことで、領土を拡大し、抑圧されていた民族統一(汎スラブ主義)の機運が高まったセルビアは、ロシアの後押しもあり、ボスニア・ヘルツェゴビナを手に入れようという野心を抱き始めていた。
一国では敵わなくとも、連合して戦えば勝てるということは先のバルカン戦争で証明されている。
そんな時、オーストリア皇太子であるフランツ・フェルディナント大公がボスニア・ヘルツェゴビナを訪れる事が決定する。
彼を暗殺することでオーストリア・ハンガリー帝国を弱体化させ、さらに戦争を誘発させることができれば、ロシアの支援で戦争に勝利し、さらなる領土の拡大が可能になる。
そんな思惑を持っていたセルビアと、ブラックハンド(ツルナ・ルカ)と呼ばれる大セルビア主義を掲げるテロ組織が水面下で動き始める。
ブラックハンドはセルビアより武器・毒物の供与を受け、暗殺計画を練り始める。
そして、大公の暗殺を達成するガヴリロ・プリンツィプもブラックハンドの計画に加わっていた。
フランツ・フェルディナント大公
フランツ・フェルディナント大公(フランツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン)は、オーストリア元皇帝の甥であり、現在の皇帝には息子がいたため、本来は皇太子ではなく、皇帝になれるはずのない普通の皇族であったはずだった。
しかし、ルドルフ・ヨーゼフ皇太子が、愛人と共に謎の心中(暗殺とも言われる)を遂げたため、
にわかにフランツ・フェルディナンド大公が皇太子として担ぎあげられる事となる。
ところか、自身が皇帝となるとは考えていなかった彼は、オーストリア大公フリードリヒの妻の「女中」であった「ゾフィー・ホテク」に恋をしており、皇太子となってからも彼は彼女を本気で愛していたようだった。
最終的に、周囲の大反対を受けながらも、ゾフィーを皇太子妃とすることを決めたフランツ大公は、ゾフィーが皇族としての権利を全て放棄する事で結婚を認めさせた。
しかし、フランツ大公が皇帝になってしまえば、権利の放棄を無かった事にする事も可能であり、ゾフィーは周囲から冷遇され続け、フランツ大公自身も周囲から睨まれると言う様な状態だった。
そんな中、彼はサラエボの軍事演習の視察を決める。
実は、ゾフィーはチェコの出身であり、ドイツやオーストリアの「ゲルマン系」ではなく、所謂「スラブ系」のセルビア人やロシア人に近い血筋を持っている人物でもあった。
そのため、フランツ大公はスラブ系の人民に親近感を抱いており、ボスニアを併合するだけではなく、
オーストリア・ハンガリー・ボスニアの三国を合わせた帝国を作ろうと考えていたほどだった。
こうして、ゾフィーのお腹の中の子供と共に、三人は命を落とすことになるボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに足を運んだのであった。
フランツ大公の優しさが招いた悲劇
ブラックハンドの暗殺計画は、実は失敗していた。
10人近い実行グループは、爆弾・狙撃・至近距離からの銃撃を含めた多重の皇太子暗殺作戦を計画したが、「狙撃」は狙撃機会を逸して失敗、「爆弾」は肝心の大公の車両を爆破できずに周囲を巻き込んだだけで失敗、肉薄しての銃撃も民衆や護衛が多くて断念、もしくは失敗している。
そして、大公を乗せた車両は無事にサラエボの市庁舎へと到着した。
暗殺計画は失敗。
それで終わるはずだった。
しかし、そこに偶然が重なった。
フランツ大公は市庁舎に戻った後、自身の暗殺を試みた爆弾で負傷した一般人を見舞おうと病院に向けて市庁舎を出る。しかし、道を間違えた車両は偶然にも、銃撃による暗殺を断念したガヴリロ・プリンツィプによって見つかってしまう。
そして、護衛が手薄となっていた状況で、プリンツィプは妻のゾフィーとフランツ大公を銃撃する。子供がいたゾフィーの腹部と、フランツ大公の首に当たった。
銃撃の直後は二人ともまだ意識があり、その場にいた運転手が大公の最後の言葉を覚えていた。
「ゾフィー、死んではいけない。子ども達のために生きなくては」
そう言って、フランツ大公は亡くなったという。
フランツ大公が、スラブ系の女性を妻に迎えなければ、サラエボに赴かなければ、病院に見舞いに行かなければ、起きなかった悲劇かもしれない。
世界大戦の勃発
プリンツィプは背後関係がばれない様に毒を飲んで自殺を図るが失敗。
さらに、他の自殺に失敗した暗殺者などの証言で、暗殺計画の背後にセルビアがいることが判明した。
前皇太子であるフリードリヒが、暗殺とも思われる心中を遂げていたこともあり、オーストリアの人々は、フランツ皇太子の死に対し、戦争を起こすほどの熱は無かった。
ところが、前皇太子の華やかな葬儀とは違い、貴賤結婚で冷遇されていた二人の慎ましい葬儀とフランツ大公とゾフィーの関係が民衆に知れるようになると反応は変わった。
民衆は二人に同情し、セルビアへの報復を望むようになった。
そして、オーストリアはセルビアに最後通牒を行い、第一次世界大戦の幕が切って落とされることになる。 
オーストリア皇太子の日本日記 1
フランツ・フェルディナント(フランツ・フェルディナント・カール・ルートヴィヒ・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク・ロートリンゲン、Franz Ferdinand Karl Ludwig Josef von Habsburg-Lothringen, Erzherzog von Österreich-Este)は、1863年12月18日に生まれ、1914年6月28日サラエボで妻ゾフィーとともに暗殺された。
フェルディナント大公は、1889年、時のオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇太子ルドルフが亡くなったことから、帝位継承者となる。
1892年12月25日、トリエステ港からオーストリア・ハンガリー帝国海軍防護巡洋艦「カイザリン・エリーザベト(艦長はアーロイス・フォン・ベッカー大佐(Alois von Becker)、副艦長はレオポルド・フェルディナント大公(Archduke Leopold Ferdinand)」に乗船し、世界一周の旅に出、1893年10月18日にウィーンに帰還した
約10ヶ月の日記は「TAGEBUCH MEINER REISE UM DIE ERDE 1892-1893」として1895年に出版されたが、本書はその一部で、長崎上陸前の1893年7月29日から8月24日の横浜までの日記である。
訳は、基本的に日本で通用する用語が使用されていて、そのまま読むとフェルディナント大公は理解しているような印象を受けるのだが、原文でどのような表現になっていたのか、大公がどこまで理解していたのかが気になるところだ。
そして、フェルディナント大公が日本のみならず各国で蒐集した資料は、一部が展覧会で披露されたようだが、現在はどうなっているのだろうか。
トリエステを出た一行は、スエズ運河〜セイロン〜ボンベイ〜カルカッタ〜オランダ領東インド諸島〜シドニー南西太平洋諸島〜シンガポール〜香港とめぐり、長崎に到着した。
フェルディナント大公の横浜出発は8月25日、「カイザリン・エリーザベト」ではなく、太平洋航路(ヴァンクーヴァー〜横浜〜香港)に就航していたカナダ太平洋汽船(Canadian Pacific Steamships)の「エンプレス・オブ・チャイナ(RMS Empress of China)」で太平洋を横断、ヴァンクーバーからアメリカ大陸を横断し、さらに大西洋を渡ることになる。
なお、「カイザリン・エリーザベト」は、その後もしばらく横須賀などに留まり、日本を出発したのは9月末、スエズ運河経由で帰国したようだ。
内容は、地理や軍事、農工業、文化など、非常に多岐にわたり、かつ、克明である
フェルディナント大公自身の日記とされているが、さまざまな行事が組まれ、日によっては未明から深夜までスケジュールのつまった日程のなかで、これほど精緻な記録をつけることは、じっさいは困難だったのではないか。
出版にあたってはマックス・ウラジミール・フォン・ベック男爵(Max Wladimir von Beck)による校閲を経ているということだが、一行のなかにはおそらく、記録係がいたのだろうと思う。
フェルディナント大公が東京に来るときは、オーストリア・ハンガリー帝国代理公使ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵(Heinrich Coudenhove-Kalergi)(1892年2月に日本に赴任)が、国府津から同行している。
ハインリヒは、このとき以外にも、東京でフェルディナント大公の世話をしていたようだ。
ハインリヒの長男ハンス(光太郎)が出生したのは1893年9月16日であることから、フェルディナント大公はハインリヒの妻みつとは会っていないと思われる。
また、1823年6月に長崎の出島のオランダ商館医となり、1828年に帰国する際シーボルト事件により国外追放となった、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)の次男のハインリッヒ・フォン・シーボルト(Heinrich von Siebold)は、1869年に来日してオーストリア・ハンガリー帝国公使館に勤務(通訳、書記官、後に代理公使)しており、フェルディナント大公の通訳を務めた。
このときハインリッヒ・フォン・シーボルトは、横浜総領事代理だったようだ。
ハインリッヒ・フォン・シーボルトの足跡は次のとおりである。
1869年、兄と一緒に日本に発つ。
1872年1月、日本代表部の臨時通訳練習生、10月ウィーン万国博覧会の日本万博委員会の連絡係となった。
1873年1月、博覧会への陳列品と共にウィーンに行き、同年3月名誉通訳官に昇任、翌1874年6月再来日した。
1883年2月、領事館官房書記官、その後代理公使、横浜代理領事、1等官房書記官、上海総領事代理などを歴任し、1896年7月10日離日した。 
オーストリア皇太子の日本日記 2
「オーストリア皇太子の日本日記−明治二十六年夏の記録」を読んだ。この本は、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントの世界旅行日記から日本の部分を邦訳したものである。フェルディナントは第一次世界大戦の発端となったサラエボで暗殺されたオーストリア帝国帝位継承者である。皇太子は当時29歳で1892年12月〜1893年10月まで10カ月の世界旅行を行い、日本には約1カ月ほど滞在している。その時の日本はちょうど近代化に向けてひたむきに走っていた「坂の上の雲」の時代で日清戦争直前である。
旅行の目的は「世界旅行者のような素朴な好奇心からではなく……異質な国民、民衆、文化、民俗についての知見を獲得し、異国の芸術を鑑賞し、さらには、汲めども尽きない異郷の自然に肌で接したい」と書いてある。しかしそればかりではないだろう。当時のオーストリア帝国は、すでにかつてのハプスブルク家の栄光は傾きかけており、海外進出の面でもイギリス、フランス、ドイツに後れをとっていた。旅行の最大の目的は東アジア地域における商業上の権益の確保や海軍の洋上訓練だったが、オーストリア帝国の立て直しのために軍事状況の視察などもあったと推定される。
日記を読むと大量の工芸品の買い付けを行っており、皇太子の文化や芸術への理解や骨董への審美眼など、深い教養を感じさせる。日本文化をよく理解しているなと感心しながら読んでいたら、通訳者としてシーボルトが同行しているとの記述があり、なるほどなと思った。
日記の中で面白いと思った部分を抜粋する。
住居は木と紙でできているから、日本人の生活空間はもちろん、そこで営まれている生活風景もかんたんに一瞥できる。家屋が街路に面している部分には開閉可能な壁がはめ込まれ、昼間には取り外されることがある。だから、足早に前を通り過ぎても、内部全体をのぞくことができる。また、内部の部屋は木製の壁のようなもので仕切られている。この木製壁面には紙がはられ、みごとな筆さばきの絵画がときに描かれ、必要に応じて開閉することもできる。だから日本家屋は、住む者の必要次第で内部空間の変更がどのようにも可能だ。ヨーロッパの牢固とした隔壁に慣れ親しんでいるわたしたちには驚愕であり、ヨーロッパ人の感覚でいうところの"動かざる価値"を日本家屋に見出すことはできない。生活雑器については、簡素という範囲を出ない。最低限必要な日用雑器を別にすれば、住居の床に敷かれている萌黄色のうつくしい畳を前提に考えられている。それだけに、工房や店内で製作される工芸品はじつにさまざまで、どれも心地よい感興を呼び起こし、日本人の勤勉さと美的センスを雄弁に物語っている。
男性と比べれば、この民族の女性は一般的にきれいだと思う。より厳密にいえば、かわいらしいといってもよい。わたしたちが出会った女性はひとりのこらず、みんな同じタイプであった。彼女らが軽ロをたたきあいつつ微笑を浮かべて歩く姿を見ていると、まるで生命を吹き込まれた愛らしい陶製人形を眺めているような心地がする。ときには、とても目鼻だちの整った美少女に出会うこともある。ヨーロッパの美女の面立ちと比べても、称賛に値する美しさだ。
ゆたかな稲作は日本の農業を特徴づけるものだ。どこでも土地が細分化され、そのため小規模農家が圧倒的であり、園芸とでもいうべき農耕が支配的である。こうした稲作農法では役畜の利用はかんがえられず、稲田も畑も小規模のため人力での耕作が可能である。だから、ふつう、日本の農業には役畜が必要とされない。
ようやく本格的な祝宴が始まった。茶が一碗まず供され、そのあとすぐ料理がわんさと並んだ漆塗りの膳が運ばれてきた。魚、蟹、海老などの海産物をはじめ、野菜、米、茸、果物が幾通りにも調理され、いかにもおいしそうに小振りの漆器や陶磁器に盛りつけされていた。どの膳にも、象牙の箸、それに紙ナプキンが添えられていたのはいうまでもない。一般に日本の料理は、見たところ、中国料理とそう大差がないように思われる。が、ここ熊本の経験では長崎でもそうだったが日本料理のほうが目にはいかにも美味に映るし、とにかく一品一品それぞれの由来や材料がひと目で分かるように調理されている。ところが中国料理では、そうはいかない。
この芸術的料理には本物の樹木も植え込まれ、その枝がいまにも折れんぼかりに、木の実がたわわに実っている。また、咲き乱れる花々は、料理人の想像力が生み出したものだ。架空の動物、見たこともない花々が菓子で形作られている。わたしたちの目がこの美食の精華を堪能したのを見定めると、娘さんたちは膳の前に膝をつき、つぎに、この大芸術品−際物だが楽しく、かつ高度な技巧が要求され、日本人の装飾好きを象徴している−に箸を入れ、皿に取り分け、それを別の娘さんが手渡してくれた。おかげで、みんながそれぞれ竜や、鶴や、亀などの分け前にあずかることができた。
騎兵連隊の装備にヨーロッパ、式が導入されてまだ日が浅かったが、見るべき成果は大いにあった。見たところ、不十分な部分も見受けられはしたが、それでも、予想をはるかに上回る充実ぶりであった。
祝砲がどよめくなか、皇室特別列車で九州鉄道[当時、門司-八代間は九州鉄道、現在の鹿児島本線]の終点、九州北部の門司駅をめざした。
小屋は、仕上げも造作も一棟一棟それぞれ異なり、多彩な感覚をふんだんに見せていた。眺めているだけで、日本の工匠の造形感覚がいかに豊潤なものか、驚きが尽きなかった。といって、こうした造形感覚が多彩である一方、一棟一棟をつらぬいているものは小粋なセンスだ。建築材料は、おもに木材のほか竹、畳、和紙だ。思うに、たぐい工匠たちは、簡素きわまりない建て方で目の快楽を誘おうと、その類まれな技量をおしみなく発揮したのだろう。もちろん室内の調度も美の規範に忠実で、じつに趣味のよいものであった。同じ東アジアでも、中国の芸術はけばけばしいほどの極彩色を特徴としている。が、日本の芸術は−ときに色彩の多用ということもあるが芸術的節度、全き調和、親密な空気、それに、生をできうるかぎり快適に形作ろうという穏やかな態度が特徴的だ。生の喜び、好もしい感性、きわだつ美の感覚。こうした日本人の本性ともいうべきものが日常生活の随所に見られ、ごく深いところで自然と不離に結びつき、外国人の胸中にこの国と人びとへの共感を呼び起こしてしまう。
西本願寺は、一五九一[天正十九]年か九二年の創建で、その広大さ、装飾の豪華さにおいて抜きん出ている。この宗派特有の華麗な法要形態と共通していることは明らかだ。柱や屋根組みに用いられている木材の立派さはどうであろう!美術鑑賞にも耐え得る装飾のゆたかさ、高貴さはどうであろう!正面入り口の唐門には、菊の花や葉が華麗に彫刻されている。さらに、同じような装飾が壁画にも描かれ、それが高い屋根の木組みにまでせり上がっている。有名な彫刻の名人、左甚五郎使えるのは左腕だけであったが、堅い木材を刻んで傑作を生み出したのだという。
きょうの午後は、骨董品の買い入れに費やした。京都は、骨董品の購入には絶好の機会をあたえてくれる。もっとも、著名な大商店は外国人を念頭に置いているから、価格面では歓迎できない。だから、わたしは、"クリオショップ"と称して目新しさを装う商品倉庫のような店は敬遠し、裏通りにある小さな店に足を向けた。こういう店も負けず劣らず良品をもち、しかも派手な店よりはずっと安価だ。
条里で区画された京都は、南北が長く、東西が短い。だから、方角を見定めるのが容易だ。このことは、骨董店から骨董店へとかなりの距離を巡ったときには、さすがに便利なものと痛感した。ふつう、京都の人びとは市内の距離を見積もるとき、"太閤様"が建設した三条大橋を基点に考える。それに市内は、どこに行っても清潔感が満ちあふれ、人びとまは住家のまえの通りに水を撒くのを怠らない。いつも渋面をつくっているヨーロッパの家主とは大ちがいだ。
かつての将軍の城郭、二条城に向かう途中、絹織物の工房に立ち寄った。製品の中心はおもに海外向けではあるが、これぞ日本の繊維産業が誇る製品だというものも生産されている。生産工程は、基本的には、わが国の工場とだいたい同様だ。京都の織物工場は、市街の北西、西陣に集中し、業者の数は相当数ある。絹織物業は日本の製造業の主役であり、絹製品が重要な輸出品だからである。
きょうは焼けつくような暑さだったから、砲兵工廠の見学には煩わしさを感じたが、つくづく行ってよかったと思う。日本の兵器製造の水準の高さを自分の目で確認できたからだ。日本がきわめて短時日にヨーロッパ式兵器製造に習熟した事実は、驚異というほかない。いま砲兵工廠ではちょうど、火砲が若干数、くわしくいえば口径七センチの山砲から、新築造の要塞用の四十センチ砲に至るまで製造されている。日本政府は、海岸の各重要地点、各海峡、各岬、各半島に要塞をそれぞれ築造し、軍備強化を図っているからだ。砲兵工廠は、最新型の機械であふれていた。現在、この砲兵工廠は外国からも受注し、ちょうどポルトガル向けの山砲が製造されていた。
この正倉院からさほど遠くないところに、奈良最大の目玉、東大寺の大仏が安座している。内部には、靴を脱がずに入ることができ、驚くばかりの巨仏が安置されている。その巨大さは、金属技術において日本人の能力がいかに高いか、その証左でもある。
まるで日本人は自然の大きさには目もくれず、自然をねじ伏せ、縮小しているかのようだ。自然を人間の側に引き寄せるべく、いかにもかわいらしく、いかにわいしようも小振りに、いかにも倭小に砂作り、そこに園芸師の趣向を刻印しようとする。だから、日本の庭園で目にする一切は、"かわいらしい"といえばよいのだろう。この一語にほぼ尽きるのではないか。
わたしの目は、煙を吐き出す工場の煙突に釘付けになってしまった。このいらだたしい光景を目にしてしまうと、もはやこの国にも味気ないヨーロッパ文明の時代が開始されてしまったのだという感慨におそわれた。もはや理想など仰ぎ見られもせず、煙突のほうが重要視されている。もはや日本はヨーロッパの背中を見ることを学んでしまった。眼前の大切な寺社の意味をけっして見くびらず、畏敬の念をけっして捨てないこと。こんにち、新しい煙突が傲岸不遜に、数百年の興亡をへてきた古寺や古社の鼻先にそびえ立っている。わたしの心中に、冒濱ということへの抵抗心がめらめらと沸き起こり、ひとりのエゴイストがむくむくと頭をもたげ、ただ実用というだけで美と尊厳が冒漬されてもよいのかと主張している。
だが人びとは、それでもおとなしく、わたしにはその従順さが一種驚異でもあった。ひと言の悪態も罵声も発せられなかったのである。まことに日本人は、日常のどのような場面でも礼節を失うことがない。これら魅力的な顔の数々はとても印象的で、とくに女性たちがパレードに歓呼の声をあげていた。
すでに日本がアジア的神権政治と専制政治を脱却して文明国の一員であるというのは、否定しがたい事実であろう。したがって、アジアにおけるヨーロッパ列強の利害が多様化している現在、日本はいずれ大きな要因となりうるし、対外政治においては従来とまったく異なる視点で把握される必要がある。そう、日本が間接的にでもヨーロッパ諸国に影響をおよぼしうるという可能性はじゅうぶんに考えられることだ。まさにこれこそが日本の近代化という苦闘がもたらした成果なのか、あるいは、文化をかくも多く東方にもたらさざるべし、という警告なのか?
このあと天皇は異例だそうだが−浜離宮に再度お越しになった。わたしが日本訪問で受けた好印象に満足されている旨をお話しくだされ、さらに、日本人の発明になる自動連発銃一挺[村田銃]を贈呈してくださった。これは、近く陸軍に導入されるそうだ。
奥の石段をのぼり、第二の大門、陽明門をくぐると、第三段目の境内にようやく至りつく。それにしても、この陽明門は日本の建築技術、装飾技術の至宝というにふさわしいものだ。さまざまな工匠たちがここに集い、奔放と繊細を一体となし、おのれの時代の技巧を後世にとどめようと存分に腕をふるい、こうしていま、わたしたちを驚愕させているのである。

皇太子の日本文化に対する理解の深さには驚いた。シーボルトのアドバイスもあったのだろうが、ヨーロッパとの文化の違いや日本文化の良さを細かい点までよく見ている。たとえばヨーロッパでは居間や寝室など用途によって部屋が分かれており、家具も備え付けだ。それに対し日本家屋は、部屋に日用家具や布団を運びこむことによって用途変更が可能だという特徴を持つ。そのことが日本では移動可能な箪笥をはじめ様々な用途を持つ工芸品を発達させてきた。料理も由来や素材がわかる日本料理の特徴をよく理解している。
この日記を読むと明治二十六年にはすでに全国に鉄道網が張り巡らされており、繊維工業や砲兵工廠はヨーロッパ並みの技術に達していたことがわかる。「砲兵工廠は外国からも受注し、ちょうどポルトガル向けの山砲が製造されていた」「日本人の発明になる自動連発銃一挺[村田銃]を贈呈してくださった」との記述には、日本の近代化のスピードに驚かされる。
京都で煙を吐き出す工場の煙突にいらだちを感じたり、日本人の礼節を失うことのない態度に感心したりするのも、文化を大切にするオーストリア人らしいと思う。
私が、とりわけ皇太子フェルディナントに感心するのは、日清・日露戦争以前に日本の台頭を見抜いている次の文章だ。
「すでに日本がアジア的神権政治と専制政治を脱却して文明国の一員であるというのは、否定しがたい事実であろう。したがって、アジアにおけるヨーロッパ列強の利害が多様化している現在、日本はいずれ大きな要因となりうるし、対外政治においては従来とまったく異なる視点で把握される必要がある。そう、日本が間接的にでもヨーロッパ諸国に影響をおよぼしうるという可能性はじゅうぶんに考えられることだ」
皇太子は単に文化の理解や骨董への審美眼があっただけでなく、すでに日本は神権政治や専制政治から脱却し近代国家になり、その影響はヨーロッパにも及ぶと予想する先見性を持っていた。オーストリア皇太子フェルディナントが訪問する少し前に、ロシア皇太子も日本を訪問しており、十数年後に日露戦争が勃発することを考えると、若き皇太子たちの理解力の差が国の運命を左右したとも言える。もし皇太子フェルディナントがサラエボで暗殺されず、帝位を継承していたとすれば帝政がもう少し続いていたかもしれない。しかし結局、20世紀初めには、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア帝国、中華帝国、オスマントルコ帝国と、帝国は次々と滅んでいく。そして最後には大日本帝国も滅ぶ。歴史の流れというものだろう。
最後に訳者のあとがきによれば、日本訪問の際に持ち帰った民族学や自然科学上の資料は整理されて一般国民にも公開された。そしてこの時展示された装飾芸術は、フランスとは異なるウィーン独自のジャポニズムが大きく開花する機縁ともなり、日本の工芸品の意匠がウィーンの建築、室内装飾、服飾などに重要な影響を与えた、とある。  
オーストリア皇太子の日本日記 3
1892年(明治25年)12月25日トリエステを出港したオーストリア皇太子一行は1890年(明治23年)進水した4,064トン全長104メートル、幅15メートルの軍艦「エリーザベイト号」で1893年8月2日、長崎に入港しました。長崎はどこも清潔さと快適さがあふれて、中国の不潔さとは対照的だ。日本の上流層は服装・・・皇族や官僚は着用を定められている・・・を着ているものの大半の一般民衆は何代にもわたって慣れ親しんできた着物をいまだに愛着を持っている。私は伝統的な民族衣装の愛護論者を自任している。従って、これといって特徴のない洋服によって和服が駆逐されているのを嘆かずにはいられない。
日本は男性に比べれば女性は一般的に、きれいだと思う。ヨーロッパの美女の顔立ちと比べても賞賛に値する美しさだ。彼女らは軽口をたたきあいつつ微笑を浮かべて歩く姿を見ていると、まるで生命を吹き込まれた愛らしい陶製人形を眺めているような心地がする。
長崎港から三角まで船で行き、三角港からは人力車に乗り42キロメートル走って熊本に到着した。隊列の先頭に警察幹部、人力車の警備も道路はすべて巡査で埋め尽くされていた。2年前のロシア皇太子ニコライ暗殺未遂事件があったことで、過剰ともいえる警備態勢が敷かれていた。熊本クラブで北白川宮能久親王主催の晩餐会が開かれた。8月5日は熊本城に行き司令部や騎兵隊のパレードを見物後に水前寺公園の庭園を見た。
熊本からは皇室特別列車に乗り門司に入った。途中ある程度の都市はいうに及ばず列車が停車しない小駅さえ、駅頭には群衆が集まり、その先頭には市町村長や司令官やありとあらゆる貴顕紳士がずらりと顔をそろえて出迎えた。門司までの全区間、くまなく警備態勢が敷かれ鉄道と道路が交差する踏切には必ず巡査が立って威厳と使命感をみなぎらせて敬礼した。沿線の風景は柔和な感じの平地が山間に広がり、生気が一面に満ち滴るような緑の中小さな集落が無数に顔をのぞかせていた。山も丘陵もたいてい針葉樹に濃く覆われていた。終点の門司駅では歓迎式典が待ち受けていた。
下関へはランチで渡り、下関から巡洋艦「八重山」で8月6日出港し瀬戸内海を進んだ。どの島も、よく手入れされた耕地が丘陵の斜面を這い上がり、振り返って見ればかすかに波立つ海面に小舟が踊るように群れている。濃厚な魅力の、いま目前に展開されている風景を凌駕するような自然の景観というものは、どれほど想像力を大胆に飛翔されたとしても思い描くことが出来るものかどうか、ちょっと難しいのであるまいか。
今日の目的地、宮島でも歓迎を受けなければならなかった。本当は、こうしたことから解放されたかったが、日本人は機会あるごとに物事をできる限り厳粛に、できる限り華麗に執り行うことに最高の価値を置いている。両国の接伴員や随行員に伴われ警備兵や衛兵の整列する白砂の道は宿舎まで延々と続き、しかも灼熱の中をパレードしたくないため駆け足で宿舎に逃げ込んで歓迎式典を省略させてしまったので、随員たちは皆息を切らせて追いかけてきた。
日本家屋のことは次のように述べています。建築材料は主に木材のほか竹、畳、和紙だ。思うに、工匠達は簡素極まりない建て方で、目の快楽を誘おうと、その類(たぐい)まれな技量を惜しみなく発揮したのだろう。もちろん室内の調度も美の規範に忠実で実に趣味の良いものである。同じ東アジアでも中国の芸術は、けばけばしいほどの極彩色を特徴としているが、日本の芸術は・・・時に色彩の多用ということもあるが・・・芸術的節度、全(まった)き調和、親密な空気、それに生を出来る限り形で作ろうという穏やかな態度が特徴的だ。生の喜び、好もしい感性、際立つ美の感覚。こうした日本人の本性ともいうべきものが日常生活の随所にみられ、ごく深いところで自然と結びつき、外国人の胸中に、この国と人々への共感を呼び起こしてしまう。
明治26年8月7日、オーストリア皇太子一行は宮島から巡洋艦「八重山」に乗り瀬戸内海を航行して三原に上陸、山陽鉄道の終点である三原駅へ向かいました(当時は三原から下関までの鉄道は未だありませんでした)。三原駅から宿泊した岡山まで停車した駅はどこでも地方官士も学童も消防団も、それに軍隊が駐屯しているところでは将校も、皆総出で出迎えてくれた。日本の皇室や政府が接遇に過剰な労力を払ってはいけないと思い、横浜までお忍びで旅行するか、さもなくば歓迎式典を必要最低限のものにするよう幾度も要望していた。しかし、現実にはどうやら逆で、最大限の儀礼を尽くし国内各地を案内することに最重点が置かれていたようだ。
8月8日、岡山駅から京都駅に着き、皇室差し回しの馬車で天皇の京都御所へ向かった。夜もかなり更けていたにもかかわらず沿道には群衆がぎっしり詰めかけ提灯に照らされて人垣を作っていた。京都では浄土宗総本山の知恩院、清水寺、二条城、西本願寺、東本願寺などを見物した。また陶器や西陣織の工房なども見学した。8月10日に京都から大阪へ列車で移動し大阪駅から馬車で大阪城や兵器工場を見学後に将校クラブで昼食を取り、湊町(みなとまち、現在のJR難波)から鉄道で奈良へ向かった。法隆寺駅で下車して人力車で法隆寺へ行き見物した後に春日神社の近くの貴賓館に宿泊した。夜は宿舎の庭で雅楽や能が演じられた。8月11日は正倉院、東大寺、二月堂、春日大社を見物して夜8時、京都へ戻った。8月12日、銀閣寺を見学後に1台ごとに3人付いた人力車50台を連ねて京都西北の桂川(保津川)へ行き川下りを楽しんだ。
8月14日は東海道線を使って琵琶湖に行った。馬場駅(現在の膳所)で降りて馬車に乗り換え湖岸の大津へ向かった。1891年(明治24年)にロシア皇太子ニコライの襲撃事件があったので大警備態勢が敷かれていた。大津から岐阜に行き、長良川の鵜飼いを見物したが僅か1時間も満たない時間で44羽の鵜が捕えた魚はなんと300匹にも達した。この川は皇室の所有ということだが魚の豊富さは殆ど夢物語に近い。魚の生息数は決して減ることはない。禁漁期もなければ養殖施設もないことを思うと、日本の河川は魚類にとって生息条件がいかに有利かわかるし特に工業施設による水質汚染が皆無か、あるいはヨーロッパの程度までには至っていないということである。
岐阜から名古屋に入り名古屋城を見物後に浜松、静岡を過ぎたが富士山は霧のベールに包まれ見ることが出来なかった。国府津(こうづ)で列車を降りて馬車鉄道で小田原経由箱根の湯本に着き、ここからは人力車で宮ノ下の富士屋ホテルに入った。8月16日、4時間もかけて竜の入れ墨を左腕にしたが、将来後悔することになるだろうと皇太子は述べている。17日朝5時に宮ノ下を出発して国府津駅を7時の列車で横浜へ向かった。横浜駅頭から見える港内には「エリーザベイト皇后号」の巨体と優美な船体を見ることが出来た。横浜から東京(新橋)へ向かう列車内で正装に着替えた。
横浜から鉄道で新橋駅へ向かい、駅には天皇陛下名代の有栖川宮親王が出迎え、浜離宮へ馬車で到着した。東京は15区、隅田川の左右に大きく市域を広げていた。今の日本人は、民族固有の建築様式を捨て去ろうとしている。容認しがたいほどだ。そもそも日本には、大きな特徴を持った固有の建築様式があるのではないか?風土と交響する建築様式、すなわち高度に発達した芸術や産業とも人間自身とも日常の生活とも見事に一体化している建築様式だ。
睦仁(むつひと)天皇、美子(はるこ)皇后に謁見し歓談した。8月18日はオーストリア臣民の大祭日・・・皇帝陛下の誕生日・・・「エリーザベイト皇后号」で午後2時、艦長以下の面々、公使館関係者を招待し祝祭日の正餐を行うつもりでデッキに飾り付けをして、食事を開始しようとしていた時、にわかに暴風雨(台風)に襲われ、やむを得ずテーブルを士官室に持ち込んで1時間遅れで開催された。2時間後、東京の晩餐会に出席するためランチに乗ってようやくのことで港に着岸した。晩餐会は鹿鳴館で開催された。出席者は皇族をはじめ、諸外国の外交官や顕官要人らであった。有栖川宮熾仁親王がオーストリア皇帝への祝辞を述べ、私が天皇陛下のご健康を祝って乾杯をした。この後、2階舞踏室で300名の参加者による大夜会が催された。
8月19日、青山練兵場で観兵式に臨んだ。天皇陛下、陸軍大臣、公使館付武官、高級将校などの前で、歩兵は中隊が散開して大きく広がり騎兵・輜重隊(しんちょうたい)もそれぞれ散開して隊列を組んでいた。日本は軍事研究のため諸外国へ留学させ短時日に軍制を習得した。ドイツで訓練を受けた将校は背筋を伸ばして騎乗し、フランスで訓練を受けた将校は柔軟な騎乗姿勢を見せていた。このパレードのさなか、天皇が騎乗された馬が落ち着きを失うことがあった。すると主馬寮(しゅめりょう)の馬監が鞍から飛び降り、やおら土をわしづかみにして、それを何と馬の口と鼻の穴にすり込んだのである。それにしても私たちには見たことのない馬の鎮静法だった。午後、浜離宮庭園で刀、槍による模範試合を武道学校の生徒によって開かれた。4時に正餐に招かれ天皇、皇后、各皇族に告別の式辞を述べた。
8月20日、昨日までの行事が目白押しで折角東京にいても市中を散策できなかったが、ようやく街に出ることが出来た。これまで訪問した幾多の都市に比べると東京固有のものが無く、没趣味で不統一だった。そのうえ、街路の中には長さが7キロにもおよぶものがあり疲れるばかりである。ところで1軒の商店で物色していると、にわかに床が波打つように上下に動いた。壁が震え、水槽の水が高く盛り上がった。これまで幾度も東京を襲った地震というやつだ。「おのれの恐ろしさを見せつけないままオーストリアに帰国させるわけにはいかない」、地中の諸力がそう考えているように思えたが、揺れはそう酷くはなかった。「俺に関心を持ってくれさえすればそれでよい、壊滅的な被害を与えるまでもなかろう」と少し押さえてくれたのだろう。
8月21日上野駅から宇都宮経由、午後11時日光に到着した。東照宮は勿論、今までヨーロッパ人は一度も入ったことがないという本殿にも入ることが出来た。日光では雨にたたられた。しかし日光を美女にたとえ、自分の魅力にも容姿にも自信があるから始終ふくれっ面しか見せてくれなかった。それでも私は日光に魅了させられてしまった。それはこの聖なる日光の大地、美しい夏の輝きを、ふっと吹きかけられた日光に漂う魔的な魅力のなせる業だ。
8月22日早朝5時、日光から特別列車で午後11時横浜に戻った。どこへ行くにも警備の警察官や日本側接伴員が同行するため、自由な市内見物が出来なかったのでグランドホテルの裏口から抜け出し人力車で出かけたが、あっという間に警察官が追いかけて来て、まるで影のように尾行者たちが付きまとって離れなかった。8月24日、始めて富士山を見ることが出来た。艦上ではこれまで訪問した国々の人たちを旅行の場面が順番に思い出させるようにとメドレー曲の演奏をバックにして行進が行われた。先頭はエジプト人、次にアデン〈イエメン〉、セイロン、カンディ〈スリランカ〉、インド、ヌメア〈ニューカレドニア〉、ボルネオ、オーストラリア、中国など乗務員が変装行列してくれて感動した。「エリーザベート皇太后号」は帰国の途へ、皇太子一行は「エンプレス・オブ・チャイナ号」(カナダ郵船)で世界周遊の、次の訪問国アメリカへ向かった。

日本はフェルディナント皇太子を積極的に迎い入れ、何としても国賓として日本国内旅行を完遂させ、以て文明化された近代国家たることを世界に知らしめる必要がありました。すなわち、擬似西洋化という演出を展開することであり、その歓迎ぶりは実に涙ぐましいというほかないと訳者は述べています。
最後に、この著者であるオーストリア皇太子フェルデイナントは1914年(大正3年)6月24日ボスニアヘルツェゴビナの首都サラエボで暗殺されました。この次期皇帝の暗殺事件を契機に、オーストリアはセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が勃発しました。その結果、オーストリアでは帝政が崩壊し共和制に移行しました。戦果はヨーロッパのみならず東アジアにも拡大し、日本は日英同盟を名目に参戦してドイツの租借地の青島(チンタオ)と南洋諸島を占領しました。 
諸話
保津川下り
1893年(明治26)、8月3日〜24日に日本に滞在し、8日〜14日に京都に滞在され、保津川下りに来られたのは8月12日のことでした。随行したのは、宮内省式部次長三宮義胤や海軍大佐黒岡帯刀などの5名。接待役の彼らは、イギリスやフランスなどに留学経験があるものばかりでした。
このフェルナンド皇太子の保津川下りの記録は、『オーストリア皇太子の日本日記 明治二十六年夏の記録』に書かれています。
【大宮御所→桂離宮(日記にはなぜか銀閣寺)→老ノ坂→】
まだ人気のない街路を、市外の西の方角に向かった。
一台ごと車夫が三人ついた人力車五十台をつらね、まず集落が点在する野を西北に走った。
※人力車五十台に車夫が三人とは、かなりの行列だったものと思われます。
道は、よく手入れされた山道で、峡谷を抜け、幾重にも曲がりくねり、京都西北の丘陵にむかっていた。(この丘陵は老ノ坂の山々と思われます)
かなり長いトンネルを抜けると、ようやく屋根に出、こんどはそこから桂川 ーここでは保津川と呼ばれるー が流れるヒロマジの谷に走り下り、でこぼこの道を行くと一時間、ようやくユマモト(山本)に着き、さらに桂川の急流に達することができた。
※1893年(明治26)には老ノ坂のトンネルと王子橋(メガネ橋)は完成していました。
岸辺には、三艘の舟が待機していた。じつに珍しい形の舟で、長さ六メートル、幅二メートル、薄板と木釘のみで組み立てられており、見たところ、とくべつ耐久力があるとは思えなかった。
※6メートルては短いですね。おそらく12メートルの間違いではないか?また、乗る前に舟を見てかなり心配していたと思われます。
とにかく乗り込もうと一歩進むごとに、ぞっとするほど底板がしなるのである。船頭は四人の屈強な男で、ひとりが舵をとり、ふたりが漕ぎ、さらに、もうひとりは長い竿を用い、岸の岩、川床の岩をやり過ごすという重要な任務を果たしていた。
舟に乗り込んだと思ったら、もうすてきな舟下りが始まっていた。
※舟下りの心配は吹き飛んでしまった様子!
あっというまもなく、最初の急流に乗ってしまい、目も回るような速さで押し流された。川水の流れに応じて、舟はときにしずかなにすすみ、ときに水しぶきに襲われ、眩暈(めまい)がするほどの速さで流され下った。舟の速さがもうこれ以上にはならないだろうと思ったとたん、よりによって前方に花崗岩の巨石がたちはだかった。あわや、か弱き舟は木っ端みじんかと覚悟したとき、なんと舵がきられ、竹竿と手のひらで巨石がらひと突きされ、すんでんのところで舟はかすめ過ぎた。
オーストリアの渓流を舟で下るのもきわめて刺激的であるが、危険であることも確かだ。だから、ここで事故がほとんど起こらないとすれば、ひとえにそれは船頭の腕と力の賜物だろう。
※船頭をこのようにして絶賛しています。
およそ、一時間半、このうえなく快適な時間が過ぎ去ってしまうと、桂川 ーここでは大堰川と呼ばれる ーの谷が大きく開けた。
※かなり保津川下りをお気にめされたのでした。
瀬戸内海
(明治26年(1893)の夏、日本を訪れたオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント。その旅行日記には瀬戸内海の美しさについて述べた文章がある。)
瀬戸内海は、西の下関から東の大阪まで、とくに中央部には火山活動でできた島々が海面をおおうばかりに点在し、日本の資料によると数千にもなるそうだ。(中略)錯綜する島々を抜けて行くのはまことにわくわくさせられ、実際に自分の目で見てみると、これまでの旅行記の昂揚した筆致もけっして誇張ではないと思い知らされた。比較的大きめの島には、意外と大きな山もある。じつに堂々とした姿だ。場所によっては樹木が生えていないこともあるが、背景としては効果的である。一方、小島の姿はいかにも幻想的だ。海面からにわかに巨岩が頭をもたげる島あり、丘陵におおわれた島あり、円錐形の山が櫛比する島あり。また、ある程度の大きさの島には、例外なく人びとが住みつき、海沿いに集落が点在し、漁村もあちこちに見える。どの島を見ても、振り返って見れば、かすかに波立つ海面に小舟が躍るように群れている。なんという多彩、暢達、壮大な印象。なんという濃密な魅力、いま目前に展開されている風景を凌駕するような自然景観というものは、どれほど想像力を大胆に飛翔させたとしても思い描くことができるものかどうか、ちょっと難しいのではあるまいか。わたしたちは時間のたつのも忘れ、すっかり目を奪われていた。  
オーストリア皇太子と松平容保
タナボタで繰り上がったオーストリア皇太子
第二次世界大戦ほど史書が出てないので、流れが漠然としか知られていない第一次世界大戦ですが、オーストリアのフランツ・フェルディナント皇太子がサラエボで暗殺(享年50)されたのがきっかけだったというのは世間の知る所でしょう。で、関連のサイトや文献を当たっていた所、興味深い事を知りました。この方、29歳の時に来日しているのですね。
プロフィールも興味深い。元々は皇帝フェルディナンド1世の弟(フランツ・カール大公)の血筋の生まれ。しかも大公の三男のお子さんとしての生まれでしたので、本来なら皇帝になれっこ無かった人です。ところが、運命のいたずらが。フェルディナンド1世の後を継いだフランツ・ヨーゼフ1世の子供であるルドルフ皇太子が1889年に恋人と心中し、代わりの後継者を急遽リストアップしなければならなくなり、浮かび上がったのが御本人でした。
つまり、タナボタで皇太子になった訳です。
皇帝と対立、「広い世界を見たい」 そして日本に
ところが、そうした経緯だったものですから、ヨーゼフ1世とは反りが合わなかった。そりゃそうでしょうね、皇帝にしたら、出来る事なら実の息子に継承させたかったろうし。
また、統治を巡る路線対立もありました。ヨーゼフ1世はハンガリーとの二重帝国体制を是としていたのに対し、皇太子はハンガリー嫌いで、むしろ南スラブも含めた連邦制国家にするべきではと思っていたからです。
そうした対立の中で、皇太子は「海外を見聞してみたい」と思うようになっていきました。1891年、ロシア皇帝と謁見しにペテルブルグを訪れたのがきっかけになったようです。「異質な国民、民衆、文化、民俗についての知見を獲得し、異国の芸術を鑑賞し、さらには、汲めども尽きない異郷の地の自然に肌で接したい」と思うようになった皇太子は、世界一周の見聞旅行に出かけます。そして、その訪問先の1つが日本だったのです。御本人は、その様子を後に本にまとめています(『オーストリア皇太子の日本日記』)。
不平等条約改正にむけて日本のおもてなし
当時のオーストリアは、アドリア海に領土を持っていましたし、海軍もありました。その為、船旅となりました(まぁ日本へ来るには、当時それ以外の方法は無かったし)。
オーストリア側にしたら、遠洋航海は良い訓練になるし、極東でのオーストリアの存在感を高めておくという狙いもあったのでしょう。そしてヨーゼフ1世にしたら「こいつの顔を暫く見なくて済むわぃ」との思いがあったに違いありません。皇太子自身の思いも含めれば一石二鳥ならぬ一石四鳥の諸国漫遊だった訳です。
一方の日本側にとっても、お出迎えは重要な意味合いを持っていました。当時は欧米列強との間に不平等条約があり、改正が急務となっていました。所謂「鹿鳴館時代」が、丁度この頃です。踊って文明化をアピールというのが結局痛い空振りに終わってしまい、「じゃあ、諸外国のエライ人に日本の発展ぶりを見て貰おう」と、今度はVIPお迎え作戦に転じます。その1人が、フェルディナント皇太子だった訳です。
ただ、このミッションは脂汗を伴っていたはずです。皇太子の来日2年前に、ロシア皇太子を招いたは良かったものの、周遊先の大津でよりによって警官に切りつけられるという一大不祥事(所謂『大津事件』)が発生していたからです。その為、1893年8月3日に長崎に着いた皇太子一行が、瀬戸内の風景を楽しみながら横浜入りし「おしのびで各地を訪れたい」と望んでいたのを巧みに退け、陸路を大パレードするが如き旅行にしつらえてしまいました。恐らく、「大警備が必要だ!」と思ったのでしょうね。
訪問先の1つが日光東照宮
さて、「必ずしも口に合うわけではなかったが、中国の料理よりは美味」と、和食にトライしつつ、皇太子一行は各地を見学します。熊本、下関、宮島などを経た後、京都、大阪、奈良、そして大津に向かいます。「大津は、滋賀県および近江地方の中心都市で、かつては五畿七道のひとつ、東山道に属していた。だが、この都市の名が広く知られたのは、ありがたくない事件があったからである」(同書138ページ)。琵琶湖の景観にうっとりしつつ、警備の物々しさに驚きつつ、家屋を見ると「ここはシュタルンベルグ湖畔(ドイツ南部)ではないかと、つい思ってしまう」(139ページ)と感じてしまうほど気に入った様子でしたから、日本側もホッとした事でしょう。
さて、東京で明治天皇と謁見し、大歓待を受けた皇太子は、意外な所を訪れます。「日本人には聖なる地、日光に到着した」のです。
何故、日光だったかは書籍の中で触れていません。ただ、この方、マメに物調べをする方だったらしく「『日光を見ずして、結構というなかれ』と日本人は良く口にする」(191ページ)と、今日でも有名な言葉をサラリと旅行記に挿入してるぐらいですから、好奇心があったのかも。また、既に当時から夏になればアメリカ人や英国人が訪れる観光名所になっていた事もあり「じゃあ行って見ようか」となったのかもしれません。
一行が到着したのは8月21日。華厳の滝の見学などを楽しみにしていたのだそうですが、生憎の雨に祟られた旅になってしまいました。
仏像に萌え、家康にご対面
そうした中で、訪れたのが日光東照宮。これ、よくよく考えれば微妙なチョイスではありますよね。何しろ、薩長の新勢力が打倒した旧幕府の開祖(徳川家康)を祀っているのですから。しかも、ホンの四半世紀前。明治政府側にしたら「うーん」と思っていたはず。「しゃーないな。条約改正絡んでるし」てな感じだったのでしょうか。
一行は、まず輪王寺に立ち寄ります。今日、重要文化財に指定されている三仏堂の美しさに目を奪われたからです。「僧侶の顔には、こんな早朝の訪問者に戸惑っている様子がありありと浮かんでいたが、そのうち観念したふうで、三仏堂の鍵を開けてくれた」(同書193ページ)とありますから、アポ無しだったのでしょうか。千手観音と阿弥陀如来、馬頭観音に感嘆したそうですから、押しの一手も効果有り?
そして、東照宮の本殿へ。「この拝殿の後方に行くと、本殿があった。が、黄金色の扉はかたく閉じられていた。ところが、この正面扉の前に立つと、なんと、国内を無邪気に遊覧する一般旅行者にはおよそ思いもおよばない大特権が与えられたのである」(197〜198ページ)。それまで一度も無かった、外国人向けの拝殿が許可されたのでした。
家康の座像に感激した皇太子は、こう書き残しています。「家康は、一個の人間としては、日本の歴史におよそ三百年の道筋をつけるという大事業を果たした。が、ここでは神として奇蹟をおこなったのである。つまり、家康は自分が祀られることによって、人びとをつよく鼓舞し、この至高ともいうべき芸術を達成させたといってよい」(199〜200ページ)。その足で、亡骸が収められた奥社へも、「苔むす二百余の石段をのぼった」(200ページ)そうですから、よほどの思い入れがあったのでしょうね。
当時のオーストリア・ハンガリー帝国と言えば、政情が不安定。そもそも、そうした統治体系になったのも、元は普墺戦争に負けたせい。軍事的な権威はドイツの後塵を拝する格好になっていました。また、時系列的には後になりますが、ヨーゼフ1世の妻、エリザベートが1898年に暗殺されるなど、治安的にも良くありませんでした。
…思うに、そうした中でタナボタ式に皇太子になったフェルディナンドは、織田信長、豊臣秀吉を相手に巧みな外交で生き延び、最期に笑った家康に何かを学ぼうとしたのではないかと、ワタクシメは想像しております。
東照宮の宮司は会津のラスト藩主松平容保
さて、一行を出迎えたのは、後世の我々から見れば意外な人でした。
「豪華な紫色の衣をまとった宮司」でした。「聞くと、以前は北部日本の大大名だったという。先の戊辰戦争で敗者となり、領地を没収されたが、のちに赦免され、いわば旧身分に見合う身分として伯爵に叙せられ、同時にこの神社の宮司に任命されたのだそうだ」。
ハイ、察しの良い読者の皆様はお気づきでしょう。そう、あの松平容保だったのですね。容保は戊申戦争後に蟄居を命じられますが、それが解かれた明治13年(1880年)に宮司となります。ちなみに亡くなったのは明治26年、つまりフェルディナンド皇太子が東照宮を訪れた年の12月5日。恐らく、生前最期の外国の要人お出迎えだったかと推察されます。
当時の東照宮の社務日誌には、受け入れ数日前から周到に準備がされ、当日は「後続随行員拝殿ヨリ幣殿御内御開扉拝後御装飾ヲ拝見。了テ宝物拝覧所、夫ヨリ奥宮ヘ参詣、下山後上社務所ヘ」との記録が残っているそうですから、お出迎えのルート設定は容保の差配だったのかもしれませんね。
まぁ薩長に大砲を撃ち込まれた事を思えば、楽なミッションだったかも?
ちなみに、記録は「殿下還御後、当宮殿ノ如キ木造ノ構造精密ヲ尽クシ候ニハ感ジ入リ候テ、万国第一ノ美観ト評シ候よし」と続くそうですから、皇太子に満足してもらった様子。まずは大成功だったのでしょう。
それにしても、縁は異なものですね。容保とオーストリア皇太子がね〜って感じが。
さて、その後一行は日本を後にしてからは太平洋を渡りアメリカへ。イエローストーンやシカゴを見学した後でフランスに。流石に船旅に飽きたのか、後は陸路でウィーンに戻ります。旅行中に収集した資料が3万点を超していましたが、それらを整理して国民に一般公開するなどのサービスをしました。既に同国では日本の装飾品に関する関心が高かったのですが、持ち帰った品々が火に油を注ぐ格好となり、フランスとは別の「ジャポニズム」となっていったそうです。
…そうして広めた見聞が、結局は花開かず、それどころが死が大戦争の引き金になったというのですから、惜しい話だし、皮肉なものですね。もしサラエボに行かず、生きながらえていたら、どうなっていたでしょうか。
 
ヴェンセスラウ・デ・モラエス 

 

Wenceslau Jose de Sousa de Moraes (1874〜1929)
ポルトガル人外交官(海軍軍人)・文筆家。日本の風情・人情・自然に魅せられ、没するまで約30年間日本に暮らした。マカオなどで海軍の高官として勤務した後、1889年初来日。日本に初めてポルトガル領事館が開設されると在神戸副領事として赴任、のち総領事となり、1913年まで勤める。神戸で芸者ヨネと知り合い結婚。しかしヨネが死んだため総領事を辞してヨネの故郷徳島に移り住んだ。その後ヨネの姪小春と暮らすが小春にも先立たれ、その後は徳島で一人暮らしし、孤独の中で著作と墓参の日々を過ごした。1929年自宅の土間で死んでいるのを発見され地元住民らによって葬式が営まれた。『おヨネとコハル』『大日本』『日本精神』『徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記』や日本についての著作があり、また日記・書簡など、ポルトガルの新聞や雑誌などに寄稿した文章が多数残されているが、ポルトガル語であるため、日本ではあまり知られることがなかった。著作のほとんどが彼の死後、日本語に訳されて日本礼讃の書として知られるようになった。 
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ポルトガルの軍人、外交官、文筆家。
1854年にポルトガルの首都リスボンに生まれ、海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官として奉職。1889年に初来日。マカオ港務局副司令を経て、外交官となる。1899年に日本に初めてポルトガル領事館が開設されると在神戸副領事として赴任、のち総領事となり、1913年まで勤めた。
モラエスは1902年から1913年まで、ポルト市の著名な新聞「コメルシオ・ド・ポルト(ポルト商業新聞)」に当時の日本の政治外交から文芸まで細かく紹介しており、それらを集録した書籍『Cartas do Japão(日本通信)』全6冊が刊行された。
神戸在勤中に芸者おヨネ(本名は福本ヨネ)と出会い、ともに暮らすようになる。1912年にヨネが死没すると、翌1913年に職を辞し引退。ヨネの故郷である徳島市に移住した。ヨネの姪である斎藤コハルと暮らすが、コハルにも先立たれる。徳島での生活は必ずしも楽ではなく、スパイの嫌疑をかけられたり、「西洋乞食」とさげすまれることもあったという。1929年、徳島市で孤独の内に没した。
著作と評価
著書に『おヨネとコハル』、『日本精神』、『ポルトガルの友へ』、『徳島日記』がある。ポルトガル語で著述したこともあり、生前には日本ではほとんど注目されることがなかったが、死後、日本語への翻訳がなされ、昭和初期の時代の風潮もあり、日本賛美として取り上げられるようになった。
モラエス自身を取り上げた小説に、新田次郎の『孤愁 サウダーデ』(未完)がある。また、絶筆となった本作のポルトガルへの取材旅行の際、新田次郎は詳細なメモ、スケッチ、俳句などを残しており、それを元に、次男で数学者・エッセイストの藤原正彦が、単身、レンタカーを駆って追体験している。その様は、『父の旅 私の旅』として出版されており、それぞれの「サウダーデ」を問う旅として見ることが出来る。2012年には正彦が父の小説を引き継ぐ形で続きを書いたものが出版された。
池内紀は“ヘンなガイジン第一号。とともに「第二の人生」の手本を示したぐあいである”と『モラエスの絵葉書書簡』の書評の中で書いている。
徳島市のモラエスの旧宅の一部は現在眉山山上の博物館施設「モラエス館」の内部に移築されて保存・活用されており、また壮年期を過ごした神戸の文学館ではモラエスに関する資料が展示されているなど、後世に伝えるべき文筆家として高く評価されている。以前旧宅のあった徳島市伊賀町一帯には「モラエス通り」と名付けられた通りがある。

1854年5月30日、ポルトガルのリスボンに生まれる。
1875年、海軍兵学校を卒業して海外の植民地に勤務した。
1885年、初めてマカオに渡る。マカオ港務副司令官と同時に高校教師も勤めた。マカオ滞在中には現地女性の亜珍と結婚し2人の子どもをもうける。この間、ポルトガルの詩人カミーロ・ペサーニャと親交を結ぶ。
1889年、初来日、以後しばしば日本を訪れた。
1898年、マカオ港務副司令官を最後に退役、日本に移住して神戸・大阪ポルトガル総領事を務めた。領事時代、徳島出身のおヨネと知り合い結婚。おヨネの死後、1913年に徳島に移り住んだ。徳島の豊かな自然や市井の生活を愛し、おヨネの姪斉藤コハルを愛したが、コハルにも先立たれ、孤独な晩年を送った。日本を紹介したエッセイを数多く書いて祖国ポルトガルに送り続けた。『大日本』『日本通信』『徳島の盆踊り』『日本精神』など多数の著作を残し、文学者として高い評価を得ている。
1929年7月1日、徳島市伊賀町の自宅で死去。行年75歳。 
コハル
モラエスの領事としての仕事ぶりなかなかしっかりしたものであったらしい。地位も安定し、おヨネを得てモラエスの生活は落ち着いたものとなる。神戸で一緒に暮らし始めたのはモラエス46才、ヨネ25才であった。写真ではおヨネはうりざね顔の楚々とした美人である。モラエスの代表作といえば『おヨネとコハル』であるが、その中でおヨネ像について具体的に書かれているのは、亡くなったおヨネの「夢を見て」の箇所である。「使い古しの絹のハギレ、古くなって約にたたなくなった小箱、・・受け取った郵便葉書、手紙・・・」など、こまごましたつまらない品々を念入りに丁寧にかたずけ、小箱におさめ、ひもやリボンでくくって箪笥の引き出しにしまう、「整理好きな、善良な、無邪気な愛くるしい」女性と書かれている。
本の題は『おヨネとコハル』であるが、ほとんどを徳島で、結核で亡くなっていくコハルについて書かれている。コハルはヨネの姪にあたり、ヨネ亡き後モラエスと一緒に暮らし、世話をした女性で、徳島に隠遁したモラエスが唯一たよりにする人物であった。美人ではないが元気で若かった。コハルが病を得て骨だけになっていく、それをモラエスが誠実に、けなげに看病をしていく様子がほとんどである。おヨネよりコハルか?
同じ病で亡くなったおヨネもコハルと同じ最期であったろう。おヨネのことは書くに忍びなかったのであろう。同じ病で亡くなっていく二人をわざわざ書くこともなかろう。コハルにしてモラエスはかくも悲しんだ。おヨネに対してはいかばかりか、書かれなかったことによって、却ってそのモラエスのおヨネに対する愛情の深さを私は思うのである。この二人のことが書かれている箇所に「蛍狩り」の箇所がある。日本の風習としての蛍狩りを書いた後で、モラエスが徳島における借家の南京錠を暗闇で開けようとすると、一匹の蛍が飛んで来て、モラエスの手元を飛んだ。「おヨネだろうか・・、コハルだろうか・・」でこの作品は終わっている。おヨネについて書かれているのはこの「夢を見て」と「蛍狩り」の2箇所だけである。モラエスはおヨネを女神のように崇め、熱愛したそうである。
コハルについては
「コハルは、健康を売っているかと思われるような、背の高い、小麦色の、陽気な、生き生きとしたむすめであった。美人とはいえなかった。それとはほど遠くすらあった。だが、ほっそりとした横顔、おてんばらしいきびきびした動作・・彼女は主として戸外で育ったのだ・・、素直な柔和な目ざし、まっ白な二列の歯並びを見せて口元に絶えず浮かべる微笑、かっこうのよい手足に魅力があった。それに、彼女のような貧しい階級の大部分の女にくらべれば聡明であった。自然の事物を前にして好奇心の強い、研究心のある、感じやすい、芸術的な気質に恵まれていた。また、夢見るような詩情がその火のように熱い脳みその中にかもし出されていた・・・」と書いている。
コハルとおヨネは縁戚といえ、容姿もそうであるが、コハルは戸外で育ったとすれば、おヨネはお座敷で育ったといえる、二人はまさに対照的である。
その健康を売っているかと思われるようなコハルは、「腕のやさしい丸み、胸の美しいふくらみ、臀部の美しいふくらみ、つまりは女性に肉体において美しいすべてのものが消滅してしまい、ひとかけらの骨が残っているに過ぎない」身体になって、23才の若さで亡くなるのである。日曜から月曜にかけての夜、父親がそばにいるとき、コハルは父親に、指にはめている金の指輪を渡し、母親に持っていってくれという。この指輪は20年前に大阪の貴金属店でモラエスが買い、おヨネに与えたものであった。4年前におヨネの冷たくなった指から抜いてコハルに贈ったものであった。「悲劇的な指輪物語」とモラエスは書く。
コハルには愛人があり、子供を生んだ。男は遊人であった。このことについては、臨終間際に母親と妹のマルエが1歳ばかりの子供を伴って来た場面で、「その子はコハルの子に違いないと私は思った。コハルには子供がいるからだ・・・父なし子、というよりはむしろならず者の父親、コハルを誘惑し捨てた富田地区のごろつきか何かの子供・・・。」とだけ記している。男としての無念が短い文の中に読めるのが・・・私だけであろうか。 
布引の滝
神戸に外から来る人は、新幹線の新神戸駅がトンネルとトンネルの間にあるのに驚かれるかも知れない。ホームに降り立った人は南に細長く広がった市街地と海をみる。北側は切り立った山裾が迫ってある。
この駅の裏道を10分も登れば、布引の滝がある。深山霊谷の雰囲気がこれほど都心に近いところで得られる土地は他にないだろう。たまに鳴る汽笛の音がなかったらついそばに市街地があるとは思わないだろう。
その新神戸駅からJR三ノ宮駅、市役所を通り、海側の税関前にかけてメインロード(フラワーロド)がある。居留地が出来るまでは、布引の滝からの生田川であった。洪水があってはいけないと、この天井川を付け替えて道を作った。
港までつづいている/このメインストリートは/川である/むかし むかし/ふたりのおとこに求愛された女の/かなしみが流れた/川だったと詩人は歌っている。
この道を『滝道』と神戸の人は長く呼んだ。
その市役所の海側下に『東遊園地』という名前の公園がある。1・17の神戸震災の追悼行事『ルミナリエ』の最終会場になるところだといえば、テレビで見たことがあると思われる人も多いだろう。
1868年(明治元年)に外国人居留遊園の名称で開園(居留地の東側にあったので東遊園地の愛称で呼ばれた)した日本で最初の西洋式運動公園とされる。開園当時は外国人専用であった。今、公園内には、ボウリング発祥の地の碑・近代洋服発祥地の碑などの各種の記念碑がある。神戸に深く関わった外国人の像もある。その中にヴェンセスラウ・デ・モラエス の胸像がある。
滝までの登道は格好の運動道となり、居留地に住む外国人たちはよく利用した。途中で一服入れる茶店が出来た。そこには店を手伝う三人の美人姉妹がいた。滝より、その姉妹目当ての人もあったという。
真ん中のお福という娘に惚れた外人さんがいた。しかし、しばらくしてお福さんは他に縁談が決まった。そのお福さんは1年後に病気になって亡くなった。お福さんに惚れた外人さんというのがヴェンセスラウ・デ・モラエス である。モラエスは神戸の総領事として勤め、日本を外国に紹介した文筆家として小泉八雲と共に知られている。
まずは、モラエスの略歴を紹介しよう。1854年にポルトガルの首都リスボンに生まれる。海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官として奉職。1889年(明治22年)に初来日。マカオ港務局副司令を経て、外交官となる。1899年に日本に初めてポルトガル領事館が開設されると在神戸副領事として赴任、のち総領事となり、1913年まで勤める。モラエスは1902年から1913年まで、ポルト市の著名な新聞「コメルシオ・ド・ポルト(ポルト商業新聞)」を通して当時の日本の政治外交から文芸まで細かく紹介した。在勤中に芸者おヨネ(本名は福本ヨネ)と出会い、おヨネを身受けして、ともに暮らすようになる。おヨネはお福に似ていたそうである。1912年にヨネが死没すると、翌1913年に職を辞し引退。おヨネの故郷で、おヨネの墓のある徳島市に移住した。おヨネの姪である斎藤コハルと暮らすが、コハルにも先立たれる。徳島での生活は必ずしも楽ではなく、スパイの嫌疑をかけられたり、「西洋乞食」とさげすまれることもあったという。1929年、徳島市で孤独の内に没した。
モラエスのポルトガル時代のことはとりあえず置いておこう。海軍学校を卒業すると、海軍少尉に任官、東アフリカのモザンビークに赴任、10年程をモザンビーク勤務とポルトガル本国勤務を行ったり来たりしている。この間生物学に関する調査研究を行い、学会で博物学者としても認められている。1887年マカオに赴任する。マカオ港務副司令官として日本に来るまで勤務している。マカオ時代に中国人、亜珍を(当時15歳)現地妻として、二人の息子を持った。
マカオ在任中に日本に何度か公務で訪れているうちに、日本に魅せられて住みたいと思うようになって、本国の友人の助力もあって、神戸の領事館勤務(副領事)の職を得て1889年日本に来ることになった。母子はマカオに置いたままであった。ただし、月々の仕送りは徳島に隠遁するまではしている。
故国を捨て異国に憧れる自らの心境をこう書いている。
「異国情緒を愛する人たちと言うとき、私たちが指すのは「・・・・」どうしょうもなく見知らぬものに魅きつけられ、見知らぬものに向かって行く、出来れば従来の生活の場を逃れ、自分が生まれ、幼少時代を送った、まったく別の社会ときっぱり縁を切って、新しい環境に可能な限り一体化しょうとする、そういう人たちなのだ。それらの不可解な人たちは、自分の環境が与えることの出来る幸福の分量と病的に相容れないように生まれついたということである。あるいは、いろんな不幸な目にあったために祖国が継母になってしまったのだ。彼らには精神のパンが欠けているのだ。そこで当然ながら、昼食のパンに事欠く農村の貧しい百姓が糧を求めて遠くに移住するように、彼らも他国に行く」
生来の性格がそうさせる部分と、自分の国が自分の性格と合わない部分を言う。  
日本に惚れたモラエス
「祖国が継母になってしまった」の文言は、両親に見捨てられ、莫大な財産を親戚の者に奪われ、片目はつぶれ、一文無しでアメリカに渡り、さらに仏領西インド諸島へ、そして日本にやって来たラフカディオ・ハーンを思い浮かべていたのかも知れない。モラエスはハーンを敬慕していた。両者は日本に魅せられ、あまり知られていなかった日本を外国に知らしめた外国人作家として比較される。
両者の違いは生まれた国、母語、英語とポルトガル語の違いは当然であるが、日本にいた時代と、妻にした女性の違いではないかと思う。ハーンは江戸の名残を残した明治初期であり、モラエスは日本が日清戦争や日露戦争に勝ち、日本が台頭してくる明治後期である。ハーンは武士の娘を嫁にし、その教養でもって出雲の民話を教えられた。モラエスは大阪松島の芸妓を見受けし現地妻とし、おヨネの姪のコハルにしても下層庶民の娘であった。ハーンは日本を観察者として好きになったが、モラエスは日本に惚れ込んだのである。
最初に日本を訪れた時の印象を、自然については、陸からは「立ち並ぶ樹木の茂み、轟音をあげて鳴る珍しい滝、囁く小川、美しい田畑で飾り立てた緑また緑の風景、花、虫、ありとしあるもの」。瀬戸の内海の船からは、「荘厳な風景なぞは日本にはない。豪壮さなぞはここにない。ここにあるのは細々した背景、驚嘆すべき細心な天然の配慮が果てしもなく続いて・・・稲田、野菜園、丹念に耕作した畑が陸地に果てしもない庭園にも似た外観を与えている。ここそこに、楽しげな村落が群れをなし、艶々として清潔な木製の小さい家が玩具のように混みあっている。・・・そして太陽、日本の美しい太陽の光が数知れぬ虹の色調で丘陵の頂き、渓間、田畑を照らして、書面ぜんたいに、平和と祝賀と愛との得も言われぬ調子を与えている」穏やかな緑に包まれた、箱庭のような景色を讃えている。そしてこれらの自然が日本人の性格を形作ったのだと言う。
暮らしぶりについては、「鄭重な男と優美な女とからなるこの国民の活気にあふれた驚嘆すべき生活ぶり、異国情緒たっぷりな遊楽、珍しく細かい品々の生産・・」と言っている。「その背景の単調、その沿岸の不毛、・・醜い人間の群れが汚い暮らしをしているあの支那の不潔を見慣れた者にとって、この日本との対照はまったく驚異にあたいする」と中国のことをよく言っていない。思うに荒々しい大陸の中国と緑の島国を比べて、箱庭を見るような日本を好いているのである。「世界に類がない木々のかげで余生を送りたいものだ」と日本に住みたい願望を記している。モラエスは自尊心の高い人である。マカオにおいて、自分にその資格があると思っていたポストから左遷され帰国を命じられたことや、亜珍との関係が上手くいっていなかったことも帰国せず日本に住むことを選ばせた。しかし第一番は何度かの来日で日本にすっかり心を奪われていた事である。  
徳島時代
徳島に隠遁する決意は、本国のモラエスに対する扱いの不満もあったが、一番はおヨネの死であった。その4年後コハルの死、モラエスは自分がこの徳島で朽ち果てることを決意する。亡くなったあと、仏式の葬儀でおヨネの墓に一緒に葬って貰うことを縁戚の者に頼むが、正式な籍があるわけでもなく、宗教上のこともあり断られる。おヨネとコハルの墓参りを日課として、今は二人の墓に並んで仏式の戒名を貰って眠っている。享年75歳であった。
私の宗教は、彼女たちの死に際し、別の信仰・・追慕の宗教に変わったと記し、「日本は、精神によってもっともよく私が生きた国、理性と理解力の魅力地平が拡大するのを、私の人格がもっともよく認めた国、自然と芸術の魅力を前にして、私の感情の力がもっとも強く息づいた国であった。それゆえ、日本がこの私の新たな信仰・・追慕の宗教・・、きっと私が愛と敬意を捧げる最後のものとなるであろう信仰の祭壇となることを願っている」モラエスはキリスト教徒であり、マカオの息子にも洗礼を亜珍に勧めている。モラエスはキリスト教徒を捨て、内なるヨーロッパ的なものを捨てたのである。
モラエスは異国情緒の審美的な日本を愛しただけでなく、それを愛惜すると同時に、領事としての外交官としての仕事柄、日本の政治や経済のことも現実的に理解している。日本の西洋化が、日本が本来持つ美しいものを捨てていくのも一面で仕方がないことと見ている。東洋の小国がこんなに頑張っているのだ。かっての海洋帝国、祖国ポルトガルよ、頑張れ!の思いで日本を少し誇張して書いている節がないでもない。
モラエスは、日本語は話せたが、書いたり、書物を読んだりすることは不得意とした。だから日本の歴史や文学については、西洋に訳されたものに限られたがよく学んでいる。『日本の精神』では言語、宗教、歴史、家族、国家、芸術と文学、そして日本人が持つ「愛」と「死」についてと多方面にわたって書いている。「私が言う精神とは、たいして高邁なことを意味しているわけではない、ものごとを判断するにあたっての個々人の内的思考というものである。・・ものごとをどのように眺め、どのように感じるか、民族特有のものの見方という観点から日本の家族のあり方を精神面において瞥見しようと思う」と「最初の考え」で書いている通り、この本は論文というよりは精神におけるスケッチ的なものである。
この本の中で白人は神性の概念と創造者たる自然の概念を対立するものとしてとらえ、これは環境と気候の過酷さのせいとみる。一方、日本人は神性の観念と自然の観念は補完しあう一対のものとみなす。これは白人の個我の肯定、日本人の没個性(あらゆる苦難に対する宗教的諦念)の相違となって現れる。ヨーロッパ人が自分の個性を強調するのに対し、日本人は考えたり話したりする時に激しく渦巻く生から自分の個性を遠ざけてしまうという事を言語の違いからも見る。ヨーロッパ人は生のない事物に性を与える(海は男性、雨は女性)ことや、日本語には一人称を示すめったに使われない一、二の言語を除けば人称代名詞はなく、このことは動詞の各法と時制に対する語は一つと言うことになる。厳密な意味で日本語には文法上の主語は存在しない。ある人が「帰ります」と叫んだとする。直接法現在である。しかし、一体誰が帰るのか?私か、君か、私たちか、君たちか、彼らか・・わからない。しかし会話の流れの中でそれらはあらかじめ聞き手に準備させてきているとモラエスは考える。言語は、個人および一国の国民の思想、感情を表すものであると「言語」の最初でモラエスは断っている。このヨーロッパ人と日本人の違いの目で一貫して宗教やその他のこと(国家、家族、死性感等)を見ている。
文学については『枕の草子』や、特に鴨長明の『方丈記』の随筆を高く評価する。モラエスの立場がヨーロッパ人、日本人のどちらに傾いているかはこのことでもわかるであろう。 
美しき日本女性
私はモラエスが日本について記している中で、日本の女性〈むすめ〉について書いているところが生き生きとしていて好きである。「日本の女は、たとえそれが国民のどんな卑しい出の娘であっても、乙女であれば、大変美しい。醜い娘は希にしかない例外である。・・・むすめの魅力を記述することは、西洋の言葉でそれを表現する方法がないので不可能な業である」と、たいそうなのである。
「強く目を引くのは人類の顔の中で最も美しい顔付き、卵型の小さな、小さな顔をした得も言われぬ優美さである。いつも微笑みをたたえている桜桃の格好をした薔薇色の唇の新鮮さである。扁桃の実の形に裂けて顔に彫りこまれている可愛い目に燃える黒い炎である。その物腰の優美さである。たいてい白椿の色をしたむすめの手には往々驚嘆するほどの線の調和がある。人種的に小さいその足は、素足なので現実と思えないほどのびのびしている。むすめの魅力はその生活ぶりにある。鄭重という点では、遠い昔から真の学芸の極地にまで高められているこの日本の鄭重さを想起させるような国は今も昔にヨーロッパにない。そしてむすめの魅力は上記のすべてにある、と同様、この最後の点にもある。そのすべての個性、そのすべてのあり方と感じ方の異国情緒にある。そのちょっとした表情も、すでにぼくたちには、一つの驚き、一つの啓示なのだ」
着物とお帯との調和した姿にそれを見る。上層の女性にではなく、〈げいしゃ〉やそれより貧しい一般の〈むすめ〉の中にモラエスは見るのであった。
モラエスの最後はワインに酔って土間に転落した孤独死であった。徳島においては西洋乞食とまで揶揄されたが、このように美しい日本の女性の中で死ねたのは幸せだと思わねばならない。日本の〈むすめ〉のちょっとした仕草の優美さが随所に書かれている(『日本の追慕』)。日本女性はここまで書かれているのである。モラエスの本を何か一冊読んで欲しいと私は思うのである。ちなみに日本の男性については、審美上では日本の女にひどく劣っている。筋力が貧弱で弱々しく醜くすらあると言ってこちらは手厳しい。しかし聡明な賢者や瞑想する思索者に似た広い額、時には霊感を受けた人に似た深い眼差し。しょっちゅう微笑みかける大まかで鄭重な微笑を持っていると書かれているので少し安心あれ。日本人全体については、聡明で朗らかで移り気で浪費的である。自然の美を強く感じる。あまり発明的でないが、異国の産業、技術、科学上の処置を採用して、それを自由に改変して独自の高さに引き上げる驚嘆すべき能力を賦与されている。と見ている。
晩年、モラエスと深く交際した人や、親切に世話をやいた人もいるが、この時代の徳島で見る外国人もなく、日本の庶民には「変わった毛唐人」でしかなかった。『徳島の盆踊り』で「無知な日本の庶民には、ヨーロッパ人はすべて有害なものとして映る。紅毛碧眼の白人というだけで・・。ちょうど、蛇と蝮が似ているために、無害なる蛇もまた憎悪を受け、全く無害である私もまた、白人であるがゆえに嫌われる」と書いている。それでも「ポルトガルの田舎で、着物姿の日本人が歩いているよりは、ここ徳島の人に愛されている」と、好意的である。けなげにも日本を愛し、日本人を理解しょうと勤めた。
モラエスは何をなしたるや、神戸領事としての仕事は優秀であったようであるが特別な政治的業績でもない、日本をヨーロッパに紹介したというが、ポルトガル語という限定があり、英語の八雲には劣るのは仕方がない。文学的評価も八雲の方が上である。モラエスは無条件で日本を愛し、日本の女性を愛した。庶民の中に入って暮らし、観察し、日本を見た。それが故に、表面的な異国情緒としての日本を見る外国人とは違って、その洞察は深い。私たちはそれに共鳴する。日本人以上に日本を愛し、理解しながら・・日本人になれなかったモラエスは、「幸せだったのだろうか、不幸だったのだろうか…」 
「癩者」
やさしい雨が降っていた――。
私淑する川端康成に「幸い雨模様で今度は落ち着いた文章ができるのではないかしらと、今から楽しんで居ります」という手紙を書き送った北條民雄の故地を訪ねるのに、それは相応(ふさわ)しい日となった。徳島。10年前の秋のことだ。
北條は県南部の育ちだが、ハンセン病発病の宣告を、この県都の病院で受けている。東京府下の療養所から帰郷した折には、「傾城阿波鳴門」で知られる、阿波十郎兵衛屋敷を訪ねてもいる。70年以上も前のことだが。
「雨にしめり、生々と青みを増してきた苔や、ふつくらとやわらかみを浮せて来た地面」「頭から雨をかぶり、跣(はだし)になつて水溜りや浜辺を走り廻る」(「癩院受胎」)と記した作家が足跡を残したときと今と、むろん雨は同じだけれど、街の面貌はことごとく変わっていた。徳島は終戦のひと月ほど前、大空襲に見舞われ、戦後のこの街の復興は、かつての面影をすっかり消し去ってしまったから。
私は、北條が呼吸した徳島のよすがを求めて、その頃、「家並におおいかぶさるように一面草のビロードにおおわれ、松の影濃い美しい山がもったいぶった様子で聳えている」(『徳島の盆踊り』)という眼差しをこの街に向けていた、一人の文人外交官の記録をひも解いた。後に「徳島の小泉八雲」などと呼ばれることになる、ポルトガル出身のヴェンセスラウ・デ・モラエスは、当時、亡妻の郷里に隠棲していたのだ。
もっとも、モラエスのイメージの援用によって成った拙著(『吹雪と細雨』)で、「無理解ゆえに『ケトージン(毛唐人)』、あるいは『西洋乞食』と蔑称されていたほどであった。北條も、当時のモラエスの存在を、意識的に見ていたとは考えにくい」と私はことわっている。もとより、生前は相知らぬ同士の琴線を、70年以上経ってから共鳴させようという、無謀な書斎的遊戯ではあったのだ。それでも、私はこのことがあってから、モラエスその人への共感を専らとする、心のベクトルも意識するようになった。
59歳から75歳までの晩年を徳島で過ごし、この間に書かれた『おヨネとコハル』や『徳島の盆踊り』などの随筆で知られるモラエスは、1854年、ポルトガルの首都リスボンで生まれた。小学校に当たるコレジオ、中等教育機関のリセを卒業後、海軍兵学校に学び、当時、ポルトガル領だった、南部アフリカのモザンビークに、数次にわたって海軍士官として赴任している。その後の足跡は、アラビア半島のアデン、コロンボ、シンガポールやティモールなど、各地に記された。マカオには約10年赴任している。
モラエスは、1889年以来、マカオ港務副司令官として、数回の来日を重ねている。これから触れることになる、『極東遊記』所収の「日本の追慕」などを読めばわかるように、モラエスの日本への愛着は、この時期にいつしか深まっていったのだろう。かくして彼は、本国への帰任が命じられた1898年、これに抗(さから)って日本に定住してしまったのだった。
ポストは後から追認するように与えられたらしいのだが、神戸大阪ポルトガル国領事館臨時事務取扱、翌99年には、正式に同領事に任ぜられているから、モラエスは軍人から外交官へと転じたことになる。以来、1913年まで15年間、その職責を全うした後、亡妻ヨネの郷里だった徳島に退き、没後は、彼が「松の影濃い美しい山」と呼んだ眉山(びざん)の麓の寺に葬られ、今もそこに眠っている。
モラエスは、経済的な事情から、身近な軍人への道(彼の母マリア・アマリア・デ・フイゲイレド・モラエスが、軍人の娘だった)を選びはしたが、元来その性向は、むしろ夢想的文学青年のそれであったといわれる。それで、彼の文名が世に知られた最初の出来事は、マカオ港務副司令官だった1895年に、リスボンで『極東遊記』(Tracos do Extremo Oriente)が出版されたことだったろう。
『極東遊記』は、モラエスが、ア・ダ・シルヴァという筆名で、『コレイヨ・ダ・マニャン』紙上に連載した「支那遊記」に、「盤谷(バンコク)にて」と「日本の追慕」を加えて、一冊にまとめられたものである。
今、私の手元には、1941年、中央公論社から出た、花野富蔵訳の『極東遊記』があるが、この本の「南支追憶」の中の一篇「癩者(らいしゃ)」は、モラエスのマカオ港務局時代の体験であり、「冷酷なまでにリアリスティックな描写を残している」(岡村多希子『モラエスの旅 ポルトガル文人外交官の生涯』)。それは、北條と相知らぬ同士だったモラエスの琴線が奏でた、19世紀末のハンセン病者の姿として、慄然とさせられる。今日の認識から振り返って、この小篇の記述はあまりにも不適切な点が多々認められるが、それゆえに検証すべきものと寛恕を願い、以下に概略を記す。
モラエスは5月のある暑い朝、マカオ植民地が住居と食糧を提供していた癩者の療養所に出掛ける。なぜなら、「かなり以前から、ぼくは自分をその恐ろしい悲惨に近寄らせようとする感情のある病的な好奇心に煽られて、その癩の巣窟を見学に行かうと考へてゐた」からだ。そして、彼の認識によれば、「あらゆる悲惨事の豊饒な生簀であるこの広大な支那、極東には、泥濘の泥土に汚れた穢い棲息の結果、今なほ癩菌が繁殖してゐる」といい、「遺伝の厳然たる鉄則の方でも、この遺産を次ぎ次ぎに継承して、丁寧にもその責苦を曳きずつて往きそれを倍加して往かうとするのだ」と、記していることには心が凍る。
ノルウェーのアルマウェル・ハンセンが、らい菌を発見したのは1873年だから、「癩菌が繁殖」といいながら、「遺伝の厳然たる鉄則」という謬見(びゅうけん)には、感染症であることを本当に知らなかったのか、という疑問も残る。後半で「病気を感染しようとの憎々しい考へ」という記述が出てくるから、やはり彼が知らなかったはずはなかろう。いやたとえ、彼がそれを知っていたとしても、感染と遺伝という矛盾する差別や偏見が、重層的に築かれていった日本のハンセン病問題を想起すれば、モラエスの態度は、もとより科学的なそれではないのだろう。
モラエスは、「遺伝の厳然たる鉄則」の件の後で、中国――彼の知見はマカオやその周辺の南部に限定されると思うが――の、ハンセン病者集住地の形成について、興味深い証言をしている。
「あれは癩者だと村民が指摘すると、恰も狂犬病のやうに逐つ払ふ。かくて、癩者は常に背後から追ひたてられ村落から村落へと逃げて往き、洪水の汚物のやうに、ひとりでに河へ流し込まれることとなる。そのとき、大きい避難所、天然の静穏な平和――彼を護ってくれる、容易に手に入る23枚の板子と水――が眼前に展開する。だから、支那の癩者はたいてい漁人である、といふよりも運河と河川との悲しい流浪人である。支那の風光の単調な水彩画――水路が果てしなくうねつてゐる稲田、バナナの樹の羅列、竹藪で縁取した茂み、それに沿うて重なりあった禿山と、その上の模糊とした灰色の空――には23人の癩者の隠遁所で収容所である23艘の悲惨な小舟があたりに浮遊してゐないところはどんな小さな村にもない」のだと。
モラエスが訪ねた過路環(コロワン)島の女性患者の療養所では、「澳門(マカオ)から来て、その腐肉を抱き、接吻せんばかりに親切に世話をして、満足と愛情とを与へるカノシヤナ派の尼僧たち」がいると記しているが、その後段では「猛獣のやうに幽閉され軽蔑と嫌忌とを宣告されてゐるそれらの腐乱した体には、敢て基督教とはいはない、ちよつとした信仰心さへも発生し得まい」と、これまた冷酷に断じている。この徹底した非情の根拠は、まったくわからないのだけれど。
男性患者のほうは、白沙蘭(パクサラン)という谷間に住んでいたと記しているが、モラエスは、この二つの療養所が、「全支那に於けるこの種の唯一の設備であると思ふ」という。ただし、最後の段落にいたって「ぼくが訪ねたその二つの療養所はもう幾年もまへになくなつた」と書かれているから、この文章は回想記ということになるのだろう。そして、この段落の後段「今では癩者は、ジプシイの群団のやうに」以下の描写の引用は控える。その、ハンセン病患者に対する人間性の冒瀆(ぼうとく)ぶりは、さすがに目にあまるので。
「徳島の小泉八雲」に愛着を持つ私は、『極東遊記』に収められた「癩者」を、どう受け入れるべきか、正直、当惑してしまうのだ。ひいきの人情としては、むしろ封印してしまいたいほどだが、それはするまいと思う。極東の「水彩画」の点景を、美しくも醜くもクローズアップすることは、やはり文学的所為なのだ。負の文学的遺産と向き合う覚悟を決め、今回、あえて紹介することにした。 
ハーンとモラエス
ラフカディオ・ハーン
ハーンが、約20年にわたるアメリカでの生活に終止符を打ち、「夢の国」と憧れつづけた日本の玄関、横浜へ到着したの は1890(明治23)年の4月4日のことです。ニューオリンズで知り合った文部省の服部一三普通学務局長の尽力で、島根県の 師範学校と中学校の英語教師の職が決まり、同年の8月30日に松江に到着しました。ハーンは生徒から慕われる教員生活の中 で、士族の娘小泉セツとの結婚、長男の誕生など充実した1年2ヶ月を過ごしたようです。
松江の寒い冬がハーンの健康状態に適さないことから、1891(明治24)年に友人である東京帝国大学教師のバジル・ホール・ チェンバレンの世話で熊本に移り、第五高等学校の教員となりました。こうして熊本に居を移すと、翌1892(明治25)年から 1894(明治27)年にかけて、博多、太宰府、長崎などの九州を始めとして、神戸、京都、奈良、隠岐、香川、東京など広 く国内を旅行して、我が国の風土や伝統を確かめようとしています。しかし、熊本での生活は対人関係で悩むことが多く、長 い滞在にはなりませんでした。
1894(明治27)年には、第五高等学校との3年間の契約を終え、神戸に移りました。この地では、英字新聞である神戸 クロニクル社主のロバート・ヤングに雇われて社説を書き、アメリカ滞在時代に養ったジャーナリストとしての才能を発揮しまし たが、少年時代に左眼の視力を失っていたことから、右目にかかる過労のため退職しました。
1896(明治29)年の1月には、正式に日本に帰化し、小泉八雲と名乗りました。この年の8月から、東京帝国大学の英文学 教師となり、多くの学生から尊敬の念を集めましたが1903(明治36)年に契約が終了し、大学側の雇用方針に馴染めないこと から再契約を行わず退職しました。その翌年の1904(明治37)年4月には、早稲田大学の創立者大隈重信に招かれ教授に就 任しましたが、同年9月26日に狭心症の発作により死去しました。
ヴェンセスラウ・デ・モラエス
モラエスが初めて日本に来たのは、1889(明治22)年の8月です。その後、1893(明治26)年にはポルトガルのマカオ港務副 指令として、武器購入のために長崎、神戸、横浜などを訪れています。以後、1897(明治30)年までこの任務のため毎年来日 し、やがて開設が予想される神戸領事館における領事の席を希望するようになりました。しかし、1898(明治31)年の日本滞 在中にマカオ港務副指令を解任されると共に本国への帰国命令が出され、モラエスはマカオから一端、帰国の途についてい ます。こうした中で、祖国の友人たちの努力が実り、神戸・大阪副領事館の初代領事代理として神戸に赴任しました。この 副領事館が1899(明治32)年に領事館へ昇格したことにより、モラエスは正式な初代領事となりました。
彼は神戸の生活の中で、神社と仏閣に関心を示し、頻繁に宗教の地を訪れています。1900(明治33)年からは福本ヨネと 同棲をはじめ、翌年には二人で初めて、ヨネの故郷でありモラエスが生涯を終えることになる徳島の地を踏んでいます。
領事としては、1903(明治36)年に開かれた第5回内國産業博覧会でポルトガル館を作り、母国企業の協力の下、葡萄酒 やオリーブ油などを出展して宣伝に努めています。
1910(明治43)年にはポルトガル本国が政変で王国から共和国となり、本国からの送金も途絶えましたが、領事館の維持に 私財を投入しながら急場を凌いでいます。1912(大正1)年にはヨネが逝去、同年総領事に任ぜられましたが、翌年には総 領事を辞して徳島に移り住みました。ここで斉藤コハルと共に生活を営み、著述家として本格的な活動をはじめています。 1915(大正4)年には、コハルとの間に麻一が生まれますが、コハルは翌年に逝去してしまいます。また、麻一も1918(大正7) 年に亡くなり、モラエスは孤独な生活を強いられるようになります。しかし、彼の文才は衰えることなく、多くの原稿をポルトガル に送り数々の書物が出版されました。
そして、遂に1929(昭和4)年の6月30日夜、過度の飲酒により土間に転落して打ち所が悪く、死亡しました。
京都におけるハーンとモラエスの「接触」
本学の梶谷泰之元学長はハーンとモラエスの「接触」について研究し、その成果を『京都外国語大学研究論叢』の第 10号(1968-昭和43-年)と第11号(1970-昭和45-年)の2回にわたって発表しています。
この研究は、1891(明治24)年5月11日に起きた大津事件に絡むもので、大津市を訪れていたロシア皇太子に警備中の巡査 が切りつけ、傷害を負わせた行為を同じ日本人として詫びながら自決した一女性を巡る話です。この女性は畠山勇子といい、 梶谷元学長によれば「明治天皇は御見舞いのため、5月21日まで京都にご滞在になっていたが、5月20日の夜、若い女性が 京都府庁の門前に白布を敷き、細帯で膝を縛り、露国官吏、日本政府、母親等にあてた遺書10通を置いて鋭利な剃刀をも って頚動脈を斬り、壮烈な自害を遂げていた」と述べています。亡骸は京都市下京区にある末慶寺の当時の住職和田準然 師の配慮でこの寺に引き取られ、丁重に葬られました。
ハーンは、大津事件が起きた頃は島根県に滞在しており、事件後同県から託されロシア皇帝宛ての見舞い電文を起草した ようです。畠山勇子については深く心をうたれ、1895(明治28)年には末慶寺を訪れ墓前で哀悼の意を手向けると共に、自著 である『東の国から』や『仏の畠の落穂集』で勇子を紹介しています。
モラエスはハーンの死後3年を経た1907(明治40)年にこの寺を訪れて勇子の墓に参り、和田住職からハーンが勇子に抱い ていた気持ちを聞き、その後たびたび同住職と文を交わすようになりました。また、リスボンで発行されていた『セロンイス』と いう雑誌に勇子のことを寄稿すると共に、後にこの雑誌の原稿を一冊の本に纏めた『日本夜話』でこの経緯を 紹介しています。
本学でモラエスを研究したジョルヂェ・デイヤス元教授は、自ら記したモラエスの伝記『東方への夢』で「ハ ーンは彼の最も敬愛せる作家であった」と述べ、モラエスが同じ時期に日本研究を進めた西欧人としての共通の立場からハー ンを慕い続けながら、彼の没後25年を経てその生涯を終えたことを伝えています。
このように、ハーンとモラエスは大津事件を自らの死をもって詫びようとした勇子にみられる日本人の心理について共通認識を 持ち、物理的な「接触」は無かったものの、同じ視点から西洋とは異なる日本の文化と当時の日本人の考え方を認識してい たのではないでしょうか。
 
ウィリアム・ジョージ・アストン 

 

William George Aston (1841〜1911)
北アイルランド出身。1863年イギリス公使館員として来日。1875年から約5年間神戸領事として駐留。また、岩倉使節団がイギリスを訪問した時は通訳を務めている。傍ら日本の研究も進め、日本語文法書や日本の古典を紹介した『日本紀』(1896)などを出版した。サトウ、チェンバレンとともに三大ジャパノロジスト(日本研究家)と呼ばれている。 
2
英国の外交官、日本学者で朝鮮語の研究者でもある。アストンは、19世紀当時、始まったばかりの日本語および日本の歴史の研究に大きな貢献をした。アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並び、初期の著名な日本研究者である。
アストンは、1841年4月9日にアイルランドのロンドンデリーの近郊で生まれた。1859年から63年までクイーンズ大学ベルファスト校で学び、頭角を現した。大学ではラテン語、ギリシャ語、フランス語、ドイツ語の文献学、および現代史を学んだ。教授の一人はジェームズ・マコッシュ(James McCosh)であった。
日本
1864年(元治元年)英国公使館勤務日本語通訳生として来日。2年先に来日していた2歳年下のアーネスト・サトウと共に、日本語の動詞の理論を研究した。この難解な研究は、西欧の学者による日本語研究の基礎となるものであった。この結果を基に1869年と1871年には日本語文法書を出版している。
1884年には領事試験に合格した。江戸・東京および横浜の公使館に勤務していたサトウとは異なり、アストンは神戸および長崎の領事を務めた。1886年(明治19年)には通訳としての最高位である日本語書記官に就任した。
日本アジア協会会報の執筆者の一人で、1896年『日本書紀』を英訳、1899年『日本文学史』、1905年『神道』を執筆した。
朝鮮
アストンは日本滞在中に朝鮮語通訳から朝鮮語を習っていた、1879年にはロンドンの王立アジア協会で「日本語と朝鮮語の比較研究」と題する長文の論文を発表している。神戸の領事館に勤務中の1880年11月頃、日本に密航しサトウを訪問した李東仁(イ・ドンイン)から卓挺埴(タク・ジョンシク)を紹介され、2ヶ月ほど朝鮮語を学んだ。その後も、アストンを訪れる朝鮮人は多かった。1882年6月6日に朝鮮と英国の間に最初の条約であるウイルズ条約が結ばれた。アストンは到着が遅れこの条約の交渉には参加しなかったが、そのまま仁川に残った。結局、ウイルズ条約は内容が不十分として英国で批准されず、翌1883年11月26日、駐清公使に転じたハリー・パークスによって調印されたパークス条約が両国間で締結された最初の条約となった。このとき、アストンはパークスの補佐を務めた。この条約に基づき、1884年にアストンは朝鮮駐在の最初のヨーロッパ人外交官(領事)となったが、政治状況が不安定となったため、1885年に朝鮮を離れた。しかし、1885年から1887年にかけて、東京でKim Chae-gukを教師として朝鮮語を学び続けた。キムはアストンの勉強のために、いくつもの物語を語った。アストンはこの朝鮮民話の原稿をサンクトペテルブルクのクンストカメラ博物館に寄贈し、2004年に出版された。アストンのコレクションは現在はロシア科学アカデミーに保管されている。
晩年
1889年に病気のため外交官を辞職、イングランドに落ち着いた。1911年11月22日に死亡。晩年、サトウが収集した日本語文献を譲ってもらっていたが、自身が収集した分と合わせ、1万冊もの日本語文献を所有していた。この蔵書は彼の死後1912年にケンブリッジ大学図書館が購入し、これが同図書館の日本語コレクションの基礎となった。 
 
 

 


芸術・美術

 

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ
Ernest Francisco Fenollosa (1853〜1908)
哲学、日本美術を評価(米)
アメリカの美術史学者、哲学者。ハーバード大卒。1878年来日し東大文学部で政治学、理財学、哲学などを講義し日本の思想史に大きな影響を与えた。また日本美術の研究に努め、弟子岡倉天心らとともに東京美術学校(現東京芸大)の創設に尽くした。日本の古美術や浮世絵の認識・紹介に力を注ぎ日本美術界に大きな足跡を残した。1890年に帰国したがボストン美術館の東洋美術部長となって日本美術の紹介に貢献した。日本の仏像や陶器、絵画、建築に「美術」の概念を与えた功労者である。 
2
アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる。
マサチューセッツ州セイラム生まれ。父親のManuel Francisco Ciriaco Fenollosaはスペインのマラガ生まれの音楽家(晩年自殺している)。兄とともにフリゲート艦の船上ピアニストとして渡米し、Mary Silsbeeと結婚し、アーネストをもうける。アーネスト・フェノロサは地元の高校を卒業後、ハーバード大学で哲学、政治経済を学ぶ。先に来日していた動物学者エドワード・シルヴェスター・モースの紹介で1878年(明治11年、当時25歳)に来日し、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じた。フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心、井上哲次郎、高田早苗、坪内逍遥、清沢満之らがいる。
以上のようにフェノロサの専門は政治学や哲学であり、美術が専門ではなかったが、来日前にはボストン美術館付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあり、美術への関心はもっていた。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、天心とともに東京美術学校の設立に尽力した。
フェノロサが美術に公式に関わるのは1882年(明治15年)のことで、同年の第1回内国絵画共進会で審査官を務めた。同年には狩野芳崖の作品に注目し、2人は以後親交を結ぶことになる。芳崖の遺作であり代表作でもある『悲母観音』(重要文化財、東京藝術大学大学美術館蔵)は、フェノロサの指導で、唐代仏画のモチーフに近代様式を加味して制作したものである。フェノロサは狩野派絵画に心酔し、狩野永悳(えいとく)という当時の狩野派の画家に師事して、「狩野永探理信」という画名を名乗ることを許されている。同じ1882年には龍池会(財団法人日本美術協会の前身)にて「美術真説」という講演を行い、日本画と洋画の特色を比較して、日本画の優秀性を説いた。
フェノロサは当時の日本の美術行政、文化財保護行政にも深く関わった。1884年には文部省図画調査会委員に任命され、同年には岡倉天心らに同行して近畿地方の古社寺宝物調査を行っている。法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉したエピソードはこの時のものである(1886年とも)。それ以前、1880年と1882年にも京都・奈良の古社寺を訪問したことが記録からわかっている。
1890年に帰国し、ボストン美術館東洋部長として、日本美術の紹介を行った。その後、1896年、1898年、1901年にも来日した。1908年、ロンドンの大英博物館で調査をしているときに心臓発作で逝去。英国国教会の手でハイゲート墓地に埋葬されたが、フェノロサの遺志により、火葬ののち分骨されて日本に送られ、大津の法明院に改めて葬られた。
生前、仏教に帰依している。1896年には滋賀県大津市の園城寺(三井寺)で受戒した。その縁で同寺塔頭の法明院(滋賀県大津市園城寺町246)に、同じく日本美術収集家として知られるウィリアム・スタージス・ビゲローと共に葬られている。
評価
廃仏毀釈を経て、また西洋文化崇拝の時代風潮の中で見捨てられていた日本美術を高く評価し、研究を進め、広く紹介した点は日本美術にとっての恩人ともいえ、高く評価されている。フェノロサが参加した古社寺の宝物調査は、文化財保護法の前身である古社寺保存法の制定(1897年)への道を開いたものであり、東京藝術大学の前身の1つである東京美術学校の開校にも関わるなど、明治時代における日本の美術研究、美術教育、伝統美術の振興、文化財保護行政などにフェノロサの果たした役割は大きい。また「国宝」(national treasures)の概念は彼が考えた。
一方、『平治物語絵巻』、尾形光琳筆『松島図屏風#光琳の松島図屏風l松島図』(ともにボストン美術館所蔵)など国宝級の美術品を海外に流出させたとして批判を受けることも多い。また一方で、海外において認知されたことで、美術品として更なる評価を受けたともされている。
なお、奈良県にある薬師寺の東塔を「凍れる音楽」と評したとも言われるが、フェノロサ自身の著作には薬師寺塔を指してそのような言及はなく、出典不明である。また、「建築は凍れる音楽」というフレーズ自体は、フェノロサ以前からドイツなどで使われていたものである。
家族
妻・リジー(Lizzie Goodhue Millet, 1853-1920) - 1878年に結婚。1880年に長男カノウ(Kano)、1883年に長女ブレンダを東京で出産。セイラム (マサチューセッツ州)の裕福な家庭の一人娘で、結婚して2か月で夫に伴い渡日。1895年離婚。
後妻・メアリー(Mary McNeil Fenollosa, 1865-1954) - 1895年に結婚。メアリーにとってフェノロサは3番目の夫。祖父が経営するアラバマ州のプランテーションで生まれ、父親は南軍の軍人だったが職業が定まらず、貧しい家庭で育った。最初の夫と死別し、1890年に東京在住の米国人(英語教師)と結婚するため渡日したが、うまくいかず離婚、1892年に帰国し実家に戻り、地元紙などに日本についての記事を投稿し糊口を凌ぐ。1894年にボストン美術館東洋部でフェノロサの助手となり、翌年結婚。妻子を捨てての再婚であったことからボストン社交界でスキャンダルとなり、夫婦でニューヨークに転居、1897年から日本で暮らし始める。南部出身の女性がボストン社交界で苛められるという小説 "Truth Dexter"を滞日中に書き、Sidney McCallの筆名で出版、ベストセラーとなる。その後、広重についての本を本名で出版したほか、不幸な結末を迎える日本女性を主人公としたロマンス小説"The Breath of the Gods"(フランス人の恋人のために自殺する日本女性の話)、"The Dragon Painter"(夫の出世のために犠牲となる日本女性の話)を出版し早川雪洲や青木鶴子主演で映画化もされた。フェノロサ没後は、夫の東洋研究に関する本をまとめたが、美術品などは経済的理由で売却した。その一部である手記を入手したエズラ・パウンドはそれを元にした謡曲などの翻訳書を出版し、モダニズム詩に影響を与えた。
3
米国の日本美術研究家。マサチューセッツ州セーラム(現ダンバース)出身。日本に黒船が来航した1853年に生まれた。13歳の時に母が病没。1870年に17歳でハーバード大学に入学して哲学を学び、4年後に首席で卒業した(卒業時の成績は99点!)。その頃から徐々に絵画に興味を持ち始め、24歳でボストン美術館に新設された絵画学校に入学する。
1878年(25歳)、父が世間に馴染めずに自殺。両親を失って放心状態の彼の耳に入ったのが、ハーバード大に出された東大の求人情報だった(前年に渡日して教鞭をとっていた動物学者エドワード・モースが募集)。キリスト教社会では自殺が神の冒涜にあたり、父のことで社会の冷たい風に晒された彼は、この求人情報に運命的なものを感じ、同年夏に新天地・JAPANに渡った。9月から東大で哲学や経済学を教える。 ※当時の日本は先進国の欧米に追いつく為に、学者・技術者・軍人などの多くの欧米人を「お雇い外国人」として高給で雇い入れていた。ピーク時の1874年は500人以上が招かれ、明治期全体では3千人にのぼった。しかし、1877年の西南戦争で財政難に陥り、次第にその数は減っていく。ちなみにフェノロサが来日する直前に大久保利通が暗殺されている。
フェノロサは来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と記した。彼は古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅した。
やがて彼はショックを受ける。日本人が日本美術を大切にしていないことに。明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。写楽、北斎、歌麿の名画に日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派、土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。
特に最悪の状況だったのが仏像・仏画。明治天皇や神道に“権威”を与える為に、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で破棄されていた。また全国の大寺院は寺領を没収されて一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど追い詰められていた。財政難の地方では最初から寺領を狙って廃寺が行なわれるケースも多々あった。 ※廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)…日本人の手で日本文化を破壊した最悪の愚行。1868年、明治維新の直後に神仏分離令が発布され、各地の寺院、仏像が次々と破壊された。約8年間も弾圧が続き、全国に10万以上あった寺は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われた(薩摩では一時期全寺が潰される苛烈なものだった)。地方の行政官は中央政府に手柄(成果)を報告して出世しようと廃寺の数を競った。
今では信じ難いが、『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、寺領の没収と同時にすべての僧が神官に転職させられ、せっかく戦国時代の兵火から復興した伽藍を再び破壊し、三重塔や五重塔が250円で売りに出された。また塀が取り払われ境内は鹿が遊ぶ奈良公園となり、最終的には誰もいない無住の荒れ寺となってしまった。五重塔は焼かれる直前に周辺住民が火事を恐れて阻止したという。また、別の寺では政府役人の前で僧侶が菩薩像を頭から斧で叩き割って薪(たきぎ)にしたという話もあるほど、仏教界は狂気染みた暴力に晒された。
フェノロサは寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がった。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に素晴らしいかを事あるごとに熱弁した。1880年(27歳)、長男カノーが誕生。名の由来はもちろん“狩野”だ。同年、フェノロサは文部省に掛け合って美術取調委員となり、学生の岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始した。こうした活動を通してさらに日本美術の魅力の虜になった彼は、考えを一歩前進させる---“浮世絵や仏像など過去の作品ばかり振り返っていてはダメだ。日本人は新しく芸術を生み出すべきだ!”。
1881年(28歳)、滅亡寸前の日本画の復興を決意したフェノロサは、日本画家たちに覚醒を求める講演を行なう。「日本画の簡潔さは“美”そのもの。手先の技巧に走った西洋画の混沌に勝ります」「日本にしかない芸術があるのです!」。西洋文明へのコンプレックスに支配されていた日本人はビックリ。新政府は日本が芸術の世界では一等国と勇気づけられ、フェノロサの演説を印刷して全国に配布した。
1882年(29歳)。日本画の第1回コンクール(内国絵画共進会)の審査員として招かれたフェノロサは、会場の隅に展示されていた『布袋図』(七福神)の奔放でおおらかな世界に見入った。作者は狩野芳崖(ほうがい)。粗末な紙に描かれていた。もっと芳崖の作品を見たくなった彼は、自分の足で家を探し出して訪問する。ところが芳崖は面会を拒否!「お断りだ!毛唐(けとう)なんかに絵が分かるか!」。 ※この時芳崖は54歳。彼はかつて天才絵師として狩野派画塾のリーダーを務めた男。好奇心旺盛で他派の絵も学び師匠と大喧嘩、その“法外”さから芳崖と名乗った。20代で山口・長府藩のお抱え絵師となったが維新のあおりを受け40歳を過ぎて失職。今は貧困のどん底で、陶器の下絵塗りで生計を立てていた。 
芳崖はフェノロサをただの物好きな外国人程度にしか思っていなかった。しかし彼は翌日もやって来た「どうか話を聞いて下さい!」。芳崖は鑑識眼を試すために毛利家に伝わる古い絵を見せてみた。フェノロサは作品の見所を完璧に語り尽くした。彼は芳崖の目を真っ直ぐに見て力説する。「あなたはもう一度筆をとるべきです!日本美術は大切な宝なのです!あなたほど優れた才能を持っている方が絵を描かないのは国家の悲劇です!」。芳崖は言葉が出ない。さらにフェノロサは続ける。「今後、あなたが描いた絵は必ず全て買い取ります。迷惑でなければ、絵に専念できる家も提供させて下さい」。芳崖は日本人が見向きもしない自分の絵を、親子ほども年の離れたアメリカ人が必死でその価値を説くことに激しく感動した。2人は固い握手を交わし、フェノロサはこの翌年から芳崖に生活費の支給を始めた。
1883年、フェノロサは日本人が愛する“幽玄”の精神を学ぶ為に能楽師の梅若実に入門する。1884年(31歳)、彼は政府の宝物調査団に任命され、文部省職員となっていた岡倉天心と、再び奈良や京都の古社寺を歴訪する。この調査の最大の目的は法隆寺・夢殿の開扉。内部には千年前の創建時から『救世(くせ)観音像』(等身大の聖徳太子像)があるものの、住職でさえ見ることができない“絶対秘仏”だった。法隆寺の僧侶達は、「開扉すると地震が襲いこの世が滅びます」と抵抗したが、フェノロサは政府の許可証を掲げて「鍵を開けて下さい!」と迫った。押し問答を経てようやく夢殿に入ると、僧侶達は恐怖のあまり皆逃げていった。観音像は布でグルグル巻きにされている。
フェノロサは記す--「長年使用されなかった鍵が、錠前の中で音を立てた時の感激は、何時までも忘れることが出来ない。厨子(仏像のお堂)の扉を開くと、木綿の布を包帯のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。布は約450mもあり、これを解きほぐすだけでも容易ではない。ついに巻きつけてある最後の覆いがハラリと落ちると、この驚嘆すべき世界に比類のない彫像は、数世紀を経て我々の眼前に姿を現したのである」。救世観音は穏やかに微笑んでいた!立ち会った者はその美しさに驚嘆し声を失う。世界は滅ばなかった。 ※現在、春と秋に救世観音が特別公開されるのはフェノロサのおかげ!
この年、彼は有志を募って「鑑画(かんが)会」を結成。会の主旨は「あらゆる方法を駆使して日本美術を復活させる」こと。“昔は良かった”という骨董品の研究ではなく、伝統にのっとった上で、新時代の日本美術を生み出そうとした。
32歳、救世観音と出会った翌年、フェノロサはキリスト教を捨て仏教徒となった。滋賀・三井寺(園城寺)にて受戒し諦信の法名を授かった。 ※彼が仏教に帰依した背景として、仏法や仏教美術への純粋な感動があったのはもちろんだが、故郷の“事件”も遠因にあるだろう。彼の生地セーラムは、1692年に西洋史上悪名高い魔女裁判で約200名の女性が告発され、25名が処刑・拷問死したという狂信的に保守的な町だ。セーラムの風土への嫌悪感が仏教に関心を向けさせたのかも知れない。
1886年、58歳の芳崖はフェノロサと出会ってから4年の間、日本画に西洋画の遠近法や陰影法を融合させるなど、日本画の革新を目指して日々格闘していた。フェノロサの文化財調査に同行し、1ヶ月に50箇所も奈良の寺々を巡り、毎夜その日に見た仏像を思い出してはスケッチした。そして彼は8ヶ月をかけて芳崖=フェノロサ組の力作『仁王捉鬼図』を完成させる。この仁王の絵で芳崖は日本画の色の限界を超えた。画面全体が色彩にあふれ、文字通り色の洪水なのだ。この当時、西洋では印象派が花盛り。「日本画の数の限られた色数の顔料(絵の具)では、油絵の豊かな色には対抗できない」そう考えたフェノロサは、芳崖の為に海外から化学合成で作られた鮮やかな顔料を取り寄せた(特にイエロー)。この作品は大きな話題を呼び、若い画家たちを刺激した。同年、フェノロサ、天心らは欧米の美術界の現状を調査する為に渡航する。
次の年、芳崖の妻が逝去した。尊大、横柄と言われた芳崖だが、彼は8つ年下の妻にだけは頭が上がらず「観音様」と呼んでいた。芳崖は死に打ちひしがれ絵筆が止まってしまう。帰国したフェノロサはそんな彼に「この絵をもう一度描いてみてはどうですか」と1枚の作品を見せる。それは3年前に芳崖がパリ万博に出品した「観音図」。フランスで個人所有になっていたものを彼が買い戻してきたものだった。芳崖の心の中で、妻と菩薩の2人の観音、西洋画のマリアが融合した。彼は伊画家・ジョルジョーネの「聖母子像」の模写を試みるなど、仏画での聖母子像に挑んだ。芳崖は1年をかけて『悲母観音像』を描き上げ、完成4日後に肺病で亡くなった。凄絶な人生だった。※この絵は芳崖が最後に金粉を撒いたので柔らかく金色に輝いている。
1888年(35歳)、岡倉天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感。そして日本初の芸術教育機関、東京美術学校(現・東京芸大)を設立し初代校長となった。フェノロサは副校長に就き、美術史を講義する。 ※東京芸大の敷地には開校の由来を刻んだ石碑があり、フェノロサの姿が描かれている。 
1890年(37歳)、ボストン美術館に日本美術部が新設されフェノロサのもとへ「学芸員になって欲しい」と依頼が届く。折りしも日本政府との契約が満期終了となり、彼は帰国の途に就く。日本政府はこれまでの労をねぎらい勲三等を授与した。同年、ボストン美術館東洋美術部長に就任し、日本美術の紹介に尽力する。1893年、シカゴ万博で審査委員を担当。
1896年(43歳)、2度目の来日。東京高等師範学校教授となる。この年、夫人と共に三井寺・法明院を訪ねた。法明院は彼を仏門に導いた和尚が前住職を務めている。フェノロサは法明院の茶室「時雨亭」で寝起きし、同院には今でも愛用の地球儀、望遠鏡、蓄音機などが保存されている。
1897年、これまでのフェノロサの調査を元にして、文化財を国宝に指定して保護する「古社寺保存法」が制定! ※フェノロサは60カ所以上の社寺、約450品目の美術品を調査した。
1898年(45歳)、3度目の来日。上野で『浮世絵展覧会』を開催し、英文付きの目録を作成し自ら解説を書いた。能楽論を執筆。
1901年(48歳)、『北斎展』開催のため来日。これが最後の日本訪問となった。
1908年、ロンドンで開催された国際美術会議にアメリカ代表委員として出席し、滞在中に心臓発作で急死した。享年55歳。戒名は「玄智院明徹諦信居士」。彼は生前に「墓は法明院に」と願っており、翌年、分骨された遺骨が三井寺・法明院に埋葬された。眼下には琵琶湖が広がる。
フェノロサについて「貴重な日本美術を海外へ流出させた」と批判する意見がある。日本に残っていれば100%国宝指定を受けていた作品は、尾形光琳『松島図屏風』、雪舟『花鳥図屏風』、住吉慶恩『平治物語絵巻』、伝狩野永徳『龍虎図屏風』など。しかし、どんな資格があって日本人が彼を批判できるのか?流出させたのは日本人自身だ。フェノロサは日本人が気づかなかった“美”を日本画に見出し、価値が分かるから購入したのであり、彼が集めた2万点の美術品はボストン美術館が大切に所蔵・展示している。
日本人は自らの手で仏像を破壊し、古寺を廃材にした。寺宝や浮世絵が古美術商の店頭に並んでいても日本人は買わなかったし、誰も美術品と思わず欲しなかった。そんな自分達のことを棚に上げて、フェノロサを非難するなんてちょっと酷すぎる。来日した医師ビゲローは書く「維新後に名品が大量に市場にでたのは、二つの原因による。ひとつは経済的に困窮した貴族層が値段の見境なく売り出したこと、もう一つは日本人の間に極端な外国崇拝があること」。フェノロサも天心に呟く「日本人が売るから買い求めるのですが、本当にもったいないことです…」。
フェノロサは日本の美術や文化を単なる酔狂やポーズで好んでいたのではなく、本気で愛していた。能楽を習い、茶室に滞在し、改宗して仏教徒にまでなった。日本美術への眼識の高さは名匠さえ唸らせるものであり、日本美術界の未来まで考えて美大開校の為に奔走するなど、その愛情の注ぎ方は極めて熱く誠実なものだった。
彼は日本政府に美術品を収蔵する施設として帝国博物館の設立を訴え、西洋一辺倒の日本人に「日本美術の素晴らしさに気づいて欲しい」と心から願って活動した。その行動の核に純粋さがあったからこそ、頑固者の芳崖は彼を受け入れた。岡倉天心との古寺調査は国宝誕生のきっかけとなったし、海外に日本美術の魅力を紹介することで日本の国際的地位を高めてくれた。フェノロサは日本美術にとって、ひいては日本国の恩人と断言できる! 
日本文化を救った米国人・フェノロサ
岡倉天心と共に東京美術学校を設立するほどの……
フェノロサは、元はハーバード大学で政治経済を学んでいた人でした。
先に来日して東大教授を務めていたエドワード・モース(過去記事:貝殻が人骨や土器も守った?モースが大森貝塚を発見)の紹介で、哲学などの教授として日本へやってきたのは25歳のときのことです。
専門は政治や哲学だったのですが、元々美術には関心が高い人で、アメリカでは美術学校に行っていたこともあります。そのため、日本国内の展覧会で審査員を務めたことがきっかけで、日本画家とのつながりができ、日本の美術に大きく影響を受けていきます。助手の岡倉天心と共に、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部の前身)を設立するほどですから、よほどの入れ込みようだったことは想像に難くありません。
他にも、当時日本人があまり評価していなかった日本画について、「ここがすばらしい」と具体的に講演したことで、日本人に自国の芸術のよさを伝えています。
ベルツも南方熊楠も嘆いていた当時の風潮
明治政府はフェノロサの指摘をキッカケに日本の芸術を見直し、彼の講演を紙面にまとめて全国に配布しました。当時の日本は、廃仏毀釈&「西洋に追いつけ追い越せ」という風潮のせいで、自国の文化を過剰に卑下する傾向があったのです。
わかりやすい例では、南方熊楠(過去記事:キテレツな大天才!南方熊楠(みなかたくまぐす)先生の面白人生)が大反対した、ご神木の伐採などでしょうか。それは美術品に関しても同じで、各地の仏像やお寺、それに付随する絵画などがむやみやたらと壊されたりしていました。
実際、西洋人たちからは、冷ややかな視線を送られておりました。フェノロサと同時期に来日していたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ(過去記事:Youは日本をどう思った? お雇い外国人エルヴィン・フォン・ベルツ 日本の良いとこ悪いとこ)も、「自国の文化を捨てて西洋に媚びるとは嘆かわしい」(意訳)といったことを日記に書いています。
何百年と封印されていた法隆寺・夢殿の扉を開いた
フェノロサはベルツほど辛辣な言動はしなかったようですが、異国である日本の芸術品を積極的に保護してくれています。
とりわけ古いお寺や神社の宝物庫の調査を積極的に行いました。なにせ日本滞在中に仏教へ帰依しているくらいですから、信仰心からも行動せずにはいられなかったのでしょう。戦争が絶えず、自分たちのアイデンティティを守るために戦ってきた欧米人からすれば「誰に攻め込まれたわけでもないのに、これまで信仰してきたものを自ら破壊する神経がわからん」という感じだったでしょうしね。
そうしたフェノロサの偉業で、現在も続いているものが一つあります。法隆寺・夢殿の本尊、救世観音像の開扉です。
この仏像は聖徳太子の身長と同じ高さに作られているといわれていて、何百年間もずっと封印されていました。「開けると大地震が起きてこの世が滅ぶ」とまでいわれていたそうですが、誰がそれを言い出したのかといった背景事情は全く伝わっていません。それでも法隆寺の僧侶たちは、謹厳にこの秘仏を守り、数百年もの間秘仏として、住職たちですら見たことがなかったのです。
僧侶たちは抵抗しつつも、結局、逃げた
フェノロサはこの像を調査すべく、明治政府の許可証を持って法隆寺を訪れました。もちろん僧侶たちは抵抗しましたが、フェノロサの熱意(という名の威圧感かもしれない)に負けて、逃げるように道を開けたそうです。しかし、厨子(仏像を安置しておくケース)を開けてみると、そこにあったのは幾重もの木綿で覆われた、仏像なのかどうかもわからないものでした。丁寧に布を巻き取る度、数百年分の分厚いほこりが舞い上がったそうです。
そして最後の一枚を取り除くと、そこには畏怖さえ抱くような笑みをたたえた観音像が立っていました。
その後、この像はフェノロサの開扉をきっかけとして、毎年春と秋に公開されるようになったのです。
アメリカへ帰国後はボストン美術館の東洋美術部長に
フェノロサは1890年に帰国した後、ボストン美術館の東洋美術部長として日本の作品を紹介し続け、その後もたびたび来日していました。
仏教に帰依するくらいですから、最期は日本で迎えるつもりだったのかもしれません。しかし、その前にロンドンの大英博物館での調査中、心臓発作を起こして亡くなってしまいました。
一度はイギリス国教会により葬られたのですが、その後遺言により、荼毘に付されて日本の法明院というお寺に改葬されています。ここはフェノロサが受戒したお寺の塔頭(大きなお寺の中にある小さなお寺)でしたので、その縁でこの地になったのでしょう。現在もフェノロサのお墓は法明院の墓地にあります。 
フェノロサと法明院
大津市三井寺・天台宗園城寺の北端に法明院という塔頭がある。この寺は、境内の桜や紅葉など四季の美と庭園から眺める琵琶湖や正面の近江富士さらには北方向に伊吹山、比良山などがワイドで望める湖岸でも名高い“眺望の舞台”である。
いまひとつこの寺には、明治の始め、日本に吹き荒れた廃払毀釈の嵐によって日本の貴重な文化財が反古同然となっていくのを憂え、当時、東京帝国大学の哲学教師のかたわら日本各地の仏寺を調べ、奈良・法隆寺夢殿の門扉を開けさせ、白布に包まれ廃棄寸前にあった秘仏・救世観音を発見するなど明治政府に文化財保護の必要性と保存への法律の制定などを訴え続け、そうして実らせた日本美術の恩人・アーネスト・フランシスコ・フェノロサが眠るお墓があることで有名。
フェノロサの来日
明治11年8月9日、東京帝国大学へ招かれたフェノロサは、哲学のほか政治、経済、社会学などを担当した。ハーバード大学を卒業後、しばらくボストン美術館付属絵画学校に籍を置き、美術教育家の道を模索していたこともあって、日本美術には特別の関心を寄せていた。
来日当初駿河台に住んでいたフェノロサは、上野や浅草の道具屋で買い求めた物品の中にニセ物をつかませられることもあったが、古物学者や文部省博物局の職員、大学の同僚狩野友信らの優れた鑑識家たちの友情に支えられ、鑑識家としての実力を養い、明治17年(1884)10月には狩野永探理信の名号を授与され、正式の鑑定状を発行出来る資格を与えられた。
相次ぐ美術品の流出
明治維新は文化財の運命に対して危機的な混乱を引き起こした。慶応4年(1868)新政府は、徳川300年以来守られてきた神仏集合の令を改正して神仏判然の令を発令した。つまり神仏集合というあいまいなものから神道、仏教の本旨を明確にさせるという法律で、これが拡大解釈されて廃仏毀釈という暴挙へエスカレートしていった。
この傾向は東京だけでなく、全国に波及、有名寺院の破壊や仏像、仏画、経巻類が焼却されて野天に放置された。また新政府は、旧幕時代に諸外国と締結した不平等条約を改正するため欧米の諸国に、日本が文明開化の近代国家だと印象づけるため国民に大いに洋風を取り入れるよう奨励したことが西洋崇拝、旧物軽視の風潮を生み、伝統的文化財の破壊、遺失、流出への危機を一層助長することになった。
関西では奈良・興福寺の五重の塔が10円で売り出された。この値段は、万一売れない場合、塔を焼却して残った金具代だけでもということで最初から焼却するのが目的のようだった。
夢殿の救世観音像を発見
明治17年、文部省図画調査委員に任命されたフェノロサは、同年8月、通訳の文部省調査委員岡倉覚三氏(のちの天心)と友人の医学博士ビゲローと三人で法隆寺を訪ね、5日間にわたって同寺の什宝調査を行った。中でも夢殿の開扉については、仏罰で地震が起き、寺はつぶれてしまうといって開けようとはしなかった。フェノロサ、岡倉氏らが、同寺の千早定朝住職を長時間、口説きやっとのことで開扉した。 
錆びた鍵が鍵穴に入り、カチンと鍵のあいた音を聞いたフェノロサは思わず喜びの声をあげたという。厨子の中からは木綿の白布約500ヤード(約450メートル)にぐるぐる巻きにされた等身大の仏像が見つかった。何百年か経っていたため、布にたまった厚いほこりがたちのぼったうえ、とっさの出来事で中に入っていたネズミやヘビがあわてて飛び出し、委員らはがく然としたと調査書に記されていたというが、いずれにしてもフェノロサらの手によって救世観音は無事発見され、現存することになった。
フェノロサら法明院で受戒
フェノロサやビゲローは、関西出張の節には、法明院に立ち寄り、第9代目住職・桜井敬徳阿闍利の教えを受ける一方、同院の茶室・時雨亭で寝起きをし、客殿で訪れる人々をもてなしていた。夢殿の調査を終えた頃から岡倉(のちの天心)は、フェノロサ、ビゲローに受戒をすすめ、阿闍利へも懇請していたのが実り、明治18年9月21日、法明院で阿闍利に得度を受け、フェノロサは「諦信」ビゲローは「月心」の法号を授かった。
阿闍利は、天保5年(1834)9月、尾張国知多郡西河野村に生まれ、10歳で出家、文久元年(1861)師の敬彦大和上の跡を継いで同院の9代住職となった。明治5年(1872)教務省教導職を命ぜられて国内各地を伝導、同13年(1880)11月、伝導灌頂を受けて阿闍利となる。それから3年後、阿闍利は当時、農商務省博物館長だった町田久世氏に、東大寺戒壇で大戒を授けた。当時各新聞は「天台宗祖・伝教大師でさえ比叡山に一乗戒壇を建立出来なかったのに東大寺の戒壇で大戒を授けるとは異彩」と賞賛したことによって敬徳阿闍利の名声が全国に知れ渡ったという。
阿闍利の死
明治18年10月、フェノロサ、岡倉は文部省の命で欧米の美術事情視察の旅に、ビゲローも4年ぶりに帰国するため同船した。2人は20年10月、2年ぶりに日本に戻ってきた。その間フェノロサは、アメリカ各地の美術研究機関で東洋美術を講演し浮世絵史綱、北斎画風変遷史を刊行するなどまた日本政府に対しては、古社寺の宝物保存法または国立美術学校の創設に奔走していた。
ビゲローは、白山御殿町(昔の徳川家の薬園跡)4万平方メートルに、阿闍利を招くための理想的伽藍を建設していた。
ところがさきに日光で病気になり、東京で療養していた敬徳阿闍利の容態が急変、ビゲローは友人の外国人医師に治療を頼んだが22年12月14日死去、遺骨は三井寺へ帰った阿闍利は死の直前、ビゲローの父親もアメリカで重病と聞き、自分にかまわずすぐ帰国させたというエピソードが残っている。
フェノロサが遺書
8年間の日本勤務を終えたフェノロサは政府から文化財保護に力をつくした功績を認められ、勲三等を授与された。明治22年東京帝国大学を辞し、継続中だった東亜美術史綱を完成させるため欧州へ取材旅行、アメリカへ帰る直前の明治41年(1908)9月21日、ロンドンで心臓マヒのため急死、55歳だった。遺骨は、フェノロサの手帳に書かれていた「I want to come back to Miidera」(私は三井寺へ帰りたい)という遺書によって日本へ送られ翌年の9月21日、彼の心の故郷だった法明院に帰ってきた。
寺では手厚く葬ったのだが、9月21日というのは、フェノロサの受戒の日であり、急死、骨帰山と三度も同じ日に重なったというのはまことに珍しいことである。フェノロサの墓の横にはビゲローの墓もある。

唐土山・法明院
享保10年(1720)義瑞律師の開基で、天台密教戒律の修業道場として創立され、比叡山の安楽院と共に並び称された。本堂の阿弥陀如来は鎌倉中期、不動明王は藤原時代の作で、建物は唐破風入母屋造り。当時、一般の寺院では許されなかったが、御水尾天皇、霊元法皇が再三参拝されたこともあって、大阪の加島屋7代目によって建立、寄進された。寺の後ろの長等山は宗祖・智証大師が入唐された際、唐国の土を持ち帰りこの峰に埋められたことから唐土山と呼ばれるようになった。 
岡倉天心物語
父は福井藩士
福井市中央公園に高さ4・2メートルの岡倉天心像がある。台座を含むと7メートル。日本で一番大きい天心像といい、毎年秋には、功績をたたえる顕彰祭が営まれる。同じく福井市にある私の勤務先、県立美術館では1977年11月の開館以来、明治期に天心が基礎を築いた近現代日本画を中心に作品を収集してきた。なぜ、福井で天心なのか。県内にお住まいの方はご存じだろうが、天心のルーツは福井にある。
天心は福井の産品を扱う商館「石川屋」の支配人だった父・覚右衛門の次男として、江戸末期の1863年に横浜で生まれた。10年前にはペリーが浦賀に来航。幕府は横浜などの港をアメリカやイギリスに開放した。そして警備を命じられた福井藩が横浜に派遣した500人の藩士の中に覚右衛門も入っていた。
覚右衛門は自らの才覚で出世した切れ者だ。今の福井市篭谷(かごたに)町(旧美山町)の農家出身。地域の伝承によると、口減らしで、福井藩士の家へ仲間(ちゅうげん)奉公に出て、弓の腕が注目され、岡倉家の養子になる。弓の腕は山あいの故郷でイノシシを追いかけた経験で培われたという。
とはいえ、岡倉家は武士の中では下層の足軽階級なのだが、横浜に出た覚右衛門は算術の才覚を買われて、石川屋に派遣される。新しい時代、産業振興で富国強兵を目指す藩が外国人と商取引する最前線だ。ここで、覚右衛門は商売だけでなく、藩のために情報収集の仕事もしていた。
外国人を追い払うべきだとの攘夷論に朝廷や幕府が傾き、横浜港の閉鎖論も飛びだしていた1864年。居留地の外国人向け新聞「ジャパン・コマーシャル・ニューズ」に16代目福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)の名前で、朝廷の鎖国攘夷政策を批判する文書が掲載される。実はこれは春嶽には身に覚えのない偽文書。覚右衛門は新聞を翻訳させると、江戸屋敷に報告書を送る。飛脚が届けた報告書を京都で読んだ春嶽は「(偽物とはいえ)幕府、朝廷に申し訳が立たない」と、記事を理由に幕府の要職・京都守護職を辞職する。
当時、京都は攘夷論の中心地で治安も悪化。時勢を心得え、攘夷が現実的ではないことを知る春嶽は、京都政界に嫌気が差していたというから、絶好の口実だったのだろう。
特別展で展示する資料には、春嶽が覚右衛門に送った病気見舞いの手紙や、覚右衛門が当時珍しかったリンゴの種を春嶽のために用意したことを記す手紙もある。覚右衛門が藩主の信頼を得ていたことを物語る。
天心は、こうした才気煥発(かんぱつ)な父の元、外国人が行き来する環境で育ち、英語と漢学も学んだ。東西双方の美術文化に通じ、新しい日本画を目指したり、日本文化、思想を世界に発信したりした天心の基礎は、この時代に培われたに違いない。
フェノロサと親交
父・覚右衛門に英才教育を施された天心は、1873年(明治6年)、10歳で東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学。さらに、東京大学へと進み、10歳年上の米国人青年アーネスト・フランシスコ・フェノロサに出会う。
フェノロサは、政府などが欧米に学ぼうと、多数招聘(しょうへい)した「御雇い外国人」。東大教授として政治や哲学を教えた。趣味で日本の美術品を収集・研究しており、天心は通訳の一人だった。
後にボストン美術館の初代東洋部長を務め、今は東洋美術史家とも呼ばれるフェノロサだが、この時は粗悪品をつかまされることも多く、見かねた周囲が狩野派の画家を紹介したという話も残る。
天心は通訳のほか、収集した美術品の目録作りや、幕末に出版された古代から江戸期の画家名や作品、落款(画家のサイン)の総目録集「古画備考」の翻訳を任される。審美眼を養い、見識を深め、日本美術の素晴らしさに開眼していく。
17歳で東大を卒業した後は文部省の官僚になり、神仏分離による廃仏毀釈(きしゃく)で破壊される仏像や、パトロンの大名を失って困窮する寺が、二束三文で外国人らに売り払っていた宝物の保護に乗り出す。
大学の卒業論文も「美術論」だったが、裏話がある。天心の専攻は政治学。卒論も当初は「国家論」を予定していた。ところが、若くして結婚した基子夫人と喧嘩(けんか)になり、夫人は、夫が3か月を費やした労作を燃やしてしまう。「美術論」は2週間で書き上げた代用品。成績は下から2番目とふるわず、天心の愚痴の種になった。
天心とフェノロサの関係は卒業後さらに深まり、2人は本格的な古社寺調査を行う。長年閉ざされていた奈良・法隆寺の夢殿も、祟りを恐れる僧侶たちを説き伏せて扉を開いた。クモの巣、ネズミと、ひどい状態だったが、秘仏「救世(くせ)観音像」(国宝)が姿を現す。どんな社宝・寺宝があるのか記録も作った。
調査も宝物登録も、2人より前にも行われていたが、不十分だったようで、福井でも1896年(明治29年)に当時の知事が国に調査漏れを追加申請した記録が残る。官僚時代の天心の仕事は文化財行政の基礎となり、今も国宝制度や文化財保護法として生きる。
もう一つ、2人が情熱を注いだのが日本美術復興だ。西洋画がもてはやされる一方、日本画は衰退していた。狩野派に代表されるが、江戸時代の絵の修業は模写が基本で、独創性は排除し、ひたすら師の手本を忠実にまねる。必然的に同じような絵ばかりになり、飽きられる。そこに明治維新が起き、大名のお抱え絵師たちは大量に失業した。
天心とフェノロサは打ち捨てられていた日本画に新しい息吹を吹き込もうと、狩野派の中で最も格式が高かった4家の一つ「木挽(こびき)町狩野家」で、2神足とも、竜虎とも評された狩野芳崖や橋本雅邦らとともに「新しい日本画」を模索していく。
日本美術院の創設
日本美術の保護・再興に力を尽くす天心らの活動は、欧米を崇拝・絶対視する欧化主義とのせめぎ合いだった。例えば、全国の学校での図画授業。鉛筆か、墨と筆か、デッサンをどちらで行うべきかが審議される。天心はフェノロサらとともに筆を推し、採用された。
文部省時代は伝統的な教育を重視する浜尾新(あらた)や九鬼隆一男爵ら上司の後押しにも恵まれた。フェノロサの最初の妻・リジー夫人も、欧化主義者だった初代首相・伊藤博文らに働きかけるなど協力したという。
どのような美術施策をとるのか方向性を模索していた明治の日本。美術学校の設立計画もあり、1886年、天心とフェノロサは、1年間のヨーロッパ視察に派遣される。当然だが、文部省内にも、西洋美術を推す意見はあった。この派遣には、日本美術にこだわる2人を西洋美術の本場で懐柔する狙いもあったようだ。
ところが、天心は、日本古来の美術が世界に誇れるもので、それぞれの国が持つ固有の美術を発展させることが大切だとの確信を強めて帰国する。天心が設立にかかわった東京美術学校(現在の東京芸術大学)には、89年の開校当時、日本画部門はあったが、西洋画部門は設けられなかった。
校長になった天心は、美術史を教える。古代からの美術史を初めて系統立って分類した「日本美術史講義」は有名だ。技術面でも江戸、室町、と時代を区切り、その時代の技術を教えた。教科書のない時代、古社寺調査の経験で培ったものを生かしたのだ。
もう一つ特徴的だったのは学生に画題に対するセンスを磨かせたことだ。従来、日本画の修業は師の絵をまねる職人的な要素が強かったが、天心は、「明月」を題に絵を描くのに、「明月」そのものを描いてはいけないという課題を出す。学生は工夫し、独創性が養われる。
校長時代、天心は中国にも出かけ、東洋美術にも通じていく。水を得た魚のように活躍する天心だが、開校から約10年が過ぎた1898年、校長辞任に追い込まれる。
この頃には、学校に西洋画部門も設けられ、思い通りにならないことも増えた。専権的に物事を決める天心への批判もあった。そうした状況で、天心と、その庇護者・九鬼男爵の妻との不倫スキャンダルを暴く怪文書が出回ったのだ。
教壇に立っていた橋本雅邦や、卒業後も学校に残っていた横山大観、下村観山、菱田春草らは後を追って辞任。天心は、彼らとともに、新しい日本画を追求する「日本美術院」を創設する。日本画の公募展「院展」の主催団体と言えば、ご存じの方も多いだろう。
天心の住居もあった東京・台東区の日本美術院跡は、現在、「岡倉天心記念公園」になり、福井県花・越前水仙が植えられている。
天心が晩年、恋人だったインド人女性に出した手紙に「もし私の記念碑を建てねばならないのなら、水仙を少しばかり植えてくれ」と書いたのに、ちなんだそうだ。
フェノロサコレクション
日本美術院を創設し、「新しい日本画」の理想に燃える天心たちは、積極的に展覧会を開き、一般への美術普及に努める。後の著作「東洋の理想」につながるインド旅行も美術院時代だ。しかし、すぐに壁にぶつかった。
「空気を表現する方法はないか」。天心の示唆で、美術院の中でも急進的だった横山大観と菱田春草は、岩絵の具に胡粉(ごふん)(貝殻が原料の白色顔料)を混ぜる。中間色ができるのだが、これでグラデーションを付けて彩色した作品は「はっきりしない絵だ」と不評を買う。
それまでの日本画は墨で、はっきりと輪郭を描くのが普通。顔料を混ぜることもあまりなく、輪郭をぼかす技法は一般的ではなかった。春草、大観は空気と光を描こうと挑戦を続けるが、「朦朧体(もうろうたい)」と揶揄(やゆ)されて絵は売れず、美術院批判の原因にもなった。
元々、余裕があったわけでもなかった財政は逼迫。天心は、支援者の米国人のつてで、ボストン美術館に職を得て、春草や大観らを連れて渡米する。視察なら、新興国の米国よりも美術の本場・欧州を選びそうなもので、支援者の多い土地で資金を稼ぐのが目的だったと思われる。「一旗揚げよう」といったところだろうか。
一行は、日本が帝政ロシアに宣戦布告し、日露戦争が正式に開戦した1904年2月10日、横浜港を出航した。この時、天心40歳。この後、50歳で世を去るまで、米国で過ごした期間は通算で5年間に及んだ。
少し、時間をさかのぼり、フェノロサと狩野芳崖(ほうがい)に触れておきたい。フェノロサの理論を実現し、近代日本画の父と呼ばれる芳崖は、東京美術学校で教べんをとる予定だったが、開校直前の1888年に世を去る。フェノロサは、文部省との契約が更新されず、開校間もなく帰国を余儀なくされる。「御雇い外国人」厚遇の時代は終わりつつあったが、彼の給金は美術学校の年間予算の半分を占める高額だった。
この時、米国に持ち帰った美術品「フェノロサコレクション」は、彼の離婚と再婚に絡む売却、死後の相続などで分散する。
特別展では、このうち、彼が死ぬまで手元に置いたものの、死後に日米に分かれた芳崖と橋本雅邦の絵画計4点が数十年ぶりに“再会”する。天心たちが目指した新しい日本画を体現する品々だ。
長い間、「再会」がかなわなかったのは、そのうちの1枚、芳崖の「伏龍羅漢(ふくりゅうらかん)図」が、73年間行方不明だったのが大きな要因だが、18年前からは当館が寄贈を受けて所有している。
1920年(大正9年)、フェノロサの2番目の妻メアリーが東京・上野で開かれた芳崖の遺作展に出品した後、福井出身の実業家に売却。その後、転売されて行方知れずとなっていたのだが、実は毎回、福井に地縁のある人が購入し、大切に保存・継承していた。
芳崖がフェノロサらと過ごし、新しい日本画を模索したのは晩年のわずか6年間。「伏龍羅漢図」は、その中でも初期のもので、技法も画材も冒険を試みている。フェノロサの理論と芳崖の独創性を融合させた記念碑的作品と言えるだろう。 
嘉納治五郎
・・・発足したばかりの東京大学文学部第2期生(同期6名)として、嘉納治五郎は新進気鋭のフェノロサ教授(26歳前後)の指導の下に、政治学、理財学(経済学)を専攻して明治14年卒業した。
ところが、そのフェノロサ教授に一方ならず傾倒した嘉納は、ハーヴァードで専ら哲学を専攻したフェノロサの「哲学」講義を受けるために、改めて明治14年東大文学部哲学科に学士入学を果たし、同時に「道義(倫理)学」、「審美学」の選科に入って明治15年夏卒業、学習院に奉職する。
そのように嘉納が傾倒し、信奉者の一人となったアーネスト・フランシスコ・フェノロサは、明治10年代前半の日本文化に触れて魂を揺さぶられ、「東洋的精神を欧米に伝えることを以て一生の事業として身を捧げる」ことを決心した。
日本及び日本人に惚れ込み、日本に強く期待したフェノロサは、「日本人の歴史的使命」として、「東西文明を融合して、より高い文明を創造する」という、言うは易く、実現は極めて困難な命題を高々と掲げたのである。
しかしながら、自らが深く感銘を受けた日本人の「高尚優美な性質」や「誠実剛毅な精神」が、その後の 殖産興業、富国強兵の波に押し流されて跡形もなくなり、拝金主義、立身出世主義に覆われていく日本社会にフェノロサは嘆息し、落胆した。
一方、東大文学部におけるフェノロサの薫陶を受けて、天成の資質に磨きがかかった嘉納治五郎は、ジョン・スチュアート・ミルが理想とした多面的で恐れを知らず、自由でしかも合理的なバックボーンを形成し、東大卒業後数年にして、「古流柔術」を基に「講道館柔道という世界的イノベーション(技術革新)」を達成した。
前述したように今やサッカーに次ぐ900万の競技人口を擁する「講道館柔道」の創始者嘉納は、結果として、「日本発(初)世界標準」の構築者となったのである。
そういう意味において、嘉納治五郎は恩師フェノロサを超えた、と言うことができよう。
「東西文明を融合し、より高い文明を創造する」という遠大かつ困難な目標を掲げたフェノロサの胸底にあったのは、「西眼(西洋的の眼)を以て西洋の事物を観察し、東洋的の眼を以て東洋の事物を観察し、更に進んで世界的の眼を以て東西の文明を観察し、茲に新しい生命を創造する」という発想であった。
他方、嘉納治五郎は、明治期日本の世相に対する自らの厳しい批判や、将来の国家的発展とそれに要する人材育成についての鋭い洞察に基づき、より深く掘り下げてこの命題を捉え、次のように揚言した。
「東西文明の精粋を、わが国性に同化し融和し醇化の大作用を遂げて、偉大なる新文明を醸し創作してこれを世界に弘布することはわが国民の天職とするところである」
単に同化、融和にとどまらず、あえて醇化、釀という言葉を用いたところに、勝海舟伝来の実学主義を信奉する実戦家嘉納治五郎の非凡さがあった。
世界のスポーツ史(文化史)に永遠に残る業績を挙げた嘉納治五郎の成功の核心は、物事の本質を捉え、そこから展開、転換するに何のためらいもなく既往を振り捨て、新たな方向に超人的な集中力を発揮したことにあった。・・・
 
エドアルド・キヨッソーネ

 

Edoardo Chiossone (1833-1898)
紙幣・切手の印刷、明治天皇・西郷隆盛などの肖像(伊)
イタリア出身の銅板画家・印刷技術者。1875年来日、大蔵省印刷局にて銀行券や印紙のデザインや原版作りを行い、銅版技術を指導した。この時技術を学んだ木村延吉、降矢銀次郎は後に大手の印刷会社・凸版印刷を興した。西郷隆盛・明治天皇・大久保利通など著名人の肖像画を多く描いている。日本で初めて紙幣の肖像画に描かれた神功皇后像(どう見ても日本人に見えないが)も彼の手による。退職後は、鎌倉に残り、日本の風景、寺社、古器物、古美術を本国イタリアに紹介。これらの遺品や作品は故郷ジェノバのキヨソネ博物館に保存されている。  
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イタリアの版画家・画家で、明治時代に来日しお雇い外国人となった。
キヨッソーネはイタリアのアレンツァーノ(ジェノヴァ県)で代々製版・印刷業を営んでいた家系に生まれる。14歳からリグーリア美術学校で銅版画の彫刻技術を学び、22歳で卒業、特別賞を受賞し教授となった。1867年開催のパリ万国博覧会に出品した銅版画は銀賞を受賞している。その後紙幣造りに興味を持ちイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造していたドイツのフランクフルトにあったドンドルフ・ナウマン社に1868年に出向した。当時ドンドルフ・ナウマン社は日本の明治政府が発注した政府紙幣(明治通宝)を製造しており、彼も製造に関わっていた。
キヨッソーネが来日したのは1875年(明治8年)のことであったが、当時彼はイギリスの印刷会社に勤めていた。招聘に応じたのは大隈重信が破格の条件(月額454円71銭8厘)を提示したこともあったが、当時写真製版技術の発達が進んでいたこともあり、銅版画の技術を生かせる活躍の場を求めたこともある。一方、樹立間もない明治政府にとって偽造されないような精巧な紙幣を製造するのは大きな課題であり、このままドンドルフ・ナウマン社に紙幣印刷を依頼するのは経費がかさむうえ安全性に問題があるとして、国産化を目指しその技術指導の出来る人材を求めたのである。
来日後、大蔵省紙幣局(現・国立印刷局)を指導。印紙や政府証券の彫刻をはじめとする日本の紙幣・切手印刷の基礎を築いたほか、新世代を担う若者たちの美術教育にも尽力した。奉職中の16年間に、キヨッソーネが版を彫った郵便切手、印紙、銀行券、証券、国債などは500点を超える。特に日本で製造された近代的紙幣の初期の彫刻は彼の手がけた作品である。また、1888年には宮内省の依頼で明治天皇の御真影を製作し、同省から破格の慰労金2500円を授与された。また元勲や皇族の肖像画も残した。面識がない人物を描いたことも少なくないが、例えば西郷隆盛の肖像については西郷本人と面識がないうえに、西郷の写真も残っていなかったため、西郷の朋輩であり縁者でもあった得能良介からアドバイスを受けて西郷従道と大山巌をモデルにイメージを作り上げたという。また旧紙幣における藤原鎌足は松方正義を、和気清麻呂は木戸孝允を、武内宿禰は当時の印刷部長佐田清次を、神功皇后は印刷部女子職員をモデルに、肖像も彼が描いたものであった。また日本の欧米諸国の技術水準で製造された最初の普通切手シリーズの小判切手は彼がデザインしたものであった。
印刷業における功績として、司馬江漢以来エッチング一辺倒だった日本に、腐食に頼らずビュランを使用する直彫りのエングレービングやメゾチントを紹介し、腐食によるものでもソフト・グラウンド・エッチングやアクアチント等の本格的な銅版技術を伝授した。また、日本でそれまで普及していなかった原版から精巧な複数の版をおこす「クラッチ法」や「電胎法」などをもたらした事で、安定した品質での大量印刷が可能になった。
雇用期間が終了した1891年(明治24年)には退職金3000円と年額1200円の終身年金、更に勲三等瑞宝章を政府から与えられた。これらの莫大な収入の殆どは、日本の美術品や工芸品を購入するのに当てたほか、寄付したという。キヨッソーネが収集した美術品は、浮世絵版画3269点、銅器1529点、鍔1442点をはじめとして15000点余りに上る。キヨッソーネは系統立った収集のため、堀口九萬一に『浮世絵類考』をフランス語に翻訳してもらい、これを座右の書として研究したという。彼の収集品は死後イタリアに送られ、岡倉天心によって系統立てられ、現在はジェノヴァ市立のキオッソーネ東洋美術館に収蔵されている。彼は最期まで日本に留まり、1898年に東京・麹町の自宅で逝去、青山霊園に葬られた。独身を通したため(内縁関係にあった日本人女性がいたといわれる)、遺言で遺産の3000円を残された召使が分配したという。
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ジェノバで生まれ、ドイツの印刷会社で働き、そして日本へ
キヨッソーネは、1833年にイタリア・ジェノバの西にあるアレンツァーノという町で生まれました。家が版画や印刷業を営んでいたので、幼い頃からこういった仕事に親しんで育ったと思われます。美術学校でも優秀な成績を収め、22歳で教授になっているほどです。
1867年のパリ万博でも銅版画で銀賞を受賞するなど、版画の世界でも十分やっていける実力を持っていましたが、縁あってドイツの印刷会社ドンドルフ・ナウマン社に出向したことがきっかけで、紙幣に興味をもつようになりました。
ドンドルフ・ナウマン社では当時、明治政府からの依頼で日本の紙幣印刷を請け負っていたのです。
キヨッソーネはこれに多少関わっていたため、日本にも興味を持ったのでしょう。
その後イギリスの印刷会社に勤めていたときに明治政府からお誘いを受けた際、はるばる来日。
明治政府では「紙幣作らないといけないけど、いつまでも外注してるとお財布的にキツイ」「なら、技術を持ってる人に教えてもらって、国内で作れるようにしよう!」という話になっていたからです。そこで、かつて日本の紙幣を作っていた会社に勤めていた経験があり、版画の技術を持ったキヨッソーネに白羽の矢が立ったのでした。
「陛下のお姿を遠目から描いてもらえないだろうか」
キヨッソーネに提示された給料は、現代の金額にして年間900万ほど。この金額に惹かれて来日を決めたともいわれていますが、後々のことを考えると、彼にとってもこの決断は良かったと思われます。
来日したキヨッソーネは、大蔵省紙幣寮(現在の国立印刷局)で紙幣に使う肖像や印刷に関する技術指導を行うかたわら、日本人に西洋美術を教えていました。その技術が評判となり、宮内庁からの依頼で、明治天皇の御真影(肖像画)を作ることになったのです。
明治天皇は新しい技術や文物に寛容でしたが、いくつか受け入れがたいものもありました。そのひとつが写真です。しかし、「欧米では貨幣に王様の肖像を使うのが当たり前」「外国の王様と肖像を交換するのが・・・」ということを知った日本政府は、どうにか明治天皇のお姿を平面に表さなければならないと考えました。「写真がお嫌でしたら、せめて肖像画を描かせていただけませんか」と宮内庁が言上しても「ヤダ」というつれないお返事。
困り果てた宮内庁は、キヨッソーネに「陛下のお姿を遠目から描いてもらえないだろうか」と相談しました。
明治天皇の正装を借り受け、自ら身につけて写真を撮り
君主の絵を任されるというのは、画家にとっては大変な名誉です。
感激したキヨッソーネは、明治天皇が芝公園弥生社(かつてあった警察官の武道場)にお出かけした際、奥の部屋からこっそり様子をうかがい、いくつかのスケッチを描きました。
さらに、宮内庁に頼んで明治天皇の正装を借り受け、自ら身につけて写真を撮り、服のしわや角度まで、より正確に再現しています。
こうして出来上がったのが、今日まで最も有名なあの肖像画です。
弟の西郷従道をモデルに描き、そして大村益次郎も
似たような方法で、キヨッソーネは西郷隆盛の肖像画も描いています。既に西郷は亡くなっていましたし、もちろんキヨッソーネは面識がありません。随分な無茶振りでしたが、彼は諦めませんでした。大蔵官僚で薩摩出身の得能(とくのう)良介に相談し、弟の西郷従道や、同郷の大山巌をモデルとして西郷隆盛の肖像画を完成させています。
他にも、大村益次郎などの肖像画を手がけました。
つまり、我々が明治前後の人々の顔を思い浮かべるときは、だいたいキヨッソーネの作品によるイメージだということになります。絵画における司馬遼太郎のようなものでしょうか。
そしてその他、印紙や切手、紙幣などに使われる版画の多くを手がけています。この時代の紙幣には藤原鎌足など、古代の人物の肖像が多く使われましたが、ほとんどはキヨッソーネが当時の省庁のお偉いさんをモデルに描いたものです。面白いところでは、「神功皇后のモデルに、紙幣寮印刷部の女性職員を使った」なんて話があります。
浮世絵や甲冑、大仏など15,000点もの日本美術を蒐集
キヨッソーネは雇用期間が終わっても、亡くなるまでずっと日本で過ごしました。16年の滞在中に、日本に随分愛着を持っていたようです。
政府からは莫大な額の退職金と終身年金、そして勲三等瑞宝章が与えられたのですが、貯めこんだりぜいたくはせず、日本の美術・工芸品を購入していたとか。その集めようはすさまじく、浮世絵・銅器・刀の鍔・大仏・甲冑などなど、合わせて1万5000点にもなるといいます。知り合いの外交官に浮世絵の本を翻訳してもらい、それを頼りに研究するという熱の入れようでした。これらの収集品は故郷イタリアに送られ、今日ジェノヴァ市立キヨッソーネ東洋美術館にまとめられています。
その他のお金は寄付していたそうですが、それでも亡くなった時点で現在の6000万円くらいの遺産があったとか。当時日本の美術品が投げ売り状態だったのか、キヨッソーネのやりくりがうまかったのか……。そのお金は遺言により、使用人たちに配られたそうです。 
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文明や文化は国境を越え絶えず往来し、幾多の国々はそれを足したり引いたり、そこから過去の価値を掘り起こしたり、或はそれを素に独自のものを創りだし、新たな時代を築き上げて来た・・・
この国において、幕末から開国へ舵を切った明治の日本は、近代国家としての殖産興業を興し近代産業化をめざして西洋人を様々な分野の顧問に、教師、技師などとして雇い入れて、当時それらは一般に「お雇い外国人(おやといがいこくじん)」と呼ばれている。1868年(明治元年)〜1889年(明治22年)までに日本の公及び私的機関や個人が雇用した「お雇い外国人」は2,690人が確認され、1898年(明治31年)頃までにはもう少し増えて、イギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人…となっている。そのなかには美術史に登場する、岡倉 天心などと日本美術を再評価したアメリカの東洋美術史家のアーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)や、特にご存知のギリシャ生まれのパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)/日本名「小泉 八雲」のように、怪談"Kwaidan"の「耳なし芳一」や「ろくろ首」「雪女」など、日本の文化を掘り起こし日本に骨を埋めた人も多い・・・
そしてこの国が明治維新を通り8年が過ぎた1875年(明治8年)、イタリアはジェノヴァ近郊アレンツァーノ出身のエドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone:1833年:天保3年〜1898年:明治31年)が、"Giappone=日本"の明治政府大蔵省紙幣寮の招きで紙幣印刷やその技術を教え、この国に近代的な兌換紙幣が成立し、紙幣以外にも、切手、証券証書など本格的な精度の高い印刷技術が根付いていった・・・
ちなみにその当時のお雇いイタリア人を見てみると・・・1876年(明治9年)に日本で開校した工部大学校のお雇い外国人教師で、日本人に洋画を指導した、洋画家のアントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi)や、シチリア島のパレルモ郊外パルタンナ・モンデルロに生まれの彫刻家ビンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa)も、同じ年の1876年(明治9年)に明治政府に招かれて来日し・・・

1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導にあたり日本人と結婚。妻は江戸芝新堀生まれで、後に「ラグーザお玉」と呼ばれた画家の清原多代(エレオノーラ・ラグーザ)で、ラグーザはお玉を連れてシチリア島パレルモに帰り、そこで工芸学校を創立して校長となり、お玉はラグーザ死去後に帰国し日本人初の女性洋画家となっている。それは、明治の開国後、半世紀余を文明や文化が国境を越え往来した事になる・・・
で、エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone)は・・・1833年(天保3年)イタリアのジェノヴァで代々製版・印刷業を営んでいた家系に生まれ、14歳からリグーリア美術学校で銅版画の彫刻技術を学び、22歳で卒業し特別賞を受賞し教授となる。その後紙幣造りにイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造していたドイツのフランクフルトにあったドンドルフ・ナウマン社に1868年に出向、1875年(明治8年)にはイギリスの印刷会社に勤めていたのを、外国に紙幣印刷を依頼するのは経費がかさむうえ、偽造などの安全性に問題があるとして、国産化の為に技術指導の出来る人材を求めていた大隈重信が、当時のお金で月額454円71銭8厘という破格の条件で招聘する。キヨッソーネ42歳・・・ (ちなみに、1871年(明治3年)の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円、フェノロサ,クラークは300円で、明治25年頃の銀行員の初任給の月俸35円、上級公務員の初任給の月俸50円、国会議員の月俸67円…/明治時代の前半で1円=現在の2万円位、後半は1円=現在の1万円位)

来日後は大蔵省紙幣局(現・国立印刷局)の指導と、印紙や政府証券などの日本の紙幣・切手印刷を教え、次の世代を担う若者たちの美術教育をおこない、奉職中の16年間にはキヨッソーネが版を彫った紙幣はもとより郵便切手、印紙、銀行券、証券、国債など500点を超えた・・・

1888年(明治21年)に宮内省の依頼で明治天皇の肖像画を製作、当時のギャラは2,500円と云われている。また元勲や皇族の肖像画も残し、西郷隆盛の肖像については西郷従道と大山巌をモデルにイメージを合成して作り、藤原鎌足や神功皇后の肖像も描かれ、彼が培った誰にもまねの出来ない個性とも云える技術が総てに刻まれている・・・
当時の明治期に見る「お雇い外国人」と云われる、キヨッソーネのような高度の文明や文化を持ちうるインテリジェントの高い人たちは古今東西に存在し、当然コスモポリタン(Cosmopolitan)であり国を持たないほどの国際的叡智人?であり、その叡智を持って、むしろ国や民の何がしかの未来を線引きする側の人種である。そして当然ある種の技をもって未来への統治ごときが出来るのは、そこに人々を導き、驚きや感動、卓越した創造を生み与え、未来の方向を正しく示せるが故に、当然、国と云うくくりから離れ地球上の民の上に存在する。不思議にもそんな国際的叡智人?によって時代は創り変えられ、今も昔もずっとこの地球を未来へと、くるりと時代を廻している・・・
紙幣や有価証券に至っては国の心臓部であり、仮にも外国で偽造されれば国そのものを滅ぼしてしまう。その図柄や制作過程に印刷方法、それら総て知っている以上「おそらく、生きてイタリアに帰る事は出来ないだろう?」と、ましてや、彼の莫大な収入や資産の円を当時ではイタリアのリラ(Lira italiana)に変換する事はおそらく出来なかったに違いない?・・・

雇用期間が終了した1891年(明治24年)に、退職金3,000円と年額1,200円の終身年金、更に勲三等瑞宝章を与えられ、彼の莫大な収入の殆どは、日本の美術品や工芸品の購入と寄付に当てられたという。キヨッソーネが収集した美術品は、浮世絵版画3,269点、銅器1,529点、鍔1,442点をはじめとして大仏像、甲冑、絵画、陶器など15,000点余りにのぼり、遺言によって死後イタリアに送られ、現在はジェノヴァ市立のキヨッソーネ東洋美術館に収蔵されている。
そして、彼は最期まで日本に留まり、1898年(明治31年)東京・麹町の自宅で逝去、青山霊園に葬られ65年の生涯を終えた。独身を通し(内縁関係にあった日本人女性がいたといわれる)、遺言で遺産の3,000円(現在の約6億円/明治時代の1円=現在の2万円)は残された召使が分配したという・・・
はたして、キヨッソーネの"Giappone"は、本当に「日本」足り得たのだろうか?・・・  
明治天皇さまの御尊影は何歳の時?
明治天皇の御尊影といえば代表的なのが明治神宮宝物殿にある御肖像画です。質問に対してのお答えですが、明治21年、陛下37歳(数え年)のときの御尊影です。実は撮影されたのではなく、コンテ画で描かれたのでした。
そのころ明治天皇の公式な御肖像写真がないことで、臣下たちは長いあいだ頭を悩ませていました。当時は諸外国の君主と御肖像を交換することが慣習となっていたのですが、それまで陛下の正式な御尊影は明治5年に撮られた束帯姿・直衣姿と、翌6年の洋装の軍服姿だけでした。それ以後、陛下は写真嫌いだったので、お写真を撮られたことはなかったそうです。しかし、それからすでに15年が経ち御尊影と実際のお顔との差が大きくなってきて、外国から現在のお写真を頂きたいという要請が多くなってきました。
宮内大臣より陛下へお写真をお撮りになるように御進言したのですが、写真嫌いの陛下はどうしても御許可をなされませんでした。どうしようか困っていたとき、宮内大臣に就任したばかりの土方久元が苦肉の策を考えたのです。
写真がだめなら写生だったらどうだろうか・・・しかしこれを陛下に言上しても御許可して頂けなかったので、ひそかに拝写するしかないと考えたのです。そしてその写生を依頼したのが、当時印刷局のお雇い外国人だったイタリアのエドアルド・キヨッソーネ(1832〜1898)でした。
キヨッソーネはその話を聞いて大変に感激し、さっそく明治21年1月14日、陛下が芝公園内にある写真弥生社に行幸の際、奥の部屋に隠れて、陛下の龍顔・御姿勢・御談笑されているお姿など、さまざまな角度から詳細にスケッチをしたのでした。しかも写生だけにとどまらず、陛下の御正装を宮内省から借りて身につけ、みずからモデルとなって写真を撮り、それを基にして御肖像画を完成させたのでした。その威容厳然としたお姿に土方大臣おおいに喜び、さっそく陛下にお見せして御許可を請いました。
しかし陛下は御肖像画を御覧になったとき、無言のままその場では何もおっしゃらなかったそうです。土方大臣は陛下が知らない間に書き描かれたことをお怒りになったのかと思い、不安になりました。しかしたまたまある国から皇族の御真影の贈与の依頼がありましたので、土方大臣はもう一度おそるおそる、陛下にこの御肖像画を贈呈してよろしいか、お伺いしました。
その時、明治天皇はすぐに親署されたそうです。土方大臣はおおいに喜びました。なぜかというと、親署されたということは、すなわちお許しになられたということだからです。
以来、このキヨッソーネが描いた御肖像画は全国に下賜されるようになり、明治天皇の御尊影といえば誰もがキヨッソーネの描いた御肖像画を思い描くほどになったのです。  
明治天皇の肖像
明治期は天皇を中心とした肖像の時代
日本の歴史のうえで、明治期は肖像の時代といっても過言ではないであろう。国家に功績のあった人物はモニュメンタルな肖像彫刻として町並みを 飾り、金持ちは油絵肖像画を欲しがり、一般の人々も写真の出現で手軽に自分のポートレートを持つことが出来た。
天皇の肖像はこうした傾向の頂点に立っている。はじめは全く知られていなかった天皇が、国の方針もあって、その容貌姿態が次第に知られるようになり、 ついには明治時代で最も知られた存在となった。さらに近代国家を維持し発展させ、それを束ねるためのステータスシンボルとしての役割も果たしている。
歴代の天皇の中で、容貌をすぐ思い浮かべることが出来るのは明治天皇である。しかも一定の顔と形で眼に浮かんでくる。それはナポレオンやベートーベンの定形の容貌を 思い浮かべることと一緒である。彼らの肖像も探せば幾つかの違った表情の、そして年齢に差があるものがあるはずだ。だが、我々は一つの容貌をすぐ思い描いてしまう。 とくにベートーベンがその傾向が著しい。もじゃもじゃの髪と少し苦悩に満ちたような表情と鋭い視線を放つ眼など、世界中の人々が同じ表情を脳裏に浮かべることが出来る。 それは次第に作り上げられてきたあるべき姿の肖像で、時代や社会の視線が容貌を固定させた感がある。明治天皇肖像もまた、この地点に存在している。
日本の美術史を追ってゆくと肖像画は主要なモチーフではない。絵画は花鳥風月が中心で、量的にみても肖像画の数は少ない。
肖像という言葉の意味は「人物の容貌、姿態などをうつしとった絵、写真、彫刻。似姿。普通上半身を写し取ったものをいう」ということであるが、肖像画の制作に熱心でないのは、 似せて描くことを忌み嫌う風習と、生存中、特に若い頃に肖像画を描くと、その人の生命を損ねてしまうという考えがあったことも左右しているようだ。
明治以前の肖像画には像の概略を描く伝統が
現在残された肖像画を見ても年取ってからの寿像、もっとも多いのは没後の供養像、あるいは追善像である。子供の像も見受けられるが、それもまた大多数が供養、追善の 像ということになる。
谷文晁が文化八年(一八一一)に著した「文晁画談」にもそのことが見えていて、要約すれば、ことごとく似せて描いてはいけない、似れば命を損なうことがあるので、 寿像を描くときはあまり似ないように描くべきであるとしている。さらに、描くときには像の概略をとることが肝要であるとも言っている。この考え方は文字通りに受け取れば 西洋画とは対極に位置するものである。
現在残されている明治以前の肖像画には将軍、大名を始めとする時の権力者や僧侶など、天皇も当然描かれるが、歴史の表舞台に登場した天皇を除いてその数は少ない。 市井の人々は例外を除いてあまり描かれない、これらの肖像をみると、ほぼ事物の概略を描く伝統が引き継がれているようだ。
異文化とのぶつかり合いで情念の感覚が表面に
明治時代はこうした考え方に西洋画のリアリズムが突然乱入してきた時代といえる。本物のように見えるリアリズムは文字通り骨肉、肉体が相似ることで、日本の本来の表現と真正面からぶつかり合った。 さらに写真の出現も衝撃的で、一見もう一人の自分がそこに存在するかのように見える手段は表現することに大きな影響を与えた。また客観化された自分を見て肖像を持つ楽しみを教えた。
違う文化が融合しないで正面からぶつかり合った時に、誘発されて今まで見えていなかった、あるいは底辺にあった思想・表現が表に出てくることがある。日本の美の感情は、わび、さびであるとよくいわれるが、 その対極にはどろどろとした情念の感覚がある。あるいは、きらびやかでまばゆい世界がある。江戸期でいえば歌舞伎や文楽がそのことを引き継いできた。また文楽とも共通する、江戸後期に発達を見た人形制作にも その一面がある。さらに、浮世絵の表現にも一部その要素をずっと引きずってきた。
明治の表現は異文化とのぶつかり合いの中で、このどろどろとした情念のようなものを引き出した。総体的に明治の表現は他の時代に較べて 突出していて、一言でいえば「濃い」表現が充満していた。さらに実在している天皇を描くことで、生前の像を描くことを嫌う風習を払拭させた。
キヨッソーネが描いた肖像が明治天皇のイメージとして定着
西欧からの新しい表現手段として入ってきた油絵はリアリズムの画法で描くことに適していたし、銅版画、石版画は今まであった木版画とは違う感覚の版画を提供した。中でも特に石版画は簡単に転写することが出来て、 またたくまに普及している。そして写真との融合の中で独自の表現を展開した。制作された作品はさまざまで風景から人物へと多岐にわたる。その中でも特出できるのは明治天皇がさまざまなスタイルで描かれていることで ある。また独特の風貌をした明治の女性たち、大人のような容貌の子供たちを描いた作品が大量に出まわり、先ほど述べたどろどろした、情念のような表現を、この石版画に見ることが出来る。
天皇の肖像も、ある一面でこの現象の中に位置づけることが出来る。明治天皇の肖像として明治以後もっとも知られているのはイタリア人エドアルド・キヨッソーネがコンテで描き、丸木利陽が写真に撮って複写をし、学校に 下賜された肖像であろう。この肖像は「御真影」として礼拝の儀式を伴い人々の眼に触れることが出来たので、そのイメージが定着し、今日では大方の人が、体格も容貌も西欧的な匂いのするこの像を明治天皇として思い出す。 それは社会の視線がベートーベンのイメージを固定させたことと共通している。
内田九一の写真で天皇の容姿が認知され始める
しかし明治時代、人々に最も知られていたのは最初の御真影となる内田九一の写真であった。明治の初めころ、天皇はまだ全く見知らぬ存在であった。明治政府は国家元首として頂点に立つ明治天皇を人々に知らしめる必要が あった。そこで行われたのが、明治五年から始まる「御巡幸」と呼ばれる天皇の全国行脚であった。
また明治四年ごろから明治天皇の肖像を御真影として下賜し、その姿形を人々に知らしめようという計画が政府内部にもあり、また外交上の理由から天皇の肖像が必要であった。さらに宮中の様相も西欧に見習って、欧米の各国元首や 天皇の肖像を飾ることが計画されていた。明治六年十月、内田九一は明治天皇の軍服姿を撮影した。その肖像が複写されて、各府県に下賜された。この時点で初めて具体的に天皇の容姿が認知され始めることになった。
一方でこの写真は民間にも出回り売買の対象となった。政府はこの行為を禁止したが厳しい措置ではなく、相変わらず写真が販売され、明治十年代からはこの写真を基にして制作された石版画も大量に出まわった。天皇の肖像が粗雑に扱われる心配もあったが 天皇を知らしめるということではこの現象は同一であり、政府も強く取り締まらなかった。また売買の対象になったということは、一般の人々にも天皇への関心が高まってきたことの証しでもあった。
なかでも最も天皇のイメージを民間に知らしめたのが石版画である。ここでは内田九一の写真を展開してさまざまな容貌に天皇を描き分けている。前述のキヨッソーネの明治天皇肖像が御真影として下賜されても、明治二十年代までは主役はこの石版画で、 大量に制作され販売された。
天皇・皇后を中心に天皇一家の肖像が登場
明治三十年代に入り、明治天皇肖像は相変わらず石版画の中で描かれている。この時点で、その容貌はほぼキヨッソーネの作をモデルにするようになった。それは御真影として下賜されて十年も経ち、その容貌が人々のあいだに定着してきたからであろう。
また描かれる内容も変化している。ここでは天皇一家というか、天皇の家父長としての存在が強調された作品が多く見られることである。天皇・皇后を中心に子供たちが一同に揃う構図で制作されている。皇室として開かれた一面を見せ、また良き家庭の見本 となることが強調されているようだ。ある意味では現代の皇室アルバムの始まりといってもいいのではないか。
さらに、この石版画の雰囲気は西欧で最も伝統的なハプスブルグ家のそうした家族の図に類似していることを付け加えておく。ただその表現に関していえば、 かなり突出した「濃い」雰囲気を漂わせている。言葉を変えていえば、描かれた人物が人形のように見えるということである。なかでも子供に著しくそれがあり、先に述べた、大人の容貌を持つ子供を描いた石版画に共通する要素を持っている。繰り返しになるかもしれないが、 こうした表現こそが他の時代には表れない明治特有の現象で、人間が持っている情念が表に出ている雰囲気を感じさせる。  
凸版印刷・創業の時代
1880年代、大蔵省印刷局(現 独立行政法人国立印刷局)で、技術指導にあたっていた御雇外国人のエドアルド・キヨッソーネは、多くの技術者を育てるかたわら、細紋彫刻機の操作、エルヘート凸版法、すかし模様をつくる版面製造法など、日本の紙幣印刷技術の向上に大きな功績を残していました。キヨッソーネの下で最新の印刷技術を学び、その後凸版印刷の創始者となる木村延吉と降矢銀次郎の二人の技術者は、当時最先端の印刷技術である「エルヘート凸版法」を基礎に、日本の印刷業界のさらなる発展を考えていました。しかし、受注を見込んでいた有価証券などの高級印刷物は、不況の折から需要はわずかで、事業を軌道に乗せることは困難を極めました。
そのころ、日本のたばこ業界では民営のたばこ会社であった村井兄弟商会と岩谷商会が熾烈な販売競争を繰り広げていました。ここにビジネスの可能性を見出した木村と降矢は、村井兄弟商会がアメリカ製の最新印刷機を導入するという話を聞くと、すぐに岩谷商会へ「エルヘート凸版法」による外箱印刷の提案を持ち込みました。村井兄弟商会の設備増強に危機感を抱いていた岩谷商会も精巧な「エルヘート凸版法」による製品に魅力を感じていました。こうして木村と降矢は印刷局を離れてから8年目にして、ようやく「エルヘート凸版法」による恒常的な受注先を獲得したのでした。その後、伊藤貴志、河合辰太郎(初代社長)、三輪信次郎の3名の出資者を加えた5人の創業者により、東京市下谷区二長町1番地(現 東京都台東区台東一丁目)に「凸版印刷合資会社」が設立されました。
木村は印刷会社設立にあたり、前年の1899年、「銅凸版及石版印刷所設立趣意書」を起草しました。これを基に、創業者5人が議論を重ね、「凸版印刷会社設立ノ趣旨」を作成しました。併せて種々の取り決めに従い、設立の「契約書」を作成しました。これらの文書には、ベンチャーとして起業を志した創業者たちの、熱い想いが綴られており、トッパン創業の精神を現在へと受け継ぐ貴重な資料となっています。
1908年、凸版印刷合資会社は、資本金を40万円に倍増し、組織を改めて凸版印刷株式会社として再出発しました。合資会社発足時の定款と異なる点は、銅凸版、銅鋼凹版、石版、アルミニウム版、写真応用版の製版印刷に「製本及び活字類の鋳造販売」が加えられたことです。これは日本国民の生活水準の向上、文化の発達、出版社の躍進に対応して、当社が活版印刷の分野へ照準を合わせたことの反映であるといえます。 
日本初の肖像入りのお札 改造紙幣(神功皇后札) 1円
ドイツの印刷会社に発注した「新紙幣」(ゲルマン紙幣、明治5年発行)は、印刷は精緻でしたが、用紙が脆弱であるという欠点がありました。そこで、印刷局で新しいお札をつくることになりました。「改造紙幣」とは、新紙幣に代えて発行された紙幣という意味です。
用紙には、和紙の原料である三椏(みつまた)を使い、印刷局で開発した独自の紙幣用紙が使われています。図柄のデザインと原版彫刻はお雇い外国人キヨッソーネによるもので、日本の古代神話に登場する神功(じんぐう)皇后の肖像が描かれており、これが日本初の肖像入りのお札になりました。
 
