ナショナリズム

ナショナリズム / ナショナリズム1考察国民主義日本ナショナリズム2近代国家の形成ナショナリズムと近代3ナショナリズム4聖なるもの日中韓を振り回すナショナリズム・・・ナショナリズムの台頭ファシズムナショナリズム
国家主義 / 国家主義国家社会主義ドイツ労働者党オランダ国家社会主義運動シャルル ド ゴールカタルーニャインド日本経済国家主義の諸相右翼と左翼超国家主義論・・・
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雑学の世界・補考   

ナショナリズム [Nationalism]

国家や民族の統一・独立・繁栄を目ざす思想や運動。
民族、国家に対する個人の世俗的忠誠心を内容とする感情もしくはイデオロギー。普通、民族主義と訳されるが、国民主義、国家主義あるいは国粋主義と訳されることもある。しかしこれらの訳語はいずれもナショナリズムの概念を十分に表現しているとはいえない。
一つの文化的共同体(国家・民族など)が、自己の統一・発展、他からの独立をめざす思想または運動。国家・民族の置かれている歴史的位置の多様性を反映して、国家主義・民族主義・国民主義などと訳される。
ネーション nation が、自らの一体性という意識に基づいて発展、独立をめざす思想・運動。日本語では〈民族主義〉〈国民主義〉〈国家主義〉などと訳されてきた。ネーションとは、歴史の中で自生的に形づくられた抽象的な〈われわれ〉の共同体を他から区別して使うもの である。
ある民族や複数の民族が、その生活・生存の安全、民族や民族間に共通する伝統・歴史・文化・言語・宗教などを保持・発展させるために民族国家あるいは国民国家(ネーション・ステート)とよばれる近代国家を形成し、国内的にはその統一性を、対外的にはその独立性を維持・強化することを目ざす思想原理・政策ないし運動の総称。 
かつては、民族主義、国民主義、国家主義などと訳し分けられることが多かったが、最近では一般にナショナリズムと表記される。このことは、ナショナリズムという言葉の多義性を反映し、そしてその多義性は、それぞれのネーションnationや、そのナショナリズムの担い手がおかれている歴史的位置の多様性を反映している。あえて一般的な定義をすれば、自己の独立、統一、発展をめざすネーションの思想と行動を指す。こうしたナショナリズムは、政治的であるだけにとどまらないが、政治的であることなしには成り立たない。
民族や国家の統一・独立・発展をめざす思想や運動。国民主義、民族主義など場面によって異なる訳語を当てる必要がある。人は生まれ育った地域やそこの文化、生活習慣に対して愛着を持つものである。ナショナリズムは、そうした自然な感情の延長線上にあるが同じではない。なぜなら、ナショナリズムにおいて愛着の対象とされる国家とは、せいぜい17世紀以降、日本では19世紀後半にようやく形成されたものであり、ナショナリズムはそのような国家によって人為的に強調、注入されたものだからである。中国など、国民統合に苦労する各国の例を見れば、国家への忠誠を引き出す上で、今日でもナショナリズムは有効な手段であることが分かる。近年、戦後の日本ではナショナリズムが抑制されてきたという議論が広まり、そのことが歴史の見直しや憲法、教育基本法改正論議につながっている。人為的な契機があるにせよ、ナショナリズムの感情を消去することは不可能である。他方、偏狭なナショナリズムが高まると無益な国際紛争が激化したり、国内の自由な政治論議が抑圧されたりすることも事実だ。開かれた、寛容なナショナリズムを作り出すことが重要な課題である。
人が政治的共同体、特に国家に帰属していると感じ、帰属しようと志向する感情、あるいは、人が帰属する対象として、他のものより国家を優先させるイデオロギーや運動。国家とは所属メンバー全体を直接に知ることのできない抽象的な集団である。人が愛着とプライドを抱き自我や自己利害を投影する対象が、家族や地域社会などの一次集団から国家、階級など抽象的集団に移り、中でも国家の比重が大きくなったことが近代の特徴である。同一国籍の、しかし見も知らない膨大な人々を「われわれ」という意識を抱く国民に統合するために様々な手段が用いられたが、最も重要なものは、(1)学校、軍隊、党組織、警察など、権力機構を通じた“上から”の人々の思考の平準化と価値意識の一元化、(2)近代化に伴う社会的流動化とマスメディアを通じたコミュニケーションの活発化とによって“下から”均質化される文化シンボルや生活様式の普及である。広く流通する山河や大地が表象する自然、歴史的事件、宗教説話などの土着的な文化的シンボルを権力がすくい取って操作することによって、人々の深層心理に訴えかけ、忠誠心の国家への吸収が試みられてきた。ナショナリズムは一面で、独立や民族解放運動など、多くの民族が政治や文化の主体となる契機となった。しかし反面で、全く同じ文化シンボルが排他的な自民族中心主義を刺激し、国内における民族的少数派の抑圧、異質な文化を持つ外国への蔑視(べっし)、侵略戦争などに人々を駆り立てた。この劇薬のような両面性は、フランス革命とナポレオン戦争の時代から、冷戦終結に伴う旧ユーゴの解体とバルカン半島での民族紛争などに至る、ナショナリズムの光と影の中に示されている。しかし今日、社会的流動化やマスメディアの発達により、人々が国家による価値分配の正当性に対して疑問を抱く傾向が強まっている。また、欧米の移民社会でイスラム回帰が見られるなど、宗教やエスニック集団などの絆(きずな)が強まり、国家を相対化し、それに対抗する集団が形成される例も多い。国家に集中していた人々の帰属感が揺らぐ傾向が見られるが、極右の台頭、反移民感情の高まりなどは、これらの国家の退潮と遠心化に対する反動とみることができる。
 
ナショナリズム 1

思想や運動の一種。ナショナリズムは日本では、文脈や立場によって、国家主義、国民主義、民族主義、愛国主義、国粋主義とも訳されており、その一義的な定義は困難である。主要な論者のひとりであるアーネスト・ゲルナーは「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義しており、この定義が完全ではないが議論の出発点としてある程度のコンセンサスを得ている。
ナショナリズムには二つの大きな作用があり、文化が共有されると考えられる範囲まで政治的共同体の版図を拡大しようとする作用と、政治的共同体の掌握する領域内に存在する複数の文化を支配的な文化に同化しようとする作用がそれである。前者は19世紀の国民主義運動にその例を見て取ることができ、後者の例は「公定ナショナリズム」としていくつかの「国家」において見出すことができる。
しばしばナショナリズムはパトリオティズム(愛国心、郷土愛)と混同されるが、社会共同体としての「郷土(パトリア)」への愛情であるパトリオティズムという言葉を、近代になって登場したナショナリズムと峻別する意見もある。しかし、「郷土」という言葉を「生まれ育った土地の自然風土」と捉える意味において、「郷土の自然風土」に限定して向けられる愛着は通常、パトリオティズム(愛国心)とは呼ばれない。現在ではネイション(政府の下で共通の文化・言語などを有する国民から成る国家)がパトリオティズムの対象となる場合が多いが、これはむしろゲルナー、スミス、アンダーソンらが指摘するように、ゲマインシャフト(地縁・血縁社会)的共同体がゲゼルシャフト(利益社会)であるネイションへと再編成されていったのと軌を一にして、各地域ごとに無数に存在した帰属対象としてのパトリアを、ナショナリズムが文化的同化作用によって、ネイションへと帰属対象を集約していった結果として理解される。
こういったネイションの近代性は、国家主義の立場からしばしば忘れられたり無視されたりしがちであるが、ネイションとナショナリズムの近代性と作為性については、均質なネイションは近代における社会と産業の必要性から生まれたという点で、学問的にはほぼ決着を見ている。ゲルナーとスミスの近代性についての師弟対決は、ネイションが全くの無から発明されたのか、それとも前近代から何らかの遺産を相続しているのか、という点をめぐって行われたのであり、古代・中世においてネイションが存在したのかについての論争ではない。結局のところ、身分の差が歴然としており越境が困難な社会において、あらゆる社会階層を横断する共属感情を形成することは、不可能ではなくともきわめて困難であり、たとえそのような感情が一部で形成されたとしても、それを後世引かれる国境線の内側すべてを覆うほどの広がりを持たせる手段を近代以前の社会は欠いていた。
しかし、このことは必ずしもゲルナーやボブズボームの言うように、ネイションとナショナリズムが近代に無から生み出されたことを意味するわけではない。スミスは、近代以前に存在した歴史や神話を核にしてネイションは生まれたのだとする。スミスは近代以前の身分を横断しなかったり、地理的広がりを持たず、ネイションのような政治単位となりえなかった共同体を「エトニ」と呼び、あるエトニが周辺のエトニを糾合し、自らを基準に同化していった結果成立したのが「ネイション」であるとした。このスミスの理解は、いかに小規模なゲマインシャフト的集団が広範で雑多なゲゼルシャフトに変じたかという点でアンダーソンと相互に補完しあっており、現在のナショナリズム論の基本的な考えとなっている。
ナショナリズムの多義性
このように「ナショナリズム」という語が多義化する理由は、「ネイション」 (nation) という語が、各時代・地域においてさまざまに解釈されることを一因とする。フランス革命後のフランスでは「ネイション」とは近代市民社会の普遍的諸理念を共有する個人・市民によって構成される共同体として考えられるが、一方でナポレオンの侵攻によって「ナショナリズム」に覚醒するドイツでは、「ネイション」とは固有の言語や歴史を共有する民族共同体として考えられる。
さらに、ナショナリズムが高揚した19世紀においては、国家は自由意志を持つ個人が構成員であることを前提としていたが、20世紀前半に大衆社会へと突入すると、権威に盲従する大衆も出現する中で、ファシズム政権が彼らを妄信的に政府主義(Statism)へと駆り立てさせた。そして、ときには国家の構成員である国民一人ひとりの権利を抑圧することすらも受容されていくことになった。こうした類の政府主義は国民主義(ナショナリズム)ではない。
「ネイション」概念の変遷
古代ローマ帝国において用いられていた、「生まれ」を意味するラテン語「natio」(動詞「nascor」から派生)が、ネイションの語源となる。この「natio」という概念は、本来的には国家と結びつくものではなく、むしろローマ帝国期には「よそ者」というニュアンスで用いられた。中世ヨーロッパにおいても、この語によって想起されるのは宗教会議などに集まる同郷集団であり、やはり国家との結びつきがあったわけではない。
ネイションと国家が結びつけられるのは、ヨーロッパにおいて主権国家体制が確立する17世紀頃だと考えられる。17世紀のイギリス革命においては、「ネイション」の概念は聖職者やある特定の集団のみを指し示すのではなく、幅広い人民を包含するようになった。ただし、フランスの絶対王政のもとでは、主権者である国王に対する臣民としてネイションが理解されていた。この場合、ネイション(国民)と政府は結びついているが、あくまでも身分制社会の枠組みの中でのものであり、ネイションや政府を構成する一人一人が人権を有する対等な存在にはなっていない。1789年に勃発するフランス革命は、フランスにおける国家形成の契機となった。すなわち、身分制度が否定され、近代市民社会の諸権利が保障される中で、基本的人権という普遍的な権利を持つ一人ひとりが対等な形でネイション、そして政府を構成する時代へと突入した。その国家(国民とその政府)という共同体が、ある普遍的な理念に基づいて形成されるものなのか、それとも歴史・伝統に根ざした民族に基づくものなのか、それとも他の新たな観点から説明できるものなのか、これらが錯綜してナショナリズムの定義を難しくさせているのが現状である。
ナショナリズムの起源
ナショナリズムの起源をめぐっては、大きく二つの見解が挙げられる。ひとつは、ナショナリズムは近代に生じた現象であり、その「起源」を近代以前にさかのぼって求めることはできないとする考え方(近代主義)である。もうひとつは、近代のナショナリズムを成立させるための「起源」が古代より継承されているとする考え方(原初主義)である。
ゲルナー、アンダーソンらは前者の代表的な学者として知られる。前者は前近代においては階級・職業・言語・地理的要因などにより「国民」は分断されており、包括的な共属感情は存在していなかったことを指摘している。それに対して後者はガイウス・ユリウス・カエサルに対し団結し抵抗したガリア人など、ナショナリズムに類似した現象が存在したと主張した。
両者の主張を統合し、新たな包括的な視座を提示したのがスミスである。スミスはエスニックな共同体である「エトニ」という概念を導入し、近代のネイションと近代以前でも存在したエトニを区別するとともにその連続性を説いた。この連続性にかんするスミスの主張は、一面において「ネイションは完全に近代の発明である」というゲルナー、アンダーソン、ホブズボームらの見解に反している。しかし同時にスミスは、過去に存在したエトニが現在まで間断なく存在し続けたとは限らず、またエトニとネイションの水平的な広がりも一致しないとして原初主義をも否定している。
ナショナリズムの歩み
理念としてのナショナリズム
ナショナリズムは、18世紀後半のフランスから勃興していった。1789年に始まったフランス革命は、これまでの身分制社会の構造(旧体制・アンシャンレジーム)を解体するに至った。周辺諸国による対仏大同盟など革命が危機に陥る中で、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトは、自由かつ平等な国民の結合による国家をうち立て、一時はヨーロッパ大陸を支配した。
ナポレオンによって組織された国民軍は、各地に遠征して凄惨な被害を与えていった。しかし、その一方で、身分制が残存するヨーロッパ各国に、フランス革命が生んだ普遍的理念としての自由・平等・博愛の精神を広めていくことにもなった。したがって、ナポレオンの失脚後は、ヨーロッパ各国の君主は革命の再発をおそれてウィーン体制を構築し、ナショナリズムの抑圧を図った。その点で、この時代のナショナリズムは、国家権力や旧社会秩序からの解放と主体性の回復であり、自由主義といった理念と結びつくものであった。
1848年革命によってウィーン体制が崩壊したことで、いわゆる「諸国民の春」が到来し、ヨーロッパに新たな状況が生み出された。フランスのナポレオン3世は、初代ナポレオンの威光に依存しつつもナショナリズムの擁護者として振る舞い、イギリスでは、漸進的に自由主義的改革が進められ、国民の諸権利が保障されていった。また、ラインラントやピエモンテに勃興した産業資本家は、統一市場の必要性からそれぞれドイツ・イタリアの軍事統一を支持することになり、1860年代から70年代にかけて、ナショナリズムに基づくイタリア・ドイツの武力統一を完了させた。これ以降は、積極的に政府が国民統合を深化させる(国民化)運動としてのナショナリズムへと移行していくことになる。
ナショナリズムと国家
いわゆる帝国主義の時代において、列強間の競争が激化していくと、後発的に国家を形成させて富国強兵、殖産興業を図った国家では、自由主義的な運動とナショナリズムが結合するという経験を欠いたまま、国民統合が進められることになった。そのため、例えばドイツにおいては、国内のマイノリティ(カトリック・社会主義者)などを抑圧することでマジョリティをまとめあげるような反・自由主義的(=権威主義的)な国民統合が進められるようになった。また、各国では公教育が導入され、識字率の向上や標準語の定着を通じて、政府が均質な国民を創出していくことに尽力した。加えて、当時の西欧・中欧では工業化の進展の中で、社会・労働問題も深刻化しており、高揚する国際的な社会主義運動(インターナショナルなど)に対抗していくためにも、各国政府は国内の社会・労働問題に積極的に対処し、社会政策の拡充などを通じて労働者を国家につなぎとめようとした。このため、国民と政府とのつながりは一層強固になっていった。
東欧世界では、オーストリア帝国・ロシア帝国・オスマン帝国などの束縛から主にスラヴ系民族が解放を求めていた。この中で、弱体化の進むオスマン帝国からは諸民族の独立が徐々に進んだが、多くの小国がナショナリズムに駆られて独立したことで、戦争が頻発したほか列強間の世界戦略にも翻弄される結果となった。こうしてバルカン半島に集約された対立は、第一次世界大戦を引き起こすことになった。第一次世界大戦は、国家同士の衝突であり、総力戦としての性格を有した。戦争維持のために各国においてナショナリズムが鼓舞され、国民(ネイション)と政府(ステイト)はより一体化していった。
帝国の解体とアジア・アフリカの動向
第一次世界大戦中に、社会主義革命が起こったことでロシア帝国が崩壊した。また、ドイツ帝国・オーストリア帝国・オスマン帝国などが敗戦国となった。そのため、パリ講和会議では民族自決の理念のもとに敗戦国における諸民族の独立が承認され、ナショナリズムを肯定することで帝国を解体させた。しかし、戦勝国のイギリス・フランスもまた広大な植民地帝国であったため、アジア・アフリカでの民族自決は否定された。
第一次世界大戦中、アジア・アフリカでも総力戦体制のもと、多くの人的・物的資源が動員されていた。こうしたことは、アジア・アフリカの民衆を徐々にナショナリズムに目覚めさせていくことになった。その矢先にパリ講和会議で民族自決が否定されたことは、アジア・アフリカの深い失望を招くものであった。このように植民地・半植民地とされた従属地域では、まずは民族の解放が最優先の課題とされたが、そうした中で世界社会主義革命をめざすソ連が、その戦略の一端としてアジア・アフリカの民族運動に理解を示す行動を取ったため、こうした地域ではナショナリズムと社会主義が結合する事態が生じた。そのため、中国やベトナムの共産党などのように、コミンテルンの主導で結成された社会主義政党がやがて民族運動の中心勢力となり、第二次世界大戦後には国家建設を担うということも起こった。
主な研究者と主張
19世紀 / ルナン
エルネスト・ルナンは、講演『国民とは何か?(Qu'est-ce qu'une nation?)』で、フィヒテに代表されるような民族・言語の共通性などに立脚する「ネイション」概念を否定した。彼によれば、「ネイション」とは民族・言語・宗教・地勢などによって定められるのではなく精神的な原理に立脚するものであり、彼の代表的な言葉を借りれば「日々の国民投票」によって形成されるものとされる。
20世紀後半 / アンダーソン
ベネディクト・アンダーソンの主著『想像の共同体』は「新しい古典」とも言われ、ナショナリズム論に関する必読書の一つとなっている。書名にもなっている「想像の共同体」とはネイション自体を指す。ネイションは言語、文化、遺伝的近親性(人種)などを共通項として形成されるとされるが、ネイション内にも文化的差違は存在するし、全成員が血で結ばれているネイションはほとんど存在しないなど、いずれも決定的な要因ではない。むしろ実際に血がつながっているかということなどは問題ではなく、これらの要素を共有していると想像し、成員が「共同幻想」を共有することによってネイションは成立しているとされる。すなわちネイションとは「心に描かれた想像の政治的共同体である」。アンダーソンは前近代の小さく同質性の高い共同体が「想像の共同体」であるネイションに拡張された要因を出版資本主義の発展に求め、ネイションの公用語たる世俗語による新聞が「想像の共同体」形成に大きく寄与したとする。このようにネイションの形成過程の考察にかんして事実上の標準に近い位置にあるアンダーソンであるが、最近ではグローバリゼーションに対応したナショナリズムである「遠隔地(遠距離)ナショナリズム」という概念を提示している。
20世紀後半 / スミス
アントニー・D・スミスは前近代に見られたネイションに似た民族集団を「エトニ」と名づけ、近代の産物であるネイションとは区別した。ネイションはあるエトニが他の周辺エトニを包摂していくことによって成立したとされ、近代以前からの古いエトニの伝統を引き継ぎつつも、近代に成立した新しい存在であるとされる。またスミスはエトニを貴族的な水平エトニと平民的な垂直エトニに分け、両者の性質の違いから個々のエトニの動員力や連続性、拡張性を説明している。スミスは近代主義を批判しているが、必ずしもアンダーソンと主張が対立するわけではない。むしろ、中核エトニが周辺エトニを包摂していく過程にかんしてはアンダーソンの想像の共同体を援用すらしている。アンダーソンも前近代における共同体の存在は否定しておらず、血縁などによるなど狭い範囲の共同体が近代になり、より広い共同体の一部となったとしていることから、スミスとアンダーソンの主張は、近代主義とその批判というよりも、相互に補完しあうものとなっている。アンダーソンが「遠隔地ナショナリズム」と呼ぶ現象についても、スミスは「代償ナショナリズム」として言及している。  
 
ナショナリズム考察

 

ナショナリズムは危険な思想か?
現在の日本で恒常的なナショナリズムが危険思想として扱われる原因として、ファシズム思想との誤解、学校における反ナショナリズム教育、そして極右思想家による活動が挙げられるだろう。ではまずナショナリズムとはなんだろう。
ナショナリズムの定義
ナショナリズム(国民主義・民族主義)とは、国民としてまとまることに最高の価値を見いだし、特定の民族に帰属していることで自らの最大のアイデンティティを求める思想や運動である。
では、国民・民族をどう定義づけるか。結論から言えば、国民や民族というものは人為的に作られた概念であり、いわばフィクションといえる。例えば、日本人(日本民族)を例としても、我々は純粋な大和民族であると思っていても、考古学的にみても朝鮮系、南方系、北方系etc.と様々な人々が入り交じっており、また、飛鳥時代、奈良時代、平安時代と多くの渡来人が日本に来たことを考えても、血筋としての日本人というものがいかに曖昧なものかがいえる。しかし、近代以降人々は国民や民族の帰属意識に強く縛られ、そのことを自然と思うようになってきた。とくに日本では閉鎖的な情勢と相まって選択の余地がなく、「日本人」「日本国民」であることが自然的な事実であるように思われてきた。
国民や民族とはそのようなものなので、人々は人種的な区分で民族を見いだしてきたかもしれないが、実際は同じ国家に属している、同じ言語を話している、同じ文化を共有しているなどの区分で民族を見いだし、人々は民族に帰属しているのである。
しかし、社会や国家の中には様々な社会集団や民族的集団(エスニック・グループ)が存在している。そのような個々の集団を国家が統合すると「国民」というものがうまれる。こういったことからも「国民」というものが元から自然とあるものではなく、擬制的であることがいえる。
そういうことから、ナショナリズムとは人種を核としてアイデンティティを見いだすというよりも、国家などが人為的に上からつくりあげたアイデンティティを共有するものと考えるのが妥当だろう。
ナショナリズムとファシズム思想
どうしてもナショナリズムとなるとWWUでのファシズム思想と結びつきやすいので話しておこう。
確かに、ファシズム思想においてナショナリズムが利用されたのは事実であるだろう。日本においては、天皇を中心とした「大和民族」というかたちで行われたし、ドイツでは、ユダヤ人を排斥することで「ゲルマン民族」の優位性を示そうとした。人々は民族や国民を自然なものと思っているので、国家としてはこのように集団で行動をする際は非常に都合のいいものなのである。どこの国にも必ず国粋右翼というものがいて、彼らが国威高揚のために利用し、戦争などを有利に進めるのだ。なので、決してナショナリズム=ファシズムとは言えないのである。
戦後の反ナショナリズム教育
戦後、GHQは戦前ナショナリズムがファシズムの戦争推進に利用されたことを恐れて、国家主義教育というものを停止し(今でも政治上の中立ということで行われていない)代わりに個人主義というものを教育するようになった。そこに食いついたのが戦後政治犯の釈放や思想の自由により出てきた社会党や共産党の人々である。彼らは日教組などを通じて、学校での社会主義教育、反国家主義教育を推進し、レッド・パージにより反体制的な活動をするようになった。そういう教育を受けてきた世代がいまの日本を動かしているので、ナショナリズムは自然と「よくないもの」として扱われるようになってきた。
極右政治結社による活動
現代の日本のナショナリズムを象徴するものの一つに、国粋主義の政治結社による街宣があるだろう。左翼(サヨク)もそうだが、過激な活動を行う集団というのは、どうしても体勢からは受け入れられずに浮いた存在となってしまう。過激な活動は危険なものと受け取れれやすい。
グローバル・スタンダードのナショナリズム
日本では右でも左でも慎重に扱われるナショナリズムだが、世界的にはナショナリズムを人々が持っていることが当たり前(グローバル・スタンダード)なのである。
例えばアメリカでのナショナリズム。アメリカ人が、(アホの)ブッシュ大統領が演説し、それだけで「USA」と叫んで星条旗を振るのは、彼らが合衆国民としてのアイデンティティを持って、それを誇示してる象徴といえよう。
アイルランドでのナショナリズム。北アイルランドでの英国からの独立闘争は、アイルランド人としてのナショナリズムをもって独立したいという現れである。
アイルランドのような例は多く、WWU後の発展途上国の相次ぐ独立の根底にはナショナリズムがあるのである。
日本人のように、ナショナリズムをちゃんと持ち合わせていないのは、自分の民族のアイデンティティが無いというので、国際人として恥ずべきことではなかろうか。

ナショナリズム / 国民主義

 

ヨーロッパにおける主権国家形成期に始まる、国民国家の建設をめざす運動で、18〜19世紀を通じて展開し、第一次世界大戦後、オーストリア帝国やロシア帝国の崩壊にともなって新たな国民国家が生まれた。また、ヨーロッパ列強の植民地であったアジア・アフリカでは植民地からの独立運動と一体となって進み、ほぼ第二次世界大戦後にその高揚期を迎えた。
nationalism の訳語は、「民族主義」、「国家主義」、「国粋主義」などの語が当てられており、その理解には注意を要する。世界史の上で限定して使用される場合は、主としてフランス革命に始まり、ナポレオン戦争を通じて拡がり、19世紀前半のウィーン体制時代にヨーロッパで高まって19世紀後半に他の世界にも拡大された、「国民が一つの主権のもとで統合された国家を形成すべきである」という、主権国家または国民国家という考え方を意味することが一般的であり、その場合は「国民主義」という訳語が最もふさわしい。その他、ナショナリズムの意味には具体的には次のようなものが挙げられる。
ナショナリズムの諸概念と周辺の用語
他民族によって抑圧されていた民族が、独立して国家を形成しようとした例:オーストリア=ハンガリー帝国支配下のハンガリー、チェコ、ポーランドなどのナショナリズム。イギリス支配下のアイルランドの独立運動。(英語圏では nationalism といえばアイルランド独立運動のことを指す)
一つの民族がいくつもの権力のもとで分裂していたものを統合して一つの国家を形成しようとした例:ドイツとイタリアの統一運動。これらの運動は、市民革命後形成されたイギリス、フランス、アメリカ合衆国という先行する近代的主権国家に刺激され、内部の封建的な社会の仕組みの克服と、産業の発展を果たしながら進められた。
なお、広い意味のナショナリズムとして用いられる「民族主義」は、主として植民地、あるいは他国に従属している民族が独立を目指して、民族意識を高めようとした用いられた、「宗教、言語、文化などの共有意識」を強調する思想をいう。インドのガンジー、中国の孫文、ベトナムのホー=チ=ミンらの思想がその典型であろう。
ただし民族主義は「人種主義」(人種間の優劣を主張する考えで、人種差別を生む racism)と区別しなければならない。
また、「国家主義」とは、国家をあらゆる価値の上位に置いて個人の人権や自由を制限、抑圧し、また国家目的なるものを構想して他国領土を侵略することで国家を拡大する思想であり、典型的にはナチス=ドイツやイタリアのファシズム、軍部支配の日本に見られた。またスターリン体制のソ連もそれにあたる。「国家主義」が「民族主義」と結びつくと、極端な排他思想である「国粋主義」に転化する恐れがある。そのような「狂信的愛国主義」にあたる言葉はショーヴィニズム chauvinism であり、健全な国家の独立や国民の統合を願う「愛国主義」または「愛国心」(パトリオティズム patriotism という)と区別されるべきものである。
•一方でマルクスは国家を階級関係における抑圧機関と考えたから、国家の死滅を予測し、そのための運動として国際組織インターナショナル international をつくった。さらに国家に何らの価値も見出さず、無用なものと見てその破壊をめざす思想がアナーキズム anarchism である。
近代世界システムとナショナリズム
日本の高校の教科書では、19世紀前半のヨーロッパに展開したナショナリズムを「国民主義」と訳し、同じ世紀の末以降のアジア、アフリカなどのナショナリズムを「民族主義」と訳している。どちらも原語は「ナショナリズム」なのだが、このように訳し分けることで理解しやするなる反面、そのためにみえなくなっているところもある。近代世界システムのなかで生き残っていくための手段がナショナリズムであり、そのかぎりでは、両者はひとつづきのものだということを、この訳し分けは、みえなくしてしまっている。年代的には一世紀ほど遅れているが、かつて東ヨーロッパやイタリアが国民国家をつくっていったのと同じ段取りで、20世紀中ごろにアジア、アフリカなどの諸国の住民が、それぞれの民族であることを主張して、「国民国家」をつくろうとした。そうでないと近代世界システムの中で不利になるからであった。
参考 アンダーソンの『想像の共同体』
1983年に発表されたベネディクト=アンダーソンの『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(日本語訳は87年に刊。ソ連崩壊後に新たな論考を加えて増補版が刊行され、さらに2009年に『定本想像の共同体』日本語版が刊行されている)は、現代のナショナリズム論に大きな影響を与えた。その論旨は、「序文」でわかりやすく著者自身が解説しているので論旨をたどってみよう。
アンダーソンは「国民」(nation)の概念を明らかにする際にナショナリズム論者をいらだたせる三つのパラソックスをあげている。第一には歴史家には近代的現象と見える「国民」が、ナショナリストには古い存在と見えること。第二には社会文化的概念としてのナショナリティ(国民的帰属)が形式的普遍性を持つのに対し、それがいつも「手の施しようのない固有さ」をもって現れてしまうこと。第三にナショナリズムのもつ政治的影響力の大きさに対し、哲学的には貧困で支離滅裂である(ナショナリズムは、他のイズムとは違って、いかなる大思想かも生み出していない)こと。
このような問題が起きるのは、我々が無意識のうちに大文字のNで始まるナショナリズムの存在を実体化して、それをイデオロギーのひとつとして分類しようとするからである。しかし、「国民(ネーション)と国民主義(ナショナリズム)は「自由主義」や「ファシズム」と同類に扱うより、「親族」や「宗教」の同類の人類学的精神によって停止した方がよい。そのような観点からは、
「国民とはイメージとして心に描かれた“想像の政治共同体”である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」
と定義される。「国民は想像されたもの(イメージとして心に描かれたもの)である」とはどのようなことか、という説明には、ルナンの「国民の本質とは、すべての個々の国民が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをおたがいすっかり忘れてしまっているということにある」という文を引用している。また「国民」は、限定的なもの、主権的なものとして想像されるが、最後に「一つの共同体」として想像される。
(引用) なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人びとが、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。
このようにアンダーソンの問題意識は、なぜ「近年の萎びた想像力」に過ぎないナショナリズムが、このような途方もない犠牲を生み出すのか、という点であり、手がかりとしてナショナリズムの文化的根源を究明しようとしたのがこの論考である。
ナショナリズムの文化的根源 
アンダーソンは「国民」が想像される以前の人びとの精神を支配していた基本的文化概念として、第一に特定の手写本語だけが存在論的真理に近づく特権的な手段を提供している、キリスト教世界やイスラム共同体などの大陸横断的信徒団体の存在。第二に社会が、宇宙論的摂理によって支配する王を中心に自然に組織されているという信仰。第三に宇宙論と歴史を不可分で本質的に同一であるという時間観念。これらの相互に連結した確実性は、経済的変化、「諸発見」、コミュニケーションの発展の衝撃の下、ゆっくりと減衰していった。そして同胞愛、権力、時間を新しく意味あるかたちでつなげようとする新たな模索を促進し、実りあるものにしたのが「出版資本主義」(プリント・キャピタリズム)であった。アンダーソンはこの「商品としての出版物の発展が、まったく新しい同時性の観念を生み出す鍵」であったと見る。
(引用) 人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。これが、その基本的形態において、近代国民登場の舞台を準備した。
ラテンアメリカ諸国の独立  
しかし、今日ほとんどすべての近代的国民国家は「国民的出版語」を有しているとはいえ、しかしその言語はラテンアメリカ諸国やアングロサクソン語諸国のように言語を共有している場合と、アフリカ諸国のような旧植民地国家は国民のごく一部だけが国民語を使用している場合とがある。  以下、各論に入っていくが、まずアンダーソンはヨーロッパの本国と言語を共有しているにもかかわらず、「1776年から1838年にかけて西半球に起こった一群の新しい政治的実体、(ブラジルを例外として)みずからを国民として、自覚的に共和国と定義した諸国に注目する。
公定ナショナリズム 
19世紀後半以降、ヨーロッパでは資本主義の産物として、共通の言語を使用する集団による国民主義運動が昂揚し、君主に対して文化的な、そしてそれ故に政治的な難問をつきつけるようになった。それに対して君主たちは、民衆的国民運動の後に、それへの応戦として「公定ナショナリズム」(シートンワトソンが用いた概念)――国民と王朝帝国の意図的合同――を、貸衣裳によって国民的装いをした帝国を魅力的に見せるための手品を工夫する必要があった。その点敬礼がロシア帝国であり、非ヨーロッパ世界では日本とシャムの土着の支配集団によって採用され、模倣された。
(引用) つまり、「公定ナショナリズム」は、共同体が国民的に想像されるようになるにしたがって、その周辺においやられか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略なのだ。
最後の波 
主としてアジア、アフリカの植民地に押し寄せたナショナリズムの「最後の波」は、産業資本主義の偉業によってはじめて可能になった新しい型の地球的帝国主義への反応として発生したものであった。資本主義はまた、印刷出版の普及その他によって、ヨーロッパにおいては俗語にもとづく民衆的ナショナリズムの創造を助け、そしてこうした民衆的ナショナリズムは、その程度はさまざまであれ、伝来の王朝原理を掘り崩し、可能なかぎり王朝を国民へと帰化するように駆りたててもいった。ついで公定ナショナリズム――新しい国民的原理と古い王朝原理の溶接――は、便宜上「ロシア化」とも呼びうるものを、ヨーロッパ外の植民地にもたらした。・・・しかも国家は、資本主義と縦列になって、本国と植民地の両方において、その機能を増殖させていった。これらの諸力が一緒になって、国家と法人の官僚機構が要請する下級幹部の要請を一つの目的として、「ロシア化」学校制度が生み出された。中央集権化され標準化されたこれらの学校制度はまったく新しい巡礼の旅を創出し、この巡礼のローマとなったのは、典型的には、各植民地の首都であった。
 
なぜ日本は「すごい」のか
 ナショナリズムの起源と民族意識の誕生

 

日本人であること以外に誇れるモノを持たない人は、極端なナショナリズムに染まりやすい。しかし、村田諒太が日本人だからといって、同じ日本人のあなたが金メダルを取ったわけではない。内村航平が日本人だからといって、あなたが体操の達人というわけではない。スポーツを観戦するときは選手個人の技能や努力を応援すべきであって、民族意識を慰めるための道具にしてはならない。自尊心の低い人ほど「日本人であること」に固執する。なぜなら「日本人はすばらしい」という価値観に染まっていれば、なんの努力もせずに「自分はすばらしい」と思えるからだ。
ただし、事実として日本はすごい。
およそ300年の鎖国により文化的に遅れていたはずなのに、明治維新以降とてつもない速さで近代化を果たし、30年経たずに中国(清)を、40年経たずにロシアを戦争で倒している。大政奉還から70年少々で、世界最強の戦艦と戦闘機を開発し、アメリカに対してガチバトルを仕掛ける先進国へと成長した。また第二次世界大戦で国が焦土と化したにもかかわらず、終戦から約10年後には戦前と同水準の経済力を取り戻し、約20年でGNPはアメリカに次ぐ世界第2位となり、およそ40年後には「日本企業が世界を食らいつくす」とまで言われるようになった。戦後の他のアジア諸国とは対照的だ。
このような日本のすごさを論拠として、民族主義者は「日本民族はすぐれている!」と胸を張る。つまらない自尊心を慰めようとする。だが、それに対して日本の左派は、充分な反論をしていない。「民族間の差なんてあるわけねーだろwww」と嘲笑するだけで、なぜ日本が飛び抜けた経済成長・文化的成熟を果たすことができたのか、真剣に論考していない。少なくともインターネット上の素人論議ではほとんど見かけない。
なぜ日本は日本なのか。
そして、なぜ韓国や台湾は日本から20年遅れになり、中国は30年遅れになったのか。
さらに、これら極東諸国に対して、フィリピンやベトナム、カンボジア、タイ、マレーシア、インドネシアなどの東南アジア諸国が大きく後れをとってしまったのはどうしてなのか。
こうした疑問に答えなければ、ネトウヨの稚拙な民族意識を笑い飛ばすことも批判することもできない。「排外主義はよくない!」というイデオロギーに染まって、違うイデオロギーの相手を叩いているだけだ。「なぜ日本はすごいのか」という疑問を、地理的要因や歴史的経緯から説明できない限り、民族的・血縁的な優位性を否定できない。
ジャレド・ダイヤモンドは『銃・病原菌・鉄』で、「なぜ西欧は世界の覇権を握ることができたのか」を説明しようとした。地理的要因や歴史的経緯から西欧の優位を説明することで、「白人はすぐれている」という民族意識に対して強烈な反論を投げかけている。同じことを、アジアの歴史でも考えるべきだろう。日本の発展を地理的・歴史的な理由で説明することができれば、民族意識に染まった人々は冷静さを取り戻すはずだ。
日本がすごいのは、おそらく日本民族がすごいからではないだろう。日本人は単一民族とは呼びがたいほど遺伝的・文化的な多様性を持っているからだ。また他のアジア諸国と比べて地理的・歴史的に極めて恵まれており、そういった偶然の要素によって、現代の「すごい日本」が生みだされたのだと思われる。
私はこのテーマに興味を持ってから日が浅いので、継続して勉強中だ。このブログを読んでくださった方からも情報を教えていただきながら、考えを深めていきたいと思う。日本は失われた20年をすごしてきた。「日本人は日本人というだけで優れている」という考え方は社会の閉塞感が増すほど強くなるようだ。が、この発想はトートロジーにすぎず、なにも生み出さない。落日の経済大国が在りし日を取り戻すには、冷静な視点が必須だろう。
そもそもナショナリズムは、人類史上かなり新しい概念だ。
人々が自国に対して帰属意識を覚える――いわゆるナショナリズムは、18世紀のフランスで誕生したという。市民革命を果たした人々は「自分たちの国家は自分たちの手で成立している」という意識を強く内面化したはずだ。「自分はフランスに帰属している」という意識だ。そしてフランス人の強烈なナショナリズムに後押しされて、ナポレオンは当時のヨーロッパを荒らしまわった。彼に対抗する形で、ヨーロッパ各地でナショナリズムが勃興したものと思われる。
それ以前には、この地球上にナショナリズムと呼べるような価値観はなかった。人々の行動圏は狭く、職業的にも社会階層的にも分断されていた。「おらが村」への帰属意識や、「私のギルド」への帰属意識のほうが先んじており、「わが国」への帰属意識など持ちようがなかった。ローマの侵攻に対抗したガリア人や、元寇を退けた日本人など、近代以前にもナショナリズムを思わせる事件は起きている。が、それらは極めて異例なものと考えるべきで、少なくとも一般人には「日本民族」という発想は近代になるまで浸透していなかった。
そもそも日本人の遺伝的多様性は極めて高いと言われている。先史時代に様々な地域の様々な人が渡来し、混血を繰り返してきた。また文化的にも多様で、地域ごとの生活習慣の違いは現在でも色濃く残っている。さらに江戸時代には人々の移住が厳しく制限され、藩札や江戸の小判、大阪の丁銀を見れば分かるとおり通貨も統一されていなかった。もしも仮に17世紀の土佐と津軽の農民を引き合わせたとして、彼らが会話をするのは困難だろう。言葉が違いすぎるからだ。現在でも出身地のことを指して「おクニはどちらですか?」と訊く。近代以前の日本列島は、たくさんの国が集まった連邦国家のようなものだったと考えられる。
これを統一したのが明治政府だ。
想像だが、当時の日本の指導者層には危機感があったはずだ。16世紀に東南アジアへと到達した西欧諸国は、17世紀〜18世紀にかけて次々に植民地を作った。フィリピンはスペインに、マレーシアはイギリスに、インドネシアはオランダにそれぞれ占領された。そして明治維新の約25年前にはアヘン戦争で清が敗北し、明治維新の約18年後には清仏戦争でフランスが勝利している。この戦争に先んじてベトナムやカンボジアはフランスの占領を受けている。このようなアジア情勢のなかで、生まれたばかりの大日本帝国がどのように独立を保つのか:解答として富国強兵政策が選ばれ、ナショナリズムの醸成がその一端に組み込まれた。
西南戦争で士族が滅び、官僚制が整い、プロレタリアートと大地主の登場によって資本主義国としての下地が作られた。日清・日露戦争を通じて日本人のナショナリズムは過熱していき、明治維新から約70年には太平洋戦争を引き起こす。
戦後、日本人のナショナリズムは解体されるどころか、むしろ強化されていった。現在の私たちで、自分が日本人であることに疑いを抱く人は少ない。日本の戦後文化が、ナショナリズムを維持・強化するものだったからだ。
1954年2月19日、蔵前国技館は異様な熱気に包まれていた。サンフランシスコから著名なプロレスラー・シャープ兄弟が来日したのだ。
当時の日本は経済的にも国際観光地としても注目されておらず、たとえばベルギー外務大臣代理が来日するだけでもマスコミは大騒ぎをしていた。そんな時代に、世界的なスポーツ選手がやってきたのだ。日本中が見守る中、歴史的なタッグマッチが行われる。シャープ兄弟を迎え撃つのは、柔道の達人・木村政彦と、元相撲力士・力道山……。
リングに上がった選手たちを見て、アナウンサーは叫んだ。
「アメリカ人は巨大であります! あの体格では、負けるはずがありません!」
木村の身長は約170cm、力道山は180cmほどで、当時の日本人としては破格の体格をしていた。が、一方のシャープ兄弟はどちらも2メートル近い。この体格差は日本人に敗戦のコンプレックスをまざまざと思い起こさせた。
ところが試合が始まると、信じられないことが起きた。
力道山はマイク・シャープに強烈な空手チョップの猛攻をお見舞いした。すると、あのアメリカ人がじりじりと後退を始めたではないか! 観客はワッと沸き立った。マイクはたまらず相棒にタッチ。代わりにリングに飛び込んだベン・シャープを、力道山は勇猛果敢に攻め立てる。ベンはコーナーからコーナーへと追い詰められ、目を白黒させてへたれこんだ。すかさず力道山は押さえ込み――ワン、ツー、スリー!
観客は総立ちで座布団を投げ込んだ。
新橋駅の西口広場には2万人近い観衆が集まり、設置された27インチの街頭テレビに向かって歓声を上げた。日本全体が熱狂につつまれ、プロレスブームに火が付き、テレビはあっという間に普及していった。
力道山の活躍は、敗戦で傷ついた日本人の心を慰撫し、勇気づけた。彼が在日朝鮮人であることは、ひた隠しに隠された。
また現在の日本人のナショナリズムに、日教組の果たした役割は大きい。教育の機会均等を信条として、全国一律の学校教育を目指した。その結果、均質な日本人としての意識が育まれた。とくに顕著なのは国語教育だろう。日本列島には多種多様な方言があったにもかかわらず、中央政府の決めた言語を「正しい言葉」として教え込んだ。テレビの普及が日本語の均質化に拍車をかけた。しばしば反日的と批判される日教組の教育が、むしろ日本人のナショナリズムを強化していたのだ。笑える皮肉だ。
ナショナリズムの歴史は浅い。あなたの「日本人としての意識」は伝統的に受け継がれたものではなく、学校教育のなかで教え込まれたものにすぎない。インターネット上の言説なども含め、戦後文化が私たちの「日本人としての帰属意識」を形作った。 
 
ナショナリズム 2

 

ある民族や複数の民族が、その生活・生存の安全、民族や民族間に共通する伝統・歴史・文化・言語・宗教などを保持・発展させるために民族国家あるいは国民国家(ネーション・ステート)とよばれる近代国家を形成し、国内的にはその統一性を、対外的にはその独立性を維持・強化することを目ざす思想原理・政策ないし運動の総称。
ナショナリズムの多義性
ある民族ないし複数の民族による国家形成のあり方・維持・発展・強化の方法は、国により時代により異なるので、ひと口にナショナリズムといっても、その思想原理や政策・運動の表現形態は多種多様である。そもそも英語のナショナリズムという語が日本語で国民主義、国家主義、民族主義などとさまざまに訳され、使い分けられているのはそのためである。
(1) 国民主義という場合のナショナリズムは、民主的な政治・経済制度を構築することによって、国家の構成メンバーである個々の国民の人権や自由を尊重しつつ、近代的な統一国家を維持・発展させようとする思想原理や運動をさす。この種の国民主義は、17世紀のイギリス市民革命期、18世紀のアメリカ独立戦争期、フランス革命期に新興の市民階級が封建的な絶対君主とその支持勢力である貴族階級や大地主階級を打倒して近代国家を形成した際に登場した。そのため、この国民主義は自由国民主義ともよばれる。
(2) イギリス、アメリカ、フランスなどの先進諸国よりも1〜2世紀近く遅れて近代国家の形成に着手したドイツ、日本のような後進諸国は、先進諸国に追い付け追い越せという形で強大な国家建設を目ざして富国強兵策をとった。したがって、そこでは国家的利益(ナショナル・インタレスト)が個人利益(人権・自由)よりも絶対的に優位するという国家・政治思想や政策が、国家権力によって国民教化の手段として用いられた。そして、こうした思想原理や政策は、日本では国家主義あるいは片仮名のナショナリズムと表現されているが、英語圏の国々では、国民主義をあらわすナショナリズムと国家主義をあらわすナショナリズムとを区別するためにわざわざ後者の場合のナショナリズム=国家主義をステイティズムstatismとよぶことがある。
ところで、国家主義をとる国々のなかには、当然に自民族の優越性を高唱し、他民族や他国民を劣等視し、さらには、劣等諸民族を文明化し善導すると称して実際には彼らを抑圧したり支配下に置こうとする侵略主義的・軍国主義的思想や行動を正当化する国家も出てくる(日本の「八紘一宇(八紘為宇)(はっこういちう)」やドイツの「ゲルマン民族の優越性」など)。この場合には、これらの極端な国家主義的な国々の政治思想や行動は、超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)とよばれた。
(3) 19世紀後半に入って先進資本主義国が経済上の利益確保を至上のものとして対外的膨張策を図り、アジア・アフリカなどの後進諸地域を支配・抑圧すると、被支配諸民族がそうした不当な支配から自己を解放し、自民族や自国の独立を主張する民族主義的(ナショナリスティック)な思想や運動が現れた。そして、これらのナショナリズムは民族解放主義・民族自決主義とよばれる。
このように、ナショナリズムという語のもつ意味内容はきわめて多様であるが、これを民主主義の発展という観点から価値付けしてみれば、(1)の国民主義、(3)の民族解放主義や民族自決主義などは「健康なナショナリズム」とよばれる。その意味では、近代国家の形成と文明開化の推進を目ざした明治維新直後から明治啓蒙期(けいもうき)に至る10年間ぐらいの日本も「健康なナショナリズムの時代」であった、ということができよう。そして、(2)の国家主義や超国家主義などは、自国民はもとより、他民族の人権や自由を侵害・抑圧することを正当化したから「悪(あ)しきナショナリズム」の典型といえよう。1889年(明治22)の「明治憲法」制定後から第二次世界大戦までの日本の封建的かつ絶対主義的な政治、とくに1931年(昭和6)の満州事変にはじまる「15年戦争期」の日本の内政・外交政策、ドイツのナチ党支配の時期などは、「悪しきナショナリズムの時代」とよぶことができよう。
ホッブズの理論と国民主義的ナショナリズムの形成
ホッブズの近代国家論
自由で自立した市民が主体となって近代的かつ民主的な「政治共同体」=国家(ネーション)を設立し、国家のなかで生活することが国家の成員(国民)にとって最善の状態である、という国民主義的ナショナリズムが政治を行う為政者、政治を委託した国民の間で形成されたのは、当然のことながら、この地上に初めて近代国家が形成されてから以後のことである。近代国家・民族国家・国民国家が形成されたとき、イギリス、アメリカ、フランスなどはいうまでもなく、日本、ドイツ、イタリアなどの国々においてすら、人々は初めて、貴族・大名、士農工商などの封建的身分制度の桎梏(しっこく)から解放されて自由・平等な国民(ネーション)・市民となった。これ以後、「国を愛す」「国を誇りに思う」「国を守る」という健全なナショナリズムの精神が人々の間に生まれたのである。また、この際には「他国をも愛する」というインターナショナルな協調精神がセットになっていたことはいうまでもない。では、こうした「健康なナショナリズム」あるいは「国民主義的ナショナリズム」の思想を世界で最初に理論化した思想家はだれか。それは、世界初の市民革命であるピューリタン(清教徒)革命期(1640〜1660)に、人間にとっての最高の「価値」(よいもの)は、生命の尊重と保存にあり、そのためには、平和で安全な状態を保障できる政治社会=国家を設立する必要がある、という近代国家論を展開したトマス・ホッブズである。
人間の生命の尊重・保存こそが今日の基本的人権思想の中核思想である。そして、生命の安全を脅かすものは、紛争・内乱・戦争などである。このようにとらえたホッブズは、人と人とが殺し合う悲惨な内乱の続く当時のイギリスの状態をみて、一刻も早く「平和な社会」を確立することが必要である、と考えた。その意味では、彼の主著『リバイアサン』(1651)は、近代において初めて国内・国際問題とナショナリズムの問題とを関連づけて考えることを可能にしたもっとも基本的な政治学の書物である、といえよう。なぜなら、ナショナリズムの思想は、しばしば民族間の対立や宗教問題と結びついて、紛争・内乱・戦争状態を発生させるからである。
基本単位としての自由・平等な人間
ホッブズは、当時の内乱の原因を二つあげて、その解決のための処方戔(せん)を書いているが、これは、17世紀だけでなく現代においても有効な、民族・宗教問題をめぐるナショナリスティックな紛争(ボスニア・ヘルツェゴビナ問題、チェチェン問題、イスラエルとパレスチナの対立問題など)解決の指針になるものと思われる。彼は、当時のイギリスにおける内乱の原因を、一つは、中世以来続いてきた国王と議会との間の世俗権力の覇権をめぐる争いから、もう一つは、これまた16世紀以来、各国で起こってきた国家(君主)と教会との間のすなわち政治と宗教をめぐる争いから起こった、とみている。そして、こうした複雑に入りくんだ権力争いに理論的な解決の指針を与えることはだれにとっても至難のわざであっただろう。どちらかを支持すれば必ずどちらかが反撥(はんぱつ)し反対するであろう。そこで、ホッブズは、どちらの側に立つこともやめて、人間であればだれでもが反対できない原理に立って、この対立・紛争を解決しようとした。そして、この解決方法こそが、ホッブズに近・現代を通底する普遍的な民主主義の原理を確立することを可能にさせたのである。ホッブズは政治を考える基本単位として、自由・平等な人間をもちだしてきた。当時は、君主・議会・教会・ギルドなどが政治を考える単位であったから、ホッブズのような神や身分や各種利益団体をまったく考慮しない政治論はきわめて斬新(ざんしん)なものと思われ、それだけに支配階級や宗教団体などから危険視され嫌悪されたのである。
「自然権」「自然法」「法の支配」
ここでホッブズは、人間にとっての最高価値は生命の保存(自己保存)にあると主張する。そのうえで彼は、人間は国家も政府も法律をもたない「自然状態」にあっては、なにごとについても自分のことは自分で決めることのできる自由をもっているが、その反面、そのような社会では、法律も治安維持機構も存在しないから自分の生命は自分の力で守らざるをえなかった、という。したがって自然状態にあっては、風水害や冷害・地震などにより食料危機が発生すると、人々は生きるために他の家族集団や集落を襲い、そこに戦争状態が生ずるが、ホッブズは、これを有名な「万人の万人に対する闘争状態」というフレーズでよんでいる。このように自然状態は人間にとって自由な社会であるが、他方で闘争状態が発生する危険性が絶えず存在するので、人間は生まれながらにもっている「生きるための権利」(これは今日の基本的人権のことであり、ホッブズは自然権とよんでいる)をよりよく守ることのできる「理性の教え」を19あげ、これらを自然法とよび、この教えに従うことを人々に命じている。そして、この自然法は、人間に平和を確保するために全力をあげよと命じ、そのためには自然権の一部を放棄(具体的には、自分で自分の生命を守ることをやめる。つまり武器を捨てるということ。国際連合の究極的目標はこの点にある)して平和な社会をつくる契約を結べと命じている。また、こうしてつくられた社会は、人々が自発的に形成した集団であるから、一人の人間の力よりもずっとずっと強い力である。すなわち、ホッブズは、この「集団の力」を国王権力や議会権力や教会権力よりも強い「人民の結集した力」と考えていたが、これこそが、今日の「国民主権」、「人民主権」思想のルーツであるといえよう。
続いてホッブズは、契約・同意によって形成した政治集団において、多数決により、代表者(主権者、最高権力者)を選出せよという。そして代表者=主権者が選出されたとき、国家=政治社会が設立された、と述べている。続いてホッブズは、人々は、この代表者=主権者の制定する法律に従って、為政者も、被統治者(一般国民)も正しく安全に平和に生きよ、と述べている。そして、これこそが、今日の現代国家における「法の支配」する政治のあり方である、といえよう。
ナショナリズムの意味
ホッブズによって、国家権力の基礎は人民・国民の意志にあり、「法の支配」によって人権と自由が真に保障される、という現代民主主義国家論の原型がつくられたのである。こうして、人々の間には、自らのつくった政治社会=国家を愛し、これを守るという愛国心が生じる。J・J・ルソーのいう「祖国愛」もこの意味であった。ナショナリズムというと、とかく八紘一宇やドイツ民族の優秀性といった偏狭な国家主義が想起されがちだが、ナショナリズムとは、本来的には、自由で民主主義的な自分たちの国を愛する精神、それは同時に他の国々の国民の生命や自由をも尊重するという精神に力点があることを忘れてはならない。誇るに足る国家を形成し維持・発展させていくことこそが真のナショナリズムの精神といえよう。
宗教と政治をめぐる問題
ホッブズの政治思想のもう一つの重要な功績は、現代社会においてさえもその解決がもっとも困難といわれている、異なった宗教間の対立・抗争をめぐる問題の解決に有効な示唆を与えている点である。21世紀に入ってさえもなおパレスチナとイスラエル両国による「聖地エルサレム」の主権をめぐって激烈な武力衝突がくり返され、この問題の解決のめどは早急には立ちそうにない。ところで、こうした宗教と政治をめぐる問題は17〜18世紀のキリスト教世界においても解決困難な問題であった。しかもこの宗教の問題は、絶対主義国家対ローマ・カトリック教会あるいはジュネーブのカルバン主義的プロテスタント本部という形をとって争われたから、宗教紛争はかならずナショナリズム(国王を守るか、対外勢力に屈するか)の問題と無関係ではありえず、宗教闘争が激化すれば国の存立さえも危険になりかねないという状況があった。そのため、近代国家形成期の16〜17世紀における各国の思想家たちは、こうした政治と宗教をめぐる問題解決に力を注いだが、結局、この問題に最終的解答を与えたのがホッブズであった。
1640年にイギリスで始まった世界初の市民革命は、19世紀になって別名ピューリタン革命とよばれたように、それは宗教の自由を求めて絶対君主と闘ったピューリタンたちの崇高な革命と称賛された。しかし、この革命によっても、カトリック教徒であれプロテスタントであれ、クェーカー教徒のような少数セクトであれ、だれでもが信仰の自由を保障される、あるいは無神論者であっても罪に問われないといった「宗教の自由」は認められなかった。民主政治の父といわれるJ・ロックですら、カトリック教徒と無神論者は「宗教的寛容」の恩典から排除していた。イギリスで完全な「宗教の自由」が認められるようになったのは、J・S・ミルが『自由論』(1859)で「宗教の自由」を唱えたあたりからである。したがって、キリスト教国家内部において宗教紛争がほぼ収まったのは、19世紀中ごろ以降のことといってよいだろう。しかし、この問題については、ミルよりも2世紀も早くホッブズがその解決策を提示していたのである。ホッブズは、革命期のほとんどの宗教諸派が自宗派の正当性だけを主張して、他宗派の教義を認めないことが紛争を激化させていると考えた。そこで彼は、『リバイアサン』の最終部分で、クリスチャンであれば「イエスはキリスト(救い主)である」ということはだれしも否定しないであろう。ならば、教義や礼拝の仕方の違いはともあれ、「イエスは救い主である」というこの一点だけで和解し、平和な社会を回復したらどうかと提案している。ホッブズはさらに、「平和の到来」を実現するための具体案を次のように述べている。彼によると、イエスはいまはこの世にはいない。とすれば、人間はいかなる基準によって平和を維持することができるのか。ホッブズは、全能の神は、キリストが再臨するまでは、人々が正しく安全にかつ平和に生き延びるために自然法を与え給(たも)うた、と述べている。
これは、結局のところは、現在この地上にある人間にとっての最高の価値は生命の尊重にある、ということを全世界の人々が承認し、それに基づいて平和な社会を保持せよといっていることにほかならないだろう。そして、この考え方は、現代世界における宗教紛争(これは国内における異なる宗教間だけでなく、しばしば国際的な異なる宗教間のいわばナショナリスティックな問題とインターナショナルな問題とが交錯する国際紛争まで含むのだが)の解決策に一つの重要なヒントを与えているように思われる。すなわち、宗教問題に関しては、人類にとっての普遍的価値である自由・平等・平和といった観点を相互に承認し合うなかからその解決策を探れ、ということであろう。
以上、ホッブズの政治思想について述べてきたが、われわれは、彼の政治思想のなかに、「健康なナショナリズム(国民主権)」、「悪しきナショナリズム(国家主義、ステイティズム)」、宗教紛争・民族紛争とナショナリズム・インターナショナリズム(国際主義)といった関係を考察する豊かな思想の宝庫をみつけだすことができよう。そして、ホッブズ以後のロック、ルソー、J・ベンサム、ミル、K・H・マルクス、H・J・ラスキなどの近代民主主義思想は、すべてホッブズの近代政治思想を新しい時代に適応させて発展させたものといえよう。
日本における国民主義と国家主義
徳川幕府の成立から明治維新へ
日本は1603年(慶長8)の徳川幕府の成立によって、ようやく中央権力をもつ統一国家の体裁をととのえた。しかし、これは、イギリス、アメリカ、フランスのような近代的な統一国家ではなく、イギリスやフランスでいえば市民革命前の16世紀から18世紀ごろまでの絶対君主による封建的な統一国家に似ているものといえよう。もっとも、日本では政治の中心地江戸に将軍がいて、日本国中には、三百諸侯(大名)が割拠し、将軍支配に従属していたという違いはあったが。したがって、各藩の家臣や領民にとっては、国とは藩を意味したから、そこには明治維新後に日本国全体について考えるといったようなネーション=国民という観念はまだなかった。
ところで、260年余の長い封建制度の下にあった日本人は、明治維新になっても、いまだに権力(徳川幕府にかわった薩長(さっちょう)藩閥政府)を恐れ(長いものには巻かれろ)、西欧人のような自主・独立の精神が欠如していた。そのため、明治政府は新しく獲得した権力を振り回し、国民の多くは政府の不当な命令に従った。福沢諭吉が『学問のすヽめ』(1872〜1876)のなかで「日本には唯(ただ)政府ありて未(いま)だ国民あらずと言ふも可なり」と嘆じたのはそのためである。福沢が『文明論之概略』(1875)において、ホッブズ、ルソー流の自立した市民による国家の形成を提唱(文明開化論)したのは、民権論(人権と自由の保障)と国権論(国家の独立を確実なものとして国民の安全を図る)のバランスのとれた「健康なナショナリズム」の精神を学ぶことを明治の人々にアピールしたものといえよう。そして、こうした福沢の精神は、明治10年代から20年代前半にかけては、陸羯南(くがかつなん)や田口卯吉(うきち)のような思想家に受け継がれた。彼らは、明治政府の高官たちのような西欧一辺倒という卑屈な態度には批判的で、西洋のよきものはこれを取り入れ、他方日本のよき伝統はこれを保持するといった「健康なナショナリズム」によって、国民の間に自由と平等を広めることを国民主義(陸)とよび、対外的には商業・貿易を通じて諸外国と協調すべしとする商業共和国論(田口)を唱え、いずれも、日清戦争(1894〜1895)後の日本の軍備拡大の傾向を厳しく批判していた。したがって、第二次世界大戦前の近代日本における「健康なナショナリズム」が通用した時代はせいぜいこの時期ごろまでが最盛期であったといえよう。
日本における「悪しきナショナリズム」
ではなぜ日本は、早々と「悪しきナショナリズム」へと転落していったのか。日本が19世紀後半にようやく近代国家の仲間入りを果たしたころ、欧米列強はすでに資本主義体制を確立し、それを維持・強化するために、アジア・アフリカの後進地域を軍事力と資本力によって侵略・支配・搾取する帝国主義的政策をとり、そのことが日本支配層に強い危機意識を与えた。そのため、日本は、列強の対外侵略を防止する方法として、明治維新後、早くも隣国の朝鮮を支配下に収めようとし、それがのちに日清戦争や日露戦争(1904〜1905)へと発展した。そして日本が当時の世界の大国、清国とロシアに勝利し、大正末年ごろまでに英米仏独と並んで世界の五大国の仲間入りを果たすまでになると、日本全体に政府権力側はもとより一般国民の間にまで国家主義(ステイティズム)的傾向が広がった。こうして日本は、20世紀に入って、朝鮮半島(1910年、韓国併合)から中国大陸への侵略を目ざした「満州事変」(1931)を契機に、日中戦争(1937〜1945)、太平洋戦争(1941〜1945)へと突入していった。この意味では、第二次世界大戦前の日本においては、約80年間のうち、「健康なナショナリズム」の時期は「明治啓蒙期」「自由民権期」「大正デモクラシー期」などのわずか30年間にすぎなかったといってもよいであろう。第二次世界大戦後、日本が「第二の開国」により徹底的な民主改革を断行せざるをえなかったのはこのためであった。
ドイツにおけるナショナリズム
ところで、明治20年代以降日本において顕著になった国家主義的ナショナリズムは、日本と同じく遅れて近代国家への道を歩んだ国々、たとえばドイツやイタリアのような国々においても発生した。18世紀末にフランスが大革命によって近代国家を形成したとき、隣国ドイツは、日本の幕藩体制と同じく、300近い領邦国家に分裂していた。このためドイツでもフランスのような統一国家の形成を目ざす運動が起こった。その際、ドイツ統一のリーダーシップをとる国としては、ベルリンに拠点を置くフリードリヒ大王の率いるプロシア王国に期待が寄せられた。プロシアはフランス革命後、近代的改革を図り、ベルリン大学を創立(1810)している。そして、この大学の初代総長となったJ・G・フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』(1808)という書物を出版し、ドイツ人こそが全人類の道徳的改革に貢献できる民族であると述べ、ドイツ人のナショナリズムを喚起しようとしている。次いで2代目総長となったG・W・F・ヘーゲルは、『歴史哲学講義』(1822年より)のなかで、世界史を動かす「世界精神」がギリシア、ローマ、イギリス、フランスを経て、いまやドイツに舞い降りてきたとして、ドイツ民族を鼓舞している。これ以後ドイツにおいては、国家的統一を表すReich(ライヒ=帝国)と、民族的統一を表すVolk(フォルク=民族・国民)が、ドイツ民族の合いことばとなった。しかし、ドイツでは、第二次世界大戦前の日本と同じく、英米仏的な個人を主体とする自由・平等な人間を尊重するという民主主義思想が発展せず、国家利益にのみ重点が置かれたため、第一次世界大戦を引き起こし、敗戦後は、ドイツ民族の再興を強調するナチス・ドイツによって第二次世界大戦が引き起こされた。このときには、日本とイタリアがドイツと同盟を結んで、世界の民主主義国家51か国を相手に戦ったが、これら日独伊3国は、極端な国家主義(超国家主義)、ファシズム国家とよばれた。
帝国主義による弱小民族の抑圧
前述したような、20世紀に入ってとくに顕著になったドイツや日本の国家主義的侵略政策は、資本主義国家が19世紀後半になってその最高段階(金融資本・独占資本)に到達したときに、遅れた国々や地域を武力で収奪し抑圧した英米仏などの帝国主義的植民地政策を真似(まね)したものといえる。他民族や他国民を自国の利益のために武力主義的に征服し抑圧する政策は、ギリシア・ローマの時代から世界の至る所でみられたが、近代資本主義が成立し、国民国家間の政治・経済競争が熾烈(しれつ)になると、侵略主義的帝国主義を正当化する観念があらわれた。とくにヨーロッパの先進資本主義国では、16世紀の中ごろから19世紀末にかけてアジア、アフリカ、中近東、中南米などの地域を植民地化し、それらの行為を「キリスト教による未開人の教化」が「白人の責務」であるという美名のもとに、または「アーリアン人種の優秀性」という民族の観念によって正当化した。このような武断主義的帝国主義的民族主義は、イギリスではブーア戦争(1899〜1902)を境に武力抑圧ではなく資本輸出による表面的には平和的な方策に切り換えられていったが、日本やドイツでは、第二次世界大戦が終了するまで、少数民族やイギリス、アメリカ、フランスなどによる植民地を解放するという大義名分のもとに、武断主義的帝国主義を捨て去ることはなかった。
民族解放運動と民族自決主義
民族の独立を唱える運動は、近代全体を通じて民族自決主義として被支配・被抑圧民族の間で主張され各地で民族解放闘争が展開されたが、帝国主義国家の弾圧を受けてなかなか実現しなかった。19世紀中葉から20世紀前半にかけての有名な民族解放運動としては、清―イギリス間の「アヘン戦争」(1940〜1942)、イギリス支配に対するインド傭兵(ようへい)の「セポイの反乱」(1857〜1859、「インドの大反乱」ともいう)、西欧列強に反対する中国の「太平天国の乱」(1851〜1864)、イギリスのエジプト支配に反対した「アラービーの反乱」(1881〜1882)、19世紀後半のロシア帝国、ハプスブルク帝国内の民族自決運動、日本帝国主義に反対した中国の「五・四運動」(1919)、同じく朝鮮独立を目ざした「三・一独立運動」(1919)、ガンディーの指導するインドの「スワデーシー」(国産品愛用)・「スワラージ」(自治獲得)反英運動などがある。しかし、民族自決主義は、第一次世界大戦後、わずかに東欧においてポーランド、チェコスロバキアなどの国々を独立させたにすぎなかった。
第二次世界大戦後15年ぐらいの間に、アジア、アフリカ、中近東などの地域においてアジア7か国、アフリカ27か国、中近東3か国に独立国家が誕生した。とくに1960年にはアフリカに17か国の独立国家が一挙に誕生し「アフリカの年」といわれた。そして、21世紀初頭では100か国近い旧植民地の国々が独立し国際連合の場で活躍している。人間解放、民族独立の実現という観点からナショナリズムとインターナショナリズムの問題をとりあげ、全世界の被抑圧民族に大きな影響力を与えたのはマルクス・レーニン主義などの社会主義理論であった。たとえばインドシナ戦争、中国革命、キューバ革命、ベトナム戦争などはマルクス主義の民族解放理論を基礎にしたものであった。しかしこれらの新興独立国家(開発途上国)のなかには、現在においても経済的基礎を十分に確立することができず、そのため政治的に不安定な状況にある国々もある。
開発途上国間の連携の動き
第二次世界大戦後、米ソ対立の激化のなかで、両陣営に属する先進諸国の開発途上国に対する経済援助競争が起こった。しかし、そのやり方は、途上国の利益を助長するという観点よりも、自国の政治的利益や経済的権益の確保を図るという傾向が強かった。そのため、途上国はアジア・アフリカ会議(第1回、1955年バンドン会議)などに結集して、国家間における主権尊重・平等互恵などを主張し、また国連総会においてアジア・アフリカの43か国が「植民地独立付与宣言」(1960)を提出し採択している。さらに1981年の非同盟諸国会議では、途上国に不利な現在の国際経済機構の変更をねらった「新国際経済秩序(NIEO(ニエオ))確立のための宣言」(ニューデリー・アピール)を採択し、「資源ナショナリズム」を主張している。それにもかかわらず、依然としてこの南北格差の問題は、民族間紛争・宗教的対立問題とともに「ナショナリズム」をめぐる問題の中心テーマである。
「ナショナリズム」をめぐる課題
南北格差問題
「冷戦終結宣言」後の1992年に、108か国が参加して第10回非同盟諸国会議が開催された。そこでは、冷戦終結後の経済と開発の問題、とくに南北対話路線、南北協力問題に取り組もうという「ジャカルタ宣言」が採択されている。そして、2000年9月には、「国連ミレニアム・サミット」がニューヨークで開催された。その課題は、平和と安全、環境と人類と多岐にわたるが、焦点は「南」の一部の国々にみられる「貧困と混乱」の救護にどう取り組んでいくか、ということであった。このサミットでは、アナン国連事務総長が「私たち諸国民」と題する報告書を提出しているが、そこでアナンは「豊かさ」から取り残された「南」の人たちの怒りと訴えをみごとに描きだしている。すなわち、彼は開発の推進や貧困の撲滅、民主化による「よき統治」の実現などは、どれ一つとっても国家や政府の力だけでは解決できず、「世界中の人たち」が地球全体で起きている現実に目を向ける必要があると訴えかけているのである。
民族・宗教紛争問題
1989年に「冷戦終結宣言」がなされ、21世紀初頭の2001年から、ヨーロッパにおいてはユーロ導入による国民国家の枠を徐々にはずす世界史上初の試みが始まった。しかし、東西対立が終わった後も、それまでの厳しい冷戦構造下に影をひそめていた人種的・民族的紛争や宗教的対立を軸とするナショナリスティックな性格をもつ紛争・対立が、世界中の至る所で頻発している。ところで、民族・宗教をめぐる対立・紛争のタイプとしては次のようなものがある。
(1) 民族間の武力抗争(スリランカ、キプロス)
(2) 少数民族が政治的独立を要求するもの(東チモール、チベット、チェチェン)
(3) 複数国家に分住させられた民族集団が自治を求め統合化を目ざす運動(クルド人、バスク人)
(4) 複数のエスニック(少数民族)・グループが混在している地域で支配集団が他集団を強制的に排除しようとする、いわゆる「民族浄化」をめぐる紛争(セルビア人のアルバニア系住民の排除、ルワンダのフツ人、ツチ人の抗争)
(5) 宗教的対立と民族的対立がからまった紛争(イスラエルとPLO=パレスチナ解放機構の対立、アイルランドとイングランドの対立)
(6) 南北朝鮮、あるいは中国と台湾の関係のような体制の違いをめぐる問題
現代ナショナリズムのかかえる問題はきわめて複雑多岐にわたるが、人命の損傷を伴う危険性のあるこのような現代の紛争の解決は、基本的には国連が中心となって行う。それには、非軍事的手段による政治的強圧や経済的制裁、PKO(国連平和維持活動)による停戦、監視、警察・行政要員の派遣、あるいは軍事的制裁による介入などがある。この軍事介入は、国連安全保障理事会の決議のもとに多国籍軍をつくって介入する(クルド、ソマリア、ボスニア)が、コソボ紛争のユーゴ空爆に際しては、安保理事会ではなく(ロシアと中国が空爆に反対したため)、EU(ヨーロッパ連合)の首脳会議に基づきNATO(北大西洋条約機構)軍が行うということもあった。
民族融和への道
これまで述べてきたように、ナショナリズムをめぐる問題の解決はきわめてむずかしいが、近代350年間の人類の歩みをみれば、少しずつではあれ解決への道が開けてきているように思われる。そのことは20世紀最後の年のシドニー・オリンピックにみることができよう。かつて、1936年のナチス統治下のベルリン・オリンピックでは、ヒトラーはオリンピックを「民族の祭典」として位置づけ、ドイツ民族の国家主義の意識高揚のための政治的手段として最高度に利用した。それから半世紀以上たった2000年9月のシドニー・オリンピックでは、史上最多の199の国々と地域の選手たち、また独立を目ざしていた東チモール(2002年5月独立)からも個人参加があり、また開会式では南北朝鮮の選手団が同じユニフォームで「統一旗」を掲げて行進し、スタンドを埋めつくした11万人の観衆が総立ちとなって大声援を送った。オーストラリア先住民(アボリジニー)の女子陸上選手キャシー・フリーマンが聖火の最終点火者として起用されるというパフォーマンスもあった。こうした光景は、1975年のベトナム戦争終結ごろまでの東西両陣営対決時代に想像しえたであろうか。
2000年6月には、第二次世界大戦後初めて南北朝鮮の首脳(金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)・金正日(きんしょうにち/キムジョンイル))会談が実現し南北統一問題交渉の進展に大きな一歩を踏み出した。また同年10月には、アメリカと北朝鮮が、朝鮮戦争(1950〜1953)以来続いた敵対関係を終わらせる「共同コミュニケ」を発表した。この米朝会談は、21世紀の中国、南北朝鮮、日本、それにアメリカ、ロシアを含む国々の関係改善を大きく前進させることになろう。米朝会談の翌日には金大中が、東アジア全体の平和と韓・朝両国と日本との和解に貢献したことで「ノーベル平和賞」を授与された。2002年9月には、日本の首相小泉純一郎と金正日による日朝首脳会談が行われた。なお2000年7月以降、アメリカ大統領クリントンが「エルサレム聖地問題」の解決を目ざしてPLO議長アラファトとイスラエル首相バラクとの会談を設定し、10月にもエジプトで「緊急中東首脳会議」を開いて仲介の労をとったが決着をみなかった。しかし、こうした努力が続く限り、いつの日か解決のめどがたつであろう。民族と宗教をめぐる問題や体制イデオロギーをめぐる問題は、その違いを主張し合っているばかりではけっして解決しない。この点に関しては、かつてホッブズが教えたように、人間の生命の尊重というただ一点において、「世界中の人々」(アナン)が平和への道を模索することによって解決の道が開かれていくであろう。  
 
