世界恐慌

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雑学の世界・補考

 
 

世界恐慌 1  
世界的規模で起きる経済恐慌(world economic crisis/panic)である。ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がる事象を世界恐慌という。世界初の例は、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落したことにより1857年に起こった1857年恐慌である。戦間期に重要な位置を占めるものとして、通史的には1929年に始まった世界大恐慌をさす。大恐慌とも。
背景
第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。
1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていた。
1927年にジュネーブで行われた世界経済会議では、恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審議・採択された。商業では関税引き下げ、工業ではコストダウン目的の産業国有化、独占禁止と生産調整の国際協定、農業では方法の改良と資金の貸付について議論された。しかし、決議そのものは各国議会から無視されてしまっていた。3月には昭和金融恐慌が起きた。
そして1929年7月30日、ニューヨーク・タイムズが信用収縮に直結するような重大事を書いた。ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出しであった。記事によると請求されている資産のうち、およそ500万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命のときから不法に預けられているものである。
根拠がない投機熱
アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、個人投資家も、信用取引により容易に借金が出来、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年8月9日、連邦準備制度は公定歩合を6%に引き上げた。同年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディはウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと述べた。
1929年9月26日、イングランド銀行が金利を引き上げ、アメリカの資金がイギリスへ流れた。このときすでに株価は下降局面に入っているため、後述の「暗黒の木曜日」については直接の原因がさまざまに想像される。
展開
そのような状況の下1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出た。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。
シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれた。翌25日金曜の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。
週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態となった。当日の出来高は1638万3700株に達し、株価は平均43ポイント下がり、9月の約半分になった。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になった。
10月29日は後に「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれた。投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。
過剰生産によるアメリカ工業セクターの設備投資縮小に始まった不況に金融恐慌が拍車をかけ、強烈な景気後退が引き起こされた。産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における世界恐慌は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。
証券パニックから世界恐慌へ
1930年12月、フランス植民地金融社Société financière française et coloniale (SFFC) が倒産の危機に瀕した。政府、インドシナ銀行、ラザール・フレール、それにベルギー総合会社が育てたユニオン・パリジェンヌ(フランス語版、英語版)、そしてオリエンタル・バンクをセイロンで苦しめた200家族のウォルムズ銀行(フランス語版、ドイツ語版)が救済融資に動いた。 フランス植民地金融社は1920年にオクタヴ・オンベルグ(1876-1941)とラザール・フレールがつくった。 これの子会社には太平洋戦争勃発2週間ほど前、デュポン、BPERE で2016年を騒がせているエドモン・ロチルド、そしてヴァレリー・ジスカール・デスタンの父親エドモンが参加した。1949年末にフランス植民地金融社はSociété financière pour la France et les pays d'Outre-Mer (SOFFO) と名を変えて、アフリカのフラン基軸通貨圏におけるインドシナ銀行系列の基金として活動した。
1931年1月、ボリビアがデフォルトした。そして他の南米諸国も次々と債務不履行に陥った。
同年5月11日、オーストリアの大銀行クレジットアンシュタルトが破綻した。この銀行は1855年にロスチャイルド男爵により設立された。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖したという。東欧諸国の輸出が激減し経常収支が赤字となり、旧オーストリア帝国領への融資が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。3月の独墺関税同盟の暴露に対するフランスの経済制裁により、オーストリア経済は弱体化していた。
クレジットアンシュタルトの破綻を契機として、5月にドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行(「ダルムシュテッター・ウント・ナティオナール」)が倒産し、7月13日にダナート銀行が閉鎖すると、大統領令でドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖された。ドイツでは金融危機が起こり、結果多くの企業が倒産し、影響はドイツ国内にとどまらず東欧諸国、世界に及んだ。
一般的には米国の株価暴落がそのまま世界恐慌につながったとされているが、ベン・バーナンキをはじめとする経済学者は異なる見解を示している。それは次のような理解である。
1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。
暴落の後、米国には金が流入していたが、FRBはこれを不胎化させ、国内のマネーサプライの増大とは結び付けようとしなかった。これにより米国では金が流入しているにも関わらずマネーサプライが減少し続けた。その為金本位制をとる各国は金の流出を抑えるために金利を引き上げざるを得なかった。こうした国々はマネーサプライを増やすことができずに次々と不況に陥った。特に金本位制を取っていたドイツやオーストリアや東欧諸国は十分な金準備を持たず、また第一次世界大戦とその後のインフレにより金融システムが極めて脆弱な状態であった。その為、米国やフランスへの金流出により金準備が底をついてしまい、金融危機が発生した。
当時の米国大統領、ハーバート・フーヴァーの「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は、一定程度真実であったが時遅く救いにはならなかった。
金本位制の元で、経済危機はそのまま経済の根幹を受け持つ正貨(金)の流出につながる。7月のドイツからの流出は10億マルク、イギリスからの流出は3000万ポンドだった。さらに数千万ポンドを失ったイングランド銀行は1931年9月11日金本位制を停止し、第一次世界大戦後の復興でやっと金本位制に復帰したばかりの各国に衝撃を与えた。イギリスは自国産業保護のため輸入関税を引き上げ、チープマネー政策を採用した。ポンド相場は$4.86から$3.49に引き下げられた。ブロック経済政策は世界中に波及し、第二次世界大戦の素地を作った。
特に1929年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で正貨を流出させた。  
各国の状況

 

未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程・速度については各国なりの事情が影響した。植民地を持っている国(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ソビエト連邦や日本、ドイツといった全体主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が宗主国諸国との軋轢を生んだ。恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局外為相場の国際的調整は第二次世界大戦後のIMF設立を巡る議論の中に送り込まれることとなった。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた軍縮と国際平和協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。この中で経済政策で対応し、かつ満州を経済圏として持った日本のGDPは1934年に恐慌前の水準に戻り、ニューディール政策を採ったアメリカは1936年には恐慌前の水準に回復したものの37年不況により再び34年の水準まで逆戻りし、1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった。
アメリカ
共和党のフーヴァー大統領は古典派経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対し6月からフーヴァーモラトリアムと称される支払い猶予を行った。合衆国内の銀行は9月に305行が、10月に522行が閉鎖した。9月中旬から10月末にかけてヨーロッパへ金が流出したが、連邦準備制度から出ていった金は総額7億5500万ドル相当であった。この年の純輸出5億ドル超を差し引いての結果であった。流出を防ぐために連邦準備制度は公定歩合を10月9日に1.5%から2.5%に、16日には3.5%に引き上げた。1932年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止した。家を失い木切れで作った掘っ立て集落は恨みを込めて「フーバー村」と呼ばれ、路上生活者のかぶる新聞は「フーバー毛布」と言われた。
こうした中、修正資本主義に基づいたニューディール政策を掲げて当選した民主党のフランクリン・ルーズヴェルト大統領は公約通りテネシー川流域開発公社を設立、更に農業調整法や全国産業復興法を制定した。
フーバー政権の1930会計年度の歳出予算は対GDP比3.4%程度だったが、1934年にルーズベルト政権は10.7%まで引き上げた。
ただ、ニューディール政策はその後労使双方の反発があり、規模が縮小されるなどしたため1930年代後半には再び危機的な状況となった。このため、同政策にどれほどの効果があったかについては経済学者の間で賛否両論が分かれている。多くの労働組合が賃金の切り上げを要求、実質賃金の切り上げ(ワグナー法)は他の大勢の労働者の解雇につながった。
1936年、すでにインフレ傾向にあったことを警戒したFRBは金融引き締めに転じ預金準備率を2倍に引き上げた。米国の債務残高はGDP比40%という前代未聞の水準に達したため、ルーズベルト大統領とヘンリー・モーゲンソー財務長官は財政均衡に舵をきり、財政健全化を進めようとした。1936-38年にはGDP比5.5%の財政赤字を解消した。しかしこの1937年の財政支出大幅削減予算により1938年は不況になり、実質GDPは11%下がり失業率は4%上昇し、「ルーズベルト不況」と呼ばれることになる。ニューディール期間中財政支出赤字の対GNP比が10%を超えた年は2度である。アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。太平洋戦争が起こり、連邦政府はようやく見境のない財政支出を開始し、また国民も戦費国債の購入で積極財政を強力に支援した。1943年には赤字が30%を超えたが失業率は41年の9.1%から44年には1.2%に下がった。しかしダウ平均株価は1954年11月まで1929年の水準に戻ることはなかった。
イギリス
労働党のマクドナルド内閣は失業保険の削減など緊縮財政を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに保守党と自由党の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年9月21日、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる金本位制の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、1937年6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができずウェストミンスター憲章により自治領と対等な関係を持ち、新たにイギリス連邦を形成、これを母体にブロック経済(スターリング・ブロック)を推し進めていくことになる(ただしインド帝国はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる)。
日本
第一次世界大戦の戦勝国の1国となったものの、その後の恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済は、世界恐慌の発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況に陥る。株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職できない者や失業者があふれた(『大学は出たけれど』)。恐慌発生の当初は金解禁の影響から深刻なデフレが発生し、農作物は売れ行きが落ち価格が低下、1935年まで続いた冷害・凶作、昭和三陸津波のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。
高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)や1932年より始まる農山漁村経済更生運動(自力更生運動)、1931年12月17日の金兌換の停止による円相場の下落もあり、インドなどアジア地域を中心とした輸出により1932年には欧米諸国に先駆けて景気回復を遂げたが、欧米諸国との貿易摩擦が起こった。1932年8月にはイギリス連邦のブロック政策(イギリス連邦経済会議によるオタワ協定)による高関税政策が開始されインド・イギリスブロックから事実上締め出されたことから、日本の統治下となっていた台湾や、日本の支援を受け建国されたばかりの満州国などアジア(円ブロック)が貿易の対象となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。日中戦争がはじまった1937年には重工業の比率が軽工業を上回った。さらには1940年には鉱工業生産・国民所得が恐慌前の2倍以上となり、太平洋戦争におけるイギリスやアメリカ、オーストラリアなどに対する優勢が続いていた1942年夏まで景気拡大が続いた。ただし戦時下の統制経済下であり、生活物資不足となっていた。
1931年12月の高橋蔵相就任以来、積極的な財政支出政策(ケインズ政策)により日本の経済活動は順調に回復を見せたが1935年頃には赤字国債増発にともなうインフレ傾向が明確になりはじめ、昭和11年(1936年)年度予算編成は財政史上でも特筆される異様なものとなった。高橋(岡田内閣)は公債漸減政策を基本方針とした予算編成方針を1935年6月25日に閣議了解を取り付けたものの、軍部の熾烈な反発にあい、大蔵省の公債追加発行はしないとの方針は維持されたものの特別会計その他の組み換えで大幅な軍備増強予算となった。結局この予算は議会に提出されたものの、翌1936年1月21日に内閣不信任案が提出され議会が解散し不成立となった。実行予算準備中の2月26日に二・二六事件が発生し高橋の公債漸減主義は放棄されることになった。
経済政策では1931年(昭和6年7月公布)の重要産業統制法による不況カルテルにより、中小産業による業界団体の設立を助成し、購買力を付与することで企業の存続や雇用の安定をはかった。また大企業を中心に合理化や統廃合が進んだ。重要産業統制法はドイツの「経済統制法」(1919年)をもとに包括的立法として制定され、同様の政策はイタリアの「強制カルテル設立法」(1932年)、ドイツの「カルテル法」(1933年)、米国の「全国産業復興法」(1933年)などがある。1930年代には数多くの大規模プロジェクトが実施された。
フランス
フランスでは世界恐慌の影響を1931年まで逃れる事に成功した。1931年9月21日にイギリスが金本位からいちはやく離脱しポンドの平価切下げ(チープマネー政策)を実施して以降、フランス経済は明確に下降し、すべての指標が恐慌の進行を示した。外国貿易は持ちこたえフランス銀行の金準備はなお増え続けたが、失業は増大し物価は卸売物価も小売物価も著しく低下した。労働時間給はゆるやかに下降を始め、株式相場の崩壊は顕著であった。1931年7月に始められた原料と食料品に対する輸入数量割当制度が、イギリスの金本位離脱に続く6ヶ月間にさらに拡大され、1932年2月にはフランスで小麦粉に使用される小麦の90%が国内産であることを義務付ける法案が成立した。
フランスは第一次大戦の賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日にルール地方を占領していた。フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。
1928年には金為替本位制に復帰したがイギリスが旧平価で復帰したのに対し、フランスはフラン安の新平価で復帰したため経常収支は黒字化し、また金為替本位制に否定的な立場から金の流入政策をとり、対外投資を引き上げ、経常収支の黒字を金で受け取ることを求めた。このフランスの金の吸収はとりわけロンドンの金準備への圧力となり、イギリスを再度の金本位離脱に追い込むことになった。
イギリスと同様、ファシズムに対抗するため仏ソ相互援助条約を締結。そしてコミンテルンの指導を受けたレオン・ブルム人民戦線内閣を組閣する。
イタリア
イタリアは元々第一次世界大戦直後から経済混乱に陥りミラノ株式取引所も不振が続いていたため、逆に世界恐慌の影響はほとんど受けず、多くのイタリア人は株価大暴落の知らせを聞いても、「ああそうか」というだけで今までどおり暮らしていたと言う。
1861年に統一されたばかりのイタリアは第一次世界大戦で領土を獲得できると期待していたが徒労に終わった。イタリアでは共産主義と国粋主義の対立が長引いていたが、ムッソリーニの組閣によりファシスト党の一党独裁が始まって以降、イタリアでは共産主義者の大半は国外に逃亡し、ストライキによる鉄道の遅延は解消された。ファシストは古代ローマの栄光を取り戻すことを目指していたが、現実のイタリアは荒廃しており、国民が豊かになるためのチャンスは他国へ移民することであった。ファシスト政権は公共土木工事と産業統制による中小企業の整理統廃合に注力し、政権は独身者への課税と母親への褒賞により出生率は向上した。
ドイツ
ドイツは第一次世界大戦の敗戦で連合国から巨額の賠償金を請求され、フランスのルール占領にともなうハイパーインフレーションにより、従来の賠償金徴収体制が崩壊したことは明らかとなった。このためアメリカを賠償金支払いプロセスに参加させることで円滑な支払いが可能になり、またアメリカをはじめとする外国資本がドイツに導入され、ドイツ経済は回復傾向が続いていた。
しかし大恐慌によってドイツ経済は深刻な状態へ陥った。アメリカ資本は次々と撤退し、復興しかけていた経済は一気にどん底に突き落とされた。失業率は40パーセント以上に達し銀行や有力企業が次々倒産、大量の失業者が街に溢れ国内経済は破綻状態となる。さらに1931年3月23日に、ドイツがオーストリアと締結した関税同盟をヴェルサイユ条約違反だと非難したフランスが、制裁としてオーストリアから資本を引き揚げたことがきっかけとなりオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタットが破綻したことは欧州全体に深刻な金融危機をもたらした。さらに賠償問題を解決するため、新たに検討されたヤング案に対する反発は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の躍進をもたらした。ハインリヒ・ブリューニング首相はこの危機にデフレーション政策で対応しようとしたため、かえって経済危機は深刻となった。ブリューニングが解任された後のフランツ・フォン・パーペン内閣とクルト・フォン・シュライヒャー内閣では、雇用拡大政策による経済安定化を図ろうとしたが、政権基盤が不安定であったために十分な成果を上げられないまま退陣した。
1933年、1月30日ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命した。ヒトラーらとナチ党は、ドイツ国会議事堂放火事件を口実にドイツ共産党やドイツ社会民主党を弾圧し、ドイツ国内の権力を掌握した(ナチ党の権力掌握)。この間、前内閣で採用された雇用拡大政策と、6月からの第一次ラインハルト計画、9月からのアウトバーンの建設、秘密再軍備などで失業者は急速に減少した。ドイツの恐慌からの回復はイギリスやアメリカに比べても極めて早く、同時代人の注目を集めた。これらの資金はメフォ手形などの手形を利用する特殊なものであった。しかしヒトラーにとって経済政策は「すべてを軍に」向かわせるためのものであり、1936年から開始された第二次四カ年計画では自給自足経済体制と、さらなる軍備拡大が継続された。チェコスロバキア問題などの軍事行動で政府の債務はふくらみ、1938年には2度支払い不能になる事態となった。インフレ圧力が強まる中、拡張政策が継続されることになる。
ソ連
ソ連は共産主義国家だったため、主要国の中でただ一国、世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続け、1930年にはGDP2523.3億ドルでイギリスを超えて世界第2の経済大国になった。以後、スターリンの推進する五カ年計画で着々と工業化を進めていった。ソビエトのプロパガンダもあり、自由主義諸国の研究者の中には社会主義型の計画経済に希望を見出す者も多く出たが、実際にはホロドモールや食糧の徴発でポーランドに脱出するロシア人の漸次増加が起きていた。極東・シベリア開発には政権により意図的に作り上げられた「にわか囚人」が大量に動員された。
世界各国が大恐慌に苦しむ中、計画経済で経済発展を続けるソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とヨシフ・スターリン書記長の神格化傾向が進んだ。大恐慌下で救いを求める人々の一部は共産主義に希望的な経済体制を夢見た。特に英国の支配階級で裏切りが続出した事は冷戦時代に大きな意味を持った。しかしスターリンの目指したのはレフ・トロツキーの国際主義ではなくソ連の国益であった。
中華民国
中国は当時南京国民政府の成立(1928年)当初であり、清朝以来の幣両制を元制に移行させつつある段階であった。中国の主要な港湾はすべてイギリスにより支配されており、関税の自主権を持たない状況にあった。この状況で中国は世界恐慌に見舞われた。中国の幣制は金本位制ではなく銀本位制を取っていた(銀元)ため、当初は国内の物価も安定しており、国際交易にも問題は発生しなかった。1931年9月に立て続けに発生した満州事変とイギリスの金本位制度離脱は中国の経済にとって負の画期であり、国際交易ではそれまでの銀流入傾向が流出に転じ、物価の下落や商工業・海外貿易の縮小に見舞われた。1934年にはアメリカの銀買上法が成立しアメリカが銀の法定備蓄を開始すると国際市場での銀価格は急騰し、中国から大量の銀が流出し、金利の高騰や物価の下落、銀行の倒産などが発生した。
社会科学における解釈とその影響
政治経済学
世界恐慌は「基軸通貨交替」「覇権国交替」に伴う当然の、あるいは必然的な事態と考えられる。英仏を中心とする世界体制が第一次世界大戦で崩れ、米国が覇権国になる途中の出来事であった。世界の富を集めた結果として世界的に通貨が必要であったが、金本位制のもとで通貨創造が出来ない各国は米国からの資金還流を待つしかなかった。しかし米国には覇権国の責任を受ける準備が出来ておらず、国際連盟には参加せず、ドイツなどの経済的苦境を放置した。さらに「真正手形説によるデフレ政策」を取り、米国の繁栄を世界各国に分かち合うことがなかったため、世界各国の経済的苦境が結局米国自身に跳ね返った。貨幣収縮によって米国の生産量に見合うだけの支払うべき資金(有効需要)がどこにもないからである。米国はインフレを受容して、その本位金保有高以上の資金創造を海外に投資することで国際分業を促進しなければならない立場にありながら、むしろ投資資金を引き上げる事で世界各国の流動性を枯渇させた。モンロー主義(孤立主義)が優勢で、ウッドロウ・ウィルソンの国際主義ではなかった。第一次世界大戦の参戦も、ルシタニア号事件とツィンメルマン電報事件が必要であった。第一次世界大戦後でさえ、ウィルソンが設立に尽力した平和のための国際組織「国際連盟」には上院の反対で参加できなかった。
レンテンマルクを発行しドイツの天文学的インフレ(レンテンマルク発行直前で1$=4兆2000億マルク)を収束させたワイマール共和国のグスタフ・シュトレーゼマンの功績は結局彼の死とともに水泡に帰し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の勃興を促した。
軍事ケインズ主義を取ったドイツ・イタリア・日本などが急速に復興し、米国のニューディール政策は景気の回復に結び付くには小さすぎたため、状況を好転させたが完全に癒すには至らなかった。ニューディールはケインズ主義の需要喚起策の成功と考えられ、事実、状況を好転させたが、「真正手形説」のFRBが貨幣発行を金準備にあわせて、激しくマネーサプライを削った悪影響を完全に消去するに充分な、財政・金融拡張政策は組まれなかった。ケインズ自身も自覚していたように、戦争と戦時国債発行によるマネーサプライが強力に余剰生産力を解消したのである。そういう意味でも「デフレ的」な「真正手形説論者」によって1929年に始まった世界恐慌は第二次世界大戦の素地を作ったと言える。事実、ニューディールは世界経済の需給ギャップを埋めるにはあまりにも小さく、財政出動に慎重でありすぎ、期間も十分ではなかった。アメリカは第二次世界大戦によってようやく後先を考えない政府支出を始め、国民もまた強力に政策を支持したことによりようやく不況から脱却し、飛躍するのである(参照:軍事ケインズ主義)。
経済学
マルクス経済学では、資本主義諸国の経済の有機的連関によって、資本主義経済の矛盾も世界的に爆発的に広がる危険性を持つという。当時は「市場は自身で調整を行う機能を持っており、政府の介入は極力すべきではない」という自由放任主義の考え方が主流であった。また、オーストリア学派などによって大恐慌は蓄積した市場の歪みを調整するための不可避の現象であるという見方もなされた。しかし、このような考え方では1930年代に世界が直面した大恐慌を説明し世界経済を救い上げる手立てを提供することができず、新しい経済理論が求められた。
行政府による財政出動による経済刺激策はフランス革命前後の啓蒙思想の頃から盛んに議論されてきた論題であったが、古典派経済学の過少消費説への勝利以降、政府の介入は民間の経済活動を圧迫するだけであるとの考えが通説となった(クラウディングアウト)。大恐慌の発生以降、再びこの論題がアメリカおよびイギリスで盛んに論議され、アメリカでは共和党のフーバー政権が赤字財政と国債発行に反対し、均衡予算主義のためにクラウディングアウトの議論を援用した。また、イギリスでは保守党政権下の財務省が同様の理論でジョン・メイナード・ケインズの立案になる自由党の提案と対立した。
ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)の中で、政府による財政出動によって、失われた雇用の創出と有効需要の創出が可能であり、投資の増加が所得の増加量を決定するという乗数理論に基づき、減税・公共投資などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、回復可能であることを示した。また経済学的により重要な貢献は、通貨の価値を金塊から切り離し、物価と金融市場の需給(名目金利)に通貨の価値を直接むすびつける管理通貨制度の有効性を論証してみせた点にある。後者の理論的価値についてはアメリカ議会や国際会議では十分に理解されず、ケインズの提唱するバンコールは採用されず、戦後の国際通貨体制は金塊との兌換を保証されたドルを機軸とし各国通貨がそれにリンクするブレトンウッズ体制が採用される。
反ケインジアンの筆頭とされるマネタリストのミルトン・フリードマンは、ニューディール政策が直接雇用創出を行ったことは緊急時の対応として評価するものの、物価と賃金を固定したことは適切ではなかったとし、大恐慌の要因を中央銀行による金融引締に求めている。
社会心理学
アメリカでは、大恐慌時に生まれた第二次世界大戦後のベビーブーマー世代の親世代の人々は、非常にリスクを回避するという調査結果が出ており、その傾向は景気が良くなっても変わらず一生続いたとされている。
 
世界恐慌 2

 

1929年に始る大恐慌。資本主義世界で銀行倒産、失業の連鎖反応から、急激な不況が波及し、その打開を目指す軍国主義・ファシズムを台頭させ、第二次世界大戦がもたらされた。
1929年にアメリカ合衆国の戦間期で始まり、1933年にかけて世界に広がった経済不況(恐慌)のこと。発端はアメリカ合衆国のウォール街にあるニューヨーク株式取引所で1929年10月24日(後に「暗黒の木曜日」といわれた)に株式が大暴落したこと。1930年代に入っても景気は回復せず、企業倒産、銀行の閉鎖、経済不況が一挙に深刻になって、1300万人(4人に1人)の失業者がでた。恐慌はおよそ1936年頃まで続いた。またこの恐慌が世界に波及し、ヨーロッパ各国から日本などアジア諸国にも影響を受け、資本主義各国は恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深め、第二次世界大戦がもたらされることとなった。
アメリカ発の世界恐慌
アメリカの投資家(株主)たちは、湯水のようにつぎ込んでいた資金を回収できないのではないかと不安になり、株価の値下がり前に売ってしまおうという心理が一斉に働いて、1929年10月24日(木曜日)に、ニューヨークのウォール街にある株式取引所で一斉に株価が暴落した。企業に投資していた銀行に対し、預金者は一斉に預金を引き出しに殺到し、支えきれなくなった銀行が倒産。融資のストップした企業は倒産し、工場は閉鎖され、労働者は解雇されて失業者があふれた。有効需要はますます低下し、さらに不況が続くという悪循環に陥った。当時のアメリカ共和党フーヴァー大統領は不況は周期的なもので、景気はまもなく回復すると考え、また「自由放任主義」、つまり市場原理に任せておけばいいという従来の共和党の基本方針を守ったため対応が遅れることとなった。
アメリカの経済不況の要因と背景
アメリカの恐慌発生の要因と背景としては次のようなことが考えられる。 •1920年代の戦後好況の中で資本・設備への過剰な投機が行われ「生産過剰」に陥った。
•農産物も過剰生産のために価格の下落する農業不況が起こり、農家収入が激減、国内の有効需要が低下した。
•各国とも自国産業の保護のため、高関税政策(保護貿易主義)に転換したので、世界市場の拡大も阻止されていた。
•同時にアジアの民族資本の成長、ソ連社会主義圏の成立などで、アメリカの市場が縮小していた。
•企業は生産を減少させたため失業者が増大、さらにそのため購買力は減退し、さらなる生産減少へといおう悪循環に陥った。
世界恐慌の波及
アメリカ発の株式暴落が世界恐慌に拡大した理由は、アメリカ合衆国が第一次世界大戦後、世界最大の債権国となっており、世界経済がアメリカ経済に依存する体質になってしまっていたためであり、アメリカの経済が破綻したことが必然的に世界経済の破綻へとつながってしまった。
恐慌は、まず西半球のアメリカ勢力圏からアジアの植民地・従属国に広がり、さらにヨーロッパの工業国へと波及した。全資本主義国の全経済部門に及び、1929年から32年までに世界の工業生産は半減し、32年末には全世界の失業者は5000万人を越えたと推定されている。とくに恐慌が深刻になったのはドイツであった。1931年5月、オーストリアの銀行クレディット=アンシュタルトが破産し、それを機に中欧諸国の金融恐慌が発生し、ドイツにあった金は国外流出を続け、財政は巨額の赤字となった。特に多額の賠償金と負債を抱えていたドイツはアメリカの支援で経済が成り立っていた(ドーズ案)ので、ドイツ経済も破綻、そのドイツから賠償金を取り立てていたイギリス・フランスの経済も破綻した。ドイツでは3人に1人が失業、同年6月にはブリューニング首相は賠償支払いが困難であることを声明した。
世界恐慌に対する当初の対策
アメリカ合衆国は1930年6月、スムート=ホーレー法を成立させ、農産物だけではなく工業製品でも関税引き上げを実施した。各国も自国産業を守るために、保護貿易主義に転換したため、世界的な貿易不振が起き、かえって恐慌を長期化させることとなった。またドイツの窮状を救うため、フーヴァー大統領は1931年6月にフーヴァー=モラトリアム(支払猶予令)、を発表し、戦債・賠償金支払いを1年停止することにしたが、タイミングが遅すぎて効果はなかった。ドイツはモラトリアムの満期の前に賠償支払い不能を宣言、急遽ローザンヌで国際賠償問題会議が開催され、ドイツの賠償支払いをヤング案の約12分の1に当たる30億マルクまで減額し、賠償問題は事実上、棚上げとされた。イギリス・フランスは同時にアメリカに対する戦債も帳消しにすることを前提としようとしたが、アメリカは会議に出席せず、それを認めなかった。結局ドイツにヒトラー政権が成立して。対米戦債は曖昧なまま終わった。
世界恐慌の及ばなかったところ
このように、資本主義は市場原理に任せたままだと常にこのような矛盾が起こる。そこで、資本主義経済を否定して国家による計画経済によって恐慌が起きないようにしようというのが社会主義の考えである。事実、世界恐慌が起こった時にすでに社会主義体制をとっていたソヴィエト社会主義共和国連邦はその影響を受けず、五カ年計画を推進した。しかし、同時にスターリン独裁体制が形成され社会主義も根底から変質した。
世界恐慌の諸相
生産過剰
1920年代のアメリカ合衆国の戦間期で資本主義の矛盾が強まって起こった経済現象で、1929年に始まる世界恐慌の主要な原因と考えられる。アメリカは第一次世界大戦で高まった需要に対し、設備投資を続けた。自動車、住宅などからラジオ、洗濯機、冷蔵庫といった電機製品、さらに化粧品などの新たな消費財が大量に生産され、セールスマンと大量広告という新たな販売促進法と月賦販売という信用販売が使われるようになったことで大量消費(必要以上に消費する傾向)に拍車がかかった。1920年代後半には早くも商品は飽和状態となり、農業不況も加わって購買力も低下し始めた。しかし、企業は株式ブームという過剰な投機によって支えられ、さらに増産を続けた。このように1920年代のアメリカ経済の繁栄を支えていたのは、信用販売と株式による資金調達という、いずれも需給関係の実態から離れた手法によるものであった。その点では、2007年に始まる現代の恐慌が、金融工学から生まれたサブプライムローンなどの金融商品の破綻から始まったことに共通している。
過剰な投機
1920年代のアメリカ経済の好況の中で進んだ株式投資ブームの加熱などの状況。1929年、その反動として起こった株価暴落が、世界恐慌の引き金となった。第一次世界大戦後、世界の金はアメリカ合衆国とフランスに流れこんできた。特にアメリカでは流入する金と、イギリス・フランスからの戦債の返済によって潤沢な資金を抱えることとなった。銀行はあまった資金を株式仲買人に貸し付け、仲買人はあらゆる人びとに株を買うことを勧め、株式投資ブームが起こり、1929年春から夏にかけての「大強気」相場がピークに達した。しかし、購買力の低下と過剰生産のギャップも一般人に知られることなく激しくなっていた。投機的な売買でつり上がった株価と、企業の経営実態は、人知れずかけ離れてしまっていた。ようやくそのことに気がつき始めた一部投資家が株の投げ売りを始めていた。株価はやがて「大天井」をうち、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」に、一気に猛烈な売りが殺到し、世界恐慌が始まった。株式ブームの実態はつぎのようなことであった。
(引用)「コロンブスもワシントンもフランクリンもエジソンもみな投機家だった。」ということばで人びとは投機の危険性を忘れ、「誰もが金持ちになるべきだ」という題名の文章でジョン=ラスコブは、人が一ヶ月にほんの15ドルを節約してこれを優良株に投資しすれば、配当金などを別としても、20年後には少なくとも8万ドルの金を手にすることができ、この投資から受ける収入は少なくとも月額四百ドルになる、と説いた。また会社どうしが株を持ち合い、実際の株の価値については誰もわからなくなった。投資信託も急増し(なかには詐欺まがいのものあった)、セールスマンが株を売りまくった。その投資会社の株も高値で売られ、資本の巨大なピラミッドが出来上がった。人びとは仲買人の言うことを信じるほかなかった。「雑貨屋、電車の運転手、配管工、お針子、もぐり酒場の給仕までが相場をやった。反逆しているはずの知識人さえも、市場にいた。」
農業不況
特にアメリカ国内の購買力を低下させ、1929年の世界恐慌の背景となった。第一次世界大戦時に食糧需要が高まり、価格も上昇したため、世界的な穀物増産が行われた。小麦はアメリカ合衆国をはじめ、アメリカの資本が投下されてアルゼンチン、カナダ、オーストラリアなどで作付け面積が増加・機械化が進んだため、生産が増大し、戦後もその傾向が続いた。戦後はフランス・ドイツなどヨーロッパ諸国が農産物の自給化にはかって農産物に高関税をかけるようになった。小麦以外の砂糖、綿花、ゴム、コーヒーなども生産量が著しく増え、1924年頃から供給過多による農産物価格の下落が始まった。とりわけ農産物輸出国の国際収支を悪化させることとなった。
アメリカの農民は、大戦中に借金をして耕地を拡大し、機械を購入していたため、農産物価格の影響をもろに受け耕地を手放さなければならない農民も多くなった。農業不況は長期化し、さらに1929年秋は豊作であったため、いわゆる「豊作貧乏」が重なり、農民の購買力が著しく低下し、世界恐慌の一因となった。
失業者の増大
1929年の世界恐慌から1933年のニューディールまでを三期に分けて、その時期の特徴をまとめると次のようになる。
第1期(1929年10月〜30年9月) 1929年の失業者数は155万(労働人口全体の3.2%)だったのが、30年には434万人(8.7%)に増加。しかしまだ失業の深刻さは認識されず、人びとは「いつ好況に戻るか」を期待した。スムート=ホーレー法の高関税によって国内市場は回復すると期待され、州政府による公共事業やハイウェイ建設も行われた。ニューヨークのエンパイア・ステート・ビル(摩天楼)も30年に建設が始まり、31年に完成した。
第2期(1930年10月〜31年12月) 30年の冬から失業者が一気に増加した。31年には802万人(15.9%)となる。各自治体や都市は自衛的な失業者向けの給食や宿泊施設提供した。また恐慌の影響を受けなかったソ連の計画経済への関心が高まった。31年6月のフーヴァー=モラトリアムはヨーロッパ経済の救済となると期待されたが、現実はドイツの金融恐慌に始まり、イギリスが金本位制を離脱して不安が強まった。
第3期(1932年1月〜33年3月) 失業者は1200万(24%)に達し、このころから失業者のことを恐慌当初のように「仕事のない人」(the idle)ではなく、「失業者」(unemployed)と呼ぶようになった。フーヴァー大統領も失業対策に乗り出したが、仕事の確保は民間企業の責務だと考えられたので本格的にはならず、失業者数は33年に1283万人(24.9%)の最高水準に達した。(ニューディール開始後、1937年までに770万(14.3%)まで回復する。)
「フーヴァー村」と失業者の反乱
(引用)すべてを失った人びとが都市の公園や空き地に木切れや段ボールでつくったバラック小屋の集落は「フーヴァー村」、新聞紙は「フーヴァー毛布」、引っぱり出された空っぽのズボンのポケットは「フーヴァーの旗」と呼ばれるようになった。」1932年3月7日にはデトロイトで共産党に先導された3000人がフォード社工場に抗議に詰めかけた。市の警察隊はデモ隊にむかって催涙ガス弾を発射、デモ隊は石や凍土片を投げて抵抗した。警官隊は実弾射撃を加え、デモ隊の4人が殺され、50人が重傷を負うという事件が起こった。1932年7月には、ボーナス要求のためワシントンに集まった退役軍人のキャンプを軍隊を動員して焼き払った(マッカーサー将軍が指揮を執った)。
世界恐慌への対応
ブロック経済への転換
各国はそれぞれ、自国の生き残りのための経済を立て直しに走ることとなった。イギリスではマクドナルド挙国一致内閣が、1931年の金本位制停止に踏み切ると、33年にはアメリカ合衆国も金本位制停止に同調し、世界金本位制は崩壊した。またイギリスがオタワ連邦経済会議でイギリス連邦内の自治領との特恵関税を設けて他地域に対する保護関税政策に踏み切るとともに、スターリング=ブロックを構築すると、フランスのフラン経済圏、アメリカのドル経済圏など資本主義列強は通貨ごとのブロック経済政策を採用することとなった。しかし、各国がブロック経済によって保護貿易主義に転じたため、世界全体の自由貿易が衰退して貿易額が減少し、世界全体の不況にさらに加速させることとなった。
資本主義諸国は危機感を抱き、1933年6月、国際連盟が主催してロンドン世界経済会議を開催し、67カ国が集まり、世界恐慌からの国際的な対応を協議する努力を行った。しかし、この会議では、アメリカのローズヴェルト大統領は世界経済全体に責任を持つことを怠り、賠償問題についての議論が避けられ、また通貨の安定などにも各国の利害が対立したため、結局まとまらず、戦争による解決へと向かうことになってしまった。
アメリカのニュー=ディール政策
1933年に登場したアメリカ合衆国のF=ローズヴェルト大統領のニューディール政策は農産物の過剰供給を抑え、工業生産の国家管理を強め、大幅な財政出動で公共事業を興して雇用を創出し、国内購買力の回復を図った。また、そのためには労働者の保護や社会保障の充実などにも取り組み、銀行を厳しく監視するなど資本主義の枠内での大胆な改革を実施した。そのような資本主義の原則を守りながら、自由放任ではなく政府が経済を強力にコントロールする必要があるという考えを理論化したのがイギリスの経済学者ケインズであった。彼は有効需要を増加させることによって過剰生産を解消するなどをめざし国家の財政政策によって公共事業を興して雇用を創出したり、低金利によって貯蓄を消費に回すことによって購買力をつけることなどを唱えた。アメリカは国内資源が豊かだったこともあって、次第に経済危機を克服し、第二次世界大戦を迎えることとなる。
ファシズムの台頭
世界恐慌の影響を最も強く受けたのがドイツ共和国であった。また植民地が少なく、国内資源も少ないイタリアも経済が破綻した。アジアでは日本はすでに大陸進出を果たしていたが、国内には地主制度など古い社会構造が残り、農村不況が慢性化し、低い購買力にとどまっていたため、資源と市場を海外に求める経済界と軍の思惑が強まっていた。このような「持たざる国」であるドイツ・イタリア・日本にファシズムが台頭する直接的な契機も世界恐慌にあった。特に、ドイツは第一次世界大戦の莫大な賠償金をフランスなどに支払わなければならず、1924年のドーズ案で軽減されたものの、アメリカ合衆国の資金援助で経済復興を図るという図式になっていたため、アメリカ発の世界恐慌の影響を最初に受けざるを得なかった。1931年6月のフーヴァー=モラトリアムはドイツ経済の悪化を立ち直らすことが出来ず、1933年には失業者は600万に増大した。そのような危機が高まる中で、同年1月ヒトラーが首相に任命され、独裁政治を開始する。同じ年3月には、一方のアメリカでF=ローズヴェルトが大統領となり、ニューディール政策開始される。
第二次世界大戦への道
広大な国土・植民を所有し、原料を市場を確保することのできる「持てる国」であったイギリス・フランス・アメリカがブロック経済を構築して、排他的になると、後発の帝国主義国家であったドイツ・イタリア・日本は「持たざる国」として振る舞うことに口実を与え、この三国はそれぞれ、「生存圏」の拡張を掲げて、ドイツは東ヨーロッパに領土を拡張しようとし、イタリアは北フリカのエチオピアやバルカンのアルバニアへの進出、日本は満州から中国本土への進出を1930年代から展開していった。このような新たな帝国主義による世界分割競争は世界恐慌を機に一気に強まり、ヴェルサイユ体制とワシントン体制、あるいはロカルノ体制と言った地域安全保障の枠を崩壊させ、国際連盟の集団安全保障も機能しなくなり、第二次世界大戦へとつながっていった。
第二次世界大戦後の恐慌対策
第二次世界大戦後も好景気と不景気の波や、幾度かの経済危機はあったが、基本的には「世界恐慌」を避けることができている。それは、戦前の各国バラバラの経済政策が激しい競争を生み出したことを反省し、国際連合のもとで、国際経済体制の安定を図るための国際通貨制度として、ブレトン=ウッズ体制という国際通貨基金(IMF)や、関税と貿易に関する一般協定=GATTによる自由貿易の推進などが機能したことによる。その中核となったのがアメリカ経済であり、ドルを基軸とする固定為替相場制のもとで安定した戦後経済の復興が進んだ。また、資本主義諸国でも市場原理だけにまかせず、政府が経済をコントロールする社会主義的な原理を取り入れた混合経済体制をとったことも安定の要因であった。
2008年の新たな経済危機
ところがこのような世界経済体制も1970年代から大きく変化し、アメリカ経済の落ち込み、日本経済の台頭、新興経済地域の台頭、EUなど地域経済統合の進展とならんで、市場経済万能主義(新自由主義経済)の復活といった傾向がでている。特にアメリカ合衆国のブッシュ(子)政権の下で規制緩和政策が推進され、金融工学と称するさまざまな投機マネーによる利益追求が加速してサブプライム問題が起こり、2008年9月には金融大手のリーマンブラザースの破綻をきっかけに、ふたたび世界恐慌の危機に立ち至っている。  
 
世界恐慌 3 / アメリカ合衆国の経済史

 

狂騒の20年代 / 1920年-1929年
常態に復することと高い戦時税制の終了を要求した共和党のウォレン・ハーディング大統領の下で、財務長官アンドリュー・メロンは関税を上げ、他の税金を下げ、大きな歳入超過を使って1920年から1930年までに国の負債を3分の1まで下げた。1924年から1928年までの5ヵ年は世界のドル建て外債発行額は毎年10億ドルを超えた。そのうち1926年から1928年までの3ヵ年はラテンアメリカの発行額は毎年3億ドルを超えた。商務長官ハーバート・フーヴァーは商習慣を規制することで効率を導入するよう努めた。
この繁栄の期間は当時の文化と共に狂騒の20年代と呼ばれる。自動車産業の急速な成長によって石油、ガラスおよび道路建設などの産業が刺激された。観光産業が急拡大し車を持った消費者は買い物の行動半径が拡がった。小都市が繁栄し、大都市はオフィス、工場および住宅の建設で活況を呈し、かつてない10年間を過ごすことになった。新しい電力事業が企業や毎日の生活を変えた。電話や電気が都市部を中心に普及したが、農村部ではそれほどでもなかった。農夫は戦時の土地価格バブルの影響から回復出来なかったし、また、第一次世界大戦中に小麦の生産・輸出が拡大したことが尾を引いて、農産物過多による農業価格下落・農業所得減少に苦しめられた。経済構造の変化からトラスト(企業合同)や持株会社による事業会社買収が進められ、買収資金調達のために株式や社債が相次いで発行された。また会社型投資信託が提案され、株価上昇につながった。
株価上昇が続く中、1929年6月には景気はピークアウトしていき、ついに10月24日、証券市場が崩壊し、1929年のウォールストリート崩壊の中で銀行が倒産し始めた。
世界恐慌 / 1929年-1941年
連邦準備制度理事会は恐慌を起こしたわけではなかったが、銀行を助けることで恐慌を防ぐ努力もしなかった。脆弱な銀行システムの存在により、預金者は自分の預金を守ろうと不安に駆られ、取り付け騒ぎを起こした。一旦、取り付け騒ぎが起こると銀行の連鎖破綻の可能性もあり、銀行は預金に対する準備率を引き上げた。1930年から1933年3月までの間に4回の銀行恐慌が発生し、その間に現金・預金比率と準備・預金比率が上昇したため、貨幣乗数は低下、ハイパワードマネーの上昇にもかかわらず、貨幣乗数とハイパワードマネーの積である通貨供給量は1933年には1929年の3分の2の水準にまで落ち込み、物価を急激に下落させた。
ハーバート・フーヴァー大統領は、貿易不振を世界恐慌の原因とみなし、貿易振興の観点からフーヴァーモラトリアムを提唱し、第一次世界大戦の賠償金の支払い猶予を提唱したが一方で、大増税法案を通して落ち込む歳入を増やそうとし、保護主義のスムート・ホーリー関税法に署名したが、これはカナダ、イギリス、ドイツなど貿易相手国の報復を呼んだ。アメリカ経済は不況に陥った。1932年までに失業率は23.6%にもなった。状況は重工業、製材業、輸出用農産物(綿花、小麦、タバコ)および工業で悪かった。ホワイトカラーや軽工業ではそれほど悪くなかった。
フランクリン・ルーズベルトは1932年の大統領選のキャンペーンに「3つのR - 救済、回復および改革」(Three R's - relief, recovery and reform.)を主唱し、彼はそのスピーチの中で“ニュー・ディール”の用語を造った。この大統領選は政策論争に終わらなかった。1932年3月4日からペコラ委員会が発足して暗黒の木曜日を引き起こした原因を調べ始めた。主催はニューヨークの検事補フェルディナンド・ペコラが務め、委員会の報告は連日新聞の一面を飾った。スキャンダルの嵐が吹き荒れ、一筋のかまいたちが全米の堪忍袋を引き裂いた。一つの銀行シンジケートにおいて、ジョン・モルガンの息子ジャックが1930年から3年間、また19人の仲間が1931年と翌年、連邦所得税を支払っていなかった。ジャックはイギリスで所得税を支払っており、先の19人は保有株の損失で税金の控除を受けていた。これら自体は何も違法性がなかったが、ジャック・モルガンがインサイダー取引に手を染めて、公開・上場前に株をまとめて引受け仲間へ安く売却していたことが分かった。所得税に関する情報は、インサイダー情報を共有するシンジケートの範囲や基盤に関係した。インサイダーの具体的内容はこうである。JPモルガンは主幹事として1929年にアレゲーニー・テクノロジーなど3社の持株会社が発行した新株を引受けてコネクターに払い下げていた。アレゲーニーの場合、払い下げ価格が1株20ドルだった。コネクターはそれらを市場価格35ドルで売却した。コネクターには、カルビン・クーリッジ、ウィリアム・ウッディン、チャールズ・リンドバーグなどがいた。
ルーズベルトは多様な助言者集団(ブレーントラスト)に大きく依存しており、彼等がニューディール政策と呼ばれる多くの計画で問題を解決していくことになった。1933年3月4日ルーズベルトが大統領に就任したその日、金融恐慌は全米に広がり、3月6日から9日までの4日間全米の銀行に休業命令が出された(バンクホリデー、モラトリアム)。ルーズベルトは就任から最初の100日間で重要法案を議会に承認させ、恐慌克服に動き出した(いわゆる「百日議会」)。農家経営の安定のために農業調整法(AAA)、失業対策のためのテネシー川流域開発公社(TVA)に代表される公共事業や連邦緊急救済法(FERA)、政府が企業経営に関与し、生産調整と価格の安定化により企業経営の改善を図る一方、労働者の団結権や団体交渉権を保証した全国産業復興法(NIRA)、また、金融制度安定のために、証券業務の規制を強化した1933年証券法、商業銀行と証券業務の分離や預金救済のために連邦預金保険公社(FDIC)の創設などを規定したグラス・スティーガル法(1933年連邦銀行法)等である。同法と証券取引委員会根拠法の立法事実として、ペコラ委員会の調査報告は国民の記憶に深く刻まれている。経済学上ニューディール政策は社会政策としての側面がしばしば強調される。しかし正しく評価するならば、前掲のウィリアム・ウッディンを例とするしがらみがありながら、証券界の腐敗という問題の核心には一応の措置を講じたものということになる。
国際経済面では1933年4月19日の金本位停止と平価の切り下げにより通貨価値の高騰はようやく安定を見せた。1934年1月には金平価を1オンス35ドルとする金準備法を制定した。南北戦争中から維持されていた旧平価1オンス20.67ドルは59%にまで切り下げられたのである。こうして金本位制から離脱しドル安方向に為替を誘導した。一方ではデフォルト続きのラテンアメリカ諸国と善隣外交を進めドルブロックを形成し、イギリスのスターリングブロック、フランスのフランブロック、日本の円ブロックに対抗した。
政府の支出はフーヴァー政権の1932年でGNP比8.0%から1936年にはGNP比10.2%に増えた。ルーズベルトが「通常」予算を均衡させる一方、緊急予算は国債で賄われ、国債は1932年GNP比33.6%からGNP比40.9%まで増えた。赤字予算が何人かの経済学者、中でも著名な者はイギリスのジョン・メイナード・ケインズによって推奨された。ルーズベルトはケインズに会ったが、その推奨には注意を払わなかった。統計図表を書き続けていたケインズと会った後で、ルーズベルトは「彼は政治経済学者というよりも数学者に違いない」と注釈した。ケインズもルーズベルトの爪の形が気になるあまり自分が何を説明したかよく覚えていなかったという。
失業対策事業や公共事業への支出がアメリカ経済を回復させるだけの刺激を与えたその程度、あるいはそれが経済に悪影響をもたらしたのかが今でも議論されている。経済の健全さ全体を国内総生産で定義するならば、アメリカは1934年までに回復軌道に乗り、1936年までに完全に回復したが、1937年不況で失業率は1934年の水準まで戻った。不況のさなかに『アメリカの60家族』という本が出版され、合衆国の独占的な経済構造を暴露した。
ブローダス・ミッチェルは「大半の指標が1932年夏まで悪化し、経済的にも心理的にも不況の底と呼んでいいかもしれない」と要約した。経済指標ではアメリカ経済が1932年夏から1933年2月まで底を突き、その後着実に急速な回復を遂げ、それが1937年まで続いたことを示している。工業生産に関する連邦準備制度指標は1932年7月1日に最低点52.8となり、実質的に1933年3月1日の54.3まで変化は無かった。しかし、1933年7月1日までに85.5まで達した(1935年から1939年の指標を100とする。これを2005年でみれば1,342となる)。ただし、こうした指標の値は必ずしも庶民の実感を伴ったわけではなかった。 
 
世界恐慌 4 / 狂騒の20年代 (狂乱の20年代)

 

アメリカ合衆国の1920年代を表現する語である。
アメリカ合衆国の1920年代を現す言葉であり、社会、芸術および文化の力強さを強調するものである。第一次世界大戦の後で「ノーマルシー(Normalcy)」(常態に復すること、アメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングが1920年の選挙スローガンに使った)が政治に戻り、ジャズ・ミュージックが花開き、フラッパーが現代の女性を再定義し、アール・デコが頂点を迎え、最後は1929年のウォール街の暴落がこの時代の終わりを告げて世界恐慌の時代に入った。さらにこの時代は広範な重要性を持つ幾つかの発明発見、前例の無いほどの製造業の成長と消費者需要と願望の加速、および生活様式の重大な変化で特徴付けられる。
狂騒の20年代と呼ばれる社会と社会的変動は北アメリカに始まり、第一次世界大戦後にヨーロッパに広がった。ヨーロッパはこの時代、大戦からの再建と莫大な人的損失に折り合いをつけることで費やされていた。アメリカ合衆国の経済はヨーロッパの経済との結び付きが強くなっていった。ドイツがもはや賠償金を払えなくなった時、ウォール街はアメリカの大量生産商品の大消費市場としてヨーロッパ経済が流動しておくようにヨーロッパの負債に大きな投資を行った。この10年間の半ばまでに、経済発展はヨーロッパで急上昇し、ドイツ(ヴァイマル共和政)、イギリスおよびフランスで激発し、20年代後半は黄金の20年代(Golden Twenties)と呼ばれるようになった。フランスやカナダのフランス語圏では狂気の時代(années folles)とも呼ばれている。
狂騒の20年代の精神は、現代性に関わる不連続性、すなわち伝統の破壊という一般的な感覚が特徴である。あらゆるものが現代技術を通じて実現可能に思われた。特に自動車、映画およびラジオのような新技術が、大衆の大半に「現代性」を植えつけた。形式的で装飾的で余分なものは実用性のために落とされ、建築や日常生活の面に及んだ。同時に、まだ大衆の心に残っていた第一次世界大戦の恐怖への反動として、娯楽、面白みおよび軽快さがジャズやダンスに取り込まれた。そのためこの時代はジャズ・エイジと呼ばれることもある。
経済
狂騒の20年代は多岐にわたる新しい大衆消費財の導入で駆り立てられた大きな経済的繁栄の時代として捉えられるのがこれまでのやり方である。北アメリカ、特にアメリカ合衆国の経済は戦時経済から平和時の経済に移行し、その結果活況となった。アメリカ合衆国は世界で最も富める国としての立場を強化し、製造業は大量生産を行い、社会は大量消費時代に入った。一方で第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパでは、1924年まで経済の繁栄は始まらなかった。
この社会、経済および技術の進歩にも拘らず、アフリカ系アメリカ人、最近やってきた移民および農夫、さらには労働者階級の大半は、この期間の影響を大して受けなかった。事実、1家族1年あたり2,000ドルという貧困線以下で暮らす人々が何百万人もいた。
世界恐慌が1930年代と狂騒の20年代の概念との間に一線を引いている。狂騒の20年代を始めさせた第一次世界大戦後の希望に溢れた状態は、その後の時代の衰退する経済の困難さに道を譲った。
復員
第一次世界大戦が終わると、兵士達は可処分所得を持ってアメリカ合衆国やカナダに復員し、市場にはそれを消費するための新製品が待っていた。最初は、戦時生産の減少で短期間だが深い不況が訪れた。これは第一次世界大戦後不況と呼ばれている。しかし、アメリカ合衆国とカナダの経済は、復員した兵士達が労働力として復帰し、工場が一新されて大衆消費財を生産するようになると直ぐに立ち直った。
経済政策
1920年代は供給側の経済政策によって増加する大衆消費と経済成長の10年間だった。アメリカの戦後かつ進歩主義時代後の政治環境では保守的な共和党政権が3期続いた。3期共に政府と大企業の間の密接な関係を固める中道的姿勢を採った。ウォレン・ハーディング大統領が1921年に就任したとき、国の経済は不況の底にあり、失業率は悪性インフレの後で20%にも達した。ハーディングは国債を減らし、減税し、農産物の利益を守り、移民を制限することを提案した。ハーディングはその実現まで生きてはいなかったが、その政策の大半を議会が通した。これらの政策によりクーリッジ時代の「ブーム」を呼ぶことになった。ハーディングおよびクーリッジ政権が主導権を取った主要な事項の1つは、第一次世界大戦に引き上げられていた富裕者への所得税を元に戻すことだった。金持ちへの重税負担は経済を鈍化させ実際に税収入を減らすものと考えられた。この減税はクーリッジ政権で行われた。さらにクーリッジは、民間企業に政府が介入することを一定して阻止した。ハーディングとクーリッジの管理方法で、この10年間の大半を通じて経済成長を持続させたが、この期間の自信過剰が株式市場の崩壊と世界恐慌に繋がる投機バブルを呼んだ。活動主体であるよりも調停者としての政府の役割はハーバート・フーヴァー政権でも続いた。1929年に株式市場が崩壊したとき、フーヴァーの経済問題補佐官アンドリュー・メロンは、それが市場の潜在的に健全な操作だと見なした。フーヴァーは実業家達を協議の場に呼び出し協調させることで危機に反応させるよう働きかけた。移民制限を肯定し、キャピタル・ゲイン課税を削減した。不幸なことに事業をその自助努力で解決させようという試みは事態を改善させなかった。フーヴァーは最後はそれ以上動かそうとし始めたが、当初の流れを止めるための自助努力策は働かなかった。狂騒の20年代の遺産は、指導者達が10年間の終わりに待機していた惨事を予見しそれを防ぐ行動をとるための能力の無さで染められた。
保守主義者の中には政府が自由放任経済政策を追求しなかったという反対の立場を採る者がいる。むしろ連邦議会からの政治的主導力が明らかに識別できる集団にとって経済的恩恵を生み出した特別の利益計画の方に向けられ、そのような主導力は政府の活動範囲と権限を拡張させたということである。所得税が1913年に設定されたとき、限界税率は最高7%だった。これが1916年には77%にまで引き上げられ、第一次世界大戦の戦費を賄った。1925年には最高税率が25%まで引き下げられた。1920年代の「ノーマルシー」によって、第一次世界大戦より前、進歩主義の時代よりもかなり高い水準で歳費と税金は維持された。1929年から1933年に掛けてのフーヴァー政権下では、一人当たりの実質歳費は88%増加した。
1920年から1921年に掛けて痛切な不況があり、その後1920年代を通じて長い回復があった。連邦準備制度と呼ばれる連邦政府の1機関が、大銀行に有利な市場より低い利率と低い自己資本比率を設定することで貸付を拡大し、不況後の期間に通貨供給量は実質約60%増加した。「信用買い」という言葉がこの時代にアメリカ人の語彙の中に入り、上昇する株式市場や拡張する貸付の利点を取るためにより多くのアメリカ人が能力以上に背伸びするようになっていった。
しかし、1929年、連邦準備制度理事会は金融緩和政策を維持できなくなったことを認識した。理事会が金利を上げ始めたときに、砂上の楼閣が崩壊した。株式市場が崩壊し、銀行恐慌が始まった。
新製品、新技術
大量生産は技術を中層階級の手の届くところにもたらした。この時代にどこにでもあるようになった装置の多くは戦前に開発されていたが、大衆には手が届かなかった。自動車、映画、ラジオおよび化学産業が1920年代に急成長した。その中でも自動車産業は重要だった。戦前、自動車は贅沢品だった。1920年代、大量生産された自動車はアメリカやカナダで普通のものになった。1927年までに、ヘンリー・フォードは1,500万台のモデルTを販売した。カナダ全土で1918年には30万台の自動車が登録されているだけだったが、1929年までにその数は190万台になった。自動車産業の影響は広く広がり、ガソリンスタンド、モーテルおよび石油産業といった異なる経済分野にまで及んだ。
ラジオは最初の大衆放送メディアとなった。ラジオは誰でも購入でき、その娯楽性は革命的だった。ラジオは大量消費市場の代表になった。その経済的重要さはこの時代以降の社会を支配する大衆文化に繋がった。ラジオの黄金時代には、そのプログラムは今日のテレビのような多様さを見せた。1927年、連邦ラジオ委員会の設立で新たな規制の時代になった。
初期の映画の前に現れた広告映画は既に大衆市場にブームを呼んでいた。1930年代から1940年代の「映画の黄金時代」は、1900年代の短い無声映画の時代から発展してきた。ラジオと同様、映画も大衆向けメディアだった。映画を見ることは他の娯楽に比べて安価であり、工場労働者などブルーカラーでも支出できた。
新しいインフラ
新技術は以前には無かった新しいインフラへの需要を創ったが、これらは多く連邦政府が負担した。道路建設は自動車産業の発展に不可欠だった。高規格道路に転換されるものがあれば、高速道路も建設された。有り余る金を持ち消費を望む階級が現れ、自動車を含め消費財の需要を高めた。
電力開発は戦中に鈍化していたが、アメリカとカナダの多くの地域が電力格子(発電、送電、分電のネットワーク)に加わり、大きな進展を見た。製造業の大半は石炭から電力に切り替えた。同時に新しい発電所が建設された。アメリカでは、電力発電量がほぼ4倍にもなった。
電話線も大陸中に張り巡らされていった。家庭用水道や近代的下水道システムが多くの地域で初めて導入された。
これらインフラに関する計画の大半はカナダでもアメリカでも地方政府に任された。地方政府の大半はこれらインフラのの投資が将来引き合うものという想定で大きな負債を抱えた。これが世界恐慌の間に問題となった。カナダとアメリカはどちらも、連邦政府は反対のことをやり、この10年間は戦債を減らし、戦中に導入された税金を幾らか減らした。
都市化
都市化は1920年代に頂点に達した。アメリカとカナダで人口2,500人以上の都市に住む人口が初めて田舎の小さな町に住む人口を越えた。しかし、その中でも大都市に惹かれる人が多く、人口の約15%に達した。ニューヨークとシカゴはその摩天楼建設を競い、ニューヨークはクライスラービルやエンパイアステートビルで先行した。金融と保険産業の規模は2倍、3倍になった。現代のホワイトカラーの基本様式は19世紀後半に創られていたが、大中都市ではその生活標準になった。タイプライター、書類ファイリングおよび電話の仕事で未婚の女性が事務職に就いた。カナダではこの10年間の末には労働者の5人に1人が女性になった。成長速度の高い都市は中西部や五大湖地方にあり、シカゴやトロントがその代表だった。これらの都市は背後に広大な農業用地を抱えている故に繁栄した。西海岸の都市は1914年のパナマ運河の開通で恩恵を受けるようになった。
文化
参政権
1920年8月18日、テネシー州がアメリカ合衆国憲法修正第19条を批准する36番目の州となり、女性の参政権が認められた。選挙権における平等は女性の権利運動で画期的な時となった。
失われた世代
失われた世代とは第一次世界大戦に遭遇して、世界に幻滅し冷笑的になった若い人々だった。この言葉は一般に当時パリに住んだアメリカ文学の著名人を指して使われた。主な者としてアーネスト・ヘミングウェイ、F・スコット・フィッツジェラルドおよびガートルード・スタインがいた。
社会批判家
1920年代の平均的アメリカ人が富と毎日の贅沢さにより心を奪われてくるにつれて、ある者は見てきた偽善や貪欲さを皮肉るようになった。これら社会批判の中で、シンクレア・ルイスが最も人気があった。その1920年の小説『本町通り(メインストリート)』は中西部の町の住人の怠惰で無知な生活を風刺した。続けて出した『バビット』では、中年の事業家がその安全な生活と家族に反抗し、若い世代が自分と同じように偽善的であることを認識する結果に終わる。ルイスは『エルマー・ガントリー』"で宗教を風刺し、小さな町に宗教を販売する福音伝道者と徒党を組む詐欺師を追った。
その他の社会批評家にはシャーウッド・アンダーソン、イーディス・ウォートンおよびH・L・メンケンがいた。アンダーソンは『ワインズバーグ・オハイオ』と題する短編集を出版し、小さな町の力学を研究した。ウォートンは1927年出版の『トワイライト・スリープ』のような小説を通じて新時代の流行を嘲笑した。メンケンは多くの随筆や記事でアメリカ人の嗜好と文化の狭さを批判した。
アール・デコ
アール・デコはこの時代を画したデザインと建築の様式だった。ベルギーに端を発し、西ヨーロッパの他地域、さらに1920年代半ばには北アメリカに広がった。
アメリカでは当時の最も高いビルであるクライスラービルのように最も注目されたビルがこの様式を採って建設された。アール・デコの特徴は単純で幾何学的であるが、芸術家達は自然から発想を得ることが多かったと言われる。初めは曲線が用いられたが、後には直線的な設計が人気を呼ぶようになった。
表現主義とシュルレアリスム
1920年代北アメリカの絵画はヨーロッパとは異なる方向に発展した。ヨーロッパの1920年代は表現主義の時代であり、後にシュルレアリスムとなった。マン・レイが特徴ある『ニューヨーク・ダダ』を出版した後の1920年に述べているように「ダダはニューヨークでは生きて行けない」であった。
映画
この10年間の初めには、映画は無声で白黒だった。1922年最初の総天然色映画『恋の睡蓮』(The Toll of the Sea)が封切られた。1926年、ワーナー・ブラザースは最初の効果音と音楽を入れた『ドン・フアン』を公開した。1927年、ワーナーは初めてある程度のセリフを含む音声を入れた『ジャズ・シンガー』を公開した。
大衆はトーキーに熱狂し、映画館はほとんど終夜興行となった。1928年、ワーナーは総音声入り映画『ニューヨークの灯』を公開した。同じ年、最初の音声入り漫画映画『ディナー・タイム』が公開された。ワーナーはこの10年代の最後、1929年に最初の総天然色、総音声入り映画『オン・ウィズ・ザ・ショー』を封切った。
ハーレム・ルネサンス
アフリカ系アメリカ人の文学と美術の文化が、ハーレム・ルネサンスの旗の下で1920年代に急速に発展した。1921年、ブラックスワン・レコード会社が開設された。多い時は月に10曲を発売した。出演者全員がアフリカ系アメリカ人のミュージカルも1921年に始まった。1923年、ハーレム・ルネッサンス・バスケットボール・クラブがボブ・ダグラスによって創設された。1920年代後半と特に1920年代にはそのバスケットボール・クラブが世界最高のものとして知られるようになった。
『オポチュニティ』創刊号が出版された。アフリカ系アメリカ人戯曲家ウィリス・リチャードソンがフレイジー劇場(別名ウォラックス劇場)でデビュー作『チップ・ウーマンズ・フォーチュン』を発表した。ラングストン・ヒューズやゾラ・ニール・ハーストンのような著名なアフリカ系アメリカ人作家が、1920年代に全国の大衆に認識されるレベルまで達し始めた。アフリカ系アメリカ人文化はジャズの隆盛に大きく貢献した。
ジャズ・エイジ
アメリカ合衆国で最初の商業ラジオ放送局 KDKA が1922年にピッツバーグで放送を開始した。ラジオ局はその後かなりの率で急増し、それと共にジャズの人気が拡がった。ジャズは現代的で、洗練されまたデカダン(退廃)的なもの全てに関わり始めた。男性はこの10年間でも最も人気のあったレコード歌手、ハロルド・スクラッピー・ランバートのように高音で歌う傾向があった。
今日大衆が「ジャズ」と考える音楽は社会的少数者によって演奏されていた。1920年代、大衆の多数は今日「スウィート・ミュージック」と呼ぶものに聴き入り、ハードコア・ジャズは「ホット・ミュージック」あるいは「レイス・ミュージック」に分類された。ルイ・アームストロングは単一の旋律を即興と終わりの無い変化形で歌って一世を風靡し、意味をなさない音節が歌われるあるいは発声される即興的歌唱法であるスキャットを広め、時にはステージにいる他の音楽家とのコールアンドレスポンスの一部に用いた。シドニー・ベチェットはクラリネットのほかにサクソフォーンを大衆化した。ダンス会場はプロの音楽家の需要を増し、ジャズはフォー・バイ・フォー・ビートのダンス音楽を採用した。タップダンサーがヴォードヴィル劇場、外の街頭あるいは伴奏楽団の人々を楽しませた。狂騒の20年代の終わりにデューク・エリントンがビッグバンドの時代を始めた。
ダンス
1920年代を初めとして、全米の舞踏場がダンス競技会を開催し、そこでは踊り手たちが新しい動きを発明し、試み、競った。プロの踊り手は全米のヴォードヴィル巡回を通じて当時のタップダンスや他のダンスの腕を磨き始めた。電灯が夜の社交娯楽をより快適なものにし、ダンスホールやライブミュージックの時代を生じさせた。人気の高いダンスはフォックストロット、ワルツおよびタンゴであり、チャールストンやリンディ・ホップがあった。
ニューヨークのハーレムはダンス・スタイルの発展に重要な役割を果たした。幾つかの娯楽会場では、あらゆる階層、あらゆる人種およびあらゆる階級の人々が集まった。有名なコットン・クラブは黒人の出演者を雇用する一方で、顧客のほとんどは白人で、黒人客の入場はほとんどの場合禁止されていた。サヴォイ・ボールルームは大半が黒人の常連を楽しませた。
1920年代初期から様々な風変わりなダンスが開発された。これらの中でも最初のものはブレーカウェイとチャールストンだった。広く親しまれたブルースを含め、どれもアフリカ系アメリカ人の音楽様式とビートに基づいていた。チャールストンの人気は1922年にブロードウェイの2つのショーに乗せられて爆発した。アポロ・シアターで始まったブラック・ボトムの短期間の熱狂は1926年から1927年のダンスホールを席捲し、人気度でチャールストンを抜いた。1927年までにブレーカウェイとチャールストンに基づきタップの要素も取り入れたダンスであるリンディ・ホップが人気ある社交ダンスになった。サヴォイ・ボールルームで開発され、ストライドピアノのラグタイム・ジャズに適用された。リンディ・ホップは10年間以上人気を保ち、その後スウィング・ダンスに変わって行った。それでもこれらのダンスは主流となることはなく、この10年間の圧倒的多数の人々はフォックストロット、ワルツおよびタンゴを踊り続けた。
ファッション
映画や雑誌の表紙に飾られた1920年代の若い女性のファッションはお固いヴィクトリア朝生活様式からの断絶としてのトレンドと社会的声明だった。これら若く、敬虔で中流階級の女性は古い世代から「フラッパー」(現代娘)と呼ばれ、コルセットを外し、細身の膝丈のドレスを着用し、腕や足を露出させた。この10年代の髪型は顎までの長さのおかっぱであり、その中にも幾つか人気のある変化形があった。化粧は1920年代まで娼婦と関連付けられるためにアメリカの社交界では受け付けられないのが通常だったが、この時代に初めて強く人気を集めた。
女性の役割の変化
1920年に憲法修正19条が成立すると、女性は遂に長い間求めて戦ってきた政治的平等を勝ち取った。20年代の「新しい」女性とそれ以前の世代との間に世代間差が形成され始めた。修正19条以前、フェミニストは通常、女性は経歴を積むか、夫と家庭を持つかのどちらかを選ばざるをえず、本質的に両方を追求することはできないと考えていた。この考え方が20年代に変化し始め、より多くの女性がその経歴で成功するだけでなく、家庭も持ちたいと望み始めた。「新しい」女性は20世紀初めの進歩主義時代の女性よりも社会奉仕を選ばなくなり、時代の資本主義的精神に合わせて、競合することを切望し個人的達成感を見出すことを望んだ。
1920年代には働く女性に著しい変化が起こった。第一次世界大戦中、男性が大量に従軍したため、一時的に女性が、かっては不適切と考えられていた化学、自動車および鉄鋼製造などの製造業に入ることが認められた。歴史的に工場労働から締め出されていた黒人女性が低い賃金を受け入れ、居なくなった移民労働者や重労働の代わりをする者として、第一次世界大戦中の製造業に働く場所を見つけ始めた。しかし、第一次世界大戦中の他の女性と同様、その成功は一時的であり、黒人女性も戦争が終わればその工場労働の職から締め出された。1920年、黒人女性労働者の75%は農業労働者、家庭内労働者および洗濯労働者だった。20世紀の初めに成立した法律は、多くの工場に労働時間を短縮させ最低賃金を払うように強制した。このことで1920年代の焦点は需要に見合う労働生産性に移った。工場はスピードアップとボーナスの仕組みで、労働者により速く効率的に生産することを奨励した。これが工場労働者に対する圧力を増した。工場で働く女性たちの労働条件は楽ではなかったが、1920年代の好況は低層階級にもより多くの働く機会を意味した。多くの若い女性が職を求め、あるいは職業訓練を受けることを奨励され、社会の流動性に繋がった。
選挙権を獲得したことでフェミニズム運動の焦点を定め直す必要が生じた。全国女性党のような団体は政治的闘争を継続し、1923年に男女平等憲法修正案を提案し、女性を差別する性差を使った法の撤廃のために活動した。しかし、多くの女性はその焦点を政治から伝統的な女性性の定義を覆すことに移した。
特に若い女性はその身体に対する権利主張を始め、その世代の性的解放に参加した。性の考え方における変化を加速した観念の多くは既に第一次世界大戦前のニューヨーク知識人界で、ジークムント・フロイト、ハブロック・エリスおよびエレン・キーの著作と共に流通していた。そこでは、性が人間経験の中心であるだけでなく、女性は人的衝動を持った性的存在であり、男性と同じように願望を持ち、これら衝動を抑えることは自己破壊的と考える者が現れていた。1920年代までにこれらの観念が主流となって浸透していた。
1920年代には男女共学も進み、女子学生が大規模な州立のカレッジや大学へ入学し始めた。女性は主流である中流階級の経験を始めるようになったが、社会の中で性差のある役割を受け入れていた。典型的な女性は家政学、「夫と妻」、「母性」および「経済単位としての家族」のような科目を選んだ。保守化の傾向が強まった戦後の時代にあって、若い女性が適した夫を見付けるために大学に入るのが普通になった。性的解放の観念に加速されて大学のキャンパスにデートが主要な変化を与えた。自動車の出現で、男女交際はより私的な状況で起こった。「ペッティング」という性交無しの性的関係が学生達の規範になった。
女性が快楽や性に関するより多くの知識を得たにも拘わらず、20年代という解放された資本主義の10年間は「女らしさの神話」も生んだ。そのことにより、あらゆる女性が結婚を望み、あらゆる善良な女性は家に子供達と留まり、料理や掃除をし、最良の女性となるとこれらのことをした上に、その購買力を自由に行使し、出来る限りその家庭や家を良くすることに関わった。このことで多くの主婦は苛立ち、不満を覚えるようになった。
少数派とホモセクシャル
都会では、少数派が以前に扱われていたよりもより平等に扱われるようになった。これはこの10年間に公開された映画の幾つかに影響された。例えば1929年の『レッドスキン』や『神の息子』は先住民族やアジア系アメリカ人に同情的であり、公然と社会的偏見を非難した。劇場や映画では黒人と白人が初めて共演するようになった。ナイトクラブに行き、白人と社会的少数者がダンスをし、会食することが可能になった。ポピュラーソングでは社会が新たにホモセクシャルを受け入れていることのおかしみを衝いた。これらの曲の中に『男っぽい女、女っぽい男』というのがある。1926年に発売され、当時の多くの歌手によってレコード化された。次のような歌詞がある。
Masculine women, Feminine men
Which is the rooster, which is the hen?
It's hard to tell 'em apart today! And, say!
Sister is busy learning to shave,
Brother just loves his permanent wave,
It's hard to tell 'em apart today! Hey, hey!
Girls were girls and boys were boys when I was a tot,
Now we don't know who is who, or even what's what!
Knickers and trousers, baggy and wide,
Nobody knows who's walking inside,
Those masculine women and feminine men!
男っぽい女、女っぽい男
どちらがオンドリでどちらがメンドリ?
今ではそれを見分けられない
姉さんはひげ剃りを習うことで忙しく
兄さんはパーマの巻き毛を愛してる
今ではそれを見分けられない
私が教えられたのは少女は少女で少年は少年
今では誰が誰なのか何が何なのか分からない
ニッカーとズボン、ダブダブで広幅
それに包まれて歩く人を誰も分からない
男っぽい女と女っぽい男!
ホモセクシャルは1960年代まで2度と見られなかったようなレベルまで受容されるようになった。1930年代初期まで、ゲイバーが公然と運営され、「パンジークラブ」と一般に呼ばれた。この10年間の相対的自由さは、興行成績を上げる人気スターNo.1と常に新聞や雑誌で名前を挙げられた俳優ウィリアム・ヘインズが、その愛人ジミー・シールズとのゲイ関係で公然と生活した事実で表されている。この時代にはその他にもアラ・ナジモヴァやラモン・ノヴァロのようなゲイの人気がある俳優あるいは女優がいた。1927年、メイ・ウエストが『ザ・ドラッグ』という題のホモセクシャルに関わる戯曲を書き、カール・ハインリッヒ・ウルリッヒの作品への言及を仄めかした。これは興行的に成功した。ウエストは性について語ることを基本的人権の問題と見なし、ゲイの権利についても初期の提唱者となった。1930年代に保守的風潮が戻ると、大衆はホモセクシャルに不寛容となり、ゲイの俳優達は引退するかその性的嗜好を隠すことに合意するかを選ぶしかなかった。
社会
移民法
アメリカ合衆国、および程度は低いもののカナダはより外国人嫌悪の傾向を強め、少なくとも移民を排斥した。アメリカの1924年移民法では、1890年国勢調査でのアメリカ合衆国全人口の2%がある国からの移民である場合に、その国からの新たな移民を制限した(アフリカ系アメリカ人は除く)。このために、20世紀初めの20年間にアメリカにやってきたヨーロッパ人の大量流入は大幅に減少した。アジア人やインド国籍を持つ者は移民を禁じられた。1913年にカリフォルニア州で成立したウェブ・ヘイニー法の様な外国人土地法は、アメリカ合衆国の市民権を得る権利のない外国人にはカリフォルニア州の土地を所有する権利が無いとした(アメリカ合衆国が支配していたフィリピン人は除外された)。これはまた、上記の外国人に土地を賃貸する場合も最長3年間に制限した。多くの日本人移民すなわち日系1世は、アメリカ生まれの子供達すなわち誕生と同時にアメリカ市民となった2世に土地の所有権を移すことでこの法を回避した。他にも11州が同様な法を成立させた。
カナダでは、1923年中国人移民法で、アジアからのほとんど全ての移民を制限した。その他にも南欧や東欧からの移民を制限する法を作った。日米紳士協約では日本人移民が国内に入ることを妨げる権利をアメリカに与えた。
禁酒法
1920年、様々な社会問題を軽減する試みとして、アメリカ合衆国憲法修正第18条によりアルコールの製造、販売および輸出入が禁じられた。これは禁酒法と呼ばれるようになった。これは教会や「アンチサルーン同盟」のような同盟者によって大いに支持されたボルステッド法を通じて法制化された。禁酒法下でもアメリカ人が引き続き酒類を望んだことにより、シカゴのアル・カポネに代表される全米の密輸とギャングの組織による組織犯罪の勃興に繋がった。カナダでは、当時短期間のみ全国的に禁酒が強制されたが、それでもアメリカの禁酒法は重大な衝撃を与えた。
スピークイージーの隆盛
スピークイージー(潜り酒場)は、禁酒法時代が進行し、ラッキー・ルチアーノ、アル・カポネ、モー・ダリッツ、ジョゼフ・アルディッツォーネ、サム・マチェオのようなギャングが増えるにつれて、人気を呼び数も増えていった。それらは組織犯罪や酒類密輸と結びついて運営されるのが普通だった。警察や連邦政府はそのような組織を襲い、小者や密貿易業者の多くを逮捕したが、滅多にボスまで辿り着くことは無かった。スピークイージーを運営する事業は大変魅力的であり、そのような組織は国中で繁盛を続けた。大都市ではスピークイージーが食事を提供し、生演奏を行い、ショーを見せるという手の込んだこともできた。警察はスピークイージー運営者から賄賂を贈られ、襲撃が計画されているときは客がいないようにするか、少なくとも前もって情報を流した。
文学
狂騒の20年代は文学的に創造性があった時代であり、幾人かの著名作家の作品がこの期間に現れた。D・H・ローレンスの小説、『チャタレー夫人の恋人』は、そのあからさまな性描写の故に、当時のスキャンダルとなった。
1920年代を主題とした著作には次のようなものがある。
『グレート・ギャツビー』、F・スコット・フィッツジェラルド著、アメリカ文学における「ジャズ・エイジ」の縮図と言われることが多い。
『西部戦線異状なし』、エーリヒ・マリア・レマルク著、第一次世界大戦の恐怖と、さらには前線から戻った多くの者が感じたドイツ市民生活からの深い孤立感を描写。
『楽園のこちら側』、F・スコット・フィッツジェラルド著、第一次世界大戦後の若者の生活と道徳を描写。
『日はまた昇る』、アーネスト・ヘミングウェイ著、1920年代にヨーロッパに国外居住したアメリカ人集団を描写。
大西洋単独横断飛行
1927年5月20日から21日、チャールズ・リンドバーグは、ニューヨーク州ルーズベルト飛行場(ナッソー郡ロングアイランド)からパリまで、1人かつ無着陸で大西洋を横断飛行した最初の操縦士として突然国際的な名声を勝ち得た。ドナルド・ホールが設計し、カリフォルニア州サンディエゴのライアン航空が特注した単発の飛行機スピリットオブセントルイス号を駆った。所要時間は35.5時間だった。フランス大統領のガストン・ドゥメルグはリンドバーグにレジオンドヌール勲章を授与し、アメリカ合衆国に戻ってきたときには、海軍の艦隊と飛行機がワシントンD.C.まで護衛し、カルビン・クーリッジ大統領が空軍殊勲十字章を授けた。
スポーツ
狂騒の20年代はアメリカにおけるスポーツ勃興の10年間でもあった。国中のあらゆる所から競技場やスタディアムで競う当時のトップ・アスリートを見るために集まった。競技者の成果は当時興隆しつつあった新しい「ジー・ウィズ」(うわー!)型スポーツ・ジャーナリズムで声高く大いに誉め称えられた。この書き方の最たる者には伝説的記者グラントランド・ライスやデイモン・ラニアンがいた。
20年代に最も人気のあったアメリカの競技者は野球のベーブ・ルースだった。その特徴的なホームランはスポーツの歴史に新時代を画し(ライブボール時代)、その豪奢な生活は国中を魅了し、この10年間の最も知名度の高い人物の1人となった。野球ファンは1927年にルースがシーズン60本目のホームランを放ったときに夢中となった。この記録は1961年まで破られることはなかった。もう1人の将来有望なスター、ルー・ゲーリッグと共にルースはニューヨーク・ヤンキースのその後の黄金時代の基礎を築いた。
ジャック・デンプシーというバールーム・ブロール(EN)出身のボクサーがボクシングでヘビー級の世界タイトルを獲得し、当時最も祝福されたボクサーとなった。イリノイ大学のランニングバック、レッド・グレーンジや、ノートルダム大学のフットボール・プログラムを成功に導き国民的評判を呼んだコーチ、クヌート・ロックニーのような有名人が出て、カレッジフットボールがファンを虜にした。グレーンジはNFLのシカゴ・ベアーズと契約することで1920年代半ばにプロ・フットボールの発展に重要な役割を果たしもした。ビル・チルデンはテニスの競技会を完全に制し、歴史上最大のテニス選手という評判を固めた。ボビー・ジョーンズはゴルフ場での素晴らしい成功でゴルフの人気を高めた。ジャック・ニクラスが現れるまで、ジョーンズのようなスターが現れることはなかった。ルース、デンプシー、グレーンジ、ティルデンおよびジョーンズは、狂騒の20年代のスポーツ界の偶像として「ビッグ・ファイブ」と呼ばれている。
政治
ウォレン・ハーディング
ウォレン・ハーディングは、彼が作った「常態に帰れ」(Return to Normalcy)という公約で出馬したが、これはその時代の3つのトレンドを反映していた。すなわち、第一次世界大戦に対する反応として新たにされた孤立主義、移民排斥主義の復活、および改革の時代における政府による積極行動主義からの方向転換だった。ハーディングはその任期を通じて「自由放任」政策を採った。1920年の大統領選挙での晩夏と秋、ハーディングの「玄関前キャンペーン」がこの国の想像力を捉えた。これは新聞で大いに取り扱われ、広くニュース映画でも放映されたことでは初めての選挙運動であり、ハーディングやその妻との写真に収まるためにオハイオ州マリオンを訪れたハリウッドやブロードウェイのスターの影響力を使った現代的選挙運動としても初めてのものだった。アル・ジョルソン、リリアン・ラッセル、ダグラス・フェアバンクスおよびメアリー・ピックフォードはオハイオ州中部に足を運んだ著名人の一部だった。実業界の象徴、トーマス・エジソン、ヘンリー・フォードおよびハーベイ・ファイアストーンも玄関前キャンペーンにその名声を貸した。選挙運動が始まった時から11月の投票日まで、60万人以上の人々がこれに参加するためにマリオンに向かった。ハーディング政権の成果で最も重大なことはワシントン海軍軍縮会議であり、世界中の軍事力を制限することになった。その任期は、ハーディングが関与していなかったと考えられるスキャンダル(ティーポット・ドーム事件)で彩られた。スキャンダルにあたって、ハーディングは「神よ、これは地獄の仕事だ」と言い、「私は敵とのトラブルは無いが、くそいまいましい友人たちが私に一晩中床を歩かせる奴らなんだ」と話した。ハーディングの任期は心臓発作による突然死で短命で終わった。ある歴史家はそのスキャンダルから来るストレスで死んだと信じている。
カルビン・クーリッジ
カルビン・クーリッジはハーディング大統領の死後に大統領として就任した。1924年の大統領選挙でも秩序と繁栄を基本として出馬し容易に当選した。クーリッジは新しいメディアであるラジオを使い、その任期の間に数回ラジオの歴史を作った。すなわち、その就任が初めてラジオで放送され、1924年2月12日にはラジオで初めて政治的演説を配信した大統領となり、そのわずか10日後の2月22日、そのような演説をホワイトハウスから配信したことでも初めてとなった。クーリッジはハーディングの自由放任政策を継承した。外交政策では孤立主義を好んだが、将来の戦争を防止する方法としてのケロッグ・ブリアン条約には署名しなかった。
ハーバート・フーヴァー
ハーバート・フーヴァーは1920年代最後の大統領となり、1929年に就任した。1928年には「我々のアメリカは今日、歴史上の如何なる国にも無かったような貧困に対する最終的勝利に近付いている」と述べた。フーヴァーは議論の多かったスムート・ホーリー関税法に署名して法制化し、1929年のウォール街崩壊の後始末をすることを強いられた。
労働組合の衰退
労働組合は戦中に急速に成長したが、製鉄、食肉加工などの産業で一連の大きなストライキに失敗した後は、長い衰退の10年間となって大半の組合を弱め、組合員数は下降し、雇員数は急速に増加した。急進的な組合主義は事実上崩壊した。これは大戦中のスパイ法や1918年扇動法という手段で連邦政府が抑圧したことが大きく働いた。主要な組合は1924年の大統領選挙で第3の政党候補者であるロバート・ラフォレットを支持した。
カナダの政治
カナダの政治はウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング下のカナダ自由党によって連邦が支配された。連邦政府はこの10年間の大半を費やして、経済から撤退し戦中と鉄道が過剰に拡張された時代に蓄積された巨額な国債を減らすことに集中した。20世紀初期の小麦経済のブームの後で、カナダの平原地帯は小麦の低価格に悩まされた。これはカナダでは初めての第3の政党であるカナダ進歩党の発展に大きな役割を果たし、1921年の国政選挙では第2党に進出した。1926年のバルフォア宣言の創設とともに、カナダは他の元イギリス植民地(自治領)と共に自治権を獲得し、イギリス連邦を創出した。
終結
暗黒の火曜日
ダウ・ジョーンズ工業株指数は何週間も高騰を続け、過熱した投機行動と相俟って、1928年から1929年の強気相場は永遠に続くとものという幻想を与えた。1929年10月29日、暗黒の火曜日とも呼ばれるこの日、ウォール街の株価が崩壊した。アメリカ合衆国におけるこの出来事は、ある者には不健全と見えていたその経済システムに対する最後の衝撃であり、世界恐慌と呼ばれる世界的な不況に繋がり、1930年代を通じて資本主義世界の何百万という人々から職を奪った。
禁酒法の撤廃
1933年2月20日に提案されたアメリカ合衆国憲法修正第21条は同第18条を撤廃した。アルコールを合法にするという選択は各州に任され、多くの州は即座にこの機会を利用してアルコールを許可した。
  
世界恐慌 5 / 世界恐慌の原因

 

1.「永遠の繁栄」に酔う
1920年代のアメリカ経済は、「永遠の繁栄」と呼ばれるほどの快進撃を遂げた。この快進撃を支えた要因は二つある。
一つは、第一次世界大戦後のヨーロッパの戦後復興需要である。戦争で疲弊したヨーロッパに対して、戦場とならなかったアメリカはこのあと世界経済の中心としての地位を確立していく。
もう一つの要因は、国内における都市化である。自動車が普及するにつれて郊外に都市が出現し、それが住宅需要を喚起した。また、ヨーロッパから帰還した兵士が結婚をし て新しい家を建て、それが住宅建設ブームを加速した。
一方、都市と都市を結ぶ道路網が整備され、それが有効需要を生み出すとともに、自動車産業の追い風となった。道という道には自動車があふれ、空を暗くするほど飛行機が飛び交った。
こうした実体経済の繁栄を背景に、1920年代の後半からアメリカの不動産と株価はやがて投機の対象となり、しだいに実態から離れ、やがてバブルへと転化していった。八百屋も運転手も酒場で働く人も、みんな株を買った。人々は超強気相場がまだまだ続くものと信じて疑わなかった。まさに「永遠の繁栄」を信じていたのである。
しかし、バブルはいつかは破裂する。均衡点から離れすぎれば、いつかは「神の見えざる手」が働き、均衡点に引き戻そうとする。最大の悲劇は、その均衡点がどこにあるかを人々は事後的にしか知ることができないことである。すなわち、バブルかどうかは破裂してみなければわからないのだ。
2.暗黒の木曜日
1929年10月24日(木)、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、ついにバブルがはじけた(暗黒の木曜日)。株価は11月に入って一端は3分の1ほど戻したものの、その後1932年までの3年間に渡って歴史的な大暴落を続け、株価は80%以上下落した。
それにともない実体経済も悪化し、GNPは29年のピーク時の半分に落ち込み、失業率は25%に達した。この間に公定歩合は5%から1.5%まで引き下げられた。しかし、それでも株は下げ止まらなかった。
アメリカは、1930年に国内産業の保護のために悪名高いスムート=ホーリイ関税法を成立させ、1000近い輸入品に平均40%という高関税をかけ、保護貿易を展開した。これに対してカナダ、フランス、イギリスなども報復措置に出て、関税引き上げ合戦が繰り広げられ、世界貿易は一気に縮小した。
一方、イギリスは1932年、オタワ協定を結び排他的なブロック経済を実施した。これにともない、アメリカもフランスもブロック経済を形成したため、以後、「持てる国と持たざる国」の対立が強まることとなった。
1933年、フーバー大統領に代わって民主党のローズベルト大統領が就任した。ローズベルトは恐慌対策としてニューディール政策を実施し、アメリカ経済がそれ以上悪化するのをくい止めることに成功した。
1936年、ケインズの『雇用・利子・および貨幣の一般理論』が発行され、「不況期には財政赤字」という提言が出された。しかし、ローズベルトは決してケインズ経済学の有効需要創出政策を確信に満ちて実行したわけではない。そのことは、1937年に景気が一端回復に向かうと、今度はインフレを恐れるあまり財政支出を大幅に削減し、1938年には再び経済を失速させてしまったことからも分かる。
結局、アメリカ経済が長期的な成長過程を取り戻したのは、1941年以降の軍事支出急増による有効需要拡大がなされたあとであった。
3.世界恐慌の原因 
好景気のあとに不景気がくるのは資本主義の宿命である。経済活動が自由であるということは、時には均衡点から離れて行き過ぎることがあるからだ。だから、不景気とは「均衡点からはずれた経済を再び均衡点に引き戻す作用」であるともいえる。問題は、「下方修正」がなぜ行き過ぎて「恐慌」に発展してしまったかという点である。これに関してはたくさんの専門書が出ているが、どれを読んでも今ひとつすっきりしない。ここでは、私なりの理解を「簡潔」にまとめておきたい。
第一の原因は、バブルがはじけて人々が株で大損をしたために、消費を極端に控えるようになったからである。たとえば、1000万円で買った株が200万円になってしまったとする。すると人々は、損をした800万円を取り戻そうと必至に貯蓄をする。そのためモノを買わなくなり不景気になる。こうした不況は一般に「バランスシート不況」と呼ばれる。金融資産の損失で傷ついた家計のバランスシートを回復させようとする家計の行動が不況の原因となるからである。日本のバブルが崩壊した1990年代にもこうした現象は広く見られた。一般に、金融資産の喪失額が大きければ大きいほど、不況は深刻化し長期化する。
第二の原因は、アメリカが金本位制度をとっていたことと関連する。金本位制は19世紀にイギリスで始まり、その後、「豊かさの中心であるイギリスと取り引きしたいがために、世界中の人々が当時のイギリスにならって、金本位制という通貨制度を採用した」(『グローバル恐慌』 浜矩子)ものである。金本位制のもとにあっては、中央銀行は保有する金に見合った量の紙幣しか発行できない。つまり、不景気になっても金融マネーサプライを増やすという緩和政策を実施することができないのである。それどころではない。1931年にいち早く金本位制を停止したイギリスは、輸出競争力を付けるため為替レートを切り下げ、金買い政策を行ったのである。そのため、アメリカから大量の金が流出し、アメリカはマネーサプライを減らさざるを得なくなったのである。通貨供給量を増やさなければならないときに、反対に通貨供給量を減らすのである。これでは40度の熱がある風邪患者を、寒い夜に外に放り出すような行為である。金本位制度が事態を返って悪化させてしまったのだ。ようやくアメリカが金本位制度を停止したのは、1933年、ローズベルト大統領になってからである。
第三の原因は、国際経済制度に不備があったことと関連する。すなわち、不況に直面した先進資本主義諸国は為替切り下げ競争に走り、ブロック経済を実施したのだ。つまり、自国の輸出を伸ばし、自国さえ景気がよくなればよいという近隣窮乏化政策を展開したのである。それが世界貿易を一気に縮小させ、世界恐慌の一因となったばかりではなく、さらには第2次世界大戦の原因ともなったのである。ちなみに、このときの失敗を反省して第二次世界大戦後、為替切り下げ競争を回避するためにIMFを作り、ブロック経済を回避し自由貿易を推進するためにGATTを作ったのである。人類は失敗をして少しは賢くなったともいえる。
もちろん、このほかにもフーバー大統領が均衡予算主義者であり、積極的な財政政策を展開しなかったことが世界恐慌の傷口を広げてしまったといえなくもない。
しかし、それは無い物ねだりと言うべきであろう。当時の経済学者の大半は、「恐慌という嵐は、じっと耐えて息を潜めていればそのうち収まるだろう」と考えていたのであり、 そうした伝統的な経済学の教えが正しいと信じていたのである。
また、第一次世界大戦後、ドイツで発生したハイパーインフレーションの記憶があまりにも生々しかったため、安易な赤字公債による景気浮揚策を採ることを躊躇させたこともある。
不景気のときには赤字公債を発行してでも公共事業を行うべきだというケインズの補正的財政政策が採られるようになったのは、第二次世界大戦後のことである。
4.世界恐慌から学んだこと
第二次世界大戦後、世界から恐慌が消えた。2008年のサブプライムローン問題に端を発する世界同時不況は「百年に一度の不況」と形容されるが、それでも世界は平穏であり、恐慌には至っていない。なぜ、世界から恐慌が消えたのか。理由は簡単である。
第一に、ケインズの有効需要管理政策という不況に対する治療薬が発見されたからである。これは新型インフルエンザに対する特効薬タミフルの存在のようなものといえる。不況になると、財政政策が発動され、不況が深刻化する前に適切な対策が採られるようになった。
第二に、戦後、金本位制から管理通貨制度に変わり、景気の状況に合わせて自由にマネーサプライを調整できるようになったことがある。
第三に、戦後、IMFやGATT(WTO)が作られ、国際協調体制が定着したことがある。G8やサミットなどが果たしている役割も大きい。
歴史に「もし」ということは許されない。しかし、大恐慌がなければヒトラーは現れず、世界大戦も起こらなかったかもしれない。そう考えると、恐慌という病気をやっつけることは人類の最大の課題の一つであることは、今も昔も変わらない。
5.昭和恐慌
ところで、世界恐慌は日本にも波及し、昭和恐慌となった。このことについて経済的な視点から簡潔にまとめておく。
日本は1917年から1930年まで金本位制を停止し、金輸出禁止措置をとっていた。しかし、ドイツ、イギリス、フランスが1920年代に相次いで金本位制に復帰したことから、日本も金本位制に復帰すべきだとの意見が強まった。金本位制に復帰すれば、物価の安定と為替の安定が自動的に達成されると考えられていたからである。
1930年1月、ついに日本は金解禁(金輸出の自由化)を実施し、金本位制に復帰した。アメリカで株が大暴落した3ヶ月後のことであった。
金本位制復帰に当たっての最大の問題は、実勢為替レートよりも10%以上円高の旧平価で金本位制に復帰したことであった。
蔵相の井上準之介は、徹底した緊縮財政によるデフレ政策をとり、国内物価を引き下げ、それによって国際競争力を高めようとした。日本製品が安くなれば輸出がしやすくなる。もし日本の物価水準を10%引き下げることに成功すれば、たとえ為替レートが10%高くなっても問題はない。    
そのうえ円高にすれば外国から安く原材料を輸入することができる。それは日本経済にとってもプラスになる。そう踏んだのである。「人は伸びんとすれば先ず縮む」。これが井上の考えであった。
しかし、恐慌の真っ最中に、デフレ政策に加えて10%以上も円を切り上げればどうなるか。答えは明白である。 輸出が減少し不況はさらに深刻になる。今でいう円高不況が追い打ちをかけることになったのだ。まさに、世界恐慌という「嵐に向かって窓を開く」結果になってしまったのである。
1931年12月、大蔵大臣に就任した高橋是清は金輸出再禁止を決定し、金本位制は2年足らずで崩壊することとなった。高橋は日本のケインズともいわれるように、今でいう有効需要創出政策を採った。低金利 政策をとり、公債を発行して軍事費を拡大し(31年9月、満州事変)、さらに公共事業を積極的に押し進めた。高橋の政策はかなりの成果をあげた。一方の井上は32年に暗殺されてしまった(血盟団事件)。
しかし、1935年、国債残高が膨らみ国債消化率が低下したことから、このままでは日本の財政は破綻するとして、高橋は一転して国債抑制、軍事費削減を打ち出した。これに反発した軍部は、1936年、高橋を暗殺した(二・二・六事件)。
1937年、廬溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、このあと日本は戦争へとまっしぐらに突き進むこととなる。  
 
世界恐慌 6 / ニューディール政策

 

アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが世界恐慌を克服するために行った一連の経済政策である。
ニューディール政策は新規まき直し政策とも呼ばれる。単にニューディールと呼ばれることもある。それまでアメリカの歴代政権が取ってきた、市場への政府の介入も経済政策も限定的にとどめる古典的な自由主義的経済政策から、政府が市場経済に積極的に関与する政策へと転換したものであり、第二次世界大戦後の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えた。世界で初めてジョン・メイナード・ケインズの理論を取り入れたと言われる。原案は、いち早く世界大恐慌から脱した日本の高橋是清が考えた政策と多くの部分で同じである。
経緯
ルーズベルトは大統領就任前のラジオでの選挙演説で「大統領に就任したら、1年以内に恐慌前の物価水準に戻す」と宣言した。ルーズベルトは1933年3月4日に大統領に就任すると、翌日には日曜日にもかかわらず「対敵通商法」に基づき国内の全銀行を休業させ、ラジオ演説で1週間以内に全ての銀行の経営実態を調査させ預金の安全を保障することを約束し、銀行の取り付け騒ぎは収束の方向に向かった。ルーズベルトは1933年に大統領に就任後、ただちに大胆な金融緩和を行ったため信用収縮が止まっている。
ルーズベルトは、次に述べる100日間の直後にグラス・スティーガル法を制定して、この約束を果たした(連邦預金保険公社の設立と銀証分離)。
更に議会に働きかけて矢継ぎ早に景気回復や雇用確保の新政策を審議させ、最初の100日間でこれらを制定させた。
緊急銀行救済法
TVA(テネシー川流域開発公社)などによる右写真のような公共事業
CCC(民間資源保存局)による大規模雇用
NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮や超越論的賃金の確保
AAA(農業調整法)による生産量の調整
ワグナー法「全国労働関係法」による労働者の権利拡大
さらに1935年には第二次ニューディールとして、失業者への手当給付・生活保護から失業者の雇用へという転換を行い、WPA(公共事業促進局)を設立し、失業者の大量雇用と公共施設建設や公共事業を全米に広げた。
対外的には保護貿易から自由貿易に転じ、大統領権限による関税率の変更や外国と互恵通商協定を結ぶ権限が議会で承認された。変わったプロジェクトとしては公共事業促進局の実施する対数表プロジェクト (Mathematical Tables Project) があり、同プロジェクトにおいて対数表の精度向上の試みが行われた。これは弾道計算や近似計算の精度向上に寄与し、第二次世界大戦時の米軍の着弾命中精度の向上やマンハッタン計画における爆縮レンズ(ZND理論)に影響を与えた。
政策に対する賛否
これらの政策によって経済は1933年を底辺として1934年以後は回復傾向になったが、NIRAやAAAといった政策のいくつかが最高裁で「公正競争を阻害する」とする違憲判決を出された。さらに、積極財政によるインフレ傾向および政府債務の増大を受け、財政政策・金融政策の引き締めを行った結果、1937-1938年には失業率が一時的に再上昇する結果となった。その後、第二次世界大戦に参戦したことによる、アメリカ合衆国史上最大の増大率となる軍需歳出の増大により、アメリカ合衆国の経済と雇用は恐慌から完全に立ち直り著しく拡大した。
結局、名目GDPは1929年の値を1941年に上回り、実質GDPは1929年の値を1936年に上回り、失業率は1929年の値を1943年に下回る、という経過をたどった。
ニューディール政策以後のアメリカ合衆国では、連邦政府の歳出やGDPに対する比率が増大し、連邦政府が強大な権限を持って全米の公共事業や雇用政策を動かすこととなり、さらに第二次世界大戦により連邦政府の権力強化や巨大化が加速し、アメリカ合衆国の社会保障政策を普及させた。現代では社会保障番号の漏洩が問題となっている。
中野剛志は「ルーズベルト大統領は『ニューディール政策』を実行し、デフレ脱却に向けた政策レジームの大転換を行った。その結果、人々はそのレジーム転換に反応しインフレを期待し行動するようになり、アメリカ経済は恐慌から脱出した」と指摘している。
ミルトン・フリードマンは「1929-1933年と1933-1941年の期間は別に考えるべきである。大恐慌ではなく大収縮を終わらせたのは、銀行休日、金本位制からの離脱、金・銀の購入計画などの一連の金融政策であったのは間違いない。大恐慌を終わらせたのは、第二次世界大戦と軍事支出である」と指摘している。
宇沢弘文は「結局は、ニューディール政策がどういう結果・成果をもたらしたかが解る前に第二次世界大戦に突入してしまった」と述べている。また宇沢は「フリードマンが中心となって、ニューディール政策のすべてを否定する運動が展開された。ロナルド・レーガン政権の頃にはニューディール政策は完全に否定された」と述べている。
経済学者の矢野浩一は「ニューディールは、『財政政策による効果が大きかった』と考えられてきたが、その後の研究で『金融政策・財政政策を組み合わせた政策パッケージ(ポリシーミックス)に効果があった』」と理解されるようになった」と指摘している。矢野は「1937年にアメリカ政府は増税を実施し、FRBも金融を引き締めたために、1938年には景気が腰折れし、再度不況に突入した。これが『1937年の失敗』」と呼ばれる歴史的教訓である」と指摘している。
経済学者のロバート・ルーカスは、1934年の預金保険の整備、グラス・スティーガル法による銀行と証券を分離によって、銀行が過度なリスクをとれないようにする金融規制の体系が整ったとしており、この銀行規制は数十年にわたって、大恐慌の再発を防止したとしている。
金融政策
経済学者のクリスティーナ・ローマーは、大恐慌期のGDP回復は、ほとんど金融緩和によってもたらされたとする論文を発表している。 ベン・バーナンキは、大恐慌期からの回復・デフレ脱却は、金本位制停止による金融緩和の実現可能性が寄与したとしている。
財政政策
経済学者の田中秀臣、安達誠司は「ルーズベル大統領の『ニューディール政策』は、財政支出の規模は対GDP比で5%前後とフーヴァー大統領の時代とそれほど変化はなかった」と指摘している。
クリスティーナ・ローマーは、ニューディールの財政政策は効果がなかったと、経済史的研究から結論づけている。ローマーは、1930年代からの重要な教訓は、小さい財政刺激は小さい効果しかもたないことだ(One crucial lesson from the 1930s is that a small fiscal expansion has only small effects.)と2009年に述べている。2013年には「私の考えでは、大恐慌から学べるのは、この理論【財政政策は試してみれば機能する】が実証的な根拠によって確証されるということです。1930年代に用いられたとき、財政政策は現に回復に拍車をかけています。主な問題点は財政政策が余り用いられなかったことなのです。」と述べている。
ポール・クルーグマンは「一部の経済学者は大恐慌やその意味合いを決して忘れなかった。その一人がクリスティ・ローマーである。危機開始から4年経った今(2012年)、財政政策に関する優れた研究(そのほとんどが若い経済学者によるもの)が増えつつある。そうした研究は概ね、財政刺激は有効だと裏付けるものであり、大規模な財政刺激をすべきだと示唆している。」「特に私やスティグリッツやクリスティーナ・ローマーが、不況に直面して支出削減をするのはそれを悪化させるだけで、一時的な支出増が回復に有益だと主張しているのを読んだときに、『これは彼らの個人的見解である』とは思わないようになってくれることを願いたい。ローマーが財政政策についての研究に関する最近の演説で述べたように、
財政政策が重要だという証拠は、かつてないほど強くなっています−−財政刺激は経済が職を増やすのに役立ち、財政赤字を減らそうとすれば少なくとも短期的には成長を引き下げてしまうのです。それなのに、この証拠は立法プロセスには伝わっていないようです。
僕たちはそれを変えなければならない。」。
ロバート・ルーカスはローマーの分析を「他の理由ですでに決まっていた政策に対して、後付けで正当化を行った迎合」と批判した。
ロバート・ルーカスの見解について、ポール・クルーグマンは「その根拠は『リカードの中立命題』という原理だった。そしてその主張によって、その原理の実際の仕組みをそもそも知らないか、知っていたにしても忘れてしまっていることを暴露した」と批判した。
小室直樹は、「ニューディール政策の多くは、あまりにも革命的でありすぎたため、つぎつぎに連邦最高裁によって違憲判決が下されたほどであった。ルーズベルト大統領は、仕方なく、親ルーズベルト的法律家を、多数、最高裁判事に任命して、やっと合憲判決をせしめるという戦術をとらざるをえなかった。普通の人々の会話において、「あいつはニューディーラー」だと言えば、戦前の日本において、「あいつはアカだ」というくらいの意味であった。」「せっかくTVA(テネシー渓谷開発公社)などの設備投資増大政策をとっても、古典派(当時のアメリカにおいては、圧倒的多数派であった)に反対されると、すぐよろめく。そんなに設備投資をして政府支出を激増させると財政は破綻するぞと諫められると逡巡する。」と述べている。
宇沢弘文は、「アンシャンレジームは特にTVAに必死に抵抗し、「民間がやるべき仕事を政府がやるのは違憲だ」という訴訟を何度も起こし、連邦最高裁判所も違憲判決を出す。それを受けて、1943年、TVAは組織を大幅に変えて、地方政府の資金で地域開発を担当する制度となって、辛うじて社会的共通資本としての体裁を保つことができた。TVAと銀行法の二つを市場原理主義者たちが繰り返し批判し、その解体を試みたわけである」と述べている。
ケインズとの関係
ルーズベルト自身は財政均衡主義者であり、赤字財政に否定的だったとされている。ケインズが提案した財政政策をルーズベルトが採用したとされているが、それについてはルーズベルト自身が否定している。ルーズベルトは、1934年にケインズと一度だけ会っているが、「統計の数字ばかりで理解できなかった」と話している。ケインズと直接対話したルーズベルトは、ケインズの赤字国債発行による景気刺激政策の話を「途方もないホラ話」と切り捨てたとされる。なお、ニューディール政策は1933年から実施されており、ケインズの『一般理論』は1936年に出版されている。
日本
戦後の日本人の常識の一つに、世界恐慌はルーズベルト大統領によるケインズ型の財政政策によって回復した、というものがある。
田中秀臣は「今日のケインズ政策の理解の原型(ニューディール型の政策による世界恐慌からの脱出というシナリオと金融政策の事実上の無視)は都留重人によって広められた」と指摘している。
経済学者の都留重人は「『国民的利益』概念の2つである『国防』と『全的就業』が同時に満たされたことが、太平洋戦争開始に至るまでの好戦的態度の十分の根拠となった。『ニューディール』政策はこうして戦争に繋がっていった」と指摘している。田中秀臣は「政府のケインズ型財政政策が戦争を招き、戦争によって世界恐慌が解決された、という今日でも散見される主張の起源は、都留によるものである」と指摘している。 
 
世界恐慌 7 / 国際決済銀行

 

[Bank for International Settlements、略称: BIS] 1930年に設立された中央銀行相互の決済をする組織。通貨価値と金融システムの安定を目的として中央銀行の政策と国際協力を支援している。
BIS
1924年のドーズ案で、賠償金を債権国の中央銀行に送付する賠償代理機関を設立することは決まっていた。
ドイツの第一次世界大戦にかかる賠償金支払いの行き詰まりを打開するためにヤング案(1930年)が提案された。ヤング案では「国際決済銀行に関する条約」と「国際決済銀行定款」が採択され、これらいわゆるハーグ条約により賠償金の支払いを円滑化させるための機関としてBIS が設立された。日本は、ウォール街大暴落 (1929年)のさなかでクレジットを設定、1930年のBIS創設時には株主となっていた。世界恐慌をきっかけとするナチ党の権力掌握が、ドイツをして賠償金支払いを拒否させた。BIS は賠償金の取扱機関として活動できなくなり、かわりに中央銀行間の協力を推進するようになった。
BIS は資産運用を行っている。1932年3月の報告では、合衆国市場への積極的な投資により銀行引受手形への運用が増えた。
協力の実態として、創設時点のBIS は金預金を受け入れていなかったが、1932年11月に受け入れる方針を明らかにした。
○BIS は各中央銀行の勘定にて、地金・鋳貨その他の形で金塊を預金として受け入れる。
○BIS には金庫がないので、預金する中央銀行(A)は、自行以外の中央銀行(B)におけるBIS の勘定に金をおく。
○実際に金塊を預かる中央銀行(B)は、この金をBIS 名義の使途指図金として預かる。
○BIS は、自身の勘定にて中央銀行(A)の「保証勘定」を開く。
○上記の「保証勘定」口座は、BIS 定款第10条の保護を受ける。
○中央銀行(A)は、預金を使途指図先の中央銀行(B)に売却・現送したり、外国為替に変えたり、他の機関に売却・現送できる。
○外国為替への換金の場合、中央銀行(A)が要求する為替が(B)国の為替であるとき、BIS はただちに自己名義で換金を執行する。(B)国以外の為替であるとき、BIS は預金金利よりも高い金利でその金を貸し出して、その為替を得る。
第二次世界大戦の拡大によりBIS は金塊をニューヨークへ現送するなどして資産をアメリカへ避難させていた。その資産を米財務省が「敵性資産」として差し押さえ、1940年6月25日ニューヨーク連邦準備銀行が発した暗号電報により凍結はBIS の知るところとなった。ここでBIS 定款第10条は対抗できなかった。米政府は先のハーグ条約に調印していなかった。BIS 株の引受も連邦準備制度ではなく、JPモルガンなどの民間銀行団が行っていた。こうしたイレギュラーが起こる直接のきっかけはヘンリー・スティムソンが1929年にFRB 職員にBIS メンバーとなることを声明で禁じたことであった。
戦後、役員にナチス関係者のいたことが分かり、ブレトンウッズ会議から解散を勧告されて、ケインズが存続を主張したにもかかわらず廃止が決定した。しかしフランスとスウェーデンが存置を働きかけたことと(欧州決済同盟を参照)、次に述べる略奪金問題の決着により、廃止案は1948年に立ち消えとなった。
ライヒスバンクよりBIS に供託された略奪金3.74トンは、「某中央銀行」が先行してBIS に返還していた額を控除の上、3.366トンがイングランド銀行へ預託された。連合国、とりわけアメリカがBIS に被害国へ金塊の返還を求めた。BIS は次のように応答した。「金の大部分はアメリカに現送してあるので、返還に応ずるためには、BIS に対する敵性資産としての凍結を解除してもらわなければならない」1947年10月に米政府代表のアンドリュー・オーヴァビー(Andrew Overby)が、在米スイス銀行資産の凍結解除を調整しにスイスへやってくるとBIS は機会に捉えた。BIS の当時に発行済み株式におき敵性資産にあたる日独のシェアは22.8%であった。ここへ預け入れ最低限度預金を加えると33.8%に達した。また、ヤング案によるBIS の対独資産は2億9116万スイス金フランであり、1945年度のBIS 総資産額の64.5%にのぼった。1948年2月、ジョン・スナイダーが上院外交委員長に向けて、欧州側の民間資本も凍結解除して復興に振り向けさせるべきと書き送っている。
BIS が復活するとマーシャル・プランがドイツの支払い能力を徐々に立て直した。
1950年10月と11月イングランド銀行が日本保有のBIS 株式没収を提案した。結果として日本は1951年のサンフランシスコ講和条約によって株式を放棄した。その後、国際金融界への復帰を粘り強く働きかけた関係者の努力の結果、1964年以降、BISで開催される中央銀行の会合への定期的な参加が認められるようになり、1970年には増資にともない日本銀行が株主として復帰した。なお、この年にはカナダも加盟している。増資目的はグローバル金融システム委員会の設置と支払決済事業の開発である。
1961年11月に金プールを運営しはじめた。BIS は1932年11月以来ロンドンやベルンといったヨーロッパの金市場を管理していた。これをベースとして1961年ヤコブソンの構想どおり、ポンド・スターリングを中心とする決済機構ができたのである。運営の実態は、一時に金の二重価格制がしかれた事実に見えるとおり、ブレトンウッズ体制とは一定の距離を置いていた。ポンド危機では大恐慌のときのように、中央銀行はBIS への預金を引き出して金塊に換えて、BIS 名義の使途指図金として別の機関へ預託した。
1975年7月8日にBIS は定款を改正しており、現行のものとなっている。
組織
BISは、世界各国の中央銀行が出資する法人であり、2011年現在58か国の中央銀行が株主となっている。最高意思決定機関は株主中央銀行の代表が出席する総会(General Meeting)で、組織規定の改正、決算の承認などの権限を有する。年1回、6月末から7月初に開催されているが、臨時総会の開催も可能となっている。
BISの組織としての運営方針の決定などは理事会が行っている。理事会は、2011年現在議長と19名の理事によって構成されており、少なくとも年6回開催される。2011年時点で理事会の議長はフランス中央銀行総裁クリスチャン・ノワイエ、副議長は日本銀行総裁白川方明であった。2015年11月から、議長はドイツ連邦銀行のイェンス・ヴァイトマン、副議長はインド準備銀行のラグラム・ラジャンが務めている。ヤング案から生まれたBIS だけあって、初代と二代目の議長は合衆国から出ている。
設立当初の定款第28条による構成は、1ドイツ・ベルギー・フランス・イギリス・イタリア・日本・アメリカの各国中央銀行の現職総裁、2当該総裁がその職を受諾できない場合にその総裁が指名する理事、3各中銀総裁につき1名ずつ任命される理事。「総裁と同一国籍を有する金融業、産業または商業を代表する者」から選ばれた。4賠償支払い期間中は、フランス銀行およびライヒスバンクの総裁が任意で「産業または商業を代表するそれぞれフランス国およびドイツ国の国籍を有する者2名」を任命できた。創設時のBIS 理事会構成は、第二次大戦後に日本がBIS を脱退した際に変更されたほかは2013年現在まで維持されている。現行の定款第27条3項では、日本を除いた上記6カ国12名(12)のほか、「職権理事を選出していない株式保有国の中央銀行総裁のなかから、理事会の2/3以上の賛成により、9名をこえない」理事を選出している。この理事は任期3年、再任可能である。1994年にはカナダ・日本・オランダ・スウェーデン・スイスが、2006年には中国・メキシコ・欧州中央銀行が、それぞれ定員に加わっている。
日常業務の運営は総支配人(General Manager、下記歴代)以下の職員が担っており、職員数は600名弱である(2011年現在)。
Jaime Caruana (2009年4月1日 -)
Malcolm D. Knight (2003年4月1日 - 2008年9月30日).
Andrew Crockett (1994年1月1日 - 2003年3月31日)
総支配人の地位は1981年までフランス勢が占めていた。
中央銀行間協力の場としてのBIS
BISは次のような活動を通じ、その目的を遂行している。
各国の中央銀行相互の議論を促進し、協働関係を推進すること。
金融システムの安定に責任を有する中央銀行以外の組織と中央銀行との対話を支援すること。
中央銀行およびその他の金融監督当局が直面している政策的な課題について調査研究を進めること。
中央銀行に代わって金融市場取引を行うこと。
国際的な金融オペレーションに際し代理者または受託者となること。
BISは各国の中央銀行を株主とする銀行として組織されている。中央銀行などの代表が会合を開催する舞台となるほか、金融に関するさまざまな国際的な委員会に対し事務局機能を提供していることでも知られている。
各国の中央銀行が相互に協力する場としてのBISの役割を如実に示しているのが、中央銀行の総裁が参加する隔月の諸会合である。2011年11月以降、主要会合の議長はイングランド銀行総裁マービン・キング(Mervyn King)が務めている。
スタッフ・レベルでの会合も数多く開催されており、代表的なものとしてバーゼル銀行監督委員会(バーゼル委員会、BCBS)、グローバル金融システム委員会(CGFS)、支払決済委員会(CPSS)、市場委員会、中央銀行ガバナンス・フォーラム、アービング・フィッシャー委員会などがある。
このほか、BISは、中央銀行の業務と関係の深い国際的な委員会である、金融システム委員会(Financial Stability Board、FSB)、保険監督者国際機構(IAIS)および国際預金保険協会(International Association of Deposit Insurers)に事務局機能を提供している。
バーゼル銀行監督委員会
バーゼル銀行監督委員会(バーゼル委員会、Basel Committee on Banking Supervision(BCBS))は、銀行監督にかかるさまざまな問題に関する国際的に共通の理解を増進することを通じ、世界各国における銀行監督の強化を目指す委員会である。委員会の活動を通じて形成された共通の理解を基に、銀行監督に関する概括的な規準、指針あるいは推奨事項をとりまとめている。
グローバル金融システム委員会
グローバル金融システム委員会(Committee on the Global Financial System、CGFS)は、中央銀行の立場から、国際金融市場に緊張をもたらしかねない動向とその重要性を分析すること、金融市場の機能を支える制度的な要因の理解を深めること、および、そうした市場の機能度と安定性の向上を促進することを目的としている。
1962年、BIS はユーロカレンシー市場専門家会議を公式に立ち上げた。欧州決済同盟の決済業務を担っていたBIS は、同盟が1958年に解散して業務を継続できなくなっており、新事業の開拓を模索していた。CGFS は1971年にユーロカレンシー常任委員会(ユーロ委員会、Euro-currency Standing Committee(ECSC))として設置され、1999年に現在の機能と名称を与えられた。
支払決済委員会
支払決済委員会(Committee on Payment and Settlement Systems、CPSS)は、支払・決済システムにおける健全性と効率性の向上を促進することを通じ、金融市場のインフラを強化することを目指して活動している。同委員会は、金銭の支払を取り扱うシステムおよび証券取引を決済するシステムの運用基準を策定しているほか、中央銀行がそうした分野における動向を把握するための場となっている。その観察対象とはクリアストリーム、ユーロクリア、国際銀行間通信協会などである。2014年6月、新たな憲章の承認を受けて、名称を決済・市場インフラ委員会(Committee on Payments and Market Infrastructures:CPMI)へ変更した。
市場委員会
市場委員会(Markets Committee)は、1962年にいわゆる金プールの設立とともに、主として外国為替市場の動向について非公式な意見交換を行う場として発足した。現在は、外国為替市場に限らず、中央銀行のオペレーションと関係の深いさまざまな金融市場の短期的な動向のほか市場構造の変化にも焦点を当てて活動を続けている。
バーゼル合意(いわゆるBIS規制)
バーゼル委員会がとりまとめた銀行監督に関する指針のうち、主として銀行が保有すべき自己資本の量に関する指針の総称。国際的に活動している銀行に対し、信用リスクを加味して算出された総リスク資産の一定比率(当初は8%)の自己資本の保有を求めたもの。バーゼル委員会に参加している各国の監督当局の規制体系に採用されることで実現される形をとっており、バーゼル合意そのものが法的な効力を有する訳ではない。また、制定主体のバーゼル委員会とBIS自体も別の主体であるため、BIS規制という俗称は誤解をまねくものである。
バーゼルI
1988年に公表された最初の国際的な銀行の自己資本比率に関する合意。日本では1988年度から移行措置が適用され、1992年度末から本格適用が開始された。国際的に活動している銀行に対し、信用リスクを加味して算出された総リスク資産(いわゆるリスク・アセット総額)に占める8%の自己資本の保有を求めたもの。1996年には市場リスクに対する追加的な合意が公表されている。
バーゼルIにおいては、銀行が保有する株式の含み益の最大45%を自己資本に含めることを認めていた。ところが、バーゼルIに基づく日本国内の自己資本比率規制の制定と実施がバブル景気の崩壊を背景とした株価のピーク・アウトをまたぐものとなったことから、日本の銀行は株式の含み益を期待していたほど自己資本に含めることができなくなった。こうした状況に対し、日本の規制対象行は必要な自己資本の確保のため転換社債を発行するなどの多大な努力を払った。そして規制が完全に適用開始となった1993年(平成5年)度3月期末決算までにすべての規制対象行が規制を達成した。
その後、バブル景気の崩壊による景気の低迷が深刻化する中で、日本の銀行の不良債権は増大し、毎年の決算において多額の債権償却を迫られるようになった。その結果、償却による自己資本の減少によって自己資本比率が最低線(8%)を割り込む可能性が意識されるようになった。これが銀行の与信姿勢の後退をもたらし、日本の景気低迷を長期化させる一因となったとの見方がある。
バーゼルII (いわゆる新BIS規制)
デリバティブ取引の一般化など、1990年代後半以降の国際金融市場の発展に照らし規準体系の不備が目立つようになったため、銀行のリスク量をより精緻に計測するなどの方向でバーゼルIの内容の見直しが行われた。その結果、2004年に「自己資本の測定と基準に関する国際的統一化:改訂された枠組」(バーゼルII)が公表された。バーゼルIIでは、総リスク資産の算式において、これまでの信用リスクと市場リスクに加え、オペレーショナルリスクを加味することが定められている。
バーゼルIIを反映した自己資本比率規制は、日本では2006年度末より施行されている。具体的な規制の内容は、「銀行法第14条の2の規程に基づき、銀行がその保有する資産等に照らした自己資本の充実の状況が適当であるかどうかを判断するための基準」(いわゆる自己資本比率告示。2006年3月27日付金融庁告示第19号)に記載されている。また、2007年2月には金融検査マニュアルもバーゼルIIに対応し全面改定され、公表された。
バーゼルIII
バーゼル委員会は、2007年から2008年にかけて発生した国際金融経済危機の背景となった銀行監督の問題に対する反省を踏まえ、銀行の自己資本の質の向上、リスク管理の一段の強化といった観点から、2009年以降バーゼルIIを改訂する作業を進めており、その一連の成果はバーゼルIIIと総称されている。新たな合意の基本的な内容は2011年1月に公表されており、銀行に対し、2019年度末までに、総リスク資産の7%にあたる普通株式など質の高い自己資本の保有を求めるなど、バーゼルIIよりも規制が強化されている。この強化に指摘される問題点は次のように整理される。
各比率において分子の議論に偏っており、分母(リスク・アセット総額)の議論が置き去りにされている。
唐突なレバレッジ比率の導入は、金融規則の画一化・単純化である。
マクロ経済政策が失敗して金融危機が起きた責任を個別金融機関に負わせている。
金融危機の震源から遠いアジア地域の金融を鈍化させる。金融危機は必ずしもグローバルではない。
規制の具体的内容は、シティグループ証券によると次のように整理される。
2013年1月からの導入で2019年1月までが移行期間
コアTierIが4.5%以上、TierIが6.0%以上、自己資本比率が8.0%以上
さらに資本保全バッファー含め、コアTierIが7%以上、TierIが8.5%以上、自己資本比率が10.5%以上
2013年1月から試行期間で、2018年1月から本格導入の予定
レバレッジ比率3%以上
流動性の規制
LCR(LiquidityCoverageRatio 短期資金繰り指標。2013年1月より試行期間。2015年1月本格導入予定) 30日分の純キャッシュ支払いに対する流動性の高い資産の比率100%以上
NSFR(Net Stable Funding Ratio 長期資金繰り指標。2013年1月より試行期間。2018年1月本格導入予定) 短期調達と長期運用を並行して行う銀行の抱える、期間のミスマッチリスクへの耐性。長期間固定される資産に対して安定調達額の比率100%以上が課される。今のところ、邦銀の預金は9割が安定調達の原資になる。
自己資本構成項目から見たバーゼルIIとバーゼルIIIの相違
以下BISに基づく。バーゼルIIは次の通り。
コアTierI - 普通株と内部留保
コアでないTierI - 優先株と優先出資証券
TierIの控除項目 - その他有価証券評価損、のれん、繰延税金資産超過額(TierI 20%超)、自己株式、国内銀行等の連結外子会社出資
TierII - 劣後債・劣後ローン、土地再評価差額金の45%、その他の有価証券評価差額(45%)、一般貸倒引当金(上限あり)
TierIII - 短期劣後債・ローン
バーゼルIIIは次のように厳しさが増しているが、経過措置の上でさらに厳しさを増す項目もある。
コアTierI - 普通株、内部留保、その他包括利益
コアでないTierI - 優先株、高い損失吸収力を持つ資本証券  ※経過措置の上で質を高める方向※
TierIの控除項目 - のれん、繰延税金資産(欠損金)、自己株式、無形固定資産、国内外金融機関出資、年金資産、他
TierII - 劣後債・劣後ローン(高い損失吸収力のあるものに限定)、一般貸倒引当金  ※経過措置の上で質を高める方向※
TierIII - 廃止 
 
世界恐慌 8 / 世界恐慌とその影響 キーワード

 

世界恐慌
1929年〜1933年に世界で同時に起こった経済不況(恐慌)のこと。発端はアメリカ合衆国のウォール街にあるニューヨーク株式取引所で1929年10月24日(後に「暗黒の木曜日」といわれた)に株式が大暴落したこと。1930年代に入っても景気は回復せず、企業倒産、銀行の閉鎖、経済不況が一挙に深刻になって、1300万人(4人に1人)の失業者がでた。恐慌はおよそ1936年頃まで続いた。またこの恐慌が世界に波及し、ヨーロッパ各国から日本などアジア諸国にも影響を受け、資本主義各国は恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深め、第2次世界大戦がもたらされることとなった。
アメリカ発の世界恐慌 / アメリカの投資家(株主)たちは、湯水のようにつぎ込んでいた資金を回収できないのではないかと不安になり、株価の値下がり前に売ってしまおうという心理が一斉に働いて、1929年10月24日(木曜日)に、ニューヨークのウォール街にある株式取引所で一斉に株価が暴落した。企業に投資していた銀行に対し、預金者は一斉に預金を引き出しに殺到し、支えきれなくなった銀行が倒産。融資のストップした企業は倒産し、工場は閉鎖され、労働者は解雇されて失業者があふれた。有効需要はますます低下し、さらに不況が続くという悪循環に陥った。当時のアメリカ共和党フーヴァー大統領は不況は周期的なもので、景気はまもなく回復すると考え、また「自由放任主義」、つまり市場原理に任せておけばいいという従来の共和党の基本方針を守ったため対応が遅れることとなった。
アメリカの経済不況の要因と背景 / アメリカの恐慌発生の要因と背景としては次のようなことが考えられる。
・1920年代の戦後好況の中で設備投資が過剰になり、「生産過剰」に陥った。
・農産物も過剰生産のために価格の下落(農業不況)し、農家収入が激減、国内の有効需要が低下した。
・各国とも自国産業の保護のため、高関税政策を採ったので、世界市場の拡大も阻止されていた。
・同時にアジアの民族資本の成長、ソ連社会主義圏の成立などで、アメリカの市場が縮小していた。
世界恐慌となった理由 / 1931年5月、オーストリアの銀行クレディット=アンシュタルトが破産し、恐慌はドイツにも波及し「世界恐慌」となったが、アメリカ発の株式暴落が世界恐慌に拡大した理由は次のようなことが考えられる。第1次世界大戦後、世界最大の債権国となっていたアメリカ合衆国の経済が破綻したことは、必然的に世界経済を破綻させることにつながった。特に、多額の賠償金と負債を抱えていたドイツはアメリカの支援で経済が成り立っていた(ドーズ=プラン)ので、ドイツ経済も破綻、そのドイツから賠償金を取り立てていたイギリス・フランスの経済も破綻した。ドイツでは3人に1人が失業、世界全体の失業者5000万に達するというという状況となった。
世界恐慌に対する当初の対策 / アメリカ合衆国は1930年6月、スムート=ホーレー法を成立させ、農産物だけではなく工業製品でも関税引き上げを実施した。各国も自国産業を守るために、保護貿易主義に転換したため、世界的な貿易不振が起き、かえって恐慌を長期化させることとなった。またフーヴァー大統領は1931年にフーヴァー=モラトリアム(支払猶予令)、を発表し、戦債・賠償金支払いを1年停止することにしたが、タイミングが遅すぎて効果はなかった。各国は経済を立て直すため次々と1931年のイギリスの金本位制停止に続いて33年にはアメリカ合衆国も金本位制から離脱に踏み切り、世界金本位制は崩壊した。資本主義列強は通貨ごとのブロック経済政策を採用することとなった。しかし、各国がブロック経済によって保護主義に転じたため、世界全体の自由貿易が衰退して貿易額が減少し、世界全体の不況にさらに加速させることとなった。
世界恐慌の及ばなかったところ / このように、資本主義は市場原理に任せたままだと常にこのような矛盾が起こる。そこで、資本主義経済を否定して国家による計画経済によって恐慌が起きないようにしようというのが社会主義の考えである。事実、世界恐慌が起こった時にすでに社会主義体制をとっていたソヴィエト社会主義共和国連邦はその影響を受けず、五カ年計画を推進した。しかし、同時にスターリン独裁体制が形成され社会主義も根底から変質した。
アメリカのニュー=ディール政策 / 1933年に登場したアメリカ合衆国のF=ローズヴェルト大統領のニューディール政策は農産物の過剰供給を抑え、工業生産の国家管理を強め、大幅な財政出動で公共事業を興して雇用を創出し、国内購買力の回復を図った。また、そのためには労働者の保護や社会保障の充実などにも取り組み、銀行を厳しく監視するなど資本主義の枠内での大胆な改革を実施した。そのような資本主義の原則を守りながら、自由放任ではなく政府が経済を強力にコントロールする必要があるという考えを理論化したのがイギリスの経済学者ケインズであった。彼は有効需要を増加させることによって過剰生産を解消するなどをめざし国家の財政政策によって公共事業を興して雇用を創出したり、低金利によって貯蓄を消費に回すことによって購買力をつけることなどを唱えた。アメリカは国内資源が豊かだったこともあって、次第に経済危機を克服し、第2次世界大戦を迎えることとなる。
ファシズムの台頭 / 世界恐慌の影響を最も強く受けたのがドイツであった。また植民地が少なく、国内資源も少ないイタリアも経済が破綻した。アジアでは日本はすでに大陸進出を果たしていたが、国内には地主制度など古い社会構造が残り、農村不況が慢性化し、低い購買力にとどまっていたため、資源と市場を海外に求める経済界と軍の思惑が強まっていた。このような「持たざる国」であるドイツ・イタリア・日本にファシズムが台頭する直接的な契機も世界恐慌にあった。アメリカでF=ローズヴェルトが大統領となった1933年にドイツでヒトラーが政権を握った。
世界大戦後の恐慌対策 / 第2次世界大戦後も好景気と不景気の波や、幾度かの経済危機はあったが、基本的には「世界恐慌」を避けることができている。それは、戦前の各国バラバラの経済政策が激しい競争を生み出したことを反省し、国際連合のもとで、国際経済体制の安定を図るための国際通貨制度として、ブレトンウッズ体制というIMFの創設や、GATTによる自由貿易の推進などが機能したことによる。その中核となったのがアメリカ経済であり、ドルを基軸とする固定為替相場制のもとで安定した戦後経済の復興が進んだ。また、資本主義諸国でも市場原理だけにまかせず、政府が経済をコントロールする社会主義的な原理を取り入れた混合経済体制をとったことも安定の要因であった。
2008年の新たな経済危機 / ところがこのような世界経済体制も1970年代から大きく変化し、アメリカ経済の落ち込み、日本経済の台頭、新興経済地域の台頭、EUなど地域経済統合の進展とならんで、市場経済万能主義(新自由主義経済)の復活といった傾向がでている。特にアメリカ合衆国のブッシュ(子)政権の下で規制緩和政策が推進され、金融工学と称するさまざまな投機マネーによる利益追求が加速してサブプライム問題が起こり、2008年9月には金融大手のリーマンブラザースの破綻をきっかけに、ふたたび世界恐慌の危機に立ち至っている。 
1929
現代のアメリカ史家ビーアドは、世界恐慌の発端となったアメリカの恐慌を以下のように描いている。
「1929年の秋、農民は別として国中の人々が「永遠の繁栄という高台」の上に安定していると思われたそのとき、共和党の政策の賜といわれた商工業のにわか景気が、はげしい音をたてて崩壊した。一流会社の主要株が十月二十九日のただ一日で、軒並みに40ポイント近く暴落し、1600万株以上がニュー・ヨーク証券取引所で市場に投げ売りされた。この恐慌にひきつづいて銀行や鉄道会社や個人商社の破産、すでに苦境にあった農民間の苦悩の増加、工場や営業所の閉鎖、芸術家、‥ ‥教師といった全俸給生活者層(ホワイトカラークラス)の就業機会の急速な減退が起こったが、それはニュー・ヨークからカリフォルニアにおよぶものであった。1933年のはじめの数カ月に、1200万の男女が失業したと計算された。‥‥破産と飢餓とが、農村の小作人や刈分小作人の小屋ばかりでなく、また産業労働者や知的職業者層の住む裏町ばかりでなく、大都会の繁華街までおそいかかった。」
ウォール街
ニューヨークのマンハッタン地区の最南端の一角で、ニューヨーク証券取引所(株式取引所)があって多くの証券会社や銀行が集まる、世界経済の中心地の一つ。1929年にはこの地から世界恐慌が始まった。
ウォール街のいわれ / ニューヨークははじめ、1652年にオランダ人によって建設されたニューアムステルダムの入植地から始まる。この時オランダ人が、インディアンやイギリス人からこの地を守るために砦を築き、その壁があったところが現在のウォール街である。砦の壁はまもなく取り払われ、1792年にこの地にニューヨーク証券取引所が開設されてから、金融の中心地して続いている。
なお、世界の金融の中心地にはイギリスのロンドンのシティ(旧市街のこと)の一角であるロンバード街(イタリアのロンバルディア出身の商人がいたところから付けられた地名)、東京の兜町などがある。
暗黒の木曜日
1929年10月24日、ニューヨーク株式取引所で空前の株価大暴落が発生し、「世界恐慌」の始まりとなったのが木曜日であった。いったん小康状態になった株価が、再び大暴落して、通常の恐慌とは異なる「大恐慌」であることがはっきりした10月29日は「悲劇の火曜日」という。 
失業増大
1929年の世界恐慌から1933年のニューディールまでを三期に分けて、その時期の特徴をまとめると次のようになる。
第1期(1929年10月〜30年9月) 1929年の失業者数は155万(労働人口全体の3.2%)だったのが、30年には434万人(8.7%)に増加。しかしまだ失業の深刻さは認識されず、人びとは「いつ好況に戻るか」を期待した。スムート=ホーレー法の高関税によって国内市場は回復すると期待され、州政府による公共事業やハイウェイ建設も行われた。ニューヨークのエンパイア・ステート・ビル(摩天楼)も30年に建設が始まり、31年に完成した。
第2期(1930年10月〜31年12月) 30年の冬から失業者が一気に増加した。31年には802万人(15.9%)となる。各自治体や都市は自衛的な失業者向けの給食や宿泊施設提供した。また恐慌の影響を受けなかったソ連の計画経済への関心が高まった。31年6月のフーヴァー=モラトリアムはヨーロッパ経済の救済となると期待されたが、現実はドイツの金融恐慌に始まり、イギリスが金本位制を離脱して不安が強まった。
第3期(1932年1月〜33年3月) 失業者は1200万(24%)に達し、このころから失業者のことを恐慌当初のように「仕事のない人」(the idle)ではなく、「失業者」(unemployed)と呼ぶようになった。フーヴァー大統領も失業対策に乗り出したが、仕事の確保は民間企業の責務だと考えられたので本格的にはならず、失業者数は33年に1283万人(24.9%)の最高水準に達した。(ニューディール開始後、1937年までに770万(14.3%)まで回復する。)
「フーヴァー村」と失業者の反乱 「すべてを失った人びとが都市の公園や空き地に木切れや段ボールでつくったバラック小屋の集落は「フーヴァー村」、新聞紙は「フーヴァー毛布」、引っぱり出された空っぽのズボンのポケットは「フーヴァーの旗」と呼ばれるようになった。」1932年3月7日にはデトロイトで共産党に先導された3000人がフォード社工場に抗議に詰めかけた。市の警察隊はデモ隊にむかって催涙ガス弾を発射、デモ隊は石や凍土片を投げて抵抗した。警官隊は実弾射撃を加え、デモ隊の4人が殺され、50人が重傷を負うという事件が起こった。1932年7月には、ボーナス要求のためワシントンに集まった退役軍人のキャンプを軍隊を動員して焼き払った(マッカーサー将軍が指揮を執った)。
農業不況
第1次世界大戦後の世界的な農産物価格の下落による農村の困窮のこと。特にアメリカ国内の購買力を低下させ、1929年の世界恐慌の背景となった。第1次世界大戦時に食糧需要が高まり、価格も上昇したため、世界的な穀物増産が行われた。小麦はアメリカ合衆国をはじめ、アメリカの資本が投下されてアルゼンチン、カナダ、オーストラリアなどで作付け面積が増加・機械化が進んだため、生産が増大し、戦後もその傾向が続いた。戦後はフランス・ドイツなどヨーロッパ諸国が農産物の自給化にはかって農産物に高関税をかけるようになった。小麦以外の砂糖、綿花、ゴム、コーヒーなども生産量が著しく増え、1924年頃から供給過多による農産物価格の下落が始まった。とりわけ農産物輸出国の国際収支を悪化させることとなった。
アメリカの農民は、大戦中に借金をして耕地を拡大し、機械を購入していたため、農産物価格の影響をもろに受け耕地を手放さなければならない農民も多くなった。農業不況は長期化し、さらに1929年秋は豊作であったため、いわゆる「豊作貧乏」が重なり、農民の購買力が著しく低下し、世界恐慌の一因となった。
生産過剰
1920年代のアメリカ合衆国で資本主義の矛盾が強まって起こった経済現象で、1929年に始まる世界恐慌の主要な原因と考えられる。アメリカは第1次世界大戦で高まった需要に対し、設備投資を続けた。自動車、住宅などからラジオ、洗濯機、冷蔵庫といった電機製品、さらに化粧品などの新たな消費財が大量に生産され、セールスマンと大量広告という新たな販売促進法と月賦販売という信用販売が使われるようになったことで大量消費(必要以上に消費する傾向)に拍車がかかった。1920年代後半には早くも商品は飽和状態となり、農業不況も加わって購買力も低下し始めた。しかし、企業は株式ブームという過剰な投機によって支えられ、さらに増産を続けた。このように1920年代のアメリカ経済の繁栄を支えていたのは、信用販売と株式による資金調達という、いずれも需給関係の実態から離れた手法によるものであった。その点では、2007年に始まる現代の恐慌が、金融工学から生まれたサブプライムローンなどの金融商品の破綻から始まったことに共通している。
過剰な投機
1920年代のアメリカ経済の好況の中で進んだ株式投資ブームの加熱などの状況。1929年、その反動として起こった株価暴落が、世界恐慌の引き金となった。第1次世界大戦後、世界の金はアメリカ合衆国とフランスに流れこんできた。特にアメリカでは流入する金と、イギリス・フランスからの戦債の返済によって潤沢な資金を抱えることとなった。銀行はあまった資金を株式仲買人に貸し付け、仲買人はあらゆる人びとに株を買うことを勧め、株式投資ブームが起こり、1929年春から夏にかけての「大強気」相場がピークに達した。しかし、購買力の低下と過剰生産のギャップも一般人に知られることなく激しくなっていた。投機的な売買でつり上がった株価と、企業の経営実態は、人知れずかけ離れてしまっていた。ようやくそのことに気がつき始めた一部投資家が株の投げ売りを始めていた。株価はやがて「大天井」をうち、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」に、一気に猛烈な売りが殺到し、世界恐慌が始まった。
株式ブームの実態 「コロンブスもワシントンもフランクリンもエジソンもみな投機家だった。」ということばで人びとは投機の危険性を忘れ、「誰もが金持ちになるべきだ」という題名の文章でジョン=ラスコブは、人が一ヶ月にほんの15ドルを節約してこれを優良株に投資しすれば、配当金などを別としても、20年後には少なくとも8万ドルの金を手にすることができ、この投資から受ける収入は少なくとも月額四百ドルになる、と説いた。また会社どうしが株を持ち合い、実際の株の価値については誰もわからなくなった。投資信託も急増し(なかには詐欺まがいのものあった)、セールスマンが株を売りまくった。その投資会社の株も高値で売られ、資本の巨大なピラミッドが出来上がった。人びとは仲買人の言うことを信じるほかなかった。「雑貨屋、電車の運転手、配管工、お針子、もぐり酒場の給仕までが相場をやった。反逆しているはずの知識人さえも、市場にいた。」
フーヴァー大統領
Harbert C. Hoover (1874-1964) アメリカ合衆国第31代大統領(在任1929〜1933)。ハーディング、クーリッジと続いた1920年代の共和党大統領二代の商務長官を務め、経済政策の実務にあたった。1928年の大統領選挙で、経済繁栄を続けるなかで共和党の自由放任の原則の維持を掲げ(もっとも最も対立していた論点は禁酒法の継続か廃止かであった。フーヴァーは継続を公約した。)て圧倒的な支持を受けて当選した。1929年の3月に就任し、最初の演説で「永遠の繁栄」を約束した。彼の政策理念は、政府は企業や個人の経済活動に介入してはならないという自由放任主義を堅く守るものであった。そのため1929年10月に世界恐慌が勃発しても、当初、周期的な不況と考え、1年以内の回復を予想し、当面の対策をたてなかった。彼は「好景気はもうそこまで来ている」(Prosperity is just around the corner.)と繰り返し発言した。しかし、恐慌は回復の兆しを見せず、1931年には銀行の倒産が急増し、失業者はさらに増大、また恐慌は世界に波及して何らかの対策を講じる必要が出てきた。しかしその対策は遅きに失し、傷口を拡大したと非難されている。各地に生まれた失業者のバラック小屋の集落は「フーヴァー村」と呼ばれ、恐慌の責任を一手に負うこととなり、1932年の大統領選挙で民主党のフランクリン=ローズヴェルトに敗れて退いた。
フーヴァー政権の恐慌対策 / 1930年にはスムート=ホーレー法を制定して農産物・工業製品に幅広く高関税をかけ、国内産業を保護しようとした。しかし、かえって諸外国も対抗して高関税策を採ったため、世界貿易は減少し、恐慌をさらに深刻なものにしてしまった。さらに、翌1931年にはフーヴァー・モラトリアムとしてドイツの賠償金と戦債の1年間の支払い猶予を打ち出したが、すでにドイツなどヨーロッパ経済は壊滅的だけ期を受けていて、遅すぎたため効果がなかった。
フーヴァー大統領の評価 / フーヴァー大統領の大恐慌対策について、歴史学者ビーアドは次のように評価している。「始めは、いつもの経済恐慌ぐらいのものだろうと考え、大統領は「われわれは前世紀に十五回にも及ぶ大きな不況を切り抜けた。‥‥その不況を切り抜けるごとに‥‥前にもました繁栄の時期をむかえた。今度もそうなるだろう」と言った。しかし、何ヵ月も、何年も続くに及んで、商工会議所、アメリカ労働総同盟、など諸団体は総合的な不況対策を政府に要求した。今まで恐慌に対して歴代の大統領は、私企業に介入する権限は憲法上もっていないと信じるがごとく、対策を講じてこなかったが、フーヴァー大統領はただちに、労働と資本とを再び活動せしめる大規模な公共事業計画の施行法をつくるよう議会に要請し、また復興金融公社と私有住宅金融公社の設立を実現させた。ひとびとが彼に非難をあびせたのは、彼が何もしなかったからではなく、やり方が全国的破局という重大さに相応した規模で正しい対策を十分やらなかったことに対してであった。」
人道主義者フーヴァー / フーヴァーはアイオワ州の小さな開拓村の、一家5人が2部屋で暮らす貧しい農民の子に生まれ、8歳までに両親に死別した。同じクエーカー教徒の友人の推薦ででスタンフォード大学で学び、鉱山技師を志し、世界中の鉱山をまわって修行した(義和団事変の時は中国にいた)。やがてロンドンの鉱山会社の重役となり、大きな富を築いて独立した。40歳でロンドンにいた時、第1次世界大戦が勃発、フーヴァーは私財をなげうって北フランスやベルギーに取り残されたアメリカ人の救出にあたった。アメリカが参戦を決めるとウィルソン大統領の下で食糧問題の指揮を執るようワシントンに呼ばれた。戦後はパリ講和会議の連合国首脳の要請で、ヨーロッパの戦争罹災者の食糧供給の仕事に乗りだし、彼は「偉大な人道主義者」として知られるようになり、彼のもとには感謝をこめた100万人もの子どもの署名yが図面が送られた。またウィルソンの指示でポーランドにも飛び、ロシアの作家ゴーリキーの要請を受けて革命後のロシアにも援助を差し向けた。
スムート=ホーレー法
1930年6月、世界恐慌下のアメリカ合衆国でフーヴァー大統領によって制定された、高関税政策立法。国内産業を保護して高賃金を維持することによって恐慌の克服をめざしたものであったが、対抗上、各国も一斉に高関税に転じることになって、世界恐慌をさらに拡大するという逆効果に終わった。
フーヴァー大統領は大戦後まもなくから明らかになっていた農産物の下落を止めるため、外国からの農作物輸入を制限する高関税政策を検討していた。1929年に世界恐慌が始まると、議会内にも保護主義が台頭し、上院のスムート議員と下院のホーリー議員が連名で農産物のみ成らず工業製品にも高関税を課す法案を提出した。その法案が議会を通過するとただちに大統領は署名した。このような保護貿易主義は世界経済全体から見ればマイナスであり、恐慌対策としては逆効果であると主張する1000名以上の経済学者が大統領に署名しないよう警告したが、フーヴァーはそれを無視して署名し、1960年6月に同法は成立した。これによって3300品目のうち890品目の関税が引き上げられ、アメリカの輸入関税は平均33%から40%となった。オランダ、ベルギー、フランス、スペインおよびイギリスは直ちに報復的関税措置を発表した。結果としてアメリカへの輸出の門戸を閉ざされたヨーロッパ経済の危機が醸成され、ドイツの銀行制度の崩壊となった。一面で31年春にはアメリカの生産と雇用は工場の兆しを見せたので、フーヴァーは保護主義が正しかったと主張し、アメリカを恐慌に陥れたのは軍事支出を増大させて財政均衡を失ったヨーロッパ各国の政策が原因であると後に述べている。1932年の大統領選挙ではフランクリン=ローズヴェルトはフーヴァーの高関税政策を厳しく批判し、選挙戦で勝利することとなった。
F=ローズヴェルト政権での経済ナショナリズムの修正 / 次期大統領F=ローズヴェルトのもとでニューディール政策が始まると、国務長官となったコーデル=ハルの努力により、1934年6月に互恵通商協定法が成立して、経済ナショナリズムを修正し、多角的、互恵的な貿易関係を復活させた。1936年にはイギリス・フランスとの三国通貨協定、38年に米英通商協定を制定し、続いて39ヵ国との協定を締結した。1939年にはその流れで中立法を制定し、イギリスに対する財政的・軍事的支援を決めた。共和党はこの時点でも高関税政策を標榜したため、輸出不振に悩む産業界の支持を失い、ローズヴェルトの再選を許すこととなった。
フーヴァー・モラトリアム
1931年、アメリカ合衆国のフーヴァー大統領(共和党)が、世界恐慌のさなか、恐慌対策として打ち出した経済政策。モラトリアムとは支払い猶予、義務免除の意味で、第1次世界大戦で発生した、賠償金や戦争債権の支払い義務を1年間延期するというもの。直接的にはドイツの対イギリス・フランスに対する賠償金支払い、アメリカに対する負債の支払いを猶予するというもので、世界恐慌が波及したドイツ経済を賠償問題を緩和することで救済し、恐慌の世界拡大を阻止しようとしたもの。しかし実施時期が遅すぎ、すでに恐慌は世界に波及してしまっていたので、効果はなかった。
ジュネーブ軍縮会議  
ファシズム 
 
世界恐慌 9 / ニューディールとブロック経済 キーワード

 