アントニオ・フォンタネージ

 

Antonio Fontanesi (1818〜1882)
絵画、工部美術学校(伊)
イタリアの画家。ラグーザと共に日本の本格的な近代美術の基礎を築いた人物。1848年イタリアの市民革命に投じてガリバルジ軍に参加したが失脚後はジュネーブに逃れる。パリやフィレンツェで美術を学び、トリノの王立アルベルティナ美術学校で風景画教師を務める。1976年、創設された工部美術学校に招かれ洋画を教えた。わずか2年あまりの滞日だったが後の日本美術界へ大きな影響を残した。門下生に浅井忠、五姓田義松、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠などがいる。
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イタリアの画家。1876年(明治9年)に日本で開校した工部大学校のお雇い外国人教師で、日本人に洋画を指導した。
イタリア北部のレッジョ・エミリアに生まれる。市立の美術学校で古典的な風景画を学び、舞台背景や壁画装飾を手がける。1848年のイタリア独立戦争にも従軍したが、ガリバルディの解放軍の敗北によってスイスのルガノへと逃れ、1850年からはジュネーヴに移りアトリエを開設する。戦後にはスイスをはじめとしてヨーロッパ各地を放浪し、風景画で生計を立てながら孤独とロマンティズムを身につけていったことが、後の叙情的な作風につながっていった。
1855年にはフランスのパリに赴き、バルビゾン派の影響を受ける。また、オーギュスト・ラヴィエらリヨン派の画家とも交流を深め、ロマン主義的な作風が完成した。フィレンツェで印象主義を学び、1869年にはトリノの王立アルベルティナ美術学校で風景画教師を務める。58歳のとき芸術を含めヨーロッパの近代文明の導入をはかっていた太政官政府(明治政府)に、お雇い外国人として招かれ、工部大学校の画学教師になる。だが西南戦争後の政府が財政難に陥ったため、フォンタネージは思うような指導ができないと見切りを付け、また病により体調が悪化したために1878年(明治11年)9月に帰国した。帰国後は再びアルベルティナ美術学校教師を務め、1882年にトリノで死去。
日本への影響
フォンタネージの在日期間は短かったが、本格的な美術教育を行い、その力量は高く評価されていた。指導を受けた当時の在学者には浅井忠、五姓田義松、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠など、後に明治期の洋画界で活躍した人物が多数いた。女性も入学でき、ニコライ堂のイコンで知られる山下りんも在学者であった。
フォンタネージの帰国に失望した画学科生の多数が退学し、十一会を設立した。また、アーネスト・フェノロサや岡倉覚三(天心)などの活動により西洋美術より日本美術への関心が高まったため、工部美術学校もやがて廃校になり、洋画家にとっては苦難の時代を迎えた。
日本に導入された油彩画
「油彩画」は江戸末期から明治にかけて日本の近代化とともに日本文化のなかに新たに登場した絵画の一分野です。日本の修復家の私が「明治時代の古い油絵を修復している」と話すとヨーロッパの同業者に怪訝な顔をされます。油彩画の歴史の長いヨーロッパの修復家からみれば、明治時代の作品は19世紀末から20世紀初頭に属するからです。
江戸末期に、西欧の絵画を目にするまで日本画を描いていた画家がどのようにして油絵の技法を獲得したか、また油絵の画家を志した明治初期の若者が当時どのような教育をうけたのかを知るのは、絵肌に直接触れて修復をする私たちにとって作品の組成を知るうえで興味深い問題です。
油絵が日本に導入された幕末以来の道筋をたどると、二筋の流れをみることができます。一つの流れには蘭学との接触によって西洋美術を知った司馬江漢や亜欧堂田善などの江戸の洋画家たちがいます。この流れの中で最後の洋風画家であり最初の近代洋画家といわれる高橋由一(1828〜94)が大きな存在です。由一は遠近法や明暗法による西洋画の迫真的な写実表現に驚き、油絵具による材質表現のリアルさに惹かれて、西洋画の材料・技法を貪欲に追求して誰もが知る『花魁図』や『鮭図』などの作品を残しました。また、後進の育成にも大きな業績を残しています。明治初期には由一の画塾天絵楼をはじめ川上冬崖の聴香読画館、五姓田芳柳の私塾などが洋画の指導的な役割をはたしていました。洋画の材料の入手も不自由な時代であったために、材料技法に関してこれらの画家たちは強い関心をもっていました。実際に修復に際して絵具層の溶剤に対する反応を調べると、のちに「旧派」と呼ばれる明治期の画家たちの絵肌が堅牢であるのを私たち修復家は経験として知っています。
明治9年(1876)に、明治政府は殖産興業政策の一環として工部省管轄下に工部美術学校を開き、教師としてフォンタネージ(Antonio Fontanesi)らを招きました。フォンタネージについて、画家の木村荘八は、後年、自分のうけた教育と比較してフォンタネージが、「いかに手堅い、油絵の下塗りから上描きへかけての伝統的技法に忠実であったか」と述べ、その画風を「バルビゾン派に呼応する」画風であったと評しています。しかしフォンタネージはわずか2年で病気のため帰国してしまい、後任として招聘された教師に対する不満から学生が一斉退学をした事件などもあって工部美術学校は明治16年(1883)、閉鎖、廃校となります。かわってそのころから美術行政に影響力を強めていたフェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)や岡倉天心らの伝統美術復興の影響を受けて油絵は西洋画として排斥され、明治20年(1887)に勅令で文部省直轄学校のなかに東京美術学校が設置されたときもその内容は日本画科、彫刻科、図案科だけで、油画は設置されていませんでした。
8年後の明治28年(1895)にフランス留学を終えて黒田清輝が帰朝しました。彼が持ち帰ったのが「外光派」と呼ばれた新傾向の絵画です。この流派は明るい感覚的表現で外光のなかの人物や風景を描き、次世代の画家たちを惹きつけました。明治初年の画家たちから工部美術学校へと受け継がれていた制作技法は前世代の「旧派」とされ、褐色がかった作品の外観から「ヤニ派」と呼ばれるようになります。そして東京美術学校のなかに、黒田の帰朝を待っていたかのように明治29年(1896)に西洋画科が設置されました。当時の教授陣は、黒田清輝・藤島武二・和田英作・岡田三郎助・久米桂一郎で、以後の日本の美術界を牽引する画家たちです。
当時、油絵具はすでにチューブで売られ、地塗りされたキャンバスも市販されていました。明治初期の画家たちのような画材を手にいれる苦労や、高橋由一のように、わずかな手がかりで材料や道具を自分でつくる工夫と苦労の時代はもう遠くなっていました。 
浅井忠 『収穫』
パリの南東に位置するバルビゾン村の風景や農村を描いたバルビゾン派の画家たち。その代表的な画家であるミレーが、名作『落ち穂拾い』を描いたのは1857年のこと。
それからほぼ20年後の1876年、武家に生まれた男がその作品を目にします。その作品は激動の時代をくぐり抜けた男に大きな感動を与え、日本の洋画の世界に夜明けをもたらしました。
日本のミレーと言われた男が1890年に描いた作品、浅井忠 『収穫』。
描かれているのは絶景と呼ばれるものではなく、どこにでもあるような普通の田舎の風景。豊かな実りを前に、一家総出で仕事をしています。母はわらを束ね、娘は米をふるい分け、父は脱穀する。土の匂いまで伝わってきそうな迫真性は、油絵だからこそ表現できた重厚な時間と空間。この絵が描かれた当時、日本の洋画界にはようやく日が当たり始めた頃でした。
しかし、この作品にはまさにバルビゾン派のミレーの後継者としての技術と趣があります。浅井忠は黒田清輝とともに日本近代洋画界の先駆者と呼ばれ、その存在がなければ日本の洋画の歴史は確実に遅れていたと言われています。
浅井のデビュー当時の傑作である『収穫』の陰には、浅井が生涯の師と仰いだアントニオ・フォンタネージの存在がありました。
1876年、58歳の時に日本にやって来た彼は、あのバルビゾン派の流れを汲む風景画家でした。イタリアでのアトリエ建設で多大な借金を背負ったフォンタネージは、金を目的に日本の美術学校に教師としてやって来ました。しかし、イタリアから持ち込んだ石膏模型や絵の具、キャンバスを眺める青年たちの輝いた目を見た瞬間、純粋に絵画の技術と心を彼らに与えようと思い直したといいます。
1856年、浅井忠は江戸の佐倉藩中屋敷で藩の要職を務める父のもとに生まれました。しかし、1867年、浅井忠が12歳の時、大政奉還から明治維新へと時代が動き、武士としての未来と価値観が音を立てて崩れ去りました。明治政府は欧風化による近代化を目指し、日本の伝統を否定しました。そんな時代の流れの中で、1876年、明治政府は外国人教師を招いて工部美術学校を創立しました。浅井忠がその第1期生として入学したのは、20歳の秋のことでした。
工部美術学校でフォンタネージは洋画の基礎を片言の通訳を通して一つ一つ教えていきました。
浅井が頭角を現したのは、風景写生に出かけた時のこと。写生に行っても少しも描かず、帰る前になると少しばかり描き、それが教師に称賛された。浅井にはフォンタネージが言う「自然の真実の歌声を聞く力」が備わっていたのでした。浅井の初期のデッサンを見てみると、対象の細部を略して頭に残った自然の印象を強調し、いかにもフォンタネージ風。
ところが来日から2年後、フォンタネージは失意のままイタリアへと帰国してしまいます。あんなに美術学校に力を入れていた明治政府が、さらに発展させようというフォンタネージの案を実現させなかったためでした。その上、彼は病に冒されていました。師を失った浅井たちは退学し、そんな彼らにさらなる苦難が襲います。東京帝国大学にアメリカから教授として招かれたアーネスト・フェノロサが日本の伝統美術を称え、油絵は歴史を顧みない有害文化であると決めつけたためでした。
洋画家たちは学ぶところも食べていく術も、そして生きていく場所さえも奪われ、ついには悲憤のあまりに切腹をした者さえいたといいます。凄まじい逆境の中、浅井は挿絵や教科書の仕事で生活を支えながら、関東はもちろん東北、関西にまで足を伸ばして風景のスケッチを続けました。当時、浅井の自宅にはあの『落ち穂拾い』が飾られていたといいます。初めてこの絵と出会った時の衝撃と情熱は、画家の心に生き続けていました。

1889年、上野に東京美術学校が創設されても、フェノロサとその弟子の岡倉天心の強い主張で、西洋画科と洋風彫刻科は置かれませんでした。
その年、浅井はそれに対抗するかのように、自らが中心となって80名の会員を集め、「明治美術会」を結成しました。原敬などの政界財界人を後援者につけて活動を始め、その秋には上野公園の共同競馬会社の馬見所で第1回展覧会を開催します。展覧会には意外にも皇后陛下が来場され、好評のうちに終わります。これを機に、洋画界にも新たな風が吹き始めます。
洋画家たちにとって受難の時代は確実に終焉に向かっていましたが、それを確実なものにするためには翌年に開催する第2回展覧会をさらなる成功に導かなければなりません。そして浅井はあの傑作『収穫』の制作に取り掛かかります。その作品には日本の洋画家たちを育てたフォンタネージと、そして先駆者となった浅井のすべての力が結集されていました。
洋画家受難の時代を終わらせるため、浅井が選んだモチーフは秋の収穫を迎えた農夫の姿でした。何でもない田舎の風景、ただ黙々と働く農夫たち。それはまさにフォンタネージから受け継いだミレーのモチーフでした。フォンタネージから最も良い影響を受けたのは浅井忠だと言われています。『収穫』は現実的な日本独自の農村風景を描き、日本の洋画家が日本の風景をテーマとして初めて表現し得た洋画の、最初の頂点となりました。
1896年、政府は東京美術学校に、工部美術学校の廃止以来、13年ぶりに洋画科を復活させました。そして1898年には浅井自身が教授となりました。その後、2年間のフランス留学を経て京都に移り住んだ浅井は、梅原龍三郎、安井曾太郎など、のちの日本洋画界を担う逸材を育てました。まるでフォンタネージのように。
浅井忠 (1856−1907)
安政3年江戸木挽町の佐倉藩邸に生まれる。父は佐倉藩士伊織常明、母は同藩士西山伝六の長女きり。常明は藩主堀田正睦に番頭側用人、学問所奉公などとしてかなり重用された。
文久3年(1863)父が没し、忠は7歳で家督を継いだ。当時横浜鎖港の宣言が出て物情騒然とする中、各藩藩士の江戸引き揚げが始まり、浅井家も佐倉へ戻る。徳川幕府崩壊前夜の緊迫する政治状況の中、少年ながらも忠も心を張りつめて暮らしていたに違いない。一方彼は熱心に学問を修めて慶応3年(1867)には小学の課程を修了し、翌年(明治元年)からは将門校の授読佐となっている。特に書は抜群の腕前であったという。またこの頃、藩の絵師黒沼槐山について花鳥画を習っている。現在残っている画帳などから見て、これもかなりの腕前に達している。槐庭という号が与えられていた。
こうして忠は12歳で明治維新を迎えたのであるが、明治5年(1872)頃までは将門に留まっていた。その頃、単身上京して英学を学ぐ。明治7年(1874)には一家も上京し向島に居を定める。翌年から、イギリス帰りの旧藩士国澤新九郎の画塾彰技堂に入門して本格的に修業を始める。明治9年(1876)工部美術学校が開設されると、その画学科に入学してイタリア人画家のアントニオ・フォンタネージの教えを受けた。フォンタネージは写実の中にロマンチックな詩情を漂わせる風景画家で、バルビゾン派の影響も受けていた。わずか2年間の滞日であったが、その足跡は深く日本の近代美術史上にしるされている。明治11年(1878)、フォンタネージは離日し、替わってプロスペレ・フェレッチが教師となるが、技倆、人格ともにあまりに劣ったため、生徒たちの不満が爆発し、浅井、小山正太郎、高橋源吉(由一の子)ら11名は連袂退校して十一会を結成した。しかし、明治10年代は文化的反動=国粋主義の時代であり、洋画家に対する世間の風当りは大変厳しかった。
明治20年(1887}に入ると反動時代の雪解けが始まり、洋画家たちにも漸く発表の機会が与えられるようになった。翌々年には明治美術会が結成された。この時期、浅井は日本の農村風景を描いた数々の名作を制作している。彼の農本主義的リアリズムの絶頂期である。こうして洋画興隆の気運が盛り上がりかけたところへ、明治26年(1893)黒田清輝がタイミング良く帰国し、その明るい印象派風の筆致によって一躍画壇の寵児となった。黒田らは新派として持てはやされ、浅井らは旧派として時代遅れのように言われた。
その後浅井は、明治31年(1898}黒田と並んで東京美術学校教授に任命されたが、角逐を嫌って翌年から2年間にわたってフランスへ留学する。フランスではグレー村で美しい風景画を描き2度目の高揚期を迎えたが、帰国後は東京へ戻らず京都の高等工芸学校の教授として赴任してしまう。次第に隠遁の心持ちを強くしていくのである。明治40年(1907)京都帝国大学病院にて没す。享年51歳。浅井の地味ながらみずみずしい感性をたたえた画風を、正統に評価し継承する者のなかったことが、日本近代美術史の一つの不幸である。 
現代俳句の起源 / 俳句における写生と想像力を 
1 子規の「写生」が意味するもの
明治以来の基本的な文芸思潮であり、また俳句においては、正岡子規が使用し、近代俳句を方向付けた方法といわれる「写生」も、よくよく考えれば、かなり曖昧であるといわざるをえない。私たちは、何気なく、つい「写生」ということばを口にする。たぶん、そのことばを発信するほうも、受信する側も、「写生」の大事な概念をきちんと理解していない場合が多いのではないだろうか。
正岡子規の「写生」は、画家中村不折からのおおきな影響によるものと一般的にいわれている。その中村不折の師匠筋にあたる人が、詩情のにじむ写実的画風を確立した洋画家浅井忠で、また彼は、イタリアの画家アントニオ・フォンタネージから理論と実技を習ったのだった。つまり正岡子規の「写生」は、その源流をアントニオ・フォンタネージに遡ることができる。彼の講義録が、「フォンタネージ講義録」として残存し、現在では、輪郭、色彩、明暗、遠近法などの絵画技術(模写法)が、どのように彼の弟子たちに伝わり、また中村不折を通していかに正岡子規に影響をあたえたかが、研究者によって検討されている。
たとえば、明暗と遠近法の二つを例にとってみよう。西洋の写実画のもっとも基本的なこの二つの技法は、対象を描く画家の視点を絶対的な基準とするのが大前提になる。こうした方法では、画家と自然などの対象との緊張感に満ちた対峙(対立)が基本となる。ポール・セザンヌの晩年のひじょうに厳しい作品「サント・ヴィクトワール山」に見られる、あの身震いするような対象との緊張関係を想像されるとよい。さらにいえば、レオナルド・ダヴィンチの「手記」に書かれている「遠近法」の科学的厳密さは、ほとんど日本人の芸術的思惟性と感性をはるかに超えている。高階秀爾は、日本に明暗法や遠近法が定着しなかったのは、自然と対峙する人間がいなかったからだという。同氏は、京の町の様子を描いた「洛中洛外図」を例に、画家の視点の自由な移動について、このように言及する。
「西欧の写実主義が、一定の視点からの人間との位置関係、すなわち人間と外界との距離を測定することによって成立するものであるのに対し、日本の写実主義はつねに視点と対象との距離を無視することによって、すなわち鳥や昆虫でも、人びとの動作や表情でも、すぐ目の前で観察することによって成り立っているのである。」 (高階秀爾『日本近代の美意識』)
高階秀爾が指摘する「日本の写実主義はつねに視点と対象との距離を無視する」ことは、「洛中洛外図」の例のみならず、さまざまな日本絵画に顕著であろう。要するに、レオナルド・ダヴィンチ流のきわめて厳密な科学的絵画技術が、日本人の文化的土壌に育たなかったのである。いうまでもなく、慧眼の正岡子規は、こうした日本の文化的特性に、いちはやく気付いていた。もちろん日本の伝統的文化の良さを十分に認識していた子規だが、わが国の偏狭的な文化構造に、ある疑念をも抱いていたのだ。
想像するに、中村不折らの西洋画からの影響のほかに、当時の文学界を席巻していた坪内逍遥や二葉亭四迷たちの「写実主義」の流行にも、正岡子規は、目を奪われていたのにちがいない。小説にたいそう意欲を燃やし、26歳(1892)のとき、尊敬する幸田露伴に、自分の小説『月の都』をみてもらったほどの子規であるから、そうとうに文学全般の時代的知識をもっていたはずである。したがって、フレキシビリティーのある彼が、これを俳句に応用しないことはありえない。江戸時代に一大勢力を誇っていた月並俳句の、ある意味でパターン化しマニュアル化しつつあった古い美意識の打破こそが、まず正岡子規の狙ったことであった。私たちは、ともすれば、子規の「写生」に、すべてを収斂させてしまう傾向があるけれど、これはたいへん危険だ。従来の俳句の、いわくいいがたい固陋な部分の超克という至上命題と、「写生」はあくまでも表裏一体なのである。川崎展宏は、子規の「写生」を「月並み俳句の固定化した美意識、古い秩序に順応する世間智との縁を断ち切って、近代俳句を出発させるのに最も有効な方法」(『現代俳句辞典(第二版)』)ととらえた。
正岡子規自身が「写生」について長大な論文を執筆していないために、私たちは彼のいろいろな文章から、この項について、緻密かつ丁寧に関連内容を抽出、点検しなければならない。「我が俳句」という文章には、「我の美とする所は理想にもあり、写実にもあり、理想的写実、写実的理想にもあり、而して我の不美とする所も亦此等の内にあり。」と書かれている。「写実」と「写生」をまったく同義とするわけにはいかないが、ほぼ同じレベルのことばと考えてもよいのではないか。このいいかたをさらに敷衍すると、『俳諧大要』の有名な一節になる。「俳句をものにするには空想に倚ると写実に倚るとの二種あり。初学の人概ね空想に倚るを常とす。空想尽くる時は写実に倚らざるべからず。」こうした正岡子規のことばから何が読み取れるかというと、想像力(空想力)と写実的把握力の二つを武器に、彼が自由自在に俳句創作したことだ。前述したように、子規は、きわめて柔軟な頭脳のもち主なのである。想像力(空想力)と写実的把握力の二つのどちらかが欠けても、説得力のある良い俳句作品が成立しないのを、鋭敏に感受していたのだった。ここで注意しなければならないのは、俳句創作の場合の「写生」(写実)と文学活動全般(それはまた生き方そのものでもあるが)におけるそれとは、根本的にスタンスを異にしていることだ。確認のために、もう一度書くが、正岡子規における「写生」は、第一に自分の生を貫く基本的な態度の方法であって、それは先にもいったように、因習的・固定的な思考スタイルから脱却し、あらゆることをデカルト的に疑う科学的な認識の仕方を身につけることであろう。大江健三郎が示唆した「かれは世界のありとあることどもについてデモクラティックになる。そのような人間の眼に世界はその全体的、総合的な姿をいかにも自然にあらわすことができる。」(『子規全集第十一巻』解説)というとらえかたは、だからとても大切なことがらであるにちがいない。この「写生」の内実を基準点にして、俳句創作を始める子規ではあるものの、これだけで、すべて完璧におさまるものではないことを、子規はたしかによく知っていた。
『俳諧大要』に書かれている「俳句をものにするには空想に倚ると写実に倚るとの二種あり。」が、すなわち子規のしたたかな戦略であることに、私たちは気付くべきである。かつて小林秀雄は、『近代絵画』の中で、ミレーのことに触れて「自然の観察は大事だが、観察したことを皆忘れることも大切」で、「ミレーはアトリエの中で、記憶によって仕事をし、風景を構成した。」といった趣旨のことを述べた。詭弁になることを承知のうえで書けば、写真撮影でもしないかぎり、観察したとおりに寸分の狂いもなく、それを描いたりすることはぜったいにできない。(せいぜい対象に近づけることぐらいであろう。)いわんや、五七五の俳句において、「写生」などほとんど不可能だろう。けっきょく対象のかたちをなぞることと再構成が一緒になってはじめて「写生」が実現できるのだ。江藤淳は、その著書『リアリズムの源流』の中で、高浜虚子の「写生趣味と空想趣味」の文章を引き、正岡子規の「写生」について、次のように記述した。
「 「写生」の客観性という概念は、無限に自然科学の客観性に近づく。極言すれば、子規の意識のなかでは、「夕顔の花」は「夕顔の花」という言葉ではなくて、「其花の形状等目前に見る」印象の集合でありさえすればよい。ここでは言葉は言葉としての自立性を剥奪されて、無限に一種透明な記号に近づくことになるからである。」 (江藤淳『リアリズムの源流』) 
「夕顔の花」から、トラディショナルな一切の観念を解放すること、具体的にいえば、「其花の形状等」を科学的に観察することにより、正岡子規は、その花に対する自分の感じかたが変化したという。「夕顔の花」といえば、源氏物語のあの「夕顔」の段に結びつくのがふつうだが、それがはっきり立ち消えたわけだ。だが、はたして江藤淳の示唆のように、「夕顔の花」に関するあらゆる伝統的な連想を漂白還元して、子規は句作したのであろうか。じっさい「其花の形状等」の科学的な観察により、今までにない新しい見かたが実現できる場合もあろう。しかし、瞬間的な観察だけで、すべての俳句作品が成立するわけではない。時間の経過を経るにしたがい、作者が記憶をたどって、「夕顔の花」からさまざまなことを連想し、意識的にあるいは無意識的に意味の書き換えをすることだってある。だからこそ、一つの作品が、多義的な色彩をもち、すなわち読者に豊かな読後感をあたえるのだ。私たちは、このようなことを一般的にことばの「コノテーション」(言外の意味)とよぶ。江藤淳は、正岡子規のケースにおいて、「夕顔の花」が「一種透明な記号」に近づくといっているけれど、それはまちがいないだろう。とはいえ、冷静に考えてみると、それが完全に「透明な記号」になることはありえない。ことばは読み手によって、千変万化する。必ずしも知力の高い読者でなくても、「夕顔の花」に対するバラエティーに富んだ解釈をするにちがいない。 
もともと正岡子規が「写生」を志したのは、写実的な「絵画」を中心にしたものとの出会いからだった。(むろん、小説というメジャーな文学からの影響もあっただろうが)それらの体験のパースペクティブな思考の積み重ねにより、子規一流の「写生」が編み出されたのである。彼の「写生」論は何よりも「方法」と「態度」としてのシンキングメソッドの色合いが濃い。  
2 「風景」の超克へ
かりに一般の読者が、「写生」とその周辺の内実を探ろうと、正岡子規の代表的な著作、たとえば『俳諧大要』『墨汁一滴』『松蘿玉液』などを精読したとしても、たぶん模範解答のような正しい答えが得られないのではないだろうか。『俳諧大要』の「修学第二期」には、俳句創作の方法には「イマジネーション」(空想)と「写生」(写実)の二種類があるとして、初心者の人はふつう前者に頼ることが多いけれど、それが尽きた際は、後者に依拠する必要がある、といっている。そして子規は、「写実」の目的で、「天然の風光」を探るために、数十日間の「旅行」(行脚)をすすめ、このように書く。「公務あるものは土曜日曜をかけて田舎廻りを為すも可なり。半日の閧偸みて郊外に散歩するも可なり。已むなくんば晩餐後の運動に上野、墨堤を逍遥するも豈二、三の佳句を得るに難からんや。」なんのことはない、今ではごくありふれた「写生吟行」のことを、子規は書いているのだ。私は、このセンテンスをよむたびに、不思議に思う。子規ともあろう人が、まあなんて月並みで教条主義的なことを書くのだろう、と。しかし、この『俳諧大要』の当該文章とは異なり、次の正岡子規のことばは、一見するとなんの変哲もないが、よく味わってみると、ひじょうに説得力がある。
「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分つて来るやうな気がする。」 (『病牀六尺』)
長く病床にある正岡子規の楽しみといえば、もちろん絵筆をもって行う「写生」であることは、いうまでもない。「花は我が世界にして草花は我が命なり。」(「吾幼時の美感」)とする子規にとって、草花の「写生」は、おそらく自分自身の命の証であっただろう。その子規が一心に草花を見つめながら「写生」することにより、「造化の秘密」を獲得することができる、というのだ。さて子規のいう「造化の秘密」とは、いったい、どういうことなのだろう。とうぜんのことだが、「天地とその間に存在する万物をつくり出し、育てること」(松村明編『大辞林第二版』)が「造化」の本来の意味である。もちろん「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。」という松尾芭蕉の有名なことばが、子規の頭の中にあったのかもしれない。いずれにせよ、天地自然の本当の姿にならい、そのままに生きる、ということなのであろう。「写生」のことばは、何かと誤解されやすいが、その芯に、「造化」を内在させる。このように考えたほうが、「写生」の真の意味をきちんと把握できるのではないか。
先に(「T子規の「写生」が意味するもの」)で、正岡子規の「写生」の定義として、西欧流の「科学的な認識の仕方を身につけること」と書いた一文とあわせて、「造化の秘密」を理解していただけたら幸いだ。「写生」に対する子規の独創性といえば、ただたんに、一般的な「造化の秘密」に到達するための一手段であるだけではなく、やはり客観的で厳密な観察を行うその認識方法なのであろう。この二つの「写生」のポイントを、まず子規の心臓部として、しっかりおさえておきたい。正岡子規の「写生」に関する二つのポイントから、私は、ポール・ヴァレリーのある文章を思い出す。
「この人はこうして以前に観た空間を想い起こし想い起こししてはいま眼前の空間を完全へと仕上げてゆく。やがて、この人は、相次ぐ印象を、想うままに、列べてみたり解してみたりする。奇妙な組み合わせにも妙理を読みとることができる。一叢の花、一群の人、一つの手、ふと見つけた頬、壁面にさした一片の光、偶然の出会いであった獣の乱闘もこれを完璧不壊の一体として見るのである。」 (ポール・ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』(山田九郎訳)
ポール・ヴァレリーのいいたいことは、要するに「部分」から「部分」の「連なり」、そして「全体」を見る(知る)ことの重要さである。レオナルド・ダ・ヴィンチの「知」のスタイルを精密に分析したヴァレリーは、彼を「融通無碍なる思考の駿馬」(同著)とするけれど、翻って正岡子規の場合も、同類の「思考の疾走者」であっただろう。科学的な認識の仕方を身につけ、一方で「天地自然」の「造化」の秘密に迫ろうとした正岡子規が、先述したように、今からすると、はなはだ常識的としかいいようのない、「写生俳句行」(吟行)のすすめをさかんに行ったことの本当の意味は、ヴァレリーがダ・ヴィンチをして「融通無碍なる思考の駿馬」あるいは私が子規について「思考の疾走者」と命名したことから、その内奥が探れるにちがいない。
松尾芭蕉の『おくの細道』では、崇拝する西行の後をたずねるなど、先人の歩んだ場所を求めて、積極的に旅し、また句作するという、いわばステレオタイプなスタイルが散見される。だが、これは、とくに芭蕉だけに限ることではなく、その時代まで、ごくふつうの方法であったのではないか。正岡子規は、そうした過去の著名な誰彼の後をたずねることより、とにかく自分の眼で確かな何物かを発見し、そしてそれをスプリング・ボードに俳句創作しようとした。すなわち、主体的に外界にアプローチし、「科学的な認識」を実践するのと同時に、「自然」の「造化」の秘密に迫ろうとしたのだろう。子規のよいところは、あえてそれを俳句という最短の詩形式で果敢に実行したところにある。
このへんのところを鋭く分析した人が、柄谷行人だ。「明治二十年代の正岡子規の『写生』には、それが文字通りあらわれている。彼はノートをもって野外に出、俳句というかたちで『写生』することを実行し提唱した。このとき、彼は、俳句における伝統的な主題をすてた。『写生』とは、それまで詩の主題となりえなかったものを主題とすることなのである。」(柄谷行人『日本近代文学の起源』)。柄谷のいうところは、きわめて明瞭だ。子規が「写生」をとなえたのは、いわゆる先験的な「風景」の描写からはなれて、むしろ「風景」そのものを超克し、もっといえば「風景」から完全に自由になる、という逆説なのである。そのような場合には、すこぶる自由闊達な人間の「精神」が、自在に立ちあがる。そのとき子規は、「思考の疾走者」に近づくことができる。
「たとえば、シクロフスキーは、リアリズムの本質は非親和化にあるという。つまり、見なれているために実は見ていないものを見させることである。したがって、リアリズムに一定の方法はない。それは親和的なものをつねに非親和化しつづけるたえまない過程にほかならない。この意味では、いわゆる反リアリズム、たとえばカフカの作品もリアリズムに属する。リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ。」 (柄谷行人『日本近代文学の起源』)
ここに引用した柄谷行人の文章の中で、いちばんのポイントといえば、おそらく「だれもみていなかった風景を存在させる」という部分であろう。つまり正岡子規以前の「写生」においては、「風景」は幾多の先人たちの「ことば」によって作られたもので、それは「風景」というより、「風景」の「概念」である。したがって、いみじくも柄谷の指摘するように「見なれているために実は見ていないものを見させること」が、必要になってくる。そのためには、「科学的な認識」の仕方と「造化」の「秘密」の探求、この二つの修練がとても重要なのだ。ところで、子規の「写生」について、従来これを神格化する傾向が見られた。正岡子規の「写生」論は、彼の書いたものから類推すると、それほど理論的ではない。それに何よりも、「イマジネーション」(想像力)の分析がなさすぎる。そういう物足りなさがあるものの、やはり総じて一筋縄ではいかない、きわめて斬新な「写生」のとらえかたを、子規はしていよう。とはいえ、正確無比で石垣のように緻密に積み上げた「写生」論とは、ほど遠い。ちなみに高橋英夫は「子規の写生論がある意味で非常に素朴な面も含んでいたために、理論としてそれを打ち出すには、何かを付け加えるか変形しなければ説得性に欠ける」(『国文学—正岡子規・日本的近代の水路』)といっている。
こうした指摘を俟つまでもなく、私たちは正岡子規に対して、何か「畏敬」の念を持ちすぎるのではないか。むろん子規が天才的な文学的センスをそなえていた点を、誰も否定できまい。けれども、子規の「写生」論をはじめとする文学理論全般における、あの読後感の茫洋とした曖昧な気分を、私たちはきっぱり捨て去ることができない。子規生誕後百年の間に、彼の名声はますます高まり、その結果私たちは彼を必要以上に「神格化」してしまったのではないか。もう少し、子規の仕事の内容を、良い面悪い面の両面から精細に分析してもよい時期がきているように、私はつねづね思う。
もう一つ考えることがある。正岡子規の俳句と短歌における文学的視座の位相だ。子規自身は、俳句と短歌の領域をどうとらえ、どうしようとしたのか。(とうぜん多くの研究者の課題で、すでにいろいろな人が仔細に検討しているだろう。)「子規は俳句に於けるより寧ろ短歌に於いてその駿足をのばした。俳句の修業は結果的には短歌のための基礎的修業ではなかったか。」(『山口誓子全集6』)という山口誓子の辛口の意見もあることを、念のため付け加えておく。「イマジネーション」(想像力)のこととあわせて、これからの大事な検討課題である。  
3 可能性としてのデッサン
正岡子規は、『俳諧大要』などで、写生への道に際し、絵画と俳句を比較対照し、さかんに自説を論じている。子規のみならず私も、たとえばポール・ヴァレリーの『ドガ・ダンス・デッサン』というドガ論を読むにつけ、いわゆる「素描」デッサンについて熟考するのは、詩について思考を巡らすことと、結局のところほとんどイコールなのではないか、と思わざるをえない。正岡子規は「ある人また俳句を論じて曰くこれを絵画に譬ふ」(「俳人蕪村」)と書き、これに続けて、子規は「俳句詠」のタイプに「小にして精なる者」と「大にして疎なる者」の二種類があるとする。前者が「小景近写」や「局部の精細」を詠むのに対し、後者は「疎画」を詠むことになるという。だが、残念なことに、子規は肝心のこの先を書かない。ポール・ヴァレリーの『ドガ・ダンス・デッサン』には、「デッサンは形ではない。デッサンとは物の形の見方である」とドガがいった有名なことばが出てくる。正岡子規にかさねて記せば、彼の示唆する「小景近写」や「局部の精細」も、「物の形の見方」の典型的な基本として、とらえてよいだろう。
「ドガは彼が「物の配置」と呼んでいたこと、すなわち、物のありのままの写生に対立するものとして、「デッサン」ということを言っていたのである。この場合デッサンとは、一人の画家の個性的な物の見方や、描き方が、物の正確な模写に強いる変形を言うのである。」 (『ヴァレリー全集第十巻』)
写生とデッサンの相違を述べた定義として、これほど明確なものはないだろう。一人の画家が、瞬間的に網膜上にとらえた映像は、その作家独自のレンズの絞り方、露出方法、さらにはフィルターの装着の有無など、さまざまなヴァリエーションによって構成される。また、そのような個性的な画家の方法の背景には、経験の積み重ねによる、記憶や連想の変形、混沌とした無意識層の突出、自我意識のこわばりなど、その刹那の映像に深い影をあたえる内部情報が、さながら洪水のように押し寄せるのも、また事実なのだ。ドガが指摘する「デッサンとは物の形の見方である」は、たんに絵画の内実を照射するにとどまらず、いわゆる文芸、ことに俳句のジャンルにおいても当てはまるにちがいない。自身の文章において、あれこれ「写生」の内容と方法について言及する正岡子規であるけれど、それらを精緻に読むと、いちがいに「写生」だけの表層的レベルにとどまるものではないことが、よくわかる。いうなれば、ドガの「デッサンとは物の形の見方である」の至言に通底する事柄を、子規が述べている場面が出てくるのだ。「客観を写して可なるものあり、写して不可なるものあり。可なる者はこれを現し不可なるものはこれを現さず。しかして両者おのおの見るべし。」(『俳諧大要』)。
このように正岡子規は、ただたんに通りいっぺんの「写生」論に収束したのではなかった。さらに付言すれば、子規流の「物の形の見方」は、適宜に客観と主観を使い分けつつ、一方でそれらをアウフヘーベンし、もっと深遠の世界に近づこうとしたのではなかったのか。生々流転してやまない宇宙全体にある万物の「造化」の秘密を探ること、西欧流のより厳密で科学的な認識に至ることなどが、子規的「物の形の見方」の神髄であるのは、もちろん疑う余地のないことであろう。ところで、客観と主観に対する根本的な考え方と、それらのフレキシブルな使い分け方による「写生」へのアプローチで、「造化」の探求を行う正岡子規の自然観とは、いったいどういうものなのだろう。「山川草木の美を感じてしかして後始めて山川草木を詠ずべし。美を感ずること深ければ句もまた随つて美なるべし。」(『俳諧大要』)と書き綴る子規の自然への素朴なとらえ方を、まずおさえておきたい。ここに記述されている内容から、「造化」の秘密の一端が、僅かながらでも吐露されている、と考えても差しつかえないだろう。けれども、その自然観はゲーテなどを代表とするヨーロッパ的なつかみ方とは、大きく隔たる。端的にいって、子規の自然観は「美」という静的スタティックな枠組みの中でおさまってしまう傾向が強い。
一般的に、緊張感をもって自然と対峙する動的ダイナミックな要素が、西洋的な自然観の中にある。それにも増して大事なのは、自然を表わすことば「ピュシス」(ギリシア語)や「ナトゥーラ」(ラテン語)のどちらも、「生命」を司る「誕生」の意がこめられていることだ。ゲーテの『ファウスト』にも、そうした「自然」の源泉を、それとなく読者にイメージさせる場面が、いくつかみられる。ジャック・デリダの『盲者の記憶』(鵜飼哲訳)という書物にこんなことが書かれている。盲者のように、物を見ないで描くことは、本質的にありえる。換言すれば、デッサンとは、視力がとらえた像を忠実になぞることではなく、画家の内面に潜むある根源的な力が、手を動かすのだ。「盲者の手は孤独に、あるいはひとり離れて、境界の定からぬ空間を当てずっぽうに動く。探り、触り、書きこみ、また愛撫する。記号の記憶を信頼し、視覚を代補する。」デリダは、同著で私たちにこのように説明する。ちなみに土方巽や大野一雄などの、前衛舞踏家たちの全身的な身体表現は、盲者のティピカルな芸術表現でないかと思うことがある。地を這うようにして踊り、また空くうを掴むかのごとき手の所作は、まさしく盲者のデッサンを想起させる。個人の意識をはるかに超えた、ある宇宙的な闇の領域から立ちあがるおびただしいことばの群れ。ジャック・デリダ流にいえば、「視覚を代補する記号の記憶」になろうか。そういうものが、彼らの鮮烈な舞踏から見えてくる。
「私は導かれるのであって、私が導くのではない。私はモデルの一点から出発して、引き続き私のペンが向うだろうさまざまな点とは無関係に、いつもただこれしかない一点へと向うのである。私は自分の目が凝視している外観よりはむしろただ内面の躍動に導かれ、それが形成されてゆくにつれて描き表しているだけなのではあるまいか。」 (ジャック・デリダ『盲者の記憶』(鵜飼哲訳)。
「視覚を代補する記号の記憶」は、いったいどこから、どのように発動するのだろか。そのヒントに英語の(ことば/名称)がある。は、そもそもラテン語の(声)から派生したことばである。私たちはラテン語の名言「声、しこうしてその他に何もなし、ただ声のみ」(A voice, and nothingmore)に思いを馳せるべきである。もしかすると、画家や舞踏家、そして一般の芸術家たちは、「記号の記憶」を(声)により、全存在をかけて辿り続けているのかもしれない。「視覚を代補」する以上の何かものすごい力、さながら神の声とでも呼ぶべき啓示のようなものが、そのような芸術家たちに、瞬間的に降りてくるのかもしれない。  
4 山林郊野の発見
前章(「可能性としてのデッサン」)において、私はポール・ヴァレリーの『ドガ・ダンス・デッサン』をひき、その作者の個性的なものの見方である「デッサン」について言及した。自分以外の対象物を描く「写生」も、それはどんな作者であれ、必ず描く側の「ものの見方」が反映するであろう。もちろん「写生」と「デッサン」は、内容的に異なる。前者は文字どおり対象物を、そのままできるだけ似せて「写し取る」ことであり、後者はあくまで「素描」(下絵)である。しかし、人間の脳内にインプットされた対象物を、その人間が描くかぎりにおいて、まったく完璧にカメラのように「写生」などできはしない。どんな対象物も、それを描く人間の「見方」に如実に反映されよう。
たいへん素朴な疑問だが、正岡子規はどうしてあれほどまでに「写生」にこだわったのだろうか。ちょくせつこの答えになるかどうか分からないけれど、いささかでもその手がかりになるところを探してみたい。たとえば正岡子規は、与謝蕪村の俳句を松尾芭蕉のそれよりもいっそう客観美を現すものとした。また「古池や蛙飛び込む水の音」の作品について「一点の工夫を用ゐず、一点の曲折を成さざる処、この句の特色なり。」と書く(「俳人与謝蕪村」)。さらに子規は、芭蕉の「蛙」のこの句が、何の奇もてらわず「自然」に詠んでいるところがすばらしい、と褒め称えた(「古池の句の弁」)。
このように、より対象の「自然」に踏み込む正岡子規は、へんな「工夫」をしないで、とにかくありのままに対象にアプローチすることを根本的な方法とし、かつそれを至上の命題とするのだ。したがって松尾芭蕉が『おくのほそ道』で行った、日本の名所旧跡への旅を真似しようとはしない。なぜなら、松島に代表される日本の多くの名所旧跡は、ア・プリオリに存在する「観念」としての「風景」であったからだ。加藤典洋は次のように指摘する。
「その頃(江戸初期以前)、「名所・歌名所」を眼前に歌を詠む人がいたとして、彼はそこで「視野に映るもの」を見ていたのではない。フーコー流にいえば、そこでの表象の世界は、レファラン(指示対象)なしに、言葉だけで完結しているのである。」 (加藤典洋『日本風景論』)
これに対し、正岡子規は確実に自分が眼にする身近なものに、句材を得ようとする。(子規自身の蒲柳の体質にも関係するのだろうか。)たとえば、富士山を好まない彼は「その日本第一の高山たると、種々の詩歌伝説とはこれをして能く神聖ならしめたるも、その神聖なる点は種々に言ひ尽くして今は已に陳腐に属したり。」(『俳諧大要』)と記す。そして正岡子規は(ここが大事なポイントなのだが)、そうした昔から著名な場所ではなく、人々がふつうに生活する周辺の、里に近い郊外の山や野原である「山林郊野」への散歩をすすめる。日本の詩歌の伝統的なスタイルにおいては、旅行者の視点から選ばれた、日本三景を代表とする名所旧跡がいわばマニュアル的にあちこち点在した。それらは、「歌枕」ないし「歌に登場する名所」であって、いずれも人々の探勝的欲求に応じたあこがれのポイントであったのである。松尾芭蕉とてその例外でなかったことは、『おくのほそ道』を読めば、一目瞭然だ。ところが正岡子規は、そのような規範的マニュアル的景観意識を遠ざけ、いちじるしく「脱構築」を行った。それが、「山林郊野」への散歩の提案だった。「山林郊野」は、人々の気配のある(つまり生活する)場所であり、そこに行きたい人々が容易にそれを実現できるところなのである。
ここに、たいへん重要なことが隠されていよう。松尾芭蕉は『おくのほそ道』のいたるところで、その地に生活する人々と交歓したが、それはあくまでア・プリオリに存在する知的探勝地に行ってからのことである。すなわち、何であれとにかく探勝地に行くことが第一義、人々との交歓は第二義であったのにちがいない。松尾芭蕉の目差す第一義の探勝地に、けっきょく人間は不在である。彼は松島を中国の「洞庭湖」や「西湖」になぞらえ、その変化に富んだ景観をどうしても見たくて、とにかくそこに行った。彼の頭の中には、詩文などによる中国の教養的な風景のテキストがあって、少なくともそこに人間はいない。これに比べ正岡子規の企図する「山林郊野」のどこかには、人間のにおいがする。むしろ彼はそれこそを願う。
「今試みに山林郊野を散歩してその材料を得んか。先づ木立深き処に枯木常盤木を吹き鳴す木枯の風、とろとろ阪の曲り曲りに吹き溜められし落葉のまたはらはらと動きたる、岡の辺の田圃続く処、斜めに冬木立の連なりてその上に鳥居ばかりの少しく見たる、冬田の水はかれがれに錆びて刈株に穂を見せたる、(中略)寒さもまさり来るに急ぎ家に帰れば崩れかかりたる火桶もなつかしく、風呂吹に納豆汁の御馳走は時に取りての醍醐味、風流はいづくにもあるべし。」 (『俳諧大要』/傍線は引用者)
正岡子規は、このように書く。引用テキスト中の傍線部分「田圃」「鳥居」「冬田」「刈株」「穂」「家」「風呂吹」「納豆汁」は、いずれも人間の生活にふかく関係する、というより人々の暮らしになくてはならないものばかりである。この引用テキストの最後の部分「寒さもまさり来るに急ぎ家に帰れば崩れかかりたる火桶もなつかしく、風呂吹に納豆汁の御馳走は時に取りての醍醐味、風流はいづくにもあるべし」は、もとより正岡子規の個人的趣味が濃厚に出ているところといってさしつかえないだろうが、それにもまして彼の人間中心の自然観を、ここに読み取るべきであろう。
松尾芭蕉は、日本三景の一つである「松島」を、日本の伝統的な「絶景」として(あえて人間を疎外して)とらえ、いっぽう正岡子規は、人間をブローアップして「山林郊野」という「生活的風景」を掌中にした。柄谷行人が示唆するように「彼(正岡子規)は俳句における伝統的な主題をすてた」のである。さて、明治30年代の初期には、徳冨蘆花の『自然と人生』、国木田独歩の『武蔵野』など新しい自然観に満ちたフレキシブルな名散文集があいつぎ出版されている。これらのめざましい他ジャンルの文学作品を、正岡子規がどう見ていたのかよく調べてみないとはっきり明言できないけれど、これらから少なからず、影響を受けていたのではないかと思われる節がある。ちなみに正岡子規が「ホトトギス」を創刊したのは明治30年、『俳諧大要』を出版したのが、同32年である。
徳冨蘆花や国木田独歩が、松尾芭蕉の「絶景」ではなしに、湘南や武蔵野を中心とした、ごく身近な親しい「風景」、いわば何の変哲もない「どこにでもある風景」を描いたところに、その新しさがあるのだ。これは正岡子規の「山林郊野」にも、よく当てはまるにちがいない。紛れもなく「山林郊野」こそ、人々にたいそう親密な「どこにでもある風景」であるだろう。だが徳冨蘆花や国木田独歩そして正岡子規たちが、「どこにでもある風景」を鋭く発見したその根底には、まずア・プリオリな景観意識を潔く捨てることが、大前提としてあった。さらにその「どこにでもある風景」の中へ、人間をアクティブに登場させ、換言すればそうした「風景」の中へ、人間を「とけこませ」たのだった。私には、徳冨蘆花、国木田独歩、正岡子規の三人がそろって「定住者」の視点で「どこにでもある風景」の中へ、人間を「とけこませ」、「自然と人間」を描こうとする態度に、おおいなる関心をもつ。この傑出した三人の文学者には、「風景」への「動的」(ダイナミック)なかかわり方がみられる。自分は動かずに、ただカメラだけを回す従来の「静的」(スタティック)な「花鳥諷詠」的自然観照が、徳冨蘆花、国木田独歩、正岡子規の三人からはほとんどきっぱりと排除されている。実際、高校で使われている日本文学史の教科書には、徳冨蘆花の『自然と人生』について「花鳥諷詠的自然観を超えて新しい自然と人生への目を打ち出した」と書かれている。(『精選日本文学史─改訂版』)。
ここでいったん整理すると、三人に共通するのは、都市またはその近郊に定住する市民生活者からの目線で「風景」をとらえる、ということがある。いってみれば、「風景」は、それらの都市生活者から従属的につかまえられていたのだった。『おくのほそ道』において、松尾芭蕉が自ら「風景」に従属することを選択したことを考えると、その関係がちょうど逆転したことになる。徳冨蘆花、国木田独歩、正岡子規の三人のほかに、科学的理論的に日本の「風景」を考察、それをみごとに再構成した人がいる。北海道大学の前身、札幌農学校を卒業した地理学者志賀重昂しげたかだ。明治27年に、彼は『日本風景論』を著し、それは日清戦争の勝利にわく日本の中で、ベストセラーとして迎えられたのである。登山家でエッセイストの小島烏水は、同著の初版解説において、この本の特色として「『日本風景論』が出てから、従来の近江八景式や、日本三景式の如き、古典的風景美は、殆ど一蹴された観がある」と述べる。このように、今までの定型的風景観の「脱構築」が、明治の20年代、30年代に社会的気運として盛り上がってきたことも、やはり特筆したほうがよいだろう。
ともあれ正岡子規が『俳諧大要』に「山林郊野」ということばを使用、それを俳句の重要な材料としたことを、私たちはきちんと頭の中に入れておく必要がある。引用した先述の文章中の最後に「風流はいづくにもあるべし」のことばが見られるけれど、それは定住者としての彼が、いかに「風景」を超克しようとしていたかが、よく分かるキータームであろう。正岡子規が使った「風流」のことばは、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で「片雲の風に誘はれて、漂泊のおもひやまず」数々の「絶景」と対峙した姿勢、あるいは『去来抄』で「風雅」といったことを考えあわせると、きわめて鋭い示唆を私たちにあたえてくれる。
正岡子規は病のため、家の中で身を養わざるをえない事情もあってか、常に自らの内面を凝視し続ける、きわめて繊細な人間である。かつて柄谷行人は『日本近代文学の起源』で、国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』をひき、「風景が写生である前に一つの価値転倒」があることを明晰に示した。柄谷は、その国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』の大津が語る、普通なら忘れてしまってもかまわないが、どうしても忘れられない人々に価値転倒するのを、「内面的な人」によって発見される「風景」と、たいそう犀利に分析した。彼は「風景はたんに外にあるのではない。風景が出現するためには、いわば知覚の様態が変わらなければならない」とし、次のように記述する。
「ここ(国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』)には、風景が孤独で内面的な状態と緊密に結びついていることがよく示されている。この人物は、どうでもよいような他人に対して「我もなければ他もない」ような一体性を感じるが、逆にいえば、眼の前にいる他者に対しては冷淡そのものである。いいかえれば、周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」innermanにおいて、はじめて風景がみいだされる。風景は、むしろ「外」をみない人間によってみいだされたのである。」 (柄谷行人『日本近代文学の起源』)
これは、正岡子規の場合にも、ある部分で当てはまるであろう。「写生」というコンセプトは、もちろん彼の卓見ではあるけれど、病床に伏す「内的人間」であったがゆえに、さらに明治20年代、30年代の当時の文学的、社会的趨勢の影響もあり、「山林郊野」での「写生」を、人々にすすめたのである。  
5 俳句と主観
今まで、私は正岡子規を、その中心において、拙論を展開してきた。いうまでもなく正岡子規の「写生」の意味を、さまざまな角度から照射し、その内実を解き明かそうとする試みである。とうぜんのことながら、正岡子規の「写生」は、高浜虚子という大番頭によって、近現代俳句の「錦の御旗」の一つとして、私たちの頭上に、おおきくまた高々と掲げられた。
「正岡子規と高浜虚子は、「写生」という具体的なスローガンによって、俳句を結果的に「近代的自我」の坩堝に嵌め込むのを防いだのだった。もう一つ補足すれば、二人によっておおきく育てられた、俳句を中心とする文芸グループ(=ホトトギス)は、基本的に「座」を芯にした「衆」の組織で、これによって、グループ内の「孤」の「近代的自我」への沈潜と拡散に歯止めをかけられる利点もあったのに相違ない。俳句が「近代的自我」にどこまで踏み込めるのかいささか疑問の節があるのは否定できないけれど、とにかく正岡子規と高浜虚子の二人によって、現代にまで連綿と続く俳句の内容的形態的大枠が、堅固に形作られたのである。」 (須藤徹「座の襞へ」/『雷魚』48号)
私はかつてこのように書いた。ここに補足するとすれば、おもに明治時代以来の小説家などが追求した「近代的自我」は、いずれにせよ正岡子規と高浜虚子によって、それを俳句にもちこまない方向で決着がついた。しかし、これはむしろ、その衣鉢を受け継いだ高浜虚子によって、「写生」と「花鳥諷詠」という二枚看板によって、きちんとした道筋がつくられたのだった。(私には「道筋」というより、開墾されつつある荒蕪の地に、「主要幹線道路」が敷設された感じがする。)ここでは、その高浜虚子が、俳句の大スローガンとして華々しく掲げた「写生」と「花鳥諷詠」の内実を、できるだけ具体的に詳らかにしようとするものである。
「高浜虚子 虚子は子規のあと『ホトトギス』を主宰し、急進的な碧梧桐と対立したが、しばらく写生文や小説に傾いた。大正初年俳壇に復帰し、伝統的な季題や定型を守る立場で新傾向運動に挑戦した。主観の尊重を説いてホトトギス派の全盛期を迎えたが、大正中期以後は客観的写生に主張を転じた。更に昭和に入ってからは俳句の生命は「花鳥諷詠」にあるとし、句界を支配した。」 (『精選日本文学史─改訂版』)
これは高校生向けに編集制作された『精選日本文学史─改訂版』という教科書の理解を補うテキストからの引用である。私が引用文中に傍線を引いたところを、特に注目していただきたい。このテキスト作成者は、高浜虚子のことを「主観の尊重を説いてホトトギス派の全盛期を迎えた」と書いているけれど、「客観写生」や「花鳥諷詠」に、その句的視点を大きく移した後でさえ、「主観の尊重」は脈々と生きているのだった。たとえば虚子は「客観写生ということに努めて居ると、その客観写生を透して主観が浸透して出て来る」(『俳句への道』)、さらに「ただ平凡と見える客観の写生の底に作者の主観の火を見得る人のみが句を善解する人であると思う。」(同)と書く。その生涯を通して、これ(主観の尊重)は、おそらく虚子の堅固な俳句的スタンスであったのであろう。けれども、虚子の説く「主観の尊重」が、近代日本の小説的文脈で培われてきた個人の心の内部に潜む「自我」の尊重とはおよそ縁遠い内容であることに、私たちは十分注意しなければならない。「近代的自我」の問題は、それぞれの人間の心の中に横たわる個人的苦悩の告白というかたちで、そのエクリチュールの心臓部を形成した。このような傾向の文学は、一般に「自然主義文学」の中において、よく表現されてきたが、さらにそれは、夏目漱石のシビアな倫理観に裏付けられた、より普遍的な「自我」の探求によって、深く追いこまれた。虚子のいう「主観」は、こうした近代日本の小説的文脈で使われている「自我」や「個人主義」とは、まず根本的に位相を異にしていることを理解しなければならない。「自我」や「個人主義」の追求は、俳句にはふさわしくなく、また、そのような方向に俳句創作に傾くのを、虚子は基本的に賛成していなかった。
「あなたの主観句は、空想から生まれたものは少ないのであって、客観の描写だけではもの足らず、それに主観描写を加えてはじめてその景色を写し得る、ということである。」 (高浜虚子『俳句への道』)
星野立子の「主観句」について、高浜虚子は、こう言いきる。引用文中の「それに主観描写を加えてはじめてその景色を写し得る」を具体的に虚子は、どう説明しているのだろうか。立子の作品「泊り客あるも亦よし夜の秋」について「泊り客などがあると気づまりであるのが普通であるが、しかしその夜は泊り客のあるのもまたいい、共にこの夜涼を味わおう、というのである」(『俳句への道』)と虚子ははっきり指摘する。これを見ても分かるように、「自我」や「個人主義」というレベルからははるか遠い地点で、虚子は俳句における「主観」の重要性を述べる。もっとも、立子の句に対しての彼の「主観」の説明も、それが僅かながらも「自我」の萌芽に繋がる微妙な境界域、との言いかたをあながち全面否定できないだろう。
俳句の場合、その短さゆえに、「主観」から「自我」の内実へ突き進むことは、たいそう難しい。それはあくまで「自我」の萌芽の段階に留まるだけなのかもしれない。とはいえ、中村草田男、石田波郷、加藤楸邨などの人間探求派の俳句作家たちは、単なる「主観」の領土内におさまることをよしとせず、現代俳句に「自我」の感覚を盛り込む営為である、との主張もまたありえよう。さらに富沢赤黄男、高柳重信、金子兜太等にも同様のことが指摘できるようだ。さて、高浜虚子の「写生」から「主観」へ、そして「花鳥諷詠」へ、というのが、本稿のテーマなのだが、はたして虚子はこのようなコンテキストで、何をいいたかったのだろう、というのが私の偽らざる本当の気持ちである。やはり、俳句の大衆化をはかるために、一つの集団をまとめる「錦の御旗」として、これらはひじょうに有効な(効率化という面を含めて)安全弁的内容であったのだろう。明治・大正・昭和と虚子が生きた時代は、国民が一丸となって、世(国家)のため人のために尽くす、という大スローガンがそれなりの効力を発揮したスパンだった。もちろんこうした政治的・経済的・社会的要請と同じように虚子の句的主張をくくるわけにはいかないと思うけれど、やはりある部分で微かにかさなってもいよう。それは、現在の時点で客観的にみるかぎり、それぞれの人間に個別対応せざるをえない文学の宿命的テーマにおいては、けっきょくそりが合わない。今、どこを見ても、国家や国民の間に大きな「物語」はなく、極端なことをいえば、国民の数だけ「物語」が存在するのである。すなわち、現在の世の中は総じて「ポスト・モダン」という時代モードの渦から完全にはまだ脱却できていない。物事の価値は、なべてクレオール的に混成し、人々の拠るべき絶対的基準など、どこを探してもないのではないか。
「虚子によって、継承された子規の写生は再び第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した。」 (小西甚一『日本文学史』)
小西甚一はこのように記す。高浜虚子は、「客観写生→主観→花鳥諷詠」というパラダイムによって、最初から「近代性」を放擲していた、ある意味での確信犯とも考えられる。だが、虚子の態度を是とする人、というより信奉する人々が多数存在する事実を否定はできない。
「虚子が、俳句は花鳥諷詠の詩と規定したとき、それは、俳句の本質規定であると同時に虚子自身の本質規定であった。虚子自身の生き方の宣言であったといってもよい。ただその宣言は、外に向かってなされたものではなく、あえて尋ねられれば確信というよりほかはないようなものだったろう。諦念であり、知天命である。」 (川崎展宏『高浜虚子』)
むしろ「反近代」にこそ高浜虚子の存在理由があるのではないか、と川崎展宏は示唆する。「(花鳥諷詠は)諦念であり、知天命である」とする展宏の筆致に反論はできない。けれども、そこにこそ、虚子の「人間不在」の文学精神を指摘する人もいるにちがいない。「客観写生→主観→花鳥諷詠」という虚子の「諦念」は、ざっくばらんにいって、徹頭徹尾、俳句創作する一個人に収束され、外の世界(自然)をやさしく受容するものの、たとえばそこに「批評」は存在しない。むろん、川崎展宏がいうように、最初から「批評」をもちこまない「諦念」なのだから、「批評」の登場する余地もない。
とても大事なことと思われるので、あえてここに書いてみるが、「写生」という俳句の「革新」を行った正岡子規の文学運動のテーゼを、高浜虚子はあえて異なる方法と内容で、それを私たちに定着させた。柄谷行人は、いみじくも「要するに、子規が『写生』という言葉で語っているのは、言語の多様性の解放ということです。『写生文』の本質も実はそこにある。しかし、むろん、それを自覚していたのは漱石だけであって、高浜虚子ではない。」(柄谷行人編『近代日本の批評』)といっているのは至言だろう。ここにこそ、虚子と「写生」の本質が垣間見える。子規の提唱した「写生」の内容をもう一度再検証し、それが虚子を経由してどう現代俳句につながっていったかを精緻に調べることによって、あるいは「想像力」という、もう一つの俳句の楕円の中心が見えてくるのかもしれない。  
国賓 イタリア大統領閣下のための宮中晩餐におけるおことば
 平成10年4月14日(宮殿)
この度、イタリア共和国大統領スカルファロ閣下が、国賓として、令嬢と共に我が国を御訪問になりましたことに対し、心から歓迎の意を表します。ここに今夕を共に過ごしますことを誠に喜ばしく思います。
私は、5年前の9月、貴大統領のお招きにより、皇后と共に貴国を訪問いたしました。その折、貴大統領並びに令嬢から、心のこもったおもてなしをいただいたことに、改めて深く感謝いたします。ローマを始め、訪れたフィレンツェ、ピストイア、シエナ、ミラノの各都市において、長年にわたってはぐくまれた貴国の文化に触れるとともに、多くの貴国国民から温かい歓迎を受けたことが、懐かしく思い起こされます。
貴国と我が国とは地理的に遠く離れており、長い間直接の交流はなく、それぞれの文化を発達させてきました。両国の人々の間に交流が行われるようになったのは16世紀後半のことであり、貴国からは、東インド巡察師ヴァリニャーノ神父が来日し、我が国からは同神父によって計画された天正遣欧少年使節や、仙台の大名伊達政宗により貿易を目的として派遣された支倉常長の遣欧使節などがはるばる貴国を訪れております。
しかし、このような交流の一時期を経た後、我が国は200年以上にわたる鎖国の時代に入りました。したがって貴国の人々との交流が再び行われるようになったのは、我が国が鎖国政策を維持できなくなり、諸外国と国交を開くようになった19世紀半ば以降のことになります。この時期の我が国は国を守り、発展させるために、諸制度の近代化を進め、外国の様々な文物を取り入れることに非常な努力を払っていました。多くの外国人が招聘へいされ、我が国の人々を育ててくれました。
貴国からは、銅版画家エドアルド・キオッソーネが、我が国の大蔵省の招聘により、紙幣の作成に貢献し、アントニオ・フォンタネージやヴィンツェンツォ・ラグーザは、工部省に設けられた美術学校で、絵画、彫刻を教え、我が国美術界の発展に大きく寄与しました。
その後も、我が国においては、貴国の美術、文学、音楽を始め、人々の生活の様々な分野にまたがる豊かな文化に深い関心が持たれ、我が国民は、貴国国民に対し、敬意と親しみを持ち続けてまいりました。
近年、貴国においても、日本文化の総合的な紹介事業として、「イタリアにおける日本95/96」が行われ、貴大統領がこの事業の名誉総裁をお務めになり、高円宮同妃と共に、開会式に御出席になりましたことは、誠に意義深いことであったと思います。今後とも、両国において、このような努力が絶えず続けられ、大きな成果をあげていくことを願っております。
貴国と我が国は先の大戦の経験から、戦争の大きな痛みを知っております。今日、戦争のない欧州の実現を目指した欧州統合の大きな動きの中で、貴国は、積極的に、重要な役割を果たしてきています。この度の御訪問中、貴大統領が広島をお訪ねになることも、平和に対する真摯しなお気持ちの表れと拝察されます。私は、貴国と我が国との関係が、両国民の幸せのためのみならず、世界平和と繁栄のためにも、更に幅広く、強固なものとなっていくよう、両国民が手を携えて進んでいくことを切に希望いたします。
今回の御訪問が、快適で実り多いものとなることを願い、貴大統領並びに令嬢の御健勝とイタリ共和国国民の幸せを祈って、杯を挙げたく思います。
 
ルーサー・ホワイティング・メーソン

 

Luther Whiting Mason (1818〜1896)
西洋音楽の輸入。音楽取調掛教師(米)
アメリカの教育者。日本の音楽教育・西洋式音楽の輸入などの基礎を築いた功労者。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤め、主に初等音楽教育の第一人者であった。アメリカに留学していた文部省の伊沢修二に唱歌の指導をしたのが縁となり、1880年に明治政府に招聘され2年間の契約で日本に渡った。メーソンは、音楽取調掛(後の東京音楽学校=東京芸大音楽学部)の担当官となった伊沢とともに、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行い、『小学唱歌集』にも関わった。また、ピアノとバイエルの『ピアノ奏法入門書』を持ち込み、ピアノ演奏教育の基本も築いた。芸大にはメーソンがアメリカから持ち込んだピアノが今も記念に残されている。  
2
アメリカ合衆国の音楽教育者。明治初期に日本政府が招聘したお雇い外国人の一人であり、1880年(明治13年)から1882年(明治15年)まで文部省音楽取調掛で西洋音楽の指導を行った。
ルーサー・メーソンは、メイン州のターナー生まれ。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤めた。おもに独学で音楽教育を確立し、歌の収集を行い、音楽教科書と音楽の掛図を公刊し、音楽教育の革新に成功した。合衆国では主に初等音楽教育の第一人者であった。1864年から1879年のボストン滞在時代に、合衆国に留学していた文部省の伊沢修二に唱歌の指導をしたのが縁となり、1880年に明治政府に招聘され日本に渡った。メーソンは文部省音楽取調掛の担当官(御用係)となった伊沢とともに、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行った。『小學唱歌集』にも関わった。日本にピアノとバイエルの『ピアノ奏法入門書』を持ち込んだのもメーソンである。メーソンは当時音楽取調掛に勤務していた岡倉覚三(天心)とも親しかったという。
メーソンは日本の西洋音楽教育の基礎を築いたのち、1882年に日本を離れた。メーソンは滞在の延長を望んだが、おもに予算の都合でその希望はかなえられなかった。
合衆国に帰国したメーソンは、ヨーロッパ各国を歴訪を4度行い、何百もの楽譜の収集と指導法の視察を行った。
帰国後も伊沢に書簡を送り、本格的なオーケストラ発展のためには、難しいオーボエやホルンの演奏家を養成すべきと説いている。
メーソンは1896年にメイン州バックフィールドで死去した。
3
明治12年(1879年) 明治政府は、わが国近代化の一環として「音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)」を創設し、 伊沢修二(当時28歳)をその長に任じました。翌明治13年(1880年)ルーサー・ホワイティング・メイソン(61歳)が米国より招聘され、 同年3月東京本郷の文部省用地内一六番館を改築した音楽取調掛官署で活動が開始されました。メイソンは文部省お雇い外国人として伊沢修二音楽取調掛長と一心同体となって、実に献身的に活動し、大きな成果を上げました。彼は、小学唱歌教科書の編纂、諸学校での唱歌・器楽の指導、スタッフへの和声楽の講義、作曲の奨励はもとより、ピアノの調律、オルガン製作・組み立て指導まで寸暇を惜しんで活躍したそうです。
明治15年(1882年)7月13日、7ヶ月の賜暇帰国を願い出ていたメイソンは、この日離日し、再来日の希望もあったが、ついに再び日本の土を踏むことはありませんでした。しかし、同氏が滞日した2年4ヶ月の間に、わが国の音楽(洋楽)教育の基礎が築かれたと言っても過言ではありません。幸田延、小山作之助、滝廉太郎等々、次々に優れた音楽家、教育者が誕生し、これが今日の日本の音楽界の隆盛の源流であり、今日の東京芸術大学音楽学部の前身となっています。

明治時代、日本政府の依頼により、西洋音楽の教師として来日したクリスチャンのルーサー・ホワイティング・メーソンは、文部省唱歌に讃美歌のメロディーを多数使いました。日本の音楽教育の礎を築いたメーソンの日本派遣は、明治5年当時のアメリカ公使森有礼(後に初代文部大臣となるクリスチャン)が、日本政府を代表してトゥルジェーに要請したものでした。
明治初期、メーソンが唱歌の多くに、讃美歌のメロディーを入れたことは隠されていました。文部省の役人に儒教派が多く、キリスト教に反対の雰囲気があったからです。そこで歌詞は花(か)鳥(ちょう)風月(ふうげつ)(天地自然の美しい景色)、忠君愛国、仁義(じんぎ)忠孝(ちゅうこう)にして、メロディーだけを讃美歌としていました。それでもメーソンはとりあえず讃美歌が採用されたことで、自分の宣教の使命は果たしたと考えました。なぜならば、「自然で完璧な音階」である西洋の七音音階は、神の摂理(神さまが人の利益を考え、この世のすべてを導き治めること)の現われだったからです。それまでの日本の五音音階では、神のみ業をあらわすことができず、不完全なハーモニーにしかならなりませんでした。神さまの摂理が音階という秩序になった西洋音楽を伝えること自体が、神さまの御業を日本に伝えることになったのです。
もちろん、神の御業で最も大切なことが、キリストの十字架の贖いであり、それを伝えることが宣教や伝道の中心です。しかし、自然科学や芸術に現われる神さまの秩序や摂理もとり込まなければ、社会全体にキリスト教が溶け込むことは不可能です。現在、日本で音楽といえば西洋音楽を意味します。トゥルジェーに指名されて日本に来たメーソンが蒔いた種は実を結んでおり、日本人は知らず知らずのうちに、音楽を通して、神さまの御業に触れているのです。 

・・・近代日本における音楽教育については1872年、今日に続く近代教育の基礎である「学制」が発布された際に、小学校の一教科としての「唱歌」が定められたが、資料や実際の指導者もなく、更には「当分之ヲ欠ク」という註がなされており、当初は有名無実な教科であった。明治政府は1871年に編輯寮を設置し、教科書の編纂と翻訳に着手するが、「唱歌」に関しては全く手を付けられず、その後、1879年に公布された教育令においても状況は変わっていない。そこで、師範学校調査のため1875年より米国へ派遣され、1878 年に帰国していた伊澤修二(1851〜1917)らの提唱により、文部省は1879 年に東京音学校の前身である音楽取調掛を創設し、伊澤を掛長に任命する。伊澤は、米国留学時代の自身の師であったルーサー・ホワイティング・メーソン(1818〜 1896)を、音楽取調掛における音楽の指導者として日本に招聘し、1881年から1884 年にかけて、わが国最初の音楽教科書である『小学唱歌集』全三編を発行する(初編が1881年、第二編が1883年、第三編が1884 年にそれぞれ発行される)。この教科書は初編に33曲、第二編に16 曲、第三編に42曲と、全三編において91曲の楽曲を掲載しているが、その三分の二強が外国語楽曲に日本語の歌詞をつけた所謂「翻訳唱歌」と呼ばれるものであり、『小学唱歌集』の場合、主に英米とドイツの民謡や歌曲、賛美歌、さらにはメーソンの編纂した児童用音楽教材集である NATIONAL MUSIC CHARTS やNATIONAL MUSIC READERS の楽曲を原曲としている。この「翻訳唱歌」の歌詞に関しては「原曲の歌詞を翻訳し、次いで曲を分解して、日本の伝統的な詩の形式に従って作詞しやすくした上で、分解した曲に合わせて歌詞の修正を加えた」とされるが、これらの歌詞は大半が、稲垣千頴ら音楽取調掛員による翻訳であることが判明している。また、『小学唱歌集』は唱歌の目的を「徳性ヲ涵養スルヲ以テ要トスへシ」と規定しており、さらにその機能を「人心ヲ正シ風化ヲ助クル」ことにあると位置付けている。実際に、教育史学者の唐澤富太郎による『小学唱歌集』の楽曲歌詞内容の分類を見ても、全91 曲のうち52 曲が忠君愛国的、教訓的な内容を持っており、これらのことから考えても、この時点で日本の音楽教育は既にナショナル・アイデンティティの創造を担っていたと言えよう。
明治時代初期において、国際社会で欧米列強と対峙することを迫られた「日本」という新しい国家にとって必要なことは、「日本」を近代的な国民国家に造り替えることであったが、それまでの「日本」には、政治的な統一はあっても、民の、自分達が「日本国民」であるという帰属意識は皆無であった。伊澤は1884年の『音楽取調申報書』において、プラトンの古代ギリシャ旋法理論、エートス説を引用することにより、唱歌は単なる個人の人格形成のみならず、共同体の形成や維持に資する意味を持つものであるということを論じているが、それはまさしく当時の「日本」に必要とされていたものであった。音楽教育によっていわば「国民づくり」を行うというこの方式は、紆余曲折を経ながらも基本的には第二次世界大戦まで継続される。
・・・《わが日の本》の考察 唐澤の分類によると、「君が代を祝うもの」であり、原曲は賛美歌のThere is a happy landである。これはメーソンの音楽教材集に収録されており8)、原詩はアンドリュー・ヤングによるもの。唱歌歌詞は日本の四季の美しさを歌っており、直接的な「君が代」に関する歌詞はないが、「もろこしびとも高麗びとも、我らが日本のかすんだ日ざしを見て春を知る」というような日本を中心としたものの見方にそれを感じられる。英語原詩の方は、神によって作られた幸せの国、すなわちキリスト教における天の国を歌ったものであるが、「国」というテーマを中心としている点で唱歌歌詞と一致し、キリスト教における神の恩寵である「幸福」というサブテーマを、「君が代」からのめぐみである「四季」9)に置き換えて作詞したものと考えられる。以下に唱歌歌詞、原曲歌詞、原詩の翻訳を記載する。
   《わが日の本》
一わがひのもとの。あさぼらけ。かすめる日かげ。あふぎみて。
 もろこし人も。高麗びとも。春たつけふをば。しりぬべし。
二雲間にさけぶ。ほとゝぎす。かきねににほふ。うつぎばな。
 夏来にけりと。あめつちに。あらそひつぐる。花ととり。
三きぬたのひゞき。身にしみて。とこよのかりも。わたるなり。
 やまともろこし。おしなべて。おなじあはれの。あきの風。
四まどうつあられ。にはのしも。ふもとのおちば。みねのゆき。
 みやこのうちも。やまざとも。ひとつにさゆる。ふゆのそら。


かつて、全国の小中学校・高等学校の卒業式で歌われた文部省唱歌「蛍の光」を、今も覚えておられる方も多いことでしょう。近年、生徒にとってより身近な歌を…ということで、ポップソングや新作の卒業の歌が歌われることが多くなりましたが、かつては「仰げば尊し」とともに、卒業式では定番の曲でした。この歌は、明治14(1881) 年に出版された、我が国最初の音楽の教科書『小学唱歌集』に掲載されました。その後、正式に教育課程の中には組み込まれることは一度もありませんでしたが、なぜほとんどの日本人が歌えたのかといえば、卒業式に出席する小学校の高学年になると、必ず教師から歌唱指導を受けたからなのです。まずは、卒業生を送り出す在校生の立場で歌い、やがて自らがこの曲に送られて学舎を巣立つ。涙ながらに先生や友だちと別れて行く、そのせつない思いを、「蛍の光」とともに記憶されている方に、私はたくさんお目にかかりました。そして、この連綿とした学校教育の歴史が、日本の近代化を支えてきたことは、間違いありません。
「蛍の光」の曲は、スコットランド民謡「AULD LANG SINE(はるかな昔)」です。これは、我が国に西洋流の音楽教育を導入するためにつくられた機関「音楽取調掛」(おんがくとりしらべがかり)(現在の東京芸術大学)のお雇い外国人ルーサー・ホワイティング・メイソンが持ち込んだ、キリスト教の讃美歌集から採られたものとされています。スコットランド民謡の、哀愁を帯びたペンタトニック(ヨナ抜き)音階が、私たち日本人の感性・好みに適合したことは間違いありませんが、この曲は、キリスト教の宣教師たちによって、広くアジア太平洋地域に讃美歌として伝えられ、長く大韓民国やモルジブ共和国の国歌であったことも忘れてはならないと思います。
我が国でも、同時期に大阪で出版された楽譜付きの讃美歌集に、この曲が収録されています。
しかし、諸外国と異なり、日本では讃美歌として定着する以前に、卒業式に歌われる唱歌「蛍の光」として有名になったのでした。この歌の出来た明治14年頃の政治状況は、明治維新の自由闊達(かったつ)な雰囲気が、急激に保守化していました。まさにはじまろうとしていた唱歌教育も、儒教的な倫理観に基づいた徳性の涵養(かんよう)に主眼がおかれようとしていたのです。そこで、作詞家として「音楽取調掛」に雇い入れられたのが、国文漢文の広い学識を持つ稲垣千穎という人物でした。この人は、開校してまもない東京師範学校の教師でしたが、当時校長であった伊沢修二(明治を代表する教育者)が音楽取調掛長を兼務していたことから、白羽の矢が立てられたのだと思われます。彼は、「蛍の光」の作詞の他、「君が代」の補作なども行っており、数年のうちにめざましい活躍をしました。しかし、記録がなく、彼の出自(しゅつじ)や生涯は長い間、不明とされてきたのです。唱歌「ふるさと」「春の小川」の作詞で有名な高野辰之も、昭和の初めに稲垣について調べたようですが、結局わからなかったと随筆に記しています。 
音楽の師範教育
日本に西洋音楽を導入したのは
日本ではどのように音楽が学ばれてきたのだろうか。奇しくもハーバード大学で音楽学科が軌道に乗り始めた頃、そのすぐ近くで、日本の音楽教育創生期に大きな役割を果たすことになる二人が知り合った。伊澤修二とメーソンである。
1879年(明治12年)、日本の音楽教育に関する調査研究・教員養成を目的として、文部省に音楽取調掛が設立された。その御用係となる伊澤修二は、1877年に米ニューイングランド・ノーマル・ミュージカル・インスティチュートの夏期学校に参加した。そこで米音楽教育家ルーサー・ホワイティング・メーソンと知り合い、後に日本政府雇外国人教師として取調掛に迎えいれることになる。彼が愛用していたピアノとともに。
1883年より、取調掛では専門教育および師範教育のための伝習生(学生)を募った。創設当時は伝習期間1年であったが(前半はピアノと唱歌、後半は音楽教育実習)、欧米の音楽学校制度を研究し、4年制カリキュラムへ移行した。そして修身※、唱歌、洋琴、風琴、箏、胡弓、専門楽器、和声学、音楽論、音楽史、音楽教授法の科目履修が義務付けられるようになった。 ※修身とは、教育勅語発布から第二次世界大戦終結まで続いた当時の道徳教育を指す。
中でもピアノに最大の比重が置かれ、4年間全学期においてピアノ実習が行われた。1年次にはバイエル、2〜4年次には「ウルバヒ」(Karl Urbach)という教則本が使われていた。このウルバヒ教則本を日本に紹介したのは、1878〜1881年に米ニューヨーク州ヴァッサー女子大学音楽科に留学し、後に日本初の本格的なピアノ教授となった瓜生繁と見られている。内容としては、ハノンの指訓練から始まり、民謡、クラーマーなどの小品、クーラウ、クレメンティなどのソナチネ、和声学の簡単な解説と用例、カデンツの形成法、コラールの楽節、シューベルトの歌曲、モーツァルトやウェーバーのオペラからの編曲、連弾などが含まれていたそうだ。明治時代に、このような多角的に音楽を学ぶ教則本も存在していた。
その後瓜生は病欠となり、その代講をした奥好義はのちに『洋琴教則本』を上梓し、それが後に東京音楽学校初期の教材として用いられるようになった。これはバイエル1番〜106番、簡単な楽典、民謡の小品をまとめたものである。恐らくこれが契機となり、その後長らくバイエルがピアノ教則本の中軸をなすことになったと考えられる。
近代から現代へ至る歴史の中で
1887年に音楽取調掛は東京音楽学校へ改組し、伊澤が初代校長に就任した。東京音楽学校は本科・師範科に分かれ、本科は修業年限3年で、ピアノを含む器楽部は、修身、器楽、唱歌、器楽合奏、音楽理論、音楽史、国語、英語または独語、体操で科目構成されていた。師範科は全国小学校の音楽教員養成のため特に唱歌教育に力を入れ、その伴奏として使われたのがオルガンやピアノであった。本科入学試験では、ピアノ専修受験生はソナチネアルバム第1巻のソナチネまたは簡易なソナタ、師範科ではバイエルが課されていた。
またこの音楽学校で幸田延に師事し、日本人女流ピアニスト第一号と称賛されたのが久野久である。彼女は1918年にベートーヴェンの演奏会を開いて成功を収め、その後国費留学生としてウィーンへ派遣されるが、エミール・フォン・ザゥアー教授に基礎をやり直すよう指摘されたことを苦に自死した。しかし教授は、ここまで日本人がピアノを習得したことに驚いたとも言われる。
明治時代の欧化政策、大正時代の自由主義的な雰囲気の中で、西洋文化も親しまれた。留学先や理論書などの教材入手先は、次第に米国からドイツが主流となった。日本に西洋音楽が輸入されて50年が経つ頃には、私立音楽学校も何校か開校され、学習者も増えていたようである。そんな中、10代前半で渡仏した原智恵子はパリ国立高等音楽院を首席で卒業し、1933年に帰国後初のピアノ独奏会を開いている(1937年にはショパン国際コンクール日本人初入賞15位)。しかし同じ1933年、日本はドイツとともに国際連盟から脱退し戦争の道を突き進み始めることになる。そして戦時下においては“文化指導”の名の下に国粋的な文化統制が行われ、西洋文化排斥運動も起きた。クラシック音楽は同盟国ドイツのものが主であったため、英米言語・文化ほど排除の対象にはならなかったが、自粛を余儀なくされた。
戦後はふたたび、多様な芸術文化が戻ってきた。1949年には東京音楽学校と東京美術学校が統合され、東京芸術大学が設立された。この時、楽理科なども設置されている。以後音楽の高等教育は、同大をはじめとする諸音楽大学を主な担い手として行われてきた。西洋音楽の探究や習得のために重ねられた不断の努力によって、ピアニストなど多くの優れた演奏家や作曲家を生み出した。
日本に西洋音楽が導入されて100年が経つまでには、主要国際ピアノコンクール入賞者も現れ、1950年代は田中希代子、1960〜1970年代は中村紘子、内田光子、野島稔、海老彰子の各氏等、日本人が優秀な成績を修めている。また学習者や愛好者の急増にともない、楽器の製造数や教材の種類も増えた。現在はピアノ学習者人口だけでも100万人を超えると言われる。
社会における音楽のあり方も年々多様化し、近年では新たな試みも出てきている。たとえば東京芸術大学では映像芸術・舞台芸術までを包括した総合芸術大学への改革、修士・博士課程において音楽学から音楽文化学への改組、音楽音響創造研究分野・芸術環境創造研究分野の設置、社会連携センターの設置・整備など、より幅広い社会的文脈の中で音楽を捉える試みがなされている。他の音楽大学でも新しい動きがみられる。
あらためて日米の高等教育機関での音楽教育創成期を振り返ると、アメリカでは“専門と教養”、日本では“専門と師範”という二段階で教育がなされていた。今後日本でも“教養”の要素が広がっていくかもしれない。
大学教養教育に音楽を取り入れる新たな動きも
ここで、総合大学における教養教育の経緯を見てみよう。戦後アメリカに倣い、「民主的市民の育成」を目標として大学に教養教育が導入された。が、経済界などから専門教育重視の要請が強まり、1970年代には教養教育の形骸化が叫ばれるようになり、1991年大学設置基準の大綱化によって、一般教育(教養課程)の履修区分や単位数規定が廃止された。これによって教養課程の解体が急速に進んだとされる。
成長社会から成熟社会へのグローバルな変化の中で、教養教育の重要性も見直され、最近ではその一環として音楽・芸術科目を取り入れる動きもある。たとえば慶応義塾大学では合唱や弦楽などの授業が開講されている。また東京音楽大学と上智大学には単位互換協定があり、東京音大生は上智大の教養科目を、上智大生は東京音大の音楽科目を履修できる。従来からミッション系や教育系大学で音楽を学ぶ機会はあったが、教養教育として広く全学生に開講されている大学はまだ少ない。現在は約780大学中の数校〜十数校かもしれないが、将来的にこのような学びが増えていくのではないだろうか。大学間の単位互換やコンソーシアムもその一助となるだろう。音楽資源を学生全般の教養を高めるために生かすことは、考え方次第でいくらでも広がる可能性を秘めている。
米国では文理問わず、すべての学生に教養課程は必要であるという考え方だ。ここに世界トップの科学技術系大学、MITマサチューセッツ工科大学の理念をご紹介したい。
「MITの強みは科学技術界のために創造性とイノベーションを育むだけでなく、科学や技術が生まれる土壌、すなわち社会文化環境をより豊かにしていくフロンティア的存在でもある。世界の難題に立ち向かうには技術や科学的創造力に加え、文化・政治・経済活動を営む人間そのものの複雑さに対する理解が必要である」。
未来社会創造の一担い手として、科学と人間理解を等しく尊重していることが伺える。MITでは1865年創設時から人文・社会科学の重要性が言われつづけており、1930年代には人文学部が設立され、1980年代後半から芸術科目が増えはじめ、2000年代には人文学・芸術・社会科学学部へと名称変更された。音楽・芸術が教養科目として開講されている様子はこちらをご参照頂きたい。
米国では"STEM(Science-Technology-Engineering-Math)"と呼ばれる理数系科目に力を入れる政策もあったが、これに対して、Artsを加えた"STEAM"にすべきとの政策提言が多くなされた。「人間とはなにか」という根本理念は、どの時代も変わらないはずである。  
蛍の光
帝国の伸張を如実に示す1つの歌がある。卒業式の定番だった「蛍の光」である。
「蛍の光」は、最初に小学唱歌として発表された時には、現在では歌われなくなった3、4番があり、その内容が変更されていったことを、その昔に母から教わった。調べると、その歌詞は次のようなものである。タイトルも当初は「螢」であった。原文の変体仮名は原字で起し、釈文をつける。
「第二十 螢
一ほ多る能ひ可り。ま登゛のゆき    蛍の光 窓の雪
 書(ふミ)よむつき日。かさねつゝ。  ふみ読む月日 重ねつつ
 い津し可年も。寿起゛のとを。    いつしか年も すぎの戸を
 あけてぞけさは。わ可連ゆく。    あけてぞ今朝は 別れゆく
二とまるもゆくも。かぎりとて。    止まるもゆくも 限りとて
 か多み耳お茂ふ。ちよろづの。    かたみに思ふ ちよろづの
 こゝろのはしを。ひ登古と耳。    心のはしを 一言に
 さきく登者゛可り。うたふなり。   幸きくとばかり 歌ふなり
三津くし能きはみ。ミち能おく。    筑紫の極み 道の奥
 うみやまと不く。へ多゛つとも。   海山遠く 隔つとも
 そのまごゝろ者。へ多゛てなく。   その真心は 隔てなく
 ひとつ耳徒くせ。く尓の多免。    一つに尽せ 国のため
四千島(ちしま)のおくも。おきな者も。 千島の奥も 沖縄も
 やしまのうちの。まもりなり。    八島の内の 守りなり
 い多らんくに耳。いさをしく。    至らん国に 勲しく
 徒と免よわ可゛せ。徒つ可゛なく。  務めよ我がせ 恙なく」

九州から東北まで、江戸期以来の伝統的な「日本」の領域を3番で歌い、4番では、近代以降に日本の植民地となった北海道、千島と沖縄を「やしまのうち」として理解するものである。中西光雄氏はこの構造を「第四曲(四番)の歌い出し「千島のおくも 沖縄も」は、第三曲(三番)の歌い出し「筑紫のきわみ みちのおく」と明らかに対照させた表現であるが、この構成には、三番で旧来の日本の版図を、四番で最近植民地化した地域を含む帝国日本の版図を遠近法で示そうという意図が見える」と的確に解説している。
ヤシマ(八島、八洲)とは日本古代神話の観念による「日本」の領域である。『日本書紀』『古事記』に示された諸説によって、数えられている島の種類は異なる。
代表的な説話として『古事記』及び『日本書紀』本文によるクニウミの様相を確認しよう。『日本書紀』は正格の漢文、『古事記』は破格の漢文である。ただし訓読しても読みにくさには変わりはないので、そのまま引用する。『古事記』は最古の写本である真福寺本が原本、『日本書紀』の原本は寛文九年版本である。
まずは『古事記』の記述。
「如此之期、乃詔、汝者自右廻逢。我者自左廻逢。約竟以廻時、伊耶那美命先言阿那迩夜志、愛〔上〕袁登古袁。〔此十字以音。下效此。〕後伊耶那岐命言阿那迩夜志、愛〔上〕袁登売袁。各言竟之後、告其妹曰、女人先言、不良。雖然、久美度迩〔此四字以音。〕興而生子、水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例。
於是、二柱神議云、今吾所生之子、不良。猶宜白天神之御所、即共参上、請天神之命、尒、天神之命以、布斗麻迩尒〔上〕〔此五字以音。〕ト相而詔之、因女先言而不良。亦還降改言。故尒、返降、更往廻其天之御柱如先。
於是、伊耶那岐命、先言阿那迩夜志、愛袁登賣袁。後妹伊耶那美命、言阿那迩夜志愛袁登古袁。如此言竟而、御合生子、淡道之穂之狭別嶋【淡路島】。〔訓別云和気、下效此。〕次生伊予之二名嶋【四国】。此嶋者、身一而有面四。毎面有名。故、伊予国謂愛〔上〕比売、〔此三字以音。下效此也。〕讚岐国謂飯依比古、粟国謂大宜都比売、〔此四字以音。〕土左国謂建依別。次、生隠岐之三子嶋【隠岐の島】。亦名天之忍許呂別。〔許呂二字以音。〕次、生筑紫嶋【九州】。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫国謂白日別、豊国謂豊日別、肥国謂建日向日豊久士比泥別、〔自久至泥以音。〕熊曾国謂建日別。〔曾字以音。〕次、生伊岐嶋【壱岐】。亦名謂天比登都柱。〔自比至都以音。訓天如天。〕次、生津嶋【対馬】。亦名謂天之狭手依比売。次、生佐度嶋【佐渡】。次、生大倭豊秋津嶋【ヤマト】、亦名謂天御虚空豊秋津根別。故、因此八嶋先所生、謂大八嶋国。
然後、還坐之時、生吉備児嶋。亦名謂建日方別。次、生小豆嶋。亦名謂大野手〔上〕比売。次、生大嶋。亦名謂大多麻〔上〕流別。〔自多至流以音。〕次、生女嶋。亦名謂天一根。〔訓天如天。〕次、生知訶嶋。亦名謂天之忍男。次、生両児嶋。亦名謂天両屋。〔自吉備兒嶋至天両屋嶋、幷六嶋。〕」
続いて『日本書紀』本文の記述。
「伊弉諾尊・伊弉冉尊、立於天浮橋之上、共計曰、底下、豈無国歟、廼以天之瓊〔瓊、玉也。此云努。〕矛、指下而探之、是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮、凝成一嶋、名之曰磤馭慮嶋。二神於是降居彼嶋、因欲共為夫婦、産生洲国。便以磤馭慮嶋爲國中之柱、〔柱、此云美簸旨邏〕而陽神左旋、陰神右旋、分巡国柱、同会一面。時陰神先唱曰、憙哉、遇可美少男焉。〔少男、此云烏等孤。〕陽神不ス曰、吾是男子、理当先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥、宜以改旋。於是、二神却更相遇。是行也陽神先唱曰、憙哉、遇可美少女焉。〔少女、此云烏等刀B〕因問陰神曰、汝身有何成耶。対曰、吾身有一雌元之処。陽神曰、吾身亦有雄元之処。思欲以吾身元処、合汝身之元処。於是陰陽始遘合為夫婦。
及至産時、先以淡路洲為胞。意所不快、故名之曰淡路洲。廼生大日本〔日本此云耶麻騰。下皆効此〕豊秋津洲。次生伊予二名洲。次生筑紫洲。次双生億岐洲与佐度洲、世人或有双生者、象此也。次生越洲。次生大洲。次生吉備子洲。由是始起大八洲国之号焉。即対馬嶋・壱岐嶋及処処小嶋、皆是潮沫凝成者矣。亦曰水沫凝而成也。」
森浩一によれば、『日本書紀』を見ると、北陸地方を指す「コシノシマ(越洲)」を別のシマと見ており、オホヤマトトヨアキヅシマ(大倭豊秋津嶋、大日本豊秋津洲)を現在の本州島と同一視することはできないため、ヤシマ及び付属島嶼は、明らかに西日本に偏倚しているという。この領域感覚は、神話世界のそれというよりは、律令体制における国土感に規定されたものである。それを証明するのは、『延喜式 陰陽寮』に収載された疫鬼払い=エクソシスムの咒詞に現われた境界感覚である。
「千里之外。四方之堺。東方陸奧。西方遠値嘉。南方土佐。北方佐渡與里」
さて、「蛍の光」の原歌詞は別のものであった。この時点ではタイトルはない。
「第十二図 唱歌 / 文部省音楽取調掛 明治十三(一八八〇)年十二月二十日提出
第一曲
蛍のあかり 雪のまど     ふみよむ日数 かさねつゝ
いつしかとしも すぎのとを  あけてぞ今朝は わかれゆく
第二曲
とまるもゆくも かぎりとて  かたみにくだく ちよろづの
こころのはしを ひとことに  さきくとばかり うたふなり
第三曲
つくしのきはみ みちのおく  わかるゝみちは かはるとも
かはらぬこゝろ ゆきかよひ  ひとつにつくせ くにのため
第四曲
千島のおくも おきなわも   やしまのそとの まもりなり
いたらんくにに いさをしく  つとめよわがせ つつみなく」

「八島の内の守り」のフレーズが、原詞「八島の外の守り」から変更されたものであるのが分かる。これは、国家的検閲の最終段階で文部省普通学務局からクレームがついたことによる。それは、「千島も琉球も日本ノ外藩ナリといふ意ならん果して然らば事実上甚穏当ならず」というものだった。
中西光雄氏によれば、「高圧的に修正を要求して成立」させたのは、文部省普通学務局長の辻新次である。また、この歌詞変更については、国境防衛における「ウチ」と「ソト」をめぐる議論があるのだが、それについては山住正己、中西光雄両氏の著書に当られたい。結論だけ述べると、新しく境界に設定された沖縄が、日本の「ソト」からの防衛最前線でもあり、日本の「ウチ」を守るための捨て駒であったことは、第2次世界大戦末期の地上戦の舞台となったこと、戦後米軍の支配に引き渡されたこと、そして現在の地位を見れば明らかだろう。
また、日清戦争及び日露戦争に基づく国境の拡張によって、原歌詞は以下のように変更される。
「第十二 螢の光
【(一)、(二)略】
(三)つくしのきはみ陸の奥  海山遠くへだつとも
  その眞心はへだてなく  ひとつにつくせ國のため
(四)台灣の果も樺太も    やしまのうちのまもりなり
  いたらん國にいさをしく つとめよわがせ恙なく」

新政府は、明治初期に西洋音楽の性急な移植を試みているのだが、その原因は、日本における音楽と音楽家に対する差別観とその社会的地位によるものであった。1887年2月15日、「上野公園内文部省總務局所屬音樂取調掛尓於て卒業證書授與式幷尓音樂演習會」が催された。「管弦樂」「洋琴」「唱歌」と続くが、唱歌の最初は「君が代」、そして「音樂演習會」の掉尾を飾ったのが「ほたる」である。現在につながる卒業式の原型がこの時に完成している。問題は、このあとに行なわれた「音樂取調掛主幹神津專三郎君の報告」である。
「本日卒業の生徒尓關する學事の一斑ハ先つ上述する可如し是より當尓卒業生諸氏尓望む所を一言すへし蓋し諸氏ハ今日を以て此處を去り社會尓立て音樂者と稱する尓至ては宜しく先つ我邦の社會と我邦の音樂者との關係を詳尓せさるへからす即ち我邦從來の社會ハ音樂を以て酒宴遊興を相くるの具と爲し音樂を以て貴重奈る光陰を徒消し貴重奈る財寶を徒費するの具と爲す尓すきす甚たしきに至てハ淫欲を培養するの具と爲す尓至れりまた樂師が其音樂を勤むるの目的とする所も音樂をして此數件の用具と爲すの利用を長せしむる尓すきす是を以て樂曲の製作益〻猥褻尓流れ律呂の施行益〻淫聲を成す尓至りしハ勢の自然奈り故尓樂師ハ社會最下の位地を占め社會最賤の待遇を享くる者尓して其情恰も社會ハ樂師の集合主人尓して樂師ハ社會の共同奴隷の如し」
原文はまだまだ続くのだが、凄まじいまでの音楽家としての自己規定が開陳されている。しかもこの式典にはオーストリア公使、フランス公使も招かれているのに、である。明治も20年を過ぎているにもかかわらず、この有様なのである。また、文中に「淫欲」「猥褻」と決めつけられたエンタテインメント、あるいはもっと簡単に「楽しみ」というものが、いかに学校教育の敵であったかをまざまざと見せつけている。また、前近代的な卑賤感も開示されているが、天皇や貴族という「貴」の存在する社会にあっては、「賤」の本質的解決が指向されていなかったことも明らかにする。
今日いうところの文科系官僚によって統制された官僚的教育社会にあって、体育や音楽、美術といった課目がどのように成立していったのだろうか。自身がアスリートであった嘉納治五郎の体育教育観とスポーツ観については、いずれ触れる機会がある。ただし、体育教育については強健な身体を形成するという個人的契機を通じて、国民体位の向上、国民的健康状態の改善という大義名分を早期から発見することができた。しかし、本質的に楽しみを主要な内容とする音楽についてはどうだっただろう。
それについては、山住正己が具体的言説を取り上げて紹介している。歌うことの目的に、まず、愛国心の醸成というテーマが語られている。原典を引く。
「人ノ幼稚ニシテ父母ノ家ヲ愛慕シ生國ヲ懷思スルハ其家國ノ習慣ヨリ發スル自然ノ情ナリト雖愛國心ハ亦自ラ別物ニシテ全ク想像ノ感覚ヨリ起ル此感情ヲ發セシメント欲セハ兒童ノ時ニ於テセサルヘカラス其コレヲ教フルハ學校ニ若クモノナシ何トナレハ學校ハ人ノ設立シタル一會社ナルヲ以テ社中ノ人ハ必同一ノ性質同一ノ品行ヲ發成スルニ因ル殊ニ區内ノ學校ハ夫ノ父母ノ家ト本國トノ中間ニ在リテ人ノ爲ニ一ノ緊要ナル社中ナレハ則チ夫ノ同一ノ性質同一ノ品行ハ其小學校ニ於テ之ヲ育成シ退校ノ後ハ更ニ開明ナル人民世界ニ進入シテ其性質品行ヲシテ益高尚ナラシムヘシ」
「何レノ國ニ於テモ豪傑ノ士ト稱ス可キモノ有ラサルハナシ有レハ則其人ヲ稱讚スルノ詩歌アルヘシ是等ノ歌ハ志氣ヲ作興シ心思ヲ振起スルモノニシテ兒童ノ好ヲ學ハント欲スル所ナリ又此歌ノ作ル所以ノ記傳ヲ説話スレハ更ニ一層ノ感覺心ヲ起サシム故ニ其歴史上ニ關スルノ日ニ至リテハ必是等ノ歌ヲ謠ハシム可シ」
続いては、女子教育における効用である。
「【唱歌は】女子ノ言語ヲ正クシ且其風教ヲ増進ス元来女子ノ性質ハ軽浮ナル者ニシテ専ラ華飾ヲ好ムヨリ或ハ漸ク其心性ヲ蘯逸シテ怠惰淫癖ニ陥ラシムルノ僻アリ幼ヨリ之ヲ教ヘテ軽浮ノ気象ニ克タシムベシ」
「軽浮」「華飾」「蘯逸」「怠惰」「淫癖」と、なんだかよく分らなくとも、破壊力のある蔑みのコトバが並んでいる。こわいなあ。自民党の武藤貴也氏のツィート「SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。」に匹敵するパワーがあるように思う。でも、だって戦争は憲法で禁じられてるじゃん。
当時の官僚たちも、子どもたちや女子が、歌を歌うことが「好」という、エンタテインメントとしての本質的部分は理解しているようだし、アメリカに留学した伊沢修二、目賀田種太郎が音楽教育を学んで帰国。2人の留学は1875年7月18日、横浜を出帆して渡米、8月26日にアメリカに到着。翌年、音楽教育家で、日本の音楽教育の父となったルーサー・ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason)に出会っている。帰国した伊沢修二は教育現場で唱歌学習を開始している。それでもなお、言語を正しくするとか、愛国心を外部注入するとか、リズムやメロディ等の音楽の主要な要素を捨象したところで論じているのだから、本質的な議論ではありえず、反則である。そして当時の文部官僚には、音楽方面の素養はなく、唱歌策定の初期の議論は歌詞のみを巡って争われている。しかも当時、唱歌教育が導入されたのはアメリカからであり、「蛍の光」のメロディも、アメリカのポピュラー・ミュージックの起源の1つであるスコットランド(ゲール語Alba、スコットランド語Scotland)民謡である。原曲「Auld Lang Syne」はスコットランドの非公式な国歌(unofficial Scottish anthems)の1つであり、1972年までモルディブ共和国(ދިވެހިރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ)の国歌でもあった。また、「Auld Lang Syne」はスコットランド語で、直訳は「old long since」、イディオムとしては「long long ago」、「days gone by」あるいは「old times」を意味している。日本の昔話の冒頭の定型句「むかしむかし」に相当する語である。
2014年9月18日、スコットランドの独立をめぐって実施された住民投票では、賛成44.7%、反対55.3%(投票率84.59%、有効投票99.91%)で惜敗に終わったが、沖縄の今後の運命にかんして、1つのありかたを示唆している。
「君が代」は、本来は「酒宴遊興」の席で、目前にする貴人「キミ」にたいする「コトホギ」の呪術的効果を期待した歌謡(賀歌)であったのが、「オホキミ」個人を対象にして、地質学的年代を超えて天皇制が存在しつづけるように祈念する和歌に変質していく。その変質した歌詞を明治政府にもたらしたのは薩摩藩士であったらしい。大山巌であったとする説もある。
現在は法律によってその歌詞が固定されている「君が代」であるが、最初期の歌詞は、現在の歌詞とは異なっていた。楽譜を見ていただければ、現在とは別のウタであったことも分かるだろう。
「第二十三 君可゛代
一君可゛代者。ちよにやちよに。     君が代は 千代に八千代に
 さゞれいしの。巖(い者不)となりて。  さざれ石の 巌となりて
 古けのむ須までうご起なく。      苔のむすまで 動きなく
 常磐かきは尓。かぎりもあらじ。常磐堅磐(ときはかきは)に 限りもあらじ
二きみ可゛代ハ。千尋(ちひろ)の底能   君が代は 千尋の底の
 さゞ連いし能鵜(う)のゐる礒(いそ)と。 さざれ石の鵜のいる磯と
 あらハるゝまで。かぎりなき。     現はるるまで 限りなき
 みよの栄(さ可え)を。ほぎ堂てまつ累。 御代の栄えを 祝ぎたてまつる」

その歌詞はわれわれの知るものではなく、2番があったのも驚きである。数多く出版された『唱歌集』において現在の歌詞に落ち着くのは、市川八十吉の編集した『幼稚園唱歌』においてである。『小学唱歌集』が実際は1884年の出版であるので、その2年後のことである。ただし、タイトルは「君が代」ではなく「さヽれ石」というものであった。中西光雄氏によれば、唱歌のタイトルには、歌題(テーマ)によるものと、歌い出しの一節を用いたものの2つの命名機序が存在しており、この歌を「君が代」とネーミングする後者の方法は、キリスト教の讃美歌のタイトルにおける命名法によっていることになる。訳が分からないのである。
「 さヽれ石
君かよハ。ちよにやちよに。さヾれいしの。いハほとなりてこけのむすまで。」
ただし、小学唱歌集出版の4年後には、3番まで増殖したヴァージョンも発生した。
「第六 君(きみ)可代(よ)
一君(きみ)可゛代(よ)者。     君が代は
 千代(ちよ)尓八千代(やちよ)耳。 千代に八千代に
 佐ゞ連石の。          さざれ石の
 巖(い者不)とな里て。      巌となりて
 古け能む壽まで。        苔のむすまで
二君可゛代者。          君が代は
 ち飛ろの底(そこ)の。      千尋の底の
 佐ゞれいし能          さざれ石の
 鵜(う)の居(ゐ)る磯(いそ)と。  鵜のいる磯と
 現(あら)者るゝまで。      現はるるまで
三きみ可゛代ハ。         君が代は
 千代ともさゝじ。        千代とも指さじ
 天(あま)の戸(と)や。      天の戸や
 いづる月日(つきひ)の。     出づる月日の
 可ぎ里な介連ば。        限りなければ」

3番は『古今和歌集』の和歌から採られている。『倭漢朗詠集』の1写本に起源があり、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」から直接に採集された1番の歌詞より起源が古いのである。薩摩琵琶歌の歌詞は古本によれば、次の通り。
「  蓬萊山
目出度やな君がめぐみは久方の、光り長閑(ノド)けき春の日に不老門を立出で四方(ヨモ)の氣色を詠むれバ峯の小松に雛鶴住みて谷の小川に龜遊ぶ千代に八千代にさゞれ石のい者不【いはほ】と成りて苔のむすまで命ながらへ雨土ぐれを破らじ風枝を鳴らさじといへば又堯舜の御代も斯くあらん、か不ど治まる御代なれバ千草萬木五穀成就して上には金殿樓閣のいらかを並べ下には民のかまどを厚くして仁義正しき御代のなれバ蓬萊山とは是とかや君が代の千歳の松も常磐色替らぬ御代の例(タメ)しには天長(テンチヨウ)地久と國も豐に治まりて弓は袋に劔は箱に納めおく諫鼓(カンコ)苔深うして鳥も中々おどろく樣ぞなし」
元が俗謡(フォーク・ソング)なので、めでたい感はあるが荘重感は皆無である。それでもこれが国歌になったのであれば2階級特進といってよいだろう。ただし原曲は、のちに支配的になる国粋主義的思想が顕著というわけでなく、日本の伝統的思想において、古代東アジアの文化を引き継ぐものとして「蓬萊山」とか「堯舜」とかの中国神話による修飾をもってコトホギの詞としているのには注意すべきである。また「雛鶴」の語で思い出されるのが、『宴遊日記』に記載されている、柳沢信鴻が六義園でツルの雛が巣立ちした際にお祝いを上屋敷に贈った記事のことである。じつは、東アジア的紐帯をうかがわせる日本の伝統は明治期に切断され、新たに創作された「神道」と国家主義によって置換されているのである。
そして、「君が代」には、別々に作曲された3つのメロディがあり、単一のメロディやリズムと結合していたわけでなく、2番目のリメーク・ソングであった。最初に1869年、アイルランド(Éire)生れの少年鼓手兵で軍楽隊長にまで昇進したジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton)による作曲。次いで1880年、海軍省が宮内省に依頼、宮内省式部寮雅楽課で作成された現行曲。3曲目は、先に見た文部省音楽取調掛による作曲である。
雅楽は西洋音楽に対抗する日本古来の音楽「國樂」として位置付けられたのであるが、それ自体が古代中国の音楽であることは敢えて顧みられてはいない。細々と保存されてきた雅楽であるが、その主要な楽器の1つ篳篥(ひちりき)のリード「蘆舌(ろぜつ)」の素材であるヨシの特異的産地、鵜殿のヨシ原を横断する新名神高速道路の建設が計画されており、伝統的音楽の継承にとって深刻な危機を迎えている。これは2012年、民主党の野田佳彦政権下に、前田武志国土交通大臣が高速道路建設凍結解除を表明し、事業許可が下りたことによるものである。
「君が代」は元来は海軍の式典に天皇を迎える際の演奏曲として用いられ(陸軍では別曲が演奏された)、ついで祝日大祭日儀式の歌となったが、国歌になったのは1999年8月13日のことであり、たかだか16年にしかならないこと。最後に「君が代」の歌詞が、国民主権を根幹に据える日本国憲法の精神に合致しないこと。これらのことは忘れてはならないだろう。
もう1つ、意識からそれてしまっているが、実際に蛍が光を放って飛ぶのは夏である。実は、「蛍の光」が作られたころ、学年の終りは、欧米諸国と同様に夏の季節であった。学年の終りと卒業式が春に変更されたために、「桜」がもうひとつの自然的な修飾要素として急速に浮上し、人々の学校式典のイメージは「サクラ」に完全に囚われてしまうことになる。一方「蛍の光」に関して形成されたイメージは、日本放送協会による紅白歌合戦のフィナーレ、そして東京オリンピックの閉会式で演奏されたことによる名残を惜しみつつ終りを迎えるイメージである。「君が代」が大相撲の千秋楽の全取組終了後に演奏される音楽として、名残をおしむ「お相撲の歌」であったのと好一対である。
中西光雄氏の著書のオープニングで印象的に取り扱われているのが、『日刊スポーツ』に掲載された北杜夫による東京オリンピック閉会式の印象を書いた一文である。
「いっせいにともった炬火の美しい動きの中で、「蛍の光」がながれる。すべては終わった。日本としてはずいぶん背のびしたオリンピックにはちがいなかったが、ちょっと恥ずかしくなるくらい見事に終った。」
しかし、実は『日刊スポーツ』の当該紙には2人の「作家」が並んで寄稿している。
1人は、上に引用した斎藤茂吉の2男で精神科医の北杜夫。いま1人は、三島由紀夫のようになろうとしてなれなくて、作家ですらなくなった石原慎太郎氏である。
石原慎太郎氏の寄稿には、次のような感動的な語句がある。
「予期していた別離の感傷はなかった。これほど美しい別れがあったろうか。闘い終えた人間たちの表情はみな底ぬけに明るかった。
この別離は、そのまま再会につながるのだ。人間が魔につかれて愚かな戦争を起さぬ限り、人間の美と力と尊厳の祭典は所を変え、きり無くくり返されていく筈なのだ。
聖火は消えず、ただ移りいくのみである。この祭典は我々に、人間がかくもそれぞれ異り、またかくも、それぞれが同じかと言うことを教えてくれた。
この真理が何故に政治などと言う愚かしいエネルギーの前に押し切られるのであろうか。」
強引に戦争への道を開こうとし、オリンピックをアスリートの祭典ではなく、政治と金儲けの道具としている「魔につかれ」た自民党議員を含む全国会議員、そしてひょっとしたら忘れてしまっているであろうご本人にも読んでほしい名文である。
 
フランツ・フォン・エッケルト

 

Franz Eckert (1852-1916)
現行「君が代」の編曲(一説では作曲も)(独)
明治時代の日本で活動したドイツの作曲家。
プロイセン王国ニーダーシュレージエン地方のノイローデ(現在のポーランド ドルヌィ・シロンスク県ノヴァ・ルダ(英語版))でドイツ語を母語とするカトリックの家系に生まれ、ブレスラウとドレスデンの音楽学校に学んだ。その後、軍楽隊でオーボエ奏者として活動する。
1879年に来日する。1880年、奥好義・林廣守作曲、林廣守撰定の「君が代」に伴奏、和声を付けた。以後、日本を離れるまで、海軍軍楽隊、音楽取調掛、宮内省式部職、陸軍戸山学校その他、洋楽教育機関のほとんどすべてにかかわった。1897年、英照皇太后の大喪の礼のために『哀の極』(かなしみのきわみ)を作曲した。
海軍は明治初年の創設以来英国式の軍制を採って来たが、音楽に関しては、当初のジョン・ウィリアム・フェントンによる英国軍楽隊方式から、エッケルトの着任以来、ドイツ式の理論や教育が浸透した。
1899年、離日する。帰国後、故郷では温泉保養地のオーケストラ等の仕事しか得られなかったため再びアジアでの活動を希望して朝鮮半島に渡り、李王朝の音楽教師となり、大韓帝国の軍楽隊の基礎を築くが、日韓併合後は野に下り、民間吹奏楽の指導者として西洋音楽の普及に貢献した。京城(現ソウル)で客死した。墓所は現在も韓国国内にある。
学生時代の専攻と故郷での最初の仕事はオーボエであったとされるが、日本ではオーボエの演奏・指導の記録はなく、ヴァイオリン、ヴィオラ、フルートなどを演奏した記録だけが残っている。 
君が代 1
先日あるところで「君が代」の話になった。小生は随分前になるがドイツ人が作曲したということを読みかじっていたので、そう言うと、ある方が「ドイツ人は、たしかエッケルトですよね、でも、編曲ですよ。作曲したのは林廣守だったはずです」とおっしゃる。こちらは昔の事だし、記憶違いかなと思ってそのまま「そうでしたか」と引き取っておいた。
最近、上のような展示があったようなのだが、このちらしにこう書かれている。
《エッケルトが活躍した領域は管楽隊、弦楽隊、管弦楽隊、合唱団などの指導と指揮、作曲、編曲、伝統音楽の採譜、和声学教授などである。関与した機関としては海軍軍楽隊、東京合唱協会、文部省音楽取調掛、宮内省式部職雅楽部、陸軍戸山学校、近衛軍楽隊、(大韓帝国)侍衛軍楽隊などがある。業績としては日本の国歌《君が代》(現行)の編曲、葬送行進曲《哀之極 I・II》の作曲、韓国の最初の公式な国家《大韓帝国愛国歌》の作曲などが有名である。》
「日本の国歌《君が代》(現行)の編曲」とされているから、やはりそうなのかと思うのだが、「君が代」が国歌になったのはごく最近(平成十一年)である。国歌の制定を言い出したのは薩摩軍楽隊の教師であったイギリス人ジョン=ウィリアム・フェントンで、言い出しっぺのフェントンが武士の歌を参考にして作曲したのだが、それがたいへん不評だった。明治十一年にフェントンは帰国、十二年にプロイセンからエッケルトが来日、海軍軍楽隊はドイツ式となった。国歌も仕切り直し。海軍省から宮内省へ作曲が依頼され、十三年六月に林広守の作曲とされる「君が代」が国歌として選ばれた……。
野間氏によれば実際の作曲は林広守ではなく広守の長男林広季と奥好義の二人の若手雅楽員であったという。しかも古歌の君が代に曲をつけただけで国歌とは聞かされていなかった(奥の談話)。それがコンペにかけられて正式決定した。審査員は林広守、エッケルトら四人というから出来レースと思われても仕方がない。その原曲をもとにエッケルトが「作曲」したわけだが、彼の自筆楽譜には「1880.10.25」と記されている。
明治二十一年、「大日本礼式」と題して「君が代」の楽譜が印刷され、諸官庁および諸外国に公式に配布された。その表紙には、はっきり「エッケルト作曲 von F. ECKERT」と記載されている。
《標題の「JAPANISCHE HYMNE」、日本古来の民謡によるという意味の「nach einer altjapanischer Melodie」作曲者氏名と所属である「von F.ECKERT,Kongl.Pr.Musikdirektor」などが印刷され、一番下には作曲年「1888」が印刷されている。》
また、水沢勉氏のFBに下記の表紙が引用されていた。英語版である。
《1880年の手稿譜のための表紙と思われる水彩画の原画をまだわたしは実見していない。絵柄はウェブ上で確認できる。/これもなんとも奇妙な、素人っぽい絵である。/しかし、1880年という年を考え合わせると、まことに興味深いものだ。/夫婦岩に旭日が昇り、鶴が飛び、亀が「壽」という文字の息を吐く。「大日本禮式」「National Hymn composed on an OLD JAPANESE AIR by F. ECKERT.」/明治13(1880)年11月3日の「天長節」の「欧州奏楽」の演奏の際に用意された手稿譜の表紙と考えるのが自然だが・・・》
要するに、「君が代」の作曲は林広守らではなく、古歌にもとづいてエッケルトによって行われた、というのが当時の公式見解であった。
ではどうしてこれが国歌としてすぐに認められなかったか、野間氏によれば文部省(伊沢修二)が横やりを入れたことによる。海軍省や宮内省には任せておけない、ということで第三の「君が代」が文部省から提出された。しかし、これがなんとイギリスのサミュエル・ウェブ一世の歌曲に君が代の歌詞を当てたものだった。当時の文部省唱歌は多くがこのやり方だったのだが、それにしてもあまりに安直ではある。
結局どちらとも決定されないまま学校などではエッケルトの「君が代」が「試用」されながら百年以上放置されていた。そしてようやく正式に採用する段になって、作曲はどうしても日本人の名前でなければ収まらなかったということだろう。 
君が代 2 
序章
「君が代」は実は3種類あった!この三つの「君が代」が生まれる課程は非常に興味深い。これはいかにも日本的な様々なことが絡み合って誕生した!
「君が代」が未だ正式に国歌にならない理由。(1999年(平成11年)に国歌に制定)三つも候補曲があった理由。そして現在のひずんだ西洋音楽への理解。
これらはなんと政府官僚、海軍、薩摩藩、が大きく影響した。
現在も続く官僚制、派閥、縦割り行政、日本と西洋の根本的な文化の違い。 「君が代」が出来るまでの課程はまさに日本そのものである。 キーポイントは明治! やはり明治にあった!ここからすべてが出発した。 いや、ひずみ始めた。
50年前の戦争責任を「君が代」の国歌成立に反対している団体とは違う音楽的な視点から述べてみたい。 純粋に音楽を追求する人達に政府がいかに絡んできたか? 
1 明治という時代
1868年、徳川幕府が滅び 明治政府が誕生した。文明開花の名の下に政治、経済、文化などすべての面で急速に近代化、つまり西洋化していった。日本のものがすべて悪く、西洋のものがすべて良いという風潮はこのときに始まり、現在なお余韻が残っている。ここでは音楽のことに限って述べていきたい。
古来からある日本の音楽は、明治の文明の教師である西洋人達に非常に受けが悪かった。たとえば大森貝塚の発見者であるモースは
「日本人に日常は人目につきにくい所まで芸術的に洗練されているが、音楽はまことに理解しがたく、船頭に「奇妙な歌」や建築労働者の「不気味な歌」は頭を抱える程で、外国人の立場から言わせると日本人は音楽に対する耳をもっていないらしい。彼らの音楽は最も粗雑なもののように思われる。」 と後の著書に書いている。琴の音は「調律をしているのか と思った」とか そのほかにも例をあげれば切りがないほど評判はすこぶる悪い。このような評判を聞いて文明人気取りの明治の政治家や官僚達が日本伝統音楽を捨てようとしたのは当然かも知れない。しかもこの時代の西洋音楽はまさに頂点を迎えていた。
明治元年、ヨーロッパでは
ベルリオーズ(65才)、リスト(57才)、ワーグナー(55才)、ブルックナー(44才)、J、シュトラウス(43才)、ブラームス(35才)、サンサーンス(33才)・・・・・等 素晴らしい顔ぶれである。マイスタージンガー初演(明治元年)、ウィーンの森の物語(明治元年)、ドイツレクイエム(明治元年)、カルメン(明治5年)、白鳥の湖(明治7年)・・・・どうだ!この時代に生きた西洋人が日本の音楽を酷評するのは当然なのである。
この西洋音楽に興味は持っても 学ぶということは一般人にはとうていかなわなかった。
いち早く行動に移したのは、明治2年「薩摩藩軍楽隊」(明治5年、海軍と陸軍に分派)、明治3年「雅楽局」、明治6年「キリスト教会」、明治12年「音楽取調掛」(後の東京音楽学校、東京芸術大学)であった。この中で「国の威信を表し列強各国に肩を並べるためには国歌が必要である」と いち早く関係者に訴えたのが薩摩藩軍楽隊であった。音楽の政治的利用はどの国も まず軍隊の訓練から始まった。行列ではなく行進させるためである。
この軍楽隊の教師はイギリス公使間護衛隊歩兵大隊の軍楽隊隊長のジョン=ウィリアム・フェントンであった。
1869年(明治2)10月、横浜市中区の妙香寺で青年薩摩藩士30余名に軍楽伝習の教習を行ったのが、日本洋楽の第1章とされている。フェントンは直ちに英国ベッソン楽器会社に一揃いの吹奏楽器を注文、翌年1870年(明治3)6月に到着した楽器を使用して実技練習を行い、同年9月には山手公園音楽堂で英国軍楽隊と共に演奏できるほどに練習の成果を上げていたらしい。このフェントンは温厚な性格と豊富な知識?から皆から尊敬されていたという。でも このフェントンがくせ者なのである。
ある日、日本に国歌がないということを知ったフェントンがイギリス国歌の話をし、国歌の必要性を説き、もし歌詞があれば自分が作曲するといった!その話は大きな波紋を投げかけ、ただちに話し合いがもたれ、その結果、歌詞の作成あるいは選定を薩摩藩砲隊長大山巌に依頼した。その結果、「新作ではなく古歌から選ぶべきである」という助言を受け、自分が平素愛用していた「君が代」を提案した。 
2 君が代の歌詞
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
ミソヒトモジ(31文字)正確には「さざれ石の」が字余りで32文字で出来ている世界一短い歌詞である。初見は古今和歌集と云われている。読人しらずという歌には、本当に作者がわからないもののほかに、作者の身分が卑しいためにあえて秘する場合がある。いずれにしてもこの歌が歌集に収められるためには作品として優れたものでなければならない事には間違いない。歌詞の内容については諸説あるので「君」がだれのことをさすのか、というようなことは専門家にお任せする。
とにかくこの歌詞をローマ字に直して、フェントンに渡された。明治3年8月の事である。しかしフェントンは「1.2ヶ月待って欲しい。」といってそのまま机の中にしまい込んでしまった。これにいらだった関係者たちは9月8日の軍事大訓練当日、明治天皇御前で「君が代」初演奏を捧げたいと言い出したのである。これはあと2週間後のことで、余りにも無理な話であった。フェントンが断ったのは当然のことであるが、結局強引に押し切られる形で承諾してしまったのである。だが、引き受けたものの作曲は遅々として進まなかったようだ。結局、行き詰まったフェントンは通訳の藩士原田宗助に、その得意とする「武士の歌を歌わせて、メロディーを五線紙に写し取ったと伝えられている。おそらく詩吟のたぐいであったと思われるこの曲を、西洋人が聞いてもなんの参考にもならないのである。結局このようにして作られた曲が明治3年秋、国歌として発表され、その後、6年間も「ザンギリ頭、羽織に股引き、素足にわらじ」の軍楽隊員によって演奏されることになったのである。 これを仮に「第一の君が代」と呼ぶことにする。  
3 第一の君が代
これが第一の君が代の楽譜である。みなさんどのように感じられるだろうか?これがフェントンの作曲の実力である。西洋人が聞いた一本調子の日本の歌はこのように聞こえたのだろうか?歌詞が分断され、メロディとの一体感は皆無である。またそのメロディーも単純でまったく面白みがない。
当然、この曲は大変に不評であった。なかでも軍楽隊隊員たちの評判は最悪だったようだ。関係者は作成当初からすでに改作を考えていた。不評にもかかわらず、明治9年までは公式行事で歌われていたらしい。
第二の君が代はこの第一の君が代の批判からはじまった。そして、この第二の君が代こそ現在我々が歌っている曲なのである。 
4 第二の君が代
明治9年、海軍軍楽隊隊長・中村祐庸が「独立国の隆栄と君主の威厳を表すには国歌は欠くべからざるもので、人情を感動せしむる音楽の効用は遥かに優るが、正しい声響に競合しない音楽にはその効能はない」と断じて、さらにフェントンの「君が代」は日本人の声にあわず、聞いていても何の音楽かよくわからない。あれで天皇を崇敬する儀礼の主意を失することになると 真っ向から批判し、フェントン氏は帰国の期が近く校正の暇がないから、改訂委員会の手で「君が代」の音楽を修正することを提案したのである。中村はこのとき24才、21才の時初代海軍軍楽隊隊長に選ばれたほどだから、その音楽性もさることながら人格的にも優れた人物だったと考えられる。その中村が「第一の君が代」に対してこんな強硬な意見を持ったのも、彼がその曲を演奏する当事者だったからであろう。この上申書は各方面に好意をもって迎えられたが、時期が悪く懸案事項となった。世情安定せず、 翌年、西南戦争が起こったため、改訂作業は進展しなかったのである。約半年続いた戦闘は官軍有利のうちに進み、西郷隆盛が壮絶な自刃を遂げて西南戦争は終わったのである。この年、フェントンは任期満了のためイギリスに帰国する。翌明治11年、海軍軍楽隊は様式をイギリス式からドイツ式に改めることになった。
明治12 年春、ドイツから音楽教師フランツ・エッケルトが来日する。 彼の評判は非常によかった。彼に対する関係者の信頼が非常に厚いものとなったことは、当初二年契約であった彼の任期が結局21年という長期にわたるものとなったことでもわかる。昭和天皇ご大葬のときに演奏された「哀しみの極み」は彼の明治30年 英照皇太后崩御の時の作品である。そのエッケルトが来日した頃、ちょうど懸案であった国歌作成に関わることになったのは当然の成りゆきといってよいだろう。
明治13年1月、海軍省から宮内省に対して、正式に 新「君が代」の作曲が依頼された。半年後の6 月、宮内省から海軍省に数種の楽譜が届けられたが、応募作品の数、応募者氏名などは明らかにされていない。そして7月、楽曲改訂委員に任命された海軍軍楽隊長・中村祐庸、陸軍軍楽隊長・四元義豊、宮内省一等伶人・林広守、海軍省雇教師・エッケルトの四人によって審査が行われた。新国歌「君が代」に選ばれたのは林広守の曲であった。
楽譜を見ながら歌ってみよう。他の多くの国歌に見られるようなマーチ風リズムもなければ高まる興奮もない。決して愛国心をいたずらにあおるような音楽ではなく、その点に不満を持つ人もいるのも確かに頷ける。しかし、「キミガ/ヨハ/チヨニ/ヤチヨニ/サザレ/イシノ/イワオト/ナリテ/コケノ/ムス/マデ」 という2小節単位の旋律が言葉に完全に一致して、静かだが実に豊かな旋律になっている。第一の君が代のように「キミ/ガヨ/ハチ/ヨニ/ヤチ/ヨニ/サザ/レ/イシ/ノイワ/オト/ナリ/テコケ/ノム/スマ/デ」といった不自然な言葉のズレは見られないのである。この歌は「律音階」という五音音階で作られている。西洋式に言うと「レミソラシ」の五音である。さて、エッケルトは早速、この歌に和声を付け、さらに、ピアノ用の伴奏譜と吹奏楽譜を作った。
この曲の最初と最後は伴奏もユニゾンで演奏され、和声は一切つけられていない。それについてエッケルトは、日本の国体を考えるならば「君が代」の発声たる「きみがよ」の部分は男子たると女子たると日本人たると外国人たるを問わず、二人でも三人でも十人でも百人でも、たとえ千万人集まって歌おうとも、いかほど多数の異なった楽器で合奏するにしても、単一の音をもってしたい。ここに複雑な音を入れることは、声は和しても何となく面白くない。日本の国体にあわぬような気がする。それゆえ「きみがよは」の発声にはわざと和声をつけぬことにした。発声につけぬから結びにもつけぬほうがよろしい。と語っている。このセンス! すばらしいと思いませんか?元来、日本伝統音楽に和声などあったためしがないのだから、エッケルトがうまくカモフラージュしていることは確かである。この音階の中で使用可能な和音を総てバランスよく使って、しかも西洋和声法からみても不自然なところが全くない。この「第二の君が代」はエッケルトの和声を得て初めて、和・洋の音楽が合体した素晴らしい作品になったのである。
明治13年11月3日、天長節御宴会において、宮内省雅楽部吹奏楽員による新国家「君が代」の初演奏が行われた。評判は上々であった。ここで、作曲者 林広守であるが 実は広守の長男、林広季と友人の奥好義が共同で作曲したのではないか という話がある。二人は当時若手の雅楽員で、奥は後に音楽取調掛を経て高等師範学校教授になった人である。
その奥の晩年の談話によると
「林広守に命じられて「君が代」の歌に譜を付けただけで、それが国歌であるとは知らなかった。作譜をしたのは当直の晩で、牛込御門内稽古場で林広季と相談しながら作曲をした。複数の者が作曲に当たった場合、その作品に上級者が代表者として記名し、個人の作品とはしない。それが楽部の慣例である。」と言っている。
林広守は非常に優秀で忙しい人で、作曲の依頼は一曲だけではなかったかもしれない。その中の一曲を弟子たちにまかせたことは十分考えられることではないだろうか。そして、最終的に確認をし、あるいは手を加えて自分の名を付して提出したことは自然な成りゆきだろう。君が代は当初、雅楽のスタイルで作曲されたらしい。依頼も選考もそもそも外部に公表せずに行われたものである。歌詞も「読み人しらす」であり、同じように作曲もまた「作り人しらす」であることは歓迎すべきことで、全ての国民が歌う国歌として、その「無名性」は、むしろ高く評価すべきことであると関係者たちは考えたのかもしれない。選考委員に応募者である本人が入っているのも疑問が残るところである。
いくつかの疑問は残るものの,現在、宮内庁に保管されているエッケルト自筆の楽譜に1880.10.25という日付が明記されていることから、第二の君が代がこの日に完成したことは間違いない事実である。
明治21年、海軍省は吹奏楽用の楽譜を印刷して、諸官庁および条約諸外国に対して公式に配布した。表紙には「大日本礼式」と横書きされ、その下には菊花御紋章、標題の「JAPANISCHE HYMNE」、日本古来の民謡によるという意味の「nach einer altjapanischer Melodie」作曲者氏名と所属である「von F.ECKERT,Kongl.Pr.Musikdirektor」などが印刷され、一番下には作曲年「1888」が印刷されている。
「第二の君が代」はこのような経過をたどり、その結果は上々であった。しかし、国歌に制定されたという公的機関の記録は全くない。この楽譜改訂は常に海軍の主導のもとで行われたが、当時の海軍と陸軍の確執などがあり、文部省や他の省庁思惑も加わって、国歌正式決定を難ししたのかもしれない。しかし、海軍省蔵の楽譜には「国歌 君が代」と明確に記載され、海軍省公式配布の楽譜にも「JAPANISCHE HYMNE」と大書してあることから、明治中期以降、関係各方面が「第二の君が代」を国歌として認知していたと考えてよいだろう。
では なぜ「第二の君が代」が国歌にならなかったのか?それは とんでもない横槍が入ったのである。「第三の君が代」である。日本人の日本人たる性格、派閥、立場。 これは現在も変わることなく受け継がれている。ああ なんと嘆かわしい!!! 
「第三の君が代」は文部省によって作られた。文部省の言い分はこうである。
明治13年に初演奏された「第二の君が代」は海軍省と宮内省が共同して作ったものであり、法的裏付けもなく、単なる天皇奉祝の歌にすぎない。国歌制定はそもそも音楽専門家を擁している我々の行うべき業務であり、海軍省などの関与するべきことではない。という文部省の対抗心と国歌制定の名誉を宮内省雅楽課に渡したくないという音楽取調掛の功名心が重なっていた。
その結果、もう一つ「君が代」が生まれた。第三の君が代である。 
5 文部省の国歌
明治15年1月、文部省は音楽取調掛に対して国歌の制定を発令し、下命を受けた音楽取調掛は直ちに伊沢修二掛長以下掛員が、まず、英・仏・独・米その他の国歌を調査研究して国歌作成の作業を開始した。そしてわずか三ヶ月後「音楽取調掛議案」を文部省に上申した。その議案の中で、伊沢は次のように述べている。
国歌が民意の向背を左右し、国の禍福や国民の幸不幸にもつながる例も少なくない。音楽取調の事業は始まったばかりで、目下、古今東西様々な音楽を研究している。今日の状況の中で及ぶ所の力を尽くして作成したから、そのあたりの事情を考慮して、実際の演奏を聴いた上で御審決を仰ぎたい。
つまり音楽取調掛の目的は、東西の音楽を折衷した新しい音楽の創世にあり、そのためには人材の育成と諸学校での音楽教育が急務であると説いたのである。そして、さらに彼は、学校唱歌作成という最も基礎的な所からそれを実現使用とした。
この伊沢修二はいかにも音楽に造詣が深かったように思われるが、決してそうではないらしい。後の彼の伝記に「譜を読むことなどろくに知らず、また歌っても音程をとることができず、・・・」というようなことが書かれてある。
彼は芸術愛好家タイプではなく、むしろ、実業家タイプの野心家で、学校事業の運営に猛進する人物だったらしい。そのような彼の気質が後になって、自らアメリカから招聘した音楽教師メーソンとの間に深い溝を生じさせることになる。国楽の創生を急いだ伊沢は、東西の音楽の相違を無視して、類似点だけを挙げて事を推進しようとした。和洋折衷に関しては他にも難問があった。歌詞である。西洋の歌に日本語を当てはめようとすれば、必ず不合理な不自然な個所が生ずるが、発足早々の現状では致し方ない。当惑した伊沢は西洋の元歌の旋律に多少手を加える必要があると判断して、それについてもメーソンに協力を依頼したらしい。メーソンは快い返事を与えなかったようだ。
結局、強引な伊沢の気質がメーソンとの間に深い溝を生じさせ、メーソンの在任期間が約2年と短かったことも、そうしたことに関連があったのは確かなようである。
明治15年1月に文部省から国歌制定を命じられ、急遽、作業にとりかかった音楽取調掛が同年4月に提出した4偏11首の国歌歌詞最終案は次のようなものであった。
其の一 神器、国旗
其の二 日出処、日本武尊、蒙古来
其の三 尊皇愛国を四首
其の四 神功皇后
この国歌のためのほとんどが七五調で、国歌としては長すぎる歌が多い。
音楽取調掛が急いで提出したにも関わらず、文部省が検討を始めたのは、翌16年になってからであった。文部卿以下各局長が、それぞれ疑問の個所や改訂を要するところに付箋を付け、意見を述べた。いろいろな意見が述べられたが、その中でとりわけ日本というものを象徴している意見として、国歌として選定された歌が広く国民の間で歌われなかった場合、政府の面目が失われることを心配した意見があった。そして、専門学務局長浜尾新は、「普通の唱歌として学校などで充分に試してから国歌とするのが良かろう」と発言した。この意見は、文部省の国歌に対する姿勢として、百年以上たった今日、そのまま継続されているといってよいかもしれない。各議論を経た後、文部省は国歌の制定は至大至重であるから「日本国歌案」とはせず、「明治頌」という名称に変えて、さらに次の案を作るように命じたのである。その後の国歌選定難行を予見させる回答であった。のち、明治17年に、伊沢修二は「明治頌選定ノ事」と題して、次のように書いている。
「夫レ国歌ハ、上述スル如ク其関係至大至重ノモノナルヲ以テ、我邦音楽ノ現状ニアリテハ、其資料ヲ選定スルノ難キコト、殆ド云ウベカラズ。歌作高キニ勤ムレバ、社会一般ニ適シ難キ恐レアリ。低キニ着意スレバ、野郎ニ失スルノ患アリ。純然タル和風ニ抱泥スレバ、外交日新ノ今日ニ適セザルノ恐レアリ。妄リニ外風ニ模スレバ、国歌タルノ本体ヲ謬ルノ患アリ。歌詞ニ得ルトコロアルモ、曲調ニ欠クトコロアリ。曲調ニ得ルモ、歌詞ニ欠クトコロアリ。難シコト云ハザルベケンヤ。」
彼の文章は百年以上経た今日にもそのまま通用する内容ではないだろうか。結局、文部省の国歌計画は「明治頌」にトークダウンして、いつのまにか中止された。
文部省が立案した国歌選定とは別に、明治15年に音楽取調掛が出版した「小学唱歌集」初編の中に、「君が代」が掲載されたが、この歌はあくまで唱歌として発表されたものである。「まず学校などで唱歌として充分に試してから国歌とするのが良かろう」という意見ははやくから文部省内にあり、この歌が国民に愛されて、広い支持を受けた形で、もし国歌となれば・・・という期待が託されていた。この曲が「第三の君が代」である。 
6 第三の 君が代
この「君が代」がメロディを借りたのがおそらく「サミュエル・ウェブ一世」の作品であろうと思われる。このサミュエル・ウェブ一世は歌曲の作曲家で1760年代にロンドンで流行した「キャッチクラブ」の歌を作曲していた。貴族と紳士のための「キャッチクラブ」は世俗的な歌と卑猥な会話を楽しむ男性のためのクラブであったが、その退廃的な言動が非難の的となり、やがて健全な「グリークラブ」という組織に移行した。現在の日本で男性合唱団の代名詞として使われている「グリークラブ」という名称の発祥である。
第三の君が代はクラブソングに日本の和歌を切り貼りして音符に当てはめたものだったのである! 文部省はこの初編に続けて第二偏、第三編を発行した。しかしこの一連の唱歌も 1,2例を除いて全てポーランドやスコットランドやアメリカの旋律でタイトルに全く相応しない軟弱な歌が多い。
西洋に追いつくための国策を図る政府方針は「新音楽の創造」であった。伊沢はこの「小学唱歌集」をさらに充実させて引き続き唱歌の作成を行ったのである。 
7 文部省唱歌
文部省音楽取調掛は明治45年までに様々な音楽教科書を発行している。いずれも「唱歌」というタイトルが示すように歌を中心とした、あくまでも小中学校で手軽に実施できる情操教育をめざして作られたものである。大別して三つの時期に分けることができる。
第一期 直輸入期 明治15〜23年
この時期の特徴は殆どが外国の民謡か外国人作曲の歌が使われている事である。日本人が作曲したと思われるものもあるが、作者不詳とされている。
「霞か雲か」作詞 加部巌夫・ドイツ民謡
「庭の千草」作詞 里見義・アイルランド民謡
「埴生の宿」作詞 里見義・スコットランド民謡
「君が代」 作詞 古歌・作曲ウェブ
「蝶々」  作詞 不詳・スペイン民謡
「あおげば尊し」 作詞作曲不詳
「あおげば尊し」は作詞作曲不詳になっているが、この作成記録が残されている。「あおげば尊し」の標題は、はじめ「あふげば尊し」が原案として出され、それがいったん「師の恩」と訂正され、ついで「告別歌」と改められ、さらに「イキル」とされた。結局、歌いだしの一節が標題として選ばれたのだろう。「学べるうちにも、はや幾とし」については「学びの窓にも、はや幾とせ」という意見が出され、そのほかにも「教えの庭にも、はや幾年月」「教えの庭にも、幾文月」という案も出されたが、結局、「教への庭にも、はや幾とせ」と訂正された。また、「今こそわかれめ」という個所は、一時、「今こそいとまを」に訂正されたようだが、師に対して「いとまを申す」という言い方はあるまいという強硬な反対意見が出て、これもまた原案に戻されている。
これ以外の歌の作成過程でも、同じような会議が行われたに違いない。しかし、このような合議制による唱歌の作成は、作者の持つ芸術的感性より、結局、行政感覚を優先する役人たちが主導権を握ることになり、会議が多くなれば多くなるほど、原案のオリジナリティーは失われることになる。しかも作者の名は公表されることなく、作者不詳として発表されることが多かった。そのような体制の下では個人の創作意欲は殺がれ、真の創作者を生む場を作ることなど出来るわけないのである。
この「あおげば尊し」は、その詩も曲も、作者不詳の中で特に優れたもので、結果として、それが文部省の役人たちに過剰な自信と錯誤を与えることになったのではないだろうか。明治末期に作者不詳の合議制によると思われる唱歌が数多く作られたのは、この曲の成果のためではないかとも考えられる。作曲に関しても、同じような会議が行われたに違いないが、どういう選考が行われたか分かっていない。ピアノや演奏や歌によって検討が進められたのだろうか。音の変更を会議録に記載することが難しかったせいか、資料は残されていない。
唱歌のような旋律中心の歌では、音階が最も重要な要素となる。次に、この時期に使われた音階を見てみよう。この第一期の音階は殆どが七音音階である。西洋音楽を学ぶための教科書であるから当然と思われるのだが、第二期になって、それが全く変更されることになる。
第二期 国産奨励期 明治29年〜34年
明治中期になって、ようやく、作詞作曲ともに日本人の手になる唱歌集が発行されるようになった。ただ、いくら児童向けの歌とはいえ、昔話などにテーマが偏りすぎて、曲調も幼稚なものが多く、東西音楽の折衷や国楽創成という大きな理想を担うべき人材は生まれていない。
「鉄道唱歌」  作詞 大和田建樹・作曲 多梅稚
「金太郎」   作詞 石原和三郎・作曲 田村虎蔵
「浦島太郎」  作詞 石原和三郎・作曲 田村虎蔵
「箱根八里」  作詞 鳥居枕  ・作曲 滝廉太郎
「荒城の月」  作詞 土井晩翠 ・作曲 滝廉太郎
「花咲爺」   作詞 石原和三郎・作曲 田村虎蔵
「お正月」   作詞 東くめ  ・作曲 滝廉太郎
「うさぎとかめ」作詞 石原和三郎・作曲 納所弁次郎
この時に使用された音階は殆どが五音音階で前期とは全く変わっている。この時期、曲作りの上で大きな規制が行われたとしか考えられない。作曲家たちに音階が特定され、その使用が強く求められたのではないだろうか。その音階とは「呂の五音音階」である。
奈良時代、「律の音階」と「呂の音階」という二つの音階が中国から伝来した。「律の音階」は日本人に好まれ盛んに使われて他の伝統音楽にも多くの影響を与えたが、「呂の音階はどういう訳か消えてしまったのである。その理由に定説はないが、「呂の音階」に日本人好みの四度音程がなかったからだと思われる。しかし、明治時代になって四度音程を持たないが、そのかわりに三度音程を持ち、しかもその音階を縦んい重ねると明るい三和音を出す事が出来るいままで耳にしたことがない新鮮な音階が登場した。それが「ヨナ抜き音階」 である。「ヨナ抜き音階」というのは、日本式音階名「ヒフミヨイムナ」の第四音「ヨ」と第七音「ナ」を持たない音階という意味である。
この音階はスコットランドやアメリカの民謡などでも使われていて、親しみやすい、しかも覚えやすい歌が多い。「蛍の光」「駅馬車」「深い河」などがそうである。この音階の持つ国際性が考慮されて、号令一下、唱歌への採用が作曲家たちに求められたことは間違いないだろう。
第三期 合議制復活期 明治43年〜45年
明治末期に入って唱歌の作業方針が再び転換された。作詞、作曲ともに個人名を発表しなくなったのである。完全に作者の名前は抹殺され、全ての唱歌が作者不詳の「文部省唱歌」とされた。文部省が教科用図書の著作権を有するようになったためだが、いずれにしても、国楽創作を担うべき作曲家育成という現場の方針は大きく軌道修正せざるを得なくなったことは間違いないだろう。
作詞、作曲ともに不詳のもの / 「紅葉」 / 「汽車」 / 「つき」 / 「こうま」 / 「むしのこえ」 / 「我は海の子」 / 「日の丸の旗」 / 「人形」 / 「かたつむり」 / 「牛若丸」 / 「浦島太郎」 / 「雪」 / 「茶摘」
以上見てきたように唱歌作成作業は明らかに三つの異なった方法で実施されている。
この制作方針の転換は、文部省の下命によって実行されたものであるが、そこには、詞や曲を創作する人間の育成に対する配慮が感じられない。音楽取調掛が数々の日本の歌を作り上げ、それを教育の現場に送り届けた功績は誠に大きい。しかし、昔から「唱歌、校門を出ず」といわれてきたように、どの時代の子供たちも、学校の外で学校唱歌を歌うことはなかった。その気持ちの底には、なにか授業で強制的に歌わされたものというわだかまりがあって、その上、衛生管理された無菌の食べ物のような匂いがあることを敏感に感じとっていたのである。国定教科書とすることで作者たちの個性をのばすことを怠った文部省にも責任の一端があるといってよいだろう。
岩波小辞典「音楽」を見ると、学校唱歌は、「簡単な現象のようにうけとられながら、その実、日本のこの半世紀の音楽の進歩と、それを阻む要素を同時に体現している矛盾にみちた存在」であったと述べている。日本伝統音楽でも西洋音楽でもなく、子供たちを対象に作られた歌でありながら、日常子供に歌われることのない、この「矛盾にみちた存在」である歌は、明治中期以降の全ての日本人の心に染み付いている。そしてその可否は別にして音楽取調所が「西洋音楽の基礎」を我々日本人に植え付けた青果を認めつつ、同時に、その成果の中で彼等が全く実績をあげられなかったがあることは忘れてはならないのである。それは、歌詞と音との間に新しい関係を作り上げることである。これこそ伊沢が目指した「新音楽の創造」ではなかったか。土着の日本語の言葉と輸入品の西洋の音を、その深奥部で結びつけて再構築する事は出来なかったといってよいだろう。例えば、三十年間の唱歌作成で最初と最後の歌を楽譜で見てみよう。
「故郷の空」のメロディーに日本語を一つ一つ当てはめた第一期の作業と「村祭」のメロディーと歌詞の関係は、あまり進歩の跡を見ることが出来ないのではないだろうか。この歌は、あまりにも我々の身に染み付いてしまっているので、どこかで納得させられていて、なかなか良い歌だという人も多いだろう。しかし、判断の底には、自らの幼い記憶と結びつく懐古感があって、その懐かしさが基盤となって、この「矛盾にみちた」唱歌を、「良い歌」としているのではないだろうか。日本語の本質は一音一音規則的に機械的に弾んでいくものではないのである。
「言葉と音楽」あるいは「歌詞と旋律」の関係は極めて複雑な問題を含んでいて、日本語の場合、特に説明が難しい。  簡単にいうなら日本語は母音の言葉である。母音に様々な意味や感情が含まれている。これに対して西洋の言葉は子音の言葉である。子音を正確に発音しないと意味が違ってとらえられ、また感情表現も子音で表している。この西洋の音(おと)に日本の音(おん)を当てはめる作業がうまくいかなかった例として、この「第三の君が代」と「矛盾に満ちた唱歌」があるのではないだろうか。
明治時代から昭和初期にかけて、知識人たちの間には、妄信的な西洋崇拝思想が根付いていた。近年、そうゆう西洋カブレはブランド好きの人間たち以外、少なくなってきたが、なくなったわけだはない。たしかに日本伝統音楽のシステムと西洋音楽のシステムを比較したとき、その優劣は明らかである。西洋では「音」を学問としたが、日本では「音」を感性でしかとらえていないのだから、「作品、理論、楽器、演奏法、編成法、教育法」のどれをとっても見事に構築されている西洋音楽のシステムと個人的な体験の積み重ねの上に成立している日本伝統音楽のシステムの間に歴然とした差があるのは当然である。しかし、現代しなければならないことは、そのシステムの優劣を計ることではなく、「芸術性」という尺度でその「美」を計ることではないだろうか。音楽は「芸術的感動」を尺度にして計らなければならないもので、「音楽システム」の優劣で論じられるものではない。同様に国歌を「音楽システム」で考えることは愚行である。古代ヘブライの旋律による「イスラエル国歌」、あるいは詩人にして哲学者であるタゴールが作った古い伝統音楽に基づく「インド国歌」を西洋音楽的でなく、曲調が古く耐え難いとするイスラエル国民、インド国民が果たしているだろうか。後世から見ると、唱歌作成に従事していた人たちは、西洋音楽摂取だけに専念していたように見える。しかし彼等は当初、日本伝統音楽なども研究対象に含めた、より広い視野を持っていたようだ。しかし、研究するといっても、和歌の作法はどう扱ったところで音楽教育に役立つものではなく、また日本伝統音楽に理論などないのだから、その対象は日に日に高等音楽(西洋音楽)一辺倒になっていったのは至極当然なことであった。しかし、いかに高等音楽一辺倒の風潮とはいえ、平凡なイギリスのクラブソングに、和歌の歌詞をのせただけの「第三の君が代」を国歌にしようとした文部省の目論見には無理があった。西洋の「おと」と日本の「おん」の本質的認識を全く持たずに作られたこの歌を、子供たちがどんなに可愛らしく歌ったところで、一般国民に広まるはずはなく、やがて忘れ去られてしまったのである。
明治23年、全国の小学校児童が歌う儀式唱歌の必要性を感じた文部省は、小学校令を改正し、祝祭日に歌うべき唱歌の作成を東京音楽学校に指示した。三年後、文部省制定「祝日大祭日歌詞並楽譜」が公布された。そして、その八曲の儀式唱歌の中に、役所の対立を越え、超党派的支持を受けて、あの海軍省作成の「第二の君が代」が登場したのである。「祝日大祭日歌詞並楽譜」制定は、あくまでも文部省の発令であり、「君が代」が正式に国歌として制定されたことにはならないが、この制定によって、公に国歌同様の扱いを受けることになったことは間違いないだろう。「まず唱歌として学校などで充分に試してから」という文部省の姿勢を堅持しつつ、国家を象徴する国歌制定という重要事項を、とりあえず「国歌のようなもの」でスタートしてしまうところに、日本人の特性が見られるのではないか。
ただ、当時の国際情勢を見ると、たとえとりあえずのものであっても、国歌制定は、急務であったことがわかる。翌明治27年、日清戦争が起こり、28年、講和条約を締結した。この勝利によって世界列強に並んだという日本人の意識はいよいよ高まっていく。国際社会は新しい世紀を迎え、各国が力を誇示しつつ、血なまぐさい「商売実業の自由競争」に突入した。それが第一次、第二次世界大戦につながろうとは、当時誰も思わなかったのではないだろうか。
「国歌」はその国家に所属する国民の意識統一を図る必要性から生まれたもので、国歌の多くは19世紀以降、あるいは20世紀に入って作られた。緊迫する国際情勢に生き残りを図る諸国が、自国の存在を他国に告知するべく国歌作成を急いだのである。 
8 君が代の総括1
薩摩藩と明治政府、海軍省と陸軍省、文部省と宮内省といった明治の官僚機構の対立から作られた三つの「君が代」は、視点を変えれば、日本音楽と西洋音楽という二つの異質な素材が交差して残した三つの軌跡であるということが出来るだろう。
「第一の君が代」は、和洋の音楽が初めて出会ったときに成立した日本最初の記念碑な作品である。若い薩摩藩軍楽隊隊員たちの熱意によって世に出たものの失敗作であった。その失敗の原因は作曲者フェントンの能力不足にあったことはいうまでもないが、何よりも、西洋の「歌曲」に日本の「歌謡」を安易に取り込もうとした作曲法に問題があったのである。「歌謡」はあくまでも言葉のエネルギーが音楽の形をとったもので「言」がその表現を越え「コエが外に出てフシ」となったものである。一方、西洋の「歌曲」は自立した「音」によって成立している。西洋歌曲は「言」と「音」を切り離すことが出来るが、日本歌謡の「音」は「言」から遊離して存在することはできない。日本語の音材はあまりにも少なく、音韻もやせて貧しく、日本語の構造を壊さずに音とともに言葉を昇華させる事は難しい。そのため日本音楽は言葉の束縛の内にいて「音楽」として進化することはなかったのである。フェントンは、そのような和楽と洋楽の本質に対する認識を欠き、日本の歌謡の中から「音」だけを取り出して西洋音楽にそのまま移植しようとする過ちをおかした。
「第二の君が代」は、日本の音楽と西洋の音楽の役割を、明確に旋律と和声に分けることで成功した。あの旋律は中国伝来のものではなく、国風化運動を経て日本固有のものとなった旋律である。その日本独自の旋律を西洋の和声で支えて見事に調和させた。和楽の伝統と洋楽の技法対するエッケルトの正しい判断によって成立した秀作であるということが出来るだろう。
「第三の君が代」は、西洋の「音」の日本の「言」を上塗りすることから生まれた歌である。自前で国歌を作成しようとした文部省の意気込みはよしとするが、伊沢が言ったように当時の日本にはまだ国歌を作り上げるだけの能力はなかった。そのため、西洋の既存の旋律に古い日本の言葉を当てはめたのだが、その歌が国民的支持を得られる道理はなかったのである。
この同じ過ちは、現在でも、「君が代」の旋律に新しい歌詞を付けようとする新聞投稿や私案などに多く見受けられる。「君が代」に旋律は「君が代」の歌詞によってはじめて成り立つもので、「セカイノヘイワ」とか、「アカルイクニノ」などという幼稚極まりない平板は歌詞を貼り付けたとき、あの旋律は魂の抜けたただの音の上下運動になってしまうのである。
「第一の君が代」は日本音楽から「言」を抜き去り、残った「音」を西洋音楽の「音」に移すことで失敗した。
「第二の君が代」は日本音楽の「言と音」をそのままにして、西洋音楽の「和声」に合体させることで成功した。
「第三の君が代」は、西洋音楽から「言」を抜き去り、残った「音」に日本の「言」を当てはめることで失敗した。
「君が代」の歌詞はサザレ石から巌へ移る超時空的めでたさを31文字に歌い込み、人々の長寿を願いつつ祝祭感を歌い上げたものである。その簡潔な言葉には、他の国歌にあるような闘争的内容は一切なく、日本人の穏やかな特質を見事に象徴しているといってよいだろう。しかし、千年以上にわたって日本列島にその祝祭感を贈り届けてきた、「君が代」にとって不幸だったのは、第二次大戦中、国民の戦意高揚という軍事目的に専ら使われたことだろう。その明るい祝祭感は暗い戦争体験に覆われて、戦後50年以上経た現在でも あの忌まわしい記憶は拭いきれずにいるのである。
「君が代」が、明治文明開化という日本史の上で最も国民意識が高揚した時代の作品であり、現代のように多様化した社会では決して開花させ得ない花であることをあらためて想起しよう。日本人の心の源流から湧き出た清流が西の彼方から押し寄せてきた潮流と出会い、河口の岸辺に見事に咲かせたその花は、簡潔な歌詞と優雅な曲調によって我々日本人の特質を見事に象徴した我々の心そのものといってよいだろう。
「文明」の意は地表に表れる顕在制にあり、「文化」の意は地の内部にあって育まれる潜在性にあるのではないだろうか。「文明」は外的要因で簡単に滅ぶが、「文化」が外的要因で滅ぶことがないのはそのためである。文明開化以来120余年、果たして日本での西洋音楽はどこまで我々の「文化」になっているだろうか。西洋の人々が永い歴史のなかで、それぞれの民族の血と涙と汗を、我々日本人は、未だに、単なる音のシステムとしてしか捉えていないのではないだろうか。
もし、将来、日本の新国家制定事業が成功するとしたら、それは新国風運動が起こったことの証であり、我々日本人が自らの言と音を織りなした新しい音楽を表したことの証でもあるだろう。 
9 君が代の総括2
さてここまで書いたことは、ほとんどが 内藤孝敏氏著 中央公論社 「三つの君が代」 からの引用である。私はこの書物をある書店で偶然見つけた。棚の一番上の 天井に着くぐらい高い場所の隅っこに ほこりにまみれて置いてあった。初めは軽い気持ちで手に取り、足がだるくなってふと気がつくと 2時間半ほど経っていた。この内容は日本に初めて西洋音楽が入ってきて大混乱に陥った日本の音楽界事情をよく説明したものだと思う。
そして その生き証人とでも呼べるものが「君が代」なのである。国歌は純粋に音楽としてだけで考えられるものではない。政治的な要素が入ってくるのは仕方のないことである。しかし、そこに派閥の争いが入ってきたり、優柔不断な日本民族の体質が影響しているところが、またなんとも日本らしいところである。あの明治に法律で「第二」または「第三」の君が代を国歌に定めてしまえば今日のような混乱はなかったはずである。(でも、「第三」の君が代が国歌とならなかったことは救いでもある。) さて、ここで現在問題になっていること、すなわち「国歌」が必要かどうか、また必要ならばどの曲を国歌とするか、である。
私は国旗、国歌は世界各国と共に一人前になるために必要なものと考えている。いわばその国の看板であり、表札のようなものである。そして、それらは国内ではなく、国外に出たときに真価を発揮するのである。世界が一つの国に統一されれば「国歌」「国旗」というものは必要ないのである。(かつてそのような野望を抱いたものたちが、悲惨な結果をもたらした。) 国というものは、世界から見ると一つの家族である。これを世間の話に置き換えると、仲のいい家同士もあればそうではない家もある。でも、いくら仲がいいと言っても、他人の家は他人の家なのである。それぞれの家には「姓」があり、はっきりと区別される。そしてそれぞれの家には 家風というものが多かれ少なかれあり、それが個性となって人格の一部を作っている。お互いを尊重しながら、家族同士で仲良くつきあっていくのである。仲がいいから といって即 親戚になったりはしない。名字は家族の仲ではほとんど意味をなさない。「やまだ たろう」は、やまだ家の中では「たろう君」であり、「たろちゃん」である。決して「やまだ君」とか「やまちゃん」ではない。つまり、家の中にいるときは名字を意識することはあまりないのである。家から一歩も外に出ない人は名字は必要のないものなのである。
最近の若い世代は君が代をかっこわるいという。某サッカー選手などは試合前に君が代を聞くと「志気が下がる」と発言した。
なぜ、若者は自分の国を嫌うのか、言い換えれば、なぜ自分の家族を嫌うのか、ということである。隣の芝生は青いのである。隣の家庭がよく見えるのである。どうしてか? ただでさえ隣のものはよく見えるのに加えて、明治以降、急速な西洋化が進んだことである。西洋のものは何でも良い、日本のものは何でも悪い、という空気にしてしまったことに原因があるのではないか。
「君が代」は明治の人たちによって苦心して作り上げられ、エッケルトの天才的なアレンジによって完成した名曲である。いま、これをしのぐ作品を誰が創りうることが出来ようか?
昭和の初め、「君が代」が“軍事目的に使われたこと”だけをやり玉にあげて反対する連中が多く見受けられるが、ならばその反対派に問いたい。代替案はあるのか? 「君が代」に替わる名曲を持ってきて欲しいのである。「ダメなものはダメ」というのは、オバはんの井戸端会議の理屈であって世間話のレベルである。議論にはならない。反対するのは簡単である。壊すのは簡単なのである。それに替わる案を出す、新しく創造することはとてつもなく大変なことなのだ。
話はそれるが、アメリカが原爆を完成出来たのはナチスの研究を横取りしたおかげであり、もう少しベルリン陥落が遅れていたら、完成させたのはナチスである。そして その場合、第一号は間違いなくロンドンに落ちていたはずだ。ナチスの研究おかげでロケットが完成したし、医学が進歩したのも(大きな声では言えないが)
歴史に「もしも」はない話だが、要するにものは使いようである。マイナスのものも使いようによっては人類に偉大な貢献をすることもあり得る。歴史は取り消すことは出来ない。ただ積み重なっていくばかりである。良いことも悪いことも、全部重なって それが歴史になる。隠そうとするから おかしなことになる。賞罰 これすべてが前歴である。
隠すで思い出したけど、R、シュトラウスが日本のために作った曲があるのをみなさんご存じですか?ちょっとうろ覚えなので年月が間違ってるかも知れませんが、「皇紀2600年」と言う年があるのです。これは神武天皇が即位した年を「皇紀元年」として数える方法で、(これは当時の内閣がやり始めたことですが)その方法でいくと、昭和15年がちょうど皇紀2600年に当たるというのです。何が言いたいかというと、「西暦よりも皇紀のほうが歴史がある」=「日本のほうが偉い」 ということらしい。ちなみに西暦2000年は皇紀2660年だそうだ。だいたい神武天皇が実在したかどうかも疑わしい(現在ほぼ否定されている)のに、随分な乱暴な理屈である。
その記念行事に当時の同盟国の総統であるヒットラーから贈り物があった。R、シュトラウス作曲「皇紀2600年祝典曲」である。この曲はその性格上、ベルリンオリンピックのために書かれた「オリンピック賛歌」とともに世の中から抹殺されてしまった。僕は一度でいいから聞いてみたい。
つまるところ、「君が代」についてはもっと純粋に音楽の作品としての価値を認めなければいけない。世界の国々のなかでも こんなに個性あふれ、国民性をよく表現した国歌はまれだということだ。 
日本人にとっての「君が代」
劣化する「君が代」論争
国立大学の卒業式や入学式に関連して、再び「君が代」の扱いに注目が集まっている。これに呼応する形で、インターネット上でも「君が代」をめぐる議論が活発になりつつある。
だが、その議論の有り様は必ずしも健全なものではない。というのも、昨今ネット上で交わされる「君が代」に関する言説が、あまりにも乱暴だからだ。今日ほど「君が代」に関する議論が劣化した時代はほかにないだろう。
「君が代」を歌うか、歌わないか。問題はあまりに単純に二分化され、歌えば保守・愛国であり、歌わなければ左翼・反日であると即断される。そしてこの単純な白黒図式に基づき、「愛国者」を自任する者たちが、気に入らない相手に食って掛かる――。こうした光景は、SNS上でもはや珍しいものではなくなった。
しかも、驚くべきことに、この「愛国者」を自任する者たちの多くは、「君が代」の歴史や意味をロクに知らないのだ。「君が代」は、敵と味方を判別し、敵を吊るし上げるための単なる「踏み絵」と化しているのである。
「君が代」に関する議論は明治時代から続いてきたが、ここまで酷い状態に陥ったことはなかった。戦時下のほうがまだ「君が代」の意味が正しく理解されていたくらいだ。なぜ「君が代」に関する議論はかくも劣化してしまったのだろうか。
「君が代」問題再燃の経緯
その原因を考える前に、ここへきて「君が代」問題が再燃している理由を確認しておこう。
発端は、去年の4月にさかのぼる。
参議院の予算委員会で、次世代の党(当時)の松沢成文参院議員が、国立大学の入学式と卒業式で国歌斉唱が実施されていないことを問題視。国から大学の運営費が出ていることや、将来の国を担う人材のアイデンティティを育むべきことなどを理由に、国歌斉唱の必要性を訴えた(国旗掲揚も同時に問題になったが、以下では煩雑なため割愛する)。
これに対し、安倍晋三首相は、国立大学でも「教育基本法」の方針に則って入学式や卒業式で「君が代」を斉唱することが望ましいと答弁。下村博文文科相(当時)も、国立大学に対して、「君が代」の取り扱いについて「適切な対応」がとられるように要請していくと答弁した。
そして6月、下村文科相は答弁どおり、国立大学学長らを集めた会議の席上で、「国歌斉唱」が「長年の慣行」により「広く国民の間に定着していること」や、1999年に「国旗国歌法」が施行されたことを踏まえて、各大学が「君が代」の取り扱いについて「適切な判断」を行うように口頭で要請した。回りくどい言い方をしているが、要するに、国立大の入学式と卒業式で「君が代」を斉唱してくれと求めたわけだ。
そして今年の2月。各大学の卒業式が差し迫るなかで、岐阜大学の森脇久隆学長が「君が代」斉唱を入学式や卒業式で行わない方針を発表。この発表に対して、馳浩文科相が、国立大に運営費交付金が出ていることを指摘したうえで「恥ずかしい」などと発言して、物議をかもした。
その後、ほかの大学においても「君が代」斉唱の扱いについて方針が発表された。実際に卒業式や入学式が開催されるなかで、国立大の対応が明らかになるだろう。それとともに、「君が代」に関する議論も一層高まることが予想される。
ちなみに、3月に催された自民党の党大会で、今夏の参議院選挙に同党から立候補する予定の歌手・今井絵理子が「君が代」を歌って注目された。これは個人の判断にすぎないので、一連の問題と直接は関係ない。ただ、人気グループでボーカルを務めた彼女の振る舞いは様々な意味で話題になったため、ここに付け加えておこう。
以上が、ここ1年での「君が代」をめぐる動きの概略である。
ネットにあふれるトンデモ「君が代」解釈
さて、歴史を振り返れば明らかなように、自民党(の特に「タカ派」とされる)政権はこれまで「君が代」斉唱を熱心に推進してきた。その結果、2002年に公立の小中高校の卒業式における「君が代」斉唱の実施率は、ほぼ100%に達した。
それゆえ、国会質疑の発端こそ他党の議員とはいえ、現在の安倍政権が、次なる目標として国立大学に狙いを定めてきたのもそれほどふしぎではない(もちろん、「大学の自治」の原則があるため、小中高校の事例はそのまま大学に当てはめることはできないが)。
ただ、ここで問題にしたいのは、ネット上の乱暴な議論である。こちらは、歴史的に見てかなり異様な様相を呈している。
その最たるものが、「君が代」の「君」をめぐる解釈だ。
ネット上では、プロフィール欄に「保守」「愛国」などと記す者の多くが、実に珍妙な「君が代」解釈を支持している。それは、「君が代」の「君」が単に「あなた」を意味するというものだ。
いわく、「君が代」は「あなた」の平穏無事を祈る平和的な歌であり、いわば「ラブソング」である。それゆえ、軍国主義でもなんでもない。左翼の批判はまったく的はずれだ、と。こうした解釈は、SNSや動画サイトのコメント欄などで無数に確認することができる。
以下は、ネット上で出回っている「君が代」の現代語訳と称するものである。初出は不明だが、参考として引用しておく(なお、細かく見れば、この「現代語訳」にはほかにも問題があるのだが、ここでは「君」に問題をしぼる)。
   あなたのいる この幸せな世界が
   永遠に続きますように
   今は小さい石が集まって
   やがて大きな石の塊にまでなって
   さらにそれに苔が覆い尽くすようになっても
だが、現在の国歌「君が代」を考えるとき、天皇の存在を無視するのはまったくナンセンスである。「君が代」は1880年ころ作曲され、1893年ころより事実上の国歌として唯一無二の存在となった。この「君が代」が天皇讃歌だったことは論をまたない。
「君が代」は、小学校の祝祭日の儀式において、天皇皇后の写真に向かって歌うものとされた。国定教科書でも、明確に天皇讃歌であると説明された。「君が代」作曲に深く関わったお雇い外国人エッケルトが、ドイツ人向けの雑誌で「君」を「Kaiser」(皇帝)と説明している例もある。
「君が代」支持者たちの正体
そもそも、「君が代」が作曲された当時、列強の君主国では基本的に君主讃歌を国歌として使っていた。新参者である日本も、これに倣ったと考えるのが自然である。
やや信憑性に欠けるものの、大山巌(当時の薩摩藩砲兵隊長)が英国国歌「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を参考にして、「君が代」の和歌を国歌の歌詞として選んだという証言もある。少なくとも、戦前期に「君が代」が天皇讃歌だったことはまったく疑いえない。
なるほど、戦前期の歴史をまったく無視するという考え方はあるだろう。江戸時代以前に「君が代」という和歌の「君」が、単なる「あなた」として解釈されていた歴史はある。だから、江戸時代以前と戦後日本を直結させれば、「君が代」=ラブソング説を唱えることも不可能ではないかもしれない。
だが、「君が代」が作曲され、国歌として採用された戦前期の歴史をまったく無視することは果たして妥当なのだろうか。そもそも、「君が代」の支持者たちの多くは「愛国」「保守」を自任していたはずである。とかく先人の苦労だの、先人への感謝だのを強調する彼らが、戦前期の歴史を自分勝手に切り貼りするのでは整合性がつかない。
少し調べればわかることだが、従来保守派や右翼などと呼ばれたひとびとの多くは、「君が代」を天皇讃歌として擁護してきた。近代の日本人は、西洋列強の帝国主義に対抗して、立派な国作りを行った。大日本帝国はこうした努力の結果、ついに一等国になり、国際連盟の常任理事国にもなった。戦前期は、先人の苦労と栄光の歴史であった。
だが、大東亜戦争に敗北したために、その歴史は一転して「戦後民主主義」の教育によって汚されてしまった。ゆえに、かつての誇りある日本の歴史や文化を取り戻さなければならない。天皇讃歌である「君が代」斉唱の復活も、またそのひとつである――。彼らのロジックは、簡単にいえばこうだったはずだ。
つまり「保守」を自任するものが、戦前期の歴史を無視するなど本来ありえないことなのだ。ことほどさように、「君が代」=ラブソング説はでたらめである。まして、「誇りある戦前の歴史」を肯定的に評価する者にとってはなおのことである。
「君が代」に関する乱暴な議論はほかにもたくさんある。ドイツで催された国歌コンクールで、「君が代」が優勝したなどという「都市伝説」もそのひとつだ。ただ、再び強調するが、以上の「君」の解釈はそうした珍説の最たるものとして位置づけられるだろう。
歴史を学んで乱暴な議論を乗り越えよ
歴史や伝統を顧みないある種の「左翼」ならばともかく、「保守」を標榜する者が、口では「君が代」を大切にするといいながら、その実、歴史もロクに参照せず、でたらめな根拠で他人に食って掛かる。これこそ議論が劣化した最大の原因である。
この背景には、いわゆる「ネット右翼」(ネトウヨ)の問題がある。ネット上で「君が代」を「踏み絵」として用いる者たちも、「ネット右翼」と呼ばれることが多い。
だが、こと「君が代」に関する限り、彼らは「保守」でも「右翼」でもない。それは「君」の解釈を通じてすでに見たとおりだ。彼らの同類をあえて探すとすれば、それは、中国の「反日デモ」において「愛国無罪」をかかげて日本製品を破壊してまわった暴徒(モブ)であろう。それゆえ、彼らはむしろ「ネットモブ」とでも呼ぶのがふさわしい。
一昔前ならば、「ネットモブ」の主張など、クレーマーの暴論としてただちに排除されたに違いない。ところが、「ネットモブ」が「ネット右翼」と呼ばれたために、その主張も「保守」や「右翼」のものと勘違いされてしまった。
この結果、昨今のナショナリズムの「再評価」とあいまって、歴史的な経緯に詳らかではないネットユーザーのなかで、劣化した議論が急速に肥大化してしまった。白黒図式で敵味方を判別するやり方は確かにわかりやすくもあった。
ただ、こうした負の連鎖はそろそろ断ち切らなければならない。
現在、日本人の「君が代」に対する関心は決して低くない。筆者は昨年「君が代」の歴史をまとめた『ふしぎな君が代』(幻冬舎新書)を上梓し、それ以降、様々な媒体で「君が代」について発信してきたが、毎回実に多種多様な反応が寄せられる。
クレーマー的な言いがかりも多いが(なかには「君が代」と聞いただけで虫酸が走るらしき典型的な「左翼的」反応もある)、歴史を踏まえて国歌問題を考えようという意見も少なくない。これはよい兆候である。国歌が国民のものである以上、幅広い議論が不可欠だからだ。
ただ、最終的にいかなる意見を持つにせよ、国歌という国のシンボルを扱うからには、ある程度歴史を踏まえなければならない。改めて繰り返さないが、「君が代」には(とうてい白黒で二分化できないほどの)実に奥深い歴史がある。「君が代」は「ネットモブ」が弄んでいい玩具ではないし、彼らが敵味方を判別し、敵に食って掛かるための便利な「踏み絵」でもない。
2020年には東京オリンピック・パラリンピックも催される。国歌はそのときにも問題になるだろう。現在こそ、ひとりひとりが歴史を振り返り、「君が代」の問題に向き合う好機ではないだろうか。このときにあたって、「愛国無罪」のクレーマーたちの跳梁跋扈は百害あって一利なしである。
 