近代国家の形成とナショナリズム

 

1.フランス
フランスは、近代国民国家の典型例としてしばしば挙げられる。フランスのナショナリズムの特徴を一言で述べるなら「普遍原理に根ざしたナショナリズム」ということになろう。以下、フランスのナショナリズムの特徴についてみていく。一般的に、ナショナリズムは、国家や自民族の固有性を自分たちにしか理解できないようなものとして掲げ、排他性を打ち出す偏狭なものとして理解されている面があると思われる。しかし、フランスのナショナリズムにおいてはこれが当てはまらない。フランスのナショナリズムは、自分たちの文化は他の世界の人びとにも理解可能で、そして実際受け入れられている普遍性のあるものとして打ち出される。このような「普遍原理に根ざしたナショナリズム」のあり方は、フランスという国家のどのような固有の形成のされ方に依るものなのだろうか。
近代国民国家の理念はフランス革命によって誕生したと言われる。それでは革命政府は、どのように国民国家の形成に取り組んでいったのだろうか。フランスの国民国家形成は、中央で起きた革命によってもたらされた価値観・政治形態を、地方へと波及させていくかたちで行われた。フランスにおいて国家(ナシオン)とは、普遍原理への到達を目指して地方勢力を打倒しながら、政治共同体を形成していくものである。普遍主義を掲げる革命政府にとって最大の課題は、残存する地方の王党派や教会勢力を打破することであった。中央政府は「自由・平等・博愛」を掲げ、封建的な地方勢力を徹底的に払拭していった。この革命政府が何を目指したかは、議会に集う代議士は、地方の県を代表するのではなく、国民全体を代表するというフランスの議会のあり方によく現れている。フランスの住民全体を一個の「国民」とみなし、代議士はその国民の一般意思を代表するというかたちをとることで、王党派の多い地方出身の議員が「県の代表」の名のもとに中央政府に反抗することを不可能にしたのである。
ここでは普遍的理念のもとに、地方の封建的中間集団を破壊することによって、身分制から解放された近代的「個人」が生み出され、普遍的理念を追求する国家のもとに結集するという図式がとられる。封建的中間集団から自由になった人びとは、地域性を超えた国家大の共同意識に目覚めた「国民」となる。そしてこのような「国民」の一般意思を最も体現するのが革命政権であるという位置づけがなされる。このように政府が国民の意思と一致した状態が「民主主義」であり、人びとの公共心は国家という場にもとめられる。人びとの公共心の対象は、中間組織に求められるのではなく、個人と国家が一体化した国民国家にたいして求められる。ここでは「個人および国家」と、中間集団とは対立項をなす。
この図式においては、地方の伝統文化・土着文化を打ち出す人びとは国家分裂主義を打ち出すものとみなされる。また、フランスにおいてナショナリズムに批判的な立場をとる人びとは、愛国心の前提となっている近代的主体の形成を疑うか、もしくは前近代的共同体を賛美するという姿勢をとることになる。
それではフランスのナショナリズムが排他的・暴力的に働く場合は、どのような論理がとられるのだろうか。上に確認したように、フランスのナショナリズムの特徴は普遍原理に根ざしていることであった。そこでは封建制を打破することで「国民」がつられていくという認識にたっているため、「つくられるもの」は決して偏狭なものではなく、むしろ未来性があるものとして考えられる。また普遍性に依拠しているため、「伝統」より、科学技術、理性、議会制民主主義など、より進んだ普遍的なものが重要視される。このようなナショナリズムは、植民地をつくる上では「文明」の輸出という論理として働き、国内のマイノリティーに対しては同化主義として働く。例えば移民政策の局面においては、フランスに同化することができた場合にのみ国民としての資格が与えられ、同化できない場合は「文明に対し遅れた人たち」とされ人種差別の対象となる。人種差別は、人種の本質的差異を強調するのではなく、「文明的に遅れたやつら」という形態をとることになる。このようなナショナリズムのあり方は、少数民族を多数含んだ国家にありがちな形態だということができる。
2.アメリカ
アメリカ合衆国の形成のされ方は、フランスとはだいぶ異なる。上に見たように、フランスの場合は中央で起こった革命が地方へと波及していくかたちで国民国家の形成が行われたが、アメリカの場合は、地方の開拓共同体が連合する形で連邦国家が形成された。以下では、アメリカ合衆国の形成のされ方と、愛国心のあり方についてみていく。
アメリカ合衆国の国家形成にかんしては、きわめて明確な歴史を描くことができる。それはイギリス国教会の支配に反発したピューリタン分離派の移住からはじまる。初期の開拓民共同体は「メイフラワー盟約」の逸話に象徴されるように、信仰に支えられた個人が盟約によって結ばれるかたちで形成された。この開拓民共同体の特徴は、自立した個人(「市民」)の集まりであると同時に、共同体(村town)を成しているという点である。自発的移民は、共通の宗教によって結ばれるとともに、共通の敵(先住民)に対して共同で戦うことで共同体をなす。彼らは、旧大陸の封建的身分制から逃れてきたため「自由」であり、貴族も王も存在しない土地へ、ほぼ無産の状態で移民してきたため「平等」であった。そのような「個人」が自発的に集まって形成した開拓民共同体は、「個人」であると同時に「共同体」をなすものとして描かれる。「自由」「平等」「個人」「共同体」が矛盾せずに成り立つのが、開拓民共同体の特徴である。
アメリカ合衆国という連邦国家の形成は、対イギリス独立戦争に際して、各州の連合軍が連邦国家に発展するかたちで起こった。開拓民共同体(town)が連合して州(state)を形成し、それらが連合して合衆国(United States)を形成した。連邦国家という表現のなかにそのまま現れている通り、開拓民共同体は自治を保ったまま連合することで国家を形成する。連邦政府は地方共同体の外部の調整役として存在し、基本的には地方自治に干渉しない。ここでは「個人および中間集団」と「国家」は対立項としてとらえられている。この州政府と連邦政府の対立は、たとえば合衆国議会のあり方にも現れている。連邦議会は上院と下院の二院より構成されているが、上院議員は州の代表的性格をもち、上院の権限も下院のそれよりも強大である。これは州が独立国であったことに由来する。法体系もまた、連邦政府の法のみではなく、州法および一般の判例を重視する。
共同性と公共性の理念は、パトリオティズム=郷党心として、第一に地方のコミュニティーに求められる。第二に、連邦政府への愛国心=パトリオティズムが、地方コミュニティーに対するパトリオティズムの延長として合衆国政府に求められる。この二つは潜在的には対立しうるが、二つの世界大戦と社会の現代化、そして新移民の大量流入といった事態によって、連邦政府へのパトリオティズムと地方コミュニティーへのパトリオティズムが並存することになったと考えられる。ちなみにアメリカでは「ナショナリズム」という表現は積極的には用いられないようである。「ナショナリズム」という語が使用される際は、否定的な意味で使われることが多く、連邦国家=ネーションに対する愛国心を表現する場合でも、パトリオティズムという語が使用される。国家は自由な人間の集合体であり、愛国心は自発的なものとして捉えられているため、一般的にパトリオティズムは肯定される。
アメリカのパトリオティズムのあり方は移民の増加にともなって変化してきたといわれる。それは、移民排斥から同化主義、文化多元主義への移行というかたちで変化した。移民排斥というやり方では移民の増加および移民コミュニティー内における文化再生産に現実的に対応できなくなった段階で、同化主義政策(英語教育、生活スタイルの教育など)がとられた。アメリカの国是を教育することで、新たにアメリカ人をつくることが試みられたといえる。しかし、それも限界をむかえると、文化多元主義へと移行することになる。その段階で、従来の国是であった「移民の国」は、「多民族が共存する国」というかたちに変形される。ここでは、多民族の統合の絆としてパトリオティズムが機能することになる。もちろん現実のアメリカ社会において、「多民族社会アメリカ」は都市部だけの現象であり、多くの農村部では昔のままの生活様式であることは付け加えておく必要がある。
それでは、アメリカ型のナショナリズムが排他的・暴力的に機能するのは、どのような場合であろうか。上に確認してきたように、アメリカはもともと「旧大陸の封建的社会から迫害をうけ、自由を求めてやってきた人びと」が作った国であるため、広大なフロンティアを「しがらみのない自由の天地」として捉える発想形態が存在する。フロンティアの拡大は、まさにアメリカの国が創られていく過程であり、それは「自由の拡大」であるという基本的な発想である。この論理でいくと、領土の拡張は「自由の拡大」と考えられ、白人による世界支配という「Manifest Destiny」の正当化につながる。アメリカによる戦争が、しばしばこの論理によって正当化されてきたことは言うまでもない。
3.ドイツ
ドイツのナショナリズムは、「民族の一体性」を前提としており、フランスのそれとは対称的であるといわれる。以下では、ドイツにおける国家の形成とナショナリズムのあり方について見ていく。
19世紀末のドイツ統一によって出発したこの国家は、地方分権が発達した連邦国家という形態をとった。各地方にバラバラに乱立していた政治勢力を一つの国家として統合していく際に持ち出されたのが、「ドイツ民族の一体性」という論理であった。つまり、ドイツの国家形成の過程においては、「ドイツ民族」というものが先にあり、それらが一つにまとまる手段として「国家」が用いられるということが行われた。フランスにおいて「国民」は新たに「つくられる」ものだと捉えられていたのとは異なり、ドイツにおいては「民族」はもともと「あるもの」であって、新たに「つくられる」ものだとは考えられていなかった。
この「民族」という概念は、ドイツ語でvolk(フォルク)と呼ばれ、固有の文化や言語、歴史、さらに言うと「血」を共有している人びとの集団を意味する。これは、フランスの「ナシオン」という概念が、普遍性に向かって作り上げられていく政治共同体としての側面が強いこととは対称的である。フランスにおいては、地域文化・土着文化・過去の歴史を打ち出すことは国家分裂主義を意味するが、ドイツにおいては、まったく反対に、国家の統合のための論理としてそれらは持ち出される。この対称的なナショナリズムは、先進国と後進国のナショナリズムのあり方として一般的にみられるものであるといわれる。すなわち植民地主義の先進国は、「普遍性」を強調するフランス型のナショナリズムを打ち出し、一方、攻め込まれる側の後進国は「固有の文化」を強調するドイツ型のナショナリズムを打ち出すという傾向がある。
またドイツ語のvolk(フォルク)には、大衆という意味もある。このことは、過去の文化・土着文化を強調するようなナショナリズムが、大衆に大きく受け入れられやすいく、大衆を基盤として立ち上げられる場合が多いという事実に対して示唆的である。
このようなタイプのナショナリズムは、どのような論理のもとに排他的・暴力的に作動するのであろうか。民族固有の「文化」を強調するドイツのナショナリズムは、民族の実在の本質性を前提にしている。そのため、フランスのナショナリズムにおいて「文明」が強調され、他民族であってもそれを採用することによって市民になれるのとは異なり、ドイツにおいては民族固有の「文化」を共有しない人びとは排除されることになる。民族の一体性を前提とするため、「純血」が強調され、異質なものと考えられた国内のマイノリティーは排斥される。移民政策においても、他民族に国籍の取得を認めることはまずない。
4.日本
日本は上からの急激な近代化により、強力な中央政権制の下に各種中間集団が下部組織として接続されるかたちで国家形成が行われた。中間集団と国家が垂直的に連結されたことで、自立した「個人」が析出されないまま、「忠孝一本」に象徴されるナショナリズム形態が生まれた。以下に、日本の国家形成とナショナリズムのあり方について見ていく。
日本の近代国家形成において取られた方針は、決して一貫したものではなかった。それは基本的に、「中央集権→自治制の導入→中央統制の復活と地方共同体の再編利用」というパターンをたどったといえる。明治政府が初期にとった政策は、地方共同体の破壊を行うと同時に中央集権化を推し進めるものであった。しかし地方共同体の否定は強い反発を招いたため、政府は統治コストを抑えるために、地方有力者を体制内に取り込む政策に切り替えた。その際にプロイセンの国家形態が模倣された。プロイセンに倣って導入されたのは、主権を持つ君主と成文法を中央に戴き、議会は身分制にもとづいた上下両院を置き、その下に地方の有力者たちが支配する地方共同体を連結するという国家形態である。地方の有力者は中央政府の下に接続されることで、政府の意図を地方共同体の末端にまで浸透させる中間管理職の役割を担う。これは、地方の有力者たちにとっても、身分の安定を維持されることになるのでメリットがあった。例えば、中央政府と中間集団の連結を「家」という中間共同体において見てみると次のようになる。中間集団の長である戸主を、「家」という中間集団の管理責任者として国家が任命する。そうすることで、徴兵や義務教育の忌避は国家にたいする「不忠」であると同時に親にたいする「不孝」であるという図式が生まれるのである。このようにして家族の共同性を国家への忠誠に連結することが行われた。
このような国家形態においては、共同性と公共性はどこに求められるのか。結論から言うと、「中間集団」と「国家」のどちらもがその対象になりえなかった。というのも、中間集団の内部は、封建的な身分意識と権威主義にもとづく有力者支配であり、個人が主体的な意識をもって参加することのできる場ではなかった。しかも中間集団は、国家の意思に反して行動することが初めから禁じられていたため、なおさら個人が公共性の願望を託す場とはなりえなかった。さらに、中央の政府や議会においてはどうかといえば、たしかに中央には決定権限は集中しているものの、そこに集まる個々のメンバーはそれぞれの出身母体の利害に縛られているため、こちらもまた独立した公共性の場とはならなかった。このように、「個人」は垂直に繋がれた国家と中間集団の両者から束縛されているため、「個人」と「中間集団および国家」は対立項を成す。このような「公」と「私」の関係を新たに構想しなおすところから戦後思想は始まったといわれる。
戦後思想家の代表的人物である丸山真男は、日本のナショナリズムをどのように捉えていたのだろうか。論文「日本におけるナショナリズム」において、丸山は主に次の三つの指摘をしている。
第一に、ナショナリズムの形成過程において村などの中間集団/第一次的グループを排除することができなかったために、「公」と「私」のきっちりした分離がなく(「超国家主義の論理と心理」)、「私に公の思想介入」が行われる一方、「公に私の介入」=利益誘導が行われる、責任意識がない無責任の体系が形成された。丸山はこれを「前期的」ナショナリズムと呼び、その特徴を「国家を地方の延長とみなす」ものと捉え、個人の自発的内面に根ざされておらず、権威主義・同調主義に基づき、中間集団への愛着が天皇にも拡張されるものであると指摘する。
第二に国際的観点を欠いたナショナリズムであり、対等な対話が不可能な膨張的ナショナリズムであった。ヨーロッパにおいては、キリスト教圏が広がっており、一つの普遍文化の広がりを想定することができる。そのような中から国民国家が形成されていくプロセスは「本来一なる世界の内部における多元的分裂」と理解されるものであった。よって「ナショナリティの意識の勃興は初めから国際社会の意識によって裏付けられていた」。そこには「隣には対等の国がある」という前提があり、それは政治的には内政不干渉という原則として現れた。このようにヨーロッパにおける国際関係が、対等であり対話が可能であったのに対して、日本における国際関係には対等意識がなかったと丸山は指摘する。というのも日本のナショナリズムは、ヨーロッパの外圧を前に形成されたものであるからだ。それは「こちらが相手を征服ないし併呑するか、相手にやられるか」というような二者択一的発想を生み出し、その結果、日本のナショナリズムは外へと膨張していく帝国主義となった。
第三は、日本のナショナリズムがヨーロッパのそれともアジアのそれとも区別される点についてである。ヨーロッパにおいては、世界主義的立場をとった旧支配階級に対して、新興ブルジョワジーがナショナリズムを担ったのに対し、日本のナショナリズムの担い手は旧国家における特権的支配層であり、「彼等の身分的特権の維持の欲求と不可分に結びついて現れた」ため、国民の大多数を占める庶民の疎外を伴うものであった。また中国や朝鮮の(アジア的)ナショナリズムは、植民地支配に対する抵抗として、また、帝国主義と結びついた在来の権力者への抵抗として、「民族の独立」「社会主義革命」と結びついた形で起こったが、日本の場合はそうならなかった。

国民国家という歴史的創造物は、18世紀末にフランスで誕生して以来、多くの地域を巻き込みながら世界の秩序を再編制してきた。ナショナリズムという概念はモジュール化し、さまざまな政治的文脈で多様な形態をとって現れてきた。その多様さについては、これまで見てきたとおりである。今回は触れることができなかったが、第三世界のナショナリズムのあり方は、なおいっそう複雑なものがある。ナショナリズムの現象形態は国家の形成のされ方によってかなりことなる。同じナショナリズムという名が冠されていても、その意味や機能は文脈によって大きく異なる。これらの多様なナショナリズムを大きな枠でとらえるならば、ネーションという政治的な「想像の共同体」の思想・社会意識および運動、ということができるだろう。国民への包摂、帝国主義支配からの独立、外部への拡張、共同性と公共性の希求、他者の排除といった相互に矛盾さえする様々な運動の多くは、ナショナリズムの論理によって遂行されてきた。
このように多様な形態をとりうる現象であるナショナリズムを理解するためには、様々なレベルでの分析が必要となる。それぞれの文脈においてナショナリズムが表現しているものを理解する必要があるだろう。 
 
ナショナリズムと近代 3

 

18世紀から21世紀の今日にいたるまで、ナショナリズムの時代であると言えます。
ナショナリズムとは「政治的な単位と民族的(文化的)単位とが一致すべきだとする政治的原理」です(ゲルナー)。
たとえば、日本語を話す文化的なまとまりがそのまま「日本国」という政治的なまとまりをなしている日本という国家は、まさにナショナリズムを体現しているわけですし、朝鮮語を話す文化をもつ人びとが、朝鮮人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)とに分裂しているのはまちがっている、なんとしても統一されるべきだ、というのは、朝鮮のナショナリズムなわけです。
このように文化的なまとまりを「民族」nationとよび、そのまとまりが国民となって、ひとつの国家stateを形成しているとき、それを「国民国家」nation-stateとよびます。
「民族」と呼ぶと、古来からあったもののように思えるが、それは国民国家を形成する過程で、形成するのに都合の良いものを、綿々と続いたもののであるように、過去に投影したものにすぎない、ナショナリズムはあくまでも近代のものだ、とする考え方を、ナショナリズム論では「近代主義アプローチ」と呼びます。
近代主義アプローチのナショナリズム論の2つの古典が、同じ1983年に発表されました。
アーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』と、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』がそれです。
ゲルナー『民族とナショナリズム』
ゲルナーは、ナショナリズムをもたらしたのは、産業化だと考えています。
彼は人類の歴史を、前農耕社会、農耕社会、産業社会、3段階にわけます。
農耕社会において、はじめて、国家と文字が発明されます。社会は、支配層と農民とに分けられます。支配層は社会を横断的に支配しています。この支配層には、政治的な権力をもつ者と、読み書きの能力をもつ高文化の知識人、とがおり、両者は必ずしも一致はしません。この横断的な横断的な支配階層の下、農民は分断された農耕民共同体のなかにいます。彼らはその共同体のなかで暮らすために、読み書きの能力もそれを基礎とした高い文化も必要とはしていません。
ところが、産業社会に移行すると、社会的流動性が高まります。ひとびとはさまざまな場所と位置に移動することになり、そこでは知らない者同士がコミュニケーションをとれなくては仕事になりません。そのため、読み書き能力を中核とする高文化を社会の全メンバーが習得する必要が生まれます。それまでの教育は「実地教育方式」(見よう見まねで学ぶ)でした。それに対して産業社会では「集中方式(族外教育)」子どもを集めて集中的に教育する。こうした教育は国家しか担えないものです。結果、「国家がおおう政治的領域が、読み書き能力を基礎とした同質の高文化が流通している範囲とちょうど合致することをもとめる政治原理、ナショナリズムが、成立することになる」
ゲルナーはさらに、社会のありようを、権力者/非権力者、教育の機会がある/ない、文化的に同質/異質、軸をつかって、1権力者と非権力者の文化が同質か、あるいは異質か、2教育の機会があるか、あるいは、ないか、で分類します。
ゲルナーによれば、ナショナリズムがうまれるのは次の3つ類型です。
T古典的な西洋ナショナリズム。ここでは、権力者と非権力者の文化が異質で、しかも権力者だけでなく非権力者にも教育の機会があります。たとえば、統一前のドイツやイタリアは、各地を支配する支配者は、地元の人間ではなく、フランスやオースストリアなど別のところからの支配者でした。しかし政治的には分裂していても、ドイツ語やイタリア語という共通語によって高い文化があり、一般大衆はそれを学ぶことができました。その結果、外国支配を排除して「ドイツ人」・「イタリア人」という名の下に、国民を統一して国家を作ることが出来ました。
U東欧型ナショナリズム。ここでは、権力者と非権力者の文化が異質で、しかも非権力者には教育の機会がありません。そのため、非権力者の文化を高文化へと練り上げ(捏造)していかなくてはいけない。東欧やバルカン半島などでみられたナショナリズムはこれだとゲルナーはいいます。
さらにこの分類から発見されるのが、
Vディアスポラ(離散)・ナショナリズムです。ここでは、権力者と非権力者の文化が異質で、しかも権力者は教育の機会がとぼしく、非権力者がむしろ教育の機会をもっています。具体的には、世界のさまざまな帝国で、金融を独占的に担いながらも、卑しめられていたユダヤ人がこれにもっとも当てはまります。彼らは、所属していた国を出て、独自の国「イスラエル」を建国しようとしました。
ゲルナーはナショナリズムが産業化の結果であり、産業社会へ適合するために、読み書きできる高い文化とその習得が求められ、その単位として国家と文化とが一致させられるしました。しばしばナショナリズムが標榜する「伝統」や「民族」というのはこうした要請に答えるために過去からもちだされたあと付けのものでしかありません。
ゲルナーの近代主義的なアプローチをさらに展開しているのが、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』です。
アンダーソン『想像の共同体』
この本の冒頭でアンダーソンは次のように言います。
「わたしの理論的出発点は、ナショナリティ、あるいはこの言葉が多義的であることからすれば、国民を構成することと言ってもよいが、それがナショナリズム[国民主義]と共に、特殊な文化的人造物であるということである。・・・ナショナリティ、ナショナリズムといった人造物は、個々別々の歴史的諸力が複雑に『交叉』するなかで、十八世紀末にいたっておのずと蒸留されて創り出され、しかし、ひとたび創り出されると、『モジュール』[規格化され独自の機能をもつ交換可能な構成要素]となって、多かれ少なかれ自覚的に、きわめて多様な社会的土壌に移植できるようになり、こうして、これまたきわめて多様な、政治的、イデオロギー的パターンと合体し、またこれに合体されていったのだと。そしてまた、この文化的人造物が、これほど深い愛着を人々に引き起こしてきたのはなぜか、これが以下においてわたしの論じたいと思うことである。」
アンダーソンによれば、「国民」とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体です。たとえば、ナショナリズムの祭典であるオリンピックで活躍する選手を、メディアによって知った他の国民はまるで選手を自分の親戚か知り合いであるかのように語ります(「柔ちゃん」とか「真央ちゃん」とか)。
そして、ナショナリズムは宗教的想像力が衰退した今日において、唯一、死を説明するものになっており、偶然を宿命に転じる力をもっている、といいます。たとえば、たまたま日本国に生まれ育ったために戦争で死んだ人間は、「お国のために死んだ英霊」として靖国神社に祀られるわけです。
ところで、過去において、そうした働きをもっていた文化システムは、宗教共同体と王国でした。そこでアンダーソンは、この宗教共同体と王国を分析します。
「宗教共同体」とは、キリスト教カトリック教会に属する人びと、イスラーム教を信じ、毎日メッカに向かって礼拝し、一生のうち一度はメッカに巡礼する人びと、さらに、漢字を使用し中華思想を信奉する人びとたちをさします。そこでは「真実語」とよばれる、「真理」を語る言葉がきまっています。すなわち、カトリックではラテン語、イスラーム教ではアラビア語、漢字文化圏のおいては、中国語(北京官話)です。おのおの共同体は、この真実語によって結ばれた求心的・階序的秩序をなしています。
「王国」というのは王がいる居城から周辺にいくほど主権はあせ、境界が不明瞭となります。歴史地図では私たちは境界線のはっきりした王国を見るため、そうした袋のような輪郭のはっきりした王国をイメージしがちですが、実際には辺境にいけばいくほど、王権の力はよわく、そこがどの王国に属しているのかはあいまいでかつ流動的なものでしかありません。
この宗教的共同体において、人びとは宗教のお話を、壁画や絵画などの視覚芸術と、説教や物語の聴覚的芸術によって、見たり聞いたりしていました。宗教的な出来事は昔のことでも未来(終末)のことでも、いま、そこに目に見え耳に聞こえる形であらわれるのです。たとえば、救世主(メシア)の登場は、その誕生が紀元元年の過去の話でもあり、その救済はその未来(終末)におけるものでありながら、見聞きする者にとって、今まさにここで、現れてあることでした。こうした過去と未来が現在において同時に出現するという形の、「メシア的時間」(即時的現在のおける過去と未来の同時性)が支配したのです。
ところが18世紀ヨーロッパにおいて、小説と新聞が生まれることで、これとは全く異なる、「均質で空虚な時間」が生まれます。小説と新聞のもつ時間性では、登場人物、著者と読者、すべてを包括して暦の時間に沿って進んで行く、そうした単一の共同体が想定されます。まず小説の構造というのは、「均質で空虚な時間」における同時性の提示です。たとえば、男Aと女Bが夫婦で、男Aには愛人Cいて、その愛人Cには別に情夫Dいるというありふれた小説の場合、
時間T
事件 AとBが口論する。 (この間(同時に)) CとDが情事をする。
時間U
事件 AがCに電話する。(この間に)、Bは買い物する。(この間に)Dは玉突をする。
時間V
事件 Dがバーで酔っ払う。(この間に)AとBは家で食事する。(この間に)Cは不吉な夢をみる。
この時間連鎖のなかで、いちども男Aと情夫Dは出会わないにもかかわらず、同じ社会のなかで共存し関連しあっています。
また新聞は、その日に起こったさまざまなことがら(選挙、交通事故、催し物などなど)を一挙に紙面として提示します。結果、その紙面にあることが、ひとつの社会で同時に起きている事がらとして読者は意識するようになります。
こうして「十八世紀ヨーロッパにはじめて開花した二つに想像の様式、小説と新聞・・・これらの様式こそ国民という想像の共同体の性質を「表示」する技術的手段を提示した・・・」のです。
古来、三つの基本的文化概念が支配していました。その三つの基本的文化概念とは、
1)特定の手写本(聖典)語だけが真理への特権的手段を提供する
2)社会が高き中央のもとに自然に組織されている[という空間概念]
3)宇宙論と歴史との区別不能による、世界と人との起源は本質的に同一であるとの時間概念
出版(資本主義)の発達により、古来の三つの基本的文化概念の支配力の低下します。そして、水平・世俗的で時間・横断的なタイプの共同体が想像される可能性がうまれました。
ではそうした共同体のなかで、なぜ「国民」だけがかくもポピュラーとなったのでしょうか。
国民意識の起源
かつてヨーロッパでは共通語の働きをしていたのは、ラテン語でした。しかしそれはわずかな僧侶たちの秘儀と化してしまい一般大衆の共通のものとはなりませんでした。
そこへ宗教改革が起こり、ルッター訳聖書などのベストセラー出現します。ラテン語ではない、大衆の言葉(俗語)による書籍が出版され流通します。たとえば、ルターはドイツの大衆が話す言葉からひとつの言葉を編み出してそれでラテン語の聖書を翻訳しました。その翻訳語が流通して「ドイツ語」となったのです。またイタリアではダンテがトスカーナ地方、とくにフィレンチェで使われていた言葉で『神曲』を書き、それがイタリア全土で読まれることで、この一地方の方言は「イタリア語」となりました。
またそれぞれの宮廷では行政のためにラテン語ではない俗語を使用しており、それが国家が発展すると行政語としての地位をえました。どの言葉が行政語となるのかはまったくの偶然でした、ひとたびある言葉が行政語となるとそれは確固たる地位を占めることになりました。
出版資本主義によって流通することになった特定の俗語(出版語)の流通は、その言葉によって「国民」というものが想像される基盤となりました。たとえばルターの翻訳と著作の流通は、「ドイツ語」をはなす「ドイツ国民」というものを想像させることになりました。ではこの共同体を想像させる基盤のうえにどのようにナショナリズムは展開していったのでしょうか。意外なことにその端初は新大陸にあったのです。
ナショナリズムの変遷
ナショナリズムはまず最初、「クレオール・ナショナリズム」、として生まれました。クレオール(クリオーリョ)とは、新大陸生まれのスペイン人のことです。彼らは「本国人(イベリア半島人)」(ペニンスラール)とは常に差別されており、その差別からの撤回を求める運動からやがて独立を志すようになりました。その結果、18世紀後半から19世紀初頭にかけて南アメリカ諸国に新生共和国がいくつも独立することになります。ところで、これらの国はじつはかっての行政上の単位のうえに作られました。それはなぜなのでしょうか。
それは人びとの移動(巡礼)がその想像力に影響するからです。
たとえば、ムスリム(イスラム教徒)のメッカへの一生うち一度は巡礼します。この移動がムスリムとしての同一性とまとまりを作っています。
(たとえば、関東では電車も人の流れもすべて東京と住まいとの間の一点集中型の往復になっています。ですから関東ではみんなが「東京人」であるかのように振る舞います。しかし、関西では三都間の交通はあまり便利ではなく人の動きも関東に比べると少ないですし、一点集中ではなくて、三股四股の往復運動です。結果、京都人、神戸人、大阪人などのまとまりとプライドが生まれますし、総称する時も「大阪人」ではなく「関西人」となります)。
スペインの植民地支配において、行政と教会の地位はほとんど半島からきた「本国人(ペニンスラール)」が閉めており、現地で生まれた支配者クレオール(クリオーリョ)は、行政区の中を移動するだけで、もっとも出世しても行政区の首都にたどりつくだけで、本国スペインに行くことはありませんでした。しかし、このクレオールの動きこそが、彼らに行政区を想像の共同体として想像させる基礎となったのです。ぎゃくに、本国との行き帰りをしている人間は、けっして新大陸「アメリカ人」にはなれっこないのだ、我々クレオールこそが「アメリカ人」なのだという、裏返しの「誇り高き」アイデンティティをもたらしたのです。そしてその誇りが独立戦争を戦いぬき、そのために死をも厭わぬ行動の起動力となったのです。
また新聞はその行政区である地方クレオール印刷業者によって担われ、紙面は植民地行政の報道するため、この植民地の行政区が1つの単位として人びとに受け止められました。
こうしたクレオール・ナショナリズムの現象は、スペインの植民地だけでなく、ポルトガルの植民地(ブラジル)でも、そしてイギリスの植民地(アメリカ)でもまったく同様でした。
イギリスの植民地アメリカの一新聞業者だったフランクリンが独立運動の立役者でもあったのは偶然ではないのです。かれはクレオールとして劣位におかれた植民人であり、植民地アメリカを1つの単位として報道することでそれを想像の共同体として人びとに提示していた新聞人だったのですから。
こうして、植民地行政区のなかを遍歴するクレオール役人と、その地方のクレオール印刷業者は、この行政区が、想像の共同体となるにあたって決定的な役割を演じたのです。
俗語ナショナリズム
新大陸での動きは旧大陸に影響をもたらしました。
まず最初に、地理上の発見によって、さまざまな人や言語があることが意識され、結果、ラテン語(真理語)の相対化がうまれました。その結果、言語学が活躍し、辞書編纂されるようになりました。結果、俗語によって地域区分されます。たとえば、イタリア語やポルトガル語と大差ないスペイン語が言語学者の活躍によって独立の言語として確立し、結果スペインという地域が確定されました。
(またたとえば、沖縄出身の言語学者、伊波普猷(いはふゆう)は、「日琉同祖論」をとなえ、琉球の日本編入を正当化しました。言語学者の活動は国民国家の形成に重大な役割を果たすしたのです)。
封建制から絶対王政への移行は、官僚中間層の増大をもたらしました。そこで使用される言葉に俗語(ドイツ語やイタリア語などなど)が採用されることで、俗語を読み書きできる読書人の増大するとどうじに、俗語教育(ドイツ語教育やイタリア語教育などなど)が増大します。こうして俗語言語によるまとまりが「国民(民族)」として意識されるようになると、アメリカ独立やフランス革命を「国民による国家の樹立」という、「国民国家」の枠組みで解釈するようになりました。
公定ナショナリズム
こうしたナショナリズムの盛り上がりにたいして、上からのナショナリズムがおこなわれました。本来ならナショナリズムに趨勢によって排除されたり周辺に追いやられる権力集団が先手を打つことで民衆からのナショナリズムの盛り上がり応戦したのです。ここでは、国民と王国という本来なら矛盾するものが、その矛盾を隠蔽されて結合されます。
たとえば、プロイセン王国によるドイツの統一は、辺境の地にあり、ロシアにまで食い込んでいたプロイセンという田舎の王がドイツの皇帝に化けました。またフランス語を話していたロマノフ王朝の「ロシア化け」してロシアの皇帝になりました。日本では忘れられた存在だった天皇が日本帝国の皇帝となり、さらに、その帝国は朝鮮人、台湾人、満州人を取り込みました。
植民地ナショナリズム
第1次世界大戦後の植民地において、「若き」現地エリートによるナショナリズムが生まれました。たとえば、ベトナム、インドネシア、アフリカの諸国。彼ら現地エリートは植民国をおこなった教育と官僚制度のなかで教育をうけエリート官僚となり、そうして独立の担い手となったのです。
さらに、1991の増補版(『定本 想像の共同体』)では、アンダーソンは、地図や人口調査というものが、想像の共同体を生み出すことを指摘しています。
アンダーソンの手法を使ったナショナリズム研究の一例
「地図の上の主体――田山花袋作『田舎教師』を読む――」
日本自然主義文学の代表作、田山花袋の『田舎教師』には一枚の北関東の地図が添えられていた。この地図にはどんな意味があったのであろうか。
当時、地図が担った意味を知るために、我々はいったん検定地理教科書から国定地理教科書への変遷をみてみる。検定時代の教科書は横からの視点による挿し絵が添えられ、記述も京都を出発点にしている。それに対して、国定教科書は、地形図を使って上から地域を把握し、記述も東京からはじめている。つまり教科書において、地理的な地図が、国家の上からのまなざしをもつものとして登場してきたことをうかがうことができる。
博文館で『大日本地誌』の編集にもたずさわっていた花袋は、『田舎教師』でこのまなざしを採用したのである。彼は主人公を地図の上に置き移動させた。この操作がこの小説中の時間と空間とさらに描写を成立させている。
とくにモデルとなった青年の日記に欠落部分をうめるべく花袋が想像して書いた中田遊郭への往復の描写は、目的地までの距離、空間、風景、そこに映る主人公の影、主人公の内省、内面の欲望へと進む。花袋はこの描写を地図をみて、地図をたよりに書いている。読者が地図のうえでの主人公清三の足跡をたどることができるのは、まさに花袋自身が地図をなぞり、そこから風景を想像したからである。ここでの描写はじつは地図からの想像にうながされて生まれたものなのである。
花袋はこの見方を日露戦争の従軍体験から得ていた。『第二軍従征日記』には陸軍司令本部もつかったであろう遼東半島に地図が添付され、その地図の上に書かれた線の上を、花袋は第二軍とともに進むのである。
『田舎教師』では地図の上を移動するのは、花袋のかわりに主人公清三となり、地図を見下ろすのは、司令本部ではなく、作者の花袋である。国家が地理的平面の上で臣民を行軍させる、という『第二軍従征日記』の構図は、『田舎教師』では、作者が地図をつかって主人公を地理的平面の上で移動させる、という構図になっている。
のちに戦争を描いた小説「一兵卒の死」では、主人公は「かれ」と書かれ、結末になって、ほかのだれでも同時代の日本人なら入り(代入)されうる形で、はじめて名前が明かされる。死んでいく兵士の名前に代入され得る人間が日本人であり、日本という想像の共同体をつくりあげているのである。
日本自然主義文学の代表作である田山花袋の『田舎教師』は日露戦争を遂行する国家の上からのまなざしを取り込むことでその作中の時空間を成立させている、と言える。またこの作品がもつ感動の源泉も、このまなざしがもたらす「日本国家」という(想像の)空間的なまとまりなくしてはじつは生まれなかったものなのである。この小説の巻頭に添えられた一枚の地図はこうしたまなざしの出現を示唆するものだったのである。  
 
ナショナリズム 4

 

昨日、姜尚中の『在日』(講談社)という新刊が恵比寿の有隣堂に並んでいた。まだ読んでいないが、店頭でそれを見たとき、そうか、ここまで一気に書き切るつもりだったのかという感慨が走った。「永野鉄男」を捨てて在日朝鮮人を明示する「姜尚中=カン・サンジュン」を選んだことを含む思想的自伝のようだ。パラパラと見ているうちに、ラウンド7にさしかかって猛然とラッシュして相手も自分をも追いつめているボクサーとか、オペラ第3幕で喉元を震わせてシンギングアウトに向かう歌手とか、そんな姿がさっと過(よぎ)った。この数年、姜尚中ほどに充実した議論を水準を落とさずに、日本の政治方針とその思想根拠についての言説を続けざまに連打している学者は少ない。つねにフルバージョン・ファイトが続いている。それも課題相手(問題の対象)がいつも“強敵”だ。あえてそういう局面に自分を追いこんでいる。きっと、これまで溜めに溜めてきたものをともかくも吐き切るつもりだったのである。そうして、今度はゆっくりと吸気を入れて、また次のステージに進んでいくのだろう。『在日』はその記念すべき折返し点に見えた。
最近の姜尚中の活躍はテレビでもおなじみである。引き締まった表情をくずさず、アグレッシブで、かつ冷静沈着に現代政治に切り込むファイティングぶりは視聴者のあいだで有名になりつつある。実際にも対話がいい。オーストラリア在住の作家兼自称博打打ちの森巣博との『ナショナリズムの克服』(集英社新書)や、丸山真男や愛国心やメディアをめぐった宮台真司との対談集『挑発する知』(双風舎)など、喋り言葉なのにまことにロジカルで、どんな話題が振り向けられても状況的な臨場感をともなった分析や判断が“即決”されていて、堪能できた。前者は森の誘導のうまさも、後者は議論を妥協しない宮台の姿勢の刺激もあったのだろうけれど、これだけの論陣を張れる男は、やはりいまは少ない。文章よりも会話のほうが興奮させられることもある。宮崎学との対談は『ぼくたちが石原都知事を買えない四つの理由』(朝日新聞社)という、まことに直言的なものだった。
こういう姜尚中を案内するにあたっては、その多様な議論のなかでの「歴史的現在思考の組み立て方」をかいつまむのがいいのだろうが、それも、とくにナショナリズムについての思考の組み立て方を案内するのがいいのだろうが、対話のトビや文章のツメに“味”があるので、案内者は困る(だからこそ本人の各所への出番要請が多くなるのであろう)。そこで今日は、前夜の柄谷行人『日本精神分析』の余韻のなか、本書『ナショナリズム』一冊に少しばかり焦点をあてることにした。扱っているテーマはナショナリズム一般ではなく、日本のナショナリズムのみ、それも国体ナショナリズムに限定している。もし本書に関心をもたれた向きは、本書の延長的展開にあたる『反ナショナリズム』(教育史料出版会)や、また著者のアジアにおける最新の戦略的処方箋をあきらかにした『東北アジア共同の家を目指して』(平凡社)や『日朝関係の克服』(集英社新書)を読まれるといい。ナショナリズム一般の議論を知りたい向きには、大澤真幸が編集構成した『ナショナリズム論の名著50』(平凡社)が非常によくできている。姜尚中も執筆者の一人に入っている。ナショナリズムをめぐる既存の視座はこれでだいたい見える。
かつてホブズボームは「国民国家の衰退とともにナショナリズムも衰退する」と予測した。スーザン・ストレンジは「グローバル化のなかで国家は退場し、ナショナリズムも退嬰する」と見た。が、必ずしもそうではなかった。橋川文三が言ったように、ナショナリズムは決して単独では機能せず、つねに何かとの連環をなす。バリバールとウォーラーステインは、ナショナリズムは一様なものでなく、時と所と人によって姿を変えると見た。日本の愛国現象も含めていえば、たとえば、パトリオティズム(愛国心)、ポピリュリズム、エスニズム(民族主義)、国民主義、自民族中心主義、外国人嫌い、階級差別主義、一国文化主義、拝外主義、帝国主義、国家社会主義、超国家主義、ファシズム、国粋主義、感情的愛国主義、ウルトラナショナリズム、右翼‥‥等々の、まことに多相な様相をとりかねない。絶えざる愛国分岐こそナショナリズムの本質なのである。では、日本ではどうだったのか。いま、どうなのか。
司馬遼太郎が日本に「異胎」(鬼胎)があったと見ていたことについては、『この国のかたち』で統帥権干犯問題とともに少なからず強調しておいた。これをいいかえると、日本人はナショナリズムをわざわざ内側から蝕んできたということである。一握りの政治家や軍人や思想者によってそうなったとは思えない。そのようにならざるをえない何かがあったと見るべきである。この何かを突き止めるには、大筋、二つの視点がありうる。ひとつは、なぜ、そんなことになったのかを考えることだ。すなわち「異胎」がつくってしまった“偽のナショナリズム”が生じた理由や背景を分析することだ。この中心には「国体」思想の複雑骨折がある。もうひとつは、過去に“偽のナショナリズム”があったのなら、そしてそれが戦後民主主義のなかでなくなっているというのなら、これに代わる“真のナショナリズム”はどういうものであるべきか、または、そういうものがありうるのかを考えることだ。
後者の視点をめぐっては、騒がしいわりには、議論はほとんど熟していない。90年代、経済ナショナリズムや歴史文化ナショナリズムが“国益”のために次々に登場したが、それらは歴史教科書問題に象徴されるような「国家威信回復」型か、さもなくば和風ブームやJポップに象徴されるような「プチナショナリズム」型だった。しかもこの時期、渡部昇一・西部邁・西尾幹二・中西輝政・小林よしのり・福田和也らの本が書店に乱舞して、ある種の日本をめぐる議論が誇大になったり矮小になったりし、混乱するようになってきた。一方そこへ、小泉首相の靖国参拝問題、北朝鮮拉致事件、自衛隊イラク派遣などのアジア関係や国際関係に直接につながる問題が踵を接しておこっていった。憲法改正を含めて、日本は何を決断すべきなのかという議論がかまびすしくなった。そこには、アメリカの言うことを聞きすぎているという憤懣も交じっていた。こうした事態のなか、戦前ふうの“偽のナショナリズム”がまたぞろ台頭しているというのならまだしも(そういう性急な見方もあり、ファシズムの再来だなどという声も上がっているが、これは無理がある)、むしろ“真のナショナリズム”の発揮に、上も下もが、左も右もが、完全に戸惑っているという状態なのである。つまりは“国益”は見失われているままになっている(と、おぼしい)。あるいは日本のアイデンティティを求める議論には、そもそも瑕瑾がある(と、おぼしい)。いったい何がおこっているのか。混乱の原因はどこにあるのか。
ジョン・ダワーや山之内靖は、戦前と戦後が切れていないのではないかという見方を提出した。一言でいえば、日本はスキャッパニズムを脱していないということだ。スキャッパニズムとはSCAP(連合軍司令部)とJAPAN(日本政治)とが、戦後ずうっと談合状態を続けていたということを示しているスキャパニーズ体制のことをいう。そうだとすると、ここには戦前のナショナリズムと戦後のデモクラシーが接ぎ木されながら別の樹木をつくってしまって異様に成長したということで、このスキャッパニーズな大樹の状態のもとでの決断や分析からは、それがどんなものであれ、日本のナショナリズムの決定的な問題は出てこないということになる。ぶっちゃけていえば、戦後日本は、またしても「異胎」の中で何かを育ててしまっているということになる。そこで姜尚中は、こうした国家威信回復主義やプチナショナリズムやスキャッパニズムなどを次々に許容した事情の奥の問題から、もう一度、日本のナショナリズムの解明に向かわなければならないと思ったのである。それゆえ本書は、長らく“偽のナショナリズム”と言われ続けてきた「国体」の思想の解明のみを主題にした。
本書では、国体ナショナリズムは主として次の4つの視点で検討されている。
第1に、国体ナショナリズムは政治の論理と美の論理にデュアリズムがあったということである。つまり、二つはつねにごっちゃになっていた。松浦寿輝はこれを「国体には茫漠としたコノテーションがある」と表現した。歴史的にはこの議論は本居宣長までさかのぼる。著者は興味深いことに、これを暗示するひとつの見方として、リービ英雄の『日本語を書く部屋』にひそむデュアリズムをあげている。
第2に、国体思想が示そうとする境界はたえず可変的だったということだ。実際にも明治から戦前までの大日本帝国の“国境”はつねに伸縮し、国家の膨張とともに国体の適用範囲も膨張した。ここには満州「偽」帝国の問題から日中戦争・太平洋戦争の問題まで含まれる。
第3に、国体思想にはエドワード・サイードがいうところの「心象の歴史観」のようなものがあって、「万世一系」「天壌無窮」というような時空に連続的な軸を想定し、これを敷延していたということである。このような立場で歴史を見てしまうと、それに依拠した知識人や政治家はたいていデキの悪い政治考古学者の言説をふりまいているようになるのだが、その政治考古学の確立にあたっては、そもそも本居宣長の長大な『古事記伝』のようなものが背景に控えていて、この日本政治考古学が必ずしも脆弱ではないことの保証になっている。問題を切開するとき、ここがややこしくなる。
第4には、北一輝がまさにあてはまるのだろうが、国体ナショナリズムには「外破」と「内破」がともなっているという特徴があるということだ。たとえば北の『国体論及純正社会主義』は、国体論を批判して国体明徴をよびおこすという、まるで逆効果をおこすような“快挙”をやってのけたのである。ぼくもハッとさせられたのであるが、著者は、このような外破と内破をともなう歴史観は、北一輝とはまったく逆の方向ではあるが、網野善彦の、複数の視座をもつ日本論の展開にもあらわれたと見ている。
ナショナリズムはすぐれて近代的なものである。前夜にも述べたが、そこには「世界帝国の解体」や「国語の成立」が関与する。しかし、そのような近代ナショナリズムが成立してくるには、必ずや前段がある。その前段(前期ナショナリズム)にその国の歴史や国土の特徴や、民族の体験の特質や、国語の問題があらわれる。日本の前期ナショナリズムの中核を占めるのは、文政年間の会沢正志斎の『新論』である。ここで「国体」という概念が初めて意図的につかわれた。むろん海外の脅威に対して綴られたもので、そこでは神州としての国体に強いパッションが吹きこまれ、「上下こもごも遺棄せば、土地人民、何を以てか統一せん、而して国体それ何を以てか維持せん」といったメッセージが横溢している。ここには尊王攘夷のイデオロギーによる統一体の期待は出ているとはいえ、まだ天皇制国家という輪郭は提起されてはいなかった。政治的には海防論の変形である。
一方、これに先んじて宣長が確立したことは、こうした外部の脅威とは無関係に、いわば「内的境界」によって「日本という内部」をつくりあげることだった。そこにはナショナルな一体性が主情的にあらわれ、「古意」(いにしえごころ)や「もののあはれ」がその主情を象徴した。それを宣長はもっぱら日本語(やまとことば)の分析を通して確立したがゆえに、これらは一括して「皇国の言葉」とも捉えられた。のちに小林秀雄は『本居宣長』において、日本人であることは「国語といふ巨大な母胎」にくるまれ、それによって自己を表現できることであると書いた。これはまさに「政治の非政治化」であり、「政治の美学化」であって、ナショナリズムの先駆的なデュアル化でもあった。しかしでは、宣長的な主情言語ナショナリズムと正志斎的な海防国体ナショナリズムが結びつくと、どうなるか。
幕末期では、平田篤胤や真木和泉らが宣長ふうの「真心」を、天皇の心情に一体化するような「恋闕」に発展させていった。『夜明け前』の青山半蔵の心情にはそれが端的にあらわれている。明治維新になって、岩倉具視以下の国家立案者たちは、この天皇の「心情」を天皇の「実在」に移行させていく。これによって、この立案はすぐさま一君万民という理念の実現が日本近代国家の実現であるという等式に、身を重ねるように移行する。とくに伊藤博文はこの確信をもっていた。残された課題は「国民」の形成だった。国民国家として海外に日本の水準を訴求することである。福沢諭吉が「日本にはただ政府ありて未だ国民あらず」と言ったように、「臣」と「民」とはこのままではつながらない。そこで、これをなんとかつなごうとしたのが徳富蘇峰たちでなのであるが、結局は日清日露の二つの対外戦争と大日本帝国憲法の成文が、これらの問題をすべて統括することになった。伊藤博文の“勝利”だった。
明治憲法は、たくみに二つのことを一続きの政治意匠に仕立てている。第1条では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としながらも、他方、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攪シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」というように、第55条で「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」というように、それぞれ規定することによって、国体の体現者としての天皇は、同時に立憲君主として憲法と議会と政府に巧妙につながっていったのである。これは法的表示としてはあきらかに矛盾であるが、この矛盾を整合させ、超越させたのが、明治天皇全国巡行と「御影」礼拝による天皇の現人神化であり、「軍人勅諭」暗唱による天皇主義の軍事化(天皇の軍隊づくり)であり、そして「教育勅語」による天皇主義の国民学習化であった。これらのなかで姜尚中が西周の「兵家徳行」の役割に注目しているのが、おもしろい。
こうして日本は「国体の帝国」として、その外部の領域をアジア各地に、その内部の領域を日本人の心情の中に植えつけていく。里見岸雄は「天皇は、赤子(血縁)、弟子(心縁)、臣子(治縁)の三重的身分が一身に具する統治者である」とまでこの体制の意味を表現してみせた。里見は法華経主義者で、ベルリン時代の石原莞爾に影響を与えた人物である。
1925年、悪名高い治安維持法が不気味に動き出すと、1930年代には国体ナショナリズムは軍事日本の中心に据えられるようになる。日本は「立憲神主国家」になったのである。パンフレット「国体の本義」が配られたのは1937年だった。そこからどうなったかは、省きたい。日本は日中戦争で大陸を蹂躙し、太平洋戦争で大洋を席巻しようとして、失敗した。国体の明徴は効を奏さなかったのだ。しかし戦争には敗北したものの、ポツダム宣言を受諾するにあたって、日本(と、そしてアメリカ)がただひとつ気にしたのは、やはり「国体護持」だったのである。ここにスキャッパニズムが隠然と作動した。国体ナショナリズムは戦後日本にも必要であり、アメリカにも必要だったのである。姜尚中は戦前すでにライシャワーが“傀儡天皇制構想”を考えていたことに注意を促している。ともかくもこうして天皇制が維持され、そこにアメリカの民主主義がぴったりくっついたのだ。まさに「インペリアル・デモクラシー」の胎生だった。
本書はここから、こうした国体ナショナリズムを戦後の知識人たちがどのように掴まえようとしたか、それを和辻哲郎・南原繁・丸山真男・江藤淳などの言説を紹介検討しながら、その限界をひとつひとつ指摘し、それらよりもこの10年の成果というべき酒井直樹・小森陽一・八木公生・西川長生らの日本近代の掴まえ方のほうがそうとうに有効であることを、次々に証していく。本書の後半はそこに重心があるのだが、この点については先に紹介した『ナショナリズムの克服』や『挑発する知』のほうが雄弁で、わかりやすいかもしれない。とくに本書を書くにあたって著者自身が克服すべき争点と設定したであろう丸山真男をめぐっては、これこそが(丸山をどう見るかということが)どうやら現代知識人の巨大な壁か踏み絵になっているようなのだが、そのせいか、姜尚中にしてかなりの遠慮があるように思われた。それが対話のなかでは遠慮会釈がすっ飛んで、存分にサンジュン節を聞かせてくれるのである。
どうもはしょりすぎたようだ。詳細は本書や別の本で見てもらうしかないだろう。ところで、姜尚中についてはちょっとした思い出がある。10年以上前のことになるが、国際物語学会のトークイベントに美輪明宏と姜尚中を招いたことがあった。この二人の顔合わせがそもそもかなり異様だろうから、会場はどよめいたのだが(他に中村雄二郎・金子郁容・田中優子・室井尚もいた)、本番前に二人を互いに紹介したとき、姜尚中が例の声のまま、「ぼくは美輪さんの、本気なファンなのです」とまっすぐ美輪さんの目を見つめて、その好意を“告白”したのだった。美輪さんは高い声で、「あら、ほんと。それは嬉しいわ、よろしく」とにっこり笑っただけなのだが、そのとき、姜尚中の顔がパッと赭らんだ。話はそれだけなのだが、これは、姜尚中の純情可憐とその思想のピュリスムをあらわす大事な場面のひとつであって、今後(ということは『在日』以降ということだが)、姜尚中がまったく現実的な政治問題や国際政治学にコミットしなくなって(そんなことはないだろうが)、たとえば伊丹万作や寺山修司のことを書いたり、美輪明宏と童謡やアリランをめぐって対談をするだけになったとしても、ぼくはそこに、本書とまったく同様の価値を見いだすだろうと思うのだ――ということを、なんとなく付け加えたかった。姜尚中とは、そういう男前でもあるということだ。けれども、なのである。もっと男前になってもらうには、正しいか正しくないかなどということの判定を期待される者の役割から、ときには離れて、好きな本を書き、メディアに登場してもらいたいとも思っている。 
 
ナショナリズムと「聖なるもの」

 

世俗的にみえる近代国家。しかし、その基盤には「宗教」が―
いわゆる「イスラム国」がイラクやシリアの古代遺跡や博物館を次々と破壊している。これは理解しがたい蛮行として、世界中の人々にイスラム国の狂信性を強く印象付けている。
しかし、宗教とナショナリズムの関係を巡る社会学的な知見に基づいて分析すると、この蛮行の背後にあるイスラム国の戦略的な意図を見抜くことができる。あれは、単なる狂信的な破壊行為ではない。「イスラム国」という国家を樹立する上で必要な合理的行動なのである。
ナショナリズムとは何か
そのことを明らかにするためには、いささか迂遠ではあるが、まずは「ナショナリズム」とは何かを正確に理解することから始めなければならない。
ナショナリズムとは読んで字の如く、「ネイション」に関するイデオロギーである。しかし、「ネイション」とは何かは、それほど自明ではない。
ネイションを人種や民族、言語などの客観的な基準によって定義することは困難である。というのも、人種、民族、言語あるいは宗教が異なる人々であっても、彼らが同じ共同体に帰属しているという意識を共有しているのであれば、彼らは「ネイション」と呼べるからだ。
例えば、スイスやベルギーは複数言語を公用語とし、アメリカ合衆国は多人種・多民族から構成されているが、他方でスイス人、ベルギー人、アメリカ人というアイデンティティも存在するのであり、彼らを「ネイション」と呼んで差し支えない。
むしろ、今日、世界中のほとんどのネイションが、多人種・多民族・多言語・多宗教から構成されているのであり、日本人のように民族的あるいは言語的に同質性が高いネイションの方が珍しい。
したがって、ネイションとナショナリズムを、それぞれ「民族」「民族主義」と訳すのは適切ではない。ネイションには「国民」の訳語を充てるべきであろう。ナショナリズムの訳語もまた「国民主義」であるべきだ。
ネイションとは、心理的な紐帯によって結ばれた人々である。それゆえ、ネイションを特定する上で最終的に問題となるのは、「ネイションとは何か」ではなく、「人々が何をネイションと信じているか」になる。
すなわち、一定の集団の構成員が互いを同じ国民だと思っている限りにおいてのみ、その集団はネイションたり得るのである。逆に、同じ国家に帰属する人民であっても、彼らが互いを同じ国民だと思っていなければ、その国家の人民はネイションとは言えない。
ネイションとは、言わば主観的な存在なのである。とは言うものの、実在のネイションに属する人々は、領土、歴史、文化など、何らかの共通するものをもっている。こうしたことから、アンソニー・スミスは、ネイションを「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通の経済、すべての構成員に対して共通の法的権利義務を共有する特定の人々」と定義している。
ネイションという「想像」
では、この「ネイション」という意識は、どのようにして形成されるのか。これについては研究者の間でも様々な見解が提出されているが、特に有名なのは、アーネスト・ゲルナーとベネディクト・アンダーソンによる解釈である。
ゲルナーによれば、ネイションという意識を創造したのは、近代産業社会である。近代産業社会は、前近代社会よりも規模が大きく、変化に富んでいる。近代産業社会の人々は、高い移動性と発達したコミュニケーション能力によって、もはや慣習、地域共同体、伝統的地位といったものに拘束されず、広範囲にわたってお互いに交流するようになっている。
その結果、人々は標準言語と画一的な文化を共有するようになる。近代国家による統一された教育システムもまた、画一的な文化の普及に大きな役割を果たす。この画一的な文化の共有が、人々の間に、階級や民族や宗教の違いを超えて同じネイションに帰属しているという意識をもたらすというわけである。
アンダーソンもまた、資本主義が印刷出版の普及を通じて人々に同じ共同体の構成員であるという意識を芽生えさせるとともに、国家が教育制度や行政規則などを通じて人々にナショナリズムを注入したことで、ネイションという想像が形作られたのだと論じている。ネイションとは「想像の共同体」だというのである。
ゲルナーとアンダーソンは、ネイションの想像を生み出した要因として、近代産業資本主義がもたらす移動性やコミュニケーションの発達を強調したことで知られている。しかし、彼らは同時に、教育制度など、近代国家がネイション形成において果たした役割を重視していることも忘れてはならない。
近代国家とは、明確な境界をもつ領土を基盤とする「領土的国家」である。このため、ネイションの想像が及ぶ範囲は、領土の内部に留まる。アンダーソンが言うように、「ネイションとは、限定されたものとして想像される。何十億という人口を擁するような最大級のネイションすらも、変更し得るとしても有限の境界というものを有するのであり、その境界を越えた向こうに存在するのは他のネイションなのである」。そして、この境界を与えるのが主権国家の「領土」である。したがって、ネイションは、領土をその構成要素の一つとする。
アンダーソンは、ネイションを「想像の共同体」と呼んだが、厳密に言えば、「想像の共同体」はネイションに限られない。比較的大規模な宗教共同体や民族もまた、日々顔を突き合わせることのない人々が同胞意識を共有する集団という意味では、「想像の共同体」の一種ではある。
しかし、宗教や民族といった「想像の共同体」は、国境にとらわれずに存在し得る。これに対して、ネイションという共同体は国家の領土の制約を受ける。この領土性こそが、ネイションを他の「想像の共同体」と分かつ固有の特徴である。スミスによるネイションの定義の中に「歴史的領土」が含まれていたのも、そのためである。
統合の象徴としての古代遺跡
以上のような理解によれば、ネイションとは、基本的には、近代になってから生み出されたものだと言える。にもかかわらず、人々は、自らが属するネイションの歴史は、古く近代以前にさかのぼるものと信じている。このネイションの長い歴史というのも「想像」であり、この「想像」もまた、近代国家が形成したのである。
例えばアンダーソンは、東南アジアにおけるネイションの形成において、国家によって整備された博物館が果たした役割に注目している。
東南アジアの旧植民地国家は、独立後、かつての宗主国によって人為的に境界線を引かれた領土の中に様々な民族や宗派を抱えながら、新たにネイションを建設しなければならなかった。
こうした中で、博物館は、民衆の想像を刺激し、民族、言語あるいは宗教の差異を超えて、ネイションという「想像の共同体」を作り出すのに一役買ったというのである。
例えば、インドネシアにおいては、植民地時代に宗主国オランダによってボロブドゥール遺跡が発掘されたが、独立後、ボロブドゥール遺跡の絵図はインドネシア国民史の栄光を視覚的に示すものとして利用され、ナショナル・アイデンティティの象徴となった。同様に、カンボディアにおいても、かつて宗主国フランスによって修復されたアンコールワット遺跡が、独立後にナショナル・シンボルとなった。
中東においても、例えば、かつてイラクのフセイン政権は、古代メソポタミア文明の遺跡の復元事業を熱心に推進した。あるいはシリアのアサド政権は、世界最古のモスクであるウマイヤド・モスクのあるダマスカスを首都としている。フセイン政権もアサド政権も、社会主義を公式のイデオロギーとする世俗的な体制であったが、古代遺跡という過去の栄光の象徴を通じて、人々の想像を刺激し、民族や宗派の相違を超えた共通の歴史を有する一つのネイションへと統合しようとしていたのである。
スミスは、こうしたアンダーソンの洞察を受け入れながらも、さらに踏み込んで、ネイションとは単なる「想像」以上の存在であると主張している。
確かにネイションという共同体は、人々の想像の産物ではある。しかし、それは単なる空想ではなく、社会的な現実である。というのも、ネイションという想像は、人々の集団的意志や集団的感情をも引き起こし、人々を共通の目的を達成するための集団行動へと動員し、現実の社会を動かす。それどころか、人々は、ナショナリズムによって、自らの生命を犠牲にすることすらある。そう考えると、ネイションを単なる「想像」に過ぎないと片づけることはできない。そこでスミスは、ネイションという共同体が意志や感情をも強く動かすのは、その基礎に宗教的あるいは聖的なものがあるからだという説を提起している。このスミスの理論は、エミール・デュルケイムの宗教社会学の影響を受けている。
宗教の「機能」とは
デュルケイムの宗教社会学は、宗教を、社会が共有する規範的な信条と実践を象徴するものとして理解しようとするものであった。
そもそも、社会というものは、その構成員が規範や行動様式を共有していなければ成立し得ないものであるが、その社会の規範や行動様式を象徴的に表現し、再確認させる役割を果たすものが、宗教に他ならない。したがって、社会と宗教とは、ほぼ不可分の関係にある。どのような社会であれ、多かれ少なかれ宗教的・聖的な性格を帯び続けるであろうし、逆に、宗教というものは社会的な性格をもち続けるのである。
ここで注意すべきは、デュルケイムの社会学における宗教の扱いは、特定の宗教の教義の「内容」についてではないということである。デュルケイムが着目しているのは、あくまで宗教の社会的な「機能」である。デュルケイムにとって、キリスト教、イスラム教、仏教、あるいは神道の教義の内容の相違、例えば一神教か多神教かといった区別は、それほど問題ではない。重要なのは、教義の内容にかかわらず、いずれの宗教も「聖なるもの」の存在を想定した社会の実践であるということである。
したがって、「社会と宗教は、不可分の関係にある」というとき、それはデュルケイム的な意味においては、「特定の宗教を信じない社会は存在していない」ということを意味するのではない。そうではなくて、完全に世俗的な社会であっても、何らかの聖的な象徴を基盤としているはずであるということである。もし聖的な何かが基盤になければ、諸個人は共通の規範や行動様式を見失い、社会はその凝集性を失って分解するだろうということである。
一般に、近代化とは、脱宗教化・世俗化の過程とみなされがちである。しかし、デュルケイムの社会学に依拠するならば、近代においても、社会は、宗教的なもの・聖的なものを基礎として統合されているということになる。スミスは、このデュルケイムの洞察に従って、ネイションという大規模な社会もまた、何らかの聖的な核によって統合されているとみる。
合衆国の「聖なるもの」
それが証拠に、ナショナリズムは世俗的なイデオロギーでありながら、リベラリズムやソーシャリズムとは異なり、象徴、聖典、芸術、儀式、祭礼といった宗教的な特徴を強く帯びている。例えば、建国者、国史上の偉人あるいは国家元首が、聖人のように彫像や絵画に表現されて象徴的に扱われたり、あるいは、戦争における勝利など国史上の栄光が神話のように伝説的に語り継がれたりするのである。先述の東南アジアや中東における古代遺跡は、まさにその好例と言えるだろう。
しかも、こうした歴史の聖化という現象がみられるのは、後進国や非西洋諸国に限られない。例えば、アメリカ合衆国のラシュモア山国立記念公園には四人の大統領の巨大な胸像が神々しく彫られているし、ワシントンDCのリンカーン記念館はまるでギリシャの神殿のような形をしている。デュルケイムは、社会の基礎に宗教的・聖的なものの存在を見出したが、アメリカもまた例外ではなかったのである。
こうしたことから、スミスは、ナショナリズムを政治的な宗教の一種とみなすのである。確かに、スミスの説に従えば、ナショナリズムには宗教に匹敵するような強力な動員力があることも理解できる。端的に言おう。人間が自らの生命を犠牲にしてまで奉仕するのは、神でなければ、祖国である!宗教戦争と国民国家間の戦争が仮借のないものになるのは、そのためだ。そして、今日、ほとんどの国家が国民国家であり、あるいは国民国家を目指しているのも、ナショナリズムの宗教的な性格が生み出す動員力が極めて強大なものだからなのだ。
国民国家を破壊する
さて、以上のような宗教とナショナリズムを巡る理論的理解を踏まえると、イスラム国がなぜ、イラクやシリアの古代遺跡や博物館を破壊しているのかも、明らかとなろう。
イスラム国は、これまでのイスラム系過激派組織とは異なり、領土を有する国家の樹立を目標としている。その国家とは、ネイションを基礎とした国家(国民国家)ではなく、イスラム教を基礎とした宗教国家である。
イスラム教を基礎とした新たな宗教国家を建設する上で、既存の国民国家は障害になる。したがって、まず既存の国民国家を破壊しなければならない。
イラクやシリアは、古代遺跡や博物館が想像を喚起する力を利用して、民族、部族、宗派の異なる人々を一つのネイションとして統合し、国民国家として存在しようとしている。古代遺跡や博物館は、ネイションの基礎となる聖的な象徴なのである。それを破壊するということは、イラクやシリアのネイションを分裂させ、国民国家を破壊するということを意味する。特にイラクやシリアは国民国家としての歴史が浅く、ネイションの統合力は必ずしも強くはないから、古代遺跡や博物館といった程度の象徴であっても、その破壊の効果は小さくはないだろう。
イスラム国の破壊行為は、目的合理的だったのである。  
 
日中韓を振り回す「ナショナリズム」の正体 

 