ニューディール政策
1933年およびその後に採用された、フランクリン=ローズヴェルト大統領による世界恐慌からの脱却をめざす経済政策を総称してニューディール政策という。New Deal とは、「新規まき直し」の意味で、救済(Relief)、回復(Recovery)、改革(Reform)の3Rを政策の理念として、アメリカ合衆国の経済を再建し、ドイツ・日本などのファシズム国家の台頭という危機への対応や社会主義国ソ連との関係の修復などの外交課題にあたろうとするものであった。1939年の第2次世界大戦勃発後は、戦時体制へと転換していく。ニュー=ディール政策は多岐にわたるが、関連する国内主要法令は次の6項目に要約される。
1.銀行および通貨の統制 / 閉鎖された銀行の再開と通貨の管理。すべての銀行はきびしく連邦政府の監督を受け、健全な再建ができるところには貸し付けが行われ、救済不能な銀行は整理された(グラス=スティーガル法)。また、金本位制は停止され、金銀貨や硬貨は回収され政府に委託。合衆国政府当局の発行し管理する紙幣に切り替え、従来の紙幣と金銀貨を交換する権利は廃止された。これで巨額の金銀をもつ銀行が持っていた合衆国の通貨発行への支配力はなくなった。
2.財政救済策 / 財政難にとなった財産所有者および法人に対する連邦政府の貸付け。
3.農民の救済 / 小麦、とうもろこし、綿花、食肉などの膨大な余剰を従来のように外国に売りさばくと言うのではなく、また国内市場の拡大をはかるのではなく、生産を削減し、それによって生じた減収は補助金で償う、という農業調整法(AAA)の制定。個人の自由な経営に任され、国家はそれを統制してはいけないという従来の慣例を打破し、政府が農民の生産をコントロールしようとしたことが画期的である。
4.私企業の規制と奨励 / 膨大な在庫と失業者に苦しむ産業界に対し、全国産業復興法(NIRA)を制定。建設活動に活気を与え労働者に購買力をつくりだす目的で、テネシー河開発公社(TVA)など公共土木事業に対して数十億ドルの支出を認め、また就業と生産と国内販路を増加促進するため商工企業を組織化し、需要に対する供給の調整、価格の協定を認めた。一方で、株式市場における投機の行き過ぎや大会社への融資の行き過ぎを抑える目的から証券取引委員会を設置した。
5.労働者の保護 / 全国産業復興法は雇主と被雇用者の団体協約権を規定したが1935年最高裁が同法の大部分を憲法違反と宣告、そこで議会は全国労働関係法=ワグナー法を可決し、団体協約の尊重を規定、その施行のために全国労働関係委員会が設立された。
6.社会保障の充実 / 要扶養や失業や貧困や老齢という特定国民層への社会保障を充実させようとして、数十億ドルの予算を立て、就業促進対策本部の設立し、1935年には社会保障法を制定した。
※ニューディール政策の経済学上の理論的裏付けとなったとされるのがイギリスの経済学者ケインズの理論であった。しかし、1933年段階ではF=ローズヴェルトは直接ケインズと話し合っているわけではなく、またケインズが主著であり、ケインズ理論を体系的に述べた『雇用・利子および貨幣の一般的理論』を発表したのは1936年である。
1933
1933年(昭和8年)は、世界が再度の大戦に向かう転機となった年であった。まず、1月にドイツでヒトラー内閣が成立。翌月に国会炎上事件を起こし、共産党などを非合法化しナチス独裁体制を固めた。同じ2月、日本軍は熱河省侵攻を開始、満州国の拡大を図り、国際連盟が満州国を不承認、日本軍の撤退を決議すると、日本は脱退した。10月にはドイツも同じく国際連盟を脱退した。このようなファシズムの攻勢に対し、アメリカでは3月にF=ローズヴェルト大統領のニューディール政策が開始された。世界恐慌という危機に対し、戦争と侵略によって切り抜けようとするドイツ・日本のファシズム勢力と、資本主義の修正と国内市場の開拓を進めるアメリカという全く違う方向が取られたわけである。 
フランクリン=ローズヴェルト
Franklin Delano Roosevelt 1882-1945 アメリカ合衆国第32代大統領(民主党)。在任1933〜1945年。フランクリン=D=ローズヴェルトは、1882年ニューヨークの生まれ、元大統領セオドア=ローズヴェルト(共和党)は遠い従兄にあたる。若いころからセオドアを目標として政治家を志し、ハーヴァード大学とコロンビア大学で法律を学び、第1次世界大戦ではウィルソン大統領の下で海軍次官補を務めた。1921年頃小児麻痺にかかって両足の自由を失い、松葉杖の生活になったが、政界に復帰し、28年からニューヨーク州知事に選出された。1932年、世界恐慌の最中の1932年の大統領選挙に民主党から立候補し、「ニューディール」(新規まき直し)を掲げて大量得票し、共和党のフーヴァーを破って大統領となった。選挙中は「ニューディール」の具体的中身はまだ無かったが、当選後に政治や経済の専門家をブレーンとして採用して、総合的な恐慌対策を策定し、1933年3月に就任以後、矢継ぎ早に政策を実施に移していった。まず、折からの金融不安を「バンク・ホリデー」と称して銀行を4日間閉鎖し、その間に緊急銀行救済法を成立させて国民にラジオを通して預金を呼びかけ、金融の信頼回復に努めた。そして、12月には約14年続いた禁酒法を廃止し、国民に新しい時代に入ったことを印象づけた。また彼は、当時マスコミとして広く普及していたラジオを活用し、たびたび「炉辺談話」として国民に直接話しかけて政策の理解を求めた、国民の強い支持を受けることとなった。
ニューディール政策 /  1333年に始まるニューディール政策の主要な内容は、農業調整法(AAA)・全国産業復興法(NIRA)・テネシー川流域開発公社(TVA)・ワグナー法・社会保障法・金本位制停止など、多岐にわたるが、そのねらいは、従来の自由放任主義の原則を改め、政府の積極的な経済介入によって、公共事業などを行って雇用を創設し、労働者保護や社会保障の充実によって弱者を救済して全体的な国内の購買力を回復(内需回復)して、恐慌を克服しようとするものであった。
外交政策 / 1833年、市場の拡大と日本・ドイツへの牽制の意味から、ソビエト連邦を承認した。ヨーロッパにおけるドイツ、イタリアのファシズムの台頭には、1935年に議会が制定した中立法の規定に従って中立を守り、直接参戦は孤立主義の伝統をふまえ慎重に回避した。ヒトラーがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発してからは中立法を改正してイギリスへの武器輸出を開始し、以後は参戦の機会を待った。またそれまでのアメリカのカリブ海外交の強圧的態度を改め、善隣外交を展開、キューバのプラット条項の廃止などを実現した。また、1934年には議会でフィリピン独立法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。
第2次世界大戦への対応 / 次第にイギリス・フランス支持を明確にし、1940年、異例の3選を果たし(アメリカ大統領ではF=ローズヴェルトのみ)、1941年1月の就任演説で、「言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由」を守るのがファシズムとの戦いであるという有名な「四つの自由」演説を行った。3月には武器貸与法を制定して事実上の参戦を果たした。またチャーチルとの大西洋会談を行って早くも戦後における国際平和を維持できる機構の創設で一致し、その構想から国際連合が生まれることとなった。最終的には12月、日本軍の真珠湾奇襲を受けて第2次世界大戦に参戦することとなった。孤立主義を放棄したアメリカは、大戦を通じて積極的に連合国側のリーダーシップをとるようになり、英ソ首脳とのカイロ会談、テヘラン会談、ヤルタ会談などを進める。戦争が継続する中、ついに4選を果たしたが、まもなく1945年4月、大統領在任中に病死し、副大統領であったトルーマンが後継者となった。   → アメリカの外交政策
ファーストレディ、F=ローズヴェルト夫人 フランクリン=デラノ=ローズヴェルト(FDRと言う)は、小児マヒのため車椅子の生活で大統領の激務に耐えていた。異例の4選を果たしたことから判るように、ワシントン、リンカンと並んでベストスリーに入る人気のある大統領であった。国民に親しまれたのは、その政策もさることながら、「炉辺談話」と称してよくラジオを利用して国民に語りかけたことが一因であり、マスコミを利用した政治家の第一号ということができる。また夫人エレノアも、行動的で知的、進歩的な発言で人気があった。太平洋戦争のさなかの43年、太平洋戦争の最前線で日本軍が撤退したばかりのガダルカナル島を慰問し、兵士から「エレノアがいるぞ!」と大歓迎されたという。
資本主義経済の修正
農業調整法(AAA)
F=ローズヴェルト大統領のニューディール政策の一つ。Agricultural Adjustment Act 1933年5月制定。恐慌以前からの農作物の過剰生産、価格低下による農民の困窮を救済するため、連邦政府が農民の生産削減に補助金を支払い、農産物価格を大戦前に戻すことを保証したもの。実際に農産物価格は上がりはじめ、3年以内に農業総収入は50%増加した。大規模農家は救済されたが、反面小作農には恩恵がなく、作付け面積が減らされたため路頭に迷う小作農も出た。
ソヴィエトよりボリシェヴィキ的 / AAAでは連邦政府(農務長官)に強大な権限を与え、「ソヴィエトに存在するいかなる法律や規則よりもボリシェヴィキ的だ」という反対も強かった。・・・・供給削減のためには、連邦政府の指導の下に過激な政策が断交された。1933年6月、農業調整局(AAA)は収穫直前の綿花の4分の1をすき倒すキャンペーンに出た。その夏農民は、1000万エーカーの綿花をすき倒して補助金を手に入れた。落ちこぼれた綿を拾って布団をつくれば法律に違反すると告げられた老黒人農夫は、「おめいさんがた、白人の旦那アちィと狂ってんじゃねェですかい」とつぶやいた。
かわいそうな子豚 / 豚肉価格維持のためのキャンペーンはさらに凄惨を極めた。政府は1933〜34年の豚肉生産を16%減らすことを目標に、子豚と妊娠中の雌豚を市場価格より高く買い入れることにした。ただちに「かわいそうな子豚」が何百万頭も屠殺され、柵の隙間から逃げ出してキーキー泣き叫ぶ子豚とそれを追い回す人間とは「悪夢」の状況を呈した。豚肉加工業者は、伝統的方法に代えて効率のよい大量電気屠殺法を考え出した。・・・」
全国産業復興法(NIRA)
National Industrial Recovery Act 1933年、F=ローズヴェルトのニューディールの柱として制定された産業振興および、労働者保護立法。価格と賃金の下降を止めることによって産業を復興させることを意図し、各産業ごとの企業団体に協定(公正行為コード)を結ばせて価格と賃金の安定を図った。企業を指導する機関として全国復興局(NRA)を設立し最低賃金や労働時間(週40時間)を定めた。また、雇用を創出するため公共事業局(PWA)を設立し、道路、学校、病院などの公共事業を活発に行った。さらにNIRA第7条で労働者の権利を保護し、労働組合結成および団体交渉の権利を認めた。しかし、この大転換に対しては自由主義の原則に反するという批判が強く、1935年に最高裁判所の違憲判決によって全国復興局(NRA)が廃止されたため、恐慌対策としては成果を上げることなく終わった。
全国産業復興法のねらい / 技術進歩によって巨大化した企業が、過当競争を続けた結果、リスクが高まり大量失業につながった。今や公共の利益を擁護するためには、企業の競争を制限し、連邦政府との協力関係の下に秩序だった生産を行うことが問題の根本的解決のために必要である。という考えに基づいて制定されたNIRAの目的は、産業ごとの企業を組織し、連邦政府と共同で生産と価格を調整し、労働条件を守らせて労働者を保護することによって、安定的な完全雇用を実現し、国内購買力を回復することであった。これは、従来の自由競争と独占の禁止という自由主義的資本主義の原則(共和党政権かで推し進められてきた)を放棄し、政府が協力に経済に介入し、不況カルテルを認めて、有効需要と完全雇用をめざすという修正資本主義に大転換するものであった。
最高裁判所による違憲判決 / 全国産業復興法(NIRA)に対しては、独占を助長するものと批判が当初から強かった。また産業団体の中核となるような企業はこれを支持したが、中小企業には反対の声が強かった。1935年5月、最高裁判所は、全国復興局(NRA)の公正行為コード設定と遵守への連邦制の関わりを、大統領(行政府)による議会の立法権への侵害であるとして憲法違反と断じ、その無効を宣言、そのためNRAは廃止された。しかし、F=ローズヴェルト大統領は、NIRAの中から、最低賃金、最高労働時間、団体交渉、若年労働の禁止に関する項目を残すことにし、全国労働関係法(通称ワグナー法)を提案し、制定させた。
テネシー川流域開発公社(TVA)
Tennessee Valley Authority F=ローズヴェルトのニューディールの重要な施策の一つとして、1933年5月に議会で承認された。政府が成立した公社によって、テネシー川流域のダム建設、治水事業、植林、など総合的開発を行い、地域産業を興こし、雇用を増大させることを意図した。TVAによって20のダムが造られ、電力供給は安定し、流域の農業生産性は向上し、成功を収めた。
テネシー川流域は、テネシー、アラバマ、ジョージア、ミシシッピ、ノース・カロライナ、ケンタッキー、ヴァージニアの諸州にまたがり、全長1000km。公社は3名から成る理事会が運営、ローズヴェルトは理事長に55歳の洪水制御の専門技師A=モーガンを、残る二人はテネシー大学学長で農業科学者のH=モーガン、法律家の弱冠34歳D=リリエンソールを任命した。三人の理事は意見の違いもあり、困難を極めたが、それでも発電、森林の再生、土壌回復、農業の改善、学校の建設、レクリエーションなど広範な事業を展開した。高さ140mのフォンタナ・ダムをはじめとする40基の発電ダムと10基の非発電ダムは現在も稼働している。
グラス=スティーガル法(銀行法)
ニューディール政策の一つとして定められた、銀行規制を強化する立法。世界恐慌の発生と共に金融界に対する厳しい規制を要求する声が強まり、すでにフーヴァー政権の下で上院に査問委員会が設けられていた(委員長の名前からペコーラ委員会という)。委員会では金融界の帝王といわれた二代目モルガンをはじめ大立て者が召喚され、「まるで馬泥棒か何かを攻撃するように」詰問が行われ、彼らが所得税を払っていなかったことなどが暴露された。その審議の中から銀行や証券会社などの金融界への厳しい規制の必要が認識され、一連の金融規制関連法が成立した。グラス=スティーガル法(銀行法)はその一つで1933年6月に上院を全会一致で通過しF=ローズヴェルト大統領が署名し成立した。その内容は、・証券と銀行の分離、・連邦準備制度の強化、・預金者保護のための連邦預金保険公社(FDIC)の設立、要求払い預金への利子の禁止などである。証券と銀行の分離は、商業銀行から投機的精神を撲滅して企業の安定経営を図るものであった。預金者保護には自主独立の精神に反するという反対論もあったが、その後も銀行閉鎖を少なくする効果を生んだ。連邦準備制度の強化は、従来の連邦準備委員会から決定権を連邦準備制度理事会(FRB)に移し、すべての銀行を連邦準備制度に加盟させた。
グラス=スティーガル法の意義 / 銀行法や証券法などの金融関連法はたびたび改定され、ニューディールの中でもマイナーな立法と見られがちであるが、「歴史上初めてウォール街を規制し、銀行制度を中央銀行による政策コントロールを確立し、預金者保護を制度的に保障した金融制度の改革は、その後レーガン時代に至るまでのアメリカの金融制度の基礎を固め、他のいかなるニューディール立法よりも成功したものとなった。」
グラス=スティーガル法の廃止 / 1980年代のレーガン政権(共和党)下で規制緩和、自由競争の復活という経済路線が強まり、証券と銀行の分離を原則とする1933年銀行法(グラス=スティーガル法)の見直しが始まった。1990年代のIT好況に転じたアメリカ経済を背景に、1999年11月、共和党が多数をしめる上・下院はグラス・スティーガル法を廃止し、銀行・証券・保険を兼営する総合金融サービスを自由化する法律(グラム・リーチ・ブライリー法)を可決、クリントン大統領(民主党)が署名して成立した。このように新自由主義に基づいて金融をも自由競争にさらすことになったアメリカ経済はその後、金融工学というコンピュータ依存の金融商品が暴走し、サブプライムローンなどの問題を引き起こすこととなった。 
金本位制停止(アメリカ)
1933年3月、就任まもないアメリカ合衆国のF=ローズヴェルト大統領が、銀行倒産などの金融不安解消のために打ち出した。ドルと金の交換を停止して、アメリカのドルの流出を防止しようとしたもの。これによってアメリカ合衆国は連邦準備制度による管理通貨制度を採ることとなり、世界的にも金本位制は崩壊することとなった。
要因としての金融危機 / 1929年に株式が大暴落したが、同時に銀行の倒産が起こったわけではなく、約1年後の30年から次第に増え始め、33年にはピークに達して爆発的に増加した。恐慌の長期化し、さらに31年にイギリスが金本位制を離脱し、ポンドを切り下げたため、アメリカの金が流出することとなったことが要因としてあげられる。金融不安から預金者が一斉に預金引き出し(取り付け)に動き、銀行破産が急増した。
F=ローズヴェルトの金融不安解消 / 就任直後の3月9日(木曜)に緊急銀行法を特別議会にかけて成立させ、銀行休業日を無期限延長して取り付け騒ぎを抑えた。さらに10日(金曜)には緊縮財政法を通し、大統領・議員・政府職員などの給与の15%削減、軍人恩給の削減などを打ち出した。そして日曜日にはラジオの「炉辺談話」で銀行の営業再開を約束、国民に預金を訴えた。月曜には安心した国民が現金を預金につめかけ、「資本主義は8日で救われた」と言われた。
金本位制の停止とドル切下げ / 3月の銀行休日宣言の際に金銀貨・地金の輸出を先ず禁止し、4月5日には金貨等の退蔵が禁止され、4月19日に禁輸出禁止令によってドルと金の兌換が最終的に禁止された。ドルは他のすべての通貨とフロート(浮動、連動して発行される)ようになり、ドル切下げはこの時点ではじまったといえる。ドルが下落したことによってアメリカの輸出品、例えば綿花などの輸出が勢いを盛り返した。
管理通貨制度への移行 / 1934年1月、金準備法が制定され、これによって連邦準備銀行から財務相に金貨と金地金がすべて引き渡され、財務相が唯一の合法的な金保有者となった。F=ローズヴェルトはドルの金価格を約40%切り下げて、当時の実勢に近い金1オンス=35ドルに固定し、管理通貨制度への移行を完了した。ドル切下げと金本位制離脱=管理通貨制の採用によって、国内物価引き上げを優先して(国際的な為替安定を犠牲にして)国民的要求に応えたと言うことが出来る。
金本位制
金本位制の意味 / 金は輝きがあり、腐食しにくく、転生が大きく(薄くのばすことが出来る)、分割することもできるところから、何とでも交換可能であったため鋳貨として使われてきた。この金貨をもろもろの商品の価値を表現するのための基準として使うことを金本位制という。金本位制の下で発行される紙幣は、一般に各国の中央銀行(発券銀行、日本では日本銀行)が発行する銀行券であり、中央銀行が保有する金貨や金塊と引き替えに発行される兌換紙幣(金と交換できるという意味)である。紙幣が信用される根拠は、本来金本位制の兌換制度にあった。従って、金本位制度の下では各国の紙幣量は金の保有量に制約される。
金本位制の自動調節作用 / 金本位制では輸出入の差額は金で払われ、調節される。ということは貿易が赤字になると金が国外に出て行き、国内通貨量は減少し、国内の所得は減り物価は下がることになる。すると輸入は減り、輸出が増えて貿易赤字は解消にむかう。金本位制にはこのようなメカニズムがあり、それを金本位制の自動調節作用という。
金本位制の成立 / 金本位制は1816年にイギリスに始まり、1844年にイングランド銀行が金と交換可能なポンドを兌換紙幣(金1オンス=3ポンド17シリング10ペンスを平価とした)として発行し、19世紀末にロンドンを中心とした国際金本位制として確立した。
第1次世界大戦と金本位制 / 金本位制は1914年の第1次世界大戦で一時停止されたが、1925年にイギリスをはじめ各国が金本位制に復していた。金本位制によって各国の通貨は金との等価関係にあることとなり、相互に交換が自由に行われることが保障されていた。しかし、この時イギリスは国家的威信にこだわり、旧平価で金本位制に復したため、貿易収支が悪化し、資金がアメリカに移動し、アメリカの金融緩和と相俟ってアメリカの株式市場が暴走する遠因となった。日本も1930年に金解禁に踏み切った(金本位制となること)が、やはり旧平価での解禁であったため、金の流出がおきて失敗した。
金本位制度と世界恐慌 / しかし、第1次世界大戦後はドイツの賠償金負担、イギリス・フランス・イタリアなどの対米戦債の支払いという、生産性の成長を阻害する要素が存在するなかで、アメリカ合衆国経済への一極集中が行き過ぎ、にもかかわらず旧来のイギリスを中心とした金本位制のシステムが温存され、アメリカ合衆国も世界経済全体に責任を持つという意識がなく、またアメリカ合衆国はヨーロッパ諸国に比べて中央銀行の設置が遅く、ようやく1913年に連邦準備制度が成立したため中央銀行の役割を担う連邦準備制度理事会が金融機関に対し十分な統制力を持っていなかったため、恐慌を拡大させてしまった。アメリカ合衆国は実質的な世界経済のリーダーに立たされていながら、国際連盟への加盟を拒否し、リーダーとしての責任を果たさなかった。1933年6月のロンドン世界経済金融会議では、金本位制離脱国と金ブロック−フランス、イタリアが対立し、アメリカのF=ローズヴェルトは国内経済復興のニュー=ディール政策を優先して、調停役を放棄したため、会議は決裂し第2次大戦中のブレトン=ウッズ会議まで全体協議の場がもてなくなった。
各国の金本位制の崩壊 / 世界恐慌の深刻化の中で世界的な金融不安が広がり、1931年から33年の間に次々と金本位制から離脱する。まずドイツの銀行破綻を受けて31年9月にマクドナルド挙国一致内閣のイギリスが金本位制停止に踏み切り、イギリスとの関係の深いポルトガルや北欧諸国がそれにならった。同年12月、日本の犬養毅内閣が禁輸出再禁止を決定。さらに1933年3月、F=ローズヴェルト大統領のアメリカ合衆国も金本位制から離脱し、ここに世界の金本位制は崩壊した。一方、フランス・オランダ・ベルギーは金本位制を維持し、金ブロックという一種のブロック経済圏を形成する。
管理通貨制度 / 金本位制に代わる通貨制度は、中央銀行の管理の下で、紙幣が発行される、管理通貨制度に移行することとなった。管理通貨制度では紙幣は不換紙幣(金に代えることが出来ない)として発行される。紙幣の発行量は金の保有量によるのではなく、中央銀行の持つ資産を根拠として発行される。
戦争への道、平価切り下げ競争 / 世界通貨制度としての金本位制が崩壊した後は、資源に恵まれたアメリカ合衆国はニュー=ディール政策によって国内購買力を回復させることに成功していくが、イギリス・フランスはブロック経済圏を形成して保護主義をとるようになり、また日本を含む各国は平価の切り下げ(自国通貨の価値を下げる)を行うことで、輸出を多くし、国内産業を守ることを競うようになった。それはさらに国内の労働者への低賃金という形でしわ寄せを強めることとなり、世界全体の購買力を低減させ、また資源や安い労働力を求めて領土・勢力圏の拡大をはかる戦争への道を開くこととなった。ナチスドイツの「生存圏の拡大」、日本軍国主義の「満州国」などがそれにあたる。
第2次世界大戦後の国際通貨制度 / 第2次世界大戦後は連合国を主体に世界経済の国際協調体制であるブレトンウッズ体制をつくり、アメリカ合衆国のドルを唯一の基準通貨とし、平価切り下げ競争が起きないように固定為替制度をとることとなった。また国際収支の悪貨によって1国の経済が破綻すると、世界経済全体に影響を及ぼしたことを反省して、国際通貨基金と世界銀行を設立した。
ワグナー法
正式には全国労働関係法(1935年制定)。ワグナー法は通称。F=ローズヴェルトのニューディールの一環として制定された労働立法で、労働者の団結権・団体交渉権を明確に認めた。労働組合の権利を保護し、公正な雇用を実現しようとする規定は1933年のNIRA(全国産業復興法)で始まったが、NIRAが1935年に最高裁で憲法違反の判断が出されたため、それにかわって制定された。産業界は猛烈な反対運動を展開したが、議会における民主党の多数とAFLなど労働界の支持で成立した。
ワグナー法の内容とねらい / 労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権を保障し、具体的方式として組合の代表権に多数決原理を採用し、労働者の権利を国家的に保障する機関として「全国労働関係委員会」(NLRB)に広範な権限を付与した。また、雇用者の「不当労働行為」(組合に対する干渉、抑圧、強制、援助、妨害、雇用条件による差別、組合活動を理由とした解雇、団体交渉の拒否)を禁止した。ワグナー法のねらいは、経済的には労働者に購買力を付与して国民所得の賃金部分を増大させ、所得再分配を実現しようと意図した。
労働組合運動の活発化 / 1933年の全国産業復興法(NIRA)、それに代わる35年のワグナー法の制定によって、アメリカ合衆国の労働運動は法的保護のもと未曾有の組織化が進んだ。同時に、組合運動をめぐって旧来のアメリカ労働総同盟(AFL)が分裂し、産業別組合会議(CIO)が生まれるという変化をもたらした。労働組合は資本主義社会の中で経営者に対する「拮抗力」をもつに至り、1938年には公正労働基準法が改めて制定されて、最低賃金(全業種で8年後に40セント)、労働時間(3年後に週40時間)が統一された。
ワグナー法の修正 / 第2次大戦後、冷戦下でアメリカ社会に社会主義や労働運動に対する警戒が強まる中で、1947年に共和党が多数を占める議会でタフト=ハートレー法が成立し、ワグナー法の「労働者寄り」の内容はいくつかの点で修正され、その理念は後退することとなった。
産業別労働者組織委員会(CIO)
1935年11月に、アメリカ労働総同盟(AFL)のなかの産業別組織を主張する少数派がAFL内に設けた委員会。従来のアメリカの労働運動を推進してきたアメリカ労働総同盟(AFL)は、熟練工からなる職能別組合であったが、20世紀に入り、アメリカの産業のなかで非熟練の労働者が多数を占めるようになってきた。非熟練労働者は、1935年にニュー=ディール政策の一環としてワグナー法が制定されて労働組合運動に対する法的保護が実現したことを機に、AFL内部に産業別労働者組織委員会(CIO)を設けた。しかし、AFLは熟練工の職能別組合という性格を改めず、女性や黒人を排除し続けたので、AFLと袂を分かち、1938年に産業別組合会議(CIO)を結成した。指導者は鉱夫労働組合のジョン=ルイス。1836年の大統領選挙ではF=ローズヴェルトの2選を強く支持しそれを実現させた。
産業別組合会議(CIO)
Congress of Industrial Organization アメリカ労働総同盟(AFL)内の産業別労働者組織委員会が分離・独立し1938年に結成されたアメリカの労働組合の組織(略称はともにCIO)。非熟練の女性や黒人などの以前からの熟練工中心の職能別組合からのけ者にされていた産業労働者と会社事務員を組織化するのに成功した。委員長は同じくジョン=ルイス。1937年までに組合員158万人まで増加した。一方のアメリカ労働総同盟(AFL)も巻き返しを図り、労働運動はこの二つの全国組織の下で1941年には800万人を越える組織をもつにいたり、1955年に合同した。
社会保障法
ニューディール政策の後半、1935年に制定されたアメリカ合衆国が福祉政策に転換を図った立法。失業保険・退職金制度・年金制度などを整備した。ニュー=ディール政策開始に伴い、物価は上昇したが賃金の上昇を上回っていたため、失業者・高齢者・障害者など社会的弱者の生活困窮は続いていた。民間から社会保障制度の充実を要求する運動が強まり、民衆運動の圧力を受ける形で社会保障法の制定が実現した。老齢年金は連邦の一般財源からの支出ではなく、企業と労働者が負担した。老齢者・障害者・児童らに対する扶助、また失業保険は州の制度を連邦が補助するもので、すべての州で給付が始まったのは39年からであった。また全国一律の健康保険を制度化することは出来なかった。アメリカ医師会と保険業界の反対が強いためであった。この欠陥はアメリカの社会保障制度の欠陥として現在も続いている。
ケインズ
John Maynard Keynes 1883-1946 20世紀前半に活躍したイギリスの経済学者で、修正資本主義の理論を提示して、アメリカのニューディール政策や戦後のイギリス労働党の経済政策に大きな影響を与えた。
ケインズはケンブリッジで経済学を学び、若い頃はロンドンの芸術科集団ブルームズベリー・グループ(小説家のヴァージニア=ウルフ、評論家のリットン=ストレイチーら、当時としては反権威主義的な思想の人々の集まり)に加わっていた。ケンブリッジの経済学の教師から大蔵省の役人となり、第1次世界大戦後のパリ講和会議のイギリス代表湾に加わった。1919年に『平和の経済的帰結』を発表してヴェルサイユ条約がドイツに対して過度な賠償を求めたことが後の戦争につながることを警告し注目を集めた。1929年の世界恐慌後は資本主義は危機を迎えたが、ケインズは社会主義を否定して、資本主義に修正を加えることによって危機を克服することを説き、36年に『雇用・利子および貨幣の一般的理論』を発表した。そこでは完全雇用を生み出す有効需要の開発を、国家が公共事業を興すことによって生み出すことを提唱し、おりからアメリカのF=ローズヴェルト政権が展開していたニューディール政策に理論的意義付けを与えた。ケインズの、財政政策(税による景気の調整)、金融政策などの国家による市場の統制によって経済恐慌を回避することが可能であると考える「修正資本主義」は大きな影響を与え、社会主義に対抗する思想としてアメリカ・イギリスの経済政策の基本とされた。ケインズは第2次世界大戦後のブレトン=ウッズ会議でも主導的な役割を果たした。
ケインズの経済理論に対しては、当時すでにハイエクに代表される反論があった。ハイエクはケインズ経済政策は市場の自由な競争を束縛することになるとして批判し、自由主義の立場を貫こうとした。また現代のフリードマンらのシカゴ学派に代表される新自由主義の経済理論は、ケインズ主義が「大きな政府」を産みだし、税負担や規制強化が自由な企業の競争を損ねているとして、国営企業の民営化、規制緩和、減税、社会福祉支出削減などの、いわゆる「小さな政府」論を展開し、チリのピノチェト政権、イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根政権、小泉政権などに大きな影響を与え、「ケインズ経済学は古い」とされるに至ったが、現在はその新自由主義の行き過ぎも批判の対象とされている。
ソ連の承認(アメリカ)
アメリカ合衆国のソヴィエト連邦(1922年成立)承認は、イギリス・フランス(1924年)、日本(1925年)などより遅れ、F=ローズヴェルト大統領の時の1933年になされた。それまでアメリカ合衆国政府は反共産主義の立場から、ソ連の承認を拒んできたが、F=ローズヴェルトは世界恐慌が深刻になる中で、ソ連と国交を開いてその市場を開拓することをねらった。また、ヨーロッパにおけるドイツとアジアにおける日本というファシズムの台頭を警戒し、ソ連と国交を結ぶことでその二国を牽制する意図もあった。ソ連側もドイツ・日本との対決に備えてアメリカ合衆国との提携を望み、翌1934年には国際連合に加盟した。   → アメリカの外交政策
善隣外交
F=ローズヴェルト大統領のラテン=アメリカ地域との外交政策 Good Neighbor Policy のこと。それまでの力による高圧的なカリブ海政策を改め、友好的な政策に転じたこと。ラテン=アメリカの民族主義運動が社会主義と結びついて反米的になることをおそれるとともに、世界恐慌に対応してアメリカの経済圏であるこの地域に対するアメリカの指導権を維持するのがねらい。1934年にはキューバに対してプラット条項を撤廃してその完全独立を認め、ハイチからは海兵隊を撤兵させた。この友好政策が功を奏し、第2次世界大戦時には、ラテン=アメリカ諸国のほとんどが連合国側で参戦した。また大戦後はアメリカはさらにこの地域への支配権を強めることとなった。 
プラット条項  
中立法
1935年、フランクリン=ローズヴェルト大統領の時、アメリカ議会で成立した法律で、合衆国はすべての交戦国への武器輸出と、船舶による武器輸送を禁止したもの。議会内の共和党などの孤立主義が根強く、ヨーロッパでのナチスドイツと英仏の戦争に巻き込まれることを恐れる意見が強かったため成立した。しかし、1939年9月、ドイツ軍がポーランド侵攻を開始し第2次世界大戦が始まり、アジアでも日本が南進の動きを強めてくると、イギリスの要請もあってアメリカ議会は11月に中立法を改正し、現金取引と自国船による輸送を条件に、交戦国への武器輸出禁止を撤廃した。これによって中立法は事実上廃棄され、イギリスに対する武器輸出が行われた。ローズヴェルトは三選を果たした後の41年3月、武器貸与法を制定し、連合国に武器を貸与することとなる。
イギリスの恐慌対策  

 

マクドナルド  
失業保険の削減  
マクドナルド挙国一致内閣  
金本位制の停止(イギリス)
マクドナルド挙国一致内閣は、1931年9月21日、金本位制を停止した。世界恐慌が波及して、ドイツからの賠償金がストップし、債務が急増、国際収支が悪化したことによる。このようなイギリスの金融不安が強まると、イギリスの通貨であるポンドが売られ、その価値が急落した。ポンドが売られると言うことはイギリスの金が流出すると言うことなので、ついに金本位制を停止し管理通貨制度に切り替えた。イギリスと経済的関係の強い諸国でも金本位制は維持できなくなり、ポルトガル・デンマーク・スウェーデンなどが相次いで金本位制の停止(または金輸出禁止)に踏み切った。さらに1933年3月、F=ローズヴェルト大統領もアメリカ合衆国も金本位制から離脱し、ここに世界の金本位制は崩壊し、管理通貨制度に移行することとなった。
オタワ連邦会議  
スターリング=ブロック  
(スターリングとはイギリスの法定貨幣のこと。ポンドはシリング、ペンスと共にその単位。)
フランスの恐慌対策  

 

フラン通貨圏  
人民戦線  
仏ソ相互援助条約
1935年5月、フランスとソ連との間で締結された条約。これはこの年3月にドイツが再軍備を宣言し、徴兵制を復活させたことに脅威を感じた両国が接近し、成立させたもの。ただし、国際連盟規約とロカルノ条約の条文と矛盾することを避けるため、軍事同盟ではなく、相互援助条約という形となった。フランスは形勢を見ながらだったので、批准は遅れ、翌年2月に批准発効した。このフランスとソ連の接近に反発したヒトラーのドイツは、両国のロカルノ条約違反と非難し、36年3月、ドイツはロカルノ条約破棄を宣言した。
人民戦線内閣  
ブルム
レオン=ブルム、戦前のフランスの政治家。はじめ文学者として出発、ジョレスと知り合ってフランス社会党に入党、反ファシズム運動で活躍し、1936年に人民戦線内閣の首相に就任した。労働立法を進めるなど、革新政策をとったが、不況の進行に対する有効な経済政策を打ち出すことができず、翌年辞職した。第2次世界大戦が始まると、ヴィシー政権に逮捕され、ドイツに抑留され、アメリカ軍に救出された。戦後も1947年に暫定内閣の首相を務めた。
ブロック経済

 

1929年の世界恐慌に見舞われた帝国主義各国は連鎖的な輸出不振に陥った。各国はまず各国通貨の平価を切り下げ(平価とは各国の貨幣の価値基準のことで、通常は1単位の金含有量で表される)を行って輸出を増やそうとした。この平価切り下げ競争によって為替相場は激動して、貿易はかえってますます減少した。その中で、特に「持てる国」と言われる国内資源や植民地を有している諸国は、それぞれ経済圏(ブロック)を作って生き残ろうとした。そのような経済体制が「ブロック経済」であり、主要国の決済通貨を軸としてグループを作り、グループ内の関税を軽減して域内通商を確保し、域外からの輸入には高関税をかけて自国産業を保護するという保護貿易政策をとった。
ブロック経済の例
・スターリング=ブロック(ポンド=ブロックともいう) イギリスは1931年、大英帝国から英連邦という名称に切り替えて、旧植民地グループを再編し、ポンドを基軸とするスターリング圏を作った。
・ドル=ブロック アメリカ合衆国を中心とした南北アメリカ大陸を一つのドル経済圏として形成した。
・金ブロック フランスを中心とした、金による支払い(金本位制)を通じて結束した西ヨーロッパ諸国グループ。
「持たざる国」のブロック経済
これらの「持てる国」に対抗する、「持たざる国」と自己を規定したドイツ、イタリア、日本は「自給自足圏」を確保するために軍事的侵略の道を選んだ。ドイツは排外主義をかかげるナチスが権力を掌握すると、東ヨーロッパから中近東への進出をめざした。イタリアはファイスト政権の下で、北アフリカからバルカン半島さらに中近東への野心を持った。日本は「大東亜共栄圏」を構想したが、それはアジア市場に「円ブロック」を築くねらいであった。
ブロック経済の影響
1929年〜1933年の世界恐慌期に、資本主義主要国がブロック経済政策を採ったため、世界貿易はこの4年間に7割が減少、その結果、欧米と日本で数千万人の失業者が出た。そのような社会不安を背景に、イギリス・フランス・アメリカの「持てる国」グループと、ドイツ・イタリア・日本の「持たざる国」の勢力圏をめぐる対立が深刻化し、ソ連社会主義政権に対しては双方とも警戒心強めながら接近を模索するという複雑な外交関係の進展を経て、最終的に連合国と枢軸国と二分されて第2次世界大戦に突入した。従って、帝国主義諸国がブロック経済政策を採ったことが世界大戦をもたらした直接的要因と言うことができる。
第2次世界大戦後のブロック経済の否定
このように帝国主義諸国が経済ブロックを作って抗争したことが第2次世界大戦をもたらしたことを反省し、戦後国際社会の原則として排他的経済ブロックの形成および保護主義政策を防止し、自由貿易を推進する必要があるという認識が生まれ、1947年に「貿易と関税に関する一般協定(GATT)」が制定(48年発足)され、貿易の自由化、関税の軽減に関する多角交渉をが行われることになった。(この体制は1971年のアメリカのドルショックなどを機に転換するし、またGATTは1995年に世界貿易機関(WTO)に改組、強化された。 
 
世界恐慌 10 / 世界恐慌前後の世界

 

1 世界経済恐慌とアメリカのニューディール  
1929年10月24日(暗黒の木曜日)に起こったニューヨークの株式取引所(ウォール街)での株価の大暴落をきっかけとしてアメリカで大恐慌が始まった。
この恐慌は、第一次世界大戦後アメリカの資本に依存していたヨーロッパ諸国に大きな影響を及ぼし、まもなく恐慌はソ連を除く全世界に広まった。この世界史上例を見ないほど大規模で深刻な恐慌は世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)と呼ばれている。
世界恐慌がアメリカから起こった原因としては次のようなことがあげられる。 自動車・化学・電気などの新しい産業の発展・産業の合理化による工業生産力の増大・それにともなう過剰な設備投資などによって工業製品が生産過剰に陥っていたこと。 高関税政策の影響で国際貿易が伸び悩んでいたこと。 農業部門でも、戦争中からの増産によって農産物の供給が急増していたところへ、戦後ヨーロッパの復興によってヨーロッパの需要が減少し、農産物価格が急落して農業不況が深刻化していたこと。農業不況によって農民の購買力が低下し、また生産性の伸びに比べて労働者の賃金が低く抑えられたので国民の購買力が低下したこと。
要するに、生産過剰と国民の購買力の低下によって需要と供給のバランスが大きく崩れたことが原因であった。 そして、戦後世界の資本がアメリカに集中し、それが土地や株式の投機に使われ、過剰な投機ブームが起こっていたことが株価大暴落の直接の原因となった。
1929年3月に就任した第31代大統領フーヴァー(任1929〜33)は「私はわが国の将来に何らの不安を抱いていない。未来は希望に輝いている」と演説したが、この頃すでに石炭・造船・鉄道・住宅建設などの業種は不況に苦しんでいたし、農業の不況は深刻化し、農産物価格の下落は続いていた。
にもかかわらず、株式市場では1929年9月まで株価は上昇を続けた。1929年9月の平均株価は、8年前に比べて4.5倍、3年前に比べても2倍になっていた。
その後、乱高下をくり返していた株価が、1929年10月24日(暗黒の木曜日)に突然大暴落した。28・29日にも大暴落は続き、株価は1ヶ月で40%も暴落し、株価の下落は以後3年間続いた。
株式恐慌は国民経済のすべての分野に大打撃を与え、生産は減退し、企業や銀行の倒産があいつぎ、失業者は増大した。1932年までの3年間に約5000の銀行が倒産し、国民所得は51%・工業生産は46%・企業売上げは50%・全農産物の価格は45%・輸出は36%それぞれ下落した。
恐慌が始まるとアメリカはヨーロッパから資本を引き上げたので、戦後アメリカ経済に頼っていたヨーロッパ諸国は大打撃を受けた。特に莫大な賠償金の支払いに苦しみながらもアメリカ資本によって立ち直りかけていたドイツ経済は再び破綻し、その結果賠償金を受け取れなくなったイギリス・フランスなども恐慌に見まわれ、恐慌はソ連を除く全世界に広がって世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)となった。
アメリカ大統領のフーヴァーは、1931年6月にドイツの賠償金や連合国の戦債の支払いを1年間停止するというフーヴァー=モラトリアムを提唱したが実効は上がらなかった。
フーヴァーは個人主義・民間のイニシアティブに固執し、公共事業・福祉事業・失業保険などを連邦政府の国債発行によってまかなうことを拒否したために、彼の恐慌対策は効果を上げることが出来ず、恐慌を乗り切ることが出来なかった。
そのため「フーヴァーでなければ誰でもよい」と言われるようになり、1932年の大統領選挙では民主党のフランクリン=ローズヴェルト(ルーズヴェルト)に敗れた。
フランクリン=ローズヴェルト(1882〜1945、任1933〜45)はニューヨークに生まれ、ハーヴァード大学で学んだ後に弁護士となった。1910年に政界に入り、ニューヨーク州上院議員・海軍次官・民主党大統領候補(1920年、落選)を経て、1929年にニューヨーク州知事となり、革新的な政策で知られた。そして世界恐慌さなかの大統領選挙で現職のフーヴァーを破って第32代大統領に就任した(1933.3)。
フランクリン=ローズヴェルトは就任直後に特別議会を召集し、ニューディール政策と呼ばれる恐慌克服策の根幹となる法律を次々に制定していった。
ニューディールとは「新規まきかえし」の意味で、ニューディール政策の基本政策はRelief(救済)・Recovery(回復)・Reform(改革)の頭文字をとって3R政策と呼ばれる。
ニューディール政策は今までの自由放任に代えて、国家が経済に積極的に介入し、統制を行って景気と国民生活の立て直しを図ろうとする政策で、完全雇用実現のためには政府による有効需要の創出が重要であると主張した修正資本主義の代表的な理論家であるイギリスの経済学者ケインズ(1883〜1946)の理論を初めて実施した政策であった。
ニューディール政策の根幹となった法律は、農業調整法(AAA、1935.5)・全国産業復興法(NIRA、1933.6)・テネシー川流域開発公社(TVA)の設立(1933.5)などである。
農業調整法(Agricultural Adjustment Actの頭文字をとってAAAと呼ばれる)は小麦・とうもろこし・綿花などの主要作物の作付面積や販売用生産を削減する一方で過剰農産物を政府が買い上げるなどして農産物価格を安定させ、農民の救済とその購買力の回復を目ざした法律である。
また全国産業復興法(National Industrial Recovery Actの頭文字をとってNIRA、通称ニラと呼ばれる)は企業に独占禁止法の適用を停止して公正競争の規約を結ばせ、生産を規制するとともに企業の適正な利潤を確保させ、他方で労働者の団結権・団体交渉権を認めて適正な賃金の確保を図らせ、生産力と購買力を回復させることを目的とした法律である。しかし、NIRAは1935年に最高裁判所によって違憲判決を受けたので、その中の労働者の権利に関する部分をワグナー法として制定した(1935.7)。
そしてテネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authoityの頭文字をとってTVAと呼ばれる)は電力開発・治水・土地保全・植林・農工業の振興などを目的とする地域総合開発計画で、政府が巨大なダム建設などの公共事業を行い、この事業に多くの失業者を吸収し、賃金を支払って購買力を増やすことを目的とした。
1935年に制定されたワグナー法によって労働者の団結権と団体交渉権が認められたことから労働組合運動も発展し、同年産業別組織会議(CIO)が結成された。CIOは熟練労働者を中心とするAFL(アメリカ労働総同盟)に対抗して、未熟練労働者を中心に組織され、1938年にAFLから分離・独立した。1935年には社会保険法も成立し、失業保険制度や老齢年金制度などが定められた。
世界恐慌が長引く中で恐慌克服策の一環として外交政策を改め、従来の孤立主義・膨張主義から善隣友好政策に転換した。
1933年にはソ連を承認した。列強の中でアメリカだけは長い間ソ連を承認しなかったが、ファシズム諸国の台頭に対抗するため、そしてソ連市場への輸出の拡大を図るためについに承認にふみきった。
またラテン=アメリカ諸国に対しても、従来のカリブ海政策を改めて善隣外交(善隣友好政策)に転じ、ラテン=アメリカ諸国との友好に努めたが、その背景にもラテン=アメリカ諸国への輸出を拡大したいという意図があった。
1933年に開かれたパン=アメリカ会議で、アメリカは善隣友好の方針を表明し、キューバに対してはプラット条項を廃止して完全独立を承認した(1934.5)。
そしてフィリピンに対しても、1934年に独立法案を成立させ、翌1935年に自治を認め、10年後の完全独立を約束した。
こうしたニューディール政策の実施や外交政策の転換などによって、アメリカの経済・社会は1935年頃にはようやく安定をとり戻した。
フランクリン=ローズヴェルトは1936年の大統領選挙では労働者らの支持を得て圧倒的な勝利をおさめて再選された(1940年3選、1944年4選)。
現在のアメリカでは大統領の3選は憲法で禁止されているので(1951、憲法修正第22)、フランクリン=ローズヴェルトはアメリカ史上唯一人の4選された大統領となった。 
2 イギリスとフランスの恐慌対策

 

イギリスでは、1929年5月の総選挙で労働党が保守党を破って初めて第1党となり、第2次マクドナルド労働党内閣(1929.6〜31.8)が成立した。しかし、まもなくアメリカで大恐慌が起こり、アメリカ資本が引き上げられるとイギリスも世界恐慌に巻き込まれた。
イギリスは不況に陥り、綿工業・造船・製鉄・石炭などの主要産業の生産が激減し、商業・貿易も急速に衰えた。こうした中で失業者は急増し、1929年6月には116万人であったが、翌年4月には176万人、そして1931年6月には270万人にのぼった。このため失業保険の給付が激増し、財政が悪化した。
マクドナルドは失業保険の大幅削減などによる緊縮財政を立案したが、これに対して労働党は公約に掲げる社会保障制度の充実に反するとして強く反対し、マクドナルド労働党内閣は総辞職した(1931.8)。
マクドナルドはその直後に国王の大命をおび、保守党及び自由党の協力を得て挙国一致内閣(1931.8〜35.6)を組織した。このためマクドナルドは裏切者とされ、労働党を除名された。その後、10月に行われた総選挙では政府与党が圧勝し、党首を除名した労働党は215議席を失って52議席となった。
マクドナルド挙国一致内閣は失業保険の削減を含む緊縮予算を成立させ、金本位制の停止(1931.9)や保護関税法の制定(1932.1)を行うとともに、1932年7月から8月にかけてカナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ連邦会議、オタワ会議)を開き、オタワ協定を結んでブロック経済政策を採用した。
イギリスはオタワ会議に先立って、1926年のイギリス帝国会議の決議を成文化したウエストミンスター憲章を制定し(1931.12)、各自治領にはイギリス連邦の一員としてイギリス国王に忠誠を誓うことを条件に、本国と対等の地位を与えることを定めた。
オタワ会議には、イギリス本国・カナダ・オーストラリア・ニュージランド・南アフリカ連邦・アイルランド・インド・南ローデシアの代表が集まり、本国と自治領及びインドは特恵関税制度を中心とする相互通商協定を結んだ。
このオタワ協定はイギリス帝国全体から外国商品を追い出すことを目的とし、外国商品に対しては高関税を課し、イギリス帝国内の商品に対しては無税または低関税を課すこととした。
これによって排他的な経済ブロックが形成され、イギリスは従来の自由貿易主義を放棄してブロック経済政策をとることになった。なおイギリスの経済ブロックはスターリング=ブロック(ポンド=ブロック)と呼ばれている。
イギリスがブロック経済政策をとったことが国際経済をますます狭めることとなり、世界経済の自給自足化と国際経済競争を激化させ、以後「持てる国と持たざる国」との対立が強まる原因となった。
ブロック経済政策によってイギリス経済は徐々に回復に向かい、失業者も減少し、工業生産指数は1929年を100とした場合、1932年は85であったが、1934年には104に向上した。
マクドナルドの引退後、保守党を中心とするボールドウィン挙国内閣(1935.6〜37.5)、ネヴィル=チェンバレン保守党内閣(1937.5〜40.5)が成立した。
フランスでは、世界恐慌の影響が比較的遅かったが、1931年になると影響が現れはじめ、1932年になって深刻化した。
このためこのような状況に対応できなかった右派連立政府に対する不満が高まり、1932年5月の総選挙では左派が勝利し、急進社会党(中産階級を基盤とする進歩的共和派政党)や社会党(社会主義諸派の連合政党)などが議席を増やした。
その結果、急進社会党のエリオ内閣が成立したが、左派陣営の分裂や赤字財政に苦しめられて6ヶ月で倒れ、以後14ヶ月の間に5つの内閣が交代する政治的混乱が続いた。
この間、ドイツでナチス政権が成立(1933.1)すると、フランス国内でも1934年に極右ファシスト団体や右翼勢力のデモ・暴動が起こり、またそれに反対する労働者のデモも起こって混乱が続いた。
こうした状況の中で社会党と共産党は反ファシズムの共同戦線を協約し(1934)、翌1935年6月、これに急進社会党が加わって人民戦線(ファシズムと戦争に反対する全勢力と組織を結集した反ファシズム人民統一戦線)が結成された。
これより前の1935年5月、フランスはドイツの再軍備宣言(1935.3)に脅威を感じ、ソ連との間に仏ソ相互援助条約を結んでナチス=ドイツの進出に対抗した。
左右両勢力の激しい対立が続く中で行われた1936年5月の総選挙では、人民戦線派が国民の支持を得て大勝し、社会党のレオン=ブルム(1872〜1950、任1936〜37)を首相とする人民戦線内閣(社会党と急進社会党の連立内閣、共産党は閣外協力)が成立した。
ブルム内閣は、週40時間労働制・団体交渉権の承認・フランス銀行の改革・軍需工場の一部国有化・失業者救済の公共土木事業などフランス版ニューディール政策と呼ばれる諸政策を実施したが経済危機を克服できず、退陣した(1937.6)。
フランス経済が回復に向かったのは1938〜39年のことであり、それは軍事費の増大と軍事工業の拡張によるものであった。  
3 ファシスト=イタリアの成立とその政策

 

第一次世界大戦後、後進資本主義国を中心にファシズムと呼ばれる政治形態が出現した。ファシズムという言葉は初めはイタリアのファシスト党の政治体制を指していたが、その後類似した政治体制に対しても広く使われるようになった。
ファシズムとは、第一次世界大戦後の資本主義体制が危機に陥ったときに出現した議会制民主主義を否定する独裁的な政治形態である。
ファシズム体制のもとでは、国家または民族の発展を最高の目的とし、個人はこれに従属し、奉仕すべきものと考える全体主義と呼ばれる政治思想(政治形態)によって個人の基本的人権や自由は否定され、国家や社会全体の利益が優先された。
ファシズムの典型はナチス=ドイツであるが、ファシズムが最初に成立したのはイタリアにおいてであった。
イタリアは第一次世界大戦の戦勝国であったが、パリ講和会議では「回復されざるイタリア」の獲得が認められただけでフィウメ市の併合などは拒否され、ヴェルサイユ体制に不満を持っていた。
そのため、1919年9月には詩人・小説家で愛国者であったダヌンツィオ(1863〜1938)が復員軍人などの義勇兵を率いてフィウメを占領するという出来事が起こった(1920.12撤退)。
もともと資源が乏しく、経済基盤が弱かったイタリアは戦費のほとんどを外債でまかなったため、戦後莫大な債務を負って財政危機に陥った。また産業も不振に陥り、失業者が増大し、食料その他の生活必需品が不足して激しいインフレーションにみまわれた。
そのため1919年から20年にかけて都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主の土地を占拠して地代の支払いを拒否するなど社会不安が増大し、1919年11月に行われた総選挙では社会党が第1党となった。
1920年になると労働者のストライキが激化し、9月には北イタリアの労働者が社会党左派(1921年に共産党を結成)の指導のもとで工場を占拠し、農民も各地で地主の土地を占拠したので、革命前夜を思わせる状況になった。
しかし、労働者は賃上げその他の条件で政府の妥協案を受け入れて工場占拠を解いたので以後労働運動は衰退に向かった。その一方で、この出来事をきっかけとして勢力を拡大したのがムッソリーニの率いるファシスト党であった。
ムッソリーニ(1883〜1945)は北イタリアで鍛冶屋の子として生まれた。師範学校を卒業後、スイス各地を転々とする間に社会主義者と接触し、帰国後イタリア社会党に入党した(1908頃)。彼は巧みな弁舌で知られ、社会党の機関誌「アヴァンティ(前進)」の編集長となったが(1912)、第一次世界大戦が勃発すると参戦を主張して党から除名され(1914)、以後反社会主義運動にはしった。
ムッソリーニは、1919年3月、ミラノで「戦闘者ファッショ」を結成し、同年11月の総選挙に立候補したが4千数百票を獲得しただけで落選した。なおファッショとは古代ローマの官吏がたずさえた一束の棒で団結・結束を意味し、ファシズムの語源となった。
しかし、戦闘者ファッショは、1920年の北イタリアのストライキで労働者による工場占拠が行われると、社会党員や労働者を暴力で攻撃し、労働運動を暴力で鎮圧した。
戦闘者ファッショは共産主義の進出を恐れる資本家・地主・軍部などの支持を受けて勢力を拡大し、1921年5月の総選挙では31名を当選させ、同年11月に戦闘者ファッショはファシスト党(国家ファシスト党、ファシスタ党)に改組された。
この頃には党員数も約30万人に達していたファシスト党は戦闘団(黒シャツ隊と呼ばれた)の軍隊化を進め、暴力的な性格をますます強めていった。
1922年10月24日、ナポリで開かれたファシスト党大会でムッソリーニは政権奪取を宣言し、28日には黒シャツ隊がローマに向かって進撃を開始した(ローマ進軍)。
ファクタ首相は国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世(位1900〜46)に戒厳令の発布を求めたが、国王はこれを拒否し、逆にムッソリーニに組閣を命じた。
黒シャツ隊はローマを占領し、ムッソリーニもミラノから寝台車でローマに到着し、同月末にムッソリーニ政権(ファシスト政権)が成立した。
政権を握ったムッソリーニは、ファシスト大評議会を設立し(1923)、翌1924年の総選挙でファシスト党は暴力を使った選挙運動によって総投票数の65%・375議席を獲得して議会の絶対多数を握り、1926年11月にはファシスト党以外の全政党を解散させ、ファシスト党一党独裁制を確立した。
さらに1928年12月にはファシスト党の最高機関であったファシスト大評議会が正式に国家の最高機関となり、ファシズム体制が完成した。
この間、ムッソリーニはローマ帝国の再現を唱えて対外拡張政策を進め、1924年1月にはユーゴとの直接交渉によってフィウメを併合した。フィウメはダヌンツィオが義勇兵を率いて一時占領したが、ラパロ条約(1920.11)によって独立市とされたがムッソリーニによって再度併合された。次いで1926年にはアルバニアを事実上の保護国とした。
さらに1929年2月には、カトリック教徒がほとんどを占める国民の支持を得るためにローマ教皇庁とラテラン条約(ラテラノ条約、ラテラン協定)を結んだ。ローマ教皇庁とイタリア王国とは、1870年にイタリア王国がローマ教皇庁を併合して以来、ローマ教皇は「ヴァチカンの囚人」と称し、両者は国交断絶状態にあった。
ムッソリーニはラテラン条約を結んでローマ教皇と和解し、ヴァチカン市国の独立とカトリックがイタリア唯一の宗教であることを認め、ローマ教皇はムッソリーニ政権を承認した。
ヴァチカン市国はローマ市の一角にある教皇庁の所在地域で、面積0.44平方km・人口1277人(1994)の世界最小の独立国家である。
ムッソリーニがイタリア国内でファシズム体制を完成させてまもなく、世界恐慌の影響がイタリアにも及んだ。ムッソリーニは統制経済を強め、失業者の救済を兼ねた大土木事業を起こして工業の発展を図るとともに食糧の増産にも努めた。
しかし、その一方で資源に乏しいイタリア国内の経済危機を打開するため、また経済危機から国民の目をそらせるために1935年10月にはエチオピア侵入を開始した。
イタリア軍が侵入を開始してから4日後に国際連盟理事会はイタリアを侵略国とみなし、8日後に国際連盟総会はイタリアへの経済制裁を決議した。しかし、この経済制裁は肝心の石油が禁輸リストから外されるなど不徹底で効果はなかった。
エチオピア軍は勇敢に抵抗したが、近代兵器で武装したイタリア軍は破竹の進撃を続け、イタリアは1936年5月にエチオピアを併合した。
このイタリアによるエチオピア侵入は国際連盟の権威を失墜させるとともに、ファシスト=イタリアとナチス=ドイツを接近させ、1936年10月にベルリン=ローマ枢軸が成立した。 
4 ナチス=ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊 (1)

 

1920年代後半にやっと安定を取り戻したドイツは世界恐慌によって深刻な打撃を受け、国民生活は混乱し、議会政治は危機に陥った。こうした状況の中で急速に勢力を伸ばしたナチスは、1933年1月、ついに政権を獲得し、ヒトラー内閣が成立した。
ヒトラー(1889〜1945)はオーストリアのブラウナウで下級税関官吏の子として生まれた。実科学校を中退した彼は画家を志してウィーンに出て美術学校を受験したが失敗した(1907)。翌年も受験に失敗したヒトラーはウィーンで自分で書いた絵を売ったり、日雇い労働者をしながら食べるものにも事欠くような困窮の生活を送った。その後、一時ミュンヘンにも移り住んだが(1913)、1914年8月に第一次世界大戦が起こると、ただちにバイエルン連隊に志願兵として入隊した。
フランドル戦線に派遣されたヒトラーは勇敢に戦い、2度負傷し、陸軍病院で敗戦を迎え、まもなく退院してバイエルンの連隊に戻った。そして軍の政治工作員となったヒトラーはドイツ労働者党という小さな右翼政治団体の調査を命じられて入党した(1919.9)。そして巧みな煽動演説と精力的な活動によって頭角をあらわし、まもなく党の指導者となった(1921.7)。
この間、1920年2月には「25カ条の綱領」が発表され、党名もドイツ労働者党から国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(通称のナチスは政敵からの呼称)に改称された。
「25カ条の綱領」の主な内容は以下の通りである。
1 われわれは、諸国民の民族自決権の原則にのっとり、大ドイツ国を樹立するため全ドイツ人が統合することを要求する。
2 われわれは、他国民に対するドイツ民族の平等権を要求し、ヴェルサイユ条約およびサン=ジェルマン平和条約の破棄を要求する。
3 われわれは、わが国民を養い、過剰人口を移住せしめるために、土地および領土(植民地)を要求する。
4 ドイツ民族同胞たるもののみが、ドイツ国公民たりうる。ドイツ人の血統を持つもののみが宗派のいかんを問わず、ドイツ民族同胞たりうる。したがってすべてのユダヤ人はドイツ民族同胞たり得ない。
8 非ドイツ人のこれ以上の流入は阻止されねばならない。われわれは、1914年8月2日以降ドイツ国に流入したすべての非ドイツ人を、即時強制的に国外へ退去せしめることを要求する。
22 われわれは、傭兵軍隊の廃止と、国民軍の建設を要求する。
25 以上すべての要求を貫徹するため、われわれは、ドイツ国に強力な中央権力を創設することを要求する。・・・
このように大ドイツの建設・ヴェルサイユ条約の破棄・領土の要求・ユダヤ人の迫害など後にヒトラーが実現に努力した国粋主義的な政策が掲げられている。また11〜17には不労所得の廃止・戦時利得の没収・トラストの国有化・養老制度の拡張・土地改革などの社会主義的な政策も掲げられているが、これらは党勢拡大のための具にすぎず、その後ヒトラーによって無視された。
ナチスが一躍注目を集めるようになったのは、1923年11月のミュンヘン一揆によってであった。1923年、フランス・ベルギーによるルール占領によって1兆倍に及ぶ破局的なインフレーションが起こり、政治不安が激化すると、同年11月、ナチスはヴァイマル政府の打倒と政権獲得を目ざしてクーデターを企てた(ミュンヘン一揆)。
しかし、このミュンヘン一揆は国防軍によって鎮圧され、ヒトラーは逮捕され、翌年の裁判で有罪となり、9ヶ月間投獄された。この間、獄中で口述筆記されたのが有名な『わが闘争』(1925年に上巻、27年に下巻が出版された)で、ナチスのバイブルとなった。
出獄後、ヒトラーは戦術を転換し、選挙による合法的な政権獲得を目ざした。しかし、当時のドイツは政治・経済・社会が安定期に向かっていたので、ナチスの勢力はほとんど伸びず、1928年5月の選挙では総投票数の2.6%・12議席を獲得したにすぎなかった。
1929年に始まった世界恐慌がドイツに及ぶと、アメリカ資本に依存していたドイツ経済はたちまち破綻の危機に瀕した。企業の倒産が相次ぎ、工業生産は半減し(1929年を100とする工業生産高の指数は1932年には53.3となった)、失業者数は600万人を超えた。
こうした状況の中で、ナチスの唱える現状打破、特にヴェルサイユ体制破棄の主張はドイツ人の心をとらえた。ナチスは巧みな宣伝によって従来の政党に失望した中産階級の支持を得、1930年9月の選挙では総投票数の18.3%を獲得し、議席数を12から一挙に107議席に伸ばし、社会民主党(143議席)に次ぐ第2党に躍進した。その一方でこの選挙では労働者に支持された共産党も54(1928)から77へと議席数を増加させた。
共産党の進出を恐れた資本家(特に金融資本家と重工業資本家)とユンカー(大地主)はナチス支持に傾き、ナチスに財政援助を行った。さらに軍部もナチスを支持したので、1932年7月の選挙ではナチスは総投票数の37.4%・230議席を獲得し、ついに第1党となった。ヒトラーは入閣を求められたが組閣を求めてこれを拒絶した(1932.8)。
1932年11月の選挙でもナチスは第1党であったが196と議席を減らし、一方共産党は100議席(1932年7月選挙では89議席)と議席をさらに増やした。
共産党の進出に脅威を感じた資本家やユンカーはますますナチス支持を強め、内閣を総辞職に追い込んだのでヒンデンブルク大統領はヒトラーに組閣を許し、1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が成立した。
しかし、この時のヒトラー内閣は連立内閣で過半数に達してなかったので、ヒトラーはただちに議会を解散し、1933年3月の選挙では総投票数の43.9%・288議席という圧倒的多数を獲得した。
この選挙では、ナチスは豊富な資金を用いて大々的な宣伝を行う一方で、暴力で反対党の選挙運動を妨害するなど未曾有のテロと脅迫を行った。
特に1932年2月27日夜、国会議事堂放火事件が起こると、放火犯人として前オランダ共産党員のルッベらを逮捕し、これを共産党の陰謀として共産党を弾圧した。この事件については不明な点も多いが、ゲーリングらナチス首脳が計画した放火説が有力である。
ナチスは国会議事堂放火事件の翌日、緊急令を発し、憲法が保障する言論・出版の自由などの基本権を停止し、また共産党を非合法化して数千人の共産党員を逮捕した。
こうして3月5日の選挙では288議席を獲得した。しかし、与党の国家人民党の52議席を加えても3分の2(憲法改正に必要な数)に達しなかったので、共産党の81名の当選を無効とし、1933年3月24日には全権委任法(授権法)を成立させた。
全権委任法は、以後4年間国会や大統領の承認なしに政府の立法権を認めるという内容で、これによってヒトラーの独裁体制が確立された。
独裁権を握ったヒトラーは、労働組合を禁止し(1933.5)、同年7月までにはナチス以外の全政党を解散させ、ナチスの一党独裁体制を確立した。
ヒトラーは、1934年8月にヒンデンブルク大統領が亡くなると、総統(フューラー)に就任し、大統領・首相・党首の全権を握り、名実ともに独裁者となった。  
4 ナチス=ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊 (2)

 

ナチス支配下のドイツは第三帝国(1933〜45)と呼ばれる。第三帝国とは、第一帝国(神聖ローマ帝国)・第二帝国(ドイツ帝国)に次ぐ第三の帝国の意味である。
ナチスは全体主義の思想のもとで民主主義を否定し、個人の自由・基本的人権は認めず、国民生活全体を厳しく統制した。特に反対派やユダヤ人に対しては突撃隊(SA、エス=アー)・親衛隊(SS、エス=エス)・秘密警察(ゲシュタポ)を利用して徹底して弾圧した。
突撃隊は、1921年に創設されたナチスの直接行動隊で、初めはナチスの集会の防衛を任務としたが、やがて反対派に対するデモと暴力の行使を主任務とした。1926年以後は大衆組織として急速に勢力を拡大し、1933年頃には250万人を擁して国防軍と並ぶ強大な組織となり、国防軍と対立した。国防軍の支持を必要としたヒトラーは、1934年6月に突撃隊の幹部を粛清したので、以後は親衛隊が強力になった。
親衛隊はヒトラー個人の身辺警護隊として1925年に創設された。1934年に突撃隊から独立し、最新の武器で武装し、占領地支配や強制収容所の運営を行い、後には秘密警察の役割も担った。
ゲシュタポは、1933〜34年に設立された国家秘密警察で、あらゆる手段を用いて反ナチス分子やユダヤ人を徹底的に弾圧し、ナチスの恐怖政治のシンボルとなった。
ヒトラーは19世紀にヨーロッパで高まった反ユダヤ人的人種論をもとに、ドイツ民族は世界で最も優秀な民族であり、その反対にユダヤ人は劣等民族で絶滅されるべき存在であるという極端な人種論を唱え、ユダヤ人を迫害した。
1933年にはユダヤ人商店に対するボイコットやユダヤ人の公職からの追放を行い、1935年にはユダヤ人と4分の1以上ユダヤ人の血が混じっている混血者から市民権を剥奪し、ユダヤ人と非ユダヤ人との結婚を禁止した。
そうした中で、1938年にはユダヤ人の商店の打ちこわしや虐殺が行われ、1942年にはユダヤ人絶滅政策が決定された。そして政治犯やユダヤ人を収容して強制労働を行わせ、あるいは大量虐殺を行うために強制収容所が各地に建設され、ユダヤ人の強制連行・大量虐殺が行われた。
有名なアウシュビッツの強制収容所(現在のポーランド国内にあった)は1940年に建設された最大規模の強制収容所で、ここだけでも250万人のユダヤ人を含む400万人以上が虐殺されたといわれている。第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)では約500万人(1942年頃の全ヨーロッパのユダヤ人は約1100万人といわれている)のユダヤ人が虐殺されたといわれている。
1932年を底として次第に回復しつつあったドイツ経済は、ナチスの支配下で復興に向かった。ナチスはアウトバーン(ドイツの高速自動車道路網)・土地改良工事・飛行場の建設などの大規模な土木事業に着手して失業者を吸収したので、失業者は1933年初めの約600万人から1935年初めには約300万人に減少した。
1936年に開始された四カ年計画は「バターより大砲を」の軍需産業優先の軍備拡張計画であったが、これによって失業者数は1939年初めには約30万人に激減した。
国内でファシズム体制を確立したナチスは対外的にも強硬な態度をとり、ヴェルサイユ体制の打破に乗りだした。
1933年1月に政権を獲得したヒトラーは、ヴェルサイユ条約でのドイツの軍備制限の撤廃と軍備平等権を要求し、これが拒否されると、1933年10月に前年から開かれていたジュネーブ軍縮会議(1932〜34)と国際連盟からの脱退を宣言した(1933年3月には日本がすでに脱退していた)。
そして1935年1月には住民投票によってザール地方のドイツ復帰を果たした。ザール地方は石炭などの資源に富むヨーロッパ有数の工業地帯であったが、ヴェルサイユ条約では国際連盟の管理下におかれ(炭田の採掘権はフランスに譲渡されていた)、帰属は15年後の住民投票で決定することになっていたが、1935年1月に行われた住民投票では91%の支持率でドイツに復帰した。
1935年3月16日、ヒトラーはヴェルサイユ条約の中の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を復活し、軍隊を50万人に増強するという再軍備宣言を突然行い、ヨーロッパ中の国々を驚かせた。再軍備宣言では空軍の設立も宣言された。
この再軍備宣言は全ヨーロッパに衝撃を与えた。イギリス・フランス・イタリアは同年4月にイタリアの都市ストレーザで会談を開き、ドイツの再軍備宣言を非難するとともに、ドイツの脅威に対して共同行動をとることを約束した(ストレーザ戦線)。
ドイツの再軍備宣言に最も衝撃を受けたのはフランスであった。フランスはナチス=ドイツの進出に対抗するためにソ連との間に仏ソ相互援助条約を結び(1935.5)、ソ連もチェコとソ連=チェコ相互援助条約を結んだ(1935.5)。
しかし、1935年6月にはイギリスがドイツと英独海軍協定を結び、ドイツに対英35%の軍艦と45%の潜水艦の保有を認めたのでストレーザ戦線は崩壊した。英独海軍協定は国際連盟の理事国であったイギリス自らがヴェルサイユ条約を無視し、ドイツの再軍備宣言を公認するものであったのでヴェルサイユ条約は事実上崩壊した。
さらにヒトラーは、翌1936年に、ヨーロッパがムッソリーニのエチオピア侵入(1935.10〜36.5)で騒然としている中でラインラント進駐を行った。
1936年3月7日、ヒトラーは前年の仏ソ相互援助条約の締結を理由にヴェルサイユ条約・ロカルノ条約(1925、ラインラントの非武装と相互不侵略を約束した条約)を破棄してラインラントに進駐した。
この時のドイツ軍は大軍でなかったので、後にヒトラーは「ラインラント進駐後の48時間は、私の生涯でもっとも神経を痛めた時だ。もし当時フランスが兵を進めておれば、われわれはしっぽをまいて退却せざるを得なかったであろう。われわれが利用できる軍事力はひかえめな抵抗にも全く不十分だったからだ。」と語っている。
フランスはドイツのラインラント進駐に一時態度を硬化させたが、イギリスの同調が得られなかったために反撃をためらい、ドイツによるラインラント進駐を阻止することが出来なかった。
ラインラント進駐によってロカルノ体制とヴェルサイユ体制は崩壊し、国際情勢はますます緊迫の度を強めていった。 
5 日本軍部の台頭と満州事変

 

第一次世界大戦が終わった翌々年、日本は大戦景気の反動から戦後恐慌に襲われ、さらに関東大震災(1923.9)によって日本経済は大打撃を受けた。
そして1927年3月には震災手形(関東大震災のために支払えなくなった手形)の処理をめぐって金融恐慌がおこり、銀行・会社の倒産が続出した。
その直後に成立した田中内閣(1927.4〜29.7)は金融恐慌の処理にあたるとともに、対外的には中国に対して積極外交(強硬外交)を展開し、山東出兵(1927.5〜28.5)を行って済南事件(1928.5、日本軍と北伐軍の衝突事件)をおこした。しかし、田中内閣は張作霖爆殺事件(満州某重大事件、1928.6)の責任問題で退陣し、浜口内閣(1929.7〜31.4)が成立した。
浜口内閣の成立からまもなく世界恐慌が始まった。浜口内閣はこの時期に金解禁(1930.1)を断行したため、大量の金流出・企業の倒産・失業者の増大を招き、日本経済は深刻な不況に陥った(昭和恐慌)。
鉱工業生産は1926年を100とすると、1931年には75に落ちこみ、失業者は50万人近くに達し(帰農者を含めると300万人以上ともいわれている)、労働争議が多発した。また生糸・米の値段の暴落や北海道・東北の冷害・大凶作で農村の困窮が深刻化し、小作争議が激増し、欠食児童や娘の身売りなどが社会問題となった。
浜口内閣(外相は幣原(しではら)喜重郎)は対外的には協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、中国に対してもその主権を尊重し、内政に武力干渉することは避けて日本の権益の擁護をはかった。
しかし、陸軍を主体とする軍部は、幣原外交を軟弱外交として非難し、これに強く反対した。特に政府が軍令部の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を調印したことは天皇の統帥権(とうすいけん、軍隊の指揮統率権)を犯すものだとして政府を激しく攻撃した。
こうした動きと結びついて、軍部内では世界恐慌による国内の危機を打開するために満州(当時の日本では中国東北地方をこう呼んでいた)・内蒙古全域を植民地とする、そのために満蒙問題を武力で解決するという動きが強まった。
1931年(昭和6年)9月18日夜、関東軍(関東州(旅順・大連とその付属地域)と南満州鉄道の警備を主任務とする日本陸軍部隊)の一部将校たちは奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自ら爆破し、これを張学良軍のしわざとして軍事行動を起こし(柳条湖事件)、翌朝までに奉天全市を占領した。
この日本軍の行動に対して蒋介石は不抵抗政策を命じ、張学良がそれに従ったので、関東はまたたくまに長春・営口・吉林など満鉄沿線の主要都市を占領した。
第2次若槻内閣(1931.4〜31.12)は不拡大方針を表明(1931.9.24)したが、関東軍はさらに満州全域に軍を進め、翌1932年2月にはハルビンを占領し、開戦以来約半年で熱河を除く満州全域をほぼ制圧した。そして1932年3月には満州国を建国した。これが満州事変(1931.9〜32.3)である。柳条湖事件は満州事変以後、日中戦争から太平洋戦争までの十五年戦争(1931.9〜45.8)の発端となった。
中国国民政府は日本の軍事行動に対して不抵抗政策をとるとともに、国際連盟に提訴した(1931.9.21)。しかし、いわゆるリットン調査団が編成されたのは1931年末で、調査団は1932年2月から9月にかけて中国・日本を視察して10月に報告書を提出したが、その時にはすでに満州国が建国されていた。
柳条湖事件に次いで、1932年1月には上海事変が勃発した。満州事変の勃発以来、排日運動が激化していた上海で日本人の日蓮宗僧侶が殺傷されるという事件(この事件も日本軍の謀略とされている)が起こると、日本軍は軍事行動を起こし、中国軍と激しい戦闘状態に入った。陸海軍の増援を得た日本軍は2月下旬から総攻撃を行い、激戦が続いたが、3月初めには中国軍が撤退したので戦闘はほぼ終わり、5月に停戦協定が結ばれた。
日本は、列強の目が上海に注がれている間に満州国建設の計画を進めた。日本は、当時天津の日本租界の近くに蟄居していた清朝最後の宣統帝溥儀(1906〜67、清朝皇帝・位1908〜12、満州国皇帝・位1934〜45)を天津から連れ出し(1931.11)、1932年3月1日に溥儀を執政とする満州国の建国を宣言した。その後満州国は帝政となったので溥儀は満州国皇帝となった(1934.3)。
日本は、1932年9月に満州国を承認し、日満議定書を結んだ。日満議定書で、満州国は日本がそれまで満蒙において持っていたすべての権益を承認し、日本の駐兵権を全国に拡大することを認めた。また満州国政府の重要なポストは日本人顧問・官吏が占めて実権を握ったので、満州国は完全に傀儡(かいらい)政権であり、事実上日本の植民地であった。
この間、日本国内では1932年5月15日に、海軍青年将校と右翼が首相官邸などを襲って犬養首相(任1931.12〜32.5)を暗殺するという五・一五事件が起こった。五・一五事件によって政党政治は終わりをつげ、以後軍部の発言権がますます強くなった。
1932年10月にはリットン調査団の報告書が発表された。報告書は、日本の満州における権益は保護されるべきであるとしながらも、満州事変を日本の侵略行為とし、満州国は満州人の自発的独立運動でないとして満州国を認めず、満州を中国の一部として強い自治権を持たせて国際連盟の管理下におくことを提案していた。
日本はこれに対して国際連盟理事会でただちに反駁する一方で、翌1933年1月には山海関を占領し、次いで熱河省(省都は承徳、現在の河北省の北部)を満州国の一部だとして攻撃を開始し(1932.2)、国際連盟を刺激した。
1933年2月24日、国際連盟総会でリットン調査団報告に基づく日本軍の満州撤退勧告案が42対1(反対の1は日本)で採択されると、松岡洋右(ようすけ)日本代表は席をけって退場し、日本は3月27日に国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を歩むことになった。
日本は、国際連盟脱退後、1933年4月には長城を越えて華北に侵入して北京に迫った。中国は停戦を申し入れ、5月末に塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれた。これによって中国は満州国の存在を事実上承認し、また長城以南に非武装地域をつくることを約束した。
日本は、1935年に入ると再び防共を名目として内蒙古・華北に進出し、非武装地域(河北省東部)に冀東(きとう)防共自治政府という傀儡政権を成立させ、国民政府からの分離・独立を宣言させた。 
6 抗日民族戦線の成立と日中戦争 (1)

 

1931年9月に始まった満州事変に対して、国内での対共産党軍作戦をより重視した蒋介石は国際連盟の制裁措置に期待するとして不抵抗政策をとった。この国民政府の不抵抗政策に対しては国民から激しい抗議の声があがり、徹底抗戦と日本商品ボイコットを求める抗日救国運動が激化した。
しかし、日本との全面戦争を回避しようとする蒋介石は対日妥協策をとり、「安内攘外」(まず国内の敵を一掃し、しかる後に外国の侵略を防ぐの意味)の政策のもとに、上海事変の停戦協定を結ぶと(1932.5)、1932年6月から50万の兵を動員して中華ソヴィエト共和国(1931.11成立)に対する4回目の包囲攻撃を開始した。
この作戦は紅軍(中国共産党の軍隊)の抵抗と日本軍の熱河進攻(1932.2)によって中止されたが、蒋介石は塘沽停戦協定(1933.5)を結んで華北問題に決着を付け、1933年10月から100万の大軍と200機の飛行機を総動員して5回目の包囲攻撃を開始し、四方から瑞金(中華ソヴィエト共和国の首都)へ迫った。
圧倒的な物量を誇る国民党軍の攻撃によって全滅の危機にさらされた紅軍は、ついに江西省の拠点を放棄することを決定し、1934年10月に包囲網を突破して瑞金から脱出した。
瑞金を脱出した約8万の紅軍の主力は国民党軍の追撃を受けながら、貴州省・雲南省・四川省の辺境地帯に逃げ込み、万年雪を頂く嶺を越え・急流や大河を渡り・沼沢地の大草原を通り、総行程約12500km(地球の周囲は約4万km)の大移動の末、1935年10月に毛沢東の率いる紅軍は陜西省北部に達し、この地の紅軍と合流した。
これが歴史上有名な長征(大西遷、1934.10〜36.10)である。翌1936年10月には別の部隊も合流して長征は終わった。国民党軍による5回目の包囲攻撃の前には紅軍は約30万の兵力を擁していたが、長征を終えて陜西省北部に合流した時の兵力は約3万に減っていた。
毛沢東らは1937年に陜西省北部の延安に移ったので、延安は以後1949年に中華人民共和国が成立するまで中国共産党政権の中心的な根拠地となった。
この間、1935年1月に長征途上の貴州省遵義(じゅんぎ)で開かれた共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、それまで党の指導権を握っていたソ連留学生グループが退けられ、毛沢東の指導権が確立された。
毛沢東(1893〜1976)は湖南省の農家に生まれ、師範学校在学中から左翼運動に参加した。卒業後北京に出て(1918)、北京大学教授兼図書館長の李大サ(中国共産党の創立者の一人)のもとで図書館助手として勤務し、この間にマルクス主義を学んだ。翌年、五・四運動が起こると湖南省の長沙で運動を展開し、1921年の共産党創立大会に湖南省代表として出席した。五・三○事件(1925)以後は湖南の農民運動の指導にあたり、国共分裂(1927)以後は井崗山に退いて根拠地を建設し、後に瑞金に移って中華ソヴィエト共和国を樹立して主席となった(1931)。そして長征途上の遵義会議(1935)で党内における指導権を確立し、紅軍を陜西省北部に導いた。
1935年8月1日、長征途上の中国共産党は八・一宣言(正式には「抗日救国のために全同胞に告げる書」という)を発表した。八・一宣言は日本の侵略に対して内戦の停止と抗日のための民族統一戦線の結成を呼びかけたもので、中国の民衆に大きな影響を与えた。
1935年11月、国民政府は幣制緊急令を発し、幣制改革を断行した。この改革によって国民政府系の中央・中国・交通の3銀行の発行する銀行券のみが法幣(法定通貨)となり、今まで主に使われてきた銀と他の銀行が発行する銀行券の使用は禁止された。幣制改革によって国民政府による全国的な通貨・金融の統一が達成され、地方に残存する軍閥の力は弱められた。そして浙江財閥の支配が一層強まり、蒋介石の独裁がより強化された。
紅軍が陜西省北部に到着した頃、華北へ侵略した日本は河北省東部に冀東防共自治政府という傀儡政権を成立させた(1935.11)。
こうした状況の中で、1935年12月9日、5000人以上の北京の学生たちは「日本帝国主義打倒」・「華北自治反対」・「内戦を停止し、一致して外敵にあたれ」などのスローガンを掲げてデモを行った。この十二・九運動は全国に大きな影響を与え、抗日救国運動が全国に広まった。 
6 抗日民族戦線の成立と日中戦争 (2)

 

しかし、蒋介石は陜西省北部の共産党の根拠地に対する攻撃を続け、張学良の東北軍と楊虎城の西北軍を派遣して攻撃を命じた。
張学良の指揮する東北軍は、満州事変で故郷を追われて華北に移動した軍隊で、その将兵たちは満州にもどって日本軍と戦うことを望んでいた。内戦停止・一致抗日に傾いた張学良は共産党と協定を結び、1936年前半以後東北軍と共産党軍は停戦状態にあった。
1936年12月、紅軍との戦闘に消極的な張学良と楊虎城を督戦するために蒋介石は西安に乗り込んで来た。張学良は蒋介石に内戦停止と抗日の必要を強く訴えたが蒋介石はこれを拒否した。
ついに意を決した張学良は、1936年12月12日未明、西安郊外の華清池(玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスで有名な地)にあった蒋介石の宿舎を軍隊で襲撃し、蒋介石を捕らえて監禁した。
張学良は、国民党の改組・内戦停止・政治犯の釈放など8項目を宣言し、蒋介石に政策の転換を迫ったが蒋介石はこれに応じず、新たな内戦の危機が迫った。この時、中国共産党は周恩来を西安に送って蒋介石を説得し、事件の平和的な解決に大きな役割を果たした。結局、蒋介石は説得に応じて内戦の停止など8項目を認めることを約束して25日に釈放されて南京に帰った。これが有名な西安事件である。
この西安事件を契機として、1927年以来10年に及んだ内戦は停止され、日中戦争が勃発すると第二次国共合作がなり(1937.9)、抗日民族統一戦線が成立した。
張学良は西安事件の責任をとって蒋介石の後を追って南京に赴いて逮捕され、国家元首を監禁した罪により懲役10年の判決を受けた。張学良は翌年特赦によって無罪となったが以後軟禁状態におかれ、歴史の表舞台から姿を消した。
1946年に重慶から台湾に移された後も自宅軟禁の生活が続いたが、1990年6月に90歳を祝う誕生パーティーが台北市で開かれ、張学良は約半世紀ぶりに公の場に姿を現して世界中から注目された。同月、NHKは張学良とのインタビューに成功し、翌1991年にNHKスペシャル「張学良がいま語る-日中戦争への道」として放映した。すばらしい番組であったので、私は授業で必ず生徒に見せた。張学良はその後ハワイに移り住み、2001年10月に100歳で没した。
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習をしていた日本軍の頭上に10数発の小銃弾が飛んだ。誰が発砲したかについては不明であるが、日本軍は翌8日に宛平県城とその周辺の中国軍に攻撃を加え、これに中国守備隊が抵抗した。この盧溝橋事件が日中戦争(1937.7〜45.8)の発端となり、以後日中両国は全面戦争に突入した。
7月11日には停戦協定が結ばれた。しかし、最初は不拡大方針を表明した第1次近衛内閣(1937.6〜39.1)が同日、軍部の華北派兵を承認したので問題解決は困難となった。一方中国側でも共産党が7月8日に全民族の抗戦を呼びかけ、蒋介石も7月17日に抗戦の決意を表明した。
日本軍は、7月28日に総攻撃を開始し、天津・北京を占領し、8月13日には上海でも戦端を開いた。さらに華北の要地を占領し、12月13日には南京を占領した。この時、日本軍は多数の中国人を虐殺し(中国側の資料では30万人以上)、掠奪・暴行・放火を行い、世界から非難をあびた(南京虐殺事件)。
この間、1937年9月に中国では第2次国共合作が成立し、紅軍は八路軍と改称して蒋介石の統率下に入り、抗日民族統一戦線が成立した。
日本軍は、1938年10月には広東と武漢を占領したが、国民政府は政府を南京から武漢へ、さらに重慶へ移し(1938)、アメリカ・イギリス・ソ連の援助を受けて抗戦したので戦争は長期化・泥沼化し、早期解決は不可能となった。
近衛内閣は、1938年1月に中国との停戦協定を打ち切り、傀儡政権を立てる方針を固め、「国民政府を相手にせず」との近衛声明を発表し、戦争解決の道を自ら閉ざした。そして1940年3月、重慶を脱出してきた国民党の有力者である汪兆銘(汪精衛、1883〜1944)に新政権をつくらせ、重慶政府に対抗して南京にもう一つの国民政府を樹立した。しかし、この政権は日本の傀儡政権にすぎなかったので中国民衆の支持を得られず、成果をあげることは出来なかった。また同年11月には東亜新秩序の建設を声明し、侵略戦争を正当化しようとした。
日本は、1938年末までには華北・華中の大部分と広東周辺地域を占領したが、それは重要な都市とそれを結ぶ交通線を確保したにすぎず、周辺の農村は共産党や国民党軍の支配下にあり、日本軍はゲリラ戦に脅かされ、戦局の見通しがまったく立たなくなった。そのためこの状況を打開するために南方への進出を企て、1941年12月には太平洋戦争に突入していった。
7 スペイン内戦と枢軸の結成

 

スペインは第一次世界大戦に中立を保って好景気が続いたが、戦後不景気となり、政治不安に加えて労働運動が激化した。
こうした状況の中で、1923年9月、プリモ=デ=リベラ将軍(1870〜1930)がクーデターを起こし、国王アルフォンソ13世(位1886〜1931、ブルボン朝最後の国王)の承認のもとに軍事独裁政権を樹立し、反王制派を弾圧するなど反動政治を行った。
世界恐慌の影響でスペイン社会が混乱に陥ると、知識人・学生・労働者らの反独裁運動が起こり、1930年1月にリベラ将軍は辞職に追い込まれ、独裁政権は崩壊した。独裁政権崩壊後は共和派や社会主義者による反王政運動が盛んとなった。
1931年4月に行われた地方議会選挙で共和派が大勝した。共和派は国王の退位を要求し、国王アルフォンソ13世は翌々日に国外に亡命してブルボン朝が崩壊し、共和政が成立した(スペイン革命、スペイン共和革命)。
スペイン革命によって成立したアサーニャ内閣(1931〜33)は民主主義改革を進め、同年12月にはドイツのヴァイマル憲法にならった民主的な共和国憲法が制定された。しかし、最大の課題であった土地改革が不徹底だったのでアサーニャ内閣は左派と右派の両方から攻撃され、1933年9月に総辞職した。
そして1933年11月に行われた選挙では地主・軍部・カトリック教会・資本家に支持された右派勢力が過半数を占め、以後反動化が進み、いわゆる「暗い2年間」が始まった。
そのため、右派勢力に対抗するためにスペインでも左派共和主義諸政党・社会党・共産党の間で人民戦線が結成され(1936.1)、1936年2月の選挙では人民戦線派が大勝し、人民戦線内閣が成立した。
アサーニャが首相、次いで大統領(任1936〜39)に選ばれ、人民戦線内閣は土地改革・教会の特権剥奪などの改革に着手した。
これに対して人民戦線内閣に反対する軍部・地主・教会に支持されたフランコ将軍は、1936年7月にスペイン領モロッコで反乱を起こし、スペイン内戦(スペイン反乱、1936.7〜39.3)が始まった。
フランコ(1892〜1975)は陸軍士官学校を卒業後(1910)、モロッコの民族運動鎮圧に従事し、30歳の若さで少将となった。1935年には参謀総長となったが、翌年人民戦線内閣が成立するとカナリア諸島守備隊司令官に左遷され、モロッコで反乱を起こした。
フランコ将軍がモロッコで反乱を起こすと、スペイン本土でも各地で反乱が起こり、政府軍との戦闘が始まった。マドリードやバルセロナなどでは政府軍や労働者によって反乱は鎮圧されたが、反乱軍は7月末までにはモロッコ・スペイン南部・スペイン北部など国土の約3分の1を占領した。
さらに8月に入ると、ドイツ・イタリアのファシズム政権の援助を得たフランコ将軍が本土に上陸し、9月末にはマドリードを包囲し、反乱軍はスペイン全土の約3分の2を占領した。
このスペイン内戦に対して、イギリスとフランスは戦争の拡大を恐れて、またスペインの共産化を恐れて不干渉政策をとった。1936年9月にイギリスとフランスの主導によってスペイン内戦不干渉委員会が成立し、英・仏・独・伊・ソ連など27カ国が参加した。
しかし、ドイツとイタリアは不干渉協定を無視して公然とフランコ将軍側に軍事援助を行った。特にドイツはこのスペイン内戦を新兵器の実験台とし、1937年4月にはスペイン北部の小都市ゲルニカを空軍による無差別爆撃によって徹底的に破壊した。スペイン生まれの画家ピカソ(1881〜1973)の「ゲルニカ」はこの出来事を素材として戦争への憎悪をこめて描かれた作品として有名である。
これに対してソ連は人民戦線政府の援助を声明し(1936.9)、国際義勇軍とともに政府軍を援助した。国際義勇軍には世界各地からファシズムと戦うために多くの自由主義者などが参加した。中でも、スペイン内戦を背景に描かれた『誰がために鐘は鳴る』(1940)の著者であるアメリカの作家ヘミングウェー(1899〜1961)やイギリスの作家オーウェル、そしてフランスの作家マルローらが有名である。
こうしてスペイン内戦は国際戦争化し、第二次世界大戦の前哨戦となった。政府軍は頑強に抵抗を続けたが、イギリスとフランスは最後まで不干渉政策を続けたので、ドイツとイタリアの援助を得たフランコ側が優勢となり、1939年1月にはバルセロナを占領し、3月にはついにマドリードも陥落し、スペイン内戦はフランコ側の勝利に終わった。
フランコは国家主席となり、その後総統(国家主席兼首相)に就任して独裁体制を樹立し、1975年に死ぬまでその地位を維持した。
ヒトラーとムッソリーニは、エチオピア侵入・ラインラント進駐・スペイン内戦などを通じて接近し、1936年10月にはベルリン=ローマ枢軸を結成した。
ドイツは日本とも、コミンテルンの活動に対する情報交換や共同防衛を約して、1936年11月に日独防共協定を結んだ。
翌1937年11月には、イタリアが日独防共協定に参加して日独伊三国防共協定となり、イタリアは同年12月に日・独に続いて国際連盟を脱退した。
こうして日本・ドイツ・イタリアのファシズム国家による「ベルリン=ローマ=東京枢軸」が成立した。  
 
1930年代アメリカ大恐慌のメカニズム

 

はじめに
1930 年代の世界大恐慌は、比類のない大規模なものだった。大恐慌の中心だったアメリカでは、図1 に見るように、1929 年10 月24 日、暗黒の木曜日を境にニューヨークの株価が大暴落した。29 年から32 年にかけて工業生産は50%近く下落、実質GNP は35%以上下落、卸売物価は30%以上下落した。失業率は29年には3.2%であったが、33 年には24.9%まで上昇した。さらにアメリカは、GNPを29 年のピーク時の水準に回復させるまでに、11 年間も要したのである。この大恐慌で、アメリカのみならずヨーロッパ諸国、日本、さらには中南米諸国も多大な打撃を被った。
1930 年代の世界大恐慌は、日本経済の現状を考える上でも多くの示唆に富んでおり、その原因を考察し、教訓を引出すことは有意義である。ここではアメリカを題材に、なぜ大恐慌が起きたのか、なぜ恐慌からの脱却に長い年月を要したのかという2 点に焦点をあてて、大恐慌のメカニズムを考察していくこととする。
まず、大恐慌の原因を明確にするために、その要因を実質的要因と金融的要因の2つに大別する。ここでいう実質的要因とは、1貿易規模の縮小、2消費・設備投資・住宅投資の落込み、3政府支出の減少であり、金融的要因とは、1株価の暴落、2マネーサプライの減少である。なお、銀行破綻の増加とFED の金融政策については、2マネーサプライの減少と密接に関係しているため、2で合わせて考察する。
大恐慌の要因については、現在に至るまで様々な議論が行われてきている。以下ではまず、実質的要因と金融的要因のそれぞれについて、これまで行われてきた議論をデータを見ながら検証していくこととする。また、アメリカ大恐慌の特徴である、長期にわたる失業率の高止まりの要因についても考察することとする。
1.実質的要因の考察
(1) 貿易規模の縮小
ルイス(Lewis、 1949)、メルツァー(Meltzer、 1976)らは、大恐慌の原因はスムート=ホーリー関税法(1930 年6 月に成立した関税法。大恐慌を背景に関税を大幅に引上げたもの)によって、貿易規模が縮小したことにあると主張した。
この説に対する反論として、アイケングリーン(Eichengreen、 1989)は次のように主張した。関税政策は本来、拡張的な政策であり、需要を外国から国内の生産者へと移転する。このことで非効率が生じるかもしれないが、その影響は二次的なものである。スムート=ホーリー関税法は合衆国に対する輸出国に打撃を与えただろうが、関税が大恐慌を呼んだのだとするならば、関税は外国の報復関税を招くことで合衆国の輸出を減らした、という話でなければならない。
ドーンブッシュ=フィッシャー(Dornbusch and Fisher、 1986)も、関税の影響を限定的に捉え、次のように主張している。合衆国の輸出は29 年以降大きく減少しているが、この時期には様々な要因から起こった世界需要の落ち込みがあったに違いなく、この下落の全てをスムート=ホーリー関税法に対する報復に帰することはできない。また、同時期の実質GNP も大きく低下していることから、輸出需要の落込みの経済に対する影響は、乗数効果を考えても全体のささいな一部分であり、関税による国内需要の伸びまで計算に入れると、関税の経済縮小効果はごく小さい。
以上の議論について、大恐慌期の輸出入の推移を確認する。図2 に見るように、実質輸出は28 年から32 年にかけて約50%減少、実質輸入は29 年から32 年にかけて40%以上減少している。また図3 に見るように、アメリカの輸出は29年当時GNP の5%強を占めていたが、33 年には3.9%になった。この間の実質GNPは、ピークの29 年からボトムの33 年にかけて35%以上下落している。
輸出入の動きがGNP に及ぼす影響を、1純輸出、2乗数の二通りの考え方によって見る。1は、GNP の定義により純輸出の増減がGNP を動かすという考え方である。純輸出(1972 年価格)は図2 に見るように、GNP のピークである29 年第3 四半期では31.9 億ドルであったが、GNP のボトムである33 年第1 四半期には9.3 億ドルに減少した。その間純輸出(1972 年価格)のGNP 比は、図3 に見るように、0.99%から0.45%と約0.5 ポイント減少している。純輸出の減少は、35%も減少したGNP 全体のほんの一部分に過ぎない。したがって、輸出入の動きが大恐慌に与えた影響は大きなものではない。
また、33 年以降GNP は回復に向かっていったが、前掲図2 に見るように、それにともなって輸入が増加した結果、純輸出は35 年まで減少している。このことからも、純輸出の減少は景気を大きく後退させる要因ではなかったと考えられる。
2は、輸出の減少が乗数過程を通じてGNP を減少させるという考え方である。前掲図2 に見るように、輸出(1972 年価格)は1929 年第3 四半期では163.2 億ドルであったが、33 年第1 四半期には91.1 億ドルまで減少した。この間の減少額である約70 億ドルは、乗数を2 とすると、GNP を140 億ドル減少させたことになる。29 年第3 四半期の実質GNP は3236.9 億ドルであるから、輸出減少の乗数効果はGNP を4.3%減少させた計算になる。同じ期間に実質GNP は35%以上減少しているから、輸出減少の乗数効果は、実質GNP の減少の中でみればそれほど大きな割合ではなかったことがわかる。
したがって、ルイス、メルツァーの説は適切でないことがわかる。スムート=ホーリー関税法や、貿易規模の縮小は大恐慌をより大きなものとした一因であっても、それをひきおこした主因とはいえない。
(2) 消費・設備投資・住宅投資の落込み
消費・設備投資・住宅投資の落込みについて、モールトン(Moulton、 1935)は次のように論じている。生産機構そのものには重大な障害はなかったが、所得不平等化が進展した結果、消費需要は消費財生産能力に追いつくことができなかった。所得が高所得者層に集中したことは貯蓄率の上昇も生みだし、全生産能力を吸収するだけの需要をつくり出すことができなかったため、主要な生産部門で20%もの生産能力の遊休を残すことになった。
また、これについてハンセン(Hansen、 1941)は次のように論じている。1921年から25 年には未曾有の建築活動、20 年代後期には、これまた未曾有といってよいほどの完全な建築物の一時的飽和状態に達した結果、この超飽和の時期を抜け出るのに長い年月を要した。1930 年第の大恐慌の原因は、建築循環の下降局面と主循環の一致、技術進歩・新領土開発・人口増加のそれぞれの停滞による投資機会の消滅である。
この時期の消費・設備投資・住宅投資の推移を、図4、図5 で確認する。耐久消費財消費は、GNP の減少に先行して29 年の第1 四半期から第2 四半期にかけて減少したが、第3 四半期にかけて若干持ちなおしている。その後はGNP の減少とともに急激に減少していった。設備投資は29 年第2 四半期まで増加した後、第3 四半期にかけて大きく減少し、第4 四半期から30 年第1、第2 四半期にかけては持ちなおしたものの、その後は大きく減少している。住宅投資は28 年の第2 四半期をピークにほぼ一貫して減少していった。
これを大恐慌におけるピークとボトムで見ると、29 年から33 年にかけて耐久消費財は50%以上低下し、非耐久消費財は20%以上低下した。また設備投資は同時期に約1/5 に低下し、住宅投資は28 年から33 年にかけて約1/8 に低下したことになる。
たしかに、モールトンやハンセンの指摘するように、大恐慌期における耐久財消費、設備投資、住宅投資の減少は非常に大きかった。これらは、GNP が急速に減少し始めた29 年第3 四半期よりも前から、徐々に減少の傾向を見せ始めていた。
しかし、GNP が減少するなかで、耐久財消費、設備投資、住宅投資などの耐久財の支出が減少するのは自然であり、これは大恐慌の原因であるとともに結果である。これらの支出をスパイラル的に減少させ、耐久消費財を1/2 以下にし、設備投資を1/5 にし、住宅投資を1/8 にまで低下させた主因が、過少消費や所得の不平等化、景気循環、投資機会の消滅等の問題によると考えるのは無理があると思われる。
(3) 政府支出の減少
大恐慌に関する諸説の中には、その原因を財政政策に求めるものもある。これを検証するために、まず、図で政府支出の推移を見ることにする。
名目政府支出は、図6 に見るように31 年央まで増加し、その後33 年央まで減少している。また、名目政府支出の対GNP 比は、GNP のピークである29 年第3四半期には8.3%であったが、GNP のボトムである33 年第1 四半期には15.9%まで増加している。したがって、この間、政府支出はGNP を7.6%下支えしていたことになる。
政府支出を実質値で見ると、図7 に見るように政府支出は32 年まで増加し、その後はわずかに減少している。実質政府支出の対GNP 比は、GNP のピークである29 年第3 四半期には12.7%であったが、GNP のボトムである33 年第1 四半期には20.6%まで増加している。これによれば、政府支出はGNP を7.9%下支えしていたことになる。
以上より、大恐慌期の財政政策は景気の足を引張っていたのではなく、景気を下支えする効果があったことが分かる。ブラウン(Brown、 1956)は、31 年度の完全雇用予算はかなり拡張的であり、29 年度予算よりも需要を増大させ、GNPの2%も需要を拡大したとしている。財政政策は大恐慌を回復させるのに十分な水準ではなかったという議論はありえるが、緊縮的財政政策により恐慌を大恐慌に転化させたということにはならない。
実質的要因のまとめ
これまで見てきたように、貿易規模の縮小や消費、投資の減少は大恐慌期において非常に顕著に現われた。しかし、これらの実質的要因の中には、大恐慌を十分に説明できるものはなかった。それぞれが大恐慌の一因ではあるが、景気の悪化をスパイラル的に進行させる動因ではなかったと要約できる。
それではこの動因は何だったのだろうか。次章の金融的要因の考察で、引続き考えていくこととする。
2.金融的要因の考察
ここでは、大恐慌における金融的要因の考察を行う。まず、大恐慌期の経済の落込みを如実に物語っている株価の暴落から見ていく。
(1) 株価の暴落
1929 年10 月24 日暗黒の木曜日にニューヨークの株価が暴落し、これを境に株式市場が崩壊したが、これに大恐慌の原因を求める議論がある。ガルブレイス(Galbraith、 1961)は、株式市場の暴落が大恐慌の張本人であると論じた。
これに対し、テミン(Temin、 1976)、ミシュキン(Mishkin、 1978)、ローマー(Romer、 1993)は株価暴落の影響を限定的に捉え、次のように主張している。29年の株価暴落が何の影響力も持たなかったわけではなく、株価の暴落により個人資産は約10%目減りし、消費者の資産に対する負債の割合は上昇し、将来に対する消費者の不安は増大した。そして、これらのどれもが需要を減少させ、経済を圧迫したが、大恐慌を引き起こしたものとまではいえない。
テミン(Temin、 1989)は、29 年以降現在まで株式市場は何度も乱高下したが、それが大恐慌と同様の動きをもたらしたことはないと主張している。テミンは、29 年の株価暴落とよく似た動きをした1987 年の株価を例に挙げて、次のように主張している。87 年における個人資産に占める株式の割合は、29 年のそれよりも小さかったが、87 年においては29 年よりもはるかに多くの人が株式を所有していたし、世界中の株式市場がはるかに緊密に同調していた。それにもかかわらず世界経済が不況に陥らなかったことは、株式市場の暴落自体は不況をもたらすほど大きな出来事ではないということを示している、としている。
前掲図1 に見るように、株価は29 年から32 年にかけて約1/5 に低下した。この大規模かつ長期間の株価暴落が、景気になんらかの後退圧力をかけたことは明らかである。しかしもう一方で、テミン(Temin、 1989)の主張するように、株価の下落が大恐慌期と類似している時期もいくつかある。例えば、テミンのいう1987 年9 月から11 月の株価は、1929 年の同期間の株価と、その推移と暴落の規模がよく似ているが、87 年には30 年代のような壊滅的な恐慌は起こらなかった。これより、30 年代の恐慌における消費、投資等の下落は、株価の暴落以外の要因によって起こったものであることがわかる。株価は企業収益の予想の結果であって、株価の下落が景気後退をもたらした原因であるとまではいえない。
以上の考察より、株価の暴落は大恐慌の原因としてはガルブレイスの主張するほど大きなものではなく、テミン(Temin、 1976、 1989)、ミシュキン(Mishkin、1978)、ローマー(Romer、 1993)の主張するように、大恐慌を間接的に激化させたものとして捉えるべきと考えられる。
(2) マネーサプライの減少
大恐慌期にはマネーサプライが急激に減少しており、フリードマン=シュウォーツ(Friedman and Schwartz、 1963)は、これを大恐慌の原因であるとしている。
フリードマン=シュウォーツより以前に、ケインズ(Keynes、 1931、 1933)も既にこれに近い見解を示していた。ケインズは、大恐慌期にデフレ的衝撃を与えたのは緊縮的な金融政策であり、この衝撃は投資への影響を通じて、経済全体に伝播したという主張を展開している(Temin、 1989)。
マネーサプライの大幅な減少を大恐慌の主因とする考え方は、テミン(Temin、1989)からも読み取れる。テミンはケインズの説を受けて、この時期の緊縮的な金融政策が大恐慌の主因であるとしている。
これらの説をもとに、以下では緊縮的な金融政策によるマネーサプライの減少が、どのようにして大恐慌をもたらしたのかを考えていく。
マネーサプライの推移
マネーサプライの減少の影響を考察するにあたり、ハイパワードマネー(M0)とマネーサプライ(M2)の推移を金融政策とともに概観しておく。M0 とM2 の対前年同期比の推移は、図8 に見るとおりである。
28 年より以前は、FED の緩和政策によりM2 の対前年同期比は上昇していたが、28 年に入ると、FED は株式市場の過熱と金の流出を抑えるために、政策を引締め基調に転換した。この政策によりM0 の対前年同期比は低水準に抑えられ、M2の対前年同期比は低下していった。その結果、29 年10 月の株価暴落や経済の縮小が始まったが、緩和政策はとられなかった。
30 年末になると、破綻する銀行が出はじめ、31 年夏には銀行破綻が高水準に達して、いわゆる銀行恐慌が発生した。しかし、FED はなお政策の基調を変えず、31 年9 月にはドル価値の維持のために引締めを行い、31 年初から増やしていたM0 の対前年同期比を再び抑制したため、図9 に見るように利子率の急上昇が起こった。この一連の緊縮的な圧力により、M2 の対前年同期比は急激に減少していった。
32 年に入ると、FED は緩和政策を試みた時期もあったが徹底せず、33 年に入ってようやく緩和の動きを見せるようになり、同年4 月に金本位制を停止して本格的な金融緩和に転換した。それに伴い、M2 の対前年同期比も上昇に向かい、34 年に入るとプラスに転じ、増加に向かった。
マネーサプライの減少はどのようにして大恐慌をひきおこしたか
このようなマネーサプライの減少は、デフレスパイラルを通じて大恐慌をひきおこした。デフレスパイラルはストックとフローの両面で経済活動を収縮させるが、前者のプロセスは、マネーサプライ減少→物価下落→負債の実質価値上昇→銀行貸出減少・金融システム崩壊→マネーサプライ減少の循環であり、後者のプロセスは、物価の下落→実質金利上昇→消費・投資減少→景気後退→物価下落の循環である。
大恐慌期の卸売物価は、図10 に見るとおり、29 年から33 年にかけて30%以上も下落している。消費者物価も同期間に約25%下落している。これより、この時期のアメリカ経済は、マネーサプライの減少により激しいデフレ圧力を受けていたことがわかる。
29 年第3 四半期以降のアメリカ経済においては、マネーサプライの減少によってデフレスパイラルが進行し、大恐慌の発生につながったのである。
なぜマネーサプライはこれほど減少したのか
31 年半ば以降、マネーサプライが急激に減少し、アメリカ経済は重度のマネー不足に陥ったが、それは31 年夏の銀行破綻の増加がきっかけだとされている。たとえばマンキュー(Mankiw、 1992)は、この時期の金融を次のように整理している。
大恐慌期においてマネーサプライは大幅に減少したが、それはハイパワードマネーの減少によるものではなく、現金・預金比率と準備・預金比率の著しい上昇によって引き起こされた。この貨幣乗数の低下と1930 年代初期の大規模な銀行破綻が、銀行と預金者双方の行動を変化させて、マネーサプライを減少させたと考えられる。つまり、銀行破綻は公衆の銀行への信頼を低下させて、預金・銀行比率を上昇させたとともに、銀行家をより慎重にして、準備・預金比率を高めたのである。
マンキューの指摘する、銀行破綻の増加が銀行貸出を低下させた状況を、図11 の銀行貸出の推移で確認しておく。銀行貸出は29 年末までは増加していたが、その後は減少に転じ、31 年にはいると減少が加速した。33 年に入ると急激な減少はおさまったが、その後も35 年までじりじりと減少し続けた。銀行貸出は、最終的には29 年の1/2 以下にまで落込んでいる。
1930 年代初期の銀行破綻の増加は、前掲図8 の信用乗数の低下からもわかるように、銀行の信用創造機能を低下させ、貸出を急激に減少させた。この貸出の低下により、31 年のM0 の増加もM2 の増加につながらなかった。これより、マンキューの示すとおり銀行貸出の低下によってマネーサプライが急激に減少していったことが確認できる。
信用仲介コストによる銀行破綻の影響の考え方
銀行破綻については別の角度からの考察もあり、それをここで示しておく。
バーナンキ(Bernanke、 1983)は信用仲介コストという概念を導入し、次のように主張した。銀行は潜在的な貸手から金を集め、個々の借手のリスクを評価する低コストの仲介者である。銀行恐慌により最も効率的な仲介サービスの提供が減り、そのコストがひいては貸付コストを上昇させる。最も影響を受けるのは、家計、農民、法人化されていない企業、小規模企業である。大恐慌においては、多くの大規模法人は十分な現金と流動的な準備金を保有しており、金融仲介コストの上昇は大企業よりも家計と小企業に厳しいものとなった。
これに対して、テミン(Temin、 1989)は次のように論じている。バーナンキは、金融仲介コストの上昇が大企業よりも家計と小企業を痛めつけ、経済を悪化させたとしている。しかし、大恐慌期と1937 年から38 年にかけての不況の両者について、大企業の多い産業と小規模経営の多い産業とで生産の落込みを比較してみても、両者の間で大差がない。つまり、どの産業が衰退するかを決定したのは信用の受けやすさではなかった。
堀(Hori、 1999)も、産業別、規模別、地域別の生産と銀行貸出を比較して、同様の結論を得ている。
信用仲介コストが大恐慌に与えた影響は、次節の銀行破綻の考察で考えていくこととする。
銀行破綻の増加は大恐慌の主因なのか
銀行破綻の増加は銀行貸出を減少させ、マネーサプライを減少させた。では、銀行破綻の増加は大恐慌の主因だったのだろうか。結論から言えば、これは主因ではない。なぜなら、銀行貸出が増えなくてもM2 は増やすことができるし、GNP も上昇させることができるからである。
銀行破綻の増加は、マネーサプライの減少や信用仲介コストの上昇を介して、経済に強い縮小圧力をかけた。しかし、銀行貸出がM2 の増加やGNP の上昇にとって不可欠であるならば、大恐慌からの回復は、銀行が回復し、あるいは信用仲介コストが正常化し、銀行貸出が増加してマネーサプライが増加する、という過程によってもたらされたはずである。
ところが、先にみたように、GNP 成長率は33 年第1 四半期をボトムとして回復に向かい、M2 も33 年第2 四半期をボトムとして増加に転じたが、銀行貸出は35 年まで減少し続け、その後もそれほど大きく増加したわけではなかった。ここから、銀行貸出の増加はマネーサプライの増加にとっては必要条件ではなく、GNP の上昇にとっても必要条件ではなかったことがわかる。
銀行破綻の増加は、確かに大恐慌の主因たるマネーサプライの減少をもたらした大きな要因である。しかし前に示したように、銀行貸出が減少しても、マネーサプライの減少を押し止めることは可能である。銀行破綻の増加は、大恐慌の主因ではなかったのである。
FED は何をなすべきだったか
それでは、FED はマネーサプライの減少を抑えるために何をなすべきであったのか。これについて、マンキュー(Mankiw、 1992)は次のように整理している。
大恐慌期のFED の政策を批判する人々は、次の二つの論点を主張する。ひとつは最後の貸し手として銀行破綻回避にもっと積極的な役割を果たすべきであったとする説であり、もうひとつは貨幣乗数の低落に対応してハイパワードマネーをもっと増やすべきであったとする説である。このどちらかの政策が採られていれば、貨幣供給の大幅な減少は防ぐことができただろうし、大不況もあれほどひどくはならなかった、と結論づけるのである。
銀行破綻によってマネーサプライは大幅に減少したが、FED がこのような政策によってハイパワードマネーを潤沢に供給していれば、マネーサプライの急激な減少は防ぐことが可能であった。
なぜFED は十分な緩和政策をとらなかったか
大恐慌期において、銀行破綻が増加した結果貸出が大幅に減少し、マネーサプライが急激に減少し続けたにもかかわらず、FED は十分な緩和政策をとらなかった。したがって、大恐慌の謎を解く鍵は、なぜFED が十分な緩和政策をとらなかったかを明らかにすることにある。
この点についてアイケングリーン(Eichengreen、 1992) は、各国の金融当局が金本位制に固執したことが大恐慌の本質的な原因であると論じ、大恐慌の本質的な原因は金本位制の足枷であるとするのが定説となっている。この時期のアメリカの金準備は豊富であった。しかし、31 年9 月にイギリスが金本位制を離脱した際、アメリカでは金の流出圧力が高まったが、金本位制の下、FED はこれを抑えるために引締め政策をとった。大恐慌期のアメリカではマネーサプライが急激に減少し、景気が急速に悪化していったにもかかわらず、FED は十分な緩和政策をとらなかったが、それはこのような金本位制の足枷があったことによる。
物価の推移の特徴
大恐慌期に、M2 の下落によって物価が大幅に下落したしたことは、前に示したとおりである。ここでは、大恐慌期の物価の特徴を、実質GNP、M2 との比較において考察しておくこととする。
図10 に見るように、実質GNP、M2、CPI、WPI は、28 年から37 年にかけては同じような動きをしている。しかし、27 年以前や38 年以降については、実質GNP とM2 の動きは似ているが、この両者と物価の動きは似ていない。具体的には、27 年以前については、実質GNP とM2 は同調的に上昇している反面、CPI、WPI は減少している。38 年以降については、実質GNP とM2 が急激に上昇している反面、CPI、WPI はしばらく減少を続け、39 年になって緩やかに上昇していった。
つまり物価は、大恐慌期にはデフレスパイラルの媒介としてGNP やM2 と連動していたが、大恐慌からの回復過程においては、M2 が増加しGNP が回復に向かったにもかかわらず、それほど上昇しなかったという特徴をもっている。
3.賃金・失業率
アメリカの大恐慌は、1933 年第1 四半期を底として急激に回復し、37 年第2四半期まで年率8%以上で成長した。37 年から38 年にかけてのマイナス成長のあと、経済は再び急速に成長したにもかかわらず、失業率は高止まり、38 年においても失業率は20%近い水準にあった。失業率が10%を下回ったのは、戦争経済が本格化する41 年以降のことである。なぜ失業率はこのように高止ったのだろうか。
大恐慌時の実質賃金及び失業率についてテミン(Temin、 1989)は、アメリカの賃金は29 年をピークに32 年まで下落したが、その後のニューディール政策下におけるNRA(National Recovery Administration:全国産業復興法により、産業の行動規約の策定と施行を監督する機関。労働時間の制限による雇用拡大や、賃金の上昇による労働量の削減を企図した)や、ワーグナー法(全国労働関係法:労働組合の保護育成、労使対等の交渉力の付与を目的とし、そのため労働3権を確認し、不当労働行為を禁じ、全国労働関係委員会を設置した)等により賃金が急上昇したことは、失業を持続させる要因になったとしている。
図12 に見るように、実質賃金は25 年から29 年まで上昇した後、29 年を100とすると32 年には86 まで下落している。その後は37 年まで上昇し、38 年に一旦下落したが、39 年には再び上昇に向かった。
失業率は、24 年から29 年にかけて5%以下で推移していたが、30 年以降急激に上昇し始め、33 年には24.9%に達した。さらにその後も第二次世界大戦の直前まで高水準で推移した。
これより、失業率の高止まりをもたらした原因は、29 年まで上昇した賃金がその後下方硬直的だったことと、32 年以降の賃金の急上昇であることが読み取れる。33 年を底に実質GNP が急回復したにもかかわらず、大恐慌が長く続いたというイメージをもたれている背景としては、この持続的な高失業率がある。
4.まとめ
1930 年代のアメリカ大恐慌については、ここまで見てきたように数々の議論が行われてきた。これらをデータで検証することによって、大恐慌が発生し、そして長期化したことの主因は、マネーサプライの急激な減少であるということが分かった。ローマー(Romer、 1992)は、1933 年以降の景気回復期において、マネーサプライの増加は景気回復にとって決定的な要因であったとしている。マネーサプライの急激な減少はアメリカ経済に大恐慌をもたらしたが、反面、大恐慌からの回復はマネーサプライの増加によってもたらされたのである。
大恐慌の原因のうちには、過剰な設備投資や所得分配の構造的問題といった実体経済の問題や、株式投機の過熱、賃金や価格の下方硬直性といった問題も当然あるだろう。しかし、その中でも経済を一層混乱へと導いたのはマネーサプライの不足であり、金融政策を引締め政策に偏らせた金本位制という体制であったと言えよう。
(年表)大恐慌の進行過程
1928 連邦準備銀行による景気縮小政策(割引率引上げ、利子率上昇による生産の減退)
1929 アメリカの工業生産が落込み始める、連邦準備銀行による景気縮小政策
1929.10 株価暴落 / アルゼンチン、ブラジル、オーストラリア金平価の維持を放棄 / アメリカ、大規模な消費の落込み
1930.6 アメリカ、スムート=ホーリー関税法成立 / ニュージーランド、ベネズエラ等、金平価の維持を放棄
1930.7 ドイツ、為替管理を強化、事実上の金本位制からの離脱
1930.12 アメリカ、最初の銀行恐慌
1931.5 アメリカ、銀行倒産の急増
1931夏アメリカ、銀行恐慌が高水準に、ヨーロッパの通貨恐慌
1931.9 連邦準備銀行による景気縮小政策(ドル防衛のため割引率引上げ、利子率上昇による生産の減退) / イギリス、金本位制停止(金輸出や外国為替取引を制限し、通貨を切下げる国が一挙に拡大)
1932.2 アメリカ、復興金融公社(RFC)設立
1933.3 アメリカ、ルーズヴェルト大統領就任、銀行休業、金輸出禁止
1933.4 アメリカ、金本位制を停止
1933.5 農業調整法(AAA)成立、テネシー渓谷開発公社(TVA)設立
1933.6 全国産業復興法(NIRA)成立、同法のもと全国復興局(NRA)設立
1934.2 アメリカ、金平価を切下げ
1935.7 ワグナー法成立  
 
世界恐慌 12 / 世界恐慌の原因

 

経済学者達の活発な議論の主題となっており、これは広く見れば経済危機に関する議論の一環でもある。だが一般的には、世界恐慌は1929年の株価大暴落により引き起こされたと信じられている。世界恐慌時に起きた個々の経済的事件も徹底的に研究されてきた: そういった事件には、資産や商品価格のデフレ、需要と信用の急降下、貿易網の崩壊、そして究極的に起こる失業とそれに続く貧困などがある。しかしながら、恐慌を引き起こし、あるいは恐慌からの回復をもたらした政府の経済政策と個々の事件との因果関係は歴史家の間で意見の一致をみていない。
近年では、理論は二つの主流派といくつかの異説に大きく分けられる。
まず、ケインズ経済学や制度派経済学による需要主導モデルの理論では、不景気は消費不足と(それによってバブル経済が引き起こされたところの)過剰投資によって引き起こされたと主張される。需要主導モデルの理論においては、信用が大きく損なわれたことで消費・投資活動の急激な減少が起きたということで意見が一致している。一たび混乱・デフレが起こると、多くの人々は市場から距離を置くことでこれ以上の損失を回避しようとするというのである。このために物価は下がり続け、等量のお金でも多くの物品を買えるようになる。その結果、お金を貯蓄に回すことが有利となり、更なる需要減少に見舞われることになる。
次に、マネタリストらによれば、世界恐慌は通常の不景気として始まったのだが、その時の通貨当局(特に連邦準備制度)による重大な政策のミスが金融引締めという結果を招き、これによって経済状況が極端に悪化したために通常の不景気から世界恐慌に至ったという。この説明は、負債デフレによって借り手は実質的により多くの債務を負うことになると指摘する人々と関連がある。
このほかにいくつかの異説があり、それらを支持してケインジアンやマネタリストの説明を否定する者がいる。新しい古典派マクロ経済学者の中には、恐慌初期に課された様々な労働市場政策が長く深刻な世界恐慌を齎したと主張する者もいる。オーストリア経済学派は、中央銀行の決定がどのようにして誤投資を招くかとマネーサプライのマクロ経済的影響に着目する。
一般理論による説明
主流説
ケインジアン
多くの経済学者がその活動を主張するところの自己修正機構が不景気に働かないことがある理由は複数あると1936年に経済学者ジョン・メイナード・ケインズが主張した。著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』においてケインズは、世界恐慌を説明するための概念を導入した。不景気時における不干渉主義政策に対する一つの主張として、もし貯蓄によって消費が落ち込むならば貯蓄は利率の低下をもたらすというものがある。古典派経済学者によれば、低い利率は投資の拡大をもたらし需要が持続的になるという。
しかし、利率が低下しても投資が必ずしも活発にならないことの良い説明があるとケインズは主張する。利益を期待しての投資は事業によってもたらされる。それゆえ、消費の落ち込みが長期にわたるならば、事業の分析の傾向として将来の売り上げの期待は低いものとなる。そのため、低利率によって資本が安価になっても将来の生産量を増大させるような投資は最も関心が向かないものとなるのである。この場合、消費の減少によって経済は一斉安に陥る。ケインズによれば、この自己強化的活動こそが恐慌時に非常に活発になり、倒産が頻発して(将来に対する楽観的な期待が必要である)投資がほとんど起こらなくなったのだという。この説は経済学者によってしばしばセイの法則に反するものとして特徴づけられ、特にオーストリア経済学派に人気がある。
資本投資の減少が恐慌の原因であるという説は長期停滞論の中心的な主題である。
マネタリスト
1963年の著書『米国金融史 1867年-1960年』において、ミルトン・フリードマンとアンナ・シュウォーツは彼ら流の世界恐慌の説明を開陳した。彼らの考えによれば、本質的には、世界恐慌はマネーサプライの減少によってもたらされた。フリードマンとシュウォーツは次のように書いている: 「1929年8月の周期的な山から1933年の周期的な谷までの間に、通貨流通量は3分の1強にまで落ち込んだ。」 その結果がフリードマンいう所の「大収縮」―金融引き締めの窒息効果による収入・物価・雇用の減退―である。 この頃、連邦準備制度が供給するより以上に人々はお金を欲していたのだとフリードマンとシュウォーツは主張する。その結果人々は消費を減らすことでお金を貯蓄した。また、物価は即座に下落するほど融通が利かないために、結果として、雇用と生産の収縮が起きた。連邦の過ちは何が起こったのか分からなかったことや正しい対応を取らなかったことにある。
恐慌以降、その主要な説明はマネーサプライの重要性を無視する傾向があった。しかし、マネタリストによれば、恐慌は「事実上、金融の効果の重要性の悲劇的な証明である。」 彼らによれば、連邦準備制度の世界恐慌に対処する上での失敗は、金融政策が無力であることの表れではなく、連邦準備制度が間違った政策を実行したことの表れであるという。彼らは連邦が恐慌を「起こした」と主張しているのではなく、不景気が恐慌になるのを防ぐ政策を使い損ねたと言っているだけである。
南北戦争後から20世紀初期にかけて、アメリカ合衆国とヨーロッパは政府が規定する形の金本位制を採用していた。この時期のアメリカ経済は周期的な好不況の波を受けていた。不景気はしばしば銀行不況によって引き起こされていたとみられ、特に重要なものは1873年、1893年、1901年、1907年、1920年に起こっている。連邦準備制度が1913年に成立する以前のアメリカ合衆国では銀行システムが紙幣の兌換性を停止することでこうした(1907年恐慌のような)危機に対処していた。1893年に開始して以降、金融機関やビジネスマンによる成長努力がこうした危機に介在し、取り付けに喘ぐ銀行に流動性をもたらしていた。1907年の銀行恐慌の際、J・P・モルガンの招集したその場限りの連合がこの方法でうまく介入し、それによって恐慌が遮断されており、このため通常銀行恐慌に続いて起こる大恐慌がこの時には起こらなかったのだとされる。政府がこうした解決策をとることが要求されたために連邦準備制度が設立されることとなった。 しかし1928年-1932年には、連邦準備制度は取り付けにあえぐ銀行に流動性をもたらすことはなかった。実際にはその政策はマネーサプライの急激な収縮を許すことで銀行危機に応えていた。狂騒の20年代には、中央銀行は第一の目標を「物価の安定」に定めていたが、これはニューヨーク連邦準備銀行の総裁ベンジャミン・ストロングが、物価の安定を金融目標とした非常に著名な経済学者アーヴィング・フィッシャーの弟子だからということもある。そういった事情から中央銀行は社会の物価が安定する程度にドルの流通量を保った。1928年にストロングが死に、彼の死とともにこの政策が終了し、全ての通貨・証券は背後に実際的な物品を裏付けとして持っているべきだという真正手形学説が取って代わった。この政策の為にアメリカ合衆国のマネーサプライは1929年から1933年の間に3分の1以上に減少することになった。 この通貨減少によって銀行への取り付けが起こっても連邦は真正手形学説を保持し、1907年恐慌を遮ったときの方法で銀行に貸し付けることを拒否し、代わりに各銀行を破滅的な取り付けにあえぐままにさせ完全に没落させた。この政策によって連鎖的な銀行の倒産が起こり、当時存在した銀行の3分の1が消滅した。。ベン・バーナンキによれば、続いて起こった信用危機によってさらに倒産の波が起こった。1907年と同じ政策が1930年終わりの銀行恐慌の際にも採用されていればこれによって物価下落時の資産の流動化の強制の悪しき連鎖が防げただろうとフリードマンは述べた。そうしていれば、1893年や1907年に兌換性停止によって当時の流動性危機がすぐに止んだのと同じく、1931年、1932年、1933年の銀行恐慌は起こらなかったであろうというのである。 マネタリストによる説明はサミュエルソンの著書『経済学』において否定されており、「連邦準備制度の金融政策を景気循環を制御する万能薬とみなす経済学者は今日ではほとんどいない。純粋に金融的なファクターは原因であるのと同じだけ徴候であると考えられる、悪化させる効果を伴っており完全に無視すべきではない徴候ではあるが。」と述べられている。ケインズ経済学者のポール・クルーグマンによれば、フリードマンとシュウォーツの著作は1980年代までに主流派経済学者の間で支配的になったが、1990年代日本の「失われた10年」の下に再考されるべきであるという。経済危機における金融危機の役割は世界金融危機 (2007年-)に関する活発な議論で扱われている。
異説
オーストリア学派
世界恐慌は1920年代の連邦準備制度の金融政策の避けられない結果だったとオーストリア経済学派は主張している。彼らの意見では、この中央銀行の政策は持続不可能な信用によるにわか景気をもたらす「安直な信用政策」であった。オーストリア学派の考えでは、この時期のマネーサプライのインフレが資産価値(有価証券)と資本財の両者において持続不可能なバブルを引き起こしたという。連邦準備制度が1928年に遅れて金融引き締めを行うまでには、深刻な経済後退を避けるには手遅れになっていた。1929年の大暴落の後の政府の介入によって市場の調節が遅れ、完全な回復がより困難になる道が開かれたとオーストリア学派は主張している。
世界恐慌の主原因に関するオーストリア学派の説明を受け入れることはマネタリストの説明の否定を受け入れることと両立する。『アメリカの世界恐慌』(1963年)の著者でオーストリア経済学派のマリー・ロスバードはマネタリストの説明を否定している。中央銀行はマネーサプライを十分に増やすのに失敗したのだというミルトン・フリードマンの主張をロスバードは批判し、代わりに、1932年に連邦準備制度が11億ドルの米国債を買い入れて所有国債量を18億ドルとした際、連邦準備制度はインフレ政策を追求していたのだと主張する。中央銀行の政策に反してデフレが深刻化したのは「マネーサプライ総量が30億ドルに達したのに(民間)銀行の準備金の総量は2億1200万ドルに留まった」ためであり、これはアメリカの大衆が銀行組織に不信感を抱いてさらに多くの預金を銀行から引き出し退蔵したという、中央銀行の制御を大きく超える理由によるものだと彼は主張する。ロスバードの主張によると、銀行に対する取付のおそれの為に地銀は準備金の貸し出しにさらに消極的になり、このために連邦準備制度がインフレを起こせなかったということになる。
ロスバードがマネタリストの説明を批判したことに対して、もう一人の卓越したオーストリア経済学派のメンバーフリードリヒ・ハイエクは反対した。ハイエクは、自身が1930年に中央銀行のデフレ政策に反対しなかったことが誤っていたと1975年に認め、曖昧な態度をとったことに関して釈明した: 「当時私は、幾分短い期間におけるデフレの過程は、(経済が機能することと両立不可能だと私が考えていたところの)賃金の硬直性を破壊するものだと考えていた。」 1978年には彼は「一たび急落が起こると連邦準備制度は愚かなデフレ政策を追求するようになるということに関してミルトン・フリードマンに賛成する」と述べてマネタリストの見解に賛成し、デフレに反対してインフレに賛成することを明らかにした。この流れを汲んで、マネーサプライの強い引き締めを許すような金融政策とハイエクの景気循環理論は矛盾すると経済学者のローレンス・H・ホワイトが主張している。
マルクス主義
マルクス主義者は概して、資本主義モデルに固有の不安定性が世界恐慌を引き起こしたのだと主張する。   
原因に関する個々の理論

 

負債デフレ
アメリカ合衆国のGDPに対する負債の割合は世界恐慌の時までには300%に達した。この割合は20世紀終わりまで越えられることはなかった。
ジェローム(1934年)は戦間期の産業の大発展を可能にした財政状態に関する原典不明の引用をしている:
恐らく未だかつてこの国でこれほどの量の国債がこれほど低い利率、これほど長い期間にわたって出されたことはなかった。
さらに、スタンダード・スタティスティックス社による60度の国債の指数が1923年の4.98%から4.47%になった際には新たな資本発行の量が1922年から1929年の年平均から7.7%増加したとジェロームは述べている。
1920年代には特にフロリダ州で不動産・住宅のバブルが起こったが1925年に破裂した。1920年代の住宅建設は人口増加の勢いを25%上回っていたとアルヴィン・ハンセンが述べている。
アーヴィング・フィッシャーは、世界恐慌を引き起こした主原因は負債過多とデフレだと主張した。フィッシャーは信用の低下を負債過多と結びつけ、負債過多が投機熱と資産バブルを刺激したのだとしている。負債・デフレという状況下で相互作用し、バブルが起こり崩壊する仕組みを作りだした九つの要因を彼は概説している。それら先行する出来事の連鎖は以下:
1. 負債の流動化と占有権の売却
2. 銀行ローンとしてのマネーサプライの緊縮が清算される
3. 資産価格水準の低下
4. 全体としての商業価値の深刻な低下、突然の破産
5. 利益の低下
6. 商業・雇用における生産量の低下
7. 信用の減少とペシミズム
8. お金の死蔵
9. 名目金利の低下と利率にあわせたデフレの拡大
世界恐慌に先行する1929年の急落の際、証拠金規定額は10%にすぎなかった。つまり、株式仲売業者は投資社が1ドル預けるごとに9ドル貸し付けた。市場が急落した際、業者はこうしたローンを回収しようとしたが、それは返ってくることはなかった。債務者が債務不履行を起こし、預金者が一斉に預金を回収しようとすることで取り付け騒ぎが起こり、銀行が倒産し始めた。こうした騒ぎを食い止めるための政府の保証や連邦準備制度による銀行の規制は効果がないか使われなかった。銀行の破産により数十億ドルの資産が失われた。
物価と収入が20-50%減少しているのに負債は同価格であるため、未払いの負債が重くのしかかった。1929年の混乱の後、1930年最初の10か月間に744のアメリカ合衆国の銀行が破産した(1930年代には全部で9000ほどの銀行が破産した)。1933年4月までに、3月の銀行の法定休日の後に無資格の預金や破産した銀行の70億ドルの預金が凍結された。
絶望した銀行家が、借り手が返すお金・時間を持てないほどの勢いで貸付金の回収を行うとともに銀行の倒産が連鎖的に起こった。予測利益が低いものであったため、資本投資や建築が停滞した。不良債権や将来の見通しの悪化に直面し、生きのこった銀行は貸付により消極的になった。銀行は基本準備金を増加させるとともに貸し付けを減らし、これによってデフレ圧を強めた。悪しき循環が進み、下降スパイラルが増加した。
負債の流動化は自身が引き起こした物価の下降を食い止められなかった。自身の資産を流動させようという大衆の衝動的行動の大局的効果によってデフレが加速し、資産量減衰の価値に影響した。自身の負債を減らそうとする個々人の努力こそが事実上それを増大させていた。逆説的だが、負債者が払えば払うほど、彼らは負債を多く抱えることになった。この自己悪化の過程が1930年の不景気を1933年の世界恐慌へ変えた。
連邦準備銀行の総裁ベン・バーナンキのようなマクロ経済学者がフィッシャーに由来する世界恐慌の負債デフレ説を復活させた。
負債以外の原因によるデフレ
負債デフレに加えて、19世紀最後の四半世紀の大デフレ以降に起こった生産性デフレの構成要素が存在した。第一次世界大戦によって起こったインフレを強める補正もおそらく継続していた。
48州で見つかった中でも最大の油田、東テキサス油田が操業して、1930年代には原油価格が歴代最安値に達していた。原油市場における過剰供給のため価格は10セント/バレルにまで低下していた。
生産に対する衝撃
20世紀最初の30年には資本投資と経済生産高が電化・大量生産・輸送機関の電動化・農業の機械化とともに湧き起こり、生産性の急速な増加により、多くの工場の閉鎖や物価の下落とともに余剰生産能力の増大が見られた。結果として、世界恐慌の前の10年には一週の労働時間が僅かに減少していた。世界恐慌によってさらに多くの工場が閉鎖した。
「我々の述べる(生産性、生産高、雇用の)傾向が1929年以前に完全に明白だったことをあまり極端に強調することはできない。この傾向はこの恐慌の結果では決してないし、世界大戦の結果でもない。そうではなくて、この恐慌はこういった長期にわたる傾向の結果起こった崩壊なのである。」 マリオン・キング・ヒューバート
全米経済研究所の援助により出版されたジェローム『産業の機械化』(1934年)には、機械化が生産高を増大させる傾向を持つのか労働力を解雇する傾向を持つのかは生産物の要求の弾力性に依存すると述べられている。また、生産コスト現象は必ずしも消費者に還元されない。さらに、第一次世界大戦以降ウマやラバが非動物の動力に取って代わられるとともに家畜飼料の需要が減少して農業は不利な影響を被ったと述べられている。「技術的失業」という術語は世界恐慌時の労働環境を表すのに使われるとも『産業の機械化』に記されている。
「戦間期アメリカ合衆国の特徴である失業の増大の幾分かは非弾力的需要に応じた商品を生産する産業の機械化が原因であるといえるだろう。」 フレデリック・C・ウェルズ、1934年
1923年の景気循環の頂点からしばらく後、過剰な労働者が雇用創生と比較して生産性発展により取って代わられており、1925年以降の失業の拡大を引き起こした。
アメリカ合衆国の主要産業の生産性の劇的な拡大とその生産品、賃金、労働時間に対する影響が、ブルッキングス研究所の支援により出版された書籍の中で議論されている。
肥料、機械化、品種改良を通じた生産性ショックこそが農産物価格の低下を引き起こしたのだとジョセフ・スティグリッツとブルース・グリーンウォルドが主張した。農家は過剰な労働力供給を加えた土地に押し込められていたのだという。
農産物価格は第一次世界大戦後に低下し始めた。結果的に多くの農家が商売として農業を成り立たせられなくなり、数百の小規模な地銀の倒産を招いた。トラクター、肥料、雑種トウモロコシによる農業生産性は問題の一部にすぎなかった; 他の問題とはウマ・ラバから内燃力輸送機関への転換であった。ウマ・ラバの数は第一次世界大戦以降減少し始め、家畜飼料を生産していた大量の土地が余るようになった。
自動車・バスが電車の発展を止めるようになった。
富と収入の不均衡
ウォディル・キャッチングズ、ウィリアム・トゥルファント・フォスター、レックスフォード・タグウェル、アドルフ・バール(、そして後にはジョン・ケネス・ガルブレイス)といった経済学者はフランクリン・ルーズベルトに幾分かの影響を与えた理論を普及させた。その理論とは、経済が、消費者に十分な収入がないにもかかわらず、消費者が購入できる以上の商品を生産してしまった、というものである。この説によれば、1920年代の賃金の上昇率は生産性の上昇率を下回っていたのである。生産性が増大したことによる恩恵のほとんどは利潤となってしまい、それは株式市場バブルを引き起こしたものの、消費者の購買行動には繋がらなかった。このように、1920年代を通じて富が不平等に分配されたことが世界恐慌を引き起こしたという。
この説によれば、世界恐慌の根本的な原因は、独立企業による賃金・収入の水準が十分な購買力を生み出すに達していないにもかかわらず行われた世界的な過剰投資である。また、政府は富裕層に対する課税を重くすることで収入をより平等にすべきだった、と主張される。政府は、歳入の増加を利用して公共事業を行って雇用を増加させることで経済を「蹴って始動」させられた、という。だがアメリカ合衆国では1932年まで、これとは正反対の経済政策が行われていたのである。大統領退任前年のハーバート・フーヴァーに紹介されフランクリン・ルーズベルトによって採用されることになった<1932年歳入法>や公共事業計画が、購買力を ある程度再分配することに成功したのである。
金本位制
世界恐慌の金本位制理論によれば、恐慌の原因は主に、第一次世界大戦後の西側諸国が戦前の値段に基づく金本位制に復帰しようとしたことにである。この説によれば、これによって金融政策がデフレ志向になり10年間にわたってヨーロッパの多くの国の経済の健全性を害し続けたという。
この戦後政策に先駆けてインフレ政策がとられていた第一次世界大戦中には、多くのヨーロッパ諸国は戦費の激増により金本位制を廃止せざるを得なかった。この結果、新しく作られた金の供給がインフレを中和させる生産性への投資ではなく戦費に使われたため、インフレが起こった。この説は、大量に導入された金の量によってインフレ率が決まり、それゆえインフレへ導くことが、破壊的・消費的であって経済成長を導かない目的のために造られた新貨幣の総量を減少させるというものである。
戦後アメリカやヨーロッパ諸国が金本位制に復帰した際、多くの国は戦前の水準の金-通貨レートをとった。例えばイギリスでは1925年に金本位法が国会を通過し、これによって金本位制に復帰した際、当時外国為替市場で戦前よりもずっと低い価格でポンドが取引されていたにもかかわらずスターリング・ポンドを戦前と等価に設定するという致命的な決定を行った。当時ジョン・メイナード・ケインズらは、政府はそうすることによって釣り合いが取れていないような賃金再設定を強いているのだと主張してこの決定を批判した。ウィンストン・チャーチルが金本位制に復帰させたことに対するケインズの批判はこれを暗にヴェルサイユ条約の結果と比較するものであった。
戦前と等価にしようという傾向が生まれた理由として一つは、デフレは危険ではないのに対してインフレは、特にヴァイマール共和国に見られるインフレは耐え難い危険であるという当時優勢であった意見があった。もう一つの理由として、額面価額で貸し付けている者は自身が貸し付けたのと同価値の金を回復できる期待があったというものがある(citation needed)。フランスに支払わなければならない巨額の賠償金を支払うための外貨を獲得するのに十分な商品を輸出・販売するために、ドイツは信用を犠牲にした成長の時代に入った。世界の金の溜まる場所としてのアメリカ合衆国はドイツがフランスに償還するための基盤として産業化するための資金を貸し付け、フランスはイギリスおよびアメリカに償還した。この流れはドーズ案に明文化された。
非常に高利の借金をして再融資もできない状態にあるか、低利率ではないときに資本財に融資するための貸し付けに依存している場合、農業のような産業分野にとってデフレは辛いものとなりうる。負債の実質的価値が増加しているのに対して物価はデフレに浸食されていく。資産を現金で保持している者や、資産を投資・購買に充てたり資金を貸し付けたりしようとしている者にとってはデフレは有益である。
ピーター・テミン、ベン・バーナンキ、バリー・アイケングリーンといった経済学者によるより近年の研究は、世界恐慌時に緊縮政策がとられていたことに着目している。この考え方によれば、戦間期の金本位制下での緊縮は最初の経済的ショックを拡大し、恐慌を食い止めるあらゆる行動に対して大きな障害となったという。彼らによれば、最初の不安定化させる衝撃はアメリカ合衆国のウォール街大暴落に起因するが、外国に問題を伝播させたのは金本位制であるという。
彼らの出した結論によると、危機の時代の政策決定者たちは金融政策・財政政策を緩和しようとしたが、そのような行動が、契約上の率で金を交換する義務を維持する国家の能力を脅かしたという。外国の資産を金で買おうとする国際的投資家を引き付けるために、金本位制は高利率を維持することを要求する。そのため、金本位制を廃止しない限り、政府は景気の急落にも手をこまねいているほかない。金本位制をとる全ての国の交換比率を修正することで、外国為替市場が利率の平衡を保つ事だけは保証される。恐慌が悪化すると多くの国が金本位制を廃止し始め、より早く廃止した国々はより少なくデフレの影響を受けてより早くデフレから回復する傾向があった。
自由銀行制派経済学者にしてミルトン・フリードマンの弟子のリチャード・ティンバーレイクは自身の立場を『アメリカ合衆国の金融政策にみられる金本位制と実質手形原理』で明確に説明したが、この論文での彼の主張によると、連邦準備制度は実は金本位制化においてかなりの余裕を持っており、そのことがニューヨーク連邦準備銀行総裁ベンジャミン・ストロングによる1923年から1928年の物価安定政策によって証明されたという。しかし1928年後半にストロングが没すると、ニューヨーク連邦準備銀行の支配権を引き継いだ派閥が、全ての金は実際の商品によって代表されなければならないという実質手形原理を唱道した。ドルに30%のデフレを強いて当然合衆国経済に損害を与えたこの政策は恣意的で、避けられるものであって、金本位制はこれなしに存続できたとティンバーレイクが述べている:
金の管理におけるこの移行は決定的であった。ストロングは前任者に従って金本位制という足かせに頓着せずに物価安定政策を実行し、実質手形原理の支持者は自身の理想とする政策を実行する上で同様に束縛を受けずに済んだ。1928年-1929年のシステムポリシーは結果的に物価安定から受動的な実質手形に移行した。「この」金本位制はそれが再出現するのに好都合な時を待つ形式的な見せ掛けでしかない場所で残存した。
金融機関の構造
経済史家(特にフリードマンとシュウォーツ)が多くの銀行が倒産したことの重要性を強調する。倒産は主にアメリカの地方で起こった。地域経済の構造的な脆弱性によって地銀が非常に貧弱になっていたのである。農家は既に多額の負債を抱えており、1920年代に農場価格が急落するのと負債の予想実質比率が跳ね上がるのとを目にした。
彼らの土地は(1919年の地価バブルの結果として)過剰に法的義務を負わされており、穀物の価格が低いために彼らは所有物を売り払うことを強いられた。小銀行、特に農業経済と結びついた小銀行は1920年代には突然の実質利率の上昇による顧客の債務不履行のために常に危機的状況にあった; こういった小銀行の間には20年代を通じて既に倒産の波が押し寄せていたのである。
都銀もまたショックへの弱さをもたらす構造的脆弱性に苦しんでいた。国内最大の銀行の中には適量の準備金を保持せずに、株式市場で大量の投資を行ったりリスクの高い貸し付けを行ったりするものもあった。ニューヨーク市銀によるドイツやラテンアメリカへの貸し付けは特に高リスクであった。つまり、銀行機構は大不景気のショックを低減するように十分に準備されていなかったのである。
ウォール街大暴落に関する事実をどれだけ特定できるか経済学者・歴史家が議論している。時期は明らかである。; 将来の利益に対する期待への衝撃は甚大であった。1928年-1929年の市場はファンダメンタルズによって定められたよりも極端に物価が高い「バブル」であったとほとんどのアナリストが考えている。そのことに何らかの点で責任があるが、どれだけ責任があるかを推量することはできないと経済学者たちは認めている。「1929年の株式市場の崩壊が最初の不景気に役割を果たしたことは片時も疑えない」とミルトン・フリードマンが結論付けている。
議論は三つのグループに分かれている: 最初のグループは、急落が将来の予想の劇的な低下と大量の資本投資の撤退とによって恐慌を引き起こしたと述べる; 第二のグループは、1929年夏に景気がずり落ちて急落がそれを追認したと述べる; 第三のグループは、どちらのシナリオにおいても急落は不景気を引き起こす以上のことはなしえないと述べる。市場は1930年4月には一旦回復したが、それ以降物価は再び下がり続け、1932年7月にやっと最終的な底値に達した。これはどう計ってもアメリカ合衆国で最長期間の市場の衰退である。1930年の不景気から1931年-1932年の大恐慌への遷移の為に、全く異なる要因が役割を果たしたのである。
保護貿易主義
スムート・ホーリー法にみられるような保護貿易主義は、保護貿易主義政策をとってその結果近隣窮乏化政策に至った国々とともに、世界恐慌の原因としてしばしば挙げられる。スムート・ホーリー法は農家の債務不履行を招いており、特に農業に対して有害であった。この出来事により中西部や西部での取り付けが起こったか悪化したかして、その結果銀行機構が崩壊した。1000人以上の経済学者が署名した嘆願書が連邦政府に提出され、その嘆願書中でスムート・ホーリー法が経済に壊滅的な影響をもたらすという警告がなされた; しかし、これによってスムート・ホーリー法の議会通過が覆ることはなかった。
変動相場制ではなく金本位制をとる国で保護貿易主義が採用されたことを鑑み、保護貿易主義は恐慌の原因ではなく恐慌に対する「反応」であったと主張する経済学者もいる: 金本位制をとる国々は利率を切り下げたり最後の貸し手となったりすることができなかった、というのはそれらの国々はいずれ金を切らすが、金本位制を取らない国々は利率を切り下げて不換紙幣を印刷することができるからである。この解釈の下では、保護貿易主義は、金融政策が金本位制に縛られている国々の貿易条件を変化させるのに一役買ったといえる。
国際的な債権構造
1918年に終戦を迎えると、ヨーロッパの国でアメリカ合衆国と提携している国は全てアメリカの銀行から多額の借金をし、その借金の総額はそれらの国々の大戦で蕩尽された国庫では支払いきれないほどになった。これが、連合国がドイツやオーストリア・ハンガリーに対して(ウッドロウ・ウィルソンを驚嘆させたほどの)賠償金を要求した理由の一つである。連合国の信ずるところによれば、賠償金のおかげで連合国は負債を清算する目途がたつはずだった。しかし、ドイツとオーストリア・ハンガリー自身が戦後に深刻な経済危機に陥っていた; 連合国が負債を支払えない以上にドイツとオーストリア・ハンガリーが賠償金を支払えないという状況であった。
債務国は1920年代にアメリカ合衆国に負債の免除か少なくとも負債の軽減を行うことを強く要求した。対するアメリカ政府はその要求を拒否した。代わりに、アメリカの銀行が欧州諸国に対して大規模な貸し付けを始めた。そのため、負債(と賠償金)は古い負債を増額させて新しい負債を積み重ねることによってのみ支払われる。1920年代後半には、特にアメリカ経済が1929年以降に弱体化してからは、欧州諸国がアメリカからさらに金を借りるのが困難になった。同時に、アメリカの高い関税によって、欧州諸国が商品をアメリカ市場で売るのが非常に困難になった。借金を払い戻すために貿易によって収入を得ることもできず、欧州諸国は債務不履行を起こし始めた。
1920年代後半になると、ヨーロッパのアメリカに対する商品需要は減少し始めた。これは、ヨーロッパの産業・農業の生産性が増したからというのもあるし、いくつかの欧州諸国(最も顕著なのはヴァイマル共和制下のドイツ)が深刻な経済危機にあえいでいて外国の商品を買う余裕がなかったからというのもある。しかし、1920年代後半にヨーロッパ経済を不安定化させた主原因は、第一次世界大戦の余波の中で起きた国際的債権構造である。
スムート・ホーリー法のような関税障壁によって戦争負債の支払いが致命的に妨害された。アメリカ合衆国の高関税の結果、ある種の循環のみによって賠償金や戦争支払いの続行がなされた。1920年代に、かつての連合国は主にドイツの賠償金支払いによって得られた資金によって戦争負債を分割支払いし、ドイツはアメリカ合衆国とイギリスからの私的な借金によってのみ支払うことができた。同様に、アメリカが海外に投資したドルのみによって諸外国がアメリカの輸出品を購入することができた。
1929年の株式市場急落に続く流動性の奪い合いの中、ヨーロッパからアメリカへ資金が回収され、ヨーロッパの脆弱な経済が砕け散った。
1931年までに、世界は近現代で最悪の恐慌によってがたつき、賠償金や戦争負債の構造全体が崩壊した。
集団動力学
1939年に、著名な経済学者アルヴィン・ハンセンが恐慌と連動して人口増加率が減少すると主張した。 同じ説が1978年の雑誌記事でマニトバ大学の経済学者クラレンス・バーバーによって主張された。一種のハロッド・ドーマーモデルを用いて世界恐慌を分析し、彼はこう述べている:
「このモデルでは、ハロッドの自然成長率の減少を生み出す状況に、より具体的には人口増加率、労働力増加率、生産性・技術発展性の増加率が正当な成長率以下にまで減少している中に、深刻な恐慌の起源を探ることになる。
1920年代の「生産性成長率」の減少の「はっきりした証拠はない」が、同時期の人口増加率現象の「はっきりした証拠」はあるとバーバーは述べている。深刻な恐慌を引き起こすうえで十分重要な「自然成長率」の減少は人口増加率現象によって起きたのであろうと彼は述べている。
バーバーは、おそらく人口増加率の減少が住宅需要に影響したのだろうと述べ、これが1920年代に起こったことと見受けられると主張している。かれはこう結論している:
「農家以外の家庭の急速で非常に大規模な増加率減少こそが明らかに、1926年以降のアメリカ合衆国の住宅建築界に起こったことである。そしてこの減少が、ボルチとピルグリムが主張し続けているように、1929年の都心の大恐慌への転換の最も重要な一要因なのであろう。」
1920年代の人口増加率現象の原因の中には1910年以降の出産率低下や移民の減少がある。移民の減少は主に1920年代に大幅な移民抑制策がとられたことにある。1921年に緊急移民制限法が議会を通過し、続いて1924年移民法が制定された。
経済政策の役割

 

放任清算主義
今日の主流派経済学派の考えでは、政府は広く名目上の累計を安定した成長傾向に留めておくよう努力すべきだった(新しい古典派やマネタリストにとって、基準は名目マネーサプライである; ケインズ経済学派にとって、基準は名目総需要それ自体である)。名目マネーストックと総名目需要を急落しないよう保つために、恐慌期には、中央銀行は銀行機構に流動性を注入するべきであり、政府は税率を切り下げ消費を促進すべきであった。
連邦政府と連邦準備制度は1929年-1932年にこれを行わず、世界恐慌へと陥った。経済史家の間で一般的になってきている説では、連邦準備制度の政策決定者たちの清算主義理論への執着が破滅的な結果を招いたとされる。「清算主義」の存在が世界恐慌という宿痾と戦わない公共政策を決定する動機づけをするうえで重要な役割を果たした。フーヴァー大統領はこう書いている:
“メロン財務長官に率いられた放任清算主義者たちが...政府は手を出さずにスランプ自己清算するのに任せるべきだと感じている。メロン氏はたった一つの方策を持っている: 「労働を清算せよ、株式を清算せよ、農家を清算せよ、不動産を清算せよ」...「それによってシステムから腐敗が排除される。高額の生命、高い生命は低下する。人々はより働き、より道徳的に生活するようになる。価値観が調節され、人々を楽しませることが競争力に劣る人々の破滅を防ぐ。」 ”
「ケインジアン革命」以前は、このような清算主義理論が経済学者のとる一般的立場であり、フリードリヒ・ハイエク、ライオネル・ロビンズ、ヨーゼフ・シュンペーター、シーモア・ハリスといった経済学者によってこの理論が主張・発展させられた。清算主義者によれば恐慌は良薬である。恐慌の機能は、非生産的な使用から生産の要因(資本と労働)を解放するために、技術的発展のために時代遅れとなり失敗した投資・ビジネスを清算することだとされた。それらの要因は技術的に活発な経済分野に回された。彼らは1920年-1921年の恐慌に言及して、この恐慌は1920年代後半の繁栄の基礎を築いたと主張した。彼らは(1921年に既に実行されていた)デフレ政策をとることを要求し、この政策は資本・労働力を非生産的な活動から解放して新たな経済的バブルの基礎を築くのに使うものだと主張した。経済の自己調節が大量の倒産を起こすとしても、そうなるのに任せておくべきだと清算主義者たちは主張した。というのは、聖餐過程を延期することは徒に社会的コストを増大させるだけだと彼らが考えていたからである。シュンペーターの著作によれば、それは
“...回復は、ひとりでに起こったときにのみ健全であると私たちに信じさせてくれる。人工的な刺激のみによるいかなる復活も、十分に恐慌の働きが行き届かない部分を残し、環境不適応だった部分が消化され切らずに残った部分に対してそれ自体の新たな環境不適応が加えられ、それがまた生産を必要とするようになり、後々に別の(より悪い)危機によって商業を脅かすのである。 ”
清算主義者の期待に反して、株式資本の大部分は世界恐慌一年目に転換・消去されなかった。オリヴィエ・ブランチャードとローレンス・サマーズの研究によれば、1933年までに不景気によって1924年以前のレベルの資本蓄積が起こった。
ジョン・メイナード・ケインズやミルトン・フリードマンといった経済学者は、清算主義理論から帰結する放置策が世界恐慌の深刻化に資したと主張している。ケインズは嘲笑のレトリックによって、ハイエク、ロビンズ、シュンペーターを以下のように表すことで清算主義思想の信用を失わせようとした。
“...禁欲的・清教徒的な心根が(世界恐慌を)...彼らの言うところの「過膨張」にたいする不可避にして望ましい報いとして扱う...。それは、過剰な繁栄が続く全体的な倒産によってバランスがとられなかったときに、不正な富に対して起こる勝利だと彼らは感じている。自分たちが丁重にも「延期された清算」と呼ぶものが自分たちを正してくれることを望むと彼らは述べている。彼らが我々に述べるところによると、清算は未だ完了していない。しかしやがては完了する。そして清算が完了するのに十分な時間がたてば、全ては再び我々にとって良くなる... ”
ミルトン・フリードマンは、こういった「危険なナンセンス」はシカゴ大学では決して教えられていないこと、なぜ(このナンセンスが教えられている)ハーヴァードで若く明敏な経済学者達が自分たちの師のマクロ経済学を否定してケインジアンに転向するのかを自分は分かっていること、を述べた。彼はこう書いている:
“私が思うにオーストリア学派の景気循環理論は世界に大きな悪影響をもたらした。あなたがキー・ポイントたる1930年代に戻れば、ロンドンにオーストリア学派がはびこっているのが見られて、ハイエクやライオネル・ロビンズに世界が景気の底にあるのを放置しろと言われるだろう。あなたはそれに従って景気が自己回復するに任せることになるだろう。それに対して何かをすることは許されない。何をしてもより悪くなるだけなのだから。...私が思うにこの種の放置策に焚き付けられて、イギリスでもアメリカでも彼らは害を為したのである。”
経済学者ローレンス・H・ホワイトは、ハイエクとロビンズが1930年代初期のデフレ政策に積極的には反対しなかったことを認めたが、それにも関わらず、ハイエクが清算主義の唱道者であったというミルトン・フリードマン、ジェームズ・ブラッドフォード・デロングその他の主張に挑戦した。ハイエクとロビンズの景気循環理論(後に今日知られているようなオーストリア景気循環理論に発展する)は実はマネーサプライの強い引き締めを許すような金融政策とは矛盾するものだったとホワイトは主張する。それにもかかわらず、世界恐慌の際にはハイエクは「1929年-1932年の強いデフレと名目収入の萎縮に曖昧な態度をとった」とホワイトは述べている。1975年の講話で、ハイエクは自身が40年以上前に中央銀行のデフレ政策に反対しなかったことの非を認め、曖昧な理由をとったことの理由を説明した: 「当時私はある程度短期間のデフレの過程は、経済が機能することと相容れないと私が考えていた賃金の硬直性を破壊すると信じていた。」 その三年後、ハイエクは世界恐慌初期の連邦の突然のマネーサプライの引き締めと連邦が銀行に流動性を供給するのに失敗したことを強く批判した:
“「一たび急落が起こると連邦準備制度が愚かなデフレ政策に走ったという点に関して私はミルトン・フリードマンに同意する。私は単にインフレに反対しているのではなく、デフレにも反対している。だから、もう一度、間違って計画された金融政策が恐慌を引き延ばす。”
オーストリア学派の政府膨張論
消費の増大
フーヴァーが連邦政府の消費を50%引き上げたのは効果的だった。ほとんどの増大が1932年に起こり、それに同調して長い不景気がゆっくりと終わりを迎えた。オーストリア経済学派の中でも自由銀行制派に属する経済学者スティーヴン・ホーウィッツは、短い不景気だったはずのものを長引かせて「大恐慌」にしてしまったとしてフーヴァーの消費を責めている:
短い不景気に終わるはずだったものを、より深刻で、ずっと長い大恐慌に変えてしまったという批判をハーヴァート・フーヴァーはうまく捌いている...彼は恐慌と戦うために政府の役割を大きく拡張した...その結果は、不幸なことに(しかし驚くべきことではなく)、火と上手く戦ったというよりもむしろ炎を煽った。
デイヴィッド・ワインバーガーは、このアプローチを、ウィルソンの強い連邦政府が引き起こした恐慌の下で経済を劇的に刺激したと彼が述べた(正当なチャートにおいても見られる)クーリッジ政権下の消費・税・赤字の切り下げと対比した。クーリッジ政権の商務長官としてフーヴァーが消費増大とクーリッジの下での規制を奨励したが、多くの部分を1929年に彼自身が実行したことに彼は注目する。GDPに占める連邦の消費が成長し続けていたことを発見したランダル・グレゴリー・ホルコムが述べているように、フーヴァーの下でのこの大成長はフーヴァーによる景気下降で歳入を減らしたとしても事実連邦準備制度の下で以上の事がなされたことは明らかだという。
新たな公的規制
著書『アメリカの世界恐慌』、『ハーバート・フーヴァーの恐慌』その他において、マリー・ロスバードは、フーヴァーが示した産業・農業・雇用といった分野における新たな連邦規制の一覧を提示したが、彼はそれを世界恐慌をもたらした連邦準備制度の干渉主義と結びつけて述べた。
税率の引き上げ
1932年にフーヴァーは歳入法を制定して税率を劇的に引き上げた。彼はあらゆる層に対する税を引き上げ、最貧困層に対する税を三倍にして富裕層に対する税率を25%から63%に上げた。この高率の税は会計年度であり長い不景気が終わった年に同調して支払われた。
 