ジョン・ウィリアム・フェントン

 

John William Fenton (1831-1890)
軍楽隊の導入(英)
アイルランドのコーク州キンセール生まれのイギリスの軍楽隊員。「君が代」の最初の版を作曲し、また日本最初の吹奏楽団である薩摩バンドを指導したことで知られる。
フェントンは13歳で、少年鼓手兵としてイギリス陸軍に入った。1864年、第10連隊第1大隊軍楽隊長。1868年4月、同大隊は横浜のイギリス大使館護衛部隊となった。
1869年9月ごろから日本で初めての吹奏楽の練習として、横浜の本牧山妙香寺で薩摩藩の青年を指導したが、薩摩藩からの交渉、依頼がいつから始まったのかは不明である。 イギリスから楽器が届くまでは、調練、信号ラッパ、譜面読み、鼓隊の練習をおこない、明治3年(1870年)7月ベッソン社の楽器が届いた。
ヴィクトリア女王の次男エディンバラ公アルフレッドの来日が決まったとき(1869年8月29日(明治2年7月22日)来日)、多くの日本側関係者に儀礼式典での国歌吹奏を説明したが、当時の日本に国歌の概念がなかった。明治3年、薩摩軍の大山巌らで相談し、薩摩琵琶曲の「蓬莱山」の一節から「君が代」の歌詞を選び、フェントンに渡しました。「君が代」は、もともと「古今和歌集」にあり、通訳の原田宗助が歌っていた『武士(もののふ)の歌』を参考に、当時日本にあった鼓笛隊でも演奏が出来るように『君が代』を作曲した。フェントンの『君が代』は、コラール風で、旋律にはアイルランド臭が感じられるという。しかしエディンバラ公が日本の地を踏んだとき、両国の国歌吹奏が行われたかどうかは不明、省略された可能性もある。1870年9月に東京の深川越中島において、「君が代」が明治天皇の前で薩摩バンドにより初演された。
翌1871年、妻のアニー・マリアが没し、横浜外人墓地に埋葬された。同年イギリス海軍を退役し、兵部省(のち海軍省)水兵本部雇となった。
自身作曲の『君が代』の評判は、日本語の音節と一致せず、奇異に聴こえるといった点から、中村祐庸その他に批判されるなどかんばしいものではなかった。一方、陸軍では海軍と分けられたのちは、フェントン作曲の『君が代』を顧みず、敬礼ラッパ曲『陣営』を礼式曲として用いた。この時点では、正式の、あるいは公式の「国歌」として受け容れられなかったように思われる。フェントン版の「君が代」は、明治9年(1876年)の天長節まで演奏されたが、その後は廃止された。
フェントンは1874年から1877年まで、宮内省雇教師をつとめた。1877年にアメリカ人女性のジェーン・ピルキントンと再婚し、イギリスに帰った。その後、1884年に渡米して、カリフォルニア州サンタクルーズに移住した。1890年4月28日にサンタクルーズで死去し、4月30日葬儀が行われた。墓はサンタクルーズ・メモリアル墓地にある。 
吹奏楽
日米修好通商条約による1859年(安政六年)の開港以来、ことしで開港146周年を迎えた横浜には、外国からの文化が数多く入って来ました。現在のブラスバンドやマーチングに始まる「吹奏楽」もこの一つです。この吹奏楽が、その後の日本の文化に大きな影響を及ぼすのです。
日本の開国が進むにつれ、多くの事件が起こります。1862年9月(文久二年)、イギリス商人のチャールズ・リチャードソンが川崎大師を見学に行く途中に起きた不幸な出来事、「生麦事件」(横浜市鶴見区)や、1863年10月(文久三年)のフランス士官カミュ殺害の「井土ヶ谷事件」(横浜市南区)、1864年11月(文久四年)のボールドウィンとバードが殺害された「鎌倉事件」などにより、横浜にはイギリス、フランスの軍隊が居留地や、公使館などの護衛のために、駐屯することになったようです。
先の「生麦事件」を契機におこった「薩英戦争」後、薩摩藩とイギリス軍に交流が生まれ、維新への加速が始まります。
1869年(明治二年)、鹿児島湾に停泊中の軍艦でイギリス海軍軍楽隊を見た薩摩藩当主が、軍楽隊の演奏に魅了され、「洋式」化推進の為に指導を要請しました。これに応えた、横浜市中区山手・本牧付近にいたイギリス陸軍第10連隊第1大隊付軍楽隊の隊長より指導を受けた「薩摩藩洋楽伝習生」が「日本の吹奏楽」の始まりです。この隊長が後に日本の国歌となる「君が代」(初代)を作曲するジョン・ウィリアム・フェントンです。
当初は楽譜の読み方やビューグル(信号ラッパ)を使った練習でしたが1870年7月末(明治三年)、注文していた楽器(コルネットやユーフォニアム等の金管サクソルン属が中心:現在のブラスバンド編成)が届くと、フェントンは週4回も伝習生の寄宿先だった「本牧山−妙香寺」に通い、32名に増員された彼等を熱心に指導しました。
この「薩摩軍楽隊」は連日連夜の練習の末、四十日後の9月7日にはフェントンの指揮で山手公園野外音楽堂において初の演奏会を開催します。これには第1大隊付軍楽隊も出演しました。
この頃の「薩摩軍楽隊」の様子は、同年、東京の越中島での天覧閲兵式に出演したときの姿を、明治の絵師「三代 広重」が東京三十六景「深川越中島」の版画に描いています。
また、第10連隊の他にも第20連隊軍楽隊等によって、この音楽堂やその下の海岸通りにおいて週に1〜2回の行進演奏や演奏会が行われ、マーチやカドリール、ギャロップなどの音楽を響かせ、一般人達も楽しませていました。彼らは、イギリス人としての凛々しさにあふれ、長身の身を赤い軍服で包んでいたことから赤隊と呼ばれていました。
フェントンから指導を受けた「薩摩軍楽隊」は兵部省の創設により、1871年(明治四年)日本海軍軍楽隊へと発展します。翌年の1872年(明治五年)には海軍省、陸軍省の創設により分立します。日本陸海軍軍楽隊となった薩摩洋楽伝習生達は海軍軍楽長や陸軍軍楽長をはじめとした要職に就くエリートになっていきました。この頃、悲しい出来事もありました。フェントンの妻、アニー・マリアが1871年5月、この横浜で40年の生涯を閉じてしまいます。今も眠る「横浜外人墓地」の墓碑には、「ジョン・W.フェントンの愛する妻アニー・マリア」と深く彫られています。この後、フェントンは第10連隊撤兵の際にも、横浜に留まることを決意し、日本海軍軍楽隊のお雇い教師として指導にあたる事を選びました。これは妻を一人異郷の地に眠らせることが忍びなかったのではなかろうかとも言われています。
フェントンは多くの輝かしい功績を残し、1877年(明治十年)に 帰国しました。日本海軍軍楽隊の音楽は他の「洋式」と共に世間に も広がり、後に「市中バンド」と呼ばれる学校や企業など民間バンド創設へと波及、今日の「吹奏楽」の基盤となったのです。現在でも「君が代寺」として有名な「薩摩藩洋楽伝習生」の寄宿舎であり練習場所であった「本牧山−妙香寺」には「吹奏楽発祥の地」の記念碑が建っています。また、第二次世界大戦後になる新たな音楽文化が入ってきます。神奈川県警察音楽隊はアメリカ陸軍から、横浜の学生たちはアメリカ海兵隊から指導を受け、「私たちの横浜」のバンドがアメリカスタイルで本格的な活動を始めます。これが現在ある、「日本のマーチング」の原点となるのです。
このような歴史は、今日でも横浜を中心とした学校・一般を問わず、数多くの団体に息づいていて、その裾野を全国へと広げています。その数は全国で約1万3千団体(全日本吹奏楽連盟調べ):約 83万人にも及びます。この現役の他に卒業生等の経験者を加えると、およそ日本国民の15人に1人は経験者ということになり、マーチングバンド連盟等の数を含めると10人に1人は何らかの形で「私たちの横浜」に魅了されたことになるのです。 
薩摩軍楽隊と吹奏楽
記念式典、地域行事、学校の式典など年間を通して、様々なシーンで活躍することの多い「吹奏楽」。多彩な音色と音域がブレンドされ、演奏編成や曲のジャンルもバリエーション豊富な吹奏楽は、クラシックでは味わえない感動が得られます。我が国初の吹奏楽は、薩英戦争後の日英同盟締結をきっかけに、横浜の地においてイギリス軍楽長のジョン・ウィリアム・フェントンに伝習を受けた「薩摩藩洋楽伝習生」がそのさきがけとなって幾多の歴史を折り紡いできました。
生麦事件と薩英戦争
文久2年(1862)8月、幕政改革を成功させ帰途に就いた島津久光公の行列が横浜近郊の生麦村に差し掛かった時、イギリス人が行列に馬を乗り入れたところ、無礼者としてお供の薩摩藩士が刀を抜いて襲い掛かり一人を殺し、二人に重傷を負わせる事件が起こりました。世にいう「生麦事件」です。この事件に対してイギリスは、幕府に謝罪と10万ポンドの支払いを、薩摩藩に対しては藩士の処刑と2万5千ポンドの賠償金を求めたのですが、薩摩藩はこれを拒否したことから翌文久3年6月27日(現在の暦では8月11日)に、イギリス代理公使ニールが、艦隊7隻を率いて鹿児島に乗り込み城下正面に停泊させ藩と直接交渉にあたりました。
ニールは薩摩藩に再三回答を迫るも交渉は進展せず、7月2日イギリス側が薩摩藩の汽船3隻の拿捕に踏み切ったことで、薩摩藩は開戦を決意し、同日正午に天保山砲台の豪放を合図に一斉に攻撃を開始したのです。
二日間の砲撃戦の結果、イギリス艦隊は薩摩の砲台と交戦しながら南下し、鹿児島市七ツ島付近にて戦死者の水葬と船体の応急処置を済ませ、7月4日鹿児島湾から撤退していきました。この戦で城下や集成館などが焼けてしまったものの、お互いの力を再認識した薩摩藩は、生麦事件の賠償金を支払い、殺傷事件の犯人捜査の約束を取りまとめることでイギリスと和解し、以後親密の度を深めていきました。
薩摩藩洋楽伝習生の発足
薩英戦争の戦果は決して我が藩に有利であったとは認められず、機を見るに敏感であった我が藩の有識者はこの戦を契機に、あらゆる面でイギリスと手を握ることとし、ことに軍隊に関しては完全に英式に改めています。ついでに軍楽隊を置くこととし、慶応3年3月、鎌田新平を楽長とする薩摩藩士30余名で構成された最初の軍楽隊「薩摩藩洋楽伝習生」が薩摩藩に設置されたのち、洋式化推進のための指導を受けるため、横浜に派遣されます。
当初は楽譜の読み方やビューグルと呼ばれる信号ラッパ、和製楽器を使った練習が主でしたが、藩主は隊員が使用する楽器の注文をフェントンに託し、イギリスのベッソン商会から楽器が届くと伝習生の寄宿舎であった横浜・本牧にある「妙香寺」にて、1日2回の指導を受けます。連日連夜の猛練習の末、明治3年8月に山手公園にてフェントンの指揮により、英国軍楽隊と共演しています。
優秀だったサツマバンド
英国人の記者のジョン・レディ・ブラックによって明治3年(1870)5月20日に創刊された英字の挿絵入り隔週新聞のある日の紙面に、「サツマバンド」とタイトルのつい妙香寺境内に整列した薩摩藩士の写真があり、この写真は、日本で最初の軍楽隊伝習の記録写真として有名なものです。ブラックがこの写真に添えて書いた記事では、次のようにその優秀さに驚きの念を表しています。
「薩摩藩に属している青年達、彼らは武士であるが、今、第10連隊第1大隊の楽長フェントン氏より外国の音楽を学んでいる。日本で始めて正式の軍楽隊を作るという試みを不安に思ったがもうその心配はない。フェントン氏から1日2回の指導を受けて、すでに楽譜を読んだり書いたり、上手にできるほどに力をつけた。彼らの書いた楽譜は、もう我々の手写の最も良い出来のものと同じであり笛やラッパで、やさしい節を奏することも上手に出来て、カメラマンが準備する間に整列し、マーチをいくつか演奏した。鼓手も上手だった。彼らは容貌もすぐれて利口そうだった。最も驚いたことは、楽器の大部分が日本で作られたものであったことだ。これらは江戸や横浜で作られた。この楽隊のために軍楽隊の使う楽器のひとそろいが、フェントン氏からロンドンのディスティン社へ注文されており、その到着が毎日待たれている。そして、フェントン氏は、生徒たちは、その到着から3ヶ月以内で皆の前でやさしい曲の演奏ができると期待している」(「ザ・ファースト・イースト」1870年7月16日号) この妙香寺におけるフェントンの薩摩藩軍楽隊役30名の指導はよく知られており、日本の洋楽史の第1章とされています。
フェントンと君が代
明治2年(1869)8月、当時のイギリス女王ヴィクトリアの次男エディンバラ公が来日することとなり、来賓を迎える儀礼音楽の必要性が生じたものの、当時の日本には国歌の概念がなかったため、フェントンは薩摩藩の砲兵隊長であった大山巌に日本の国歌制定を勧めます。
大山は薩摩琵琶の曲「蓬莱山」から一節を選んだものをフェントンが作曲し、明治3年 (1870) 10月2日に明治天皇の天覧の折、越中島で行なわれた四藩操練において、薩摩藩軍楽隊によって初演奏をされています。しかしながら、日本語のわからないフェントンの曲は歌詞と合わず聞いていて何の音楽だかわからないと不評だったことから、海軍省が再度宮中様式で作曲するようにと依頼します。
その結果、明治13年に宮内省雅楽課の一等伶人・林廣守の撰によって、伶人・奥好義の作曲したメロディーが採用され、それをフェントンの後任の海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが吹奏楽曲に編曲し、同年11月3日、天長節御宴会において宮内省雅楽部吹奏楽院によって初披露されています。
フェントンが作曲した君が代は、鹿児島県警警察音楽隊や、県内の声楽家などの協力を得て忠実に再現され、その音源は鹿児島市の「維新ふるさと館」で試聴することができます。
明治維新にまつわる偉人や史実の多く残る鹿児島ですが、「吹奏楽」という音楽文化の礎もここ薩摩であり、フェントンと共に多くの輝かしい功績を残しています。 
「君が代」生みの親 ジョン・フェントン英軍楽隊長
日蓮宗妙香寺は日本吹奏楽発祥の地として知られる。明治二年(一八六九)、鹿児島湾に停泊中のイギリス軍艦で海軍軍楽隊を見た薩摩藩の島津久光当主は、軍楽隊の演奏に魅了された。島津公が洋式化推進のために指導を要請したところ、横浜市中区山手・本牧付近にいたイギリス陸軍第十連隊第一大隊付軍楽隊のジョン・ウィリアム・フェントン隊長が、薩摩藩洋楽伝習生三十余人を指導することになった。伝習生らが寄宿し練習場として使ったのが薩摩藩邸近くの妙香寺。
文久二年(一八六二)、薩摩藩士が島津久光の行列を乗馬のまま横切ったイギリス人を殺傷した「生麦事件」が契機で「薩英戦争」が起こり、近代兵器の力を見せ付けたイギリスと勇敢に戦った薩摩藩との間に交流が生まれていた。これが倒幕・維新を早める結果にもなる。
フェントンは直ちに英国ベッソン楽器会社に一揃いの吹奏楽器を注文。翌明治三年六月に到着した楽器を使用して実技練習を行った。宇都宮住職によると、当時の妙香寺の寺領は山手公園を含む六千坪ほどもあり、山手公園は後に政府が借り上げ、公園にしたもの。
横浜に多くの外国人が居住するようになると、日本人が外国人を殺傷する事件も起こる。自国民を守るため、各国は軍隊を駐留させ、家族を呼び寄せる者も増えた。山手公園ではイギリス軍人の妻たちがテニスを楽しみ、軍楽隊が音楽会を開いていたという。
明治三年九月七日には、山手公園野外音楽堂において、フェントン指揮で同伝習生三十二人が初の演奏会を開催し、これが日本吹奏楽の始まりとなる。薩摩軍楽隊は兵部省の創設により、明治四年(一八七一)日本海軍軍楽隊に発展。翌五年には海軍省、陸軍省の創設により分立する。日本陸海軍軍楽隊となった薩摩洋楽伝習生は海軍・陸軍軍楽長などの要職に就き、吹奏楽の発展に貢献した。
フェントンは後に日本の国歌となる初代「君が代」を作曲している。フェントンが伝習生に国歌の必要性を説いたのがきっかけとなり、薩摩藩の大山巌砲兵隊長(後の日本陸軍元帥)らが中心となって古歌の中から歌詞を選定、作曲をフェントンに依頼した。出来上がった曲は、伝習生によって明治三年九月八日、御前演奏されている。
以後、軍や国歌の儀礼に使われたが、あまりに洋風すぎて歌いにくいため、明治九年の天長節を最後に廃止された。今の「君が代」は、十三年に宮内省雅樂課の奥好義がつけた旋律を雅楽奏者の林廣守が曲に起こし、それにドイツ人音楽家フランツ・エッケルトによって西洋風和声が付けられたもの。こうした歴史から、妙香寺境内には「国歌君が代発祥之地」「日本吹奏楽発祥の地」の石碑が建てられている。
この間、悲しい出来事もあった。フェントンの妻、アニー・マリアは明治四年五月、横浜で四十年の生涯を閉じている。今も眠る「横浜外人墓地」の墓碑には、「ジョン・W・フェントンの愛する妻アニー・マリア」と刻まれている。フェントンは第十連隊撤兵の後も横浜に留まり、日本海軍軍楽隊のお雇い教師として指導に当たった。妻を一人、異郷の地に眠らせることが忍びなかったのであろう。
 
シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルー

 

Charles Edouard Gabriel Leroux (1851-1926)
音楽、特に軍楽の指導、陸軍分列行進曲(抜刀隊・扶桑歌)の作曲(仏)
フランス生まれの音楽家、作曲家、フランス陸軍大尉。勲四等瑞宝章、勲五等旭日章、レジオン・ド=ヌール(シュバリエ)勲章。軍楽の指導を通じて日本への近代音楽の普及発展に貢献した。その作品『扶桑歌』、『抜刀隊』の二つを編曲した『陸軍分列行進曲』は、現在も陸上自衛隊及び日本警察の観閲式などで行進曲として使用されている。
1851年、パリの高級家具業を営む裕福な家庭に誕生し、幼少より音楽を学ぶ。1870年、パリ音楽院に入ってピアノを専攻。マルモンテルに師事する。
1872年に召集され陸軍に入り、歩兵第62連隊に配属される。翌年に連隊軍楽兵となる。1875年に歩兵第78連隊に転属し、副軍楽隊長に就任、1879年に同連隊軍楽隊長に昇進し、吹奏楽やピアノの作・編曲が出版された。
1884年(明治17年)、第3次フランス軍事顧問団の一員として来日した。前任のギュスターブ・シャルル・ダグロン (Gustave Charles Desire Dagron) の後を受けて、草創期の日本陸軍軍楽隊の指導にあたり、『扶桑歌』『抜刀隊』などを作曲した。
1886年(明治19年)に勲五等旭日章を受けた。1889年(明治22年)に帰国し、リヨンの歩兵第98連隊軍楽隊長に任ぜられた。1897年、オフィシェ・ダアカデミー章を受けた。1899年、一等楽長(大尉相当)となった。1900年にはレジオン・ド=ヌール(シュバリエ)勲章を受けた。1906年、フランス陸軍を退役し、モンソー・レ・ミーヌに住んだ。同地炭鉱街の吹奏楽団の指導などに携わった。
1910年(明治43年)、「日本の古典音楽 La musique classique japonaise」と題してフランス初の日本音楽研究の論文を発表した。同年、勲四等瑞宝章を受けた。
最晩年はベルサイユ市に住み、1926年7月4日、同市マジェンタ街の自宅で死去した。74歳。
功績
それまで速成的で稚拙でもあった日本陸軍の軍楽隊とその教育を抜本的に改正した。
軍楽隊員に試験を行い、「教育軍楽隊」という中核要員を編制するとともに、教則本にもとづく楽器奏法、音楽理論、ソルフェージュなどの基礎教育を徹底的に行い、「軍楽隊規則」を定めて軍楽隊を統制した。
こうした思い切った改革により陸軍軍楽隊は急速に技術を向上し、ルルーが着任した翌年に鹿鳴館で「抜刀隊」「扶桑歌」の2曲を発表するまでとなった。更に2年後には、日本陸軍は近衛・大阪と軍楽基本隊の3個軍楽隊(いずれもフランス陸軍と同じく本格的な50人編制)を有するに至った。
軍楽隊の指導にとどまらず、日本の音楽のために精力的に活動した。1887年(明治20年)には鹿鳴館に本部をおき、伊沢修二、鍋島直大侯爵、帝国大学教授、エッケルト、ソーブレー、東京音楽学校、陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊、式部職伶人の代表者らと「日本音楽会」を結成、これに指揮者として参加し、名声をあげた。
ルルーは音楽取調掛や雅楽稽古所とも交流して日本音楽を研究し、作曲を残している。
軍楽を端緒として西洋音楽そのものを日本に普及した功績は極めて大きく、また、フランス帰国後積極的に日本の雅楽などの紹介に努めた。
論文「日本の古典音楽 La musique classique japonaise」では、催馬楽・神楽等の日本の音楽の楽理を中国の古典音楽を参照しつつ考究し、宮・商・角、あるいは変・嬰といった古式の日本音階をすべて西洋の五線譜の記法にマッピングするとともに、東洋音階と西洋音階を通意する回転ディスク型の音階換算具を紹介している。また催馬楽「席田(むしろだ)」、神楽「千歳(せんざい)」などの日本の古式譜を西洋式の五線譜に翻記して採譜し、紹介している。これらは世界的にも初めての試みであった。
このような西洋と日本を結ぶ「音楽大使」としての重要な役割を音楽の学理的研究を通じて果たした功績は非常に大きい。
また、「君が代」の編曲にも関与している。
日本においてもっとも知られている「扶桑歌」「抜刀隊」「陸軍分列行進曲」以外にも生涯を通じて極めて数多くの作曲・編曲を残しており、フランスで多数出版されている。
作風は平易かつ優雅であり、フランス古典音楽の伝統にのっとった堅実なものである。長年ブラスバンドを指揮してきた手腕は、編曲において各楽器の持ち味を存分に引き出しているところなどに遺憾なく発揮されている。

軍楽長(少尉相当官)のルルーを望んだのは、時の陸軍卿大山巌であったと言われ、また他説には、ルルーは前任のダグロンに推挙されたのだともいわれているが、はっきりしていない。
前任者ダグロンが日本を離れてからルルーが着任するまでには1年半程度の空白があった。ダグロンはいわば「現場上がりのミュージシャン」であり、日本陸軍全体の軍楽を任せるにはいささか力量に問題があった。それに対し、ルルーは日本陸軍が初めて迎えた「純正な音楽大学出身の専門家」であり、相当な期待をもって迎えられた。
日本滞在中、雅楽等の日本の古典音楽を研究するのみならず、琴・三味線を鑑賞し、実際に購入して稽古もしたという。日本の音楽を追求することにより、ひいては日本そのものを理解しようとしたものと思われる。
ルルーの人柄
ルルーは、「性質剛毅果断にして武士的典型を備えし稀に見る高潔の士」であったという。 人柄を伝える逸話として次のものが残る。ルルーが帝国陸軍の雇を解かれて帰国する折、軍楽長四元少尉以下に対して「余が諸君に音楽の教授を試み今日の良結果を見るに至ったのは畢竟前任教師其の人の蒔いた教育が発達したもので、数字をも知らない者に分数教授を解くのは何等の益のないのみか、空しく貴重な時間を消費するに過ぎない。然るに諸君は方(ま)さに其の域に進んでゐたので余が不束なる教授も、克く今日の好結果を致した。(中略)四元軍楽長に望む処のものは君が往時フェントン並ダクロン等に教授された処を維持された如く、余が教授したことによって楽手諸君をして将来を維持せられんことを」 と訓示したという。
ルルーの報告書
ルルーは帰国時、8ヶ月もの任期を残したまま日本陸軍の雇を解かれている。帰国後、1889年(明治22年)に、ルルーが仏陸軍省に提出した報告書には、 「日本人は決してよい音楽家ではないと断言できます。まずその天性が音楽に向いておらず、さらに音楽上でより重大なことは音感を欠いており、楽譜に誤りがあっても見分けることができず、それを修正することは不可能で、音楽においても、他の事柄同様に模倣者であります。あいにくこの技術は形式だけで成立しておらず、すべてを模倣することは不可能です。」等と、当時の軍楽隊、ひいては日本人の音楽性に関する失望とすらとれる相当手厳しい批評が述べられている。
しかし一方で、陸軍退役直前フランスに留学してきた教え子の永井建子を手厚く遇したことや、また、その後の著作「日本の古典音楽 La musique classique japonaise」における日本の古典音楽への透徹した分析ぶりには、草創期の稚拙な陸軍軍楽隊、ひいては明治維新間もない幼い日本帝国に対する、父性にも類する真情からの愛が見て取れる。陸軍退役後、日本の軍楽隊がロンドンの博覧会に招かれて演奏を行い好評を得たことを聞き及んで、その成長を強く喜ぶ書簡が残されている。 
陸軍分列行進曲
大日本帝国陸軍や陸上自衛隊、日本の警察の行進曲として制定されている楽曲である。
大日本帝国陸軍軍楽隊の招聘教官(いわゆる「お雇い外国人」)として来日したフランス軍軍楽教官シャルル・ルルー によって1886年(明治19年)に作曲された。
ルルーはこの行進曲を作る前に、西南戦争における抜刀隊の活躍に題材をとった軍歌『抜刀隊』と、「大日本帝国天皇陛下に献ず」と註した『扶桑歌』という二つの歌曲を作曲しており、後にこの二つの曲を編曲し行進曲としたものが、陸軍省制定行進曲となった。
現在でも陸上自衛隊や日本警察の行進曲として使用されている。
曲について
前奏部 / 『扶桑歌』を使用した前奏部は、変ロ短調(編曲によってはヘ短調)の勇壮な曲である。
扶桑歌について / 『扶桑歌』は『抜刀隊』とは別の曲で、ルルーが日本で作曲したものを自らフランスに送り、日本滞在中の1886年(明治19年)にフランスから出版したものである。「日本国天皇陛下に捧ぐ 扶桑歌 日本の行進曲 ピアノ用 フランス軍軍楽長シャルル・ルルー作、1885年11月9日、東京の宮城において陸軍教導団軍楽隊により初演」・・・と註されている。
トリオ部 / 軍歌『抜刀隊』を使用したトリオ部は、ハ短調で始まり、ヘ長調に転じて終わる。編曲によってはト短調で始まりハ長調で終わる。短調の凄愴な印象の曲が次第に力強く展開して長調の後半部へつながれてゆく。長調に転ずると、曲は明晰な印象のうちに感動を秘めつつ終わる。トリオ部は『抜刀隊』の歌詞で歌うことができ、時々現れる短音階は日本人好みではあるものの、途中ハ短調からヘ長調への転調があり、歌いこなすのは少し難しい。
演奏の順序 / 本来行進曲であるため、繰り返し演奏する。演奏によっては最後にもう一度前奏部を繰り返すこともある。
作曲 / トリオ部の一部のフレーズ(ララソラ、ファソラ、シシシシ、シ、ドドシラ、ラララ、ファファレレ、ド 「進めや進め 諸共に 玉散る剣抜きつれて」)は、ルルーが日本の音楽を聞き取って採譜したらしい『小娘』という曲にも現れる。一方、『一かけ二かけ』という女児の古い遊び歌があり、この歌を短調にすると、トリオ部の冒頭部分(「我は官軍我が敵は」ラ・ミ・ミ、ミ・ミ、ファ・ファ・レ・ファ、ミ)との若干の類似が感ぜられる。また、『一かけ二かけ』の歌詞が、軍歌『抜刀隊』のテーマと同じ西郷隆盛を題材にとっていることなどから、ルルーが日本の俗謡等のメロディや時代背景に影響を受けつつ、イマジネーションを膨らませてこの曲を作ったとの推論も成り立つ。一方、後述するように、『抜刀隊』のメロディは、明治期においてきわめて多くの俗謡・軍歌に歌い崩されて織り込まれている。したがって、逆に、ルルーが革新的に普及させた西洋音楽のメロディの代表である『抜刀隊』が、明治期以降の日本の俗謡などに多大な影響を与えていったとの見方もできる。いずれの立場をとるにせよ、ルルーが日本の空気や民俗的なメロディを『陸軍分列行進曲』に充分に反映し、また他に反映させたものと言える。
歌劇『カルメン』との類似について / ビゼー作曲の歌劇『カルメン』第2幕のカンツォネッタ「Les Dragons d'Alcala」(『アルカラの竜騎兵』『ドン・ホセの軍歌』『スペインの兵隊の唄《Holte lo!Qui va la?》』『兵隊の歌』とも)と主旋律に共通点があるとする意見がある。カルメンのフランス初演が1875年(明治8年)、ルルーの来日が1884年(明治17年)と、ほぼ同時期であることから、ルルーが『カルメン』の影響を受けた可能性も十分考えられる。ルルーがフランスで出版した『抜刀隊』のメロディを含む自己の作品中において、このカルメンのカンツォネッタと似ている部分を巧みに隠している節があり、「ルルー自身も『カルメン』との関連を認めていることをはからずも証明する」との研究もある。しかし、いずれにせよ、酷似しているとまでは言い難く、同一の曲とは言い得ない程度の類似である。
編曲の経緯
『扶桑歌』の後部が切除され、その代わりに『抜刀隊』が現在の形で挿入された。その後、1902年(明治35年)に更に中部が切除され、前奏後からすぐに『抜刀隊』の旋律に入るように改められ、現在の形となった。分列式行進曲(エッケルト曲)という譜面があり、同時期に陸軍戸山学校で教鞭をとっていたドイツ人作曲家フランツ・エッケルトが最終的な編曲に関わった可能性がある。
もとの『扶桑歌』は『陸軍分列行進曲』では前奏のみに残り、トリオ部分は完全に切除されて『抜刀隊』がメインになった。
一方、1912年(明治45年)出版の楽譜では、「扶桑歌の前奏 → 「bシ〜bミーソ・bミーレー・bラ〜ドーレ・ドーbシー」で始まる扶桑歌のトリオの繰り返し → 抜刀隊のトリオ」・・・の順番で編曲されており、当時、どこからどこまでが『抜刀隊』で『扶桑歌』なのか、また、『陸軍分列行進曲』がどの編曲を言うものかはっきりしてはいなかったことがわかる。
現在でも『陸軍分列行進曲』」が『扶桑歌』と呼ばれることもあるのはこうしたことがあるためである。
現在市販のCD等における『陸軍分列行進曲』のアレンジは、「扶桑歌の前奏」→「抜刀隊のトリオ」→もう一度「扶桑歌の前奏」で定着している。
扶桑歌
大日本帝国陸軍軍楽隊の招聘教官(いわゆる「お雇い外国人」)として来日したフランス軍軍楽教官シャルル・ルルーによって、1886年(明治19年)に作曲された軍歌である。
「日本国皇帝に献ず。日本の分列行進曲。明治18年(1885年)11月9日、宮中において陸軍教導団軍楽隊に依って初演」と注してフランスで出版された。
この曲と、同じくルルーの作になる『抜刀隊』の二つがアレンジされ、陸軍観兵式分列行進曲「扶桑歌」(陸軍分列行進曲)がつくられた。
      扶桑歌
   わが天皇(おほきみ)の治めしる わが日の本は万世も
   やほ万世も動かねど 神の万世(みよ)より神ながら
   治めたまへばとことはに 動かぬ御代と変はらぬぞ
   四方に輝く御稜威(みひかり)は 月日の如く照すなり
   かかるめでたきわが国ぞ やよ国民よ朝夕に
   天皇が恵に報はんと 心を合はせひたぶるに
   尽せよや人ちからをも あはせて尽せ人々よ
抜刀隊
日本の軍歌。西南戦争最大の激戦となった田原坂の戦いにおいて、政府軍側として予想外の形での戦闘、すなわち白兵戦が発生した。政府軍は西郷軍に対抗するため、士族出身者が多かった警視隊の中から特に剣術に秀でた者を選抜し、抜刀隊が臨時編成されて戦闘を行なった。軍歌「抜刀隊」は、この抜刀隊の活躍を歌ったものである。
外山正一の歌詞に、フランス人のお雇い外国人シャルル・ルルーが曲をつけたもので、鹿鳴館(元の日比谷の華族会館)における大日本音楽会演奏会で1885年(明治18年)に発表された[1]。最初期の軍歌であり本格的西洋音楽であったことから、後の様々な楽曲に影響を与えた。また完成度が高く庶民の間でも広く愛唱され、後には陸軍省の委嘱で行進曲に編曲され、大日本帝国陸軍の正式な行進曲、「陸軍分列行進曲」[2]として使用され、現在も陸上自衛隊、そして抜刀隊ゆかりの警視庁を含む警察庁が使用している。
この曲を使用した行進曲には、他に前半部分はそのままに、後半を騎兵が観兵式で行うギャロップに合うよう(この部分の旋律は「抜刀隊」とは関係がない)編曲された「観兵式行進曲」がある。
楽曲は転調を多用しており、当時の日本人の感覚からすると、やや歌いづらいものとされた。
堀内敬三は「ヂンタ以來(このかた)」の中でジョルジュ・ビゼーの歌劇『カルメン』との類似を次のように指摘している。
「ルルーが日本へ來た明治十七年は「カルメン」の初演後滿八年になるのです。(中略)勿論軍樂長ルルーがこれを知らない筈はありません。「カルメン」に軍歌が一つあります。第二幕でドンホセーが鼻歌に歌ふ、あれです。ルルーが日本へ來て始めて軍歌を作曲する時「カルメン」の中の軍歌を思ひ出すのは當然でせう。だから「カルメン」第二幕の軍歌が「拔刀隊」の節の上に影響を與へたと見るのは無理では有りますまい。あの初めの所の五度音程の上昇とその反覆、その次の旋律型なんかはそっくりではありませんか。だから「ラッパ節」の先祖は「カルメン」だと私は云ふのです。」
手まり歌の「一番はじめは一の宮」はこの歌のメロディーを借用している。
歌詞
日本最初の新体詩集であるところの「新体詩抄」(1882年(明治15年)7月出版)に「抜刀隊の歌」として発表された。これは、東京大学(後の東京帝国大学)の教授であった外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎の各博士の共篇である。作詞当時、東大の文学部長であった外山は、1870年(明治3年)からアメリカへ派遣され、ミシガン大学を卒業している。その留学期間がちょうど南北戦争の直後であったことから、アメリカの軍歌から強い影響を受けてこの歌詞を作ったものと考えられ、歌詞の終末四句を毎節繰り返す点などは、明白にアメリカの軍歌の形式を踏襲したものとされる。
西洋にては戰の時慷慨激烈なる歌を謠ひて士氣を勵ますことあり即ち佛人の革命の時「マルセイエーズ」と云へる最も激烈なる歌を謠ひて進撃し普佛戰爭の時普人の「ウオツチメン、オン、ゼ、ライン」と云へる歌を謠ひて愛國心を勵ませし如き皆此類なり左の拔刀隊の詩は即ち此例に傚ひたるものなり
拔刀隊
  丶山仙士
我は官軍(かんぐん)我(わが)敵(てき)は  天地(てんち)容(い)れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者(もの)は  古今(ここん)無雙(双)(むそう)の英雄(えいゆう)で
之(これ)に從ふ(したがう)兵(つわもの)は  共に慓悍(ひょうかん)決死(けっし)の士(し)
鬼神(きしん)に恥(はじ)ぬ勇(ゆう)あるも  天の許さぬ(ゆるさぬ)叛逆(はんぎゃく)を
起しゝ(おこしし)者(もの)は昔(むかし)より  榮えし(さかえし)例(ためし)あらざるぞ
敵(てき)の亡ぶる(ほろぶる)夫迄(それまで)は  進めや進め諸共(もろとも)に
玉(たま)ちる劔(つるぎ)拔き(ぬき)連(つ)れて  死ぬる覺悟(かくご)で進むべし
   皇國(みくに)の風(ふう)と武士(もののふ)の  其身(そのみ)を護る靈(たましい)の
   維新(いしん)このかた廢(すた)れたる  日本刀(やまとがたな)の今更(いまさら)に
   又世(よ)に出(い)づる身(み)の譽(ほまれ)  敵も身方(みかた)も諸共(もろとも)に
   刄(やいば)の下(した)に死ぬべきぞ  大和魂(やまとだましい)ある者(もの)の
   死(し)ぬべき時(とき)は今(いま)なるぞ  人(ひと)に後(おく)れて恥(はじ)かくな
   敵(てき)の亡ぶる夫迄(それまで)は  進めや進め諸共(もろとも)に
   玉(たま)ちる劔(つるぎ)拔き連れて  死ぬる覺悟(かくご)で進むべし
前(まえ)を望(のぞ)めば劔(つるぎ)なり  右(みぎ)も左(ひだ)りも皆(みな)劔(つるぎ)
劔(つるぎ)の山(やま)に登(のぼ)らんは  未來(来)(みらい)の事(こと)と聞(き)きつるに
此世(このよ)に於(おい)てまのあたり  劔(つるぎ)の山(やま)に登るのも
我身(わがみ)のなせる罪業(ざいごう)を  滅(ほろぼ)す爲(ため)にあらずして
賊(ぞく)を征伐(せいばつ)するが爲(ため)  劔(つるぎ)の山(やま)もなんのその
敵の亡ぶる夫迄(それまで)は  進めや進め諸共(もろとも)に
玉ちる劔(つるぎ)拔き連れて  死ぬる覺悟(かくご)で進むべし
   劔(つるぎ)の光(ひかり)ひらめくは  雲間(くもま)に見ゆる稻(稲)妻(いなづま)か
   四方(よも)に打出(うちだ)す砲聲(声)は  天に轟く(とどろく)雷(いかずち)か
   敵(てき)の刄(やいば)に伏す者や  丸(たま)に碎(砕)けて玉(たま)の緒(お)の
   絶えて墓(はか)なく失(う)する身(み)の  屍(かばね)は積み(つみ)て山(やま)をなし
   其血(そのち)は流れて川をなす  死地(しち)に入(い)るのも君(きみ)が爲(ため)
   敵の亡ぶる夫迄(それまで)は  進めや進め諸共(もろとも)に
   玉ちる劔(つるぎ)拔き連れて  死ぬる覺悟(かくご)で進むべし
彈丸雨飛(だんがんうひ)の間(あいだ)にも  二つなき身(み)を惜(おし)まずに
進む我身(わがみ)は野嵐(のあらし)に  吹かれて消ゆる白露(しらつゆ)の
墓(はか)なき最後(さいご)とぐるとも  忠義(ちゅうぎ)の爲(ため)に死ぬる身(み)の
死(しに)て甲斐(かい)あるものならば  死ぬるも更(さら)に怨(うらみ)なし
我(われ)と思はん人たちは  壷歩(いっぽ)も後(あと)へ引くなかれ
敵の亡ぶる夫迄(それまで)は  進めや進め諸共(もろとも)に
玉ちる劔(つるぎ)拔き連れて  死ぬる覺悟(かくご)で進むべし
   我(われ)今(いま)茲(ここ)に死(しな)ん身は  君の爲(ため)なり國(くに)の爲(ため)
   捨つ(すつ)べきものは命(いのち)なり  假令(たと)ひ屍(かばね)は朽(く)ちぬとも
   忠義の爲(ため)に捨(すつ)る身の  名(な)は芳(かんば)しく後(のち)の世(よ)に
   永く(ながく)傳へて(つたえて)殘るらん  武士と生れた甲斐(かい)もなく
   義(ぎ)もなき犬(いぬ)と云(い)はるゝな  卑怯者(ひきょうもの)となそしられそ
   敵の亡ぶる夫迄(それまで)は  進めや進め諸共(もろとも)に
   玉ちる劔(つるぎ)拔き連れて  死ぬる覺悟(かくご)で進むべし
行進曲は学徒出陣壮行会の際、雨の神宮外苑を行進する時に流れたことでも有名である。
防衛大学校において、2002年頃まで課業行進、観閲式の際に使用されていたが、「フランス人の作曲したパートがある」「学徒出陣の際に使用された曲であり、軍国主義を想起させる」という意見があり、開校50周年を期に新規に作曲した行進曲「飛翔」や「青春の小原台」など(2002年開校記念祭観閲式より)が用いられるようになった。しかし、それ以外の部隊では現在も行進曲「軍艦」、「空の精鋭」と共に根強く使われているようである。また、前述の防衛大学校においても再び使用されるようになり、高等工科学校、各学校においても使用されている。
なお、西南戦争において抜刀隊を編成することになった警視隊の派遣元である警視庁では、毎年5月に神宮外苑で行われる「警視庁機動隊観閲式」において、現在も本曲を行進曲として使用している。
 
ゴットフリード・ワグネル

 

Gottfried Wagener (1831〜1892)
陶磁器、ガラス器などの製造指導(独)
ドイツの実業家。21歳の若さで数学物理学の博士号を取得、パリやスイスで工業学校などで教師をしていた。極東で事業展開していた米企業ラッセル商会の石鹸工場設立のため1868年に長崎に招聘されたがまもなく佐賀藩に雇われて有田焼の近代化に助力した。1870年には上京し大学南校・東校(現・東大)に雇われてドイツ語・数学・博物学・物理学・化学などを講じた。東京職工学校(現東工大)、京都の医学校(現・京都府立医科大学)などでも教え、多くの教え子を育てた。七宝焼の研究や旭焼の創設をはじめ生涯をガラス製品・陶器の大量製造・品質向上、欧米への紹介に努めた。 
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ドイツ出身のお雇い外国人。ドイツ語での発音はゴトフリート・ヴァーゲナー(ドイツ語発音: [gɔtfriːt vaːgɛnɐ])。事業参加のため来日し、その後政府に雇われためずらしい経緯を持つ。京都府立医学校(現・京都府立医科大学)、東京大学教師、および東京職工学校(現・東京工業大学)教授。また、陶磁器やガラスなどの製造を指導した。 ヘンリー・ダイアーらと同時期に明治時代の日本で工学教育で大きな功績を残し、墓碑や記念碑が後年まで管理され残っている。
1831年、ドイツ北部のニーダーザクセン州・ハノーファーで生まれる。父は官吏で、母と姉(妹)、弟がいた。成績はきわめて優秀だったが生涯を通じて非常に内気な性格であったといわれる。1846年に15歳で工芸学校に入学し、2年後の卒業とともに鉄道に勤める。しかし恩師の強い勧めを受けて数学・自然科学の教師を目指し、1849年にゲッティンゲン大学に入学した。この大学には2年間在籍し、数学者カール・フリードリヒ・ガウスや物理学者ヴィルヘルム・ヴェーバーらの指導を受け教員の資格を得た。さらにベルリン大学で1年間学んだ後、「ポテノーの問題」に関する学位論文をゲッティンゲン大学に提出し、ガウスらの審査を受けて21歳で数学物理学の博士号を取得した。
卒業後の1852年に政治的理由からパリに移住し、ドイツ語の個人教授や寄宿学校の数学教師を経てパリ中央電信局の翻訳官となる。ここでフランス語をはじめ、イタリア語・スペイン語など各国の言語を習得するが、1857年にリウマチを患い、これが生涯の持病となる。この後、政治家サンティレールの秘書を経て1859年頃にスイスのラ・ショー=ド=フォンで工業学校の教師を務める。ここで機械工作などの研究を行うが、学制改革に伴って1864年に職を辞して義兄(弟)と建設事業を興す。リウマチの悪化で翌年に仕事をやめてカールスバート(現・カルロヴィ・ヴァリ)で療養した後、パリで弟と化学工場を始めるが失敗に終わる。
訪日〜ウィーン万国博覧会
アメリカ企業のラッセル商会の石鹸工場設立に当たり、パリ時代からの親友が紹介した社長のトーマス・ワルシュによって、ワグネルは長崎に招聘された。1868年3月29日にマルセイユを出発し、同年5月15日(慶応4年4月23日)に長崎に到着した。しかし製品開発はうまくいかず、工場は軌道に乗らずに廃止された。その後、佐賀藩に雇われて1870年4月より8月にかけて有田町で窯業の技術指導にあたった。ここでは
   石灰を用いた経済的な釉薬の開発
   従来使われていた呉須に代わる安価なコバルト顔料の使用
   薪不足を解決するための石炭窯の築造実験
などを行い、科学的手法による伊万里焼(有田焼)の近代化に影響を与えた。
1870年11月頃には大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師として月給200ドルで雇用され、東京に移る。翌年の文部省設立と大学改組に伴い、1872年に医療系の東校(後に東京医学校、現・東京大学医学部)の数学・博物学・物理学・化学の教師となり、月給も300ドルに増額された。
1873年のウィーン万国博覧会では、事務局副総裁の佐野常民の強い要望で東校と兼任のまま事務局御用掛となった。ヨーロッパの嗜好や化学の知識を持っていたためと考えられる。役職名は「列品並物品出所取調技術指導掛」であり、博覧会への出品物、特に陶磁器などの選定や技術指導、目録・説明の作成を行った。一例として、京都の清水焼や粟田焼について陶工を呼んで説明を受け、届いた注文品については焼成などに問題があるため不合格とし、白焼の品を事務局附属の磁器製造所(東京浅草区)で絵付けするよう指示している。なお、この処置については後に粟田焼の陶工・丹山清海から不満の声が上がっている。
ウィーン万国博覧会以降
万博終了後、随行者の中から納富介次郎など23名が伝習生としてヨーロッパで学ぶことになり、ワグネルはその斡旋を受け持った。さらに博物館の準備調査や機器購入のために、オーストリア、ドイツ、フランス、イギリスを歴訪している。1874年12月に帰国後、博覧会および化学工業、農林、食料について調査報告書を提出するとともに東京博物館創立の建議を行った。
また、博覧会の前に佐野常民に建議した工業技術教育の場として開成学校(南校が改称)に製作学教場が設けられ、ワグネルはその教師となった。さらに翌年には工部省と仕事を兼務し、1876年のフィラデルフィア万国博覧会の関連業務や勧業寮の仕事を行った。フィラデルフィア万博では日本委員12名のうち唯一の外国人として働き、123ページにわたる出品物解説書の大部分を作成している。
しかし、西南戦争による財政圧迫から1877年に製作学教場が廃止、勧業寮の事業も停止されて職を失う。この後1年間、ドイツ領事の委託を受けて七宝焼の研究を行っていた。翌1878年2月3日から3年間、ハー・アーレンス・ドイツ商会の仲介で京都府(槙村正直府知事)に月給400円で雇われ、京都舎密局で化学工芸の指導や医学校(現・京都府立医科大学)での理化学の講義を行った。
1881年、1月に着任した京都府の新知事北垣国道が官業の払い下げを進める中で舎密局なども売却され、2月に雇用契約が終了した。このため同年5月1日から5年半、東京大学理学部の製造化学の教師として勤め、1884年11月からは東京職工学校(現・東京工業大学)で窯業学の教師も兼任した。1886年に東京職工学校で陶器破璃工科が独立するとその主任教授に就任し、亡くなるまでこれを務めた。
この傍らで1883年から新しい陶器の研究に着手し、1885年に赤坂葵町に試験工場を設けて吾妻焼と命名した。さらに1887年には東京職工学校に設備を移し、名称を旭焼と改めた。
1890年に農商務省の委嘱で陶産地を巡回して指導した際、山口県でリウマチが悪化した。このため9月から一年間の休暇を取り、ドイツに一時帰国する。温泉などで療養した後1892年1月に帰日、勅任官の待遇で復職した。この際ゼーゲルコーンを日本に初めて紹介した。
死去とその後
1892年7月から栃木県塩原温泉で療養したが快復せず、10月には病床に伏せる。勲三等瑞宝章が贈られた後、11月8日に東京・駿河台の自宅で亡くなった。同日、勲三等旭日章を追贈される。京都在住時から駿河台在住時にかけて女性と同居していたが結婚せず、生涯独身であり没年齢は61歳。心臓の疾病と肺炎の併発が死因となった。 11月12日に遺体は青山霊園に埋葬された。旭焼のレリーフがはめられた墓碑は関東大震災や第二次世界大戦中の混乱などで損傷したが、没後90年の1982年に日本セラミックス協会によって修復され、現在にいたる。
また、京都市・岡崎公園と東京工業大学・大岡山キャンパスには記念碑がある。前者は1924年に京都市によって建立された幅4メートル近い石碑である。後者は1937年に学内の有志によって作られ、命日にあたる11月8日に除幕式が行われた。デザインは円柱が並ぶ和風とギリシア風の折衷様式で、中央には肖像プレートがはめ込まれている。経年劣化のため当初のものは交換され、1978年に伊奈製陶(現・INAX)から寄付された複製が現在まで飾られている。後者の記念碑は、中澤岩太を実行委員長とする故ワグネル博士記念事業会により東京工業大学構内にある瓢箪池の後方に建設され、1937年11月8日除幕式が行われた。記念碑は、ワグネルが窯業に寄与したことから外装にはテラコッタが用られ、中央の肖像プレートは沼田一雅による原型で商工省陶磁器試験所が製作した。現在の肖像プレートは複製で、建設当時のものは東京工業大学博物館・百年記念館に展示されている。1938年、除幕式当日に開催された記念講演の概要と記念碑建設の工事報告書を併記した追懐集が刊行された。東京工業大学博物館のB1特別展示室には、ワグネルが指導的役割を担った陶磁器研究資料の紹介展示がある。
人材の育成
ワグネルの教育を受けた生徒には、教育界などで活躍した者が多い。
1874年から勤務した開成学校・製作学教場では、後に仙台高等工業学校(東北大学工学部の母体)初代校長、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)校長などを歴任した中川謙二郎を教え、中川はワグネルの講義録の翻訳を行っている。
京都舎密局では理化学器械の製造も手掛けており、出入りしていた島津源蔵に技術指導を行い、後に島津は島津製作所を創業した。この頃に贈った木製旋盤が島津創業記念資料館に現存する。
1881年から在職した東京大学理学部の教え子には、東京工業学校教授、三菱製紙所支配人などを歴任した植田豊橘がおり、また助手を務めた中沢岩太はドイツ留学後、帝国大学教授、京都帝国大学の初代理工科大学長、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)初代校長、工手学校(現・工学院大学)校長などを歴任した。
晩年は、後継者として窯業科を発展させ東京工業大学窯業研究所(現・応用セラミックス研究所)初代所長となった平野耕輔、製作学教場の後身ともいうべき東京職工学校(後に東京工業学校、現・東京工業大学)の教授となり、京都陶磁器試験所の初代所長をつとめた藤江永孝や、石川県工業学校陶磁器科長時代に結晶釉の製出に成功した北村彌一郎、日本陶器(現ノリタケ)設立者の一人である飛鳥井孝太郎、松村八次郎らを教えた。また、ワグネルは技術教育だけでなく、学科の創設や運営にも種々の建議を行い同校の発展に寄与した。
窯業(陶磁器・七宝・ガラス)との関わり
ワグネルはドイツで学んだ化学の知識を基に日本の窯業に深く関わった。有田での窯業指導は上述の通りであり、伊万里焼(有田焼)の近代化に先鞭を付けた。
1870年から1881年まで続いた京都舎密局では、工業化学関連品の製造技術の普及も職務に含まれており、永樂和全の協力を得て陶磁器、七宝、ガラスの製法などを指導した。陶磁器については、薪と石炭の双方を燃料とし、火熱を2段階に利用して第1段で本焼成、第2段で素焼きのできる新式の陶器焼成窯を発明し、耐火煉瓦を用いて局内に新造した。
ワグネルは1873年7月8日、顧問として石田某と共に京都に到着し、万国博覧会で紹介するにに相応しい工芸家や作品を選ぶのに協力した。 1877年から1年間は七宝の研究に専念しており、その成果を譲り受けた七宝会社が1881年の第2回内国勧業博覧会で名誉賞を受賞している。 1878年からは京都府(槙村正直府知事)に月給400円で雇われた。 1879年には五条坂に陶磁器実験工場を建設し、青磁の焼成を試みている。また、それまでの七宝の不透明釉に替わる透明釉を開発し、京都の七宝に鮮明な色彩を導入した。透明釉は日本の七宝の美しさを飛躍的に高め、4年後のパリ大博覧会では濤川惣助が名誉大賞、並河靖之が金賞を受賞し国際的にも大変評価されることになる。
これらの経験を経た後1883年から新しい陶器を研究し、旭焼を開発した。旭焼は、それまでの陶磁器が主に釉薬をかけて本焼成した後に絵付けを行い再度焼成していたのに対し、先に絵付けを行ってから釉薬をかけて焼成する釉下彩と呼ばれる手法で作られていた。これにより陶磁器の貫入や歪みを嫌うヨーロッパの嗜好に合った製品が作られると、1890年には渋沢栄一らの出資で旭焼組合が設立され、ストーブ飾タイルなどが輸出された。しかし、コストが高かったことなどからワグネル没後の1896年に組合は解散し、東京工業学校の生産も同時期に終了した。なお、渋沢栄一らによって設立された「大日本東京深川区東元町旭焼製造所」は1986年3月26日に「旭焼陶磁器窯跡」として江東区の史跡となっている。
人柄
ワグネルの下で研究した中沢岩太は、ワグネルについて「記憶力・理解力が非常に優れ、学究心を生涯持ち続けた。また、大変寡言で、謙譲なため成果を誇る事がなかった」と語っている。事業の失敗から弟とは疎遠になったが、姉(妹)との仲は良く晩年まで手紙のやり取りなどがあった。
若年時には運動を好み、器械体操やテニス、水泳を行っていた。また音楽もたしなみ、来日後もバイオリンやピアノの演奏で優れた腕前を見せたという。語学についてはドイツ語、フランス語、英語をはじめ数か国語に堪能だったが、日本語はそれほどでもなく、講義・講演では通訳を用いたり用意したテキストを読み上げていた。もっとも日常会話では問題がなかったといわれる。
有田焼近代化の父
1870年、有田で窯業の技術指導にあたり、石炭窯や呉須に代わるコバルト顔料の導入など有田焼の近代化の道程を示したドイツ人化学者、ゴットフリート・ワグネル。現代につながる大量生産に先鞭(せんべん)をつけた有田焼の「近代化の父」と呼べる人物だ。
ワグネルは母国ゲッティンゲン大学で21歳の若さで博士号を取得。紆余曲折の後、石けん工場の設立のため長崎を訪れた。その時に有田窯業に化学を取り入れ技術向上を図ろうと、日本電信の祖・石丸安世が中心となって招聘(しょうへい)した。
滞在期間は半年弱と短かったが、有田町白川の役所跡を住居と伝習所として、有田で初めて皇室献上品を作った辻家の辻勝蔵や、当時高い技術を評価されていた深海墨之助など若手陶芸家を研究生として受け入れた。主な教科は中国からの輸入品に頼り高価だった呉須に代わる、コバルトを用いた顔料の製作などだった。
ワグネルが有田に残した功績は大まかに3つ数えられる。1つはコバルト顔料の使用、もう1つは石灰を用いた釉薬の研究、そして石炭窯の開発だ。どれも陶磁器作りのコストを抑えるために有用だった技術で、当時全国の磁器産地と生き残り争いが激化していた有田にとって避けて通れないものだった。
有田の技術者にとって、ワグネルがもたらした知識は大きなものだったが、ワグネルは単なる教師ではなかった。釉薬の研究においては、深海とともに当時有田で使われていた釉薬の成分などを解き明かそうと数々の実験を行った。結果、古い柞(いす)の木の灰が美しい光沢に作用することが分かったようだ。ワグネルは全国各地の陶磁器産地でも指導したが、化学者としての研究心が原動力になったに違いない。
また、佐賀藩の廃止により、窯用の薪(まき)の安定確保ができなくなった有田では、代用燃料の研究も課題だった。ワグネルは白川に石炭窯を試作したが、その最初の挑戦はうまくいかなかったようだ。しかしこの研究以降、石炭を使った窯の開発は全国的に進められた。
有田における本格的な石炭窯は1909年、ワグネルの薫陶を受けた深川栄左衛門らが共同で、農商務省の補助を受けて香蘭社の工場内に築造した。有田の土は石炭での焼成に向かず美術品にはあまり用いられなかったが、有田窯業の一翼を担った碍子(がいし)(電線の設置に必要な部品)の製造に大いに役立った。
香蘭社では石炭窯導入と同時に経理の帳簿体系をあらためた。燃料費の約3割が削減できたという石炭窯の効果を最大に生かすためだろう。昭和30年代に重油に切り替わるまでは、工芸品よりも碍子の利益が多かった時代もある。同社総務課の森知巳次長は「利益を度外視した超絶技巧の美術品は、碍子の利益なくしては制作できなかった」と同社の歴史を振り返る。
ワグネルは有田を去った後、明治政府の官立学校「大学南校」(後の東京大学)などで教鞭(きょうべん)をとるとともに、窯業の技術向上に尽力した。1872年、ウイーン万博への日本の出品に指導的役割を果たし、有田人の渡欧にも便宜を図った。
1889年に有田へ再来した際には、あまり得意ではなかった日本語で演説を行っている。「有田は日本の製陶地のトップにある。磁質においては世界無比といえる」と有田焼の優位さを強調した。その上で「製作業務の分業制を進め、さらに有田焼の名声を高めてほしい」と語る。最後まで有田窯業に進歩を求めていたようだ。 
有田焼400年の歴史
 1869年―大政奉還、廃藩置県、そのとき有田にはワグネルがいた
生産額2.5兆円、日本が世界シェアの4割を占め、先端技術でも世界をリードするセラミックス産業。人間国宝が名を連ねる伝統工芸から、製造工程を高度に制御し、新しい機能や特性をもたせたファインセラミックスまで、他の材料産業にはない多彩な発展を遂げています。
いまから150年近く前に有田を訪れたドイツ人化学者、ゴットフリード・ワグネルは、今日の日本のセラミックス産業の近代化に貢献した「育ての親」であり、技術史上もっとも重要な人物の1人です。東京工業大学(当時の東京職工学校)、京都府立図書館、そして有田駅と、国内3カ所にワグネルの功績を称える記念碑や像があることは、ワグネルが行く先々で慕われ、尊敬を集めていたことを物語っています。
ワグネルが長崎で有田焼に触れ、その生産地に行こうと思わなければ、今日のセラミックス産業の発展はなかったかもしれません。
ワグネルは、1831年にドイツのハノーバーで生まれ、ゲッティンゲン大学で21歳という若さで博士号を取得します。その後、フランスで語学の個人指導やスイスの工業学校で教職に就くなどして過ごし、36歳のときにジョン・ウォルシュというアメリカ人事業家の勧めで石鹸工場をつくるために長崎にやってきました。
ワグネルが長崎に到着したのは、江戸幕府から天皇家に政権が返上された大政奉還の翌年、1868年5月のことでしたが、この頃ワグネルの故郷ドイツでは、北ドイツ連邦が成立したばかりで、その中心となったプロイセンでは、ナポレオン3世の治めるフランスとのあいだで普仏紛争が始まっていました。この時代、ヨーロッパでも政変が多く、政治的な理由で本国を離れた人々も少なくありませんでした。ワグネルもその1人だったと考えられています。
しかし、新天地を求めて訪れた長崎での石鹸事業はうまくいかず、翌1869年、ワグネルは、同じ長崎のウォールド商会に雇われます。そこで、ワグネルは有田焼と出会います。ウォールド商会でのワグネルの仕事は、長崎商会から輸出向けの磁器を買いつけることで、理化学の知識を用いながら、品質検査のようなこともしていたようです。

有田焼への知識が深まるとともに、有田への興味が昂じ、ワグネルは「有田から熱意のある者を連れてきてほしい」と長崎商会の者に頼みます。そして、佐賀藩・有田郡令 百武作右衛門(作十)の許可を得て、赤絵職人の西山孫一と、窯元の山口代次郎が、長崎のワグネルの実験室を訪れます。そこで、ワグネルは金を王水(濃塩酸と濃硝酸を3:1で混合した液体)で溶かして見せたり、不足しがちな薪や木炭の代わりに石炭を燃料に用いる方法を教えたりしました。
有田の人々と関わっているうちに、ワグネルの熱意はいよいよ高まり、「どうしても有田焼の産地に視察に行きたい」と言い出します。この頃はまだ外国人が自由に日本国内を旅行することはできませんでした。外国人への敵愾心をたぎらせた攘夷派士族があちこちに潜んでおり、いつ不意打ちに合うかもわからない時代だったのです。
高いハードルがあったにもかかわらず、ワグネルの思いは百武を通じて藩主鍋島直正に伝えられ、快く認められました。殖産興業に力を入れていた佐賀藩にとって、高度な理化学の知識をもったワグネルからの申し出は「願ってもない」ことでした。1867年にパリ万博に参加して以来、窯業関係者らは、有田焼でヨーロッパの色鮮やかな陶磁器を再現したいと考え、試行錯誤を重ねていましたが、国内には、美しい絵を描ける最高の腕をもった職人はいても、ヨーロッパの陶磁器の鮮やかな色彩を再現できるだけの科学的知識をもつ者はいなかったのです。
ワグネルの有田滞在期間は1870年4月下旬から8月上旬までと、4カ月に満たないわずかな期間でしたが、辻勝蔵や深海墨之助・竹治兄弟といった若手陶芸家とともにさまざまな実験を試み、有田焼の躍進に大きく貢献しました。
その功績は大きく3つあげられます。1つはコバルト顔料の使用、もう1つは釉薬の研究、そして石炭窯の開発です。いずれも、競争力のある商品をつくっていくうえで重要な技術でした。社会経済が大きく変化するなかで、国内外の磁器産地との競争が激化しており、有田焼が窯産業として生き残っていくためには、さまざまな技術革新が求められていたのです。
当時、染付には、高価な呉須(ごす)を中国から輸入して使用していましたが、ワグネルは、有田の人々に、工業的に製造されたコバルト顔料を用いることで、大幅にコスト削減できることを教えました。また、釉薬についても数々の実験を行い、当時有田で使われていた釉薬の科学的組成を明らかにし、コスト削減や再現性の向上に貢献しました。
そして、薪や木炭よりも低コストで量産化に向いている石炭窯での磁器生産にも取り組みました。薪や木炭は、藩が山林を管理しているうちはいいのですが、廃藩置県で藩による管理が行き届かなくなれば乱伐を招き、土砂崩れなど災害の危険性が高まります。一方、佐賀藩をはじめ九州には炭鉱があり、石炭を入手しやすいことがわかっていました。
このとき、ワグネルが有田で試作した石炭窯での焼成は成功しませんでしたが、ワグネルが示した実験方法や科学的探究心は有田窯業界に受け継がれていきました。そして、ワグネルの初来訪から約40年を経て1909年、ワグネルの薫陶を受けた深川栄左衛門らにより、本格的な石炭窯が香蘭社の工場内に築造されます。石炭窯は、薪や木炭を使う登り窯と比べて3割以上も燃料費を削減でき、電線部品の碍子(がいし)の製造に大いに役立ちました。

1870年に話を戻しましょう。8月にいったんワグネルとの契約が切れると、佐賀藩の百武郡令は、再度ワグネルと長期契約を結ぶことを試みますが、廃藩置県により百武が職を解かれたこともあり、契約は成就しませんでした。
有田を去った後のワグネルは東京大学の前身となる大学南校(開成学校)に雇い入れられることになり、以降、62歳で没するまで、日本で化学教育に携わりました。ウィーン万博(1873年)とフィラデルフィア万博(1876年)では欧米に日本を紹介する“アンバサダー”の役割を果たすと同時に、日本の職人たちがヨーロッパの進んだ技術を学ぶために留学の世話をするなど、献身的に働きました。
有田を離れて後も、ワグネルが教え子たちと続けた窯業の研究成果は、有田はもちろん、日本中の焼き物づくりに貢献しました。1892年11月に東京・駿河台の自宅で亡くなると、本人の希望により青山霊園に葬られます。没後もワグネルを慕い、その功績を後世に伝えたいという熱意をもった人は数多く、1937年には、故ワグネル博士記念事業会発起人203人により、ワグネルが創設にかかわった東京工業大学に記念碑が建立されました。
大学の講義がないときには磁器産地を訪ねて科学的組成を調べ、大学側に助手を雇う予算がないときは私費で助手として雇い、その献身的な姿は多くの日本人に影響を与えました。民間初のセメント会社、小野田セメントを創設した笠井眞三は「陶磁器と先生、先生と陶磁器、恰も是は二つであるか一つであるか分からない感じがする」と述べており、その情熱のほどがうかがえます。笠井はワグネルの勧めによりドイツに留学しましたが、留学先選びにおいても、留学前の指導においても温かい気遣いに感激したことを語っています。
日本のセラミックス産業は、17世紀の磁器誕生以来、21世紀においても世界をリードしつづけていることは、産業史上「稀有」なことといえるでしょう。先進技術の普及とともに、前近代的な産業は衰退せざるをえないのが常であり、明治初頭に近代化の波に乗れなければ、衰退して過去の遺物と化していた可能性もあります。
ワグネルが欧米との競争力という視点で、生産コストを抑える技術を若手陶芸家や窯元経営者たちに伝えたことは、有田焼が明治大正期を生き延びるうえで決定的に重要でした。もし、ワグネルが日本の伝統工芸を耽美的に愛するだけの「好事家」であれば、なしえなかったことです。
あるいは、ワグネルが短期的な事業収支にのみ意味を見出す「商人」であれば、その後の有田および日本窯業界の発展はなかったでしょう。いかなる事業活動においても、目先の収支が他の価値に優先すると新たなチャレンジができなくなり、発見や創造は生まれず、やがて事業は尻つぼみになってしまいます。
ワグネルはまた、明治政府に雇われた数多の「お雇い外国人」とも違っていました。ワグネルは、日本の伝統工芸の芸術性を非常に重視しており、それこそが、欧米人が絶対に真似できない日本の産業競争力の源泉となると語っています。類似品を安くつくるだけでは、資本力の大きい欧米企業が設備投資をすれば、すぐに駆逐されてしまうと説き、文化・文明を越えて見る者を魅了する芸術性を活かし磨きをかけるべきだと力説しました。さらに日本独自の芸術性とは、伝統的な生活様式やそのなかで育まれてきた美意識の産物にほかならず、それを伸ばすためには、日本人としての個性も尊重されるべきだと考えていたようです。
ここで、ワグネルの教え子の1人であり、京都を中心に美術工芸会に指導的功績を残した工学博士 中澤岩太がワグネルを想って詠んだ歌を紹介します。
「外国の人と思うふな先生の 心つくしは我國のため
めくみ深き君のみをしへとこしへに 清く流れて盛り行くなり」
ワグネルの人となり、そして後世にもたらした影響を物語っています。
江戸から明治へと政治体制が変わり、社会経済が大きく変化するなかで、有田皿山はもっと旧態依然とした過去の遺物になっていた可能性もありました。しかし、有田の人々は、ワグネルとの出会いを通じて多くを吸収し、競争力のある産業へと発展を遂げました。歴史を振り返れば、有田焼は、磁器誕生の頃から朝鮮半島や中国の技術や文化を受容し、オランダ貿易を通じてヨーロッパの美意識にも触れおり、このような異文化受容の経験が、近代化の素地となったと考えられます。
有田焼の歴史のなかには、さまざまな異文化との出会いがあり、それが契機となって、成長発展をとげてきました。日本初の磁器誕生から400年を迎え、これまでの経験を次の100年200年につなげていくための新たなイノベーションが期待されています。これを実現していくうえで、ワグネルの生き方に見られる日本的美の尊重と科学的探究の両立は、重要な示唆をもたらすものではないでしょうか。  
明治期に発展を遂げた尾張七宝づくりの技
日本において、西洋よりもたらされた七宝の技法が飛躍的な発展を遂げたのは明治時代である。京都・東山にある清水三年坂美術館には、明治期に世界にその名を轟かせた二人の七宝家の作がおさめられている。
一人は並河靖之。その作品は有線七宝の極致とでもいうべきもの。とくに、並河が苦心の末生み出した透明感と深みのある黒は、欧米で「並河の黒」と呼ばれ人気を博した。
そしてもう一人の濤川惣助(なみかわそうすけ)は、釉薬をさした後、植線を取り去るという無線七宝の技を確立し、日本画的なぼかしを生み出した人物である。
この二人に代表されるように日本の七宝技術は明治期に世界の頂点にまで登りつめたのである。実はその裏には、一人の外国人の多大な尽力があった。
江戸時代後期ごろ日本の七宝は、釉薬に光沢がなく、不透明でべったりとしたものだった。これを大きく変えたのは、1868年に日本にやってきたドイツ人化学者ゴットフリード・ワグネルだ。お雇い外国人として、現在の東京大学で教授を務めていたワグネルは日本の工芸品を愛し、「日本は、欧米が失った“手仕事”の工芸によって立つべきだ!」と考えた。
そこで尾張七宝職人と協力し、西洋の上をいく美しい釉薬の開発に挑戦。ワグネルは自らの給与まで費やす熱の入れようだったという。やがて世界でも類を見ない、光り輝く透明釉を完成させたのだ。
ワグネルの透明釉と尾張七宝の技は東京、京都へと広がり、数々の名品が生まれることになった。
明治時代に高みに達した七宝の技――。その極限の技の再現に心血を注ぐ職人がいる。加藤七宝製作所2代目の加藤勝己(かつみ)さんだ。4年前に会社を退いた後は古の名工たちの繊細な手仕事を継承すべく、「ただいいものを」の一心で手間ひまを惜しむことなく制作を続けている。そして、銅の素地を酸で腐食させて取り除く、省胎七宝(しょうたいしっぽう)という、現在では廃れつつあった高度な技を苦心の末に完成させた。 
島津製作所 近代化学の夜明け
大阪舎密(せいみ)局が開設した翌年、京都に同じ看板を持つ研究機関が産声を上げる。「京都舎密局」で、大阪舎密局でハラタマ博士から教育を受けた明石博高氏が局長を務めた。明治維新後、首都が東京へ遷都して衰退を懸念した京都府が設立した。
京都舎密局が発足したのは1870年。場所は京都市木屋町二条に流れる鴨川のほとり。その京都舎密局が所蔵する理化学機器に刺激を受けたのが、島津製作所を創業する初代島津源蔵だった。住居が京都舎密局のすぐ近くにあり、この距離が運命的な出合いを生む。
島津家は仏具製造が本業だった。明治維新後、廃仏毀釈などで仏具の需要が低迷するなか、活路を見いだしたのが実験器具だった。舎密局に出入りする源蔵を明石が知り、輸入器具の修理や製造を依頼する。源蔵も「これからの日本は科学がもり立てていく」と考えて、教育用理化学機器の製造工場「島津製作所」を1875年に創業する。
源蔵は舎密局の生徒ではなかったが、舎密局に着任したドイツ人化学者ゴットフリード・ワグネル博士から3年間にわたり西洋科学の指導を受けた。優れた実験器具を製造して、「西洋鍛冶屋」とも呼ばれた。
京都市中京区にある同社創業記念資料館には源蔵が製作した実験器具が展示されている。当時、世界でも珍しい実験器具も多く、京都市内の学校教育でも活用された。同資料館の川勝美早子主任は「京都の理化学教育は日本でもトップレベルだった」と説明する。
源蔵は科学立国の志を持ち、月刊誌「理化学的工芸雑誌」を創刊。師範学校の教師も務めるなど教育と実業の両面で尽力する。 
舎密(セーミ)局とワグネル博士
 明治初期、人づくり・物づくりの京の町を再興したドイツ人
舎密局が校区に
昭和五十四年(一九七九)に新採教員として赴任したのが、下京区の番組小学校として明治二年に開校した、後の立誠小学校(中京区木屋町蛸薬師下ル備前島町)でした。市政開始当時は、上京区と下京区だけで、区分け線は三条通りでした。三条通から上(かみ)(北)は旧銅駝校区、下(しも)(南)は立誠校区と呼び、体育振興会も二つあり秋の区民運動会も二回実施され、秋の日曜日に二回体育主任として、綱引きの大綱や、玉入れの紅白玉、ピストルや紙玉、バトン等を運んだものです。文化活動も別々に、そして「高瀬川保勝会」も三条通を境に、行事や取り組み・立て札・看板等も違い、旧番組小学校区の自主自立の意識がそれぞれに異なりつつ、高いことに常に驚いていました。
初めての家庭訪問で、元・銅駝中前を通った時に、校門横の「舎密局跡」の立て札1に気が付き、家庭訪問の時間を気にしつつ読んだのを覚えています。
小学生の時、何も知らず「ワグネル博士」の碑に登って遊び、高校生の時、彼が何をしたのかを新聞で知ったものの、舎密局がどこにあるのかも知らないままでした。
「舎密局て、この辺にあったんか」一人感動したものです。その後、木屋町二条角の「島津記念館と島津源三氏」のこと、また、市役所東側の「勧業場跡」、丸太町周辺の「女紅場」、「高瀬川の舟運」と「市電」のことなど、次々と校区内に江戸・幕末・明治維新の教材があふれていることに驚くのでした。
また、銅駝・立誠校区それぞれに地域の郷土史研究家の方が多く、勤務した五年間に、何度も訪問したり学校に招くなど多くのことを児童と共に学んだのでした。「舎密局」2は、シャミ局ではなく、「セーミ局」と読みます。オランダ語のセーミ(化学)が語源です。大阪府にもあったので、「京都(府)舎密局」3とも言われます。
「ドクトル・ワグネル」の碑
左京区神宮道二条の交差点南西角に派出所があります。そしてその南には岡崎の府立図書館が建っています。小学生の頃、週に一、二回はそこの付属児童図書館に通っていたのですが、近くのいろいろな小学校(粟田小・新洞小・錦林小等々)から顔見知りの友達が集まると外遊びが始まりました。
児童図書館のすぐ北の広場のようなところに、写真のように青銅版のはめられた大きな石造物4がありました。鬼ごっこ、リレー、すべり台。チェーンの綱渡りなど多目的に活用しました。真ん中の銅板は外国人の男性像5でした。
その男性が誰なのかが判ったのは、高校二年生の春でした。昭和四〇年二月一日から始まった京都新聞の新連載「京都百年」の一〇五号でした。新聞を見るなり、「アッあれや。知ってる」と口走りました。連載が始まった一号の「遷都さわぎ」から興味のある号だけ切りぬきをしていたのですが、それ以来最終の六〇〇号まで欠かさず切り抜いて、今でも残っています。
それ以来、京都舎密局と文中の「明治期の京の恩人ワグネル博士」が頭の中に刻まれました。銅板プレートの碑文6を紹介します。
『ドクトルゴッドフリード、ワグネル君ハ、獨逸(ドイツ)国ハノーヴェル州ノ人ナリ。維新ノ初(ハジメ)我邦(クニ)ニ来リ科学ヲ啓導シ、工藝ヲ掖進スルコト廿(20)餘年、殊ニ本市ニ於テ尤モ恩徳アリ。明治十一年君本府ノ聘ニ應ジ來テ、理化学ヲ医学校ニ、化学工藝ヲ舎密局ニ教授シ旁ラ陶磁七宝ノ著彩、琺瑯玻璃石鹸、薬物飲料ノ製造、色染ノ改善ニ及ビ、講演実習並ビ施シ、人才ノ造成産業ノ指導功效彰著官民永ク頼ル。大正十三年本市万国博覧会参加五十年記念博覧会ヲ岡崎公園ニ開ク。初メ本邦斯会ニ参加スルヤ君顧問ノ任ヲ帯ビテ本市ニ来リ。頗ル斡旋スル所アリ是ニ至テ市民益々君ノ功徳ヲ思ヒ、遂ニ遺容ヲ鋳テ貞石ニ嵌シ之ヲ会場ノ一隅ニ建ツ。庶幾ハクハ後昆瞻仰シテ長ニ 徳ヲ記念セムコトヲ、京都市長従三位勲二等、真淵鋭太郎誌ス』と記されています。
一八六九年(明治二)の東京遷都によって千年の都京都は衰退していきますが、欧米の最新の技術(人)と設備を導入して強力な産業振興策を展開しました。その第一人者として京都の人々が慕い感謝したことがよく表されています。
碑文の中の製品について調べてみました。舎密局ではいろいろな理化学の研究や実験が行われ、またその製品が売りだされたようです。
里没那垤(リモナーデ)公膳本酒(コウゼンポンス)依剥加良私酒(イホカラス)など清涼飲料をはじめ、石ケン、氷糖、七宝焼、陶磁器、ガラス、石版印刷、写真術など多種多様にわたっています。
膳本酒(コウゼンポンス)
里没那垤は「レモネード」、公膳本酒は「ラムネ」のことです。もとは「ポン!」といって開くことから「鉄砲水」と呼ばれていたそうですが、威勢も良く、すうっとした味から大人気で引っぱりだこになりました。このことから、公(おおやけ)の膳、つまり宴会の席には乾杯用に今のシャンペンのようにつき物で、味もすうっとした味なので公膳本酒7となったといわれています。御所、中山邸の佑井(さちのい)で育たれた明治天皇は、京都の水が大好きなこともあり「京のポンスはまだ届かぬか」と催促され、京都舎密局謹製の公膳本酒が「しばしばお買い上げの栄によくした」と言われています。ジュースやサイダー、コーラ等の登場までは、京都のみならず全国の人気モノで、今も区民運動会や保育園・幼稚園の運動会のプログラムに「ラムネ早飲み競争」があるのも当時からの行事の流れや伝統であるようです。
剥加良私酒(イホカラス)
これはビールのことで、ワグネルの母国ドイツのエキスポルトやボックビーヤからつけられたのではと考えられています。日本のビール麦の栽培は明治九年(一八七六)に北海道開拓使の札幌麦酒醸造所設立に伴い農家で始まりました。京都におけるビールの歴史は、やはり京都舎密局内で明治三年(一八七〇)にビール醸造の研究に始まります。舎密局内の理化学校での講義を受講した酒造業者も多かったようです。京都府では、明治十年(一八七七)には清水寺の音羽の滝の水を利用して府営の麦酒醸造所が建てられました。明治十年の天皇行幸の際に「扇印麦酒」と名付けたビールが献上されたという記録も残っています。「日本初のビール麦栽培の記念碑」があります。もともとは川岡小学校内に建てられていたのが阪急桂駅前8へ。そして今は京都市西京区大原野上羽町のJA京都中央会農協研修所内9に建っています。碑の正式名は「興産紀功之碑」と記され、幅一・四メートル、高さ約三メートルの大きな石碑です。阪急桂駅の周辺は、約一一〇年前ビール麦の産地でした。現在の川岡、川岡東、樫原の小学校区にあたる川岡村の農民が栽培を始めました。その時の農会長であった塩田助右衛門は、ビール麦の将来性にいち早く注目し、「川岡村ゴールデンメロン大麦作人組合」を立ち上げ、現アサヒビールとの契約栽培を提唱し、日本発のケースとなり、全国のモデルになりました。作人組合の誇らしげな自信にあふれた碑です。
石鹸
京都舎密局の平面図や写真を見ていると、三階建ての洋館に目が留まりますI。これが石鹸製造所で、初期の舎密局の事業として創立とともに石鹸製造に着手し、明治五年には製品を売り出しています。明治五年六月に発行された京都新聞に「石鹸の話」として次のような記事が載せられています。『石けんは、油とアルカリの化合したもので、上等のものは、飲めば胃を丈夫にし、便通を良くする。毎日浴用に使えば、身体が美しくなる。舶来品の中には、ヤシ油を使ったものがあり、品質の悪いのが多いが、ここで作ったのは上等で、薬用として飲んでも心配ない。値も安い。安心して使ってもらいたい』石鹸を作ったのも日本で初めてであるだけでなく、以上のようなコマーシャルにもそつのないところをみせ、明治五年に舎密局はこう公布しています。自信と意欲に満ちています。また、石鹸の製造は第一に薬用を目的にしましたが、もう一方では京都特産の絹織物の精錬に用いるという目的がありました。舎密局の中では、石鹸工場は三階建てで一番目立ち、製造への意欲が感じられます。後の京都府知事になる明石博高は、舎密局時代に絹の石鹸練を初めて採用し、織物染物の改良に努力したことも有名です。
七宝焼
僕が生まれ育った東山三条から白川橋、神宮道付近(昔の粟田口)には粟田焼、七宝焼、象嵌と呼ばれる伝統工業(工芸)の店Jが何軒もありました。外国からの観光客向きでした。特に「稲葉七宝店」は、毎日一回大型の観光バスが店先に駐車し、外国人観光客が何十人も店に入っていきました。店の同学年の少年が友達で三条通を挟んで向い合わせだったので、店先からショーウインドウ越しに色鮮やかな大型の壺や花瓶等を見ていました。ワグネル博士の碑文に「陶磁七宝」の文字を見つけ、生家近くの「稲葉七宝本社」に向かったのですが、本社はもうありませんでした。懐かしい「Inaba」の大きな屋根看板に再会したのは、白川橋東入堀池町の「並河七宝記念館」Kでした。「錦雲軒稲葉」の展示資料です。並河さんは、僕の生家の隣の町内でした。小川治平衛(造園家・植治(うえじ))の宅や苗畑があり、並河医院の看板のかかる「お医者」さんでした。何度も母の「お使い」で訪れました。「並河七宝記念館」として、所蔵品と邸宅・小川治平衛作の庭園が公開された時は非常に驚きました。先々代の靖之氏が一生涯かけ、当地で「七宝焼」に取り組んだのです。今回の取材で記念館を訪れ、学芸員の方にお話を伺いました。結果は「記録等にワグネル氏に会ったとか、直接指導を受けたことはないが、当時近隣であった稲葉氏との交流もあり、ワグネル氏が七宝に力を注いだ顔料・彩料色素の調合への関心や影響はあったはず」と語られました。今後の研究・調査が更に楽しみです。
ワグネル博士と島津源蔵親子(島津製作所)
一八三九年(天保一〇)、京都の仏具職人の家に生まれた初代島津源蔵は、三六才の時に独立し科学立国の理想に燃え、京都府が開設した舎密局、勧業場、栽培試験場、織工場などがあった木屋町二条界隈に、教育用理科学器械の製造業を始めました。一八七五年(明治八)のことです。現在の島津製作所の誕生です。
一八七八年(明治十一)京都舎密局に着任したワグネル博士の教えと影響を受けた多くの人々の中に、初代島津源蔵がいました。一八七七年(明治一〇)には、日本で初の有人水素気球の飛楊Lに成功しました。場所は現在の京都御苑の中で、その名は一躍全国に知られるようになりました。
現在木屋町二条に「島津製作所創業記念資料館」Mがあります。島津製作所の創業一〇〇年(昭和五〇)を記念して開設されましたが、その中の展示物に日本に現存する最古の足踏式木製旋盤Nがあります。開設には「ワグネル博士がウィーン万国博覧会から帰国する際持ち帰った物を、明治一四年京都を去る時、初代源蔵に譲り渡し、明治中期まで使用されたとのことです。舎密局を介したワグネル博士と初代島津源蔵の深い交流を今に伝えています。
二代目源蔵は、二五才で父の後をつぎ「ウィムシャースト感応起電機」の完成をする等「島津の電気」と呼ばれ、GSバッテリーのGは「GENZOU」のG、Sは「SHIMAZU」のSから名付けられました。また、レントゲン博士のX線発見の翌年の一八九六年(明治二九)にX線写真の撮影に成功するなどして、一九三〇年(昭和五)には日本一〇大発明家の一人に選ばれました。
 
ジョルジュ・ビゴー

 

Georges Ferdinand Bigot (1860〜1927)
漫画家、風刺画家(仏)
フランスの画家・漫画家。パリの名門エコール・デ・ボザールを退学し、挿絵画家となる。1882年来日、陸軍士官学校で講師をしながら、当時の日本の出来事を版画・スケッチなどの形で風刺画にあらわした。在日フランス人のための風刺漫画雑誌『トバエ』を創刊、日本を題材にした風刺漫画を多く発表した。ユニオシのような「出っ歯・メガネの日本人像」の創始者といえる。 
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フランス人の画家、漫画家。明治時代の日本で17年間にわたって活動をおこない、当時の日本の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる。署名は「美郷」「美好」ともある。
1860年にパリで生まれる。父は官吏、母はパリの名門出身の画家。母の影響を受けて幼い頃から絵を描き始める。4歳のとき妹が生まれ、8歳の時に父が亡くなる。1871年3月から5月にかけてのパリ・コミューンでは、その成立から崩壊にいたるまで、燃えさかるパリの街や戦闘・殺戮をスケッチしてまわっている。
1872年にエコール・デ・ボザールに入学して絵を学ぶが、家計を助けるために1876年に退学して挿絵の仕事を始める。在学中はジャン=レオン・ジェロームや肖像画で知られるカロリュス・デュランの指導を受けた。退学後、サロンに出入りして、日本美術愛好家として知られたフェリックス・ビュオやアンリ・ゲラールから日本美術についての知識を得、挿絵の仕事で出会ったエミール・ゾラやエドモン・ド・ゴンクールなどからもジャポニスムを知るようになる。1878年、フェリックス・レガメが旅行記『日本散策』を出版、同年のパリ万国博覧会では浮世絵と出会って興味を抱く。この頃銅版画の技法を学んだ。また1880年には美術研究家ルイ・ゴンスによる大著『日本美術』の挿絵を一部担当した。
1881年にはエミール・ゾラの小説「ナナ」の単行本向けに挿絵17枚を寄稿する(複数の挿絵画家の一人)。人気作品の挿絵を担当したように、フランスですでに一定の知名度を得ていたが、日本への思いは強く、渡航を決断する。当時陸軍大学校で教官を務めていた在日フランス人のプロスペール・フークの伝手を得て、この年の暮れにマルセイユ港を発ち、1882年(明治15年)の1月、21歳のときに来日した 。
風刺画家へ
当時は写真が技術的な信頼性に欠けていたため、陸軍士官学校では記録用に写生を正課として教えていた。ビゴーはフークの尽力と陸軍卿大山巌の紹介を得て、1882年10月から1884年10月までの2年間、お雇い外国人として絵画の講師に雇用され、安定した立場と高額の報酬を得ることができた。この間、日本の庶民の生活をスケッチした3冊の画集を自費出版している。日本の社会を知る目的もあって、遊郭にも出入りする生活であった。しかし、講師の契約が切れると洋画を教える場所はなかった。幸い、自費出版した画集は外国人居留地に住む外国人から好評を得たことから、ビゴーはその後も居留地の外国人(主にフランス人)向けに絵を描くことで日本に住み続けることとなった。
ビゴーは上記の通り浮世絵に興味を示し、来日後はその習得にも関心を示したが、深入りすることはなかった。それは、当時の日本では江戸期のような浮世絵がすでに作られなくなっていたことに加え、浮世絵に描かれた世界が庶民生活の中にはまだ残っていることに気づき、日本での生活から自らの芸術の題材を見つけようとしたためであった。ビゴーは当時の日本の世相を版画・スケッチなどの形でときには風刺も伴った絵にあらわした。当時の彼の作品には日本人が興味を持たなかった(当たり前すぎて題材にしなかった)ものも多く題材としており、今となっては貴重な資料ともなっている。
1885年と1886年から1887年の二度にわたって半年間、中江兆民の仏学塾でフランス語を教える。ビゴーは中江の門弟とも交流し、当時の自由民権運動の模様にも接することになる。1886年にはいったん帰国を検討するが、フランスの『ル・モンド・イリュストレ(フランス語版)』やイギリスの『ザ・グラフィック(英語版)』といった新聞から日本を題材とした報道画家の職を得たため、さらに滞在を延ばした。この頃には『団団珍聞』への漫画の寄稿(1885年)や『郵便報知新聞』に掲載された翻訳小説の挿絵(1886年)など、日本の大衆の目に触れる仕事もおこなうようになる。ビゴーはフランスでは漫画を描いたことはなく、日本で『団団珍聞』や『ジャパン・パンチ』(居留地向け)といった風刺画中心のメディアに接して、自らも漫画に進出した。ビゴーが残した風刺画の中には影絵の形式で複数のコマを並べてストーリーに仕立てたものがある。4コマ漫画との関連について、清水勲は、ビゴーは7〜10コマの複数のコマを使用しており、ビゴーが描いた4コマ漫画は日本の漫画家のものを筆写した例があるだけだと記している。とはいえ、清水は「ビゴーはヨーロッパの比較的長いコマ漫画のスタイルを日本にもたらした」とも評している。
報道画家の仕事で経済的な基盤ができたこともあり、1887年に居留フランス人向けの風刺漫画雑誌『トバエ』(TÔBAÉ)を創刊し、日本の政治を題材とする風刺漫画を多数発表した。特に、条約改正には当時の居留民に同調して時期尚早であるという立場を取る。当時の『トバエ』には中江兆民とその門弟も協力して日本語のキャプションを付けていた。彼らは政府批判という面で協力したとみられている。日本語のキャプションが付されたのは、ジャーナリストに影響を与えることを目的に日本の新聞社や雑誌に送付していたためであった。
なお、清水勲は、ビゴーが『トバエ』で主張したことについて、
1. 条約改正は時期尚早である。
2. 明治政府は国民の反対を押さえて条約改正を強行しようとしている。
3. 日本の近代化にはまだ時間がかかる。
の3点を指摘している。
居留地の外国人が商売相手で発行所も(治外法権のある)居留地とする一方、ビゴー自身は居留地に住むことはなく、日本人の生活を間近で知るために日本人の住む街並みに身を置いた。仏学塾で教えていた当時は麹町区二番町(現・東京都千代田区)に住み、1887年頃から1890年までは向島(現・墨田区)という、外国人としてはかなり辺鄙な場所に居住した。その背景には『トバエ』に掲載した風刺画による警察からの監視に身の危険を感じたり、壮士に気づかれるのを避けたいという事情もあった。1890年には牛込区市谷仲之町(現・新宿区)に再び転居する。ここは、ビゴーが来日初期から世話になった士族佐野清の居宅のある市谷本村町からは至近の距離にあった。
ビゴーの取材対象は政治に限らず、1888年の磐梯山噴火や1891年の濃尾地震、1896年の三陸大津波といった災害にも、上記の外国紙通信員として取材をおこなっている。磐梯山取材の際には写真の力を痛感し、自らも写真の技術を身につけた。濃尾地震では撮影した写真をもとに報道画を描いている。これらの報道画はビゴーが本来の画業で培った写実的なものである。
この間、ビゴーはフランスのサロンに油彩画を出品し続けた。しかし、若い頃に写実主義の影響を強く受けたまま祖国を離れたビゴーの画風は、印象派などの新しい流派が主流となったフランスでは時代遅れとなっており、度重なる出品にもかかわらず滞日当時は入選することはなかった。
マスとの結婚と日清戦争従軍
1889年で『トバエ』は休刊し、その後もビゴーは複数の風刺画雑誌を刊行した。しかし、大日本帝国憲法発布で自由民権運動が終息すると、条約改正問題を除けば日本の政治に関する風刺はほとんど見られなくなった。1893年には半年ほど京都市に滞在。これは大阪市や神戸市の外国人居留地へのセールスが目的であった。また、この時期に千葉県検見川村稲毛(現・千葉市稲毛区)にアトリエを構えて移り住み、帰国直前まで暮らすことになる。
1894年(明治27年)7月、34歳で士族の佐野清の三女・佐野マスと結婚した。マスは美しい切れ長の瞳を持つ美人でビゴーより17歳年下であった。ビゴーは日本への永住を考えていた。この頃、フランスから帰国して間もない黒田清輝と知り合った。ビゴーは日本で暮らすため、画壇の重要人物と目した黒田の知遇を得ようとした。しかし、最新の流派を学んで帰国した黒田と上記の通り古い写実主義で育ったビゴーでは絵画に対する考えに大きな違いがあり、結局二人は大喧嘩をして絶縁した。
同年8月に日清戦争が勃発すると、ビゴーは英紙『ザ・グラフィック』の特派員として陸軍に従軍。二度にわたって朝鮮半島や中国東北部を取材し、報道画を寄稿した。1度目は釜山・仁川・平壌と朝鮮国を北上し、10月下旬の鴨緑江作戦を取材して11月初旬に広島にもどり、約1か月間、新婚の妻マスと過ごして12月には再び中国戦線に出かけ、翌年にかけて満州を取材した。これらの絵は野戦病院や雑役に従事した軍夫など、日本のメディアが関心を向けない題材が描かれていた点で貴重なものである。また、従軍に際しては写真機を持参しており、約200点の写真を撮影している。ただし、日清戦争が終結すると外国紙への寄稿は次第に少なくなっていった。1895年(明治28年)にはまた、長男モーリスが誕生した。
フランス帰国まで
日清戦争の勝利により日本がアジアの中でその地位を高めたことで、ビゴーの風刺は日本を中心とした極東情勢が主なテーマとなっていった。同時にロシアに対抗するイギリスが日本への接近を図り、条約改正への流れは決定的となる。ビゴーが主な顧客としていた居留地の外国人が条約改正を嫌って離日すること、また写真の発達で報道画の仕事が激減したことで、ビゴーは生活の不安を抱えた。加えて、条約改正に伴い、外国人居留地と治外法権が撤廃されることで、従来のような居留地を根拠とした自由な出版活動が困難になることを予期していた。ビゴーはまた多くの居留外国人同様、日本の司法や警察に不信を抱いていた。
1899年(明治32年)6月、条約改正の発効1ヶ月前にビゴーはフランスに帰国した。39歳であった。夫人のマスとは離婚し、フランス国籍の長男は自らが引き取ってフランスに連れ帰った。マスとの関係については、のちに誕生した次女の回想として「離縁された」という証言があり、及川茂は「マスとの確執がビゴーの忍耐心を抑えられなくなったのである」と記している。
帰国直前に刊行した画集『1899年5月』は、日本への幻滅感を強く印象づける内容となっている。銅版画で日本を題材とした画集『ル・ジャポン』の刊行を企図したが、未刊行に終わった。
帰国後
帰国後の1899年12月にフランス人女性M・デプレと再婚。この妻との間には1904年までの間に2人の女子をもうけた。
1900年のパリ万国博覧会で「世界一周パノラマ館」の設計にかかわったとされる。このほかにも挿絵・漫画・ポスターなどの大衆画家として活動した。ただし及川茂は、ビゴーは帰国直後に若干の風刺画を手がけたものの、イラスト入りの新聞・雑誌の全盛期で多くの同業者がいた当時のフランスでビゴーの作品は読者の関心を呼ぶことができず、日本の情報を描くことに転じたと記している。
1903年には日本で暮らした稲毛海岸を題材にした油彩画がサロンに入選する。これはビゴーにとって生涯唯一の入選であったとみられている。この絵は画風に印象派のスタイルが取り入れられていた。 1904年に日露戦争が起きると『フィガロ』紙から特派員の仕事を打診されたが、次女の誕生直後だったためこれを断っている。その代わりに、日清戦争当時の取材経験をもとに想像したと推定される戦争画や日本を題材とした絵をフランスの新聞に寄稿した。ビゴーはこの頃まで日本通の画家として日本を扱った絵を多く手がけたが、日露戦争終結後は減少した。A・ド・ジェリオルの『大仏の耳の中で』(1904年)が、日本を題材にした彼の挿絵本の最後となる。
その後ビゴーは、大衆向けの販売促進を兼ねた娯楽出版物だったエピナール版画(フランス語版)の下絵を描く仕事をした。及川茂はその期間を1906年から1916年頃までと推定している。また、ビゴーが新聞・雑誌の挿絵から手を引いてこの仕事についた背景について、読者の求めるような題材をときには事実を曲げてでも描かねばならない挿絵よりも、そうした制約のないエピナール版画を選んだのではないかと推測している。ビゴーのエピナール版画の中には、他に例を見ない日本の昔話や風俗を扱ったものも少ないながら存在した。ビゴーの作品を同業者がコピーした例も多く、及川は「他のエピナール版画と比較して、ビゴーが絵画的に卓越していることは一目瞭然である」と評価している。しかし、エピナール版画は駄菓子屋などで子どもが購入するような安価な商品であり、芸術として評価される対象ではなかった。ビゴーの次女はその子ども(ビゴーの孫)にはこの仕事について全く語ることがなく、孫たちが1970年代に日仏のビゴー研究者から取材を受けた際にもそのことに触れなかったため、及川が1980年代にその事実を発見するまでは知られることがなかった。
晩年の彼はエソンヌ県のビエーヴル(Bièvres)の自宅に、ヨーロッパには自生しない竹を取り寄せて植えつけた小さな日本風の庭園を作り、その庭を眺めることを好んだ。1925年にはフランスの装飾芸術展に出品し、教育功労賞を受賞した。同じ年、マルセイユで発行されていた『ミディ・コロニアル・マリティム』という週刊新聞におよそ20年ぶりに挿絵の寄稿を再開する。この新聞はフランスの植民地に関する話題を主に取り扱っており、当時フランス領インドシナ総督となったアレクサンドル・ヴァレンヌ(フランス語版)を社会主義者として批判する論調を取っていた。ビゴーの挿絵は当初この論調に沿ったもので、のちには中国における共産主義運動も題材として取り上げている。1925年に日仏混血でフランス在住の山田キク(フランス語版)(1897 - 1975)が日本を題材にした小説『マサコ』を刊行すると強い興味を示し、手元の本に1ページずつ挿絵を入れることを試みた。死去により、『マサコ』の挿絵は下絵を含めて14図で途切れた。『ミディ・コロニアル・マリティム』に寄稿していた挿絵が、外部に発表した作品としては絶筆となった。
1927年、自宅の庭を散策中に、脳卒中で倒れ死去。67歳だった。
死後の再評価
戦前の日本ではビゴーの事績はほとんど知られることがなかった。これは、ビゴーの仕事の多くが居留地や海外の欧米人向けであったことや、生前に黒田清輝と絶縁してしまったことが影響している。日本の洋画界への影響に関しても、幕末に来日したチャールズ・ワーグマンとは異なり、洋画を本格的に志す日本人は自ら留学する時代になっており、ビゴーがその手本となることはなかったのである。
戦後、歴史学者の服部之総が主催する近代史研究会のテキストで、ビゴーの風刺画を多数紹介したことで日本国内にも広く知られることとなった。社会科の教科書にビゴーの絵が掲載されるようになったのもこれ以降である。日本の芸術史においても、漫画のほか、日本の銅版画家に影響を与えたことが指摘されている。
また、上記の通り及川茂によって、帰国後のエピナール版画の挿絵画家としての仕事が発掘され、及川は「ビゴーにはエピナール版画の中興の祖という言葉こそ相応しいと思う」と記している。
日本に対するスタンス
ビゴーの身長は160cmと欧米人としては低く、当時の日本人成人男性の平均とほぼ同じであった。清水勲は、このことで威圧感を与えずに日本人の中に入り込むことができたこと、また日本人の目線と変わらない絵の構図を獲得できたことを推定している。
ビゴーの描いた風刺画のうち、鹿鳴館や日清戦争を扱ったものは中学校や高校の社会科(歴史)教科書にしばしば教材として掲載されてなじみが深い。これらの絵では日本に対して辛辣な描き方がされている。これについて清水勲は、ビゴーは条約改正を尚早と考える点では居留地の外国人と同じスタンスに立っており、日本人の非近代的な側面を強調することでそれをアピールしようとした際に、貧相な容姿と非近代性をこじつけることが読者の理解を得やすいと考えたからだとしている。
ただし、ビゴーが批判したのは日本国家の皮相的な欧化主義であり、日本の伝統的な文化や庶民の営みには敬意と共感を抱いていた。子守の少女が鉢巻きを巻いた姿で遊ぶのを目にして「鉢巻きは赤ん坊の顔に髪が触れないための工夫で、少女が遊ぶことで赤ん坊も楽しめるという点で日本の子守は悧巧である」と感服したという日本人の証言が残されている。女性については『トバエ』の中で「日本で一番いいもの、それは女性だ。(中略)日本の女性に生まれたのだから、どうぞ日本の女性のままでいてもらいたい」と記し、絵においても上流階級の人々は別として、風刺の少ない絵を描いた。後には日本人女性と結婚している。この背景として、日本の女性がビゴーの求める日本的なものや江戸情緒を伝える存在だったからだと清水勲は記している。
1898年頃と推定される詩画集『横浜バラード』には、日本への幻滅(糞尿を運ぶ荷車の悪臭や、外国人には高額をふっかける日本の商売人)が歌われ、離日直前に刊行した画集『1899年5月』では条約改正後の日本に対する外国人の不安がストレートに表現されていた。しかし、フランス帰国後も亡くなるまで日本に対して愛着を抱き続けた。また、日本軍をよく知っていたビゴーは、日露戦争当時のフランスで「ロシア圧勝」という世論に同調しない数少ないフランス人でもあった。
欧米における日本人描写のステレオタイプとなった「つり目で出っ歯」という姿はビゴーの風刺画にも登場するが、その点について清水勲は「当時の日本人は現在に比べて国民全体の栄養状態が悪く、小柄で出っ歯の人が多かった。そうした日本人の姿が1867年のパリ万博で直に欧米人の目に触れたことと、ワーグマン、ビゴーなどの来日外国人の絵や当時の写真などの影響とによって広まり、欧米人の日本人観の一要因となったのではないか」といった意見を述べている。
一方、同じくステレオタイプとしてよく登場する眼鏡については、ビゴーは「一般的に言って、日本人の視力はたいへん悪い。日本では様々な形をした、また様々な色をした眼鏡をかけている人に出会う」と記している。清水勲は当時の日本人が「栄養状態が悪かったせいか、また家屋の作りから来る照明状態の悪さからか視力がよくなかった」ことと明治以降印刷物を読む機会が増えたことで、眼鏡を多くの人が使うようになったのではないかと推定している。ただし、ビゴーの絵に眼鏡をかけた人物は必ずしも多くない。清水も、昭和期以降の欧米での日本人像に眼鏡が多く出る理由には昭和天皇や東条英機といった眼鏡をかけた要人がいた影響を指摘している。
ビゴーが庶民をスケッチした絵では男女を問わずさまざまな人相・年齢・職業の人物を描き分けており、「日本人はみなつり目で出っ歯」という偏見をビゴー自身は抱いていなかった点は留意すべきである。
清水勲は、「ビゴーは反日家なのか親日家かと聞かれることがあるが、答えはもちろん親日家である」と述べている。
及川茂は、帰国後のビゴーは、当時フランスで見られたインドシナなど他の風俗と混交したようなでたらめな日本描写を快くは思わなかったが、それに立ち上がって抗議するような形での感情は日本に抱いていなかったとしている。及川はビゴーが「日本をエキゾチストではなく、生活の一部として生きてきた人間」であり、「日本と対決したり競い合ったり摩擦を感じたりするのではなく、あればあるがままに、なければなしでもやっていけた」という。滞日当時の日本は「そこで生活していれば批判の対象であり、揶揄の種であった」が、それはビゴーが初めて知った日本とは別物であったとする。帰国後のビゴーにとって日本は「いつも優しくそこにある国」で、素朴で自然で暖かい日本を自分の心の中にしまっておきたいという感情故に、ジャーナリズムの挿絵画家という職を捨てざるを得なかったと指摘している。
吉村和真は、マンガ表現に内在するステレオタイプとその起源に関する考察の一環として、ビゴーが鹿鳴館に行くため洋服を着る日本人を猿として描いた有名な絵を(ワーグマンの「日本では馬も眼鏡をかけている」という風刺画とともに)取り上げた。吉村はその中で、これらの図からは「眼鏡・出っ歯」や「猿顔・つり目」といった特徴を持った「当時の後発近代国家に属する「日本人」という<他者>の未開性を描くことによって、先発近代国家に属する(中略)<自己>の文明性を確認しようとする」二人の自他意識(「一等国民」としての自負)が看取され、それはビゴーが絵の片隅に書いた「名磨行(なまいき)」という文字にも如実に示されていると記している。吉村は、二人が日本人に偏見を持っていたとか当時の日本人は文明開化の意味を取り違えていたといった過去への断罪を主張したいわけではないと断った上で、これらの絵に描かれた「日本人」の視覚的イメージがその後のマンガ表現に与えた影響力の大きさを指摘している。また、二人がともに親日家で写実的なスケッチも数多く残している事実と合わせ、「これらの「日本人」描写を通じて浮き彫りとなる、彼らの視線が意味するところは複雑で重い」と述べている。
ビゴーは「反日家」ではなかった!
江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当にそうなのか?ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。『三流の維新 一流の江戸』が「プレジデント」書評でも取り上げられた著者に、「間違いだらけのビゴーの正体」についてはじめて聞いた。
原田伊織 / 作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。株式会社Jプロジェクト代表取締役。1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。主な著書に『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間』『大西郷という虚像』など。
間違いだらけのビゴーの正体
廃仏毀釈という我が国固有の文化を嬉々として自ら破壊する「維新人」の様(さま)を見て一番驚き、失望或いは怒りを覚えたのは、維新人が無条件に憧れ、尊敬した当の「文明開化人」、即ち、西洋人であった。
前にベルツの怒りを含んだ忠告に触れたが、廃仏毀釈に代表される自国の文化破壊を怒ったのは、勿論ベルツだけではない。
フランス人画家ジョルジュ・ビゴーもその一人である。
学校教科書でビゴーの絵を見た読者は多いことであろうが、このフランス人画家については、彼が居留民の外国人を主たる顧客としていたことや、貧相な日本人像を描いたことで“反日家”と捉える向きも多い。
しかし、それは全く間違っている。
士族の娘を妻に迎えたこの画家は、新興上流階級の日本人は辛辣な風刺画の対象としたが、庶民の伝統的な日々の生活スタイルには共感を抱き、敬意を払っていた。
彼が批判したのは新政府の皮相的ともいえる上っ面の欧化主義であったことは明白である。特に、彼にとって当時の日本女性は、江戸情緒を保ったままの、彼の求めてやまなかった日本的なるものを具現している存在であったのだ。
ビゴーはいう。「日本で一番いいもの、それは女性だ」 「せっかく日本の女性に生まれたのだから、日本の女性のままでいて欲しい」
さて平成の日本女性は、このビゴーの願いを何と聞くか。
このたび、『三流の維新 一流の江戸――「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』を渾身の気持ちをこめて書いた。江戸を描くのは初めてである。
江戸という時代は、明治近代政権によって全否定された。歴史から抹殺されたといっても過言ではない位置づけをされて、今日に至っているのである。
その存在力は、新政権の正統性を示すためだけに土深く埋められたといっていいだろう。
しかし、今、世界がこの「江戸」という時代とその様式、価値観に何かを求めて視線を当てている。
国内でも、リーマンショックで覚醒させられたかのように、無意識であろうが「江戸」へ回帰する「時代の気分」が、特に「江戸」が何たるかを全く知らないであろう若年層を中心に充満している。
私は、一連の著作に於いて、史実に忠実に従えば、明治維新とは民族としての過ちではなかったかと問いかけてきた。
これは、一度国家を壊しながらも今もなお政権を維持している薩長政権に対する問いかけでもある。
もし、明治維新が過ちであったとすれば、その最大の過ちが直前の時代である江戸を全否定したことである。
或いは、少なくとも江戸を全否定したことだけは、明白な過ちであったといえるのではないか。
本書は、その是非を問うことをメインテーマとするものではなく、埋められたままの江戸を一度掘り返してみて引き継ぐべきDNAを解き明かしてみようと試みるものである。
しかし、江戸は多様であり、多彩である。この拙い一篇の書き物で解き明かせるような貧弱な仕組みで成り立っていたものではない。
そのことを理解しながら、その一端でも掘り起こすことができれば、私たちが子どもたちの時代の「無事」のために何を為すべきかのヒントが得られるものと信じたい。
そして、世の諸賢が“寄ってたかって”全容を解明すれば、江戸は確かに未来構築の一つの指針になるであろうことを、私自身が固く信じたいのである。 
碧眼の浮世絵師
弱冠12歳でエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学を果たしたビゴーですが、アカデミーの世界に合わず16歳でジャーナリズムの世界へ転身。
来日前の作品
「城館」1881年8月30日 / この絵を見せられ、ビゴーの作品だを分かる人まずいないかと。それどころか、キャプションにちゃんと「ジョルジュ・ビゴー」の名が記されていてもまだ半信半疑。日本にやって来る以前にビゴーが描いた水彩画は今回が初公開だそうです。これらの作品から容易に「若いビゴーが優れた風景画家、風俗画家であることが分かります。」 またこの他にも美術学校を退学した後、パリで挿絵画家として活躍していた当時の作品も同時に展示公開されています。最も古いものは1879年の週刊新聞「現代生活」の挿絵だそうです。エミール・ゾラ「ナナ」の挿絵なども手掛けていたビゴー、アカデミズムの道は進まずとも独自路線を切り開きそれなりに名も知られた存在になっていたのでしょう。折しもパリでジャポニスムが流行。ビゴーも浮世絵等多くの日本美術に触発され、いつの間にか日本に対する憧れを抱くように。そんな矢先、フランスに視察に来ていた大山巌を自ら訪ね、1881年12月日本へ向かうことに。
日本滞在中の作品 1882-1899
1882年1月26日に横浜港に到着。同じ船には明治学院創設者のヘボンの名もあったそうです。来日直後のビゴーが見た日本を描いた傑作『あさ』(1883)、『おはよ』(1883)、『また』(1884)の3部作の銅版画集とそれらの集大成である『クロッキー・ジャポネ』(1886)を大きな核として紹介。ここで見逃せないのが、それらが描かれた年代。年を追うごとに、日本での生活が長くなるにつれ、僅かずつですがビゴーの日本人を捉える目に変化が。パリで浮世絵等を通し、イメージしていた「古き良き日本」の姿が、文明開化の大合唱と共に薄れ消え逝く姿を目の当たりに感じたからかもしれません。
「日本の近代化」を最も敏感に肌で感じ取った人物のひとりがビゴーであったことは、きっと相違ないことかと。日本に憧れフランスからわざわざやって来たにも関わらず、猛スピードで近代化=西洋化をしていく日本。ビゴーが陥ったジレンマ如何ほどのもであったか想像に難くありません。
そんなイライラに加え、ジャーナリスムが政府の監視下に置かれるなど、ビゴーを取り巻く環境は彼の意図しない方向へ駄々走り。「流れ」を変えることが出来ないと悟ったビゴーは政治風刺の雑誌『トバエ』(1887年)を刊行。この本の中に教科書でもお馴染みの「釣りの勝負」が収録されています。
検閲が厳しくなるまでは、流暢な日本語で台詞や解説も記されているので、余計に時間がかかります。(この日本語はビゴーだけが書いたものではなさそうです)
その後ビゴーは日本を発ちフランスへ帰国してしまいます。
「日本の官憲から目をつけられ、周辺の日本人の目はだんだん厳しいものに変わっていきました。あれほど愛していたはずの日本が、わずか10数年の間に驚くべき変容を遂げてしまっていました。彼が思い描いた方向とは正反対の方向で近代化を実現しつつあった日本は、もはやビゴーが骨を埋めたいと思っていた日本ではありませんでした。愛する妻と別れ、子供を連れてビゴーはパリに戻りました。」
帰国後の作品 1899-1927
パリでもまた、風刺挿絵画家としてジャーナリズムの世界に身を置くことに。しかし失った時間はあまりにも長かったようで、かつてのように仕事が入ってくることも無く、自らの存在価値を示すかのように、遠い島国「日本」の様子を雑誌の挿絵として描いています。
『旅の手帖』「相撲取りー東京の相撲興行」1903年 / また糊口をしのぐべく、様々な仕事も引き受けていたようです。しかし、パリ帰国後6年でお子さんの病気療養のためにパリを去り、郊外のビエーヴルに移住することに。パリを離れて暮らすこと。それはジャーナリストとしての終焉でもありました。これで、画家としての人生も終わりかと思いきや、実はここからが「碧眼の浮世絵師」ビゴーのビゴーたる所以となる仕事を得ます。
その仕事とは「エピナール版画」の下絵画家。
エピナール版画
エピナール版面とは、18世紀以来、フランス各地で発達した民衆版画の一種である。ドイツ国境に近いエピナールの町は、ロレーヌ州の州都として栄えたが、ここに根拠地を構えるペルラン社は、いち早く石版画で版画を刷る技術を採用し、さらにこれに手彩色あるいはポショワールとよばれる彩色法で、華やかな版画の製作を始めた。素朴な版画ではあるが、フランス各地を周る行商人が宣伝用のチラシとしてエピナール版画を使い、やがて各地の地方版画を駆逐して、フランス全国に流通するようになった。
民衆版画、客寄せチラシであるエピナール版画を描くことに、当初は抵抗もあったビゴー。しかし、次第にこの仕事に喜びを覚えるように。何せ何の制限もなく自由闊達に好きな絵を描けるわけです。それはビゴーにとって初めての経験だったのかもしれません。
エピナール版画「御姫様はどのように病気が治ったか」
当時エピナール版画は美術品としての価値などゼロに近く、版画としてもまともに取り扱ってくれるところなどなかった存在だったそうです。それはまさにビゴーが憧れた江戸時代に於いて、浮世絵の扱われ方と奇しくも重複します。
及川茂先生曰く「ビゴー自身次第に『浮世絵師』になっていったのでは」と。 
ジョルジュ・ビゴーと明治中期のカトリック教会
 在日フランス人における反教権主義について 
はじめに
明治日本で多数の諷刺画を製作したフランス人画家ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860–1927)がフランス帰国後に描いた作品に、二十世紀初頭のフランスの首相エミール・コンブ(Émile Combes)を対象にしたものがある。カトリックの修道士や修道女の追い立てられた姿が描かれているのは、共和政政府の政教分離政策として、コンブが一九〇四年にカトリック修道会系の私立学校の閉鎖という強硬的な措置を実施したことを扱ったものであるからである。作中、コンブ(左側手前)はカトリックの僧服(スータン)を着用した姿で描かれているが、これは、「獅子身中の虫」というキャプションにある通り、彼が神学校で学んで一時は聖職者を志した人物でありながら、後に教会から離れて反教権的な立場に立つ政治家になったことを示唆している。
この諷刺画は、ビゴーがフランスの共和政政府による世俗化政策に関心を抱いていたことを示すものであるが、彼がすでに明治時代の日本に滞在中、同国人のカトリック宣教師や修道士を諷刺の対象にしていた作品を発表していたことは、一般には殆んど知られていないのではないだろうか。研究者の間でもビゴーの反教権的諷刺画は関心を集めてきたとは言い難く、フランス人研究者のエレーヌ・コルヌヴァンがその存在を指摘しているのが目立つ程度である。本論は、明治日本で刊行されたビゴーの反教権的諷刺画の考察が、ビゴーその人の理解においても、彼の属していた在日フランス人社会の動向の把握においても、また、カトリック教会史研究においても、重要な意味をもつものであると考え、これらの作品の製作動機、内容、受容状況などを明らかにすることを目的としている。
パリ・コミューン弾圧後に成立した第三共和政下のフランスでは、カトリック教会を攻撃する諷刺画が盛んに製作されていたが、ビゴーの諷刺画は、本国から遠く離れた日本のフランス人社会でも、共和主義者によるカトリックへの批判が同時代に行われていたことを示すものである。もっとも、ビゴーは明治期の在日フランス人の中で最初に同国人のカトリック宣教師を攻撃した人物であったわけではなく、すでに彼の来日前、横浜外国人居留地のフランス語新聞は宣教師に対して活発に批判を行っていた。ビゴーの反教権的諷刺画も、彼個人の意見の表明であったと同時に、在日フランス人の間に存在していた反聖職者感情を代弁するという性格をもっていたのである。
十九世紀末、在日フランス人の全てが、同国人の宣教師に対して批判的であったわけではない。フランス第三共和政において、反教権主義の立場に立つ有力な共和派政治家であったレオン・ガンベッタ(Léon Gambetta)は「反教権主義は、輸出項目ではない」という著名な言葉を残しているが、当時のフランスの共和派政治家や外交関係者は、本国内の政教関係の緊張を別にして、国外ではカトリック教会と協力関係を取ることを厭わなかった。フランスの在日公使館も、日本で活動するフランスの宣教会や修道会と協調的な関係を結んでいる。
しかし、このようなフランス本国の共和派政治家の意向とは別に、国外のフランス人共同体において、カトリック教会への反感が存在しなかったわけではなかった。それ故に、フランス国外におけるフランス人共同体とカトリック教会の関係は、フランス本国のそれとは異なった多様な形態をとっている。日本では、十九世紀末の在日フランス人の反教権的批判は、フランス人宣教師を重用するフランス公使館にも及んでいた。
現在に至るまで、在日フランス人の反教権主義は日仏関係史やカトリック教会史の分野で研究対象として取り上げられることはなかった。しかし、十九世紀末、新聞や諷刺雑誌を通して繰り広げられた彼らの活動は、公使館やカトリック宣教師など当時の様々な人々を巻き込んだものであり、在日フランス人社会の歴史上、看過することのできない重要な出来事であったと考える。本論は、各種資料を用いて、在日フランス人の反教権主義的動向を具体的に明らかにし、ビゴーの諷刺活動をその動きの中で捉えることを試みた。
本論は、第一章で、一八八〇年前後、横浜のフランス語新聞により同国人のカトリック宣教師への批判が行われていたことに着目し、この時期、フランス人共同体の中の反教権的感情が表面化していたことを論じる。第二章では、ビゴーの諷刺雑誌『トバエ』に掲載されたマリア会の諷刺画を取り上げ、その作品が攻撃対象であったマリア会をはじめ関係者の注目を集めていたことを明らかにする。第三章で、仏領インドシナ植民地のフランス語新聞で、フランス駐日公使館と外交通訳官を務めていたフェリクス・エヴラール神父を批判する通信文が掲載されたことを取り上げ、続けてこの攻撃と連動する形で発表されたビゴーの諷刺雑誌『ル・ポタン』における反教
権的諷刺画を考察する。 
1 一八八〇年前後の在日フランス人社会における反教権主義
江戸幕府による禁教政策によって途絶えた日本におけるカトリック宣教は、幕末に来日したパリ外国宣教会(La Société des Missions Étrangères de Paris)によって再開されることになった。同会は、十七世紀中葉、パリで設立され、フランス語を母国語とする男子の在俗司祭から構成されていた宣教会である。一八七三年に長崎浦上のカトリック信徒に対する弾圧が終わりを告げると、パリ外国宣教会の宣教師は日本各地で布教を開始していった。彼らは、慈善や教育事業活動を発展させるため、フランスから男女の修道会を日本に呼び寄せ、男子の修道会ではマリア会が一八八七年末に来日している。このようにフランス系聖職者によるカトリック宣教の独占状況は、二十世紀初頭にフランス以外の国々からドミニコ会やイエズス会などが来日して活動を開始する時期まで続いたために、近代日本のカトリック教会は、大変フランス色の強いものとなった。
パリ外国宣教会の宣教師は、司牧や宣教の傍ら、各地の教会や学校でフランス語の授業を行うこともあり、日本におけるフランス文化の普及者としての一面をもっていた。彼らは、フランス人であると同時にカトリック宣教師であるという二重のアイデンティティをもっていたわけであるが、この二重性のため、反聖職者感情をもつフランス人からは、フランス人としての愛国心が欠如した人間として反感を向けられることもあった。
確認できる限り、在日フランス人の間から反教権主義批判がカトリック宣教師に向けられた最初の例は、一八七九年六月に創刊された横浜のフランス語新聞『クーリエ・ドュ・ジャポン』Le Courrier du Japon(『日本通信』。以下、本章では『クーリエ』と略)で展開された宣教師批判の記事である。この『クーリエ』は、一八七〇年に創刊された日本初のフランス語新聞『エコー・ドュ・ジャポン』L’ Echo du Japon(『日本の声』。以下、本章では『エコー』と略)の編集部から独立して刊行された新聞である。『クーリエ』を創設したオーギュスト・アルマン(August Harmand)が『エコー』の編集方針に大きな不満を感じていたことは間違いなく、その分裂の経緯からして、両紙は当初から対立関係にあり、紙面上で常に相手を攻撃しあっていた。一八八〇年当時、横浜のフランス人在住者は約百名ほどであり、澤護氏は、両紙の発行部数はそれぞれ百部にもみたなかったのではないかと推測している。両紙の間の中傷・誹謗の合戦は同時代者によく知られており、イギリス人画家チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman)の『ジャパン・パンチ』The Japan Punch でも度々取り上げられていた。当時、日本に旅行したフランス人も横浜のホテルでこれらの新聞を目にする機会があったようであり、旅行記で言及されていることも多い。
『クーリエ』はほとんど現存していないため、紙面内容を精細に調査することはできないが、『エコー』が折にふれて『クーリエ』に掲載された記事に言及して批判を加えているので、同紙の主張のおおよそを把握することは可能である。以下、『エコー』や各種の同時代資料を用いて、『クーリエ』の反教権的主張の内容を明らかにしていこう。
『クーリエ』は、創刊して間もない時期に、カトリック宣教師に対する批判を開始したようである。一八七九年十二月、北日本代牧区の副代牧フェリクス・ミドン(Félix Midon)は、『クーリエ』の編集部に抗議の書簡を送っているが、その冒頭で、ミドンは、フランス人宣教師に対する同紙の度々の非難に対して長らく放置してきたが、もはや見逃すことができないと判断し、抗議に踏み切ったと断っている。このミドンの書簡によると、『クーリエ』の批判は、パリ外国宣教会のフランス人宣教師の愛国心の欠如に向けられており、彼ら宣教師に対して、「聖職者であることを少し抑えて、より以上にフランス人であること」を求めたものであった。具体的には、『クーリエ』は、宣教師がフランス語教育に熱心に従事しないことを遺憾としていたらしい。ミドンは、『クーリエ』の編集部が宣教師の使命を誤解して、語学教育に十分従事しないことをもって批判することを不当とし、同紙が愛国者としての資格を独占することに異議を唱えている。
『エコー』が、このミドンの『クーリエ』に対する反論を是としていたことは、同紙に彼の抗議の書簡を転載して、好意的なコメントを付していたことからも明らかである。また、『エコー』には、このミドンの主張に賛意を示し、普仏戦争後、同宣教会のジャン=マリ・マラン(Jean-Marie Marin)とマルク・マリ・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)の両神父が祖国の敗北に涙を流したことを紹介して、彼らが愛国者であることを指摘する投書が掲載されている。『エコー』の経営者は、創業初期からカトリック教会に好意的であり、同社からは、一八七四年にエヴラールの日本語入門書が刊行され、一八八〇年にはマランの北日本旅行記、一八八一年と翌年に朝鮮のパリ外国宣教会の宣教師の執筆した仏韓辞典と文法書など宣教師の様々な仏文の著書が出版されている。
『クーリエ』が宣教師に対する批判を試みた理由の一つは、『エコー』と差別化をはかるため、同紙のカトリック教会寄りの姿勢とは異なった編集方針を打ち出す必要に迫られていたためであろう。『クーリエ』は、カトリック教会に好意的な『エコー』の姿勢それ自体を非難することもあり、東京の大火による被災者の救援のため、エヴラール神父が寄付金を募った広告を『エコー』に掲載した時、これを揶揄するような記事を載せていたようである。このような『クーリエ』の対応を考えると、同紙がカトリック宣教師に対してフランス語教育への一層の従事を求めたのも、宣教師に対して好意的な立場から行われた提言というよりも、彼らを非愛国者として読者に印象づける底意があって行われたものではないかとも考えられる。
『クーリエ』の宣教師批判が高潮したのは、一八八〇年八月、マラン神父が横浜の教会の説教でフランス政府を非難する発言を行ったという理由で、彼を批判する一連のキャンぺーンを実施した時である。この時、『クーリエ』は、マランを横浜から放逐するために、読者にその旨を記した請願書を横浜のフランス領事館に提出するよう呼び掛けていた。一方、『エコー』は、マランを非愛国者と決めつける『クーリエ』の論調に対して、マランを擁護し、その批判が根拠のないものであることを強調している。フランスの横浜領事ジュール・ジュスラン(Jules Jouslain)は、両者の争いの過熱により、フランス人共同体が分裂することを懸念していた。宣教会のマランの上長らは、彼の無辜を信じていたが、最終的に横浜の教会の司祭職から彼を外して転任させることを余儀なくされた。この「マラン事件L’affaire Marin」と呼ばれる騒動の翌年、マランはフランスに帰国しているが、それはこの『クーリエ』による一連の攻撃とは無縁でなかったであろう。このようにフランス人宣教師が同国人から新聞紙上で盛んに批判を受けたことは、約四十年後、宣教雑誌に掲載された在日宣教師の手になる記事にも触れられており、この事件が、日本の教会で先達の神父が理不尽な非難を浴びた出来事として長らく記憶され続けていたことが理解できる。
『エコー』と『クーリエ』は、宣教師に対する評価を含めて様々な面に亘って対立していたが、当時の在日フランス人共同体の規模がそれほど大きくなかったことを考えると、それぞれの紙面構成は限られた読者層の反応を強く意識するものであったはずであり、両紙の論調には、在日フランス人社会の内部に存在していた構成員の政治・社会観の対立関係が相当反映されていたのではないかと考えられる。一八八〇年代初頭、横浜フランス領事館の副領事を務めていたルイ・バスティード(Louis Bastide)は、『エコー』の共同経営者の一人であったステファンヌ・サラベル(Stéphane Sarabelle)と懇意にしていた人物であったが、両フランス語新聞の特徴を評して、それぞれ共和派の立場に立つ新聞であるが、『クーリエ』は、リベラリズムに傾斜しすぎていると述べている。この彼の評価は、敷衍してみれば、『エコー』が保守的な穏健共和派の立場を代表したものであるのに対し、後発紙の『クーリエ』が『エコー』に対して急進的共和主義の立場から主張を行い、同様の政治思想をもつ在日フランス人の支持を調達しようとしたことを指摘したものといえる。
ただ、当時の横浜在住のフランス人は、『エコー』派と『クーリエ』派の間で二極化されていたわけではなく、この両者の誹謗合戦に嫌悪を感じていたものも存在していた。あるフランス人は、『エコー』への投書で、両紙の対立をフランス人として遺憾に思うと書いているが、興味深いのは、この投書者が自身の中立性を表明するにあたって、「自分は、イエズス会士(jésuite)でも、コミュナール(communard)でもない」とその独立の立場を強調していることである。この文章において、「イエズス会士」が、カトリック教会に好意的な『エコー』とその支持者を指し、「コミュナール」が教会に対して反感をもっていた『クーリエ』とその読者をあらわしていることは疑いがない。後にみるように(第三章)、ビゴーは、『ル・ポタン』の諷刺画で、「コミュナール」を登場させ、パリ外国宣教会の宣教師を「イエズス会士」に見立てて両者を対立させているが、このような用例は、当時の在日フランス人の間で、「イエズス会士」と「コミュナール」が、それぞれ親教会派と反教会派を意味する符牒として流通していたことを示している。また、「コミュナール」の語が人物類型として用いられている事実は、当時の在日フランス人社会においてパリ・コミューンの記憶が生々しく残っていたことを物語っていよう。
『クーリエ』は、一八八二年、創刊から約三年の後に廃刊となり、反教権主義的主張の発表媒体は失われることになったが、この新聞の廃刊によって在日フランス人社会の間の反聖職者感情が消え去ったわけではない。次章で、『クーリエ』の廃刊した時期に来日したビゴーが、一八八八年、彼の代表的な諷刺雑誌『トバエ』で行ったカトリック修道会に対する批判を考察することにしよう。 
2 『トバエ』の諷刺画とマリア会
フランスにおけるジャポニスム熱の高まりを通して日本に関心を抱いたビゴーが、日本絵画を学ぶために来日したのは、一八八二年、彼が二十二歳の時である。当初の予定に反して、彼の日本滞在は長期化していったが、その間に、彼が東京と横浜に在住する過去の『クーリエ』支持層とも親しくなる機会をもっていたことは十分考えられる。
ビゴーの祖父は、シャンソニエのピエール=ジャン・ド・ベランジェ(Pierre-Jean de Béranger)と友人であったが、この名高い共和派の民衆詩人は、その作品でイエズス会を攻撃し、反教権的な主張を謳った人物であった。パリ・コミューン時代、十歳前後の子供であったビゴーは、コミュナールに交わって、彼らをスケッチしていたといわれるが、これらの事実から考えて、ビゴーの生家は恐らく共和主義者の家系であり、彼は幼時から反教権的感情を養っていたものと思われる。
確認出来る限り、ビゴーが行った最初のカトリック聖職者に対する批判は、『トバエTôbaé』第二期、第四一号(一八八八年十月十五日)に掲載されたマリア会La Société de Marie の修道士を標的にした二枚の諷刺画である。マリア会は、一八一七年にボルドーで設立された教育系修道会であるが、同会は日本におけるカトリック教育事業の発展の必要性を認めていたパリ外国宣教会の依頼に応えて会員の派遣を決定し、最初に一八八七年末から翌年初頭にかけて五名の修道士(フランス人四名、アメリカ人一名)が日本に到着した。このビゴーの諷刺画が発行された時期は、マリア会の修道士が来日して一年にも満たない同会の活動の草創期にあたり、東京に設立された暁星学校が日本政府の認可を受けてまもない頃であった。
なお、ビゴーは、『トバエ』と『ル・ポタン』の両者で、マリア会を取り上げる際、常に「マリストMariste」の語を用いている。La Société de Marie という名前をもつカトリック修道会には、上記のボルドーで設立されたものとは別に、一八一六年にリヨンに設立された男子修道会(日本では「マリスト会」と呼ばれ、一九五一年に来日した)が存在する。一般にはこの同名の両修道会を区別するため、マリスト会の修道士には「マリストMariste」の語が、マリア会の修道士には「マリアニストMarianiste」の語が用いられている。ただ、マリア会の修道士に対しても、「マリストMariste」の語が使われることがあるので、厳密に二つの語が使い分けられているわけではない。マリア会の修道士を指して「マリストMariste」と呼ぶ用例は当時にもみられること、また、教会関係者の間でも両修道会が時に混同されることのあることを考えれば、ビゴーが諷刺的意図とは無縁に、マリア会の修道士を指して、「マリストMariste」の語を用いていたと考えても間違いはないだろう。以下、両修道会の混同をさけるために、ビゴーが「マリストMariste」の語を使用していたときでも、我々は「マリア会」を批判したものと考えて訳していく。
『トバエ』に掲載されたマリア会の諷刺画の一枚目は、「現代日本(カラス)」“Le Japon moderne(Les Corbeaux)” 及び「マリア会主義の到来」“Arrivage du Marisme” という題をもつ画である。一群のカラスとともに、十字架を持った聖職者たちが日本に飛んでくる姿が描かれている。タイトルに「カラス」とあるように、マリア会の修道士はカラスに擬せられている。カラスは、その黒色の容姿が黒衣の僧服を連想させ、鳴き声がフランス語の十字架「Croix(クロワ)」の発音に近似しているので、カトリックの聖職者を寓意する動物として、フランスの諷刺作品でよく使われていた。また、このビゴーの諷刺画では、マリア会士が太陽の「光」(Lumière =啓蒙)を遮るように描かれているが、このような構図は、「進歩」を阻害するカトリック教会の反動性を強調しようとする反教権的諷刺画で好んで用いられたものである。
マリア会に対する二枚目の諷刺画は、「日本のマリア会士(アリアンス・フランセーズにて)」という題の画である。作中では、マリア会士が彼らの学校で日本の男女の子供たちを前に教えている。現実の暁星学校は男子校であり、当時はまだ夜間部に語学を学びにくる生徒の方が多かったのが実情であったが、この諷刺画では日本人の男女の子供が教室で学んでいる。この子供たちが善良な幼子に描かれているのは、マリア会修道士の悪辣さと対比させようとする意図がビゴーにあったからであろう。
フランス語のキャプションと日本語のキャプションは、下記の通りである。後者は、日本人協力者の手になったものと考えられる。
フランス語キャプション
   ・・・・・
「フランス学校 ……ここではドイツ語と英語を教える。
それで喜んでいるアリアンス・フランセーズもいい面の皮だ。あとは助成金を交付するばかり、そうなれば言うことなしだ(全く情けない)。だが絶望してはならない(ドイツ人やイギリス人がどんなに笑っていることだろう)」(芳賀徹他編『ビゴー素描コレクション:明治の世相』第二巻、岩波書店、一九八九年、八七頁の訳文による)
日本語キャプション
「甲 子供等がみんな独逸や英吉利ばかり稽古するやうに成あたら堂しよ ほんとにそをなりやすまない祢へ
 乙 どこえ
 甲 マリスト商会えさ」
この諷刺画の主題に関して、清水勲氏は、「フランス語の凋落、ドイツ語・英語の隆盛の象徴的様相を描く」と解説している。ビゴーが日本におけるフランス語教育の現状に関してこのような危機感を抱いていたことは清水氏の指摘通りであるが、この諷刺画の解釈としては、日本の外国語教育に関する「象徴的様相」を描いた作品とみるよりも、マリア会の教育事業に向けて直接的な批判を試みた作品として捉えるべきであろう。英語やドイツ語を教えるようなフランス系カトリック修道会の学校に、アリアンス・フランセーズが補助金を与えるのは馬鹿げているというのが、ビゴーの主張であったと考えられる。
アリアンス・フランセーズは、一八八三年、フランス国外におけるフランス語とフランス文化の普及を目的にしてパリで創設された団体である。同団体の会報によると、ビゴーは一八八六年に日本支部に加入しているが、この事実はビゴーが日本におけるフランス語教育の発展に強い関心を抱いていたことを示している。彼は、一八八五年と八六年に中江兆民が主宰した仏学塾でフランス語教師を務めており、この仕事を通じてフランス語教育の現状に関心を寄せるようになったと想像されるが、また彼のアリアンス・フランセーズの入会には、日本においてフランスの影響力を向上させるという愛国心的動機とも関わっていたことは間違いない。
ただ、アリアンス・フランセーズは、非宗教的な組織であったが、海外におけるカトリック宣教師や修道女たちによるフランス語教育を高く評価していた。日本に関しても例外ではなく、同会の会報では、マリア会や女子修道会のフランス語教育活動を評価する記事が多数掲載されている。また、マリア会の初代日本管区長で暁星学校の初代校長になるアルフォンス・ヘンリック(Alphonse Heinrich)は、すでに来日前、日本支部の委員になることを推薦されていた。ビゴーは、会員であっただけに、アリアンス・フランセーズがカトリック修道会に好意的な姿勢を取ることに関しては、裏切られた気持ちになったとしてもおかしくはない。
『トバエ』に掲載されたマリア会に対する諷刺画は、刊行時、諷刺の対象となった同会の注意を引いていた。一八八八年十一月三日、ヘンリックは、マリア会本部に宛てた手紙で、次のように書いている。
「東京に住むあるフランス人諷刺画家が、我々のことを諷刺画に描きました。この人物は、革命派(un rouge)で、愛国者ーー彼なりの流儀にではありますがーーです。(中略)もし、この雑誌が手に入りましたら、あなたのもとに送りましょう。フランス公使は、外国人公使の方々や皇帝(empereur)にいたるまで、あらゆる真面目で尊敬すべき人物にまで攻撃を加えるこの諷刺画家に対して大変ご立腹です。もし彼がこれ以上フランスやフランス人の事業に対して攻撃を続けるなら、すぐさま次のフランス本国行きの船に放り込まれて送還されることになるでしょう。彼は、我々を諷刺画に採り上げることによって貢献してくれました。というのも、彼は、我々を日本の大臣や諸外国の公使達と同じ陣営に含めてくれたのですから。それは、ばかにすべきことではありません。彼は、日本人の間にフランス語の学校でドイツ語や英語も学べることを知らしめてくれました。このことは、当初なかなかよく理解してもらえないことでした」
この文面から、へンリックが同国人からの思いがけない諷刺攻撃に反発を覚えながらも、作者を札付きの人物とみなして、彼の諷刺画を受け流そうとする態度がうかがえる。この手紙の送付時、彼は諷刺画を所持していなかったように思われるが、内容を詳しく描写しているので、それ以前に作品を目にする機会があったのであろう。ただ、ビゴーの諷刺画に関して、彼は、帽子を被ったマリア会士が描かれているという誤った説明を行っていたり、表題に関して「カラスの侵攻invasion des corbeaux」と間違えて紹介していることが確認できる。このような細部の誤りは、手紙の落ち着いた筆致にもかかわらず、この絵を見たときに彼が心穏やかではいられなかったことを示しているように思われる。
また、このへンリックの手紙は、当時のフランス駐日公使ジョセフ・アダム・シェンキヴィッチ(Joseph Adam Sienkiewicz)が、ビゴーの諷刺活動に対して不快感を覚えていたことを伝えている。シェンキヴィッチは、カトリック教会に大変好意的であり、マリア会の来日に対しても積極的に協力し、同会の教育活動が日本でフランス語やフランス文化の普及に貢献することを期待していた人物であった。恐らく、彼自身も、『トバエ』でしばしば諷刺に取り上げられていたため、心中、ビゴーの存在を不愉快に感じていたのであろう。なお、シェンキヴィッチは、一八九一年九月に書かれた本省宛の外交報告で、暁星学校に対する偏見に満ちた敵意から、同校においてドイツ語がフランス語と同等の地位で教えられていると非難するものがいると記しているが、恐らくこの時、彼はビゴーのことを念頭に置いていたのではないかと思われる。
このビゴーの諷刺画は、刊行後も教会関係者の間で忘れ去られることはなかった。暁星学校の設立から二十周年を迎えた一九〇八年、フランス在住の二人の教会人が日本におけるマリア会の教育活動の成果に祝意を表するなか、ビゴーの諷刺画に言及しているのが確認できる。一つは、マリア会のピエール・ルボン(Pierre Lebon)がパリの日仏協会(Société franco-japonaise de Paris)で行った講演であり、もう一方は、パリ外国宣教会員のピエール・コンパニョン(Pierre Compagnon)が『パリ外国宣教会年報』Annales des Missions Etrangères de Paris に発表した論考である。それぞれ日本におけるマリア会の教育事業の発展を来日当初に遡って論じるなか、同会の活動初期における思わぬ妨害者としてビゴーに触れている。ともに同年に発表されたものとはいえ、両者がビゴーの諷刺画に関して述べた内容は異なっているので、一方が他方をそのまま参考にしたものとは考えられず、二人がマリア会の活動に関して論じた際に、それぞれ独立してビゴーの作品に言及したものと考えられる。
ルボンもコンパニョンもともにビゴーの名前を挙げておらず、日本在住のフランス人諷刺画家という表現に留めているが、その扱いに彼らのビゴーへの蔑視をみてとることができよう。ただ、ビゴーの諷刺画の発表から二十年の歳月を経ていることもあり、二人とも諷刺画に関して正確さを欠いた紹介をしている。ルボンは、ヘンリックと同様、ビゴーの諷刺画を通して、日本人は暁星学校がフランス語のみを教える学校ではないということを知ることができたと皮肉交じりに指摘しているが、もう一枚の諷刺画の説明において、表題を「マリア会主義の侵入(Invasion)」(傍点、引用者)と誤って紹介している。また、コンパニョンの方は、諷刺画の掲載紙の名前を誤って『ル・ポタン』と紹介している。後述(第三章)するように、この『ル・ポタン』は、パリ外国宣教会の宣教師フェリクス・エヴラール神父に対するビゴーの諷刺画が掲載された雑誌であり、コンパニョンは、恐らくこの雑誌の印象が強かったため、ビゴーのマリア会に対する諷刺画に言及する際、この雑誌の名を挙げてしまったのではないかと考えられる。
このマリア会に対するビゴーの諷刺画は、さらに刊行後、半世紀を過ぎた時期にも言及されていることが確認できる。『日仏協会会報』の編集者であったエドゥアール・クラヴェリー(Édouard Clavery)は、一九四〇年に刊行された極東問題に関する彼の著作で、作家クロード・ファレール(Claude Farrere)の来日と暁星学校への訪問に触れ、その箇所でビゴーの同校に対する諷刺画を紹介している。彼は、ヘンリックやルボンと同様に、ビゴーの作品が、その意に反して、暁星学校の語学教育の宣伝になったのではないかと指摘している。ただ、クラヴェリーもこの諷刺画に関して正確な紹介を行っておらず、作中に「English spoken, man spricht deutsh(当校では)英語、ドイツ語を話します」という記載があるというように、誤って説明している点が見受けられる。
クラヴェリーは、編集者として『日仏協会会報』に掲載された過去のルボンの論に目を通していたことは疑えないが、彼はまた日本の版画に深い関心をもつ人物であったので、ビゴーの作品を過去に直接観る機会があったのであろう。教会関係者たちが、ビゴーに言及する時、彼の実名を伏せていたのに対し、クラヴェリーはビゴーの名前を挙げており、彼を才能ある画家と書いている。
以上に見てきたごとく、マリア会に対するビゴーの諷刺は、暁星学校の草創期の一挿話として、一部のフランス人の間で後々に至るまで記憶に残り続けていた。作品の言及において細かい誤りが認められるのは、時の経過によって記憶が変容していたためであろうが、ビゴーの諷刺のメッセージは、イメージとして忠実に読み手に伝わっていたことが確認できる。活字上の諷刺ならこのように長期に亘って記憶に留められることは難しかったであろうことを考えると、視覚的手段を用いた彼の諷刺は、読み手に強い印象を与えることにおいて、十分成功していたといえるであろう。
もっとも、この事実は彼の諷刺画が読み手に対して説得力をもちえていたかどうかとは別の問題である。ビゴーの批判はマリア会の教育活動がフランスの国益に反しているというナショナリズムの観点から行われていたが、暁星学校のフランス語教育が戦前の日本でフランス文化の普及に果たした功績を考えると、このような批判は的はずれなものであったというほかはない。ただ、ビゴーがマリア会の教育事業が始まった当初に批判を加えていたことは、同校の教育がもたらした実際の成果を確認する以前に、彼が諷刺を実行したことを意味している。恐らく、その諷刺画の製作は、マリア会の来日を機に、彼のカトリック教会への旧来の反感を呼び起こされた結果、行われたものと考えることができるであろう。事実、ビゴーの反教権的批判はこの一作にとどまらず、その約四年後に刊行された『ル・ポタン』においてさらに強烈な形で発せられることになる。 
3 『ル・ポタン』のエヴラール神父批判
『クーリエ・ドュ・ジャポン』で行われたカトリック宣教師批判から約十年後の一八九〇年代初頭、仏領インドシナのフランス語新聞の紙上には、在日フランス人宣教師を批判する匿名の通信文が頻繁に掲載されていた。これらの記事で主要な批判対象になったのが、パリ外国宣教会のフェリクス・エヴラール神父(Félix Evrard, 1844–1919)である。ビゴーは、仏領インドシナの新聞によるこれらの批判記事と連動する形で、一八九二年の初夏から年末にかけて、彼の諷刺雑誌『ル・ポタン』において、エヴラールを標的とする諷刺画の連作を発表している。
エヴラールが在日フランス人の一部から敵視されたのは、カトリック神父でありながら、共和国フランスの外交に深く関わることが可能な通訳という職務に就いていたことが、彼らの疑惑を招いたためである。パリ外国宣教会の宣教師には、その優れた現地語の知識を生かして、極東のフランス外交に関わった人物がいるが、幕末のフランスの対日外交に深く関わったウージェーヌ= エマニュエル・メルメ・カション(Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon)もその一人であった。イギリス人画家チャールズ・ワーグマンは、『ジャパン・パンチ』でメルメ・カションを諷刺の対象にしているが、諷刺画で取り上げられた当時、彼はすでにパリ外国宣教会を退会して宣教事業から離れており、ワーグマンは、フランス人外交団の一員としての彼に関心があったにすぎなかった。それに対し、エヴラールに対するビゴーの諷刺は、その対象がカトリック教会の関係者であることと切り離しえなかった。
本章では、先ず、一八九〇年代初頭、横浜の反教権主義者の憎悪の対象になったエヴラールの人物像を明らかにし、次に、仏領インドシナのフランス語新聞『アンデパンダンス・トンキノワーズ』Indépendance Tonkinoise(『トンキンの自立』)と『クーリエ・ダイフォン』Courrier d’Haiphong(『ハイフォン通信』)に掲載された通信文によるエヴラール批判を取り上げる。続いて、反教権主義者の活動に対するフランス公使館の対応を取り上げ、最後に『ル・ポタン』の諷刺画の考察を試みる。 
3-1 フェリクス・エヴラールと近代日本
フェリクス・エヴラールは、一八六七年、幕末の動乱期に来日したカトリック宣教師の一人である。一八四四年、フランスのメッス司教区内のラ・マクスに生まれ、一八六四年にパリ外国宣教会に入会した。現在ではほぼ忘れられた人物であり、彼を扱った伝記類も存在しないが、もし一般にその名が知られているとしたら、原敬がカトリック信者であった青年時代、フランス語を学ぶために学僕として仕えた神父としてであろう。キリスト教の禁制時代に活動を開始したエヴラールは、一九一九年に横浜で没するまで、日本のカトリック宣教に生涯を捧げた人物であった。教会では周囲の信望を集めた有能な神父であり、一九〇八年に、東京大司教区の副司教という要職に就いている。
カトリック雑誌『声』は、一九四一年十一月(第七八九号)に、「フェリックス・エヴラル師の追憶」という小特集を組んでいるが、ここに集められた信者の回想からうかがえるのは、きわめて質素な生活を送り、自己を厳しく律する高徳の神父の像である。パリ外国宣教会本部の神学校で、エヴラールと同窓であったエメ・ヴィリオン(Aimé Villion)神父は、その自伝で、自分が精神的な苦境に陥ってフランスに帰ることを考えた時、エヴラールが親身になって励ましてくれたおかげで、帰国を思いとどまったことを語っている。管見の限り、カトリック教会の関連文献で、エヴラールを批判的に言及しているものはみあたらない。
エヴラールの人物像を知る参考に、教会関係者以外による証言を二つ取り上げてみよう。一八七四年、新潟までの旅行中にエヴラールと同道したフランス人医師ジャン・ヴィダル(Jean Vidal)は、彼を日本語能力に富んだ「気品のある神父」で、「超人的な仕事」をこなす人物であると賞賛している。また、時代は下るが、カトリック宣教師と交際のあったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)は、日記(一九〇四年一月十八日)で、エヴラールに関して、「彼が事実、いかに目的のためには手段を選ばないかを見ると、個人としては自分も好感が持てない。だがしかし、かれが自己の使命に身を捧げる忘我的態度には、全くの感嘆のほかはない」と評している箇所がある。ヴィダルからは日本語に堪能で、知力と実行力を兼ね備えた人物として評価を受けているエヴラールであるが、このベルツの評言からは、傍から彼が強引な性格の人物にみられることもあったことがうかがえる。
エヴラールは、在日外国人の中で知識人として認められていた人物であった。イギリス人のジャパノロジストとも親しく、バシル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)は、『日本事物誌』Things Japanese(初版、一八九〇年)の序文で、「キリスト教宣教」の項目の原稿を引き受けた彼に謝辞を述べている。また、アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)は、在日英国公使時代(一八九五―一九〇〇年)、エヴラールと親交があり、キリシタン時代の研究に関して彼に度々助言を仰いでいる。
また、エヴラールは、時事・社会問題に通じた外国人として、日本の新聞社などから、折に触れて意見や感想(内地雑居問題や韓国併合、教皇庁に関わる外交問題、明治天皇の崩御など)を求められていた。エヴラールの出版物としては、横浜の「エコー・ドュ・ジャポン」社から、日本語学習の手引き書を出版しているほか、明治時
代の欧文絵本の「ちりめん本」で、昔話『桃太郎』のフランス語訳を担当している。
エヴラールがこのように幅広い人間関係に恵まれていたのは、彼が、一八七五年から一八九三年まで、司牧活動のかたわらに在日フランス公使館で通訳官を務めていたことが大きかった。エヴラールが公使館で重用されたのは、彼の日本語能力が他の通訳官に比べて抜きんでていたこと、そして彼の人格が高く評価されたことによる。シェンキヴィッチ公使やヴィクトール・コラン・ド・プランシー代理公使は、エヴラールの長年に亘る真摯な働きに報いるため、レジオン・ドヌール勲章を授与させたいと願っていた。
しかし、エヴラール個人は、公使館の通訳業務を好んでいたわけではなかった。その仕事が彼から司牧に費やす時間を大幅に奪うことになったがためであり、神父と親しかった信者の回想によると、後年、彼は、「日本に来てから、二十年を無駄にした」ことを語っていたようである。通訳官としての出仕は、エヴラールに日本の法律に精通させることになり、また、彼に各界の有力者との人脈を作る機会を与えるなどカトリック教会に様々な益をもたらしたことも事実であるが、宣教会にとっては、フランス外交の補助業務にエヴラールをとられるよりも、彼を直接教会のために貢献させるほうがはるかに望ましかったのであろう。シェンキヴィッチは、ピエール・マリ・オズーフ(Pierre Marie Osouf)東京大司教がエヴラールを司祭職に専念させるために公使館の職務から外すことを彼に度々懇願していることを一八九一年七月の外交書簡で報告し、エヴラールが余人に代え難い人材であるだけに大司教の非協力的な対応を遺憾としている。この点をみれば、当時の反教権主義者が批判したのとは別の意味で、エヴラールやオズーフには「愛国心」が欠けていたとみることもできるであろう。
もっとも、このような内部事情は、当時、一般の在日フランス人の知られるところにはならず、エヴラールは反教権主義者からカトリック教会の影響力を伸張させるためにフランス公使館に居座り続けて、フランス外交を損なう元凶と思われていたのである。次節で、在日の反教権主義者が、仏領インドシナのフランス語新聞を通して、エヴラールと公使館に対してどのような批判を行っていたのかを見ることにしよう。 
3-2 一八九〇年代初頭における在日フランス人の反教権主義
仏領インドシナのハノイで刊行されたフランス語新聞『アンデパンダンス・トンキノワーズ』には、「X」という署名のある匿名の通信文「日本からの手紙」(Lettre du Japon)が約三十数通、一八九一年九月から翌年七月までの間、不定期に掲載されている。このうちカトリック教会に触れたものが十五点ほど存在し、その大部分がフランス公使館の通訳であるエヴラールを批判するものであった。これらの通信文は、通訳官にすぎないエヴラールが実質的にフランスの外交官を支配している状態を批判し、在日公使館がフランスの国益に反する行動を取っている事態に警鐘を鳴らすものであった。
当時、フランスの在日公使館は、休暇中で本国に帰国していたシェンキヴィッチ公使に代わり、ヴィクトール・コラン・ド・プランシー(Victor Collin de Plancy, 1853–1924 )が代理公使(一八九一年十一月│一八九三年二月)として赴任中の時期であった。彼の父親のジャック・コラン・ド・プランシーは、『地獄の辞典』などの著作で知られる著述家であり、一八四一年にカトリックに改宗した後、多くの護教的な著作を執筆した人物である。コラン・ド・プランシーが、イエズス会の経営するパリの聖母マリアの無原罪学園(Ecole de l’Immaculée conception)で学んでいるのも、その家庭環境によるものであろう(この学校の通称は、同校の所在地である「ヴォジラールVaugirard」である)。同校を卒業後、彼はパリの東洋語学校(École spéciale des Langues orientales)に入学して中国語を学び、一八七七年に卒業後、外務省に通訳官として入省した。当初、北京や上海で外交業務に従事し、一八八七年、初代のフランス領事として朝鮮に赴任している。彼が、同地で、危難にあったパリ外国宣教会の宣教師に便宜を図っていることは、彼の極東におけるフランス人宣教師に対する好意を伝えるものである。
日本に赴任中、日本語や日本の諸事情に十分通じない彼は、通訳官の力を借りなければ、業務を進めることが不可能であったと思われるので、エヴラールの助力に負うことが多かったことは想像に難くない。彼が、反教権主義者から、エヴラールの影響下にある人物と非難されることが多かったのも、一つには、彼がエヴラールを頼りにせざるをえない人物として周囲からみられていたからであろう。
コラン・ド・プランシーは、『アンデパンダンス・トンキノワーズ』に掲載された在日フランス公使館に対する批判を問題視して、一八九二年一月二十七日、八月二十二日、八月二十五日の三度に亘って、外交報告書を本国の外務大臣に送っている。彼は、「日本からの手紙」の匿名の筆者を横浜のゼネラル・ホスピタルの医師であるミショー博士(ポール・ミショーPaul Michaut)と報告しているが、この推定をわれわれも正しいと考える。ミショーは、現在のジャポニスム研究において、エドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt)に北斎に関する伝記的情報を提供し、『北斎・十八世紀の日本美術』Hokousaï : l’art japonais au XVIIIe siècle(一八九六年)の成立に関わった人物として知られているが、この人物に関しては、依然不明なところが多い。現在、明らかにしえたところでは、彼は、一八六〇年にパリで生まれ、パリ大学の医学部で学んだ後、パリの病院でインターンを務めながら、一八九〇年に男性の神経症に関する研究で精神医学の学位を取得している。その後、彼は、インドシナ植民地に赴いて、同地にいくらか滞在した後、来日したらしい。
ゴンクールは、『北斎』の序文に、彼に送られたミショーの手紙を引用しているが、その手紙で、ミショーは、ゴンクールが日本美術を紹介した著作『芸術家の家』La maison d’un artiste から受けた感動が日本を訪問したいという憧れを抱かせたと語っている。ミショーは、相当知的関心の広い人物であったらしく、『アンデパンダンス・トンキノワーズ』の通信文では、日本の政治や、日本人の国民性、音楽、美術まで幅広い題材を論じている。また、同時期にハイフォンで刊行された『クーリエ・ダイフォン』紙にも、「Vaccarimasen(わかりません)」という筆名で日本関連の通信文を送り、日本の古典演劇やアイヌ民族などについて語っている。
ミショーは、フランスに帰国後、折にふれてゴンクールの家を訪問しているが、ゴンクールの『日記』(一八九六年六月三日)によると、その時にビゴーのことを話題にすることもあったらしい。ミショーは、ビゴーと同年の生まれであり、両者の共有する日本芸術への関心が、二人の間の交友を深めるきっかけになったことは十分考えられる。日本語にあまり通じなかったと思われるミショーは、ビゴーから日本に関する情報を得ることも多かったであろう。
ミショーが滞日中に通信文を送った『アンデパンダンス・トンキノワーズ』と『クーリエ・ダイフォン』は、当時のインドシナ植民地の代表的なフランス語新聞であったが、両紙はともにフリーメーソンの会員が出版に関わっており、反教権的な主張が盛んに展開されていた。彼は、来日前にインドシナ植民地に滞在した間、これらの新聞の経営者と知り合う機会をもっていたのではないかと思われる。
ミショーの匿名通信文「日本からの手紙」でエヴラールに対する批判が口火を切られたのは、『アンデパンダンス・トンキノワーズ』の一八九一年十二月十二日号である。横浜に一時滞在していた仏領インドシナのフランス人らが、十一月十日に行われる日本政府主催の観菊会に招待されると考えていたにもかかわらず、実際には参加できなかったため、フランス公使館の対応に抗議をしたことがあった。この事態に関して、ミショーは、教会のミサに出席しないフランス人達を冷遇するエヴラールの意向によって、彼らの参加が妨げられたのだと考えて批判を行ったのである。日本在住の通信員であった彼は、その立場を利用して、日本国外の多数のフランス人に、在日フランス公使館の陥っている嘆かわしい現状を知らしめようという意図があったのであろう。
これ以降、一八九二年七月頃まで、ミショーによるエヴラールとフランス公使館に対する批判は継続していくが、彼の主張の動機には、フランスの日本における影響力が英独と比較して目に見えて減退しているのにもかかわらず、公使館が何ら打開策を講じないままでいるという彼の愛国心から来た危機感と、公使館が居留地の在日フランス人に対して十分な保護をしていないという不満の二点が関わっていた。そして、彼は、日本におけるフランスのプレゼンスの低下にも、公使館の在日フランス人に対する冷ややかな応対にも、通訳官エヴラールの存在が大きく影響しているとみていた。
フランス公使館に直接尋ねたのかどうかわからないが、ミショーは、公使館がエヴラールの長年に及ぶ雇用を正当化する理由として、彼の日本語能力の高さを挙げるのが常であると書いている。これに対して、ミショーは、パリの東洋語学校で日本語を学んだ通訳官が既に輩出されている現在、エヴラールに替えて、彼らを積極的に登用すべきなのではないかと考えていた。しかし、それが今まで実現されることがなく、日本に赴任した通訳官が来日間もないうちに転出することになるのは、公使館における教会の影響力が失われることを恐れたエヴラールが、自分の地位を脅かす通訳官の追い出しを常に図っているからであると信じていた。ミショーは、イギリスの外交官が有力会員になっている「日本アジア協会Asiatic Society of Japan」のような優れた日本研究団体が、フランス公使館の中から生み出されることがないことを遺憾としていたが、このようなフランスの日本研究の遅れも、エヴラールによる通訳職の独占が妨げになって、日本通の外交官が育たないことの結果であると彼には考えられた。
現実には、一通訳官に過ぎないエヴラールにこのような権勢を持ち得ることが可能であるわけはなかったが、当時の在日フランス人の目に、彼がこのような悪漢として映りえたとすれば、それはカトリック教会のマイナス・イメージが、すでに来日前、彼らの中に強固に抱かれていたからとしか考えられない。注目に値するのは、ミショーがしばしばエヴラールを指して「イエズス会士」と呼んでいることである。エヴラールの所属するパリ外国宣教会は一般に著名な組織ではなかったこともあり、同会の宣教師は、日本でイエズス会の宣教師とみなされることも多かった。しかし、ミショーやビゴーが、エヴラールを「イエズス会士」と呼んで批判していた時、それは、彼らの無知からきたものというよりも、むしろ十九世紀フランスの反教権主義者の間で風靡していた「イエズス会神話(伝説)」の影響のもと、イエズス会の名を語っていたと考える方が適切であろう。この「イエズス会神話」とは、イエズス会士を目的のために手段を選ばない詭弁家とみなしたり、イエズス会を様々な謀略的手段を弄して、政治や社会に害をなす国際的な秘密結社とみなす、反イエズス会的な言説・思想をさすものである。
ミショーが、コラン・ド・プランシーをイエズス会系学校の出身者であることをあげつらっているのも、「イエズス会士」のエヴラールが公使館を支配しているという彼らの陰謀論的な理解のもとで批判が行われていたからであろう。『アンデパンダンス・トンキノワーズ』では、エヴラールは、しばしば共和国フランスの外交機密を盗むカトリック教会のスパイとして非難されている。
「東京の在日フランス公使館は、ここ十年来と同様、一人の宣教師の指導下にある外務省の反動家どもの巣窟であり続けることであろう。この宣教師は、本国の外務大臣が代理公使のみに許したと考えている外交上の秘密を知ることができるのである」(「日本からの手紙」『アンデパンダンス・トンキノワーズ』一八九二年二月十六日)
「宣教師は、全能の存在である。彼は金を握り、教育を手中に収めている。(中略)日本では、フランス人商人は、宣教師ほど執拗な敵を相手に持たない。宣教師はどこにでも侵入する、外交業務にまでも。現地語に通暁しているので、通訳官の服を纏っている。しかし、この神父が、役人の服装を着用した厭悪すべき存在であることは明白である。宣教師は、二つの方面から金を受け取る。共和国政府は通訳として彼に支給し、宣教師団はスパイとして彼に支給する」(同前、一八九二年四月九日)
『アンデパンダンス・トンキノワーズ』の匿名記事による攻撃が続いているさなか、エヴラールの外交通訳職の罷免を求める在日フランス人の請願書(一八九二年五月九日付)が本国の国民議会に向けて提出されている。この請願の内容は、ミショーの匿名通信文で展開されていた批判と同趣旨のものであり、この請願運動の中心にミショーやビゴーがいたことは間違いがない。当時、横浜と東京には彼らを中心とする反教権主義的なグループが存在し、ビゴーは、ミショーの通信文やこのグループの中で交わされた意見を参考にしながら、『ル・ポタン』の諷刺画を作成していったのであろう。
ビゴーは、『トバエ』の廃刊時(一八七九年十二月)、彼の諷刺画に取り上げられた人物から抗議が殺到していることを廃刊の理由に挙げていた。実際、マリア会に対する彼の諷刺画の事例から考えても、彼が読者から直接抗議を受けることがあったとしてもおかしくはない。ただ、ビゴーが『トバエ』の廃刊後にも外国人居留者を対象にした諷刺活動を続けることが可能であったのは、一方で彼の活動を支持する人々が少なからずいたからであろう。一八九一年の三月、『クーリエ・ダイフォン』は、横浜在住のあるフランス人の通信文(同年二月二十一日付)を掲載しているが、この匿名の筆者はビゴーの『ポタン・ド・ヨコ』Potins de Yoko の第五号が出版予定になっていることを紹介し、「トンキンに住むあなた方は、恐らく、『ポタン・ド・ヨコ』を御存じでしょう。フランス人のビゴーは、活気とユーモアに満ちたこの作品で、日本人やフランス人を才気煥発にからかい、諷刺をおこなっています。彼の空想の犠牲者(?)が第一に喜ぶ者であるのは、その冗談が善意のあるもので、決して良識の域を外れないからです」と好意的に語っている。また、ミショーは、『アンデパンダンス・トンキノワーズ』の通信文で、エヴラールを批判した『ル・ポタン』(第二期、第二号)に触れ、ビゴーを「ユーモアと日本趣味に満ちた、才能ある芸術家」と紹介していた。
一八八〇年前後の『クーリエ・ドュ・ジャポン』の記事や一八九〇年代初頭の『アンデパンダンス・トンキノワーズ』に掲載された匿名通信文、また『ル・ポタン』のビゴーの諷刺画などは、十九世紀末の在日フランス人社会の間に反聖職者感情が潜在しており、折に触れて噴出することがあったことを示している。このような動向は、同時期のフランス本国における反教権主義の高まりと無縁でなかったことは明らかであるが、それでは、当時の在日フランス人社会において、このような反教権主義はどのような社会的基盤をもっていたのだろうか。
フランス人居留民に関する資料の不足から、実証主義的に十分な議論を進めていくことは難しいが、ミショーやビゴーの主張内容から判断する限り、カトリック教会に好意的な人々は、公使館員や大学教授などの居留民の中のエリート層であり、教会と対立している人々は、居留地の大部分を占める商人層や自由職業の人々が中心に含まれ、後者は前者に対して階級的な敵意を抱いていたとひとまず類型的に理解することができるかもしれない。少なくとも、反教権主義者は、後者の中に自分達の主張の共鳴者を獲得することを期待していたといえる。
ミショーやビゴーは、来日前からすでに反教権主義の信念の持ち主であったことは確かだと思われるが、反聖職者感情を抱いていた人々は一様ではなく、皆がイデオロギー次元で反教権主義を抱いていたわけではなかったであろう。事実、反教権主義者が、フランスの威信の維持やフランス人居留民の生活の保障といった現実的次元の問題に争点化して主張を展開していることは、当時の反教権主義が居留民の生活感情と結びついていた一面のあったことを示している。
もし、居留地に反教権主義が醸成される土壌があったとすれば、それは宣教師と居留民の間に心理的距離感の存在していたことが手伝っていたであろう。商人層にもカトリック信者が多数いたであろうから、一概に彼らを反教権主義の共感者ということはできないにしても、当時の宣教師が財産獲得に余念のない外国人商人層に対してしばしば嫌悪の言葉を漏らしているのを考えると、両者の間には、時には対立感情が存在することもあったのではないかと思われる。
また、宣教師と商人層の間には、不平等条約の改正問題に関する両者の反応に端的に現れていたように、現実的な利害関係においても対立関係が存在していた。外国人商人層は、領事裁判権が失われることを望まず、条約改正に強く反対していたが、一方、キリスト教の宣教師側は、条約改正によって日本国内における移動と居住の権利を得て、布教活動の自由が得られることを理想としていたのである。アーネスト・サトウは、駐日公使時代の日記(一八九五年十月二十一日)に、エヴラールが条約改正を日本人の希望通り一八八二年の時点で行うべきであったという意見を述べたことを書いている。
これに対して、ミショーは、『アンデパンダンス・トンキノワーズ』の通信文で条約改正に反対し、これに賛意を表しているコラン・ド・プランシーを揶揄していた。日本の官憲からその諷刺活動の処分を受けたことのあるビゴーも、一八九九年、条約改正によって治外法権の特権がなくなることを嫌って日本から離れた人物であり、この点においても彼らは宣教師と全くの対立関係にあった。 
3-3 在日フランス人の反教権主義とフランス公使館の対応
エヴラールと在日フランス公使館を攻撃する反教権主義者の一連のキャンペーンに対して、コラン・ド・プランシーが本国外務省に報告していたことは、前節で指摘した通りである。彼は、また、フランス本国に帰国中であったシェンキヴィッチ公使ともこの件で情報の交換を行っている。
シェンキヴィッチは、エヴラールの存在を栄進の妨げとみなして煙たく思う公使館の元フランス人通訳者のジョゼフ・ドートルメール(Joseph Dautremer)やジュール・アダン(Jules Adams)がこのキャンペーンに関与しているのではないかと疑っていた。彼は、本省が日本にモラルの低い通訳官ばかりを派遣してくることに関して不満を漏らしているので、ドートルメールやアダンを冷遇したのは、彼であることが明らかである。先述したように、ミショーは、エヴラールが画策して彼以外の通訳官を追い出したと批判していたが、実際のところ、フランス公使その人がエヴラールを別格扱いしていたわけである。
コラン・ド・プランシーは、当初、フランスの横浜領事アントニー・クロブコウスキー(Antony Klobukowski)が、インドシナ植民地に在任中に面識のあったミショーを横浜に呼びよせた張本人にもかかわらず、公使館に対する彼の攻撃を放置して、情報を何も公使館に報告してこないと考えて、クロブコウスキーの非協力的な姿勢に不満を抱いていたようであり、この旨を本省宛の報告書(一八九二年八月二十二日)で批判的に述べていた。これに対して、シェンキヴィッチは、コラン・ド・プランシー宛の私信(一八九二年十月二十二日)でクロブコウスキーが外務大臣にこの件を完全に弁明したことを報告している。コラン・ド・プランシーも、一八九二年末に書かれたビゴーの諷刺画に関する報告書では、クロブコウスキーに対する以前の否定的評価を改めており、彼が前年にビゴーに対して適切な処置を取っていたことを指摘している。
クロブコウスキーは、一八九一年春頃、ビゴーから日本の名所旧跡を画入りで紹介する著作の製作に対してフランス政府から助成金を支給されるように斡旋の依頼を受けていた。この出版計画の趣旨に賛同したクロブコウスキーは、ビゴーをこの仕事の適任者であると認め、彼が経済的支援を受けられるように本国の官庁に対して推薦をしていた。この時のクロブコウスキーの書簡(一八九一年四月七日)には、彼に宛てられたビゴーの手紙が引用されているが、そこでビゴーは、自分の計画に関して、おおよそ次のように語っている。
「ヨーロッパでは、従来から史跡保存の活動が行われ、また、史跡の記録も実行されてきたのと比較して、日本では史跡保存に関する配慮が社会的に存在しない。このような現状は、日本では、ヨーロッパと異なって、頻発する自然災害のために史跡が破壊されやすく、また、近年では急激な近代化によって伝統的な景観が損なわれるままになっているだけに、大変、嘆かわしい。日本では更なる景観破壊が進行していく恐れがあるだけに、史跡が損なわれる前に、古き日本の遺産を記録した信頼しうる著作が書かれることが望ましいであろう。従来の日本歴史に関する書籍に掲載された図像は、史跡の主だった箇所のみを描いたものであり、対象の全体像やその細部に関して正確な情報を読者に与えないという欠点があるから尚更である。このような出版物の制作を年来志しながらも、資産のない自分は、生活の資を得るために、実入りの早い諷刺画を出版せざるを得ず、念願の仕事に長らく取り掛かることができなかった。このような企図の実現には、少なくとも二、三年の間、他の仕事に煩わされることなく、製作に専念する必要があるために、フランス政府から月当たり二百円の助成を受けることを希望する。」
これは助成金を求める書簡であるだけに、ビゴーが自分の置かれた状況を誇張している可能性も考えられるが、少なくともこの文面からは、ビゴーが、自分の著作の計画に相当の自信をもち、かつその実現を強く望んでいたこと、そして、彼が自分の諷刺雑誌の刊行を生計獲得のための手段と割り切っていたことが確認できる。
しかし、クロブコウスキーのビゴーに対する好意は、『ル・ポタン』に掲載された在日スペイン公使に対する諷刺画が、当の公使を不愉快にさせていた事実を知った後に失われ、彼は、ビゴーに対する経済的支援の斡旋依頼をとり下げる書簡(一八九一年八月八日)を本省に送らざるをえなくなった。このビゴーの諷刺が引き起こした事態に関してクロブコウスキーから相談を受けていたシェンキヴィッチは、同国人の仕出かした不始末を謝罪するため、スペイン公使の元へ伺うことを彼に薦めている。クロブコウスキーが、この一連の経緯をビゴーにどのように伝えていたのかはわからないが、ビゴーが、エヴラールを批判する諷刺画を製作するのはその後約一年にも満たない時期のことであるので、彼は、内心、通訳官エヴラールの画策によって、彼の助成金の受給が不可能になったと考えていた可能性もあるであろう。コラン・ド・プランシーは、後の外交報告書(一八九二年十二月三十一日)で、この出来事以降、経済的に不安定な状況に置かれていたビゴーが公使館に対する敵意を募らせたとみなしており、それまでのビゴーは、たとえ公使館員を諷刺に採り上げることがあっても一定の節度を超えることがなかったと指摘している。
コラン・ド・プランシーの文章にビゴーの名前が初めて現れるのは、一八九二年九月十日のシェンキヴィッチ宛の書簡であるが、『アンデパンダンス・トンキノワーズ』の同年六月八日号に掲載された通信文には、コラン・ド・プランシーが『ル・ポタン』の第二期、第二号(ビゴーによる最初のエヴラール批判の諷刺画が掲載された号)の発刊を阻止しようと働きかけたと揶揄されているので、もしこれが事実なら、彼はビゴーの諷刺画の発刊前にその動きを察知していたことになる。ただ、この九月十日の書簡で、コラン・ド・プランシーは、ミショーの通信文とビゴーの諷刺画の内容の共通点の多さを指摘しながらも、その一致を不審に思っており、この時点では彼はビゴーの活動を特に把握していなかったように思われる。恐らく、彼は、この時期まで、日本国内の少数者にしか読まれる可能性のないビゴーの諷刺画よりも、仏領インドシナの新聞に掲載されるミショーの記事が引き起こす反響をより重く懸念しており、ビゴーの諷刺画には、それほど関心を向けていなかったのではないかと思われる。
一八九二年の秋頃、コラン・ド・プランシーは、シェンキヴィッチの指摘を受けて、クロブコウスキーのビゴーに対する過去の対応を知る機会を得ていたと考えられるので、ビゴーがフランスの外交官に怨恨感情をもっていたことを認識したはずである。そして、コラン・ド・プランシーは、同年十一月に、ビゴーから抗議の手紙を直接受け取り、彼を反教権主義者の中心人物の一人と考えるようになった。すでにこの時期、ミショーは日本から離れており、『アンデパンダンス・トンキノワーズ』による公使館攻撃が止んで三ヶ月以上が過ぎていた頃である。
ビゴーが手紙(一八九二年十一月四日)を送った動機は、彼が、一八九二年の天長節(十一月三日)当日に催される舞踏会に、当初、日本政府から招待される予定であったと信じていたにもかかわらず、実際は招待されなかったために、フランス公使館の反対のために自分が参加することが出来なくなったと考えて憤慨したためである。コラン・ド・プランシーは、このような非難は事実無根であり、公使館はそもそも日本政府がビゴーを舞踏会に招待したという事実を関知していないと返答(十一月六日)したが、ビゴーはこの答えを信用せず、再度、コラン・ド・プランシーに手紙(十一月十日)を送って、公使館の不実を詰問している。この私信で、公使館がエヴラールの影響下にあるため、非カトリック教徒の在日フランス人をないがしろにするのだと批判しつつ、彼が、「自分は、公使館のお偉い方々とは日頃のお付き合いはない」が、日本の上流社会の人々に親しい人物のいることを述べてその人脈を誇っているのは、彼の公使館への強い反感と負けん気の強い彼の性格をよく示している。コラン・ド・プランシーは、後にビゴーが『ル・ポタン』(第二期、第六号)でこの件を取り上げた事を知ったが、同様の批判が『クーリエ・ダイフォン』(一八九二年十一月二十日、二十七日)の匿名通信文にも掲載されていることを確認し、この記事の筆者をビゴーと特定している。
コラン・ド・プランシーは、ビゴーの画才を全く認めないわけではなかったが、フランス公使館とエヴラールに対する諷刺画集の発行を公使館に対する極めて悪質な誹謗とみなし、一八九二年末の外交報告書で、ビゴーの諷刺画に関して批判を行っている。次節では、ここで行われた報告を参照しながら、『ル・ポタン』における反教権的諷刺画の内容を考察していこう。 
3-4 『ル・ポタン』のエヴラール神父批判
(1) 『ル・ポタン』
管見では、ビゴーが初めて諷刺画でパリ外国宣教会の宣教師を取り上げたのは、『ル・ポタン』(第一期、第四号、一八九一年)の「築地でのスナップ写真」と題する一枚の絵で、カトリックの宣教師が和服姿の日本人女性と路上で出会った場面を描いているものである。当時、築地居留地には、司教座教会である築地教会があったので、この教会の司祭をモデルにしたものなのかもしれない。また、一八九二年刊行の英文詩画集『横浜バラード』Yokohama Ballads では、彼は挿絵を担当しているが、ここで、英字新聞『ジャパン・ガゼット』The Japan Gazette の編集者のペン先が、カトリック宣教師を突き刺している画を描いている。
このようにビゴーは単発的にフランス人宣教師を取り上げて描くこともあったが、彼の反教権的主張が徹底的に展開されるに至ったのが、エヴラール神父を標的にした『ル・ポタン』(第二期)であった。この諷刺攻撃は、第二号から六号まで連続して計五回に亘ったもので、ビゴーの作品中、一人の人物を対象にこれほど集中的に攻撃を加えたものは他に例をみない(以下、『ル・ポタン』に関する言及は、全て第二期のものである。各諷刺画に言及するに当たって、例えば、第二号の五頁の諷刺画を示すのに、・・・というように表記する。頁は雑誌に記載されていないため、表紙を頁数に含めてカウントしている)。
発行日は記載されていないが、この五冊の諷刺画は一八九二年の初夏から年末にかけて不定期に刊行されていたようである。販売は、横浜居留地と京都や神戸のホテルで行われていたが、部数はわからない。読者は、フランス人をはじめとする西洋人にほぼ限られていたであろう。当時、この作品の日本人読者がいたとしても、反
教権的な主題に加えて、キャプションにフランス語の地口やフランスの流行歌の替え歌などが多用され、内容を理解できる者は少なかったのではないかと思われる。
各号は、表紙を含め、十頁から二十頁ほどの枚数である。各号の内容は独立しており、第二号は、カトリック教会におけるエヴラール、第三号は、フランス公使館とエヴラールの関係、第五号は、『仏文雑誌』とエヴラール、第六号は、フランス公使館とエヴラールの関係をそれぞれ主題に取り上げている。第四号だけは、様々な場所におけるエヴラールが描かれているが、特に主題のようなものは見当たらない。一部にはエヴラール批判とは関連のみられない画も含まれている。
『ル・ポタン』の表紙絵は全て共通で、ピエロが描かれたものである。各号とも二頁目の扉絵が、その号の内容をおおよそ予告もしくは象徴するものになっている。連作の第一作にあたる第二号では、扉絵にカトリック神父が墓場の中に立つ画が載せられ、「僧院のなかの秘蹟劇、または通訳の最後の者」(Les Mystères du Couvent ou les dernières des Interprètes)という表題がエヴラールに関する一連の劇が始まることを予告している。この画には屍の傍に立つエヴラールが描かれているが、これは彼が非聖職者のフランス人通訳官を犠牲にして公使館の通訳を長らく独占してきた人物であることを暗示したものである。この連作で、神父は、「エラールErard」とほぼ実名に近い名前で登場し、また、各所で通訳として紹介されていることや、画中の姿もエヴラール本人に似せられていることから、当時、彼を知る読者は諷刺対象を見まがえようがなかったであろう(以下の論述で、ビゴーの描いた作中の神父に触れる場合、「エラール」と表記する)。
ビゴーのエヴラールに対する諷刺画は、ミショーによる批判と同様、通訳者としての資格で共和政フランスの外交に関わったエヴラールがフランス政府に面従腹背の態度をとっており、フランス人外交官を陰で操る腹黒い人物であると読者に印象づけることを狙ったものであった。この点において、彼の作品は、『アンデパンダンス・トンキノワーズ』や『クーリエ・ダイフォン』で展開されていたミショーの一連の匿名通信の批判記事を図像化したという性格をもっていた。もっとも、滞日期間の長くなかったミショーは、通信文の執筆にあたってビゴーなどから情報を提供されていたと考えられるので、ビゴーがミショーの一方的な影響下に諷刺画を製作していったというわけではなかったであろう。また、両者の批判は大部分共通しているとはいえ、ミショーの通信文は、同一趣旨の批判が繰り返されて、単調な反復感を免れていないのに反し、ビゴーの諷刺画では、彼の反教権的想像力が赴くままに物語が奔放に展開されていた。
(2) ベルヴィルとヴォジラール
ビゴーは、『ル・ポタン』連作の冒頭、フリジア帽を被り、サン・キュロットの姿をしたコミュナールが、ライフルと火薬を持ちながら、日本のカトリック教会を訪問するという現実離れした導入部を設定している。連作を締めくくる第六号の終幕で、「エラール」が仲間と共に処刑される場面に、このコミュナールが立ち会っているように、この人物は「エラール」と常に対立する人物として描かれている。ビゴーに当初『ル・ポタン』を連作化していく意思があったのかどうかはわからないが、第二号における「エラール」とコミュナールの対立関係の描写は、次号以下の諷刺全般に関わる彼の基本的主張が打ち出された重要な箇所と思われるので、以下その論点を詳しく確認していこう。
この未知の訪問者が教会に突然現れた時、「エラール神父」は、「あなたは、国家と教会を分離させるために来たのですか」と質問をし、この人物は、その通りと答える。この場面は、パリ・コミューン臨時政府が、一八七一年四月、政教分離政策の実施を宣言した史実に基づいたものであり、ビゴーは、このコミュナールを通して、カトリック教会は、政治や教育に関わるべきではないという共和主義者としての自己の主張を表したといえる。
この訪問者の返答に驚愕した「エラール」は、彼にその信条の帰属(「ラリマン」Ralliement)を問い質すと、彼は、「共和国とベルヴィル」(République et Belleville)と答える。これに対し、神父は、「教皇とヴォジラール」(Pape et Vaugirard)であると答えて、周囲の聖職者に命じて、このコミュナールを捕縛する。
ここで「ラリマン」の言葉が用いられているのは、一八九一年に教皇レオ十三世が、フランス共和政を容認する政策(「ラリマン」)をとったことを諷したものと思われる。この教皇庁の政策転換によって、一時的にフランス政府とカトリック教会の間に小康状態が生まれたが、フランスの反教権主義者は、これを教皇庁の策略と受けとめていた。ビゴーも、この教皇庁の新方針を疑いの目でみていたのであろう。ここで、「エラール」に共和主義とカトリシズムの共存を明確に否定させるセリフを吐かせているのは、カトリック教会側が共和政に対してあくまでも異質で敵対的な存在であることを示すためである。
ビゴーは、「エラール」とコミュナールの対立関係を、それぞれ「教皇とヴォジラール」の組と、「共和国とべルヴィル」の組の間の対立図式として提示している。つまり、カトリック教会はヴォジラールと、共和主義はベルヴィルという、それぞれパリ市内の特定の地域と結び付けられている。
移民の集まるパリ左岸の下町地区として知られるベルヴィルは、パリ・コミューン時、最後の市街戦が行われた場所で、十九世紀末、パリにおける社会主義の温床となった左派色の強い地域であった。ビゴーは、作中でコミュナールを、マリアンヌ(フランス共和政を象徴する女性)を支持する側に立つ人物として行動させ、「社会主義の勝利」という旗を掲げさせている。いわば、彼は、このコミュナールを急進的共和主義者として自身の政治的立場を具現する人物として描いている。一方、コラン・ド・プランシーは、外交報告書で、このコミュナールを「アナーキスト」と呼んでいるが、これは穏健共和主義者の立場から、パリ・コミューンに対して否定的な彼の心情を示したものである。このコミュナールに対する両者の評価の対極的な分裂に、彼らの政治観の相違が集約的に現れたといえよう。
ビゴーにとって、共和主義は、決してカトリックと相いれないものであった。第二号では、「エラール」は、表向きは、普通の教会の司祭であるが、陰ではコミュナールを拷問することを辞さない異端審問官として描かれている。また、第四号で、コミューン派の活動家が眠るペール・ラシェーズ墓地の門前に、礼服を着用した「エラール」が立っている場面を描いているのも、民衆的なコミュナールと対照づける意図から行われたものであろう。
このように「共和主義」と結ばれているベルヴィル地区に対し、パリ左岸のヴォジラールは、カトリック教会と結び付けられている。この地名の選択は、当時、ヴォジラール通りにマリスト会が創設した寄宿学校があったことによると思われる。
第二号では、「エラール」の教会が火事に見舞われた時に、彼が各所に援助を請う電報を打つ場面がある。その連絡先は、「カトリック宣教師団」「マリア会 ヴォジラール通り」「イエズス会 セーブル通り」「カルメル会」「シャルトル会」「救世軍」「消防隊」である。この打電の連絡先において、パリ左岸のヴォジラールは、「マリア会」の住所として提示されている。
エヴラールが、パリ外国宣教会の宣教師であることを考えれば、この打電の第一の連絡先である「カトリック宣教師団」は、パリ外国宣教会を指していると考えられる。ただ、後続の「マリア会」と「イエズス会」には、それぞれ所在先が附記されているのに対し、この「カトリック宣教師団」には、所在の場所が明記されていない。本来、ここでは、同会の名称と所在地である「バック通りRue du Bac」が出てくるところであろうが、パリ外国宣教会に対する知識不足から、ビゴーは、「カトリック宣教師団」としか書くことができなかったのであろう。
「マリア会」の所在地である「ヴォジラール」がカトリック教会と関連する地名として選ばれた背景には、ビゴーがパリ外国宣教会の所在地を知らなかったという消極的な事情とは別に、コラン・ド・プランシーの出身校であるイエズス会系学校が、「ヴォジラール」という通称をもっていたことも大きな理由であったに違いない。ミショーは、『アンデパンダンス・トンキノワーズ』の匿名通信文で、コラン・ド・プランシーの母校を通称の「ヴォジラール」の名で言及しているので、この情報はビゴーも共有していたと考えられるからである。恐らく、上記の理由から、『ル・ポタン』の連作で、ヴォジラールはカトリック教会を象徴する名称としてビゴーに採用されることになったのだと思われる。
(3) 『仏文雑誌』
『ル・ポタン』の第四号と第五号では、『ヴォジラール雑誌』Revue de Vaugirard という定期刊行物が「エラール」の関わる雑誌として諷刺されている。この「ヴォジラール雑誌」のモデルとなったのは、一八九二年、法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナード(Gustave Emile Boissonade de Fontarabie)を編集者・発行責任者にして発刊された学術雑誌『仏文雑誌』Revue française du Japon である。この雑誌は、仏学会(La Société de langue française)の機関誌として、一時の休刊を挟みながら一八九七年まで刊行されたものであり、フランス語で日本社会や文化を論じた最初の専門雑誌として現在でも高い評価を受けている。
ただ、刊行当時、『仏文雑誌』は、在日フランス人のすべてから好意をもたれていたわけではなく、ミショーは、『クーリエ・ダイフォン』の匿名記事(一八九一年五月二十六日)で、同誌が第三号まで刊行したにすぎない段階で、すでに題材を探すのに困っているのが現状だとその誌面の貧困ぶりを揶揄していた。また、彼は、「情報的価値からいうと取るに値いしないこの雑誌は、フランスの一部の外交官らが、一般人を犠牲にして宣教師の為にばかり働き、日本からの利益をすべて宣教師に還元しているという、自身らに向けられた批判に応えるために発刊されたものである」と書いている。このことから明らかなように、ミショーは、『仏文雑誌』の刊行をフランス公使館が宣教師を優遇してばかりいるという居留民からの批判をかわすために開始した世俗的事業として捉えていた。先に見たように、ミショー自身、日本文化に関心が深く、インドシナの新聞に日本関連の通信記事を盛んに執筆していた人物であったので、この批判は、この学術雑誌の執筆陣に加わることができない彼の羨望とも無縁ではなかったかもしれない。
一方、ビゴーは、『ル・ポタン』で、「ヴォジラール」という形容を雑誌に附けたことにうかがえるように、この『仏文雑誌』をカトリック教会の機関誌とみなして諷刺している。この事実は、彼が別の箇所でこの雑誌を『黒服雑誌』Revue Noir と呼んでいることからも明らかである。
ボアソナードはカトリック信者であり、自由思想を嫌っていた人物であるが、『仏文雑誌』をカトリック雑誌として編集していたわけではない。ただ、エヴラールは編集委員会の一員ではなかったとはいえ、この雑誌の編集に深く関わっていた。彼は、すでに一八八七年から『仏文雑誌』の発行母体となる仏学会の一員であり、総会にも当時のフランス人有力メンバーとともに参加している。『ル・ポタン』には、「東洋語学学会La Société des langues orientales」の会合で、僧服姿の「エラール」が発表をしている場面があるが、この集まりにはコラン・ド・プランシーら外交官の姿も見えることからも、仏学会の集会を諷刺したものではないかと思われる。
一八九三年九月にエヴラールは、宣教会から休暇をもらい、フランスに一時帰国したが、この時、『仏文雑誌』の時評(無署名であるが、筆者はボアソナードであると考えられる)は、彼に感謝の辞を表明し、「『仏文雑誌』は、エヴラール神父の貴重な助力を一時的とはいえ、失うことになった。外国人にはまれなほど学術的な日本語にも精通した神父のおかげで、法律や公文書の翻訳を掲載することができたことに感謝している」と書いている。また、日本社会や文化に関して造詣の深いエヴラールは、同誌に掲載される記事の査読も引き受けていた。「ヴォジラール雑誌」の編集部で、「エラール」が、主力メンバーとして描かれている場面があるのも、『仏文雑誌』の編集で、ボアソナードがエヴラールの協力を仰いでいた事情を承知していたからなのであろう。
なお、この『仏文雑誌』とパリ外国宣教会の宣教師との関わりは少なからぬものがあり、エヴラールは、「日本の植物性蠟」(第一三号、一八九三年)と「近代以前の日本における部落民」(第二一、二二、二三号、一八九三年)の二編の論文を寄稿していた。他にも、リュシヤン・ドルワール・ド・レゼー(Lucien Drouart de Lezey)の北海道旅行記(第一一、一二号、一八九二年)や、ノエル・ペリ (Noël Peri)の能に関する論文(無署名)と翻訳が掲載されている。時評欄には、「日本における教階制」(第三号、一八九二年)や、大阪司教のミドンの追悼記事(第一六号、一八九三年)が掲載されているほか、暁星学校に関する近況も伝えられており、この雑誌がカトリック教会に好意的であったことは明らかである。また、ボアソナードは、彼の論文「日本における公的扶助」(第一九・二〇号、一八九三年)で、パリ外国宣教会員による御殿場のハンセン病治療の事業(後の神山復生病院)について賞賛している。
(4) エヴラールとフランス人外交官
『ル・ポタン』では、ヴォジラールの地名は、「ヴォジラール学校」という名称でも使われている。「ヴォジラール」が、「マリア会」と結び付けられていたことを考えると、この学校は、暁星学校を念頭においたものであろうが、第二章でみた『トバエ』の諷刺画とは異なり、『ル・ポタン』のそれは、暁星学校そのものの批判を試みたものではなかった。
「ヴォジラール学校」は、「エラール」が教師を務める反共和主義的なカトリック学校として描かれている。ここで彼の生徒として描かれたのが、フランス公使館のコラン・ド・プランシー(「ぺルシー Percy」という名前で現れる)とその配下の二人の外交官である。この二人の外交官は、『ル・ポタン』作中で、「ブランディBrandy」、「ラ・ド・カーヴRat de Cave(倉庫にいるネズミ)」と呼ばれており、それぞれ、秘書のラファエル・ド・ボンディ(Raphael de Bondy)と公使館員のモーリス・カズナーヴ(Maurice Cazenave)のことをモデルにしたものと思われる。
コラン・ド・プランシーは、イエズス会系学校を卒業生であることを『アンデパンダンス・トンキノワーズ』の通信文で批判的に言及されていたが、この二人の配下の外交官もまたカトリック系学校の出身者であった。フランス人外交官が、ビゴーの諷刺画でカトリック学校の生徒として描かれたのは、彼らが現実にカトリック系学校の卒業生であることがビゴーの念頭にあったためであろうが、また、彼らがエヴラールの指導下にあることを示すために、カトリック学校という舞台が格好のものと考えられたからに違いない。
この「ヴォジラール学校」を描いた場面には、マリアンヌの胸像に腰掛けた「エラール」が、教室で外交官の生徒たちに「日本には、何人の大司教と司教がいますか」と質問をする画がある。生徒たちは、「神父様、大司教が一人、司教が三人です」と答えている。戯画化されたものとはいえ、この場面は、一八九一年に、日本のカトリック教会において教階制が成立し、東京に大司教区、函館、大阪、長崎に中心を置く各司教区がそれぞれ成立したことに関して触れたものである。
ビゴーは、エヴラールを現実政治に関わった聖職者として描こうと様々な試みをしている。彼は、「エラール」を、「ジョセフ神父Père Joseph」、「黒色の卿下Eminence noire」と呼んでいるが、これはリシュリュー枢機卿の腹心の友人であったカプチン会のジョセフ神父、異名が「灰色の卿下=黒幕Eminence grise」として知られる聖職者にちなんだものであった。第六号の扉絵で、「千夜一夜物語」風の宮廷で、後方から無能な王(「ぺルシー」)をうかがう黒幕らしき高位聖職者として「エラール」を描いているのも、同様の意図から行われたものである。第四号の扉絵では、「新しいタレーラン=ペリゴールLe nouveau Talleyrand-Périgord」として、「エラール」をタレーランに擬しているのも、フランス革命や第一帝政期を潜り抜けて復古王政の確立に大きな働きをしたこのフランスの政治家が、元々は聖職者であり、策略をめぐらす人物としてビゴーの意識にあったからであろう。
このように、「エラール」は、公使以上に実力ある人物として各所で描かれているが、この後者の前者に対する従属関係を直接公使館を舞台として描いたのが、『ル・ポタン』の第六号である。前節でみたように、ビゴーは、一八九二年の天長節の祝賀会に参加出来なかった原因をエヴラールの画策によるものであると考え、コラン・ド・プランシーに直接手紙を送りつけて抗議していた。ここで彼は、彼個人にとって心理的真実であったこの「事件」を題材に取り上げて、次のように物語化している。
日本政府の使者が、天長節の祝賀会に在日フランス人を招待するため、フランス公使館に打ち合わせに訪れた時、公使館の日本の受付は、彼に、フランス公使館には「お笑いの公使 le Ministre pour rire」と呼ばれている名目上の公使と、「真の公使 le vrai Ministre」の二人がいることを紹介する。前者は「ぺルシー」であり、公使館の実権を握る後者は「エラール」である。使者は、無論、打ち合わせの可能な後者との面会を希望し、招待者のリストを求めるが、これに対して、「エラール」は、「フランス公使館は、同国人のことを決して気にかけない」ので、関知していないと述べる。次の場面では、「エラール」に呼ばれて現れた「ぺルシー」が、僧服姿の「エラール」に跪き、招待が予定されているフランス人は教会関係者だけであると答えるのであるが、その会話を側で聞いている日本政府の使者は仰天している姿で描かれている。
このように『ル・ポタン』ではフランス公使館がカトリック聖職者の指導下にあることが強調されているが、それに対応するように、公使館員は、「エラール」ともども、本国の共和政政府に対して不実な存在として描かれている。共和政フランスは、マリアンヌの姿で表象されているが、彼女は、常に「エラール」や公使館員の被害者として現れる。例えば、『ル・ポタン』第三号では、「エラール」及び彼の配下の外交官がマリアンヌに忠誠を装って、共和国の助成金を貰い受けているが、その裏で彼らは彼女のことをあざ笑っているのである。「エラール」が、ジョルジュ・ブーランジェ将軍(一八八〇年代末にフランス共和政を揺るがしたブーランジェ事件の主役)に擬せられている諷刺画もあるが、これもまた彼が反共和主義的な存在であることを示そうとしたものであろう。
この連作は、最後、「エラール」と「ぺルシー」ら公使館員が壁を背にして銃殺された場面で締めくくられているが、これは明らかに一八七一年、コミューン派の残党が「連盟兵の壁」で銃殺刑に処せられたことを念頭において描かれたものと思われる。この諷刺画の結末は、コミューン派が最期を遂げた舞台の設定を逆転させることによって、急進的共和派としてのビゴーが、約二十年前、子供時代に目の当たりにしたパリ・コミューンの敗北に対し、想像上の復讐を果たしたものといえるであろう。
(5) 『ル・ポタン』の反響
以上、われわれは、『ル・ポタン』の解釈にあたり重要と思われる諸点を取り上げてきた。この連作は、実在のエヴラールに想を得ながらも、ビゴーが、ミショーと協働しながら、反教権的主張を自在に展開させた作品というべきで、その批判がどれだけ神父の実像に即しているかを問うのはあまり意味のないことであろう。
当時、日本ではイエズス会が活動していなかったにもかかわらず(イエズス会の再来日は、一九〇八年)、この作品にイエズス会や創立者のイグナチオ・デ・ロヨラの名前、また、AMDG(Ad majorem Dei gloriam「より大いなる神の栄光のために」)というイエズス会の標語が見られることは、この作品が、「イエズス会神話」の影響のもとに製作されたことのあらわれである。マリア会の修道士らが、『トバエ』で、カラスとともに来日する姿が描かれていたことは先に見た通りであるが、『ル・ポタン』にもカラスは、各所によく描かれている。そのほか、教会関係者を「ねずみRat」や「ゴキブリCafard」に例えているが、これらの事例は、フランス本国で使われていた聖職者批判のコードをビゴーが受け入れていたことを示している。
これらの特徴は、彼の諷刺画が当時の日本のカトリック宣教師の実態をリアルに批判することを試みた作品というよりも、本国フランスの反教権的諷刺画の影響下にビゴーが空想をめぐらせて描いた作品であることを明らかにしている。このように、ビゴーの諷刺は、彼の反教権主義が先立ってカトリックに対する敵意だけが目立っていたため、その作品を歓迎していたものは、ミショーなど彼と同様の意見をもつフランス人に限られていたであろう。一八九三年にエヴラールがフランスに一時帰国をした時、多くの知人が見送りに訪れていることからも、ビゴーの諷刺画がエヴラールの信用を落とすことに成功しなかったことは明らかであり、彼を直接知る者には、それらは根拠のない中傷としてしか受けとめられていなかったと思われる。
エヴラールを諷刺したビゴーの作品が当時のカトリック教会でどのような反響を呼んでいたのかはわからない。すでに『トバエ』においてマリア会に対する諷刺画が発表された後、彼が教会関係者から要注意人物とみなされていたことは間違いないので、エヴラールに対する諷刺活動も当初から注視されていたであろう。東京大司教区からパリ外国宣教会本部に送られた一八九二年度の報告書では、暁星学校が「宗教の憎悪からこれを害しようと務める卑劣な圧力」を蒙っていたことが述べられているが、この年、反教権主義者から執拗に攻撃を受けていたのは、むしろエヴラールであったことを考えると、報告書のこの箇所は、エヴラールに対する批判に関して直接的な言及を避けるため、暁星学校に向けられた攻撃に仮託して言及されたものではないかと思われる。オズーフ東京大司教は、この一連のキャンペーンがフランス公使館や在日フランス人社会と深く関わる出来事であるだけに、この問題に関する発言が思わぬ反響をもたらすことを懸念して、外部に知られる可能性のある本部への公式報告に直截に記すことを憚ったのではないだろうか。
フランス公使館では、シェンキヴィッチ公使やコラン・ド・プランシー代理公使が、ビゴーの諷刺活動を敵視してきたことはすでに見てきた通りであるが、特に後者は、『ル・ポタン』に関する外交報告書を作成し、ビゴーをインドシナの裁判所に召喚して、公使館への名誉毀損罪で訴えることを外務大臣に具申している。このような措置は、結局取られることはなかったが、フランス公使館は、『ル・ポタン』の刊行後にも、ビゴーの動向に関心を失うことはなかった。シェンキヴィッチの後任者であるジュール・アルマン(Jules Harmand)全権公使は、日清戦争時のビゴーの取材記者としての中国大陸行きや彼の諷刺画集の発行に関して、外交報告書で言及を行っているが、後者に関する報告(一八九五年)では、ビゴーについて、「外務省内ではその名はあまり好感をもって知られていないが、その芸術家的才能は議論の余地のない」人物と記している。 
おわりに
本論で、われわれは、フランス人聖職者に対するジョルジュ・ビゴーの諷刺活動を在日フランス人社会の中の反教権的動向の中で捉え、その作品の内容と反響を一瞥してきた。ビゴーは、現在、明治日本の社会や風俗の鋭い観察者として広く認められ、彼の諷刺画は、自由民権運動に対する彼の共感に代表されるように、自由と平等を重視する共和主義的理念のもとに展開されてきた点が評価されてきた。しかし、彼の政治的立場は、同時代の本国フランスの共和主義者と同様に、カトリック教会に批判的なものであり、同国人の聖職者に対する敵意に満ちた諷刺活動も彼の一面の姿であった。
ビゴーの反教権的諷刺画は、彼の才気を十二分に示したものであったが、現実に即した批判ではなかったため、一人合点な諷刺として批評性を失い、自己完結している面のあることは否定できない。彼の作品の批判対象になった側が、彼の無理解を指摘し、作者に軽侮の念を示していることは、その事情を明らかにしている。しかし、彼の作品が、反感を抱いた読者に対しても強い印象を与えていたことは事実であり、そこに諷刺画家としての彼の優れた力量をうかがうことができよう。
ビゴーら反教権主義者は、カトリック宣教師達を反共和主義的、反フランス的存在とみなして非難していたが、一方、在日フランス公使館は彼らをフランス文化の普及者として高く評価していた。この評価の対立は、フランス人であると同時にカトリックの聖職者であるという宣教師のアイデンティティの二重性ゆえのものであった。明治期日本におけるフランス人の反教権主義批判は、宣教師の「フランス人」としての国民性が、在日フランス人社会において問題化していたことを如実に伝えている。
 