こんばんは、保阪正康です。今日は半藤一利さんと私の対談本『日中韓を振り回すナショナリズムの正体』についてお話しさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
この本の中でも言っていることですが、私たちは「ナショナリズム」と言ったり、考えたりするときに、何か大きな錯誤があるんじゃないだろうかと考える必要があります。
それは、「19世紀、20世紀、国民国家ができて、国民統合の意識としてのナショナリズムが……」というような、硬い、あるいは学問上のナショナリズムというものではなく、私たちはナショナリズムというものをもっと身近に考えることができるのではないかということです。
実は、私たちの日常の生活規範、あるいは道徳的規範、あるいはいろんな倫理観というものは、ナショナリズムじゃないだろうか、と私は考えます。もっと具体的に言うと、ナショナリズムというのは上部構造と下部構造があるということです。
上部構造というのは、国策を決める政策集団の基準です。「国益の守護」「国権の伸張」「国威の発揚」といったものです。これらは、国策を決めるときの基準になっていますね。日本という国家を考えた場合でも、それが基準になってきたと言っていいでしょう。
そして、それは、ナショナリズムの上部構造だということです。官僚・軍人、あるいは政治家などが国策を決めるときの基準になるもの……。それはナショナリズムの上部構造と言うべきものです。
一方で、上部構造があるとすると、同様にナショナリズムの下部構造というものがあります。それがわれわれの日常の生活倫理、規範……そういうものですね。私たちの国で言えば、江戸時代から続く共同体の中に伝承している倫理規範といったものも、やはり私たちのナショナリズムではないかということです。
こういう主張をすると、「保阪さん、それ違うと思うよ。それはナショナリズムというより、むしろ愛郷心、ふるさとを愛するという意味じゃないか」って言われることがあります。だけど、僕は違うと思う。
私たちは何も、ナショナリズムという言葉を限定して考える必要はないと思うんです。ナショナリズムには上部構想と下部構造があると考えるほうが自然なんです。民俗学でいえば、柳田國男や宮本常一が一生懸命ナショナリズムの下部構造を作り上げ、拾い上げ、そしてそれを学問化しようとしたわけですね。
そのことを私たちは忘れてはいけないと思います。
上部構造と下部構造が対立状況にあった
そのようにナショナリズムの上部構造・下部構造を考えると、私たちはナショナリズムの上部構造の「国益の守護」「国権の伸張」「国威の発揚」といった、近代日本の政治的な国策決定基準の中のナショナリズムは、もともと下部構造のナショナリズムとの対立状況にあったんじゃないかと考えることができると思うんですね。
これについては、いっぱい例を挙げることができます。たとえば、昭和16(1941)年1月に陸軍大臣の東條英機が軍内に示達した戦陣訓。戦陣訓はかなり長いものなんですけど、その中に、捕虜になることを禁じる項目があります。兵隊の命などは軽いものだとか、郷党・家門の名を汚すなとか、いろいろ書いてありますよ。
これはよ〜く読むと、上部構造のナショナリズムで決まった政策を、下部構造のナショナリズムに合体させようという意図が見えてきます。戦陣訓は、軍事の空間の中で強制的に、上部構造のナショナリズムを下部構造のナショナリズムに合体させるためのものだと言えるわけです。
そう考えると、もっともっといろんな例を挙げることができます。例として、昭和12(1937)年の7月7日、盧溝橋事件が起こる前の世相についてお話しましょう。
この事件の以前も、もちろん毎年、兵役検査があり、20歳になると本籍地で兵役検査を受けます。当時、年間30万人が受けたと言われていました。30万人の20歳の青年です。
その判定基準には甲・乙・丙種とあります。甲種というのは、心身共に健康で、身長は152センチ以上あり、視力がいくつだというようなことなんです。それから字が読めるとかね。甲種合格というのは、30万人のうちの約3割です。だいたい9万人くらい。30万人のうち、兵隊検査を受けて、9万人が甲種合格なんです。
では、この甲種合格の人がみんな兵隊になるのかというと、そういうことではありません。日本の軍隊は、松本連隊とか高崎連隊とか宇都宮連隊とか、地域ごとの連隊になって、それが郷土連隊と言われるんです。もちろん第二六連隊とか第五連隊とか名前が付いていますけど、みんな、地域名が連隊の名前にもかぶさります。地域の青年たちがグループになって召集されて、連隊をつくるんですね。
で、9万人の日本中の甲種合格の兵隊が全部、連隊に行ったら大変なことです。そんなに定員がありません。軍はそんなに新兵を受け入れることはできない。ということで、9万人のうちで、兵舎に行って、2年間の訓練を受ける人は限られているわけですね。
そうした中で、みんな、昭和12年7月の盧溝橋事件まではどうだったか。
地元の神社で、息子が甲種合格になったけど、どうか兵営に入隊しないように、と祈るんです。兵営に入らなくても、年に何回かは訓練を受けるというようなことはありましたけれどね。とにかく兵営に行かないようにと願うわけです。労働力が不足するということにもなりますからね。それが当たり前だったんです。堂々と神社で、みんな、祈願してたんです。
戦争に行かないように、兵舎に行かないようにと願うことは、恥ずかしいことでも何でもなかった。つまり、みんな兵舎に行って、訓練を受けたくなかったということですね。それが社会で、当たり前に通用していたのです。
国家による民衆ナショナリズムの抑圧
それが盧溝橋事件以後、軍部は、大本営は、兵隊を次々と中国戦線に送ってしまう。その規模は数十万人とかになります。
そうすると、甲種合格は全部、兵隊にしなくてはいけない。兵舎に入れて、3カ月ぐらいで行進と鉄砲の打ち方を教えて、それから行軍を教えて、戦地に送り込みます。それが日中戦争の現実だったんですね。
そして送り込む兵隊の数ですが、日本の太平洋戦争の最後、昭和20(1945)年なんか、数百万人の兵隊が軍にいましたから。それは甲種だけではない。乙種・丙種も。それでも足りないと言って、年齢幅をグッと上げていくわけですね。
昭和20年の6月には、本土決戦だけですけど、義勇兵役法というのが公布されて、男性は15歳から60歳、女性は17歳から40歳まではみんな、義勇兵。つまり軍に編入されるようになります。これが特攻要員だったんですけどね。本土決戦にならなかったんで、よかったんですけど。
つまり、行きたくないと言って平気で神様を拝めた時代が続いていたのに、日中戦争で大量動員がかかると、もう神社へ行って、「どうか息子が戦争に行かないように」と祈ることはできません。祈ったら、「非国民」になってしまうわけなんですね。
そして、その代わり、召集令状が来たら、みんな喜ばなきゃいけないという空気になってくる。赤飯を炊いて、小学校の校長や駐在さん、それから村長さんなどが総出でタスキをかけ、召集される「何々君」を中心に神社まで行進していって、必勝祈願などしていますね。
これをナショナリズムの、先の私の持論で言うと、どうなるでしょうか。
日中戦争前までは、国家のナショナリズムというものを下に押し付けようとしても、下のほうは「戦争なんかイヤだ。なるべく行かないように……」というのが当たり前のようになっている。
ところが、国家が「兵隊が足りない、おまえたちは国益の守護、国権の伸張のために、国のために戦え」ということを強圧的にドンと押していくと、つまり上部構造が下部構造を押し込んでいくと、いっぺんに世の中が変わってしまう。それで「何々君、万歳!」と、送られていくということになるんですね。
これは上部構造が、下部構造の道徳・生活規範・ルールを抑えていくひとつのケースだと私は思います。国のナショナリズムが、下の国民が持っている道徳規範のナショナリズムを、完全に支配していくんですね。
もちろんそのために、教育の場では「国体の本義」とか、青少年に与える勅語とか、そういうのが出ます。
このようにして、国民の下部組織にあるナショナリズムが抑圧されていくというのが、昭和史のナショナリズムの現実の姿なのです。
村落共同体で伝えられてきたナショナリズム
では、より具体的には、下部組織のナショナリズムとはどんなものか。
それは柳田國男や宮本常一の本をよく読むとわかります。宮本常一の本には、日本の村落共同体で、どのような倫理観、生活規範、人生観などが引き継がれてきたのか書いてあります。それをあえて私はナショナリズムと言いますけどね。
たとえば、田舎の子どもが遊ぶ話の中に、こんなことがあります。子供がザリガニ捕りをして、暗くなって家に帰ってくるとき、ザリガニを持ってきた。それを見ておじいさんが忠告する。
「ザリガニの脚をとって遊んじゃダメだぞ。遊んだあとは、ザリガニをちゃんと池に戻せよ。そして、また、あした、一緒に遊ぼうな」
このように、間違っても、ザリガニの手足を切ったりして遊んではいけないということを教えるんですね。自然とどういうふうにしてかかわり合うか、小動物とどういうふうにしてかかわるか、ということを教えるわけです。
家に帰って、食事をするときはどのようにするか。あるいは言葉遣いはどうあるべきか。年長者と話すときはどういう言葉を話せばいいのか……。ごく当たり前の道徳とか倫理観というものを、生活の中で教える。それが日本人の共同体の中で、とんでもない勉強になるんですよ。
「泣く子と地頭には勝てぬ」というような格言もそうですね。そういうように、昔の権力の上部機構は各藩でしょうが、その言うとおりにしろというような教えもあります。
日本人が受け継いできた倫理観
しかし、もっと重要なのは、そこで個々人の生きていく姿が、言い伝えや倫理の中にきちんと凝縮しているということなんです。自然と共生せよ、小動物を愛せよ、言葉遣いはどうしろとかですね。そういった倫理観というのは、ずっと日本人を貫いて、日本人が持ってきた貴重なものです。
江戸時代の200年以上、内戦も含めて、日本はただのいっぺんも戦争しなかった。そして私たちの国は自然と共生し、そういった中でどういう倫理観を身に付けるかということを教わってきた。
もちろん、そうした中には、封建的な道徳の義務もありますよ。しかし、それとは別に、それぞれの人が共同体の中で生きて、死んで完結するという姿があるんです。そこに生きている共同体の倫理とか、そういうものが下部機構のナショナリズムだと私は言うんですね。そういうナショナリズムは大切にしていかなきゃいけない。
幕末・明治になって外国人が来たとき、こうした民衆のナショナリズムを見て彼らはビックリしました。日本人の礼儀正しさ。それから、ある意味で言えば、素朴な人間の生活ですね。羞恥心とか、西洋とまったく違うものを持っている。
そういった日本人の道徳意識というものは、私はやっぱりかなり尊重されるべきものがあると思うんです。それを種々選択して、つないでいくというのが、私たちの役目です。
戦後、「ナショナリズム」を忌避したメディア
残念なことに近代日本は、そうした下部構造のナショナリズムを抑圧して近代日本の枠組みの中に抑え込むことによって、上部構造のそれのみがナショナリズムだというふうに固定化しました。
私は、戦後の「朝日新聞」の論説をずっと調べたことがあるんですが、「ナショナリズム」という言葉は、昭和37(1962)年まで社説ではまったく書かれてない。昭和39(1964)年の東京オリンピック前になって、朝日新聞の昭和38(1963)年の社説に、ナショナリズムにはいいナショナリズムと悪いナショナリズムがある、東京オリンピックでこそいいナショナリズムを発揮しようではありませんかいうように、「ナショナリズム」が出てきます。
これは何を意味しているのでしょうか。
国家のナショナリズムが命じる国益の守護とか、国権の伸張というものが、いかに国民を抑圧したか。それに対し国民の側から、上部構造のナショナリズムに異議申し立てをすることがなかったということなんです。だから私たちは、ナショナリズムについて、極めて上部構造のナショナリズムの概念だけにとらわれてきたし、戦後、ある時期まではそれを忌避して、ほとんど使うことがなかった。
逆に、もっとナショナリズムを下部にまで下ろして、私たちの生活規範の中で、守るべきものを守ろうというのが私の考えです。そのためには、国家の上部構造が潰そうと思っても潰されないナショナリズムを、私たちは自覚して守っていく必要があるということです。それが、やはり江戸時代からの、日本のナショナリズムの本当の姿だということなんです。
しかし、昭和史を調べていくと、こういった本来のナショナリズムについて言及しているのは、残念ながら農本主義者だけなんですね。もちろんすべてとは言いませんが、農本主義者はこういったことに関して、いわゆる農業共同体、農村共同体というところに、本当に日本人の生きる姿があるとしている。同時に、それが西洋近代化の中で次々と解体していくことに危機意識を持つんです。
五・一五事件に参加した茨城の愛郷塾を率いた橘孝三郎という人はその典型ですけどね。農村の共同体にこそ、日本の、私たちの生きる道徳的規範があるんだとしている。結局、それが潰されると言って、彼は軍人と結託して、五・一五事件を起こします。その結び付きに関してはかなり不信感を持たざるをえないけれども、しかし農本主義というものが提示していたナショナリズムというのは、一概に全部批判、否定できないわけです。
私たちは、農村共同体の中の道徳規範を、いかに身に付けて、それを国のひとつの規範にしていくかということを問われているのです。それは決して狭い形の道徳規範ではない。グローバル、グローバリズムというのはイヤな言い方だけど、国際社会に通用するものを持っているんですね。そういう死生観とか、自然との共生とか、そういったものをやはり大事にすべきじゃないかというふうに思います。私がこの『日中韓を振り回すナショナリズムの正体』で言いたいのは、そういうナショナリズムなんです。 [ 2014 ]
 

 

 
 

 

 
 

 

 
ナショナリズムの台頭

 

米大統領選トランプ氏勝利の衝撃と期待 2016/11
 行き過ぎた民主主義の是正必須
アメリカのトランプ現象は実現した時には衝撃だったが、落ち着いた今、熟慮してみると真っ当な気がしてきた。現在、世界には様々な貿易機構があり、それぞれグループになって関税同盟を作っている。そのおかげで日本は経済大国になったわけだが、その陰で割りを食っている国があることは確かだ。米国や英国もデビッド・リカートの言う比較優位の原則を説いて世界の国を説得してきたが、その帳尻はどうなっているのか。比較優位の原則というのは、各国が自分の得意な産物を作っていれば、最も高級な品物が最も安い価値で手に入るようになるというものである。世界中の家庭が安くてよい品を手にすれば、世界中の人々が幸せになるはずだが、その過程で猛烈な競争が起こる。資材を持っている国は有利だし、労賃の安い国も有利だ。
10年ほど前、米国の普通の一家が使用している物品のうち中国製を一つずつ取り出すテレビ映画があったが、居間や台所からあらゆるものが取り外されて庭に積まれた。要するに家庭用品で米国製というものが皆無なのである。精密な電気製品まで今では中国製か韓国製だ。この姿はグローバル化の究極の姿であって、回復には何とかこれを後ろに戻す対策が必要だろう。
これに先立って7月、英国はEU離脱を決定した。私はEUが“完成”するまでの7年間欧州に駐在し、EUの成り立ちや成長の様を眺めてきたから、この“破滅的”な国民投票の結果に心底、驚いた。EUは文句を言いつつ、和気藹々といった社会だったが、「オレはやめた」という国が出るとは思わなかった。
新首相になったテリーザ・メイ首相は就任スピーチを官邸前で15分間行ったが、内容を英紙フィナンシャル・タイムズ(2016年7月29日付邦訳日経新聞)が簡潔にして要を得ていると次のようにまとめている。
「メイ氏は行き過ぎた資本主義を見直すと同時に、格差を解消し、既得権益と闘うことを約束した。貧困層地域の寿命の短さや学歴の低さ、性別や民族による差別、勤労者層が抱く雇用や所得への不安といった問題を取り上げ『新政権は、一握りの恵まれた人の機会だけを守り続けはしない』と述べた」。
英・米の政権交代の動機は一言で言えば、移民問題だ。どの国も移民数の許容範囲を超えてしまったのである。余分に入ってきた移民たちが、既存の白人男性の職を次々に奪ってしまい、社会的安定を脅かしたのだろう。
移民の原動力となったのはアラブの混乱だ。アルジェリアに“アラブの春”を起して、エジプトにも民主主義革命を及ぼした。エジプトはナセル以来、60年間軍事独裁と言われながら安定してきた。そこに“選挙”の名目で過剰なムスリム同胞団の復活をもたらした。シリア、イラク、アフガンにまで民主主義を煽った。キリスト教徒が口を出したからこそISが生まれたと自覚すべきだ。 
世界でナショナリズム台頭へ 2016/6
11月のアメリカ大統領選挙で、ドナルド・トランプ氏対ヒラリー・クリントン氏の一騎打ちになった場合、支持率は45%対42%でトランプ氏が勝利し、両氏に加え、第3の政党「リバタリアン党」のゲーリー・ジョンソン元ニューメキシコ州知事が参戦する場合、3氏の支持率は各々42%、39%、10%で、これまたトランプ氏が勝利するという。これはFOXテレビの世論調査の結果で、5月18日、発表された。
トランプ氏がアメリカの大統領となるとき、世界はどのような展開を見せるのだろうか。
「アメリカを再び偉大な国にする」「アメリカを再び繁栄する国にする」などの抽象的な言葉しか語らないと批判されてきたトランプ氏は、約ひと月前の4月27日、大統領になった場合を想定して「外交政策」を発表している。
チャールズ・クラウトハマー氏はそれを「ガラクタ(jumble)」だと切って捨てた。氏はピューリッツァー賞を受賞した政治評論家である。
トランプ氏は外交政策の冒頭で、「アメリカ第一」を唱えているが、考えるまでもなく如何なる国においても、政治、外交、安全保障はすべて国益のためにある。歴代のアメリカ大統領も皆、国益を優先してきたはずであり、アメリカ第一は当然である。クラウトハマー氏はその意味でトランプ氏が「アメリカ第一」を強調するのは無意味だといいつつ、アメリカは本来、外交に殆ど興味を抱かないできた国だと指摘する。
アメリカを地政学的に見れば外交に強い関心を抱く必要がないのである。かつてビスマルクが指摘したのは、アメリカは南北を(メキシコとカナダの)二つの弱い国に、東西を魚の泳ぐ海に囲まれたとても恵まれた国だという点だ。それ故に外交に興味を抱かずとも、或いは同盟国など持たずに孤立したとしても、何ら不具合はないのだ。
アメリカに帰ろう
しかし、歴史が示しているのは孤立は必ずしもアメリカの安全につながらない。とりわけ、核ミサイルや国際テロの時代となった今日、孤立は安全を保障する具体策ではあり得ない。それでも孤立主義と背中合わせのアメリカ第一主義はアメリカ社会の根底に存在し、時代と状況に刺激されて表面化する。1940年のアメリカ第一主義委員会の設立もそうだった。しかしこれは41年12月、日本が真珠湾を攻撃した4日後に解散した。
いまトランプ氏が過激で野卑な言葉で語るアメリカ第一主義は、表現は全く異なるが、オバマ氏が説く外交、安全保障政策と本質的に同じなのである。
クラウトハマー氏は、オバマ大統領が09年12月にアメリカ陸軍士官学校、いわゆるウエスト・ポイントで、「私が最も関心を抱いているのはわが国の建設である」と語ったことを指摘する。オバマ大統領はトランプ氏同様、アメリカは世界に手を広げすぎ、対外投資をしすぎたという考えに駆り立てられているとの分析である。
トランプ氏の発表した外交政策は「ガラクタ」ではあっても、氏の唱えるアメリカ第一主義は40年代にアメリカ社会の表面に浮上し、90年代には共和党候補として大統領選に挑戦したパット・ブキャナン氏が標榜し、或いは、現在共和党上院議員を務めるリバタリアン(自由至上主義者)のランド・ポール氏らの考えにもつながる。
トランプ氏の発言はその場その場の即席でなされ、従って内容も曖昧で矛盾が目立つ。要は、どんな外交政策に落ち着くのか、氏の語る政策目標はどのように具現化していくのか、よく見えないのである。
しかし、ブキャナン氏が11年夏に出版した著書『超大国の自殺』を読めば、この書の中の主張からトランプ氏が多くを借りているのが見えてくる。
ブキャナン氏は盛んに「国家主義の復活」や「民族国家主義の高まり」を強調し、それが「ポスト・ポスト冷戦時代」の特徴だと主張する。アメリカはグローバリズムを超えて、20年前に祖国と自国の国民を第一に考える作業を始めるべきだったというのだ。
氏はまた、幾度となく繰り返していう。外の問題から手を引こう、いますぐに。アメリカに帰ろう、いますぐに、と。
インドシナとアルジェリアでの戦争によって「フランス帝国」の威信が低下したように、イラクとアフガニスタンでの戦争がアメリカの威信を低下させたとして、対外関与も同盟関係も、以下のように見直すべきだと書いている。
まず、冷戦時の敵であったロシアに関して、ブキャナン氏は、レーガン大統領は旧ソ連が崩壊したとき彼らをアメリカの「戦略的パートナーならびに同盟国」として取り込むべきだったと振り返り、「そこには合衆国の2倍の大きさを持つ大国、もはや互いに争いのない、友情に手を伸ばしてくる国があった」と悔いている。
「自分自身で守れ」
ロシアが影響力を保ちたい、つまり支配下に置きたいと考えているバルト3国やウクライナ、グルジア(ジョージア)などの命運に、アメリカは無関心ではないが、ロシアとの戦争のリスクを負ってまで守る国々ではないとする。その一方で、ロシアはコーカサスと極東で近未来に中国に領土を奪われてしまうのもほぼ確実だが、このような問題はアメリカにとって全く無関係な問題だと切り捨てる。
トランプ氏の主張はここまで明確ではない。しかしロシアと敵対せず、緊張緩和で平和的関係を築くのがよいとの主張の大枠はブキャナン氏のそれと同じである。
NATOについては、冷戦が終わったのであるからNATOとヨーロッパの米軍基地は全て欧州人に返上してアメリカに帰ろうと、ブキャナン氏は提唱し、トランプ氏はNATO諸国が応分の負担もせずに安全保障でアメリカに頼っていることを強く批判する。
ブキャナン氏は、日本と韓国には「自分自身で守れ」と要求する。米軍は朝鮮半島から完全撤退すべきであり、日本も同じだとしたうえで、「われわれが防衛している自由主義国家が、自ら核抑止力を開発できる能力があるのに、なぜアメリカが核戦争のリスクを背負い続けなければならないのか」と問う。トランプ氏も全く同じである。
このような主張のトランプ氏が大統領となる可能性、EU諸国がそれぞれの国内で極右勢力の台頭に直面している現実を見ると、いま世界に出現しているのは、グローバリズムの対極にあるナショナリズムだと明言できるのではないか。こうした中で、各国は自らの力で自らを守らなければならなくなる。日本にその認識と覚悟はあるか。そのことをいま厳しく問わなければならない。 
ナショナリズムと内向きになる世界−1930年代と酷似
 1930年代の政治的騒乱は世界を激変させた
いつまでも消えない経済への怒りと不安。既存の政治秩序に対する反抗。ナショナリズムの台頭と世界に背を向ける動き――。
先週行われた国民投票で英国が欧州連合(EU)からの離脱を決めたことや、米国が激動の大統領選の渦中にあることを踏まえると、これは今の政治情勢を表現したもののように聞こえる。だが実際は1930年代の世界情勢を表現したものだ。現在の状況は当時に最も良く似ているように見える。
30年代の政治的騒乱はもちろん、世界の激変につながった。今日の情勢もそうだと考える理由はほとんどない。それでも当時と今は似ている。経済への長引く怒りと不安が、型破りでともすれば過激とさえ言えるような政治的実験の戯れにつながったとしても、誰も驚かないであろうと思えるほどに似ている。過去を振り返ると、政治リーダーは根底に流れる世間の声をなかなか無視できないことが分かる。
07年に始まったリセッション(景気後退)と08年の金融危機から受けた傷と恨みは未だに解消されておらず、その苦痛はあまねく先進各国の有権者にやむを得ず、かつては信じがたいように思われた選択をさせるほど辛い――。それが2016年のこれまでの教訓だ。大統領候補の指名争いでは、1300万人が共和党のドナルド・トランプ氏に票を投じ、1200万人が民主党のバーニー・サンダース上院議員に投票した。従来であれば両方とも取るに足らない票数であり、かつてなら彼らのメッセージは政治の主流から大きく外れたものとみなされていただろう。
欧州では、社会主義の左派政党と国家主義を掲げる右派政党がにわかに支持を集めており、中には実際に権力の座についている政党もある。日本の安倍晋三首相はこの50年余りの間、聞いたこともなかったようなナショナリスト的な発言をしている。ロシアのプーチン大統領は国内のナショナリスト的な世論を復活させることで成功している。そして英国ではEUとのつながりを断ち切ろうと長年訴え続けてきた人々が突然、話を聞いてもらえるようになった――しかも、衝撃的な勝利を収めた。
1930年代の焼き直し
これらはすべて30年代の焼き直しだ。当時の政情を揺さぶる契機となった経済事情はもちろん「大恐慌」だ。その衝撃は最近のリセッションよりかなり深刻だった。
当時も現在と同様に、政治面に実際に影響が及ぶまで数年を要した。最初に影響が出たのは1932年の大統領選で、民主党のルーズベルト候補が現職のフーバー大統領を破ったことだった。ルーズベルト氏は経済を大恐慌の泥沼から引っ張り出すための過激ともいえる経済政策をひっさげてホワイトハウスに乗り込んだ。
だが30年代を通じて、有権者はあまり馴染みのない人物や思考にも傾いていった。左派では、ロバート・ラ・フォレット氏創設の進歩党がウィスコンシン州で根付いた。社会主義者を自認していた、サンダース氏に似てなくもないアプトン・シンクレア氏は1934年のカリフォルニア州知事選で民主党候補の指名を勝ち取った。
ポピュリズム(大衆迎合主義)も同様に定着した。トランプ氏に明らかによく似ているヒューイ・ロング氏はルイジアナ州の知事になり、最終的には大統領のポストに意欲を示し、全国的に知られる存在になった。ヘンリー・ウォレス氏の農業政策を通じたポピュリズムは同氏を副大統領に押し上げるほどの訴求力を持っていた。
耳障りな主張も聞かれるようになった。チャールズ・カフリン牧師は当時のメディアに革命をもたらしたラジオの全国放送を、ポピュリストかつ外国人排斥という自身のメッセージを拡散する理想的なツールととらえた。同氏が結成した社会主義国民同盟は全国的な勢力になった。
国内の経済が低迷するなか、国際社会から手を引くよう求める声も新たに支持を集めた。こうした世論は連邦議会で成文化もされた。1935年の中立法だ。戦争に反対する平和主義は大学のキャンパスで流行した。
欧州での激動の方がもちろん程度は大きかった。ドイツとイタリアではファシストが台頭し、その賛同者も西側諸国全域に散らばっていた。米国にもだ。英国は欧州大陸の出来事に巻き込まれないよう試みたものの、結果は惨憺たるものになった。ロシアのリーダーらも介入してきた。
違いは軍国主義の有無
当時と今とでは状況がはるかに異なるのは明らかだ。その最たる違いは、今日の政治的混乱には軍国主義の台頭が伴っていないということだ。米国の作家で歴史家のウィリアム・マンチェスター氏は1970年代の著作「栄光と夢:アメリカ現代史」の中で、極端なナショナリズムと軍国主義の組み合わせによる影響をこうまとめている。
曰く、「ルーズベルトが2度目の大統領選に出馬する前、ムッソリーニはエチオピアを掌握した。スペインでは火の手が上がった。ドイツは(非武装地帯だった)ラインラントに進駐し、そこを支配した。日本では若い軍人が、天皇が率いる政府を拡張主義と帝国主義へ向かわせた」。
プーチン大統領がクリミア半島をウクライナから奪い取ったことを除けば、現在こうしたシナリオが展開している場所はない。
だが、政治リーダーらにとって、現在の問題にかなり直結することが一つある。怒りと疎外感という国民感情を過小評価したり、取り合わなかったりすべきではないということだ。なぜならその原因は正当化され、その結果は強力なものとなりかねないからだ。
左派と右派の極端な世論の間で舵取りをするうえで、ルーズベルトが最終的にやってみせたのはまさにそれだ。ルーズベルトは従来型の政治家が生き残り、繁栄できることを示してみせた――周囲にはびこる非論理的に見える感情に取り合わないことではなく、それらを導くことによってだ。  
ナショナリズムと民主主義
浜林さんは愛国心が侵略的なナショナリズムに転化する危険性を説きながら、一方で愛国心を全面的に否定すべきではないと主張しておられます。その趣旨と内容をご説明いただけますか。
E・J・ホブズボームという歴史家がいますが、彼は政治の変革を求める者というのは実は自国を愛するが故に変革を求めるのだと説きました。愛国心は侵略的なナショナリズムに通じることが多く、その点ではネガティブにとらえなければなりませんが、その一方で進歩的な方向に通じる可能性もあると思うのです。実際に、18世紀イギリスにおいて愛国を掲げたのは進歩派だったのです。
ただ、政治の変革を志す者の愛国心は、たびたび自国の植民地支配の問題にぶつかったときに、真価が問われることになりました。18世紀に愛国を掲げたイギリスの進歩派はアメリカ独立戦争のときにその主張が動揺することになりました。結局、愛国という主張を「国王にハイジャックされた」と言われるようになりました。
日本においてもまず愛国を唱えたのは自由民権運動の志士でしたが、平和思想を唱えた植木枝盛も、大正デモクラシーの理論的支柱だった吉野作造も、日本の朝鮮支配=植民地支配を批判することはできませんでした。
このような歴史をふまえたとき、愛国の主張を進歩的な方向に結合させていくためには、それが民主主義を求める要求と結合して社会に広がることが肝要なのです。このようなことも問題提起したいと考え、先般『ナショナリズムと民主主義』を出版しました。
愛国の主張はどうしても他国とその人々を排斥する考え方と結びつくところがあり、やはりそれ自体も慎重にとらえられるべきではないかと思われますが、いかがでしょうか。
イギリスのプライスという人は、イギリスがフランスと戦争になったとき、「世界市民」という考え方を提唱しました。自国のみを愛するのではなく「世界市民」という考え方で他国の人々とも接しようということです。今日でも民主主義を説く人々の中に「世界市民」あるいは「地球市民」という考え方を主張する方がいらっしゃいます。
私はこの考え方を否定するつもりはありませんが、国民国家といえども権力者が人民を支配してきたのは歴史的事実であり、国家権力というものは絶えずチェックされなければなりません。したがって、国家権力の存在を軽視するという考え方はユートピアであり、現実的ではありません。民主主義の力によって人民のための国家をつくり、人民の人権を守らせるよう、絶えず国家の人民支配の手を縛るたたかいが繰り返される必要があります。その積み上げの中で歴史は進歩するのです。それは終わりのないたたかいなのです。
浜林さんは『ナショナリズムと民主主義』で、イギリスでは民主主義のたたかいはえいえいと積み上げられ、その伝統は日本と比べて大変大きいということも述べておられますね。
封建社会から自由主義社会への移行が民主主義の基礎なのですが、特に領主と土地に縛られた農民が自由をかちとるということが民主主義の発展にとって重要です。自由を求める農民のたたかいはイギリス社会の民主化に大きな役割を果たしました。日本では明治維新でも農民は自由を得ることができず、農民の自由は第二次世界大戦後まで実現をみませんでした。
民主主義のたたかいにおけるイギリスと日本の違いは、信教の自由を求めるたたかいにおいても歴然としています。イギリスでは歴史的に、カトリックからのイギリス国教会の独立が長く争われてきました。その中で、宗教で国民を統一することはできない、ということがイギリス国民共通の理解となったのです。つまり、国民の信教の自由が保障されるのには、政治と宗教とを切り離さなければならないということです。信教の自由はイギリスの民主主義の基本路線となっています。日本の場合、信教の自由をめぐる厳しい議論がおこなわれてきていません。このことも自由という考え方が十分に定着していない原因の一つです。
自由を求めるイギリスでのたたかいの歴史は今日のイギリス人の権利意識を高いものにしていると思いますが、その状況の具体例をお示しいただけませんか。
イギリスの中世の頃の話しですが、親が年老いて自分の畑を息子に譲る時にも契約書が交わされていた、という記録が残っています。畑は譲るとしても、親が家の中の暖炉のそばに座る権利はそのままだ、というような契約書でした。親と子であったとしてもあくまで個人対個人であり、契約の主体だということです。日本人の場合、家族ぐるみ、村ぐるみというような意識がまだまだ根強く、一人ひとりが個人として尊重されるという考え方があまり定着していません。
私がイギリスの人たちとお付き合いして感じることは、イギリスの人たちはプライバシーの権利ということを大事にしているということです。イギリスの人たちはあまり他人を自分の自宅に招くことはしません。自宅という場におけるプライバシーは守られるべきだという感覚があるのです。自分のプライバシーの権利についての意識が高いということは、他人のプライバシーの権利に対しても敏感です。
このように全体としてイギリスの人たちにとって自由や権利ということが日常の生活の中に根付いているのです。それは日本社会との大きな違いです。
一人ひとりが個人として尊重され、人権が保障されるような社会をつくり、そのためのたたかいが不断に積み上げられていくことが大事なのだと感じます。
愛国というのは全面否定することのできないパッションです。愛国の主張のネガティブな面をみすえながら、それをどう進歩的な方向に結び付けていくのか、ということが大事だと思います。教育基本法が改悪され、憲法「改正」によって愛国心が強要されようとしている時だけに、大いに問題提起したいと思っています。 
世界はナショナリズムへと逆行するのか
戦後71年を迎えた今年2016年、まだ下半期が始まったといったところですが世界では政治経済ともに多くの動きがありました。その中でも「Brexit」や米大統領選でのトランプ氏の躍進、反移民・難民運動など世界各国に広がる不寛容、これらの出来事は私たちに漠然とした不安を抱かせます。グローバル化がもたらしたボーダーレス化に逆行し、第二次世界大戦や冷戦の時代のような分離と対立の時代となってしまうのでしょうか。
私はこの問題に対し、ナショナリズムの意義を再確認するべきだと思っています。
ナショナリズムとは
ナショナリズムはナポレオン戦争前後に確立し、その後の国民国家形成の原動力となりましたが、他のイデオロギーと違って提唱者の存在がはっきりとしておらず、その定義は愛国主義や国家主義、国粋主義など様々に及び断定するのは難しいです。ナショナリズムは多くの著名人から戦争を起こし、煽り立てるイデオロギーとして批判されてきました。その例としては以下
「愛国主義の名の下に行われる英雄主義・命令、意味の無い暴力、そして忌むべき愚行。それらを私は激しく憎む!」
「ナショナリズムは小児病である。それは国家の麻疹(はしか)である」-アルベルト・アインシュタイン
「愛国者は常に祖国のために死ぬことを口にするが、祖国のために殺すことについては決して語らない。」-バートランド・ラッセル
「愛国心とは、ならず者たちの最後の避難所である」-サミュエル・ジョンソン
結構ボロクソに言われてますね。
他にもナショナリズムは古来からあったものではなく、近代特有のものであるという主張が存在します。先ほども述べました通りナショナリズムはナポレオン戦争の前後に生まれたものと言われています。国民国家を形成する過程で多くの国で地方ごとの差異を抹消して均質化する試みがなされました。
その例としては言語が該当します。近代国家ができる以前「標準語」というものは存在せず、その地方独自の言語、いわば方言しか存在しませんでした。国民国家を形成するうえでは教育を国民に施す必要がありますので、ここで「標準語」というものが生み出されました。
その一方で、他国との差異は強調されました。例としては17~18世紀に独立したラテンアメリカ諸国があげられます。これらの国々ではラテンアメリカ出身の白人(クリオーリョ)がスペイン出身の(ペニンスラール)に反抗した結果独立運動が起きました。つまりクリオーリョはペニンスラールとの差異を強調することで国民国家を形成したのです。差異の強調と均質化、その双方を使ってナショナリズムは我々のナショナルアイデンティティを形成しました。あなたがもし漠然と郷土愛や祖国愛などを持っているとしたら、それは案外最近作られたものかもしれませんよ?
ナショナリズムは悪?
上記の通り、ナショナリズム・愛国心批判には大抵戦争・対立を煽るものという点が批判されます。総力戦となった第一次世界大戦、それに続く第二次世界大戦の間ではプロパガンダとしてナショナリズムが煽られ国民団結力を高めました。戦後の紛争においてもナショナリズムが煽り立てられた例が数多くあります。
じゃあ結局ナショナリズムって時代遅れの産物で、伝統とか強調するくせに実は近代に作られた幻想の概念で唾棄すべき悪ってことなのでしょうか。
ナショナリズムをそのようにとらえると、少なくとも2016年上半期のような反発を招くだけでしょう。
Brexitや反移民・難民のムーブメントはグローバリズムに対するある種の反動かもしれません。しかし歴史の流れに逆行するものとしてそれを一概に批判していても、実は袋小路に迷い込んでいたのは我々だったのかもしれません。つまるところ「進歩」なぞ今の我々にはわからないのです。今後の歴史が今まで通りボーダーレスに向かうのか、それとも再びナショナリズムへ向かうのかはわかりませんが、ナショナリズムの性質について、ちょっと考えてみましょう。
国民国家形成の過程をもう一度振り返ってみれば、国民国家は均質化を図ることで同質の国民を形成したということがわかります。これによって地方共同体に所属していた人間を国家という、より大きな共同体に所属させました。個人のアイデンティティの依代は地方共同体から国家へと変貌したわけです。それなら地球規模で個人を均質化してみればいいのではないかというものが、乱暴に言えばグローバリズムであると私は考えています。地球規模でのナショナリズムともいえるグローバリズムですが、そこには均質化はあっても差異の強調がありません。ここがグローバリズムの限界と言ってもいいかもしれません。比較の対象となる「敵対的宇宙人」のようなものがいるのなら、私も積極的に「地球市民」になれるのかもしれませんけど。
ナショナリズムは2016年の今日でもナショナルアイデンティティの依代となる国民国家を維持しています。この現状を無視して盲目的に歴史を「進歩」させようとすることは個人の文化帰属意識を揺るがし、かえって反グローバリズム、ひいてはナショナリズムの潮流を引き起こしかねません。戦後71年を迎え、大きく動いた国際情勢を考えるうえで、各国のナショナリズムに少し耳を傾けるのも必要ではないでしょうか。 
 
ファシズムとは何か / ジョージ・オーウェル 1944

 

私たちの時代において答えが出ていない問題のうち、おそらくもっとも重要なものは「ファシズムとは何か?」というものだろう。
最近アメリカでおこなわれた社会調査の一つではこの質問が百人のさまざまな人間にされたが、得られた答えは「純粋な民主主義」から「純粋な悪魔崇拝」まで幅広いものだった。この国でもし平均的な思考をする人物にファシズムを定義するよう頼めば、普通はドイツとイタリアの体制のことだという答えが返ってくる。だがこれはまったく不十分な答えだ。なぜならそれら主要なファシスト国家でさえその体制とイデオロギーは互いに大きく異なるからだ。
例えばドイツと日本を同じ枠組みに押し込めることは簡単ではないし、ファシスト的と形容できるいくつかの小さな国について言えばそれはさらに難しい。例えばファシズムは本質的に好戦的であると一般に考えられている。それはヒステリックな戦争熱の空気の中で育ち、経済的な問題の解決手段として戦争準備と外国の征服しか方法を持たないとされているのだ。だが明らかにこれは真実ではない。ポルトガルや南米のさまざまな独裁国家を見ればそれはすぐにわかる。また反ユダヤ主義がファシズムを見分ける特徴の一つだとされることもある。しかしいくつかのファシスト運動は反ユダヤ主義をとらない。アメリカの雑誌で長年にわたって喧々諤々と続く学問的な論争ではファシズムが資本主義の一形態であるかどうかについてさえ結論がでていないのだ。だがしかし私たちが「ファシズム」という言葉をドイツや日本やムッソリーニのイタリアに対して使うとき、それが何を意味しているかを私たちは大まかには理解している。この言葉がその意味の痕跡を失うのは国内政治の場においてのことなのだ。もし報道をよく調べれば、過去十年の間にファシストと非難されたことがない人々は……それが政党でも、その他の組織でも……ほとんどいないことに気がつくだろう。ここで私が言っているのは会話での「ファシスト」という言葉の使用についてではない。印刷物で目にするものについて言っているのだ。「ファシストへの同調」、「ファシスト的傾向」あるいはたんに「ファシスト」といった言葉が大真面目に次に挙げるような人々の一群に使われているのを私は目にしたことがある。
保守主義者 / 全ての保守主義者はそれが融和策の支持者であろうと反融和策の支持者であろうと主観的にファシスト支持者であると考えられている。インドとその植民地でのイギリスによる統治はナチズムと区別不可能と考えられているのだ。愛国的で伝統的なタイプと呼ばれるであろう組織は隠れファシストあるいは「ファシスト志向」とレッテル張りされる。例えばボーイ・スカウト、ロンドン警視庁、MI5、イギリス在郷軍人会といった組織だ。それを端的に表すのが「パブリックスクールはファシズムの温床である」という文句だ。
社会主義者 / 昔ながらの資本主義の擁護者(例えばアーネスト・ベン卿)は社会主義とファシズムが同じものであると主張している。カトリック教徒のジャーナリストの一部は社会主義者はナチに占領された国々で重要な役割を果たした内通者だったと主張している。極左的だった時期の共産党からも異なる角度から同じ非難がされている。一九三〇年から一九三五年の間、デイリー・ワーカー紙は繰り返し労働党を労働ファシストと呼んだ。無政府主義者といった他の極左勢力もこれを真似た。インド・ナショナリストの一部はイギリスの労働組合をファシスト組織であると考えている。
共産主義者 / かなりの数の学者(例えばラウシュニング、ピーター・ドラッカー、ジェームズ・バーナム、F・A・フォークト)がナチとソビエト体制の間に違いあるということを認めようとしない。彼らはすべてのファシストと共産主義者はほとんど変わらないものを目指し、一部は同一の人々でさえあると考えている。(戦争前の)ザ・タイムズ紙の社説はソビエト連邦を「ファシスト国家」と呼んだ。これもまた異なる角度から無政府主義者やトロツキストに真似られている。
トロツキスト / 共産主義者はトロツキスト、つまりトロツキー自身の組織をナチから資金を受けた隠れファシスト組織であると非難した。これは人民戦線時代に左派で広く信じられていた。極左的だった時期の共産主義者は同じ非難を全ての党派から果ては自身の左派勢力に対してまでおこなっていた。その対象はイギリス連邦やILPにまで及ぶ。
カトリック / 組織の外からはカトリック教会は客観的にも主観的にもファシスト支持者であるとほぼ例外なく広く見なされている。
戦争反対者 / 平和主義者やその他の反戦主義者はしばしば枢軸国を利すからというだけでなく、ファシスト支持的感情に毒されているということを理由に非難される。
戦争支持者 / 戦争反対者は通常、イギリス帝国主義はナチズムよりもひどいものであるという主張を議論の基礎にし、軍事的勝利を願う者には誰であろうと「ファシスト」という言葉を使う傾向がある。ピープルズ・コンベンションの支持者はナチの侵攻に抵抗する意志はファシストへの同調の現れだと主張しかねない勢いだ。ホーム・ガードは設立されるやいなやファシスト組織だと非難された。さらに言えば左派全体に軍国主義とファシズムを同一視する傾向がある。政治意識を持った兵卒はほとんどの場合、自分の上官を「ファシスト的思考」だとか「生まれついてのファシスト」と呼ぶ。軍学校、軍内での完璧な身だしなみ、上官への敬礼はすべてファシズムへつながるものだと見なされる。戦争が始まる前、国防義勇軍への参加はファシスト的傾向の現れと見られていた。徴兵と常備軍は両方ともファシスト的現象であると非難されている。
ナショナリスト / ナショナリズムは本質的にファシスト的であると一般に思われている。しかしこれはその人が図らずも承服できない愛国運動に対してしか当てはめられることはない。アラブ・ナショナリズム、ポーランド・ナショナリズム、フィンランド・ナショナリズム、インド・コングレス党、ムスリム連盟、シオニズム、そしてIRAは全てファシストであると言われているが、同一の人間がすべてをそう呼ぶことはない。

使われ方からして「ファシズム」という言葉がほとんど完全に意味のないものであることがわかるだろう。もちろん会話においては印刷物で使われる時よりもさらに広く使われている。私が聞いただけでも農場経営者、小売店主、社会信用党、体罰、狐狩り、闘牛、一九二二年委員会、一九四一年委員会、キップリング、ガンジー、蒋介石、同性愛者、プリーストリーの番組、ユースホステル、占星術、女性、犬、その他の私のあずかり知らぬもろもろににこの言葉は使われている。
だがこの混乱の下には埋もれた意味とでも言うべきものが横たわっている。まずはじめに言っておかなければならないのはファシスト的と呼ばれる体制と民主的と呼ばれる体制の間には、簡単に指摘できるものであれ説明が難しいものであれ、非常に大きな違いが明確に存在するということだ。第二に、もし「ファシスト」という言葉が「ヒトラーへの同調」を意味しているとすれば、私が先に挙げた非難の言葉のうちその使い方が正当化されるものは一部しかない。第三に、無思慮に「ファシスト」という言葉を全方位に投げつける人間であっても、いくらかの感情的な意味をその言葉に込めていることは確かである。彼らが「ファシズム」という言葉で表したいものはおおざっぱに言えば何か残酷なもの、不公正で尊大で蒙昧で、反自由主義、反労働者階級的なものなのだ。比較的数の少ないファシスト支持者を除けば、ほとんどのイギリスの人間は「ファシスト」の同義語が「弱い者いじめをする者」であると言われて納得するだろう。これこそがこの乱用されている言葉の意味の定義にもっとも近いものなのだ。
だが同時にファシズムは政治と経済の体制でもある。それではなぜその定義を明確にして広く受け入れることができないのだろうか? 悲しいかな! 私たちはそれを手に入れていないのだ……ともかくも今はまだ。なぜそんなに時間がかかるのかという疑問はもっともだが、それはファシスト自身や保守主義者、種々の社会主義者といった議論に参加する意志のある者たち全員が認めるような満足のいく定義をファシズムに与えることが根本的に不可能なためだ。さしあたり皆に可能なのは慎重にこの言葉を扱い、いつものように罵りの言葉に貶めないようにすることだ。
1944年3月24日

1. この国:イギリスを指す
2. MI5:軍情報部第5課。イギリス国内治安維持に責任を持つ情報機関。
3. ILP:独立労働党
4. ピープルズ・コンベンション:1940年から1941年にかけてイギリスの共産主義勢力によって提案された「人民政府」
5. ホーム・ガード:第二次世界大戦中にイギリスで編成された民兵組織。オーウェルも参加していた。
6. 社会信用党:カナダの政党
7. 一九二二年委員会:イギリス保守党の現職議員をメンバーとする組織。一九二二年に始めて組織された。
8. 一九四一年委員会:戦争遂行努力を促進するために一九四〇年に政治家、文筆家といった人々で結成された組織  
 
ナショナリズムについて / ジョージ・オーウェル 1945

 

どこだったかでバイロンがLONGEURというフランス語の単語を引いて、この言葉を英語に翻訳しようとしてそれと対応する言葉が無いことに気がついたと書いていた。それが表す物は無視できないほど大量に存在するというのにだ。同じように現在、広く蔓延しているある思考の傾向が存在し、それがほとんど全ての物事に対して私たちの思考に影響を及ぼしているというのにそれにはいまだに名前が与えられていない。意味が最も近い既存の言葉で言えば「ナショナリズム」だ。だがそれは本来の意味からすると私がその言葉を使わない場面で観察されることがある。つまり私が言っている感情というのは必ずしも国家と呼ばれるもの……つまり一つの民族や地理的な領域……に結び付けられないのだ。それは教派や階級と結びついているように見える。あるいは単にネガティブな意味で何かに敵対する場合に働き、ポジティブな忠誠心といったものはなんら必要としていないようなのだ。
「ナショナリズム」という言葉で私が言っているのはまず第一に人類は昆虫と同じように分類できると見なす傾向であり、何百万あるいは何千万もの人々の区分全体を自信満々に「善いもの」か「悪いもの」にラベル付けできるという傾向だ[下記の注記を参照]。だがその次に……そしてこちらの方が重要なのだが……私が言っているのは自分自身を一つの国家あるいは組織に基づいて自己定義し、それを善悪の上に置き、その利害の他にはなんら義務を感じないという傾向なのだ。ナショナリズムがパトリオティズム(愛国心)と混同されることはない。二つの言葉はどちらも普通とても曖昧な使われ方をし、その定義には疑問が投げかけられやすい。だが両者ははっきりと区別しなくてはならない。この二つは異なるものだし正反対の概念さえ含んでいるのだ。「パトリオティズム」という言葉で私が言っているのは特定の地域あるいは特定の生活の仕方に対する献身的な愛情だ。それらを世界で最高のものであると信じるがそれを他の人々に強要するつもりは毛頭ないという考え方なのだ。パトリオティズムはその性質からして受動的なものでそれは軍事面にたいしても文化面に対しても言える。一方、ナショナリズムは権力に対する欲求と切り離すことができない。全てのナショナリストの変わることのない目標はさらなる権力、さらなる名声を得ることである。その名声とは、自分自身に対するものではなく自分がその人格を埋没させることを選んだ国家あるいは組織に対するものだ。
[注記:国家、あるいはもっと曖昧な存在であるカトリック教会やプロテスタントといったものは一般に人間であるかのように考えられ、ときには「彼女」と呼ばれることさえある。「ドイツは生来、不誠実である」といった明らかに馬鹿げた発言がどの新聞を開いても見つけられるし、国民性に対する無茶な一般化(「スペイン人は生来の貴族である」あるいは「イギリス人は全員、偽善者である」といったもの)はほとんどの人間が口にするところだ。時にはそう言った一般化には根拠が無いと見なされることもあるが、こういった習慣は根強く、一見すると国際性豊かに見える人々、例えばトルストイやバーナード・ショーといった人物などもしばしばこういったことを口にする(原著者脚注)]
これらがたんにドイツや日本といった国の比較的悪名高い特定のナショナリストの動きに使われている場合にはそういったことは十分自明である。ナチズムのような現象に直面し、それをその外側から観察することができれば私たちのほとんどはそれに対して同じことを言うだろう。だがここで私は上で述べたことを再度繰り返したい。ナショナリズムという言葉を私が使うのはそれの他には良い言葉が見つからないからなのだ。ナショナリズムという言葉を私が使う時、そこには拡張された意味が込められ、それには共産主義や政治的カトリシズム、シオニズム、反ユダヤ主義、トロツキズム、平和主義といった運動や動きも含まれている。それは必ずしも政府や国……その者自身の国であっても……への忠誠心を意味せず、さらに厳密に言えば所属する組織さえ実際のところ存在する必要がないのだ。明らかにそれと分かる例をいくつか挙げればユダヤ民族、イスラム教、キリスト教、プロレタリアートまた白色人種といったものは全て熱烈でナショナリスティックな感情の対象である。だがその実在に対してはおおいに疑念を投げかけることが可能であるし、そのどれ一つをとっても普遍的に受け入れられる定義は存在しない。
またナショナリストの意識というものが完全にネガティブなものになり得ることはここでもう一度強調しておく価値がある。ソビエト連邦へのたんなる敵対者へと変わったトロツキストがその一例で、彼らにはそれにともなう何か他の組織への忠誠心が育まれることはなかった。これが意味するところを理解すれば私がナショナリズムという言葉で言っているものの性質がずっと明確になる。ナショナリストというのはひたすら、あるいは主として威信を競い合うという観点からのみ物事を考える人間なのだ。彼はポジティブにもネガティブにもなり得る……言い換えれば自らの精神的なエネルギーを声援にも中傷にも使う……しかしいずれにしてもその思考の向かう先は常に勝利や敗北、歓喜や屈辱なのだ。彼らは歴史、とりわけ現代史を終わりなき大国の盛衰の過程としてとらえ、何か事件が起こればそれは全て自分の側が優勢になり憎むべき敵対者が劣勢になった証拠だと見なす。しかし付け加えておけばナショナリズムとたんなる成功に対する崇拝を混同しないことは重要である。単純に最も強い側につこうという原則にナショナリストは従おうとはしない。それどころか自分のいる側を指してこちらこそが最も強いのだと自らを説き伏せ、あらゆる事実が彼の考えを反証していようともその信念を揺るがさずにいられるのだ。ナショナリズムとは自己欺瞞によって鍛え上げられた権力への渇望なのである。全てのナショナリストは最もひどい嘘であろうと受け入れる能力を持っているが同時に……何か自分自身よりも大きな存在に仕えているのだという意識があるために……自らの正しさに対して揺るぎない確信を持っているのだ。
さてここで私は長々しい定義を述べたわけだが私が語っているこの思考の傾向がイギリスの知識人の間に広がっていること、そしてその広がり具合は一般大衆の間のそれを凌ぐものであることは認めていただけるだろうと思う。現代政治に深く関心を抱く人々の間ではそれが威信に関わる問題であるということが影響して特定の話題について純粋に理性的な態度をとることがほとんど不可能になっているのだ。何百もある例の中から一つあげてみよう。この質問について考えてほしい。三つの強大な同盟国であるソビエト連邦、イギリス、アメリカのうちドイツ打倒に最も貢献したのはどの国だろうか? 論理的にはこの質問に合理的でおそらくは納得のゆく回答を与えることができるはずだ。しかし実際にはそれに必要な見積もりをおこなうことは不可能なのだ。なぜなら必然的に威信をかけたものになるそういった質問に頭を悩ませようという人間は一人もいないからだ。まず最初にやることと言えばロシア、イギリス、アメリカのうちのどれを選ぶか決めることだろう。そしてその後になって自分の結論を支持する議論を探し始めるのだ。関係する物事の全てに公平な者から得られるただひとつの誠実な回答に対しては同じような質問が途切れなく浴びせかけられ、それがどのようなものであれ採用されることはないのだ。政治や軍事の分野での予測の大失敗の裏にある事情の一部がこれだ。全ての学派の「専門家」を見渡しても一九三九年の独ソ不可侵条約といったような出来事を予見できた者がただの一人もいなかったという事実は興味深い[下記注記1]。不可侵条約のニュースが発表された時にはそれに対する考え得る限りで最も乱暴で相矛盾する複数の説明が与えられ、またほとんど間をおかずにそれが予測されたものだと捏造された。与えられた説明のほとんどは可能性に関する考察だけでなくソビエト連邦を善良あるいは邪悪であるように見せたい、強者あるいは弱者であるように見せたいという欲求に基づいた物だった。占星術師じみた政治や軍事の解説者たちはまずどのような間違いを犯そうが失脚することはない。なぜなら彼らを熱愛する信奉者たちが求めているのは事実に対する見識眼ではなく、ナショナリスティックな忠誠心に対する刺激だけだからだ[下記注記2]。そして審美的な見解、とりわけ文学的なものもまた政治的な見解と同じようにしばしば腐敗する。インド人ナショナリストにとってはキップリングを読んで楽しむことは難しいだろうし、保守派の人間にとってはマヤコフスキーの価値を理解することは困難を極めるだろう。そしてそれがどのような書籍であろうが、自分の性向に合わないものに対しては、文学的な観点から見て俗悪であると主張したいという衝動が常に存在するのだ。ナショナリスティックな見解を強く持つ人々はその不誠実さを自覚すること無くこの手くだを頻繁に使う。
[注記1:ピーター・ドラッカーなどの保守的な傾向の作家の何人かはドイツとロシアの間の協定を予言したが彼らが予期していたのは恒久的に続く実質的な同盟、あるいは併合であった。マルクス主義あるいはその他の左派の作家にはその傾向を問わずあの条約に近いことでさえ予言した者はいなかった。(原著者脚注)]
[注記2:大衆紙の軍事評論家のほとんどは親ロシアか反ロシア、保守主義か反保守主義に分類できる。マジノラインが難攻不落であると信じるという錯誤、あるいは三ヶ月以内にロシアがドイツを制圧するというような予言が彼らの名声を揺るがせることはない。自らが獲得した特定の聴衆が耳にしたいと思うことを彼らは常に発言しているからだ。知識人に最も好まれている二人の軍事評論家がリデル・ハート大尉とフラー少将である。前者は防衛こそが攻撃に勝ると説き、後者は攻撃こそが防衛に勝ると説いている。この矛盾は二人がその道の権威として同じ聴衆に受け入れられることの妨げになってはいない。左派陣営内での彼らの人気の秘密はこの二人が陸軍省と反目していることにあるのだ。(原著者脚注)]
その傾向を持つ者を観察すればイングランドにおいてはナショナリズムの主な形態は昔ながらの好戦的愛国主義であることがわかるだろう。このような考えがいまだにささやかれているのは確かなことだし、さらにつけ加えればほとんどの識者は数十年前にはそれを信奉していたことだろう。しかし私がこの小論で主に問題にしたいのは知識人たちの反応なのだ。ごく少数の者ではそれが復活しているように見えるにせよ、知識人の中では好戦的愛国主義や、あるいは昔ながらの愛国主義さえほとんど死に絶えている。知識人たち限って言えばナショナリズムのとる主な形態は言うまでもなく……非常におおざっぱな意味での……共産主義である。これはたんに共産党のメンバーだけを指しているわけではなく、それへの「共鳴者」とロシア愛好者をも含んでいる。私がここで言いたい共産主義者とはソビエト連邦を祖国と見なし、ロシアの政策の正当化や全ての犠牲を払ってでもロシアの利益を促進することが自らの責務であると感じる者のことである。現在のイギリスにこのような人々が大勢いることは明らかで、彼らの直接、あるいは間接的な影響力はとても大きい。だがそれ以外にも多くのナショナリズムの形態が栄えている。そして異なる思想を持ち、時には最重要の関心事について全く反対の思想を持つことさえあるそれらの間の類似に気がつけば問題点についてよく理解できるだろう。
十年あるいは二十年前、現在の共産主義と対応する最も近いナショナリズムの形態は政治的カトリシズムだった。その最もずば抜けた主導者は……おそらくその種の典型の極端な例であるにせよ……G・K・チェスタートンだろう。チェスタートンは稀有な才能をもった作家の一人だった。ローマ・カトリックのプロパガンダのためにその感性と知的誠実性の両方を押し殺すという才能だ。生涯最後の二十年、あるいはその生涯にわたる彼の主張の全ては実際のところ止むことなく同じ主題の繰り返しだ。そしてその単純さと退屈さにおいてそれは「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と唱えるのとさして変わるところがない、こじつけられた策略のもとでおこなわれていた。他愛もない会話で埋め尽くされた彼の作品の全てはプロテスタントや異教徒に対するカトリックの優越性という誤解をはるかに突き進めたものであった。
だがチェスタートンはその優越性がたんに知性や霊性だけにおけるものであるという考えに満足しなかった。それは国家の名声と軍事力という観点に翻訳され、必然的にラテン諸国、とりわけフランスへの盲目的な理想化を引き起こした。チェスタートンが長期間フランスに滞在したことはないし、彼の思い描くそれ……カトリックの農民たちが赤ワインの満たされたグラスを掲げながら絶え間なくラ・マルセイエーズを歌い続ける大地……は現実味という意味ではチューチンチョウで描かれるバグダッドでの日常生活とさして変わるところがない。そしてそれはフランスの軍事力に対する極端な過大評価だけではなく(一九一四年から一九一八年の前後で彼は変わることなくフランスは独力でドイツよりも強大であると主張し続けた)、戦争の実態に対する馬鹿げた通俗的な賛美をも引き起こした。「レパン」や「聖バルバラのバラード」といったチェスタートンの戦争詩を読むと「軽騎兵旅団の突撃」がまるで平和主義者のパンフレットのように思える。それらの詩はおそらく私たちの言語で書かれたものの中で見つけ出すことのできる最も安っぽい大言壮語の寄せ集めと言えるだろう。面白いことに彼が習慣的に書き連ねていたフランスとフランス軍へのロマンチシズムにあふれたくず紙が何者かによってイギリスとイギリス軍についてのものに書き換えられたことがある。おそらくそれを実行した者こそ最初に彼を皮肉った人物と言えるだろう。自国政治について言えば彼は小イギリス主義者だった。好戦的愛国主義と帝国主義を心から憎み、自らの信条に従った民主主義の真の友だった。だが一歩外に出て国際分野に踏み出すと彼は自らの原則を放棄し、しかも自分でそれに気がつくことさえ無かった。従って彼のほとんど不可解とも言えるほどの民主主義的美点への信念は彼がムッソリーニを賞賛することの妨げにはならなかった。ムッソリーニは代議政治と報道の自由を打ち壊した。それらはチェスタートンが自国で粘り強く取り組んできたものだった。しかしムッソリーニはイタリア人で、イタリアを強大にしたのでありそれで問題は帳消しなのだった。また有色人種に対する征服行為や帝国主義に関してもそれがイタリア人やフランス人によっておこなわれた時にはチェスタートンは何の発言もしなかった。彼の抱く現実感や自らの文学の嗜好、さらにはいくばくかの道徳感さえナショナリスティックな忠誠心が関わってくるとすぐさまその場所を明け渡すのだった。
チェスタートンの例によって示されるように政治的カトリシズムと共産主義との間には明らかに多くの類似点がある。またそれら二つと例えばスコットランドのナショナリズム、シオニズム、反ユダヤ主義やトロツキズムとの間にも同様の類似点が存在する。たとえその精神的な傾向においてであっても、ナショナリズムの全ての形態が同じであると言うのは過ぎた単純化ではあるだろう。しかしそこには全てに当てはまる特定の規則性がある。ナショナリストの思想における主な特徴を挙げれば次のようになるだろう。
強迫観念。より正確に言おう。自らの属する権力構成単位の優越性を除いては考察をおこなったり、語ったり、文章を書いたりしようとするナショナリストはいない。ナショナリストにとって自らの忠誠心を内に秘めることは不可能とまでは言えないまでも困難なことなのだ。自らの属する権力構成単位への最もささやかな非難、あるいは敵対する組織への無言の賞賛はどのようなものであれ彼を不安におとしいれ、それに対する痛烈な反論をおこなわずにはその不安を取り除くことはできない。選ばれた構成単位がアイルランドやインドといった実際に存在する国である場合、ナショナリストは一般にその国の優越性を主張する。その対象は軍事力や政治的美徳にとどまらず芸術、文学、スポーツ、言語構造、その国民の肉体的な美しさ、時には気候や景観、料理にさえ及ぶ。ナショナリストは旗の正しい掲揚の仕方、新聞の見出しの相対的な大きさ、異なる国々の名前を挙げる際の順番といったことにひどく過敏な反応を示す[下記の注記]。また命名というものはナショナリストの思想の中で非常に重要な役割を果たしている。自らの独立を勝ち取ったり、ナショナリストによる革命を経験した国々はふつうその名前を変える。そのような強烈な転向を経験した国、あるいはその他の構成単位はどれも複数の名前を持つ傾向があり、その名前のそれぞれが異なる意味を持つ。スペイン内戦で対立した二つの勢力は合わせて九つか十の名前を持ち、その名前はそれぞれ異なる度合いで愛情と憎悪を表していた。そのいくつかの名前(例えばフランコ支持者は「愛国者」、政府支持者は「忠誠者」)は率直に言って疑問を呼ぶもので、またどの一つをとっても二つの敵対する派閥の間で同じ意味で使われたものはなかった。全てのナショナリストは自らの言語を広め、敵対する言語を損ねることを自らの責務だと考えていて、英語話者においてはこの奮闘は方言間の争いというささやか形をとって再び姿を現しつつある。イギリス嫌いのアメリカ人はもしそれがイギリス起源のものとわかれば特定のスラングを使うことを拒絶するだろうし、ロマンス諸語話者とジャーマン諸語話者の間の対立の背後にはナショナリスト的な動機がある。スコットランドのナショナリストはスコットランド語の優越性を主張し、社会主義者の場合にはそのナショナリズムはBBCアクセントに対する階級憎悪的な批判という形をとり、しばしばそれは類感呪術的信仰……政敵の人形を燃やしたり、政敵の写真を射撃練習場の的として使うという広く見られる習慣はおそらくこの信仰に由来する……を思わせるほどである。
[注記:アメリカ人の一部は「英米」という言葉の二語の並びに不満の声を上げている。「米英」とするべきだと言うのだ。(原著者脚注)]
不安定性。ナショナリストの気性の激しさはその忠誠心が変化するのを妨げることはない。すでに私が指摘したとおり、初めのうちは彼らは一つのものに集中できるし、しばしば特定の外国に固執する。それがかなり一般的に見られるのが卓越した国家首脳やナショナリスト運動の創始者である。彼らは自らが賛美している国の国民でさえないこともある。ときには完全な外国人であることもあるし、よくあるのはその帰属性に疑問がある周辺地域の出身である場合だ。例えばスターリン、ヒトラー、ナポレオン、デ・ヴァレラ、ディズレーリ、ポアンカレ、ビーバーブロックがそうだ。汎ゲルマン運動は部分的にはイギリス人であるヒューストン・チェンバレンの手によって創始された。過去五十年か百年の間、よその集団に対するナショナリズムは文学界の知識人たちの間で一般的に見られる現象だった。その対象はラフカディオ・ハーンの場合には日本だったし、カーライルと多くのその同時代人の場合にはドイツだった。私たちの時代においてはその対象は普通、ロシアである。だがとりわけ興味深いのはその対象が再度変わることがありえるということだ。何年ものあいだ崇拝対象であった国、あるいはその他の構成単位がある時、唐突に憎悪の対象になり、他のものがほとんど間をおかずにその偏愛対象の座を取って代わる。H・G・ウェルズの歴史概要の初版や同時期の彼の著作ではアメリカ合衆国が賞賛されているのを目にすることができる。その様は現在、共産主義者がロシアを賞賛するのと変わるところがない。だがほんの数年でこの無批判な称賛は敵対心へと変わる。頑迷な共産主義者が数週間、時には数日の内に同じくらい頑迷なトロツキストへと変わるのはよく目にする光景だ。大陸ではヨーロッパファシスト運動へと流れ込んだ参加者の多くが元共産主義者だったし、おそらくはその逆の動きがこれからの数年で起きることだろう。ナショナリストの中で変わらないのはその精神の状態であって感情の向かう先は変わりえるし、恐らくはそれは仮想的なものなのだろう。
だが知識人にとって転移には重要な機能があることは私がすでにチェスタートンに関連して述べたとおりだ。それによってナショナリストはよりナショナリスティックに……つまりより通俗的で、白痴的で、悪質で、不誠実に……なっていき、よりいっそう自らの生まれた国、あるいは知識を持つ任意の構成単位を利することができるようになる。スターリンや赤軍といったものについて書かれた卑屈な、あるいは自慢げな紙くずを目にし、それが立派な知識人や感性豊かな人々の手によるものだと知ればなんらかの転移が起きでもしなければそんなものを書くことは不可能であるということに気がつくだろう。私たちの暮らすような社会では自らの国に非常に深い愛情を感じている知識人というものはなかなか思い描くことができない。世論……つまり彼が知識人であると知っている世論の一部……がそれを許さないのだ。周囲の人々の多くが懐疑と不満を訴えれば、その模倣からか臆病風からか、彼は周りに同調することを選ぶだろう。その場合、すぐ手の届く場所にあるナショナリズムという形態を彼は放棄し、誠実な国際主義者と見られることにも慎重になるだろう。その上で依然として自分には祖国が必要であると感じれば、彼がどこか国外にそれを求めるのは自然なことではないだろうか。いったんそれを見つけ出せば彼は遠慮することなくまさに自分自身を解放してくれるように思われるそれらの感情に溺れるだろう。神、王、皇帝、ユニオンジャック……打ち倒された全ての偶像は異なる名で再び姿を現す可能性がある。そしてその正体が何であるかを理解されていないがために、何のやましさも感じさせることなく崇拝されるのだ。転移されたナショナリズムは贖罪のやぎを利用するのと同様、自らの行いをなんら改めずとも達成される救済の手段なのである。
現実に対する無関心。ナショナリストであれば誰でも似通った事実の間の類似点を無視する力を持っている。イギリスのトーリー主義者はヨーロッパの自決権を主張する一方でインドの自決権には反対することに何の矛盾も感じないだろう。ある行動は自身の利益、さらには誰によってそれがおこなわれたかによって善にも悪にもなるのだ。そしてそこにはほとんど何の限界もない……拷問、人質の利用、強制労働、大規模な国外追放、裁判無しでの投獄、書類の捏造、暗殺、民間人に対する爆撃……それらは「私たち」の側によっておこなわれる場合には何ら倫理的な問題を生みはしないのだ。リベラルで知られるニュース・クロニクル紙は衝撃的な残酷さの一例としてドイツ人によって吊るし首にされたロシア人の写真を掲載したが、その一、二年後には好意的な承認の声明とともに先のものとほとんど変わらないロシア人によって吊るし首にされたドイツ人の写真を掲載した[下記の注記]。これは歴史の中で変わることなく起き続けてきたことだ。歴史というものの大半はナショナリストの言葉によって考えだされている。異端審問や星室庁での拷問、イギリス海賊(例えばスペイン人虜囚を生きたまま水に沈めたフランシス・ドレーク卿)の功績、フランスの恐怖政治、数百人のインド人を砲で吹き飛ばしたインド大反乱の英雄たち、あるいはアイルランド女性の顔をかみそりで切り刻んだクロムウェルの兵士たちは彼らがそれを「正しい」理由でおこなったと感じられる時には倫理的に何ら問題にされなかったし、時には称賛されることさえあった。この四半世紀を振り返れば世界のどこかから残虐行為が報道されなかった年が一年たりとも無いことに気がつくだろう。イギリスの知識人は総じてそれらの残虐行為……スペインで、ロシアで、中国で、ハンガリーで、メキシコで、アムリツァルで、スミュルナでそれは起きた……に対してまじめに受け取ることも非難の声を上げることもなかった。そのような行いが非難に値するかどうか、あるいはそれが起きたかどうかということさえ政治的な趣味嗜好によって決められるのが常だったのだ。
[注記:ニュース・クロニクル紙は処刑の全容を間近で目にすることができるように処刑の首謀者たちにニュース映画会社に行くよう勧めた。スター紙はほとんど裸同然の敵国協力者の女性がパリの群衆に小突き回されている写真を好意的な態度で紹介した。それらの写真とナチスによって撮影されたベルリンの群衆に小突き回されるユダヤ人の写真の間には明らかに類似が見てとれた。(原著者脚注)]
残虐行為が自分たちの同胞によって引き起こされた時、ナショナリストはそれを否定するどころかそれについて聞こえなくなるという驚くべき能力を持っている。六年もの間、イギリスのヒトラー崇拝者たちはダッハウ強制収容所とブーヘンヴァルト強制収容所の存在から意図的に目をそらし続けた。また声を大にしてドイツの強制収容所を非難する人々はそれと同じものがロシアにあるということを全く知らないか、よくて耳にしたことがあるかどうかという始末なのだ。何百万もの人々が死んでいった一九三三年のウクライナ大飢饉にイギリスのロシア愛好者のほとんどは全く関心を払わなかった。今回の戦争の間、イギリスの人々の多くはドイツやポーランドでのユダヤ人絶滅運動についてほとんど何も耳にしないままだった。彼ら自身の反ユダヤ主義がこの途方もない悪事をその意識から弾き出したのだ。ナショナリストの思考の中では真実と虚偽、既知と未知が両立するのだ。あまりに我慢ならない事実を知るとそれは決まって脇に押しやられ、論理的な思考に影響を与えることを許されない。だが同時にそれは決して事実としては認められないまま全ての思考に入り込む。これが一人の人間の頭の中で起きるのだ。
全てのナショナリストは過去が改変可能であるという信念にとり憑かれている。自分の時間の一部をファンタジーの世界で過ごし、そこでは物事はあるべき姿……例えばアルマダの海戦は成功裏に終わり、ロシア革命は一九一八年に粉砕されたという具合……で実現される。そして可能な場合にはいつでもナショナリストはその世界の断片を歴史に刻み込もうとするのだ。プロパガンダの書き手によって書かれた現代史はたんなる虚偽と変わらない。重要な事実はもみ消され、日付は差し替えられ、引用された言葉はその意味を変えるために文脈から切り離されて改ざんされている。起きるべきではないと感じられた出来事は取り除かれて無視され、完全に消し去られる[下記の注記]。一九二七年、蒋介石は数百人の共産主義者を生きたまま釜茹でにしたが、それから十年も経たない内に彼は左派の英雄になった。国際政治の再編が彼を反ファシスト陣営に引き込み、それによって共産主義者の釜茹では「無効」扱い、あるいは存在しないことになったのだ。プロパガンダの第一の目的はもちろん同時代の世論に影響を与えることであるが、歴史を書き換える人々はおそらく頭のどこかで本当に過去に事実を差し挟むことができると考えているように思われる。ロシア内戦でトロツキーは重要な役割を果たしていないと示すために入念に作り上げられた偽造資料をよく検討したことがあれば、偽造をおこなった人々がたんに嘘をついているだけだとは感じられないだろう。それよりも自らが書き記したことこそが天地に誓って実際に起きたことであり、自分はそれに従って記録を再編集し、正しているのだと思っていると見たほうがいい。
[注記:一例が独ソ不可侵条約だ。これは考え得る限りで一番早く人々の記憶の中から消え去っている。ロシアにいる知人が私に教えてくれたところによれば不可侵条約はすでに近年の政治的な出来事がまとめられたロシアの年鑑からは削除されているそうだ。(原著者脚注)]
世界の一部を他から切り離して封じ込めるこの行為によって客観的真実に対する無関心さは促進され、本当に起きたことが何なのかを知ることはどんどん難しくなっていく。最重要の出来事に対してさえ強い疑念が生まれることもしばしばである。例えば今回の戦争の死者の数が数百万かあるいは数千万か見積もることさえできないのだ。悲惨な事件……戦争、大量虐殺、飢饉、革命……が常に報道され、一般の人々はそれが現実かどうかわからなくなっていく。それが真実か確認するすべを持たず、実際に起きたことなのかどうかさえ確信が持てないまま常に異なる情報源から全く異なる説明を示されるのだ。一九四四年の八月のワルシャワ蜂起で起きたと言われることの何が正しくて何が間違っているのだろうか? ポーランドにあったと言われるドイツの手によるガス室の話は真実なのか? ベンガル飢饉の責任を問われるべきなのは本当は誰なのか? おそらく真実を見つけ出すことは可能だろうが、ほとんど全ての新聞はそれらの出来事に対してあまりに不誠実な説明を与えている。一般読者が嘘を信じこんだり、意見を組み立てられずにいるのも無理からぬことなのだ。本当に起きたことが何なのか確実なことが何も言えない状況で人は容易に狂った信念を抱く。疑いのない確証や反証が得られなければ最も明白な事実であっても臆面もなく否定され得るのだ。さらに言えば権力や勝利、敵の打倒、報復について際限なく思い悩んでいるにも関わらず、ナショナリストはたいてい現実の世界で起きていることに対してどこか無関心である。彼が求めているものは自分が属する構成単位が他の構成単位を圧倒していくという気分なのであって、それを得るには敵対者を貶める方が事実が自らの思った通りなのかどうか検証するよりも簡単なのだ。ナショナリストの論争ときたらどれもディベート大会でおこなわれている程度のものと大差なく、議論はいつも堂々巡りである。それぞれの論者が決まって自らが勝利していることを信じて疑わないためだ。一部のナショナリストの中には統合失調症とほとんど変わらない者もいる。彼らは物質的な世界とは何らつながりを持たない、権力と征服の幸せな夢の中で暮らしているのだ。
さて私はナショナリストの全ての形態に共通する精神的な傾向に関して可能な限り詳しく検討した。次に必要なのはその形態の分類であるが、これを完璧に成し遂げることが不可能なのは明らかである。ナショナリズムは非常に大きなテーマなのだ。この世界は無数の妄想と憎しみによって苦しめられているが、そのそれぞれは互いに複雑に絡み合い、その最も邪悪なものの一部はいまだヨーロッパ世界の視界にとまっていない。この小論で私はイギリスの知識人の間で見られるナショナリズについて取り上げている。一般のイギリス人と比較して彼らの中ではナショナリズムとパトリオティズムの混じり合っている度合いが低く、より純粋な研究が可能なためだ。以降は現在、イギリス知識人の間で盛んなナショナリズムの種類をリストにしたもので、必要に応じて論評を付け加えてある。便宜のためにポジティブ、転移的、ネガティブの三つの見出しをつけているが、いくつかのものは複数の分類に当てはまるだろう:
ポジティブなナショナリズム
(@)新トーリー主義。これはエルトン卿、A・P・ハーバート、G・M・ヤング、ピックソーン教授といった人々、トーリー党改革委員会のパンフレット、またニュー・イングリッシュ・レビューや一九世紀とその後といった雑誌に例示される。新トーリー主義の強い原動力はイギリスの権力と影響力の衰えを認めたくないという欲求で、これこそがそのナショナリスティックな性格を特徴づけ、それを通常の保守主義と異なるものにしている。イギリスの軍事的立場にかつての面影が無いことを実際には十分に承知している者であっても「イギリスの理念」(普通それが何なのかは曖昧なまま捨て置かれる)は世界に広がると主張する傾向がある。新トーリー主義者は全員、反ロシアであるが、ときには反アメリカこそが関心の主眼である者もいる。この学派が若い知識人の間に広がっているように見えることは重要な点だろう。時にはそれが共産主義に幻滅して目を覚ますというありがちな経験を経た元共産主義者の場合もある。またイギリス嫌いだった人間が突然、熱烈なイギリス支持者になるのはかなり一般的に見られる光景だ。こういった傾向を示している作家にはF・A・ボイト、マルコム・マッグリッジ、イーヴリン・ウォー、ヒュー・キングスミルがいる。また心理学的に見て同様の変化過程がT・S・エリオット、ウインダム・ルイスと大勢のその追従者に見られる。
(A)ケルト・ナショナリズム。ウェールズ、アイルランド、スコットランドのナショナリズムにはいくつかの異なる点があるものの反イングランドな傾向がある点は共通する。この三つの運動のメンバーは今回の戦争に反対する一方で自分たちはロシアを支持すると宣言し続け、その狂信的な分派に至ってはロシアとナチスを同時に支持するという離れ業までやってのけている。だがケルト・ナショナリズムとイギリス嫌悪は同じものではない。その原動力は過去と未来におけるケルトの人々の偉大さへの信念であり、それは人種差別主義の色合いを強く帯びている。ケルト族はサクソン族よりも精神的に優れている……簡単に言えばより創造的で、洗練されていて、高慢なところが少ないなど……と見なされるが、一方でその表面下には常に権力への飢えが存在する。その現れの一つがイギリスによる保護がなくともアイルランド、スコットランド、さらにはウェールズさえもが自らの独立を保つことができるという妄想である。作家の中でのこの学派のいい例がヒュー・マクダミックとショーン・オケーシーだ。ナショナリズムの残滓から逃れられている近代的なアイルランドの作家は一人たりともいない。イェイツやジョイスといった偉大な作家も例外ではない。
(B)シオニズム。ナショナリズム運動としては独特の特徴を持つが、アメリカでのこれの変種はイギリスでのそれと比較してより暴力的で有害に見える。私がこれを転移的なナショナリズムではなく直接的なものに分類したのはそれが広がるのがほぼ完全にユダヤ人の間でだけであるためだ。イングランドにおいてはいくつかの非常に不条理な理由から知識人たちのほとんどはパレスチナ問題においてユダヤ人側を支持しているが、それに関して彼らに何か強い思い入れがあるわけではない。善意のイギリスの人々もまたみな、ナチスによる迫害に対する非難の意味からユダヤ人を支持している。しかし実際的な意味でのナショナリスティックな忠誠心や生得的なユダヤ人の優越性という信念に関しては非ユダヤ人の間ではめった目にすることはない。
転移的ナショナリズム
(@)共産主義
(A)政治的カトリシズム
(B)肌の色に対する意識。「原住民」に対する昔ながらの軽蔑の態度はイギリスでは衰え、白色人種の優越性を主張するさまざまな偽科学の理論は放棄されていっている[下記の注記]。知識人の間では有色人種への差別は反転された形でのみ起きる。つまり有色人種は先天的に優れているという考えとして起きるのだ。これは現在、イギリスの知識人の間で次第に一般的になっている考えで、おそらくその多くはマゾヒズムと性的な欲求不満のためであって、東洋人や黒人のナショナリスト運動に触れたことはさして影響していない。有色人種差別に対して関心の無い者の間でさえ、その上品ぶった模倣的な態度は強い影響力を振るっている。白色人種は有色人種より優れているという主張を聞けばイギリスの知識人はほとんど誰であっても憤るだろうが、一方でそれを反対にした主張に対しては同意していない時であっても反対の声を上げることはない。有色人種に対するナショナリスティックな肩入れは普通、有色人種の性生活は自分たちよりも優れているという考えと混交していて、そこには黒人は性的に優れているという巨大な隠れた神話が横たわっている。
[注記:いい例が日射病に関する迷信だ。最近まで白色人種は有色人種よりも日射病にかかりやすいと信じられ、探検帽無しで白人が熱帯の日光の下を安全に歩くことはできないと言われていた。これを裏付けるような証拠は何も無いが、この理論は「原住民」とヨーロッパ人の間の違いを際立たせるのに一役買っていた。戦争中、いつの間にかこの理論は放棄されて全ての陸軍は探検帽を着けずに熱帯での作戦を実行に移すようになった。この日射病に関する迷信が信じられていた頃にはインドでもイギリス人の医者は素人と同じようにそれを信じているようだった。(原著者脚注)]
(W)階級意識。上流階級、中流階級の知識人の間で、転移した形で……つまりプロレタリアートの優越性という信念として……のみ存在する。ここでも知識人の内面には世論の圧力が強く働いている。プロレタリアートへと向かうナショナリスティックな忠誠心やブルジョアジーに対するひどく悪意ある仮想的な憎しみは多くの場合、普段の上品ぶった日常生活となんら矛盾することなく共存することができるようだ。
(X)平和主義。平和主義者の大多数は宗教的組織に控えめに属している者か、生命を奪うことに反対するがそれ以上は思想的追求をしようとはしないわかりやすい人道主義者だ。だがごく少数、自分では決して認めようとはしないが西側の民主主義を憎悪して全体主義を称賛する知識人の平和主義者たちがいる。普通、煎じ詰めれば平和主義者のプロパガンダは争っている両方の側が同じくらい悪いのだと言っているものだが、比較的若い知識人の平和主義者の書いたものをよく調べてみると彼らが必ずしも公平な非難をおこなっているわけではなく、その非難のほとんど全てがイギリスとアメリカ合衆国に向けられていることに気がつく。さらに言えば彼らが非難しているのはそれに値する暴力でなく、西側諸国の自衛のための暴力だけである。イギリスとは異なりロシアが軍事的な手段を使って自衛をおこなってもそれが非難されることはないし、この種の平和主義者のプロパガンダでロシアや中国が言及されることはまず間違いなくない。またインドはイギリスとの戦いにおいて暴力を放棄すべきだといったことも決して主張されない。平和主義者による文学作品はあいまいな記述で満ちているが、それが何を意味しているにせよ、どうやらヒトラーのような政治家の方がチャーチルのような政治家よりも好ましいと言っているように見える。おそらく暴力も十分に暴力的であれば許容されるのだろう。フランスの陥落後、フランスの平和主義者たちはイギリスの平和主義者たちがせずに済んだ現実的な決断を迫られ、そのほとんどはナチスの軍門へと下った。そしてイギリスにおいてもピース・プレッジ・ユニオンと黒シャツ隊の間でそのメンバーの一部が重なっているということが見受けられる。平和主義の作家はカーライルを褒め称えるが彼はファシズムの思想的な生みの親の一人である。上で述べた知識人のように、結局のところ平和主義は権力と成功をおさめた残虐行為への称賛に密かに触発されているのではないかと感じずにはいられない。ヒトラーへの彼らの感情は誤りだったわけだがこの誤りもまた簡単に書き換えられるだろう。
ネガティブなナショナリズム
(@)イギリス嫌悪。イギリスに対する冷笑的態度や控えめな反感は多かれ少なかれ知識人にとって義務的なものだが、それが偽りのない感情である場合も多い。戦争の間、敗北主義的な知識人の間ではそれが明白に示された。そしてそれは枢軸国の勝利が不可能であると明らかになった後まで続いたのだ。多くの者はシンガポールが陥落した時やイギリスがギリシャから敗走した時に喜びの態度を隠そうとしなかったし、例えばエル・アラメインの戦いやブリテンの戦いで多数のドイツ軍航空機が撃墜されたというニュースを聞いてもそれが吉報であるとは信じたくないという態度がありありと伺えた。もちろんイギリスの左派知識人たちが本当にドイツや日本の戦争勝利を望んでいたというわけではないが、彼らの多くは自らの国の敗北を目にする快感に抗えず、最終的に勝利するのはロシア、あるいはアメリカであってイギリスではないだろうと感じていたのだ。国外の政治において、多くの知識人たちはイギリスの支持を受けた党派は場違いな存在であるという原則に従った。その結果として「見識ある」意見の大部分は保守党の政策を反転したものになった。イギリス嫌悪は常に逆転現象を起こす傾向がある。そのせいである戦争での平和主義者が次の戦争では好戦論者になるという光景も珍しくない。
(A)反ユダヤ主義。現在これはめったに見られなくなっている。ナチスの迫害によって思慮ある人物であれば必ずユダヤ人の側に味方し、迫害者と敵対するようになっているためだ。「反ユダヤ主義」という言葉を耳にしたことがある程度に教養のある者であれば当然のようにそんなものに囚われてはいないと主張するだろうし、反ユダヤ的な記述はあらゆる分野の文学作品から慎重に取り除かれている。だが実際のところ反ユダヤ主義はささやかれ続け、知識人の間でもそれは同じことである。その広く見られる静かな共謀は反ユダヤ主義を悪化させる助けになっているように思われる。左派的意見を持つ人々も無関係ではない。トロツキストとアナーキストにユダヤ人が多いという事実に彼らの態度はときおり影響を受けている。だがそれでも反ユダヤ主義は保守的な傾向を持つ人々に対しての方がより自然に受け入れられていると言える。彼らはユダヤ人に対して国民の士気を弱体化させ、国民文化を薄めているという嫌疑をかけている。新トーリー主義者と政治的カトリシズム主義者は常に、あるいは少なくとも定期的に、反ユダヤ主義への敗北の発端となっている。
(B)トロツキズム。この言葉はとてもあいまいに使われていてその中にはアナーキスト、民主社会主義者、リベラリストが含まれている。ここでは私はこの言葉をスターリン体制に敵対することが主な目的となっている教条的マルクス主義者という意味で使っている。トロツキズムについては、決して一つの見解だけを持っている人間ではなかったトロツキー自身の著作よりもむしろありふれたパンフレットやソーシャリスト・アピールと言った新聞の方が詳しく知ることができる。トロツキズムは例えばアメリカ合衆国といった複数の場所で非常に多くの支持者を引き寄せて、現在のそれよりもずっとよく組織された運動へと発展していく可能性があるが、それにも関わらずその思想は本質的にネガティブなものである。トロツキストはスターリンに不支持の声を上げ、その様子はちょうど共産主義者がスターリンを支持しているのと対になっている。共産主義者の大多数と同じようにトロツキストも外部世界に何らかの変化をもたらそうとするよりはむしろ名声を争うことこそが重要なのだと考えている。どちらの場合でもある一つの事柄に対して脅迫的なまでの固執があり、可能性に基づく純粋に理性的な意見を形作る能力が欠如しているという点は同じだ。トロツキストがどこでも迫害される少数派であるだとか、常に彼らに向かって非難の声……例えばファシストと共謀しているといった明らかに間違った非難……が上げられているという事実はトロツキズムが知的にも倫理的にも共産主義より優れているという印象を作り出しているが、その二つの間に大きな違いがあるかどうかは多いに疑問である。どのような場合でも最も典型的なトロツキストは元共産主義者であり、左派的な運動を経ずにトロツキズムへと到る者は一人もいない。長年の戒めによって自分の党に縛り付けられでもされない限り、共産主義者であれば誰しも突然トロツキズムへと道を逸れる可能性があるのだ。それに比べるとその反対の動きが起きることはめったに見られないが、なぜそれが起きないのかについての明確な説明はない。
上で私が試みた分類は誇張され、過度に単純化され、不確かな前提を置いたりもっともらしい通常の動機の存在についての説明を置き去りにしているように見えることだろう。もっともなことだ。なぜならこの小論で私が試みているのは私たちの頭の中に存在する私たちの思考を倒錯させる傾向を分離し特定することだからだ。それらの傾向は必ずしも純粋な状態や連続的な作用によって起きているわけではない。この点において私が過度に単純化して描かざるを得なかったものを正しておく必要があるだろう。まず初めに言っておきたいのは全ての人、あるいは全ての知識人についてさえ彼ら全員がナショナリズムに感染しているなどと見なす権利は誰にも無いということだ。二番目に言っておきたいのはナショナリズムは食い止め、封じ込めることができるということだ。馬鹿げていると自分でわかっている思考に半ば屈服しそうになっても、知性ある人であればそれを長い間、頭の中から締め出すことができる。思い起こすにしても怒りや感傷に駆られた時か、自分が重要な問題には関わっていないとわかっている時だけという状態にできるのだ。三番目はナショナリスティックな信念は非ナショナリスティックな動機に基づく誠実な思いによって選択されるということだ。四番目はナショナリズムのいくつかの種類はたとえそれが互いに相反するものであっても同じ人物の中で共存し得るということだ。
極端な例を示すために「ナショナリストはこうする」、「ナショナリストはああする」と私はずっと言い続けているが、これは頭のなかに中立な領域を持たず、権力闘争の他には関心ごとのない、あけすけで純正のナショナリストについてのことだ。このような人々が広く一般に見られるのは間違いのないことだが彼らには何らかの労力を払うだけの価値もない。エルトン卿、D・N・プリット、ヒューストン婦人、エズラ・パウンド、バニシュタット卿、カフリン神父やその他のぞっとするような一群の人々には対抗する必要があるが、彼らの知性の欠如に関しては指摘するまでもないだろう。偏執狂には興味もわかないし、数年の月日を置いて脱臭した後で読むに足る価値のある著作を書くことのできる頑迷なナショナリストなど一人もいない。ナショナリズムは全ての場所で勝利を収めているわけではないし、欲望のままに判断を下すことのない冷静な人々もいるということは認めよう。しかし猶予のない問題が存在するという事実は変わらない……インド、ポーランド、パレスチナ、スペイン内戦、モスクワ裁判、アメリカの黒人差別、独ソ不可侵条約、あるいは合理的なレベルでの議論にならないか、少なくともいままで議論されたことの無いような問題だ。エルトン、プリット、カフリンのそれぞれは飽きることなく大声で同じ嘘を繰り返し続けている。彼らが極端な例であることは明らかであるが、無防備な一瞬においては私たちも彼らと全く変わりないということを自覚しなければ自らを欺くことになるだろう。常に警鐘を鳴らし、そういった陳腐なもの……これまで思いもよらなかったものがその陳腐なものなのかもしれない……を踏み越えていくのだ。この上なく公正な判断をする温和な人物が突然、悪意に満ちた人間へと変貌し自分の敵対者よりもどれだけ「優れているか」だけに心を悩ませ、自分がどれだけの嘘をつき、どれだけの論理的な誤りを犯しているか気にしなくなる人物へと変わることもある。ボーア戦争に反対していたロイド・ジョージが議会下院でのイギリスの公式声明の発表で、それがほんの付け足しの言葉であったにせよ、ボーア人国家の総人口を超える数のボーア人が殺害されていることを主張した時、アーサー・バルフォアは立ち上がって「恥知らず!」と叫んだ。その記録は今でも残っている。白人女性に相手にされない黒人、イギリスへのアメリカ人の無知な批判を耳にしたイギリス人、アルマダの海戦の記憶を掘り返されたカトリック護教論者。こういった人たちはみな、よく似た反応をする。ナショナリズムを発達させていくのだ。知性的な慎み深さは消え失せ、過去は改変可能なものになり、最も明白な事実も否定されるようになる。
ナショナリスティックな忠誠心や憎悪の感情を頭のどこかにでも抱くと、たとえ意識の上では真実であるとわかっている場合でも特定の事実を認めることができなくなる。ここではその例をいくつか挙げたい。以下は五種類のナショナリストのリストで、それぞれに対して各種類のナショナリストが密かにでも受け入れることができない事実を書き加えてある:
イギリス・トーリー主義者:イギリスはこの戦争でその権力と名声を減じることになるだろう。
共産主義者:もしイギリスとアメリカからの支援が無ければロシアはドイツに敗北しただろう。
アイルランド・ナショナリスト:アイルランドはイギリスの保護によってその独立を保つことができている。
トロツキスト:スターリン体制はロシアの大衆に受け入れられている。
平和主義者:暴力を「放棄」した者がそうできるのは他の者が彼らに代わって暴力を行使してくれるからに他ならない。
もし感情的な思い入れが無ければこれらの事実は誰の目にも明白であるが、それぞれの種類に属する人々にとってはどれも容認しがたいものでそれゆえ彼らはこれらの事実を否定せざるを得ない。そしてその否定を前提にすることで誤った論理が構築されるのだ。今回の戦争で軍事的な予測がどれほど外れたかを思い出さずにはいられない。戦争の経過に関しては一般の人々よりも知識人の予測の方が間違いが多かったというのは真実であるように私には思われる。党派心によって惑わされる度合いは彼らの方が大きかったのだ。例えば左派的信念を抱く平均的な知識人は戦争は一九四〇年に敗北で終わるだとか、ドイツは一九四二年にはエジプトを占領するはずであるだとか、占領した島々から日本が撤退することは絶対にありえないだとか、英米による爆撃はドイツになんら影響を与えていないだとかといったことを信じていた。
こういったことが信じられていたのはイギリスの支配階級に対する憎しみが彼らの目を曇らせ、イギリスの作戦が成功するなどということは認めることができなかったためだ。こういった種類の感情の影響下にある時にはどんなに愚かなことでも信じこむことができる。例えば私はこれを間違いなく耳にしたと誓えるのだが、アメリカ軍がヨーロッパにやってくるのはドイツと戦うためではなくイギリスの革命を阻止するためだといったことすら言われていた。間違いなく知識人階層に属する人間がそのようなことを信じていたのだ。一般の人々であればそんな愚かな振る舞いをすることはないだろう。ヒトラーがロシアに侵攻した時、内務省の高官はロシアは六週間以内に崩壊するだろうという警告を「非公式」に発表した。一方で共産主義者は戦争のあらゆる段階でそれをロシアの勝利と結びつけた。ロシアがカスピ海近くまで撤退し、数百万の捕虜を失った時にさえ彼らはそれを勝利と結びつけたのだ。これ以上の例は必要ないだろう。重要なのは恐怖や憎しみ、嫉妬、権力崇拝が絡む時には現実的な感覚はすぐさま不安定になるということだ。すでに指摘したとおり、正しいことと間違ったことを見分ける感覚もまた不安定になる。それが「私たち」の側によって実行される場合には、許されない犯罪など完全に無くなってしまう。その犯罪が実際に起きたことを否定していても、別の場合であれば非難に値する犯罪とそれが全く同じ行為であると理解していても、知性と照らし合わせればそれを正当化することができないと認めていても……それが悪いことだと感じられなくなるのだ。忠誠心が絡めば哀れみを感じることもなくなってしまう。
ナショナリズムの高まりとその広がりの理由はここで取り上げるには手に余る問題である。ここで言えるのはイギリスの知識人の間に見られるナショナリズムの形態は外部の世界で現実におこなわれている恐ろしい戦いが歪んだ形で反映されたものであり、その最悪の愚行はパトリオティズムと宗教的信念が崩壊したことによって初めて可能になったということだけである。もしこの考えを追求すれば保守主義の一種、あるいは政治的静寂主義に捕らわれる危険に直面する。具体的に言えば…それが真実である可能性もあるが……パトリオティズムはナショナリズムに対する抗体であるだとか、君主制は独裁国家への防波堤であるだとか、組織化された宗教は迷信に対する防波堤であるといった考えのことだ。時には、偏りのない立場などというものは不可能であると主張されることもある。全ての信念や大義は等しく嘘と愚行と野蛮を含むというのだ。そしてこういった議論はしばしば、つまるところ政治に関わってはいけないのだという結論へと導かれる。私はこういった議論を受け入れるつもりはない。現代の世界では政治に無関心だから政治に関わりがない知識人であるなどとは言えないというだけでその理由は十分だ。むしろ政治……広い意味での政治……に関わり、政治的指向を持つことこそが必要なのだと私は考える。つまり、もしそれが他のものと同じように不公正な手段で実行に移されている場合であっても、理念のうちのあるものは他のものよりも客観的に優れていることを認めなければならないのだ。気に入るか気に入らないかに関わらず、私が説明してきたようなナショナリスティックな愛や憎しみは私たちのほとんどが持つ生まれ持った性質の一部である。それを取り除くことができるかどうか私にはわからない。しかしそれと戦うことはできると私は確信している。そしてそれには倫理的な努力が必要不可欠なのだ。自らの本当の姿を、自らの本当の感情を見つけ出し、避けがたく起きる先入観を斟酌することがまず何よりも重要な課題になる。もしあなたがロシアを憎み恐れ、アメリカの富と権力に嫉妬し、ユダヤ人を嫌悪し、イギリスの支配階級への劣等感を抱いていたとしよう。頭で考えるだけで簡単にそういった感情を取り除くことはできないだろう。しかし少なくともそれらの感情を自覚し、自らの思考が汚染されないようにすることはできる。感情的な衝動から逃れることはできない。おそらくそれは政治的な行動を起こす場合には必要にさえなるものなのだ。現実の受容とそれらを共存させなければならない。しかし繰り返すがそれには倫理的な努力が必要だ。そしてこれこそが私たちの時代に残る大変な課題であるにも関わらず、現代のイギリス文学を見れば私たちのうちでその備えができている者のなんと少ないことか。
1945年10月