世界大恐慌とニューディール政策 / 現代マクロ経済学の視点から

 

1929年の株価大暴落に始まった世界大恐慌
1930年代の世界大恐慌は1929年10月24日の米国ウォール街での株価大暴落から始まった。米国GDPは半減近く、株価は2割に、失業率は25%となった。日本のバブル崩壊や「失われた10年」と比較すると、そのインパクトの大きさがわかる。日本のGDPは物価下落を考慮に入れた実質では微増、失業率は最悪期で6%弱にすぎない。現在のユーロ圏危機と比較しても、ユーロ圏全体ではGDPは微減、失業率は最悪国のスペインがやはり25%程度であり、ドイツなど北欧諸国の失業率は10%を切っているため、ユーロ圏平均は11%程度である。日本の株価は失われた10年以降下落を続けているとはいえ、その惨状を除けば、現在の不況とは比較すべきもない未曾有の大恐慌ということができる。その後のナチスドイツの台頭や日本の軍国主義を誘発し第二次世界大戦を招いたことも考えれば、今なお研究が続々となされることは不思議ではない。
大恐慌は1929年から始まり、不況が続くなか、世界経済は第二次世界大戦に突入したため、紆余曲折がある。さらにTVAによるダム建設などで著名なニューディール政策は、今なお清新なイメージを与える言葉であり、現オバマ大統領の「グリーン・ニューディール」政策という名称にも引き継がれている。しかしニューディール政策は現在の財政支出規模に比べて格段に小さく、ルーズベルト米国大統領が採用した政策の総称であり、ルーズベルト自体が確固たる考え方をもって実行したとも言い難く、「あらゆることを何でも試した」と評価されるものだ。このため、現在でも原因や政策評価について、論争が続いている。本稿では近年の近代経済学的研究の知見を含めながら、いくつかの論争点に分類しながら、考察してゆこう。
ニューディール政策の時期区分
大恐慌期の理解のためには、いくつかの時期区分を行う必要がある。
[1]株価暴落(1929年)直後のフーバー大統領期である第1期では、均衡財政主義にしばられ結果的に増税や金融引き締めという逆行する政策を行い、大恐慌を招いたとされる。
[2]ルーズベルト大統領就任直後の2年(1933–par 34)である第2期では、
・33年4月金本位制を停止するなど、世界経済の地域「ブロック化」を促したものの、
・銀行危機への対応と需要創出策を採り、物価下落を食い止めるなど、一定の成果を挙げた。
[3]続いて第3期(1935-36)では、ルーズベルトは社会保障制度の確立と労働保護のためのワグナー法を制定した。マクロ経済は1933年を底とし1934年以後は回復傾向になり、ルーズベルト大統領は広範囲の支持を集めたものの、カルテル容認を含むNIRA( 全国産業復興法National Industrial Recovery Act)やAAA(農業調整法Agricultural Adjustment Act)など目玉政策のいくつかが最高裁で「公正競争を阻害する」とする違憲判決を出された。
[4]37年夏には再び景気後退に見舞われる一方、ナチスドイツの台頭のもとで、軍事支出を中心とする大規模な財政支出が景気対策の中心となり、戦時体制に移行していった。
この四つの時期区分が示すことは
・当初の急激な悪化をくいとめる「応急措置」については、フーバー期には失敗したもののルーズベルト期は一定の成果を挙げたが、
・その応急措置への「反発」も強く、最終的には戦争が生じたため、その帰結がわからないことである。
五つの論争点 所得維持政策とケインズ的財政政策
以上の時期区分から、「応急措置」と「反発」に留意して、論争点を整理してみよう。
[1]株価暴落
   ↓
[2]銀行危機と金融政策
   ↓
[3]財政支出増大と癒着
   ↓
[4]金本位制と対外関係
   ↓
[5]反動と停滞そしてファシズム
と5分することができよう。この論争点を理解するためには、近代経済学上の学派の考え方の違いを頭に入れておくとわかりやすい。近代経済学、なかでもマクロ経済学(GDPや失業率といった集計されたり平均的な経済数字の相互依存関係や変動メカニズムを扱う)には大きく分けて以下の二つの考え方がある。
[a]自由放任を基調とする(新)古典派経済学
[b]需要不足の状態を基本とし政府介入を是認するケインズ派経済学
前者が米国における共和党的、新自由主義的な考え方につながるのに対し、後者は民主党的な考え方につながる。実際、ルーズベルト大統領の支持者たちは「ニューディール連合」といわれる政治的なグループとなって、米国の主導権を握った。2012年11月の大統領選挙で、現在の不況を巡るロムニー候補(共和党) とオバマ米国大統領(民主党)がくり広げた論争も併せて考えると興味深い。そして大恐慌期の政策も前者が政策効果を否定しがちであるのに対し、後者は大きく評価するという違いがある。大恐慌期の経済政策論争は今なお続いているのである。
さて論争点を順に検討してゆこう。まず冒頭に述べたように、論争点の第1は
[論争点1]1920年代の好況や加熱する株式市場の反動として、大恐慌がとらえられるのか。
といった出発点を巡るポイントである。一般にバブル的な株価上昇や好況の反動として大恐慌をとらえるガルブレイス(The Great Crash 1929)などの著作が知られるのに対し、近年の研究では、それらの効果はさほどでもなく、政府の株価暴落と不況期直後の対応の誤りが大きい、といった意見も強い。実は現在でも金融政策のあり方については、Fed ViewとBIS Viewといわれるように、株価バブルに対して異なる意見がある。前者は株価は外生的に上昇するため金融政策で制御することに反対だが、後者は株価バブルを金融政策遂行において考慮すべきと主張する。
[論争点2]銀行危機への対応と金融政策
論争点の第2は株価暴落直後の拙劣な金融政策である。大恐慌は金融政策の失敗がもたらしたという意見はかなりのコンセンサスを得ている。『選択の自由』というベストセラーで知られるミルトン・フリードマンはアンナ・シュワルツとともに『合衆国の貨幣史1867-1960』という浩瀚な書物を執筆し、
・銀行危機によってマネーストック(広義の貨幣量:以前はマネーサプライとよばれることが多かった)の減少が生じたことを示し、実質金利の上昇などを通じて生産の停滞をもたらしたことを論じた。一方、
・現FRB議長ベン・バーナンキの以前の研究は、金融危機は銀行が破産したり、銀行貸出の利用可能性を低下させることによって直接的な負の効果をもつことを示した。(Bernanke、 Ben “Nonmonetary Effects of the Financial Crisis in the Propagation of the Great Depression” American Economic Review)
つまりフリードマンらは金利が高くなったという「価格面」を検討したが、バーナンキはそもそも貸してもらえないという「数量面」を重視したのである。また1930年代の米国の大恐慌について、バーナンキ議長は1929〜1年にかけての最初の2年間で、ニューヨーク連銀がもっと積極的に金融市場に資金を供給していれば恐慌の慢性化は防げたと主張していた(当時の金融政策はワシントンにあるFRBではなく、ニューヨーク連銀が主導)。バーナンキ議長は、失われた10年における日本銀行の対応を批判し、日銀はケチャップを買えばよい、とまで言ったが、これは大恐慌の経験が念頭にある。そのためリーマンショック後の金融危機において、彼はわずか半年で3.25%もFF(フェデラルファンド)レートを引き下げた。以上の点が現代の金融危機においても、銀行救済が重視される理由でもある。今時の世界金融恐慌においてはリーマンショック等の投資銀行破綻から金融面の動揺が続いたが、リーマンブラザース救済に失敗したとはいえ、世界各国の金融当局は、公的資金投入などで銀行等信用システム維持に動いた。
ただし破綻に瀕した金融機関をいつでも救済すればよいか、といえばそうではない。いわゆるモラルハザードの問題があるからである。モラルハザードは本来、制度的な救済メカニズムがある場合、リスク回避行動を怠る場合をさす経済学用語である。危険な融資にのめり込んだ金融機関を信用秩序維持のもと、いつでも救済してしまえば歯止めがなくなってしまう。一方で、わが国の失われた10年において、最初に破綻した金融機関が東京二信組事件(東京協和信用組合、安全信用組合)とよばれる問題では、世論の反対により公的資金投入はしばらくタブー視され、対策は後手後手に回った。その結果三洋証券破綻から、1997年には大きな金融ショックが日本を見舞ったのである。
[論争点3]財政政策とモラルハザード
第3の論点として、財政支出増大策である。フーバー政権下では財政政策は活用されなかった。林敏彦(1988)(『大恐慌のアメリカ』岩波新書)が指摘するように、政府の支出増大がマクロ経済にプラスになるという認識をフーバーや当時の経済学者がもたなかったわけではないものの、結果的には政府の財政政策が下支えを行ったわけではない。その背景には、財政拡大は地方政府が行うべきであるという信念をフーバーがもっていたからである。フーバー大統領は1932年には税収減、財政赤字拡大を受けて、歳入法により大増税に乗り出したほどである。大恐慌が深刻になった理由の一つは、この誤った財政引き締めにある。
フーバー大統領が結果的に無策であったのに対し、1930年代に米国大統領に就任したルーズベル
トのニューディール政策は、政府介入が後者のケインズ的な考え方に近いと指摘されている。たしかに
・TVA(テネシー川流域開発公社)などの公共事業
・CCC(民間資源保存局)による大規模雇用などは著名であり、
・1935年にはWPA(公共事業促進局)を設立し、失業者の大量雇用と公共施設建設や公共事業を全米に広げた。ニューディールといえばこれらの政策を思い出すほどである。
しかし実際には、ルーズベルト政権下においても財政拡張は小規模で、GDP比1〜2%にすぎなかった。リーマンショック後の2009年には麻生内閣は総額2兆円の定額給付金を交付し、さらに総額15兆円の補正予算を組んだが、それは日本のGDP500兆円からすると比率は3%である。一方、米国のオバマ政権は直後に約8000億ドルの対策を成立させた。この規模は一人あたりでは約3200ドル(日本円で約30万円)となり、米国GDPの約6%ともなる。巨額といえば、2008年11月に決定された中国の財政政策はさらに巨額であった。60兆円と換算されるが、GDP比12%にも上る。つまり日本はGDP比3%、米国は6%、中国は12%もの巨額の財政支出を行い、その結果、世界経済は破綻から免れたともいえる。しかしながら中国経済の変調など、財政支出の永続的効果には限界があることも忘れてはならない。
ルーズベルト政権はあらゆることを行った、と述べたが、財政支出の増大の発想はケインズ経済学というより、困窮した家計の所得を維持することにあった。フーバー政権期には所得と物価がスパイラル的に下落したが、なかでも農家の苦境は厳しかった。そこで
・AAA(農業調整法)による生産調整
は著名だが、その背景には第一次世界大戦時に拡大した農業生産は欧州復興とともに過剰生産に陥ったことがある。そのためカルテル的な政策を公認し、いわゆる「豊作貧乏」を避けるために生産調整を行ったのである。
この生産調整と所得維持という観点からすると
・NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮や賃金の確保
・ワグナー法「全国労働関係法」による労働者の権利拡大策
などの労働政策も理解しやすい。労働の過剰供給を避け、所得維持を図ったわけである。
[論争点4]通貨制度と世界経済のリーダーシップ
大恐慌以後、国際通貨制度は金本位制から管理通貨制度へ移行した。この理由は米国で起こった大不況が金本位制のもとで、世界各国に伝播したからである。金本位制では各国は自国通貨と金との交換比率を決定し、そこから金平価も決定される。各国通貨当局は金平価を維持するために、国内の金融政策を使う。
このシステムのもとで、米国で金利が上昇すると、他国から高金利を求めて金が流入するはずである。しかし、これを嫌った各国は金確保に走り、金流出を防止するため、意図的に金利を引き上げて、それが金融引き締めにつながった。金本位制が原因で、米国で生じた貨幣的ショックが世界的な金融引き締めにつながったわけである。結果的に、諸国は金本位制を次々と離脱し、1944年にはブレトンウッズ体制といわれる管理通貨制度が発足した。
このような金本位制の問題は米国の孤立主義的傾向の問題につながる。キンドルバーガー『大不況下の世界 1929-1939』(邦訳は東京大学出版会、1982)は世界恐慌を、英仏から米国に覇権国が交替することに伴う悲劇ととらえ、いわゆる覇権安定論の生みの親とされている。繁栄した米国は、本来
・金本位制のもとで金融政策が制限される諸国に米国は投資すべきであり、そうでないと世界的な需要不足に陥る。さらに米国は
・保護貿易主義を取って世界貿易を縮小させ、
・国際連盟には参加しないなど、孤立主義的行動を取った。
このような国際間の問題はリーマンショック後の金融危機でも指摘された。グローバル・インバランスとよばれるが、中国や日本の貯蓄過剰が米国における金融投資過剰に回ったという問題である。また現在のユーロ圏危機においても、貿易黒字を拡大させてきたドイツはギリシャやスペインを救済すべきであるという意見がみられるが、これらは世界経済の需給バランスを重視する点で、大恐慌の経験とつながっている。
[論争点5]論争の波及と現代経済への含意
1939年につくられた『スミス都へ行く』というフランク・キャプラ監督の著名な映画がある。ワシントンに乗り込んだ新米上院議員のスミス氏が、公共事業(ダム開発)における上院議員の癒着を弾劾するという筋書きである。フランク・キャプラのつくる映画(銀行融資を扱った『素晴らしき哉、人生!』や失業対策を考えた『オペラハット』など)は当時、ニューディール・コメディといわれたものの、この『スミス都へ行く』は実はニューディール政策に批判的な内容となっている。その理由は、政府の直接介入は腐敗を生むからであり、広義のモラルハザードともいえる。そしてそれが「反発」を生むわけである(ただしダム開発に対するスミス氏の提案は自然のなかで少年たちがキャンプするというもので、これはルーズベルトのアイデアにもとづき実際に行われたCCC(民間国土保全部隊)にヒントを得たものかもしれないことは付け加えておく必要がある)。
おわりに
本稿ではいくつかの論点に分けて、大恐慌期の政策対応を考察してきた。米国においては日本では考えられないほどの、民主党・共和党の対立が激しい。そして民主党系の考え方が、ニューディール政策を拡大解釈し、その影響を過大にとらえがちなのに対し、共和党系の考え方がニューディール政策を過小評価し、大恐慌を金融政策のミスに起因すると限定しがちであるとまとめられるだろう。さらに「応急措置」はある程度の効果は認められるが、その「応急措置」的ケインズ政策は公共事業における汚職や癒着などモラルハザードを生んで、「反発」を招く。また社会保障の充実は、誰を救うかという保険の範囲の確定を求め、排外主義に結びつく。つまり「反発」はより倫理的な方向に生じるため、実は清潔なケインズ主義が全体主義につながる側面すらある。こういったプロセスを考えると、近年の世界同時不況はより怖ろしい事態を招く、という想像も可能かもしれない。実際、佐藤卓己(2006)(『メディア社会』岩波新書)は映画のなかでスミス氏を支持する少年たちがナチス少年隊(ヒトラーユーゲント)に類似していると指摘している。  
 
世界恐慌、その原因と結果

 

プロローグ
投機家は、企業の着実な流れに浮かぶ泡沫としてならば、何の害も与えないであろう。しかし、企業が投機の渦巻きのなかの泡沫となると、事態は重大である。1 国の資本発展(the capital development)が賭博場の活動の副産物となった場合には、仕事はうまくいきそうにない。新投資を将来収益から見て最も利潤を生む方向に向けることを本来の社会的目的とする機関として眺めた場合、ウォール街の達成した成功の度合いは、自由放任の(laissez-faire)資本主義の顕著な勝利の1 つであると主張することはできない… 
John Maynard Keynes、 The General Theory、 Chapter 12、 1936。
恐慌は、つねに、ただ既存の諸矛盾の一時的な暴力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一瞬間回復する暴力的な爆発でしかない。 
Karl Marx, Das Kapiral, B. V-Ab. 3-Kapitel. 15, 1894.
第一は、歴史的状態が不断に変化するという事実であって、歴史的状態はまさにこれによって歴史的時間において歴史的個体となる。これらの変化はたえず反復されるような循環を形成するものでもなければ、また1 つの中心をめぐる振子運動でもない。この2つの事情は次の第二の事実とあいまって、われわれに社会発展の概念を定義させることになる。その事実というのは、あらゆる歴史的状態はそれに先行する状態から適切に理解しうるということ、したがって個々の場合についてこれが満足になされていないときには、われわれはそこに解決不能な問題が存在するのでなく、未解決の問題が存在するとみなすということである。 
Joseph A. Schumpeter, Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung, 2. Aufl., 1926.
もしもわれわれの貧困の原因が、飢饉や地震や戦争にあるのならば、すなわち、われわれが物質的生産物と、それを生産する資源にこと欠いているのならば、われわれは、重労働と節約と発明のなかにしか、繁栄への道を見出すことができないであろう。しかし、実際にはわれわれの困窮は、よく知られているように、別の種類のものである…むしろそれは、厳重な意味で経済学の問題である。もっとうまく表現すれば、経済理論に政治的手腕を加味した政治経済学の問題である。 
John Maynard Keynes, The Means to Prosperity, 1933.
1. 世界恐慌(world crisis、 world depression)の再現へ
「アメリカ経済は、2007 年前半に一般的に好調であった・・・失業率は4。5%にとどまっている…コア・インフレーション(エネルギーと食料価格を除く)は2006 年とほぼ同率にとどまっている。」2007 年7 月18 日にこの書き出しからはじめた連邦準備制度理事会のMonetary Policy Report to the Congress が懸念していたマクロ経済問題はもっぱらエネルギーと食料価格の上昇にありました。しかし、その半年後に出された同じ連銀の報告は、「連銀理事会が前回のMonetary Policy Report to the Congress を提出した昨年7月以来かなり軟化してきている」と述べるに至りました。既に2007 年7 月に投資銀行BSC(Bear Stearns)傘下のヘッジファンドが破綻し、8 月にBNP Paribas 傘下のヘッジファンドの解約凍結問題からサブプライムローン証券(MBS)を組み込んだCDO(Collateralized Debt Obligation 債務担保証券)の損失が問題となり、連銀は8 月17 日に0。5%の緊急引下げを行っていたのです。
その後、各国中央銀行による資金供給にもかかわらず欧米金融市場の緊張は解消されず、3 月にはBSC をJP モルガンが救済買収しますが、7 月にはFannie Mae、 Freddie Mac の経営危機が顕在化、9 月にメルリリンチとリーマンの危機が、リーマンの破産とメリルリンチのバンク・オブ・アメリカによる買収に終わり、CDS(Credit Default Swap)を多量に抱え込んだAIG の救済問題が生じるや、株式価格の暴落、金融市場の極度の機能不全、そして急速な消費の冷え込みと雇用の悪化がもたらされ、それはまたグローバルな経済危機=恐慌へとつながったのです。NBER(National Bureau of Economic Research)が、景気後退が2007 年の12 月から始まっていたと認定したのは2008 年12 月1 日のことでした。
12 月には定職を求めながらもパート労働に携わる数を含まないアメリカの完全失業率は7。2%、110 万を超え、IMF の控えめな損失計算でも9 月に世界の金融資産は1。3 兆ドルに及ぶとされました。トヨタはGM を抜いて世界第1 位の生産企業となりましたが戦後初の営業赤字になり海外で正社員削減を実施する状況に、マイクロソフトも5、000 人に及ぶ雇用削減に追い込まれ、中国も一桁成長に落ち込んだのです。これまで景気循環を、生産性を中心として供給側からだけ説明してきた当局は、一斉に「需要不足」を主張するに至り、「市場に委ねていたのは間違いだった」との風潮が生まれてきました。
10 月までは、「金融危機は、1929 年のような世界恐慌にはならないだろうが、実体経済に影響が及ぶだろうか」という議論がなされていましたが、今日ではそのような議論自体が余りに楽観的な「危機感」の表明であったことが明らかです。
2. アメリカの2001−02 不況以後の成長
循環は、驚くほどにまで典型的な経過を辿っています。それはMinsky-Kindleberger のモデル1から些かも外れてはいません。ただ、金融的不安定性の構造の基盤に住宅バブルがあり、金融的資産・債務増加が家計と資産価格上昇と結合していました。
2001-02 不況からの脱出は、「雇用なき回復jobless recovery」を特徴としていました。2000 年に570 万程度であった失業は03-04 年に800 万を超え、4。0%であった民間の失業率は4。0%から03 年には6。0%へと拡大しました。そのような状況からの脱出は、90 年代からはじまった住宅建設(及び関連諸部門の拡大)、住宅価格上昇がもたらす資産効果による消費の拡大を軸としました。
住宅建設(new housing units started)は、Reaganomics の拡大の中では弱いものとなっていました。ピークの86 年でさえ、先行する78 年の200 万戸を大きく下回る180 万戸にとどまり、91 年に100 万戸をやや上回るところまで落ち込んだのです。92 年から新しいKuznets 循環とも言うべき上昇が始まり、特に90 年代後半には150 万戸を超えるものとなりました。住宅販売に関しては96 年に前のピークである86 年の75 万戸を超え、98 年には76 年のピークであった82 万戸を超えて88 万戸余りが記録されたのです。年率の住宅価格上昇率はS&P/Case-Shiller 10 city index で96 年から急速に上昇し2000 年末には14%の水準にまで達しました。01-02 不況に先立ち販売は99 年から、建設は2000 年から減少に転じ、住宅価格上昇率も01 年を通じて7。5%程度まで下落し、サブプライムローンの急拡大と家計の債務上昇は住宅循環の軟化を予測させました。
私は、以前の学会報告2で、住宅建設も限界に近づいて、家計のバランスシートの調整が必要になっていることを指摘し、「無論、低金利政策が住宅投資の維持を可能にし、やがて回復する企業収益増加と投資増加が消費の落ち込みを抑制する可能性もないわけではない。だが、その場合には貯蓄率低下がもたらすマクロ不均衡が別の問題を生み出す可能性が存在する」と述べたのですが、連銀は2003 年にFF レートを1%にまで下げ、実質金利がマイナスに導きました。そこで、住宅建設は03 年から急速に上昇しました。80 年代の住宅循環が弱いものであったこととKuznets 循環とも言われる建設循環がJugler 循環(設備投資循環)に比して長いものであることから、住宅投資が継続したことは不思議ではないという見解もありますが、そうとは言えない特徴が存在します。
第1 に、人口の面からみればアメリカの人口は1 つの趨勢にしたがって増加しており、住宅投資の急拡大を説明することは困難ですし、Shiller の研究によって3、住宅建設コストからも住宅価格が極度に乖離して上昇したことが明らかとなっています。これは一面ではこれまでアメリカにあまり見られなかった土地価格上昇を反映していますが、他方ではバブルの表現でもあります。第2 に、住宅投資の急拡大は、3 つの要因によって支えられたと言えます。つまり、1サブプライムローンを住宅に適用する規制緩和によって促進され、また、2 レバレッジを効かし、簿外でのサブプライムやジャンボローンの証券化(non-agency MBS)と金融工学の助力を得て再証券化(CDO)を図った投資銀行の活動−サブプライムローンは01 年の1、450 億ドルから05 年には総貸付の20%を超える6、250 億ドルに増加、これをさらに80%くらいの別の債権と抱き合わせて組成したCDO などの販売は株式などとともに世界の金融資産を90 年代半ばの世界のGDP 程度から2006 年には、デリバティブを除外しても140 兆ドルに拡大したのですが−、つまり金融的蓄積によって促進されました。そして、既に指摘したように、32000 年から連銀が行った連続的なFF レート下げなしには住宅投資の拡大はあり得ませんでした。つまり、過剰取引は金融面で促迫されたのです。第3に、住宅価格上昇と金融緩和は、住宅価格は下がらないという「住宅価格神話」もあいまって、住宅価格上昇によるキャピタル・ゲインを目的とする住宅購入をもたらしました。セカンドハウスなど投資目的の購入は40%にまで及んだと言われています。この結果、住宅投資はHousing bubble に転化したのです。
住宅バブルは成長を牽引しました。設備投資がマイナス成長のままであった02 年に住宅建設投資は4。8%、03 年には8。4%、04 年には10。3%と拡大し、さらにそれは住宅関連の耐久財の消費を刺激しました。雇用の面でも財の生産で2000 年から2005 年にかけて総雇用は250 万以上減少し、製造業雇用では約300 万低下する一方で、建設では50 万の雇用増加(90 年に比しては200 万)が生じました。特に注目するべきは、資産価格の上昇とともに消費が拡大したことです。可処分所得に対する住宅資産が1。5 倍に急上昇するとともに、可処所得に対する消費は95%から上昇して100%を越え、ついに民間家計貯蓄率は05 年第3四半期にマイナスとなりました。92 年に3、000 億ドルを越えていた民間家計貯蓄は2000年に1、685 億ドル、05 年に325 億ドルに低下したのに対して、家計消費は00-05 年に2 兆ドル増加しました。その裏側は家計の債務の上昇であり、IT バブルの頃に家計債務の対GDP 比率はレーガノミックス以前の50%以下に比べて上昇し65%となっていたが、住宅バブルの中で95%を越えるに至ったのです。
住宅バブルが金融面で支えられたことは既に指摘しましたが、金融的蓄積もまた住宅バブルの中で急成長しました。04 年の11。7兆ドルのGDP の中で金融サービスは2。4 兆ドル。を越え、00-04 年に増加したGDP2 兆ドル弱分の25%、4、800 億ドルは金融部門からもたらされました。00-07 年をとると金融部門は9、000 億ドル成長しています。90 年代に倍増した情報産業の付加価値増加分が00-04 年では800 億ドル程度であり、00-07 年でも1、900億ドル弱の成長、製造業では00-04 年では若干減少し、00-07 年でも1、900 億ドル程度の増加であったことを考えれば、アメリカの成長は金融的蓄積に傾斜していたのです。07 年をみますと、部門別の付加価値額で、製造業は金融部門を1 兆ドル以上も下回る結果となっています。80 年代の前半には金融部門が製造業を超えることがなかったことを考えると、製造業の地位の低下と金融部門の上昇が明確となります。しかも、アメリカ金融業は、その原資を外国からの流入資金に求めながら海外からの金融面での収益を増加させてきました。
連銀は、この間、バブルに対して金融政策を適用する困難さを強調するとともに、サブプライムローンの拡大による住宅投資を肯定しました。連銀にとっての問題はインフレ率に限定されていたのです。住宅投資の上昇は金融イノヴェーションによって開かれた新しい機会であり、価格上昇は生産性上昇の成果としか見なされませんでした。効率的市場仮説とマネタリスト、合理的期待形成仮説などによって拘束されていたのです。私は、前に触れた学会報告で、低インフレ下での資産価格上昇とそれがバランスシートを拡張させることによって投資と消費に与える影響を考慮したマクロ経済学の確立と政策の展開が必要であることを指摘したのですが、連銀は、結局、日本のバブル、東アジアのバブル、IT バブルの経験を無視したのです。
アメリカの住宅バブルと過剰消費はマクロの貯蓄・投資不均衡を著しく拡大しました。貯蓄(=民間貯蓄+政府財政収支)から投資を引いた額は経常収支と恒等的に等しいことはよく知られています。91 年に81 年以来の黒字に一旦転じたアメリカの経常収支はIT バブルの過剰消費の中で4、000 億ドルの赤字に転落していましたが、03 年には赤字は5、000億ドル。を越え、04 年には6、680 億ドル、05 年以後は7、000 億ドル以上を計上してます。GDP の5%を超える赤字が生まれたのです。「双子の赤字」を生んだレーガン時代の1987年の経常収支赤字が3。5%程度であったことを考えると、その規模は大きく膨らんだのです。アフガニスタンやイラクでの戦費が計上されたことも作用していますが、貯蓄不足を根底で規定したのは、企業貯蓄が黒字にもかかわらず家計貯蓄がマイナスとなったことにあります。この赤字は、その多くが長短のアメリカ財務省証券購入の形態をとる中国など東アジアでの外貨準備の増加と産油国、日本の資本によって埋められました。途上国の中国が対GDP 比45%に及ぶ投資をしながら50%を超える貯蓄を行ってアメリカに資本を供給し、1 人当たりGDP では数十倍の豊かさをもつアメリカがそれに依存して低金利と成長を実現するという「鏡の国」が生まれたのです。そして、急増する製造業製品輸出の半ば以上を外資系企業の輸出に依存する中国をはじめ東アジアは、輸出主導型成長を継続したのです。アメリカの過剰消費をエンジンとする世界経済拡大が80 年代、90 年代とともに拡大して再現されたと言ってよいでしょう。
3. 02−07 循環の終焉
住宅価格の大幅な永続的上昇はありえません。家計の債務の膨張と金融機関(銀行、投資銀行、ヘッジファンドなど)の借り入れに基づく架空の金融資産の永続的膨張もありえません。貯蓄・投資不均衡もまた永続しません。住宅バブルに基礎を置く盛況は持続不可能なものでした。
これまでの恐慌と同様に、金融・資本市場の危機の前に既に実体面で持続不可能であることは、崩壊に先立って「警告」されていました。住宅価格上昇率は05 年から06 年にかけて著しく低下し、06 年には住宅着工数が減少、02 年の9%からいったん低下していたサブプライムローンの不払い率は05 年の後半から上昇し、06 年終わりには10%に、07 年には20%と単調増加したのです。
転換点となったのは、9。11時にバーレルあたり25ドル程度に落ち込んでいた原油価格が、イラク戦争やアジアでの需要拡大を背景に04 年に40 ドルを超え、さらに急速に上昇したことにあります。インフレに敏感な連銀は小刻みな利上げに踏み切りました。1%のFF レートは06 年5 月10 日には5%まで上昇し、不動産抵当貸付金利は上昇しました。このことから、資源価格なり希少財価格の上昇が今次金融危機の基盤となったと解釈するのは一面的です。何よりも、資産価格をターゲットとせずにバブルを放置した連銀の政策自体が問われなければなりませんし、金融的投資は住宅市場の停滞・崩壊後には金融機関自体が危機となる前までは住宅市場から原油市場や穀物市場での投機に向かったからです。
2007 年の夏からはじまったCDO をはじめとする証券化商品の価格下落、それが引き起こした金融危機は、サブプライムローンの急速な焦げ付きと破産を基盤としていました。リスク分散を可能とした証券化がリスクを拡大していたことが明らかとなったのです。
ざっと計算してみますと、2007 年のアメリカの住宅ローン残高は10。5 兆ドル、うち証券化分は6。4 兆ドルで、その内サブプライム証券分2。1 兆ドル、政府系エージェンシー証券分4。3 兆ドルとなります。サブプライムローンの支払い不能分(delinquency rate)が20%であれば最大4、000 億ドル程度と推察できます。ただし、この額が直ちに07 年時点での損失になるわけではありません。07 年に損失として現れるのは以前のサブプライム破産分なのです。ここから連銀と財務省は07 年の11 月段階では損失を1、000 億ドル程度に見積もり、FF レートの引き下げ、緊急融資、投資銀行と市中銀行の間の調整などで危機の回避は可能と判断したように思われます。我が国でもある証券会社系の研究員がサブプライム破産分はそう大きくないと言っていました−もっとも、そう言った研究員の属する証券会社の損失が大きかったということが数日後に判明したのですが。
だが、危機は継起的に生じ、08 年秋の「崩壊」に結果しました。かつてP。 Samuelsonは、NBER のコンファレンスで、大恐慌のような崩壊がそれまでなかったところからMinsky を「狼少年」にもなぞらえたのでしたが4、Minsky-Kindleberger モデルの通りに現実は進行したのです。しかも、IT-ストック・バブルの後の不況からの脱出を住宅バブルによって実現し、アメリカが既に胚胎していた不均衡を調整することがなかっただけに、危機の規模は拡大せざるをえなかったのです。
4. 循環と区別される構造問題−80 年代以後の成長構造の崩壊
金融規制緩和と自由化を背景にした証券資本主義の拡張、アメリカの貯蓄・投資不均衡と過剰消費、それをファイナンスしその市場に依存するアジア諸国−これらは、今回の循環にはじめて登場したものではありません。それは、ケインズ的な需要面を重視した裁量政策と戦後のIMF 体制が機能不全となりスタグフレーションが生じたことに基づく構造変化が、金融自由化、変動相場制と国際資本移動の自由化、そしてインフレ抑制を基本とするマネタリスト的金融政策と供給重視の経済政策を基幹とする82 年以後の新たな政策体系を生み出して以来、Reaganomics による「成長」においても、90 年代後半のIT バブルを伴う盛況にも生じたものです。
また、前にも述べたように、資産価格の上昇が消費を生み出し、貨幣数量と物価を注視するマネタリスト的な枠組みの金融政策がバブルを看過したことも、80 年代後半の日本のバブル、アジア通貨危機に終わる東アジアの成長、90 年代後半のIT バブルなどで繰り返されてきました。
今次の循環の終焉は、80 年代以来の成長=資本蓄積のパターンが極度にまで拡大再生産された結果として生じ、したがって新たな構造変化が、82 年以来の構造の終焉あるいは新たな歴史的時間の中での構造変化の始まり促迫しているのではないしょうか。ケインズ主義と高成長の四半世紀の後、70 年代の過渡期を経て、82 年から現在に至る第2 の四半世紀の構造が生み出されたのですが、それが終わりを告げたのではないでしょうか。
2009 年1 月に公表されたブッシュ政権最後の「大統領経済報告」は、1危機の原因は東アジアをはじめとする過剰貯蓄(saving glut)が低金利とリスクの過小評価をもたらし、住宅ブームを促進したことにある、とした上で、2住宅金融のイノヴェーションは一面では有益であったが、住宅購入を過度に容易にし、住宅抵当関連証券は短期の借り入れへの依存と金融機関の広範な保有を通じて危機をもたらした、と述べ、32009 年は停滞するが10-11 年は拡大すると判断しています。報告が循環の基本性格を見誤っているばかりではなく構造問題を看過しており、経済学的には鑑賞に堪える文献とは到底言えないことは夙に明らかでありましょう。
必要とされているのは、1効率的市場仮設や一般均衡に束縛されない現代に適切な需要管理であり、2資産価格の変動に対応する金融制度・政策の革新であり、アメリカの貯蓄・投資不均衡=経常収支の調整であり、3国際資本移動の適切な管理と証券資本主義=金融寡頭支配の抑制による現代の「高利貸し」の追放であり5、4アメリカ以外の諸国における内的成長経路の構築なのです。
これらの課題は、いずれも80 年代初頭からの政治経済構造の変化を要請しています。とっても、それはただ効率的市場仮説なり新古典派的処方箋が有効でないから「ケインズ主義」に−それはケインズの思想や理論とは異なるでしょうし、また「ケインズ主義」にも様々な思想や理論があるのですが−、かつての処方箋に戻ればよいということにもなりません。新たな構造変化は、より深部の、またより広い領域での構造変化を要する課題解決をも含まざるをえないのです。
その第1 は、グローバル化が不可逆であるとすれば、それにふさわしい国際的不均衡を調整する上での「国際協調international collaboration、 co-operation」の再構築が必要となります。ブレトン・ウッズ体制は、歴史的にみて国際公共財をはじめて意識的に供給するシステムでしたが、その崩壊後に構築されたサミット体制では、自由放任と協調が相克し、日・米・欧3 極の間の調整は容易ではなく、国際協調は「危機管理」的にしか実現しえませんでした。わけても1999 年のケルン・サミットにおいてグローバル・エコノミーの問題点が指摘されたにもかかわらず金融・資本市場への具体的な措置が実現するに至らなかったことは、現在の危機の背景をなしています。しかも、危機の展開過程をみても、国際協調を国際関係の主要な構成要素とするpost-modern state とは異なるmodern states、つまりBRICs をはじめ新興国を含まない協調には限界が存在することが明らかとなっています。国際公共財供給システムなりレジームの再編・再構築は喫緊の課題となっています。なお、無論のこと、戦前・戦中の為替管理を前提としたBretton Woods の世界や1929年恐慌の際のような保護主義、差別主義、双務主義への回帰は問題になりません。グローバル・エコノミーの現実の基盤の上に適切な国際公共財供給がなされなければいけないのです。
第2 は、アメリカをはじめ先進国で進行する所得分配の不均衡の解消です。70 年代の「賃金爆発」の調整もあって、70 年代後半から所得分配の不平等化と労働分配率の低下が徐々に進行してきましたが、Piketty and Saez の研究によれば6、アメリカでは、90 年代にトップ10%の所得は40%台に、殊にトップ1%の所得は70 年代の8%前後から15%まで増加しました。かつてP。 ドラッカーは企業トップの給与は平均労働者の賃金の20 から25倍を超えるべきではないと言ったのですが、現在のそれは300 倍をはるかに超えています。わけても、この間に伸びた金融業と情報産業での高額報酬は驚くほどです。
また、90 年代に入り、Autor、 Katz & Kearney やAcemoglu らの研究で明らかなように7、高等教育を受けた「熟練」労働者とそれ以外の「不熟練」労働者の賃金の格差が急速に広がり、同時に雇用数の増加率にも格差が生じました。生産性上昇分が賃金上昇に結びつかない場合にマクロ経済不均衡が生じることはPasinetti が明らかにした貢献ですが8、90 年代に顕著となった所得格差と労働市場の分極化はマクロ経済均衡の実現を深部から動揺させてきているのです9。言い換えれば、一般的に単一の労働市場が存在すると想定し、そこでの労働契約の改善を展望する従来の政治経済学には限界が存在するのです。マクロ経済学の最も基本的なこの課題をいかに解決するべきか、それが問われています。
なお、こうした所得分配の問題は、金融的蓄積が大きな役割を果たしたこととも関係しています。金融界の「貪欲さgreed」が最近アメリカでは批判されているのですが、証券会社の30 代のトレーダーが$180、000 のサラリーをもらい、ボーナスとして$5mil。もらっていたのは特別なことではありませんでした。この異常さは、しかし「貪欲」に起因するというよりも、金融的な膨張、蓄積がアメリカの成長を支えた構造の中から生まれたものです。国民全体の教育水準が上昇し、スキルの格差を少なくし、しかも高い創造力が金融のみでなく種々の部面に配分される必要があるのです。
第3 は、適切な需要管理を実現するにしても、今日の政府は、The General Theory の刊行時とは異なり、政府の相対規模と財政赤字が膨張し、現存の移転支出や伝統的公共財(安全保障、教育、公共事業)供給を一時的にせよ拡張すること自体にも、またその効果にも限界が存在すます。レーガン大統領やサッチャー首相が「小さな政府」をスローガンにしながら、GDP に占める政府の比重は縮小しませんでした。OECD 諸国の財政赤字の対GDP比率は、70 年代の初期から後期にかけて0。4%から2。5%に拡大し、それがネオ・リベラルの台頭をもたらしたのですが、80 年代には赤字はさらに3。5%へと拡大し、歳入の規模は30%台前半から後半へと拡大しました。90 年代にもそれらが増加したことは言うまでもありません。政府の総支出は、例外的に比率の低いアメリカや日本でも35%を越え、EU15では50%を越えています。租税体系の再編と財政支出の優先順位の変革を伴う歳出構造の改革、言い換えれば租税国家の「脱構築」が求められています。
第4 に、サステナビリティ問題があります。82 年からのネオ・リベラル成長は、IT 革命にみるイノヴェーションととともに原油価格の低廉化によって支えられました。この中でBRICs をはじめとする新興工業諸国の台頭と先進国での過剰消費は、この間に進んだ産業構造の転換や省エネルギー技術、代替エネルギー開発にもかかわらず、あらためてサテナビリティという生産力=供給面での制約を人類に課してきています。原油価格や穀物価格の高騰は、金融的な投機を別にしても、現代の世界経済の不安定性を示しています。しかも、この課題は、一面では技術革新による解決とともに、G。 Hardin の指摘した「共有地の悲劇」が物語るように、市場の外での、わけても国際的部面での協調を必要としているのです。
5. 回復への道
バブルの崩壊から生じた循環的崩壊からの回復は、マクロ経済政策−金融政策と財政政策の適切な実践を通じて支えるしかありません。しかも景況が急速に悪化するのに対応して可及的に迅速な措置が必要であることは言うまでもありません。おそらくそれは財政的負担を急増させるであろうが、それも必要です。無論、同時に、反循環的政策は新たな構造変化を適切に導く方向と調和的でなければなりません。
そうした短期と長期の、循環と構造の関係調整は、70 年代末から80 年代にかけての構造変化の際よりも困難となっています。タイトな金融政策と供給重視の政策でスタグフレーションに対処した際には、「旧い処方箋」を適用することで一部の課題は達成しえました。勿論、それで十分ではなかったがために、Reaganomics は「減税」による「需要管理」を実践しました。それでも需要サイドを放置して供給サイドに焦点をあて、インフレーションの抑制を優先することは可能でありました。だが、今直面している構造変化は、より創造的な理性と政治的力能を不可欠とするのです。
第1 に、何よりも、反循環的政策は新たな構造変化の諸課題と緊張関係を有しています。たとえば、アメリカの過剰消費と中国の過剰貯蓄、つまり「鏡の国」からの脱出は、「鏡の国」の住民に圧力をかける。ドルの為替相場の暴落と世界経済の解体は誰しもが感じている危険です。
第2 に、国際協調の再構築、金融政策の革新、租税国家の脱構築、複数労働市場での適切な所得分配と繁栄の実現、サステナビリティの確保等々−これらは、経済学の、同時に政治学の革新を迫っています。Schumpeter は『経済発展の理論』で、歴史的「個体」が抱える問題、私の場では歴史的構造の抱える問題は、反復的循環や振り子の往復では理解不可能でるが、先行する状態から理解可能であり、私たちの前は「解決不能」ではなく「未解決」の問題があるのだと言ったのですが、まさにそうした「未解決」の問題があります。また新たなpolitical economy の課題があります。従来の知性と経験に拘束されずに、新しい歴史的構造変化を導く公共政策の必要性が存在するのです。

1 Charles P. Kindleberger, Manias, Panics, and Crashes: A History of Financial Crises, John Wiley & Sons, 1st in 1978, 4th in 2000.
2 佐々木隆生「グローバル・エコノミーと世界不況−不況と構造変化に関する覚書」、日本国際経済学会第61回全国大会共通論題『グローバリゼーションの成果と課題』、東北大学、2002 年10 月5 日。
3 Shiller, Robert J., The Subprime Solution, Princeton University, Press2008.
4 Feldstein, M.(ed), The Risk of Economic Crisis, NBER with The University of Chicago Press, 1991.
5 ブレトン・ウッズ会議でアメリカの財務長官であったモーゲンソーは、協定を国際金融の神殿から高利貸を追放することを目的とすると述べた。
6 Piketty、T. and E. Saez、Income Inequality in the United States、1913-1998、NBER Working Paper 8467、2001.
7 Autor, D. H., Katz, L. F. and M. S. Kearney, The Polarization of the U.S. Labor Market, NBER Working Paper 11986, 2006. Acemoglu, D., Technical Change, Inequality, and the Labor Market, Journal of Economic Literature, Vol. XL, 2002.
8 Pasinetti, L. L., Growth and Income Distribution: Essays in Economic Theory, Cambridge University Press, 1974, and Structural Change and Economic Growth: A theoretical essay on the dynamics of the wealth of nations, Cambridge University Press, 1981.
9 この問題については本誌本号に書いた拙稿「複数労働経済とマクロ経済均衡」を参考のこと。 
 
大恐慌の原因はフランスにもある

 

「大恐慌(Great Depression)に関する専門的な研究の多くは大恐慌の深刻さを金本位制と結び付けて論じる傾向にある。これまで経済史家は大恐慌の引き金となった原因としてアメリカによる金融引き締めに着目してきたが、大恐慌の過程でフランスが果たした役割に対しては十分な注目が払われていない。世界全体に存在する金準備のうちフランスが保有する割合は1926年の時点では7%だったが、1932年の時点では27%にまで上昇を見せることになったのである。1930〜31年の間に世界全体で物価は30%下落することになったが、そのうちおよそ半分はフランスとアメリカによる大量の金の保蔵(溜め込み)によって説明できる可能性があるのだ。」
1930年代に発生した大恐慌(Great Depression)に関する経済学の専門的な研究の多くは、当時の景気後退の長さとその深刻さを金本位制と結び付けて論じる傾向にある。金本位制を採用していた国では為替レートが固定されることになり、そのため危機に対処するために金融政策を自由に運営することができなかったというわけである(詳しくはTemin(1989)やEichengreen(1992)、Bernanke(1995)などを参照のこと)。
しかしながら、1929年から1933年までの期間に金本位制がどうしてあれほどまでのデフレーションを世界規模で引き起こすことになったのかその理由についてははっきりしない面もある。というのも、1920年代から1930年代を通じて世界全体での金準備の量は着実に増え続けていたのである。どうして金本位制は自壊したのか? どうして金本位制はあれほどまでの大激震を世界経済にもたらすことになったのだろうか?
大恐慌に関する標準的な説明
1930年代の大惨事を説明しようと試みる中でこれまで経済史家は中央銀行が採用した政策に着目してきた。大恐慌の起源を巡る標準的な説明によると、1928年初頭にアメリカで実施された金融引き締めこそが大恐慌の引き金となった原因だと語られる傾向にある(Friedman and Schwartz 1963、 Hamilton 1987)。1928年初頭にFRBが金利を引き上げたことで他の国々からアメリカへと金が流入することになったが、FRBはそれにあわせて売りオペを行い金の流入を不胎化した。そのためアメリカでは金の流入にもかかわらずマネタリーベースは増えることはなく、その一方で金の流出に見舞われた国々は金融引き締めを余儀なくされることになった。こうして世界経済はデフレショックに見舞われることになり、その影響で通貨危機や銀行パニックが引き起こされ、さらにそれが原因となって物価の下方スパイラルに一層の拍車がかかる格好となった・・・というわけである。
新たな仮説
しかしながら、そのような(大恐慌に関する)標準的な説明においてはしばしば次の事実が見過ごされている。フランスもアメリカと非常に似通った行動に乗り出していたという事実がそれである。実のところ、フランスはアメリカを上回るスピードで金準備を溜め込むとともにそれ(自国に流入してきた金)を不胎化していたのである(詳しくはJohnson(1997)およびMouré(2002)を参照のこと)。1926年にフランが切り下げられたことも一因となって大量の金がフランスに流入し始めることになるが、その結果フランス銀行が保有する金準備の量は急速な勢いで増大し始めることになった。 以下の図1に示されているように、世界全体の金準備のうちフランスが保有する割合は1926年の時点では7%に過ぎなかったが、1932年には27%にまで上昇することになったのである。
   図 1。 世界全体の金準備に占める各国のシェア
このようにしてフランスやアメリカに金準備が集中した結果、それ以外の国々は大きなデフレ圧力に晒されることになった。1929年から1931年までの間に(アメリカとフランスを除く)それ以外の国々は世界全体の金準備のうち8%相当を手放す格好となったわけだが、1928年12月の時点で(アメリカとフランスを除く)それ以外の国々が保有する(世界全体の金準備に占める)金準備の割合は15%だったことを考えると、そのほとんどを手放すことになったわけである。しかしながら、アメリカとフランスが金の流入を不胎化することがなければこのような(フランスとアメリカへの)金準備の集中も世界経済にとって問題とはならなかったことだろう。アメリカとフランスが金の流入を不胎化しなければ、金の流出に見舞われた国々が金融引き締めを余儀なくされるのと引き換えに、アメリカとフランスでは金の流入に伴って金融緩和が進められることになる。すべての国が古典的な金本位制の「ゲームのルール」に従って行動する場合は当然そうなるはずであったが、戦間期の金本位制においてはすべての国が同意する「ゲームのルール」は確立しておらず、フランスもアメリカもともに金の流入が金融緩和につながらないように金の流入を不胎化していたのである。
フランスによる(金の流入の)不胎化の実態は以下の図2の正貨準備率の推移に表れている。正貨準備率というのは中央銀行債務(銀行券発行残高+当座預金残高)に対する金準備の割合を指しているが、ここでもフランスが辿った進路は他の国と比べて際立っている。フランス銀行の正貨準備率は1928年12月の時点では40%だったが(法律では正貨準備率は最低で35%を満たすよう定められていた)、1932年12月の段階では80%近くにまで上昇しているのだ。1928年から1932年までの間にフランスの金準備は160%も増加したものの、その一方でマネーサプライ(M2)はまったくと言っていいほど変化しなかった。当時の人々の中にはフランスを指して「金の溜池(金の吸引機)」(“gold sink”)と呼ぶ声もあったというが、それももっともなことだと言えるだろう。
   図 2。 主要中央銀行の正貨準備率(1928年〜1932年)
アメリカとフランス(による金融政策)が世界経済に及ぼしたデフレ圧力はどの程度か?
1928年を基準年として選んだ場合、(不胎化されたことで)未利用のままに置かれている1金の量を次のようにして求めることができるだろう。その年(例。1931年)に実際に中央銀行が保有していた金準備の量からその年(例。1931年)の中央銀行債務(マネタリーベース)に1928年時点の正貨準備率を掛け合わせたもの2を差し引くのである。そのようにして計算された「未利用の金の量」をグラフにしたのが以下の図3であり、世界全体の金ストック(残高)に対する割合として表わされている。
1930年の時点ではアメリカとフランスは両国合わせて世界全体の金ストックのおよそ60%を保有していたわけだが、その同じ年に両国を合わせると世界全体の金ストックの11%を未利用のままに置いていたことになる。1929年と1930年に関してはアメリカとフランスは(金の流入を不胎化し、金を未利用のままに置いておくことで)世界経済に対して同等のデフレ圧力を及ぼしたと考えられるが、1931年と1932年に関してはフランスの方がアメリカよりもずっと大きなデフレ圧力を世界経済に及ぼすことになったと考えられる。そして1928年から1932年までの期間全体で判断すると、フランスはアメリカを上回るデフレ圧力を世界経済に及ぼすことになったということになる。仮に1928年と同じ正貨準備率を維持するつもりであれば、フランスは世界全体の金ストックの13。7%に相当する金を元手に更なる金融緩和に乗り出し得たのであり、アメリカは世界全体の金ストックの11。7%に相当する金を元手に更なる金融緩和に乗り出すことが可能だったのだ。
   図 3。 未利用の金の量(1929年〜1932年)
物価に及ぼした影響
1752年にデイヴィッド・ヒュームは「貨幣について」(“Of Money”)と題されたエッセイの中で次のように語っている。「硬貨(貨幣)がたんすの中にしまい込まれると、その結果として価格には硬貨がこの世から消滅した場合と同様の効果が生じることになる」。さて、アメリカとフランスが金を未利用のままに置いていたことで世界全体の物価水準にはどのような影響が生じただろうか? 私自身がつい最近行った研究結果によると(Irwin 2010)、世界全体の金ストックが1%だけ増えると世界全体の物価水準は1。5%だけ上昇するとの関係が成り立つことが確認されている。アメリカとフランスを合わせると(1930年の時点では)世界全体の金準備のうち11%が未利用のままに置かれていた3格好となるわけであり、それゆえ先の関係に当てはめると世界全体の物価水準をおよそ16%下落させる効果を持ったということになる4。1930〜31年の間に世界全体で物価は30%下落したわけだが、この単純な計算結果に従うとそのうち(30%のうち)のおよそ半分はFRBとフランス銀行による金融政策によって引き起こされたと結論付けられることになろう(Sumner(1991)は異なる計算手法を通じて同様の結論に達している)。
いったんデフレスパイラルに向けて事態が動き出すと、他の要因が関与してきて物価の下方スパイラルに一層の拍車がかかることになるというのは確かである。例えば、アーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)が指摘したデット・デフレ(債務デフレ)のメカニズムを通じて破産が増え、その結果として銀行の倒産が発生すると(銀行取付などを通じて預金の引き出しが増える結果)現金預金比率が上昇することで貨幣乗数が低下する可能性がある。しかしながら、そういった出来事は当初のデフレショックから独立して発生したものとは見なし得ず、それゆえ物価下落のうち「説明されずに残っている」部分5についてもその一部はFRBとフランス銀行が間接的に責任を負っていると言えるだろう。
まとめることにしよう。これまで経済史家は大恐慌の引き金となった原因として1928年初頭にアメリカで実施された金融引き締めに着目してきた。しかしながら、世界全体をデフレスパイラルに陥れた元凶ということで言うとフランスが果たした役割にもこれまで以上にずっと大きな注目が払われてしかるべきなのだ。 
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
■日本の恐慌

 

昭和恐慌の実態、その発生過程
昭和恐慌とは
昭和恐慌は、1929年秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、1930年(昭和5年)から翌1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。
なぜ昭和恐慌が発生したのか
昭和恐慌の発生の原因を探ると、「金本位制」というキーワードに行き着きます。金本位制とは、保有する金の量によって発行する通貨量が制限される制度のことを言います。現在ではもちろん、通貨の発行量は通貨当局が管理する管理通貨制度になっています。しかし、当時は金本位制でした。
第一次世界大戦の勃発により世界各国は世界各国は多額の軍事支出が必要となり、各国は金本位制の維持ができず、大戦期間中に金を海外に輸出することができなくなり、大戦期間中に金を輸出することを禁止し、金本位制は事実上停止されることになります。
しかし、この金本位制の停止は、大戦期間中の一時的な措置という位置づけで、やがては金の輸出を各国が解禁し、金本位制に復帰していきます。
一方、日本は中国での権益争いや関東大震災の復興のため多額の支出が必要になり、金輸出の解禁に出遅れてしまうのです。1928年時点で、先進国では日本のみが金解禁を行えていない状況でした。各国は日本に金解禁するようにプレッシャーをかけてきます。
1929年に浜口雄幸内閣が金解禁の断行を公約のもと発足します。時の蔵相井上準之助はこのとき、旧平価、すなわち日本が金輸出禁止する以前の交換レートで、金解禁することを目指してしまいます。この当時の為替レートは100円=46.5ドル前後で井上蔵相は、100円=49.85ドルという金禁輸前の旧平価での解禁をおこなったため、実質的には円の切り上げでした。
井上は、旧平価での復帰のため、井上蔵相は予算5%削減、公務員給与10%削減、金融の引き締めなどのデフレ政策を行います。デフレになると円の価値が高まり、円高になるからです。
しかし、このような緊縮財政の結果、日本経済は金解禁を行った1930年には国内卸売物価が7%も下落する強烈なデフレに陥りました。アメリカでの株価大暴落を発端とする世界大恐慌が同時発生し、円高政策が裏目に出たのです。輸出産業は円高により大不振に、金は大量に海外に流出しました。また、都市部では失業者があふれ、農村では餓死者が出たり、娘の身売りが横行してしまったのです。これが戦前最大の恐慌である昭和恐慌の実態です。 
 
昭和恐慌

 

金本位制をめぐる昭和恐慌の発生過程
金本位制の停止
金本位制とは、保有する金の量によって発行する通貨量が制限される制度のこと。第1次世界大戦の勃発によって世界各国は多額の軍事支出が必要となり、各国は金本位制の維持ができず、大戦期間中に金を海外に輸出することを禁止し、事実上金本位制は停止された
しかし、この金本位制の停止は、大戦期間中の一時的な措置とされ、やがては金の輸出を解禁し、金本位制に復帰するというのが世界の潮流だった。
金本位制に復帰できない日本
日本は中国での権益争いや関東大震災の復興のため多額の支出が必要となり、金融出の解禁に出遅れてしまった
1928年時点で、金解禁を行っていなかったのは先進国中で日本のみだった。
旧平価での解禁を目指す井上準之助
1929年に成立した濱口雄幸内閣の公約は金解禁の断行だった。時の大蔵大臣井上準之助は、旧平価、つまり日本が金輸出禁止を行う以前の交換レートでの金解禁を目指した
当時の経済状態では、旧平価で復帰するためには、為替レートを円高方向にしないといけなかった。
井上蔵相のデフレ政策
旧平価での復帰のため、井上蔵相は予算5%削減、公務員給与10%削減、金融の引き締めなどのデフレ政策を行った
失敗した井上緊縮財政
緊縮財政の結果、日本経済は金解禁を行った1930年には国内卸売物価が7%も下落する強烈なデフレに陥った。輸出産業は円高により大不振に、金は大量に海外に流出した。また、都市部では失業者があふれ、農村では餓死者が出たり、娘の身売りが横行した
原因は、アメリカでの株価大暴落を発端とする世界大恐慌で、円高政策が裏目に出た。
その後、1931年12月に井上蔵相は失脚し、高橋是清の登場により日本の経済政策は大きく転換することになる。
高橋是清財政による日本経済の回復
高橋財政による経済回復
高橋是清は1931年に井上準之助にかわり、大蔵大臣に就任。是清はまず金の輸出を再び停止し、軍事費の拡大や公共事業の拡大、金利の引き下げなど、積極的な財政支出拡大を行う
井上時代の15億円弱から20億円弱まで国家予算は増えた。
高橋財政の財源
是清が用いた手段は、国債の日銀直接引き受け、すなわち日銀にお金を発行させ、それを財源として用いた
是清は、「財政の均衡とは単年度ではなく、一定の期間で見る必要がある」と主張し、井上時代の緊縮で縮んだ分を取り戻すだけなら問題ないと考えた。
高橋財政のインフレ対策
日銀が買い取った分の国債を時期を見て民間企業に売却することによって、通貨供給の無計画な膨張を防いだ
高橋財政の成果
是清によって積極財政に転じてからの日本のインフレ率は2%から6.5%であり、「ハイパーインフレ」とはほど遠かった。日本経済は世界の先進国の中で最も早く大恐慌かのダメージから回復した
高橋財政の最後「国債漸次路線」
1935年になると、経済回復がほぼ達成された以上、国債の増発はインフレの高進を招くことになると考え、是清は「国債漸次路線」を打ち出し、軍事費を削減しようとした。しかし、このことがきっかけで、2.26事件で軍の青年将校に襲撃され、82歳で命を落とした
井上準之助財政に見られる清算主義とは?
清算主義とは?
厳しい競争の結果、非効率的な企業や労働者を積極的に淘汰することによって、より効率的で優れた企業、労働者が生き残り、その結果経済が発展するという考え方
アメリカ大恐慌時の財務長官アンドリュー・メロン
メロンは「労働を清算しよう。株式を清算しよう。不動産を清算しよう」という方針のもと、徹底的な政府支出の削減を断行し、それによって不況を断行しようとした。しかし、失業率が約25%、GDPが半減した
徹底的な政府支出の削減は井上蔵相の政策と同じ、また失業率増加や経済不振も同様のこと。
清算主義における需要と供給のバランス
まず「企業や労働者を淘汰する」段階では、需要と供給は減少する。その後、生産性に優れた、企業や労働者が生き残る。しかし、生き残った生産性に優れた強者が投資を拡大するかは別問題。そのときの経済状況に依存する。たとえ強者であっても、周りに買う人や収益が見込めない状況では、消費や投資を増やすことは難しい。最悪のシナリオとしては、「弱者の淘汰による供給需要の減少」のみが発生し、経済が縮小しただけということがありえる
井上蔵相が「厳しい状況を耐え抜けば、日本経済は力強く成長する」という信念を持ってっていたように、日本人は「厳しい環境を耐え抜いて成功を収める」物語を好むが、世界恐慌という世界経済の状態で緊縮財政を行ったことが日本の恐慌を生んでしまった。 
 
昭和金融恐慌

 

日本で1927年(昭和2年)3月から発生した経済恐慌である。単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)と呼ばれることもある。金融恐慌は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本においては特に断らない場合はこの1927年(昭和2年)の経済恐慌を指すことが多い。昭和恐慌とは同義ではない(後述)。
日本経済は第一次世界大戦時の好況(大戦景気)から一転して1920年に戦後不況に陥って企業や銀行は不良債権を抱えた。また、1923年に発生した関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。
昭和金融恐慌は、後年起きた昭和農業恐慌(1929年の世界恐慌の影響を受けて主に農業に経済的打撃を受けた)と合わせて昭和恐慌と言われることもある。
背景
昭和金融恐慌の原因として、未熟な金融システムと、経済的危機に正しく対処し得なかった未熟な政策が挙げられる。
遠因
金融システムの整備が完全ではなかったことから発生した不良債権の処理が適切になされず、金融不安を起こすに至った。大正期からこれらシステムの不備は認識されていたが、充分な手当てがなされる前に恐慌が発生した。
銀行
明治維新期に設立された銀行の中には、俸禄改革における金融公債(秩禄公債・金禄公債)を資本金として設立されたものが多くあった。設立の意図が資金需要に応える経済的理由によらず公債の資金化を動機とした、いわばなりゆきであったために金融の事情に不案内な者が銀行経営に当たることも多かったと指摘されている。また、資本金が実際に払い込まれていないものも多かったという。
日露戦争後には経済が発達し、これに応じるために銀行の設立が推奨された。1890年(明治23年)に改正された銀行条例では、銀行業は一般の私企業とみなされ資本金額の制限が撤廃され、規制や制限もゆるいものであった。この時期、資産家が銀行を設立することや、資金に余裕のある私企業が銀行業を兼業することも行われた。また、特定の企業への融資額を制限する規制条項も撤廃され、融資先が偏る情況を許した。
特定企業と結びつきの強い銀行を指して俗に機関銀行という。資産家が豊富な資金を元手に設立したり、私企業の兼業で設立した銀行で、集めた預金を特定企業の業務遂行に充て、上がった利益で利息支払いを賄う。資金を特定の企業に集中して融資することから、その企業の業績が悪化した場合には直接銀行経営が悪影響をこうむる。また、貸出先企業の不透明な経理の影響を蒙って経営が悪化することもしばしばあった。
また、欧州の銀行が両替商に始まり産業の発展に伴う金融機能の要求に応えて銀行業が発達していったのに対し、日本では海外の金融システムをモデルとして先に銀行が設立されたところから、当初は金融の需要が少なく銀行自身が事業を興して需要を作り出す傾向にあった。これも特定の企業へ貸し出しが偏る要因となった。
東京渡辺銀行
第二十七国立銀行として設立され、二十七銀行を経て1920年に東京渡辺銀行と改称した。経営者一族の関連企業に多額の貸付を行い機関銀行としての性格が強かったが、これらの融資が戦後不況で焦げ付き関東大震災後に経営が悪化した。
台湾銀行
1895年の台湾統治後に日本政府の国策で設立され、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。台湾における産業の育成に資するところから始まったが、樟脳の取引を介して鈴木商店と関係を深めた。この頃情勢が悪化した中国大陸への融資を縮小し新たな融資先を開拓していたところでもあり、鈴木商店への融資を足がかりとして内地(日本本土)にも経営を広げた。同時に融資額が膨らみ、機関銀行としての性格も強めた。しかし、戦後不況で鈴木商店の経営が悪化すると多額の融資が焦げ付き、追い貸しを行うようになった。その後、金子直吉を鈴木商店の経営から排除し、融資を縮小するべく画策したが失敗に終わっている。なお、台湾銀行はしばしば経営危機に瀕し都度日銀の特融や大蔵省預金部からの融資を仰いでいた。1920年代に入ると借入金への依存度が増し、特融・預金部の融資に加え、コール市場の融通金にも大きく依拠するようになっていた。
産業構造
殖産興業策の下に産業振興が大いに勧められたが、大正期に至っても日本経済はその多くを生糸などの軽工業に負った。製鉄や造船などの重工業も勃興しつつあり、第一次世界大戦中には欧州先進国の産業が衰えたのを代替するまでに至ったが製品の質では未だに一歩譲り、欧州諸国が戦後に産業を回復するとアジアに獲得した市場を奪回された。これは戦後の大反動(1920年)の一因となる。
1874年に開業した鈴木商店は1899年に台湾の樟脳の販売権を獲得し、この際に後藤新平と関係を深め政界にも接近した。第一次世界大戦期には海外電報を駆使して戦争の長期化を予測し、これに備えて企業買収や投機を行い多大な利益を上げた。業務に必要な資金は銀行、特に台湾銀行からの短期的な融資を中心として賄った。株式による資金獲得では株主の意向を排除できないことを嫌った金子直吉の方針と言われるが、これが経営危機において即座に資金難に陥った一因であるといわれる。
また金子直吉の性分として、経営拡大には手腕を発揮したが不採算な事業を畳むことはできなかったといわれる。一方で、経営拡大は日本の産業発展を願う金子の意図に出たものとも言われる。
近因
第一次世界大戦
1914〜1918年に戦われた第一次世界大戦において日本の参戦は限定的であり、直接の被害を免れた。一方で当時世界の生産の中心であったヨーロッパが戦場となり生産や輸出が落ち込み、戦域外の各国が世界の需要を担うこととなった。同時に戦争に供する物資・兵器の需要が高まり、日本からは船舶の供給、海運業務を中心とする物資・サービスが提供された。この影響でいわゆる「船成金」が生まれるなど日本経済は好況を呈した。このとき、明治以来債務国であったものが債権国に転じ、正貨が大いに蓄積された。
戦争が終結し、戦争特需が終わると反動で不況になることが危惧された。日本においては日清戦争や日露戦争の後の反動不況の経験もあり十分警戒されたことから重篤な不況に陥らず、およそ戦後半年で反動不況から脱した。また、欧州では戦後の復興のための需要がおこり、これに向けて輸出が行われたし、やはり戦禍を直接受けなかった米国の景気は好調で、これも相まって景気は拡大し(戦後ブーム)起業・生産にむけての投資も盛んに行われたが、その内容はやがて投機へと変質し、大戦中の好況で資金を蓄えた銀行も積極的に貸し出しを行ってこれを支えた。この時には株価・地価も上昇した。
1920年に入ると経済に変調を来たし3月15日に東京の株式市場が暴落を見せ、4月には大阪の増田ビル・ブローカー銀行が破綻し、経済的混乱から株式市場・商品市場が暫時閉鎖に追い込まれる事態となった。欧州での生産が回復すると日本の輸出も落ち込み、また7月には米国の景気が後退期に入ったことが明らかとなり、好況を前提に事業を拡大していた企業は一転して不良債権を抱えた(1920年の大反動)。拡大路線をとっていた鈴木商店も多大な不良債権を抱えた企業の一つである。
振り返ればこの不況は重篤であったが、当時は景気循環の中のありふれたリセッションであると見誤り不良債権を解消する根本的な対策を怠ったのが政策上の失敗と考えられている。
関東大震災
1923年に発生した関東大震災で東京・神奈川で被害を受けた企業が振り出していた手形については決済不能となることが危惧され、直ちにモラトリアム令が出され、続けて日銀が手形の再割引を行い(震災手形)、決済困難な手形に流動性を付与することで経済活動の停滞を防ぐべく対応を取った(日銀特融)。しかし、持ち込まれた多くの手形の中から震災手形としてスタンプを押すものを選別する場面において、真に震災の被害を受けて当座の支払いに困窮したものは同時に生産手段や担保となる資産も喪失していることが多くリスクが大きいとして敬遠された。一方で被災の程度が軽く安全な物件が優先されたほか、折からの不況や投機の失敗で不良債権となった手形は一応の担保が確保されていることから安全な物件とみなされ、これらを再割引の対象として受け入れることがあったと指摘されている。この過程で直接震災に関係ない手形が多数紛れ込むモラルハザードが発生し、戦後不況に起因する不良債権が根本的な解消を見ることなく残りつづけた。
また、震災からの復旧に際して海外からの物資輸入が増大し為替で円の下落を招くと共に在庫が滞留し、これが国内の生産を圧迫して不況に輪をかけた。
なお、震災手形による救済策の実施には、鈴木商店の金子の働きかけがあったという俗説もあり、日銀特融を台湾銀行の未決済手形の穴埋めに流用する意図であったと言われる。また、政府もこれを承知で流用を黙認していたとも言われる。
震災手形として再割引した手形の支払期限は2年とされたが、その内容は前述のように比較的安全なものと、上辺は安全を装っているが実際には投機の失敗でもはや回収の見込みのない悪質なものとがあった。1924年3月の受付期限までに日銀が割り引いた手形は政府補償額である1億円を超える4億3千万円に達したものの、最初の数ヶ月は予想よりも早く決済が進んだ。しかし徐々に決済が滞るようになり、猶予期限が到来する頃には決済の進展がほとんど見られないまま投機で失敗した不良な物件を中心に2億円が未決で残り、金融の不安定要因となり「財界の癌」とも呼ばれたが、やむなく支払期限1年延長を2回繰り返し1927年9月まで猶予した。
金本位制と為替変動
19世紀半ばから金本位制による交易体制が確立しつつあり、日本も日清戦争の賠償等として得た金を準備金に充てて1897年に貨幣法を施行し、平価を金0.75mg=1円(100円=49.875ドル)と定めて本格的金本位制を確立した。以後20年は平価・為替が維持された。
第一次大戦中が始まると欧州各国は続々と金本位制を停止し、1917年に米国が金交換の一時停止を発表したのに追随して日本も事実上金交換を停止し、戦後に金本位制へ復帰(金解禁)する機会を窺った。しかし、戦後の大反動の経済混乱の中でその機会を見出せず、関東大震災の後の輸入超過を受けて、それまで概ね平価(100円=49.875ドル)を維持していたものが1924年暮れには40ドルを割り込むまでになった。政府は財界の整理(国際汽船・朝鮮銀行・台湾銀行の整理)を行い、経済状況を改善することで自然に為替が平価に戻るように企図したが、これを先読みした投機筋により1925年暮れには49ドル近辺まで急騰し、以後乱高下した。
戦後五大国の一つに数えられるようになったとはいえまだ日本の経済は小規模であり、兌換を停止し金の裏付けのない通貨「円」は半ば金融商品として投機の対象とされた。このように為替が不安定で、投機筋の思惑で乱高下することは経済にとって好ましいものではなく、交易業や金融業を中心として経済界から為替の安定のために金解禁を行うことが求められた。また、諸外国は戦後に続々と金本位制に復帰し、1922年4月から5月にかけて開かれたジェノア会議で戦後の貨幣経済についてなされた議論の中で日本に対しても金本位制への復帰が求められた。
一方で金解禁のためには1920年来の不良債権、そして震災手形を根本的に整理・解消することが前提となり、その処理が大きな課題としてつきつけられた。あるいは金解禁を強行すれば企業の経営体質も問われることとなり、不健全な企業は自然に淘汰され自ずと不良債権は解消するとの見方もあった(清算主義)。
なお、金本位制に復帰するにあたり、大戦後の経済状況に応じたレート(新平価)で復帰した国もあり、例えばフランスは通貨を1/5に切り下げ、ドイツ、イタリアも平価を変更した。日本でも関東大震災後の円下落の頃に一応の為替安定を見て経済状況に応じた新平価(100円=40ドル前後)で復帰すべきとの意見もあった。しかし、1919年にいち早く復帰した米国や、世界の金融の中心であった英国が1925年に復帰した際には、戦前の平価を維持しており、その中にあってようやく列強に名を連ねるに至った日本が円を切り下げるのは国力の低下をあらわにするものであり国家の威信を損ない「国辱」であるという見方から、旧平価(同49.875ドル)での復帰を望む意見が大勢を占めた。また、平価は法律で規定されているところで、特に外交・交易を重視し金解禁に積極的な憲政会が十分な党勢のないままに法改正に臨めば議事の混乱を招く可能性があり変更は容易ではないとみなされていた。結局旧平価での復帰を志向して為替政策上も政策金利の調整や正貨現送の調整で為替を誘導したり、加藤高明内閣の濱口雄幸蔵相が緊縮財政をとるなど経済政策を経て間接的に誘導する政策がとられた。しかし、緊縮財政が採られ、また円高が維持されたことから輸出が振るわず、物価が下落し日本国内の景気は悪化した。
政界
大正期中期には憲政会と立憲政友会の二大政党があり、のちに成立した革新倶楽部を加えて護憲三派と言われた。1922年に立憲政友会の高橋是清が計画した内閣改造の内容を巡って内部で分裂が生じ、政権獲得を優先する床次竹二郎らが1924年に成立した清浦内閣を支持して、立憲政友会を脱党して政友本党をうちたてた。このとき政友本党は最多数となって第一党となったが、超然内閣を支持したことから1924年の総選挙で敗北して議席を減らし、一方で立憲政友会は勢いを盛り返した。清浦内閣が倒れて護憲三派が加藤高明内閣を立てた後、憲政会と立憲政友会の対立、立憲政友会と革新倶楽部の合同によって護憲三派が解体されて1925年8月に憲政会単独内閣となると、政友会と政友本党の間で和解の動きが現れ、特に1926年夏の朴烈事件を機にその傾向に拍車がかかった。同年末には後藤新平の斡旋で立憲政友会と政友本党の提携が成立した(政本提携)が、1927年2月に一転、立憲政友会の政権獲得阻止を図って憲政会と政友本党の提携(憲本提携)が秘密裏に成り、立憲政友会は孤立した。
憲政会には三菱出身の者が参加し、一方で立憲政友会は三井と縁が深く三井財閥の出身者も参加していた。この点から、特に立憲政友会が震災関連二法を攻撃することについて三井と競合する鈴木商店を実質的に救済する法律阻止を狙ったとする見方がある。また、震災手形の実態が鈴木商店絡みであると把握した財界関係者が与党憲政会を攻撃する材料として立憲政友会に情報を流したという俗説がある。
憲政会と立憲政友会は共に護憲派であり、その他の政党のものと比較すればその政策・主張は相似していた。第二次護憲運動で普通選挙を実現し、また清浦内閣を打倒するまでは一致して協力したが、その目的が達せられると大きな論点を失い、しかし政権獲得のためには自党の主張を盛り立てて支持を集めねばならず、僅かな差異を大きく取り上げ却って対立したといわれる。
また、当時は政党政治における憲政の常道として「内閣が失政によって倒れた時は、次に野党第一党が内閣を担当する」政権交代が慣習として行われていた。ここから、野党に立った側は現在の与党の失政を突き政権から追い落として、次の政権を獲得することを動機の一つとして与党を攻撃することも行われた。
そうした中で、両党の間の政策の差異があらわとなった。憲政会は穏健ないし協調外交政策を取り、経済的にも海外との交易を重視した。その基本となる金本位制への復帰(金解禁)を目指し、それを実現するために緊縮財政を志向した。一方の立憲政友会は積極外交政策を取り、中国東北部の権益を護るために軍事予算の増強を中心とした積極財政を志向した。また、軍事費確保のために借款を行う必要から金解禁には反対の立場を取った。
さらに、1925年、田中義一が陸軍から政界に転じ政友会総裁に迎えられ、田中に近い鈴木喜三郎や久原房之助なども入党したが、彼らは親軍派・国粋主義者に近く、護憲派に対する反感を抱いていた。総裁の権限が強い政友会において田中とその周辺が党の実権を握るようになると、党内の要職は徐々に護憲派から親軍派に取って代わられるようになっていった。
軍縮
帝国海軍はかねてより主力艦の増強と更新を図るいわゆる八八艦隊計画を推進しており、大戦中に最初の段階である八四艦隊案の下で主力艦長門・陸奥・加賀・土佐・天城・赤城や空母翔鶴をはじめとする艦艇の建造を開始していた。戦後も続く好景気もあって1920年に「国防所要兵力第一次改訂」の予算が成立し、八八艦隊の実現に向けて追加の戦艦、巡洋戦艦を中心とする大規模な艦艇建造に着手した。鈴木商店も需要の細った民間船舶から建艦需要拡大が見込まれる軍相手の取引へ経営の軸足を移していたが、直後に大反動に見舞われた。やはり景気の後退した米国でも不況の中で拡大する軍事予算と他国、中でも日本の軍拡を問題視して米国大統領ウォレン・ハーディングが軍縮会議を提唱し、復興の負担にあえぐ欧州諸国等も参加して1921年よりワシントン会議が開催された。ここで軍艦の保有・新造を制限する軍縮条約が結ばれ、その取り決めに沿って帝国海軍の正面装備が削減されることとなり、特に造船分野では新造の需要が激減した。これに対し政府からは造船企業に対して一定の補償金が支払われたが、海軍が最も多額の取引を行っていた鈴木商店は取引額を減じてダメージを被った。また、鈴木商店傘下の神戸製鋼や関係の深い川崎造船も受注を減らして業績が悪化した。
直前の状況
1924年6月に護憲三派連立内閣として加藤高明内閣が成立したが、1925年8月に憲政会単独内閣となった(いわゆる第2次加藤内閣)。この内閣は金解禁を指向し、首相加藤高明の急逝をうけて翌1926年1月に成立した若槻内閣もその方針を引き継いだ。この時憲政会は少数与党であり、議会運営に困難が予想された事から現状打開の為に総選挙に打って出る事を求める意見が党内からあがり、若槻に大命を降下させるよう取り計らった西園寺もそれを期待した。だが若槻は選挙を渋り結局少数与党のままで議会運営に当たることとなった。
1926年の第51回帝国議会については政友本党の協力を得て乗り切ったが、夏から秋にかけて朴烈事件、続けて松島遊郭疑獄の騒動が起きた。朴烈事件では予審中の男女被疑者が抱き合う写真が公開され世論が騒然となり、司法大臣江木翼が暴漢によって汚物を投げつけられる事件もおきた。司法当局の能力ひいては政府の統治能力に疑義を生じせしめることで若槻内閣転覆を図った北一輝らの陰謀によるといわれる。一方、松島遊郭事件では、遊郭の移転を巡って不動産業者から政治家に運動費が渡されたという疑惑が持ち上がり、若槻禮次郎が現職の総理大臣でありながら予備審問を受け、また偽証罪で告発されるなど、前代未聞の事態となった。これらは第52回帝国議会冒頭で野党が政府を攻撃する口実となった。
1925年9月に大蔵大臣となった片岡直温は早期金解禁論者であり、かねてより問題となっていた銀行法改正、不良債権の解消、そしてその多くを抱えた台湾銀行の整理を行って金解禁の条件を整えるべく意欲的に取り組んだ。具体的には1927年夏頃の金解禁を企図していたとのちに証言している。不良債権を根本的に処理する震災手形関係二法を帝国議会に上程するに際してあらかじめ野党立憲政友会の田中義一総裁と秘密裏に交渉し、協力をとりつけるなど注意を払っていた。ただし、田中は立憲政友会生え抜きではなく、また陸軍から政界に転じてまもなく党内の有力者をまとめきれなかった。
大蔵省は、銀行法の改正の準備を行っていた。また、経営の危うい銀行を整理統合すべく経営者に聴取を行っていた。東京渡辺銀行もその一つで、併せて4行を合併させて新銀行に編成しなおすことが計画されていた。この過程で東京渡辺銀行の内情が悪い様も大蔵省は把握しており、3月14日に専務が登庁したことについて、予断を与えたとも言われる。
日本経済は1920年の大反動から続く慢性的な不況から抜け出せないでいた。巷間では1920年、1922年、1923年にも取り付け騒ぎが起きるなど金融不安が続いており、その中にあっても震災手形の絡んだ不良債権の存在が不安を煽っていた。
中国大陸では、1926年7月から蒋介石が率いる国民党による北伐が行われ、日本が権益を持っていた満州が脅かされつつあった。これに対し与党憲政会の若槻内閣は穏健政策を取り、目立った対応を取らなかった。これは枢密院の反感を買い、のちに若槻内閣が勅令発布を諮った際に拒絶する原因の一つとなる。
第52回帝国議会
1926年12月24日に召集され、翌25日に大正天皇が崩御し、皇太子裕仁親王が践祚して昭和に改元した。
議会は26日に開会し、明けて昭和2年(1927年)に年が改まったが、政界では朴烈事件ならびに松島遊郭事件を巡り混乱が続いていた。
一方、経済状況としては円高・物価下落の不況下にあり、また、1920年の大反動時に生じた不良債権が震災手形に姿を変えて、なおもくすぶり続けていた。同時に、震災手形が本来の機能を果たさず実は特定政商の救済・延命に用いられていると見る向きからは批判があり、それを許容してきた政府に対しても批判があった。ことに鈴木商店の放漫経営へ多く貸し付けたものが焦げ付いた台湾銀行が多くの震災手形を抱えているとの憶測がなされ非難の目が向けられ、他にも同様に震災手形を抱え込んだ銀行の経営状況が危ぶまれていた。
政府はこれらの震災手形の処理を急ぎ、早期の金解禁を実現する方針をとった。しかし、政府を批判する立憲政友会は朴烈事件ならびに松島遊郭事件の非を鳴らして若槻内閣弾劾上奏案を提出し対決姿勢を明らかにした。
若槻首相は立憲政友会総裁田中義一と政友本党総裁床次竹二郎を待合に招き、新帝践祚の折でもあり政争は避けるべきと説き、暗に閉会後の退陣を条件として今後の議会運営について協力を取り付けた(三党首会談)。
加えて、片岡が田中に直談判して協力を取り付けるなど条件を整えた上で、1月26日に、来る9月30日が期限となる震災手形を全額処理するために国債を発行し、10年かけて償還する震災手形関係二法を議会に上程した。当初は立憲政友会が合意に沿って内閣弾劾上奏案を撤回したうえで審議に応じたことから、法案は3月4日に衆議院で可決成立を見て貴族院に送付された。
だがその裏では、三党首会談で若槻が独断で政敵と妥協し、あまつさえ禅譲を約したことを快く思わない憲政会の有志が中心となって政権維持を図り、政友本党に接近して2月26日に提携がなった(憲本提携、または憲本連盟、憲本合同とも)。合同して事実上の新党となって次の組閣の大命を受けることを企図し、仮にそれがかなわないまでも政友本党が政権を取るように図り、立憲政友会へ政権が移ることを阻止するためであった。当然秘密を保つべきものであったが、憲政会幹部の不注意からこの提携の存在が露呈した。
三月の恐慌
3月始めに憲本提携が暴露され、その目的が政権維持にあるとわかると、立憲政友会は態度を硬化させた。田中は人を介して片岡に以後の協力が出来ない旨を伝え、既に内閣弾劾上奏案を取り下げており、改めて提出することができないことから、それ以後立憲政友会は震災手形関係二法を政争の具として攻撃にまわった。この時、具体的に震災手形の内情を把握し、その情報を流して攻撃材料を提供したのは財界であるといわれる。
憲政会は当初震災手形関係二法の目的をあくまでも金融の安全を図るためと説明したが、立憲政友会はかねてから震災手形に関わる日銀特融が実質的には特定の政商の救済策として用いられているという疑惑を指摘し、これを「政財の癒着」と攻撃して不良債権の具体的内容と金額を示すことを要求した。そして、本法案の目的の実際が鈴木商店への多額の貸し出しを焦げ付かせた台湾銀行の救済にあり、ひいては鈴木商店を援助することにある旨を明らかにするように迫った。
早期の法案成立を目指す与党憲政会は震災手形の内情について少しずつ明らかにし、のちには貴族院において秘密懇談会を開いて具体的な内容と法案の真意を野党側に伝えて法案成立への協力を求めたが、この内情が報道機関に伝わり国民の知るところとなった。かねてから震災手形の内容について台湾銀行が多くの震災手形を持つこと、そして台湾銀行と鈴木商店の癒着ぶりが巷間でも噂されていたが、これが真実と分かり、かつ具体的な不良手形の額として震災手形2億円強のうち台湾銀行が約1億円で、その7割を鈴木商店関連のものが占めていることが明らかとなり経済的危機が一層の真実味をもって受け取られ、円高による景気低迷と相まって不安は一層増した。
片岡蔵相の失言
3月14日、衆議院予算委員会にて審議の始まる直前、当日の決済のための資金繰りに困り果てた東京渡辺銀行の渡辺六郎専務らが午後1時半頃に大蔵次官の田昌(でん あきら)に陳情し、「何らかの救済の手当てがなされなければ本日にも休業を発表せざるを得ない」と説明した。田は対応を片岡蔵相に相談すべく議場に赴いたが審議中で直接会えず、事情を書面にしたためて片岡蔵相に言付けた。なお、渡辺専務は救済を求める意図で陳情したが、大蔵省の側では従前の調査で内情が悪い事を把握しており、休業の報告に来たものと理解していたという。実際に田は予算委員会審議室に向かうに際して原邦道事務次官を渡辺専務に紹介し「銀行休業の善後策」につき手続き等を相談する様に指示している。
一方で東京渡辺銀行は大蔵省からの助力を得る見込みが立たなかったので改めて金策に走り、第百銀行から資金を手当てすることに成功して当日の決済を無事に済ませた。その旨を大蔵省にも電話で伝え、原がその知らせを受けたが、田は既に議場に赴いており、すぐには伝わらなかった。
予算委員会では野党が震災手形処理方法も絡めて苦境に陥っている銀行の処理策を問いただし、震災手形を抱える不良銀行や、業績の悪い企業の名を明らかにするように求めた。
これに対し、個々の企業の状況を明かすことは信用不安につながると危惧した片岡蔵相は、次官から差し入れられた書面にあった東京渡辺銀行支払停止の情報(正午に支払いを停止した旨と、預金残高等の情報が書面に記載されていた)を交え、破綻した銀行については財産を整理して引受先を見つけて統合する手続きを大臣の責任において着実に行う旨の回答にとどめたが、その中で直近の破綻銀行を例示するにあたり、
・・・現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました、是も洵(まこと)に遺憾千万に存じますが・・・ と発言した。
ここであえて具体的に破綻銀行の事例について触れたのは、いたずらに原理原則論をもって審議を長引かせることは対応を遅らせ、このように銀行を破綻に追いやり状態を悪化させる結果になる、という牽制の意図から出たという指摘がある。
一方で、片岡に付き添っていた大蔵省文書課長の青木得三は議場から大蔵省に戻って東京渡辺銀行の金策がついたという報告を受け、同行に電話をかけて平常通り営業を続けていることを確認した。青木は片岡の発言が誤っていたことを知り、これが報道されるのを防ぐべく、報道差し止めの権限を持つ内務省警保局長の村松にかけあったが、村松は片岡がそのような発言をした以上はこれを差し止めることは出来ないとして要請を拒否した。こうして片岡の「東京渡辺銀行破綻」発言は翌日報道された。また、議会でのやり取りを直接伝え聞いた預金者が終業間際の東京渡辺銀行に殺到し、取り付け騒ぎが起こった。
翻って「破綻を宣告」された東京渡辺銀行の渡辺六郎専務は、蔵相官邸に赴いて片岡の発言が間違いないと確認すると笑みを浮かべたというが、異説には、その専務の人柄から言ってそれはありえないとも言われ、片岡もそれには疑問を抱いている。
いずれにせよ、東京渡辺銀行の首脳陣は同夜に姉妹行のあかぢ貯蓄銀行共々翌日から休業することを決定した。依然危機的経営状況を脱しておらず、早晩休業は避けられないところであり、蔵相の失言にかこつけて休業し、その責任を転嫁したのだと受け取られている。
直後より「いまだ経営している銀行について破綻を宣告し、混乱を招いた」ことについて新聞報道は片岡の発言を「失言」と取り上げ、野党も「休業するつもりの銀行が金策に走るのは不自然」などと指摘して「失言」で銀行を破綻に追い込んだと攻撃した。しかし、片岡はあくまでも「14日に渡辺銀行が休業の報告に来た」とする態度を貫き、のちにこれを裏付ける同行専務直筆の顛末書を示して事態の収拾を図った。なお、この直筆の顛末書についても、事後に片岡らの意に沿う内容で専務が書かされたのではないかという指摘もあるが、専務は何も語っていない。
影響
一定の規模を持った東京渡辺銀行が突如休業したことが新聞で伝えられると金融不安が広まり、関東を中心に取り付け騒ぎが起こった。当初は震災手形を多く所有していると目された銀行が取り付けに遭い、次第に関西にも飛び火して、中井銀行・左右田銀行・八十四銀行・中沢銀行・村井銀行が休業を余儀なくされた。これに対し日銀が21日より非常貸出を実施して沈静化に勤めた。一方で、野党側は片岡の責任を問い、国会は紛糾して乱闘騒ぎにまで発展するが、震災手形関係二法自体は「台湾銀行の整理」という付帯決議をつけて23日に貴族院で可決され事態は沈静化した。そして26日に帝国議会は閉会した。
四月の恐慌
3月の取り付け騒ぎは収まったものの、依然として台湾銀行(台銀)が多くの震災手形を抱え、その他にも経営が危うい銀行が多いことに変わりはなかった。
台銀はかねてから鈴木商店に多額の貸付を行っており、1920年の大反動で鈴木商店の経営が悪化した際に不良債権と化した。震災手形の形で当座の資金を獲得することに成功したがその決済は滞った。とはいえ、台銀は政府の責任で設立された特殊銀行であり、これが破綻することは日本政府の対外的な信用にもかかわる重大問題であった。実際にこれまでも台銀が苦境に陥る都度、政府が大蔵省の資金を融通するなどして救済することが繰り返されており、今回についても破綻させることはありえないというのが大方の見方であった。鈴木商店を取り仕切った金子もそう読んで台銀と鈴木商店との間に深い関係を築き上げたとも言われる。また、一時期は三井をも凌駕する取引高を記録した鈴木の規模からして、これを倒産させる事にでもなれば多数の取引先企業や鈴木に債権を持つ中小銀行を多数巻き込み日本経済に多大な悪影響を及ぼすから政府も整理断行に踏み切らず台銀共々救済するより他にないというのが金子の期待する所であった。
そして実際に震災手形関係二法が成立したことで、政府の責任で未決済の震災手形に国債をあてがって穴埋めをし、最終的にそのツケを納税者に回すことが決まった。これにより台銀も鈴木商店も一息つける状況となり、その面では金子の予想通りの展開となった。
しかし、震災手形関係二法に基づく補償が実施されるのを前に、国会審議のなかで台銀が未決済であった2億円余りの震災手形の約半分に上る1億円強の債務を抱え、また鈴木商店への貸し出しが多額であることが明らかになったうえ、震災手形関係二法に殊更「台湾銀行の整理」という付帯決議が加えられた事で、台銀の経営に対する不安が拡大し、コール資金が引き上げられ、資金繰りが悪化した。一方で鈴木商店からも資金が引き上げられ、これを補う資金の融通を台湾銀行に求めたことから、さらに同行の経営は圧迫された。
台銀は3月26日にやむなく鈴木商店との絶縁を決意し、27日に以後新規の融資をしない、と伝えた。台銀が絶縁に踏み切ったのは、政府から救済の意図が内内にしめされたからだとも言われる。ことに議会の討論の中に「鈴木商店を倒産させても台銀は維持する」とほのめかすものがあったことを根拠としたという。しかし、台銀と鈴木の絶縁の情報が4月1日に報道されると預金者に動揺が走り取り付け騒ぎが起き、4月5日に鈴木商店は新規取引の停止を発表し事実上休業した。
この時点で台銀は鈴木商店に3億5千万円の融資をしており、それが焦げ付くとなれば早晩台銀は破綻するとみた各行は一斉にコール市場から融資を引き上げ、また台銀に持っていた債権の回収にかかった。コール資金に大きく依拠していた台銀は即座に行き詰り、日本政府に救済を要請した。
政府は日本銀行に対して台銀への日銀特融を行うように促した。日銀はそれまでの銀行救済に際して都度特融に応じてきたが、台銀については規模が大きいこともあり補償の裏づけのある法律に拠らなければ融通はできないとした。既に帝国議会は閉会していたので政府は憲法70条の規定に基づき、法律に代えて緊急勅令渙発を諮ったが、枢密院はこれを憲法違反と断じ17日に否決した。枢密院顧問らが経済的危急の事態であるという認識がなかったとも言われるが、この動きには幣原喜重郎外務大臣の外交政策(幣原外交)に強い反感を抱く伊東巳代治・平沼騏一郎といった有力な枢密顧問官らが立憲政友会と通じて倒閣に動いた陰謀があった。この責任をとる形で若槻内閣は4月20日に総辞職し、組閣の大命が立憲政友会の田中義一に下った。
一方で日銀からの特融を得られなかった台銀は18日に内地及び海外の支店を閉めると発表した。特殊銀行であり政府が何らかの救済を行うと見られていたにもかかわらず結局休業してしまったことで全国各地に動揺が走り、取り付け騒ぎは拡大した。
18〜19日、大阪の有力行である近江銀行、泉陽銀行が相次いで休業したほか、蒲生銀行(滋賀)、葦名銀行(広島)も休業を発表した。20日には、西荏原銀行(岡山)、広島産業銀行が休業、そして21日には東京の大手行であった十五銀行までもが休業した。十五銀行は華族からの出資を仰ぎ、また宮内省の会計を担当する御用銀行として「庶民がここに口座を開かせていただき預金させていただけるだけでも光栄」と誉れ高く「ここが休業するくらいなら他の銀行もとうに休業している」といわれるほどに高い信用を得ていた。しかし、その内情は従前吸収合併した銀行が抱えていた松形系企業の債権が焦げ付き、不良債権と化したことから休業に至った。
一連の混乱の中で日銀は非常貸出を続けて現金の供給に努めたが、貸し出し規模が前代未聞の額にのぼり、ついに紙幣の在庫が底をつきかける事態に追い込まれた。既に発行を終了して回収済みの古い紙幣や、劣化して使用に耐えられないとして回収した紙幣までも放出したが、なお不足し、ついには各銀行からの現金払い出し要請に対して出金を渋るようになった。
この間、組閣の大命をうけた立憲政友会総裁の田中義一は高橋是清を大蔵大臣に任命して21日に組閣し、金融恐慌の解決を図った。
高橋は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施すべく憲法8条の規定により緊急勅令の渙発を諮問し、枢密院も今次は態度を変えて勅令渙発を容認した。また、モラトリアムの公示(勅令渙発)から施行までの手続きには2日間を要するとみて、手形交換所理事長を兼ねる三井銀行の池田成彬と銀行集会所会長を務める三菱銀行の串田万蔵を通じて全国の銀行に対し4月22日(金)と23日(土)の2日間の一斉休業を要請し、銀行側はこれに応じた。
同時に現金の供給に全力を尽くし、片面だけ印刷し裏が白い急造の200円札の様式を急遽制定して500万枚以上刷らせ、銀行休業日にとどまらず日曜日である24日にも銀行に届けた。銀行は潤沢に供給された現金を店頭に積み、支払いに滞りが生じないことをアピールした。25日から500円以上の支払いを猶予するモラトリアムを施行して銀行を開き、取り付けに来た人は店頭に積まれた現金を見て安心したという。加えて、3週間のモラトリアム期間が終了する5月12日までに追加の200円券を750万枚刷って銀行に届け、モラトリアム終了後も混乱なく金融恐慌を沈静化させた。
事後処理
休業した銀行は、そのまま他の銀行に救済合併されるものと整理後に営業を再開したものとがあったが、預金の額は削減された。
評価
一般的な恐慌に対して、個人(預金者)の金融に対する不安から取り付け騒ぎが起きたが産業そのものが壊滅には至らなかった点が特異であると言われる。
前述のように金融システムの不備と、危機への対処を誤った点でバブル景気との類似点を挙げることがある。
影響
この取り付け騒ぎに国民は小さな銀行に預金を預けていては危ないと考え、財閥系などの大銀行に対して預金を預けるようになった。そのため、大銀行(特に五大銀行とも呼ばれる三井・三菱・住友・安田・第一)に預金が集中するようになり、財閥の力はさらに強大化した。
経済的混乱をうけて金解禁は延期された。
政界では、憲本提携から6月に本格的に立憲民政党が発足した。 
 
昭和恐慌

 

1929年(昭和4年)秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、1930年(昭和5年)から翌1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。
第一次世界大戦による戦時バブル(=日本の大戦景気)の崩壊によって銀行が抱えた不良債権が金融システムを招き、一時は収束するものの、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。
背景
昭和恐慌の発端は、第一次世界大戦による戦時バブル(=日本の大戦景気)の崩壊にある。第一次世界大戦中は大戦景気に沸いた日本であったが、戦後ヨーロッパの製品がアジア市場に戻ってくると1920年(大正9年)には戦後恐慌が発生し、それが終息に向かおうとしていた矢先、1922年(大正11年)の銀行恐慌、1923年(大正12年)には関東大震災が次々と起こって再び恐慌に陥った(震災恐慌)。このとき被災地の企業の振り出した手形を日本銀行(日銀)が再割引して震災手形としたことはかえって事態の悪化をまねいている。
また、第一次世界大戦最中の1917年(大正6年)9月、日本はアメリカ合衆国に続いて金輸出禁止をおこない、事実上、金本位制から離脱していた。アメリカは、大戦直後の1919年(大正8年)には早くも金輸出を解禁(金解禁)し、金本位制に復帰した。しかし日本は、大戦後の1919年(大正8年)末には内地・外地あわせて正貨準備が20億4,500万円にのぼり、国際収支も黒字であったにもかかわらず、金解禁を行わなかった。
1920年代(大正9年-昭和4年)には世界の主要国はつぎつぎに金本位制へと復帰し、金為替本位制を大幅に導入した国際金本位制のネットワークが再建されており、世界経済は大衆消費社会をむかえ、「永遠の繁栄」を謳歌していたアメリカの好景気と好調な対外投資によって相対的な安定を享受していた。
日本政府は、このような世界的な潮流に応じて何度か金解禁を実施しようと機会を窺ったが、1920年代(大正9年-昭和4年)の日本経済は上述したように慢性的な不況が続いて危機的な状態にあり、また、立憲政友会が反対に回ったことから金解禁に踏み切ることができなかった。さらに1927年(昭和2年)には、片岡直温蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した金融恐慌(昭和金融恐慌)が起こり、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。1928年(昭和3年)6月にはフランスも新平価(5分の1切下げ)による金輸出解禁(金解禁)を行ったので、主要国では日本のみが残された。このころ、日本の復帰思惑もからんで円の為替相場は乱高下したため、金解禁による為替の安定は、輸出業者・輸入業者の区別なく、財界全体の要求となった。
このような状況下で成立した立憲民政党の濱口雄幸内閣は、「金解禁・財政緊縮・非募債と減債」と「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて登場、金本位制の復帰を決断し、日本製品の国際競争力を高めるために、物価引き下げ策を採用し、市場にデフレ圧力を加えることで産業合理化を促し、高コストと高賃金の問題を解決しようとした。これは多くの中小企業に痛みを強いる改革であった。浜口内閣の井上準之助蔵相は、徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、金輸出解禁を行うことによって外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理を図った。
1929年(昭和4年)12月7日付けの大阪毎日新聞は「下る・下る物価 よいお正月ができるとほくそえむサラリーマン」という見出しで、金本位制復帰によるデフレを歓迎した。
金本位制復帰後の当時の新聞記事の見出しでは「金融平穏無事」(大阪時事新報 昭和5年(1930年)1月12日)、「金解禁後の財界は至極良好」(大阪朝日新聞 昭和5年(1930年)1月22日)と礼賛されたが、一カ月後には「金解禁で産業界は高率操短時代」(中外商業新報 昭和5年(1930年)2月17-19日)、「一般物価に比し米価は甚だしく下落」(大阪朝日新聞 昭和5年(1930年)2月20日)といった新聞記事の見出しが出始めた。
昭和恐慌当時の代表的なメディアである新聞・総合雑誌では「不景気を徹底させよ」と勇ましいスローガンが飛び出していた。
昭和恐慌の発生
世界恐慌と金解禁
緊縮財政と金融引き締め策によって約3億円の正貨が準備され、為替も急速に回復したため、日本政府は1929年(昭和4年)11月22日、翌年の1月11日をもって金解禁に踏み切る大蔵省令を公布した。しかし、前年の10月にアメリカ合衆国ニューヨークのウォール街で起こった株価の大暴落に始まった恐慌が世界じゅうに波及した(世界恐慌)。日本経済は、これにより金解禁による不況とあわせ、二重の打撃を受けることとなった。
金解禁前の為替相場の実勢は100円=46.5ドル前後の円安であったが、井上蔵相は、100円=49.85ドルという金禁輸前の旧平価での解禁をおこなったため、実質的には円の切り上げとなった。円高をもたらして日本の輸出商品をあえて割高にし、ひいては日本経済をデフレーションと不況にみちびくおそれのある旧平価解禁を実施したのは、円の国際信用を落としたくない思いに加えて、生産性の低い不良企業を淘汰することによって日本経済の体質改善をはかる必要があるとの判断されたためであった。金融界にあっても、金融恐慌後の資金の集中によって体質強化がはかられていたので、デフレを乗りきる自信が備わっていた。為替の不安定に悩まされていた商社もまた金解禁に賛成し、海外からも金解禁を迫られてはいた。
しかし、ある意味で、1930年(昭和5年)1月は、金解禁の時期としては最も悪いタイミングであった。政府が金解禁を急いだのは、1929年(昭和4年)までのアメリカの繁栄をみたためであったが、ウォール街大暴落がやがて起こる世界大恐慌の前ぶれであることを予見した世界の指導者は誰ひとりいなかったのであり、井上蔵相もまた、再びアメリカ経済が活況を呈するだろうと考えたのである。ところが、よりによって日本の金解禁は世界恐慌の幕が切って落とされたその時に実行に移されたのだった。金解禁を見越して輸出代金回収を早め、輸入代金支払いを繰り延べる「リーズ・アンド・ラグズ」によって国際収支の好調と為替相場の上昇が一時みられたものの、解禁後は一転して逆調となった。
正貨流出と昭和恐慌の発生
低コストによって輸出を拡大させようとした井上蔵相のねらいとは裏腹に、対外輸出は激減した。そのいっぽうで日本国内で兌換された正貨は海外に大量に流出した。金解禁後わずか2か月で約1億5,000万円もの正貨が流出、1930年(昭和5年)を通して2億8,800万円におよんだ。正貨流出は1931年(昭和6年)になってもおさまらず、むしろ激しさを増した。
日本の輸出先は、生糸についてはアメリカ、綿製品や雑貨については中国をはじめとするアジア諸国であったが、これらの国々はとりわけ世界恐慌のダメージの強い地域であった。こういったことから、1930年(昭和5年)3月には商品市場が大暴落し、生糸、鉄鋼、農産物等の物価は急激に低下した。次いで株式市場の暴落が起こり、金融界を直撃した。さらに、物価と株価の下落によって中小企業の倒産や操業短縮が相次ぎ、失業者が街にあふれ、国民一般の購買力も減少していった。1930年(昭和5年)中につぶれた会社は823社におよび、減資した会社は311社、解散減資総額は5億8,200万円におよんでいる。労働運動も激化した。また、全体の3割にあたる約3万の小売商が夜逃げしている。当時、稀少であったはずの大学・専門学校卒業生のうち約3分の1が職がない状態であり、学士が職にありつけない明治以来の異変が生じて「大学は出たけれど」が流行語となった。1930年(昭和5年)の失業者は全国で250万人余と推定されており、このような未曽有の不況は「ルンペン時代」と称された。
1929年(昭和4年)を100としたときの1930年(昭和5年)・1931年(昭和6年)の経済諸指標は以下の通りである。
項目 / 1929年 / 1930年 / 1931年
国民所得 100 / 81 / 77
卸売物価 100 / 83 / 70
米価 100 / 63 / 63
綿糸価格 100 / 66 / 56
生糸価格 100 / 66 / 45
輸出額 100 / 68 / 53
輸入額 100 / 70 / 60
なお、1930年(昭和5年)時点での日本の1人あたり国民所得(GNI)は、アメリカの約9分の1、イギリスの約8分の1、フランスの約5分の1、ベルギーの約2分の1にすぎなかった。
農業恐慌
昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。生糸の対米輸出が激減したことに加え、デフレ政策と1930年(昭和5年)の豊作による米価下落、朝鮮、台湾からの米の流入によって米過剰が増大し、農村は壊滅的な打撃を受けた。
昭和農業恐慌 2
1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)の農業および農村における展開。単に農業恐慌(のうぎょうきょうこう)ともいう。
昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。世界恐慌によるアメリカ合衆国国民の窮乏化により生糸の対米輸出が激減したことによる生糸価格の暴落を導火線とし他の農産物も次々と価格が崩落、井上準之助大蔵大臣のデフレ政策と1930年(昭和5年)の豊作による米価下落により、農業恐慌は本格化した。この年は農村では日本史上初といわれる「豊作飢きん」が生じた。米価下落には朝鮮や台湾からの米流入の影響もあったといわれる。農村は壊滅的な打撃を受けた。当時、米と繭の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方の収入源を絶たれるありさまだったのである。
翌1931年(昭和6年)には一転して東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった。小学校教員の給料不払い問題も起こった。また、穀倉地帯とよばれる地域を中心に小作争議が激化した。
1933年(昭和8年)以降景気は回復局面に入るが、1933年初頭に昭和三陸津波が起こり、東北地方の太平洋沿岸部は甚大な被害をこうむった。また、1934年(昭和9年)は記録的な大凶作となって農村経済の苦境はその後もつづいた。 農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは1935年(昭和10年)であった。 
日本政府の対策
濱口内閣は、農業恐慌に対しては、農民への低利資金の融通や米、生糸の市価維持対策をとったが、緊縮財政の枠のなかではまったく不十分にしか行えなかった。いっぽう工業面では、1930年(昭和5年)6月に臨時産業合理局を設けている。
濱口内閣は、対外的には協調外交を進め、1930年(昭和5年)4月にロンドン海軍軍縮条約を調印した。しかし、同年11月、これを統帥権干犯であるとして反発する愛国社の佐郷屋留雄によって東京駅で狙撃された。濱口は一命を取りとめたが、1931年(昭和6年)4月、内閣不一致で総辞職した。政府は同じ4月に工業組合法、重要産業統制法を制定して、輸出中小企業を中心とした合理化やカルテルの結成を促進した。重要産業統制法は、指定産業での不況カルテルの結成を容認するものであったが、これが統制経済の先がけとなった。
濱口の後継としては同じ立憲民政党の若槻禮次郎を首班とする第2次若槻内閣が成立したが、31年(昭和7年)9月、関東軍によって満洲事変が勃発した。また、同じ9月にはイギリスが金本位制から離脱したことにより、大量の円売り・ドル買いを誘発した。ドル買いを進めた財閥に対しては、「国賊」「非国民」として攻撃する声が国民のあいだに高まった。
満洲事変に対しては、若槻首相は事変不拡大を声明したが、関東軍はそれを無視して戦線を拡大した。こうして若槻内閣は、恐慌に対し有効な対策を講じることができないまま、事変後の事態の収拾にゆきづまって総辞職した。1931年(昭和6年)12月、立憲政友会の犬養毅が内閣を組織した。
犬養内閣の高橋是清蔵相は、31年(昭和6年)12月、ただちに金輸出を再禁止し、日本は管理通貨制度へと移行した。高橋蔵相は民政党政権が行ってきたデフレ政策を180度転換し、積極財政を採り、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレーション政策を行った(これをきっかけとした軍拡政策は、景況改善後も、資源配分転換と国際協調を企図した軍縮の試みにもかかわらず継続される。これにより、満洲事変・支那事変を通じて軍部の発言力が増していくことになる)。
こうして、日本の金本位制復帰はわずか2年の短命に終わった。この2年間の深刻な恐慌は社会的危機を激化させ、濱口雄幸、井上準之助、三井財閥の大黒柱であった団琢磨らを襲ったテロリズムとなって暴発し、戦争と軍国主義への道を準備する結果となった。その一方で金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増にともない景気も急速に回復し、1933年(昭和8年)には他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準に回復した。
影響
高橋財政によって、日本は円安を利用して輸出を急増させたが、米英などからは「ソーシャル・ダンピング」であると批判を受けた。米英仏など多くの植民地を持つ国は、日本に対抗するため、自らの植民地圏で排他的なブロック経済を構築した(英:スターリング・ポンド・ブロック、米:ドル・ブロック、仏:フラン・ブロック)。ブロック経済化が進むと、一転して窮地に立たされた日本もこれらに対抗することを余儀なくされ、日満支円ブロック構築を目指してアジア進出を加速させることとなる。日本と同じ後発資本主義国であり、植民地に乏しいドイツ・イタリアも自国の勢力拡大を目指して膨張政策へと転じた。こうした「持てる国」と「持たざる国」との二極化は第二次世界大戦勃発の遠因となった。 
 
昭和恐慌の克服 / 高橋財政と景気回復

 

1 世界恐慌からの立ち直り
1929(昭和4)年10月24日のアメリカの株価暴落を契機に始まった世界恐慌は、1930年に日本にも波及する( 昭和恐慌)。諸物価は下落し、デフレ不況となった。〈グラフ1〉は、県内の工業生産額の指数である。世界恐慌が波及する1930年から生産額が下がっていることがわかる。
しかし、意外にも1933年には1929年の水準を回復し、昭和恐慌は比較的短期間で克服しているのである(これは全国的にも同様である)。このように世界恐慌の中、日本は他の先進国に先駆けて景気回復を果たすが、これはなぜなのであろうか。
昭和恐慌が始まった時の浜口雄幸内閣に代わり、犬養毅内閣(1931)となると、1927年の金融恐慌で手腕を発揮した首相経験者の高橋是清が大蔵大臣となった。高橋は犬養が五・一五事件(1932)で倒れた後の斉藤実内閣・岡田啓介内閣でも蔵相を勤め、二・二六事件(1936)で高橋自身が暗殺されるまで日本経済の舵取りを行った。高橋は、浜口内閣時代に実施して不況の原因となっていた金解禁を即座に停止し、金本位制度から管理通貨制度に転換させた。これにより、比較的自由に通貨を発行できるようになるなど、政府による財政政策の自由度が高まったのである。
2 公共事業による景気回復
〈史料1〉は、高橋是清が行った時局匡救事業とよばれる政策に関するものである。傍線部を読むと、この政策は主に公共事業を行い、景気を回復させようとしたことがわかる。この公共事業の資金は「追加予算」となっているが、この財源は管理通貨制度により発行できるようになった赤字公債(国債)であった。高橋は、それまで浜口内閣で行われてきた産業合理化によるデフレ政策を180度転換し、赤字公債(国債)を発行してカネの量を増やし、デフレに陥っていた日本をインフレに転換させたのである〈グラフ2〉。この政策は、ケインズの理論を先取りしたものであり(ケインズの主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』は1936年出版)、当時の先進的な政策であった。
再び〈グラフ1〉に目を戻そう。1936年頃まで総生産額と同様の推移を示しているのが、繊維製品の生産額である。また、〈史料2〉は、繊維工業試験場が着目し、官民の協力によって主に県西部地区で生産されるようになった、東南アジアなどで使われた「サロン」とよばれる綿織物の輸出増が、不況克服に貢献している様子が書かれている(なお、綿織物の輸出増は全国的な傾向であった)。
3 管理通貨制度と貿易
浜口雄幸内閣による金解禁は、旧平価(日本が金本位制度となった1897年の貨幣法で定められた固定為替相場)で行ったため、実際の価値よりも円高ドル安の為替相場となっていた。しかし高橋是清の金輸出再禁止(金本位制度を離れる)により、事実上管理通貨制度になったことから、無理に円高の水準を保つ必要がなくなった円ドル相場は実際の価値に近づくことになり、急激に円安ドル高が進んだのである。
円安は輸出に有利なため、サロンの輸出も円安が追い風となって急激に伸びたのであった。しかし、こうした円安ドル高への為替誘導による輸出増加は諸外国から警戒され、イギリスやオランダの植民地では輸入制限も行われるようになって、輸出は次第に頭打ちとなった。
ともあれ、このような高橋是清の財政政策(高橋財政とよばれる)により不況は克服されていくが、この政策を続ければ赤字公債が増えてしまう。そのため景気回復が鮮明になった1936 (昭和11) 年度から、高橋は積極財政から緊縮財政へと政策を転換しようとした。しかし、高橋財政のもとで増えていた軍事費を削減されそうになった陸軍が、二・二六事件(1936)で高橋を暗殺し、再び赤字公債の発行による軍事費や公共事業の拡大が進められ、1937年から始まる日中戦争に突入していくのである。この結果、〈グラフ1〉からもわかるように好景気は維持される。しかし、それはテロや戦争、小作人や労働者の低所得といった負の要因にも支えられた好景気だったのである。 
 
昭和恐慌をめぐる経済政策と政策思想 / 金解禁論争

 

要 約
現代日本のデフレ不況の進行とともに、過去のデフレ不況への関心が高まっている。本論文では、昭和恐慌からその脱出に至る日本経済について、当時の経済状況だけでなく同時代人の発言・思想を追跡することで、経済思想と経済政策の関連について考察する。
本論文は当時の最も重要な政策論争である金解禁論争、とくに昭和恐慌の直前である1927 年以降から恐慌からの脱出が可能になった1932 年の段階に焦点をあてる。
論文の結果は、次の点にまとめることができる。第一に、人々の期待の論戦への影響力は大きい。最初はインフレ対策、次に為替回復対策、為替安定対策として打ち出された金解禁が、1927 年の昭和金融恐慌後には「萎靡消沈」した日本経済の再生策として期待が集まったのは「不景気からの打開策」を求めた人々の期待によるところが大きい。
第二に、経済政策論争の常として、純粋経済学的な論点だけが問題になったのではなかった。金本位制のもつさまざまな「良き」価値観が論争には色濃く反映していた。また「財界整理」がこの時代のキーワードになったのは、清算主義(不景気を好景気の反動とみなし、不況期には不良事業・企業の徹底淘汰が景気転換には必要不可欠とする見方)が道徳的魅力をもっていたからであった。
第三に、過去の記憶は無視できない。ドイツの(ハイパー)インフレーションや、国内のインフレーションの記憶が生々しかったときに、新平価解禁、そしてその後のリフレ政策への支持はなかなか得られなかった。
第四に、学界も含めて、論壇の圧倒的多数は旧平価解禁派であり、新平価解禁派あるいは「再禁止出直し」、リフレ派が論壇で多数を占めたことは決してなかった。しかし、解禁とそれに伴う昭和恐慌によって、新平価解禁派への関心と支持は飛躍的に高まっていった。学者の議論は、ごく一部の新平価解禁派を除いて金本位制イデオロギーと清算主義にとらわれていた。マルクス派は傍観者的態度に終始するか、精算主義の観点に立っていた。一方の新平価解禁派に試行錯誤がなかったわけではなかった。それどころか試行錯誤は彼らにこそあった。しかし、最終的に方向性が正しかったのは彼らだった。
第五に、危機は一部の人々に機会をもたらした(財界世話人、軍部、商工官僚、大蔵官僚)。それにともなって、恐慌対策を模索する中で別種の経済思想が力を得ていった。
最後に、経済危機への対処は決定的に重要である。政策転換をもたらすのに政治の役割は大きいが、政策転換は容易ではない。実務家の本領は経験から学ぶことにあるはずだが、不幸にして当時の政策担当者は金本位制にとらわれすぎた。危機にあっては、試行錯誤を避けることはできないのかもしれない。その意味で、危機の下での政策決定には常に不確実性が伴い、決断が必要である。
I. 序論:経済政策と経済政策思想
I.1. 問題と視角
現代日本のデフレ不況への関心から、過去のデフレ不況に注目が集まっている。その中で比較の対象として意義があるのは、1930 年代のデフレ不況、すなわち世界大恐慌期である。むろん、歴史は単純には繰り返さない。世界大恐慌期と現代では無視できないさまざまな違いがある。しかし、実験の難しい社会科学においては、歴史的経験の検討は有益な情報を与えてくれる。先進諸国ではここ70 年ほど、長期にわたる物価下落を経験したことがないという事実にかんがみると、直近のデフレ不況である1930 年代に学ぶ意義はあると考える。1
本論文では、昭和恐慌からその脱出に至る日本経済について、当時の経済状況だけでなく同時代人の発言・思想を追跡することで、経済思想と経済政策の関連について考察したい。
経済政策がどのように決まるのかは、最近の経済学、とくに新しい実証的政治経済学(new positive political economy)の大きな課題である。2そこでは、政策決定は経済学が想定する選択の理論にそって、政策担当者が一定の目的関数をもちながら、直面するさまざまな制約の中から政策を選択すると想定されている。
問題は政策担当者の直面する制約の内容、とくに情報集合である。合理的期待理論ならば政策担当者は経済についての「真の理論(true theory)」を有していると仮定するが、その理論自体が歴史的に変遷を遂げてきたことを考えると、この理論をそのまま適用するわけにはいかない。本論文では経済学史の観点から、経済政策決定をめぐる情報集合(知識)に着目してみたい。政策担当者がその時々においてどのようなモデル、理論、思想、構想、信条をもっていたかを問うべきであり、その解明にこそ経済学史を援用することができると考えられる。3
この作業を踏まえることではじめて、当時の政策を評価する適切な視点も得られると考える。なぜならば、政策の評価についてはその効果の測定だけでなく、利用可能であった他の政策選択肢と照らし合わせる必要があるが、そうした選択肢はその当時の情報集合に照らしあわせることによって明らかにすることができるからである。
しかし選択には、制約だけでなく、目的関数も問題になる。利益の追求は経済学の第一原理である。経済政策は結局、政策担当者が利益を追求する結果として決定されるのではないだろうか。本論文が利益(目的関数)よりも知識(制約条件)を重視する理由は三点ある。第一に、政策担当者が何を利益としているかは外部からはうかがい知れないことが多い。ある特定の利益を追求しているとしても、それを経済主体が明確に表明することはほとんどない。そうした意図を隠すこともまた利益となるからだ。特に政治家や官僚といった政策担当者が失敗した政策に対して責任を取ることはほとんどないし、実際にとられた政策から利益を推測するのは、論点先取の危険をおかすことになりかねない。第二に、利益と知識は相互に結びついていることが多い。自分にとっての利益が何であるかを理解するには、一定の知識が必要とされるからだ。経済政策史の観点から金解禁論争をめぐる利害について研究した三和2003は、「利害意識」という用語を用いて、利害自体がどう意識化されるかを問題にしている。三和はさらに、「主観的利害意識」と「客観的利害意識」を区別しているが、こういう区別が生じるのは、利益そのものがその意識に直結しないことを意味している。第三に、社会科学の基本の一つは、利益追求の結果として意図せぬ結果が生まれることである(「見えざる手」)。これは、三和のいう「主観的利害意識」と「客観的利害意識」の区別が生じる一つの理由でもある。4
本論文では、昭和恐慌を題材にして、経済政策担当者と経済政策をめぐる思想・構想との関係を考察する。もとより昭和恐慌という経済危機は多くの経済構想に機会を与えたのであり、この当時の政策論争は多面的である。その中でも本論文は昭和恐慌にいたる最も重要な政策論争である金解禁論争、とくに昭和恐慌の直前である1927 年以降から恐慌からの脱出が可能になった1932 年の段階に焦点をあてたい。
I.2. 研究文献
金解禁、昭和恐慌についての研究文献は膨大であり、当時の経済政策、政策思想に言及していないものは少ないのですべてをあげることはできない。最近に限っても、中村・尾高1989、寺西1989、中村1989 による概説、対外金融に焦点をあてた伊籐1989、日本銀行の金融政策に焦点をあてた研究文献展望である石井2001 をあげることができる。
なお、近年では現代日本のデフレ不況の進行とともに、1980 年代後半以降のアメリカ大恐慌研究の成果を取り入れ、金融政策のレジーム転換に力点をおいた研究がでてきた(岡田他2002a,b、堀2002a)。この視点は本論文でも大いに参考にしている。
本論文の対象とする経済政策と政策思想の関係に主たる力点をおいたものは高橋1954- 5、中村1967/1994、長1994/2001、金森1999、三和2003 である。このうち、論争の当事者証言、膨大な事実の集積という点では高橋1954- 5 は他の追随を許さないが、当事者の発言という意味で利用に注意が必要である(なお、当事者の証言については安藤1968 も参考になる)。中村1967/1994 はこの主題についての先駆的かつ定評のある概説書である。長1994/2001 は、当時の内外の経済思想との関連を研究しており、その第IX 章ではマルクス経済学者の恐慌論を、補論では主として英国の経済思想と日本のそれとの対比を描いている。また金森1999 は『東洋経済新報100 年史』執筆に加わった経験を生かして『東洋経済新報』の論説を中心に金解禁論争をたどっている。さきにあげた三和2003 は、氏のこれまでの経済政策史研究の集大成であり、その第6、7章で金解禁政策および政策決定過程における利害意識について、第9、10 章では高橋財政についての評価を行っている。とくに有益なのは、第7章であり、そこでは財界、経済団体の利害意識について研究している。なお、金解禁論争の資料としては、日本銀行調査局1968 が網羅的であり、監修者土屋喬雄による解題も便利である。
I.3. 構成
本論文の構成は以下の通りである。次の第 II 節では、昭和恐慌へつながる政策論争史として、金解禁論争を概観し、金本位制の重要性を強調する最近の大恐慌研究の観点から金解禁論争の意義をあらためて確認する。さらに第III 節では、昭和恐慌期の金解禁論争について論じる。第IV節では昭和恐慌からの脱出をめぐる論争の最終局面について検討する。最後に第V節は結語であり、昭和恐慌についての研究から経済政策上の教訓を導き出す。
II. 恐慌への前奏曲:金解禁論争
II.1. 論争の意義
昭和恐慌を理解するには、それに先立つ金解禁論争を理解しなければならない。金解禁論争は、その帰趨に日本の命運がかかっていたという意味で、おそらく近代日本史上最大の経済論戦だった。日本が事実上金本位制を離脱していた時期は、1917(大正6)年9 月12 日の金輸出禁止から、1930(昭和5)年1 月11 日の浜口内閣による旧平価金解禁まで、およそ13 年に及ぶ。しかし、金解禁論争という形で、金本位制復帰をめぐる論戦が始まったのは、第一次世界大戦後の1919(大正8)年6 月9 日に米国がいちはやく金本位制に復帰した以降である。この後、論戦自体はその時々の焦眉の課題と関連しながら続いていったが、浜口内閣による金解禁によって論争が収束したわけではない。むしろ昭和恐慌の激化とともに論争は変化しながらも継続し、1931(昭和6)年12 月13 日の犬養内閣による再禁止から、32 年後半の明確なリフレ政策への転換まで、金解禁および金本位制の是非、そして恐慌との関連をめぐって激しい論争が戦わされた。本論文で言う13 年とは主に1919 年から32 年ごろという意味で用いている。
金解禁論争の意義は二点ある。第一に、当時そういう言葉はなかったものの、この論争は日本という国全体の経済運営の方向をめぐる「マクロ経済論争」であった。第二に、最近の大恐慌研究では金本位制の役割の見直しが進んでおり、その観点からは、金本位制への復帰こそが大恐慌の遠因であったことが理解されている。
かつて、マネタリストーケインジアン論争の余波をうけて停滞していた大恐慌研究は、80 年代半ば以降に国際比較を重視する論者(国際学派)が台頭したことによって飛躍的に前進し、一定の合意が形成されるようになった。
その合意の核は、当時の国際経済制度の要たる金本位制度の意味の見なおしである。金本位制とは、いうまでもなく、金と一国の通貨の価値を連動させる制度であり、それは固定相場制であった。ところで、国際金融には、国際間の自由な資本移動、為替レートの安定、それと国内物価の安定という三つの目標を同時には達成できないという命題がある(「非整合的な三角形」)。固定相場制をとる限り、一時的には国内物価の安定は犠牲にせざるをえない。
また、第一次世界大戦後に再建された金本位制は大きな問題を抱えていた。それは、国際収支の黒字国と赤字国の間に、非対称性があることである。すなわち、国際収支の赤字によって金が不足するとその国は自国の通貨価値の維持ができなくなるのだが、黒字によって金を蓄積した国にはなんらペナルティがないということである。そして国際収支赤字国は為替レートの安定を選択するかわりに、国内物価の安定を犠牲にせざるをえなかったのである(通貨価値の下落、デヴァリュエーションよりも物価の下落、デフレーションを選択せざるを得ない)。
第一次世界大戦後は、とくにこの問題が深刻になった。その原因は主として米国の金融政策である。戦後に英国が債務国に転落する一方で、米国は世界大国としての位置を占めつつあった。しかし、経常収支黒字に伴う金の流入にもかかわらず、米国はそれに対応する金融緩和を行わず、金融政策を引き締め的に運営する。これによって、他の国々も引き締め的に運営せざるをえなくなる。なぜならば、他の国々は、金本位制にとどまる限り、為替レートを米ドルに対して固定的に維持しなければならないからである。金本位制を通じてデフレ圧力が世界経済を伝播する。そして、このデフレ圧力の積み重ねが、最終的に世界規模での不況、大恐慌の引き金を引くことになるのである。
こうした特徴をバリー・アイケングリーン(カリフォルニア大学バークレー校教授)は金本位制の「足かせ」と述べた。ここで重要なのは、この「足かせ」がある限り、政策の基本的な大枠があらかじめ決まってしまうことである。金本位制のもとでは、金融緩和政策を持続的に続けることはできず、いずれは金の保有量に制約されてしまうからだ。この大枠を具体的な個々の「政策」と区別して、「政策レジーム」と呼ぶならば、金本位制は、デフレ圧力を含んでいる「デフレ・レジーム」そのものであった。5
この個別の政策と区別された、政策の大枠、すなわち「政策レジーム」の問題こそ、1930 年代の大恐慌や昭和恐慌から学ぶべき最大の論点である。国際比較研究が明らかにしたように、この金本位制から早く脱出し政策レジームの転換を果たした国ほど、大恐慌から脱出したのである。
「政策レジーム」としての金本位制についてはさらに注目すべき点がある。第一に、Bordo and Kydland 1995 が強調するように、1880 年代から1914 年までの金本位制(古典的金本位制時代)は、一種の「付帯条件付ルール(contingent rule)」であった。「付帯条件付」とは、戦争や経済危機にあっては一時的離脱が認められていたという意味であり、これは硬直化しやすかった金本位制のルールに一定の柔軟性を保障した。
第二に、古典的金本位制時代において、金本位制に参加できるかどうかは、その国のマクロ経済運営の良好さを示す「認定証(Seal of Good Housekeeping)」として受け止められていた(Bordo and Rockoff 1996)。金本位制に属することで資本輸出国(イギリス)からの資本流入は容易になるからである。同時に、第一点のように「条件」を明示することで、戦争や経済危機といった妥当な理由以外で金本位制から離脱するという機会主義的行動の防止を可能にした。したがって、第一次世界大戦という偶発的事情から離脱した列強各国が、戦後の国際経済秩序を再建する構想のなかで、金本位制再建を重視したのは自然なことといえる。
第三に、第一次世界大戦後の再建構想を担ったのは、各国の中央銀行家、とりわけイングランド銀行総裁モンタギュ・ノーマンやニューヨーク連銀総裁ベンジャミン・ストロングだった。大戦間期の「グローバリゼーションの時代」(James 2001)を適切に運営するためには中央銀行間の協調が不可欠であり、この意味ですでに「中央銀行家の時代」が到来していた。
第四に、あらゆる制度同様に、金本位制には思想的側面があった。数十年にわたって国際経済制度の根幹として機能してきた金本位制は、安定的なもの、健全なもの、望ましいものの代名詞であった。そのような金本位制の思想的側面を金本位制イデオロギー(Temin 1989)、あるいは当時の日銀副総裁深井英五の表現を借りて「金本位制心理」(深井1938)と呼ぶならば、それが時代遅れになったとき、それは政策担当者の行動をしばる「足かせ」となった。
第五に、金本位制の機能不全を指摘し、その限界を説く経済学者たちがいた。大戦間期を代表する経済学者、スウェーデンのグスターフ・カッセル、アメリカのアーヴィング・フィッシャー、イギリスのジョン・メイナード・ケインズは、すべて金本位制の重大な問題点を指摘していた。実際、後にマクロ経済学と呼ばれるものはこの大戦間期の経済変動に対する経済学の取り組みの結果として誕生してくるのである。
したがって、当時の金本位制が正統派経済学の教義であったとしても、その正統派自身が動揺をきたしていたことは忘れてはならない。Laidler1999 が明らかにするように、当時の経済学は一種の空位期であり、さまざまな理論が乱立していた。この時期の「正統派学説」の要約とされるものが「大蔵省見解」と呼ばれているのは象徴的である。6その「大蔵省見解」のさらに背後にあると想定されていたのは均衡予算(「健全」財政)、自由貿易、金本位制からなる「自動調整モデル」だった。自動調節であるから、経済運営についての基本的責任は政府にはないことになる。
そして、金本位制イデオロギー以外にもさまざまな思想的拘束衣があった。清算主義がそれである。清算主義とは、景気変動を(好況期の過剰投資による過剰設備が不況期に廃棄されるように)自動的な調整過程の一環とみなす見方であり、この自動的過程に極力介入しないことをもってできるだけ景気の速やかに回復を図るというものである。7景気対策当時、金本位制イデオロギーと清算主義は互いに関連していた。金本位制は自動調節メカニズムを前提としており、清算主義はその自動調節メカニズムへの(過剰なまでの)信頼を具体化したものだからである。8
II.2. 論争の背景
大戦間期の日本については、政治経済の両面から理解する必要がある。この時代は、政党政治の揺籃期であり、おおむね二つの政党が政権をめざして競争を繰り広げていた。もちろん選挙権は厳しく限定されており、第二次世界大戦後に普及した民主主義を基準とすれば、限界があることはいうまでもない。しかし1927 年にはいわゆる第一回の普通選挙が実施され、腐敗といったさまざまな問題をはらみながらも政党政治は発展を遂げていた。この意味で、金解禁論争のような言論戦が一定の意味を持ちうる環境にあったといえよう。
経済の面では、第一次世界大戦で輸出が急伸し、重化学工業の芽が出始めた日本は、戦後に大きな不況と停滞を経験していた。米国の参戦を機会に1917 年9 月に金本位制を離脱していた日本では、米国はじめ「列強各国」が金本位制に復帰するのを横目にみながら、次第に焦燥感が募ってくる。その焦燥感の表れが「金解禁論争」であった。
焦燥感の原因は、1920 年代の日本経済が「慢性不況」に陥っていたことにある。9その一因として、1926 年以来デフレが続いていたことに注目したい。不況とよべるかどうかは、実質成長率がプラスであったことから議論があるかもしれない。しかし、1990 年代の日本においてもありえたように、マイルドなデフレのもとでも実質成長率がプラスになることはありえる。また、1927年には関東大震災があり、そこからの復興需要が働いたため実質成長率は一時的にプラスに転じたこともある。しかし1920 年代後半の成長率はそれ以前の傾向に比べると低く、人々の間に「慢性不況」感をもたらしていた。
なお、この当時の人々は、財政金融政策が発動されていないと考えていたわけではない。その正反対である。立憲政友会の放漫財政による財政赤字と、昭和金融恐慌後の日本銀行特別優遇割引手形(いわゆる日銀特融)の発行による日銀の救済銀行化はつとに批判の的となっていた。それにもかかわらず、日本経済が「萎靡消沈」していることが問題であった。
デフレの原因は、金解禁準備にあったと考えられる。1926 年9 月には積極的解禁論者として知られる片岡蔵相が登場し、前年の1925 年4 月には金本位制の本家イギリスが復帰したことを受けて、金解禁準備に入っていた。もしも関東大震災がなければ、この時期に解禁していたかもしれない。とくに1920 年代後半には、昭和金融恐慌などが絶えざるデフレ圧力をもたらしていた。
II.3. 論争の当事者たち
政界、官界、財界、一般メディア、経済メディア、それらの圧倒的多数派は旧平価解禁派だった。政界において旧平価解禁の論客といえば、金解禁を実行した浜口民政党内閣の大蔵大臣井上準之助が代表であった。井上は就任直前には金解禁尚早論を唱えていたので、金解禁を公約にした浜口内閣の蔵相に就任したときには意外感をもたれたが、就任直後から各種のパンフレットなどを通じて旧平価解禁のもっとも雄弁な提唱者へと変貌する(井上)。しかし、旧平価解禁派の政治家は彼に限られていたわけではない。実際、1920 年代を通じて金解禁の必要性は、建前上政党の別を問わず強調され続けていたし、その場合金解禁とは旧平価解禁を意味していた。ただし、1920 年代の二大政党を比べると、政友会は消極的など、落差があったことは事実である。10
金の輸出禁止が大蔵省令によってなされ、井上準之助が大蔵大臣であったことからわかるように、金解禁の政策決定の中枢は大蔵省であった。しかし、その大蔵省は、論戦ではほとんど前面に出てこなかった。中には金解禁にあたって米国からのクレジットを設定すべく派遣された欧米駐在財務官津島寿一のように「若干の切り下げ」が望ましいと考えていたものもいなかったわけではない。11しかし、その意見は公にはならず、大蔵官僚は井上のパンフレットに解説を加えるなど、旧平価解禁派にあって補助的な役割に徹している。12
論争の中で注目されたのは日銀だったが、それには深井英五副総裁の存在が影響している。深井は多くの外国語に習熟しノーマンやストロングを尊敬する国際派であり、中央銀行間の国際協調に意を砕いていた。その意味で、金本位制への信念は強かった。彼は金解禁問題を通貨問題として把握し、通貨量と、物価、為替相場の関係については単純明解な理解を示している。すなわち、旧平価による金解禁は通貨供給量の収縮と景気の悪化を伴うと考えていたのである(深井1928、1929)。13もちろん、一時的な不景気の後の回復には疑念がなかったのだが、しかし国民には金解禁が「不景気打開策」として売り込まれていたことには懸念を抱いていた(深井1929、7 頁)。後に深井は金解禁失敗の理由として国民の理解不足をあげることになる(深井1938、322-4頁;深井1941)。
財界については、その主流派はほぼ旧平価解禁派だったといえるだろう。なお、この時期の財界の思想を理解するには、日本工業倶楽部、商工会議所、日本経済連盟会といった経済団体や、三井、三菱という財閥よりも、郷誠之助、池田成彬、結城豊太郎ら「財界世話人」たちに着目するべきかもしれない。松浦2002 が示唆するように、1920 年代の経済危機の時代、さまざまな合併などの処理をしてきたのは、以上の「財界世話人」と呼ばれる人々だった。松浦によれば、「財界世話人」とは政治権力に影響力をもち経済システムの維持・改革に明確な経済構想を有する人的ネットワークのことであり、単なる政商やブローカーとは異なる(松浦2002、序)。その代表格は、政界に転ずる前の井上準之助その人だった。ちなみに、経済団体の中には意見集約ができない場合があったし、財閥も傘下企業の利害対立のせいか、意見集約はなかった(三和2003、第7 章)。14それに比べて、「財界世話人」たちは例外なく旧平価解禁派だった。15
学界については、確かに I・フィッシャーのもとで博士号をとった城仙次郎(慶応義塾大学教授)や、高島佐一郎(名古屋高等商業教授)など、新平価解禁派の学者がいなかったわけではなかった。しかし圧倒的多数は旧平価解禁派だった。16たとえば、土方成美(東京帝国大学経済学部教授:後に平賀粛学で河合栄次郎ともども追放される)の『金解禁』(日本評論社、1929 年)などが代表的である。土方は旧平価解禁が緊縮的な効果を持つことを冷静に指摘しながら、失業への「対策」を強調する。つまりデフレ不況を前提とした上で、対策を立てよというのである。17
また、1920 年代を代表する経済学者は、福田徳三(東京商科大学教授)と河上肇(京都帝国大学教授)だった。福田は、1925 年くらいを境に旧平価派に転向する。現代流に言えば、不良債権があるなかで日銀の金融政策は効かない、だから「財界の整理」を断行せよ、という論理である。当然「平価切下げ解禁論」(新平価解禁派)には批判的である。彼らは「当然経べき苦痛を回避して、ただ解禁の一事を実現せんとするものである。経べき苦痛は何らかの形に於て、必ず経ねばならぬ。これを回避することは他日に禍根を胎すこととなる。要はその苦痛を、われらの耐えうる限度に、希薄化し、一般化し、漸次化するにある。緊縮主義は今のところその希薄化、漸次化のもっとも妥当なる方法であると信じる」(福田1930、242 頁)。さらに新平価解禁派が英国のケインズやカッセルから学んでいることについて、次のような辛らつな批判をしている。「英国の失業問題は、英国だけの問題であって、世界の問題ではない。況してや、我日本の問題ではない」。問題の本質は日本経済界の機構変化(ストルクトゥーア・ヴァンデル)である。「唯我邦には、ケーンズ[ママ]、カッセル両氏の盲目的信仰者少からず、我邦当面の問題たる禁輸解禁についても、ケーンズ氏の右小冊子またカッセル教授の購買力平価説を、殆んど『一つ覚え』的に尊奉して、平価切下げ解禁論の根拠とする論者あり」(222-3 頁)。18
河上の場合はさらに興味深い。河上はもともと 1913(大正2)年からの貨幣・物価論争でI・フィッシャーを日本において最初に紹介した一人だった。それが、マルクス経済学に没頭することで大きな転換を遂げていく。後に石橋との対決で明らかになるように、マルクス経済学に転換した後の河上にとって、不況は資本主義の必然であり、不況対策は無意味である。不況においてこそ不良事業が清算されるのである。さらに金本位制は資本主義にとって不可欠であり、その廃止は資本主義の枠内では不可能である、と。19ちなみに、笠信太郎(大原社研研究員、後に朝日新聞)をはじめこの時期のマルクス派の反応はおしなべて不況の「清算効果」を強調するものだった。20
一般メディア、経済メディアについても事情は同じである。ことに『大阪毎日』、『東京日日』、『大阪朝日』、『東京朝日』といった当時大きな販売部数を誇っていた新聞は、旧平価解禁派であった。21もっとも典型的なのは『東京朝日新聞』経済部長牧野輝智による次の発言だろう。「我国にて金解禁を行ふたならば一時的現象として不景気は更に深刻になるかも知れぬ」。しかし「それは已むを得ざることである」(「為替恢復と金解禁」『実業の日本』第5 巻第10 号、1926(大正15)年10 月、日本銀行調査局編1968、23 巻、16 頁)。22
「厳しいがやむをえない」。そう言わなかった人々もいた。それが新平価解禁派だった。彼らは少数派だった。そこには、先に述べた高城仙次郎や、高島佐一郎といった学者もいたし、財界人でも、鐘紡社長武藤山治、東京海上会長各務謙吉、第一生命社長矢野恆太といった有力な人々がいたことは事実である(武藤はかつて旧平価解禁派であったが、新平価解禁派に転じた)。けれども実際の論戦の質量に即していえば、その中心は「街の経済学者」、あるいは『東洋経済新報』一派と呼ばれた、経済ジャーナリスト、評論家であった。
現在でこそ、この時期の主張を通じて彼らの令名は高いが、当時彼らの社会的地位は必ずしも高いものでなかったことは注意すべきである。それは青木の証言からも伺える。要するに、当時の日本では弱小メディアの一部で唱えられている程度の認識だったのだろう。23
その中心はいうまでもなく石橋湛山である。石橋は、1924(大正13)年12 月から1946(昭和21)年5 月まで『東洋経済新報』主幹の座にあった。主幹は主筆と社主を兼ねる。主筆として石橋は、金解禁論争を通じてその当時の日本の経済論壇を支配した二つの大きなイデオロギーと対決した。第一に、清算主義である。浜口、井上の経済政策には、好景気を「空景気」、間違ったものとみなす考えがある。彼らは「所謂健康なる経済財政は不景気に依って作らるると謬想」している(「不景気は人間社会最大の罪悪」1930(昭和5)年7 月7 日付け発行平凡社『実際経済問題講座月報』第2 号、『全集7』、517−9 頁)。しかし、不景気とは、富の唯一の源泉である労働を有効に利用しないことを意味するから「人間社会最大の罪悪」である。では「人間社会は、如何にせば好景気を継続しえるか」。「まず通貨価値の変動を小化するだけで、好景気持続或は不景気排除は相当に出来得るものと考える」(519 頁)。
石橋は金輸出再禁止さえすれば「それで我国の一切の問題は解決せられると思うている」(「不景気対策の検討」1930(昭和5)年9 月6 日号特別論文、『全集7』、365 頁)わけではなかった。「愈よ金輸出が禁止せられ、通貨制度に改革が行わるると云うことになったならば、それと相伴って、我財政経済を根本的に合理化し、所謂百年の大計をたつる事に努力せねばならぬ」(366頁)。年来の主張である「教育制度や、地方制度、産業組織等の改革が含るるは無論の話し、細かいことに亙っては不良企業者不良金融業者などを処罰する厳重の掟を作ることも亦欠くべからざる一項として加えねばならぬ」。
そして、第二に金本位制的心性である。石橋は、金本位制には本質的に望ましい理由はないと考える(「物価下落を希望する謬想」1927(昭和2)年1 月1 日・15 日号社説、『全集6』、10−11頁)。本来は管理通貨論が望ましい。金本位制はたまたまこれまで機能していただけである。24たしかに管理通貨のもとで、規律が失われることへの懸念はあるかもしれない。しかし、それには通貨「統制機関を適当に組織すれば、問題はない」(367 頁)。その「統制機関さえ、政府の勝手にならぬものにしておけば、金本位でなくとも、通貨の価値は立派に安定せられる」。そして、その通貨統制機関を設置するには政府の側の財政規律が重要である。「初めから放漫財政を目的とするような政府であっては、其機関の設立がむずかしい」。
主幹石橋の強みは、社主として『東洋経済新報』という一つのメディアを完全に掌握していたことにある。異論を載せないわけではない。それどころか、異論を歓迎して掲載している。しかし、彼がその大半を執筆した「社説」から明らかなように、編集方針は常に明確だった。さらに海外の論説の翻訳を積極的に載せ、情報の正確な普及に努めている。
彼はまた経済論戦を積極的に仕掛けていった。たとえば「新平価解禁4人組」をプロモートすべく、『新報』の誌面を提供し、また各地での講演会を積極的に組織した。そして論客同志の直接対決の場として、討論会を開催した。
石橋に優るとも劣らず重要なのは高橋亀吉(1891−1977)であった。1926 年に『東洋経済新報』編集長を最後に退社した彼は、その後経済評論家として活躍する。時流を見るのに非常に鋭い高橋は、その時々の主要な問題のほとんどすべてに発言し、そのためか首尾一貫していないことも多々ある。たとえば、『景気はドウなる』(1931(昭和6)年5 月:高橋1931)は、現代流にいう「構造的デフレ論」を述べている。高橋によれば、現在進行中の物価の下落は「革命」であり、第一次世界大戦から復興した欧州、ロシア革命以来の混乱期を経て世界市場に再参加したロシア、そして安価な賃金を原動力にして躍進目覚しい中国の生産力増大によるものなので「恒久的のもの」である(「第3 章物価水準の革命と経済界今後の癌」)。25今後の日本は物価下落に耐える体制を作るべきであり、そのためには質素な生活への転換を行い、「財界整理」を行うべきである、と。
けれども、他の評論家と彼が決定的に違うのは、ミクロ的な側面での改革だけでなく、26新平価解禁という形でマクロ経済の安定に留意したことである。周知のように、当初旧平価解禁論を唱えていた石橋湛山を説得して新平価解禁に転じさせたのは、高橋だった。27この『景気はドウなる』でも最後は緊縮政策を批判し、平価切下げ(新平価出直し論)を提唱しているし、彼がこの時期の自信作とみなした『金輸出再禁止論:不景気打開の基本対策』(高橋1930a)は、不良事業の淘汰という意味での「財界整理」の重要性は強調しながらも、デフレ不況のもとではその「財界整理」ですら進まないだろうから、金輸出を再禁止しリフレ政策に転じるべきだと論陣を張っている。28
それ以外にも、新平価解禁派には小汀利得(1889−1972)や山崎靖純(1894−1966)がいた。小汀は『中外商業新報』(現在の日本経済新聞)経済部長、『街頭経済学』(小汀1931)や後のTVでの長寿番組「時事放談」で知られるように、わかりやすい言葉による経済解説で知られる。その小汀は、最初から新平価解禁派ではなかった。彼は昭和4年春ごろから新平価派へと転じたが、29そのきっかけは深井英五の大阪銀行集会所での講演であったという。これを『中外商業新報』に全文掲載した彼は旧平価解禁のもたらす「痛み」、不景気効果を理解し、「不景気打開策」としての旧平価解禁に懐疑的になったのである(小倉編1955、516 頁)。30
もう一人の山崎は『時事新報』経済部記者から、『読売新聞』経済部長を歴任した。小汀利得と知り合いであり、同じ頃に新平価解禁派への転換を遂げている。後に紹介するように、鋭い洞察と明快な文章で知られる。なお、『中外商業新報』、『読売新聞』ともに当時は非常に部数が少なかった。31
II.4. 論争の論点
金解禁論争は長期にわたる論戦であり、その間に論点は移動した。基本的には、為替の乱高下や、物価の上昇といった、1920 年代のそのときどきの問題に対する「根本的解決策」として金解禁は捉えられていたといえるが、1927 年の昭和金融恐慌以来期待がかかったのは、「不景気の打開策」としてであった。また、実務上の要請も大きい。正貨が一貫して減少し始めたのである。金解禁は避けられない。すると、論点は復帰のタイミングと平価の設定に限られてくる。
II.4.1. 旧平価解禁派の主張
なぜ旧平価による金解禁は望ましいのか?長い論争の過程でその理由は移動を続けたが、主として四つの理由を挙げることができよう。第一に為替の安定である。初期を除けば、論争を通じてこれに対する反対は皆無に等しかった。金本位制が列強各国で再建される以前には、金本位制よりも管理通貨制度が望ましいと考える発想がなかったわけではない。たとえばケインズがそのような議論をした。しかしそのケインズも、『貨幣改革論』以降は管理通貨制度を提案しなくなった。
第二に、物価の下落である。旧平価解禁は為替の切り上げを意味する。それは財政・金融の引き締めによって物価を下落させ、国内の生産費を低下させるだろう。なにしろ、日本の物価は「国際的物価平準」よりも高いのだから、金解禁によるデフレは「国際的物価平準への順応」(東京商業会議所「金輸出解禁問題に関する参考資料」昭和2 年1 月:河上肇も同様の認識を示している)を図るものである。この背景には、当時の日本では、経常収支の赤字に見られるように「国際競争力」が低下しているという懸念があった。その回復のためには、生産費を引き下げる意図的な物価下落が望ましいとしたのである。さらに、この時代は、第一次世界大戦後の国内における高インフレ、ドイツ・中欧諸国におけるハイパーインフレの記憶がまだ新しい時代であったことも忘れてはならない。こうした原体験は政策論議を大きく左右する。
第三に、「感情と体面」(深井英五の1928(昭和3)年11 月大阪経済会での講演)があげられる。金本位制への復帰は「世界の大勢」である。1925 年にイギリス及びポンド圏諸国が旧平価で金本位制に復帰し、フランスも1926 年に新平価復帰を決定し、28 年に復帰してからは、いわゆる列強各国がすべて復帰した状態になっていた。これに金本位制を望ましいとみなすイデオロギーが結びつき、いわばグローバル・スタンダードに日本が堂々と復帰するには旧平価解禁しかないという気分があったのである。
第四に、旧平価による金解禁が不景気をもたらすことはよく理解されていた(たとえば先に見た福田徳三の発言)。そして清算主義の影響がもっとも顕著に見られるのはこの点である。
そこから、だから失業対策をしなければならないという立場がありうる。先の土方 1929 の議論がそれである。金解禁に伴う「痛み」には十分配慮しなければならないという議論である。
しかしその一方で、山崎靖純が喝破したように、調整過程の遅さがよいと考える一種の懲罰論者もいた。「苦しむがよいのである。日本の財界は戦時以来あまりに不真面目すぎた。だから大いに苦しんで其処に始めて財界の合理化が実現されよう」(山崎1929b、95 頁)。清算主義には「道徳的アピール」が伴っていた。
これがさらに、実際に昭和恐慌に至ってからは、勝田貞次(野村證券経済調査部長から時事新報景気研究所長)のようにパニックの清算効果を強調する議論もあった。「財界整理」を徹底的に進めるためには、旧平価を維持しながらパニックを起こし、それによって清算すべきであるという主張である。彼は、昭和恐慌のさなかに「大恐慌を大いに促進したい」と発言することになる(『東洋経済新報』第1418 号、23 頁。日本銀行調査局編1968、第23 巻、621 頁)。
II.4.2. 新平価解禁論者の論理
一方の新平価解禁論者の論理は次のとおりである。第一に、為替の安定は重要である。しかし、そのためにこそ、実勢レートに近い新平価がもっとも望ましい。旧平価へと引き上げていくことは安定を損なう恐れがある。
第二に、インフレと同時にデフレも害悪である。この点をもっとも明快に指摘したのが石橋湛山である。物価の下落を希望するのは「謬想」である(石橋湛山「物価下落を希望する謬想」1927(昭和2)年1 月1 日・15 日号社説、『全集6』3−11 頁)。下落の調節は予想以上に長引くだろうし、それは企業収益を停滞させ、国民の雇用と所得を減退させる。そもそも「国際競争力」を考える際に、旧平価派は対内価値(国内通貨表示)と対外価値(外貨表示)について混同している。新平価による解禁(デヴァリュエーション)は、国内物価を下落(デフレーション)させずに、「国際競争力」を回復できる。この視点が、基本的にケインズの『貨幣改革論』(1923 年)に代表される欧米の経済学の最新理解を前提にしていることはいうまでもない。
第三の議論について、山崎は新平価解禁への「唯一の、もっとも強力な反論」としてもちあげる。これは旧平価解禁論には「経済的理由」がないことを揶揄したものだろうが、しかし、山崎は「無用の面目論」として退ける(山崎1929a、148 頁)。フランスの例に見られるように、国情に合った新平価解禁は認められていた。日本の場合、戦争でフランスのように大打撃を受けたわけではなかったが、すでに旧平価から外れて10 年以上が経過している。平価の急速な引き上げは経済に大打撃を与えるだろう。
第四に、「圧迫さえ加えれば、日本の産業が良くなるという考えは、産業界が損害切捨て其他の消極整理を必要とする時代に於てのみ真理であって、積極的整理即ち組織や方法の大改造を必要とする時代には完く当て嵌まらない。若しそんなことが何時でも云へるなら、必ずしも旧平価に復帰するばかりでなく、時々新しく高い法定平価に改変することが、我が産業を発達せしめるであろうと云ふ議論も導かれるわけであるが、恐らくそんな馬鹿げたことを信ずる人はあるまい」(151−2 頁)。被害を受けるのは産業と産業人である。「旧平価によって苦しむ解禁をすることが一見正義の如くに見えて、その実最も正義に反するものであること」である(148 頁)。もう一つ、高橋亀吉の立場が典型的だが、たとえ「財界整理」の必要性を認めたとしても、それを実行するには日本経済が弱っているという考え方もある。「財界整理」に必要なものこそ、新平価解禁というのが、高橋の立場であった。
II.5. 論争の評価
論争の評価は、どのような情報集合を前提にするかで変わってくる。たとえば、すでに1910年代から、フィッシャーらによる新しい経済思想が芽生え始めていたし(Laidler 1991)、日本でも貨幣・物価論争という形で学界には吸収されつつあった。そして戦間期を代表する経済学者たちは、カッセル、フィッシャー、ケインズ、ホートリーであった。この情報集合に照らし合わせるならば、新平価解禁派の優位は動かない。
けれども、第 I 節でみたように、それらの理解は浸透していなかったという考えはありうる。当時の欧米では金本位制に反対した経済学者だけではなく、賛成した経済学者もいたからである(たとえばLSE のグレゴリー、ロビンズなど)。しかし、旧平価解禁派は目的において混乱していたのも事実である。必要なのは金本位制への復帰であり、それによって為替の安定、物価の安定を達成するのが目的ならば、新平価解禁のほうが優れていただろう。また、対内価値と対外価値の区別は、必ずしも最新の議論を持ち出さなくてもわかる基本的な経済学的知見であったから、この点を混乱していた旧平価解禁派は基本的な間違いを犯していた。32
すると残るのは、旧平価のもつ「感情と対面」と清算主義である。どちらも問題であるが深刻なのは精算主義である。清算主義には政策論として致命的な欠陥がある。清算主義は、短期においては痛みを必要不可欠とみなすが、長期においては「やがて」発展をもたらすと論じる。問題は、ここでいう長期がどれくらいを指すかがまったく明確ではないことである。
De Long 1990 が論じるように、19 世紀の末まで景気循環は鋭いV字型で特徴付けられていたから、そのときには清算主義は妥当した可能性はある。しかし、金本位制と同様、かつて機能していたものが機能しなくなったにもかかわらず維持されるというのは、まさしくイデオロギーたるゆえんである。
III. 昭和恐慌:金解禁の帰結
III.1. 恐慌の現状
旧平価での金解禁は 1929 年11 月に決定され、翌1930 年1 月11 日に実施される。当初人々は金解禁に熱狂し、株式市場も上昇した。しかしすぐに株式市場は下落し、1930 年の実質成長率はほぼ0%に落ち込む。失業率は上昇する。なお、このときの日本の失業率は1931 年1 月において5.3%、ピーク時の32 年 7 月で7.2%である。331933 年に 25%近くに達したアメリカや、それ以上を記録したドイツと比べると低い。しかし、日本はまだ、開発経済学でいういわゆる「転換点」越えをしておらず農業部門の比重が大きかったこと、さらに失業保険が存在しなかったことに注意しなければならない。農村のこうむった大打撃を考えると、こうした数字以上に実態は深刻だったと考えるべきである。
金解禁について、世界恐慌とほぼ同時であったタイミングの悪さを指摘する意見もある。井上自身がそのように弁明しているが(井上1930)、しかしこれは旧平価解禁派のそもそもの立場と整合的ではない。清算主義的立場から言えば、世界恐慌は整理をさらに促進するものとしてむしろ歓迎すべきだからだ。実際、井上の本音は違ったことは、国庫課長であった青木がほのめかしている。34
III.2. 恐慌対策
恐慌に対して、政府、産業界からはさまざまな恐慌「対策」が打ち出された。まず、財界世話人たちによって各種企業の経営統合、吸収合併が促進される。それと同時に政策系金融機関が「活躍」することになる。意に沿わない日本興業銀行総裁は更迭され、後任に世話人の一人である結城豊太郎が就任し、救済融資が実行される(松浦2003、とくに第3 章)。
一方、政府部内では商工省が台頭する。1929 から30 年にかけて、一挙に19 ものカルテルが形成される。それはカルテル破りをするアウトサイダーの存在を許容していたから財界は政府に競争の制限を要求した。1931 年に制定された重要産業統制法は、カルテル破りを統制するカルテル化のための法律であった(橋本1989、117 頁)。「財界」の利害と官僚の利害が一致したのである(それ以上の統制拡大には財界は反対した)。
それを思想的に支えたのは新しいイデオロギーであった。この時期から急速に産業合理化という言葉が流行する。もともとはドイツで 1920 年代初頭に、ラーテナウやメレンドルフが提唱した概念である(小野1996)。その頃日本ではさほど注目されなかったが、恐慌の到来とともに注目を集めたのは、産業合理化が合併吸収やカルテル化を意味していたことでもある。東京商工会議所が1930 年11 月から産業合理化資料を刊行する一方で、1930 年12 月には日本商工会議所の音頭とりで雑誌『産業合理化』が創刊される。産業合理化とともに、統制経済論も盛んになる。
III.3. 転換点
1931 年は、世界経済にとっての大きな転換点だった。1930 年の景気後退は急激だったが、不況が世界大恐慌に悪化する直接のきっかけは、1931 年に生じた金融危機と通貨危機の連鎖にあった(James 2001)。金本位制は固定相場制であり、固定相場制の常として通貨危機が発生しやすい。発火源はオーストリアだった。5 月にクレディート・アンシュタルトが倒産し、7 月にドイツの金融システムを不安定化させた後、イギリスに投機攻撃が集中する。イギリスは、ポンド防衛をあきらめ、9 月21 日に金本位制から離脱する。アメリカは、自国通貨防衛のため、利子率の引き上げで対応し、自国経済を急激に冷え込ませる。
イギリスの金本位制離脱の次に標的になったのは日本だった。投機攻撃が集中する。それに対して井上は円防衛に務めるが、正貨の激減を招いた。このとき井上は投機的思惑からのドル買いを道徳的に非難した。この非難が財閥(特に三井)に向けられたことによって、その後の財閥批判の論調が生まれ、結果として団琢磨(三井合名社長)の暗殺などテロを生んだことはきわめて皮肉である。むろん、井上の投機非難が的外れであることはいうまでもない。高橋亀吉は当時、ドル買いは経済合理的な行動であると―正当にも―論じている。
イギリス同様、日本の金本位制再離脱を不可避にしたのはこの通貨危機だった。ただし、イギリスの場合と異なっていたのは、イギリスでは金本位制復帰後、金本位論争がほぼ収束していた時点で危機を迎えたのに対して、日本では論壇において金解禁論争がまだ闘わされていたことであった。
そして、政策担当者である井上準之助が頑として政策転換に応じなかったことも異なる。同じ頃、9 月18 日には満州事変が起きていた。国家改造を明確に志向する石原莞爾と軍部の一部が、対外危機を演出すべくしかけた出来事であるが、この時期を政策転換の好機とにらんだ人々は多かった。井上の信頼する部下であった大蔵省国庫課長青木一男は、危機にあって政策転換を行うのは内閣や大臣の責任にはならないと進言したが、井上は聞き入れなかった(長1994/2001、142 頁)。
III.4. メディアの論調
この頃のメディアの論調には大きな変化が見られる。これまで金解禁を賛美していたが、「恐慌という実物教訓」が、多くのメディアの意見を変えた。かといって、それらはまだ明確に新平価解禁、ないしは金再禁止に組みするまではいかない。さまざまな恐慌「対策」を要求するだけである。新平価解禁派の主張は、「奇策」扱いされたままだった。
しかも、論壇には勝田貞次のような「純粋な」清算主義者もいた。この時期の論争状況を良く示しているのは1930 年9 月1 日・8 日に開催された「金輸出再禁止問題討論会」である(『東洋経済新報』第1418 号、1421 号。日本銀行調査局編1968、第23 巻、613−31 頁に収録)。討論会に集められたのは8 人。新平価解禁4 人組はすべて参加している。論壇では少数派のはずが、この討論会の人選では互角にみえるあたり、きわめて興味深い石橋の演出である。それ以外は、赤松克麿(社会大衆党書記長)、安田与四郎(ダイヤモンド主筆)、勝田貞次、森田久(時事新報経済部長)といった顔ぶれである(なお、2 回目の討論会に赤松は欠席、代わりに時事新報経済部の西野喜与作と東洋経済前主幹の三浦鋳太郎が参加した)。赤松を除いて、いずれも旧平価解禁派である。
討論会は東洋経済新報社から刊行されたばかりの武藤山治『井上蔵相の錯覚』の合評から始まり、政策実行主体として日銀は信頼できるかが論じられた。山崎靖純は新平価解禁論との対決姿勢を崩さない日銀、とくに深井英五への不信感をあらわにするが、小汀や石橋は日銀、とくに深井を信頼し、大蔵省の方針が変われば日銀も変わると述べている。その後、新平価解禁は、デフレのチェックとなるのか、あるいはそれだけで景気はよくなるのか、さらにはインフレと財界整理の関係、新平価の「切下予想点、時期、切下点まで行く時間問題」、再禁止実行の方法、時期、効果など多面的な問題が討論されている。
この時点で新平価解禁は現下のデフレ不況、昭和恐慌から脱出するための一種の物価安定化目標政策として捉えられていた。けれども、この討論会での勝田の主張のように、清算主義は根強かった。彼は恐慌対策をとってはならず、財界整理を一段と進めるべきだと主張する。新平価解禁による救済策に反対というわけではない。しかし、救済策は進行中の財界整理を阻害するから、救済するとしても整理後でなければならない。「大恐慌を大いに促進したいのです」(『東洋経済新報』第1418 号、23 頁。日本銀行調査局編1968、第23 巻、621 頁)。
この時期、各種アンケートが示すように金再禁止への関心は高まっていた。しかし、まだ多数を占めていなかった。35おそらくこのまま続いていても最後まで多数を占めなかったかもしれない。
IV. 恐慌からの脱出:金解禁論争の終結
IV.1. 政策転換の過程:2 段階レジーム転換
昭和恐慌からの脱出は、政策転換によってなされたが、それは 2 段階―金本位制からの離脱と一層の金融緩和政策―からなっていた。この政策転換を可能にしたのは、究極的には政局の変化だった。立憲政友会代議士会は1931 年11 月10 日に金再禁止決議を行っていた。36しかし同日、井上蔵相は金輸出禁止に関する声明書を発表し、金本位制の維持決意を表明していた。37
政局変化のきっかけは閣内不統一によって、若槻内閣が総辞職したことだった。政友会との挙国一致内閣を志向する内相安達謙蔵が造反したからである。政友会との連立は経済政策の転換を意味する。安達は金再禁止派だった。
12 月13 日に成立した犬養内閣の蔵相に就任した高橋是清は、深井英五の建策をいれて、即日金本位制からの再離脱を決定する(深井1941)。かくして金本位制からの離脱という政策レジームの転換が図られた。しかし、経済危機に対する高橋是清、深井英五の認識には甘いところがあった。高橋は金輸出再禁止が景気転換策ではなく、それ以上に金融緩和を行うためのリフレ政策でもないと明言したからである。金本位制からの再離脱から、完全な政策転換まではさらに紆余曲折を経ることになる。
結果として、株価は再び下落し、失業は深刻化する。一時下落した失業率は31 年項半からさらに上昇する。さらに衝撃的だったのは、5.15 事件である。時の首相が軍部によって暗殺されるという事態に政府は政策転換を余儀なくされた。
高橋是清自身の経済思想については、とくにケインズ主義との関係でこれまで研究の対象となってきた。しかし、彼に経済学的に明確かつ首尾一貫とした思想を期待すると失望することになる(高橋1936)。もちろん、新平価解禁四人組の論説を知らなかったわけではない。けれども、教条的でない国内経済優先の思想、経験から学ぶプラグマティズムが彼の本領であった。
決定的な政策転換に向けて、政府部内、とくに大蔵省と日銀の協調が模索されるようになる。安達2003 の図表が示すように、11 月26 日の日銀による歳入補填国債引受けは、大蔵省と日銀のそうした協調の結果であった。この時点まで金本位制の離脱からはほぼ一年、5.15 事件からはおよそ半年あまりが経過した。38
IV.2. リフレ派の台頭
この頃、新平価解禁派は再禁止派から、さらにリフレ派へと転換を遂げていた。列強各国が金本位制から離脱している現在、金本位制の維持はすでに時代遅れである。この恐慌からいかに脱出するか。リフレ派はさらに一段の財政金融政策によるリフレーションを督促し、明確な政策転換を要求する。この時期に石橋湛山は「金本位の停止と購買力の増進」、そして「インフレーションの意味方法及効果」といった彼の経済論説の最高傑作を書くことになる。39リフレ政策として必要なものは、1.利子率引き下げ、2.公開市場操作、そして3.公営(公共)事業の推進である。このうち、3.は事業の質と規模を見極めるのが難しいとして金融政策に期待をかける。しかも石橋は財政政策単独では物価上昇につながらないことも知悉していた。公債が日銀によって応募されない限り、通貨量が増えず、通貨量が増えなければインフレーションは引き起こされないからである。そこで、中央銀行による二つの政策に期待をかけ、両者とも有用としながらも、直接的なのは後者の公開市場操作であると考えた。
その要点は、徹底的な通貨供給によるインフレ期待の醸成である。最初、その効果は容易には発揮されないかもしれない。しかし、期待の変化とインフレそのものの効果が「互いに因となり果となりて、所謂累積的に作用する」(『全集8』、457 頁)。というのも、通貨膨張が「頑強に続けられるならば」、どんな「銀行でも無限に資金を遊ばせておくわけにはいかぬ」からだ。はじめはコール市場に資金が出るが、そこの市場金利も下がるから、それからは既発及び新発行の証券に投資することを余儀なくされる。購買力は、はじめは既発証券に対するそれとして、それから新発行の証券、そして動産・不動産に対するそれとして現実化する。この経過を金利の側面からみれば、短期金利、そして長期金利を引き下げることによって、投資は増加するだろう。投資が増加すれば、財と労働への需要が起こることになる。リフレ派は「この効果を発揮するまで、頑強にインフレーションを続くべしと説くのである」(458 頁)。通貨膨張が「結局、而して其初期に於て感ずるよりは恐らく意外に急速に、物価騰貴を誘導すべきは、理の当然にして、何等疑惑を挟む余地はない」と石橋は結論付けている。
同時に石橋はリフレ政策への批判にも答えている。「一たびインフレーションを始めると、無限に之を続けねばならない」から、その結果第一次大戦後のドイツのようなハイパーインフレが起きるだろうという批判があった。石橋は、ハイパーインフレは「非常時の政府の財政上の必要」から起こるものであると指摘し、自分の提唱するインフレには「初めから明瞭な限度がある」という。このリフレはハイパーインフレのような「戦争という如き外的原因から迫られたそれと異なり、政府又は中央銀行の欲するままに統制し得る。これに何の危険があろう。一たびインフレーションを始めれば、止め度がなきに到ろうなどと言ふ者は、思索全く足らざる者である」(463頁)。
IV.3. 政策転換の成果
政策の完全転換後の成果はめざましいものだった。高橋=深井金融財政のもと、日本経済は驚異的な復活を遂げる。物価は激しいデフレからマイルドなインフレに転換する。株価が上昇し、生産が伸びる(高橋財政期の平均実質成長率は7%以上に達し、戦後の高度成長期にも匹敵するほどである)。為替が減価し、逼塞していた重化学工業は息を吹き返し、産業構造の転換が急速に進んだ。さらに、株価の上昇に伴い、企業の資金調達構造の転換が急速に進むことになる。日本経済の構造変化を促進したのはデフレからの脱却であった。
なお、この復活の原因を井上財政の成果に求める見解もないではない。緊縮と恐慌によって財界整理が進み、日本経済の水ぶくれ体質が改善されたために後のリフレ政策は成功したという見解である。40この形を変えた清算主義(清算主義マークII)は、そもそも反証可能な命題かどうか疑わしいが、恐慌のさなかに「財界整理」が進んだかを検討することはできる。たとえば、オーバーバンキング状態(銀行貸出の対国民所得比)は、昭和恐慌によっては解消されていなかったし、いわゆる日銀特融の残高は、恐慌によってもまだかなり残っていたことが明らかになっている。41
V. 結語:経済危機の教訓
V.1. 昭和恐慌その後:決定的な岐路へ
世界恐慌の後、脱出策として試みられたのは、「多くの国での社会主義(socialism in many countries)」(Temin 1989)だった。多くの国で国家による統制、介入が増大する。ナチスドイツなどの統制経済そのものはいうまでもなく、アメリカはニューディール政策を機に連邦政府の役割が増大し、イギリスでも「産業合理化運動」、そして福祉国家建設という形で、政府介入が増す。
日本は、高橋財政のもとかろうじて危機を乗り切ったかのようにみえたが、恐慌「対策」を模索する中で、軍部、統制主義が既存の体制に対する魅力的な代替案として浮上してくる。満州国建国は、当時の停滞を打開するための方法として国民に熱狂的に歓迎された(Young 1998)。高橋が暗殺された後、軍部への歯止めがなくなり、軍部主導により体制の転換がもたらされた。石橋湛山などはその後も『東洋経済新報』を拠点に果敢に軍部を批判し続けたが、それは失敗する。
軍部だけではない。政党政治の後退とともに、官僚の役割は拡大する。予算をめぐる大蔵官僚の権限は増大し、恐慌対策として導入された産業政策によって商工官僚の権限も増大することになる。まさに「経済危機が産業政策を生み出した」(Johnson 1982, p.114;邦訳123 頁)。この過程は政官民の絶えざる交渉の結果であったから、「1940 年体制」という一方的な関係を強調しがちな言葉は不適当だろうが、恐慌を境にして政官民のバランスが官の側に傾いたのは事実であった。
同時に生じたのは経済社会構想のせめぎあいであった。最終的には金本位制イデオロギー、清算主義は後退していくが、別のイデオロギーが台頭してくる。開発主義がその一つである。
旧平価による金本位制復帰という意図的なデフレ政策は、政党政治も大正デモクラシーも吹き飛ばしてしまった。結果として「1940 年体制」をもたらしたのは、構造問題にとらわれてデフレを意図的に促進したマクロ経済の失政と、それを正当化した誤れる政策思想だった。
V.2. 若干の教訓
経済政策決定をめぐる知識という観点からは、金解禁論争から何が学べるだろうか。
第一に、人々の期待の役割があげられる。金解禁論争の戦わされた13 年間は当時の人々にとって「失われた13 年」だった。大戦景気後の「慢性不況」において、財政は「放漫」化し、公債発行による財政赤字が恒常的であり、金融は日銀特別融資発行によって日銀は救済銀行化したと考えられていた。最初はインフレ対策、次に為替回復対策、為替安定対策として打ち出された金解禁が、1927 年の昭和金融恐慌後には「萎靡消沈」した日本経済の再生策として期待が集まったのは「不景気からの打開策」を求めた人々の期待によるところが大きい。
第二に、経済政策論争の常として、純粋経済学的な論点だけが問題になったのではなかった。金本位制のもつさまざまな「良き」価値観が論争には色濃く反映していた。「財界整理」がこの時代のキーワードになったのは、清算主義が道徳的魅力をもっていたからであった。それに関連して、経済論争にはいわゆる「正義」、分配の観点がつきまとう。新平価解禁の主張は、大戦景気で大もうけをした連中を救済するのか、といった懲罰論者の誤解と闘わなければならなかった。
第三に、過去の記憶は無視できない。ドイツの(ハイパー)インフレーションや、国内のインフレーションの記憶が生々しかったときに、新平価解禁、そしてその後のリフレ政策への支持はなかなか得られなかった。
第四に、学界も含めて、論壇の圧倒的多数は旧平価解禁派であり、新平価解禁派あるいは「再禁止出直し」、リフレ派が論壇で多数を占めたことは決してなかった。しかし、解禁とそれに伴う昭和恐慌によって、新平価解禁派への関心と支持は飛躍的に高まっていった。
学者の議論は、ごく一部の新平価解禁派を除いて金本位制イデオロギーと清算主義にとらわれていた。マルクス派は傍観者的態度に終始するか、精算主義の観点に立っていた。
一方の新平価解禁派に試行錯誤がなかったわけではなかった。それどころか試行錯誤は彼らにこそあった。石橋湛山も例外ではない。最初に金解禁を促したのは東洋経済新報だったし、旧平価解禁から新平価解禁へと論調を大転換したのは石橋だった。しかも、石橋は一時期、新平価解禁を断念さえしている(「金輸出解禁問題の前途」1927(昭和2)年9 月24 日号社説、『全集6』、100−1 頁)。しかし、最終的に方向性が正しかったのは彼らだった。
第五に、危機は一部の人々に機会をもたらした(財界世話人、軍部、商工官僚、大蔵官僚)。だからといって、利益を追求するために彼らが危機を引き起こしたとまではいえない。機会を利用したということだろう。ただし、利益が一貫しているかどうかは検討してみる必要がある。たとえば大銀行が旧平価解禁を望んでいたというのはよく言われることであるが、旧平価解禁に賛成したのは、大銀行だけではなかった。中小の銀行、産業界も賛成した。証券系エコノミストともいうべき勝田貞次がなぜ緊縮政策に賛成したのか。また井上準之助の旧平価への固執をどうみるか。
最後に、経済危機への対処は決定的に重要である。政策転換をもたらすのに政治の役割は大きいが、政策転換は容易ではない。実務家の本領は経験から学ぶことにあるはずだが、不幸にして井上準之助は金本位制にとらわれすぎた。新平価解禁派がそうであったように、高橋是清、深井英五、ルーズヴェルトといった政策担当者たちも試行錯誤を余儀なくされた。危機にあっては、試行錯誤を避けることはできないのかもしれない。その意味で、政策決定には常に不確実性が伴い、決断が必要である。