ヴィンチェンツォ・ラグーザ 

 

Vincenzo Ragusa (1841〜1927)
イタリアの彫刻家。1872年、ミラノの全イタリア美術展でウンベルト殿下賞という最高賞を受賞し名を知られた。1876年来日し工部美術学校で西洋式彫刻技法を教えた。妻は画家のお玉(清原多代・ラグーザお玉)で、1882年ラグーザはお玉を連れて故郷シチリア島パレルモに帰った。
明治時代の著名人の彫刻を多く手がけ、『伊藤博文像』などが残されている。  
2
イタリアの彫刻家。シチリア島のパレルモ郊外パルタンナ・モンデルロに生まれた。幼いころより絵画に興味をもち、1865年に本格的に彫刻をはじめた。1872年、ミラノで開かれた全イタリア美術展に石膏作品「装飾暖炉」を出品、最高賞である「ウンベルト殿下賞」に輝いた。1876年(明治9年)に明治政府に招かれて来日し、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導にあたった。教え子に大熊氏廣(1856年-1934年)や藤田文蔵(1861年-1934年)がいる。妻は、江戸芝新堀生まれで画家の清原多代(ラグーザ玉、エレオノーラ・ラグーザ)である。離日後、ラグーザはお玉を連れてシチリア島パレルモに帰り、そこで工芸学校を創立して校長となった。お玉はラグーザ死去後に日本に帰った。
ラグーザ・玉
(1861-1939) 日本の女性画家。旧姓清原、幼名多代。ラグーザお玉とも表記される。また西洋名はエレオノーラ・ラグーザ(Eleonora Ragusa)。夫は彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザ。
1861年7月17日(文久元年6月10日)、江戸に生まれた。
幼名を多世(たよ)といい、自ら多代とも記した。若い頃から「エイシュウ」という人に師事したといわれ日本画、西洋画を学んだ。永寿と号す。1877年、工部美術学校で教鞭をとっていた彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザと出会い、西洋画の指導を受けた。また玉はヴィンチェンツォの作品のモデルも務めた。
1880年にヴィンチェンツォと結婚。2年後の1882年に、夫婦でイタリアのパレルモに渡行し、パレルモ大学美術専攻科に入学、サルバトーレ・ロ・フォルテに師事した。1884年には、ヴィンチェンツォがパレルモに工芸学校を開設し、玉は絵画科の教師を務めた。
また画家としても、パレルモやモンレアーレ、シカゴなど各地の美術展や博覧会で受賞するなど、高い評価を得ていた。
1927年に、夫のヴィンチェンツォと死別。東京美術学校にヴィンチェンツォの遺作を多数寄贈し、1933年、51年ぶりに日本に帰国した。帰国後は画業に集中した。
1939年4月5日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)の実家で脳溢血を起こし、翌6日に急逝、享年79。
工部美術学校
日本最初の美術教育機関であり、工部省の管轄である「工部大学校」の付属機関として設置された。1883年に廃校。
設置された学科は「画学科」「彫刻科」の二科である。純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画や木彫は行われなかった。当時の「美術」が近世以前の日本文化を含んでいないこと、また、工部省が設置したことからも、日本の近代化に必要な技術として絵画・彫刻が捉えられていたことが伺える。なお、造家学科(建築科)は工部大学校に設置されていた。また、殖産興業の一環としての輸出工芸も美術の枠組みには含まれていない。
1876年(明治9年)、工部大学校の附属機関として「工部美術学校」が設置された。西欧文化の移植として当然お雇い外国人が起用されたが、全てイタリア人であった。美術の先進国として認知されていたフランスではなく、ルネサンス美術の中心地であるイタリアから招聘された点が興味深い。
画学科をアントニオ・フォンタネージ、彫刻科をヴィンチェンツォ・ラグーザが担当し、また二人と一緒に招聘されたヴィンチェンツォ・カペレッティが装飾図案、用器画を担当した(カペレッティは参謀本部庁舎の設計を手がけるなど工部大学校の建築科にも関わっていたと考えられている)。工部美術学校に入学した生徒は、総数でも60名を超えないと考えられている。 
Nymphaea / 蓮
蓮の根の味、それは、懐かしい日本への記憶の扉を開ける鍵 百年前にこの地に暮らした1人の日本女性のエピソード Italiano パレルモと日本はローマ・ミラノを経由して、最短で15時間。流通が発達したこの時代でさえ、私たちが欲する日本の食材をここパレルモで揃えるのは一苦労である。近くて遠い私たちの国、日本。 シチリア料理は美味しい。それは私たち日本人もよく知っている。しかし、幼い頃より食べ続けた、日本の味に叶うものではない。温かい湯気を上げる白いご飯、味噌汁の豊かな香り、季節ごとの野菜料理が並ぶ日本の食卓。 誰もが羨む新鮮な食材が簡単に手に入るシチリアでも、私たちを満足させる食材を揃えるのは難しい。いつも何かが足りない。ああ、祖国の料理、母の味!日本に帰るたび、スーツケースは日本の食材でいっぱいだ。時には、ここで暮らす日本人の友人たちと食材を持ち寄って作る日本の味に、慰められている。 約130年前、ここに1人の日本女性が暮らしていたことをご存じだろうか?その人の名は、「清原お玉」。1861年、イタリアが統一した同じ年に東京で生まれたお玉さんは、19歳のとき、当時の日本政府に召喚され、美術教授として教鞭をとっていたイタリア人アーティスト、ヴィンチェンツォ・ラグーザと恋におちる。そして、2年後。1882年に、結婚した二人は、パレルモへ移住を決める。地球の裏側にある地中海の島での暮らし。それは、どんな暮らしだったのだろうか? パレルモに暮らす間、ずっと夢に描いた日本への帰国は、健康や経済的な理由から、何度となく反故にされ、お玉さんが懐かしい祖国の地を踏んだのは、なんと51年後。1933年に日本に戻ったお玉さんは、すっかり日本語を忘れてしまっていたため、日本語での会話さえままならなかったという。 帰国後、自叙伝として出版された本の中に、こんなエピソードが描かれている。 ――――食べたかった蓮根 …ある日、パレルモの植物園にそれ(蓮)があると聞きましたので、行ってみますと、なるほど、もとはどうして渡ったものか存じませんが、紛れもない日本の蓮です。見ないうちこそ辛抱もできましたが、現物が目の前にあっては、もう矢も楯もたまりません。 「ぜひ、この根を少し分けてもらいたい」 と、申し込みましたが、植物園の方でも、 「これは東洋の非常に珍しい植物である上に、この園内には僅かばかりしかないのだから、どうしても分けることはできない」 と、非常に惜しがるのです。 それを無理を言って分けてもらって、煮着けて、まるで霊薬のように大切にして、たべました。あれこそ本当の薬食いです。おいしい、おいしくないということより、願いが足りたという喜びで、今もそれを忘れずにいます。 130年前、日本とパレルモの距離は、船旅で約3か月。今の私たちが感じる日本より、それは、はるか遠い。お玉さんの覚悟と勇気は想像を絶する。当時の日本女性の強さ、我慢強さも、今の私たちのそれとは比べものにならないだろう。 そんな彼女をほんのひととき慰めた、蓮。130年前と何も変わらずに、今もこのパレルモの植物園で、静かに花を咲かせている。 RENKON蓮根…蓮の根は、日本では秋冬の味覚。揚げたり、煮たり、炒めたり。調理の仕方はいろいろ。お玉さんが食べた、醤油とかつおだしで煮つける方法は、伝統的な食べ方のひとつ。素朴な味わいと共に歯ごたえを楽しむ。  
秋桜・コスモスの由来
メキシコで採取されたコスモスの種が、スペインのマドリッド王立植物園に渡り栽培され、命名された。
日本にやってきた時期
スモスが日本に入ってきたの時期は、江戸時代後期、明治時代中期らしいと書いてある。内容もはっきりしないが、その「らしい」という情報そのものも出典が分からないものが多かった。
この中で、「コスモスは、幕末に渡来し、イタリアの彫刻家で、工部美術学校の教師ビンチェンツォー・ラグーザが明治12年(1879)に種子を持ち込んだのが最初だともいわれています。」という記述があった。他にもラグーザが氏が関わっていることを書いたものがあった。典拠はは、『週刊四季花めぐり・秋桜』。
「コスモス」が使われた作品、初出時期の分かる作品としては、与謝野晶子の『ひらきぶみ』が見つかった。『明星』の1904(明治37)年11月号。
「庭のコスモス咲き出で候はば、私帰るまであまりお摘みなされずにお残し下されたく、軒の朝顔かれがれの見ぐるしきも、何卒帰る日まで苅りとらせずにお置きねがひあげ候。」
これが出された1904年には既に一部の日本人の庭にコスモスが咲いていたと考えていいだろう。「君死にたまふこと勿れ」の批判への返答という形で出された作品だけに、この文章も多くの人に知られたことだろう。作品に使うことから与謝野晶子の周囲ではそれなりに「コスモス」が一般的な言葉だと認知されていたことも想像できる。
1909年(明治42年)に文部省が全国の小学校にコスモスの種を配布した
「日本には幕末に渡来したが、広く広がっていったのは明治42年に文部省が全国の小学校に配布したからです。」という記述がある。明治の配布のとき「コスモス」という名前で呼んでいたのかも気になる。
秋桜(あきざくら)という言葉
青空文庫にある作品の本文では「秋桜」(「秋櫻」)という表記そのものが存在しなかった。著名な著作権切れの文学作品には、「秋桜」という文字自体が使われていない。「秋桜(あきざくら)」という言葉自体が一般的ではなかったのだろうか。
俳人に水原秋桜子(1892-1981)という人がいることが分かった。根拠は見つからなかったがこの名前はコスモスにちなんでいるだろうと考えられる。いつからこの俳号を名のっているかは知らないが、遅くとも1934年(昭和9年)に俳誌『馬酔木』を主宰したときには既に水原秋桜子であるようだから、その時期には「秋桜(あきざくら)」もしくは「秋桜(しゅうおう)」という表現はあったと言うことができる。
有名な当時の小説にはなかったが、短歌や俳句では使われていたかもしれない。
コスモスの別の和名に『大春車菊オオハルシャギク』というのもあるが、この由来は分らない。
秋桜(コスモス)の当て字
秋桜(あきざくら)をコスモスと当て字読みしだした時期については、はっきりしたことは分からなかった。山口百恵が歌ったさだまさし作詞作曲の『秋桜(コスモス)』(1977年10月1日)が日本中にこの読み方を浸透させただろうことは簡単に想像できるが、おそらくそうなのだろうが、ここではそういう判断基準では書けない。
まとめ
○1879年(明治12)に工部美術学校のラグーザ氏が日本に種を持ち込んだらしい。
○1904年(明治37)『明星』11月号に発表された与謝野晶子の『ひらきぶみ』にコスモスという言葉が書かれている。
○1909年(明治42)に文部省が全国の小学校にコスモスの種を配布したらしい。
○1910年(明治43)3月1日〜6月12日まで朝日新聞に連載された夏目漱石の『門』にコスモスという言葉が出てくる。
○1977年(昭和52)10月1日に山口百恵の『秋桜(コスモス)』が発売された。 
ヴィンチェンツォ・ラグーザ伝の検討
 マリオ・オリヴェーリ著『大理石の芸術家』を中心に
はじめに
1876 年(明治9)11 月に開校した本邦初の官立の西洋美術教育機関、工部美術学校開校時に彫刻教師として来日したヴィンチェンツォ・ラグーザの伝記としては、マリオ・オリヴェーリによるラグーザ伝があり、日本では、木村毅編『ラグーザお玉自叙伝』所収の、吉浦盛純による邦訳「大理石の芸術家」によって知られている。
ラグーザ研究の基礎を成すこのオリヴェーリの著書は、1925 年に"Un artefice del marmo: Vincenzo Ragusa"、そして1929 年(但し、筆者のあとがきは1928 年)には第二版が"Un artefice del marmo"というタイトルで、ラグーザの故郷パレルモのArte Nova 社から出版された。両者はページ割や図版の位置の異同、また僅かに語彙の修正もあるが、記述内容は同一であるといえる。吉浦訳は第二版を使用している。
「大理石の芸術家」は、ラグーザを称える感情的な表現に溢れており、それがこの伝記の魅力でもあるのだが、年代や固有名詞に齟齬があり、出来事の検討が十分になされているとは言いがたい点も見受けられる。本稿の目的は、イタリアでの調査によって明らかになった点のうち、特に今後のラグーザ研究に寄与すると思われる4点、すなわち、出生、修業、国内留学美術研究生派遣競技、来日経緯を取り上げ、オリヴェーリのラグーザ伝に検討を加えることにある。なお、本稿での引用に際しても第二版を使用する。
■1.出生
「大理石の芸術家」には、ヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa)は、ミケーレ・ラグーザ(Michele Ragusa)とドロテア・フィリッペッリ(Dorotea Filippelli)の子として、1841 年7月8日に生まれたとある。一方、ラグーザ存命時から誕生日を12 日としているものもある。近年の出版物においても、誕生日は8日と12 日のいずれが正しいのか決着はついていなかった。だが、パレルモ国立文書館所蔵の「洗礼証明書」によって、ラグーザが、1841 年7月8日4時に誕生し、翌9日に洗礼を受けたことが確認できる。
2.修業
ラグーザは1860 年にイタリア王国軍の兵役に就き、1864 年2月23 日に除隊命令を受けるが、実際には1864 年1月28 日にレッジョ・エミーリアにおいて除隊となった。オリヴェエーリが伝える「召集の際直ちに集まってきた正直な兵士等に対する褒賞」だったと考えられる。
パレルモに帰郷したラグーザは彫刻家修業を決意する。そのとき、「既に24歳に達」していたとあるので、その開始時期は1865 年の誕生日以降、つまりこの年の秋だったと考えられる。ラグーザは、ヌンツィオ・モレッロ(Nunzio Morello, Palermo, 1806-1875)の塑像学校へ、午後はサルヴァトーレ・ロ・フォルテ(Salvatore Lo Forte, Palermo, 1809-1885)の指導の下に古代彫刻のデッサンを研究し、夜間は裸体学校に通って彫刻修学をしたという。
ミラーノ、ヴェネツィア、ナポリなどには、イタリア王国統一以前から独立した、基礎から高度な美術教育を行う美術アカデミー(美術学校)が完備されており、それらは統一後、イタリア王国政府の管轄下に置かれて継続した。一方、パレルモには長い間、ミラーノやヴェネツィアなどの美術アカデミーに匹敵する独立した美術学校はなかった。イタリア王国統一以前、すなわちブルボン王家による両シチリア王国時代、パレルモに設立された王立大学内に美術教育部門(Collegio delle Belle Arti) が置かれており、そこで建築、彫刻、絵画、裸体画の教育が行われていた。モレッロは、新古典主義の彫刻家ヴァレリオ・ヴィッラレアーレ(Valerio Villareale, Palermo, 1777-1854)に就いて学んだ。ヴィッラレアーレは、1821 年から1854 年まで上述の王立大学の美術教育部門で彫刻教師を勤め、その死後は、モレッロが1860 年まで受け継いだ。一方、ロ・フォルテは、1837 年から1857 年まで同大学の裸体画教師を勤めた。しかし、1860 年のガリバルディー軍の上陸によって、シチリア島におけるブルボン家による統治終了とともに、以上の教育制度も再編を強いられることになった。その年の内に、石膏像模型、美術作品を収集したギャラリーを備え、必要不可欠な美術教育を行う美術アカデミー(美術学校)の設立が公布されたが、長い間、実施されなかった。1879 年にパレルモ出身のフランチェスコ・パオロ・ペレツが文部大臣となって、やっと具体化へ向けて動き出す。しかし、実際にパレルモ王立美術学校が開校となるのは1886 年10 月16 日のことだった。これより以前、1884 年に11 月22 日、開校に向けて7つの講座のための教師採用試験の告知があり、ラグーザは「人物造形美術の講座」の教員に採用されている。
ラグーザが彫刻修業を行っていた時代、パレルモは政権交代後の混乱期の中にあった。上述のように、政府公認の美術学校教育機関は存在せず、美術家が個人的に教室を開いて美術教育を行っていたと考えた方が妥当だと思われる。このような中にあって、ラグーザは、当時パレルモで実力のあった彫刻家モレッロ、及び画家ロ・フォルテから薫陶を受けた。ラグーザが美術学校教育機関の修業免状をもっていなかったのは、以上の理由によると考えられる。
3.国内美術研究生派遣競技
彫刻修業を開始して、「いまだその後三年もたたぬある日」ラグーザは「政府が公布したローマ留学美術研究生派遣の競技」を知り応募する。オリヴェーリは、ラグーザが出品した習作塑像「眠れるデスデモナを殺さんとして躊躇するオセルロ(Otello esitante ad uccidere Desdemona addormentata)」は「第一等と鑑賞された」が、「情実関係という厄介物のため」に、「その後の勝利は不幸にして彼のものではなかった」と伝えている。
筆者は、このローマ留学美術研究生派遣競技(コンクール)に関する史料を見い出した。シチリア古美術・美術委員会主催の応募要項は、1868 年8月16 日に公布されている。ラグーザが28 歳になった夏である。応募要項から、この派遣競技は1842 年7月27 日付けの政令によって定められ、イタリア王国政府移行後も継続していたことがわかる。この年の派遣競技の主旨は、彫刻を学ぶ学生一人を選び、シチリア古美術・美術委員会が定めた場所において、3年間奨学金を与えて研修を受けさせる、というものである。
オリヴェーリは「ローマ留学美術研究生派遣の競技」と記したが、本史料中には行き先はローマとは明言されていない。だが、1842 年7月27 日付けの政令によって定められ当初は、留学先はローマであった。アカデミックな美術教育が健在であった19 世紀、イタリアを含めヨーロッパ諸国では、絵画、彫刻、建築を志す学生にとって、最後はローマにおいて学業を完成させることが念願であり、またひとかどの美術家として認められるために求められるものであった。ラグーザととともに来日したジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペッレッティも来日以前に、ミラーノにおいてローマ留学を可能とする「オッジョーニ助成試験」を受けていた。オリヴェーリが国内留学先をローマと記したのは妥当なことであった。だが、本競技で勝利したロザリオ・バニャスコ(Rosario Bagnasco, Palermo, 1845-?))は、フィレンツェにおいてジョヴァンニ・デュプレ(Giovanni Dupr・ Siena, 1817-Firenze, 1882)に、ローマにおいてジュリオ・モンテヴェルデ(Giulio Monteverde, Bistagno, 1837- Roma, 1917)に就いて研鑽を重ね、1873 年にパレルモへ戻った。本競技勝利者の留学先はシチリア古美術・美術委員会によって、フィレンツェとローマに定められたのだと考えられる。
さて、四項目からなる応募条件の要点を紹介しよう。第一に「シチリア出身者、非妻帯者、28 歳より年長ではない者」、第二に「9月15 日までに品行証明書を提出すること」、第三に「競技参加を許可された者は、タイトルを付した習作を提出しなければならず、それは8日間以内に制作する。以前に制作した作品が公立の美術学校において第一等級の賞、あるいは公的な展覧会で表彰のメダルを得た者は、習作(の提出、筆者註)を免除される」、第四に「承認を得た習作は、来る9月20 日午前8時に、委員会オフィスの入り口の掲示に示された場所に設置されることになる」。
この競技は、シチリア古美術・美術委員会が中心になって行われたが、イタリア王国文部省の承認を得ながら進められた国内国費留学試験であった。
競技において課せられた正式な題目は、「妻デスデモーナを殺そうとして躊躇うそぶりのオセロー(Otello nell'atto esitante di uccidere Desdemona sua moglie)」である。この題目から各応募者は「習作塑像」を制作し、上述のように、作品にはタイトルを付して提出した。
審査結果を示す文書から、審査は1868 年12 月2日に行われたこと、審査員は、シチリア古美術・美術委員会委員長ガエターノ・ダイタ(Gaetano Daita)、ジュゼッペ・ディ・ジョヴァンニ(Giuseppe Di Giovanni)、ルイージ・バルバ(Luisi Barba)、彫刻家のベネデット・デリジ(Benedetto Delisi, Palermo,1831c. - 1875)の4名だったこと、応募者の名前を伏して番号とタイトルによってそれぞれの作品を審査し、その後に応募者名を明かすという方法が採られたことがわかる。
作品番号、作品のタイトル、応募者、審査点数を以下に示す。講評から、審査は、意匠、構成、制作などについてなされていたことがわかるが、満点が何点なのかは不明である。
1.《全ての人 (Tutti uomini)》, ジュゼッペ・ルッフィーノ(Giuseppe Ruffino), 3点
2.《もし、それぞれに精神の苦悩を言うなら(Se di ognun l'interno affanno)》, ヴィンチェンツォ・ラグーザ, 3点
3.《今、ここで精力が私の妄想から奪回する(Or qui vigor mia fantasia riprenda)》, ロザリオ・バニャスコ, 8点
4.《神は全てを知っている (Iddio sa tutto)》, サルヴァトーレ・バラッティ(Salvatore Balatti), 0点
5.《ダンテ(Dante)》, ベネデット・チビレッティ(Benedetto Civiletti, Palermo 1845 頃-1899 頃), 6点
1から4は、今回課せられた題目「妻デスデモーナを殺そうとして躊躇うそぶりのオセロー」に応じて制作されたものである。一方、チヴィレッティは、《ダンテ》を提出した。詳細は不明だが、《ダンテ》は課題習作提出が免除となる条件を備えていたのだろう。チヴィレッティは、本競技試験の審査員でもあるデリジに就いて学んだ後、フィレンツェに赴きデュプレの下で学業を完成させる。1865 年にパレルモへ帰郷し、《幼きダンテ (Il Dantino)》を制作した。それは、モンテヴェルデから絶賛され、1872 年のミラーノでの全イタリア美術展覧会(後述)に出品されたという。チヴィレッティが本競技で提出した《ダンテ》は、この《幼きダンテ (Il Dantino)》であり、オリヴェーリが伝える《幼きダンテ(Dante fanciullo) 》でもあると考えられる。オリヴェーリは、《幼きダンテ》がパルマで開催された第二回イタリア博覧会に出品されたと伝えている。
さて、ラグーザ作品及び競技勝利者のバニャスコ作品の講評を見てみよう。
「《もし、それぞれに精神の苦悩を言うなら》という表題の付いた第2番の作品についての意見。
バルバ氏は、輪郭やプロポーションが不完全なので、この作品に対して意匠点を与えない。主題とオセローの躊躇を正確に表現しているので、構成については点数を与える。制作に関しては、容姿のみならず衣襞造形のバロック風の形態のために点数を与えない。
ベネデット・デリジ氏は、バルバ氏の判定全てにおいて、完全に従う。ディ・ジョヴァンニ・ジュゼッペ氏もまた、バルバ氏によって述べられ、デリジ氏によって追認された同じ(一語不明、「意見」か、筆者註)を告げる。
《今、ここで精力が私の妄想から奪回する》という表題の付いた第3番の作品についての意見。
デスデモーナの両手が同形ではないので欠陥があり、そして片方の手、つまり胃の上に置かれた手は、手首の結合に不備がある。また、オセローにおいて、短剣を持っている腕は釣り合いがとれていないので、バルバ・ルイージ氏は、第3番目の作品に意匠点を与えない。
テーマが適切に描写され、主題が表現されているので、構成については点数を与える。
浅浮彫について規定された規則に従って制作されているし、作品全体は個性的であるので、また制作についても点数を与える。
ベネデット・デリジ氏は、構成及び制作に関してバルバ氏の意見に従う。それから、意匠に関しては、いくつかの取るに足らない過ちがあることが認められるが、それでも、全体としては非難に当たらないという考えから、この作品に意匠点を与える。
ディ・ジョヴァンニ氏は、完全にデリジ氏の意見に従う。」
オリヴェーリはラグーザの作品が「第一等と鑑賞された」と述べ、また「出品作品が一堂に陳列されたとき民衆は一斉に審査のスキャンダルを叫んだ」と伝えている。これらの文言が事実に拠るものなのかどうか確認することはできない。だが、このような考えが示された根拠を想像することはできる。
ラグーザが本競技の掲示を見ていたとき、「モレルロという男が彼にぶつかるように走ってきて、「今度の競技試験は君にはとても望みはない」といった」とオリヴェーリは伝えている。吉浦訳の「モレルロという男」は、ラグーザが通学していた学校の長であるヌンツィオ・モレッロだっただろう。ラグーザの実力を知っていることによるのか、あるいは、ラグーザ以外の弟子が本競技試験で勝利することを期待していたことによるものか、発言の真意について知る由はない。だが勝利したバニャスコも、ラグーザと同様にモレッロの弟子であった。バニャスコは1869 年1月1日から三年間、一年1200 リラの助成金を得た。フィレンツェ及びローマで学んだ後、パレルモに帰郷ししたバニャスコは大理石の浅浮彫制作に関する競技試験や、1883 年にカターニアで開催された競技試験で勝利している。それゆえ、本競技試験におけるバニャスコの勝利は、オリヴェーリが伝えるように「情実関係」が働いたためだけではなかったと考えられる。一方、ラグーザは「民衆の反抗の声のおかげでイタリア美術行脚とパルマの第二回イタリア博覧会見物を許可された」、「パレルモ市は彼の精神的創痍回復のために、パレルモ市役所の会議室に据えられるべき暖炉の製作を依頼した」とオリヴェーリは伝えているが、これを確認し得る公文書は現在までのところ見い出されていない。
4.来日経緯
隈元謙次郎はラグーザが「彫刻家として認められ、又日本に招聘さるる機縁ともなったのは1872 年(明治5年)ミラノに開催された全伊太利亜美術展覧会であった」と伝えている。1872 年8月26 日から10 月7日まで、ブレーラ宮を会場として開催されたこの展覧会に、ラグーザは石膏製《パルマ王立美術学校書記官のピエトロ・マルティーニ教授肖像半身像》及び、石膏製《装飾暖炉》を出品した。オリヴェーリは、「ミラノ展覧会の審査員等は非常に寛大な態度で、ロンバルジア州以外の彫刻家三人に対してもウムベルト殿下賞を授けることにした」と伝えている。その三名とは、《天才フランクリン》作者のモンテヴェルデ、《幼きダンテ》作者のチヴィレッティ、《装飾暖炉》作者のラグーザである。しかしながら、ブレーラ美術学校古文書室所蔵の「ウンベルト殿下賞」に関する文書には、この年の「ウンベルト殿下賞」受賞者はモンテヴェルデの名前だけが記載され、チヴィレッティ及びラグーザの名前は見あたらない。
ラグーザの《装飾暖炉》が「ウンベルト殿下賞」を受賞していなかったにせよ、本作品は評判を呼び、ラグーザの出世作となったのは確かである。実際、ワンダーウィース伯爵(Conte Wonderwies、恐らく、正しくはフォン・デルヴァイズ伯爵(Conte Von Dervies))のルガーノの別荘に設置すべく、大理石で《装飾暖炉》を製作することになったのである。
ラグーザはこの展覧会を機に、制作の拠点をミラーノに移し、1876 年の渡日まで、ミラーノ王立美術学校に近いモスコヴァ通り(Via Moscova)37 番に住んでいる。1873 年のウィーン万国博覧会には、ブロンズ製《奴隷の自由(La libert・degli schiavi)》及び、「シチリアの地味の豊かさを象徴する装飾と人物を施した」石膏製《装飾暖炉》を出品し、前者は8千リラの、後者は3千リラの値が付いた。
長い間明確ではなかった工部美術学校の教師選考の経緯については別所で述べたので、ここではラグーザが選ばれるまでの経緯に注目したい。オリヴェーリは、「彫刻部の競争志願者数が五十人以上もあったのに彼は首席で合格した」と伝えている。しかし、実際には、彫刻教師の候補者は14 名であり、建築は5名、絵画は22 名で、候補者の総数は41 名だった。 絵画教師の選考において、風景画家もしくは人物画家という二者択一問題が生じ、アントーニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi, Reggio Emilia, 1818- Torino, 1882)とエドアルド・トーファノ(Edoardo Tofano, Napoli, 1838-1920)が最終選考に残り、最終的に前者が選ばれた。また家屋装飾術(建築装飾、筆者註)の教師には、はじめオスカール・カポッチ (Oscar Capocci, Napoli, 1825-1904) が選ばれたのだが、彼が辞退した結果、カッペッレッティが選ばれた。これらに対し、彫刻教師については、最初からラグーザが選ばれ、渡日を果たしたのである。
工部美術学校教師の応募にあたり、美術学校教育機関の修業免状をもっていることが条件にはなっていなかった。文部省は、トリーノ、ミラーノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、ナポリの6校の美術学校に候補者を打診し、学校側は責任をもって候補者の推薦を行ったのだが、候補者推薦は当該校の出身者に限定されていたわけではなかった。ラグーザは、当時、活動の拠点としていたミラーノの王立美術学校の推薦を受けて応募した。ここにその推薦文を紹介する。
「・・・二人の彫刻家の内の一人は、パレルモ出身のヴィンチェンツォ・ラグーザ氏で、3年前からミラーノに居を構えています。人物彫刻においてだけでなく、装飾、動物、果物や花々などの彫刻においても、とても有能な美術家です。彼は、クワドラトゥーラ作品や建物の装飾、大理石やさまざまな石の裁断、またそれらの調整にも従事してきました。ロシア帝国参事官のフォン・デルヴァイズ伯爵閣下の依頼による、ラグーザの大理石製及びブロンズ製の作品一点の、添付の写真複製は、彼の能力についての見解を提供し得るでしょう。彼はブロンズの鋳造技術に精通しており、また蝋を含むさまざまな種類の造形美術に慣れ親しんでいます。並はずれた作品の多さはこれらの長所と結びついています。彼はフランス語を話し、30歳を少し越えた年齢です。生まれ故郷を離れてミラーノに赴く少し前に、彼は兵役を終えていました。・・・」
ラグーザの推薦文の内容は、「覚書」に示された工部美術学校の彫刻教師に求めた能力のほぼ全てを、ラグーザが保持していることを証明している。よって、この推薦文からすれば、ラグーザが選ばれたのは至極妥当なことだったと考えられる。実際、西洋彫塑の伝統が全くなかった日本における、ラグーザの教育上の功績は既に多く語られてきたところである。だが、フォンタネージが絵画教師として選ばれた背景には、首相を二度務めたベッティーノ・リカーソリによる支援があり、リカーソリはルッジェーロ・ボンギ文部大臣に直接働き掛けていたように、ラグーザにもこれと同様な、ボンギと懇意の有力者による支援があったのである。
ミラーノ王立美術学校副学長のジベルト・ボッローメオは二度に渡って、ボンギにラグーザのことを依頼している。一度目は1875 年10 月14 日、ボッローメオはボンギに「ヴィンチェンツォ・ラグーザが私に熱心に願い、そして、アッカデミアの名前においても、私は彼を熱烈に推薦している」旨を伝えた。これに対して、ボンギは1875 年12 月 28 日付けのボッローメオ宛ての返信で、「君からの推挙の功が支持されるかどうか分からない。・・・審査はここに在駐の日本帝国の代表者が行うだろう」と返答している。しかし、この書簡が書かれた翌日、イタリア外務省は文部省へ、日本側がイタリア側に教師の決定を完全に委ねている旨を伝え、ボンギは彫刻教師にラグーザを選ぶことになる。1876 年1 月1 日、ボッローメオはボンギへの書簡で「ラグーザは本当に才能豊かな人物、いや、すばらしい彫刻家である他に、卓越した鋳造者なので、二重に才能豊かな人物です。彼は向こうで(日本で、筆者註)イタリアの誉れとなるでしょう」と述べ、再度ラグーザを推している。
ラグーザはボッローメオ、並びにミラーノ王立美術学校長カルロ・ディ・ベルジョイオーゾ伯爵からの熱烈な推挙を得たこともあって、工部美術学校の彫刻教師に選ばれたと考えられる。
おわりに
以上、イタリアでの調査によって明らかになった点のうち、出生、修業、国内留学美術研究生派遣競技、来日経緯の4点を取り上げ、オリヴェーリの『大理石の芸術家(Un artefice del marmo)』に検討を加えた。オリヴェーリの文言には、事実を誇張して述べていると思われる箇所が散見された。恐らくそれらは、ラグーザに対する敬愛の情に起因しているのだろう。今後の課題としては、イタリア帰国後のラグーザの教育活動並びに制作活動について検討することが挙げられる。
略語一覧
ACS = Archivio Centrale dello Stato(国立中央公文書館)
ASP = Archivio di Stato di Palermo(パレルモ国立文書館)
AAB = Archivio Storico Accademia di Belle Arti di Brera(ブレーラ美術学校古文書室)
(doc. ) = ヴェネツィア大学博士学位論文、Mari Kawakami, "Kbu Bijutsu Gakk・Relazioni diplomatiche e rapporti artistici tra Italia e Giappone nella storia della prima Scuola Statale di Belle Arti di Tokio (1876-1883)" , tesi di dottorato di ricerca, Universit・Ca' Foscari di Venezia, XI ciclo, Venezia 2001 の添付資料(Appendice)の番号を示す。
b. = busta
 
エメェ・アンベール 

 

Aime Humbert (1819〜1890)
1863年に日瑞修好通商条約締結のため来日したスイスの時計業組合会長。後に国会議員。長崎・京都・鎌倉などを旅行し、庶民や武士の生活・美術工芸品など詳細を多数スケッチで残した。 
2
エメェ・アンベールは、文政2(1819)年にスイスで生まれました。高等学校の教師の後、嘉永元(1848)年に臨時政府の書記、憲法議会の議員となり、さらに州内閣の文部大臣を務めました。スイス政府は日本との国交を開くために先遣としてスイス通商調査派遣隊を日本に派遣していましたが、幕府がスイスと条約締結の用意があることを知り、アンベールを特名全権公使に任命し、アンベールを来日させることにしました。
文久3年(1863)、アンベールは、スイスと日本との間に修好通商条約を結ぶため、主席全権として来日しました。幕府との交渉の末、江戸高輪伊皿子のオランダ公使館のある長応寺で条約に調印したのは、年も押し詰まった12月(1864年2月)のことでした。
アンベールは条約締結交渉の合間を利用して、江戸のほか、横浜、鎌倉、京都を旅行し、日本の歴史、地理、宗教、社会制度、政治機構、風俗習慣などを、旺盛な好奇心で観察、調査し、のちに日本での見聞記をまとめ、「日本図絵」(1870年刊。日本語訳は「アンベール幕末日本図絵」)を刊行しました。 
絵で見る幕末日本 1
『絵で見る幕末日本』は、文久三年(1863)の幕末日本に訪れたスイス人のエメェ・アンベール(Aimé Humbert)が日本滞在記を紀行文風にまとめ、且つ日本の風景を写実的に描いた絵と組み合わせて西欧に紹介した著書です。
スイス時計の売り込み交渉のために日本への来日機会をうかがっていたアンベールでしたが、当時は日本とスイスの間に修好条約がなかったため、アンベールは日本と友好関係にあったオランダ国籍を取得し、その代表使節の資格をとって日本に来日しました。文久二年(1862)11月、マルセイユから出発したアンベールは、カイロ・ボンベイ・セイロン・バタビア・サイゴン・香港・広東・マカオ・上海と立ち寄り、翌年の4月に長崎に到着しました。幕府との交渉が思うように進まなかったため、アンベールの日本滞在は大よそ一年という長期間に及びます。滞在記はその間に見聞した記録をまとめたものとなります。
アンベールの鎌倉紀行
本書の大半は江戸での見聞録となりますが、ほんのわずかながらアンベールが鎌倉に訪れている部分が記されています。当初は江ノ島遊覧が目的でしたが、緒事情で鎌倉に変更となりました。横浜から船で金沢に到着し、一泊した後、鎌倉で鶴岡八幡宮や大仏などを見学しています。外国人ならではの彼の視点と表現力豊かな文章力に、私はとても引き込まれてしまいました。ということで今回は、このアンベールの鎌倉での滞在記の一部を紹介したいと思います。
金沢で金沢八景
アンベール一行は、横浜の外国人居留地から船で金沢に到着しました。数人の仲間、そして雇った支那人のコックが同行しています。
『絵で見る幕末日本』より「月夜の幻想的な光の中に、われわれの前方、右側に、美しい樹々に包まれた絵のような高地があり、正面にはベブスター島の緑の頂上が聳えていた。」
本文中にあるベブスター島とは、横浜開港資料館のHPに、「ペリーが夏島をウェブスター島と名付けた」とあったので、ベブスター島とはウェブスター島、つまり夏島のことだと思われます。そしてもう一つ、横浜から船でやってきたアンベールの正面にベブスター島(夏島)、そして右側に「美しい樹々に包まれた絵のような高地」とあります。これは何処を指しているのでしょう。夏島を正面に右手といえば、野島山が真先に思い浮かびますが、この時代は未だ現在のように埋め立てられていないので、夏島と野島の間に烏帽子島が存在していました。野島山か烏帽子島か、さてどちらのことを言っているのでしょう。
『絵で見る幕末日本』より「われわれが向っている埠頭と堤防を結んでいる橋が見え、一方、部落の先端に塩水湖を抱えた深い入り江が見える。港への入口で、果樹に囲まれた小さな神社が見えた。その向こうの岩壁の上に、見晴台のある茶屋があるが、ここから入り江の全景を手に取るように見下ろすことができるばかりではなく、ベブスター島及び潮島の彼方、遠く江戸湾を展望することができる。」
「埠頭と堤防を結んでいる橋」とは瀬戸橋、「塩水湖を抱えた深い入り江」とは塩田、「果樹に囲まれた小さな神社」とは琵琶神社、「見晴台のある茶屋」とは九覧亭のことでしょう。現在の金沢とはずいぶんとかけ離れた世界が広がっていたことが伝わってきます。さぞかし美しい風景だったのでしょう。
朝比奈切通に本当にあったお茶屋さん
金沢で一泊後、アンベール一行は鎌倉に向かいます。朝比奈切通とは記されていませんが、前後の記述から察するに、朝比奈切通を通り鎌倉に入った模様です。
『絵で見る幕末日本』より「岩壁にはところどころ洞窟があり、その中に、小さな石像や祭壇やお供え物が見えた。岩壁に続く頂上に小さな小屋があって、腰掛けを数個並べてあり、かまどが見え、お茶と食事の用意がしてあった。早朝のこととて、誰も見えず、その内部が丸見えであった。」
切通し途中にあるやぐらの記述、そしてなんと、朝比奈切通にお茶屋さんがあったとは聞いていましたが、本当にお茶屋さんがあったと記されています。ちょっと感動しました。お茶ぐらい飲んでいけばよかったのにアンベールさん。
鶴岡八幡宮で見たモノ
鶴岡八幡宮に到着したアンベール一行。
『絵で見る幕末日本』より「右手の橋は、荒削りをした白っぽい花崗岩でできており、ほとんど半円を描いて彎曲していて、いったい、どんな体操をするために造られたのだろうか?と、質問したくなるほどであった。」「橋に向き合って立っている神社の建物は、その高い屋根の下に、二つの恐ろしい面相をした偶像を置いてあって、その両側は自由に通れるようになっている。」
八幡宮入口にある太鼓橋の形状に「どんな体操をするために造られたのだろうか?」という感想は、外国人ならではの面白い発想ですね。それから、「二つの恐ろしい面相をした偶像」という、仁王門としか思えない記述があります。八幡宮に仁王門があったのでしょうか。『鎌倉の古絵図』にある当時の八幡宮境内絵図を見たところ、確かに、仁王門が描かれています。その他宝塔など、現在にはない建物がいくつかみられます。アンベールは特にそれら建築物に惹かれたようで、「あらゆる真の芸術作品が与える、壮重な調和のとれた印象を否定することはできない」と評価しています。
『絵で見る幕末日本』より「柵で囲った大きな石があったが、彼(案内人)は、この石にある婦人の性器に似た形をしている亀裂を指差して、この亀裂が自然に出来たものであることを主張した。」
「婦人の性器に似た形をしている亀裂」のある石とは、これはもしかして、現在政子石とか姫石と呼ばれているものでしょうか。そんなのまでアンベールに見せるなよ案内人・・と思う一方で、こうした特別な形状をした石は、当時は庶民の礼拝を勝ち取るアイテムの一つとして重宝されていたようです。ご存じない方は、源氏池にある旗上弁財天社の裏側を覗いてみてください。
長谷寺の売春宿疑惑?
アンベールが次に向かったのはどうやら長谷寺のようです。何故か寺院名が記されていませんでしたが、「全鎌倉湾を展望することのできる頂上」「高さ10メートルから20メートルもある金粉を塗った巨大な木造」という記述からも、長谷寺で間違いないと思いますが、詳しい方いかがでしょう。
ここではちょっと不思議な記述がみられます。
『絵で見る幕末日本』より「われわれが祭壇の広間から出ると、彼ら(長谷寺の僧侶)のひとりが、傍らの移動する扉を押し開けた。すると、中から厚化粧をした若い娘が出て来て、強制された微笑で、われわれにお辞儀をし、膝をついたかと思うと、われわれの足許に、身体を崩した。下劣な僧侶は、取り入るような様子をして、警備隊長のそばに近づき、催促するように彼の肩をたたいた。すると、警備隊長の方は、われわれの仲間で決めた合図に従い、ステッキを右の目の高さのところに上げ、左の目を意味深長にしばたいて、自分に向き合っている者及びその同類に、ただちにこの場を退散するよう強要した。」
私はこの一連の流れから、僧侶がこの「強制された微笑を浮かべた女性」を買春するようアンベールらに勧めているように受け取れました。この一文だけでは売春があったとは確定できませんが、この時代、食べていくだけでも精一杯な人も多かったことでしょう。お寺だろうと売春ぐらいはあってもおかしくはないかもしれないと私は考えましたが、皆さんはどうとらえたでしょうか。
鎌倉に来たらやっぱり大仏
アンベールが最後に訪れたのが大仏です。それにしてもアンベールさん、八幡宮→長谷寺→大仏と、現在の一見さん観光客が辿るコテコテの観光ルートと変わりません。昔から鎌倉観光といえばこんな感じだったのでしょうか。そしてその大仏にはかなりの好評価を与えています。
『絵で見る幕末日本』より「この巨大な像を見て起こる無意識の動揺は、まもなく感嘆に代わってくる。この大仏の姿勢にはなんともいえぬ魅力があり、その体の調和と均斉さ、その衣の上品な素材さ、その外貌の静けさ、明確さ、正しさも、また無限の魅力がある。」
「大仏の姿勢にはなんともいえぬ魅力」があるとアンベールが言っていますが、私もあの姿勢に惹かれます。また、「鎌倉の大仏は、支那で礼拝されている仏陀と名付ける醜怪な偶像に比べて、比較にならぬほど優れている。この事実は、重要なように思われる。何故ならば、仏教が支那から日本に伝わっているからである。」ともありました。大仏だけでなく、アンベールは比較的日本贔屓のようで、「支那は滅びゆく国、日本は興隆していく国」とも記しています。
エメェ・アンベール
幕末の頃の鎌倉がどうなっていたのかがわかるとても興味深い記録だと私は思いましたが、皆さんいかがだったでしょうか。アンベールが日本に向けてマルセイユで乗船したのが文久二年(1862)11月、日本に到着したのが文久三年(1863)4月、そしてその翌年にようやく日本スイス通商協定を江戸幕府との間に結ぶことができました。日本滞在時における彼の年齢は44〜45歳。そして時は流れ昭和39年(1964)、在日スイス大使館で日本・スイス修好百年記念祭が行われた際、アンベールは最大の功労者として讃えられました。 
絵で見る幕末日本 2
高輪東禅寺三重塔 1858(安政5)年の日米修好通商条約の締結によって、日本は本格的に開国した。それ以後、日本はアメリカとだけでなく、他の西洋諸国とも同様な条約を締結した。
多くの外国人が日本に来るようになった。しかし、それと軌を一にして日本の国内では攘夷運動が一層盛り上がった。朝廷を始めとして多くの大名たちは開国に反対した。大老の井伊直弼は天皇の勅許もとらずに強引に条約を締結した。それが攘夷運動が燃え上がる大きなきっかけになった。攘夷運動はやがて倒幕運動に変わった。
強引に条約を結んだ井伊大老の行動が賢明であったかどうかはさておいて、条約によっていくつかの港が開港し、外国との往来が始まった。
横浜は条約締結の翌年に開港され、外国人たちの居留地になった。この居留地はさながら外国のようであった。横浜で流通していたのはオランダ語ではなく、英語であった。福沢諭吉は横浜に行ったとき、世界で通用するのはオランダ語ではなく、英語であることを知り、死にもの狂いで覚えたオランダ語を捨て、英語を必死で学んだ。その後の福沢の行動を考えるだけでも、横浜開港が近代日本を築く上で、大いなる貢献をしたことがわかるであろう。横浜の掃部山には井伊直弼の銅像が現在でも立っている。井伊直弼は横浜の恩人であるのだ。
幕末に来た外国人は西洋の文物を日本に持ち込むだけでなく、貴重なものも残してくれた。それは当時の日本のことを綴った見聞記である。現在の私たちはこれらの見聞記を読むことで、当時の日本の客観的な姿を知ることができる。
私はこれらのいくつかの見聞記を読んで、江戸時代の日本は世界にまれな平和で豊かな国であることを知った。見聞記を書いた外国人たちは、世界各地を回っている人が多く、それらの国と比較して、日本は天国のようだといっている。何よりも日本人には笑顔があるという。特に日本の子供たちはいつも笑顔を絶やさなかった。当時の世界では、子供たちが笑顔を振りまく国はめずらしかったのである。

数ある見聞記には、絵をふんだんに用いたものもある。エメェ・アンベールの「絵で見る幕末日本」である。この見聞記には、著者のアンベールが描いた当時の日本の風物の絵がたくさん載せられている。
アンベールはスイスの時計を扱う商人でありなおかつ外交官である。江戸幕府が各国と通商条約を結ぶとスイスも負けじと日本と条約を結ぼうとして、アンベールたちを日本に派遣した。時は1863(文久3)年である。一行は長崎に寄港し、それから横浜・江戸へと向かった。幕府とは交渉の上、めでたく通商条約を結ぶことができた。
「絵で見る幕末日本」は絵と文章とともに、日本とはどのような国かを紹介したもので、ヨーロッパの人たちに読ませるために出版された。
アンベールが長崎に着いたとき、まず、彼を驚かせたのが、長崎の自然の美しさであった。長崎の自然の美しさは、西洋の国で唯一日本と貿易を許されたオランダ人から、ヨーロッパに伝わっていたらしいが、アンベールは実際に、長崎の自然を見て、その美しさに感動している。長崎だけではなく、彼の見た日本の自然の美しさに感動している。
アンベールの一行は長崎を後にして、横浜に向かった。横浜には船で行くのであるが、瀬戸内海を通った。そのとき、現在の香川県の多度津港に寄港し、丸亀城を見たと記している。山の上に聳える丸亀城が絵に描かれている。
一行は横浜に着くと、オランダの領事館に逗留した。横浜は開港して間もないが、西洋風の家が次々と建てられていた。
横浜にしばらく逗留した後、一行はいよいよ江戸に入った。この見聞記では江戸の町のことを詳しく書いている。アンベールが江戸に入ったときは、攘夷運動真っ盛りで、攘夷を訴える浪人たちが跋扈していた。浪人たちが外国の領事館や外国人を襲う事件が頻発した。アメリカ公使館の通訳であったヒュースケンも1861(文久元)年に殺されている。ヒュースケンはアメリカ公使ハリスの右腕といわれた有能な人であった。
外国人にとってはとてつもなく物騒極まりない江戸の町であったが、アンベールはそのことにはあまり触れずに江戸の町の至るところに顔を出している。
高輪と愛宕下・江戸城の周辺・日本橋を中心とした商人の町・江戸の橋・江戸の芸術品と工業製品・江戸庶民の娯楽・祭りと祭日・浅草と吉原などについてきめ細かく書かれている。私はこれらの絵と文章は間違いなく歴史の一級資料になると感じた。
アンベールは、演劇などは西洋にはるかに劣るが、日本人の手の器用さを褒めている。将来、日本が優れた工業国になることを予見しているのである。
当時の江戸の人口はアンベールによると180万人らしい。そのほとんどが、幸福に暮らしているように見えたとアンベールは記している。
名所・旧跡をめぐって
高輪の東禅寺三重塔
東禅寺は、安政6(1859)年に日本で初めてイギリス公使館が置かれました。公使ラザフォード・オールコックが駐在しました。 東禅寺は、攘夷派の標的となり、文久元(1861)年に水戸藩浪士によって襲撃され、翌年には、護衛役の信濃松本藩士にによって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺害されました。
横浜開港資料館にあるペリー提督横浜上陸の石碑
横浜開港資料館に隣接する公園には安政元(1854)年に、日米和親条約を締結した石碑と案内板が立っています。案内板によりますと、写真の場所は、現在の神奈川県庁付近と書いてあります。 
麻布山善福寺勅使門
善福寺は、幕末にアメリカ公使館になった寺です。
「当山の中門は古くから勅使門と呼ばれ、伝承によれば、文永の役(1274年)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名とされている。寺院の門として最も重要な位置にあり、幕末のアンベール著の絵入り日本誌等に、その形が描写されていた。当時の火災は免れたものの、昭和廿年五月廿五日戦災を受けて焼失し、昭和五十五年十一月五日の再建によって、現在の形を再び現わした。」
ちなみに、善福寺には、慶応義塾を創立した福沢諭吉の墓所があります。
南麻布の光林寺の寺門
光林寺には、アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官のヒュースケンの墓所があります。
「アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官として、安政三年(1856)七月に下田に到着したオランダ人ヒュースケンは、その後安政六年六月江戸麻布善福寺にアメリカ仮公使館が設けられるに及び江戸へ入り、ハリスの片腕となって、困難な日米間の折衝に活躍し、日米修好条約を調印にいたらしめ、また、日本と諸外国との条約締結にも尽力した人物である。万延元年(1860)十二月、ヒュースケンは日本とプロシアとの修好条約の協議のため、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、五日午後九時ごろ、宿舎への帰路、中ノ橋付近で一団の浪士に襲われ、刀で腹部等を深く切られて死亡した。墓はカトリック教徒のため土葬が必要であったが、当時御府内では土葬が禁止されていたため、江戸府外であった光林寺に葬られた。」
日比谷見附の石垣
桜田通りと晴海通りが交差する都内有数の自動車通行量が多い日比谷交差点にあります。
「この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。城の外側から順に、高麗門(こまもん)・枡形(ますがた)・渡櫓(わたりやぐら)・番所が石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。当時、石垣の西側は濠(ほり)となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池(しんじいけ)としました。」
赤坂見附の石垣
この石垣も自動車の通行量の多い国道246の青山通り赤坂付近にあります。
「正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門を見ることができます。赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。」
浅草見附の碑
見附は江戸城の周りに36か所存在していました。現在でも地名として残っているものもあります。
「浅草橋という町は昭和九年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川い架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附というわれた。この神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。」
柳橋
「柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋架です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。明治二十年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋架には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(1929)に完成しました。・・・」
高輪大木戸
江戸時代の東海道、現国道15号線にある高輪大木戸跡です。
「高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792)など諸説がある。江戸の南の入口として、道幅約六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。天保二年(1831)には、札の辻(現在の港区芝五の二九の十六)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。江戸時代後期には木戸の整備は廃止され、現在は、海岸側に幅五・四メートル。長さ七・三メートル、高さ三・六メートルの石垣のみが残されている。四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残されて、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。」  
諸話
上野山下
「山下の大きな広場に近づくにしたがって、群衆の数はふえてゆく。歩道には、竹と葦簾でつくった仮小屋が所狭しと並んでいる。その他、あちらこちらに散らばって、特殊な商人が店を出すが、彼らは群衆にぐるりと取り巻かれて、人垣の中で商売をしている。(中略)山下の広場にだけで、二十から三十も見世物小屋がある。そこには、軽業師、曲芸師、手品師をはじめ、伝説の語り手、庶民の笑劇、あるいは歴史に因んだ仮装行列の役者がいる。この他にも、一、二の曲馬団の興行がある。(中略)めぼしい小屋はかなり遠くからもそれと分かるように、高い櫓でそれと知れる。櫓といったところで、実際には油紙で覆いをかけた、竹の籠のようなものにすぎない。ここで上演される演目は大劇場のそれと比べると、文学的な価値はずっと劣っている。しかしながら、私はこんなことを考えている。もし、その脚本の中からよいものを選び、丹念に翻訳してみれば、日本の国民の真髄を理解するのに貴重な資料を、われわれに提供してくれるだろうと。」
江戸の男前は、与力、鳶、関取
江戸の町の男前といえば、与力、鳶、関取といわれる。職業で男前か否かを判断するのは無理がありそうだが、職業柄からの評価なのだろう。
町方与力は町方衆を采配する。鳶は多くが町火消で威勢がいい。関取は1年を20日で暮らすいい男だ。当時の相撲は一場所10日、年二場所だった。もっとも、屋外で相撲をとっていたため雨の日は中止になり、一場所を終えるのに3か月かかったという記録もあるから、思ったより楽ではない。
髪結だって負けていない。身近な職業として町の人々から親しまれていた。儲けもピンからキリまであって、新吉原で大尽遊びをした髪結もいる。
髪結を描いた絵があり、それを見ると、とびきりとまではいかないまでも普通にいい男だ。いまも男性美容師さんは二枚目が多い(と思う)。髪結は錦絵にも描かれているが、ここでは幕末、1863年に日本との修好条約を結ぶために来日したスイス人、エメェ・アンベールが残した絵を紹介します。エメェ・アンベールの描く絵は写実的で、当時の日本の風景をかなり正確に表現している。
朝の日本橋の風景をスケッチしたもので、その中に髪結床も描かれている。
「髪結はあたかも古代の彫刻家が女神の像を刻むように、自然に体を動かしながら、鋏や剃刀を使い、髷を結っていた」と記録している。
ナンバ歩き
図1を見てください。これは飛脚さんが走る姿の写真で、右手右足を同時に出して走るナンバの証拠写真としてよく使われるものです。書籍に掲載されているのは何枚かあり、違う飛脚さんがポーズしていますが、どれも似たように、ポーズをとらして写真家が撮ったもので、よく見ると実際に走っているのでないことは一目瞭然です。どれも似てしまったのは、この時代のカメラ技術から考えて、飛脚さんにカメラの前でポーズしてもらい撮影したために右足を出した方が安定したからだと思います。当然ながら文箱を右肩にかつぐポーズに固定されるため、右手右足を出した記録写真になってしまったのではないかと推測できます。
ナンバ歩きの不自然で誤解を生む「右手右足を同時に出す歩き」という説がまかり通るようになったのは、こんな静止のポーズで撮った写真が原因だとすると、この誤解が正しい身体論の普及の障害となっているのではないでしょうか。
しかし図2は「絵で見る幕末日本」エメェ・アンベールに掲載されていた飛脚の絵です。これは実際に走っている見たままの印象をスケッチしたものだからでしょう躍動感があり生き生きしています。これを見て分かりますが、右肩に文箱を担ぐ飛脚が左足を前に出しているので、図1のような不自然さがありません。従って図1は明治に入って飛脚という職業の記録写真を残す意図で撮影されたものだと思います。
日本人の礼儀 (横浜沿岸の散策)
「沿岸地帯に住んでいる善良な人たちは、私に親愛をこめた挨拶を交わし、子供たちは、私に真珠の貝を持ってくるし、女たちは、籠の中にたくさん放り込んでいる奇妙な形をした小さな怪物をどのように料理すればよいかを、できるだけよく説明しようと一生懸命になっている。親切で愛想のよいことは、日本の下級階層全体の特性である」
「よく長崎や横浜の郊外を歩き回って、農村の人々に招かれ、その庭先に立ち寄って、庭に咲いている花を見せてもらったことがあった。そして、私がそこの花を気に入ったと見ると、彼らは、一番美しいところを切り取って束にし、私に勧めたのである。私がその代わりに金を出そうといくら努力しても、無駄であった。彼らは金を受け取らなかったばかりか、私を家族のいる部屋に連れ込んで、お茶や米で作った饅頭(餅)を御馳走しないかぎり、私を放免しようとはしなかった」
避暑地
「熱帯の気候やシナにおける仕事の繁忙に疲れているヨーロッパ人たちは、日本に来て清新な空気を吸い、内海の海岸で数週間を過ごすことを歓迎するだろうし、ヨーロッパの婦女子も、イタリアのいかなる避暑地にも劣らないこの国の穏やかな気候のなかで、猛暑の数ヶ月をおくる幸福な可能性を持つことになるだろう。」
オランダ領事館長応寺 (スイス使節として長応寺に滞在)
「この小さな空き寺は他の寺に囲まれており、しかも他の寺も大部分は空き家だったので、大都市の騒々しい市街が近いにもかかわらず田舎のように閑静であった。東海道の方からこの寺に入る道は石段になっていて、入り口には大きな黒い門があった。」
「菖蒲や羊草が茂っている池が屋敷の中央にあって、隣の岩窟から流れ出る水が注いでいる。岩窟のあたりは緑に包まれていて、現在にいたるまでその面目を保っている古い石地蔵が立っており、小さな祭壇と鳥居がある。細い道が、流れを木橋で渡って樹木や石の間を通り住居の上手にある垣根の方に続いている。」
「ここは松の木陰になっていて石の腰掛が置いてあり、そこから寺の庭や建物ばかりでなく、その向こうに港や港を守る堡塁も見下ろすことができる。太陽が沈む頃、これらのすべてが美しい風景を構成する。空と入江が鮮明な色に映え、丘陵の緑が瞬間的な閃きで覆われ、池が紫紅色の彩りを呈してくる。やがて暮色が次第に濃くなり、多数の海の鳥がねぐらの方へ飛び去って行く。緑の集団が銀色の水平線上に黒い斑点となって横たわり、鏡のような水面に振動する星の光が反映する。」
浮世絵
「北斎の素描はひねくれているが、愉快で、米倉でもっとも恐るべき敵、鼠どもにもっとも貴重な穀物を台なしにされているありさまを描いている。この傑作な場面に欠けているものは何もない。(中略)もっとも細かい点までも、整然とした構図で、細心の心遣いで描かれている。こうしたおかしく、軽妙で、かつ無邪気に、また、ある場合には英雄喜劇的に、日本人は非常な気楽さと独創性を発揮するのである」
「日本で驚嘆するほど多数出版される書物の中には、影響力の動かしがたいほど甚大なものがある。それは艶笑文学であって、商品として公然と売買され、飛ぶように売れている(「笑い絵」「春画」などを指すものと思われる)。そこには、あらゆる年齢の淫蕩な姿が、人間の想像を絶する、このうえなく苦心惨憺して、もっとも空想的に描き出されている。芸術性も、趣味も、造形的な美の観念も全然欠けており、美の三女神も笑いの神も、喜びの神も、愛の神も、日本の女神には伴っていない。というより、むしろ性(セツクス)そのものであるだけであって、女性ではなく、その主人公は卑しい人体模型なのである」
 
アドルフ・フィッシャー 

 

Adolf Fischer (1856〜1914)
オーストリアの東アジア美術史家、東アジア民族研究家。ケルン市東洋美術館館長。1892年に初来日、日本に魅了され生涯に7回も来日した。明治期の日本人の気質や日本の自然・風景を絶賛した『明治日本印象記』を残している。ドイツ人女性美術史家フリーダと結婚し新婚旅行も日本であった。フリーダにも日本美術についての著作がある。 
2 ( 誤訳 )
オーストリアの アートコレクター 、俳優、演出家や創業者のケルン東アジア美術館。
アドルフ・フィッシャーウィーン、3人の息子と実業家の3人の娘の第二に1856年5月4日に生まれました。で彼の教育の後寄宿学校でチューリッヒ、彼が参加し、商業トレーニングを親の会社の一つで。両親の意志に反して、彼は後にウィーン宮廷の役者でいたジョゼフ・ルインスキー俳優として訓練を受けました。最初の後の契約で特にベルリン国立劇場、彼はで1883年に取締役に就任市立劇場ケーニヒスベルク、1886年に登場したが返されます。これは、ステージから引退する前に、米国にはまだ劇場ツアー1887年に続きました。彼の演技省の時間では、彼はアドルフウェルテル自分を呼びました。
アドルフ・フィッシャー退任プライベー後数年間はイタリアが返され、イタリアの芸術と豊富な旅行の研究に専念しました。その後、彼はミュンヘンとベルリンに住んでいました。1892年7月22日には、彼が乗り込んオーガスタビクトリアと始めた世界一周旅行した後、初めてそれを日本が主導しました。
1896アドルフ・フィッシャー左の民間学者がベルリンに定住し、上の彼のアパートで見つかったノレンドルフプラッツ(Nollendorfplatz)アジアで取得した、いわゆる「Nollendorfeum」、アーティファクトから。この時間の間に彼は18歳年下メーカーの娘(1945年12月27日-3月24日、1874年生まれ)フリーダBartdorffが知って学びました。どちらも、彼らは1897年9月から旅新婚旅行で3月1日、1897年に結婚していたウィーン、アーメダバード、香港、台湾、日本。1899年5月には、漁師は、ベルリンに戻りました。芸術の新たに獲得した作品は、VIで1900年の初めでした。分離派が発行しました。1901年、フィッシャーは、ノレンドルフプラッツ(Nollendorfplatz)で彼女のアパートを解散し、にあなたのコレクションを転送ベルリン民族学博物館。同じ年に、彼らは再び旅アジア。好むドイツの植民地政策は、アドルフ・フィッシャー1904年から1907年に位置取った科学的専門家で大使館で北京順序と獲得するために彼自身のコレクションのために確保アートを持っている権利を持つドイツの博物館のための芸術取得する。
東アジア美術館
東アジアのアート(1914)の博物館-アドルフ・フィッシャーの道(右)とGereonswall。
1902以来、アドルフとフリーダ・フィッシャー東アジアの理由に芸術のための博物館のアイデアを貢献しました。
「民族学の行為であってもよいが、東アジアの唯一の技術では、定められたべきではありません」 (1902年の日記)
市との最初の交渉の末キール利用できる彼女のコレクションのための一時的な家として1908年4月体育館から漁師でした。それはキールの都市が適切な方法で、博物館の建設資金を調達することができないであろうことが明らかになった場合には、アドルフ・フィッシャー、1909年4月にキールの都市との契約を発表しました。
ベルリンとキールの後に失敗した交渉はして1909年の成功の交渉に続いケルンの街。1909年6月21日に、創立契約が締結されたこれはアドルフとフリーダフィッシャーそのコレクション全体(900点の展示)とその広範なライブラリ原因。その見返りに、ケルンの街は、博物館に資金を提供し、アドルフとフリーダフィッシャー付与された年金を。また、アドルフ・フィッシャー創設ディレクターに任命されなければならないと彼の妻は彼の死のイベントで成功します。
コレクション・フィッシャーは、最初の古い建物の中にいた装飾美術館でHansaring 32に対してハンザ広場に収納しました。だったの礎石は1911年1月24日に敷設された後、フランツBrantzkyでネオクラシックスタイル 1913年10月25日の東アジア美術の設計された博物館の建物、エッケアドルフ・フィッシャーストリート/開くことGereonswall。内部はオーストリアの建築家だったジョセフ・フランクに設計され、それはまた、彼が引き継いだ彼の最初の公共の契約の一つでした。
アドルフFischersの死の後
アドルフ・フィッシャー数ヶ月博物館のオープニングの後に死に、彼の妻フリーダは、ドイツの二博物館局長作り、契約博物館の方向を取ります。フリーダフィッシャーが求められてなった専門家やコンサルタント東アジア芸術。第二に、夫は彼女が1921年にユダヤ人の上院での社長と結婚高等地方裁判所と教授のでケルン大学のアルフレッド・ルートヴィヒWieruszowski。
1937フリーダフィッシャーWieruszowski理由により、夫のユダヤ人の起源の、ナチスは、博物館のディレクターとして、オフィスの外に押し出さや博物館を入力することは許されませんでした。完全に権利を奪わと彼女が最初に彼女の夫と1944年10月に逃れ疲弊ドレスデン以降ベルリンへ。そこに彼女は数ヶ月彼女の夫の後、1945年12月27日に死亡しました。1952年に彼らの意志が残るケルンに移しました。
墓ケルンにあるアドルフ・フィッシャーとフリーダフィッシャーWieruszowskiのMelaten墓地(ホール76A)。彫刻家ゲオルク・グラセガー -designed碑は1920年11月3日に発足し、1984年に修復されました。墓は、ケルンの街からである名誉墓を楽しま。ケルン東洋美術館のコンベア回路から墓投資資金を開く博物館の生誕100周年を記念して、再び大規模な改装されました。
Hansaringの博物館の建物は完全に4月の第千九百四十四にケルンで破壊された最後の空襲でした外部委託美術品は、それらをすべて保存されました。のみ、1977年に日本人によって計画に基づいていた前川國男のアーヘナーWeiher構築された新しい建物、これはケルンの戦後の最も重要なモニュメントの一つです。
ケルン(コーナーGereonswall)創設者アドルフ・フィッシャーの博物館アドルフ・フィッシャーロードの元の場所に思い出させます。 
日本と日本人感
アドルフ・フィッシャーはオーストリアの東アジア美術史家、東アジア民族研究家、ケルン市東洋美術館館長で、初めての来日は1892年で、1897年に結婚したフィッシャーは、新婚旅行の目的地としても日本を選んでいます。

数世紀にもわたって支配した政権が、突然政治的役割を放棄したこともさることながら、現政権に対抗して旧幕府を守りたてて少しでも戦っていこうと試みる政治勢力が日本に皆無なことはまったく信じ難い。かつての勤皇、佐幕両派は、祖国の繁栄発達ということのみを目標に掲げる一つの党派に融合した。すべての国民がこの理想をあらゆる特権的利益、党派の利益に優先させているわけで、日本はまさに幸福な国である!
すでにこの点で日本は幸福であり、賞賛に値するのだが、さらにこの国は、ヨーロッパのすべての国から、思想の自由があるという点で羨望されている。
数ヶ月前、私は日本人の友人と話し合った際、たとえばオーストリアでは数年来、国と教会が闘争しているが、それは教会が学校教育、すなわち国民教育を独占しようとしているからだと述べた。驚いたその日本人は次のように反論した。
「僧侶は学校でなにを求めようとしているのですか?わが国では仏僧であろうと神主であろうと、聖職者が学校に介入することなどけっして許されませんよ。」
あわれなヨーロッパ人である私は、これを聞いて勇気をなくし、おずおずとたずねた。
「それでは宗教教育はどうなっているのですか?」
「宗教ですって?」そこで彼は次のように続けた。
西欧式の考え方によれば、日本ではそもそも宗教の講義は行われず、ただたんなる道徳教育があるだけだ。
上級学校ではさらに儒教や古代中国の道徳哲学に関する書物の講読があるものの、それだけで十分だというのだ。
「あなたはどう思いますか?」彼はさらにつづけた。
「あなたは日本では、聖職者の介入がないために、ヨーロッパよりも子供たちが両親に対し、より粗暴な、情けない、敬意を欠くような態度をとったり、国民全体が一層、非行、犯罪に走ると思いますか?」
わたしは公平に見て、実際に日本人ほど礼儀正しく、上品な民族はなく、西欧人がしきりにビールや火酒を飲み、トランプ遊びにふけるのにひきかえ、日本人にはいささかも粗暴な趣はなく、自然とすべての美に対する愛を育てていると告白せねばなるまい。
人はだれしもこの幸福な島国で、春、とくに桜の季節を京都や東京で過ごすべきだ。その季節には、思い思いに着飾った人々が、手に手をたずさえ桜花が咲き乱れる上野公園はじめ、すべての桜の名所に出掛けてゆく。
彼らはその際、詩作にふけり、自然の美と景観を賛美する。・・略・・
男女の学童は桜花が咲き乱れる場所へ旗を何本も立てた柵を作り、その中で遊戯を楽しんでいる。色とりどりの風船、凧、それに紙製の蝶が空中に飛び交い、その間、目も覚めるような美しい着物を着た幼い子どもたちが、色鮮やかな蝶のように、袂を翻して舞っている。
世界のどの土地で、桜の季節の日本のように、明るく、幸福そうでしかも満ち足りた様子をした民衆を見出すことができようか?たんに若者ばかりでなく、老人も花見に出掛け、傍らに即席の藁葺小屋ができている桜樹の下にたむろする。小さな可愛らしい容器に注がれた茶や酒を飲みつつ、花見客は優雅に箸を使い、キラキラ光る漆器の皿にのっている握り飯や菓子をつまむ。清潔、整頓、上品さがいたるところで見受けられる。優雅さとすぐれたしきたりが調和しているこの有様は、下層の労働者にすら備わっている日本人の美的感覚の発露である。ヨーロッパでは、こうした調和は、ただ最上流階級の人々にしか見出されないであろう。・・・略・・・
桜花が咲き乱れる10日あまりの間、日本ではだれしも数日間はまさにのんびりした気分になる。教会の祝日だからではない。日本人の生活と密着している自然が「いまこそ外出して楽しめ。そして幸福になれ!」と命令するのだ。
日本人にとって自然への愛、生まれながらの美的感覚が生涯を通じて忠実な同伴者となる。
 
ハーバート・ジョージ・ポンティング 

 

Herbert George Ponting (1870〜1935)
イギリス生まれの写真家。1910年、スコット南極探検隊に参加し、写真と映像による記録を残す。南極に映画カメラを初めて持ち込んだ人物である。著書に“The Great White South”などがある。1902年ごろ、日露戦争のときに、アメリカの雑誌社の特派員として日本陸軍の第一師団に同行。1906年には再び日本を訪問。日本をことのほか愛し、「この世の楽園」と讃えた。京都の名工との交流、日本の美術工芸品への高い評価。美しい日本の風景や日本女性への愛情こもる叙述。浅間山噴火や決死の富士下山行など迫力満点の描写。江戸の面影が今なお色濃く残る百年前の明治の様子を多くの写真に残した。 
2
イギリスの職業写真家である。彼は、明治時代に『この世の楽園 日本』という写真集を発行し、1910年から1913年にかけてのロバート・スコット の南極探検隊の写真家、映画撮影技師であったことで知られる。
ポンティングは英国南部 ウィルトシャー のソールズベリー、に1870年3月21日に生まれた。彼の父親はフランシス・ポンティングといい銀行家として成功し裕福な家庭であった。母親はメアリーといい、サイデンハム家から嫁した。ランカシャー州レイランドのウエリントン・カレッジを卒業後、18歳の時から4年間、彼はリバプールの地方銀行に就職した。 しかし、彼の気性に合わず、アメリカ西部に魅惑されて、1893年は、彼はカリフォルニア に移住し、父からもらった資金で、果樹園を購入した。同時に金鉱にも投資している。1895年彼はカリフォルニアの婦人 Mary Biddle Elliott と結婚し、娘 Mildred はカルフォルニアのオーバーンで1897年1月に生まれた。父と異なり理財にたけていない彼は1900年、果樹園は失敗し、1898年の終わりにロンドンに引き揚げたが、ロンドンで長男リチャードが生まれた。1899年の秋に一家はサンフランシスコに戻った。
写真家を志す
その後ポンティングは真剣に写真家を志した。彼の写真技術は自分で修得したものであって、特に教育などは受けていない。英国にいた頃から写真には興味をもっていたが、写真家として名をなしたのは、アメリカに渡ってからである。1900年にサンフランシスコ湾を写した写真が世界大賞を受けた。同年 一片6フィートの「カルフォルニアの騾馬」と題する写真がセントルイス博覧会にでコダック社の展示場を飾った。1901年から数年にわたり、写真の依頼を受け世界各地を旅行している。1904-5年は日露戦争があり、その写真を撮影し、その後、英語系の雑誌社のためにアジアを旅してフリーランス写真家として活躍した。しかし、彼はほとんど家庭を顧みなかったので、1906年妻と別れた。しかし正式な離婚はせず、死ぬまで別居していた。わかれたメアリーに対して父フランシスが1923年死ぬまで援助していた。 写真印刷の技術は進歩し、ポンティングはロンドンの4つの雑誌社に写真を売ることができた。それらはthe Graphic, the Illustrated London News, Pearson's and the Strand Magazine である。彼の写真は当時流行のコナン・ドイルのシャーロック・ホームズと並べられて、スタンドで売られている雑誌に掲載された。
日本の写真
ポンティングは1910年に『この世の楽園 日本』 In Lotus-land Japanと題する本をロンドンで発行した。彼は王立地理学会the Royal Geographical Society(FRGS)のフェローに選出された。彼は1901年から1902年頃から何度か来日し、日本中を旅し、日本の芸術や風物、自然に親しみ、正確に日本を理解していた数少ない知日家であった。この本は、外国人として初めて日本陸軍に従軍し、日露戦争に参加して軍人を通して日本人の赤裸々な姿に触れ、さらに3年間にわたる日本滞在の体験から得た日本観、日本人観が見事に浮彫りされている。
この世の楽園 / 18葉の代表的写真が前にある。ポンティングの写真もある。東京湾(写真9葉あり)、京都の寺(12葉)、京都の名工(10葉)、保津川の急流(3葉)、阿蘇山と浅間山(6葉)、精進湖と富士山麓(9葉)、富士登山(4葉)、日本の婦人について(17葉)、鎌倉と江の島(9葉)、江浦湾と宮島(5葉)。解説は詳しく正確である。
南極探検
南極探検の話が出て、最初のプロ写真家として参加することになった。彼はケープ エヴァンス、ロス島のキャンプにも参加した。そのキャンプには小さい暗室もあったのである。写真術が開発されて僅か20年しかならなかったが、ポンティングはガラスで高画質の写真を撮影しようとした。ポンティングはポータブルの撮影機を極地で最初に使った人の一人である。これはまだ未熟ではあったが短いビデオとなった。また、オートクロームを持参し、カラー写真を極地で撮影したのである。科学者たちは、とくにキラーホイール(シャチ)、アザラシ、ペンギンなどの生態を研究した。ポンティングは出来るだけ接写を試み、1911年にはキラーホイールが彼とカメラを打ち、マックマー湾の氷水に落ちそうになり、危うく死から免れたのであった。1911年の冬にはスコット隊長や外の隊員のフラッシュ写真を撮影した。1911-12年の橇の季節に彼のフィールドワークは終了した。そして1700枚の写真を持ち帰った。これらはスコット隊長の1913年の講演会とか費用捻出用に使われる筈だった。
後半生
スコット隊長の悲劇的な結末は、ポンティングの生涯とキャリアに影響を及ぼした。1910年の航海は大量の借金をもたらした。スコットは南極から勇者として帰還しワンマンショウを行う予定であった。ポンティングの映画は幻燈用に切り刻まれ、この遠征の借金を返してしまう重要な要素ということであった。しかしながら、1912年にスコット隊員の遺体がロス棚氷で発見された時、彼らの日記と雑誌が発見された。これらの記録は最終の日々を記録してあったが、寒さと飢えに悩みながら、食糧と燃料のデポ(貯蔵地)に到達するべく必至の努力を重ねた。スコットは最後の時間を費やして、残された遺族や生存者の福祉を希望すると書いた。この雄弁なアッピールが発表されので、多くの資金が寄せられた。それは必要以上であった。こういう事情だったのでポンティングの努力は必要なくなった。その後間もなく第一次世界大戦がはじまった。
世界大戦の勃発まで、彼は南極探検のスライドを映写し、何度となく講演した。1914年5月はバッキンガム宮殿で、国王ジョージ5世およびその他の皇族、デンマークの国王、王妃の臨席の下に南極の映画が上映され彼は解説をおこなった。この映画は1933年再編集され、彼自身の解説を入れ「南緯90度」という題で完成した。彼の著書 The Great White Southは1921年に発行された。この本は次々と重版された。
南極探検の後は目立った活躍はない。1918年にスピッツベルゲン島の探検に参加した位である。父と違って事業的才覚はなかった彼は映写機の開発やその他の事業に手を出したが失敗に終わった。晩年には経済的にも行き詰っていたようだ。60歳を過ぎてから気管支炎や消化不良に悩まされ 糖尿病も患っていたようである。1935年2月7日、65歳で永眠した。 
英国人写真家の見た明治日本 1
明治の美しい日本と日本人が写真で紹介されているので、日本びいきのポンティングの解説や旅行記と相俟って、明治初期の日本のすばらしさを知ることができる。日本女性に関して西欧人が如何に偏見を持っているか、日本女性の良さを紹介、家庭を取り仕切っているのは女性であり、男性は家庭の長のように振る舞っては居ても、実は女性が取り仕切っているのが日本の家庭である、と看破している。
日本に到着したときに見た富士山の美しさ、東京湾に浮かぶ数多くの船を紹介、まずは精進湖、本栖湖、芦ノ湖などから見た富士山のすばらしさを描写する。京都では知恩院の鐘付きと寺内部での美術品や僧侶たちの様子、鶯張りの廊下、五条坂から清水寺への経路と清水の舞台、びんずるの謂われ、竹林に行き交う人力車などを写真付きで紹介する。面白いのは、竹林で人力車に乗った婦人を写真に収めるために、出入り口を一時的に封鎖、それが警官にとがめられ、6シリングの罰金を取られたが、撮影料と思えば安いものだ、などという逸話も紹介していることだ。
京都の名工では青銅の象嵌師である黒田氏と昵懇になった。黒田氏は西欧人が上っ面だけ分かったような顔をして、工芸品を買い占めていくことをよく知っていて、そうした人たちには本物の芸術品は売らない。このことに気づいたポンティングは、深く黒田氏に接近、本物の芸術品に触れることができた。陶芸や七宝でも同様のことがあり、ポンティングが単なる写真家ではなかったことが伺える。ポンティングが日本を訪れたのは日清戦争後、日露戦争を挟んだ数年であり、数回の来日で数多くの経験と交流があったようだ。
保津川急流くだりと逆に遡上も経験した外国人は珍しいだろう。保津川遡上については、船を操るベテラン船頭たちによる経験談として語っている。阿蘇山と浅間山という活火山への登山も面白い。写真の感光版のなかでも特殊なものは火山付近に立ちこめる硫黄などのガスでダメになってしまう、という経験談も披露、実際に火口の際まで行って写真を撮る際に、小噴火にであい、命からがら逃げる、かとおもえば引き返して決死の覚悟で写真を撮る、こういう冒険談は当時の日本人には大変な酔狂ものだと映ったに違いない。
富士登山では、重い写真用具を強力を雇って頂上まで担ぎ上げ、頂上では2日間嵐で外出もままならないという経験をしている。下山時には足下に見える三日月の形をした山中湖にまっすぐ降りようとして強力に止められる。道がないので無理だというのを聞かずに突き進んで、結果は散々な目に遭う。それでも夜中近くになって吉田の旅館にたどり着く。冒険家というものはこういうものだろう。
鎌倉、江ノ島、伊豆の江の浦湾、宮島など観光地を巡っているのだが、かならずポンティング独特の体験談がある。単なる写真付きの観光旅行記ではない、英国人から見た日本文化が解説されているのだ。江戸末期から明治かけての外国人による日本旅行記が面白いのは、今は見られなくなった日本の良さを当時の西欧人たちが見て喜び、そして褒めているからだ。まさに「逝きし世の面影」である。 
英国人写真家の見た明治日本 2
作者ポンティングは、1910年にスコットの南極探検に同行した写真家だそうです。彼は、1901年から1910年までの間に、日本の他に、朝鮮半島、中国本土、ビルマ、ジャワ、インド、スペイン、ポルトガル、ロシア、フランス、スイスなどを歴訪していますが、特に日本が気に入っていたそうです。アメリカの雑誌の特派員として来日し、日露戦争を挟んだ1906年までの間に撮影した写真が本書で紹介されています。
東京湾、京都の寺や名工、保津川の急流、阿蘇山と浅間山、精進湖と富士山麓、富士登山、日本の婦人について、鎌倉と江の島、江浦湾と宮島という構成で、写真と共に文章を残しています。風景に加えて、なぜか「日本の婦人」について書いているのが何とも興味深い。
「日本を旅行する時に一番素晴らしいことだと思うのは、何かにつけて婦人たちの優しい手助けなしには一日たりとも過ごせないことである。中国やインドを旅行すると、何カ月も婦人と言葉を交わす機会のないことがある。それは、これらの国では召使が全部男で、女性が外国人の生活に関与することは全くないからだ。」
作者は、日本の宿屋に滞在するのがかくも魅力的なのは、婦人がいつも笑顔を絶やさず、外国人の客の要求がどんな不合理なことであっても、朝であろうが、夜であろうが、いつでも客の言いつけを喜んでしてくれるからだ、とも書いています。これって、オモテナシ?
芸者についての記述もありました。
「日本の婦人の中でも外国人に一番誤解されているのは芸者である。ヨーロッパには芸者と同じものが無い。芸者は日本独特のもので、日本人の純粋な創作である。日本の事情に通じていない英国人の間で芸者の名を口にすると、そわそわした様子といわくありげな笑いを誘うことになる。何故芸者がこれほど誤解されているのか、答えるのは難しい。」
どうやら、ヨーロッパでは芸者は吉原のオイランだと思われていることを、作者はいぶかしく思っているようです。
ついでに、ピエール・ロティの『お菊さん』と思われる本をバッサリ批判しています。
「長崎の娼婦と過ごした生活を物語にして1巻の本を書いたあるフランスの作家は、世界の人々から見た日本の婦人のイメージをひどく傷つけた。しかし、他の作家も、本の中で日本の婦人に中国訛りの英語を喋らせるという、多少程度は軽いが、同じような誤りを犯しているのである。日本の婦人はたどたどしい英語を喋るが、決して中国訛りの英語は喋らない。」
ここで作者が言う中国訛りとはveryをvellyに、likeをlikeeに語尾を伸ばすことらしい。また、中国人は r と l を区別できるが、日本人がlikeをrikeと発音してしまうことを指摘しています。
写真を見ると、とても美しく、自然な感じに、日本の婦人を撮影しているのが印象的でした。かなりひいき目に見ているような気もしますが、まあ悪い気はしません。
さて、鎌倉の大仏についても面白い記述がありました。
「外国人の見物客が大仏の手の上に登ったりして、馬鹿げた不敬な悪ふざけをしたために、ちょっとした盗み撮りよりもましな写真を撮りたい場合には、大変な困難が伴うことになった。それでなければ坊さんが売っているステロ版の写真を買うしかない、写真を写すためには極めて面倒な手続きをしなければならない。三脚を立てるのは管理人の同意を要するだけでなく、それ以前に横須賀の海軍本部から許可証をもらって管理人に見せなければならない。」
当時の横浜の写真館には、仏像のあちこちによじ登り、その手や腕の上に乗って馬鹿げたポーズをしている外国人の写真の原板があったそうです。見てみたいですね。
さらに、江の島についても書いています。
「江の島は魚の料理が有名なので、一度食べてみると良い。金亀楼でもその他の上等な宿屋でも食べられるが、もし望むならもう少し歩いて、突き出した崖の縁にある変わった見晴らし台で料理を食べることもできる。周囲の景色は実に素晴らしい。料理の味付けは外国人の口に合わないものもあるかもしれないが、美味しく味付けされた烏賊もあるし、殻のまま炭火の上でバターを入れて焙り焼きしたサザエもある。これはどんなに味にやかましい人間でも喜ぶような美味な食物だ。但しこれは極めて見かけが悪いので、偏見を捨ててこれを試みる事が出来ればの話である。」
作者は、江の島のサザエは、ボルドー産のカタツムリと比べ物にならないほどうまい、とほめていました。 
英国人写真家の見た明治日本 3
1910年から12年にかけて行われたスコット大佐の第二次南極探検に随行し、記録写真を撮り、映画「スコットの南極探検隊」を撮影したハーバート・ジョージ・ポンティング(1870−1935)。
世界を股にかけた写真家だった彼が、探検の直前にイギリスで出版した書物が本書で、原題は In Lotus-Land Japan と名付けられています。ロータスランドというのは、ロータス(はす)を食べる人達が住む国のことで、はすを食べると気持ち良くなって全てを忘れて夢見心地になるという、ギリシアの伝説に登場する国、いわば桃源郷です。ポンティングにとって、日本とはそれほど心地よい国だったのでしょう。
ポンティングは、明治34年(1901)頃から39年(1906)頃までの間、何度か来日し、その思い出をまとめ写真を収録したのが本書です。
温和で親切な日本人
ポンティングが「最も優美で心を奪われる都」と紹介するのが京都です。始めて京都駅に降り立ち、人力車で都ホテルに向かうポンティング。しばらく進むと、彼の眼を喜ばす光景が現れました。
「その通りではどの店も骨董屋のように見えたが、群衆が大勢群がっているので、車夫が進むのに苦労するほどであった。ちょうどその近くの寺で、大きなお祭りが催されている最中だったのだ。大通りには何百という屋台が立ち並んで、あらゆる種類の品物を売っていた。屋台をもっていない商人もかなりいて、地面に品物を並べて売っていた。・・・(中略)・・・
これほど大勢の人で混雑して、そのうえ乗り物まで通るような道路わきで、優美で壊れやすいこんな品物を、屋台に並べたり、地面の上にさえ並べたりできるのは、日本人が生来温和な国民だという証拠である。もし英国で我が同胞にこれほどの信頼が寄せられたとしたら、その結果がどうなるか考えるだけでも身震いがする。
後で分かったことだが、その時の車夫は、私が初めて京都へ来たことを見抜き、特別に少しばかり回り道をして、新来者に綺麗な見世物を見せて喜ばせようと、わざわざ混む大通りを通ってくれたのであった。ロンドンで馬車の馭者が賃金をもらうお礼に、これほど濃やかな心遣いを見せることが考えられるだろうか? これと同じようなちょっとした親切と思いやりを、日本で旅行した三年の間に、何度となく経験したことが懐かしく想い出される。」
日本人のやさしい心に触れ、ポンティングは日本びいきになっていくのでした。
夜の清水寺
蹴上の都ホテルに泊まった彼は、夕刻、間近にある知恩院の「大きな鐘の深い音」を聴きます。撞かれてから音が静まるまで、たっぷり1分もかかる鐘の音を。そして、高さ10フィート8インチ[約3.3m]、直径9フィート[約2.8m]、重さ74トンと、鐘の巨大さを紹介し、数十人の男達が鐘を撞くさまを珍しそうに描写しています。
興味深いのは、清水寺を訪れるくだりです。清水寺の参道や建物や仏像、そして夕日が沈む美しさに魅せられたポンティングは、夜の清水寺訪問を試みます。
「しかし、月夜の清水寺はなお一層美しい。ある満月の晩に、日本の友人とその小さい娘、お君さんを説き伏せて、一緒に寺へ行ったことがある。日本人は夜こういう場所に行くことを好まない。というのは、彼らは想像力が強く迷信深いので、超自然的なことを信じている人が多いからである。・・・(中略)・・・
二つ目の門の入り口のところに、こわい顔をした龍の口から銀色の水がほとばしり出ているが、そこで友人がこれ以上進まないで、ここで月見を楽しもうと遠慮がちに提案した。しかし、私は全部見ようと決心していたので、もっと先へ進むことを主張した。暗い入り口に入ると、床の軋む音が壁や天井に無数に反響した。お君さんは恐ろしさで爪先立って歩いていたが、彼女の小さな頭の中は、きっと知っているかぎりのたくさんの化け物やおとぎ話で一杯だったのだろう。・・・(中略)・・・
辺りの木よりはるかに高く張り出した舞台の上に立って、「芸術家の都」のまたたく灯を見ていると、月の光が雲を銀色に縁取り、周りの欄干や厚く葺いた切り妻屋根の上に、柔らかな光と移ろいやすい影を投げかけていた。下の方にある小さな滝の優しい水音と、こおろぎの鳴き声のほかには、夜のしじまを破る物音は何一つ聞こえなかった。そのうち突然に一羽の夜鳴鶯(ナイチンゲール)がすぐ近くの梢で鳴き始めた。小さな喉から流れるメロディーは、トレモロを交えたすばらしい狂想曲(ラプソディー)で、一羽が鳴きやむと近くの木から新たな囀りが始まった。こうして代わる代わるに鳴く鳥の声で、古い寺とあたりの森は華やかな音楽で一杯になった。小さなお君さんはこの思いがけない出来事に大喜びして、手を叩いて叫んだ。「鳥が皆で歌い合っているのよ。なんてすてきなのでしょう。ここへ来てほんとうによかったわ」 」
詩的な音の風景です。とても美しく囀るので、ナイチンゲールは欧州では大変好まれた鳥でした。幾つかはわかりませんが、目に見えぬお化けにおののく「小さなお君さん」が、恋の歌を唄うナイチンゲールに大喜びしたとは、本当に素敵な情景ですね。
それにしても、明治時代は夜間でも清水寺に立ち入れたとは。いまは夏の夜間拝観くらいですが、こういう大らかさもいいものです。
三十三間堂の観音像
ポンティングは、清水寺に続いて三十三間堂を取り上げます。ここは、彼に言わせれば「聖なる寺院というよりも大きな納屋のような感じ」ということです。いまも拝観することができる千体千手観音像について、彼の証言に耳を傾けてみましょう。
「ひな段式の段に並んだこれらの鍍金の観音像は、金ぴかで雑多な寄せ集めである。その密集した列は百ヤードの長さで大部隊を構成しており、広い建物の端から端までを占めている。像の大部分は非常に古いもので、絶えず修理されている。広い本殿の裏側に工房があって、一人の木彫り職人が坐っている。彼の一生の仕事は、森の木のように立ち並んだ聖像から、枝が落ちるように絶えず壊れて落ちる腕や手を、彫ったり直したりすることなのだ。何故なら観音はたくさんの手を持つ神で、一ダースより少ない手を持つ像はほとんどないからだ。我々が像の前を進んでゆくと、鼠が床を走り廻り、像の群れの中に隠れてしまった。建物の裏手まで来ると、坐っていた老僧に呼び止められ、見物料として喜捨を求められた。」
20世紀初頭の三十三間堂の光景。ポンティングは本数を数えなかったようですが、三十三間堂の千手観音立像には、それぞれ42本の手が付いています。すると堂内の手の総数も万単位! になるわけで、確かにポロポロとはずれてくるのも致し方なかったのかも知れません。そして、それを裏の工房で直しているのが驚き。さらに、修理代なのでしょうか、見物料の志納を迫られたのもおもしろいですね。
「ある日、この寺の中で急に角を曲がると、一人の外国人の旅行者が誰も見ていないと思って、観音像の手をわざと一本折ってポケットに入れるのを目撃した。何の役にも立たない記念品の蒐集欲から、野蛮な行為をする人が時々いるのは不思議なことだ。」
このあと、旅館の備品を盗む不心得な外国人旅行者のことを紹介し、「このような盗みが犯されれば、外国人が疑いの目を持って見られることがあっても、驚くには当たらない」と述べています。いま三十三間堂では、像に近づけないように遠くに柵が設けられていますが、昔はそうではなかったようです。江戸時代(慶安年間)の修理で仏像の前には金剛柵が作られたそうですが、のちにはその前を通していたような気もします。また他の史料には、観音像の手には無数の数珠が掛けられていた、とも記されています(『新京都散歩』 昭和15年)。それもひとつの信仰の形ですが、腕を折られては観音さまもたまりません。 
富士山頂で出会った老婦人を見て
「年寄りがたった一人で、岩だらけの歩きにくい道をゆっくり歩いていく姿があまりにも哀れだったので、私は強力の一人に命じて、彼女が無事火口を一周できるように助けてやり、行きたいと思う場所には、それぞれ案内するように言ってやった。この出来事は、しばらくの間そしてたびたび後になって、いろいろなことに思いを巡らす材料を与えてくれた。彼女の皺だらけの姿は、本当は気高い不屈の魂を包み隠す俗世間の衣に過ぎないのだ。彼女にとってこの苦労の多い旅は、方々の神仏にお参りして、できるだけ多くの功徳を受けようとする深い信心の表れであるが、私が心に思い浮かべたのは、ある他の国の宗教のことと、日本人を異教徒と見なしているその国の婦人たちのことであった。その国の婦人たちの中に、この老婆の年齢の半分しか年を取っていないとしても、こういう目的でこれだけの仕事に取り組もうとする者が一体何人いるだろうか?」
 
チャールズ・ワーグマン 

 

Charles Wirgman (1832〜1891)
1861年、イギリスの通信社の特派員として来日。幕末維新の歴史的な事件を取材し、その報道画を本国に送り、日本の情勢を伝えた。また、横浜居留地で日本最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』(Japan Punch)を25年間にわたって刊行した。200冊をこえる冊数が発行されたといわれる。この雑誌に掲載された風刺漫画は「ポンチ絵」と呼ばれ、後の漫画文化に大きな影響を与えた。また雑誌に掲載された、スポーツ、ファッション、乗り物、音楽、美術など多岐に渡る文明開化の実像を伝え、幕末・明治維新時代の貴重な記録となっている。  
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イギリス人の画家・漫画家。幕末期に記者として来日し、当時の日本のさまざまな様子・事件・風俗を描き残すとともに、「ポンチ絵」のもととなった日本最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊した。また、五姓田義松や高橋由一をはじめとする様々な日本人画家に洋画の技法を教えた。
1832年にロンドンのスウェーデン系の家で生まれ、1852年ごろパリにて絵を学んだといわれ、またそのころ陸軍に入隊して大尉を務めたとされるなど、不明な点が多い。1857年に「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派記者兼挿絵画家として広東にアロー戦争の取材のため来訪。1861年4月25日に長崎を訪れ、その後イギリス公使オールコックの一行に伴って、陸路を通り江戸まで旅行するが、7月5日(文久元年5月28日)にイギリス公使館となっていた東禅寺にて水戸藩浪士の襲撃を受ける。この時ワーグマンは、縁の下に避難しながら事件の一部始終を記録し、これを記事とスケッチにして横浜から発信している。
1862年には居留外国人向けの雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊。これはイギリスの風刺漫画雑誌パンチを模したものである。横浜居留地の人々の暮らしや日本政府への批判、同業の英字新聞への攻撃などを風刺漫画と文章で描いた。ただし多忙のためか、第2号は1865年に発刊されており、そののち22年間にわたって月刊誌として刊行されていった。
1863年、日本人女性の小沢カネと結婚。この年薩英戦争が勃発、ワーグマンも取材のために写真家フェリーチェ・ベアトとイギリス艦隊に同行し記事などを書いている(彼とは後に「ベアト・アンド・ワーグマン商会」を設立している)。また同年から翌1864年にかけて、下関戦争についても記事や挿絵をロンドンに送っている。同年、長男の一郎が誕生。
1865年に五姓田義松がワーグマンの許に入門、翌1866年には高橋由一が入門する。また1874年には小林清親が入門しようと尋ねた。
1867年、ハリー・パークスやアーネスト・サトウに伴い、徳川慶喜との会見に臨むため大坂に出立。このとき大坂の風景スケッチとともに、慶喜の肖像画も描いている。その後、江戸に向かう途中の掛川宿で例幣使の襲撃を受けるが、かろうじて難を避けることができた。
1885年(明治18年)、『A Sketch Book of Japan』を刊行。
1887年3月にジョルジュ・ビゴーへの挨拶を含めた『ジャパン・パンチ』の最終号を発刊。イギリスに帰国する。翌1887年に弟ブレイクとロンドンで展覧会を開いた後、再び来日するが病に倒れる。
1891年、横浜にて58歳で死去、横浜外人墓地に葬られる。毎年命日の2月8日には、横浜文芸懇話会によって、「ポンチ・ハナ祭り」(ワーグマン祭)がワーグマンの墓前にて開かれている。ちなみに彼の直系の子孫は1945年に途絶えて存在しないとされる。 
幕末ニッポンを描いた風刺画 "The Japan Punch"と"TÔBAÉ"
幕末から明治にかけて、2人の外国人が国際的な視点でニッポンを描いた風刺画(カリカチュア:caricature)が漫画雑誌として創刊され、横浜の外国人居留地を中心に海外に広く発信されていた・・・
それは、江戸時代が終わりはじめた幕末の1861年(万延2年・文久元年/注・明治元年=1868年)、イギリス公使オールコックの一行に伴って来日した、チャールズ・ワーグマン:Charles Wirgman(1832年〜1891年)で、「風刺画」或は「ポンチ絵」のもととなった日本最初の漫画雑誌"The Japan Punch"(ジャパン・パンチ)を創刊し、そしてその後の1882年(明治15年)に21歳でフランスから来日した、ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot)は、1884年(明治17年)に第1次"TÔBAÉ "(トバエ)を創刊。第2次は1887年(明治20年)色刷りページとなり、一部80銭、石版刷、毎月2回発行で全70号発刊された・・・
チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman)は1832年にロンドンに生まれ25歳の時に、世界で初めてニュースをイラストレーション入りで報じた"The Illustrated London News"の特派記者兼挿絵画家として、1857年(安政4年)に中国・広東のアロー戦争の取材に訪れ、その後1861年(文久元年)に長崎に、そしてイギリス公使オールコックの一行に伴って陸路で江戸まで旅行中の7月5日(文久元年5月28日)に、イギリス公使館の東禅寺で水戸藩浪士の襲撃を受け(東禅寺事件)、これを記事とスケッチにして横浜から発信している。そして、1862年(文久2年)に横浜の居留外国人向けの、イギリスの風刺漫画雑誌パンチを模した「ジャパン・パンチ:The Japan Punch」を創刊する。約25年間にわたって170冊が月刊誌として刊行され、時に行動をともにしていた写真家のフェリーチェ・ベアトや、書記官のアーネスト・サトウなど、日本人では三菱財閥の岩崎弥太郎のなど、漫画を見ればすぐにわかる人物が数多く登場し、居留地の出来事や人間関係、裁判の結末などが、ユーモアたっぷりに描かれた・・・
その後、チャールズ・ワーグマンは1863年(文久3年)に日本人女性の小沢カネと結婚し、その年の薩英戦争や、翌1864年の下関戦争の記事や挿絵をロンドンに送っている。1867年(慶応3年)にハリー・パークスやアーネスト・サトウに伴い、徳川慶喜との会見に臨むため大坂を訪れ、大坂城の風景スケッチや、慶喜の肖像画を描く。翌年、幕府は大政奉還し明治を迎える。1887年(明治20年)3月に「ジャパン・パンチ」の最終号を発刊してイギリスに帰国し、弟のブレイクとロンドンで展覧会を開いた後、翌年に再び来日するが病に倒れ、1891年(明治24年)横浜で58年の生涯を終え、横浜外人墓地に眠る・・・
風刺画は・・・
古くは、古代オリエントの楔形文字を1931年にドイツのアッシリア学者エーベリングが解読した「バビロニアの寓話」や、古代ギリシャの「イソップ寓話」そして民話や昔話、或は神話や宗教に織り込まれた事柄を、字が読めない文盲の人にもわかる様に「見れば解る」絵画が持つ偉大な力で表現され、今日の諷刺画へと発展する。
それは、時に時代に立ち止まり、今おきている事柄を深く考えさせたり、美しさを付け足したブリューゲルの「盲人の寓話」の様に、美を鑑賞しながらも、宗教や倫理的な深い意味を問い正したり、時には絶対権力にも組せず反抗し、こき落としながらも、f0190950_1512010.jpg憎まれないユーモアーとペイソスをもち「ニタリ」と心をほどけさせる。そして、日本も平安時代の「鳥獣人物戯画」から進化発展し、江戸時代には略画体で漫画的な絵として、狂歌の絵画版、或は絵の中に諷刺、皮肉、滑稽を描き、浮世絵の「鳥羽絵:とばえ」として江戸時代にはジャンルが確立されていた・・・
そして当時の西欧で、石版や木版で大量に刷れる印刷術と、何よりも自由な社会が生む美術的な産物として、1830年にフランス人シャルル・フィリポンが創刊した風刺雑誌の、石版漫画入りの"見る時局新聞"「ラ・カリカチュール:La Caricature」や日刊の風刺新聞「ル・シャリヴァリ:Le Charivari」が創刊される。当時のフランス人はその新しいジャーナリズム に心を奪われ発売日には黒山の人だかりとなり、フランスにおける風刺画の黄金期が始まる。そして、二人の画家・版画家オノレ・ドーミエ (Honoré-Victorin Daumier:1808年〜1879年)とジャン・イニャス・イジドール・ジェラール(J.J.Grandville:1803年〜1847年)により、当時の王政・君主から新興のブルジョワ階級が台頭し始め、大きく時代が変わりだしたフランスの7月革命(1830年)で、王位についたルイ=フィリップとその閣僚を題材にした、ユーモアと痛烈な批判の戯画が載せられた。これら政治的な作品は1835年に発令された言論弾圧法により中断されながら、今日の風刺画の雑誌の原点となり、このフランスの「ル・シャリヴァリ:Le Charivari」をまねて、イギリスにも同様の雑誌を作ろうと考え、1841年「ザ・ロンドン・シャリヴァリ」と副題を付けた「パンチ:Punch, or The London Charivari」がヘンリー・メイヒュー及びマーク・レモンらによって創刊され、この頃にはイギリス国外で、日本の横浜居留区の「ジャパン・パンチ」中国版「チャイナ・パンチ」アメリカ版「パンチネロ:Punchinello」などが続々と創刊されていた・・・
少し遅れて、1860年(万延元年)のパリ生まれのジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot)は、1871年(明治4年)のパリ・コミューンの燃えさかるパリの街や戦闘をつぶさにスケッチし、翌年エコール・デ・ボザールに入学し、家計を助けるために退学後の1876年(明治9年)頃に挿絵の仕事を始め、エミール・ゾラやエドモン・ド・ゴンクールなどからジャポニスムを知り、同年ジャポニスムブームのパリ万国博覧会で浮世絵と出会い日本に興味を抱き渡航を決意、当時陸軍大学兼教官の在日フランス人のプロスペール・フークの伝手で、1881年(明治14年)の暮れにマルセイユを発ち、1882年(明治15年)の1月に来日する。ビゴー21歳・・・
ビゴーはフークの尽力と陸軍卿大山巌の紹介を得て、1882年(明治15年)から1884年までの2年間、お雇い外国人として絵画の講師に雇用され、安定した職と高額の報酬を得ることが出来、この間、日本の庶民の生活をスケッチした3冊の画集を自費出版している。
1885年(明治18年)と1886年〜1887年(明治20年)の二度にわたって半年間、中江兆民の仏学塾でフランス語を教え、中江の門弟とも交流し、当時の自由民権運動の模様にも接することになる・・・
そして、フランスの「ル・モンド・イリュストレ」(Le Monde Illustré)やイギリスの「ザ・グラフィック」(The Graphic)といった新聞からも依頼があり、日本を題材とした報道画家の職を得て、さらにこの頃には「団団珍聞」への漫画の寄稿(1885年) や「郵便報知新聞」に掲載された翻訳小説の挿絵(1886年) など、日本の新聞を通し彼の絵は日本の民衆に溶け込み、横浜の居留地に住むことなく、当時は麹町区二番町に、1887年頃から1890年までは向島、1890年には牛込区市谷仲之町など、日本人の生活を知るために日本人の住む街並みに身を置いている・・・
そんな報道画家の仕事で成功し、1884年(明治17年)に第1次"TÔBAÉ "(トバエ)を創刊。第2次は1887年(明治20年)に発刊、日本の政治を題材に風刺漫画を多数発表。特に当時の「トバエ」には中江兆民や門弟が日本語のキャプションを付け、自由民権運動の政府批判という面で協力している。1894年(明治27年)34歳のビゴーは、17歳年下で佐野清の三女・佐野マスと結婚し、同年8月に日清戦争が勃発すると、ビゴーは英紙「ザ・グラフィック」の特派員として陸軍に従軍。二度にわたって朝鮮半島や中国東北部を取材し報道画を寄稿する。1895年(明治28年)に長男モーリスが誕生し、日清戦争が終結すると外国紙への寄稿は次第に少なくなり生活の不安と、条約改正に伴う外国人居留地と治外法権の撤廃で、従来のような自由な出版活動が困難となり、1899年(明治32年)離婚後、長男とフランスに帰国する。その後フランス人と再婚し2人の女子をもうけ、1900年(明治33年)のパリ万国博覧会の設計に関わり、晩年はエソンヌ県のビエーヴル(Bièvres)の自宅で、東洋の竹を取り寄せた小さな日本風の庭園を作り、1927年(昭和2年)その庭を散策中に脳卒中で倒れ67年の生涯を終える・・・
横浜の外国人居留地を中心に生まれた極東の風刺画の物語は、日本の西欧化や国際化のなかである指針として、言論の自由や印刷の進歩に伴いながら時代を一刀両断に切り描き、人々の不満や鬱憤を晴らす快刀乱麻の心地良い風を時代に送り込んだ。そして、それら一枚一枚の時の申し子たちからは、今も我々に西欧の市民目線でニッポンを捉えた時代の本質めいたものが伝わって来る・・・ 
チャールズ・ワーグマンが語る「横浜外国人居留地の生活」
徹底した観察眼で人々の生活を詳細に描写
私が『ジャパン・パンチ』と初めて出会ったのは、10年ほど前、日本に住み始めて間もない頃で、ある日、京都の図書館で復刻版全10巻のセット(雄松堂出版)を見つけ、そこに描かれているイラストに興味をもった。
これまで、横浜外国人居留地について数多くの歴史書が書かれてきたが、『ジャパン・パンチ』ほど、徹底した観察眼で人々の生活を詳細に描写したものは他に例を見ない。
この雑誌は『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』特派通信員として来日したチャールズ・ワーグマンが1862年から1887年の間に横浜で出版したもので、ミスター・パンチとして知られるワーグマンは、そのオーナーであり、漫画家であり、執筆者であり、出版者であった。
『ジャパン・パンチ』はその風刺漫画で有名であり、この雑誌が今日まで人気を保っているのもそれが主な理由だが、ワーグマンの書いた文章を読みながら、彼の描いたイラストと一緒にしてみると、外国人居住者の生活が生き生きと見えてくる。 彼らの幸せな日々、単調な骨折り仕事、個人的な言い争い、余暇をすごしたクラブやスポーツ、日常の活動、そして時には法廷にまで持ち込まれた争い事、等々。
さらに『ジャパン・パンチ』を詳しく読み込んでいくと、その時代の日本の歴史と、日本が国際社会に勢力を伸ばしていった過程をも読み取ることができる。
横浜の役人たちと争い続け、日本政府に対する不満も
ミスター・パンチはまた、外国人居住者を結束させ、街灯や治安維持といった基本的な公共サービスさえ受けられないことに対して、横浜の役人たちと争い続けた。 これらの意見の食い違いの中には、文化の違い(多分人種の違いも)のため誇張され、悪意に満ちた誤解を招いたものもあった。
一般に当時の外国人は財政的に恵まれており、税金はほとんど払わず、最初の30年間はこれらの公共サービスへの対価すらもなかなか払おうとしなかったのだから、客観的に見れば、このようなサービスを”こんな外国人たち”に提供するのを渋った役人たちの立場も理解できる。
こういった地域の役人たちとの口論以外にも、ミスター・パンチはこの雑誌が発行された期間中ずっと、彼が呼ぶところの”東京人”に対する外国人の不満を繰り返し書き記している。 これらの論争は主に、欧米諸国と無理やり締結させられた不平等条約の撤廃に向けた日本の試みに集中していた。
ミスター・パンチを含む英字新聞の出版者たちは日本政府の条約改正(後には撤廃)への企てを次から次へと痛罵し続けた。 これらの厳しい非難は、居留地住民に新聞を売るための策だと見ることもできるが、外国人たちは、また、いずれは日本における彼らの政治力が低下し、生計を立てていく見込みがだんだんなくなっていくのを見越していた。
だからと言って、ミスター・パンチがいつも日本政府に反対していたわけではなく、時には客観的に支持した。 たとえば、(1)長州藩が下関海峡を通過する欧州の艦船を砲撃した事件(1863−64)に対する賠償を求める訴訟が10年後も続いていることに、いい加減にしろと怒る。 このとき日本政府は既に損害金額の7倍もの賠償金を払っていたのである。 (2)外国人は日本のことを非難する前に日本の言語と文化をしっかり学ぶべきだとも主張した。
彼はまた、日本が国際問題、アジア問題に関わっていくことに対する意見を、相違・一致を問わず表明するのに何のためらいもなかった(一致の場合はただニュースを伝えただけかもしれないが)。 日本が経済的にも軍事的にも強固になっていくにつれて、これらの関与は頻繁になり、ミスター・パンチによる報道もまた頻繁になっていく。
繰り返し登場するライバルの英字新聞に対する報復
ミスター・パンチの風刺漫画と文章に繰り返し登場するテーマは、ライバルの英字新聞3紙に対して課する、筆とペンによる報復である。 この戦いは『ジャパン・パンチ』が発行された25年間絶え間なく続き、ジャーナリストとしての論理的思考というよりも、個人的な強迫観念にとらわれていたかのようにも見える。 もっとも、この論争が本物だったのか、あるいはまた雑誌を売るための策略だったのかは疑問が残るところである。 所詮は、中国人を除いた外国人人口が僅か2,000人足らずの小さな町ヨコハマで、『ジャパン・タイムズ』や『ジャパン・ガゼット』など、4紙もの新聞・雑誌が経営を成り立たせるためには熾烈な争いと工夫があったのだろう。
紙面の大半は住民の楽しみを追求
しかし、これらの極めて重大な問題に『ジャパン・パンチ』の紙面が割かれるのはごくわずかで、ほとんどは住民のささやかな楽しみをどうやって生み出し、追い求めていくかに占められていた。
その代表的なものは居留地で行われたスポーツである。 最も人気のあるスポーツ観戦は、根岸競馬場での競馬であり、人々が集まる格好の社交場となっていた(ただし、これは男性だけで、女性たちは競馬の観戦も他のスポーツへの参加もほとんどしなかったようだ)。
参加型のスポーツでは、テニスとラケットボールの人気が一番で、次は、イギリス人にはクリケット、アメリカ人には野球であった。 それぞれミスター・パンチが描いており、これらのスポーツの日本への導入を記す貴重な記録となっている。
ビリヤードとボウリングはもっとも人気のある非活動的なインドア・スポーツとして描かれている。 釣りと狩猟はアウトドアでの挑戦を好む人が楽しんだ。 アイススケートは氷の張った水田で行われ、冬の間の人気スポーツだった(当時は横浜でも氷が張ったのだ!)。 また、大小さまざまなヨットが早春から晩秋にかけて入江で見られた。
また読者は全てミスター・パンチの視点で語られた記事を楽しんだ。 その主なものを紹介してみよう。
国際料理:彼はフランス料理の素晴しさとアングロサクソン料理の悲惨さを較べ、アメリカ人はポークビーンズしか食べないと言う。
健康状態:知性は胃に宿るらしい。
新来者へのアドバイス:役人に会う時は、親指を鼻先に付け他の指を広げるように勧める(訳者注:日本のアカンベーと同じらしい)。
私たちがミスター・パンチを最も機知に富んでいると感じるのは、シャレの分野である。 彼はドイツ人が皆眼鏡をかけているとからかう(ドイツ人は眼鏡をかけて生まれてくるのではありませんと論じる)。 国内(ドメスティック)郵便(メール)があるなら、野生(ワイルド)郵便(メール)があってもいいじゃないかと屁理屈をこねる(訳者注・ドメスティックには飼いならされたという意味もある)。 親友のコロジオン伯爵ことベアトは新進の写真家にアドバイスを与える(写真家になるには写真とカクテルのつくり方の知識が必須だ)。
そして、読者はフラストレーションが溜まると読者の声欄に手紙を送ることができ、ミスター・パンチはそれを喜んで受け取った。 手紙が悪意に満ちていればいるほど雑誌は売れるし、反論を加えれば、なおさらだ。
一方、ミスター・パンチを愛する読者は卑劣な横浜の外国報道に対する嫌悪感をあらわにし、その中には『ジャパン・パンチ』をこき下ろした新聞も含まれている。 ある人は烏賊(イカ)に模されたと苦情を言い、ミスター・パンチは、「イカを侮辱する気はなかった」と応酬する。 手紙の多くは『ジャパン・パンチ』を面白くするために、ミスター・パンチが自分ででっちあげたのではないかと思われる節もある。
近代日本の歴史的出来事に立ち会った証拠を紹介
ミスター・パンチは近代日本の黎明期の歴史的出来事に立ち会った証拠を絵入りで私たちに見せてもくれる。 明治維新によるミカドの東京への御幸、1879年のアメリカ合衆国グラント元大統領の日本訪問、東京が外国人に対してやっと門戸を開けた時のこと(一般の外国人は1869年まで、横浜から出ることを許されていなかった)、初めてのマティニとクラップというゲーム等々。
ミスター・パンチがこれらの歴史的事件にすべて関わったというのはジャーナリストの誇張ではあるだろうが、封建社会から近代工業社会へと変貌していった過渡期の日本を理解する上で、『ジャパン・パンチ』はたいへん魅力的である。
私は、“The Genius of Mr.Punch”(『ミスター・パンチの天才的偉業』)を、近々、有隣堂から上梓することになった。 これまではワーグマンのイラストのみが文章と切り離した形で紹介されることが多かったが、本書は、判読しにくい手書きの文章を活字化してイラストと一緒に収録し、一部については解説とその日本語訳を付けた。
彼の業績は日本の専門家の間ではよく知られているが、彼の遺産をごく一部の研究者だけの宝にとどめておくのは勿体なさすぎるではないか。 この本は一般読者が対象である。 私は、ごく普通の人がワーグマンの作品に触れて、彼のユーモアに富んだ表現をたっぷりと心ゆくまで楽しんでくれることを願っている。 
「牛肉を食べ、ビールを飲めば一人前の人間になれると思っている馬鹿な鳥の肖像」
ロンドン生まれの英国人チャールズ・ワーグマンが日本へやってきたのは、幕末の文久元年(1861)4月。イギリスの絵入り新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の特派画家兼通信員としての来日であった。翌年、主に横浜、長崎、神戸の居留地にいる外国人たちに読ませるための諷刺雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊。日本初の漫画雑誌とも位置づけられるこの雑誌は、不定期刊行ながら明治20年(1887)までつづいた。
上に掲げたことばは、その『ジャパン・パンチ』明治5年(1872)11月号に掲載されたもの(原文は英語)。ビールを傍らに置いて牛肉を食べる鳥のイラストがあり、それを説明する形でこの一文が付されている。ここでは、鳥は「日本人」の象徴に他ならない。やみくもに文明開化による欧化運動をすすめ、西洋文明を無批判・無差別に受け入れようとしている日本人に対する痛烈な皮肉である。描かれている鳥がオウム、すなわち「ものまね鳥」ということが、諷刺の度合いを一層強めている。
多くの外国人には、当時の日本人の姿はこう映っていたということだろう。
夏目漱石は『現代日本の開化』という批評文の中で、この問題を日本人の内面から掘りさげ、こう書いている。
「日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人ではないのだから、新しい波が寄せるたびに自分がその中で食客(いそうろう)をして気兼ねをしているような気持になる。(略)食膳に向かってその皿の数を味わい尽くすどころか元来どんな御馳走が出たかはっきりと眼に映じない前にもう膳を引いて新しいのを並べられたと同じことであります。こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不安の念を懐(いだ)かなければなりません」
ワーグマンもまた、単に日本を揶揄するような目で見ていただけではない。
慶応3年(1867)1月号の同誌では、「幕府」氏(擬人化した江戸幕府)に新しい洋風の身だしなみを整えてやるフランス公使ロッシュと、その外で外敵を防ぐためレンガを積んで頑丈な家をつくってやるイギリス公使パークスの姿を描き、「占領軍なのか外交使節なのか」という説明文をつけた。英仏の外交攻勢が、幕末・維新の日本に大きな影を投げかけていた一面が、ジャーナリスティックに切り取られている。
ワーグマンは文久3年(1863)には日本人の妻を娶り、高橋由一ら日本人画家の指導もした。明治24年(1891)横浜にて没。享年58。亡骸は外人墓地に葬られた。
 
医学

 

エルウィン・ベルツ
Erwin von Balz (1849〜1913)
医学(独)
    ベルツの日記  
ドイツ出身の内科医。お雇い外国人のうち、日本で一番知られた医学者だろう。1875年、東京医学校(現・東大医学部)の教師として来日。29年に渡って日本に滞在し、多くの優秀な門下生を育て日本医学の発展に尽くした。また、日本人の身体的特徴の研究や脚気、寄生虫病などの治療・予防に当たった。明治天皇、皇太子(後の大正天皇)の主治医であり、伊藤博文は親友であった。また、ベルツが残した日記などには、明治時代の日本が行った西洋文明輸入に際しての姿勢に対しての的確な批判や警告が多く含まれている。一方で失われていく日本の文化・伝統を守るため多くの日本画、美術品、伝統工芸品や民具などを蒐集し保存に努めた。それらのほとんどが母国ドイツのシュトゥットガルトのリンデン民族学博物館に収められている。学校での検便、臨海学校、「温泉は体にいい」ことなどを日本に普及させ、草津温泉を「世界最高の湯治場」として「再開発」したことでも有名。 
2
ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。
1849年、ヴュルテンベルク王国のビーティヒハイム・ビッシンゲンで生まれる。
1866年、テュービンゲン大学医学部に入学。
1869年、ライプツィヒ大学医学部に転学、カール・アウグスト・ヴンダーリヒ (Karl August Wunderlich) 教授の下で内科を修める。
1870年、軍医として普仏戦争に従軍。
1872年、ライプツィヒ大学医学部卒業。
1875年、ライプツィヒ大学病院に入院中の日本人留学生・相良玄貞をたまたま治療することになり、日本との縁が生まれる。
1876年(明治9年)、お雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師に招かれる。
1881年(明治14年)、東海道御油宿(愛知県豊川市御油町)戸田屋のハナコと結婚。
1900年(明治33年)、勲一等瑞宝章を受章。
1902年(明治35年)、東京帝国大学退官、宮内省侍医を務める。
1905年(明治38年)、勲一等旭日大綬章を受章。夫人とともにドイツへ帰国。熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務める。
1908年(明治41年)、伊藤博文の要請で再度来日。
1913年、ドイツ帝国のシュトゥットガルトにて心臓病のため死去(64歳没)。
家族
妻・戸田花子 (1864-1937)。神田明神下で生まれる。父の熊吉は御油宿の宿屋「戸田屋」の子孫だが、没落して一家離散し、江戸の荒井家に養子に入り、小売商を営んだ。花子は1880年からベルツと同居を始めるが正式な入籍は渡独の前年。教育はないが、利発で美しかったという。ベルツ没後も10年ほど滞独したが、ドイツ国籍が認められず、日本へ帰国したまま没した。晩年はベルツの友人だったユリウス・スクリバ家の日本人嫁が介護した。著書に『欧洲大戦当時の独逸』がある。
長男・徳之助 (Erwin Toku, 1889-1945)、長女ウタ (1893-1896)。子供は4人とする説も。長男トクの前に夭逝した第一子、トクの遊び相手として養女ギンがいた(一家が渡独前に12歳で急死)。トク(国籍ドイツ)は、暁星学校在学中に11歳で両親とともに渡独し、建築を専攻。「徳」は中国語のドイツ(徳国)から。父親の遺した『ベルツ日記』をナチス時代に出版し、第3帝国ドイツでもっとも有名な日系ドイツ人となった。このときトクによって母親の出生や両親の出会いについてなどが『ベルツ日記』から削除されたという。母親の影響で幼いころ歌舞伎に親しみ、1938年にはベルリンで忠臣蔵の一部を舞台化した。1940年から日本で暮らし、東京で病没。
孫・徳之助と妻ヘレーナの子として長男ハット(鳩。1916-1972)、次男クノー(久能。1918-1943)、長女ゲルヒルト・トーマ(1921年生)、その下に双子の男子ディーツとゲッツ(1925年生。二人とも1944年に戦死)。
日本観
彼の日記や手紙を編集した『ベルツの日記』には、当時の西洋人から見た明治時代初期の日本の様子が詳細にわたって描写されている。そのうち来日当初に書かれた家族宛の手紙の中で、明治時代初期の日本が西洋文明を取り入れる様子を次のように述べている。
「 日本国民は、10年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれの中世騎士時代の文化状態にあったのが、一気にわれわれヨーロッパの文化発展に要した500年あまりの期間を飛び越えて、19世紀の全ての成果を即座に、自分のものにしようとしている(「横領しようとしている」の異訳あり)。 」
このように明治政府の西洋文明輸入政策を高く評価しその成果を認めつつ、また、明治日本の文明史的な特異性を指摘したうえで、他のお雇い外国人に対して次のような忠告をしている。
「 このような大跳躍の場合、多くの物事は逆手にとられ、西洋の思想はなおさらのこと、その生活様式を誤解して受け入れ、とんでもない間違いが起こりやすいものだ。このような当然のことに辟易してはならない。ところが、古いものから新しいものへと移りわたる道を日本人に教えるために招聘された者たちまで、このことに無理解である。一部のものは日本の全てをこき下ろし、また別のものは、日本の取り入れる全てを賞賛する。われわれ外国人教師がやるべきことは、日本人に対し助力するだけでなく、助言することなのだ。 」
文化人類学的素養を備えていた彼は、当時の日本の状況に関する自身の分析・把握を基にして、当時の日本の状況に無理解な同僚のお雇い教師たちを批判した。さらに、彼の批判は日本の知識人たちにも及ぶ。
「 不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。 」
無条件に西洋の文化を受け入れようとする日本人に対する手厳しい批判が述べられている。また、日本固有の伝統文化の再評価を行うべきことを主張している。西洋科学の手法を押し付けるのではなく、あまりに性急にそのすべてを取り入れようとする日本人の姿勢を批判し、助言を行っている。
また大日本帝国憲法制定時には、一般民衆の様子を「お祭り騒ぎだが、誰も憲法の内容を知らない」(趣旨)と描くなど、冷静な観察を行っている。
一方、東京大学を退職する際になされた大学在職25周年記念祝賀会でのあいさつでは、また別の側面から日本人に対する批判がなされている。
「 日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。 」
「 日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。 」
このような批判は日本を嫌ってなされたものではない。挨拶の中では、当時の日本の医学生たちの勤勉さや優秀さを伝える発言もなされている。また、教員生活は大変満足できるものであった、とも述べている。しかし、彼はあえて日本人の学問に対する姿勢に対する批判を行った。すなわち、本来、自然を究めて世界の謎を解く、という一つの目標に向かって営まれるはずの科学が、日本では科学のもたらす成果や実質的利益にその主眼が置かれているのではないか、と。そしてそのことを理解することが、日本の学問の将来には必ず必要なことである、と彼は述べている。
また、このような言葉も残している。
「 もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである。 」
彼は西洋文明輸入に際しての日本人の姿勢を批判し続けていた。これは当時の廃仏毀釈の嵐吹き荒れる日本への危機感でもあり、同様の考えを持ち親友でもあるハインリヒ・フォン・シーボルトと同様に多くの美術品・工芸品を購入し保存に努めている。主治医も務めたほど関係があったシーボルトからは晩年そのコレクションの管理を託されるほどの信頼関係があり(シーボルトの急死によりその願いは果たされずコレクションは散逸)、公私に渡っての親友であった。また、文化の面にしても同様で前述のシーボルトの誘いで歌舞伎の鑑賞に出掛け、またフェンシングの達人でも合った同氏と共に当時随一の剣豪であった直心影流剣術の榊原鍵吉に弟子入りもしている。
草津温泉
草津温泉を再発見、世界に紹介した人物でもある。1878年(明治11年)頃より草津温泉を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価する。
1880年(明治13年)、別爾都(ベルツ)著『日本鑛泉論』(中央衛生会、1988)を発刊。日本には多くの温泉があり療養に利用されているが、これを指導する機関がない。政府は温泉治療を指導すべきであると説いている。
1890年(明治23年)、草津に約6000坪の土地と温泉を購入、温泉保養地づくりをめざす。
1896年(明治29年)、草津の時間湯を研究した論文「熱水浴療論」が『ドイツ内科学書』に収蔵される。
草津温泉にはベルツの名を冠した「ベルツ通り」がある(2014年現在)。
ベルツは大変な健脚で噴火直後の草津白根山にも登頂したことがあり、その際の手記は現在でも貴重な火山学的資料になっている。
伊香保温泉には別荘を構えて友人知人と幾度となく訪ねた。
日本の天皇家や高官の別荘地葉山との関係
澤村修治によると、ベルツの推奨により、天皇家や日本の高官が葉山に御用邸や別荘を持つことになったとある。実際葉山の葉山森戸神社に駐日イタリア公使のマルチーノとベルツが当地を保養に適当と推奨したという石碑がある。ベルツはいわば宣伝マンとなったとある。明治天皇は殆ど皇居内で過ごし避暑、避寒はされなかったが、後に大正天皇になる嘉仁親王の健康が思わしくなく、侍医となったベルツが転地保養を勧めた。有栖川宮熾仁親王はイタリア公使マルチーノの別荘に明治22年に訪れている。親王は明治24年に別邸を作り、皇太子もそこに訪れている。葉山の御用邸が作られたのは明治26年であり翌年1月完成した。
蒙古斑
ベルツの医学的貢献でよく知られているのは1885年(明治18年)の蒙古斑の命名である。
ベルツ水
1883年(明治16年)、箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見たのをきっかけに、「ベルツ水」を処方する。  
 
フェルディナント・アダルベルト・ユンケル (ヨンケル)

 

Ferdinand Adalbert Junker von Langegg (1828-1901)
医師(墺)
明治期に来日したお雇い外国人。ドイツ人(のちイギリスに帰化)医師。ヨンケルともいう。ウィーン生まれ。ウィーン大卒。明治5(1872)年,創設直後の京都府療病院(京都府立医大)に赴任。解剖学を講じたが、ほかに病理学、外科学、精神医学におよんだ。小型の携帯麻酔器を考案、これは1940年代まで世界各地で用いられた。在任中6体の剖検を行う。9年、更迭され帰国し、在任約4年。日本人との協調を欠いたともいわれる。しかし日本文化に理解が深く『扶桑茶話』(1884)などを出版している。1899年までの生存はわかっているが、死亡年は不明。 
京都療病院つながり
鳥羽伏見の戦いや東京遷都に京都は活気を失った。京都府参事槇村正直、顧問山本覚馬や青年蘭方医明石博高らは、西欧文明の積極的な摂取により京都の近代化を図った。廃仏毀釈の風潮と戦後の疲弊感の中、社会事業に活路を見出した。僧侶の岡崎願成寺住職与謝野礼厳、禅林寺(永観堂)前住職東山天華、慈照寺(銀閣)住職佐々間雲巌、鹿苑寺(金閣)住職伊藤貫宗らが明石らと相集り、僧侶達が発起人となり明治4年病院建設を府に出願、京都府は他21名と共に療病院勧論方に任命、資金調達に奔走。一般府民の浄済や管内医師・薬舗からの助資金、花街に課した冥加金等に資金は5万となり、明治5年京都療病院が設立。病院の名は聖徳太子が創立した悲田院、施薬院、療病院の三院にならう。
病院設立に伴い招聘された初代外国人医師はドイツ人ヨンケル。明治5年9月から木屋町の仮療病院で診療を開始、11月12日より粟田口青蓮院内の仮療病院で解剖学の講義を開始した。2代目医師にオランダ人マンスヘルト、3代目医師にドイツ人ショイベへ。
3人の外国人医師に始まった医学教育は医学校、医学専門学校となり、現在の京都府立医科大学へ発展。