1. キップリング:ラドヤード・キップリング。イギリスの作家、詩人。「ジャングル・ブック」、「少年キム」などの著作がある。
2. マヤコフスキー:ウラジーミル・マヤコフスキー。ソ連の詩人。共産党のプロパガンダポスターの制作にも関与した。
3. マジノライン:フランスとドイツの国境を中心に構築されたフランスの対ドイツ要塞線
4. チェスタートン:ギルバート・ケイス・チェスタートン。イギリスの作家。カトリック教会のブラウン神父を探偵役とした推理小説で知られる。
5. 大いなるかな、エペソ人のアルテミス:新約聖書、使徒行伝の19章28節。アルテミス神殿の模型を売る職人が商売の邪魔になる使徒パウロを排斥しようと人々を扇動した時に扇動された人々が叫んだ言葉。
6. チューチンチョウ:一九一六年にロンドンで公演され人気を博したミュージカル。「アリババと四十人の盗賊」を下敷きとしている。
7. 軽騎兵旅団の突撃:アルフレッド・テニスンの詩。クリミア戦争でのバラクラヴァの戦いを題材にしている。
8. BBCアクセント:オックスフォード大学、ケンブリッジ大学などで話されていた英語。BBC(英国放送協会)が採用したことからこのように呼ばれる。
9. ヒューストン・チェンバレン:ヒューストン・ステュアート・チェンバレン。イギリス人の政治評論家・脚本家。国家主義、汎ゲルマン主義、反ユダヤ主義を支援したことで知られる。
10. カーライル:トーマス・カーライル。イギリスの歴史家、評論家。ドイツ文学を研究したことで著名。
11. トーリー主義者:伝統的保守主義者。現在のイギリス保守党の前身にあたるトーリー党の党名に由来する。
12. ロイド・ジョージ:デビッド・ロイド・ジョージ。イギリスの旧自由党議員。第一次世界大戦中には首相を務めた。
13. アーサー・バルフォア:アーサー・ジェイムズ・バルフォア。保守党議員。一九〇二年から一九〇五年まで首相を務めた。  
 
国家主義 [statism]

 

国家をすべてに優先する至高の存在あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想。
国家を最高の価値あるもの、人間社会の最高の組織と見なし、個人よりも国家に絶対の優位を認める考え方。
国家に最高の価値をおく考え方。個々人は国家に従属すべきものと考え、国家の中に普遍的倫理が具体化されていると考える。そのため、国家権力の行使は無制限となり、内に対しては権力独裁体制の危険、外に対しては国家膨張主義の危険を招くことになる。
一般に国家に至上の価値を認め、国家の秩序や命令、その軍事的栄光を他のすべての価値に優先させる政治的主張をさす。エタティスムともいう。国家を国民の権利を保障するための人為的制度であるとする近代市民社会成立以降の社会契約論に対する反動として生じた国家神格化の保守的イデオロギーで、特に近代化に乗りおくれたドイツや戦前の日本で隆盛をきわめた。
国家主義は何よりもまず国家を人間の社会結合の中で最高のものと考える立場を指す。したがってそれは単に国家の存在を肯定するにとどまらず、他の主張に対して国家の最高性を攻撃的に擁護する立場であり、かつては教会権力に対して世俗国家の自主性の擁護として、あるいは倫理や宗教に対する国家の優越性を求める国家理性論としても現れた。また近代では個人主義や自由主義、マルクス主義、無政府主義といった思想潮流と激しく対立した。
国家主義と国粋主義と民族主義の違い。全て、ナショナリズムという言葉で表せますが、微妙なニュアンスの違いはあるようです。国家主義 / 国家を最高の価値あるもの、人間社会の最高の組織と見なし、個人よりも国家に絶対の優位を認める考え方。国粋主義 / 自国の歴史・政治・文化などが他国よりもすぐれているとして、それを守り発展させようとする主張・立場。民族主義 / 民族の存在・独立や利益また優越性を、確保または増進しようとする思想および運動。その極端な形は国家主義とよばれる。
国家は個人や国家内のあらゆる社会集団よりも絶対的に優位する、と主張する政治思想。19世紀以降のドイツ(プロシア)、戦前の日本、20世紀のファシズム国家などに典型的にみられた思想。
国家を至高のものと位置づける思想は、16世紀から18世紀にかけての絶対主義国家の時代にまず登場した。すなわち、この時期、各国君主は、一方では、ローマ法王の支配を排除して主権国家・民族国家の独立を目ざし、また一方では、身分制議会、教会、ギルドなどの社会集団よりも国家が優位すると主張して国家統合を企図した。このため、大陸の君主国家では、君主はローマ法王を通じてではなく、神から直接にその権力を授与され、したがって、臣民が君主に反抗することは、神に反抗するに等しいという王権神授説(神権説)が支配的な政治思想となった。また、国家の生存・強化という目的のためには、権力は法・道徳・宗教に優位しなければならない、という国家理性(レーゾン・デタ)の考え方も、君権の絶対性の根拠として用いられた。しかしイギリスでは、市民革命によって、君主にかわり議会が最高機関の地位を確立したために、王権神授説に基づく絶対君主論は消失した。このような権力の交替は、国家や政府の権力は政治社会=国家を構成する人々の同意や契約に基づくものである(ホッブズ、ロック)、政治社会においては立法部=議会が最高機関である(ロック)、悪い政府や議会は変更してもよい(ロック)という新しい政治理論(社会契約説)を生み出した。そして、社会契約説は、続くアメリカ独立宣言、フランス人権宣言にも受け継がれ、ここに、個人の自由や人権尊重を基調とする民主政治や民主的諸制度が確立された。これらの国々においては、これ以後、国家が個人に絶対的に優位するという国家主義は支配思想となることはなく、市民的自由に基づく民主政治が発展するのである。
ところで、イギリス、アメリカ、フランスなどの先進諸国に後れて近代国家となった日本やドイツのような国々においては、先進諸国に追い付き、それらを追い越すために富国強兵策がとられ、それを弁証する国家の優位性を説く思想が登場する。こうした政治・思想状況の下では当然に、個人の自由や人権は著しく制限され、また労働組合、農民組合、社会主義諸政党、その他の反政府団体などの社会・政治運動は厳しく弾圧された。したがって、日本では、天皇を国の家長に見立て、家長の権力は絶対であるという家族国家観や天皇を現人神(あらひとがみ)として神聖不可侵の存在とする政治思想が説かれた。そして、このような思想は、忠孝と国家への忠誠を第一義的に重要視する国家主義思想として機能し、さらに満州事変以後、いわゆる十五年戦争時代に入ると、国家主義は極端な軍国主義と結び付き、天皇がアジアはもとより全世界を統治するのをよしとする「八紘一(為)宇(はっこういちう)」というような超国家主義となり、それは、他民族や他国家の侵略を正当化する思想となった。また、ドイツでは、イギリスやフランスのような近代国家の形成を目ざし、ヘーゲルが国家の個人に対する優位性を説き、それは、国民主権論や人民主権論を抑えるための国家有機体説、国家主権論、国家法人説などの思想的根拠となった。そしてこの考え方は、ナチスの時代には国家の絶対的優位を説く全体主義思想にまで高められ、ゲルマン民族の優越性を強調する極端な民族主義と結び付き、世界支配を目ざす二度にわたる世界大戦の思想的要因となったのである。
このように国家主義は、自由主義、個人主義とはまったく相いれないものであり、また国家は階級支配の道具であるから、社会主義社会の完成形態である共産主義社会が出現すれば国家は死滅すると説く、共産主義とはまっこうから対立するものであった。さらに、1920、30年代にラスキ、コール、マッキーバーなどを中心に多元的国家論が登場し、国家は社会の一つであり、国家が国家であるという理由で、個人や社会集団に無条件的な服従を要求することはできず、国民の国家に対する忠誠度は、国家が国民に何をしてくれたかによって判断されるべきであると説いたのは、極端な国家主義としての全体主義の台頭を抑制しようという実践的課題にこたえたものであったといえよう。
国家主義は、ファシズム諸国家の敗北によっていちおうはこの地上から消滅した。しかし、現代世界においても、経済的自立化に成功できず、そのために政治的に不安定な多くの発展途上国では、いまだに軍事政権や独裁政権などによる国家主導型の政治運営がなされているが、これらの国々では形を変えた国家主義が存続しているといえなくもない。また、先進諸国においても、核兵器の開発や軍拡競争の激化などにより、国家主義的風潮がまったく払拭(ふっしょく)されたとはいえない状況にある。 
 
国家主義

 

国家(≒政府)を第一義的に考え、その権威や意志を第一だと考える立場のこと。
国家主義とは、国家を、「最高の価値あるもの」とか「人間社会の最高の組織」などと見なし、「個人よりも国家に絶対的な優位性があるのだ」などとする考え方である。ブリタニカ百科事典によると、国家主義とは「国家に至上の価値がある」などと主張して、国家的な秩序や、国家による命令、自分の属する国家が軍事的に強いことなどを他の全ての価値に優先させようとする政治的な主張を指す。 国家主義的な立場をとる者、そのような思想を持つ者を「国家主義者」と言う。
国家主義は保守的なイデオロギーのひとつである。特に近代化に乗りおくれた20世紀のドイツや戦前の日本で隆盛をきわめた。反意語は、世界やイギリスなどの西欧諸国を中心とするという意味合いの、「グローバリズム」である(グローバリズムとは、グロブブリテインを中心とした、という意である事から)。
自国国家を至上におくという考え方であるがため、国家内での価値の共有などは国家を形成するにおいて重要ではあるが、(国家の利益を個人の利益に優先させるので)全体主義的な傾向があり、偏狭な民族主義や国粋主義になりがちであるとされる。 
国家社会主義ドイツ労働者党

 

かつて存在したドイツ国の政党。一般にナチス、ナチ党などと呼ばれる(詳細は#名称を参照)。1919年1月に前身のドイツ労働者党が設立され、1920年に改称した。指導者原理に基づく指導者(ドイツ語: Führer)アドルフ・ヒトラーが極めて強い権限を持ち、カリスマ的支配が行われた。1933年の政権獲得後、ドイツ国に独裁体制を敷いたものの(ナチス・ドイツ)、1945年にドイツ国が第二次世界大戦で敗戦し崩壊したことに伴い事実上消滅し、連合国によって禁止(非合法化)された。
名称
前身の党は「ドイツ労働者党」である。1920年、党の実力者となったヒトラーが改名を主張し、ルドルフ・ユングがオーストリアの「ドイツ国家社会主義労働者党」(Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei)の命名パターンに従うことを要求した。討議の結果、 「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 」、ナツィオナールゾツィアリスティシェ・ドイチェ・アルバイターパルタイ)の党名が採用された。正式に党名が変更されたのは1920年2月末であるが、2月22日付のビラでドレクスラーがこの党名を用いている。一方で党書記がこの党名を使用し始めたのは4月18日になってからであった。
正式党名の和訳は「National」の解釈の違いにより「国家社会主義ドイツ労働党」、「国民社会主義ドイツ労働者党」、「国民社会主義的ドイツ労働者党」、「民族社会主義ドイツ労働者党」などと訳される。
2011年の山川出版社の高校教科書『詳説世界史 B』ではナチズムは「国民社会主義」と訳され、佐藤卓己は現代ドイツ史の専門家で「国家社会主義」と訳すものはいないと指摘している。「国家社会主義」はフェルディナント・ラッサールなどの社会主義思想である state socialism としても用いられるが、また日本における高畠素之や赤松克麿が唱えた思想も「国家社会主義」と呼ばれる一方で、「国民社会主義」とも称している。
略して呼ぶ場合は後述の「ナチス」の他、同時代には「国粋社会党」「国民社会党」の表記も使われた。
また、高校世界史教科書では「国民社会主義ドイツ労働者党」と記されており、それを正式名称として教えている。
通称の「ナチ(独: Nazi (ナーツィ))」 Nationalsozialist の初め2音節を同音異字につづり変えた物で、「ナチス(Nazis)」はNaziの複数形である。元来は当時の対抗勢力がナチ党員および国家社会主義者に付けた蔑称である。ドイツ社会民主党員および社会主義者も同様に Sozialist を短縮して「ゾチ(Sozi (ゾーツィ))」と蔑称されていた。
したがって、映画などの創作でナチ党員が「ナチス」と言うのは本来は誤りであり、自分たちにナチおよびナチスという呼称を用いる事は無かった。党員自身は党名のイニシャルを略して「NSDAP (エンエスデーアーペー)」、「NS (エンエス)」或いは「Partei (パルタイ)」と呼び、党員同士は「PG (ペーゲー)」(Parteigenosse 、党同志の略)、「Kamerad (カメラート)」などと呼び合った。
しかし、ナチスという呼称は広まっており、ドイツ以外の全世界では通称となっている。日本でもナチおよびナチスの呼称が当時から使用されている。
現在は他の非ドイツ語圏でも Nazi Party や Nazi Germany のようにドイツ語の Nazi がそのまま使用されている。ドイツ語にも同様の Nazi-Deutschland などの言い方はあるが、分断時代の西ドイツにおいても、「NASDAP」などの呼び方が一般的であり、ナチスの名称はほとんど用いられなかった。また、Nationalsozialismus (英: National Socialism)の略号である NS (エンエス) を接頭語にして、例えば NS-Deutschland (エンエス・ドイチュラント) のように造語される。
思想
党の思想として一貫して存在しているのは「アーリア人至上主義」「反ユダヤ主義」「反共」「指導者による独裁」等であり、ヒトラーの著書「我が闘争」が党に聖典視された。しかし党の実際の行動においてはこれらの思想と矛盾する事態もしばしば起こった。しかし指導者に対する忠誠と服従が優先され(指導者原理)、党員は疑問をさしはさむことは許されなかった。
歴史
黎明期
1918年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会 (Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」がブレーメンで結成された。錠前師で自称詩人でもあったアントン・ドレクスラーは同党の支部を1918年3月7日にミュンヘンで結成した。10月2日にはカール・ハラーとドレクスラーは「政治的労働者サークル」を結成し、ドイツ労働者党の結成準備を行った。……………………1919年1月5日、ハラーを第一議長とするドイツ労働者党 (DAP)」が成立した。当時の党綱領はドレクスラーの手によるものであり、民族主義と中産階級の成立が強調されていた。
創設当初の党はわずか40人ほどの小さな政治的サークルに過ぎなかった。しかし党は右派組織全ドイツ連盟(ドイツ語版)やゴットフリート・フェーダー、ディートリヒ・エッカートを会員とするトゥーレ協会といった右派組織の支援を受けており、エルンスト・レームのような軍とドイツ義勇軍の関係者も党員であった。第一議長ハラーやその背後にいた全ドイツ連盟の指導者は「フリーメーソンやユダヤ資本らの陰謀」を防ぐため、閉鎖的なサークルの状態から政治運動に間接的な影響を与えることが望ましいと考えていた。党の集会は盛況であり、毎週300人ほどの聴衆を集めていた。
ヒトラーの台頭
当時アドルフ・ヒトラーは、ドイツ国軍が非合法に行っていた政治情勢を調査する仕事をしており、元々ナチスに接近したのは、上官であるカール・マイヤー大尉にスパイを命ぜられたためであった。同党が1919年9月12日に開いた集会に参加し、数日後に入党した。ヒトラーは自分が7番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は(党員を多く見せかけるため、501番から始まる)555番であり、この番号も1920年にアルファベット順で作成された名簿に基づくものであった。ヒトラーが7番目の幹部であったという説もあるが、名簿作成以前の正式な記録が無いため明確にはなっていない。
ヒトラーはドレクスラーに見込まれ、たちまち党に不可欠な巧みな演説者となった。ヒトラーは軍の仕事から離れ、党務に専念するようになった。1919年12月、ドレクスラーとヒトラーは党規則を改定することで議長(党首)であったハラーを追放し、ドレクスラーが新議長となった。1920年1月5日、ヒトラーはドレクスラーと共に党綱領の整備に取り組み、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義、企業の国有化、利子制度打破などを訴える25カ条綱領を作成した。綱領は2月24日ミュンヘンのビアホール「ホフブロイハウス」で開かれた集会で正式採択された。2月末には党名が正式に変更され、6月にハーケンクロイツの党章を採用、12月には売りに出されていた週刊紙『フェルキッシャー・ベオバハター』を買い取り、党の機関紙とした。
ヒトラーは軍とのパイプを持つエルンスト・レーム大尉やエッカートらの支持もあって党内で勢力を拡大した。ヒトラーは党内一番の人気弁士であり、数千人の聴衆を集めることが出来た。党財政においてもヒトラーは欠かせない存在になっていた。1921年7月、ヒトラー色を薄めようとする党内の動きに対して自らを唯一絶対の指導者とする独裁権(指導者原理)を要求するに至る。党内には反発もあったが、離党をちらつかせたヒトラーに屈し、7月29日に開かれた幹部会議で認められた。ドレクスラーは名誉議長に棚上げされ、ヒトラーが議長となった。このころからヒトラーはエッカートやヘスといった支持者から指導者を意味する「Führer」(フューラー)と呼ばれるようになり、党内に定着した。この「Führer」はヒトラーの終生の肩書きとなった。
同年8月には党内組織「体育スポーツ局 (Sportabteilung)」がレームによって設立された。同組織は10月に「突撃隊」と改称し、他党の同種団体との市街戦の主力となった。突撃隊の幹部は禁止されたドイツ義勇軍(フライコール)エアハルト海兵旅団から派遣されており、やがて一定の独立性を持った突撃隊を形成していくことになる。
またこの頃から党勢の拡大を見た実業家からの寄付も相次ぎ、党勢はさらに拡大した。1921年に3千人だった党員が1922年1月には党員6千人となった。この年の3月8日にヒトラー・ユーゲントの前身となるナチ党青年同盟が設立された。8月16日にはハーケンクロイツの党旗が公の場ではじめて用いられた。10月にはユリウス・シュトライヒャー率いるニュルンベルクのドイツ社会党が合流し、ますます党勢が拡大した。しかし11月18日にはプロイセン州においてナチ党が禁止され、ザクセン州、テューリンゲン州等でも禁止されたため、ナチ党の発展はバイエルン州に限られることになった。しかしドイツの不景気とインフレはナチ党を含む極右急進派、共産党を含む極左急進派への支持をさらに高めた。また右翼的なバイエルン州政府も反ボリシェヴィキ的なナチ党を庇護する方針をとった。
1923年には党員数3万5千人を数え、バイエルン州でも有数の政党になっていた。2月には国防軍が主導する極右派政党・義勇軍の連合「祖国的闘争同盟共働団」に参加し、有力な構成団体となった。このころから突撃隊の軍隊化が進められ始めた。
ミュンヘン一揆
1923年1月にヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由にフランス軍がドイツの工業地帯であるルール地方を占領した(ルール問題)。ヴィルヘルム・クーノ首相の政府はサボタージュによる抵抗を呼びかけ、工業の停止と、占領によって生じた損害への補償のためインフレーションがさらに激化した。ナチ党は消極的な抵抗しか行えない政府を批判するとともに、突撃隊を拡充してフランス占領軍に対抗しようとした。2月に第一次世界大戦の英雄ヘルマン・ゲーリングが突撃隊司令官となったのはその流れの一つで、3月からは本格的な軍事訓練が行われた。
5月26日には党員の一人アルベルト・レオ・シュラゲター(ドイツ語版)がフランス軍に捕らえられ、軍法会議にかけられた上で処刑された。このシュラゲターの死をナチスが喧伝したことにより、ドイツ国内はもとより世界でも英雄視された。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、ナチ党は更に勢力を拡大した。
しかし5月3日にはレームが参謀将校から左遷され、軍のドイツ義勇軍援助はエーリヒ・ルーデンドルフ将軍の影響下にある、ヘルマン・クリーベル大尉の指揮下に置かれることになった。このため元軍人が多い突撃隊へのヒトラーの影響力は弱まった。9月には突撃隊と共働団参加団体が連合し、「ドイツ闘争連盟」が組織された。クリーベルが議長であり、ヒトラーも指導者の一人になった。
不穏な空気は9月26日のフリードリヒ・エーベルト大統領による非常事態宣言によって表面化し、反ベルリンであったバイエルン州政府と中央政府の対立の構図が生まれた。しかしバイエルン州の実権を握ったグスタフ・フォン・カール主導のベルリン進軍は、ヒトラーにとって受け入れがたいものであった。ドイツ闘争連盟は州政府を掌握し、その上でベルリンに進軍するという中央政権打倒計画を立案した。11月8日、ビアホールビュルガーブロイケラーにおいてヒトラー自らカールらを軟禁し、州政府の建物を占拠した。ヒトラーはルーデンドルフにカールらの説得を依頼し、一時は進軍への協力を承諾させた。しかしカールらは逃亡し、ドイツ闘争連盟の鎮圧に乗りだした。11月9日、ドイツ闘争連盟は市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000-3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。
首謀者ヒトラーを初め、党員らは逮捕され、国内に残った幹部はアルフレート・ローゼンベルクなどわずかなものになった。ナチ党と突撃隊は非合法化され、一時解散することになった。しかしその後の裁判はヒトラーの独演会と化し、かえってヒトラーと党の知名度は高まることとなった。ヒトラーはランツベルク刑務所で城塞禁固刑を受けることになるが、彼のもとには差し入れが相次いだ。その後も反ワイマール共和国の気運の高まりは衰えることはなく、ナチス党のいくつかのダミー団体が活動を続けた。
ヒトラーが指名した運動の指導者はローゼンベルクであったが、彼の政治力は乏しく、分派争いがひどくなった。党内左派の中心人物であるグレゴール・シュトラッサーはヒトラー無き党内で勢力を拡大した。ルーデンドルフを担ぐ「ドイツ民族自由党」と共同して「国家社会主義自由運動」を結成し、1924年5月の選挙で32議席を獲得した。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済が必要と考えており、合法的な政権交代に路線転換し、既存勢力(産業界・軍部・貴族階級)との融和を考えたヒトラーとの間に溝を深めることになる。ヨーゼフ・ゲッベルスはこの頃にシュトラッサーの秘書として党活動を始め、シュトラッサーの有力な腹心となった。同年12月の選挙では国家社会主義自由運動の議席は14議席に低下し、これまでナチ党と密接な関係を持っていたルーデンドルフとの関係も悪化した。
また突撃隊も禁止されたが、レームがドイツ闘争連盟の隊員を結集してフロントリング (Frontring) という組織を結成した。1924年8月28日に同組織はフロントバン(ドイツ語版)と改称された。
党勢の拡大
1924年12月20日、ヒトラーが監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国していた。1925年1月4日にはバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトとヒトラーの会見が行われ、2月16日には再結成が許可された。ヘルトはヒトラーの恭順姿勢に「この野獣は飼いならされた。もう鎖を解いてやっても心配ないだろう」と感じた。フロントバンの大半もナチ党に合流し、再結成後のナチ党は合法活動による政権獲得を主軸として行うこととなる。しかし2月27日に行われた再結成党集会には四千人が集まるなど影響力は強いことが明らかとなり、州政府から一年間の演説禁止措置を受けた。4月、レームがフロントバンの指揮権を確認する手紙をヒトラーに送ったが、ヒトラーは指揮権が自分にあることを表明した。レームは失脚し、政界から引退した。
7月18日にはヒトラーの初の著書「我が闘争」が発売された。高い値段設定にもかかわらず1万部を売るなど順調な売り上げであった。すでにヒトラーとナチ党はドイツ全体に知られた存在であり、バイエルン州以外でも支持が広がりつつあった。しかしレンテンマルクの導入によるインフレの沈静化と、ドーズ案受け入れによる好景気は極右勢力全体への支持を減少させていった。一方で北部を管轄していたシュトラッサーは労働者に対して呼びかけることで党員を増やし、勢力を拡大していった。8月21日にはシュトラッサーらが「国民社会主義通信」という独自の新聞の発刊を行い、独自活動を始めていた。9月21日、再結成された突撃隊の下部組織として「親衛隊」が設立された。当初はヒトラーのボディーガードであったが、次第に党内警察としての立場を固めていくことになる。
1926年、シュトラッサーは当時問題となっていた旧ドイツ帝国諸邦王室の財産没収を支持し、企業の国営化を進める、領土回復のためのソ連との連携など、左派色の強い綱領改定案を呈示した。しかし、富裕層からの政治献金が無視できない額となっており、またソ連と組む案はヒトラーにとって受け入れられる案ではなかった。ヒトラーは2月14日にバンベルクで招集されたバンベルク会議において、25ヶ条綱領を不変の綱領とし、「指導者原理」による指導者への絶対服従を認めさせた。シュトラッサーは屈服したが、全国組織指導者に任じられ、独自の出版社運営を認める懐柔も行われた。しかしシュトラッサーの右腕であったゲッベルスがヒトラーに懐柔され、シュトラッサーの勢力は縮小した。7月3日にはヴァイマールで党大会が開かれた。この大会でヒトラー・ユーゲントの成立と、各種等団体の成立、そして突撃隊の再結成が行われた。この年の暮れには党員が5万名に達していたとされるが、フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツが党員番号を通し番号にして脱退者数をわからなくしたために、実際の党員がどの程度であったかはわかっていない。
1927年も好景気の影響でナチ党の活動は停滞し、資金難で党大会や集会が中止される事もあった。1928年5月20日、ナチス党として初めての国政選挙に挑んだが、12人の当選に留まった。しかしその後のドイツ経済の悪化と、ヴェルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案が合意されるとドイツ国民の反発を呼び、極右と極左、特にナチス党は支持を集めていく事になる。1930年、ナチス党の伸長を恐れたブリューニング内閣は政治団体構成員が公の場で制服を着用することを禁じた。これは事実上の突撃隊禁止命令であったが、同年9月の選挙では107議席を獲得し、第二党に躍進した。政府側からはナチ党の取り込みを図る動きもあったが、ヒトラーの首相就任を求めるナチ党は協力しなかった。この後ナチ党は中央党、ドイツ国家人民党とともにハルツブルク戦線という連合を組み、ブリューニング内閣への攻撃を強めた。
しかし躍進はしても末端の突撃隊員には恩恵が及ばず、1931年3月には東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス大尉が公然と党中央を批判し、突撃隊と親衛隊の間で衝突が起こるようになった。ヒトラーは南米からレームを召還して突撃隊の鎮撫に当たらせたが、突撃隊の独自傾向は強まるばかりであった。
1932年4月には大統領選挙が行われ、ヒトラーが大統領候補として出馬した。現大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルクが圧倒的な票を集めて勝利したものの、ヒトラーも30%以上の票を集めた。ブリューニング内閣は倒れ、大統領の側近であったシュライヒャー中将の策謀によりパーペン内閣が成立した。7月の選挙でナチ党は全584議席中230議席を獲得し、ついに第一党の座を占めた。パーペンはナチス党と協力して議会運営を行おうとするが、首相の座にこだわるヒトラーは拒絶した。しかもヒトラーは首相の座に加え、全権委任を要求した(のちに全権委任法として現実の物となる)。ヒトラーの要求はヒンデンブルクやパーペンにとって、とうてい呑める要求ではなかった。さらにナチ党提出による内閣不信任案が可決され、進退窮まったパーペン首相は11月に再度選挙を行った。選挙の結果、ナチ党は34議席を失ったが、引き続き第一党の座を占め続けた。
ナチス党内閣成立
11月の選挙の結果をうけてパーペン内閣は倒れた。しかしナチ党も絶対多数を確保出来ず、指名権を持つヒンデンブルク大統領がヒトラーを個人的に嫌っていたため、ヒトラー組閣は困難であった。その政治的空白を縫って、シュライヒャーが新首相となった。シュライヒャー首相は入閣を餌に組織局長シュトラッサーの切り崩しを図ったが失敗し、ヒンデンブルク大統領の信任も失った。
この間に、ヒトラーはヒンデンブルクの息子オスカーと大統領官房長オットー・マイスナーを味方に引き入れた。彼らの説得を受けてヒンデンブルクはついにヒトラーを首相に任命し、1933年1月30日にヒトラー内閣が発足した。発足当時、入閣したナチス党員はヒトラーを含めて3名であり、副首相パーペンを代表とする保守派はヒトラーを制御出来ると考えていた。しかしプロイセン州内相に就任したゲーリングが国土の過半数以上を占めるプロイセン州の警察権力を握り、突撃隊や親衛隊が警察権力に浸透していった。
独裁権力確立
組閣後まもなく議会は解散され、選挙運動が始まった。しかし2月に国会議事堂放火事件が起こり、これを共産党の陰謀と見なして緊急大統領令を布告、共産党幹部を逮捕した。当時の法律では国会議員の逮捕は禁じられていたが、緊急大統領令がこれを許した。
選挙の結果、ナチス党が勝利したことが明らかになると、「党がドイツ民族を指導する体制が承認された」として、党による独裁を強化した。プロイセン州国家代理官のゲーリングを始めとする各地方の党員は鉤十字の党旗を地方官公庁の建物に掲揚させた。さらにヒトラーは3月23日に全権委任法を国会承認させ、立法権を国会からヒトラー政権に委譲させた。この法律はどんな法律も議会の審議を経ないで政府が制定できることを意味していた。既存の政党は次々と解散し、7月には政党禁止法によりナチ党以外の政党は禁止された。また、これに前後してヴァイマル憲法に定められた基本的人権や労働者の権利のほとんどは停止された。11月には国会選挙が行われ、国会議員はナチス党員のみとなった。12月には国家と党の不可分な一体化が定められたが、1942年にこの条文は削除されている。
1934年6月30日、第二革命を主張する突撃隊参謀長レームや党内左派など党内外のヒトラー反対派を一斉に粛清(長いナイフの夜事件)し、独裁権力は確実なものとなった。ヴァイマル共和国軍や資本家とも連携し、国内の反対派は息を潜めた。8月にはヒンデンブルク大統領死亡にともなって発効した国家元首法により、首相のヒトラーに大統領権限が委譲され、ヒトラーは国家元首となった。1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅・商店・シナゴーグなどを襲撃・放火している(水晶の夜)。
党による全国支配
1933年4月7日、州政府にナチ党幹部が国家代理官として送り込み、民主主義的な地方自治を停止させた。
党の組織上の単位である大管区、管区、支部、細胞、班 はそのまま国民支配の行政単位になった。党の組織は生活の大部分に浸透し、労働組合に代わる「ドイツ労働戦線」や、下部組織の「歓喜力行団」などによって、労働・教育・余暇など私生活の隅々まで党によって支配されていた。また青少年はヒトラー・ユーゲントへの加入が義務づけられた。これらの組織は第二次世界大戦では防空や治安維持なども担当し、大戦末期には本土防衛のために老人・子供から成る非正規軍の「国民突撃隊」の母体にもなっている。
敗戦後
1945年4月30日にヒトラーが総統地下壕で自殺した後、遺言によってマルティン・ボルマンが「党担当大臣」に任命された。しかし遺書は広く知られなかった上に、まもなくボルマンは消息を絶った。ヒトラー無きナチ党は統制能力を失い、事実上解散状態となった。この間にヒムラーら一部の幹部は逃亡を図っている。1945年5月8日にドイツ国防軍が連合国軍に降伏し、軍政下に置かれた9月10日には党の存在自体が軍政当局によって禁止された。1946年9月30日、ロンドン憲章に基づく「ニュルンベルク裁判」により、党指導部・親衛隊・ゲシュタポが「犯罪的な組織」と認定された。ニュルンベルク裁判や継続裁判など占領地域で行われたその後の非ナチ化法廷により15万人もの党員が逮捕されたが、実際に裁判を受けたのは3万人である。また占領下やその後の新ドイツにおいては、ナチ党の影響を減少させる「非ナチ化」の施策が行われた。
プロパガンダ
党は多くの機関紙や雑誌を発刊し、選挙戦術や国内統制に利用した。また、党幹部やグループもそれぞれの新聞や雑誌を発売し、その総数は調査によってもはっきりしなかった。中心となったのはヒトラーが自ら買収交渉に参加したこともあるフェルキッシャー・ベオバハターであり、1926年から1930年にかけては他の新聞や雑誌は十分に機能していたとは言えなかった。
1930年の躍進以前は各新聞の状況は苦しく、発行費や配達費を捻出するため苦労したり、相互で争うこともあった。幹部の一人ユリウス・シュトライヒャーは、自ら発行する新聞シュテュルマーを発刊するため、同じく幹部のゴットフリート・フェーダーの新聞への妨害を行い、廃刊に追い込んでいる。また幹部同士の争いが各新聞紙上で行われることもあった。
1930年の選挙による大躍進以降は発行部数、種類ともに大幅に増加している。同時代には1932年3月時点で120のナチス系定期刊行物が挙げられているが、戦後にペーター・シュタインが行った調査では、同時期のものとして159の新聞が挙げられている。
ナチス党のプロパガンディストとして最も知られているのがヨーゼフ・ゲッベルスである。ゲッベルス「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と日記に記しており、政敵の共産党の手法を利用し、かつそれを凌駕する規模で行った。
戸別訪問、党専属の楽団、膨大な量のビラ・ポスターの配布や、対立する政治家に対する猛烈なネガティブ・キャンペーン、ラジオを利用した政見放送、航空機を利用した遊説旅行、町の壁を埋め尽くすポスター等は他党のそれを上まわる強烈なインパクトを与えた。また娯楽の中にさりげなく党の宣伝を織り交ぜる手法で宣伝効果を浸透させる手法を用いている。
宣伝全国指導者であったゲッベルスは1927年に首都ベルリンで新聞『デア・アングリフ』紙を発刊した。この新聞は『フェルキッシャー・ベオバハター』と同じく、プロパガンダとして成功した珍しい例である。新聞は他の新聞や他の政党を大きな活字で口汚く罵るもので、攻撃された新聞が反論の記事を書けば書くほど、ナチスの宣伝になってしまう効果もあったため、わざと讒言で他紙を「釣る」ことすらあった。また、時にはテロに訴えることもあった。1930年2月23日、党員ホルスト・ヴェッセルが共産党員アルブレヒト・ヘーラー(de:Albrecht Höhler)に暗殺されるが、ゲッベルスはヴェッセルを殉教者に祭り上げ、盛大な葬儀を行って共産党に対する憎悪を煽り立てた。ヴェッセルが作詞した「旗を高く掲げよ」は、最も著名なナチ党党歌として知られる。
1932年にはナチス系新聞は78万部を発行していた。
さらにナチ党は政府の権力を用いた言論統制や、退廃芸術等に見られるような価値観統一政策、「強制的同一化」に乗りだしている。1933年3月には国民啓蒙・宣伝省が設置され、ゲッベルスが国民啓蒙・宣伝大臣に任命された。政権獲得後の1933年にはナチス系新聞の発行部数は319万部にのぼり、さらに他の新聞や雑誌も次々とナチスの支配下に置かれた。ただし幹部同士が新聞紙上で争うことは続いており、ゲッベルスも対応を行うことを検討している。 
オランダ国家社会主義運動

 

かつて存在したオランダのファシズム政党。のちにナチズムに方針転換した。1930年代に議会で急速に勢力を伸ばし、第二次世界大戦中にはドイツ占領下のオランダにおける唯一の合法的政党となった。1945年のドイツ敗戦により解党。
1929年、アメリカを端とした世界恐慌はオランダにも押し寄せ、経済に深刻な打撃を与えた。これを受け、国内では極右政党が活発化し始めた。そうした中で、1931年12月14日、NSBはアントン・ミュッセルト、コルネリス・ファン・ヘールカーケン(オランダ語版)らによってユトレヒトにて結成された。イデオロギーとしてはファシズム、ナチズムの影響を受けているが、設立当初は反ユダヤ主義ではなく、ナチスに急接近した1936年まではユダヤ人の党員もいた。
1933年、州議会にて初の公開討論を開催し、党員600名が参加した。これにより党の知名度は格段に向上した。同年、政府はNSBへの公務員の入党を禁止した。
党首ミュッセルトの実用主義的思想とカリスマ的イメージ、党員の高い結束力、そして暴力革命ではなく合法的民主主義による政治改革を目指したマニフェストは不況にあえぐ民衆から大きな支持を受け、ほかの極右政党との連立やNSBの更なる躍進をもたらした。35年には州選挙に出馬し、8パーセントの得票で第一院の2議席を獲得。 しかし、NS党の支援によるミュッセルトのリーダーシップに疑問を抱いた党幹部の一人メイノート・ロスト・ファン・トーンニンヘン(オランダ語版)が党の反ユダヤ主義を公表するようになると、一変して風向きは変わった。
NSBは他の政党や労働組合、教会などから大きな批判を受け、37年総選挙での得票は35年の半分の4%、第二院で4議席を獲得したに過ぎなかった。一方第一院では5議席を獲得し、議会の議事手続きや法案の可決にわずかながら影響を及ぼす事が出来るようになった。マニフェストにおいて暴力革命を否定したにも拘らず、NSB議員は議会においてしばしば暴力や暴言に出る事があった。だが、39年の州選挙においてNSBはさらに4%の得票を得た。
1945年のドイツ敗戦後、党員のほとんどが逮捕されたが、うち有罪判決となったのはミュッセルトを含む数名だけだった。ミュッセルトは翌年死刑が執行され、以降同様の極右政党が生まれることは無かった。 
シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール

 

(Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle、1890-1970) フランスの陸軍軍人、政治家。フランス第18代大統領。第二次世界大戦においては本国失陥後ロンドンに亡命政府・自由フランスを樹立し、レジスタンスとともに大戦を戦い抜いた。戦後すぐに首相に就任した後、1959年には大統領に就任して第五共和政を開始し、アルジェリア戦争によって混乱に陥っていたフランスを立て直した。
生い立ち
ド・ゴールはイエズス会学院の校長(歴史科を教えていた)を務める父アンリの子として、フランス北部の工業都市リールに生まれた。
ド・ゴールの家系は下級貴族である。「ド・ゴール (de Gaulle)」の「ド」(de) は本来は前置詞で、「ゴール(ガリア)公」「ゴール卿」といった意味を持つ。ド・ゴール家の場合は名字の一部と見なされている。
ド・ゴールの曽祖父はルイ16世の法律顧問をしており、フランス革命時に投獄されている。父アンリは医学・理学・文学の3つの博士号を持つ碩学、熱心なカトリック教徒だったという。また、祖父ジュリアンも著名な歴史学者だったといい、ド・ゴールは幼い頃より歴史に興味を覚え、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱くようになったという。そして、ド・ゴールは、伝道師を目指していたものの、長身痩躯という立派な体格だったことから軍人の道を選んだ。
軍歴
陸軍士官学校時代
地元の中学校を卒業後、1909年にサン・シール陸軍士官学校に入学した。ド・ゴールは陸軍士官学校内では「雄鶏」(シラノ。フランスのシンボルの1つでもある)、「アスパラガス」そして「コネターブル(Connétable:「大将軍」の意)」と呼ばれていたという。これらのあだ名は身長が約2mあったという彼の体格に由来している。
陸軍士官時代
卒業後は、歩兵第33連隊に陸軍少尉として配属された。歩兵第33連隊はフィリップ・ペタン(のちのヴィシー政権の指導者)の連隊だった。
第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年、大戦中最大の激戦地ヴェルダン戦で部隊を指揮した。ドイツ軍の砲撃で重傷を負い「気絶」したが、「戦死」と判断され、死体運搬車に乗せられた。しかし輸送途中に意識を取り戻し、事なきを得たという。
戦死と聞かされたペタンは、「ド・ゴール大尉。中隊長を務め、その知性と徳性において知られた人物である。おそるべき砲撃によって大隊に夥しい損害を出し、中隊また八方から敵の攻撃をうけた状況下に、それが軍の光栄にかなう唯一の策と判断して兵をまとめ、突撃を敢行、白兵戦を展開した。混戦のうちに戦死。功績抜群……」という個人的な弔辞を作成したという。
また、捕虜生活も経験し、それは第一次世界大戦終結まで続いた。ド・ゴールは5回脱獄を図ったものの、大柄な体だったため5回とも失敗し、最も厳重な捕虜収容所だったインゴルシュタット城の牢獄「天女の宿」で捕虜生活を経験した。ちなみにその牢獄には、後にロシア(ソ連)の赤軍元帥となり、スターリンによって粛清されたトゥハチェフスキーがいた。トゥハチェフスキーはド・ゴールに対し、「未来は我々のものだ、くよくよするな」と捕虜生活を慰めたという。
ポーランド軍事顧問時代
第一次世界大戦終結後、ド・ゴールはポーランドの軍事顧問となり、同国へ赴任した。当時ポーランドは革命ロシア赤軍の侵攻を受けており、首都ワルシャワまで迫られていた(ポーランド・ソビエト戦争)。その時の赤軍司令官は、共に捕虜生活を過ごしたトゥハチェフスキーだった。ド・ゴールはこの戦いで活躍し、「ポーランド軍少佐」の称号を得ると共に、ポーランド政府から勲章も授与された。
陸軍大学校時代
ポーランドから帰国し、サン・シール陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めた後、1922年にフランス陸軍大学校に入学した。同学校では、「勤勉にして敏鋭、博学。しかし友人との折り合い悪く、性格的に円満を欠く」と評価をされている。また、陸軍大を卒業したものの、ド・ゴールは「わが道を行く」という主義を強く持っていたため、陸軍上官との折り合いが悪く、大尉から少佐への進級に10年もかかってしまった。しかし、この間も後に敵となるペタンはド・ゴールをかわいがっていたという。
その後、ド・ゴールは中東に1回赴任し、1932年には中佐となり、パリにあった軍事最高会議事務長に就任している。またペタンの計らいもあり、ド・ゴールは陸軍大学校において「戦闘行為と指揮官」という特別講演も行った。この講演を文書に纏めたものが1932年に出版された『剣の刃』である。ただ、この書は「フランス版『わが闘争』」あるいは「ド・ゴール版『我が闘争』」(ドイツのアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』から)とも評されている。ついで、1934年には「機甲化軍にむけて」、1938年には「フランスとその軍隊」を執筆した。ヒトラーはド・ゴールの著書『職業的軍隊を目指して』を読んで感銘を受けていたが、著者はアンリ・ジローだと勘違いをしていた。
電撃作戦の推進
第一次世界大戦のヴェルダン戦の体験からド・ゴールは、これからの戦争は塹壕戦ではなく、機動力のある戦車や飛行機を駆使した機械化部隊による電撃作戦になることを論じ、いくつかの著書の中でそのことに言及した。
この見解は、ペタンらフランス軍の主流派には受け入れられず、その後皮肉にもド・ゴールやジョン・フレデリック・チャールズ・フラーの著作を参考としつつ研究を行っていたグデーリアンのいたドイツ軍が積極的に採用している(国家指導者がヒトラーだったことも大きいと考えられる)。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発、まやかし戦争と呼ばれるにらみ合いの後、1940年5月にドイツ軍のフランス侵攻が始まると、ドイツ軍は防衛方針を堅持したフランス軍が国境に用意した巨大要塞「マジノ線」を機動力のある装甲部隊で迂回して進軍し、フランス軍はわずか1か月間の戦いでドイツ軍の電撃作戦により敗北を喫した。
開戦直後の5月15日、ド・ゴール大佐は新編の第4機甲師団長に任命された。すでに手遅れの時期になり、しかも小規模ではあったが、ここでようやくド・ゴールは長年主張してきた機械化戦術を実地に試す機会を得た。他の第1から第3の3個機甲師団が特に見るべき活躍もなく終わったのに対し、ド・ゴール率いる第4師団は師団長の直接の指揮下のもとに戦車の集中運用を行い、一時的にではあれ、ドイツ軍部隊に脅威を与えることに成功した。特にソンム県アブヴィル近辺の反撃では、適切な航空支援が得られなかったために完璧な成功を収めるまでには行かなかったが、ソンム川南岸の敵橋頭堡3つのうち2つまでを取り返す活躍を見せた。しかしその後間もなく、ド・ゴールは陸軍次官に任命され、部隊の指揮を離れることになる。
「自由フランス」時代
1940年6月には、同年3月のエドゥアール・ダラディエの辞任により新たに首相に就任したポール・レノー率いる新内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、フランス軍史上最年少の49歳で准将となった。ドイツ軍によるフランス侵攻に対するイギリス軍の協力を得るためロンドンに飛び、ウィンストン・チャーチル戦時内閣と交渉を開始する。その中で、合法的に英仏連合軍の指揮権の統合と亡命的性格の政策、英仏連合(フランスとイギリスとの政治統合構想)に奔走、イギリス側の閣議決定後、フランス政府の避難先ボルドーに向かったがレノー内閣は英仏連合の案件と休戦派の圧力で総辞職し、次官職を解かれる。
6月15日に首都のパリが陥落し、自身に逮捕の噂がたっており、連合軍顧問のイギリス陸軍将校スピアーズ将軍の召還に同伴しイギリスへ亡命することを決断。脱出先のロンドンに亡命政府「自由フランス」を結成し、ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と中立政権ではあるものの親独的なヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけた。イギリス議会や閣僚は事を荒立てることを恐れ、それを中止させようとしたが、イギリスのウィンストン・チャーチル首相の指示によって放送は強行された。この放送はのちにフランスの反撃ののろしとして高い価値を与えられるが、当時直接に聞いていたものはほとんどいなかったし、また録音されていなかったので再放送もなかった。しかし、翌日にはまだいくらかの自由が残っていたヴィシー政権下にあるフランス南部の新聞のいくつかがこの放送について小さな記事を掲載し、徐々に知られるようになっていった。   翌1941年10月25日にはジャン・ムーランと会見、一つの大きな組織「レジスタンス国民会議」を作るためムーランを極秘裏にフランス本土に派遣する。また自ら自由フランス軍を指揮してアルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で戦い、対独抗戦を指導した。しかし、仏領インドシナやマダガスカルをはじめとする植民地やフランス本国のフランス軍の多くは、中立を維持するかヴィシー政権に帰属した。その後自由フランス軍は連合国と共同でフランス植民地のガボン、マダガスカルを攻略した。1942年にはアルジェリアのフランソワ・ダルラン大将が連合国側につき、北アフリカのフランス主席となったが暗殺された。この暗殺の背後にはド・ゴールの関与があったという説もある。ダルランの後を継いだのはアンリ・ジロー大将で、連合国フランスの代表としてド・ゴールとジローが並び立つ体制となった。1943年1月にはフランスの指導者を決めるためカサブランカ会談が開かれたが決着しなかった。5月にフランス国内のレジスタンス組織全国抵抗評議会はド・ゴールをレジスタンスの指導者と決定したが、6月にアルジェリアで結成されたフランス国民解放委員会はド・ゴールとジローを共同代表とした。この二頭体制は11月にジローが辞職するまで続いた。委員会は翌1944年にフランス共和国臨時政府に改組され、ド・ゴールが代表となった。
ド・ゴールはその独裁的かつ強権的な姿勢から、チャーチルやアメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトと衝突することが多く、特にルーズヴェルトはド・ゴールのことを「形式にこだわる旧世界的人物」、「選挙で選ばれたわけではないのに指導者として君臨しようとしている」「あのような人物にはマダガスカルの知事でもさせておけば良い」としてあからさまに嫌っていたという。とは言え、奪われた祖国を取り戻すために戦う姿勢には支持者もおり、チャーチル夫人はド・ゴール将軍の熱烈なファンだったという。
その後、1944年6月の連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦・ノルマンディー上陸作戦が成功すると、祖国に戻って自由フランス軍を率いてイギリス軍やアメリカ軍などの連合軍とともに戦い、同年8月25日にパリが解放された。ド・ゴールは翌26日に自由フランス軍を率いてパリに入城、エトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで、ドイツ軍の残党が放つ銃弾を気にすることなく凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。
臨時政府主席
強権的指導者
フランス解放後、臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、制憲議会は満場一致でド・ゴールを臨時政府の主席に選出した。ド・ゴールは自由フランス時代から第三共和政の議会制度には欠陥があると主張しており、民衆の声望を背景に他の指導者・政党の意見を無視することが多くなり、とりわけ社会党 (SFIO)・共産党から独裁的との批判を受けた。
1946年1月に、ド・ゴールは軍備費を20パーセントカットすべきだという社会党の予算提案に反発するという形で、突如首相を辞任した。この辞任の真意は、議会の優位を主張する政党側に対する不満があったといわれている。
国営化推進
ド・ゴールの首相時代には、フランス解放後の1945年に大手自動車会社のルノーを国営化したほか、エールフランス航空など多くの基幹企業を国営化した。このように、国家の復興を推進するためもあり軍需、インフラ関連の大企業の国営化を積極的に推し進めるとともに、公共投資にも力を入れた。この政策は後にド・ゴールが大統領になってからも継続された。
在野の政治家
制憲議会が制定した草案が否決され、再度行われた制憲議会選挙で人民共和派が躍進すると、ド・ゴールは6月16日のバイユーでの演説をはじめとして(バイユー演説(フランス語版))、自らの憲法構想を表明するようになった。ド・ゴールは政府と大統領の権限を強化し、政府内部での統一が図られるべきだと主張したが、実際に採択されたフランス第四共和政憲法には反映されなかった。
彼はこの信念から1947年にフランス国民連合(略称RPF)を結成したが、この団体もまた1952年には一部が分裂して政争が発生した。それを嫌ったド・ゴールはRPFを解体し、1955年には「公的生活から引退する」と宣言した。
第五共和制大統領
再登板
ド・ゴール引退後も政府が小党乱立によって機能不全に陥っていることには変わらず、アルジェリアでの民族自決を求める反乱にも有効な手を打てないでいた。1958年5月、この状況に不満を持ったアルジェリアのフランス植民者(コロン)が、アルジェリアの独立運動に対抗するため、アルジェリア駐留軍と結託して本国政府に反旗を翻し、「ド・ゴール万歳」を唱えてフランス本土への侵攻計画を立てた。現地駐屯の落下傘連隊がコルシカ島を占領し、鎮圧に向かった共和国保安隊も到着後反乱軍に同調し、フランス本土に脅威を与え始めた。この緊急事態に、就任直後の首相ピエール・フリムランはなすすべがなく、進退極まった政府は軍部を抑えることのできる人物として隠居を宣言して執筆活動にいそしんでいたド・ゴールに出馬を要請した。
ド・ゴールはこの反乱には無関係だったが、だからこそ政府およびルネ・コティ大統領もド・ゴールに出馬を要請することができ、彼もそれを受けることができた。ド・ゴールが首相就任に際して要求したのは「現在の極めて困難な情勢の中で行動するために必要な全権」を与えるというものだった。ド・ゴールは、1946年憲法は「政党支配性 Régime des partis」に他ならず、執行府により大きな安定性と権威とを与えるが、だからといって民主的であることをやめないような新しい政治体制に、座を譲るべきであると確信した。ド・ゴールは首相指名をうけた後の6月1日、国民議会に対して6ヶ月間の全権委任を要求し、新憲法草案を提示した。議会はこれを承認し、ド・ゴールは正式に首相に就任した。この全権は1958年6月3日の憲法的法律(フランス語版)によって承認された。ジャック・マシュ将軍やラウル・サラン将軍など駐留軍首脳部はこれを支持した。そして6月4日にはアルジェのアルジェリア総督府から「私は諸君を理解した!」と叫び、反乱を沈静化させた。
第五共和政の成立
ド・ゴールは、正規の形式に従い議会から憲法案を準備する権力の承認を獲得、その憲法案は人民投票に付託されることになった。ド・ゴールが示した憲法草案では、大統領の権限を強化し議会の力を抑制する新憲法を立案し、ただちにこれは国民投票に付された。同年9月に行われた国民投票で投票者の80%近くもの賛成により承認され、1958年10月4日には新憲法(フランス第五共和政憲法)が公布、制定され、フランス第五共和政が成立、ド・ゴールは第18代大統領に就任した。ド・ゴールは、以後1969年に退陣するまでの11年間、強権的とも言われた政権運営をもってフランスの内外政策を強力に推進することとなる。ド・ゴールはまた、かつての自らの党であるフランス国民連合の後身・社会共和派などを結集して、新たな与党として新共和国連合(Union pour la Nouvelle République:UNR)を結成した。
この11年間に初めてフランスの政局は安定し、その巧みな経済政策によってフランスは高度経済成長を遂げ、外交の面でもフランスの地位は急速に回復した。しかしアルジェリアに対してド・ゴールは、担ぎ出した人々の思惑とは逆に独立は必至と判断していた。ド・ゴール自身が後年の回想録で第一次インドシナ戦争の背景にある民族自決の動きを理解していたこと、また当初は完全独立ではない緩やかな連邦制も模索した(実際に国民にも提案している)ことを明かしている。こうして1959年9月にはド・ゴールはアルジェリア人に民族自決を認める発言を行った。これにコロンは激しく反発し、1960年1月にはアルジェ市でバリゲードの一週間と呼ばれる反乱を起こした。さらに、1961年4月にはアンドレ・ゼレール、ラウル・サラン、モーリス・シャール、エドモン・ジュオーの4人の将軍によって将軍達の反乱が勃発したものの、ド・ゴールによって速やかに鎮圧された。結局アルジェリア領有の継続を主張する右翼組織OASのテロによる反対を押し切って、1962年、独立を承認した。ド・ゴールはこの間、たびたびOASのテロや暗殺の標的となった( → 詳細は「ジャッカルの日」項を参照)。1962年8月にはパリ郊外のプティ=クラマールで、乗っていた自動車がOASにより機関銃で乱射された「プティ=クラマール事件」が起きたが、ド・ゴールは九死に一生を得た。
また、アフリカに残っていたフランス領西アフリカ及びフランス領赤道アフリカの広大なフランス領の植民地に対し、1958年9月、フランス共同体の元での大幅な自治を認めた第五共和国憲法の承認を求めた。急進的独立派だったセク・トゥーレ率いるギニアはこれを否決し単独独立の道を歩んだものの、それ以外の植民地はすべてこれを承認し、1960年にはこれらの植民地はすべて独立している(このことにより、1960年は「アフリカの年」とも呼ばれることとなった)。これによって、フランスは独立闘争によって国力をすり減らすことなく、独立後の諸国に対し強い影響力を保持することができた。
独自路線
東西両陣営の間で冷戦が続く中、ド・ゴールはアメリカとソ連の超大国を中心とする両陣営とは別に、ヨーロッパ諸国による「第三の極」を作るべきだという意識を持ち、フランスをその中心としようとしていたことを、遺作となった回想録の中でも述べている。彼自身はヨーロッパ各国が歴史や文化的背景を無視して統合することは無理だと考えていたが、各国が共同して事に当たる連合にはむしろ積極的だった。
そこで西ドイツとは和解・協力を進める反面、アメリカ主導の北大西洋条約機構(NATO)や国際連合には批判的な態度を取り、1966年にNATOの軍事機構から脱退(一般の政治部門には残留)した。そのため、NATO本部はフランスのパリからベルギーのブリュッセルへの移転を余儀なくされた。それと並行して国連分担金の支払いを停止し、アメリカと近い立場を取るイギリスの欧州経済共同体(EEC)への加盟拒否も表明した。この時期には東ヨーロッパ諸国も歴訪している。また当時激化していたベトナム戦争に対するアメリカの介入を批判し、ベトナムの中立化をアメリカに提案したが、受け入れられなかった。この中立化構想は戦後になってアメリカ側でも再評価が試みられるようになった。
また、「フランスの安全保障がアメリカの核の傘に依存せずに済む」との信念で、通常兵力削減の代わりにフランス独自の核兵器の開発を推進し、1960年2月にはサハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実験に成功し、アメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国となった。1964年にはイギリスを除く他の西側先進国では最も早く、共産主義政権下の中華人民共和国を国家承認した。2年後、中国で文化大革命が起こった。1967年7月24日には、モントリオール万国博覧会訪問のために訪れていたカナダのケベック州モントリオール市で、群集を前に「自由ケベック万歳!」(Vive le Québec libre!) と声を上げ、カナダとフランスとの間の外交問題になっただけでなく、ケベック独立運動の火に油を注ぐ結果ともなった。
五月革命
世界的な学生運動の高まりと共に、左派的な発想から現代社会を「管理社会」として告発する機運が高まる。そのさなか、女子寮への侵入を禁止された男子大学生の抗議から1968年、五月革命が勃発する。フランス全土をストライキの嵐が襲い、ド・ゴールは危機に陥る。しかし彼はジョルジュ・ポンピドゥー首相などの勧めもあり、議会を解散して国民の意思を問うことを表明した。それに呼応したド・ゴール支持の大規模なデモが行われ、またオリヴィエ・ジェルマントマがソルボンヌ大学大講堂でド・ゴール支持の演説を行う。五月革命は急速に力を失い、ド・ゴールは議会選挙でも圧勝して危機を乗り越える。
しかし翌1969年には、彼が国民投票に付した上院及び地方行政制度の改革案が否決され、その必要がなかったにもかかわらずド・ゴールは辞任した。この改革案自体は議会を通過させることが不可能ではなかったにもかかわらず、ド・ゴールが側近たちの反対を押し切って敢えて国民投票を行った真意は明らかではない。
引退後
辞任後は地方の山村コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズに住居を移して執筆活動に専念し、翌1970年11月に解離性大動脈瘤破裂により79歳で死去した。『希望の回想』と題した回想録が未完の絶筆となった。
遺言書には、「国葬は不要。勲章等は一切辞退。葬儀はコロンベで、家族の手により簡素に行うように」と記されていたが、フランス政府の希望もあり、結局国葬が執り行われた。墓地は希望通りコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズにある。  
カタルーニャ・ナショナリズム / ナシオナリスマ・カタラー

 

カタルーニャにさらに高度な自治を求める、またはカタルーニャが完全に独立国家となることを目指す政治運動。地域ナショナリズムの名称。
カタルーニャの歴史、カタルーニャ語、カタルーニャ独自の民法といった歴史的権利に根ざしている。現在のポリシーは、1830年代にさかんとなった文化運動カタラニスモ(es、カタルーニャはスペインとは異なる歴史と文化を持った存在で、その独自性の価値を認め、保存していこうという政治的信条)として生まれたものが、1890年代に明確になったカタルーニャの政治運動と結びついて20世紀初頭に観念的に形作られた。政治家バレンティ・アルミライ(en)と知識階級たちはこの過程に参加し、カタルーニャ語の承認を得るのと同様に自治を復活させるという新たな政治イデオロギーを揃えた。これらの要求は、カタルーニャ憲法(es、最古のものは1283年のコルツで成立)の復活を説いた1892年のマンレザ草案(es)に要約されている。
現在、左翼、中道、右翼の政党および市民を包括するものとなっている。
ナショナリズムの潮流
民族自決権
主として現在カタルーニャ民主集中(Convergència Democràtica de Catalunya、略称CDC)が率いる。この政党は、カタルーニャは国(Nació)であり、さらなる自治の拡大を獲得すべきと論じる。そして、カタルーニャ人自身が、カタルーニャが諸民族が統合した単一国家、あるいは連邦制国家としてのスペインに残留すべきか、独立すべきかを決める民族自決権を有するということを認めるべきであるとする。
独立
カタルーニャ共和主義左翼(en、略称ERC)が掲げる。CDCの一部も支持しているが、カタルーニャ独立の構想を守り、独立に向けてのステップとしてカタルーニャの自己決定権を獲得しようとするこの動きは、さらに少数派となっている。
独立運動以上に、国としてのカタルーニャは自治州だけにとどまらず、カタルーニャ語やカタルーニャ文化を共有するバレンシア州、バレアレス諸島、アラゴン州の東部にあるフランハ地方、北カタルーニャとも呼ばれるフランスのルシヨン、サルデーニャ島のアルゲーロ、アンドラ公国からなるのがカタルーニャ国であるという思想が優勢である。これらの地域は一方でカタルーニャ語圏の名がつけられ、この流れの究極の狙いは国連合をつくることである。
理念
カタルーニャ・ナショナリズムと独立運動は、カタルーニャ文化はスペイン(すなわちカスティーリャ)の文化とは異なると主張する。1714年にスペイン・ブルボン家が武力でカタルーニャを占領してから、以後抑圧され続けてきた国であると主張する。フェリペ5世が布告した新国家基本法によって、スペイン継承戦争後ただちにカタルーニャの法制度は廃止され、公的な場所でのカタルーニャ語使用が禁止された。文化的立場から、カタルーニャのナショナリストは、カタルーニャにおいてあらゆる社会的な場面で、カタルーニャ人はカスティーリャ語よりも優先して民族独自の言葉・カタルーニャ語を使おうと奨励する。加えて、話者の多さや文化的・伝統的立場から、スペイン政府施設、またはヨーロッパ各国の施設でカタルーニャ語を話す権利を守ろうとする。
カタルーニャ・ナショナリストとカタルーニャ分離主義者は、カタルーニャは財政赤字を埋めようとするスペイン国家によって経済的損害をこうむっていると主張する。また納めた税金よりも、受けるべき恩恵が少ないとする。これらの理由から、伝統的にカタルーニャは司法、行政、立法、文化、経済の各立場から、現在よりもさらに高度な自治を要求している。
象徴的な立場からは、カタルーニャはスペイン選手団の構成に加わらず、カタルーニャ独自の選手団を持つべきと論ずる。スペイン選手団とは明らかに区別して、非国家であるスコットランド、ウェールズ、マカオのように、国際的なスポーツイベントに公式に参加すべきという。
カタルーニャ・ナショナリズムとカタラニスモを区別しなければならないのは、カタルーニャの象徴や伝統を賞賛しながらカタルーニャ語という文化を守ることと、さらに大きな自治の獲得を説くことは、ナショナリズムのパラメーターのもとではその政治的アプローチが明確でないところである。しかし多くの調査によれば、カタルーニャ人の大部分がカタルーニャが国であると信じており、政治行動を行う機関ではないとし、スペイン国内でのカタルーニャ国の完全統合を説く。カタルーニャ独立運動という選択を排除しているのである。カタルーニャ独立運動では、カタルーニャ社会主義者党(PSC)及びカタルーニャ緑のイニシアティブといった政党は『ナショナリスト』とみなされないが、カタルーニャ人として正式にカタルーニャは国であるという理念を守っており、現在の自治州の枠組みまたは連邦国家の定則においてスペインの一員であろうとする。
カタルーニャ・ナショナリズムの歴史
カタルーニャ・ナショナリズムは、カタラニスモの変異として、20世紀初頭に政治運動として形成された。文化としてのナショナリズムの誕生は1830年代で、1890年代には政治的ナショナリズムと分離した。
ラナシェンサ
1830年代、ロマン主義の高まりからラナシェンサ(Renaixença, カタルーニャ語でルネサンス)と呼ばれる運動が生まれた。ラナシェンサとは知識的そして文化的な盛り上がりであり、初期には政治的要求は求めず、カタルーニャ語の復活と認証を求めていた。ラナシェンサの源は、ひとつはバレンティン・アルミライが始めた連邦民主共和党、そしてもうひとつはジュゼップ・トーラスが率いたカルリスタ運動であった。彼らの要求は、1892年のマンレザ草案に盛り込まれた。
20世紀
カタルーニャ・ナショナリズムが政治的重要性を持って始まったのは、1901年の選挙で地方政党、民族主義政党、保守政党が勝利したときからである。1906年、軍はカタルーニャ語に共感する新聞の起草に言いがかりをつけ、ナショナリスト全員の怒りをかきたてた。それを政治的構造に盛り込んだのが、政党のソリダリター・カタルーニャ(カタルーニャ連帯)である。結果として、運動を構成する2要素、文化と政治が結びついた。1907年の選挙の結果、カタルーニャ議会44議席のうち41議席を獲得したのである。バルセロナの悲劇の一週間後、ソリダリターは解体された。
1913年、保守的なエドゥアルド・ダート政権は、カタルーニャ連邦制をつくり採択した。これは、地方政党が率いる4つの県議会を含んだ、自治政府の一種であった。1918年以降カタルーニャにおける第一党は、スペイン議会で多くの議席を獲得することはなかった。その保守的な姿勢は復古主義的な政権とつながりを持ち、1923年に成立したプリモ・デ・リベーラ政権に反対もしなかった。しかし、スペイン・ナショナリズムと相反する全てのナショナリズムにつながりかねない政策であった連邦制が、国会から取り下げられた。一方で、CNT(es、第一インターナショナルにつながりのあったアナルコサンディカリスムの労働組合)に代表される、プロレタリアートの大多数はアナーキスムを支持していた。
プリモ・デ・リベーラ独裁政権の直前、フランセスク・マシアーの主導で初の親カタルーニャ独立政党、アスタ・カタラー(es、カタルーニャ国家)が誕生した。独裁政権後、アスタ・カタラーは左派政党に加わり、カタルーニャ共和主義左翼となった。この政党は、スペイン第二共和政期にカタルーニャの盟主的存在となった。この時代、そして一方的なカタルーニャ共和国の宣言後、カタルーニャのナショナリズムは1932年カタルーニャ自治憲章(es)を勝ち取った(ジャナラリター・デ・カタルーニャも復活した)。スペイン内戦でフランコが勝利すると、地域ナショナリズムはスペイン国家への反逆であるとみなす、抑圧の時代が始まった。カタルーニャ・ナショナリストたちは地下へ潜伏するか、国外へ亡命した。1939年、フランスへ逃れた123代ジャナラリター首班リュイス・クンパニィスらによって、パリでカタルーニャ国民会議(ca)が組織された(ナチスのフランス侵攻後はロンドンへ逃れた)。クンパニィスの刑死後は、ジュゼップ・イルラがジャナラリターを率いた。
自由のない時代であったにもかかわらず、1951年、1956年、1971年、1974年と複数回の労働者デモが組織され、回を重ねるごとに規模が大きくなった。1958年に非合法に結成されたカトリック系労働組合カタルーニャ・キリスト教労働者連帯は、1961年にカタルーニャ・労働者連帯に名称を変え、急進派と中間派を抱えた。反フランコを唱える団体としては、アセンブレア・デ・カタルーニャ(ca)があった。彼らは自由、恩赦、1932年の自治法復活、民主勢力の統合を求め、左右両派から広く参加者があった。フランコが没した1975年以後、民政移管が進められた。
1977年、ジュゼップ・タラデーリャス率いるジャナラリターが、長い亡命期間を終えてカタルーニャへ戻った。1978年スペイン憲法では、スペインは多くの国と地域からなる国家であると認識された。1980年8月11日、カタルーニャは自治州となった。同年の自治州選挙で、ジョルディ・プジョル率いる保守・民族主義政党集中と統一(略称CiU)が第一党となり、この状態は2003年まで続いた。
21世紀
2003年11月、集中と統一は選挙で敗退した。自治州議会は三党連立となり、パスクアル・マラガイがジャナラリター首班となった。議員数ではCiUが最大であるが、カタルーニャ社会主義者党(es、略称PSC)、ERC、PP、ICVがこれに続いた。
2006年カタルーニャ自治州選挙では、主要政党がカタルーニャ・ナショナリズム政党で占められた。カタルーニャ民主集中、カタルーニャ民主連合(es、略称Unio)、カタルーニャ共和主義左翼の三党で、得票率は45.88%であった。これらの政党の中では意見が分散している。より急進的な人々は、分離したカタルーニャ国家樹立に満足しているだけである。対照的に、より穏健な人々は、カタルーニャのアイデンティティーの保護はスペイン国内で相容れられないと確信しており、必ずしも同じというわけではない。また他の人々は抗議の意味でこれらの政党に投票しており、全体的な政党綱領と必ずしも一体感は持っていない(たとえば、一部の人々は単にCiUに飽きているので、左翼系の共和国成立を望んでいなくても、ERCに投票したかもしれない)。
2006年、より自治州政府の権限が拡大された、カタルーニャ自治憲章改正の住民投票が行われた。約73.24%の賛成投票を受け、2006年8月に施行された。しかし、48.84%の投票率は、カタルーニャの民主主義政治の歴史の中で最も高い棄権が行われたことを意味した。これは、一般大衆が解き放たれている証し、またはカタルーニャのアイデンティティー政策との争いの両方が引き合いに出された。
しかし、自治では不十分であるとして、カタルーニャでは独立を求める声が一定数ある。特に、ソブリン危機に端を発する経済危機の状況下で、経済政策においてカタルーニャが他の自治州よりも不当に扱われているとの思いから、独立勢力は勢いを得つつある。2012年11月25日のカタルーニャ州議会選挙では、独立を主張する4つの政党が合計87議席と、全体の約3分の2を獲得している。9月11日は、スペイン継承戦争の最後の戦いであるバルセロナ包囲戦で、カタルーニャがスペイン・フランス連合軍に敗北した日であり、「カタルーニャの日」という記念日となっている。この日には独立を求めるカタルーニャ市民が100万人単位で集まり、人間の鎖を作って政府に独立を求めている。カタルーニャでは、2014年に独立に関する住民投票を予定している。しかし、中央政府のラホイ首相はこの住民投票を阻止する構えを崩していない。一方、独立反対を唱えるカタルーニャ住民も少なくなく、2013年10月12日には、独立反対を唱える数万人規模のデモが行われた。デモの参加者は、主催者発表16万人、バルセロナ当局は3万人としている。
2014年11月9日に実施されたカタルーニャ州独立を問う住民投票ではカタルーニャ州は国家であるべきであり、独立を望む声が80.76%に達した。2015年9月27日に投開票されたカタルーニャ自治州議会選挙ではカタルーニャ州独立賛成派が135議席中過半数の72議席を獲得し、2015年11月9日、カタルーニャ議会はカタルーニャ独立手続き開始宣言を採択した。 
インドのナショナリズム

 

インドにおけるナショナリズムは、インド独立運動を通じて形成され、インド社会における民族、宗教的対立と同様にインドの政治に強い影響を与え続けている。インドのナショナリズムはしばしば1947年のイギリスからの独立以前に認められた、インド文化圏がインド亜大陸ひいてはアジアに与えた影響と結びつけて語られる。
インドの国家意識
インドでは歴史上、多くの帝国や政府によって統一国家が生まれてきた。古代の文書においてはバーラタ王のアカンダ・バーラタがインドの領域を規定しており、これらの地域が現在のインド文化圏を形成している。マウリヤ朝はインド全域と南アジア、ペルシャの大部分を版図に加えた最初の統一国家となった。以後、インドの各時代の国家はグプタ朝、ラーシュトラクータ朝、パーラ朝、ムガル帝国、イギリス領インド帝国などが中央政府を持つ統一国家として君臨してきた。
汎南アジア主義
インドの国家概念は単に主権の及ぶ領域の拡大を基礎とはしていない。ナショナリズムの基礎となっているのは、古代インドにおけるインダス文明とヴェーダ時代、そして世界の主要宗教に数えられるヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シク教を生み出している点にある。インドのナショナリストはインドをインド亜大陸全体の領域をさしてインドのナショナリズムを論じることが多い。
他国の侵攻
インドは過去の歴史上、マラーター王国におけるシヴァージー、ジャーンシーにおけるラクシュミー・バーイー、ラージプーターナーにおけるキットゥール・チェンナマやプラタープ・シング(マハーラーナー・プラタープ)、チャウハーン朝のプリトヴィーラージ3世、ガズナ朝皇帝マフムードやイギリスのインド支配を排除しようとしたティプー・スルターンなど、他国のインド侵攻やインド支配に対して多くの王、王妃を擁して対抗してきた。マウリヤ朝のチャンドラグプタやマガダ国のアショーカ王など、古代インドの王は宗教的な寛容さもさることながら戦の天才として後世に語り継がれている。
ムスリムの王もまたインドの誇りの一部となっている。ムガル帝国最盛期の王であったアクバルは国内の宗教的対立を解消しようとし、国内にカトリック教会を設置することでヒンドゥー教徒、仏教徒、シク教徒、ジャイナ教徒などと共に、カトリック信者とも友好関係を保っていたことが知られている。ヒンドゥー教徒であるラージプートの王と血縁的、政治的結びつきを強めた。
アクバル以前のスルターンは多かれ少なかれ宗教的に寛容ではあったものの、アクバルはさらに進んで、国内におけるイスラーム教の完全な信仰の自由を保証し、既存の宗教との混合を試みた。アクバルは宗教的差別を撤廃し、ヒンドゥー教徒の大臣などを登用し、王の前において宗教的議論まで行わせた。
スワラージ
1857年に起きたインド大反乱において、インド人兵士と地方の藩王国の藩王はイギリス帝国に対して反乱を起こした。この反乱は国土全土を覆う規模にまで発展しただけでなく、将来のナショナリズム形成の基礎となり、宗教的、民族的な対立も生み出した。
自治を意味する「スワラージ」はインドの完全な独立を要求するバール・ガンガーダル・ティラクによって提唱されたが、第一次世界大戦後まで実を結ぶことはなかった。1919年、ローラット法発布に対する抗議のために集まった非武装のインド人市民に対しイギリス軍が無差別射撃を行ったアムリットサル事件の後、インド国民は怒りを爆発させ、インド国民会議においてイギリスからの独立を模索するようになった。
ガンディーらによる独立運動
マハトマ・ガンディーはアヒンサー (非暴力)と市民的不服従を掲げ、塩の行進に代表されるサティヤーグラハ運動を行った最初の人物である。この運動により、一般大衆も暴力やその他の好ましくない手段を用いることなく、イギリスに対する革命運動に参加することが可能となった。ガンディーは民主主義や宗教的、民族的平等にこだわるだけでなく、カースト制度に根ざした差別の撤廃運動も展開し、インドの歴史上初めて不可触民と呼ばれる人々が革命運動に参加することになった。
一般大衆がインドにおける自由闘争へと参加したことにより、革命運動に参加する数は1930年代までに数千万人にまで膨れ上がった。加えて、ガンディーは1918年から1919年にかけて行ったチャンパランとケダにおけるサティヤーグラハによる勝利は、インドの青年層に対しイギリスの支配を打破できるという自信を与えた。ヴァッラブバーイー・パテール、ジャワーハルラール・ネルー、アブル・カラーム・アーザード、チャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリー、マハトマ・ガンディー、ラージェーンドラ・プラサード、ハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーンといった独立指導者は、地域や民族層を超えてインドの人々に支持され、強力なリーダーシップによって国家の政治的方向性の基盤を築いた。
インド人の枠組を超えて
インドはその民族的、宗教的な多様性と同様、ナショナリズムにおいても多様な側面を見せる。従って、最も影響の大きい底流にあるものは単なる「インド人」という枠組みを超えている。インドのナショナリズムにおいて最も議論の的になり、感情的対立が生まれるものが宗教である。宗教はインド人の生活において、主要かつ、多くの場合において骨子となる要素を形成している。インドには、言語、社会慣習、歴史上の経緯などで区分される多様な民族コミュニティがある。
ヒンドゥー・ナショナリズム
インドにおいてイスラーム教支持者が支配者層にいた時代から、ヒンドゥー教寺院の破壊やイスラーム教への強制的な改宗、イスラム教徒による侵略はヒンドゥー教に重大な影響をもたらしてきた。
20世紀に入り、ヒンドゥー教徒は全人口の75%を超え、ヒンドゥー教はナショナリズムの拠り所といってもよいものとなった。現代のヒンドゥー教では、カーストや言語的、民族的な違いを超えたヒンドゥー教社会の統一を目指している。1925年、ケーシャヴ・バリラーム・ヘードゲーワールはマハーラーシュトラ州のナーグプルにおいて、ヒンドゥー至上主義を基盤に据えた市民団体である民族義勇団を設立した。
ヴィナーヤク・ダーモーダル・サーヴァルカルはヒンドゥー・ナショナリズムを体現する国家の核となる概念としてヒンドゥトヴァという用語を導入した。この概念はインド人民党やヴィシュヴァ・ヒンドゥー・パリシャドのような今日のヒンドゥー至上主義支持団体の宗教的、政治的な基盤となっている。
ヒンドゥトヴァの支持団体はカシミールのようなイスラーム教徒が多数を占める地域における半自治的な特権を与える憲法第370条の廃止を主張し、ムスリムに対する特別な法的措置を廃止し均一な市民権を与えるよう要求している。これらの要求はムスリムへの特別扱いに対するヒンドゥー・ナショナリズムの現れと見ることができる。
インド建国
1906年から1907年にかけて、ヒンドゥー教徒が多数を占めるインド国民会議へのムスリムの懐疑心からイスラム教徒知識層により全インド・ムスリム連盟が結成された。しかし、マハトマ・ガンディーの指導力はムスリムからも幅広い支持を集めた。アリーガル・ムスリム大学と、ジャーミア・ミリア・イスラーミアは同じイスラーム教の大学でありながら、独立した大学となっている。前者は全インド・ムスリム連盟の思想を是とする組織であり、後者はナショナリズム及びガンディーの思想に基づくムスリムの教育を行う場として設立された。
ムハンマド・イクバールやムハンマド・アリー・ジンナーのようなムスリムがヒンドゥー教徒とイスラム教徒は別個の国家を有するべきだと考える一方で、ムフタール・アフマド・アンサーリーやアブル・カラーム・アーザード、ハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン、ハキーム・アジュマル・ハーンはマハトマ・ガンディーの思想やインドの自由闘争を支持し、インドのムスリムが分離独立するべきだという考えに反対している。後者の考えはパンジャーブ、シンド州、バローチスターン州、ベンガル地方といった、全インド・ムスリム連盟が政治的に強い影響力を持っている地域やパキスタンの分離独立の影響を受けた地域では支持されていない。
ザキール・フサイン、ファフルッディーン・アリー・アフマド、アブドゥル・カラームはインドの大統領経験があるムスリムである。俳優のシャー・ルク・ハーンやナシールディン・シャー、アーミル・ハーン、音楽家のザキール・フセイン、アムジャド・アリー・ハーン、クリケット選手のサイイド・キルマーニー、イルファン・パタン、ザヒール・カーン、ムシュタク・アリー、ムハンマド・アズハルッディーンのような著名人のムスリムもまたインドのシンボルとなっている。
ナショナリズムと政治
インドの最大政治団体であり、45年にわたって与党として政権を運営してきたインド国民会議の政治的な主張はマハトマ・ガンディーとジャワハルラール・ネルー、そして彼らに連なるネルー・ガーンディー・ファミリーに依存しており、インド独立以来ネルー・ガーンディー・ファミリーが実権を握ってきた。
1970年代前半までインド国民会議はインド独立運動成功の恩恵を受ける形で政権を運営しており、インドの自由、民主主義、統一を守ることに対してはネルーの時代と同様の主張を繰り返している。ムスリムはネルーが示した宗教教育分離主義を擁護するインド国民会議の支持者である。対照的に、インド人民党はより積極的なナショナリズムに根ざした主張を展開してきた。インド人民党はインドの文化と遺産を守り、インド人口の多数を占めるヒンドゥー教徒を守る政策を模索しており、このことが近隣の脅威となっている中国やパキスタンに対する国境線への積極的な軍事防衛強化といったナショナリズムと結びついている。
宗教的な主張をしている政党としては、シク教徒が多数を占めるパンジャーブ州に基盤を持つアカーリー・ダルや、マハーラーシュトラ州においてマラーター王国におけるシヴァージーのようにヒンドゥトヴァを支持するシヴ・セーナーがある。アッサム州では、アソム人民会議が第一党であったものの2011年の選挙で惨敗を喫し、アソム連合解放戦線(ULFA) がアソム人のナショナリズムを代弁する形となっている。タミル・ナードゥ州ではドラヴィダ人協会 (DK) から生まれたドラーヴィダ進歩党 (DMK) や全インド・アンナー・ドラーヴィダ進歩党 (AIADMK)、労働者党(PMK)、ドラーヴィダ復興進歩党(MDMK) が主要政党となっている。
カースト制度からの解放運動を行なっている政党としては、ウッタル・プラデーシュ州とビハール州のようなインド北部の人口の多い州において不可触民 (現在の指定カースト) やヒンドゥー教徒のような貧困層より支持を受けている大衆社会党やラルー・プラサード・ヤーダヴの政党がある。ほぼ全てのインドの州に州土着の人々の文化からの支持のみを目的として政治主張を展開する地域政党がある。
ナショナリズムと武力衝突
インドの軍隊はインドのナショナリズムにおいて必ず論点となる部分である。インドの軍隊に関する最古の記述としてはヴェーダやラーマーヤナ、マハーバーラタのような叙事詩に見ることができる。インドは歴史上多くの王国が興亡を繰り返し、十六大国、シシュナーガ朝、ガンガ朝、ナンダ朝、マウリヤ朝、シュンガ朝、カーラヴェーラ、クニンダ王国、チョーラ朝、チェーラ朝、パーンディヤ朝、サータヴァーハナ朝、西クシャトラパ、クシャーナ朝、ヴァーカータカ朝、 カラブラ朝、グプタ朝、パッラヴァ朝、カダンバ朝、西ガンガ朝、ヴィシュヌクンディーナ、前期チャールキヤ朝、ヴァルダナ朝、ヒンドゥー・シャーヒー朝、東チャールキヤ朝、プラティーハーラ朝、パーラ朝、ラーシュトラクータ朝、パラマーラ朝、ヤーダヴァ朝、ソーランキー朝、後期チャールキヤ朝、ホイサラ朝、セーナ朝、東ガンガ朝、カーカティーヤ朝、カラチュリ朝、デリー・スルターン朝、デカン・スルターン朝、アーホーム王国、ヴィジャヤナガル王国、マイソール王国、ムガル帝国、マラーター王国、マラーター同盟、シク王国などが栄えては滅んでいった。
現在のインド陸軍は19世紀のイギリス領インド帝国の軍隊が元になって形成されたものである。今日、インド共和国は100万人以上の兵力を持ち、世界第3位の軍隊部隊数を持つ。公式に発表されている国防予算は164415.19カロールルピー (310.7億ドル)であるが、実際にはこの金額よりはるかに上であると推測されている。インド陸軍では急速な軍の近代化と軍備拡張が行われており、インド弾道ミサイル防衛プログラムや戦略爆撃機、大陸間弾道ミサイル、潜水艦発射弾道ミサイルを指す呼称である核兵器の三本柱の配備が計画されている。 
日本と国家主義

 

第二次世界大戦中の日本は戦時体制により、国家主義的な傾向が強くなったことが指摘されている。
戦後、ポツダム宣言に基づき、戦中に失われた民主主義の復活強化(日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ)がなされ、刑事訴訟法も、全面改定作業が行われ、令状主義や強制処分法定主義の導入、弁護人依頼権の強化などが行われ、1948年(昭和23年)に現行の刑事訴訟法が成立し、翌年から施行された。 
経済と国家主義

 

「経済的国家主義」とは、「国有企業や他の形態による政治機構によって、直接的に、または経済企画によって間接的に、国が経済に介入する重大で合法的な役割を持っている」とする見方を強調するものである。
「国家主義」という用語は時に国家資本主義を指すことがあり、また国家による多量の政治介入によって市場を管理する経済をさすこともある。また、企業・産業を国有化して、国家による統制を強めようとする方式の意味でも使われる。 
 
国家主義の諸相

 

日本で台頭する危険な国家主義 2013/12
権力の座に返り咲いて1年となる12月26日、安倍晋三首相が、日本の戦没者を祀る神社であり、第二次世界大戦中の戦犯を合祀していることで論争の的となっている神社靖国を参拝しました。
中国と韓国は直ちにこの参拝を厳しく批判、アメリカ合衆国もこれに同調しました。
諸外国が日本の侵略主義、そして植民地支配の象徴とみなす靖国神社への安倍首相の参拝は、すでに緊張関係にあった対中国、対韓国との外交関係を一層悪化させることになりました。アメリカ合衆国大使館は、「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している。」との声明を公式ウェブサイトに掲載しました。
問題は安倍首相がなぜ今、靖国を訪問することを決心したかという点にあります。前回日本の首相が靖国神社を参拝してから7年が経ちましたが、中国と韓国がともにその存在自体を快く思わない神社に、参拝すれば中韓両国との外交関係に必ず悪影響を及ぼすと解っていながら、なぜ参拝を行ったのでしょうか?
中国、そして韓国と日本の外交関係は、2000年代中頃より現在の方が尚悪くなっています。
安倍氏が初めて首相に就任したのは2006-7の間でしたが、2012年2度目の首相になった時から、中国と韓国の指導者は安倍首相との会見を拒否し続けてきました。
ひとつは東シナ海に浮かぶ尖閣諸島をめぐる領土問題、もうひとつは第二次世界大戦中、日本軍兵士の性的奴隷とされた韓国の従軍慰安婦の問題のためです。逆説的に、中国、韓国がこうした態度を明確にして圧力をかけているからこそ、安倍首相が靖国参拝に踏み切ったという事が言えます。
尖閣諸島問題について中国側が徹底して対決姿勢をとったことは、日本国民に中国の軍事的脅威について信じ込ませるために、日本政府にとっては極めて好都合なことでした。
安倍首相の目標到達点の一つは、どこで領土紛争が発生しても直ちに軍事力を行使できるように日本の軍備の形を変えてしまうことです。そのために安倍首相はこの一年間中国側が日本に送り続けた様々なサインを無視し続けましたが、中国の『強硬姿勢』を内外にアピールし続けることで、その事実を隠すことが出来たのです。
靖国参拝は、そうした国民に対する宣伝工作がうまくいっているかどうかを確認するための、作業の一部だったという事が言えます。
日本が従軍慰安婦問題に真摯に向き合おうとしない態度に対する韓国側の厳しい批判が延々と続いている事、そしてパク・クネ大統領が安倍首相との会談を拒否し続けている態度は、日本の一般国民に対し、韓国に対する不信感を植えつける事になりました。それは世論調査の結果、日本人回答者の約半数が、韓国もまた日本に対する「軍事的脅威」であるとする結果に表れています。日本人有権者のそうした意識は、安倍首相に中国政府や韓国政府の反応にとらわれる事無く、思い通りに振る舞う自由を与える事になりました。
日本の主要な日刊新聞である毎日新聞、朝日新聞、読売新聞の3紙は、安倍首相の就任以来、靖国参拝には否定的な論調を続けてきました。もっと重要な問題、それは安倍首相やその取り巻きの国家主義者にとって何より大切なはずの存在である今上天皇が、前代の昭和天皇同様、靖国神社参拝を拒否している事です。
安倍首相が最終的に目指すもの、それは現在の平和憲法を書き換える事です。この憲法は第二次世界大戦後のアメリカ軍による占領期間に交付されたもので、国家の交戦権を禁じています。そして天皇は憲法の定めにより国政に参加する権限は持っていませんが、今上天皇もまた日本が戦争する事を認めてはいないのです。
安倍首相が靖国神社参拝を行う数日前、今上天皇は80歳の誕生日を祝う席上、「平和と民主主義の大切な価値」を守り続けるため、1945年に平和憲法を制定した人々に対する「深い感謝の念」を表明されたのです。
このような状況を考えれば、中国と韓国は歴史の解釈の問題について、日本国内に賛同者を見つける事は可能です。中国も韓国も安倍首相と会談する機会を設け、正面から立ち向かうべきなのです。これ以上会談を拒否し続ければ、安倍首相がさらに思い通りの政策を実現するための口実を与えることになってしまいます。
日本の軍事的な冒険は、アメリカの支持が無ければ可能ではありません。アメリカ政府は安倍首相のやり方が、北東アジア地区にどんな恩恵も与えない事をはっきりとさせる必要があります。
アジアの建設的な未来は、国家間の信頼関係を築いていく事の中にこそあります。安倍首相の行動は、その信頼と未来とを次々と破壊していく行為に他ならないのです。
Risky Nationalism in Japan DEC. 26, 2013
On Thursday, one year after coming to power, Prime Minister Shinzo Abe visited Yasukuni, the controversial Shinto shrine that honors Japan’s war dead, including war criminals from World War II. China and South Korea swiftly criticized the move, as did the United States. Mr. Abe’s visit will worsen Japan’s already tense relations with China and South Korea, which see the shrine as a symbol of imperial Japan’s wars of aggression and colonialism. The United States Embassy said America was “disappointed that Japan’s leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan’s neighbors.”
The question is why Mr. Abe decided to visit Yasukuni now. It had been seven years since a Japanese prime minister visited the shrine, a recognition at the highest levels that the site is symbolically repugnant to China and South Korea and that such a visit is detrimental to relations with them. Japan’s relations with those two nations are worse now than during the mid-2000s. Both Chinese and South Korean leaders have refused to meet with Mr. Abe since he became prime minister in 2012 (his first stint as prime minister was 2006-7), in part because of issues over territory in the East China Sea and Korean comfort women, who were forced into sexual slavery by Japanese soldiers during World War II.
Paradoxically, it is Chinese and South Korean pressure on these fronts that has allowed Mr. Abe to think a visit to Yasukuni is a good idea. China’s belligerent moves in the past year over Japanese-administered islets has convinced the Japanese public that there is a Chinese military threat. This issue has given Mr. Abe cover to ignore all the signals from China and to pursue his goal of transforming the Japanese military from one that is strictly for territorial defense to one that can go to war anywhere. The visit to Yasukuni is part of that agenda.
South Korea’s continuing and sharp criticism of Japan’s grudging stance on the comfort women issue and the refusal by President Park Geun-hye to meet Mr. Abe to discuss the issue have sown distrust of South Korea among Japanese citizens, nearly half of whom, polls say, also see South Korea as a military threat. Such views among voters have effectively given Mr. Abe license to act without regard to the reactions in Beijing and Seoul.
The three major national newspapers — Yomiuri, Asahi and Mainichi — have been editorializing against a prime ministerial visit to Yasukuni, especially in the year since Mr. Abe took office. And more important for Mr. Abe and his nationalist supporters, Emperor Akihito has refused to visit Yasukuni, as did Emperor Hirohito before him.
Mr. Abe’s ultimate goal is to rewrite Japan’s pacifist Constitution, written by Americans during the postwar occupation, which restricts the right to go to war. Here, too, Emperor Akihito disapproves, though he has no political power under the Constitution. A few days before Mr. Abe visited Yasukuni, the emperor, in comments marking his 80th birthday, expressed his “deep appreciation” toward those who wrote the post-1945 constitution in order to preserve the “precious values of peace and democracy.”
So, if history is the problem, Chinese and South Korean leaders will find allies in Tokyo, and they should meet Mr. Abe to confront, to negotiate and to resolve these issues. Their refusal to meet will only give Mr. Abe license to do what he wants. Japan’s military adventures are only possible with American support; the United States needs to make it clear that Mr. Abe’s agenda is not in the region’s interest. Surely what is needed in Asia is trust among states, and his actions undermine that trust.  
安倍首相の今回の靖国神社参拝については、国際メディアに湧くように記事がアップされています。このニューヨークタイムズの社説は秀逸でした。国民に対する宣伝工作、意識への刷り込み、もっといえば洗脳がうまくいっているかどうか、それを確認するために安倍首相は靖国参拝を『強行した』とは… そして大切な事があります。尖閣諸島を巡る問題について、12月3日のエコノミストは『非』は中国にあり、『理』は日本側にあるという論調でした。ところがニューヨークタイムズの記事では、それが逆転してしまいました。『非』は日本にあるのです。このままこの首相についていったのでは、私たち日本人は世界の中で孤立するばかりです。嫌われ、疎まれるばかりです。
特定秘密保護法を制定し、原発を次々と再稼働させ、ひたすら軍備を拡張する。これが私たち日本人の願いなのでしょうか? 
国家主義では国は発展しない 2016/7
国家主義がいろいろなところで流行っているようだが、人類の歴史の中では、せいぜい、一時的な気の迷い、脇道にすぎないと私は考える。なぜならば、そこには、愚かさはあっても賢さはなく、無知はあっても叡智はないからだ。
世界の趨勢は、実は、相互の関係性、依存性が深まっていくプロセスであり、このことは、交通網、流通、インターネット、そして地球規模の課題の台頭によって必然化している。国家主義は、そのような動きに対する「反動」にすぎない。
そもそも、「国家主義」は、エゴイズムに他ならない。うちの国家は世界一、と思って気持ちよがっていても、他の国から見たら知ったことではない。国家主義は、人類普遍の思想には成り得ない。つまり、知的なマイレッジが短い。必要な叡智も浅い。
国家主義は、弱いひとたちを惹きつける。本来、グローバル化の中、自分たちの能力を活かし、他者の異質性を尊重し、広々としたネットワークの中で組み合わせの創造性を模索すればいいのに、怖れ、不安がり、閉じこもろうとする。国家主義は、その本質において「地下室の手記」だ。
どの国にも、国家主義に惹きつけられるひとたちは一定の割合いるのであって、一方で開明的で叡智的な人たちもいて、そのバランスでその国の発展力が決まる。後者の割合が高い国は発展し、前者の割合が高い国は没落する。
つまり、国家主義は、国のことを思っているようでいて、実は国の発展を妨げる認知バイアスになるのであって、だからこそ、本当に国のことを大切に思っている人たちは、決して国家主義を振り回さない。世界に開かなければ、国自体が発展しないと知っているからだ。
以上の国家主義の脆弱さ、反知性的本質については、地球上、開明的な人々によってあまねく共有されている「常識」だと思うが、今朝は、敢えて、ベーシック中のベーシックを再確認するために、拙文を綴ってみた次第である。  
 
右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念ではなく、独立概念である

 

先日の「ナチスの「25カ条綱領」は日本人必読では」は反響が大きく、ツイッターでも、はてなブックマークでも、たくさんのコメントがあった。そこで書き足りなかった部分などについて、いくらか補足したい。
政治に詳しい人であれば、私のエントリに対して、「ナチスは国家社会主義なのだから、そこに社会主義が含まれていること、つまり左翼的な政策が含まれているのは自明であり、言うまでもない」と感じたかもしれない。
あるいは、社会主義に共感している人であれば、「ナチスの問題はもっぱら国家主義の側面にあるのに、社会主義の側面だけ取り出すのはフェアではない」と感じたかもしれない。
私が「ナチスの「25カ条綱領」は日本人必読では」において、ナチスの「国家社会主義」のうち「社会主義」の側面だけを取り出したのは、ナチスの「国家主義(ナショナリズム)」の側面はすでによく知られており、言うまでもないと考えたからだ。ナチスの一般的なイメージは、「国家主義」であり、「軍国主義」であり、「右翼」だろう。
いっぽう、ナチスの「国家社会主義」のうち「社会主義」の側面については、日本ではそれほど広く知られてはいないように思う。だから、このエントリを書く意義があるのではないかと考えたのだが、実際に反響が大きかったのを見ても(もちろん賛否両論だが)、それなりに書く意義があったのだろう。
ここで面白いのは、なぜナチスの「社会主義」「左翼」の側面はあまり知られていないのか、ということだ。これ自体、重要な論点を含んでいると思う。
なぜ、ナチスの「社会主義」「左翼」の側面はあまり知られていないのか。その理由は、
「右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念と思われているが、実は独立概念である」
というのが大きいように思う。
「右翼」と「左翼」というのは、言葉の上では反意語に見えるので、反対概念であると思われてしまいやすい。よって、ナチスは「右翼」「国家主義」であるというイメージが固まると、ナチスは「左翼」「社会主義」ではない、という認識が自然に形成されやすいのだと思う。「右翼」と「左翼」は反対のもので、共存しえないと思われているからだ。
しかし実際のところは、右翼(国家主義)と左翼(社会主義)というのは反対概念ではなく、独立概念なのである。そして、ナチスというのはまさに、右翼(国家主義)と左翼(社会主義)が合体したものなのだ。ナチスにおいて、右翼(国家主義)と左翼(社会主義)が共存しているということ自体が、その2つが反対概念でなく、独立概念であることを示している。
このことを図であらわしてみると、こんな感じだ。

   

これは、リバタリアニズムの政治思想的ポジションを説明するのにしばしば使われる「ノーラン・チャート(Nolan Chart)」に、若干補足したものだ。
ヨコ軸が「経済的自由」の度合いで、「社会主義」はいわば「経済的不自由」と位置づけられる。「社会主義」では、政府が市場経済に介入し、国民のカネを政府が取り上げて、その使い方を政府が決める。
タテ軸が「精神的自由」の度合いで、言論や思想、ライフスタイルなどの自由度を示す。「国家主義」はこの側面での自由を奪い、民族的アイデンティティに訴えて、国民を統制しようとする。
このように見れば、ナチスというのは「社会主義」と「国家主義」が合体したものであることが理解しやすくなる。それは「経済」と「精神」の両面で国民から自由を奪い、強制して、ひたすら政府の権限を拡大させる。これが「全体主義」であり、図では左下になる。
これと正反対なのが右上のリバタリアニズムで、個人の「経済的自由」と「精神的自由」の両方を最大化することを支持する。この両方の自由が政府によって侵害されることを嫌うので、政府をできるだけ小さくする「小さな政府」を支持する立場になる。
左翼は通常、社会主義を支持して国家主義を支持しないので、左上になる。いっぽう右翼は通常、国家主義を支持して社会主義を支持しないので、右下になる。
そして、ここまで理解すれば、右翼と左翼はやはり反対側に位置しているので、先ほどの
「右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念と思われているが、実は独立概念である」
という言い方は、正確ではないことがわかる。
独立概念なのは、「国家主義」(タテ軸)と「社会主義」(ヨコ軸)である。そして、「国家主義」というのは右翼の主要成分、いわば「右翼性」であり、「社会主義」というのは左翼の主要成分、いわば「左翼性」である。
つまり、ナチスというのは「右翼性(国家主義)」と「左翼性(社会主義)」を両方持った「全体主義」だ、ということになる。先ほど、ナチスは「右翼(国家主義)と左翼(社会主義)が合体したもの」と書いたのは、このことを意味している。
かんたんに言えば、ナチスは「右翼かつ左翼」であり、リバタリアニズムは「右翼でも左翼でもない」。この2つの立場は、右翼と左翼を1次元的に反対概念として捉えている限り、なかなか理解できないだろう。上のノーラン・チャートのような2次元的把握によってこそ、それが理解できると思う。
ナチスのような悲劇を繰り返さないためには、それを忘却するのではなく、それがどのようなものであったのか、どのように成立したのか、なぜ支持を集めたのかを知っておく必要がある。特に日本は、個人の「自由」に対する意識が希薄であり、「他人と異なること」への圧力が大きいなど、全体主義に通じやすい精神的土壌がある。実際、いちど全体主義が生じたという「前科」があるのだ。
日本には、問題を「構造」的・「システム」的に理解するのではなく、「ワルモノ」のせいにして片付けてしまいやすいところがある。これだと、「ワルモノ」をいくら罰したり、排除しても、問題を引き起こす「構造」「システム」がなくならないので、いくらでも「ワルモノ」が出てくる、ということになる。
ナチスについても、自分とは関係ない「ワルモノ」が引き起こしたのだ、と日本では考えられがちではないだろうか。こういう考え方はナイーブであり、危険ですらある。それは、自分は「善」であり、問題を引き起こすのは「ワルモノ」なのだから、自分は関係ないし、自分が問題に加担することはない、という過信の上に成立している。このような考え方、自分は「善」で、問題を引き起こすのは「ワルモノ」だと安易に線引きしてしまう考え方は、実はヒトラーの考え方にそっくりではないだろうか。
おそらくほとんどの人が、自分は「善」だと考えているだろうし、実際にたいていの人が「善人」だろうと思う。しかし、何が「善」かという考え方はいろいろあるし、また実際は「善人」なのに、「構造」や「システム」のために、悪いふるまいをせざるをえない場合もある。重要なのは、(1)さまざまな「善」があることを前提として、自分の「善」を他人に強制しないことと、(2)個別の犯罪ではない社会問題については、「ワルモノ」が引き起こしているのではなく、「構造」や「システム」に原因があること、この2つを理解することだと思う。 
 
「超国家主義」論は何を見逃したか

 

「かくて我らは私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」(臣民の道)といっているが、こうしたイデオロギーはなにも全体主義の流行と共に現われ来たったわけではなく、日本の国家構造そのものに内在していた。「超国家主義の論理と心理」丸山眞男
1 「超国家主義の論理と心理」
「超国家主義」は昭和日本のファシズムや全体主義を意味する概念として使われている。たとえば「現代日本思想大系」(筑摩書房)には橋川文三の編集・解説からなる『超国家主義』(第31巻)の巻がある。それは『アジア主義』(第9巻)『ナショナリズム』(第4巻)とは別に立てられた昭和ファシズムとその代表的言説を編集する巻だと考えられる。ところでその巻の編者である橋川はその解説で「日本の近代史においては、たとえばドイツもしくはイタリアに見られるような、明確なファシズム革命というものがなく、いわばなしくずしの超国家主義化が進行したために、その政治的要因として、一般の右翼思想・国家主義思想から区別された超国家主義的契機を、それとしてとり出すことが特別に困難である」といっている。橋川はここで丸山眞男が「どこからファッショ時代になったかはっきりいえない」と日本ファシズムの「漸進的な性格」をいう言葉を引いていっている。私がここで注意したいのは「超国家主義」という日本ファシズムの特性がドイツやイタリアのそれとの区からいわれることである。こうした「超国家主義」としての日本ファシズムの特質化は丸山によるものである。
「超国家主義」という概念を戦後日本に定着させたのは、敗戦の翌年に発表された丸山の論文「超国家主義の論理と心理」であるだろう。この論文は戦後日本の思想的言論世界にもっとも大きな影響力をもったものだといっていい。戦後20年に当たって『中央公論』(1964年10月号)が「戦後日本を創った代表論文」という特集をやっている。猪木正道・臼井吉見らの選考委員が18篇の論文を選んでいるが、圧倒的多数の票をもって第一位に選ばれたのは丸山のこの「超国家主義」論文であった。ところで丸山はその論文をこう書き出している。
「日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ、また世界に対して今次の戦争を駆りたてたところのイデオロギー的要因は連合国によって超国家主義ウルトラ・ナショナリズムとか極端国家主義エクストリーム・ナショナリズムとかいう名で漠然と呼ばれているが、その実体はどのようなものであるかという事についてはまだ十分に究明されていないようである。いま主として問題になっているのはそうした超国家主義の社会的・経済的背景であって、超国家主義の思想構造乃至心理的基盤の分析は我が国でも外国でも本格的に取り上げられていないかに見える。」
丸山は「超国家主義」とは日本を戦争に駆りたてたところのイデオロギー的要因に連合国が仮に名づけた呼び方だというのである。そうだとすれば「超国家主義」は日本のファッシズムなり全体主義をいう概念としてすでにあった概念ではないことになる。むしろ「超国家主義」は丸山のする分析的認識作業、すなわちその「思想構造乃至心理的基盤の分析」作業を通じてはじめて日本の独自的なファシズム、あるいは日本的特性をもったファシズムを指す概念として成立したと考えられるのである。「超国家主義」とは、だから丸山のこの論文が構成する日本ファシズムの概念である。だが丸山自身はこの論文以降、「日本ファシズム」といって「超国家主義」をいうことをあまりしていないように思われる。だが「超国家主義」は丸山のこの論文による概念構成とともに、日本ファシズムの代名詞として一人歩きしている。
では丸山はどのように「超国家主義」を日本的ファシズム概念として構成していったのか。丸山がいましようとしているのは「超国家主義」の「思想構造乃至心理的基盤の分析」である。もしこの論文によって「超国家主義」概念が構成されたとするならば、その概念は「思想構造乃至心理的基盤の分析」を通じて構成されたものだということである。これは見逃してはいけない大事なことだ。丸山はこの分析、すなわち「思想構造乃至心理的基盤」の分析はあまりなされていないという。というのは、この問題が「あまりに簡単であるからともいえるし、また逆にあまりに複雑であるからともいえる」からだといっている。あまりに簡単であるというのは、「それが概念的組織をもたず、「八紘一宇」とか「天業恢弘」とかいったいわば叫喚的なスローガンの形で現れているために、真面目に取り上げるに値しないように考えられるから」だというのである。
丸山がここでこちらの「八紘一宇」といった簡単すぎる叫喚的なスローガンに対置しながら、あちらのナチズム・ファシズム運動を代表するものとして挙げるものは何か。「例えばナチス・ドイツがともかく『我が闘争』や『二十世紀の神話』の如き世界観的体系を持っていた」ことを丸山はいうのである。ここに見るのは丸山の政治学的言説に、その言説構成を可能にするものとして終始つきまとう図式的な東西の対比的思考である。なぜ丸山はヒトラーの『我が闘争』やローゼンベルクの『二十世紀の神話』に対置するのに北一輝の『日本改造法案』や大川周明の『日本二千六百年史』をもってせずに、「八紘一宇」や「天業恢弘」といった叫喚的スローガンをもってするのか。ここで『我が闘争』や『二十世紀の神話』に対置するのに北や大川の著作をもってすることの適否が問われることではない。問題なのは『我が闘争』をもつか、もたないから日本ファシズムの特質を導いていく丸山の政治学的分析のあり方である。
「超国家主義」概念を構成していく丸山の日本ファシズムをめぐる分析視角は、『我が闘争』の有る無しを問うような東西の対比的分析視角である。この東西の対比的分析視角は問われるものの特質を予め規定してしまっているように思われる。
「国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むところの心理的な強制力が問題なのである。それはなまじ明白な理論的な構成を持たず、思想的系譜も種々雑多であるだけにその全貌の把握はなかなか困難である。是が為には「八紘一宇」的スローガンを頭からデマゴギーときめてかからずに、そうした諸々の断片的な表現やその現実の発現形態を通じて底にひそむ共通の論理を探り当てる事が必要である。」(傍点は子安) 
『我が闘争』をもたないわがファシズム、すんわち「超国家主義」という概念はこのように「思想構造乃至心理的基盤」の分析を通じて構成されるのである。
2 『我が闘争』はここには無い
一般にはファシズムという政治イデオロギーを備えた政治的、思想的運動体系が組織的宣伝と大衆教育を通じてファショ的という同調的心理を大衆の間に作り出していく。こうして時代と社会とは全体主義的に再編成されていくのである。たしかにそこには時代と社会のファショ化を主導するイデオロギーがあり、そのイデオロギーを担う主体と組織と運動とがある。だが日本ファシズムには『我が闘争』はないと丸山はいうのである。『我が闘争』がここにはないと丸山がいうとき、それは何を意味するのか。
『我が闘争』が日本ファシズムにはないということは、最初に引いた橋川の「解説」がいうように、日本ファシズムには「始まり」がないことを意味している。「始まり」がないとは、始まりを画する宣言といった言語的表明がないということである。言語的表明がないということは、始まりを告げるような確信的な表明主体がないということである。このように丸山が日本ファシズムには『我が闘争』はないということは、私が上に「ここには時代と社会のファショ化を主導するイデオロギーがあり、そのイデオロギーを担う主体と組織と運動とがある」といったファシズム運動の一般形としては日本ファシズムを見ないことを意味する。丸山は日本ファシズムをファシズムの特異形として見るのである。「超国家主義」とはこの特異形としての日本ファシズムをいうのである。この特異形としての日本ファシズムを叙述する丸山の論文「超国家主義の論理と心理」は、この日本ファシズムという特異形、あるいはむしろ奇形に対して嫌悪感を含んだサチールをしばしば浴びせかける。「慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。この意味に於いて、東条英機氏は日本的政治のシンボルと言い得る。」
日本ファシズムには始まりもなければ、始まりを告げる言葉も主体もない。では何があるのか。ここにあるのは日本的特異形としての国家、すなわち天皇制的国家があるのである。ここでは国家の存立そのものが、「国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むところの心理的な強制力」をともなったものとして、あるいはそうした心理的な強制力をたえず生み出す権威的源泉としてあるのである。日本ファシズムの特異性とは日本的国家の特異性である。日本ファシズムはこの日本的国家と国家主義の特異性が生み出すものとして「超国家主義」=極端な国家主義といわれるのである。
3 国体論的国家
丸山は特異形としての日本的国家を、例によって東西の対比的視角による特質化をもってしている。いま西の〈国家類型〉が丸山によってどのように構成されるかを見てみよう。
「ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットがいうように、中性国家(Ein neutraler Staat)たることに一つの大きな特色がある。換言すれば、それは真理とか道徳とかの内容的価値に関しては中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。」
丸山はここで〈中性国家〉を近代国家の理念型として記述しているのではない。西側・ヨーロッパの近代国家を〈中性国家〉として特質化し、記述しているのである。この記述はすでに虚構である。この〈中性国家〉の記述は、その反対側に〈反・中性国家〉を導くための虚構である。東西の対比的視角による東の国家・社会の特質化的記述は虚構の記述となることを免れない。私はカール・シュミットを呼び出してする丸山の〈中性国家〉の理念型的記述を読みながら、『日本政治思想史研究』で丸山が構成する荻生徂徠の〈作為的社会〉像の記述を思い起こした。「超国家主義の論理と心理」のこの一節を読みながら、あたかも『日本政治思想史研究』の徂徠論の一節を読んでいるかのような錯覚を私はおぼえた。制作主体を前提にもった〈作為的社会〉としてヨーロッパ近代社会像を理念型的に構築し、それを徂徠の〈先王の道〉をめぐる儒家的政治思想に読み入れ、近代に先駆する徂徠の〈作為的社会〉像を丸山はでっち上げ的に構築し、記述するのである。こうしてわれわれが『日本政治思想史研究』に読まされるのは、徂徠の〈作為的社会〉像を江戸に置き忘れて近代化する日本国家社会の前近代的な国家社会構成と思惟様式の持続である。
明治の啓蒙期にヨーロッパ〈近代〉の虚構的理念型的構成が意味をもったのは、近代化の教えとしてであった。福沢の『文明論之概略』などはそのもっとも良質な例であろう。だが近代先進国家米英との総力戦に敗れた1946年の戦後日本にとって、ーー総力戦を戦いうるということは日本もまた近代先進国家であったことを意味するーーヨーロッパ〈近代〉の虚構的理念型化の言説はなお教えとしての意味をもっていたのだろうか。それは福沢を唯一の師とする丸山による再度の、そして真正の近代化の教説なのか。それともこれは丸山による西欧近代の対極像としての前近代国家日本の呪詛をこめた否定的再構築の言説であるのか。
丸山はヨーロッパにおける近代〈中性国家〉の形成過程を、「(政治と宗教との間の熾烈な確執は)かくして形式と内容、外部と内部、公的なものと私的なものという形で妥協が行われ、思想信仰道徳の問題は「私事」としてその主観的内部が保証され、公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収されたのである」と記述していく。ヨーロッパ近代の〈中性国家〉の丸山における理念型的成立とともに、あるいはその成立を前提にしてはじめて〈反・中性国家〉としての日本的国家が記述されることになる。丸山による日本的国家の記述を見よう。
「日本は明治以後の近代国家の形成過程に於て嘗てこのような国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。その結果、日本の国家主義は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。」
「そうして第一回帝国議会の召集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体としての価値内容の独占的決定者たることの公然たる宣言であったといっていい。」
「国家が「国体」に於て真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立し得ないことは当然である。しかもその依存は決して外部的依存ではなく、むしろ内部的なそれなのである。」
〈中性国家〉の対極に構成されてくるのは、価値的な実体としての国家である。この価値的実体としての国家である。この価値的実体としての国家とは、19世紀終わりの東アジアで国家の自立的存立をかけた日本が国家に与えていった無二の国家性ナショナリティーである。この無二の国家性を天皇と国家と国民の同時的成立をいう創成神話をもって修飾し、それを「国体」として日本の近代国家存立の理念的基盤としていったのである。
私がいいたいのは丸山がいう「価値的実体」としての国家、あるいは「国体」論的国家とは明治日本が創りだした国家だということである。それは決して近代日本に成立する国家が自ずから備える性格ではない。福沢は『文明論之概略』で明治初年の国民は〈中性国家〉をとるか、〈国体論的国家〉をとるかの重大な選択を迫られていることをいっている。1875年の福沢において〈中性国家〉はなお可能な国民の選択肢であった。だが1946年の丸山にとって〈中性国家〉は近代日本における〈国体論的国家〉の運命的な肥大を呪詛を以て描き出すための虚構の理念型である。丸山は日本国家の国体論的存立を日本の近代国家の特異性としてとらえ、国体論的国家主義の過剰の展開を〈超国家主義〉として記述していった。
〈超国家主義〉が日本的全体主義であるのは、それが〈国体論的国家〉への国民の身体的、精神的統合を強制し、あるいは内部からうながす国家主義的支配の体系であるからであろう。ここで丸山の〈超国家主義〉的支配の分析の特異性は、〈国体論的国家〉の存立そのものが生み出す、国民の支配—服従の特異な心理過程の分析的な記述にある。丸山は国民の支配—服従の心理過程を陸軍内務班に象徴的に見ながら有名な「抑圧の移譲」という権力支配のあり方を描き出す。
「さて又、こうした自由な主体意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが保持されている体系である。」
この「抑圧の移譲」という支配—服従の体系は天皇制国家の支配—服従の体系にほかならない。
「天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。」
丸山の「超国家主義の論理と心理」への人びとの称賛は、ほとんどこれらの天皇制国家の支配—服従の社会心理学的な記述への称賛に行きつく。人びとは争ってこれを引用し、この引用をもって日本ファシズムへの追及を止めてしまった。そのとき人びとは丸山とともに日本ファシズムを隠蔽し、見逃してしまったことに気付かない。
4 日本ファシズムには始まりがある
日本ファシズムには始まりがないと丸山はいう。彼はこれを日本ファシズムには『我が闘争』がないといういい方でしていた。丸山という現代日本の代表的知識人のこの臭みのあるいい方は、二つのことを意味している。一つには日本ファシズムを〈国体論的国家主義〉の始まりのない漸進的な過激化としてとらえることである。二つには丸山の日本ファシズムの記述は日本的特異性の記述に終始することである。この二つは日本ファシズムを丸山が〈超国家主義〉として概念構成することの両面である。
丸山は日本ファシズムを〈超国家主義〉として概念構成することによって、すなわち日本ファシズムを〈国体論的国家論〉の問題に還元してしまって、1930年における世界史的全体主義の成立の問題から切り離してしまう。ドイツ・ナチズムは丸山において日本ファシズムの特異性を暴き出す理念型になってしまう。これは丸山政治学の根底的な間違いである。
日本ファシズムを世界史的全体主義との関連の中で見るならば、日本ファシズムは昭和ファシズムとして成立した時期をはっきりともつことになる。その時期とは1931(昭和6)年の満州事変が起こった時期である。総力戦を可能にする日本の全体主義的体制下がこの事変とともに始まったのである。全体主義化する昭和日本のただ中に生まれた私はもとよりこの変化を知ることはなかった。だが丸山たちの世代は満州事変とともに始まる日本の体制的変化に気付いたはずである。にもかかわらず丸山は敗戦の翌年に日本ファシズムを始まりのない〈超国家主義〉として、ファシズムの日本的特異型として記述した。「超国家主義の論理と心理」は大きな評価をえた。だがこの論文の成功とともに日本ファシズムをその張本人どもとともにわれわれは見逃してしまったのである。
われわれはいま安倍と日本会議に日本ファシズムの21世紀的再生を見ている。これは世界的に見て他に例をみない事態である。
なぜ我々は世界に例を見ない戦前ファシズムの再生復活を許してしまったのか。私は慙愧の思いで戦後過程を振り返っている。われわれは日本ファシズムを見逃してきたのではないか。丸山の「超国家主義の論理と心理」はこの見逃しの一因をなしているのではないか。
 

 

 
国民主義 

 

国民の人権や自由を尊重しつつ、民主的に国家を形成・発展させようとする思想・運動。ナショナリズム。
国民的統一のもとに国民の政治への参加による近代国家の形成・発展を目指す立場。ナショナリズム。
…この前後,井上毅らの知遇を得,フランスの反革命主義者J.M.deメーストルの書物を《主権原論》の題で翻訳出版する。88年政府の条約改正と欧化政策に反対して辞職,谷干城らの援助を受けて4月より《東京電報》を発刊し,同月創刊の政教社の雑誌《日本人》の〈国粋主義〉に呼応して,〈国民主義〉を唱える。この新聞は翌89年2月改組されて《日本》となるが,たまたま漏洩した大隈重信外相の条約改正案批判を通して,羯南の名は一躍高まる。…
…この困難を補う点で重要な役割を果たしたのが民族主義であり,民族国家,国民国家が歴史の流れとなるなかで国家主義は民族主義との融合をとげ,その理念を補完することになった。実際,日本では従来,国家と民族との重なりがほぼ自明視されてきたこともあって,国家主義,民族主義,国民主義,国粋主義といった言葉はほとんど同義に用いられている。したがってこれらの語は国家主義の第2の内容をなすといってよい。…
…また二葉亭四迷や徳冨蘆花などによる文学の革新をも実現させた。これに対抗した三宅雪嶺,志賀重昂らの政教社は,雑誌《日本人》によって陸羯南の新聞《日本》とともに〈国民主義〉を唱えた。《日本人》は高島炭鉱の坑夫の労働条件の過酷さを訴えて,いわゆるルポルタージュの先駆となり,《日本》は正岡子規の俳句再興の舞台となって国民的なひろがりをもつ短詩型文芸慣習を定位するなど,日本の近代文学に貢献した。…
…かつては,民族主義,国民主義,国家主義などと訳し分けられることが多かったが,最近では一般にナショナリズムと表記される。このことは,ナショナリズムという言葉の多義性を反映し,そしてその多義性は,それぞれのネーションnationや,そのナショナリズムの担い手がおかれている歴史的位置の多様性を反映している。…
陸羯南の国民主義 / 政治に於ける国民論派の大要 / 国内的政治(ナショナル=ポリチック)とは外に対して国民の特立を意味し、而して内に於ては国民の統一を意味す、国民の統一とは凡そ本来に於て国民全体に属すべき者は、必ず之を国民的にするの謂なり、昔時に在りては未だ国民の統一なるものあらず、其之あるが如き唯だ外観に過ぎずして、更に実相を見れば一種族一地方又は一党与の専有たることを免れざるあんり。帝室の如き、政府の如き、法制の如き、裁判の如き、兵馬の如き、租税の如き、凡そ此等の事物は皆本来に於て国民全体に属すべきものとす、然るに昔時に在りては斯る事物皆な国民中の一部に任して其の私領と為せり、是れ国民統一の実なきものなり、国民論派は内部に向て此の偏頗及分裂を匡済せんと欲す。されば国民的政治とは此の点に於ては即ち世俗の所謂る輿論政治なりと謂ふべし、『天下は天下の天下なり』と言へる格言をば之を実地に適用し、国民全体をして国民的任務を分掌せしめんことは国民論派の内治に於ける第一の要旨なりとす、此理由によりて国民論派は立憲君主政体の善政体なることを確認す  
 
「国民主義」の問題

 