1 論者によってはそうした違いの一つとして、1930 年代のデフレ不況は極めて激しいものであったが、現代日本はそれほどではないことを指摘するかもしれない。しかし堀2002a が明らかにしているように、さもなければ得られたにもかかわらず失われたGDPや資産価値の累計で見る限り、現代日本のほうが大きいし、さらにこのデフレ不況が現在進行形であり出口すら見えないことは、現代のほうが深刻であるともいえる。
2 そうした文献の一例として Dixit 1996 を参照のこと。
3 この視点についてはLaidler 2001 から学んだ。さらに、第二次世界大戦後の安定化政策を例にとって政策担当者の経済についての信条と政策の対応について論じたRomer and Romer 2002 も有益である。同様の視点を取り入れて、アメリカ大恐慌期のFRBと経済思想について検討したのが若田部2003d である。
4 たとえば、次のような例を考えてみよう。1930 年初頭にドイツの首相となったハインリッヒ・ブリューニングは、大恐慌のさなかにあってデフレ政策を強行した。その彼は、賠償問題を解決するためにドイツ経済の破産を狙っていたという(Temin 1989)。この説が正しいとしてもさらなる疑問がわく。なぜ、彼は国家破産をしてまで賠償問題の解決を優先させたと考えたのだろうか。ドイツではナチスが台頭し、ブリューニング自身が政権の座から放逐されたことを考えれば、なぜ彼がデフレ政策の徹底的な追求が許容されると考えていたかを問うべきではないだろうか。ここでも鍵となるのは金本位制からの離脱が可能であったかどうかである。この点、当時のドイツにおける危機の回避可能性をめぐる、経済史研究家の間における著名な論争があり、この問題については国際的な視点での比較研究が可能である。
5 国際学派の古典は Eichengreen 1992 である。またTemin 1989、Bernanke 2000 やJames 2001 も有益である。また最近の大恐慌研究を日本で精力的に紹介されているのは堀雅博氏である。堀2002a, b を参照されたい。その他に猪木2002、高橋2003 も参照されたい。なお、米国とフランスの金融政策が引き締め的であったことが大恐慌の一因であったことは、当時の人々にはよく理解されていた。この点については内閣府のセミナーでの香西泰所長の指摘による。したがって大恐慌の最新研究の意義はひとつには当時の洞察力に富んだ人々の洞察をあらためて確認したことにあるといえよう。
6 「大蔵省見解 the Treasury View」は「公共投資は信用の拡張がない限り、雇用の増加をもたらさない」として公共投資による民間投資の完全なクラウディング・アウトを主張する。もとはといえば、ケインズの批判によってイギリスの大蔵省(The Treasury)が1920 年代後半に明確化した政策方針であり、1929 年の蔵相チャーチルの予算演説と政府文書によって明らかにされた。ただし、この見解の定式化にあたっては、大戦間期に最も影響力のあった経済学者の一人ラルフ・ホートリーの影響がみられる(彼は大蔵省唯一のエコノミストだった)。西沢1999、小峯1999 を参照のこと。
7 精算主義については、De Long 1990 および竹森2002 を参照されたい。シュンペーター、ロビンズ、ハイエク、シーモア・ハリスなどが代表的な経済学者である。共通的な特徴は、投資収益率を過大評価した企業家による投資が好況をもたらすが、結局その投資が期待はずれに終って不況期に突入するという循環モデルにある。なお、現代理論ではリアル・ビジネス・サイクル理論ないしは動学的マクロ経済学の興隆に伴い、形を変えた精算主義が復活している。批判的な文献展望についてはAghion and Howitt 1998, pp.239-43 を参照。De Long1990 は、技術変動のような実物的要因を強調する現代版よりも投資期待の錯誤に基づく過去の清算主義のほうが経済理論としては優れているという評価を下している。しかし、理論的根拠はともかく、竹森が紹介しているCabarello and Hammour 2000 の研究が示すように、精算主義には実証的な根拠が乏しい。
8 アメリカの大恐慌の文脈においては、さらに銀行学派的「理論」を付け加えなくてはならない。金本位制イデオロギー、銀行学派的「理論」(FRB理論)とアメリカの大恐慌との関連については、若田部(2003d)を参照されたい。
9 1920 年代日本経済の概説としては、武田2003、中村・尾高1989、三和2002 を参照のこと。また寺西2003、第3章も有益である。
10 政友会のほうが、金解禁への執着は強くなかったと論じることはできよう。ただし、田中義一内閣の大蔵大臣三土忠造が金解禁を目論んでいたように、その態度は解禁への原則的反対ではなかった。
11 安藤 1965、上、63 頁での証言を参照。
12 たとえば、井上による『国民経済の立直しと金解禁』には、大蔵参与官勝正憲による解説がついている。この解説は、石橋湛山から「金解禁の初歩も初歩、いろはと云うべき知識も欠けている」という手厳しい批判をこうむった。社説「当路の為金解禁のいろはを講ず」『東洋経済新報』1929 年9 月14 日号、『石橋湛山全集第7 巻』、69−72 頁。
13 ただし I・フィッシャーの『貨幣錯覚』邦訳(日銀職員山本米治訳。1929 年5 月刊行)に序文を寄せるなど、当時の経済学の先端動向についての理解も豊かだった。
14 日本工業倶楽部、日本経済連盟は意見統一ができなかった。一方、意見統一をした商工会議所のように、利益説からいけば旧平価解禁に反対してもおかしくないところが賛成している。なお、三井、三菱といった財閥でも意見統一はなされなかった。Cf.三和2003、202―7 頁。
15 池田成彬が、1929 年11 月レジナルド・マッケンナ(イギリスの政治家。大蔵大臣を経て、ミッドランド銀行総裁)と会談したときに、「日本はなぜ解禁を急ぐのか、そんなに急ぐ必要はないではないか。実は、イギリスは解禁を急いで失敗した」と言われたという逸話は有名である。長2001、97 頁。このマッケンナには、イギリスの金本位制への復帰の直前、ケインズとともに蔵相チャーチルと会談し、旧平価での金本位制復帰に反対したが、蔵相の説得に失敗したという経緯がある。若田部2003a、第11 章。
16 出井盛之(早稲田大学教授)は次のように述べている。「金の輸出解禁を即行すべしという議論は、近頃わが国における常識となった観がある。もしこの論に対し、異説をたてるが如きものがあるなれば、それは異端者であると見なされるまでに立ち至っている」「即行には反対」(『報知新聞』1928(昭和3)年11 月22 日、日本銀行調査局編1968、23 巻、388−91 頁)。
17 なお公正を期すために、失業保険が整備されていない時期での土方の発言は現在聞こえるよりもはるかに先進的なものだったことは指摘しておきたい。
18 福田は 1925 年にソヴィエト連邦に招かれてモスクワに赴き、そこで同じく招かれたケインズと論戦を交えている。ケインズの論調は『チャーチル氏の経済的帰結』に見られるようなマクロ的観点からの旧平価解禁批判であったのに対して、スウェーデンから招聘されたヘクシャーは賛意を表明したが、福田は経済の構造変化を強調する立場から反駁している。福田1930、第2篇3「経済機構の変化と生産力並に人口の問題―1925 年モスクヴァに於ける講演と討論―」を参照。
19 河上については、長 1994/2001、第IX 章、若田部2003c を参照のこと。
20 大内兵衛は、第二次世界大戦後の 1965 年の(いわゆる証券不況)時点での座談会でも、清算主義的な考えを述べている。大内は現下の不況を放置したほうが、資本主義としても「健全」になると述べている。「もちろん、放っておけば、恐慌(クライシス)がいま起きるということはあり得る。多少の出血はある。それは原因があるのだから、起こるのはしかたがない。過剰の生産設備は恐慌によってその設備の一部を破壊すればよい。それが出血であるが、これによって旧式な、不生産的な設備がつぶれればあとはよくなる。それ以外にそれをなおす方法はない。そこで恐慌が起こるなら、いま起こしたほうがいい。それは将来起こらねばならない恐慌と比べれば、小さな恐慌で済むからだ。原因がある以上、熱は抑えない方がよい、輸血もしない方がよい。自然療法がいちばんよい」。吉川2003、30 頁注30 に引用されている。
21 一般新聞の対応については、高橋 1998、第4 章を参照。一般新聞については中村宗悦、経済メディアについては田中秀臣による研究が進んでいる。
22 牧野輝智は、東京帝国大学から経済学博士号を取得した財政通として知られていた。上久保 2003 を参照。
23 そのせいか、新平価解禁なる主張そのものがなかったと当時を回想した財界人(日本興業銀行総裁鈴木嶋吉)もいたとのことである。この告白を高橋亀吉は憤りをこめて記録している。高橋1955,中、884 頁。
24 もう一つ、石橋は金融政策をめぐる「誤解」とも対決していた。当時、福田徳三に典型的なように、日銀特融により金融政策が機能不全に陥ったと考える論者は多かった。高橋亀吉もそう考えていた。それに対して、石橋は結局物価を決めるのは通貨量であり、旧平価解禁が成功するために物価の下落が必要なので、そのためには通貨供給量を減らさなければならないとしていた。この点で金融引き締めを正面からうたわない浜口内閣の経済政策は「定石はずれ」であると批判している(「金解禁準備は定石はずれ」1929(昭和4)年8 月10 日号社説、『全集7』51−5 頁)。
25 歴史的例としてとりあげられたのは、19 世紀後期のデフレである。「欧州に於て1874 年頃から1897 年頃迄約20年間、ズット物価が低落した時代の諸事情とまったく同一だと云ってよい程、事情が良く似ている」(高橋1931a、110−1頁)。
26 彼の『株式会社亡国論』はいささか扇情的ながらも、株式会社組織に潜在的なモラル・ハザード問題を指摘したものである。
27 石橋の『回想』では 1924(大正13)年3 月15 日号社説「円価の崩落と其対策」(『全集5』、209−13 頁)からということになっている(『全集15』)。たしかに、この論説では旧平価にかえて、実勢レートに近い平価設定の利点が説かれている。けれども、明確に「新平価解禁」という言葉が出てくるまでは時間がかかっている(1924年11 月29 日号、12 月6 日号社説の「為替安定の応急策と永久策」、後に『金解禁の影響と対策』に所収。『全集6』、307−15 頁)。
28 高橋が第二次世界大戦後に執筆した記念碑的大著『大正昭和財界変動史』(高橋1954−5)は、第一次世界大戦から金解禁論争、昭和恐慌、そしてその後の日中事変までの日本経済の政策論争史を語る必須の文献であるが、高橋自身の当時の発言については事後的な「編集」が含まれていることに注意しなければならない。
29 小汀の「速かに金解禁を行ふには平価切下げの外なし」は1929(昭和4)年3 月16 日付『東洋経済新報』1340号に掲載された(日本銀行調査局1968、23 巻、60−5 頁に収録)。
30 なお、後に小汀が回想しているように、昭和 6,7 年ごろ、石橋は彼を引き抜こうとしたことがある。そのときに、石橋は給料が低いと小汀にいわれたと述べているが、小汀は同志は一箇所に固まらないほうがよいと考えていたと打ち明けている。事の真偽はともかく、当時の新平価解禁派の「同志的結合」を語る逸話である(小倉編1955、514 頁)。ちなみに、石橋は勝田貞次については入社を断っている。
31 1927 年の時点で『読売新聞』は10 万部、『中外商業新報』も10 万部だった。ちなみに『大阪朝日』126 万部、『東京朝日』40 万部、両方あわせて166 万部、『大阪毎日』『東京日日』はそれぞれ116.6 万部、45 万部の合計161.6万部。以下、『時事新報』『大阪時事新報』があわせて70 万部、『報知新聞』が25 万部である。当時の新聞の発行部数については、山本1981、別表6を参照。
32 ただし、こうした区別ができなくなるというのは、対内価値と対外価値を固定的に結びつける金本位制イデオロギーの副産物だった可能性はある。
33 なお、戦前の失業率については一貫したものがない。「戦前期では唯一、失業者の時系列的変化を月ごとにとらえている」という社会局作成『失業状況推定月報』は、推計であり利用にはかなりの注意が必要である(加瀬1997、5 頁)。ここでは安達氏が作成したものを参考にした。
34 安藤 1965、上、76−7 頁。
35 日本銀行調査局編1968、第23 巻に収録されている各種世論調査を参照。
36 決議声明には高橋亀吉、山崎、小汀が関わり、声明文は高橋が原案を起草した。鳥羽 1992、141 頁。
37 すでに前年 30 年11 月に浜口が狙撃されて、31 年4 月に内閣の首班は若槻礼次郎に代わっていたが、井上は蔵相に留任していた。
38 高橋 1955、下、第13 章第3 節の叙述を参照のこと。
39 これらは『インフレーションの理論と実際』として出版された(『石橋湛山全集』第8 巻に所収)。石橋の議論について詳しくは若田部2003e を参照されたい。
40 坂野 2001、241 頁。高橋亀吉もこうした意見を表明しているところが面白い。高橋1955,下、1415 頁。
41 安達 2002、若田部2003d、170 頁図表を参照のこと。さらに包括的なのは安達2003b であり、1)昭和恐慌当時の不良債権規模は昭和金融恐慌時に匹敵する規模であったこと、2)昭和恐慌当時の不良債権と昭和金融恐慌当時の不良債権はその発生原因が異なる可能性が高いこと、3)そのうち、昭和恐慌当時の不良債権はデフレが原因となっている可能性が高いこと、を明らかにしている。 
 
世界恐慌と経済政策 / 『開放小国』日本の経験と現代

 

1. はじめに
本報告では、『世界恐慌と経済政策:「開放小国」日本の経験と現代』(日本経済新聞出版社、2009年)の内容を紹介する2)。
私は、2000年5月に日本銀行金融研究所に着任して以来、10年ほどの間、両大戦間期とりわけ「高橋財政」期前後の日本の経済政策に関する研究に携わってきた。この研究を始めたきっかけは、1990年代以降の日本経済の停滞を受けて、歴史から政策当局にとっての教訓が得られるのではないかという問題意識に根ざしたものであった。研究を進めれば進めるほどに、研究課題の奥深さを身にしみて感じている。この間、2006年4月から2年半にわたり、神戸大学経済経営研究所で研究する機会を与えられ、自分なりに調査を深め、それを今回まとめることにした。至らない点は多々あろうかと思うが、本日はその内容をご紹介し、ご批判を賜れば幸甚である。
この写真は1933年6月にロンドンで開催された国際経済会議における日本代表団と報道関係者の記念写真である。この会議は、大恐慌の最中に世界各国の政策担当者が一堂に会して、大恐慌への対応について話し合うためのものであった。日本からも、当時日本銀行の副総裁であった深井英五(前列右から7番目、黒帽子を膝に乗せている人物)など、大人数の代表団が出席していた。しかしながら、世界各国の代表が集まったにもかかわらず、有効な対応策は打ち出されず、世界はその後ブロック経済化の途を辿り、第2次世界大戦へと突入していった3)。
続いて、当時の日本を取り巻く環境を振り返ってみたい。
近代日本にとって1つの大きな契機は幕末の開港であった。江戸時代の鎖国体制下の日本は、長崎や琉球、対馬などいくつかの貿易の窓口は存在したにしても基本的に閉鎖経済であったが、1859年の開港を契機に開放経済に移行した。
当時の世界秩序は英国を中心とするPax Britannica と呼ばれるものであり、現代に匹敵するようなグローバリゼーションの時代であったとされる。そうした時代背景の中で、日本はペリー来航を契機として世界秩序に強制的に参入させられたということができる。
日本は、貿易面では1911年まで関税自主権がなく、自由貿易の状況に置かれ、19世紀後半のグローバル化の中で国際競争にさらされていた。また、1897年に金本位制を導入し、それ以降、金融面でも本格的に開放された状態となり、海外の金融市場への依存を高めた。例えば日露戦争期には、高橋是清が中心となって海外市場で大量の外債を発行した。こうして日本は、貿易面でも金融面でも対外的に開放された経済となった。
表1 経済成長率とインフレ率(年率%)
                   実質GNP     GNP デフレータ
1914−19年「第1次大戦ブーム」 6.2     13.6
1920−29年「慢性不況」     1.8     −1.3
1930−31年「昭和恐慌」     0.7     −10.3
1932−36年「高橋財政」     6.1      1.5
1937−40年戦時統制経済    5.0     11.9
第1次大戦期から両大戦間期には、英国中心の世界秩序が動揺を来たし、金融および産業の中心がイギリスからアメリカに移っていく中で、各国は世界秩序の動揺への対応を迫られた。日本の場合には、第1次大戦により欧米列強が戦争状態に入る中で、欧米向けや欧米各国の植民地向けの輸出を伸ばし、急成長を遂げた後、その反動ともいうべき調整が1920年代に起きた。1920年代は日本にとってデフレ(物価下落)の時代であり、さらに1929年のニューヨーク株式市場の暴落(いわゆる「暗黒の木曜日」)を経て、続く1930年代には世界恐慌への対応を迫られた。
第1次大戦中から両大戦間期の日本の経済成長率と物価変動率をみると(表1)、第1次大戦(1914〜1918年)中から19年までの実質GNP 成長率は6%、GNPデフレータで見たインフレ率は14% となり、高成長・高インフレの時代(「第1次大戦ブーム」)であった。
1920年代の実質GNP 成長率は2%、GNP デフレータでみた物価変動率はマイナスとなり、低成長・デフレの時代(「慢性不況」)であった。この時期には金融システムが動揺し、1920年の「戦後反動恐慌」、「1922年恐慌」、1923年の関東大震災をはさんで、1927年の「昭和金融恐慌」が発生した。
1930年から31年にかけて、日本は金本位制に復帰した。復帰時の首相は浜口雄幸、大蔵大臣は井上準之助(元日本銀行総裁)であり、折からの世界恐慌と重なり、実質GNP はゼロ成長、GNP デフレータでみた物価変動率は2年連続で2ケタのマイナスとなった(「昭和恐慌」)。
1931年12月、高橋是清は5度目の大蔵大臣に就任し、1936年2月に二・二六事件で暗殺されるまでの4年強にわたり、大胆な経済政策を採用したとされる。1932〜36年にかけての日本は、実質GNP 成長率6%、GNP デフレータでみたインフレ率1.5% と、高成長・低インフレの良好な経済パフォーマンスを示した(「高橋財政」)。
高橋暗殺後の日本は戦時統制経済の時代に入り、高成長・高インフレとなり、第2次大戦後も激しいインフレの時代が続いた。
次節以下では、両大戦間期の日本の政策対応について述べる。このうち、2節では1920年代の恐慌への対応について述べる。2節の結論を先取りすれば、この時期の政策課題は、国内の金融システム問題への対応であったということができる(鎮目[2009a] 第5章)。3節では、1930年代の恐慌への対応について述べる(同第2章から第4章)。3節のポイントは、第1に、日本が「開放小国」であり、自国の政策運営が海外の動向に影響を受けやすい経済であったということである。第2に、「昭和恐慌」と「高橋財政」の関係である。「昭和恐慌」期には、旧平価(第1次大戦前の為替レート)で金本位制に復帰したことに伴う円高の影響と、世界恐慌の波及というふたつの要因が重なり、日本経済に強いデフレ・インパクトを与えた。これに対し、大蔵大臣復帰後の高橋是清は、まず金本位制から離脱し、そして、為替レート政策、財政政策、金融政策を含む総合的なマクロ経済政策を立案し、実行していった。第3に、「高橋財政」期のインフレ予想の変化の要因である。第4に、財政規律と「高橋財政」の関係である。4節は、まとめである。
2. 1920年代の恐慌とその対応4)
1920年代の日本では、銀行取り付けを伴う金融恐慌が何回か発生していたが、1927年の「昭和金融恐慌」を契機に不良債権処理と銀行再編が進展し、金融システム問題は収束に向かった(表2)。
表2 1920年代の金融恐慌関連年表
1920(大正9)年 / 4月7日 / 増田ビルブローカー銀行、破綻
1922(大正11)年 / 2月28日 / 石井定七商店、破綻
           / 10月19日 / 日本商工銀行(京都)休業
           / 11月29日 / 日本積善銀行(京都)の休業発表により京都・奈良
                     地方に銀行動揺発生
           / 11月30日 / 九州銀行(熊本)休業発表
1923(大正12)年 / 9月1日関 / 東大震災
           / 9月27日 / 震災手形割引損失補償令、公布
1927(昭和2)年  / 1月26日 / 震災手形2法案、帝国議会に提出
           / 3月14日 / 片岡蔵相、衆議院予算委員会で東京渡辺銀行が
                     破綻したと発言
           / 3月23日 / 震災手形2法、成立
           / 3月30日 / 銀行法、公布(1928<昭和3>年1月1日、施行)
           / 4月17日 / 枢密院本会議、台湾銀行関係の緊急勅令案を否決
           / 4月18日 / 台湾銀行、台湾島内の本支店・出張所を除き休業
           / 4月21日 / 十五銀行休業、各地の銀行取付けピーク
           / 4月22日 / 支払延期令(モラトリアム)公布
           / 5月8日日 / 本銀行特別融通及損失補償法、台湾ノ金融機関
                     ニ対スル資金融通ニ関スル法律、成立
1920年の「戦後反動恐慌」の契機は、増田ビルブローカー銀行の破綻であった。これに対して、日本銀行が特別融通を実施し、金融市場に流動性を供給して対応した。
その後、1923年の関東大震災に際して日本銀行は、関東大震災で被害を被った企業の手形(震災手形)の決済を特別に猶予する措置を採った。1927年に震災手形の決済猶予措置を終了させるための法案が議会に上程されたが、審議が紛糾し、その過程で大蔵大臣の片岡直温が「東京渡辺銀行が破綻した」と発言した。実際にはその時点で同行は破綻していなかったが、片岡蔵相の発言によって破綻に追い込まれ、第1次の金融パニックが起きた。これを収拾するため、政府は当時大きな不良債権を抱えていた台湾銀行に政府補償付きで日本銀行の特別融通を実施する勅令案を枢密院に提出した(議会閉会中のため)。ところが枢密院の審議が紛糾し、この勅令案が否決されたことにより、取り付けが全国に波及した。
この間の経緯について、当時から民間エコノミストとして活躍していた高橋亀吉は、1920年代の恐慌の根本的な原因は不良債権と不採算企業の整理が不徹底であったためであり、「大正9年反動恐慌以降における過去の創痍に対する糊塗彌縫が、たまたま、議会における震手問題の紛糾によって暴露せられ、それが発火点となって、ここに大恐慌の爆発となるに至った」と述べている5)。
ここで高橋是清が一時的に大蔵大臣に復帰し、モラトリアム(銀行休業措置)を発動し、さらに、日本銀行特別融通及損失補償法ならびに台湾ノ金融機関ニ対スル資金融通ニ関スル法律により、日本銀行の貸出に対して合計7億円の政府補償を付与することとした。7億円という額は、当時のGNP の約7% に相当する。なお、「昭和金融恐慌」の過程では、銀行の窓口に預金者が殺到し、一時的に銀行券の発行残高が急激に膨らみ、銀行券の印刷が間に合わなくなったため、急遽、表面しか印刷されず裏が白紙の銀行券を発行したというエピソードもあった6)。
最終的には、上記の財政面の措置と合わせ、1927年銀行法(1928年1月施行)の下で銀行合同と銀行規制・監督の強化が行われ、金融システムの動揺は収束したといわれている。日本銀行が銀行に出向いて考査を行うようになったのもこの時期である。
銀行数をみると、1920年代初には2、000を超える銀行が存在していたが、1928年を契機に銀行合同が活発化し、1920年代終わりにかけて急速に減っている(図1)。大蔵省の検査や日本銀行の考査の結果、経営基盤が弱いと判断された銀行を合併させるなどにより、金融システムを強化する方策が採られたためである。その背景には、1927年に「昭和金融恐慌」という危機が発生し、抜本的な改革を推進するという気運が盛り上がったという面もあったと考えられる。
銀行間で短期資金の融通を行うコール市場の金利(コール・レート)の推移をみると(図2)、1920年代前半には高止まりしていた。これは、資金の出し手が借り手のリスクに敏感になっており、リスク・プレミアムが高い状況が続いていたことを示唆している。1927年の「昭和金融恐慌」と銀行法制定を契機として、コール・レートは低下していった。その後、1930年代初頭の「昭和恐慌」期に一時的に上昇するが、すぐに低下する。このことからも、1920年代前半においては金融システムの動揺が日本経済の大きな問題であり、これが1927年を契機として収束したことが窺われる。
以上を整理すると、1920年代の日本経済にとっての大きな課題は、産業界の事業整理と金融機関の不良債権処理が不完全であったことであり、その結果、1927年の「昭和金融恐慌」が発生し、それが銀行界の構造改革と産業界の事業整理を促したという側面がある。なお、高橋亀吉は、「昭和金融恐慌」によって銀行界、産業界の整理・改革が進展したことが、1930年代の世界恐慌への対応を容易にした面がある旨述べている7)。
   図1 銀行数の変動
   図2 コール・レート(東京)と公定歩合
3.「昭和恐慌」と「高橋財政」
(1)「昭和恐慌」と「高橋財政」の開始
日本が国内の金融システム問題を解決し、国際社会への完全復帰を果たすべく金本位制に復帰していた1930年から31年にかけて「昭和恐慌」が発生する8)。
日本は第1次大戦中の1917年に、他国に追随して金本位制から離脱した。他国が金本位制に復帰する中、日本は国内の金融システム問題から復帰が遅れていたが、ようやく準備が整ったとして1930年1月に旧平価で金本位制に復帰した。しかしながら、そのタイミングは世界恐慌と重なり、旧平価による金本位制復帰に伴う円高との相乗効果によって、国内経済が大きな痛手を受けてしまった。
イギリスの金本位制離脱(1931年9月)を契機に、日本は対外資本流出に見舞われ、1931年12月には日本も金本位制から離脱する。
   図3 日米英3ヶ国の物価と円為替レート
日米英3ヶ国の卸売物価の推移をみると(図3)、第1次大戦前には安定していたが、第1次大戦中に急激に上昇し、第1次大戦後に急激に下落した。その際、米英に比べて日本の下落の程度は小さく、第1次大戦前を基準にすると、日本の物価は米英に比べて割高になっていた。日本が旧平価で金本位制に復帰し、復帰後も旧平価を維持するためには、米英と同程度まで物価を引き下げる必要があり、これが1920年代の日本の重要な政策目標の一つになっていた。具体的には、1929年時点で第1次大戦前に比べ1〜2割程度の割高となっていた。このため、金本位制復帰が固まり、続いて実際に金本位制に復帰した時期には、内外価格差を是正するためのデフレ圧力が生じていた。これは「予想されたデフレ」ということができる。
上記の「予想されたデフレ」に加え、日本が金本位制に復帰した1930年から31年の時期には、世界恐慌が発生し、米英をはじめとする海外物価が急激に下落したため、日本の物価は海外の物価下落に引きずられるかたちで「予想されないデフレ」が起きてしまった。これら二つの効果が相まって急激なデフレが起きたというのが、1930年から31年の状況であった。
それに対する対応策として日本は金本位制から離脱し、離脱前の金平価との比較で円為替レートは1931年末から1932年中にかけて40% 程度下落した。この結果、海外の物価が停滞する中で、日本の物価は上昇した。
ここで注意すべきは、「高橋財政」期の日本は完全に変動レート制に移行したわけではなく、下落した為替レート水準で再びポンドにペッグしたということである。1931年末から1933年初までの時期において日本は、1回限りの為替レート調整を行い、これによって物価が1932年〜33年にかけて上昇し、そのあとは安定したと考えることができる。
(2)「高橋財政」の本質
「高橋財政」の本質については、中村隆英氏の先駆的な研究があるが、金本位制を離脱することによる為替レートの下落、長期国債の日本銀行引き受けを伴う財政支出拡大、そして金融緩和という、マクロ経済政策全体として捉える必要がある。これら3つの政策は、いずれもケインジアン的な景気刺激策であり、これを大胆に進めることにより、世界恐慌下で各国がデフレと不況に陥る中、日本経済は比較的早期にそこから脱却していくこととなった。ケインズが『一般理論』を出版したのは高橋是清が暗殺された1936年であり、高橋は『一般理論』に先駆けてそのエッセンスを実践していたということができる。
これら3つ(為替レート・財政・金融)の政策のうち、どの政策が最も効果が高かったかを実証的に確認するのは、なかなか難しい。梅田雅信氏の研究によれば、国内の物価に対しては、海外物価と為替レートの影響が強かった一方、財政政策や金融政策の影響は弱かったとされている9)。つまり、デフレからの転換という意味では為替レートの動きが重要であったという結果が示されている。一方、飯田泰之氏と岡田靖氏の研究によれば、金本位制からの離脱と長期国債の日本銀行引受けによって、金融政策のレジーム転換が行われ、インフレ予想が転換されたことの影響が大きかったとされている10)。
以下では、「高橋財政」期の為替レート政策、財政政策、金融政策を国際比較を交えながら概観する(図4)。
日本、ならびに日本と同様に「周辺国」に位置づけられる各国の為替レートの推移をみると、「高橋財政」初期の日本の為替レート下落の度合いは、他国に比べて大きかったことが分かる。また、中央政府の財政バランスをみると、「高橋財政」期の日本の財政赤字は、他国に比べて大きかった。
一方、金融政策については、「高橋財政」期の日本は、英国に追随するかたちで公定歩合を引き下げているが、英国よりも下げ幅は小さかった。1回限りの為替レートの引き下げの後、英ポンドにペッグする中で、日本の金融緩和は海外の動向から独立して自律的に行われていたわけではなく、固定レート制下で英国の金融政策に追随して行われていたと考えられる11)。この間、通貨供給量をみると、高橋暗殺後は他国に比べて高い伸びを示すこととなるが、「高橋財政」期には、英ポンド圏諸国にほぼ等しい年率6% 程度の緩やかな増加を示している。したがって、「高橋財政」期の金融政策は英国に追随しつつ緩やかな緩和を行っていたというのが実態と考えられる。
   図4 マクロ経済政策の国際比較
拙著では、日本の金利と海外の金利の連動性を検証している(第2章)。先行研究で使われている両大戦間期日本の短期金利指標は、手形割引など民間向け金利であるが、これを海外の民間向け短期金利と比べてみると、連動していない。その理由は、1920年代の日本では金融システムが動揺し民間向けの金利に高い信用リスク・プレミアムが付加されていた時期があることから、こうした時期を分析期間に含めてしまうと連動関係が崩れてしまうためと考えられる。
そこで拙著では、日本と海外について比較可能な金利として長期国債金利を新たに導出したうえで、日本と米英両国の金利の連動関係を検証してみた(図5)。その結果、両大戦間期を通じて日本の金利は英国の金利と連動していることが示された。したがって、日本の金融政策が英国に追随していたことが実証的に確認されたと考えている。
   図5 日米英3ヶ国の長期金利
「高橋財政」下の日本経済のパフォーマンスを生産と物価についてみると、鉱工業生産、卸売物価ともに他の多くの国に先駆けて1932〜33年にかけてプラスとなっている(図6)。これが高橋是清の名前を世界的に有名なものにした。2003年に日本金融学会で行われた招待講演の中で、Ben Bernanke 氏(現FRB議長、当時はFRB 理事)は「高橋是清は日本を大恐慌から救った」と述べている12)。
   図6 生産と物価の国際比較
(3) インフレ予想と「高橋財政」
拙著の中では、「高橋財政」期に市場関係者の予想をデフレからインフレに変化させた契機について検討している。前述の飯田・岡田論文では、英国が金本位制を離脱した1931年9月と、長期国債の日本銀行引受けが初報道された1932年の3月に、予想インフレ率が大幅に上昇していると論じている。彼らの分析では、実際に観測された卸売物価と名目金利を使って事後的に観測された実質金利を推計し、名目金利から事後的な実質金利を差し引きすることによってインフレ予想を推定している。すなわち実際に観測された卸売物価が事前に予測されていたであろうということを前提にしている。しかしながら、その前提が妥当なものであったかどうかは検証されていない。さらに、彼らが分析に使用している金利データは民間の証書貸付金利であり、先ほど述べたように、1920年代の民間金利に金融システムの動揺を反映した信用リスク・プレミアムが付加されていたことを踏まえると、その分析結果には大きな留保が必要となる。そこで拙著では、このような実証分析上の論点を踏まえ、イールド・カーブ分析および商品先物市場の動向という2つの面から再検証を行ってみた(第3章)。
   図7 イールド・カーブの動き(1931年8月〜1933年1月)
第1に、さまざまな残存期間の国債金利を導出し、イールド・カーブを描いてみた(図7)。その結果、その水準が時期によって上下にシフトしていたことが確認された。ファイナンス論の分野では、イールド・カーブの水準のシフトは市場参加者のインフレ予想の変化を反映しており、上方シフトはインフレ予想の強まりを、下方シフトはインフレ予想の弱まり(ないしデフレ予想の強まり)を示すとされている13)。
英国が金本位制から離脱する直前の1931年8月から日本が英国に追随するかたちで金本位制から離脱する1931年の12月にかけて、イールド・カーブは大幅に上方にシフトしており、インフレ予想の急激な高まりが起こっていたと考えられる。その背景にあるストーリーは、「英国が金本位制から離脱してしまったので、日本も近いうちに金本位制から離脱するに違いない。そうすると、日本は金本位制という物価のアンカーを失ってしまうので、物価上昇に歯止めがかからなくなってしまうかもしれない」というものである。イールド・カーブの上方シフトは、市場参加者がこのように予測したという仮説と整合的である。
次に、長期国債の日本銀行引受けが具体化した時期、すなわち1932年3月に高橋是清が初めてそのことを金融関係者に語ったとされる時期から、同年6月に赤字国債発行のための予算案と法案が議会を通過し、実際に日本銀行によって引受けが実施される同年11月頃までの時期のイールド・カーブの動きをみると、下方にシフトしている。このことは、長期国債の日本銀行引受けのアナウンスが将来のインフレに繋がると市場関係者が考えたという飯田・岡田仮説とは整合的ではない。むしろ、1932年中に「高橋財政」の内容が具体化するにつれ、日本政府は将来歯止めのないインフレにならないような経済政策を行うであろうと市場関係者が考えるようになり、インフレ予想が沈静化していったという仮説と整合的である。
第2に、商品先物市場の参加者の物価変動に関する予想を検証してみた。当時の日本では、米、生糸、綿糸、綿花、砂糖といったさまざまな商品について先物取引が行われていた。先物取引は当該商品の将来価格を予測して行われ、インフレ予想の変化は商品先物価格に影響を与えていたと考えられる。1931〜32年の商品先物市場の参加者のコメントを拾ってみると、英国が金本位制から離脱した1931年9月から日本が離脱する同年12月にかけての時期には、日本も早晩離脱しインフレになるだろうという予測が示されている。一方、1932年中のコメントを拾ってみると、少なくとも長期国債の日本銀行引受けに関する報道は、市場関係者の間ではほとんど注目されていない。したがって、商品先物市場関係者は、長期国債の日本銀行引受けがデフレからインフレへの大きな転機と見ていたとは言えないのではないかと考えられる14)。
以上の実証分析から、金本位制からの離脱は、人々の予想がデフレからインフレに変化する大きな契機になった一方、長期国債の日本銀行引受けはそうした契機ではなかったという仮説と整合的な結果が得られた。
(4)「高橋財政」と財政規律
拙著では、「高橋財政」と財政規律との関係を検討している(第4章)。
学界や政府関係者の間には、第2次大戦後の急激なインフレに至るきっかけを「高橋財政」期における長期国債の日本銀行引受けに求める見解があり、長期国債の日本銀行引受けが財政規律を失わせてしまったとの言及がしばしばなされる。例えば、1947年財政法は、日本銀行による国債の引受けを原則禁止している。当時の大蔵省の野田卯一主計局長は、同法案の提案理由説明のなかで、「日本銀行に国債を引き受けさせると財政インフレを引き起こすことになる」と述べている15)。また、島謹三氏は、長期国債の日本銀行引受けという制度には、引き締め政策への転換が難しいという問題が内包されていたとの旨を論じている16)。
Michael Bordo とHugh Rockoff 両氏の研究では、国際金本位制には財政規律を課すメカニズムが内在していたと論じている17)。すなわち、国際金本位制に参加するためには為替レートが安定的に推移するように努める必要がある。財政規律が失われた状態では固定為替レート制が維持できない。したがって、金本位制への参入によって、政府に財政規律を維持するインセンティブが生まれるという趣旨である。これを裏返すと、金本位制からの離脱により財政規律のメカニズムが効かなくなるという面があるのではないかということになる。
拙著では、「高橋財政」期には制度として財政規律を課すメカニズムが失われていたと論じている。長期国債の日本銀行引受けに先立って、日本は金本位制から離脱した。その背景には、それまで国際金本位制の要であった英国がすでに金本位制から離脱していたという事情があった。したがって、国際金本位制の下で機能していた財政規律メカニズムが失われていた。しかしながら、国際金本位制に代わるメカニズムは導入されず、制度としての財政規律メカニズムは確立されなかった。こうした中で、長期国債の日本銀行引受けという制度を導入したことが、長期的な観点からみると財政規律の弛緩につながったと考えられる。
財政の維持可能性を統計的に検証する方法としてBohn 検定という手法がある18)。これは、単純にいうと、前年度末の国債残高が増加した場合に政府が基礎的財政収支(国債の発行収入と元利払いを除いた財政収支)を改善させて財政を引き締める一方、国債残高が減少した場合には財政を緩めるという財政運営を行っていれば、財政は維持可能である、という基準である。
Bohn 検定の手法を図式化すると、横軸に前年度末の国債残高、縦軸に当該年度の基礎的財政収支を採った場合に、両者が右上がりの関係になっていれば、国債残高が増加した場合には基礎的財政収支を改善させていることになり、財政は維持可能であるとされる。一方、これが右下がりになっていると、国債残高が増えているのに財政赤字を増やしていることになり、財政は維持可能ではないということになる。
両大戦間期の日本では、1931年度までは前年度末の国債残高と当該年度の基礎的財政収支との間に右上がりの関係が保たれていたが、1932年度から右下がりの関係に移行していることが、統計的に確認できる(図8)。統計的にみると、日本の財政運営は1932年度から維持可能ではない状況に陥っていたことになる。
   図8 前年度末国債残高と基礎的財政収支(対GNP 比)
ところで、1932年から36年頃までは、日本銀行は引き受けた国債のほぼ全額を売りオペによって金融機関に売却することが可能であった。言い換えれば、国債を日本銀行から購入していた金融機関は、日本の財政が破綻して将来国債が暴落する危険性はそれほど高くないと判断し、国債を購入していたことになる。これは、高橋是清自身がある種の財政規律として機能していると市場参加者が判断しており、いわば市場参加者が高橋の財政運営を信認していたことの現われと考えられる。実際に高橋は、軍部の予算要求を身を挺して抑制し、財政膨張を抑えて、国債が円滑に消化されるような環境を整えようと努力していた。しかしながら、その結果、二・二六事件で軍部によって暗殺されてしまい、高橋という個人の能力と意思に依存した財政規律は失われてしまった。
日本銀行金融研究所アーカイブには、当時副総裁を務めていた深井英五が執筆し、1934年9月に大蔵省の青木一男理財局長に提出したとされる「国債消化力ニ関スル副総裁ノ意見」というメモの複写版が残されている。このメモでは、市場関係者の間で国債償還に疑義が生じる場合、国債消化が難しくなる可能性が言及されている。
最も憂慮すべきは国債償還力に対する疑惑又は貨幣価値の下落に対する懸念より来る国債の不消化なり。之が実現するときは財政上の困難を来たすのみならず経済機構及び社会機構上の由々しき問題を起すべし。貨幣価値の下落に対する懸念を生ずるときは恐らくは金利暴騰を来たすべし。国債の不消化は右等疑惧の結果たると同時に更らに其の疑惧を助長するの原因となりて転々累増すべし。今日までは幸にして斯かる不祥の徴候なきが故に今にして之を云為するは無用の杞憂たるが如きも一度其の勢を生ずるときは進行急速にして対策頗る困難なるべきを以て予め戒心せざるべからず。是れ固より国家大局の問題の一部なれども財政政策、通貨金融政策、為替政策の三方面に於て出来るだけ慎重に考慮するを要す。此に為替政策を云為するは貨幣価値下落の懸念が為替の方面より生ずる場合多きを以てなり。後から振り返ってみると、高橋暗殺後に結局は財政規律が失われて国債消化に支障を来たしたわけであるが、高橋財政の中期(1934年)の段階で、政策当局の中には財政規律の問題に危機感を抱いていた人物もいたということは記すに値する。
4. おわりに
本報告の論点を整理すると以下のとおりである。
1920年代の日本経済にとっての課題は、国内金融システムの動揺への対応であった。1927年の「昭和金融恐慌」の後、財政面の措置と銀行合同や規制・監督の強化等を通じた銀行部門の構造改革が進展したことにより、金融システム問題は解決の方向に向かった。
1930年代の日本経済にとっての課題は、旧平価による金本位制復帰と世界恐慌の波及によって引き起こされたデフレならびに不況への対応であった。これに対する高橋是清の処方箋は、為替円安、財政拡大、そして英国に追随する形での金融緩和というケインジアン的な総需要管理政策であり、これは有効に作用した。
「高橋財政」期の日本において、人々の予想をデフレからインフレへと転換させる鍵となったのは為替円安であり、長期国債の日本銀行引受けではなかったと考えられる。「高橋財政」期において、長期国債の日本銀行引受けがインフレ予想を惹起した証拠はない19)。
最後に、「高橋財政」と財政規律の関係については、「高橋財政」期には金本位制に代わる財政規律メカニズムが確立されない中で、高橋是清個人の能力と意思に依存しながら、長期国債の日本銀行引受けを導入していったことが、長期的な観点からみると財政規律の喪失に繋がってしまったのではないかと考えられる。

1) 本稿は、2009年12月5日に行われた成城大学経済研究所第68回講演会での講演の内容を書き起こしたものである。ここに示された意見は執筆者に属し、必ずしも日本銀行の見解を示すものではない。
2) 上記の拙著(以下、鎮目[2009a])のほか、鎮目雅人[2009b]「両大戦間期の日本における恐慌と政策対応:金融システム問題と世界恐慌への対応を中心に」『日銀レビュー』2009-J-1 を参照。
3) 2009年4月に、同じロンドンでG20 の会合が開催された。G20 会合の前後の報道をみると、76年前の失敗を繰り返さないためにどうしたらよいかという議論がなされていた。
4) 本節の記述については、鎮目[2009a] 第5章のほか、鎮目[2009b] pp. 2-3 を参照。
5) 高橋亀吉[1955a]『大正昭和財界変動史』中巻p. 739。
6) 日本銀行金融研究所貨幣博物館ホームページ参照。
7) 高橋亀吉[1955b]『大正昭和財界変動史』下巻pp. 1315-1316。
8) 金本位制復帰の経緯については、前掲鎮目[2009b] pp. 4-5 を参照。
9) 梅田雅信[2006]「1930年代前半における日本のデフレ脱却の背景:為替レート政策、金融政策、財政政策」『金融研究』第25巻第1号、pp. 145-181。
10) 飯田泰之・岡田靖[2004]「昭和恐慌と予想インフレ率の推計」岩田規久男編『昭和恐慌の研究』pp. 187-217。
11) 為替レートと金融政策の関係については、国際マクロ経済学の分野で「マクロ経済政策のトリレンマ」として知られる有名な命題がある。これは、国境を越えた資本移動の完全な自由、固定為替レート、(国内経済の安定化のための)自律的な金融政策、の3つの政策目標は同時には達成できない、というものである。
12) Bernanke、 Ben S. [2003] “Some Thoughts on Monetary Policy in Japan、” Remarks by Ben S.Bernanke、 Member、 Board of Governors of the Federal Reserve System、 Before the 60th nniversary Meeting、 Japan Society of Monetary Economics、 Tokyo、 Japan、 May 31.
13) Dewachter、 Hans and Marco Lyrio [2006] “Macro Factors and the Term Structure of Interest Rates、” Journal of Money、 Credit and Banking、 38 (1)、 pp. 129-138.
14) 詳細は鎮目[2009a] pp. 113-128 を参照。
15) 92回帝国議会衆議院における提案理由説明」平井平治[1947]『財政法逐條解説』一洋社、p. 161。
16) 島謹三「いわゆる高橋財政について」『金融研究』第2巻第2号pp. 83-124。
17) Bordo、 Michael D.、 and Hugh Rockoff [1996] “The Gold Standard as a Good Housekeeping Seal of Approval、” Journal of Economic History、 56 (2)、 pp. 389-428.
18) Bohn、 Henning [1998]、 “The Behavior of U.S. Public Debt and Deficits、” Quarterly Journal of Economics、 113 (3)、 pp. 949-963.
19) その背景を考えるに当たっては、当時の日本が「開放小国」であったという点が重要である。貿易面では、輸出について海外市場に大きく依存し、輸入品を通じた海外物価や為替レートの影響も大きかった。一方、金融面では、日本がロンドンやニューヨークの市場で過去に発行した国債の利払い額はかなり大きかったため、為替レートは一定の水準で安定させる必要があった。したがって、日本の政策当局は、変動為替レート制に移行するのではなく、固定為替レート制を選択した。こうした政策運営レジームの下では、日本の金融政策は海外から独立して自律的に運営されていたわけではなく、事実上英国に追随していた。その意味では、現代のエマージング諸国の状況に近いということができる。 
 
浜口雄幸内閣と昭和恐慌

 

歴史で「もしも」を考えること
おはようございます。よろしくお願いします。「歴史にif(もしも)はない」などといわれます。「事実は事実としてしっかりと認識すべきだ」という意味でならこの言葉は正しいでしょう。しかし歴史学は「なぜあんな馬鹿なことをしたのか?二度と同じ間違いをくりかえさないためにはどうすべきか?」この問いにこたえようとして生まれた学問という性格を持っています。歴史の中にいろいろな可能性を考えることは「ひょっとしたら違う道があったのではないか」「間違いはどこから起こったのか」などを考えることが重要であり、「if(もしも)」を考える視点は大切です。今勉強している時期でいえば「戦争への道は必然だったのか」「なぜ止められなかったのか」「立ち止まり、引き返すチャンスはいつだったのか」「どんな方法があったのか」「なぜチャンスを逃してしまったのか」などなどを問い、日本が戦争を選択せずにすんだ可能性を探ることは、未来を考える上でも大切な視点だと思います。歴史を必然としてとらえるのではなく、さまざまな選択の中で、さまざまな要因の積み重ねの中で、現在があることを学ぶことが大切と思うのです。「歴史に『もしも』はない」と安易に語り、論破できたような気になっていると、その歴史研究は事実の後追いとなってしまい、あるいは歴史の可能性をも見落とし、歴史の深く理解をする事はできなくなると思います。
浜口雄幸という人物
1929(昭和4)年に成立した浜口雄幸立憲民政党内閣、この内閣が戦争への道をおしとどめる理念と気迫をもっていたと考える人は少なくないと思います。浜口は、昭和天皇の叱責で崩壊した田中義一内閣に代わって内閣を組織しました。立憲民政党は、憲政会が政友本党と合併して成立した政党で、立憲改進党の流れを引き都市に基盤を置く政党です。前身の憲政会党首であった加藤高明が三菱財閥の娘婿であったように、浜口も三菱とは太いパイプを持ち、選挙資金の多くも三菱から出ているという財閥との関係も深い政党です。 戦前の政党政治はこのような面を持っていました。立憲民政党は、日本の工業化、都市化にともない支持層を拡大し、もっとも普通選挙の恩恵を受けやすい政党でもありました。浜口は高知県の出身。大蔵省の官僚出身ですが、「土佐のイゴッソウ」といわれるような頑固で正義感の強い性格が禍して出世は遅れがちでした。しかし、その人柄を愛した人たちのすすめで政界に進みました。自由民権運動の影響もあったとの指摘もあります。本来は幸雄という名のはずが、お喜びした父が泥酔したまま役場に届けを出したため、名前の上下を間違えたというエピソードが残っています。お酒の好きな人の多い高知県らしい話ですね。こうしたエピソード、「ライオン宰相」とよばれる独特の風貌、小細工をせず正面から誠実に取り組み姿勢、さらにラジオ放送などで率直に国民に訴えかける姿勢もあって、多くの大衆から愛されました。天皇のお気に入りでもあったみたいです。
浜口がめざしたもの
浜口の考え方の基礎には「いくら軍備を拡張しても国力の差から英米と戦って勝利することは不可能である」というリアルな現実認識がありました。ですから国際連盟などを中心に世界との協調すること。とくに中国との関係修復による緊張緩和が軍備縮小につながり、貿易の活発化にもつながると考えていました。また、貿易を活発化し、物価を安定させるために、主要国がすでに復帰し、長年の懸案となっていた金本位制復帰もめざし、金解禁を計画します。この過程で、不採算企業を退出させし、産業構造を高度化して、製糸業と綿紡績業中心の経済から重化学工業などにも足場を置く経済へ変えていこうと考えました。さらに金解禁をすすめるには、健全な財政運営が必須であり、それが軍部のわがままな軍拡要求を拒否できる大きなカベになるとも考えていたといわれます。このように浜口は軍国主義的ではない、日本のあり方を一貫性を持った理論で推し進めようとしていました。浜口たちは、日本経済を立て直し、田中義一内閣で進んだ軍国主義化への道を緊張緩和による平和回復へと引き戻そうとしたのです。
「男子の本懐」
しかし、浜口の目指す方向は、中国における特殊権益の拡大や軍備拡大こそが日本の安全と利益につながると考える軍部や右翼勢力と対立するものでした。金解禁にともなう構造改革が不景気をもたらし労働者や中小企業経営者、農民といった人々の不満を高めるものであることもわかっていました。 浜口は自らの行おうとする改革が自らの命を危険にさらすことを知っていました。 浜口の口癖は「男子の本懐」で、かれが暴漢に狙撃されたときもこの言葉をつぶやいたといわれています。命をかけて軍国主義への道に竿さすこと、これが浜口にとっての「男子の本懐」でした。そして幣原喜重郎を外務大臣に、日銀総裁であった井上準之助を大蔵大臣とします。ドラマ風に言えば「一緒に死んでくれ」という感じですね。
中国との関係改善
少し具体的にみていきます。幣原国際協調外交、対中国中立策が復活します。中国との関係修復をすすめ、米英とともに中国国民政府を承認、それを支え成長をはかる友好協力方針をとります。中国が押しつけられていた不平等条約の改正を支持、日本の企業の利益を守りつつ関税自主権の承認にふみきり、治外法権についても段階的な解消の方針をめざします。こうして中国との関係は改善の方向に進みました。ただ予想外だったのは、中国での民族運動が思った以上に進んでいたこと。これをうけ国民政府は利権回収や満鉄平行線敷設など日本の権益にふれる動きをすすめており、米英などもこれに協力的だったことです。こうした動きは日本国内の世論を刺激し、陸軍や右翼などの勢力は「日本の権益を守らない『軟弱外交』である」と、野党政友会とも結んで批判を強めます。
ロンドン軍縮会議
つぎに取り組んだのが、軍縮問題です。ワシントン海軍軍縮条約は主力艦(戦艦)の保有数を決められました。すると、「戦艦とちがえばいいだろう」とばかりに、各国は巡洋艦とか、潜水艦などの戦艦以外の軍艦を増やしました。これもなんとかしたいと1927(昭和2)年ジュネーブ軍縮会議が開催されましたが失敗に終わりました。軍備拡張は、各国にとって経済負担となるだけでなく、互いの疑心暗鬼を強め、緊張をまし、さらなる軍拡につながります。こうした状態を改善しようと、1930(昭和5)年ロンドン軍縮会議が開催されます。浜口内閣は元老の西園寺や天皇側近とも打ち合わせのうえで会議に臨みます。この会議に、最も神経質になっていたのは・・・言うまでもなく海軍です。海軍は会議に臨んで、浜口らに釘を刺します。「対米英70%以下では困る。このラインは死守して欲しい」と。ところが、交渉の結論は69.75%。「少しぐらい負けてくれたらよかったのに」とのちの展開を知ると思うのですが、「アメリカ議会の承認を得られない」という事情からやむを得ないと判断します。そこで現地の海軍大臣をはじめ、海軍の大勢の理解も得て、浜口は内閣の責任で条約を締結しました。ところが数人の海軍関係者は納得していませんでした。これが統帥権干犯問題として浮上します。この点については、あとで触れることにしましょう。
金解禁と昭和恐慌
管理通貨制度
浜口の政策のもう一つの柱「金解禁」政策をみていきましょう。この当時、世界の大勢が金本位制度に復帰していたにもかかわらず、日本がとっていたのは管理通貨制度でした。現在の世界が採用しているやり方です。管理通貨制度では、それぞれの国が自分の判断で通貨を発行できます。したがって自国の金庫の中にお金がなくとも、必要な大量のお金を発行することが可能となります。ただめちゃくちゃに通貨を発行すればインフレになって国がつぶれますので、どのように手綱をとるか、なかなか面倒な制度です。収入不足は、原則として国内外から公債という借金で穴埋めをします。財布事情を気にせずローンをくんでクレジットカードで買い物をする感じですね。戦争などで大きなお金がいるときは都合がいいですが、どうしても金(かね)使いが荒くなり、一度はじめてしまったことは止められず、借金を重ねてしまいがちです。そうなると、インフレが起こりやすく、国際信用も低下し、貿易にも支障が出ます。
金本位制度と浜口・井上のねらい
これにたいして「『身の丈』に合った額の通貨しか発行しない」という制度が本位制度です。この場合の『身の丈』は、それぞれの国が持っている金または銀の量です。金の場合が金本位制、銀の場合が銀本位制です。金解禁を断行したとき、日本は13億6千万円分の金をもっていました。この額をもとに計算して、発行すべき通貨量を決めるのです。そして、通貨を日本銀行に持って行くといつでも金と交換してもらえます(金兌換制度)。お札にもそう書かれます。ちなみに100円の通貨は、金75gグラムと交換してもらえます。ちなみに金75グラムは49.845ドルです。ですから円はいつでもドルと決まったレートで交換でき、安心です。浜口と井上はこういう仕組みで経済が安定化し、貿易発展にも役立つと考えたのです。金本位制は財政を安定させます。『身の丈』に合った額の通貨しか発行しない」のですから、財政規模は「日本がもっている金の量」に規定されます。これにより、「もっと金をくれ」という軍部や政党などの要求も拒むことができますね。浜口らのねらいは、財政面から軍部を押さえ込む点にもあったともいわれています。しかし、大きな問題もあります。発行する通貨が減るとどんな経済現象が発生しますか?・・・そう、デフレです。お金に対してモノの値段が低くなるという現象、作っても売れないという状態になりがちなのです。当然不景気になります。浜口らはこれをやむを得ないと考えていました。デフレになることで、質の悪い製品、生産性の悪い設備、外からの資金で延命している企業が姿を消すことは仕方がないと考えたのです。他方、貿易が安定すれば鉄鉱石や綿花といった原材料の輸入がしやすくなり、とくに重化学工業の発展が促される。これによって、「ぜい肉をそぎ落として筋肉質になった日本は面目を一新して世界の市場に乗り出していける」と考えていました。財閥など大企業に都合がよく、中小企業には厳しい政策という批判は逃れられないでしょう。他方で労働組合法や小作を救済するような社会政策も検討していました。さらに、アメリカの銀行の保証も取り付けました。井上は全国を遊説し金解禁の意義を説き、国民の納得を得る努力もしました。この時期、人々は浜口らを信頼していました。そして1930(昭和5)年1月11日、金解禁政策が開始されました。
昭和恐慌の発生
さて、この金解禁が始まった年、1930年、何か気がつきませんか。この前年、1929年、何かありませんでしたか。世界史あるいは中学校の「公民」にこの年号がでてきたのですが・・・。そう、世界恐慌(大恐慌)が発生した年です。つまり、金解禁は、ニューヨーク・ウォール街の株取引所で株価の大暴落が発生した2か月半後に実施されたのです。この期間が微妙ですね。被害が拡大しつつあるという感じで、最悪状態にはなっていない。世界中が不景気になりかけのとき。本当は命にかかわる大病だったけど、鼻風邪にでもかかったかな、こういった感じですか。あとから見ると最悪のタイミングに最もやってはいけないことをやったことがわかります。今も昔も、不景気になると安定資産として金や銀などを買い集めます。中東なんかのバザールではそこら中で金のネックレスなどを売っています。なぜかわかりますか。政情や経済が不安定な地域では、安定資産として金や銀を身体に身につけておき、必要に応じて売却するためなのです。だから金製品を持ち歩くのです。不景気になり出したことを心配した人々や企業は金という資産を手元に置こうと考えます。その真っ最中に、日本が「金を売ってやる、しかも割安で」と言い出したのです。世界中から注文が殺到します。金はあれよあれよという間に流れ出します。予定に反して輸出が伸びなかった事とも相まって、金解禁時の13億6千万円あった金は2年後の1932年4億円に減ってしまいました。大資本家でもある貴族院議員がいいました。「荒れ狂う暴風雨のさなかに雨戸を開け放したようなものだ」と。この例えは事態をみごとに言い表しています。こうして昭和恐慌が始まります。昭和恐慌は、世界的な現象としての世界恐慌(大恐慌)と浜口内閣の失政としての金解禁政策が引き起こしたものでした。
輸出減退とデフレの深刻化
持っている金の量しか円を発行できない、これが金本位制です。だから、手持ちの金が減れば発行される円の量が減ります。これにより、強烈なデフレが発生しました。物価は金解禁から2年間で30%下落、生糸に至っては66%の下落となります。生糸と並ぶもう一つの主要輸出品の綿糸・綿布は、二大輸出先の中国とインドが自国産業を守るために関税率を引き上げ、やはり輸出が減少しました。金解禁によって輸出が好調になるという思惑は外れ、日本の輸出額は43%という大幅な減少となりました。
昭和恐慌と農村
世界恐慌はアメリカから始まりました。当時アメリカは世界中に金を買い付ける「世界の銀行」でした。アメリカがドイツに金を貸し、ドイツが賠償金としてイギリスやフランスにその金の一部を支払い、イギリスやフランスがアメリカの大戦中の借金を返す、というシステムができたことで、1920年代のヨーロッパや世界が動いていました。ところがアメリカがコケました。どういうことがおこりますか?アメリカの銀行はドイツに金を貸さなくなります。それどころか世界中の国で「貸した金を返せ」といい出します。どのようなことが起こるでしょう? 世界中の国でお金が回らなくなり、激しい不景気に襲われます。世界恐慌の恐るべき意味が分かるでしょう。この豊かなアメリカの、豊かな人に支えられていたのが、日本の輸出品の「不動の四番バッター」、生糸でした。人は、景気が悪いと贅沢品から節約をはじめます。そのため贅沢品である生糸や絹織物の売れ行きが落ち、生糸の価格は2年間で66%の下落、二年前の1/3の値段となったのです。これでは手間賃どころか、原料費にもなりません。生糸の原料の繭は、農村でつくられます。だから生糸輸出の激減は農村へ大きなダメージを与えました。さらに運の悪いことに1930(昭和5)年は記録的な米の大豊作でした。豊作ってうれしいはずでしょ。でも実際はそうじゃないのです。わかりますか。市場価格は需要と供給の関係で決まるという話、中学校で習いましたね?この年は米の供給が非常に多かったのです。これにより米の値段は暴落、8月に1石あたり30円であった米価は10月には19円と2/3と暴落、豊作貧乏といわれました。ところが翌1931(昭和6)年は一転して大凶作、さらに翌年も凶作がつづきます。農家が抱える借金は年間所得の1.5倍を超えました。小学生にとって昼休みはうれしいはずです。しかしこのころの小学生、とくに東北の子どもたちにとっては辛い時間でした。昼休み子どもたちがぞろぞろと教室からでていくことが、おなじみの風景でした。弁当をもってこられなかったのです。彼らを「欠食児童」とよび、全国で20万人にのぼりました。「娘の身売り」を村役場が斡旋するようにすらなりました。
「デフレスパイラル」
都市においても恐慌の被害は深刻でした。輸出量の激減と物価の下落は工場を、企業を次々と苦境に陥らせます。最初は売値を下げはじめます。賃金の引き下げや労働時間の短縮、さらには「リストラ」(人員の削減)や事業所の整理がすすみます。どうしようもなくなった企業が休業や倒産に追い込まれます。経営者の夜逃げや賃金不払いなどが紙面をかざります。こうして人々の収入は低下、町中に失業者があふれます。こんな状態で新たに人を雇う会社は珍しい。被害は若者にも及びます。当時の流行語が「大学は出たけれど」映画もつくられます。苦労に苦労を重ねてやっと大学を卒業しても、勤め先がないという事態が発生します。みんなの数年前の先輩のころ「就職氷河期」なんていったけど、このときもそう。卒業と同時に無職者の群れの中に身を投じることになる、こういう感じです。大正教養主義を支えてきたサラリーマンなど新中間層といわれる人々にも危機が迫り、文化や芸術などにも不安や絶望感が映し出されます。仕事を失い、新たな仕事を見つけられない人々は、これも不況のどん底にあるふるさとである農村へ帰っていきます。兼業農家の兼業も切られます。中小の地主たちが土地を返してもらおうとして、小作争議も急増します。給料をもらっている人たちが減り、その給料も下がっていくと、さらに購買力が下がります。物価はいっそう下がり、倒産がすすみ失業者が増え、さらにものの値段が下がる。このような景気の悪循環をデフレスパイラルといいます。みんなが生まれた頃、よくいわれていた言葉です。そしてこのデフレの渦の中に人々が飲み込まれていきました。世の中は一挙に不穏な空気に包まれていきます。こうした時勢を反映して、「酒は涙かため息か」とか「影を慕いて」といった哀調をおびた流行歌が一世を風靡するようになりました。少し聞いてみましょう。作曲したのは明治大学商学部出身の古賀政男、「影を慕いて」は自殺しようとした宮城県の山中で見た夕陽からインスピレーションを得たといわれています。
労働争議・小作争議の激化
さて、こうした不況の中、人々はおとなしく賃金を引き下げられたり、クビにされていったりしたのでしょうか。農民たちは今まで通りに黙って小作料を支払ったのでしょうか。そうではありませんでした。生活を守るために立ち上がりました。これまでの労働組合加入率や労働争議数は戦前最高を記録するようになり、労働争議は賃金引き上げなどの要求が中心でしたが、賃下げ反対・解雇反対、さらには解雇手当支給といった、より切実な内容となっていき、その数も、参加者も急増します。社会システムの遅れた構造を背景に低賃金・無権利状態におかれた紡績女工たちの間でも争議が多発します。会社は父親をよんだり、「チチキトク」といった電報を打たせて女工を連れ戻させるなど、運動の切り崩しを行いました。公共料金の引き下げを求める消費者運動も活発化しました。農村でも、小作争議も急増します。西日本が中心であった小作争議は、中部から北関東へと広がり、ついには恐慌の被害が最も深刻であった東北が争議最多発地域となります。これまでの小作争議の要求の中心が「小作料減免」であったのに対し、「小作地引き上げ反対」が中心課題となり、規模の小さな争議が多発、生活をまもるという傾向が強まりました。農村をなんとかしなければという運動も広がりだしています。宮沢賢治が「雨にも負けず」の詩を書いたのはこのころのことです。
マルクス主義の広がりとファシズム
社会の矛盾の深刻化と争議の活発化の中、マルクス主義や非合法組織であった日本共産党の影響力も拡大していきます。若い知識人の間ではマルクス主義が広がりを見せ、学問はもとより、プロレタリア文学をはじめ、演劇や映画などの分野にも影響をあたえます。傾向映画と呼ばれた社会派の映画も出てきました。ちょっと見てみますか。「何が彼女をそうさせたか」という作品です。サイレント映画です。こうした風潮に恐怖を覚えた特高警察などによる取締も強化されました。また社会の混乱や農村の疲弊は財閥など大資本家、それと結んだ政党政治の責任であるという声もひろがり、その解決に軍部を中心とした全体主義体制を求める声が、軍部や在野の右翼勢力の中から生まれてきました。クーデターが計画され、テロが横行する時代となっていきます。
「金解禁」という誤り
このような事態になったにもかかわらず、この政策に政治生命をかけている浜口や井上は強気でした。世界恐慌は一過性であり、世界はすぐに立ち直る。今、この辛い時期を我慢をすることで緊縮の効果があがり、日本の産業は近代化し、貿易も発展する。この道しかない。と堅く信じていたのです。さらに、財政改革さえ進めようとしました。こうした姿勢に対し、政友会は議会で厳しく内閣の責任を問いました。井上の答弁はヤジで聞き取れない状態でした。さっきもいったように、金解禁政策は明らかな誤りでした。アメリカで発生した株価大暴落が恐慌の兆候を占めした段階で、勇気ある撤退を行わなかったのは、やはり失政としかいえないでしょう。「金解禁を中止し公共事業などで有効需要を拡大すべき」という政友会の側に理があったことは、現在では明らかです。しかし、彼らの失政を攻撃するのはフェアでないかもしれません。当時、世界恐慌の持っていた意味を理解していた経済学者も政治家はいませんでした。いたとしても怪しい予言者あつかいされたのが関の山だったでしょう。有効需要を増加させることで経済の立て直しを図るという経済政策を説くイギリスの経済学者ケインズの著書はまだ発刊されていませんでした。当時の経済学の水準という限界の中に彼らはいたのです。
統帥権干犯問題
恐慌にともない生活や将来の不安が広がるという不穏な空気のなか、政友会は厳しい攻撃を仕掛けてきました。先に見たようにロンドン軍縮条約において、浜口は海軍の意向を聞きながら内閣の責任で条約を承認しました。ところが、海軍の中には浜口のやり方は納得できないと考える人たちがいました。「軍備は、軍隊の作戦にもかかわる内容なので、作戦にかかわる軍令部の承認が必要だ。ところが軍令部の責任者の正式な承認をうけず内閣が勝手に調印したのは、天皇が軍隊を指揮するという憲法の統帥体験に違反する」といいだしたのです。浜口内閣に反発をもっていた政友会はこれに飛びついて「統帥権干犯問題」として内閣を攻撃します。政友会によるこうした一連の攻撃は、政党政治というみずからの基盤をも掘り崩す「禁じ手」でした。にもかかわらず、政敵民政党を追い込むという目先の目標実現のためにこのような行動にでたのです。ある意味、政党政治、とくに二大政党制の弊害が出たと言っていいのかもしれません。浜口内閣の幣原協調外交や井上金解禁政策に反発している勢力ー軍部強硬派・右翼・一部マスコミ、そして政友会ーが連合して、浜口内閣に大攻勢を仕立ててきました。浜口は金解禁直後に実施した衆議院選挙で獲得した民政党の絶対多数を背景に、正面突破を実施、天皇とその側近の支持も得ながら、ロンドン軍縮の批准(承認)を手に入れました。
浜口内閣の終焉
1930(昭和5)年11月、議会での論戦も一段落がついて地方遊説に向かう浜口が東京駅で暴漢に腹を撃たれました。この傷が引き金となって浜口は体調をくずし、療養生活にはいります。この間、衆議院では政友会が大攻勢を掛けており、戦後首相となる政友会の鳩山一郎は、浜口に国会に出席して答弁することを強く要求、責任感の強い浜口は国会答弁に立ちますが、その無理がたたって病状を悪化させました。そこで1931(昭和6)年4月政権を若槻礼次郎に譲り、8月になくなります。こうして、戦争の道を回避しようとする政策と勇気をもち、政党政治の頂点といわれる浜口内閣の時代がおわりました。
十五年戦争の開始へ
浜口内閣終焉の5か月後、浜口の死の1か月後の1931(昭和6)年9月18日の柳条湖事件をきっかけに満州事変が発生しました。日中十五年戦争が始まります。軍隊、それも陸軍の一部隊に過ぎない関東軍の行動を、内閣も、議会も、さらには天皇や天皇を取り巻くグループも、軍隊中央すらが制御できず、現状追認をくりかえすことで事態を悪化させていきます。浜口の時代は、こうした制御がぎりぎり可能であった時代であったのかもしれません。あるいは制御の可能性をなんとか探っていた時代だったのかもしれません。政友会の「統帥権干犯」という攻撃は軍部へのブレーキを自ら破壊し、その暴走を止める手段を放棄しようとしたものでした。制御の利かなくなった軍隊は暴走を繰り返し、勝手にあらたな戦闘行為をはじめます。こうして日中十五年戦争が展開していきます。そして有効な手を打たず現状追認を繰り返す内閣や議会は国民の信頼を失います。内部の制御すら利かない軍隊は暴走をくりかえし、国民とアジアの民衆を、世界を、戦争へと導いていきます。「統帥権干犯」を声高に叫んだ政友会総裁犬養毅が軍部の暴走を抑えようとして五・一五事件のテロに倒れたのは翌年のことでした。「もし、浜口がもうすこし政権を維持していたら」というような「if(もしも)」は、考えるべきでないのでしょう・・・。 
 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
■現代の恐慌 

 

バブル
恐慌2008年
世界恐慌1929との比較
ビッグスリーショック
天空を真っ二つに裂き、地上に落下する巨大隕石を目撃したら、10分後に何が起こるか?地球の大気をかすめただけか、ただの妄想なら、大したことはない。世界は今までどおりだ。だがもし、地球に衝突したら、地球最後の日になるかもしれない。10分後には、見たこともない異形の世界 ・・・ 我々は今、そんな状況に立たされているのかもしれない。
2008年12月11日、アメリカ自動車大手ビッグスリーの救済法案が事実上廃案になった。3社の経営状態は最悪で、中でもGM、クライスラーは、1ヶ月後には資金がショートするという。今後、新たな法律を必要としない金融安定化法に基づく支援が検討されている(2008年12月13日)。さらに、FRB(アメリカ連邦準備理事会)の特別融資枠を使う可能性もある。
今回のビッグスリーショックで、アメリカの株価は激しい値動きをみせた。廃案の発表後、急落、そして、金融安定化法による支援が発表されると、急上昇。この事実をとっても、アメリカがどれほど混乱しているかがわかる。こんな発表で株価が戻ること自体おかしいのだ。アメリカの株はもっと下がる。
今回のビッグスリー救済法案は、下院は通過したものの、上院で廃案となった。その間、アメリカ国内は議論百出。破綻寸前のビッグスリーを国が救うべきか否か?
「一企業の経営の失敗を、国民の税金で尻ぬぐいするのは間違っている」
「ビッグスリーが破綻すれば、失業者が増え、結局、アメリカが痛む」
だが、この議論は初めが間違っている。ビッグスリーは、破綻寸前ではなく、すでに破綻しているのだ。脈の絶えた身体に、投薬したり、外科手術を施す医者がいるだろうか?ビッグスリー問題の核心は、資金繰りにあるのではない。もし、そうなら、公的資金を投入すれば問題は解決する。だが、問題の本質は、
「売れる自動車が作れない」
にある。歌えない歌手、料理のできないコックに、おカネを払う者などいない。
もし、地球上で、自動車メーカーがビッグスリーだけなら、よみがえる可能性はある。ところが、自動車メーカーは世界中に山ほどある。しかも、自動車業界は、資源に負担をかけない小型車、電気自動車へシフトしつつある。ビッグスリーは、ガソリン自動車だけでなく、この世界でも競争力がないのだ。相撲で一世風靡した横綱が、騎手に挑戦するからカネを貸してくれ、と言っているようなものである。ということで、
「ビッグスリーはもう死んでいる」
先のビッグスリーの論議には、もう一つ間違いがある。ビッグスリーが救済されようがされまいが、大量失業は避けられないことだ。万一、救済されたとしても、国民の税金を使った手前、会社には痛みがともなう。大リストラ、給与の減額、福利厚生のカット、おそらく、破産法の適用を受けるのと大差はないだろう。もちろん、下請会社も同様だ。食物連鎖の頂点に立つ企業が倒れれば、ピラミッドそのものが崩壊する。つまり、
「大量失業を避けるために、ビッグスリーを救済する」
は間違っている。
信用危機(クレジット クランチ)
サブプライムローン問題、リーマン・ブラザーズ破綻、AIG危機を通して、世界は薄氷の上に立っていることを思い知らされた。
「みんな1ドルだと信用しているから1ドルなのであって、じつはタダの紙切れ」
言葉をかえれば、金融は信用だけで成り立っている。
ここで、問題を整理しよう。個々は複雑だが、全体はいたってシンプルだ。身なりのいいセールスマンが、「100円+50円」と書かれた紙切れを売りさばいていた。
曰く、
「この証書を100円で購入すると、1年後には150円になりますよ」
「集めたカネで宝くじを買って、それで支払うつもりです」
「大丈夫かって?」
「ご心配無用。保険をかけてありますから」
「宝くじにはずれても、保険会社が払ってくれますよ」
こうして、セールスマンはこの紙切れを、世界中に売りさばいたが、運悪く?宝くじははずれてしまった。ところが、あてにしていた保険会社は、額が多すぎて払えないという。金融の最後の砦が崩壊したわけだ。これが、2008年9月に起こったAIG 危機である。信用を揺るがすという点では、銀行や証券会社の破綻の比ではない。リーマン・ブラザーズを見捨てたアメリカ政府が、AIGを救ったのは、このような事情による。世界が地獄をかいま見た瞬間だった。
さらに問題を複雑にしたのは、「100円+50円」証書を元に、もっと手の込んだインチキ証書を作り、転売した者がいたことだ。つまり、まだ露見していない「100円+50円」証書が潜んでいることになる。誰がどれだけ損しているか誰も分からない。信用不安が一気に噴出した理由はここにある。
信用危機の原因
今回の金融危機で、最も損害をこうむったのは、カジノ金融の権化「ヘッジファンド」だろう。ヘッジファンドとは、金融機関や富裕層から集めたカネで、株式、債権、通貨、商品先物、インチキ証書を売買して利益を得ている組織である。おカネを貸して気長に利息をとるわけでも、ベンチャー企業に投資して夢を追うわけでもない。言ってしまえば、丁半バクチ。値が上がるとみれば買い、上がれば売る。値が下がるとみれば、先に売って(カラ売り)、下がったときに買う。ただの「さや取り」。
2008年9、10月だけで、ヘッジファンドの運用資産は、20兆円も吹き飛んだという。運用損失と顧客の解約が原因だ。結果、ヘッジファンドは現金を確保するため、投資先から資産を回収することを迫られた。期日が迫った支払いや、解約する顧客への返金、社員の給与を、「100円+50円」インチキ証書で払うわけにはいかない。このパニック的換金により、商品先物市場や株式市場から、一斉に資金が引き上げられ、原油や株が大暴落したのである。だが、これで終わったわけではない。
換金したものの、ドルは危ないのでユーロへ、ユーロも不安になり、今は円が買われている。驚異的なスピードで円高が進んでいるのは、そのためである。このまま円高が進めば、日本の輸出企業は大打撃をうけ、やがて、「日本=円」も売られるだろう。では、次に何が買われるのか?安心して買える通貨はもうない。このような通貨不安では、金(Gold)が買われるはずだが、いまいち反応が鈍い。但し、不気味に高値安定、新しいパラダイムが生まれるのかもしれない。
世界の金融資産は、株式市場、商品先物市場、為替市場を移動するたびに、額を減らしている。世界の株式市場から、すでに3000兆円が吹き飛んだと言われる。日本の国家予算でさえ、ネットで200兆円。今や、ヘッジファンドは、投資しているのではなく、「資産を待避している」にすぎない。本来の使命?を考えれば、末期的な状況で、ヘッジファンドの未来は限りなく暗い。だが、姿を変え、名前を変え、さらにパワーアップして蘇る可能性は50%ある。
一方、こんな大事を引き起こしたのは誰だ?と、犯人捜しも始まっている。丁半バクチに明け暮れたヘッジファンドはもとより、大元のインチキ証書や商品先物取引までやり玉に挙がっている。だが、商品先物取引は、本来、実物取引のリスクヘッジのための仕組みで、それ自体が悪いわけではない。実商売と関係のないカジノマネーが流入したことが問題なのだ。
マクロ視点でみると、今回の金融危機は、世界規模の金余り、過剰な流動性に起因する。2007年の世界の金融資産の合計は約20、000 兆円(2京円)で、GDPは約5、400兆円。つまり、実体経済の4倍弱のカネがだぶついているわけだ。一方、1980年、この比率は1.1倍だった。つまり、「金融資産=GDP」。あり余ったカネが、マネーゲームに流れ込むのは必然である。
今回、金融恐慌(信用収縮)に火がついたが、問題はどこまで行くか。ある経済専門紙によると、
「何が起こっても、経済はなくならないし、世界が破滅するわけではない。それは、1929 年の大恐慌が証明している。確かに、ヒドイ状況だったが、その後みごとに回復したではないか」
だが、歴史がいつも繰り返すとは限らない。
世界恐慌1929
恐慌は、資本主義では避けることができない。歴史をみても、産業革命が本格化した19世紀以降、ひんぱんに起こっている。1929年のアメリカ・ウォール街の株の大暴落を起因とする「世界恐慌」は、世界中に拡大し、第二次世界大戦の遠因にもなった。日本の大底は1931年で、恐慌前に比べ、工業生産高は8%ダウンした。アメリカは、1932〜1933年が大底で、工業生産高は恐慌前にくらべほぼ半減 ・・・ 信じられないような数字である。一方、ソ連は同時期、逆に1.8倍に増えている。
ソ連は「共産主義=計画経済」なので、理論上、恐慌はありえない。大打撃をうけたアメリカは、株価は80%も下落、失業率は25%に達した。過剰生産が際立ち、他国にくらべ贅沢品の比率が高かったからである。アメリカ合衆国大統領のフーバーは、無為無策で時間をつぶし、無能呼ばわりされたあげく、任期満了で、寂しく政界を去った。
その後を継いだのが、フランクリン・ルーズベルト大統領である。歴史にも登場する有名なニューディール政策で一気に解決!とはいかなかった。ニューディール政策は、ドイツのヒトラーの政策同様、社会主義的なものだったが、ドイツの方がまだましだった。実際、1936年、ドイツの工業生産高は恐慌前の95%まで回復したが、アメリカは75%にとどまった。
もっとも、(当時の)ドイツと違い、アメリカが民主主義の国だったことが足かせになった。ルーズベルトの政策のいくつかは、最高裁から違憲判決が出たからである。とはいえ、そのハンディを考慮しても、ニューディール政策は成果を上げた、とは言えない。アメリカが本当に恐慌を脱したのは、第二次世界大戦後、つまり、戦争経済によってである。
一方、数字だけみれば、日本のダメージが意外に少ない。理由は2つ考えられる。第1に、積極的な植民地化政策により、植民地のGDPを上乗せできたこと。第2に、工業製品に占める贅沢品の比率が小さく、落ち込みが少なかったこと。
世界恐慌2008
ここで、今起こっている世界同時不況と、1929年の世界恐慌を比べてみよう。一番の違いは、世界の産業構造にある。1929年の世界恐慌では、工業製品に占める生活必需品の比率は今より高かった。そのため、消費を減らすにも限度があり、その分、落ち込みも少なかった。
ところが、今では、工業製品の主流はパソコン、液晶テレビ、デジカメ、ケータイ、TVゲーム、自動車 ・・・ 「なくても生きていける商品=ガラクタ」がほとんど。恐慌が本格化すれば、誰もが食うことに汲々とし、ガラクタ需要は激減するだろう。だが、別の問題もある。ガラクタ産業に従事する人口比率が高い分、失業者が増えることだ。
ところで、どういう経緯で、こんないびつな産業構造になったのだろう。一も二もなく、テクノロジーの進歩のおかげ。かつて、人類は、就労人口の90%が食糧生産に従事していた。ところが、今は10%にも満たない。
「テクノロジーの進歩 → 農業の生産性の向上」
のおかげで、1人で10人分の食糧を生産できるようになり、残る9人がお気軽な仕事をできるようになったのだ。それが、
「なくても生きている=ガラクタ商品」
ということで、「世界恐慌2008」は「世界恐慌1929」より、大量の失業者が出る可能性が高い。それを暗示するニュースもある。2008年10月〜2009年3月の間に、非正規労働者(派遣や期間工)3万人が失業するという。ところが、正社員も例外ではない。外資系大手コンピュータ企業が正社員1000人の人員削減を発表したが、正社員削減は電機業界にも広がりつつある。これほど凄まじいリストラは、戦後一度も起こっていない。
日本を代表する企業が、取り憑かれたようにリストラを進めている。
「仕事が減った分 → リストラ」
なら、誰でも会社経営できる。かつて、日本企業は赤字でも雇用を守ったが、今は黒字でもリストラする。日本は、一体どうなったのだ?
バブル崩壊後、日本企業の競争力は上がったが、そのからくりは、
「人件費を固定費から変動費に変えた」
変動費とは、売上高に比例するもの、例えば、原材料費。一方、固定費とは、売上高にかかわらず、一定のもの、例えば人件費。日本企業は、戦後一貫して、
「人件費=固定費」
で雇用を守ってきた。ところが、ここ10年、正社員から非正規労働者にシフトし、仕事があるときだけ雇用するようになった。つまり、人件費は変動費に変わったのである。これが不況に強い企業の正体だ。
とはいえ、次々と明らかになる恐ろしい数字をみれば、企業がどれほど深刻かわかる。末端を切り捨て、本丸を守らなければ、全滅する可能性があるのだから。しかし、雇用は「人の生死」にかかわる問題だ。経営トップは、高い報酬と決定権が与えられている。人の上に立つ者は、どんな困難な問題にも立ち向かうべきだ。人の生死に関わる解決方法を安易に選ぶなら、サラリーマンと変わらない。
恐慌前夜
先日、外車ディーラの営業マンと話をした。
営業マン:
「ゼンゼン売れないんで、営業が5人から2人に減りましたよ」
「へぇー、でも、××さん勝ち組じゃないですか」
営業マン:
「それが、もう一人減るかも ・・・」
「おっ、いよいよ決勝戦ですね」
営業マン:
「それ、ゼンゼン笑えないですよ」
最近、こんな「ありえない話」をたくさん耳にする。まずは、地方版、
・車の販売店で、土日の来客がゼロ。営業マン曰く、「ドッキリ」かと思った。
・世界有数の機械メーカーの下請け会社が、大好況から1ヶ月で、仕事が半減。
・Uターンで内定が出たので、会社を辞めたら、内定を取り消された。
・県内で、大企業(上場企業含む)が、1年間で3社も倒産した。
つぎに、全国版(2008年12月)。
・国内自動車販売(軽自動車を省く)は11月としては過去最大の27.3%減。
・工作機械受注額は、単月として過去最大の62.2%減。
・2008年10〜12月の鉱工業生産は石油ショック時を上回る10%減。
・可処分所得に対する消費支出の割合が10月期で調査開始以来最低の77.2%。
これらの小事から見えてくるのは、
「生産が減少 → 失業者が増加 → 消費が減少 → 生産が減少」
つまり、負のスパイラル。
大事の前には小事が多発する。こんな状況では、ドルも株も何もかもが暴落し、未曾有の失業者を出したあげく、社会システムそのものが崩壊するのでは ・・・ 確かに、その可能性もある。だが、もう一つ未来がある。これまで同様、カジノ金融が復活する未来だ。その根拠は?この世界の支配者が、今のルールを死守しようとするからだ。これは、日本人が大好きな「陰謀ネタ」ではなく、誰もが知る情報に基づいている。  
大恐慌の原因

 

恐慌とは
バブル崩壊は高波、恐慌は津波 ・・・ 2004年、スマトラ沖で発生した津波の映像を見てそう思った。分厚い海のうねりが、間断なく、陸に押し寄せ、建物も車も人も押し流していく。高波とは桁違いのエネルギー、破壊力だ。高波は面のパワー、津波は立体のパワーかもしれない。この津波で28万人が犠牲になったが、高波ではありえない被害だ。高波と津波は同じに見えて、実は別ものなのである。そして、バブル崩壊と恐慌も ・・・
2008年、サブプライムローン問題に端を発し、リーマンショック、AIG事件と続いた金融危機、さらに、ビッグスリーショックは、世界恐慌を暗示しているのだろうか、それとも、ただのバブル崩壊?
今、消費者は必要もないガラクタ商品を大量に買わされているが、それに気づいていない。ある日、株価が暴落し、金融危機が起これば、消費者は不安を覚え、ガラクタ商品を買わなくなる。それでも生きていけることに気づいた消費者は、ますますガラクタを買わなくなる。山のような在庫を見た企業は、危機感を覚え、生産を減らす。工場は閉鎖され、労働者が大量に解雇され、ますますモノが売れなくなる。
企業は、すでにある生産設備まで減らすので、新規の設備投資は生まれない。結果、設備産業は大打撃をうける。自動車のような高額な耐久消費財は売上半減、家電製品は激減ですむが、設備産業は限りなくゼロに近づく。最も多くの失業者を出すのは、この業界だ。一方、設備投資が減れば、資金需要も減り、金融機関も不況に陥る。こうして、何もかもが悪循環にのみ込まれ、巨大な負のスパイラルを生み出す。生産・流通・消費は劇的に落ち込み、経済活動は大きく停滞し、容易に抜け出せなくなる。これが恐慌である。
ここで、恐慌と現状を比較してみよう。以下、左が恐慌、右が現状である。
1.株価が暴落→日経平均株価は、昨年末から44%下落。
2.生産高が激減→2009年新車販売台数は39年ぶりに500万台割れ。
3.失業者が急増→2008年10月から半年間で、8万5000人が失業 。
4.企業倒産が急増→2008年の上場企業の倒産件数は戦後最多。
5.銀行の取り付け騒ぎ→アメリカで一部発生しただけ。
この中で、まだ起こっていないのは、「5.銀行の取り付け騒ぎ」だけである。これらを棒読みすれば、津波、つまり、恐慌である可能性が高い。また、個人的に恐慌を疑っているが、その理由は3つ。
1.景気後退がまだ加速している
・景気を先読みできる広告業と設備製造業がまだ悪化している。
・加速がつづくと、「制御不能 → 恐慌への負のスパイラル」が始まる。
2.「なくても生きていける=ガラクタ商品」の就労人口が多い
・大不況では、ガラクタ商品の売上が激減する。
・日本の基幹産業はほとんどガラクタ商品なので、大量の失業者を出す。
3.金融大量破壊兵器CDS
・CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)は、会社の債権に対する保険取引。
・危ない会社の債券(社債など)を所有する場合、CDSを買い、保険料を払う。
・その場合、会社が破綻しても、損失補填してもらえるので、リスクヘッジになる。
・但し、CDSを売った会社が破綻すると、「破綻の連鎖=核分裂」が始まる。
・そうなれば、金融システムそのものが崩壊し、未知の世界恐慌に突入する。
・AIGが救済されたのは、CDSを大量に抱え込んでいたため。
バブル崩壊か恐慌か
ただ、これらはすべて状況証拠。では、世界はどう見ているのだろう。まずは、アメリカの中央銀行FRB(アメリカ連邦準備理事会)。2008年12月17日、FRBは、ゼロ金利と量的緩和を発表した。市場に、大量のマネーを流通させ、企業倒産を防ぐためである。特に、ゼロ金利政策はアメリカ史上初の大技。
ドルがゼロ金利となったため、ドルを売って、金利の高い円を買う動きが加速した。つまり、円高ドル安。円高は日本の輸出企業にとって大打撃だが、ドル安はアメリカの金融立国を崩壊させる可能性がある。それでも、景気回復を優先し、FRBは決断した。もっとも、日米の金利差だけで、ドルが売られ、円が買われているわけではない。アメリカが抱える財政赤字・貿易赤字、つまり、ドルに対する不信感が根にある。
ところが、「ゼロ金利」カードを切ったが最後、アメリカの恐慌対策は「ドル増刷&ばらまき」しか残されていない。もちろん、ドルの大増刷は、際限のないドル安を招き、1ドル50円も現実味をおびてくる。そうなれば、アメリカの製造業は復活するだろうが、アメリカの金融業は大打撃をうける。ドル安では、アメリカにドル資金が流入しなくなるからだ。ということで、個々には予測可能だが、からみが複雑なので、全体として何が起こるか分からない。
一方、株式市場は驚くほど楽観的だ(2008年12月末)。今の株式市場は、短期売買が目的、あるいは、恐慌はないと信じる者たちが支配している。彼らは、この大不況が津波ではなく高波と見ているわけだ。でなければ、すでに、米ダウ工業平均は6000ドル台、日経平均は7000円を割り込んでいるはずだ。もちろん、恐慌が始まれば、この程度では済まない。
街角景気はどうだろう。TVを観ていると、えも言われぬ違和感を感じる。非正規労働者が大量に解雇され、路頭に迷う映像の後に、愚にもつかないバラエティ。プラカードをたてに、解雇撤回を訴える労働者の映像の後に、不毛の使い捨て番組。こんな格差社会が恒常化すれば、犯罪や暴動が多発し、社会不安を招くだろう。
さらに、恐ろしいデータがある。日本の労働者の34%が年収200万円以下だというのだ。その大半は、非正規労働者。親と同居ならまだしも、都会で一人暮らしなら、生きるか死ぬか。結婚しても子供もつくれない。これは「社会」というよりは「戦場」だ。こんな世界で、どうやって、夢や希望を持てと言うのだろう。国のガバナンス(統治)が絶対に必要だ。
資本主義は勝利したか
実力主義、勝ち組/負け組、競争社会、こんな勇ましい言葉が正当化され、我々は、資本主義を肥大化させてきた。資本主義のライバル、共産主義もすっかり廃れている。共産主義は、
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」
という理想をかかげたが、実装に失敗した。そして、20世紀末には、資本主義の勝利が高々と宣言されたのである。だが、資本主義は本当に勝利したのだろうか?
これだけ貧富の差が拡大し、生存権まで脅かされるようなら、もう「社会」とは呼べない。力だけがものをいう無法地帯だ。また、資本主義を謳歌してきた勝ち組も油断できない。歳とともに、能力は落ち、過去の実績も忘れられていく。勝ち組が一転、負け組に転落するのもこの世界なのだ。最近、周囲でこんな逆転劇を頻繁に見るようになった。まるで、ジャングルである。
地球は基本、弱肉強食。だから、
「能力に応じて働き、成果に応じて受け取る」
に異論はない。だが、何があっても、「衣食住=生存権」だけは、万人に保証すべきだ。人類には、それぐらいの余力はある。ムダに凄い浪費が世界中にあふれているから。高さ1000mの超高層ビル、総工費232億円の噴水で沸いたドバイ・バブルも、原油の暴落とともに崩壊した。だが、それを気の毒に思う人はいないだろう。
実力主義・成果主義を野放しすれば、社会はジャングルと化す。共産主義・資本主義以前の問題だ。ほんのちょっと、法律に手を加えるだけで解決できるのに、なぜやらないのか?それができる人にとって、他人事だからだろう。この世界に、希望を感じない理由はここにある。世界は、新しい社会システムを求めている。それを実現するのは民意、その上に乗っかった英雄である。歴史はこのように創られてきたのだから。
製造業を捨てたアメリカ
100年に一度の経済危機は、なぜ起こったのか?それも、日本でも中国でもなく、アメリカで。
1988年、アメリカ合衆国。この頃、アメリカでは、ジャパン・バッシング(日本たたき)が吹き荒れていた。原因は、日本の貿易赤字。ビッグスリーの大型車は、日本の低燃費車に市場を奪われ、大打撃を受けていたのである。TVでは、大型ハンマーで日本車を壊し、日章旗を焼く過激なシーンが放映された。日米関係は、戦後最悪となった。
さらに、追い打ちをかけたのが、アメリカのスーパー301条である。不公正な貿易を行う国に対し、輸入関税を引き上げるという条項だ。高圧的だが、見方を変えれば、アメリカはまだ「物づくり」に執着していたと言える。ところがその後、鉄鋼、自動車、家電などアメリカの基幹産業は次々と競争力を失った。製造業を失ったアメリカは、新たな産業モデルが必要になった。このままいけば、イギリスと同じ末路をたどる。世界最強国から、2等国へ。
アメリカが目をつけたのは、かつてイギリスが支配した金融業だった。それも、ただの金融業ではない。アメリカ式にパワーアップされた新世代の金融システムだった。
ポイントは3つ。
1.手持ち資金の何倍、何十倍もの取引ができる信用取引(レバレッジ)
2.リスクを細切れにして証券化した金融派生商品(デリバティブ)
3.よりどりみどりの金融商品を揃えた金融市場(アメリカ国営カジノ)
つまり、国をあげての「カジノ金融立国」に走ったのである。目的はただ一つ、世界中のドル資金をアメリカに吸い上げること ・・・
カジノ金融立国とは
アメリカは製造業をあきらめ、欲しいモノは輸入でまかなうことにした。日本や中国をはじめ世界中からモノを買いまくったのである。支払いは、基軸通貨(国際取引の決済通貨)のドル。ところが、ドルはアメリカの通貨でもあるので、不足したら、刷るだけでいい。つまり、
「輪転機さえあれば何でも好きなだけ買える」
それもこれも、「自国通貨=基軸通貨」のおかげ、まさに、打ち出の小槌(こづち)である。
とはいえ、
「輸出←輸入」
では、貿易赤字が膨らむ一方だし、買うばかりでは、大量のドルが流出し、世界中でドルがあふれかえる。それがなんであっても、数が多いものほど価値は下がる。つまり、ドルの価値は薄れ、ドル安に動く。それを防ぐためには、アメリカから流出したドルを回収するしかない。
アメリカがドルを回収するには、何かを輸出して、代金としてドルを受け取る必要がある。ところが、アメリカには売るモノがない。物騒なアメリカ牛肉では、自動車や家電製品の輸入分はまかなえない。そこで、アメリカは名案を思いついた。対米輸出で稼いだ国に、アメリカ国債を買わせるのである。アメリカ国債とは、アメリカ合衆国の財務省が発行する債権だ。つまり、アメリカは、アメリカ国債を売りつけることでドルを回収したのである。
実際、日本の外貨準備のほとんどがアメリカ国債だ。外貨準備とは、国が保有する資産で、輸入代金や外国への借入金返済、為替介入のための準備金である。この外貨準備高の世界ナンバー1は中国、ついで、日本。貿易でため込んだ貯金といってもいい。
ところで、なぜ、世界の国々はアメリカ国債を買うのか?ドルを現金でもっていても、利息がつかないから。とはいえ、ドル安になれば、資産は目減りするし、実際、このところ、ずっとドル安だ。金(Gold)の方が安全では?アメリカ国債でもつ理由はなに?たぶん、いや間違いなく、アメリカの脅しである。
もし、どこかの国がアメリカ国債を売りあびせれば、
「供給→需要」
で、債権価格は暴落する。価値の下がった債券を買ってもらうには、高利回りにするしかない。結果、債券の金利は上昇する。ところが、国債の金利が上がれば、物騒な株より、国債のうまみが増す。つまり、株は暴落する。アメリカにとって、良いことは一つもないのだ。そのため、アメリカは、強大な軍事力を背景に、アメリカ国債を買わせ、売らないよう指導している(と思う)。これに逆らう度胸があるのは中国ぐらいだろう。
先に、アメリカには売るモノがないと書いたが、じつは一つある。悪名高いデリバティブ(金融派生商品)だ。不思議なことに、世界中の企業、金融機関、投資家が、このデリバティブを買いまくったのだ。結果、世界中のドル資金がアメリカの金融市場に流れ込んだ。つまり、アメリカはここでもドルの回収に成功したのである。アメリカの債券市場、株式市場、原油・穀物などの商品先物取引市場、不動産市場はマネーで潤い、何もかもが値上がりした。
だが、何ごともいいことずくめとはいかないものだ。デリバティブの一つ「サブプライムローン証券」が焦げ付き、金融不安が発生したのである。結果、世界同時不況が始まった。こうして、アメリカのカジノ金融立国は破綻寸前に追い込まれた。
デリバティブとは
当初、デリバティブは、ローリスク・ハイリターンに見えた。だからこそ、世界中の投資家や金融機関が、こぞって買ったのである。ハイリターンであれば、その分、リスクも大きい。そこで、リスク回避のための巧妙な仕掛けが組み込まれた。高度な数学を駆使した金融工学、ノーベル賞受賞者が開発、様々な殺し文句がデリバティブをホンモノに見せかけた。
確かに、個々に見れば、デリバティブのリスクは巧みに回避されている。だが、金融の心臓「信用=保険機能」が吹き飛べば、金融システム全体が崩壊する。全体が崩壊すれば、どんな優良な個であっても存在できない。もちろん、デリバティブの開発者は、
「そんなことまで心配してたら、何もできないよ」
と反論するだろう。そのとおり。ところで、デリバティブはインチキ、ホンモノ?
デリバティブの歴史を少しさかのぼってみよう。たぶん、デリバティブの先祖種はジャンク債だ。以前は、英語そのまま、ジャンクボンド(Junk Bonds)と呼ばれた。ジャンク債とは、信用度が低く、元本割れの可能性の高い債券のことである。たとえば、倒産寸前の会社の社債。普通は、誰も買わないので、その分、高利回りである。つまり、ハイリスク・ハイリターン。一方、信用度の高い債券は、安全なので、その分、利回りが低い。つまり、ローリスク・ローリターン。たとえば、日本やアメリカの国債だ。
これだけなら、堅実な人はローリスク・ローリターン、そうでない人はハイリスク・ハイリターン、という棲み分けに落ち着く。ところが、ある時、ローリスク・ハイリターンという夢の金融商品が登場したのである。原理はいたってシンプル、
「アブナイ債券でも、たくさん買えば、全滅するリスクは激減する」
つまり、複数のジャンク債をブレンドすることで、リスクを分散したのである。しかも、個別のジャンク債は高利回りなので、結果として、ローリスク・ハイリターンになる。だが、高校数学の「期待値」を覚えている人なら、え?と思うはずだ。まあ、些末な突っ込みはさておき、これだけは保証できる。
「ジャンク債1本釣りより、ブレンド・ジャンク債の方が、数学的リターン値は大きい」
もちろん、ジャンク債を上手くブレンドできたらの話だが。
ということで、ブレンド・ジャンク債の成否は、ひとえに、ブレンド方法にかかっている。どのジャンク債をどういう比率でブレンドするか?もちろん、人間の経験やカンに頼るのではない。それを決めるのは、数学(ポートフォリオ理論)とコンピュータだ。ただ、ブレンド・ジャンク債の成否が統計によっていることを忘れてはならない。つまり、全体としての成功率は保証しないでもないが、個別では保証しかねる。これが、ブレンド・ジャンク債、つまり、デリバティブの正体である。
また、デリバティブには、投資家を喜ばせるもう一つの仕掛けがある。手持ち資金の何倍、何十倍もの投資を可能にする信用取引(レバレッジ)だ。例えば、期待できる利回りが5%のブレンド・ジャンク債でも、10倍のレバレッジをかければ、期待利回りは、
5%×10 = 50%
になる。もちろん、しくじれば、損害も10倍だが ・・・
こうして、ジャンク債市場は、債券市場に匹敵する規模に成長した。だが、そのカラクリは、
「みんなでリスクを分かち合う」
なので、破綻が局所的なら機能するが、破綻が大規模なら破綻のドミノが始まる。つまり、システム全体が崩壊する。それが、今回のサブプライムローンに端を発した金融危機である。
恐慌を回避する方法
ここで、総括する。アメリカが「カジノ金融立国」に走ったのは必然であり、アメリカのみならず、世界中が得をした。アメリカが借金漬けでモノを買うのは、褒められたことではないが、おかげで、対米輸出国はうるおった。作っている当人でさえ、
「こんなもの必要かなぁ?一体誰が使うんだ?」
と思うような商品まで売れた。世界中の投資家たちは、アメリカの金融市場でそれなりの利益を上げた。対米輸出国が稼いだドルを、アメリカに回収されるのは不本意だが、結果、ドルの暴落はまぬがれたのである。
ドルが暴落すれば、アメリカも困るが、対米輸出国も困る。たとえば、1ドルの商品をアメリカに売ったとして、
「1ドル100円 → 1ドル90円」
の円高ドル安になっただけで、手取りは、
「100円 → 90円」
に減る。何も悪いことはしていないのに ・・・
今になって思えば、アメリカの「カジノ金融立国」で、世界中がハッピーだったのだ。次々と明らかになる恐ろしい経済指標をみれば、世界恐慌の予感もする。だが、一部の心ある人々を除いて、誰もそれを望んでいない。では、どうすれば恐慌を回避できるのか?アメリカに大量消費を続けてもらい、ドルを安定させるしかない。つまり、
「カジノ金融」を維持するしかない。
逆に、カジノ金融をつぶせば、間違いなく、世界恐慌に突入するだろう。我々が肥大化させた資本主義は、カジノ金融なしでは成立しないのである。 
大恐慌の対策

 

最悪
最悪の事態がじつは最悪ではなく、さらに悪化しつづけた 〜J・K・ガルブレイス〜
20世紀を代表する経済学者ガルブレイスは、1929年の世界恐慌をこう評した。当時のほとんどの投資家が、「恐慌」を「バブル崩壊」と見誤ったのである。
1929年10月24日、ニューヨーク株式市場で株が大暴落した。翌日は値を戻したものの、その後も暴落は続き、11月にはダウ平均は224ドルまで下落。3ヶ月間で半値という凄まじさだった。さすがに、ここまで下がれば底値だろうと、みんなが思った。ところが、株価はその後も下がり続け、底を打ったのは、3年後の1932年7月だった。その時の株価は58ドル、みんなが大底と信じた1/4。
そして現在、ニューヨークのダウ平均は、1年前の高値から半値まで下落したが、今のところ、下げ止まっている(2009年1月12日)。1929年11月同様、「半値=底値」と見ているのだろうか。だが、区切りのいい数字が底値とは限らない。
それとも、オバマ新大統領の大盤振る舞いに期待しているのだろうか。だが、際限のない公共投資は、アメリカの財政赤字を悪化させるだけだ。赤字会社が信用されないのと同様、アメリカの信用も失墜し、海外からの投資も減る。結果、アメリカ金融業の不況はさらに深刻になる。
保護貿易
オバマ新大統領は、明確に問題解決型の人間なので、内政面では期待できるだろう。だが、大統領権限が制限される外交となると、話は別だ。例えば、今問題になっているブロック経済。ブロック経済とは、自国と植民地、または同一経済圏を一つのブロックとし、それ以外の国に対して高い関税を課し、自分たちの産業を守ることだ。これが「保護貿易」で、反対言葉は「自由貿易」である。
景気は、外需(輸出向け需要)と内需(国内向け需要)に支えられている。日本の場合、今後人口が減るため、内需は期待できない。そのため、「外需=輸出」が増え続けない限り、景気は好転しない。つまり、日本にとって保護貿易は天敵なのだ。
1930年の昭和恐慌では、日本は自国の経済ブロックを拡大する方法を選んだ。植民地を増やし、内需を拡大しようとしたのである。結果、世界の列強と衝突し、大平洋戦争が勃発した。同時期、ヨーロッパでも同じようなプロセスで戦争が始まり、最終的には世界を巻き込む第二次世界大戦を引き起こした。保護貿易が戦争の火種になるのは明らかだ。
2008年11月15日、緊急首脳会合(金融サミット)が開かれ、
「保護主義はやらない」
と力強く宣言された。80年前の教訓に学んだのである。それを受け、日本の新聞も、
「これは大きな成果だ。80年前の世界恐慌のようにはならないだろう」
と評価した。
ところが ・・・
その1ヶ月後の2008年12月12日、貿易拡大を目指すWTOの多角的通商交渉の大枠合意が見送られた。それが意味するのは、明確に、
「保護貿易はやる」
さらに、2008年12月23日には、ロシアのプーチン首相は、自動車関税を引き上げ、国民に国産車を買うよう訴えた。これも明確に、保護貿易。
自由貿易の世界では、国際間のヒト・モノ・カネの交流が深まり、相互依存が高まるので、紛争が起こっても収束しやすい。一方、保護貿易が強まれば、各国は自給自足経済にシフトし、外交といえば、同盟か敵対しかなくなる。とはいえ、世界恐慌が視野に入った今、為政者は保護貿易に走らざるを得ない。それが今の現実なのである。
中国
2009年1月4日、中国が東シナ海のガス田の掘削を開始した。日本側は、2008年6月18日の合意に反する行為だと非難した。尖閣諸島など、この手の領土・領海問題が急増している。中国は、資源確保を国家安全保障に関連づけ、武力行使も辞さない構えだ。
中国は、このままいけば、世界最強国にのし上がる。圧倒的な人口と生産設備を有するので、日本を併合して、ハイテクを入手すれば、アメリカなど敵ではない。一方、危うい面もある。中国の歴史は、
「農民反乱 → 王朝滅亡」
の歴史と言っても過言ではない。
実際、
・陳勝・呉広の乱→秦が滅亡
・黄巾の乱→後漢が滅亡
・黄巣の乱→唐が滅亡
・紅巾の乱→元が滅亡
・白蓮教徒の乱→清が滅亡
ん〜、凄まじい人民パワー。お上に従順な日本人は見習うべき?
現在、インターネットが普及したおかげで、一斉蜂起が簡単になっている。実際、リーマン・ショック以降、中国の景気は急速に悪化し、暴動が多発している(2009年1月)。中国共産党にしてみれば、、かつて滅んだ中国王朝、ソ連崩壊の二の舞はご免だろう。広大な国土、10億人を超える民衆を束ねるのは、並大抵のことではない。中国政府が人権無視の強硬策をとるのは必然なのだ。田母神論文で右往左往し、自衛隊の役割すら定まらない日本に勝ち目はない。
日本人の多くは、
「外交と戦争は一体」
という事実に目をそむけている。今も、自衛隊は軍隊ではないと決めつける評論家がTVの顔になっていることに驚く。彼らは、決まって、国民の生命と財産を守る自衛隊をないがしろにする。自衛隊員が激しい訓練で身につけたメンタルパワーとスキルを認めない。これでは、海域や小島どころか、日本本土まで併合されるだろう(中華人民共和国・日本省)。危機を煽るだけの悲観論は危険だが、危機を直視しない楽観論は命取りになる。
現実味のない正論を吹聴する評論家は、歴史に学ぶべきだ。なぜなら、歴史に主観はなく、あるのは客観的事実のみ。そして、そこに記されているのは、
「強力な軍隊がないと、国民は殺されるか、奴隷にされるかである」
バカバカしい、そんなことが現代に起こるはずがない?では、20世紀初頭のチェコスロバキア、1956年チベット動乱は?
ロシア
やっていることの善し悪しはともかく、一刀両断モードで立ち向かうのは、中国だけではない。プーチン率いるロシアもしかり。2008年9月、グルジアの自治州南オセチアをめぐり、ロシアとグルジアが対立、ロシアはグルジアに侵攻した。欧米の激しい非難など歯牙にもかけない横柄な態度は、かつての強面(こわおもて)のソ連を彷彿させる。この問題は、民族主義に米ロの覇権がからむのでどっちが悪いは意味を持たない。外交とはすべて、そういうものである。
また、ロシアは、2009年1月1日、ウクライナへの天然ガスの供給を停止した。表向きの理由は価格交渉のもつれだが、親欧米のウクライナに対する圧力と見られている。ソ連崩壊後、米ソ冷戦は終結し、世界はアメリカ一極支配へとシフトした。ソ連を継いだロシアは、一旦、民主化に向かったものの、現在、メディア統制、産業統制を強めている。さらに、世界一豊富な資源を武器に、アメリカ主導の世界秩序に揺さぶりをかけている。
プーチンは、頭のてっぺんから足のつま先までリアリストだ。自分が何を望み、何をすべきかを知っている。そして、どんな非難を浴びようが、かまわず断行する。坂本竜馬の
「世の人は われをなんとも 言はば言へ わがなすことは われのみぞ知る」
(俺の事は何とでも言ってくれ、どうせ、俺のやることは、俺しか分からん)
を彷彿させる。プーチンの正体は革命家なのだ。
以前、プーチン首相とロシア市民の対話が、TVで放映された。ある女性が、
「輸入品のせいで、ロシア産業が苦況に立っているが、こんな政策は間違っている」
とプーチンに詰め寄った。日本の首相なら、保護貿易は世界秩序に反するとかなんとか、自分の正当化に終始しただろう。ところが、プーチンの答えは驚くべきものだった。
「あなたの言うことは正しい。私は、そうするつもりだ」
その後、ロシアは自動車の関税を引き上げ、国産車を買うことを奨励した。プーチンは真の愛国者だ。他国にとっては災難なのだが。
今のロシアは日本の明治維新に似ている。株価は最高値から70%も下落し、失業と給料遅配で経済は混乱し、善と悪、偽善者と愛国者、隆盛と没落が、せめぎ合っている。人口はアメリカの半分にも満たず、工業製品の量産技術ももたない。これで、強敵アメリカと伸張著しい中国に対抗しなければならない。明治維新を思えば、今どんな指導者が必要かは明らかだ。プーチン大帝が、ロシアに君臨する理由はここにある。
底値
このような世界情勢をみれば、当面の危機は、
「世界恐慌が起こるか否か」
に帰着する。世界恐慌は第二次世界大戦を引き起こした前科があるからだ。そして、その「予兆」となるのが、株価。今、株が大暴落すれば、1929年のような金融恐慌ではすまない。社会システム全体が壊れ、未知の恐慌に突入する可能性がある。そこで、今後の株価予測 ・・・
先ず、株価は何で決まるか?株が下がると思う人が多ければ株は下がり、その逆なら、株は上がる。それだけ。不況だから株が下がるわけではない。その良い例が、2009年初頭の株価だ。企業業績の悪化、企業倒産、失業者の急増など、実体経済は転げ落ちるどころか、つるべ落としなのに、株価は意外に堅調。何のことはない、株が上昇に転じると思っている人が多いからだ。その根拠は?
企業の経営状態に比べ、株価が割安だから。その指標となるのが「PBR」だ。
「PBR=株価÷1株当たりの純資産」
この式から、PBRが低いほど資産がある割に株価が低いことになる。つまり、割安。
現在、東証一部企業のPBRの平均値は、0.7(2009年1月)。70万円分の株を買えば、その会社の資産100万円分の権利を所有することになる。もし、会社が解散して、資産を処分すれば、単純計算で、
100万円−70万円=30万円
の利益が得られる。本来、株式投資はリスクを負って、会社の成長を買うものなのに、解散すればすぐに元が取れる ・・・ あくまで単純計算だが、それにしても、異常な安値だ。
では、今が買い?買う前に、冒頭のガルブレイスの言葉を思い出そう。本当に今が底値?
大底
公的資金を投入しようがしまいが、アメリカのビッグスリーが生き残る未来はない。それほど、自動車産業は斜陽化している。これまで、5年前後で車を乗り換える人が多かったが、今は7年前後、やがて10年以上になるだろう。それだけで、新車販売台数は半減する。そもそも、自動車は10〜20年は走る。売上半減なら、生き残る自動車メーカーも半分?世界で生き残る自動車メーカーは6社という説もある。トヨタ、ホンダ、BMW、フォルクスワーゲン、ダイムラー、プジョー・シトロエン ・・・ 米ビッグスリーが入る余地はない。
ビッグスリーショック発の世界恐慌が始動すれば、下請けも含め、大量の失業者が出るだろう。とはいえ、アメリカのGDPに占める自動車産業の比率はわずか0.8%。ところが、金融の大量破壊兵器CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)に火がついたら、ただでは済まない。GDP比率で20%を占める金融・保険・リース・不動産業は大打撃を受ける。もっとも、金融システムそのものが崩壊すれば、業種は関係ないが。
もしそうなれば、アメリカ人は、借金消費を心から悔い改め、ガラクタ商品など買わなくなるだろう。結果、商品需要は激減する。
「生産減 → 失業者急増 → 消費減 → 生産減」
の巨大な悪循環が生まれ、企業の業績は急速に悪化する。この時点で、予測される株価は、米ダウ平均6000ドル、日経平均7000円。
ここまで株価が下がると、別の問題が発生する。国民の健康と生命と老後を脅かす「生活の大量破壊兵器」である。生命保険会社は、自社の資産の一部を株で運用しているが、下の表は各社が株を購入した時の日経平均株価である。
会社名 / 株式取得時の日経平均株価
朝日 / 12,750
住友 / 10,400
三井 / 9,400
富国 / 9,300
第一 / 8,800
太陽 / 8,270
大同 / 8,000
日本 / 7,600
明治安田 / 7,400
例えば、明治安田生命の場合、日経平均株価が7400円でトントン、それより下がれば、株で損をすることになる。もし、先の予測、7000円まで下落すれば、すべての生保が、株で損をする(含み損)。株式の含み損は、会社の自己資本から差し引かれるため、保険金の支払い余力が下がる。もしそうなれば、生命保険会社の信用不安が起こり、生活者の健康と生命の保障が瓦解する。銀行の倒産どころではない。
株暴落は年金も直撃する。国民が納めた公的年金を運用しているのが、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)。リーマン・ショックに始まる株価下落により、GPIFの運用損失は上半期としては過去最大の2兆9000億円に達した(2008年)。さらに、運用損失が累積すれば、保険料の引き上げや支給額の減額は避けられない。いくら政府でも、ないものは払えない。年金は、労働者の収入、年金生活者の生き死にを左右する。もちろん、アメリカも事情は同じ。
株の大暴落は、保険と年金を直撃し、すべての生活者の「安心と安全」を根底から揺さぶる。深刻な社会不安が発生するだろう。そのような状況では、投資家は不安にかられ、もっと株は下がると考え、売りに回る。当然、現実の株価も下がる。このフェイズでは、株式投資のテクニカル分析は用をなさず、底値は予測不能になる。底値が見えないほど恐ろしいことはない。投資家はパニックに陥り、最後の投げ売りが始まる。そうなれば、日経平均は6000円を割り込むだろう。その後何が起こるかは予測不能・・・
未来
現在、マスメディアが予測する未来は2つある。
1.1〜2年後に底をうって回復に転じる(多数派)。
2.1929年の世界恐慌に陥る(少数派)。
フランスの経済学者ジュグラーは、恐慌も景気循環に組み込んでいるので、広い意味で、「1.」も「2.」も循環的なものと言えるだろう。でも、ひょっとしたら ・・・ 今回の大不況は循環的なものではないかもしれない。これまでの世界とは不連続の大破局だったとしたら ・・・
自動車、電話、カメラ、コンピュータを1人1台所有することが幻想だとしたら?50年前までは、ほとんど業務用だったのだから。もしそうなら、何年、何十年待っても、景気は回復しない。回復とは本来あるべき姿に戻ることなのだから。これは、社会全体を包含する変異であり、個別に対処しても効果はない。悪循環の大車輪が、すべてを丸呑みにするからだ。
そこで、個人予測。未来は2つある。
1.数年後、悪名高い「カジノ経済」に逆戻りする(確率60%?)。
2.未知の世界恐慌に突入し、社会のスクラップ&ビルドが起こる(確率40%?)。
先ずは「1.」。カジノ金融による世界恐慌をふせぐため、健全な金融を取り戻し、実体経済も回復する ・・・ 識者が予測するこんな世界は、たぶん来ない。これまでの資本主義に戻るなら、カジノ経済もそのまま復活する。今の資本主義は、カジノ経済なくして成り立たないからだ。具体的には、アメリカが借金漬けで大量消費し、その代金を、アメリカ金融業(アメリカ国営カジノ)が回収する。ガラクタ商品頼みの資本主義を維持するには、これしかない。
次に「2.」。株の大暴落が、保険&年金システムを破壊し、生活者の安心は消し飛び、疑心暗鬼が世界をおおうようになる。生活必需品しか売れなくなり、多くの企業が倒産し、失業者が街にあふれる。運輸、外食などのサービス業にくわえ、警察・消防などの公的サービスも減り、不便な世の中になる。だが、そんな状態は長くは続かない。社会革命、つまり、新しい社会システムが生まれる。
新生
もし、「2.」が現実になったとして、お金のかからない、資源も食いつぶさない、充実した生活などあるだろうか?たぶん、ある。我々が築き上げた素晴らしいテクノロジーが、それを可能にしてくれるはずだ。
人間が生きていく上で欠かせないのが、エネルギーと食料と水。じつは、最新のテクノロジーを使えば、すべて自給自足できる。さらに、エネルギーにいたっては、太陽光発電を使えば、ランニングコストはほぼゼロ。ガラクタ資本主義に加担して、高収入を得る必要などないのだ。考えてみれば、エネルギー、食料、水は自然界にあふれている。
かつて業務用にしか使われなかった道具も、今では独り占めできるようになった。TV、新聞、書籍、ゲーム、通信もしかり。コンテンツとコミュニケーションのために、これほどたくさんのメディアやインフラが必要だろうか?すべて、インターネットでまかなえるのに。資源を食いつぶし、ガラクタを大量生産し、ポイ捨てでゴミの山?何かが間違っている。
インターネットは、人類が初めて手にした「文明の統合ツール」だ。情報、コンテンツ、商品販売、コミュニケーション、さらに、全く新しいサービスが生まれる可能性もある。しかも、
「光ファイバー + ルーター + 端末」
というつましい資源で構築できるし、利用者の負担も少ない。頭を切りかえて、ちょっと振り向くだけでいい。そこには、安価で、エコ(ECO)で、ワクワクする楽しみはいくらでもある。
東京から田舎にUターンして、気づいたことがある。自然の豊かさだ。人口密度が低いので、一人が独占できる自然が多い。これは天の恵み。東京は、巨大な人口、インフラをかかえるが、災害に弱く、食糧在庫は1日分しかない。しかも、「派遣切り」で露見したように、失業すれば、たちまち命にリーチがかかる。何でもそろった夢の楽園が、弱肉強食のコンクリートジャングルと化している。
もし、世界恐慌が始まれば、不便、不自由どころか、命さえ危なくなる。だが、歴史をみれば、もっとヒドイ時代もあった。太平洋戦争末期の硫黄島の玉砕。何十倍、何百倍もの火力をもつアメリカ軍に撃たれ、焼かれ、死んでいった兵士たち。地獄の苦しみと恐怖の先に待っているのは、確実な死。これ以上の苦しみはないだろう。冒頭のガルブレイスの言葉を読みかえよう。
「最悪の事態がじつは最悪ではなく、もっと悪いこともあった」
世界恐慌であれなんであれ、人間が犯した過ちなら、必ず修復できる。それまでは、安い賃金、辛い仕事でも、納得して働く。今はとりあえず生き延びればいい、と割り切るのである。そのうち、新しいパラダイム、新しい社会が生まれるだろう。これは気休めではなく、人類の歴史が証明している。
では、どうすればいいのか?
1.気の合う仲間で、コミュニティをつくる。
2.田畑を耕し、食を自給自足する。
3.太陽光発電&充電システムで、エネルギーを自給自足する。
4.ガラクタ消費生活から、もっと知的なECOライフへ。
最近、 こんなハイテク自給自足コミュニティを夢見ている。 
 
帰ってきた大恐慌経済

 

The Return of Depression Economics (1999)
為替レートを守らなくてもいい(為替レートを一定水準に維持しなくていい、という意味)国は、不景気をやっつけるためには、金利を必要なだけただ下げればいい。ゼロにまでだって下げられる。でも、もし金利ゼロでもまだ足りないとしたら? ゼロになってもまだ、消費者が貯蓄したいぶんとおなじだけの投資がされなかったら? これが恐怖の「流動性の罠」というやつで、こうなったが最後、金融政策なんて「糸を押す」ようなものになってしまうんだ。お金の貸し借りをかんたんにして経済を拡大させようとしても効き目なし。銀行も消費者も、リスキーで流動性が低い債権やら株なんかに投資するよりは、安全を——つまり流動性の高い現金を手元においとくほうを選ぶからだ。
まずはじめは1930年代に、アメリカとイギリスの経済が流動性トラップにはまっちゃったみたい。アメリカの短期国債の平均金利は、1939 年にはたった0.023 % だったんだ。でも第二次大戦後に何人かの経済学者——有名なのはミルトン・フリードマンとアンナ・シュワーツってあたりだけど——がいうには、当局がもっとしっかりやりさえしていたら、1930 年代にもやっぱり金融政策は有効だったはずなんだと。またある人は、流動性トラップなんてものがそもそも原理的にありうるのかどうかってことを疑問にしてる。どんなケースでも、ものごとは歴史的な興味の対象としてしか(つまり他人ごととしてしか)見てもらえないみたいだね。1990 年の時点では、流動性トラップなんて起こったことはないし、これからも起こらないだろう、というのが一般的な見解だった。
さてそこで日本の出番だ。「バブル経済」が 1991 年に弾けたあと、日本の金融当局はバブルがまたふくらむのを恐れてたもんで、はじめ金利を下げるのに消極的だった。でも、 1996 年このかた短期金利は1%をはるかに下回っているし、いまでは 0.25% までずり落ちちゃってる。こんな極端に低い金利でも、不況へ向けての滑降はとめられないし、日本経済が 1992 年以来くるしんでる景気低迷をひっくり返すなんて、お話にもならないくらい。最後に残った小数点以下いくらかの金利をけずりおとしてゼロにすれば、何か大きなちがいがあるはずだ、なんて考えてる経済学者はほとんどいないんだから、日本はほんとに古典的なトラップにはまっているんだよ。こうなると金利ゼロでもまだ足りなくなっちゃうわけだ。
(ほんとはここに段落が5つはさまってた。そこでは主に日本政府の景気回復策が取り上げられてて、それらが功を奏さなかった理由が述べられてたらしい。でも教科書のページのつごうでカットされてる)
日本の経験からわかるのは、発展した近代経済も流動性トラップにはまりうるってことだけじゃない。財政政策によって経済をこのトラップから救い出せるなんて、お気軽な憶測で甘いにもほどがあるってことも、日本の経験は示してるのだ。断固たる行動をとらなかったから悪かったんだとかいって、日本の指導者を罵倒する人もいるかもしれない。でも似たような過ちがアメリカやヨーロッパで犯されたって、ぜんぜん不思議じゃないんだよ。
1930年代の亡霊がまたも地上をうろついてるってのがほんとだとしても、なぜ今、こんなに長い年月を隔てて? ってのがすごい疑問だよね。これに対しては、自由市場での当たり前のルールに従わなかったツケを払ってる国があるんだ、というのが標準的なお答えだ。とくにアジア経済は、なれあい資本主義という罪に対する罰をうけている。で、トラブルに見舞われた国はみんな、その危機のおかげで政策がひとたびスポットライトを浴びたことで、それまででっかいまちがいをやらかしてたことが白日の下にさらされちゃうんだというわけ。たとえば銀行にはリスキーな経営をチェックもせずに許しつつ、一方では絶対的な政府支援を約束したし、企業にはとんでもない額の借金を奨励した、などなどのまちがいね。
でも、経済はその弱点のせいでひどい目に遭ってるんだという考え方は、つきつめていくと少なくとも2つの点で怪しいんだよ。ひとつには、罰の当たり方のスケールが罪の大きさとぜんぜん釣り合わないように思えるんだ。投資判断のヘマが、単なる成長の減速につながるだけじゃなくて、どうして生産と雇用の大崩壊まで引き起こしちゃうのかな? それに、もし悪いのは国なんだとしたら、そいつらのうちあんなに多くの国が同じときに一斉にトラブったのは、いったいどうしてなんだ?
ここではたとえ話がわかりやすいと思う。道路のある区間で、ここ最近で異常な数の事故が起きたとしてみよう。とくに注意すべき問題は、あたりまえだけど事故にあった当人たちだ。ほとんどのケースでは、事故の被害者自身にもまずかった点があるってことがわかる。酒を飲み過ぎてたとか、タイヤがすり減ってたとか、いろいろ。事故を調べた人は、悪いのは道路じゃなくて運転手だと、こうして結論づけてしまう。
この結論のどこがおかしいんだろう? そう、これは二重にまちがってるんだ。まず第一に、どんな車にだって運転手にだって、しつこく調べ上げれば欠陥のひとつやふたつ、だいたい見つかるはずでしょ。この被害者には平均より明らかに欠陥が多い、なんてこと言えるのかな? 第二に、ふつうの運転手よりちっとはダメなところがあったにせよ、彼らのうちそんなに多くの人たちが、ほかのどこでもなくここで事故ったというからには、悪いのはまあ道路だろってことになるはず。これと全く同じことよ。
つまりこういうこと:苦難つづきのアジア経済は政治的・制度的な欠陥をいくつも抱えてるんだってことが明らかになってきたのだけれど、でももしアメリカかヨーロッパが来年か再来年にでもトラブルにぶつかったとしたら、アナリストたちは過去を振り返って、西洋の価値観とか制度のことだって同じようにこき下ろすに決まってるってことね。しかも 1990 年代のアジアの金融政策が、その前の10年間よりどこか悪くなったなんてことは、ほとんどない。それなら、なぜそんなに最近に、そんなにひどい状況になっちゃったの?
答えはこう。世界が今みたくトラブルに弱くなった原因は、経済政策が改革されなかったことじゃない。それどころか、改革が行われたのが原因なんだよ。世界中の国々は、大恐慌以後の欠陥だらけの体制がイヤになって、大恐慌以前の自由市場資本主義の恩恵にあずかれるような体制にふたたび舞いもどったわけだ。でも、時代遅れの資本主義の恩恵を持ち帰ろうとすれば、その欠陥だって持ち帰ることになる。なかでもいちばん気をつけるべきは次のふたつで、不安定な状態に陥りやすくなる、それから不況が長続きしやすくなるっていう欠陥だ。
ここではとくに4種類の政策改革について考えてみよう。まずはじめは、国際取引の自由化についてだ。1930 年代と 40 年代には、オーストリアなんかの経験をふまえたことで、国際資本移動を抑えようという動きがほとんど全世界中に広まった。多くは為替管理体制の一部としてね。もともとのブレトン・ウッズ体制は、投機筋からの攻撃に備えた為替レートの固定化を防ごうとする管理のやりかたに、実は完璧に依存していた。でも時がたって、為替管理なんてただうっとうしいどころか、インセンティブはゆがめるわ腐敗は呼ぶわ、もう諸悪の根元だってことがわかってきた。それでまずは先進国、つづいて途上国の多くが、完全通貨交換制と自由資本移動の方へ向かってつきすすむことになったわけだ。でもそうすることでそいつらは、投機屋の攻撃という不安定要因に対しては、またしても弱くなっちゃったのね。
ふたつめは、国内金融市場の自由化について。1930年代の暗い影のもとにあって、ほとんどの国は厳しい規制としっかりしたバックアップつきの銀行制度をしいていた。こういう制度は安全ではあっても効率が悪くなりがちで、預金者にはちょっとのもうけしか出さないし、あずかった金を効率よく運用するのもすごく下手だった。時がたって規制がゆるめられると、金融システムは前よりずっと競争的で効率的になった。でもそれと同時に、1997年秋にアメリカ経済を脱線させたのと似たような金融パニックが起こる可能性も復活しちゃった、というわけ。
みっつめは、物価安定の立て直し策。ほとんどの国は戦後に実質的なインフレを経験していて、1970 年代と 80 年代はじめには物価の大爆発が世界規模で起きた。このインフレは抑える必要があって、事実そうなった。おかげで今ほとんどの国では物価はびっくりするくらい安定してるし、今後も物価安定を維持し続けるだろうという信用も固まってる。でも、インフレには実はいくつか思わぬメリットがあるということがわかってきた。ひとつには、たとえば国内にでっかい負債を抱えてる国は、インフレをつかってその額をなんとかなる程度にまで、かんたんに目減りさせられるってことがある。ひどい不動産貸し付けを抱えてた 1970 年代の日本がやったみたいにね。そしてもっと大事なのが、不景気退治のために金利を下げるようなとき、インフレ率5%で金利8%の国は、物価が安定してて金利が3%の国よりも、ずっと余裕があるってこと。いいかえれば、もし1980年代に物価安定のためにあれほどクソ真面目にがんばってなかったとしたら、先進国は流動性トラップに対してもっとずっと強かっただろうってことなんだ。
最後に、財政秩序の再建策がある。1970年代と80年代には、巨額の赤字予算を組んでる国がいっぱいあった。結果として、財政の責任をちゃんと果たそうという大きな動きが1990年代に起きてきた。ヨーロッパでは、はじめはマーストリヒト条約によって、いまはEMU成立以後の「安定協定」によって、赤字支出が切りつめられることになったし、アメリカじゃとうとう赤字予算が消えてなくなるところまでいっている。でも不況のおかげで赤字支出にはまりこんだ日本は、来た道を戻ってバランスを回復しようとやれるだけ努力して——それで経済を不況のほうへ押しもどす結果になっちゃったんだな。
要するに、大恐慌経済がいまになって帰ってきたのは、政府が正しいことをやらなかったからじゃなくて、正しいことをやったからだ、というのが本当のところなの。罰されることなき善行はなし、ってのは真理だよね。
そうなってくると、資本のコントロールだとかインフレだとかの問題に対する責任者の態度には、なんだか変な矛盾がでてくる。1997年にアジア経済危機が起きる以前、途上国の全部が資本勘定を自由化できるわけじゃなかったのは、ほとんど誰にとってもうれしいことなんだ。とくに中国なんて、ツイてるよな、非兌換性の資本勘定がいまだにあるんだから。でも、マレーシア式に資本流動制限に戻るのは、おっかないことだと思われてる。これと同じで、アメリカにあるのは2%のインフレと5%の金利であって、安定した物価と3%の金利じゃないってことを知ってれば、みんなは夢見が良くなるわけ。けれど、日本がインフレ率3%とか4%を目標にしてがんばるべきだなんて、やっぱりとんでもないお話。言葉をかえれば、そこにいるのはいいけど、そこを目指しちゃダメ、なんだってさ。
それでも、こういう結論を避けて通るのはむずかしい。遅かれ早かれぼくらは時計の針を、少なくとも途中までは戻さなくちゃならなくなるだろうってこと。たとえば、通貨統合と自由変動相場制通貨のどちらにも適さない国への資本の流れを制限したりとか、金融市場にあるていどまで規制をかけ直したりとか、物価の安定よりも低いけど低すぎないインフレ率のほうを目指したりとか。ぼくらは大恐慌経済の教訓の前に頭を垂れなきゃいけない。そうすれば、辛い道をまた歩まなくちゃならなくなるような目には、もう遭わないですむはずだから。
 
2009年世界恐慌の根本問題

 