Junker von Langegg, Ferdinand Adalbert(Edelbert)。1828年生〜1901年?没。明治時代初期に来日した外国人教師、医師。
日本名は永克、萬郎愛格、伊傑児。ウィーン大学卒業後、ロンドンの病院に勤務。専門は麻酔学。1867(慶応3)年小型吸入麻酔器を発明、1940年代まで世界各地で用いられた。普仏戦争でザールブリュッケンの騎兵隊の軍医長。
療病院に京都府は、政府がドイツ医学採用を決定し、ドイツ人医師を招聘することにした。当時ドイツ語の出来る日本人は殆ど居らず、英語かオランダ語が話せるという条件があった。大阪在住ドイツ人貿易商の紹介された。通訳は半井澄。月給450円、独身ながら土手町に庭園付の家を持ち、人力車で通勤。療病院の診療の他、解剖学・外科学・内科学・精神医学を講義。6体の剖検や切断術も行った。
明治9(1876)年更迭され帰国。日本人との協調を欠き、評判が悪かった。後にロンドンに移住、著書『瑞穂草(ミズホグサ)』『扶桑茶話(フソウサワ)』をライプツィヒのBreitkopf社から刊行。 
京都府立医科大学
眼科学教室の創立までの眼科
明治5年に創設された京都療病院に初代医学教師として招聘されたヨンケルは、その履歴に眼科学修士号の取得が明記され、彼による眼科学講義が行われた可能性が高いと推測される。
『京都療病院治療則』には眼疾患の診療記録が残っており、この時代から眼科患者の入院治療が行われていた。さらにヨンケルに続く外国人教師、マンスフェルト(C. G. van Mansvelt(1832-1912))、ショイベ(Heinrich Botho Scheube(1853-1923))もヨンケル同様に眼疾患の診療を行った。最後の外国人医学教師ショイベが京都を去ったのは明治14年12月であった。その後、眼科学の専任教師が正式に迎えられたのは明治17年4月のことである。
この間、眼科診療を担当した医師には江馬章太郎、真島利民、中田彦三郎、そして流行性感冒と眼病の関係をはじめて報告した山田政五郎らがいた。彼らは当時京都で発刊された『療病院雑誌』(明治12年3月〜明治14年6月)、『医事集談』(明治12年3月〜明治13年9月)、『京都医事雑誌』(明治18年4月〜明治20年5月)、『京都医学会雑誌』(明治21年1月〜明治34年7月)などの医学雑誌に投稿を重ね、眼科学の基礎の確立に寄与した。
眼科学教室の創立
眼科学教室の創立時期について次の様な年月が挙げられる。
1.明治 6年9月 ヨンケルの『治療則』による眼科外来実習開始時。
2.明治 7年3月 『京都療病院教師課業表』に記載される「第3学年、第6半期(後期)」の「眼科講義及び手術」の実施時。
3.明治 9年9月 マンスフェルトによる眼科学講義の開始時。
4.明治13年7月 ショイベ解雇後に各科に医学士を部長として聘し、各科専門の学科、診療の開始時。
5.明治14年8月 医学校の卒業試験に眼科学が加えられた時。
6.明治17年4月 浅山郁次郎が眼科担当教諭に着任時。
当眼科学教室創立についての統一見解を決すべく、上記の所説に対し検討の結果、「明治6年に療病院内において眼科専門の分化が認められるが、明治17年4月の初代教諭、浅山郁次郎の着任をもって開講創立日とする」旨、平成5年9月の眼科学教室同窓会「明交会」総会で決定した。 
麻酔器
1867年 Ferdinand Adalbert Junker von Langegg (ユンケル・フォン・ランゲック、英国籍ウィーン大学出身、普仏戦争に従軍、槇村知事らが京都活性化のために招聘した外科医の一人で、Leipzig大学推薦による。日本名:永克、万次郎格)は、ロンドンで「ユンカーの麻酔器 Junker's Inhaler」を発明した。吸入法 insufflation methodeにより、2連球で、空気を送って、ガラス瓶の中のクロロホルムあるいはクロロメチルを気化し、金属マスクで吸入させる。軽便な携帯型で、明治の初めからわが国にも輸入され国産改良型も作られた。
1872年 Junker は、京都府立医科大学の前身の療病院に招かれ、Yunkerの麻酔器を日本に紹介した。  
京都における近代麻酔科学への道程
・・・申すまでもなくわが国医学の近代化は明治に始まるが、外科麻酔についても維新戦争が大きな転機となった。それは慶応四年(一八六八)正月、戌辰戦争が没発するや薩軍、幕軍共に銃弾創に姥れる者が続出したのであるが、‐薩軍軍医たちは近代外科的処置について教育されていなかったため、ゑす承す救かるべき兵士が多数死亡した。そこで西郷隆盛の要請に応じて「英公使館付医師ウィリスが入京し、相国寺山内養源院を臨時に軍病院として治療をおこなったのである。彼は過マンガン酸カリで消毒をおこない、クロロホルム麻酔のもと四肢切断術を施行した。これは医師たちの耳目を奪うに足る最近の医学であった。四肢切断術は当時としては第一級の手術であり、切断の適応のある傷者にとってはそのような技術をもった軍医に廻り会えるか否かが命の瀬戸際であったのであった。エジンバラ出身のウィリスはその麻酔技術と外科技術をもって来たのである。
維新後わが国の医学は旧幕以来のオランダ医学からドイツ医学への転換をなしたのである。京都でも明治初年より近代的な病院と医学校をつくろうといううごきがあった。
府大参事槇村正直は顧問山本覚馬と少属明石博高と諮り、ドイツ人医師を招聰すべく資金・資材をあつめた。そして明治五年(一八七二)九月ヨンヶルが着京した。彼はウィーン生れ、英国籍であって普仏戦争にも参加した。一八六七年ロンドンに在った時、有名な『一ンカーの吸入麻酔器を発明し婦人科ス・ヘンサー・ウェルスの卵巣腫瘍別除術のため吸入全麻をおこなった。この器械は一九四○年までロンドンで使われていた事実があり、わが国でも多く使用された。また数多の改良型が発表された。ヨンヶルはジャパノロジストとして扶桑茶話と瑞穂草を遺した。療病院における四肢切断術は火曜日にスケジュールされていた。
当時としては了一ユアルは些かったけれども四肢切断と麻酔に関してはストロマイャーとグロスの著書に負うところが大きい。
東京においてはミュラーとホフマンのあとベルッやスクリバなどドイツ人教師たちが来日したが、佐藤進が明治八年(一八七五)帰朝しドイツ学派が殆どその趨勢を占めるに至った。切断術が反省されるのは明治十年(一八七七)西南の役以後である。
京都府療病院には第二代教師としてオランダ人マンスフェルドが着任したが、彼は長崎時代(一八六五年)坐骨神経痛に対してアトロヒネの注射をおこなっている。
このようにして我が国にヨーロッパ流の全身麻酔法が入って来たのであるが脊椎麻酔についてはビーアが一八九九年に発表してより明治三四年(一九○一)、京大伊藤外科・革島彦一と尾見薫が始めたコカインで、のちトロパコヵインで脊麻をおこなった。
尾見はのちに大連病院長となったが胸部外科に興味をもち第一七回日本外科学会八大正四年(一九一六)Vザウエルブルッフの異圧装置を用いての開胸手術について発表した。これは後々まで論議の的となり、東北大学関口蕃樹対京大烏潟隆一のディベイトに発展する。この事はとりもなおさず当時のわが国の医学にとって焦眉の急であった結核外科や、世界的に染て先頭を走っていた京大大澤達の食道外科の発展にとって、輸血・輸液などと共に等閑にしえない麻酔科学の発達に制動をかける因となっていた事は否めない。
一方婦人科においても臨床科としては日常開腹手術がおこなわれていたのであるが、脊麻の研究以外に全麻についも大正、昭和の初期に今もって注目しうる基礎的な研究l酸塩基平衡、酸素運搬などlを散見しうる。
仙骨部硬膜外麻酔については泌尿器科領域で繁用されて来たが腰部硬膜外麻酔については府立医大横田外科・並川力が昭和九年(一九三四)わが国初の報告をした。
吸入麻酔器については婦人科ではオムブレダンが使われたが、府立医大外科ではフランヶンの麻酔器が購入された。しかし幼小児にはシンメルブッシュのマスクによるエーテル吸入麻酔がおこなわれていた。
戦後、昭和二五年日米医学協議会が開かれてより始めて米国の進歩した麻酔科学に対して蒙を啓かれ、そうして各大学に麻酔科新設のうごきが芽生えた。漸く昭和三一年(一九五六)、京大稲本晃教授のもと教室が誕生し、三四年(一九五九)、府立医大に青地修講師が麻酔科を創設した。
以上、京都における近代麻酔科学をうち立てるに至った道程と先人の業績について述べる。
 
テオドール・ホフマン

 

Theodor Eduard Hoffmann (1837〜1894)
軍医(独)
ドイツの内科医・医学者。海軍軍医少尉だったが1871年東京医学校(後の東大医学部)の招きで来日。日本の医療・医学をドイツ式のものにすべく改革を進めた。内科学・栄養学を主に講義し日本に初めて「栄養」についての知識をもたらせ、脚気・寄生虫病などの対処法も講じた。また初めて穿胸術や肋骨切除術も伝えた。1875年の帰国まで日本人の人類学的特徴などを研究した。 
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ドイツの軍医。1871年(明治4年)、大学東校の医学教師として来日した御雇い外国人の一人。内科学を担当した。レオポルト・ミュラーとともに東校の医学教育制度を改革し、ドイツ式の大学形態とした。 日本に初めて穿胸術(せんきょうじゅつ)や肋骨切除術を伝える。 また、脚気(かっけ)の研究を行い、栄養学ももたらした。
1875年(明治8年)、帰国。
東京大学大学院眼科・視覚矯正科の沿革
安政5年(1858年)、神田お玉ヶ池(現・千代田区岩本町)に種痘所が開設され、「種痘館」と名づけられた。これが東京大学医学部の前身である。その後、「種痘所」「西洋医学所」「医学所」「海陸軍病院」「大病院」「医学校兼病院」「大学東校」「東校」・・・と改名したが、1871年(明治4年)8月、プロシアよりレオポルド・ミュルレル(外科)、テオドール・ホフマン(内科)が着任。ミュルレルが眼科学を兼任したことにより東大眼科開講となる。ミュルレルの退官後も眼科はシュルツェ、スクリバらドイツの外科学教授がしばらく兼任したが、彼らに指導・教授されてきた日本の眼科学は、梅錦之丞・須田哲造・井上達也・甲野 などが育ってきたことによって「日本人の眼科学専門研究者の時代」へと移り始める。  
近代西洋医学の本格的導入
安政4 年(1857)長崎にオランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトが医学教師として着任した。幕府医師松本良順が学生代表となり、西洋医学の本格的教育が始まった。日本の近代医学教育の始まりである。明治維新後、政府は日本の医学を漢方に代えて西洋医学とすることを定めた。戊辰戦争で活躍した英人医師ウィリスを教師に迎えたが、明治2 年、ドイツ医学の採用を決めてウィリスを鹿児島に送り、佐倉順天堂より佐藤尚中を大学東校の大学大博士(責任者)に迎えた。尚中は大勢の学生を入学させ、西洋医学の短期普及を図ったが、明治4 年(1871)に着任したミュルレルとホフマンは、まず全ての学生を退学させ、少数の学生を再入学させた。東大医学部の第一回生である。佐藤尚中は東京に順天堂を設立し、また済生学舎、済衆舎などを設け、広く全国から学生を受け入れ医学教育に尽力した。
政府はミュルレルらに続いてベルツなど「お雇い外国人教師」を次々と雇うと同時に、ドイツ留学制度を始めた。留学生たちは帰国後、お雇い外国人教師に代わることが約束されていた。既にベルリンに留学中であった順天堂の佐藤進や初代東大医学部長池田謙齊は、最初の留学生となった進はベルリン大学医学部を卒業して明治8年(1875)に帰国した。佐藤尚中は、ミュルレルらによって東校を退学させられた医学生たちのために、有志とともに私立病院を作り、教育に当たった。その一つが私立医学校済生学舎である。佐藤進は順天堂に在職まま西南戦役軍医頭日清・日露両戦争の軍医総監東大の第1、第2 病院長も兼務し、近代臨床医学教育を推進した。  
日本教員養成史
・・・明治5 年(1872)5 月29 日、東京、湯島の昌平坂学問所跡地に官立東京師範学校が創立されました。この東京師範学校は日本初の官立師範学校です。同年8 月3 日に頒布された『学制』第40 章には「小学校ノ外師範学校アリ。此校ニアリテハ小学ニ教ル所ノ教則及其教授ノ方法ヲ教授ス。当今ニ在リテ極メテ要急ナルモノトス」と師範学校が初めて規定されました。そして、翌6 年(1873)には大阪と仙台に、更に翌7 年(1874)には名古屋、広島、長崎、新潟に相次いで官立師範学校が設置されました。
井上久雄『学制論考』(風間書房、昭和38 年10月刊)によりますと、明治初期における官立師範学校設立の背景には、明治4 年(1871)12 月に文部首脳に提出された「忽弗満氏学校建議」が大きく影響しているといわれています。「忽弗満氏学校建議」を提出したテオドール・エデュアル・ホフマン(Theodor Eduard Hoff mann)はドイツ・プロイセンの人で、明治4 年(1871)7 月7 日に来日し、東京の東学で医学を講じた文部省の御雇外国人教師です。井上氏は「教育の普及を力説するものは、すくなくない。しかし、教育の普及に関して、教師養成の整備を急務とし、これを提唱したものを、ホフマンの建議以前に、みることはできない。」と、ホフマンの卓越した先見性を評価しておられます。
本館所蔵のグリフィス書状が書かれたのは、「忽弗満氏学校建議」が提出された明治4 年(1871)12月よりも約4 ケ月早い、同年8 月10 日でした。単純に時間的な問題として見れば、グリフィスはホフマンより4 ケ月早く、師範学校の創設を提言したことになります。しかし、ホフマンのそれは文部省への建議書であり、グリフィスのそれは由利公正(東京府知事)に宛てた個人的な書状に過ぎません。両者を同じ土俵に上げて論じることはできません。また、グリフィスの師範学校創設に関する提言が由利公正に届いていたことは確かですが、そこから大木喬任文部卿をはじめとする文部首脳にまで届いたか否かはわかりません。すなわち、現時点ではグリフィスが明治4 年8 月10 日付で由利公正に送った書状が、日本の師範学校創設にどれほどの影響を及ぼしたかは不明と言わざるを得ないのです。しかし、たとえそれが個人的な書状であったとしても、明治4年(1871)8 月10 日の時点で、グリフィスが師範学校設置を急務とすることを当時の明治政府の高官(東京府知事)であった由利公正に提言していたことは、グリフィスが教育者として確かな見識とそれを実行に移す行動力を持っていたことを示すものといえるでしょう。本館所蔵のグリフィス書状は、グリフィスの伝記に新たな1 ページを加える史料であり、かつ近代日本における教員養成史研究においても貴重な史料といえるでしょう。  
パンの歴史
安土桃山時代にポルトガルの宣教師によって西洋のパンが日本へ伝来した。しかし、江戸時代に日本人が主食として食べたという記録はほとんど無い。一説にはキリスト教と密着していたために製造が忌避されたともいわれ、また、当時の人々の口には合わなかったと思われる。江戸時代の料理書にパンの製法が著されているが、これは現在の中国におけるマントウに近い製法であった。徳川幕府を訪れたオランダからの使節団にもこの種のパンが提供されたとされる。
1718年発行の『御前菓子秘伝抄』には、酵母菌を使ったパンの製法が記載されている。酵母菌の種として甘酒を使うという本格的なものであるが、実際に製造されたという記録はない。最初にパン(堅パン)を焼いた日本人は江戸時代の末の江川英龍とされる。江川は兵糧としてのパンの有用性に着目し、1842年4月12日に伊豆の韮山町の自宅でパン焼きかまどを作成し、パンの製造を開始した。このため、彼を日本のパン祖と呼ぶ。明治時代に入ると文明開化の波のもとパンも本格的に日本に上陸するものの、コメ志向の強い日本人には主食としてのパンは当初受け入れられなかった。この状況が変化するのは、1874年に木村屋總本店の木村安兵衛があんパンを発明してからである。これは好評を博し、以後これに倣って次々と菓子パンが開発され、さらにその流れで惣菜パンも発達した。次いで、テオドール・ホフマンが桂弥一(軍人)にパン食を勧めて脚気が治り評判となり、脚気防止のためにパン食導入の流れができ、日本海軍では1890年(明治23年)2月12日の「海軍糧食条例」の公布によっていち早くパン食が奨励されていた。
第二次世界大戦後、学校給食が多くの学校で実施されるようになると、アメリカからの援助物資の小麦粉を使ってパンと脱脂粉乳の学校給食が開始され、これが日本におけるパンの大量流通のきっかけとなった。これにより、1955年以降、日本でのパン消費量は急増していった。
現在、日本においてパン食の割合が特に高いのは近畿地方である。日本におけるパンの年間生産量は、2005年には食パンが601552t、菓子パンが371629t、そのほかのパンが223344tとなっており、約半分を食パンが占めている。同年の1世帯当たりの年間パン購入量は食パン19216g、そのほかのパンが20725gである。日本のパンの生産量は平成3年に119万3000t、平成23年に121万5000tと、年度ごとにやや増減があるものの総体としてはこの20年ほぼ横ばいが続いている。しかし、主食であるコメの消費量が減少を続けていることから相対的にパンの比重が増加し、2011年度の総務省家計調査においては1世帯当たりのパンの購入金額が史上初めてコメを上回った。
 
レオポルト・ミュルレル (ベンヤミン・カール・レオポルト・ミュラー)

 

Benjamin Carl Leopold Müller (1824-1893)
軍医(独)
プロイセン王国・ドイツ帝国の陸軍軍医、外科医。お雇い外国人として来日し、近代日本の医学教育制度を整備した。
1824年6月24日マインツに生まれる。父はプロイセン軍医のJohann Benjamin Müller、母はEleonoreである。父が1833年ザールルイへ転任したため、レオポルトはそこのギムナジウムに通った(1836年から1842年)。 1842年ボン大学の医学校に入学したが、再び父の転任に伴い1844年にベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム内科外科学校(medizinisch-chirurgischen Friedrich Wilhelms-Institut)に移る。ここはペピニエール(Pépinière)という別名で知られており、卒業後に一定年数を軍医として働く代わりに有給で医学教育が受けられる医学校であった。1847年2月にベルリンの大学病院シャリテの研修医となり、5月28日に内科および外科のドクトルを取得(学位論文は『脳脊髄液』)。1848年4月1日軍医となり、1849年に外科医および産科医の国試に合格。軍医少尉としてシュヴェートへ赴く。1850年オーストリアとの間で緊張が高まり総動員令が出たため第9戦地病院に配属。翌年に動員令が解除されてポツダムへ赴く。1853年にはフリードリヒ・ヴィルヘルム内科外科学校の講師となる。1855年シャリテの上医となり、眼科医の資格を得る。ミュルレルはプロイセンに800名ほどいる軍医として、この時まではごくありきたりのキャリアを重ねていた。
ハイチ
経緯は不明だが、ミュルレルは1855年からイギリスの保険会社と交渉し、2年間ハイチのレカイにいる50名の契約者とその家族に対して医療を提供するという契約を結んだ。年俸は2万グールドで、軍医大尉として俸給の26倍という破格の好待遇であった。もちろんこれには理由があった。フランス革命をきっかけに1791年ハイチ革命が起こり、その後も争乱が続いて1849年に皇帝フォースタン1世によるハイチ帝国が成立したところであり、その政情は不安定だったのである。ただミュルレルは1855年に婚約者を亡くしており、経済的な事情だけでなく心機一転を図る意味があったのかもしれない。1856年ミュルレルは勅許により無給の休暇とレカイへの転出許可を得、1月17日外輪船パラナ号でサウサンプトンからセント・トーマス島へ向けて出発した。天候の影響で航海が遅れたためマデイラ諸島フンシャルに寄港し、2月10日にレカイに到着した。
ハイチに到着した1856年、アメリカ領事の姪でユダヤ人のAnne Denise Genevieve Bonne Castelと結婚した。2人は幸せに暮らし1男(Edgar)2女(GarimèneとOlga)が生まれたが、末娘は1歳になる前に亡くなった。1866年には妻Bonneが34歳で亡くなり、翌年Bonneの妹Amaïdeと再婚した。
ハイチへ来て3年後の1859年、ファーブル・ジェフラールがフォースタン1世を追放して大統領に就任する。これにより、ミュルレルはハイチ陸軍軍医総監ならびに軍医学校長・病院長に任命された。ハイチ陸軍への移籍の許可を得る際に、プロイセン軍はUntertanenverbandからの脱退を指示した。ミュルレルはハイチにおける度重なる紛争の際にもプロイセン国旗を守り通した愛国的な人であり、これを拒絶した。月俸は200スペインドルで、とくに1865年の内戦のときには治療のみならず野戦病院の設営などに携わった。
ハイチに来てからのミュルレルは金銭的に余裕ができ、また医師としても成功していた。彼は家族に対してもハイチを訪れるように勧め、当初2年間の予定だった滞在を延ばして永住することも考えていた。5年が経過した1861年にはプロイセンに帰りたいと手紙に書いたり、また後には南北戦争の北軍に加わろうと考えたりもしている。しかし1866年妻が亡くなり彼の妹Luiseが帰国を勧めたときには、10年も自由なアメリカで暮らしたため、プロイセンの統制には従えないだろうし、一介の軍医大尉に戻ることはプライドが許さないと、これを断っている。彼はハイチ大統領の3〜4倍も稼いでおり、ヨーロッパではこれに匹敵する職は得られない。ポルトープランスのフリーメーソンロッジ"Les Coeurs Unis (No. 24)"でMaitre Parfaitの階級についた。
ミュルレルは様々な経済的活動を行っていた。当初イギリスの保険会社の契約医師としてハイチに赴いたが、検死官も務めていた。また医師だけでなく薬局もやっていた。1864年にはレオガンに薬局を作り、そこの顧問を務めた。ポルトープランスでも薬局を経営し、また工場を作り炭酸水やレモネード、アルコール飲料などを製造していた。さらにベルリンとの貿易も営んでいた。ヴァシュ島にアメリカの解放黒人5000名を移住させようとしたBernard Kockともつながりがある。
1867年3月13日、ファーブル・ジェフラールがシルヴァン・サルナーヴにより放逐される。ミュルレルは4月3日に軍医総監の職を解かれ(ただし5月20日に再度任命されている)、9月21日に家族と共に帰国することになる。土地はレカイの公証人に売却され、動産は国庫へ納められた。
東プロイセン
帰国後の1868年2月から8月にかけて、東プロイセンでの発疹チフス対策に携わる。当時は栄養不足が原因だと考えられていたが、ミュルレルはまもなく栄養状態には問題が無く、人口の密集と衛生状態に関係があることに気付いた。半ば強制的に衛生状態を改善することで蔓延を収束させ、この功績により第四等王冠勲章を受けた。翌1869年に軍医に復帰。普仏戦争では第4戦地病院長として従軍。
日本
1869年(明治2年)日本政府はドイツ医学の導入を決定し、翌年3月18日北ドイツ連邦公使マックス・フォン・ブラントとの間に、医学教師2名を3年間招聘する契約が結ばれた。当時日本では医師の社会的地位が低く、フォン・ブラントは軍医でなければ主導的地位に受け入れられないと判断した。ミュルレルはハイチで同様の任を務めていたことから派遣を打診され、テオドール・ホフマンとともに応諾する。普仏戦争のため来日が遅れたが、1871年6月3日にブレーメンを出航し、船便の都合でアメリカに1ヶ月滞在した後、8月23日に横浜港へ到着した。
契約で初代文部卿大木喬任の直属となり大学東校の全権を委ねられたため、抜本的な改革が可能となった。解剖学・外科・婦人科・眼科を担当した。また医師と独立した薬剤師の必要性を説いて製薬学科の設立に関わった。日本滞在中の1872年に軍医少佐(Oberstabsarzt 1. Klasse)に昇進している。
1874年に3年間の契約が満了する際に日本人の指揮下に入る条件で契約更新を打診されるが、それでは改革は実行できないとしてこれを断る。後任者との引き継ぎを行うまでの間は宮内省でいわば侍医として雇われることになる。1875年11月25日に横浜からサンフランシスコ経由で帰国の途に就き、1876年4月8日にベルリンへ到着する。帰国後の1876年4月に廃兵院の院長、1887年には陸軍第1病院の院長となる。1893年9月13日病死。
音楽
ミュルレルは音楽や文化交流にも深い関心を示した。ハイチ時代にはレカイのルネサンス劇場(Theatre la Renaissance)の設立代表者として活動しており、また1861年にはポルトープランスに新設された音楽学校の試験委員を務めている。ベルリンではシュテルン合唱団の理事となっており、また日本からは雅楽器を持ち帰り雅楽についての講演を行っている。日本時代には1873年にフォン・ブラントとともにドイツ東洋文化研究協会を設立し、フォン・ブラントが清国大使として転出した後の1874年から1875年には会長を務めている。
胸像
1895年三回忌にあたってミュルレルの胸像が帝国大学構内に設置された。作者は藤田文蔵で、台座に島田重礼撰、田口米舫筆の碑文が彫られた。第二次世界大戦中の金属供出の準備としてコンクリートによる複製が作成されたが、結局供出に至る前に終戦を迎えた。しかしこの胸像は1959年に何者かにより盗まれてしまった。1964年ミュルレルの縁者が来日するということで、コンクリート複製像を着色して設置したが、十年あまりで老朽化してしまった。1975年に改めてブロンズ像が設置されて現在にいたる。 
医学部誕生物語 
東大医学部の前身である「医学校兼病院」ではイギリス人医師ウィリアム・ウィリスを中心に医学教育が始められようとしていた。そこに医学取調御用掛として乗り込んできた二人の人物がこれに待ったをかける。
イギリスかドイツか
明治2年1月[1869年]、政府は、岩佐純(じゅん、あつし)、相良知安(ちあん、ともやす)の二人を「医学取調御用掛」に任命した。
岩佐は福井藩医の子、相良は佐賀藩医の子で、二人とも千葉・佐倉の順天堂で学び、更に長崎でポンペ、ボードウィンに師事したという同じ学歴を持つ。
この二人の最初の任務は大阪にあったが、それは第7話で述べることにして、ここでは首都が東京と定まり、同年3月彼らが上京してきたところから始めよう。
「医学取調御用掛」は医学校兼病院の管理運営と、医学制度改革が任務である。岩佐は主として病院を、相良は主として医学校を担当した。
すでに述べたように、医学校兼病院では英国人医師ウィリアム・ウィリスWilliam Willisが教育と治療にあたっていた。ウィリスは、山内容堂、西郷従道などを治療したこともあり、政府首脳との交際も広かった。これからの医学はイギリス医学の移入になるはずだった。
しかし相良知安はこれに異義を唱える。自分たちが学んできたオランダ医学はほとんどがドイツ医学の翻訳であり、ドイツ医学が最も優れているというのがその理由である。加えて、「英は国人を侮り、米は新国にして医あまりなし、独は国体やや吾に似て」(『東京帝国大学五十年史』)などという国力・文化・政体の違いも理由にされている。実習を重視する英米医学に対して、ドイツ医学は学究的性格が強く、日本の士族の教養文化に親和的であったということも背景にはあるらしい。
当時の大学別当(今の文部科学大臣)はウィリスと親交のある土佐藩主・山内容堂(豊信)だからドイツ医学転換は容易ではない。
慶応4年2月京都でウィリスは重篤の容堂を治療した ——「私はまた、肝臓の炎症を起こした土佐という大名を治療したのです」とウィリスは手紙に書いている。ウィリスは容堂にとって命の恩人なのだ。
ある日相良、岩佐の二人がウィリスの家に招かれて行くと、そこには英国公使パークス、山内容堂、そして松平春嶽(慶永)がいた。容堂はパークスに向かって言う、
「余はウリースを採用したいのであるが、この医者ども二人が承知せぬから困っている。貴君からこの者どもへ直接に談判してくれ」
老獪な公使パークスはこれを受けて
「相良はワインが好きか、ビールが好きか。なにビールか、それなら無論英国贔屓だろう」
人を馬鹿にしたような物言いに相良は滔滔と自説を述べ立てて反論した。
「そもそも医師は万有の学者である。贔屓、不贔屓というような情実は持たない。なるほど英医は外科に長じているから海軍医学校に採用するなら適当であろうが、大学東校(注 — この時点では「医学校兼病院」である)の医学は今世最も発達したるドイツに求めねばならないと思う。これはただ我ら二人の私見ではなく、全国医師の意思を代表して言うのである」(「相良知安翁懐旧譚」)。
当路の要人らにも臆せず持論を展開する相良は、石黒忠悳(ただのり)によると「自信の強い、談論風発、気骨稜々たる圭角ある大議論家」であった(『懐旧九十年』)。
相良知安の画策
ドイツ医学採用のために、相良と岩佐は下級教員の長谷川泰(たい、やすし)らと謀ってウィリスの授業を妨害することまでしたらしい。もっともウィリスは臨床には優れているが、講義には問題があったという池田謙斎の次のような証言もある。
「医学の方は初めウリュスが講釈するというので、化学の講釈をやりだしたが、それも実地試験が主で、今日から考えるとまるで浅草公園あたりでやっとる見世物同然、ほとんど子供だましのようなものだった」(池田謙斎『回顧録』)。
さて、イギリス医学からドイツ医学への方針転換という難題を解決するために相良はフルベッキの権威を借りることを思いつく。
フルベッキは当時大学南校(東京大学の法・理・文3学部の前身)の教員であり、明治政府の政治顧問でもある。その彼に相談し、「ドイツ医学、特にプロイセンがよい」という証言を得、かつそれを書面にしてもらって、これを使って各方面に画策したのである。
フルベッキ Guido Herman Fridolin Verbeck はオランダ系アメリカ人で、安政6年[1859年]に来日、長崎の済美館(せいびかん、幕府設置)や致遠館(ちえんかん、佐賀藩設置)で10年間英語、政治、経済、理学などを教えた。
その時の生徒には大隈重信、副島種臣、江藤新平、大木喬任、伊藤博文、大久保利通、加藤弘之らがいた(梅渓昇『お雇い外国人』)。これらの人材の育成にかかわったフルベッキの影響力は絶大である。また相良自身もフルベッキからアメリカ憲法と聖書を学んでいる。
フルベッキのお墨付きをもらったドイツ医学採用案は、大隈重信、副島種臣らに理解され、イギリス支持派の山内容堂は大学別当を更迭され、岩佐の主家松平春嶽がその後任となった。こうして明治2年8月ドイツ医学導入が政府決定となった。
ウィリスの処遇と相良の縲紲
ドイツ医学の採用、この決定によって起こった問題は、ウィリアム・ウィリスの処遇である。戊辰戦争以来の明治政府への貢献を考えれば粗雑な待遇はできない。体裁よく引き取ってもらう花道が必要なのだ。
この窮地に手を差し伸べたのが西郷隆盛である。相良はウィリスと昵懇である西郷に泣きついた。西郷は大久保利通らと相談してウィリスを鹿児島に迎えることにした。彼を雇い入れて鹿児島医学校を発足させようというのである。
ウィリス追い出しについては以上が定説になっているが、ウィリスの膨大な量の書簡を分析した萩原延壽氏によると、ウィリスは解雇されたのではなく自らの意思で辞任したのであり、また鹿児島招聘はウィリス辞任を機に企てられたのではなくそれ以前のかなり早い時期から進行していたのだそうだ。
つまり、そもそも鹿児島では本格的医学校の開設のために外国人医師・教師を求めていた。一方東京で医学教育について行き詰まりを感じていたウィリスがこれに呼応したというのである。なお、「相良知安翁懐旧譚」では西郷は登場せず、ウィリス解雇が決まった時、大久保利通から「ウリースを鹿児島へ雇い入れたいがいかがであろうか」と照会してきたことになっている。
定説と萩原説の違いは、鹿児島行きは西郷の救済策なのか、ウィリス自身の決断かであり、また鹿児島医学校の設立過程について —— ウィリスのための医学校か、医学校のためのウィリスか —— も解釈が違ってくる。
この後ウィリスは鹿児島で日本人女性と結婚し、一児を設けたが、西南戦争で鹿児島医学校が廃校となり妻子を残して離日する。
さて難題を解決した相良知安であるが、好事魔多し。翌明治3年9月(または11月)[1870年]、部下の森何某が学校の公金を横領したことを理由に捕縛・投獄されてしまう。やがてこれは冤罪と判明し1年後に釈放されるのだが、捕縛した弾正台の長は、旧土佐藩出身の河野敏鎌(とがま)だった。ドイツ医学導入方針に抵抗したために大学別当を更迭されたのが山内容堂。旧藩主の面子をつぶされた土佐藩士の恨みを買ったためではないかと言われる。
廃藩置県以前の時代である。旧藩主の権威はまだまだ絶大だった。
佐藤尚中の登場
医学校兼病院は明治2年6月大学校分局となり、12月には大学東校と改称された。取締(事務長)の石神良策がウィリスとともに鹿児島に去ると、医学取調御用掛の岩佐純、相良知安の二人は順天堂第二代堂主の佐藤尚中(しょうちゅう、たかなか)を校長に迎えた。
順天堂は、長崎でオランダ医学を学んだ佐藤泰然が天保9年[1838年]に江戸薬研掘(現在の中央区東日本橋2-6-8の薬研掘不動院の境内)で医学塾「和田塾」を開いたことから始まる。天保14年に下総佐倉(千葉県佐倉市)に移り「順天堂」を開設した。佐倉藩主は「蘭癖大名」の堀田正睦(まさよし)で泰然を厚遇し、藩士の地位を与えた。
幕末の順天堂は外科で有名であった。『懐旧九十年』の石黒忠悳(ただのり)はこの頃の西洋医学教育所についてこう述べている。
「この江戸の下谷和泉橋通りの医学所のほかにその頃西洋医学を学ぶ場所としては第一に長崎の精得館があります、これは官立の医学伝習所兼病院です。オランダ教師のもとに規則正しく学問研究と実験をやって有名でありました。次に大阪の緒方洪庵の塾、ここは蘭書を読むことが専らであったゆえ、医学者ではない福沢諭吉、寺島宗則、佐野常民のような人々が塾生にありました。(中略)下総佐倉には佐藤家の順天堂があります、ここは純粋の医学塾で殊に外科においては日本一と称せられ、規則正しい学問は第二としても、実験の材料の多かったので、精得館と東西において相対し、医学研究の牛耳を取ったものです。」
佐藤泰然の実子には良順がいた。第2話で述べたように彼は、泰然刎頚の友・松本良甫(りょうほ)の養子となった。彼の長崎留学、江戸医学所改革については第1〜3話で述べた。明治になって外交官、外務大臣として活躍した林董(はやし・ただす)は泰然の五男である。
第二代堂主の佐藤尚中は下総小見川藩(現・千葉県香取市)の藩医の子で、山口舜海と称していた。順天堂に入門し、門人中の傑出ぶりを買われて佐藤家の養嗣子となり、佐藤舜海、のち尚中と称した。長崎の医学伝習所(精得館)でポンペに学び、帰郷して佐倉藩の医制改革を実施した。
この尚中を校長に迎えた岩佐、相良の二人は佐倉の順天堂と長崎の精得館で医学を学んだ。二人にとって尚中は、師であり、同窓生でもあるという関係である。当時の日本の西洋医学界で最も著名な尚中を「大博士」として遇した。これについて大学本校から、「こちらでは博士は中博士しかいないのに」と猛反対があったが、東校側ではこれに耳を貸さなかった。
明治3年閏10月、佐藤校長の下で校則が制定された。この規則の特徴は、生徒を正則生と変則生に分けたことである。正則生は洋書で学び修業年限5年、変則生は訳書で学び修業年限は3年である。この2つの課程の併置は、本格的医学教育を受けた医学研究教育・医療行政のエリートを養成する一方で、修業年限の短い変則課程によって臨床医の速成を急ぐべきだという考えに基づくものである。日本全国に西洋医学を学んだ医師を一刻も早く十全に配置することが重要と考えていたのである。
当時の西洋医の数は決定的に少なかった。明治7年の調査では、開業医数28,262名中、西洋医はわずかに5,247名、医師の8割が漢方医という状況だったのである。西洋医の速成・量産が最優先の課題だと考えるのは当然である。
ところが後で述べるようにドイツから招聘した軍医はエリート教育のみの校則に変更し、変則課程を廃止してしまう。これに不満を持った佐藤尚中は校長を辞任してしまう。そして明治6年、下谷練塀町(JR秋葉原駅近く)に順天堂医院を開院し、自らの信念に基づいた医師養成を行うのである。明治8年には湯島に移転、これが順天堂大学・病院の現在の地である。
ボードウィンと上野公園
大学東校では、ドイツ人医師の雇入れについて、政府への伺書で「プロイセン国より盛学の医官二人英語を以って教授いたしそうろう者」を希望するとした。こちらの生徒は英語に熟達しているから英語で講義をするドイツ人がほしいと言うのである。なんとも奇妙な要求である。ドイツ医学の優秀さを熱く主張したが、その教育態勢についてはあまり考えていなかったように見える。実際に来日した二人のうちミュルレルは英語で講義をしてくれなかった。教員の中にいた語学の天才司馬凌海(盈之=みつゆき)の通訳で講義がなされた。
こちらでは明治3年[1870年]に着任を希望していたが、ちょうどそのときドイツでは普仏戦争(1870〜1871年)が勃発して当面は来日できなくなった。ウィリスはすでに鹿児島に去った。外国人教師不在の彌縫策として、相良と岩佐はボードウィンに講義担当を依頼した。長崎の精得館でポンペの後任となったあのアントニウス・ボードウィンである。
精得館を辞した後のボードウィンは、オランダに留学する緒方惟準(いじゅん、これよし)、松本_太郎(けいたろう)を伴って離日したが、幕府が江戸に設置するはずだった海軍医学校に参加するために、多数の実験資材を買い入れて再来日した。しかし幕府は倒れ、新政府はその計画を引き継がなかった。代わりに政府は大阪に設立した「仮病院」(大阪大学医学部の起源)の教師としてボードウィンを招聘した。明治2年[1869年]のことである。その翌年大学東校の相良と岩佐は、任期が切れて帰国する直前のボードウィンに頼み込んで、外人教師不在の間のショートリリーフをしてもらったわけである。今は捨て去ろうとしているオランダ医学を穴埋めに使ったのである。ボートウィンは明治3年[1870年]の7月から約2ヶ月間講義をした。
その頃のある日のことである。ボードウィンは石黒忠悳、司馬凌海に伴われて上野を散策した。石黒は、この上野の山が大学東校の校地となることを得々と話した。相良知安の奮闘でこの年の5月に決定した新築移転計画である。
これに対しボードウィンは「こんな幽邃な土地を潰して学校や病院を建てることは途方もない謬見である」と反対し、「東京一の公園」にすべきだと主張した。時を移さず彼は、オランダ公使を通じて政府にその旨の忠告書を提出する。やがて政府は大学東校の移転認可を取り消し、上野の公園建設を決定した。大学東校には代替地として本郷の加賀藩上屋敷跡を与えた。
現在東大が本郷にあるのも、上野公園が存在するのもボードウィンがショートリリーフで講義をさせられたからである。更にその遠因は、ドイツ人医師の着任を遅らせた普仏戦争の勃発であるということになる。なお、上野公園の歴史を語る際にはボードウィンは「ボードワン」と表記される。現在公園にある胸像もそう表記されている。
そして余談だが、上野公園の「ボードワン像」は1973年に設置されたが、それは実は弟のアルベルト(第3話参照)の写真をもとに作成した像だった。医学史研究家らの指摘を受けて、2006年本人の写真による今の銅像に据え代えられた。弟の像はどうなったのだろうか…。
ミュルレルの改革
明治4年[1871年]7月、「大学」が廃止されて「文部省」が設置されたため、「大学東校」は「東校」と改称された。普仏戦争が終結してドイツ人教師が着任したのはその年の8月だった。陸軍軍医のミュルレルと海軍軍医のホフマンである。
彼らが東校にもたらしたものは厳格・厳正・規律だった。その当時の東校での教育の実態について入澤達吉(東京帝国大学医学部長)の『レオポルド・ミュルレル』から引用しよう(『東京大学百年史 通史一』からの孫引き)
「ミュルレル等が着任した時にはおおよそ三百人の学生が医学校にいたが、彼等は大きな机に十人ないし十六人宛て坐っていた。銘銘が皆一つ宛ての火鉢と、煙草や煙管とを持って席についていた。その大机には机ごとに一人の監督が坐を占めていた。学生は当時ヒルトルやヘンレーの解剖書をひもといていたが、これを解するに通訳の助けを借りてもなお困難であった。(略)その頃の医学教育ははなはだ無秩序であって、解剖や整理の知識が全く欠乏していながら、すぐに臨床医学に取り付いたのてあった。心臓病の講義を聴いている学生が、まだ血液循環の理すら会得していなかったのであった。」
つまりは、幕末に松本良順がポンペから伝えた系統だった教育方式は忘れ去られ、旧式の寺子屋式教育(あるいは「適塾的学習」)が復活していたのである。
大改革が始まる。9月学校は一旦閉校し10月に再開された。これは、上の入澤の記述にあるように、当時の学生の素質・学力に問題があったため、全員を退学させ、優秀な者のみを改めて入校させるためであった。
また、それまでは正則、変則の2課程があったが、変則課程は廃止されて、本科5年、予科3年(翌年「2年」に改定)の課程だけとなった。変則課程廃止に反対して佐藤尚中が校長を辞めたことはすでに述べた。
ミュルレル、ホフマンは本科教師となり、予科ではシモンズ(ミュルレルら着任の前に医学を担当)、ワグネル(大学南校の教師)が自然科学やラテン語、ドイツ語などを教えた。
ミュルレル、ホフマンの任期は明治7年までで、後任としてシュルツ、ウェルニヒが来日、明治9年にはベルツが来任した。こうして外国人教師は次第に数を増し明治10年には11名を数える。東大医学部の拡大過程は、他の官立医学校(大阪と長崎)の廃校と重なっている。教育水準を高め維持するため、官立の医学教育を東京に集中させていく方針が採られたのである。この方針は、明治5年8月の学制が発布された直後に文部省から正院に提出された計画書にすでに書かれているが、詳細は第8話に譲る。
こうして始まった厳格な医学教育が始めての卒業生を出すのは、東京医学校時代の明治9年の25名である。彼らは明治4年の学制改革の際本科に編入された者で、医学士の学位は与えられなかった(ただしのちに「準医学士」の称号が与えられ、明治20年には継続して医業に携わっているものは「医学士」となれた)。ミュルレル、ホフマンの制定した新カリキュラムの全課程を修了して医学士としての卒業者が出るのは明治12年10月の18名である。すでに東京大学医学部となっており、校舎は本郷に移転していた。
なお明治4年に廃止された変則課程はその後、長与専斎が校長だった明治8年、医学通学生制度(のち医学別課生制度)として復活する。長与も臨床医の速成が喫緊の課題と認識していたからである。
この別課生制度は明治18年に募集停止となり3年後に廃止された。それは、医学校の設置基準を定めた医学校通則と、医師免許規則・医師試験規則が制定されて、医師速成の役割を全国の公立医学校に任せられる態勢ができあがったからである。
相良知安の寂しい晩年
明治4年の時点に戻る。冤罪で獄にある相良の不在の時期、佐藤尚中と岩佐純が校務を管掌してきたが、佐藤が去り、また岩佐も宮中侍医を兼ねていたため、校長には相良の股肱の臣とも言うべき長谷川泰(たい、やすし)が就いた。10月相良が復帰してくると長谷川は校長職を相良に譲った。しかし相良の校長職は長くは続かなかった。明治7年[1874年]9月、相良は校長を突然解任された。12月には250円の賞賜金が支払われた。
相良の後任は長与専斎である。長与はすでに述べたように(第2話、第3話)、適塾で学んだ後、長崎でポンペやマンスフェルトに教わった。その後岩倉遣外使節団の一員として米欧の医学・衛生行政の視察をし、帰朝後は文部省医務局長となっていた。校長職との兼務は困難と固辞したが説得されて就任した。
なぜ相良が解任されたのかは分からない。明治六年の政変で下野した江藤新平との関係を疑われたとか、依然として土佐藩から恨まれていたとかの理由が挙げられている。しかし前述の長与の回想によれば、岩倉使節団の欧米視察から帰国した田中不二麿が文部大輔(現在の文科相)になって省内刷新を図ったことが背景にあったようだ。「気骨稜々たる圭角ある大議論家」という相良の人物・性格も問題とされたようだ。協調性に欠ける元々の性格が、1年間の入牢によって、任務遂行に支障を来たすほど悪化したのではないかとも言われる。
晩年の相良は辻占をして芝神明町に住み明治39年[1906年]に没した。昭和10年[1935年]、入澤達吉、長与専斎らによって本郷の東大構内に「相良知安先生記念碑」が建立された。現在は鉄門を入って右奥の東大病院入院棟前にある。長与によるその碑文にはこう書かれている。
「先生、人為(ひととなり)剛毅果敢はなはだ才幹(さいかん)あり。しかも狷介孤峭(けんかいこしょう)極めて自信に篤(あつ)し。これを以って世と相容れず。轗軻(かんか)その身を終う。深く惜しむべきなり。」 (大意 / 相良先生は、その性格は剛毅で果敢、物事の手際よい処理に手腕を発揮した。しかし片意地で、極めて自信家であったことが災いして、周囲と対立しがちで、不遇のうちにこの世を去った。非常に残念なことだ。)
東大医学部の建設期が終わるとともに相良知安の時代も終わった。
 
ポール・マイエット

 

Paul Mayet Paul Mayet (1846―1920)
太政官顧問、東京医学校(現・東大医学部)、慶應義塾大学理財科教員(独)
ドイツ人、御雇い外人教師。渡欧中の木戸孝允(きどたかよし)に郵便貯金制度を説いたのが機縁で1876年(明治9)来日。東京医学校のドイツ語教師、大蔵省・太政官(だじょうかん)会計部・駅逓(えきてい)局の各顧問、農商務省調役などを歴任した。この間、郵便貯金、火災保険、農業保険、公債の諸制度や備荒貯蓄法、統計院や会計検査院設置などの建議、立案に尽くした。93年帰国し、ドイツ統計局員となった。その主著として『日本家屋保険』(1878)、『日本公債弁』(1880)、『農業保険論』(1890)、『日本農民ノ疲弊及其(その)救治策』(1893)が有名。…政府直営の勧農事業がめざす洋式農法の日本への移植も、稲作を中心とする小農経営中心の日本農業の体質を変えることはできず、1880年代後半以降、寄生地主制の進展とその拡大により勧農政策は後退し、また大農法も日本農業に浸透しなかった。80年代後半に井上馨やドイツ人マイエット、フェスカら少数の人たちが大農論を提唱したがそれも根づかず、大農法は、たとえば政商三菱の直営農場として発足した小岩井農場(1891設立)などの例外を除いて、成功しなかった。  
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ポール・マイエット(Mayet ,Paul Carl Heinrich)は、1846年5月11日ベルリンにて、内閣中級会計官の息子として生まれた。長じて後、スイス・ローザンヌのカントン・アカデミー(Academie canntonale)やベルリン大学で学んだ。1867年にはライプチッヒ大学へ移るが、1870年まで7年間の学生生活で学位を取得することはなかった。学業を断念したのは、健康上の理由らしい。
1871年には自営商人として活動を開始する。その後、1874年にウィーンで開かれていた万国博覧会を見て、マイエットは日本に興味を持ったと伝えられる。日本へ渡るスキル・アップのためか、その年からフランクフルト(Frankfurt am Main)における生命保険会社に勤務をはじめた。この経験をかわれて日本へ渡ることになる。マイエットの日本への招聘には木戸孝允が関与していたが、木戸は死去するまでマイエットのよき理解者であった。
1876年1月12日、マイエットは東京医学校でドイツ語及びラテン語教師として雇われることになる。当初から経済問題に興味の深かったマイエットは1878年には家屋保険に関する処女作をベルリンで出版している。
教師としての2年契約が切れた後、1878年5月13日大蔵省事務の報告及び意見編纂の職務に就いた。後1879年には大蔵省顧問になっている。これらの業績が後に認められ、1882年9月20日には、勲四等叙勲の栄誉に浴した。
さらに農商務省や逓信省の顧問も歴任し、1886年からは労働省の委任により保険の研究を始めている。また、同じ年から東京帝国大学でドイツ語教師として1年間勤務している。これらの職務の間にも精力的に著述を続け、1889年3月9日にはテュービンゲン大学より、『農業保険論』を本人不在のまま審査の結果、政治学の博士号が授与されている。この書は翌年に邦訳出版された。また同じ1890年にはプロイセン・ドイツ皇帝より「プロシア国大博士」の称号を贈与され、教授資格も獲得した。
マイエットの来日前の経歴は凡庸であったが、彼は日本に来てから研鑽を積み、博士号や教授資格を取得して帰国している。彼は日本に教えに来たと同時に、日本でキャリア・アップをして母国へ帰った人であった。
マイエットはさらに1891年、「欧州各国の農商工の業務に関し参考材料蒐集の事務を為したるため」という理由で勲三等瑞宝章を叙勲している。また、この年から有栖川宮、小松宮、北白川宮、伏見宮各殿下の御前で農業保険について講義している。彼は7回にわたって日本の農民の困窮状態とその打開策を説いたと伝えられる。さらに同じ年、彼は慶應義塾大学で統計学の講義を始めた。
マイエットは1891年から帰国する1893年まで理財科で教鞭を執ったが、この事実は現在ほとんど知られていない。東京医学校や東京帝国大学ではドイツ語講師であったので、慶應義塾において経済学の講師として勤務したのは、彼の履歴の中でも特徴的である。また当時の慶應義塾の外国人教師は、義塾で教えるために来日する人も多かったが、マイエットは義塾とは関係なく来日して講師になっている。当時の理財科における外国人教師の中でも、彼の経歴は独特である。
マイエットの経済学は、ドイツ歴史学派であった。当然のことながらアダム・スミスなどのイギリス経済学には批判的である。マイエットは「英国経済学者は国家なる意義を解釈すること狭隘浅薄に過ぎたる」(「経済論」1885年)とのべ、アダム・スミスの理論を世界的に普遍なものとは考えられないと主張している。彼は統計資料を駆使して、各国の制度を比較しており、それぞれの国のよいところを組み合わせることでよりよい制度を模索した。
マイエットは農民の貧困に多大な関心を持った。彼は家屋の火災に対して強制加入させる保険案を作った。これは最終的には廃案になったが、家屋という財産の増強をはかることによって農民の経済力の向上をねらったものである。
帰国後は統計局勤務や政府顧問などをし、著作も精力的に書いた。1903年には、万国統計会議に列席した日本政府委員のため尽力した。この働きが評価され、1905年には日本政府より、旭日三等章が授与されている。最晩年には第一次世界大戦が勃発したため、これに呼応した本をいくつか記している。マイエットは、1920年母国の敗戦の後に死去した。現在も農業経済学や保険思想研究を中心に、マイエットは高い評価を受けている。  
歴史1 日本の地震保険制度発足前の動向
・・・日本の地震保険制度は、1878 年にドイツ人経済学者ポール・マイエットが、地震を含む災害を広く担保する国営強制保険制度の必要性を指摘したことに始まる。その後、1880 年には横浜を震源とする地震を受けて、日本地震学会が発足し、科学的な地震研究が開始された。そして1888 年には、日本初の火災保険の販売が開始されたが、地震は免責とされ、保険金支払いの対象から除外されていた。1891 年には大規模直下型地震である濃尾地震が発生し、震災予防調査会が発足し建物の耐震性の研究が始められた。
1923 年に発生した関東大震災は地震とそれに伴う大規模な火災により甚大な被害をもたらした。この時、保険金の支払いを求める契約者が多数に上り、保険契約の地震免責条項は無効であるとする訴訟が続出し、大きな社会問題となった。この訴訟は1924 年の大審院判決で地震免責条項の有効性が確定したものの、損害保険会社は、見舞金の形で保険金額の1 割弱に相当する支払いを行い、保険会社はその債務の返済に長期を要した。
その後も地震保険制度の法制化は何度か検討されたが実現には至らなかった。ただし第2次世界大戦時には、戦時特殊損害保険法に基づいて地震保険制度が制定され、1944 年4 月から45 年12 月までの1 年8 カ月だけ実施された2)。戦後においても、1948 年の福井地震を受け、地震保険制度の創設が検討されたが実現しなかった。  
歴史2 明治時代における地震保険の構想
明治時代から新潟地震までの間に、大地震が発生するたびに地震保険の構想が浮上し、消えていった。
日本で最初に地震保険の構想を唱えたのはドイツ人のポール・マイエットであった。彼は明治政府が近代化のために招聘された外国人の一人で、ドイツで実施されていた公営の保険制度を参考に、地震、火災、暴風、洪水、戦乱による災害を補償する国営の災害保険制度を提唱した。
彼の提案に目を留めた大蔵卿大隈重信は、大蔵省内に火災保険取調掛を設置し、調査を進め、1881年に官営で強制加入を骨子とする「家屋保険法案」を上申した。しかし、政府内には、ドイツ流の国営保険制度をとる立場とイギリス流の民営保険制度をとる立場の路線対立があり、イギリス流の自由経済主義を標榜する内務省に押し切られ、「家屋保険法案」は退けられた。海外の多くの国々の保険制度では、政府は監督するに止め、民間には干渉しない立場をとっていることから、国民の自治独立に任せることが良いという理由で、当時の松方内務卿は「家屋保険法案」に反対し、国営地震保険制度の設立には至らなかったという経緯がある。
明治時代、日本は近代化の推進にあたり、多くの外国人を招聘した。その一人であるヘルマン・ロエスレルは、ポール・マイエットの保険国営論に対し、保険民営論に立脚して震災による損害を補償する火災保険の必要性を主張した。彼は日本の商法草案の起草を行い、その中で「地震危険も、火災危険と同視すべきである」と述べている。この草案を受けて1890年に旧商法は施行されたが、この第666条において「雷電の危険若しくは機関の破裂、火薬若しくは機関に原因する破裂の危険其の他類似の危険及び震災の危険は、同時に火災の起こりたると否とを問はず、之を火災の危険と同視する、但し他の契約あるときは此の限りにあらず」と規定された。しかしながら震災保険は行われず、将来も行われるか否かが学説でも一定していなかったため、1899年の改正で「震災」の言葉が削られた。
旧商法が施行された翌年1891年には、日本の内陸地震では最大規模の濃尾地震が発生し、この惨状を目の当たりにしたポール・マイエットは再度「災害救済論」を公にし、国営地震保険制度の設立を力説したが、実現するまでには至らなかった。
 
ウィルヘルム・デーニッツ

 

Wilhelm Doenitz (1838 - 1912)
東京医学校・解剖学、警視庁・裁判医学(独)
ドイツの解剖学者。元・伝染病研究所部長。1873(明治6)年ミュラーの具申で来日する。3年間東京医学校で解剖学を教え、その後警視庁で法医学の講義に立つ。1879年佐賀医学校に赴任。1886年帰国し、ベルリン大学や伝染病研究所部長として活躍。
…日本における近代法医学は、1875年解剖学教師デーニツが警視庁裁判医学校において公法医学あるいは裁判医学として講義したのが始まりである。82年には、日本人による最初の法医学書が《裁判医学提綱前編》として、片山国嘉らによって刊行された。…
…日本における法医学の歴史は江戸末期まで中国医学の他にオランダ医学が導入され、1862 年に長崎の医学伝習所において、オランダの軍医Pompe Van Meerderfort J が法医学についての講義を行ったとされている。その後、1875年に警察庁病院に裁判医学校を設立、東京医学校(現: 東京大学医学部)の解剖学教師のWilhelm Doenitz が裁判医学の講義を行った。1888年に片山国嘉が東京大学医学部に裁判医学講座を創設、講義を行ったが、1891年に法医学講座に改称された。その後全ての大学医学部・医科大学と医科大学校に法医学教室が設置され、現在に至っている。…
デーニッツハエトリ(ハエトリグモ科)
体長8mm程度、明治時代の医師でクモを研究したウイルヘルム・デーニッツの名に因んで命名された。山地の林や草地でも、また近くの公園や散歩道でもよく見かけるハエトリグモ。  
幕末から明治期佐賀の指導医たち
蘭学の台頭から好生館設立まで
第八代治茂(1745–1805)は天明元年(1781)藩校「弘道館」を設置し古賀精里(1750–1817)を初代教授として迎え、寛政3 年(1791)には長崎の楢林栄哲高茂(1737–1797)を蘭方医として最初の佐賀藩医とした。古賀穀堂(1778–1836)は文化3 年(1806)年、第九代斉直(1780–1839)に28 ヵ条からなる「学政管見」を上程し、23 条では長崎御番を勤める藩として蘭学教育の必要性を、24 条では「学問ナクシテ名医ニナルコト覚束ナキ儀ナリ」と医学教育の必要性を述べた。
蓮池支藩の島本良順(?–1848)は、長崎に蘭学を学び帰藩後蘭学塾を開いたが、伊東玄朴(1800–1871)、大庭雪斎(1805–1873)、大石良英(?–1865)、金武良哲(1811–1884)らが入門している。伊東玄朴、大庭雪斎、大石良英は文政6 年(1823)長崎出島に着任したシーボルトにも師事した。
直正(1814–1871)は天保元年(1830)第十代藩主となり、相談役として補佐したのは古賀穀堂であった。「医学寮」が八幡小路に試設されたのは天保5 年(1834)年7 月16 日。寮監は島本良順。伊東玄朴が江戸藩邸侍医となったのは天保14 年(1843)、大石良英が佐賀藩邸侍医になったのは弘化1 年(1844)である。
弘化4 年(1847)直正は伊東玄朴の牛痘苗による天然痘予防の進言を入れ、取り寄せ方を楢林宗建(1802–1852)に命じた。宗建はモーニケによりもたらされた牛痘痂を嘉永2 年(1849)7 月建三郎に接種し成功。8 月22 日侍医大石良英は佐賀城本丸で直正世嗣子淳一郎(後の藩主直大)に種痘した。これを契機に佐賀藩は「引痘方」を置き領民に種痘を普及させていった。嘉永4 年(1851)には「医業免札制度」を発足させ、領内の医師に試験を行い合格者に医術開業の免札を与えた。安政5 年9 月には「御側医師は申すに及ばず陪臣町医郷医に蘭方医学修行仰せ付ける」との達しが出されている。
好生館設立から明治維新まで
安政5 年(1858)12 月26 日医学寮は水ヶ江に移転され直正により「好生館」と命名された。「好生館医則」には「医之為道所疾患而保健康者也苟欲学斯道者必当明七科而従事於治術也」と書かれ、履修すべき七科として「格物窮理、人身窮理、解剖学、病理学、分析学、薬性学、治療学」があげられている。万延元年(1860)の教導方頭取は大庭雪斎、教導方頭取兼帯は大石良英、教導方は渋谷良次・牧 春堂・城島淡堂・島田嶺南・林 梅馥、教導方差次は松隈元南・西牟田玄才・野口文郁、指南役に上村春庵・楢林蒼壽・高木玄堂・朝日揚庵・大中春良・島田東洋、御雇指南役は金武良哲・島田芳橘である。
文久元年(1861)1 月には「漢方を廃して西洋医方に改む」との通達を出し、好生館で再教育を受け医業免札の書き替えを命じた。
相良知安(1836–1906)は弘道館から好生館に学び、その後藩命により佐倉順天堂、長崎の精得館に学び、慶応3 年(1867)好生館教導方差次、直正の侍医となった。明治2 年(1869)には福井藩医岩佐純(1836–1912)と共に明治政府の医学取調御用係を命じられ、独逸医学導入を進言。今日の医療制度の基礎を作った。
明治政府下の好生館とお傭い外国人医師
佐賀藩は明治4 年7 月佐賀県、9 月伊万里県、明治5 年5 月佐賀県。明治9 年4 月三潴県、8 月長崎県となった。長崎県から今日の佐賀県に戻ったのは明治16 年5 月である。
シモンス O. Simmons 明治4 年11 月20 日伊万里県から大蔵省に提出された「病院教師雇入願」には「元佐賀県病院教師東校御雇入テ子マルカ人シモンス儀月給三百円トルニテ最前公費ヲ以テ雇入願之通被遂御許容候処更東校御雇入相成別紙写之通候条」と書かれている。
ヨングハンス L. H. Junghanns 明治5 年3 月から明治6 年2 月まで好生館で医道教師を務めた。月給は500 ドル.ヨングハンスは東京築地居留地在住時代に、東京の佐賀藩邸で病む直正公を往診している。往診は明治3 年11 月24 日から逝去前日の明治4 年1 月17 日まで合計8 回に及んだ。ヨングハンスは明治6 年5 月から愛知県公立病院に勤務している。
スローン Robert J. Sloan 明治6 年5 月から明治9 年4 月まで勤務。月給は375 円。明治7 年2 月に始まった「佐賀の乱」は4 月13 日江藤新平と島義勇の梟首で終焉した。明治8 年1 月内務卿大久保利通に「当県病院傭スローン氏並び医員中へ御賞賜之義ニ付上申」が上程され「当県下病院雇米人スローン義ハ昨年春県下騒擾之砌難ヲ長崎ニ避ケ……病院一時瓦解之姿ニ之有候処官軍入城之時ニ至リ……スローン氏長崎ヨリ呼迎候処……所々在之医員ヲ招集し二百余名之患者ヲ引受昼夜ノ別ナク治術ニ従事致シ……」と褒賞の趣旨が述べられている。明治8 年6 月スローン以下17 名の医師に月給半額相当が賞与された。
明治8 年7 月文部大輔に提出された「公立病院兼医学所伺」には、名称は好生館医学所。予科3 年間で独逸語、ラテン語、算術代数学、究理学、幾何学、無機化学、有機化学を学び、本科4 年間で組織学、解剖学、生理学、薬性学、製薬学、病理学、内科総論、包帯学、内科各論、外科、眼科、産科を履修としている。一等医の松尾良明、二等医の山口練治・池田陽雲、三等医の澤野種親・太田静造・山口亮橘・池田専助、四等医の村岡安碩・塩田範一郎・石井重義の履歴書も添付されているが、一等医松尾良明の履歴書には、「旧藩医学校入学七ケ年 長崎留学三ケ年 精得館ニ於テホートウヰン マンスヘール ハラトマン三氏江学術伝習 奥羽役軍医ヲ務メ続テ東京大病院二於テシドル ウリユス二氏ニ随身六ケ月 県下病院二於テヨンクハン スローン二氏ニ業ヲ受ク四ケ年」と記載され、四等医石井重義の履歴書には「十八歳ヨリ医学校好生館入学 明治四年夏東京医学校入学 独逸教師トクトル・シモス、トクトル・ワグネル両氏ニ従ヒ独逸語学羅甸学数学修業 トクトル・ヒルゲントルフ、トクトル・コツヒウス トクトル・フンク三氏ニ従ヒ歴史精神学理化学幾何学代教学普通動植鉱物学研究 同七年冬予科卒業第三等本科エ上級 プラペスソル・トクトル・デーニッツ氏ニ従ヒ解剖学研究 同八年春帰県四月病院傭四等医々学所専務被申付候也」と興味深い記載がされている。
明治10 年7 月7 日付長崎県佐賀支庁公文書には「今般独逸人医師シモンス1 名壱ヵ年ノ条約ヲ以傭入シ……」とあり、明治10 年7 月から明治11 年6 月まで勤務した。明治4 年のデンマーク人O. Simmonsと同一人物の可能性があるが不明である。
Karl Wilhelm Doenitz(1838–1912) 明治12 年8 月7 日長崎県佐賀郡立好生館医学校に着任。月給500円。佐賀では、妻、長女、長男との4 人暮らしであった。デーニッツはベルリン大学卒。明治6 年7月来日。東京医学校で解剖学、病理学を講義。明治9 年裁判医学校で断訟医学を講義した。好生館医学校は明治16 年池田陽一(東大明16 年卆)、川原汎(東大明16 年卆)、デーニッツの三名教授による甲種医学校となった。明治18 年11 月11 日ドイツに帰国。コッホを助け伝染病の研究にあたった。
デーニッツ帰国以降、医学校は維持することが次第に困難となり、明治21 年県費補助が打切られ廃校となった。病院の方は「公立佐賀病院」として維持され、明治29 年12 月11 日現在の「佐賀県立病院好生館」になった。
 
ヨンケル・フォン・ランゲッグ 

 

Ferdinand Adalbert(Ethelbert)Junker von Langegg (1828〜1901)
ロンドンで「ユンカーの麻酔器」を発明するなど功績を挙げたドイツ出身の眼科の臨床医・医療器具の発明家。1872年、京都府療病院(現・京都府立医科大学)の創設にあたり府が初代教師として独の名門ライプツィヒ大学より招いた。1876年に帰国するまで解剖学や麻酔の講義を行い、日本の近代麻酔術などを育て上げる一方、日本の説話・伝説民話を収集、帰国後『瑞穂草』『扶桑茶話』としてライプツィヒで出版した。 
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明治期に来日したお雇い外国人。ドイツ人(のちイギリスに帰化)医師。ヨンケルともいう。ウィーン生まれ。ウィーン大卒。明治5(1872)年、創設直後の京都府療病院(京都府立医大)に赴任。解剖学を講じたが、ほかに病理学、外科学、精神医学におよんだ。小型の携帯麻酔器を考案、これは1940年代まで世界各地で用いられた。在任中6体の剖検を行う。9年、更迭され帰国し、在任約4年。日本人との協調を欠いたともいわれる。しかし日本文化に理解が深く『扶桑茶話』(1884)などを出版している。1899年までの生存はわかっているが、死亡年は不明。
麻酔器
1867年 ランゲック (英国籍ウィーン大学出身、普仏戦争に従軍、槇村知事らが京都活性化のために招聘した外科医の一人で、Leipzig大学推薦による。日本名:永克、万次郎格)は、ロンドンで「ユンカーの麻酔器 Junker's Inhaler」を発明した。吸入法 insufflation methodeにより、2連球で、空気を送って、ガラス瓶の中のクロロホルムあるいはクロロメチルを気化し、金属マスクで吸入させる。軽便な携帯型で、明治の初めからわが国にも輸入され国産改良型も作られた。
1872年 ランゲックは、京都府立医科大学の前身の療病院に招かれ、Yunkerの麻酔器を日本に紹介した。  
眼科学教室の創立までの眼科
明治5年に創設された京都療病院に初代医学教師として招聘されたヨンケル(Ferdinand Adalbert Junker von Langegg(1828-c.1901))は、その履歴に眼科学修士号の取得が明記され、彼による眼科学講義が行われた可能性が高いと推測される。
『京都療病院治療則』には眼疾患の診療記録が残っており、この時代から眼科患者の入院治療が行われていた。さらにヨンケルに続く外国人教師、マンスフェルト(C. G. van Mansvelt(1832-1912))、ショイベ(Heinrich Botho Scheube(1853-1923))もヨンケル同様に眼疾患の診療を行った。最後の外国人医学教師ショイベが京都を去ったのは明治14年12月であった。その後、眼科学の専任教師が正式に迎えられたのは明治17年4月のことである。
この間、眼科診療を担当した医師には江馬章太郎、真島利民、中田彦三郎、そして流行性感冒と眼病の関係をはじめて報告した山田政五郎らがいた。彼らは当時京都で発刊された『療病院雑誌』(明治12年3月〜明治14年6月)、『医事集談』(明治12年3月〜明治13年9月)、『京都医事雑誌』(明治18年4月〜明治20年5月)、『京都医学会雑誌』(明治21年1月〜明治34年7月)などの医学雑誌に投稿を重ね、眼科学の基礎の確立に寄与した。 
京都療病院つながり
鳥羽伏見の戦いや東京遷都に京都は活気を失った。京都府参事槇村正直、顧問山本覚馬や青年蘭方医明石博高らは、西欧文明の積極的な摂取により京都の近代化を図った。廃仏毀釈の風潮と戦後の疲弊感の中、社会事業に活路を見出した。僧侶の岡崎願成寺住職与謝野礼厳、禅林寺(永観堂)前住職東山天華、慈照寺(銀閣)住職佐々間雲巌、鹿苑寺(金閣)住職伊藤貫宗らが明石らと相集り、僧侶達が発起人となり明治4年病院建設を府に出願、京都府は他21名と共に療病院勧論方に任命、資金調達に奔走。一般府民の浄済や管内医師・薬舗からの助資金、花街に課した冥加金等に資金は5万となり、明治5年京都療病院が設立。病院の名は聖徳太子が創立した悲田院、施薬院、療病院の三院にならう。
病院設立に伴い招聘された初代外国人医師はドイツ人ヨンケル。明治5年9月から木屋町の仮療病院で診療を開始、11月12日より粟田口青蓮院内の仮療病院で解剖学の講義を開始した。2代目医師にオランダ人マンスヘルト、3代目医師にドイツ人ショイベへ。
3人の外国人医師に始まった医学教育は医学校、医学専門学校となり、現在の京都府立医科大学へ発展。

1828年生〜1901年?没。明治時代初期に来日した外国人教師、医師。
日本名は永克、萬郎愛格、伊傑児。ウィーン大学卒業後、ロンドンの病院に勤務。専門は麻酔学。1867(慶応3)年小型吸入麻酔器を発明、1940年代まで世界各地で用いられた。普仏戦争でザールブリュッケンの騎兵隊の軍医長。
療病院に京都府は、政府がドイツ医学採用を決定し、ドイツ人医師を招聘することにした。当時ドイツ語の出来る日本人は殆ど居らず、英語かオランダ語が話せるという条件があった。大阪在住ドイツ人貿易商の紹介された。通訳は半井澄。月給450円、独身ながら土手町に庭園付の家を持ち、人力車で通勤。療病院の診療の他、解剖学・外科学・内科学・精神医学を講義。6体の剖検や切断術も行った。
明治9(1876)年更迭され帰国。日本人との協調を欠き、評判が悪かった。後にロンドンに移住、著書『瑞穂草(ミズホグサ)』『扶桑茶話(フソウサワ)』をライプツィヒのBreitkopf社から刊行。 
療病院碑
鴨川の西岸にあるみそそぎ川の取水口と思われる場所を確認した後、鴨川公園から京都府立医科大学付属病院の敷地を横断して河原町通に出る。その途中の旧附属図書館棟の前に療病院碑が建つ。
療病院については石田孝喜氏の「続・京都史跡辞典」に詳細な記述があるので、これを参考にまとめてみる。幕末維新時には200年間に及んだ和蘭医学が未だ主流であった。佐賀藩出身、佐倉順天堂で佐藤泰然、長崎精得館でオランダ人医師ボードインにより医学を学んだ相良知安は、文部省医務局長など歴任し、明治初期の医療行政において強引にドイツ医学の採用を推し進めた。また越前藩出身で坪井信良、坪井芳州、佐藤泰然の養子尚中等に医学を学び長崎でポンペに師事し、後にボードインより医学を伝習された岩佐純も明治2年(1869)医学校創立取調御用掛となり、相良と共に医学教育制度の範をドイツにとることを力説し、明治3年(1870)2月15日、外務卿澤宣嘉とドイツ公使フォン・ブラントとの間で医学者招聘の交渉を成立させる。これにより日本医学はドイツに範を求めることとなる。
東京遷都により沈滞した京都に再び繁栄を取り戻すため、参事槇村正直は京都府顧問の山本覚馬と府少属の明石広高とで、多くの新規事業を立ち上げた。その中で、聖徳太子が悲田院、施薬院、療病院を創立した故事に倣い、欧風設備を完備した大病院設立構想があった。
明治4年(1871)10月府令を以って療病院の設立を公示し、翌月10日に明石を療病院掛に任命している。そして創立事務所を河原町二条上ルの高田派別院に置き、建設基金は民間からの浄財に求めることとした。外国教師をドイツから招聘することとし、12月に大阪のドイツ人商会カール・レーマンに依頼した。この時交渉に当ったのは種痘館医員総長で京都府出仕の前田利匡であった。
レーマンが選んだドイツ人医師は、ドイツ生まれで英国籍となり海軍軍医あがりのヨンケル(Junker von Langegg)であった。明治5年(1872)9月8日に入京し、木屋町二条下ル19番路地行当たり公舎とする。翌日より日本人医師24名が交代で世話を行い、9月15日からヨンケルの公舎あるいはその近くで診療を開始した。これが療病院の始まりとなる。ヨンケルの診療は、日曜日休館で毎10時より開始。診察料は金一円では、診察3度を以って限りとしていた。金二円では往診を行っていたようだ。木屋町仮療病院の期間短く、明治5年(1872)10月24日に終了している。同年11月より粟田口の青蓮院に仮療病院を移している。青蓮院での開業は11月1日で、当日に開業式が執り行われている。この粟田口の仮療病院は明治13年(1880)7月17日まで続き、病人の入院治療から人体解剖まで、そして医学生の育成までを行っている。
2代目のオランダ人医師マンスヘルト(C.G van Mansvelt)は医学教育の系統化に努力し、又、療病院長設置の必要性を勧告した。初代病院長には半井澄が就任する。3代目はドイツ人医師ショイベ(Heinrich Botho Scheube)で、診療研究に熱心、脚気病、寄生虫学に大きな業績を残した。この3人の外国人医師は、療病院に近代医学を導入し、病院の発展と医学教育に多大の貢献を果たした。明治12年(1879)4月16日には医学校も併設され、初代校長に萩原三圭が就任し、以後半井澄、猪子止戈之助、加門桂太郎、島村俊一と続く。療病院碑の建つ地、すなわち元日光宮里坊と二条、正親町の旧邸を合わせた土地(療病院敷地8451坪、医学校敷地693坪、合わせて9144坪)に、6年に及ぶ工事で新築された講堂を中心とした平屋建西洋館に移転したのは明治13年(1880)7月18日のことであった。
明治32年(1899)京都帝国医科大学が設立されるや優秀な人材が転出し、一時存亡の危機に陥ったが、第5代島村俊一校長は医学校部の改築改良を竣功し、京都府立医科大学に昇格する基礎を固めた。
 
ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト 

 

Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort (1829〜1908)
幕末のオランダ人医師。長崎海軍伝習所のカッテンディーケに選任され、軍医を育てるための医学教授として弱冠28歳で1857年に日本で雇用された。ポンペは離日する1862年までの5年間に長崎に医学伝習所(長崎大学医学部の前身)を設立し松本良順、長与専斎などを育てる一方、養生所も設立し、計15,000人の診療を行った。これが「日本初の近代的な病院」と言われる。  
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オランダ海軍の二等軍医。ユトレヒト陸軍軍医学校で医学を学び軍医となった。幕末に来日し、オランダ医学を伝えた。日本で初めて基礎的な科目から医学を教え、現在の長崎大学医学部である伝習所付属の西洋式の病院も作った。また、患者の身分にかかわらず診療を行ったことでも知られている。日本には1862年(文久2年)まで滞在し、その後はオランダに戻った。後年、日本での生活を振り返って「夢のようであった」と発言している。
長崎奉行所西役所医学伝習所において医学伝習を開始した1857年11月12日(安政4年9月26日)は、近代西洋医学教育発祥の日であり、現在長崎大学医学部の開学記念日とされている。
ポンペは長崎海軍伝習所の第二次派遣教官団であったカッテンディーケに選任され、松本良順の奔走により作られた医学伝習所で、教授として日本初の系統だった医学を教えることになった。彼の元で、明治維新後初代陸軍軍医総監となった松本良順を始めとして、司馬凌海、岩佐純、長与専斎、佐藤尚中、関寛斎、佐々木東洋、入澤恭平など、近代西洋医学の定着に大きな役割を果たした面々が学んだ。
1855年(安政元年)に第一次海軍伝習の教師団が来日し、軍医のヤン・カレル・ファン・デン・ブルークが科学を教えたが、この授業はまだ断片的なものであった。この時、筑前藩の河野禎造は、オランダ語の化学書である『舎密便覧』を表している。 その後、1857年(安政3年)に第二次海軍伝習によりポンペが来日し、松本良順の奔走により医学伝習所ができ、ポンペはその土台となる基礎科学から一人で教え始める。1857年11月12日のことで、長崎大学医学部はこの日を創立記念日としている。この時は長崎の西役所内で、松本良順と弟子12名に初講義を行った。後に学生の数が増えたため、西役所から、大村町の高島秋帆邸に教室を移した。 ポンペは物理学、化学、解剖学、生理学、病理学といった医学関連科目をすべて教えた。これはポンペがユトレヒト陸軍軍医学校で学んだ医学そのままで、その内容は臨床的かつ実学的だった。最初は言葉の問題も大きかったが、後になると授業は8時間にも及ぶようになった。また、日本初の死体解剖実習を行った。1859年(安政6年)には人体解剖を行い、このときにはシーボルトの娘・楠本イネら46名の学生が参加した。解剖が許可される以前は、キュンストレーキという模型を用いた。1860年(万延元年)には海軍伝習が終了するが、ポンペは残った。ポンペは1862年11月1日(文久2年9月10日)に日本を離れるまでの5年間、61名に対して卒業証書を出している。また教育の傍ら治療も行い、その数は14,530人といわれている。オランダへ戻ってからは開業し、赤十字にも関与した
1857年(安政4年)末には公開種痘を開始した。1858年(安政5年)に長崎市中で蔓延したコレラの治療に多大な功績を挙げた。また、1861年(文久元年)、長崎に124のベッドを持った日本で初めての近代西洋医学教育病院である「小島養生所」が建立された。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、きわめて民主的なものであった。日本において民主主義的な制度が初めて採り入れられたのは、医療の場であったともいえる。他にもポンペは、遊郭丸山の遊女の梅毒の検査も行っている。 後に松本良順が江戸へ戻り、ポンペに学んだ医学を大いに広め、順天堂の講義が充実したといわれる。良順はまた西洋医学所の頭取となるが、奥医師はポンペ直伝の西洋医学を西洋かぶれと不快がった。しかし伊東玄朴の失脚により、良順は奥医師のリーダー的存在となる。またポンペの保健衛生思想に共感を覚え、その後、新選組の屯所の住環境改善にそれを役立てた。
後年、明治に入って、森鴎外がヨーロッパに留学中に赤十字の国際会議でポンペに出会い、日本時代の感想を聞いた時、「日本でやったことは、ほとんど夢のようであった」と語っている。晩年は牡蠣の養殖にも手を出したといわれる。ポンペの噂を聞きつけた緒方洪庵が、適塾の学生であった長与専斎をポンペのもとに送り込んだことからしても、その当時最新の医学教育であったことがわかる。 現在長崎大学医学部にはポンペ会館と良順会館が設立されている。
ポンペが医学を学んだユトレヒト陸軍軍医学校は、フランスによるオランダ支配当時、ライデンの陸軍病院付属という形でて建てられ、その後フランスの支配が終わってからも教育が続けられた。ユトレヒト大学医学部との関係を築きながら教育が行われ、軍や植民地への医官を養成するものだった。1850年代はその最盛期で、幕末維新に来日したオランダ人医師のかなりの人数がここの卒業生であった。また、ユトレヒト大学の化学の水準は高く、緊密な関係にあった陸軍軍医学校経由で、日本に高いレベルの化学がもたらされたといわれる。明治7年(1874年)医制が制定されて医師の養成は大学のみにて行われることとなり、翌明治8年(1875年)に廃校となる。現在、この学校の建物はホテルとなっている。
ポンペは湿板写真の研究についても熱心であった。当時、長崎でポンペについて科学を勉強していた上野彦馬も共に写真の研究に着手した。感光板に必要な純度の高いアルコールには、ポンペが分けてくれたジュネパ(ジン)を使った。 
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我が国に西洋医学を伝えた人としては、幕末のオランダ商館医シーボルト(1796−1866)、ボードウィン(1820−1885)、維新後の東京医学校教授ベルツ(1849−1913)など多くが挙げられるが、ポンぺ・ファン・メーデルフォールト(1829−1908)もその一人である。
ポンペはオランダ陸軍士官の子として南オランダで生まれた。17才でウトレヒト陸軍軍医学校に入学、1849年に卒業して三等軍医となり東インド、ニューギニア、スマトラに勤務する。1855年に陸軍外科試験に合格して二等軍医となり、第2次長崎海軍伝習隊の医員に選抜される。
カッテンデーケ伝習隊長らと共に1857年に長崎に来たポンペは、前任のオランダ商館医の帰国に伴って、オランダ商館医と第2次長崎海軍伝習所教官を兼務する。更に幕府の依頼で医学伝習所が開設され、医学校教官も兼務することとなる。ちなみにカッテンデーケはその後オランダ海軍大臣になり、オランダ留学した榎本武揚や赤松則良らが世話になっている。
医学伝習所は、海軍伝習所と同じく長崎奉行所西役所に設けられた。伝習生は松本良順ら14名。当初はオランダ語を理解できるのは良順のみで、オランダ通詞も医学用語に精通しておらず、苦難のスタートであった。講座は午前と午後の1回ずつで、物理学・化学の基礎から、病理学総論・病理治療学、生理学総論、内科学、外科学、眼科学、更には解剖学、包帯学、調剤学、法医学、医事法制まで及ぶ幅広い教育が展開された。
学生が増えて手狭になった医学伝習所は長崎町年寄高島秋帆の屋敷を借り受けて大村町に移転し、更に病院建設を幕府に依頼して1861年に長崎養生所が設立された。
養生所は病院と医学所からなり、病院は病棟2棟(8室)、手術室(4室)、隔離患者室、運動室(リハビリ用)、当直医室、料理室、薬品・機械類・図書・備品室、浴室などの設備があり、医学所は教室、ポンペ在勤室、寄宿舎があった。これが我が国臨床医学の始まりである。基礎医学と臨床医学を教える長崎養生所は1868年に長崎府医学校、1871年に長崎医学校となり、長崎医科大学を経て長崎大学医学部へと継承されている。
医学伝習所は松本良順、司馬凌海、山口舜海(佐藤尚中)、長与専斎など明治初期の西洋医学者を育成している。
松本良順は佐倉順天堂の佐藤泰然の次男として生まれ、幕医松本良甫の養子となり、長崎でポンペに西洋医学を学んだ。1861年に養生所が設立されると良順が頭取を務めた。1862年にポンペが帰国する時には医学生は60人以上に達していた。1863年に江戸に戻って幕府の西洋医学所頭取となり、戊辰戦争では会津城内に病院を開設して負傷者の治療にあたった。維新政府に投獄されるが、やがて維新政府の軍医に復活して初代軍医総監となる。
長与専斎は大村藩の出身で、大坂の緒方洪庵の適塾で学び、洪庵の勧めで長崎に留学してポンペの医学伝習所で学んだ。良順の後を受けて長崎医学校校長となり、維新政府では岩倉使節団に加わって欧米の医事制度を調査し、帰国後は東京医学校長や内務省衛生局長などを歴任した。
山口舜海は小見川藩医山口甫僊の次男として1827年に生まれ、江戸で蘭方医学を学ぶ。佐藤泰然の順天堂で学んだ後、長崎の医学伝習所でポンペの指導を受ける。江戸に戻り、佐藤泰然の養子佐藤尚中となり、1869年に大学東校(後の東京大学医学部)初代校長となり、1875年に湯島に順天堂病院を開設して初代院長となる。
司馬凌海は1840年佐渡の生まれ、江戸へ出て幕府医官松本良甫、良順にオランダ語と蘭方医学を学び、良順に同行して医学伝習所で学ぶ。その後、東京医学校教授、愛知医学校(後の名古屋大学医学部)教授などを務めるが、40才の若さで亡くなっている。  
「日本に初めて医学校を建てた人」 ポンペ
私は闘病生活のなかで読書に明け暮れた。年が明けて大雪が降った翌日に退院した。入院している間に様々なことを考えさせられた。病に怯える人、苦痛に苛まれる人。病苦を癒し、手術を施行する医師。この数カ月の間、多くの患者さんとの出会いもあった。糖尿病で両足を切断した人もいた。リハビリを受ける多くの姿を見てきた。ノロウイルス、インフルエンザが流行すると看護士たちは徹底した消毒体制をとった。細菌ウイルスの知識があればこそ対策もできる。私が病床で手にした書は司馬遼太郎の「胡蝶の夢」だった。江戸末期の蘭学・蘭方医、松本良順の生涯を描いた歴史長編である。
長崎を舞台に日本に病院の在り方を初めて伝えた人がいる。オランダのポンペという軍医である。もちろん、シーベルト先生の恩恵は深い。シーボルトに継ぐ存在として、ポンペというオランダの青年医師と松本良順とが出会うことで、西欧市民社会に育った科学精神が、科学としての医学システムとして日本に齎された。勝海舟の名と共に語られる海軍伝習所の名は記憶に残る。そこから派生した医学伝習所を出発点として、医学伝習所の建設、講義、学習が、おそらく日本医学を志す者には忘れてはならないだろう。司馬遼太郎は緒方洪庵の適塾に関する情報と知識が最初の手掛かりであったと思われるが、「胡蝶の夢」を描く背景の日本の医学発達史、漢方医と蘭学医の抗争、徳川幕府藩体制の医療制度、医者の社会的地位と幕府内の身分制など、その膨大な知識に驚かされる。
松本良順に一人の弟子がいる。佐渡に生まれた異才・島倉伊之助(司馬凌海)である。日本医学史のなかに伊之助の名を思い浮かべることが出来ないが…… ところが、伊之助は日本医学史に多大な功績を残している。「七新薬」という蘭方の医書を刊行している。伊之助は幼くして抜群の記憶の持ち主であり、祖父はその孫の伊之助に期待をかけて江戸に連れ出し、やがて、佐倉の佐藤泰然(順天堂の創始者)の許に弟子入りさせる。佐藤泰然は松本良順の実父にあたる。伊之助は記憶力において異能の才を持ち、蘭、英、仏、独、ギリシア、ラテン、中国と、いくつもの語学をたちどころにマスターする天才でありながら、本来、性格的には人間失格者であった。人間関係における配慮に全く欠け、医者としての技能を身につけることも全く出来なかった。そのために、あらゆる周囲の人間から嫌悪され、仲間外れにされた。ポンペを始め、医学伝習所の仲間は悉く伊之助を嫌い、彼を排訴した。その例外は良順と関寛斎の二人である。この二人とつながることで世間につながることができたのである。
もう一人の関寛斎とはどういう人物であったか。関寛斎は、逆に爽やかな風が吹き抜けるような人物である。千葉・銚子在の平凡な農家にうまれ、佐倉の順天堂で良順の実父の佐藤泰然に学び、順天堂開塾以来の秀才といわれた。泰然が寛斎の学資の乏しさをあわれんで援助したため、寛斎が生涯泰然を神棚に祭ってひそかに感謝しつづけたという。苦学して長崎に学び、良順、伊之助と共に蘭学吸収の中心人物となる。のち、阿波蜂須賀藩に抱えられ、戊辰戦争では、良順が新撰組に殉じて幕軍に投ずるのとは逆に官軍に従軍して野戦病院の院長としてつとめ、西郷隆盛からその名医ぶりを感嘆されたという。対曲線を描くような数奇な運命をたどり、さらに維新後、家屋敷を売り払って北海道に移住、開拓者として生き、八三歳で自殺。晩年は徳富蘆花と親しかった。寛斎の風韻については「みみずのたはごと」にその横顔を描かれている飄々たる老人こそ、関寛斉である。
江戸の身分制社会を崩すのは蘭学というメスであった。むろん蘭学だけではない。それに後続する幾重もの波のために洗い崩されていくのだが、蘭学も小さな穴ではあるが、引き金の作用をなしたことはいうまでもない。
蘭学――医学、工学、兵学、航海学……といった技術書の叙述に本質的に融けこんでいるオランダの市民社会のにおいから、それを学ぶ者はまぬがれることはできなかった。漢学者や漢方医、または諸技芸の宗家が物事を秘伝にしたがるのに対し、おなじ社会にいながら蘭学者は多分に書生じみていたし、さらに学んだものはすぐに本にして世間に公開する(「解体新書」がその好例であり、また、伊之助が「七新薬」を刊行したように)西洋式のやり方が早くからごく自然におこなわれていた。江戸末期の現象として幕府の重要機関が「蘭学化」することによって身分社会は大きく崩れることになった。一つの秩序「身分社会」が崩壊する時、それを崩壊させる外的な要因が内部にくりこまれ、伝統秩序のなかで白熱するという物理的な現象が、人間の社会にも起こりうることも、司馬遼太郎は見ておきたいと、述べておられる。良順にせよ、伊之助にせよ、関寛斎にせよ、あるいはかれらと一時期長崎で一緒だった勝海舟にせよ、夢中でオランンダ文字を習っているこのグループがのちのやってくる社会の知的な祖であることはまちがいないが、しかしそのほとんど無意識的というべきかれらの営為が、のちの社会にとってどれほどプラスであったかということになると、まことに混沌としていまなお未分というほかない。
ポンペが、良順と提携し、西役所(海軍伝習所)の一室で正規の医学を開講したのは、安政四年(1857年11月12日)である。日本にとって歴史的な日になる。物理学、科学、繃帯学(ほうたい)、系統解剖学、組織学、生理学総論及び各論、病理学総論及び病理治療学、調剤学、内科学及び外科学、眼科学。このほか、年限に余裕があれば、法医学、および医事法制、それに産科学を加えるというもので、いずれにせよこれだけの内容のものを、ただひとりで講義しようと思い立ったポンペという男も、人間としてふしぎな人物というほかない。おそらく世界の近代医学史のなかで、医科大学の予科から本科にかけ、すべての学科を一人で講義した人物というのは、ポンペ以外になく、今後も出ないに相違ない。ポンペは、学問の上での天才でも何でもなかった。しかもその母校のユトレヒト大学医学部では長期間のコースを経たわけでもなく、やや短期の植民地医官養成過程とでもいうべきコースを経たにすぎない。ただ篤実な学生であった証拠に、ノートだけは綿密にとっていた。講義の教材はこのノートだけだった。二八歳の医師が言語も通じない東洋人たちにいかに懸命に自分の学問を教えようとし、また教えたかったか、については、帰国後のかれが、一種虚脱に似たような印象の後半生を送ったことから推察できる。ポンペにとってもっとも困難だったのは、教科書がないことだった。かれはこのため、前夜遅くまで簡単な講義要領を書くことに忙殺された。その講義要領を松本良順にわたすことからはじめた。「物理学とは、物体の力学的運動および熱、光、あるいは電気・磁気現象をきわめる学問である」というかれの最初のことばは、良順と伊之助によって正確にノートにとられた。他の学生は、ぼうぜんとポンペの口元をみつめているしかない。講義の時間が終わるとかれらは良順と伊之助のもとにあつまり、そのノートを筆写した。学生たちが内容を理解するためには、あと三時間も四時間もかかった。ポンペの授業はこんなふうにして進められていった。「これらの学生がその日頃に示した熱心さには私は忸怩たらしめるものがあった」(ポンペの回想録)学生たちは物狂いしたかのように、不可解な言語と講義内容に挑んだ。このポンペの開講のニュースは、たちまち日本中の蘭学塾に伝わった。たとえば緒方洪庵の反応がある。洪庵は大坂で古くから適塾をひらき、日本の蘭学および蘭方医学教育の最大の草分けという評価を得てきたが、ポンペの開講をきき、自分がやってきた蘭学教育の歴史的使命はおわった、とした。さらに洪庵は嫡子の平三(のちの惟準)も良順に託してポンペの講義をうけさせている。「日本流の蘭方医学に時代はおわった」とし、いわば自らを洪庵は否定したのだが、このことはむしろ洪庵という人間を知る上で大きな課題といってよい。
ポンペは異能というほかない。物理、科学から医学全般を一人で教えるというかれの「奇蹟」の種はユレヒト大学時代のノートだけというから驚く。良順は「日本の蘭学は不幸だ」と、つねづねいう。文献ばかりでヨーロッパ文明の諸科学を想像せねばならないために誤解が多い。良順のこの言葉の背景には絶えざるおびえがある。江戸の幕閣は、長崎の海軍伝習所や医学伝習所に期待をもっていない。潰せという意見もたえずあって、それがときどき長崎にきこえてくる。良順のこの言葉は、医学というものは書物だけではわからない。目と耳と手を総動員して身につけねばならないが、そういう施設は日本では長崎のポンペの伝習所だけだ、ということを認識してほしい、という思いがこめられている。ポンペは「日本の長崎に、ヨーロッパなみの病院を建てたい」と思いさだめていた。そのころの日本の現実からいえば驚天動地ともいうべき発想であった。オランダの市民社会で成立した病院は、病人を病人としてのみ見る。原則として、病人の身分の高下や貧富は、病院の門を入ればいっさいその優性、劣性の効力をうしなう。良順はポンペからこの話をきかされて、夢のような感じを持った。いかにオランダでも、病院と社会の関係はかならずしもポンペが言うほどにきれいなものではなかったが、良順はそれを至純なものとして受け取った。(日本はちがう)と、良順は思った。江戸体制は身分制で成立しており、医師にも大別して四段階ほどの身分があり、医師たちは自分の所属する身分ごとにそれに見合った身分の患者を診るのである。(オランダの医療制度こそ理想だ)と、良順は思った。ポンペのいうオランダの病院を長崎に持ってくることが、自分の使命だと思うようになった。
ポンペの病院の思想や構想は、オランダの歴史や現実の所産を日本の封建社会に持ち込むのはどうだろう。おそらく支配層の反発がおこるにちがいないが、ポンペにはそういう予測にはいたって鈍感であった。ポンペは病院について、精密な構想を持っていた。ただし建築についてはポンペは素人であったから、自分の同僚の海軍教師団の次席挌である一等尉官ファン・トローエンに相談した。トローエンは建築については専門家なみの造詣をもっていたし、図面も引くことができた。なによりもこの仕事を楽しんでくれて、たとえば窓の配置ひとつも、紙が真黒になるほど線をひきたくってポンペをうんざりさせるほどだった。
ポンペの病院構想は、通風に関してはじつにやかましかった。たとえば病院の庭園の一部は通風のために開豁にしておき、高い木は植えず、灌木、芝生にとどめねばならない、というほどであった。通風のために病院の構屋のかたちはH状をよしとし、そのH状の開口部は風のくる方向に向かせ、屋内のタテ廊下にたえず風が吹き通るようにする。ポンペは長崎での風は南北に吹くことが常であると見、建物は南北に開口せねばならぬという要求をもっていた。屋内での空気をつねに清潔にするために、外壁に四角い孔をうがち、ガラス障子を入れておく。また病室や廊下の窓は、相対してはいけない、とポンペはトローエンに注文した。相対すれば入ってきた風があらあらしくなるだけでなく、どこかの隅角に空気の淀みをつくってしまう。病院は二階だてである。その二階の天井のなかほどに円窓をつくってほしい、とポンペはトローエンにたのんだ。「その円窓は適宜、開閉できるようにおねがいしたい」トローエンは、病院建築についてずいぶん考えてみたつもりだったが、円窓までは思い至らず、「それは何を目的としておりますか」と、質問した。「上方へ騰っていく温かい湿気を抜くためです」とポンペは答えた。一八二九年うまれのポンペは、このときすでに三十をこしていた。二十歳で卒業したユトレヒト大学の医学部にはあるいは病院建築に関する講義があったのかもしれないが、それにしてもこの見識は尋常のものではない。ポンペの構想はほぼ実現する。「病院を設置する場所は、入念に選択する必要がある」市中は空気がわるいからよくないが、かといってあまり田舎でもいけない。長崎市街の郊外がいい。病院は良質の水を多量につかうために水の便のいい所でなければならないが、かといって低湿の沼沢地は避けねばならない。また風通しがいいという点で、小さな丘陵の上をもっともよしとする、ポンペは言い、良順に半ば命令のようにいった。
幕府がこのポンペの構想を許すかどうか、不可能にちかいと思った。(たれのためでもない、この日本に住んでいる人間たちのためではないか)良順は、日本人でもなく、さらに数年すれば本国へ帰るポンペが、これほどまでに熱心に、このことを実現させようとしているのに、日本の医者である自分が奮い立たなければどうなるか。良順のこの決意が、迂世曲折を経て、日本初めての病院建設となる。
【松本良順】 (天保三年、下総佐倉藩医師佐藤泰然の次男として生まれ、のちに泰然の親友である幕府寄合医師松本良甫の養子となる) 安政四年、第二次海軍伝習に、オランダが軍医を派遣することを聞いた良順は、第一次海軍伝習の伝習所総督を勤めた後、第二次海軍伝習生を集めていた永井尚志を説得し、伝習生附御用医として長崎に向かう。この時、弟子の島倉伊之助(司馬凌海)を伴う。良順は長崎で、オランダ軍医ポンペ(1829〜1908)について学び、当時の日本人としては、もっとも本格的な西洋医学を修めた。ポンペの医学校建設の志に共鳴した良順は、まず医学伝習を海軍伝習から独立させるよう努力した。そのころ蘭医学は禁じられていたので、他藩からの医師は良順の弟子ということにしてポンペの講義を受けた。(1857年11月)ポンペは長崎奉行所西役所の一室で松本良順とその弟子たちに最初の講義を行ない、島倉伊之助がその天才的語学力でポンぺの講義を書きとめ、他の弟子達はそれを見せてもらい学んだ。次第に多くの弟子が集まり、手狭となった西役所の一室から大村町の元高島秋帆宅に移った時、良順は病院を付置した医学校建設を決意する。この当時の長崎奉行岡部駿河守長常はポンペと良順に好意的で医学校建設に助力を惜しまなかった。1859年、井伊大老から突然、オランダ人海軍伝習教官の帰国命令が出されたとき、良順は岡部駿河守と共に医学伝習の存続に骨を折り、ポンペは残留する。1861年9月養生所が完成、良順はその頭取となる。1862年ポンペは63名に卒業証書を渡した後に帰国した。1863年、良順は江戸に帰り、西洋医学所頭取となったが、医学校で兵書を読む学生が多いのに憤慨して医学書のみを読むべしと、兵書と文法書講義の禁令を出したところ、攘夷熱に冒された医学生のごうごうたる非難を受けた。前頭取の緒方洪庵の学風は蘭学を広い分野に応用することを認めたが、良順の学風は医業専一であった。1866年、幕府軍は長州征伐で敗退、この時、良順は大阪城で病む将軍家茂を治療してその臨終を看取る。幕府の海陸軍医制を編成し総取締になり、戊辰戦争では会津城内に野戦病院を開設し会津藩の医師らとともに負傷者の治療にあたる。幕府方についたため投獄されたが、のちに兵部省に出仕し、山県有朋の要請により陸軍軍医部を設立し、初代軍医総監となる。勅撰により貴族院議員となり、男爵に叙される。1911年に逝去。享年七十六歳。
【ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト】 (Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829年5月5日、ブルッヘ―1908年10月7日、ブリュッセル)は、オランダ海軍の軍医。ユトレヒト陸軍軍医学校で医学を学び軍医となった。幕末に来日し、オランダ医学を伝えた。長崎奉行所西役所医学伝習所において医学伝習を開始した安政4年11月12日(1857年12月27日)は、近代西洋医学教育発祥の日であり、現在長崎大学医学部の開学記念日(旧暦の日付を新暦で採用)とされている。長崎海軍伝習所の第二次指揮官であったカッテンディーケに選任され、医学教授として日本で雇用された。彼の元で、明治維新後初代陸軍軍医総監となった松本良順を始めとして、司馬凌海、岩佐純、長与専斎、佐藤尚中、関寛斎、佐々木東洋、入澤恭平など、近代西洋医学の定着に大きな役割を果たした面々が学んだ。ポンペは文久二年十一月一日(1862年12月21日)に日本を離れるまでの5年間、科学の基礎知識もない学生達に一人で医学全般を教え、61名に対して修了証書を出している。また教育の傍ら治療も行い、その数は14,530人といわれている。特に安政五年(1858年)に長崎市中で蔓延したコレラの治療と予防には多大な功績を挙げた。さらに天然痘の予防にも尽力し、牛痘苗を大量に作成して、全国に流布した。安政六年(1859年)には人体解剖を行い、このときにはシーボルトの娘・楠本イネら46名の学生が参加した。ポンペの尽力もあり、文久元年(1861年)長崎に、124のベッドを持った日本で初めての近代西洋医学教育病院である「小島養生所」が建立された。松本が頭取、ポンペが教頭であった。彼の長崎時代に残した言葉が、長崎大学医学部に銘板として残されている。
「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」
【長崎大学医学部】 1857年オランダ海軍軍医ポンペと松本良順によって開設された長崎奉行所西役所医学伝習所にまで遡ることができる。長崎大学医学部の創立記念日である11月12日はポンペが松本良順とその弟子達12名に最初の医学講義を行なった日を記念している。1861年には彼らの熱意により長崎港を見おろす小島郷の丘に西洋式の病院で医学校である小島養生所が完成し、ここで多くの日本人医学生に対して系統講義とベッドサイドティーチングが行われた。ポンペは貧富や身分の差別なく患者の治療にあたったことから当時の人々からは驚きをもって迎えられた。そして彼が説いた「医師は自分自身のものではなく病める人のものである。」という言葉は校是となっている。
ポンペは1867年、「Vijf Jaren in Japan」(日本における五年間)を発刊。当時の日本の政治、社会、文化、医療、自身の暮らしを詳述しており学術的にも極めて貴重な資料である(「ポンペ日本滞在見聞記」沼田次郎、荒瀬進=共訳、昭和43年)。ポンペはその序文に「日本はまさに危険な立場に立っている。しかしながら彼ら日本人は実際立派な意志と尊敬すべき決意をもって進歩の道を辿り続ける気迫を今日なお失っていない。そのためには幕府はすみやかにまた強力にたえず改革を行わなければならない。こうすることによってはじめて幕府も,西欧諸国に対して無理に日本が開放されたことを恨む必要もなくなることと確信している」と記し、1853年のペリー来航に揺れた幕府へ進言している。帰国後の1887年、ポンペは第四回万国赤十字会議の蘭国代表として参加、日本の加盟を援助している。ポンペが日本に残したのは、脈々と朽ちることのない社会に資する人材であった。ポンペの薫陶を受けた医学伝習生は全国に散り、明治維新の医政と日本医薬学を牽引し今日に至っている。ポンペは日本薬学会の祖といっても過言ではない。 
シーボルトの娘・楠本イネ
文政10年(1827)〜明治36年(1903) 日本人初の女性で西洋医学を学んだ産科医。
オランダ商館医であった「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」の娘である。「楠本」は母・楠本瀧の姓。
母の瀧(お滝)は、商家の娘であったが、当時、出島へ入る事が出来た女人は遊女に限られており、丸山町遊女で源氏名「其扇」として出島に出入りし、シーボルトとの間にイネを産む。イネの出生地は長崎銅座町とされており、シーボルト国外追放まで、出島で居を持った。当時の出島での家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。父シーボルトは文政11年(1828年)、国禁となる日本地図や数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。
イネは、シーボルト門下の宇和島藩の二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。安政6年からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、文久2年からはポンペの後任アントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、大村を看護し、その最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。父シーボルトは、長崎・鳴滝に住居を構え昔の門人や娘・イネと交流し日本研究を続け、1861年幕府に招かれ外交顧問に就き江戸でヨーロッパの学問なども講義している。 この間、シーボルトは家政婦として母お滝・イネが雇ったシオとの間に子をもうけ、イネを深く失望させる。
ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、混血児であったゆえの差別を受けながらも宇和島藩主伊達宗城から厚遇された。「失本イネ」という名を楠本伊篤と改める。失本とは、父シーボルトの名を漢字に当てたものであった。明治4年(1871)異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福沢諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会うなど、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリッヒとその妻・岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した。明治8年(1875)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖、郷里・長崎に帰郷する。
明治17年(1884)医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、以後は産婆として開業する。62歳の時、娘高子一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリッヒの世話となり余生を送った。1903年、鰻と西瓜の食べ合せによる食中毒のため東京の麻布で亡くなる。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。イネは生涯独身だったが、石井宗謙との間に、娘の楠本高子(タダ)がいる。楠本高子の懐妊は、石井宗謙にレイプされたためのものである。彼女は師事していた石井宗謙に深く失望し、一人出産し、生まれてきた私生児を「ただの一度で出来た子・タダ」と名付けた。後年、タダは宇和島藩主伊達宗城により、改名を指示され「高」と名乗る。  
開陽丸と榎本武揚 / 徳川幕府の最新軍艦・開陽丸が横浜に到着
慶応3年3月26日(1867年4月30日)、徳川幕府がオランダに発注していた最新の軍艦開陽丸が横浜に到着しました。旧幕府海軍を率いる榎本艦隊の旗艦として活躍したことで知られます。
欧米列強の外圧を受ける中、幕府は文久2年(1862)、諸外国の軍艦に劣らない性能の軍艦の新造をオランダに発注しました。「最新の設計・設備を施し、蒸気機関推進で大砲は20門以上装備、排水量は3000t未満」という条件であったといわれます。
同年、幕府は15人の留学生をオランダに派遣し、操船や戦闘に関する知識、国際法、医学などを学ばせることにしました。そのメンバーには榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門、赤松大三郎、西周助、津田真一郎、林研海らが含まれています。
またこれら留学生の面倒をみたのは、かつて長崎海軍伝習所で教官を務めたカッテンディーケ海軍大佐(ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ)とメーデルフォールト軍医(ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト)でした。伝習所出身の者たちは再会を喜んだことでしょう。 建造はオランダのドルトレヒトにあるヒップス・エン・ゾーネン造船所で行なわれました。また備砲は、当時世界最高といわれたドイツのクルップ砲を採用。 艦名は幕府より留学生たちに考案が命じられ、榎本が考案した夜明け前という意味の「開陽(Voor lihter)」に決まったといわれます。
開陽が完成したのは慶応2年(1866)の6月。排水量2590t、最大長72.8m、400馬力の蒸気機関1基を備え、速力10ノット、大砲26門(うち18門は16cmクルップ砲)、後に9門追加、クルップ砲の海上試射距離は3900mで、オランダ海軍大尉ディノーは「オランダ海軍にも開陽に勝てる軍艦はない」と語りました。 開陽は慶応2年12月1日、日本に向けてオランダのブリッシンゲンを出航します。ディノー艦長以下109人の乗組員と、榎本、沢ら9人の留学生が乗り組んでいました。 開陽は大西洋を南下し、ブラジルのリオデジャネイロに寄った後、アフリカ南端を経てインド洋を渡ります。2月には11人の病人を出しながらも、3月29日にはジャワのアンボイナ(アンボン)に到着。補給後、4月30日(慶応3年3月26日)に横浜に入港、150日間の航海でした。 開陽と榎本たちを出迎えたのは、幕府軍艦奉行の勝海舟らでした。勝の計らいで榎本は軍艦頭並、沢は軍艦役並に任じられます。開陽は堂々たる幕府艦隊の旗艦となりました。
しかしその僅か半年後、京都で大政奉還が行なわれ、徳川幕府は瓦解します。当時、開陽は江戸湾にありましたが、江戸で乱暴狼藉を働いた薩摩の手の者が、薩摩藩の翔鳳丸に乗って江戸を脱出すると、開陽はこれを大坂まで追って攻撃を仕掛けましたが、逃げられました。 やむなく開陽が大坂湾に碇泊していたところ、鳥羽伏見の戦いが勃発。開陽は阿波沖で薩摩の翔鳳丸を攻撃して座礁させました。
しかし艦長の榎本武揚が大坂城に赴いている中、形勢不利と見た前将軍徳川慶喜が夜陰に乗じて乗り込み、副艦長の沢に命じて江戸へと向かわせました。旧幕府軍将兵を戦場に置き去りにしての将軍の逃亡劇に開陽は使われたのです。 別の船で品川に戻った榎本は、海軍副総裁に就任。4月に江戸無血開城が決まりますが、榎本は幕府艦隊の新政府への譲渡を拒否し、8月19日、開陽を旗艦とする回天、蟠竜、千代田形と4隻の輸送船を率いて品川沖を脱走します。榎本が総司令官を務めるこの艦隊は、榎本艦隊とも呼ばれました。
8月末に仙台に着いた艦隊は、会津方面で戦っていた旧幕府軍などを艦隊に乗せ、10月に仙台を出航。目指すのは北の蝦夷地でした。10月20日に蝦夷地鷲ノ木沖に到達した榎本艦隊は、将兵を上陸させ、箱館戦争が始まることになります。
5日後に旧幕府軍が箱館市街と五稜郭を制圧すると、開陽は箱館港に入って祝砲を撃ちました。榎本は選挙で、蝦夷共和国総裁に選出されることになります。 続いて旧幕府軍は西の松前城を攻略、さらに北の江差に向かいました。開陽もその掩護のため、11月11日に箱館を出航して江差沖に向かい、14日より海上から艦砲射撃を浴びせます。 しかし松前兵はすでに逃亡しており、榎本は最低限の乗組員を艦に残して上陸、江差を占領しました。
ところが翌15日夜半より強風に見舞われ、開陽は堅い岩盤に碇が利かず座礁。 艦を預かる機関長の中島三郎助は、片舷の大砲を斉射してその反動で座礁から脱することを試みますがうまくいかず、開陽は榎本が陸上から悔しがる中、海中に没しました。
当時、世界最新鋭の開陽を失ったことは、幕府艦隊と新政府艦隊のパワーバランスを大いに変え、幕府艦隊は一転して劣勢に立たされることになります。ある意味、開陽の喪失が箱館戦争の流れを決したといってもよく、その運用が惜しまれるところです。
 
ヘンリー・フォールズ 

 

Henry Faulds (1843〜1930)
英スコットランドの宣教師・医師。1868年グラスゴー大学を卒業、アンダーソンカレッジで医学を学び医師となった。1871年長老派スコットランド教会の医療宣教師としてインドに渡り、その後1873年医療伝道団の一員として来日。当時外国人の居留地だった築地に居を構え、築地病院(後の聖路加病院:日野原先生で有名)を建て、布教と外科・眼科診療に当たった。また、目の不自由な人のための支援や医学を学ぶ学生を指導するなど1886年に帰国するまで12年もの間、幅広い活動をした。フォールズは、日本人が本人の証明のために証文などに拇印を押す習慣に興味を示し、またモース博士の大森貝塚発掘の手伝いをした時に出土した縄文土器の表面に付いていた「指紋」から「土器の作者を特定出来るのでは?」と指紋の研究を始めた。数千の指紋を集め、指紋は個人によってすべて異なること、除去しても再生すること、成長しても変わらないことなどを確認、1880年10月、英国の科学雑誌「ネイチャー」に日本から科学的指紋法に関する論文を投稿、指紋による犯罪者の個人識別の可能性を発表した。フォールズは帰国後にさらに本格的な研究を始め、弓状紋・蹄状紋・渦状紋など5つの基本パターンに分類し、また指紋の遺伝関係なども確認した。しかし彼の研究は、当初、指紋による犯罪者特定を否定しようとする上流階級の権威ある科学者ゴールトン(ダーウィンの従兄弟)の画策などによって無視されてしまった。ようやく1901年になってロンドン警視庁が「ヘンリー式指紋法」を全面的採用し、科学的犯罪捜査は飛躍的な進歩を遂げた。これは後に世界中に普及し、現在でもなお「個人の特定」「犯罪捜査」の基本であり有効な手段となっている。彼の日本での居住地跡には警視庁が建てた「指紋研究発祥の地 ヘンリー・フォールズ住居跡」の記念碑がある。 
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イギリスの医師、指紋研究者である。個人の識別に指紋を用いることができるという記事を1880年『ネイチャー』に発表した。指紋研究を誰が最初に行ったかについて、ウィリアム・ジェームズ・ハーシェル、フランシス・ゴールトンと争った。
スコットランドのビースに生まれた。父親の事業が破綻し、おじの商社で働きながら学んだ。グラスゴー大学を1868年に卒業、アンダーソンカレッジ(現:ストラススクライド大学(en))で医学を学び医師免許をえる。
1871年長老派のスコットランド一致長老教会の医療宣教師としてインドに渡る。
1873年一致長老教会の医療伝道団の一員として来日し、東京の築地病院で働き、治療とともに日本人医学生を指導した。日本で、エドワード・モースと親しくなり大森貝塚の発掘に参加した。発掘された土器に残された、古代人の指紋に興味を持ち、指紋の研究を始め、数千セットの指紋を集め、比較対照し、同一の指紋をもつもののないこと、物理的に除去したとしても再生すること、児童の指紋が成長によって変わらないことを確かめた。
1880年(明治13年)、その結果を知らせる手紙をチャールズ・ダーウィンに書くが、ダーウィンは手紙をいとこにあたるフランシス・ゴールトンに送った。返事のないまま『ネイチャー』に論文を投稿し掲載された。翌月ウィリアム・ジェームズ・ハーシェル(ウィリアム・ハーシェルの孫)が1860年頃インドの役人時代に契約書に指紋押捺させていた経緯を『ネイチャー』に発表した。
功績
○ 指紋による個人識別についてはフォールズの発表時には注目を集めなかったが、1892年に優生学、遺伝学の研究者ゴードンによる『指紋』の出版、インドの警視総監エドワード・ヘンリー、分類法を確立したアジズル・ハクの研究と1900年のヘンリーの『指紋の分類と使用法』の出版によって実用的なものとなっていった。
○ フォールズの業績については、エリート主義者のゴードンによって無視されることになった。さらにフォールズは指紋による誤認逮捕を恐れる立場から単指指紋を証拠として採用するのに反対する立場をとったため、スコットランド・ヤードとも対立した。ハーシェル、ゴートンと指紋研究における、フォールズの業績を争ったが、存命中はフォールズの業績は認められなかった。
○ 1987年に指紋検査官の協会がフォールズの墓を再建しその功績を顕彰した。
ヘンリー・フォールズ住居跡
ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で 英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843〜1930)が 明治7年(1874) から同19年(1886)に至る滞日中に居住した所である。
フォールズは スコットランド一致長老教会の宣教師として来日し キリスト教布教のかたわら 築地病院を開いて診療に従事し また日本人の有志とはかつて 盲人の保護教育にも尽力した。
彼はわが国でおこなわれていた指印の習慣に興味をもち たまたま 発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見し これに ヒントを得て ここではじめて科学的な指紋の研究を行った。
明治13年(1880)10月 英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した彼の 論文は 科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ その中で早くも 犯罪者の個人識別の経験を発表し また指紋の遺伝関係にも言及している。
明治44年(1911)4月1日 わが国の警察においてはじめて指紋法が採用 されてから満50年の今日 ここ ゆかりの地に記念碑を建立しその功績をたたえるものである。 
指紋鑑定の歴史
皮膚紋様の持つ特殊性を科学的に記録した最初の人はイギリスの「ネヘミア・グルー博士」と記されています。
グルー博士は英国王室協会の医科大学・特別研究員でした。1684年「指紋に関する研究報告」を英国学士院に、提出しました。
研究報告の内容は、汗口や表皮隆起線と、その配置について述べ指先と手の平の皮膚紋様描写図が示されていました。この研究報告が「指紋」に関する最初の研究とされています。
この報告後、多くの学者が指紋の研究を開始しました。そして、指紋科学という新しい科学が確立されていきました。
この指紋科学を実際に利用し、個人識別できないかと考えた科学者が現れました
そして、指紋実用化研究論文を、世界に向け最初に送り出した人こそ「ヘンリー・フォールズ先生」なのです。
フォールズ先生は、1874年(明治7年)にキリスト教の宣教師として、 日本に来日、医師でもあるフォールズ先生は現在の中央区明石町に「築地病院」を設立し、診療にあたりました。
また、フォールズ先生は、雑誌社を創立とともに、科学雑誌に論文を投稿する著名な科学者でも、ありました。
フォールズ先生は、当時の(明治中期)日本人が行っていた証文に爪印(拇印)を押す習慣に興味を示し大森貝塚の発掘を手伝った際、出土された縄文土器の表面に付いていた「指紋」から、「土器の作者を特定出来るのでは?」と、指紋の研究を進めました。
指紋から個人識別する研究の成果として、当時勤務していた病院の医療用アルコールを盗み飲みしていた学生の割り出しや、侵入窃盗の容疑者の疑いを晴らすのに役立ったというエピソードも残されています。
そして、続けられた研究の成果を、1880年世界的に権威のある科学誌「ネイチャー」に「指紋による科学的個人識別に関する研究論文」を投稿、世界に発表されました。
・・研究された、論文の内容は・・指紋は、身体の成長や歳月の経過よって自然変化を生じることなく「万人不同」 「終生不変」 であり、個人識別&個人特定の役に立つと発表されました。
・・・つまり・・・人の指紋は一生変化することはない。また、一卵性双生児であっても違う指紋である。だから指紋をみれば、誰かが分かる。
この研究論文に一早く関心を示したのが「イギリス警察」でした。
指紋の「不同性」と「不変性」についての理解は深まりましたが実用化にとっての大きな壁は、その複雑な紋様の分類方法でした。
そして、イギリス警察(スコットランド・ヤード)総監になったエドワード・ヘンリーなどによって、この壁も乗り越えられ、1901年、ロンドン警視庁による「ヘンリー式指紋法」の全面的採用が決定!
以降、個人識別の決定的な手段としての指紋の実用化は世界各国に急速に拡がることとなりました。
日本では、1908年(明治41年)司法省が監獄に指紋押捺の実施を訓令し、日本の行刑制度に指紋法が導入され、犯罪特定の切り札として利用される様になり、指紋検出の技術や指紋判別のシステム等も日々進化を続けています。 
 
ウイリアム・ウィリス 

 

WIlliam Willis (1837〜1894)
イギリス(北アイルランド)の医師。1862年イギリス公使館の医員として来日、約15年に渡って駐在し日本の医学の発展に大きく寄与した。来日直後に発生した生麦事件の被害者の治療や戊辰戦争に従軍し兵士たちの治療に当たる。鳥羽・伏見の戦の時は重傷を負った西郷隆盛の弟、西郷従道の治療に当った。その後は東大で教鞭に立ち、日本の臨床医学の発展と東大病院の創立に尽力した。後に西郷の縁で鹿児島医学校兼病院に移り治療と更新の育成に努めた。アーネスト・サトウとは親友。 
2
幕末から明治維新にかけて日本での医療活動に従事したイギリス人医師(医学博士)、お雇い外国人。
幕末維新に駐日英国公使館の外交官・医官として来日し、東京の初代副領事になった。生麦事件をはじめ幕末の歴史的重要事件で数多くの人命を救い、日本人医師に実地指導をして西洋医学を広め、戊辰戦争で敵味方の区別なく治療をして、日本に赤十字精神をもたらした。後に、新政府の要請で東京の医学校兼病院(東京大学医学部前身)や鹿児島医学校兼病院(鹿児島大学医学部前身)の創始者となり、日本の近代医学・医療の基礎を築き、発展に貢献した。西南戦争勃発で帰国。後に、イギリス外務省からバンコクの総領事館付医官に任命され、タイでも医学・医療の基礎を築き、発展に貢献した。
1837年、北アイルランドで生まれ、スコットランドのエディンバラ大学で医学を学んだ。
1862年、駐日英国公使館の外交官・医官として来日した。江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、第二次東禅寺事件に遭遇。生麦事件に遭遇した際、誰よりも先に現場に向かい、その後、英国人被害者の治療と殺害されたリチャードソンの検死を行った。
1863年、薩英戦争ではイギリス人負傷者の治療に当たった。
1864年、横浜で初めて出来た薬局(横浜ディスペンサリー)を元公使館医官ジェンキンズと共に開業した。予防医学において先駆的役割を果たした。幕府との覚書で国際疱瘡病院を設立した。イギリス公文書簡の中で予防接種を行った功績が高く評価された。下関戦争時、書記官兼務のためイギリス外務省への報告書で多忙をきわめた。
1866年、医官を務めるかたわら首席補佐官に昇進した(会計官兼務)。公使館業務の改善を行った。パークス公使や長崎の商人グラヴァ―らと共に鹿児島に招待された。生麦事件をおこした島津久光や西郷隆盛らと会見。下関・宇和島訪問にも同行。フランス国王の孫と会見し、江戸の名所を案内した。
1867年、パークス公使に随行して、15代将軍徳川慶喜に謁見するために大坂城へ出向いた。パークス夫妻と共に富士山に登頂。
1868年、江戸副領事・神奈川副領事に昇進。神戸事件に遭遇し、負傷者を救助して治療を行った。鳥羽・伏見の戦い勃発で、京都から送還されてきた会津藩の負傷兵の治療を大坂で行った。薩摩藩大山巌の要請で京都の薩摩藩臨時病院で西郷従道など負傷者の治療に当たった。この時、開国後初めて外国人として朝廷から京都滞在を許された。親友のアーネスト・サトウと共に薩摩藩主島津忠義や西郷隆盛、大久保利通らから歓迎のあいさつを受けた。ここでウィリスは数人の日本人医師を助手として、麻酔を使用し、多くの銃弾摘出や手術を行い、優れた西洋医学の知識を広め名声を博した。その後、京都の土佐藩邸で、重病に陥った前土佐藩主山内容堂の大出血していた肝臓の治療を行った。この時、丁度起きた堺事件の謝罪をミットフォードと共に各国の公使に伝達するよう山内容堂から依頼された。大坂副領事代理を兼任する。パークスに随行し、参内途中に攘夷派から襲撃を受け、負傷者及び暗殺者の治療に当たった。天皇が英国公使を紫宸殿に引見、ウィリス随行。 新政府の要請を受け、江戸城無血開城後の上野戦争(彰義隊討伐)などの戦傷者の治療に当たった。この時、ウィリスのために新政府軍は、横浜に軍陣病院(東大病院前身)を開設し、ウィリスは病院長として多くの医師達を指導した。 東北戦争に従軍する。北越戦線軍病院に出動。この時、官軍の総督、公家、大名らを説得して敵兵捕虜の虐殺を防ぎ、博愛精神に基づき、敵味方の区別なく治療すべきと強く主張して、官軍のみならず、旧幕府軍から会津藩兵に至る全ての負傷者の治療に当たり、日本に赤十字精神をもたらした。会津で住民のために食料や物資が支給されるよう尽力した。
1869年、 東京の副領事に復帰。戊辰戦争従軍後、天皇に謁見し、政府から感謝状、天皇から感謝の品が贈られた。新政府の要請で外交官の身分を持ったまま、31歳で東京医学校兼病院(東京大学医学部前身)の創始者となった。看護人として女子を採用。(東大病院看護婦の始まり)社会的地位を奪われた蘭方医や一部の政治家の思惑で、ドイツ医学に方針が変更。東京医学校兼病院長を退職した。
1870年、西郷隆盛 や医師石神良策 の招きに応え、イギリス外務省の副領事職を辞職して、鹿児島医学校兼病院(鹿児島大学医学部前身)の創始者となった。
1871年、鹿児島県士族江夏十郎の娘八重と結婚した(2年後に息子が誕生)。森有礼(文部大臣)からの要請で英語の発音指導に当たった。英国公使館書記官アダムズの訪問を受けた。アダムズは公式の覚書「ウィリス博士の鹿児島病院」のなかで、ウィリスが医学教育や患者の治療だけでなく、公衆衛生や予防医学にも力を入れ、食生活の改善や、一般教育などの分野でも多くの業績をあげている事を報告した。
1872年、明治天皇に拝謁した。
1874年、政府は台湾に3600名の兵を出兵させるが、数百名の兵士がマラリアの伝染病に感染し送還されてきたので、ウィリスが治療し快復させた。
1877年、西南戦争勃発で帰国するまでの15年間、日本の近代医学・医療の基礎を築き、発展に貢献した。
1885年、 イギリス外務省からバンコクの英国総領事館付医官に任命された。公衆病院をはじめ、バンコク市内に大規模な私立病院を創設し、国王ラーマ5世や王弟をはじめ、多くの患者の治療に当たり、チュラロンコーン王朝の全面的支援を受けて、王子の推挙により。王立医学校を設立した。
1892年、病気のために帰国するまでの8年間、タイの近代医学・医療の基礎を築き、発展に貢献した。
1893年、ケンブリッジ大学衛生学ディプロマを授与された。鹿児島の門下生らにより、頌徳記念碑が建立された。
1894年、故郷の北アイルランドで56歳の生涯を閉じた。イギリスの医学雑誌「ランセット」に追悼文が掲載された。
業績
ウィリスは講義と臨床実習を同時に行う重要性を説き、ベッドサイド・ティーチングを行った。また、医学の真の基礎は解剖学であるとし、病理解剖の必要性を説いた。日本初の妊産婦検診の実施。死肉食用禁止(衛生行政の始まり)。日本初の対緑内障虹彩切除。研修医制度の実施など。さらに、酪農を推奨し、上下水道、良質の水、暗渠排水の清潔な近代都市づくりなどを提唱し、各処に分院を新設した。 門下生に高木兼寛(東京慈恵会医科大学創始者、海軍軍医総監)、上村泉三、中山晋平、實吉安純(海軍軍医総監)、三田村忠国、藤田圭甫、加賀美光賢、石神良策、鳥丸一郎、永田利紀、東清輝、森山晶則、指宿圭三、河村豊州、高城慎、池田謙斉、石黒忠直、佐々木東洋など。 
3
W・ウィリス(1837ー1894)は1837年5月1日、北アイルランドに生まれた。7人兄弟・姉妹の4男として、3人の姉妹の中で育ったが、暴力的な父親を終生憎んでいた。
ウイリスにとって家庭環境はよくなかった。1840年代後半のアイルランドは大飢饉にみまわれ、納屋のような家で貧しい生活を強いられたW・ウィリスの家族の生活はどん底であった。
彼の兄弟では、長兄、次男、ウィリスの3人が医師になっており、ウィリスは医師になった長男の援助で大学に行き、次男は軍医になっている。ウィリスは、グラスゴー大学、エディンバラ大学で学び、大学卒業後2年間ほどロンドンのミドルセックス病院で働くが、一時的な間違いにより看護婦との間に子どもができた。
その後、ウイリスは海外への赴任を強く希望して文久元年(1861)に、24歳で英国の江戸駐在公使官の補助官兼医官としてイギリス政府から発令された。
文久2年には生麦事件に遭遇。殺害された英国商人リチャードソンの治療のために、横浜外国人居住区から馬で生麦まで真っ先に駆けつけた一人であった。江戸から薩摩に帰国途中の島津久光の行列を、乗馬のまま横切った英国人を馬から引きずり落とし、一刀両断に切り捨てた示現流奈良原喜左衛門の「切り捨てご免」であったが、イギリス側は下手人の処罰、賠償金の要求を迫った。しかし薩摩は譲らず、翌文久3年には薩英戦争となり、ウィリアム・ウィリスも従軍した。錦江湾の英艦船上から嵐の中の戦いを見て、「街中が真っ赤に燃え上がり、台風の闇夜なのに、燃える明かりで船中を歩けた」と記している。更にウィリスは、戦後の和議使者としても英国戦艦で鹿児島へ来た。
戊辰の役の鳥羽伏見の戦いにおいて、薩摩藩士の大山巌は英国大使パークスに、京都の薩摩野戦病院での負傷者の治療を要請した。パークスは要請に応じ軍医のウィリスを派遣した。漢方医であった高木兼寛も会津に出兵し、そこで西洋医学とくに外科手術のすばらしさを目の当たりにした。
明治新政府は幕府の医学所を「医学校兼大病院」として復活させることにしたが、薩摩藩は戊辰の役、鳥羽伏見の戦いなどの功績から、院長にウィリスを推薦した。ウィリスは、明治二年(1869年)に31歳の若さで、領事職を一年間休職して東京大病院へ出向した。ところが、大病院に移って二ケ月も経たないうちに、彼は英国流の臨床重視の医学教育・医療制度をわが国に根付かせることの難しさを思い知らされた。
同年5月、新政府から医学校の責任を任かされた相良知安と岩佐純の二人が、伝染病研究主体のドイツ医学採用の計画を強引に進めていったからである。
彼らは、オランダ医学を学び、徳川幕府以来の伝統である長崎養生所出身者であった。オランダ医学がドイツ医学を模範としていたことからドイツ医学に目を向けるのは自然の成り行きであった。イギリス医学の地域医療や福祉という発想は持っていなかったのである。そのためウィリスは、わずか二ヶ月で院長の職を辞さねばならなくなった。
鳥羽・伏見の戦いで頚部に貫通銃創の重傷を負った西郷隆盛の弟の西郷従道を見事に治癒させたことなどで、西郷隆盛らとウィリスは懇意であった。西郷隆盛らは官軍時代からの恩に報いるために、ウィリスを高給で鹿児島医学校兼病院(鹿児島大学医学部の前身)へ迎え入れた。この医学校で高木兼寛はウィリスから2年間英語と医学を学んだ。 
幕末維新を駆け抜けた英国人医師
ウイリアム・ウィリス(1837−1894)は1862年(文久2年)に英国総領事館付医官として来日し、1877年(明治10年)に帰国するまで約15年にわたって、黎明期にあったわが国の医療システム構築に多大の功績を残した。明治維新前後のこの激動の時代に、幕末の歴史の流れをはやめる起因となった生麦事件や薩英戦争に直接関わり、戊辰戦争では双方の負傷者治療に活躍した。さらに、明治2年には東大医学部の前身である東京医学校兼大病院の院長に31歳の若さで就任したが、一年弱でこの職を退き、のちに鹿児島大学医学部となる鹿児島医学校兼病院で治療の傍ら、忍耐強く医学教育の確立と公衆衛生の改善に貢献した。
このウイリアム・ウィリスが在日中に書き残した長兄への手紙や上司への報告類など約700点すべてを日本語に翻訳した900頁に及ぶ大著「幕末維新を駆け抜けた英国人医師ウイリアム・ウィリス−蘇るウイリアム・ウィリス文書」(創泉堂出版刊、14,000円)が昨年末に刊行された。「ウイリアム・ウィリス文書」は、同時期にわが国で活躍した英国人外交官アーネスト・サトウの研究家であった萩原延壽氏が、アーネスト・サトウの日記からその存在を知り、それを大切に保存していたウイリアム・ウィリスの甥の息女から譲り受けて、1976年に日本への里帰りが実現したものである。
この文書は外国人の目で客観的に眺めた130年前の日本の文物や明治維新前後の政治情勢を活写しており、読んで飽きることがない。ただし、決して美文ではなく、医療については地味なものが多い。たとえば、明治元年に東京大病院(後の東大附属病院)の立上げを任された時の4月23日付けの長兄への手紙では「私の給料は以前の二倍以上になるでしょう。しかし、日本人たちは上等の品物を非常に欲しがり、とくにシャンペンは彼らの好物なので、私の接待費も増えるのではないかと懸念しています。私はこの病院のことで忙しくてなりません。私なりに苦労がたくさんあるのです。これまでの日本の医者はみな、漢方の概念に凝り固まっているか、蘭方に執着するものばかりであり、私がイギリス系統の医学の基礎を確立することになるかどうかは、時間だけが解決してくれるでしょう。私は全力を尽くす積りですが、それで失敗したならば、どうしようもありません。
毎朝、私は8時に出掛け、12時まで病院の患者を診察し、午後は外来患者を診たり、病気や治療についての講義をしたりしています。毎週、たくさんの手術をしています」と多忙の故か簡単な日記風である。
この文書の行間からウィリス医師の誠実な人間像が窺われ、同時に幕末維新史に新たな一ページを加える歴史の証人ともなっている。また、多くの手紙がわが国の保健衛生面の実情を明らかにし、医療界の幕開け時に彼が貢献した足跡を記録している。手紙類の現物は1998年に鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄贈され、一般公開されている。1985年には、ヒュー・コタッツィ元駐日英国大使が、この文書を基に「ある英人医師の幕末維新」を著している。
ウィリス医師の生涯の友であったアーネスト・サトウは著書「日本における一外文官」の中で、「われわれがよく良心と言っている資質を、個人的関係においても職務の遂行に際しても、ウィリス医師ほどはっきり示した者はいないだろう。幸運にも彼の手術や投薬を受けた患者たちは、ウィリス医師ほど病人にたいして親切で同情的な人はいないと思っている......当時、医師は他の文官には降りかからないような危険に遭遇しなければならなかった。負傷者を救助するために、彼はためらいなくその危険に身をさらしたのである」と評している。

ウィリス医師は、1837年に北アイルランドの南端のエニスキレン市郊外で、七人兄弟の四男として生まれた。父親を終生憎んでいたほど、彼にとって家庭環境は決してよくなかった。また、彼が8歳から11歳の時にアイルランドは大飢饉に見舞われ、四年間で、百万人が海外などへ流出して、人口が八分の一に減少した。
このような悪環境下にもかかわらず、ウィリス医師の生家は比較的裕福で、彼は身長2メートル弱、体重108キロの巨漢に成長した。青年時代はスコットランドのグラスゴー大学、エディンバラ大学で医学を学び、ロンドンのミドルセックス病院に2年間勤務した。この病院での一時的な間違いによって、看護婦との間に子どもができたこともあって、心機一転、外交官試験を受けて、江戸駐在公使官の補助官兼医官として日本に赴任した。
ウィリス医師は1862年に来日後、薩摩藩に請われて鳥羽・伏見の戦での負傷兵の外科治療に当り、会津征伐にも明治新政府の要請に応えて従軍医師として八面六臂の大活躍をしている。しかしながら、前半の7年間は医師としてよりも、むしろ英国公使館員としての情報収集活動などに多忙を極め、明治元年には正式に副領事に任命されている。
一方で、ウィリス医師が西洋医学に基づく永続的な病院の建設を建議してきた経緯から、明治新政府は明治2年の初めに、ウィリス医師を東京大病院開設のために領事職を1年間休職して大病院へ出向してくれるよう英国公使に要請した。ところが、大病院に移って2ケ月も経たないうちに、彼は英国流の臨床重視の地域医療制度をつくることの難しさを思い知らされた。同年5月に新政府から医学校の責任を任かせられた相良知安、岩佐純の二人が、伝染病研究主体のドイツ医学採用の計画を強引に進めていったからである。この二人は徳川幕府以来の伝統である長崎養生所の出身者で、オランダ医学を学び、英国流の臨床医学や地域医療という発想はまったく持っていなかった。
当時の外国語は長崎を通じて学んだオランダ語が主体であり、オランダ医学がドイツ医学を模範としていたことから、新政府がドイツ医学に目をむけたのはむしろ自然のなりゆきであった。大病院を任せられてからわずか6ケ月でウィリス医師の夢は破られたのである。もっとも、ウィリス書簡からは彼自身が東京大病院に留まるように希望して、その線で交渉をしたという事実はまったく読みとれない。むしろ、彼自身も西洋医学の進歩について行けず、臨床医としての道を望んでいた節がある。

ウィリスの医師としての本格的な活動は、明治3年(1870年)に公使館を辞して、鹿児島へ赴いてから明治10年に帰英するまでの7年間の業績が重要である。本稿では、この間に彼が行なった医学教育と地域医療に絞って紹介したい。
薩摩藩時代から教育熱心であった鹿児島では、明治元年に医学院を設立、西洋医学の適切な指導者を求めていた。この医学院は明治3年1月にウィリス医師の着任と同時に、鹿児島医学校(鹿児島大学医学部の前身)と改称されている。
ウィリス医師と薩摩藩との親密な関係は、鳥羽・伏見の戦いで、頚部に貫通銃創の重傷を負った西郷隆盛の弟、西郷従道(後に海軍大臣、元帥)の治療に当り、見事に快癒させたことが機縁となった。鹿児島県は、西郷隆盛のバックアップを得て、医学校、病院の体制、医学の基礎から臨床教育まで広範囲にわたってウィリス医師に任せた。彼も東京でできなかった病院の整備や医学教育を実現したいという情熱をもって組織作りに取り組んだ。
1871年12月に出された県当局の覚書では、県内各地域から20歳以下の医学生2名を入学させてほしいという要請が出されている。ウィリス医師の主張が通って、各地域で病気の知識や薬剤法、外科治療のできる医師養成の必要性が認識されて来た結果である。
鹿児島医学校は、彼の在任中に一学年の入学者数60名、教員を含む総勢250名に達する本格的な医科大学に拡充された。ウィリス医師は臨床現場での実習指導に加えて、自ら植物学、ラテン語、病理学、薬物学などの講義を隔日に担当し、早い日は朝六時から、この医学校で教鞭を執った。
鹿児島医学校にウィリス医師が着任当初に入学した学生の中に三田村一と高木兼寛がいた。二人は、すでに開成所などで英語を学び、漢方や蘭方医学の基礎を身につけていた俊英で、高木兼寛は鳥羽・伏見の戦いにも医師として従軍していた。二人は鹿児島では初めての死体解剖にも参加、昼夜付ききりで診察や外科手術の実技をウィリス医師から直接学んだ。入学後まもなく二人はウィリス医師の助手兼通訳を任され、別科学生の教官も勤めた。
三田村一はその後、西南の役に従軍して戦死したが、高木兼寛は後に海軍軍医総監となり、慈恵会医科大学を創設した。ウィリス医師が足跡を残した最大の功績の一つは、高木兼寛に英国流の臨床重視の医学を教え込んだことにあったといっても過言ではない。
高木兼寛は鹿児島医学校のウィリス医師のもとで2年余り勉学に励んだところで、彼の恩師であり鹿児島医学校設立にも尽くした石神良策から海軍軍医になるように勧められ、明治5年4月に東京へ赴任した。明治8年には、海軍初の医学留学生としてロンドンのセント・トーマス病院附属医学校へ派遣された。彼はこの医学校に4年間在学、卒業時には優等賞を獲得した。この間、英国へ一時帰国中のウィリス医師とも再会している。
海軍軍医総監となった高木兼寛は、当時国民病として蔓延していた脚気の原因説を巡って陸軍軍医部を代表する森林太郎(鴎外)と宿命的な対決をした。ウィリス医師からと英国の大学で学んだ兼寛の実証主義に徹した「白米食説」と、鴎外の学理を重視するドイツ医学を信奉する「細菌説」との対決であった。
高木兼寛は副食をあまり摂らず多量の白米を食べている人に脚気が多いことに着目、遠洋航海の海軍軍艦2隻の乗組員を白米組と麦飯組に分けて、脚気の発病を調べる大々的な実験を行なった。この結果、麦飯組からは脚気発病者がほとんど出なかったので、海軍では主食を麦飯とパンに全面的に切り替えた。
これに対し、陸軍と東大医学部の学者は栄養量において白米の方が優れているとして、陸軍では白米の支給に固執した。この結果、日露戦争では陸軍の総兵員中221千人が脚気に冒されて、28千人が死亡した。この脚気による病死者の数は戦死者数を優に上回ったのである。
一方、海軍では病死者はほとんど出なかった。これは高木兼寛が自ら行った実験結果をもとに、原因の追求よりも実証による結果重視の医療を実践して、食事内容の改善を行なった見事な成果であった。陸軍での無策に対する非難の議論が高まったものの、この陸海軍対決は両人の死後にビタミンBが発見されるまで最終的な決着をみなかった。
高木兼寛の実証研究論文は英文で公表され、国内よりも海外での評価が極めて高かった。彼のもとには、コロンビア大学をはじめ多くの有名大学から講演の依頼が寄せられた。欧米の医学者たちは、栄養バランスの崩れた食物の摂取が脚気の原因であると主張した兼寛の説が、ビタミンB欠乏を原因であるとする説に発展したものとして、兼寛を脚気治療法開発の第一人者と評価したのである。
英国の極地研究所は、南極大陸の一角に世界的に著名な栄養学者、ビタミンの研究に業績をあげた研究者の名前を冠した地名をつけたが、その中に「タカキ岬」と命名された岬がある。この命名の由来について、「日本帝国海軍の軍医総監にして、1882年、食餌の改善によって脚気の予防に初めて成功した人」と説明されている。高木兼寛が印したこのように世界的に認められた歴史に残る偉大な業績自体、平成3年に吉村昭の力作「白い航跡」が著されるまでは、知る人も少なかった。

次にウィリス医師が残した地域医療への貢献について、「ウィリス書簡」から知りうる概略を紹介したい。鹿児島でウィリス医師が仕事を開始した当初、同地の医師は彼に反発するばかりであった。当時は漢方医学が主体であり、ウィリス医師が医学校で育てた医師はすぐに東京や京都へ去ってしまった。西郷隆盛の支援はあったものの、このような状況下での英国式西洋病院の建設は当初困難を極めた。彼は鹿児島の支配階級は日本のどの地域よりも傲慢で、日本のなかでも特別に異なっている地域という印象を抱いていた。風俗も多くの点で異なり、食物に無頓着で、無闇に酒を飲む人が多いと観察している。
鹿児島では家畜を殺す際に、当時は下水だめに追い込んで溺死させるという方法をとっていた。これが伝染病などの原因になるので、廃止すべきであると彼は主張して、県の役人と激しいやりとりをしている。一方で、彼は牛や羊を放牧して牛乳やバターの生産する酪農を奨励し、具体的にその技術的方法をも指導した。この結果、牛肉や牛乳の価格が下がり、一般の民衆でも容易に手に入ることができるようになった。
ウィリス医師は鹿児島へ来て4年後に一年間の休暇をとって英国に一時帰国したが、その際に大山鹿児島県令(現在の知事)あてに鹿児島での医療活動、医学教育を総括した報告を出している。この報告には、この4年間に彼が設立した病院で入院・外来併せて15千人の患者の治療に当り、患者の自宅への往診も数千件に上ったと記されている。また、彼が実践した講義と現場での医術の指導を一体化した臨床重視の英国流の医学教育と病院での診療方式が成功し、多くの県民から感謝されたことに満足の意を表明している。また、彼の進言を容れて公衆衛生などの面でも鹿児島県で幾多の先進的で重要な改革が行われたことは喜びに絶えないと回顧している。そのうえで、伝染病などの予防には上水道や下水などの整備が急務であるとして、一時帰国の途次にヨーロッパ各地の水道設や下水処理施設の工法を調査したいと提言している。
ウィリス医師は鹿児島での生活が気に入って、日本永住を決意し、八重という日本女性と結婚、息子アルバートをもうけた。しかし、西南の役の勃発で、庇護者の西郷隆盛を失い、失意のうちに英国に帰らざるを得なかった。その後、再び来日して職を求めたが、西郷と親しかったことが災いして果たせなかった。そこで、英国で最新の医学知識を学び直した後、日本を離れて3年後に、その時にはバンコック駐在公使になっていたアーネスト・サトウの推挙で英国公使館付き医官としてタイ国へ赴任した。8年間同地で医学教育と医療活動に従事して、タイの近代医学の基礎をつくりあげたが、永年の激務が祟って肝臓を痛め、英国へ帰国した2年後に56歳で逝去した。  
ウィリス博士の見た戊辰戦争
 『英国公使館員の維新戦争見聞記』より
「政治的なことがらについての私の知識は、はなはだ不充分であり、また矛盾だらけでもあるので、ほとんどいかなる話を聞いても自信をもって判断することができないのである。これまで非常にたくさんの相反する風評を聞いてきたから、一体 どれを信頼して認めたらよいかわからないのだ」
民衆の貧困
「残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が人民に強制した借款についての話がたくさんあった。会津の国の貧しさは極端なものである。家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。この国で生産される米はみな年貢として収められねばならなかった。戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には、三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて、あらゆるものがこの特権階級の生活を維持するために充当されたり税金をかけられたりしたということだ」
戦禍
「私はしばしば負傷した捕虜がまったく見当たらないことに重大な意味を感ずることがあったので、機会があるたびに、理由もなく人命を犠牲にすることの非人道性を指摘し、この戦闘で日本政府が敵の捕虜にたいする憐憫の情があることを立証しえない失望感を表明してきた。それにたいする弁明として、会津兵の捕虜は天皇の威光をきわめて悪しざまに侮辱するので、負傷者といえどもその生命を許しておくわけにはいかない、といわれるのだ。しかし総督の従者が、戦争における人道主義と他の国々で行われている負傷した敵兵にたいしての情深い行為にかんして、私が話したことを、みな十分に主君につたえようと約束してくれた」
「会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか、彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。その人夫はもし会津兵につかまったならばむごい死に目にあわされていただろう、と私に語った。そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。たくさんの死体が堀から引き上げられたが、彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ、腹が深く切り裂かれていたのだ。
私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者をみな殺害したのである。一方、会津の国では、天皇の軍隊は各地で略奪し、百姓の道具類までも盗んだという話を聞いた。これらの話の事実がどうであれ、戦闘にともなう無残な人命の犠牲が、戦場が若松に近づくにつれてはげしさの度合いを増していったことは疑いもない。」
民衆の動向
「若松城の明け渡しののち、会津侯父子と家老たちが囚われの身として暮している寺は若松からちょっと離れた、住み心地のわるそうな小さなあばら家であった。たまたま私がここを訪れた時、会津侯や息子や家老たちが、約三百名の備前藩士に守られて江戸に向かうところであった。あきらかに侯と息子は大きな駕籠を利用することが許されていた。しかし、一緒に行く家来たちは粗末きわまりない駕籠があてがわれてはいたが、家老や従者らは徒歩であり、刀を奪われてまる腰のまま、まったくうらぶれて悄然たるありさまだった。護衛隊の者をのぞけば、さきの領主である会津侯の出発を見送りに集った者は十数名もいなかった。
いたるところで、人々は冷淡な無関心さをよそおい、すぐそばの畠で働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津侯が国を出てゆくところを振り返って見ようともしないのである。武士階級の者のほかには、私は会津侯にたいしても行動を共にした家老たちに対しても、憐憫の情をすこしも見出すことができなかった。一般的な世評としては、会津侯らが起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗北の際に切腹もしなかったために、尊敬を受けるべき資格はすべて喪失したというのである」  
ウィリス医師の東北戦争従軍記録
1 東北戦争の概要
1868年5月3日(慶応4年4月11日)、徳川慶喜は、恭順の姿勢を取り、水戸に隠退した。新政府軍が江戸城を接収した。それからまもなく、会津藩は家老連名の嘆願書を仙台に駐在する新政府軍の奥羽鎮撫総督に提出した。また、仙台・米沢を始めとする奥羽列藩も、白石に公議府を設けて、会津藩救済のための嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出した。しかし、長州藩士の参諜・世良修蔵の拒絶にあつて、嘆願書はあえなく却下された。
このため、仙台・米沢・福島など奥羽の25藩は、薩長2藩を弾劾して、攻守同盟を締結した。後に越後の諸藩も加盟して白石に奥羽越公議府をおいた。新政府は、直ちに、有栖川宮を会津征討大総督とし、8月2日に、越後口総督に仁和寺宮を、続いて東北遊撃軍将に久我通久を任じて、会津征討の布陣を整えた。
信越方面には尾張・加賀の藩兵が主力として派遣され、旧幕府の衝鋒隊を飯山に破ったが、この時、桑名の前藩主松平定敬が若干の藩兵を率いて柏崎に陣を張り、これに会津・米沢の藩兵と水戸の脱走兵が加わって、あなどりがたい勢力になった。
この形勢に対処するため、大総督府は、強力な薩長2藩を会津征討軍に編入して戦力を大幅に強化した。さらに、尾張・加賀・越前など15の藩の藩兵を投入した。
戦力強化された会津征討軍は、越後方面においては、高田、三国峠、小千谷、鯨波、四日市で、北越同盟軍(会津・桑名・村松・村上・三根山・新発田の各藩)と死闘を繰り広げた。
会津征討軍は7月8日に長岡城に入城していたが、北越同盟軍の猛攻を受け、9月10日、北越同盟軍に奪回された。
一方、奥羽方面においては、白石同盟軍の掃蕩を急ぐ大総督府は、薩長2藩を始めとする20数藩の藩兵を動員して、7月に先ず白河城を陥れ、ついで8月に棚倉、泉、湯長谷、平を、さらに9月15日に二本松城を陥落させた。
越後方面の北越同盟軍は、山間の地の利を生かして頑強に抵抗したが、長岡城奪回の2日後、9月12日、再び、会津征討軍に攻め落とされた。
長岡城落城を契機に、会津征討軍が断然優勢になった。10月19日、先ず、米沢藩が越後口総督に降伏した。藩主・伊達慶邦が、自ら陣頭指揮していた仙台藩も、平潟口総督に降伏した。庄内藩も、謝罪状を提出して降伏した。
北越同盟軍瓦解後も、独り会津藩だけは、四方を包囲する会津征討軍と死闘を繰り返した。しかし、大勢はすでにいかんともしがたく、北国のきびしい冬がおとずれた11月6日、藩主・松平容保父子は、家老らを引き連れて会津征討軍の陣門に降った。
ところで、新政府軍と北越同盟軍の戦争が熾烈をきわめるにつれ、大総督府は西洋外科医の必要性を痛感した。パークス英国公使に西洋外科医派遣を依頼した。その結果、新政府軍が会津若松城へ総進撃を開始した時期に、ウィリスが招請に応じて出発することになった。会津若松城落城の1か月前であった。
10月5日(慶応4年8月20日)、ウィリスは筑前藩の護衛25人に守られて江戸を出発した。現在の国鉄高崎線・信越本線沿いのコースを、駕籠や馬や徒歩によって進んだ。ウィリスが指摘するように、日本に真の意味の中央統治機関がなかったために、重要な公共土木工事はまったく行なわれていなかった。
道路は、大雨が降れば、膝まで浸かる泥田のようであつた。河川を渡るには未開地特有の渡し舟を利用するしかなかった。河川に妨げられて、どんなに努力しても、地域によっては、1日に20マイル(32キロメートル)も進めなかった。そのために、本庄、高崎を経て碓氷峠を越え、上田から善光寺(長野市)を通って、最初の目的地である高田(上越市)に到着したのは、江戸を発ってから12日目であった。
ウィリスは、高田からパークスに1通の手紙と、高田までの旅行、及び負傷兵治療に関する報告書を送った。それらは1868年11月4日付の、ハモンド英国外務次官に宛てたパークス英国公使の書簡に同封された。
2 ハモンド英国外務次官宛・パークス英国公使の書簡 (1868年11月4日・横浜)
私は、この手紙で私自身については何も申し述べることはありませんが、蝦夷(北海道)に行ったアダムズの先の報告書よりも、さらに面白い読み物をお送りいたします。同封した報告書は、私がウィリス医師から受け取ったものです。
両者の報告書の内容はそれぞれに興味があり、また、この2人が長い旅程をたどっていった努力は、いかに高く評価しても評価しきれるものではありません。
ウィリス医師の事実の簡明な叙述から、この国の現状についての多くの情報が得られることと存じます。ウィリス医師による間接的な証言は、各部隊の現時点における形勢や、この戦争の結末について判断を下すのに大いに役立つことと思われます。
いまや、天皇の権威があまねく確立されると予測される十分な根拠があります。
もちろん、今行なわれている戦争のあとに、参政官会議における闘争が起こることでしょうが、結局は、私どもが従来見聞してきたような弱小諸侯の同盟というものの代わりに、日本は一つの国家としての形態を整えていくに違いありません。
ウィリス医師の報告は、私に個人的に送られてきたものです。公表すべきではない資料として報告することを特に申し添えます。ウィリス自身、この記録は、手を加えていない単なる覚書だと言っております。
公的な事柄に利用する前には、校訂加筆して、それらを要約して、まとまった報告書にする機会を彼に与えてやらねばならぬと存じます。また、その場合、彼は必ずそのような報告書を提出するでしょう。
ウィリス医師は、今、新潟からほど遠からぬ地点に到達しておりますので、新潟を訪れて、その実情を確認することができるに違いありません。
閣下のお手紙と、新潟港について差止めを維持する私の方針をご承認下さった9月8日付の急送公文書を拝受いたしました。
私はプロシアやイタリアの在日公使たちから、私のこの方針に反対されていましたので、閣下の急送公文書を拝読して大変嬉しく存じます。
商人たちのなかで、公使たちの助言に基づいて行動した者たちは、新潟での事業がひどい失敗に終わったことに、非常に後悔しておりました。
英国の商人たちも、新潟での事業に従事したかもしれませんが、しかし、彼らは、明らかに、損害を受けた場合は自腹を切る覚悟で行なったのです。
キリスト教徒に対するの迫害は続行されていません。この問題についての私の懸念はかなり落着きを取り戻しております。
しかしながら、この、気まぐれな国民の、他宗教を許容することのできぬ偏狭な性向が、また不意に狂い出してくるのを阻止するために、私が抗議や勧告を行なうことができますのも、スタンレー外務大臣が公文書によって、絶えず、私を督励して下さったからだと思っております。
私は、ひどく痛んだこれまでの宿舎の代わりとして、江戸に仮宿泊所を得ることに奔走してきました。天皇が江戸にお出でになった場合、私ども英国公使館員は、今までよりもっと江戸に滞在していなければなりませんので、それに間に合うように宿舎の準備にとりかかったのです。あまり経費をかけないで、以前の宿舎と同額の賃貸料で、別の家を入手できましたことをご報告申しあげます。
3 パークス英国公使宛・ウィリス医師の報告書 (1868年10月16日・高田)
今日、高田に無事到着したことを先ずご報告申しあげます。そして、私が健康を損ねているとすれば、それは途中で風邪をひいたことが原因となるわけですが、1〜2日もすれば回復するに違いありません。
旅行中のノートから抽出した走り書きの記録を同封いたします。高田における詳細な事柄や、この地の負傷兵のこと、また、私自身が自ら見聞して得たすべての情報をお送りする機会がすぐに訪れると思います。
高田の手前約8里の関川関所(妙高高原町)を通過する時、見張番は、乱暴にも私に帽子を脱げと極めて傲慢無礼な態度でした。私は、関所の守備隊長に、この傲慢無礼な態度に対する謝罪と、見張番から傲慢な態度であしらわれることなく関所を通過させよと要求しました。
しかし、私のこの要求を、関所の守備隊長は拒絶しました。そこで、私は満足のいく回答がこの関所を所管する高田藩から得られるまで、この旅行を進めていくことを拒否しました。そして高田藩に抗議の書状を送りました。翌日、高田藩から2名の役人が来ました。そして、守備隊長に、私に謝罪せよと命じました。
守備隊長は、翌朝も出てきて、前日の傲慢無礼な無作法を改めて謝罪しました。
この、私が取った謝罪要求行動を公使閣下はご承認下さると思います。
その守備隊長は、今後、なにか外国人の感情を害する無法行為が起きた場合は、サムライとして即座に切腹するとまで申しましたので、私は好んでこの事件に関わりたいとは思いません。私が関川の関所で受けた処遇は、他の場所で経験したものと異なり、きわめて礼儀を無視した傲慢無礼な振舞いであったので、たとえ行程が一日延びようとも、傲慢無礼な連中の態度を改めさせることが必要となったのです。
謝罪があったので、私は、一切を水に流してやろうと約束したのですが、関所の見張番らに対しては、存分に説教しておきました。すなわち、このように傲慢無礼にあしらわれたのでは、旅行を続けるわけにいかないのだと。日本政府の懇請によって、当地に来た私の身分上からも丁重に応待されるべきである。時と場合によっては、無礼な行為を見逃してやらぬわけではないが、傲慢無礼な乱暴狼籍だけは決して許すわけにはいかないのだと。
最後に、通行権のある外国人が関所を通る時、外国人の方から脱帽して見張番に敬礼することはありえない。脱帽を強制されるなど論外である、と説教しました。
関川関所を所管する大名はサカキバラ(高田藩主・榊原政敬・15万石)ですが、彼は、私に対する無礼な行為に対して、たいそう恐縮していると聞きました。
このことについて、私の報告書にはなにも書きません。今後、無礼な行為がなければ、一切を水に流してやろうと約束したのですから。
4 ウィリス医師が観察した当時の日本の政治情勢
私が通り過ぎたそれぞれの場所で観察したかぎり、現在の統治機関は人民に容認されているようにみえた。また、私の調査の及ぶかぎり、概して、人民は、最近の政変が将来にとってより良い状態を招くものと考えている。
旧体制の各藩の領民であった農民らは、とりわけ、新体制を歓迎している。タイクン(幕府の将軍)統治下の各藩藩主らは、相当に圧制的な領主であったのだろうか。
土地に課せられる年貢の額の画一的な施行は、今後も続くものと思われる。私が出合ったり、私の通訳が話を交えたりした農民たちからは、旧体制に対する同情心は片鱗も伺うことができなかった。
大領主(大藩)に隷属する農民らは、最近の政変に無関心であるようにみえる。彼らにとっては関係がないことだと言っていた。
しかし、小領主(小藩)に隷属する農民らは、すなわち、先に述べたように、始末におえぬ暴君であるとの評判を自ら招いている小領主(小藩)に隷属する農民らは、まったく違っている。
新政府の権威は、いたるところで容認されているようである。
各地の関所、本陣(旅館)は、私を、新政府の要請による公的な旅行者として受け入れてくれた。私が宿泊するか、昼食のために立ち寄ったところでは、どこでも、公式の服装をした村の役人たちが出迎えにきた。いたるところで受けたお辞儀には気がめいるほどであった。
現在、抗戦中の会津藩軍にたいする共感は全然ない。
私が耳にすることができたものといえば、皆、タイクンの幕府は廃止された。旧政治体制は、もはや復活することはできないということであった。
私が知りえた情報から判断すれば、いまや会津藩軍は、各地の無法な両刀差しの連中で補充されているとのことであった。
各地の旅館主や商人たちは、大名やその家臣らが、道中でふんだんに金銭を費やしていた往時の人の往来がなくなったことを残念がっている。
大名が、必ず江戸に住まわねばならなかった古くからの慣習は、過去のものとみなされ、もはや二度と甦りそうにもなかった。
生糸の生産地帯では、関連する各種の労働に支払われる金額が相当なものであるから、それがある程度、かつての人の往来が落としていったものの償いになる、と旅館主たちは言っている。
大名が、強制的に江戸に住居を置かされた昔のしきたりが行なわれていたころ、彼らは自分の領地からの往復にずいぶん中山道を通ったらしく、旅館主たちにはその当時が忘れがたくて、あの頃はよかったと言うのである。
しかし、旧幕府に同情する言葉は、一言も耳にすることができなかった。
私は心ゆくまで旅の楽しみを味わった。従者たちは、皆、私が要求する情報を集めてくれた。旧政治体制の疑い深い役人らのように隠しだてをしたり、些細なことにつまらぬ反対をすることなどはなかった。
これまでのところ、戦闘があったり、村が焼かれたりしたというような形跡には出合わず、一般市民を動揺させるものはなにも目にとまらない。一般市民は彼らの日常の生業にいそしんでいるように見えた。
日本には、真の意味の中央統治機関が本当に必要だ、と思うことがあった。江戸に近いところでも重要な公共土木工事は行なわれていない。
日本の道路は、私がこれまで見たもののうちで最悪である。大雨があると膝まで泥に浸かってしまう。どんなに努力をしてみたところで、一日に20マイル(32キロメートル)進むこともできぬ地域がいくらもあるのだ。
河川にかかる大切な橋もなく、あらゆる交通は、まったく未開時代特有の渡し舟に依存している。
沿道のすべての町には、日本の最近の政変を伝え、外国人の処遇改善の対策などを講じた政府の告示板が立てられていた。
私は高崎に掲示されていたものの写しをとったが、きっと横浜に張られていたのと同じものではないかと思う。
会津藩主(松平容保)と彼の部下たちは包囲され、最終的には、ミカド軍が勝利することは疑いない。しかし、戦闘が年内に終結するかどうかは疑わしい。
戦闘は来年には終わることは確実であろう。
現時点では、仙台藩が、会津藩にどこまで加担しているかは疑問であるとのことだ。すでに、越後では、すべての藩がミカド軍の側になった。
私が聞いたところでは、だれひとり、会津藩でさえも、旧幕府の全面的な復活を予想してはいない。しかし、会津藩主と彼の部下は、最後までミカド軍と戦うだろうとの噂である。
噂を信ずれば、ミカド軍は、確実に前進しているとのこと、会津藩は、いずれは、征服されてしまうとのことである。
もっとも、だれから聞いても、ミカド軍は、敵兵を繊滅させながら征服していくのだが。
私が通過した牟礼の村から5マイルの犬山というところでは、旧暦4月に戦闘があり、6名ほどが死亡した。ミカド軍の真田信濃守の部下が勝利を得た。
反乱者らは会津若松へ逃げていった。
新潟は焼かれることなく、ミカド軍の手中にあり、大部隊で維持されているそうである。
道を行きながら、私は3か所で武装した無頼漢ども処刑の掲示を見た。武蔵の国では武装した無頼漢どもが毎日のように出没し、農民から金銭を不法に強奪することが習慣のようになっていた。
そして、これを無くすために、法律が、珍しく、機敏に厳然と執行されていた。
しかしながら、日本の警察組織はきわめて不完全であると断言せざるをえない。
聞くところによれば、両刀差しの無頼漢が暴行を犯しながら、刑罰を免れることもあるとのこと。
5 生糸についてのウィリス医師の見聞
今シーズンは、生糸の収穫はいちじるしく良かったらしく、質量ともに評判が良い。旅行の道すがら、生糸の値段を聞いてみた。横浜相場とあまり隔たりがなかった。
これまでのところの話では、生糸には重税は課せられていないようだ。生糸の生産農家・生産業者たちはわが世の春といったところだ。
過去10年間に生糸の価格は5〜6倍に跳ね上がったとのこと。今年、横浜で蚕卵紙の供給を請負った生糸生産地の商人たちは、このところ蚕卵紙の価格が、横浜よりも生産地のほうが高くなっているので、多額の損害を蒙るだろうとの話である。蚕卵紙の生産地の土地所有者は、蚕卵紙1枚を、だいたい天保銭5枚で購入するのだが、新政府は、その蚕卵紙に検査証印を押すのに、天保銭五枚の税金を取るのである。
今年の蚕卵紙供給の請負業者の損害は、売値の50%にもなるだろうといわれている。
養蚕地は、年々、広がっている。武蔵の各地では、ここ2〜3年の間に倍増したそうである。武蔵・上野等の広大な江戸平野の桑の栽培は計り知れないものがある。
もし日本人が、米の収穫を最重要視しなければ、生糸の産出量には、限りなく増加するものと思われる。
私は、日本人が米を最も重くみるのは、土地の賃借料が米という日常の必需品によって支払われるので、どんな場合でも、手元に米を用意しなければならぬという事情があるからだろうと想像する。
私が見た各地の桑の木はまだ若かった。桑の木が不足している養蚕場では、養蚕をするのに、近隣の余った桑の葉を買わなければならない。
蚕の卵には、春物と夏物との2種類あり、春物の方が、夏物よりはるかに良いと考えられている。値段も春物の方が、夏物より3分の1ほど高いと教えられた。
私は各地で、村の娘たちが繭から生糸を繰り取っているのを見た。
信濃の国の生糸の生産者たちは、信濃の国と江戸平野の上野の国と国境にある碓氷峠という難所を通っていかねばならない横浜に、過剰な生糸の販路を求めているようだ。
もし、新潟が、生糸の販路として開拓されたならば、千曲川や、丹波川(犀川)や、それらの河川が合流する信濃川の流域で生産された過剰な生糸は、新潟に流れていく可能性はある。
信濃川が物資運搬に非常に便利であることは広く知られている。
私の旅行の道すじでは、大阪が生産物のはけ口として言及されたことは一度もなかった。話によれば、非常に立派な生糸は公家用の絹織物をつくるために上野の国から京都に送られるそうである。
6 コメ・稲作・小麦・各種野菜・綿花についてのウィリス医師の見聞
今年の雨のはげしさから考えるとコメの収穫はせいぜい平年の半分ぐらいであり、河川沿いの各地のコメの収穫は氾濫のために全滅したものと予想される。ある種のコメが高原地帯にも育つが、その味はまずいといわれ、
コメ粒は平地産のものより大きい。
私はまた餅コメの稲も見た。餅コメは菓子を作るのに用いられる。沿道のコメは、横浜より11分の1か、12分の1ほど安いのだが、悪路を運搬する費用や苦労を考えると、コメの価格については、考えられる以上の統制が行なわれているようにみえた。
小麦は雨季が始まるまえに刈り取られて、今年の小麦の収穫は大変よかった。例外的な大量の降雨量のために、このシーズンの、黍や蕎麦の収穫は平年よりずっと少ないであろう。
江戸の需.要を賄うために、江戸近辺の肥沃な土地では、計り知れないほど多量の作物が栽培されている。葉菜類や根菜類はとりわけ作柄がよいようにみえた。
碓氷峠を越えると、わずかにじゃがいもが植えてあった。それは、私が会ったどの人の記憶にもない遠い昔からからこの地方で栽培されてきたらしい。よく生い茂って、病気に全然かかっていない。しかし、じゃがいもは日本人たちにたいして好まれていないの。やまいもや、日本人がさといもと呼んでいる根菜などはあまりよくなく、平年並は見込めなかった。
豆類もわるい。全体として、今年の農作物の全収穫高は平均よりかなり低いであろう。
日常消費されるすべての品物の価格がかなり高まることが心配である。
絶え間なく雨が降り続いたため今シーズンの綿花の収穫はまったく惨めなものであった。一番良質の綿は1斤当たり2分銀で売られているそうだ。沿道で見かけた綿畑の作柄は、確かに、良くなかった。その土地の農民は、綿の収穫は、平年の5分の1に落ち込むだろうといっていた。私か通った道の近辺には綿の大規模な栽培地はなかった。明らかに、その地域の需要を賄う程度の畑だけであった。
7 地形についてのウィリス医師の見聞
私が通ってきた広大な江戸平野は、まったく平坦というわけではなく、あちらこちらに丘陵が起伏している。中山道の左右は山なみが覆いかぶさってくるようである。やがて中山道は山道となり碓氷峠が最高点である。碓氷峠からの下り道は、最初は険しく、それから、米作が行なわれている平坦地に向かってなだらかに延びていく。
山なみが狭い渓谷の淵にそそり立ち、その谷あいに道すじが走っていた。
ある場所では近くの丘はきれいな木立ちに覆われていた。またある場所では禿げ山であったりした。
武蔵の国や上野の国では、農民が土地を農作物栽培にうまく利用しているようにはみえなかった。肥えた土地が雑木林や小さな森になっているのを見かけることもしばしばであった。近隣の山から木材を運ぶのが困難なので、建築用などの樹木がなくてはならぬ村は、どうしても近くに植林しておく必要があって、肥えた土地に雑木林や小さな森があるのではないかと思われる。
奥地の多くの山々は火山系統であるらしい。信濃の国に浅問山という巨大な活火山があった。84年前に大噴火があり、人命財産に多大の損害が生じたとのこと。
数マイル四方にわたって、さまざまな大きさの不格好な溶岩が噴火口から流れ出し、今も地表を覆っている。
碓氷峠を過ぎると、気温は、丁度、華氏10(摂氏5.6度)も下がる。碓氷峠から西側にある平原は、江戸平野よりもはるかに高度があるのだろう。
おびただしく増水し、水が周辺の土地にあふれ出して、農作物に多大な損害を与えている川が各地にあった。今年は、このような洪水災害を受けた水田の面積が相当広範囲にわたるに違いない。
旅の途中では、私は、鉱産物が産出するかどうかも調べた。高崎では近くの山で石炭が掘られているという話を聞いたが、その見本を手に入れることはできなかった。石炭が掘り出されているとしても、私が調査したところでは、石炭は利用されていないようだ。
いたるところの丘陵の斜面は羊や牛を飼う状況に見事なほど適合しているのに目を見張った。しかし、今のところ、それらの丘陵の斜面はまったく利用されていない。
道路の全距離から考えてみて、流域の平原は、その範囲がかなり狭いといえるのだが、地味は豊かで生産性が高く、温暖地帯のあらゆる植物がよく育つようにみえた。
ある樫の木の周囲を測ってみたら34フィート(10.36メートル)、おなじく杉の木は39フィートもあった。さまざまの、また時として大小の日本の樹木は、まったく風景の見どころである。とりわけ私は、この高原にいると、ほとんどすべての英国の道端にある植物に出くわしているように感じた。そして、日本と英国の植物群の大部分は同じものだといえるのではないかと思う。
しかし、動物はさっぱり似つかない(につかない)。もっとも、冬場になると、多くの鳥が来るそうである。鹿や熊や狼なども見ることができるそうである。野兎・雉・鳩は買えたが、値段は横浜より高い。奥地は魚が乏しいから、すべての鳥肉の値段が高いのだと言われている。
大量の物資が、高崎の近くの倉賀野から、水路で江戸へ送られているらしい。私が倉賀野川(利根川)を渡ったときは、水流が堤防からあふれ出していて、その周辺地帯は甚大な洪水被害を受けていた。
多くの人々が、もし、新潟が外国貿易に開港されるならば、現在、横浜に送られている大量の生産物が信濃川によって新潟に運ばれるであろうと言っていた。
信濃川は大きな川であり船の航行は難しくないそうである。私は信濃川の二つの支流である千曲川と丹波川(界川)とを渡った。この2川は暴れん坊川で、度々大洪水を起こしていると。今年も堤防が決壊し人家田畑を破壊した。
私は容易に橋を架けられそうな小さな川をいくつも渡し舟で渡った。どこにも、橋という便利なものが無いのが目につくばかりだった。
8 道中で見た日本人の印象
道中で見た日本人は、肉体的な面でも、知的な面でも、ほめられたものではないと言わざるをえない。婦人は醜く、男は人種としても虚弱でのろまな顔付きである。
江戸平野の住民と、碓氷峠の西の気温がずっと低くさわやかな所の住民との、相違に気がついた。後者のほうがまだましである。
武蔵や上野の国の多くの村落を通ってきた。外国人は珍しい見ものであったに違いないのに誰もほとんど振り向こうともしなかった。
しかし、碓氷峠から西の地方では天候が悪い時でも大勢の住民が後ろからぞろぞろとついてくる。
都会の住民と辺鄙(へんぴ)な田舎の住民との間にも大きな相違がある。知能は都会の住民のほうがはるかに優れている。
養蚕地帯に来ると、ほとんど裕福な家ばかりであった。聞くところによると、大きな農家(地主農家)は土地の耕作を小作人にさせているとのこと。そして、小作人たちは非常に貧しいとのことである。
この旅行の道中で、目もあてられないほど悲惨な乞食を目にしなかった。聞くところによると、乞食は、今は、非常に少なくなったとのこと。
人間の数は非常に多いようにみえた。私が見聞したすぺての事から判断すると、日本には、人口増加の余地はないようである。
私が通ってきた村々は、模倣しあったように同じたたずまいであった。家並みに流れる嫌な臭気はかなり不愉快であった。便所として使用される大きな桶が、家ごとに庭の片隅の地面に埋められているので、住居の空気が いつも不潔極まりないのだ。この非衛生な生活環境が日本人の病弱な顔付きの主な原因ではないだろうか。
大きな村や町には、売春宿(遊郭)があるのが普通であった。そして売春宿のないところでは、お茶屋の女が売春婦をつとめていた。住民の間に、梅毒が広く蔓延していた。その梅毒の知識や治療法が不足しているので住民の健康がひどく損なわれていると考えざるを得ない。
宿屋の接待料は10年前のほぼ10倍にもなっているそうである。この地方の人々は、私が大阪から駿河へと日本を横断しながら見た人たちよりずっと貧弱である。
ほとんどの女性の顔立ちは美しくない。着物に粋なところがなく、装身具も着けていない。しかし、これは場所によるのかもしれない。また場所によっては、道路や天候が極端に悪かったためかもしれない。
私はある宿泊地で、もっとも年老いた何人かに会いに行った。本庄で会った老婆は100歳であるといわれた。確かに彼女は、非常に老けて、皺深く、私がこれまで見たどの日本人よりも100歳らしくみえた。
居心地の悪い家に住み、毎日、粗末な食物を食べて暮らして、本当に、100歳という寿命の極限まで生きながらえることができるのだろうか?その老婆は本当に100歳であったか? 私は信じることができなかった。
武蔵の国のもっとも裕福な地方でさえ、村は極めてみすぼらしい。非常に肥沃な土地の村でも、この上なく卑しい下品な人たちを見た。
本当に大きな寺院を一つだけ見た。長野の善光寺である。善光寺の憎侶は、礼儀正しく、かつ聡明であった。
善光寺では病気の婦人の診察を頼まれた。彼女は武士の妻で、武士階級の習慣に従って、病気でも正座の姿勢を崩さなかった。そのため、膝関節の炎症や、水腫症になったようでである。武士階級の正座の習慣は大きな苦痛を引き起こすようだ。さらに時としては重い病気をもたらすらしい。
外国人医師としての私の評判は、私が行く前から広まっていた。20年間以上、まともな治療を受けられなかった人たちが、私の評判を聞いて多数押しかけてきた。まったくうんざりした。
旅の途中で、ハンセン氏病にかかった人を2名見た。ハンセン氏病のことは誰もが非常に嫌悪感をあらわに示して話す。ハンセン氏病にかかった人は住んでいた土地にいられなくなって乞食になって遠い地方へ行くのだそうである。
ある村で私は流行性赤痢が蔓延し多数の人々が死んだことがわかった。気候不願がその原因であった。しかし、流行性赤痢の蔓延はこの村の範囲に限られていた。
多くの村々では家並みの中央を小川が流れている。ある村ではそれを部分的に塞いでいた。別の村では、全然、蓋で覆っていない。この村では、いたるところの水は、汚らしく、不潔で、家々から放出された汚水が小川に淀んでいるように見えた。
私が見たところから判断すれば、空気にも、水にも、日本人は極めて無関心だといえる。
9 旅行の途中で学んだ事柄
私の護衛は筑前出身の25名で若くて気持のよい連中であった。備前藩の役人・水田賢三が会計担当として同行した。備前藩主お抱えの医師と薩摩出身の若い医師が随行した。この若い医師は横浜の寺島司令官(神奈川県知事・寺島陶蔵)の親戚である。私自身の従者は、日本人の通訳、料理人、召使いの3名であった。
私は旅行の途中でいろいろと学んだ。日本人ならば、旅行前にいろいろと調査して、十分な準備もできただろうが、英国人の私が事前調査をすることは不可能であつた。
私の護衛たちはよく尽くしてくれた。護衛という仕事は、別の見方をすれば、個人の行動を縛ることでもある。
私は一言も不平を言わなかったが、一人で調査をしたくても、護衛たちから離れるわけにはいかないのである。いわば囚人のようなものである。
しかし、護衛たちは非常に協力的であつた。私の希望は全面的に十分にかなえられたと言わねばならない。
私は道すがら、米・生糸・魚肥・塩・煙草などの荷を積んだ馬や牛を見かけた。道路はまだ混雑していなかったが、道路の重要さを考えると、この点は私の期待に沿うものではなかった。
天候が悪かったことが相当に往来の妨げとなったのかもしれない。雨は、多かれ少なかれ、毎日のように降った。朝から夜まで降り続く日も何日かあった。
生糸は横浜の市場に出すために江戸に運ばれていた。
私が途中で見た記録に値する町は、高崎、上田、長野善光寺である。高崎と上田には大名の居城があり、町中で非常にたくさんの商売が行なわれているようである。上田では美しい絹織物が作られていた。絹織物は町からちょっと離れたところの農民たちが織るのである。
高崎、上田、長野で大規僕な製造業が営まれていろのを見ることはできなかった。あらゆる家庭用器具は、ごく素朴な物を除き、皆、江戸か京都から入手するとのことであった。
私は往来の賑やかな大きな町で外国製の綿織物を見たが、毛織物は見かけなかった。将来、遠洋航海が行われるようになるにつれて、毛織物がかなり必要とされるだろう。
私が通ったいくつかの村では、冬、降雪は15フィートも積もると言われた。6フィートぐらいの積雪はまったく普通とのこと。
上田で、ヨーロッパの服装をきちんと着こなした老紳士に会った。彼は騎兵教練を教えたアプリン大尉(英国公使館付陸軍騎馬護衛隊長)の教え子で、大尉が日本を去る時、愛用の鞍を買った。その鞍はきちんと保存され、私が見た時は、見事な日本馬に取り付けてあった。その老紳士は松平備後守の家臣で、名は門倉伝次郎である。
私の旅行は12日間であった。距離にすれば180マイル以上であった。
高田にて 1868年10月17日   ウィリアム・ウィリス  
 