1、石田雄の問題提起
石田雄・姜尚中による『丸山真男と市民社会』を、われわれ読者はどのように読むべきなのであろうか。この本は純然たる著作ではなく討論の内容が纏められたものである。そして二人の対談でもない。この議論の中で姜尚中はゲストであり、ホストは石田雄である。この討論を初めから企画・構成し、主導しているのは石田雄である。形は討論形式であるけれども、内容的にはほとんど石田雄箸の『丸山真男と市民社会』となっている。そこに姜尚中を加えたのは、石田雄自身の問題提起をヨリ完結させるための目的的な配慮からであると言ってよい。
この議論の中で、石田雄はきわめて重大な問題提起を二つしている。その一つは、丸山真男の思想の中には衆目が言うような「市民社会」の表現・言及はない、そうした概念・理論はない、丸山真男を「市民社会派」として規定するのは誤りである、それは丸山真男を「近代主義」として批判する人々によって作られたイメ−ジでありシンボルであるという指摘である。この指摘、問題提起の意味は非常に大きい。
もう一つは、その市民社会の問題とも関連するが、『歴史意識の「古層」』において丸山真男が論じている日本認識、原日本像把握の前提(等質的・均質的な日本人の国民性、日本人国家『くに』の歴史始原的成立)は、近代的な国民主義の考え方を歴史を溯って投影する方法態度であり、それは丸山真男の「勇み足」であったという議論である。われわれ読者は、石田雄が丸山真男の「勇み足」を言うのを初めて聞く。
この第二の問題提起を聞いたとき、われわれは、何故そこに石田雄が姜尚中を招いたのかをよく理解することができるように思われる。それはすなわち姜尚中らによって執拗に批判されてきたところの「国民主義者丸山真男」の思想像に対して一石を投じようとする試みであると言えるだろう。日本国民内部の異質性や周辺アジア諸国に対する日本の侵略の事実に配慮しようとしない「"近代主義者"丸山真男の国民主義的限界性」という議論は、八○年代以降、年若い研究者たちの間での”丸山真男批判”の定番セオリ−となってきたものである。その近代主義批判としての国民主義批判は、丸山真男のみならず明治の福沢諭吉を射程に据えたものであった。
姜尚中を筆頭とするそうしたオリエンタリズム批判の視角からの「国民主義者・丸山真男」批判の議論に対して、丸山真男自身が何らか反論をもって応えることはなかったが、丸山真男の死去のあと、石田雄が遂にそれに対する動きを見せたのである。しかしながら、それは同時に『歴史意識の「古層」』において典型的に表現されているところの丸山真男の「日本的原像」の認識方法を「勇み足」すなわち mistake とする、読者にとっては意外な反応と対応であった。
まず、端的に、もっとも問題があると思われる箇所を引いておきたいと思います。「古層」論文(『歴史意識の「古層」』一九七二年)のなかの一節です。
「われわれの『くに』が領域・民族・言語・水稲生産様式およびそれと結びついた集落と祭儀の形態などの点で、世界の『文明国』のなかで比較すればまったく例外的といえるほどの等質性を、遅くも後期古墳時代から千数百年にわたって引き続き保持して来た、というあの重たい歴史的現実が横たわっている」
(中略)それにしてもこの一節は、近代日本における、つくられた伝統としての等質性の神話というものを後期古墳時代まで溯らせたという点で、明らかに丸山にとって勇み足であったと私は思います。
(中略)この「古層」に代表される接近方法については、丸山自身ある種の不安を感じていたのではないかと思います。それはこの接近の中核をなす概念の不安定性にも示されています。(中略)「古層」で明らかにされたその特徴的な思考様式は、いわば宿命的なものになってしまいかねない。(中略)そういう相対化を伴わない場合には、ある種の文化的決定論として宿命論に落ち込む危険性をもっていると思います。
石田雄のこの議論は、ある部分、これまでの姜尚中らの丸山真男批判を認める議論であると言える。それを部分的に認めつつ、その「誤謬」を一九七○年代の「日本的原像論」の周辺に止め、丸山真男の思想全体からすれば決定的な問題点ではないという論述がなされているのである。姜尚中自身も、この石田雄の「勇み足」の問題提起が意外なものであった様子だが、後の彼の報告の部分では、丸山真男の一九四九年の論文『近代日本思想史における国家理性』を取り上げ、丸山真男の国民主義的思考が単に『歴史意識の「古層」』の古代史認識周辺に限定されるものではなく、もっと本来的で本質的なものではないかという点を反論している。これは当然の反論であろう。
われわれ読者は、この石田雄の「勇み足」論の問題提起をどのように受けとめるべきなのであろうか。
2、国民主義と地球社会主義
これはナショナリズムの問題である。Political Theory と Nationalism の問題である
最初に私自身の感想を言えば、この石田雄の「勇み足」論は、あまり積極的な意味を認められるものではない。そこまで丸山真男の「日本的原像把握」を否定的に見る必要はないのではないかというのが率直な印象である。そこまでオリエンタリズム論的視角からの「国民主義者丸山真男批判」の議論に膝を屈する必要はないのではないかというのが、読者である私の感じ方であった。私は、オリエンタリズム論からの福沢諭吉批判や丸山真男批判には − それについてほとんど無知であることが理由の第一ではあるのだけれど − 何の説得力も感じないのである。
戦中戦後の丸山真男や明治の福沢諭吉に「地球市民」の思想を要求するのは、江戸期の荻生□□や本居宣長に「市民革命」の思想を期待するのと全く同様の「無理」ではないのか。それは、幸徳秋水に「前衛党による二段階革命」を求めるのと同じ飛躍と言えるのではないのか。それこそまさにハル−トゥニアンの言う「歴史からの離脱」そのものではないのか。われわれは、リンゴが木から落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見した物理学者ニュ−トンに対して、どうしてお前は「相対性理論」の発見まで導けなかったのかなどとクレ−ムをつけたりすることがあるだろうか。それはどう考えても「無いものねだり」の「無理なお願い」と言うべきである。
社会科学としての政治学には、自然科学と同じようにその時々の与えられた歴史的課題というものがある。その課題を正確に分析把握し、そしてそのとき最大限可能な展望を指し示すのが社会科学者の役割であると言えるだろう。所与的で限界的なそれぞれの歴史的環境の中で、どこまで普遍的な理念を現実化へと導くことができるか、それこそが予言者としての思想家の課題である。何時の時代でも人は理念と現実の緊張関係の中に立たなければならない。
そのナショナリズム(たとえば『近代日本思想史における国家理性』に見られる)は、丸山真男における限界性と言うよりもむしろ歴史性と言うべきであり、歴史性として積極的に評価できるものである。特に、日本の政治的独立がきわめて不安定で不透明な環境にあった戦後一九五○年代の時代までの理論については、明確にそう断言することができるだろう。その頃の丸山真男が「地球市民論」を吐いていたとすれば、われわれは政治学者としての丸山真男のセンスを大いに疑わなければならないはずである。
また、最晩年の座談会では、丸山真男自身による次のような発言を見ることができる。
石川 / 国連についてはどうでしょう。
丸山 / 主権国家は武力の正統性を独占しています。だから国連の組織が主権国家を唯一の単位としているかぎり、その動きは大国の利害で左右され、本当の世界組織として紛争を解決するのに役立たない。大体、国民国家が主権をもって世界秩序の単位になったのは、歴史は長そうに見えるけれど、第一次大戦以後のことですよ。それまで秩序を維持してきた主要な大帝国が相ついで崩壊してからです。主権概念がヨ−ロッパに形成されてからも、せいぜい三百年余りだ。人間の思考というものは惰性が強くて、現実の変化より遅れるのが常ですね。(中略)
石川 / 今のままでは、国連の未来は暗いですね。
丸山 / 根本改組をするしかないですね。一方ではプル−ラルな社会団体の、国家からの自主性を強化し、他方で国家を媒体にしないで直接に国際的に結合して地球社会の構成員になるようなシステムを考えるほかない。まあ、二十一世紀にもちこす課題でしょうが、憲法九条をもつ日本は、こういう方向で、つまり国家主権を思い切って制限する方向での改革を主張できる立場にある。(中略)
ここで丸山真男は近代的な主権国家の限界を言い、そして地球社会の国連構想を述べている。姜尚中は丸山真男自身のこの発言をどのように受け止めるのであろうか。こうした発言は、近代主義者であり国民主義者である丸山真男の「転向」であるのだろうか。そうではないだろう。それは転向でも変節でもない。それは単に、丸山真男によって現在の「常識」が述べられているに過ぎない。姜尚中が長年主張し、今回石田雄が一部認める、この丸山真男の「近代的な国民国家観の歴史始原の時代への主観的投影」への批判は、逆に、カン尚中と石田雄自身の、現在つくられ与えられている古代史観・古代史認識の「常識」を歴史を溯って二十五年前の丸山真男に適用し投影する非歴史的な方法態度であるとは言えないのか。
3、「日本的原像」把握の課題と方法
石田雄が言うとおり、丸山真男の日本的原像理解は、近代的な国民国家観の歴史始原の時代への投影であると言えるのかも知れない。しかし、当時一九七二年までの古代史学においては無論のこと、それ以降、現在までの日本の歴史学や考古学の科学的史料的成果を厳密に追跡したとしても、この丸山真男の日本的原像論を根底から否定するまでの決定的な根拠を準備し得ているとは必ずしも言えないのではないだろうか。たとえば最近までの研究成果のスタンダ−ドな報告であるはずの岩波書店『岩波講座 日本通史 第2巻 古代1』(一九九三年)などを吟味精読しても、その記述は依然として「古代国民国家」的な歴史観を基調としたものである。
   鬼頭清明 : 六世紀までの日本列島 − 倭国の成立 −
   坂元義種 : 東アジアの国際関係
   吉村武彦 : 倭国と大和王権
それには理由がある。
その(古代国民国家的な)歴史認識・古代史認識が、大日本帝国が崩壊し、皇国史観が滅び去った後に確立された戦後日本の一般的・標準的な古代史観であるということである。私なりの言葉で表現するなら、それはすなわち「日本国憲法が許すところの『日本書紀』の読み方」に他ならない。皇国史観を拒否する日本国憲法という条件と『日本書紀』の記述という条件の二つが現在のスタンダ−ドな「日本人の歴史的原像」をキ−プさせている。結論から言うなら、日本書紀あるいは古事記の史料研究を基礎として日本古代の実像を浮かび上がらせようとする限り、誰の手による仮説においても、必ずこうした「古代国民国家」的な歴史認識として結果せざるを得ないだろう。その法(のり)を克えることができるのは、歴史学者ではなく、歴史認識から科学的方法を排除して心を痛めることのない哲学者のみである。
周知のとおり、日本史学の世界には、社会科学とは一味違った独特の伝統的な学問様式が存在する。それは「東京学派」と「京都学派」という二つのグル−プによる対立的協業の構図である。単に国立大学や歴史博物館の研究職員だけでなく、広く在野の歴史小説家までインボルヴしてこの対立的構図は能動的に機能しているのである。一般的な印象を言えば、東京学派がオ−ソドックスな科学と考証の基準を守ってスタンダ−ドな日本歴史像を慎重に提供、継承し、一方、京都学派が自由奔放にその枠を破って新説・珍説・奇説の類を乱発するという構図である。マスコミや出版社や歴史マニアが飛びつくのは京都学派の自由な想像力だが、一旦、歴史教科書記述というような深刻な問題になると、歴史学は科学と常識のスタンスに厳粛に立ち戻らなければならない。
丸山真男の「日本的原像」論を近代主義的な自己認識の主観的投影だと口先で批判することは容易である。しかしそれでは、姜尚中ならば一体どのような「古代日本の原像」を日本国民に提供してくれるのか。日本国憲法があり、日本書紀という(ある意味で絶対的な)史料の記述を前にして、果たして姜尚中はどのような古代史認識をもって「日本的原像」を日本人に説明しようとするのであろうか。あるいは石田雄は一体どのような「日本的原像」をわれわれに用意するのであろうか。
もしも、それを誤謬であり虚像であるとして、何らか別の古代日本の原像を描き上げようとするならば、そのアプロ−チは、たとえば(京都学派的方法の代表者である)梅原猛の「アイヌ=縄文論」のようなポストモダン主義的な新グランドセオリ−の構築となることだろう。梅原猛のブレイクスル−は方法としてきわめて画期的であったと私は思う。私はそのブレイクスル−に拍手を送りたい。しかしながら、これはこれで、「古代国民国家」的歴史像とは全く別の形の、自然主義的・ロマン主義的な日本主義、すなわち新たな装いの「超近代的ナショナリズム」の歴史認識(=「普通の国」をイデオロギ−的に弁証する)であったことは間違いない。
要するに、そこで問われているのは「日本人とは何か」なのであって、答える側もまた「これが日本人の原点だ」という原像論の解答を用意しなければならないのである。日本人自身が日本人自身に対して「これが日本人の原像だ」という解答を用意するとき、その歴史像が何らか「国民的な」契機を与えられずに済むということはあり得ない。日本の右翼的論者たちから屡々槍玉にあげられる韓国知識人たちによる「日本人の原像」論の傾向を見るならば、その意味と真相がよく分かろうというものである。われわれ日本人にとって仰天するような珍説が彼らにとっては常識的な歴史的事実なのである(それが間違いだと言っているのではない)。
従って私は、丸山真男による『歴史意識の「古層」』の日本的原像把握を「勇み足」とは考えない。もし石田雄の言に従って、丸山真男のその日本的原像把握を否定しようとするのであれば、その理論的核心部である「つぎつぎになりゆくいきほひ」の基底範疇の方も無事で済まされるということはないだろう。日本人の民主主義にとって、現在も、将来もきわめて重要な自己認識(の財産)である、丸山真男の『歴史意識の「古層」』の理論を危うくしかねない石田雄の議論に、私は正直なところ戸惑いを覚えざるを得ないのである。
なお、この「日本的原像」の問題について考える上で、最近の作品ではサントリ−学芸賞を受賞した小熊英二の労作『単一民族神話の起源』(新曜社)が参考になる。読書して非常に面白い。また年代的には古い時代の作品であるが、特に丸山真男の「古層」に対するすぐれた問題意識として守本順一郎の『日本思想史の課題と方法』(新日本出版社)を挙げておきたい。小熊はこの「日本人の自画像の系譜」の議論において、天皇制の血縁的支配のイデオロギ−について正面から論じている。小熊が守本を読んだことがあるのかどうかは分からないが、守本以来、この「天皇制の血縁的支配のイデオロギ−」に触れる議論を、私は久しぶりで目にすることができた。
小熊の『単一民族神話の起源』における梅原猛への批判的な眼差しも正鵠を射たものと言えるであろう。その「日本人の自画像の系譜」の考察の視角や方法に対して全面的な評価を与えるものではないが、一九六二年生まれという若さと少し変わった経歴に、読者として自然に関心を注がれ、次回作が期待される存在である。思想史という学問にイデオロギ−分析の視角を持ち込むことのできる、今日数少ない研究者の一人として。
4、アジアにおける「国民国家」の歴史的運命
近代国民国家とナショナリズムの議論を始めるとキリがないが、近代的な国民国家の理論というものは、もはや世界史に完全にその歴史的使命を終えたものと言い切ることができるのであろうか。われわれ日本人にとっては、地球市民なり地球社会なりの理念を如何にこの地上に実現するかということが二十一世紀の課題であると言えるであろう。しかし、たとえばお隣の韓国では、今まさにようやく、その長い長い民族の歴史上初めての近代的国民国家を登場(誕生)させようとしているのである。韓国民が近代的統一的な国民国家を持つのはこれが初めての経験である。
隣の隣のモンゴルはどうか。モンゴル人がいわゆる近代的国民国家を実現させようとすれば、当然ながら、中国・内蒙古自治区を併合して国家統一を実現しなければならないだろう。隣の隣の隣のウィグル人、隣の隣の隣の隣のチベット人、彼らが近代的な国民国家を持とうとすれば、中華人民共和国からの独立を達成する以外にない。そしてそこには(異質な)大量の中国人(漢人)が住んでいる。どうやら中国大陸の周辺では、二十一世紀においても近代的で統一的ないわゆる国民国家(Nation State)形成の問題が過去のものとなっているわけではないようである。
それは中国大陸内部だけの話だろうか。北の大陸部における中華コミュニズム帝国とよく似たゲオポリティッシュの構図が南の海洋部にも存在する。二億の人口と二万の島嶼を抱える世界最大の海洋帝国、インドネシアイスラム帝国である。ニュ−ギニア島西半部イリアンジャヤにおける分離独立運動は以前から知られたところだが、現在のわれわれには何も可視的に映らないエスニシティ(言語・血統・風俗・習慣)の差異性の問題は、スラウェシ島民とジャワ島民、ボルネオ島カリマンタン住民とジャワ島住民の間には全く存在しないと言えるのだろうか。それらの地域に近代的資本主義的な工業生産力が広範に及んで行ったとき、果たして彼らはインドネシアイスラム共和国民として一つの存在のまま結束していられるのだろうか。
現在のわれわれの歴史教科書において、マジャパヒト王国とかシュリヴィジャヤ王国といった僅かな固有名詞のみで途切れているその東南アジアの歴史は、おそらく、経済発展と共に最新の歴史科学と考古学の生産力によって現在の数倍・数十倍の information を与えられ、世界史教科書のペ−ジ数の正当なシェアを要求するようになるに違いない。二十一世紀も半ばになれば、スラウェシ島民がスラウェシ人としての近代的な自己認識を持つ日がやって来ることだろう。国民国家の形態を纏った帝国の中に新しい国民国家が生まれてゆく。二十一世紀における国民国家の弁証法。
二十一世紀半ばのアジアをもはやわれわれは見ることができないが、それが一気に地球社会の地球市民の世界となっているのか、それとも新しいネ−ションステ−トが数多く生まれて現在のヨ−ロッパのような姿になっているのか、そのどちらかが将来像として正解であるとするならば、私は後者ではないかという予感を持つ。中華大陸帝国の解体、インドネシア海洋帝国の解体、さらにロシアシベリア帝国すらも遂に解体して、それぞれの地域にASEANのようなEU型の国民国家連合体が形成される将来図の予感である。
中国内陸部やインドネシアの話など遠くの話でリアリティを感じない、という人もいるかもしれない。了解。それではわれわれにとって最も身近な話をしようではないか。沖縄はどうか。沖縄の二十一世紀は近代的な国民国家の概念や理論と果たして無縁でいられるのか。沖縄から米軍基地を撤去するためには、沖縄県民が沖縄国民になる以外に道はあるのだろうか。日本国からの政治的独立の達成以外に、日米安保条約のくびきから自己を解放する手段はあるのだろうか。沖縄の人々が望む沖縄の非武装中立は、沖縄人が沖縄の主権者として自己を確立することによってのみ初めて実現されるはずである。そのとき沖縄の人々が国際社会に宣言し、国際社会が承認するであろう政治的独立のあり方は「近代的国民国家」Nation State の形態以外にどのような姿があるのであろうか。
ジョンレノンの言に従え。イマジネ−ションせよ。
ナショナルはもう古い、エスニシティとジェンダ−の眼で見なければ新しくない、ウォ−ラステインがこう言っているから社会科学も脱構築だと、社会科学における「つぎつぎとなりゆくいきほひ」に乗って丸山真男の「近代主義」を批判するのは結構である。けれども、優秀な政治学者である姜尚中が本当に今やらなければならないことは、新しく生まれようとする半島の国民国家が二十一世紀の荒波に耐えて逞しく生き抜いて行けるように、再び、従属や分断や内戦の悲劇を見ぬように、その国民と国家に良質で健全な Political Theory を提供することなのではないのだろうか。韓国国民はそれを待っている。韓国国民にはそれが必要である。韓国国家と韓国国民のための「丸山政治学」や「大塚史学」が今求められているはずである。
われわれは「ボ−ダ−レス・エコノミ−」とか「グロ−バル・スタンダ−ド」などという「下部構造」の言葉の流行に簡単に乗って、即自的・無自覚的に「地球社会」や「地球市民」の表象にズルッと滑り込んでしまいがちである。しかし、その前にもう一度丹念に世界地図を眺め直し、一つ一つの国々や地域の歴史と現実をリアルにイマジネ−ションしてみるべきではないのだろうか。「つぎつぎになりゆくいきほひ」の社会科学が簡単に脱構築処理してしまうほど、国民国家という言葉の持つ意味は軽くはないのである。市民社会と同じように。 
 
天皇と「国民主義的ナショナリズム」

 

いま読むと隔世の感があるが、1999年の論文で渡辺治は「国民主義的ナショナリズム」による対抗運動について、次のようにその問題を指摘していた。

「ここで一つだけ強調しておきたいのは、支配層のこうしたイデオロギーに対し私たちは、かつて丸山真男らが考えたような国民主義的ナショナリズムで対抗することはできないのではないか、という点である。
日の丸・君が代の法制化が浮上したとき、それに反対する論拠の一つとして、日の丸も君が代も、決してあのフランス三色旗やアメリカの星条旗のように革命や民主主義的討論の中から生まれたものではないという点が、少なくない論者によってあげられた。日の丸・君が代制定の経緯については、その通りではある。しかし、私は、この反論は決定的弱点を有していると思う。それは、この議論は、国民主義的ナショナリズムも帝国主義を生んだという問題に答えられないからである。端的にいえば、この議論は、日の丸・君が代の問題性を近代の不足[原文二字傍点]に求める。しかし、日の丸・君が代が持つ問題の本質は、そうではない。近代の帰結[原文二字傍点]としての帝国主義の問題なのである。[中略]
言いたいことは、もちろん自由主義史観のように日本帝国主義の侵略戦争を相対化するためではない。そうではなくて、私たちが、現代において日の丸・君が代の法制化を問題にするのは、あの日の丸・君が代に込められた日本帝国主義の侵略行動が、現代の大国化の中で、よりソフィスティケイトされた形でであれ再現されようとしているからであり、その点では、日の丸・君が代が民主的に承認されてこなかったという問題は、現代の日の丸・君が代問題の焦点ではないのである。
すでにくり返し強調したように、二一世紀の日本が戦争行動に参加する場合でも、それは決して日の丸と星条旗が戦う戦争ではなく、日の丸と星条旗が並んで[原文三字傍点]、「市場民主主義」や「人道を守る」ために行われる戦争がほとんどであろう。」。

つまり、現状の問題点を近代の不足(=「国民主義」的革命の未達成)によるものと捉える「国民主義的ナショナリズム」の対抗運動では、日の丸が現代帝国主義のもとで果たす役割を充分に批判できない、という主張である。日の丸・君が代が国民に押し付けられる、という側面ではなく、むしろ日本の侵略行動のなかで日の丸・君が代がどのような役割を果たしてきたのか、そして、いま新たな侵略行動においていかなる役割を果たそうとしているのかをつかまえ、撃つのでなければ、支配層のイデオロギーに対抗できない。これが99年の渡辺の主張であった。
中西新太郎は、渡辺の指摘をうけて、現代の支配的イデオロギーに対抗するには「コロニアリズムにたいする徹底した思想的・実践的批判を本質的に備えた国家像、国家構想の彫琢が必要であろう。[中略]冷戦体制崩壊後の世界秩序に照らせば軍事力増強など不要といった類の現実認識やロジックに頼っていては、グローバル資本主義時代のいわば「勝ち組ナショナリズム」にはとうてい太刀打ちできない」と指摘している。
いずれも極めて重要な指摘であり、10年以上を経てさらなる右傾化が進んだ今日こそ、こうした視点は広く共有されるべきだと思う。むしろ、この10年間の右傾化は中西のいう「コロニアリズムにたいする徹底した思想的・実践的批判を本質的に備えた国家像、国家構想の彫琢」を回避し、この点を曖昧にしたかたちで対抗勢力が保守派や右派の取り込み(実際には取り込まれたのだが)に走った結果であった。和田や大沼、朴裕河らの「国民基金」派が、過度な日本批判こそが日本を右傾化させたとの責任転嫁の言説を繰り返すのは、再び「和解」のプロジェクトを推進するための宣伝であると同時に、こうした自らの「失敗」を顧みないための方便ではないかとも思う。
ただ、今の渡辺がこうした日本帝国主義批判を語ることはほとんどない。むしろ「改憲に立ち向かうための保守との共同、地域に根差した運動、対案を示した国民的共同の構築で必死に頑張り抜くことを訴え」ている(『赤旗』2014年3月30日付 )。こうした戦略は、私には渡辺自身が批判した「国民主義的ナショナリズム」による対抗運動そのもの(あるいはさらに保守的なもの)としか思えない。右傾化の進展により、「国民主義的ナショナリズム」でも支配層のイデオロギーに対抗できる、あるいは、右傾化が進展したいまは「国民」を敵に回す過度な日本帝国主義批判は禁物である、と考えるようになったのかもしれないが、この点では前述の「国民基金」派の人びとと同様の現状認識にまで後退しており、日本帝国主義批判を欠いた「国民主義的ナショナリズム」の批判者から、推進者へと転換したといわざるをえない。
ところで、こうした日本帝国主義批判を欠いた「国民主義的ナショナリズム」と関わって注目すべき問題として、天皇の位置づけがある。前述の論文で、渡辺は現代日本の支配層のイデオロギーについて次のように指摘していた。

「支配層が現代の大国化を正当化するには、インターナショナリズムと、伝統的ナショナリズムを国民主義的に再編成したネオ・ナショナリズムを併用する以外にないことは間違いないということを、あらためて強調しておきたい。それを天皇の取り扱いという点でいうならば、支配層の押し出す天皇像は、明治憲法的・権威的天皇から、「象徴」的天皇像への転換ということになる。そして、国民統合の理念としては、民主主義的理念が押し出され、天皇はこうした民主的な日本国家の象徴として喧伝されるに違いない。憲法改正による自衛隊の海外出動態勢の正当化も、イデオロギーとしては、「国際貢献」と、「世界の平和秩序形成への責任」、という議論で行われるに違いない。
総じて、新たな軍事大国化は、決してカーキ色の軍服と民主主義の破壊、天皇制による国民の統制というおどろおどろしい格好では登場しないことだけは肝に銘ずべきであるというのが、ここで最も強調したい点である。」

第二次安倍政権を知る立場からみると、「新たな軍事大国化は、決してカーキ色の軍服と民主主義の破壊、天皇制による国民の統制というおどろおどろしい格好では登場しない」という指摘はいささか楽観的にすぎるようにも思えるが、ひとまずそれは措こう。重要なのは、前述したように、ここで支配層のイデオロギーとして想定されている「伝統的ナショナリズムを国民主義的に再編成したネオ・ナショナリズム」が、いまでは帝国主義批判を欠いた対抗運動によって掲げられ、支配層のイデオロギーを補完していることである。
とりわけ天皇が重要な要素として登場していることに注目したい。ここで渡辺が支配層のイデオロギーの重要な要素とみなす「民主的な日本国家の象徴」としての天皇像は、支配層にとどまらず、対抗運動においても相当な影響力を有するといえる。むしろ、天皇こそが平和主義者である、といった言説は、安倍政権批判の論法として「護憲派」のなかではかなりの影響力を持っている。昨年の「主権回復の日」の政府式典における「天皇陛下万歳」の唱和について、実は天皇自身が一番嫌がっている、という論法での「批判」をよく見かけた(直接聞いたこともある)が、これも同種のものであろう。もちろん、天皇が現行憲法を遵守するのは当たり前のことであるし(もちろん改正後の憲法も守るだろう)、むしろ天皇の何らかの「意思」が憲法改正論議に何らかの影響を与えることの方がよっぽど恐ろしいと考えてしかるべきであるにもかかわらず、君主の人格に依拠する「国民主義的ナショナリズム」の運動など倒錯以外の何者でもない。
他方、こうした天皇と「国民主義的ナショナリズム」の蜜月に関連して気になるのが、「戦争責任を自覚する日本国家の象徴=天皇」像の流布である。渡辺治は前述の『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成』のなかで、日本の軍事大国化には「戦後民主主義」と「アジア諸国民の警戒」という二つの障害物があり、前者は90年代に相当弱体化したが、後者は日本帝国主義の過去(「第一の侵略」)への批判に加え、現在の日本企業のアジア進出(「第二の侵略」)への反発もあってむしろ強まったので、これを緩和して軍事大国化と国連安保理常任理事国入りを認めさせるために河野談話が出た、と指摘していた。2000年代を通して「アジア諸国民の警戒」への警戒も、「支配層」のみならず対抗運動にまで拡がったと考えられるが、近年の動向をみると、むしろこちらの方がより深刻な問題を含んでいるのではないかと思える。
とりわけ象徴的だったのは2012年の李明博元大統領の天皇謝罪発言への反応である。李明博が2012年8月、天皇の訪韓の条件として独立運動家への謝罪を求める発言をしたことに対し、『朝日』や『読売』は「日韓関係をひどく傷つける」、「礼を失している」と批判、衆議院は「極めて非礼な発言」とする非難決議を採択したが、いずれも天皇の植民地支配責任という肝心な論点については全く言及せず、「不敬である」とでもいわんばかりの問答無用の反発に終始した。
わずかに共産党が「非礼」論とは異なる批判を展開したが、それも「(いまの)天皇というのは憲法上、政治的権能をもっていない。その天皇に植民地支配の謝罪を求めるということ自体がそもそもおかしい。日本の政治制度を理解していないということになる。日本政府に対して、植民地支配の清算を求めるならわかるけど、天皇にそれを求めるのはそもそもスジが違う」という憲法解釈からの説明で(『赤旗』2012年9月11日付 )、結論としては同じく李明博発言批判であった。
もちろん、直後に曖昧にされたことからもわかるように、李明博の発言がどこまで本気だったかは怪しいものであるが、少なくともそこで問題とされていたのは、朝鮮独立運動の弾圧への天皇の責任、という植民地支配に関わる重要な問題であった。日本国憲法における天皇の地位や権能などは、あくまで日本側の事情であって、少なくとも朝鮮や中国からみれば、そんなことは些細な問題にすぎず、現に「天皇」としてその地位が存続している以上、かつての「天皇」の責任を継承していると考えるのが当然だろう。しかし、当時この論点に踏み込んだ言及はほとんどなされなかった。
ただ、例外的な言及として、国際政治学者の坂本義和による次のような李明博発言批判があった。

「李大統領が、天皇の具体的な謝罪行為まで求める発言をしたのは、明らかに失言である。日本の戦争責任を日本の一般の政治家や国民以上に痛感している点で、私も敬愛を惜しまない現天皇について、あまりに無知であり、恥ずべきである。」

普通に考えれば、戦争責任を誰よりも痛感しているならば謝ればよいはずだが、坂本の論法だと、責任を痛感している天皇に謝罪を求めるのは「無知であり、恥ずべきである」ということになる。『朝日』らが植民地支配責任の問題を避けるかたちで「非礼」と反発したのとは異なり、坂本は、こんなに戦争責任を自覚している天皇に独立運動家への謝罪を求めるなど恥知らずだ、と憤ったのである。驚くべき「リベラリスト」である。
何より問題なのは、「戦争責任を自覚する日本国家の象徴」像が、アジアからの戦争責任追及を抑圧するために呼び出されていることである。こうした天皇像は、「護憲派」の多くが共有する戦後国家像(=自画像)に適合するものであろう。上にみたように、ほとんどは天皇の植民地支配責任を論じること自体を避けたが、実際にはこうした天皇に関する坂本のような「感覚」は、「リベラリスト」のなかでは相当程度共有されているのではないだろうか。こうした天皇像が、前述の「民主的な日本国家の象徴」としての天皇像と切り結び、批判のイデオロギーとして機能するとき、渡辺のいうところの「ネオ・ナショナリズム」は内には諸勢力を統合し、外には「アジア諸国民の警戒」に備える支配的なイデオロギーとして「完成」する。やはり日本ナショナリズムは天皇抜きにはありえない。
「3.11」以後、日本国内においてはこのイデオロギーの「完成」に近づきつつあるように思うが、他方でこうした天皇像の押し付けを、そうやすやすとアジアの人びとが受け容れるわけはない。だが、もしそれがなされるとすれば、おそらく最も切り崩し易い在日朝鮮人や韓国がねらわれるはずである。そうした意味では、在日朝鮮人を含む朝鮮民族の近現代史に関わる諸種の歴史修正主義への批判(=日本帝国主義批判)は、引き続き緊急性を有していると同時に、現在の「ネオ・ナショナリズム」批判にとっても極めて重要な位置を占めているといえるだろう。 
 
明治ナショナリズム「国民主義」 / 陸 羯南(くが かつなん)

 

(一)序文
陸羯南(本名・実)は、明治二十年代から三十年代にかけて、新聞『東京電報』及び『日本』に社長、主筆として社説を書き続けた、政論記者、ジャーナリストである。羯南の唱えた「国民主義」は、内に国民的統一を、外に国家の独立を求め、両者の発展をはかることを目指すものであった。羯南は国民全体の歴史、経済、風俗を通して、道徳性を強調しながら、厳しい政治批判を、社説として新聞に発表し続けた。即ち、国民から距離を隔てた「思想家」としての羯南ではない、国民と密接に関わりあった「ジャーナリスト」としての羯南が、そこには存在するのである。本論はこう言った観点から、羯南の明治ナショナリズム「国民主義」とは如何なるものであったか、輪郭線を明確にし、又見直すことで、現代日本のあり方を考察するものである。
(二)これまでの陸羯南研究と根拠資料
羯南は、雑誌『日本人』を主催した政教社メンバーの志賀重昴(一八六三―一九二七)、三宅雪嶺(一八六○―一九四五)らと並び、明治中期ナショナリズムを代表する存在として、評価されてきた。政治学的分析・政治思想史的アプローチによる羯南の「軍事外交論」研究は、これまでも主に丸山真男、植手通有の両氏を筆頭に幾人かの研究者によって行われている。思想家、ナショナリストとしての羯南が大きく評価されてきた所以である。そのため羯南の理論(哲学)研究は進んだが、その反面、羯南関係の論文は、抽象的で難解な印象を与える傾向があるとも、言われている。
陸羯南関係の資料としては、みすず書房から整理された『陸羯南全集』(全十巻)が刊行されている。全集には、『日本』の前身である新聞『東京電報』と、『日本』の社説が中心に収められている。
『東京電報』は、羯南を主筆兼社長として明治二十一年(一八八八)四月九日創刊された新聞である。翌二十二年二月九日には廃刊され、続いて『日本』が前紙を改組した形で、同年二月十一日(大日本帝国憲法公布と同時)に、創刊された。『日本』は、以後大正十三(一九一五)年まで続いて発行されたが、この間羯南は、明治三九(一九○六)年六月に、病気のため、伊藤欽亮に同紙を譲り渡すまで、約十七年間にわたって、主筆兼、社長として社説の大部分を執筆し続けている。
尚、『日本』社説の中には、他者の署名が記されているものも混入しており、(例えば、記者・福本日南と思われる「平蔵」の署名のあるもの等)それらは明らかに、羯南の著作ではない、と判明している。その他に無記名の社説があり、それらも羯南以外の人物の著作である可能性が大きいが、その場合は少なくとも羯南が目を通し、『日本』への掲載を認めたもの、と判断し、必要があれば参照することとした。
(三)羯南の明治ナショナリズム「国民主義」
羯南の唱えた「国民主義」について、その定義と解釈については、既にいくつかの研究がなされているが、大筋において『日本』創刊の辞にあるように「一旦亡失せる国民精神を回復し、且つ之を登用せんことを」目的としたものであり、「国民の内に、権利及び幸福の偏傾なからしめる」ような国民的政治を望むものであったということが推察される。羯南は「内に於ては国の統一を、外に対しては国民の特立を求める」思想を、ここに自ら「国民主義」と名付けたのである。
具体例を挙げよう。
明治二六、七年の「条約励行問題」と二八、九年の「責任問題」論争においても、この基本姿勢は貫かれていた。例えば、条約改正案の問題に関して、羯南は、「条約励行論」を支持したが、これは譲歩の多い不完全な改正では日本の独立を諸外国に承認させたことにはならない。と、判断した為である。日本の国権を諸外国に認識させ、尚且つ条約改正を実現する為には、外人が自発的に改正を望むようにしむけることが得策であり、現行条約を在日外人に励行させることによって、これが可能になると考えたのである。
「責任問題論争」についても同様で、「外に対して国民の特立(独立)を求める」「国民主義」を独立国家の立場を守りきれず遼東半島を割譲してしまった政府に対してその責任を追及する、という形で実行していた。
このように羯南の論説を追う形で確認してみると、如何に「国民主義」と言われるものが、いわゆる戦後に言う「ウルトラナショナリズム(超国家主義)」とかけ離れたものであったかが、わかるだろう。羯南の言う「国民的政治」の為の統一とは、「凡そ本来に於いて国民全体に属すべき者は必ず之を国民的にするの謂」を意味したものであって、天皇は勿論、藩閥による上からの国民統一という思想とは、逆の立場に位置するものであった。羯南の「国民主義」は「明治のナショナリズム」を代表する存在のひとつではあったが、決して日露戦争以降の特に昭和初期における軍国主義、国家主義などと呼称される帝国主義的な侵略を肯定する思想ではなかった。羯南の言う国民とは、「君主と人民と相共同せる勢力、即ち国民勢力(ナショナルフォルス)」を指しており、天皇と国民が一致協力する形態を理想としていたのである。「統一国民は、能く貴族を容れ、又賤民を容れ、国家の鞏筆と個人の伸長とを折衷すればなり」という羯南の言葉は、彼の考えていたナショナリズムの健全性を示唆している。
即ち羯南は、国民と国家の関係を伸縮自在で現実に則した対応のできるものであるべきと考え、両者の「並列」を考えていたのである。例えば、「文明の政道は必ずまず各人能力の発達を謀り、その発達によりて以て、国家威力の伸張を謀るにあり」「文明の目的は富力の増進にあらずして、徳義人情の啓発にあること」「文明政治の本旨は、単に国家の威厳強固を張るのみにあらずして、又、社会各人の幸福安寧を保護するにあること」といった発言の中にも、羯南の「個人」に対する考え方は窺える。
以上のように羯南の論には、常に「国家と個人」「自由と平等」等、二つの事柄におけるバランス感覚が存在する、という特色があった。そしてこのバランス感覚こそが、羯南を自国至上主義ではなく、国民的個性の保存と発達の二面性を併有した「国民主義」者たらしめたのである。やや理想主義の色合いはあるものの、国民的個性の確立と同時に、さらに発展させて、世界的な共存を求めたのが彼の「国民主義」であったと言えよう。
(四)陸羯南とは何者であったのか
「羯南はナショナリストである」とは単純に割り切れぬように、「羯南は思想家である」とは断言し難い。彼はいくつかの本も出版しているが、それは新聞社説を何回分かまとめた総集編である場合が多く、又、彼の仕事のほとんどは、新聞作りにあった。同時代人として羯南を見た時、やはり「陸羯南は新聞人である」という表現が最も的を得ていると思われる。彼自身もまた、新聞記者であることに大いに良い意味でのプライドを持って、仕事をこなしていた。例えば、彼は創刊において、『日本』を客観的な立場から、当時の新聞界の状況の中、以下のように位置づけている。
「新聞紙たるものは政権を争うの機関にあらざれば、即ち私利を射るの商品たり。期間を以って自ら任ずるのは、党義に偏するの謗りを免れ難く、商品を以って自ら居るものは、或いは流俗を追うの嘲を招く。今の世に当たり新聞紙たるものの位置亦た困難ならずや。(中略)我が「日本」は固より現今の政党に関係あるにあらず。然れども亦た商品を以って自ら甘ずるものにもあらず。」
この「日本」創刊の辞の理念は第一章の論争、即ち、日清戦争以前の最大の問題、条約改正論争においても、又戦後の三国干渉による遼東半島還付問題においても貫かれた。こう言った「日本」独自の新聞理念・編集方針の一貫性は、例えば同時期の「国民新聞」が、日清戦争前後に転向したことと対比させると、より一層評価できるものである。
しかし、新聞界の流れが、政論ジャーナリズム時代を離れ、正確、迅速な報道を中心とした商業ジャーナリズム時代へと移ってゆくと、「日本」のようなじっくりと社論を主張してゆくタイプの新聞は、そのテンポについてゆけず、取り残されてしまったのである。当時の風潮を嘆き、以下のような記述が残っている。
「昔の新聞は記者の知恵、識見、天才を売ったものであったが、今は黄金の力で造った広告、煽動、挑発、誘惑で売るようになった。(中略)新聞記者は天下を指導する記者先生に非ずして金で買われた傭人になり下がった。新聞を読むものも、新聞を造るものも記者は唯だ報知を集めて報知を書く機械に過ぎないと思っている」
様々な環境の変化によって新聞「日本」は衰えたが、皮肉なことに羯南が「新聞記者論」で唱えていた「不偏不党」の精神だけは新聞界に受け継がれていった。ある意味では、現代における新聞のあり方の原点とも言うべき素地が、「日本」には存在していたのである。現代の新聞に与えた影響を考えるとき、新聞記者、政論記者としての羯南は、もっと評価されるべき人物であるということが出来よう。
「陸羯南は思想家である」という認識がある。これは、彼が「ナショナリストである」という認識から派生したものと考えられる。だが、羯南の著述してきたものを、主に新聞「日本」の論説を追う、という形で見る時、実はこの二つの認識が、どちらも実に曖昧で、誤解の多いものであることが判る。その面では陸羯南は、昭和初期の超国家主義(ウルトラナショナリズム)のあおりを受けて、戦後に正当な評価を受けられなくなってしまった人物の一人、ということが出来る。(実際、陸羯南は超国家主義を批判する立場をとっていた)と同時に、残された数多くの「日本」社説を読むと、羯南に「思想家」というひとつのレッテルを貼ってしまうことが、非常に危険な行為である、ということがよくわかる。
羯南は「新聞記者」の他にも「経済評論家」「教育論者」「歴史家」として多様な可能性を秘めた人物であった。教育については、早くから文部省による国定教科書反対の論を唱え、また女子教育に関しても幾つかの著述が残されている。加えて、羯南の文学的見識についても、漱石の「パリ通信」を「日本」に載せ、正岡子規のために第一面を割いたことを考え合わせれば、無視することは出来ない。羯南の人柄は又、同時代人に愛されていた。「日本」を支持し、羯南を敬愛する読者の会「日本青年会」(思想団体ではない)の存在や、「陸羯南全集十巻」に収められた羯南をめぐる人々の著述がそれを強く物語っている。記者以外の陸羯南像についても、その可能性を追うことは意義があるだろう。
(五)終りに
「もしこの時代に陸羯南くがかつなんの新聞『日本』があれば…」
第二次世界大戦期、新聞報道が軍部に屈してしまい、国民に真実を報じ得なかったことを嘆いて、『新聞の歴史』の中にはこんな言葉が記されている。現代日本の報道・マスコミのあり方において、政治権力との距離の置き方を考える時、明治期ジャーナリスト・陸羯南くがかつなんの編集方針や基本姿勢に学ぶところは大きい。
混迷の現代において、日本古来からの文化のあり方、行く末を思う時、決して国家権力と結びつくことのなかった、羯南の純粋な「国民主義」についてその意味と重要性を考え直さずにはいられない。内に国民的統一を、外に国家の独立を求める「国民主義」的姿勢は、現代にも通じて、評価されるべきだろう。 
 
近代の音楽

 

19世紀後半から20世紀へ
18世紀末のフランス革命によって生れた自由と平等の精神は、各国の市民階級の中に深く浸透し、ウィーン体制に対する彼らの抵抗には根強いものがありました。革命の震源地であるフランスではもちろん、そのほかの諸国においても、政治的な変動や社会体制の変化が相次いで起こり、ヨーロッパだけでなく、世界全体がそれによって揺り動かされるようになっていきます。その激変する社会情勢は、そのまま世紀の後半にまでもちこされ、やがて、20世紀前半における2度の大戦を招くに至ります。
フランスでは1848年の第2共和政時代のあと、ナポレオン3世による帝政時代と有名なパリ・コミューンを経て、1875年には第3共和国憲法が誕生し、今日の基礎を築きます。ドイツはプロイセンを中心勢力として、1871年にドイツ帝国を名のることになり、イタリアでは1859-60年にわたる統一戦争からイタリア王国の誕生を見ることになります。
海を隔てたイギリスはヴィクトリア女王(在位1837-1901)の時代であり、世界に広がった経済圏を足場に、世界帝国としての威容を整えつつありました。ロシアも既に大国として先進諸国と肩を並べるに至ったものの、1861年の農奴解放、81年のアレクサンドル2世の暗殺事件と、政治的には多難な道を歩んで、やがてロシア革命へとつながっていくことになります。また、スカンディナヴィア3国やバルカン半島の諸国、ボヘミアやポーランドなどでは、独立運動が盛んに行われていました。一方、海の向こうのアメリカでは1861-65年の南北戦争が、63年の奴隷解放宣言を挟んで行われ、65年には合衆国としての統一が成立します。
こうしたヨーロッパ社会の動きは、結果的に、その後の列強の帝国主義的な動きを助長することになりますが、一方では、自由主義的な考えかたに基づいた市民階級を中心とする民族運動も高まっていきます。それが国民主義です。この時期、そうした傾向が音楽にもうかがわれるところから、この時代の音楽を国民主義音楽とよんでいますが、技法的にはロマン主義音楽の延長上にあると考えることができます。
国民主義の作曲家たち
ロシアの国民主義音楽を最初に創造したのは、歌劇《イヴァン・スサーニン》や《ルスランとリュドミーラ》などで知られるグリンカ(M. I. Glinka, 1804-57)です。彼に続いたのがダルゴムイシスキー(A. S. Dargomizhsky, 1813-69)で、そのあとにロシア五人組の人たちが現れてきます。
国民主義的ないきかたを最も明確に表したのがロシアの五人組による音楽でした。五人組にはバラキレフ(M. A. Balakirev、1837-1910)、キュイ(C.A. Cui, 1835-1918)、ボロディン(A. P. Borodin, 1833-87)、リムスキー=コルサコフ(N. A. Rimsky-Korsakov, 1844-1908)、ムソルグスキー(M. P. Mussorgsky, 1839-81)がいますが、このうち、正規の音楽教育を受けたのはバラキレフだけでした。ほかの人たちは今ふうにいえば、趣味で音楽に興じるディレッタントに過ぎませんでした。それだけに、伝統にあまりとらわれることなく、玄人くさくないフレッシュな音楽を生み出せたのだといえるでしょう。
この五人組の中では、組曲《シェエラザード》で知られるリムスキー=コルサコフが最も作曲理論に優れ、《管弦楽法》や《和声学》の著書も遺しています。また、ムソルグスキーは代表作として歌劇《ボリス・ゴドノフ》や《展覧会の絵》などを書き、その伝統に束縛されない新鮮な音楽は、後の音楽家にいろいろな意味で影響を与えていきます。
しかし、その時期のロシアで、一方では西欧ロマン主義に基づく作品を書いていた作曲家もいます。アントン(A. Rubinstein, 1829-94)とニコライ(1835-81)のルビンシテイン兄弟やチャイコフスキー(P. I. Tchaikovsky, 1840-93)がその代表格で、特にチャイコフスキーは3大バレエ曲をはじめとする多くの作品を書いて、技法的には西欧的ロマンティシズムの枠を守りながらも、スラヴ的な民族色を盛り込んで、独特の作風を確立するに至ります。
同じ頃、ボヘミアにはスメタナ(B. Smetana, 1824-84)やドヴォルザーク(Dvořák, 1841-1904)などが登場します。ともに、ボヘミアの民族色を強く反映した作品で知られ、前者は歌劇《売られた花嫁》や交響詩《わが祖国》、後者は交響曲《新世界から》そのほかの作品が有名です。ボヘミアでは彼らに続いて、ヤナーチェク(L. Janáček, 1854-1928)やスーク(J. Suk, 1874-1935)、さらにワインベルガー(J. Weinberger, 1896-1967)や微分音で有名なハーバ(A. Hába, 1893-1973)などが現れ、現代チェコ音楽の伝統を築き上げていきます。
スカンディナヴィア諸国では、ノルウェーにグリーグ(E. H. Grieg, 1843-1907)、フィンランドにシベリウス(J. Sibelius, 1865-1957)が現れ、それぞれの民族色を盛り込んだ名作を遺しています。グリーグは、有名な《ピアノ協奏曲イ短調》、付随音楽《ペール・ギュント》や多くのピアノ曲で知られており、シベリウスは《フィランディア》をはじめとする多くの器楽曲が有名です。
その後のドイツ、オーストリアとフランス
国民主義音楽は19世紀後半に、国家的にも音楽的にもやや立ち遅れていた諸国において、特に顕著な隆盛を見せましたが、従来からの音楽国にあっても、多かれ少なかれ、国民的な音楽を書くという考えが生れてきます。
ドイツ、オーストリアでは、ワーグナーの死後、ブルックナー(J. A. Bruckner, 1824-96)、ヴォルフ(H. P. J. Wolf, 1860-1903)、マーラー(G. Mahler, 1860-1911)などがその流れの上に活躍し、一方、ブラームス系の作曲家としては、レーガー(M. Reger, 1873-1916)をあげることができます。
ブルックナーは9つの交響曲を中心的な作品として遺しましたが、いずれにも、ワーグナー色が強く反映されており、どの交響曲も1時間あまりを要する大曲となっています。ヴォルフは歌曲作曲家として、ドイツ・リートの道をやや違った角度から練り直し、独特の世界を展開しました。マーラーも交響曲の作曲家として活動しましたが、歌曲でも《亡き子をしのぶ歌》や《さすらう若人の歌》《子どもの不思議な角笛》などを書いています。また、指揮者としての活動にも大きな足音を遺しました。また、レーガーはブラームスに傾倒し、古典形式を尊重した作品を作り出しました。
この時期には、ほかにも、ヴァイオリン協奏曲で知られるブルッフ(M. Bruch, 1838-1920)、歌劇《ヘンゼルとグレーテル》で親しまれているフンパーディンク(E. Humperdinck, 1854-1921)、ピアニストとして活動したモシュコフスキー(M. Moszkowski, 1854-1925)、それにプフィッツナー(H. Pfitzner, 1869-1921)などが活躍し、その流れの中にリヒャルト・シュトラウス(R. Strauss, 1864-1949)が登場してきます。シュトラウスの後半生は20世紀の前半と重なりますが、作風はあくまでもワーグナーふうの流儀にしたがった作曲家でした。しかし、現代音楽的な多調性や無調性の技法も取り入れた、多くの交響詩や楽劇、歌曲などを遺しており、現代ドイツ音楽の基礎を築いた功績はけっして小さくありません。
フランスでは、19世紀前半の抒情歌劇全盛時代のあとを受けて、後半時代になると、フランク(C. Frank, 1822-90)と、その流れをくむダンディ(V. d'Indy, 1851-1931)、デュパルク(H. Duparc, 1848-1933)、ショーソン(E. Chausson, 1855-99)など、あるいは、そのグループとは対照的な存在であったサン=サーンス(C. Saint-Saëns, 1835-1921)、フォーレ(G. Fauré, 1845-1924)、シャブリエ(A. E. Chabrier, 1841-94)などが登場してきます。彼らは歌劇面ばかりでなく、器楽の分野でも多彩な作品を書いて、近代フランス音楽の基礎を築き上げました。
フランクはベルギー出身ですが、パリ音楽院に学び、その生涯のほとんどを教会オルガニストとして過ごしました。作品的には寡作であり、構成的には堅固ながら、やや地味な作風をみせています。《フランス山人の歌による交響曲》で知られるダンディはフランクの弟子で、理論面での仕事にも重要な業績を遺しています。また、デュパルクは《旅へのいざない》という歌曲によってよく知られていますが、後半生は精神的疾患のために隠遁生活を送りました。ショーソンは《詩曲》がよく知られています。
サン=サーンスは、その長い生涯を精力的に活動した人で、わかりよさとよい意味での国際性を身上とする作曲家でした。彼の門下であるフォーレにも、師と同じ傾向が認められ、歌曲や室内楽曲、ピアノ曲などに名作を遺しています。そのフォーレと同時代のシャブリエは、作品の数は少ないものの、狂詩曲《スペイン》が有名です。
こうしたフランスの作曲家たちは、その作風においてはそれぞれ違った道を歩いたとはいえ、国民的な音楽を作るという点では同じ考えをもっていました。彼らが集まって、1871年には国民音楽協会が作られ、ある意味で国民主義的ともいえる運動をはじめます。こうした活動が基礎になって、20世紀におけるフランス音楽の隆盛が導かれていったのです。
その他の国では
スペインには、組曲《イベリア》で知られるアルベニス(I. Albéniz, 1860-1909)や、《ゴイエスカス》が有名なグラナドス(E. Granados, 1867-1916)が登場します。いずれも、スペインの民族的な色彩をフランス音楽からの影響である印象主義的な技法で包む作風が特徴で、その表現においては近代的であるものの、内容的には国民主義的であるといえます。この2人より1世代ぐらいあとのファリャ(M. de. Falla, 1876-1946)は、バレエ音楽《恋の魔術師》や《三角帽子》がよく知られており、多分に民族的な色彩を見せながらも、きわめて近代的な作風が特色です。
バルカン半島の諸国にも国民主義的な音楽家たちが現れました。ルーマニアでヴァイオリニストとして活躍したエネスコ(G. Enesco, 1881-1955)は《ルーマニア狂詩曲》が知られています。ハンガリーにはドホナーニ(E. v Dohnányi, 1877-1960)が出て、近代ハンガリー音楽の基礎を築き、その同年代にバルトーク(B. Bartók, 1881-1945)やコダーイ(Z. Kodály, 1882-1967)も出て、20世紀の音楽に大きく貢献することになります。スイスには、ラフ(J.J. Raff, 1822-82)やマルタン(F. Martin, 1890-1974)、ポーランドには、ヴァイオリニストとして活動し、ヴァイオリン協奏曲で親しまれているヴィエニャフスキ(H. Wieniawski, 1835-80)や大統領になったことで有名なピアニストのパデレフスキ(I. J. Paderewski, 1860-1941)などが登場します。また、イギリスではエルガー(E. Elger, 1857-1934)が活躍しました。 新しい国家としてのアメリカでも、19世紀後半にはいって、ハーバート(V. Herbert, 1859-1924)やマクダウェル(E. A. McDowell, 1861-1908)などが登場してきます。  
 

 

 
民族主義 [ethnicism]

 

民族の存在・独立や利益また優越性を、確保または増進しようとする思想および運動。その極端な形は国家主義とよばれる。ナショナリズム。孫文が唱えた三民主義の一。
民族の統一・独立・発展を目指す思想。民族意識をもとに、民族を重視して行動や主張を行おうとする。一九世紀ドイツ・イタリアの民族国家統一運動、第一次大戦後の民族自決主義、第二次大戦後の反帝国主義独立運動などに現れる。孫文の唱えた三民主義の一。
…近代における国家主義のジレンマは,こうした理念や価値に無縁な概念を踏まえて,なおかつその至高性を訴えなければならない点にあった。 この困難を補う点で重要な役割を果たしたのが民族主義であり,民族国家,国民国家が歴史の流れとなるなかで国家主義は民族主義との融合をとげ,その理念を補完することになった。実際,日本では従来,国家と民族との重なりがほぼ自明視されてきたこともあって,国家主義,民族主義,国民主義,国粋主義といった言葉はほとんど同義に用いられている。…
…かつては,民族主義,国民主義,国家主義などと訳し分けられることが多かったが,最近では一般にナショナリズムと表記される。このことは,ナショナリズムという言葉の多義性を反映し,そしてその多義性は,それぞれのネーションnationや,そのナショナリズムの担い手がおかれている歴史的位置の多様性を反映している。…
三民主義 / 1905年、孫文が提唱した中国革命の基本理念。中国国民党の政綱となり、革命運動の発展とともに、その内容は深化し、孫文の晩年に完成。24年、国民党改組以後、新三民主義と呼ばれる。民族の独立(民族主義)、民主制の実現(民権主義)、地権平均・資本節制による経済的不平等の是正(民生主義)の三原則。孫文主義。 
 
民族主義

 

自らの民族を政治・経済・文化などの主体と考え、価値観の至上とする思想や運動。エスニック・ナショナリズム(Ethnic nationalism)とも言う。国家主義・愛郷主義・地域主義とは相互に関連するが、同一の概念ではないことに注意。
一般に誤認されがちだが、本来の民族主義は国家ではなく民族を中心に考える思想である。国家主義と結び付くのは民族主義の理念から民族を政治的に一つにしようとする運動が起こりやすいからで、逆にアメリカやユーゴスラビアのように国家を多民族によって形成する国では、あるいはオーストリアやスイスのように、隣の大国(ドイツ)と多数派の民族が共通する小国の場合は、むしろ各民族主義と国家主義は対立する。特定の民族を優遇する多民族国家(フランコ政権下のスペイン、ブミプトラ政策が敷かれたマレーシアなど)の場合は、その優遇された民族の民族主義を支持基盤にするが、当然弾圧・冷遇される側の民族主義とは対立する。愛国心よりはむしろ郷土愛(愛郷主義)との親和性が強いとも言われる。
一方、英語では愛国主義と民族主義は Nationalism と表記され単語としての違いはない。世界的にみても、20世紀に民族自決の原則が唱えられてから、この二つの言葉の意味の違いは減少する方向にある。複数の民族で成り立っている国家が複数民族の権利を主張する場合にエスニシティーと呼ばれる。しかし国内に多民族を内包する国は依然として多く、各地で少数派民族の独立運動が激化している。特に冷戦終結以降の欧州では地域主義の推進などで、より小さな民族集団に分かれて争う傾向が深まっている。
マイノリティによる民族主義は、少数民族・先住民族が自らの言語・文化・宗教などの維持存続を求め、民族自決の主張をともなうこともあるが、分離主義など、戦争・紛争の要因になり得る。
特定民族による国家の形成・純化・拡大を主張し、対外的に自民族との差異と優越性を主張することがある。大国にあっては近隣諸国の自民族居住地域などの併合、少数民族にあっては分離独立や他民族の追放などを主張し、しばしば戦争や紛争が生じる。自民族居住地域が近隣にない場合も、領土を併合する前や後において、被支配民族との近縁性・一体性(日鮮同祖論など)を強調することで正当性を主張する場合もある。これらは国家主義に民族主義を接合する動きと言える。
ナポレオン戦争によるフランスの支配下、こうした概念に触れたヨーロッパの各国民は民族主義を高揚させた。アジアにおいては、日露戦争が同様の役割を果たしており、日本への期待を生んだ。第二次世界大戦後には、多くのアジア・アフリカの国家が民族主義を高揚させて独立を果たした。
日本における民族主義
日本では水戸学・国学の影響を受けた尊王攘夷運動として現れ、明治維新の原動力となった。
しかし、近代日本においては、民族主義と国家主義との違いが意識されることは少なかった。日本の民族主義とアジア諸民族の民族主義との連携を模索するアジア主義のような動きはあったものの、帝国主義の時代にあって、日本の民族主義は国家主義に飲み込まれていく。日清戦争・日露戦争後の大日本帝国は、朝鮮・台湾などを領土に加えて多民族帝国を志向し、日本の国家主義は「八紘一宇」を掲げる大東亜共栄圏建設を目指した大東亜戦争(太平洋戦争)でピークに達する。
敗戦後、その反省から戦前的な(右派的・国家主義的な)民族主義への抵抗感が強まった一方、反米を掲げる左派的な民族主義が高揚する。左派的な立場からの民族主義は、沖縄返還の原動力となったほか、(列強からの自立を目指す)アジア・アフリカの民族主義には情緒的な共感が寄せられ、ベトナム戦争反対などの反戦運動とも結びつくと同時に、共産主義と結びつく勢力の介入により、国家と民族の分離に利用される一面も持っていた。
1960年代には左翼系学生運動に対する対抗として民族派学生組織の運動が活性化する。彼らは親米・反共に傾き民族主義をないがしろにした戦後右翼団体への反発から民族主義への回帰を指向し、新右翼(民族派)の源流となった。 
 
右と左と民族主義

 

一連のこのコラムの文章を読むと、読者の皆さんは果たして僕が本来は左寄りの人間なのか、はたまた右寄りの人間なのか、にわかには判りづらいと思われるかも知れない。「ある世界観」では偏狭な右翼的思想(と呼べるほど立派なものではないが)を徹底的に揶揄しているかと思うと、最近の「ちょっとおかしいよ」や「コドモ噺二題」の第一部「コドモノクニ」では右寄りだと判断されてもおかしくない議論を展開してもいる。それも道理で、僕はもともと自分が右翼だとか左翼だとか規定した覚えはないし、そもそも「ウヨク」「サヨク」という分類が実はそれほど意味を持つものだとさえ思っていない。右翼、左翼という言葉は革命当時のフランス国会で、穏健な共和主義者のジロンド党が右側、後に恐怖政治を行い打倒される急進派のジャコバン党が左側に座っていたところから生まれたといわれている。いずれも現在の右翼、左翼のイメージとは大幅に異なる党派であった。現在では、左翼といえば共産党を最左翼とする社会民主主義政党を指し、右翼は保守・自由民主主義から最右翼の国粋主義にいたる政党を指すことになっている。僕自身は、選挙の時には一貫して左翼政党に票を入れてきたが、もちろん彼らの主張に全面的に賛同していたわけではない(全面的に賛同しなければ投票できないのでは、支持政党のない者は政治参加もできなくなる)日本の政治風土では長い間、野党=左翼政党であったのだからしかたがない。そもそも「政党」それ自体にさほど信頼を置いているわけでもなかったのだ。大切なのはバランスであり、国会に提出された法案をより多角的に吟味するためにも、強力な野党は不可欠である。野党に票を入れる理由はそれだけで十分だ。昔よくいわれた「何でも反対社会党」という言葉は、実は野党のもっとも重要な存在理由を言い表していたのである。
僕は自分に左翼のレッテルを貼られようが、右翼のレッテルを貼られようがそれは全然構わない。ただひとつ、貼られては困るのが「民族主義者」のレッテルである。まさかとは思うが、「コドモノクニ」の発言のみを取り上げてそうしたレッテル貼りを行おうとする輩が現れないとも限らない。「民族主義」という言葉にはけっこう広い意味があり、そのすべてを否定するわけではないが、少なくとも「〜〜主義者」と呼ばれるほど僕が民族主義に入れあげているわけではないことは確かだ。
「主義」という言葉を辞書で引くと、「堅く守る考え方」とか「常に守る行動上の方針」などといった意味が載っている。たとえば「民主主義」は「民主」つまり「権力を専制君主にではなく人民一般におくこと」が「政治運営の常に守られる方針」であるわけだし、「共産主義」は「生産手段を共有するプロレタリア革命を推し進めること」を「行動上の方針」とする考え方である。さて、では「民族主義」とは何だろう。これまで見てきた「〜〜主義」の「〜〜」はみな、動詞を名詞にした概念や理念である。つまり、ある理想を行動で実現しようとするのが「〜〜主義」ということになる。しかしながら、「民族主義」の場合の「民族」は動詞ではなく、始めから名詞である。ある行動をもって得られるものではなく、最初から「状態」として存在している。この文章を読んでいるあなたが日本人なら、帰化したり、結婚して後天的に日本国籍を得た場合を除けば、生まれながらに日本民族だったはずだし、在日朝鮮人ならやはり前述のような状態を除き、朝鮮民族として生を受けたはずである。こうした「であるべきこと」ではなく、はじめから「であること」につける「主義」という言葉は、おのずから本来の意味とは微妙にずれているのではあるまいか。ちなみに辞書によると、「民族主義」とは(1)同じ民族で国家を形作ろうとする主義(2)自分の属する民族の自立と発展を政治的、文化的な最高の目標とする主義、ということになっている。どちらの意味においても、「民族主義」とはなによりも「民族自決」(各民族は、他民族の干渉・支配を受けず、その民族自身によって政治その他を行うべきであるという考え方)を実現するための「行動上の指針」として機能してきたということができるだろう。
「民族主義」はナショナリズムとも言い換えることができるが、英語には似たような意味の言葉としてNationalismとは別にRacismという単語があり、日本語訳としては「人種差別」「民族的優越感」という否定的イメージのある言葉となる。しかし、日本語で用いられる「民族主義」のなかには、Nationalismより限りなくRacismに近い思想もありそうな気がするのだ。たとえば民族主義を旨とする政治結社は、ほとんどがいわゆる右翼団体そのものなのだが、彼らの外国人排斥思想などは明らかにNationalismの範疇を超え、Racismと断じても過言ではない。あるいは明治維新前夜の尊王攘夷思想に範をとっているつもりなのかも知れないが、尊王攘夷があくまでも辞書にある通り「民族自決」を実現するための「民族主義」思想そのものと言えるのに対し、右翼団体の考え方ははっきり差別主義的であり、「民族的優越感」そのものとすら言い切ってもいい。ちなみに右翼と民族主義がほぼ同義語なのはここが日本だからに過ぎず、たとえばロシアでは、共産主義と民族主義とが結びついた新しい形の極左暴力主義なども生まれている。思えばレーニンが一国革命論をぶち上げた当初から、ウヨク、サヨクという区別と民族主義とはまったく別のベクトルに存在していたのかもしれない。
「民主主義」も「共産主義」もともに完成形のない、より高い次元を目指さなければならない点で、「民族自決」を目指さなければならない状態に置かれた国民に似ている。しかし、前二者がいわばゴールのない戦いを強いられる「主義」なのに対して、「民族主義」にははっきりとしたゴールがある。他民族の支配を離れ、自らの手で政治を担うことができるようになるという、「民族自決」が達成された時点で、彼らの「民族主義」は完成してしまうのだ。逆に言えば、他国の干渉を受けない独立国をすでに手にしている民族にはもはや「民族主義」なる思想は、厳密には不必要なのだ。その状態においてまだ「民族主義」を主張することは、すでにNationalismの範疇を超え、Racismの領域に入りかけているといってもいい。NationalismとRacismの間のどこに線を引くかはなかなか難しい問題だが、たとえば強硬な民族主義者として知られているミロシェビッチ元セルビア大統領など、コソボ紛争の後に明らかになったアルバニア系住民に対する虐殺をみると、Nationalistというよりは、限りなくRacistに近い人物だったと思われる。結局のところ、その「民族主義」がどちらなのかを判断するには、個別に彼らが行った行為の結果を見るよりないのだろう。
海外に目を転じると、現在「民族主義」教育に熱心なのはなんといってもおとなり、中華人民共和国である。基本的に多民族国家である中国が民族主義教育に熱心なのはちょっと変な気がするが、「中華人民共和国」国民があたかも一つの民族であるかのような幻想を与えつつ「国家」としての統一を図ろうという、Racismの色彩が極めて濃いNationalismなのだといえるだろう。ここであえてRacismという言い方をしたのはもちろんわけがあって、ことの発端はいうまでもなく天安門事件である。急激な民主化に体制崩壊への危機感を募らせた中国共産党政権は、強硬な保守化路線へと政策を転換し、同時に大衆の目を国内から海外へと逸らすべく、愛国教育を一段と強化する。その時いちばんお手軽だったのが、教科書問題や靖国問題で何かとごたごたしがちな日本をやり玉に挙げることだった。日華事変や南京大虐殺などに関する90年代以降の「歴史」教育は、明らかに政治主導の強いRacism色を帯びたもので、こうした初等教育を受けて育った現在の若年層は日本に対して極端な敵意を抱いたまま成年し、最近多発している反日デモで投石を繰り返したりしている。実際のところ、2008年の北京オリンピックに影響を与えそうなこうした傾向に、中国政府としては戦々恐々な筈だが、民衆のエネルギーがみずからに向くことの方が遥かに恐ろしいので、結局のところ傍観するよりないのだろう。いずれにしろ、こうしたばかげた行動で損をするのは中国自身だということに、政府が気付いていないはずはない(短期的には観光収入の激減、不買運動による経済成長の鈍化、長期的には国家・政権そのものへの信頼度の低下や資本引きあげなどによる国際競争力の著しい低下などなど、悪影響は計り知れない)世界各国は中国のこうした官製紛争劇の内幕をすでに知り尽くしており、アメリカでは新聞の社説などでも「偏向した愛国主義教育の当然の結果」と書かれたりしているのだ。何も判っていないのは、騒いでいる当の若者たちだけだということだ。まあ、デモ参加者の様子をよく見ると、デート気分としか思えない様子の若者などもいてさほど切実さは感じられず、あれなら「打倒米帝」を叫んでデモに明け暮れたわれわれの世代の方が、遥かに危険だったような気もするが^^;一人っ子政策で甘やかされ放題に育った若者たちが、自らのアイデンティティーを隣国へのRacismに満ちた偏向教育からしか得られないとしたら、どのみちこの国に将来はないだろう。僕たちはただ座って彼らが自滅していくのを見ていればいいだけだ。
話がだいぶ逸れてしまったが、要するに「サヨク」「ウヨク」という言葉は相対的なものでしかなく、そこに絶対的な意味はない。しかるに「民族主義」にはしっかりと定義できる意味があり、少なくとも現状の「民族自決」を実現してしまっている日本には、わざわざ「主義」としてことさら強調する必要はないと僕は思っているわけだ。もちろんそうはいっても日本人をやめるわけには行かないから、身に付いたナショナリズムを否定することはできないし、その必要もない。ただ、戦前の日本人や現代のお隣さんたちを反面教師にして、Racismとの境界を越えないよう、常に意識しながら生きて行こうと思っている。 2005/4 
 
日本の民族主義は、アメリカ帝国主義のデコイ? 2015/5

 