T.はじめに
2007年以降アメリカで顕在化したサブプライム金融危機が世界へと広がり、経済とりわけ民衆の生活に大きな影響を与え続けている。「百年に一度の危機」(グリーンスパン前連銀議長)とも評され、1929年の世界大恐慌に比肩される資本主義の深刻な危機とも言われている。その発端はアメリカの大手投資銀行系ヘッジファンドの実質的破綻が2007年6月ごろから相次いだことである。これらヘッジファンドは、サブプライム・ローンを集合・組成した証券化(金融)商品を大量に保有していた。
ところが2006年夏ごろをピークに住宅価格が下落し始め、それら証券化商品の信用不安をきっかけにヘッジファンドの経営は行き詰まり、親会社である投資銀行の経営危機も表面化した。「サブプライム危機」が言われ始め、2008年3月には大手投資銀行ベア・スターンズが実質的破綻(FRBの300億ドルの資金注入とJPモルガン・チェースによる救済合併)、同年9月にはリーマン・ブラザースが破綻、 大手保険会社のAIG(American International Group、 Inc.)もアメリカ政府の管理下に入るなど、サブプライム危機は全米を揺るがし始め、世界金融恐慌を誘発したのである。紙幅の関係上この経緯を詳しく述べるわけにはいかないが、読者に小稿を理解していただくために、背景・経緯とサブプライム危機については簡単にでも触れておこう。
先ず背景について。貿易と財政の「双子の赤字」に悩むアメリカは、経常赤字の削減のために先進諸国に「協力」を求めた。とりわけ貿易赤字削減のために最大の貿易赤字相手国であった日本に対して、内政干渉に等しい厳しい輸出の抑制(自主規制→構造協議→包括協議)と為替レートの円高・ドル安を要請した。その結果が、平成バブル(「花見酒経済」)の発生と崩壊(平成不況)で、周知のとおりその後遺症(二日酔い〜肝機能障害)に日本は悩まされ続けている(「失われた20年」)。
当初アメリカは対日輸入を防遏しつつ、製造業の「産業競争力」の回復を目論んだのであるが、アメリカは産業競争力を回復できぬまま、円高ドル安だけが進み、1995年4月には1ドル79円にまで円高が進んだ。このままではドルへの信認が揺らぎかねない事態にアメリカは直面した。これを放置すれば、アメリカへの資金流入にブレーキがかかるばかりか、資金が米国内から逃げ出し、アメリカ国内の株式・債券市場が崩れるのは必至である。こうした折り、前年1994年12月末の変動相場制への移行・ペソ切り下げから始まった隣国メキシコの通貨危機は、そうした不安をいっそう掻きたてた。メキシコへはアメリカのミューチュアル・ファンド(投資信託)からの投機資金が流れ込んでいたため、メキシコの通貨危機はアメリカ国内の金融市場を直撃する恐れさえあった。アメリカは、順調な資金の流入を確保し、資金逃避を防ぐ手立てをとる必要に迫られた。1985年プラザ合意以来10年間継続した各国通貨高・ドル安政策は転換された。1995年4月の7カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)の「為替相場の『秩序ある反転』」をへて、8月15日、日独の利下げと米の利下げをセットとする金利差保持の金利協調と日米独3国の為替協調介入によって、「マルク・円安=ドル高」を目指す「逆プラザ」が実行された。アメリカは、金利差益とドル安地合での為替差益を保証して、アメリカへのドル還流を太くする政策をうちだしたのである。
世界のドルは鹿が水を求めて鳴くようにアメリカに向い、株式債権市場に流れ込んだのである。折からのWindows95で本格化した「インターネットブーム」に火がつき、設備投資ブームに沸くIT関連産業が上場するナスダックの株高を機関車にして、在来産業の株価(ニューヨーク証券取引所)も急騰した。ネットバブルである。しかし、2000年3月10日のナスダック最高値を潮目にITバブルははじけて飛んだ。その経緯と結末は、エンロン事件が象徴している。同年の「9・11同時多発テロ事件」による経済活動の低下を背景に、翌2001年10月、経済紙がエンロンと子会社の癒着を暴いたのを皮切りに、粉飾会計など不正な株価操作の事実が次々と発覚し、そのスキャンダルによって株価は大暴落。負債総額が少なくとも160億ドル(約1兆9600億円)を超える、当時のアメリカ史上最大の企業破綻となった。2001年3月をピークに、1991年3月以降9年間継続したアメリカの景気上昇は、ITバブル崩壊とともに終わったのである。
ブッシュ大統領は、こうした事態を受け、景気刺激策を打ち出す必要に迫られた。ブッシュは持ち家の促進を掲げ、住宅減税や低所得者向けローンの優遇策を打ち出した。「2010年までに、私たちは、マイノリティーの自宅所有者を、少なくともあともう550万世帯増やさなければなりません。自宅所有の格差を是正するために、アメリカは遠大な目標を掲げ、私たちの注意と資源をこの目標達成のために集中しなければなりません。」1)と。
2001年初6.5%であったフェデラル・ファンドレート(誘導目標)は数次に亘るひき下げの末、年末には1.75%にまで低下した。住宅ローン金利は30年物固定で年6%を切る歴史的低水準にまで下がり、2002年7、8月頃には新築一戸建ての住宅販売戸数は過去最高を記録した。また、年率換算で1600万台ならば高水準とされる自動車販売台数も、販売促進のゼロ金利によって、同じ頃1800万台を超えた。アメリカ政府はいっそうの住宅取得政策を推し進めた。住宅ローン金利を税額から差し引く税制優遇措置を実施し、住宅都市開発省は初めて住宅を購入するマイノリティー(少数派)で頭金を支払えない低所得者に助成金を支給2)するなどして、住宅取得を促進したのである。かくして、ジャーナリストをして次のように言わしめた。「多くの米国人にとって、主な投資対象は株ではなく住宅です」3)と。
ネットバブル崩壊で行き場を失っていた浮動貨幣資本・ドル資金は、一斉に価格下落をしたことがない「安全」な投資先=住宅へと向かったのである。アメリカのバブルはITから住宅へとリレーされ、アメリカの景気は8ヵ月間(2001年3月〜11月)の短期間のリセッションの後ふたたび上昇に転じ、2008年9月のリーマン・ショックまで、住宅バブルを背景とした過剰といえる消費景気に沸くことになる。2004年のピーク時には全米世帯のおよそ7割が持家を所有し、これまで住宅所有など夢のまた夢であったマイノリティーの住宅保有率も全体の5割を超えた。持家というアメリカン・ドリームは見る夢からつかみ得る現実となったが、だがそれはサブプライム問題をきっかけとして打ち砕かれていく。
「アメリカン・ドリーム」とは、誰もが機会を得て、能力を可能な限り発揮し、より充実した豊かな生活を追求していけるという「成功の夢」物語である。「アメリカン・ドリーム」はアメリカ「独立宣言」でうたわれた原理(幸福を追求する権利、自由な競争、機会の均等など)を拠りどころとし、個人的欲望とアメリカ人としてのアイデンティティーを連結させているところに、「アメリカン・ドリーム」たる所以がある。個人の成功の追求というと、いささか胡散(うさん)臭いが、それが独立宣言の崇高な理念と結び付けられて胡散臭さが消し去られている。この点で「アメリカン・ドリーム」はアメリカ特有な「価値観」であり、一種のレトリックといえよう。そのドリームが粉砕されたのである。だが夢の背後には、モラルハザードとも言える「略奪的貸付」「金融詐欺」行為がまかり通っていたのである。警察官が拳銃をかまえながら、差し押さえられた住宅に突入するニュース映像は世界に衝撃を与えたが、それは「略奪的貸付」「金融詐欺」行為を象徴する映像ともいえるのである。その内容は次の項(後半)で述べる。
U.サブプライム・ローンの組成過程と世界への拡散

 

サブプライム金融危機が29年恐慌に比肩される深刻な危機を世界に及ぼしている。この問題の本質がどこにあるかを明らかにするために、簡単にでもアメリカから世界への危機の連鎖の経緯について触れないわけにはいかない。
1.サブプライム金融危機発症のメカニズム
アメリカではカントリー・ワイド(Countrywide Financial Corporation)、ウエルズ・ファーゴ・ホームモゲイジ(Wells Fargo Home Mortgage)、あるいは大手商業銀行傘下の住宅金融専門会社が主に住宅ローン融資を手がけている。かつては預金を元手に融資する貯蓄貸付組合(S&L;Savings and Loan Association)が主力であったが、1980年代に商業銀行との競争に敗れ、多くのS&Lが倒産した。これに代わって、1990年代にさきほどの住宅金融専門会社が台頭してきたのである。(以下第1図参照)これら住宅金融専門会社は貸し付けた住宅ローンの「返済元金と利子」を、特別目的事業会社(多くは投資銀行の傘下)4)に「債権」として売却する。これによって住宅金融専門会社は、貸付債権(住宅ローン)を回収する。特別目的事業会社はこうした住宅ローン債権を5000口ほどまとめ、金融工学を駆使してMBS5)「住宅ローン担保債権」を組成する。「証券化」である。各事業会社は、この証券に箔付けをし「安全な金融商品である」ということをアピールするために保険会社等に保証料を払って、CDS6)という一種の保険を付ける。さらにこれにスタンダード&プアーズといった格付け会社に「情報料」を払って、格付けしてもらう。こうして「安全で元本も配当も将来にわたって保証される」金融商品Ⓐが組成される。この商品Ⓐにさらに、先ほどと同じような手法を使って、自動車ローン、クレジットカードやリースなどの債権(ABS)が組み込まれ、金融商品ⒷCDO7)が出来上がる。
複雑多岐にわたる証券化商品を組成し、安全という折り紙つきで世界中に販売された金融商品MBSやCDOの中に、不良債権、所得が低く信用力に乏しい人向けのサブプライム組成金融商品が混じっていたのである。
景気対策の一つとして大統領の肝いりで推進された「家をもつというアメリカン・ドリーム」は打ち砕かれていく。1990年代半ばから、ITバブルによって世界から吸い寄せられていたあふれんばかりのドル資金は、アメリカの超低金利政策によるカネ余りも加わり、「過剰流動性」状態をひき起こしていた。誰でも金が借りられるという社会状況が醸成されていた。サブプライム(低所得者)、オルトA(給与明細や納税証明類がない者)への貸し出し額は、2004年には7300億ドル全貸付額の10%、2005年には1兆50億ドル32.2%、そして2006年には1兆ドル33.6%8)に達していた。全米の持ち家比率は2004年には69%に達し、ブッシュ大統領をして「わが国の歴史上今ほど多くの国民がマイホームを持ったことがない」と言わしめた程だったのである。
しかしサブプライム・ローンの延滞と破綻は、専門家に言わせれば「住宅価格の上昇を前提に借り手の身の丈に合わない過剰な住宅ローンを組み、フイー[手数料]を徴収した上で業務を完了してしまう略奪的貸付行為(Predaor Lending)」9)の結末だったのである。住宅金融専門会社は住宅ローンを「証券化」して売り払うわけだから、ローンの焦げ付きを心配することなく、「手数料」を稼ぐことに奔走するようになる。「完全な所得証明なしに融資に及んだものは43〜50%、期限前返済を行った場合にペナルティが課せられる融資が70%(プライムローンの場合は2%に過ぎない)、2006年融資分で黒人とヒスパニック向けサププライムローンは[所得証明なし]75%と[期限前返済ペナルティ]40.7%(白人向けは22.2%に過ぎない)というように、略奪的な意図をもって住宅ローンのオリジネーションが行われてきた」10)のである。住宅価格が上昇している間は、別の金融機関で上昇した住宅価格を担保に新ローンを組成し、前のローンを返済するというようなこともできる。さらに住宅金融専門会社はローンを組みやすくするために、当初2、3年は低金利での融資を行った。「2004〜2006年融資分で、急激に金利が上昇するリセット条項付き(7%から12%等)融資は89〜93%を占める」11)ようになっていたという。ローン金利上昇前に住宅価格上昇局面であれば、売り抜けることもでき、売却益を得ることもできたであろう。しかし、全米住宅価格は2006年をピークに下落し始める。と同時に延滞率は急増していった。こうした住宅は、差し押さえを受けることになる。これが冒頭述べた拳銃を構えながら警察官が住宅に突入する映像になるわけである。
こうした「略奪的貸付」「金融詐欺」行為は住宅に限ったことではなかった。アメリカの自動車メーカーはITと住宅バブル景気のもと、大型車(SUV;Sports Utility Vehicle)の販売好調に支えられてリバイバルし、それは「GM;General Motorsの奇跡」などと言われた。しかし、たしかに好景気に支えられた面があったとしても、この「復活」にも実は「略奪的貸付」「金融詐欺」行為が背後にかくれていたのである。その仕掛けは以下のとおりである。
GMはディーラーを通じて顧客に自動車を販売する。顧客は、GMの金融子会社GMAC;General Motors Acceptance Corporationでローンを組成し、代金を支払う。顧客は債務(自動車ローン)を抱える。通常であれば顧客は条件に従って元利を払い、何年か後にはローンを完済し自動車を所有する。通常ならば、こうして両者の債権債務関係は消滅する。だが顧客のローン債務はGMACにとっては将来「貸付元金と利子」=キャッシュフローが見込める債権である。GMACはこうした自動車ローン債権を束ねて組成し金融商品に仕立て直し(「証券化」)、 バンク・オブ・アメリカ、BNPバリバやシティー等の金融機関を通じて投資家に売ったのである。この金融商品にもさきほどのMBS「住宅ローン担保債権」に組み込まれ、CDO(資産担保証券)として売却されたのである。この金融商品が順調に売却されているかぎり、GMACはローンが回収されようがされまいが気にすることなく、ローンを組んで顧客に自動車を売り続けることができたのである。ローンの申請書には1名前2住所3生年月日4社会保障番号5職業の5項目だけが記載され、年収やローンの状況など支払い能力を示す項目は空白のままだったという。ディーラーは当時を振り返って「私たちディーラーもGMも自分で自分をだましてきたのです。…ローン会社には[お客には]詳しく聞かないでくれ、と言われていました。…ローンを組んだ人の中には空瓶を集めて暮らしていた人もいたと思いますよ。そんな人でもローン契約書をうめてくれさえすればローンを組め[自動車を買え]たのです」12)と証言している。今次のサブプライム世界金融恐慌の根源を語るエピソードであるが、住宅にしても自動車にしても、所得のない、あるいは低い人にも信用創造をし、その借金を証券化し、格付けをして「金融商品」を組成し、世界中に売りさばいたのである。これが今次のサブプライム金融危機が世界金融恐慌へと転化することになるわけである。金融と経済実体の2面にわたる深刻な打撃は、震源地のアメリカから世界へと、次のように拡大していった。
1アメリカ国内のMBS(住宅担保証券)にクレジットカードや自動車ローンなどの様々なABS(資産担保証券)が合成・組成され、世界とくにヨーロッパの金融機関に転売され、累積した。そのため、サブプライム関連から広がったそれら金融商品の価格下落、不良債権化、さらにはそれに関連する債権倒産保険などの金融派生商品の価格下落や破綻が、ヨーロッパの金融機関に深刻な打撃を与えていった。たとえば2007年8月にはフランスの最大手銀行BMPパリバ(傘下のヘッジファンド破綻)が経営危機に陥り、また9月にはイギリスの中堅銀行ノーザン・ロックが取り付け騒ぎを起こし中央銀行の緊急融資が行われた。その後もスイスUBS、英ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(RBS)やドイツ銀行など、各国で大手金融機関の危機と公的救済資金の投入の事態が続いた。同時に、欧州でもアメリカの不動産バブルと連動するような住宅・建設、不動産の投機的活況が続いていたが、反転崩壊がはじまり、金融恐慌が加速された。
2この収縮過程で、欧州先進国の金融機関は、ソ連崩壊後市場経済に回帰、ユーロを導入した中・東欧諸国に貸し込んでいた資金を引き揚げ始めた。このため、それら諸国の景気後退が鮮明となった。
3世界最大の消費者として1990年代央以降世界景気のエンジン役を担っていたアメリカの実需はサブプライム金融危機を契機に大幅に縮小した。日本、ドイツのように輸出に景気回復を依存していた諸国はこの影響をまともに受け、世界恐慌に巻き込まれた。
2.世界金融恐慌の原罪としての金融工学「証券化」
第2次大戦後、幾度かの金融恐慌13)を体験したアメリカであるが、サブプライム問題を発火点とした今次の金融危機は、アメリカ本体の信用収縮と実体経済に与えた影響の深さと世界中を巻き込んだ点で、それまでのものと違っていた。
その根本にあるものは、金融工学を「駆使」した「証券化理論」そのものにある。拡散の過程はあたかも一粒の汚染されたコメが紛れ込んでいたため、しかもどこに紛れ込んでいたか分からなかったために、すべての米袋のコメが汚染されているのではないか、という信用不安の連鎖となった。その「証券化」の過程は、既にTで事態に即して述べたが、ここではさらに「証券化」を推し進めた「金融工学理論」の原罪を明らかにしよう。理論自体が「略奪的貸付」「金融詐欺」ともいえる性格を持っていたのである。
たしかに「証券化」それ自体は今次のサブプライム金融危機にはじまったことではない。一般的な意味で「証券化」とは1金融市場における資金調達の形態が金融機関借入(間接金融)から証券発行(直接金融)にシフトすること。2貸付債権や売掛債権のように流動化しにくい資産を資産担保証券の発行によって流動化すること、をさす。アメリカの場合後者の「証券化」は1970年の政府系金融機関GNMA(政府抵当金庫)による起債がその始まりといわれているが、このMBS(モゲージ担保証券)は元利払いの公的保証がついた、信用度の高い証券であった。これに対して今回問題となった「証券化」は、投資銀行=特別目的事業会社が発行するようになった信用度の低いサブプライム・ローン、やや低いAlt−A14)ローン、買取り上限額を超過したジャンボ・ローンを担保として発行されたMBSであり、これにクレジットカード、自動車ローン、リースなど様々なABS(資産担保証券)が集合・組成されるという「証券化」である。本来であれば極めてリスクの高い証券である。1999年に「証券化ビジネス」が民間開放15)され、金融工学の理論によって、「証券化」が特別目的事業会社や住宅金融専門会社など誰にでもできるようになり、リスクの高い証券が「安全な証券」に化けたのである。その「証券化理論」とは次のような「理論」である。
その「理論」をサイコロを使って説明16)しよう。設問は以下のとおり。20面体のサイコロを5000個同時に振った時、「1の目」が同時に出る確率は何パーセントになるか。20面体のサイコロとは貸し倒れ率が20分の1(5%)を表し、5000個のサイコロは集成された住宅ローンが5000ローンあることを意味する。「1の目」は回収不能になる住宅ローンを表現している。計算すると「1の目」が10個同時に出る確率は100%、200個同時に出る確率は99.96%、250個同時にでる確率は50.65%、そして300個同時に出る確率は0.11%、となる。ここから「1の目」としてあらわされた300個までの住宅ローンをBB(可=エクイティー)もしくはAA(良=メザニアン)として区別して閉じ込め、これはこれでハイリスク・ハイリターンのMBSとして売る。それら以外はAAA(優良=シニア)のMBSとして売る。これが金融工学の「証券化理論」である。証券化が数式によってマニュアル化されPCソフトとなり、これまでカンと経験に頼っていた住宅ローンのリスク管理が誰にでもできるようになった。それによって大量の証券化金融商品が生みだされ、世界中に販売され拡散していったのである。この「証券化」こそ今次のアメリカ・サブプライム金融危機が、それまでの金融恐慌(70、74、82、84、87/89)と違っている点である。金融工学が「詐欺的貸付」を可能にし、アメリカの金融商品を世界商品に仕立て上げることができた「仕掛け=秘密」がここにある。
そもそもこの華麗なる金融工学の数式には2つの誤った前提が組み込まれている。その一つは20面体のサイコロが示す「貸し倒れ率5パーセント」であり、もう一つは300個までのローンをどうやってBB、AAに沈殿・分別させるのか、である。前者の賃倒率はこれまでの経験則に基づき割り出された数字であって不変数ではない。後者はすでに指摘したように、Alt−Aやサブプライム・ローンは所得証明などが提出不能あるいは返済能力のない人へのローンであった。AAやBBに閉じ込めようとしても、そもそもそのデータがないのである。まさしく「略奪的な意図をもって住宅ローンのオリジネーションが行われてきた」17)のである。
V.軍事インフレ蓄積メカニズムの機能不全としての世界金融恐慌

 

1.戦後(米)冷戦体制下の蓄積様式の機能不全
ではなぜアメリカは金融工学を駆使してまで、こうした「金融的詐欺」行為を犯さねばならなかったのであろうか。第4図をご覧いただきたい。ここには1950年以降の先進資本主義国の「成長」(GDPベース第2次産業)の軌跡が描かれている。10年ごとに年代別に見ると1960年代7.2%・70年代3.5%・80年代2.2%・90年代2%、そして2000年代は今次の世界金融恐慌の影響をまともに受けマイナス0.4%の成長であった。大まかに見てもグラフの傾きが示すように、20年のスパンで成長が次第に停滞変わっていった様子が伺える。そうした1990年代2000年代の先進諸国の停滞の中で、アメリカの右肩上がりの成長とドイツの2000年代の成長が飛びぬけている。これが先進国(G7)の平均成長率を引き上げているのであるが、これら2国の成長は、何を要因としていたのであろうか。アメリカの成長は、既に述べたようにITと住宅という2つのバブルがけん引した成長であり、ドイツの成長は1990年代以降資本主義世界に復帰し市場化した中・東欧諸国への輸出と投資によるものである。事実、ドイツの輸出依存度が、2001年30%・2003年36%・2008年47%と伸びているのに対して、個人消費支出の対GDP比は2003年59%・2008年57%とその割合を下げている。ドイツの成長が、国民の消費に支えられた内発的なものではないことは明らかである。アメリカやドイツの成長は、いずれも冷戦構造溶解過程(アメリカ冷戦体制解除)での、バブルや外需等のいわば特殊要因に支えられての成長だったわけで、それらを差し引けば先進国(G7)は「失われた20年」という停滞の中にいるといえよう。
この「失われた20年」は「20世紀末世界的不況」18)ともいわれるが、20世紀末から21世紀初頭にかけての先進国の停滞はどうして起きているのであろうか。それは1970年代半ば以降、歴史を画する出来事が始まっていたからであり、「失われた20年」はその帰結でもある。エンジニアリング・プラスティックに代表されるような素材(労働対象)革命とマイクロコンピュータに代表される労働手段に革命が起きた。とりわけ後者の「シリコンの小片」は、集積度を上げるに連れて、商品自体と生産過程をマイクロエレクトロニクス化し、ついにはパーソナル・コンピューターのネットワーク化、インターネットへと成長を遂げた。このわずか数ミリ角のシリコンチップの小石は、アジア人の低廉かつ稠密な労働力と結合し、アジアを比類なき競争力と供給力をもつ「世界の工場」へと押し上げて行った。冷戦体制の軍事・政治的必要から、インフレーション(ドル散布)にのって生まれ出たアジアの工業生産力はそのインフレーションをデフレーションにかえてしまうほどの爆発的な工業製品の供給力を実現した。「性能100倍・価格100分の1」というシリコンチップの本性は、それによって産み出された工業製品にも乗り移り、先進工業国の工業生産力を「空洞化」させ、価格と雇用破壊という世界市場革命を20世紀末にもたらした。先進資本主義の20年にわたる「停滞」の背景には、地球環境破壊を伴う超絶的な生産力発展があるのであり、そしてその生産力は「国民国家の枠組み」を超えた、内外格差を伴った世界大の生産力と言える。
「アジア工場化」、中国・インドなどの新興工業国の急成長と共に先進国内の生産力は第3図に見られるように「GDP(需給)ギャップ」となって表れている。時系列的に1990年代以降需要不足・設備過剰状態が続いている。ここからも「失われた20年」は、過剰生産恐慌ともいえるのであり、同時に今次サブプライム世界金融恐慌は、この過剰をかつてのように恐慌によって暴力的に破壊できずに、金融資本の「やりくり」によって、先送り延命しようとした結末とも言えるのである。
2.サブプライム世界金融恐慌の歴史的意味と位置
ではサブプライム世界金融恐慌の原因と歴史的意味は何なのか。今次のサブプライム金融危機に端を発した世界金融恐慌は、戦後世界資本主義の変容の転換の始まりを示し、成長・「蓄積メカニズム」の機能不全の表れではないのか。まずこの点を見てみよう。それには19世紀末20世紀初頭、長期の「構造的不況」に苦しんでいたほぼ1世紀前の世界の姿が参考になる。
イ.自由競争システムの機能不全と独占の形成
「今から半世紀前にマルクスが『資本論』を書いたころには、自由競争は圧倒的多数の経済学者にとっては『自然法則』と思われていた。マルクスは、資本主義の理論的および歴史的分析によって、自由競争は生産の集積を生みだし、そしてこの集積は一定の発展段階で独占に導くことを証明したが、…今や独占は事実となった」19)。1873年恐慌を起点とし1896年までの23年間、ヨーロッパは長期の「構造的不況」(Ernst Wagemann)の中にいた。自由競争メカニズムは機能不全を起こしていた。資本主義はカルテルやトラストという新しい機構・機能を編み出し、独占利潤を確保することによって、この「構造的不況」を乗り切ったのである。資本主義は自由競争段階の古い資本主義から、独占資本主義という新しい段階の資本主義へ遷移した。
自由競争段階の資本主義における矛盾(過剰生産)の解決手段としての恐慌の機能は麻痺し、矛盾の解決が戦争という政治的・経済外的手段に委ねられざるをえなくなった。19世紀末の「帝国主義的高揚」と呼ばれる軍拡景気(1896-1913年)以降、資本主義経済の諸矛盾は、周期的恐慌の爆発によって経済的に解消されるようなものではなくなり、矛盾は鋭い政治的矛盾に転化し、世界市場における諸列強の対抗・帝国主義戦争による暴力的解決に委ねられていく。この解決のために、国家の経済過程への全面的な介入は不可避となり、独占資本主義は、国家と融合・癒着せざるを得なくなり、私的な経済への介入(カルテル・トラスト・コンツェルン)は国家を巻き込んだ独占、国家(独占)資本主義へと急速に変容していくことになる。その最初の過程は帝国主義諸列強の総力戦である第1次世界大戦へ向けての戦時経済体制の構築であったが、1929年大恐慌とこれに続く30年代大不況の過程で、国家(独占)資本主義は、資本・労働・通貨等を国家の政策的管理下におく、資本主義のいわば危機管理・戦時体制として恒常化していく。この過程はアメリカのニュー・ディール政策からナチス・ドイツのような徹底した軍事国家化まで、さまざまな形をとって展開された。
ナチス・ドイツの場合には、国民兵役義務の導入による失業対策やアウトバーン(高速道路網)建設などの大規模公共事業の展開、さらには近隣諸国への軍事進駐・侵略による植民(失業者の吸収)などが図られた。この結果ドイツは1937年にはほぼ完全雇用を達成した。1930年代のドイツの「経済奇蹟」は、同時代のアメリカ、イギリスの恐慌からの脱出、克服が緩慢であっただけに注目された。日本も又アジアへの侵略・植民地植収奪によって恐慌からの脱出を目指したのである。
ドイツと同様1929年から1933年にかけて最も激しい恐慌に見舞われたアメリカでは、ドイツがナチズムのもとで完全雇用を成し遂げていったのに対し、ニュー・ディール開始年の1933年でも1300万人25%の失業者を抱えて、恐慌から脱出できずに苦しんでいた。結局アメリカも1941年の「武器貸与法」に象徴される経済の軍事化によって、はじめて恐慌から脱出(1943年完全雇用の達成)することができたのである。
恐慌対策の財源をまかなうために各国政府は厳しい財政政策を余儀なくされることになる。とりわけドイツ、日本、イタリアなどの後発諸国は、もっぱら国家財政の赤字のうえに大規模公共投資、軍備拡充等を余儀なくされた。こうした財政赤字を最終的に解消するために、異民族に対する強制労働や財産の没収、植民地収奪が行なわれた。そのための植民地は必要不可欠だが、地球上の植民地は既に分割されつくされていたから、独・日・伊の諸国はすでに領有されている植民地を奪い取る再・再分割のための戦争に突入していったのである。言うまでもなく第2次世界大戦である。こうして恐慌という経済問題は政治=軍事の問題へと転化し、レーニンが喝破したように、資本主義の矛盾の発現=全機構震撼は、恐慌から戦争へと移ったのである。
「構造的不況」「成長」の機能不全への対応・独占資本主義への変身の結果は、2度にわたる世界戦争だったわけである。世界の惨憺たる有様に、語るべき言葉はない。一瞬成功したかに見えるナチス・ドイツの対応さえ、敗戦時国債残高は3872億ライヒスマルク、GDPの6.5倍に達していた。
ロ.資本主義体制維持のための軍需インフレーション的蓄積(成長)体制の機能不全
帝国主義列強の世界分割支配・植民地体制は基本的には解体した。だが、第2次世界大戦終結を機に、世界は資本主義体制と「社会主義」体制の二つの体制に分裂していく。アメリカとソ連は互いに相手方を仮想敵国とし、常に米ソ全面戦争への危険性を持った「新たな種類の戦争」が始まった。「グローバルな階級闘争」体系の始まりである。アメリカはアイゼンハワーをもたじろがせるほどの国家資金を軍産学複合体という軍需産業につぎ込み、国際的には軍事・経済援助を継続させたのである。アメリカはこれ以降約半世紀にわたって、2度の大戦でかき集めた富を原資として、世界中にドルを散布した。これによってかつての列強は復興をとげ、とりわけドイツと日本は、それぞれ「ラインの奇跡」「高度成長」と呼ばれる「成長」をとげたのである。それが第4図に掲げた1970年代までの成長、グラフの軌跡である。
ドルは世界中に、とくにヨーロッパに堆積していった。インフレーションは必至である。すでに1958年の国際収支の悪化(1958年12億8600万ドルの戦後3度目の経常収支赤字)で表面化したドル危機は、数次の多面的なドル防衛策にもかかわらず潜在化し、基本的には克服されなかった。しかも、アメリカは1950、60年代、それ以降も局地戦争に当事国として参戦してきた。ドルは世界中に溜まっていった。ついにアメリカは1971年8月15日金ドル交換停止を発表したのである。このドルショック、国際通貨不安によって、まず欧州各国は外国為替市場を閉鎖した。その後先進各国は為替の変動に協力し合う紳士協定=スミソニアン体制をへて、「完全変動相場制」(IMF=GATT体制の解体開始)へと移行した。アメリカ・ドルを中心としたユーロ・カレンシーの市場だけでも、その規模は、1970年約1130億ドル、10年後の1980年には13.5倍の1兆5250億ドル、1990年には4兆9386億ドル20)へ、さらに2000年9月21)には11兆ドルと膨らんだ。現在ではその規模を適正に測ることのできない水準に達している。現在では「世界のドル保有高は『快適でない水準』に達し」22)ている、とボルカー元FRB議長は警告を発している。その測定は容易ではないが、ISDAによれば、CDS、利子デリバティブ、エクイティーデリバティブの想定元本(Notional amount)は2009年末には426.8兆ドル23)に達している、という。冷戦体制構築、社会主義体制封じ込めのコントーローラー(軍事経済援助と直接投資)だったドルは、金ドル交換停止によって、反対物の体制解体のウイルスに転化した。世界中に堆積したドルは有利な投資先を求めて世界中を徘徊することになったのである。
W.まとめ

 

アメリカ発サブプライム金融危機の世界金融恐慌への転化をきっかけとして、先進資本主義諸国の停滞、過剰生産恐慌は誰の目にも見えるものとなった。アメリカはG20(2009年9月)で「米国頼みの消費は止めよう」と呼びかけ、「世界経済のエンジン役を降りたい」24)と表明した。20世紀末大不況・過剰生産恐慌は、第2次世界大戦後の世界資本主義の蓄積メカニズムの機能不全の表れであるとともに、1世紀前・19世紀末「構造的不況」に類比できる事態なのではないか。1世紀前には資本主義は新しい段階=独占段階へと通路を切り開いた。ただその結末は世界戦争だったにしても、であるが。しかし今次資本主義は新しいステージへの見通しさえ立てられぬままでいる。
20世紀末大不況の最初の徴候、1970年代のスタグフレーションを、戦後蓄積様式・「成長」の機能不全の発症ではないか、と疑ったのはフランスの経済学者たちだった。周知のとおり、ロベール・ポワイエを中心としたレギュラシオン(調整)学派の研究者達である。ここではレギュラシオン理論を全面的に取り上げるわけにはゆかないが、グロ−バリゼーション、すなわち「国民経済」「一国再生産構造」の溶解を彼らがどう考えたか、に絞って見てみよう。レギュラシオン学派は、次のように考えた。スタグフレーション以前の「高成長」時代の資本主義は、クロ−ズドな国民経済の枠組みの中で、労働組合の団結権・団体交渉権を背景にして高い賃上げを実現し、それが内需(個人消費)を拡大し、資本・企業の生産拡大を誘発し、一国の経済成長を促した。すなわち〔労働者の所得上昇=資本の成長・蓄積〕という等式が成立し、経済は好循環を形成した。しかし国境は浸透膜のようになった。「ヒト・モノ・カネ」が往来するグローバル経済の枠組みの中では、労働者の高賃金=所得上昇は逆に国際競争力を阻害する高コスト要因に転化する。1970年代のスタグフレーションの病理を彼らはこう説明し、新たな蓄積様式(ボルボイズム・トヨティズム…)を模索した。しかし、彼らは臨床医・政治家ではなかった。
そこに臨床医・政治家として登場してきたのが、ケ小平・サッチャー・レーガンらである。政治家にとって必要なことは、病理の研究より即効性のある政策を打ち出すことである。それぞれの国の経済の機能不全に即応しなければならない。経済停滞と深刻な労働争議の渦中にあったイギリスでは、事態が深刻で待ったなしであった。「英国病」という持病を抱え、1976年には財政危機に陥り、IMFに救済を求めねばならぬほど「病状」は悪化していた。この病気の主治医として登場したのがサッチャーである。「ソ連・社会主義」体制に対抗するために、「ゆりかごから墓場まで」の「福祉社会」を保守・労働党の2大政党制の中で目指すという「戦後コンセンサス」をサッチャーは打破したのである。
アメリカも同様だった。ニクソンが打ち出した「新経済政策」(1971年)も功を奏さず、その後二桁のインフレーションで実質金利もしばしばマイナスを記録する事態に、ボルカーは短期金利を20%近くに引き上げる金融引き締めの荒療治(1979年)で挑戦した。そしてついにレーガンは「強くて豊かなアメリカ」をスローガンに、対ソ強硬路線を唱え軍備を拡大する一方で、社会福祉支出を抑制し、諸規制緩和と大幅な減税を行うなど「レーガン改革」を強行したのである。
ケインズ主義的財政金融政策は新自由主義的マネタリズム政策へと転換された。こうして「政府の失敗の克服」は1979年イギリス・サッチャー政権、1981年アメリカ・レーガン政権、翌82年の日本・中曽根政権という保守色の強い政権の誕生となった。別な文脈からであるが、中国では「社会主義」経済建設という政府の失敗を、「市場経済」を導入して立て直そうとするケ小平が「改革・開放」(1978年)を打ち出した。
この流れは、ケインズの「貨幣は実体経済に影響を及ぼさない」という考えを否定し、社会経済秩序と自由競争がある限り市場経済においては完全雇用均衡へ向かう自動調整メカニズムが働く。安くて良いものを供給すれば需要は増大する、という考え方だった。そのために企業は競争力の強化に努めねばならず、政府は適正減税・社会保障の圧縮・規制の緩和撤廃などを進めなければならない、とするものであった。政府の経済介入を最小限に抑え、経済を市場に任せて競争を促進することこそが、資源の効率的配分と社会的富の増大、すなわち経済成長を実現する最善の方法であるという「市場原理主義」である。
しかし「安くていいものを供給しよう」としても、先進資本主義国は国際競争力を国内では回復できなかった。先進資本主義国の個別資本・企業は国際競争力を回復させるために、製造部門を本国内に持たないことが必須条件になった。この企業の生き残り策は、先進諸国の「産業の空洞化」「雇用の喪失」に帰結する。先進国内では生産は成り立たず設備過剰をかかえたまま、有効需要を見い出せないでいる。その過剰は雇用破壊、失業となって表われ国民を苦しめている。特にアメリカでは国民の生活は輸入品に頼らざるを得なくなっており、国際収支の貿易赤字が積み上がっていった。今次のサブプライム世界金融恐慌はこうした国際収支のバランスを何とかやりくりしようとして仕掛けられたアメリカの手立て=金融的対処の破綻である。有体に言えば、先進諸国が途上国の苦汗労働に生産をゆだねざるを得なくなっており、その労働の果実を金融操作によって略奪し、あわよくば上前をもはねようとした術策の結末である。それはまた、およそ20年間近くにわたるウォール街・金融資本に依存した「金融立国」アメリカとその追随者たる先進国の行き詰まりである。
19世紀までの自由競争の時代、20世紀前半の帝国主義(私・国家独占)の時代、20世紀後半の冷戦構造(体制独占)の時代という資本主義の生涯の歩みから見て、20世紀全体を染め上げ、私・国家・体制と積み上がり広がった「独占」が機能不全に陥っている。密かに私的に始まった独占が国家を巻き込み、世界を巻き込んで積み上げた世界編成支配の構図が崩れかかっている。半導体の性格、「性能100倍価格100分の1」が象徴するように、技術独占にもとづく独占利潤の安定的確保が難しくなっている。20世紀を染め上げた「規制と統制」・「独占」の機能不全を食い止めようとした手立てがアメリカの「金融によるリカバリー」金融反革命だったが、それが行き詰った、というわけである。それはまた、第2次世界大戦後の冷戦対抗の手段としての世界ケインズ政策の破綻・軍事インフレ蓄積機構の機能不全でもある。
しかしそれにしても驚く。ノーベル経済学賞を受賞した「華麗なる金融工学理論」とその理論を実践した大銀行・証券・投資会社、そしてそれらを信用した人々に、である。「聖体顕示台」というものがある。キリスト(教)の威光をあまねく世界に広めるためのもので、金銀宝石で飾り立てられている。中世・近世の人々はこれに平伏した。もしかすると、金融工学理論と大金融機関の壮麗な超高層ビルは、市場原理主義という宗教の、現状によみがえった「聖体顕示台」かも知れない。
1) 2002年6月17日のブッシュ大統領の意見表明。
2) 2004年6月9日、住宅・都市開発省(HUD)はマイノリティー向け頭金補助制度を柱とする具体策を公表した(「日経金融新聞」2004年6月9日、9ページ)。
3) 米ウォールストリート・ジャーナル編集長ポール・スタイガー(「日経産業新聞」2002年10月30日、32ページ)。
4) Gramm−Leach−Bliley Act(グラム・リーチ・ブライリー法)が、1999年11月に成立した。これにより、Banking Act of 1933(1933年銀行法、通称グラス・スティーガル法)の銀行と証券の垣根が66年ぶりに撤廃され、銀行、証券、保険の相互参入が促進されることになり、その結果いわゆる「証券化ビジネス」も自由化されることになった。
5) MBSとはMortgage-Backed Securitiesの略で、住宅ローン担保証券。証券購入者は住宅ローンからの毎月の元利返済に対応する利息と元本の償還に応じた(配当)金を受け取ることができる。
6) CDSとはCredit Default Swapの略で、企業倒産や債務不履行の際、債権を保証・肩代わりする仕組みで、融資や債券などのデフォルト(焦付き)に対する保険のようなもの。これ自体も金融商品CDS(債務破綻保証証券)として売買される。これによって、保証してほしい(担保となる)債権を持たない者が、保証だけを売買するようになり、もし債務不履行が起これば、わずかな保険料の支払いで、大きな元本を得られる可能性が生まれる。たとえばA社の債権100万ドルの保証料(CDS)が毎年1%とすると、1万ドルの保証料を払った人は、A社が倒産したら100万ドルを手に入れることができる、という仕組みである。AIGはそうしたCDSの最終引き受け手であった。
7) CDOとはCollateralized Debt Obligationの略で資産担保証券。社債や貸出債権(ローン)などから構成される資産を担保(Collateralized)として発行される資産担保証券(ABS;Asset Backed Security)の一種。図中ではⒷ。
8) 篠原二三夫「米国住宅ローン市場の現状と課題、持ち家政策と住宅金融、住宅価値の評価と活用を考える」。
9) 前掲論文、69ページ。略奪的貸付行為は2003年頃から多発していた、という。[ ]内の文言は引用者涌井の挿入(以下同じ)。
10)前掲論文、74ページ。
11)前掲論文、75ページ。
12)「NHKスペシャル、アメリカ発世界自動車危機」(2009年2月2日放映)。「2000年にトップに就いたリチャード・ワゴナーは金融子会社GMACに活路を求める。自動車リースや保険、カード、住宅ローン……。GMACに自動車ローン会社以上の期待をかけた。2000年、GMACの格付けは親会社のGMより上になった。自動車事業は04年から赤字。GMACの高収益が連結決算の帳尻を合わせた。転機は05年春。ガソリン高で燃費の悪いGM車の販売不振が一段と深刻化。決算を取り繕えなくなっ。…GMACも信用力の低い個人(サブプライム)層への貸し出しを増やし、危ない橋を渡っていた。08年夏、有力ディーラーが貸し倒れ急増で破綻。9月のリーマン・ショックでGMACも資金繰りに窮した。…GMは一時国有化〔2009年7月10日〕され、政府管理下での分割・再生過程に入った」
13)第4図に加筆したが、戦後アメリカの金融恐慌は以下のとおりである。「アメリカについて見れば、1966年に信用逼迫が生じ、70年、74年、82年にはそれぞれ金融恐慌が発生したし、84年には大恐慌以来の預金取付け騒ぎさえ起こった。…1987年から89年にかけて毎年200行を上回る商業銀行が倒産し、90年前後には倒産の可能性ありとされる問題銀行は1000行を超えた」
14)Alternative A-paperの略。A-paperは一定基準を満たした信用度の高さを示す保証書。
15)注4参照。
16)このパラグラフの解説の論旨は、2009年9月17日放映のNHK「マネー資本主義(4)天才達がつくり出した“禁断の果実”金融工学」に沿ったものである。ここでは番組中の前提条件をそのままにして、追試した結果を記述している。
17)前掲、篠原論文75ページ。
18)「『20世紀末世界的不況』という場合、それを1980-82年の世界同時不況からを指すのか、あるいは1990年ないし91年からの各国(特に西ヨーロッパ・日本)の世界的不均等不況のみを指すのかは、論者によって意見の異なる」ところである。
19)ヴェ・イ・レーニン、副島種典『帝国主義論』
20)日本銀行『外国経済統計年報』(日本銀行、1994年)425頁。
21)国際決済銀行(BIS)よると、国際銀行業市場の規模は、2000年9月末、国際債権総額11兆4094億ドル、国際債務総額11兆1509億ドルで銀行間再預金を除くネット債権額では5兆5714億ドルとなっている。これは主要ヨーロッパ諸国、アメリカ、カナダ、日本所在の銀行とオフショア・センター所在の銀行の外貨建、自国通貨建の国際債権、債務の推計であり、これまでのユーロ・カレンシー市場の推計より対象範囲が拡大されている。
22)「ロイター(インターネット版)」2009年12月10日
23)ISDA Publishes Year-End 2009 Market Survey Results、International Swaps and Derivatives Association、 Inc Home Page(2010年7月13日)。2010年7月2日(金)午後10時放映のNHK「狙われた国債、ギリシャ発・世界への衝撃」は、世界のマネーを7京円(700兆ドル:1ドル=100円換算)と伝えた。
24)「朝日新聞」2009年9月27日、朝刊2ページ。
 
現在の経済情勢は昭和恐慌前夜に似てきた 2011/2

 

歴史は繰り返すと言われているが、大正と昭和初期に起きたことと、現代とが共通点が多い。歴史をしっかり学んでいたら、バブルとその崩壊による経済の混乱を避けることができたのにという思いが強く感じられる。
バブルと呼ばれる経済情勢は1989年頃以外に大正時代にもあった。そのバブルが崩壊した後、長いデフレの時代があり、その不況の真っ直中に政府は緊縮財政を行って、昭和恐慌に陥ったことは有名である。現在のマスコミの論調や政治家の発言で、デフレの中で緊縮財政をせよとの主張が台頭してきて、昭和恐慌前夜に酷似してきており、危険水域に入ったように思える。
順を追って話しを進めるため、1914年頃の背景から始める。日本はアメリカ、イギリス、イタリア、フランスに並ぶ世界五大国の1つであった。当時の対立する二大政党は緊縮財政の民政党と積極財政の政友会であった。この頃は日本製品に国際的競争力がついておらず、貿易赤字が続き、外国からの借金も積み上がり、利払いさえ危ない状況だった。1913年に高橋是清が大蔵大臣に就任し積極財政を展開し、貿易赤字は拡大したが、大規模な外資導入でなんとか賄っていた。つまりこの頃は外国からの借金が積み上がり、ギリシャのようになろうとしていた。
しかし、それを救ったのは1914〜1918年の第一次世界大戦だった。日本は戦場にならず、食料・日用品・軍需品の供給基地となりアジア市場を席巻した。ライバルであったヨーロッパ諸国は戦争で輸出の余裕が無くなり、その代わりに日本製品が進出していった。海運においても運送料の暴騰で巨額の利益を得た。1914年には500万円の貿易赤字だったものが、1915年〜1918年の4年間の経常収支黒字累計額は27億円となった。この頃のGNPが47億円であったことから、この額が如何に巨額だったかが分かる。ヨーロッパの戦争により日本は債務国から純債権国になり1919年には正貨保有高は20億円に達した。
注目しておかなければならないのは、金の輸出入である。当時は金本位制にするのか、金本位から離脱するのかで、国の経済の命運を分けていた。金本位制度なら、金が不足すると通貨を十分発行できず、デフレに陥ってしまったし、離脱すると為替が不安定になったからである。1917年金輸出が禁止された。つまり金本位制からの離脱である。貿易赤字で金の流出が続いていた戦前と違い、一気に戦争特需で金保有を増やした時に金輸出の禁止を行ったのは矛盾するように思えるが、アメリカが禁輸出の禁止を行ったのに足並みを揃えての禁止措置だった。
戦争特需で外貨(当時は金)が稼げてよかったと思うかもしれないが、高橋是清による度を超した積極財政でインフレとバブルを発生させてしまった。1919年の消費者物価は1915年の2.37倍になった。次のデータは卸売物価指数である。

   

米や綿花等はもっと激しく値上がりし、1919年には大戦前に比べ米価は3.6倍、綿花は7倍に暴騰している。なぜこのように物価が上がったのかといえば、戦争特需で海外で稼いだ外貨を円に換えたために、日本国内で出回るお金が増えたことに加え、国債を増発、金利引き下げたことで、更に通貨発行のテンポが早くなったことにある。しかも、その金は米とか綿花等投機の対象になるものに向かい、買いだめして値上がりを待ったため、戦争特需の恩恵を受けなかった庶民には逆に生活が苦しくなっている。1919年には全軍事予算が一般会計の45.8%に上っており、国民生活のためにお金が使われていない。
現在の日本や中国でも外需で金を稼いでいるが、インフレにならないのはなぜだろう。現在の日本の場合、稼いだドルは日本に持ち帰らない。日本国内で投資できるものが無いからだ。米や綿花を買っても値上がりの見込みが無い。土地投機も値下がりが続いていてとても買う気にならない。一方中国では、インフレを防ぐために預金準備率を上げて、お金が銀行から出きにくくしたり、金利を上げてお金を借りにくくしたり、売りオペでお金を吸収したり、近隣諸国に元を準備通貨として保有を義務づけたりしている。
   
大正時代の日本はそのような努力は全くしていない。それどころか1916年3月には公定歩合の引き下げを行っている。戦争特需で大成功した自信で、限りない発展をする日本をイメージしており、インフレを気にせず積極財政を続けている。軍備を増強して将来の戦争に備えることが念頭にあったのだろう。しかし、海外からの需要の急増に生産が間に合わず、ボタンを糊付けしただけの衣服を輸出したとのエピソードもあるくらいで、粗悪品でも何でも売れた。その反動で1918年11月の休戦により、ヨーロッパの企業が戻ってきて競争に勝てなくなり、海外需要の減少、物価の下落で経済は大きな打撃を受けた。
ところが、翌年の1919年には、再び経済は根拠の無い熱狂的なブームになり、地価、株価、商品相場などが異常な高騰を示した。学校の先生やサラリーマンなど、ありとあらゆる人々が株などの投機に熱中していた。株価が38915円の最高値をつけた1989年にそっくりだ。無謀にも銀行も設備投資に積極的に応じた。次の企業新設及び拡張計画資金のグラフをみれば、その異常さが分かる。
 
特需が終わり外需が減少し、設備投資が過剰になっていたのだから、この大正バブルは間もなく終わり、その反動が一気にやってくる。特需でインフレになったのと逆のことがバブル崩壊で起きた。輸出減少で再び貿易赤字となり、輸入を維持するには円を外貨に交換してもらわねばならないのだから、円が市中から消えていきデフレとなった。株、商品相場等も大暴落した。投機に走っていた人、企業が次々自己破産、倒産をし、銀行の取り付け騒ぎが続発し、休業が相次いだ。当時は預金者保護の仕組みが無かったので銀行が危なくなればすぐに取り付け騒ぎとなった。それに対し政府は緊急融資で対応した。この頃の経済をしっかり学習していたら、1989年のバブルとその後のバブル崩壊に伴う不良債権問題の発生は無かったろう。この1920年不況によるダメージは昭和恐慌より大きかったというのが鈴木正俊氏『昭和恐慌に学ぶ』の主張であり、その比較は次の表で分かる。
   
1920年不況を深刻にしたのは、「退場すべき企業は退場すべき」という考えであり、小泉・竹中路線でもあった。政府の失政によりバブルを発生させ、失政によりバブル崩壊となったのに、企業が潰れるのは企業に責任があると政府が決めつけた。このため、不況を深刻にさせ景気回復を困難にした。実際は政策の失敗のために退場させるべきでなかった企業を多数退場させてしまった。
1904〜1905年の日露戦争、1914〜1918年の第一次世界大戦、1931年の満州事変と続き、この時代は常に戦争と向き合わざるを得ない状況で、軍事支出が増大しやすかった。少なくとも大正時代には外国からの借金は気になっても、国債残高の増大にはそれほど気になっていなかったように見える。次の図は債務(国債発行残高)のGNP比である。
 
景気がよく、積極財政を行っていた第一次世界大戦中には債務のGNP比は減少。しかし、デフレが続いた1920年〜1930年の間では、債務のGNP比は徐々に増加している。高橋是清の積極財政(大量の国債発行)で経済が立ち直った1931年〜1936年になると増加は止まり、減少に転じている。これを見ても、景気が悪ければ国の借金(国債発行残高のGNP比)は増えていき、大量国債発行で景気を回復させれば実質的に借金は減るのだと分かる。
大正バブルで発生した過剰な投資が、その後の日本経済の足を引っ張った。更に悪いことに。1923年には関東大震災が発生し、日本のGNPの約3分の1の45億円の損害を出した。これに関連して発生した負債が金融恐慌の震源地になった。
1927年には台湾銀行の営業停止をきっかけに大規模な取り付け騒ぎが起きた。昭和金融恐慌が発生し、高橋是清蔵相は井上準之助日銀総裁と協力し、3週間の支払猶予措置(モラトリアム)を行った。全国的な金融パニックを収めるために紙幣を増発した。印刷が間に合わず、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。現在は通貨も預金が中心であり、預金が守られている限り同様な金融パニックは起こりそうもない。
10年以上続いた不景気・デフレの最終章で国全体が恐ろしい集団催眠にかかってしまう。デフレの中で「緊縮財政」を肴に盛り上がったのだ。国民は〈お前塩断ち、私茶断ち〉〈うれし解禁とげるまで〉と「緊縮小唄」(西条八十作詞、中山晋平作曲〉を歌って金解禁を歓迎した。1930年は国債発行額を0にするための超緊縮予算となった。公務員給料の引き下げも行われた。
なぜこの不景気の中で緊縮財政を行うのかというと、貿易赤字が続いており、それを改善するということだった。なぜ金解禁(つまり金本位制への復帰)が必要だと考えていたのかというと、諸外国が次々と金本位制に復帰していたことと、それが為替の安定につながり貿易を促進に経済発展に必要だと考えたからである。井上準之助蔵相はIMFに影響を受けていたのだろう。IMFは資金融資の見返りに、経済の緊縮政策を要求する。つまり緊縮財政によって国際収支の均衡を図ろうとする。デフレ下での緊縮財政に加え、1929年に始まった世界大恐慌が事態を更に悪化させ、日本経済は昭和恐慌へと突入していった。
昭和恐慌前夜のこの危険な集団催眠に関しては現在の日本と多くの共通点がある。
1 バブル崩壊後デフレが続いている。
2 デフレなのに増税・歳出削減の議論が盛んである。
3 緊縮政策に国民が理解を示している。
4 IMFの影響を政府が受けている。
5 公務員給与の削減を主張している。
6 銀行の経営危機は何度も経験した。
7 国債発行を抑えようとしている。
8 不況で株価も下がっていた。
9 円高容認の声も強かった。
10 借金で歳出を計ってはいけないという論調。
以下に株価の動きを示す。高橋財政によって経済が持ち直す前は、株価は下がっていた。
   
井上蔵相により、1930年1月に旧平価での金解禁が断行された。旧平価ということは、円高にするということだ。通貨発行を拒否する菅内閣は事実上円高容認ということで、井上蔵相の政策と似ているとも言える。円高にするということは、日本製品のすべてを一斉に値上げすることに相当し、そうでなくても競争力の弱い日本製品が売れるわけがなかった。実際、翌年の1931年には、輸出は解禁前の半分に落ち込んだ。金解禁に反対した高橋亀吉は「財界攪乱罪」で警察に引っ張られた。マスコミは彼を「非国民」扱いにした。マスコミの偏向は現代も変わらない。
金解禁ということで、人々はお金を金に替え始めた。日銀の正貨準備は激減し1931年末に4.7億円と金解禁の前に比べ半減した。金本位制では金保有高が減れば、通貨もそれに比例して減らさなければならず、デフレが加速した。金が出て行く理由は簡単に説明してみよう。平価での金解禁ということは、国が金(ドル)を大安売りするということ。しかも国は金を少ししか持っていない。となると、今貯金を全部下ろして、金(ドル)を買っておけば、間もなく国は大安売りを止める。そうすれば、金(ドル)は値上がりし、そこで金(ドル)を売れば、大もうけができる。実際ドル買いをして儲けたのは住友、三井、三菱などの財閥だった。結局金本位制は2年弱で終わった。
1931年12月、政友会の犬飼内閣が成立し、新しく就任した高橋是清蔵相は金輸出を禁止、金本位制から離脱、そして積極財政による経済の立て直しを計った。それにより、日本は世界で最も早く世界大恐慌から立ち直ることができた。
   
最後に強調したい事は、デフレ経済で歳出削減や増税などの緊縮財政を行うことは、極めて危険であるということだ。多くの国民が消費税増税に賛成しているということは、昭和恐慌前夜と同じような非常に危険な状況に日本が陥っていると言える。 
 
世界恐慌は金融屋が作ってる 2011/12

 

次は日本国債の格下げだ「格付け屋」に支配された世界経済
ついにEU(欧州連合)の格付けまで「引き下げ見通し」に指定された。日本国債の格下げ懸念も高まっている。「そういうことには疎い」(菅直人前首相)などと言っている場合ではなくなってきた。
暴落を演出
「サブプライムローン関連の金融商品に高い格付けを出していたことで、格付け会社の信頼は地に堕ちたが、ギリシャに始まる世界各国の国債危機に乗じて、いつの間にか復活してきた。格付け会社が世界最強国であるアメリカの国債を格下げすると、これがトリガー(引き金)となって世界同時株安へと発展、欧州国債の格下げラッシュでもその影響力の強さを誇示している」(財務省OB)
各国の政府首脳たちが、いま、格付け会社の一挙手一投足に翻弄されている。
全国紙経済部記者もこう指摘する。
「12月5日の欧州総格下げ予告≠ヘインパクトが大きかった。米大手格付け会社『スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)』が突如としてドイツ、フランスを含むユーロ15ヵ国の長期国債の格付けを引き下げる方向で見直すと発表すると、世界のマーケットが反転≠オた。実はこの発表の数時間前に、メルコジ(ドイツのメルケル首相とフランスのサルコジ大統領)が共同で会見を開き、欧州の国債危機に対する新たな抜本対策を講じる予定だと発表していた。それを好感、ユーロ相場は上げ基調で始まっていたのに、格下げ検討の発表を受けて一気に売りが先行、下落を開始した。日本の株式市場でも欧州懸念が再燃し、戻り始めていた日経平均が反落、8日ぶりの下げ幅を記録した」
会見後に見せたメルケルの笑顔は一転、苦衷に歪んだ。格付け会社による絶妙なタイミングでの介入≠ェ、市場に広まる欧州不安を火消しするために開いたメルコジ会見に水をさした格好だ。
リーマン・ショック後に鳴りを潜めていたヘッジファンド、格付け会社といった「金融屋」たちが、欧州危機を背景にして、その存在感を高めている。先週号でレポートしたように、一部のヘッジファンドは危機を利用して儲けようと動き出している。
ニュージャージー州在住の米国人ヘッジファンドファンドマネジャーは、目下欧州で広がる国債危機に乗じた投資で、「年率20%」という驚異的な利回りを叩き出しているという。
当人が語る。
「欧州危機のおかげで儲けることができました。私は債券投資が得意で、昨年ギリシャ危機がクローズアップされてから、PIIGS(ポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペイン)の国債のショート(カラ売り)ポジションを仕込んだ。今夏、ギリシャの救済策がまとまるとの報道があった時は国債が値上がりして損切りをせざるをえない場面もあったけど、ほとんどは我々がカラ売りする度に国債が暴落してくれたからね。トータルでは年率20%の成績を残せた。ヘッジファンドが危機を煽っている?そんなこと知ったことじゃない。今年はフロリダの別荘にも行けず、徹夜で相場を見る日もあった。一生懸命働いた人が高収入を得るのは当たり前のことだ」
欧系投資銀行幹部も、こう言う。
「先日、イタリア国債の破綻リスクを示す指数がたいした理由もなく、膨れ上がったことがあった。なにがあったのかと見ていると、ベルルスコーニ(元首相)の女性問題が出てきた。こんな痴話話だけで指数が上がるのはおかしいなと思っていると、市場でこんな噂が流れた。『アメリカのヘッジファンドが大量にイタリア国債のショートポジションを持っていて、これで利益を出すために女性問題をメディアにリークしたらしい』---事の真相はわからない。ただこのように指数を巧みに動かす芸当≠ヘ、規制でがんじがらめにされている大手金融機関にはできない。どこぞのヘッジファンドの仕業に違いない」 
 
英EU離脱で世界恐慌緊迫 “次に離脱する国”は? 2016/6

 

世界経済を揺るがしかねない“審判の日”が近づいている。23日(木)、英国でEU離脱を問う国民投票が実施される。離脱派と残留派は激しくせめぎ合い、どちらに転んでもおかしくない状況だ。
16日に残留支持の女性議員が殺害されたことで、離脱派の勢いはそがれた。18日に発表されたサーベイション社による事件後初の世論調査では、残留派の45%に対し、離脱派は42%にとどまった。殺害事件が起きる前は、残留派42%、離脱派45%と離脱派リードだったので、形勢逆転だ。
「英国民はかなり迷っているのでしょう。だから何かキッカケがあれば、流れはガラリと変わります。例えば、大規模テロです。EU域内の人の行き来を制限したほうがいいという声が一気に高まり、離脱派は息を吹き返すでしょう。離脱派の勝利は、EU崩壊を連想させるだけに不気味です」(株式評論家の倉多慎之助氏)
金融マーケットでは早くも「英国の次にEUを離脱するのはどこか」が囁かれ始めている。
米ピュー・リサーチ・センターが今月7日に調査した「EUの経済政策に対する不支持率」が興味深い。EUの主要10カ国が対象で、不支持率が最も高かったのはギリシャの92%で、以下、イタリア68%、フランス66%、スペイン65%、スウェーデン59%、イギリス55%だった。
「イギリスより不満を持つ国が5つもあります。こうした国は英のEU離脱に続く確率が高いでしょう」(市場関係者)
金融市場は、「英EU離脱→ポンド急落(ユーロ急落)→英国債暴落(EU各国の国債暴落)→金融危機→世界恐慌」を警戒する。
この流れに乗じて、ヘッジファンドが暴落を仕掛けてくるという指摘がある。
「財政悪化の伝わるスペインやイタリアの国債暴落を狙ってくるでしょう。実際に離脱するかどうかは問題ではありません。マーケットが離脱の可能性ありと判断した時点で、両国の国債は大暴落しかねません。金融市場はパニックに陥ります」(株式アナリストの黒岩泰氏)
EUの問題児ギリシャなどは、仕掛けられなくともすでに国債は下落し始めている。狙い撃ちされたら、デフォルト(債務不履行)へまっしぐらだ。 
 
ドイツ銀行に倒産の可能性 2016/2

 

LIBORが原因でデフォルトすると世界恐慌に
今日も豪快に日経平均株価が暴落していますが、やはりドイツ銀行の倒産の可能性が示唆されていることが原因として考えられているようです。
ドイツ銀行が倒産(デフォルト)する可能性は2015年の夏くらいから指摘されてきましたが、あれから半年ほどたった現在になって倒産の危機が深刻化してきたのかもしれないですね。
そもそもドイツ銀行の株価自体が大暴落していますので・・・この株価の推移を見るだけでも倒産する確立がかなり高いことがわかると思います。
リーマン・ショック以降の大規模な金融緩和によって世界恐慌は回避されたように見えましたが、実はより大規模な危機が訪れる原因になったのかもしれませんね。
ドイツ銀行が倒産(破綻)の原因は?
ドイツ銀行が倒産すると噂されるからには原因があるのです。
その一つがデリバティブ商品ですが、かなり大量のデリバティブ取引を行っているようなのですね。それもギリシャ絡みの危ないヤツです。
デリバティブ商品をどれだけ取引していたのかは外部からは分からないようになっていますが、ドイツ銀行が取引を大きくしていったことについて何の規制も行わなかったドイツ政府の責任も重大なものとなるでしょう。
さらにドイツ銀行はLIBORやTIBORについての不正を行っていたことから多くの訴訟を抱えているわけですが、そのいづれにおいても莫大な賠償を請求されているのです。
また、フォルクスワーゲンの排気ガスの規制逃れの不正によって破綻しそうになっていたのですが・・・メルケルの指示によってドイツ銀行がフォルクスワーゲン救済の資金の大部分を出すことになったのです。
これらの要因からドイツ銀行の株価が大暴落したわけで、それによって倒産(破綻)するという噂が大きくなっていく原因になったのです。
ドイツ銀行の破綻で世界恐慌になる理由
ドイツ銀行ってとてつもない規模の大きさなのですが、ここが破綻(デフォルト)してしまうと規模が大きいだけに誰も助けることができないという状態になっているのです。
なんといっても世界第4位の規模を誇る銀行ですから・・・もし倒産なんてことになればリーマン・ショック超えの世界恐慌が発生する可能性は凄く高いのです。
ドイツ最大の銀行が破綻してしまった場合は救済するのはドイツ政府ということになると思うのですが、フォルクスワーゲン問題や難民問題によって分裂しているドイツが簡単に救済できるとは到底思えないことも理由の一つになっています。
さて、ドイツ銀行の株が売られるということは全世界の金融関連企業や商品の価値の低下を引き起こすキッカケとなります。
実際にドイツ銀行の株価暴落が原因となって日本の銀行株も大幅に下落しているのですからね。
今後もありとあらゆる金融関連株が下落していくことが金融不安を引き起こして、結果的には世界恐慌へと繋がる可能性が感がれられているのです。
ドイツ銀行デフォルトと世界恐慌
今回は「ドイツ銀行に倒産の可能性!LIBORが原因でデフォルトすると世界恐慌に!」という内容でしたが、もともとはドイツ経済はヨーロッパの中でも優等生的な存在だったのです。
しかし約54兆ユーロにもなるデリバティブを持っているがために、ギリシャの破綻によってドイツも破綻することになるわけですね。
ギリシャの破綻はEUの解体に繋がる危険なものなのですが・・・そうなれば当然、世界経済にも大きな影響を与えるのは必死ですからね。
さてさて、ドイツ銀行は新型ハイブリッド債やCoCo(ココ)債の利払はキチンと行えるのでしょうか?
噂ではフォルクスワーゲン倒産の危機も流れていますので、八方塞がりという様相を呈してきましたね。 
 
現代金融危機とマルクス理論

 

はじめに
2007年夏に始まったヨーロッパにおけるサブプライム危機は、2008年になりその大元である、米国金融機関を直撃した。2008年9月15日には、米国投資銀行大手の一つ、リーマン・ブラザーズの倒産という事態に発展したのである。米国株式市場をはじめ世界の証券市場は、1929年10月の株式恐慌以来の大混乱を喫した。また、金融危機は、米国はじめ多くの国の実体経済に影響をおよぼし始めた。GM、フォード、クライスラーの米自動車大手3社が経営危機に陥り、公的機関の救済なくしては破産という深刻な事態に展開した。業績良好といわれた日本のトヨタも急速に収益を悪化させ、今年の経常利益はマイナスとなった。巷には、1929年恐慌の再来だとか、100年に一度の金融危機だとか、さまざまな将来に対する予測が述べられている。
本稿は、マルクス経済理論の立場から、現代経済分析の視点を示すことにある。とりわけ、現在進行中の金融危機について、マルクス信用論のひとつの適用を試みようとするものである。いうまでもなく、マルクスの経済理論は、19世紀中頃のイギリス経済を対象にして構築された。だから、今日21世紀において、この理論が通用するとする本稿の視点には、多くの異論があろう。だが、ここでは、現在展開されている世界的な金融危機分析の基本的視角をマルクス信用論の適用によってあきらかにしたい。その場合、わたくしは、今日の金融危機をマルクスの理論によって分析するには、3つの段階的議論を踏むことが重要と考える。なぜなら、マルクスの議論から直ちに今日の金融危機分析をおこなうことはできないからだ。
分析1 マルクス『資本論』から何を抽出するか
いうまでもなく、マルクス『資本論』は、経済恐慌について論じた書物ではない。また、マルクスの金融危機分析というのが整理されて示されているというわけでもない。しかし、今日の金融危機分析という視角から、本書を読み返せば、いくつか重要な論点を抽出することができる。注目すべきは、その第3巻第5篇「利子と企業者利得とへの利潤の分裂。利子生み資本」であり、まずその第27章「資本主義的生産における信用の役割」である。ここでマルクスは、信用制度の一般的論点を整理するのだが、<信用による貨幣の節約>という機能には注目すべきだろう。つまり、貨幣は信用によって3通りの仕方で節約されるという。第1が「取引の一大部分にとって、貨幣が全く必要とされなくなることによって」1)。第2が「通流する媒介物〔流通手段〕の流通が速められることによって」2)。そして第3が「紙券による金貨幣の代位。」3)によってだというのだ。つまり商業信用を基礎とし、銀行信用に発展する、資本主義経済の信用制度は、貨幣を節約し、流通速度を著しく速め、金貨幣を必要としないシステムをつくりだすのである。貨幣などは空虚な観念的な価値に過ぎなくなるのだ。したがって、「流通または商品変態の、さらには資本の変態の個々の局面の、信用による加速、またこのことによる再生産過程一般の加速」が起こり、「信用は、購買行為と販売行為とを比較的長期間にわたって分離することを許し、それゆえ投機の土台として役立つ」という景気拡大、活況局面を演出するのに欠くことのできない要因となる。
だが、ここでのマルクスの現代金融危機につながる論点提示は、株式制度について論じた箇所だろう。いうまでもなく、株式制度は、資本主義体制そのものの基礎上での資本主義的私的産業のひとつの止揚である。だからこそまた、マルクスは、投機を助長するというのだ。「信用は、個々の資本家または資本家とみなされる人に、他人の資本および他人の所有、それゆえ他人の労働にたいする、一定の制限内での絶対的な処分権を提供する」4)。だから他人の所有にもとづく資本家の投機活動は、大胆になり、その成功も失敗も、諸資本の集中に導き、収奪へと展開する。「信用は、この少数者にますます純然たる山師の性格を与える。所有はここでは株式の形態で実存するので、所有の運動および移転は、取引所投機の純然たる結果となるのであり、そこでは小魚たちは鮫たちにのみ込まれ、羊たちは取引所狼たちにのみ込まれる」5)ことになるのだ。
資本主義社会では、その性質上弾力的な再生産過程が、信用制度によって極限まで押し広げられる。つまり、信用制度が、過剰生産や商業における過度の投機の主要な梃子となるからなのだが、そうなるのは、社会的資本の一大部分が、この資本の非所有者たちによって使用されるからだ。「信用制度は、生産諸力の物質的発展および世界市場の創出を促進するのであり、それらのものを、新たな生産形態の物質的基礎としてある程度の高さまでつくりあげることは、資本主義的生産様式の歴史的任務である。それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、すなわち恐慌を、それゆえ古い生産様式の解体を促進する」6)ことになる。
だが、この恐慌を促進する信用、とりわけ株式制度は、どのようにして資本主義を過度な投機活動へと追いやるのだろうか。ここでわれわれは、まず、株式制度の下で形成される<架空資本>の形成メカニズムへ分析のメスを入れなければならない。マルクスは言う。「架空資本の形成は、資本還元と呼ばれる。規則的に反復される所得は、いずれも、平均利子率に従って計算することによって、すなわち、この利子率で貸し出された資本がもたらすであろう収益として、計算することによって、資本に還元される」7)のである。だから、「この証券の資本価値は、純粋に幻想的なものである」8)。この証券の市場価値は、現実資本に価値変化がなくても、独自の動き方をするのだ。ある株式の名目価値が£100としよう。一般の平均利子率が5%のときにこの株式が10%の収益をあげるとすれば、£200に騰貴するだろう。なぜなら、収益£10を平均利子率で除してもとめた値が、£200となるからだ。さらに、この証券の市場価値は、一部は投機的になる。なぜなら、この株式の市場価値は、現実の収益のみならず、将来の期待される収益によっても影響されるからだ。将来性のある企業株式価格が急騰するのは、そうした投機筋の読みが入ってくるからである。「したがって、貨幣市場の逼迫期には、これらの有価証券の価格は、二重に下落するであろう。なぜなら、第一には、利子率が上がるからであり、第二には、これらの証券が、換金のために大量に市場に投げ出されるからである」9)。しかし、重要なことは、嵐が過ぎ去れば、これら証券の市場価値は、破産企業やいかさま企業のものでもない限り、再びもとの水準に騰貴するのだ。恐慌時の価値減少は、大儲けをたくらむ投機家の格好の投資ターゲットとなる。だから、その価値減少は、貨幣財産の集中の強力な手段として作用するというわけだ。ということは、これらの証券の価値減少や価値増加が、現実資本の価値運動と何のかかわりもないとすれば、一国民の富の大きさには変化は生じない。「国民は名目的貨幣資本のこれらのシャボン玉の破裂によっては、びた一文貧しくはならなかった」ということになる。
資本主義の発展と共に現実資本の権利証書としての証券類の蓄積がおこなわれる。これらの証券は、あきらかに現実資本との関連を有しているが、それ自身商品として取引される場合、それ自身資本価値として流通するのだ。これらの価値額は、現実資本の価値運動とは全く関係なく動きうる。かくして、これらの所有権証書の価格変動による利得と損失は、性格上、賭博の結果となる。マルクスは言う。「その賭博こそ資本所有を獲得する本来の方法として労働に代わって現われ、また直接的暴力に代わって登場もするのである。この種の想像上の貨幣的財産は、個人の貨幣財産の非常に大きな部分をなすばかりでなく、すでに述べたように、銀行業者資本の非常に大きな部分をもなしている」10)。
株式制度の発展が急速に展開されると、貨幣資本家による貸付可能資本の蓄積が促進される。そして、彼らによる蓄積の源泉は、産業資本家と商業資本家を犠牲にして行われるのだ。なぜなら、既述のように、不況局面における証券価格の下落時に、彼らによる証券の大量買付けが行なわれるからである。これらの証券は、その後の景気回復局面で再びその正常な高さおよびそれ以上の価格に騰貴したときに売り払われる。かくして、貨幣資本家の手に、膨大なキャピタル・ゲインが転がり込むという算段だ。こうした利益を貨幣資本家たちは、とりあえず貸付可能資本に転化させるということになる。もちろん、貨幣資本家による利益だけが、貸付可能資本の源泉というわけではない。産業資本家や商業資本家において、蓄積に予定されている利潤部分は、さしあたり自分自身の事業の中で使途がなければ貸付可能資本となるだろう。また、消費に予定されている利潤部分であっても、やはり一時は、貸付可能資本の源泉となりえよう。原料や生産諸要素の価格が下落すれば、資本は一時遊離されるし、事業の中断によっても資本は遊離する。また、再生産から引退する多数の人々によっても、貸付可能資本の蓄積が行なわれる。
したがって、「素材的富の増大につれて、貨幣資本家たちの階級は大きくなる。一方では、引退している資本家たち、すなわち金利生活者たちの数と富とが増大する。また、第二には、信用制度の発展が促進され、それとともに銀行業者たち、貨幣貸付業者たち、金融業者たちなどの数が増加する。――自由に利用できる貨幣資本の発展につれて、利子生み証券、国債証券、株式などの総量が、先に述べたように増加する。しかし、それと同時に、これらの有価証券の投機取引を行なう証券取引業者たちが貨幣市場で主役を演じるので、自由に利用できる貨幣資本にたいする需要も増加する」11)。この証券取引業者たちの貨幣資本需要に応えるのが、商業銀行である。かくして、「信用制度の発展につれて、ロンドンのような大きな集中された貨幣諸市場がつくりだされるが、それらは同時にこれらの証券の取引の中心地でもある。銀行業者たちは、これらの商人〔証券取引業者〕連中に公衆の貨幣資本を大量に用立てるのであり、こうして賭博一味が増大する」12)。
イギリスにおける資本主義の発展は、産業に対して金融の優位性を制度的に作り出していく。このひとつの帰結が1844年の銀行法にあったことはよく知られている。マルクスは、「誤った貨幣理論にもとづく、そして貨幣取引業者であるオウヴァストンおよびその一味の利害関係によって国民に押しつけられる」13)としたが、それはどのような意味なのだろうか。1844年銀行法は、イングランド銀行を発券部と銀行部の二つに分割した。発券部は、大部分政府保証債によって裏付けられた£1、400万と最高4分の1までは銀でよいのだが、全額金で保証された銀行券を発行する。これらの銀行券は公衆の手元にあるのでない限り、銀行部に置かれ、公衆との取引は銀行部が行なう。発券部と公衆との取引は、金と銀行券との取引に限られる。つまり、銀行へ金が流入するたびその金額に当たる銀行券が発行され、流出するたびにその金額に当たる銀行券が破棄された。銀行券流通を完全に金属流通に従属させるというのがその銀行法の基本的特徴だった。だから、金が流出すると、銀行券が流通からその分引き上げられた。実体経済が過剰生産に陥っているような場合、こうしたイングランド銀行の行動は、金融逼迫と、経済恐慌の引き金を引くことになる。言うまでもなく、この時期こそ支払手段が多額必要とされた。資金は供給されず、利子率は急騰し、まじめな事業主は困り果て、企業倒産が相次いだ。しかし、金融業者は、この金利上昇をうまく活用した。1844年銀行法によって作り出された恐慌時における金利高騰は、彼らが十分な収益を上げ、資本の集中によって、ロンドンの大貨幣資本家になりあがっていく絶好のチャンスだったといえよう。マルクスはこう言っている。「さらに、集中について語ろう! いわゆる国家的諸銀行と、それらを取り巻く大貨幣貸付業者たちおよび大高利貸したちとを中心とする信用制度は、巨大な集中であって、それはこの寄生階級に、単に産業資本家たちを大量に周期的に破滅させるだけでなく、危険きわまる方法で現実の生産にも干渉する途方もない力を与える――しかもこの一味は、生産のことはなにも知らず、また生産とはなんの関係もない。1844年および1845年の法は、金融業者たちと株式仲買人たちとが加わったこの盗賊どもの力が増大したことの証拠である」14)。
世界恐慌は、すべての国が輸入しすぎ、同時に輸出しすぎることによって起こる。この時期は、多くの国が金本位あるいは銀本位、いずれにしても金属が貨幣流通の基礎にあった。信用を最も多く与え、最も少なく受けるイギリスで、一般的な貿易差額は順であっても、すぐ清算しなければならない満期の諸支払い差額が逆になると、恐慌の前兆としての金流出は、まずイギリスで起こる。しかし、金流出で直ちに恐慌に突入するわけではない。「現実の恐慌はいつも、為替相場が反転したのちはじめて、すなわち、貴金属の輸入が再び輸出より優勢になるとすぐに勃発した」15)のだ。なぜなら、金流出が起これば、イングランド銀行によって銀行券の破棄がまず行なわれる。利子率が上昇し、貨幣逼迫が起こされる。為替相場が反転し、貴金属の流出が流入にかわるのだが、同時にイギリスを経済恐慌へ突入させるというわけである。つづいて、金をイギリスへ流出させた国で、やはり利子率が上昇し、貨幣逼迫が起こる。貴金属の流入が優勢になると同時に、この国も経済恐慌へと突入するのである。各伍発射の場合のように、支払の順番が回ってくるのに応じて、つねに各国民が次々と金流出を引き起こし、つづいて流入と同時に経済恐慌へと突入する。世界経済恐慌は、イギリスを発生源として、世界各国へ次々と波及していくのである。その結果、「一般的恐慌が燃え尽きてしまうやいなや、金銀はふたたび――産出諸国からの新産出貴金属の流入は別として――それがさまざまな諸国の特別の準備金として諸国に均衡状態で実存していたのと同じ割合で、配分される」16)。この事実は、貴金属が貨幣の基礎にあった時代では、その確保のために、恐慌という暴力的均衡作用が働き、膨大な富が犠牲にされたことを示している。信用主義から重金主義への転化は、必然的なのだが、「危急の瞬間に金属的基礎を維持するために、現実の富の最大の犠牲が必要」17)であったとマルクスは指摘した。
分析2 なぜ金融危機は影を潜めたか
以上、マルクスが論じた世界経済における金融危機の勃発は、1929年大恐慌にいたるまで、さまざまな具体的様相を呈しながら、循環的かつ周期的に引き起こされてきた。しかし、第2次世界大戦後、少なくとも1971年米国政府による金とドルとの交換停止、1973年固定相場制の崩壊にいたるまで、こうした金融危機の勃発は影を潜めたことは誰しもが認めるところだろう。なぜそうした事態がおこったのだろうか。
1 金融危機沈静化の国内要因
それは、マルクスが指摘した「大金融業者と株式仲買人たち」の力を封じ込めることに成功したからである。ガルブレイスは次のように言っている。「現代法人企業において株主の支配力が失われたこと、業績の順調な法人企業では、経営陣の地位がきわめて堅固であること、銀行家の社会的な魅力は次第に弱まりつつあること、アメリカがウォール・ストリートによって支配されているなどと言えば奇妙に感ぜられること、産業界での人材探求がますます精力的におこなわれるようになったこと、教育および教育者の威信が新しく高まったこと等、がそれである」18)。また、P。A。バランとP。M。スウィージーも次のように言っている。「投資銀行業者の権力は、創立当時や、最初の成長段階の初期における株式会社の、外部金融にたいする緊切な必要が基礎になっていた。その後、独占利潤のゆたかな収穫を刈りとった巨大会社が、しだいに、内部的に調達された資金によって、その資金需要をまかなうことができることに気づくとともに、このような必要は重要ではなくなり、あるいはまったく消滅した。……かくして、比較的大きな株式会社は、しだいに銀行業者からも、有力な株主からもますます独立するようになり、したがって、その政策は、ある団体の利害に従属するよりもむしろ、ますます大きな程度で、それぞれ自己の利害にむすびつけられるようになった」19)。
巨大企業の行動が金融利害から自由になったというのが、金融危機勃発が影を潜めたミクロ的要因なのだ。アイクナーは、そうした巨大企業には、3つの特徴があるという。第一が、経営の所有からの分離だ。この点に関しては、すでに1930年代、バーリとミーンズがあきらかにしていた20)。つまり、彼らは現代株式会社の支配はいまや株主から経営陣に移っているというのだ。株主は名義上、その企業の所有者であっても、巨大株式会社が成功裏に運営されるには有能な専門的経営者が必要というわけだ。だから、株式会社の事実上の決定権は、最高経営責任者(CEO)などから構成される経営幹部グループに移行し、分散し、指導力を欠く株主たちは、受動的な金利生活者に成り下がってしまったのだ21)。
第二は、複数工場の操業と固定的技術係数である。アイクナーによれば、巨大企業の総生産能力は、多くの工場から形成されているが、資本設備の効率運転のための原材料の分量や機械を運転するための効率的人員配置は、長期はともかく、短期的には技術工学的に決定されているというのだ。だから、従来の新古典派経済学が当然としてきたU 字型費用曲線による最適化理論は通用しない。実際の企業にとって重要なのは、水平に延びた費用曲線部分であり、いかなる需要にも対応できる生産能力が必要とされたのだ22)。
第三は、寡占企業であるということだ。巨大企業は、彼らの生産物を市場に単純に投げ出したりはしない。彼らは、市場規模を考慮しながら、目標利潤率を実現できる価格設定を行ない、販売活動に従事する23)。いわゆる「管理価格」といわれるものだ。企業が市場メカニズムに依存し、どんな価格が得られようがその産出物を市場に供給し、市場に価格決定をまかせるということはしないのだ。
こうした巨大企業が支配する世界経済では、銀行が依然として産業と関連を有していようがいまいが、金融は、そうした巨大企業の資本蓄積を支える控えめな役割を担わされていたことは事実だった。米国におけるその体制を、わたくしは、戦後「ケインズ連合」と命名した。ケインズ連合とは、生産的投資に利害を有する生産階級の連合である。具体的には、米国における支配的な寡占資本階級と労働階級との広範な連合であり、その基礎は、寡占市場から生じる超過利潤と組織労働者の高賃金にあった24)。
2 金融危機沈静化の国際要因
ところで、戦後金融危機沈静化の国際的要因はどこにあったのだろうか。わたくしは、それを国際投機資本の封じ込めに成功した、戦後の国際通商ならびに国際通貨システムの実現に求めたい。この国際経済システムは、第2次世界大戦後、1973年まで機能したのだ。戦後の国際通商システムは、マクロ的経済安定を国際貿易の活発化によって実現しようとした。それは、GATT 前文を読めば一目瞭然だろう。そこには、次のように記されている。「貿易及び経済の分野における締約国間の関係が、生活水準を高め、完全雇用並びに高度のかつ着実に増加する実質所得及び有効需要を確保し、世界の資源の完全な利用を発展させ、並びに貨物の生産及び交換を拡大する方向に向けられるべきであることを認め、関税その他の貿易障壁を実質的に軽減し、及び国際通商における差別待遇を廃止するための相互的かつ互恵的な取り極めを締結することにより、これらの目的に寄与することを希望して、それぞれの代表者を通じて次のとおり協定した25)」とある。この前文が、ケインズ主義に基づいていることは明らかだろう。つまり、ケインズは、各国がその自主性に基づき完全雇用を実現すべく、財政・金融政策を展開し投資の活発化を行なえば、世界貿易は拡大され、世界のGDP 水準の上昇と共に世界的失業は防げるとしたからだった。だから、ケインズは次のように言うのだ。「もし諸国民が国内政策によって完全雇用を実現できるようになるならば(そのうえ、もし彼らが人口趨勢においても均衡を達成することができるならば、と付け加えなければならない)、一国の利益が隣国の不利益になると考えられるような重要な経済諸力は必ずしも存在しないのである。適当な条件のもとで国際分業や国際貸付が行なわれる余地は依然としてある。しかし、一国が他国から買おうと欲するものに対して支払をする必要からではなく、貿易収支を自国に有利にするように収支の均衡を覆そうとする明白な目的をもって、自国商品を他国に強制したり、隣国の売り込みを撃退しなければならない差し迫った動機はもはや存在しなくなるであろう26)」こうした世界経済はいわばその理想だろう。彼自ら「これらの思想の実現は夢のような希望であろうか」とも述べている。
だが、ケインズはその考えを「夢のような希望」に終わらせることなく、第2次世界大戦終了後の国際通貨体制づくりに、その実現を試みる。周知のように戦後国際通貨体制は、IMFに結実する。バンコールにもとづく国際清算同盟の実現を「希望」したケインズにしてみれば実際の結末は不満足であったに違いない。しかし、わたくしは、国際投機資本を封じ込めることに成功したという意味では、ケインズ的考えをかなり取り入れていると判断する。IMF は、資本取引の自由に関しては、きわめて慎重だったからだ。国際的資本取引の自由には、資本の投機的移転や資本逃避を容認する危険性があったからである。ケインズは、経常収支取引から生じる均衡をもたらす短期資本移動と不均衡を助長する恐れのある短期資本移動を峻別し、後者の規制を必要としたのだった。経常収支取引の自由の実現で国際貿易の促進を図るというのがケインズの考えだった。IMF は、金本位制でも金為替本位制でもなかった。金本位制のもとでは、各国の自国通貨は、民間レベルにおいて金の一定量といつでも交換可能だった。自国通貨と外国通貨との交換は、この金との交換比率が基準だった。外国通貨との交換は自由だったから、外国為替相場は、この金平価を基準に金の輸送費を考慮した、金輸入点、金輸出点の狭い範囲に安定していた。もし、自国の支払い差額が順、つまり受取超過となれば、自国通貨の交換比率が上昇する。それが、金輸入点を越えれば、支払をする外国人は、高い自国通貨を買わずに、金を購入し、それを送って支払を行なうから、自国に金が流入した。逆に、自国の支払差額が逆、つまり支払超過となれば、自国通貨の交換比率は低下する。それが、金輸出点を下回れば、安い自国通貨で外貨を買わずに、金を購入し、それを送って支払を行なうから、自国から金が流出したのである。これは、既述のマルクスの時代の話である。
ケインズ主義的に考案されたIMF は、金本位制をとらず、国民通貨と金との民間レベルにおける自由な交換を成立させなかった。貴金属によって国民経済の経済政策が制約を受けるという金本位制の硬直性からの自由がめざされたからだ。したがって、国民通貨相互の交換は、全面的自由から制限されたものまで、いろいろな制度設計が可能だった。また、その交換比率も為替相場に完全にゆだねる変動相場制から、固定的な為替相場まで、さまざまな方法が想定された27)。IMF は、国民通貨相互の交換について、貿易などの経常的支払の制限を廃止することに重点を置き、第8条に加盟国は原則として経常的支払に制限を課してはならないと定めた。また、為替の交換比率は、固定相場制を採用した。これは、相場の変動を利用して投機的収益をあげることを目的とする「投機的投資家」の出現を阻止する装置だった。これらは、いずれもケインズ主義的理想を実行に移したものだった。ケインズは、投機の危険性について次のように述べたことがある。「投機家は、企業の着実な流れに浮かぶ泡沫としてならば、なんの害も与えないであろう。しかし、企業が投機の渦巻のなかの泡沫となると、事態は重大である。一国の資本発展が賭博場の活動の副産物となった場合には、仕事はうまくいきそうにない28)」。IMF 協定は、第4条で「各加盟国の通貨の平価は、共通尺度たる金により、または1944年7月1日現在の量目及び純分を有する合衆国のドルにより表示する」とした。金1オンス=35ドル、また各国通貨とドルとの交換比率(平価)は、一旦登録されるとその変更にはIMF の承認が必要とされた。通貨の為替変動においては、平価の上下1%の範囲内に維持することが義務付けられたのである。
分析3 なぜ今日金融危機が頻発するのか
今日、金融危機が頻発する事態となっている。1980年代末米国貯蓄貸付組合破綻、1997年アジア通貨危機、98年ロシア・ルーブル危機、また日本も1997年から8年にかけて深刻な金融危機に遭遇する。2002年には、不正会計・粉飾決算に端を発する米株式市場崩落、そして2007年夏から現在に至るサブプライム問題による国際的金融危機である。そのたびに、「29年恐慌の再来か」と騒がれ、危機対策が採られ、喉元すぎれば熱さを忘れ、また再び、金融危機が世界を襲うという有様だ。なぜ、こうして危機は繰り返されるのか。
1 金融危機頻発の国内要因
それは第一に、マルクスが指摘した「大金融業者と株式仲買人たち」の力が復権し、日を追うごとに、彼らの政治経済的力が増大しているからだ。しかし、それはどのようにして可能となったのだろうか。かつて、1844年銀行法が、大金融業者の資本の強蓄積に果たした制度的役割については、マルクスが論じたとおりだ。ここで論ずべきは、1929年大恐慌を契機として金融にかけられていた規制がどのようにはずされていったかである。戦後の米国経済において金融危機が鳴りを潜めたのは、ローズヴェルト政権による金融封じ込めが成功したからだった。ローズヴェルト政権下で財務長官を長く務めたヘンリー・モーゲンソーは、米財務省を基軸とするケインズ的金融システムの構築に取り組み成功する。ニューディール政策の目的は、金融資本を「経済の主人」から「経済の召使」に貶めることだった29)。それは、1933年グラス・スティーガル法となり、また1935年銀行法となって実行された。前者は、商業銀行と投資関連会社を切り離し、後者は、通貨信用の中央集権的管理を強め、財務省と連邦準備銀行との密接な協調関係を謳った。だが、実体は、財務省に連銀が従属することだった。商業銀行の金利規制や業態規制、さまざまな規制によって、米国金融機関は、がんじがらめの状況に置かれ続けた。だが、この金融規制は、1980年代から劇的に自由化されていく。その第一が1980年金融制度改革法(1980年預金金融機関規制緩和・通貨管理法)だった。この法は、定期・貯蓄預金の金利上限規制を撤廃した。また、貯蓄預金に小切手発行を認め、貯蓄金融機関の資産運用範囲を広げた。1982年預金金融機関法(1982年ガーン=セント・ジャメイン預金金融機関法)は、貯蓄金融機関の営業範囲を拡大した。この金融規制撤廃政策は、米国の貯蓄金融機関の営業範囲を著しく広げ、金利の自由化は、収益重視のリスキーな貸付へと彼らを誘った。挙句の果てが、1980年代末の米貯蓄貸付組合の崩壊だった。
1991年12月この金融危機を経て、連邦預金保険公社改善法が成立した。この法は、預金保険制度の再構築だった。なぜなら、多額の公的資金を金融機関につぎ込まざるをえない事態にまで展開したからだ。ここで注目されたのが、銀行への新しい自己資本比率規制の実施だった。国際決済銀行では、自己資本比率8%以上が基準とされる。この連邦預金保険公社改善法では、自己資本比率にもとづき銀行を5つ類型に分け、10%以上を自己資本比率が充実した銀行とした。自己資本比率が高い銀行には、特別に証券業など新規事業を認めるなどの措置がとられたのだ。これによって、米国商業銀行はいままで以上に証券化ビジネスにはまり込んでいくのである。1990年代に米国商業銀行は、決定的な質的転換を遂げたといえよう。1999年に成立したグラム=リーチ=ブライリー法は、商業銀行、投資銀行、保険会社、信託銀行、いずれの金融機関をもまたがる金融持株会社の創設を解禁した。かくして、パンドラの箱は開けられた。災いならぬ証券金融ビジネスが世界経済を跳梁跋扈する時代が幕を開けたのだ。
米国金融機関とりわけ商業銀行の証券化が凄まじい勢いで進行していく。すなわち、それは銀行貸付の証券化と非金利収入に依存するオフ・バランス取引の拡大だった。ここでは、銀行貸付の証券化・転売について説明しよう。一般に、商業銀行は一旦貸し付ければ、返済がすべて完了するまで債権を帳簿においておく。銀行貸付の転売とは、その貸付債権を一定の手数料を取って投資家に売り払うことだ。規制当局は、商業銀行が自己資本比率の上昇を半ば強制する。そのため、多くの銀行は、自己資本を充実させるより、貸付債権を一定の手数料を取って転売することを考える。現金化によって自己資本比率を上昇させようとするわけだ。
銀行貸付の証券化とはいかなるものなのか。ここでは、歴史的に古くからあるモーゲージ担保証券市場について説明しよう。モーゲージとは、住宅・商業・農業用不動産を担保とする貸付債権のことで、それが証券化されたものを指す場合もある。当然そのモーゲージは、住宅を購入した人が融資を受ける際にその住宅を担保として差しだしたものだから本来融資を行なった金融機関が保有することになる。しかし、米国では、このモーゲージを買い取る機関、連邦住宅抵当公社(FNMA:ファニー・メイ)が1938年に設立され、その買い取りが行なわれることとなった。もちろん、この買い取りが盛んになったのは、1970年代以降のことだが、このファニー・メイは、買い取ったモーゲージをプールし、モーゲージ担保証券を発行し、売りさばくことにするのだ。この売りさばきは、ウォール・ストリートの大手投資銀行が、その担保証券を引き受け行なうことになる。したがって、証券の大口の購入者の中には、最大級の年金基金や保険会社が含まれ、米国の住宅金融は、いまや地方の小規模な金融市場から抜け出し、米国の巨大な証券市場の一角に組み込まれることになったのである。住宅金融を実際に行なう金融機関は、地元で、住宅販売や元利の取立てその他の金融業務にかかわらなければならない。しかし、モーゲージ担保証券を購入した最終投資家は、何らそうした業務に煩わされることはない。
こうした、ローンの証券化は、米国では、住宅ローンに典型的に見ることが出来るが、自動車ローン、中小企業庁の貸付、コンピュータやトラックのリースなどなど、極論すれば、事実上すべての貸付から生じる債権を証券化する現象が起こっているのだ。従来、商業銀行は、預金金利と貸付金利から生じる利鞘収入によって営業していた。しかし、現在では、手数料収入がきわめて大きな割合を占めるに至った。1999年末において、米国商業銀行全収入のなんと43%が非金利型の収入によって占められた。非金利型手数料とは、クレジット・カード手数料、モーゲージ・サービスやリファイナンス手数料、ミューチャル・ファンド販売サービス手数料、証券化された貸付から生じる手数料がある。消費者信用の証券化も急伸しており、米国の商業銀行はますます、証券市場との関連を強くしているのだ30)。
2007年夏からヨーロッパに起こり2008年9月15日リーマン・ブラザーズ破綻で一気に金融恐慌となった現在進行中の危機は、この経済の証券化にその基本要因を求めることが出来よう。いうまでもなく、危機の発端は、サブプライムローンの焦げ付きにあった。サブプライムローンとは、クレジット・カードの支払が出来ず、延滞を繰り返すような信用力の低い人や低所得者層を対象にした住宅ローンのことだ。2003年中頃から米国経済は本格的景気回復局面へと入っていく。インフレを警戒する連銀は、従来の金融緩和政策から金融引き締め政策へと舵を切る。低利ローンでリファイナンスを繰り返す時代は過去のものとなった。そこで、貸付先に困った強欲な金融機関が目に付けたのがサブプライムローンというわけだ。返済能力の低い人たちのためと称して、最初の二、三年は、低額の返済額を設定し、その後、突如返済額を急上昇させるという詐欺まがいの略奪的方法によって貸付を拡大した。貸し付けられたサブプライムローンは、大手金融機関が買い取り、ローンを証券化して、傘下のサブプライム関連商品に投資する特定目的会社(SIV)に販売する。サブプライムローン借入から二、三年は、焦げ付きは発生しない。この証券化商品は、相対取引だから格付け会社の評価が必要だ。トリプルAなどという評価と共に、世界の投資機関へ大々的に販売されたというわけだ。しかし、二、三年経てばサブプライムローンが焦げ付くことは明らかだった。2007年夏に顕在化したのはそういう理由からだが、欧米や日本も含めて多くの金融機関がサブプライムローンを組み込んだモーゲージ担保証券に多額の投資を行なっていたから、ローンの支払不履行から生じた金融危機は、世界的に波及したのだ。
既述のように、マルクスの時代も世界恐慌が、イギリスを震源地に世界に波及したことがあった。過剰輸入・過剰輸出が原因で、各伍発射のように次々と各国が世界恐慌に巻き込まれていったわけだ。つまり、マルクスの時代は、金本位制の下で、国際貿易の過剰から恐慌が世界化した。だが、最近の金融危機では、国際資本投資の焦げ付きが危機を引き起こしているのだ。貿易収支・経常収支上の問題ではなく、資本収支上の問題なのだ。なぜそうなのか。節を改めて論じてみよう。
2 金融危機頻発の国際要因
現代の金融危機が世界的に波及するのは、国際的資本取引の自由化とともに、国際的投機資本の活動の自由化が進展したからである。1971年8月15日の金とドルとの交換停止、1973年変動相場制への移行、そして米国による国際的資本取引の自由化は、戦後の世界経済体制を崩壊させ、現代につながる新自由主義的世界経済体制をめざした歴史的画期として位置づけることが出来るとわたくしは考える。世界経済における米国の役割という観点から見れば、国際貿易を中心とする「世界の銀行」から国際的資本取引を中心に形成されたドルを基軸とする「世界の投資銀行」への転換だといえるだろう。国際収支における資本取引の自由化は、変動相場制への移行を必然化する。なぜなら、資本取引の自由化を認めながら、固定相場制を維持することは、資本の流出入に対して通貨当局は、つねに為替介入せざるをえないからだ。そうなると国内のマネーサプライに多大なる影響を与えかねないから、金融政策の自立性を維持することができない。資本取引の自由化によって、米国経済の国際収支上にはどのような変化が現れたといえるのだろうか。
資本取引の自由化は、経常収支勘定取引に対して、資本収支勘定取引の急増をもたらした。かつて、レーニンは、『帝国主義論』で次のように指摘したことがある。「自由競争が完全に支配する古い資本主義にとっては、商品の輸出が典型的であった。だが、独占体が支配する最新の資本主義にとっては、資本の輸出が典型的となった」31)。このアナロジーに従えば、わたしたちは、次のように言うことが出来るだろう。「ケインズ主義が支配していた古い資本主義にとっては、商品の輸出が典型的であった。だが、新自由主義が支配する最新の資本主義にとっては、資本の輸出が典型的となった」と。
戦後米国のニクソン政権が、国際資本取引の自由化へと、米国の対外経済政策をもっていったのだ。1980年代になると、政治経済の権力は、戦後米国経済の支配的階級であった巨大産業企業と労働組合からなる「ケインズ連合」から、米国多国籍企業と銀行からなる世界的金融覇権へと移行した。かつて、米国財務長官ヘンリー・モーゲンソーは、世界の金融中心地をロンドンとニューヨークから米国財務省に移すことに心血をそそぎ、高利貸しを国際金融の「神殿」からたたき出すことに成功した。しかし、あれからほぼ50年、時代は劇的に変化した。国際金融の「神殿」からたたき出されたはずの金融資本は、ニクソン政権以来次第に力をつけ、経済力のみならず政治権力をも奪還するまでに成長した。
それでは、米国において、政治権力を奪取した金融資本が、国際的な金融自由化にどのように乗り出していったのか。この時期の米国政府は、「ドルの力」を武器に二国間あるいは一方的な外交交渉によって、金融の自由化を実現していった。ここではわが国日本を例にとり、検討を加えよう。日本との交渉は、1983年、米国大統領ロナルド・レーガンが訪日したときに始まる。その年の11月に「日米・円ドル委員会」が設置され、具体的に日本金融市場の自由化が議論された。米国チームは、財務省、大銀行、証券会社の代表からなる大掛かりなものだった。そこには、米国金融資本の意気込みが感じられたが、彼らの要求は、為替取引の実需原則と円転換規制の撤廃だった。
為替取引の実需原則とは、純粋に投機を目的とする先物為替取引を抑制するために戦後日本がとってきた措置だった。この措置は、経常収支の取引に伴う以外の実体取引に基づかない先物取引を厳しく制限したのだ。戦後ケインズ的な国際通貨システムにはなくてはならないものだった。なぜなら、投機を目的とする先物為替取引を許したならば、実体取引に基づかない利鞘稼ぎの国際的投機資本が跳梁跋扈する状況となるからだ。しかし、時代はすでに変動相場制へと移行していた。米国の投資ファンドはじめ金融機関は、相場の変動を利用した荒稼ぎに大いに期待をかけていたのだ。1984年4月1日、こうした圧力に抗しきれず、日本は為替取引の実需原則を撤廃するのだった。
円転換規制とは、海外からの投機資金の国内流入を防ぐ目的で取られた戦後の為替管理方式の一つだった。今日、海外から流入し、会社乗っ取りや破産寸前の会社の株式の空売りによって大儲けし、海外に収益を持ち去るいわゆるハゲタカ・ファンドが話題に上るが、こうした投機資金を日本の水際で撃退するには好都合のシステムだった。だが、この規制も、米国側の強い要望で同年6月、廃止されることとなった。
国際資本取引の自由化によって米国は、金融を通じて強大な経済的覇権を確立する道を歩み始めた。1980年代後半から90年代にかけて世界的に展開された国際収支における資本収支勘定の自由化がこれを示している。東アジアでは、インドをはじめ多くの発展途上国が資本収支勘定取引の自由化、1991年12月、ソ連邦消滅後、その傾向はグローバルに展開し、多くの国で国際資本取引の自由化が進展した。わが国日本では、1998年4月に「外国為替及び外国貿易法」が施行され、外国為替公認銀行及び両替商の認可制度を廃止し、外国為替業務の参入を自由化した。また、海外送金を自由にし、海外との外国為替取引における事前許可制を廃止した。こうした国際資本取引の自由化は、ある特定地域への資本の世界的規模の集中的投資による経済的活況と投機の行き過ぎをもたらし、金融危機誘発の要因となるのだ。しかし、米国多国籍企業・銀行にとっては、資本を国際的に動かし、収益をあげるまたとない機会となる。とりわけ、米国商業銀行は、証券化された市場から莫大な収益をあげており、また世界的な金融の証券化は、米国金融機関の経済的覇権の基盤となっているのだ。
こうして、現代の外国為替市場においては、その決定要因として、国際間の資産運用が重要なファクターとなってきた。いまや、外国為替市場においてドルの需要供給は、貿易によって作り出される部分に比較して、国際資産運用によって作り出される部分がきわめて大きくなったのだ。しかも、その国際資産運用には、米国における証券化の急速な進展がかかわっていることに注目しなければならない。米国経済の急速な証券化は、まさに米国型金融システムの形成を意味するのだが、それは、米国の証券市場の地位を各段に上昇させた。かつて、産業金融の控えめな仲介者であった米国商業銀行を証券市場と結びつけ、いまや米国証券市場には、世界からの投資資金が集中し、米国証券市場において形成される金融資本資産市場がドルの為替レートを決定しているといっても過言ではない。
この金融資産市場で、投資家はどのように行動するのだろうか。ケインズによれば、投資の評価や再評価は、一種の慣行(convention)に頼って行なわれる。投資行動は、短期間の判断の連続となるので、かなり「安定」したものになりえる。社会全体としてもかなり安定した投資をもたらすことが出来るとケインズはいう。しかし、同時にこの投資家の慣行は、いくつかの要因で不安定や頼りなさをもっている。なぜなら、社会の投資総額が増加する中で、経営に参加しないで、特定の事業の現在と将来について特別の知識をもたない人々の所有が増加して、投資物件の評価に知識の欠落した人びとの評価が重要性を持ってくるからだ。今日、投資範囲は世界的に拡がっている。例えば、地球の裏側のある国の国債を、その国の事情も知らずに利回りの良さから買ってしまうことなどがあげられる。また、一時の景気状況からある会社の株式の市場評価が急騰することがある。多数の無知な個人の群集心理の産物としてつくり上げられた慣行による評価は、強く確信する根拠が薄弱なため、激しい変動に晒されることがある。現在の事態が無限に持続するということがいささか怪しくなってくると、多くの投資家は急激に悲観的に行動するものだ。現在、こうした事態が国際的金融危機として、いわゆる「伝染効果」を作り出していることはよく知られる。サブプライム問題に端を発する米国金融危機が、全面的ドル安状況を作り出しているという今日の事態も、資産市場の国際化がドル相場に深刻な影響を与えている一例といえるのだ。
ケインズは、「しかし、われわれの注目に値するとりわけ特徴的なことがある」と述べて、慣行の頼りなさと、専門的な玄人筋の投資家や投機家の行動様式との関連に注目する。すなわち、「これらの人々の大多数の主たる関心は、投資物件からその全存続期間にわたって得られる蓋然的な収益に関してすぐれた長期予測をするのではなく、一般大衆に僅かに先んじて評価の慣行的な基礎の変化を予測することにある」という。こうして、「玄人筋の投資家は、経験上市場心理に最も多く影響するような種類の、情報や雰囲気の、さし迫った変化を先んじて予想することに関心を持たざるをえないのである32)」となる。長期間にわたる投資の予想収益を予測するという投資家本来の仕事から、むしろ二、三ヶ月の慣行的評価の基礎を予測しようとする虚々実々の駆け引きの戦いとなるのだ。
こうして、投資市場の組織の改善がなされるにつれて、投機が優位を占める危険が増大してくる。世界的に自由な投資システムが形成されるにしたがって、国際的に投機資本が跳梁跋扈する危険が増大していくのだ。自由市場の名のもとにいかに非効率的経済パフォーマンスが行われることになってしまうかなのである。しかし、こうした国際的投機資本の自由な展開を制度的に創らざるを得ないところに、今日、米国が置かれた世界経済的事情があることを見抜かなければならない。それは、米国が株式市場あるいはもっと広くいえば金融資産市場へ世界の資金を集中させることによって、ドルの為替レートを維持し、第二次世界大戦後築いたドル支配体制を持続させようと考えているからにほかならない。
まとめにかえて
今日、世界経済的な状況の違いがあるとはいえ、マルクスが『資本論』で議論した金融恐慌の発生の条件は、整っているということができよう。「大金融業者と株式仲買人たち」の経済的力は、きわめて大きくなっているし、国際的投機資本活動は、はなはだ活発に展開しているからだ。したがって、金融恐慌が起こると、「すわ大恐慌か!」となるのだ。だが、マルクスの時代と異なる決定的条件が二つある。第一が、現在は、金本位制ではないということだ。たしかに、IMF による固定相場制時代では、国際投機資本を押さえ込み、金融の横暴をコントロールできていた。それに比較し、現在の変動相場制の時代では、国際投機資本の活発な動きがあり、金融の横暴が目に付く事態となっている。だから、マルクスが論じたように、現在においても恐慌期の信用主義から重金主義への転化は起こるのだ。しかし、金本位制の呪縛から解き放たれた中央銀行は、その最後の貸手機能を存分に生かし、恐慌救済の資金供給を緊急に行なっている。現在進行中の金融危機においても、各国中央銀行の行動を見ればそれがよく理解できるだろう。第二が、経済における国家財政の規模がマルクスの時代とは桁違いに増大していることだ。新自由主義の「小さな政府」においても、こと大金融機関ということになれば、国家は、公的資金をふんだんにつぎ込みながら救済を実行する。かくして、金融資産価格の急騰・暴落という金融不安定性は、構造的にいっこうに鎮めることができなく、繰り返されることとなる。しかも、その急騰・暴落の振幅が最近になり格段に大きくなった。したがって、金融資産の動向が、巨大産業企業の運命を左右するような事態を引き起こすまでになった。消費者信用に大きく依存した米国ビッグスリーの経営危機、あるいは、急激に進むドル安・円高によって、連結決算が急速に悪化を示すトヨタ自動車の経営など、がそのよい例だろう。
われわれがいまなすべき緊急の課題は、国際的投機資金の封じ込めである。現代世界経済を危機に陥れるファクターは、暴走する自由な投資システムにあるのだ。ここでわたくしが指摘したいのは、自由市場の名のもとにいかに非効率的経済パフォーマンスが行なわれてきたかということである。このシステムを変革することはもちろんたやすいことではない。しかし、金融崩壊が単なるバブルの崩壊ではなく、実体経済に深刻な影響をおよぼし始めたいま、この非効率な自由な投資システムの止揚が切に求められているといわなければならないであろう33)。

1) カール・マルクス、資本論翻訳委員会訳『資本論』I、新日本出版社、1987年、754p
2)〜17) 同上訳書
18) J.K.ガルブレイス著、都留重人監訳『新しい産業国家』第2版、河出書房新社、1972年、85p
19) P.A.バラン、P.M.スウィージー著、小原敬士訳『独占資本』岩波書店、1967年、23−4p
20) A.A.バーリ、G.C.ミーンズ著、北島忠男訳『近代株式会社と私有財産』文雅堂書店、1958年を参照のこと。
21) A.S.アイクナー著、川口弘監訳『巨大企業と寡占―マクロ動学のミクロ的基礎―』日本経済評論社、1983年、41p
22) 同上訳書、55−67p
23) 同上訳書、68p
24) 拙著『アメリカ経済政策史』有斐閣、1996年、64p
25) 「関税及び貿易に関する一般協定」山本草二ほか編『国際条約集』有非閣、1996年、352p
26) J.M.ケインズ著、塩野谷祐一訳『雇用・利子および貨幣の一般理論』東洋経済新報社、1995年、385p
27) 三宅義夫著『金』岩波新書、1968年、7p
28) ケインズ、前掲訳書、157p
29) Richard N. Gardner、 Sterling-Dollar Diplomacy、 The Origins of Our International Economic Order、 McGraw Hill Book Company、 New York、1969.p.76.16 『社会システム研究』(第18号)
30) William F. Bassett and Egon Zakrajsek、 “Profits and Balance Sheet Developments at U.S. Commercial Banks in1999、”Federal Reserve Bulletin、 June2000、 pp.379−80
31) レーニン著、副島種典訳『帝国主義論』国民文庫、1961年、80p
32) ケインズ、前掲訳書、154p
33) 詳細は、拙著『米国はいかにして世界経済を支配したか』青灯社、2008年、221−4p  
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
■諸話

 

 
「不況なのに株価が上がる」恐ろしさ
「経済成長→世界恐慌」のメカニズム
株価が永遠に上昇し続けることはない
日本経済の「失われた20年」を引き起こしたのは、1989年の株価暴落に始まるバブル崩壊でした。同じ現象が、「オランダのチューリップ・バブル」「イギリスの南海バブル事件」、そして「1929年の世界恐慌」でも起こったのです。
第一次世界大戦で連合国を勝利に導き、しかも本国が戦場にならなかったアメリカ合衆国は空前の経済大国に成長し、世界最大の債権国になります。ヨーロッパ経済はまだ立ち直らず、米国からの輸出は好調でした。貿易黒字に加え、大戦中に買っておいたヨーロッパ諸国の戦時国債の償還(支払い)も始まり、大量の資金がニューヨークのウォール街に流れ込みます。
ウォール街の金融資本は、これらの資金を企業に低利で貸しつけます。企業の経営者は、工場の生産ラインなど設備投資に資金を投下します。
フォード自動車は、最初の庶民向け乗用車であるT型フォードを販売し、ゼネラル・エレクトリック社(GE)の冷蔵庫・洗濯機・ラジオが一般家庭に普及したのもこの時代です。日本では1960年代に始まった大量生産・大量消費社会が、1920年代のアメリカではすでに実現していたのです。
賃金も上昇し、庶民は家電やクルマを買い求め、株式や債券、土地に投資するようになりました。毎日の株価が主婦の話題になり、マスコミがこれを煽りました。
しかし、プロの投資家たち―銀行や証券会社にはわかっていたのです。株価が永遠に上昇し続けることはないということを……。
経済成長はストップ。しかし株価は上昇。なぜか?
1920年代後半にはヨーロッパ経済が復興し、アメリカからの輸出はピークを超えていました。これに伴って企業は売れ残った商品の在庫を抱え、収益もマイナスに転じ、経済成長率は息切れしつつありました。
つまり、実体経済の不況はすでに始まっていたのに、何も知らない庶民が株式に手を出していたため、株価だけが異常な上昇を続けていたのです。まさにバブルです。
「ウォール街の靴磨きの少年が株の話をしているのを聞いて、これはヤバいと思った」と語ったのは投資家のパトリック・ケネディです。彼は暴落直前に株を売り逃げ、巨大な利益を得ました。
彼はこの資金をある政治家に投資します。1932年の大統領選挙で当選したF・ローズヴェルトです。パトリックは功労者として政界入りし、駐英大使に抜擢されました。大統領になるというパトリックの夢は、次男のジョン・F・ケネディに引き継がれます。
1929年1月、株価高騰を背景に、フーヴァー大統領が施政方針演説の中で「アメリカは貧困を克服した」と自画自賛しましたが、破綻はもうすぐそこだったのです。
ニューヨーク、ウォール街の株式市場では、同年9月をピークとして株価は徐々に下がり始めました。そして、運命の日が訪れます。
「経済成長→世界恐慌」の結末とは?
10月24日、「暗黒の木曜日」に大暴落が始まりました。株価は7分の1に下落、暴落から1週間で株式市場は300億ドルの損失を出しました。これは当時のアメリカ連邦政府の10年分の国家予算に匹敵します。
破産者が続出し、現金を引き下ろそうと人々が銀行に殺到したため、銀行も資金が枯渇して営業停止に追い込まれます。銀行から資金を調達できなくなった企業の連鎖倒産も始まり、倒産しなかった企業も大規模な人員解雇を始めます。4人に1人が失業するという異常事態の中、1932年の大統領選挙では現職のフーヴァー大統領(共和党)が大敗し、ニューヨーク州知事だったF・ローズヴェルト(民主党)が大統領に当選します。
第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、アメリカからの投資で経済復興を進め、賠償金支払いを行っていました。しかし世界恐慌が始まると、アメリカの金融資本は海外に投資していた資金を一斉に引きあげてしまいます。
ドイツは点滴を外された患者のようなものでした。たちまち多くの企業が倒産し、失業率は50%に迫ります。それまで、賠償金の支払いと協調外交を進めてきた社会民主党政権は、国民の支持を失いました。
そんな中、賠償金支払いを拒否し、植民地再分割を要求する政治家が、救世主のごとく登場し、ドイツ国民を熱狂させます。アドルフ・ヒトラーです。  
 
株価暴落史

 

1929年 ウォール街大暴落
ダウ工業株平均が6年間上がり続けて当初の5倍になり、1929年9月3日に最高値381.17を付けた後で、市場は1か月間急降下し、下げ初めから見れば17%下落した。株価はその後の1週間以上にわたって下げ幅の半分を回復したが、その直後にまた下落するだけだった。下げ基調は加速し、大暴落初日となった1929年10月24日の、いわゆるブラックサーズデーを迎えた。その日は当時の記録破りとなる1、290万株が取引された。
世界恐慌がアメリカから起こった原因としては次のようなことがあげられる。
自動車・化学・電気などの新しい産業の発展・産業の合理化による工業生産力の増大・それにともなう過剰な設備投資などによって工業製品が生産過剰に陥っていたこと。
高関税政策の影響で国際貿易が伸び悩んでいたこと。
農業部門でも、戦争中からの増産によって農産物の供給が急増していたところへ、戦後ヨーロッパの復興によってヨーロッパの需要が減少し、農産物価格が急落して農業不況が深刻化していたこと。
農業不況によって農民の購買力が低下し、また生産性の伸びに比べて労働者の賃金が低く抑えられたので国民の購買力が低下したこと。
要するに、生産過剰と国民の購買力の低下によって需要と供給のバランスが大きく崩れたことが原因であった。そして、戦後世界の資本がアメリカに集中し、それが土地や株式の投機に使われ、過剰な投機ブームが起こっていたことが株価大暴落の直接の原因となった。
ハーバート・フーヴァー大統領
ハーバート・フーヴァー大統領は、貿易不振を世界恐慌の原因とみなし、貿易振興の観点からフーヴァーモラトリアムを提唱し、第一次世界大戦の賠償金の支払い猶予を提唱したが一方で、大増税法案を通して落ち込む歳入を増やそうとし、保護主義のスムート・ホーリー関税法に署名したが、これはカナダ、イギリス、ドイツなど貿易相手国の報復を呼んだ。アメリカ経済は不況に陥った。1932年までに失業率は23.6%にもなった。状況は重工業、製材業、輸出用農産物(綿花、小麦、タバコ)および工業で悪かった。ホワイトカラーや軽工業ではそれほど悪くなかった
世界恐慌とリーマンショック比較
「株価」は・・・世界恐慌時の下落率が3年間で約87%です。この記事では約1年間で約27%です。ただしこれはちょっと前の記事ですので、現在はマイナス40%くらいかも。
「失業率」は・・・世界恐慌時は約4年間で約3%から約25%に上昇しました。今回は約1年間で4.7%から6.1%に上昇しました。世界恐慌時には銀行の取付騒ぎがあったために金融機関がストップし、それが失業率の激増に繋がりましたが、今回はそんな騒ぎが起こっていません。
1971年 ニクソンショック
1971年8月15日に、テレビとラジオで全米に向けて新経済政策(減税と歳出削減、雇用促進策、価格政策の発動、金ドル交換停止、10%の輸入課徴金の導入)を電撃的に発表し、その中の「金ドル交換停止(金とドルとの固定比率での交換停止)」のことを主に指す。この金ドル交換停止は、米国議会にも事前に知らされておらず、極めて大きな驚きを与え、またこれが世界経済に甚大な影響を与えたことから「ドルショック」とも呼ばれる。
ニクソン・ショックと輸出産業の打撃
この事件が起きるまで、ドルは金とリンクし、また1ドルは360円に固定されていました。1971年8月15日、ニクソン大統領は、世界に高まるドル不安に対処するため、金とドルとの交換を停止するとともに、一律10%の輸入課徴金を設定します。声明発表後、西側各国は的確な反応を示し、自国の為替相場を、変動相場制に直ぐに移行させます。日本は、愚かにも移行が遅れ、8月26日変動相場制になります(このため、多くの富が不当に海外に流失したと言われます)。
円相場は、高騰を続けます。混乱を収拾するため同年12月、アメリカのスミソニアン博物館における先進10か国蔵相会議が開催されます。会議ではドルの切下げ、円とマルクの切上げが行われ、1ドル308円と決定されました。(その後1973年2月完全な変動相場制に戻ります。)
この事件によって、輸出産業は、大打撃を受けます。特に、造船業界は、輸出船の建造契約がドル建であったため、約2400億円の為替差損をこうむります。
「ドルは308円から変動制に」 為替歴史の節目
1971(昭和46)年8月15日のニクソンショックの後の12月19日、戦後長く続いたブレトンウズ体制が崩壊し1ドル360円時代に終わりを告げた。日本は当初、円相場の上昇を防ぐべく米ドルの買い支えを行ったが、8月28日には介入を停止、8月末にはフランスを除く主要国はすべて固定相場制から離脱し、12月に米ドルの切り下げを含む多角的通貨調整で合意がみられた(いわゆるスミソニアン体制の成立)。
ニクソンショック
ニクソン・ショックにより、ドルとGOLDに交換できなくなることで、金本位制度は終焉を迎えました。ニクソン・ショックが発表される前後、大量にドル売り円買いの取引がなされました。イギリスやドイツなど主要国が為替市場を閉鎖したのですが、日本は律儀に為替市場を開け続け、ドルを買い支えしました。大量のドルを買うための円を日銀に発行させたのです。その結果、大量の円が市場に供給することとなり、当時の日本の物価を大きく上げることとなりました。
ニッポンの分岐点
71年8月16日。お盆休み明けの月曜日で、のんびりしたムードが漂っていた大蔵省(現財務省)財務官室に、在日米国大使館から1本の電話が入ったのは午前9時半過ぎのことだった。「午前10時からニクソン大統領が重要な演説を行う予定だ」電話を受けたのは、財務官室長だった行天豊雄(82)(現国際通貨研究所理事長)。後に日本を代表する「通貨マフィア」と呼ばれる行天は即座に異変を察知。直ちに財務官の細見卓ら幹部に連絡、1台のラジオを囲み耳を傾けた。
1987年 ブラックマンデー
1987年10月19日(月)、ニューヨーク証券取引所で平均株価が508ドルも下がる(22.6%)という史上最大の大暴落があり、世界恐慌の引き金になった1929年10月29日(木)の「ブラックサーズデイ」を上回る下げ幅ということで、世界中が戦争でも起きるのではないかと騒然としました。
この暴落の背景には、当時アメリカの財政赤字や貿易赤字が拡大傾向にあり更にはドル安でインフレ懸念があった事などがあります。アメリカはインフレ対策で9月5日に公定歩合を0.5%引き上げ6%にしましたが、10月14日に発表された貿易収支が予想を大きく上回る赤字額であったことから、企業成績に対する不安感が募りました。
しかしそれにしてもここまでのとんでもない下げ幅になるほどの要素は無かったといえます。このブラックマンデーが起きた最大の原因は、大口投資家の「プログラム売り」でした。
ブラックマンデー事件
これといった原因は今だに分かっていないらしいのですが、ざっくり言うとパニック売り、売りが売りを呼ぶと言った感じでしょうか、プログラムによる売買は今となっては当たり前ですが、当時はまだ歴史が浅く政府などもいまいち把握してなかったようです。結果ブラックマンデーの影響は世界の株式市場にも現れ、日本でも東京証券取引所は株価が3836.48円(14.9%)下がる暴落。
1991年 日本バブル崩壊  
バブルの発生
80年代後半、地価や株価の上昇が大幅かつ継続的なものとなるにつれ、国民全体に、さらなる値上がり期待が高まっていった。この価格上昇期待が、株式投機による財テクブームや地上げなどによる過度な土地投機につながり、自己増殖的に資産価格を上昇させた。資産残高の著しい増加は、消費面では資産効果により耐久消費財を中心に消費額を増加させ、企業にとっては資産の担保能力の増大により新たな事業展開や設備投資のための資金調達を容易にした。
バブルの崩壊
景気過熱によるインフレ発生を未然に防ぐため、公定歩合が89年5月から5回にわたって引き上げられた。また、税制の見直しや土地関連融資の総量規制等が行われ、これらの政策により、株価・地価は急落し、バブルの崩壊が始まった。
バブルの崩壊は、逆資産効果により消費低迷を招き、倒産を増加させたほか、90年代全般にわたる長期の景気低迷をもたらすこととなった。
2001年 ITバブル崩壊  
多くのIT関連ベンチャーは倒産に追い込まれ、2002年の米国IT関連失業者数は56万人に達した。シリコンバレーを中心とした起業支援ファンドは一時的にではあれ縮小や廃止を余儀なくされ、グーグル、アマゾン・ドットコムやe-ベイなど一部のベンチャーのみが生き残った。崩壊後の不況の最中、2001年9月11日に同時多発テロが発生し、アメリカは深刻な不況へ突入した。マイクロソフトやインテル、デルやヒューレット・パッカードなど既存のIT関連事業者、あるいはベライゾンやAT&Tモビリティなど通信事業者などの株価も大幅に下落したが、本業が与えられた影響は軽微なものであった。光ケーブルの過剰敷設問題(ダークファイバ)の再燃も懸念されたが、すでに90年代後半の過剰投資の経験から抑制的に投資されていたこともあり、ITバブル崩壊にともなうダークファイバの不良債権化については懸念されるほどの問題は生じなかった。
2006年 ライブドアショック  
2005年7月以降、日経平均は7月の1万2000円台から1万6000円台にまで回復するなど、日本経済の復活を象徴するかのような、株価上昇が注目されていた。株式市場は新規の個人投資家を大量に引き入れ活況を呈しており、通常、株式情報を大々的に扱うことのないスポーツ新聞に「バブル再来か?」の見出しが踊り、TV番組では株を買ったことのない芸能人が「株でいくら儲けられるか?」などの特集が組まれるなど、1980年代後半のいわゆるバブル景気時代を彷彿させる状態であった。このような状況においてライブドアによる粉飾疑惑事件が発覚し、新興市場銘柄の急落と株式市場全体の混乱を招いた。ライブドアは1株数百円程度から売買できる魅力から多数の個人投資家を引き寄せていたこともあり、2006年1月16日同社への強制捜査は社会的現象として連日メディアで取り上げられた。
2007年〜 世界金融危機
2008年 リーマンショック  
世界金融危機は、サブプライムローン問題(サブプライム住宅ローン危機)をきっかけとした2007年のアメリカの住宅バブル崩壊に端を発し、2013年現在に至るまで続いている国際的な金融危機のことである。これを発端とした経済不況の世界的連鎖は世界同時不況とも呼ばれる。
2008年9月29日にアメリカ合衆国下院が緊急経済安定化法案を一旦否決したのを機に、ニューヨーク証券取引市場のダウ平均株価は史上最大の777ドルの暴落を記録した。
サブプライム問題
好景気に沸くアメリカで住宅ブームが起きました。しかし、家を買うには高額の費用が必要なため、ローンを組む必要があり、そのローンも返すあての無い人には貸すことができないため、購入する住宅を担保としお金を貸す制度ができたのです。最初の2〜3年は金利が低いのですが、年数が経過するにつれて金利が上昇するというシステムで、後々の支払いが苦しくなるのは目に見えているのですが、その頃には住宅価値も上昇するため、その価値の分またローンを組んで返済にまわせるという算段でした。 しかし、実際には住宅価値が上がることは無く、結果として住宅購入者はローンを支払うことが出来なくなってしまったのです。
2010年〜 ーロ危機・ギリシャショック 
ユーロ危機とは、EU(欧州連合)の共同通貨であるユーロの通貨価値が崩壊する危機のことであり、ギリシャの経済危機がその元凶であると言えます。元々EUに加盟している国は財政赤字が少ない事が条件でした。ですが、ギリシャはうその報告をしてEUに加盟していました。
これは政権が交代したことにより判明したのですが、このギリシャをEU全体で回復させようとしたのがユーロ危機の原因です。ギリシャは回復どころか、さらに情勢は悪くなり、それに伴いユーロの価値は急落してしまっています。その影響は当然、”円”にも与え、今ではかなりの円高になっていますね。 
 
現代の恐慌とマルクス恐慌論

 

1 現実的過程の次元におげる分析
われわれはマルクス経済学は現代資本主義の現実過程の分析のために有効であり、基本的な視点をあたえるものだと考えている。しかし現代資本主義の現実遇程はマルクス恐慌論に重大な点で難問を提起しているといわれる。それは現代資本主義論争という名前でよぼれ、ここ十年以上論議されている問題の主要な部分をかたちづくっている。戦前の二〇年間にくらべて、戦後の二〇年問の恐慌と産業循環の様相は変化している。戦後において資本主義世界で明らかに「不況」の現象があらわれた年の一九五八年でも、工業生産の低下がおこったのは、アメリカ、ヵナダおよびベルギーで、他の国々では工業生産のスロー・ダウソがおこったにすぎなかった。また最も典型的に工業生産の低下がおこったアメリヵでも、一九二〇−三〇年代の恐慌のときにくらべて、工業生産の低下の巾ははるかに小さく、低下の続いた期間ははるかに短かった。このような一連の事態の変化にもとづいて、近代経済学の側からはマルクス恐慌論は現代資本主義にたいして有効ではなくなったという主張が生れ、マルクス経済学者のあいだでは戦後の恐慌と産業循環についての見解の相違と論争とが生れている。これらのマルクス経済学をめぐる批判と論争とを検討して感じるのは、。それが現象分析と現象解釈にとどまっていて、 マルクス恐慌論の基礎理論との関連たしにおこなわれているうらみがあることである。 たとえていえば、 多くのマルクス経済学者は戦後の恐慌と産業循環における病理的諸症状をとらえて、それに戦前の診断が適用できるかできないかを論じているように見うげられる。しかしマルクス恐慌論はたんたる病理論ではたくて、資本主義的生産の運動の生理学をあたえているはづである。われわれは戦後の現実過程にたいする診断は戦後資本主義の生理学のうえにたつべきだと考える。そしてさらにさかのぽっていえぱ、戦後資本主義の恐慌と産業循環の分析のためには、恐慌についての基礎理論そのものが確立されねばたらない。
ここに恐慌の基礎理論にたちいることはできないが、マルクスは完成された恐慌論を書いておらず、その後継者たちの恐慌論についての解釈はかたらずしも一致していないので、筆者の恐慌論についての見解の要点をのべておくことが本稿の主題との関連で必要になる。マルクスの考え方にそくして恐慌とは何かということを二言でいえば、それは資本の価値破壊による資本主義的生産の均衡の回復である。資本主義的生産の性格は価値増殖過程であり、資本に包摂される価値彩態・価値範瞬の自立化の運動は増殖過程に、おいて矛盾を累積させる。この矛盾の爆発であり、同時に矛盾を暴力的に解決するものが恐慌である。マルクスは恐慌をこのようにとらえて、再生産と蓄積の過程においてこれを具体的に解明するために資本一般の次元と諸資本の競争の次元とを方法論的に、区別している。資本一般の論理構造のもとで、利潤率の傾向的低下をつうじて資本主義的生産の内的矛盾が周期的恐慌を発現させることが見出される。恐慌は商品の過剰生産として実現の場で発現するが、この彩態において発現する矛盾は資本の増殖過程で累積するものである。資本一般の次元では恐慌はまだ抽象的な運動の過程として成立するにすぎないが、それとともにー産業資本の運動としての資本主義的生産の一般的、本質的な要因としての恐慌、すなわち資本主義の基本的矛盾の発現であり、資本の運動の基本的過程であるところの恐慌の側面があきらかにされる。次に諸資本の競争の次元で、杜会的需要の変動とそれによる市場関係の変動とを導入して産業資本の運動が追求される。ここでは産業資本の運動は生産資本(あるいは現実資本)と貨幣資本の相互作用としてあらわれ、利潤と賃銀のほかに。利子が収入の範晴として成立し、利潤率は、諾市場におげる商品価格、利子、賃銀の変動によって規制される市場利潤率の形態をとるようになる。そしてそれらの価格、収入の諸範晴の変動と産業資本の運動との相互作用にーよって産業循環の運動形態が成立し、恐慌は産業循環の一つの局面として発現するものとなる。恐慌はこの次元で市場の規制をうける具体的な資本主義の運動過程となり、さらに世界市場に。おげる商品と貨幣の運動をふくめて考えるとき、世界市場恐慌として発現し、現実過程の分析の方向づげをあたえる理論的な具体性をもつ概念となる。
だがわれわれが理実過程を分析する場合、とくに現代資本主義に。おげる現実過程を分析する場合、もう一つの理論的作業がのこされているようにおもわれる。われわれはマルクスの方法によって、二つの理論的次元を区別して恐慌を解明するものだが、その成果たる諸規定だけでただちに戦後の恐慌と産業循環を分析するわげにはいかない。マルクス経済学者の一部の人々が戦後恐慌を分析する場合、商品価格の下落を周期的恐慌の本質的特徴として、商品価格の下落のなかったことから周期的恐慌がおこっていないと判断したのは一つの例であるが、これは恐慌と産業循繋の現象形態が変化することを考慮しないで現実分析をこころみたものである。このような考え方で、戦後の現実過程をとりあつかう場合、恐慌と産業循環とよばれていた理象はもはやどこにも見出されず、恐慌は消滅したという結論におちいることにたるだろう。われわれは恐慌と産業循環の現象彩態が変化しうるものであるという前提をみとめねばならない。 しかしながら現象形態の変化といっても、 現象形態はつねに変化しうるものであるし、また変化を羅列しただけでは現象記述以上のものは出てこない。戦後の現実過程の分析では、恐慌と産業循環の変化の基本的な方向をあきらかにし、運動様式について一般的な規定をあたえることが課題となる。この理論的な課題を、恐慌の基礎理論のそれと区別するとすれぼ、それを現実的過程の次元におげる恐慌分析とよぶことができる。スターリソはその晩年の著作「ソ連におげる杜会主義の経済的諸問題」で、現代資本主義の基本的経済法則という問題を提起した。それは、独占資本主義におげる再生産と蓄積の運動様式について独占段階としての一般的な規定をもとめるという意味に解すれぱ、是認してよい提案をふくんでいた。だが当時最大限利潤の法則というスターリソのテーゼが数条的に宣伝され、経済学的には深められたいままに、次におしよせたスターリソ批判の波によって葬りさられてしまった。現代資本主義におげる恐慌分析では、スターリソの結論は別として、この段階におげる現象の主要な変化にたいする一般的規定を追求すべきだという発想は再認識されてしかるべきである。  
二 蓄積過程におげる「国家資本」 

 

レーニソは帝国主義段階、すたわち独占資本主義の第一の特徴として生産の集積と独占をあげ、「工業の巨大な成果と、ますます大規模化していく企業への生産の集中のおどろくほど急速な過程とは、資本主義のもっとも特徴的な特質の一つである」とのべている。工業の成長と大規模企業への生産の集中とは戦後においても資本主義を特徴づげる基本的な傾向であり、この衝向のいっそうの発展は戦後の蓄積過程にいちじるしい構造的な変化をひきおこしている。それは杜会的総資本のなかでしめる「国家資本」の比重が増大していることにあらわれている。ここにかかげたのは、A・マディソソの「西洋におげる経済成長」からの引用であるが、これから一九五七年における粗国内投資総額にたいする国家(政府および公共企業)の固定投資の比率をみることができる。この比率は独占段階にはいって一貰して増加し、とくに戦後の時期になると増加の歩調を高めている。もっとも欧米諸国の一つ一つをとってみると、国家の固定投資のしめる比率はそれぞれの国民経済の伝統的事情と戦後の政策の差違によってかたり大きなちがいが国々のあいだにみとめられる。産業の国有化がおこなわれているイギリスでは四三・九%にのぼり、鉄道・電信電話までが私企業によって経営されているアメリカでは一六・二%であり、いちじるしいちがいをしめしている。しかしそれらの制度的な相違にもかかわらず資本規模の大型化と資本の集中につれて「国家資本」の比率は全般的に増大している。「日本の杜会資本」のかかげている資料にーよれば、アメリヵでも国家の固定投資が国内粗固定投資のなかでしめる比重は、一九五一年の一三・三劣から一九六〇年の一七・二劣に増大している。
「国家資本」の比重の増大をたんに私的部門に。たいする公共部門の関係の変化として資本の構造ないし形態の変化だげに注目するならぼ表面的な観察にとどまることになるだろう。この傾向はまさに工業の成長と企業の大規模化の過程が生み出したところのものである。工業的生産がますます巨大化する独占企業の手に集中するにつれて、その直接的生産過程は広汎な関連部門への大規模な投資を必要とする。自働車産業の発展が道路網の整備を必要とし、石油産業と石油化学産業の発展が港湾設備の巨大化を必要とし、大コソビナートの建設が工業用地の開発を必要とするのはその事例である。そのための投資は国家の肩にゆだねられる。この傾向はすでに十九世紀の終りに独占企業が出現したときにあらわれていた。エソゲルスは「反デューリソグ論」で、この傾向について次のようにのべていた。 「とほうもなく増大してゆく生産諸力が、その資本的特性にたいしておこなうこの反抗、その杜会的本性の承認をせまるこのたかまっていく強要こそは、資本家階級そのものにたいして、資本関係の内部でおよそ可能なかぎりで、ますます、これらの生産諾力を杜会的生産力としてとりあつかうことをしいるものである。 無制限の信用膨脹をともなう産業高圧期も、 巨大た資本主義的企業の倒壊からくる恐慌ミ§“そのものも、なおいっそう多くの生産手段をして、諸種の株式会杜にみられるような杜会化の形態をとることをよぎなくさせる。これらの生産11交通手段のなかにぽ、鉄道のように1、もともと非常に大規模なために、他のいかなる資本主義的搾取形態をもうげつげないものが多い。ところがある一定の発展段階にたっすると、この形態でさえももはやじゆうぶんではない。資本主義杜会の公の代表者である国家が、結局、生産の管理を引受げねぼならないことにたる。この国有への転化の必要は、まづ第一に、大規模た交通施設、すたわち郵便、電信、電話、鉄道の場合に現われる。」 これらの巨大な規模の固定資本を必要とする部門が国家の管理にゆだねられるのは、利潤率の低下を阻止しようとする資本の要求にもとづくものである。独占資本主義段階の初期に1すでに公益産業とよぼれる部門は国家または地方政府の経営にゆだねられるのが普通であった。戦後資本主義の技術革新に、よる新しい産業の発展は、巨大独占に投資の広大な分野を提供した。合成化学産業、電子産業および耐久消費財産業等はそれであるが、これらの分野での産業投資の増大とともに、これを補充するための投資が国家の役割を増大させているのである。いまこの分野の資本は「杜会資本」とよぼれ、この種類の投資の拡充の必要性がさげぼれている。この分野の資本が担う機能はその公共性、杜会性にあるといわれているが、 「杜会資本」の使命は、私的資本の企業採算からすれぼ利潤率の低下をきたすような非効率的た投資分野を国家が引きうげるものであることを見落してはならない。その分野をあげれぼ次のようなものに大別できるだろう。一、基礎産業の国有、衰退産業の国有、二、道路港湾の建設、国土保全、地域開発、環境衛生のための事業、三、公益および交通産業、四、教育および杜会福祉、五、研究開発、六、国防産業。以上はかならずも拡大しつつあるこの分野のすべてを網羅してはいないかもしれない。しかしこれらを総括して次のようにいうことができる。現代資本主義の産業体系は、独占資本の支配が大量生産、大量販売の方式のうえに成立しているアメリカで発展し、一九五〇年代にはいると欧州、目本で同じょうな体系と方式が発展しつつある。この独占資本の産業体系を補充しあるいは条件を整備するために。「国家資本」の系列が急速に発展しつつあるのである。この二つの系列は資本蓄積をつうじる生産の杜会化の方向を推進するための一つの体制を形成し、その相互関係を支配するものは利潤原則である。近代化され、剰余価値率の高い新興産業部門が私的独占の分野にゆだねられるのにたいして、旧式化し、比較的に剰余価値率の低い基礎産業部門、とくに鉄鋼・石炭産業は国有化される。また新興産業部門のうち、原子力産業、宇宙産業のように、研究と開発のために巨大な投資を必要とし、利潤率の低い分野がある。この研究投資・開発投資の分野は国家の手にゆだねられる。早くから中央および地方政府の土木事業であった道路・港湾等の建設は、産業都市の発展、人口の都市集中によって、ますます大規模化し、産業体系の発展に欠くべからざるものとなる。独占資本主義下の産業的発展は、国家投資を蓄積過程のなかにくみいれ、しかもその国家部門の規模をいちじるしく巨大化する。こうして国家独占資本主義の根幹がつくりあげられる。国家独占資本主義の特徴はたんに国家の管理する巨大な物的資本の系列が成立するということだげではない。それとともに国家財政が、蓄積過程の貨幣面においても大きな役割をえんじる。国有企業だげでなく、私的独占企業の貨幣資本も国家財政に依存する(補註)。流通過程での国家支出の役割の増大は、近代経済学が現代資本主義の特徴として指摘するところであり、これを国家資本主義あるいは二重経済とよんでいる。国家の支出の役割の増大は戦後資本主義の特徴であり、国家支出の比重の増大は杜会的需要が国家財政に依存することを意味しているが、われわれは国家の杜会的需要造出の機能だげをみるのでは、戦後の経済の運動の態様は解明できないと考える。資本の集中による蓄積過程の変化という視点にたって、流通過程の変化を分析しなげれぱならない。
現代資本主義の蓄積と再生産の過程を考える場合、国家独占資本主義あるいは国家独占資本主義段階という名前で現代資本主義をよぶことにする。国家投資および国家消費が総資本および総需要のなかで大きな役割をうげもつからである。しかしこの名前で現代資本本主義をよんでも、それは独占資本主義と区別して国家独占資本主義を一つの全く新しい制度、新しい段階としてとりあつかうものではない。国家独占資本主義は独占資本主義であり、この段階におげる杜会的総資本の運動を支配するものは、私的独占資本の増殖の運動である。独占問の競争に規制される資本の増植の衝動が投資の誘因を彩成し、私的資本の蓄積がすすむとき、これを補充するために国家による固定投資、国家財政をつうじる貨幣的資本の蓄積の増大が必要とされるのである。この段階では杜会の総資本の構成は二つの主要な資本系列、私的独占資本と国家資本とを軸にすると考えられる。この二つの資本系列の運動は、一方が直接に利潤を追求する増殖の衝動に支配されているのに、たいして、他方はこの衝動から自由であるといわれる。しかし国家資本が私的独占資本を補充するものである以上、この区別は本質的なものではない。二つの系列の資本の運動のちがいはそれを制約する貨幣的財源にあると考えられる。信用の要困をのぞいていえぼ、私的独占の投資を制約する貨幣的財源は直接に利潤であり、国家投資を制約するものは杜会的価値生産物とその収入への配分である。国家投資の財源は終局的に。は租税であり、租税は杜会的価値生産物の大いさとその収入への配分によって制約される。これに。たいして私的独占資本の投資の財源は資本が取得する利潤である。われわれは利潤率の傾向的低下を考えるのに、○○○○という式をつかうことができる。pは利潤率、mは剰余価値率、cは不変資本、vは可変資本とする。これによって国家独占資本主義のもとでの資本の増殖過程がいかに規制されるかを考えてみよう。国家資本はこの式のcの構成からはのぞかれる。したがってそれだげpを低下させるcの累積はふせがれることになる。しかしそのことは利潤率に。関係のない固定資本の蓄積の方法が生れたということではない。固定資本投資が国家によっておこなわれるためには、国家はそのための貨幣的財源を租税または負廣にもとめねばならぬ。そしてその貨幣は杜会的価値生産物からとりたてられる。すなわち杜会的価値生産物は剰余価値部分と必要労働に。帰属する価値都分、費用部分とに。わかれると考えれぼ、国家の固定資本投資は剰余価値部分mかまたは費用部分”をそれだげ圧縮することに1なる。したがって○○○○はそれだげ低下する傾向をしめすのであり、ただcの増加による直接のpの低下がおこらないだげである。われわれは次のようにいうことができる。国家独占資本主義段階の杜会的総資本の蓄積構造のもとで、不変資本、とくに固定資本の増大はい笹んとして資本の価値増殖過程を制約する傾向をふくんでいる。この制約にもかかわらず、価値増殖が資本の価値破壌をひきおこすことなしにおこなわれるためには、国家資本によって補整される私的資本の増大が労働の杜会的生産性を引上げ、剰余価値部分の生産が国家資本の増大のための追加貨幣財源を供給するに十分なほど増大することが必要である。これは直接的生産過程について考えた資本の価値増殖のための必要条件である。しかしこの条件がみたされるかいなかは、たんたる使用価値の生産過程におげる生産性の問題ではたく、実現と流通の過程におげる資本の循環と増殖の諸関係をもふくんだ総体の過程のなかで考えられねばならたい。  
三 流通過程におげる国家支出 

 

実現を規制する独占市場におげる流通過程については明確にされねぼならない理論上の問題点が多い。しかしこのような概括的な議論をしている場所でそれにくわしくふれることは不可能である。このことを前提してわれわれは次のように考える。国家独占資本主義のもとでの実現は独占価格の支配する市場の諸条件によって規制される。それはもちろんすべての商品が独占企業によって生産され、販売されることを想定するものではない。そこでは多くの非独占商品をふくむ杜会的価値生産物の価格が独占価格を主軸とする体系を形成し、この価格体系の機構をつうじて価値実現がおこなわれるのである。このような価格体系が成立する以前の競争価格体系のもとでは、市場価格は生産価格を指向して運動し、商品はその費用価格プラス平均利潤の水準で価値実現をおこなうと想定することができた。商品生産者のあいだに白由な競争がおこなわれている市場条件においては、剰余価値は生産者の充用する資本に比例してわけとられ、商品の市場価格は生産に1要費した価値プラス剰余価値の配分額によって決定され、この価格にふくまれる剰余価値の配分額のなかから産業資本家は利子、地代、租税を支払うものであった。すなわち剰余価値の配分による収入および租税の諸範時は利潤からの控除分であり、価格彩成には参加したかった。これにたいして独占市場では独占商品の価格は生産価格によっては決定されたい。独占企業による市場の支配は、少数の巨大な資本規模をもつ企業が成立し、これらの企業が商品市場では価格競争をおこなわず、価格について協定し、供給を操作する状態として想定してよいだろう。このような条件のもとでは、独占商品の価格は生産価格以上につりあげられ、独占企業は平均利潤以上の独占利潤を取得する。独占の支配する市場では、実現過程をつうじて独占企業は剰余価値の分前を、充用資本に比例する部分以上に高めることができる。独占資本主義のもとで独占企業の利潤の源泉は流通過程だげからくみ出されるものではない。しかし独占価格、すなわち生産価格以上への価格のつり上げによる利潤が独占資本の利潤の一つの主要な源泉であることはたしかであり、このような価格体系をつうじておこなわれる実現過程と競争価格体系のもとでのそれとの差違を考えることが必要である。
独占価格が生産価格によって決定されぬとすれぼ、その価格は何によって決定されるか。独占が価格を引上げることができるといっても、それには限度がある。価格水準が新しい競争者をしてこの産業部門にくわわらせるほど高くなれぱ、独占が成立しなくなる。だから独占価格は競争者の参入を阻止する水準を上限とする。しかしこの上限は独占価格形成の一つの要因であり、独占価格形成の主要な特徴は次の点にあると考えるべきである。それは、利潤都分が、企業者利得、すなわち本来の産業資本の利潤たる配当、杜内留保のほかに、剰余価値の分割に−よって成立する諾収入の範晴、利子、地代をくわえ、さらに企業者利得への租税賦課をもくわえて決定され、これが費用価格に上積みされて価格水準を決定することである。独占価格形成の特徴は、剰余価値の分割によって成立する諸範晴が固定化し、これが費用とともに価格を決定することにある。競争価格の場合には、資本問の競争によって平均利潤率がきまり、生産価格が市場価格を決定し、それによって利潤が取得される。利子、地代等は論理的に。はその後に、おいて、利潤からの控除部分および利潤の分割部分として成立するものである。これにたいして独占市場においては、新規競争者の参入が阻止されているかぎり (したがって参入阻止価格は独占価格の上限をたすのであるが)、生産量は価格水準が配当、利子、地代、租税、さらに新投資のための杜内留保をふくむ利潤の巾をあたえるように調整される。これらの剰余価値たる性格をもつ諸範曉は事前に価格水準にふくまれ、その意味で価格の決定要因とたるのである。しかもそれは固定的た性格をもち、また価値生産物のますます大きた割合をわけとるようになる。独占企業はその投資のために外部の金融機関の貸付げと証券発行とに依存する度合を減じ、自己の利潤を杜内に留保して、これを新投資にあてるようになる。また国家の投資と消費の増大とともに。、その財源の一つを超過利潤税、法人所得税の形で会杜収益にもとめるようになる。杜内留保利潤と会杜課税は独占利潤の固定的な性格を増大させ、価格水準は費用のほかにこの固定的な利潤部分をふくまねぼならなくなる。この価格形成の態様は独占の市場支配力が生み出した新しい傾向であるが、同時にそれは価値実現の過程に新しい制約をくわえるものである。
このような独占価格をふくむ独占段階の価格体系はそれ白体としていちじるしく不均衡性をふくむものである。この不均衡性は需要の縮小期にーとくに明らかに露呈される。一方には独占価格をもつ諸部門があり、他方には非独占価格をもつ諸部門がある。前者の部門は需要の縮小にたいして、生産を制限して、商品価格の崩壌をふせぎ、利潤率の低下を小巾にくいとめるが、後者の都門は供給を調整する力をもたず、価格の低落を阻止することができない。それぼかりでなく、独占部門と非独占部門とのあいだには多くの場合生産力較差がある。これをもっともよくしめすものは、近代的製造工業と農業とのあいだの較差である。価格の低落にたいして、製造工業部門は労働生産性の引上げによって費用都分を圧縮してこれに対応する手段をもっているが、農業部門はただ農民と農業労働者の生活水準の引下げによって対応するほかはない。とはいえ需要の縮小による打撃にたいして独占企業は免疫性をもつものではない。独占企業は生産を制限することにーよって独占価格を維持しょうとする。生産制限によって費用部分のうち直接費は削減されるが、問接費は生産制限に比例して下げることはできない。独占企業は平常大きな問接費的支出項目を負担しており、この負担は縮小された生産額に。かかってくる。独占価格の成立は恐慌を緩和するものではない。第二次大戦前の二〇年問の恐慌の歴史をみると、恐慌時におげる工業製品価格の低下はそれ以前の時期よりも小巾であったが、生産の低下の度合はより大きかった。これは独占価格体系の恐慌局面におげる作用であるが、恐慌局面にかぎらず産業循環の全過程をつうじて生産の制限に−よって市場におげる供給を調整し、価格水準を維持しようとする強い傾向をもたらすということができる。したがって機械と工場の利用度は低下し、独占企業の計算からすれば、間接費の圧迫がつねに利潤率にかかり、杜会的生産全体からすれぼ、過剰生産能力と過剰労働力が存在することになる。このことは新しい投資の拡大を阻止し、停滞の傾向を生じる。またこれは独占企業からみて需要の不足として感じられる。
独占企業は需要のより大きた分前をかちとるだけではなく、能動的に需要を喚起し、需要創出ともいうべき政策を推進する。大量生産方式は大量消費方式を前提にし、大量生産のための生産技術とモデル・チェーソジ、消費老信用、販売店の系列化等の販売技術とは平行して進歩する。しかし、これらの販売政策の裏づげをもつ消費は、耐久財消費がそうであるように、現代における需要の新しい分野をつくり出してはいるが、所得と雇用の増減につれて大巾た増減をしめすもので、 安定的な需要を彩成するものではない。 独占資本主義はその資本の価値増殖のために安定した需要の拡大を必要とし、この必要にこたえるものとして国家の支出政策が重要性をましつつある。われわれはこの節のはじめに、国家投資の現代資本主義におげる役割についてのべたが、この蓄積過程におげる国家の役割とたらんで、第二の国家の役割、実現過程におげる役割が国家独占資本主義を特徴づげる。この蓄積過程と実現過程におげる国家の機能の具体的な実態をあきらかにすることは現代資本主義の現実分析の主要な課題であるが、この論文でそれをこころみるわげにはいかない。二つの過程におげる国家の機能の増大はすべての国々にあらわれている共通の傾向であるが、国によってその現実の彩態はちがっており、その一般性と特殊性を正確に叙述することはそれだげで多くの紙数を必要とするからである。したがってわれわれはこの課題にとりくむことたしに、国家の経済的役割について次のように概括するにとどめる。蓄積過程におげる国家資投の役割については、すでに「杜会資本」を検討したときにこれにふれた。この国家の固定投資の増大とともに貨幣資本の面におげる蓄積と投資の促進のための国家の役割が増大している。ここにわれわれは促進という言葉をつかったが、それはたんに国家が問接的な措置で資本蓄積を促進するというのではなくて、国家財政をつうじて直接に貨幣資本を創出する役割をになうようにーなったことが現時点の特徴である。租税、国公債、年金会計をつうじて引きあげられた貨幣が「杜会資本」の形成、住宅建築だげでたく、基幹産業の独占企業に提供されること
である。蓄積過程における役割とともに実現過程における国家の役割が増大している。これは蓄積過程の変化の結果といえる傾向であり、公共事業、住宅建築、生産設備等への資本の投下はそれだげ生産手段および労働カヘの需要となってあらわれるからである。一般的行政費の支出、軍事支出をこれにくわえれば、政府支出は国民総生産の一〇%から一七%にのぼり、さらにこれに補助金、公債利子、その他振替支払いをくわえれぼ、二二%から三〇%にまでのぽっている。この数字は、アメリカとヨーロッバの諸国の制度的なちがいによって国家支出の演じている役割には相当の軽重があることを物語るが、しかも杜会的需要の非常に大きな割合を国家支出が形成するようになったことは事実である。
このような杜会的需要の構成に1おける変化は、流通過程と貨幣資本の運動に1おげる一連の重要な変化をともなっている。それは市場価格の体系、株式証券市場の構造、金融機関の変化にみられるが、とくに貨幣制度において金本位制が廃止され、 「管理通貨制」にかわったことは、商品流通と貨幣資本の運動とにおげる変化を集中的に、制度的に表現している。これらの諸変化を総括して管理経済制度がうまれたと判断し、産業循環、ことに再生産の均衡を回復する恐慌の機能は消減したという見解が、近代経済学でも、マルクス経済学のなかでも有力となっている。この節の終局の結論もこのような見解の正否について判断をくだすことである。この場合国家の支出の比重の増大とむすびついた流通過程の変化によって、戦後の産業循環が戦前とくらべていちじるしい変化をしめしていることを論議の前提とすべきだろう。A・マディソソは戦後の産業循環のピークから底までのGNPの最大の低下率を戦前の二つの時期のそれと比較した表をしめしている。 この表によっても、 戦後の恐慌局面におげる生産の低下率がいちじるしく小さいことはあきらかである。ただ西方諸国の産業循環の変化は一つの理由だげによっては説明されない。特定の国の特定の条件と一般的な条件とを区別しなげればならない。それらの具体的な条件の分析にたちいることなしに、ここで確認できるのは、一般的な共通の条件としては国家支出の杜会的需要のなかでしめる比重が増大したことである。二言でいえぼ、杜会的需要の増加が停滞し、商品の過剰が発現したとき、国家支出を政策的に増大させることによって、需要の低下をささえることができる。他の私的な需要が利潤率の低下の影響の外にたつことができたいのにたいして、財政支出による国家需要は産業循環の制限から相対的に独立の動きをしめすことができる。したがって実現過程において国家需要が一定の、循環を相殺する効果をしめすものであり、これが戦後の産業循環の変化を説明するものであることをみとめねぼならない。ただこれだげで戦後の産業循環と恐慌の分析をおわらせるわげにはいかない。多くの経済学老はこの点を基礎にして管理制度の有効性を肯定する。しかしいわゆる管理制度をつうじる蓄積と実現の過程が意図されたコースにそって運動するものであるか、あるいはいぜんとして意図されざるコース、物神的な価値法則に支配され、外的必然的な規制にしたがって運動するものであるかが、戦後資本主義の発展についての終局的問題としてのこるのである。 
国家独占資本主義の流通過程の特徴は、独占価格を中心とする価格体系と需要を補足する国家支出の役割とにある。このような特徴をもった流通過程では物価はつねに。上昇する傾向をもっている。それは一つには供給制限による独占企業の価格水準の操作が、需要が縮小する時期においても、価格を固定させることによるものであるが、より大きた理由は、国家支出による需要補足の機能が物価上昇をひきおこすことにみいだされる。国家支出は杜会的価値生産物にたいする需要を形成するが、その反面租税、国公債等いずれかの形態で収入の諸範時からの控除にその貨幣的財源をもとめなけれぼたらない。国家支出の増加が全部の貨幣的財源を租税にもとめるとすれぼ、支出増加にょる追加需要は租税による貨幣引上げによって相殺されてしまう。国家支出に−よる需要創出は杜会的価値生産にょる制約をまぬかれるものではない。財政支出に.よる需要の補充が要求されるのは、市場利潤率が低下し、諸収入が低下し、杜会的需要が縮小する時期である。したがってこの時期に需要補充の政策をとるためには、経常勘定の収支の赤字をひきおこさなげれぼならない。経常収支の赤字は国家の借入金によって補填され、借入金の償遠と利払いは将来の杜会的価値生産物にたいする租税の徴収によっておこなわれる。赤字財政は結局国家による信用の導入を意味し、将来の利潤および賃金にたいする租税負担の増大をひきおこす。産業資本家が信用を導入した場合、それによって剰余価値生産が増加し、したがって利潤が増加し、償還と利払いを裏ずげることが前提とされる。資本が将来取得する利澗から信用の償還と利払いをおこなうことは信用回転の必須条件である。しかし国家の信用導入はかならずしもこのようた拘束をうげない。そのかわり国家の租税収入にたいする請求権、償還と利払いの請求権を成立させ、したがって国家の赤字財政は擬制資本、収入にたいする請求権の資本化の増大にみちびく。国家の需要補充政策によって擬制資本が累積し、それが杜会の総資本の増殖を制約するという結果がうまれる。この制約は独占価格の上昇となってあらわれる。
国家の信用導入とともに、ここで考えてみるべきは消費者信用である。消費者信用が割賦販売の制度にともなって信用制度のなかで重要性をましていることは周知のとおりである。割賦販売は消費者の将来の収入からの分割支払いを引きあてにおこなう販売であり、耐久消費財産業におげる大量生産の発展はこの販売方式のうえにたっている。しかしそれは消費者の負債の累積をつくり出すものであり、負債にたいする利子負担は価格のなかにふくめられ、それだけ価格を引上げる効果をもつ。国家の赤字財政と消費者信用とは、国家独占資本主義において需要拡大の主要な手段をつくり出しているが、消費者信用は、産業循環を安定させる需要をつくり出すものとは考えられたい。な普ならばそれは消費者の収入の変動に依存するものであり、雇用が低下し、賃金が低下する場合、消費者信用もまた縮小し、さらに負債の履行不能、すたわち賦払いの停止がおこりうるからである。しかし国家独占資本主義は国家の赤字財政にせよ、消費者信用にせよ、負債の累積による杜会的需要の補充の制度をつくり出し、またこのような補充的需要を拡大することをよぎなくされるのである。その結果は負債の累積的な増大をもたらすものである。国家の赤字財政と消費者信用とは、基本的には現代におげる貨幣資本の契機の新しい分化とみるべきであり、 杜会的総資本の運動のなかに位置ずけてその機能を分析すべきである。 二言でいえぱ現代におげる公私の政策による杜会的需要の管理といわれるものは、 貨幣資本、 その大きた部分は擬制的な資本、すなわち収入からの控除、収入にたいする請求権の資本化によって成立する資本の累積にみちびく。このような性格をもった資本が杜会的総資本の増殖にくわわり、しかもそれが増大の傾向をもつとき、杜会的価値生産物の配分はこの擬制資本のために変化する。配分の機能は独占術格体系によって媒介されるが、独占的流通構造は擬制資本にたいする剰余の分配に1あたる価値部分を価格に転嫁させる。擬制資本が累積するとき、価格は、この転嫁分の増大により、累積的に上昇することをまぬかれない。もちろんここにのべた価格上昇のメカニズムは現代のイソフレーショソのすべてを説明するものではない。しかし物仙騰貴の傾向の主要な動因としてわれわれは需要補充政策をあげるものである。  
四 恐慌と産業循環の変化 