建築・土木・交通

 

フランク・ロイド・ライト
Frank Lloyd Wright (1867-1959)
建築、山邑邸、帝国ホテル新館設計(米)
アメリカの建築家。アメリカ大陸で多くの建築作品があり、日本にもいくつか作品を残している。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなす事もある)。
ウィスコンシン州に牧師の父ウィリアム・ライトと母アンナの間の第1子として生まれた。ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学した後、シカゴへ移り住んだ。叔父ジェンキンの紹介により、建築家のジョセフ・ライマン・シルスビーの事務所で働き始めたが、1年ほどでシルスビー事務所を辞し、ダンクマール・アドラーとルイス・サリヴァンが共同して設立したアドラー=サリヴァン事務所へと移った。アドラー=サリヴァン事務所ではその才能を見込まれ、事務所における1888年以降のほとんどの住宅の設計を任せられた。ライト自身もサリヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬し、生涯にわたりその影響を肯定し続けた。
アドラー=サリヴァン事務所に勤めてもうすぐ7年になろうとした1893年、事務所での設計業務とは別にアルバイトの住宅設計を行っていたことがサリヴァンの知るところとなり、その件を咎められたライトはアドラー=サリヴァン事務所を辞し、独立して事務所を構えた。ライトの経済的困窮は、子だくさんに加え、洋服や車など、贅沢品を好むそのライフスタイルにあった。1894年のウィンズロー邸は独立後最初の作品である。
独立した1893年から1910年までの17年間に計画案も含め200件近い建築の設計を行い、プレイリースタイル(草原様式 Prairie Style)の作品で知られるようになった。1906年のロビー邸はその代表的作品である。プレイリースタイルの特徴としては、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏、地下室などを廃することで建物の高さを抑えたこと、水平線を強調した佇まい、部屋同士を完全に区切ることなく、一つの空間として緩やかにつないだことなどがあげられる。
ヨーロッパの建築様式の模倣である新古典主義が全盛であった当時のアメリカにおいて、プレイリースタイルの作品でアメリカの郊外住宅に新しい建築様式を打ち出し、建築家としての評価を受けたライトであったが、この後1936年のカウフマン邸(落水荘)までの間、長い低迷期を迎えることとなる。そのきっかけになった出来事が1904年に竣工したチェニー邸の施主の妻ママー・チェニーとの不倫関係であった。
当時、ライトは1889年に結婚したキャサリン・トビンとの間に6人の子供をもうけていた。既にチェニー夫人と恋仲にあったライトは妻キャサリンに離婚を切り出したが、彼女は応じなかった。1909年、42歳であったライトはついに事務所を閉じ、家庭をも捨て、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行する。1911年にアメリカに帰国するまでの2年間に設計活動が行われることはなかったが、その間に滞在したベルリンにおいて、後にライトの建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築運動に大きな影響を与えるきっかけとなったヴァスムート社出版のライト作品集の編集及び監修に関わった。
1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声と設計依頼の激減という危機的状況であった。妻は依然として離婚に応じなかったが、ライトはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセンの設計を始めた。その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲った。タリアセンの使用人であったジュリアン・カールトンが建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達の計7人を斧で惨殺したのである。なお、逮捕されたカールトンは犯行の動機を語ることなく、7週間後に獄中で餓死した。当時、シカゴの現場に出ていたライトは難を逃れたが、これにより大きな精神的痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となった。そのような中で依頼が来たのが日本の帝国ホテル新館設計の仕事であった。
1913年、帝国ホテル新館設計のために訪日。以後もたびたび訪日し設計を進めたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、このホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされた。ホテルの建設は弟子の遠藤新の指揮のもとその後も続けられ1923年に竣工した。
数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトであったが、1930年代後半になるとカウフマン邸(落水荘)、ジョンソンワックス社と相次いで2つの代表作を世に発表し、70歳代になって再び歴史の表舞台に返り咲くことになる。 2作ともにカンチレバー(片持ち梁)が効果的に用いられた。同時期にはプレイリースタイルの発展形である「ユーソニアン・ハウス」と名付けられた新たな建設方式を考案し、これに則った工業化住宅を次々と設計した。ここでは万人により安価でより良い住宅を提供することが目標とされた。1936年のジェイコブス邸はその第1作目の作品である。
そのスタイルには変遷もあり、一時はマヤの装飾を取り入れたことがあるが、基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴である。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。 
 
ヘルマン・エンデ

 

Hermann Gustav Louis Ende (1829-1907)
建築(独)
ドイツ(プロイセン王国)の建築家。ベルリンの建設学校ベルリン・バウアカデミー(英語版)建築学校教授として後進を指導した(後に学長)。1860年に後輩のヴィルヘルム・ベックマンとともに建築設計事務所を開設。ネオバロック様式の作品を遺した。
父カールゴットフリートはランツベルク・アン・デア・ヴァルテで本屋を経営。また美術愛好家であったという。
1837年、8歳のとき、一家でベルリンに引っ越し、エンデはドロテーエンシュタット(英語版)市立学校に進学する。1841年から1846年までは、ベルリンのケルン・ギムナジウム(ドイツ語版)で学ぶ。その後、医学を志そうとしていたが教育費用がかかるため、また製図能力を生かすため、1867年にポツダムの測量学校に進学。1848年にプロイセン建築局測量士に認定され、1849年までポツダムの測量業務に従事。1850年からはポツダム市建築監ユリウス・マンガーのもとで建築業務に従事し、ミヒャエル教会の建設に携わる。 1851年、ベルリン・バウアカデミー(英語版)に進学する。途中1853年から1年間兵役。1852年、建築家協会に入会。1855年、試験に合格し建築監督の資格を取得。また成績優秀のため旅行奨学金を受給したほか、再度アカデミーで教育を受ける。この間バウアカデミー教授フェルディナント・フォン・アルニム(英語版)のもとで設計の補佐を務める。 1856年、ナウムブルク近郊のプフォルタ学院(英語版)で農学校の建設に従事。 1857年、のちのパートナー、ヴィルヘルム・ベックマンと国外旅行を共にする。イタリア滞在中にローマのドイツ芸術家協会に入会。
1858年に優等国賞を受賞。1859年、バウマイスター(ドイツ語版)試験を受験し、同年資格取得。ベルリン美術アカデミー主催設計競技にも入選し賞金を得る。その後帝国宰相官邸の改築に従事。
1860年、商務大臣を務めていたアウグスト・フォン・デア・ハイト(英語版)のためにフォン・デア・ハイト邸(ドイツ語版)を設計(現ドイツ・プロイセン文化財団(英語版)事務総局)。
また同年、ベックマンと協働で建築設計事務所を開設。1864年、自邸を手がける。 1866年には一時バウアカデミーの助手を務める。
1874年、プロイセン美術アカデミー(英語版)会員。1876年、美術アカデミー評議員。
1878年、バウアカデミー教授就任。プロイセン技術建築局役員。 1881年にシャルロッテンブルク工科大学建築学科教授。途中建築学科評議員。
1882年、美術アカデミー副学長。1883年、プロイセン技術建築局建設並建築アカデミー建築部長。1886年からは工科大学のほか美術アカデミーでも講義をもち教師兼務。さらにこの年開設のマイスターアトリエ建築コースの教授に就任。1895年、美術アカデミー学長。 1896年には建築設計事務所を閉じる。1897年には工科大学教授を退官。 1907年、永眠。遺言により基金が設立され、工科大学学生に奨学金支給がなされる。
官庁集中計画
日本の外務大臣井上馨は、西洋式の建築による首都計画(官庁集中計画)により近代国家としての体制を整えようとしており、1887年、エンデ=ベックマン事務所と日本政府は契約を結んだ。ベックマン、エンデ、所員のヘルマン・ムテジウス、リヒャルト・ゼール、カルロス・チーゼ技師(煉瓦製造)、ブリーグレップ博士(セメント製造)、ジェームス・ホープレヒト(ベルリン都市計画の父と呼ばれる)ら総勢12名が来日し、計画に関わった。
まずベックマンらが来日し、都市計画などの案を作成した。当初の計画(ベックマン案)では日比谷・霞ヶ関付近に議事堂、中央官庁などを集中して建築する壮大な都市計画案であったが、後に縮小された。
エンデはベルリンで作成した設計図を持って、翌1887年に来日した。奈良や京都などの社寺も見学して、同年帰国した。(その後、日本の古建築のデザインを採り入れた和洋折衷様式の議事堂計画案なども作成したが、採用されなかった)
エンデの帰国後まもなく、井上が条約改正の失敗により失脚したことで官庁集中計画は破棄された。議事堂・司法省・裁判所の3棟については設計が続けられたが、結局、1890年にはエンデ=ベックマンに契約解除が通告された。後にエンデ=ベックマン設計の司法省、裁判所だけが実現した。 
 
ヴィルヘルム・ボェックマン (ベックマン)

 

Wilhelm Böckmann (1832-1902)
建築(独)
ドイツの建築家。1860年、ドイツでヘルマン・エンデとともに設計事務所を開設。日本政府の依頼により官庁集中計画を推進したことで知られる。
エルバーフェルトで生まれる。父親と同じ名前で、その父は数学の教師。当地のギムナジウムに進学するが、その後2年間ほど大工の修行。さらに、実業学校に進学しなおし、同学校を首席卒業する。
1854年、建築家協会に入会。ベルリン・バウアカデミーに進学。また途中の1年間兵役につく。
1857年、のちのパートナー、ヘルマン・エンデと国外旅行を共にする。1858年、カール・フリードリヒ・シンケル記念設計競技1等入選。1859年、バウマイスター試験に合格する。
1860年からエンデと協働で建築設計事務所を開設。煉瓦を買い込んで普通法人として会社登録する。のちに故郷エルバーフェルトに支店を開設。
1864年と1965年、訪問したパリ都市計画に関して建築家協会で講演
1868年、仲間とともに建築雑誌 『ドイツ建築新聞(ドイツ語版)』創刊
1868年、ベルリンの計画に際し道路計画について批判、パリについても街区景観について非難。
1869年、建築家協会会長就任。1872年、自邸を手がける。
1886年、ジェームス・ホープレヒト、バウマイスターのR・フォークトらと来日。東京を近代国家の首都として整備しようとした明治政府に招聘され、2か月の間に東京の地形などを調査し、都市計画案、議事堂・司法省・裁判所の概略案を作成し、帰国した。ベックマンの都市計画案はパリやベルリンに匹敵するような壮大なバロック都市計画であったが、財政上困難であり、まもなく計画は縮小された。
1887年、ベルリンでまとめた議事堂などの設計案を持ってエンデが来日した。しかし、エンデ帰国の直後に外務大臣井上馨が辞任したことで官庁集中計画そのものが頓挫することになった。議事堂・司法省・裁判所の設計は続けられたが、1890年、エンデ・ベックマンとの契約も解除された。
1893年、ベルリン動物園協会理事。1897年からは会長。
1895年、エンデ・ベックマンの設計に基づく司法省・裁判所が竣工した。
1902年、枢密建築監督官授与。建築家協会名誉会員。
1902年、永眠
ベルリン動物園内には、ベックマンの胸像が設置され功績をたたえられている。ベックマンは日本の官庁計画に関する記録として、「日本旅行記」、また回想録を残している。計画に際し、本国の協力の下で東京の山の手に地震観測所を設置。 
 
ルドルフ・レーマン

 

(ヘニング・ルドルフ・フェルディナント・レーマン)
Henning Rudolph Ferdinand Lehmann (1842-1914)
機械工学、語学教育(独)
ドイツの造船技術者、機械工学技師。オルデンブルク大公国・オルデンブルク出身。兄に武器商人のカール・レーマン。
オルデンブルクで高等司法顧問官を務めたアレクサンダー・アドルフ・レーマンの四男として生まれる。カールスルーエ工科大学の土木工学科で川海工業と土木工学を専攻。ロッテルダム造船所に就職。
1869年(明治2年)、兄・カールの経営するレーマン・ハルトマン社の相談役として訪日。大阪、川口の居留地で蒸気船建造の指揮に当たった。
1870年(明治3年)11月8日、ルドルフは京都府が角倉邸に新設した学校である「角倉洋学所」にドイツ語教師ならびに建築技師として招かれた。当時の大参事・槇村正直が、京都府顧問を務めていた蘭学者・山本覚馬などの策を採用し、外国人教師を迎えて語学教育を行うことを決定したためである。角倉洋学所は翌年3月に移転し「欧学舎」となり独逸学校を開き、4月27日には英語学校、10月20日には仏語学校を開校した。1873年(明治6年)5月、独逸学校に医学予備科が設置され、医学志望者にドイツ語を教えることとなり、さらに6月、欧学舎は二条城の北に新築され「欧学舎独逸学校」に改称。ルドルフは1872年・1873年に和訳独逸語辞書をそれぞれ2冊ずつ出版し、1877年(明治10年)には『和独対訳字林』を校訂、日本で初めての和独辞典とされている。独逸学校は1879年(明治12年)5月に京都医学校(後の京都府立医科大学)に合併され廃止となった。
1882年(明治15年)、東京に移住。その後は東京外国語学校や東京大学予備門で教壇に立ち、退職後は日独貿易に従事。1914年(大正3年)東京にて71歳で死去。生前、日本人女性との間に6人の子どもを儲けた。
彼の門人数人が1884年(明治17年)に設立した京都私立独逸学校が私立京都薬学校、京都薬学専門学校を経て京都薬科大学の前身となった。
レーマンの墓地は雑司ヶ谷霊園にあり、2004年からは遺族の同意のもと京都薬科大学が管理している。 
 
ヨハニス・デ・レーケ

 

Johannis de Rijke (1842-1913)
河川砂防整備(蘭)
オランダ人の土木技師。いわゆるお雇い外国人として日本に招聘され、砂防や治山の工事を体系づけたことから「砂防の父」と称される。日本語では、名前をヨハネス・デ・レーケなどと表記することもある。日本の土木事業、特に河川改修や砂防における功績から、日本の農林水産省ウェブサイトに土木史の偉人の一人として取り上げられている。
デ・レーケは7人兄弟の3人目としてオランダのコレインスプラート(オランダ語版)に生まれる。兼業農家である築堤職人の息子として育ち、オランダ内務省技官出の水理学者であるヤコーブス・レブレットに出会ったことで土木の技術者としての道を歩み始めた。子供のいなかったレブレットは、最初の教え子でもあったデ・レーケに数学や力学や水理学など、土木工学に関する学問を教え、その勤勉な姿勢を大変に可愛がったという。
内務省お雇い技師
1873年、明治政府による海外の学問や技術の国内導入制度によって、内務省土木局に招かれ、大学でもエリートだったG.A.エッセルらと共に来日した。エッセルは1等工師、デ・レーケは4等工師として遇せられ、淀川の改修や三国港の改修などに関わり、エッセルは主に設計を、デ・レーケは施工や監理を中心に担当した。
後に、ファン・ドールンやエッセルの後任として、内務省の土木技術の助言者や技術指導者として現場を指揮することになる。氾濫を繰り返す河川を治めるため、放水路や分流の工事を行うだけでなく、根本的な予防策として水源山地における砂防や治山の工事を体系づけ、また全国の港湾の建築計画を立てた。特に木曽川の下流三川分流計画には10年にわたり心血を注ぎ成功させた。木曽三川分流計画に関して当初、二川分流しか考えていない、木曽川の土砂対策に重きを置いた木曽川と長良揖斐に分ければよいと考えていたが、片野萬右衛門(かたのばんえもん)という老人の三川分流案の進言に感動し、三川分流に踏み切ったという。 日本中の現場にも広く足を伸ばし技術指導や助言も行っている。これらの業績は高く評価され、1891年、現代の内務省事務次官に近い内務省勅任官技術顧問の扱いになる。これは「天皇から任命を受けた内務大臣の技術顧問・相談役」という立場である。
建設事業の竣工において、事業関係者は招待されたり記念碑に連名されるのが慣例とされているが、デ・レーケは関連した全土木工事において一度も招待を受けたことがなく、連名の記念碑も無い。これは、お雇い外国人はあくまでも裏方であり、任務は調査と報告書提出のみであって、それを決定し遂行するのは日本側である、という事情の表れとされている。
勅任官技術顧問から内務省退官まで
後に、工科大学校(現・東京大学工学部)を始め、欧米諸国の大学で水文学をはじめとする高等教育を受けた内務省土木局の日本人技術者が台頭したことにより、徐々に活躍の場を失うも、内務省勅任官技術顧問としての責務を全うした。都合30年以上日本に滞在し、1903年に離日。在日中に提出した報告書は57編に上り、2度受勲され、帰国に当たっても「日本の土木の基礎を築いた」として、さらに勲二等瑞宝章を授与された。現在の価格にして4億円相当とされる退職金が支給され、当時の上官で内務省土木局長だった古市公威ら高級官僚による労いもあったとされる。
中国河川改修技師長以後
内務省退官後、数年間はオランダに帰郷し英気を養った。まもなく、オランダ政府代表として、中国の上海の黄浦江の改修事業の技師長として現地に赴く。辣腕を振るうことになるが、建設系事業者・コンサルタントを詐称する浚渫系専門業者などのいい加減さや、中国政府の未曾有の混迷による事業費問題、ドイツやイギリスの政府および報道機関への対応の苦慮などによる心労が重なったという。
1911年、技師長職を辞職。同年1月17日にオランダ獅子勲章(オランダ語版)が送られ、名実ともに貴族の仲間入りを果たすことになった。この爵位はオランダ政府代表として黄浦江改修事業の技師長を勤めた功績によるものとされる。2年後の1913年、母国オランダのアムステルダムにて死去する。

デ・レーケが指導や建設した砂防ダムや防波堤は、100年以上経過した現在でも日本各所に現存している。粗朶沈床の手法を日本に伝えた。1998年にはデ・レーケの孫が来日し、木曽川などを視察し話題になった。2000年は日蘭交流400周年にあたり、その記念事業として「『デ・レイケ記念シンポジウム』文明を支えるもの〜日蘭の厳しい国土条件と社会基盤」が開催され、デ・レーケとエッセルの子孫がともにゲストとして参加した。
日本の川を見てその流れの激しさに驚き 「これは川ではない。滝だ」と述べたという逸話が知られているが、これに関しては
低地国であるオランダ出身のデ・レーケは、ゆったりした川しか見たことが無く、日本の川を見て「これは滝だ」と驚いたという説
富山県知事が常願寺川の整備を内務省直轄事業としてもらうよう内務大臣に出した上申書にある「70有余の河川みなきわめて暴流にして、山を出て海に入る間、長きは67里、短きは23里にすぎぬ。川といわんよりは寧ろ瀑と称するを充当すべし」がデ・レーケの発言であったとする説
「(日本の川が)急流なのは、大きな滝がないからだ」と言ったのを通訳が誤訳したものであるとする説など諸説あり、実際の発言にどの程度即した物かは判然としない状態になっている。 
 
ローウェンホルスト・ムルデル

 

利根運河、宇品港(広島港の前身)築港(蘭)
(アントニー・トーマス・ルベルタス・ローウェンホルスト・ムルデル)
Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder (1848-1901)
オランダ人土木技師。お雇い外国人として、明治期の日本において港湾や河川の事業に携わった。日本では「ローウェンホルスト・ムルデル」と書かれる。また、「ムルドル」「ムルドン」などとも表記される。
1848年4月28日、オランダのライデンで生まれる。ムルデルと全く同姓同名の父親と、母親A.・C.・E.・ダアリーの間に生まれ、長姉のヤコブ・マリア、次姉のヨハンナ・エミリアに次ぐ三人姉弟の末っ子であった。初等教育をライデンとアルクマール、中等教育をハールレムで受け、少年期を過ごす。1865年に父を亡くすが、ハールレムや後にデルフトで学んでいるように、裕福な家庭であり遺産もあった。1872年にデルフトの王立土木工学高等専門学校(現・デルフト工科大学)を卒業し、水利省に勤務した。技師としてヴァール川の調査を行った。1873年8月ヘンドリック公の命により、スエズ運河ぞいに交易地を開設する任を帯び、エジプトのポートサイドに赴き、1875年に帰国した。1877年から1878年にかけてハーグの上下水道用運河の計画に従事し、その後ハーレムからブルーメンダールに至る鉄道の設計にも従事する。
お雇い外国人として
1879年(明治12年)3月29日に土木工師として来日。同年2月に離日した、学校の先輩でもあるファン・ドールンの後継者として期待されていた。日本での最初の仕事は新潟築港にむけての調査で、ムルデルはエッセルと共に任にあたった。当時の新潟港は土砂の流入により大型船の河口への侵入ができなくなっており、ムルデルは河口の改良、エッセルは信濃川の改修を調査し、突堤の建築を進言した。1881年(明治14年)、内務省より東京築港の立案を命ぜられ、後にデ・レーケらも参加するが、ムルデルは初期の立案者として東京港の基礎をつくった。
同1881年(明治14年)4月、見沼代用水の改良計画を提出。同年11月に熊本県の築港を調査し意見書を提出、これにより百貫港の改修は廃案になり、ムルデルの設計で三角港が築港されることになった。1883年(明治16年)、富山県の河川(常願寺川、神通川、庄川、早月川、小矢部川など)を調査し改修方針を提出。同年は函館港の水深が年々浅くなっていく問題を調査。1884年(明治17年)には三菱に在職していたイギリス人らとともに、ファン・ドールンに設計され1882年(明治15年)に竣工した宮城県の野蒜築港を調査。問題が多く大型船の停泊は困難とし、女川港の改修を主張した。
1885年(明治18年)2月、利根運河の計画を提出。江戸川の関宿・野田間にある巨大な中洲により水運が滞っていた問題に対し、茨城県知事・人見寧や茨城県会議員・広瀬誠一郎らが運河の建設を要請したことによるものであった。しかし、国内の情勢は鉄道建設が熱を帯びてきており、千葉県知事・船越衛は河川沿いに軽便鉄道を建設する考えを持っていた。結局、茨城・千葉の両県は運河の建設を合意し、同年7月に内務大臣へ運河開削が上申された。1886年(明治19年)6月、ムルデルは一時帰国し、翌1887年(明治20年)5月に再来日し、6月にはデ・レーケと共に運河の修正計画を提出、8月には熊本県の三角西港の竣工式に出席、9月には大阪港改築淀川改修の意見書を提出するなど、活発に活動を行った。1890年(明治23年)、利根運河が通水するも6月の開通式を待たず、任期満了のため5月に帰国した。開通式に宛てたムルデルの祝辞には、式典に出席できず帰国することへの遺憾の念が述べられている。
帰国後
帰国後はハーグに住み、1893年には16歳年下のM・A・ヨンキント・コーニングと結婚した。1895年、スヘフェニンゲンの漁港計画に参加。1897年、ナイメーヘンの汽車路線計画を依頼され、その4年後の1901年にナイメーヘンで死去。52歳であった。妻と共にナイメーヘンの墓地に埋葬されている。
評価
日本在任の11年で多くの港湾や河川の事業に携わったが、日本での評価は高いものとはいえなかった。これは主に調査や計画を担当し、実際の作業を監督した工事が三角港の築港と利根運河の開削に限られるためと思われる。
近年、流山市在住の郷土史研究者らを中心に再評価が行われており、流山市の利根運河水辺公園にはムルデルの顕彰碑が建てられている。本国オランダでは、スエズ運河と日本での業績、本国で発表された論文を併せて、他のオランダ出身のお雇い外国人たちより高い評価がされている。 
 
ジョージ・アーノルド・エッセル

 

George Arnold Escher (1843-1939)
河川整備。版画家マウリッツ・エッシャーの父(蘭)
オランダの土木技術者。または、エスヘル、エッシャー、エッシェルとも呼ぶ。フリースラント州レーワルデン出身。明治期にお雇い外国人として来日した。
1873年(明治6年)にヨハニス・デ・レーケらとオランダから来日。淀川(大阪府)の修復工事や坂井港(三国港、福井県)のエッセル堤、龍翔小学校(現:みくに龍翔館)の設計、指導を行った。1878年(明治11年)離日。母国に戻りエリート官僚の道を進んだという。息子のマウリッツ・エッシャーは、後に画家として有名になった。
 
コルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン

 

Cornelis Johannes van Doorn (1837-1906)
安積疏水の設計や野蒜築港計画に携わる(蘭)
オランダの土木技術者で、明治時代のお雇い外国人。約8年間にわたって日本で河川・港湾の整備計画を立て、オランダ人土木技師のリーダーを務めた。携わった事業には、大きな成果を上げた安積疏水や、全面的な失敗に終わった野蒜築港などさまざまな事例がある。
1837年2月9日にオランダ東部のヘルダーラント州ブルメンで生まれた。改革長老教会の牧師である父のピーテル・W・ファン・ドールン(Pieter W van Doorn)と、母のコルネリア・J・H・ファン・ドールン(Cornelia J. H. van Doorn)の第2子で、5人兄弟だったとされる。当時、彼の生まれたハル地区 (nl:Hall) は人口およそ数百名の農村だった。
ファン・ドールンは小学校を卒業後、ユトレヒト工業学校(現在の日本の工業高校に相当)に6年間通った。続いて1855年に18歳でデルフトの王立土木工学高等専門学校(現・デルフト工科大学)の聴講生となっている。この頃、公務員である技官として働いていたと考えられている。成績は優秀で1860年に「技師」(Ingenieur)の免状を送られ、国から技術官僚として採用された。その後、水政省の命令でオランダ領東インドのジャワ島に派遣され、技術助手として鉄道建設などに携わった。
1863年にオランダに帰国してからはアムステルダムとデンヘルダー間の鉄道建設に従事した後に職を辞し、マーストリヒトの高等学校で数学の教師となった。しかし1865年に政府技官に復職し、今度はアムステルダムとデンヘルダー間の運河開削に関わった。この際、アムステルダムでヨハニス・デ・レーケと共に閘門建設を行ない、後に彼を日本に招聘している。
来日
1872年2月にファン・ドールンは来日し、お雇い外国人として契約を結んだ。明治政府から求められていたのは全国各地の港湾・河川の整備であった。まず同年5月に、利根川と江戸川の改修のため利根川全域を調査した。この際、日本初の科学的な水位観測を行ない、両河川の分流点にやはり日本初の量水標を5月4日に設置した。7月には淀川、その後は信濃川、木曽川も視察している。さらに政府から求められた大阪港の築造のため、ヨハニス・デ・レーケ、ジョージ・アーノルド・エッセルらの技師をオランダから招聘し、翌1873年に彼らが来日するとリーダーとしての役割を担った。
同年3月25日には木津川支流を調査するなど精力的に業務をこなし、1874年には内務卿・大久保利通によって月給を500円から600円に増額されている。これは当時の閣僚と同程度の金額である。契約期間の延長を前提とし、翌1875年にはオランダに一時帰国した。ファン・ドールンは1年後に再び来日し、大久保の立案した1878年の土木7大プロジェクトの実現のため、安積疏水や野蒜築港の事業計画を立案した。
安積疏水の事業においては、奈良原繁や内務省官僚の南一郎平の優れた働きもあり、他国の大規模な灌漑事業との比較から詳細な計画が練られ、大きな成果を収めた。なお、開削案には
1.斉木峠 / 2.三森峠 / 3.御霊櫃峠 / 4.沼上峠
の4つがあったが、現地での調査から沼上峠開削案が最適であると報告している。
一方、野蒜築港については明治天皇の東北巡幸の際に各県の県令から要望があったため、1876年にはファン・ドールンが現地に派遣されている。その後1878年に工事が始まったが、完成の1882年より前の1880年2月にファン・ドールンは契約を終えて帰国した。1885年に台風で壊滅的な被害を受けて野蒜築港は廃止され、後に廣井勇はファン・ドールンの設計を厳しく批判している。このため、自ら設計した野蒜築港の工事中に帰国したのは、設計の不備に気付き完成の確信が持てなかったためではないかとも云われている。一方、当時は古市公威らヨーロッパで土木工学を学んだ人々が続々と帰国しており、財政上の理由もあって多くのお雇い外国人が契約を更新されなくなった時期でもあったため、特別な事情はないという見方もある。
帰国後
帰国後、1880年5月にファン・ドールンは日本政府から勲四等旭日小綬章を贈られている。1883年にはオランダ植民地省の委嘱でカリブ海のオランダ領キュラソー島に赴き、主任技師として埠頭工事や乾ドック建造などを行なった。その後、 ハーグで「オランダ鉄筋コンクリート会社」を設立し、筆頭取締役に就いている。また、共著で治水工学の本も執筆した。
生涯結婚せず、1906年2月24日にアムステルダムの自宅で逝去した。墓は福島県郡山市在住の一市民に発見されるまで、長く無縁仏状態であったが、現在は郡山市長を借地者として、アムステルダム市内の東公営墓地にある。1979年に郡山市の市民からの寄付で、記念碑が墓所に建てられた。ブルメル町ハル地区の生家近くにも記念塔と日本語の説明碑がある。
年譜
1837年 オランダのヘルダーラント州で生まれる。
1849年 ユトレヒト工業学校に入学。
1855年 工業学校を卒業、王立土木専門学校の聴講生となる。
1860年 技師の免状を送られ、技術官僚となる。
1864年頃 官僚を辞し、マーストリヒトの高等学校で数学教師となる。
1865年 官僚に復職する。
1872年 来日し、全国の河川などの視察を始める。
1875年 オランダに一時帰国する。
1876年 再来日する。
1880年 オランダに帰国。
1883年 キュラソー島に赴任する。
1906年 アムステルダムの自宅で逝去。
エピソード
安積疏水における功績を称え、銅像が会津若松市河東町(十六橋水門畔)に、1931年10月14日に建立されている。この銅像は第二次世界大戦中に強制的に供出させられそうになったが、安積疏水の理事長だった渡辺信任が、盗まれたことにして夜中に山中に埋めて隠し、戦後に掘り出して再建した。この話は鶴見正夫によって『かくされたオランダ人』という児童文学作品になった。
有能かつ温厚な技術者だったとされ、日本ではオランダ人技師のリーダーを大過なく務めた。
苗字のドールン(Doorn)は、オランダ語で「いばら」という意味があり、出身地のヘルダーラント州では多い姓である。
父の在職した教会は現存するが、当地に血縁者は残っていない。  
 
トーマス・ウォートルス

 

Thomas James Waters (1842-1898)
銀座煉瓦街(英)
明治初期に活躍したお雇い外国人で、建築技術者である。泉布観や銀座煉瓦街の建設で知られる。姓はオートルスとも。
アイルランドオファリー州バーの生まれ。香港の英国造幣局の建設に関わり、1864年頃、香港から鹿児島に渡り、叔父の知り合いだったグラバーの紹介で、薩摩国の紡績所などの工事に携り、長崎に行き、グラバーのもとで働く。
1868年貨幣司に雇用され、大阪の造幣寮応接所(現泉布観)を建設する。大隈重信らの信任を得て上京し、1870年(明治3年)から大蔵省に雇用される。竹橋陣営や、銀座大火後の銀座煉瓦街の建設が有名。煉瓦工場(ホフマン窯)も自ら築き、日本人を指導した。
工部省に移るが明治8年に解雇され、上海に赴いたのちニュージーランドで鉱山技術者として働く。鉱山技術者の弟とともにアメリカ合衆国・コロラドに渡る。そこでコロラド銀山を発見して成功を収める。
評価
本質は何でもこなす技術者で、正規の建築教育を受けたわけではない。サインをする際の肩書きは "Architect" ではなく、"Surveyor General" を使用していた。
デザインは古典主義建築(ジョージアン様式)をベースにするが、流行遅れなうえ、正統な様式から見ると、実は相当あやしげなものだという。いかにも明治維新の変動期にふさわしい人物であった。 
 
ジュール・レスカス

 

JulS.Lescasse (1841〜 ?)
生野鉱山建設のほか、西郷従道邸宅(仏)
明治初期に活躍した在日フランス人建築家。明治4(1871)年に来日。官営生野鉱山に勤めたのち、横浜に建築事務所を開設、かたわらパリの建築金物店ブリカール兄弟社の代理店も営んだ。代表作にニコライ邸(1875頃)や西郷従道邸(1885頃)などがある。 
西郷従道邸
木造総二階建銅板葺のこの洋館は、明治13(1880)年に、西郷隆盛の弟西郷従道が、フランス人建築家のジュール・レスカスにより東京上目黒の自邸内に建てたものである。西郷従道は、明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多かった。そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に、和風の本館と少し隔てて本格的な洋館を華やかな社交の場として設けたのである。
第二次大戦前に西郷家の敷地は旧国鉄等に売却され、洋館は一時プロ野球の国鉄スワローズ(現・ヤクルトスワローズ)の合宿所として利用されるなどしたが、博物館明治村(愛知県犬山市)に譲渡され、昭和39(1964)年に移築された。現在、跡地は菅刈山公園として開放されている。
半円形に張り出されたベランダ、上下階の手摺等デザインもさることながら、耐震性を高めるための工夫がこらされている。屋根に重い瓦を使わず、軽い銅板を葺いたり、壁の下の方にレンガをおもり代わりに埋め込み、建物の浮き上がりを防いでいること等にその現れをみることができる。
レスカスは明治5年(1872)には生野鉱山の建設に従事、同6年には皇居の地盤調査にも参加している。また、ドイツ公使館や三菱郵船会社の建物を設計し、明治20年頃まで建築事務所を開業していたが、その傍ら、日本建築の耐震性についての論文をまとめ、自国の学会誌に寄せている。
二階各室には丈の高い窓が開けられている。フランス窓と呼ばれるもので、内開きのガラス戸に加えて外開きの鎧戸が備えられ、窓台が低いため、間に鉄製の手摺が付けられている。 窓上のカーテンボックス、手摺、扉金具、天井に張られた押し出し模様の鉄板、そして流れるような曲線の廻り階段等、内部を飾る部品は殆ど舶来品と思われる。特にこの廻り階段は、姿が美しいだけでなく、昇り降りが大変楽な優れたものである。 
幕末から明治中期の鉄と建築
日本は製鉄技術の獲得を着実に成し遂げていったが、製品の多くは、軍需や船舶、鉄道などのインフラに優先的に用いられ、明治期においては、通常の建築物に使用される量はそう多くなかったようだ。したがって、鉄造の構造物や建築は、国産化が軌道に乗るまで、主として工場をはじめとするインフラの一部として現れる。
早い例は、前記した長崎製鉄所の施設であろう。1861(文久元)年に轆轤(ろくろ)盤細工所、鍛冶場、鋳物場などが完成しているが、このうち轆轤盤細工所は、煉瓦壁に鉄製のトラスを載せた、日本で最初の本格的な洋風建築の工場で、内部の柱も鉄であったと指摘される。
また、鹿児島の集成館紡績所(1867年)についても「石造鉄柱平屋建」と文書にあり、柱が保存されているため、鉄が構造材として使用されていたことが分かる。また、同様に薩摩藩によって1866(慶応2)年に起工され、1869(明治2)年1月に操業を開始する長崎の小菅修船場は、長崎製鉄所に買い取られるが、ここに残された捲上げ小屋は、煉瓦壁に鍛鉄棒のトラス小屋組と鋳鉄製の敷桁などの鉄材が用いられている。先進地長崎では、維新の前後から、その雛形が存在していたのである。
明治政府が建設し、鉄材が使われた施設では、トーマス・ジェームズ・ウォートルスが手掛けたとされる大阪造幣寮の鋳造場(1871年)が挙げられる。石造外壁の内側に鉄柱を立て、屋根にも鉄板が用いられた。また、工部省灯台寮に雇われたリチャード・ヘンリー・ブラントンは、佐多岬(1871年)、羽田(1875年)、烏帽子島(1875年)などに鉄造の灯台を手掛けている。
建築ではないが、橋梁も都市風景の中で目を惹く鉄製の構造物である。まず、前記した長崎のくろがね橋に続き、横浜の吉田橋(1869年)、大阪の高麗橋(1870年)、東京の新橋(1871年)が早くも鉄橋として架け替えられる。1887(明治20)年、隅田川の浅草付近に架けられた吾妻橋は、東京名所となった。
鉄道では、1874(明治7)年、大阪−神戸間で最初の錬鉄トラス橋が武庫川に架けられる。また、新橋−横浜間を複線化する際、1877(明治10)年から2年半かけて新設された六郷川鉄橋は、錬鉄製ワーレントラス6連で竣工する。そして、この頃、新橋鉄道寮内には、鋳鉄柱を外観に見せる工場が建設されている。
鉄柱を外観に見せる点は、それまでの鉄造建築に無い特徴であろう。ちなみに、日本初の鋼鉄橋は、1889(明治22)年、東海道線で天竜川に架けられた。
都市の建築では、鉄が煉瓦造建築の弱点を補う役割を果たす。
まず、フランスの技術者ジュール・レスカスが考案した碇聯(ていれん)鉄構法がある。1877(明治10)年に母国の土木学会で発表されたが、これに先駆けて、彼が東京で手掛けたニコライ邸(1875年)で採用されたと云われる。同構法は、煉瓦壁の中に水平方向の帯鉄を根積部、床部、壁頂部に敷き、それらを縦方向の鉄棒で繋ぐもので、耐震を目的とした。このような鉄の用い方は、1891(明治24)年の濃尾地震を契機に注目され、ドイツから招かれたエンデ&ベックマンによる法務省旧本館(1895年)や旧最高裁判所(1896年)に施されていたことが確認されている。そして、これらの工事に携わった妻木頼黄は、以降に自身が設計する東京商業会議所(1899年)や旧横浜正金銀行本店(1904年)などでも同様の補強を採用した。鉄による煉瓦壁の補強は、ジョサイア・コンドルも早くから言及していたとされ、1894(明治27)年に竣工した三菱一号館でも、開口部上下の帯鉄が確認される。
また、欧米と同様に、煉瓦造や石造建築の火災に対する予防も鉄材が担った。木造床に代わる鉄梁防火床の採用である。上記の三菱一号館は最初期の例で、床は英国ドーマン・ロング社製I型鋼の梁の間に、独国カンマーリッヒ社製の波板鉄板をアーチ状に挟んでいる。こうした防火床の構造は、辰野金吾による日銀本店(1896年)、河合浩蔵による大阪控訴院(1900年)など当時の主要な煉瓦造、石造の建築には多く見られた。
一方、製鉄所や造船所の系譜に連なる各地の海軍工廠では、1890年代から、鉄骨煉瓦造もしくは鉄骨造の建築が日本人の手で造られるようになっていた。鉄を主構造としている点で、煉瓦造を前提とする碇聯鉄構法とは根本的に異なる。中島久男博士によれば、1891(明治24)年に竣工する横須賀の機械工場が最も早い事例だが、6tスチームハンマーの設置に要する天井クレーンを支持するため、強度のある鋳鉄柱が求められたことがきっかけという。こうした建築は、横須賀、呉、佐世保、舞鶴のほか、海軍と協力関係にあった室蘭の日本製鋼所にも継続的に建設されていった。現存する遺構としては、舞鶴の魚形水雷庫(1903年)などがある。
また、日清戦争後には、ニューヨークのアメリカン橋梁社、日露戦争後には、英国のドーマン・ロング社が設計に関わるなど、新技術の導入が図られた。軍事力増強のため、工場建築の刷新が急がれたためである。その過程で、建築界からは、渡辺譲、桜井小太郎、浜田銀次郎らが欧米各国に派遣され、建設技術の獲得に尽力した。
地上3階建てで、日本初の本格的な鉄骨造建築とされるのは、1894(明治27)年、東京京橋の西紺屋町に建設された秀英舎印刷工場である。
当時の『建築雑誌』によれば、フランスに渡航中の細谷安太郎が、駅舎の不同沈下対策に用いられた鉄骨造の現場に触れ、それが東京のような弱い地盤に適すると考え、自宅用に買い付けた鉄骨と共に帰国する。鉄骨は古河市兵衛の院内鉱山施設に使われてしまうが、別の機会に友人である秀英舎社長佐久間貞一にこの技術について話したところ、その性能を理解した佐久間が、若山鉉吉を設計者として鉄骨煉瓦造の工場建設に着手したという。若山は、横須賀製鉄所黌舎の出身で、1877〜1887(明治10〜20)年にかけて、フランス海軍造船学校に留学している。その後は、工科大学造船学科教授と兼任で横須賀造船所の御用掛を務めており、海軍に関わりの深い人物であった。秀英舎の建物は、柱を鋳鉄管、錬鉄管、鋼管とし、梁には鋼を使っているが、柱間に煉瓦を充填するスタイルで、海軍工廠が手掛けた建築群と類似する。なお、上記『建築雑誌』では、鉄骨造について、広さを自在に調整できる、高層建築を可能とするといった利点が的確に指摘され、各種都市建築へ応用する可能性についても述べられていた。
そして、1901(明治34)年に操業を開始した八幡製鉄所には、明治30年代に大規模な鉄骨造の施設群が建設されている。これらはドイツからのプラントだが、鉄骨造建築の建設技術習得に重要な役割を果たしたことも見過ごせない。
このように、明治30年代までの鉄造建築は、製鉄所や海軍工廠など、主に海軍や官営工場に近い組織が先んじて技術を獲得する様子がみられるが、八幡製鉄所の開設後、国産材の供給が増えると、次第に建設技術への理解や建築家の関与が高まり、鉄を主要構造材とする建築が都市の主役となる時代が到来する。 
伝導館 (主教館と司祭館)
・・・明治6(1873)年2月、明治政府はキリスト教禁制の三枚高札を撤去し、翌年ニコライは古い家屋を取り払い、西洋式の「伝導館」建物の新築を計画した。そして、記録によれば、フランス人技師に3000円の工事予算で委託したところ、工事費の一部を持って逃げてしまったことになっている。最終的には、同じくフランス人技師のジュール・レスカスによって、日本の地震に耐えられるよう鉄骨煉瓦造で設計され、長郷が施工監理の手伝いをして完成した。最初の工事委託を受けたフランス人技師は誰なのか不明であるが、レスカスの方は中国海関技師を経て、神戸と横浜で土木建築事務所を自営し、明治初期の信頼できる建築技術者として官民の仕事を請け負った。
建物は堅牢を期すために最良の構法と材料で建設され、当初の予算を大幅に上回り、3万円を要して、起工から1年後の明治7(1875)年末にほぼ完成し、翌年初めに成聖式が執り行われた。そう考えると、最初の計画では木造だったものを、レスカスの提案を受け入れて、補強煉瓦造へと変更したと考えられる。この建物については堀勇良氏と小野木重勝氏の考察があるが、実際に伝導館に使われた帯鉄補強構法がどのようなものかは不明である。堅牢な建築を求めるニコライの姿勢はこの後も一貫し、そのため教会建設費が増加し、その建設資金の工面に窮することになる。
伝導館はL字型平面の2階建て洋館で、東側の棟の主教館と南側の司祭館によって構成される。主教館1階にニコライの執務室兼居室、2階に「東京ハリストス降誕聖堂」、一般的には「十字架聖堂」と呼ばれる祈祷所が置かれた。ニコライは、1880年にロシアに帰国した時を除いて、亡くなるまでの37年間をここで過ごした。一方、南側の司祭館は教会執務に使われた。関東大震災の際に大きな被害を受け、主教館の方は松山聖堂を移築建設の場所を確保するために撤去されてしまい、司祭館の方は1階部分改修再利用され、現存する。
そのため、建物の外観と平面については、『東京十字架聖堂記念画帖(明治38年)』に司教館の規模概略が述べられているものの、あとは数枚の写真から判断するしかない。
「外部は地盤から屋上の十字架まで大約土間半(13.7米)位、其聖所となっている部分の外囲が東西土間(12.7米)南北五間(9.1米)、特に八角形を作せる至聖所の外囲が1間1尺5寸(7.7米)前面の三辺がそれぞれ」
・・・十字架聖堂は、箱館ロシア領事館内礼拝所を除くと、日本人信者が目にした最初のロシア式の聖堂であり、その後、石巻などの北上川下流域の都市に建設される聖堂のモデルになったと言われる。その根拠は、正面に、1階でポーチと2階で至聖所となるベイ(張り出し)が付くことと、2階に聖所が置かれていることであるが、両者には外観だけではなく、平面にも大きな違いが見られ、再考を要する。  
黎明期のニコライ堂
20年もさかのぼるだろうか。堂内には香油のにおいが立ちこめていた。クリスマスの夕、どうしても入ってみたかった駿河台の夜の大聖堂の記憶は今もって鮮やかだ。
光り輝くイコノスタシスを背に外階段に出る。すると夜空の下、改めて敷地内前面にひっそりとたたずむ目立たぬ二棟の建物が気になっていた。もしかすると、これがあの最初期の建物「十字架聖堂」ではないか。
ニコライ堂竣工以前、駿河台には地図に記されているように二棟の洋館がそびえていた。だが目の前の石造りはあまりにも質素だ。表面が漆喰と塗料で塗り固められているから、この建物も煉瓦造だとは当時私も気付かなかったのである。
ニコライ自身が記したモスクワの正教会本部に宛てた日本の現状報告書がある。明治11年のことだからまだニコライ堂は影も形もない。二棟に関する次のような記述がある(ニコライ著・中村健之介訳「明治の日本ハリストス正教会」教文館)。
東京にある教会の建物は「新しいきわめて堅牢な石造りの建物二棟」とあり、ここには教会と洗礼式場、及び事務局、教室、関係者居室などと説明しているが、端的にいえば二棟にすべてが詰め込まれていたと考えていい。
さらに話が少し瑣末に流れることをお許し願うと、興味深いのは建物と建物の間の記述。これをつないでいたのは「二階同士をつなぐ屋根付き木造の渡り廊下」であったという。また、その廊下の真下は当時では珍しい「水洗便所」、まだ日本初の「神田下水」も完成していない時期、後に敷地内には井戸も掘られていた。
いずれにしても、この建物が開化期を語るものとしていかに重要であるかは両国の江戸東京博物館もよく承知していて、さっそく館内にコーナーを設けている。そして大聖堂模型だけではなく、この二棟も加え復元した。だが大聖堂はよく知られているが、この二棟についてはあまり知られていない。いったいいつ頃、建てられたのだろうか。
ニコライが初めて日本の土を踏んだのは幕末の函館だった。そして北海道から勇躍上京、いよいよ東京で布教を開始しようとしたのは明治5年2月のことである。まずは外国人地区、築地居留地の旅館で旅装を解き、果敢なニコライは時を移すことなく、築地ホテル近くの貸家を見つけ「築地講義所」の看板をかかげるのである。ここまではいい。だが、四、五人の日本人を前に講義を開始したとたん不運にも火事に類焼してしまう。
この当時、まだ東京は「耶蘇教禁制」下にあり、ロシア正教の講義はおおっぴらには難しかったことが考えられる。当初は「仏教の講演会」(増上寺)を企画するなどくれぐれも事は慎重にと心掛けていたことは容易に想像できる。だが、火事で初回からつまずいてしまった。その後、米人宅、港近くの空き家など点々と模索の日が続き、暑い夏もこうして終わろうとしていた。そこに朗報が届く。
明治5年9月、駿河台の高台にあった戸田侯爵邸(江戸からの定火消屋敷跡)の土地7,590平米と周辺の旧幕府6人の役宅をロシア公使館の付属地として購入が決定した。「府下随一の勝地にして(中略)、この邸内に大小の家屋幾棟もありしかば、この家屋を以て直に学校」(「日本正教伝道誌」)としたのである。だがその裏には、函館にあったロシア領事館がこの年東京に移り、公使館に昇格したという背景がここにある。
ニコライの熱心な働きかけが功を奏したわけだが、それにしても「駿河台」という布教の一大拠点構想はこの時期、他の宗派では見られない壮挙ともいえる。私は、現在聖ニコライと呼ばれるこの強靭無双な熱い魂がひときわ高台にあるこの一等地を選ばせたのだと思えてならない。そして推測だが、この時期からすでに眼前にはささやかな聖堂像はなく、大聖堂建設なくして布教の拡大はないとまで思いつめていたと思われる。こうして自身にも重荷を課し神に誓い、第一陣として建てられたのが「十字架聖堂」と呼ばれる、ニコライにしてみれば取りあえずの小聖堂であった。
これは現在江戸東京博物館にニコライ堂とともに模型として復原されている。だが、見れば屋根に掲げられた十字架は建物に比して異常に小さい。なぜだろうか。
この小聖堂は何と明治6年に着工されている。この年はやっと「禁制」の高札が撤去されたばかり。まだキリスト教界には不穏な空気が続き、したがって巨大な尖塔ははばかられたと思われる。
これは現在「主教館」「司祭館」と呼ばれる二棟だが、その建築家をジュール・レスカスという。このフランス人といったいどこで知り合ったかは不明だが、ニコライは日本語以外に仏語、独語もこなしたらしい。レスカスは当時、関西(生野鉱山)から上京し横浜で建築事務所を始めたばかり、皇居の地盤調査などにもあたるなど新鋭の建築家でもあった。元々土木構造にも強い、このあたりが頑健を志向するニコライとの接点をもたらしたものと思われる。
レスカスは、後に「THE JAPAN GAZETTE」にも論文を寄せているが、地震国日本には強健な建築をと文部大臣に進言している。この文書は日本公文書館に保管されていて、文中に例として示されているのが「ニコライ邸」だが、レスカスはこの文書で、すなわち私が「駿河台ニ建築シタル「ニコライ」氏ノ家屋」は単なる煉瓦積みではなく、鉄や木の支柱などを組み込んだ耐震造を試みた良い例であると力説していた。
しかしこの「ニコライ氏ノ家屋」とは何か。当然これはニコライの自邸ではない。ニコライにとっては神の家しかあり得ないから、これは明らかに「十字架聖堂」を指していると考えていいだろう。
さてそれでは年代はいつか。小野神父によると明治7年説と8年説があるという。これを当時の新聞で見てみよう。結論からいうと、明治7年暮れには「功を竣(おわら)んとす」、ほぼ出来上がっていた。これは12月10日の「新聞雑誌」だから、年内に竣工したと思われる。だが開堂式まで行われたかどうか、これが8年説の根拠だ。
しかしニコライはこれで拠点が完成したとは思わなかった。明治12年、ニコライは大志を抱き再度ロシアに帰国、資金集めに奔走する。11月、ニコライはすでに日本大聖堂建設のために、府主教及び彼に推薦されたシチュールポフ(ロシア工科大学・建築家)と三人で具体案を協議して再び日本に戻った。
明治17年3月に現在の大聖堂が着工した時、ニコライは工事監督にある男を起用する。戊辰戦争の下、旧会津藩の生き残りであり信者であった長郷泰輔だ。これはおそらくあの建築家コンドルの采配ではないだろう。ニコライ上京後、長郷泰輔はニコライの紹介で横浜のレスカスに学んでいて、さらにレスカスが十字架聖堂の建築を任されたことなど、これらを総合するとここで「レスカス」つながりになることを初めて知った。
こうして「長郷泰輔」の奮闘により7年の歳月と34万円の巨費を投じて建てられたのが現在「ニコライ堂」の愛称で親しまれている大聖堂である。24年2月に完成したが、私にはコンドルよりこの会津の残影のほうに興味が残った。
さて、これ以後、ニコライと大聖堂の命運は、日露戦争という荒波に翻弄されたかに見えたが、ニコライはあくまで日本に踏みとどまり続けた。
そしてあの関東大震災。ニコライ堂も例外ではなかった。鐘楼上部はドーム側に大きく崩れ、火が入ったため内部が焼け落ちる。また主教館、司祭館の二棟からも出火、木造組みの屋根は瓦もろとも崩れ落ち、内部は焼失して外壁だけが残された。
その後の再建により今の姿に復興したのはご承知の通りだが、今回とりあげた二棟はどういう変遷をたどったのだろうか。
江戸東京博物館の調査によれば「主教館は十字架聖堂の部分を一、二階共、他は二階部分を撤去」し、二棟とも屋根をかけ直したのだという。分かりやすく言うとL字型に張り出した主教館のうち、十字架聖堂部分が消え全体に背丈を低くして現在の姿になった。
つまりこれは総体として、外壁だけは創建当時のままだから、明治7年末という驚異的な遺産が外壁に残されて今日に至っている。
いずれにしてもこれは、現存する都内でも屈指の建築遺産であり、改めて光の当る日の近いことを期待したい。最後にラスキンの言葉「人は建築がなくても生きていけるだろう。人は建築がなくても礼拝はできる。しかし人は建築なしに記憶することはできないだろう」 
三菱海運業時代に蓄積された建築技術
・・・三菱の始まりは、海運業であった。1870(明治3)年、土佐藩経営の開成館を受け継ぎ土佐開成商会を興した後、九十九商社から1872(明治5)年に三ツ川商会となり、1873(明治6)年に三菱商会になった。更に、1874(明治7)年には三菱蒸汽船会社となり、本社を東京に移転させた。1875(明治8)年2 月には、上海定期航路を開いた。同年9 月には政府が保護していた日本国郵便蒸汽船会社が解散し、船舶17 隻の他人員や施設を吸収し、郵便汽船三菱会社と改称した。
郵便汽船三菱会社は、国際航路の路線も有する規模となったことから、欧州建築の技術情報を直接入手できる環境があったと考えられる。1875(明治8)年12 月には上海ボイド商会と折半出資の合弁で横浜に三菱製鉄所を操業した。営業の主眼は、自社船の修繕であるが、1880(明治13)年頃には400人から500 人の従業員を擁する規模となった。横浜港内で埋立てを行い、三菱製鉄所の本格的拡充計画を目論むところまで行った。1884(明治17)年に、郵便汽船三菱会社へ長崎造船所引受の打診が入り借用し、3 年後に三菱社が買収した。蘭人指導で開始された長崎製鉄所から官営造船所で培われた技術と、ボイド商会及び三菱で培われた技術が合流した。
1876(明治9)年から1879(明治12)年まで、山口半六は文部省海外留学生に選抜され、古市公威等とともにパリのエコール・サントラル(工学・技術系エリート養成学校 École Centrale)に留学した。山口は、エコール・サントラルを終了後、同大学のミューレル教授より建築研修や煉瓦製造研修を受け、1881(明治14)年に帰国した。山口は翌年1 月に郵便汽船三菱会社に入社し、仏人ジュール=レスカス(Jules Lescasse)の下で設計活動を行った。レスカスは、郵便汽船三菱会社に1880(明治13)年建築技師として雇われ、東京に七つ蔵と呼ばれた7棟の煉瓦倉庫群を設計した。レスカスは日本における煉瓦造について高い見識をもっていたが、その下で、山口は在職中に支社や出張所、大阪の倉庫橋梁工事や函館の倉庫堀割架橋等工事を担当した。
山口は留学時代エコール・サントラルでフランソワ=コワニエ(François Coignet)教授に学んだ。コワニエは金属製のメッシュによってコンクリートの補強技術を開発した先駆者で、実際に6 階建てのアパートも建てた。レスカスや山口半六が郵便汽船三菱会社に移植した煉瓦構造物の技術は、国際的水準に達していたと考えられるだけでなく、フランスで始まるコンクリート系の新技術も情報として日本に持ち込んだと考えることができる。

レスカスは1874(明治7)年頃は、神田駿河台ニコラス聖堂建設に関係している、翌年レスカスは日本の地震と煉瓦建築について論文を発表し、論文内で煉瓦造補強について、ニコライ聖堂を事例として紹介している。「既ニ東方駿河台ニ建築シタル〔ニコライ氏〕ノ家屋ニ態々此ノ施工イタシ候煉瓦石一大束層ノ如キ壁ヲ表面ニテ釣留スルコトハ容易ナルコト無論ニシテ鋳ノ固有力ヲ仕用スル仕方ヲ以テセバ節倹ヲ得ベシ」 

ジョサイア・コンドル (コンデル)

 

Josiah Conder (1852〜1920)
鹿鳴館の設計、建築学教育(英)
イギリスの建築家。1877年来日、工部大学校(現・東京大学工学部)の教授となり、日本人建築家辰野金吾らを育てた。東京・丸の内のレンガ街、鹿鳴館、ニコライ堂、古河虎之助邸(現・旧古河庭園大谷美術館)などを設計した。日本の絵画、生け花、日本庭園についての著作もあり、海外への紹介に尽くした。日本人と結婚し東京で死去した。 
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イギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、新政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。日本女性を妻とし、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみ、趣味に生きた人でもあった。「コンドル」はオランダ風の読み方で、「コンダー」の方が英語に近い。著書『造家必携』(1886年)には「ジョサイヤ・コンドル」とあり、政府公文書では「コンダー」「コンドル」が混在しているが、一般には「コンドル先生」で通っている。「コンデル」とも呼ばれた。

1852年 ロンドンのケニントン(22 Russel Grove, Brixton, Surrey)に生まれる。父は銀行員。
1862年ロンドン万国博覧会 (1862年)での展示から日本美術に興味を持つ。
1864年父親が急逝。
1865年奨学金を得てベドフォード商業学校に3年間通ったが、建築家を志し、1869年からロジャー・スミス(父の従兄でのちにロンドン大学教授になる建築家)の建築事務所で働きながら、サウスケンシントン美術学校とロンドン大学で建築を学ぶ。
1873年 ウィリアム・バージェス事務所に入所。バージェスも日本美術愛好者で、先のロンドン万博でも日本美術の記事を執筆していた。
1875年 バージェスの事務所を辞し、ワルター・ロンスデール(en:Horatio Walter Lonsdale)のもとでステンドグラスを学ぶ。
1876年「カントリーハウスの設計」で一流建築家への登竜門であるソーン賞を受賞。日本政府(工部省)と契約(5年間)。
1877年(明治10年)来日、工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)造家学教師および工部省営繕局顧問。麻布今井町(現・六本木2-1)に居住。
1881年(明治14年)河鍋暁斎に入門、毎週土曜日が稽古日。
1883年(明治16年)鹿鳴館開館。暁斎から暁英の号を授かる。(英暁か?)
1884年(明治17年)絵画共進会に「大兄皇子会鎌足図」、「雨中鷺」を出品、入選。工部省との契約終了により工部大学校教授退官(辰野金吾が教授就任)。
1886年(明治19年)帝国大学工科大学講師(4月)、官庁集中計画の一環で学生を引率しドイツへ出張(10月〜)、ロンドンにも立ち寄り、翌年帰国。
1888年(明治21年)講師辞任、建築事務所を開設。
1893年(明治26年)花柳流の舞踊家、前波くめと結婚。
1894年(明治27年)勲三等瑞宝章。
1904年東京麻布三河台町25(現・六本木4-3)に自邸を建設。
1914年(大正3年)工学博士号を授与される。
1920年(大正9年)麻布の自邸で脳軟化症により逝去。67歳。11日前に亡くなった妻と共に護国寺に埋葬された。
人物
日本文化に傾倒。画家(浮世絵師)の河鍋暁斎に就いて学び、「暁英」という号を与えられた。河鍋暁斎がコンドルに教えたのは、狩野派の画法であると考えられている。また、遠州流の華道を学び、著作の"The Flowers of Japan and the Art of Floral Arrangement"は生け花についての英語による初めての本と言われている。
大磯の吉田茂邸隣地に別荘を保有していた。
コンドルの前任者であるシャステル・デ・ボアンヴィルら外国人教師の多くは尊大で日本人をばかにしているところがあったが(ボアンヴィルはフランス系で英語に訛りがあり生徒には聞き取りにくかったうえ、日本人とスコットランド人の悪口を言うのを趣味とするような人物だったと言われる)、コンドルは若く快活で英語も明瞭、日本文化への理解も深く、生徒に人気があった。
 
エドモンド・モレル

 

Edmund Morel (1840-1871)
新橋〜横浜間の鉄道建設、初代・鉄道兼電信建築師長(英)
イギリスの鉄道技術者で、お雇い外国人として日本の鉄道導入を指導した。
1840年11月17日、イギリス、ロンドンのピカデリー、ノッティング・ヒルにおいて生まれた。キングス・カレッジ・スクールおよびキングス・カレッジ・ロンドンにおいて学んだ。オーストラリアのメルボルンにおいて土木技術者として8か月、続いてニュージーランドのオタゴ地方の自治体で技術者として5か月、ウェリントン地方の自治体の主任技術者として7か月働いた。1865年5月にイギリス土木学会の準会員に推薦され入会している。この間、1862年2月4日にロンドンにおいてハリエット・ワインダー(Harriett Wynder)と結婚している。
1866年1月から、北ボルネオにあるラブアン島において、石炭輸送用の鉄道建設に当たった。ラブアン島にいつ頃まで滞在していたのかはわかっていない。日本での鉄道導入に際して外債の発行を依頼されたホレーショ・ネルソン・レイ(後にトラブルとなって解約される)と1870年2月21日にセイロン島のガレにおいて会談し、日本へ赴いて鉄道建設の指導をすることになった。日本には夫人を連れて赴任している。1870年4月9日に横浜港に到着した。
イギリス公使ハリー・パークスの推薦があり、その職務への忠実性も評価されたモレルは、建築師長(技師長)に任命された。モレルは早速5月28日に、民部大蔵少輔兼会計官権判事であった伊藤博文に近代産業と人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出している。また民部大蔵大輔の大隈重信と相談の上、日本の鉄道の軌間を1,067 mmの狭軌に定めている。さらに、「森林資源の豊富な日本では木材を使った方が良い」と、当初イギリス製の鉄製の物を使用する予定だった枕木を、国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行い、外貨の節約や国内産業の育成に貢献することになった。こうしたことから、「日本の鉄道の恩人」と賛えられている。
しかし、日本到着時には既に肺を患っていたと言うモレルは、1871年(明治4年)休職してインドへの転地療養を願い出る。政府はモレルの功績に応じて5,000円の療養費を与え、願い出を許可したが、日本の鉄道の開業を目前にして結核により、1871年11月5日(明治4年旧暦9月23日)、横浜において満30歳で没した。そのおよそ12時間後の11月6日(旧暦9月24日)、ハリエット夫人も神経または呼吸器系の急性疾患で、満25歳で亡くなっている。
モレルの遺志は、建築副役のジョン・ダイアックらに受け継がれ、1872年(明治5年)に日本の鉄道は開業した。
記念碑と墓地
桜木町駅近くにはモレルを記念した「モレルの碑」が「鉄道発祥記念碑」とともに設置されている。横浜市の横浜外国人墓地内にあるモレルの墓所は、1962年に鉄道記念物に指定された。墓石の脇には梅が植えられ夫婦愛を称えるため「連理の梅」と呼ばれたが、関東大震災の際に荒廃した。国鉄時代に新たに梅が植えられ、2009年3月にも一本植樹された。モレルと同じく外国人墓地に設けられた、ジョン・ダイアックなど数名の墓についても、準鉄道記念物に指定されている。
経歴に対する誤解
モレルの経歴に関しては様々な誤解が流布されている。生年については1841年説があったが、出生証明書などにより1840年生まれであることが確認されている。またラブアン島をボルネオではなくオーストラリアの島であると誤解したもの、セイロン島でレイと会って日本赴任を決めたのを誤解してセイロン島で鉄道建設に従事していたというものなどもある。
同じように広く流布している説としては、モレルの夫人は日本人であるというものがある。大隈重信夫人の綾子付きの小間使いのキノという女性と結婚したという説がまことしやかに流布されているが、元は小説家の創作に由来するものと考えられている。結婚証明書や日本渡航時の船客名簿などから、イギリスにおいて既にハリエット夫人と結婚しており、日本へ同伴していることが判明している。 
 
リチャード・ヴァイカーズ・ボイル

 

Richard Vicars Boyle (1822-1908)
京都〜神戸間の鉄道建設、E・モレルの後任(英)
アイルランド生まれのイギリスの土木技術者。主に鉄道建設の分野で活動した。インドに滞在した時期にインド大反乱に遭遇し、その鎮圧に協力。お雇い外国人として日本にも滞在した。
1822年3月14日、ダブリンのヴァイカーズ・アームストロング・ボイル(Vicars Armstrong Boyle)の三男として同市に生まれた。ヴァイカーズ・ボイルは17世紀に北アイルランドに移住したエアシャー州ケルバーン (en:Kelburn) のボイル家分家筋の末裔である。母は同市デヴィッド・コートニー (David Courtney) の長女ソフィア (Sophia) 。私立学校を卒業し、三角法によるアイルランドの測量に2年間従事した後、チャールズ・ブラッカー・ヴィグノルズ (en:Charles Blacker Vignoles) に師事した。契約満了後、アイルランドの鉄道敷設に携わった。当初はウィリアム・ダーガン (en:William Dargan) の助手として、ベルファスト・アーマー線、ダブリン・ドロヘダ線に投入された。1845年、ジョン・ベンジャミン・マクニール (en:John Benjamin Macneill) 卿の下で、グレート・サザン鉄道 (en:Great Southern Railways)、グレート・ノーザン鉄道 (en:Great Northern Railway (Ireland)) の調査及び一部敷設を行い、1846年から1847年にかけてロングフォード・スライゴ線の主任技術者に就任した。1852年秋、ジョージ・ウィラビー・ヘマンズ(George Willoughby Hemans、女流詩人の息子)の主任助手としてスペインで鉄道、水道の敷設に当たった。
インドでの活動
1853年、東インド鉄道 (en:East Indian Railway Company) の県技術者に任命された。当初パトナに駐在し、そこからアラー (en:Arrah、シャハーバード (en:Shahabad district)) に派遣された。インド大反乱勃発の際に名誉ある活躍を果たす。1857年7月末になる頃、アラーから約40km離れたダナプール (en:Danapur) の宿営地にいた地元兵が反乱を起こし脱走すると、ボイルは自宅と同じ敷地にあった2階建1.5坪の一軒家を要塞化し、反乱に堪えるため食糧を供給した。7月26日には、ヨーロッパ人16名、シク教徒約5名がここに避難したが、翌朝反乱軍がソン川(en:Son River) を渡りアラーを占拠し、家も包囲された。しかし、シク教徒等の勇気と忠誠に支えられ、住民等は8月2日まで約3000人を相手に家を守り切ることに成功し、同日ブクサール (en:Buxar) からヴィンセント・エア (en:Vincent Eyre) 少佐率いる援軍が接近すると、反乱軍は撤退し、家は包囲から解放された。その結果、ボイルはエア軍の佐官に任命され、通信や橋の復旧に従事することとなった。数日後、馬に蹴られ仕事を行えなくなる。一応の快復を見ると、コルカタに召喚されたが、蒸気船リバーバード号でガンジス川を下る途中、シュンドルボンで座礁した。療養のためペナン、シンガポールへ船旅に出た後、1858年初頭にアラーに戻った。かかる働きに対し、暴動勲章 (en:Indian Mutiny Medal) とアラー近くの土地を与えられた。1868年、インド鉄道会社を離れ、インド公共事業局 (en:Central Public Works Department, India) の一級技官になるが、間もなく個人的事情によりイングランドに呼び戻された。1869年、インドの星 (en:Order of the Star of India) を叙勲された。
この間、1854年1月10日にイギリス土木学会の準会員、1860年2月14日に正規会員となった。
日本時代
1872年から1877年までは、日本の官設鉄道の建築師長(エドモンド・モレルの後任)として日本に滞在した。イギリス人助手等と共に日本に広大な鉄道システムを築き上げ、110km余りの鉄道網を完成、運行可能な状態にした。ボイルは政府の命で東西両京を結ぶ幹線としての中山道幹線の調査をおこない、中山道への敷設を前提とした報告を提出している。
1874年には、イギリス電気学会 (en:Institution of Electrical Engineers)に加入した。
離日後の1882年、イギリス土木学会に日本の六郷川橋梁に関して論文を発表している。
晩年
1877年、職業上の業務から引退すると、直ちに多くの日々を旅行で過ごすようになった。1908年1月3日、ハイドパークスタンホープテラス (Stanhope Terrace) 3番地で死去、ケンサルグリーン (en:Kensal Green) に葬られた。1853年、ディエップのW・ハック (W. Hack)の娘エレノール・アンヌ (Eleonore Anne) と結婚し、1人息子を儲けるも夭逝している。
 
リチャード・フランシス・トレビシック

 

Richard Francis Trevithick (1845-1913)
官設鉄道神戸工場汽車監察方。国産第1号機関車を製作。
機関車の父リチャード・トレビシックの孫(英)
イギリスの鉄道技術者。蒸気機関車の発明者の一人であるリチャード・トレビシック(Richard Trevithick)の孫、その長男のフランシス・T.トレビシック(en:Francis Trevithick、1812年 - 1877年、機関車コーンウォール号の設計者)の子。
リチャード・フランシスは1888年に来日、お雇い外国人として主に官設鉄道神戸工場の汽車監察方などを務め、1904年まで勤務している。そこで、日本初の国産蒸気機関車となった860形蒸気機関車の製作を指導し、その後も独特な様式を持った機関車を数種類製作している。1888年の来日以前は、セイロン国鉄で汽車監察方であった。弟のフランシス・ヘンリー・トレビシックも鉄道技術者で、兄よりも早く1876年に来日し、官設鉄道新橋工場の汽車監察方などを歴任した。兄弟とも、日本の機関車技術の向上と定着に大きな役割を果たした。 
 
フランシス・ヘンリー・トレビシック

 

Francis Henry Trevithick (1850-1931)
鉄道技術を伝える。官設鉄道新橋工場汽車監督。リチャード・フランシスの弟(英)
イギリスの機械技術者。
蒸気機関車の発明者の一人であるリチャード・トレビシック(Richard Trevithick)の三男であるフランシス・トレビシック(1812年 - 1877年、機関車コーンウォール号の設計者)の三男。1876年にお雇い外国人として来日、主として官設鉄道新橋工場の汽車監察方(汽車監督:Locomotive Superintendent)などを歴任した。日本で日本人女性と結婚して二男二女をもうけ、1897年に退職帰国した。 日本でのリチャード・トレビシック研究で知られる奥野太郎はフランシス・ヘンリーの孫にあたる。
兄のリチャード・フランシス・トレビシック(Richard Francis Trevithick)も機関車技術者であり、弟のフランシス・ヘンリーよりも遅れて1888年に来日、主に神戸工場の汽車監察方などを勤め、1904年まで勤務している。兄弟とも、日本の機関車技術の向上と定着に大きな役割を果たした。
著作
汽車監察方フランシス・トレビシックの名により、1892年10月14日付で機関車の略図"The Outline Leading Dimensions, and Weights of the Different Classes of Locomotives"が発行された。また、1893年4月12日付で"The Outline Leading Dimensions, Weights and Capacities of the Different Classes of Carriages & Wagons"と称し、当時在籍する客貨車を形式別に略図で示したものも発行された。これらは日本の鉄道の初期の車両(特に客車)に関する根本資料が少ない中、貴重な基本資料となっている。『日本国有鉄道百年史』にも、この2篇から多くの図面を採録している。
また彼には、"The History and Development of the Railway System in Japan"(日本における鉄道網の歴史と発達)と題する論文がある。これは1890年代、横浜の日本アジア学会(The Japan Asiatic Society)で発表され、その機関誌に掲載されたが、1895年に"The Railway Engineer"誌に採録された。これも日本の初期の鉄道史、例えば3フィート6インチ・ゲージ採用や、客車の状況などについての貴重な資料である。  
 
フランソワ・レオンス・ヴェルニー

 

Francois Leonce Verny (1837-1908)
横須賀造兵廠、長崎造船所、城ヶ崎灯台など(仏)
フランスの技術者。1865年から1876年にかけて横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台、その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。
1837年12月2日、フランス中部のローヌ=アルプ地域圏に位置するアルデシュ県のオーブナで生まれた。父は製紙工場を経営するマテュー・アメデ・ヴェルニー、母はアンヌ・マリー・テレズ・ブランシュで、5男2女の兄弟の三男だった。就学年齢の8歳になるとオブナの町で神父が経営するコレージュに通い、平均的な成績をおさめていた。やがてリセへの進学を目指して家庭教師の指導を受けると成績が向上し、1853年に16歳でリヨンのリセ・アンペリアルに入学している。リセでは厳しいカリキュラムをこなし、1854年には数学で学年1位となっているが化学の成績は振るわなかったという。余暇にはバイオリンや馬術を習い、1856年にかねて志望していたエコール・ポリテクニークへ合格者115名中64位という成績で入学した。
エコール・ポリテクニークでの生活については不明な点も多いが、おおむね良好な成績で1858年にヴェルニーは同校を卒業した。同年、海軍造船工学学校(フランス語版)に入り海軍技術者となった。同校在学中はしばしば旅に出て、1858年夏はオルレアンやボルドー、トゥールーズ、1859年6月にはイタリア独立戦争中にジェノヴァやフィレンツェを訪れている。工学学校卒業後、1860年8月にブレスト造兵廠に着任し、造船・製鉄・艦船修理など多岐にわたる業務に従事した。
一方、1860年の北京条約の締結後も清では戦闘が続いていたため、フランス海軍は寧波で造船所やドックを建設し、小型の砲艦を建造する事を決めた。この建造監督への就任をヴェルニーは受諾し、1862年9月に辞令を受けてマルセイユからアレキサンドリア、スエズを経由して上海に向かった。寧波に着くと同地の副領事に任命され、造船所や倉庫、ドックを建設して1864年には4隻の砲艦が全て竣工した。この功績により、翌年レジオンドヌール勲章を受章している。
日本
当時、江戸幕府は近代化を進めてフランスの協力による近代的造兵廠の建設を決定し、フランス側の担当者だった提督・バンジャマン・ジョレスの要請によりヴェルニーは1865年1月に日本へ派遣された。江戸に近く、波浪の影響を受けにくい入り江である上に艦船の停泊に十分な広さと深さを備えた海面があり、泊地として良好な条件を備えていたことから、造船所や製鉄所を含む同施設の建設地として横須賀が選ばれた。中国から持参した建設資料と見積りを基にヴェルニーは駐日公使のレオン・ロッシュらと横須賀製鉄所の起立(建設)原案を作成し、2月11日に提出している。計画では4年間で製鉄所1ヶ所、艦船の修理所2ヶ所、造船所3ヶ所、武器庫および宿舎などを建設し、予算は総額240万ドルとされた。2月24日に水野忠誠と酒井忠毗が約定書に連署して建設が正式に決まり、造兵廠建設に必要な物品の購入やフランス人技術者を手配するため、同年4月に日本を発ちフランスに一時帰国した。
間欠熱や胃病のため故郷で休養した後、8月27日から12月7日まで文久遣欧使節に同行して海軍施設などを案内した。1866年3月にフランス人住宅の建設担当者を先に日本に派遣した後、資材を調達してヴェルニー自身も4月16日にマルセイユを出発して6月8日に横浜に到着した。横須賀ではフランス人達が驚くほどのスピードで造成が進められ、入り江が埋め立てられ山が切り崩された。ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、40数名のフランス人技術者に指示を出した。なお月給は833メキシコドルで、年俸にして10,000メキシコドルを超える高給を受け取っていた。フランス人住宅や警固の詰所、各種工場や馬小屋、日本人技術者養成のための技術学校などの各種施設が建設される中、1867年3月にヴェルニーは上海に渡り、上海領事だったモンモラン子爵の娘・マリーと4月22日に結婚式を挙げている。
1868年に戊辰戦争が勃発して3月には新政府軍が箱根まで進出してきたため、浅野氏祐と川勝広運より横浜居留地へ退去するようフランス人に指示が出たが、ヴェルニーは「政治的事件のとばっちりを受けたものの、事業中断はできない」として通報艇を待機させながら横須賀にとどまった。4月には神奈川裁判所総督の東久世通禧と副総督・鍋島直大によって横須賀製鉄所が接収されている。この時点で使用した経費は150万8,400ドルに上り、さらに83万ドル以上が必要となったため予算難の新政府はお雇いフランス人の解雇と工事の中断を検討したが、フランス公使・ウートレやヴェルニーの反対によって建設の継続が決まっている。また、同年には灯台用機械がフランスから届き、ルイ・フェリックス・フロランに命じて観音埼灯台を建設した。このほか、東京周辺で観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台の建設にも関わった。(各灯台はその後、関東震災で壊れるなどしてヴェルニーの携わったそのままの姿は失われたが)そのうち(旧)品川灯台だけは、ヴェルニーが関わった当時のものが博物館明治村に移築され現存している。妻の健康問題などのため1869年5月から休暇を取ってフランスに帰り、1870年3月に横須賀に戻っている。
1871年に横須賀製鉄所と横浜製鉄所はそれぞれ横須賀造船所、横浜造船所と改名され、9月に工部少丞の肥田浜五郎が造船兼製作頭として横須賀に赴任してきた。ヴェルニーが指導して造船された蒼龍が1872年に、清輝が1875年にそれぞれ進水するなど、横須賀での艦船建造は順調に進んだ。一方でヴェルニーの高給は新政府にとってネックとなり、1873年にフランス公使・サン=カンタン伯爵と交渉して解任が受諾され、1876年3月3日にヴェルニーは解嘱された。これにともない、1875年12月28日にルドヴィク・サバティエとともに川村純義の斡旋で宮内省で明治天皇の謁見を受けたほか、1876年1月16日には延遼館で送別の宴が催されて三条実美らから書棚と花瓶が贈られている。同年2月26日に12年間の滞在をまとめた報告書を政府に提出し、3月12日に家族とともに横浜港から帰国した。なお、日本滞在中に1男2女を儲けている。
フランス帰国後
マルセイユに到着後、消化不良と衰弱を理由に20日間の休暇を取り、さらにこれを6週間に延長している。海軍造船工学学校での教授職などを検討したがフランス海軍内での求職活動は難航し、ローヌ県の海軍工廠でしばらく監督業務を務めた後、1876年から接触を持ったサン=テティエンヌ近郊のフィルミニー(フランス語版)とロシュ=ラ=モリエール(フランス語版)の炭鉱の所長となり海軍を退職した。1882年から1885年までサン=テティエンヌ商工会議所の幹事を務め、鉱山学校の設立などに携わっていた。1888年には故郷のオーブナのポン・ドーブナで家を購入し、1895年に炭鉱の仕事を辞めるとこの家に移り、1908年5月2日に自宅で肺炎のため死去した。 
 
ベンジャミン・スミス・ライマン

 

Benjamin Smith Lyman (1835-1920)
後の夕張炭鉱など北海道の地質調査(米)
アメリカ合衆国の鉱山学者で、お雇い外国人として日本に招かれた一人。日本名は来曼。
1835年にマサチューセッツ州のノーサンプトンで出生。ハーバード大学を修了後、ドイツのフライベルクにあるフライベルク鉱山学校(現在のフライベルク工科大学 (Technische Universität Bergakademie Freiberg))で鉱山学を学んだ。
ペンシルベニア州、インドなどの石油調査を終えたのち、1872年(明治5年)北海道開拓使の招待で来日、1876年(明治9年)まで北海道の地質調査に従事し、後に工部省の依頼で1876年から1879年の間、日本各地の石炭・石油・地質調査にあたった。1891年(明治24年)に帰国するまで山内徳三郎をはじめとした自身の日本人助手に教育するなど日本の地質学に貢献した。
帰国後はペンシルベニア州地質調査所次長に就任した。1895年に同所を退職し、再訪日することを望んでいたが赤痢に悩まされ訪日できずにペンシルベニア州チェルトナムで1920年に死去。 
 
フレデリック・ベルデル

 

Frederic Bereder
(仏)
( no data )
 
リチャード・ヘンリー・ブラントン

 

Richard Henry Brunton (1841〜1901)
各地で灯台築造・横浜の街路整備(英)
    近代日本  
イギリス・スコットランド出身の工兵技監にして建築家。1868年明治政府から英国政府に要請され招かれたお雇い外国人の第1号。和歌山県串本町の樫野崎灯台をはじめ数多くの灯台設置を手がけ、勤務していた約8年間に灯台26台を設計した。このため「日本の灯台の父」と讃えられている。また日本初の電信架設の他、道路舗装・公園設計・鉄道建設・築港などにも尽力した。まず彼のような灯台技師が来たのは、早急に外国の船を安全に日本の港に誘導する必要があったからである。 
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イギリスの工兵技監にして建築家。スコットランド人。明治時代に来日したお雇い外国人のひとり。数多くの灯台設置を手がけ、技師として勤務していた7年6ヶ月の間に灯台26(下記の一覧参照)、灯竿5(根室、石巻、青森、横浜西波止場2)、灯船2(横浜港、函館港)などを設計した。このため「日本の灯台の父」と讃えられている。
1841年12月、英国海軍の艦長の息子としてスコットランドのアバディーンシャー州キンカーデン郡に誕生。鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に関わっていたところ、英政府から技師スティーブンソン兄弟を介し、日本の明治政府に派遣する灯台技師に採用された。1868年(明治元年)2月24日に明治政府から採用。お雇い外国人としては第1号であった。訪日にあたって灯台建設や光学、その他機械技術を、短期間の内に英国内で実地に体得している。
1868年(慶応4年)8月、妻子及び助手2人を伴って来日した。当時26歳。この時から1876年(明治9年)までの8年間の日本滞在中に、和歌山県串本町の樫野崎灯台を皮切りに26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げた。また灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだ。
灯台以外でも、ブラントンは多くの功績を草創期の近代日本にもたらしている。日本初の電信架設(1869年、東京・築地 - 横浜間)のほか、幕府が設計した横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し街路を整備した。また、日本最初の鉄道建設についての意見書を提出し、ローウェンホルスト・ムルデルらとともに大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を出している。ほか、横浜公園の設計も委任された。
ブラントンは1876年3月、明治政府から任を解かれ帰国した。英国で彼は、論文「日本の灯台 (Japan Lights) 」を英国土木学会に発表、賞賛を受けた。その後は建築家として、建物の設計及び建築に携わった。晩年、仕事の合間に書きためた原稿「ある国家の目覚め―日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記」をまとめ終えると、程なく世を去った。1901年(明治34年)、59歳没。
ブラントンが設計した日本の主な灯台
納沙布岬灯台 / 尻屋埼灯台 / 金華山灯台 / 犬吠埼灯台 / 羽田灯台 / 剱埼灯台 / 神子元島灯台 / 石廊埼灯台 / 御前埼灯台 / 菅島灯台 / 安乗埼灯台 / 天保山灯台 / 和田岬灯台 / 江埼燈台 / 樫野埼灯台 / 潮岬灯台 / 友ヶ島灯台 / 六連島灯台 / 角島灯台 / 釣島灯台 / 鍋島灯台 / 部埼灯台 / 白州灯台 / 烏帽子島灯台 / 伊王島灯台 / 佐多岬灯台
 
コーリン・アレクサンダー・マクヴィン

 

Colin Alexander McVean (1838-1912)
灯台築造・工部大学校時計塔・関八州大三角測量の指導(英)
工部省測量師長、東京府下の三角測量などを担当。
イギリス人コリン・アレクサンダー・マクヴィーンは、日本の灯台と横浜まちづくりの父と呼ばれるR.H.ブラントン、そして彼の同じ助手のA.W.ブランデルとともに1868年8月に横浜に入った。彼らの来日目的は、灯台事業と外国人居留地の都市整備事業を行うことであった。1869年には、ブラントンの下で伊豆下田沖に浮かぶ神子元島灯台設置事業を担当した。その後、ブラントンの指揮から離れた(1969年9月)。
明治4年(1871)工部省(測量司)は、マクヴィーンと京浜間鉄道工事の技術者として来日していたジョイネル(H.B.Joyner)を招聘し、彼を測量師長として事業の一切を任せた。そして、明治5年から部下となる技術者が招聘された。それはイギリス人測量助役ウィルソン(Wilson)、シャーボー(HenryScharbau)、同クレッソン(?)、同ハーディ(J.T、Hardy)、同マカーサー(Mcarthur)、同チースメン(Cheesemen)、同スチュアルト(?)、同イートン(?)である。彼らは直接測量事業に係わるとともに、技術者教育にもあたる。
マクヴィーンらは、翌明治5年3月には工部省のする東京府下の三角測量に着手し、富士見櫓に大標旗を建て測量の基礎とした。これが、日本で最初の三角測量、三角点となるものと推測される。この測量はその後、府内に13点の三角点を選点し、越中島洲崎弁天の間には基線を選定し鋼巻尺で測定した。この府下測量には、三浦省吾や館潔彦が従事した。
当然ながら、彼はこの間まで工学寮、測量司、土木寮などにおいて教育も担当した。
明治7年一時免官帰国していたマクヴィーン(測量機器購入のためイギリス出張した河野通信測量司測量正に同行)は、帰朝の際に24インチ経緯儀、18インチ経緯儀、天頂儀、子午儀など測量機器、書籍などを持参した。
明治7年東京府下の測量を担当した工部省測量司は、内務省地理寮に吸収されたから、マクヴィーンらイギリス人技術者もそのまま内務省へ異動した。もちろん、測量もそのまま引き継がれ「関八州大三角測量」が開始された。そのための基線場は那須野原に選定され、この測量も測量師長マクヴィーンの指導により実施された。これは、本州初の本格的な基線測量である。
この那須野原で使用された基線尺は、開拓使測量長ワッソン、デイらの手でアメリカから購入され、その後、内務省地理寮、地理局、陸地測量部と移管され特異な運命をたどる『ヒルガード4米測桿』が使用された。そして、この測量の基線端点の標高を求めるために、東京塩竈間で水準測量も実施されたとき、華表(鳥居)・燈籠の台石などには『不』状の記号を彫刻するイギリス式の水準点(几号水準点)が導入された。
東京府下測量と同様の都市を対象にした測量地図作成は、大阪、京都、五港六鎮台でも施行することに決定し、一部が実行に移された。また関八州大三角測量は、その後全国大三角測量へと地域を拡大し、さらに陸地測量部の一等三角測量へと引き継がれる。
この間の測量は、おおむねマクヴィーン測量師長らの指揮・指導で行われた。しかし、すべてが順調に進んだともいえないものがあった。一部で、外国人技術者と日本人技術者との間に軋轢が生じ、排斥意見書が複数提出されている。たとえ、そのようなことがあったとしても、マクヴィーン測量師長を初めとするイギリス人技術者が初期の測量・地図整備事業に果たした役割を無視することはできない。 
日本の三角測量の歴史
1650年 ユリアン・スヘーデルが砲術の一環として三角測量を日本に紹介する。しかし三角関数を使った計算による測距法は受け入れられず、その後は相似を利用した作図による測距法が紅毛法として普及していく[1][2]。
1869年 内務省地理寮の前身となる民部官庶務司戸籍地図掛が設置される。
1871年 工部省に測量司が設置され、測量、地図作製を担う部門が整備される。測量司がお雇い外国人、コーリン・アレクサンダー・マクヴィン(イギリス人)の指導を受け三角測量を実施。皇居富士見櫓下ほか東京府下に13の三角点を設置。兵部省に陸軍参謀局間諜隊諜報係が設置される。偵察のほか地図の作製も業務となる。
1874年 測量部門が工部省から内務省地理寮へ移管。開拓使がお雇い外国人ジェームス・ワッソン(James Robert Wasson)、モルレー・デイ(Murray Simpson Day)(ともにアメリカ人)の指導を受け、北海道道南および道央地域50点の三角測量を実施。
1875年 地理寮が関東地方を主眼においた関八州大三角測量を開始。
1877年 内務省地理寮が地理局へ改称。参謀本部に地図課、測量課が設置。 
1878年 関八州大三角測量を全国三角測量に改め、対象を全国へ拡大。那須野基線制定。
1879年 参謀本部が全国測量計画を策定。
1881年 参謀本部が試験的に東京湾で三角測量を実施。以降、内務省と平行して三角測量が試みられる。 
測量地図は近代国家経営の要と信じて疑わず、明治日本に伝えた人
旧東京中央郵便局ビルKITTE2階のインターメディアテークにパルミエリ地震記録計のレプリカが展示されています。1872年、マクヴェインはイギリス海軍水路測量局からアンリ・シャボーHenry Scharbau(フランス生まれ)を明治政府工務省測量司に雇用するに際して、山尾庸三に気象観測も始めるように進言しました。1873年、マクヴェインはイギリスに一時帰国すると測量機器を購入するだけではなく、イタリアのパルミエリ・ルイージ教授が開発したこの地震記録計を注文しました。インターメディアテークに展示されているものは複製品だそうですが、精巧な工芸品といったもので、製作に半年や一年は優にかかりそうです。注文したパルミエリ地震記録計はいつ日本に到着し、どのように観測が開始されたのかはマクヴェイン古文書の解読を待たなければなりません。
コナン・ドイルの父親はエジンバラ市の技師で、マクヴェインとほぼ同世代。彼らが知り合いであったかはわからないが、マクヴェンの娘婿で駐日英国大使館勤務のジョン・ガビンズからの手紙の中に"Conan Doyle's letter I think excellent"という一文有り。これは一体何を意味するのだろうか。
マクヴェインが工部省最初のお雇い外国人となり、山尾を助け測量司と工学寮の人技術者確保に勤めた。その時に生きたのはスコットランドで培った友人関係であった。
測量と気象に関してはScharbau、土木技術者にはInnes、建築家にはDouglasに適当な人物を派遣してくれるように依頼した。
このInnesはWilliam Burtonの叔父にあたり、Burtonが帝国大学土木学科衛生工学教員として就任する後押しをした。
・1838年、スコットランド、アイオナ島生まれ。父親はアイオナ大修道院の院長を務めていた。
・1853年、エジンバラの私高校に入学し、その後土木技師に弟子入り修行。
・1860年、海事測量局に勤務、その後ブルガリアの鉄道建設に従事。
・1868年、江戸幕府燈明台雇い。ブラントンとブランデルとともに燈台建設。
・1869年9月、ブラントンとの不仲でブランデルとともに燈明台を辞職し、横浜のヴァルカン・ファンドリー勤務。鉄道建設及び造船関連の業務。
・1871年9月、工部省雇い。山尾庸三の下で測量司、工学寮、建築営繕を担当。具体的には御雇い外国人技術者の雇用差配、工部大学校校舎他建設、初期工学教育、銀座煉瓦街測量と街区割り、関八州測量、岩倉使節団への便宜など
・1873年2月、一時帰国。最新測量機器と地震観測機器の購入。
・1874年、測量部局が工部省から内務省に移管されるとともに、内務省地理寮雇い
・1877年、任期終了帰国。暫しロンドンで技術者として活動
・1881年、アーガイル候からスコットランドのマル島の別荘を譲渡され、そこに隠居。長女は駐日書記官ガビンズとの結婚し、日本へ。長男はインド植民地軍人。 (日本滞在中に夫婦で日記を書き、家族友人と膨大な手紙をやりとりし、さらに膨大な美術工芸品を持ち帰り、遺族が保管している。山尾庸三から最も信頼されていたスコットランド人技術者。)

工部省のお雇い技術者の活動業績は『明治工業史』にまとめられ、ウォートルス、ブラントン、モレル、ダイヤー、コンドルらに比較するとマクヴェインの影は薄い。もともと、『明治工業史』は工部大学校初期卒業生の記憶をもとにまとめられたもので、一次資料が散逸し、内容に不明な点が多々ある。藤森が日本近代技術建築史の「神話時代」というゆえんである。日本側資料には限界があるので、もし御雇い外国人の記録が見つかればこれらの記述の信頼性が飛躍的に高まり、明治初期の技術史に新たな知見が得られるであろう。
鉄道部門を除くと、マクヴェインは工部省に最も早く雇われた技術者の一人であり、山尾庸三を支援しながら工部省の営繕寮、工学寮、測量司などを立ち上げ、動かした人物と考えられる。またマクヴェイン夫妻は日本への出発から帰国まで日記を付けており、さらに膨大な手紙や絵画などを残した(これ以後マクヴェン・コレクションと呼ぶ)。これを解読することによって、彼の業績の詳細とともに明治初期工学史を明らかにすることが可能になろう。
私はもともとマクヴェインを直接の調査対象にしていたわけではなく、近代日本最初の土木技師ブラントンと近代日本最初の建築家ボアンヴィルを探っている過程で、彼の存在と重要な位置付けに気付いた。なかなか手がかりがない中で、あるスコットランド郷土史家がこのマクヴェインの妻の実家について詳細に研究していることを知り、彼にマクヴェインの遺族との対面の機会をお願いした。同時に、マクヴェインの末娘フローラ筋の方が曾祖父について調べており、日本の燈台研究者にコンタクトを取っていた。私はボアンヴィルの曾孫と何度か会っており、彼はマクヴェイン家筋の方と親交があり、紹介してもらうことになった。2010年10月、これらが劇的に結びつき、膨大なマクヴェイン遺品に出会うことになった。このような発見につながったのは、マクヴェインの子供たちの多くが社会的成功を収めたからで、軍人、作家、外交官などとして遺品をきちんと保管していた。今回の出会いを契機に、末娘筋のコリン・ヒューストン氏が遺品をマクヴェイン・コレクションとして整理保管することになった。

ジョン・ハリントン・ガビンズ(John Harington Gubbins、1852-1929、イギリスの外交官、学者。日本の英国公使館・領事館に長く勤務した。)の妻ヘレンは、お雇い外国人として日本に住んでいたスコットランド人建築士のコーリン・アレクサンダー・マクヴィン(1838-1912)とマリー・ウッド・コーワンの娘で、ジョン41歳、ヘレン24歳の1893年に英国で結婚。4人の子をもうけたが、子供たちは妻側の親戚のもとで育てられた。妻の母方の実家は製紙会社を営む裕福な一家で、1872年には岩倉使節団の一部を接待したという。 後に特殊作戦執行部(Special Operations Executive, SOE)部長を務めたコリン・ガビンズ(英語版)少将はジョン・ガビンズの息子である。
 
ヘンリー・スペンサー・パーマー

 

Henry Spencer Palmer (1838-1893)
横浜ほか、全国各地の水道網設計(英)
日本初の近代的水道である横浜水道を完成させたイギリス陸軍の工兵少将。いわゆるお雇い外国人のひとりである。
1838年、イギリス領インド帝国のバンガロールで英印軍参謀本部付大佐・ジョン・フレーク・パーマーの三男として生まれた。 イングランドのバースで教育を受け、1856年に王立陸軍士官学校に入学、工兵中尉に任じられる。
1858年には、カナダブリティッシュコロンビア州調査団の一員として派遣され、調査事業に加えて道路工事の監督に当たった。 1863年に15歳の妻と結婚してイギリスへ帰国。帰国後はイギリス地形測量局に勤務、科学者としても知られるようになる。 1874年からはイギリス領のニュージーランドやバルバドスに派遣され、1878年に赴任した香港では、広東水道と香港水道を設計した。
来日
1883年に中佐として来日、神奈川県より横浜上水道建設計画の依頼を受け、3ヵ月で実地測量から計画まで完成させて多摩川取水計画と相模川取水計画の2案を県に提出して帰国する。 翌年神奈川県から招聘され、1885年に大佐として再来日。 水道工事の全てを任されると、水源を相模川支流の道志川とし野毛山配水池に至る総延長48kmの横浜水道建設を着工、顧問工師長として指揮にあたる。 翌年1887年少将に昇進、翌年に定年退職し、2年に及ぶ工事を完了、日本初の近代水道を完成させた。
その後は日本に落ち着き、1888年には内務省土木局名誉顧問技師として勅任官の待遇を受け、横浜港築港計画を工事監督として指揮した。東京水道会社の計画や各地の港湾設計などにも関与する。また、請われて兵庫県の淡河川疏水の計画にも参画し、特に御坂サイフォン橋の設計が著名である。
1890年、日本人女性・斉藤うたと再婚、娘をもったが、1893年、脳卒中で東京麻布の自宅にて54歳で死去。青山霊園の青山外国人墓地に埋葬された。
日本の滞在中は、ジャパンタイムズなどの英字紙に寄稿するほか、タイムズの通信員として日本の情報を発信。 豊富なイラスト入りの『Letters from the Land of the Rising Sun(日出ずる国からの手紙)』も執筆、死の翌年出版された。
1987年には横浜水道創業100年を記念して野毛山公園(旧野毛山配水池)にブロンズ胸像が立てられ、横浜開港資料館では特別展が開催された。 
 
ウィリアム・キニンモンド・バートン

 

William Kinninmond Burton (1856-1899)
各地の上下水道を整備(英)
スコットランド・エディンバラ生まれの技術者・写真家。「W.K.バルトン」の表記のように、在日中はバルトンの呼称の方が一般的であった。
バートンは法律家で文筆家の父と、同じく法律家で裁判官の祖父を持つ母のもとに生まれた。高校卒業後エジンバラで水道技師の見習いになり、1879年に祖父の引き合いで、同郷エジンバラ出身のフリーミング・ジェンキンが設立したロンドンの衛生保護協会(Sanitary Protection Association)で技師として働いた。
大学教育は受けておらず、とくに目ぼしい実績もなかったが、渡欧中の永井久一郎(永井荷風の父)と知り合ったことで、彼の推薦を得て、当時コレラなどの流行病の対処に苦慮していた明治政府の内務省衛生局のお雇い外国人技師として1887年(明治20年)来日。衛生局のただ一人の顧問技師として東京市の上下水道取調主任に着任するとともに、帝国大学工科大学(のちの東京大学工学部)で衛生工学の講座ももち(正式な教授ではなく特別講師的なもの)、何人かの著名な上下水道技師を育てた。バートンの設計は、実地工事上の段階で大幅に変更せざるを得ないものではあったが、帝都上下水道の基本計画となり、東京、神戸、福岡、岡山などの上下水道の基本調査などを担当した。凌雲閣の基本設計者でもある。
バートンは母方の祖父が地元では名の知られた写真愛好家であったことから、カメラや写真に詳しくなった。来日前には臭化ゼラチン乾板の原理に関する著書や論文で著名であり、当時の乾板の発明を行ったロンドンの写真技術者の一人として評価された。その後、日本で写真撮影に関する本も出版した。日本の写真家小川一真らと親しい関係を結び、小川や鹿島清兵衛らについての論説をイギリスの写真誌に寄稿した。バートンは小川や鹿島のほか、菊池大麓、ウィリアム・スタージス・ビゲロー、石川巌、小倉倹司、中島精一、江崎礼二らとともに、1889年(明治22年)5月に榎本武揚を会長として設立された日本寫眞會(英語版)(在留外国人や日本人富裕層のアマチュア写真家・職業写真師のための日本初の同好会)の創立メンバーとなっている。1888年の磐梯山噴火、1891年の濃尾地震という大災害に際しては、大学の依頼で被災地に赴き、惨状を撮影した。
1896年、バートンは日清戦争の勝利によって日本の領土となった台湾に向かい、台湾の公衆衛生向上のための調査に当たった。台湾でよい水源地の発見に苦慮し、炎暑の中を調査中に風土病にかかり、1899年8月5日に43歳で没した。1894年に結婚した日本人妻と、別の女性との間に生まれた娘を伴って英国への帰国を準備していた目前であったため、帰国を果たせず、東京の青山霊園に葬られている。
2006年には、バートン生誕150周年を記念して、バートンの実家であり、現在はエジンバラ・ネイピア大学に寄付されているクレイグ・ハウス内に記念プレートが遺族によって設置された。
 
ジョン・ウィリアム・ハート

 

John William Hart (1836-1900)
神戸外国人居留地計画(英)
イギリス・リヴァプール出身の土木技師・建築家。神戸外国人居留地の設計者として知られる。
1836年、イギリスのリヴァプールに生まれる。同地で土木技師として経験を積んだ後、ペルーで鉄道の建設、上海でドックの建設に携わった後、1868年(慶応3年/慶応4年/明治元年)に日本の神戸へ渡り、神戸外国人居留地の設計を担当した。
また、1869年(明治2年)9月から1871年(明治4年)8月までオーストラリアの建築家ジョン・スメドレーと共同で土木・建築事務所を経営し、この時期に(旧)生田川の付け替え工事に従事した。居留地の自治組織(居留地会議)の書記を務め、台風による被害を防止するため居留地海岸の護岸工事を行うよう居留地会議に意見書を提出したこともあるが採用されなかった。
1873年(明治6年)、または1875年(明治8年)頃に神戸を離れて再び上海へ渡り、上水道の建設工事で主任技師を務めた後、イギリスへ帰国。1900年にロンドンで死去した。  
 
エドモン・オーギュスト・バスチャン

 

Edmond Auguste Bastien (1839-1888)
横須賀製鉄所・富岡製糸場などの設計(仏)
フランスのマンシュ県シェルブール出身の船工、製図職工であり、いわゆるお雇い外国人として横須賀製鉄所に勤務したほか、富岡製糸場の開業当初の主要建造物の設計を担当した。神奈川県の横浜外国人墓地に彼の墓が残っている。通例、フランス語では Edmond の末尾の d は読まないが、日本では慣例的に「エドモンド・バスティアン」「エドモンド・バスチャン」などと表記する文献もある。
横浜外人墓地の墓碑によると、1839年6月27日にシェルブールに生まれた。同市の造船所で船工として働いていたが、横須賀製鉄所のフランソワ・レオンス・ヴェルニーに見出され、日本に渡ることになる。バスチャンがマルセイユを発った1866年1月19日(慶応元年12月3日)が横須賀製鉄所の雇用契約日となっている。スエズ、香港、上海などを経由し、1866年3月12日(慶応2年1月26日)に横浜に着くと、1週間あまりしてから横須賀に入った。1866年3月23日には最初の工事に携わっている。当初の月給は75ドル、1868年(明治元年)からは80ドルで雇われており、翌年から月雇いになった。
富岡製糸場の建設を任されていたポール・ブリューナは、明治3年(1870年)11月6日ごろにバスチャンに設計を依頼した。バスチャンは短期間のうちにこれをまとめ、同年12月26日(1871年2月15日)に完成させた。彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造りの横須賀製鉄所を設計した際の経験を活かせたことが挙げられている。彼は「土木絵図師」として、月給125ドルで明治5年7月まで雇用された。彼は全図面を完成させたとされるが、現存する建物でバスティアンが確実に設計したのは、繰糸所、東置繭所、西置繭所、蒸気釜所の4棟のみとされる。明治5年(1872年)7月は富岡製糸場が竣工した月であり、彼はこの月に横須賀に戻ったが、すぐに依願解雇を申請した。
この申請は受け入れられ、旅費も受け取っていたが、おそらくは日本にとどまっていたと考えられている。1874年(明治7年)には横浜在住の大工ピヨンの下で働いており、1875年(明治8年)4月5日から「造家小頭」「造家職工長」などとして工部省の営繕寮(のち営繕局)に雇われた。月雇いの月給は125円、正式雇用後の月給は150円だったが、1879年(明治12年)12月に雇い止めとなった。営繕寮(局)に雇われていた時期は東京の西久保や音羽に住んでいた。
その後、1881年(明治14年)11月7日に横浜で建築事務所を開業したが、2、3年で閉鎖した。その間に手がけた建物については明らかになっていない。事務所を閉鎖してまもなく上海に渡り、その地のフランス工部局で監督として雇われ、妻子をもうけた。1888年(明治21年)6月7日に横浜を再訪したが、その年の9月9日に同地のピヨン宅で病没した。彼の墓は上海フランス人会によって建てられた。 
 
シャルル・アルフレッド・シャステル・デ・ボアンヴィル

 

Charles Alfred Chastel de Boinville (1850〜1897)
皇居謁見所、工部大学校校舎など(仏)
1850年 父が牧師をしていたリズィヨー(Lisieux)で生まれる。母方は3代イギリス人。数年後ロレーヌのバル・デュック、さらにシェルブールヘ移る。
パリにてウイリアム・H・ホワイトの建築事務所に入る。フランスとプロイセンの戦争に参戦。敗戦後グラスゴーへ移りキャンベル・ダグラスの建築事務所入所。ダグラスは友人である日本工部省測量師コリン・アレクサンダ・マクヴェイン(Colin Alexander MacVean)の要請を受け日本へ送る建築資材などを送付していた。
1872年 マクヴェインの要請によりダグラスがボアンヴィルを日本へ派遣。
1874年 測量関係の仕事が工部省から内務省地理寮に移され、測量師となる。
建設中の皇居謁見所が被災。
1881年1月21日、イギリスゆき「プライアム」号で日本を離れる。帰国後建築事務所を開設、のちに英国政府関係の建築をてがける。
インド庁主任建築官に就任、ロンドンのインド庁増築を担当。
1897年4月25日、死去
作品
皇居謁見所(明治9年〜、東京都)明治12年3月の地震で建設中止
印刷局(明治9年、東京・大手町)共同設計:ウォートルス
工部大学校校舎(明治10年、東京・虎ノ門)大正12年9月地震のため倒壊
外務省(明治14年、東京・霞が関)  
Charles Alfred Chastel de Boinville was born in 1850 of an old French aristocratic family, and was a pupil of A Guyot from 1862. He worked with Geoffroy of Cherbourg in 1868, followed by two years in unspecified offices to July 1870. In 1871 he moved to Glasgow in the wake of the Franco-Prussian war where he was employed by Campbell Douglas & Sellars, shortly to become a partner, and it was probably in his company that James Sellars made his first trip to Paris in 1872. French Beaux-Arts developments in the work of Hugh and David Barclay and William Leiper suggest Chastel de Boinville may also have assisted in one of these Glasgow practices. On the strength of his experience he was appointed architect to the Board of Public Works in Japan from 7 October 1873. Whilst there he taught architecture, the first significant westerner to do so, and he designed The Hall of the Imperial College of Engineering, since demolished; but his aristocratic demeanour, heavily accented English and somewhat unsystematic teaching resulted in his contract not being renewed and he returned in 1881 to London to set up practice at 2 Westminster Chambers, Victoria Street. He was admitted ARIBA on 4 January 1882, his proposers being William Henry White, Campbell Douglas and James Piers St Aubyn. Shortly thereafter he was joined in practice by what appears to have been a younger brother, William Chastel de Boinville, who had been articled to James Piers St Aubyn from 1870 to 1875 and remained as assistant. While at Victoria Street they seem to have been employed in some capacity at the India Office. His practice in London was merged with that of James Archibald Morris in 1891 but was demerged again c.1893-1895, most probably in 1895 when James Kennedy Hunter left the Ayr office of Morris to set up practice on his own.
( 誤訳 チャールズアルフレッド Chastel de Boinville は古いフランスの貴族の家族の1850で生まれ、1862からのギヨーの生徒だった。彼は1868年にシェルブールの・と、7月1870に不特定のオフィスで2年間続いて働いた。1871で彼は彼がキャンベルダグラス & セラーズ、まもなくパートナーになるために雇われたフランコ-プロイセン戦争のきっかけにグラスゴーに移り、それはジェームスセラーズは、1872でパリに彼の最初の旅行をしたことを彼の会社でおそらくあった。ヒューとデビッドバークレーとウィリアム Leiper の作品でフランスのボーアートの開発は、Chastel デ Boinville はまた、これらのグラスゴーの慣行のいずれかで支援している可能性があります示唆している。彼の経験の強さで、彼は日本の公共事業の委員会に建築家に任命された7月から 1873.そこに彼は建築を教えたが、最初の重要な欧米人はそうするために、彼は破壊したので、工学の帝国大学のホールを設計した;しかし、彼の貴族の態度は、重くアクセント英語とやや非の指導は、彼の契約で更新されていない結果、彼は2ウェストミンスターチェンバーズ、ビクトリアストリートでの練習をセットアップするためにロンドンに1881で返されます。彼は1月4日1882、彼の提案されてウィリアムヘンリーホワイト、キャンベルダグラスとジェームズ桟橋聖オーで ariba を認められた。その後まもなく彼は、1870から1875にジェームズ桟橋 st オーに articled されていたと助手として残っていた弟、ウィリアム Chastel デ Boinville、されているように見えるもので練習に参加しました。ビクトリア通りでそれらはインドのオフィスのある容量で雇われたようである間。ロンドンでの彼の練習はジェームスアーチボルドモリスのそれと併合された1891しかし再度 c. 1893-1895 年、ジェームスケネディのハンターが彼自身の練習をセットアップするためにモリスのエアオフィスを去ったときに1895で最もおそらく日付た。 )  
 
ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペレッティ

 

Giovanni Vincenzo Cappelletti (1843-1887)
参謀本部や遊就館など(伊)
明治期に来日したイタリア人美術家。
1876年(明治9年)工部美術学校の図学教師として来日し、1879年工部省営繕課に奉職、同年イタリア・ルネッサンス様式の永田町の参謀本部を設計、また1881年にはロマネスク様式の東京九段の遊就館を設計、1885年離日し、サンフランシスコで建築設計事務所を開いた。 
 
ジョン・スメドレー

 

John Smedley (1841-1903)
東京大学理学部で造営学、図学講師。都市開発提案など(豪)
シドニーの画家兼装飾家のサミュエル・スメドレーのもとに生まれる。幼少のころから、絵画とデザインに秀でたものがあり、シドニーで建築家修行をした後、香港のストーリー建築・土木事務所に勤務。上海を経て神戸で仕事をしていたところ、1872年、マクヴェインに呼ばれて銀座復興計画作りに従事し、その後、横浜で建築・土木事務所を開設した。 
・・・鉄道国有法が成立した1906年の5月に、名古屋で興味深い催しが開催された。日本国内の全鉄道、および植民地台湾の鉄道の総延長が5000マイルを越えたことを記念する鉄道五千哩祝賀会と呼ばれるイヴェントである。5月20日、名古屋に、逓信大臣・山縣有朋(1838-1922)や参謀総長・児玉源太郎(1852-1906)をはじめ、各鉄道会社の社長ら170人が集って祝賀会が執り行われた。東本願寺名古屋別院での奉告祭、愛知県会議事堂での祝賀会につづいて、最後には御園座で名古屋、東京の芸妓による余興がにぎにぎしく行われたとのことである。その催しに併せて、三枚組で袋入りの祝賀会記念絵葉書が発行された。その中の一枚には、天皇も臨席した1872年の鉄道開業の式典を描いた絵画《新橋横浜間鉄道開業式御臨幸之図》──「お雇い外国人」のイギリス人ジョン・スメドレー(John Smedley: 生没年不詳)描く──が複製されていることからも、このイヴェントが鉄道開業からの歴史の一大事業と位置づけられていたことが想像できる。その両脇には、名古屋行きの日英両言語による切符が置かれる。上部には、日章旗を掲げた蒸気機関車を囲むように、鉄道各社の社章が、36も描かれている。これらの半数以上は、翌年までには買収され、国有鉄道となる。・・・ 
 
リチャード・ブリジェンス

 

Richard P. Bridgens (1819-1891)
新橋停車場、築地ホテル館
幕末から明治にかけて活躍したアメリカ人建築技師。「横浜西洋館の祖」などとも呼ばれる。
ブリジェンスは、元治元年(1864年)に来日し、横浜外国人居留地内に土木建築事務所を開いた。慶応2年(1866年)の豚屋火事の後、仕事が急増した。義姉が在横浜英国領事の夫人だったことなどもあり、英国仮公使館(慶応2年)や英国領事館(明治2年)などの英国関連施設建設に関わっている。
活動初期は、日本人の協力を得て、ナマコ壁や瓦屋根といった日本の伝統技術を西洋建築に取り込んだ、和洋折衷の設計を行っている。英国公使館は高島嘉右衛門の協力を得、また傑作と言われた築地ホテル館は清水喜助と協力している。喜助はこの経験を基に、後に第一国立銀行や為替バンク三井組といった擬洋風建物を建築している。
明治になると、木骨石造による純洋風建築を設計するようになる。代表例として、日本初の鉄道駅舎である横浜駅(現在の桜木町駅)と新橋駅(現在の汐留)を同一設計で建設(明治4年)した他、横浜税関(明治6年)、横浜町会所(明治7年)などの大型建築物も手がけた。また最初の横浜グランドホテルを建てたとも信じられている。なお、旧新橋駅は、現在「旧新橋停車場跡」として国の史跡に指定され、2003年(平成15年)にその上にブリジェンスが設計した開業当時の駅舎が再現された。
明治24年(1891年)に72歳で没、横浜外国人墓地に埋葬された。 
 
チャールズ・A・W・パウネル

 

Charles Assheton Whately Pownall
橋梁設計、帰国後も日本の鉄道全権顧問を委嘱(英)
建築師長ホルサム(Edmund Gregory Holtham イギリス人、1873(明治6)年〜1882(明治15)年まで在職)の後任として、1882(明治15)年3月15日から建築師長となり、神戸に在勤し橋梁の設計などに従事、シャービントンの帰国後は、ほとんどの橋梁設計を担当した。碓氷線の橋梁もパウネルの設計による。1889(明治22)年、東海道線の全線開通とともに東京へ転勤。1896年に辞職し帰国。1896年7月1日から3年間にわたって、日本の鉄道在英全権顧問を委嘱された。 
橋梁 信越本線碓氷峠鉄道施設 / 旧線(アプト線)
1874(明治7)年には約120人いたお雇い外国人技師は、1876(明治9)年の後半に激減していき、工部省が廃止された1885(明治18)年12月では、鉄道局に所属したお雇い外国人技師は15人になっていました。これは、鉄道技術が日本人技師らによって自立していったことを示していますが、鉄道のさまざまな建造物の中で、最も長く外国人技師に依存したものは「橋梁」で、特に「橋桁」でした。橋梁の設計と架設工事は明治後期まで技術的に自立することができませんでした。橋梁の設計と架設工事では、イングランド、セオドール・シャン(Theodore Shann イギリス)、シャービントン(Thomas R. Shervinton イギリス)らが担当しており、のち1882(明治15)年5月には、パウネル(Charles Assheton Whately Pownall イギリス)が雇用されて1896(明治29)年2月に帰国するまでの期間、橋梁の設計と架設工事を行っていました。パウネルの帰国後は、古川晴一が橋梁の設計のほとんどを行っていますが、主要なものはまだ外国人技師によって行われました。日本人技術者によるものは明治末になってからでした。
碓氷線の橋梁は、パウネル(Charles Assheton Whately Pownall イギリス)によって設計されたものでした。
碓氷線の建設当時のカルバート(溝橋)は21ヶ所で、石蓋は6ヶ所、その他は煉瓦造アーチ橋(煉瓦拱橋)でした。桁橋を使用しなかったのは、アプト式軌道は、線路の中央に歯状の軌条(ラックレール)があり、鉄製枕木の全体を支持できる構造を必要としたためでした。
橋梁は総数18ヶ所で、そのうち1ヶ所に鉄製桁を使用しましたが、その他は煉瓦造アーチ橋(煉瓦拱橋)でした。径間は15フィート(約4.57m)が1つ、その他は24フィート(約7.32m)、36フィート(約10.97m)、60フィート(約18.29m)でした。。橋台と橋脚は基礎の2〜3段に石を使っていますが、その上は石または煉瓦を使用し、アーチ部分より上は全て煉瓦を用いていました。その代表的な橋梁は碓氷第3橋梁(碓氷川橋梁)です。
橋梁工事着工後、1891(明治24)年10月に、岐阜と愛知地方に強い地震が発生し、その被害が大規模であったことから、パウネルは各橋梁の設計見直し、煉瓦積の柱などには中間の所々に直立の石柱を挟み、また煉瓦を縦に用い、アーチを積むのにも所々に縦に煉瓦を用いて煉瓦相互を結合させるなどの補強工事を追加しています。
碓氷線の橋梁は、耐震性の向上だけでなく、輸送量増強のための補強工事を繰り返し行っており、そのたびごとに径間などが小さくなっています。

碓氷第三橋梁(めがね橋)は、碓氷川に架かる煉瓦造りの4連アーチ橋で、碓氷峠の代表的な建造物です。国鉄信越本線横川駅 - 軽井沢駅間の橋梁の一つで、同区間がアプト式鉄道時代に使われました。設計者は、1882年に鉄道作業局技師長としてイギリスから日本に招聘されたイギリス人技師のパウナル (Charles Assheton Whately Pownall)と古川晴一だそうです。
その後は信越本線の電化を経て1963年に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用されました。
全長91m、川底からの高さ31m、使用された煉瓦は約200万個に及ぶそうです。現存する煉瓦造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年には「碓氷峠鉄道施設」として、他の 4 つの橋梁等とともに日本で初めて重要文化財に指定されたそうです。
永い間、人々の生活を助け、今も美しい姿を残している”めがね橋”素敵でした。 
早川橋梁 (箱根登山鉄道鉄道線)
早川橋梁(はやかわきょうりょう)は、神奈川県足柄下郡箱根町の箱根登山鉄道鉄道線塔ノ沢駅 - 出山信号場間にあり、早川に架かる鉄道橋である。一般には「出山の鉄橋(でやまのてっきょう)」として知られており、箱根観光名所の1つとして多くの観光客に親しまれている。また現存する日本最古の鉄道橋でもある。秋の紅葉時には、鉄橋上で数秒間の停車などの観光サービスが行なわれる。
当初はアーチ型のトラス構体を新造する予定だったが、第一次世界大戦により資材の輸入が途絶したために、1888年(明治21年)に製造され、東海道本線の天竜川橋梁に架けられていたトラス構体の1つを鉄道院から払い下げを受け、転用したものである。
しかし、払い下げのトラス構体を使用することから、架橋の工事直前に神奈川県知事から「箱根の玄関口である早川に、使い古しの橋を架けるのは景観を損ねる」という意見が出るなど、あまり評判はよくなかった。このため、後に改築するという条件で工事が開始されている。
1915年から工事が始まったが、深さ43m・幅60mという深い谷に架橋するため、大規模な総木製の足場を組んで作業を行なった。このために使用された丸太は約1万本ともいわれている。しかし、本項掲載の1枚の建設中の写真以外の資料が全く残っていないため、建設工事の詳細は明らかになっていない。完成は1917年5月31日で、翌日からは足場の解体にかかるというその夜、暴風雨により早川が氾濫し、足場は全て流失してしまったが、鉄橋本体には全く影響がなかった。
1923年9月1日に発生した関東大震災では、鉄道線が震災により甚大な被害を蒙った中、本橋は橋台を僅かに損傷した程度で、奇跡的に被害を免れた。震災前は国道1号は鉄橋の出山信号場側で踏切によって平面交差としていたが、震災後に国道側を掘り下げ、立体交差となった。
その後、改築の話は出ておらず、1991年にかながわの橋100選に選ばれ、1999年2月19日には現存する唯一の錬鋼混合200ft桁として登録有形文化財に登録されている。近代化産業遺産にも認定されている。
特徴
本橋の形式は単純下路ダブルワーレントラス式鉄道橋で、橋長61.0m、河床からの高さは43mである。
ダブルワーレントラス形式はラチストラスとも呼ばれ、右図に示すようにトラスにおける斜材がX状に配置されている構造である。この形式では斜材が部材中央で交差しており、この位置で斜材同士をピンにより連結することにより、強い圧縮力(押しつける力)が作用したとき、斜材が折れ曲がる「座屈現象」を起こしにくい特性を持つ。したがって、他のワーレントラス形式よりも、斜材を細い部材で構成することが可能である。
一方、もともと非電化路線であった東海道本線のトラス構体を流用したため、トラスの高さは5283mmと電化線区のトラス橋としては低い。このため架線の高さを低くできる剛体架線が使用されているが、それでも電車はパンタグラフが折り畳まれた状態に近い形で通過する。
諸元
• 種別 - 鋼鉄道橋
• 形式 - 単純下路ダブルワーレントラス(ラチストラス)
• 橋長 - 61.0m(橋台前面間距離)
• 支間 - 63.398m(208フィート)
• 線数 - 単線
• 活荷重 -
• 施主 - 箱根登山鉄道
• 橋梁設計 - Charles Assheton Whately Pownall
• 橋桁製作 - Patent Shaft & Axletree Co. Ld.  
成田線長門川橋梁
成田線我孫子支線は、利根川沿岸の物資及び成田山への参拝客の輸送を目的に明治34年(1901)に成田鉄道として開業した。後に国有化され、民営化後はJRに引き継がれた。小林〜安食間の長門川橋梁の橋脚は開業時に建設された煉瓦造である。明治期のお雇い外人の一人として、碓氷峠の煉瓦橋梁を設計した英国人:Charles Assheton Whately Pownallにより、明治27年(1894)に設計された。橋長は168m。 橋桁は明治期の英国製で、単線上路プレートガーダーである。 
 
チャールズ・A・ビアード

 

Charles Austin Beard (1874-1948)
鉄工業者、関東大震災前後における東京市復興建設顧問(米)
アメリカ合衆国の歴史学者、政治学者。1898年デ・ポー大学卒業後、オックスフォード大学に留学。1904〜17年コロンビア大学教授。退官後 1922年までニューヨーク市政官養成所所長 、1926年アメリカ政治学会会長、1933年にはアメリカ歴史学会会長となった。1922年と 1923年に後藤新平の招きで訪日、東京市市政顧問として東京の都市計画 、関東大震災後の東京の再建に協力。政治面で社会改革の必要を主張するとともに、学問的には歴史の経済的解釈を打ち出してアメリカ史の再検討を行ない、晩年には平和を重視する立場からフランクリン・D.ルーズベルトの対外政策を鋭く批判した。主著『アメリカ合衆国憲法の経済的解釈』An Economic Interpretation of the Constitution of the United States(1913)、『アメリカ文明の興起』The Rise of American Civilization(2巻 、1927)、『アメリカの精神』The American Spirit(1942)、『ルーズベルト大統領と1941年の戦争の到来』President Roosevelt and the Coming of War, 1941(1948)など。
…内相で帝都復興院総裁を兼任した後藤新平の帝都復興都市計画は、激しい反対のなかで縮小され(当初30億円計上された復興費は12億円に削減)、後の東京の発展に禍痕を残した。ちなみにこの計画の基本方針としては 、遷都はしないこと、ニューヨーク市政調査会理事ビアードCharles Austin Beard(1874‐1948)に委嘱して欧米式の最新の都市計画を採用すること 、地主に対して断固たる態度をとることがあった。大震災を契機に近郊の隣接町村への人口移動が始まり、東武、西武、東急、小田急各線の開業や電化が進んで、東京の市街地は西ないし南西部へと急激に膨張し始めた。…
…1919年、政府は都市計画法と市街地建築物法を制定し、無秩序な都市形成の規制を図るが、都市自治体には計画権限は付与されなかった。22年 、当時東京市長であった後藤新平は東京市政調査会を設立、アメリカからビアードCharles Austin Beardを招聘し東京市政の調査をゆだねた。彼の《東京市政論The Administration and Politics of Tokyo》(1923)は 、都市行政論の名著とされる。…
…移民の国として成立したアメリカの場合、社会的利害の調整のために同一利害の上に立つ人々の集団的発言が不可欠であり 、またそれが社会的に容認されていたからである。アメリカの政治学者C.A.ビアードが、アメリカ連邦憲法の制定過程を検討して、この憲法がさまざまな経済利益間の競合・妥協の産物であると論じたのも 、ゆえなしとしない。その後のアメリカにおける圧力団体の発展はますます目覚ましく、19世紀の30年代にアメリカを視察したトックビルが、〈世界中でアメリカにおけるほど 、結社の原理が、多数の異なった目的に対して、成功的に用いられ、あるいは惜しみなく適用されてきた国はない〉(《アメリカの民主主義》1835‐40)と賛嘆したことは有名である。…
…[革命の解釈] アメリカ革命に対しては、大きく二つの解釈が分かれている。一つは、アメリカ革命をフランス革命と同様に 、すぐれて革命的な革命であったとする解釈で、C.ビアードなどによる革新主義学派の解釈である。それに対し、アメリカ革命は革命というよりイギリスからの政治的独立であり 、アメリカ内に関するかぎり革命的なことではなかったとする解釈であり、19世紀末以来の帝国学派、1950年代の新保守主義学派による解釈である。…  
後藤新平 ゆかりの人
ビーアド博士は、徹底した科学的調査を重んじた政治学者でした。コロンビア大学教授でしたが、偏狂なアメリカ主義を鼓吹する総長と対立してニューヨーク市政調査会事務理事に転じた人です。
ビーアドは、20世紀前半のアメリカの政治学と歴史学に大きな影響を及ぼした人物の一人でもありました。
ビーアドの日本に対する友好性は、後藤の心にも深く刻まれました。
科学的知識の基礎の上に自治政を打ち立てるために市政調査会の設立をみた後藤新平は、その助言を仰ぐために、ビーアドを招請しました。「東京市政に関する意見概要」として、市政調査会の活動に対する助言をまとめました。
ビーアドは、大正11年9月からおよそ6か月間日本に滞在しました。後藤新平は一段とビーアドに敬意を持ちましたが、ビーアドも、「行くところ、閣下の天才を発見せざるはなく、実に閣下の将来に対する御計画は誠に広大にして……(略)」と後藤新平を賞賛しました。ビーアドの言葉は、決して一時的の儀礼的な発言ではありませんでした。
ビーアドが帰国後、半年ほどして関東大震災が発生しました。
後藤新平が内務大臣の親任後、女婿の鶴見祐輔に「ニューヨークのビーアドに電報を打ってすぐ来るように言ってくれ」と命じました。後藤新平が2階にこもって新都市計画を立てましたが、ビーアドも同じような電報内容「新街路を決定せよ。街路決定前の建築を禁止せよ。鉄道の駅を統一せよ」と、後藤新平宛に打ってきました。新平はわが意を得たり、と思いました。
しかし、東京の震災復興計画は必ずしも後藤新平の思い通りにはいきませんでした。それでも、日比谷通り、昭和通り、晴海通りや、墨田、錦糸、浜町の各公園は、現在でも残っている東京中心部の骨格になっています。 
ビーアド博士『東京復興に関する意見』より
歴史の舞台は大西洋より太平洋に移りつゝある。日本はこの舞台に於いて立役を勤めるであらう。而して東京は多くの印象深い場面の舞台となるであらう。故に日本の帝都が、帝都としての特異性を有たねばならぬといふことには深奥なる意義を有する。蓋し貧弱なる帝都は列強の間に伍するとき、國家の尊厳と威容とを傷けるであらう。
而してこの特異性は米國第三流處の邊陬都市の建築を再現して居たのでは達成されぬ。既に東京は洋臭畸形建築に有りあまつて居る。日本の帝都は唯日本國民の建築的天才を発揮することに依つてのみその特異性を有つであらう。過去に於ける壮観を目睹した私は、かの古代美の精神が再建時代に於いて地に委せらるゝにあらざるかを疑ひ、戦慄禁じ得ざるものがある。勿論私は商舖及び工場の實際的要求が古代建築の或る點と到底両立し得ざるものなることを知る。それ故に私は不可能を強いんとするものではないが、敢えて左の提案を為さうと思ふ。
一 能ふ限り日本建築の様式を總ての公共建築物に取り容れること。
二 洋式の記念建造物及び銅像を斥け、純粹なる日本式の記念建造物を造ること。
三 公園は總て純粹の日本式となすこと。
多くの主要米國都市は、建築美術委員會を設けて總ての公共記念建造物及び建築物の設計を審査せしめて居る。この委員會は公衆の趣味を向上せしむることに非常に成功して居る。勿論建築美術委員と雖も人間なるを以て幾多の誤謬に陥りはしたが、しかし彼等は美に對する公共の興味を喚起し、且つ幾多の畸形的建築物の出現を防止した。故に私は嘗て提案せる永久的帝都建築美術委員會の設置を再び慫慂する。尚保守的な實際家諸君の杞憂を除かんがために、東京に美観及び特異性を與へることは「算盤がとれる」ことを附言したい。世界の各地方から数多の観光客を誘ひ寄せるからである。もしも東京が唯單に近世歐米商業都市の複製に過ぎぬものであつたならば、誰か来遊を思ひ立つ者があらう。もしも日本國民がその帝都に美観と特異性とを與へるために十分なる努力をしなかつたならば、この大災害の傷も癒へ、日本精神が光芒を放つ頃になつて、自ら悔ひ且つ愧づることにならう。(C.ビアード/『東京復興に関する意見』の中から「第十一 帝都の尊厳及び美観に関する考察」)
チャールズ・オースチン・ビアード(Charles A. Beard)大正十二年(1923)九月一日、関東大震災が発生。翌二日に山本権兵衛内閣が成立する。内務大臣に就任した後藤新平は九月五日、ニューヨーク市政調査会専務理事を努めるC.ビアードに招聘を打電。これに応え十月六日、廃墟と化した横浜に上陸したC.ビアードは精力的に被災地を視察。数々の資料と意見とを日本政府に提供した。上記の文章は彼が後藤新平に宛てた意見書を、翌大正十三年十月に財団法人東京市政調査会が冊子で公開した一部。  
日米開戦の真相
終戦五十周年国民委員会編「世界がさばく東京裁判」の中に、アメリカの詩人、ウェン・コーエンの言葉が紹介されているところがあります。
彼は、大学に入って図書館でたまたまアメリカの歴史学の権威であるチャールズ・ビアード博士の、『ルーズベルトと第二次世界大戦』を見つけて読んだところ、それまで日本が一方的な侵略国と教えられてきたのが嘘であることを知り、目の覚めるような思いをしたそうです。その後、彼は日本人の「A級戦犯」が処刑された処刑場跡を訪れ、「ルーズベルト大統領が勝手に戦争を仕組み、日本に押しつけた事を知り、仰天の思いであった。アメリカが無実の日本の指導者を処刑してしまったことに対し、一アメリカ人として心より日本人に詫びたい。日本に行ったら、是非とも処刑場跡を訪れ、処刑された人々の霊に詫びたいと思っていたが、今日それが実現できて、大任を果たした思いである」と語ったそうです。
さらに、「世界がさばく東京裁判」によると、「アメリカにおける東京裁判批判の決定打となったのは、歴史学の権威であったチャールズ・ビアード博士が1948年アメリカの公式資料に基づいて『ルーズベルト大統領と第二次世界大戦』なる著書を発表したことであった。博士はその著の中で戦争責任を問われるべきは日本ではなく、ルーズベルト大統領だと訴えたのである」、「アメリカの要人たちもビアード博士が学界の権威であるだけに弁解の余地もなく、『もしそうなら、戦犯も追放もあったものではない。アメリカから謝罪使を送らねばなるまい』と言う者や、『いまさら謝罪もできないから、この上は一日も早く日本を復興させて以前に戻してやらねばならぬ』と言う者もあったという」と書いてありました。
私はこの、「ルーズベルト大統領と第二次世界大戦」を読みたいと思い、終戦五十周年国民委員会に問い合わせたところ、編集委員の方から、「・・・残念ながら日本語訳はありません。この本は、アメリカでも当時かなりの話題を呼び、内容が内容だけに、少なからず軍から反発を受けたと聞いています。そのためかどうか分かりませんが、邦訳については遺族の方が許さないのです」という回答をいただきました(ただし、英文の原著は日本の大きな図書館にはあるそうです)。
私はこれを聞いて驚きました。著作物とは人に読まれることを目的に書かれるものであり、著作者の遺族が、「発禁」にするというのはあまり聞いたことがありません。遺族に著作者の意に反する事をする権利があるのでしょうか。かつてのソ連、現在の中国、北朝鮮の例を見ても分かるように、「発禁」とは自分たちの嘘がばれることを恐れる人達がすることです。遺族が日本語訳だけを「発禁」にする正当な理由があるのでしょうか。日本人には真相を知らしめないと、いう以外に理由は考えられません。
アメリカは過去の外交文書を逐次公開しています。以前新聞で、「第二次大戦当時のドイツに関する文書はすべて公開されたが、日本に関するものは依然公開されていないものがある」と言う記事を読んだ覚えがあります。60年前の文書はもはや歴史上の資料で、外交機密ではないと思います。アメリカが公言してきた歴史に偽りがなければ、公開できない理由はないはずです。それを未だに公開できないでいるのは何故でしょうか。それは、アメリカが公言してきた歴史に偽りがあるからだと思います。
今年7月15日の産経新聞の一面トップに、「宣戦布告なし日本爆撃 米も計画していた」、という記事があり、真珠湾奇襲以前にアメリカが日本爆撃を計画していたことが報じられていましたが、このニュースのもととなった米国立公文書館の文献は、1958年から1971年にかけて段階的に公開されたものだそうです。今から、30〜40年も前のものです。それが今頃記事になるのはあまりに遅過ぎます。日本人が隠された真相を知ろうと努力しないのは、大変情けないことだと思います。 
Charles Austin Beard
Charles Austin Beard (November 27, 1874 – September 1, 1948) was, with Frederick Jackson Turner, one of the most influential American historians of the first half of the 20th century. For a while he was a history professor at Columbia University but his influence came from hundreds of monographs, textbooks and interpretive studies in both history and political science. His works included a radical re-evaluation of the founding fathers of the United States, who he believed were motivated more by economics than by philosophical principles. Beard's most influential book, An Economic Interpretation of the Constitution of the United States (1913), has been the subject of great controversy ever since its publication. While frequently criticized for its methodology and conclusions, it was responsible for a wide-ranging reinterpretation of American history of the founding era. He was also the co-author with his wife Mary Beard of The Rise of American Civilization (1927), which had a major influence on American historians.
An icon of the progressive school of historical interpretation, his reputation suffered during the Cold War era when the assumption of economic class conflict was dropped by most historians. Richard Hofstadter (a consensus historian) concluded in 1968: "Today Beard's reputation stands like an imposing ruin in the landscape of American historiography. What was once the grandest house in the province is now a ravaged survival".
Conversely, Denis W Brogan believed that Beard lost favour in the Cold War not because his views had been proven to be wrong, but because Americans were less willing to hear them. In 1965 he wrote; “The suggestion that the Constitution had been a successful attempt to restrain excessive democracy, that it had been a triumph for property (and) big business seemed blasphemy to many and an act of near treason in the dangerous crisis through which American political faith and practice were passing”.
Hofstadter, nevertheless praised Beard, saying he was "foremost among the American historians of his or any generation in the search for a usable past".
( 誤訳 チャールズオースティンビアード (11 月27日 1874-9 月1日、1948) は、フレデリックジャクソンターナー、20世紀の前半の最も影響力のあるアメリカの歴史家とされた。しばらくの間、彼はコロンビア大学の歴史教授だったが、彼の影響は、歴史と政治学の両方でモノグラフ、教科書や解釈学の研究の何百ものから来た。彼の作品は、米国の建国の父の急進的な再評価を含んでいた, 彼は哲学の原則よりも経済学によってより多くの動機づけられたと信じていた人.ひげの最も影響力のある本は、米国憲法の経済解釈 (1913) は、その出版以来、大論争の対象となっている。その方法論と結論を頻繁に批判しながら、それは建国時代のアメリカの歴史の広範な再解釈を担当した。彼はまたアメリカの歴史家の主要な影響があったアメリカ文明 (1927) の上昇の彼の妻メリーひげとの共著者だった。歴史解釈の進歩的な学校のアイコンは、彼の評判は、冷戦時代の経済クラスの紛争の仮定は、ほとんどの歴史家によって落とされた時に苦しんだ。リチャードホフスタッター (コンセンサスの歴史家) 1968 で締結: "今日のひげの評判は、アメリカの歴史学の風景の中で印象的な破滅のように立っている。何がかつては、州の壮大な家は今荒廃したサバイバル "です。逆に、デニス w ガンは、彼の意見が間違っていることが証明されていたため、アメリカ人は以下のそれらを聞いて喜んでいたので、ひげが冷戦ではなく、好意を失ったと信じていた。1965で彼は書いた;"提案は、憲法は、過度の民主主義を抑制するために成功した試みをされていた, それは財産のための勝利をされていたこと (と) 大きなビジネスは、アメリカの政治的信仰と実践が通過した危険な危機に近い反逆の多くと行為に冒涜。ホフスタッターは、それにもかかわらず、彼は "使用可能な過去の検索で彼または任意の世代のアメリカの歴史家の間で何よりも" だったと言って、ひげを賞賛した。 )
 

 

 
産業技術

 

エドウィン・ダン
Edwin Dun (1848〜1931)
北海道の農業指導(米)
アメリカの牧畜家。マイアミ大卒後、父や叔父の牧場で獣医学、競走馬・肉牛の研究をしていた。ケプロンの推薦を受け1873年北海道開拓の技術者として来日。函館に赴任して近代農畜産の技術指導に当たる。後に札幌に移り複数の牧場建設に当り、牛・豚・羊などの飼育から乳製品の製造まで教える。また、競馬場の提案もして日本初の西洋式競馬を開設した。開拓使が廃止されて一時帰国するが、日本での実績が評価されて1884年、アメリカ公使館二等書記官として再来日。後に公使まで出世した。日本人と結婚し、日本に永住を決意、公使退官後は日本の民間企業に勤め、東京の自宅で死去した。 
2
獣医師で明治期のお雇い外国人。開拓使に雇用され、北海道における畜産業の発展に大きく貢献した。アメリカ合衆国・オハイオ州チリコシー出身。オハイオ州マイアミ大学卒業。1883年、勲五等双光旭日章を受章。息子のジェームス・ダン(壇治衛)は音楽家。ジェームスの妻・ダン道子も音楽家。
マイアミ大学を卒業後、父の経営する牧場で牧畜全般の経験を積み、さらに叔父の牧場で競走馬と肉牛の育成法を学んだ。
開拓使次官であった黒田清隆がアメリカ農務長官ホーレス・ケプロンと親交があった縁から、ケプロンの息子エー・シー・ケプロン(1871年より開拓使顧問)によって開拓使の技術指導者に推挙され、1873年に明治政府との間で1年間の雇用契約を結ぶ(結局、開拓使が廃止されるまで1年契約を繰り返すことになる)。渡日の際、エドウィンは14台の貨車を用いて92頭の牛、100頭の羊、農耕具を日本へ輸送した。
来日当初は東京官園において、北海道へ移住した東北士族団の子弟および開拓使官吏約30人に農畜産の技術指導を行った。その内容は欧米式の近代農法および獣医学であり、とくに獣医学に関する指導は西洋獣医学の知識を有する者が1人もいなかった当時の日本において貴重なものであった。
函館
1875年、北海道函館近郊の七重へ出張。馬匹改良のため、馬の去勢技術を指導した。気性の悪い馬を去勢によって温和にし、同時に遺伝子を残さぬよう淘汰することは欧米においては一般的な手法であったが、当時の日本においては士族を中心に「気性の悪い馬を乗りこなしてこその馬術」という意識が強く、当初エドウィンの指導はなかなか浸透しなかった。しかし当時の日本における馬術の第一人者であった函館大経の理解を得ることに成功し、馬の去勢は次第に受け入れられるようになった。
七重においてエドウィンは新冠牧場の経営改善策について報告書を提出し、種豚、種牡馬の輸入を要求。さらに中国からの羊の輸入頭数について意見を出した。
同年、エドウィンは日本人女性(つる)と国際結婚をした。この結婚により、エドウィンは日本に永く留まる決意をしたといわれる。
札幌
1876年、札幌へ移動。エドウィンの提案により、札幌西部に牧羊場、真駒内に牧牛場(真駒内牧牛場、のちの真駒内種畜場)、漁村に牧馬場(漁牧場)を建設することが決定。施設が完成した後、エドウィンは牧羊場においては羊の飼育のほか北海道の気候に適合する農作物の栽培実験を行い、漁牧場においては馬匹改良のため、洋種馬と日本在来種である南部馬との交配を試み、牧牛場においては100頭あまりの牛と80頭あまりの豚を飼育し、100ヘクタールの飼料畑を整備し、バター・チーズ・練乳の製造およびハム・ソーセージの加工技術を指導した。
同年、開拓使が北海道に競馬場を建設することを計画。それまで北海道では直線状の馬場や角形の馬場によって速歩競走が行われていたに過ぎなかったことから、ダンは北海道育種場に440間(約800m)の楕円形の馬場を建設し、襲歩による競走を行うべきだと提案。提案に基づいて建設された競馬場(北海道育種場競馬場)において西洋式の競馬が定期的に開かれるようになった。
1877年、漁牧場の土壌が馬の飼育に適さないと判断したエドウィンは、馬匹改良の本拠地を新冠牧場に移すべきであると判断。同牧場を拡張整備し、漁牧場から馬を移送した。新冠牧場では千数百頭もの馬が飼育され、根岸競馬場におけるレースに優勝する競走馬や全国博覧会で一等賞をとる馬を生産するなど名実ともに北海道における馬産の拠点として発展した。なお、新冠牧場は1883年に宮内省所管の新冠御料牧場となった。
アメリカへ一時帰国、外交官として再来日
1882年に開拓使が廃止されたことに伴い、エドウィンは新たに農商務省と雇用契約を結ぶが同年12月に東京へ移動し、翌1883年2月に雇用契約を終了させた。1883年、アメリカへ帰国。しかしアメリカ政府によって北海道における業績を評価され、1884年、アメリカ公使館二等書記官として来日。1889年に参事官、1890年に代理公使、1893年に公使に昇進した。1894年に日清戦争が勃発した際には和平交渉実現のために奔走したといわれる。公使辞任後は、アメリカのスタンダード石油会社が日本に設立したインターナショナル石油会社(本店:横浜市)の直江津支店支配人を務め、さらにその後は、三菱造船東京本社に勤務した。1931年5月15日、東京の自宅で死去。
現在、エドウィンの功績はエドウィン・ダン記念公園(旧真駒内中央公園、真駒内種畜産場跡)内のエドウィン・ダン記念館においてみることができる。
業績
真駒内用水(2004年10月)農業分野においては、1人で馬を使役し、ソリやプラウ、カルチベータなど洋式の大型農具を用いて農作業を行う技術を普及させたことが北海道における大規模農業の礎になったといわれる。また、北海道の気候に適合した農作物の発見に努めた。なお、現在でも競馬のばんえい競走における、荷物を載せたソリを馬に牽かせるという競技方式に、エドウィンが普及させた馬の使役方法の名残をみることができる。
競馬の分野においては、前述の北海道育種場競馬場の建設が北海道における西洋競馬の定着に大きく寄与し、馬産の面においても馬匹改良の資源・設備・技術の向上に大きく貢献した。なお、1886年に建設された中島競馬場はエドウィンの設計に基づいて建設されたものである。
真駒内牧牛場における水の安定供給のために建設を提案し、1879年に完成した真駒内用水は、のちに水田の灌漑用水としても利用され、周辺地域における稲作の定着に大きく貢献した。
 
ウィリアム・ブルックス

 

William Penn Brooks (1851-1938)
北海道の農業指導
アメリカの農学者。いわゆるお雇い外国人として、ウィリアム・スミス・クラークが去った後の北海道、札幌農学校で教鞭をとった。
アメリカ、マサチューセッツ州サウス・シチュエットの農家に生まれる。1872年(1年次3学期)にマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に入学。1873年ノースカレッジの一室で同級の仲間とともにPhi Sigma Kappaを結社。在学中にクラークのもとで植物生理学の実験に参加している。1875年に同大学を首席で卒業後も研究生として化学と植物学を専攻した。
日本政府より札幌農学校の農学教師および校園監督として招聘を受け、1877年1月に来日、クラークの同校での仕事を引き継ぐこととなった。着任後すぐに農学講義と農学実習、演説・討論を含む英語 、1880年からは植物学も担当、タマネギをはじめ、ジャガイモ、トウモロコシといった西洋野菜を紹介し、その栽培法を学生や近郊農家の人々に指導した。札幌農学校には12年間勤務し、うち4年は教頭を務め、学生には「ブル先生」の愛称で親しまれた。 1882年に一時帰国した際にエヴァ・バンクロフト・ホールと結婚、夫人を札幌へ呼び寄せ、夫妻は日本で7年間暮らした。その間に娘レイチェルと息子サムナーも生まれている。
1888年10月、ブルックスは家族とともにアメリカへ帰国する。離任時に日本政府より勲四等旭日小綬章を授与された。1889年、母校マサチューセッツ農科大学の農学教授に就任、同時にマサチューセッツ州農業試験場技師として勤務した。この時期にアメリカにダイズやキビを導入している。1896年8月、ブルックスは家族とともにドイツへ留学、ハレ大学で1年学び、博士号を取得した。1903年 、1905〜6年までマサチューセッツ農科大学学長代理。帰国後の1906年には農業試験場の所長に就任、1918年に辞するまでこれを務める。その後1921年まで顧問を務めた。1924年に夫人が死去した3年後にグレース・ホールデンと再婚。1932年、マサチューセッツ農科大学はブルックスに農学の名誉博士号を授与、晩年はアマーストの自宅の庭を耕して過ごした。  
 
ルイス・ベーマー

 

Louis Boehmer (1843-1896)
北海道の農業指導
明治初期のお雇い外国人(ドイツ系アメリカ人)。開拓使に雇用され10年の長きに亘りリンゴなどの果樹栽培やビール用ホップの自給化、各種植物の生育指導などで北海道の近代農業発展に貢献した。ドイツ北部・ハンブルク近郊のリューネブルク生まれ。
リューネブルク市内のギムナジウム卒業後、宮廷庭師の下で修業を積みハノーファーの王室造園所などに勤務し王室の庭園への就職を目指していたが、1867年普墺戦争勃発による戦渦を避けてアメリカに渡り、ニュージャージーを振り出しに上級園芸家として各地の造園業者の下で働いた後、定住を決意しニューヨーク州ロチェスターのマウント・ホープ・ナーセリー(1840−1918)に就職した。
1871年(明治4年)1月に渡米した開拓使次官の黒田清隆の要請に応えて開拓使顧問に就いたホーレス・ケプロンは知人の園芸商ピーター・ヘンダーソンが推薦するルイス・ベーマーを果樹園芸、植物生育分野の技術者として雇用した。1872年(明治5年)来日後開拓使で北海道の西洋農業化に貢献した。
東京青山官園へ
開拓使の草木培養方として雇われたルイス・ベーマーはサンフランシスコから船名 "Japan" に乗り1872年3月26日(明治5年2月18日)横浜に着いた。 東京青山の官園が勤務地であったが、この官園は外国(主にアメリカ)から輸入した家畜や草木を一旦根付かせその後北海道へ移送する為の中継基地の役割を担っていた。 10万坪を超える広大な官園には、小麦や大麦、豆類などの雑穀やアスパラガス、人参、玉葱、馬鈴薯などの野菜、リンゴやサクランボ、ブドウ、梨、桃といった果樹がたくさん植えられた。ルイス・ベーマーは農作物を主体とした第一・第二官園(現在の青山学院大学の一帯)の主任として指導に当たっていたが、ベーマー着任の1年後に牛や馬、豚、羊など家畜の飼育を行う第三官園の主任としてアメリカらやってきたエドウィン・ダンと交友を深めた。
ケプロンが "government farm" と呼んだ官園は外国の農業技術を導入するための施設として、ルイス・ベーマー等の外国人指導者による技術者養成をはじめ、試験や実験、啓蒙や普及といった活動も行われていた。そこに学んだのは主に農業現術生徒と呼ばれる若者であった。彼らは農家の出身ではなく、つい数年前まで各藩で将来を嘱望されて文武に励んでいた若者達で、明治新政府によって全国から集められた。
例えば明治5年(1872年)第一期生として入園した中田常太郎(当時30歳)は、東北戊辰戦争に敗れて捕らえられ北海道に移送された後明治4年に余市に入植した旧会津藩の武士の一人であったが、彼の様に逆賊と呼ばれた無念な思いを断ち切り新政府の農業研修制度に応募する若者も多かった。 ベーマーはこうした現術生徒を指導しながら、アメリカから持ち込み一旦青山官園に仮植されたリンゴの苗木を札幌や七重村(現七飯町)の官園へ移送する作業に取り掛かった。
北海道・植物相調査旅行
1874年(明治7年)5月19日ルイス・ベーマーはケプロンの指示をうけ、北海道に向け蒸気船ニューヨーク号で出帆し、21日に函館に上陸した。その後10月19日蒸気船雷電丸で離道するまでの5ヶ月間全道各地を精力的に廻り植物相の調査や標本の採集を行ったが、途中沙流郡のアイヌ集落周辺でホップが自生しているのを発見し北海道におけるホップ栽培が有望であると判断したことが、後の札幌に於けるビール工場開設に寄与した。 札幌官園に立ち寄ったベーマーは、翌1875年(明治8年)から始まる果樹苗の一斉配布に供えて現術生徒等に接ぎ木の方法や栽培の要点を細かく指導した。
同年12月24日付けでベーマーがケプロンに提出した北海道本草採集報文に添えられた約500種類の押し花標本は、ケプロンの指示でニューヨークの植物学の権威 Asa. Gray 教授に送られ検定された後ハーバード大学に保管された。1875年(明治8年)ケプロンは任期満了で帰国したが、その翌年の1876年(明治9年)にこれらの標本は日本に返還され東京大学付属植物標本室に保管され、今もその一部が残されている。 東京官園に戻ったベーマーは果樹の中でもリンゴが北海道の気候風土に最も適していると判断し、4万本に及ぶ苗木の受け入れと北海道への移送の準備に励んだ。
札幌・転勤
実践的指導に優れていたベーマーは1876年(明治9年)札幌官園への移動を命じられ、エドウィン・ダンと共に同年5月22日品川から玄武丸に乗り出帆した。 同年7月には米国マサチューセッツ農科大学を一次休職したウイリアム・スミス・クラークが札幌農学校(北海道大学の前身)教頭に就任した。
業績
北海道開拓使
1876年(明治9年)9月国内で初の官営ビール工場である開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が札幌に開業した。開拓使はドイツで醸造技術を習得した中川清兵衛(1848−1916)を主任技師に迎えて開業したが、ビールの味の決め手となるホップの栽培をベーマーが実現しなければ叶わなかったことである。現在の札幌駅前から時計台の当たりまでの一帯は広大なホップ畑であった。 また開拓使は葡萄酒醸造所の開設も同時に行ったが、葡萄の品種選定や葡萄園作りはベーマーの主要な任務であった。
札幌官園に着任したベーマーは早速に本格的な洋風温室を設計し、1876年(明治9年)11月、ガラス張り・ボイラー付きの豪華な温室が完成した。その後温室は一般にも公開され多くの市民に親しまれたが1878年(明治11年)2月にクラークの希望を受け札幌農学校に移管され専ら学術研究に供される事となり、その後1886年(明治19年)には現在の北大植物面内に移築された。 優れた園芸家でもあるベーマーは、札幌で最初の公園となる偕楽園内に和洋折衷の庭園建設を指導しているが、これが現存する清華亭の前庭である。
ベーマーの功績の中でも最も高く評価されるのはリンゴの生育指導であったが、1875年(明治8年)から全道に配布された苗木も着実に成長し、1879年(明治12年)には余市や札幌などからリンゴの初なりの報告が相次いでなされた。当時のリンゴは「六十六号」や「二十四号」など番号で呼ばれていたが、この番号は東京から札幌に送る際に品種名の代わりに付けられた数字で、ベーマーによって作られた「西洋果樹種類簿」によって管理されていた。 ちなみに1879年(明治12年)余市で結実された俗称「四十九号」は後に「国光」と命名されているが、最初の生産者の金子安蔵は1874年(明治7年)現術生徒(当時24歳)になりベーマーやダンから直接指導を受けた旧会津藩出身者である。
1880年(明治13年)、翌年の明治天皇の札幌訪問に備えて宿舎となる豊平館の建設工事が現在の札幌テレビ塔周辺で始まったが、この豊平館の庭の設計もベーマーによるものである。この時この庭園工事を手伝った上島正(1838−1919)は、ベーマーの指導を受けて花菖蒲の人工交配に成功し「我邦に於ける花卉媒助の鼻祖」と称され、その技術を様々な花卉の採種に応用して巨利をえた。上島の庭園(東皐園)で作られた花菖蒲はその後アメリカに輸出される事になるが、1882年(明治15年)に開拓使廃止によって横浜に移り園芸種の輸出入業を営む事となるベーマーがそれを支えた事が容易に想像される。
こうして、野菜や花卉、果樹や穀類など多くの有用な作物を短期間で北海道に定着させ、その後の発展の基礎を築いたルイス・ベーマーの業績は賞賛されて余りあるものがある。
横浜ベーマー商会
1882年(明治15年)開拓使の廃止にともないベーマーは同年3月12日来道時と同じ玄武丸で函館を後にした。同年4月30日をもって開拓使との契約は満了したが、就任期間10年3ヶ月はお雇い外国人としては2番目に長いものであった。この間ベーマーが妻帯していたという記録は残されていない。同年4月27日、横浜のブラフ28番(番地)に転居届けを出したベーマーはここで輸出入園芸業のベーマー商会を設立した。
ベーマーは本格的温室を建設し日本産植物の輸出と並行して西洋花卉の輸入培養を行うとともに、日本人の鈴木卯兵衛を仕入主任(番頭)に雇い、百合根貿易に力を注いだ。アメリカ、カナダ、ドイツ、イギリスと次々に販路は拡大されベーマー商会は大いに潤った。当時生糸や茶など代表的な産品は外国商館を経なければ輸出できず自ずと日本側の利益は薄いものであったが、鈴木卯兵衛等は会社(後の横浜植木株式会社)を起こし、ベーマー商会の名義を活用してアメリカへの百合根輸出を始めた。 関税自主権のなかったこの時代に直貿易に近い形で日本側が厚い利益を取れたのは、日本贔屓で情誼に厚いベーマーの存在が大きかった。
横浜に移り住んで12年、園芸商として成功を遂げたベーマーであったが、体調を崩しドイツで療養することとなり、2年前から共同経営者になっていたアルフレッド・ウンガーにベーマー商会を譲り、1894年10月13日英国船Ancona号で離日した。そして1896年7月29日、療養地ブラッケンブルクで53年の生涯を閉じた。  
 
ホーレス・ケプロン (ホリス・ケプロン)

 

Horace Capron (1804〜1885)
北海道の農業指導、道路など(米)
アメリカの北海道の開発顧問。1871年来日。当時67歳で現職のアメリカの農務長官という大物だったが、明治政府が黒田清隆開拓使次官をアメリカに派遣、大臣並みの高給で依頼し招いたといわれる。アメリカでは西部開拓の第一人者としてカリフォルニアにグレープフルーツやオレンジ等を広めた人物で、日本にも紅玉などのりんご等多くの果物をもたらした。アメリカ式の近代農業を広め、酪農やビール醸造(後のサッポロビール)、鉱業や水産業、道路整備の指導にも当り、1875年帰国するまで北海道のみならず日本の産業界に大きな足跡を残している。札幌農学校の講師としてクラーク博士を推薦し招聘した人物としても知られる。 
2
アメリカ合衆国の軍人、政治家。お雇い外国人の1人。
マサチューセッツ州の医師セス・ケプロンの四男として、同年ニューヨーク州に移り、オナイダ郡ホワイツボロで育つ。
1825年、21歳の時にワルデンに移住。父及び長兄(ニュートン・マン)が経営する綿布製造業に従事した。経験を積んだ後、各地の工場で監督を務めた。
1829年、25歳でメリーランド州ワーレンの織物工場の監督、次いでサヴェジの紡績工場監督。
1833年、ボルチモア・ワシントン鉄道敷設の際、アイルランド労働者が暴動を起こしたが、ケプロンが民軍を組織して鎮圧に当たった。
南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となった。1871年(明治3 - 4年)、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。1875年(明治8年)5月帰国。
日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。また、1872年(明治4 - 5年)、開拓使東京事務所で、ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供されていることが分かっており、これはライスカレーという単語が使われた最初期の例である。
ケプロンの仕事は多岐に渡り、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業など、開拓のほぼ全領域に渡っている。特に著名で重要なものを次に記載する。
北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励。北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。ケプロンが麦作を奨励したことは、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が設立される遠因になった。
単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。ケプロンの進言に従い、1877年(明治10年)10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量産工場である石狩缶詰所が作られた。この日(10月10日)は、日本では缶詰の日になっている。開拓使はこれ以外にも道内沿岸部に次々とサケ缶詰製造工場を建設した。
ケプロンの進言に従い、札幌 - 室蘭間、森 - 函館間までの馬車道が整備された(室蘭 - 森間は航路)。この道は札幌本道と呼ばれ、現在の国道36号と国道5号の基礎となっている。ケプロンは、可能ならば札幌 - 室蘭間に鉄道も敷くべきだと進言したが、ケプロンの在日期間中には敷設されなかった。
1884年(明治17年)2月21日、ワシントン記念塔の建設祝賀会式典に出席し、帰宅後に気分の不調を訴え、そのまま翌22日に80年の生涯を閉じた。その遺骸は、ワシントンのオークヒルに葬られている。。
大通公園に黒田清隆像と並んで銅像が建っている。
 
ヘンドリック・ハルデス

 

Hendrik Hardes (1815-1871) 
長崎造船所、製鉄所建設(蘭)
幕末に来日したオランダ海軍の軍人で、日本最初の近代工場である長崎製鉄所の建設を監督した。
1815年1月10日、オランダ・アムステルダムに生まれ、19歳でオランダ海軍に入った。長崎海軍伝習所総監の永井尚志は、オランダに大型船造修所の建設要員の派遣要請と機械類・資材の発注を行ったが、ハルデスはその要員に参加を申し出た。幕府は、オランダに蒸気軍艦2隻を発注していたが、その1隻目であるヤーパン号(咸臨丸)が完成すると、ハルデスはそれに乗船し、1857年9月22日(安政4年8月5日)に長崎に到着した。ハルデスは、海軍伝習所の対岸にあたる浦上村淵字飽の浦の9040坪の土地を建設用地とし、10月10日(旧暦8月23日)に建設が始められ、1861年5月4日(文久元年3月25日)に長崎製鉄所が完成した。完成4日後の5月8日(旧暦3月29日)に、帰国の途についた。
ハルデスは、製鉄所の建物に使うために、瓦職人を指導して、日本で初めての建物用煉瓦を作製している(建物用以外では、反射炉用の耐火煉瓦が国産化されていた)。焼成温度が高くできなかったため、この煉瓦の厚さは4 cm程度と、現在の普通煉瓦に比べて薄く、コンニャクに似ていたため「コンニャク煉瓦」、またはハルデスの名前をとって「ハルデス煉瓦」と呼ばれた。明治初期の洋風建物がこのハルデス煉瓦で建てられている他、ながさき出島道路オランダ坂トンネル出口直下の壁が、復刻されたハルデス煉瓦で作製されている。 
 
レオンス・ヴェルニー

 

Francois Leonce Verny (1837-1908) 
海軍工廠の建設指導など(仏)
フランスの技術者。1865年から1876年にかけて横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台、その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。
1837年12月2日、フランス中部のローヌ=アルプ地域圏に位置するアルデシュ県のオーブナで生まれた。父は製紙工場を経営するマテュー・アメデ・ヴェルニー、母はアンヌ・マリー・テレズ・ブランシュで、5男2女の兄弟の三男だった。就学年齢の8歳になるとオブナの町で神父が経営するコレージュに通い、平均的な成績をおさめていた。やがてリセへの進学を目指して家庭教師の指導を受けると成績が向上し、1853年に16歳でリヨンのリセ・アンペリアルに入学している。リセでは厳しいカリキュラムをこなし、1854年には数学で学年1位となっているが化学の成績は振るわなかったという。余暇にはバイオリンや馬術を習い、1856年にかねて志望していたエコール・ポリテクニークへ合格者115名中64位という成績で入学した。
エコール・ポリテクニークでの生活については不明な点も多いが、おおむね良好な成績で1858年にヴェルニーは同校を卒業した。同年、海軍造船工学学校(フランス語版)に入り海軍技術者となった。同校在学中はしばしば旅に出て、1858年夏はオルレアンやボルドー、トゥールーズ、1859年6月にはイタリア独立戦争中にジェノヴァやフィレンツェを訪れている。工学学校卒業後、1860年8月にブレスト造兵廠に着任し、造船・製鉄・艦船修理など多岐にわたる業務に従事した。
一方、1860年の北京条約の締結後も清では戦闘が続いていたため、フランス海軍は寧波で造船所やドックを建設し、小型の砲艦を建造する事を決めた。この建造監督への就任をヴェルニーは受諾し、1862年9月に辞令を受けてマルセイユからアレキサンドリア、スエズを経由して上海に向かった。寧波に着くと同地の副領事に任命され、造船所や倉庫、ドックを建設して1864年には4隻の砲艦が全て竣工した。この功績により、翌年レジオンドヌール勲章を受章している。
日本
当時、江戸幕府は近代化を進めてフランスの協力による近代的造兵廠の建設を決定し、フランス側の担当者だった提督・バンジャマン・ジョレスの要請によりヴェルニーは1865年1月に日本へ派遣された。江戸に近く、波浪の影響を受けにくい入り江である上に艦船の停泊に十分な広さと深さを備えた海面があり、泊地として良好な条件を備えていたことから、造船所や製鉄所を含む同施設の建設地として横須賀が選ばれた。中国から持参した建設資料と見積りを基にヴェルニーは駐日公使のレオン・ロッシュらと横須賀製鉄所の起立(建設)原案を作成し、2月11日に提出している。計画では4年間で製鉄所1ヶ所、艦船の修理所2ヶ所、造船所3ヶ所、武器庫および宿舎などを建設し、予算は総額240万ドルとされた。2月24日に水野忠誠と酒井忠毗が約定書に連署して建設が正式に決まり、造兵廠建設に必要な物品の購入やフランス人技術者を手配するため、同年4月に日本を発ちフランスに一時帰国した。
間欠熱や胃病のため故郷で休養した後、8月27日から12月7日まで文久遣欧使節に同行して海軍施設などを案内した。1866年3月にフランス人住宅の建設担当者を先に日本に派遣した後、資材を調達してヴェルニー自身も4月16日にマルセイユを出発して6月8日に横浜に到着した。横須賀ではフランス人達が驚くほどのスピードで造成が進められ、入り江が埋め立てられ山が切り崩された。ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、40数名のフランス人技術者に指示を出した。なお月給は833メキシコドルで、年俸にして10,000メキシコドルを超える高給を受け取っていた。フランス人住宅や警固の詰所、各種工場や馬小屋、日本人技術者養成のための技術学校などの各種施設が建設される中、1867年3月にヴェルニーは上海に渡り、上海領事だったモンモラン子爵の娘・マリーと4月22日に結婚式を挙げている。
ヴェルニーの指導の下、横須賀製鉄所で製造された煉瓦の刻印部分。
1868年に戊辰戦争が勃発して3月には新政府軍が箱根まで進出してきたため、浅野氏祐と川勝広運より横浜居留地へ退去するようフランス人に指示が出たが、ヴェルニーは「政治的事件のとばっちりを受けたものの、事業中断はできない」として通報艇を待機させながら横須賀にとどまった。4月には神奈川裁判所総督の東久世通禧と副総督・鍋島直大によって横須賀製鉄所が接収されている。この時点で使用した経費は150万8,400ドルに上り、さらに83万ドル以上が必要となったため予算難の新政府はお雇いフランス人の解雇と工事の中断を検討したが、フランス公使・ウートレやヴェルニーの反対によって建設の継続が決まっている。また、同年には灯台用機械がフランスから届き、ルイ・フェリックス・フロランに命じて観音埼灯台を建設した。このほか、東京周辺で観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台の建設にも関わった。(各灯台はその後、関東震災で壊れるなどしてヴェルニーの携わったそのままの姿は失われたが)そのうち(旧)品川灯台だけは、ヴェルニーが関わった当時のものが博物館明治村に移築され現存している。妻の健康問題などのため1869年5月から休暇を取ってフランスに帰り、1870年3月に横須賀に戻っている。
1871年に横須賀製鉄所と横浜製鉄所はそれぞれ横須賀造船所、横浜造船所と改名され、9月に工部少丞の肥田浜五郎が造船兼製作頭として横須賀に赴任してきた。ヴェルニーが指導して造船された蒼龍が1872年に、清輝が1875年にそれぞれ進水するなど、横須賀での艦船建造は順調に進んだ。一方でヴェルニーの高給は新政府にとってネックとなり、1873年にフランス公使・サン=カンタン伯爵と交渉して解任が受諾され、1876年3月3日にヴェルニーは解嘱された。これにともない、1875年12月28日にルドヴィク・サバティエとともに川村純義の斡旋で宮内省で明治天皇の謁見を受けたほか、1876年1月16日には延遼館で送別の宴が催されて三条実美らから書棚と花瓶が贈られている。同年2月26日に12年間の滞在をまとめた報告書を政府に提出し、3月12日に家族とともに横浜港から帰国した。なお、日本滞在中に1男2女を儲けている。
フランス帰国後
マルセイユに到着後、消化不良と衰弱を理由に20日間の休暇を取り、さらにこれを6週間に延長している。海軍造船工学学校での教授職などを検討したがフランス海軍内での求職活動は難航し、ローヌ県の海軍工廠でしばらく監督業務を務めた後、1876年から接触を持ったサン=テティエンヌ近郊のフィルミニー(フランス語版)とロシュ=ラ=モリエール(フランス語版)の炭鉱の所長となり海軍を退職した。1882年から1885年までサン=テティエンヌ商工会議所の幹事を務め、鉱山学校の設立などに携わっていた。1888年には故郷のオーブナのポン・ドーブナで家を購入し、1895年に炭鉱の仕事を辞めるとこの家に移り、1908年5月2日に自宅で肺炎のため死去した。 
 