日本の安倍政権は、アメリカが草稿を書いた日本憲法を修正し、日本の軍が戦争を行えるようにすることを狙っており、かつての帝国主義的傾向の復活を恐れる人々もいる。
日本は戦後の平和憲法を変えようとしている。日本は、戦艦を建造し、戦闘機を購入し、急速に隙なく武装しつつある。募集ポスターは至る所にある。その一方で、日本は、従順かつ忠実に、占領者であり最も親密な同盟国である、アメリカ合州国を支持している。
状況を踏まえれば、安倍の‘民族主義’とは一体何か、疑問に思わざるを得ない。彼の忠誠心は、欧米、とりわけアメリカ合州国の方に向いているように見える。決して彼自身の国やアジア諸国にではない。
アメリカが望むあらゆることを日本は支持する。ワシントンは、そこでワシントンが決定的役割を演じる‘太平洋の世紀’を夢想している。ワシントンは容赦なく‘アジア基軸’ドクトリンを推進しており、そこでは、軍事的に、煽動的に、日本はがっちりアメリカ側でいることをもくろんでいる。ワシントンは、12ヶ国による、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)を執拗に追求しており、日本は拍手喝采している。
北方領土のジレンマ
そこからロシアの島サハリンが見える日本最北端の都市、稚内では、軍事レーダーや監視システムが音をたて、歴史的な港では、海上保安庁の船舶が、いつでも出動できるよう待機している。
温泉を訪れた男性客が、もし女湯に入れば起訴されるという警告に至るまで、市内標識のほとんど全てが、日本語と、ロシア語で書かれている。
宿泊しているホテルの窓からは、天気が良いとサハリンが見える。夏の間は、二隻の大きな船が、稚内とサハリン島にあるロシアの町コルサコフの間を日本人観光客を載せて往復する。ロシア漁船は頻繁に北海道を訪れ、文化交流や貿易さえ行われている。
ペチカ・レストランでは、美味しいロシア料理が供され、ビールが注がれ、ロシアの歌が歌われている(人気の歌は‘百万本のバラ’だ)。駐車場の向こう、副港市場には、実際、千島列島が、全て日本に所属していた時代のサハリンの古いモノクロ写真が誇らしげに掲げられている。
北方領土は、解決不能状態の問題となっている。日本側のプロパガンダは、第二次世界大戦末に、ソ連が北方領土を乗っ取ったという主張の繰り返しだ。何十年も、日本は、返還を要求してきた。
だが稚内においてさえ、この問題でロシアが妥協すべきだということに必ずしも全員が納得しているわけではない。ある小型日本漁船の船長はこう説明する。
“日本には、極右首相がいます。彼は、両国を敵にまわし、そして実際、ロシア・中国両方を破壊したがっている可能性が極めて高い国、アメリカ合州国ときわめて親密です。もし千島列島やサハリンが、日本に戻れば、皆、即座に、もう一つの沖縄に変えられてしまうでしょう。ロシア本土のすぐそばのアメリカ空軍と海軍基地だらけに。”
約3,000km離れた場所で、元いにしえの沖縄王国は、占領と、その後の軍駐留という悪夢の中にある。沖縄から、何千ものアメリカと日本の航空機が、年中中国や北朝鮮を挑発している。その一方、現地住民は占領に激怒しており、大規模抗議行動で島は揺れている。県民は、アメリカ軍駐留終了を要求しており、アメリカ軍基地撤去を望んでいる。だが安倍政権は、更なるアメリカ装備品、更なる滑走路、更なる作戦演習を望んでいる。
私は沖縄で二度仕事をしたことがある。最近では、2013/14年、南米の放送局テレスールの米軍基地に関するドキュメンタリー映画‘沖縄戦’に関与した時だ。
那覇で、元アメリカ空軍パイロットで、現在は作家で教授のダグラス・ラミスが状況をこう説明してくれた。
“沖縄は、日本内のアメリカ軍兵士と、アメリカ施設の約75パーセントを擁しています。米軍兵士や基地は、本土に暮らす大半の日本国民にとって、全く見えないので、忘れられています。沖縄は、首都東京から何千キロも離れていますから。沖縄県民と話して見れば60年以上たった今も、基本的に、アメリカ-日本軍事同盟の負担を引き受ける様、要求されていることに、彼らが、怒り失望していることがわかります。アメリカとの軍事同盟は、あらゆる面で、ワシントンに対する卑屈な態度と批判する人々が表現する状況をももたらしている。外交政策について、ワシントンが望むことを日本が妨げるようなことはほとんどない。”
基地は、辺野古湾の様に、沖縄の自然のままの地域にまで拡張しつつある。
沖縄の学者、友知政樹准教授は、アメリカと日本両国の帝国主義的傾向と彼が感じているものに対して警戒感を表明している。彼は現地住民の苦難は十分わかっている。
“アメリカ帝国主義は、日本植民地主義を、我々に対して利用しているのだと思います。日本政府は、アメリカ合州国と安全保障条約を結び、そして、アメリカ合州国は、日本を利用して、我々沖縄県民に、アメリカ軍事基地を受けいれるよう強いているのです”と彼は説明した。
基地が、中国や北朝鮮やロシアと敵対し、挑発する為に、そこに存在しているのは疑いようがない。第三次世界大戦が、沖縄から始まりかねないと考えている人々は多い。
卓越したオーストラリア人歴史学者で長崎大学名誉教授のジョフリー・ガンは、この地域において、益々攻撃的になりつつある日本の役割を懸念している。
“安倍政権が尖閣/釣魚[諸島]を国有化して、全てが変わりました。日本が、これらのいわゆる係争中の諸島を巡って、実際、係争はないと宣言した為に現状が変わったのです。それで東京の政権が中国を怒らせたのです。中国は、この現状変更に憤慨しているのです。”
矛盾の国、日本
長年、日本は、信じられないほど思いやりのある社会モデルを発展させながら、金持ちと貧乏人との間の格差が、世界で一番小さいことを誇ることができていた。支配者達の中にはどれほどの右翼がいるか知れないが、様々な点で、日本は、ほとんど‘社会主義’国として通用するだろう。
だが一つ基本的な問題がある。日本は、自国民にとってのみ、社会主義者なのだ。
日本の大企業は、何十年間も、東アジアの至る所で、植民地主義の強盗団のようにふるまってきた。例えば、日本の自動車会社は、多くの都市を破壊し、現地政府を買収し、包括的な公共交通機関を建設しないようにさせたと何度も聞かされた。現在、自動車やオートバイの排気で息が詰まりそうになるジャカルタやスラバヤ等の無数の巨大都市は、地下鉄路線や軽軌条システムが一本もない。
この理由は、アジア諸国民に親欧米的世界観を吹き込むという日本の取り組みによって、ほとんど説明できる。日本の大学は、何十年も、貧しい東南アジアの国々の学生達に‘奨学金’を提供してきた。日本の大学は、こうした学生達に、親欧米教義を吹き込み、革命精神を挫き、若者達を帝国の使用人として振る舞うよう変えてしまう。本質的に、日本に対してなされたことを、他のアジア人に対して行っているのだ。
第二次世界大戦で敗北した後、日本は結局欧米のご主人達に、忠実になった。元マレーシア首相マハティール・モハマドを含む多くのアジア指導者達が“日本はアジアに帰れ”と要求してきた。日本は決して戻らなかった。朝鮮戦争中に、欧米の軍隊向けの製品や装備を製造して、日本は豊かになった。ベトナム戦争中も、日本は同じことをし続けた。日本は現在、同じ道を辿っている。
アイルランド人で、東京にある有名校、上智大学講師のデイビッド・マクニールは日本の国営放送、NHKでも仕事をしている。彼は、新たな、軍国化し、洗脳された日本について、益々批判的になっている。
彼らは教科書を書き換えています。彼らは第二次世界大戦を飛ばし、わずか8ページしかさきません...民族主義は盛り上がりつつあります。喜劇作家の百田尚樹が、‘永遠のゼロ’と題する神風戦士についての小説を刊行しましたが … 小説は、500万部も売れました! 日本で、500万部も売れる本など他にありません!
“安倍首相は、その本を読んで、気に入りました。彼は、作家をNHKの理事にしたのですよ! それに、NHK理事長も、右翼のチンピラです。”
デイビッドは、益々憤慨した様子でこう続けた。
“現在、日本のマスコミでは大変な自己検閲が行われています。そして政府は、例えば、いわゆる‘オレンジ・ブック’という‘ガイドライン’を発行しています。‘広がりやすいもの’...あるいは歴史に関するあらゆることを、どう扱うべきかというものです。作家や翻訳者に対する指示があるのです。例えば、‘南京虐殺の様な言葉は、外国人専門家の発言を引用する場合以外には決して使わないこと’。あるいは‘靖国神社では、それについて“議論の的になっている”という言葉は決して使わないこと’。我々は、第二次世界大戦の‘慰安婦’については、書くことができません。”
日本の大衆は、時事問題について、一方的な解釈を吹き込まれているとも言った。ロシア、シリアや中国という話題になると、日本人は、もっぱら欧米プロパガンダを吸収させられている。
“しかも、彼らは実際、NHKが言うことを信じているのです”とデイビッドは言う。
香港の‘雨傘革命’の画像を、ノーム・チョムスキーと作っている映画に取り込んでいる際、フィルム編集者の、はた・たけしは、こういって笑った。
“日本では、香港での、こうした‘カラー革命’や最近の出来事の背後に欧米がいることを人々は理解していません。日本では、香港での動きは、自由と民主主義の為の運動だというのが、全員の合意なのです。それは他に、代替のニュース情報源がほとんどないせいです。”
アブダビやベイルートの様な場所でさえ、RTの様なテレビ局の放送を、あらゆる一流ホテルで見ることができる。日本ではそうではない。あらゆる大手国際チェーンのホテルでは、ほとんどが、日本の放送局と、CNN、BBCとFox程度だ。
従来通りの政治に対する不満
日本の現在の政治進路に対する不満は至る所で見えるようになっている様子で、しかもそれは、一部の、小さな反体制集団に限らない。79歳の元大手建設会社副社長、Segi Sakashiは、最近彼の怒りを私に語ってくれた。
アメリカとの極端に親密な関係と、ロシア、中国や他の国々に対する敵対的態度で、安倍首相が、日本を強引に、隣国、つまり韓国や中国との軍事衝突に追いやりつつあるのに、国民はこのことを全く気がつかずに縮小し続ける社会福祉にしがみついている。
“近隣諸国の反感を買う必要など全く皆無なのですから、こうしたことは全く馬鹿げていて、とんでもないのです。中国は、日本の主要貿易相手国の一つです。韓国もそうです。我々は経済的に、お互いの損益で、成長(あるいは、縮小)してきたのです。率直に言って、安倍首相は、1960年のアメリカとの安保条約ゆえに、我々はこういう風に行動しなければいけないと思い込み、実に愚劣なゲームをしているのです。”
日本中の公園の芝生や、他の場所に、白い標識が立っている。いくつかの言語で書かれている黒い文字は“世界人類が平和でありますように!”
日本の外交政策を考えれば、こうした言葉は偽善と解釈されかねず、皮肉でさえある。欧米が、世界を、中国やロシアの様に、平和的ながらも、強力な国々との破滅的な衝突に向けて押しやっている最中、日本はその欧米を支援しようと頑張っているのだ。
そこで、日本の指導者は、アジアの多くの場所では、激怒されながら、欧米では、大いに支持され、称賛されるわけだ。偉大な日本の哲学者、岡倉天心が、100年以上前に、著書‘茶の本’に書いた言葉を思いだすのは時宜にかなっているだろう。
“一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。”
とりわけ安倍首相を、イデオロギー上、彼が帰化した太平洋対岸の祖国に送り出した後、もし日本が茶の湯に専念してくれたなら、アジア大陸は大いによろこぶだろう。

いくら、異常な事態をてんこもりにして屁理屈を並べても、所詮は宗主国侵略戦争兵站活動の為、これから世界中に出てゆく、宗主国侵略戦争支援作戦推進法案。うまい説明などありうるはずがない。
「政府は矛盾のない十分な説明をすべきだ」等たわごとを読まされたくはない。矛盾のない十分な説明など金輪際不可能に決まっている。
祖父は安保改訂時の大衆デモの盛り上がりで、辞職せざるを得なかった。孫は、原発事故をひき起こしておいて、責任をとらず、辺野古基地大拡張を推進し、TPPで、日本の医療から、教育、公共調達、ありとあらゆるものを宗主国大企業に差し出し、あげくの果てに、侵略戦争に軍隊まで提供する。この国が終わろうとしているのだ。祖父の時の何十倍もの群衆が、連日国会を取り囲んで不思議はないはずなのだが。彼の言う通り、原発ではなく、大本営広報部が完全にアンダーコントロールにあるので、安心して暴政が行える。
いくら騙しても、普通の見識があれば、この国がとんでもない、宗主国用のおとりデコイであることは直ぐわかる、という例が、この記事。 
 
「共産主義」が淘汰され「民族主義」に至った中国の怖さ

 

「1980年代、中国共産党はすでに“破産”していた」――そんなことを言われたら、「えっ、本当か?」と思わず、自分の目をこする向きも少なくないのではないだろうか。しかも、そんな記事を掲げたのが「朝日新聞」だと知ったら、どうだろうか。
今日(2月25日)、朝日新聞朝刊のオピニオン欄(17面)に、興味深いインタビュー記事が掲載された。題して「中華民族復興」。アメリカの文化人類学者、パトリック・ルーカス氏(50)が朝日新聞の取材に応じて語ったものだ。私は、この記事が、さまざまな意味で興味深かった。
朝日新聞がこれを掲載したこと自体がおもしろかったし、1980年代から中国に留学し、長く中華民族の研究をつづけ、国際教育交流協議会・北京センター長も務めるアメリカ人研究者の独特の視点に大いに興味を駆きたてられたのだ。
ルーカス氏の習近平国家主席に対する分析はユニークだ。それによると、習近平はこの20〜30年の間で、最も「民族主義的な中国の最高指導者」であり、その理論が「中国は特別である」「中国の需要は他者より大事だ」といった特徴的な2つから「成り立っている」ことだという。
習近平は、「偉大なる中華民族の復興」を唱え、自分たちが歴史上優秀な民族であり、アジアの中心だった元々の地位に戻る、と言いたいのだそうだ。その理論の危険性をルーカス氏は、「愛国主義には健康的な部分もあり、必ずしも他者を傷つけるわけではありません。しかし、民族主義はそもそもが差別意識であり、他者を必要とする。そして往々にしてその他者に害を与えます」と指摘している。
つまり、中国の「民族主義」への警鐘が、このインタビューの核心と言える。ルーカス氏はその上で、「1980年代、中国共産党は“破産”した」と分析している。共産党が呼びかける共産主義のイデオロギーを、誰も信じなくなり、そのために、「共産党は、市民の信任を得るため、何か新たなものを必要とした」というのである。
私が大学時代も含め、毎年のように中国を訪れていたのは、同じ1980年代のことである。抑圧と独裁が特徴だった中国共産党と、それを冷めた目で見つめる人民の姿が、当時の私には印象的だった。人々の物質的な要求を満足させるために「改革開放路線」をとった中国は、当然の帰結として貧富の差が拡大していく。その頃のことをルーカス氏も独特の視点で観察していたようだ。
共産党にとって、貧富の差が拡大することは本来、許されない。厳しい抑圧によってその不満を封じなければ、統治そのものが揺るぎかねなかった。
興味深いのは、ルーカス氏がこの時点で、「共産党は帽子を変え、マスクを変えることにした。共産主義はいわば淘汰され、民族主義が統治に使われ始めたのだ」と分析していることである。
「共産主義の淘汰」と「民族主義による統治」――インタビューは、そこからがおもしろい。ルーカス氏は、1995年前後に始まった当時の江沢民国家主席の愛国主義教育について、「ここで登場したのが“被害者の物語”。これは極めて便利なものだった」としている。そこで「敵」として登場したのが「日本人と、その侵略行為」であり、「民族主義と共に、こうした“記憶”が呼び起こされた」というのである。
ルーカス氏は、毛沢東時代には「中華民族が立ち上がった“勝利者の物語”」だけで十分で、80年代まで、「統治者は“被害者の物語”を必要としなかった」と、指摘している。つまり、改革開放路線による貧富の拡大は、80年代から90年代にかけて“勝利者の物語”だけでは人民を納得させられなくなり、そこに「民族主義」とそれを補強する“被害者の物語”が必要になっていった、というのである。
厄介なのは、今では「民族主義のパワーが大きくなりすぎて、コントロールできない状況」が生じており、そのために「中国政府は対外的に一寸たりとも譲らないといった強硬姿勢」を続けざるを得なくなっていることだ、とルーカス氏は言う。「政治はお互いに譲歩するもの。しかし、外国人に譲歩をすれば、政府も批判を免れなくなっている」と、今の中国の危うさを語るのだ。
私はこのインタビュー記事を読みながら、1985年8月、それまで問題にされたこともなかった「靖国参拝」を人民日報まで“動員”して外交カードに仕立て上げた朝日新聞の報道を思い出した。つまり、「中国の民族主義」を煽った当の朝日新聞が、その民族主義を批判するインタビュー記事を掲げたこと自体が感慨深かった。
インタビューを終えた朝日新聞の中国総局長は、記事の最後に、「隣り合う国の民族主義が互いに刺激し合うことは避けられない。同氏の指摘は、我々日本人もまた、民族主義の“負の連鎖”のなかにあることを気づかせてくれる。東アジアの民族主義の拡大を抑えるにはまず、この自覚こそが求められている」と書いている。
これには、さすがに吹き出してしまった。いかにも「朝日新聞らしい」と言えばそうだが、相手に外交カードを与えて日中の友好関係を破壊し、中国の民族主義台頭を促す大きな役割を果たした自分自身の総括ではなく、こんな“お決まりの結論”が突然、出てきたからだ。
それは、このユニークなインタビュー記事には、あまりに不似合いなものだった。「吉田調書報道」と「慰安婦報道」につづき、「中国報道」でも朝日新聞の“総括”が始まったのか、と思ったのは早計だった。だが、朝日をはじめ、新聞メディアには、タブーを恐れず、多種多様な視点をこれからも、どんどん提示して欲しいと思う。 2015/2 
 
韓国の民族主義・ナショナリズムの特徴とその問題点

 

「ナショナリズム」。辞書を引くと、民族主義、国家主義、国民主義、国粋主義などと出ている。これらを簡単に言ってしまうと、民族や国家の優秀性を主張したり、それらの結びつきを強める考え方といったところだろうか。政治的には、それにより国民などの意識を高揚させ、何らかの目的を達成するために「ナショナリズム」が用いられることがある。政治家の支持率向上や、プロパガンダ、ともすれば戦争のために使われたりするのだ。この「ナショナリズム」、また「国粋主義」などは、日本の場合、太平洋戦争までの、軍部が台頭していた時代の「国体護持」と絡めて語られることが多い。現在でも、「愛国心」教育や憲法問題、靖国問題などで保守派と革新派が対立しており、「ナショナリズム」という言葉の聞こえはあまりよろしくない。もちろん、自分の住む国、地域を愛することは大切であるが、声高に叫ぶと誤解を生んでしまうことがあるのが現実だ。
さて、海外にも「ナショナリズム」というのはもちろん存在する。最近の例で印象に残っているものでは、2001年9月11日の同時多発テロ以降のアメリカ社会ではなかっただろうか。建国以来初めての本土襲撃に、世界最高の国家を自負するアメリカ国民は、強い衝撃を受けた。その後、その怒りと悲しみは、国民の一致団結という方向へと変わっていった。元々国旗好きであったアメリカ国民だが、この当時は、各戸に星条旗が掲げられるといった現象が起きた。その後、世論はアフガニスタン攻撃へと傾き、テロとの戦いの名の下に、アフガニスタンへの空爆が断行されたのは記憶に新しい。ナショナリズムは、過激さを増すと、時にとんでもない方向へ進むこともあるのだ。
今度は「民族主義」という言葉について考える。民族主義とは、民族の独立と自立、統一を重視する思想である。元々は、民族自決の考えということであったが、右翼的な思想という意味も強い。それらの考えは、自民族優位の考え方に発展することもあり、また排他性を持つことも特徴の一つである。第二次大戦後、西ドイツに興ったネオ・ナチズムも、ドイツ民族の優位性と異民族排斥を訴えている。程度の差こそあれ、このような民族主義といったものは、世界中に存在するのではないだろうか。ニュースや新聞、雑誌などのメディアで「民族主義」や「ナショナリズム」といった言葉と絡めてよく登場する国がある。それは日本のお隣の国、大韓民国である。以前から日本とつながりの深い国で、最近では以前に比べてメディアに取り上げられることも多くなった。今回は、この韓国にスポットを当てて、韓国での「民族主義」、「ナショナリズム」の特徴と問題点を見ていきたいと思う。
1、ワールドカップにおける韓国のナショナリズム
2002年6月、日韓共催ワールドカップが行われたのは記憶に新しい。そのときの韓国人サポーターの熱気は凄まじいものであった。ソウル市庁舎前の特設会場には最大で15万人のサポーターが駆けつけ、辺りはTシャツの赤で染まった。試合の経過に一喜一憂し、サポーターからは「大韓民国(テーハンミングク)」コールが鳴り響いた。日本でもサポーターの応援は熱狂的だったが、韓国のそれは日本の比ではなかった。
その熱気が思わぬ方向に飛び火してしまったのが同年の1月に行われたソルトレイクシティーオリンピックであった。スピードスケートのショートトラックで、アメリカの選手が韓国人選手の進路を妨害してしまったため、取れると思われていたメダルを逃してしまったのである。これに怒った韓国の人々は、米軍による女子中学生轢き殺し事件と重なり、反米感情をあらわにした。星条旗やブッシュ像を燃やすなどのパフォーマンスも行われたのである。
そして、ワールドカップのアメリカ対韓国の試合が行われたとき、スタジアムは凄まじい興奮に包まれた。韓国人選手がゴールを決めたとき、彼は他の選手とともに、スピードスケートの物まねを見せ付けたのであった。ショートトラックの雪辱を晴らしたともいうパフォーマンスであった。韓国の人々のナショナリズムはこのときに頂点に達したともいえるだろう。会場はもとより、街頭応援していた市民たちもそのパフォーマンスに拍手を送った。このときの状態は、今から考えれば異常ともいえるものであった。韓国は、その後も順調に勝ち進み、アジア初のベスト4進出という偉業を成し遂げた。準決勝では韓国はトルコに敗れてしまったが、試合後、トルコの選手と韓国の選手が手をつないで高らかと手を挙げ、スタンドに歩み寄ってきたのだ。このパフォーマンスには、サポーターは大変喜んだ。ワールドカップで初勝利し、ベスト4まで進めたという満足から、偏狭なナショナリズムではなく、真に選手に激励を送った瞬間であった。
ワールドカップでの韓国の人々のナショナリズムというものは、国民が一緒になって同じ興奮を共有することで生まれたものだった。しかし、ただそれだけのことであり、純粋に自国に勝ってほしいというナショナリズムであったのだ。その興奮から、韓国が敗退でもしたら暴動が起きるとまで言われたが、それを乗り越えたのは、ほかでもない韓国人自身であった。
2、「ウリ」にみる韓国の仲間意識
韓国には、「ウリ」という言葉がある。辞書を引くと、「我」、「我々」、「うち」と出ている。「われわれ」と訳されることの多いこの言葉、韓国では非常に多く使われる。「ウリナラ(わが国)」、「ウリマル(我が言葉)」、「ウリチプ(我が家)」というように、なんでも「ウリ」をつけてしまえば「我々の〜」を表せる。韓国では日本以上に帰属意識が強く、「ウリ」を非常に大切にする。各家には家系図があり、家族間の結びつきを確認するのである。また、「ウリ」意識から、一人で食事などしていると、何かあったのではないかと心配されるようなこともあるという。彼らのあいだでは、「ウリ」の関係になれば、非常に親しい人間関係が構築される。また、仲間には色々と気を使うのだ。
このような「ウリ」意識から、韓国人は人情が厚く、礼儀正しいいとよく言われているが、逆に他人にはお構いなしという習慣もある。道を歩いていて人とぶつかっても知らん振りをする。相手もさして気にしない。日本ではお互いに謝るだろうが、韓国ではそのようなことはしない。これは、他人が「ウリ」ではないためだ。韓国では「ウリ」は大事にされるが、そうではない「ナム(外、他人)」は重要視されないのだ。
この韓国人の「ウリ」意識が、仲間うちの関係から「ウリナラ」、国家単位になったとき、諸外国からみると、閉鎖的で排他性を帯びていると感じてしまうのだ。しかし、この言葉、「我々」と訳すには奥が深く、難しい概念だ。「ウリ〜」と強調するあまり、他の国の人からは愛国主義のように思われるが、彼らにそのようなつもりはない。ただ、韓国のナショナリズムを語るうえで、「ウリ文化」ともいえる、仲間意識にヒントが隠されているとも思えるのだ。
3、反日感情と民族のアイデンティティー
韓国といって、日本人なら誰でも思い浮かべるイメージに、極度の反日感情というものがあるだろう。また、この反日感情の根底には日本の35年にわたる朝鮮半島統治があることも知られている。しかし、半世紀以上を過ぎた今、果たしてそのできごとだけで反日感情を引きずることができるのか。もちろん戦前の日本の蛮行を軽視するというわけではないが、程度が過ぎるのではということだ。たとえば、アメリカが核配備を進めようとすれば、唯一の被爆国である日本の国民は怒るし、デモなども起きるだろう。しかし、ニュースなどで流れる韓国の反日デモのように、あそこまでヒステリックかつ過激にはならないはずだ。あれほどまでの反日感情というものは、実は人為的に「作り出された」ものではないだろうか。
1945年、日本は終戦を迎えた。同時に朝鮮半島では「光復」を迎えたのだ。20世紀初頭から日本の統治下に置かれていた朝鮮半島では、まだ近代的な概念での独立国家は持っていなかった。日本からの解放によって、朝鮮民族の手による新しい国づくりを創めるはずだった。しかし、朝鮮半島は、戦後アメリカとソ連による分割統治下におかれることになった。その時点での自力による独立国家の建設は不可能と考えられたからである。約3年を経て、朝鮮半島には分断されたまま二つの国家が誕生した。「朝鮮民主主義人民共和国」と「大韓民国」である。ここでは北朝鮮のことは置いておき、韓国の話を進めていく。
晴れて独立を果たした韓国であったが、大きな問題が浮かび上がった。それは、「国家の正当性」と「韓国人の育成」である。
まず、「国家の正当性」である。韓国の独立は予てから民族の悲願であった。ついにその独立を勝ち取ったわけだが、民族の独立は日本の連合国に対する敗北でもたらされ、国家建設はアメリカの戦略によってもたらされたといえる。しかし、これでは国家の成立過程としては聞こえがよくない。そこで、民族の独立と国家建設は自分たちで勝ち取ったという「事実」が強調された。
戦中、日本統治下の朝鮮では独立運動が起こっていた。そのなかで、独立国家建設をもくろみ活動していたのが「大韓民国臨時政府」であった。彼らは、戦中から対日工作と独立国家建設の準備を進めていたのだ。末期には中国へ逃れていたが、光復とともに朝鮮へと戻ってきた。つまり、光復は自分たちの民族の独立運動と対日工作によりもたらされ、新政府はその活動をしていた大韓民国臨時政府に由来するとして、国家のアイデンティティーを保つことにしたのである。
そして「韓国人」の育成。これには複雑な事情が見え隠れする。日本の朝鮮半島統治中、抗日独立運動が盛んだったのは有名で、特に1919年3月1日の「三・一独立運動」などが知られている。この独立運動は民族主義の象徴として、現在の韓国でも語り継がれている。しかしながら、足掛け35年の統治の後半は、目立った独立運動が起こっていない。理由はいくつかあるが、統治期間が長くなってきたために、一種の慣れが生じて独立の機運が低くなってしまったこと。そして、30年ほどの間に、「日本人」としての教育を受けて育った世代が多くなってきたことだ。日本人として育てられた世代には、朝鮮民族としてのの誇りが失われてしまっても仕方がない。
こうしたことから、新しい「大韓民国」を担う若い世代は「日本人」化してしまい、「韓国人」の育成が必要になったのだ。そして、若い世代に「韓国人」の意識を植え付け、民族の誇りを持たせるため、考え出されたのが「反日」教育なのである。韓国の本当の敵国は北朝鮮であるから、「反共」教育は当然行われた。しかし、同じ民族がいがみ合っている状況では、民族としてのアイデンティティーは確立できない。そうして、民族の独立を妨げ、搾取と蛮行を繰り広げ、あげくに民族を分断させた張本人「日本」をもう一つの憎むべき相手と位置づけ、敵を置くことで、国民を結束させナショナリズムの高揚を図ったのであった。つまり、韓国の反日感情は、韓国政府のプロパガンダの成果とも言えるのだ。
その後も「反日」教育は行われ、「反日」は韓国のカラーと言っても過言ではなかった。日韓で歴史認識にズレが生じたり、日本人には理解できないような反日デモの原因は、このようなところから来ているといえよう。日本への対抗心を糧に、韓国は結束して国を発展させ、経済成長を成し遂げてきたのだ。敵をおいて、ナショナリズムを煽る手法は現代でも使われるが、日本もその対象となっていたことは、日本人として知る必要があるだろう。
4、総括
韓国のナショナリズムの根底は、独特の「ウリ」意識というものがあるかもしれない。元々、「自分たち」というまとまりを大切にする民族性が韓国ナショナリズムを引き立たせているのだろう。そして、日本の朝鮮半島統治に対する恨みと政府のプロパガンダによって、韓国には「反日」が発生した。「反日」は、国威を高揚させ、民族主義を引き立たせるのに大きな役割りを果たした。現在では、その「反日」も緩やかになり、日韓は新しい時代を迎えた。ナショナリズムは、ワールドカップのときのように、純粋に自国を応援するという、政治色の薄いものに変わっていっている。北朝鮮に絡み、朝鮮半島情勢は、日・韓・米・中・ロを交え、日々変化している。この先、韓国のナショナリズム、民族主義がどう変化していくのか、今後に注目したい。 
 
日本人が知っておいたほうが良い韓国人の民族主義 2015/9

 

内容はタイトルからはわかり難いですが、以前書いた「日本以外に対する韓国起源説」に関係したものとなります。そして書こうと思い立った動機は、前回の記事のコメント欄で「日本人と韓国人は元々同じ民族云々」という内容を書いていた人がいたからです。
これなのですが、一見すると単なる歴史観のひとつに過ぎないように見え、日本では実際にそうなのですが、韓国ではこの歴史観が民族主義や民族純血主義に根ざしたある種の選民思想の延長線上にあり、単なる歴史観という範疇を明らかに超えています。そして、その彼らの考え方は、到底一般的な日本人が受け入れる事のできるようなものではありません。
彼らの民族主義とはどのようなものなのかをざっと書いてしまうと、以前も書きましたが「朝鮮人という民族は紀元前2333年から続く純血の単一民族である」という前提で(場合によっては更に前まで民族の定義を広げ)、優れた民族である朝鮮人が周辺の国や民族へ様々な文化を伝播させていったという単一民族主義に根ざした歴史観です。
日本に対しては、この前提で「未開で何の文化的背景ももっていなかった石器時代の倭人に対し、優れた単一民族の朝鮮人が移民し文明化してやった、日本という国も文化も作ったのは我々である」「日本人とは優れた韓民族と野蛮な縄文人の混血である」という考え方です。以前から書いているように、この考え方を背景として韓国起源説が発生するわけです。
ですから私は、「日本人と韓国人は〜」という話を特定の日本人から聞くたびに、「彼らはそう主張する韓国人の背景に何があるのかを理解しているのだろうか」と感じてきました。そこで今回は、この日本人と韓国人が元々同一の民族であるとの考え方が、韓国内でどう解釈されどのような歴史観を構築しているのかについて書いて行きます。
まずはこちらの記事から。
檀君の古朝鮮建国、神話から「歴史」に  東亜日報 2007/2
古朝鮮の建国過程が高校の歴史教科書に公式に入った。また、韓半島に青銅器が伝わった時期は最大、1000年をさかのぼることになった。教育人的資源部(教育部)は、07学年度の歴史教科書をこのように修正して、現場の学校に普及することにしたと、23日、明らかにした。学会や政界ではこれまで、中国の東北工程(歴史歪曲)など周辺国の歴史歪曲に対応するために、神話の形で記されていた古朝鮮建国の部分を公式的な歴史と明確に規定すべきだと求めてきた。高校の歴史教科書の32ページには「三國遺事と東國通鑑の記録によると、檀君王儉が古朝鮮を建国したという」と記されているが、教育部はこのくだりを、「…建国した」と変えることにした。中学の歴史教科書にはすでにこのように書かれている。中国は古朝鮮という国は存在しなかったと教えており、日本の歴史教科書の年表には韓国歴史の始まりを「楽浪郡や高句麗」と記述している。(後略)

歴史学上は伝説でしかなく、13世紀に書かれた三国遺事に数行言及のあるだけの檀君を、神話では無く史実として教えるとした記事です。また記事中にも言及がありますが、この記事は高校でもそう教えるとしただけであり、小学校・中学校のような義務教育ではそれ以前からそう教えていました。
ここから、古来から継続性のある単一民族であり、混血せず純血を守ってきた優れた民族であるとの歴史観が、以前紹介した以下の記事と合わせて、韓国では公教育の場で子供達に教えられているという背景が見えてきます。
初等教科書、高麗の時「23万帰化」言及もしない 京郷新聞(韓国語) 2007/8
小学校4〜6年生用の教科書、単一民族・血統を過度に強調

そしてこうした公教育の背景を基盤として、韓国では「血」や「民族」で人の優劣を判断する考えが一般化しており、度々以下のようなトラブルが発生します。
韓国人の“的外れ”な賛辞に米華人女性が激怒、「何があっても韓国人とは交流してはならない!」―中国ネット
2015年7月27日、中国ネットユーザーは、韓国に関する親戚の体験談を紹介し、韓国人に怒りを覚えたエピソードを語った。私の姉は米国籍を持つ華人で、韓国の政府関連機関に招かれ韓国に訪れたことがある。自分の容姿をほめてくれる韓国人に姉も初めは気を良くしていたが、その賛辞はいつの間にか道を外れ、中国人批判に及んだという。姉と交流した韓国人らは、「中国人ではないですよね?中国人がこんなに美しいはずがない。中国のきれいな女性は韓国の血が流れているか、韓国人のどちらかだ」と発言したという。これにはさすがに姉も強い憤りを覚え、「韓国人を見ただけで気分が悪くなる。何があっても韓国人とは交流しないように!」と私に話していた。

以前日本人が韓国で体験した似たような事例を紹介した事がありますが、韓国ではこれは悪意や嫌がらせ目的では無く、子供の頃から「自分達は優れた純血の民族である」と教育されているため、これでも相手を賞賛しているつもりなのです。
これも一種の常識の違いです、我々の価値観からすると非常識極まりない価値観ですが、韓国ではこのような考え方が一般的なのです。そして当然の事ですが、よほど特殊な人でもない限り、日本人はこの価値観をまず許容できません。
またこうした背景から、日本や日本文化に対して韓国人は非常に特別な感情を持っています。先ほども書いたように、彼らは公教育で「日本という国と文化は自分達が作ったのだ」「古代、百済人は日本を支配していた」と教えられて育つため、日本人も「同じ“正しい”歴史観を持たなければいけない」と非常に強く感じているのです。
結果、少しでもこの歴史観から離れた考えを持つと、彼らは以下のように激しく反発します。
韓国首相「日本の起源は百済…日本の歴史歪曲、絶対許せない」 2015/4
韓国の李完九(イ・ワング)首相は9日、日本文化庁が最近韓半島(朝鮮半島)古代史の一部である三国時代を日本の支配を受けた任那時代と表記したことについてさらに強く批判した。これは異例とも言えることだ。李首相は「手のひらで天を隠す(以掌蔽天)」「鹿を指して馬と為す(指鹿為馬)」などの故事成語まで動員して日本を叱責した。
李首相は同日午後、政府ソウル庁舎で予定にはなかった記者会見を自ら要望して開き、「日本の歴史歪曲は(我々民族の)民族魂を否定するもの」としながら「いかなる場合でも歴史歪曲は絶対に許してはいけない」と述べた。これに先立ち、日本は文化庁ウェブサイトで三国時代の韓半島から搬出して日本が所蔵している23点の遺物のうち、8点を任那時代の遺物だとする説明を添えている。(中略)
李首相は「日本で会った熊本県知事も百済崩壊当時、数十万人の百済遊民が九州にやって来たと話した。私が知事だった忠清南道公州(コンジュ)と扶余(プヨ)は百済王朝だった。歴史的真実を見れば日本の起源は百済」と強調した。李首相は「奈良県の東大寺にある日本王室遺物倉庫である正倉院がなぜ公開されないのか今でも疑問」と話した。日本王室の起源が百済という事実が立証されることを恐れて日本が正倉院を意図的に開くことができないという意味だ。
李首相は「歴史的真実は覆い隠すことはできず、いつかは評価を受ける」とし「日本に比べてまだ及ばない歴史研究を強化しなければならない」と話した。また、李首相は「古代の韓日関係研究に予算と人材を拡充できるように教育部に指示する予定」と話した。(後略)

しかし実際のところ、このような韓国人の歴史観はまるで根拠が無いため、学術的には完全に否定されており、日韓歴史研究会が対立のまま実質無期延期になったのもそれが原因です。具体的には、彼らは過去朝鮮半島に存在していた日本の直轄地「任那」の存在が許容できないのです。
なぜならば、彼らの歴史観では檀君の時代からずっと一つの民族が、他の国や民族から支配される事無く、朝鮮半島で民族の純血を守り通し単一民族国家を形成し、「日本を支配していた事になっていなければならない」からです。彼らの対日の歴史観というのは、このような民族主義と直結したものなのです。
以前紹介した日韓歴史研究会での「韓国に対する愛情はないのかー!」というフレーズも、要するにこの学問と民族主義のせめぎ合いの結果韓国側から出てきた言葉です。これは「韓国人の正しさを理解しなけれないけない」という、主観的な正しさに基いた言葉であり、彼らの民族主義的な視点から「日本人も同じ歴史観を共有しなければいけない」と強く感じているからです。
書き方を変えると、「韓国人は日本人が韓国人の民族の優秀性を認める事を強く望んでいる」という事でもあります。そして、この彼らの民族主義に基く歴史観に反する考えに対しては、韓国内であっても以下のような反応をします。
解放70年と歴史戦争の敵 ハンギョレ新聞 2015/8
(前略) 日本は朝鮮半島を併合し、それを合理化する論拠として古代史の任那日本府説を前面に打ち出した。朝鮮半島の南に、新羅と百済以前からヤマトの倭の植民政権があったというのだ。だから併合は強奪でなく歴史の復旧だという。丁酉再侵(慶長の役)時、豊臣秀吉は忠清、全羅、慶尚の三道分割を朝鮮に要求した。ただ単に武力でだけ脅したのではなく、あらゆる捏造された歴史的破片を持ち出して正当性を主張した。(中略)
朴槿恵(パク・クネ)政権は発足当初から国内で歴史戦争を始めた。左派史観あるいは自虐史観除去という旗印の下、李承晩(イ・スンマン)政権、5・16クーデター、(朴正煕政権独裁)維新体制を美化しようとした。さらには植民地近代化論など日帝が併合を合理化した主張を韓国の公式立場にしようとした。大多数の学者の反発で意図を完遂できなくなると、歴史教科書を国政体制に変えてしまおうとしている。そうすることで親日の前衛だった朴大統領と与党代表の祖先の行跡を隠せるからだろうか。
国内でこんな内輪揉めが続く間 日本と中国は朝鮮半島に狙いを定めた歴史戦争の橋頭堡を確保した。周辺国の歴史歪曲に対抗するため設立された東北アジア財団は、中国と日本が自分勝手に再構成した古代史をこっそり書き写したり受け入れる間者の役割を果たした。事実を発掘することは疎かにし、理論をたてることには無能で、学問的には不誠実極まりなかった。
結局、この政権は内外の歴史戦争で大韓民国の胸に銃口を突きつけたようなものだ。内では私たちの歴史学界を敵とみなし、外では中国と日本の主張を根をおろすように助けた。その結果として紛争は現実になっている。独島は国際的に大韓民国の領土でなく紛争地域になってしまった。韓国政府傘下の歴史財団が作った地図から除外しておきながら、どんな方法で紛争地域化を防げられるのか。歴史時代以来、大同江以北を中国の領土と表記しておいて、有事の際に中国が入ってきて紛争地域化されることを、どう防ぐというのだ。光復70年を迎えて、政府はいったいどういうつもりで歴史を70年前以前に戻そうとするのか。

最早韓国では学問としての歴史を論じる事の出来るような土壌は殆ど存在していないのです。
これが「日本人と韓国人は元は同じ民族」という歴史観を韓国人が語る場合の背景です。そして安易に彼らの歴史観に同調するという事は、同時に彼らの民族主義や選民思想にも間接的に同意している事と同じなのです。「日本人と韓国人は元々同じ民族である」と安易に語る日本人の中で、この事を理解している人はどれだけいるのでしょうか。
最後に。
今回この記事を書いた理由は実はもう一つあります。こうした韓国人の民族主義や選民思想について他者から指摘されても、日韓友好を訴える人の大部分が明らか意図して無視したり、露骨に論点をそらす傾向にあるからです。
このブロマガを始めるずっと以前より、私は今回紹介したこの韓国人の価値観を、日韓友好を訴える人々に様々な場で問題提起していましたが、その「ほぼ全て」の人々が、この問題を無視したり意図して論点をそらしたりしてきました。
そして、このブロマガをはじめてからも、こうした問題を扱うたびに彼らは本題からの論点のすり替えを繰り返しています。しかしどんなに論点を摩り替えたところで、どんなにこの問題を無視したところで、この現実が変るわけではないですし、何より日韓の関係が近付けば近付くほど、この問題はより表面化し問題となります。
また勿論、一部の例だと書けばそれで問題が消えるわけでも、問題を差別問題や思想の左右の問題にすり返れば問題が解決するわけでもありません。にも拘らず、こうした事を続けているのが日本で日韓友好を訴えている人々の姿です。
そろそろ彼らは「韓国社会には非常に先鋭的な民族主義と選民思想が存在している」という現実を直視するべきでしょう。また漠然と日韓問題を考えている人々も、この韓国人の価値観をまず知るべきです、そうしなければそもそも何をするにしてもスタートラインにすら立てません。
追記
余談になりますが、現在韓国では「日本の嫌韓は民族主義」といった論調が、韓国の三大紙のひとつである中央日報を中心に頻繁に見られます。
彼等が日本の民族主義として挙げる内容として、慰安婦問題や竹島問題、世界遺産登録問題、戦後補償問題、日本海呼称問題などが例として挙げられているのですが、仮に百歩譲って彼らの言分が全面的に正しくとも、ここで出てきたようなものは定義上民族主義ではなく「国粋主義」となるはずです。
ではなぜ彼らはこれを民族主義としているかといえば、要するに「劣等性の天秤」を相手側に傾けて、つまり自己に向けられた批判を、こじ付けでも曲解でもなんでも良いので同じ問題を「天秤の相手の側」に積み重ねることで、自身に向けられた批判を相手の問題に摩り替えるためです。他者の劣等性が自己の優越性とイコールの関係にある彼らの価値観だからこそ起きる現象です。
今回の場合にならば、実は韓国社会における民族主義の先鋭化は、特にここ数年日本人を含む複数の外国人から指摘されてきたことだからです。韓国人は、特に日本人の「劣等性」を指摘する事で自己の優越性を実感しやすいため、逆に日本人から「韓国社会の問題」を指摘されることを極端に嫌う傾向にあります。彼らの価値観では、相手から問題点を指摘されたときに、それを認めるという事は自らが相手よりも劣等であると認めるのと同じだからです。
例外として、「韓国人の正しさ」を理解したと韓国人が感じている日本人からのものに関しては、ある程度の韓国への批判を許容しますが、そもそもそういった人達は決して韓国に全面的に問題がある事には触れません、どっちもどっち論にもって行くか、或いは「日本の方が問題だ」として「天秤」のバランスをとり、韓国人の蔑視ありきの自民族中心主義を満足させようとします。だから許容されているともいえます。
こうした背景があるため、韓国との対話は多くの場合無意味になります。問題を解決しようと他者から韓国側の問題を指摘された時点で、韓国人の多くはこの「劣等性の天秤」が動いて相手の問題に摩り替わるため、そこから一歩も前に進まなくなるからです。
以前からこのブロマガで「韓国とは必要以上に関わらず距離を取るべき」としている背景には、こんな理由もあるわけです。 
 
韓国の民族主義

 

歴史
大韓民国建国以前
朝鮮半島の歴代王朝は長期間に渡って中国大陸の歴代王朝に服属・朝貢しており、例えば新羅は北斉(北朝)・陳(南朝)・隋・唐に朝貢し、高麗は宋・契丹(遼)・女真(金)・明に朝貢、元に服属し、李氏朝鮮は明・清に朝貢していた(日清戦争まで)。これらの歴代王朝の多くは中国歴代王朝による冊封を受け(中国朝鮮関係史参照)、中華文化を非常に尊ぶ事大主義と、自らを中国文明(大中華)に次ぐ「小中華」であるとする「小中華思想」を持ち、周辺国である日本や琉球や満洲を文化的に劣等な夷狄とみなしていた。江戸時代に日本を訪れた朝鮮通信使たちは、「男子はみな半幅の青布でへそから下を被っている。はなはだしいのになると隠さない」、草履は、「前部に一本の縄があって、そこに足指を掛けて挟んで歩く。その形はひどく奇怪である。足袋は蛇の舌のようである」などと日本の風習を夷狄視する記述を見せている。また『日東壮遊歌』の中で、小中華思想の上では文化的に劣等で野蛮でなければならない日本が発展していることに対して、次のようにあからさまな感情を記述している。
『日東壮遊歌』現代語訳
大坂での記述より
(多くの船が)一斉に行き来する様は驚くばかりの壮観である。その昔、楼船で下る王濬が益州を称えた詩があるが、ここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう。
流れの両側には人家が軒を連ね、漆喰塗りの広い塀には鯨の背のような大きい家を金や紅でたくみに飾り立てているが、三神山の金闕銀台(きんけつぎんだい:仙人の住処のこと)とは、まことのこの地のことであろう。
本願寺に向かう道の両側には人家が塀や軒をつらね、その賑わいのほどは我が国の鍾絽(チョンノ:ソウルの繁華街)の万倍も上である。
館所に入る、建物は宏壮雄大、我が国の宮殿よりも大きく高く豪華である。
我が国の都城の内は、東から西にいたるまで一里といわれているが、実際には一里に及ばない。富貴な宰相らでも、百間をもつ邸を建てることは御法度。屋根を全て瓦葺にしていることに 感心しているのに、大したものよ倭人らは千間もある邸を建て、中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き、黄金を以って家を飾り立てている。 その奢侈は異常なほどだ。
天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである。
この国では高貴な家の婦女子が厠へ行くときはパジ(ズボン状の下着のこと)を着用していないため、立ったまま排尿するという。お供のものが後ろで、絹の手拭きを持って立ち、寄こせと言われれば渡すとのこと。聞いて驚きあきれた次第。
京での記述より
沃野千里をなしているが、惜しんであまりあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。
倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、宮殿の草花などを愛でながら、月の半分は斎戒し、あとの半分は酒色に耽るとか。
尾張名古屋での記述より
その豪華壮麗なこと大坂城と変わりない。夜に入り灯火が暗く、よくは見えぬが、山川迂闊にして人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、沿路随一とも言える。中原にも見当たらないであろう。朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べればさびしい限りである。
人々の容姿の優れていることも 沿路随一である。わけても女人が 皆とびぬけて美しい。明星のような瞳、 朱砂の唇、白玉の歯、 蛾の眉、茅花(つばな)の手、蝉の額、氷を刻んだようであり 雪でしつらえたようでもある。趙飛燕や楊太真が万古より美女と誉れ高いが、この地で見れば色を失うのは必定。越女が天下一というが、それもまこととは思えぬほどである。
(復路にて)女人の眉目の麗しさ、倭国第一といえる、若い名武軍官らは、道の左右で見物している美人を、一人も見落とすまいと、あっちきょろきょろこっちきょろきょろ、 頭を振るのに忙しい、まるで幼児のいやいやを見ているようであった。
江戸での記述より
楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様、橋や船にいたるまで、大坂城、西京(京都)より三倍は勝って見える。女人のあでやかなること 鳴護屋に匹敵する。
(将軍との謁見について)堂々たる千乗国の国使が礼冠礼服に身を整え、頭髪を剃った醜い輩に四拝するとは何たることか。
(将軍家治について(著者は直接見ていない))細面で顎がとがり、気は確かなようだが、挙動に落ち着きが無く、頭をしきりに動かし、折り本をもてあそび、やたらにきょろきょろとして、泰然としたところがない。

このような観念的な根強い小中華思想がある上に、近代に入ると「文化的に劣等な野蛮人」でなければならない日本人に韓国併合をされたことから、より強い反日感情と民族主義が形成された。
大韓民国建国以後
独裁体制の時代
大韓民国建国後においては、当初から民族主義は「反日主義」一辺倒で「日帝に対する闘争」を掲げることで民族の紐帯を醸成していった。
初代から3代目までの大統領となった李承晩は日本統治時代の朝鮮を容認する思想を持った者や発言した者に対して徹底的な投獄・拷問・処刑を行った。 大韓民国成立後の2年だけで、政治犯として投獄された者の総数は日本統治時代の約30年間の投獄者数を超えた。
また李承晩が失脚した3年後に大統領に就任して同じく独裁体制を築いた朴正煕は、朝鮮史における事大主義と属国性を自覚し、自著『国家・民族・私』で次のような言葉を遺している。
「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」 「姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」 「わが民族史を考察してみると情けないというほかない」「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」
また、自著『韓民族の進むべき道』で、李氏朝鮮について次の言葉を遺している。
「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」 「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」 「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」
さらに、自著『韓民族の進むべき道』で、韓国人の「自律精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を批判し、「民族の悪い遺産」として次の問題を挙げている。
事大主義 / 怠惰と不労働所得観念 / 開拓精神の欠如 / 企業心の不足 / 悪性利己主義 / 名誉観念の欠如 / 健全な批判精神の欠如
朴正煕はこのような問題を払拭するために、独裁体制(維新体制)を確立すると「国籍ある教育」を掲げ、歴史教育の目的として「民族の中興の使命を達成するための主体的民族史観」が謳われるようになった。一方で、開発独裁による経済発展を推し進め「漢江の奇跡」と呼ばれる飛躍的な発展を遂げることに成功し、韓国人が誇るに足る国へと成長していった。
近年
朴暗殺後の1980年代から韓民族優越主義が台頭し始め、韓国の超古代史が綴られたとされる自称歴史書『桓檀古記』が「活字として改めて出版」され、ソウルオリンピックや2002 FIFAワールドカップなどのスポーツ関係の祭典の挙行、OECDの加盟等の経済力の増大と共に韓民族優越主義を肥大化させていった。
飛躍的な経済発展、韓国系企業の国外進出などによって韓国の国際的地位は以前に比べ高まったが、韓国は中国や日本に挟まれているため、欧米における韓国という国家のイメージやその知名度は他の2国に比べ未だに低い。水野俊平等の複数の学者は、韓国国民が自らを先進国の国民であるというプライドを持つようになった一方で、欧米人が持つ韓国人に対してのイメージが低いことに精神的葛藤を覚えており、それが韓国起源説に代表される独特のナショナリズムを加速させていると指摘している。
日本語講師の中岡龍馬は、近年、韓国でエスノセントリズム・韓民族優越主義(かんみんぞくゆうえつしゅぎ、한민족 우월주의)が台頭しつつあると主張し、これを朝鮮語で「我が国」を表す「ウリナラ」から、俗に「ウリナライズム(またはウリナリズム)」と呼んでいる。この思想を持つ者は、「韓民族は歴史や文化や能力などで周辺諸民族よりも優れている」と主張している。
また、韓国の学校教育や大手新聞やテレビや書籍では、「日本は韓国の優れた文化を受け入れるだけの文化劣等国」「有史以来一枚見下げるべき文化的劣等者」「韓半島に比べてみすぼらしくて短い歴史しか持たず、歴史を捏造するしかない日本」というような対日蔑視に基づいた誤った論評が日常的に行われたり、日本列島を指す「島国」という言葉が「劣等で未開」という意味で使われて、駐日韓国大使がテレビのインタビューで使うまでになっている。また、マスコミによって「チョッパリ」「ウェノム」「イルボンノムドル」などの日本人を指す侮蔑語が使用され、「古代に韓民族の中の質の悪い犯罪者を「おぼれ死ね」と丸太に縛って海に流して島にたどり着いたのが国際的なならず者の低質日本民族の正体だ」、「『日本猿』と『チョッパリ』、どちらが日本人の呼び名に相応しいか?」、「『倭人』という言葉がある。とても小さくてみすぼらしいという意味の倭だ。人間の度量が小さくて狭い場合に私たちは『小さい奴』という言葉を使う。日本はそのような種族だ。」「『日本猿』という呼称がある。陰湿で凶悪で他人の真似はうまい人に、よく『猿のような奴』と非難する。日本はその猿のように卑怯な種族だ。」、などといった論評まで行われている。さらに韓国社会では日本人を「文化的に劣等な『猿』」とみなすことが常態化しており、奇誠庸などの有名スポーツ選手や地方公共団体が公の場で日本人を「猿」として侮辱することがある。
このような思想から、カリフォルニア州在住の在米韓国人たちが「韓国が日本に東アジア思想と文物を伝えた。」「韓国の陶工が日本に渡って日本の文化形成に寄与した。」「韓国は1980〜90年代、大きな経済成長を成し遂げ、現在のインターネットおよび情報技術(IT)産業の主導的な役割をする国家である」などを歴史教科書に新たに記述させる法案を通過させるようにカリフォルニア州議会議員達に対してロビー活動を行っている。
「過剰な愛国心」を覚醒剤中毒になぞらえて、「国家(국가、クッカ)」と「ヒロポン(히로뽕)」を合わせた「국뽕(クッポン)」という新造語ができている。
韓民族優越主義者による主張の例
韓国起源説
韓国では長い間、冊封体制下で中国の歴代王朝に事大の礼を尽くしていたこともあり、中国文明の影響を濃厚に受けており、中国諸王朝や文化の極めて強い影響のもとに文化を発達させてきた。ところが、現代において、韓国外で評価の高い主に日本や中国の事物を韓国が起源と主張する論調をしばしば取ることがあり、極端なものでは明らかに日本や中国で醸成された文化や文物と検証されている著名な歴史的事物や人物を韓民族(韓半島)起源のものであると主張することがある。これについては、近年中国や日本から、歴代の朝鮮王朝は自国独自の文化を排斥し中国文化を崇めていたため独自文化が近隣諸国と比べ発達せず、近代の韓国人がそれに対する劣等感を持っていることや、李氏朝鮮までの文化の継続的な継承が行われていない百済や高句麗等の歴史まで自民族史として語る歪んだ思想が原因であると指摘されている。
誇大妄想史観
「韓民族は北東アジアの覇者であった」という偽史を創作し、その定着を図っている。韓民族の活動した地域は、北はバイカル湖、南は沖縄、西はメソポタミア、東はアメリカ大陸ということになっている。
2007年大韓民国大統領選挙に立候補した許京寧経済共和党総裁は、「中国諸国と連邦をしてアジア連邦を作り、失われた高句麗領土を取り戻したい」「失われた渤海の旧領と、三国時代にヨーロッパまで伸ばした韓半島の故土を取り戻すのが私の夢だ」としている。
韓国KBSの番組「満州大探査」は、「満州はもともと韓民族の土地。清朝を樹立した愛新覚羅氏も、祖先は韓国人」と主張している。
大田大学校哲学科の林均澤元教授が2002年12月に韓国書鎮出版社から出版した「韓国史」において、唐の時代に、高句麗、新羅、百済が中国の大半を有しており、唐の版図は雲南省や四川省などのわずかな部分に過ぎず、高句麗、百済を滅ぼしたあとの新羅の版図は、現在の東シベリア、モンゴル、華北地域など中国北部全体、華中地域、チベット自治区、新疆ウイグル自治区など広大なものとなり、唐は華中地域や華南地域をおさえるにとどまったと主張している。
韓国の圓光大学校教授が広西チワン族自治区の百済郷を調査し、「この地はかつて、百済の植民地だった」と発表した。
「朝鮮の文明化は日本よりも時期が早い」という主張
朝鮮民族から発現された文化はそれほど多くない。しかし韓国人が満州族や漢民族の文化を自民族の文化と捏造したり、日本から朝鮮半島に伝わった文化の韓国起源を捏造したり、日本での独自文化の発現と外国から受け入れた文化の変革と発展を無視することで、明治維新以前の日本にあった全ての文化・産業・社会は「中国→朝鮮→日本(朝鮮→中国→日本)」という順番で伝わったものであるという認識が生まれている。韓国のメディアでは、このような認識に基づいて「今の日本の繁栄があるのは全て朝鮮のおかげ」「そもそも韓国の文明化は中国より早い」という自民族優越主義的な論評が日常的に行われており、特に日本に対する蔑視と自民族優越主義的な視点は公教育における歴史教育でも顕著である。
在日認定
朝鮮民族の人物がある業界で活躍すると「朝鮮民族の優秀性が証明された」と盛んに喧伝し、偉業を成した日本の著名人も勝手に朝鮮民族に認定し、根拠なく在日コリアンやコリアン系の同胞だと主張する在日認定が問題となっている。
日帝残滓
好ましくない文化は日本統治時代の朝鮮に導入された劣位文化であるとする考え。
親日派
大日本帝国、日本におもねる民族的裏切り者が韓国朝鮮民族の正当性・優秀性を毀損しているという考え。
外国人に対する差別意識
朝鮮半島には小中華思想と呼ばれる攘夷思想があり、李氏朝鮮時代には大陸国家であるにもかかわらず排外的政策が採用されていた。これは、李朝末期の丙寅教獄およびそれに連なる丙寅洋擾、あるいは日本人を東夷として蔑視する政策から生じた書契問題およびそれに連なる江華島事件などにも見られ、一部に激越な排外主義の伝統が存在する。
実際には韓国は少数民族もおり、また韓国人は日本人以上に混血している民族であるという研究結果も出ているが、韓国では単一民族国家の意識があり、現在でも純血・混血という概念が根強く存在し、「韓国人は純血」という意識を持っている。それが人種差別の温床となっているとされ、国際連合の人種差別撤廃委員会(CERD)からたびたび勧告を受けている。また、「混血者」や「コシアン(韓国人と韓国以外のアジア出身者の間に生まれた子)」という呼び方も存在しており、国際結婚の夫婦の子供の11.5%がいじめを恐れて学校に通えないという調査結果がある。
韓国の放送局、SBSが韓国人の外国人忌避症と純血主義を集中取材した『SBSスペシャル…単一民族の国、あなた方の大韓民国』の制作者の調査の結果、 回答者の65.2%が「私たちの民族は単一民族」と信じていることが分かった。
韓国人が多く移住するようになったアメリカ合衆国は、ヨーロッパ系、アジア系、アフリカ系、先住民が共存しているが、韓国系アメリカ人は他の民族集団に比べ際立って黒人蔑視が激しく,ロス暴動において多くの韓国人商店が黒人による略奪・破壊に遭う原因となった。ハインズ・ウォードは韓国系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人のハーフであり、韓国やアメリカの韓国人社会での差別を訴えていた。日本統治時代の朝鮮は単一民族国家意識は薄れており、当時は華僑が55万人以上が住んでいたのだが、現在ではわずか5万人程度になり、これは単一民族主義が一因であると思われる。また、中華人民共和国に住む朝鮮族や旧ソビエト連邦構成国のロシア、カザフスタン、ウズベキスタンなどに住む高麗人は現地の言語を話し、現地の教育や風潮に影響され、朝鮮半島の影響を受けなかったため、単一民族主義は韓国・北朝鮮ほどは見られない。一部の在日韓国・朝鮮人は反日教育を受けているためか、単一民族意識が浮き彫りとなっているという指摘もある。
アウトサイダーに対する差別意識は多かれ少なかれどこの国や民族・文化圏にもあるが、韓国人は国外においても現地の住民を蔑視することがあり、フィリピンセブ市では韓国人経営の店で市長夫人を侮辱したことで、韓国人が逮捕された。その他に外国人への差別意識が反映された事例として、ロス暴動(韓国人商店が襲撃された)やコレコレアの問題が挙げられる。
また韓国政府は、日韓条約の内容を長らく秘密にしており、日韓条約の規定により支払われた日本側の賠償金をインフラ整備に流用したことを国民に隠していたので、韓国の経済発展(漢江の奇跡)について一部の世論が独力で成し遂げたと評価しており、日本などの援助で経済発展を目指した東南アジア諸国に対し経済的優越感を抱き、さらに韓国人は『優秀な単一民族』と言う自負心の強い教育を受けているために、自己優越主義が促されている。それにより、開発途上国やそこからの出稼ぎ労働者を見下して差別することがあり、途上国からの評判は悪い。韓国を訪問した外国人を対象に実施したアンケート調査によると、「韓国人は親切」と回答した欧米人は70%、一方アジア人の比率は40%であった。また、韓国人と国際結婚した途上国出身の外国人妻が近年10万人を超えているが、その半数近くがドメスティックバイオレンス(DV、家庭内暴力)被害に遭って、嫁ぎ先から逃げ出し、そのような外国人妻の保護のために建設された保護施設も存在する。さらに、韓国人は脱北者や中国朝鮮族に対しても差別意識を向けることがあり、脱北者は過酷な差別を受けており、あるアンケート調査では「70%がアメリカに亡命したい」と回答した。また、韓国人は在日韓国人を『裏切り者』として差別することがある。
在日差別
韓国本国では在日韓国人に対してパンチョッパリと言う侮辱表現がある、「チョッパリ」とは日本人に対する卑称であり「パン」とは漢字で書くと「半」でありパンチョッパリとは半分日本野郎といった意味である、これは在日韓国人が暗に仲間としてみなされていな事を意味している。また在日韓国人は母国語が離せないことや訛がキツいことを馬鹿にされることがある。ロッテを巡る騒動で創業家の重光宏之・昭夫が日本語訛の韓国語でインタビューに答えた際日本語訛を強調した字幕を表示させたり韓国語が離せないことでバッシング を受けた。また在日韓国人を始めとした在外韓国人は兵役が免除されることから(ただし1994年1月1日以降に出生した韓国人男性が、18〜37歳の間に通算3年以上韓国に滞在する場合は兵役の義務が生じる)差別されている。
「恨」の文化
現在の韓民族の思考様式のひとつで、これもまた、韓国国内における民族主義を構成している要因である。
各国における類似思想
韓民族優越主義と類似したエスノセントリズムとされる例として、中国(漢民族)の中華思想や、その中華思想を模して周辺民族を蛮族視したベトナム(キン族)などがある。
日本においては古代には畿内の側から関東・東北地方を「東夷」とし蛮地とみなす風習があった。しかし、奈良・平安時代に東北地方への入植・開拓が進むにつれ東北の人間集団の同化が進み、さらに平安後期には関東武士が台頭して、ついには東国の武士勢力が全国を掌握し武家政権(鎌倉幕府)を開くに至って東西の力関係の逆転が生じ、「あづまえびす」というような言葉は残ったものの、畿内からの一方的な東国蔑視はほぼ過去のものとなった。
自民族中心主義は世界の多くの民族に程度の差はあれ見られる傾向であるが、韓国は倭国(ないし近代日本)や中国文明、あるいは蒙古というその時期時期における有力な文化圏に対し従属的な立場に甘んじてきた歴史が長く、現在も中国・日本の圧倒的な影響力の間で独自性を主張する必要に迫られているという経緯から、中国・日本・ベトナムの民族主義とも似た面もあるが、より極端なものになっている。
日本に対する報道
韓国記者が「歴史問題で日本批判の材料があれば、強く書かねばならない。他社より穏健だと読者から抗議が来る。いったん反日の空気ができてしまうと抵抗できない。我々は縛られている」と語っているように民族主義的な面がみられる。歴史問題以外にも経済やスポーツや文化などあらゆる面で日本と比べたがり勝手にライバル扱いして韓国の民族主義を煽るような報道をしている。 
 
三民主義

 

辛亥(しんがい)革命の指導者であり、中国国民党の創立者である孫文(そんぶん/スンウェン)の唱えた政治理論。民族主義、民権主義、民生主義をあわせて三民主義という。アメリカの第16代大統領リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」にヒントを得たものだが、内容的には孫文独自のもので、衰亡の危機に瀕(ひん)した中国をいかに救うか、という「救国」の立場に発想の基礎を置いている。孫文の革命活動は、市民社会の建設を前景に置いて清(しん)朝打倒を目ざした辛亥革命の前後の時期と、この革命のあと軍閥混戦の事態が現出するなかで大衆闘争と結合した時期との、二つに分けられるが、三民主義の思想も、それに従って前後二つの時期に分けることができる。
前期の三民主義
前期の三民主義は、1890年代に孫文がヨーロッパに亡命していたころ着想したもので、その民族主義は滅満興漢(めつまんこうかん)を内容としていた。これは、国内少数民族たる満洲族の建てた王朝、清(しん)朝打倒を標榜(ひょうぼう)する点で、近代革命を志向するものではあったが、一種の種族主義の性格も有していた。民族主義が植民地民族解放闘争という内容に発展するのは、後期になってからである。民権主義は共和主義とデモクラシーで、主としてアメリカを模範としながらも、立法、司法、行政の三権に加え、考試、監察の五権分立を構想した。民生主義は、孫文が初め理想と考えた欧米社会にも貧困が存在するのを知り、それを未然に防ぐための経済政策で、平均地権をおもな内容とした。平均地権はアメリカの経済学者ヘンリー・ジョージの学説に触発され、社会発展によって生じた地価の値上がり分に課税することで貧富の差を縮小し民生安定を図るという考えである。社会発展の必須(ひっす)条件は交通の発達であるとし、孫文はこの点で鉄道振興策を重視していた。1905年、東京で結成された中国同盟会が、その政綱に駆除韃虜(くじょだつりょ)(満洲族追放)、恢復(かいふく)中華(以上が民族主義)、建立民国(民権主義)、平均地権(民生主義)の「四綱」を掲げたのは、前期のいわゆる旧三民主義の原型とされる。
後期の三民主義
ところが辛亥革命のあと、革命の成果は北洋軍閥袁世凱(えんせいがい)に奪われたが、孫文は、清朝の崩壊により民族主義が、また共和制の実現により民権主義が実現され、残るは民生主義のみと考えて、袁のもとで全国鉄路督弁の地位についた。しかし、まもなくその夢想は破れ、反袁の第二、第三革命も成功せず、孫文は日本に亡命したりして、軍閥の分立抗争の状況のもとで暗中模索を続けた。そこに1919年、五・四運動が勃発(ぼっぱつ)、帝国主義反対と封建軍閥反対とを結合させた新しい大衆運動の季節を迎えた。孫文はその転換を前にして思想を変化、発展させてゆき、自ら率いる中国国民党を改組し、共産党と提携することを決意するに至った。
1924年1月、広州で国共合作による国民党第一次全国代表大会が開かれ、そこで連ソ・容共・工農扶助の三大政策を打ち出すとともに、三民主義の連続講演を行い、後期の三民主義の新しい立場を明らかにした。この講演筆記が「三民主義」という名を冠したものとしては唯一の著作である。
ここで孫文は、民族主義とは被抑圧民族の立場から反帝闘争を通じて中国民族の自由と独立を図るものであるとし、民権主義については、従来の市民的民主主義に加えて、直接民権の構想を主張した。また、民生主義の平均地権には、耕者有其田(たがやすものそのたあり)(耕作農民に土地を)という主張を取り入れて、封建的地主制廃絶の内容をもたせ、また、平均地権と並んで節制資本、すなわち巨大な私的資本の国家管理という考えを主張した。こうして革命的内容をもつに至った三民主義は、のちに毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)らの新民主主義革命の具体的な実現目標とされ、統一戦線結成の理論的基礎ともなった。
この三民主義は、民主化、近代化を主張する被抑圧民族の側からの発言として貴重な内容をもっていると同時に、さまざまに解釈できる豊富な可能性を秘めており、その講演内容はまさに古典というべき著作である。
 
民族主義と少数民族 

 

1.民族主義
民族主義とは、民族という枠組みで国民を結束させる考え方である。ここでは真正面から民族主義の問題点について考えてみることにしたい。民族主義における問題点は非常に明白である。すなわち、少数民族の存在だ。少数民族は、民族主義国家においては(民主制によるにせよ独裁制によるにせよ)その意見が国政に反映される見込みが少ない。従って、少数民族は当然、現状に不満を抱く。そして、支配民族にとって危険な存在となる。独立運動を起こしテロに走ったり、国外勢力と結んで侵略を助長したりするからだ。存在自身が危険であるために、少数民族は常に迫害される恐れがある。迫害される恐れがある、あるいは明白に迫害されているが故に、少数民族は危険な存在となる。悪循環だ。
少数民族と支配民族の対立は、大きな戦争ではなく紛争になるのが常であるが、時にはその火種が飛び火して大きな戦争に発展することもある。簡単な例では、第一次大戦はオーストリア・ハンガリー帝国における少数民族問題が火種となった。戦争とは巨大な国家事業である。基本的に、本当に利益とならない限り国家は戦争をしないはずである。いくら戦争によって産業が潤うと言っても、戦争をするということ自身が自分の血(=国民の命)を流しながら走るに等しいのだから。まあ、自国民の死なない戦争は大歓迎かも知れないが、国家は資本主義に立脚する前に民主主義に立脚すべきだと私は思っている。従って、国家にはある程度の自制が働く。だが、民族主義という火種は、その自制のたがを外してしまうことがあるのだ。
2.少数民族問題の解決方法
少数民族問題を解決するには、以下のような方法が考えられる。
まず最初に、少数民族が存在しないような国境の線引きを行うことだ。簡単に思いつくことだが、史上これに成功した例はない。まず、難民が国境を越えて移動することを忘れてはならない。民族抑圧の他に、経済的貧困が理由となって難民が発生することもある。貧困のために同一民族のいる故国を出ることもままあるのだ。また、遊牧民族は土地に縛られることが少ないため国境を越えて遊牧する。旧スペイン領西サハラという地域は、スペインの撤退後独立しようとしたが隣国のモロッコとモーリタニアの占領を受ける。モーリタニアの撤退後、国連の調停で住民投票が行われることとなったが、国民の大半が遊牧民であり住民登録が出来ない状況になっている。また、民族が別々に固まって住んでいるとは限らない。ボスニアの例が示すように、複数民族が一つの街に混じり合って住んでいて、それでも民族としてのアイデンティティを保っていることもある。
二つ目に考えられるのは、少数民族と主要民族の融和である。この方法が最も現実的であり、何度も試みられている。だが、少数民族の主張を部分的にとはいえ容れるということは、実は民主主義の原則に反している。ここで多数の問題が出てくる。少数民族に特権を与えるということは、主要民族の不満を醸成することになるし、結局双方が完全に満足することがあり得ない以上、二民族の関係は複雑であり、危険であり、綱わたりようなものとなってしまう。従って、この方法が選ばれるのは、「他の方法が無理である、あるいは現実的ではない」から……つまり、消去法によって「一番マシ」と考えざるを得ないからである。だが、この方法が根本的に民族問題を解決したことはないのである。
三つ目に考えられるのは、少数民族の消去である。多くの独裁的な国家が試みてきた方法であり、民族という概念の希薄な時代には成功を収めてきた方法である。成功例としては、中国史上多くの異民族が漢民族に同化され、消滅した事例をあげることが出来るだろう。だが、民族という概念が生まれることによって、とくに多数による少数の抑圧は、少数民族を団結させる一つの材料となるから、この方法は不可能であると断じてよい。ただし、この方法が次に紹介する解決方法の起爆剤となることもある。
最後の解決方法は、最も効果を上げてきた解決方法である。第二次大戦後領土を200km西へシフトさせたポーランドは、その分ドイツ人を少数民族として抱えるはずだったが、手元の資料によるとポーランド国民の98.5%がポーランド人である。理由は簡単だ。その200kmの部分に住んでいたドイツ人は難民と化してドイツ本国へと逃げたのだ。つまり、最後の方法は最初の方法の全く逆だ。……国境を民族にあわせるのではなく、民族を国境にあわせるのだ。民族紛争の起こった地域では多かれ少なかれ起こる現象で、第二次大戦によって東欧諸国の少数民族問題の多くが解決されたのである。もちろん、いうまでもないことだが、この方法は難民の発生を前提としているという点で粗悪で暴力的である。だが、これが一番効果的な方法であったのも事実である。
3.結局のところ
前項であげた4つの方法は、平和的だが根本的な解決にならないものから、暴力的だが解決できるものへと並べてある。結局のところどうすればいいのかといわれると、私は答えに窮するのである。国境云々は夢物語に等しいから除くとしても、少数民族の消去や難民による少数民族整理は人道的見地から認められない。だが、根本的な解決を導き出したことのない二つ目の方法も、完全な解決を生めないという点では不適当な解答であろう。結局のところ、今の段階ではこの解答が「まだマシ」としか言えない。だがそれは、いつの日か民族主義が国家形成の主流でなくなるまで問題の先送りをしているだけなのかも知れないのだ。  
 