 

因家独占資本主義段階における再生産と蓄積の過程の特徴を以上のように考えるとき、恐慌と産業循環はどのような態様をしめすかを検討しよう。生産と資本の集中・集積が進行し独占の支配がつよまるとともに再生産と蓄積の過程で独占を補充するため国家の役割がいちじるしく大きくなったことをみた。この国家の補充的な役割を意図的な、政策的な調整活動とみるのが大方の解釈であるが、われわれはそうは考えない。国家独占資本主義段階においても杜会的生産の基木的性格は価値増殖過程であり、この段階の新しい傾向をつくり出す国家の投資と消費とは資本の増殖の一つの契機以外のものではなく、価値増植過程の法則的な規制をうけるものである。われわれは利潤率の低下の傾向としてあらわれる資木の過剰が恐慌の原因であり、利澗率の低下の傾向がふくむ内的矛盾が商品の周期的過剰生産となって展開し、恐慌の機能は資本の価値破壌による価値増殖の均街の回復であるという視点をもつものである。またこの資本の過剰と伽値破壌はたんに周期的な恐慌となって発現するだげでなく、より長期的な、構造的な変動となって漸次的に貫徹するものであることはマルクスが指摘するところである。この観点からするとき、われわれがこの節で確認した国家の経済的役割が資本の過剰および価値破壌とどのような関連をもつかが検討されねばならない。この点についてのべるまえに、マルクスのことぼを引用しよう。
「この利潤の減少は、直接的労働が再生産しあらたに産出する対象化された労働の大きさにたいする直接的労働の割合が減少することと同意義であるから、一般に資本の大きさにたいして生きた労働の割合の小さいこと、したがって前提された資本にたいして、利潤として表現されたぼあいの剰余価値の割合の小さい点を、必要労働にたいする分げ前を減らすこと、そして全雇用労働について剰余労働の分量をさらにいっそう拡大することによって阻止しようとするためのあらゆる試みが資本によってなされるであろう。それゆえ生産力のもっとも高度の発展は、現存の富の最大の拡大とともに。、資本の減価、労働者の頽廃、そしてその生命力のもっともあからさまな消尽と時を同じくしておこるであろう。これらの諸矛盾は爆発、大変動、恐慌にいたるが、そうしたときにはいっさいの労働の一時的な停止と資本の大きな部分の破壌がおこなわれ、資本が自滅することなく、その生産力を十分に稼働できる点にまで暴力的に引きもどされる。……だが、これらの規則的に回帰する破局は、より高い規模での反覆へ、そして最後にはそれのく資本Vの暴力的な転覆へとみちびく。この運動をさまたげる諸契機が、恐慌によるものとは別に資本の発展した運動のなかにある。たとえぼ、既存資本の一部分のたえざる価値喪失、資本の一大部分を直接的生産の作用因としては働かない固定資本へ転化すること、資本の一大部分を不生産的に食いつぶすこと、等。 (生産的に充用される資本はつねに二重に補填される。すでにみてきたように、生産的資本の価値産出は一つの対価を前提している、、資本の不生産的消費は一面ではそれを補坂し、他面ではそれを破壊する。なおまた利潤の率の低下が利潤からの現存の控除を取りさること、たとえぼ租税の軽減、地代の減少などによって阻止されるということは、それがどんた実際的意義をもつとしても、本来ここに属さない。なぜならこれはそれ白身違った名前での利潤の諾部分であり、資本家自身とは別の人々によって取得されているものだからである。同様に、資本に比例して直接的労働がより多く必要な、すなわち労働の生産力がまだ発展していない新しい生産部門の創造によって、低下はおさえられる。)(同様に独占)」
マルクスによれぼ、資本の仙値破壌は恐慌によっておこなわれるが、恐慌とは別に、資本の柿値を喪失させる諾契機が資木の運動の発展によって生れる。国家による固定資本投資の増大、因家支出による杜会的価値生産物の購買の増大はまさにーそれであり、資本の集中・集積の結果成立した資本主義の独占段階において資本の構造的変化およびそれにともなう資本の運動の態様の変化によって生じたところの傾向である。固定資本の大きた投資分野が国家の手にゆだねられることによって、私的独占資本はこの分野への資本投下の直接的な負担を免ぜられ、そのかぎりで利潤率の低下は阻止される。また軍事支出による杜会的価値生産物の購入、軍需は資本の不生産的消費の典型的なものであり、軍需品の伽値は補填されるが、使用価値は再生産の範囲の外にうつされるものである。国家が資本と商品の過剰を阻止するために演ずる役割についてここに具休的にのべる必要はないだろう。ただ重複をあえて避けることなくのべておくべきは国家の役割の性格についてである。この国家の機能は意図的、政策的た調整の要因を市場経済的な再生産過程に導入するものといわれている。しかしわれわれは国家の機能は、マルクスがのべているように、賞本の発展した運動のなかにふくまれるものであることを指摘しておかねぼならない。恐慌による資本の価値破壊は、利潤率の低下傾向にあらわれる価値増殖過程の内的矛盾の発現の一つであり、この矛盾の発現は多様である。資本主義的生産の構造の変化に。よって内的矛盾の発現の形態にも新しい契機が展開する。独占資本主義におげる資本の集中・集積は国家の財政的機構を資本の増殖過程のなかに包摂し、財政的機能をこの矛盾の発現の契機とするものである。国家の政策的た機能は目的意識的な要因を再生産と蓄積の過程に導入することは否定すべくもないが、しかも価値増殖過程の法則として働く規制は国家の政策的な機能をも支配するものである。恐慌と産業循環におよぽす国家の影響もまたこの観点から分析されねばならない。
われわれはすでに、国家支出による需要補充が恐慌におげる生産の低下を阻止し、またこのような国家支出の機能が物価上昇をひきおこすことをのべた。このような現実過程の変化が、ここに確認した恐慌の性格、原因、機能から考えて何を意味するかを検討することが必要になる。まず第一にあきらかにしておかねばならないのは、利潤率の低下にみちびく資本の過剰をひきおこす諸要因は消減してはいないことである。国家独占資本主義のもとで、固定資本投資が国家財政の負担によっておこなわれることは、独占資本の経営計算からいえば、それが利潤の低下を阻止することにたる。しかし国家投資の貨幣的財源は租税か公債にこれをもとめねぼたらず、それは結局利潤と賃金から控除されるので、利潤率の低下をひきおこすことはすでにのべたとおりである。これを産業循環の諸条件のもとで考えれぼ次のようになる。循環の局面のすべてをつうじて、国家債務が貨幣市場を圧迫しており、また大巾な租税が商品取引と収入とを制約している。恐慌と停滞の局面では国家支出は需要を追加し生産の低下をふせぐが好況局面がすすむにつれて反対に作用するようになる。民間企業が信用をもとめるとき、累積した国家債務の存在は信用の拡大を拘束する要因となり、収益の増加が停滞するとき、企業の利潤にたいする租税は負担を加重する。利潤率低下の作用する経路は変化するが、低下の傾向はい普んとして作用するのである。利澗率の低下が市場のメヵニズムをつうじて現実化するとき、独占企業は価格を引下げることによって販売高を増加させる方法をとらない。むしろ生産制限によって価格水準を維持する。独占企業の市場にたいする支配は、供給を調整して価格を締持することを可能にするのである、このことは独占企業をして利潤の急激な低落をまぬがれさせることにはたらない。問接費用は制限された生産高にかかり、利潤は急激に低下する。
このような恐慌局面における利潤の急激な低下をすくうものは国家の支出政策である。国家財政は利潤原則に直接拘束されない。したがって需要の縮小にたいして、支出を増加することによってこれを補充することができる。恐慌局面の様相は、国家独占資本主義の条件のもとでは変化する。二言でこれをいえぼ、利潤率の低下によって資本の過剰が商品の過剰に転化することが国家の需要補充によって阻止されるのである。このような概括的な規定に−は多くの補足説明が必要である。われわれは独占企業とならんで非独占企業が存在しており、恐慌局面でこれらの企業のあいだでは商品の過剰、価格の低落、破産等のいわぼ古典的な恐慌現象がおこるのを見ている。現実の過程は複雑で、不均等た諾現象の複合であるが、現実過程の旦ハ体的な様相をあきらかにすることはこの小稿の範囲をこえている。われわれは国家独占資本主義の諸条件のもとでの恐慌の現象形態の特徴をあきらかに。するのに必要な限度にとどまらねぼならない。
国家による需要補充は資本の過剰そのものを解決しない。むしろ赤字財政に。よる国家債務の累積をきたして資本の過剰をいっそう加重させる傾向をもっている。それゆえに恐慌局面がおわり、活況局面が開始するまでに介在する停滞局面はいっそう延長されることになる。恐慌が資本の価値破壌によって、価値増殖の過程の再開の条件をつくり出す機能は十分に果されない。国家支出に。よる需要の補充によって、商品の価値実現の過程に。おげる需要と供給の均衡は回復される。したがって過剰商品在庫が整理されれば、生産の低下は底をいれる。さらに生産は上昇にむかうことも可能である。しかしながら過剰資本の存在は利潤率の上昇をさまたげる。したがって新しい産業投資によって資本の増殖が再開し、これによって市場と雇用とが拡大し、市場利潤率と利子率との関係が。生産の拡大を促進する条件はつくり出されないのである。産業循環は上昇をはばまれ、生産は停滞し、雇用は低水準に−とどまる。これは国家独占資本主義の産業循環の重要な問題点をなし、成長政策という名前でこの停滞を打開する措置が講じられている。それは産業資本の利潤を高め、投資を促進することに帰着するが、固定資本のくりあげ償却を促進するための租税の減免と投資促進のための会杜利潤にたいする課税の低減とは広く採用されている措置である。これらの措置は、過剰資本の整理を租税措置により促進し、あるいは利潤そのものにたいする租税を直接に軽減することによって利潤率を高めるものである。上の引用文でマルクスは租税の軽減は利潤からの控除部分の取得の調整であり、本質的た意義をもたぬといっている。しかし国家の財政が資本の契機とたる国家独占資本主義段階では、租税の軽減は景気刺戟政策として重要性をいちじるしく高める。それとともにこの政策によって国家債務の堆積と租税の制約とを産業循環にみちびきいれ、これが好況局面で利潤率の低下をたすげる役割を演じるのである。
われわれはこの稿のはじめにおいて、国家独占資本主義におげる杜会的生産の特徴を停滞にあるとのべた。これは、産業循環の諸契機をまだ考慮にいれず、独占的産業資本の運動とこの運動におげる国家の補充的機能とだげを考えることによって到達した結論であるが、産業循環を前提にくわえても同じことがいえる。恐慌局面における資本の価値破壊が阻止されることによって、産業循環の様相は停滞の傾向をしめすのである。産業循環の次元においての停滞傾向は、産業資本の運動の規制だけでなく、生産資本と貨幣資本の運動の相互関係による規制の結果である。国家独占資本主義の条件のもとでの産業循環の特徴は恐慌局面の形態変化だけに,みとめらるべきではなくて、むしろ産業循環の全体が停滞の様相をしめすことにある点を見落すわけにはいかない。それとともにこの段階における産業循環のもう一つの特徴は、貨幣資本の累積によるイソフレーショソである。資本の運動の契機として国家財政が補充的な機能をになう結果国家債務の累積が生じることはすでにのべたとおりである。国家債務は擬制的な貨幣資本として機能し、運動する。そしてこの擬制資本の累積がイソフレーショソをひきおこす潜在的た圧力を形成する。国家債務は恐慌局面で増加し、好況局面ではこれに私的債務が上積みされて、貨幣資本の膨脹と生産資本の拡大とのくいちがいを早めるのである。イソフレ現象は顕在化し、過度緊張をもたらし、恐慌局面に転化させる。しかもイソフレーシヨソは恐慌によって清算されず、恒常的に累積する。
物価の恒常的な上昇とイソフレ要因の構造化は戦後循蓑の一つの特徴を彩成するものであるが、それとともに資本の過剰を清算することに。貢献する役割をに。なうことも見落せない。イソフレーシヨソの進行は貨幣の減価を意味し、そのかぎりで累積する公私の債務を常時的に縮小させる作用をいとなむ。したがって生産資本は貨幣資本の利予負担をイソフレーシヨソによって軽減され、企業者利得としての利潤は低下傾向に反対する一つの要因の影響をうげていることになる。また他方で物価騰貴は、産業資本にとって、その費用の諸項目、賃金、燃料費、原料費の上昇を意味し、企業採算におげる損益分岐点を上昇させる。損益分岐点の上昇は、独占企業と非独占企業とのあいだにちがった結果をもたらす。独占企業は、生産工程の合理化により、あるいは製品価格の引上げによって、 費用の上昇に対処する手段をもっている。 しかし非独占企業は物価騰貴のなかで破産においやられる。こうして物価騰貴は非独占企業の資本の価値破壌、企業としての再生産過程からの落伍、資本の集中をもた
らすのである。国家独占資本企業の段階ではこのような道筋をつうじて常時的な資本の価値破壊をおこない、資本の価値増殖をたすげるメヵニズムが動いており、それはイソフレーショソにはかぎらない。われわれはすでに租税措置をつうじて早期に固定資本の減価償却をおこなわせる政策がとられることをのべた。この措置は独占資本のために選別的にとられ、大資本はこの特典的措置を利用してその機械設備をより能率の高いものでおきかえる。同時にまたそれは当該企業にとっては旧資本を廃棄して、資本の価値増殖をうながすものである。イソフレーショソによる貨幣資本の価値喪失、損益分岐点の上昇による非独占企業の破産と合併、固定資本のくりあげ減価償却等、国家独占資本主義段階では、資本の価値破壌は周期的恐慌によるだけでなく、循環の諸局面をつうじて常時的にもおこたわれるのである。     .
常時的な資本の価値破壊がおこなわれることは周期的恐慌の捗態変化を可能にしている一つの理由である。しかし常時的な資本の価値破壌が周期的恐慌にまったくおきかわるということはできない。資本の増殖衝動と独占問競争は好況局面と資本の過剰をつくり出し、周期的恐慌をひきおこすからである。われわれは戦後二〇年の現実過程の観察から、恐慌局面の緩和と産業循瑞全体の停滞的性格を国家独占資本主義段階の特徴と考える。しかしこのように結論することは、今後激しい形の恐慌がおこらたいと予断するものではない。この段階におげる産業循環の変化は因家債務の累積をもたらし、その結果たえずインフレーショソを高進させている。イソフレーショソの性格は慢性的であり、その影響は不均等発展を累積させている。不均等発展は独占企業と非独占企業とのあいだに。も進行しているが、ここでとくにとりあげて指摘すべきは国際問の不均等発展の激化である。一九二〇年代までは、金本位制が機能しており、この制度のもとでの金移動が国際問の均衡の調整弁として作用した。各国の産業循環の好況局面で国際問の不均等な発展が累積し、恐慌局面では激しい金の流出がおこり、累積した不均等性の均衡化がおこなわれる。均衡化の作用が最も激しい形をとる場合には、本位貨恐慌をひきおこし、貨幣価値の切り下げにみちびいた。すなわち世界貨幣恐慌をつうじて、一因全体の商品.資本価値の破壌がおこなわれ、これによって国際問の商品・資木の取引が再び拡大にむかう条件がつくられるのである。国家独占資本主義段階では流通過程は変化し、金本位制度はいわゆる「管理通貨制度」によってとってかわられている。金への殺到による国際問の均衡化の暴力的な貫徹はもはや古典的な形では作田川しない。この国際問均衡から切り離されることに、よって、国家財政を資本の運動の契機とする条件がつくり出されたのである。しかしイソフレーシヨソの高進とともに国際問の不均等発展は累積しており、それは国際問の貿易と金融の拡大を阻害する。すでに低開発諾国の国際収支の危機だけでなく、基幹通貨たるドルおよびポソトの危機として国際通貨制度の危機にまで一口同進している。この国内イソフレーシヨソに媒介された国際問の不均等発展が今後世界貨幣恐慌をつうじて商品.資本の価値破壊にみちびく可能性をみとめるべき充分の理由があるとわれわれは考える。この可能性をみとめることは一九三一年のポソドの金本位停止を契機にしておこった破局的な世界貨幣恐慌を予想するものではない。一九四九年の通貨価値の調整がむしろ今後おこりうべき恐慌の形態であるが、それは主要国の資本の過剰の結果であり、また価値破壊による資本過剰の清算を強制する世界市場恐慌の性格をもつだろう。
われわれの現代の恐慌と産業循環についての見解は以上につきる。これを二言で要約すれば、恐慌局面の緩和、産業循環全体の停滞がそれである。このことに関連してのべる必要があるのは、戦後二〇年問の現実過程をみると、このような特徴のあてはまらぬ一つのグループの産業循環があることである。主要な資本主義国のなかで、アメリカとイギリスのそれは停滞の様相をしめしているが、西欧大陸諸国と日本のそれはわれわれの特徴づげとはちがった様相をしめしている。後者のグループの国々は成長率の高い循環の上昇局面がつづいたことがその特徴であり、とくに西ドイツでは恐慌局面の典型的な現象があらわれなかったとさえいえる。このような現実過程をあきらかにするためには事実と計数にもとづいた分析が必要であるが、われわれはこのグループの国々は、具体的な、現実過程の特殊な原因によって長期の高度成長の期問をもったものと考える。それは大量生産方式の新産業の発展による高率の固定資本投資と国外市場の拡大の条件をもっていたことであり、この条件がなくなれぼ、停滞的な産業循環の様相があらわれるだろうと想定される。じっさいにアメリカとイギリスは一九五〇年代後半にこの条件を失った。西ドィツもまたそれを失いつつあるとおもわれる。しかしこれは想定であって、事実によって裏づげられるかどうかは今後にーかかっている。戦後資本主義の現実過程については多くの検討すべき問題がある。しかしこの稿の目的は、国家独占資本主義段階におげる恐慌と産業循環をマルクス恐慌論の立場から解明するために、一連の理論的問題を提起することの範囲を出るものではない。  
 
現代恐慌論へのプレリュード(前兆) 2016/10

 

リーマンショックで引き起こされた世界的金融危機を1929年に始まる大恐慌との比較論がありがちだが、両者は現代的恐慌としての特徴を共通に持つものの、実態はかなり違う。その点の考察と、それを踏まえて現時点でのアベノミクスの評価にも言及する。
1. 循環性恐慌自由主義段階~第一次世界大戦前後まで
好況期の横への資本蓄積=資本構成不変の蓄積を通じて、労働力供給が逼迫、労賃騰貴による利潤率の低下と信用拡大による利子率の高騰が衝突し(1)、資本蓄積の突然の停止、恐慌へと劇的に転化する。商業資本による信用を大規模に利用して形成された投機的在庫商品の投売りにより、商品価格の崩落、手形信用恐慌とそれに基づく産業企業の広範な倒産を通して、過剰資本の整理が暴力的に進行する。(2)恐慌とそれに続く不況期=死活の競争戦を通じ恐慌に耐えた一部資本の固定資本の更新が個別資本的な蓄積により進み、低落した一般商品価格と労働力商品価格および利子率水準を前提に高度化された資本構成の資本蓄積が準備され、不況から好況局面へ移行しあらたの循環が開始される。
物価動向から見るならば、好況期を通じての需要の供給拡大に対する先行が物価の全般的な騰貴傾向を導き、好況末期に特に暴騰を見る商品が現出し、そこに投機的在庫形成を見ることとなる。同時に労賃騰貴とに挟撃され、利潤率の急落と決済資金の払底による利子率急騰により、信用の巻き戻しが強行され、逼迫する信用決済に引きずられて、在庫滞貨の投売り、商品価格の暴落が生じる。資本蓄積の突然の停止により生産過程から大量の労働者が排出され、労働力商品価格の急速な低下も同時に生じる。
*好況→恐慌→不況→好況→・・・の循環性恐慌。
*資本構成不変の蓄積→(恐慌)→高度化された資本構成によるあらたな蓄積。
労働力の吸収→(恐慌)→労働力の排出
*物価の傾向的上昇→一部供給逼迫商品の急騰と投機・労賃騰貴→投機崩壊、在庫投売り、物価崩落、労賃下落
*現実の19世紀中葉期のイギリスを中心とした景気循環では、労賃騰貴はそれほどではなく、むしろ資本主義の周辺から供給される農産物価格の騰貴が決定因となっている。(3)労働力商品化の矛盾とは宇野の作り上げた神話。(4)
*信用を大規模に利用した投機(レバレッジ)とその崩壊はあらゆる恐慌に随伴する普遍的契機。唯一(?)の例外はチューリップ恐慌(オランダ1636-1637)で球根による前払いが広く行われたという。
イギリス発の循環性恐慌は1873年恐慌以降消滅し、四半世紀以上にわたる大不況期=デフレ経済に世界資本主義は移行するが、その間および20世紀に入って第一次世界大戦前まで、アメリカやドイツ発の主に鉄道投機の破綻を契機とする循環性恐慌は生じていた。イギリスは次第に産業的な優位を喪失していくが、世界貿易と世界資本主義の金融センターとしての地位は揺るがず、恐慌の世界的波及と金の再配分機能を果たしていた。この過程でイギリス自体には恐慌が顕著には生じず、そのことが大不況期に形成された過剰固定資本の廃棄雇更新が停滞し、アメリカ、ドイツの産業的台頭を許す結果となった。金本位制のもとでのスターリングポンド基軸通貨体制。(5)
(1) 実際には、イギリスから見た貿易収支の逆調が短期借り長期貸しの期間ミスマッチとあいまってイギリスからの突然の金流出が生じ、金準備防衛のためイングランド銀行が急遽利子率を引き上げるにおよんでいた。また信用恐慌に対応したピール条例停止と「最後の貸し手」についてはウォルター・バジョット「ロンバード街」(戦前からの宇野弘蔵訳あるがイングランド銀行を「英蘭銀行」と記すなど、旧態歴然なので2011日経BPクラッシクス版をお薦めする。「お金に自分を管理する能力はない。それがここ<ロンバード街>には大量に堆積している」)
この期のイギリスを中心とした恐慌過程については鈴木鴻一郎編「恐慌史研究」(日本評論社1973)など参照。景気循環を主導した産業はいうまでもなく綿工業だが、本文で触れた綿花以外の農産物投機(小麦など)も顕著であったこと、また投機的に敷設された鉄道業と鉄工業の破綻が恐慌促進要因として副軸をなしていることにも注意。
(2) 商業資本による信用を大規模に利用した投機的在庫形成とその崩壊を恐慌の激発性の主要な景気として位置づけた研究として、鈴木鴻一郎編「経済学原理論(下)」(東京大学出版会1960)および伊藤誠「信用と恐慌」(東京大学出版会1973)参照のこと。
(3) 「恐慌史研究」参照のこと
(4) とはいえ宇野弘蔵「恐慌論」(岩波書店1953岩波文庫2010)は必読基本文献。
(5) いわゆる大不況期における世界的景気循環の変容については鈴木鴻一郎編「帝国主義研究」(日本評論社1964)参照のこと。また循環性恐慌のこの期における継続性についての考究は侘美光彦「世界資本主義」(日本評論社1980)を参照。
2. 世界大恐慌現代恐慌の嚆矢
 自動回復力(1)の喪失とレヴァレッジ経済の全面化
第一世界大戦の結果として、アメリカ資本主義が圧倒的地位に立つ。世界の金保有の過半を占め、かつ最大の債権国になり上がる。イギリスは対外債権の相当部分を喪失するとともに、ポンド弱体化に苦しむ。金本位制へはアメリカにはるかに遅れをとり1925年無謀にも旧平価で復帰。ケインズは金本位制を野蛮の遺制と痛罵。(2)
大戦は1918年に終結するが、アメリカ資本主義が一人先行して1919年に金本位制に復帰。戦後処理のための赤字財政に伴う戦後ブームは1920年恐慌を持って終焉を迎え、途中でいく度かのリセッションを含みながらも、ここから大恐慌期まであらたな継続的景気拡大局面に移行する。恐らく1920年恐慌が史上最後の循環性恐慌で、戦中期に形成された高物価体系がリセットされ、過剰資本の整理が行われる。
「永遠の反映」とも呼ばれる好景気に沸いたが、期間平均では年率3%程であっていわゆる高度成長とは異なる。いずれにせよ中成長が継続したにも拘らず、実質賃金16%上昇にとどまり労働生産性の21%上昇が上回って、一般物価水準も全く上昇の気配がなかった。これは独占体を中心とする改良的設備投資と市場支配力の高まりの結果であった。この間失業率は7.6%から2%弱にまで低下。
所得格差は著しく進展し、独占体(利潤170%増)と一部経営者や顔役など富裕層に富が手中。人口の5%が90%の富を握る。(3)
独占体における労賃抑圧というよりも、もともとのフォードに代表される高賃金ドクトリンがあり、高収益にもかかわらず、すでに賃金は高位にあるとの経営者の認識があった。
好況期前半までは住宅ブームが顕著だったが後半は家電製品や自動車など耐久消費財ブームにわき、消費者信用が史上初めて自動車の割賦販売を中心に普及する。
独占体・富裕層に堆積した余剰資金が、一部は内部留保から設備投資に回ったが相当部分はブローカーズローンの形で株式市場に流れ込みバブルを発生させることにな銀行も巨大産業企業が自己金融化するなか、新たな収支先を同じところに求めた。電機・電信・映画・電力など新興産業に最初は顕著な株価上昇見られたが、次第に全般化し29年に入ってからは投資会社の設立やらバブルの上にバブルを形成するような情勢になり、10月24日の「暗黒の木曜日」を迎えることになった。株価はそれに先立つ9月3日にピークアウトし(381ドル)、それ以後神経質な値動きが続き、直接にはキャピタルゲインを求めて流れ込んでいたポンド短資がポンド防衛のためにひそかに引き上げられていたのをきっかけに、一挙に崩落することになった。
株式市場の動きにたいして、景気動向は耐久消費財ブームも自動車生産でみるならば29年8月にピークアウトしなだらかの後退局面に入りつつあったといえる。
(1) 大内力「国家独占資本主義」(東京大学出版会)大内のセントラルドグマは無論「どんな恐慌であっても必ず自動回復する。」である。管理通貨制の骨子をインフレ政策による実質賃金抑制で恐慌回避とするのは、全く歴史を知らない議論。
(2) J.M.ケインズ「貨幣改革論」1923
(3) チャールズ・R・ガイストWall STREET :A History
大物顔役の一人がJ・F・ケネディの父親である、ジョゼフ・P ・ケネディでインサイダー取引や密造酒などで巨額の富を形成。フランクリン・ルーズヴェルトの参謀の一人。
負債デフレ=累積的収縮過程の際限ない進行(1)
株式価格崩落により、株式を担保に形成されていた債務の返済が急がれ、株式の投売りによるなお一層の株価下落がすすみ、今度は土地、建物、商品などの資産価格も下落し、それにより今度は資産を投売りしての債務返済といった悪循環が生じ、資産価格全般の際限ない累積的下落と、支出の減少すなわち有効需要の縮小につながり、一方そのことが自動車産業など耐久消費財部門の巨大独占体の顕著な生産制限に波及し、そのことが労働者のパートタイム化、解雇として消費需要と投資需要の減退につながり、一層一般物価の低落を呼び起こし、そのことがまた負債の実質価値を高め、一層の支出減退につながり、資産価格の崩落は銀行の担保の劣化を導き、銀行経営自体の動揺、貸し出し姿勢の保守化を呼び、一層生産と消費支出の縮小を導き、取り分けて農業貸出に特化した地方銀行経営の窮迫が顕著となり、その部面から預金取り付け騒ぎと銀行破産が激化し、と同時に消費支出激減により特に農家経営が直撃を受け、戦後積み増されていた負債の返済が滞ったことから土地の差し押さえにより、離村農家が激増し(「怒りの葡萄」)状態が現出し、工場から排出された労働者の大量の一群とともに、世情は不穏の一途たどり?まさに暴動が各地で発生する事態にまで至り、鎮圧のためついに国軍発動となり、その先頭に立っていたのがマッカサーだったりして・・・
1929年から33年にかけて、いくどか連銀が銀行救済策として5億ドル規模の緊急救済融資を実施するが、銀行としてもいつ取り付けにあうか判らない上に、返済の見込める融資先もないことから、結局連銀に預金する(日本的にはブダ積み)よりほかなく、さしたる効果はあげられずに終わり、フーヴァー政権のあとのフランクリン・ルーズヴェルト就任直後の全国銀行休業にまで突き進む。結局こうした一連の銀行破たんを通じて債務の整理が半ば暴力的に強行され、ようやく有効需要に復活の兆しが見え始めたのもこれを契機としてなのだった。
どん底でのGDPはピークの約半分、株価は10%、失業率は25%というすさまじさであった。(月次ベース)
(1) 負債デフレについてはA・フィッシャーが嚆矢。株価暴落前に楽観論を吐いて面目を失ったが、これにて帳消しか。
ルーズヴェルト政権によるいわゆるニューディール政策はGDP費で5%程度の赤字財政出動でしかなく、有効需要創出策としては効果は限定的であったが、農業保護や労働政策によりセーフティネットがようやく形成されていったことが人々にもたらした安心感が大きかったのだろう。それから預金保護によるたんす預金から銀行預金への還流が銀行貸し出しスタンスにとっては大きかった。
ルーズヴェルト自身は均衡財政論者で、37年に財政規模縮小と金利引き締めにより再び29-33年恐慌より激しい落ち込みを招いてしまう。完全にアメリカ経済が復活するのは第二次世界大戦にかけての準戦時・戦時経済体制化の巨額の軍事費支出を待つこととなる。(軍事ケインズ主義の嚆矢)
大恐慌は、アメリカ一国の景気循環にとどまらず、弱体化した国際通貨ポンドの動揺がオーストリー金融恐慌(1931年)に始まる欧州金融恐慌によりついに金本位制を離脱するに至り、基軸通貨なき国際経済の分断、為替切下げ競争、関税障壁による相互報復というブロック経済化への道を進み、第二次世界大戦へとつながっていく。その意味で史上空前の資本主義世界の危機の契機となった。
3.サブプライム金融恐慌100年に一度の危機(グリーンスパン)
背景
*2000年のITバブル後始末としての低金利の継続
*持ち家政策の推進移民・低所得者層向け~貧富の拡大のビホウ的対策
高齢者のセカンドハウス需要、ベビーブーマーの住宅取得年齢化
金融規制緩和=シャドーバンキング商業銀行外の資金調達MMFなど金融工学などにより、サブプライム層への住宅ローン拡大。
証券化によるオフバランス処理
資金源は企業遊休資金(投資停滞やダウンサイジング)や年金など機関投資家、海外資金(新興国、日本、ドイツ、中近東など)
ところが、2000年来のデフォルトデータと価格上昇傾向継続を基にするリスク評価に甘さあり、住宅価格の頭打ち(2006)と返済優遇期間の終了とともにデフォルトが多発。サブプライム証券は色々の金融商品に姿を変えて、アメリカ国内のみならずヨーロッパ各地の金融機関や地方公共団体にまで拡散し、世界的な金融危機を誘発。
特に2008年9月のリーマンブラザース破綻を契機に、金融システム全体が麻痺。
FRB、ECB、イングランド銀行は大規模流動性供給とともに資産買取などを見境なく行い、大恐慌化を阻止。システミックリスク回避は大恐慌の教訓。当時のFRB議長のベン・バーナンキは大恐慌研究の第一人者。
○ 金融規制緩和
かつての銀行員:ストライプのダークスーツを着て、「363」の堅実だが退屈な仕事。3=3%の横並び金利、6=9時に出社して3時に上がる6時間勤務3=午後三時からは優良取引先とゴルフ。それがハイリスク・ハイリターンが当り前の生き馬の目を抜く業界に。企業の銀行離れにより、いっそう拍車掛かる。
○ 証券化技術
ようは大数の法則の応用。融資先を多数束ねれば、デフォルト率が安定するから、リスク係数も客観化する。さらにそれを階層化しローリスク・ローリターン、からハイリスク・ハイリターンに三分類。計算上はハイリスクでもデフォルト確率は10万年に1回??
4. アベノミクス異次元緩和の無意味さ
大恐慌でも見られたように、市中銀行が融資先を見つけられない融資したくないときにいくらマネーサプライ増やしても、ブダ積みになって中央銀行に戻ってくるだけ。大恐慌のときは貸し出しリスクが余りに大きく、取り付けにいつあうか分からない中にあってのことだったが、現在の日本の場合大企業はおなか一杯余剰資金を抱えていて、融資受けてまで投資する意味がない。国内市場は飽和している。ブダ積みを阻止するべくマイナス金利に踏み込んだが効果発揮できていない。市中銀行の敬遠する融資先の一つである不動産投資に迂回的に流れているのかも知れな。
かつてのバブル景気の時ですら、CPIは年率1.7%であったことを思うと、2%のインタゲの無理さ加減が分かる。所得の頭打ち、日本経済先行き見通しの不透明感、年金供与の高齢化などあり、消費がそう簡単に上向くとは思えない。
一部好業績大企業も、今後のイノベーションや合同合併による市場風景の激変に備えて従業員給与の引上げに前向きになりようもない。
復興需要やオリンピック建設への財政出動も一過性に終わりかねない。半永久的な給与補償=ベーシックインカムを今こそ断行すべきだろう。 
 
バブル崩壊後の恐慌 / 長期停滞リスク管理

 

T 序
2007年夏に顕在化した米国における信用力の低い個人向け住宅ローン(サブプライム・ローン)の債務不履行問題、所謂「サブプライム問題」は、リーマン・ブラザーズ等の欧米の金融機関の破綻や全世界の株式市場の暴落等の金融危機を惹起し、世界恐慌の懸念さえ指摘されるに至っている。こうした状況下、1970年代以降の金融自由化、金融技術革新、金融システムの市場型化等の金融市場・システムの変貌(以下、「金融革命」と呼ぶ)を今般の金融危機の主因と捉えて、金融危機再発防止を目的とした大幅な金融規制を求める動きが新興諸国や欧州大陸諸国を中心に強まっている。このような大幅な金融規制は金融革命が開花させようとしていた潜在的な諸機能(リスク分担機能、資本供給機能等)高度化の芽を摘み取ってしまう危険性があるが、金融革命下の現代資本主義経済が今般の金融危機を招来したようなバブルの発生と崩壊に対して十分な防止策を持ち得ないのであれば大幅な金融規制の導入を甘受せざるを得ない。然し乍ら、バブル膨張を未然に食い止める事前的防止策とバブル崩壊後の実体経済への波及を最小限に食い止める事後的防止策に対する人類の英知は大恐慌や我が国の「失われた十年」等の大いなる失敗経験と経済学的分析の蓄積を背景に着実に向上しているとみられる。これらの防止策のうち事前的防止策については稿を改めて検討することとして、本稿では、金融革命下の現代資本主義経済がバブル崩壊後の実体経済への波及を恐慌や長期停滞に至る手前で食い止める事後的防止策を装備しているのかどうかを検討する。今般の金融危機後の金融規制の在り方に関する議論に資する材料を提供することが本稿の目的である。
本研究において参考となる事例は、バブル崩壊の衝撃度が今般の金融危機に匹敵する事例である。20世紀以降の先進国において株価下落率や銀行の不良債権比率にみられるバブル崩壊の衝撃度が今般の金融危機に匹敵する事例は、大恐慌時の先進諸国、1990年代初頭の北欧と我が国の「失われた十年」の事例である。これらの事例のうち、バブル崩壊が実質GDP をピーク比20%以上減少させるまでの景気の谷の深い不況(以下、同現象を一般名詞として「大恐慌」と呼ぶ)を齎した事例は大恐慌時の米国と欧州の金ブロック圏諸国の事例程度である。大恐慌時の英国や我が国、1990年代初頭の北欧の事例は景気の谷は相対的に浅く、我が国の「失われた十年」に至っては景気の谷の深さは殆ど問題にならない水準である。つまり、1990年代初頭の北欧と「失われた十年」では少なくとも大恐慌防止には成功したとみられる。一方、バブル崩壊が景気の谷の長い不況を齎した事例は「失われた十年」のみである。以下では、大恐慌の要因、恐慌再発防止策、「失われた十年」の要因と再発防止策を順に検討する。 
U 大恐慌の要因

 

本章では、大恐慌防止に失敗した米国と欧州の金ブロック圏諸国の事例と大恐慌防止に成功した1990年代初頭の北欧と「失われた十年」の事例の比較に基づき大恐慌の要因を検討する。
1.大恐慌期と近年の事例比較
米国における株式バブル崩壊後の不況が大恐慌にまで至った要因については、フリードマンらのマネタリストは連邦準備銀行が貨幣供給量を減少させたという金融要因を、シュンペーターや実物的景気循環論者は技術革新の停滞という実物要因をそれぞれ強調する。ただ、これらの見解は如何にも牽強付会の感が否めず、何れの要因も単独で大恐慌を引き起こしたと見做すには無理があると言わざるを得ない。現在でも統一的な見解は無いが、次のような説明が有力となっているように見受けられる。すなわち、株式バブル崩壊後、実体経済が悪化し、信用不安が拡がってゆく中、銀行取り付けが規模を大きくしながら波状攻撃的に間接金融システムを襲った結果、金融システムが徐々に崩壊し、信用収縮が発生。こうした状況下、金融システムの崩壊や失業増大等の実体経済の悪化を眺めての不確実性の増大も相俟って設備・住宅投資や耐久消費財消費を中心に総需要が減少し、デフレ(継続的な物価下落)を惹起。デフレ下で連銀が十分な金融緩和を行わなかったことから総需要が一層減少し、デフレが加速、総需要がさらに一層減少する「デフレ・スパイラル」に陥った。その結果、デフレが10%超にも達したため実質金利が15%超という超高水準に高止まりし設備投資や耐久消費財消費を冷え込ませ、実質GDP がピーク比30%以上減少する大恐慌にまで至った、という説明である。
また、欧州の金ブロック圏諸国(仏、伊、蘭等)が大恐慌を招いた要因としては、米英等多くの先進国が金本位制離脱・自国通貨切り下げ、関税引き上げ等のブロック経済化に走る中、3金本位制維持への固執が自国通貨高(実質実効為替レートの増価)と金利の高止まりを招いたため、純輸出と設備投資を中心とする総需要の減少と輸入価格下落が相俟ってデフレを進行させ、デフレ・スパイラルに陥ったとみられる。
一方、近年の北欧と我が国では、大恐慌期の米国に準じる程度のバブル崩壊の衝撃を受けたにも拘らず大恐慌水準の景気悪化は食い止めることができた。近年の事例が大恐慌期と異なる点として、次の七点が挙げられる。すなわち、金融システムの安定性を保持する制度として[1]預金取り付けを防止するための預金保険制度が確立していること、金融システム安定化策として[2]中央銀行による積極的な流動性の供給(「最後の貸し手機能」の発揮)、[3]政府による銀行への公的資金注入が実施されたこと、金融システムの安定性保持とデフレ・スパイラルの防止を目的に[4]金融の大幅な緩和が実施されたこと、[5]景気回復過程において実質実効為替レートが減価したことから純輸出の増大を齎したこと、[6]相当程度の拡張的財政政策が採られたこと、である。また、北欧や我が国の事例では世界的な金融危機に発展することがなかったため、国際協調が採られる必要は無かったが、今般の金融危機では、大恐慌期とは異なり、金融システム安定、財政・金融政策の発動、自由貿易堅持において7多面的な国際協調が採られている。
2.大恐慌の要因と大恐慌リスク
大恐慌期と近年、今般の金融危機の事例比較から、大恐慌の要因として、少なくとも次の六要因を特定できよう。すなわち、金融システムを崩壊に導いた[1]金融制度の不備、金融危機時の[2]市場流動性危機と[3]銀行システム問題への対策の不在、大幅な金融緩和に踏み切れず総需要減少や実質実効為替レート増価に起因するデフレ・スパイラルの進行を阻止できなかった[4]金融政策の失敗、同様にデフレ・スパイラルの進行を阻止するための拡張的財政政策に踏み切れなかった[5]財政政策の失敗、そして[6]国際協調の失敗、である。何れも経済制度・政策の問題であり、従って国家の経済危機管理能力の問題である。これらの全要因に対し、近年の北欧と我が国、今般金融危機の事例では包括的な対策が施されていることから、現代資本主義経済がバブル崩壊型不況を大恐慌にまで深刻化させるリスクは非常に低いと考えられる。
然らば、現代資本主義経済において、バブル崩壊型不況が大恐慌にまで深刻化するリスクは非常に低いとしても、大恐慌に比べれば景気の谷は浅いがそれでもなお深刻な不況、例えば、実質GDP がピーク比10%以上減少するような大不況(以下、「恐慌」と呼ぶ)を招くリスクはどの程度であろうか。また、現代資本主義経済はこうした恐慌リスクに対し如何に備えるべきであろうか。次章では、これらの問題を検討する。  
V バブル崩壊後の恐慌発生リスクと防止策

 

現代資本主義経済がバブル崩壊型不況を恐慌(実質GDP がピーク比10%以上減少する大不況)に深刻化させない防止策を装備し得ているのかどうかを検討するに際しては、大恐慌の要因として特定した上記六要因の実体経済への影響を詳細に検証する必要がある。前述の通り、現代資本主義経済は今般の金融危機時の対応にみられるように、上記六要因への対応が打たれはするが、何れも万能ではなく、これら六要因の実体経済への悪影響を完全に防止することはできないため、これらの要因が相当程度の規模で顕在化し、相乗作用を発揮する形で恐慌を惹起する可能性は否定できない。従って、現代資本主義経済において期待し得る政策が発動された際にこれらの要因がどの程度の規模で顕在化し得るかを見極める必要がある。
1.国際協調・財政政策の失敗
(1)国際協調の失敗
今般の金融危機では、IMF、世銀等の国際機関やG8、G20等の国際会合で、協調的な金融システム安定化措置、財政・金融政策の協調的発動、自由貿易堅持の再確認などが為されるなど、国際協調は相当程度巧く機能しているようであり、国際協調の失敗が恐慌の一因となる可能性は非常に低いように思われる。ただ、今後の金融危機再発防止策については、新興諸国、EU 諸国、日米の間では思惑に相当な隔たりがあり、予断を許さない状況にある。
(2)財政政策の失敗
民主主義国家であるか否かに拘わらず、国民の景気対策への強い要望が現代国家の政策決定に多大な圧力を加える仕組みとなっている以上、財政出動の規模が過小に止まり、恐慌の一因となる危険性は非常に小さいと思われる。寧ろ将来的に警戒すべきは、政府債務が増大し国家財政の健全性が著しく低下してしまうリスクである。こうした状況に陥れば、経済危機時に拡張的財政政策が発動されても民間は将来の増税を予測し消費・投資増を躊躇するため、景気浮揚効果は殆ど期待できなくなるからである。我が国の財政状況は、既に予断を許さない状況にある。将来の恐慌危機時に備えて拡張的財政政策の有効性を確保しておくためにも早急に国家財政の健全化に努める必要がある。
2.金融システムの機能不全
金融システムが機能不全に陥る要因としては、預金取り付けによる銀行の大規模破綻或いは決済システムを通じての連鎖破綻、信用不安を背景とする金融市場における流動性危機、すなわち、銀行の短期資金調達・運用市場、企業の資金調達市場、個人が資金を調達するためのクレジットカード・自動車ローン会社の資金調達市場における流動性危機、不良資産の増大を背景とする銀行の貸し渋り・追い貸しによる金融仲介機能の低下、が挙げられる。
(1)銀行の大規模・連鎖破綻
預金取り付けによる銀行の連鎖破綻に対しては、預金保険制度が整備されているほか、金融危機時には政府による預金保証額の引き上げや全額保証が採られる。また、金融機関の破綻が決済システムを通じて連鎖的に波及する決済リスクを防止するため、即時グロス決済システムが多くの国々で導入されている。従って、預金取り付けや決済システムを通じての銀行の大規模破綻や連鎖破綻のリスクは非常に小さいと考えられる。
(2)金融市場における流動性危機
信用不安を背景とする銀行の短期資金調達・運用市場、企業の資金調達市場(CP・社債市場)、個人が資金調達(クレジットカード・自動車ローン)を行うためのクレジットカード・自動車ローン会社の資金調達市場(資産担保証券市場)での流動性危機は、放置しておくと、流動性不足に起因する金融機関の
破綻、市場金利の高止まり、資本市場の縮小、これらを眺めての銀行の貸し渋り等の様々な弊害を齎す。このような流動性危機に対して、今般の金融危機において、中央銀行・金融当局による次のような対応が採られた。銀行の短期資金調達・運用市場(銀行間市場)においては、各中央銀行が銀行間市場に対するドル資金の大量供給や信用保証により対応。また、企業の資金調達市場(CP・社債市場)においては、FRB、米連邦預金保険公社(FDIC)がそれぞれ優良CP の購入、優良社債の信用保証に踏み切った。さらに、資産担保証券(ABS、Asset Backed Securities)市場に対しても、今般の金融危機において、FRB がABS保有投資家に当該証券を担保に貸出を行う制度を導入した。これらの一連の流動性供給措置にみられるように、現代の中央銀行・金融当局は流動性危機に対する認識が高いので、流動性危機が相当程度の規模となって拡がり、恐慌の一因となる虞も小さいと考えられる。
(3)追い貸し・貸し渋りによる金融仲介機能の低下
ここで、追い貸しとは、不良債権を隠蔽したい銀行経営者の責任回避的動機などから銀行が不良債権先を破綻させないように貸し出しを続ける、という問題である。こうした銀行の追い貸し・貸し渋りに対しては、我が国の「失われた十年」の経験が有効な金融システム安定化策を示唆している。とりわけ、2002年10月に金融庁が公表した「金融再生プログラム」は、同プログラム公表前の主要行不良債権比率を2002年3月期の8.4%から2005年3月期の2.9%へと大幅に低下させ、バブル崩壊以降の長年の懸案であった不良債権問題の解決に貢献した政策であり、有効性が高いと思われる。「金融再生プログラム」では、過去2回の金融システム安定化策(1997年制定の「金融機能安定化法」、1998年制定の「早期健全化法」「金融再生法」等)が不十分にしか機能しなかったことを踏まえて 1) 、[1]資産査定の厳格化、[2]自己資本の充実、[3]ガバナンスの強化、の三つの柱が打ち出されている。これは次のような理由に基づくものである。すなわち、資産査定の厳格化が行われなければ、適切な公的資本注入を実施できないし、たとえ資産査定を厳格に実施したとしても、追い貸しを惹起するほど銀行内の経営規律機能が弛緩しているとみられる状況で安易に公的資本注入を実施することはできない。特に、公的資本注入が実施され、自己資本比率が向上すると、元々弛緩していた銀行内の経営規律機能が一層弛緩する危険性があるほか、株式市場の経営規律機能も弛緩する危険性がある。そこで2では、自己増資努力が求められたほか、3のガバナンスの強化として、外部監査法人による厳正な審査、早期是正措置の厳格化及び早期警戒制度の活用、公的資本注入行に対するガバナンスの強化、が打ち出されたのである。特に、不良債権処理を優先したい金融庁の思惑から厳格には適用されなかった「早期健全化法」における「三割ルール」(注1参照)を厳格化し、公的資金注入行に対して不良債権処理と収益力の強化を同時に追及させる方針が打ち出された。このような三つの柱からなる公的資金注入以外の金融システム安定化策として、不良資産の買い取り・流動化 2) や銀行の一時国有化も行われ、相当程度の成果を挙げたようである。また、銀行の不良債権処理が経営不振企業の行過ぎた破綻を招かないよう、産業再生機構の活用により、再生可能な企業の再生も図られた。以上の金融システム安定化策を考慮すると、追い貸し・貸し渋りによる金融仲介機能の低下が恐慌の一因となる危険性は低いように思われる。
3.デフレ・スパイラル・リスク
デフレが恐慌を導く可能性を見極めるためには、デフレ・スパイラルの発生機構を認識する必要がある。デフレ・スパイラル発生の原因としては、名目賃金の下方硬直性とゼロ金利制約が指摘されている。
(1)名目賃金の下方硬直性
名目賃金に下方硬直性がある場合、デフレによって実質賃金が上昇するため、労働需要が減少し、雇用が減少する。その結果、雇用所得が減少するため、総消費を中心に総需要が減少し、デフレが加速するという悪循環が生じる、という経路である。然し、「失われた十年」の間では、名目賃金の下方硬直性は、1997年頃迄は観察されるものの、デフレが深刻化した1998年以降は観察されなくなった、との実証結果が示されている(黒田・山本(2004))。第二次大戦後から1970年前半頃迄、先進諸国では、高成長、高インフレ、強い労働組合の賃金交渉力等を背景に名目賃金は或る程度下方硬直的であったように思われるが、その後の日独伊を中心とした成長率の低下、第一次石油危機後の中央銀行の物価管理政策の強化を背景とするインフレ率の低下、労働組合の賃金交渉力の弱まりなどを背景に名目賃金の下方硬直性は薄れつつあるように見受けられる。今後、先進諸国において、こうした状況が大きく変化しない限り、名目賃金の下方硬直性がデフレ・スパイラル・リスクを惹起する危険性は低いと考えられる。一方、BRICS 等の新興諸国では、高成長を背景にインフレ率は高めで推移しているため、デフレ自体に陥る危険性が小さいと考えられる。
(2)ゼロ金利制約
ゼロ金利制約に起因するデフレ・スパイラルとは、名目金利はゼロ以下に下げられないことから名目金利がゼロに到達した後はデフレの加速が実質金利の上昇を引き起こし、これが総需要を減少させ、デフレを一層加速させ、デフレ・スパイラルを引き起こす、という論理である。同制約に起因するデフレ・スパイラルを防止する策としては、日銀がデフレ下の2001年3月に採用に踏み切った「量的緩和政策」が歴史上、唯一の政策事例である。以下では、量的緩和政策がデフレ・スパイラルを防止し得るのかどうかを量的緩和政策の理論的効果と我が国の経験を踏まえて検証する。
日銀が採用した量的緩和政策は次の二種類の政策から構成されている。第一は、金融政策の目標を銀行間市場の短期金利であるコールレートから民間銀行の日銀当座預金残高という量に変更し、当座預金残高目標を引き上げ、潤沢な資金供給を行うことであり、第二は、消費者物価指数の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで量的緩和を継続するという約束であった。第一の政策は「中央銀行の購入する資産構成の変化による効果」 3) と「量拡大の効果」 4) を、第二の政策は「時間軸効果」をそれぞれ企図した政策と捉えられる。これらの効果のうち有効と確認されるのは、白川(2008)が主張するように、ゼロ金利継続を約束することによって民間の期待短期金利を低下させ、やや長目の金利を低下させる時間軸効果を企図した政策だけである。それにも拘わらず、デフレはデフレ・スパイラルに発展することはなく緩やかなデフレに止まった。
デフレ・スパイラルに陥らなかった理由として、少なくとも、量的緩和政策の時間軸効果が機能し金利低下を通じて設備投資、住宅投資、耐久消費財消費を増大させたことに加え、デフレに伴う実質実効為替レートの減価により純輸出が増大したこと、の二点が挙げられよう。ただ、後者は今般の金融危機のような地球規模のバブル崩壊時には期待できない。
それでは仮に、後者の効果が期待できないような状況でバブル崩壊後にデフレに突入した場合、中央銀行が量的緩和政策にまで踏み切ったとしてもデフレ・スパイラルに陥る危険性があるのであろうか。このような難問に応えるための最良の判断材料はしばしば歴史から与えられる。Bordo and Filardo (2005)は、本稿では射程が及んでいない19世紀にまで遡り、19世紀以降の世界の様々なデフレの事例を研究した結果、「総生産量の大幅な減少を伴うデフレは希少であり、しかもこうした希少な事例の大半は大恐慌期に集中している」 5) ことを「定型化された事実」として報告している。そして、「歴史上、デフレはしばしば底堅い経済成長を齎してきた。これは1990年代の日本におけるデフレや大恐慌におけるデフレから一般的に引き出される旧来の英知とは対照をなしている」と主張し、巷間デフレ・スパイラル・リスクが強調され過ぎていることを示唆している。
以上の議論を取り纏めると、次の暫定的結論が得られよう。ゼロ金利制約に起因するデフレに対しては、前述の金融システム安定化策の発動により金融システムの機能不全を防止した上で、デフレ脱却まで量的緩和を継続すると約束する量的緩和政策を採れば、デフレ・スパイラル・リスクに陥るリスクは小さい。特に、実質実効為替レートの減価による総需要の下支え効果が期待できる場合はデフレ・スパイラル・リスクを最小限に止め得る。従って、現代資本主義経済ではデフレを原因とする恐慌リスクも小さいと考えられる。  
W 「失われた十年」の要因、長期停滞リスクと再発防止策

 

本章では、我が国が経験した長期停滞である「失われた十年」の要因と同停滞から脱却し安定的な成長軌道に乗せる政策について、同停滞中に繰り広げられた論争を整理した後、小泉政権下の長期停滞脱出・長期景気拡大過程を参考にして長期停滞の要因と再発防止策を検討する。
1.「失われた十年」を巡る論争
「失われた十年」に関しては、1990年代末から2005年頃迄、多くの論者により様々な見方が示されてきたが、議論を図式的に整理するために、これらの見方を敢えて三つに大別すると、以下の通りである。すなわち、消極的財政・金融政策(特に消極的金融政策)と銀行の貸し渋りが惹起した総需要不足に起因するデフレ・スパイラルを主因とみてインフレを目標とした積極的な量的緩和政策と金融システムの機能回復を企図した銀行への公的資金注入を提言する「リフレ派」 6) と、産業構造調整の遅延を第一次的要因、金融システムの資本供給機能低下を第二次的要因とみて産業構造調整を促進するための構造改革(大幅な公共支出削減・行財政改革・規制緩和政策)と金融システムの機能回復を図るための不良債権処理を提言する「構造改革派」 7) 、デフレに加え金融システムの資本供給機能低下と産業構造調整の遅延を主因とみるが、不良債権処理と構造改革は短期的には実体経済を悪化させるとの観点から、デフレ脱却のためのインフレ・ターゲット付き量的緩和政策を不良債権処理・構造改革に先行させるか、或いはインフレ・ターゲット付き量的緩和政策と不良債権処理・構造改革を同時に推進すべし、とする派(本稿では、「リフレ構造改革派」 8) と呼ぶ)である。これら三派の「失われた十年」に関する診断と長期停滞脱却のための処方箋は以下のとおりである。
(1)リフレ派の診断と処方箋
リフレ派は「失われた十年」の要因を次のように診断する。バブル崩壊後、逆資産効果や不確実性の増大から総需要が減少していた中、金融緩和の遅延からGDP ギャップを惹起し1994年第4四半期には軽微ながらデフレ(GDP デフレータ・ベース)が発生。その後、日銀が95年の夏から秋にかけての大幅な金融緩和に踏み切ったことによって一時的に景気は回復した。然し、97年の橋本政権下の緊縮的財政への転換、大手金融機関の相次ぐ破綻による金融不安からGDP ギャップが拡大しデフレが本格化した。デフレ下で、名目賃金の下方硬直性とゼロ金利制約に起因する二つの経路による民間需要の下押し効果に加え、不良債権の増大と株価の大幅下落に伴う自己資本比率の低下に直面した銀行の貸し渋りもあって、デフレ・スパイラルに陥った。以上を要約すると、バブル崩壊に伴う総需要不足という本来は短期的な問題に対し、財政・金融政策が十分な需要創出政策を採れなかったため、GDP ギャップが拡大、デフレを引き起こしたことに加え、銀行の自己資本不足に起因する貸し渋りもあって、デフレ・スパイラルという深刻な総需要不足を招き長期停滞に陥った、との診断である。
以上の診断に基づき、深刻な総需要不足であるデフレ・スパイラルから脱却するため、大幅な需要創出を企図した、乗数効果の高い効率的な拡張的財政政策とインフレ・ターゲット付き量的緩和政策に踏み切るべし、との処方箋が示される。ここで、インフレ・ターゲット付き量的緩和政策とは、日銀がデフレ脱却に止まらない年率1〜3%のインフレ・ターゲットを掲げて、同目標達成のため、1長期国債の買い切りオペの大幅増額のほか、2外貨建て証券の買い切りオペの大幅増額、3上場投資信託・不動産投資信託等の大量購入等に踏み切ることを表明し実行に移すべし、というものである。
(2)構造改革派の診断と処方箋
構造改革派は「失われた十年」の要因を次のように診断する。我が国は第二次大戦後、先進国で確立されている既存の製品・製造過程を模倣・改善することにより経済成長を実現できる立場にある新興国として「開発型」の産業構造を確立した。然るに、1970年代後半には日本経済は開発段階を概ね完了したため「先進型」の産業構造への転換が必要となった(池尾(2006))ことに加え、1980年代後半からグローバリゼーションやIT 革命により地球規模の産業構造の転換も進み始めたことから、産業構造調整の一層の遅延が顕在化するようになった。この間、民業と官業の関係においても、「開発型」経済においては或る程度の役割を果たしていたとみられる郵貯・財投・政府系金融機関・特殊法人等が民間から吸い上げた巨額資金を非効率的な政府系部門等に投入する仕組みと化しつつあり、官業の民業圧迫の弊害が指摘されるようになった。さらに、民間の金融システムにおいても、「開発型」経済では或る程度機能していた間接金融優位の「相対型金融システム」についても、「先進型」経済との適合度が高いとされる市場型間接金融を取り込んだ「市場型金融システム」へ重心を移すことが求められ始めた(池尾(2006))。
こうした状況下、80年代後半に発生したバブルが円高不況期に調整を進めようとしていた企業に調整を遅らせる誘因を与えたほか、バブル崩壊後の公共事業中心の拡張的財政政策がTFP(Total Factor Productivity、全要素生産性)上昇率の低い公共支出関連産業の資源を維持する方向に作用したことなどから産業構造調整を一層遅らせた(池尾(2006))。
また、政府系金融を含め間接金融優位の我が国の金融システムにおいて、銀行が不良債権を大量に抱えることになったため、株価の大幅下落とも相俟って自己資本比率が低下し、リスク許容度の低下等から資本供給機能が低下したため間接金融優位の金融システム全体の資本供給機能が低下した。こうした状況下、自己資本不足に陥った銀行がメイン・バンク制の下、経営者の不良債権隠蔽動機とも相俟ってTFP 上昇率の低い取引先に対し追い貸しを続け、国債購入等の安全運用に走り、TFP 上昇率の高い新興成長企業等のハイリスク・ハイリターンの融資案件に対して貸し渋ったため、一層の産業構造調整の遅延を齎したのである(林(2008))。
こうした産業構造調整の遅れはTFP 上昇率が低い産業から高い産業への資源再配分速度の低下を意味しており 9) 、その結果、バブル崩壊後の日本経済のTFP 上昇率は低下し 10) 長期停滞に陥ったのである。さらに、このような構造調整の遅延にも拘らず、構造改革推進に踏み切れない政治に対する不信感を背景とする日本売りが株価等の資産価格の一層の下落を招いたことから、逆資産効果により需要面からも景気の足を引っ張ったのである。
以上を要約すると、1980年頃から既に「先進型」への転換が必要となっていた我が国の産業構造は、80年代後半から進み始めたグローバリゼーションやIT 革命への適応、官から民への転換、間接金融から「先進型」経済への適合度が高い市場型間接金融への転換等の一層の転換が要求されるようになった。こうした中、80年代後半に発生したバブルとバブル崩壊後の拡張的財政政策が産業構造を維持する方向に作用したことなどから産業構造調整を一層遅らせたほか、間接金融優位の我が国の金融システムが不良債権問題から資本供給機能を低下させたため一層の産業構造調整の遅延を齎した。また、構造改革に踏み切れない政治に対する不信感が一層の資産価格の下落を招き、需要面からも景気の足を引っ張った、との診断である。
以上の診断に基づき、金融システムの資本供給機能回復を図るための不良債権処理に加え、産業構造調整を促進するための大幅な行財政改革(公共支出削減、郵貯民営化、政府系金融機関等の特殊法人民営化・統廃合)と規制緩和政策からなる構造改革を実施すべし、という処方箋が示される。後者の構造改革については、公共支出削減等は短期的に需要を減少させる反面、多くのその他の改革 11) は短期的に潜在的需要を掘り起こすことによる短期的な景気拡大効果を期待できるほか、中長期的に遅延していた産業構造調整を促進し、日本経済のTFP 上昇率を高める、という中長期的な経済成長効果を期待できる。後者の効果に対しては、同効果を先読みする市場参加者は期待を上方修正することから、これを映じた資産価値の上昇による資産効果も期待し得る。従って、これらの短期的効果により日本経済が比較的早期に長期停滞から脱出し、中長期的効果から日本経済が成長軌道に乗ることを展望できる。
(3)リフレ構造改革派の診断と処方箋
同派は、「失われた十年」の要因として、デフレ、金融システムの機能不全、構造調整の遅延の何れの要因も重視する。これらのうち、金融システムの機能不全を重要な要因とみることについては概ね認識が一致しているようであるが、デフレと構造調整の遅延の何れをより重視するかについては、論者により診断が分かれている模様。然り乍ら、長期停滞脱出の処方箋が概ね共通しているのは、不良債権処理と構造改革は中長期的な経済成長を齎す有効な政策であるが、短期的には不良債権処理・構造改革過程で企業倒産や失業発生等を通じて一層景気を悪化させる負の効果があるため、デフレ下で不良債権処理と構造改革を推進するのは不適切、との共通認識があるからのようである。同認識に基づいて、デフレ脱却のためのインフレ・ターゲット付き量的緩和政策を不良債権処理・構造改革に先行させるか、或いは、インフレ・ターゲット付き量的緩和政策と不良債権処理・構造改革を同時に推進すべし、という処方箋が示される。
2.「失われた十年」の要因
上記論争から「失われた十年」の要因の候補としては、金融システムの機能不全を齎した不良債権処理の遅延、バブル崩壊後の逆資産効果や金融システムの機能不全に起因する総需要不足に対する消極的財政・金融政策、構造調整の遅延の三つが挙げられる。これらの三つから「失われた十年」の要因を特定するに際しては、小泉政権下で、「失われた十年」から脱却し、「いざなぎ景気」を超える戦後最長の景気拡大を齎した要因を探求することが判断材料を与える。
小泉政権下では、不良債権処理の遅延による金融システムの機能不全を回復させる政策として「金融再生プログラム」が、デフレを脱却する政策として日銀が実施した量的緩和政策が、構造調整を促進する政策として公共支出の削減、行財政改革(特殊法人の統廃合・独立法人化・民営化)、規制改革(起業促進を企図した最低資本金制度の特例措置の導入、「対日投資促進プログラム」の策定、人材派遣市場の規制緩和、国内航空の規制緩和、株式売買委託手数料の自由化等)の三つの政策を含む構造改革がそれぞれ採られた12)。従って、「失われた十年」から脱却し長期景気拡大を齎した政策要因候補として、「金融再生プログラム」、量的緩和政策、構造改革、の三つが挙げられる。また、こうした政策要因候補以外に、[1]デフレと量的緩和政策下で実質実効為替レートが低下した中、世界景気の拡大も相俟って純輸出が増大したことに加え、[2]「為替レート」の減価に伴う対外純資産の増価による資産効果から総消費・投資を増大させたこと、[3]民間企業の経営努力による収益基盤の強化、の三つが指摘される。以下では、これらの政策以外の要因候補を検討した後で、政策要因候補を検討する。  
要因候補

 

1.政策以外の要因候補
(1)実質実効為替レートの低下による純輸出増大
実質実効為替レート(日銀試算値で、1973年3月を100に基準化、数値が高いほど円高であることを表す)の推移をみると、1999年12月の148.1を頂点に概ね一本調子で2002年4月に115.2まで円安が進行したが、その後は2005年3月まで115〜125の低位水準を安定的に推移している。こうした中、実質GDP成長率の寄与度分解をみると、2002年第2四半期から同第4四半期までは外需の寄与度が大きいものの、2002年第1四半期以降は基本的に内需主導の経済成長を続けている。従って、実質実効為替レートの低下による純輸出増大は、「失われた十年」から脱却した主因とみることはできるものの、「いざなぎ景気」を超える戦後最長の景気拡大の主因ではないことが窺われる。
(2)「為替レート」の減価に伴う対外純資産増価による資産効果
対外純資産増価を齎す「為替レート」は、実質実効為替レートではなく、「通貨別の対外純資産価値で重み付けられた為替レート」であろう。同為替レートのデータは手元に無いが、我が国の純資産の過半がドル資産であることを考慮して、円ドル・レートの推移をみると、たしかに2002年初頭に1ドル130円を超える水準まで円安が進行する。然し、その後は円高方向に反転し、2003年末には1ドル110円を割り込む水準まで円高に振れた後、2005年央迄概ね1ドル110円弱のやや円高の水準で推移している。こうした円ドル・レートの推移から推測して、「通貨別の対外純資産価値で重み付けられた為替レート」の減価に伴う対外純資産増価による資産効果は、「失われた十年」から脱却した一因とみることはできるものの、長期景気拡大の一因ではないと判断される。
(3)民間企業の経営努力による収益基盤の強化
一般に、民間企業の経営努力による収益基盤の強化は、不況が齎す効用の一つであり、これが次期の力強い景気拡大を齎すことは、良く指摘されている。今般の景気回復時にも、民間企業がバブル崩壊時に抱えていた債務、設備、雇用の三つの過剰が解消されていることから、経営努力による収益基盤の強化が為されていることが明瞭に窺われる。民間企業の経営努力による収益基盤の強化は、「失われた十年」から脱却し長期景気拡大を齎した要因であると考えられる。
問題は、こうした民間企業の経営努力がありながら、日本経済が長期停滞に陥っていた事実である。それは、こうした民間企業の経営努力の裏側で、事実上の経営破綻状態にありながら銀行の追い貸しを受けていた民間企業や拡張的財政政策の恩恵に預かっていた公共支出関連の民間企業が景気回復の足を引っ張っていたからではないのか。結局、前者の企業に対しては「金融再生プログラム」が、後者の企業に対しては公共支出削減を一つの柱とする構造改革がそれぞれ市場からの退出を迫り、産業構造調整を促進したからこそ、日本経済全体の企業収益基盤の強化が図られたと考えられる。これは、「失われた十年」の要因が不良債権処理の遅延と産業構造調整の遅延であることを示唆している。
2.政策要因
(1)「金融再生プログラム」による不良債権処理の促進
「金融再生プログラム」導入後、不良債権処理が促進されたことについては、前章で説明した。ただ、不良債権問題の解決は景気回復後であり、同解決過程で貸し出しが低下していることから、不良債権問題の解決は直接に景気を回復させたものではない。寧ろ、「失われた十年」における二回の景気拡大が金融不安の再燃により短期間で腰折れしていることを考慮すると、不良債権問題の解決は景気の長期拡大に貢献したとみられる。
然らば、不良債権問題の解決が景気の長期拡大に貢献した経路は如何なるものであろうか。この疑問に対する厳密な解答は、今後の実証分析の結果を待って出される必要があるが、これまでの検討から判断して、銀行が不良債権を処理し、資本供給機能を回復させることによって、融資先が従来のTFP 上昇率の低い先からハイリスクではあるが高いTFP 上昇率が見込まれる新興成長企業等へ移行し産業構造調整を促進した、と解釈し得る。これは、上記1.(3)の結論と同様に、不良債権処理・産業構造調整の遅延が「失われた十年」の要因であることを示唆している。
(2)量的緩和政策
量的緩和政策については、前章で説明した通り、「中央銀行の購入する資産構成の変化による効果」と「量拡大の効果」を企図した政策は有効ではなく、ゼロ金利継続を約束することによって民間の期待短期金利を低下させ、やや長目の金利を低下させる「時間軸効果」を企図した政策のみが有効であったに過ぎず、デフレを脱却できたのも景気回復後3年以上経た2005年11月(消費者物価指数ベース)であった。すなわち、リフレ派や一部のリフレ構造改革派が主張していたような、「デフレ脱却無くして景気回復無し」でも無ければ、「デフレ脱却には量的緩和政策が有効」でも無かったことになる。従って、デフレとデフレを齎した消極的な金融政策は「失われた十年」の要因として不適切であると考えられる。
(3)構造改革
一連の規制改革(起業促進を企図した最低資本金制度の特例措置の導入、「対日投資促進プログラム」の策定、人材派遣市場の規制緩和、国内航空の規制緩和、株式売買委託手数料の自由化等)は短期的な需要を掘り起こしつつ、産業構造調整を促進したとみられる。また、産業構造調整を促進し日本経済のTFP上昇率を高める、という中長期的な経済成長効果を先読みする市場の期待の上方修正を映じた資産価値の上昇による資産効果 13) についても、小泉政権発足後の日経平均株価の推移、特に所謂「郵政解散選挙」以後の同株価の上昇に表れている。構造改革が景気回復・長期拡大の要因であることが窺われる。この間、景気回復期においても、その後の景気拡大期においても、国内公的資本形成は実質GDP 成長率の寄与度が一貫して負であった。以上の議論より、消極的財政政策は「失われた十年」の要因として不適切であり、産業構造調整の遅延が同要因であったことを示している。
以上の検討に基づき、バブル崩壊後の長期停滞の主因は、金融システムの資本供給機能を停滞させた不良債権処理の遅延と日本経済の生産性を停滞させた産業構造調整の遅延であると結論付けられる。
3.長期停滞リスクと再発防止策
上記検討により特定された長期停滞の二要因のうち、不良債権処理の遅延については、「失われた十年」の経験から速やかに適切な金融システム安定化策が打たれることが期待できる。また、後者の産業構造調整の遅延に対しても、市場経済の自律的な発展を促すよう、政府を肥大化させず、適宜適切な自由化を推進すれば、産業構造調整が遅延に陥るリスクは小さいと考えられる。
然し残念ながら、同問題に対する社会の一般的な認識は未だに低いほか、Rajan and Zingales (2003) が指摘するように、資本主義社会では、「社会的成功」を掴み取れなかった人々や進歩的知識人が市場の統制を要求するばかりでなく、同社会で「社会的成功」を収めたはずの経営者らも自己の保身動機から参入障壁等の規制強化を要求する傾向がある。こうした市場経済統制の政治的圧力が恒常的に働いている以上、長期停滞リスクを齎す主因とみられる産業構造調整遅延リスクは「政治リスク」にほかならない。このような市場経済統制の恒常的政治圧力に対抗し、「政治リスク」を軽減するためにも、本稿では十分な解明にまでは至っていない産業構造調整の遅延と長期停滞の因果関係を解明することが今後の課題である。

1) 「金融機能安定化法」では、13が行われず、また、BIS 基準で中核的資本とはみなされない劣後債・劣後ローンを中心とする公的資金注入であったほか、過小資本に陥っている銀行が自己の過小資本の状況が露呈することを懼れて過少申告を行ったため、2の自己資本の充実にも繋がらなかった。1999年の「早期健全化法」「金融再生法」等では、転換権付き優先株式を中心とする公的資金注入に変更することによって、「金融機能安定化法」の上記二問題に対処するとともに、公的資金注入後のガバナンスとして、経営健全化計画の履行状況の報告徴求、優先株式の普通株式への転換権行使による議決権獲得のほか、公的資金注入行において「計画(収益目標)と実績との相当程度の乖離」した場合、業務改善命令の発動を含めた監督上の措置の発動が検討される、という通称、「三割ルール」が打ち出されたが、1の資産査定は基本的に銀行の自己査定によるものであったほか、「三割ルール」は、不良債権処理を優先したい金融庁の思惑から厳格には適用されなかった。2001年に、取引先銀行が不良債権には分類していなっかった大手スーパーのマイカルが経営破たんしたほか、木村剛氏により主要行の大口融資先に対する引当ての甘さが「大手三十社問題」として指摘され、銀行の自己査定の甘さと引当て不足による自己資本不足が懸念されることになった。
2) 資産流動化においては、対象資産を小口・流動化する証券化の手法と同市場の整備が貢献することが期待できる。
3) 先般の量的緩和政策で同効果を齎した政策としては、従来に比べ相対的に信用度の低い手形の買いオペが挙げられる。同オペにより、相対的にリスクの高い資産の信用スプレッドを縮小させる効果があり、金融システムの安定性保持には貢献したとされているが、デフレを緩和させたり、需要を喚起したりする効果は無かったようである。
4) 量拡大の効果とは、マネタリー・ベースの拡大が貨幣供給量を増加させ、景気拡大・物価上昇を齎す、というマネタリスト的な経路を通じた効果である。然し乍ら、先般の量的緩和政策では、こうした効果は観察されなかった。
5) 白川(2008)の388頁図19―4―1を参照せよ。
6) 竹森、野口旭、若田部らが「リフレ派」に分類されると思われる。
7) 池尾、岩本、野口悠紀雄、宮川らが「構造改革派」に分類されると思われる。
8) 伊藤隆敏、伊藤元重、岩田、櫻川、竹中、林、原田、深尾、星らが「リフレ構造改革派」に分類されようが、岩田、原田、深尾、星はリフレ派に近い立場であり、伊藤隆敏、伊藤元重、櫻川、竹中、林は構造改革派に近い立場であるように思われる。
9) 黒田・野村(1997)や西村・中島・清田(2003)の実証分析で確認されている。
10) Hayashi and Prescott(2002)では、Hansen(1985)の労働の分割不可能性を織り込んだ一般均衡動学モデルを用いた実証分析により1990年代の日本経済のTFP 上昇率が低下したことが示されている。
11) 例えば、小泉政権下の構造改革で実施された、起業促進を企図した最低資本金制度の特例措置の導入、「対日投資促進プログラム」の策定、人材派遣市場の規制緩和、国内航空の規制緩和、株式売買委託手数料の自由化等が挙げられる。
12) 同政策からは、「構造改革派に近いリフレ構造改革派」の主張が色濃く反映していることが窺われる。
13) ここでの総需要拡大経路の論理展開は、 厳密に言えば、 次のように為されるべきである。すなわち、長期的な経済成長効果を先読みする市場参加者は、期待を上方修正するほか、これまで抱いていた将来の不確実性に対する警戒度を低下させる。前者は資産価値の上昇による資産効果とリスク許容度の上昇を通じる間接的な経路で、後者は直接的な経路で総投資・消費を増大させる、という短期的な景気拡大効果を期待し得る。これら三つの経路のうち、よく指摘されるのは本文で挙げた資産効果のみである。然し、残りのリスク許容度の上昇を通じる間接的な経路も、不確実性の減少に伴う不確実性警戒度の低下も、近年の不確実性下の効用理論の発展を踏まえると、当然の経路であり、しかも相当程度の効果があるとみられる。 
 
 
『資本論』とマルクス経済学

 

はしがき
資本主義社会の経済的運動法則を解明し、社会主義への移行の物質的必然性を明らかにした『資本論』第1巻初版が発刊されてから、100年もの年月が流れた。その間、世界は大きく変化した。 一方では資本主義はその最高にして最終段階をなす帝国主義段階に突入し、他方ではマルクスが生涯その実現のために情熱をかたむけた社会主義が現実のものとなり、全地球の三分の一をおおうに至った。多くの植民地国は覚醒し、民族解放独立運動は、帝国主義国を一歩一歩追いつめている。 資本主義内部に階級対立がみられ、この階級対立の国際的展開が社会主義国対資本主義国の対立であり、帝国主義国対植民地国の対立である。 世界史のこのような変化は、『資本論』ぬきにはとうてい理解できず、『資本論』は古くなったどころか、いぜんいきいきと脈打っていると言わねばならない。
人間解放の書、資本主義社会の告発の書、革命の書『資本論』の発刊100年を記念して、世界各国で記念行事がくりひろげられた(1)。『資本論』研究の盛んなわが国でもわれわれが知るかぎり、次のような雑誌が『資本論』100年特集、号をくみ、『資本論』に関係する多くの力作を掲載して、マルクスの偉業をたたえた(2)。
〔1〕「唯物史観」1967年4月号、第4号
〔2〕「思想」1967年5月号、第515号
〔3〕「経済」l967年6月号、第37号
〔4〕「三田学会雑誌」1967年9月号、第60巻第9号
〔5〕「立命館経済学」1967年10月号、第16巻第:3・4号
〔6〕「経済学論集」(東大)1967年10月号、第33巻第3号
〔7〕「経済評論」1967年11、月号、第16巻第12号
〔8〕「経済論集」(関西大学)1967年12月号、第17巻第5号
〔9〕「経済学雑誌」(大阪市大)1968年5月号、第58巻第5号
〔10〕「経済論叢」(京大)1968年11。 月号、第102巻第5号
〔11〕経済学史学会『「資本論」の成立』1967年11月(岩波書店)
(ただし〔11〕は書物であり、〔9〕と〔10〕はマルクス生誕150年記念号である。 また〔2〕は「『資本論』と『帝国主義論』」と題されている。)
以上の特集号に掲載されている諸論文は、内容上、基本的には次の五つのグループに分類しうるであろう。 1。『資本論』の基盤(思想史的・哲学的背景、初期マルクス、『資本論』成立過程)に関するもの、II。『資本論』の方法・内容に関するもの、III。 帝国主義、現代資本主義に関するもの、rv。 日本資本主義論、V。 その他(社会主義論、随想、年表、座談会、図書目録など)。 マルクス経済学はその使命からして当然、社会変革の物質的諸条件あるいは社会変革のための客観的合法則性を探求する科学でなければならず、このような観点からして、われわれは『資本論』100年を迎えてわが国のマルクス経済学界ではどのような問題が論じられ、何が明らかになり、何が今後の課、題として残されているか、わが国のマルクス経済学会の現状はどのようなものであるかを明らかにしたいと思う。 これが本小論の目的である。 本小論は、『資本論』100年、マルクス生誕150年記念特集号上の諸論文を調査したにすぎないが、諸論文は同時に日本のマルクス経済学の現状をも代表していると考えられるから、ここで明らかにしたことは同時にマルクス経済学の現状にもあてはまると考えていいであろう。
(1) 種瀬茂、高須賀義博、宮本義男「『資本論』第1部刊行100年にあたっての評価一ドイツ、ソヴェト、英米-」『経済研究』1968年10月号; 末永隆甫「『資本論』100年祭とアメリカ経済学会一紹介と論評一」『経済学雑誌』1968年5月号、第58巻第5号、参照。
(2) 『資本論』100年に関する内外の著書、論文についてのまとまった文献目録については『経済論叢』〔10〕の巻末を参照されたい。 
1 『資本論』の基盤

 

マルクスの頭脳がいかに創造的であり、『資本論』がいかに独創的な書物であったとしても、当時の経済学、思想、哲学などとかかわりなしに、こつ然と天から降ってきたように生まれたわけではなかった。 このことは『資本論』の副題「経済学批判」に如実に示されている。 したがって、『資本論』生誕に直接、間接に寄与した当時の経済学者、思想家、革命家などと『資本論』とのかかわりを探求することが、非常に重要な仕事となってくる。 この過程を遂行しようとしたのが『「資本論」の成立』であった。 その第1部ではリカード派社会主義者、J。 S。 ミル、シスモンディ、プルードン、へ一ゲル、ヘスとの関連で『資本論』成立の思想史的背景がさぐられている。 遊部論文はとくにJohn Francis Brayを中心にリカード派社会主義者の私的所有、労働疎外、剰余価値、物神性、資本主義固有の矛盾や運命に対する考え方を考察したものである。 高島論文は当時イギリスの植民地であったアイルランド問題に対してとったJ。 S。 ミルの態度とマルクスの態度とを比較検討し、その異同を明らかにしている。 われわれの関心をとくにひくのは、相対的過剰人口の一例証としての『資本論』第1巻第7篇第23章第5節「アイルランド」を「資本制生産様式の没落の必然性を論じた第24章第7節に連結」(p。 58)させて理解せよという指摘である。 吉原論文は、これまでの「研究史上の空白」をなしているシスモンディをマルクスの経済学体系形成とのかかわりで考察したものである。 マルクスは40年代では、シスモンディに小ブルジョァ社会主義者をみ、50年代には資本の「ネガティブな一面性」を指摘して古典派を批判した古典派の「終焉の補完者」をみ、60年以降は「資本の現実の運動(競争と信用)」における矛盾の摘出者をみたというのであるが、最後の点は特にわれわれの興味をひく。 より詳細な全面的な解明がまたれる。 森川論文はまずプルードンの『所有とは何か』、『貧困の哲学』の内容を明らかにし、ついでマルクスのプルードン批判のいくつかの点を:解明したものである。
細見論文は、マルクスとへ一ゲルとの連続性を、「逆転」を通じての継承一止揚としてつかむ立場から、まずマルクスによるヘーゲル止揚の過程の概観を通して両者の対立性を明確にし、ついで連続性、共通性を明らかにし、もって「マルクス主義および唯物弁証法とはなにか」を解明しようとした試みである。 だが『資本論』全3巻の『論理構造』を解明した箇所には首肯できない二、三の点がある。 たとえば氏は第1章第1、2節での交換価値→ 価値→ 労働→ 労働の二重性への下向においてはブルジョア社会分析=「下向的研究過程の全体が圧縮されている」(p。 138)と理解されているが、これは無理である。『資本論』における上向的展開は、それに先立って行なわれた下向的分析を叙述にさいして逆行したものにほかならないから、『下向的研究過程の全体」とは逆表現すれば『資本論』の上向過程全体、すなわち『資本論』体系そのものにほかならない。 したがって、『下向的研究過程の全体」が第1章第1、2節に『圧縮されている」とはとうてい言いえないであろう。第1章第1、2節ではたしかに分析的下向法がとられているが、当章は商品の分析にあてられているのだから、それはなんら不思議ではない。上向といえども各章における分析を許すのは当然のことである。第2に、『第1巻第1、2篇は、そのうちに抽象から具体への演繹的展開(第1章第3節一第4章)を含みながらも、『資本論』体系の全体的関連の中で占める地位は、流通から直接的生産過程へ、現象から本質への、論理的下向の過程である」(p。138。傍点一筆者)と言われているのは、再考の余地があろう。たしかに、商品、貨幣から資本の生産過程への進行は、『現象から本質へ」への『論理的下向の過程」とも考えられよう。だがしかし、資本の生産過程の本質は剰余価値の生産にあり、その剰余価値は労働力と貨幣との交換を前提条件にし、その貨幣は商品を前提にしなければとけないのであるから、商品一貨幣一資本の生産過程という論理の歩みは、より単純なものからより複雑なものへと進む論理的上向の過程とも考えられるからである。ましては、第4図(P。 138)のように、第1、2篇が右下がり一直線の下向過程だとは単純に考えられない。商品に比して貨幣は明らかにより具体的な高次の範疇であるし、第2篇の終章『貨幣の資本への転化」はより具体的複雑な、高次の内容をもつもの。である。 第3に、『資本論』1巻、U巻、III巻の論理構造を、1巻=『『新社会の形成的諸要素と旧社会の変革的諸契機』の追跡究明」、結論は第24章第7節『資本主義的蓄積の歴史的傾向」、III巻=『生産過程と流通過程との統一において全体としての資本の運動過程が考察」、III巻=『全体として考察された資本の運動過程から生ずる具体的諸形態の発見、叙述」と理解されるのも不正確であろう。 それでは1巻だけが変革の理論を打出し、U巻、III 巻は附録になるからである。『資本論』全巻が『新社会の形成的諸要素と変革的諸契糊を明らかにしたものと考えるべきである。 たとえば、第III巻の利潤率低下法則は『資本主義的蓄積の歴史的傾向」の内容をより具体的に規定したものと評価すべきである。 また、II巻乳III巻の内容を要約した上の文章も、両者と
もに同じにみえ不正確というべきであろう。
山中論文は、まずヘスの思想が人間主体性の回復とその全面的開花にあることをみ、ついでヘスの社会主義思想の積極的内容がマルクスの『経哲手稿」『へ一ゲル法哲学批判序説」に摂取されていると論ずる。
『「資本論」の成立』はっいで第2部で『資本論』がいかなる過程を経て形成されたかを1840年代、1850年代、1860年代について明らかにするが、紙效の都合で省略し、高島善哉氏の書評(『経済研究』1969年4月号)にゆずりたい。
林直道『初期マルクスにおける『資本論』の生成」(『経済』)は、1840年代のマルクス経済学説の発展過程をいきいきと描写し、『『資本論』への成熟の基本線を展望」した好論文である。疎外論を重視するあまり、初期マルクスを『資本論』と切りはなし、前者を正しいとし、後者をむしろ俗化とみる考えが一部にあり、また、このような考えに呼応して、資本主義社会の真の科学的分析や客観的な合法則性、革命情勢の認識ぬきに、たんに疎外論だけで社会変革を叫ぶ小市民的急進主義が一部にみられる現在、本論文のような『資本論』へ収敏していく過程としての初期マルクスの評価は改めて価値をもつであろう。
島恭彦、池上惇「マルクスにおける『国家と経済』」(『経済論叢』)は、ライン新聞から『グルンドリッセ』に至るまでの史的唯物論の確立過程に焦点を合わせて、国家と経済の関係に関するマルクスの考え方をダイナミックに探った重厚な論文である。 大島清「『資本論』への道」(『唯物史観』)は、『賃労働と資本」では『剰余価値、利潤、資本の有機的構成等にっいて基本的な把握がみられ、これによって資本の生産過程についての分析がかなり深められるにいたっている」(p。39)ことを論証し、『グルンドリッセ』では、『価値形態把握と関連して経済学批判体系の基軸としての労働力の商品化にっいて」(p。 29)考察した労作である。 他に初期マルクスを研究したものに岡崎栄松「初期マルクスの経済理論について一『経済学=哲学手稿』を中心として」(『立命館経済学』)がある。出口勇蔵「生産力と生産関係との論理的な関係」(『経済論叢』)は、両者の関係が弁証法でいう「弁証法的対立」の関係にあることを論じたものである。 
2 『資本論』の方法と内容

 

『資本論』の方法や内容は1世紀をこえた今目でも未だ十分にきわめられていないといっても過言ではない。その解明は独占価格、独占利潤をどうとくか、独占資本主義の矛盾は何かなどをとくさいの有力な武器を提供する。
見田石介『『資本論』の立場と方法」(『経済』)は、まず『資本論』の立場と方法とが弁証法的唯物論と史的唯物論であることを確認し、さらにはカテゴリーは「どこまでも現実の模写」であるということとそのカテゴリーの叙述、説明は「すべてを運動の流れにおいて、発展においてみる」立揚から抽象から具体への「運動の過程において、またそれらのカテゴリーの総計においてあたえられる」(p。 253)ことに上の方法の特色があることをみて、大塚久雄『社会科学の方法』(岩波新書)を批判する。 大塚氏の見解は、人間は自由な意志をもち、非合理的、予測不可能な行為を行なうから、社会の歴史もまた当然、偶然的、非合理的であって、自然過程のように客観的な合理的過程とみることができない、そこで上の自由意志で動く人間の動機を追体験し、歴史を理解すべきである、これこそ社会科学の方法であるというのである。 見田氏は大塚氏の見解をおよそ以上のごとく要約し、そして次のごとき批判を加えられる。 この歴史観は、(1)歴皮を「われわれの意識と意志から独立した客観的な合法則的な過程」と考えず、「その合法則性を弁証法的な自己運動」とみず、「唯物論的および弁証法的な二つの基本的な特色を根本から否定する見解である」(p。254)。 またマルクス以前の唯物論歴史学の水準と同じである。 (2)「人間が歴史を形成するための地盤と前提」を無視し、人間そのものも、社会や歴史や階級の外でとらえ、「まったく観念的、抽象的」(P。 258)見解である。 (3)「自然史的過程」を商品生産特有のいわゆる労働の自己疎外の一現象としてあやまってとらえている。(1) われわれは、見田氏のこの大塚批判に全面的に賛成である。 ウェーバーを安易にマルクスとっなぐ方法は、結局マルクスを殺すことになるおそれがあることの教訓をここにみることができる。 大塚氏ほどの歴史学者にしてこうであるから、マルクスの方法の正確な理解を学界をあげて確定すべきであろう。 なお、『経済』に『資本論』第1巻「第2版の後書き」においてマルクスが高く評価し、長文の引用をなしているイ・イ・カウフマン「カール・マルクスの経済学批判の見地」の本邦初訳がのっているが、非常に貴重である。 カウフマンのマルクスの方法の深ひ理解におどろかざるをえない。
松井清「経済学批判体系と世界市場恐慌」(『経済論叢』)は、氏のこれまでのプラン問題についての考え方を総括し、後半の三項目の理論化を通して世界市場恐慌への展望をみたものである。 だが、表題にもかかわらず、世界市場恐慌がエルスナーの紹介ですまされているのは残念である。 それはむしろわれわれの課題ではあるが。
鈴木鴻一郎「唯物史観と経済学」(『経済学論集』)は、唯物史観でいう生産力と生産関係の矛盾すなわち資本主義の歴史的限界の論証を宇野派経済学体系の最終項をなす「株式会社としての資本の商品化」に求めたユニークな論文である。 すなわち、生産力水準の上昇とともに固定資本は「巨大化」し、恐慌によって破壊されない「過剰資本」と化し。 このような慢性不況のもとでは利潤率の均等化は「株式資本としての資本の商品化」による株式利廻りの均等性によって達成されるにすぎず、この「資本の商品化」は「資本みずからその生産力と生産関係の対立矛盾を解決していくことが困難になったことの自己告白にほかなら」(P。 9)ず、同時に資本が商品に戻るといういみで「資本の最後の窮極の形態」(P。 9)をなすのであって、ここに「商品にはじまる資本主義的経済過程の生成の論理は体系的に終わることになり」(p。 9)、「資本主義の歴史性」は「原理的に説」かれることになるというのである。 鈴木氏は言う「何故なら、かりに資本主義が永久にっつくものなら、資本主義を対象とする経済学は、対象の永久化とともに無限にその原理的展開を余儀なくせられ、出発点をなす商品に再び帰ってくるということはあり得ない……。 その意味で、商品にはじまって再び商品にもどるという経済学の体系構成は、それ自体資本主義の歴史性を原理的に説くものになっている」(P。 9)。 そして、氏はこのような史的唯物論で言う資本制生産関係が一定の段階では生産力の発展にとって裡浩になるという資本主義の歴史性は、現行の『資本論』体系では論証されえず、それを「訂正」(p。 10)した宇野一鈴木経済学によってはじめて論証されると自画自讃して、結語にしておられる。原理論体系は「株式資本としての資本の商品化」に終おる、商品にはじまって商品に終わるという主張自体はかねがね氏ののべられてきたところであり、何も目あたらしいことでないが、今度はそのことが同時に唯物史観でいう「資本主義の歴史性」の論証になるとされる点で目あたらしい。
われわれはこのような主張に対して多くの疑問を禁じえない。 第1の疑問は原理論体系のあり方についてである。 原理論体系はなぜ商品に始まり商品に終わらなければいけないのか、商品に始まり商品で終わることがどうして原理論の完結性を意味することになるのか、いわゆる円環法を持出しても原理論がなぜ円環法をとらねばならないのか不明である。 とくに宇野氏とちがって氏のように、原理論とは「資本主義生産様式の生成、成長、欄熟をその内部から原理的に模写し叙述したものである」く鈴木鴻一郎編『経済学原理論』上、p。 17)とするならば、原理論が商品に始まり商品に終わらなければならない論理的必然性は毛頭ないであろう。 もともと氏の『経済学原理論』における第2篇「資本主義的生産」から第3篇「総過程」への上向あるいは各篇内部の章構成は世界資本主義の「生成、成長、燗熟」の「模写」にはなっていないのではないか。 第2の疑問は「資本の商品化」の論理にっいてである。 氏は先には「資本構成の高度化をともなわない蓄積の方が却って蓄積の『一般的法則』をなす」(p。 7)と考え、『資本論』第1巻第23章の相対的過剰人口→ 労働者の窮乏化→反抗という論理を否定されたのに、ここでは一方的に「生産力水準の高度化」(P。 9)や固定資本の「巨大化」をもち出し、そこから「資本の商品化」を導くのは論理矛盾ではなかろうか。「生産力水準の高度化」や固定資本の「巨大化」は資本構成の高度化をともなうのかともなわないのか。 さらには固定資本が巨大化し恐慌によって破壊されない過剰資本となり、慢性不況が出現するという点も論証ぬきで不明である。 また慢性不況のもとでは固定資本の制約により、利潤率の均等化が実現されないというのも理解しがたい。 そもそも資本移動とは既存固定資本を売払って移動するというよりは、減価償却基金、剰余価値分が移動するということである。 換言すれば拡大再生産過程においては減価償却基金からの再投資や剰余価値からの新投資の各生産部門に対する配分比率が変化するということである。 最後に利潤率の均等化が「株式資本としての資本の商品化」をとおしての株式利廻りの均等化により達成されるというのも問題であろう。 利潤率と利廻りはあくまで別の範疇であるし、株式利廻りも根本的には企業のあげる総利潤率に依存している以上、その均等化は資本移動を通しての総利潤率の均等化に依存せざるをえないであろう。 第3の疑問は、原理論が商品で始まり商品で完結するとしてもそれがなぜ資本主義の歴史性を証明することになるのかという根本的な疑問である。 それでは原理論の完結性でもって資本主義の終わりを論証することになり、本末転倒であり、一種の観念論となろう。 原理論は現実の歴史過程の進行の「模写」であったはずなのに、今度は主客が転倒して現実の歴史過程が宇野原理論を「模写」しなければならないはめになる。 宇野理論がどう完結しようと、資本主義経済はそれ自体の論理で完結するほかはない。 その論理こそ資本主義の総矛盾の爆発としての恐慌、より高い利潤率を求めての資本の蓄積行動が全体として利潤率を低めていくという自己矛盾の表現である利潤率低下法則であり、恐慌の代替物としての戦争やインフレ、経済成長の停滞などであろう。『資本論』体系を部分的に「訂正」したり、利子論と地代論の順序を入れかえてみると、それで『資本論』では論証できていない唯物史観の根本命題、生産力と生産関係の矛盾、生産関係が生産力に対して姪楷となることが論証されるというのでは思いあがっているといわれても致し方ないであろう。
大内秀明「『資本論』と純粋資本主義」(『経済学論集』)は、同じく宇野理論の立場から純粋資本主義の意義を考察したものであるが、宇野理論の単なる反復に終わっている。 同じく戸原四郎「『資本論』と修正主義論争-資本蓄積論を中心として-」(同)も、宇野理論の立場から、ベルンシュタインなどの修正主義論争で崩壊論の基礎となった『資本論』第1巻第23章の資本蓄積論を批判したものである。 批判の要点は、次のとおりである。 (1)第23章には賃金上昇一利潤率低下恐慌の論理と「別系列の論理が交錯し」、「正しい論理展開が阻害」(p。 63)されている。 (2)固定資本の存在ゆえに資本構成の上昇は『不断』にはありえず、不況期に集中する。 (3)第4節の「主要な対象」(p。 67)は、純粋な資本主義社会で資本蓄積が生み出す相対的過剰人口ではなく、むしろその外部に存在する中間層の分解から発生する歴史的なそれである。(4)「歴史的な産業予備軍にみられた窮乏化の事実がただちに『資本主義的蓄積の絶対的な一般的法則』とされ」、「原理論のうちに段階論以下の具体的な規定が混入」(p。 67)している。 (5)個別資本の集中は蓄積論の次元で証明できず、恐慌後の過剰資本整理との関連でとかれていない集、中を促進する信用は商業信用から銀行信用への展開としてとかれていず、貨幣資本家が機能資本家に供与するかたちでとかれているが、「資本市場、レントナー的投資家層は、純粋な資本主義を想定する原理論では想定でき」ず(p。 70)、集中機構としての株式会社制度は、「段階論」でとくべきである。 (6)金融資本段階の新現象は、ヒルファーディングやレーニンによって解明されたが、「方法論的にはなお不明確」で、「それを解決して首尾一貫させるためには」(P。 73)、『資本論』の純化と段階論の形成が必要である。
みられるとおり、宇野路線に従属し、宇野理論の忠実な通俗的解説が与えられている。 だが、第1巻第23章の抽象次元で景気循環論がとけないことは火を見るより明らかであり、むしろ宇野理論こそ「別系列の論理]を「交錯」させているのである。 景気循環論での重要なカテゴリーである市場価格需要と供給利子率、競争と信用などをとく前に、直接的生産過程でどうして景気循環論を説明できようか。 資本の有機的構成の高度化を強制する競争の圧力はたしかに不況期には一ばん強いが、しかし好況期における新投資、設備の更新において資本は何も旧来の技術を採用する必要はなく、より高い利潤率を目指して最新の技術を採用するであろう。 とくに労働力がひっ迫している状態の下ではそうであるし、好況期においても諸資本間に起る超過利潤をめぐってのコスト切下げ競争が展開されるのだから新技術の採用は至上命令である。 かくして、景気循環を捨象した長期的な平均過程を考察すれば、「不断」の資本構成高度化の想定が可能になる。したがってそこから資本主義自身が自らのメカニズムで生み出す相対的過剰人口がとり出せるであろう。 これが「主要な対象」である。 資本主義がもし労働力の供給を非資本主義的環境の分解に依存するとすれば、資本主義はたえずそれに制約され自立的に存続しえず、思うがままに加速度的蓄積をおし進めえぬことになろう。 また、個別資本の競争、景気循環過程を捨象した特定の抽象性のもとで直接的生産過程における蓄積の一形態としての集中をといていけないことはない。 また、資本市場、貨幣資本家と機能資本家の分離、各々の存在、株式会社などを原理論でといてわるいわけもまったくない。「利潤を得られる資本をもちながら利子を得るだけで満足するような資本家」は「存在の余地」(p。 72)がないから、と氏は言われるが、むしろそのような資本家が現実に存在するから、それを原理論に反映させねばならない。 カテゴリーは現実の模写である。 総じていえば、戸原氏の議論は、蓄積論の抽象次元、方法、内容に対する誤解と偏見の産物である。
塚本健「社会的間接資本について」(『唯物史観』)は、『資本論』における空費の規定を検討し、社会的間接費用の分類を行なったものである。 鈴木喜久夫「利子論の方法」(同上)は、宇野教授と『資本論』の利子論の方法を対比して考察し、宇野理論の難点を指摘したものである。 遊部久蔵「商品論の成立」(「三田学会雑誌」)は、『資本論』冒頭の商品論がなぜ、またいかにして経済学体系の始原の地位にっいたかを『資本論』の成立過程についてあきらかにした論文である。
その他いわゆる原理論関係では、東井正美「いわゆる『不明瞭な箇所』-マルクスの市揚価値論について-」(『経済論集』)、日高普「『資本論』における商業資本」(『経済学論集』)、吉村励「マルクス賃金論の方法と構成」(『経済学雑誌』)、小池基之「『資本論』における土地所有の論理」(『三田学会雑誌』)、飯田裕康「信用と恐慌との連繋について」(同上)、宇野弘蔵「資本の物神性」(『唯物史観』)などがあるが、紙数の都合上内容に立入らない。 その他、べ一ム・バヴェルクの『資本論』批判とヒルファーディングの反批判を扱ったものに種瀬茂「『資本論』への批判と反批判」(「経済』)、サミュエルソンのマルクス批判を反批判したものに武田隆夫「サミュエルソンのマルクス批判」(『経済学論集』)がある。
思想史的観点から『資本論』をみた論文に『思想』誌上の平田清明「歴史理論としての『資本論」」、杉原四郎「労働疎外論と『資本論』」、清水正徳「『資本論』における物化問題」がある。 平田氏は最近精力的にこの種の論文を発表されているが、全ぼうが明らかになる時点まで論評はさしひかえたい。
(1) 同、じような観点から大塚氏を批判し、誤りの根因を大塚氏の階級的立場にみたものに林直道氏の書評がある(『学生新聞』1966年11月16日号)。 
3 『資本論』と帝国主義・現代資本主義

 

『資本論』と『帝国主義論』とはどのような論理的関連にたつか、は最近特にさかんになったテーマの一つである。 佐藤金三郎の論文「『資本論』と『帝国主義論』」(『思想』)の要点は次のとおりである。 (1)両者を連続的なものと考える単純な「連続説」は「『論理=歴史説』に対する素朴な信仰」(pp。 29-30)に基づいており、結局は両者の関係を正しくとらえることができないばかりか、「歴史主義」か「論理主義」かの「偏向」におちいらざるをえない。 (2)「歴史主義」的偏向の代表例は『経済学教科書』であり、『資本論』を独占前の資本主義の理論、『帝国主義論』を独占資本主義の理論とする。 しかし、この図式では『資本論』は「特殊の歴史段階としての産業資本段階の理論と単純に同一視され、それに駿小化される」(p。31)。 (3)「論理主義」的偏向の代表例は宮崎犀一氏の見解であり、帝国主義段階の諸問題もすべて『資本論』の延長線上に、経済学批判体系プラン上に位置づけ、『資本論』の具体化として体系化すべきであるという。 しかし、それでは産業資本主義段階と帝国主義段階との「歴史的現実の相違が無視され」(p。 34)ることになろう。 (4)『経済学教科書』では『資本論』が特殊に、宮崎氏にあっては『帝国主義論』が一般に解消されている。 (5)両説の共通する「根本的欠陥」は、「主体的・実践的観点の欠如」(p。 34)である。『資本論』は同時世界革命を指向し、『帝国主義論』は一国社会主義を指向しており、前者から後者への理論的展開は「重大な実践的転回をともなった」(p。 36)。両「連続説」はこのことを「忘却」している。
たしかに、ここでは『資本論』と『帝国主義論』とを単純に関連づける通俗的見解が鋭く批判されている。 しかし、誤解もあるように思われる。『資本論』は帝国主義段階にも妥当する資本主義の一般理論であるが、同時に帝国主義段階と区別される一特殊段階である産業資本主義段階の特殊理論でもある。 一般はよりプリミティブな段階では伺時に特殊でもある。 絶対的剰余価値の生産が剰余価値生産一般でもあるし、相対的剰余価値生産に対して一つの特殊的生産方法であるのと同様である。 このようなことが明らかであるかぎり、『資本論』=産業資本段階の理論、『帝国主義論』=独占資本主義段階の理論と云ってもさしつかえないであろう。『経済学教科書』はいざしらず、これがわれわれの理解する図式である。
経済学の理論は、生きた現実を解明しなければならないが、この現実は同一軌道をぐるぐるまわっていず、むしろらせん状に変化し歴吏的発展をとげる。 そこで、この歴史的発展(ここでは独占資本主義のことである)をどう叙述するかが問題となるが、それには二つの方法があるとわれわれは考える。 第1の方法は、『帝国主義論』のように、資本主義一般の理論はすでに『資本論』で与えられたものとして前提し、独占資本主義の特殊性だけを分析し、叙述する方法である。 これによれば、『資本論』と『帝国主義論』との論理的関係は、明らかに「連続説」になり、また歴史の発展に照応するものとなろう。 第2の方法は、独占資本主義をその特殊性においてのみ分析、叙述せずに、その特殊性を独占資本主義自体がその基礎にもっている資本主義の一般性とともに同時に分析し、両者を一つの体系として叙述する方法である。 この方法は『資本論』を独占資本主義の全体の一般的理論として編成がえし、独占資本主義に特殊な個有の諸範疇、諸法則を中心にすえて、その高みから『資本論』での諸範疇や諸法則をより単純なもの、先行者として位置づけなおす方法である。 そこで、資本輸出論、ドル危機、管理通貨制などを扱うために、前もって『資本論』体系の後に予定されているプランの後半3項目の内容化をはかっておかねばならないであろう。 宮崎氏はともかく、われわれの考えるプランの具体化線上に帝国主義論を構築するということは、このような意味である。 佐藤氏の論文が完結し、氏の積極説が全ぼうが明らかになることをのぞみたい。(1)
本間要一郎「『資本論』と『帝国主義論』」(『経済評論』)は、『資本論』の継承発展は「段階論的、特殊理論的具体化という形でしかありえないのではなく、… … どうしても一般理論そのものの検証と拡充強化という側面をもたざるをえない」(P。 37)、『資本論』は「自由競争段階の段階理論としての側面をも」ち、「『資本論』は一般理論、『帝国主義論』は特殊段階理論だとかんたんにわりきる」ことはできない(p。40)、と云うが、われわれが先にのべた意味ではうなづけよう。 一ノ瀬秀夫「『資本論』と『帝国主義論』」(『経済』)は、「資本主義の運命」という観点から両者の継承関係を考察したものである。
大内力「現代における『資本論』と『帝国主義論』」(『思想」)は、両書の現代的意義を考察したものであるが、その内容は大部分宇野理論からする相もかわらずの『資本論』批判と修正の主張にあてられている。同様に宇野弘蔵・梅本克己「対談・『資本論』と『帝国主義論』」(『思想』)でも、宇野氏はすでにくりか(2)えしのべたことをむしかえしておられる。 長州一二氏は大内力との対談「現代世界とマルクス経済学」(「経済評論』)では、宇野理論が帝国主義段階になると資本主義が「不純化」し、原理的にとけなくなるというのに対して、その変化は「けっして偶然のものではなく、資本主義そのものの原理による発展」(P。 12)であり、段階間移行の論理、発展の論理も「資本主義の原理論にはいる」(p。 14)とのべ、宇野理論を正しく批判してはいるが、他方では「『資本論』・『帝国主義論』・現代」(『思想』)では、現代を「19世紀中葉、20世紀初頭とならぶ第3の段階と規定する仮説」(p。 17)を出されているのはどうであろうか。 段階規定が十分説得的に与えられていないのではないか。 坂本和一「19世紀中葉における資本の直接的生産過程」(『経済論叢』)は、自由競争段階と独占段階との段階区分を資本の直接的生産過程における変化一流れ作業組織、自動制御作業機などの導入確立-によって規定しようとしたものである。 この点、独占利潤の源泉を生産過程における「強められた労働」に求める白杉理論とかかわるであろう。 坂本氏の今後の詳論をまっまで断定的なことを云うのはさしひかえたいが、直接的生産過程の変化は剰余価値生産の方法にかかわることであるのに反し、独占の段階規定は競争の独占への転化という「競争論」で、価格形成、剰余価値の再分配を扱う「総過程」で与えられるのではなかろうか(たとえば、カルテル、トラストを考えてみよ)。
つぎに国家独占資本主義を論じた論文に目を転じよう。 置塩信雄「国家独占資本主義と資本破壊」(『思想』)は、一貫した論理で国家独占資本主義を解明した力作である。 その骨子はおよそ次の通りである。 (1)四っの不均衡-生産能力と消費の不均衡(ただし生産能力く消費)、労働の需給の不均衡、価値と価格の不均衡、部門利潤率の不均衡一は、好況過程で累積され、恐慌によって暴力的に均衡化される。「資本破壌が大きな役割を果す」(p。 126)のである。 (2)独占が成立すると、独占価格の設定、強力な資本力のために資本破壊、不均衡の均衡化は十分行われなくなり、不況はながびく。 (3)「独占資本に従属し、経済に深く介入する」(p。 128)国家は、有効需要注入政策をとるが、それによっても労働力供給の制限あるいは実質賃金率の生理限界までの下落・衝突という事態への進行は不可避である。 (4)恐慌によらない資本破壊は好況過程における国家の介入独占利潤の確保を保障し、加速償却を認め、独占資本の合併を促進し、旧技術を買上げたりするによってはたされる。
不均衡の累積と労働力供給制限という天井設定によ
る逆転については、すでに別の機会に批判したことがあるのでここではふれないが、(3)ここでも、上の論理が国家独占資本主義の解明にとってむしろさまたげになっていると思われる。 そもそも第1に氏の論理では恐慌が過剰生産恐慌とならず、第2に有効需要政策が生産と消費の矛盾を緩和するための方策であるということがわからず、それゆえ労働力供給制限、実質賃金率の下限への衝突という事態の解決にならないのは当然のことであろう。 それにしても同論文は国家独占資本主義に真向うから取りくんだ試論であり、現在の学界状況からしてわれわれは高く評価したい。
大内力「国家独占資本主義と恐慌」(『唯物史観』)は、国家独占資本主義の成立によって大恐慌が克服され、恐慌の激発が回避されなしくずしの不況になったのはなぜか、周期が短縮されたのはなぜかなどを考察したものであるが、全般的にスケッチ的性格をもつ。小椋広勝「現代の恐慌とマルクス恐慌論」(『立命館経済学』)は、残念ながら筆者未見である。 田中慎一郎「構造改革論批判」(『唯物史観』)は、構造改革論者の国家独占資本主義論を、生産関係の理解、国家資本と私的銀行と産業資本のゆ着した「国家独占資本」の設定、国家独占資本主義をつくり出さずにはおかない生産力の理解などの批判を通して、検討したものである。 江田三郎「新しい社会主義と日本の現実」(『経済評論』)は、平和革命方式唯一論、資本主義内部での構造的改革、都市問題、安保体制の解消などを論じる。 しかし、権力側の暴力機構を発動させないためには「反対勢力の孤立化」(P。 105)だけでいいのか、平和革命方式と現在の「反戦青年委」の扱い方は矛盾しないのか、統一戦線論などに疑問がのこる。
(1) 本論文の後に出た2論文をともに収録した氏の新著「『資本論』と宇野経済学」でも「未完」(p。266)である。
(2) 宇野段階論の秀れた批判としては見田石介『宇野理論とマルクス主義経済学』がある。
(3) 松石勝彦「資本蓄積と恐慌」『一橋論叢』昭称44年4月号、第61巻第4号。 
4 『資本論』と日本資本主義・現状分析

 

守屋典郎「戦前の日本資本主義研究と『資本論』」(『経済』)にうかがわれるとおり、戦前のマルクス経済学は、その本来の使命からして当然のことであるが、社会変革やそれを使命とする革命政党の綱領のあり方とのかかわりで、日本資本主義をどう規定するかを真剣に考え、多くの労作をうみ出した。 ところがこれに反し、戦後のマルクス主義経済学は、日本の現実と実践的にかかわろうとせずに、むしろ「遺産」に安住し、怠惰をむさぼってきたようにみえる。 こういう学界情況を反映して、日本資本主義について論じたものはごく少数にすぎなかった。 われわれはこの学界情況を虚心に反省したい。
井村喜代子「『資本論』と目本資本主義分析一再生産表式論をめぐって」(『思想』は、北原勇氏とともに産業連関表を利用して戦後日本資本主義の再生産構造の分析に精力的に取組んできた井村氏の「当面している問題を一応整理し批判をあおごうとするもの」(P。 188)である。(1)『その要点は次のとおりである。 (1)『資本論』第II巻第3篇再生産表式論は、その抽象性からして、(イ)商業資本、貸付資本、土地所有、剰余価値の具体的諸形態、サービス業、国家、外国貿易などを捨象し、(ロ)価値と価格の一致、撹乱、不均衡のない平均的過程を想定している。 (2)再生産論の具体化のためには、(ロ)の想定は当然維持されるが、(イ)は表式に導入すべきで、ここではさしずめまず第1に投下総固定資本の価値移転分と更新部分との差額D-Rを表式に導入し、また「第1部門のなかを『労働手段生産部門』の独立化を中心として『労働手段関係の原材料生産部門』、『消費手段関係の原材料生産部門』に再分割する」(P。 193)。 第2にサービス部門や国家は巨額の固定設備や流動的資材(軍需品を含む)需要を創出するから、「サービス部門」、「サービス部門用財貨生産部門」、「軍事的部門」、「非軍事的国家部門」、「軍需品生産部門」、「非軍事的国家部門用財貨生産部門」の6部門を創設する。 (3)、(1)の(ロ)の想定にもかかわらず、現実の再生産は景気変動の過程でしかありえないから、ある年の現状分析は一局面の分析でしかありえず、そこで分析の主題は、「年々の変化、循環的変動のなかにもつらぬかれている、いわば構造的特徴・矛盾を検出すること」(p。 199)である。 あらためて、恐慌論と表式論の連繋の解決にせまられている。
大内力「『資本論』と目本資本主義論」(『経済学論集』)は、戦前の日本資本主義論争における『資本論』の利用方法を批判したものである。『資本論』の利用方法の一つは、『資本論』の対象とする純粋資本主義像を「原型=理想像としておき、日本資本主義の本質なり特殊性なりを、それを基準として解明する」(p。75)方法であるが、純粋資本主義なるものはそもそも現実にはけっして存在しないものであるから、「あらゆる資本主義に固有な距離ないし齪齢」が「すべて日本資本主義の特性とされ」(p。 79)てしまうことになる。 この利用方法の「いっそう重大な欠陥」(P。 79)は、1930年代は帝国主義・国独資段階であるのに、「段階論」を意識しなかったことである。 このようにして、講座派が日本の特殊性と考えた封建制は、資本'家的土地所有がどこの国でも支配的にならず、しかもそれも帝国主義段階では「解体する傾向を示す」(P。82)から、「段階論的にみれば、資本主義一般に固有な現象」であり、「日本の特殊性でもなければ、いわんや封建制などというものではない」(P。 82)(第2の利用方法、マニュ論争への関説は省略)。 みられるとおり、宇野三段階論からする痛烈な批判が行われてヤ'る。 だが第1に、『資本論』=純粋資本主義と日本の現実との差は「すべての資本主義に共通の問題である」というのでは、特殊がなくなるではないか。 第2に、帝国主義段階を考慮すべきであるというのは正しいが、先にものべたように、帝国主義といえども資本主義一般に基礎をおいているのであるから、そのかぎりでは、その抽象性においては、『資本論』でもって現状分析を行なうことができるのである。 商品や貨幣の分析、「貨幣の資本への転化」… …等々は、すぐれて独占段階の目本資本主義の現状分析でもある。「『資一本論』は'じつに日本資本主義分析に直接利用しえない」(p。 79)というのは、この点を忘れた議論である。 ここに三段階論の弱点が露呈している。
講座派の日本資本主義分析は、たしかに日本資本主義の特殊性=半封建性を強調しすぎたきらいがあった。 日本資本主義は半封建的土地所有を主体的に利用し、それを踏み台にして発達したことは事実であるが、それを「基抵」として発達したと云えば、日本資本主義自身が自分の直接的生産過程で労働者を搾取し、流通過程、「総過程」で外生的な収奪を行ない、かくしてえた剰余価値や利潤を資本蓄積に転化して内一生的、自生的に発達してきたこと、云いかえれば日本資本主義が自分の足で立ち、自分自身の機構でもって資本蓄積=発展をとげてきたことが過小評価されるきらいがあるのではなかろうか。 日本資本主義の全体像はその一般性と特殊性との両方において明らかにされねばならない。
このほかに、日本の独占資本の職務給政策とその意義を論じたものに奥田八二論文、医療費問題を論じたものに吉田震太郎論文(ともに『唯物史観』所収)がある。
(1) 井村喜代子、北原勇氏の共同労作を知るかぎりあげれば次のとおりである。「日本資本主義の再生産構造分析試論一昭和35年「産業連関表」を手がかりとして-(1)、(2)、(3)、(4)」『三田学会雑誌』第57巻第12号、第58巻第7号、第9号、第10号;「日本資本主義の再生産構造分析試論U-昭和30年以降の拡大再生産過程一(1)、(2)、(3)、(4)」『同誌』第59巻第6号、第10号、第60巻第5号、第7号;「『高度成長』過程における再生産構造上、下」『経済評論』1967年9月、10月号。 
むすび

 

以上われわれは、『資本論』100年を記念した特集号や書物にのっている諸論文を展望した。 以上のほかに、社会主義経済に関するもの(岡稔「労働に応じた分配にっいて」『経済評論』、「労働に応じた分配とブルジョァ的権利」『思想』、藤田整「商品物神性と『社会主義商品』論」『経済学雑誌』)、座談会などがあるが、省略する。
以上のサーヴェイを通じて痛感したことは、多くの論文が現実との対決をさけ、無難な行き方をしているということである。 今こそ、マルクス経済学の填価が問われているのではなかろうか。 われわれは、思想史、初期マルクス、疎外論、『資本論』形成過程の研究をも非常に重要だと考えるが、それにしても国家独占資本主義、日本資本主義、現状分析などの研究が余りにも少なすぎたことを残念に思う。 また、インフレ、物価上昇、公害、住宅難、都市問題、交通戦争など国民生活を圧迫している諸問題、労働組合運動を停迷させている一因になっている福祉国家論イデオロギー、社会変革のための客観的な物質的諸条件、等々がまったくとり扱われていなかったことは、われわれの学界状況を反映しているのではなかろうか。 マルクス経済学をもう一度初心にもどし、変革の理論とする-これが『資本論』100年を真に祝う最善の方法であろう。 
 
娘の身売りは昭和恐慌期に増えたのか

 

要旨
昭和恐慌期によって疲弊した日本の農村では、娘の身売りが相次ぎ、それが現状を打破しなければならないという世論を強め、紆余曲折のあげく、戦争にまで突き進んでしまったという議論がある。娘の身売りが相次いだという話は、高校の日本史の教科書にも載っている。しかし、それは本当なのだろうか。各社の教科書は、娘の身売りがあったということに関しては一貫しているが、それが昭和恐慌期に増大したというデータは示されていない。
本稿は、娘の身売りの増加という現象自体が、そもそも実際に起こったのか、起こったのだとしたら、いつ起こったのかを『警視庁統計書』から作成した時系列データを用いて検証した。
その結果、昭和恐慌期に娘の身売りが大きく増加していた根拠はないことを明らかにした。ただし、昭和農業恐慌時に娘の身売りが増えていた可能性はある。また、昭和恐慌期に東北の一部で娘の身売りが増えていたとしたら、それは浜口内閣の官有地払下げによる可能性があることも明らかにした。
一方、1906年から7年以降、東北で娘の身売りが激増していたことが示唆される。にもかかわらず、それにはまったく触れられることなく、根拠のない娘の身売りの激増説と東北の困窮と戦争とを結び付けるのは奇妙なことである。
1. はじめに
昭和恐慌期によって疲弊した日本の農村では、娘の身売りが相次ぎ、それが現状を打破しなければならないという世論を強め、青年将校の憤激を招き、紆余曲折のあげく、戦争にまで突き進んでしまったという議論がある。娘の身売りが相次いだという話は、高校の日本史の教科書にも載っている。戦前、日本の貧しい時代に娘の身売り−借金のかたに年季奉公で娼妓に売られるということはあった。しかし、昭和恐慌期にそれが急増し、しかも、継続的に増大していたということがあったのだろうか。
各社の教科書は、娘の身売りがあったということに関しては一貫しているが、それが昭和恐慌期に増大したというデータは示されていない。また、いつ起こったのかについても記述に揺れがある。昭和恐慌の直接的な影響で娘の身売りが増えたのか、昭和恐慌後に起きた農業恐慌によって増えたのか、教科書によって強調点の違いがあるが、両者の影響が相まって娘の身売りが発生したとされている。
本稿は、教科書にも書かれている娘の身売りの増加という現象自体が、そもそも実際起こったのか、起こったのだとしたら、昭和恐慌、昭和農業恐慌のどちらの原因によって起こったのかをデータに基づいて検証する。
2. 先行研究
日本経済史の泰斗である中村隆英は、1930年代初期の昭和恐慌期における娘の身売りについて以下のように書いている。
借金を苦しみぬいた農家は娘を遊里に身売り――数百円の前借金で年季奉公させるほどの苦境に追い込まれるものも多かった。1
加えて、
娘の身売りに代表されるような農村の窮乏は当然全社会的な反響を呼び起こした。昭和六年三月事件に始まる青年将校のクーデタ参加も、農村出身の新兵を教育するうちに、その出身家庭の窮状を聞いてこれに同情し、またこのままでは後顧の憂いが大きすぎて強い軍隊はできぬという素朴な正義感に発するものが多かった。2
とも書いている。
また、高校の日本史の教科書には
米価は1920年代から植民地米移入の影響を受けて低迷していたが、昭和恐慌が発生するとコメをはじめ各種農産物の価格が暴落した。恐慌で消費が縮小したアメリカへの生糸輸出は激減し、その影響で繭価は大きく下落した。1930(昭和5)年には豊作のために米価が押し下げられて「豊作貧乏」となり、翌31年(昭和6)年には一転して東北・北海道が大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなったうえ、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家の困窮は著しく(農業恐慌)、欠食児童や女子の身売りが続出した3。
とある。すなわち、現在の教科書では、昭和恐慌だけでなく、それ以前からの米価の低迷、アメリカ大恐慌による生糸輸出の激減、凶作、昭和恐慌により都市で仕事を失った人々の帰農など、恐慌に関する要因と凶作による要因が相まって娘の身売りをもたらしたと説明している。教科書によって、これらの要因の強弱に多少のニュアンスの違いがあるが、ほとんどの教科書が複合要因説を採用しているようである。そこで、本稿では、娘の身売りに関する要因説のうち、中村説を昭和恐慌要因説、現在の教科書の説を昭和恐慌・凶作要因説と呼ぶことにする。いずれの要因も、これらの要因が娘の身売りを発生させた(それまでほとんどゼロであったものを大きな数にさせた)、または増加させたということを前提としている。しかし、このような関係を裏付けるデータは存在するのだろうか。中村も、各社の教科書も、いずれもデータを示していない。
各県に存在する情報は、たしかに昭和恐慌期、あるいは昭和農業恐慌期に娘の身売りがあったという数字を伝えている。表1はそうした断片的な数字をまとめたものである4。しかし、1930年以前のデータはないので、娘の身売りが1930年の昭和恐慌期、31年の農業恐慌期に増加したかどうかは分からない。ただし、青森県を見ると32年に身売りが増えているので、31年の凶作に耐えてきた農家が32年の春に耐えきれず、身売りに踏み切ったという因果関係が読み取れるかもしれない。しかし、青森県、秋田県、山形県で、34年に身売りが増えている。34年には東北で大凶作があった5ので、これはその影響と考えること ができる。すなわち、身売りが昭和恐慌で増加したというデータは存在しないが、34年の 東北の凶作で増加したということは、各県の断片的なデータから示唆できるのかもしれな い。
   表1 娘の身売り(芸娼妓合計)
昭和恐慌は物価が3 割も下落するというデフレ不況で、農産物価格が工業品価格よりも大きく下落したという不況である。農産物価格の工業品価格に対する比率は29 年の水準に戻ったのは1935 年のことであるから6、農村において不況が続いていたのは事実である。しかし、この価格比率は徐々に回復していたので、昭和恐慌によって34 年に身売りが増えたことを説明するのは難しい(前述のように、凶作によって説明することは可能である)。
表1 の出所に上げた文献の一部にある断片的な記述以外に、娘の身売りについて東北全体の数字を対象に検討した先行研究は、おそらく羽田野慶子による研究7以外存在しない。 羽田野は、1931 年10 月30 日の『大阪朝日新聞』を引用した上で、娘の身売りが始まったのは、昭和恐慌以降の1931 年ではなく、1929 年であり、凶作年とも時期がずれていると指摘し、また、その身売りのきっかけは凶作ではなく、国からの官有地払下げによって必要となった資金を調達する手段としてであったとも主張している。そして、以下のように述べている。
言うまでもなく「娘身売り」そのものは、この時期の東北農村に限らず、明治期から昭和戦前期を通して全国各地で起こっていた事象である。しかも、すでに確認した通り、このとき報道された「娘身売り」は凶作に直接の端を発したものではなかった。にもかかわらず、この報道以降、「東北農村の娘身売り」は俄かに世間の注目するところとなり、 この時期ちょうど凶作にさらされていた東北農村の窮乏を読者に強く印象付けるとともに、東北農村の凶作をとりわけ「娘身売り」という事象に結びつけ、あたかもそれが東北農村に固有の事象であるかのようなイメージを流布する効果をもったといえる。8
つまり、娘の身売りが最初にマスメディアで報道されたのは、1929 年の官有地払下げ以降娘の身売りが爆発的に増えたとする、1931 年10 月30 日の『大阪朝日新聞』による報道であり、もともと東北の凶作とは直接的な関係がなかったというのである。これを娘の身売りについての第3 の仮説、官有地払下げ説としよう。
羽田野は官有地払い下げの内容そのものについては詳しく説明していないが、岩本由輝『山形県の百年』(山川出版社)には比較的詳細な記述がある。それによれば、郡の85%を国有林が占めている最上郡の農民たちが、国有林一五〇町歩開墾し、農地として利用していたところ、昭和4 年(1929 年)に浜口雄幸内閣が緊縮政策をとったことによって、大蔵省は国有地の整理を主張し、「関係農民に水田一反三〇〇円・畑地一五〇円・山林三〇円で払いさげると告示し、もし期限内に納入しなければ既墾地も第三者に競売すると通告した」9 ということである。そして、特に最上郡西小国村(現最上町)では、この影響が甚大で、以下のような状況に陥ったという。
とりわけ戸数八二三戸・人口五五三四人の最上郡西小国村(現、最上町)では、こうした国有地の購入資金をえるために農家の娘たちが娼妓として三九人、酌婦として一五人、芸妓として一一人、女中として二〇人も売られたため、村内から若い女性が姿を消すという事態になった。10
羽田野は、また、内務省社会局社会部「芸娼妓酌婦女給の本籍地並稼業地別人員調」(昭和10 年2 月1 日)を主に用いて、1935 年(昭和10 年)という一時点のみのデータではあるものの、各県在住の芸娼妓の本籍地別データから、娼妓では東北地方出身者の全国における比率がたしかに高いが、九州地方出身者の比率も同様に高く、芸妓、酌婦、女工については、そもそも東北地方出身者の比率が高いわけでもないことを明らかにしている。しかし、羽田野の「芸娼妓酌婦女給の本籍地並稼業地別人員調」を用いた研究は、あくまで1935 年という、昭和恐慌の傷が癒えた一時点に焦点を当てたものであり、実際に増加しているかどうかを捉えたものではない。ただし、羽田野は「調査がなされた1935 年は,東北地方の 2 度にわたる大凶作(1931 年,34 年)をきっかけに東北農村の『娘身売り』が社会問題化した時期である」11と書いている。すなわち、社会問題化したがゆえに調査したのだが、それが時系列的にどのように動いていたのかは分からないままである12。そこで、 私たちが新たに発見した時系列データを用いて、より長期的な芸娼妓数の変動を捉えるこ とで、本当に昭和恐慌期や昭和農業恐慌期において娘の身売りの顕著な増加があったのか を検証する。
3. データの説明
表1 注の先行研究を含め、娘の身売りに言及しているものは、酌婦や女給、女工なども含んでいる場合が多いが、本研究では娼妓と芸妓(芸娼妓と呼ばれる)に対象を絞って、娘の身売りの代理指標としている。なおここで、身売りとは、芸娼妓になるにあたって前払いないし前借をもって労働契約を結ぶことで、その労働が娼妓または芸妓になることを娘の身売りと呼ぶことにする13。
本稿の分析では2 種類のデータを用いる。まず、芸娼妓数については、一般的に広く利用されていない2 つのデータ、『警視庁統計書』と『内務省警察統計報告』による14 15。これらの統計書は、芸娼妓の数を調べているもので、娘の身売りの数を調べてものではないが、多くの芸娼妓が身売りの形で芸娼妓になっていると考えられるため16、この数の変化を娘の身売りの数と推定できる。身売りに影響を与えたと思われる経済指標については各県の統計書と『大日本帝國統計年鑑』による。これらについては4.分析の東京在住の娼妓・芸妓数と生国ごとの経済変数の項で説明する。
『内務省警察統計報告』は、各県で従事している芸娼妓の数を調べているものである。これは、羽田野が「『警察統計報告』(各年度)では,道府県毎のこれらの従事者数が記載されているが,あくまでも現在数であり,出身地域の調査はされていない」17と紹介しているものと同じと思われるが、昭和恐慌説、昭和恐慌・農業恐慌説の文献、羽田野のいずれも『警視庁統計書』の存在を指摘していない。『警視庁統計書』は、東京在住の芸娼妓のみを扱っているものの、時系列に芸娼妓の数を追える新資料と考えられる18。
『警視庁統計書』は、東京で従事している芸娼妓の数を出身県別に調べているもので、『内務省警察統計報告』、『警視庁統計書』どちらのデータも、明治33 年内務省令第44 号として1900 年10 月2 日に発布された「娼妓取締規則19」に基づいて、貸座敷20数とともに把握されている数字だと考えられ、いわゆる公娼に限られていると思われる。なぜなら、私娼も含むという注意書きのある「芸娼妓酌婦女給の本籍地並稼業地別人員調」と、『警視庁統計書』における1935 年(昭和10 年)の東京在住東北6 県出身娼妓の数字を比べると、前者では4693 人、後者では3865 人と、828 人の差があり、この差を私娼の人数と推測できるからである21。また、「芸娼妓酌婦女給の本籍地並稼業地別人員調」と『内務省警察統計書』の東北6 県における娼妓の数も前者の数が多くなっており、やはりこの差が私娼の人数ではないかと思われる。したがって、『内務省警察統計報告』、『警視庁統計書』ともに、公娼の数のみ扱っていると推測されるが、これは本稿の分析に対して大きな障害となるものではない。本稿は絶対数の正確さよりも、激増という現象があったのかとどうかに焦点を当てているので、ある程度全体の数を推測可能な時系列データであれば支障はないと考えられる22。警察統計は、その県に在住の芸娼妓数が分かるが、出身が分からないので、東北の経済的困窮が娘の身売りをもたらしたかどうかは分からない。出身が分かるのは、警視庁のデータか、羽田野が用いている1935 年1 時点のデータしか存在しない。
4. 分析
東京在住の娼妓・芸妓数と昭和恐慌
前述のように、『警視庁統計書』は、東京にいる芸娼妓について、長期にその生国都道府県を調べたデータを載せている(芸妓については本籍都道府県23で、1929 年からのデータ しかない)。これはストックの統計であるが、廃業ないしは東京以外に移動した者の数が毎 年安定しているとすれば、その差分は、新たに娼妓として生国から東京に娼妓として来た 者の数の指標となる。東京の数字が、全国の数字を代表できるとすれば、その差分は娘の 身売りの代理変数となる。この数字を娼妓について整理したものが表2、芸妓について整理 したものが表3 である。
   表2 東京における娼妓の生国別人数
   表3 東京における芸妓本籍道府県別人数
表2の娼妓数は、1920年で全国5499人、うち、青森29人となっている。これは東京の娼妓5499人のうち、生国青森の者が29人いるという意味である。21年の前年差を見ると、全国223人、青森82人となっている。なお、この表で全国とあるのは、東京における全国から集まったすべての娼妓、芸妓の数である。ここには、廃業または東京以外に移動したものがある訳だから、全国から東京に223人以上、青森から82人以上の者が集まったということになる。各県の差分は大きく変動しているので、東北合計の数字が、東北の困窮の度合いを表すと考えることにしよう。1921年からこの数字を見ていくと、1923年に大きく減少していることが分かる。これは当然、関東大震災によって東京での娼妓の需要が減少したことを示しているのだろう。このことが意味するのは、出身地の困窮の度合いという供給要因以外に、東京の需要という要因を考える必要があるということである。関東大震災後の1924年以降は大きく増加し、平常ベースに戻ったと考えられる。
これらの数字は、表1の数字よりずっと小さい。たとえば、娘の身売りの代理変数と考えている差分の数字は、例えば、青森県の1931年の数字を見ると娼妓20人、芸妓19人で合わせて39人である。一方、表1の青森県の数値は641人である。その理由は以下のように考えられる。
第1には表2、表3の数が東京だけのものであることである。国勢調査によると、30年の芸妓・娼妓の数はそれぞれ7万6639人、4万8839人で合わせて12万5478人、40年では芸妓・娼妓・酌婦の数は15万342人である。すなわち、酌婦の数を無視できるとすると、30年から37年にかけての芸妓・娼妓の数は12−15万人程度であった。同じ期間に、東京の芸妓・娼妓の数は表2、表3の数字を合計して1.7−1.9万人程度であった。東京の7倍が全国の芸妓・娼妓の数となろう。したがって、例えば青森を取ると、その7倍が全国への身売りの数であろう。しかし、表2と表3の青森出身の娼妓と芸妓を足した39人を7倍しても273人しかならない。一方、表1の青森の身売りの数は641人である。
しかし、新規の娼妓または芸妓の数はさらに多いと考えることのできるもう一つの理由がある。今期の娼妓の数をS0、次期の娼妓の数をS1、廃業者の数を0.2×S0、新規の娼妓の数をN とすると、S1=S0+N−0.2×S0 となる。廃業率0.2 とは5 年で廃業するということである。これは考えられる数値であろう24。青森のS0 が300、S1 が350 に増えたとすると、350=300+N−0.2×300 から、N=110 となる。すなわち、ストックの差分の倍の新規の娼妓・芸妓がいてもおかしくはない。すると、273 人を2 倍して546 人となり、青森の身売りの数に近づく。加えて、既に触れた公娼と私娼の差による影響も考えられる。表1 は私娼も含んでいるが、表2、表3 はおそらく含んでいない25。したがって、こうした計算と公娼と私娼の差を考慮すれば、表2、表3 の差分の数値は、新規に娼妓・芸妓になるものの数を表していると考えても良いであろう。
昭和恐慌時に関して、まず、表2 の娼妓の数を見てみよう。見にくいので表2 の娼妓の数の差分をグラフにしたものが図1 である。
   図1 東京における娼妓のうち東北出身者の差分の動き
図1 で差分の数を見ると、昭和恐慌以前の28 年に増加し、その後、昭和恐慌期の1930 年、31 年に減少し、昭和恐慌が終わった32 年には激増している。30 年の昭和恐慌が2 年のラグを持って32 年の身売りの増加をもたらしたと考えることは可能であるが、31 年でも恐慌は続いていたのであるから33 年に娘の身売りが増加しなければならないが、33 年には減少しているので、そのようなことは考えにくい。一方、31 年には凶作が起きているので、その影響が32年に現れたと解釈することは可能である。また、33年以降は激減し、東北全 体でも、33年には5人、34年には92人、35年には9人、その後はマイナスとなっている。 娘の身売りは昭和恐慌期には増加せず、昭和恐慌からの回復した後、日本の繁栄とととも に急激に減少していた。すなわち、娘の身売り昭和恐慌説は誤りで、農業恐慌説は正しい 可能性がある26。
羽田野の払下げ説を検証するために山形県の差分の数値を見ると、娼妓は29 年から30 年にかけて増加している。官有地払下げが29 年から行われたことを考えると、羽田野説は正しい可能性がある。ただし、官有地払下げがどれだけの規模で行われたのかなど、さらに検証する必要がある。
同じことを表3 の芸妓でも見てみよう。表3 の芸妓の数の差分をグラフにしたものが図2 である。こちらは東京にいる芸妓の本籍都道府県を見たものである。同様に差分を見ると、東北全体では、昭和恐慌時の30 年は6 人、31 年は40 人、32 年は22 人、33 年は89 人、34 年は35 人とわずかな数であった。ただし、35 年以降、昭和恐慌が終わった後に増加している。
図2 東京における芸妓のうち東北出身者の差分の動き(出所)『警視庁統計書』-200 20 40 60 80 100 120 140 160 180 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 青森秋田岩手山形宮城福島東北合計
以上の観察から分かることをまとめよう。昭和恐慌から脱した1932 年から37 年まで、日本の実質消費は年率4.1%で増加していた27。もちろん、農村部での回復は遅れていたが、 後掲図3から図8に見るように、回復はしていた。すなわち、娘の身売りが必要になるほ どの困窮が日本を誤らせたという歴史のストーリーは全く根拠がない。日本は繁栄してお り、娘の身売りが急減する中で、日本は戦争に突入してしまったと理解するしかない。日 本は昭和恐慌からいち早く脱却して繁栄しており、その中で1936年の2.26事件が起きた のである。
東京在住の娼妓・芸妓数と生国ごとの経済変数
次に、東京にいる娼妓・芸妓数と生国の経済変数の関係を見てみよう。経済変数は各県統計書と『大日本帝國統計年鑑』の各年版を利用している28。『大日本帝國統計年鑑』については、農業生産額のみを使用している。
図3 は、青森県出身の娼妓・芸妓数(表2、表3 の差分の数値)と『青森県統計書』によって、青森県の生産物総額、農業生産額を見たものである29。生産物総額、農業生産額とも名目の数字であるので、昭和恐慌によるデフレーションの影響を受けたものである。統計書、経済変数の説明は、以下の東北各県に共通のものである。農業生産額を見ると、データのあるすべての県で31 年、34 年に落ち込みがあり、この両年に凶作があったことが確認できる30。
図3 に見るように、青森県出身の娼妓は関東大震災で減少し、震災前のレベルに戻った後、変動を繰り返しながらトレンド的に減少している。確かに、昭和農業恐慌期、生産物総額と農業生産額が低下した31 年の翌32 年、娼妓数が増加しているが、その後は傾向的に減少している。芸妓数は29 年からしかないが、経済変数の回復とともに、トレンド的な増加を示している。昭和恐慌が芸妓数を増加させたとは言い難い。
   図3 青森県の生産額と都内青森県出身娼妓数など
図4は秋田県について見たものである。秋田県では経済変数を得ることができなかったが、娼妓は1932年をピークに減少している。ただし、芸妓数についてはトレンド的な増加を認めることができる。
   図4 秋田県の生産額と都内秋田県出身娼妓数など
図5の岩手県、図6の福島県においても状況は同じである。娼妓は32年以降、35年にやや跳ね上がりがあるが、トレンド的に減少している。一方、芸妓数は経済変数の回復とともに伸びている。これは、昭和恐慌によって増加したとは言えない。
   図5 岩手県の生産額と都内岩手県出身娼妓数など
   図6 福島県の生産額と都内福島県出身娼妓数など
図7の宮城県では、他県とはやや異なり、32年に、それまでのトレンドを明らかに上回る娼妓数の増加が見られるが、それ以降、減少している。芸妓数は経済変数の回復とともに増加している。
   図7 宮城県の生産額と都内宮城県出身娼妓数など
図8の山形県においても、娼妓数は32年以降、減少している。経済変数は回復しているが、芸妓数は横ばいである。
   図8 山形県の生産額と都内山形県出身娼妓数など
以上をまとめる。青森県、秋田県、岩手県、福島県、宮城県のいずれにおいても、娼妓数は32年に増加した後、大きく減少している。芸妓数は横這いもしくはわずかに増加しているが、それは経済回復とともに起きている。32年の娼妓の増加は、31年の農業恐慌によるものと言えるだろう。しかし、その後の娼妓の減少は、日本が世界大恐慌からいち早く回復したという事実と整合的である。また、芸妓の増加は、日本経済の回復と関係があるのかもしれない。すなわち、芸妓は高価なサービス業であるから、経済が回復して初めて求められるサービスかもしれない。
ここまでの分析に対して、十分な証拠ではないという批判があるかもしれない。しかし、昭和恐慌時の東北で、経済的困窮から娘の身売りが急増し、それが社会不安の要因となった、またはその象徴と見なせる証拠は乏しいということである。東北を全般的にみれば、東北出身の娼妓は昭和恐慌以前からトレンド的に減少していたが、それが31 年の農業恐慌で32 年に増加した後、大きく減少した。1930 年代の日本は、世界大恐慌から一早く立ち直り、世界の中の繁栄の孤島だった。1931 年の実質GNP は横ばいであったが、その後は順調に回復し、2.26 事件の起こる1936 年の前年の35 年に、実質GNP は1930 年に比べて32.3%も増大していた31。芸妓産業とは、きわめて高価なサービス産業であるから、芸妓が33 年以降増加したのは、日本が繁栄していたからかもしれない。
5. 昭和恐慌以前の娘の身売りの増加
娘の身売りの急増が先の大戦へつながるきっかけになったという、権威ある専門書や教科書による記述が、そもそも必ずしも明確な根拠のあるものではないことを見てきた。こうした記述には既に分析したことから判明したような疑問点だけではなく、更なる問題点もある。日本は、昭和恐慌以前にも何度かの不況や凶作を経験してきた。昭和恐慌以前、不況や凶作によって娘の身売りが増加したのだろうか。また、昭和恐慌以前の娘の身売りと昭和恐慌に娘の身売りに違いがあるだろうか。以下、そのことを考えてみたい。
図9 は、昭和恐慌以前の娘の身売りについて、図1 と同じように数字を作成したものである。これと不況とに関係があるだろうか。
藤野正三郎『日本の景気循環』32によれば、戦前の不況期(景気の谷)は91 年10 月、98 年11 月、1901 年6 月、09 年1 月、14 年12 月、21 年4 月、30 年11 月、1921 年4 月とされている(いずれも景気の谷の時期)。しかし、図9 において、01 年には、東北出身の娼妓の数が増加しているが、98 年、09 年、14 年、21 年に増加したという関係はなさそうである。ただし、景気の谷自体ではなく、その前後の景気停滞期が重要であると考えるべきかもしれない。そうすると日露戦争後の不況(1907 年)は、娘の身売りに影響を与えた可能性がある。しかしながら、娼妓数の急激な増加は、06 年にすでに始まっており、ラグを考慮すれば、さらに以前からの出来事による影響だと考えられ、不況は、この時代においても、やはり直接的な原因そのものとは考えにくい。
   図9 東京における娼妓のうち東北出身者の差分の動き
また、この図と前掲図1から、東北から東京への娼妓の供給数がもっとも増加したのは、昭和恐慌期ではなくて、1906年から09年にかけての期間であったということが分かる。図9の差分の動きを見ると(付表1から計算できる)、たとえば、最も増加の激しい山形県では、1905年の40人から06年には198人、07年183人、08年128人と増加している。一方、昭和恐慌では、30年101人、31年83人の後、32年には138人と増加するが、33年には−15人となる。昭和恐慌期よりも、1906年から09年の期間こそ激増と呼ぶに相応しい。
主に大正期に廃娼運動を行っていた山室軍平はこの状況を凶作が原因と見ており、「十年前(1904年のことである−筆者)の東北凶作以来、宮城、福島、その他の地方から、上京して娼妓となる者の数が急に殖えたのは、悲しむべき現象である」33と書いている。そして、それに続けて、明治35年(1902年)、40年(1907年)、大正元年(1912年)の東北出身の東京在住芸娼妓数を載せている34。また、娘の身売りの数字の動きと山室のいう凶作とは時期がずれているが、凶作をきっかけとして身売りが増え、それが持続したという可能性は十分に考えられる。
さらに、イギリスの新聞が、この時期の東北及び北海道における飢饉について、「北海道及び東北の飢饉は、一八六九年以来の大惨事にして、農民は飢えに泣く妻子を持て余し、娘はこれを売女となす。この憎むべき公娼を国家として公認する国は、すなわち我が大英帝国の同盟国なり。武士道をもって知らるる日本国なり」35と伝えていると書いている。
しかし、イギリスに批判されていたにもかかわらず、このことは日本において大きな問題とはならなかった。一方、昭和恐慌と昭和農業恐慌の影響で娘の身売りが激増したという話は、データからはまったく裏付けられないが歴史の教科書にも掲載されている。警視庁の統計は、当時の学者やジャーナリストが知っていたはずの統計である。
山室によれば、東北からの娼妓が増加したのは1904 年以降である。私たちのデータも、時期はやや異なるが、それを裏付けている。すると、1900 年代の初期に問題にならなかったことが、なぜ1930 年代に問題になるようになったのだろうか。それは、日本近代史の歴史家が、昭和恐慌と昭和農業恐慌によって、特に東北地方が困窮し、それが政治の不安定化を招き、ついには戦争にまでつながったというストーリーを求めていたからであろう。しかし、そのような事実はなかった。貧しい時代に娘の身売りという悲惨な事実があったのは事実であるが、それが昭和恐慌時に増大していたという証拠はない。むしろ、1900 年から30 年かけて豊かになった日本人(一人当たり実質GNP はこの期間に52.4%増加36) が、そのような悲惨な事実に驚愕したというのが事実ではないだろうか。
もちろん、身売りされた娘たちが東京以外の道府県に売られたという可能性も考えられる。しかし、こちらについてもデータの表す数字は、増加どころか、むしろはっきりと減少している傾向が見られる。表5 と表6 は、日本全国の娼妓、芸妓数をみたものである(表の都道府県は出身県ではなくて、そこに在住の娼妓、芸妓の数である)。表5 は娼妓、表6 は芸妓である。ここで期間を24 年から37 年としたのは、この統計の開始が24 年であること、また、終了年を37 年としたのは、37 年までしかない警視庁統計に合わせたからである。
凶作による東北の農業恐慌が最も悪化したといわれる1934 年は、全国における娼妓の数が、1924 年から37 年の間で最低の年になっている(45,705 人)。また、その後数年の娼妓数の増加も、全国でせいぜい1000〜2000 人の増加であり、この期間もやはり激増したとはいえない。したがって、東京以外の他道府県に東北からそれまでに見られないような大量の娼妓が送られたということは考えられない。そして、東北在住の娼妓の数も1925 年をピークに、それ以降は明らかな下降トレンドを示している。こうしたデータから身売りによって東北からの大量の娼妓が昭和恐慌期に生み出されたとは言えないと判断できる。
他にも、1935 年の1時点だけであるが、どの都道府県にどの都道府県出身の娼妓が何人いたかを示す内務省社会局社会部「芸娼妓酌婦女給の本籍地並稼業値別人員調」(昭和10 年2 月1 日)においても東京に比肩するほど多数の娼妓が東京以外に東北から供給されているということはない37。たとえば、この「芸娼妓酌婦女給の本籍地並稼業値別人員調」では、東京における娼妓数(私娼を含むとされる)が9250 人、大阪における娼妓数が8444人と、大阪にも東京に次いで多くの娼妓が存在したことが分かるが、大阪稼業娼妓の東北出身者数は、青森52人、秋田198人、岩手15人、福島29人、宮城23人、山形60人で あり、秋田はやや多いが、東京稼業娼妓の東北出身者数(青森615人、秋田1051人、岩手144人、福島760人、宮城637人、山形1486人)を全県で大きく下回っており、やはり東 京が東北からの娼妓の供給先であることが明らかである。その次に全体数が多い京都も、 東北出身者数はせいぜい2桁である。大阪や京都における娼妓の主な供給地は九州地方で あり、これを考慮すると、全国における娼妓輩出率は東北ばかりが突出しているわけでは なく九州も高い38。これは羽田野の「科研費報告書」が既に指摘している39。東京に続い て東北出身娼妓数が多いのは、愛知や神奈川である。愛知は、青森243人、秋田303人、 岩手40人、福島137人、宮城131人、山形142人と、東北出身娼妓数が東京に次いで多 い。しかし、その数は、東京の数分の1から10分の1程度であり、やはり東京が突出して いる。
また、全体的な傾向は付表3 を見れば分かるが、愛知は東京都と同じように緩やかな増加傾向にあるが、既に分析しているように、東京ですら激増しているとはいえないため、やはりこの間に東北出身者が激増しているとは考え難い。神奈川は、そもそも1920 年代から全体の娼妓数が減少傾向にあり、この間に東北出身者が激増したとは更に考え難い。
   表4 全国における娼妓数(全年齢)、出身県ではなくて、その県に在住の娼妓数
   表5 芸妓数(全年齢)、出身県ではなくて、その県に在住の芸妓数
6.娼妓供給都道府県の推移
明治以来の娼妓の供給都道府県がどのように推移したかは、既述の警視庁統計書によって、東京への供給都道府県だけであるが明らかにすることができる。図10、図11は東京の娼妓の生国都道府県ごとの人数(ストック)を見たものである。
図10に見るように、東京における娼妓数は5000人から8000人であるが(1891年、92年の娼妓数が少ないのは十分に対象を捉えることができなかったゆえであると思われる。1923年の落ち込みは前述のように関東大震災によるものである)、東京の娼妓の3分の1が東京生まれであるが、徐々に低下する。京都はそれに先立って低下している。1890年代から三重、新潟が多くなるが、それも1910年以降低下する。
   図10 東京における娼妓(18歳以上)生国別人数(1891〜1937年)
図11で、愛知、岐阜は東京とほぼ同じ動きをしている。山形、福島、宮城、秋田が1907年前後から、1920年前後からは北海道、青森が大きく伸びている。岩手はそれほど大きくは伸びていない。これは東京、京都、三重、愛知、岐阜が順調に経済発展し、娼妓を供給する貧しさから抜け出たということを示しているのだろう。新潟もこれらの県には遅れたが発展し、最後に東北と北海道が経済発展から取り残されていたということだろう。東北全体の動きは20年代に増加しているが、30年代になって頭打ちとなり、後半減少している。
図10、図11から理解されることは、昭和恐慌以前にも娼妓の供給が増加した県があったということである。それらは、1890年代末の三重県、1890年代末から1900年代初の新潟県、1900年代初の山形県、1920年代初からの山形、秋田、福島、北海道、宮城、青森の東北・北海道である。しかし、娘の身売りという事象が脚光を浴びたのは1930年代だけである。それは、豊かになった日本人がその悲惨に目を向けるようになったということではないだろうか。
   図11 東京における娼妓(18歳以上)生国別人数(1891〜1937年)
7. 結論
私たちは本稿において、昭和恐慌期に娘の身売りが実際に激増したのか、仮にしたのであれば、どの時期に激増したのかを、『警視庁統計書』から作成した時系列データを用いて検討した。その結果、定説や教科書を支持することはできず、昭和恐慌期に娘の身売りが大きく増加していなかった、むしろ32年をピークに減少していたことを明らかにした。ただし、昭和農業恐慌時に娘の身売りが増えていたのはおそらく確かである。また、昭和恐慌期に東北の一部で娘の身売りが増えていたとしたら、それは浜口内閣の官有地払下げによる可能性があることも明らかになった。したがって、娘の身売りの激増などが実際に起こり、そのようなことを生じさせた東北農村の困窮が、先の大戦に導いたというような歴史のシナリオも根拠に乏しいことも明らかになった。凶作は天候によるものであるから、それを資本主義の矛盾というには無理がある。凶作の対策は、都市の税収を用いて一時的に貧困地域を救済することでしかない。
一方、1906年から7年以降、東北で娘の身売りが激増していたことが示唆される。にもかかわらず、それにはまったく触れられることなく、根拠のない娘の身売りの激増説と東北の困窮と戦争とを結び付けるのは奇妙である。私たちの用いたデータには制約があるが、そもそも、昭和恐慌期に娘の身売りが激増したという証拠はまったく存在していないことは明らかにできた。