オスカル・ケルネル

 

Oskar Kellner (1851〜1911)
農芸化学(独))
ドイツの実業家・農芸化学者。駒場農学校(後の東大農学部)で近代農業(特に土壌肥料学)の実践と発展に尽力した。東京目黒区の駒場野公園には「ケルネル田圃」という実習用田んぼが残されている。 
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日本の土壌肥料学と施肥技術の発展に尽くしたドイツ出身のお雇い外国人。帝国大学農科大学で教鞭を執った。
ケルネルが研究の際に試験田として使用していたことから命名された「ケルネル田圃(たんぼ)」という田圃が、目黒区駒場野公園に存在する。現在、近隣に所在する筑波大学附属駒場中・高等学校の生徒の水田稲作実習に使われており、同校の入学式および卒業式では、ケルネル田圃で収穫された米で炊かれた赤飯が新入生、卒業生に配布される。
また、同じく駒場にキャンパスをかまえる東京大学教養学部では、平成18年度より、必修授業である「英語I」での一年生のリスニング教材に、ケルネルの功績を題材にしたものが登場している。
1881年(明治14)11月5日 来日。
1892年(明治25)12月31日 日本永住を決意していたが、本国から要請されドイツに帰国。
 
オスカル・レーヴ

 

Oscar Loew ( 1844-1941)
農芸化学(独)
ドイツの生理化学者。元・東大農科大学農芸化学教授。
南独バイエルン州生まれ。ミュンヘン大学のリービッヒやライプチヒ大学で化学や生理学を学び、渡米後、ミュンヘン大学で植物学研究に従事する。1893年招かれ、東京農林学校農芸化学教師となり、1897年帰国、渡米、ワシントン農務省でタバコ葉の新酵素を発見、カタラーゼと命名。1900年再び招かれ、東大農科大学農芸化学教授となり、’07年帰国、ミュンヘン大学植物学講師、’14年同大学医学部衛生学教授に就き、’26年ベルリン大学で研究に従事する。95歳までで500篇を越える論文を発表するが、中でもホルムアルデヒドからホルモースの生成、カルシウムの栄養上の価値を発見したことは著名である。わが国の優秀な農芸化学者の養成に努めた。 
 
ウィリアム・エドワード・エアトン

 

William Edward Ayrton (1847-1908) 
物理学(英)
イギリスの物理学者である。お雇い外国人として明治6年(1873年)から11年まで工部省工学寮(1877年工部大学校に改称、東京大学工学部の前身)で教えた。日本で初めてアーク灯を点灯した。
最初に結婚した医師、マチルダ・チャップリン=エアトンとは一緒に来日し、マルチダは日本では助産師の学校を開き、自ら教えた。英国に帰国後再婚したハータ・エアトンも女性科学者として業績をあげた。
1847年、ロンドンに生まれた。ロンドンのユニバシティ・カレッジで学び、1868年インドのベンガルで通信建設の仕事についた。1873年、明治政府の招きで来日し、工部大学の教授となった。6年間日本に滞在した後ロンドンのフィンスベリー工科大学(Finsbury College of the City and Guilds of London Technical Institute)の応用物理学の教授になった。
1881年王立協会フェロー選出、1901年同協会からロイヤル・メダル受賞。1884年にCentral Technical Collegeの電気工学の教授になった。1885年にハータと結婚した。多くの論文を発表しているが、特にジョン・ペリーと共同で行った、電気計測機器の開発で知られている。 
 
クルト・ネットー

 

Curt Adolph Netto (1847-1909) 
鉱業の技術指導(独)
ドイツの採鉱冶金学者。お雇い外国人。
1873(明治6) 工部省官営小坂鉱山冶金技師として来日。
1877(明治10) 東京大学理学部採鉱冶金学教師となる。 渡辺渡・野呂景義らを教える。
1885(明治18) ドイツに帰国。 
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ザクセンのフライベルク(現ドイツ)に生まれ、同地の鉱業大学を卒業。一時軍に服しましたが、日本政府に招かれて、鉱山冶金技師として小坂鉱山に赴任(明治6年12月〜明治10年6月)。阿部知清、笹木他三郎等の協力で我国最初の湿式製錬(銀はチャフォーゲル法、銅はハント・アンド・ダグラス法)を実現しました。その後東京大学0年10月〜明治18年2月)として我が国の鉱業近代化に寄与した功績は大きく、また水彩画を多数残してす。

「旧小坂鉱山事務所」の誕生は、小坂鉱山近代化の歴史に深くかかわっています。江戸時代も幕を引こうとしたころ発見され、明治時代の近代化の息吹とともに躍動を始めた小坂鉱山。後 に日本鉱業界の父と呼ばれた大島高任や「お雇い外国人」として日本鉱業界をリードしたクルト・アドルフ・ネットーらに支えられ、明治初期の「富国強兵」「殖産興業」政策に貢献した小坂鉱山。その流れは、明治17年(1884)に払い下げを受けた藤田組にも引き継がれ、主要鉱山の地位を確立します。そして迎えた明治30年代、土鉱とよばれた鉱石が底をつき沈滞期を迎えていた小坂鉱山に「黒鉱自溶製錬」の成功は、新たな活気をもたらしました。その起死回生にたずさわった技術者が、その後の日本鉱業界に大きな影響をおよぼすこととなります。そんな順風満帆の時代、小坂鉱山を、新時代のリーダーに発展させたいという藤田組の強い意志があり、明治38年(1905)に巨費を投じて豪壮華麗な「旧小坂鉱山事務所」は建設されたのです。まさに旧小坂鉱山事務所は日本一の大鉱山のシンボルでもあったのです。 
 
ジャン・フランシスク・コワニエ

 

Jean François Coignet (1835-1902) 
鉱山技術、生野銀山にて帝国主任鉱山技師、日本各地の鉱山調査(仏)
フランスより招聘された御雇(おやとい)外国人技師のひとりである。兵庫県・生野銀山(生野鉱山)の近代化に尽力の傍ら、日本各地の鉱山調査を行った。
コワニェは、フランス・サンテティエンヌの鉱山学校を卒業したのち、メキシコ・マダガスカルなど世界各地の鉱山を視察し、1867年(慶應3年)より鉱業資源調査のために薩摩藩によって招聘されていた。
明治新政府は官営鉱山体制を確立すべく、1869年(明治元年)、江戸幕府から受け継いだ産業資産のひとつである但馬国の生野鉱山(現・兵庫県朝来市生野町)の鉱山経営を近代化するため、コワニェは帝国主任鉱山技師として現地に派遣された。鉱山長・朝倉盛明の元、政府直轄となったこの鉱山を再興するため、鉱山学校(鉱山学伝習学校)を開設し新政府の技術者らを鉱山士として指導、近代的鉱山学の手法により当時の欧米先進技術を施し成果を挙げる。
坑口の補強にフランス式組石技術を採用し、鑿(のみ)と鏨(たがね)だけの人力のみに頼っていた採掘作業に火薬発破を導入、運搬作業の効率化を図り機械化を推進、軌道や巻揚機を新設した。また、より金品位の高い鉱石脈に眼をつけ、採掘の対象をそれまでの銅中心から金銀に変更するよう進言した。さらに、製錬した鉱石その他の物資輸送のための搬路整備を提案し、生野〜飾磨間に幅員6m・全長約49kmの、当時としては最新鋭のマカダム式舗装道路「生野鉱山寮馬車道」として1876年(明治9年)結実する。大阪の造幣寮(現・造幣局)への積出し港である飾磨港(現・姫路港)の改修なども指導し、発掘から積み出しまでの工程を整備した。
着任当初の鉱山の混乱(播但一揆に伴う鉱山支庁焼打ち事件:明治4年)もあり一時離日するが、その後再任し上記事業に本格的に取り組んだ。大蔵卿・大隈重信の官営鉱山抜本的改革についての諮問により、日本滞在中に各地の鉱山調査もあわせて行い、1874年(明治7年)『日本鉱物資源に関する覚書』(Note sur la richesse minérale du Japon)を著した。1877年(明治10年)1月に任を解かれ帰国、1902年、郷里のサンテティエンヌにて67歳で死去。
銀山現地にはコワニェの業績を称え、彼のブロンズ胸像が建つ。当時、生野の鉱山にはフランスから地質家・鉱山技師・冶金技師・坑夫・医師らが呼ばれ、その総数は24名に達したという。 
 
トーマス・ウィリアム・キンダー

 

Thomas William Kinder (1817-1884) 
大阪造幣寮首長
イギリスの軍人・技術者で、明治政府のお雇い外国人として造幣寮首長を勤め、日本の近代的貨幣制度の確立に貢献した。キンドルとも呼ばれる。
1817年11月10日ロンドンに生まれる。1840年にウスター民兵の少尉となり、1846年に中尉、1853年に大尉に昇進している。1870年除隊時の階級は少佐であった。
1845年にはブロムスグローブ(Bromsgrove)・オールドベリー(Oldbury)間の鉄道を開設し、10年に渡ってパートナーを務め、その後シュルーズベリー・アンド・バーミンガム鉄道(Shrewsbury and Birmingham Railway)の機関車部門を指揮した。1851年から1855年までは、アイルランドのミッドランド・グレートウェスタン鉄道(Midland Great Western Railway)をリースして経営している。
1863年には新たに設立された香港の王立鋳貨局(Hong Kong Mint)の長官となった。香港では複数の銀貨が流通しており、政府主導で銀貨の安定供給を目指したものだがあまり効果は上がらず、1868年に香港総督であったリチャード・マクドネル(Richard Graves MacDonnell)によって鋳貨局は閉鎖された。設備類はジャーディン・マセソン商会に売却された。
当時明治政府は近代的な貨幣制度の確立を目指していたが、駐日英国公使ハリー・パークスの勧めもあり、マセソン商会の代理人であったトーマス・グラバーを介して交渉し、閉鎖された鋳貨局の造幣設備一式を6万両で購入・日本に移設した。キンダーも明治政府に雇用され1870年(明治3年)に来日、同年3月3日(明治3年2月2日)に造幣寮の首長に任命され、大阪造幣寮の建設・機械据え付けなどを指揮した。造幣寮の創業式は翌1871年4月4日(明治4年2月15日)であるが、それに先立つ1871年1月17日(明治3年11月27日)から銀貨製造が開始された。このときのキンダーの月俸は1,045円であり、太政大臣三条実美の850円を上回るもので、高給で雇用されたお雇い外国人の中でも最高棒であった。後にこのような外国人中心の通貨政策は日本人職員による排斥運動を招いた。遠藤謹助をふくむ職員の意見は吉田清成によって聞き入れられ、日英間で交渉が行われた。1875年(明治8年)、キンダーは他の外国人9名と共に解任されたが、日本を離れる際は丁重に見送られた。キンダーは日本にいた間に3回ないし4回、明治天皇に拝謁している。また、神戸のフリーメイソンロッジ建設にあったては定礎を行っており、最初のマスターともなった。
帰国後はデヴォン州トーキーに住んでいたが、1884年9月2日、ロンドンのノーウッド・ジャンクション駅(Norwood Junction railway station)で心臓病のために突然死した。  
 
ウィリアム・ゴーランド

 

William Gowland (1842〜1922)
造幣寮での化学・冶金指導など、古墳研究で考古学にも貢献(英)
イギリス生まれ。大阪造幣寮(造幣局)の技師として1872年に来日した化学兼冶金技師。16年間在任し、その間反射炉の築造や日本人技師の育成などを行い産業の発展に大きく寄与する一方、日本の古墳研究の先駆者としても活躍、「日本考古学の父」と呼ばれている。さらに、趣味として1874年(明治7年)に、アトキンソン(東京開成学校教授・日本酒の研究で有名)、サトウとの外国人3人で、ピッケルなどを用いた近代登山を日本で初めて神戸の六甲山で行った。また、地形がヨーロッパのアルプスに似ていることから長野・岐阜〜山梨・静岡にまたがる大山脈を「日本アルプス」と名づけた。1881年にチェンバレンが編集した『日本についてのハンドブック』の中で、「日本アルプス(Japanese Alps)」として紹介され知られるようになった。本国でもストーンヘンジの研究などで知られている。 
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William Gowland (1842-1922) 明治政府がイギリスより大阪造幣寮(現造幣局)に招聘した化学兼冶金技師。日本の古墳研究の先駆者としても名高く、日本考古学の父と呼ばれている。さらに、「日本アルプス」の命名者としても知られている。
ゴーランドは、1842年にイギリスのサンダーランドで、ジョージ・サンプソン・ゴーランド(George Thompson Gowland)の長男として生まれる。王立化学専門学校 (Royal College of Chemistry) や王立鉱山学校 (Royal School of Mines) で化学や採鉱・冶金学を学び、優秀な成績を修める。卒業後の1870年から1872年の間、ブロートン製銅会社 (Broughton Copper Co.) で化学・冶金技師として勤務しキャリアを積む。
そして、1872年、ゴーランドが30歳の時に一大転機が訪れる。日本の明治新政府から、大阪造幣寮(現・造幣局)のお雇い外国人技師として招聘を受けたのである。
日本での活動
冶金技術指導と多様な活動
ゴーランドは1872年10月8日、大阪造幣寮の化学兼冶金技師として着任した。造幣寮のお雇い外国人は通常3年契約であり、3年で帰国する者が多いなか、彼は16年もの長期間在職した。当初、化学兼冶金技師として、反射炉の築造、鎔銅作業を開始し、その技術を伝える。その後、造幣寮首長のキンドルの帰国した1878年2月には造幣局長官顧問を兼任し、さらにデイロンの帰国した1888年2月には試験方、鎔解所長を兼任する。また、陸軍の大阪製造所(大阪砲兵工廠の前身)の日本陸軍省冶金関係特別顧問にも任命され、イギリス式冶金技術の指導に当たった。さらに、彼の指導で銅精錬を学んだ花田信助は、造幣寮退官後、三菱の大阪精錬所でイギリス式反射炉を建設した。1881年、兵庫県多田村平野(現・川西市)の平野鉱泉から湧出する炭酸水を検査して飲用に好適と評価、のちこの鉱泉水は「平野水」として瓶詰販売され、後年の清涼飲料・三ツ矢サイダーに系譜が続いている。
以上のように、日本の近代産業の育成に大きな貢献をしたことから、明治新政府は、1879年、1882年とたびたび賞与金を支給してこれに報い、1883年11月3日には勲四等旭日小綬章が贈られた。公務の合間には、日本各地の古墳の調査、登山をはじめ、ボート漕法の指導、日本絵画の収集など精力的に活動した。
1888年10月31日に雇用期限満了となり、泉布観での送別会の後、同年11月24日イギリスへの帰国の途に着いた。帰国時には、功績が顕著であることをもって勲三等旭日中綬章が贈られるとともに、松方大蔵大臣より3000円の贈与があった。また、遠藤造幣局長より「足下此局を去ると雖(いえど)も足下の功績は此局と共に永遠に傅(つた)ふべきは本官の信して疑はさる所なり」云々の書を寄せられている。
彼は、専門の冶金学の分野において、日本の伝統的鋳造技術を研究し、帰国後の1915年に「古代日本の金属と金属工芸」と題して、弥生時代から明治初年までの採鉱冶金史を発表している。
日本古墳の研究
ゴーランドの業績として高く評価されているのが日本の古墳研究であり、「日本考古学の父」とも呼ばれている。彼の実地踏査は、近畿地方はもとより、南は日向(宮崎県)、西は肥前(佐賀県)、東は磐城(福島県)まで及んでおり、調査した横穴式石室は全国406基、作成した略測図は140例にも達している。彼の科学的・実証的な調査・研究は、当時の学問水準をはるかに超えており、現在でも十分に通用するものである。ゴーランドの日本古墳の研究成果論文は、イギリス帰国後9年が経過した1897年に初めて発表された。
論文
日本のドルメンと埋葬墳(1897年) / 日本のドルメンとその築造者たち(1899年) / 日本の初期天皇陵とドルメン(1907年) / 朝鮮のドルメンと遺物(1895年) / 日本の諸金属と金属工芸(1914-1915年)
以上の論文は、『日本古墳文化論-ゴーランド考古論集』(上田宏範校注・監修、稲本忠雄訳、創元社、1981年)」にて読むことができる。また、現在、大英博物館に保存されているゴーランドが収集した古墳の遺物や、撮影した写真については、『ガウランド 日本考古学の父』(責任編集:ヴィクター・ハリス、後藤和雄、発行:大英博物館出版部、2003年)として出版されている。
日本で初めて西洋式登山を行う
1874年(明治7年)に、アトキンソン、サトウとの外国人3人のパーティで、ピッケルとナーゲルを用いたいわゆる近代登山を日本で初めて神戸の六甲山で行った。サトウは富士山に最初に登った外国人としても知られる。
日本アルプスの命名
日本アルプスという名称は、現在広く使用されているが、この名称は、1881年にイギリスの日本学者チェンバレンが編集した『日本についてのハンドブック』の中で、"Japanese Alps"として初めて登場した。このハンドブックのうち、信州の山岳地帯の記述を担当したのが熱心な登山家でもあったこのゴーランドである。よって、彼は日本アルプスの命名者である。その後、この名称はイギリスの宣教師ウォルター・ウェストンの著書により紹介され、世界中に広まることになる。
イギリス帰国後
ゴーランドは、1888年のイギリス帰国後、ブロートン製銅会社に復帰した。その後、前述のとおり、日本の古墳研究の成果を論文として発表するとともに、鉱業金属関係の研究所長、王立人類学協会の長を歴任し、王立協会会員となるなど、イギリスの学会で活躍した。
1922年6月9日、ゴーランドはロンドンで死去した。80歳。ロンドンの聖メリールボン墓地 (Marylebon Cemetery) に埋葬された。彼の訃報は、彼の夫人により大阪造幣局に伝えられ、地元紙(大阪朝日新聞1922年8月14日夕刊)において「造幣局に功労あった人」として彼の死が報じられた。
ストーンヘンジへの貢献
イギリスにおいて、ゴーランドはウィルトシャー州にある巨石建造物であるストーンヘンジへの貢献で知られている。1901年、彼は古代文化財協会から、傾きが次第に大きくなり青石のひとつにもたれかかるようになっていたサーサン石(砂岩の塊)のひとつの安定化工事の監督を任された。鉱山技師である彼は、精密な計算により梃子と滑車を設置して見事成功させた。さらに、日本での古墳調査の経験を生かし、目の細かさの違うふるいを使い分けて遺物の採取を行った。その結果、腐食した青銅の痕跡を発見し、巨石が石器時代の終期(紀元前1800年頃)のものであろうとの年代推定を可能とした。
 
カール・フライク

 

Karl Flaig (1865-1907)
帝国ホテル総支配人として西欧ホテル経営の基礎を伝える(独)
栄一ゆかりの企業 / 帝国ホテル
渋沢栄一、林愛作を支配人に斡旋。「結構、林愛作のホテルで充分思ふ様に経営してもらひたい」
「 1909(明治42)年7月16日 是日栄一、山中商店ニュー・ヨーク支店主任林愛作を、当会社の取締役兼支配人として起用する件に関し、松本重太郎に書翰を送り、其尽力を依頼す。」
1909年(明治42)年7月16日、渋沢栄一は実業界引退を表明した次の月に、関西の実業家、松本重太郎(まつもと・じゅうたろう、1844-1913)に書簡を送り、林愛作(はやし・あいさく、1873-1951)を帝国ホテルの支配人に斡旋するための助力を依頼しました。かつて経営改革を成し遂げたドイツ人支配人エミール・フライク(Emil Flaig, ?-1906)はこの3年前の1906(明治39)年帰国中に他界、その後エミールの代行を務めていた兄カール・フライク(Karl Flaig, 1865-1907)が支配人に就任するも1907(明治40)年に他界。1908(明治41)年にはスイス人支配人を迎えましたが、業績には結びつきませんでした。増築、合併、建物改修と大きな設備投資が重なったこの時期の経営不振で、帝国ホテルは開業以来の経営危機に直面していました(『帝国ホテル百年のあゆみ』)。
林愛作はホテル業への転身を躊躇しながらも、周囲の懇望に応えて帝国ホテルの支配人に就任しました。後に林はその際の経緯と栄一の言葉を、回想の中で次のように語っています。
「 林愛作談話筆記 (財団法人竜門社所蔵) 昭和一四年二月二三日 於林邸 石川正義筆記
明治四十二年に私がニユーヨーク(当時氏は、ニユーヨーク在日本古美術商山中商店主任)より帰朝して、大阪の山中に暫く滞在しておりました。その時大倉喜七郎さんや、大阪の藤田伝三郎氏・松本重太郎氏等が直接にや、又手紙で、今度帝国ホテルで外人の支配人を廃して日本人にすることにしたが、適任者がなく是非君に御願ひしたいと再三勧告して来ました。
私は永く山中商店におりまして、いろいろ向ふにも深い取引関係があり、ニユーヨークの生活にも慣れておりますし、どうもホテルに入ることを躊躇したので、頑として応じませんでした。
ところが其後渋沢子爵などよりも、松本重太郎さん等に、たつての私の帝国ホテル入りの勧誘を依頼 ○前掲書翰参照 して来まして、私の知らない間に、山中商店の方に話をつけてしまつたのです。
こうなつては、私も決心せざるを得なくなりまして、それでは御懇望に応じますと答へ、その代り懸案になつてゐる帝国ホテル改築を私が実行する事と、私が支配人になつた以上、株式会社帝国ホテルでなく、林愛作の帝国ホテルと考へてすべてを一任してもらひたいと答へました。渋沢さんは、そう云ふ熱心な人なら猶更結構、林愛作のホテルで充分思ふ様に経営してもらひたいとの事でした。こうして話が漸くまとまつたのはたしか四十二年の八月だつたと思ひます。[後略]・・・ 」 (『渋沢栄一伝記資料』) 
 
ポール・ブリューナ

 

Paul Brunat (1840〜1908)
富岡製糸場の首長(責任者)、建設から近代製糸技術の導入まで(仏)
フランス人。1869年来日し横浜のフランス貿易会社の生糸検査人をしていたがブスケの推薦を受け1871年に明治政府に雇われ、器械製糸による製糸場の建設と繰糸技術の指導を任された。設立場所を求めて日本各地に調査をしたが、もともと養蚕業が盛んで東京・横浜に近い群馬・富岡に日本初の器械製糸工場を設立した。母国フランスから建築家バスチャンはじめ技師らを招き、繰糸機や蒸気機関等を輸入して1972年に操業を開始、この官営富岡製糸工場は日本の殖産興業に大きな貢献をした。 
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フランス人の生糸技術者。お雇い外国人として、富岡製糸場の設立に携わった。
1840年6月30日、フランスのドローム県に位置するブール・ド・ペアージュ(Bourg de Peage)で生まれる。蚕糸業が盛んなこの地で育ち、フランスにおける絹織物取引の中心地であるリヨンで生糸問屋に勤めるようになった。後に同地のエシュト・リリアンタール商会に移り、同社の横浜支店(蘭八商会)に派遣された。
横浜港には1866年3月22日(慶応2年2月6日)に到着し、居留地内の事務所に勤務した。明治に入ると日本の主要輸出品である生糸の生産を改革するために製糸工場の建設が検討され、ブリューナは明治3年7月(1870年8月)にイギリス公使館の書記らとともに候補地の視察に出ている。この際に武蔵国、上野国、信濃国を見て回り、交通の便が良い・動力源の石炭および水が豊富・建材の石材が入手しやすい事などから、富岡の陣屋予定地が建設地に選定された。
日本政府による雇用
東京に戻った後アルベール・シャルル・デュ・ブスケの推薦を受け、同年10月7日(1870年11月29日)に契約を結び、ブリューナは1871年(明治4年)から日本政府に5年間雇用される事となった。富岡製糸場の建設に先立って機材購入や技師の雇用のために一時フランスに帰国することになり、明治4年1月22日(1871年3月12日)にイギリスの船で日本を発っている。
香港経由で帰仏した後、製糸工2名・工女4名と契約を交わし、さらに当時18歳のエミリー・アレクサンドリーヌと結婚をしている。彼らとともに1871年10月29日にマルセイユを出航し、香港でフランス郵船・アバ号から同・ファーズ号に乗り換え、同年12月19日(明治4年11月8日)に横浜港に到着した。なお、妻のエミリー・アレクサンドリーヌの父は、音楽家のルイ・ジェームズ・アルフレッド・ルフェビュール=ヴェリー。
ブリューナには月給600円に加えて賄金が毎年1,800円、合計9,000円の年俸が支払われており、お雇い外国人のフランス人としては横須賀製鉄所のレオンス・ヴェルニーが受け取っていた年俸10,000円に次ぐ金額であった。一般的な日本人職工の年俸74円などに比べて非常に高額なことから後に問題となり、1874年(明治7年)7月8日には大久保利通が、同年8月には伊藤博文が三条実美に契約の中途解約を進言している。
1872年(明治5年)7月には妻のエミリーとの間にマリ・ジャンヌ・ジョゼフィーヌという長女が生まれ、横浜のイエズス会で洗礼を受けた。後に次女も生まれ、契約を終えて1876年(明治9年)2月15日に横浜港からブリューナ一家は帰仏している。
帰仏後
1882年にはアメリカの商社・ラッセル商会に招聘され、ブリューナは支配人として同社の上海での製糸工場(寶昌糸廠)建設に携わった。翌々年、フランス中の商業会議所から調査事項のリクエストを受けて、リヨン商業会議所からトンキンへ派遣された。フランスの繭は年間生産量を1840年と1850年を比べてほぼ2倍の2.5万トンほどに増えていたが、病気をきっかけに1856年0.8万トンに激減し、予防法が普及しても19世紀の間は水準を回復することがなかった。1860年までに、リヨンの絹検査所へ搬入された絹の約1/3がベンガル・中国・日本産となった。しかし当時極東に進出していたヨーロッパ系銀行はイギリスのものばかりで、それらがフラン振出手形をすべて拒否した。仕方なく輸入絹の大半は現物がP&Oなどに運ばれてロンドンを経由し、代金にはその運賃がふくまれた。
1890年にラッセル商会が破産したため、かつての同僚らとともに上海でポール・ブリューナ商会を設立し、製糸代理店を含めた貿易業務全般を扱った。会社の経営は順調で、1906年に設立時のメンバーであるハンターらに経営権を譲渡し、この際に社名がバラード・ハンター商会に改名されている。
1906年(明治39年)に上海からフランスに帰る途中で日本を訪れ、8月2日に横浜に上陸した。数日間を横浜で過ごした後、8月20日まで富岡製糸場など各地を回って横浜に戻り、数日後には箱根を訪れて富士屋ホテルに1ヶ月ほど滞在している。9月23日に妻とともにフランス郵船・コレア号で日本を離れた。1908年5月7日、パリの自宅、エミール・オージエ大通り48番地で逝去。葬儀は5月9日正午から、パッシーのノートルダム・ド・グラス教会で行なわれ、ペール・ラシェーズ墓地の義父の墓に埋葬された。
 
ゲオルク・フリードリヒ・ヘルマン・ハイトケンペル

 

Georg Friedrich Hermann Heidkaemper (1843-1900) 
革靴製造の指導(独)
幕末から明治の日本で活動したプロイセン王国ビュッケブルク出身の靴職人。紀州藩のお雇い外国人として来日し、革靴製造の指導に携わった。
1843年12月31日、製紙職人の息子としてプロイセン王国・ビュッケブルクのブーフホルツに生まれる。小学校卒業後すぐに靴職人となった。1871年5月、紀州藩の藩政改革を担当した津田出の求めに応じ、プロイセン式の革製の軍靴の製造法を教えるため日本へ渡った。契約では1年間にわたり靴生産の指導を行うこととされていたが、同年8月に廃藩置県が行われ、ハイトケンペルが指導を行っていた西洋沓伝習所は紀州藩から同藩の御用商人だった三宅利兵衛に払い下げられた。ハイトケンペルは三宅の求めに応じ和歌山県に残留して指導を続けた。この時期にはハイトケンペルは帰国する意思を完全になくしていたと見られており、プロイセン王国にも妻と4人の子供がいたにもかかわらず紀州藩藩医の娘・藤並時と結婚している。
1875年、三宅との契約が切れたハイトケンペルは大阪へ移り、翌1876年から藤田組で製靴を指導した。ハイトケンペルは人件費の安い日本で軍靴を作りドイツ軍へ売り込むことを発案したが、これは失敗に終わった。1882年、ハイトケンペルは藤田組から大倉組へ移籍し、業績の向上に貢献。社長の大倉喜八郎から感謝状と金500円を贈られている。大倉組での成功によってハイトケンペルは相当の資産を築き、川口外国人居留地の参事会に名を連ねた。しかし四国のアンチモン鉱山の運営に手を出して失敗し、全財産を失った。
その後ハイトケンペルはカナダや故郷のドイツに渡り、さらに東京、大阪、神戸と日本各地を転々としたが成功を収めることのないまま1900年4月26日に死亡した。死の詳細については不明で、日本で設けた4人の子供についても長男が早世し娘の一人がドイツ領事の養女になったという以外は不明である。ハイトケンペルは神戸市小野浜の外国人墓地に埋葬されたが長らく墓碑すら建てられない状態であった。1961年に外国人墓地が再度山山頂へ移転した際に神戸市によってドイツ人無縁墓地の一角に小さな墓碑が建てられた。 
 
ウォルター・ウェストン

 

Walter Weston (1861〜1940)
登山家、慶應義塾教員、日本山岳会名誉会員(英)
イギリス生まれ。1889年宣教師として来日。趣味として日本の本州の大山脈を踏破、日本人未踏の山も数々登頂。1896年『日本アルプスの登山と探検』をイギリスで出版。ゴーランドが命名した「日本アルプス」の名を内外に広めた。その後も何度か日本を訪れ、日本人に近代の登山方法を指導した。 
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イギリス人宣教師であり、日本に3度長期滞在した。日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などを著し、日本アルプスなどの山及び当時の日本の風習を世界中に紹介した登山家でもあり、訪日の前後にはマッターホルンなどのアルプス山脈の山に登頂していた。
1861年(万延元年)12月25日 - イギリスのダービー市に生まれる。父親の名はジョン・ウェストン。母親の名はエンマ・バットランドであり、その六男。
1876年(明治9年) - 1880年(明治13年)まで、ダービー・スクールで教育を受け、ケンブリッジ大学クレア・カレッジで学ぶ。
1883年(明治16年) - Bachelor of Artsを取得。
1885年 - 聖公会の執事に按手される。
1886年 - 聖公会の司祭に按手される。
1887年(明治20年) - MA(Master of Arts)を取得。ケンブリッジ大学のリドレー・ホール神学校で、イングランド国教会の聖職について学んだ。
1888年(明治21年) - 1894年(明治27年)に、宣教師として日本を訪れ(神戸に滞在)、慶應義塾の教師となり、能海寛などに影響を与えた。イギリス時代から持っていた趣味として飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈を巡った。また、富士山にも登頂した。
1893年(明治26年) - 前穂高岳に登頂。このときの案内役で地元猟師の上條嘉門次との友情関係は、多く語り継がれている。またこの年の5月11日に、前宮ルートより恵那山に登頂した。
1896年(明治29年) - 山旅で見た情景と感慨を『MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS』(日本アルプスの登山と探検)としてイギリスで出版した。
1902年(明治35年)4月 - エミリー・フランシスと結婚。 6月に夫人と共に2度目の来日し、1905年3月まで横浜市に滞在、聖アンデレ教会に司祭として奉職。
1910年(明治43年)1月 - 日本山岳会の名誉会員となる。
1911年(明治44年) - 1915年(大正4年)に、再び横浜市に滞在、聖アンデレ教会にて奉職。 1940年(昭和15年)3月27日 - 死去。
ウェストンは、園芸雑誌に載っていた写真を見て、日本山岳誌の著者から写真を数枚譲って貰えるよう要請。譲り受けた内、志村烏嶺が官有林見廻り役丸山常吉の長男丸山広太郎・同姓の丸山吉十・強力(ごうりき)の清水市太郎を伴って1905年(明治38年)8月20日に白馬岳に登ったときに撮影した写真を、英国山岳会誌『アルパイン・ジャーナル』に寄せ、第23巻1906年5月号に掲載された。これが、日本の山岳写真が初めてヨーロッパに紹介されたものだという。
“Japanese Alps” という表現は、1881年(明治14年)初版刊行の『日本旅行記』(チェンバレンら編集)に「信州と飛騨の境にある山脈 は『ジャパニーズアルプス』と呼ぶのにふさわしい」と記述があるのが最初であるとされる。
 
スネル兄弟(シュネル兄弟) 

 

兄 John Henry Schnell、日本名:平松武兵衛、1843年?〜?
弟 Edward Schnell、1844年?〜?
幕末から明治にかけて武器・兵器を売ったいわゆる「死の商人」として知られている兄弟だが、プロシア人ともオランダ人とも言われ、詳細は不明である。横浜で「バスケ・スネル商会」を設立、欧米からの物資を輸入販売する貿易商を営む。居住する外国人のために搾乳所を開設、これが日本で始めて牛乳を販売したと言われる。1867年にスイス総領事書記官となって翌年、新潟に移る。弟・エドワルドは「エドワルド・スネル商会」を設立する。同年、戊辰戦争が起こると奥羽越列藩同盟に近づいて武器・弾薬を送り込んだ。長岡藩の河井継之助にもガトリング砲を売り込んでいる。兄・ヘンリーは会津藩藩主松平容保に招かれて砲術指南となり、明治維新後の1869年には、戦いに敗れた会津若松の人々約40人と共に米カリフォルニア州に移住した。サンフランシスコの北東にあるゴールド・ヒルに「若松コロニー」という名の開拓地を建設した。この入植に参加していた17歳の少女「おけい」は、スネル邸で子守をしていた女性で、日本人女性で初めて海外に移民した人物として早乙女貢の小説『おけい』に詳しく描かれている。1871年4月、ヘンリーは経営が行き詰ったコロニーの金策のため、日本へと向かったとされるが、その後の消息は不明で、日本で秘密裏に暗殺されたとも言われる。弟は新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた。彼もその後の経緯は不詳である。 
 
 
 
軍事・軍人

 

シャルル・シュルピス・ジュール・シャノワーヌ
Charles Sulpice Jules Chanoine (1835-1915)
江戸幕府のフランス軍事顧問団(仏)
フランスの軍人。最終階級は陸軍大将。陸軍大臣(在任: 1898年)。
慶応3年(1867年)に陸軍教官団を率いて来日、江戸幕府の軍事顧問団として歩兵、砲兵、騎兵のいわゆる三兵教練指導にあたった。
第一次フランス軍事顧問団はオーギュスタン・デシャルム、ジュール・ブリュネ砲兵中尉、アルベール・シャルル・デュ・ブスケ中尉、メッスロー歩兵中尉、ジュールダン工兵大尉、アルテュール・フォルタン、アンドレ・カズヌーヴ、フランソワ・ブッフィエ、ジャン・マルランを含む士官6名、下士官13名の総勢19名。戊辰戦争において、フランス本国の中立方針に反して箱館まで旧幕府軍とともに転戦したブリュネ大尉の脱走には暗黙の了解をしていたとされる。
1868年11月に日本からフランスに帰国。以後、陸軍大将まで昇進し、1898年にはフランス第三共和政のアンリ・ブリッソン内閣の陸軍大臣に就任する。この時、日本時代の知古であるジュール・ブリュネ少将を陸軍参謀総長に登用した。後にドレフュス事件ではアルフレド・ドレフュスの再審には反対したが、後に事件の長期化と混迷を招いた責任をとって退任した。日清戦争における利益を図った功として、1895年(明治28年)に明治政府から勲二等旭日重光章を授与されていた。
シャノワーヌ大尉とブルーネ大尉
・・・旧幕府軍と共に明治新政府軍と戦った外国人は、アメリカ人ではなくフランス人であった。幕末の1865年、幕府は外国奉行柴田日向守剛中(しばたひゅうがのかみたけなか)をフランス、イギリスへ派遣する。主な目的は横須賀製鉄所建設の打ち合わせであった。ツーロン造船所を見学し、青年造船技師ヴェルニーと横須賀製鉄所所長として正式雇用契約を結んだ。
もうひとつの目的はフランスの軍事顧問団を日本に招聘することであった。柴田日向守は、フランス 外務大臣 Drouyn de Lhuys と面会し、フランスの軍事顧問団の日本への派遣を要請し快諾を得た。
フランス国防大臣ランドンは16名の将校、10名の下士官、2名の兵卒を日本に派遣した。団長は シャノワンヌ大尉( Charles Sulpice Jules Chanoine )であった。彼等は1867年1月13日横浜港に着いた。その年に幕府が崩壊するとは彼等の誰も予想できなかった。
彼等が日本に着いてから9ヶ月の後の1967年10月14日最後の将軍慶喜は、大政を奉還する旨 朝廷に申し入れ、それは翌日認められた。264年続いた徳川政権は幕をとじた。 
フランス軍事顧問団のメンバーは下記の通りである。
(1) シャノワーヌ大尉 ( Charles Sulpice Jules Chanoire ):1859−1862年
第二次阿片戦争で中国に駐留した経験がある。フランス軍事顧問団の団長。
(2) ブルーネ大尉 ( Jules Brunet ) : 近衛騎兵連隊大尉。日本では砲術の教官。優れた水彩画家でもあった。(彼の100枚の水彩画の本が日本で発行されたことがある。) Ecole Polytechnique ( 理工科学校 )卒のエリート。後に砲兵学校に入る。理工科学校は数々の優れた
軍人、政治家、技術者、企業家をだしてきた。超エリート養成校で、グラン・ゼコールのひとつである。これは大学より格が上で、高級将校は理工科学校を卒業後、陸、海、空軍の仕官学校に行く者も 多い。理工科学校では。実践的軍事技術も教えた。
1862年、24才の時少尉として、メキシコのプエブラの戦いで軍功をたて、五等レジオンドヌール章を受けた。
1861年メキシコの西洋列強に対する対外債務は6,200万ペソに達した。同年7月 ベニト・フアレス大統領は2年間の対外債務の支払停止の大統領令をだした。これに不満であったフランスは、メキシコと外交関係を断絶した。ベニト・フアレス大統領は、メキシコ先住民で始めての大統領であった。彼はオアハカ州に生まれ、幼少の頃スペイン語を知らず、サポテコ語のみを話した。
1861年10月、メキシコに対する債権国であるスペイン、英国、フランスの代表がロンドンで会議を開き、メキシコに軍事的圧力をかけてでも債務返済を履行させることを決意した。1862年1月3ヶ国の軍艦がベラクルス港に集結した。メキシコ政府は対話を望み、1862年4月スペイン、英国は武力行使は差し控え、会談に入ることに同意した。両国はフランスの野心には気がつかなかった。フランスはメキシコの共和制を廃し、ナポレオン三世の息のかかった帝政をたてアメリカ大陸に、フランスの橋頭堡を築こうとした。
フランス軍は首都メキシコ・シティーを目指し進軍を開始した。メキシコ大統領ベニト・フアレスは、イグナシオ・サラゴサ将軍にプエプラ市周辺の要塞で、フランス軍の進軍を阻止するよう命じた。1862年5月5日4,800名の装備におとるメキシコ軍は、フランス軍に1,000名以上の死者をだす大損害を与えフランス軍の進軍を阻止した。3月21日のベニート・ファレス生誕の日と5月5日は数少ないメキシコ共和国の祭日である。  
このプエブラの戦いの時、7,000名のフランス将兵の中に24才の若きジュレー・ブルネー少尉がいた。これが彼が経験した最初のフランス軍の敗北であった。彼は7年後、極東の島国日本で敗北を味わうことになる。 
1864年6月、ハプスブルグ家マキシミリアンと妻カルロタは、メキシコ市に到着しメキシコ帝国皇帝皇后として戴冠式を行う。マキシミリアン皇帝は、よい政策も実行したが、外国人の支配を好まない共和主義者メキシコ人が帝政に対して蜂起した。マキシミリアン皇帝は、メキシコ北部に逃げたが1867年5月捕らえられ、銃殺された。この時、ジュレー・ブルネーは砲兵大尉として日本に派遣されていた。メキシコ帝国は3年で崩壊した。この年数ヶ月後に、徳川幕府は崩壊する。
1868年1月3日、鳥羽伏見の戦いでは、フランス政府は中立を保ったが、明治新政府はウトゥレイ公使に、幕府のために派遣されたフランス軍事顧問団はすべて本国に引き上げるよう要請する。1868年10月シャノアール大尉以下フランス軍事顧問団一行は日本を発つ。しかしながら、ジュレー・ブルネー大尉と数名のフランス軍人は、旧幕府軍と共に新政府軍よ戦うため、日本に残った。
箱館の五稜郭の戦いでは、決戦を前にして箱館港に停泊していたフランス船に逃げ込み、横浜からフランスに帰還した。本国では脱走兵として、軍務からはずされたが、1870年フランス・プロシア戦争が勃発し兵役に呼び戻され、メッツで戦いに敗れて捕虜となった。
パリー・コミューンの戦いでは政府軍につき戦った。1898年、国防大臣シャノアールに参謀長に任命された。国防大臣シャノアールは、日本での彼の上官であった。陸軍大将となり、二等レジオンドヌール章を授与され、1911年73歳の生涯を閉じた。
 
ジュール・ブリュネ

 

Jules Brunet (1838-1911)
榎本武揚率いる幕府軍軍事顧問(仏)
フランス陸軍の士官で、江戸幕府陸軍の近代化を支援するため派遣されたフランス軍事顧問団の一員として来日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加した。
1838年1月2日、フランス東部アルザス・オー=ラン県ベルフォールに生まれた。父は第3竜騎兵連隊(フランス語版)附獣医のジャン・ブリュネ、母はラウレ・ロシェ。エコール・ポリテクニーク(理工科学校)を卒業後、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を卒業し、第3砲兵連隊(フランス語版)附陸軍砲兵少尉に任官。メキシコ出兵に出征して功あり、レジオンドヌール勲章を授与され、近衛砲兵連隊附に栄転。1864年、砲兵中尉に昇進、近衛騎馬砲兵連隊附。
ナポレオン3世は開国した日本との関係を深めるため、第15代将軍・徳川慶喜との関係を強め、1866年に対日軍事顧問団を派遣することを決めた。ブリュネはシャルル・シャノワーヌ参謀大尉を隊長とする軍事顧問団の副隊長に選ばれ、フランス陸軍砲兵大尉として1867年初めに日本に到着した。軍事顧問団は横浜大田陣屋で幕府伝習隊を1年以上訓練したが、1868年の戊辰戦争で江戸幕府は明治新政府軍に敗北することになる。フランス軍事顧問団は勅命によって新政府から日本からの退去を命令されたが、ブリュネらフランス軍人は残留を選択し、フランス軍籍を離脱した。彼らはイタリア公使館での仮装舞踏会の夜に侍の扮装のまま脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流、箱館戦争に従軍した。シャノワーヌ隊長は参加しなかった。ブリュネが横浜脱出の際に提出した退役届けは1869年2月6日付けであり、無給休暇と1870年5月1日までの日本滞在を申請し、これは承認された。
箱館戦争
ブリュネは、箱館で江戸幕府の海軍副総裁であった榎本武揚を総裁とする、いわゆる「蝦夷共和国」(箱館政権)の創設を支援した。ブリュネは陸軍奉行の大鳥圭介を補佐して箱館の防衛を軍事的に支援し、4個の列士満(レジマン、フランス語で連隊を意味する "régiment" をそのまま当て字にした)はフランス人下士官(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていた。1869年6月、五稜郭に立て籠もる箱館政権軍を明治新政府軍が攻撃し、五稜郭は陥落、総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降する。フランス人らは陥落前に箱館港に停泊中のフランス船に逃れた。6月20日(5月22日)にブリュネは離日した。明治維新後は日本の使節より日本刀を贈答されている。
名誉回復
ブリュネは裁判のためフランスに送還されたが、フランス軍籍を離脱時の置き手紙が新聞に掲載されたことで世論の支持が集まった。パリに戻ったブリュネは原隊である第18砲兵隊に復帰し、臨時の監督を受けていたが1869年10月15日のフランス陸軍省調査委員会により予備役となった。しかし、1870年に普仏戦争が勃発したため現役に復帰することを許され、一等大尉として駐オーストリア・ウィーン大使館付きの武官補佐官となった。戦争はセダンの戦いでプロイセン軍に包囲されたフランス軍はナポレオン3世以下全軍降伏し、ブリュネも捕虜となったが、間もなくフランス政府が講和を結んだため、釈放されてパリ・コミューン鎮圧に参加した。少将に昇進後、1889年に第48歩兵旅団長(フランス語版)を務めた。その後の詳しい経歴は不明だが、1898年には戦争相となっていたシャノワーヌの下でフランス陸軍参謀総長にまで登りつめている。
また、日清戦争では日本に貢献したことから、1895年(明治28年)に明治政府から勲二等旭日重光章を授与されている(この時のシャノワーヌの授章は勲一等旭日重光章)。これは外国人に授与される勲章としては最高位のものであり、明治政府の閣僚となっていた榎本武揚の上奏があったと言われる。なお、この頃までの日本陸軍のフランス留学生についてシャノワーヌとブリュネは世話をしていた。1911年8月12日にパリ近郊の自宅で死去。
2
ジュール・ブリュネは1838年にフランス東部アルザス地方ベルフォールで生まれた。陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を卒業後に陸軍砲兵少尉に任官。その後、中尉に昇進しメキシコ戦争に従軍し活躍、24歳でレジオンドヌール勲章を受ける。(現代でもフランスの最高勲章として存在)慶応二年、徳川幕府は第二次長州征伐に大敗し幕臣小栗上野介忠順は軍隊の近代化を急いでいた。(慶応軍事改革)その柱となったのがフランスから700万ドルに及ぶ借款と火器購入、そしてフランス軍事顧問団の招聘であった。フランスのナポレオン3世も日本は開国したばかりで他国に遅れをとっていたので徳川幕府との関係を深めるため15名の対日軍事顧問団の派遣を決定した。隊長にシャルル・シャノワーヌ参謀大尉、副隊長にジュール・ブリュネが選ばれた。隊員もメキシコ、アフリカ、インドシナなどの独立戦争で戦ってきた筋金入りの軍人を揃えた。徳川幕府も彼らを厚遇しシャルル・シャノワーヌ参謀大尉に500ドル、ブリュネに350ドルもの給料を支給を決定。ブリュネら軍事顧問団は慶応三年、横浜の丘陵地帯(現代の港が見える丘公園)に居留し、大田陣屋に設営された訓練所に幕軍兵士を集め、教練を開始した。幕府伝習隊に一年間軍事訓練をしたが、慶応四年鳥羽・伏見において突然戊辰戦争の火蓋が切られた。軍事顧問団は訓練中の伝習第一大隊800名を率いて大坂に出動したがすでに幕軍の敗北は決していた。江戸城での軍事会議に参加したブリュネたちは抗戦の作戦を立案、献策したが将軍慶喜に却下され、江戸城開城によって徳川幕府は完全に消滅、勢いに乗る新政府軍は北上を続け、佐幕派の討伐を開始する。フランス軍事顧問団は勅命により日本からの退去を命令されたがブリュネたちは残留を決意し、横浜のイタリア公使館で開かれていた仮装舞踏会の席上からブリュネと同僚カズヌーヴが脱走。二人は幕府軍艦・神速丸に乗り込み、品川沖に停泊中の幕府艦隊と合流し北を目指して出帆する。ブリュネらは祖国フランスの立場を考え明治元年の日付で軍事顧問団の辞任書を送付し幕府残党に一身を投じた。仙台で志を同じくする歩兵下士官マルランとブッフィエ、砲兵下士官のフォルタンが加わる。後函館で海軍軍人ニコルらを加えた10人の外国人は榎本武揚や大鳥圭介を助け、江差、松前で活躍する。蝦夷共和国軍は緒戦では優位に戦っていたが新政府軍の度重なる増援で敗色が濃くなると榎本武揚総裁は政治的配慮から外国人義勇兵の脱出を勧めた。ブリュネたちはこれに従い、フランス艦コエトロゴンで陥落寸前の五稜郭から脱出した。横浜からサイゴンを経て故国フランスに帰国したブリュネたちは厳しい取調べを受けたが、彼ら義勇兵の行動はフランス国民の支持を受け戒告処分で済みまもなく始まった晋仏戦争に参加した。1893年にかつての上司だったシャルル・シャノワーヌのもとフランス陸軍参謀総長まで登りつめ日清戦争では日本軍上陸を支援しシャノワーヌと共に外国人では初めて勲二等旭日重光章を授与された。1911年(明治44年)ブリュネはパリの東、ヴァンセンヌで波乱に満ちた生涯を閉じた。享年73歳 
ジュール・ブリュネの手紙
慶応4年8月? フランス皇帝ナポレオン3世へ
陛下(ナポレオン3世 帝位 1852-1870)へ
(私は)陛下の命令により日本へ派遣され、あなたの選択(フランスの政策)が正しい事を証明するために、同僚達と共に全員、あなたの(思想)通りに力を尽くしておりました。
そして革命(戊辰戦争)によって、軍事顧問団はフランスへ帰らざるを得ない状況となりましたが、私一人だけは(日本に)残って、私一人だけは、この新しい状況の中、日本のフランス派(親仏派)である北方の同盟(奥羽越列藩同盟)に所属して、顧問団が手にした成果を再び発揮させたいと思っています。
反勢力(薩長軍)は差し迫って来ており、北方のダイミョー(大名:会津、奥羽越)達は、私に(同盟軍の)指導者となってくれるようにと頼んだので、私は(その申し出を)引き受けました。なぜなら、私達の教え子である多数(約千人)の日本の士官・下士官達の助けがありさえすれば、私には(奥羽越列藩)同盟軍の5万の兵をも指揮することが可能だからです。
私達を全員フランスへ送らなければならない顧問団団長のシャノワーヌ大尉、また、大事件(戊辰戦争)に際して表立って(幕軍に協力)できないフランス公使のウートレさんを巻き添えにしないためにも、私は辞表を残して横浜から立ち去るべきでしょう。
南方のダイミョー達(薩長)はすでに疲れ果て、国内の激しい戦いにより彼らの勢いは衰えているとは言え、私はこの(幕軍の)苦戦を認めないわけにはいきません。そして、(自国軍より)除隊もしくは辞職した多くのアメリカ・イギリスの士官達が、フランスの国益(幕軍)に反する勢力(薩長軍)に在籍していることを、皇帝陛下(ナポレオン3世)にお伝えしなければなりません。
このような私達(フランス)と敵対する西洋(英米)の指導者が(敵側に)存在していることで、我が(フランスの)政策が穏やかではなくなる可能性はあります。しかし、皇帝陛下が間違いなく関心を抱く(内容である私のこの)諜報活動の報告を邪魔することのできる者がいるはずもありません。
とにかくも私は、皇帝陛下の御手より授かった十字架に誓って、これまでと同じく、フランスの思想を広めるために、私の全ての時間(一生)をこの国(日本)に費やします。そして、もし陛下が私の活動を気に入ってくださったなら、私にとってこれほど嬉しいことはありません。
どうか陛下、私の深い敬愛をお受け取り下さい。
陛下の下僕たる忠臣、ジュール・ブリュネ砲兵大尉より日本にて
西暦1868年10月4日(慶応4年8月19日) フランス陸軍大臣へ
元帥閣下へ
大尉階級の辞表を、つつしんであなた様にお渡しいたします。
そして私は1868年10月4日以後、フランス軍砲兵大尉階級に附属するさまざまな特権も放棄することをここに表明いたします。
10月4日 忠実なる部下、ブリュネより
西暦1868年10月4日(慶応4年8月19日) シャノワンヌ大尉へ
私はいま、ベルニー訓練学校(横須賀)から手紙を書いています。私は、これから、全く違った方向に出かけます。
私の辞表が受理されるまでに、長い時間がかかるのはよく承知しています。ですから、私は貴方に、正式には何も知らせずに、出発をします。しかし、貴方は、私の気持ちがおわかりのことでしょう。この国には、反フランスの立場をとる人(薩長?)が沢山います。そうだからこそ、彼等の陰謀を成功させたくないのです。彼等がわれわれを追い返そうとしているのは、逆にわれわれ顧問団の成果を評価していることではありませんか。
私は北国の大名たち(奥羽越列藩)から要請を受け、これを受け入れることにしました。たしかに私の行動は、フランス人官吏としての自分の将来を危険にさらすでしょう。しかし、私は敢えて日本人の、気高い精神に同調致します。彼等の役に立ちたいのです。
ここで、私がカズヌーヴを一緒に連れてゆくことをお許し下さい。カズヌーヴはずっと以前から軍隊を除籍になっていますが、以前私の砲兵隊で下士官をしていた男です。彼の誠意と勇気は確信しています。
無論、私は日本の現状を甘く見てはいません。日本の内乱(戊辰戦争)は、日本人にとっても私たちにとっても、大変悲劇的なものです。私の力がこれを収拾することができるかどうかは、全くわかりません。戦いは勝たなければなりませんが、敗けることもあるでしょう。私は死を恐れておりません。
最後に、願わくは、機会があれば私たちの立場を有利に図らって下さるよう、心からお願いするものであります。
忠実なる部下、ブリュネより
西暦1869年3月28日(明治2年2月16日) シャノワンヌ大尉へ
(私は)フランス政府の失策を修復する(ために旧幕軍に所属した)…
---中略---
手に入れた土地90里(約360km)四方と周囲50里(約200km)の守備をしっかり固めなければなりません。
---中略---
この島(蝦夷地)の北方国家350里(蝦夷共和国:約1400km)を、一時的な防衛拠点としてしか考えないのであれば、ちっとも面白味がないでしょう。そこで私は、6000人に満たない軍隊(新政府軍)が南の小さい半島(箱館)へ侵入するのを防ぐため、次のように指導しました。
現在のエゾ(蝦夷共和国)の総人数は、兵士(戦闘員)が3000人で、残りは全て市(箱館)の行政や、あふれかえる(箱館市)内部の農民達の取り締まりに勤めています。この3000人の兵士のうち、半分はフランス軍事顧問団の直接の伝習生(生徒)ですが、残り半分はトクガワ(徳川幕府)の義勇兵(陸軍隊、遊撃隊など)の中から選ばれて、(私達の指導を受けた)同じ伝習生の指導によって、(間接的に)私達の戦術を学びました。
最も私が主張したことは、厳しい軍律の必要性です。私は、私達の(持っていた)軍事裁判法典の写しから、フランス式軍律の要点を(日本語に)翻訳させて、それら(軍律要点)を全て写した上で、8つある各大隊、それぞれ400人、に回覧させました。
---中略---
私は、彼ら(フランス人教師)のうち4人、カズヌーヴ、マルラン、フォルタン、そしてブッフィエによって統制されている8人の(フランス人)教師と共に、全軍の軍事指導と任務の改善が適切に行われるようにするため、訓練指導用の掲示板を設置しました。
主な訓練場は、箱館から1里(約4km)離れたカメダ(亀田)の大要塞(五稜郭)で、(その五稜郭訓練場は)マルランが、私の副官・コラッシュさんの補佐を受けながら取り締まっているため、素晴らしい(成果)です。
現在の私達の組織(蝦夷共和国)の概要を知って、あなたは面白いと思うかも知れません。
陸軍の総司令官(陸軍奉行)は、ケイスケ・オートリ(大鳥圭介)と言い、「“日本奉行”という変な称号は必要ない」と頑固に言い続けている、あなたの部下(私)にそっくり(?)です。(陸軍の)4旅団はそれぞれ800人なので、ヨーロッパの(軍隊)に比べれば小規模ですが、カングン(官軍:新政府軍)にとっては大軍隊なのです!
それぞれの旅団は、あなたの元部下である屈強な男達4人の指揮下にあるので、私はいつも(その事が)嬉しくてたまりません。
マルラン旅団
日本の半旅団長 オンダ(本多幸七郎:伝習歩兵隊)・オーカワ(大川正次郎:伝習歩兵隊)
カズヌーヴ旅団
日本の半旅団長 カスガ(春日左衛門:陸軍隊)・イバ(伊庭八郎:遊撃隊)
ブッフィエ旅団
日本の半旅団長 マツオカ(松岡四郎次郎:一聯隊)・ミキ(三木軍司:一聯隊)
フォルタン旅団
日本の半旅団長 タキカワ(滝川充太郎:伝習士官隊)・オスヵ(星恂太郎?)
---中略---
総司令長官(陸軍奉行並)は、ヒジカタ(土方歳三)と言います。エド(江戸幕府)のシンセングミ(新選組)の元副長です。
---中略---
私は今からあなたに、防衛のためどのように私が兵を配置したか、(敵が)数ヶ所から同時に上陸してきた場合や一ヶ所から上陸してきた場合に対して、どのように私が陸上の勢力を扱おうと考えているのか教えるべきでしょう。
最も危険な地域は、ハコダテ(箱館)、マツマエ(松前)、スコヌマ(大沼?)、エサシ(江差)、ワシノキ(鷲の木)、そしてムロラン(室蘭)です。そこで私はハコダテに、同じく200人と共にプラディエ(フランス人教師)を配置しました。ここは、私が機動部隊と共に待機しているカメダ要塞(五稜郭)と並んで、重要な防衛拠点となるところです。マルランは、600人と共にハコダテ・アリカワ(有川)・オリオ(大野?)の境界線を防衛します。フォルタンは、400人と共にワシノキ(鷲の木)・ツカベ(鹿部?)・イスィヤ(磯谷?)・カスクミ(川汲)を防衛します。カズヌーヴは、600人と共にマツマエ・クシマ(福島)を防衛し、最後にブッフィエは、400人と共にエサシとその周辺を防衛します。
コラッシュさんは、本営(五稜郭)で私の補佐を勤め、ド・ニコールさんは、大船の一隻(回天丸?)に乗船したので、彼(ニコール)の副官であるクラトーは他の船に乗船しました。合計でおよそ2000人が、駐屯地とその駐屯地周辺の要塞、沿岸地帯、山中の峡谷、に配備されています。
私が修理した甲斐もあって、とても素晴らしい外観になった五角形の砦、(つまり)カメダ要塞(五稜郭)の防衛のために、200人以上残す必要はないと私は判断しました。なので残りの800人は、オートリと私が、それぞれ400人の機動部隊として使うため半分に分けました。 
薩摩藩邸襲撃とブリュネ
江戸城明け渡し交渉で最後まで難航した条件は、将軍慶喜の切腹だったという。勝は西郷に慶喜の助命を認めさせたのは自分だと云っているが、真相は過度な混乱を嫌ったイギリスの働きかけがあったからだという。勝の云うとおりなら、旧幕責任者の処断については触れていないから、あとはどうぞご勝手にということだったのだろう。小栗についても勝は我関せずであった。旧幕責任者の処断となれば薩長に憎まれていた者は少なくないはずだが、断罪されたのは職を辞して知行地に引き上げた小栗上野介忠順だった。討伐隊は小栗の「罪状」を並べ上げ、小栗を近くの河原に引き出して斬首のうえ晒した。さらに高崎で東山道先鋒総督岩倉具定が首実検したのち埋めさせたが、小栗の知行地の村民たちはひそかに掘り起こして村に持ち帰って遺骸とともに葬った。養子又一(横浜仏語伝習所第一期生)も小栗家使用人らとともに高崎で斬首。この小栗一族の誅殺は、勝者によるリンチでないとしたら、あるいは朝廷人のサディズムとでも云うべきか。會津藩国家老山川重固の次男で戊辰戦争で白虎隊に入隊したが年少のため外されて生き残り、のちに2度東京大学総長に選ばれた物理学者山川健次郎は、『維新前後の政争と小栗上野介』の序文で
「一回の訊問なく、河原に引き出し、荒薦に坐せしめ、縛首の刑に處せしと云ふ、武士を遇するの道を知らざる徒輩の蛮行なり」
と非難している。これよりさき、討伐隊が差し向けられ身辺に危険が迫ったと知った小栗は身重の妻道子を母親たちと一緒に会津に逃した。會津にたどり着いた道子たちについて同じ序文の冒頭で山川はこう記している。
「明治戊辰の年、𦾔幕臣小栗上野介の内室(妻)は誕生して久しからぬ一女児を伴ひ、予が親戚横山主税常盛が會津の第(屋敷)に寄寓せり、予横山家の人々の談により、内室が其の領地上野國権田の陣屋より避難し、新潟を經て會津へ來迄、偏に辛苦を嘗めし状態を聞き、同情に堪へざりき」。
道子たちは会津や静岡などに身を寄せたのち、小栗の死後に生まれた娘国子とともに三井の大番頭三野村利左衛門に匿われた。
一方、小栗の従妹だという三枝綾子は大隈重信が後妻に迎えた。そうした関わりからか、大隈は小栗の惨殺を誣告謀殺であると厳しく非難している。三野村は死に臨んで小栗の遺族の後事を大隈に託した。娘の国子は、前島密の媒酌で矢野龍渓の弟貞雄と結婚して小栗家を継ぐ。
小栗の殺された理由はいろいろ取り沙汰されている。たとえば、小栗を斬罪とする命令は宮中倒幕派の岩倉らによるもので、直接手を下したのは岩倉の警護役だった若者だという。だとすれば、幕府主導の近代化をめざす小栗は王権をないがしろにする朝敵であるから逆賊として誅殺したに過ぎない。もう一つは、鳥羽伏見戦争のきっかけとなった三田の薩摩藩邸焼き討ちが西郷らの憎しみを買ったからというものである。しかし藩邸焼き討ちが行われたのは、もとはというと薩摩藩邸が江戸治安攪乱のために西郷らが指示してやらせた市中の放火、強盗、暴行などのテロのベースキャンプとなっていたからである。
蜷川新は前出『維新前後の政争と小栗上野介』で次のように言っている。
「慶應三年十月以降、すなわち維新成れる後、江戸市中の各所に、組織的の恐る可き強盗が押し入った。數十人隊を為し、各々種々の恐るべき武器を所持し、江戸市中に於ける何等の罪もなき市民の家に押し入り、千両箱を盗み取り行くのである。当時の警察官たりし「輿力」「同心」は、此報告に接するや、刀剣や銃砲を手や肩にして、此等の強盗を捕縛するために活動したのであった。當時「輿力」であり後年漢学塾を麹町三番町に開き、多くの塾生を養成し「徳川加除封録」と題する著書も為せる清田黙と云ふ先生があったが、余は此先生より、屡々當時の事情を話されて、此強盗の恐怖すべく憎悪すべきなるを未だ番町小学校の生徒たりし時代より聞かされたのであった.....此強盗は「輿力」に追はるれば屋根の上でさえも走り廻ると云った風に、頗る剽悍な人間どもであり、終には霊岸島よりボートに乗り込みて、品川湾上の薩摩藩の軍艦に逃げると云ふことであった。.......此恐るべき組織的強盗放火は、しからば何人が指揮し命令して敢行したものであったらうか」。
これについて「西郷隆盛の如きは、幕府は早く兵を起こさんが為に、密かに多数の浪人を江戸の藩邸に募集しておいて、之を諸方に放って亂暴狼藉をさせ、關東および江戸を騒がせ、頗る挑戦的の態度をとった」という『王政復古の歴史』の一節を引用して、 その総責任者は「恐るべき大権略家」西郷隆盛であったと蜷川は言う。
テロ活動はエスカレートして、市中警護に当たっていた庄内藩屯所(現在なら警視庁といったところだろう)が襲撃されて銃撃を受けるに至り、ついに小栗は薩摩藩邸襲撃を命じたという。のちになって、勝は襲撃せずに逮捕だけにしておけばよかったといっているが、西郷は挑発にしびれを切らした幕府が戦端を開くのを狙っていたのだから薩摩藩邸はそれに応じるはずもなく、拒否されてのことだった。
薩摩藩邸襲撃にあたってその詳細な砲撃計画を立てたのは、幕府が招聘したフランス軍事顧問団のジュール・ブリュネ(Jules Brunet)である。明治になってから丸毛利恒はブリュネの作成した作戦案「薩邸砲撃の方略」を雑誌『𦾔幕府』に寄稿紹介している。
「左の一編(「薩邸砲撃の方略」)は丁卯(慶応3年)十二月廿五日薩邸討伐の際幕府の有司が其顧問たる傭聘教師佛國砲兵大尉ブリウ子に嘱し其攻撃の方略を草せしめ而して陸軍士官某氏が之を飜訳せしものなり當時募兵の戦計宜しきを得さしもの巨邸を瞬時一炬に付したるは其之あるが為めなり今友人根岸氏より之を得たり蓋し稀有の珍書にして史料に鴻補あるへし(史料として大いに役立つであろう)と信じ以て貴認に寄す」。
フランス軍事顧問団はジュール・シャノワーヌ(Jules Chanoine )大尉を団長として幕府瓦解目前の1867年に日本にやってきて、西洋式軍隊の育成に当たった。ブリュネはエコール・ポリテクニックを出てから陸軍士官学校、砲兵学校などで学んだ経歴の持ち主で、シャノワーヌは副官として信頼していた。戊辰戦争では、フランス公使やシャノワーヌの命令に背いて教え子たちとともに箱館で新政府軍と戦った。明治政府によるブリュネの身柄引き渡し要求に対して、更迭されたロッシュに代わってフランス公使となったウトレー(Ange-Maxim Outrey)は断固拒否したが、ブリュネは本国に送還されて軍籍を剥奪された。裁判にかけられるところ、普仏戦争が勃発したため軍籍を回復。のちにオーストリアやイタリア駐在武官などをつとめ、1898年にシャノワーヌが陸軍大臣に任命されたときにその官房長となった。かつては「賊徒」だったブリュネだが日本政府から2度叙勲されている。榎本武揚や田島応親の運動があったものと思われる。
薩摩藩邸襲撃は多くの死者を出した。テロの首謀者の一人、薩摩藩士益満休之助は捕らえられたが、勝が身柄を引き受け、後日、静岡に迫っていた幕府追討軍の西郷に江戸攻撃中止を要請するために使者として益満を付けて山岡鉄之助を送った。益満を効果的に使ったことを勝は自慢している。 
箱館戦争の知られざる謎
『榎本武揚率いる旧幕府軍と共に箱館戦争を戦かったフランス陸軍士官ジュール・ブリュネの子孫宅に、「タイクンの刀」として代々伝えられてきた三振(大刀、脇差、短刀)の日本刀が保管されていることが最近になって明らかになりました。三振の刀は大きさも装飾も異なっているため、そのうちのどれが大君(将軍)から贈られた可能性のある刀なのかは分からずにいたのですが、ノンフィクション作家の合田一道さんが刀剣研究家の小美濃清明さんと共に、パリ郊外にある、ジュール・ブリュネから4代目の子孫に当たるエリック・ブリュネさんの家を訪問して鑑定した結果、その三振の刀のうち、最も小さい、長さ41.5cmの短刀(刃渡りは28.3cm)が、柄に白糸を巻き鞘に金蒔絵の装飾が施されており家老以上でないと持てない、天文年間の美濃の刀工「兼分」の名が刀身に刻まれた由緒ある古刀である、等の特徴から、15代将軍徳川慶喜から寄贈されたものである可能性が高いことがわかりました。』
という趣旨の記事が、今年1月4日付の北海道新聞に掲載されたのですが、今日の講演会「箱館戦争の知られざる謎」は、この記事の連動講座とし道新の主催により開かれたもので、合田先生は記事の背景やその関連事項等について、特にジュール・ブリュネという人物像について、非常に分かりやすく丁寧に講演をして下さいました。
記事の中では、短刀以外の二振の刀については特に何も書かれておりませんでしたが、今日の合田先生の講演によると、エリック・ブリュネさんが保管していた大・中・小と揃った三振の刀のうち、最も大きい大刀は、実は全く無銘の刀で、小美濃先生の鑑定によると「これは、ただ人を切るためだけに幕末に作られた刀」なのだそうです。しかし、ブリュネのような上級仕官が、なぜそのような無銘の刀を持っていたのでしょうか。
これについて合田先生は大変面白い推測を立てられていました。慶応4年8月17日、横浜のイタリア公使館で新築祝いの仮装ダンスパーティーが開かれ、このときブリュネはカズヌーブと共に日本人武士の仮装をしてワルツを踊り、ワルツを踊った直後、ブリュネとカズヌーブは密かに公使館を脱出し、フランス軍人としての地位も名誉も全て棄て、本国の命令にも背いて、品川沖で待つ開陽丸の榎本武揚のもとへと駆けつけて旧幕府軍と合流し、五稜郭へと向ったのですが、この脱走の直前、つまりブリュネが日本人武士の仮装をして公使館でワルツを踊ったときに、腰に差していたのがこの無銘の大刀だったのではないか、という推測です。もしそうであるならば、無銘とないえ、確かにブリュネにとってはいろいろな意味で特別な思い入れがあった刀ということになります。
そして、三振の刀のうちの脇差ですが、これは、前述の無銘の大刀とは全く反対の性格を有する刀で、基本的に実戦で使うことは考慮されていない、儀礼用の刀なのだそうです。しかし驚くべきことは、この脇差の柄には松前家の家紋が入っているということです。合田先生によると、この儀礼用の脇差は松前藩第17代藩主である松前崇広の刀である可能性が極めて高いのだそうです。つまりブリュネ家には、将軍から贈られた刀と、官軍の一翼を担った松前藩の藩主が所有していた刀があるということになり(対立していた両軍双方の刀があるということです)、これは極めて不思議なことと言わざるを得ませんが、合田先生の推測によると、松前藩は旧幕府軍とは2回戦っており、この脇差はその2回目の戦いの際に旧幕府軍側に奪取されてブリュネの手に渡ったものなのではないか、とのことでした。
ブリュネは、「フランス軍事顧問団は直ちに日本から立ち去るように」という明治新政府からの命令を無視し、更に、「本国に帰還するように」という祖国フランスからの命令をも無視し、フランス皇帝ナポレオン3世に対して脱走の決意を綴った手紙を書いてフランス軍を脱走し、何の利もない日本国内の戦いに身を投じたのですが、合田先生はその理由については、騎士道にある“侠気”の精神からではないか、と仰っていました。自分達顧問団が戦い方を教えた幕府側士官に対しての強い責任感と、そして「なぜタイクンが賊軍とされなければならないのか!?」というやり場のない憤り、薩長及びそれを支援したイギリスに対しての義憤から、ブリュネは地位も名誉も棄てて“脱走”という行動に出たのかもしれません。
京都にある、全国唯一の幕末・明治維新の専門博物館「霊山歴史館」の木村学術課長は、ブリュネの子孫宅で慶喜から寄贈されたとみられる刀が代々伝えられていたことに対して、「大阪城での謁見の際、慶喜がブリュネに刀を渡したと考えるのが妥当だ。幕府はフランスを特別な存在と見ており、他国以上に厚遇する背景もあった」との見解を示しておられるそうですが、確かにブリュネは大阪城で直に慶喜に謁見をしており、また、謁見の際には慶喜本人の許可を得て慶喜の肖像画をその場で描くなどもしています。恐らくブリュネは、タイクンである慶喜に対してはこういったことに対しての“恩”も強く感じていたのではないでしょうか。
ところで、“青い目のサムライ”として日本で戦ったブリュネはその後どうなったのかというと、ブリュネは意外な人生を送っています。ブリュネは五稜郭が落城する18日前に、箱館港に停泊中のフランス軍艦で箱館を脱出し、横浜に戻ってきました。しかし、横浜にいたフランス公使ウトレーは、ブリュネが幕府軍に合流して新政府軍と戦ったことに対して「フランスの面子を潰した!」と激怒していたため、ブリュネは船内に監禁され、箱館戦争終結の凡そ2ヶ月後、裁判を受けるため祖国に強制送還されました。
しかし、ブリュネが脱走前にナポレオン3世に対して自らの決意を綴った手紙がフランス国内の新聞に掲載され、しかもそれが大きな反響を呼んでいたため、マルセーユに着いたブリュネは非難されるどころか国民から大きな称賛と歓迎を受け、その結果、国民感情の強い後押しもあってブリュネに対しては事実上“お咎めなし”という特例ともいえる措置が取られ、普仏戦争勃発に際しては正式に軍に復帰し、ブリュネの名誉は回復されました。それ以後のブリュネは昇進を重ね、最終的には、かつて日本に派遣されたフランス軍事顧問団の団長であった経歴を持つ陸軍相シャノワーヌの下で参謀総長にまで登りつめ、明治44年、パリ郊外の自宅にて72歳でその波乱の生涯を閉じました。
また、ブリュネは明治天皇より「勲二等旭日賞」という、外国人に授与される勲章としては最高位の勲章を授与されていますが、この勲章授与を明治天皇に上奏したのは、箱館戦争で投降しその後新政府に加わった榎本武揚であったそうです。ちなみに、平成16年の米映画「ラストサムライ」の主人公ネイサン・オールグレン大尉のモデルになったとのは、ブリュネであると云われています。
講演の最後に合田先生は、「最近は箱館(現在の函館市及びその周辺)で戦争があったということすら知らない人がいる。戊辰戦争の話をしても、若い人の中にはそんな昔のことどうでもいい、という受け止め方をする人が少なくない。しかし、戊辰戦争があって明治維新が成り、明治維新が成って日清戦争・日露戦争があり、その延長線上の大東亜戦争があり、そして大東亜戦争の敗戦から見事に復興を遂げて今の日本がある。歴史を輪切りにしてその一部分だけを見る見方は正しくなく、その“流れ”を全体で理解する必要がある」と仰っていました。
これについては私も全く同感で、例え大まかであっても“日本の歴史”の概略程度は知っていなくては、そもそも「今、なぜ自分がここにいるのか」ということが説明できません。例えば、私は今札幌にいます。なぜ札幌にいるのかというと、私は札幌で生まれ育ち、ここが私の故郷だからです。なぜ札幌が私の故郷なのかというと、私の先祖は明治期に広島県から屯田兵として北海道に入植し、それ以来私の家系は北海道でずっと生活してきたからです。では、なぜ私の先祖は屯田兵として入植してきたのか、ということを考えると、屯田兵の歴史や、明治時代の国内情勢など、明治という時代のことを知らなくてはそれが説明できません。そして明治時代を理解するためには、当然、戊辰戦争や明治維新の知識も必要になります。
今日の講演会では、“青い目のサムライ”ブリュネの生き様とともに、「歴史を学ぶことの意義」ということも考えさせられ、私にとってはとても充実した講演会でした。 
榎本武揚
榎本武揚(えのもとたけあき)は、幕臣・榎本武規(榎本円兵衛)の次男として1836年8月25日、江戸下谷御徒町(東京都台東区御徒町)にて生まれた。この父は榎本家の株を買い榎本武由(榎本武兵衛)の娘・榎本みつと結婚して婿養子に入る前は、箱田良助と称した庄屋で、伊能忠敬の弟子でもあったと言う。
榎本武揚(榎本釜次郎)の兄の名は榎本鍋太郎であったが、これは父が「鍋と釜さえあれば食べていけるだろう」として名づけたと言う。
榎本武揚は幼少の頃より、儒学と漢学を幕府の昌平坂学問所で学び、15歳の時からは本所の英龍塾で江川太郎左衛門から蘭語を学び、ジョン万次郎(中濱万次郎)の私塾では大鳥圭介、箕作麟祥らと英語を学んだ。
1854年、19歳の時、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地・箱館(函館)に赴き、樺太探検に参加した。
徳川幕府は1855年より中古の外国軍艦を購入し初め、オランダの協力のもと、その操船技術を養う長崎海軍伝習所を創設し、第一期生としては勝海舟(勝麟太郎)、矢田堀景蔵など150人が学んだ。その第2期生として、1856年、榎本武揚(榎本釜次郎)が入所。国際情勢や蘭学など西洋の学問や航海術・舎密学(化学)など広く知識を吸収した。第3期には後の将軍典医・松本良順も学んでいる。
1858年には、築地軍艦操練所の教授となった。
ペリー提督来航以降、幕府にとっても西洋の学術・技術、軍艦導入は急務であり、大老・井伊直弼の意思を受け継いだ老中・安藤信正は、外国に留学生を派遣すること計画。老中・久世広周はは最初、ハリス">ハリスを通じてアメリカに交渉したが、南北戦争のために断られ、オランダへの軍艦発注と留学生派遣が決定した。
留学生は榎本武揚(榎本釜次郎)、沢太郎左衛門(澤太郎左衛門)、赤松則良(赤松大三郎)、内田正雄(内田恒次郎)、田口俊平。そして、蕃書調所から津田真道(津田真一郎)、西周(西周助)、と、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海、さらに中島兼吉ら鋳物師や上田寅吉ら船大工などの職人7名が、1862年9月に長崎からオランダ商船カリップス号にて出航してオランダ留学へ向かった。ちなみに榎本武揚の妻は林洞海の長女・たつ(多津)である。
約7ヶ月後の1863年4月、オランダ・ロッテルダムに到着すると、長崎海軍伝習所で教官を務めていた、カッテンディーケ海軍大佐と、メーデルフォールト軍医の世話になる。オランダでは国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだ他、1864年2月、赤松則良とともに、デンマーク戦争を観戦武官として観戦。戦争を見聞した後、より強力な砲の必要性を感じ、エッセンのクルップ本社を訪ねてアルフレート・クルップと交渉。徳川幕府が発注しオランダで建造中だった「開陽丸」に搭載する大砲を、当初より強力な18門のクルップ施条砲を搭載することに成功した。ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船所で完成した開陽丸は、当時のオランダ軍人も「これだけの船はまだオランダに無い」と言った最新鋭艦で、クルップ施条砲も射程距離3900mの成果を上げている。このクルップ施条砲は、日本名を克式と言い、明治に入ると日本でも多数製造され、日露戦争でも多数のクルップ式火砲が運用されている。更に第2次世界大戦で無敵を誇ったドイツのタイガー戦車の砲もこのクリップ社製であり、日本軍が使用した高射砲もクリップ社のライセンス品(九九式八糎高射砲)である。
話がそれたが、榎本武揚は、1866年10月25日、開陽丸に乗船し帰国の途に着くと、1867年3月26日朝10時30分に横浜港に入港。軍艦奉行・勝海舟らに出迎えられた。幕府陸海軍総裁に勝海舟が就任すると、31歳になっていた榎本武揚は軍艦頭並に登用され、オランダ海軍の例に習い、階級によって服装を分けた軍服を制定して各隊員に支給したと言う。
戊辰戦争
しかし、この1867年は既に倒幕が加速していた。中岡慎太郎、板垣退助、谷守部、小松帯刀、西郷隆盛らは倒幕への準備を進め、後藤象二郎・坂本龍馬と西郷隆盛・大久保利通らは薩土同盟を結び武力討伐を約束。10月には、徳川慶喜が朝廷に大政奉還。11月には坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺され、12月には王政復古となった。榎本武揚は開陽丸に乗船し幕府艦隊を率いて兵庫沖に展開。そして、1868年1月、鳥羽伏見の戦いとなると、将軍・徳川慶喜に謁見し幕府陸軍と協議する為、大阪天保山沖にて開陽丸を降りた。この時、入れ違いで徳川慶喜が開陽丸に乗船すると、副艦長・澤太郎左衛門に命じて、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らと共に1月8日に大坂を出航し江戸へ帰還してしまっている。これが原因で、榎本武揚は後年、徳川慶喜と同じ写真に写ることを拒否している。
置き去りとなった榎本武揚は、大坂城内の書類、重要什器、刀剣類や大阪城の18万両を富士山丸(排水量1000t)に積み、フランスの軍事顧問団のブリュネやカズヌーブらを乗せて、1月12日に大坂を出航し、1月14日に江戸品川沖に入った。
その後、海軍副総裁に就任し幕府海軍のトップとなるも、勝海舟と西郷隆盛の交渉の結果、4月11日に江戸城が開城。新政府軍は直ちに富士山丸などを接取した。小栗忠順などと共に主戦論を主張した榎本武揚は館山沖に艦隊を率いて停泊していたが、勝海舟の説得を受けて品川沖に戻るも、引き続き開陽丸などの譲渡を断固拒否し続けた。8月19日深夜(8月20日)、悪天候を理由に品川沖から館山へ脱走。
若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎、大塚霍之丞、丸毛利恒など彰義隊の生き残り、人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2000余名が乗船して行動を共にした。
榎本艦隊は開陽丸(2590t)を旗艦とし、回天丸(710t、艦長・甲賀源吾)・蟠竜丸(370t、艦長・松岡磐吉)・千代田形丸(140t、艦長・森本弘策)ら戦闘艦4隻と、遊撃隊など旧幕軍兵を乗せた武装を持たない運送船である咸臨丸(当時は機関を取り除き帆船620t)・長鯨丸(996t)・神速丸(250t)・美賀保丸(帆船800t)の4隻にて合計8隻の艦隊を編成。榎本武揚が総司令官となり、開陽丸は澤太郎左衛門が艦長として指揮を取ったが、陸ではともかく、海の上ではまだ薩摩の艦隊には負けないと言う自信があったのだろう。
途中暴風雨に遭い、美賀保丸・咸臨丸の2隻を失ったが、開陽丸は8月末に何とか仙台沖に到着し、すぐさま修理が行われた。同じころ、会津藩は新政府軍の攻撃を受け9月22日に降伏。奥羽越列藩同盟が崩壊し、仙台に逃れてきた桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介や土方歳三などの旧幕府軍の残存兵2500名を艦に乗せると、徳川幕府が仙台藩に貸与していた運送船・太江丸(510t)、鳳凰丸(武装帆船600t)を加えて、10月12日仙台折浜より蝦夷地へ向かった。途中、海賊に奪われていた元幕府船・千秋丸を拿捕し、10月19日蝦夷地の函館・鷲ノ木に約3000が上陸。10月26日に箱館・五稜郭を占領し、11月1日に榎本は五稜郭に入った。そして、12月に「蝦夷共和国」を樹立させ、選挙により総裁に就任する。この時、世界各国に徳川幕府に次ぐ政府として蝦夷共和国を設立したことを宣言したが、結果的に認められる事はなかった。
※明治新政府もこの時点では、まだアメリカなどに認められていなかった。
函館戦争
榎本ら旧幕府軍は松前城を奪い、江差へ進軍開始したが、その援護のために向かった開陽丸が、11月15日の夜、天候が急変し流されて座礁。回天丸と神速丸が救助に向かったが、神速丸も座礁・沈没し、数日後、開陽丸も沈没した。主力戦艦を失った榎本艦隊の優位性は崩れ、その後の新政府軍との戦いに大きく影響を及ぼす。
幕府と新政府の動向を中立の立場を取って静観していたアメリカが、新政府を支持すると、それまで幕府がアメリカに発注していた甲鉄艦(こうてつかん)が新政府軍に引き渡さた。この日本初の装甲艦である甲鉄艦は時代をかなり先取りした設計で、主砲に強力なアームストロング砲を搭載しており、実は榎本武揚も幕府が建造を依頼したものだとアメリカに引き渡しを求めていた経緯がある。その最新鋭艦が新政府に渡り、海軍の優位性が移ることを恐れた榎本武揚らは軍議の上、当時の戦時国際法で許されるギリギリである、第三国の国旗を掲げて至近距離まで接近してから、自国の旗に切り替えて騙し打ちする計画「アボルダージュ作戦」を実行した。回天丸の艦長に甲賀源吾を任じ土方歳三も乗船し、幡竜丸、高雄丸の3艦にて、明治2年3月25日、宮古沖に集結した新政府軍の艦隊、甲鉄艦、春日丸、丁卯丸、陽春丸、戊辰丸、晨風丸、飛龍丸、豊安丸に海戦を挑んだ。しかし、またしても暴風に見舞われ幡竜丸が離脱し、高雄丸は機関故障。回天丸1艦で突入すると奇襲は成功して接舷できたが、回天は舷側に水車が飛び出した外輪船で横づけされた状態にならない。艦長・甲賀源吾の操船で、なんとか甲鉄艦に乗り上げるも、今度は3mもの高低差が生じて、一気に敵船に乗り込めないうちに、ガトリング砲などで攻撃を受け、乗り込む前に倒れる者が続出し、甲賀源吾も頭を撃たれて即死。回天丸は離脱したものの、高雄丸は新政府軍の甲鉄船と春日丸によって拿捕されるに至り、函館政府は事実上制海権を失った。新政府海軍の砲術士官として春日丸に乗船していた東郷平八郎は、この宮古湾海戦での経験を「意外こそ起死回生の秘訣」として忘れず、のちの日本海海戦での指揮にも生かしたと言われる。
海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1500名は、明治2年4月6日に、新政府軍艦隊に乗船し青森を出航すると、4月9日早朝に乙部に上陸。その後、艦隊は江差に砲撃を加え、新政府軍は江差を占領する。その後、陸軍参謀・黒田清隆らの本隊も加わると、松前口(海岸沿い)、木古内口(山越え)、二股口(乙部から大野)、安野呂口(乙部から落部)への4ルートから箱館へ向けて陸路進軍開始した。4月17日に、旧幕府軍は松前城から撤退し、4月20日に木古内も失う。二股口の戦いでも土方歳三らは徹底を余儀なくされ、有川にて大鳥圭介・榎本武揚の部隊も敗れ、4月29日に旧幕府軍は崩壊。
敗色濃厚となったため、5月2日にブリュネらフランス軍人はフランス船で箱館を脱出。5月8日に榎本武揚自ら出陣した大川への夜襲も失敗し、新政府軍は5月11日から函館を陸と海から総攻撃した。
この時、榎本艦隊は3隻残っていたが、回天丸は既に80発被弾しており修理不能。千代田形丸も機関故障の為、両艦は弁天台場付近に座礁させ砲台として使用した。蟠竜丸は総攻撃開始となった日に、新政府軍の朝陽丸の弾薬庫に砲弾を命中させ爆発轟沈の戦果を挙げたが、蟠竜丸も浅瀬に乗り上げて座礁し、艦隊は壊滅。
函館山も新政府軍に占拠されると、山頂からも砲撃を受け、弁天台場が孤立したため、土方歳三が救出に向かうも戦死。5月12日には、甲鉄艦より五稜郭への艦砲射撃も始まり、旧幕府軍では脱走兵が相次いだ。
新政府軍参謀・黒田清隆は降伏勧告を行うも、榎本武揚は拒否したが、オランダ留学時に入手した、海事に関する国際法と外交に関する書物「海律全書」を5月14日、黒田清隆に届けさせた。5月15日、弁天台場の永井尚志らが降伏。元・浦賀奉行与力であった中島三郎助は、長男の中島恒太郎、次男の中島英次郎、腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共に、5月16日、最後の戦闘を行い戦死。
5月16日、黒田清隆が「海律全書」の返礼として、酒樽五樽・鮪五尾を五稜郭に届けると、榎本武揚は1日の休戦を願い出て、その間に改めて軍議を行い、降伏する判断に至った。その夜、敗戦の責任と、兵の助命嘆願の為、榎本は自刃しようとしたが、たまたま近くを通りかかった大塚霍之丞に制止されている。
翌日朝、総裁・榎本武揚と副総裁・松平太郎らは、陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、自分の命と引き換えに兵の助命を嘆願。しかし、有能な人材が失われると考えた黒田清隆はこれを認めず、無条件降伏に同意させている。そして、5月18日、約1000名が投降し、五稜郭は開城・武装解除。戊辰戦争が終結した。降伏した旧幕府軍兵は、一旦箱館の寺院などに収容された後、弘前藩などに預けられたが、ほとんどが翌年に釈放されている。
榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、永井尚志、松岡磐吉、相馬主計の7名は、東京辰の口にある軍務官糾問所に投獄された。
明治政府での活躍
明治5年1月6日に特赦があり、榎本武揚らは罪を許されると、明治政府に登用され、3月8日に黒田清隆が次官を務める、北海道開拓使の四等出仕として、北海道鉱山の検査巡回の役を与えれた。
明治7年(1874年)1月には、海軍中将となり駐ロシア特命全権公使として、6月にサンクトペテルブルクに赴任。
明治8年(1875年)8月、樺太・千島交換条約を締結。
明治11年(1878年)、シベリア経由でロシアを視察しつつ帰国。
その後、外務省二等、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清特命全権公使、条約改正取調御用掛などを歴任し、明治18年(1885年)からは伊藤博文内閣として逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣も黒田清隆内閣・山縣有朋内閣として歴任した。
明治23年(1890年)、子爵に叙されると、大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めている。また、北海道開拓に関与した経験から、明治24年(1891年)に徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)を創設し自ら学長となるなど教育面でも近代日本の成立に貢献した。その後も、外務大臣、農商務大臣など特に、日清戦争中の戦時内閣時には、歴代農相の中で最長を記録している。しかし、足尾鉱毒事件の処理に目途が立つと「自分は知らずにいた」として明治30年3月29日に責任を取り辞職した。
明治32年(1899年)4月、黒田清隆の娘と、長男・榎本武憲が結婚。
政界からも去ると、明治38年から向島に住むと、毎日のように馬で向島百花園を訪れては花々を見て過ごしたと言う。
明治41年7月13日病に倒れ、明治41年(1908年)10月26日逝去、享年73。墓所は東京都文京区の吉祥寺。
榎本武揚の評価
函館で独立政権を樹立した際には、やはり資金には困ったようで、売春婦から税を取ったり、箱館湾から大森浜まで柵を貼って一本木に関門を設け、女子供からも通行税を取るなどしたため、函館の住民の評判は良くありません。しかし、福沢諭吉も、五稜郭で新政府軍に抗戦しながら、後にその新政府内で栄達を果たした榎本武揚を「二君に仕えた不義理者」と賞賛しており、私も最後まで新政府軍に抵抗した幕臣としては非常に興味をひかれる人物でございます。
 
カール・ケッペン

 

Carl Cöppen、Karl Köppen、Carl Köppen、Carl Joseph Wilhelm Koppen (1833-1907)
紀州藩の軍事顧問(普)
ドイツの下士官。明治の初めに兵制改革を行った紀州藩でプロイセン式陸軍を指導するため派遣されたお雇い外国人。日本ではプロイセン人として遇された。別称として、カッペン、カッピン、コッピンと呼ばれる場合もある。
1833年(天保4年)、ケッペンはドイツ統一前のハノーバー王国に近い小国のシャウムブルク=リッペ侯国の首都ビュッケブルク市ヘルデル・シュトラッセの仕立屋ヨハン・F・ウィルヘルム・ケッペンの子として生まれた。カトリック教徒として洗礼を受け、後の1850年(嘉永3年)に堅信礼を施されプロテスタント・ルター派に転じた。
ギムナジウムで約10年の教育を受けて裁判所の書記官を1年間勤めたが、1851年(嘉永4年)4月にシャウムブルク=リッペ侯国の徴兵制度における代人としてライフル大隊に入隊。1853年(嘉永6年)7月に伍長、1859年(安政6年)5月に曹長、同月更に特務曹長に昇進した。1860年(万延元年)にはエリザベート・シュルツと結婚し、後に2人の息子と3人の娘を授かることとなる。1866年(慶応2年)の普墺戦争ではオーストリア帝国側として参戦することとなり、侯国から2個中隊をマインツへ派遣したがケッペンは本国に留まり戦闘に加わらなかったが、最終的には勝利したプロイセン軍の侵入を受けた。戦後、シャウムブルク=リッペ侯国はプロイセン王国を盟主とする北ドイツ連邦の構成国となり、独立は守ったが軍権はプロイセンに握られたため、改組したライフル大隊でケッペンは歩兵小隊長を務めた。1867年9月、約16年の軍隊生活より退役したケッペンはビュッケプルグで年金を受け、写真館を営んだ。
紀州藩のお雇い外国人
1868年(明治元年)、明治維新で後れを取った紀州藩は明治初年より藩主徳川茂承が一度は失脚した津田出を執政に抜擢して藩政改革に励み、洋式兵制を取り入ることを決定した。この間、縁のある陸奥宗光の助言けもあった。1869年(明治2年)2月、蘭学に通じていた津田は「軍務局」を新設して下位部局に砲・騎・歩・工の四寮を置いた。7月に藩大参事となった津田は、10月には交代兵制度という基本的に身分を問わない徴兵検査による3年現役の徴兵制度を施行して近代的な軍備の充実を図った。その課程で、明治政府は今後の陸軍兵制をフランス式とすることを決定したが。和歌山藩についてはテストケースとして適用が除外された。
幕末から日本の大阪川口ではプロイセン人貿易商のレーマン・ハルトマン商会が武器の輸出入を扱って各藩に出入りしていたが、明治になってから紀州藩の注文を受け最新鋭の後装式ライフルであるドライゼ銃を3,000丁ドイツから取り寄せることとなった。長射程かつ速射に優れた銃ではあったが専用の弾薬を必要とし、その運用には弾薬の製造能力が必須であり、洋式軍隊の教官と合わせてプロイセン式の指導者が求められた。その頃にケッペンはレーマン商会の倉庫番をしていた縁で、銃を調達しにビュッケプルグを来訪していたカール・レーマンの招聘に応じることとなった。1868年(明治元年)末にハンブルクを出港してドライゼ銃と共に来日したのは1869年(明治2年)5月19日であった。当初、紀州藩が明治政府に届け出た採用の名目は「火工術伝習」・「鍼銃紙管製造教授ノタメ」の「銃工」であって当初は半年の契約であったが、後に期間延長のうえ「陸軍教師」に改められた。
紀州藩では軍事指導を行うために、1869年(明治2年)11月14日に伝習御用総括に塩路嘉一郎、伝習御用掛りに岸彦九郎・岡本兵四郎・長屋喜弥太・阿部林吉・北畠道龍の6人が任命されケッペンからの指導を実施に移した。ケッペンは本国では小国の下士官であったが、新式銃の技術的理解にも造詣が深く、兵制・部隊運用・技術的な助言により紀州藩首脳の信頼を得た。12月には軍務局が廃止され、代わりに「戌営」と士官学校である「兵学寮」が設置された。教官の増員も図られ、1870年(明治3年)7月には横浜駐在のドイツ領事フォン・ブラントの推薦でヘルム兄弟が和歌山入りした。ケッペンはフランス式を採用していた岡本柳之助の砲兵隊を除き、軍事顧問として新兵の採用と訓練、士官の教育、歩騎の操練、職制規律などの指導・伝習・助言に力を尽くし、プロイセン式軍隊を育成した。
ドイツ人教官陣はケッペンを首席に、工兵担当のユリウス・ヘルムとケッペンの副官のアドルフ・ヘルム兄弟が居て軍事調練を行う他、少し遅れた1870年(明治3年)7月にハイトケンペル(製靴師)とルボスキー(製革師)が来日して洋式製靴・製革の技術指導を行った。(11月には洋行中の陸奥宗光がビュッケプルグを訪れてケッペンの妻に多大な贈り物をしたり、ケッペンの上官フンク少佐に来日を打診している。)
紀州藩の戊営幹部・部隊長の主だった顔ぶれは以下の通りであり、各約600人で構成された5個歩兵大隊、2個砲兵中隊、約150人の騎兵隊、工兵隊、輜重隊、火薬所では新式銃の薬莢が日本人の手により製造された。
   戊営都督 津田出(後に陸軍少将、大蔵少輔、元老院議官)
   戊営副都督 塩路嘉一郎(後に兵部省、元老院出仕)
   戊営副都督次席 鳥尾小弥太(長州藩出身。後に陸軍中将、子爵)
   歩兵大隊長 長屋喜弥太(後に初代和歌山市長)
   歩兵大隊長 北畠道龍(法福寺住職)
   歩兵大隊長 岡本兵四郎(後に陸軍中将)
   騎兵大隊長 阿部林吉
   砲兵大隊長 岡本柳之助(後に陸軍砲兵少佐、韓国宮内府軍事顧問)
   独乙学教師 小松済治(会津藩出身。後に司法省民事局長)
ケッペンは背広服を着用し、乗馬姿で令笛付の乗馬用鞭を持ち、日曜日を除いて士官や兵卒を毎日調練した。訓練は岡山操練所・湊御殿その他市内空地等で行われ、号令は「マルス(進め)」「ハルト(止まれ)」などドイツ語で行われた。ケッペンも次第に日本語を覚えてゆき、日本語での指導も行うようになった。訓練の進展により、消耗の激しい日本式の草履では長距離行軍に差し障りがあるため、革靴は調達だけではなく製造能力を整備し、軍服も綿ネルの製造から始まり士卒は肋骨服に帽子を着用した、この産業は失業した士族の授産にも利用された。これらの製造能力は後に「紀州ネル」と呼ばれる綿フランネル産業として紀州に根付いた。革と食肉の調達についても紀州藩では牧場を建設して、更に牛乳も調達した。
明治政府に数年先行する形で行われた紀州藩の徴兵制度は基本的に身分に関係なく召集され、兵役中の者を士分に処遇するもので、最新鋭のプロイセン式訓練は諸藩諸国の関心を呼び、見学者が和歌山に来訪した。1870年(明治3年)には薩摩の西郷従道、続いて大阪から山田顕義兵部大丞(長州藩出身)、さらに薩摩の村田新八が西郷隆盛の代理で参観した。また、諸国の外交官も、10月に駐日アメリカ公使デロング、駐日イギリス公使パークス、1871年(明治4年)2月には駐日プロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントがドイツ軍艦ヘルダ号(フリゲート)で訪れて1週間滞在した。ヘルダ号の士官が見た観兵式の訓練では、600人の大隊4個がプロイセン式に統率された隊列で一斉に行軍・発砲する運動を見ており、更に兵舎の見学では入室に際して直立不動の姿勢からの挙手で出迎えられたことに驚いている。弾薬製造所では1日1万発と言われる工程を見学した。また、生活様式についても一般の日本人が床に寝るのに対し、兵卒は兵舎でベッド・椅子・机を使った生活を送り、食事は牛肉を食べ、洋式の軍服を着て革靴を履き、頭髪も髷を落として西洋軍隊風に刈り込んでいた。士官学校である兵学寮では図書館に軍事書籍や翻訳本が備えられており、対応した岡本兵四郎はドイツ語を話すことは未熟であったが、聞き取りと読み取りには不自由していない様子であったという。ブラント公使は視察結果を本国の宰相ビスマルクに伝えており、特旨を以てケッペンを陸軍少尉に進級させることとなった。
これらの驚くべき改革と成功は1871年(明治4年)の廃藩置県で紀州藩が解体されて突然終わりを告げた。11月には藩兵の解散が命令されたか、先立つ6月にケッペンは教官増員のために日本を離れ、8月にはドイツへ到着して戻って新人材を集めていた。再来日したのは12月であったが、翌1872年(明治5年)1月にはケッペンは6人(退役砲兵少尉ブリーベ、在郷陸軍少尉レンツ、火器技術兵シュミット、騎兵下士官ランドフスキー、工兵ランケン、軍医大尉ブフルークマッハ博士)のドイツ人軍事教官と共に解雇され、違約金が払われた。雇用の斡旋にあたり明治天皇からドイツ高官8人に日本刀一振りずつが贈呈された。
ケッペンは和歌山で1869年(明治2年)11月から1871年(明治4年)6月までの間に約6,000人の紀州藩兵を訓練するとともに、士官を育て、弾薬・軍服・軍靴などの製造指導、衣食住などの洋式生活の導入、指導部に対して兵制改善の助言や技術指導を行った。。廃藩置県で終了した紀州藩の兵制改革は、徴兵制度では明治政府より3年先行しており、ドイツ式(プロイセン式)の導入としては15年先行していた。
帰国後
1874年(明治7年)、アメリカ経由でドイツのビュッケプルグに帰郷したケッペンは裕福となっており、近郊の立派な農家を買い取り、別荘も立て、外出時には4頭立ての馬車を用いたという。元々金払いの良い性格で、知人への振る舞いも厚く、財産は浪費されてしまった。1879年(明治12年)にはビュッケプルグを離れて放浪した。ブレーメンでは路面電車会社に勤務した。1907年(明治40年)6月28日にドイツ・シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州のノイミュンスターで死没した。74歳の生涯であった。 
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シーボルトやラフカディオ・ハーン、モース(大森貝塚発見)、フェノロサ(美術)、ジョサイア・コンドル(鹿鳴館設計)、エドモンド・モレル(新橋−横浜間の鉄道建設)、デ・レーケ(砂防治水治山)、クラーク(札幌農学校)…。彼らは、幕末から明治にかけて、欧米の優れた先進技術や学問・制度を導入し、殖産興業等を目的に、幕府や諸藩、明治新政府や府県によって招聘、高額な報酬で雇用されたいわゆる「御雇い外国人」である。彼らは、日本の近代化を推し進め、産官学の様々な分野にダイナミズムをもたらし、後世に及ぶ影響を残した。
このほど、和歌山県とドイツ連邦共和国との相互理解と交流を目的に設立された和歌山日独協会は、創立10周年記念事業として、「カール・ケッペン寓居之跡」の石碑を、和歌山大学附属小中学校駐車場の一角に建立した。碑は、高さ約1.8m の六角柱状、黒色の玄武岩で、碑正面の揮毫は、本県選出の経済産業大臣世耕弘成氏による。碑の裏面には、次のようなケッペンの履歴が刻まれている。
「プロイセン(現ドイツ連邦共和国)出身のカール・ケッペンは、紀州藩に招聘され、1869(明治2)年12月16日着任。ここを寓居とし、「交代兵」制度の軍隊を組織、プロシャ式軍事教育を指導する。また、同郷の製靴職人ハイトケンペルらを招き、軍靴、軍服用綿フランネル、弾薬を製造した。これらはその後、皮革、繊維、染色、化学の地場産業の礎となり、今日に至っている。1871(明治4)年、廃藩置県となり解任されて帰国する。」
カール・ケッペンは、1833年、ドイツ統一前の小国の仕立屋に生まれた。1851年に国の徴兵でライフル大隊に入り、1866年の普墺戦争等に参戦、歩兵小隊長を務め、1867年退役した。ケッペンが、紀州藩の「御雇い」となった経緯について記したい。
今から150年程前の幕末期、紀州藩は、吉野十津川村での天誅組事件や長州藩出征等、度重なる戦いで藩財政は困窮していた。藩主茂承公は、財政危機を乗り切り、藩政を改革することを決意し、そのためには、まず第一に人物が必要であると考えた。茂承公は、「才学優長の者、国政悉く委任」した藩随一のブレーン、蘭学顧問の津田出と和歌浦の名刹、法福寺の住職で、自ら法福寺隊という民兵組織を率いる武芸十八般免許皆伝の達人、北畠道龍に白羽の矢を立てた。
新政府から諸藩へ藩政改革の実行を促す布告が出されていたが、当時の紀州藩には大きな障害があった。徳川御三家である紀州藩は、朝廷から強力な幕府方と睨まれ、版籍奉還が進むなか、朝廷の疑念を解き、藩の朝廷への「恭順之主意」を示すには、もう一人、勤皇型の諸藩と密接な関係があり、力をもつ人が必要であった。
そこで茂承公は、当時、脱藩して坂本龍馬らとの志士的活動をへて、新政府に登用され外国事務御用掛となっていた陸奥宗光に使者を送り、礼を厚くして帰藩を懇請、陸奥もその誠意をくみ、明治2年、紀州に帰り、藩政改革に参画、和歌山藩欧州執事として、英国等で知識を深めるとともに、内外にわたって人材の斡旋等につとめた(この時、陸奥はまだ25歳だった)。
当時、大阪で武器貿易を行うレーマン・ハルトマン商会のカール・レーマンは、紀州藩から最新鋭のライフル、ドライゼ銃3,000丁の注文を受け、その調達にプロイセンを訪れていた。この銃は専用の弾薬の製造能力が必要で、軍隊の教官にプロイセン式の指導者が求められた。この時、ケッペンは、下士官を退き、レーマン商会の倉庫番をしていたが、新式銃に詳しく、藩の招聘に応じ、1869年、ドライゼ銃と共に来和した。翌年には、横浜在住のドイツ領事の推薦で軍事調練を担当する教官や製靴師、製革師が来日し、洋式製靴・製革の技術指導を担った。同じ頃、洋行中の陸奥は、ケッペン家を訪問、夫人に贈り物をしたという。
北畠は既に隊を組織し、徴兵実施のひな形をつくっていたが、津田は、藩に軍務局を新設、「交代兵」という身分を問わない徴兵検査による徴兵制度を施行し、近代的な軍備の充実をはかった。兵制改革は、藩政改革の極めて重要な柱であり、陸奥は、彼等の徴兵法の案を朝廷に奏上し、紀州藩の勤皇の志を示すことにより、朝廷の嫌疑を解いた。そして、長らく京都で人質同様であった茂承公の帰藩が許された。
新政府に先立つ紀州藩の兵制改革の実施は、当時の外国公使にも注目され、明治3、4年には米英プロイセン等から、公使が軍艦等で来訪、ケッペンの指揮による600人大隊4個の統率された隊列で、行軍・発砲する様を見学した。ブラント・プロイセン公使は、視察結果を本国の宰相ビスマルクに伝え、特旨により、ケッペンは陸軍少尉に進級した。洋式軍隊の創設は、化学、機械製造等の関連産業の萌芽となり、後の第一次世界大戦当時、和歌山市域は、「南海の工都」と呼ばれるに至ったのである。 
津田出 / 明治新政府のモデルとなった藩政改革
南北朝時代に活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)の三男=楠木正儀(まさのり)の末裔とされる津田家は、もともと北河内(大阪府北部)の津田城を居城としていましたが、戦国の動乱で紀州に移り、その後、ご存じのように、徳川家康の十男の徳川頼宣(よりのぶ)が紀州に入って、いわゆる御三家の一つとなるにつれ、津田家も、地元武士として紀州藩に仕えるようになったと言います。
津田出(つだいずる)が誕生するのは、天保三年(1832年)・・・20歳を過ぎた頃に江戸に出て蘭学を学び、帰郷してからは、藩士たちに蘭学を教える立場となります。
その後、安政四年(1858年)に第14代藩主に就任した徳川茂承(もちつぐ)が、早くから彼の才覚を見抜いていた事から、何かと重用されるのですが、この頃から病気がちになり、家督を弟に譲って、第1戦からは離れました。
慶応二年(1866年)7月、35歳になっていた出は、お留守となった藩主に代わって、領国の政務を任される事になるのです。
そうです・・・この年の6月から、あの第2次長州征伐=四境戦争が始まっていて、藩主の茂承はその先鋒総督に任命されて出陣・・・しかも、そこで、戦場を駆け巡る奇兵隊などの姿を目の当たりにしていたのです。
ご存じのように、この第2次長州征伐では、奇兵隊などの農民兵による、動きやすい軽装の軍服に最新鋭の銃を装備したゲリラ的戦い方に、幕府側の紀州藩は痛い目に遭っていたわけで・・・
結果的には、第14代将軍=徳川家茂(いえもち)の死を以って幕引きとなる長州征伐ですが、戦況としては完全に敗北の雰囲気だったわけで・・・
翌年、紀州へと帰国した茂承は、早速、出を国政改革制度取調総裁に任命し、かねてより出が考えていた改革に賛同し、それを推し進めるよう、方向転換させたのです。
その出の考えていた改革というのが、武士の制度を廃止して、全員を百姓にしてしまい、彼らに洋式訓練をさせて、領国の防衛にあたらせるという、まるでヨーロッパの国を思わせるほどの革命的なもの・・・
しかし、それは、ほどなく、藩内の保守派の抵抗に遭い、逆に、出はその地位を追われ、蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)処分となってしまいます。
とは言え、そんな保守派の抵抗が長く続かない事は、皆さまもご存じの通り・・・
鳥羽伏見の戦いに始まって江戸城無血開城から北越&東北へと移行した戊辰戦争がほぼ終結し、慶応四年(1868年)から明治元年に改元された11月・・・出は、茂承から藩政改革の全権を任される形で復帰し、「今度こそ!」とばかりに、改革を断行するのです。
まずは藩主&藩士の家録(給料)の大幅削減にはじまり、そのために仕事を失くした藩士の農業・商業・工業への転職の推進・・・
しかし、一方で、藩の最高機関として「政治府」を置き、逆に、そこには能力次第では、充分に手腕を発揮できる道も用意しました。
領国各地には、郡ごとに「民政局」を置き、中央(いわゆる県庁所在地)との連絡を密接に取りつつ細かな事にも対応・・・さらに、学校の制度も整えます。
また、「開物局」という通商に関する機関を置き、洋式の技術や洋式の機械を導入する事によって皮革業などの新しい産業を展開しました。
軍制度に関しては、『交代兵取立之制』という、「武士や農民を問わず、20歳に達した青年たちから選抜した者を交代制で」という志願兵に似た形で採用する物・・・
さらに、明治二年(1869年)の版籍奉還(はんせきほうかん)で、和歌山藩大参事となった出は、プロセイン王国から下士官のカール・ケッペンを招いて、ドイツ式の軍制改革を行いますが、そこでは、陸軍と海軍にわけた軍隊に、傷病兵士のための病院を設置・・・軍務局を頂点にした階級制度も、しっかり決められました。
さらに、先の『交代兵取立之制』を廃止し、『兵賦略則(へいふりゃくそく)』を布告しますが、これこそ、後に明治新政府が実施する、四民平等・国民皆兵の徴兵制でした。
やがて訪れた明治四年(1871年)の廃藩置県の後、出は、中央政府に呼び出され、大蔵省輔に抜擢されるのです。
彼を呼び出したのは、あの西郷隆盛・・・和歌山県の見事な改革を耳にした隆盛が、「我々は津田先生のあとについて行きます」とまで言って呼び寄せたのです。
つまり、明治新政府は、これからの進む道、政府の青写真を描ける人物が欲しかったのですね。
なんせ、その軍制改革は徴兵制のお手本となり、藩政改革は、その廃藩置県のお手本となったのですから・・・
こうして、大蔵省や会計監督局から陸軍に移り、少将となった出ですが・・・そのワリには、(失礼ながら)津田出さんというお名前、あまり聞きませんよね?
実は、これほどの才能を持ちながら、この後は、その手腕を思う存分発揮できる役職につけなかったのです。
それには、中央政府にて活躍している紀州藩の出身者が、あの陸奥宗光(むつむねみつ・伊達小次郎)くらいしかいなかった事・・・結局、その陸軍でもデスクワークばかりで、どこかの司令官に任命される事もありませんでした。
明治二十三年(1890年)には貴族院議員にもなりましたが、やはり薩長藩閥政府の中ではその力を振るうことは難しかったのでしょう。
「このまま、彼の才能を埋もれさせてはならぬ!」と中央へ引っ張ってくれた西郷隆盛が、あの西南戦争で散ってしまった事も大きかった・・・
途中、明治十八年(1885年)には、日本初の乳牛ホルスタイン種を導入して千葉と茨城にまたがる広大な土地でアメリカ式の農法を試みますが、それも、政界では発揮できない自らの才能を発揮する場所を求めていたのかも知れません。
明治三十八年(1905年)6月2日、74歳でこの世を去る津田出・・・そんなこんなで、あまり知られてはいませんが、実はスゴイ人なのです。
彼がいなければ、新政府による廃藩置県や国民皆兵が、もう何年か遅れ、見事な文明開化とは行かなかったかも知れないのですから・・・
 
ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ

 

Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke (1816〜1866)
近代海軍の教育(蘭)蘭)
    長崎海軍伝習所の日々
オランダの海軍軍人、政治家。1857年、ペリーの黒船を見た徳川幕府はオランダに同様な軍艦を発注。カッテンディーケは、完成したJapan(ヤーパン)号の艦長として大西洋、インド洋をまわり1857年に長崎に入港した。そのまま幕府が開いた長崎海軍伝習所の教官となり、2年に渡って勝海舟、榎本武揚らなどの幕臣に精力的に航海術・砲術・測量術などの近代海軍の教育を行った。その間、長崎の自然・風景や人々の風習や行事や島津斉彬、鍋島閑叟らの人物像なども記録した書を残している。帰国後は1861年オランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任した。因みに1860年、ヤーパン号はカッテンディーケの教え子である勝海舟船長をはじめとする遣米使節団一行が太平洋を横断してアメリカまで渡った船「咸臨丸」となった。 
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オランダの海軍軍人、政治家。日本においては単にカッテンディーケ、カッテンダイケ、カッテンデイケ、カッテンデーケなどと記されることが多いが、本来の姓は「コルネリス」で、「ホイセン・ファン・カッテンディーケ」は叙任された騎士爵の称号である。
1857年(安政3年)9月21日、幕末に徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号(後の咸臨丸)を長崎に回航し、幕府が開いた長崎海軍伝習所の第1次教官ペルス・ライケンの後任として第2次教官となる。勝海舟、榎本武揚などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を精力的に行った。
2年後の1859年(安政5年)、長崎海軍伝習所は閉鎖となり帰国。1861年、オランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任した。
日本滞在時の回想録『長崎海軍伝習所の日々』(水田信利訳、平凡社東洋文庫)が出されている。その回想録の中で、日本の子供の態度についてこう記している。
「 子供たちへの深い愛情を、家庭生活の全ての場面で確認することができる。見ようによっては、日本人は自分の子供たちに夢中だとも言える。親が子供に何かを禁じるのは、ほとんど見たことがないし、叱ったり罰したりすることは、さらに稀である。 」 (『長崎海軍伝習所の日々』)
西洋では子供を厳しくしつけるために鞭打つこともあった。西洋人の目では日本の家庭での子供への接し方が自分たちとは大きく異なっていると見えていた。
カッテンディーケの教育を受けた勝海舟の立案によって、1864年(元治元年)に西洋式の海軍士官養成機関・海軍工廠である神戸海軍操練所が設立された。
 
アーチボルド・ルシアス・ダグラス

 

Sir Archibald Lucius Douglas (1842-1913)
海軍兵学校教官(英)
イギリス海軍の軍人。明治期日本のお雇い外国人のひとりで、日本の海軍兵学校教育の基礎を固めた。勲一等旭日大綬章受章者。
1842年、現カナダのケベック州に生まれる。
ケベック高校を卒業後、1856年に士官候補生としてイギリス海軍に入る。1873年(明治6年)から1875年まで、ダグラス教官団(イギリス海軍顧問団)の団長として日本に滞在した。1901年に中将に昇進、1902年から1904年まで北米艦隊司令長官を務め、1907年に退役した。1910年にはマギル大学の名誉法学博士となる。1902年、バス勲章のナイト・コマンダー(KCB)、1905年にロイヤル・ヴィクトリア勲章のナイト・グランド・クロス(GCVO)、1911年にバス勲章のナイト・グランド・クロス(GCB)を受章している。
1913年、イングランドのハンプシャー、ニューナムで没。
駐日中、海軍兵学寮でサッカーを教えた。これが日本のサッカーの起源の一説とされている。
海軍士官である前に紳士たれ
「海軍士官の前に紳士たれ」という教えは防衛大学校時代も江田島の幹部候補生学校時代にも良く教育されました。
この教えが生まれたのは明治政府が新たに日本海軍を建設し、士官養成の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)の教育体系を整備する過程でイギリス海軍顧問団により指導されたのが始まりです。
イギリスの海軍顧問団はアーチボルド・ルシアス・ダグラス少佐はじめ総勢34名で、明治6年7月27日に海軍兵学寮に到着しました。
このイギリス海軍顧問団来日を契機として海軍兵学療の教育は一新され、ダグラスは母国イギリスのパブリック・スクール(上流家庭の子弟を教育する全寮制の私立中・高等学校で、イートン校がもっとも有名)や、 ダートマス海軍兵学校で体得した「躾・マナー」を日本海軍に取り入れようとしました。
その第一は「紳士たれ」であり、ここに海軍士官である前に、紳士であれというイギリス流の紳士教育が始まったと言われています。
海軍兵学校は大東亜戦争終戦の昭和20年8月に廃校となりましたが、後に創設された江田島の幹部候補生学校にもその教育精神は受け継がれております。
また、この教えは戦後8年後に創設された防衛大学校に引き継がれました。
防衛大学校の初代槙智雄校長はイートン校からケンブリッジ大学に学んだ体験や井上成美海軍兵学校校長の進言を受けて、「立派な自衛官は立派な社会人でなければならない」として引き継がれたと言われています。
過去に米海軍士官候補生と町工場の女性の恋愛物語の映画「愛と青春の旅立ち」がありました。
原題は「an officer and a gentleman」であり、まさに「海軍士官であるまえに紳士たれ」という題名です。
アナポリス海軍兵学校にもその精神は継承されており、ジョン・ポール・ジョーンズ提督の教えとして以下の教えが残っております。
It is by no means enough that an officer of the Navy should be a capable mariner ・・・ He should be as well a gentleman of liberal education, refined manners, punctilious courtesy, and the nicest sense of personal honor.
John Paul Jones
明治政府が海軍を建設する際に最も重視したのは人材の養成です。
このことは、海軍兵学寮の初代兵学頭(校長)の川村純義大丞(大佐)が回想談で次のように述べておられます。
「確か明治4年でした。大政官でもしきりに海軍を拡張したい、ことに天皇陛下の篤い思し召しもありました。わたくしはこの時に「軍艦は金さえあればいつでも買い得られまするが、人物はそう一概にはできません。
ゆえに海軍士官の養成を先にし、いつでも数艘の軍艦を指揮操縦する人物を養成しておきたい。陸軍の方は昔の士族でも事が足りえようが、海軍は古来船乗りと称して常に世人に軽蔑されていますから、海軍士官の養成は目下の急務でありましょう」。
また、海軍の拡張も、なかなか一朝一夕には行われうるものではありませぬ。学校を巣立って5年、実地研究が10年、都合15年を期してやや見るべき海軍になりましょう』と申し上げておいたが、これからちょうど23年目に日清戦争になりました」。
また、明治天皇は明治7年1月9日の海軍事始めの式典で、ダグラス少佐らに「朕いま汝に偶会し、汝ら来国以来当学寮の教授にもっとも勉励せしを満足す。
なお、汝の尽力によりて海軍の一大進歩を得るを望む」との勅語を賜っていることからも、海軍が生徒教育にいかに大きな関心を持っていたかが理解できます。
 
クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル

 

Klemens Wilhelm Jacob Meckel (1842-1906)
陸軍大学校教官(独)
プロイセン王国及びドイツ帝国の軍人。明治前期に日本に兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化の基礎を築いた。
ケルンに生まれる。実家のメッケル家はビール醸造家であった。メッケル家はドイツ南西部ラインラント=プファルツ州ビットブルク=プリュム郡ビットブルク・ラントの山間の村メッケルが発祥の地で、当地にやって来たローマ帝国の小部隊の隊長が始祖であったという。1867年にプロイセン陸軍大学校を卒業した。普仏戦争にも参加し、鉄十字勲章も受賞した。 
陸軍の近代化を推し進めていた日本政府はドイツに兵学教官派遣を要請した。ドイツ側は参謀総長のベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)の推薦により、陸軍大学校(de)の兵学教官のメッケル少佐を派遣した。彼は1885年3月に来日した。メッケルは戦術の権威であり、ドイツ側の好意は望外の喜びであった。もっとも、本人は「モーゼル・ワインのないところには行きたくない」と、最初難色を示していたという。
日本陸軍はメッケルを陸軍大学校教官に任じ、参謀将校の養成を任せた。メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、東條英教や秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。
3年間日本に滞在した後、1888年3月にドイツへ帰国。帰国後はマインツのナッサウ歩兵第2連隊長、参謀本部戦史部長、陸軍大学校教官などを経て1894年に陸軍少将へ昇進し、1895年には参謀本部次長となったが、皇帝ヴィルヘルム2世への受けはよくなく、1896年、プロイセン貴族への授爵が却下され、ボーゼン州グネーゼンの第8歩兵旅団長に左遷される辞令を受けた直後に依願退役。ベルリンにて64歳で死去した。退役後に連隊長時代の部下の元妻と結婚し、日本陸軍から派遣されてくる留学生に個人授業を行ったほか、音楽に親しみ、オペラも作曲した。
日本に及ぼした影響
メッケルが日本の戦略思想に与えた影響について、高山信武は以下のことを挙げている。
1 日本の活躍の場が大陸であるとして、大陸に兵を送った際の補給のための施策を提案した。
2 渡河作戦用の舟艇を鉄製にすることを提案し、日本軍人から冷笑されたが、試作してみて効果があったため、以後鉄製舟艇が採用された。
3 軍備・軍制の改革のため臨時陸軍制度審査委員会が作られたが、メッケルも顧問として参加し、諮問に応じた。これにもとづき、陸軍は歩兵操典を改正したが、メッケルの影響によりドイツ式運用を取り入れているところが多かった。
4 メッケルはしばしば参謀演習旅行を計画統裁したが、これは陸軍大学校の伝統行事となった。
5 包囲重視、緒戦必勝、兵站の重視、健兵養成、作戦及び精神力の強調、主動権の確保といったモルトケ継承の戦略思想を徹底したことで、日本兵学に大きな影響を与えた。
逸話
日本からの度重なる兵学教官派遣要請にドイツが応じた理由は、フランスが派遣をしていたからだった。その際にモルトケが推薦したのがメッケルである。当の本人は、極東の無名の島国への赴任を激しく忌避した。だがヒンデンブルクまでも担ぎ出した陸軍挙げての説得交渉に、「一年で帰任出来るならば」とついに折れた。日本からの要請は「3年間の派遣」だったが、本人には伏せられていた。
大のモーゼルワイン好きで在独日本人に日本でモーゼルワインは入手できるか尋ね、横浜で入手できることを知って訪日を決意した。
来日当時禿頭で髭面であったため、学生からは「渋柿オヤジ(ジジイ)」とあだ名されていた。
1885年、陸軍大学校に着任したメッケルは、「自分がドイツ軍師団を率いれば、日本軍など楽に撃破出来る」と豪語した。この言葉に学生のひとり根津一は反発し、その後の講義はメッケルと根津の論争の場になってしまった。メッケルは「自分は政府命令で来ているのだ、学生如きの侮辱は許さん」と帰国する勢いであった。仲裁に入った陸軍大学校幹事・岡本兵四郎にメッケルは「根津の如きは到底文明国の参謀に適せず」と述べ、結局根津は諭旨退学となっている。メッケルの豪語は学生を鼓舞するもので民族的偏見によるものではなかったが、帝国主義世界では新興国であるドイツ人と近代化を急いでいた日本人のプライドがぶつかりあったのだった。実際、後に根津はメッケルを評して日本陸軍の恩人とし日清戦争・日露戦争での勝利の要因にメッケルの指導をあげている。
司馬遼太郎等の小説等に、陸軍大学教官当時、日本の軍人から関ヶ原の戦いの東西両軍の布陣図を見せられ、「どちらが勝ったと思われますか?」と質問された際、「この戦いは西軍の勝ちである」と答えたという。布陣図から見ると東軍を包囲する様、鶴翼の陣に布陣した西軍が有利であると判断したメッケルの分析は正しいものであったが、東軍側が西軍諸大名に対して盛んに調略を行い、離反や裏切りを惹き起こした事実を聞くと、改めて戦争で勝利するには調略と情報収集・分析が必要であるかという事を強く指導する様になったと言われている。確実な出典が判明しておらず作者の創作が指摘されている。
来日中から児玉源太郎の才覚を高く評価し気にかけており、「児玉は必ず将来日本を荷う人物となるであろう。彼のような英才がもう2、3人あったならば……」と評価している。ドイツ帰国後も自らが育てた日本陸軍の発展に日頃から気を留め、日露戦争開戦時には満州軍総参謀長に任命された児玉源太郎宛に、メッケル自身が立案した作戦計画を記した手紙や電報を送っている。また欧米の識者が日本の敗北を疑わなかった時期に早くから日本軍の勝利を予想、「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れる事は無い。児玉将軍は必ず満州からロシアを駆逐するであろう」と述べたと伝えられている。
東京青山の陸軍大学校の校庭には二つの胸像があったが、それはメッケルと石田保政のものだったという。  
日露戦争勝利の立役者 渋柿親父のメッケル
正式名は、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel、1842年3月28日 - 1906年7月5日)で、明治初期に日本陸軍兵制の近代化に貢献し、基礎を作ったドイツ帝国の軍人さんです。日清戦争・日露戦争での勝利の要因にはメッケルの指導があったとの高い評価もあります。日本陸軍大学校の学生から付けられた渾名は、渋柿オヤジ。禿頭で髭面、頑固一徹の典型的なドイツ軍人っていう感じの人です。
明治維新がようやく終わって近代化を急ピッチで行なっていた日本ですが、陸軍卿には奇兵隊出身の山県有朋が、海軍卿には勝海舟が就任します。海軍は、かの偉大な大英帝国がモデルとしてありましたので問題はなかったのですが、陸軍では、当初教わったナポレン時代の強いフランス式から、今流行りの新興国、ドイツ(プロイセン)式にするかで揉めていました。強い方のスタイルを学びたいのはどこの国も同じです。山県有朋は1871年の普仏戦争でプロイセンが勝利した事を見定め、フランス式の軍制からドイツ式への転換を図ろうとします。
そこで、ドイツに兵学教官派遣を要請しました。幾度もの懇願の結果、誰が来るかと思いきや、招聘された人物は、ドイツ陸軍参謀本部長、有名な大モルトケの愛弟子、参謀の権威とまで言われた秘蔵っ子、メッケルです。聞いた日本政府は望外の喜びです。
日本からの度重なる兵学教官派遣要請にドイツが応じた理由ですが、先にフランスが派遣をしていたからでした。ドイツとフランスってほんとに意地を張りたがります(笑)。
しかし当の本人であるメッケル自身は、典型的なドイツ軍人、極東の無名の島国なんか行くもんかと激しく忌避します。大統領ヒンデンブルクまでも担ぎ出した 陸軍挙げての説得交渉に、「一年で帰任出来るならば」とついに折れました。日本からの要請は「3年間の派遣」だったが、行かせてしまえばなんとかなるだろうと、本人には内緒です。訪日の決意は、大好きなモーゼルワインが横浜で入手できることが分かったため。
メッケルは1885年に来日すると陸軍大学校教官に着任し、参謀将校の養成にあたります。指導は徹底しており、最初の1期生で卒業できたのは、東条英教(東条英機の父)や秋山好古 など、わずか半数の10人という厳しいものでした。しかし、その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉源太郎を始めさまざまな階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講したといいます。メッケルは約束通りに3年で退任、帰国しますが、メッケルの教育は実戦的として高く評価され、後年に至るまで陸大で行われました。
有名な逸話で、関ヶ原の戦いの東西両軍の布陣図を見せられ、「どちらが勝ったと思われますか?」と質問された際、「この戦いは西軍の勝ちである」と答えたといいます(西軍は石田三成、東軍は徳川家康)。布陣図から見ると東軍を包囲する様、鶴翼の陣に 布陣した西軍が有利であると判断したメッケルの分析は正しいものでしたが、東軍側が西軍諸大名に対して盛んに調略を行い、離反や裏切りを惹き起こした事 実を聞くと、改めて戦争で勝利するには調略と情報収集・分析が必要であるかという事を強く指導する様になったと言われています。
そんなメッケルですが、ドイツに帰国後も自らが育てた日本陸軍の発展に日頃から気を留め、日露戦争開戦時には児玉源太郎宛に、メッケル自身が立案した作戦計画を記した手紙や電報を送っています。また欧米の識者が日本の敗北を疑わなかった時期に早くから日本軍の勝利を予想し「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れる事は無い。児玉将軍は必ず満州からロシアを駆逐するであろう」と 述べたと伝えられています。
参謀というのは戦の運命を決定づけてしまいます。たった一人の参謀の出現が国を救うこともありえるのです。児玉源太郎が日本海海戦で指揮官でなかったら、かなり高い確率で負けていたとも言われています。日本国の恩人でもあるメッケルの指導には感謝だと思います。 
メッケル
兒玉十三朗が陸軍省に提出した『陸軍大改革論』はそのまま陸軍の政策とされ、明治15年に陸軍大学校は創設された。
兵学教官を外国から招く事となり、その対象国がドイツとなった。
陸軍は創設当初フランス陸軍式の訓練を採用していたが、話を遡る事12年前の明治3(1871)年にヨーロッパで列強の勢力図が変換する事態が発生した。
フランスとプロイセン王国の戦争−普仏戦争(1870〜1871)−である。プロイセン王国とは、かつてドイツ諸候連合国家であった神聖ローマ帝国(962〜1806)の一公領であったが、19世紀の初めにフランス皇帝ナポレオンによって締結されたライン同盟によって844年の歴史に幕を閉じた。新たに『ドイツ連邦』が誕生したが連邦国家としてまとまる事はなく、その中でプロイセン王国は1862年、国王ヴィルヘルム1世の時に首相のオットー・フォン・ビスマルクはプロイセン中心によるドイツ統一のため富国強兵と外交強硬策が主軸の『鉄血政策』を掲げ、国王がこれを採用して近代化に励んだ。
そして、1866年に南の隣国で列強のオーストリア帝国と戦争−普墺戦争(1866)−が勃発した。現在のオーストリアの国土は北海道とほぼ同じ(若干北海道が小さい)だが、帝国時代から第一次世界大戦の終結まで国土はその4倍で、西はイタリアのベネツィアを、アドリア海に面したリエーカ、スプリット−現クロアチアの地方都市−を、東を現ウクライナ西部を、北は現チェコを、南はハンガリーからルーマニアのトランシルバニア地方を有する帝国であったが、プロイセンはこれを破った。
普墺戦争の勝利を機に、ドイツ連邦を解体再編し、新たにプロイセン中心の『北ドイツ連邦』を誕生させた。
ドイツ情勢に危機を抱いたのがフランスで1870年に戦争が勃発した。戦争はプロイセン側が有利に進め、9月のセダンの戦いでは10万人のフランス軍が降伏し、自ら陣頭指揮に立っていたフランス皇帝ナポレオン3世も捕虜となった。翌年1月にはパリを占領し、フランスは降伏した。対仏戦の勝利によりプロイセン国王ヴィルヘルム1世は占領下のヴェルサイユ宮殿で載冠式を行い、プロイセン王国を中心としたドイツ諸国統一国家『ドイツ帝国』の皇帝となり、列強の仲間入りを果たした。
普仏戦争中に、一人の日本人青年がロンドンで困り果てていた。名を桂太郎という。彼は、山県有朋の直系で維新後にフランスに留学しようと意気込んで渡欧したが、上記の通りフランスは戦争中でしかも劣勢であった。桂は落胆した。そんな桂に声をかけたのがイギリス公使館に勤めていた桂と同じ長州出身の青木周蔵という男だった。
「ドイツに行ってはどうだ?」と、青木は桂に言った。
桂は半分やけくそでこれに従った。フランス語しか習わなかった桂にとってドイツの生活は大変なものとなった。しかも、官費留学ではなく私費留学だった。それでも彼はくじける事なく、ドイツ語を学び、ドイツの文化に触れ、ドイツ軍事を吸収していき、次第にドイツ式の軍事鍛練が日本に必要だと悟るようになった。 帰国後、陸軍軍人となった桂は山県にドイツ式陸軍を採用するよう説いたが、山県は難色を示し難航した。そこで桂は兒玉十三朗に目をつけ、山県を説得するよう働きかけた。兒玉と桂は関係が殆んどなく親しくは無かったが、知人ではあった。兒玉は桂から話を持ち掛けられ、二つ返事で承諾した。兒玉も独自の情報網から戦争の情報を入手しており、その情報量は日本にいながら普仏の情勢が手に取るように分かる程に膨大で正確だった。しかも兒玉は、これからの日本陸軍はドイツから倣うべきと記したレポートを作成しており、これを見た桂は驚愕した。様々な尺度から見た他国とドイツ式陸軍の比較と利点、将来の展望等と詳細な内容が盛り込まれており、桂の持つドイツの軍事知識を遥かに上回っていた。
「お前はドイツに滞在していた事があるのか?」
桂はこう言わざるおえなかった。
「明治の2年の時に数日だけいた」と言って、全て独自のルートと独学で学んだことを話した。
桂は、他人の意見に横槍を入れる山県が兒玉十三朗の意見だけは何の口出しもしないでそのまま受け入れる理由を少しは理解したような気がし、敵に回したら確実に負けると思い背筋が冷たくなるの感じた。
しかし、桂のもくろみ通り、兒玉は山県の説得に成功した。だが、日本陸軍をフランス式からいきなりドイツ式に変えては日仏関係に悪影響を与える事から段階的にドイツ式に転換していく事でまとまった。ちなみに、桂が山県の後継者なら、兒玉十三朗は陰の黒幕という形だった。
明治17年、山県は陸軍卿大山巌と協議し、陸軍大学校の外国人教官をドイツから招聘する事を決定し、翌18年ドイツに打診し陸軍大臣とドイツが誇る参謀本部長モルトケは人選を彼の愛弟子で参謀少佐メッケルに決定した。
しかし、当の本人は困惑した。十数年前に自称近代化と唱える極東の片田舎の島国までわざわざ出向く必要あるのかと、その事についてモルトケは、
「極東の片田舎まで行ってドイツ技術を示す良い機会ではないか。それに、アジア人の国とは言え優秀な人材は揃っているし、君の優遇も保証してくれる」と、メッケルを説得した。
「一日だけ時間を下さい」と、メッケルは言って参謀本部を後にし、日本についてある事を調べた。
モーゼルワインが日本で飲めるかどうかである。彼は、大のワイン好きでワインさえあれば何もいらないと考える程であった。折しも横浜でモーゼルワインが入手できる事をしり日本行きを決意した。

ドイツ帝国陸軍少佐のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルが来日したのは明治18年のことであった。彼が日本に来て初めに行ったことは陸軍の軍事制度を笑う事であった。
陸軍の大部隊『鎮台』について、海外遠征能力を持たず、兵站を重視しない部隊をヨーロッパの諸国陸軍の標準部隊Division−師団−のように扱う事について、陸軍の直轄の城をヨーロッパの要塞のようにしている事について笑った。
日本陸軍側はメッケルの意見を親身に受け入れ『臨時陸軍制度審査委員会』を組織し、陸軍改革に努た。
陸軍を笑うメッケルであったが、一目を置く物もあった。
『陸軍大改革論』であった。ある日、兒玉十三朗は山県有朋に兒玉源太郎、桂太郎、川上操六に連れられ三宅坂に立てられたヨーロッパ風のメッケルの住宅に入った。
メッケルと兒玉十三朗は初対面するが、例によって、君が兒玉かね?と、年と顔、体格が矛盾する兒玉に戸惑った。
「君の書いた『陸軍大改革論』を読ませてもらったが、成程これを考えるのはヨーロッパの軍人でも希であるな」と、メッケルの話すドイツ語を通訳が訳した。
それを聞いて十三朗はニヤリと笑った。
メッケルは続けて喋り、通訳が訳した。「君は近代軍事学に精通しているらしい。ぜひ話がしたくて呼んだのだ」
メッケルはモーゼルワインとグラスを取りだし振る舞った。
話は夜遅くまで続き、メッケルは日本に来て初めて痛飲した。十三朗の話す事に共感し、メッケルの軍事学を一つ聞いて十を理解するのでメッケルはいよいよ上機嫌となった。
「モルトケの言っていた以上に日本には優秀な人材が大勢いる。これでは私が日本にいる必要が無いのではないか?」メッケルはワインを一息で口に注ぎ込んだ。
「いいやいや、我々は理解は出来ますが日本人だけでは何も出来ません。確かに陸軍大学校に入る若造供は優秀です。しかし、頭が良いだけで戦を知らない鼻垂れ供です」 十三朗はワインをなめて肴のチーズを一口かじってから話を続けた。
「我々も18年前に戦を経験してそれなりの自信はついていますが、近代軍事制度についてはまだまだです。ですから『知謀神の如し』と言われるメッケル少佐が日本陸軍に必要不可欠なのです」
十三朗の周りにいた各々も首を縦に振り相槌をうった。
結局、メッケルとの飲み会は朝まで続き、その日は全員が二日酔いをして全滅してしまった。
メッケルが陸軍大学校の講壇に立ったのは翌明治19年の事であった。
メッケルは早々から専門的な軍事学については語らず、軍隊の初歩行動−操典−を話し、学生から反感を買った。しかし、メッケルの話す操典は学生達が陸軍士官学校で教わった操典よ正確で文句の着けようが無かった。
その後から次第と軍事学について講習するようになり、普仏戦争になぜドイツが勝利したか、国際法と開戦の時期と攻撃について彼の持つ知識を学生達に植え込んだ。学生達はメッケルに愛想を込めて『渋柿ジジィ』というあだ名をつけていた。そして学生達はこれから起こる戦争の主要参謀や指揮官となって行くのであった。
メッケルはその後も学生達に指導し、陸軍改革にも貢献し明治21(1888)年に帰国した。また、同年には6個鎮台が廃止され新たに海外遠征能力を持った6個の『師団』が編成され、さらに7個の独立旅団が編成され、日本各地工廠−軍直轄の軍需工場−では試作野戦砲やガトリング砲にかわる新兵器の機関銃の開発、製造が活発になっていた。 
日清、日露戦争の名将・川上操六
川上はモルトケに弟子入りして教えを請うた
明治17 年2月、大山厳陸軍卿(陸相)は、陸軍きっての英才の桂、桂太郎、川上ほか俊英17人を引き連れて、陸軍大改革の準備調査のためにヨーロッパ各国を視察、イタリア、フランス(47日)、英国、ドイツ(70日)、ロシア、米国など回り、翌年1月25日に帰国した。視察の目的は1将来の陸軍の編成、軍政の研究 部隊の演習の実地調査3最新の軍事知識の吸収4ドイツから陸軍大学の教官の1人派遣してもらうーことなどで、ドイツ参謀総長モルトケの推薦で参謀少佐クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル(42歳)を日本に招致することになった。
メッケル小佐は明治18年1月に来日した。この時の日本陸軍は歩兵十三旅団一連隊、騎兵二大隊、砲兵七連隊一砲隊,軽重兵六小隊、屯田兵一大隊一中隊、軍用電信二隊など総兵数はわずか三〇三四二人の劣弱な陸軍をでしかなかった。
これを、兵力百万を超え世界一の陸軍強国・ロシアと戦うことのできる日本陸軍に20年後に育て上げていくために、思い切ってドイツモルトケ戦略に切り替えたのが桂、川上の陸軍きっての俊英コンビで会った。
二人はいずれも少佐で36歳の同年齢であり、山県有朋、大山は若き2人に陸軍建設の将来を託し、調査研究の中心に据えた。旅行を通じて2人は肝胆相照らし、桂(後に大将、日露戦争時の内閣総理大臣)は陸軍軍政を担当し、川上(参謀総長)は国防作戦を担うことを話し合った。すでに桂太郎は明治3年8月からドイツに3年間留学、シュタインの「軍事行政論」などを勉強していた。
ドイツ視察で川上ははじめてモルトケに会い、ドイツ参謀本部の組織に驚嘆した。当時、日本では参謀部は陸軍省の一部にすぎず、内乱用だけであるかないかわからないような存在だった。
ドイツ参謀本部の組織は第一総務課、第二情報課、第三鉄道課、第四兵史課、第五地理統計課、第六測量課、第七図書課、第八図案課まできちんと整備され、常時、情報の収集と分析を怠らず、いざ戦争となれば百万の軍隊がたちどころに動員できる体制が整っていた。
近代軍隊の組織、動員、輸送、兵站の運用、機械化、標準化、システム化が整備されて、参謀総長をはじめ参謀、作戦のトップが急死、戦死した場合にも、スムースに引き継ぐマンパワー体制に備えていた。ナポレオン式ではなかった。
川上、桂はドイツ陸軍を徹底して分析することで、フランス側の猛反対を押し切ってドイツ方式に切り替えのである。
川上はヨーロッパから帰国すると少将に昇進、参謀次長になり、その後、新設の近衛第二旅団長になった。明治20年1月にドイツの軍事体制、モルトケ戦略を徹底して研究するよう乃木希典と2人でドイツ留学を命じられた。
明治天皇はドイツ皇帝(カイゼル)あてに「陛下から2人に恩遇を加えていただければ感謝します」のドイツ語の親書をことづけた。
川上はモルトケにあい正式に弟子入りと教えを請うた。モルトケはこの時、86歳だったが、30年以上も参謀総長の要職にあり、普仏戦争での大功労者、世界の軍事界の最高峰に君臨していた。一方、川上は38歳で、約50歳もの年齢差があり、まるでひ孫を相手に噛んで含めるように「参謀本部の組織は絶対秘密だが、極東の日本とドイツがまさか戦争することはあるまいから、例外として奥儀まで教えてあげよう」と受け入れた。
ワルデルゼ参謀次長が一緒に立ち合いモルトケのロからでる断片的な教訓を親切に注釈して解説してくれた。
「軍、ならびに軍首脳部は政治の党派や潮流から絶対に独立していることが必要じゃ。つまり、参謀本部は平時は陸軍省からもはなれたものにしておかねばならん、スペイン、フランス、イギリスでさえ軍行政が政治とからんで妨害を受けたことはなんどもある」
「時代がかわれば武器の優秀さや、兵力の多数をもって、わがドイツと競う国は出てくる。しかしな、兵を統帥する指揮将校の優秀さ、こればかりは、わしが今、仕込んでいるガイスト(精神)を忘れぬかぎり、永遠にドイツをしのぐ国はあり得ないのじゃ」「軍略などと言ってなにも特別に難しく考える必要はない。常識と円満こそ軍略の精髄である」
モルトケの指示で、川上は実際にドイツ参謀本部付となって勤務し、同参謀本部ロシア課の大尉から動員、準備、戦術、作戦の講義を実地に受けて、ドイツ陸軍の組織、訓練、情報活動の中身まで、その手の内を見せてくれた。
モルトケ自身からの講義は参謀本部総長控室で行われたが、その横窓からベルリン市動物園が見え、そこにドイツ戦勝記念碑が立っていた。
「あれこそ、わしのきたえたドイツ軍人精神のシムボルなのじゃ。日本にも、これが立つようでなくてはならん」
また時として川上は自宅に迎えられた。老元帥は、バラづくりを自慢にしていたが、極東からきた弟子をそのバラ園にまねいて、自ら手入れをしながら雑談的に講義することもあった。
いつも講義の最後に出る言葉は、「はじめに熟慮。おわりは断行」で、これがモルトケの要諦であった。歴史を好んだモルトケはいろいろな例証を上げ、後年、川上が統帥権の独立を明確に決めたのはモルトケの教示によってであった。
藩閥にとらわれず、優秀な人材を登用、抜擢した
川上は参謀本部の拡充のため、藩閥にとらわれず、すべて国家的見地にたって、優秀な人材を登用した。それまで山県をトップに薩長が牛耳っていた陸軍から藩閥に関係なく門戸を開放した。まずドイツ陸軍に留学し、「クラウゼヴイッツの戦略論」に通じていた田村怡与造(たむら いよぞう・山梨出身)を見込んで、自らの後継者にきめて引っ張った。川上の参謀役として日清戦争での『野外要務令』『兵站勤務令』などは田村が策定や、陸軍演習の作戦計画なども作った。
情報将校((スパイ)の重要性を最も痛感していたのは川上である。そのため、明治23年、議会の開設と共に、会計検査法がやかましくなって、参謀本部がその機密費を封じられた際は、川上は東京麹町三番町の自邸(旧・博文館の所有)を担保に入れて金を工面した。国を守るには情報こそ欠かせない。
孫子の兵法第一条の『敵を知り己を知れば、百戦危うからず』を実践するため、身銭を切ってまで部下を大陸、西欧まで派遣した。
川上はスパイを蔑視する西欧と違って、忍者、御庭番を諜報、情報役として重視してきた日本古来からの武道・軍略にも通じていた。川上の庇護によって、彼らは命も名も金もいらぬ、国家を守り、川上のためならばと単身、敵地に乗り込んでいった。明治天皇も川上を信頼し、情報の重要性をよく認識していた。
「シベリア単騎横断」の情報偵察を福島安正に指示
対ロシア戦に備えて「シベリア単騎横断」の情報偵察を福島安正に実行させたのも川上であり、わが国きっての、世界的に見ても飛びぬけた情報将校に育て上げた。
もともと福島は信州松本の人で、明治維新後、大学南校(東大の前身)で正式に洋学を習い通訳で陸軍に入った変わり種。彼は語学の天才で英、仏、独、ロシア、中国の五ヵ国語を自由にあやつった。福島の才能を見込んで藩閥を超えて川上が抜擢した。明治十八年、次長として参謀本部に入った川上は、ベトナムをめぐって清仏戦争が起こった際、北京公使館付武官であった福島大尉をインドに派遣した。
翌年、福島は詳細な調査報告を参謀本部に提出した。二十年、ドイツ公使館付武官として福島はベルリンに赴くが、川上もドイツに派遣されてベルリンに到着した。ここでモルトケに弟子入りして、モルトケ・クラウゼヴィッツの戦略を徹底して研究したのである。
川上はドイツに一年半もの間滞在したが、福島にロシアの東方進出の意図や進捗状況の情報収集を命じた。
この結果、福島は明治二十五年に日本へ帰国する途中に、破天荒な単騎シベリア横断旅行を決意し、その資金は川上がかけあって集めた。これは文字通り決死の冒険であり、ヨーロッパ各国、ロシアはもちろん「ヨーロッパ人さえできないのに、未開国の日本人がやれるはずわない」と鼻でせせら笑っていた。
福島は四百八十余日を費やしてマイナス30,40度にもなる極寒のシベリアを単騎で見事に成功し、翌年六月帰国し、世界をあっと言わせた。これは日本人のインテリジェンスの高さを世界に初めて示すケースとなった。
東条英教(東條英機の父)ほ、明治維新で賊軍仙台藩の出身で、陸軍大学一期生の成績トップ、メッケル少佐から「スエズ以東第一の軍事的頭脳の持ち主」ほめられた英才だったが、長州閥から疎んじられていた。川上は東條を特に抜擢した。また日露戦争で東条以上の作戦的実績をあげた松川敏胤(仙台出身)も引き上げた。宇垣一成(その後陸相、外相・岡山出身)も目をかけて、万一戦死しては惜しいと日清戦争に出征させず、自分の下においた。宇垣は周知のとおり、軍閥的地盤はまったく薄弱だった岡山出身だ。
日清、日露戦争で活躍した情報将校を一手に育てた
花田仲之助は、西南戦争に参加、政府軍に捕まり斬刑となるところを、川上が助けた。恩義を感じた花田は陸軍士官学校に入学し、軍人となった。日清戦争後の明治二十九年二月、川上から、重大使命を命じられ、まもなく行方不明となってしまった。
一介の雲水、「清水松月」になった花田は、翌年四月、西本願寺のシベリア別院の布教師となりウラジオストックにあらわれた。破れ衣に汚れけさをつけた松月は、ハバロフスクからイルクーツクなどシベリア各地、モンゴル、満州の吉林、長春から、ハルビン、奉天、大連、旅順など広汎な地域を飛びまわる布教活動を続けながら、シベリアでのロシアの政冶や軍事、経済的な動向、満州での鉄道、兵員、兵種へ兵器、兵備、施設についての調査研究して、参謀本部におくっていた。いよいよ日露戦争が始まると、花田は馬賊を指揮して「花大人」とよばれて、ロシア軍を撹乱するゲリラ隊長となった。
このように、川上は情報将校を、さかんに大陸にむけて派遣した。日清、日露戦争の裏面で活躍した情報将校で川上の息のかからなかったものはいないと言ってよい。
こうして日清、日露戦争で活躍する影の戦士たちを一手に養成した。このように福島安正、花田仲之助、田中義一、廣瀬武夫、青木宜純、山岡熊治(陸軍。高知県出身)、武藤真義、明石元二郎ら優秀な情報部員はすべて、川上の子飼いである。
明治25年当時の参謀次長、川上操六中将(当時43歳)の参謀本部をみてみると次のような陣容である。
第一局(動員、編成、制度等担当)―局長は初代・児玉源太郎大佐の後の大迫尚敏大佐(後の日露戦争で第七師団長として旅順二〇三高地奪取の戦功をたてた)。
その次の局長には寺内正毅(後の陸相)大佐が後任となる。
局員には田村恰与造(後に川上次長の後継者となる)、東条英教(東條英機の父)、山根武亮等を配置。
第二局(作戦、情報等担当)―局長は高橋維則大佐であり、部下局員には伊知地幸介少佐(駐独武官福島少佐の前任者)、柴五郎大尉と宇都宮太郎大尉(両名とも情報で後に大将となる)等の俊英参謀が配置されていた。
川上次長の特命で活躍した人材では福島安正少佐、上原勇作少佐―野津道貫中将の女婿。明治十四年以来、約五ヶ年仏国駐在、主として陸軍の技術(工兵)等の調査研究を行う。当時は川上次長の副官となる。明治二十六年フランス、タイ間の戦争で約三ヵ月現地偵察を命ぜられる。
宇都宮太郎大尉(宇都宮徳馬代議士の父)当初、川上次長の副官。明治二十六年にインドに派遣。
明石元二郎大尉―欧州、特にドイツに派遣。
各地の前線で活躍した人はーフランスでは池田正介中佐、ドイツは福島少佐の後任に大迫尚道少佐(前記尚敏大佐の弟、後に大将)ロシャは楠瀬幸彦少佐(後に陸軍大臣)、萩野末吉大尉、黒沢源三郎、伊藤圭一
インド、アフガニスタン、支那、朝鮮、シべリヤー松石安治大尉、津川謙光大尉、松浦鼎三大尉、橋本斉次郎中尉、仁平宣司中尉、石井忠利中尉四、特命でドイツ留学(何れも大尉)―松川敏胤(後に大将)、上原 博、恒青息道、大井菊太郎、林太郎、山本延身らである。
また極秘諜報従事者はー荒尾精と根津一が中支、特に漢口で活躍していた。
シベリヤで活躍中の工兵大尉・松浦鼎三は主としてウラジオで活躍し、丸山通と変名していたーなど、秘密諜報員として姿を変えて世界中で情報収集に当たり、縁の下の力持ちをしたのである。
これに民間の志士たち(玄洋社のメンバーや民権論者ら)を集めて支那の奥地にまで派遣して、踏査、諜報させて、来るべき戦争に備えた。
川上はモルトケのドイツ参謀本部をまねた
川上はモルトケのドイツ参謀本部をまねて陸軍参謀本部も作った。ドイツ参謀本部は総務謀のつぎが情報課の順序になっていたが、川上も情報課を充実し惜しげもなく金をつかって、外国情報を収集し、外務省以上に世界情勢に通じるようになった。モルトケは第四に兵史課をおいたが、川上も陸軍文庫に二万五千巻の書をあつめ、東西の戦史を十分研究させて出版した。その情報を外務省にも流し互に共有,協力した。その結果、川上と「カミソリ外相」陸奥宗光とはツーカーとなり、この2人が『日清戦争』必勝の強力コンビとなったのである。
ドイツ参謀本部が第三に鉄道課をおいていたが、戦争で肝心なのは兵站(へいたん ロジスティクス)である。特に近代戦の場合はこれがカギを握る。モルトケは大量の兵力、軍備、兵員の輸送、移動に近代技術の鉄道を重視したが、川上も輸送を重大視し、自ら全国鉄道会議の議長となって、広島まで山陽本線を延長して、東京からいち早く兵力の輸送ができるようにレールの延長を促進した。動員を敏速にする必要からである。
第五の地理統計と第六の測量は日本国内で努力したばかりでなく、支那と朝鮮で将来、戦場となるべきところを秘密裏に測量させ、二十万分一縮尺の地図をつくらせていた。
その上で、モルトケから教わった「調査、情報収集と同時に、自ら敵前視察して、相手と問答して、相手の力量を図る」先手必勝策を実行した。
日清戦争(明治27年7月)の約1年余前の明治二十六年3月から6月にかけて川上は実際に朝鮮、支那の状況を実地に見聞しようと、参謀本部員(伊知地幸介、田村怡与造、柴五郎等)数名を随えて朝鮮から南満州の要地をへて山海関を通り天津、北京に入り、上海をまわる3ヵ月間の偵察旅行を行った。
まず釜山に上陸、その地の朝鮮軍の司令官や知事に面会、兵士の訓練状況を視察した。ここに一週間滞在、京城に着いたのは四月二十八日、ここには十三日間いて、この間に公使大石正己の先導で国王に謁見、単なる表敬訪問であったが、宮廷の雰囲気は把握した。
その他、朝鮮軍の兵曹(大将)や清国公使の袁世凱とも懇談した。袁世凱これまで何人かの日本人や軍人とも会っているが、ただ一人、川上の人物とインテリジェンスには畏敬の念をもち、後日、李鴻章に書を送って「川上将軍は一世の人傑なり」と激賞した。
そのあと鴫緑江を小舟でわたり隠密裏に視察して、大孤山に上陸して、陸路、奉天にはいり営口にでて、北支那に入った。
この偵察旅行で、全支那に鉄道の全くひけていないのをみて、「清国の兵隊は数は多いが、足のない兵隊だから、いざという時に動けない、図体ばかりでかい清国軍はわが敵ではない」と必勝を確信した。
アーネスト・サトウ英国公使の川上評
予言通り『日清戦争』は川上のインテリジェンスの勝利となったが、次なる『日露戦争』について、川上はアーネスト・サトウ英国公使に「ロシアとの戦争には勝つ」と公言していたのには、あらためて川上の慧眼には驚く。
1895年(明治28)十一月七日にサトウは東京からソールズベリー(英国首相)宛に手紙を書いている。
『昨夜の晩餐会で参謀総長の川上(操六)陸軍中将に会いました。ロシアのことに話がおよぶと、彼はロシアは皆の考えているほど決して強くはないと言いました。ウラジオストクには三万人しかいないし、それも第一級の兵士ではない。シベリア鉄道が完成しても、本拠地からあれほど遠い距離を、補給線を延長して戦争を遂行できるのかどうか疑わしい。日本の艦隊は現在はもちろん劣勢であるが、いま英国で建造している戦艦2隻[富士と八島]が引き渡されれば、全く違ってくる。以上のように言いました。彼が今後十年間に日本はもっと強くなるとほのめかした口振りから、私は彼が再び戦争する前に待ったほうが良いという意見だと推測しました。しかし、もしロシアの海軍力が優勢だとしても、必要な場合は数時間で彼らを海峡から誘き出して、対馬を経て朝鮮へ軍隊を送り込むのは、いとも容易なことだと彼は言いました。朝鮮の海岸は対馬から見えているのです。
彼は東アジアで英国がその勢力を主張することが心配だと意見を述べました。』  
 
ルイ=エミール・ベルタン 

 

Louis-Emile Bertin (1840〜1924)
フランスの海軍技術者。日本海軍に招かれ、1886年から1890年の4年間来日して日本人技術者と船舶設計技師を育て上げ、近代的な軍艦を設計、建造し、海軍の施設・呉、佐世保工廠などを建造・指揮した。この間に彼が手がけたのは実に海防艦「松島」「橋立」「厳島」(通称「三景艦」)をはじめとする7隻の主力艦と22隻の水雷艇に及び、これらは日清戦争における日本艦隊の主力となった。帰国後は海軍機関学校校長、造機大将、海軍艦政本部部長を歴任、在任中にフランス海軍を世界2位の海軍に育て上げた。その功績を記念してフランス海軍にはエミール・ベルタンの名を冠した巡洋艦があった。  
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フランスの海軍技術者。当時最も有名な人物の一人で、ジューヌ・エコールの支持者だった。
ベルタンはフランス・ナンシーで1840年に生まれた。1858年にパリのエコール・ポリテクニークに入学し、海軍技術者(ジェニエ・マリタイム、Génie maritime「海の天才」の意味)の道を選んだ。ベルタンの手本はアンリ・デュピュイ・ド・ロームであった。ベルタンは従来の常識からしばしば逸脱したその革新的な設計で知られるようになり、艦艇設計技師の第一人者として国際的に認識されるようになった。また1871年には法律の博士号を取り、彼の多才な才能を示した。
日本での生活
1885年に日本政府はフランスの海軍技術者を説得し、1886年から1890年の4年間、日本海軍のお雇い外国人としてベルタンが来日した。ベルタンは日本人技術者と船舶設計技師を育て上げ、近代的な軍艦を設計・建造し、海軍の施設を建造した。45歳となっていたベルタンにとって、海軍の全てを設計し、ジューヌ・エコールを試す、並外れた機会となった。それはフランス政府にとっては日本の新たな工業化に影響力を持つイギリスとドイツに対する重要な一撃となった。
日本に在住している時に、ベルタンは7隻の主力艦と22隻の水雷艇を設計、建造し、それらは日本海軍創生期の核となる軍艦となった。これらの軍艦には松島型防護巡洋艦3隻が含まれている。この3隻は主砲が1門のみであるが非常に強力な32cmカネー砲を搭載した。そして1894年から翌年の日清戦争における日本艦隊の主力となった。また、呉と佐世保の工廠と佐世保造船廠の建設を指揮した。
しかしながら、ベルタンの日本時代は政治的陰謀によって苦しめられた時期でもある。日本政府内にはフランスよりイギリスかドイツを好む派閥があり、また徳川幕府を強く支持したフランスに対する不信感が未だにあった。ベルタンの地位が脅かされる危険が一度ならず訪れた。またベルタンが支持するジューヌ・エコールはまだ実証されておらず、日本海軍がギャンブルをしていたということもあった。
日本海軍を確立する彼の努力は1894年9月17日の黄海海戦での勝利への決定的な貢献となった。旗艦「松島」に乗艦していた日本軍提督の伊東祐亨はベルタンに以下の文面を送った。
「艦は私たちの望みの全てを満たした。それらは我々艦隊の恐るべき1隻だった。それらの強力な兵装と知的な設計によって、我々は中国の装甲艦に対して鮮やかな勝利を収めることができた。」)
エミール・ベルタンは1890年の終わりに明治天皇から旭日章を授与された。式典の間に海軍大臣・西郷従道(1843-1902)は以下の宣言をした。
「ベルタンは海防艦と一等巡洋艦建造のための設計を確立しただけではなく、いろいろな提案を行った。艦隊組織、沿岸防御、大口径砲の製造、鉄鋼や石炭などの材料の使用法などである。彼は4年間日本に滞在し、彼は海軍の技術革新のために決して仕事を止めなかった。そして彼の努力の結果は顕著である。」(東京、1890年1月23日)
日本滞在中に設計、建造された軍艦
防護巡洋艦3隻 - 4,278トンの「松島型防護巡洋艦」。「松島」と「厳島」がフランスの地中海鉄工造船所で建造され、「橋立」が横須賀で建造された。
小型巡洋艦2隻 - イギリスのトムソン社グラスゴー造船所で建造された2,439トンの「千代田」と横須賀で建造された1,609トンの「八重山」
軽巡洋艦1隻 - フランスのロワール社サン・ナゼール造船所で建造の「千島」
フリゲート1隻 - 横須賀で建造の1,774トンの「高雄」
水雷艇16隻 - 各54トンの「第五号型水雷艇」(14隻の内5隻がフランスのシュナイダー社クルーゾー造船所で建造され日本で組み立てられ、残り9隻は国内建造)と各54トンの「第十五号型水雷艇」(2隻の内1隻がフランスのノルマン社で建造され、残り1隻は国内建造)
その後
フランスへ帰国し、ベルタンは海軍機関学校(Ecole du Génie Maritime )の校長に昇進した。1895年に造機大将(ingénieur général )の地位を手に入れ、海軍艦政本部長(Directeur des Construction Navales )になった。部長に在任中のフランス海軍はトン数に換算して世界2位の海軍になった。フランスに戻ってヤサント・オーブ提督がジューヌ・エコール支持者と不和であることに皮肉にも気付き、設計者仲間のデザインを一度批判した。彼の批判は後の1915年に戦艦「ブーヴェ」の壊滅的な沈没で正当化された。1903年に有名なフランス学士院に入会した。
遺産
軽防御で砲力重視の巡洋艦というベルタンのコンセプトは1904年から1905年の日露戦争までに前弩級戦艦に追いつかれ、ジューヌ・エコールの概念は大いに疑われた。日本では松島型の総合的な性能に満足できなかった。フランスから日本に回航途中の「畝傍」が1886年12月に沈没した後、ベルタンの去った後の設計はフランスよりむしろイギリスの造船所に注文された。
日本でのベルタンの本当の遺産は一連の近代的な造船所、特に呉と佐世保工廠の建造だった。ちなみに日本で最初の近代工廠である横須賀海軍工廠は1865年により早くフランス人の技術者、レオンス・ヴェルニーによって作られた。第一次世界大戦においてフランスの要塞化艦隊のために12隻の駆逐艦が建造されたのがこれら日本の工廠である。
彼の死後に名誉を祝して、フランス海軍の軽巡洋艦に彼の名前、「エミール・ベルタン」がつけられた。彼はまた、ローリングとピッチングの研究のため、ツイン・オシログラフを発明した。 
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日本が明治以降、維新からそれほど年月が経過していないのに世界的な戦争に突入して行ったことを、かねがね不思議だと思っていたが、すべてフランスからのサポートがあると判った。日本陸軍は軍事顧問であったシャノワンヌ大尉やブリュネ中尉(顧問団総勢十五名が慶応三年一月に来日)たちの貢献により実力をつけていた。では日本海軍はどうだったのか?実は日本海軍を基本から叩き上げたのもやはり(初期には英国の海軍訓練もあったが)フランス人であった。日本人留学生にシェルブールの海軍造船学校で指導したのはフランス海軍の軍人ベルタンという人物であった。ベルタンは1886年来日後、海軍の軍艦の設計を手がけ八重山(1800トン、21ノット)高雄(以下重量等省略)橋立、厳島、松島、千代田などをフランスから部品を取り寄せて完成させた。
ベルタンはいかなる人物であったのか? 技師・発明家でもあるベルタン、ルイ・エミール・ベルタンは1840年3月23日、ピエール・ジュリアン・ベルタン とアンヌ・フレデリック・デルミエの息子としてナンシー(ムルトエ・モゼール県)で生まれ、青少年期 をそこで過ごす。18歳でパリの理工科学校(エコール・ポリテクニック)に合格、同校を卒業して海軍造 船学校に進む。
1860年から1862年までパリの海軍造船応用学校の学生技師となり、次いでシェルブール軍 港に配属され1881年までそこで過ごし、途中当地を離れたのは研究のためのイギリス派遣(1879年)と数 度の艦上勤務時のみで、それ以外の20年近くをこの軍港で過ごしている。この間の彼の活動には目覚しい ものがある。ベルタンはいくつもの艦船の建造を監督し、さまざまな船舶の設計に加わり、数々の学術論 文の執筆にたずさわる。それらの論文のいくつかは科学アカデミーから賞を授与されている(船舶の換気 装置の改良に対して1864年プリュメ賞)。なかでも後に広く一般に受け入れられ規範理論となったものに、 海の動き、うねり、船舶の横揺れの法則、非装甲艦の戦闘防御、隔壁、船舶の安定性等についての論文がある。またベルタンは二重オシログラフと平行竜骨の発明者でもある。1870年の普仏戦争の際、彼はシェルブー ルに大砲の生産設備を整え、カランタン戦線の防御を確立した。
1875年、彼は座礁したイギリス大型客船 「パスカル」を離礁させて注目を浴びる。シェルブール海軍造船学校ではいくつかの教科を担当し、ヴェ ルニーとティボーデイエによって横須賀から送られて来た日本人学生、桜井省三、辰巳一(た つみはじめ)(1857−1931)、若山鉉吉(わかやまげんきち)(1856−1899)らを指導している。趣味として彼は1869年に法学の学士号を取得後、1877年、カーン大学で「不動産の占有」と題する法学博士論文 の審査を受け、見事な成績で合格する。
1881年、ベルタンはブレストの海軍造船所技師に任命され、そこ で軍艦の船体の建造技法をいくつか完成ざせ注目を浴びる。その技法とは海中爆発に対する軍艦の強度を 高める「防水区画」による保護システムで、すでに13世紀頃から中国人たちによって用いられていた方式 である。この方式の原理と応用はその後すべての軍艦によって採用されることになる(1896年には、220隻 の軍艦がこの方式を用いている)。ベルタンは自ら設計した巡洋艦「スファックス」においてこの新技術 を試し成功をおさめる。また高速巡洋艦「ミラノ」を建造させ、当時の速度の世界記録を樹立している。
ベルタンは1886年に日本に派遣され、1890年に帰国すると一等技師としてツーロンに着任する。次いで艦 船建造の総監督技師としてロシュフォールに、さらに海軍造船応用学校の校長としてパリに赴任、パリで は機関とボイラーの講義を行っている。そして最後に、海軍省の機材局長兼艦船建造技術部門の長となり、1895年から1905年までの10年間これらの職を全うした。
彼は1914年以前の艦船建造計画において数多くの 戦艦と巡洋艦(パトリー(祖国)型の戦艦「アンリ四世」、ジャンヌ・ダルク型の巡洋艦数隻)の設計を 行っている。海軍技師の職にあった期間を通して、ベルタンは120隻の軍艦の設計図を作成することとなる。その中には1892年の14,000トン装甲艦1隻と2隻のイタリア軍艦、「イタリア」と「レバント」が含まれ ている。長い論争の末に彼は小菅ボイラーを認めさせ、また彼が長年推奨してきた防水区画システムを海 軍に採用させることに成功する。
彼の理論科学の業績に対し1903年に科学アカデミーの扉が開かれ、彼は地理および航海部門の会員となる。世界的に高名な学者として彼は研究を続け、数多くの論文を完成させる。それらは機関とボイラー、流体 力学、魚雷などに関するもので、その総数は40件以上に及ぶ。最後に、彼は船舶運動性能の科学的研究の 基礎を築き、模型による研究を行うための試験水槽の創設を認めさせる。
ベルタンは1905年3月に退役を許され、私人として以前に劣らず活動的な第二の人生を送る。その後の20年 間を個人的な仕事や外国旅行、海軍の宣伝普及のための講演会にいそしみ、数多くの連盟(リーグ・フラン セーズの設立者・会長)や、愛国的、科学的あるいは慈善的な協会の会長職を務める。
また1907年、委員長 としてボルドーの海洋博物展を組織した。その後、パリ日仏協会の創設者の一人であり、1903年から1924年 まで会長を務めている。1922年には科学アカデミーの会長に選出され、1924年10月22日、シェルブール(マ ンシュ県)近郊に位置するラ・グラスリーの自宅で亡くなるまでその地位にあった。
この技師・発明家を記 念して、1933年5月9日に進水し1935年5月17日フランス海軍に就役した6,000トンのフランス巡洋艦は「エミ ール・ベルタン」と命名された。
 