1 中村隆英『昭和恐慌と経済政策』講談社学術文庫、1994、115頁。
2 中村『昭和恐慌と経済政策』116頁。
3 『詳説日本史 改訂版』山川出版社、2007年、320頁。他に参照した教科書は『新日本史B』桐原書店、2004年、『日本史B』東京書籍株式会社、2004年、『日本史B 新訂版』実教出版株式会社、2008年、『日本史B 改訂版』三省堂、2008年、『新日本史』山川出版社、2014年である。
4 これらの数字のうち青森県は婦女子身売り状況とされているが、秋田県は離村女子、岩手県は芸娼妓酌婦女給の許可(届出)人員、山形県は芸妓娼妓酌婦紹介人員となっている。離村女子は芸娼妓酌婦女給として離村し、また、紹介されて芸妓娼妓酌婦になるにあたっても前借があったと推察され、これらは娘の身売りと解釈できる。芸娼妓酌婦女給の許可(届出)が身売りと解釈できるかは不明なので、これについてはさらに調査中である。依拠した文献は、青森県農地改革史編纂委員会編『青森県農地改革史』1952年、212頁(1935年は1−5月のみ)、秋田県は、田口勝一郎『秋田県の百年』山川出版社、1983年、192頁、山形県と岩手県については、楠本雅弘『恐慌下の東北農村 上巻』不二出版、1984年、93頁である。
5 『世界大百科事典 第2 版』平凡社、1998 年。
6 大川一司他編『物価(長期経済統計8)』第10 表 農産物総合リンク指数、第15 表 工業製品合計、東洋経済新報社、1966 年、東洋経済新報社、1967 年、により計算すると、1929 年の農産物価格/工業製品価格指数(1934-36 年平均=100)は29 年95.6 で30 年に77.8 に低下するが、その後徐々に回復して1935 年に102.3 となり29 年水準を超える。
7 羽田野慶子「科学研究費補助金研究成果報告書」2009 年(平成21 年5 月15 日現在)。
8 羽田野「科研費報告書」5 頁。
9 岩本由輝『山形県の百年』山川出版社、1985 年、182 頁。
10 岩本『山形県の百年』182-183 頁。
11 羽田野「科研費報告書」3 頁。
12 朝日新聞・読売新聞の電子版で1929-37 年について「身売り」をキーワードにして記事検索をすると、29-33 年はほとんど検索されないのに対して、34 年、35 年は10 件以上ヒットする。
13 辞書類も娼妓に絞って身売りを定義しているのが通例である。「1 身の代金と引き換えに、約束の一定期間を勤めること。多く、遊女・娼妓(しょうぎ)にいう。」(『大辞泉』小学館、1998 年)
14 警視庁編『警視庁統計書 全50 巻』クレス出版、1999 年〜。
15 内務省警保局『内務省警察統計報告 全18 巻』日本図書センター、1993 年〜。
16 中央職業紹介事務局「芸娼妓酌婦紹介業に関する調査(大正15 年)(1926 年)」(谷川健一『近代民衆の記録3』新人物往来社、1971 年、373-438 頁)によれば、洲崎遊郭の娼妓1602人を対象にした「娼妓となれる原因」の調査では、「貧困なる家計補助のため」が42.39%、「前借金整理並に家計補助のため」が54.43%、「自己生計困難のため」が3.18%と、これらの原因で100%となっている 。これはあくまで洲崎遊郭での調査であり、「部分的調査に過ぎざるのであるが、之を推し全体を知る」(谷川編『近代民衆の記録3』411 頁)ことができ、芸娼妓数およびその数の変化を娘の身売りの代替指標として考えることは妥当だと思われる。ちなみに、芸妓213 人を対象にした調査では、それら理由に加えて、「自己希望に依る」が16.43%いる。
17 羽田野「科研費報告書」3 頁。
18 いうまでもないが、都道府県担当の警察のうち、東京担当の警察を警視庁という。
19 「第八条 娼妓稼は官庁の許可したる貸座敷内に非ざれば之を為すことを得ず」
20 貸座敷「《明治以後、公娼(こうしょう)が妓楼(ぎろう)の座敷を借りて営業したところから》遊女屋。女郎屋。」(『大辞泉』小学館、1998 年)。
21 「芸娼妓酌婦女給の本籍地並稼業地別人員調」における東北6 県出身娼妓の内訳は、青森615 人、秋田1051 人、岩手144 人、山形1486 人、宮城637 人、福島760 人である(『買売春問題資料集成―戦前編 (第22 巻)』不二出版、2003 年、217-227 頁)。『警視庁統計書』における内訳は、青森508 人、秋田952 人、岩手128 人、山形944 人、宮城636 人、福島697 人である。差異の多くが山形県出身者で説明可能であり、山形県出身者に私娼が多く存在したと推測される。
22 加えて、マーク・ラムザイヤーは、「私娼は年齢が高かった。…20 代後半や30 代前半の女性に占める割合は、無許可セクターの方が認可セクターよりも高かった」と指摘している(「芸娼妓契約―生産業における「信じられるコミットメント」−」(曽野裕夫訳)『北大法学論集』44 巻第3 号、1993 年、634 頁)。私娼の年齢が高ければ、身売りではない可能性が高い。
23 生国都道府県と本籍都道府県の違いは本統計書に説明されていないが、同じものと思われる。
24 ラムザイヤーは「公娼は一般的に6 年間の芸娼妓契約で登録し、…娼婦の多くは3 年から4 年で借金を完済し、早く廃業したのである。」と書いている(「芸娼妓契約」607 頁)。
25 ただし、表1 の山形の人数は明らかに少な過ぎると思われる。
26 なお、1933 年3 月3 日に三陸大地震と大津波が発生しており、それが娘の身売りにつながった可能性も考えられる。この被害は岩手(死者1316 人、行方不明者1397 人)、宮城(170 人、138 人)、青森(23 人、7 人)で大きかった(死者、行方不明者は『岩手県昭和震災誌』1934 年10 月、による。引用は、山下文男「津波における「引き波の恐怖」‐昭和三陸津波の死者数と行方不明者数の比率の意味するもの‐」『歴史地震』第18 号、2002 年、183-187 頁)。ただし、被害の大きかったこれら3 県で、33 年および翌34 年に娘の身売りが特に増えたという現象は見られない(本稿図3,5,7参照)。
27 実質GNP では戦争経済のために軍事費で膨らんでいるので、生活水準を考えるためには実質消費で見るべきである。実質GNP は40 年まで増加を続けるが、実質消費は37 年がピークである。大川一司・高松信清・山本有造『長期経済統計1 国民所得』第18 表、東洋経済、1974 年。
28 青森県統計課『青森県統計書』、秋田県『秋田県統計書』、岩手県『岩手県統計書』、福島県知事官房、福島県総務部『福島県統計書』、宮城県知事官房統計課、宮城県総務部統計課『宮城県統計書』、山形県総務部調査課編『山形県統計書』、内閣統計局編『大日本帝國統計年鑑』東京統計協会。
29 青森県と福島県については、両県の統計書が『大日本帝國統計年鑑』より長期の農業生産額の系列を掲載しているので、『大日本帝國統計年鑑』を使用していない。
30 なお、蚕価格の下落が東北においては影響が大きかったのではないかとも考えられるが、基本的に、繭価格は農業生産額との相関が高く、農業生産額で代表されていると思われる。
31 大川一司他編『国民所得(長期経済統計1)』第18 表、東洋経済新報社、1974 年、より計算。この時期の実質GNP は過大推計ではないかという議論があるが、それを考慮しても3 割程度増大していたようである(原田泰・佐藤綾野『昭和恐慌と金融政策』第5 章、日本評論社、2012 年、参照)。
32 藤野正三郎『日本の景気循環』勁草書房、1965 年、35 頁、第2-4 表。
33 山室軍平『社会廓清論』中央公論社、1977、66頁。
34 警視庁が把握している数字であろうと想像できるが、図9の出所である警視庁のデータとは一点だけ齟齬がある。明治35年(1902年)山形の人数が『警視庁統計書』では98人となっているが、山室書では58人となっている。他は全て一致するので単純な間違いであろう。
35 山室『社会廓清論』66-67 頁。
36 大川一司他編『国民所得(長期経済統計1)』第32 表、東洋経済新報社、1974 年、より計算。
37 『買売春問題資料集成―戦前編 (第22 巻)』222-223 頁。
38 たとえば、熊本出身の娼妓数は、大阪974 人、京都438 人と、かなりの数に上り、東北出身者を圧倒的に上回っている。
39 羽田野「科研報告書」3-4 頁。  
 
世界市場恐慌史論 概説

 

序言
かつて宮崎犀一教授は恐慌史の方法を主題として「恐慌史にも、<経済学>の分野に属すべき法則的恐慌史と、固有の<経済史>の分野に属すべき現実的恐慌史との二種があり、両者の研究はもちろん相補って進められるべきは当然であるが、……経済学の体系において、<恐慌論>の研究は方法の対立を含めて未だに困難をきわめている分野であるから、<法則的恐慌史>すなわち<恐慌論>の研究が、恐慌史研究にもつ意義は、けだし絶大である」(1) と論じられたが、以下の小論は<法則的恐慌史>に向けたささやかな第一歩、文字どおりの試論である。ツガン= バラノフスキ−の仏語版『イギリスにおける産業恐慌』を『英国恐慌史論』と訳出されたのは鍵本博氏の卓見(2) であるが、<法則的恐慌史>とは「世界市場恐慌史論」にほかならないであろう。表題を「世界市場恐慌史論概説」と名づけた所以である。
(1) 宮崎犀一「恐慌史方法ノ-ト」、都留重人監修『新しい政治経済学を求めて』第2集、勁草書房、1968年、47ペ-ジ。
(2) 鍵本博 『英国恐慌史論』、日本評論社、1931年。
T 世界市場と恐慌・産業循環の成立
1. 資本主義世界市場の成立
世情今日ますます経済の国際化やボ−ダ−レス化あるいはグロ−バリズムがかまびすしく叫ばれていることは、新聞や雑誌を一瞥しただけで明らかであり、時代の流行語の感すらおぼえるところであろう。しかし、資本主義にとって、ひとまず各国民国家として「国家形態での総括」を経なければならないとはいえ、国際性はそもそもその歴史的成立以来の必須条件でもあったといえば、はたして意外であろうか?資本主義と世界経済は同じメダルの両面であり16世紀以来「資本主義世界経済」は「一つの歴史的システム」として存在してきたとして近年注目されるアメリカの社会学者I.ウォ−ラ−ステインの主張も、その一つである。この主張は、資本主義はその「全体性」においては世界市場として初めて存在しうるとしたマルクスの認識に相通じるものといってよい。まさに世界市場は、近代資本主義にとって「全体の前提をなし、その担い手をなす」(Grundrisse.,S.139.高木監訳『経済学批判要綱』T、大月書店1959年、146ペ-ジ)のであり、「世界市場こそは一般に資本主義的生産様式の基礎をなしその生活環境をなしている」(Das Kapital V,MEW Bd.25,S.589 )のである。
はるか大航海時代、アメリカ大陸の発見とそれに続く植民は、マニュファクチァ時代を促進し世界市場形成の起点をなしている。その後17世紀の市民革命を通じる土地革命と18世紀産業革命とを経て1820年代に確立したイギリス綿工業を基軸とする産業資本主義は、アメリカやインドの安価な原料棉花供給に依存すると同時に、またその綿製品も見返り品としてイギリスへ流入するタバコ・茶・コ−ヒ−・香辛料等とともに世界商品としての性格をおびていたという意味において、初めから世界市場的連関のもとにおかれていた。この綿工業に代表される機械制大工業の「拡大能力はただ原料と販売市場にしかその制限をみいださない」ため、「新たな国際分業がつくりだされ」、地球の一部分(ヨ−ロッパ、特にイギリス)を「工業を主とする生産場面」とし他の部分(東インド・オ−ストラリア等々)を「農業を主とする場面」に変えてしまいその相互依存性を強める。とりわけ「世界の工場」としてのイギリスは、「世界の海運業者」でもあり、また同時にイングランド銀行を頂点とするロンドン金融市場において世界商品の流通にともなう貨幣・信用関係をいわゆる国際金本位制のもとで集約する立場にあったことにおいて特筆される。
2. 恐慌・産業循環の始動とその意義
こうした世界市場の形成・確立とともに、ひとまず産業資本の国民的編制の指標として1825年イギリスに最初の資本主義的周期的過剰生産恐慌が勃発したのち、フランス・ドイツ・アメリカなど相次ぐ諸国民国家の資本主義発展にともない世界市場恐慌も不可避となっていくのである。歴史具体的には、1857年にアメリカ・フランス・イギリスをほぼ同時に襲った恐慌がその最初のものであった。当時の恐慌の経緯を注視し続けていたマルクスは1870年代中頃において次のように、この間の事情を簡潔に記している。「機械制工業が深く根を下ろして国内の全生産に優勢な影響を及ぼすようになったとき、機械制工業のおかげで外国貿易が国内商業を追い越し始めたとき、世界市場が新世界〔アメリカ〕やアジアやオーストラリアで広大な地域を次々と併合したとき、最後に、競争に加わる工業国の数が十分に多くなったとき、この時以来初めて、あの絶えず再生産される循環は始まったのである。この循環の継起的な諸局面は数年間に及び、それはいつも一般的恐慌に、一つの循環の終点でもあればまた新たな循環の始点でもある一般的恐慌に帰着するのである。これまでのところこの循環の周期の長さは10年か11年であるが、しかしこの年数を不変とみなすべき理由はまったくない」(Das Kapital,Bd.T,MEW Bd.23b,S.662 )。
ここには、近代資本主義の成立と恐慌・産業循環の開始との不可分性が指摘されているのであるが、あらかじめ19世紀初頭以来の景気後退の年代表(クロノロジ−)をつぎに掲げたうえで(表1.参照 )、その指摘の含む重要性を再確認しておきたい。まず第1に、一般的な周期的恐慌はイギリス産業革命完成期以降の規則的な現象であって、それ以前の部分的で不規則的な経済攪乱やパニックとは異なることである。奴隷制社会や封建制社会における凶作・疫病・戦争等による縮小再生産はもちろんのこと、商品流通の一定の発展のもとにおける、投機的取引による1634-7年のオランダ「チュ−リップ恐慌」や株式投機による1720年の「南海の泡沫」、7年戦争の影響による1763年の北ヨ−ロッパ信用恐慌、さらに大陸封鎖と結びついた1810年のイギリスの恐慌などは多分に人為的あるいは偶然的な結果であった。だが、1825年恐慌以来、恐慌・産業循環は機械制工業に立脚する産業資本主義の生産力の急激な発展と生産および消費の猛烈な増大とが、不可避的に伴うところの周期的な激しい収縮と再生産の撹乱という再生産過程に根ざした資本主義システムの必然的な結果となったのである。
第2に、世界市場の成立と恐慌・産業循環の始動との不可分性である。19世紀前半の恐慌は、主としてイギリスを舞台とする一国的なものであった。1825年の恐慌は北ドイツ、オランダそしてアメリカに影響を及ぼしたとはいえ、イギリスに発し他の諸国に波及したものであって、続く1836年恐慌や広範な国際的波及を見た1847年恐慌においても同様に、イギリス以外の国では未だ恐慌の勃発する十分な内的必然性を欠いていたのである。1846年の穀物法撤廃と1849年の航海条例の廃止とに象徴されるイギリス自由貿易主義の進展のもとで、イギリスの鉄工業に支えられたヨーロッパとアメリカ合衆国における鉄道建設の進展は、カリフォルニア(1848年)とオ−ストラリア(1851年) における新金鉱発見にも刺激されて、これら諸国の近代的工業化を促進し資本主義的生産様式の支配的確立を可能とさせるにいたって、1857年に初の世界市場恐慌がほぼ同時に勃発したのである。その後起こった1866年恐慌と1873恐慌とは、相前後して各国を巻き込んだ点でまさしく世界市場恐慌にほかならなかったが、特に後者はその包括性、ドラスティックな深刻性、国際的広がりにおいてのみならず、その爆発の中心舞台がイギリスではなく後発資本主義国たるドイツ、オ−ストリア、アメリカ合衆国へと移動したことにおいても特徴的であった。
3. 産業循環の周期性と諸局面
つぎに問題となるのは、反復される産業循環の周期性と諸局面の継起性である。まず、周期性であるが、 産業循環の最初の発見者であるマルクス自身も観察時点によってまちまちであって、本格的な経済学研究に打ち込む前の1852年には「5ヵ年ないし7ヵ年の周期的循環」(MEW,Bd.8,S.367 )について語り、『資本論』執筆時点の1860年代には、しばしば「10ヵ年の循環」(Kapital,T.MEW,Bd.23,S.661他)について語りながら、1870年代中頃になると、先に引用したように、「この年数を不変とみなすべき理由はまったくない」と述べるとともに、それに続けてこう付け加えている。「反対に、今我々が展開してきたような資本主義的生産の諸法則からは、この年数は可変的であり、循環の周期は次第に短くなるであろうと推論しなければならない」と。当該テクスト箇所は、『資本論』第1部「第23章資本主義的蓄積の一般法則」の「第3節相対的過剰人口または産業予備軍の累進的生産」中のものであるが、実のところ、そこにいう「資本主義的生産の諸法則」が何を指しているのか、またなぜそのように推論されるのかは、定かではない。
なるほど「経済学批判体系」の構想を練っていたころのマルクスが「機械設備が更新される平均期間は、大工業が確立されて以来産業の運動が通る多年に渡る循環を説明する上での一つの重要な契機なのだ」として、産業循環の確定的周期を機械設備の更新期間によって説こうとする意図を持っていたことは確かであるが、しかし同時にまた彼は「恐慌の経過はその再生産期間からみてなお全く別な諸契機によって規定される」ことも認識していた。そこで問題となるのが、固定資本の寿命と産業循環の周期性との関連性に言及した次の有名な一節である。多少長文ではあるが、正確を期すため引用しておこう。
「だから、資本主義的生産様式の発展につれて充用される固定資本の価値量と 寿命とが増大するのと同じ度合いで、産業の生命も個々の投資における産業資 本の生命も多年にわたるものに、例えば平均して10年というようなものになる。一方で固定資本の発達がこの生命を延長するとすれば、他方では、同様に資本 主義的生産様式の発展につれて絶えず進展する生産手段の不断の変革によってこの生命が短縮される。したがってまた、資本主義的生産様式の発展につれて、生産手段の変化も、それは肉体的に生命を終わるよりもずっと前から無形の 損耗のために絶えず補填される必要も増大する。大工業の最も決定的な諸部門 については、この生命循環は今日では平均して10年の周期を持つものと推定し てよい。とはいえ、ここでは特定の年数が問題なのではない。ただ、次のことだ  けは明らかである。このような連続的な、いくつもの回転を含んでいて多年にわ たる循環に、資本はその固定的成分によって縛りつけられているのであるが、こ のような循環によって、周期的な恐慌の一つの物質的な基礎が生じるのであって、この循環の中で事業は弛緩、中位の活況、過度の繁忙、恐慌という継起的  諸時期を通るのである。なるほど、資本の投下される時期は極めて種々様々で  ある。とはいえ、恐慌は常に一大投資の出発点をなしている。したがってまた、社 会全体として見れば、恐慌は多かれ少なかれ次の回転循環のための一つのの 新たな物質的な基礎をなすのである。」
これに関連してJ.A.シュムペーターは、普通の繊維機械の大部分が30年から40年、それ以上長く使えるにもかかわらず、当時の基軸産業として紡績業を念頭に置いていたはずのマルクスが「どうしてこの産業の固定資本の10カ年寿命循環について語ることができたのか、理解に苦しむ」と批評しているが、これは産業循環の周期と固定資本の寿命とを直結させる誤解である。マルクスが当該箇所で念頭に置いていたのは鉄道″であり、そこでのレール、駅舎、鉄橋、機関車、車両等々固定資本諸要素の雑多な物理的寿命したがって更新期間の多様性が注目され、それら多様な固定資本諸要素が恐慌の結果として自然前の「時ならぬ更新を強制され一定期間に更新期が集中することになるという意味において、「恐慌は常に一大投資の出発点をなしている」というのがその真意であろう。
また継起性ついても、マルクスは、「中位の活況、生産の繁忙、恐慌、沈滞の各時期」(Kapital,T.MEW,Bd.23,S.661 )や先の引用文中の「弛緩、中位の活況、周章、恐慌、という継起的諸時期」(Kapital,U.MEW,Bd.24,S.185)、あるいは「平静状態、活気の増大、繁栄、過剰生産、崩落、停滞、平静状態等々、という循環」「中位の活況、生産の繁忙、恐慌、沈滞の各時期」(Kapital,T.MEW,Bd.23,S.661 )や「弛緩、中位の活況、周章、恐慌、という継起的諸時期」(Kapital,U.MEW,Bd.24,S.185)、あるいは「平静状態、活気の増大、繁栄、過剰生産、崩落、停滞、平静状態等々、という循環」(Kapital,V.MEW,Bd.25,S.372 )などのほか多くの記述を残しているが、必ずしも一義的なものではない。とはいえ、恐慌は「毎回産業循環の終点になる」(Kapital,T.MEW,Bd.23,S.697 )とともに「つねに一大投資の出発点をなす」(Kapital,U.MEW,Bd.24,S.185-6)ことだけは、はっきりと確認されていることから、とりあえず一つの循環は不況・好況・繁栄・恐慌の4つの局面を推移しその際に恐慌局面がきわめて重要な役割を演じるとだけは言ってよいように思われる。これに関連して、後に「シュモラ−学派出の理論家で限界効用学派出身の歴史家」(E.Salin)とされるドイツのA.シュピ−トホフは恐慌の観察から独自の「経済変動段階」を構成し図解しているので参考になるだろう。ただし、マルクスとは異なりシュピ−トホフにおいては、恐慌局面は「信用の崩壊、頻発的な支払停止」と特殊に限定されているため循環の不可避的構成部分をなすものではなく、1837年から1937年のドイツの100 年間で恐慌はわずか1857年と1873年の2度しか記録されていないことになっているが、「資本不足期を恐慌局面と考えればこの齟齬は一応解消される。
そこで、通例恐慌勃発年として記録されている年度の間隔を通して循環周期の問題に立ち返ってみよう。1825年にイギリスで初めて勃発した近代資本主義的恐慌が1836年、1847年と11年の間隔をおいてイギリスを中心として反復した後、10年後の1857年に世界市場恐慌として西欧各国をほぼ同時に巻き込むようになったことは先に述べた。その後第2次世界大戦までの恐慌勃発年を列挙すれば、1866年、1873年、1882年、1890年、1900年、1907年、1920年、1929年、1937年に世界恐慌が発生しており、したがってその間隔はそれぞれ7年、9年、8年、10年、7年、第1次世界大戦を挟んで9年、8年であった。つまり、循環周期は7から11年の可変数であり、しかも「中間恐慌」と呼ばれる各国の特殊事情に起因する部分恐慌を加味すれば、より複雑だということは先の表1からも読み取れるであろう。だが、問題はそうした現象の深部に横たわる。 
U 独占と恐慌・産業循環の形態転換
1. 19世紀末「大不況」と循環変容
1873年恐慌以後の循環形態にはそれまでと比べ著しい変化が現れたことは、同時代人の証言からもその後の経済史研究からも確認されている。恐慌・産業循環の発見者であったマルクスは、またその形態変化に最初に気づいた一人でもあった。彼は、晩年の1879年春に『資本論』続巻の刊行を留保する「理由」として「当面の産業恐慌」の「特異性」を挙げて、こう述べている。「合衆国や南アメリカやドイツやオ−ストリアなどでもう既にほとんど5年も続いている恐ろしい恐慌がイギリスの恐慌に先だって生じたことはいまだかってなかったことです」(4月10日付のダニエルソン宛の手紙 )、と。その1年5ヵ月後にも、イギリスで以前に見られた「ロンドン取引所での大暴落」=貨幣恐慌の欠如を「まったく異常な事実」として指摘している(1880年9月12日付のダニエルソン宛の手紙)。同じ事態に関連して後の経済史家は次のように記している、「大変革が、1873年の大暴落とともに、あるいはもっと正確にいえば、これにひきつづく不況とともに始また。この不況は、80年代の初めのほとんど目だたないほどの中断と、1889年ごろの異常に烈しい、しかし短命な『ブ−ム』とをもっただけで、22年にわたるヨ−ロッパの経済史を充たしている」(フォ-ゲルシュタイン)、と。すなわち19世紀末「大不況」である。
循環形態の変容は、@先の4局面のうち好況局面の短縮ないしは脱落、Aイギリスにおける貨幣恐慌の欠如、したがって恐慌の急性的性格(パニック)の消失、B世界市場恐慌の「中心的爆発の座」の先発資本主義国イギリスから後発資本主義国ドイツ・アメリカへの移動交替、C産業恐慌に潜伏する構造的な農業恐慌の存在、繊維=綿毛工業という消費部門から石炭・銑鉄・鉄鋼という生産財部門への循環の主導部門の転換などに要約されよう。こうした循環変容として現象する事柄の背後には、各国の産業構造と世界市場編成の根本的な転換が、資本主義そのものの質的発展が横たわっていた。そのキーワードは、"自由競争から独占へ"である。
2. 独占と古典的帝国主義
世紀末「大不況」までの19世紀の世界市場を特徴づけるのは、イギリスが「世界の工場」として世紀前半の綿工業から鉄道建設の進展を契機に中頃から鉄工業に主軸を移動させながら他の欧米諸国の資本主義的工業化を促し、他方で綿製品のおよび農産物や原材料の確保のため他の地球上の後進地域を植民地・従属国化するいわば円錐型世界分業の頂点に立っていたことであった。その際、世界市場を支配する原理は自由競争であり、自由貿易主義である。だが、株式会社制度の導入による鉄道建設をバネとした後発資本主義諸国の産業的急追は、生産の集積を生み出してイギリスの世界市場支配を脅かし、国際競争の激化は自由貿易からの離脱と保護貿易主義そして帝国主義的政策への転換を強制するにいたったのである。「大不況」期に進行していたのはこうした事態であり、先の循環変容とはこの反映にすぎないのであって、この転換は最終的には20世紀初頭において完了する。
この場合、保護関税か自由貿易かという点での個々の資本主義国の間の相違は本質的なものではない。重要なのは、「生産の集積による独占の生誕は、総じて資本主義の発展の現在の段階の一般的かつ根本的な一法則である」(レ-ニン『帝国主議論』、岩波文庫、35ペ-ジ)という点の確認である。資本主義的な自由競争が資本主義的な独占にとって替わられたことを本質とする帝国主義に簡潔な経済的規定を与えるとすれば、つぎの著名な定義を越えるものはないであろう。「帝国主義とは、独占と金融資本との支配が成立し、資本の輸出が顕著な意義を獲得し、国際トラストによる世界の分割が始まり、最大の資本主義諸国による領土の分割が完了した、というような発展段階における資本主義である」。
この20世紀初頭の古典的帝国主義段階以降を特徴づけるのは、独占に起因する発展の停滞・腐朽と飛躍の不均等性であり、これはまた産業循環の形態にも当然影響をもたらさずにはいない。相対的に長期の不況を随伴し,緩慢微弱な律動を示すイギリス・フランス型の衰弱的循環と急激な発展と短期の急性的恐慌を伴うドイツ・アメリカ型の活力的循環との対照に示されるような、各国循環の不均等性と恐慌の同時性の喪失がそれである。例えば、1900年の恐慌はドイツを中心舞台とする先鋭なものであり英米仏においては微弱なものに過ぎなかったが、1907年の恐慌はアメリカにおいて特に深刻かつ激烈であったのに対して英独では軽微であった。また第1次世界大戦後の1920-1年の恐慌は英米日を襲ったものの、ドイツ・オ−ストリアはその圏外にあったし、あの1929年の大恐慌においてさえフランスは例外をなしていた。第2次世界大戦突入の前夜をなす1937-8年の恐慌は英米仏を襲ったが、戦時経済体制下の日本・ドイツ・イタリアの枢軸国はその影響を蒙らなかったのである。
3. 両世界大戦と循環の機能麻痺
こうした恐慌・産業循環の不均等性と同時性喪失は、世界市場の争奪をかけた経済の軍事化と2次にわたる世界戦争の総力戦とによっていっそう強められたばかりではなく、それはそれで自由競争段階の資本主義においての矛盾の経済的解決形態としての循環の機能が麻痺して、戦争という政治的経済外的手段に矛盾解決を委ねざるをえなくなったことの表明でもある。言いかえれば、19世紀末の「帝国主義的高揚」と呼ばれる軍拡景気(1895〜1913年)以来資本主義経済の諸矛盾は経済過程の内部で自律的に解決されることは不可能となったということが、少なくとも19世紀には存在していた循環の自律性の完全なる破壊という形を通して表現されることになった。つまり、この段階における経済的諸矛盾はもはや周期的恐慌の爆発によって一時的に解消されるような性質のものではなく、国内外で鋭い政治的・軋轢を激化させ世界市場における諸列強の対抗と帝国主義戦争による暴力的解決に席を譲るものとなったのである(8)。こうした経済的に解決しえない諸矛盾の総体は、諸国民経済の「国家形態での総括」に新たな質を要請せざるをえない。いわゆる「国家独占資本主義」の登場がそれである。
国家の経済過程への全面的な介入が不可避となるのは、最初は帝国主義諸列強の発の総力戦たる第1次世界大戦の総動員体制としての戦時経済体制としてであった。その後1929年大恐慌とこれに続く30年代大不況の過程で国家独占資本主義は、アメリカのニュ−・ディ−ル政策に代表されるように、景気・労働力・貨幣等を国家の政策的管理下におこうとする資本主義のいわば危機管理体制として恒常化し、第2次世界大戦後には冷戦体制のもとで平時においても一般的に定着をみたのである。かくて恐慌・産業循環は、その本来の自律的な法則性を失い、ますます人為的な「政治的景気循環」へと変質することにならざるをえない。第2次世界大戦後の現代の恐慌・産業循環現象がそれを物語っている。
(1) マルクス=エンゲルス『資本論書簡』(2)岡崎次郎訳、大月書店1971年、323-4ペ-ジ。
(2) 同上『資本論書簡』(2)、338ペ-ジ。
(3) T.Vogelstein,"Die finanzielle Organisation der kapitalistis chen Industrie und die Monopolbildungen",in Grundriss der Sozialokonomik,W.Abt.,Tubingen 1914,S.222f.レ-ニン『帝国主議論』、 宇高基輔訳、岩波書店 1956年、35-6ペ-ジ。
(4) この過程の的確・簡明な記述として、入江節次郎『帝国主義の解明』(新評論 1979年)の第1章 「帝国主義とは何か」が有益である。
(5) レ-ニン『帝国主議論』、前掲、35ペ-ジ。
(6) 同上、146ペ-ジ。
(7) 宇高基輔「世界恐慌史」、井汲卓一編『講座・恐慌論』W、東洋経済新報法社1959年、81-2ペ-ジ。
(8) この点について詳しくは、古川哲『危機における資本主義の構造と産業循環』(有斐閣 1970年)を参照されたい。
V 現代の恐慌・産業循環とスタグフレ−ション
1. 戦後世界再編の特質
第1次世界大戦が西欧特にイギリスの凋落とアメリカの台頭をもたらし、戦後世界は「世界の分割」と再建金(為替)本位制のもとにヴェルサイユ体制として再編されたのにたいして、第2次大戦は( 敗戦国と戦勝国を問わず) 2度の大戦の主戦場となったヨ−ロッパの没落と植民地体制の崩壊、そして資本主義世界の重工業生産の6割と金準備の7割を占める傑出した経済力と「世界の兵器廠」として強大な軍事力を併せ持つアメリカの覇権をもたらし、戦後世界はアメリカ主導のもとに冷戦体制として再編されることになった。その際、戦前の世界市場のブロック化とその帰結としての世界戦争の反省に立って「自由・無差別・多角」的な世界市場を創出すべく、アメリカの超絶的な力を背景に発足したのがIMF=GATT体制である。これによりアメリカは、すでに戦間期に国内的に不換化されていた国民通貨ドルを一方的に金とならぶ世界貨幣として世界市場に散布する機構を得るとともに、もう一つの「超大国」ソ連に対峙しつつ西欧や日本の資本主義的復興に努めることができた。
さらに戦後世界再編の特質として挙げておかねばならないのは、アメリカ資本主義の経済の軍事化である。1929年〜33年にドイツとならんでもっとも烈しい恐慌に見舞われたアメリカでは、ドイツがナチズムのもとで1937年にはほぼ完全雇用を達成したのにたいして、ニュ−・ディ−ル政策のスペンディング・ポリシ−=赤字財政をもってしても同年なお770万人、14%の失業を数えたままであり本格的な回復は1941年の武器貸与法の成立に象徴される経済の軍事化を待たねばならなかった。アメリカの軍事費は1938年に10億ドルでGNP比も一割を切っていたが1943年には632億ドルと著増しGNP比は37%も占めるにいたった。国防支出はさすがに大戦後の1948〜50年には130億ドル台へと減少したが、朝鮮戦争によって1953年には506億ドルへと激増し、その後一旦減少してから1961年から漸増しベトナム戦争により1969年には812億ドルへと増大し国民総生産のほぼ一割を占めつづけてきたのである(1) 。近年においてはレ−ガノミクスにより1980年には1640億ドルと連邦支出の22.7%、GNP比で5%を占めていたものが、1987年には2426億ドルで連邦支出の27.8% 、GNP比で6.4%%を占めるにいたり、そのうえその間の政府研究開発費(R&D) も149億ドルから403億ドルへと激増していた(2)。
戦後資本主義世界を統括するアメリカ経済の軍事化は戦後再編以来の構造的特質といってよいが、1947年の対ソ封じ込め戦略( トル−マン・ドクトリン) 以降の冷戦対抗のなかでいっそう強化されアメリカのみならず世界の経済循環を制約し続けたのである。それはアメリカ一国にとっては戦前期の大不況からの回復の経験に学んだ軍事支出による過剰資本と大量失業の同時解決という教訓の戦後における制度的定着でもあった。フィスカル・ポリシ−の効果は不生産的な軍需において「生産と消費の矛盾」解決を期待されたからであり、そしてここにIMF体制を通じる擬制的世界貨幣ドルの歯止めなき散布に媒介されて戦後現代資本主義世界の恐慌・産業循環を規定するアメリカ主導の軍需インフレ−ション的蓄積体質を宿命づけたのである。
2. 第2次世界大戦後の恐慌とスタグフレ−ションの発生
現象的には20世紀において、それがパニックすなわち貨幣・金融恐慌を伴うという意味の語感から類推できるような恐慌は、1907年恐慌と1929年恐慌、わが国では1927年昭和金融恐慌の他には生じてはいない。
戦後長らく、恐慌はなくなったといわれてきたが、それは一国全体を根底から震撼させるようなドラスティックな恐慌という意味ではそうだとしても、恐慌そのものがなくなったわけではけっしてない。アメリカについてみれば、1966年に信用逼迫が生じ、1970年、74年、82年にはそれぞれ金融恐慌が発生したし、84年には大恐慌以来の預金取付け騒ぎさえ起こった。日本においても1965(昭和40)年には深刻な証券恐慌が発生している。それらは戦後国家独占資本主義のもとでいずれも政府による救済措置によって全面的なパニックにまで発展することだけは妨げられたのである。さらに、アメリカでは1987年から89年にかけて毎年200行を上回る商業銀行が倒産し、90年前後には倒産の可能性ありとされる問題銀行は1000行を超えた。近年にわかに「従来例をみない"金融部門リ−ドの景気後退"("複合不況")」(3) 、あるいは「景気拡張期のピ−ク前に発生する金融恐慌」(4) として注目されている事態がこれである。さしあたり、戦後のアメリカと日本の景気後退のクロノロジ−を掲げておこう(表2参照)。
旧ソ連の経済学者メンシコフは恐慌を周期的恐慌と中間恐慌とに区別すべきことを主張して、アメリカについては1948〜9年、1957 〜8年、1966〜7年、1973〜5年を周期的恐慌、1953〜4年、1960〜1年、1969〜1971年を中間恐慌とそれぞれ規定し、日本については1953〜4年、1962〜3年、1973〜5年を周期的恐慌、1957〜8年、1964〜5年、1970〜1年を中間恐慌と規定している。またこれとは違って、そうした区別自体を否定して、そのすべてを「国家独占資本主義的偏倚を伴ったところの周期的恐慌」とみなし、その戦後における周期短縮を主張する論者もいる(5) 。しかし、一般的にはクロノロジ−( 表2) に表示されている景気後退のうちで恐慌といわれているのは、1957〜8年の景気後退と1974〜5年之それであり、1980年のそれは世界同時不況と称されているが、恐慌と規定される前2者をめぐってさえもそれが周期的恐慌なのか、あるいは中間恐慌なのかそのつど議論の一致をみていないのが実情である。
実は、この周期性の問題は、本稿第1章において触れたように、すでに19世紀から登場し今日まで持ち越されてきたものであって、中間恐慌の存在否定説、周期的恐慌の10年周期不変説、中間恐慌の介在による循環変容説、恐慌の周期短縮説、慢性的過剰生産段階移行説、循環消滅説等々、さまざまなバリエ−ションで語られてきたものである。だが肝心なのは、周期そのものよりも循環の内実のほうである。この点で、第2次大戦後の景気後退は、戦前までのそれとは明瞭に様相を変えている。アメリカの1957〜8年の景気後退からして「リセッショナリ−・インフレ−ション(re-cessionary inflation)」 と呼ばれるように、戦前期までの恐慌期に特有の価格暴落がみられなかったことがその特異性として注目されていた。1825年の恐慌以来恐慌のもっとも一般的な現象は、「商品価格の長期の一般的騰貴に続いて突然おとずれるその一般的下落」(6) であったからである。その後1960年代の景気後退において価格は暴落どころか逆に騰勢を強め、経済不況は物価騰貴と共存するようになった。いわゆるスタグフレ−ションの発生である。もちろんそれは、西欧と日本の戦後復興とその後のアメリカを含む世界経済の経済成長が顕著であった1950〜60年代においてはまだ明瞭な現象ではない。スタグフレ−ションは特に欧米を中心に低成長へ転換した1960年代末から1970年代にかけて深化し顕在化するようになり、失業率と物価騰貴率との総和として表現される「スタグフレ−ション度」(7)が1974〜5年の景気後退期にピ−クに達するにいたって、にわかに現代資本主義の業病として深刻に受け止められるようになったのである。
3. スタグフレ−ションの基本的要因
もともとStagnation(経済沈滞)とInflation (物価騰貴)との合成語であるStagflationは、物価の周期的な一般的騰貴とその一般的下落の交替という古典的な産業循環では捉えられない〈経済沈滞下の物価騰貴〉という新たな事態を、言い換えれば循環現象とは区別される構造的現象を特定するために用いられたものである。そもそも人為的な名目的物価騰貴としてのインフレ−ションそのものからして自律反転性をもたないという意味で構造的現象なのであるが、ケインズ政策により1950〜60年代に高成長を伴ったクリ−ピング・インフレ−ションとして始まり次第にハイパ−化した物価騰貴は、1970〜80年代の低成長への転換に伴い深刻な失業の発生を随伴するにいたってインフレとは区別される新たな名称を与えられたわけである。「スタグフレ−ション」という単語を表題に掲げる邦語論説が一斉に登場したのは、1971年以降のことであり、それが1975年以降80年代にかけておびただしい数に上がったということは、現実的事態の反映にほかならない。
だから、そうしたものとしてのスタグフレ−ションの基本的要因を問うとすれば、それは先ずごく一般的には、第2次大戦後の資本主義各国の国家独占資本主義的な成長促進策としてのインフレ政策の帰結であるといってよい。そのかぎりでは、スタグフレ−ションの発生は「国家独占資本主義の成功が破綻に転化し、国家による調整が旨く機能しなくなったところに胚胎した」(8) としてよいとしても、それだけでは各国がフラットに扱われ戦後世界編成の問題が欠落している点で致命的な不十分さを免れない。世界的インフレ−ションといってもその震源は、戦後史本主義世界再編の盟主として軍需インフレ的蓄積体制下におかれたアメリカであって、そこから発したインフレがMIF体制のもと基軸通貨ドルを介して、一方で戦後復興成長政策をとる西欧・日本へ、また他方で植民地から解放された低開発諸国へと地球大に波及するのは必至であった。したがって、とりわけアメリカにとってスタグフレ−ションは、冷戦対抗のもとで強制された核・ミサイル・通信・電子を中核とする新鋭軍需産業(軍産複合体)の創出、および前方展開戦力の維持とこれを補完する対外軍事援助ないし借款用のドル・スペンディング政策の、要するに軍需インフレ的蓄積体制(9 )の、成長から停滞への転換に伴う必然的な帰結であった。技術革新に支えられた1950年代までとは異なり、軍事用新鋭技術は民生かされえず生産性の低下とケネディ=ジョンソン政権の成長促進政策の結果、賃金=物価のスパイラルな上昇によってアメリカ在来工業製品は、60年代以降に西欧・日本の世界市場への復帰(「貿易・為替の自由化」)と国際競争戦の激化のもとで急速に競争力を失い、アメリカ国内市場は蚕食されて、50年代に繊維・雑貨から始まった貿易摩擦は鉄鋼・造船・電機そして自動車といった在来基幹部門にまで広がっていったのである。
これと同時並行的に、巨額のドル散布は60年代に顕著となるアメリカ企業の多国籍化(対西欧展開)の進展とあいまって60年代を通じて基軸通貨ドルの「金との同一性」にたいする信認を揺るがし付く続け、「ドル危機」が進行した(1961年金プ−ルの結成と1968年その崩壊)。国際金融協力とドル防衛策にもかかわらずアメリカは1971年8月ついにニクソン声明により金・ドル交換停止に追い込まれ、スミソニアン合意による通貨調整(同年12月)も空しく1973年には固定為替相場制そのものが放棄されるに至った。ちなみに、2度にわたって先進資本主義国を震撼させた「石油ショック」(1973年秋、1979年末)とは、50年代以降押さえられてきた一次産品の低価格とドル減価にたいするOPEC(石油輸出国機構)による反撃にすぎなかったが、これはこれで欧米日本の石油多量消費国のコスト上昇要因としてインフレを加速したのである。わが国では、列島改造景気に浮かれるなかで「狂乱物価」として騒がれた事態がそれである。
こうしてみると、スタグフレ−ションは、アメリカ主導の軍需インフレ的蓄積によって1950〜60年代に形成され隠蔽されてきた構造的な現実資本の過剰生産能力が循環的な景気後退局面において激しい物価騰貴とともに顕在化した事態であって、そうした意味において第2次世界大戦後現代史本主義の特に1970〜80年代を特徴づける恐慌の独自の発現形態であったといってよいであろう。過剰資本は、すでに1957〜8年恐慌に際してアメリカ鉄鋼業にみられたように操業度の低下とそれによるコスト上昇分の価格転嫁という形をとり、自由競争段階におけるように貨幣信用恐慌を伴って一挙・全面的に解消されることなく温存されたため、長期にわたり厳しい不況・失業・インフレが同時進行せざるをえないことになったのである。もちろんその発現態様は各国ごとに異なっていたし、このスタグフレ−ションからの脱出策も一様ではなかったが、それがその後の特に欧米日の先進資本主義諸国を中心とする20世紀末世界不況の共通の背景となったことはいうまでもない。少なくともバブルの発生とその破綻は、あの「チュ−リップ恐慌」の用に、80年代後半以降に突然あるいは偶然的に出現したわけではけっしてないのである。
(1) 以上の数値は、大内力編『国家財政』(東京大学出版会1976年)、159-60ペ-ジより得た。
(2) T.Kemp,The Climax of Capitalism: The US Economy in the Twentieth Century,London & New York 1990,pp.221-2.その原資料は、Statistical Abstract of the United States,1988である。
(3) 宮崎義一『複合不況』、中央公論社、1992年、250ペ-ジ
(4) M.H.ウォルフソン、野下・原田・浅田訳『金融恐慌:戦後アメリカの経験』、日本経済評論社、 1995年6ペ-ジ。
(5) 長島誠一『現代資本主義の循環と恐慌』、 岩波書店 1981年、92-3ペ-ジ。
(6) K.Marx,Zur Kritik der politischen Okonomie,1859,MEGA 2.Abteilung Bd.2,Dietz Verlag Berlin,1980,S.241 (『マルクス資本論草稿集』B、大月書店1984年、423ペ-ジ)。
(7) 長島誠一『現代資本主義の循環と恐慌』、 前掲、98-9ペ-ジ。
(8) 大内 力『国家独占資本主義・破綻の構造』、御茶の水書房、1983年、 322ペ-ジ。
(9) 南 克己「冷戦体制解体とME=情報革命」(『土地制度史学』、第147号、1995年4月)は、それを「冷戦帝国主義の蓄積様式」と特徴づけている。これに関連して、矢吹満男「現代帝国主義の構造とスタグフレ-ション」(専修大学『社会科学年報』第19号、1985年)を参照のこと。
W 20世紀末世界的不況と現代のバブル・平成不況
1. 20世紀末世界的不況の背景
「20世紀末世界的不況」という場合、それを1980〜2年の世界同時不況からを指すのか、あるいは1990年ないし91年からの各国(特に西欧・日本)の不均等不況のみを指すのかは(1)、論者によって意見の異なるところであるにしても、その背景となる事態の起点が1970年代初頭のブレトンウッズ体制の崩壊であったという点においてはおそらく異論のないところであろう。
そもそも1971年8月のアメリカの一方的な金・ドル交換停止声明は、国際競争力の弱化のもとでの継続的なドル散布による国際収支の悪化に直面して、基軸通貨国の責任を放棄し金の制約から放れて自国のスタグフレ−ションから脱出しようとするニクソン「新経済政策」の一環であった。何しろこの1971年は、アメリカ貿易収支が全世紀末以来78年ぶりに赤字に転換したアメリカ経済の衰退を象徴する年だったのである。その後の共和党フォ−ドおよび民主党カ−タ−政権においてもアメリカ経済の長期停滞基調は覆うべくもなく、第2次石油ショックの影響もあってインフレ−ションはますます激化し物価は2桁台の上昇率を示した。1981年1月大統領に就任した共和党「鷹派」レ−ガンの「経済再生計画」は、その大黒柱として連邦財政規模の縮小(いわゆる「小さな政府」)・所得税減税・政府規制の緩和・通過供給量の抑制を打ち出すことによって、ケインズ主義と決別し供給重視の経済政策(「レ−ガノミクス」)を標榜するものであった。レ−ガン政権の当面の課題はなによりもインフレ−ションの沈静化であり、公定歩合14%、単基金利20%前後という急激な金融引締め政策により確かに1981年以降インフレは抑制され、1983年には物価の面から見る限りスタグフレ−ションは終息したかに見えたが、それは同時に顕著な製造業設備稼働率低下(全産業では69、5%、鉄鋼業で37、6%、自動車産業では36、6%)と戦後初の1000万人を超える失業者の発生(2) という深刻な不況をもたらしたのである。それはレ−ガン政権による政策不況というまさに「政治的景気循環」であると規定しても宵が、過剰資本と過剰労働力の同時発生という意味においては、古典的定義に照らしても事実上戦後アメリカ最大の経済恐慌であったといえよう。
だが、レ−ガン政権前半の高金利・ドル高政策がもたらしたもっと重大な結果は、アメリカ企業のグロ−バルな多国籍化とアメリカ国内産業の空洞化の進展であり、巨額の財政赤字と経常収支赤字の累積であった。この期のアメリカ経済は、金融・サーヴィスに過度に傾斜する一方で国内での現実資本の累積が著しく低迷したために製造業における対外競争力をいっそう弱めたことによって、同時期に「例外的に」競争力を強化した日本の摩擦・軋轢をますます強めていったのである。ちなみに、1983年のアメリカ企業の新規設備投資は、製造業が1173億ドルに対して非製造業は1294億ドルであったが、1989年においては前者は1836億ドルに対して後者は約2293億ドルであった。(3)
20世紀末世界的不況の第1の背景は、1980年代に一段と先鋭化した先進資本主義国欧米日間の、とりわけ日米間の不均衡の拡大である。日本は、70年代の石油ショックを契機とする重厚長大産業(鉄鋼・石油化学・窯業)における省エネ合理化や在来機械工業と電子工業との新結合すなわちNC工作機・産業用ロボット・自動車・VTR・OA等々ME関連機器の導入によって、英米はもとよりドイツですら克服できなかった苦境を乗り越えて、80年代にかけて低迷する先進資本主義諸国のなかでいわば一人勝の様相を呈し、一人のアメリカの指導的知識人をして「ジャパン・アズ・ナンバ−ワン」(4) といわしめたほどであった。日本の自動車・半導体・ME機器の集中豪雨にもたとえられた輸出急増は金融引締め策下の異常なドル高によって加速され、日本の経常収支の黒字転換と対米貿易黒字の累増を、したがってアメリカの巨額の貿易収支赤字を産み出した。アメリカの経常収支は1980年にはわずか18億ドルとはいえまだ黒字であったが、85年には1230億ドルという膨大な赤字を記録し、しかも同年アメリカは1914年以来71年ぶりに債務国へ転落したのである。この点では、日本の「輸出依存的成長」がアメリカ産業の停滞に依拠したアメリカ市場の浸食によって実現されたという主張(5) も、あながち誇張ではない。対日貿易摩擦は頂点に達し米国議会は保護主義的傾向を強め対日制裁措置さえ取りざたされるなか、アメリカ政府は米国単独での対応を断念し主要国に強調政策を要請することによって難局を打開しようとした。その結果が85年9月に緊急に開催されたG5(日・米・西独・英・仏5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)のプラザ合意であり、これがバブル発生と破綻の、したがって20世紀末不況の直接の背景となったのである。
2. バブル発生と崩壊
1990年ないし91年からの世紀末不況とその一環であるわが国の「平成不況」の背景をなしているのは、80年代に進行した世界経済の構造変換である。その第1は、上に見た先進資本主義国間の不均衡拡大であり、第2に、同時に進展した世界的スケ−ルでの急激な金融の自由化であり、第3にアジアNIES・ ASEAN・ 中国の急成長であって、それらは相互浸透し絡みあって展開している。
以下では主としてバブルの発生に直接関連した第1の事情に焦点を絞ってみておくことにしたい。ドル高是正で一致をみたプラザ合意直前の円の対ドル相場は1ドル=243円であったが、その2年後には120円台まで高騰した。主要国協調下のドル下落と金利引下げは85年以来欧米日において同時に株式・不動産を中心とする資産インフレ−ションを発生させた。この世界同時資産インフレは欧米に関するかぎり87年10月のニュ−ヨ−ク市場の「ブラック・マンデ−」(株価暴落、米37%・西独40%・英35%・日22%)により一応終わったのにたいして、日本ではなお公定歩合2.5%の超低金利政策が維持されマネ−サプライが4カ年にわたり増大し続けたために、87年以降さらにバブルが膨脹したのである。結果、土地資産時価総額の対GNP比率は、1986年の3.7倍から6.7倍に、株式時価総額の対GNP比率は1.3倍から2.2倍へと膨らんだし、六大都市の地価は82年からピ−クの90年9月までに平均で3.7倍、商業地で5.4倍に達した。この期の財テク・フィ−バ−ぶりはとどまるところを知らず、投機対象はゴルフ会員券から骨董品、絵画、宝飾品にもおよぶ異常さであった。
とはいえ、85年以降の日本経済の内実がすべて実体を伴わないものであったわけではない。バブルは同時に徹底した省力化、高付加価値化を追求する新鋭工場の建設や最新設備投資といった現実資本の蓄積をも随伴していた。だから、バブル崩壊の、したがって今次不況の直接的契機は89年5月以降の日銀による数次にわたる公定歩合(90年8月には、6.0 %へ)の引上げと90年4月の大蔵省による土地融資総量規制だったとしても、その背後に資本過剰化の進行をみないならば一面的にすぎるといわざるをえない。
3. 「平成不況」の性格
1989年、平成元年12月末に東京証券取引所第1部平均株価は38、915円の史上最高値を記録した後、株式市場の暴落は1990年初めから3波におよび92年8月の14、309円まで63%も急落した。下落率からみるかぎりで、それは1929年アメリカ大恐慌の89%、わが国昭和金融恐慌の67%を下回るとはいえ、この間の時価評価額は東証第1部二限っても330兆円の減であり、1990年秋からの地価崩落も91年中だけでも200兆円の減価をもたらしたといわれる(6)。文字どうりシャボン玉が飛んではじけたのである。以後1991年4月以降日本経済は不況の谷間に呻吟し続け、何度か予想された景気回復もその都度期待外れに終わっている。すなわち1992年8月以来95年9月までに総額59兆5千億円もの巨額の公共投資が追加され、しかも公定歩合は前代未聞の0.5 %にまで引き下げられながら、なお95年11月の日本の完全失業率は空前の3.4 %に達し、特に24歳以下の失業率は96年3月時点で過去最高の8.1 %にまで上昇している(7)。失業の欧米先進国化現象の進行といってよい。国民経済計算を用いてみた場合、90年から95年にかけて発生した土地と株式を合計したキャピタルロスは約1000兆円で名目GDPの2倍に達するといわれるが、80年代後半の土地と株式のキャピタルゲインが1700兆円であった(8) とすれば、住宅金融専門会社問題に象徴される巨額の不良債権の残存はむしろ当然というべきかもしれない。バブルはなお、はじけきっていないとも言える空である。とりわけ長期化する今次不況を特徴づけているのは、製造業従業者数の減少に典型的に示されているところの過剰設備の存在と失業の増大そして日本企業の海外進出・多国籍化、日本産業の空洞化の進展である。
ところで、80年代に進行した世界経済の構造変換の内実をなす他の2つの事態にも少し触れておかねばならない。先ず金融の自由化であるが、これは1983年の米国における預金金利自由化に端を発し、日本については翌年の「日本円ドル委員会」を通じて強制されたものであったが、金融部門におけるコンピュ−タ−関連のME技術革新とあいまって外国為替等の国際取引は数年の間に20倍にも急拡大していた。ちなみに、1995年の世界貿易額はWTO(世界貿易機関)によれば4兆8000億ドルであるのにたいして、主要国中央銀行による集計で外国為替取引高は年間約500兆ドルと推定されるという(9)。ここでは、この金融自由化とカジノ化が先のバブル発生のいまひとつの背景をなしていたことを付け加えておくにとどめたい。
また80年代世界経済の構造変換の第3に挙げた東アジア経済の急成長は、特に80年代後半から顕著となったものであるが、これが先進資本主義諸国(特にアメリカ、日本)内の産業空洞化と有機的に結びついていることは明らかである。1994年の日本の対米貿易黒字は652億ドルであり、東アジアの対米貿易黒字は695億ドルであったが、日本の東アジアに対する貿易黒字も636億ドルであったという数値に示される日本・アメリカ・東アジアの3者の関係(10)はとりわけ注目に値する。さらに日本企業によるアジアでの現地生産が急増し機械・機器を中心とした逆輸入の増加により、95年度の輸入総額に占めるアジアからの製品輸入の比率はドルベ−スで40%を越え米国の25.6%、EUの21.2%を大きく上回ったが、この結果95年度の日本国内雇用は11万人減少したと試算されている(11)事実も十分に止目されてよい。
いずれにせよ、80年代世界経済の構造変換をもたらした先進資本主義国間の不均衡拡大、世界的スケ−ルでの急激な金融の自由化、東アジアの急成長という事態は、資本主義のグロ−バリズムの展開を如実に物語るものであり、これが21世紀を基本的に規定していくことになるのは間違いない。そして、1974年〜5年と1980年との景気後退の同時性においてみられた世界循環の統一性が皮肉にも政策協調のプラザ合意以降崩れて、80年代後半以降各国循環が非同時化していっそう不均等性を強めているという事実も、世界経済の構造変換の反映にほかならないものとして重視されよう。
(1) 矢吹満男「20世紀末不況の分析視角-宮崎義一『複合不況』をめぐって」(『専修経済学論集』第28巻2号、1993年11月)は、90年代初頭を「世界同時不況の様相を呈している」(35ペ-ジ)としているが、問題把握において参照されるべきである。その後の経過は、長期不況に苦しむ日本や96年1月に統一後最悪の415万人の失業を記録したドイツとは対照的に、「91年春に始まり6年めを迎えた米国の景気拡大はいっこうに衰える気配がない。成長は加速、企業の収益も堅調だ」「『日本経済新聞』、1996年5月6日付」と伝えられるごとく世界循環は非同時化と不均衡性の激化を示している。
(2) 萩原伸治郎『アメリカ経済政策史』、有斐閣、1996年、239ペ-ジ。
(3) 同上書、243-4ペ-ジ。
(4) E.F.Vogel,Japan as Number One,Havard Univ.Press(広中・木本訳『ジャパン・アズ・ナンバ-ワン』、TBSブリタニカ、1979年)。日本を「強い官僚主導の国家」とヴォ-ゲルや米商務省の見解にたいして「会社本位主義」を対置するのは、奥村宏『会社本位主義は崩れるか』(岩書店、1992年)である。
(5) 井村喜代子『現代日本経済論』、有斐閣、1993年、第6章を参照のこと。
(6) 内野達郎「日本経済激動の70年を概観する」、『エコノミスト』創刊70周年臨時増刊号、1993年5月17日、37ペ-ジ。
(7) 『日本経済新聞』、1996年4月12日および5月17日付。
(8) 『日本経済新聞』、1996年5月28日付。
(9) 向 寿一「日米欧の大競争で起きた中南米、アジアへの資金シフト」、『エコノミスト』、1996年6月4日、74ペ-ジ。
(10) 二瓶 敏「冷戦体制の解体と日本資本主義の危機」、『専修大学社会科学研究所月報』、No.391(1996.1.),22-3ペ-ジ。
(11) 『日本経済新聞』、1996年5月15日付夕刊  
 
「資本論」 1

 

カール・マルクスの著作。ドイツ古典哲学の集大成とされるヘーゲルの弁証法を批判的に継承したうえで、それまでの経済学の批判的再構成を通じて、資本主義的生産様式、剰余価値の生成過程、資本の運動諸法則を明らかにした。全3巻(全3部)から成る。サブタイトルは「経済学批判」。冒頭に、「忘れがたきわが友勇敢、誠実、高潔なプロレタリアート前衛戦士ヴィルヘルム・ヴォルフにささぐ」との献辞が記されている。2013年に共産党宣言とともに資本論初版第1部がユネスコ記憶遺産に登録された。
1867年に第1部が初めて刊行され、1885年に第2部が、1894年に第3部が公刊された。第1部は、マルクス自身によって発行されたが、第2部と第3部は、マルクスの死後、マルクスの遺稿をもとに、フリードリヒ・エンゲルスの献身的な尽力によって編集・刊行された。
「第4部」となる予定だった古典派経済学の学説批判に関する部分は、エンゲルスの死後、カール・カウツキーによって公刊されたが、『資本論』という表題に関する版権の問題、カウツキーの「独自の見解」などにより、『資本論』第4部としてではなく『剰余価値学説史』(3巻4分冊)の表題で刊行された。その後、ソビエトのマルクス=レーニン主義研究所によって新たな編集による版が刊行された。(アカデミー版)これはさらに修訂されてMarks-EngelsWerkeの第26巻T〜Vとして刊行された。(ヴェルケ版または全集版、現在の日本語訳の多くはこれにもとづいている)
マルクスは、「新ライン新聞」の編集者として、物質的な利害関係を扱う過程で、次第に、社会変革のためには物質的利害関係の基礎をなす経済への理解の必要性を認識し、経済学研究に没頭していった。
1843年以来、マルクスは経済学の研究を開始する。亡命先のパリでの研究から始まり、9冊の『パリ・ノート』、6冊の『ブリュッセル・ノート』、5冊の『マンチェスター・ノート』などとしてその成果が残っている。なお、これらのノートは、いずれも『資本論』草稿ではない。
1849年、マルクスはロンドン亡命後、大英図書館に通って研究を続け、1850年-1853年までの成果として『ロンドン・ノート』24冊を書き上げた。これはマルクスのノート中、最大分量を占める経済学ノートであるが、この時期のノートの内容には国家学、文化史、女性史、インド史、中世史、また時事問題など、内容の異なる多くの論が併存しており、この時期にマルクスの研究が経済学批判に特化したとはいえない。
マルクスが経済学批判に関する執筆にとりかかったのは1857年からである。これは商品・貨幣を論じるごく一部のものにとどまり、『経済学批判、第一分冊』として1859年に刊行された。また、この時期の原稿は『経済学批判要綱』『剰余価値学説史』として、マルクスの死後に出版された。
『資本論』そのものの草稿で最も中心的となったものは、1863年から1865年末までに執筆された草稿群である。ここでマルクスはおおまかな全3部の草稿のかたちを書き終えた。ただし、これは問題意識に基づくメモが終わったという意味にとどまり、それを再吟味・再構成し、文章として叙述し直し、清書するという作業はまるまる残された。この「1863年から1865年までの草稿」のことを新MEGA編集委員はまとめて「第3の資本論草案」と呼んでいる。しかしこの草稿も未完成のものであり、マルクスはそのことに自覚的であった。この第2部と第3部の草稿についてマルクスは1866年の段階でエンゲルスに宛てて、「でき上がったとはいえ、原稿は、その現在の形では途方もないもので、僕以外のだれにとっても、君にとってさえも出版できるものではない」と手紙に書いたほどであった。
1867年に第1部が刊行されたが、その後もマルクスは叙述の改善をくり返し、「まったく別個の科学的価値を持つ」と自分で称するほどに納得できる版となった「フランス語版」が出版されたのはようやく1872年-1875年であった。このように、マルクスは第1部刊行後も改訂に改訂を重ね、第2部と第3部の作業は大幅に遅れ、貧困と病苦の中で膨大な未整理草稿を残したまま、1883年に世を去った。マルクスは大変な悪筆であったので、遺稿はエンゲルスしか読めず、編集作業は彼にしか行うことができなかった(後にマルクスの文字の読み方をカウツキーとベルンシュタインに伝授)。エンゲルスは、マルクスが遺した膨大な草稿と悪筆の前に、夜間の細かい作業を余儀なくされ、目を悪くしたとされる。なお2004年には、『資本論』第2部の編集に際してはエンゲルスとともに、今まで「エンゲルス原稿編集の口述筆記者」として扱われていたオスカル・アイゼンガルテンが相当程度この編集作業に関与していたことが明らかになっている。
『経済学批判』という題でマルクスが最初に構想していたのは全6編であったが、それは後に『資本論』全4部構成に変更された。マルクスの『資本論』構想は理論的展開から成る第1部-第3部と、学説史から成る第4部であった。しかしマルクスの生前に刊行されたのは第1部(諸版があり、独語初版、改訂第2版、マルクス校閲仏語版、ロシア語版)のみで、あとに残ったのは膨大な経済学批判に関するノート類である。現在それらの草稿の多くはアムステルダム社会史国際研究所、あるいはモスクワの現代史文書保管・研究ロシアセンターに保管されている。
第1部
第1部は資本の生産過程の研究である。
 商品と貨幣
資本論の冒頭部分を日本共産党中央委員会附属社会科学研究所資本論翻訳委員会訳を元に翻訳した。
資本主義的生産様式が支配している社会の富は、巨大な商品集合体として、個々の商品はその富の要素形態として現われる。だから、私は、商品の分析から叙述を開始する。
マルクスは、巨大な資本主義経済を構成する、最も単純でありふれた要素である商品の分析から出発する。
商品は、人間の欲望をみたす使用価値(近代経済学で言うところの効用の対象となるもの)と、他のものとの交換比率であらわされる交換価値(発展した貨幣表現としては価格)をもつ。等価関係におかれた二商品は、なぜ価値が等しいと言えるのか。使用価値が等しいからではない。なぜなら使用価値が異なるからこそ交換の意味があるからである。では商品から使用価値を取り去ると何が残るか。それは、商品とは、自然物になんらかの人間の労働が付け加わった労働生産物である、ということだけである。二つの商品が等価であるというとき、その商品の生産に費やされた労働の量が等しい。しかもこの労働は、シャツや綿布といった具体的な使用価値を形成するような、裁縫労働や織布労働といった具体性のある労働(具体的有用労働)ではない。労働の具体性をはぎとられた抽象的な労働、単なる人間の能力の支出としての抽象的人間労働、そのような労働の生産物として二つの商品は等しいとされる。抽象的人間労働の凝固物、これが価値の実体である。価値の量すなわち抽象的人間労働の量は、基本的には労働時間によってはかられ、その際に労働の強度や労働の複雑さが考慮される。
さらに、価値量を規定する労働時間は、その商品を生産するのに必要な個別的、偶然的な労働時間ではなく、社会的に必要とされる平均的労働時間である。たとえば、ある社会に、1日8時間労働で1着のシャツをつくる商品生産者Aと、1日8時間労働で7着のシャツをつくる商品生産者Bがいるとすれば、社会全体としては16時間労働で8着のシャツが生産され、平均すれば、1着あたりに2時間労働が費やされていることになる。商品生産者Aが手にするのは2時間労働分の価値、商品生産者Bが手にするのは14時間労働分の価値である。したがってよく誤解されるように、怠け者が得をするわけではない。
商品の価値は、その商品の生産に費やされる社会的に平均的な労働量によって決まる。これがマルクスが、アダム・スミスやリカードから受け継ぎ発展させた労働価値説のあらましである。
しかし、商品は自らの価値を自分だけで表現することはできない。ある商品の価値量は、他の商品の使用価値量によって表現される。これが貨幣の起源である。商品社会で、ある一つの商品の使用価値量によって他のすべての商品の価値量を表現することが社会的合意となった場合、その特殊な商品が貨幣となるのである。貨幣商品の代表が金(gold)であり、その使用価値量、すなわち重量が貨幣の単位となった。
また、商品の価値を貨幣で表現したものが価格である。ある商品の価格は需要供給の変動により、価値と離れて変動するが、価値はこの価格変動の重心に存在し、長期的平均的には、商品が含む労働量によって、価値によって価格は規定される。
商品や貨幣は、資本を説明するための論理的前提である。一般の商品流通は、自分の所有する商品と相手のもつ商品との間の、貨幣を媒介とした交換の過程であり、商品−貨幣−商品である。この流通は「買うために売る」、つまり欲しい商品を手に入れ、その使用価値を消費することによって終わる。これに対して、資本としての貨幣の流通は「売るために買う」、…貨幣−商品−貨幣…である。この流通の目的は価値、しかも、より多くの価値を得ることであり、資本としての貨幣の流通は終わることのない無限の過程である。資本とは「自己増殖する価値」であり、これが最初の資本概念である。資本を理解するためには、価値とは何か、貨幣とはなにか、商品とはなにかが理論的に明らかにされている必要があったために、資本概念の前に商品、貨幣、価値などの概念が説明されていたわけである。
 貨幣の資本への転化、剰余価値の生産
では、資本はどのようにして価値増殖し、儲けを得るのか。その答えは、自ら価値を生産する特殊な商品すなわち労働力商品を所有する、賃金労働者からの搾取によってである。
機械などの生産手段や貨幣がそのまま資本になるのではない。ある歴史的条件の下で「資本」に転化する。その決定的な条件とは、生産手段を所有するブルジョアジー(資本家階級=生産手段の所有者)と、封建的身分からも生産手段の所有からも自由となった、労働力商品以外に売るべき商品を何ももたない賃金労働者の存在である。マルクスは産業革命当時のイギリスでよく見られたラッダイト運動を機械などの「物質的な生産手段」ではなく、この「社会的な搾取形態」を攻撃すべきだと批判した。
資本(その人格化としての資本家)は、労働者から労働力商品を購買する。労働者はその対価として、賃金を受け取る。賃金は労働力商品の価格である。労働力商品の価値はその再生産のために必要な費用、すなわち労働者と家族の生活費によって決まる。労働力商品の使用価値は、労働して価値を生み出すこと、しかも資本家にとっての使用価値は、賃金を超える価値を生み出すことである。賃金を超えて労働者が生み出した価値が「剰余価値」であり、資本家がこれを取得する。——これがマルクスが明らかにした搾取(労働者が生み出した価値−賃金=剰余価値)の秘密であり、資本の儲けの秘密である。たとえば日当1万円の労働者が2万円分の価値を生み出すなら、差し引き1万円分の剰余価値が資本家のものとなる。逆に言えば、剰余価値をうまない労働者、自分の賃金以上の価値を生み出さないような労働者は、資本にとっては購入する必要も動機もない。
資本は使用価値を消費する目的のために生産を行うのではなく、無限の剰余価値(対象化された不払労働)の追求、すなわち「もうけ」のために生産を行う。したがって、例えばいくら飢餓が生じ、食糧の生産が必要であっても、もうけが生じなければ資本は生産はしない。逆に兵器など社会にとって有害なものでも、もうけが出れば資本は生産する。マルクスはこのことを『資本論』の中で、「まず第一に資本主義的生産過程の推進的な動機であり規定的な目的であるのは、資本のできるだけ大きな自己増殖、すなわちできるだけ大きい剰余価値生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である」と書いた。
 剰余価値生産の二つの方法絶対的剰余価値生産と相対的剰余価値生産
資本が取得する剰余価値を増加させるには二つの方法がある。第一に、労働力の価値(またはその価格表現である賃金)が一定であるなら、労働時間を延長させることである。日当1万円の労働者が8時間労働で2万円分の価値を生み出すとき、12時間労働に延長すれば3万円分の価値を生み出し、剰余価値は1万円分増加する。これを絶対的剰余価値生産という。ただし、この方法には限界がある。まず1日は24時間しかない。さらに賃金労働者は労働時間の短縮を求めて労働組合を組織して資本家に抵抗する。
そこで、とられる第二の方法は、労働時間が一定ならば労働力の価値または賃金を減らすことである。先ほどの労働者の日払い賃金を1万円から5千円に半減させれば、剰余価値は2万円から2万5千円に増大する。これを相対的剰余価値生産という。しかし、無前提に労働力の価値を減らすことはできない。労働力の価値または賃金は、労働力商品の再生産費、つまり労働者とその家族の生活費によって決まっている。資本の側から一方的に賃金を減らすことは、労働者を生活不能にし、労働力商品の再生産を不可能にさせる。賃金労働者なくして資本は剰余価値生産できないから、短期的にはともかく長期的にはこのようなことは不可能である。ではどうするか。それは生産力の上昇によって可能となる。生産力を上昇させ、労働者の生活手段を構成する商品の価値が安くなれば、労働者の生活費も安くなり、労働力商品の価値が低下し、賃金を引き下げても労働力の再生産が可能となる。賃金を半減させるためには、生産力が二倍となればよいのである。個々の資本はより安価な商品を目指して生産力を上昇させるために、相互に競争している。この競争が諸資本を強制し、個々の商品を安くさせ、生活費を安くさせ、賃金を引き下げる前提を生み出している。
生産力を上昇させる手段には、協業、分業に基づく協業、児童労働機械制大工業があり、マルクスはそれぞれについて分析している。
日本資本主義における正社員の長時間過密労働は絶対的剰余価値生産の概念によって、非正社員の低賃金は相対的剰余価値生産の概念によって、よく説明することができる。
 資本の蓄積
賃金労働者を搾取して資本が得た剰余価値は、資本家の所有するところとなる。資本家はこれを全て消費することも可能だが、「資本の人格化」としての資本家は個人的消費を節約して、剰余価値を再び資本に転化し、資本蓄積がおこなわれる(剰余価値の資本への転化)。ここから資本家の「禁欲」の結果、富が蓄積されるという社会的意識が生じ、禁欲を善とするプロテスタンティズムが資本主義の精神となる(マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。
資本の蓄積の過程は、ますます多くの賃金労働者が資本に包摂されることであり、資本−賃労働関係の拡大再生産である。歴史的にヨーロッパでは、羊毛生産のために封建領主が農民を土地から追い出す囲い込みによって、農村から駆逐された農民が、産業都市に移住しプロレタリアートに転化した。資本主義の初期に現れる、国家の暴力を利用したプロレタリアートの創出を本源的蓄積という。
また、相対的剰余価値生産に伴う生産力の増大は、剰余価値から転化される資本について、不変資本(生産手段購入に投じられた資本)に対する可変資本(労働力購入に投じられた資本)の比率を相対的に小さくしていく(資本の有機的構成の高度化)。こうして賃金労働者のますます多くの一定部分が、相対的過剰人口(失業者や半失業者)に転化する。資本主義的生産のもとでは、一方で資本家の側には富が蓄積され、他方で賃金労働者の側には貧困が蓄積されていく。これをマルクスは「資本蓄積の敵対」と呼び生産関係の観点からからこの現象を分析した自著の『哲学の貧困』第2章第1節を引用している。
資本蓄積の発展に伴って、生産は次第に集積し、自由競争は独占へと転化する。賃金労働者によって担われる生産の社会化が進む一方で、依然として富の取得は資本家に委ねられて私的なままであり、資本と賃労働の間の矛盾はますます大きくなる。この矛盾が資本主義の「弔いの鐘」となる、とマルクスは第1部を結ぶ。
第1部では、剰余価値が生産過程において賃金労働者からの搾取によって生み出されていることを示した。剰余価値は利潤、利子、地代の本質、実体であり、利潤、利子、地代は剰余価値の現象形態である。これらについては、第3部で分析される。
第2部
第2部は資本の流通過程の研究、すなわち、資本制的生産様式の再生産に関する研究である。第1部がマルクス自身が構成や叙述の仕上げ、刊行まで関わったのに対し、第2部は、マルクスの死後、残されていたいくつかの草稿(第2部のエンゲルスによる序文を参照)をエンゲルスが編集、刊行したものである。
第1篇と第2篇は資本の循環や回転などを扱っており、個別資本の流通過程での運動を考察した。いわば資本家が経営の上で資本の動きを見る時と同じ視点である。実際、マルクスは、工場経営者であったエンゲルスにしばしば資本の回転率などについて照会の手紙を送り、経営のリアルな現実における実務を学び、この草稿に反映させている。
第3篇は社会全体における資本の流通過程の研究である。「再生産論」と呼ばれる理論分野で、社会的総資本の観点から、資本制的生産様式を維持・持続するために、資本の生産・流通・再投下が、どのような制約・条件の下でおこなわれているかを考察したものである。マルクスはフランソワ・ケネーの経済表に刺激を受けながら「再生産表式」とよばれるモデルをつくりあげ、マクロ的視点から資本の流通・循環を論じた。
第3部
第3部は、資本主義的生産の総過程の研究である。第3部も第2部と同様に、マルクス自身の手で刊行されたものではなく、マルクスの草稿をエンゲルスが編集(第3部のエンゲルスによる序文を参照)したものである。
第3部は第1部と第2部の研究をふまえ、資本主義経済の一般的・普遍的な諸現象である費用価格、利潤、平均利潤率、利潤率の傾向的低下の法則、利子、地代などを扱い、資本主義経済の全体像の再構成を試みた。
『資本論』の方法
マルクスが『資本論』で用いた方法は、資本主義社会全体の混沌とした表象を念頭におき、分析と総合によって資本概念を確定し、豊かな表象を分析しながら一歩一歩資本概念を豊かにしていくことを通じて、資本主義社会の全体像を概念的に再構成するという、分析と総合を基礎とする弁証法的方法である。
「表象された具体的なものから、ますますより希薄な抽象的なものにすすみ、ついには、もっとも単純な諸規定にまで到達するであろう。そこからこんどは、ふたたびあともどりの旅が始まるはずであって、最後に再び人口にまで到達するであろう。だがこんど到達するのは、全体の混沌とした表象としての人口ではなく、多くの諸規定と諸関連をともなった豊かな総体としての人口である」(マルクス『経済学批判序説』)。
これがマルクスが『資本論』で用いた「上昇・下降」と言われる方法、ヘーゲル弁証法の批判的継承とされているものの核心の一つで、その方法の核心は、唯物論を基礎とする分析と総合による対象の概念的再構成である。『資本論』のサブタイトルが「経済学批判」であるのは、当時の主流であった古典派経済学とそれを受け継いだ経済学(マルクスの謂いによれば「俗流経済学」)への批判を通じて自説を打ち立てたからである。
マルクスが『資本論』において、古典派を批判したその中心点は、古典派が資本主義社会が歴史的性格を持つことを見ずに、「自然社会」と呼んで、あたかもそれを普遍的な社会体制であるかのように見なしたという点にある。すなわち資本主義社会は歴史のある時点で必然的に生成し、発展し、やがて次の社会制度へと発展的に解消されていく、という「歴史性」を見ていないというのだ。
マルクスは『資本論』第1巻の「あとがき」において、このことをヘーゲル弁証法に言及しながら、こう述べた。「その合理的な姿態では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとっては、忌わしいものであり、恐ろしいものである。なぜなら、この弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである」。
マルクス経済学やマルクス主義がほぼ壊滅(?)したように見える現在、何故マルクス経済学を学べなければならないかと問われるならば、もし資本主義に法則があるならば、そしてそれを認めるならば(あるいは、あるかも知れないと思うなら)、価値論(資本論での価値論に拘る必要は無い)から研究を始める他は無く、従って資本論の研究がスタートになるだろう。
『資本論』の中の共産主義論
『資本論』は、資本主義的生産様式とそれに照応する生産・交易諸関係を研究した著作であり、共産主義の未来モデルを描いた著作ではない。ただし、マルクスは資本主義の諸特徴を、資本主義以前の生産様式(封建制、奴隷制など)の場合や、未来の協同社会(共産主義社会)の場合としばしば対比している。
『資本論』全3部の中で「共産主義社会」と記載されている箇所は第一部の「共産主義社会では、機械は、ブルジョワ社会とはまったく異なった躍動範囲をもつ」と第二部の「共産主義社会では社会的再生産に支障が出ないようあらかじめきちんとした計算がなされるだろう」のわずか2箇所である。マルクスは資本主義とは異なる協同的な生産様式を、「結合的生産様式」、「結合した労働の様式」、「協同的生産」、「社会化された生産」などと表現している。より詳細な規定としては、「協同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」(第1部第1編)、「労働者たちが自分自身の計算で労働する社会」(第3部第1編)、「社会が意識的かつ計画的な結合体として組織」(第3部第6編)などがある。
また、『資本論』において国家は重要ではなく、「意識的計画的管理」(第1部)「意識的な社会的管理および規制」(第3部)といった形で市場の「無政府性」を理性によって規制するという一般論が述べられているだけである。
マルクスは『資本論』第3部で、「自由の国」(自由の王国とも)と「必然の国」の問題に触れ、共産主義革命の目的を述べている。すなわち、経済が資本主義=剰余価値(もうけ)の追求から解放され、社会の合理的な規制の下に服して社会の必要に対する生産という経済本来のあり方を回復するが、それでも生産は人間が生活していく上で必要な富をつくりだすための拘束的な労働(必然の国)が要る。しかし、この時間は時間短縮によって次第に短くなり、余暇時間(自由の国)が拡大する。『資本論』第3部では、この時間の拡大によって人間の全面発達がおこなわれ、人間が解放されるとマルクスは主張した。
『資本論』研究
元々のマルクスのプランに基づく『資本論』の復元については様々な議論がおきている。現在、マルクスとエンゲルスの全ての著作物を刊行する新MEGAの試みが国際的な共同作業で行われ、この中で『資本論』の構成についても吟味されている。この新MEGAにおける第II部「『資本論』および準備労作」全15巻24分冊の編集はL・ミシケーヴィチ、L・ヴァシーナ、E・ヴァシチェンコ、大谷禎之介、C・E・フォルグラート、R・ロート、E・コップフ、大村泉、M・ミュラーなど各国の研究者により、進められている。
初期の日本語訳は高畠素之らによるもので、これを勉強した中国の留学生が社会主義・共産主義を中国に持ち帰ったと言われる(なお、中島敦の伯父である漢学者の中島端(端造)が、日本語訳に先んじて漢文訳を行ったものの、内容は面白いが文章が悪文であると述べて、そのまま放棄してしまったと言われている)。資本論の読み直しは、フランスのルイ・アルチュセールや日本の廣松渉、今村仁司、柄谷行人らによって行われている。
批判
Questionbook-4.svgこの節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年1月)
マルクス主義一般を批判した著作や学派は多数あるが、『資本論』そのものを批判した代表的な論者の一人にオーストリアの経済学者でウィーン学派のオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクがいる。ベーム=バヴェルクは、『マルクス体系の終結』のなかで、マルクスが第1部では価値は投下労働量によって決まるといっているのに、第3部ではそれとは別の、需給変動にもとづく生産価格と平均利潤率の理論を持ち出しているとして、これを『資本論』の第1部と第3部の矛盾と批判した。
また、この問題に関わって、価値が価格に転化する際に、総価値=総生産価格が貫かれるとするマルクスの立場を批判したドミトリ・エフ・ボルトケヴィッチなどがいる。これらを総称して「転形問題論争」という。
その他
表象された具体的なものの徹底的な分析から議論が進むため、マルクスの生活当時の生活必需品や様々なものの価格の記載が多く、当時の一般労働者の生活を伺う資料としても貴重である、という見方をする人もいる。(しんぶん赤旗連載、『資本論』ゼミナール参照)
2013年6月にはそのドイツ語版初版第1部が、1848年の『共産党宣言』の草稿と共にユネスコの世界の記憶に登録された。
資本論の要約
「人間の労働があらゆる富の源泉であり、資本家は、労働力を買い入れて労働者を働かせ、新たな価値が付加された商品を販売することによって利益を上げ、資本を拡大する。資本家の激しい競争により無秩序な生産は恐慌を引き起こし、労働者は生活が困窮する。労働者は大工場で働くことにより、他人との団結の仕方を学び、組織的な行動ができるようになり、やがて革命を起こして資本主義を転覆させる。」
「人間の労働があらゆる富の源泉であり、資本家は、労働力を買い入れて労働者を働かせ、新たな価値が付加された商品を販売する」
労働があらゆる富の源泉である理由は、そもそも商品を作り出すには労働が必要だからです。
作物を収穫するにも人の手で収穫しなければいけませんし、機械を造るにしても労働が必要になります。価値のある商品を生み出すには、必ず労働が必要であることに気づいたマルクスは、労働によって商品の価値が決まると考えました。そして商品の価値はお金に変えることができるので、労働の価値をお金に変えることもできます。つまり商品=労働=お金という式が成り立ちます。
ここまでが、労働があらゆる富の源泉である説明です。
次に、資本家は、労働力を買い入れて労働者を働かせ、新たな価値が付加された商品を販売するの説明です。
資本家は、資本をもっと増やしたいと思っている人間です。資本を増やすには、労働力を使って商品を生み出すか、存在している商品に新たな付加価値を付けて売りだす必要があります。
例えば、労働力を使って小麦粉を作り出したとします。これだけでも価値はありますが、その小麦粉を使ってパンにすることで付加価値がつき、小麦粉よりも高い価値が付きます。こうして労働力を使うことで、商品の価値を増やしていく事ができるのです。まあ、当たり前ですよね。
「資本家の激しい競争により無秩序な生産は恐慌を引き起こし、労働者は生活が困窮する。」
資本家は、金儲けのために資本家同士で激しい競争を始めます。その激しい競争には付加価値を付けること以外にも、労働者を徹底的に働かせ、より安い商品を生み出すことも始まるでしょう。
安い商品というのは、商品の価値が下がっているということです。商品の価値が下がるということは、労働力の価値も下がるということですから、労働者の賃金の低下に繋がります。
つまり、過度の生産は、商品の価値を下げ、労働者の価値も下げるのです。
会社のためにサービス残業などをして一生懸命働いているのに、その働きが自分の自分の価値を下げることに繋がっているなんて切ないですね。
「労働者は大工場で働くことにより、他人との団結の仕方を学び、組織的な行動ができるようになり、やがて革命を起こして資本主義を転覆させる。」
労働者を大工場で働かさせるほうが機械や工場を一つに集中させることができるので、資本家は多くの利益を生み出すことができます。そのうえ、大勢で働くことで、やる気を刺激し能力を高めることができるのです。
そして、大工場で働いている大勢の労働者は、他人との団結の仕方を学び労働組合を結成し、ストライキなど組織的な行動ができるようになり、団結した多くの労働者が、やがて革命を起こして資本主義を転覆させます。
ここまでがマルクスが書いた資本論の簡単な流れです。
まとめ
資本主義の仕組みとして、資本家同士で競争し勝った企業が資本を独占し始めます。勝った企業は労働者を多く働かせることになりますが、大勢の労働者が団結することで資本に負けない力を得るので、資本主義が転覆してしまう可能性がある。とマルクスは言っています。
だから組織した労働者が、資本主義を超えた新たな主義ができることをマルクスは願っていたのですが、組織した労働者が革命を起こすことはなく、ソ連や中国では労働者ではない人間がトップに立ち、国家が労働者を管理する社会主義が生まれてしまいました。
マルクス主義と言われていますが、マルクスもこんなことになるとは思っていなかったのではないでしょうか。
最後に資本論に書かれている資本主義がもたらしたデメリットを書いておきます。派遣切り、サービス残業、ワーキングプア、過労死、失業者の増加、格差社会。
 
「資本論」 2

 

資本論
「資本論」はカール・マルクスによって150年以上前に書かれた本です。マルクスは資本主義が如何に非人間的なものであるのかを分析し、そこから社会主義運動、共産主義運動が広がっていき、やがてソビエト社会主義共和国連邦が誕生し、それをモデルとして中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国ができ、東ヨーロッパの国々が次々と社会主義の国へと変化していくという一大ムーブメントを巻き越しました。改めて確認してみるとすごいことですね。世界を変えたといっても過言でないということが良くわかります。この「資本論」は1867年の発売当初は発行部数1000部が全て売れるまでにものすごい時間を要したという記録があります。しかし時を経て翻訳されて世界に広まり、日本語版は累計で400万部の冊数が売れたとされています。
ものすごい大ベストセラーとなるわけですが、そもそも何が書れているかというのは、資本主義を分析した内容です。その序盤の一説を紹介します。
「資本主義生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現れる。したがって、我々の研究は商品の分析から始まる。」
これを噛み砕いて希釈すると「資本主義社会ではすべてが商品になっている」ということです。そうなるとひとつひとつの商品がどんなものか分析すれば全体像も見えてくるだろうということを言っています。
さて、では究極の問題です。
「愛情は金で買えるのか」
この池上さんの解説は大学の学生を対象に行われてもので、実際に講義の際に学生とやり取りをしていました。その中では
「資本主義経済の下ではすべてが商品と言うことは愛情も変えるんじゃないかと思いました。」
「買える人もいるし買えない人もいると思います。金額次第ではなびいてしまうひともいるから。私はなびかないと思います。」
などの意見が出ました。しかし後者の意見を言った女性に池上さんが「じゃあ好きな人はどんな貧乏でもいい?」と質問されると笑ながら黙ってしまいました。非常にリアルな対応かと思います。笑
ひとつ例を出します。
もしも彼がデートのために巨大なテーマパークを貸し切りにしてくれたらそれはそれは嬉しく思いませんか?自分のことを愛してくれているからだと・・・。しかし、それを巨額の富がなければなしえないこと。つまり結果的に愛情を買うといいうことになるのであろうか・・・。
この講義の中ではこの問題についての答えは出さずに終えましたが、池上さんが何を言いたかったのかと言うと、愛情という商品になりえないように思うものでも、危うい立場にある・・・・資本主義とは本当に全てが商品になって循環している社会なのだということです。そしてその商品は「なぜ商品なのか?」ということを見ていくということがマルクスの資本論の論理立てになるのです。
商品の価値
マルクスは商品の価値を考えた時に二つの価値を見出しました。
1 使用価値
一つ目の価値は「使用価値」。その商品をどのように使用することが出来るかということにおける価値です。例えば高価なブランド物のシャツに対する「使用価値」とは何でしょうか。シャツの使用価値を考えれば「着ること」ができるだけでその使用価値をまっとうできます。しかしブランド物は高価ですよね。そこには「着心地がいい」、「性能がいい」、「ブランドのロゴがある」などの使用価値があるのです。
2 交換価値
二つ目の価値は他の商品と交換できるという「交換価値」。この交換価値と言うのは物と物はもちろん、お金とものも交換できます。そしてお金は金と交換出来ました。それが今の時代もお金がお金として存在している所以となっています。
お金
大昔は物々交換をしてものを調達していました。漁師は肉が食べたくなり、猟師は魚が食べたくなる・・・結果両者が出会うと物々交換が発生します。しかし、これは偶然が重ならないと発生しませんよね。ではどうするか。みんなが欲しがるものにとりあえず変えておけばいいという考えに至ります。生ものなどは腐ってしまいますからね。そこで皆が欲しがる布や、保存のきく稲などが物々交換の仲介役になっていきます。中国では子安貝がその仲介役に選ばれていました。それを象徴するかのように「財産」や「貴重品」、「賄賂」などおかにまつわる漢字には「貝」が入っていますよね。この仲介役が金や銀などになり、やがてお金が誕生するのです。
容易に想像がつくかと思いますが、お金の誕生によってこの物々交換は爆発的にスムーズに行われるようになりました。しかし、マルクスはそれこそが危険であると説きました。商品があり、それを売ってお金に換えます。そしてそのお金によってさらに商品を購入します。商品→お金→商品と言うサイクルです。しかし、このサイクルに逆転現象が起きてきます。お金があって、商品を買い、その商品を売ることでお金を得ようとします。お金→商品→お金のサイクルです。これはお金自体を増やそうとする動きに他なりません。つまり資本家ですね。
労働力の誕生
さあ、このシステムでは前より価値を増やさなければいけません。それは労働力があってはじめてできることなのだということをマルクスは発見します。
「ある商品の消費から価値を引き出すためには、貨幣所持者は流通圏内部すなわち市場において、その使用価値自体が価値の源泉となるような独特の性質を持つ商品を運良く発見する必要がある。その商品は、現実にそれを消費すること自体が労働の対象化、すなわち価値創造となるような商品でなければならない。そして事実、貨幣所持者は市場でこのような特殊な商品を発見する。労働能力すなわち労働力がそれである。」
商品の消費をすることでそれ以上の価値を見出すためには労働力が必要と言うことです。
ある資本家が商品を作るためにお金を払って工場を建設しますが、それを建設しただけではできません。そこに労働力があって初めて目的の商品の生産が可能になります。消費することで新たな価値を生み出すもの、それが労働力なのです。労働者の誕生です。労働者は「労働力を売ること」を資本家と契約を結びます。一見物々交換をしており対等な印象を受けますが、これが奴隷のような扱いを生み、格差社会を形成していきます。資本家は少しでも労働者を長く働かせることによって利益が上がります。そのため長時間労働を強いるようになり、労働者は学校などに通う時間が無くなってきて無知が広がります。それによってさらに労働を強いることが容易な環境が生まれ、資本家はどんどん富を蓄積するのに対して労働者は貧困と無知が蓄積していくという非常に大きな格差が生まれるということです。
マルクスが資本主義を批判するミソの部分はここなのです。
エンゲルス
前述でマルクスが訴えたいとする資本主義の闇の部分はわかりました。さて、そこで一つ面白いことがあります。実はマルクスにを支持してくれていた友人にエンゲルスという思想家がいました。この人は経済的にマルクスを援助し、資本論の出版を助けたとされています。しかし、このエンゲルスは父親が大企業の向上の経営者であり、結果的にその工場を継ぐことになります。つまり、資本論で言うところの資本主義社会の最大の悪い点、労働という資本を作り出す資本家として活動し、自身は資本主義経営をしながらいかに資本主義がひどいものであるかをマルクスに説いていたのです。これによってマルクスは資本主義社会の実態にリアルに触れることが出来たのですね。しかし、資本主義社会であるがゆえに、お金は重要アイテムになります。それを多く生み出すには資本家になる必要があります。このエンゲルスの生き方というのは非常にリアルでシビアで皮肉的なものですね。笑
「資本論」は3部構成になっていますが、実はマルクスが生前の際に出版されたのは1部のみ。マルクスの死後、原稿をまとめ、編集して2部、3部を出版したのがこのエンゲルスなのです。
社会主義革命
「資本論」の一説を引用します。
「巨大資本家は(中略)いっさいの利益を奪い取り、独占していくのだが、それとともに巨大な貧困が、抑圧がそして隷従と堕落と搾取が激しくなる。だがまた、資本制的生産過程のメカニズムを通じて訓練され、統合され、組織化され、増加する一方の労働者階級の糞がいも激しくなる。(中略) 資本制的私的所有の終わりを告げる鐘が鳴る。収奪者たちの私有財産が剥奪される。」
「資本制的私的所有の終わりを告げる鐘が鳴る。」という一説は、ユダヤ・キリスト教の「最後の審判」ということになります。つまり資本主義の下で労働者は抑圧され、無知に追いやられるだけではなく、皆で仕事を共有することで突出した能力があるものがリーダー的存在へ繰り上がり、組織的な抵抗運動をするために能力を高めることもでき、こうした労働者たちが資本家たちをやっつけ、世の中をひっくり返すことが起きるとマルクスは言っているのです。
マルクスの分析によって「資本主義は極めて非人道的な経済体制」であることが明らかになりました。こうしてその資本主義社会とは別物である社会主義はずっといいものであると考えられていました。こうして社会主義革命が起こっていくことになります。しかし、歴史の跡をたどれる我々はその社会主義に変換していった国家が悲惨な失敗を遂げたことを知っていますよね?では、社会主義とはどのような問題があったのか。
社会主義国家が失敗した理由
ソビエト社会主義共和国(1917年〜1991年)
真っ先にマルクスの考え方によってつくられた国がソビエト社会主義共和国(1917年〜1991年)になります。国を率いたのはソ連の初代最高責任者であるレーニン。資本主義へと切り替わった現在のロシアにおいてもこのレーニンの銅像などはいたるところに残っているそうです。
「レーニンの時代はよかった」と感慨にふけるものも多くいるということなのですね。
そして第2代の最高責任者となったのはスターリン。レーニンの時代にはまだ自由な風潮が蔓延していたのですが、スターリンに切り替わってからは徹底的な言論統制の社会に変わっていきました。
こうした変化はソ連をとりまく資本主義国家からの資本主義的な思想・考え方が流入することにより、反革命的な動きが起こることを恐れた結果なのです。加えて社会主義に切り替えたソ連が経済的にも優位であることを周囲に示す必要がありました。
そこで着手するのが、農業の集団化。全ての農地を国有化し、農民を平等な「労働者」にしようとしました。そのために大地主は殺してしまうという処置をとって・・・。こうして労働者に格差が生まれない労働者のために理想の社会を謳ったのです。
しかし、その理想と現実はこうなりました。
つまり、本来土地を持って生産をする場合は、その地で獲れたものは自分のものになるため、それを利用してお金を稼ごうという意識が働き、なんとしてでも作物を守って生産性を上げようという思考が働きます。
しかし、集団農場の場合は農民が「国家公務員」という扱いになります。すると生産を上げなくても最低限のコアタイムに労働をしていれば生活は保障されているために、生産性を上げる工夫は成されなくなっていくのです。
これは地主を排除した政策もあだになりました。農業に対して知識が豊富な人間がいなくなってしまったのです。
結果的に1932年にはソ連の一部であったウクライナで大飢饉が起こり、死者は1000万人以上に及びました。

マルクスの分析では資本主義社会の下では資本家たちが激しい競争を繰り広げます。その結果「過剰生産」が起きます。しかしその裏で労働者たちは過酷な労働を強いられます。ここに需要と供給に大きな差が出て不況に陥る場合があり、最悪の際には恐慌が起きる場合もあるとしました。
それに習い、社会主義では国家が計画を立てて全てを計画生産すればいいと考え、実行しました。
しかし、これもまた裏目に出ます。
「ブーツを作れ」という指令に対し、
「ブーツを作ればいい」⇒「雨や風にさらされない靴があればいい」⇒「長靴で代用可能」
という思考になり、結果的に外観などは気にしない機能だけ搭載されている商品が完成します。しかし、購入者としてはこんなダサいものを着用したくはないわけです。つまり生産側に競争がない為に、「いいもの」を作るという思考にならないのですね。こうして商品が売れ残ります。
わかりますか?結局、資本主義でも社会主義でも過剰な供給が増え、資源の無駄遣いが起こるのです。
こうして1991年にソ連は崩壊するに至りました。
中華人民共和国(1941年〜)
1949年に建国された中華人民共和国。中国もまた社会主義国家として非常に有名ですね。初代最高責任者は毛沢東。
毛沢東が提唱したのは大躍進政策。
ソ連の第3代最高責任者であるフルシチョフは「15年でアメリカに追いつき追い越そう」というスローガンを掲げました。
それに対抗し中国は当時世界2位である経済大国であったイギリスに追いつこうとします。イギリスは当時鉄鋼業によって栄えていました。そのため、中国の指針として鉄鋼業に目を向けます。
こうして農民も鉄鋼生産に着手することになりました。各地に造られたのは土で作られたミニ製鉄所である土法炉。
これに使用する耐火レンガが必要なのですが、中国にはこれを作る知識がありませんでした。そこで目を付けられたのが長い歴史を誇る中国で作られた寺院に使用されているレンガ。
また、炉の燃料となる森林を伐採。これによって山々がはげてしまいました。今黄砂が飛んでくるという問題は、この時期の森林伐採によるところが大きいとされています。
そしてさらに問題となるのは、鉄を作り出すための鉄鉱石が中国にはありません。そこでそこら中にある鉄製品を炉の中に入れて溶かすという作業が起こり始めます。こうして農機具に使用されている鉄を溶かすのです。

どうなるかわかりますか?そう。中国から農機具が姿を消すのです。
明らかにおかしいのですが、絶対的なカリスマ性を持っていた毛沢東に対しては反旗を翻すことがあっては、生きてはいけません。こうして中国の社外主義もまた無理に無理が重ねられていくのです。
結果として毛沢東の死後、ケ小平によって実質的に資本主義へと転換していく運びとなりました。しかし実際に実施されている経済体系は「社会主義市場経済」という社会主義と資本主義が共存したかのようなもの。
つまり共産党の独裁政権の下での自由な資本主義経済です。これが現在の中国。
トマ・ピケティ著「21世紀の資本」
こうした社会主義国家は切り替えた当初としては経済が劇的に伸びたという歴史もあります。しかし、長期的には続くことが出来ないのです。
2008年のリーマンショックにより再び注目をそそがれるようになったマルクスの「資本論」。資本主義経済もまた、様々な矛盾を抱えている経済です。こうして、資本主義もまた永続的な体制ではないのでは・・・と考えられるようになったのですね。
また、トマ・ピケティ著「21世紀の資本」が出版されたことも資本主義について考えさせられる一つの要因となりました。ピケティが100年以上にわたっての世界各国のデータを調査した結果産まれたのがこの公式。
r > g / rは株式などの資本から得られた資本収益率。gは国の経済成長率。つまり国の経済成長率よりも資本家が得る収益率の方が上であることを紹介したのです。
国の経済成長率というと貧しい人なども含まれているデータです。その伸び率よりも資本家の利益の増大率の方が大きいということは、資本家に一方的な富の蓄積があるということです。
まさにマルクスが言ってきたことそのものをデータによって立証したことになります。しかしマルクスはそれがゆえに資本主義社会は打倒すべきと主張しましたが、ピケティは
「資本家の利益を国が税金として取り上げよう」
「gを高めrを意図的に減らして格差を少しでも減らすべき」
という意見を述べるのです。  
 
『資本論』から資本主義社会を生き抜く

 

書店に行くと、「マルクス」「資本論」関係の書籍が数多く並んでいます。それも、経済学の専門書コーナーばかりではなく、一般書やビジネス書などのコーナーに積まれていることも珍しくありません。しかも、いわゆるマルクス主義経済学者ではない立場の人、たとえば池上彰さんなどが書かれて本がたくさんあります。二十数年前、ベルリンの壁が壊され、ソビエト連邦が崩壊したころは、マルクスは絶滅危惧種でした。
「マルクスは時代遅れ、資本論など読む価値なし」と言われていましたが、いつのまにか時代は変わってきています。
なぜ、『資本論』が注目を浴びるのでしょうか。『資本論』を読むとなにか得することがあるのでしょうか。
誰が『資本論』を読んできたのか
『資本論』といえば労働者階級に向けて書かれた本というイメージがあると思います。しかし、本当にそうでしょうか。マルクスの他の著作、たとえば『共産党宣言』などはあきらかに労働者に向けて書かれていますが、『資本論』はそうとは言い切れないと思います。
なぜなら、当時の労働者階級の人々が読むにしては内容が難しすぎるからです。資本論を読んだことのない人は、試みに『資本論』を開いてみてください。翻訳の問題もあるにせよ、非常に難解なことがわかります。
マルクス本人の意図はともかくとして、結果的に労働者階級の人々では読みこなすことはできませんでした。では、誰が読んだのでしょうか。それは広い意味での「資本家層(エリート官僚や政治家を含む)」だったのです。
彼らは『資本論』を読んでどう考えたのか。おそらくはこういうことです。
「どうもマルクスが言っていることは正しいらしい。このままいくと、資本主義社会は崩壊して、社会は大混乱になり、自分たちはいまの地位から没落する。」
そう考えた彼らは、資本主義を存続させ、マルクスの予言(共産主義革命が起きて、プロレターアート独裁が実現する)が実現しないようにするためにどうすればいいのか、知恵を絞ったのです。
『資本論』から読み取る資本主義社会とは
『資本論』には 「悪徳な資本家が労働者から搾取するので社会が悪くなる」と書かれているわけではありません。書かれているのは 「資本主義経済で人々が経済合理的に行動をすれば、必然的に大恐慌や窮乏化が起きる」 です。
企業は効率化を図り、利益を最大化することを目指します。これは当然のことで、それをしない企業は資本主義社会の中では生き残れません。そのために、企業は大規模な設備投資をして大量生産を可能にし、商品単価を安くすることで競争に勝とうとしがちです。
さらに、企業の利益の源泉は、労働者が、自分が働いた分以上の価値を生み出す「剰余価値」です。この「剰余価値」だけが企業の利益になります。ですから、労働者の価値を下げる、具体的に言えば労賃を引き下げることで利益を確保しようとします。これも利益の最大化ということから言えば当然のことです。現代でも「人件費の削減」は多くの企業で課題となっていることを見れば、経済合理的な行為だと言えます。
しかし、労働者は同時に消費者です。労賃が下がるということは消費者の購買力が落ちることを意味します。そうなれば商品は売れなくなります。結果として商品は余り、それを製造する生産設備も過剰になります。利益は減り、設備を購入する際に金融機関から借りたお金を返せなくなります。銀行などの金融機関は不良債権の山を抱え、最後には金融恐慌が起こります。
全3巻の『資本論』の趣旨を短く説明するのは困難ですが、単純化して言えばこういうことです。そしてこの一連の流れは、バブル崩壊以降の日本経済を彷彿とさせるものがあるのではないでしょうか。だからこそ『資本論』にヒントを求めたいという気分が起きていているのだと考えられます。
『資本論』からくみ取ること
資本主義には多くの問題があります。しかし、おそらくはわれわれが生きている間に資本主義のシステムが崩壊することはないでしょう。ろくでもないシステムだ、と毒づいたところで、人類は資本主義よりましな経済システムをいまだ見つけることができずにいます。共産主義の挑戦が失敗だったと明確になった現在、簡単に「ポスト資本主義」のようなシステムを生み出すことも無理でしょう。
だとすれば、暴走してしまいがちな資本主義社会の中で、折り合いをつけて生きていかなくてはなりません。また、暴走してしまわないようにするための条件を、外部からでなく資本主義内部から生み出していかなくてはいけないと思います。
そのために、一見すると経済合理的でない行為が必要とされます。20世紀後半まで、世界はそうやって資本主義を守ってきたのです。福祉国家はこうして誕生しました。労使協調路線も、弱者救済のためのセーフティーネットも、所得の再分配も同じです。
社会主義国家が次々と崩壊し、資本主義の勝利が喧伝されることで、こうしたことは経済的不合理、無駄なことだと排除される方向に向かいました。その結果はいまの世の中です。一部の人に富は集中し、格差は拡大し続けています。このままいけば、マルクスの予言が息を吹き返してしまいかねません。
かつてと同じ施策が有効かどうかはわかりません。しかしどんな形であれ、資本主義社会の存続のために、企業にも個人にも 「品位」 を保つことが必要とされると思います。たとえば、CSR(Corporate Social Responsibility・企業の社会的責任)やSRI( Socially Responsible Investment・社会的責任投資)という考え方は、そうした文脈の中から生まれてきました。こうした考えが広まらなければ、資本主義の存続自体に危険が生じます。資本主義よりましなシステムを見つけられていない我々は、もっとひどいシステムを生んでしまいかねません。
そしてそんな世の中で個人はどう生きるのか
どうしたら食いっぱぐれないか、ということはそれぞれ自分で考えるしかありません。それぞれ個人によって条件が違います。資本主義の本質を理解した上で、自分の特性を活かしていく道を考えていくしかありません。
その上で、「経済合理性とは離れた相互依存的な人間関係を作っていく」ことが大切だと私は思っています。経済合理性と距離を置く。少し離れた場所にも居場所を作っておいてほうがいいと思います。
多少高くても地元のよく知った商店街から物を買う。共鳴したNPOなどに寄付をする。金銭的リターンの期待ではなく理念に共感し応援したい企業に投資をする。すべてをそこに賭けるわけにはいきませんが、少しでもこうしたリスクを引き受けることが、より豊かな人生を歩むきっかけを作ってくれるはずです。  
 
サラリーマンの『資本論』と資本主義のルール

 

1 この世で「勝つ」ための絶対ルール
ゲームやスポーツと同じで、この世にもお金や働き方のルールがある。しかし、多くの人はそのルールを知らない。資本主義の仕組みを解説した『資本論』は、この世を牛耳るルールをすでに150年前に解き明かしていた。この連載では、難解な大著『資本論』のポイントを圧倒的に読みやすく解説していく。
なぜ年収1000万円でもしんどいのか? 勝者だけが知っているこの世のルール
先日、朝日新聞社が発行している「AERA」という雑誌で、年収1000万円以上の人たちの実態を取材した、「年収1000万円の研究」という特集が組まれていました。
そこで語られていたのは、「この仕事内容で、この給料は割に合わない」「しんどい」という嘆きの声でした。激務すぎて、身体を壊してしまったという方もいました。
「年収100万円」の時代もあり得るとささやかれる中で、年収1000万円は超高級取りです。年収1000万円に届いている人は、わずか3.8%しかいません。世間一般から考えれば、「目標」とされることが多い金額です。それなのに、1000万円プレーヤーたちは、幸せそうではないのです。なぜでしょうか?
しかも、自分たちで幸せでない理由を言える人は少ないです。「しんどい」という自覚人はほとんどいません。どうすれば勝ちやすくなるのか、どうすれば“負け”になってしまうのか、“負け”ないためにどんな傾向と対策があるのか、学びません。
そもそも自分にとって何が“勝ち”で、何が“負け”かも自分で知りません。というより、これらを知ろうとする発想も持っていません。
ルールを知らなければ、その環境の中で適切に振る舞えません。社会のルールや構造を知らなければ、望む結果が出ないのは当然のことです。
とはいっても、実社会はゲームやスポーツとは違います。ルールブックが明示されているわけではありませんし、「ルール説明の場」があるわけでもありません。
会社の上司が知っているとも限りません。場合によっては、定年を迎えるまで結局ルールが何だかわからなかったという人もいるのではないでしょうか?
資本主義社会のルールは、「経済学」から読み取ることができます。
『資本論』は、この世の絶対ルールを教えてくれる
ぼくは大学で経済学を学び、実社会のルールを(なんとなく)感じ取りました。社会人になってからは、仕事の現場で、経済学の理論が当てはまっていることを確認できる場面がいくつもありました。
そして、その経済学の中でも、今の日本経済の“ルール”を最も鋭く、かつ明快に示しているのがマルクスの『資本論』だということに気づきました。
今の日本は、『資本論』の理論で説明できるところが非常に多く、『資本論』を知っていることは、労働者として働くうえで、とても強力な武器になりました。
ぼくは2001年に大学を卒業後、富士フイルム、サイバーエージェント、リクルートを経て、今は独立してビジネスを行っています。富士フイルムはともかく、サイバーエージェントとリクルートは非常に“資本主義的”な会社です。
そういう会社に勤めていたぼくが『資本論』の話を持ち出すと、驚かれることが多いです。それは、『資本論』に対して「共産主義の経済学」「革命の本」「もはや、時代錯誤で役に立たない」というイメージをお持ちの方が多いからだと思います。
ですが、それらのイメージは、“間違い”です。『資本論』は、共産主義の経済学ではなく、資本主義経済の本質を研究している本です。『資本論』には、ぼくらが今生きている資本主義社会が、どんなルールで成り立っているかが書かれています。
そこから、労働者がなぜしんどい生活に追い込まれてしまうのか、なぜ企業が一生懸命に開発した商品がすぐにコモディティになり、値下がりしてしまうのか、なぜ時代の寵児としてもてはやされた企業が、いきなりライバル企業に逆転されてしまうのか、を読み取ることができます。そして、そこから抜け出す方法も読み取ることができます。
『資本論』を「時代錯誤でもはや使えない経済学」と捉える人もいますが、非常にもったいないと思います。
実社会で役に立つ経済学 難解な大著は3つのポイントから読む
ぼくは業界1位の企業を3社経験していますが、どの会社で働いているときも、『資本論』の理論を応用することで、適切に“泳ぐ”ことができました。また独立した後も、『資本論』で語られている資本主義の本質を念頭に置き、ビジネスをしています。実際に、ぼくは『資本論』をビジネスに活用しています。
そして、この中で語られている資本主義の原則、ルールは、万人のビジネスに当てはまり、万人の働き方に応用できると考えています。
しかし、『資本論』を読破することはかなり困難です。とても難しいですし、とても長いです。人によっては1年以上かかることもあるでしょう。
また、『資本論』に書かれていることのすべてが必要なわけでもありません。じつは、『資本論』のエッセンスは、3つに集約できます。次の3つを理解すれば、『資本論』の重要なポイント、また現代社会を泳ぐうえでの必須ポイントを押さえることができます。
【ポイント1】「価値」と「使用価値」の意味を理解し、その区別をすること
【ポイント2】「剰余価値」の意味を理解し、それが生まれるプロセスを知ること
【ポイント3】「剰余価値」が、やがて減っていくことを理解すること
この3つを欠かしてはいけません。そして同時に、学者を目指すのでなければ、この3つで十分です。この3つを理解していれば『資本論』を使いこなすことができます。
このたび出版した『超入門 資本論』では、3つのエッセンスを1章から4章にわたって解説していきます。また、5章から7章では、この先、資本主義のルールの中でぼくらがどう戦い、生き残っていけばいいのかを、『資本論』の活用方法とともに解説していきます。
この本を読み終わったとき、世の中の見方が変わり、自分が踏み出すべき第一歩が見えているはずです。
じつは、ぼくらが長らく悩んでいた疑問は、150年前にすでにマルクスが解決していたのです。
2 なぜ働いても働いても、給料が上がらないか?
なぜ労働者はしんどいのか? なぜ働いても働いても給料が上がらないのか? その答えは、150年前に資本主義の仕組みを解き明かした『資本論』にあった。資本主義のルールを知るには、まず商品の価格の決まり方を理解することから始めよう。
労働者は、なぜしんどいのか? 『資本論』にその答えがある
日本経済は、失われた20年とも言われる不況に苦しんでいます。2012年12月、自民党安倍政権が誕生し、いわゆる「アベノミクス」がスタートしました。一部には景気が回復してきた“証拠”があるようですが、国民の大半はそれを実感していません。
一方で、やらなければいけない仕事は、後から後から湧いてきます。日本は経済先進国です。中国に抜かれたとはいえ、世界3位の経済大国です。豊かな国のはずなのです。
しかし、その「豊かな国」で生きるぼくらは、その豊かさを実感していません。むしろ時代が進むにつれて、さらに仕事が長時間になり、しんどくなっているような印象さえも受けます。これは一体どういうことなのでしょうか?
『資本論』にその答えがありました。
景気が良くなっても、なぜ給料は上がらないのか? 「労働者は、なぜしんどいのか?」
その大きな理由を占めているのは「お金」です。つまり、給料です。働いても働いても給料が上がりません。むしろ、この15年は、給料は下がっています。
1997年から2013年を考えると、サラリーマンの平均年収は2007年と2010年にやや上がっただけで、今年まで傾向的に下がっています。2002年から、リーマンショックが起こる前の2007年まで、日本は通称「いざなぎ超え」の戦後最長の景気拡大期と言われていました。その景気拡大期でさえも、給料は下がっていったのです。
景気が良くなっていれば、給料も上がっていそうな気がします。しかし、そうはなっていません。ある特定の企業だけ下がっているのであれば、納得はできます。しかし、世の中全体が下がっているのです。
なぜか? その答えを知るためには、まず「商品の価格の決まり方」を理解する必要があります。
商品の値段はどのように決まっているのか?
「自分の商品を高く売りたい」「安売りしたくない」
多くの方がそう感じていると思います。売り手としては、できるだけ高く売りたいですね。しかし、売り手がいくらそう考えても、実際に買うのは消費者です。値付けをするだけならいくらでも可能ですが、実際に買ってくれなければ意味がありません。
消費者が買ってくれるには、妥当な価格を付けなければいけません。では、その「妥当な価格」とは、一体いくらなのでしょう?
もちろん、その商品によって異なります。しかし、『資本論』の理論を読み解くと、値付けの公式が読み取れます。つまり、「消費者が妥当と感じてくれる価格」とは? が見えてくるのです。マーケティングやキャッチコピーだけで売ろうとする前に、基本となる理論を知っておくべきです。
なぜ、そのジュースは150円なのか? 突然ですが、質問です。
みなさんは、ふだんからいろんな商品を買っています。たとえば、今日もペットボトルのジュースを買ったかもしれません。そのジュースは150円でした。では、なぜ150円なのでしょうか?
それが相場だから? では、その相場は誰が決めたのでしょうか? なぜ、150円と決めたのでしょうか?
「150円分の満足感があるから」
近代経済学では、そのように語られます。マーケティング理論でも同じことが言われているかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?
あなたはジュースを買うときに150円分の満足感があることを実感して買っていますか? おそらくそうではないでしょう。
また、朝も夜も、真夏も真冬も、ペットボトルのジュースは同じ150円で買っています。その時々で満足感は違うはずですが、値段は一緒です。これはつじつまが合いません。
「消費者は、自分が感じる満足感と比べて商品を買う」「その商品から得られる満足感を金額換算し、それより安ければ買う」と言われます。しかし、じつは、そうではないのです。商品の値段はまったく別のロジックで決まっていたのです。
資本主義では、価格はこう決まる
『資本論』には、いくつか重要な理論があります。
1. 商品には、「価値」と「使用価値」がある
2. 需要と供給のバランスがとれている場合、商品の値段は「価値」通りに決まる
これが第1回で紹介した、『資本論』のひとつ目のポイントである、「価値と使用価値の違い」です。順番にひも解いていきましょう。
1. 商品には、「価値」と「使用価値」がある
マルクスは、取引をするものは「すべて”商品”である」としました。みなさんが今朝食べたパンも、会社で購入したパソコンも、時間つぶしに入ったスターバックスのコーヒーもすべて「商品」です。
一方で、「商品」にならないものもあります。道端に落ちている小石は商品にはなりません。山奥のキャンプ場の近くに流れているきれいな小川の水も、商品ではありません。ぼくが描いた絵も商品になりません。
小さい石だから商品にならないのではありません。小さい石でもパワーストーンとして売っていることもありますね。大きさの問題ではありません。
水だから商品にならないのではありません。コンビニでは「おいしい水」が売られていますね。また、ぼくが描いた絵は売れなくても、有名画家が描いた絵は商品になります。
つまり、同じ種類のものでも、商品になったりならなかったりするのです。この違いは何なのでしょうか?
それが「価値」と「使用価値」なのです。「価値」と「使用価値」を持っていれば、そのモノは商品になり、持っていなければ商品にはなりません。
では、その「価値」とは? 「使用価値」とは?
まず、理解しやすい「使用価値」について説明します。「使用価値」とは、「使って感じる価値」という意味で、それを「使うメリット」のことです。つまり「使用価値がある」とは、「それを使ったらメリットがある、満足する、有意義である」という意味になります。
たとえば、パンの使用価値は「おいしい」「空腹が満たされる」などで、小麦粉で練られて焼いたモノが使用価値を持つのは「人がそれを食べて、空腹が満たされるから」なのです。
この「使用価値」は、次に出てくる「価値」とは全然違う意味ですので、注意してください。
次に、「価値」です。この言葉は要注意です。マルクスが言う「価値」は、ふだんぼくらが使う意味ではありません(ぼくらが使う「価値」という言葉は、マルクスが言う「使用価値」のことです)。
『資本論』の中で「価値」という言葉は、「労力の大きさ」という意味で使われています。つまり、「その商品の価値が大きい=その商品をつくるのに多くの労力がかかっている」ということを言っているのです。「それをつくるのにどれだけ手間がかかったか」を計る尺度なのです。
「価値」の大きさは人がそれをつくるのにどれだけ苦労したか(どれだけそれに対して労働したか)によって決まる、つまり「価値が大きい商品」とは、「この商品は、○○人で○○時間かけ、すごく労力をかけてつくった」ということを言っているのです。
ある商品の「価値」の大きさは、その商品につぎ込まれた「人間の労働の量」によって決まるんですね。だから1時間でつくったパンより、10時間かけてつくったパンの方が「価値が大きい」。プログラマーが3時間かけてつくったスマートフォンのアプリケーションよりも、10時間かけてつくった木彫りの置物の方が「価値が大きい」のです。
「置物なんていらない!」と思うかもしれませんが、それは関係がないんです。そのモノが有効かどうかは「使用価値」という言葉で計ります。尺度が別なのです。
単純にかかった労力に比例して「価値」は大きくなります。それが、マルクスが言っている「価値」です。「価値」とは、ふだんぼくらが使う意味での「カチ」ではありません。それが具体的にどんなものかというよりも、それにどれだけの労働が費やされたかによって決まって、多くの労働が費やされるほど「価値」も大きいということになります。
簡単に言うと、時間をかけてつくったものは「価値」が大きい、ということです。日常会話で使う「価値」は、マルクス経済学でいう「使用価値」の場合が多く、混乱しがちですね。
繰り返しになりますが、ふだん、ぼくらが使う「カチ」という言葉の意味とは違います。この意味を取り違えてしまうと、『資本論』の内容がまったく理解できなくなりますので、ご注意ください。
3 ぼくらの「値段」は、資本主義のルールで決る
商品の値段は「メリット」ではなく、作るのにどれだけ「手間をかけたか」で決まっている。メリットで考えることに慣れたビジネスパーソンには意外に思えるが、これこそ資本主義経済のルールである。そして、労働者の“値段”もまた同じ仕組みで決められていた。
「価値」だけでも、「使用価値」だけでも、商品にならない
第1回で紹介したように、マルクスが主張したのは、「商品には、“価値”と“使用価値”がある」ということでした。これは逆に言うと、「価値」と「使用価値」がなければ、そのモノは「商品」にはならないということです。
前回のおさらいですが、使用価値とは「使用メリット」のことであり、価値とは「労力の大きさ」のことです。例えば、パンの「おいしさ」が使用価値であり、「作るのにどれくらい手間がかかったか」というのが「価値」でした。
商品とは、(自分以外の)他人に売るものです。言い換えると、「価値」と「使用価値」がないものは、他人に売ることはできない、ということです。
具体例で説明しましょう。たとえば、「使用価値(使うメリット)」がないものは商品になりません。使うメリットがなければ、誰も買ってくれません。道端に落ちている小石や、ぼくが描いた絵が商品にならないのは、「使用価値」がないからです。
役に立たないものは買ってもらえないというのは、当たり前の話ですね。でも、その当たり前の話が、とても重要なのです。
マルクスは、生産したモノが商品となるために、「命がけの跳躍」をしなければいけないと説きました。
商品には、「使用価値」が必要です。しかし、この「使用価値」があるかどうかを決めるのは、他人(お客さん)です。でき上がってみないと、お客さんはその商品を使うことができません。けれど、つくってしまったらもう変更できません。
自分の思い込みで、「これは使用価値があるはず!」と考えて生産しますが、実際の「答え合わせ」は商品ができ上がってからなのです。
そして、そのテストに合格しなければ、モノはモノで終わります。商品となることはできず、誰からも買ってもらえず終わるのです。このテストに合格しなければ、商品になれず死んでしまうのです。これが「命がけの跳躍」です。
使用価値がないモノは、即無意味なものになるのが資本主義経済なのです。
商品には「価値」も必要
ただし、「使用価値」さえあれば商品になるか(他人が買ってくれるか)というと、そうではありません。ぼくらビジネスパーソンは、自分が売ろうとしているモノ・サービスの「メリット」を徹底的に考えるよう、教育を受けています。
「お客様にどんなメリットがあるのか?」「顧客視点に立て」「お客様に喜んでもらえれば、必ず選ばれる」
このようなフレーズがオフィスの中で頻繁に交わされています。これらはつまり「使用価値」を考えろということを言っているわけです。ただ、多くの場合、ここでは「使用価値さえあれば、お客さんに買ってもらえる」ということを言っています。
しかし、「使用価値」だけでモノは商品になりません。「価値」がなければいけないのです。そのモノに人の手が加わっていないといけないのです。
「使用価値」とあわせて「価値」も持っていなければ商品にはなりません。たとえば、キャンプ場の近くに流れているきれいな小川の水が売れない理由がここにあります。山奥のきれいな小川の水は、健康に良さそうなお水ですね。ミネラルもたっぷり含んでいそうで、飲むメリットは十分にあります。
でもそれを、すぐ隣のキャンプ場で売ろうとしても、間違いなく売れません。なぜか?「価値」がないからです。
湧き出ている隣で売る「山奥のきれいな小川の水」には、ほとんど労力がかかっていません。ということは、相手(お客さん)もなんの苦労もせずに手に入れることができます。だからわざわざ買わないのです。
「価値」がない(労力がかかっていない)ものは、いくら使用価値があっても、売りものにならないんですね。このポイントも非常に重要です。むしろ、こちらの方が大事かもしれません。
商品にいくらの値段がつくか、さらに、ぼくらの給料がなぜその金額なのかを説いてくれるのは、じつはこの「価値」なのです。この非常に大切なポイントを理解するためには、次の法則を解明しなければいけません。
3日間煮込んだカレーと30分でつくったカレー、高いのはどっち?
マルクスは『資本論』の中で、商品の値付けについて語っています。それが、第1回で紹介したふたつ目の理論です。
2. 需要と供給のバランスがとれている場合、商品の値段は「価値」通りに決まる
商品には、「価値」と「使用価値」があります。これらふたつの要素が揃って、初めて売りものになります。ただし、商品の値段を決めているのは「価値」だとマルクスは考えました。価値の大きさがベースになって値段が決まっているということです。
これは意外な主張だと感じませんか?ビジネスパーソンが重要視しているのは、「お客様のメリット!」です。お客さんにメリットがある商品(つまり「使用価値」がある商品)を提供することがすべてだと感じています。安く買いたたかれてしまうのは、お客さんへのメリットが不十分だからだ、と。つまり「使用価値」がないからだ、と。
ですがマルクスは、そうは考えませんでした。商品の値段は、使用価値ではなく、価値で決まると考えたのです。つまり、「どれだけ労力をかけてつくったか」で値段が決まる、「労力をかければかけるほど(価値が大きくなればなるほど)、値段が上がっていく」と考えたのです。
「そんなことはあり得ない。やっぱりマルクスは時代錯誤だ」
一読すると、そう感じるかもしれません。でも、消費者の目線で見てみると、ぼくらは自分自身でもマルクスの主張の通りに考えていることがわかります。ビジネスパーソンとして会社内で言われていることと、全然違う判断をしているのです。
消費者の立場になって、考えてみてください。たとえば、
・30分でつくったカレー
・3日間煮込んだカレー
に、それぞれいくらの値段が妥当だと思いますか? おそらく大半の方が「3日間煮込んだカレー」を高く設定するでしょう。「3日間」の方が高くて当然、と感じます。味については何も言っていません。「3日間」の方がおいしそうな印象を持ちますが、あくまでも「印象」です。
そしておそらく、目隠しをしてクイズを出されたら、多くの消費者には、「30分」も「3日間」も一緒で、味の区別はできません。しかし、それでも「3日間煮込んだカレー」に高い値付けをするのです(毎年年始にテレビで放送される「芸能人格付けチェック」でも、最高級品と安売り品の味を区別できないタレントさんが大勢いますね。「あまり違いがない」ということです)。
これはつまり、使用価値(カレーのおいしさ)ではなく、そのカレーをつくるのにかかった労力(価値)で判断しているということなのです。
「パン」よりも「手づくりパン」の方が高そうに感じます。非常に細かい刺繍がほどこされた布を見せられたとき、「すごい」と思います。ですが、それが手編みだったことを聞かされると「すご〜〜い!!」と感じます。目の前にあるものは変わらないのに、それが機械製か手製かで、感じる重みが変わっているのです。
また、何かの習い事に行くとき、回数や期間で割安・割高を判断することがあります。「10万円だけど、半年間だから安いよね」「2回で10万円は高い!」というように。
本来気にしなければいけないのは、そこに通って目的のスキルが身につくかどうか(その講座の使用価値)ですね。もっと言ってしまうと、1回ですべてのスキルが身に着いた方が効率的でメリットがあります。
でも、そうは考えず、回数や期間(相手が自分のために費やしてくれる時間、労力)で判断しているのです。
おわかりいただけましたでしょうか。ぼくらは消費者として商品を「価値」で判断しています。そして「価値」をベースに妥当な値段を考えているのです。つまり、世の中の商品は「使用価値」ではなく、「価値」で値段が決められているのです。
価値に考慮されるのは「社会平均」
「手間がかかっていれば価値が大きくなる」「その商品をつくり上げる労力が多いと、価値が大きくなる」のです。
ただ、こう説明されると、ひとつ矛盾を感じます。効率が悪く長時間かけてつくった商品は、手際良くつくった商品よりも「価値が大きい」ということになってしまうのです。だとしたら、わざとゆっくり、無駄を多くして商品をつくれば、「価値が高い商品」ができ上がるということになります。
当然ながらそんなことはありません。ここが矛盾しているように思えます。ここはどう説明するのでしょうか?
マルクスは、商品の価値の大きさは「社会一般的にかかる平均時間・平均労力」で決まるとしていました。
商品をつくり上げるのにかかる手間や必要な労働量は個人個人で違います。ですが、商品の価値はそのような個別の事情によって決まるのではなく、その商品の価値は「その社会で平均的に考えて、必要な手間の量、時間の量」で決まるのです。
・この商品をつくるには、通常これくらいの労力がかかる
・この商品の原材料は、一般的にこれくらいの量が必要
私たちも「この仕事だったら、これくらいかかりそう」という感覚値を持っています。それと同じで、社会一般的に認識されている「必要量」があるのです。
仕事やモノによって、社会一般的に必要な労働量が想定されています。その必要労働量が「商品の価値」としてみなされるのです。
ですから、わざと効率を悪くして、労力をかけても「商品の価値」は上がりません。また、社会平均で2時間で終わる仕事を、自分は10時間かかって行っても、「5倍の価値を生み出した」とはなりません。あくまでも社会平均で考えられるのです。
「モノの価値は、社会平均的な労力の大きさで決まる」
これを読んで「だから何?」と聞きたくなっている人もいるかもしれませんね。しかし、これこそがみなさんの給料の決まり方を理解するうえで、また生活に余裕を出すために、非常に重要なポイントなのです。
価格の相場を決めるのは「価値」、そこから価格を上下させるのが「使用価値」
「商品の値段は『価値』で決まるなんて、あり得ない! 『使用価値』(相手が感じるメリット)の方が重要だ!」
会社で「お客様へのメリットを考えろ!」と言われ続けてきたぼくらには、『資本論』の「価値が値段を決める」というロジックはにわかに信じられません。
おっしゃる通り、「使用価値」は重要です。そして、使用価値が価格に何も影響を及ぼさないかというと、そうではありません。経済学的に言うと、「使用価値」は、需要・供給の法則を通じて、商品の値段に影響を与えます。
使用価値が高いものは、より多くのお客さんがほしがります。需要が大きいわけです。「もっと高くてもほしい!」と考えているため、結果的に値段が相場よりも高くなるのです。
反対に、使用価値が低いものは、「もっと安くないと買わない」と言われてしまい、安くなっているのです。しかし、いくら使用価値が高くても、紙コップが10万円を超えることはまずありません。反対に、いくら使用価値が低くても、ジェット機が100万円より安くなることも考えられません。
それは、価値が値段の基準をつくっており、この種のものは、だいたいこれくらいの値段だよな、という相場をつくっているからなのです。個別の商品の値段は、その相場を基準にして、値段が決まっています。相場をつくるのはあくまでも「価値」、そして、その基準から値段を上下させるのが「使用価値」です。
ここは強調しても強調しすぎることはありません。もちろん、「使用価値」がなければ、商品になりません。買ってもらえません。だから使用価値(商品のメリット)を追求するのは当然ですし、必要不可欠です。
しかし、それは商品の一側面でしかありません。使用価値があれば(お客様にメリットがあれば)、問題なく会社が黒字になるかというと、そうではないのです。
使用価値があれば、お客さんは買ってくれるでしょう。しかし、「高値で」とは限りません。お伝えしたように、商品の値段は「価値」が基準になって決まっているというのが経済の原則です。ですから、それをつくるのに労力がかかっていない(大した労力がかからない)と思われるような商品は、高い値が付かないのです。
4 あなたの給料の決められ方
「成果を上げても給料が上がらない」「頑張りが認められない」と嘆く人は多い。しかし、資本主義のルールからすれば、それは大きな間違いである。給料はどのように決められているのか?なぜ職業によって給料に差が出るのか?その秘密は、150年前に書かれた『資本論』ですでに解き明かされていた。
あなたの給料は、こう決まっていた
これまで、商品の値段の決まり方のルールを説明してきました。値段は、「おいしい」という「使用価値」ではなく、どれだけ「労力をかけたのか」という「価値」で決まっていました。
マルクスは、取引するものはすべて「商品」であると説きました。そう考えると、あなたの労働力も「商品」だということになります。あなたは、会社のために時間と体力と精神力を使って働きます。そして対価として給料を受け取ります。これは立派な取引ですね。つまり、労働力も「商品」なのです。
ということは、「労働力の値段」も、商品と同じように決まっているということになります。つまり、ぼくらの給料は、商品の値段の決まり方とまったく同じように考えることができるのです。
商品の値段は、商品の「価値」が基準になって決まっていました。その商品をつくるのに、どれくらいの労力がかかっているか、どれくらいの原材料が必要か、どれだけの原価がかかっているかで「価値」が決まり、それを基準に値段が決まっているのですね。
ぼくらの労働の値段も一緒です。給料も同じ理屈で決まっています。だとしたら、みなさんの給料を決めているのは、「みなさんの労働力をつくるために必要な要素の合計」と考えられるのです。
商品の価値は、商品を生産するのに必要な要素の合計です。つまりこれは、その商品の「生産コスト」です。同じように、労働力の価値も、労働力の「生産コスト」で決まるというわけです。
給料は、あなたを働かせ続けるために「必要なコスト」で決まる
では、その「労働力をつくるのに必要な生産コスト」とは何でしょうか? 人間が働くには、その仕事をする体力と知力(知識・経験)が必要です。労働者に体力と知力がなければ働いてもらうことができません。
たとえば、マラソンを走り終えてエネルギーがゼロになってしまった人を働かせることはできません。労働者として働いてもらうためには、食事をして、睡眠(休息)をとって、再びエネルギーを満タンにしてもわらなければいけませんね。
このときにかかるコスト(食費、睡眠のための住居費など)は、労働力をつくるのに必要な「生産コスト」です。同じように、業界未経験の人を会社に連れてきて、みなさんと同じように働いてもらおうとしても無理です。仕事に必要な知識や経験がないからです。これらの知識・経験を身につけてもらわなければいけません。
このときにかかるコストや労力(学費・研修費、勉強時間など)も、労働力をつくるのに必要な「生産コスト」です。そして、これらの「労働力の生産コスト」を積み上げたものが、そのまま労働力の価値になり、その労働力の価値が基準となって、みなさんの給料が決まっていくのです。
体力的にキツい仕事は、そうでない仕事に比べて、エネルギーをたくさん必要とします。そのため、エネルギー補給のためのコストが多く必要です。だから、そういう仕事はその分だけ給料が高くなります。
非常に重要なポイントですので、改めて整理しますと、こういうことです。カップラーメンをつくるのには、
「めんや具材を仕入れる」「スープを仕入れる」「容器やフタを仕入れる」「容器をデザインしてもらう」
などが必要です。それと同じように、みなさんが「労働力」をつくるには(働けるようになるには)、食事をしなければいけません。食費がかかります。体力を回復させなければいけません。住居や生活設備が必要です。住宅費がかかります。服を着なければいけません。衣服代がかかります。ストレス発散のために気晴らしが必要です。娯楽費がかかります。仕事をするための知力が必要です。このときに知識習得費がかかります。
これらの合計が労働力の価値になり、みなさんの給料を決めているのです。もらえるのは「社会平均的に」必要な経費給料が必要経費といっても、当然ながら「自分が必要だったらいくらでも出してくれる」というわけではありません。
商品の価値は「社会平均的にみて必要な手間の量」で決まると説明しました。「世間一般で考えて、その商品をつくるには、これくらいの原材料や手間が必要だな」という量が、商品の価値になります。
労働力の価値も同様です。労働力の価値として認められるのは、「世間一般で考えて平均的に必要な費用」だけです。個人的に「もっと食費や飲み代が必要!」「私はブランドのバッグがないと生きていかれないの!」と言っても通用しないということです。
給料明細がそれを証明している
この『資本論』の理論を理解していただいたうえで、ご自身の給与明細の項目を一度見てみてください。「手当」が何を意味しているのか、ご理解いただけるのではないでしょうか?
通勤手当は、「あなたが明日も働くためには、電車に乗って会社まで来なければいけませんね。その費用を会社が負担します」という意味です。
住宅手当は、「明日も働くためには住む場所が必要ですね。だから住宅を用意しましょう」といって、会社がみなさんにお金を支給しているのです。
家族手当は、「あなたが明日も働くためには、家族をちゃんと養えていなければいけません。だから、扶養家族が増えたらその分を上乗せして支給しましょう」という意味です。
子女教育手当は、要するに子どもの教育費です。「子どもに学費がかかりますね。その分を支給しましょう」ということです。資格手当は、「その資格(知力)を得るのにお金や労力がかかったでしょう。だからあなたの労働力の生産コストが上がりました。その分を支給しましょう」です。
役職手当、残業手当も同じです。役職に就けば「それだけ必要な精神的エネルギーが増えますね。では、その分を」「残業したら、より体力を消耗しますね。じゃあ、その分を」といって、会社が支給しているのです。
これこそが、いまの日本企業で、『資本論』の理論通りに給料が決まっていることの証なのです。
なぜ医者の給料は高いのか?
労働力の価値には、その仕事をするのに必要なスキルを身につける労力も含めて考えられていると説明しました。ということは、そのスキルを身につける労力が大きい仕事は、労働力の価値が高くなり、よって給料が高くなるのです。
たとえば、医者の時給はだいたい1万円といわれます。一方、一般企業では時給1000〜3000円です。
なぜ、医者の時給は高いのか? それを「医者の仕事の方が、一般的な仕事よりも難しいから」「人が生きていくための重要な仕事しているから」と考えてはいけません。
実際に医者の仕事は大変ですし、難しい業務だと思います。内科、皮膚科、小児科、眼科、どれをとっても人が健康に生きていくための重大な仕事です。
しかし、「高度だから、重大な仕事だから給料が高い」のではありません。もし「難しい仕事」にお金が支払われるのであれば、サーカスの団員はもっと高給取りであっていいはずです。「人が生きていくための重大な仕事」に高いお金が払われるのであれば、介護士の給料も同程度に高くなるはずです。
しかし厚生労働省の統計(2012年)では、医者の平均月給が約88万円なのに対し、介護士は約21万円です。介護士も同じように「人が生きていくために必要な仕事」です。でも給料が大きく違うのです。
医者の給料が高いのは、医者の仕事をこなすために、膨大な知識を身につけなければならず、そのために長期間準備をしてきたからなのです。医者になるまでの準備が大変で、みんながそれを理解しています。だから給料が高いのです。
介護士は非常に重労働で、社会的意義も高い仕事です。しかし、介護士になるための準備は、医者になるための準備よりも少なくて済みます。この差が給料の差になっているのです。
逆に、誰にでも簡単に始められる仕事は、「身につけるべきスキル」がないので、その分給料が安くなります。いくら頑張っても、いくら成果を上げても、「また明日同じ仕事を簡単にできてしまう」のであれば、当然、必要経費は少なくなります。
そう考えると、単純作業者の時給が少ないのは「必然」だといえます。「体力的にキツい」とか「毎日長時間労働」とかは関係がないのです。その「労働力」をつくるための原材料費が少ないため、給料が少ないのです。
「頑張っても評価されない……」と嘆くのは筋違い
労働力は「商品」です。そのため、一般の商品と同じように、「価値」と「使用価値」があります。これまで説明してきた内容が、労働力の「価値」についてでした。
では、「労働力の使用価値」とは一体何でしょう? 労働力の使用価値は、「労働力を使ったときのメリット」です。要するに、「会社が、ぼくら労働者を使ったとき(雇ったとき)のメリット」が労働力の使用価値なのです。
そして、会社にとってのメリットとは、もちろんぼくらが稼ぐ利益です。つまり、
・使用価値が高い労働者は、能力が高く、会社に対して大きな利益をもたらす人
・使用価値が低い労働者は、能力が低く、成果を上げられない人です。
逆に考えると、会社に利益をもたらす人(成果を上げる人)は、「使用価値が高い人」ということですね。
ここで考えてください。使用価値は、その商品の値段に直接的な影響を及ぼしませんでした。使用価値が高いものは、需要と供給の法則にしたがって多少値段が上がります。
しかし、2倍の使用価値があっても、値段は2倍にはなりません。上がるのはたとえば「1.2倍」くらいだったりするのです。労働力についても同じことが言えます。これを給料に置き換えると、「2倍の成果を出しても、給料は1.2倍くらいしか上がらない」となります。
成果を上げたのに給料が上がらないと嘆く人は多いです。「うちの会社は社員を見ていない」「頑張っても評価されない」と。しかし、日本の資本主義経済のルールを考えれば、そう嘆くのは「筋違い」だったことがわかります。成果を上げたら給料が上がると感じるのは、そもそも誤解だったのです。
「そんなことはない、成果を上げなくていいはずがない!」そういう反論もあると思います。でも、ぼくは「成果を上げなくてもいい」と言っているのではありません。
むしろ、「労働力」というものが「商品」になるためには、使用価値があることが絶対条件です。成果を上げられない労働者は、使用価値がないので、企業に雇ってもらえません。成果を出すことは不可欠です。
使用価値が上がれば、「その商品がほしい!」と思う人が増えます。一般の商品で考えれば、使用価値があれば、消費者に選んでもらえます。そして、継続して買ってもらえます。
これを労働力で考えると、「労働の使用価値があれば(その人が優秀で、企業に利益をもたらせば)、企業に選んでもらえる、継続して雇ってもらえる」となるのです。
お気づきでしょうか? 労働者として優秀になり、企業に利益をもたらすことで得られるのは「雇い続けてもらえること」なのです。給料が上がることではありません。2倍の成果が出せるようになっても、給料は2倍にはなりません(先ほどの話の通り、1.2倍くらいにはなるかもしれませんが)。
そういうものなのです。それが資本主義経済における給料のルールなのです。
厚生労働省の統計が証明している
これは机上の空論ではありません。現実にこうなっているのです。厚生労働省が発表している統計(平成25年版賃金事情等総合調査)にそれが表れています。これは、基本給の金額を決めている要素です。基本給全体を100としたとき、それぞれの要素がどのくらい考慮されるかを表しています。
1. 年齢・勤続給……14.4%
2. 職務・能力給……31.3%
3. 業績・成果給……4.9%
4. 総合判断……49.4%
業績・成果給が4.9%しかありませんね。これが実態です。たとえば、自分の月収を想像してください。月収40万円だとしましょう。この厚生労働省のデータから考えると、同期の中で、一番優秀な人は月収42万円(プラス5%)、一番成果が上がらない人は、月収38万円(マイナス5%)となります。これはかなり肌感覚と合っており、納得できるのではないでしょうか?
給料でいう「能力」とはスキルではなく、社会人としての基礎のこと
「業績・成果給は4.9%だが、その上の『職務・能力給』が31.3%もある。やはり労働者の能力(使用価値)が問われているのでは?」と感じるかもしれませんね。
ですがそれは、言葉の意味を誤解しているだけです。「職務・能力給」とは、労働者が上げた成果ではなく、社会人としての基礎的な経験と、社会人としての基本業務をこなす能力を指しています。
たとえば、仕事をするうえで必要な礼儀、言葉づかいからスケジュール調整能力、段取り力、説得・プレゼン力、その他社会人として必要な知識や基本となる経験を「能力」と定義し、それに応じてお金を払っているということなのです。
そして、その基礎的な経験や社会人としての基本業務をこなす能力は、「社会人歴に比例して身につく」と考えられています。このような能力は仕事を通じて、経験を通じて蓄積されていきます。通常、経験を積めば積むほど増えていきます。そして、具体的な仕事内容が変わっても減るものではありません。
たとえば、社会人10年目の人が、完全に未経験の業界に転職したとします。4月1日に学校を卒業したての新入社員と同時に入社しました。その業界のことをまったく知らないという意味では、新卒1年目も、10年目のみなさんも同じです。
しかし、みなさんの方が圧倒的に仕事ができるでしょう。なぜか? 仕事のやり方がわかっているからです。10年の経験を積み重ねているので社会人としてのベースの力があるため、新入社員と違うのです。
これが「職能給」に反映されている「能力」なのです。これは先ほどからお伝えしている「労働力の価値」に他なりません。みなさんと同じレベルの“地力”を身につけるためには、社会人として10年の経験が必要です。それが給料の金額を決める大きな要素になっているのです。
5 なぜ年収1000万円でも、生活が苦しいか?
「働いても働いても給料が上がらない」「いつまでたっても生活が楽にならない」そう感じる人は多いだろう。しかし、これは頑張りが足りないわけでも、企業がブラック化しているわけでもなく、資本主義のルールに基づいて給料が支払われているから。常に生活がカツカツとなる本当の理由とは何か?
給料を高くするには?
これまで4回の連載を通して解説してきたとおり、給料は労働者が出した成果で決まっているのではなく、労働力の価値、つまり「その労働者が明日も仕事をするために必要なコスト」で決まっています。
この「必要なコスト」には、食事・住居などの体力を回復・維持させるために必要なお金だけでなく、その仕事をするために必要な知識・経験・技術を揃えるためにかかるコストも含まれます。
前回で、医者や弁護士など、専門的な知識や長年の経験が必要な仕事は、そのために必要な知力を身につけるのに膨大なコストと労力がかかり、そのため医者や弁護士の給料は高い、という話をしました。
そして、現代の厚生労働省の統計データからも、マルクスの理論が当てはまっていることを確認しました。つまり、給料を高くするためには、「労働力の生産コスト」を引き上げることがポイントなのです。
Aさんの仕事をするのには、レベルAの知識や技術が求められるとします。そして世間一般的に、レベルAの知識や技術を身につけるのに、100時間かかるとしましょう。
一方、Bさんの仕事をするのには、レベルBの知識や技術が求められます。こちらのレベルBの知識や技術を身につけるには、200時間かかると思われています。この場合、理論的に考えるとBさんの方が時給が高くなります。
商品の原材料に、その商品をつくるためのスキル習得費が含まれるのと同様、労働力としての商品にも、「その仕事をするために必要なスキル」を身につけるために、かかった勉強量(労働量)や費用が考慮されます。食費、家賃、洋服代、ストレス発散のための飲み代の他に、技術習得費が「労働力の価値」として考慮されるのです。
レストランのシェフになるためには、調理師免許を取り、修業しなければいけません。その修業があって、初めてシェフとして働くことができます。つまり、その修業期間が「シェフとして働く」という労働力の「原材料」になっているわけです。だから、シェフの労働力の価値には、日々のシェフの労働だけでなく、この修業期間にかけた過去の労力も含まれるのです。
同じように、大学の先生になるためには、専門分野の知識を身につけるために勉強し、論文を書かなければいけません。この勉強期間や論文を書くのに費やした労力も「大学の先生の労働力の価値」に加算されます。
また、免許がなければできない職業があります。もし、その免許を取るのに100万円かかったとしたら、そのときかかったお金は、その仕事をする労働力の価値に加算されます。
ただし、100万円かかって資格・免許を取得しても、初回の仕事でいきなり100万円全額を「労働力の価値」として上乗せされるわけではありません。この資格・免許の有効期間を考慮し、その期間内で「100万円」を均等割りして労働力の価値に上乗せされるようなイメージです。
いずれにしても、その仕事をできるようになるために必要な準備期間、その準備に費やした労力も「労働力の価値」として加算されるのです。
給料は「必要経費分」のみ
ぼくら労働者の給料は、「労働力の価値」で決まっています。つまり、労働力を再生産するために(明日も働くために)、必要なお金を給料としてもらっているわけです。
とすれば、月末になると銀行残高がなくなっているのも、まったく不思議ではありません。その1ヵ月間、生活して、仕事をするために必要なお金を給料としてもらっているので、月末になったらお金がなくなっているというのは、むしろ「当たり前のこと」とも言えます。
逆に考えると、労働者は「明日働くために必要な分」しかもらっていない、ということがわかります。
「ひと月に数回は飲みに行って気晴らしをしないと、やってられない」と考えられていたとしたら、その飲み代も「必要経費」として給料に上乗せして支給されます。
ただ、これも「精神衛生を守るための必要経費」なのです。必要だからくれるわけであって、決して労働者が「頑張ったから」でも「成果を出したから」くれるわけでもありません。
ぼくらの給料は、このように必要経費方式で決まっているのです。だから、「サラリーマンはいつまでたってもしんどい」のです。人によって、もらっている給料が違います。新入社員より、30年目のベテラン社員の方が給料は高いでしょう。
しかし、それは30年目の社員の方がいい成績を出しているからではなく、30年目の社員の方が扶養家族ができたり、年相応の身なりをしなければいけなかったりして、生活費が高いからなのです。もちろん、新入社員より30年目の社員の方が、仕事の成果も高いだろうと思います。
しかし、必ずしも年次が上の人が成果を出せているわけではありませんし、給料が支払われている「労働力の使用価値」(労働者が会社にもたらす利益)ではありません。あくまでも「労働力の価値」に対して、なのです。
ということは、給料が上がったとしても、それは「生きていくための必要経費が増えたから」なのです。生活は常にカツカツなのです。
マルクスは、「賃金を決定する際の、これだけは外せない最低限の基準は、労働期間中の労働者の生活が維持できることと、労働者が家族を扶養でき、労働者という種族が死に絶えないことに置かれる」(『経済学・哲学草稿』第一草稿・一.賃金)という言葉を残しています。
「アダム・スミスによれば、ただの人間として生きていくこと、つまり、家畜並みの生存に見合う最低線に抑えられている」とも言っています。(同)年齢によらず、社会人経験によらず、みんな「生きていくために必要な最低限の給料」しかもらえないのです。
「最低限の給料」の意味は少し変わっています。餓死する一歩手前ということではなく、現代の生活に照らし合わせて「ふつう」と思える生活をできるだけの金額です。
一日中働いているのに、家族がボロボロの服を着て、いつもお腹をすかせていたら、それは「明日も元気に働くこと」はできないでしょう。でも、いくら働いても、いくら経験を積んでも「豊かになるためのお金」はもらえません。いくら成果を出しても、です。
労働者として給料を上げるということは、それだけ必要なコストを費やすということなのです。労働者の給料が上がるのは、成果を上げたからでなく、言ってみれば「生活費が上がったから」です。もしくは、「ストレスが増えたから」です。
というのは、労働者の給料には、「仕事によって失われた精神的エネルギー」を回復するための費用も含まれているからです。つまり、ストレス回復費も加算されているのです。
そのため、プレッシャーの高い仕事に就けば、それだけ給料が上がります。責任が重い役職は、その分給料も高いです。これを逆に考えると、「ストレスが高いから、その分給料が高い」ということなのです。
つまり、企業で働く労働者が収入を上げるためには、それ相応の対価を支払わなければいけないということです。
商品にたとえれば、売値を1万円高くできて喜んでいたら、じつは原価も1万円上がっていて、自分の取り分が変わっていなかったというようなことです。
となると、いくら稼いでも、豊かにはなれません。年収が増えたら、どれだけ豊かな生活が待っているだろうかと妄想する人は多いです。
しかし現実的には、収入と同時に必要経費が増えるのです。また、年功序列型の給料が右肩上がりなのも同じ理屈です。ある程度年齢がいって、家族を養うのにお金がかかるから、その分給料に上乗せされます。だから「高給」なのです。
ですが当然、その人が生活していく、家族を養うために必要な金額をもらっているだけなので、月末になれば「いつの間にかお金がなくなっている」のです。
給料の決まり方のルールが変わらない限り、これは変わりません。厳しいですが、これが現実なのです。
しんどい状況から抜け出すために、みんながやっていること
「給料が上がらない」「いつまでたっても生活が楽にならない」「仕事が忙しすぎる」
多くの人がそう感じながら働いています。そして、なんとかその状況を打開しようとしています。しかし、その「対策」が間違っているのです。
このしんどい状況を打開するために何をしているかと言えば、ある人は、より成果を上げるために、長時間労働します。またある人は、スキルアップのためといって、資格を取得しようとします。
ですが、これらは解決策になりません。まず、より成果を出せたとしても、さほど給料は上がりません。給料は、労働力の「使用価値」ではなく、「価値」で決まっています。そのため、使用価値(会社にとってのメリット)を上げても効果は薄いのです。
前に紹介した通り、成果給は基本給のうち5%程度です。それくらいしか考慮されないのです。繰り返しますが、労働力の使用価値は必要です。商品には「価値」と「使用価値」がなければいけませんので、成果を上げなくていいということではありません。
では、資格を取得するのはどうでしょうか?これは、さらに”筋が悪い努力”です。というのは、労働力の「価値」の視点が抜けている可能性が大きく、また「使用価値」の視点については、完全に抜け落ちているからです。
資格を取ろうとするのは、資格を取りさえすれば、給料が上がると思っているからです(少なくとも、昇給の手助けになると思っています)。ですが、給料の金額は、その仕事を続けるのに必要なものだけを考慮しています。
仕事にまったく関係ない資格を取っても意味がありません。また、本来は、この仕事に必要な知識やスキルを身につけようという発想で勉強をすべきです。「資格を取りさえすれば」と感じている時点で、順序が逆です。それでは、資格を取得することが目的になり、それが仕事に使えるか、つまり自分の「労働者としての使用価値」を上げるかどうかはわかりません。
転職に有利と考えて資格を取得する人もいますね。そのパターンも一緒です。転職に有利な資格もあるとは思います。資格がなければできない仕事もあります。
でも、それ以外は「資格を持っていれば、即仕事ができる」というものではありません。資格とその資格を取るときに身につけた知識・スキルは、あくまでも補助です。資格を取ればそれだけで何とかなるわけではありませんね。
日本は経済先進国です。豊かな国のはずです。しかし、その「豊かな国」で生きるぼくらは、その豊かさを実感していません。むしろ時代が進むにつれて、さらに仕事が長時間になり、しんどくなっているような印象さえも受けます。
労働者がいつまでたっても豊かになれないのは、「必要経費」しかもらっていないからでした。また、どうすれば給料が上がるかというポイントが誤解されていることが多く、間違った努力がなされています。だから、「いつまでたってもしんどい」のです。
一番の皮肉は、「労働者は、なぜしんどいのか?」というこの質問に対する答えを、マルクスが150年も前にすでに説いていたということです。
6 労働時間は増え、給料は下がる
厚労省が導入を検討している「ホワイトカラー・エグゼンプション」。最近よく耳にするけど、どういうものかよくわからない人は多いはず。果たしてワーク・ライフ・バランスの改善につながるのだろうか? それとも、ますます労働者を苦しめる制度か? 150年前に書かれた『資本論』でも予言されていた、資本主義が必然的に向かう労働者の過酷さとは?
先日、こんなニュースが流れました。
厚生労働省は(5月)23日、高収入の専門職に限り、働く時間を自己裁量とする代わりに残業代の支払いなどの労働時間規制を適用しない「ホワイトカラー・エグゼンプション」を導入する方向で検討に入った。(産経新聞)
これは、要するに、特定のホワイトカラー人材には、残業代を支払わなくてもいいようにするという意味です。
金融機関のディーラーなど、労働時間を自分の裁量で決めやすい職種が「残業を払わなくていい対象」となる見通しです。
この制度は以前からも導入が検討され、その都度批判の対象になっていました。そして、このニュース発表後、また物議を醸しています。
田村憲久厚労相は記者会見で、「成果をはかり、効率的に働くことが、ワーク・ライフ・バランスの改善につながる」、という主旨のコメントをしています。
つまり、労働時間ではなく、成果で給料を払うことが、労働者のメリットになる、ということです。
たしかに、その側面はあるでしょうが、労働者から見たら「労働条件の改悪」であることは否めないでしょう。労働組合側も、労働時間が長くなるという強い懸念を出しています。
しかし、この制度で労働者が気をつけなければいけないのは、「長時間労働」だけではありません。今でも、まともに残業代を払っている企業は少数で、当たり前のように残業代なしの超長時間労働がまかり通っています。
そう考えると、「今と変わらない」とも思えます。しかし、今回の制度は、気をつけなければ新たに労働条件を悪くする可能性を孕んでいます。
『資本論』を書いたカール・マルクスが、150年前に、すでにその危険性を指摘していました。
つまり、こういうことです。今回話題になっている制度はつまり、「労働時間ではなく、成果で評価しますよ」ということです。これはマルクスが指摘した「出来高制賃金」に通じます。
この制度では、労働者は、与えられた業務が終わるまで仕事をしなければいけません。つまり、仕事が終わらなければ給料を支払わなくていいということになり得ます。そのため、労働者に長時間労働を強いる制度と批判されているのでしょう。
しかし、さらに怖いことがあります。それは、成果が上がったかどうかは企業が恣意的に決めることができる、という点です。
マルクスは、その点を指摘していました。単に「残業代を払わなくてよくなったから、たくさん働かせちゃえ」では終わらず、労働者が生産した成果物も「質が悪い。基準未達。これでは50%の仕事をしたにすぎない。だから給料も50%しか払えない」などといって、給料自体を下げることができてしまうのです。
また、ノルマの基準を上げることで、「規定の成果の30%しかあげられなかったから、給料も30%になります。よろしいですよね」となり得てしまうのです。
現代、市場には商品があふれ、商品を売ることが難しくなっています。しかし一方で、人件費は固定的で、仕入れと同じようには柔軟に変化させることはできません。商品を売ることがより難しくなっていく世の中で、人件費を抑制しようとする動きは、今後もどんどん強くなっていきます。
今回のホワイトカラー・エグゼンプションは、一部の職種に限られますが、今後、すべての正社員に適用するように検討されるでしょう。
この流れは必然ですし、企業が生き残っていくために、そしてその企業が労働者に働く場を提供するためにやむを得ない判断だと、個人的には感じています。
しかし、マルクスが指摘した点は、常に念頭に置かなければいけません。つまり、企業が恣意的に「成果物の質」「ノルマの量」を変えないようにしなければいけないのです。
そして、成果が出ないからといって給料を恣意的に引き下げる事態になってはいけません。
今回の制度検討に対し、労働者が考えるべきことは、長時間労働を防ぐということよりも、給料単価自体を引き下げられないにすることだと、マルクスの指摘から感じました。
7 いつになったら給料は上がるのか
ニュースで、景気の回復、ベースアップ、消費者物価指数の上昇についてよく耳にするが、実際のところ給料が上がっている人は少数だろう。一体いつになったらぼくらの給料は上がるのだろうか? 32年ぶりの物価上昇を続ける日本で、サラリーマンが知っておくべき、資本主義の冷酷なルールとは?
総務省は、6月27日、5月の全国消費者物価指数(生鮮食品を除く)を発表しました。それによると、前年同月比3.4%上昇の103.4と、12ヵ月連続で上昇しました。エネルギー価格が上昇したことと合わせて、消費税率が8%に引き上げられた影響が加わったと分析されています。
この物価上昇幅は、32年1ヵ月ぶりの大きさ。じつに第2次石油危機後の1982年以来です。
一般的に考えると、物価は景気がよくなるにつれて、上がる傾向があります。そのため、この32年ぶりの物価上昇を「デフレ脱却に向けた前進」と評価する声もあります。
しかし、当然のことながら物価が上がるだけで好景気になるわけではありません。「物価上昇→給料上昇→消費増加」とならなければ景気は上向いていきません。
物価が上がる場合、給料も同時に上がらなければ実質賃金は下がります。3.5%も消費者物価が上がっていたら、消費者の購買力は減ります。
厚生労働省の統計によると、1世帯当たりの平均可処分所得は約430万円です。単純計算すると、約15万円分、購買力が小さくなったことになります。月額1万円強です。こうなると、生活を苦しく感じる人が出てきますね。
ここで関心が集まるのは、「物価が上がった分だけ、給料も上がるか」です。
『資本論』の理論で考えた場合、給料がどのように決まっているか、これまでの連載ですでに解説しました。そして、日本企業の給料の決まり方は、その資本論の理論が完全に合致していることも解説しました。
改めて簡単に言うと、日本企業では給料は次のような考え方で決まっています。
すなわち、「その労働者が明日も元気に働くために必要なコスト」を考え、その合計金額を給料として渡しているのです。
食費、住居費、衣服、ストレス発散代など、明日も働いてもらうために必要なものの合算が給料なのです。
そう考えると、物価が上がれば、その分給料も上がっていくことになります。ただ、給料は物価に連動して上がっていません。これはいったいどういうことでしょうか?
これには2つの理由があります。
(1) 給料が上がるタイミングは限られているから
昇給は年に1回、もしくは2回の企業が大半です。今月、急に物価が上がっても、すぐに昇級されるわけではありません。
(2) 給料は生活費「だけ」では決まっていないから
企業は「明日も働くために必要なもの」を金額換算して給料として渡しています。そしてそうだとしたら、仕事が体力的・頭脳的に楽になれば、その「必要なもの」が減ります。
たとえば、仕事現場に機械やテクノロジーが導入されて、仕事が楽になると、給料を押し下げる圧力が働くことになるのです。
かつて、19世紀初頭のイギリスで「ラッダイト運動」という労働者の暴動が起きました。機械が生産現場に導入され、それによって職を失った労働者たちが、生産設備を破壊して回ったのです。機械が導入されると、人間の労働者は不要になるのです。
これは、中世に限った話ではありません。現代でも生産ラインが機械化され、多くの労働者が職を失っています。
さらにいえば、生産ラインに立っていないホワイトカラーも職や給料を失いつつあります。ホワイトカラーが行ってきた仕事は、やがてテクノロジーが代理で行えるようになるでしょう。
すでに、難易度が高い職人技が機械・テクノロジーによって代替されています。その結果、労働者がこれまで培ってきた「経験」が価値を失っています。
テクノロジーができるのであれば、「職人」は不要です。職人ではなく、機械を操作するオペレーターが新しく、低賃金で雇われます。いまや、ビジネス現場に機械やテクノロジーがどんどん入り込んで来ています。そして、ぼくらの労働はどんどん「楽」になっていきます。
しかしその一方で、労働が楽になれば、給料が下げられてしまう可能性があります。「仕事が楽になったから、給料下げてもいいよね」と。
生活費は上昇しました。しかし同時に、テクノロジーが発達することで、仕事はどんどん効率化し楽になっています。だから、かつてほど「下積み」がいらなくなり、かつてほど知力・体力を使わなくてもよくなりました。
その分、給料を下げられてしまう。もしくはその分、上がっていたはずの給料をもらえなくなる、のです。単に物価が上がれば給料が上がるわけではありません。これでひと安心などしていられません。
また、「仕事が楽になった」と喜んでばかりはいられません。ぼくらが給料を上げていくためには、仕事が「楽」になった分を埋め合わせ、さらにそれ以上に体力的・頭脳的に頑張らなければいけないのです。
ぼくらが暮らしている資本主義は、そういうルールで動いていることを忘れてはいけません。  
 
1929年アメリカ大恐慌とアーサー・ミラー

 2008年のアメリカ発金融危機との関連から

 

はじめに
本日のこの最終記念講義のタイトルですが、もちろん、昨今のアメリカにおける金融危機の状況が1929年10月に起こったアメリカ発の大恐慌とたいへん似ているので、時宜に適ったテーマであるとの思いもあって選びました。ご存知のように、今回のアメリカ発の金融危機の煽りをもろに喰らって世界中が経済不況に陥っております。29年の大恐慌の時には、アーサー・ミラーは14歳であり、父親の婦人服製造工場がこの大恐慌が直接の原因で倒産した状況を目の当たりにしました。このショッキングな体験を彼はミシガン大学在学中に懸賞応募作品として書いた『悪人ではない』(1936)という作品に描き込んだ程です。この作品は見事、賞を得て、その後これを2回書き直して応募を重ねました。これらはその主人公の名前を冠して『エイブ・サイモン家族劇三部作』として未出版ではありますが、ミラー研究家の間では知られています。それ以後、ミラーは大恐慌を直接・間接の別はありますが、諸作品で描くことになります。
直接に描いた作品を年代別に並べると『二つの月曜日の思い出』(1955)、『代価』(1968)、『アメリカの時計』(1980)となります。大恐慌は、それまでの伝統的なアメリカのエトスである「アメリカの夢」“American Dream” に大きな揺さぶりをかけたという意味でも、大事件でした。この大恐慌と「アメリカの夢」崩壊をテーマとした作品に、ミラーの記念すべきブロードウェイ進出第一作目となった『幸運を独り占めにした男』(1944)という作品があり、これについてはお話しの後半で触れることになります。さて、この講義では、まず昨今のアメリカ発金融危機の背景、第2にそれと29年末のアメリカ大恐慌との関連性、第3にミラーの大恐慌体験、第4に大恐慌を扱った上記のミラーの作品がそれをどのように描いているか考察し、第5にそれらの作品が書かれたそれぞれの時代背景とミラーがこのテーマを扱った理由、第6に大恐慌と「アメリカの夢」崩壊との関係、そして最後に、大恐慌と「アメリカの夢」をテーマとする作品におけるミラーの警鐘ないしは警告のメッセージを読み解いてみたいと思います。
1.2008年アメリカ発金融危機
サブプライム・ローン問題に始まり、リーマン・ブラザーズの破綻で爆発した昨年来の世界的な金融危機が解消することもなく、世界は2009年を迎えました。昨年9月のリーマン・ショックで最大の危機に陥ったウォール街を見れば明らかなように、市場原理一辺倒の資本主義は、もはや限界に達している感があります。旧来の秩序は崩れて市場はまさにカオスと化し、日本を含む世界のあらゆる枠組みが揺らいでいます。中曽根康弘元首相も「米国の経済政策での自由放任主義は人間性が伴っていない。言い換えれば、情のない資本主義というものだった。今回の危機でこの限界がわかった」(「大波乱に立ち向かう9」、『讀賣新聞』、2009年1月11日、1ページ)と述べて、その非情さを指摘しています。当面はアメリカの経済立て直しが、バラク・オバマ、アメリカ新大統領にとっての最大の政治課題になります。
ところで、ニュー・ヨークのウォール街のど真ん中に大きな牛の銅像があるのを皆さんはご存知でしょうか。この牛はウォール街の繁栄を願う銅像で、英語圏では「株式市場の強気」を“bull” と言います。ちなみに「弱気」は“bear” だそうです。ふだんならば株で儲けた人が、この銅像にあやかってその肩や背中をなでるのですが、2008年の秋は違いました。“Arrest Bush、” “Greed Kills、” “Bailout=Bullshit” などと書いたプラカードを持った人たちが、この牛の足元に寝そべっている姿が見られたのです。彼等は別に株で大損した人たちではなく、ウォール街の金満会社を公的資金で救う位ならば、その前に自分達の暮らしを守ってくれと訴えて、政府の金融機関救済に反対する市民たちでした。アメリカ政府が金融支援法案で想定した拠出額は7000億ドルと言われています。これをアメリカの総人口の3億で割ると一人当たり2000ドル、日本円ですと約20万円にもなる。納税者一人当たりなら、5000ドル以上の負担となります。多くの市民は、こうした莫大な公的資金を使った救済法に断固、プロテストしたのです。
今回の金融危機の直接の原因ですが、これは要するに、払えない借金の証文に、「今は無理だけど、将来は払えますよ」という錯覚を顧客に起こさせてサインさせるシステムでしょう。「将来は、今よりも金持ちになっている」と信じ込まされた、あるいは信じることができた人間は、いきおい自分の身の丈に合わない借金をする。そもそも、サブプライム・ローンというのは、低い社会的評価しか受けていない人たちを対象に「今のあなたへの外部評価は不当に低いけれども、本当のあなたはもっと高い評価を受けて然るべきで、将来は必ずそうなりますよ」という甘い囁きをもたらすシステムだったのです。これに日本でも問題になった土地神話が絡んだ。「今あなたが所有している土地の評価は不当に低いけれども、いずれ本来の評価になるはずですよ」と。こうして、アメリカの金融業界は、このサブプライム・ローンのシステムを構築するに当たって、外部評価が低く、自己評価が高い人間こそが「アメリカの夢」を体現できるという神話を吹き込んだと言っても過言ではないでしょう。
他人を蹴落として競争に勝って豊かになること、これが「アメリカンの夢」だと正当化する競争社会アメリカの伝統的な考え方をひとまず脇に置くとしても、今回の金融危機の最大の原因は反論を覚悟で言えば、長期にわたるブッシュ政権の規制緩和と自由放任政策にあるというのが、大方の見方です。2000年の大統領選挙で民主党候補のアル・ゴアに接戦の末、勝利を収めて大統領となったジョージ・W・ブッシュでしたが、2001年1月の就任直後から今ひとつ支持率が伸びず低迷していた時に、例の9.11同時多発テロが起きました。彼はすぐさま、姿の見えぬテロ集団に宣戦布告し、それ以来アメリカは戦闘状態にあるのは周知の事実です。ブッシュ大統領がイラクとアフガニスタンでの戦争にかまけている間に、経済は「金銭欲」“greed for money” に飢えた市場任せの状態が続き、まさに、「市場原理主義」の圧倒的支配の状態にあると言えるでしょう。
市場原理主義は政府が過度な民間介入をせず、個人の自由と責任に基づく競争と市場原理を重視する新自由主義と相性が良いこともあり、特に歴代の共和党政権はこの市場原理を重視して来ました。こうした経緯もあってか、政府がこれといった規制もしないので、その間隙を縫って市場が企業統治の概念を持ち出して抜け道だらけの規制を設けて、金儲けに走った。その結果、デリバティブと呼ばれる各種の金融派生商品の横行を許した。住宅バブルの元凶となったサブプライム・ローンの債権を組み込んだ証券も含め、こうした金融派生商品は、すべて短期決戦型だったので、値下がり前に売り逃げするのが勝ちだという発想がまかり通ったのです。
これは買った株を長く保有して、企業の成長とその配当を楽しみにするというこれまでの長期型の投資とは全く逆の発想なのです。ブッシュが大統領として君臨していられるのは2008年末までなので、それまでになるべく早く売り逃げすれば利益を確保できると多くの投資家は考えた。だが、あいにく半年早く破綻が訪れた。それが今回の金融危機の正体というわけです。
2.1929年10月24日のアメリカ大恐慌
昨今の状況についてアラン・グリーンスパン前連邦準備制度理事会議長は、「100年に一度起こるかどうかの深刻な金融危機」だと言いました。実際の話し、今回の事態は1929年10月24日にニュー・ヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを切っ掛けに生じた金融恐慌に対する金本位制であるが故のシステム的な不備と当時の各国の当事者の対応のまずさが原因で、その後33年頃まで続いた世界的経済大恐慌と同じ状況なのです。今回の事態が、「大恐慌以後の最大の危機」と呼ばれる所以です。それでは、29年以前の状況はどうだったのか。第一次世界大戦後、20年代のアメリカは、大戦への輸出によって発展した重工業への投資、帰還兵による大幅な消費の拡張、モータリゼーションによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇と同地域への輸出の増加などによって当時の大統領フーバーが「永遠の繁栄」と呼んだ経済的好況を手に入れていたのです。
ところが、大恐慌数年前には、既にその予兆があった。アメリカの農村部では農業恐慌が起こっていたのです。過剰生産が農産物の価格を下落させ、アメリカ国内では生産の消費力が低下していた。それでも、20年代のアメリカは、大量生産・大量消費の時代で「永遠の繁栄」を謳歌する一般民衆には、農村部の景気停滞には無関心だったのです。そして、この20年代前半における余剰農作物は、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし、農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が徐々に深刻になって行ったのです。具体的には、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによって、次第にアメリカ国内の他の生産も過剰になって行った。また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていた。それにも関わらず投機熱に煽られ、時の政府も適切な抑制措置を取らなかったのです。
こうして、アメリカの株式市場は、1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇傾向に入って行った。ところが、20年代後半になるとヨーロッパの経済が上向き、また後進国における工業化の進展、ソ連経済の復興などにより、世界的な生産過剰状態が生まれ、アメリカでも見せかけの好景気が続き、国民の消費も伸びず、倉庫には売れない商品が溜まり始めていたのです。好景気によってだぶついた資金を株の儲け話しを聞いた投機筋が市場に流入し、ますます投機熱が高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰し、29年9月3日にはダウ平均株価381ドルという最高価格を記録したのです。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落し、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直したものの、その直後にまた上昇分が下落するという異常な動きを見せたのです。
このような状況下、29年10月24日午前10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80%下落し、その直後の寄り付きは平穏だったのですが、まもなく売りが膨らみ株式市場は売り注文が押し寄せ、前例のない激しさで株価が大暴落したのです。11時には、全アメリカの株式売買の店から売り注文が続き、大パニックとなった。ウォール街周囲は不穏な空気に包まれ、警官隊が出動して警戒に当たらなければならなかったようです。午後3時に取引が終了し、その日の株式売買高は、売りを中心に1289万株という新記録だった。これが、全世界の殆どの資本主義国家を巻き込んだ世界恐慌の始まりです。投機業者で自殺した者は、この日だけでも11人に及んだと言われています。この日は木曜日だったため、後に「暗黒の木曜日」“Black Thursday” と呼ばれるようになりました。翌25日、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意しました。このニュースでその日の相場は平静を取り戻しましたが、効果は一時的だった。週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあって、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、さらに10月29日には24日以上の大暴落が発生したのです。投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。この日は火曜日だったため、後に「悲劇の火曜日」“Tragedy Tuesday” と呼ばれるようになったのです。
こうして、29年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし、当時は今日と違って株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内に留まっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が大恐慌に繋がったのは、その後、銀行倒産の連続による金融システムの停止に、アメリカ連邦準備制度理事会の金融政策の誤りが重なったためでした。フーバー共和党アメリカ大統領は事態に楽観的態度を取り続け、経済的基礎が健全で生産活動がしっかり行われているので大丈夫と断言した程です。彼は古典的経済学の信奉者であり、ブッシュ同様、国内経済において自由放任政策を取り続け、その一方で保護貿易政策を堅持し、世界各国の恐慌を悪化させて行ったのです。失業者は30年には400万人に達し、32年には実に1250万人を数えたと言われています。32年後半から33年春にかけてが、恐慌のピークだったようで、恐慌発生直前と比べて株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落し、1300万人とも言われた失業者を生み出し、失業率は25%に達したと言われています。閉鎖された銀行は1万行に及び、33年2月にはとうとう全銀行が業務を停止、革命が起こるのではないかと懸念された程です。
こうした中、登場したのが民主党のフランクリン・D・ルーズベルト大統領でした。彼は従来の自由放任経済から、各産業や労使関係まで国家権力の干渉を加える統制経済と、大衆の購買力増進とによって景気の回復を図ろうとする修正資本主義に基づいたニュー・ディール政策を掲げて当選したのです。公約通り産業に統制を加え、価格・最低賃金・最高労働時間などを決めた全国産業復興法と、農産物の生産を制限して価格の安定を図ろうとした農業調整法、それに雇用を増やし失業者の救済を図るためのテネシー川流域開発公社を設立しました。ただ、ニュー・ディール政策は1930年代後半の景気回復を前に規模が縮小されるなどしたため、30年代後半には再び危機的な状況となったので、同政策はどれほど効果があったかについては今日でも賛否両論があるようです。結局、アメリカの不況脱出と経済の本格的な回復は、その後の第二次世界大戦による莫大な戦争特需まで待つことになったのです。つまり、大恐慌が実際に終りを告げたのは、防衛支出と戦争が経済に活気を与えた1941年に入ってからでした。
3.アーサー・ミラーと大恐慌
ここから私が長年、研究の対象としてきたアメリカの劇作家、アーサー・ミラーとこの大恐慌との関連に関する話です。そもそも、作家というものは、小説家、詩人、劇作家いずれであれ、その創作活動を決定的に促した何らかの人生上の体験を持っているものですが、ミラーの場合、その創作活動の原点となった体験は、まさに29年末の大恐慌でありました。彼は1915年生まれですから、当時14歳だった。彼は後年、当時を振り返って「大恐慌は私の本であった」(「神々の影像」、『アーサー・ミラー演劇論集』、177ページ)と言っています。そして、次の様に続けています。「1929年まで、私は事態はかなり堅固なものと思っていた。とくに、多くのアメリカ人の場合と同様に、誰か責任者がいるものと思っていた。正確にはわからないが、たぶん実業家だろう。・・・・ 実際に、1929年まで言われ、なされてきたことは、ことごとくまやかしであることがわかった。責任者などいなかったのだ。今にして思えば、その当時、私が得たものは目に見えない世界の感覚であった。ある実体が、その隠れた法則によってそのクライマックスを密かに用意していて、まさにその適切な時機に迷妄を破ったのだ。その意味で、1929年は我々のギリシャの年であった。神々が警告していたのだ」(「神々の影像」、176−77ページ)。
このように、大恐慌がミラーに決定的な思想上の影響を与えたことが分かります。事実、第一次大戦後の戦争景気に酔いしれていた人々は、この大恐慌によって様々な意味で大きな打撃を受けることになる。ミラーにとって、こうした状況は何か「目に見えない世界」によってもたらされたと思えたのです。29年はミラーが経験した「目に見えない世界の感覚」や「隠れた法則」の認識とは、永遠と思われた20年代の繁栄を支えた経済システムも29年10月24日のウォール街の株価大暴落に見られるように、一夜にして崩壊するというミラー自身の発見を意味しています。それは端的に言って、その後32年までに500を数える銀行を倒産させ、1300万ともいわれる人々を失業させ、背後にあってそれまでは、はっきりと目には見えなかったシステムの存在の認識に他ならないのです。青少年期を過ごした大恐慌の時代は、劇作家としてのミラーにとって「隠れた法則」発見の原体験となり、やがて大なり小なり彼の諸作品の背景やテーマとなります。
さらに、この時代の状況に関して、ミラーは1987年に出版した自伝で当時の人々の貧しいがより良い明日の到来を信じて精一杯生きた彼等の気概を次の様に語っています。「人生は思い通りに行かないかも知れないが、面白く刺激的だ。人々は退屈しているようには見えない。これは、いつも何となく進歩がありそうだからだが、しかし何をするにも多くの努力が必要だからだ」(『時のうねり―ある人生―』、64ページ)。また、「ことは実に単純だった―私たちは希望が持ちたかった。希望とあれば、約束さえ示してくれれば、幻想でもよかった。現実は耐えがたかった―失業者の恒常的大軍、停滞し挫折したアメリカ精神、人種差別の跳梁、すべての貴重なもの―特に若者の可能性の浪費。ルーズベルトは確かに天使の側にいたにせよ、決定的な崩壊の日を先送りするのがやっとだった」(71ページ)と述べています。このように「失業者の恒常的大軍」、「停滞し挫折したアメリカ精神」、「人種差別の跳梁」、「若者の可能性の浪費」が慢性化した時代を、希望を失わずに歯を食いしばって懸命に乗り切った当時の人々の体験を語っているのです。初期のいわゆる『エイブ・サイモン家族劇三部作』と『二つの月曜日の思い出』は、まさにここで述べられた大不況期における彼自身の実体験を直接に描いたものです。ここには、ミラーの大恐慌の体験を振り返るのではなく、そこへ常に立ち戻ってアメリカ社会が精神的危機に陥った時に、そこで学んだ経験を人々に知らしめる彼の使命感が見て取れます。
4.大恐慌を扱ったミラー作品
大恐慌が、アメリカ人に与えた打撃は計り知れないものがあり、アルフレッド・ケイジンによれば、それは「人生の基調が、いや、人生を支えている意識そのものが、たちまちにしてあまりにも違ったものに見えたために、すべての伝統的な価値が突然根絶され、その多くが安っぽいものに思われたくらいだった」(『現代アメリカ文学史―現代アメリカ散文文学の一解釈』、423ページ)のです。ミラーは、それを「見えざる世界の感覚」と呼んだのであり、その衝撃の凄まじさを語っていたのです。いずれにしても、30年代に入って資本主義の危機としての恐慌が、アメリカ社会に重苦しくのしかかってくると、資本主義機構そのものの中で抑圧された人間の無力感や経済的破綻から来る絶望感、虚無感が露になる。本来、極めて個人的、心理的な「疎外」という状況も、こうして社会構造的色彩を帯びるのです。このような状況が『二つの月曜日の思い出』の背景であり、まさにこうした状況にある人間の典型的な例を、特にガスという人物に見ることができるでしょう。また、ミラーは『二つの月曜日の思い出』と大恐慌との関連性に関して、この作品は30年代を写すムード劇であり、「人間性」が忘れ去られることのないように「他人への同情」と「共通の運命を分かち合う意識」の必要性を説いたものだったと述べています。また、この作品は「共同体」“community” の存在とそれを維持するために、いかに「連帯」“solidarity” が重要であるかを表明したものであると言うのです。
さらに、ミラーは後年に自伝で、そもそも、この題材を選んだのは、彼がこの作品を書いた当時の俄か景気に湧く空虚なアメリカとは異なる、確かな現実に触れる必要があったからだと述べています。その豊かさを謳歌する逃避主義の時代にあって誰も直視しようとしない主題、すなわち「大恐慌と生存のための闘い」(『時のうねり―ある人生―』、353ページ〕に取り組んだというわけです。実際、大不況とサバイバルの関係は、経済の崩壊は個人の尊厳の感覚と自信を失わせ、社会の理想と国家の神話は解体し、唯一の至上命令は「生き残ること」であったと言えます。厳しい大不況をサバイバルするための重要なファクターが他ならぬ連帯意識であり、これが後のミラー作品で繰り返し強調されて行くことになります。
ミラーが『二つの月曜日の思い出』で意図したテーマは、まず、大恐慌の下、助け合い、連帯し合って30年代の経済不況期を生き抜く人々のサバイバルの問題とそこに垣間見える現代社会の人間疎外の問題であり、今一つは主人公バートのイニシエーションの問題だったのです。大恐慌のサバイバルを巡る「連帯」の問題は先に引用したミラーの説明で、すでに十分明らかになったので、「疎外」との関連性を述べてみます。前述したミラーの見解により、彼が産業主義と物質文明に挑戦する人々の精神の願望と諦念を、この自動車部品倉庫という仕事場を舞台にして、描いたのは明白です。ところで、この自動車の部品というのは非常に象徴的な意味合いを持っていると言えるでしょう。大体、部品というものは、それ自体だけでは何の役にも立たず、また摩耗して駄目になれば新しいものと容易に交換されるのです。ここで描かれる登場人物は、そうした他との取り替えによって簡単に交換可能な部品の如き存在なのです。つまり、個性ある人間としての存在を奪われた、いわゆる「疎外」された人達の適切な比楡となっています。
言うまでもなく「疎外」に関する概念は、マルクスを初めとする色々な思想家によって定義がなされてきましたが、要するに「人間がのけものにされている」、「人間不在の」、「人間を無視した」、「非人間的な」というような広い意味として解釈できるでしょう。かつてヤスパースは、1930年代までの社会において明らかになってきた様々な人間疎外の病理現象を分析して見せました。彼によれば、合理化と機械化を主軸とした科学技術の発達と集団の機構化に伴う人間の大衆化の結果、人間は機構の中で組織され、人間としての独自性を失い、単に数としてしか意味を持たない平々凡々たる存在、あるいは機構という機械の部品となってしまっているのです。「疎外」された人間を機械の部品と見るヤスパースの概念は、この劇で描かれる労働者の的確な比喩であり、劇全体の底流として意識されていると言えます。以上、大恐慌と疎外の問題を関連させて述べてきましたが、次に『代価』で描かれた大恐慌時代に見られた価値観の対立に触れてみたいと思います。
ミラーは『代価』で、ヴィクター・ウォルター両兄弟それぞれの心理や道徳的価値観が社会のジレンマの真只中で対立・葛藤する様を描き、またそのような演出を望んでいます。大恐慌がもたらした愛も信頼も失った家族関係の中で、家を守ることに関してその責任の所在を巡ってヴィクターとウォルターに、それぞれの価値観を対立させたかったからです。ミラーのこのような両兄弟に対する共感の平等思想の背後には、30年代の大不況社会の中で表面化した家および家族に対するアメリカ的価値観の対立があり、それをミラーは両兄弟の対立の中に象徴的に描き込んだのです。そして、ここには彼が両方の価値観に同等の価値の重みを持たせたいとする意図が透けて見えます。
さて、兄ウォルターに代表される家を省みない価値観は、繁栄の20年代から頭をもたげ始めた成功観と関係があります。いわゆる「成功の夢」であり物質的成功への崇拝思想です。大恐慌で顕在化した「成功の夢」の飽くなき渇望です。ウォルターはその支持者であり、他方、ヴィクターはその反対者です。こうして両者は、家族の価値観と成功の思想を巡って対立します。父親の破産で、それこそ捨てられた食べ物をあさって食いつないだという家族の信頼関係が、ヴィクターの自己正当化の支えになっているのです。ウォルターはそれを幻想だと決め付け、彼らの家庭には元々そんなものは存在しなかったと豪語します。子供達が世に出て成功することが、父親が望んでいた価値観であり、自分はそれに従っただけだ、とウォルターは言うのです。こうして見ると、父親の一見矛盾した言動が、両兄弟の人生に異なった選択を与えたと言えるかも知れません。
ヴィクターは、父親が自分に望んだのは、植民地時代や西部開拓時代のアメリカ人が築いた倫理的美徳、すなわち寄る辺の無い厳しい環境の中で土地と家を守り抜こうとした自営農民的な家族意識の伝統であったと思うのです。他方、ウォルターは、家を捨て親をも否定しながら、むしろ父親からは尊敬された。それは、成功者がいかに尊ばれるかを如実に表しています。彼の成功の価値が大きいのは、不況と言うハンディをその出発点としたからです。19世紀後半の都市化と産業化の中で醸成された成功観は、ウォルターの生き方の中で、前者とは逆に自営農民的な家族意識を分裂させる個人主義の美徳を生み出しました。伝統的な家の観念が崩壊しつつあった20世紀初頭の中で、とくに30年代は当時の若者に家に対して二者択一を迫ったことでしょう。こうして、ヴィクターは古い伝統的な従来の家意識に固執したのに対して、ウォルターは新しい歴史の流れに乗じて成功したのです。こうして見ると、二人の対立が極めて象徴的であることがわかります。ヴィクターは過去の世界の価値観に積極的にコミットし、この旧家と滅びる運命にある人間像を象徴し、ウォルターは新しい時代感覚ですぐれて個人主義的な価値観に積極的にコミットした人間像を象徴するのです。これはちょうど、テネシー・ウイリアムズが『欲望という名の電車』で、新旧南部の価値観をスタンレーとブランチに象徴化したのを思い起こさせます。
翻って考えてみますと、両兄弟の担った価値観は、アメリカ社会が生み出した二つの矛盾した主流の生き方を代表していることがわかります。そして、それらがお互い排除し合うと同時に、惹かれあってもいるのです。ようやく今になって、警察官としてコミュニティーに奉仕するヴィクターの生き方に価値を見出し、他人との連帯の中に生きる喜びを見出したのは、他ならぬウォルターです。他方、ヴィクターも、ウォルターの合理的な現実認識、自己実現を尊重する考え方や成功観を欠いていたが故に、長年の忸怩たる悔恨の生活に甘んじざるを得なかった。ウォルターの時代の先端を行く思想には、ヴィクターも少なからず、羨望の念を抱いたことは否定できないでしょう。こうした両者の考え方は相対立するものの、両者とも社会が存続するには欠かせないものであって、かくしてヴィクターとウォルターの対立が象徴的である所以です。ヴィクターが体現する愛“love” と道義“loyalty” に基づく家族の連帯の原理とウォルターが代表する成功の原理は、こうして相反するものではありますが、その対立は一般社会の厳しい現状であり、また社会が機能する上で、必要不可欠な要素でもあります。そして、両兄弟の対立の根が利他主義者と自己達成者の観念上の違いにあると見ることもできるのです。
ところで、ミラーはその伝記の中で、60年代の戦争態勢(ベトナム戦争)、黒人の目覚め(公民権運動)、時代の疎外感の中にあって、彼は来るべき幻滅の種を見たと述べています。そして、当時50歳にして彼は、過去の聖なる戦いの残響を遮断しようとしたのだけれども不可能だと悟り、この無力感を振り払うためのいわば悪魔払いとして『代価』を書いたと次のように語っています。「『代価』はある点では、この繰り返しの無気力感を振り払う魔よけともいえる。二人の兄弟―ひとりは巡査、もうひとりは成功した外科医―が、長年の喧嘩別れのあと再会する。父親が死に、財産を処分することになったからである」(『時のうねり―ある人生―』、542ページ)。世の中を知り成人した両兄弟には「過去の裏切り」を水に流して新しい関係を打ち立てることが可能に思われたのだけれども、過去の思い出の品々(古家具)が、かえって以前の怒りや不満を掻き立てることとなり、再び喧嘩別れに終わるのです。しかし、世界は両者が代表する役割、すなわちヴィクターに代表される「秩序の忠実な守り手」とウォルターに代表される「野心的で利己的だが新しい治療法の発見者」をも必要としているのだ、というのがミラーの兄弟葛藤の説明です(前掲書、542ページ)。それを認識できず、相変わらず繰り返されるこの葛藤は、前述した当時のアメリカ社会に見られた新旧の異なる二つの価値観の対立を別の角度から説明したものと解釈できます。
最後の『アメリカの時計』のテーマは、前にも述べましたように大恐慌そのものであり、極限状況にある人間が、それをどのように乗り切ってサバイバルして行くかが問題の核心です。このテーマは、対照的に描かれる登場人物を通して、「アメリカの夢」の崩壊とそれを克服する手段としての「アメリカ的民主主義精神」の確認による未来への希望という形で発展します。具体的には、投機にうつつを抜かす財界人達の末路と忍耐強く現実を生き抜くリーの母親ローズに描かれています。財界人の中には、事業に失敗して精神的に落ち込んで自殺するものが出ますが、これに対して、こうした時代の変化にするどく反応し、ただ金儲けだけではなく道義的な生き方を志向するクウィンやロバートソンのような財界人も平行して描かれています。機械的で非人間的な実業界・財界に抗して、個人としての人間性を擁護し闘いを挑むクウィンやロバートソンの姿に「個人の価値」対「法人型国家」の図式を見て取ることができるでしょう。このミラーお得意の倫理・道徳と正義に関する今ひとつの良い例は、農夫テイラーです。彼は競売の場面で仲間の助けを借りて自分の農場を取り戻しますが、居合わせた判事に泥棒呼ばわりされ後ろめたさと罪悪感を持ちます。しかし、法律を盾にとって正義を振りかざそうとする判事を登場させながらもテイラーをその対極に置いて、人としての本当の正義はどこにあるのだろうかと観客に問うミラーの姿がここには透けて見えます。この作品は、『二つの月曜日の思い出』のバート同様、リーのイニシエーションが描かれ、若者に大恐慌が与えたインパクトが劇化されているのです。
5.大恐慌のテーマを扱う作品とそれらが書かれた時代背景
『二つの月曜日の思い出』が若かりしミラーの大恐慌時代の自らの体験を織り込み、その時代の人々が困難を乗り切りサバイバルするためには、いかに連帯意識、他者との共通感覚や人間的な繋がりが重要であるかを示唆した作品であることを明らかにしましたが、これより先に未出版で処女作の『エイブ・サイモン家族劇三部作』で取り扱ったこの大恐慌というテーマは、ミラーにとって文字通り思索と創作の原点となり、以後、彼はこのテーマを直接・間接に取り上げて行くことになりました。ここで、大恐慌を扱った三つの作品とそれが書かれた年代を考察し、ミラーがなぜ大恐慌を扱った作品を書かねばならなかったのか、その必然性を見ておきます。55年の『二つの月曜日の思い出』に続いて68年の『代価』と80年の『アメリカの時計』にも、直接、大恐慌がメイン・テーマとして取り上げられています。この意味で、『二つの月曜日の思い出』は、大恐慌をテーマとする主要作品の先駆けとなったわけですが、大恐慌を扱ったこれらの作品が書かれた年、55年、68年、80年に注目すると、そこにある一つの共通項が見えて来ます。すなわち、個々の作品にそれらが書かれた時代の声が反映されているということです。それぞれの時代はアメリカがその内部に問題を抱えていた時期であり、ミラーは作品を通じてそれらを告発し、警告を発せざるを得なかった。そのたびに、彼はお互いの間に通い合う信頼の必要性とその回復を願いながら、アメリカに大きな教訓を与えてくれた大恐慌へと戻って行ったと言えるのです。
具体的に言いますと、55年は、第2次大戦後の経済繁栄の絶頂期で、そのためかえって人々の心の内奥が見えにくくなってしまったアイゼンハワー大統領の時代です。それは株価が上がり、ドルが世界で唯一まっとうな通貨となった時代であり、金儲けに走るアメリカへの痛恨の思いが、ミラーに『二つの月曜日の思い出』を書かせたのです。ここには人間の連帯性が強調されており、彼はそのことを「このような劇は、私が感じたことなのですが、そこには表立ってはいないものの人間の連帯性が強調されていて、それは遥か過ぎ去りし時代の思い出だとしても、金儲け以外にも大事なことがあったと主張する一つの方法なのです」(『時のうねり─ある人生─』、35ページ)と述懐しています。また、55年はミラーにとって個人的につらい時期でもありました。最初の妻との離婚調停は別にしても、マッカーシズムの煽りを喰らって非米活動委員会の聴聞に呼ばれ、コミュニストの集会に同席した仲間の名前を明かすのを拒否して国会侮辱罪に問われました。こうした経験を基に個人と社会の関係性や自らの良心を基に社会を見つめ直そうとする意識が、ミラーの心に芽生え、それが『二つの月曜日の思い出』に大なり小なり反映されたのは確かだったと思います。
次に『代価』が書かれた68年は、ベトナム戦争がいつ終わるとも知れず、戦死者の数が日々報告されるにつれて、一般の人々の間に厭戦意識が高揚したジョンソン大統領政権末期の時期でした。ミラーはこの作品執筆の意図を、当時、泥沼化したベトナム戦争と大恐慌の類似を明らかにすることにあり、その根がすでに過去にあって、過去は繰り返されるという現実、その現実に内在する過去の存在に目をつぶる人間の愚が、長引く災難の根本原因だったと述べています。大恐慌でアメリカ人が学んだはずの因果律を背景に、ミラーはこの劇にベトナム戦争の愚かさを大恐慌が原因で破産した父親の処遇を巡るウォルターとヴィクター兄弟の無意味な確執に象徴化したのです。また、戦争を巡って国内が二分する様を見て、彼は大不況時代の人々が示した助け合いの精神の尊さをとくに、ヴィクターを通して訴えたかったに違いないのです。
最後に『アメリカの時計』ですが、この作品が発表された80年は、カーター大統領の任期3年目であった。ベトナム戦争やウォターゲイト事件を経た人々は政治に幻滅し、77年に政府と国民の疎外関係を修復すべく政権の座に着いたカーター大統領に癒しの変化を求めたのでした。だが、スタグフレーションによる経済は悪化し、失業率も上昇、エネルギー危機にも見舞われ、彼の人権外交が裏目に出て「弱いアメリカ」、「暗いアメリカ」というネガティブな評価を定着させました。こういう時期にあってミラーが大恐慌を題材とした意図は、要するに、倦怠感を引きずりながらも次第に自己中心的なミーイズムが横行しつつあった70年代の人々に「人間の統一概念」や「個人的な心理面と社会や政治との結び付き」と「社会の崩壊という客観的事実」を訴えるためであった。これこそが、この作品を書いた理由なのです。
他方、良識のあるアメリカ人の間には、当然ながら自分自身とお互いが恩義を受けているコミュニティーへの認識が強まった時期でもあります。ミラーはビッグズビーとのインタビューで、大恐慌時代には表面が崩れ去ってもその下にはしっかりとした「人間関係の骨格」(『現代アメリカドラマ 1945-1990』、116ページ)があったのであり、これこそ自分が伝えたかったことなのだと語っています。この時代のミラーにとって書くべき主題は、またしても大不況時代を生き抜いた他者との共通の運命を分かち合う基本的なアメリカ精神の称揚であったのです。何よりも『アメリカの時計』には、市場経済よりも人間連帯の社会を希求する人々の声が反映されているのです。
6.大恐慌と「アメリカの夢」の崩壊
ここで、大恐慌と「アメリカの夢」の関連性に関して、そのテーマを最初に扱った『幸運を独り占めにした男』について述べてみたいと思います。前述したように、1929年10月24日のニュー・ヨーク株価大暴落は、それ以後30年代始めまでのアメリカ社会に少なからぬ変化と混乱をもたらす大恐慌の引き金となりました。大恐慌は既存の価値体系の崩壊をもたらし当時の人々の価値観に大きな影響を及ぼしましたが、他方、伝統的なアメリカのエトスである「アメリカの夢」に基づく彼らの生き方や態度を見直すきっかけを与えることにもなった。その当時まで全アメリカ人を束ねていたと考えられていた「アメリカの夢」の倫理的・道徳的な側面の再考です。ところで、「アメリカの夢」には、二つの種類があります。一つ目は国家としての夢、あるいは社会的領域における夢であり、アメリカ人全体の国民的な理想に関わるものです。二つ目は個人的な領域における夢であり、アメリカ人個々の欲求に関わったいわゆる経済的成功の夢です。
個人が自らの幸福を求める権利を持つと謳った「独立宣言」の理念は、一般アメリカ人の「成功の夢」に明確な拠りどころを与え、その夢に拍車をかけました。南北戦争から金ぴか時代を経て急速に進んだ工業化と都市化の中で、物質万能、金銭崇拝の風潮が蔓延し金や富が正義や道徳を押しのけた時代の後、第一次大戦の戦争景気を経て1920年代に入ると富を求める人々の「成功の夢」は、否応なしに膨張し続けました。しかし、29年の大恐慌はその繁栄に冷水を浴びせ、それまでの楽観的な「アメリカの夢」は、こうして変貌を余儀なくされたのです。大恐慌は結局、共通の土壌の上に培われた重要な文化的・職業的なアメリカ的慣習、すなわち「アメリカの夢」に極めて大きな影響を及ぼしたのであり、少なからず当時の作家達もその影響を受け、この大不況に関する作品を残しています。無論、ミラーもその例外ではありません。
事実、ミラーの最初のブロードウェイ進出作品『幸運を独り占めにした男』は、この時代を背景とした「成功の夢」のテーマを扱ったものでした。そして、彼のその後の作品の幾つかも、アメリカの「成功の夢」にとって挑戦的でしかも危機的であったこの時代の様々な問題を取り上げています。『幸運を独り占めにした男』は、まさに大恐慌と「アメリカの夢」の複雑な関係をリアリスティックに、10年にも及ぶ大不況によってもたらされた当時のアメリカ社会の無力感をよく反映した作品なのです。すなわち、この作品は、第一次大戦後の産業主義・資本主義が頂点を極めたものの大恐慌によって状況が一変し、それまでの精神性を重んじた伝統的な「アメリカの夢」が物質的・世俗的な価値観を重視することで変貌を余儀なくされた「成功の夢」という極めてリアリスティックなテーマを扱った劇と言えるのです。
7.アメリカ社会へのミラーの警告と警鐘
さて、最後に、これまでお話してきた大恐慌と「アメリカの夢」というミラーの二大テーマの背景とテーマ相互間の関連性をまとめ、そこに見られる彼のアメリカ社会に対する警告と警鐘を読み取ってみたいと思います。ミラーは1915年にニュー・ヨークのユダヤ人居住地区のハーレムで生まれ、恵まれた家庭に育ちましたが、14歳の時にニュー・ヨークの株価大暴落が発端となって世界的に広がった経済大恐慌の煽りを喰らって、父親の衣服工場が倒産しました。この体験がその後のミラーの人生観に甚大な影響を与え、彼の思索と創作活動の原点になったのです。既に述べましたが、この一家の苦々しい体験は、彼がミシガン大学在学中にホップウッド懸賞応募作品として書いた『悪人ではない』を始め、その後、書き直されて『彼らもまた立ち上がる』と『草なお茂り』となった、いわゆる『エイブ・サイモン家族劇三部作』に描き込まれ、『二つの月曜日の思い出』と『アメリカの時計』という自伝的な作品に継承されたのです。間接的には、『幸運を独り占めにした男』、『みんな我が子』、『セールスマンの死』、『転落の後に』、『代価』などの作品の背景となり、こうして大恐慌の体験は、直接・間接の違いはあるものの、彼の主要作品の一大テーマとなって発展したのです。
アメリカは、南北戦争後、フロンティアの消滅を経て西漸運動が終結した19世紀末から20世紀初頭にかけて、巨大な産業主義の台頭を見ました。これが伝統的な「アメリカの夢」に変化を及ぼし、大恐慌後から徐々に倫理性を欠いたビジネス上の成功を最高の価値とする「成功の夢」が出現しました。それを一気に加速させたのが、大恐慌です。金持ちが一瞬にして人生のどん底に突き落とされた当時の様子を実際に見せ付けられた若かりしミラーは、従来の「アメリカの夢」の崩壊を知り、目に見えない力に操られる人間の不条理を認識したのです。こうした状況で人々を鼓舞したのが、まさにビジネスでの「成功の夢」であり、そのテーマを扱った作品が、いわゆる「成功の夢三部作」とも称せられる『幸運を独り占めにした男』、『みんな我が子』と『セールスマンの死』だったのです。
とくに『幸運を独り占めにした男』は、「神々の影像」で述べた次のミラーの大恐慌を回想する言葉を裏書きするものです。「こうした環境によって、私は早くから無意識ながら、全過程そのものにすっかり興味を失うようになった。物事はどのように関係し合っているか、人の生来の個性はまわりの世界によってどのように変えられるか。もっと難しい問題だが、人の方が、世界をどのように変えることができるのかといったことである。これは学問的なものではなかった。最初は文学的・演劇的な問題でもなかった。人生を歩み続けるためには何を信ずるべきかという実際の問題であった。たとえば、人は成功を賞賛すべきであるのか―当時さえ、成功している人々がいたのだから。あるいは、人は常に成功を幻想に過ぎないと看破すべきであるのか。・・・ 成功は不道徳なものではなかったのか―近所のほかの人々みんなが、ビュイック自動車をもっていないばかりか、朝飯も取れないでいた時には。何を信ずべきか」(「神々の影像」、178ページ)。
既に見たたように、ミラーは「大恐慌は私の本であった」と述べています。大恐慌は、まさにミラーの思索の原体験であり、アメリカの「成功の夢」の崩壊、サバイバル、連帯など、一連のミラー的テーマは、この思索に基づいているのです。彼の一大傑作『セールスマンの死』は、平凡な人間の夢と挫折を描き、「アメリカの夢」が「アメリカの悲劇」に転じる物語で、そこにはミラーのアメリカ社会への苦い批判精神を見ることができます。ミラーの「アメリカの夢」と「成功の夢」に対する警鐘を考えることは、今日、重要な意味を持つと思います。
おわりに
本日の講義を終わるに当たって、今一度、1929年の大恐慌と昨今の金融危機との関連性を振り返って見ましょう。29年10月の株価大暴落の後、1万以上の銀行が倒産し、労働者の25%が失業した経済大不況という危機的状態にあって、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、その33年の就任演説で変革を次の様に訴えました。「まず私の信念を述べましょう。我々が恐れるものは唯一つ、恐れそのものです。言われなく理不尽で名状しがたい恐怖です。退却から前進への切り換えが、この恐怖のため進まないのです。我々が直面している困難は、物質的なものばかりです。朽ち果てた産業の亡骸があちこちに転がり、農家は作物が売れず、何千という世帯が貯蓄を失いました。失業者の大群が生きるすべを求めてさまよい、仕事がある者も賃金は少なく仕事はきつい。この暗い現実を否定する者は、おめでたい楽天家です。ふとどきな金貸したちの行いに世論の審判が下り、人の良心に背く者だと非難された。私たちの文明の神殿から金貸したちは逃げ去った。今こそ古来の真理に基づき、神殿を建て直そう。我が国は行動を必要としている。今こそ行動のときです。銀行業や信用貸付に厳しい監視が必要だ。他人の金を使った投機には終止符を打つべきです。通貨を過不足なく安全に供給するシステムが必要です。これが今後の攻撃目標です。詳細な作戦をただちに審議するよう新議会に要請します。早急な支援をすべての州に要請します」と。
このように75年前、ルーズベルトは資本主義システムが持つ危険性を訴え、当時の国民に根本的な改革を求め圧倒的な支持を得ました。これが大統領就任後100日間で次々と新しい政策を打ち出して大改革を実行できた理由だと思います。この演説は金銭欲に目がくらみ物資主義にまみれて破綻した資本主義システムへ警鐘を鳴らした立派な道徳論です。ミラーも時代が悪い方向へ向かうたびに人々にこの大恐慌の教訓を思い出させ、世直しのために警鐘を鳴らしたのであり、明らかにルーズベルトとの共通性を見出すことができます。ミラーは2005年2月に惜しくもこの世を去りましたが、今生きていれば再び大恐慌を扱った作品やカネまみれの歪んだ「アメリカの夢」に邁進する人々を批判した作品を書いて、未曽有の危機から学ぶ姿勢を指し示し、その道義的責任を新しい観点から追及したかも知れません。
繰り返しますが、ミラーの教えは、アメリカが倫理的・道義的に危機に陥るたびに、大恐慌で露呈したアメリカ型資本主義の過ちとその結果として生じた、まさに悪夢と化した「アメリカの夢」の崩壊という負の遺産と同時に国の未来を信じてその危機を乗り切った人々の忍耐力を思い起こす必要性があるということなのです。混迷の時代をサバイバルした大恐慌時のアメリカの人々の思いや行動を自分自身の問題に引き寄せて、あるがままに辿ってみることの必要性と、当時とは別の種類の悩みを抱えたその時どきのアメリカ社会に、もう一度あの時代のこと、すなわち激動の時代に懸命に生きたアメリカの軌跡である大恐慌時代の多数の人々の夢や過ちや絶望や使命感を思い出してもらいたいとミラーはひたすら願ったと言えるのです。
今回の金融危機に話を戻しますと、それを克服するためには我々は大恐慌から多くを学べるのであり、学ぶべきなのです。今やアメリカは、そしてその他の国々もその倫理が問われているのです。さらに、現在の危機的状況は金融面のみならず、環境、食料、エネルギー、水、生命という分野からも警鐘を突きつけられています。資本主義経済が歴史的転換点にある今、世界はこの不況から脱出し正常な社会に復帰できるのか、歴史に残る名演説をしたルーズベルト大統領と同じ「チェンジ」という変革を掲げて当選した清新なイメージを持つオバマ次期大統領が今から1週間後、就任演説でどんな対策を謳い上げるのか、大いに注目したいところであります。 
 
第2次大恐慌と「グリーンスパン問題」の展開

 

2007 年、それまで住宅バブルの拡大が指摘されてきたアメリカで、サブプライム・ローン危機が起こった。これは2008 年9 月にリーマン・ブラザーズに対する財務大臣ポールソンの非救済決定に発展すると、全世界に衝撃を与えた。一連の現象は、大恐慌以来のダメージを、アメリカだけでなく世界にも与えつつある。いまの段階ではその全貌をすでに閉じられた物語として叙述することは不可能である。大恐慌の最も深刻な余波は不況ではなく第2 次世界大戦であった。1929 年のクラッシュの直後に地獄と見えたものが、のちに煉獄にすぎなかったことが判明した。この先例を参考にすると、おそらくいまからあとに苦しみが待っていると見るのが自然であろう。
恐慌は何らかの市場における劇的な暗転を伴うが、このことがそれをめぐる分析から冷静さを奪い去る。けれども、経済学の専門家というものはいついかなる場合でも一貫した理論的視座から矛盾なく出来事を説明できなければならない。こうした大前提を立てた上で、本稿では次のような手順で議論を進める。第T節では、今次経済危機の真因を示し、国際要因説を論駁する。第U節では、危機後のグリーンスパンの弁明、9/11後の方針転換とその帰結に対する準備、彼の金利政策が向き合う基本問題を見る。第V節では、「隠れオーストリア学派」であるグリーンスパンの仕事に対するオーストリア学派のコメント、グリーンスパンの弁明に対する主流派の見解を概観し、「怪」(conundrum)発言が幻惑戦術であることを論証する。第W節では、以前定式化しておいた「グリーンスパン問題」を、その後の事態の推移を踏まえていくつか増補する。
T 第2 次大恐慌とその原因
T. 1 恐慌の真因
サブプライム・ローン危機については、混乱の発生直後から多くの分析が行われ、すでに5 年以上たった現在では一段落した感がある。しかし、それらの分析は、原因究明という点では十分なものとは言いかねる。
多くの書物は住宅金融市場における証券化などの金融技法の解説にページの大半を費やしているが、その場合に中心的な問題とされるのは、証券化によって住宅金融機関が家の買手によるローン完済前に証券市場からローン全額分の現金性資産を充当され、これが次のローンに回せるというしくみである。住宅ローンはきわめて分厚い市場を金融機関に与えるが、それが通常数十年という長期にわたる取引であることは、企業金融よりも流動性または金融機関資産の回転率を低下させる構造を持つ。証券化という金融スキームが、この問題を克服させてくれるという点で大きな意義を持つものであったことは確かである。しかし、その前史は長く、もともと政府系住宅金融機関(Government Sponsored Enterprises : GSEs)が考案したものである。2000 年代半ばころから急速に民間金融機関がこれを取り入れ始めたのは事実であるが、それが別の何かの結果であった可能性も考えられる。一連の出来事の因果関係の矢印の向きをどのように捉えるべきかは、決して争いなしですむ問題ではない。ただし、本稿ではこうした金融技術の新機軸に関する議論をあえて捨象する。結局のところそれは恐慌の真因ではないからである。恐慌のたびに新種の金融商品が注目されるが、それらが恐慌を起こしたと考えるのは、実は不合理な思い込みでしかない。
今回の恐慌に関する原因分析を学派横断的に概観すると、大恐慌の前例がほとんどそのまま再現されていることに気づく。すなわち、マルクス派やケインズ派などの社会主義者は行き過ぎた投機を糾弾して金融機関の政府救済とリフレ政策を説き、マネタリストは危機後のマネーサプライが十分な量を備えるように説き、オーストリア学派は2000年代初めのFRB の低金利に原因を求めて今後の放任を説いている。
これくらいの大波乱が起こるとメディアや学者は大騒ぎするが、実は恐慌の原因はいつもおしなべて同じであって、今回も1990 年代の大平準からの経緯を順番に見ていけば、それはむしろ起こるべくして起こったものにすぎないことは明らかである。
現代経済学の教科書を見ると、実にさまざまな話題が取り上げられているので、読者はそれらを一つ一つ理解することに追われる。しかし、こうした作業が一段落ついてよくよく考えてみると、教科書にはある共通の特徴があることに気づく。それは、平時の経済を対象としているという点である。では、経済現象において「有事」に当たるのは何か。むろんそれは恐慌である。私たちは現在その真っ只中にいる。にもかかわらず、普段の生活に及ぼすその影響はむしろ表面的には目立たず、特に日本語の「恐慌」が「depression」の不正確な訳語であることも手伝って、水面下に潜っているようなところがある。教科書は恐慌とその原因論を重要な話題の一つとはしないか、取り扱ってもふつう「ショック」という素っ気ない一言で片づけようとする。しかし、これはお世辞にもうまい説明ではない。そもそも恐慌とは市場参加者が何らかの経済変数の突発的な変動、つまりショックに襲われる現象の謂いであるから、恐慌の原因がショックだなどと述べることに意味はない。「ショックに襲われたが、原因はショックだ」──これが学問的言語であろうか。恥ずかしいほど当たり前のことを再確認すると、理論経済学の仕事は、むしろそのショックの原因を究明することである。この課題に応えないあらゆる言語は、いかにノーベル賞受賞者や有名大学教授によって述べられていようとも、とどのつまりは「浮遊するシニフィアン」にすぎない。
現代の主流派経済学の理論は一見緻密に構成されているかに見えて、その実恐慌のような人々の関心を強く引きつける崩落現象を、あくまで体系の中から説明しきること、言い換えれば平時経済から有事経済への連続的移行を説明することがまるでできていない。経済のことなら何でも任せておけとばかりに難解で衒学的な言葉を並べ立てる経済学者が、有事には手のひらを返したように沈黙を保つということの奇怪さには、おそらく少なからぬ素人が感づいている。そこには理論と現実の悲喜劇的な分裂がある。広範な影響を及ぼすせいで恐慌に対する人々の関心は強いが、不幸にもその原因についての関心は容易に満たされない。この結果、ある奇妙な現象が不可避となる。すなわち、非学問的な恐慌論が書店の棚を埋め尽くすのである。恐慌をめぐる議論は経済学者の守備範囲外である。そして、まさしくこのために、議論は流れ流れていわゆる「陰謀論」と境を接するジャンルにたどりつく。
「陰謀論」という名称は、いかにも人聞きが悪い。近代的な学問としての経済学は、社会の中の経済主体の行為から組み立てて、国民経済や世界経済などの大がかりな対象を説明する知であることを標榜しているのに、恐慌のように広範で甚大な影響を社会に及ぼす現象については、誰かが見えないところで手綱を引いているといった類の説明になるからである。こうした原理と生活の矛盾は、火急のときにはさしあたり対策を立てて困った人々を救済すべきであるという一見もっともな主張によって、決まって巧妙に覆い隠される。ふだんは生活に対して原理を、しかし緊急時には原理に対して生活を優先するというのが通念となってしまっている。恐慌は原理に基づく生活を生活に基づく原理にあざといまでに手際よく置き換えてしまう。
大恐慌の原因論として最も頼りにされているのは、実はフリードマンである。そればかりか、現代日本の不況の原因論でもそうである。マクロ経済理論では新生古典派が、金融政策のルール論ではテイラーが彼を過去の人物にしたかに語られることもあるが、恐慌の原因を政策に求めるタイプの議論は前者にはあまりなく、後者にはあっても不況突入後の対策論は手薄だから、現代的装飾を凝らした理論の覆いは緊急事態という突風によってやすやすと吹き飛ばされ、いわばフリードマンという原始が召喚される。しかし、フリードマンの大恐慌論は実は陰謀論である。彼の「引抜きモデル」は余弦波モデルであるために説明が景気の波の上下動のうち下げ波に偏っており(村井2013 a)、バブルのプロセスに関する説明力は十分ではない。ただ、彼の恐慌論の中心テーゼは不況が中央銀行の仕業だという断定なのだから、やはりそれは一種の陰謀論であることに異論の余地はないであろう。しかし、その一見科学的な装いのためか通常この点が非難の的になることもなく、いまや通説の座に居座っている。大恐慌原因論の通説がある種の陰謀論であるのに疑問が提起されないのは、興味深い逆理である。
ケインズの理論も基本的に朦朧としている。資本の限界効率が急落して人々の間から「信頼」が消え失せ、「慣習」が変わるのが恐慌の原因だというが、ではなぜそうなるのか。ケインズは「信頼」を抱く人物として投資対象となる企業の実績に無関心な市場参加者を初めから想定しており、「素人」と「プロ」の区別をいったんは導入するくせに、直後に全員が素人同然だと強弁するから、「信頼」とは実に曖昧な感情にすぎなくなる。いわば一種の「気分」である。気分が好況をもたらし、気分が恐慌をもたらす。このような説明が、本当に経済理論の名に値するのか。資本家の貪欲が恐慌をもたらすと考えたマルクスをケインズはあまり尊敬したようには見えないが、企業家に貼られた「アニマル・スピリット」なる玉虫色のレッテルは、彼がマルクスの隣人である可能性を濃厚にしている。
市場参加者の「貪欲」に原因を求めるタイプの説は、確かに恐慌に先立つバブル期には羽振りのよい人たちが贅を尽くす暮らしに溺れるので本当らしくも見える。しかし、ではなぜそのような暮らしができるのかという点になると、説明は因果の鎖をさらに原因の方向に遡り始め、途中から暗闇の中に突入してしまわないだろうか。各種の議論に共通の問題は、因果の鎖の端点がはっきりせず、原因とされるものにさらに原因がありそうな印象が残るという点にある。
さて、オーストリア学派の恐慌原因論は、基本的にABCT(オーストリア学派景気循環論)に依拠している(同上論文)。ところが、その要点は中央銀行の過度の利下げがバブルの、そしてバブルが恐慌の原因だということであるから、それも陰謀論に分類される可能性がある。恐慌はきわめて日常的な現象ではないものの、十数年から数十年に一度は起こってきたから、ハレー彗星の来訪や皆既日食の発生よりもはるかに頻度の高い準日常的な現象である。経済学はすでに数百年の歴史を持つ学問だが、そういう現象を十全に説明できないことは、それがまだまだ開発途上の知にすぎない可能性を示唆する。そこで世間には「陰謀論」があふれる結果になることは先に述べたが、不可解なのは陰謀論を「非科学的」として排そうとする者が、なぜかいつもその定義を明示しないという点である。
実際問題、もしごく一部の成員が下す決定が社会全体を困難に陥れることを明らかにする知が陰謀論なのだとすれば、恐慌の原因論は必然的に陰謀論になる。反対に、社会成員がほぼ一様に貢献して問題が生じたという主張を想定すると、それは明らかに不自然であり、やはり特定点から全体に問題が拡散していると考える方が自然である。ただし、悪意ある利益集団が意図的に社会に混乱を導き入れているとの主張が陰謀論だと考えるなら、それは恐慌の原因論としては正しくない。中央銀行総裁はふつう意図どおり経済をコントロールすることなどできない。オーストリア学派の恐慌論は中央銀行を特定点と見て、その意図に関係なく結果を論理的に考察する理論である。
いまバブルが起きたとする。バブルとは、部門を問わない一般的過剰生産が始まるときに見られる現象であるが、最終的には生産計画のごく一部しか完成しない。その意味では、売れるわけのないものを量産しようとして生じる誤投資(malinvestment)である。しかし、財は白手袋をはめた黒モーニングの男が真空から生み出せるものではない。それをつくるには必ずおカネが要る。バブルが生じ一般的過剰生産への初めの徴候が目の前で展開したのなら、そのときは必ず過剰なおカネが与えられたと断言できる。もしこれに反する発言をするなら、その者は企業が手品で製品をつくったとか、サンタクロースが夜中に送り届けてくれたなどと言っているも同然であって、学問からはかけ離れてしまう。おカネが増えなければ、決してバブルは起きない。特定企業がつくりすぎることはありえるが、そのときはその製品の価格が下がってバブルにはならず、その会社は(需要の弾力性にもよるが)勝手に市場から撤退するだろう。そして、忙しい世間の人々はやがてそれを忘れ去るであろう。このような企業を放逐するのも市場の大切な役目である。独占企業の場合は、初め多少の売上増は見込めても、その分消費者の財布は軽くなるから、別部門の企業と競合関係に入る。結局、売れ続けることはない。それに、そのうち消費者に飽きられるだろう。しかし、おカネが増えた場合は、どの企業もつくりすぎることがありえる。消費者の財布も重さを増すことがそれを支える。バブルである。過剰な生産に途中で水をかけるような契機を市場の調整機能と考えるとすれば、このとき市場の調整機能はすでに麻痺している。何によってだろうか。言うまでもなく、過剰なマネーサプライによってである。人為的なマネーサプライ増は火に水をかけずにむしろ油を注ぐ。そして、現代の法令貨幣制のもとでこのようなことを行えるのは、中央銀行以外には絶対に存在しない。
つまり、結果から原因へと論理のステップを上がっていく演繹推論によって、恐慌の原因は中央銀行だと特定できるのである。ミーゼスは貨幣の起源について「遡及定理」というものを考案したが(村井2013 d)、それは恐慌論にも適用できるだけでなく、適用されるべきでもある。「遡及演繹法」とでも呼ぶべきこのような逆行型の説明を順行化し、金利などのパラメータを加味して資本理論を加えれば、フルバージョンのABCTになる。こうした説明法は厳密論理であって、反論するにはそれ以外の原因を特定しなければならないが、そのようなことに成功した者はいない。
主流派経済学では、貨幣はまず価値尺度とされ、それが没時間的な交換を媒介する交換手段とみなされる。だが、大半の学者が「交換手段機能」の意味を誤解している。そあがなれは単なる交換の媒介ツールなどではなく、本来は何でも贖える「汎購買力」、つまりあらゆる実物財やサービスとの代位可能性を持つ使用価値ある実物財であり、その結果交換が盛んになると量的比率が一定化するからあたかも「価値尺度」であるかに見えるにすぎない(村井2013 d ; 2014 a)。そして、貨幣を有時間的に(将来を見据えて)使うために消費者側がそれを貯蓄すると企業側が利用できるから、貨幣の「価値貯蔵機能」は「資本機能」にもなる。法令貨幣制のもとでは貨幣は貯蓄を経由せず銀行をとおしていきなり資本機能を持つ。だとすれば、その増量が経済全体を巻き込まずにすむ可能性など考えられない。主流派経済学は、諸財に超越するという貨幣の特殊性の側面のみを見て、それが諸財と同じく需給変動に晒されて厳密には尺度性など持ちえないために生じる諸現象に目を塞いでしまう。しかし、新規に経済に注入された貨幣に価値尺度機能とその期における交換のための交換手段機能のみを発揮させ、資本機能は効果的に殺いでしまう方法など存在しない。だから、物価を安定させるための貨幣増量はそのまま不可避的に経済の均衡を根底から揺さぶる起爆剤になってしまう。それなのに、経済学者たちはこの明々白々な事実から目をそらす。こうして、必然的に貨幣に出し抜かれてしまう。
現代経済学は、マクロ理論では基本的にケインズ型の関数論的な枠組に内属しているが、その創始者または重要な先行者はフィッシャーであり、フリードマンも含めてこの枠組を踏襲している。ただ、マクロ経済の一般理論はケインズ以前にミーゼスによって提出されており(Mises 1980[1912])、このため一時期彼の理論が主流派の地位にあった。ルーカスがハイエクのケインズ批判に便乗する形でマクロ経済学に期待理論を導入したという出来事も、あくまでもこうした一連の経緯の延長上で理解されるべきである。オーストリア経済学は中世以来の長い伝統を持つが(村井2014 a ; 2014 b)、現代の大学の経済学の世界では基本的に排除されているという不幸な状況にある。しかし、本稿では学史全体を踏まえた囚われのない視点から、有益な解明はすべて利用して議論を進めていきたい。
T. 2 国際要因の非重要性
今回の危機の主たる要因はグリーンスパンの低金利策である。これに対する反論は、以上に述べてきたことからもほとんど意味がない。また、別の要因を強調する場合も連邦準備の低金利の寄与は否定できないであろう。本節では国際要因説の代表としてグローバル過剰貯蓄説を検討し、その矛盾を指摘する。これは、アメリカの巨額の経常赤字とアジア新興国の巨額の経常黒字のグローバル・インバランスのもとで、後者の大量の貯蓄が前者へと流れ込んできたという説である。こうした議論の直接の発端となったのは、2005 年3 月に当時FRB 理事だったバーナンキがヴァージニア州リッチモンドで行った講演である。
多くの面でアメリカ経済の状態は上々と思われます。産出の伸びは健全な水準にまで回復し、労働市場は堅調で、インフレはうまく抑制されていると思います。しかしながら、アメリカ経済の状態のある一つの面は、いまなおエコノミストや政策のプロの関心を惹いています。それは、わが国の大きな経常赤字です。……世界最大の経済規模を誇るアメリカ経済が、なぜ国際資本市場から多額の借りを負っているのでしょうか。貸している方がより自然ではないのでしょうか。アメリカの経常赤字と外国信用への依存がアメリカ経済の状態や貿易相手国の状態に対していかなる意味を持つのでしょうか。この状況に対処するのに何らかの政策が有効だとして、ではいかなる政策が用いられるべきでしょうか。今日のお話では、こうした問いに対して仮の答えを出してみたいと思います。私の返答は、次の点でやや型破りなものです。すなわち、近年の経常赤字の悪化が基本的にアメリカ自身の範囲内での経済政策やその他の経済の推移のせいだという、よくある見方に異議を唱えるものだということです。国内経済の推移が一定の役割を果たしたとしても、近年における経常赤字の増大を説明するには、アメリカの外での出来事をもっと十分に視野に入れたグローバルな視点が必要であることを論じます。もっと特定するなら、ここ十年ほどでさまざまな諸力がグローバルな貯蓄供給の大幅増を生み出したということです……。(Bernanke 2005)
グローバル・インバランスの原因を国内の政策に求めるのが一般的な見方であることを自ら認めながら、それにあえて異議を唱えようというのである。そして、議長就任後の2007 年のベルリン講演では、こうした見方をさらに発展させようとした。
2005 年3 月の講演〔上記講演〕では、グローバル経済の中で起きている重要で相互に関連しあった展開をたくさん論じました。アメリカにおける経常赤字の大幅拡大、数々の新興経済における同じく目を見張る経常黒字の増加、世界的な長期実質利子率の低下などです。論じたとおり、こうした展開の一部は、グローバルな貯蓄過剰の台頭から説明できます。これを勢いづかせたのは、多くの新興経済──とりわけ、急発展する東アジア経済と産油国経済──が、国際資本市場においてネットでの債務国から巨大なネットでの債権国に変貌したことです。(Bernanke 2007)ランドとミーゼスの両方に師事したレイスマンは、いくつかの点でこのような考え方に反論しているが(Reisman 2009)、残念ながらその議論は難解なので、筆者なりにこの貯蓄過剰説の疑問点を検討してみよう。
要点は、本当に貯蓄過剰があり、それが恒常的に資金を流入させているのかである。新興諸国は「最後の買手」(buyer of last resort)であるアメリカへの輸出に精を出すが、その代金の少なからぬ部分をドルで受け取る。アメリカにとってこれは在外ドルであるが、アジア諸国はそれを結局金融機関に預金し、それらは預金金利以上を稼がなければならないのでこの資金を運用する。うち、アメリカに投資された部分は、アメリカの信用膨張に寄与するであろう。バーナンキは輸出成長型工業国が多いアジア諸国が、その貯蓄率の高さゆえに過剰資金の源泉になっていると説くが、アジアからの資金は国債購入に向かう部分も多く、アメリカからすれば外国銀行が国債を買うことで自国経済が膨張するとは考えられない。外銀は連邦準備傘下の加盟行ではない。
ただ、そもそもドルの総量が増えたときにはこれが起きるかもしれない。いま、ある湖に降水と河川で水の流入が毎月10 万単位あり、河川で8 万、蒸発で2 万の水の流出があるとする。ある年に地震が起きて地盤沈下のために湖が拡大して面積が増え、降水も蒸発も1 万増えたとする。湖の水フロー収支の総額は、地震で10 万から11 万に増えたことになる。では、グローバル・インバランスの拡大において、地震による湖面拡大に相当するものは何か。国際収支において経常収支と資本収支は相補い合う関係にあり、経常赤字は資本黒字を意味する。そして、経常収支の赤字と黒字の世界全体での合計額は、誤差脱漏を除くと一致するはずである。20 世紀末からのグローバル・インバランスの拡大で、アメリカ一国が世界の経常赤字の大半を計上する構造が成立した。これは、地震で湖水フロー総額がインもアウトも増えたことに相当し、ドルの流出入が増えたことを意味する。では、原因は何か。このところの東アジア諸国経済の急伸は確かに目を見張るものがあるが、中国などの大国は開放小国ではない。彼らがいかにGDPを伸ばしたとしても、経常黒字はその5% 前後である。その部分が急伸したとしても、それだけではグローバル・インバランスは拡大しない。
そもそも問題にすべきは、なぜアメリカ人が以前よりたくさん輸入できるようになったかである。アジアがたくさんつくっても、アメリカにおカネがなければ指をくわえて見ているしかないはずである。実際には、アメリカで信用膨張を起こしているからアメリカ人がアジア製品を多く買えるようになっているし、アジアもアメリカが買ってくれるからつくっているのである。もしアメリカの貨幣量が一定なら、中国が増産しても売れ残るだけである。
   第1 図グローバル・インバランスの歩み
   第2 図アメリカ経常収支赤字の歩み
また、危機後リパトリエーション(資金の本国回帰)が起きたが、しばらくするともう一度アメリカに資金が舞い戻ってきた(第1 図)。しかし、それだけでアメリカが再度バブルに沸いているという話は聞かない。
アメリカは基本的に閉鎖的な経済であって、グローバルな資金の規模はその経済規模に対してたかが知れている。問題となる2000 年代半ばころの経常赤字の対GDP 比は、商務省の統計をもとに算出すると最大でも5% 台にすぎない(第2 図)。だとすれば、国際要因説は、相対的に小さな資金で大きな財を動かしたという話になってしまう。言うまでもなく、これを危機の主要因とすることは不可能である。
国際収支に着目する見解は大恐慌に関しても見られるが、経済規模に対する国際資金フローの役割を過大評価し、国内銀行システムにおける信用膨張の役割を過小評価することにつながりやすい。これは数値化できるから厳密に見えるというフロー経済学の特徴がもたらす幻影であろう。しかし、説明の起点を連邦準備を頂点とするアメリカ銀行システムにおける信用膨張に求めても、以上の現象は説明がつく。しかも、より整合的に説明できる。すなわち、まずアメリカで信用膨張が起きる。ドルは基軸通貨だから、そのまま世界で受領される。そうすると、アメリカ人は以前より輸入を増やせる。輸入には資本財や耐久財も含まれるだろう。しかし、その代金として払ったドルの少なからぬ部分が上述の還流プロセスによって国内に戻ってくる。信用膨張の額は年々増えるから、以上のメカニズムが年度ごとにフロー総額を増しながら進行する。そうすると、グローバルな経常収支ギャップが拡大しているという統計となって表れるだろう。そうして、統計を懸命に収集するがその背景にある経済学的メカニズムを見抜く理論を持たない学者やアナリストたちが、アメリカは赤字を計上しながらも以前より消費を増やしていると訴える論文を量産するだろう。
では、これはアジア諸国の貯蓄過剰のせいであろうか。アジアでは歴史的な経緯などから伝統的に貯蓄率が高い。アメリカの貯蓄率が低すぎると言った方が正しいかもしれないが、いずれにせよ貯蓄率に開きがある。しかし、いまアメリカが信用膨張を起こさなかったとすると、毎年ほぼ同じ水準で資金が国際移動すると考えられ、それが拡大する可能性は低い。もし拡大すれば、その分アジア諸国では投資の原資が減るから、成長に水が入るだろう。しかし、アメリカは消費を、アジアは生産を拡大してきた。となると、アメリカが信用膨張をしてきたからだというのが唯一可能な説明になる。アジアの貯蓄率が高いことと、アメリカへの資金流入が増すこととは、実は別問題である。また、貯蓄「率」と貯蓄「額」も別概念である。もしアジアの貯蓄率が低くても、アジアが世界の工場であるもとでアメリカが信用膨張を進めればアジアの貯蓄額は増え、国際収支ギャップはやはり拡大するであろう。
グローバル・インバランスが顕著になり始めたのは1990 年代末からであるが、それは1980 年代末の社会主義経済圏の崩壊、それに先立って経済自由化を選択した中国の発展、東南アジア諸国の成長、インドやアフリカなどの台頭などが次々と生じつつある時代でもあった。グリーンスパンはその影響を「ディスインフレ」というタームで呼んでいるが、これはIT 産業が先導した国内経済における生産性の向上とともに、単位当たりのマネーサプライ増に対する消費者物価指数(CPI)の上昇ペースを鈍らせる効果を持ったであろう。こうして、人類史上かつてないほどの範囲と規模でのグローバル化が進展するのと併行して大平準が軌道に乗り始めたために、連邦準備は世界の中央銀行という性格を強めていくのである。
ある国では東方に首都と中央銀行があり、あまりお金を貯めずに消費しがちな人々が住んでいる。そのかなり西方に、ものづくりに励んであまりおカネを使わない人たちが住む地方がある。いまこの国の域際経常収支の統計を取れば、西が移出超過、東が移入超過となろう。中央銀行が貨幣注入を行うとき、この国ではまず東方の銀行の準備預金におカネが入るとすると、東で信用膨張が起きるから、さらに域際収支のギャップが拡大する。むろん、西方の銀行にも貨幣が行き渡ればこの不均等化プロセスは止むだろう。しかし、何らかの理由で行き渡らないようになっていれば、域際不均等は拡大の一途をたどるだろう。こうしたプロセスが国境を超えて生じたものがグローバル・インバランスである(ただし、連邦準備は外銀には最後の貸手とならない)。ワシントンは東に、ドルを外貨として大量保有するアジア諸国は西に位置し、両者の経済的つながりは深いが外国どうしだから、お互いの取引は域際収支統計ではなく国際収支統計に計上される。こうして、連邦準備の物価安定策がそのまま信用膨張となり、これが世界を巻き込んでいったのである。
現代の国際経済学で多用されるマンデルらのモデルはIS-LM モデルという単年度フロー経済学を国際化したものにすぎず、この枠組で一連の出来事を理解することにはおのずと限界がある。そもそも外国からの資本流入の少なからぬ部分は元をたどればアメリカで水増しされた信用であるから、フロー統計から国際要因を強調してしまうと、連邦準備が行っていることの責任転嫁に手を貸してしまうだけである。国際収支ギャップの拡大それ自体は恐慌の原因ではない。ただ、連邦準備の信用膨張が国内的にバブルと恐慌を起こせば、その影響は当然世界に拡大する。そして、カウンターパーティ(第三者)リスクに対する疑心暗鬼を生活の必要が押しのけると、再びギャップは順調に拡大する。しかし、それがすぐさま次のバブルや危機を呼ぶことはない。要するに、国外からの資金流入はアメリカの景気循環の主要因ではありえない。
U 危機のあとさき
U. 1 危機後のグリーンスパン
グリーンスパンの主著『波乱の時代』は2007 年刊で、サブプライム・ローン危機と同年である。出版元のペンギン社は、事態の急変を受けて、彼に追加原稿の執筆を依頼した。これは2008 年9 月に「増補ペーパーバック版」として刊行され、増補部分は『特別版サブプライム問題を語る』として訳出されてもいる。ところが、タイトルからは十分なコメントが期待できそうに見えるのに、実はあまり核心部にはふれていない。おそらくそれは、書かれた時期が危機の直後すぎるためであろう。さすがのグリーンスパンも、リーマン・ショックの余波が与える影響を見届けるいとまもないままに急いで執筆した増補部分に、危機の包括的な見取図を収めることはできなかった。
そこで別の資料を探ると、いくつかの例が見つかる。代表的なのは2010 年4 月にブルッキングズ研究所から出された「危機」(The Crisis)というシンプルなタイトルの論文である。まずはこれから概観しよう。論文は、次のように始まっている。
2008 年9 月のリーマン・ブラザーズの破綻は、いまから振り返ると過去最悪のグローバル危機と判断されると思われる急転直下をもたらした。実際には、この収縮の始まりの場面でそれに続いて生じた経済活動の収縮は、1930 年代の不況に比べるとはるかに小さい。とはいえ、民間短期信用が実質的に引き上げられ、しかもそれがグローバルな規模に達したことが金融危機の先駆けとなったわけで、これはわが国の金融史において簡単に見つかるようなものではない。これまで何十年も巧みに微調整されていた民間のカウンターパーティ信用監視が崩壊し、さらにグローバルな規制システムが破綻したため政府による徹底した見直しが必要となり、これはいまなお続いている。(Greenspan 2010、 3)
つまり、規模においては大恐慌ほどではないが、インターバンクの短期市場(プロどうしの取引の場なので分厚いとともに高度に流動的)から流動性が干上がったこと、およびその範囲が国境を越えたことは容易には信じられない現象であり、ショックの大きさを端的に物語るというのである。
要因として挙げられているのは、後述する「怪」発言で広く認知されるようになったグローバルな長期金利の低下のもとでの資産投資の拡大、同じくグローバルな貯蓄過剰などによるリスクプレミアムの低下に関するものが多い。こうした局面では、各企業や金融機関は、内心上昇局面が無限に続く可能性はないと判断していてもシェアを確保するためにあえてリスクを取りに行く(cf. AOT 521;特別版36)。このため、歴史から下降局面への転換を予測する能力が低下し、そのことが度重なるバブルとその破裂のサイクルをもたらす。金融工学によるリスクの管理は、それがコンピュータに入力するデータがせいぜい30 年ほど前までのものでしかなく、この程度の期間に前例があったリスクに対してしか耐性を保証してくれなかった。
肝心の低金利策とバブルの関連については、住宅融資に関わるのは長期金利であって短期のFF レートではなく、またその長期金利の低下は不可抗力で、短期金利とのリンクは21 世紀初めには消失していたという見解を示している。簡単に言えば、2001 年ころからの歴史的なFF レートの引下げは免責されると主張したいのである。対策として掲げられているのは金融機関の資本拡充である。「資本が十分なら、定義によって債務がデフォルトに陥ることはなく、打ち続く伝染も阻止される」というのが提案の骨子であり、より細かくは、ある種の証券化を法的に規制することも提案している。ただし、規制漬けになることには歯止めを求めている。
しかし、規制的改革パッケージの一環として効果を持つ「システミックな規制当局」を考えることは誤った提案である。現在の経済予測は悲しい状態にあり、政府はこの問題には二の足を踏むべきである。かなり追加要素を入れたものを除くという意味でスタンダードなモデルでは今回の危機を予想できなかったし、その深さとなるともっと読み誤った。(Greenspan 2010、 48−49)
それだけでなく、今後の長期的な予想も示してくれている。『波乱の時代』の増補部分の最後では、今後は長期金利が上がり、しばらくは次のバブルを心配する必要はないとしているが(AOT 532;特別版57)、1 年半後の「危機」では、彼の筆は次のバブルの見取図にまで及んでいる。
次の危機は、間違いなく山ほどの新種の革新的資産を出してくるだろう。その一部は意図せずして毒性を持ち、誰も前もってそれを予想できないだろう。けれども、資本と引当が十分なら、損失は時価性証券保有者に限られる。彼らは異常な収益を求めるが、そうするうちに異常な損失を被るのである。納税者はリスクに晒されてはならない。(Greenspan 2010、 49)
こうして、「危機」は金融危機への事前的対応の限界を指摘して事後的なリスク管理主義を掲げてきた現役時代の延長上に、これほどの規模の金融混乱にも対応できるような大がかりな管理システムの導入を示唆して終わっている。注意すべきなのは、彼が規制の強化を説くでもなく、次の大規模バブルが起きるのも正常な景気循環の進行における出来事だと達観している点である。これは、冒頭であまりに急激な流動性の干上がりに驚きを表明しながらも、今回の危機を「古典的な陶酔型バブル」と呼んでいることにも表れている。つまり、彼の頭の中ではこの「100 年に1 度」(AOT 526;特別版46)の大恐慌もそれほどのショックではないようなのである。
もっとも、リーマン・ショックから1 年以上たってから論文の形で改めて発表されたものだけに、頭を冷やす期間があったものと推察される。ところが、かつてパークスと会話を交わした場でもある(村井2012 b)ニューヨーク経済クラブで2009 年2 月17日に行った講演(タイトルなし)を見ると、はっきりした狼狽ぶりがうかがえる。同講演では、いくつか興味を引くコメントが見られる。1950 年代にシカゴ大学のマーコーウィッツが組織的なリスク管理論を展開し始め、金融業界や政界もこれを受容したが、2007 年に見事に管理体制にひびが入った。
洗練された高度な数学やコンピュータのウィザードは、基本的に、ある中核的前提に依拠しています。金融機関の所有者や経営者の啓発的な利己心が、自分の企業の資本やリスク性資産の持ち高を監視・管理する活動によって、彼らに債務不履行への効率的なバッファを維持させるよう仕向けるだろうという前提です。2007 年の夏にこれが破綻したとき、私は深くうろたえました。(Greenspan 2009)
市場参加者が自らに課す規制の一線が波に呑まれても金融システムの調整力がバッファになりえたはずなのに、この一線も破られた点に問題の根深さがある。例えばBIS規制のような資本要求も無駄に終わった。「大きすぎて潰せない」という前提が大手に価格づけを優位に進めさせて市場を歪めた。こうして、結局は一方で市場原理に沿った競争の回復を、他方で資本拡充によるバッファの強化を求めるのである。『波乱の時代』の核となるメッセージが、大平準のころから世界大の市場でスミスの「見えざる手」が機能し始め、大きな外生ショックにも耐えて自由市場経済が順調に育っていく理由を探るという点にあると述べているだけに(村井2012 d)、リーマン・ショックで受けた衝撃は彼をうろたえさせるほど大きかった。そして、1 年たった「危機」ではやや冷静な姿勢を取り戻している。上の発言からはそう推察できる。
2009 年の講演には、もう一つ興味を引く点がある。それは、株価とマクロ経済の関係についての所説である。
金融仲介の破綻は、ここ数十年で多くの経済をよろめかせました。最も目立つのは1990 年代の日本です。ところが、株価が経済に与える影響の方がおそらくもっと直接的です。私たちは株価の変動を「紙切れの」利益や損失という言い方で捉え、実物的な世界とはある意味でつながりがないと考えがちです。けれども、この「紙切れの債権」の価値が蒸発すると、グローバルな経済活動に深刻なデフレ的影響を及ぼします。個人消費支出に対する家計の富効果については多くが書かれています。ですが、株価は民間資本投資にも大きな影響を与えるのです。1959 年に発表した論文で、アメリカ企業の既存資産の市場価値、つまり株価を、これらの資産の再取得価格で割って比率を求めました。それは、1920 年代に遡って機械の発注高と高い相関がありました。最近この分析をアップデートして、この単純な関係がなおいかに有効かを知って驚きました。ここのところの実質民間資本投資の急激な変動すらこれで示せるのです。(Greenspan 2009)
大恐慌並みの金融危機の余韻も冷めやらぬ間に、「株価と資本価値評定」の議論をちょうど50 年後に再説しているのである(Greenspan 1959;村井2013 a)。グリーンスパンは物価安定のために注入した新規貨幣が価値貯蔵・資本機能も持つこと、そしてそのために金融政策の推進において基礎的枠組となるマクロ経済学に資本理論が不可欠であることをはっきりと意識している。この点に気づかぬまま彼を批判することはそろそろ止めにしなければなるまい。1990 年代のアメリカ経済は1950 年代とはかなり異なるが、それでもなお後者を土台に構築したモデルが高い説明力をもってあてはまる。
だから、私の経験では、こうした〔陶酔と恐怖を繰り返す株式市場の〕挿話は、将来の経済活動を予測させるものにすぎないのではなく、経済活動の重要な原因であることが多いのです。株価は景気循環の大半を通じて利益期待と経済活動で支配されています。それは、景気循環の転換点においてますます経済活動から独立に見えるようになっています。これが経済の先行指標だとされるときの意味であり、景気循環分析の多くがそう結論するわけです。(Greenspan 2009)
大平準のただ中の1990 年代半ばがその転換点であった。風向きが変わるときに凪になるように、そこでは株価は一見落ち着きを見せた(第3 図)。けれども、その間にも次のバブルへのカウントダウンが始まっているのである。
グリーンスパンのマクロ経済分析が、気まぐれとは正反対な、きわめて高い一貫性を備えたものであることがおわかりいただけるであろう。こうした独自の手法は、ABCTの枠組に統計的ミクロ経済学という内容を盛り込んで、すでに30 代前半に確立されているのであった(村井2013 a)。だから、彼は今次金融危機の規模に驚きながらも、一方では次の上げ波への移行を視野に入れつつ冷静に受け止めているのである。
   第3 図株価の歩み(終値)
U. 2 リスク管理パラダイム
恐慌は、しばしば起こってから対策論的観点から取沙汰される。しかし、重要なのは原因分析である。いかに危急の事態になっていようと、あるいは危急の事態になっているほど、迂遠に見えても原因に遡行することが大切なのである。私たちの生きている現代経済は、おカネ以外の一般諸財については基本的に独占や寡占を制限しようとするのに、おカネに関しては独占をつゆも疑わないシステムである。このような体制のもとでバブルを避けようとすること自体が、土台無理な話である。現代経済はそもそもバブル生産的である。だから、グリーンスパンが「グリーンスパン原理」と命名されたリスク管理法の必要性を説くのはもっともである。しかし、それはバブル崩壊後における過度の利下げの継続などを含むものではない。実際、1987 年のバブル崩壊のとき、彼は直後には金融機関を保護する措置を取ったものの、次第に利上げに転じた。ところが、2000 年のIT バブル崩壊後は、彼は利下げに転ずる。その理由を「金融政策におけるリスクと不確実性」に質そう。
グリーンスパンの考えでは、1994 年ころまでにインフレ圧力が徐々に高まり、予防的な引き締め策を取った。この結果、1995 年に膨張は止み、軟着陸に成功する。ところが、この成功自体が次の問題を生んだ。それは、景気循環の波が小さくなり、物価が安定するもとで、リスクプレミアムが低下したことであった。実際、この時期に国債の利回りは徐々に低下している。1999 年からはもう一度予防的利上げを試み、こうしてボルカー以来の試みが功を奏した。インフレを芽のうちに摘み取る試みが成功したのは明白だったが、それが株価の上昇をもたらした。同時に、公式の統計にはなかなか表れなかったが、生産性が急上昇して収益期待が高まったことも株価上昇に寄与した。このような事態への対処法を考えるための参考例としては日本しかなく、結局バブルとその崩壊に対処する準備を進めるしかなかった。
時期を見計らった利上げによる引き締めをしていれば1990 年代後半のバブルを防ぐような調整ができ、経済安定も維持できていたとの考えは、間違いなく幻です。
ほとんど予測できない結果を伴うのに思い切った働きかけをして想定されるバブルを抑え込むのではなく、1999 年半ばの議会証言で述べたとおり、「下降が現実のものとなったらそれを和らげ、できることなら次の膨張への移行を容易にする」ことを私たち〔連邦準備〕は選択しました。(Greenspan 2004)
ところが、9/11 という思いがけないショックがアメリカ経済を襲う。グリーンスパンの主著『波乱の時代』は、国際会議で出かけていたスイスから帰る飛行機でこのニュースを聞かされるという場面から始まるが、それは寝耳に水だった。当然ではあろうが、連邦準備は利下げで対応した。その下げ幅は5% 近くに達したから、かなり大幅なものであった。2003 年には、1950 年代末以来の1% 水準に達したが、これをグリーンスパンは「いつになく攻撃的」(unusually aggressive)と呼んでいる。そうした背景には、インフレ期待がかなり小さいという読みがあった。
バブルの消散、外生ショックがあって、1980 年代までに比べるとマイルドな不況しか起きないこともわかった。グローバル化の進展で経済は未曾有の段階に達し、特筆に値する柔軟性を獲得した。フランク・ナイトは「リスク」と「不確実性」を区別したが、実際には目の前にある未知の要素がどちらに属するか判別する方法は存在しない。
境界線を引くことは不可能である。結局、可能な対応としては、いざというときに最後の貸手機能を発揮することを中心とするリスク管理があるのみである。それは、リスクを予め読み込み、できることなら数量化していく手法である。これは「ベイズ型意思決定」を応用した手法である。
2003 年に金利を1% に引き下げたのは、デフレ発生のリスクに制限をかけるためであった。まだデフレは現れていなかったから、それは不確実性がゼロの世界でなら緩めすぎた政策となろう。しかし、それも「リスク管理パラダイム」からすれば正当化される。政策A はよく目的を達成させてくれるが、経済の真の構造が読みと違えば厳しい逆効果を生み、政策B はあまり目的を達成させてくれないが、経済に関する読みが外れても大きなショックをもたらさない。2003 年当時、諸条件から考量して連邦準備は
リスクを制限する政策を採った(おそらくB を取ったという意味)。リスク管理パラダイムとは、要するにバジョットが定式化した「最後の貸手機能」の発動である。
中央銀行としてこうした金融の内発的爆発にすぐさま対応する手法は、大量の流動性を注入することです──すなわち、1 世紀以上前にイングランド銀行のこうした政策を説明したウォルター・バジョットによると、イングランド銀行は恐慌のときにはきわめて高利で「優良な証券を持ってくる者にはすばやく、制限なく、たやすく」貸付をするべきなのです。おそらくこれが早い時期になされた中央銀行のリスク管理政策の表明です。(ibid.)
ところが、そのリスクをうまく予測する確実な手法は存在しないことに気づく。政策に対するリスク管理アプローチを追求する中で、ごく限られた数のリスクしか確信をもって数量化できないという事実に直面しました。しかも、そういうリスクですら、将来が少なくともその重要な面では過去に似ているという前提を認めるときにのみ、一般的な形で数量化できるのです。(ibid.)
このため、中央銀行は、リスク状況を改善できると信じてある政策を実行することやしないことを選ぶ。この意味で、世界がどう動くかに関する仮説を胸に、モデルを超えて、また数学的厳密さで劣ることは承知の上で行為しなければならない。
さらに、私たちの計量経済学が持つ構造のほとんどの基礎になる単純な線形関数は、適切な経済的観察が収まる範囲の外では成り立たないとわかっています。……実際、産出とインフレのターゲットを何らかの形で配置してそれからの乖離に合わせてフェデラル・ファンド・レートを決めるというルールは、ここ15 年ほどで私たちがしてきたことの大雑把な輪郭を捉えるものに見えます。……けれども、最近の政策史で見られたような決定的なポイント(1987 年の株式市場の崩壊、1997〜98 年の危機、2001 年9 月のあとに起きた出来事)においては、単純なルールは政策の処方箋としても説明としても不十分なのです。(ibid.)
この主張がテイラーに対する批判を含むことは、およそ見逃しようがない。しかし、このリスク管理法に基づく決断によって数年後に生み出された帰結が思いのほか重大なものであったため、この論点がテイラーによって取り上げられ、一種の論争に発展する。ただし、この問題はのちに取り上げることにする。
U. 3 シュレーディンガーの猫の死亡
筆者はグリーンスパンの金融政策を「RGS」(擬似金本位制)として特徴づけたが(村井2012 b ; 2013 a)、テニュア後半のグリーンスパンは、おそらくいわば「RGS の出口戦略」のようなものに悩んでいたに違いない。これは先制攻撃(予防措置)が利下げである場合の方が問題となるのは当然だが、利上げである場合ですらある程度問題となる。大平準のころは、生産性が急伸したので物価安定のために貨幣注入を増やさなければならなかった。とりわけ、1990 年代後半にはそうであった。しかし、幸いにもこの新規貨幣がもたらしたIT バブルは大規模ではなかった。そのため楽観ムードは根底から覆りはしなかった。9/11 は脅威であったが、結局それですら一時的であった。このため安定は継続し、さらに新規貨幣が増えていった。
RGS の本質について再考しよう。ある意味でそれは、信用膨張を適度に抑えつつ、市場金利を自然金利に極力近似させるという政策指針である。
まず、貨幣供給市場が完全な自由市場である「無妨害市場」を想定する。自由銀行制なので、むろん中央銀行は存在しない。いま時間選好が高まっていくとすると、それは消費が増えるということと同義であるから、貯蓄が減っていく。そうなると、当然ながら金利に上げ圧力が生じる。つまり、それまでは長期投資に吹いていた追い風が徐々に弱まっていくわけだが、しばらく時間が経過すると向かい風に変化するだろう。こうして需要側と供給側の膨張度は各期とも適正に同調し、自由市場がその調整力を発揮する。この調整は、金本位の自由銀行制のもとでは市場が自動的に担うであろう。ところが、法令貨幣制を採るときは、「通貨供給を決めようとつとめる政府がないと、金本位制が効果的にやったことを一からつくり出すのはとても難しい」ものとなる。そこで、中央銀行自ら金が担った役割を「引き写そう」とするのがRGS である。しかし、ではどうやって引き写せばいいのであろうか。この問いに対するヒントは「金と経済的自由」にすでに書かれている。すなわち、無妨害市場では投資の収益見込みの低下を見計らって各自由銀行が経営判断として利上げをすることで行われるのであった。しかし、法令貨幣制のもとではそれを中央銀行が単独で代行する以外に方法はない。そして、総供給を決めるミクロ的原因である株価を参考に中央銀行がそれを行うという理路になるのである。市場が発したシグナルをもとにし、それを大きく読み誤ることがない限り、この方針によっておおむね無妨害市場の金利である自然金利を近似できる。利上げがなければ生じていたはずのバブルは未然に(予防的に)阻まれ、資本構造の高次化と長期化は抑えられる。ギャリソンもグリーンスパンの金融政策をほぼこのようなものと理解している(Garrison 2007)。
ところが、ここにはおそらく法令貨幣制特有のもう一つの問題が潜む。それは、自由銀行制と違って物価安定策をとるために、信用総額が膨張しているということである。自由銀行制のもとでは、準備率が高い(膨張率が低い)ほど物価の変動幅は小さくなると考えられる。これがグリーンスパンのいう時系列的な各期総需要‐総供給の「均整」(balance)である(Greenspan 1986、 104;邦訳118)。それは、景気循環の波高の最小化をも意味する。しかし、現代では物価安定論という無根拠な信仰のような議論が政策の基本的な前提系列の筆頭に陣取っており、それを行うには実物的生産活動の拡大ペースに合わせて貨幣を注入しなければならない。だから、いかに自然金利を真似てみても、新規注入貨幣の資産市場への横溢という、自由銀行制のもとではあまり考えなくてよい問題に不可避的に向き合うことになる。しかも、金利の構成要素にはインフレ期待が、したがってリスクプレミアムが含まれ、それは純経済的要因のみで変動するわけではない。国内政治の不安定はアメリカのような先進国では差し迫った問題ではないが、グローバル化が進展した今日の状況では、他国の政治不安の煽りを受けてしまう。だから、自然金利への近似政策はいつも危ういバランスの上に立って行われるほかはない。利下げを「いつになく攻撃的」にすべきであるというポスト9/11 の決断は、このバランスを崩してしまった瞬間だったのではなかろうか。
こう考えてくると、「根拠なき熱狂」講演のテーマに再び舞い戻ることに気づく。自然金利とは、定義によって中央銀行の存在しない銀行システムのもとで貨幣の需給関係のみから定まる水準の金利のことである。だから、中央銀行がある限り自然金利は原理的に知りようがない 。中央銀行が「適正な」金利水準を取ろうとしてテイラー公式に従っても、公式の指示する金利が自然金利であることは誰も証明できない。
量子力学には「シュレーディンガーの猫」という有名なパラドクスがある。箱の中に生きた猫を入れ、放射性物質から放射能が出るとハンマーが作動して青酸カリを入れた瓶が割れ、猫が死ぬような仕掛けをつくり、猫の様子を「観察」しようと電磁波を当てると、その行為自体が猫を殺してしまうというのである。物質を構成する素子の振舞いを知るのに電磁波を照射すると、当該物質がそれによって干渉を受けて元の状態が失われ、物質の自然な状態は原理的に観察できない。この論脈では「観察」という行為が介入に相当する。自然金利とはいわば放任された状態での金利の振舞いであり、それを「調整」しようという意図があろうがなかろうが、中央銀行が金利市場に介入してしまうことそのものによって、不可避的必然的にそれを遠くへ追いやってしまうのである。
20 世紀末のアメリカに、歴史上前例がないほどの手腕を持つ近似の名手がいた。世界の首都である島に生まれ、世界最先端の資本主義文化の真っただ中で呼吸して大人になった。自然金利から大きくそらしてきたそれまでの議長とは打って変わって、彼は近似のプロであった。けれども、21 世紀が明けてからしばらくすると、手許が狂ってしまった。要因を特定することは、結局筆者自身も含めて誰も自然金利を知りえない以上、実行不能と述べるほかないが、結果から遡及すれば近似操作がかなり失敗したことは間違いない。シュレーディンガーの猫は死んでしまったのである。グリーンスパン自身、「危機」の中で自分の輝かしい過去の実績を回顧して、やや冷静さを失っていると見受けられる箇所がある。「危機」の中の「崩壊は防げたか」と題する節である。
グローバルな金融市場をかくも壊滅させた崩壊は防げたであろうか。金融仲介機関の資本が不適切なまでに低く(過剰なレバレッジがあり)、20 年にわたる実際前例のない繁栄、低いインフレ、低い長期金利があるもとでは、私はきわめて疑わしいと思う。こうした経済諸条件は、所得由来の資産バブルの必要条件であり、おそらくは十分条件でもある。確かに、中央銀行はバブル的な資産価格を支えるキャッシュフローの芽が少しでも見えたらその背骨を折る能力を持つが、それはほぼ確実に経済の産出を厳しく収縮させるという犠牲を求め、確実にはわからない帰結を伴う。……
しかし、引締めは必要ではないのか。私の知る限り、繁栄に水をかけずにバブルを散らす引締めをうまく成し遂げた例は存在しない。中央銀行がうまく引締めを行ってバブルを徐々に散らすには、短期のフィードバック的反応が必要である。しかし、政策は1 年から2 年にもわたる長期的で変動を含む遅延を伴って経済に影響を及ぼす。徐々に引締めを強めていくとき、政策が必要とするペースで経済に影響を与えていることを、例えばどのようにしてFOMC がリアルタイムで知るというのか。経済を不具にすることなくバブルを散らすには、前もってどれくらい引締めを行わねばならないというのか。しかし、より重要な点になるが、連邦準備の引締めがリスク回避(と長期金利)を大幅に引き上げるか、問題となる資産価格を支えるキャッシュフローを削れる程度に経済を不具にするかしない限り、成功の望みはほとんどないと思う。(Greenspan 2010、 44−45)
圧倒的な崩壊劇を目の前にして、自分がその引金を引いてしまったことをどこかで意識しながら、それでも他に方法はなかったと述べているのである。しかし、これを機にグリーンスパンは過去の政策についても総括的にコメントし始めた模様である。連邦準備の引締めの試みで失敗したものが一つある。1994 年の初め、当初インフレ圧力が増しつつあると感じていた。この問題に直面して、300 ベーシスポイントの引締めに着手した。……
私たちは、1993 年には明らかになっていた萌芽状態のバブルを散らすのに失敗しただけでなく、おそらくそれを強めてしまった。経済が1994 年の厳しい金融引締めを耐え抜けたことは、生まれつつあった好況が市場の予測より強いことを思いがけず示していた。そして、この結果、ダウジョーンズ工業株平均の均衡水準を引き上げた。これが示したのは、1994 年の挿話よりはるかに強い引締めや2000 年の引締めを行っていれば、バブル潰しができていただろうということである。2000年半ばに行った6.5% よりはるかに高いFF レートが必要だったのだ。
どんなバブルでも金融政策がそれを潰せる金利がどこかにある。6.5% で足らなければ、そのときは20% や50% にしてみることだ。どんなバブルでも潰せるが、繁栄の状態が必ず犠牲になる。2005 年に連邦準備の私たちは国中を捉えていた住宅バブルの陶酔を見て考えられる対策について心を悩ませていた。同年に私は述べている。「……歴史は、低いリスクプレミアムがずっと続いたあとの置き土産を優しく扱ってはきませんでした」。
けれども、将来に待っているリスクについて十分強い確信は決してなかった。……1987 年の株式市場の崩壊やドットコム・ブームのときにほんのわずかしか経済に負の影響がなかったというだけで、自足状態に甘んじていた。歴史を見ると、住宅価格が下がるとしたらそれはゆっくりになるだろうと信じていた。(ibid.、 46−47)
このくだりは、おそらくかなり率直に本音を吐露したものであろう。とりわけ、お望みならば金利を50% にもでき、そうすれば確実にバブルは潰せるだろうと畳みかける部分には思わず息を呑む。むろん、実際にそんなことをすれば各方面から徹底的に叩かれるであろう。しかし、では0 から50 までの一体どこが適正な水準で、一体どうやってそれを知り、一体いつどれくらいの上げ幅で何回にわたってそこに持っていけばよいのか。こうした問いが虚空に発せられる。むろん、誰も答えてくれなどしない。ベルギー講演を思い起こそう。そこでは、信用を与えすぎても与えなさすぎても問題が生じるから、中央銀行はいつもその間にあるはずの適正な水準を探し続けねばならないと述べられていたのであった。また「根拠なき熱狂」講演を思い起こそう。そこでは、そうやって物価を安定させたまではいいが、そのこと自体が必然的にバブルを呼ぶことが定式化され、かつ、そうであるのに誰もそれをわかってくれないだろう、と論断してから話を切り出していたのであった。
今回の危機のあとのバーナンキの流動性注入については、経済安定に寄与したことは明白だとして、グリーンスパンは次のようにこの節を結んでいる。
ダイナミックな市場とレバレッジを放棄して何らかの形の集権計画を求めるという社会的な選択がなされない限り、バブルの防止が結局実行不可能だと判明するのではないかと危ぶむ。バブルの影響の緩和が望みうる最良の事柄であると思う。民間レベルでも政府レベルでも、政策はデフレ的な危機がもたらす損失や苦境の程度を小さくすることに集中すべきである。しかし、レバレッジを取ることで生じるバブルを経済成長に大きな影響を及ぼさずに効果的に散らす方法が、資本の大幅増強以外に発見されれば、それは私たちの市場経済を前進させる上での大きな一歩になるだろう。(ibid.、 47)
これは法令貨幣制または中央銀行制のもとでは必然的な結論であり、地球という惑星で繰り広げられている近代という行先不明で統括責任者もいない壮大な実験の中で人類が積んできたさまざまな経験、および学知が編み出してきたさまざまな理論から学び取れる至上の知恵であろう。
V 批判と応答
V. 1 オーストリア学派の評価
ランド派であり、徹底したリバータリアンでもあるグリーンスパンだが、実を言うと、そのリバータリアン陣営からも多くの批判が寄せられている。村井2013 a で取り上げたボスタフやギャリソンは例外的であり、多くの場合、オーストリア学派からも批判が集中していると言ってよい。ここでは、そのいくつかの実例を取り上げよう。第1 に、ランドのアパートでグリーンスパンと顔を合わせた可能性も高いロスバードである。彼は1995 年に他界したが、1990 年代に『経済学的な見方』でグリーンスパンについて論じている。
私はアランを30 年前から知っており、以来ずっと興味をもって彼の歩みを追ってきた。……グリーンスパンが本当に適材なのは、エスタブリッシュメントのボートを決して揺さぶらないと信頼できるからである。……彼は長年共和党エコノミストの他の人たちの大半と同じく保守的なケインジアンであり、今日では民主党陣営のリベラル派ケインジアンとほとんど見分けがつかない。(Rothbard 2008[1995]、339−340)
ロスバードによると、グリーンスパンがランド派なのはユニークだが、それは哲学的な面だけで、「プラグマテティスト」に名を連ねる彼の哲学と行為には不一致がある。話がわかりにくいのも彼が物知りだという印象を生み出しており、これがかえって重宝されている。歴代の議長が経済について最も物知りの人間だったとは到底思えない。人柄や知性の質の高さがFRB の議長をかくも不可欠で愛される存在にしているものでないなら、何がそうさせているのか。エドモンド・ヒラリー卿がなぜエベレスト山に登ることにこだわるのか尋ねられたときの答えを言い換えるなら、そこにFRB の議長がいるからである。(ibid. 342)
ただ、ロスバードはグリーンスパンが最も彼らしい仕事をし始めたころに他界した。上のコメントは、かつての同志がランド派の思い描いたのとは正反対の世界で活躍しつつあることを皮肉まじりに風刺したもので、分析的な深みには欠ける。
第2 に、同じくランドのもとに出入りしていてグリーンスパンを知っているレイスマンの見解を見よう。彼の場合も詳細なグリーンスパン論を書いているわけではないが、ランドとミーゼスの関わりについての論文で言及している。
私なりの判断では、ミーゼスやランドの著作は、資本主義を擁護する上で等しく重要である。ミーゼスしか研究しないと、最良でもF. A. ハイエクを見習う人物になれる程度である。ランドしか研究しないと、最良でもアラン・グリーンスパンを見習う人物になれる程度である。(Reisman 2005)
日本ではあまり知られていないが、ハイエクはアメリカの現代オーストリア学派にとってはやや毛色の違う存在であり、実はその本流に位置する人物とは全然みなされていない。上の発言はこの事実を端的に反映したものである。そして、彼はこのくだりに次のような注をつけている。
1957 年以来おおよそ15 年間にわたって、主に客観主義者のさまざまな交流の場で、私は頻繁にアラン・グリーンスパンに会って話もした。私の前でミーゼスの著作を読んで学んだことを示唆する話を口にしたことはなかった。私の気づく限りでは、彼の著述や講演からもこうした示唆は得られない。1969 年から週に1 回、彼の家から数マイルしかない場所で行われているミーゼスの大学院ゼミに出たことはあると思うが、それも1 回だけで、ランドが顔を出した回である。(ibid.)
レイスマンの場合も、直接面識があるために辛口ではあっても分析的ではないコメントになっているように思う。ただ、ミーゼスのゼミへの出席については議会証言で本人が述べたことと一致するから、すでに歴史的な出来事となりつつあるニューヨークのリバータリアン・コネクションの一情景を裏づける証拠として掲げておく。
第3 に、セクレストの論文「アラン・グリーンスパン──ランド、共和党、オーストリア学派の批判者」を見よう。彼は、2000 年ころに書かれた三つの評伝をもとに同論文を書いている。それは、すでにふれた(村井2012 b)ウッドワード、マーティン、タッシルのものである。彼らの著作は綿密な調査に基づいてはいるが、経済学の専門家ではないので、グリーンスパンの金融政策について理解を促すものではない。セクレストはこの点を考慮してABCT の解説などをしながら議論を進めている。注目すべきくだりを次に引こう。
オーストリア学派が指摘するとおり、一度持続不能の膨張が産み出されると、「軟着陸」なるものはありえない。誤投資が抹消されるとき、そしてそのときにのみ、経済は回復する。それには、もっぱら人為的に引き下げられた金利のおかげで収益性があると思えたプロジェクトすべてを流動化する必要がある。そして、そのあとにはこれが生産総額の減少、失業の増大を、少なくとも一時的には求める。(Sechrest 2005)
これはABCT の解説ではあるが、真水的にすぎる。自由銀行業の研究者でもある彼は、現代の法令貨幣制が「中央銀行制」(口にされることはほとんどないが正しい表現である)であり、そのもとでは信用膨張が始まったら最後、二度と後戻りできないという観点に立っている。しかし、その際にマクロ経済について細かな専門的議論を省略しており、大平準をもたらしたRGS に十分迫ったものとは言えないであろう。株価を参照指標にして「軟着陸」らしきものが実現したのは事実である。むろん、それを続けることは誤投資を「抹消」することではなく減らすことにすぎず、残りだけでも蓄積されると結局バブルを招くという意味だと解釈できなくもない。とはいえ、彼の議論はそうした段階までを想定したものとは思えない。
第4 に、カールソンの批判を見よう。危機後さまざまな原因分析が出てきたが、要因は複合的で、中でも主流派はIT バブル崩壊後のグリーンスパンの低金利を重視せず、規制緩和の行き過ぎなどを指摘する。しかし、投資家が危ない金融商品を買った背景には、積年の政府介入の歴史がある。GSE は政府系の住宅融資機関であるし、また就任早々のブラック・マンデー以来のグリーンスパンによるベイルアウトがモラルハザードをもたらしていた。住宅バブルは2001 年に始まり、IT バブル崩壊後は不況なのに住宅投資が上向き始めた。これは2005 年4 四半期にピークを迎え、タイムラグを考慮するとほぼ利下げやマネーサプライ増加の動向で説明できる(第4 図、第5 図)。
   第4 図貨幣集計値の歩み
   第5 図FF レートの歩み
また、1994 年の改革で準備預金制度の対象外となる貯蓄預金やMMF に銀行がおカネを移し、要求払いのために手許に置く額を最小化できる裁量を銀行が手にした。準備預金は利付き口座ではなく、この措置で銀行は貸付の原資を増やせるようになり、ますますレバレッジを取りに行った。過剰に「信用創造」を行って焦げついても、後ろには連邦準備が控えていて確実にベイルアウトしてくれる。こうして、金融行政における過保護と経済政策における住宅ローンの優遇というタネに低金利による過剰流動性という水が撒かれてバブルが花開いた。(Karlsson 2008)
カールソンはまた、別の観点からも議論を展開している。グリーンスパンは昔の論文で金本位制のマクロ安定化作用を力説し、FRB 議長就任後はRGS を目指したが、1987年の就任から2005 年11 月までにベースマネーを235% 増加しており、年率6.8% 増加させたことになる。CPI は同期間に174% 上昇し、貯蓄率が減って民間債務が膨らんだ。また、これらの現象の裏面でもあるが、いわゆる「グリーンスパン原理」で最後の貸手機能がいつでも発揮されるとの安心感が金融機関のモラルを低下させた点は明らかに金本位制と対照的である。
グリーンスパンが明らかにオーストリア経済学に通じていることを考えると、彼は承知の上で不誠実なことをしたと結論する以外ない。FRB 議長としてのテニュアにおいて、グリーンスパンは自分が1966 年に攻撃した中央銀行家と正確に同じように振舞った。グリーンスパン時代の不朽の遺産は、巨額の富の没収と経済の不均衡となるだろう。そして、それらはすべて他人のせいにされるだろう。(Karlsson 2005)
むろん、この結論は「金と経済的自由」を前提したものである。同論文がいかにリバータリアンの間で広く読まれているかということを改めて指摘しておきたい。同時に、今回の危機でも発揮されたオーストリア学派の実に的確な予言力にも改めて注目を促しておきたい。
第5 に、ウッズの批判を検討する。危機後矢継ぎ早に自由主義や規制緩和を原因として攻撃する言説が溢れ出したが、それらはすべて的外れである。むしろ政府介入こそ危機の真因にほかならない。GSE だけでなくCRA(Community Reinvestment Act:地域再生法)で黒人居住区を含む地区に重点投資するように誘導したのも政府であった。IMFの機能強化、租税回避地の規制強化、企業の重役報酬の削減などの対策はすべて弥縫策にすぎず、これらが奏功して危機が回避できる可能性はない。2008 年9 月にリーマン・ショックを受けて下院を通過した「緊急経済安定化法」はブッシュの最後の仕事となったが、それはフーバーの介入を思い起こさせる。オバマがこれを引き継いでおり、二大政党制が実質的な機能を失っている証拠である。
これから見ていくが、連邦準備制度の経済への介入がバブルとその破裂が循環する可能性を導き入れ、崩壊は不可避なのにそれまでは繁栄を謳歌させてくれる。決まって自由市場が崩壊の原因として糾弾される。ワシントンと連邦準備の方を指さそうと考えてみる者すらいない。これが一因となって事態は秘密裡に進行する。(Woods 2009、 9;邦訳37)
バブルを生む原因は中央銀行にあるが、それが頂点に達したときの混乱を見て人々が騒然とし、まさしく原因そのものを増幅して再生産してしまうのである。そして、これが不況を長引かせる。この事後処理のまずさが、「大不況」の原因であった。そして、今回の危機でバーナンキが反省に基づいて当時なすべきだったと信じる事後処理をしているが、シュウォーツはそれを誤りと断じたのであった(村井2010)。私たちのいまを支配する淀んだ空気も、それを証明している。
ウッズによると、この危機の原因は6 項目ある。第1 にファニーメイ、フレディマックなどのGSE である。これらは市場に一任されていれば収益性のない債権を生み出し、それに資金を補填してきた。興味を引くのは、GSE は大恐慌への対応策として1930年代に産声を上げたことである。つまり、政府が後ろ盾になって金融機関を保護する護送船団方式のアメリカ版である。第2 にCRA と歪んだ優遇制度である。第3 に政府の住宅ローン政策のだらしなさである。一例を挙げると、貸付の審査基準は徐々に緩和され、この結果高所得者向けの住宅ローンにも過剰な信用が供与された(おそらく転売目当ての高級住宅市場の発達の背景)。高所得者向けのプライム・ローンの方が差押え件数ではサブプライム・ローンより少ないが伸び率では高かった。また、変動金利が果たした役割には注目が集まっているが、その適用率はプライム・ローンの方で高かった。
第4 に住宅取得に対する優遇税制である。個人退職金年金勘定や401 k は株式投資を後押ししているが、住宅ローンへの税控除もアメリカ人がなるだけ戸建住宅を買うように仕向けている。第5 に連邦準備の低金利策である(これについては後述)。第6 に「大きすぎて潰せない」(Too Big to Fail)という神話である。連邦準備が資金を市場に注入するとともに、危急のときにはベイルアウトしてくれるという安心感が「グリーンスパン・プット」を生んだが、それは大手を倒産させないからシステミック・リスクは生じないと信じ込む姿勢と表裏一体であった。(Woods 2009、 chapter 2)
ウッズの批判の矛先は以上の事前的な側面だけでなく、事後的側面も含めて、政府介入一般に向けられている(chapter 3)。今回の危機では5 大投資銀行がすべて消滅し、連邦準備の監督下に入った。ただ、それが懲罰的な効果を持つと考えるのは誤りである。この措置は実質的に証券会社に相当する「投資銀行」という業態が商業銀行並みに連邦準備の緊急融資を受けられるようにしただけである。ウォール街の顔でもあり、いかにもアメリカ的な投資銀行という業態が、生産性の上昇と大平準の共存を見た現代資本主義によって淘汰されたことは、衝撃的な出来事である。それは、アメリカ金融史上でも最大級の地滑り現象である。そして、それはもともと各業界の中でも目立って社会主義的な金融業界をいよいよ社会主義化してしまった。この点を考えると、ウッズの批判はさほど辛口なものでもなく、むしろ常識的なものだとも言えよう。
こうしてオーストリア学派のグリーンスパン論を概観して気づくのは、それが理論的には正しいということであるが、同時に彼らの大半が「インサイダーとして自由市場資本主義の発展に尽くそう」と決心したグリーンスパンの立場にほとんど理解を示さず、純理論的な観点から彼のRGS が主流派に阿るものだとして集中砲火を浴びせているとも言える。グリーンスパンがリバータリアンであると言うとき、むろんその含意は屈折を含む。典型的なリバータリアンが中央銀行に対して示す姿勢は、最終的にはそれを廃止すべきだというものである。現代の金融政策をめぐる議論の背景にはこうした見解の出現を不可避にする中央銀行特有の問題があることが指摘できる。経済理論はいまだに中央銀行が適切に作用して経済を安定成長させる手法を確立できていないのである。村井2012 b でふれたパークスの著作にブラーブ(本の裏表紙のコメント)を寄せるよう求められたフリードマンは、あっさりと次のように返事している。
私はブラーブを寄せるつもりはない。徹頭徹尾反対する。(Parks 2000、 iv ;blurb)
この寄稿拒否の返答がそのままブラーブに掲載されているのには苦笑させられるが、いずれにせよ、このような人物が現代中央銀行業務の指針について大きな影響力を揮っているのである。
グリーンスパンは、クルーグマンやシラーのような粗雑な左派だけでなく右派からもパンチを浴び続けている(フリードマンは除く)。ある意味で、彼はFOMC の中だけでなくアメリカの経済論壇全体の中でも孤立している。しかし、筆者はこのこと自体よりも、それがもたらす結果について考察してきた。以下でもこの方針を貫く。
V. 2 主流派の評価
先にふれたIT バブル崩壊後の利下げに対するテイラーの批判に戻ろう。論争の概要は『金融政策の脱線』(Taylor 2009)の邦訳者の解説も伝えているが、テイラーの言い分はとてもわかりやすいもので、要点はたった一枚の図で表現できる。それは、2002年ころからのFF レートがそれまでのルールから大幅に外れており、利下げが行き過ぎたとことを示す図である(第6 図)。
テイラーらの「ルール」が1990 年代前半までのグリーンスパンの実績から推計されていることは以前述べた(村井2013 b)。だが、その点を考えると、この批判の意味は複雑である。言ってみれば、テイラーはグリーンスパンの前半テニュアによってグリーンスパンの後半テニュアを批判していることになるからである。つまり、誰が誰を批判しているのかすら正直わかりかねるのである。「テイラー・ルール」は「グリーンスパン前半ルール」とか「グリーンスパン相関」と言い換えてもよいのに、そこから逸脱した後半の金利決定を「裁量」であると批判するなら、テイラーはかえって前半にルールがあったことを自ら認める結果にもなる。前半においては裁量を押し通したが、それでも未曾有の素晴らしい実績をマークしたのでその秘密を探ろうとした主流派経済学者が、主要マクロ指標間にある相関を見出す。だが因果連関には関心を持たず「因果性なき相関」のまま、そのあともこの相関に沿った政策運営をするよう求める。ところが、状況が変わったときに先の相関の体現者は(発見者ではなく)それから逸脱する政策をとり始める。だから、相関の発見者がその逸脱を指弾する。事態はかなり複雑だというべきではなかろうか。
   第6 図FF レートの実際値と公式値
けれども、立論のプロセスにおけるテイラーの根深い論理矛盾に仮に目をつぶれば、結果的にこの批判には意味がある。正直言って、先にみたウッズの批判と結果的にほとんど変わらないとも考えられるからである。IT バブル崩壊だけでなく9/11 などの非経済的要因が手に手を取り合ってデフレ懸念があったというのはもっともであろうが、私たちはこの利下げのもたらした帰結をまざまざと見せつけられている。原因もなくサブプライム・ローン危機が突発的に生じたなどとすることはできない。いまそれが目の前に生じたなら、原因は資産市場に過剰な流動性を送り込んだグリーンスパンの政策に求めねばならないであろう。
それについて考える前に、まずテイラーからの批判に対するグリーンスパンの反批判を見ておこう。それは先にふれた論文「危機」に詳しい。論点は、主に三つに整理できる。
第1 に、テイラー・ルールはインフレ率と消費者物価を変数に用いているが、資産価格は考慮しておらず、金融政策の適正な方針を示してくれるものではない。問題の「脱線」期間である2002 年から2005 年までに公式値に近い水準に短期金利を上げる可能性があったとすれば、それは消費者物価のインフレが懸念される場合であるが、当時の状況ではその懸念はなかった。だから、公式どおりの金利にしていればむしろ消費者物価の不安定化をもたらすシグナルを発信することになっていただろう。(Greenspan 2010、42−43)
第2 に、住宅ローンの組成における参考金利は、FF レートやそれに連動した短期金利ではなく長期金利である。資産価格は所得フロー総額を金利で資本還元した水準に収斂するが、その際の金利とは当然長期金利である。21 世紀初めまでFF レートと住宅ローン金利の相関は高かったが、2002 年ころには両者のリンクは失われ、FF レートが住宅価格に影響を与えたとは考えられない。利下げは日本から学んでデフレに備える保険のつもりであった。そして、それが長続きしすぎると物価インフレを起こすから、継続期間にも留意していた。(ibid.、 38−40)
第3 に、国際経済学者でもあるテイラーがグローバル貯蓄過剰説を完全に否定している点に対する批判である。先に見たこの説は、おそらくグリーンスパンが早期の提唱者の一人だと思われるが、テイラーはデータを示しながら、アメリカ以外の国での貯蓄増大はあったが、それもアメリカでの減少で相殺されて、世界全体では投資と貯蓄のギャップが特に拡大してはいなかったと述べる(Taylor 2009、 6−7;邦訳16−18)。これに対してグリーンスパンは、「テイラーは事前的に貯蓄と投資の間にある緊密な関連を退けるのに事後的なデータを用いているが、エコノミストの大半が戸惑うはずである」と述べている(Greenspan 2010、 44)。グリーンスパン自身も別の箇所で、2007 年のグローバルな貯蓄‐投資比率は事後的には1999 年よりわずかに上がっただけで、先進国と途上国でつり合いが取れられる傾向があることを指摘しているが(ibid.、 5)、批判の意図はわかりやすくはない。察するに、それは貯蓄が増えていく国では投資への意欲も高まり、そうなると投資も増えていくので、事後的には両者の開きが大きいというデータは出てこないといったところであろうか。
これらの反論にコメントしておこう。第1 の反論については、先に「いつになく攻撃的」と自ら告白している政策が、実はB タイプではなくA タイプだったと言うべきであろう。これは第2 の批判とも関連する。この批判は一見冷静だが、よく考えるとそうでもない。短期金利を引き下げるときに連邦準備は国債市場で買いオペを行っており、これは市中銀行の準備預金に準備を積み増すことになるから、銀行はもっとレバレッジを取れるようになる。つまり、信用乗数によって信用膨張を引き起こし、結果的に長期金利を引き下げることは避けられないだろう(Reisman 2009)。住宅ローン組成の際の参考金利に注目させる議論は問題の核心から注意をそらすものでしかない。第3 の反論については、すでに述べた筆者の所説からもあまり意味のあるものとは思えない。
以前、ハーバード大学ケネディ・スクールでの研究会でマンキューが報告した大平準分析を取り上げた(村井2013 b)。グリーンスパンについての彼の危機後の見解は、論文「危機」に対するコメントを見ればわかるが、その前に上の報告で彼が論じ落とした重要論点を指摘しておく。それは、1990 年代後半にマネーサプライが急増しているという点である(第4 図)。しかし、これが同じ期間に生じた株価の急騰の要因であることは明らかである(第3 図)。10 年単位の平均値と変動の検討では、1990 年代が株価に関しても成長と安定を見ていたというのが彼の結論であったが、広く人口に膾炙しているはずの「ドットコム・ブーム」に関して十分な理解を示すものとは思えない。このブームとは、生産性の急伸にもかかわらず大平準を維持させるほどの貨幣注入の帰結であることが看過されてはならない。株式市場がマクロ経済の変化の前兆となるにせよ金融政策の方向性とは無関係だとの一方的な論断は、グリーンスパンに対する彼の基本的な認識不足を告げる。その理由は以上の叙述によってあまりに明らかなのでもう繰り返さないが、FRB 理事でもあったリンゼイがグリーンスパンから直接聞き取った見解によって補足しておこう。
〔いまは〕1920 年代後半とあらゆる点で似ています。しかし、1929 年から1932年の期間との類似性にもう少し注意しなければいけません。問題は、もし1930 年と1931 年に別の対応を取っていたら、そこそこの大きさの景気後退はあったにせよ「大恐慌」と呼ばれる深い沈滞は経験しなかっただろうということです。(Lindsey1999、 36;邦訳59−60)
グリーンスパンが大平準のさなかに1929 年のクラッシュの再来を真剣に恐れていることがはっきりわかる。また、フーバーの物価・賃金統制を大不況(原語どおり)の原因と見てもいる。リンゼイはグリーンスパンを「逆張り屋」(contrarian)と呼んでいる。これは、世間の通念とは正反対の行為を選択する人物という意味である。彼の説明に少し耳を傾けておこう。
積荷が不足している貨物車両があるか鉄鋼インゴット〔鋳塊〕生産が急落し始めたら、犯人として最も可能性が高いのは買手の不足である。それが経済全体に見られると思ったら、理事会は消費者がもっと買い、企業がもっと設備投資を行うための刺激として利下げを行う。他方、積荷で満たされた貨物車両がとても多くなって運賃が上がり始めるか鉄鋼インゴット会社が上得意にしか納品しなくなると、逆張り屋はわずかに利上げを始める。
こうした条件を見て政策対応をするのが、連邦準備理事会の日常風景である。ただ、グリーンスパンは急速な経済成長と「過大な」需要を区別するのに細心の注意を払う。「基本的には、国内経済はいまのところとても高いペースで拡大しています。ですが、私たちが注意すべきなのは、経済内部で膨らみつつある内的不均衡であり、その兆候はインフレです」。グリーンスパンの「1920 年代後半とあらゆる点で似ています」という発言こそ最も測り知れない。彼は健全な経済とインフレ的な経済を区別しているが、これもそうである。その理由は、多くの観察者(グリーンスパンも含む)が起こっていると考えているのが、経済の現状は伝統的なケインズ派の言う需要の超過や不足による景気循環ではなく、供給主導型の景気循環だからである。……供給主導型の景気循環の特徴は、急激な成長、物価の安定または下落、株や債券など金融資産が騰貴する市場である。経済史家の多くは、1920 年代後半の展開が好ましい供給ショックに引っ張られた時代のもう一つの例だったと指摘する。(ibid.、 36−37;邦訳60−61)
ふだんワシントンのオフィスでグリーンスパンが口にしているディテールの意味をリンゼイがどこまで理解できているか、グリーンスパンが1990 年代を1920 年代と比べようとする理由をどの程度察知できているかは読者の判断に委ねるほかない。おそらくその他大勢のエコノミストの口からはまず発せられる可能性のない言葉を彼が聞き取っていることは事実だが、その説明はプロのエコノミストによるものとして何とも舌足らずではなかろうか。それでも、マンキューに比べるとまだ理解できているように見えるのは、議長と同席した時間が彼より長かったせいであろうか。
そのマンキューもグリーンスパンと同席したことがある。彼は、2010 年3 月に行われたブルッキングズ研究所の集まりでグリーンスパンが上記「危機」を報告した際に討論者を務めた。そして、そのときの所感を同年3 月19 日のブログで公表しているのである。
これは偉大な論文である。過去数年に生じた過ちの包括的な語りとして、私が読んだ中でも最良の一つである。近年の金融危機について自分の学生に論文をたった一本だけ読むという宿題を出したければ、これを選ぶのがいいだろう。(Mankiw2010)
このような賛辞で始まる記事は、まず同意できる点を二つ挙げている。一つは「古典的な陶酔型バブル」という描写であり、もう一つは住宅政策などの政治プロセスがリスクを引き上げてしまうという主張である。疑問を呈しているのは、金融仲介におけるレバレッジの問題である。グリーンスパンはレバレッジの低減を説いているが、マンキューは「ほとんどレバレッジを取らない銀行なるものを思い浮かべるのは不可能だと思う」と言う。ところが、いわゆる「ナローバンク制」を引き合いに出して次のように述べるのである。
このような厳格な規制のもとで営業する銀行システムというものも、金融仲介という重大な経済機能を十分果たせるように思われる。レバレッジなどは必要ないのである。
こうしたシステムを採ればなくせるものの一つが、いまの金融システムが持つ「満期転換」機能である。すなわち、多くの銀行や金融機関はいま、短期で借りて長期で貸している。私がいま格闘しているのは、この満期転換が順調に機能する金融システムにとって重大な特徴であるのかどうかである。満期のずれが結果的に出てくるが、それが銀行恐慌や金融危機の中心的要素であると思える。私の頭の中でまだ答えが出ていない問いだが、いまの高いレバレッジを取る金融システムの価値は何で、その利点はあまりにも明白なそのコストを上回るのかどうかである。(ibid.)
こうして、かなり異なるルートをたどってはいるが、現代の主流派経済学者はオーストリア学派とほとんど同じ結論にたどり着いていることに気づく。むろん、それはグリーンスパンの提案に触発されてのものであり、彼が「隠れオーストリア学派」であることが大きな要因ではあろうし、主流派の議論の展開法はオーストリア学派のきわめて統一的な演繹体系に比べると学知としては密度と強度で劣るように思うが、それでも結論が似ていることは注目に値するであろう。そう言えば、テイラーの『脱線』の副題「政府の働きかけと介入がいかに金融危機を引き起こし、長引かせ、悪化させたか」は、ウッズの『メルトダウン』の副題「なぜ株式市場が崩壊し、経済は滞り、政府のベイルアウトは事態を悪化させるかに関する自由市場派の見解」とかなり似ていることに気づく。このことは、学派間の対話の必要を示唆しているように思われる。
V. 3 「怪」発言と幻惑戦術
恐慌の原因はすでにミーゼスによって組織的に解明されているが、彼自身いつバブルが崩壊するか予言できる可能性はないと認めている。グリーンスパンがミーゼスの『ヒューマン・アクション』を読んでいることはほぼ間違いないが、危機後の所見でも、バブルはその進行中には検出が難しく、ましてそれがいつどんな形で破裂するか具体的に知る方法はないことを強調している。ただ、逆に言えば、セクレストやカールソンと同じく、いずれバブルがはじけることも重々承知しているから、先回りしてリスク管理パラダイムをとったとも言える。このため、グリーンスパンは9/11 後に低金利策をとったときに、事後処理法だけでなく事後弁明の理論を構築し始めたと考えられる。
「根拠なき熱狂」講演に結実する彼の「予防的(preemptive)利上げ」は「両方向で等しく使える」ような「先制攻撃」(preemptive strike)であることを強調していたのであった(村井2013 b)。これを参考に考えると、難なく次の点に気づく。すなわち、ABCTが説く中央銀行の過度の利下げとは、もし貨幣供給市場にレッセフェールが導入されていれば見られたであろう自然金利よりも低い金利水準を中央銀行が設定するという誤導の謂いであるから、それはもともと「予防的利下げ」とも表現できるものである。もし6% を超える元の水準を維持していれば生じたであろう景気低迷を防ぐために利下げをしようというのがグリーンスパンの意図であった。これが自然金利までにとどまっていたら上首尾に終わりえた可能性もあるが、最終的にそれが自然金利を下回ったことは結果から見てごまかせない。景気低迷は避けたいので利下げをしたい。しかし、どれくらいの期間にわたってどの程度下げればよいのか。この問題に対する確たる答えを得る方法はないから、市場の反応を見ながら手探りで進めていく以外にない。失敗したときのために考えられる対策を打つ必要はあるが、ただ言い逃れのための理論を用意することも大切になる。
おそらくこういう考えのもとに彼が導き出したのが、危機の発生源が連邦準備だという事実から目をそらさせる各種の説であったと思われる。代表的なものは、先にふれたグローバル貯蓄過剰説と、それから「怪」発言で広く知られるようになった長期金利の統御不能性論である。前者については、テイラーの批判や本稿での筆者の議論からも根拠薄弱であるが、後者については真に受ける者が意外と多い。そこで、この発言の背景と問題点を見て、これが幻惑戦術の一環にすぎないことを論証しよう。
「怪」とは、グローバルなディスインフレ圧力のために短期金利であるFF レートを上下させても長期金利が連動しなくなった現象を指す。さや取りが十分に行われている金融市場では長短金利は収斂する傾向にある。長期金利が短期金利より大幅に高ければ、短資の借りつなぎで高い長期金利の支払を避ける動きが生じ、短資需要が増して長資需要は減るから、長短金利は収斂する。逆に大幅に低ければ短期資金への需要は減って長期資金への需要が高まるから両者は収斂する。ところが、連邦準備がFF レートを上げても長期金利が上がらないというわけである。この現象を「conundrum」なる使用頻度の低い語彙で表現した点がいかにもグリーンスパンらしい。これは「謎」という使用頻度の高い語彙で訳されるが(AOT 下巻、第20 章)、それでは発言の真意は伝わりにくいだろう。そこで本稿ではこれを「怪」と訳す。グリーンスパンは2005 年冬のハンフリー‐ホーキンズ法証言でこの語を用いている。
この状況の中で長期金利はここ数か月低下傾向にあり、連邦準備がFF レートの目標値の水準を150 ベーシスポイント上げてもそうでした。……ソ連崩壊と中国やインドのグローバル貿易市場への統合により、世界の生産設備が以前よりグローバルな財とサービスの需要を満たすことに向けられるようになったことはほとんど間違いありません。同時に、金融市場の統合が進んだので、世界の貯蓄プールのうち国境を越える金融や投資に充てられる部分が増えることになりました。グローバルな財とサービスと金融機会が、広い範囲の国々でインフレ実績を良好にすることにつながりましたが、疑いなくこれがその後のインフレ期待とインフレのリスクプレミアムを引き下げる役目を果たしました。しかし、どれも新しいものではなく、ですからここ9 か月の長期金利の低下をグローバル化が徐々に進行したためとするのは困難です。しばらくは、世界の債券市場が示す大局的に見て予測のつかない振舞いは怪であり続けるでしょう。(Greenspan 2005)
つまり、グリーンスパンは「怪」をグローバル化のせいにしてはいない。ただ、本稿は「怪」と呼ばれた現象の原因を解明するという課題に取り組まない。重要なのは、その政策論的含意である。先に見た論文「危機」でも彼は住宅ローンを組む家の買い手は長期資金を借りるから長期金利が問題だといった発言をしているが、これは疑わしい。長期金利の連動性の有無に関わらず、FF レートの引下げだけで経済にはブームが起きる。さらに、長期金利の制御不能性をグローバル化による低賃金国商品・資金の流入と関連づければ、もし利下げが行き過ぎて危機を招いてしまったら責任を海外に転嫁できる。こうした説明はケインズ派的な知的世界に属する学者には訴えるところ大かもしれないが、オーストリア学派にはまず通用しない。
いま一度確認しておくと、誰でも知っているとおりアメリカは世界最大のGDP を誇る国で、その額は2000 年代前半で10〜13 兆ドルである。同時期のマネーサプライはM 1 で1.2 兆ドル前後、M 2 で4.5〜6 兆ドル、M 3 で6.5〜10 兆ドルである。これに対して経常赤字で測った外資の純流入は0.4〜0.74 兆ドル程度で、差額ではなく総額で見てさえマネーサプライには遠く及ばない。国際要因を筆頭要因とみなせる可能性はない。バーナンキが国際収支ギャップについて国内要因説が一般的だと認めた上で国際要因説をあえて「仮の」(tentative)、また「型破りな」(unconventional)答えだと述べていることに改めて注意を促しておく。グリーンスパンの議会証言が2005 年2 月16 日で、バーナンキの講演は同年3 月10 日である。一理事だった彼が議長の話を敷衍しようとしたものの、話を切り出す段階で実は立論に無理があることを自ら認めているのである。これが半ば組織的な幻惑戦術だと考える所以である。
連邦準備が周到に準備した戦術に引っかかってグローバルな規模での自由化を批判するなどの議論は、定量的に根拠を示すことができない以上単なる俗説である。専門家ならまさかこういう幻惑説の神輿を担ぎはしないだろうと信じたい。新自由主義が危機を生んだという物語は、おそらく今後何十年間も、あるいは何百年間でさえ再生回数が増え続けるトップ人気のビデオとなるであろう。そればかりか、続編が何本も製作され、広い範囲に配信されるだろう。にもかかわらず、その本質はホラ話の域を出ない。重ねて強調しておくが、危機の原因は自由主義ではなく自由主義の欠如である。
W グリーンスパン問題
筆者は、本誌前号で「グリーンスパン問題」というものを定式化しておいたが(村井2013 b)、ここまでの議論からこの問題が今回の経済危機を受けて注目に値する展開を見せていることが明らかなので、危機後の情景を踏まえて新たな段階に入ったグリーンスパン問題を次のような形で再提起したい。
第1 問大平準と第2 次大恐慌の関係をどう見るか。
今回の金融危機によってグリーンスパンには各方面から批判が集中し、彼はほとんど針の莚となっている。しかし、批判者は大平準については例外なく賞賛している。グリーンスパンに関する語りは、決まって神が悪魔になった物語として展開する。では問う。大平準は第2 次大恐慌に何も寄与しなかったのか。しなかったなら、なぜ雲一つない晴天から急転直下で雷鳴が鳴り響くような展開になったのか。筆者の見方では前者が後者を生んだ。そして、前者にはそのようにしか幕が引けなかった。ところで、前者を求めているのはハンフリー‐ホーキンズ法なのであるから、同法はそれに忠実に政策運営を実施すれば恐慌を招くものだということにならないだろうか。言い換えれば、現代の経済法は(意図的にではなくても結果的に)恐慌を目的としていることにならないだろうか。1990 年代があらゆる点で1920 年代と似ているというグリーンスパンの洞見の意味を、大恐慌研究史の全体像を踏まえた上で経済学者はどう評価するのか。
第2 問なぜグリーンスパンの金融政策の執行原理に関心を持たないのか。上の問いとも絡むが、誰かを賞賛したかと思うと直後には誹謗する者は、一般にその人物に十分な関心を抱いていない。彼が自分たちにもたらしてくれるものを秤にかけて、それが利益である間は褒め、害悪に転じたと見るや罵る。罵れば彼が冷静さを失っている判断するのは簡単だが、褒めているときにも冷静ではないと見抜くのは簡単ではない。しかし、事実はそうであろう。大平準は素晴らしいというなら、その原因を「幸運」の一言で片づけずに真剣に解明すべきである。同じく、恐慌の原因も解明すべきである。「実証」という信仰を方法的にいったん脇に置いて、物事を順番どおり説明して素人でもわかるように恐慌の原因を論証すべきではないのか。こうした問いに答えるには、まずグリーンスパンの金融政策とは何であったかが答えられねばならず、そのためにはまた、グリーンスパンとはいったい誰なのかが答えられねばならない。
いかにして大平準が達成されたのかわからない、グリーンスパンの実績はすごいが裁量に基づくから将来世代には参考にならないなどと、忍耐力に欠ける子供のように課題をたやすく投げ出す前に、本人にじっくり質してみればよいではないか。必要ならしかるべきコンサルティング料を払ってでも。経営コンサルタントとして腕を磨きつつ、恩師ランドのおかげでマクロ経済学への関心を深め、これがCEA 委員長をへてFRB 議長という立場で実地に活かされたのが彼のエコノミスト人生であった。
CEA とは顧客が大統領たった一人のコンサルティング会社のようなものだと述べているから(AOT 64;上巻93−94)、FRB とは顧客がアメリカ人全員のコンサルティング会社だと考えていたとしても不思議はない。有名大学に大統領の名を冠した大学院を設けるのなら、なぜ同様に「グリーンスパン・スクール」を創設し、ABCT から統計的ミクロ経済学まで、株価と総供給予測からリスク管理パラダイムまでを定型化して世代間伝達しようとしないのか。
第3 問法令貨幣制のもとで経済安定をどう確保するか。
少なくとも1990 年代までは、グリースパンは現代の法令貨幣制のもとで経済安定を確保するという課題に最も成功した人物であった。だから、素直に考えれば、彼の経済思想や政策原理を学ぶことはかなり重要なはずである。ところが、主流派経済学者たちは「裁量」の一言でこの問題から目をそらし、彼から学ぶつもりがないと明言している。有名大学教授によるこうした反知性主義の改まった宣揚は大変遺憾である。テイラー型ルール論の提唱者は、要するに自ら定式化した「ルール」が裁量でもたらされたと述べていることになるが、こうした明白な撞着論法がなぜ公論の場で看過されているのか理解に苦しむ。アメリカのリフレ策はおそらくハイパーインフレよりも日本型の長期不況をもたらす可能性が高いが、そうなると大不況が再現されるのは必至である。それもこれも、法令貨幣制下で平時と有事にどう経済を安定させるのかという問いに対する答えがあまりにも不十分なことに起因する。物価安定と区別された意味での経済安定をどう確保するかに答える、平時と有事を統合した真に体系的な経済学が求められている。

1 読者は本稿を村井2012 a ; 2012 b ; 2013 a ; 2013 b の続編として読まれたい。
2 むろんABCT にも反論は多いが、それらはいずれも中心論点に関わるものではない。詳細はGarrison 1990 を見よ。
3 一般論として、こうした状態は健全とはいいかねる。とはいえ、経常赤字の拡大だけでドル危機が起こるという見方の信憑性については争いが絶えない。すでにブレトンウッズ時代に、トリフィンはドイツや日本の戦後復興でアメリカの輸入が増え、金流出でドルの金交換性が崩壊すると予言した。この分析はドルの金交換が停止された以上正しいが、キンドルバーガーはこれに反論し、アメリカが世界の銀行として流動性を供与しているだけで、ドルは還流してくるから金交換性停止後も何ら問題はないと述べた。何とも節度のない居直りであるが、この「国際金融仲介仮説」以来論争は続いており、いまなお継続中と言える。
今日において後者を代表するのが米倉茂の『ドル危機の封印──グリーンスパン』である(米倉 2007)。米倉は、ケインズを聖人扱いすることに余念がないわが国のケインズ研究を「貧困」と断じ、誤訳の検証から国内の一般的なケインズ理解の基本的偏向を問題にした(米倉2008 a ; 2008 b)。達見を含むと思うが、ケインズ理解を云々する前にケインズ本人に問題がある。
いずれにせよ、上記のグリーンスパン論は基本的難点を抱える。ドル危機説の陣営は、アメリカ経済のファンダメンタルズが弱体化するとドルが売られるという現実を目の前にして、アメリカの景気が極端に後退するとドルが紙屑同然になるという構図で考えている。これに対して、金融仲介仮説の陣営は、金交換性停止後もドル以上に買われる通貨が出てこない限りドルの支配は続くと考えている。本 論文の主題はこの点ではないので、双方ともが看過している問題だけを指摘しておく。それは、金融仲介仮説が信用創造論に依拠しており、国内銀行システムに適用されるときの同学説の問題点がそのまま国際場面で再演されているだけだという点である。後者の陣営はこれを意識せず、前者の陣営もほとんど気づいていない。信用創造論は預貸業務における金融仲介と貨幣偽造を区別せずに粗雑に一括している点で、基本的な問題を抱えている(村井2012 b)。アメリカが世界の銀行として「信用創造」を行っても、一国の市中銀行の場合と大差ない問題が浮上するのは当然である。連邦準備の信用膨張がグローバル・インバランスを生み、それがサブプライム・ローン危機に行き着いたとき、実際ドルの為替相場はかなり下がった。ただ、幸か不幸か日本もヨーロッパも危機に見舞われているので、確かにこのままドルの地位が揺るがない可能性も高い。ただ、SOMC(影のFOMC)のメルツァーなどは量的緩和の果てにはハイパーインフレが待っているという見解を出しており(Meltzer 2010)、今後とも予断は許さない。代替基軸通貨が現れなくてもドルの購買力は漸減しており、ポールのようなアメリカ人はそのことを議会で問題にしているのであって(村井2010)、国際通貨としてのドルの地位のみに焦点を当てる意味は不明であろう。
一連の出来事の根底には、微少準備銀行制という自然法に反する貨幣制度が横たわっており、景気循環にせよ金融危機にせよ為替相場の不安定にせよ、つまり国内外いずれで発生しているかを問わず、現代的な経済問題のほとんどすべてがこれに淵源することが正しく理解されるべきである。金融仲介が貨幣偽造を伴い、連邦準備の信用膨張がドルの購買力を減殺したり、景気循環を起こして国内経済ばかりか世界経済をも痛めつけたりする限り、ドル危機説が幻だといった議論にシニシズム以上の意味はない。なぜドルが崩壊しないかよりも、ドルが崩壊しないからどのような問題が起きるのかをこそ問題とすべきであろう。
4 Greenspan 2007 を「AOT」と略記する。
5 2009 年講演のこれらのくだりは新著『地図と移動域』で約1 ページ半にわたって引用されている(Greenspan 2013、 73−74)。
6 この論文は村井2012 b でふれたランド生誕100 周年記念シンポジウムの一部である。
7 アメリカの戸建住宅市場は日本とはやや違う特徴を持つ。アメリカでは、日本で「テラスハウス」などの通称で呼ばれる複数世帯以上が一つの建物の別の部分に住むもの(戸建と集合住宅の中間)と単独で建設される「1 世帯向け戸建住宅」があるが、後者に贅を尽くしたものが多い。アメリカの平均的な郊外住宅の敷地面積はほぼ日本の3〜4 倍はある。日本の家屋には、比較的高給取りが住む街区でも猫の額ほどの前庭があるのが精一杯だが、アメリカでは家屋と同じくらい広い前庭だけでなく、それと同じくらいの裏庭がつく。国土面積が一因であることは当然だが、それだけではない。日本では古い家屋にはふつう価格がつかない。床暖房や新建材など家屋の設備面に新しさを求め、古い建物を愛好しない国民性もその一因と思われるが、日本の都市は容積率が低く、どうしても土地に価値の拠り所を求めざるを得ないという事情もある。これらの事情から土地価格が異常に騰貴しやすい構造になっている。住宅メーカーが売る家は何世紀もの年月を耐え抜くようには設計されておらず、日本人はスクラップ・アンド・ビルド型の住宅文化を持つ。これに対して、アメリカでは大都市郊外などで一定の面積以下では戸建住宅を建てさせない法制度も見られ、かつ既存の住宅を土地建物とも評価して中古で転売していくよう促す諸制度が確立している。つまり、住宅を高級にする要因は、需要側の選好、政府の政策、さらにそれらが相俟って形成された慣行にあると考えられる。
8 プットとは先物市場で約定日に約定価格で資産を売る選択権を意味する(行使は自由)。要するに、グリーンスパンのおかげで確実ではない将来が確実になると人々が信じていたのである。
9 ただし、それ以上のものではない。第1 に、金融危機の真因は満期のずれにはない。問題の根はむしろ信用総量にある。主流派は「信用創造」に含まれる金融仲介機能と贋ガネ生産機能を区別できていない。彼らの所論は19 世紀の金融論争における銀行学派に近く、債券を健全さの度合で質的に区別することが可能で、それによって恐慌が防げるかに信じている。しかし、ミーゼスは通貨学派を相対的に評価し、その後のオーストリア学派はリカードがイングランド銀行券には完全準備を求めながら預金通貨の創造を放任して貨幣供給市場に政府独占を導入したことを中途半端だと見ている(Salerno 2009、xii)。第2 に、ナローバンク制はミーゼス派が提唱する金本位の完全準備自由銀行制とは異なる。前者は預貸分離によって金融不安定性を避けようとするしくみで、預金を国債で運用して保護しようとするが、金融仲介機能を低下させるとともに貸付部門の資金調達経路から混乱が侵入するだろう。後者は信用の量的管理(預託正貨量が上限)を求めるが、銀行が金融仲介から利益を得る活動を放任する。量的管理は経済統制ではない。むしろ銀行の贋ガネ生産を放任し預託正貨に対する不払いを法で保護することが市民の所有権に対する統制である。店舗の他人財産を盗めば窃盗だが金庫の他人財産を盗めば窃盗ではない理由を論証できるのか。A 氏のものはA 氏のもの、B さんのものはB さんのものである。この根源的自同性を覆すことからすべての恐慌、すべての不況、すべての殺戮が始まる。現代の金融シス• • テムは、B さんのものを恣意的にA 氏のものとする原理に則っている。窃盗文明である。だが、なら• • • • • • • ぬものはならぬ。提案の基礎が過剰な信用のもたらす帰結である点は共通だが、それだけかえって結論の向きの相反性が際立つ。違いの理由は何か。経済学の分野に限れば、価値論・貨幣機能論・貨幣起源論の三者統合という基本的課題に取り組まないまま行き当たりばったりに時事的な出来事に対処するという没論証的、素朴実証的な主流派経済学の性格に行き当たる(村井2013 d)。政治学や法学にも視野を拡大すると、所有権という基本権を平気で侵害することを容認する現行経済法に行き当たる。  
 

 

 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
   
 

 

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