エドゥアルド・スエンソン 

 

Edouard Suenson (1842〜1921)
デンマーク生まれのフランス海軍士官、デンマーク海軍大臣副官を経て大北電信会社社長。フランス公使ロッシュ付添武官として王政復古直前に来日した。ロッシュの近辺で見聞した貴重な体験を日記に綴った。将軍慶喜との謁見の模様やその舞台裏、横浜の大火、テロに対する緊迫した町の様子、また、日本人の風呂好き・日本女性の接客など悪習や弱点までも指摘している。 
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デンマーク海軍の軍人で幕末の日本に滞在し、明治4年(1871年)には大北電信会社の責任者として再来日し、日本最初の海底ケーブルを敷設した。
スエンソンは1842年7月26日、コペンハーゲンで生まれた。同名の父は、デンマーク海軍の中将で、ヘルゴラント海戦でのデンマークの戦術的勝利に導いている。スエンソンは1855年に、父が校長を務める海軍兵学校に入学、1861年には少尉に任官した。その後フランス海軍に出向し、1866年8月10日(慶応2年7月1日)、フランス海軍の一員として横浜に到着した。同年11月には朝鮮の江華島攻撃(丙寅洋擾)に参加し、負傷している。翌1867年5月1日(慶応3年3月27日)には、フランス公使レオン・ロッシュが徳川慶喜に謁見する際に陪席した。1867年7月に日本を離れた。
帰国後はデンマーク海軍に復帰し、1868年には中尉とった。1870年には海軍大臣ヴァルデマール・ルドルフ・フォン・ロースリョフ(Valdemar Rudolph von Raasløff)の副官となった。
1869年6月にコペンハーゲンで国際通信社を目指して大北電信会社が創業された。翌1870年には子会社の大北中日電信会社が設立され、中国と日本への海底ケーブルの敷設を目指した。創業者のカール・フレデリック・ティットゲン(Carl Frederik Tietgen)は、ロースリョフを介してスエンソンを説得し、海軍省より休暇をとらせて、大北電信会社の責任者として日本に派遣した。1871年8月、上海・長崎間の海底ケーブルが開通、8月末には長崎・ウラジオストク間の海底ケーブルが開通した。シベリアでの工事がやや遅れたものの、1872年1月1日には、日本はヨーロッパと電信線で直結された。なお、この時点では日本国内の電信網が長崎まで達しておらず、ヨーロッパの情報は長崎までは一瞬で届くものの、東京まで達するにはなお数日を要した。
スエンセンは1873年に部長、1874年に常務、1877年には社長に昇進し、1908年までその職にあった。
明治政府はスエンセンの功績を称え、1883年に勲三等旭日中綬章、1891年には勲二等瑞宝章を贈っている。
1921年9月21日没。  
スエンソンが見た横浜
慶応2年7月1日(1866年8月10日)、フランス海軍士官のエドゥアルド・スエンソンは横浜に上陸しました。この頃の横浜は開港して7年が経っていました。
「 海から見ると横浜は完全にヨーロッパの町である。小さな庭と花壇に囲まれた美しい住宅の列がこちらの丘から向こうの町まで続いている 」
既にヨーロッパ風の建物が建ち並んでいました。明治になって日本を訪れた旅行家のイザベラ・バードは「横浜はどのようにも印象的ではありませんでした。このような混成の都市は少しも心に残りなどしません。山手はボストン郊外、海岸線はバーゲンヘッド郊外の亜熱帯の幻想を足したようなもので・・・」と酷評していますが、スエンソンは気に入ったようです。スエンソンはそれまでベトナムに滞在し、病気になり、「コーチシナ(ベトナム)の焼け付くような太陽とドナイ河の毒々しい悪臭が、日本の森の木陰と爽やかな潮風と入れ替わってくれるよう、全身全霊で願っていたのだった」と、こういう思いで日本に上陸したからかもしれません。
「 祖国と家族から遠くはなれて使命を果たすのが普通な英仏の軍人は、この美しい国日本、陽気で親切な住民に立ち交じって暮らすのが幸せで、充分に満足している。日本の和やかな空の下、微笑む自然の懐に包まれて彼等は重労働を忘れ、厳しい船員生活と不健康な熱帯の気候がもたらした数々の病や傷をいやしているのである 」
この頃の横浜には英仏の駐屯軍が居ました。なぜ外国の軍隊が横浜にいたかというと、攘夷派による外国人襲撃のほか、薩英戦争や下関戦争といった不安があり、江戸幕府は駐留を認めざるを得なかったのです。
「 横浜で住み心地のよい所を選べといわれたら、お山を選ぶしかあるまい。すでに詳しく描写した本館には士官たちの集会所がある。その窓の下を、町の西洋人のほとんどが、毎日のように丘の反対側にある景観、ミシシッピの谷へ向かって通り過ぎていった 」
お山というのは今のフランス山のことです。つまり「港が見える丘公園」周辺一帯のことです。このあたりにイギリス、フランスの駐屯地がありました。「ミシシッピ」と言っているのは根岸湾のことです。
「 次々と変化するものの、その実単調なこの暇つぶしに飽きたなら、狭い部屋を後にしてお山の坂を駆け上がれば良い。その山腹は日本の庭園術によって魅惑的な公園に作り変えられており、木陰も暗く密生した木立もあれば・・・お山の頂上にたどり着くと・・・そこからは、稲田を前方に、雪におおわれた雄大な富士山を背後に控えた横浜の絶景が眺望できた。さらに、のっぺりした神奈川の海岸がだんだん高まって岩におおわれた山になり、その遠方が青みを帯びたベールに隠されているさま、また一方には、埠頭や浦賀水道、広々とした江戸湾には、日の光に輝く帆は垂れて・・・」
現在のフランス山は庭園が復元されています。スエンソンのいうほど密生した木立はありませんが、名残は感じられます。「港が見える丘公園」から港は見えますが、建物が邪魔で優れた景観とはいえません。夜景はすばらしいでしょうが・・・
「 この平和でしかも生き生きとしたパノラマに我を忘れることが何度あろうとも、目や頭が疲れたりすることなど決してなかった。視線は日に日に見るべき美観を新たに発見し、日がたつにつれてますますこの景勝から離れがたくなるのであった 」
嗚呼、車などの雑音もなく、自然の音と遠く響く船の汽笛だけ聞こえる中で自然の大パノラマを観賞できる場所が横浜にはあったのですね。新文明を取り入れるためとはいえ、失われたことは実に惜しい。
スエンソンはとにかく精力的に日本見聞を行っています。また、大阪で大君(将軍・徳川慶喜)に謁見できるというラッキーぶりを発揮しています。そして1年の滞在を終えて帰国しました。スエンソンはデンマーク生まれであり、帰国するとコペンハーゲン刊行の「フラ・アレ・ランデ」誌に日本訪問記を<日本素描>と題して連載し、デンマーク国民の対日関心の高まりに応えました。そしてその後も通信事業で日本に関わることになります。  
江戸幕末滞在記
1866年日本では薩長が同盟を結び、翌年1867年は大政奉還が行われた。そんな幕末の動乱期にデンマーク人であるエドゥアルド・ スエンソンはフランス海軍士官(デンマーク海軍からフランスに海軍に修行に出るのが当時の出世の道だったようだ)として1年間日本を 見聞した。青年士官が見た当時の日本人の様子はどのようなものに映ったのだろう。意外にもその内容からは、庶民の切迫した様子もなく 日々の生活を楽しむいつもの日常の姿が多い。
当時と言えども日本人の庶民の生活もそれなりに豊かで表情も明るく、暗さや悲惨さを伝える描写はない。江戸幕府を支援したフランスな ので徳川慶喜との謁見さえも、この24歳の青年士官は、その随行員の一人として果たしている。そんな彼の当時の日本の将軍から庶民に 至るまでの観察には興味が尽きない。その後も、日本とは電信の部門で関係を持ち続け、1921年79歳で亡くなるまで日本との縁の切 れることのない生涯だったようだ。
不満は日本政府だけ
目下のところはヨーロッパ勢力の影響が日本の地に浸透しているにしろ、かなりの規模の軍隊の駐在はまだ当分の間必要だろうと思う。こ れに不満を抱いているのは日本政府だけである。祖国と家族から遠く離れて使命を果たすのが普通な英仏の軍人は、この美しい国日本、陽 気で親切な住民に立ち交じって暮らすのが幸せで、充分に満足している。日本の和やかな空の下、微笑む自然の懐に包まれて彼らは重労働 を忘れ、厳しい船員生活と不健康な熱帯の気候がもたらした数々の病や傷をいやしているのである。
執事は中国人・・・だけど
日本人はこと給仕に関してはまったくお粗末であり、その点、中国人ははるかに優秀で、裕福な家では必ずといって良いほど、執事を勤め る中国人が一人いた。買弁(ばいべん)という名で呼ばれて家中の一切を取り仕切り、使用人たちを指図した。こういった中国人は、ずる 賢こそうな顔を浮かべ「可哀想な日本人たち」を軽蔑の目で見下げ、奸知と抜け目のなさでもって主人に自分を不可欠の存在にしてしまう のである。その狡智、計算高さ、商売上手において日本人などは足許にも及ばない。
けれども日本人は、こうした性質の不在を、正直と率直、疲れを知らぬ我慢強さで補っている。中国人は、見かけこそ整って賢そうな顔を していても、厭わしい印象を与えるのが普通だが、その点日本人は、ちょっと見には醜く、彫りの深い顔をしていても、外国人には好感を 与えるのである。
接客婦
日本女性はシナの女性と比べて、作法や習慣がひどく違っている。シナの女性は外国人の顔を見ると、すぐに逃げ出すのが常識になってい る。日本女性はこれに反して、我々に対して、いささかも疑惑や恐れを見せない。彼女らは茶屋に笑顔でやって来て、客の周りに群がり、 客の洋服に触ったり、平気で握手する。彼女達の作法はシナ人よりはずっと自由であるとはいえ、私は、彼女達の行儀が、海の向こうの内 気な姉妹よりも劣っているとは思わない。
日本家屋と障子
あらゆる方面で発達している日本人の美的センスは、どんな種類の塗料、ラッカーよりも白木の自然な色を好むのである。新しい家は紙( 障子)と白さを競い合い、古い家は樫の木のような艶を帯びて、こちらの美しさも捨てがたい。外観も内部も、日本の家は人形の家のよう で、店で売っている小さくて洒落たスイスの田舎家を思わせる。
長靴で汚してしまいはしないか、重い体でつぶしはしないか、頭をぶつけて家をこわしてしまいはしないかと心配で、入るのがためらわれ る。突き出た屋根はそれほど低くて屈まなければ入れないし、床を地面から1、2フィート高くしている。家の正面と裏側には、家の幅だ け小さなベランダ(縁側)がついており、通りで何か好奇心を湧かせるようなことが起きると、家の住人はたいていここに集まってながめ るのである。
まずベランダに上がり、それから家の内部に入る。中には大小さまざまな四角い部屋から成っており、引き戸(襖)で仕切ってある。この 引き戸は移動することも取り払うことも好きなようにでき、住人は一日のうちいつでも思いのままに部屋の数、大きさ、形を変えることが 出来る。
日本人は天真爛漫
日本人の家庭生活はほとんどいつでも戸を開け広げたままで展開される。寒さのために家中閉め切らざる得ないときは除いて、戸も窓も、 風通しをよくするために全開される。通りすがりの者が好奇心の目を向けようとも、それをさえぎるものは何一つない。日常生活の細部に いたるまで観察の対象にならないものはなく、というよりむしろ、日本人は何ひとつ隠そうとせず、自前の天真爛漫さでもって、欧米人な らできるだけ人の目を避けようとする行為でさえ、他人の目にさらしてはばからない。
どこかの家の前で朝から晩まで立ちつくしていれば、その中に住んでいる家族の暮らしぶりを正確につかむことができる。隣の家でもまっ たく同じことをしているので、下層階級の家の中の様子、習慣、朝はおかみさんがふとんをたたんで押入れに入れる瞬間から、夜また同じ 布団を広げて横になるまでの毎日の暮らしぶりをはっきりつかもうと思ったら、これほどたやすいことはない。
お客に行ったり来られたり、おしゃべりもする、煙草も吸う、お茶を飲んだり食事をしたり、夫婦喧嘩をはじめ、ほかのありとあらゆる葛 藤の場面が見てとれる。その滑稽さに、観察者の興味が長いこと釘付けにされてしまうこともしばしばだが、喧嘩をしている当人たちは、 観察者の存在など一向に気にしない様子だった。
同じことは、鏡台の前に座って肌を脱ぎ胸をはだけて細部にいたるまで念入りに化粧をしている女たちにもいえる。全神経を集中させてし ているから化粧から一瞬目をそらせ、たまに視線が通りすがりの西洋人の探るような目に出合ったとしても、頬を染めたりすることはない。
大衆食堂と屋台
大衆食堂では娘たちが何人も働いていて、煮物や揚げ物の給仕をしたりで忙しい。少し年のいった女性が監督で、陽気すぎる娘たちを制し 、若い男たちとおしゃべりしたりふざけたりするのを止めさせようとしているが、一向に利き目がない。
通りにはひっきりなしに屋台の食べ物屋が行き交っている。屋台は四角い木の箱二個で出来ていて、前面の方に板(俎板)があって主人が その後ろに立ち、屋台全体を紙の衝立がおおっている。箱の一つには炭火と炭が、もう一つには卵、ご飯、カニ、魚などの材料が入ってい る。真ん中の板には料理の逸品が並べてあり、どれも清潔で見事にこしらえていて、思わず食指を動かされる。中でも魚のケーキ(握り鮨 )はなんともいえぬほどに見た目に美しく、魅了させられてしまう。
日本人の外観・・と
一見したところ日本人は、好ましい外観をしているとはとてもいえない。狭い額、突き出た頬骨、ぺしゃんこの鼻、おかしな位置について いる両の目は、いやな印象を与えかねない。ところがそれも、栗色に輝く瞳から伝わってくる知性、顔の表情全体からにじみ出てくる善良 さと陽気さに接して思わず抱いてしまう共感によって、たちまちのうちに吹き飛ばされてしまうのである。
男たちは一般に背が低い。下層の労働者階級はがっしりと逞しい体格をしているが、力仕事をして筋肉を発達させることのない上層階級の 男はやせていて、往々にして貧弱である。肌の色は、大部分はわれわれ北欧人と同じくらい色白といってよく、概して醜い大多数の中、少 数の例外は気高く人品の良さそうな顔つきをしているので、コーカサス(白色)の人種の血が混じっているのではないかと疑われるほどで ある。
青年士官の日本人論
私はかって、まだ年若い青年が、大名やゴロジョー(御老中)と、同僚や自分と同じ身分の者と話すのと同じ率直で開けっ広げな会話をす る場面に居合わせたことがある。青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方、自己の尊厳を主張することも教えられているのである。
特権階級に属する人々に自尊心をもたらす要因のひとつは、彼らが日本社会に占めている地位、身分であろう。それは西欧の大半の国々に おいて中世に貴族が占めていた地位に匹敵する。こうした社会秩序、ならびに諸階級の間で非常に良く発達した独立心は、日本人がなぜ中 国人やほかのアジアの民族よりすぐれているかを説明して余りある。
後者においては唯一者の意志しか聞かれないし、それに対して自分の意見を述べるような大胆な真似をする者はいない。日本という国は、 その構成員がたとえどんなに抑圧されているにしろ、誰であろうと他人にやすやすと屈服するようなことはない。彼らが文句なしに認める 唯一のもの、大君から大名、乞食から日雇いに至るまで共通なその唯一のもの、それは法である。
日本人の勇猛さと祖国愛
日本人の勇猛さには疑問の余地はない。自ら軍事国家と呼んでいるくらいで、幼少の時から戦争道具を生きる道に選び、刀と弓、この国固 有の二つの武器の使用法を教えられる。弓はほかの弓と変わりはないが、ただ、刀については大きさが尋常ではなく、使いこなすのに熟練 がいる。
日本人は圧倒的に優勢な西洋の武力に対して下関海峡や鹿児島で戦いを挑むという暴挙を敢えてし、狂信的な憂国の志士たちによって炎と 燃え上がった勇気が決して侮るべきではないことを、戦力の上で遥かに勝る敵に証明してみせたのだった。熱く燃える祖国愛はこの国の最 高の徳のひとつで、それは、これまで外国との交渉をすっかり絶たれてきていながら、この地上での幸福と安楽をもたらすべく、あらゆる 条件を自国で満たすことのできた日本の国民の間では、ごく自然に受け取られている。
商人国家は精神が貧しくなり国が滅びる。日本は武人国家・軍事国家であるからこそ、独立を守り誇りある精神の継承があったのだ。今は すっかり商人国家に成り下がった日本と日本人になってしまった。
日本人の風呂好きと混浴
日本人の清潔好きはオランダ人よりはるかに発達していて、これは家屋だけではなく、人物一般についてもいえるのである。仕事が終わる と公衆浴場に行かないと一日が終わらない。公衆浴場で何時間も湯を浴び、下着を洗って、おしゃべりの欲求も満足させる。
男女の浴槽は、麻縄が境界線として使われているが、男女を隔てるのに衝立はない。男も女もおたがいの視線にさらされているが、恥らっ たり抵抗を感じたりすることなど少しもない。西洋人から見た場合、女性の慎み深さを欠いている具合は並大抵ではない。とはいえ、それ は本当に倫理的な意味での不道徳というより、むしろごく自然な稚拙さによる、自然から与えられたものを隠す理由が何もないからなので あるのだろう。
私見では、男女の混浴が慎み深さを欠いているという非難があるなら、むしろ、それら裸体の光景を避けるかわりにしげしげと見に通って 行き、野卑な視線で眺めては、これはみだらだ、叱責すべきだと恥知らずにも非難している外国人の方に向けられるべきであると思う
日本人が感じた西洋人の不潔な一面
西洋人と日本人、この異民族間の習慣の相違を比較してみれば、欠点の例など数えきれないほど出てくるのだろう。ここではひとつだけ例 をあげておく。日本人はわれわれを不潔だといって非難し、その証拠のひとつとしてハンカチの使い方あげてくる。日本人が鼻をかむとき はその目的にかなった小さな紙片を使用し、使用後はただちに捨てる。
それに反し、我々西洋人は一日中不潔なハンカチをポケットに入れて持ち歩く。それがどうしてもわからぬと日本人は言うのである。確か にその言い分には一理あるのは否めない。
日本人は健康そのもの
小さな村落に、ぽつんと立った農家が華やかな色に輝く畠のあちこちに点在していた。男も女も子供らも野良仕事に精を出し、近づいて行 くと陽気に「オヘイヨ」(おはよう)と挨拶してくる。町と同じくここでも家は人形の家のようだが、柱は光沢を放ち、紙(障子)も白く 輝いている。住民は健康そのもの、満足な様子がまぶしいほどに見えた。快活さが一目でわかる表情で、老若を問わずわれわれに話しかけ てきて、一番見晴らしの良い散歩道を指し示してくれたり、花咲く椿の茂みを抜けて半分崩れかかっている謎めいたお堂に案内してくれた りする。
日本の職人のレベル
ひょっとすると日本人の職人の方が西欧人より優秀かも知れなかった。日本のもよりはるかにすぐれている西欧の道具の使い方をすぐに覚 え、機械類に関する知識も簡単に手に入れて、手順を教えてもその単なる真似事で満足せず、自力でどんどんその先の仕事をやってのける 。日本人の職人がすでに何人も機械工場で立派な仕事をしていた。
大阪湾からの眺め
町は海岸からずっと離れているために海上からは見えない。晴天の時だけ大君の要塞(大阪城)の白い壁と、町の高台に建てられた寺の大 きな塔がやっと見えるくらいである。投錨地は決して美しいとはいえない。単色の水田が広がって、海岸線にまで達しており、木と呼べそ うなものの一本とてない。そこにある漁村も注目に価するものではなく、はるかかなたで大阪平野を取り囲んでいる山脈も、裸で寂漠とし ているために目をそらしたくなる。
日本には盲目が多い
貧しい僧侶のうち、一部の者は盲目である。不幸にも目の見えない者が日本にはあふれており、自ら選んで目を使えなくしたのかと思われ るほどである。
徳川慶喜との謁見
大君ウエサマ(徳川慶喜)は体格が良く、年は33歳(30歳)ぐらい、顔立ちも整って美しく、少し曲がっているが鼻筋が通り、小さな 口にきれいな歯、憂愁の影が少し差した知的な茶色の目をして、肌も健康そうに日焼けしていた。普通の日本人によくあるような目尻が上 がっていたり頬骨が出ていたりせず、深刻な表情をしていることの多い顔が、時折人好きのする微笑で生き生きとほころびた。
頭の中央は例によって剃り上げてあり、後部の髪を束ねて丁髷にしてあった。中背以下であったが堂々とした体格で、その姿勢も充分に威 厳があり、声が優しく快かった。まさに非の打ちどころなのない国王、という印象であった。衣装も色も形も他の者と同じくきわめて質実 で、生地の贅沢さばかりが目立っていた。
我々に歓迎の辞を述べた後、大君はいろいろな問題について話しを始めたが、中でも朝鮮遠征は大君もたいへん興味を抱いていたようで、 特に朝鮮人がどんな武器を使って我々に応戦したかを知りたがった。それから提督に、装甲艦や軍艦の大砲について、陸上の砲台における 鉄板の使用等、軍事に関する質問を浴びせかけ、自らも詳しい知識をもっていることを明らかにして我々を非常に驚かせた。
この時の対話から、大君が、外国の攻撃から日本を守るというより、大名の中で軍事的に優越している者たちに対抗するために武器を購入 するつもりであること、国中団結した強大な日本を自ら指揮下に治めるべく、少なくともフランスの精神的援助を期待していることが明白 になった。

18767年(慶応三年三月二十七日の内謁見と翌日の公式謁見)でのことである。幕府支持のフランス。レオン・ロッシュ公使と徳川慶 喜の謁見の際に陪席の機会を得た24歳の青年士官が見た6歳年上の徳川慶喜の印象には、興味深い。江戸最後の将軍は、堂々たる様子で なかなかの威厳があったようだ。その会話には、長州・薩摩などなどの脅威を感じ、それに備えようとする江戸幕府の思いがひしひしと伝 わってくる。しかし、それは大政奉還(慶応三年十月十四日)まで、たった半年前のことであった・・・。
 
ピエル・ロチ (ピエール・ロティ) 

 

Pierre Loti (1850〜1923)
南フランス・ロッシュフォール出身。本名ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー。本業は海軍大佐で世界中を旅し、『氷島の漁夫』など多くの著作で世界的にも有名な作家だった。1885年、修理のため長崎に停泊した巡洋艦ラ・トリオンファント号の乗員として来日。中国に立つまで約2ヶ月の間長崎に滞在し、周旋人を通して17歳のおかねという少女と月20ピアストル(約40円)で愛人関係を結び、十人町の家を借りて1ヵ月ほど共に暮らした。その経験を後に『お菊さん Madame Chrysantheme』という小説に書き、フィガロ紙に1887年に発表した。日本の自然や生活様式などを異国情緒たっぷりにリアルに描いたこの作品は、また従順で大人しい日本女性のイメージが強く印象づけられている。これは多くの欧米人を刺激し、フランスのジャポニズムにも大きな影響を与えた。アメリカのジョン・ルーサー・ロングはこの日本人女性の話を長崎にいた姉から聞き、短編小説にした。これらがプッチーニのオペラ『蝶々夫人』の原型になった。大津事件で殺されかけたロシアの皇太子はこの『お菊さん』の愛読者だった。それにしてもロチの描く日本人女性の姿はひどく、意思も感情も表情もない。また日本を「遅れた野蛮な国」のように描写している。1900年には2回目の来日を果たし、後日談として『お梅さんの三度目の春』という小説を書いた。長崎公園にはロチの碑がある。  
2
フランスの作家。本名はルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie-Julien Viaud)。フランス海軍士官として世界各地を回り、その航海中に訪れた土地を題材にした小説や紀行文、また、当地の女性との恋愛体験をもとにしたロマンチック小説を多く書き残した。
フランスのシャラント=マリティーム県ロシュフォールにて、プロテスタントの一家に生まれた。1866年、市役所の会計課主任だった父ジャン=テオドール・ヴィオーが、課から多額の株券が紛失した責任を取らされ(犯人は不明)、入獄して失職。一家は収入の道を絶たれ、17歳のとき、学費のかからないブレストの海軍学校に入学。ルボルダにて学んだ。海軍入隊後、1906年に大佐となった。1910年には予備軍に名を連ねた。
彼の筆名は、彼が若い頃とても恥ずかしがりで、無口だったことに由来すると言われている。この説によれば、彼はこうした性格のために、同僚たちから「ル・ロティ」(人知れず恋をするというインドの花)にちなんでそう呼ばれていたのだという。しかし学者たちは別の説を掲げている。こちらによると、彼はタヒチでそう呼ばれたのだという。タヒチで彼は日に焼けて、「Roti」と呼ばれた(というのは、地元の花のように真っ赤だったから)が、彼は「r」がうまく発音できなかったので「Loti」にした、というのである。彼には、自分は本なんて読んだことがないと言い張る癖があった(アカデミー・フランセーズの会員になった際にも「Loti ne sait pas lire(ロティは読む方法を知らない)」と発言している)。しかし友人たちや知人たちは、それが事実でないことを証言している。また彼の蔵書からも同様のことが分かる。多くの書物がロシュフォールの彼の家に残されているからである。
1876年、仲間の海軍将校たちは、彼が日記に書いたイスタンブールでの面白い体験のくだりを小説にしろと勧めた。それで書かれたのが『アジヤデ』である。この小説は、ロティの作品によく見られるように半分ロマンスで半分自伝である。彼は海軍演習で南方の海洋へ進み、タヒチを去った数年後、はじめ『ララフ』(1880年)という名でポリネシアの牧歌的生活を作品にして出版した。これは『ロティの結婚』として再出版され、彼を広く世に知らしめた最初の本となった。続く作品が『アフリカ騎兵』(1881年)で、これはセネガルでの一兵士の物悲しい冒険の記録である。
1882年、ロティは4つの小品(3つの物語と1つの旅行記)を集め、『倦怠の華(Fleurs d'ennui)』という総題をつけて出版した。
1883年、彼はより広く世間の注目を浴びた。その一つ目。彼は熱狂的な喝采を浴びた『私の兄弟イヴ(Mon frere Yves)』を出版した。これはフランス人の海軍士官(ピエール・ロティ)とブルターニュ人の水夫(イヴ・ケルマディック)の人生を描いた小説である。エドマンド・ゴスはこれを「彼の最も特徴的な作品のひとつ」と評している。二つ目。海軍士官として甲鉄艦アタラント号に搭乗し、ベトナム北部のトンキンで任務についている間に、ロティは3つの記事をフィガロ紙に発表した。1883年の9月から10月のことである。この記事はトゥアンアンの戦いで見られた残虐性についての報告だった。この行動によって軍から職務を停止すると脅され、これにより彼はより広く世間から注目された。
1886年、ロティはブルターニュの漁師たちの人生を描いた小説『氷島の漁夫』を出版した。エドマンド・ゴスはこの小説を「彼の全著作の中で最も有名で最もすばらしい作品」と評している。
日本
ロティは1885年と1900〜1901年の二度にわたり来日。1885年の来日時には鹿鳴館のパーティにも参加した。そのときの見聞を「江戸の舞踏会」(短編集『秋の日本』に収録)に綴っているが、この中でロティはダンスを踊る日本人を、「しとやかに伏せた睫毛の下で左右に動かしている、巴旦杏のようにつり上がった眼をした、大そうまるくて平べったい、小っぽけな顔」「個性的な独創がなく、ただ自動人形のように踊るだけ」と表現した。このほかにも日本を題材とした小説として『お菊さん』『お梅が三度目の春』といった作品を残している。『お菊さん』は、西欧人が日本に対して抱くイメージに、一時期大きな影響を与え、ラフカディオ・ハーンの来日に一役を演じたり、日本に憧れていたフィンセント・ファン・ゴッホは専らこの作品から日本人の生活についての情報を得ていたという。『お菊さん』の冒頭にも日本人について「何と醜く、卑しく、また何とグロテスクなことだろう!」という一節があり、ロティは日本人に対して蔑視の念を抱いていたという評価もある。
ロティは、1885年8月7日付けの、長崎から姪に当てた手紙の中で、「私は相変らず退屈している。この国に関心を持つため、できることはなんでもしているんだが、だめだ。なにもかも私をうんざりさせる」(『ピエル・ロティ未刊書簡集』)と述べていたり、『お菊さん』執筆中にある友人に送った手紙には「(中略)大金の入る仕事だ。小説はばかげたものになるだろう」と書いている。クロード・ファレールは、「(中略)ロティは、日本を少しも理解しようとはしなかった。彼は日本をただ眺めただけだ」(『ロティ』)という記述を残している。日本と日本文化に対してハーンやヴェンセスラウ・デ・モラエスのように真の愛情と情熱を持っていなかった。
芥川龍之介はロティに大いに関心を持ち、「ピエル・ロティの死」という文章を書いたほか、「江戸の舞踏会」に題材を得た小説「舞踏会」を執筆している。 
ピエール・ロチが見た近代日本の夜明け
江戸幕府が1850年代にアメリカ、ヨーロッパ諸国とつぎつぎに結んだ条約は、外国人の犯罪を日本人が裁くことのできない治外法権、輸出入の関税を日本人が決定できない関税自主権欠如の問題などによって 、発足したばかりの明治政府を悩ませていた。
西欧列強の壁は厚く、条約改正交渉が難航するなか、外国人の関心と理解を得るにはまず、西欧式の社交場が必要であると主張した当時の外務卿(外務大臣)井上馨が推進役となり 、明治16(1883)年、東京麹町区内山下町(現在の日比谷公園付近)に、洋風二階建の鹿鳴館が完成した。中世の時代には現在の銀座は未だ海の中だった。東京湾からさほど遠くない 、潮の香りのする広大な野原に突如として出現した鹿鳴館では、政府要人・華族や外国使臣による華やかな夜会・舞踏会などが行われた。
欧米の先進工業技術を導入するため、明治政府によって工部省が設立された。鹿鳴館の設計にあたったのは、その工部省の招聘によって明治10(1877)年、24歳で来日したイギリス人の建築家・Josiah Conder (その当時からコンドルとよばれて今日に至っている)だった。
コンドルは、来日した後の44年の大半を日本で過ごし、大正9(1920)年に日本で亡くなった。上野博物館、ニコライ堂(御茶ノ水)などさまざまな建物の設計にたずさわったコンドルは 、辰野金吾、曾彌(そね)達蔵、片山東熊(とうくま)など多くの建築家を育てた。辰野金吾の設計により大正3(1914)年に完成した東京駅は、今年に改築工事が完了したがいまもなお当時の面影を残している。
コンドルのひとと業績について興味をもたれた読者は、畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 お雇い建築家 ジョサイア・コンドルの生涯』河出書房新社、藤森照信『日本の近代建築(上)−幕末・明治篇』岩波新書をお読みください。西欧文明の導入に奔走する明治政府とその時代が改めて浮かび上がってきます。
鹿鳴館の時代の真っ只中、明治18(1885)年夏に来日したフランス海軍の将校ピエ−ル・ロチ(1850−1923)は、その年の晩秋にかけて日本各地を旅し、帰国後 、『お菊さん』(岩波文庫)、『秋の日本』、『ニッポン日記』、『日本の婦人たち』、『ロチのニッポン日記 お菊さんとの奇妙な生活』 などの作品を発表した。長期間にわたって日本で暮らした経験のある“親日家”(例えば 、ラフカディオ・ハーン)の手になるものとはまったく異なり、フランス人のロチがはじめて目にする日本の印象が冷えた眼差しで鋭く克明に綴られている。
『秋の日本』に収録されている 『江戸の舞踏会』 の冒頭には、明治18年11月、横浜湾に停泊中に ロチのもとに “隅々を金泥で塗った一枚の優美なカード” が届いたこと 、カードの裏には、英文で“お帰りには特別列車が 午前1時に Shibachi (新橋) 駅を出ます”と書かれていたことが記されている。
『江戸の舞踏会』には、天長節の夜の鹿鳴館の一部始終が驚くほど克明に描写されている。芥川龍之介は、この『江戸の舞踏会』をそっくりそのまま“縮小コピー”したような短編『舞踏会』を書いている。なぜそんなにまでして小説を書かなければいけなかったのか 、筆者には理解不能である。出来上がった作品自体も、子供っぽくセンチメンタルなもので決して上等なものではない。
『日本の婦人たち』(船岡末利編訳『ロチのニッポン日記 お菊さんとの奇妙な生活』に収録)には、鹿鳴館についてのロチの印象がつぎのように記されている。
「 千年の形式をもつ驚嘆すべき衣裳や大きな夢のような扇子は、箪笥や博物館の中に所蔵され、今はすべてが終わってしまった。・・・・・命令は上からやって来た。天皇の布告は 、宮廷の婦人たちに、ヨーロッパの姉妹たちと同じ服装をすることを命じた。人々は熱に浮かされたように生地そ、型を、仕立屋を、できあいの帽子をとり寄せた。こうした変装の最初の衣裳合わせは密室の中で 、おそらく慙愧と涙と共に行われたにちがいない。だが、誰知ろう、それ以上に笑いと共に行われたかもしれぬことを。それから人々は外国人を見学にくるよう招き、園遊会、舞踏会 、コンサートなどを催した。大使館関係で以前ヨーロッパを旅行する機会に恵まれた日本婦人たちが、早のみこみの驚くべきこの喜劇の模範を示した。 東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は 、まったくの猿真似であった。そこでは白いモスリンの服を着て、肘の上までの手袋をつけた若い娘たちが、象牙のように白い手帳を指先につまんで椅子の上で作り笑いをし、ついで 、未知のわれわれのリズムは、彼女たちの耳にはひどく難しかろうが、オペレッタの曲に合わせて、ほぼ正確な拍子でポルカやワルツを踊るのが見られた。・・・・・この卑しい物真似は通りがかりの外国人には確かに面白いが 、根本的には、この国民には趣味がないこと、国民的誇りが全く欠けていることまで示しているのである。ヨーロッパのいかなる民族も、たとえ天皇の絶対的命令に従うためとはいえ 、こんなふうにきょうから明日へと、伝統や習慣や衣服を投げ捨てることには肯んじないだろう。 」
この部分だけを読むと、“言いたい放題”という感じがして、日本人の一人として決して愉快ではないが、これが現実だったことは容易に想像できる。鹿鳴館の舞台を盛り上げるために 、大山巌元帥夫人の捨松をはじめとする多くの貴婦人たちが活躍した。近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』(講談社)を読むと、貴婦人たちの立ち振る舞いを通じて鹿鳴館の夜会が鮮明に浮かび上がってくる。貴婦人たちは 、慣れない西洋風の衣裳の着用にも苦心した様子で、大山捨松夫人は衣裳を締め付けすぎて卒倒したことがあったとも言い伝えられている。
鹿鳴館をめぐる人間模様については、さまざまな小説が書かれ、映画になり、また、いまでも劇場で上演されている。例えば、三島由紀夫が文学座の20周年記念公演のために書いた戯曲『鹿鳴館』は 、文学座の当り狂言となった。筆者は、鹿鳴館のことを思うたびに複雑な心境になる。いまに続く西欧文明に対する日本人の抜き難い劣等感の源流にどうしても思いがいくからだ。
鹿鳴館を知るための縁となる記録は必ずしも多くは残されていない。ここでは、コンドルとほぼ同時代、明治15(1882)年から明治31(1898)の18年間にわたって日本に滞在し 、日本を描きつづけたフランス人画家ビゴー(1860−1927)の作品を転載するにとどめる。
日本古来の文化遺産に深く感動したロチの眼には、西欧の薄っぺらな模倣に過ぎない鹿鳴館で行われた舞踏会が喜劇としか映らなかったのであろう。ともあれ、文明開化の激動の時代に日本を訪れ 、その印象を書き残したロチの作品は、日本古来の文化が西欧文明の波の中でどのように揺れ動いていたかを知る上で、極めて貴重な資料である。大変に残念なことに、ロチが深く感銘を受けた日本古来の伝統は 、ロチの願望とは裏腹に、急速に失われつつある。
1891年、フランス文人の最高の地位であるアカデミー・フランセーズの会員に41歳の若さで選ばれたロチは、海軍軍人として海の上で40年以上を過ごしたあと、明治30(1900)年に2度目の来日をしている。
1923年、73歳でこの世を去ったロチを、フランスの当時のポアンカレ内閣は国葬をもって送った。  
小人の国のピエール・ロチ 
序論
ピエール・ロチは1885 年、そして1900 年から1901 年にかけてのおよそ二度に渡って来日し、『お菊さん』、『秋の日本』、『お梅さんの三度目の春』といった作品を残している。その他、『死と憐れみの書』の「老夫婦の唄」や、『流謫の女性』に所収された「日本の女性」など掌編を含めれば、その滞在日数に鑑みて、日本に関する作品の数は多いと言ってよいだろう。
とはいえ、彼はしばしば比較対象とされるラフカディオ・ハーンのように必ずしも日本を愛していたというわけではない。海軍士官としてロチと寝食を共にした作家、クロード・ファレールの証言によれば、「ロチは『お梅さんの三度目の春』を仕上げているところで、それについて多くを語ってくれたが、一種の軽蔑を抱いていることは目に見えていた。(中略)ロチは日本を少しも理解しようとせず、ただ見たにすぎなかった」事実、ロチの日本に対する評価は、きわめて辛辣である。たとえば『お菊さん』の冒頭で、彼は日本人について「何と醜く、卑しく、また何とグロテスクなことだろう!」と臆面もなく述べている。
これまで作品におけるロチのこうした態度について「植民地主義」との関連で論じられることが多かったのは、アラン・ケラ=ヴィレジェの『惑星の巡礼者ピエール・ロチ』の第六章「お菊さんの災難」に見る通りである。
一方、ロチの「植民地主義者」として一般化しえない一面も見逃すべきではない。このように激しく憎悪するにもかかわらず、日本について『青春』のような自伝的作品の重要な場面で触れていること、あるいは彼自身が最も重要な作品であると見なしていた『死と憐れみの書』の最後に日本を舞台にした「老夫婦の唄」という短編を収めていることなどを考慮すれば、この国がロチにとって特別な位置を占めていることは否めない。
イルマ・ドーリアの考察はこのようなロチの日本に対しての矛盾した感情を植民地問題から切り離し、彼の幼年時代に目を向けた点で興味深いものとなっている。彼女は「エグゾティスムは深い存在論的テーマの外側のベールに過ぎない」として、「お菊さん(=日本)」を憎むと同時に愛するという葛藤に、家庭からの逃走願望と望郷の念の相克が表れているとする。
しかし彼女の説明は核心を突きながらも、なお、曖昧な点を残している。なぜならそれは日本に限らずロチのエグゾティスム小説一般についても当てはまるからである。「私は日本に対して不公平だった」とロチ自身が告白しているように、なぜ、日本にのみこのような屈折した感情を持つのか、という疑問は一考の余地があるのではないだろうか。
本稿では、この問いについてより明快な答えを求めることが狙いであるが、それは単なる日本三部作の読解を意味するものではない。我々はここで、ロチの作品における日本の重要性を再確認するとともに、ロチのエグゾティスムの本質を成す部分にも触れることになるはずである。 
1 小さな異邦人
「 私はpetit という形容詞をむやみに使う。それはよく心得ている。だが、どうすれば良いのだろう?――この国の事を書いていると一行に十回もこの言葉を使いたくなってしまう。petit、mièvre、mignard ―― 日本は物質的にも精神的にも、まったくこれら三つの言葉の中にすべて尽きている。 」
ドーリアの指摘のように、この「小さい」という言葉が、ロチに於いてはネガティヴなニュアンスを含んでいることに異論の余地はない。アラン・ケラ= ヴィレジェもまた以下のように言う。「このように『小人国』として見ることは、イデオロギー的にも、人種的にも公平ではない。」
この箇所はロチの日本に対する偏見として最も引用されることが多い箇所である。しかし、シュワルツの誇張した批判はかえって、我々に考慮の余地を与えてくれる。彼は、「あまりにも自分本位であったために、日本の思想や感情に、その気持ちを汲んで入ってゆくことができなかった」としてロチを揶揄する。「たとえば、彼には日本人が小さくてこっけいに思えたのだが、日本人の眼には自分がばかでかいものに映るとは考えおよばなかったようである。」
ロチはシュワルツが言うような「ばかでかい」ヨーロッパ人では決してなかった。芥川龍之介は「ピエル・ロティの死」の中で、「同時代の作家と比べたところが、餘り背の高い方ではなさそうである。」と記している。無論、芥川はここで、ロチの身長を問題にしているのではなく、フランス文壇での地位について言っているのだが、恐らく芥川も知っていてこのように書いたにちがいない。
彼が小柄な人物だったということはそれほどよく知られたことで、写真を見れば如実に分かる。そして、そこに彼が極度の劣等感を抱いていたことは、ゴンクールの日記などによっても明らかである。ロチは身の丈を少しでも高く見せようと、常に長椅子の背で手を支えていたというし、踵の高い靴を特別に誂え、その上、更にバネ付の踵当てをしていたという逸話もある。それは、彼の少年時代に由来するひとつの強迫観念である。『青春』にはこう記されている。
「 この時から既に私は自分の体格が気に入らなかった。私はできれば変えたかった――それは後に私が子供じみた執着で努力したことであった。いや、私は自分の姿が大嫌いだった。私は少しも「好みのタイプ」ではなかった。 」
現に彼は「子供じみた執着」から、理想の体形になろうと努力もしている。セネガルで知り合った人妻との恋に破れた末、悲嘆にくれて1875 年、彼はジョワンヴィルの体操学校に通い、1876 年にはサーカスでアクロバットを披露する。喝采を浴びた彼は大満足であった。
このように、彼自身「小人」であり、またそれをコンプレックスにしていたロチが日本を愛することができないのは容易に想像しうることである。「ロティ自身も小柄で女性的な上、冷酷で見栄っぱり、老衰をひたすら恐れるスノッブだった。ロティはもっとも嫌っている自分自身の欠点を日本人の上に投影して書いていたのではないだろうか」というウィルキンソンの指摘は悪意があるにせよ、ある程度的を射たものであることは確かだ。日本の箱庭や盆栽についての描写に関して、我々はより一層、彼の自己投影の跡を認めることができる。
「 私は今日、日本の植木屋さんのところへ行った。彼らは代々、小さな鉢の中で小さな岩の間に押し込めて、長い間木をいじめてきた。それというのも、非常に高価に売れる小人の老木を作るためである。小径に沿って一列に並んでいるこれらの鉢は聖シルヴェストル祭の頃のような陽射しに体を温めていた。そこには樹齢数百年の樫、松、杉が見られた。貫禄があって古めかしいが、キャベツほどの大きさもない。 」
「小人」であること―― それは文字通り、肉体的な問題だけを意味するのではない。たとえば、ロチは自らをよく、「温室の植物」あるいは「小さな潅木」といったものになぞらえる。ジュリエット・アダンに宛ててロチはこう書き記した。「私は温室の小さな植物のように育てられました。私は素朴に生まれつきましたが、生まれた途端、繊細なものに囲まれて、すっかりくたびれ、青白くなってしまったのです」。
この比喩は『少年の物語』で語られる事実と符合する。サーカスに入って体を鍛えるよりはむしろ「温室の植物」であることを望んでいたのは彼の母である。その上、家族のうち、母、姉、二人の祖母、大伯母、叔母など多い時には7人までが女性という家庭環境の中にあって、彼女たちは「水の冷気」に当たるのを心配しては白絹の襟巻をさせ、日向では必ず日傘を差すことを求め、学校に行くにも家の者が付き添うという具合であった。文字通りの乳母日傘である。こうした習慣が他の子供たちの嘲笑を買ったのは言うまでもない。
「 彼らは私のそばを通りかかった。鼻でせせら笑うように、この陽射しにひどく怯えている坊ちゃんを間近に見すえるのだった。そして一人がこう言った。それは何の意味もないことだったがひどい悪口のように私を鞭打った。「カラバの侯爵様だ!」そして皆が笑い出した。けれども私は動じず、また返事もせず道を歩き続けた。それでも血が両頬にどっと押し寄せ、耳鳴りがしていた。 」
ロチが、彼女らを愛しながらも、次第にそこに葛藤を覚えるようになったことは容易に推察し得る。「のちに極度の反動の時期が来て、胸を日光で灼き、空のあらゆる風に晒したいという欲望が私をとらえたのは、かつて私を取り囲んでいた、襟巻きや風除けや行き過ぎた用心のせいである。」と続けて記されている。
ここに見られるようにロチの場合、いわば「家」と「海」ひいては異国趣味とは文字通り対蹠にあるものとして見なすことができるが、一方で日本はこの図式を大きく狂わせる。なぜなら、日本は異国であるにもかかわらず、むしろ「家」を想起させるものだからである。
そこでもう一度、冒頭で触れたイルマ・ドーリアの論考「ロチの体験における、日本の矛盾」を思い出す必要があるだろう。やはり、彼女もロチの家への固着と脱出願望を対比させて考え、そこに生じる葛藤が『お菊さん』に表れているとしていることに変わりはないが、ドーリアはロチが日本を愛せない理由を、家庭へのノスタルジーゆえと考えている。彼女は、あくまで日本にエグゾティスムを見ようとする。しかし、それは『アジヤデ』や『ロチの結婚』のような作品にも当てはまるものである。
確かに日本は異国であることに変わりはない。とはいえ、既に見てきたように、日本は二つのうち、例外的に「家」の方向にあるのではないだろうか。ここではまず、この仮定を提示することから始めていきたい。 
2 恋愛の不可能な国
さて、次に第一章で示した仮定を、恋愛という観点から証明することを試みたい。なぜなら、トルコやタヒチと異なり、ロチに於いて日本を舞台に恋愛(小説)が成立しないという事情もそこに深く関わっていると考えることができるからである。
我々は第一章で示した二つの方向という観点に依拠するなら、ロチに於ける恋愛を「家」ではなく、「エグゾティスム」に位置づけることができる。無論、ここではドミニク・アングルの絵画が象徴するような、「禁じられた欲望の充足の地」としての東洋、という一般概念から演繹的にそれを説明しようと言うのではない。はからずも、かえってロチがこれを例証することにはなるにせよ、あくまで、我々は彼の作品の範囲で分析していくことにしよう。
ロチの場合は「禁じられた欲望」といった限定的なものではなく、あらゆる(性を伴う)恋愛さえも「エグゾティスム」に存すると言える。というのもそもそも、「家」という場の中では恋愛そのものが不可能なのである。あえて伝記的事実を引き合いに出すなら、ロチことジュリアン・ヴィオは1886 年(日本から帰った翌年)、母の懇願に押し切られる形で、ボルドーの旧家の女性、ブランシュ・ド・フェリエールと結婚しており、奔放な恋愛は専ら異国で実践されていたというわけである。『アジヤデ』には姉宛の手紙という形で次のような一節がある。異国で放蕩を続ける弟を心配して、結婚を促す彼女に主人公ロチはこうしたためる。
「 姉さんたちのために、姉さんのために、帰った時に最後の努力をしてみます。あなた方の間にいれば、僕の考えも変わるでしょう。もし、姉さんたちが好ましいと思う若い娘さんを僕に選んでくれるのなら、彼女を愛するように努めます。家族への愛ゆえに、僕はそうした愛情の中で身を固めるように努めるつもりです。 」
一方、『青春』で明かされる、初めての性体験もまた象徴的である。「ピエール・ロティの恋愛の型」で、「ラ・ロッシュ・クールボンの森の中ではじめて恋を教え、あらゆる恋人のさきがけとなった美しいジプシー女は将来のすべての恋愛の暗示であり、異国的な女をつぎつぎと愛するであろう者にとっておどろくべきシンボルとなった」と大木甫吉が分析しているように、この恋愛は異国においてではなかったが、エグゾティックな要素を孕むものであった。
森の中で出会った、見ず知らずのジプシーの娘と惹かれあった話者は、言葉も交わさぬまま、数日を過ごし、そして結ばれる。だが、ここでもまたロチは「洗練/野性」という対照を強調する。彼が彼女を愛したのもまた、この対極の生む差異にあったと言える。
「 既にこの時、それから後の生涯にそうであったように、一切の優雅さ、一切の後天的な魅力は肉体の健康美に比べれば私の眼中にはなかったのだ。恐らく私の過剰な洗練に対する自然の復讐は、まさにそこにあったのだろう。 」
さて、日本について、再び話を戻すことにしよう。ここで見られる対立構造はそのまま、第一章で示した「家」と「エグゾティスム」の問題に置き換えることができる。そして、日本について、しばしば「洗練」raffinement という形容をロチが用いていることからも、前者に属すものと見なすことができるのではないか―― という疑いが強くなる。日本に於いて、恋愛が成立しないのも、そのためとは言えないだろうか――。
それを論証することを希求する我々にとって好都合にも、ロチは同一場面で以下のようなことを書き残している。
「 私はどこでだったかは覚えていないが、ある真理を書いたことがある。もっとも、それは新しい真理ではないように思われる。「我々がそこで愛したこともなければ、苦しんだこともないような土地は、我々の記憶の中に跡を残さない。」反対に、我々の官能が類まれな魅惑を受けた場所は決して忘れない。 」
ロチは忘れてしまったようだが、我々は彼が言うところの「真理」を、『お梅さんの三度目の春』の中に発見することができる。つまり、「愛したこともなければ、苦しんだこともないような土地」とは、すなわち日本のことだったのである。ロチ自身が無意識のうちに、この体験と日本を対置させていた、ということは少なくとも証明されたことになる。
とはいえ、こうした図式に当てはめるだけでは不十分であることは無論、筆者も承知である。ロチとて日本において当初から恋愛を放棄していたわけではない。『お菊さん』の冒頭で、話者はこのように言っていた。
   「ぼくはね――着いたらすぐ、結婚するのさ」
   「ふうん」
   イヴは何事にも驚かない人の、気のない様子であった。
   「そうさ…黄色い肌で、黒髪の、猫の目をした女の子を探そう。可愛い子がいい。人形くらいの大きさしかないような。」
それは、エグゾティックなアヴァンチュールに期待を寄せる主人公の姿であり、ロチの愛読者に『アジヤデ』や『ロチの結婚』のような物語の展開を期待させる書き出しである。話者は声高に叫ぶ。「何という緑と影の国だろう、この日本は!何という思いがけない楽園か!」そしてお菊さんはロチの期待通り「黄色い肌で、黒髪の、猫の目をした女の子」であった。にもかかわらず、じきに話者はお菊さんとの恋愛を拒否することになるのはなぜか。
これまで、お菊さんとの結婚が金銭による契約であることや、彼女と話者を隔てる「不可解で恐るべき深遠」などがその原因とされてきた。勿論それは、作品に書かれている事実であるが、他にも理由があるように思われる。なぜなら、これが契約結婚であることは始めから分かっていたことであるし、結婚してすぐに「理解不可能」と見極めているのもいささか不自然だからである。しばしばこの結婚に金銭が関わっているためか、ウィルキンソンのような指摘をする者がいる。「(中略)必然的に登場したのは、白人の男と東洋の女のエキゾチックな恋物語である。日本はオリエントの最果ての国でしかも日本人はエロチックな愛と崇高な神の愛とに何の矛盾も感じていないように見えたから、エキゾチックな恋物語の舞台に日本が選ばれたのは、ごく自然ななりゆきだったであろう。この新しいジャンルを開いた旗手が、フランスの海軍士官ジュリアン・ヴィオ(ピエール・ロチ)である」
しかし、これは大変な誤解である。繰り返し述べてきたように『お菊さん』は作家本人が否定するように恋愛小説などではなく、性的な描写などは皆無に等しい。そもそも、お菊さんと話者は結婚してすぐに「ほとんど古い夫婦」のようになったと記されているばかりである。こうした事情からも、彼女が「理解不能」な存在であり、彼女を理解することに興味を持つのは「不可能」であるとして彼女を嫌悪するのも、お菊さんとの「恋愛」を回避するためであると言うことができるだろう。
遠藤文彦は『お梅さんの三度目の春』に於いて「出産に関する記述は忌避され、物語の外へと排除されている」ことを指摘しているが、それは物語の中で恋愛や性行為が忌避された当然の結果であり、その証拠とも言える。
そこでロチの作品に描かれた「日本」を検討しながら、ロチにおける「日本」が実際に「家」の方向に在るのかどうか、またどのような点において「家」であると言えるのか、更に検討を重ねていく必要があるが、それは次章に譲ることにしたい。 
3 「私の日本の家族」
「 私の日本の家族は非常に大人数で、皆によく知られている。私を訪ねてくる船の将校たち、ことにコモダチ・タクサン・タカイ(並外れてのっぽな友人)にとっては大きな気晴らしの種である。本物の上流婦人である魅力的な義母、小さな義妹たち、まだ若い叔母たち。 」
このように、ロチはお菊さんの家族を「日本の家族」と呼び、彼女の母親を「義母」、妹たちを「義妹」と呼んでいる。それはロチの他のエグゾティスム小説と比較しても、特異である。アジヤデはハーレムの女性であった。『ロティの結婚』のララユもまた、赤ん坊の時に丸木舟に乗せて捨てられたために養父母と暮らしていたが、この養父母を話者は(自分の)「義父母」とは呼んでいない。
筆者はかつて、「mousmé をめぐる一考察―― プルーストとロチ」の中で『お菊さん』の中に男性が登場せず、登場人物が女性の集団によって構成されていることを指摘したが、改めて本稿の主題を通して考えると、話者と彼女たちとの関係が、ロチと女性ばかりの彼の家族との関係に似ていることに気がつく。それは「義母」や「義妹」だけにとどまらない。ロチは日本女性を恋愛対象というよりは、むしろ「母」、「祖母」、「姉」として見ている。
「 しかしながら、確かに彼女たち(=日本女性)は家族への思いやり、自分の子供へのやさしい愛、生死にかかわらず祖先に対するきわめて強い敬意を抱いている。彼女たちはすばらしい母であり祖母なのである。彼女たちが子供らにやさしく、ほろりとさせるような心遣いをするのは見ていて気持ちが良いものだ。最下層の人々の間でも変わるところはない。愛にあふれる知性で、彼女たちは子供らを楽しませ、驚くべき玩具を生み出すのである。 (中略) 彼女たちは感心な姉でもある。八歳から十歳くらいの小さな少女たちがかなり遠くまで散歩に行くのを目にするが、そのほとんどすべてが腰のまわりにゆわえた布紐でやっと乳離れした弟を背負い、彼女たちはこの上なくやさしく遊ばせてやっている。 」
ここで「赤ん坊」bébé でも、「妹」soeur でもなく、「弟」frère としていることからも、ロチがここに自らとその家族の姿を多少なりとも投影していることが分かるだろう。彼の叔母クレールもまた「愛にあふれた知性で、子供らを楽しませ、驚くべき玩具を生み出す」ような類の人物であった。
しかし、だからと言って、なぜ、「彼女たち」とは恋愛が不可能なのだろうか。それを知る手掛かりとして、『お梅さんの三度目の春』の中からひとつのエピソードを取り上げたい。
話者は芸者の少女、春雨の家を訪問したさいに、彼女の祖母だというお鳩さんが姿を消したことについて、疑念を抱く。端的に言えば、お鳩さんが春雨に話者を誘惑させようとしているのではないか――と思ったのである。
「 ところで、あの正直そうな目をした老婆、自称「お祖母さん」はどうしていなくなってしまったのだろう。どうしてスオンさん(春雨の飼い猫=筆者)は尾を垂れて神妙に座ったまま、メディチ家の人のような襞襟をつけ、緑色の目で私をじっと見据えているのだろう。ここではあらゆることが神秘であり、可能である。いや、やはり、私はお鳩さんが姿を見せないのは、思惑があってのこととは考えられない。そんな疑いのせいで、この小ぎれいな家も、この小さくて華奢な女も、私の前の床の畳の上のお菓子も台無しになってしまう。たちの悪い疑いは振り払おう。床に座って社交界でするように礼儀正しく、食事をいただくとしよう。 」
「あらゆることが可能である」tout est possible…という表現は『アジヤデ』における、サミュエルとの同性愛を暗示させる場面でも既に使われていたことをここで思い出す必要があるだろう。『アジヤデ』の主人公、ロチは夜、田園でトルコ系ユダヤ人の青年、サミュエルと共に地面に寝そべり、その手を取りながら自分の傍らで眠るように言う。「ねえ、サミュエル。君は毎晩堅い地面や板の上で寝ているんだろう?ここの草の方が良いし、麝香草みたいにいい匂いだ。眠るといい。そうすれば、後で良い気分になるだろう。ぼくに不満があるのかい?君にどうしてあげれば良かったのかい?」
彼は性的な意味合いで言ったのではなかったが、ロチに献身的な愛を捧げるサミュエルはそれと誤解して、震える手で彼の手を握り返し、「私に何をお望みなのです?」と問う。その時、「古きオリエントではすべてが可能である」dans le vieil Orient tout est possible とロチは考えるのである。
しかし、「すべてが可能である」にもかかわらず、どちらの場合にもそれが受け入れられることはない。それは、話者が同性愛をタブーと見なしているからであるが、春雨との間にも話者はサミュエルとの場合と同様、一種の禁忌を感じている。では何が「禁忌」なのか。それは春雨の十三歳という年齢の所為でもあるが、むしろもっと強い――たとえば、ある種の近親相姦的なものではないだろうか。というのも、『お梅さんの三度目の春』に登場する、もう一人の少女、イナモトに関してもまた話者は「通りすがりの妹」のようなものとしてとらえ、春雨の場合と同様、繰り返し彼女との恋愛関係、とりわけ性的な関係を否定するからである。
一方、話者はかつての家主、お梅さんが(娘であると思っていた少女)おユキの「母親」ではないと知ると途端に彼女に対して一種の恋愛感情を抱いてみたりもする。
「 お梅さんは母親になったことが一度もない…私はそれを知って、胸のときめきを押さえることができなかった。そのために、おそらくお梅さんはその気持ちと体に若々しさを保っているのに違いない。このみずみずしさは何とも言えず、私が感心していたものであった。 」
つまり、特定の日本女性がロチの親族に似ているということではなく、「母」や「妹」という概念そのものが彼を恋愛から阻んでいるのではないだろうか。そのため、お梅さんが「母」ではないと分かると、そこに多少の恋愛感情が絡んでくるのである。
では、ここで問題となる、お菊さんの場合はどうだろうか。彼女は、話者にとって、「母」でも「姉妹」でもなく、あらかじめ、彼に与えられた結婚相手であった。しかし、ここで再び、第二章を思い起こすなら、さらに家族という概念がその障害となっていることが考えられる。
問題はお菊さんを巡って、形成されている家族関係である。最初に結婚斡旋人、カングルウ氏のところで偶然出会った時から、彼女はその家族と常に一緒であった。そして、結婚のために、話者は彼女の「両親」ses parents に月毎に20 ピアストルずつ支払うという契約を取り決める。よって、話者はお菊さんという個人ではなく、まず先にその家族と関係を持たざるをえない。実際、「義母」、「義妹」、「義弟」、「義従姉妹」、「義従弟」といった実に大勢の家族が存在するが、話者はお菊さんを媒介にせず、話者自身が積極的に家族の構成員となり、たとえば「義母」にとっては「婿」というより「息子」のような存在となっている。
この「日本の家族」の間で、ロチはロシュフォールの生家でそうであったように、恋愛不可能な状況に陥っている。「不可能」というより、むしろ自発的に「恋愛」を忌避しているという方が、適当かもしれない。その原因は精神医学的、あるいは文学的観点から、様々な指摘ができるだろうし大変興味深いことでもあるが、それについては、ここでは論の展開上割愛することにする。
いずれにせよ、我々はここで「恋愛」というひとつの視点から、第一章で立てた仮説、すなわち、ロチに於いて、「日本」が他のエグゾティスム小説の舞台とは異なり、「異国」でありながら「家」として機能していることを確認したことになる。『お菊さん』の終局では話者はうっかり、このように漏らす。「この夕暮時、私は日本のこの片隅、この郊外の庭の中で、ほとんど我が家にいるような気がする。そんなことは、今まで、一度も無かったことであった。」「家」から逃れ、「異国」に所謂、植民地主義的な「エグゾティックな恋物語」を求めてやってきたところが、そこに「家」と同じ構造が存在するという事実――そこから話者(=ロチ)の困惑は生じているのである。 
4 「人工の」国
だがこのように「家」と日本の類似を意識する一方で、ロチはそれを拒絶していることにも留意が必要である。たとえば、日本の箱庭は、夭折した最愛の兄ギュスターヴが幼い病身のロチのために作った生家の庭を髣髴とさせるものである。ロチは『ある子供の物語』や『青春』でしばしばこの庭について触れているが、後者において、以下のように記している。
「 彼(ギュスターヴ=筆者)は洞窟や尖峰や小さな島で、この小さな池の縁を空想的な風景のようにしつらえた。しかし、それは日本人が喜ぶ箱庭の小人の国の景色のような気取りにとどまるものではなかった。 」
ロチは、兄の庭と日本の庭が別な次元のものであるということを主張しているけれども、ここで日本の箱庭を思い浮かべずにはいられなかったということは見逃すべきではないだろう。事実、船岡末利が指摘しているように、二つの庭の描写の酷似は偶然ではない。まず、以下に日本の庭についての記述箇所を引用してみよう。
「 この人工の箱庭は陰気な自然の風景を表したものである。そこには洞穴、黒い岩、壁、湖、急流、島々、滝、そして私には分からないけれども日本の独特の方法で造られた盆栽は節くれ立ち、古びた枝をつけた老木を模している。古色蒼然とした色合いがこうしたもの全体に投げかけられているが、それは確実に百年を経たものである。金魚の群が涼やかな水の中を泳ぎまわり、「跳ぶ亀」がその甲羅に似た色合いの花崗岩の小島で家族そろって眠っている。蜻蛉が危険を冒して高いところからこの泉の置くまで降りてきて、かすかに震えながら、小さな睡蓮の上にとまる。 」
『ある子供の物語』では、数ページに渡って兄の庭に関する描写が続いているからここに引くことは適わないが、老木、洞穴、小島、金魚、そしてそこに蜻蛉が飛んでくるといった細部の構図に至るまで一致を見る。
それにしても、ロチはなぜこの類似を拒否するのだろうか。
ロチは常に日本の庭を、「そこで生き返ったように感じることができる」兄の庭とは異なり、「陰気」mélancolique でネガティヴなものとして描く。そればかりか、「人工の」artificiel と言う言葉を使っているように類似ではなく、翻って「本物/贋物」という対極にまでその差を押し広げようとする。
彼にとって、兄の庭は「他の多くの場所を愛したのち、なお一番忠実に慕ってやまない世界の一隅」であり、「聖地メッカ」に匹敵するものであった。イスラム教徒にとって、そうであるように「メッカ」は二つとあって良いはずがない。そこで、これを絶対化させるためにこのような詭弁を弄する、ということがまずは考えられる。
「小さい」という言葉とともに、ロチが日本についての形容として用いるのが、この「人工的」、あるいは「本物らしくない」invraisemblable といった言葉である。たとえば、『お菊さん』の話者は日本に着いて早々、「私はこの小さな想像の、人工的な世界の真ん中にいるのを感じる。それは私が漆器や陶器の絵ですでに知っているものだった。」と言った。
「小人国」「人工の」といった言葉にはいずれにせよ、「本物ではない」というニュアンスが込められている。第二章で既に見た「義母」「義妹」という言葉もまた然り。しかし、そこには確実に「モデル」が想定されており、時にはその間に区別がつかなくなるということなどということもしばしば起こりうる。ロチもまた、この「人工」の世界に惑わされている。たとえば、きんぽうげ夫人Madame Renoncule の庭は以下のように描写される。
「 家の薄暗い奥から、しかるべき距離で見ると、この景色は比較的明るく、それが作り物なのか、むしろ自ら病的な錯覚に弄ばれているのではないか、あるいは狂った眼か、さもなくば遠眼鏡を逆さに見た本物の田園風景なのではないか、と疑問を抱くほどである。 」
日本を「人工の」国と言ってはばからないロチも、さすがに「作り物」factice なのか、「本物の田園風景」la vraie campagne なのか、首を捻らざるをえない。挙句の果てには「病的な錯覚」ではないかと自らの感覚さえも疑い出すことになる。
ここにロチのアンビヴァレンスを認めることができるだろう。ロチは確かに日本に「家」を見出しているが、それは本来「兄の庭」に象徴されるように代替不可能なはずのものである。にもかかわらず、そのあまりの類似ゆえに欺かれることへの苛立ち――それが日本におけるロチの葛藤ではないだろうか。それゆえ、ロチはこの類似を否定するために、日本をネガティヴなものとして描くのである。
そして、単にネガティヴなものとして書くだけでは飽き足らず、それを出来る限り自分から、遠ざけようとする。たとえば、ロチは繰り返し、日本が自分たちヨーロッパ人にとって「理解不可能」であり、「私たちはこの国民と共通したところを持っていない」こと強調する。というのも、このような差異を確認しなければ、彼の「異邦人」としての自己同一性さえ、危ういからである。しかし、「共通したところ」がないのは「私たち」(=ヨーロッパ人一般)であって「私」(=ロチ)にとって状況は違ったのではないだろうか。
「 私は茣蓙の上に直に座って、蟋蟀を浮き彫りにした日本の書見台にもたれて書き物をする。私のインクは中国製である。その硯は、家主のものと同じように、瑪瑙でできており、かわいらしい蛙と子蛙が縁に彫ってある。私はおよその覚書を記す。まるで階下のサトウさんとそっくりに!時々、私は彼に似ているような気がする。そう思うと、不快である。 」
アラン・ビュイジーヌによれば、ロチの変装趣味は「一人の他者ではなく、極限的に全ての他者になること」が目的であった。だとすれば、ここで話者が「不快」になるのはいかにも奇妙である。だが、彼は例外的に「日本人」になることだけは拒否していたようだ。トルコ、中国、エジプトなど、世界各国の民族衣装を着て写真を遺したロチであったが、事実日本のものだけは存在しない。
つまり、ロチにとって「日本」は「他者」ではなく、「自己」だったのではないか。第一章で見たように、彼自身がそもそも「小人」であった。彼は異国の衣装に身を包み、変装して「他者」になろうとする。だが、「小人国」日本では、「自己」の正体を晒さなければならない。こうして、ロチの日本に関するエクリチュールは「小人」としての姿を隠すための虚偽と誇張を含みつつ、複雑に屈折したものとなっているのである。
だが、唯一の完全な虚構、「老夫婦の唄」だけは例外である。それは長崎の町で施しを求めてさまよう乞食の老夫婦、トトさんとカカさんを主人公とした物語であり、そこに語り手としての「私」は介在しない。しかし、最愛の妻であるカカさんの老衰による死に際して、その形見に取りすがって泣くトトさんは、同じく『死と憐れみの書』の一編「クレエル叔母逝く」で、叔母の遺品をそのままに部屋を保存しようとする話者(=ロチ)の姿、そのものである。
この作品の中でロチは意図的に自らを一人の「日本人」として描いている。しかも、醜い乞食の老人という彼が最も忌み嫌ったはずの存在として、である。つまり日記でも、一人称の語りによってでもなく、逆説的に「虚構」という形を採ることではじめて、日本を「エグゾティスム化」させることもなく、ピエール・ロチという極めて特異な「個」にとっての「日本」を外連味なく書くことができたのだと言える。「ロチの日本ものは『老夫婦の唄』にとどめを差す」という大塚幸男の言葉のように、むしろ我々はこの作品をもとに『お菊さん』や『お梅さんの三度目の春』の「嘘」の背後に隠れた真実を求めるべきではないだろうか。 
結論
『お菊さん』など、ロチの日本に関する作品もまた『アジヤデ』などと等しく「エグゾティスム小説」だと言われる。しかしそれらは「異国」を扱っているものの、果たしてそのように呼ぶことができるのだろうか。
「エグゾティスム」の概念を従来の地理的限定から拡大解釈を試みたヴィクトル・セガレンの顰に倣うならば、「<エグゾティスム>の感覚」とは「異なるものの観念以外の」、そして「何かが自分自身ではないということの認識以外の何ものでもない」。
本稿で見てきたように、ロチが日本に見出したのは「異なるもの」というよりは「自己」そのものであった。確かに、話者と日本との間に「隔たり」が意識されるものの、それは彼と日本というより、ヨーロッパと日本という余りに漠然としたものである。ロチは常に『お菊さん』を「エグゾティスム小説」化させようとしながらも、それは結局のところ、失敗に終わっている。
ロチにとって日本は「理解不可能」どころか、むしろ他の「異国」よりも「理解可能」だったはずである。なぜなら、彼にとって、それは「異国」ではなかったからである。アラン・ケラ= ヴィレジェは、日本を酷評するロチを再評価してきたのが常に日本人であったことに驚きを隠さないが、むしろ、この「小人国」の国民こそ、ロチの嘘を見抜いていたとは言えまいか。
永井荷風は『濹東綺譚』で以下のように述べている。「ピエール・ロツチの名著阿菊さんの末段は、能く這般の情緒を描き尽し、人をして暗涙を催さしむる力があった。わたくしが濹東綺譚の一篇に小説的色彩を添加しようとしても、それは徒にロツチの筆を学んで至らざるの笑いを招くに過ぎぬかもしれない。」
このように作者が好むと好まざるとにかかわらず、少なくとも、『お菊さん』に荷風言うところの「情緒」が描き出されていることだけはまぎれもない事実なのである。

ロチの第一回の来日は1885 年7 月8 日から8 月12 日まで長崎に、その後約一ヶ月の停泊を経て、9月18 日から11 月17 日まで神戸、京都、横浜、鎌倉、東京、日光などを巡った。第二回は1900 年12月8 日から1901 年4 月1 日まで、その後中国北部に出張したが再び9 月1 日から10 月30 日まで長崎を中心に日本で暮らした。 
 
テオドール・エードラー・フォン・レルヒ 

 

Theodor Edler von Lerch (1869〜1945)
オーストリアの軍人(当時・少佐)。悪名高い八甲田山での遭難事件を教訓に寒冷地での軍事教練を強化・指導するために招聘された。1911年、新潟県高田(現上越市)で初めて日本人にスキーを伝えた。その時はまだスポーツとしてではなくあくまでも雪中を早く移動する手段であり、ストックは一本づえであった。上越市では少佐の業績を記念して毎年2月に「レルヒ祭」が行われる。 
オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。最終階級は陸軍少将。日本で初めて、本格的なスキー指導をおこなった人物である。訪日時は少佐で、少佐の時にスキーを日本に伝えたため、日本国内では一般的には「レルヒ少佐」と呼ばれる。後に中佐に昇格したあと日本各地を回ったため、北海道などでは「レルヒ中佐」と呼ばれる。
1869年、オーストリア=ハンガリー帝国を構成しているハンガリー王国北部のプレスブルク(現スロバキアの首都ブラチスラヴァ)にて、軍人の家庭に生まれる。幼少期の愛称は「テオ」。10歳の時、福音学校に入学。それから3年後、家族はプラハに移るが、レルヒは一人ウィーンのギムナジウムに転学する。それから3年後、家族のいるプラハへ行き、ドイツ系ギムナジウムに転学。生活態度は極めて真面目で、3年間首席を通した。
1888年、ウィーナー・ノイシュタットのテレジア士官学校(英語版)に入学し、1891年少尉に任官。奇遇にも、父が勤務していたプラハの歩兵第102連隊に配属先された。配属当初から知的才能、責任感、知識、指導力に秀で、上官や部下への人当たりもよく、勤務評定で高い評価を得ていた。1894年10月、士官学校の幕僚育成コース試験に合格。教育課程修了後、チェルノヴィッツの第58歩兵旅団附参謀、レンベルクの第11歩兵師団附参謀、マロシュヴァーシャールヘイの第62歩兵旅団第5分遣中隊附を経て、1900年インスブルックの第14軍司令部附参謀となった。山岳地帯の同地で、ビルゲリー大尉が行っていたスキー訓練に興味を持つようになる。
1902年11月、戦争大臣の交代とともに、戦争省参謀本部作戦行動班附に抜擢される。12月、アルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキー(ドイツ語版)に師事。1903年になると南チロルでの国境警備に派遣された。この環境はレルヒにとってスキーの研究に絶好の地であり、戦争省の建物が道を挟んでアルペンスキークラブ事務所と隣り合っていたことも、レルヒがスキーにさらなる情熱を燃やす要因となった。
ツダルスキーは市民のみならず軍隊にもスキーの重要性を説いており、1890年代から一部の部隊に指導を行っていた。しかし、当時の軍内部ではスキーを娯楽と考える意見が多数派で、導入に懐疑的だった。
そんな中、1906年2月、シュタイアーマルク西南部ムーラウで山岳演習を行っていた騎兵部隊が雪崩に遭遇。スキーを使って救出に参加したレルヒは、軍高官と接点の多い参謀本部附という自身の立場を利用し、直接的に、あるいは友人知人を介してスキーの重要性を軍高官らに説いて回った。参謀総長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ中将は彼の働きに応え、スキーの導入を正式に決定。1908年2月、チロル地方のベックシュタイン山麓で最初の軍隊によるスキー講習会が開催され、レルヒは講師として献身的に指導に加わった。
来日
日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、1910年11月30日に交換将校として来日。八甲田山の雪中行軍で事故をおこしたばかりだったこともあり、日本陸軍はアルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーの弟子であるレルヒのスキー技術に注目。その技術向上を目的として新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)にある第13師団歩兵第58連隊(第13師団長・長岡外史、歩兵第58連隊長・堀内文次郎)の営庭や、高田の金谷山などで指導をおこなった。
1911年(明治44年)1月12日に歩兵第58連隊の営庭を利用し鶴見宜信大尉ら14名のスキー専修員に技術を伝授したことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされている。また、これにちなみ毎年1月12日が「スキーの日」とされている。4月にはエゴン・フォン・クラッツァー(クラッセルとも)とともに富士山でスキー滑降を行う。
1912年2月、北海道の旭川第7師団へのスキー指導のため旭川市を訪問。4月15日21時30分、北海道でのスキー訓練の総仕上げとして羊蹄山に登るため倶知安町に到着。16日午前5時の出発を予定していたが、雨のため1日延期し17日に羊蹄山登山を行い、また羊蹄山の滑走も行った。レルヒの羊蹄登山には小樽新聞・奥谷記者も同行している。
明治天皇の崩御間もない10月21日、レルヒは日本各地の旅行に出た。下関から箱根、名古屋、伊勢、奈良、京都、広島を回り、下旬に門司港から朝鮮半島へ向かった。その後日本から中華民国に渡り満州、北京、上海へ、さらにイギリス領香港を経て12月にイギリス領インド帝国の演習を観戦した後、年明けの1913年1月に帰国した。
なお、レルヒは1本杖、2本杖の両方の技術を会得しており、日本で伝えたのは杖を1本だけ使うスキー術である。これは、重い雪質の急な斜面である高田の地形から判断した結果である。なお、ほぼ同時期に普及した札幌では、2本杖のノルウェー式が主流となっていた。1923年に開催された第一回全日本スキー選手権大会では、2本杖のノルウェー式が圧倒。レルヒが伝えた1本杖の技術は急速に衰退した。
帰国、そして戦争
帰国後は戦争省附を経てメッツォロンバルドの第14師団隷下第4混成山岳連隊第1大隊長、スクタリの歩兵第87連隊分遣隊長を任ぜられる。
オーストリアがセルビアに宣戦布告したことで勃発した第一次世界大戦では新設された第17軍参謀長に任ぜられ、ワルシャワに派遣。ロシア帝国陸軍と交戦するも物量に勝る敵に後退を余儀なくされ、1年間カルパティア山脈に留まる。1年後の3月、ガリツィアの戦闘で大敗。8月にはブレスト=リトフスク(現ブレスト)まで盛り返すも、再度反撃を受けシュトルフィーまで後退。16年3月以降は南に派遣され、イゾンツォにてイタリア王国と交戦。その後はドイツ帝国陸軍軍集団「ループレヒト王太子」(de)の所属として西部戦線に向かいフランドル地方などを転戦したが、詳細は不明。この戦線での負傷により退役を余儀なくされた。
退役後、貿易会社を立ち上げ業務取締役の役職に就くが、わずか1年で役職から身を引く。以降はチロル地方での勤務や日本への旅行を題材に、講演活動などを中心とした生活を送った。満州事変勃発後の1932年、戦争省でのキャリアを活かし「オーストリア軍事新聞」などの軍事誌に極東情勢を中心とした記事や論文を寄稿し、軍事専門家として活動する。しかし敗戦国であるため軍事恩給もなく、その暮らしは財政面でかなり苦しかったという。
1945年12月24日、連合軍による軍政期中のオーストリアで糖尿病のため死去。76歳没。ウィーンの共同墓地に葬られた。
現在、新潟県上越市高田の金谷山には日本スキー発祥記念館が設置され、レルヒの業績を伝えている。また毎年2月上旬に「レルヒ祭」をはじめとした各種記念イベントが開かれている。2010年はレルヒが日本にスキーを持ち込んで100年になることもあり、11年にかけて各種記念事業が開催された。
人物像
生粋のスポーツマンで、スキーのみならず、水泳、サイクリング、スケート、登山と何でもこなした。スキーよりスケートの方が上手だったとの説もある。また、芸術にも秀で、絵画を嗜んだ。現在、上越市はレルヒの描いたオーストリアの山々や町並みなどの水彩画約50点を所蔵している。
母語のドイツ語のほかオーストリア=ハンガリー帝国の諸民族が使用しているチェコ語、マジャル語、イタリア語にフランス語、英語、ロシア語の6ヶ国語が話せた。これらはそれぞれ配属先で身に付けたものである。日本語も来日時に少しだけ習得した。
1930年(昭和5年)、高田に「スキー発祥記念碑」が建立されたとき除幕式に招待されたが、身体の具合が思わしくなく財政的に厳しいという理由で来日を断った。そんな窮状を知った日本の有志らが協力して見舞金を集め、同年、当時の金額で1600円をレルヒに寄付した。そのお礼にレルヒからは、礼状とともに自筆の油絵と水彩画が贈られた。  
日本にスキーを伝えたのはオーストリア将校
日本にスキーを伝えたのは、オーストリアの将校でした。その名はテオドール・フォン・レルヒ。1910年11月に交換将校として来日した、オーストリアの陸軍少佐です。
レルヒ少佐は日本に来るや、是非雪の多い駐屯地に配属してくれと強く求めました。そして1911年1月1日に、新潟県・高田(現上越市)の歩兵58連隊に送られます。嬉しかったでしょうね。彼はさっそく雪の中を進む軍事訓練として、兵士たちにスキーを紹介します。これに応えて連隊は彼がオーストリアから持ってきた1組のスキーを拝借、それを見本として帝都の兵器工場に送りました。それからわずか2週間後、ツダルスキー型のスキー10本とストックが高田に届きます。また、連隊長の堀内大佐は数名の青年将校にスキーの練習を命令、レルヒ少佐がその講習をすることになりました。
レルヒ少佐が理論の講習を終えて実地訓練を始めると、好奇心の強い高田の中学生たちが見よう見真似でスキーの道具を作ったといいます。それを見てか、堀内大佐はレルヒ少佐からスキーを学んだ将校たちに、越後地方の学校でスキーを教えるように促しました。もちろん、レルヒ少佐も民間人にスキーを教えることには大いに乗り気でした。彼は特にジャーナリストと教師にスキーを教えます。これはなかなか賢いやり方ですね。おかげでスキーはあっという間に遠方まで伝播、レルヒ少佐が高田に来た翌月の1911年2月29日には日本スキークラブができ、これが翌年には早くも6,000人の会員を数えるほどになりました。
1912年2月になると、レルヒ少佐は新たな土地に配転されました。今度の行き先は北海道・旭川の砲兵7連隊です。ここの林師団長もレルヒ少佐にスキーの伝授を要請、少佐は喜んでこれを引き受けるとともに、ここでも高田のときと同じく民間講習にも力を入れました。札幌の大学生なども習っていたそうですよ。レルヒ少佐はここに2年滞在のあと帰国、その後日本を訪れることはありませんでした。
レルヒ少佐が日本にもたらしたのはスキーだけではありません。今や日本語にもなっている「シュテムボーゲン」、「リュックサック」、「ヒュッテ」というドイツ語もいっしょに持って来たんですよ。それから、第一次世界大戦のあと、新潟県上越市の見晴らしのよい山にレルヒ少佐所縁の記念碑がで作られているそうです。また、日本にスキーが伝わってちょうど50年目の1961年には、新たにレルヒ少佐の像も建てられたそうですよ。
レルヒ少佐は軍事訓練と称しながら、女性にもスキーを教えていますね。本当はただ単にスキーが大好きで、これを1人でも多くの人に知って欲しかったのでしょう。同じ頃、日本人にスキーを教えた欧州人にはフランス人もいました。しかし、そのフランス人は上流階級の日本人しか相手にしませんでした。そのせいか、彼の記念碑を作る日本人はいませんでしたし、彼の名前も残っていません。やはり邪念はいけませんね。
ところで、当時のフランスは共和制、オーストリアは帝政でした。しかし、オーストリアの皇帝はそんなに威張り腐っていたわけではありません。例えばウィーンのプラーターでお祭りがあるとき、平民で道が混んでいても、皇帝は無理にこれをあけさせるなんて野暮なことなどしませんでした。そうした国の将校だからこそ、テオドール・フォン・レルヒ少佐は軍人も民間人も区別なくスキーを教えてくれたんだと思います。
P.S.レルヒ少佐が高田で発した第一声はドイツ語ではなく、フランス語だったそうです。通訳の山口大尉が、ドイツ語よりフランス語に堪能だったせいだとか。なかなか紳士ですね。 
日本のスキー史
金谷山は大きな山ではない。夏場でもリフトは動いていて、来場者達を山頂まで運んでいる。そして山頂からはコンクリートのトラックが走っていて、ホイールボブスレーを楽しむことができる。山のふもとには日本有数のBMXコースがあり、楽しい場所であることに変わりはないが、スキーを楽しむには物足りない。それは僕がスキーを覚えた、米国内陸部の小さな丘のスキー場のようだ。
新潟県上越市の西側に位置するこの小さな山へ向かう道中には、ある銅像と記念館があり、この場所の歴史的な重要性を物語っている。
1911年1月12日。オーストリア=ハンガリー帝国軍のテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が金谷山をスキーで滑走し、日本におけるスキー史の幕を開いたのだ。それまで雪山を滑る文化がなかった日本の軍人達にとって、ひとりで雪山を登り、さっそうと滑り降りてくるレルヒ少佐の姿は、宇宙人が空からやってきたかのようなインパクトを与えたであろう。事実、その姿を目の当たりにした軍人達は両手をあげ、『万歳!』のコールで彼を迎えたという。
だが軍人達もただの見物客ではなかった。翌日にはレルヒ少佐によるスキーレッスンが開始され、日本人によるスキーの歴史が本格的に始まった。そして2011年1月、日本におけるスキーの歴史はちょうど100周年を迎える。
このタイミングで日本におけるスキー史が幕を開けたのには軍事的な背景も関係している。当時の日本は圧倒的に不利と思われていた日露戦争に勝利したばかり。封建社会に別れを告げたばかりのアジアの小国が、どうやって強国ロシアを倒し、次々と軍事的な成功をおさめたのか、その理由に世界中が注目していた。そして世界中の軍隊が日本に軍事視察におとずれ、ノウハウを学ぼうとしていたのである。
レルヒ少佐もその軍事使節団の一員であった。その彼は、旅の荷物にスキーを2組持ってきていた。昨今の日本を訪れるパウダージャンキー達と同じく、どこかで日本の豪雪について聞いていたようだ。 到着前はスキーを教えることは考えていなかったようだが、やはり旅先にはいろいろと予想外の出来事が待っているものである。
レルヒ少佐の赴任地の高田では、ドイツ語の堪能な中将、長岡外史がレルヒにスキーの教えを請うべく部下にスキー技術の研究を始めさせていた。ただならぬ白ひげがトレードマークのこの男は当時の十三師団長であり、北欧への視察経験などから、早くからスキーの存在を知っていた。長岡はスキーの技術が軍隊に役立つと確信していたようで、レルヒ少佐ほどスキーを学ぶのに適任な人材はいないと考えていたのだろう。
まだ外国人を街中に見かけることなど非日常の時代である。レルヒ少佐は雪国のこの小さな街での生活をどう感じていたのだろうか? 実際、多くの人から注目されていたようだが、当時の地元の高田新聞には、高田市民は日本を代表するにふさわしい振る舞いを求める記述が残っていて、特に裸足で外を歩きまわったり、屋外で小便をしないようにと注意をうながしている。でもきっとレルヒ少佐はそんなことは気にしなかっただろう。当時の写真を見ると、その多くには大柄でよく笑っている姿が写っている。
そしてレルヒは滑り続けた。赴任先の高田にいた第58歩兵連隊の隊長で、海外でのノルディックスキー経験があった堀内文次郎と共に、レッスンを実施するうえで必要なスキーを作らせた。自身が持ってきた2組のスキーをもとに東京の兵器庫にスキー制作をさせ、その2週間後にはレッスンを実施するために必要な本数のスキーが高田に届いていた。
高田では毎週2〜3回、レルヒ少佐によるスキーレッスンが実施された。近隣の南葉山や小千谷エリアでのスキーツアーも実施し、1912年には北海道の旭川でスキーレッスンを開催した。それだけでなく、富士山でのスキーにも挑戦。3,600メートルまで登り、滑走した。ちなみに当時の日本にはまだ冬山を登る習慣はなかった。レルヒ少佐がいかに紳士で、そして本物のスキーバムだったかがうかがえる。
レルヒ少佐はアルペンスキーの祖と言われるマチアス・ツダルスキーの弟子であり、彼の伝えた滑りは今日のアルペンスキー技術とは少し違いがある。現在のスキーはノルウェー地方を起源にすると言われ、ストックを2本使うが、ツダルスキーは短めの板と
本のストックを使いオーストリアのアルプス急斜面を滑っていた。 
ツダルスキーは知的で、スキーへの情熱を持った強い男であったといわれるが、現在主流となっている新しいスタイルの滑りを公に否定していた。それゆえに、ストックを2本用いてスピードをコントロールする滑りを提唱していたオーストリアの将校、ジョージ・ビルゲリとは、生涯を通してバトルを繰り返す犬猿の仲だった。今日のテレマークスキーの第一人者ポール・パーカー曰く、テレマークスキーが長い間世間に認められなかったのもツダルスキーに責任があり、『きっと嫌なヤツだったに違いない』と証言している。
そのツダルスキー式の滑りでは1本のストックを舷のように用いて、ターンの内側を引きずりながらスピードをコントロールする。ちょうど踵を浮かせないテレマークのような、少し不自然なスタンスになる。 結局、 世間が新しい滑りに移行していくなか、ツダルスキーは自分の信念を曲げることなくその生涯を終えた。最後まで自分の滑り方が正しいと信じていたようだ。
幸い、レルヒ少佐はツダルスキーほど頑固者ではなかった。オーストリア軍准将であり、レルヒ少佐の研究の第一人者であるハラルド・ペッヒャー博士によると、『レルヒ少佐は教えるのがとても上手かった』ようだ。そして、『彼は人に教える技術にとても長けていただけでなく、彼の言葉をきちんと伝えられる通訳もつけていた』ので、的確に技術を伝えることができたようである。彼はレッスン中はフランス語で話し、フランス語が堪能な山口十八大尉が日本語で伝えていたのだ。
そして間もなくレルヒ少佐は『ムッシュ・メトゥーレ スキー』の愛称で親しまれるようになる。なぜ『メトゥーレ スキー』なのかというと、それはフランス語で『スキーを履きなさい!』という意味で、レルヒ少佐のレッスン中に必ず聞かれる言葉だったからだ。
そしてレルヒ少佐がレッスンを始めて間もなく、軍人達だけでなく、その婦人達もレッスンを受けるようになった。彼が金谷山を滑り降りてからわずか1ヶ月後の1911年2月には、日本で最初にスキー連盟が発足、6,000人のメンバーを集めた。
1920年代になると、今日でも有名なスキーリゾートがオープンする。北海道の旭川など、「日本で最初にオープンした」とうたうリゾートはいくつかあるものの、ski100.jpによると山形県の五色温泉スキー場が日本最古のスキー場である。1947年には長野県の志賀高原スキー場と北海道のモイワスキー場に日本初の電動チェアーリフトが設置される。他のスキー場も同じ時期に電動リフトを開設し、『日本初』と自負するリゾートがあるが、この時期に日本におけるスキーがめざましい発展を遂げたことに間違いはない。
一般的には、1980年代のスキーブームが来るまでスキーは富裕層の娯楽であったと言われている。しかし初期のスキークラブのメンバー構成を考えると、それまで冬季にすることのなかった一般市民も、ようやく冬季の楽しみができたことを喜んだと思われる。それだけでなく、スキーの発展は高田のような豪雪地帯にて、それまでカンジキに頼っていた雪上の移動方法を大きく変えたといえる。
日本中のスキー普及に努めたレルヒ少佐の功績が忘れられることはなかった。日本軍のリーダー達とも親しくし、英雄として讃えられた。長岡中将とは生涯の友好を築き、その友情は1933年の長岡が死を迎えるまで続いた。日露戦争の英雄と呼ばれた乃木希典は、レルヒ少佐による富士山でのスキー挑戦にインスパイアされ、詩を詠んだ。明治天皇の後を追って自らの命を断った乃木の葬式にも呼ばれたという。
そしてレルヒ少佐は海路で韓国へ渡り、アジア諸国を旅しながらヨーロッパへと戻って行った。帰国後は軍隊に戻り、素晴らしいキャリアを築いた。引退後は水彩画や書籍の執筆などに没頭し、1945年に息を引き取った。母国では軍隊での功績は讃えられたものの、日本における彼のスキー普及の活躍を知るものは誰もいなかったようだ。
新潟県上越市や妙高高原から長野県野沢、志賀高原エリアまで、一本杖のレルヒ少佐の銅像やその功績を讃えた記念碑などをいたるところで見かけることができる。上越市では『レルヒさん』なるゆるキャラがスキー発祥100年の普及活動に尽力しており、妙高のある一家は息子を礼留飛(れるひ)と名付け、スキージャンプで活躍しているという。
日本におけるスキーの発展のきっかけが、白ひげの軍人とオーストリアの情熱的なスキーヤーを引き寄せた時のいたずらだったというのはとても感慨深い。

レルヒは日本で山岳スキーも楽しみ、北海道の羊蹄山(標高1898m)にも挑んでいる。1912年4月レルヒは、将校や小樽新聞の記者ら総勢10人で倶知安(くっちゃん)村(現・倶知安町)を出発。途中猛吹雪に見舞われ、氷のような斜面をスキーをかついでの登山となるが、どうにか頂上付近まで到達した。. 
 
アルフレッド・ルサン 

 

Alfred Roussin (1839〜1919)
フランスの海軍士官。幕末の日本を訪れ、英米仏蘭の連合艦隊による下関砲撃(下関戦争または馬関戦争)に従軍し、詳細な記録を残している。  
「五十年前の想い出(1861-1871)」 
幕末と明治維新の目撃者、アルフレッド・ルサン(1839-1919)の回想録
出世街道を歩んだ一軍人の生涯
ナント市の1839年度出生届受付記録抄本第98号にはこう書き記されている
「アルフレッド・ヴィクトール・ルサンは1839年4月10日午前三時、ナント第五郡、大通り沿いの両親宅にて出生。父は二十七歳の地主、ヴィクトール・マリー・ルサン、母は二十一歳のソフィー・カトリーヌ・アダムソン。二人は正午頃、出生届のため、息子を伴い市長代理のもとに出頭。付添人は元公有地管理官にして七十四歳の祖父ジャン・フランソワ・ルサン、公有地検査官にして四十歳のピエール・オギュスト・ルブーテイユーの二名であった。」
アルフレッド・ルサンの出生から「ポリテクニック」、すなわち帝立理工科学校入学の1857年11月に至るまでの学歴に関する情報は、未だなにひとつ発見されていない。同校の1859年9月30日付「身体的特徴と成績」に記載された彼の外見は以下の通りである
「身長1メートル765mm、頭髪と眉毛、明るい栗色、長い額、高い鼻、瞳灰色、小さい口、普通の顎、面長。体質:良好。素行:きわめて良好。服装:きわめて良好。」
ポリテクニック在学中、父は弁護士となり、パリのアムステルダム通り46番地に居住していた。アルフレッド・ルサンは大変勤勉な生徒で、1857年の受験生120人中36番目の成績で合格し、1859年卒業時の席次は102人中36番であった。1859年10月3日、海軍主計局に一番の成績で合格し、主計見習としてブレスト勤務の辞令を受け、同月18日に着任する。基礎知識習得のため、調達、工事、食糧、兵器の各種業務を体験する。1859年7月、トゥーロンに送られたルサンは、軍規に定められた一年間の航海を完了すべく、同地で艦艇勤務士官の任に就かせてほしいと請う。こうしてルサンは1861年9月26日、外輪式フリゲート艦アスモデ号の乗組員となる。同艦はギリシャに向かい、ピレウス港で横転したフリゲート艦ゼノビ号を引き起こせとの命を受けていた。アスモデ号での一年間の勤務を完了したルサンを同艦指揮官ミュテルズ准将は以下のように評価している:「ルサン氏はこの職に就いたばかりの理工科学校卒業生である。氏にはよく働き、よく学んで欲しい。確かな教育を受けており、素描もうまく、有能な人間になるであろう。」指揮官はルサンの素描の才能に注目していたのである。
1862年7月4日、アルフレッド・ルサンはブレスト港勤務を志願し、同地でジョレス准将付秘書となる。准将は同年9月、中国沿岸に派遣され、ルサンもこれに同行することになる。数週間後、彼らはエジプト紅海港よりセミラミス号に乗り込む。同艦に乗り組んでの中国、日本遠征は1862年から1865年までの四年間続く。1863年末、フランス艦隊が下関海峡で第一回目の軍事介入を終えたとき、ジョレスは満足の意を表明している:「ルサン氏は優れた従僕であると同時に上流社会の男でもある。彼の受けた確かな教育と、海軍入りして以来獲得してきた知識は、彼を輝かしい将来に導いてくれるに違いない。ルサン氏には下関事件での働きにより1863年1月および1863年7月に主計補の階級を上申したが、これを再び上申する」。その忠勤ぶりと確かな適性、能力により、アルフレッド・ルサンは評価されるすべを心得ていた。下関事件における格別の働き、特に1864年9月5日、6日、7日の砲台占拠に参加したことにより、1865年、レジオンドヌール騎士章(勲五等)を受勲する。
1865年春に帰仏したルサンは1866年9月、再び艦艇勤務となる。ブレスト港からフリゲート艦ミネルヴ号に乗り込む。同艦を指揮するのは、アフリカ東岸分艦隊総司令官ユグトー・ド・シャイエ艦長である。スエズからジャワまでインド洋を二年間かけてめぐり、アフリカ東岸、マダガスカル、イギリス領インド、オランダ領東インドを訪れる。1867年、ルサンは海軍主計補に昇進する。翌1968年、海軍省の命を受け、ミネルヴ号はフランスに帰る代わりに日本に送られ、明治維新の動乱が続く間、フランス人および外国人居住者の保護にあたる。1869年初頭、帰国の途に就く予定であったが、中国の南部でモンジュ号が台風により沈没し、時を同じくしてフリゲート艦ヴェニュス号も損傷を受けたため、出発が遅れる。ミネルヴ号が喜望峰を通過してブレスト港にようやく帰還したのは1870年4月のことである。
実に四年という異例の長期に渡る遠征であった。1870年4月から7月まで、軍規にさだめられた回復休暇をブルターニュの家族のもとで過ごしたアルフレッド・ルサンは、普仏戦争の間、パリ防衛戦に参加した海軍第一支分艦隊の主計補としてブレストから首都に送り出される。1871年1月28日の要塞陥落の後、停戦条件が強いられ、彼は部下とともにパリ、シャン・ド・マルス陸軍士官学校の兵営に収監される。これにより、捕虜としてライン川東岸に送られずにすんだ。彼は3月16日、首都を離れ、ブルターニュの実家に帰る。1872年、分艦隊主計補としてブレスト港に戻り、同年、ナントの地主の娘、シュザンヌ・マリー・クララ・ブルカールと結婚する。
アルフレッド・ルサンは「1860年代の長期にわたる熱帯諸国滞在中の消化不良と貧血に起因するかなり重い神経疾病」を患う。虚弱体質となり、艦艇勤務には二度と戻らず、海軍の運営を監督する立場の士官として地上勤務に専念することとなる。こうして1875年、ナント港勤務の辞令が下る。1876年6月14日、省の決定により、彼が書いた最新の北極遠征に関する記事(「ラ・ルヴュ・マリティム・エ・コロニアル」に掲載)に対して金メダルが授与される。1878年1月15日、準主計に昇進し、シェルブール港勤務の辞令を受ける。1880年にはロリアン港、その翌年にはナント第三海区に送られる。1883年5月13日、海軍主計に昇進し、1884年にはロリアン港に戻る。翌年、パリ海軍本部理事長に任命され、六年間この職を務める。居住地はマジェラン通り8番地である。1891年、海軍監査委員会理事長に就任、そして1894年10月1日、ついに最高等級、海軍主計長任官の辞令を受け、順調かつ充実したキャリアの絶頂期を迎える。1895年、機械及び大型工具委員会の委員に就任、1896年1月より12月までロリアン港主計長職を務めたのを最後に、同年12月12日、五十七歳で退職を願い出る。ブルターニュで平和な隠居生活を送り、第一次大戦におけるフランスと同盟国の勝利を見届けた後、同地で1919年4月18日、死亡した。
回想録「五十年前の想い出(1861-1871)」序文
死の三年前のことである。七十七歳、日本式に言えば喜寿に達したアルフレッド・ルサンは、日本での日々をはじめとする己の最も古い記憶をたぐり寄せ、今、まさに語り始めようとしている。だがその前に、己がなぜ、こうして記憶の一部を書き残しておこうと思うに至ったかを慎ましやかな口調で解き明かす。
「老いがやってきた。それは無情にも幾星霜という時の背後に隠れてこっそりと忍び寄る。歳月とは、それをすでに生きてしまった身にはかくも短く思われるものだ。そこでふと考えた。この世を去る前に、孫子らのために、若き日の追憶を紙の上に吐露してみたらどうだろう?それは五十年も前にさかのぼる。蘇らせるのはもう手遅れだろうか?いや、けっしてそんなことはない。私が主計として歩んだ平穏な日々、そして長い隠居生活が残したものは、ぼんやりとにじんだ記憶ばかりだが、もっと遠い時代の、ある一定の日々に思いを馳せれば、それは私の脳裏に俄然冴え冴えと蘇ってくる。だから、そんな想い出のうちから、多少なりとも面白いと思ってもらえそうなものを語ってみることにする。少々退屈な話かもしれないが、私にとっては、幾度述懐しても、悦びが尽きることはない、我が青年期のなかでもひときわ輝きを放つ日々の記憶である。でも、自分がかけがえのない日々を生きていたと気付くのは後になってからなのだ。遥か彼方に去ってしまってから悟るのだ。」
次にアルフレッド・ルサンは物語をかいつまんで紹介する
「1859年、海軍主計見習の階級章とともに理工科学校を卒業すると、1861年、トゥーロンで地中海における任務を遂行するフリゲート艦の艦艇勤務の辞令を受けた。翌年、私は中国沿岸警備艦隊を率いる提督の秘書として同海域に向けて旅立った。この遠征は興味深い出来事が目白押しであった。次に1866年、インド洋とアフリカ東岸をめぐり、さらには私にとって二度目となる極東に向かう長い航海に乗り出した。1870年に帰仏し、パリを防衛する海軍部隊に配属された。この回想録では、これまで幾度となく語られた風景をあえて語るのはやめ、実際の体験にもとづく個人的印象のみを語ることとする……。」
第一回日本遠征
作家は第一章をギリシャへの旅に、第二章を日本への旅立ちに充てている
「1862年9月、私の運命を司る良き星の導きで、私は極東の海に遣わされた。中国沿岸海域の指揮を任ぜられたCh.ジョレス提督4に秘書としてお仕えする許しをいただいたのだ。トゥーロン港にて輸送船カナダ号は、提督とその参謀らに加え、彼らのために艦上で音楽を奏でるべく同港で雇われた文民楽士数人を乗せて出航した。我が国の植民地に向かう、かなり大人数の士官らも乗り込んできた。我らのうち、これから長い海の遠征を共にしなければならない者たちは自己紹介をし合い、好ましい道連れと出逢えたことを喜び合う(後に副提督、参謀長となるレルル海軍大尉5、将官付副官レノー・ド・バルバリ海軍大尉、将官付副官ロランス海軍中尉)。エジプトまで行き、紅海で我らがフリゲート艦、セミラミス号を見つけなければならない。同艦はロシュフォールを出港し、喜望峰を回ってやってくるのである。当時スエズ運河の計画は杳(よう)として知れぬままだった。エジプトの低地とスエズ砂漠を横断し、我らが艦と合流しなければならない。それは、この地方の鉄道を使っての旅となった。インドシナの次にサイゴンのデルタ地帯で過酷な暑さに見舞われた我々にとって、香港の冬の穏やかな気候は有り難かった。だが、北航路に入ると、寒気が突然我々を襲う。セミラミス号はこの季節特有の北東モンスーンが起こす烈風や大波と闘いながら、中国沿岸を懸命に北上する。日本人の祈りに呼び覚まされた嵐の神、「タスマキ(竜巻)」が、この遠つ海を犯そうとする向こう見ずの外国人たちを押し戻そうとしているのだ」
1863年の正月を上海で過ごしたのち、セミラミス号は日本を目指す代わりにマニラを経由してサイゴン行きの航路を取らざるを得なくなる。南コーチシナで続発する反乱に対処するフランス軍を援護するためである。アルフレッド・ルサンは多くの地上任務に参加する。4月末、セミラミス号は日本行きの航路に戻ることを許される。ルサンは続ける
「中国沿岸海域の我々の持ち場に帰りながら考えた。我らが艦隊は先任者と同じく、二年間主にこの海域の周辺にとどまることになるのだろうと。だが実際にはかなり違う結果となった。1860年に同盟軍が北京に出兵、占領の後、ヨーロッパ人と中国政府との間には、一種の平時状態が成立していた。中国政府は太平天国の大きな反乱運動を鎮圧するために、ヨーロッパ人の助けを必要としてさえいるように見えた。中国の港という港には外国人租界が静かに拡大していった。ところが隣の帝国、日本の事情はまるで違っていた。外国人に対して扉をかろうじて明けてから数年しかたっていない。深刻な動乱が続発しているが、その原因は、我々の与り知らぬところで、国内の一部勢力が仕掛けた攻撃によって、政治組織が揺らいでいるせいで、ここに、三百年間完全に閉ざされてきた国の境が無理矢理こじ開けられたことにより、事態は一層深刻化していた。だから数週間前より当海域のイギリス艦隊のほぼ全てが集結している江戸湾に我らも数隻の軍艦で遅滞なく駆けつけなければならない。それからというもの、中国沿岸に少々足を伸ばす以外には、遠征期間のすべてにわたり日本海域に滞在を余儀なくされた。こうして自然の点からも、文明の点からも最も魅力的な国において、しかも大変興味深い事件が続発する直中で二年間を過ごすことになったのである。」
アルフレッド・ルサンはこの回想録の中では、1866年にラ・ルヴュ・デ・ドゥー・モンド誌に掲載された各種記事や、前出の著名な旅行記「日本沿岸遠征記」ですでに語ったことを繰り返し書きたくないとしている。そこで彼は以下のように大変的を得た要約をしてみせる
「原則として、ヨーロッパ人やその艦船が襲われるのは、三世紀も前から続くタイクンの支配からの決別を画策する日本の有力大名にそそのかされてのことである。ヨーロッパ人との接触で生じた嫌悪感が原因というよりも、政府をおおいに困窮させて、転覆を謀ろうというのが彼らの真の狙いである。その結果、報復措置として、1863年に下関長門藩の沿岸において、二三の軍事作戦が実施され、さらに1864年には、連合軍による大規模な軍事行動が展開された。」
アルフレッド・ルサンが語ってきかせたいのはむしろ1863年、1864年の任務中に堪能した日本の輝くばかりの自然である。まず己が見た日本全般の描写から始める。
「日本の中央に滞在する外国人にとって、郊外の田園地帯の散策や遠出の魅力に勝る気晴らしはない。ニッポン(本州)の大きな陸地と南方の二つの島に囲まれた瀬戸内海の海岸線は、この国のすべての海岸と同じように、多くの岬によって細かく無限に仕切られている。平坦な空間は稀で、大抵は樹木に覆われた丘陵と山が続く。樹木は特に、日本のpin(マツイ:原文ママ、松のこと)が絵のように美しい枝振りで緑の谷間を囲んでいる。どの谷にも水田がしつらえられている。村の数も住民の数も多いが、家々はしゃれたたたずまいで清潔である。ここかしこに樹齢数百年にもおよぶヒイラギガシや月桂樹が、繊細な彫刻がほどこされた優雅なたたずまいの寺院(仏教)や、先祖に祈りを捧げるための拝殿(神道)を取り囲んでいる。」
そんな風景の好例として、作家は横浜近郊と鎌倉の散策を語る
「横浜周辺の田園地帯はこの性格を十二分に持ち合わせており、私はその小径という小径をよく歩き回ったものである。途中、百姓の住まいで休憩することもある。そこで受ける心尽くしのもてなしは役人の流儀とは全く違う。当時、我々は役人たちとは公式なつきあいしかなかった。百姓は、散歩途中の客を中で休んでいけと招き入れる。ほどなく一家全員がおそるおそる客人の前に集まってくる。彼らは底抜けに明るく、客人の一挙手一投足、物腰、服装に興味津々といった面持ちでじっと視線を注いでいる。そう、当時の彼らにとって、自分の家に不思議な外国人がやってきたことは、忘れられな
い一大事件だったに違いない。」 
友、フェリーチェ・ベアトとチャールズ・ワーグマン
アルフレッド・ルサンは日本の内地を旅したかったのだが、幕府の外国奉行所は外国人の通行を居留地(横浜、長崎、箱舘)から半径18キロメートル以内に制限していた。時は1864(元治元)年秋である。
「……これより先の遊歩は我々には禁じられていた。道中の治安が悪く、ヨーロッパ人の暗殺がたびたび起っており、当地および外国人の有力者らが、遊歩はまかりならぬとしたからである。我々の到着より少し前にイギリス人リチャードソンが殺害されたのを機に、イギリス艦隊が到着し、あらゆる事件が堰を切ったように相次いだ。ほどなく江戸のイギリス公使館は武装集団に襲撃された。1863年末には、我が国の将校の一人、カミュ中尉が横浜郊外を馬で散策中に刃に倒れた。しかしながら、翌年の秋も深まった頃、関係が改善してきたように思われたので、私は数名の友と連れ立って、この地方の内地に足を伸ばすことができた。この季節の日本はまだ美しく、旅にはうってつけである。秋の紅葉が風景の魅力に加わり、冴え渡った眺望が繰り広げられる。アルフレッド・ルサンは横浜で日本史ではおなじみの人物と知り合いになる。写真師フェリーチェ・ベアトと画家・風刺絵師チャールズ・ワーグマンである。ルサンは所属艦セミラミス号を下船し、街に出かけるときは、大勢の外国人のたまり場となっていたベアト・ワーグマン写真館で友と一緒にビールを一杯やるのを習慣としていた。」
「横浜で我々はレヴァント人写真師ベアトのもとに足繁く通った。その写真館は海軍、特にイギリス海軍将校のたまり場で、大変な人数が集まっていた。彼のもとにはイラストレイテッド・ロンドン・ニュースの専属特派員をしているイギリス人水彩画家ワーグマンが寄宿していた。この二人にイタリア人少佐、デ・ヴェッキ(*1)を加えた面々が私の道連れとなった。このデ・ヴェッキは、ヴィットリオ・エマヌエーレ王(二世)の副官で、なにがしの使節団で来日したが、ほとんどの時間を我らと共に過ごしていた。正真正銘の巨漢で、人世を大いに楽しむ陽気な男であった。デ・ヴェッキ少佐は宮廷で重用され、1864年当時、すでに一階級上の中佐に任官されていたはずで、その幾年か前にはイタリアで一個軍団の指揮を執っている。ベアトが旅の手配をしておいてくれたので、我々は朝早く馬で出立した(筆者注:旅行は11月20日から22日までの三日間続く)。食料と荷物を運ぶ別当の一団が我々の前になり後ろになりついて来る。南に進路を取り、眼下に外海を臨みながら、江戸湾と相模湾を分かつ峠を越える。我らの最初の目的地は、日本の古都、鎌倉である。我らが峠の頂にさしかかると、地平線にモン・フーヂ(ル・フーヂ・ヤマ)の姿が現れる。日本製の漆器の多くに、周囲の稜線を見下ろしてそびえる三角形の山の輪郭を見覚えのない者はいないだろう。この有名な休火山フーヂは標高三千メートルを超え、江戸の南西、箱根の山脈の上にそびえている。横浜港に停泊しているときから、晴れた日にはヴェスヴィオ火山に似た輪郭が見えていた。それが、夏は青味がかり、秋は雪の帽子をかぶり、冬は真っ白に雪化粧している。我らの旅は、その近くにまで行くのだ。」
旅籠屋の枕
アルフレッド・ルサンは次に、初めて泊まった日本の旅籠屋での体験をつぶさに語っている
「日が暮れる頃、我々は入江のほとりの小さな村の宿に到着する:願ったり叶ったりの清潔さで、女中はかいがいしい。我々は持参した食料をほかほかに炊けた素晴らしくうまい日本の米に添えて食べる。これは東アジアのすべての人々にとっての主食である。二階の床に敷いた伸び縮みするござの上で日本式に夜を過ごす。ござの上に薄いマットレスを敷き、さらに覆いとして同様のマットレスを一枚かけ、首を「マクラ」に乗せる。この道具は立体写真を覗く眼鏡を想像してもらえばよい。そのレンズの部分が中に詰め物をした小さなクッションに置き換わったものである。これで首を支えるのだが、肝心なのは、男も女も髷をくずさないよう大事にしていることである。男は頭のてっぺんを剃り、そこに小さな髪の束を寝かせて乗せている。女は伝統的な形に髪を結い上げているが、数日に一度しか結い直さない。この道具は少しも快適ではないが、甘んじて受け入れることにする。紙の格子と木の板でできたこの軽い間仕切りの中は寒いので、赤く焼けた炭を入れた火鉢にちょうど木炭アイロンのように覆いをかけて持ってきてくれる。これを二枚のマットレスの間にもぐりこませるのだが、窒息者が出ないのが不思議でならない。」
鎌倉の大仏
旅の二日目、我らが旅人は古都鎌倉に向かう。
「翌日、我々は鎌倉に到着する。そこで二日間を過ごすのである。日本中が絶えず地震に見舞われているのに、建物は全て木造である。だから古都の遺構は数世紀も経てば、一部の重要な寺社群を除き一つ残らず姿を消す。かくも華奢な造りなので、これらの寺社は修繕したか、原初の見取図に基き、残っている基礎や石段の上に再建したに違いない。大きな庭園が寺社を取り囲んでいる。道がそこから放射状に延びている。そのうちの一本が我らを巨大な釈迦の像へと導く。高さ約二十メートル、中はがらんどうの銅像でダイブツと呼ばれており、これも日本の名物である。前屈みでうつむいた神は、目を伏せて瞑想している。その顔には、古来より無数に描かれてきた肖像のあの古典的表情を浮かべている。さらに道を進むと、明るい松林が入江の畔まで続いている。かつて都のあった平野を賑わせているのは僧房と何軒かの遍路宿ばかりである。」
ベアト撮影の三人組、ルサン、ワーグマン、ベアト:謎が解けた!
この旅行中、ベアトが鎌倉で撮った写真は、今日もなお日本のみならず海外の多くの出版物に掲載され、よく知られている。三人の男が座っている。これまでは人物が特定されていなかったが、ルサンの「五十年前の想い出」がこの疑問を解く鍵を与えてくれた。写真の左端でスケッチ帖を持っているのがルサン、中央がワーグマン、右がベアトである。
「ワーグマンと私が神社と風景のスケッチをしているあいだ、ベアトは写真を撮影し、ヴェッキは散歩する。定かではないが、彼は可愛い飯盛女たちを口説きに行ったのではあるまいか。」
江ノ島で二人のイギリス人将校と酌み交わしたビール
鎌倉を後にした我らが旅人たちは江ノ島に向かい、そこで二人のイギリス人将校、ボールドウィン少佐とバード中尉(注5)にビールをふるまう。
「翌日の午後、我らは聖なる島イノ(イノシマ)に至る海岸沿いの道を行く。島には引き潮の時に砂州を渡っていく。島は切り立った岩山で、松林で覆われ、頂上に小さな祠がいくつかある。その日は澄み渡った好天で、島の頂から相模湾の絶景を堪能する。湾には帆掛け船が浮かび、真正面の対岸の上方には、フヂの雄姿がその裾野から立ち現れる。この高みでの休憩中、横浜イギリス連隊の将校、ボールドウィン少佐とバード中尉の二人に出逢う。我々と同じ旅程を反対回りしてきたのだ。二人は我々が勧めるビールの杯を飲み干し、馬留めのほうに降りていく。この不運な将校たちに最後の時が近付いているのを我々は知る由もなかった。午後は一路小田原を目指す。東海道沿いの大きな村である。街道はほぼ内海沿いに本州島の南半分を中国の方角に向かって江戸から島の先端まで通っているので、このように命名されている。それは現在の鉄道が開通する前の日本の大動脈とは言え、我が国の幹線道路、グランドルートのようなものを想像してはいけない。むしろ風情たっぷりに仕上がった、かなり幅の狭い道、シュマンと言ったほうがよく、山を越え、谷を越え、大抵は緑の天井の下を行くのである。」
東海道を急ぎ取って返す
二人のヨーロッパ人が暗殺されたとの報せに、我らが旅人はあわただしく帰路に就くことになる。小田原から東海道を行くと大名行列とすれ違いになる。
「翌朝、我々が泊まっている宿に小田原の村の有力者の使いが複数名やってきて、前日の夕方、ヨーロッパ人二名が暗殺されたため、急ぎ、一番近い経路をたどり横浜へ引き返すよう勧告すると言う。道中は騎馬の護衛が付き添い、我らを護ってくれるとのことである。我らが旅も終わりに近付いていたので、この勧めに従うことにする。軽い食事をそそくさと済ませると、大小二本差しの騎馬武者数名に伴われ東海道を驀進し、道も残すところ約十キロメートルとなる。まだ内容の定かでない報せに大いに気が動転したものの、これはひょっとしたら、我らをこの地方から遠ざけるための企みに過ぎないのではあるまいか、といぶかる我らに、ほどなくもうひとつの緊急事態がふりかかる。行く手に日本の殿様(大名)の行列が出現し、もう間近まで迫っている。同様の状況でリチャードソンに何が起ったか、また、この国の動乱ぶりからして、帯刀した一行と接触することがいかに危険であるかを我々は承知している。我らの護衛は狭い道に我らと馬をできる限り整然と並べ、我らに指図する。先頭を進むのは、先端に家紋の付いwた長い柄を真っ直ぐに掲げた旗持ち二人である。その役目は人の住む処を通りかかるとき、『シタニエロ、シタ、シタ』という号令を発し、皆を視界に入らぬところまで遠ざけるか、顔を地面に擦り付け土下座させることにある。これに従わぬ者には太刀の一振りで矯正が加えられる。次に来るのが、弓持ちと槍持ち、鎧を着せられ、口縄で牽かれた殿様の馬である。その次に来るのが『ノリモン』という駕籠だが、扉が閉まっており、中に座っている主の姿は見えない。これを取り囲むのが、大小二本差しの忠実な護衛のサムライ(近習)である。この後に漆塗りに家紋入りの挟箱が続く。中には道具類一式が入っており、前後に渡した竿を肩で担ぐ。最後に数名の後衛が続く。行列の最後尾が通り過ぎてから、我々は再び走り始め、横浜まであと二キロメートルの神奈川村まで来たところで東海道に別れを告げる。街に帰り着くと、私は小舟に乗せられ、所属艦まで連れて行かれた。」
ボールドウィン、バード暗殺犯の公開処刑
二人のイギリス人将校、ボールドウィン、バードの暗殺は、日本の外国人社会に大きな恐怖と抗議の渦を巻き起こす。特にイギリス上層部は裁きと被害者両名の遺族への損害賠償が直ちに行われるよう求める。ルサンは友ワーグマンと暗殺犯の公開処刑に立ち会い、その一部始終が国際紙に掲載され、世界中を駆け巡った(挿絵参照)。ルサンのアルバムは未公開の水彩画を我らに提供してくれる。
「セミラミス号の艦上では元帥と参謀らが安堵の叫びを上げて私を迎える。事情を説明してもらうと、鎌倉で二人の外国人がまた暗殺されたとの報せが公使館を通じて彼等の耳に入り、我々一行の散策のことを知っていたので、それはワーグマンと私に違いない、暗殺犯の格好の餌食となり、筆を手に野原で絵を描いていたところを不意打ちされたのだろうと半ば確信していたのだと言う。ほどなく犠牲者の身元が判明し、襲撃の詳細が分かってきた。それは、やはりイノシマで出逢った二人の不運な将校だった。我々と別れてから、おそらく一時間後、ボールドウィンとバードは馬で大仏のすぐそばの小道の曲がり角にさしかかったところを二人の帯刀した男に襲われたのである。不意打ちされて、瞬く間に致命傷を受け倒れた。二人の遺体は、離れたところから事件を目撃した人の通報を受け、この国の権威者の命により収容され、翌日横浜に運ばれてきた。これ以来、同様の遠出は一切禁じられてしまった私であるが、この物語には後日談がある。イギリスの幹部は幕府に暗殺犯を探し出し、引き渡すよう要求した。それからおよそ一ヶ月たった頃、イギリス側は暗殺の主犯格逮捕の報せを受けた。その者に死罪を申し渡し、横浜に連れてきて公開処刑すると言う。名前は清水清次というローニンの一人である。ローニンとはなんらかの過失か、やむを得ぬ事情により、自分の仕える藩から離れ、生活に窮して恐喝や略奪で生計を立て、誰からでも求めがあれば、それが何の目的であれ、自分の剣の腕を売る用意があるサムライのことである。清水の動機は何であったのだろうか。個人的な憎悪か、それともなんらかの政治的目的に加担したのだろうか?我々にはそれを知る由もなかった。それでもともかく死刑囚はそれから何日もしないうちにやって来た。ある午後、私は日本人街の路上で、奇妙な見世物を目撃した。道の両側にびっしりとできた人垣が、物見高く、でも静かに固唾をのんで見守るなかを、警官の一団が捕り物道具を携え足早に歩き回っている。それは長い鉤(十手)と刺又で、悪人の攻撃をかわしつつ、これを捕える時に使う。彼等の一人が横長の板に書かれた高札を掲げ持っている。それは判決文であった。その後ろの口取りに牽かれた馬の上に、藁縄で縛り上げられた清水が乗っている。大柄、屈強、元気な男で、肌は褐色に焼け、気迫に満ちた表情で、見物人に向かってここかしこでなにやら悪態をついている。彼はこの日、このまま刑場に連れて行かれるものと思っていた。でも処刑は翌日、日本人の牢獄(戸部牢屋敷)と警官隊の営舎がある、横浜の北の丘陵地帯の高台で行われることになっていた。翌日、私はワーグマンと幾人かのヨーロッパ人と連れ立って刑場に向かう。これには、我々が鎌倉でそうとは知らずに冒した潜在的な危険性が伴わないとは限らない。でも、ワーグマンは自分の新聞のための仕事をし、私自身は、あの死刑囚が本当に極悪人なのか、それとも爪の先まで愛国者なのか、そして、イギリス人の気が済むよう牢獄の奥の方から引きずり出してきた、下っ端の小悪党ではないことを、どうしてもこの目で確かめたい。我々は町外れの木戸を出て、丘陵を登る。我々の前にはイギリスの野戦砲一門とその弾薬箱が使用人に助けられて丘陵をやっとのことで登っている。暗殺された二将校の連隊はその前を行く。処刑は眼下に街と港を臨む高台で行われる。イギリス幹部と大勢の役人はもうそこに揃っている。ヨーロッパ人数名の姿も見られる。斜面には赤服の連隊が三列に並び、正方形の残りの辺を形作っている。角のひとつに大砲一門が据えられる。囚人が後ろ手に縛られて登場する。清潔な服を来て、髭は剃ったばかりで、穏やかな表情である。芝生におよそ50センチメートル四方、深さも同様の穴が掘られており、囚人はその前に立たされる。穴の縁には水をたたえた木桶があり、その中に柄杓が入っている。助手が囚人に茶と菓子を勧め、これを食べさせる。すると囚人は穴の前にひざまずき、ゆっくりと一本調子で歌を口ずさみ始める。次に彼は自分を取り囲んでいる人たちに話しかけ、いくらか尊敬の念を引き起こしたようである。後で彼が何と言っていたか通訳してもらった。慣例に習い、目隠ししようとしたため、彼はこれを断り、『終いまで日本の美しい大地をこの目でしかと見させてほしい』と言い、兵士が刀を研ぐと『やれ、外国人どもに日本人の首の斬り方を見せてやれ』とけしかけた。死刑執行人は死刑囚の首と刀の刃の両面に柄杓で一筋の水を垂らす。刀が振りかざされる。首は穴の中に消え、その上に胴体がどっと崩れ落ちる。その瞬間大砲が打ち鳴らされ、刑の執行が告げられる。首は藁にくるまれ、警官たちが運んでいく。帰り道、町外れの木戸口のところまで来ると、道沿いに日本の警察の詰め所があり、そのそばに死刑
に処された罪人の首が木の台の上に晒されているのを見つけた。首は二つの粘土の盛り土で支えられている。首の前に立ててあるのは、前日の市中引き廻しの際、囚人の前に掲げてあった高札である。このおぞましい曝首は三日間続いた。」 
1863年7月のフランス軍下関遠征
時は元治元年八月、太陽暦では1864年9月。アルフレッド・ルサンはセミラミス号に乗り下関に向かっている。当地で連合艦隊に合流し、馬関(関門)海峡内の下関側の岸沿いに築かれた長門(長州)藩主、毛利元徳の砦の襲撃に臨むことになっていた。ルサンはまず1863年7月に行われた第一回目のフランス軍遠征の詳細を語る
「日本の内海(瀬戸内海)は、大きな島(本州)の南岸沿いの外海から守られた天然の航路であり、東西約百マイルに及ぶ。東側は江戸湾からさほど遠くないところから進入し、反対側は下関の海峡を経て、対馬を正面に臨む東シナ海に抜ける。対馬の名は1904年の日露海戦より歴史の表舞台に登場した。この海峡の北側の岸は当時、有力大名長門の領地であり、正面には九州島の陸地を臨む。その突端、門司埼は長門藩主の領地、下関の町のすぐ目の前まで迫り、海峡の幅を七、八百メートルにまで狭めている。この航路沿いに1863年、長門藩主は砲台を建造させた。タイクン(将軍)の治世に反旗を翻し、攘夷派と手を結び、海峡を通過する様々な国籍の船舶に砲撃を浴びせたのである。我らが哨戒通報艇キャンシャン号とアメリカ艦一隻もその手荒いもてなしを受けた。さらにオランダのコルヴェット艦「ラ・メデューズ」号は、本格的な戦闘を交えることを余儀なくされた。キャンシャン号襲撃の報復として、1863年(筆者注:正確には同年7月)、セミラミス号はこれらの砲台の一部を砲撃し、砲門を閉鎖しに行ったのである。」
この第一回征伐に参加したルサンは多くのスケッチ、水彩画を持ち帰り、横浜に残してきた二人の友、ベアトとワーグマンに見せる。ベアトはこれらの絵の写真を撮影し、ルサンの署名の横に自分の署名を書き添える1。後に三人の友は、乗り組む船こそ違え、揃って新たな征伐に参加することとなる。
第二回遠征:連合艦隊、1864年9月の下関戦争に参戦
この第一回のフランス軍介入も功なく、長州藩主は依然として外国艦船にこの戦略的海峡を自由に通航させようとはしなかった。そこで当時日本近海にいた諸外国の海軍を集め、連合艦隊が結成されるに至ったのである。ルサンはこう解説する
「ところが、長門の攻撃は一向に止まず、横浜の外国人有力者らが翌夏に協議のすえ、海峡の通航の自由を武力により回復しようということになった。江戸の政府は我らの勝手にせよとのことである。もはや反抗的な大名を屈服させる力がないのは明らかであり、ひょっとしたら多少はその大名に加担しているのではあるまいかと思ったものである。」
フランスはこの連合艦隊に三隻の艦船を参加させる。イギリスは十隻、オランダは四隻、アメリカは一隻である。上陸に必要な大部隊はイギリス1,200人、フランス350人、オランダ250人で構成された。ルサンは続ける
「こうして1864年8月末、相当数の軍艦から成る艦隊が瀬戸内海を下関に向かって進んでいた。イギリス海軍キューパー少将はフリゲート艦ユーライアラス号に乗り、他の九隻を当地まで連れて行くのである。ジョレス准将はセミラミス号に乗り、コルベット艦デュプレクス号とタンクレード号を率いる。オランダのコルベット艦四隻のうち三隻はバタヴィアから急遽駆けつけたもので、指揮官はド・マン海軍大佐である。アメリカ兵士の分隊は小型の蒸気船に乗っていた。以上総勢十七隻、乗組員に横浜の駐留部隊から拝借した数隊を足して、合計二千人を陸に送り込むことができる。上陸作戦には十分な兵力とみなされた。」
イギリスのキューパー海軍少将は、フランスのジョレス海軍准将、オランダのド・マン海軍大佐と一丸となって連合艦隊を率い、九月二日、下関に程近い姫島沖に集結する。
「連合軍の艦船は九月二日、下関の海峡の瀬戸内海側入口より約三十マイルの地点に浮かぶ小島、姫島に集結した。そこから見ると海峡は漏斗のように広く口を開けており、門司埼に向かって狭まっていく。翌々日、艦隊はこの距離を乗り超え、岸の防衛施設から見える位置に来て戦闘態勢につくと、将官らは直ちにコルベット艦で偵察に出掛ける。長門の岸を砲列がぐるりと縁取り、下関の町外れの手前まで続いているが、門司埼に遮られ、我々の目には見えない。砲台には兵が配置され、旗が立っているのだが、将官らが乗った軍艦が通過しても静かなままだった。」
九月五日、第一回攻撃、損失は軽微
攻撃の号令は九月五日の夕方に下る3。
「翌日の午後、依然として沈黙したままの砲台を前にして、軍艦は戦闘位置に就いた。この時間を選んだのは強い潮流の向きのせいである。四時頃、ユーライアラス号が打ち鳴らす号砲一発を合図に、連合艦隊の全砲列が一斉に日本の砲台に報復攻撃を開始した。約一時間の激しい戦闘の末、日本の砲台は打ち方を止めた。そのうちの一門を占領した分遣隊は、そこがもぬけの殻になっているのを確認した。この成果と引き換えに失ったものは僅かであった。司令官らは翌日、上陸部隊を地上に送り込み、全ての防衛施設を占領し、これの武装を解除すると決めた。従って、手柄を立てたのは九月六日のことである。その日の想い出をいくつか紹介する。特に、イギリス人士官一名が重傷を負い、デュプレクス号艦上ではパスキエ・ド・フランリユー司令官と並んでタラップにいた操舵長が戦死した。」
この第一回攻撃でデュプレクス号の水兵二名が死亡する。一人は即死、もう一人は重傷を負った後、ほどなく死亡した。横浜外国人墓地に大きな墓碑が速やかに建立されたが、現在これは消失してしまっている。長州の砲列のまっただ中にある海峡の輝くばかりに美しい風景がルサンには忘れられない
「海峡の長門側の岸はかなり直線的に伸びており、上部は内陸の山脈に沿って樹木で覆われている。まず、水際のところどころに大砲が数門ずつ配された長い丘がひとつあり、次に、これと同じように緑で覆われた大きな丘陵がひとつ、対岸の門司埼と向かい合っている。二つの森に挟まれて谷があり、そこには水田が階段状に折り重なって二つの森の間を昇って行く。森の下方は砲台で武装されている。二つ目の丘の向こうに大規模な低台場が水際に広がり、そのむこうに木立に覆われた小さな崖が下関の町外れまで連なっている。砲台と砲台とのあいだには一本の道が通っている。それは海岸に覆い被さってそそりたつ高台の最初の崖を這い上がるように、茂みの中をこちらの砲台からあちらの砲台へと伝っていく。その日の午前中は輝くばかりの好天に恵まれ、風景はことのほか美しい。」
九月六日の第二回攻撃:ほとんど抵抗なし
二度目の攻撃は翌九月六日に決行され、今度は上陸も同時に行う。
「朝八時ごろ、上陸部隊が艦載艇に乗り込む。約五十艇が海に下ろされ、最小艦に曳航されて、谷間の砲台三基の右手にある大きな丘の岸辺に一斉に到着する。その間、艦上から砲弾が発射され、日本人が隠れていそうな森を掃討する。大変驚いたことに、抵抗者の姿はまったく見られない。これほどまで茂みに覆われた所ならば至って簡単に抵抗できそうなものを。隊は高台の麓の狭い砂州に歩を進める。我々召集兵の指揮官デュ・キリオ大佐と共に、私は大佐の捕鯨艇に乗って陸に到着した。艦隊との通信の監視役ローラン大尉の助手である私の任務は、砲台が占領され次第、その図面を作成することである。将官らが到着すると、直ちに縦列隊が進軍を開始し、谷間の砲台三基を横断するが、これらはすでにもぬけの殻であったため、海岸沿いの道を下関に向かって行軍を続ける。」
アルフレッド・ルサンは長州の部隊から発射された弾丸にあやうく命中するところであった
「ローランと数名の射撃兵と共に水田のある谷間の砲台に向かう。そこの作図が完成したとき、渓谷の奥から発射された弾丸が数発、我々の周囲にばらばらと落ちる。それがどこから来たのかを、私は後に知ることとなった。ほどなく、ボートで参謀、および大砲台を占領した本隊に合流する。それは二段構えの凸角堡で、14門の大砲が被覆なしの全方位式に装備されている。我々の放った砲弾で腹をえぐられた石造りの地上式火薬庫と数棟の小屋があった。通用門が二カ所設けられた木製の柵が、砲台後部入口を囲んでいる。」
驚いた長州兵はほとんど抵抗しない。
「敵はさしたる抵抗はしなかった。それは遠く離れたところで起った。具足の一部を身に付けた別働隊がちらちらと見え隠れしていた。銃の打ち合いはほとんどなかった。詳報は「イギリス兵一名が矢を受けて負傷」という、時代遅れのものであった。私は地面に散らばっている矢を何本か拾い集める。偵察隊は町外れまで進んだが、町の中には入らなかった。前哨が森の中に一定の間隔で配置され、目を光らせる。砲台を易々と征服したまま昼の休憩に入る。砂州に生えた大木の下で食事をしていると、轟音が鳴り響く。いくつかの破片がひゅるひゅると飛んできて、我々の休んでいる木の枝にあたる。どうやら火薬庫を吹き飛ばしたらしい。四時頃、我々召集兵は艦上に呼び戻される。司令官らの決定で、身の安全を十分に図りながら雑役を行い、一夜明けたら、砲門を閉鎖して付属品を奪うだけにとどめておいた大砲を押収しにいくことになった。」
不用意なイギリス部隊に重大な損失
その日は平穏に終わるはずであった。ところがイギリス部隊が無駄な危険を冒し、重大な損失を被ることとなる
「夕食は軍艦の上で早い時間に出された。五時頃、セミラミス号艦上で我々が食卓に就いているとき、我々の艦の真横の陸の方からいきなり激しい銃声が鳴り響いた。それは明らかに水田のある大きな谷から聞こえてくる。午前中、ローランと私が数発の銃弾を見舞われた三基の砲台の上手である。負傷者の列が現れ、砂州の上に搬送される。銃声は日が暮れるまで鳴り止まなかった。ほどなく、我々は何が起ったか知ることになった。イギリス人らは所属艦に戻る前に、谷の上の日本人がまだ守っていそうな拠点を奪取しようとしたのだ。彼らはそこに攻撃を仕掛けた。だが戦術の基本中の基本の原理を忘れたか、さもなければ軽んじた。全員が縦列になって谷を取り囲む森伝いに進むべきところであったが、それを怠った。この道を取ったのは海軍兵のみであった。海軍陸戦隊の縦列は正面から丸見えの状態で、激しい銃撃をかいくぐりながら棚田を這い上がった。その結果、15分で死者と負傷者をほぼ同数出し、約50人が地面に転がった。彼らの指揮官、アレクサンダー大佐は片足に銃弾一発が貫通した。それでも襲撃者らは、かなり頑迷に防御された堡塁を奪取した。それはトーチカで、そこから小型の山砲数門(2)と大量の弾薬を押収した。連合分艦隊は押収物を分け合った。数年後、私は海峡の砲台から持ち帰ったこれら小砲のうち二門と大砲数門をパリ廃兵院の広場で見つけた。もうそれらはそこにないと思う。いずれにせよ、他の栄えある戦利品が今後そこに飾られるかもしれない。」
馬関海峡の開放
かくして三日間で連合艦隊は馬関海峡の平定に成功し、全世界の艦船が自由に通航できるようになった。長州藩主毛利元徳との間で講和条約が結ばれる
「示し合わせておいた通り、雑役係が支援部隊とともに陸に送り込まれ、翌日からさっそく、砲台の武装解除を行う。同日夕方、長門(長州)の役人がユーライアラス号艦上に到着し、将官らに藩主が降伏したと告げる。講和条約が結ばれ、これを江戸幕府に批准させることとなった。こうして次の日から、我々は下関の国と町を見て回ることができた。紛争の間、命令により住民は退去させられ、町にいまだに閉じ込められているのは男性の住民数名と孤立した兵隊のみであった。二週間後、我々は横浜への帰路に就いた。」
ルサンは連合部隊がほとんど抵抗にあわなかった理由をこう説明する
「長門の兵士が我々の作戦にほとんど抵抗しなかったことは、当時の我々よりも、今日、日本人の勇猛果敢さをよく知る人々にとって意外なことであろう。後にその信じるに足る理由を知ることができた。我々が海峡の入口に到着するほんの数日前、長門の大名の兵力の大部分がミカドの御所に襲撃を試みるべく、京都に送り出されていた。タイクンの部隊との激しい戦闘の末、長門の部隊は敗北した。下関を防衛するのは藩主の息子が率いる限られた手勢だけであった。こうした事情に加え、数の上で勝る我々が兵力を展開したため、初日の砲撃の後、おそらく本気で抵抗することをきっぱり諦めたのであろう。」  
新発見の手紙
ここに掲載するルサンの手紙は、数ヶ月前、ヴェルニー家子孫(ジャン・ラウールとドゥデ家)の古文書の中から発見された。1864年9月18日付で下関から発送されている。宛先は中国、上海南方の小さな港町、寧波の小さな造船所で当時、所長を務め、後に「横須賀製鉄所(後の造船所)雇フランス人首長」となるフランソワ・レオンス・ヴェルニーである。1856年に理工科学校に入学したヴェルニーと、三期下のルサン。共に海軍士官となった二人のポリテクニシャンが堅い友情で結ばれていたことを手紙は明かしてくれる。
「下関にて、(1864)9月18日私の親愛なるヴェルニー、一等外科医サヴァティエほか、在寧波分艦隊士官宛てに(ジョレス)大将から預かった中国メダルをここに同封する。ルサンは受勲者のなかでサヴァティエの名を挙げている。これは、後に横須賀製鉄所病院長となる軍医にして博物学者、本誌でその功績を連載で紹介したリュドヴィク・サヴァティエ(1830-1891)にほかならない。サヴァティエは寧波造船所で小さな病院の院長を務めていた。彼はヴェルニーについて日本へ行くことになる。手紙はルサンの下関の印象で終わっている。「君は僕らが今、下関遠征中であることを知っているはずだ。戦果は上々だったが、日本人がほとんど抵抗しなかったので、思ったほど深刻ではなかった。彼らから青銅製の大砲と臼砲60門を没収した。フランス艦三隻のうちデュプレクス号だけがまともに参戦し、死者二名と負傷者五、六名を出した。ここにもう二三日留まり、それから他のほとんどの艦と共に横浜への帰途に就くことになっている。(ジョレス)大将が後任と入れ替わるまでは、おそらく横浜が僕らの停泊地になるものと思うが、この件に関しては何も知らされていない。君があの中国のひどい気候のなかでも健勝でありますように。それではまた、僕の親愛なるヴェルニー、君と握手する、君の忠実なる友 A. ルサン」
ルサンは戦死者と負傷者の正確な数を教えてくれた。
横浜への帰路、激しい台風に遭遇
回想録は下関から横浜までの波乱に満ちた復路を語る
「横浜への帰還は瀬戸内海を通っていく。ここは往路では避けて豊後水道から西の端に入っただけだった。この陸地に沿って島々の間を行く航路は、まさしく目の保養になる。でも、我らのいつもの平和な停泊地に帰り着くまえに、かなり過酷な試練が待ち受けていた。9月24日、瀬戸内海を抜け、我々のフリゲート艦(セミラミス号)は同日夕刻、ニッポン(本州)最南端の岬を超え、江戸湾の外湾に進入する。夜、気圧がかなり下がるとともに天候が悪化する。これは台風というアジア海域に特有の旋回する嵐の兆候だ。でも中国付近の台風は、その影響の及ぶ半径、ゆえに持続時間は南半球インド洋のものより小さい。昨年、我らは横浜の停泊地でこの嵐のひとつに見舞われた。もやのなか、丸一日機械を回したままで、同じ場所に留っていなければならない。この湾は閉ざされており、波がかなり強くなり、タンクレード号の艦載艇のひとつがハンガーから引きちぎられてしまった。今回もやはり台風で、風が旋回し、中心に人を欺く静かな目がある。颶風(ぐふう)3が一晩中吹き荒れた。日の出の時間になっても、ほとんど暗闇のままで、海と見分けがつかない雪崩のような雨と泡立つ海水が視界をすっかり覆っている。こういうときが我々にとって一番危ない。我らがフリゲート艦は頑丈だが、この陸地に囲まれた江戸の外湾で颶風に襲われている状況を考えると、難破したくなければ、おおよその見当で湾の真ん中に留まっているしかない。デッキにはどうやら立っていられるが、巨大なマストの間を風が吹きすさみ、どんな命令も掻き消してしまうほどの轟音を響かせているので、なにも操作はしていない。機械は作動させたまま、船首を大波のほうに向け、我らが居るべき位置に大体の見当で船体を維持できるよう努める。デッキを洗った波が羽目板の隙間から浸入してくる。砲座の中は横揺れするたびに大量の水が一方の端から別の端まで騒々しい音を立てて押し寄せる。大砲の係留具は二重に掛けておいた。もし一門でも外れて動き出せば、反対側の壁に激突して穴があくだろう。いくつかのランプが陰気に灯っているだけのこの混沌のなかで、人は船梁(砲座の天井に渡した梁)から吊るしたロープだけを頼りに、身体を支えている。我らの避難所、士官室なら、どうにか身を起こしていられる。こうしてデッキからの知らせを待つが、一向に良い知らせは届かない。艦首(艦前方のやり出しの下の突起部)は大波でつぶされてしまった。マストは疲労して弱っている状態なので、もう少し激しい風が続けば、耐えきれずに折れてしまうだろう。」
ルサンは危機的状況下の艦内の雰囲気を忠実に伝える術を心得ている。
プティジャン神父疲労困憊
ベルナール・タデ・プティジャン(1829-1884)はこの遠征にジョレス大将の通訳として参加する。船に乗り付けていない神父は台風で船酔いになり、これがルサンの諧謔趣味を掻き立てたようである。
「不思議なことに、我々の給仕長が九時頃、鱈と馬鈴薯を混ぜた料理を持ってきたので、船舶用テーブルにピンで固定する。一体、あの台所でどうやって料理したのだろう。せっかくだがろくに賞味できない。一番具合の悪い者たちは激しい縦揺れでいささか気分が悪くなった。通訳として遠征に参加したラザリスト会の宣教師プティジャン神父が士官室のクッションの上に疲労困憊して死んだように横たわっている。私は頭をかかえた。船がいよいよ沈むとなったとき、我らに赦免を与える元気が彼にはもうないのではあるまいか。数年後、私は横浜のフランス公使館でその学識豊かな宣教師に再会した。今度は司教の服を着ていた。」
ルサンがプティジャン神父の話をしたので、「隠れキリシタン」を「発見」し、日本史に名を刻まれたこの人物を短く紹介しておかねばなるまい。
静寂が戻り……
台風は去り、セミラミス号は日本の母港に到着する
「午前中のある時、風がぱたりと止み、しばらくしてまた突然、前と同じ強さで吹き始める。これは台風の目の中を通過している証拠だ。まことに有り難いことに、我らを取り巻いている、そいつの半径はあまり大きくない。だから我らが居る地点を間もなく通り過ぎるだろう。かなり唐突に正午前に闇が晴れ、風雨が弱まり、すぐそばに見覚えのある形の陸地がぼんやり見えてくる。波がたちまち鎮まる。我々は湾の奥まで進み、数時間後、(横浜の)我らが停泊地に到着した。」
歴史はこうして作られる!
「翌日からはボートで軍艦のあいだをうろうろと漕ぎ回り、砲弾の跡を見分するのが横浜居留民らの野外行事になった。暴風でつぶれた我らの艦首は、大爆弾が炸裂した跡とされ、評判を呼んだ。我々の艦にはひとつも着弾していないのに。こうして歴史は作られる。」
アルフレッド・ルサンは日本の城に感銘を受けている。瀬戸内海で見た城を我々に描いてみせてくれる。
「下関遠征の帰りに我々は四国島の丸亀城の前を通過した。これは大名、讃岐守の城である。木の生い茂った丘の頂に白壁の水平線が並び、それぞれの角には三階建ての方形櫓がそびえている。その屋根は中国式に反り返っている。城に護られた丘の麓には家が密集した大きな集落がある。こうした城の城壁の内側には、この国の様式で建てられた低層の住宅群がかなり広々とした空間に配され、城の主の住まいに使われている。大坂のような大都市では、同様の城がタイクン(将軍)直々の命を受けた大名が率いる部隊の駐屯所として使われていた。」
第二回日本滞在
1865年春にフランスに帰ったルサンは、今度はミネルヴ号乗組士官として1868年から1869年まで再び日本に滞在する。本誌読者にはお馴染みの同僚たちとの出会いや再会が待っている。
「日本の革命は、北の蝦夷地まで追いつめられたタイクンの遺臣たちの降伏で完了した。シャノワヌ大尉(後の大将)の率いるフランス軍事顧問団は、最初の正規部隊をいくつか教練しただけで、その職務の中止を余儀なくされ、横浜で事態の収束を待っていた。しかし我らが海軍技師ヴェルニーとティボディエは江戸湾沿いに日本初の海軍造船所を造り終えようとしていた。私は横浜で弟(エティエンヌ)と嬉しい再会を果たした。彼はサントラル(国立工芸学院)卒の技師で、横須賀造船所付属の海軍用機械建造工場を指揮していた。」
横浜でルサンは、1866年11月から1868年10月まで日本に派遣された第一次フランス軍事顧問団の団長シャルル・ジュール・シャノワーヌ大尉(1835-1905)と出会う。当地では同じポリテクニック卒業の海軍同僚にして友のレオンス・ヴェルニーとジュール・セザール・ティボディエ(1839-1918)と再会する。ティボディエは横須賀造船所でヴェルニーの助手になっていた。さらに横須賀造船所付属鉄工所を率いる弟エティエンヌ(注参照)と遂に再会を果たすのである。
明治天皇の神奈川通過
ルサンは日本の想い出を明治天皇を乗せた鳳輦が新都、東京に到着する少し手前の神奈川宿を通過する有様の描写で結んでいる。
「その時、日本の新しい時代が始まった。それを彼の地では明治と呼ぶ。タイクン(将軍)はいなくなり、大名は己の藩を放棄した。ミカドが京都から江戸まで連れて行かれた。まだ子供だが、専制君主に返り咲いたのである。その証拠をこの国の権力者たちは我々に是が非でも示したかったのだ。東海道沿いの神奈川宿には諸外国の行使、軍参謀らのためにひな壇が設けられ、我々はそこで幼君の行列が通り過ぎるのを見物するよう誘いを受けた。象徴的な金色の鳥を戴いた大きな正方形のテントがゆっくりと進む。テントは台座に乗せられ、それを担ぎ棒で運ぶ。堅く閉ざされた羅紗幕の後ろには、依然として皆には見えないが、幼君が隠れていた。テントの周り、前後には京都の朝廷の装束をまとい、神官のような足取りで進む人々の行列が続いた(口絵、「ル・モンド・イリュストレ」。
同様の行列が44年後、この同じ天皇の亡骸を奉送することとなった。長い在位のあいだに円熟し、独立国家の人気者の君主となっていた。  
 
ヴィットリオ.F.アルミニヨン 

 

Vittorio F. Arminjon (1830〜1897)
サヴォイア(現フランス領)生まれ。イタリアの軍人、外交官として活躍。文人として数冊の著書や論文も残した。良質の蚕卵紙購入が動機で、マジェンタ号艦長として通商を求め来日した。 
イタリア使節アルミニヨンと神奈川台場
平成17年度第1回企画展示「神奈川お台場の歴史」では、万延元年(1860)に築造された神奈川台場を紹介し、この台場が横浜にやって来た諸外国の外交官との儀礼交換上の礼砲の発射地として活用されたことを明らかにした。また、展示には約120点の資料を出品したが、その中に慶応2年(1866)に来日したイタリア使節ヴィットリオ・アルミニヨンの日本見聞記(『日本および軍艦マジェンタ号の航海』)があり、特に神奈川台場がイタリア使節アルミニヨンと礼砲を交換したことを記した箇所を展示した。
横浜が、安政六年(1859)にアメリカ・ロシア・オランダ・イギリス・フランスの5カ国と通商するための港として開かれたことは良く知られている。その後、幕府は慶応四年(1868)までの9年間にポルトガル・プロシァ・スイス・ベルギー・イタリア・デンマークとも通商条約を結び、横浜はこれらの国々の人びととも交流する舞台となった。しかし、横浜が幕末にこうした国々にも開かれたことは案外知られていない。まして、神奈川台場が、そうした国際交流の舞台であったことはほとんど知られてこなかった。そこで、ここではアルミニヨンの日本見聞記の中から神奈川台場に関する記事を紹介したい。
ちなみに、アルミニヨンはイタリアの海軍軍人で、日本との通商を求めて来日し、慶応2年7月16日(1866年8月25日)に日伊修好通商条約を江戸で締結した人物である。彼が、マジェンタ号に乗って東京湾に入ったのは5月22日のことで、5月29日に神奈川奉行早川能登守とマジェンタ号上で会見した。席上、早川はアルミニヨンの来日の目的を尋ね、マジェンタ号の備砲について調査した。また、早川が辞去するに際し、アルミニヨンは礼砲を発射することを提案し、日本側からも答礼の礼砲を発射することを求めた。こうして神奈川台場がイタリア使節との会談で話題として取り上げられることになった。
アルミニヨンの見聞記によれば、早川はイタリア国旗を拝借することを求め、1時間後に神奈川台場から答礼の砲を発射すると答えている。その後、早川はマジェンタ号を離れ、午後2時にイタリア国旗が台場周辺の丘に翻り、その数分後に15発の礼砲が神奈川台場から発射された。アルミニヨンは、日本でイタリア国旗が掲揚されたのはこの時が初めてであったと記しているから、5月29日は日本とイタリアにとって記念すべき日であったことになる。
ところで、慶応2年(1866)に国交を開いた日本とイタリアは、その後、急速に関係を深めて行った。特に、慶応年間末年から明治10年代初頭にかけて、日本から大量の蚕種(蚕の卵)が輸出されるようになると、その多くがイタリア北部の養蚕地帯に送られるようになった。当時、イタリアの養蚕地帯では蚕の病気が流行しており、その回復をはかるため良質な日本の蚕種が求められたわけだが、国交樹立後の横浜には蚕種を購入するために多くのイタリア商人がやって来た。
彼らは毎年夏から秋にかけて来日し、居留地の外国商館に泊まって蚕種を買い集め、日本の蚕種製造業者は大量の蚕種を横浜に持ち込むことになった。ちなみに、日本を代表する蚕種製造業者であった田島家にはイタリア商人との取引について記した古記録が残され、サビヨやマツオキと呼ばれるイタリア商人が数万枚単位の蚕種を購入したと記されている。
横浜での国際交流といえば、最初に日本と通商条約を結んだアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5カ国の人びととの交流が話題になることが多い。しかし、日本は横浜開港後、幕府が倒壊するまでの間だけでもイタリアを始め、ポルトガル・プロシァ・スイス・ベルギー・デンマークなどと国交を結んでいる。神奈川台場はこうした国々と交際するに際し、礼砲を発射するという重要な役割を果たしてきた。また、人びとは礼砲発射とともに掲揚される諸外国の国旗を眺め、日本の国際化が着実に進んでいることを知ることになった。また、国際都市ではさまざまな民族・国家・人種が交流を繰り広げたが、神奈川台場はそうした国際都市のあり方を人びとに教える存在であったのかもしれない。  
日本とイタリア150年
日伊国交150周年の起点は、幕末期の1866年8月25日(旧暦で慶応2年7月16日)に行われた日伊修好通商条約の署名です。署名したのは、日本側が外国奉行の柴田日向守剛中(たけなか)と朝比奈甲斐守昌広、目付の牛込忠左衛門の3名、イタリア側は海軍軍人であり国王使節のヴィットリオ・アルミニヨン(Vittorio F. Arminjon)でした。
1866年8月25日、日本とイタリアは、「日本大君と伊太利國王其親族並に世々」とその相互の所領臣民との間で「無差別」に、「永久の平和懇親」を願って修好通商条約を締結しました。第1条に述べられたこの願いは現実のものとなり、条約への署名から150年にわたり、日伊両国は絶えず友好的な関係を維持しています。
国交開設後、両国の関心は様々な要因によりかなりの共通性を帯びるようになりました。まず、日本とイタリアは貿易の面で相互補完的な関係にありました。養蚕業が主な産業の一つであったイタリアは、1854年より、国内のほとんどの養蚕地区に広がった蚕の伝染病によって大きな打撃を受けていました。この伝染病は他の欧州諸国にも蔓延していたため、イタリアの業者は日本の蚕卵市場へ目を向けるようになります。一方、日本にとってもイタリアからの需要は大きな収入源となり、江戸時代(1603〜1868)末期から明治時代(1868〜1912年)初期にかけ、統計上、イタリアは多い年には日本の輸出先の2割にも達していました。また、両国民間の深い相互理解は、貿易上の理由に加え、イタリア統一運動により生み出されたイタリアに対する共感にもよるものでした。日本人の目からすれば、イタリアにおける統一運動は、ほぼ同時期に起こった江戸幕府の終焉、そして明治維新(1868年)につながる歴史的な出来事と非常に似通っているように見えたのです。
これらを踏まえれば、イタリアの軍艦ヴェットール・ピサニが、1881年、外国船として史上初めて天皇陛下をお迎えしたことも不思議ではありません。とはいえ、この極めて良好な二国間関係は、これに8年先立つ岩倉使節団(1871〜1873年)のイタリア訪問に際して既に確固たるものとなっていました。欧米諸国に向けて日本を出港した外交使節団は、新しい日本政府の信任状を訪問先の国々に捧呈し、また、それら諸国の政治・経済・法制度を直に学ぶという2つの目的を掲げていました。この使節団は、1873年5月9日から6月3日にかけイタリアに滞在し、様々な都市を訪問しました。その後は、1888年に日伊学会が発足し、両国文化の相互理解に大きな推進力を与えていくことになります。
第一次世界大戦では、日本とイタリアの両国は、イギリス・フランス・ロシアの三国協商側につきます。平和条約締結後も、両国は同じ道を歩みました。終戦直後の理想主義に満ちた風潮の中、日伊両政府の距離は更に縮まります。たとえば、1920年に皇太子殿下(後の昭和天皇)がイタリアを御訪問されたことは象徴的なことですし、同年にイタリア人パイロット2名が史上初めてローマから東京に飛行したことは実質的な例として挙げることができます。残念ながら、防共協定(1937年)と日独伊三国同盟(1940年)が示すように、両国は、自由民主主義の危機を招き軍事的な拡張政策をもたらした不吉な時代の流れも共に歩むこととなりました。
1945年は、日本とイタリアにとって新たな出発点となりました。両国の歩みは改めて交差するようになります。新しいイタリア共和国は、反ファシズム、レジスタンス運動、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄、といった民主主義的な価値観を基本として成り立っています。また日本は、民主主義と平和主義を復興の土台としました。概して、冷戦時代は両国にとって実りある時期となりました。政治対話は最も高いレベルにまで達し、貿易量も次第に伸びていきました。1962年に設立されたローマ日本文化会館や1959年に東京で再度開館したイタリア文化会館による価値ある活動を通じて、文化面の交流も活発化しました。また、多くの奨学金は、両国の若い世代の学者たちに交流の機会をもたらし、まさに大陸を横断する学問共同体を生み出したと言うことができます。
両国間に友好と平和が維持されてきたことには、様々な要素が寄与しています。まず思い起こすべきことは、修好通商条約の締結(1866年)以前に、両国間には先程述べたイタリア養蚕業者による商いだけではなく、16世紀に遡る多くの重要な出会いがあったということです。まさに今年は、支倉常長が率いる使節団が1613年に仙台を出港し、ローマに到着してから400周年に当たり、その記念式典が行われました。「イタリア・日本の450年」(「Italia-Giappone 450 anni」、アドルフォ・タンブレッロ教授監修)に掲載された数々の論文において事細かに裏打ちされているとおり(詳細は同書に譲ります)、日伊関係は長い歴史を誇り、両国の政治・経済・文化など様々な場面に影響を与えてきました。
第二は、日伊関係が発展してきた国際環境は、二国間関係に良い意味での影響を与えてきたということです。修好通商条約が締結された19世紀の後半、日本とイタリアは新参者、すなわち、両国は、当時の国際秩序を支配していた大国と比べれば、近代化の道を遅れて歩み始めた国でした。そのため、両政府は、同じ国際システムの縛りに対峙しなければならず、したがって、国際社会において(主要国としての)威信と認知を得るという共通の目標を追い求めていました。また、国際秩序が二極構造となった1945年以降には、日本とイタリアは再び類似の課題に挑むことになります。世界が東西ブロックに明確に分断された中で、戦争により相当な被害を受けていた経済システムの早期回復を阻害することなく、自国領域の安全を確保することが最優先事項となりました。ここでも両国は同様の道を選び、米国に歩調を合わせることで、地理的な特徴という利点を最大限に活かしつつ、国民に平和と繁栄を保障することに成功しました。現在でも、日本とイタリアは相互に深い絆で結ばれ、共に歩み続けています。 
イタリア使節が見た幕末の日本
蚕の卵を求めて 日本の扉を叩く
日本の絹産業と、今回紹介する日本とイタリアの国交樹立には実は深い関係があるのです。前回、「ハイジの国」スイスと日本が国交樹立150年を迎えると書きましたが、スイスのすぐ南に位置するイタリアに対して日本が門戸を開いたのは1866年、つまりスイスに2年遅れて国交条約が締結されています。イタリアが日本に国交を迫った目的とは? ずばり、蚕種(蚕の卵)の調達でした。
1850年代終わりから1860年代はじめにかけて、ヨーロッパで流行した悪疫のせいで、主に北イタリアで行われていた現地の養蚕は壊滅的な打撃を受けました。イタリアより早く日本と国交を樹立していたイギリスやフランスが日本から蚕種を購入していることを知ったイタリアは、自国の養蚕業の存続のため、是が非でも日本との関係を持ちたいと願うようになります。
ナポリの南、ソレントからサレルノに広がるアマルフィ海岸そこで日本に赴く使節として白羽の矢が立ったのが、軍人のヴィットリオ・アルミニヨンでした。アルミニヨンは日本上陸に当たり、パリに滞在していた柴田日向守を訪れ、根回しを行いました。
彼はイタリアが数世紀にわたりヨーロッパの中でも学術文芸面のリーダーであるのと同じく、日本もまたアジアにおいて文化文明を牽引していると述べました。当時、日本を訪れたフランス人らの影響で、ヨーロッパでは日本の浮世絵をはじめとする文化を賞賛する「ジャポニズム」が巻き起こっていたことも、アルミニヨンの言葉を柴田にストレートに伝えるのに役立ったようです。
1866年、アルミニヨンはマジェンタ号の艦長として日本に上陸し、当時、長州征伐に忙殺されていた幕府を相手に根気よく交渉を続けて国交を開くことに成功しました。それを機に、イタリア商人たちは横浜を訪れ、日本の蚕種を仕入れることができるようになったのです。日本の代表的な蚕種製造業者の田島家には当時のイタリア商人との取引について記した記録も残されています。
布団、襖、畳 興味深い生活様式を描写
アルミニヨンは帰国後の1869年、日本見聞記を出版しました。この著書は、当時の日本の風俗をアルミニヨンが興味深く、そして実に客観的に眺めた上で記述されていることがわかります。たとえば、彼が横浜や江戸に上陸する前に訪れた熱海で見かけた一般人の住居と暮らしぶりについては、
「どの家も質素だが、気のきいた形のよい作り。日本人は綿の入った大きな布団にくるまって眠り、朝になると、これをたたんで部屋の隅に重ねておく。部屋と部屋は溝を滑る紙ばりの襖で仕切られ、必要に応じて、この仕切りを取り払うことで部屋の広さを自由に変えられる。家の中の敷物は、見事な技術で編んだ竹でできている。厚さ2、3インチで、非常に弾力がある。その何枚かを組み合わせれば部屋の広さにぴったり合う」
とあります。彼が竹の敷物だと描写したものは、い草を編んだ畳に違いないでしょうが、それにしても、観察力の鋭さに感心させられます。
また、面白いのが、日本人と西洋人の洟のかみ方に着目していることです。「日本人は洟をかむにもハンカチではなくて紙を使う。誰もが懐中にこういう紙を何枚か持っていて、一度使えば捨ててしまう」。これなどは、まさに150年後の現代にも通じる文化ギャップです。
幕末の日本人がまさかポケットティッシュを持っていたはずはありませんが、今でも洟をかんだ後ティッシュを捨ててしまう日本人に対して、洟をかむたびにポケットからハンカチを取り出して何度も使う西欧人…。日本人が西洋人の影響を受けることなく、いまだに「紙で洟をかみ続けている」ことは、日本人の普遍的な習慣と言えそうです。
そして、アルミニヨンが日本人を非常に好意的な目で見ていたのが最もわかる記述が、マジェンタ号を神奈川奉行早川能登守が通訳2名と大目付を従えて訪れた様子を伝えたものです。アルミニヨンが差し出したトリノ産のチョコレートを、早川らはその場で口にせず、紙に包んで懐中にしまったとあります。そのことを、アルミニヨンは、彼らは自宅に帰ってからじっくりと賞味して、我々のことをゆっくりと思い出すつもりなのだと述懐しています。
「我々などは素晴らしいごちそうに預かっても、帰宅した時、思い出すものと言えば胃のもたれだけ」と、西洋人のあけすけな態度と、日本人の奥ゆかしさを対比することで、日本人に敬意を表しているように思えます。この早川との会見の翌日、神奈川の丘に、イタリア国旗が日本で初めて掲揚されました。
150年前のイタリア人が記した日本見聞記に登場する日本人には、礼儀、遠慮、謙虚な姿勢、そして誇りといったものが見てとれます。 
『イタリア使節の幕末見聞記』 日本の宗教
(イタリアのヴィットリオ・アルミニヨンという海軍中佐が、訪れた慶応2年ごろの日本の様子を綴った見聞記『イタリア使節の幕末見聞記』を出版(1869年)している。その中で日本の宗教については、知りえた知識、目撃状況を次のように書いてい.。)
○ 日本人は仏教を信奉している。仏教は、予言者的、福音主義的キリスト教の退廃した形ともいいうるもので、不条理な宗礼と哲学的箴言の混淆である。日本人は、中国人やインド人と同じく、四つの主たる仏、すなわち阿弥陀・釈迦・観音・地蔵を信仰している。阿弥陀は中国の諸仏中のもっとも古いものの一つであり、極楽の最高支配者である。日本人は神秘的な形式のもとに、この仏を拝み、僧侶らは庶民を善導するために多くの語を語って聞かせる。
○ 釈迦はシャム(実は釈迦はネパールの刹帝利古種族・釈迦族の王子といわれる)に生まれた。彼を産んだのは処女の母であったが、非常な難産であったため、彼を産み落とすと同時に死亡した。釈迦は永年にわたり、極めて厳しい苦行を行った。伝説によれば、彼は中国に赴いて阿弥陀の教えを説き、宗教書を書いた。この書は孔子の教えに劣らず熱く信仰されている。彼は布教の旅を日本で終えたが、この国の最初の立法者になったといわれる。
○ 観音さまについては、日本人は六十六本の腕と百の手とを付けてこれを描く。この仏は太陽と月をつくり、大空に光を与えた。聖職者・つまり僧侶は、よく組織された階級制を有している。これは、強力で永続的な社会組織すべてに必要なことである。この階級制はカトリック教会のそれに酷似している。僧侶は正規僧と俗僧に分かれ、その上にツンドがいる。これはカトリックの司祭に相当し、僧侶を任命し、これにいけにえを捧げる資格を与える権限を持つ。
○ 普通、ツンドは僧院または教団の長である。日本の教団は、説を異にし、互いに反目し合う幾つも集派に分かれている。各宗派は僧侶のまとう衣の色で見分けられる。僧侶の衣は・西洋の昔の陰修士のそれに幾分似ている。阿弥陀の僧侶は霊魂の不滅を信じている。この僧侶たちは上層階級の出身で、廉潔の聞こえ高く、政治的にも大きな勢カを有している。彼らは厳しい規律に服し、ヨーロッパのかつての騎士修道会の騎士と同じように武器を携えている。釈迦の僧侶たちも規則正しいことで尊敬されている。彼らは夜半に集い、のどの奥から出るような声で仏をたたえる歌を唱える。また、僧院長が毎日説くところの道徳やや哲学の間題について瞑想にふける。
○ これらの僧侶の中のある者は、かなりんの学識があり、若い子弟を教育する。また、ある者は禁欲生活を送り、回教の僧のように苛酷な苦行をおのれに課する。さらにまた、ある者は托鉢によって生き、死人のような顔色をしている。これらの僧侶は、たとえ身体が清潔であつても、その姿は不気味なものである。しかし、正規僧の大半は放埓(ほうらつ)な生活をしており、僧院内に、彼らの宗旨を奉じる尼僧を置いている。これらの尼僧のうち、禁欲節制の誓いを立てる者は少ない。また、ある者たちは、自分の属する寺院に処女性を売り渡し、寺の財源となっている。
○ 仏教には、さまざまな仏と偶像があるにもかかわらず、日本国の政治組織は神道を基礎としている。神道とは神の道であり、往古の君主を神として祭り、祖先への崇拝を旨とする。日本人は無数の精霊の存在を認めるが、この精霊は大気中を浮遊しているとされ、それがどういう性質を持っものかは知られていない。精霊は感知できる姿をもって現われることもあり、あるいは生き物となって現われることもある。先祖の霊魂は、生きている者たちの中に住み、子孫の平安と幸福を見守るものとされる。
○ 神道の教理によれば、死は人知碧超える神秘であり、人間は現在への不安と未来についての暗黒の中で生きなければならない。そこで人間は、適度の快楽を求めながら、この世を楽しく生きることを主な目的とすることになる。その際・悪霊を鎮め、その黙りを避けるように注意する。ピタゴラスの唱えた古い学説である輪廻の思想は、神道の教えと一致している。死者の霊魂が何かの動物の体内に転生するということを信じるために、日本人は動物の肉を食用としない。庶民は魚と米と野菜を常食とし、富者の食卓にも家禽(かきん)の肉がたまに上るだけである。
○ 日本の最高の神は天照大神である。この女神を始祖として何人かの神または半神が続き、その最後が神武であり、初代の天皇となった人物である。この天皇は別名を神日本磐余彦尊と称し、そののちの代々の後継者は御門(ミカド)という称号をとなえるに至った。
○ 誰もが気づくように、日本の神々の系譜は、オクタヴイアヌス.アウグストウスの後継者たるローマの帝国内に行わせようと図ったものと幾分類似している。当時、ローマの元老院は、アウグストゥス・リヴィウス・ティベリウスなど物故した皇帝およびそれらの後継者たる現在の皇帝に関し、彼らを神として遇し、神殿を作り、神官に任命する旨の布告を行った。しかし、日本の天皇は、俗権のほかに神権をも併せ持ち、神の子孫と信じられるために無制限の権威を与えられている。そして、その住居は内裏(すなわち、皇居)とよばれている。 
 
ヘルハルト・ペルス・ライケン 

 

Gerhard Christiaan Coenraad Pels Rijcken (1810〜1889)
オランダの海軍軍人。1855年にオランダ国王ウィレム三世から将軍家定に寄贈されたスンビン(スームビング)号艦長として来日。そのまま長崎海軍伝習所教授として日本に雇用された。主に航海術と運用術を担当し、勝海舟、榎本武揚らを教えた。スンビン号は「観光丸」と改名され、江戸へ巡航訓練を行うなど実習に使われた。ライケンは約2年間滞在した後カッテンディーケらの第2教育団と交代し帰国。母国では中将にまで進級し、海軍大臣を務めた。 
hoofdfuncties en beroepen
- marineofficier op diverse schepen, tot 1847
- opleidingsofficier, KIM (Koninklijk Instituut voor de Marine) te Medemblik, vanaf 1847
- hoofd onderwijs aan zeeofficieren in Japan, tot 1856 (op verzoek van de Japanse regering) (日本の海軍士官の主な教育、1856まで (日本政府の要請により))
- commandant Zr.Ms. stoomschip "Ardjoeno", vanaf 1 juni 1862 (om het Japanse gezelschap af te halen uit Londen) (Zr.Ms 司令官の蒸気船「Ardjoeno」、6月1日から始まる 1862 (日本の会社のためにロンドンから奪うため))
- commandant Zr.Ms. fregat "Zeeland", van 1863 tot 1864 (reis naar Zuid-Amerika, Kaap de Goede Hoop)
- directeur en commandant Marine-etablissement te Willemsoord, van 1 juli 1865 tot 1 juni 1866
- minister van Marine, van 1 juni 1866 tot 4 juni 1868
- gepensioneerd, vanaf 1 augustus 1868
officiersrangen
- luitenant-ter-zee tweede klasse, van april 1831 tot december 1845
- luitenant-ter-zee eerste klasse, van december 1845 tot 1 mei 1856
- kapitein-luitenant-ter-zee, van 1 mei 1856 tot 19 februari 1861 (キャプテン中尉司令官は、5月1日から 1856 2 月19日1861)
- kapitein-ter-zee, van 19 februari 1861 tot 1 juli 1865
- schout-bij-nacht, van 1 juli 1865 tot 1 augustus 1868
- vice-admiraal b.d., vanaf 1 augustus 1868  
 

 

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