 

 
愛国主義 [patriotism] 

 

自分の国を愛し、自国のためにつくそうとする思想や運動。パトリオティズム(patriotism)。
…1781年にジョン・ウィザスプーンが〈アメリカ英語〉の意味で用いたのがこの言葉の最初とされ、現在までその意味を保ってきているが、1797年、T.ジェファソンは合衆国の愛国主義の意味でこれを用い、世間的にはこの用法がひろまっている。 新世界に植民地を建設したピューリタンは、ヨーロッパを腐敗の地、アメリカを真のキリスト教の世界たるべき地と見なした。…
パトリオティズム(patriotism) / 愛国心。愛国主義。転じて、愛郷心、愛社精神。  
 
愛国主義

 

愛国主義(patriotism)とは、もともとは郷土愛(patria、家族:出自集団の隠喩)から生まれた言葉「愛国心」にほかならない。ナショナリズムは、ある特定の共同体(コミュニティ)およびそのメンバー(ネーション、nation)への献身をしばしば意味するからである。単一ネーションからなる国家形態、あるいは、多数の民族集団からなっている多様な集団をひとつの国民(ネーション)としてまとめる/まとめようとする国家運営形態も共に国民国家(ネーション・ステート、nationstate)と呼ぶことができる。
愛国心は今日では、国民と国家への愛着のうち後者への、排外主義的な国家(state)への執着心をこのように呼ぶことができる。愛国主義の特徴は、親族の出自原理を国家のシンボルと結びつける信条で支えられている。国家のシンボルは、憲法であったり、国旗であったり、国歌であるが、それぞれがフェティシズム的対象化されることが多い。
愛国主義は、多くは郷土の永遠性を願うために、死を賭けた結果として審美化されることが多いが、そのほとんどが、他者(とりわけ同胞の他者)を犠牲にすることを前提にしている。
愛国主義が、郷土愛に根ざす普遍的な心性であるという説明には疑問をいだく人が多く、市民社会、近代社会、帝国主義などの成立過程において、しばしば過激なタイプをとることについて多くの人たちは合意している。ウィリアム・G・サムナーによると、愛国主義は「近代国家に付属するひとつの感情。…出生や他の集団的結束よって所属する公的団体への忠誠である」と述べる。
日本語の用法では、ナショナリストも愛国主義者、民主主義を否定する政治的偏向すなわち「右翼」と呼ばれることがあるが、これは正確な理解とは言えない。国民国家形態を維持するためには、どのような民主主義体制の政治システムも、ナショナリズムやパトリオティズム(愛国主義)を国歌や国旗、あるいはスポーツ選手のナショナルチームどうしの対戦など、それらを国民統合の象徴や文化装置として利用しているからである。
西洋の19世紀はナショナリズムやパトリオティズムが生まれ、また今日における国民国家の形態形成に関するさまざま歴史(あるいは社会実験)があった(おこなわれた)。そのうち攻撃的なナショナリズムやパトリオティズムを、ジンゴイズムやショービニズムと呼ぶことがある。
ジンゴイズム(jingoism)とは、もともとは奇術芸人のかけ声「ジンゴー(jingo!)」に由来するが、帝国どうしの戦いであるロシアーオスマントルコ戦争(露土戦争、1877-1878)期に英国で流行した歌の中にbyjingo(とんでもねぇ〜!)という文言が流行った。ビーコンズフィールド伯ことベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881;英国首相在任期は1868、1874-1880)―ちなみに彼は歴代唯一の改宗ユダヤ人首相―は、保守党党首として保護貿易や対外強硬政策に代表される覇権政治をとった。ディズレーリの中近東政策を支持する、些か誇大妄想的な政治思想を、当時の流行語に絡み合わせてジンゴイズムと呼ぶようになったと思われる。
他方、ショービニズム(chauvinism)は、コニャル兄弟の戯曲"LaCocardeTricolore"の中に出てくるNicholasChauvinというナポレオンを神と崇める兵士のから由来する、狂信的な個人崇拝や拝外主義あるいは外国人嫌悪(xenophobia)のことをさす。
19世紀のヨーロッパでは、宗教の影響力が低下し、社会的統合力を失っていた。他方で、前世紀から引き継いだ革命や社会変革の思潮が、民主化した市民生活の中に浸透しつつようになり、出版や新聞などのメディアの普及により、市井の人々は頻繁に集会をおこなったり、「政治」に関する議論ができるようになった。(→クリミア戦争におけるナイチンゲールの活躍により戦争への国威発揚を成し遂げられ、また彼女が[戦争システムと補完的な]病院看護婦と養成制度の確立のために英国政治を利用したのは著名な話である:ナイチンゲールの図像学)。このようななかで、愛国主義のさまざまな多様性が生まれてきたのはまちがいがないだろう。 
 
ナショナリズムと愛国主義

 

ナショナリズム (nationalism)
人々のあつまりの基本的な単位を国家とし、それの構成員たる国民=ネイション(nation)を維持・発展させていこうとする政治信条のこと。世界の多くの国家形態は、国民(nation)の主権の存在を認めているので、国家が国民からなりたっているという意味で国民国家(nationstate)と読んでいる。
我が国(=日本国)では、国民の単位を長いあいだ(1920年代以降今日まで)「大和民族」「日本民族」と言い習わしてきたために、「民族主義(みんぞくしゅぎ)」と言われることがあるが、これはナショナリズムのことである。(→日本語の「民族」をチェックする)
ナショナリストは、(我が国では)「右翼で、頭の構造が単純な奴」というステレオタイプがあるが、これは我が国の特殊事情に由来するし、史実を必ず反映するわけではない。また、歴史的にも社会的にも左翼のインテリがナショナリストであった国民国家は数多く存在する。
つまり、国民(ネイション)と国家(ステーツ)の関係をどのようにいちづけるのかについて多様な広がりをもつために、ナショナリズムの信条にもまた多様性があり、ナショナリストが過激なのか穏健なのかは、その国の社会政治状況やまた「国民概念」が歴史的にどのように形成されてきたのか、ということに影響する。
愛国主義 (patriotism)
もともとは郷土愛(patria、家族:出自集団の隠喩)から生まれた言葉だが、今日では、排外主義的なナショナリストをこのように呼ぶ。愛国主義の特徴は、親族の出自原理を国家のシンボルと結びつける信条で支えられている。国家のシンボルは、憲法であったり、国旗であったり、国歌であるが、それぞれがフェティシズム的対象化されることが多い。
愛国主義は、多くは郷土の永遠性を願うために、死を賭けた結果として審美化されることが多いが、そのほとんどが、他者を犠牲にすることを前提にしている。
愛国主義が、郷土愛に根ざす普遍的な心性であるという説明には疑問をいだく人が多く、市民社会、近代社会、帝国主義などの成立過程において、しばしば過激なタイプをとることについて多くの人たちは合意している。ウィリアム・G・サムナーによると、愛国主義は「近代国家に付属するひとつの感情。…出生や他の集団的結束よって所属する公的団体への忠誠である」と述べる。
しかし、すべての愛国者が過激な態度をとるというのも、反愛国的信条をもつ人の偏見のひとつである。愛国が、国民よりも国家を優先するという思想は危険であるが、近代の国民国家は、多かれ少なかれ、公教育を通して、国歌や国旗への国民的忠誠を誓わせるような教育をおこなっている。それらは、かならずしも強制的なものではなく、愛国をめぐる具体的な社会状況――愛国的信条は国内外の「敵」(多くの場合は隣国)の印象操作によって強度が決まりやすい――によって国民の間に自発的に形成されることがある。
ただし、このことにも一定の留保が必要である。日本における国歌や国旗の強制への抵抗は、1945年の日本敗戦までの帝国主義時代において、数多くの思想統制など強要されてきた側面がつよい。とりわけ国歌斉唱については、国歌としての「国民的合意がない」とか「天皇家の反映を謳った歌詞内容は国民主権の国歌にふさわしくない」という、合意形成が失敗してきたという理由で説明できるものである。
また、愛国主義の対極であると考えられる、国家権力の存在を否定するアナキズム(無政府主義)思想からは、国家崇拝の象徴物である国歌や国旗は、そもそも受け入れられないものになる。愛国主義者からみると、国歌や国旗を崇敬できない人たちは、無政府主義者を含む反愛国主義者だと安直に決めつけることがしばしばみられるが、その人たちが、別種の愛国者である可能性もあることは十分留意しなければならない。 
 
愛国心・愛国主義

 

国民が自らが育った、あるいは所属する社会共同体や政治共同体などに対して愛着ないし忠誠を抱く思想、心情である。このような思想心情を他人に比べ強く持つとされる、或いはそのように自負する人達を愛国者と称する。
一口に「愛国心」といっても、話者によってその意味するところには大きな幅がある。愛国心の対象である「国」を社会共同体と政治共同体とに切り分けて考えると分かりやすい。
○ 社会共同体としての「国」に対する愛着は「愛郷心」(あいきょうしん)と言い換えることが出来る。
○ 政治共同体としての「国」に対する愛着は「忠誠心」(loyalty)と言い換えることが出来る。
愛国心によって表出する態度・言動の程度は様々で、ノスタルジーから民族主義や国粋主義まで幅広い。よってこれらを十把一絡げに「愛国心」と表現することもできるため、その内容は往々にして不明確である。また、愛国心を訴える事は政権側からのみでなく、反政府側からも行われることである。反体制的な愛国運動は、政権側から弾圧されることがしばしばである。
○ 政府側の期待する「愛国心」は現政府に対する「忠誠心」と解釈できる。
○ 反政府側の訴える「愛国心」は革命後の新政府に対する「忠誠心」、もしくは時の政府に靡かない「愛郷心」と解釈できる。
また、愛国心は大衆を煽動する道具とされてきた一面もある。幸徳秋水は「帝国主義はいわゆる愛国主義を経となし、いわゆる軍国主義を緯となして、もって織り成せるの政策にあらずや」と著書に記している(幸徳『帝国主義』)。
平和主義者には“愛国心こそが戦争を起す最大の要因である”と説いた者もいるが、反戦運動においては、戦争を若者を殺し国を危うくするものとし、愛国を掲げて戦争反対を訴える団体も多い。
愛国心教育
「愛国心」は概ね国家にとって望ましい感情と見なされているが、国民が政府を「売国的」とみなした場合などには反政府運動につながることもあり、為政者が国民の愛国心を自らに都合のよい方向に導くため愛国心教育を行う場合がある。為政者が「愛国心」を危険視し排除しようという教育は、他国による被占領地域において顕著に見られる。
近代では占領下にない独立国では、現代では「傀儡国家」と見なされることの多いヴィシー・フランスや満州国を含め、愛国心を育てる教育を行った国がほとんどである。この点で、「愛国心」高揚を意識的に避けてきた第二次世界大戦後の日本、西ドイツ及び東ドイツの教育は、少数派であったといってよい。その理由として、三国とも「愛国心」高揚・民族主義的高揚の果てに連合国(当初ドイツはイギリス、また日本は中華民国)に戦争を仕掛け、そして完膚なきまでに叩きのめされ敗けた(松岡洋右は逆に「全体主義は民主主義に勝利するであろう」と論じていた)ことからこれらの思想がタブー視されたことなどが挙げられる。東ドイツの場合は敗戦に加えて、ソビエト連邦の影響下にあった衛星国であることが理由として挙げられている(ただし、同様にソ連の影響下にあったチェコスロバキア・ポーランドなどのワルシャワ条約機構加盟諸国では、ナショナリズムが反ソ連感情につながることが警戒されていたものの、愛国心が必ずしもタブー視されていたわけではない。プラハの春やハンガリー動乱を参照)。一方、ドイツ人国家として愛国心の高揚する中ドイツに併合された(アンシュルス)経緯があるオーストリアでは、自国とドイツを区別し、オーストリアをドイツに戦争協力を強いられた「被害者」と位置づけたため、このようなタブーはなかった(ただし、ドイツとの再統一を訴えるドイツ民族主義はタブー視されていた)。 また、ナチス・ドイツの国家元帥であったヘルマン・ゲーリングは、戦後のニュルンベルク裁判に際してグスタフ・ギルバート博士との対話で、「国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。」「国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。」と語っている。
戦前・戦中の日本における愛国心教育
教育勅語、皇民化教育をはじめとして、徹底的な国家に対する愛国(忠誠)心教育が実施された。政府が世論を掌握するに効果的であった一方、精神論偏重の弊害を生んだとも言われる。昭和天皇も戦後、皇太子(現天皇・明仁)に宛てた手紙で、敗因を「軍部が精神に重きを置き過ぎ、国力の差を軽視した」と述べて批判している。
戦後の日本における愛国心教育
第二次世界大戦敗戦後の日本では、日本が戦争を起こすに至ったのは盲目的な愛国教育によるところが大きいとの認識より、日本教職員組合などは“教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな”をスローガンに掲げ、「お国のために」を禁忌視した。例えば、教育現場で公的なものとして日の丸掲揚・君が代斉唱を行ない、また児童生徒に強制することには強く反対した。このように、愛国心(忠誠心)教育は一部の学校を除いて実施されてこなかった(君が代に対する意見の対立については、国旗及び国歌に関する法律を参照)。
中国における愛国心教育
1994年に中国共産党の中央宣伝部が「愛国主義教育実施要綱」を起草し、愛国心教育が制度化されている。祖国を愛することが国民の義務とされ、学校では国旗の掲揚は毎日行い、小中高校生は全員国歌が歌えなければならないとされている。 
 
中国で「愛国主義的行動」が愚か者呼ばわりされ始めた 2016/8

 

「蠢貨」という言葉がある。日本語に訳せば「愚か者」という意味だが、南シナ海問題をめぐる一連の騒動が起こった際にネット上でよくこの言葉が見られた。ここでいう「蠢貨」とは、「日本製品・アメリカ製品ボイコット」を声高に叫ぶ「愛国者」のことを指す。
「愛国」という言葉は、領土問題など「核心的利益」に触れる問題が起きたときによく使われ、ネット上にその手のコメントが流れる。これまで、愛国は「正義の行動」と称えられ、多くの人々に広く支持された。
なぜか。それには「歴史の記憶」がある。中国共産党の公式見解によると、中国はアヘン戦争以来、列強に国土を分割され、半封建・半植民地国家になったという。このことは古代から世界の大国として君臨してきた中国にとっては大きな屈辱だった。ゆえに、習政権は「中華民族の復興」を目指す「中国の夢」を説いているのである。
だが、「愛国主義的行動」は以前のように「正義の行動」として好意的に見られてはない。
「愛国」を論じる言論や行為の多くは、瞬く間に人々の支持を失って笑いの的となり、「愚か者」の烙印を押されてしまうのである。
この「愚か者」は、ネット民だけでなく『人民日報』や新華社など公式メディアにまで批判されることになり、ついには「愛国とは蠢貨(愚か者)を抑えることだ」という言葉がネット上で流行語となった。
そこで中国のネット上で流れた主な「愛国的」文章を挙げ、ネット民がどのような反応をしたか、見ていきたい。
「中国は一番だ!」という愛国的コメントにネット民は薄い反応
南シナ海問題をめぐる仲裁裁判所の裁定が明らかになった翌日の7月13日にネット上の有名人である作家の咪蒙氏は「永遠に国を愛し、永遠に熱い涙を目に浮かべる」と題する文章を発表した。この文章の内容を簡単に紹介しよう。
まず「最も良い愛国主義教育は海外へ行くことである」とし、外国の食べ物はたまに食べればおいしいと思うが、一定の期間が過ぎたらそうではなくなり、自国のものが食べたくなり、改めて自国の料理の良さが分かるのだと、自身の経験を交えながら述べている。
次に、外国では買い物は不便だという。例えば、外国ではコンビニが密集しておらず、遠くにまで買いに行かなければならなくて不便だが、中国の大都市ではどこでもコンビニがあり、加えて中国ではネット上で何でも買えるのでとても便利だとも述べている。
また、中国は夜中でも開いている屋台があり、夜型人間も退屈しないので、夜中に街を出歩いても楽しいともいう。
さらに、現在、中国の国際的地位が上がり、多くの国に認められているので、「私は中国人だ」と言っても、相手の態度は悪くならないと述べている。ここでは南シナ海問題についても言及されているが、咪氏によると、中国は大きな安心感を与えてくれており、フィリピンが騒いだとしても、それは「悪ガキ」が騒いでいるのであり、その「悪ガキ」が玄関の前で「飴をくれないと、嫌がらせするぞ」と言っても、「お父さんは忙しいんだ。あっちへ行ってなさい」と言えるのだという。
以上が咪蒙氏の文章の主な内容だが、それに貫かれている考えは「やっぱり中国はいいよね」のレベルであり、偏狭なナショナリズムを煽るという類のものではなく、確固たる政治的信条は見られない。咪蒙氏は恐らく「愛国的」ネット民の受けを狙ったのだろう。
では、ネット民の反応はどうだったか。「よく言ってくれた。(この文章は)中国人の心の声を伝えている」といった「愛国的な」コメントももちろんあったが、「頭の良くない社会の底辺のやつらが愛国を語るのを好むのだ」、「愛国は正しいことだが、口だけではいけない。国と社会に貢献しなければならない」といった冷めたコメントや、「幼稚」「何の内容もない」、「彼女はいやしい人間だ。他の人が国を罵っているときは一緒になって罵り、国を愛していると言えば、一緒になってそう言う」といった罵りのコメントも見られた。
この文章は総じて作者の意図に反して、ネット民はおろか、自分のファンの支持も得られなかった。ネット上では、この文章は「自分の知名度をさらに上げるために受けを狙って書いたものだ」と、書いた動機が純粋な愛国心から来たものではないと指摘する声もあった。このことは、現在の中国人が一方的に愛国を語る言論に対し、冷めた目で見ていることを示している。
「10億人を犠牲にするなら、お前が先に死ね!」 過激な「開戦論」にネット怒り心頭!
領土問題が起こると偏狭なナショナリズムが頭をもたげるため、一部の過激な者は「中日両国は戦わなければならない」と「開戦論」を主張する。今回の一連の「愛国」に関する言論にも「開戦論」を前提とした考えがネット上に発表された。
著名な歴史教師である紀連海氏は7月14日、微博(ウェイボー、中国版ツイッター)で、南シナ海問題について「南中国海仲裁案は一枚の紙くずだ。(もしアメリカが中国の領域に入ってくるなら)一戦を惜しんではならない。中国は10億人が犠牲になったとしても世界第二の人口大国であり続けることができる。アメリカは3億人死んだら、あとどのくらい残るのか?今の時代は大国間の力比べなのだ」と発言した。
これがネット上に流れるや、紀氏の微博のコメント欄には、多くのコメントが寄せられた。それは三つの種類に分かれる。
第一に、典型的な愛国主義的なコメントである。
「私は祖国を愛している。国の滅亡は、国民に責任があるので、一切を惜しむことなく国を守らなければならない」「西側の国のやつらは平和主義の看板を掲げて、いたるところで挑発を繰り返している。遅かれ早かれ報いを受けることになるだろう」
この手のコメントはアメリカを批判し、「私は中央を支持する」といった中国共産党と中国政府への支持を表明する文字通り「愛国的・愛党的」コメントで、かつての反帝国主義運動のスローガンと大差ない。紀氏の発言に対しても「(戦争になったら)自分は後方支援をする」など好意的であった。
第二に、罵りのコメントである。
「お前が先に死ね」「あんたは南中国海戦争に行くんだな」「14億人死んだら、亡国ではないのか」「低レベルな話だ」「紀連海は人間のクズだ」
上に挙げた例のように、批判は「10億人犠牲」に集中している。10億人が犠牲になるという紀氏の発言が自分たちを見下しているのではとネット民はとったようだ。
第三に、行き過ぎた考えを穏やかに批判する声である。
「10億というのはどんな概念なのか?中国人の命は価値がないということなのか。南中国海、東中国海の争いは利益をめぐるものであり、目的は利益だ。多くの手段によって目的は達せられ、今の中国はとりうる手段が多い」「盲目的な愛国は国に害をもたらす。人の気持ちが分からず、人命を軽視する学者に愛国を語る資格があるのか?愛国には戦争が必要で、10億人の命と引き換えにするというのか。戦争は特別な状況下で起こった虐殺である」
この手のコメントは感情的に罵るのではなく、上の例のように割合理性的に相手の発言を批判する。
紀氏の発言に対するコメントは批判的なものが愛国的なそれを上回り、とくに紀氏を「血に飢えたやつ」などと罵る声が多かった。
紀氏の「10億人犠牲論」にメディアも反論した。香港のフェニックステレビ系のウェブメディア「鳳凰網」は微信上で「『10億人犠牲論』は愛国の名を借りた非理性的な考えだ」と題した記事を掲載し、「10億の命と南中国海仲裁案という『紙くず』またはある国の利益と、一体どちらが重要なのか」と人命を軽視する紀氏の発言を批判した。さらに、「国民の生命は最も重要な国家利益」として、国益を無視した愛国を戒めた。
また、大手ポータルサイト「捜孤」が発表した「愛国は内部分裂を引き起こし、内部の者への敵意を作りだすものではない」と題した記事は、「(愛国者が)盲目的愛国というモノサシで同胞をランク付けすれば、同胞を犠牲にしてもいい『10億人』、打倒されてもいい非愛国の人々に分けてしまう」と述べて、「10億人犠牲論」に反論した。この反論は紀氏を罵るコメントを残したネット民の立場に立ったものといえよう。
記事はさらに「こうしたやり方は愛国の名を借りて、残酷で人々を恐怖させる雰囲気を醸し出し、社会を不安に陥れることになり、それはすでに現在の社会の不安定要因になっている」と、公共の場となっているネット空間での不用意な発言は社会不安につながると警告している。
紀氏の発言は必ずしも開戦を呼びかけたものではなく、怒りの感情をぶつけたレベルのもので、「酒の席での与太話」のようなものである。だが、ネット上に発表されてしまったために、「10億人犠牲論」がクローズアップされすぎて、ネット民はおろかメディアにも批判されることになったのである。
「外国製品ボイコット」はいまや「英雄的行為」ではなく「違法行為」に
次に「外国製品ボイコット」運動の変化について触れよう。
「外国製品ボイコット」は中国人の「歴史の記憶」から来る行為である。「戦争と革命の時代」の中国は帝国主義列強に侵略され、搾取されていた。この現状を変えるのは革命的行動であって、「帝国主義反対」が中国革命のスローガンのひとつであった。「外国製品ボイコット」は「反帝国主義」運動の一環で、「英雄的行為」だったわけだ。
そのため、中国の「核心的利益」に触れる問題が起こると「○○の商品をボイコットせよ」というスローガンを叫ぶ者が出てくる。最近では、南シナ海問題の影響を受けてその手のスローガンが見られた。
例えば、ネット上で、「アップル社製の携帯電話で『撃沈』という文字を入力すると、入力システムによってその二文字の後ろに自動的に『中国』という文字が加えられる」という情報が流れ、これをアメリカの陰謀だとして「中国人はアップル社製の携帯電話を買うな、使うな」と呼びかける動きがあった。だが、これはすぐに検証され、一部の者が捏造した話だということがわかった。
新華社もこうした動きを看過できず、「自らを痛めつけるのは愛国ではない」と題した記事を発表し、「もし我々が誤った思考から抜け出すことができたなら、より理性的行動をとり、愛国の理念を行動に変えて、自分の持ち場でしっかりと仕事をし、地に足をつけて国の発展のために力の限り貢献する、これこそが現実的かつ効果的な愛国である」と述べた。新華社の記事は、誤った思考を脱して理性的愛国を貫き、愛国が偏狭な民族主義に利用されないよう警戒するよう呼びかけた。
今回の「○○の製品をボイコット」運動の盛り上がりを示す典型例は「KFC(ケンタッキーフライドチキン)ボイコット」事件である。
7月17日、河北省楽亭県のKFCの入口に、多くの人たちが「君たちが食べているのはアメリカのKFC、つぶしているのは祖先の顔」と書かれた横断幕をもって押しかけ、店を取り囲み、スローガンを叫んで飲食客の入店を邪魔した映像がネット上に流れた。これに対し、『人民日報』は翌日、評論記事を掲載し、現政権が堅持している「依法治国(法に基づいて国を治める)」の観点からこうした行為を批判し、次のように述べている。
「現在の世界では、法理こそが最も説得力のある『共通の言語』であり、現在の中国では、法治こそが民族の復興を根本的に保障するものである。法の精神で法の濫用に反対してこそ、我々は世界で尊敬され支持を得るのだ。同様に、法律を尊重し、他人の合法的権利を尊重すれば、愛国の熱情は「わけの分からない愛」とはなりえないし、盲目的な衝動と過激な行動を引き起こし、同胞間の争いに発展することはなくなるだろう」
かつての「外国製品ボイコット」は愛国主義者の「英雄的行動」であり、国を愛するがゆえの蛮行には罪はない、すなわち「愛国無罪」とされた。だが、現在は「戦争と革命の時代」ではなく、国家建設を重視する時代であり、革命的時代の論理に基づく過激な行動は「チンピラ」となってしまう。現在、習政権は社会秩序の安定を重視しており、こうした現象は明らかに社会不安を招く恐れがあるため、『人民日報』はそれを戒める記事を発表したのだろう。
本当の「愛国的行為」は「自分の仕事にしっかり取り組む」こと
「KFCボイコット」事件に対し最も辛口の評論を発表したのは、新聞記者の李暁鵬氏だった。李氏は微信(WeChat)の個人アカウント「鵬看」に「愛国を行うにはまず蠢貨を抑えることが必要だ」との記事を投稿し、KFCの入口で横断幕を持って立っている者は蠢貨(愚か者)であり、法律違反の疑いがあるとストレートに述べた。
李氏の投稿記事は、「愛国はいろいろな商品をボイコットすることではなく、何よりもまず蠢貨を抑えるようになる必要がある。君が中国で、中国は君だ。君が蠢貨なら、中国は愚か者となるし、君がバカなら、中国は人々に軽視されるだろう。さもなければ、君は愛国の二文字をぶち壊しているのだ」と主張している。さらに、「愛国の大きな旗は、蔡洋(2012年9月28日に西安の反日デモで日本車に乗っていた人に重傷を負わせて懲役10年の判決を受けた青年)のようなチンピラ無産者を守るものになってしまった」と述べた。この記事は微信上に広く拡散した。
7月18日に、慧超氏がアカウント「思維補丁」に投稿した「日本製品・アメリカ製品・フィリピン製品ボイコットよりも、蠢貨を抑えるほうがもっと重要だ」と題する記事もネット上に広がった。ここでは望ましい「愛国」についてこう述べている。
「もし君が本当にこの国を愛しているのなら、一個人ができる最も好ましい愛国的行為、つまり自分のなすべきことにしっかり取り組むことだ。学生は勉強に励み、職員・労働者は仕事に励み、軍人は訓練に励み、科学研究従事者は一生懸命研究して他国の技術に一日も早く追いつき追い越せるよう努め、公務員は公正廉潔を旨をして人民の仕事と生活がさらに良くなるよう取り組む、これこそが最も好ましい『愛国的行為』である」
さらに7月下旬、「愚蠢(愚か者)」「蠢貨」という二つの言葉が微信の「友達の輪」の中で広く、そして勢いよく拡散した。これまでの「理をもって堂々とした態度で、強い調子で愛国の情を訴える」という「愛国」はほとんど見られなくなった。
微博ユーザーの「@湖海散人」は中国人の「愛国的行動」の変化について、「その数は前回の『日本製品ボイコット運動』よりもはるかに少ない。しかも一部のボイコットを叫ぶスローガンは、実は『突っ込みを入れる』くらいのもので、さらに言えば、自分自身で楽しむもの、誰かとからかい合うものになっている」と述べ、「事件そのものが『娯楽化』している」と分析している。
同氏が指摘した「娯楽化」は、中国人の考え方が変わったことを示している。ここまで紹介したネット民のコメントも、強い調子のものもあったが、それ自体何かを目指しているものではない。ただ「突っ込み」を入れて楽しんでいるレベルで、同調者の団結を目指しているとは思えない。彼らの関心は天下国家よりも、自分の生活に向いており、精神生活を豊かにするための手段として「突っ込み」を楽しんでいるのだろう。ただ、ネット空間で悪質な言論もあり、ユーザーの「公共意識」の向上は今後の課題である。
以上、中国の「愛国」に関する考えの変化について見てきたが、どうしてそのような変が起こったのだろうか。筆者は三つの原因があると考える。
第一に、中国人の価値観の「多様化」が挙げられる。毛沢東時代は伝統的な社会主義理念が人々の共通の価値観だったが、改革開放以降は、以前のように政府が外国の情報をシャットアウトするのが難しくなり、人々はさまざまな情報に接することがきるようになった。それと同時に欧米の価値観が入ってきて、伝統的な社会主義的理念が絶対的価値観ではなくなり、人々の価値観も多様化していった。
第二に、「主義・主張」よりも実際の生活を大切にするという中国人の態度である。中国が半植民地・半封建国状態にあったとき、開明的な人たちは「中国を改造」し、人々に幸福をもたらすものとして社会主義を自らの理念として革命運動を繰り広げ、また革命に目覚めた学生も外国製品ボイコットやデモ行進などで列強の侵略行為に抗議した。
だが、現在、中国の人々は「主義・主張」にはまったく興味がなく、自分の生活がよければそれでいいと考えている。筆者と交流のある中国人も「社会主義とか考えたことない。自分の生活をよくしてくれるなら何でもいい」と考えている。だから、ラディカルな愛国主義運動には興味を示さず、「自分のやるべきことをしっかりやる。それが愛国だ」というのである。
第三に、行き過ぎた「愛国的行動」は中国の国家イメージを損なう恐れがあるからである。現在中国は改革開放前とは違い、世界の政治・経済で存在感を増してきており、自己中心的なふるまいをするとたちまち世界各国から批判される。南シナ海問題、尖閣諸島問題で中国の対応が各国から注目され、様々な議論がなされるのも中国の国力が著しく向上した証拠で、大国にふさわしい行動が求められている。そのため、国家イメージを保つことは中国にとって重要なことである。
例えば、ここ数年、海外に旅行した中国人観光客のマナーが中国でも問題になっているが、マナーの悪い一部観光客の行動が中国の国家イメージを傷つけるためである。行き過ぎた「愛国的行動」も中国の国家イメージに悪影響を及ぼす可能性があるため、公的メディアも看過できなくなったのである。
現在、中国は「歴史の記憶」は残っているものの、偏狭なナショナリズムを抑え、理性的に行動するようになっている。中国政府の規制も多少は関係しているだろうが、人々の資質が向上していることも確かである。中国はゆっくりではあるが、変わっている。 
 
中国人から見た中国のおかしな愛国主義教育 2016/7

 

“南シナ海バトル”と一般市民の日常生活
夏休みに入り、子どもと一緒に北京を出て張家口市の北にある張北県に行ってみた。200キロくらい車を走らせたらもう大草原に出ている。北京から草原は意外に近かった。
張北県はモンゴル高原の入り口に当たる丘陵地であり、景色は美しい。草原天路に近づくと「愛国主義教育基地」の小さな看板があった。ここはとくに歴史上、大きな戦争があったわけではないから、美しい景色を見て国を愛そうと呼びかけるものだろう。
国際社会は長期にわたり、中国のナショナリズムとその外交政策を結びつけ、国の外交政策はナショナリズムの影響を受けて展開されていると認識してきた。日本の報道を読むと、とくにそうした関連の記述が多い。日本は、中日関係の悪化を「1990年代に中国政府が推進した愛国主義教育運動に帰する」と見なしているきらいがある。
故宮博物院や頤和園などに行くと、確かに英仏などによる略奪、または焼き払いについて記録した小さな看板をよく見かける。盧溝橋などの特別なところに行けば、日本との関連も記録されている。愛国主義教育といえば、まずは英仏などの侵略によって中国が受けた苦難から始まる。
確かに、中国政府は1989年における「六四事件(6月4日の天安門事件)」の影響を受けて長期にわたる愛国主義教育運動を推進し、若者世代のなかに国家アイデンティティを確立してきた。当時の指導者の判断は、「若者世代の過激な政治運動への参加は西欧思想の過度の思想の摂取による」というものだった。この愛国主義教育運動はかなりのレベルで、異なる形式を通じて今日まで続いている。ここ数年、テレビで抗日戦争を題材にしたドラマが尽きることなく繰り返し放映されていることにも、その影響を見てとることができよう。
ただし、愛国主義教育といえば歴史ばかり注目されているわけではなく、郷土に対する愛もかなり強調されている。
また歴史関連の愛国主義教育運動が成功しているとは言い難い。中国人の日本に対するアイデンティティを例にとってみれば、ここ数年来、中国人は遠路を厭わず日本に出かけ、温水シャワー付きの便座、炊飯器、風邪薬、避妊具などの日本製品を「爆買い」し、その勢いは各国を驚かせた。欧米諸国の商品に対しても同様である。
南シナ海の領有権をめぐって日本とバトルしている間にも、普通の中国市民は、日本製品を買ったり、日本へ買い物ツアーに出かけたりしている。7月12日、オランダ・ハーグの仲裁裁判所が、中国が南シナ海で主張する領有権を否定する判断を下したニュースについても、官製メディアは日本の大手新聞とほぼ大きく取り扱っていたが、市民の読んでいるWeChat(微信)ニュースにはほぼ「南」の字すらなく、いつものようにロンドン、東京の巷で流行っているファッションなどを紹介していた。
中国からはハリウッドのような歴史大作映画は生まれ得ない
中国で行われている愛国主義教育は、郷土の美しい景色よりも相当の程度、政権与党のイデオロギー宣伝に偏ってきた。中国において政権与党のイデオロギーは愛国主義の一部であり、マルクス主義などを含むそれを宣伝しなければならない。
しかし、中国共産党のイデオロギーが愛国主義のすべてというわけでもなく、その意味では愛国主義教育が備えるべき幅広い内容をすべて満たすことはできない。さらに、党のイデオロギーは一種のエリート意識であり、市井の民衆がそれをこぞって理解し、受け入れられるというわけでもない。
愛国主義教育がいったん中国共産党化すると、歴史虚無主義(革命の領袖、民族の英雄、烈士、先賢を否定し、近代以来の反帝国主義、反封建主義闘争を否定し、中国共産党が指導した人民革命と社会主義革命、建設の成果を否定し、最終的に中国共産党の指導と社会主義制度を否定すること)を避けて通ることはできない。
たとえばそれは、「抗日戦争期における中国国民党と中国共産党の関係で、どちらが主導権をにぎっていたのか」の問題などにあらわれている。中国共産党は、国民党の抗日については多くの場合、あまり認めていなかった。30年前の教育では国民党はまったく抗日に参加してなかったとまで学校では教えていた。
近年になってようやく国民党の抗日については否定しなくなったが、いわゆる「抗日ドラマ」にしてもそのような認識の下に作られてきたわけだから、思想性や厳粛性がまったくなく、エロまで含む低俗な娯楽に満ちた内容である。そんなテレビドラマが多く粗製乱造されてきた。
また、多くの愛国主義的な読物は読者に一面的な価値観だけを注入するあまり、一般論や安っぽい道徳教義に終始し、いかなる読後感も残らない。物事に対する理性的な思考がなければ、それに対する長期的な愛は生成されない。このような背景の中では、中国人は歴史映画を、ハリウッドのように思想性や厳粛性、娯楽性を融合した大作として作ることができるはずはない。
一方的な注入方式の教育が孕むもうひとつの結果は、異なる意見を受け入れられず、押しつけだけで反省がなく、拒絶もできないということである。このような方式で受け入れた思想には粘り強さがなく、外部条件が変化すればその思想にはすぐに大きな変化が生じ、愛国からその真逆に走ってしまう。このため、ヨーロッパと日本に対する非理性的な批判は最終的にはヨーロッパ、日本に対する盲目的な「愛」を引き起こし、同じように非理性的で盲目的な愛国主義宣伝は往々にして人々の反感を買うことになる。
虚無主義の出口は物神主義であり、物質に対する貪欲であろう。
愛国主義を語るエリート層は海外へ そして貧者だけが愛国主義者に
中国では愛国主義を語る人は常に、共産党員や政府、学校、企業、社会組織の中のエリートたちである。一方、彼らがみずからの子弟や財産をせっせと海外に移している事実を庶民は見抜いている。このような党や政府のエリートは莫大な数にのぼるが、これは世界でも稀にみる現象である。
世界のいたるところで、中産階級は愛国主義の中心勢力になっているが、中国はそうではない。貧者のみが愛国と言われている。これは多少誇張されてはいるが、多くの事実を反映しているのもまた事実である。その理由として、貧者はそこから逃げることができず、一生をこの国のなかで生活せざるを得ないが、中産階級はいつでもこの国を離れることができるということがあるからだろう。
しかし、これは悲しい現実でもある。エリート層が愛国ではなく、貧者のみが愛国なら、この国は永遠に強大な国家になることができないからだ。
シンガポール国立大学東南アジア研究所の鄭永年教授が、華南理工大学公共政策研究院のソーシャルメディア公式アカウント『IPP評論』に掲載した「中国はいかにして愛国主義を描き、建設するのか」との論文は、大きな反響を呼んだ。鄭教授の「人々の日常行動から判断すれば、中国人の愛国主義は依然として淡白であり、虚無的ですらある」との指摘は、多くの中国人の心に染みわたるものだった。
確かに、一般的な中国人は、南シナ海で中国は米日にいじめられているとの思いはあるが、だからといって米日に対して敵愾心が高まり、それこそ日本への爆買いをバッサリと止めるのか、というと、そんな事はない。
「爆買いが終わった」のは愛国心の高まりとは関係ない
爆買いは終わったとこの頃日本ではどこのメディアも取り上げている。それは日本に行く中国人の数が少なくなったわけではなく、愛国心から日本製品を買わなくなったわけでもない。中国の中産階級の人は相変わらず日本のブランド品をはじめ日本製品を買っている。買う場所を、直接購入から国内のeコマースに変えただけだろう。
経済成長は緩やかになったが、中産階級の人数が減ってはいない。中国の愛国主義教育は、いつ逆効果からの再逆転ができるか。それを実現できなければ、爆買いは消えても他の物的動向はいずれ出るだろう。
物的な豊かさが中国でも実現でき、中産階級が海外への移民などを止めると、貧者だけの愛国主義が終わり、中国も正常になる。しかし、それは5年、10年で実現できることではない。愛国主義教育の矛盾はしばらく中国で維持されるだろう。 
 
愛国主義教育実施綱要
  中華人民共和国共産党中央委員会発表 1994/8

 

中華民族は愛国主義の光栄ある伝統に富んだ偉大な民族である。愛国主義は中国人民を動員し鼓舞して団結奮闘する一つの旗印であり、我が国社会歴史の前進を推進する巨大な力であり、各民族人民の共同の精神支柱である。
現在、我が国人民は、中国の特色ある社会主義理論と党の基本路線の指導の下で、社会主義市場経済 の発展に大いに力をいれ、富強・民主・文明という社会主義現代化国家の建設に努力している。新たな歴史的条件のもとで、愛国主義の伝統を継承し発揚し、民族精神を奮い立たせ、全民族の力量を凝集し、全国各民族人民を団結し、自力更生し、苦難に満ちた事業を始めることは、中華民族の振興と奮闘のために、非常に重要な現実的意義をもつ。
各級の党委と人民政府、関係の部門と人民団体はこの任務を必ず大変に重視し、また、自らの任務の特徴と結びつけて積極的に愛国主義教育を繰り広げなければならない。
1.愛国主義教育の基本原則
愛国主義教育は、ケ小平 同志の築き上げた中国の特色ある社会主義理論と、党 の基本路線を必ず指導としなければならず、社会主義現代化の建設を促進することに必ず利益とならなければならず、改革開放 を促進することに必ず利益とならなければならず、国家と民族の名声・尊厳・団結を守ることに必ず利益とならなければならず、祖国統一を促進する事業に利益とならなければならない。これは新たな時代の愛国主義教育の基本的な指導思想である。
愛国主義教育の目的を広げることは、民族精神を振興することであり、民族の凝集力を増強することであり、民族の自尊心と誇りを樹立することであり、最も広範な愛国統一戦線を強化発展することであり、人民群衆の愛国主義を、中国の特色ある社会主義を建設するという偉大な事業に導くことであり、理想・道徳・文化・規律のある社会主義公民を生むことであり、4つの現代化を実現し、中華の共同の理想を振興して団結奮闘することである。
愛国主義教育は建設方針に重きを置くことを必ず堅持しなければならない。ケ小平同志の愛国主義に関する一連の重要な論述に基づき、愛国主義教育の理論建設・教材建設・制度建設・基地建設を行わなければならない。
愛国主義教育を各思想政治教育のなかで貫徹し、社会主義精神文明建設の基礎的な過程として、我が国社会の主旋律として、確固不動で長期間たゆまなく力を入れていく。
愛国主義教育は対外開放の原則を必ず堅持しなければならない。愛国主義は狭隘な民族主義では決してなく、我々は中華民族の優秀な成果を継承し発揚する上に、また高度資本主義国家を含め世界各国が創造したあらゆる文明成果を学習し吸収しなければならない。
このようにしてこそ、中国の人民は各国の人民と一緒に、世界の平和と人類の進歩に貢献することができるのである。
愛国主義教育は必ず時代の特徴を際立たせなければならなない。愛国主義は一つの歴史的な範疇であり、社会の発展が等しくない段階や等しくない時代には等しくないものを内包する。
現代中国において、愛国主義と社会主義は本質的に一致しており、中国の特色ある社会主義を建設することは新時代の愛国主義のテーマである。
ケ小平同志の指摘した「中国人民には自らの民族への自尊心があり、祖国を熱愛し、全ての力を社会主義建設と祖国建設に貢献することを最も光栄とし、社会主義と祖国の利益・尊厳・栄誉に損害を与えることを最も恥辱とする」、これは我が国の現段階における愛国主義の特徴に対する最も鋭い快活である。
愛国主義と集団主義と社会主義思想は三位一体であり、中国の特色ある社会主義を建設するという偉大な実践の中で機会あると統一する。
2.愛国主義教育の主要な内容
愛国主義教育の素材は非常に広範である。歴史から現実、物質文明から精神文明、自然風景から物産資源までおよび、社会生活の各領域のすべてには愛国主義教育を極めて豊富に実行する至宝が潜んでいる。
国情資料を運用することにたけなければならず、また各種の貴重な教育資料を掘り起こすことに注意し、不断に愛国主義教育の内容を豊富にする。
中華民族の悠久な歴史の教育を行う。我が国人民の愛国主義精神は中華民族の長い歴史過程の中で発生し発展してきた。中国歴史、特に近代史と現代史の教育を通じて、人々に中華民族の自彊してやまず不撓不屈の発展の過程を理解させ、我が国の各民族と人民は人類文明に対して卓越した貢献をしたことを理解させ、我が国の歴史上の重大事件と著名な人物を理解させ、中国人民が外来からの侵略と圧迫に反対し、堕落した統治に反抗し民族独立と解放を勝ち取とり、勇敢に前進し、血を浴びて奮闘した精神と業績を理解させ、中国共産党が全国人民を指導して新中国を建設するために勇敢に戦った崇高な精神と栄光ある業績を特に理解される。
中華民族のすぐれた伝統文化教育を行わなければならない。中華民族は、光り輝く中華文明を創造する過程で、大きな生命力のある伝統文化を形成し、その内容は、広くて深く、哲学・社会科学・文学芸術・科学技術などの方面の業績を含むだけでなく、崇高な民族精神・民族気骨と優良な道徳をも潜んでいた。
多くの傑出した政治家・思想家・文芸家・科学者・教育者・軍事者を育んだだけでなく、かつ豊富な文物史跡・経典著作などを残しており、この豊かな文化遺産は愛国主義教育を行う際貴重な資源となる。祖国の言語や文字を正確に使用しなければならず、強力に普通話を普及しなければならない。
党の基本路線と社会主義現代化建設の達成に関する教育を行う。党の基本路線と我が国社会主義建設の達成は、すなわち愛国主義教育の最も現実的で生き生きとした教材である。
党十一期三中全会 以来の改革開放と現代化建設という巨大な業績と成功の経験に特に注意して教育を行い、人民大衆に一層社会主義への信念を堅くし、党の基本路線を堅持して動揺しないようにさせなければならない。
中国の国情教育を行わなければならない。国情教育は世界環境全体という大きな背景の下で行わなければならない。
人々が、系統的に我が国の経済・政治・軍事・外交および社会・文化・人口・資源などの方面に関する歴史と現状を理解するするのを助け、我が国の現代化建設の目標と段取りや壮大な見通しを理解させ、かつ中国と世界の他の種類を異にする国家との対比のなかで、我が国の優位と隔たり、優位な条件と不利や要素を見て、使命感と社会への責任感を増強し、刻苦奮闘し勤勉節約という建国の創業精神を更に発揚する。
国情教育は省情・市情・県情教育と結びついて行われなければならない。
社会主義の民主と法制の教育を行わなければならない。我が国憲法と法律は広範な人民の意志と利益を体言するものであり、広範で深く掘り下げた民主と法制の教育を通じて、人々が我が国の政治制度・経済制度・その他各制度を理解するのを助けなければならない。
国家観念と国家の主人公としての責任感を増強し、法を遵守する習慣を養い、憲法と法律が規定する公民の権利を正確な行使と同時に、憲法と法律が規定する公民の義務を忠実に履行し、国家の利益を断固として守る。
国防教育と国家安全教育を行わなければならない。新時代の特徴に基づいて、現代国防教育を重視し、全国人民の国防意識と国家安全意識を増強し、軍政と軍民の団結を強化し、全国人民に外敵の侵略に抵抗し、祖国の独立を防衛し、国家主権と領土保全を守る自覚を強化する。全国人民に祖国の利益を売り渡し、祖国の尊厳を損害し、国家の安全を危険にし、祖国を分裂される言動一切に対して、断固とした闘争を行うよう教育する。
民族団結の教育を行わなければならない。中華民族は一つの多民族の大家庭であり、内地であろうが、辺境であろうが、漢民族の地区であろうが、少数民族の地区であろうが、マルクス主義の民族観と宗教、それに党の民族政策と宗教政策の教育を強化して、各民族人民に、民族団結と祖国の統一を守るためにたゆまぬ努力と歴史的な貢献をするように宣伝する。各民族人民のなかで、漢民族は少数民族と離れならず、少数民族は漢民族と離れられないという思想を強固にし、民族の団結と祖国の統一を守ることを自覚する。
「和平統一、一国両制」方針の教育を行わなければならない。党と政府の祖国統一問題における基本的な立場と方針政策を全面的で正確に宣伝し、人々に祖国統一の作業の進展状況と重点を理解させる。ホンコン、マカオ、台湾の同胞による祖国統一のため貢献を宣伝することに注意し、国外の華僑や海外から帰国した人々の愛国・愛郷の業績を宣伝する。
3.愛国主義教育の重点は青少年(文化大革命終了後に生まれた世代)
愛国主義教育は人民全体への教育であるが、その重点は広範な青少年である。学校・部隊・農村・街道・機関や企業の単位 、特に共青団 や少先隊(少年先鋒隊)などの組織は、広範な青少年の愛国主義の感情を養成し、彼らの愛国主義の自覚を高め、彼らが正確な理想・信念・人生観・価値観を樹立するように導くことは思想政治教育の重要な内容である。
当面と以後の時期において、党の基本路線の教育、中国近代史・現代史や国情の教育、中華民族の伝統美徳と優秀伝統文化教育に重点を置く。
学校は青少年に教育を行う重要な場所であり、幼稚園から大学に到教育、つまり教育の全過程で愛国主義教育を貫かねばならず、特に教室での教育に主な経路を発揮しなければならない。
各省・自治区・直轄市の教育部門は国家教育委員会が公布した『小中学校で中国近現代史と国情教育を強化する綱要 』と、『中学思想政治、小中学国語、歴史 、地理学科教育綱要』の要求に基づき、各学科(自然科学を含む)で愛国主義教育の学科ごとの計画を制定し、愛国主義教育の内容を分解して、関係する学科の教科教育に貫徹させる。
各種大学も積極的に条件をつくりだし、中国歴史や文学、美術、科学技術などの内容の伝統文化の選択科目を開設し、愛国主義教育を主要な内容とする特定テーマ講座を開設する。
機関・企業・農村など基層単位は、社会主義「四有」新人を育成する責任を直接負い、青年幹部・職工・農民対する愛国主義教育を特に重視・強化し、この任務を文明単位・文明村鎮を建設する活動の重要な内容に取り入れる。
広範な青年に国家の主人公としての責任感を堅固に樹立し、個人の利益と国家の前途・命運を結びつけ、国家・集団・個人の三者の利益関係を正確に解決し、祖国を愛し、故郷を愛し、集団を愛し、職場を愛し、自らの職務に立脚して、国家のために大きく貢献するように教育する。
青少年の特徴に焦点を合わせて、映画・図書・音楽・演劇・美術・物語会などを運用する形式に注意し、広範な青少年に、豊富で生き生きとした愛国主義教材を提供する。
各地区・各部門は、中央宣伝部・国家教育委員会・広播影視部・文化部「優秀な映画作品を運用して全国の小中学校で愛国主義教育を展開することに関する通知」を真剣に貫徹実行し、またこれら優秀な映画作品を、教学や教育計画に取り入れ、着実に放映・観覧・宣伝・教育工作を行い、たゆまなく力を入れていく。
企業などの単位や、農村、部隊も優秀な映画作品を利用して、青年職工や農民、兵士に愛国主義教育を行わなければならない。
4.愛国主義教育教育基地の建設を立派にやる
各種博物館、記念館、烈士記念建造物、革命戦争の重要な戦役、戦闘記念施設、文物保護単位、歴史旧跡、風景景勝、我が国の二つ文明(精神文明と部室文明)建設成果の重要な建設事業に関する展示、都市と農村での先進単位は愛国主義教育を行う重要な場所である。各級の共産党党委宣伝部は当地の党委と人民政府が提出する要求に従い、教育行政部門や共青団組織および文化・文物・民政・園林などの部門と合同で、教育基地を確定する。都市・農村の基層単位と共青団組織は積極的に基地を利用し教育活動を展開する。学校はこれらの教育活動を徳育教育活動計画に取り入れなければならない。
各級の民政・文化・文物部門や各種専門博物館・記念館は1991年中央宣伝部などの部門が共同で発布した『存分に文物を運用して愛国主義と革命伝統教育を実行することに関する通知』を継続して貫徹実行し、青少年の参観・仰ぎ見る活動に組織して接待し、必要な支持と援助を提供する。教育基地を参観する際の料金を決め、学校が組織して教師と生徒が参観する際には費用を免除する。展示する単位は有効で高い素質のガイト班を形成し養成しなければならない。
教育基地の重大な建設事業都市や農村の先進単位は、青少年に対して行う愛国主義教育を単位の光栄ある任務として、自発的に熱烈に関連する単位と協力し、青少年が参観して学習活動するのを組織して受け入れなければないない。
各地の自然風景や文物旧跡・名勝景勝は、人々が祖国の壮麗な山河や悠久な歴史文化に対する熱烈な愛情の念を高ぶらせるのに十分足りることができ、この方面での優位を発揮することに注意し、愛国主義教育は遊覧・観光の中に含まれる。
旅行景勝、自然保護区でのガイドの説明・文字による説明・宣伝材料は、みな全て愛国主義教育の内容を含まなければならない。
各級の旅行景勝部門は特にガイドとなる人員に愛国主義宣伝の意識を樹立し、この方面での教育と訓練を強化し、ガイド人員と旅行景勝が愛国主義教育で十分な作用を発揮することに関して特に注意しなければならない。
「万里辺境文化長廊」建設の中で文化事業建設と思想道徳建設と愛国主義教育を緊密に結び付けることに注意し、中華民族の優秀な伝統文化を発揚し、愛国主義教育の重要な拠点と成す。
愛国主義教育基地を運用して活動を展開し、丹念に構成し、綿密に組織する。
各級の教育行政部門・共青団組織は、教育基地と業務連絡制度を作り、共同で活動計画を研究設定する。異なる年齢層・心理上の特徴・知識水準・受け入れ能力に対する教育に基づいて、科学的に活動内容を配置し、思想性と芸術性に注意し、努めて吸収力と感染力に富むことを求める。
重要な祝日・記念日と結びつけて、組織して参観・仰ぎ見み・墓参りなどの活動を組織することができる;特定の教育テーマと結びつけて、社会考察と社会実践活動を組織することができる;基地の環境を美化し設備を維持する義務労働活動を展開する;参観・仰ぎ見み・墓参りなどの活動を結びつけて、作文の募集や演説会、特定テーマの講座、知識競争など教育活動を組織する。各種学校は夏季・冬期休暇に基地を利用して冬季キャンプや夏季キャンプを設立することができ、また歴史事件や烈士の事績、建設などに関することを党課や団課、労働訓練の教材、学校の郷土教材などに組み入れることができ、思想政治教育と課程教育に貫徹する。
(5〜7は省略) 
 

 

 
国粋主義 

 

自国の歴史・政治・文化などが他国よりもすぐれているとして、それを守り発展させようとする主張・立場。
自国民および自国の文化・伝統を他国より優れたものとして、排外的にそれを守り広げようとする考え方。
国家主義の極端な一形態。特に日本では1888年雑誌《日本人》に掲載された志賀重昂の論文《国粋保存旨義》以来用語として一般化。積極的な西洋文化の導入による近代化を図った明治政府の政策を欧化主義として非難し、日本国民本来の長所を重視することを主張した。
自国の文化的ないし政治的伝統の独自性または優越性を強調し、それを政策や思想の中心的価値と考える思想一般をさす。日本における国粋の具体的な内容は論者によって一定しないが、最初は、圧倒的な欧化主義の風潮のなかで伝統的な文化や生活様式を保存することの意義を国民の対外的独立と結びつけて主張していたが、次第に異質な外来の文化や思想に対する排外的な攻撃性や国家の対外的膨張の主張を特色としていった。
敗戦までの近代日本において欧化ないし欧化主義に対立して、国粋つまり日本国民固有の長所を維持・発揚するよう主張した思潮。日本主義ともいう。時期により変遷はあるが、血統的に一系の天皇をいただく日本の国家体制の〈優秀性と永久性〉を強調する国体論が、核心をなした点では変りがないといってよい。〈国粋〉〈国粋主義〉という言葉は、1880年代後半に三宅雪嶺、志賀重昂ら政教社の雑誌《日本人》が、明治維新後の文明開化、直接的には条約改正と関連して政府が推進していた欧化主義に反対して、〈国粋保存主義〉を唱道したのに始まる。
広義には一国家ないし国民の人種(民族)的文化的特性を他国のそれと区別して強調する考え方をいい、それはまた、民族の歴史的栄光や伝統的価値の強調と結合して主張されることが多い。民族主義、国家主義、国民主義などと同じくナショナリズムnationalismないしナショナリティnationalityの訳語の一つとして理解されている。近代日本における国粋主義の源流は、19世紀後半の幕末期に外圧に直面して台頭してきた尊王攘夷(じょうい)論や西洋文明の排除にみられる。こうした土着主義的な固有文化の価値の自覚は、やがて明治時代に入って、明治政府の推進する条約改正交渉や「鹿鳴館(ろくめいかん)」に象徴される皮相的な欧化政策への反発となって現れた。すなわち、明治10年代後半から20年代にかけて結成された各種の国粋派グループや、思想集団政教社のメンバーたちによって唱導された「国粋保存旨義(しぎ)(主義)」運動がそれである。ところが明治中期の国粋主義は後年の排外的な国家主義(ナショナリズム)とは異なり、欧化それ自体に反対を示すものではなかった。志賀重昂(しがしげたか)のことばを用いれば、「徹頭徹尾日本固有の旧分子を保存し旧原素を維持せんと欲するものに非(あら)ず、只泰西(ただたいせい)の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以(もっ)て之(これ)を咀嚼(そしゃく)し之を消化し、日本なる身体に同化せしめんとする者也(なり)」(「『日本人』が懐抱(かいほう)する処(ところ)の旨義を告白す」)という、わが国の文明を発達させるための主体的な西洋文明の選択的摂取にその特質があった。しかし、このようないわば開かれた視座をもつ健康なナショナリズムとしての国粋主義は長くは続かず、やがて、高山樗牛(ちょぎゅう)や木村鷹太郎(たかたろう)らによって提唱された日本主義、大正中期の右翼的な国家主義団体の叢生(そうせい)(猶存(ゆうぞん)社、行地(こうち)社、大日本国粋会など)そして昭和初期の満州事変から日中戦争にかけて、青年将校らと協働したファッショ的政治運動へと進展してゆく。とりわけ太平洋戦争の時期にかけては、国粋主義は偏狭な国家主義、排外主義のイデオロギー(皇国史観や日本精神論)として猛威を振るった。このような昭和初期の歴史的事情から、往々にして国粋主義即ファシズムないし超国家主義という一元的な理解がなされやすいが、それはかならずしも正しい把握の仕方とはいえないであろう。
…明治初年の啓蒙思想と文明開化はその最初の高まりであるが、そこでは独立の危機が深刻に自覚されればされるほど、それだけ急激に欧化が推進された。1880年代半ばになると、この急激な欧化に対する反動として国粋主義が興隆し、天皇の神聖性や家族的・共同体的秩序など伝統の保守を強調するが、〈採長補短〉という言葉が示すように、それも西洋の〈長所〉の導入には必ずしも反対でなかった。それ以後、欧化主義と国粋主義とは対立しつつ併存し、それぞれのしかたで近代日本の国家体制を支える。…
…この困難を補う点で重要な役割を果たしたのが民族主義であり、民族国家、国民国家が歴史の流れとなるなかで国家主義は民族主義との融合をとげ、その理念を補完することになった。実際、日本では従来、国家と民族との重なりがほぼ自明視されてきたこともあって、国家主義、民族主義、国民主義、国粋主義といった言葉はほとんど同義に用いられている。したがってこれらの語は国家主義の第2の内容をなすといってよい。… 
 
国粋主義

 

国家主義の一つで、日本では志賀重昂が1888年に雑誌『日本人』で論文「国粋保存旨義」を発表してから用語として広まる。明治維新に始まるあまりに極端な西欧文化の流入による近代化に警笛を鳴らして明治政府の政策を欧化主義として非難したもので、日本人の本来の文化や歴史、その長所を尊ぶことを主張している。すなわち、万世一系の天皇をいただく日本の国家体制を支持してその優越性と長久性を強調する国体論が主となっている。一般論としての国粋主義は、国家に固有の文化・伝統を礼賛して愛国心や愛郷心で意識の発揚をはかる、思想や運動のことで、一般的には保守思想の一つとされる。
近代日本の民間運動としては、明治時代の半ばに鹿鳴館外交に象徴される欧化政策に抗うものとして現れた。政教社と民友社に代表される。政教社の三宅雪嶺・志賀重昂らは「国粋保存主義」を掲げて日本の伝統文化の優秀性を論じて欧化一辺倒の社会風潮に逆らい自文化を西欧文化と等しく相対化して見直そうとした。民友社の徳富蘇峰らは平民主義の立場から貴族的な欧化主義を嫌い日本の文化に根ざした平民のレベルでの欧化を目指した。これらの運動の中で「西洋」に対する「東洋」という語が広まる。
欧化政策の代表例として西欧貴族文化を日本文化として取り入れようとした鹿鳴館時代がある。当時は西洋中心主義の風潮から「日本語を捨てて英語化すべし」とか白人至上主義の影響から「西洋人との混血を進め人種の改良をすべし」などという愚かしい極端な主張もあった。明治期に起こった国粋主義はこのような考えに抗い日本の文化を西欧文化と等しく比べられるものとして捉えようと試みた。従って、その主導者たちは西欧文化への理解も持ち合わせていて排外的な自文化至上主義を唱えたわけではなくて寧ろ民族的矜恃と共感とを以て語っていたと言える。
国粋主義の原義においては全体主義・ファシズムなど言わば国体論とは異なる。しかし日露戦争を勝ち抜いた上に力を付けて欧米列強に肩を並べつつある日本を抑え込みたい欧米列強は日本への圧力を高めた。これに伴い日本で自文化至上主義が形作られた。また、共産主義運動に抗う形でその色は強まった。
国粋主義を唱えた思想家
西洋諸国に負けないようにと、開国後の日本は様々な西洋文化や西洋思想を取り入れていきます。こうした背景の中で、西洋に傾き独自の文化がないがしろにされてしまうのを危惧した人たちがでてきます。日本の伝統的な文化を見直し、それを大切にしていこうとする考え方を国粋主義と言います。ここでは、国粋主義を唱えた思想家たちを紹介しましょう。
徳富蘇峰
徳富蘇峰は、雑誌『国民之友』を創刊し、日本独自の文化と西洋文化とを合わせた新しい日本を築く必要性を説きました。西洋文化を排他するのではなく、西洋文化を加えた新しい日本を作ろうと唱えたのです。この立場を平民主義と言います。
三宅雪嶺
三宅雪嶺は、新聞『日本人』において日本文化の素晴らしさをとき、日本文化こそが人類の文化の向上に貢献すべきだという生粋の国粋主義を説きました。
岡倉天心
岡倉天心は美術の分野から国粋主義を主張しました。奈良や京都の寺院をまわり、その価値を改めて発信したのです。また天心は英文で日本の文化を伝える本を著し、日本の文化や世界観を世界に発信しました。  
 
日本国粋主義の元凶とされている平田国学の「万国の本国」思想

 

和辻哲郎は、『日本倫理思想(下)』の中で、「篤胤は、その狂信的な情熱の力で多くの弟子を獲得し、日本は万国の本である、日本の神話の神が宇宙の主宰神であるというような信仰をひろめて行った。この篤胤の性行にも、思想内容にも、きわめて濃厚に変質者を思わせるものがあるが、変質者であることは狂信を伝播するにはかえって都合がよかったであろう。やがてこの狂信的国粋主義も勤王運動に結びつき、幕府倒壊の一つの力となったのではあるが、しかしそれは狂信であったがために、非常に大きい害悪の根として残ったのである」と、述べている。
明治20年代にはこのように平田篤胤の評価は定まっていた。しかし、この「万国の本国」思想は、ここで終焉したのではない。《日本は万世一系の皇統を守り続けている国である。皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)天皇により日本は統治されている》という皇国史観・国体主義が主張され国民に広まる中で、再び脚光を浴びていったのである。日本では、国家が危機に瀕してくると、「日本は神国である」という主張が高まり国民を鼓舞するという歴史がある。日清日露戦争の時、太平洋戦争の時、「我が国は天皇を頂いた神国である」という主張がなされ、国民を鼓舞していった。その「神国」観念も、太平洋戦争の敗戦によって灰塵に帰し、国民は幻想から覚めたのだが。
国粋主義の元凶とされる平田篤胤の「万国の本国」思想とはいかなるものか、平田篤胤の主張の中にその姿を見てみる。篤胤の主著とされる「霊能真柱」の中にはこのように記述されている。(なお、平田篤胤は狂信者とされているが、仙童寅吉を通してあの世(幽冥界)の世界の見聞を深めようとする一方、キリスト教をはじめとして諸外国の宗教・古史を研究して、人間の救済について真剣に考えていたことを付記しておく。)
「万国の本国」思想
1 我が皇大御国(すめらおおみくに)は、万国の、本つ御柱たる御国にして、万物万事の、万国の卓越たる元因、また掛まくも畏き、我が天皇命は、万国の大君に坐すことの、真理を熟に知得て、後に魂の行方は知るべきものになむ有ける。
2 こ々に吾が皇大御国は、殊に、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)二柱の大神の、生成賜へる御国、天照大御神の生坐(あれます)る御国、皇大孫命(すめみまのみこと)の、天地とともに、遠長に所知看御国(しょしめすみくに)にして、万国に秀で勝れて、四海の宗国たるが故に、人の心も直く正しくして、外国の如く、さくじり偽ることなかりし故にや、天地の初の事なども、正しき実の説有て、少(いささか)も、私のさかしらを加ふることなく、有のまにまに、神代より伝はり来にける、これぞ、虚偽なき真の説に有ける。
3 まづ皇国は、神ながら言挙せぬ国と云て、万事外国の如く、かしこげに、言痛く諭(あげつら)ひさだすることなく、ただ大らかなる御国ぶりなるが故に、天地の初の説なども、外国の説どもの如く、これは此故にかくの如し、それは云々(しかじか)の理によりて、かくの如しなどやうに、細に言痛く、説諭したる物には非ず、ただ有しさまのまゝを、大らかに語り伝へたるのみにて・・・と語るのである。またいはく、
4 「外国どもの初めは、二柱神大八洲を生賜ひて、国土と海水と漸に分るるに随ひて、此処彼処と潮沫の、おのづから凝堅まり合たるどもの、大にも小くも成れるものなり。篤胤云、実に中庸の論ひの如く、万の外国どもは、皇国に比べては、こよなく劣りて卑しかるべきこと、・・・
と語るのである。
アドルフ・ヒトラーのアーリア民族の人種的優越説を彷彿させるような日本民族優越説である。ファシストの元凶と言われるのも当然である。
子安宣邦は、他国の古説(神話)を自らの内に包容して、それらの古説を「真の古伝」の残像とすることで、「真の古伝」は世界に冠たる唯一真正なものとされる。宣長に始まり篤胤にあって顕在化する汎神道主義的イデオロギーは、近代日本の国体論のうちに、あるいは日本精神論のうちにその残骸をとどめることになるのである。すなわち、雑多な思想・文化を受容し、それを日本化する、そのことこそ世界に冠たるわが国体の発現であり、日本精神の優越性の証拠だという主張のうちに、国学的汎神主義はその影をとどめるのである、と語っている。
篤胤は、自分が説く「古伝」はそのまま事実として確定しなければならないという課題をもっていた。それが、彼の眼を海外に向け、キリスト教のアダムとイブの話を取り入れさせる原因となる。
「抑天地世界は、万国一枚にして、我が戴く日月星辰は、諸蕃国にも之を戴き、開闢の古説、また各国に存り伝はり、互に精粗は有なれど、天地を創造し、万物を化生せる、神祇の古説などは、必ず彼此の隔なく、我が古伝は諸蕃国の古伝、諸蕃国の古説は、我が国にも古説なること、我が戴く日月の、彼が戴く日月なると同じ道理なれば、我が古伝説の真正を以て、彼が古説の訛りを訂し、彼が古伝の精を選びて、我が古伝の闝(ひょう)を補はむに、何でふ事なき謂(ことわり)なれば、・・・と。
もし外国に伝わる伝説がわが国の古伝と整合するとすれば、それだけわが古伝の真実性が増し、篤胤における「古伝・古史」が事実として承認されるというのである。後期平田学の大半を占めるインド学・シナ學の研究は、宇宙の始まりから、天・地・泉(よみ)の成立までの事実の真実性を証明するとともに、わが皇大御国と天皇は四海万国における最高の存在であることを明らかにすべき役割をもつものであったわけである。
アダムとイブの聖書の話については、こんな具体的な記述がある。
「遥西の極なる国々の古伝に、世の初発、天神既に天地を造了りて後に、土塊を二つ丸めて、これを男女の神と化し、その男神の名を安太牟(アダム)といひ、女神の名を延波(エバ)といへるが、此二人の神して、国土を生りといふ説の存るは、全く、皇国の古伝の訛りと聞えたり」
ところで、平田篤胤の「万国の本国」論は、篤胤が独自に創り出し主張したのかといえばそうではない。篤胤は、本居宣長の結論から出発したといわれているのだが、「万国の本国」論も、やはり宣長の主張を受け継いでいる。宣長は、「直毘霊」のなかでこう述べている。
「皇大御國(スメラオホミクニ)は、掛(カケ)まくも可畏(カシコ)き~御祖(カムミオヤ)天照大御~(アマテラスオホミカミ)の、御生坐(ミアレマセ)る大御國(オホミクニ)にして、萬國に勝(スグ)れたる所由(ユエ)は、先( ヅ)こゝにいちじるし。國という國に、此( ノ)大御~の大御コ(オホミメグミ)かゞふらぬ國あらめや。大御~、大御手(オホミテ)に天(アマ)つ璽(シルシ)を捧持(サゝゲモタ)して、御代御代に御(ミ)しるしと傳(ツタ)はり來(キ)つる、三種(ミクサ)の~寶(カムダカラ)は是ぞ。」
「いともめでたき大御國(オホミクニ)の道をおきながら、他國(ヒトクニ)のさかしく言痛(コチタ)き意行(コゝロシワザ)を、よきことゝして、ならひまねべるから、直(ナホ)く清(キヨ)かりし心も行(オコナ)ひも、みな穢惡(キタナ)くまがりゆきて、後つひには、かの他國(ヒトグニ)のきびしき道ならずては、治まりがたきが如くなれるぞかし。さる後のありさまを見て、聖人の道ならずては、國は治まりがたき物ぞと思ふめるは、しか治まりがたくなりぬるは、もと聖人の道の蔽(ツミ)なることを、えさとらぬなり。古( ヘ)の大御代に、其道をからずて、いとよく治まりしを思へ。」
宣長もやはり日本という国が他の国に比べて優れていると主張しているのである。
国学は、日本は天照大御神から綿々と皇統が続く大御国であるというが、この点については疑問が残る。しかし国学が主張する底辺には、世界の宗教を吸収するだけでは納得できない日本民族の譲れない精神が流れているようだ。それがどこから来ているのか、そして世界の宗教との接点は何なのか、それは今後に残された問題であるが、少なくとも「日本は神国である」という単純な見解だけは荒唐無稽になったことは事実だろう。 
 
国粋主義と中華崇拝を超えて / 五井蘭洲『百王一姓論』の再評価

 

はじめに 
一般的にいうと、国粋主義あるいはナショナリズムの高揚期において、その主義主張に同調せず、異論や反論を吐くことが相当の勇気を要することである。なぜならば、そのような少数の抵抗者が理性と良識の持ち主であるにもかかわらず、「非国民」という侮辱なレッテルが貼られ、地位や名誉を失ってしまうことはよくあるからである。近代日本における典型例は、いわゆる内村鑑三の「不敬事件」である。キリスト者の内村は己の信条を貫き、1891年第一高等中学校の行事で明治天皇が発布した「教育勅語」に敬礼しなかったため、日本国中から村八分にされ、非難を浴びるばかりか、病臥中に教職を解任され、妻も傷心して急死にいたった。1)
もし、これが近代日本で行われた国家主導の「天皇神格化」運動の一幕であれば、近世日本において知識人による「天皇神格化」の論議がすでに行われ、山崎闇斎(1618‒1682)の垂加神道、本居宣長(1730‒1801)の国学および会沢正志斎(1781‒1863)の国体論などがその代表的なものとなっていたといえる。そして、そうした論議が行動に転じる場面は、激動の幕末を待たず、近世中期にすでに現れた。1758年の「宝暦事件」と1767年の「明和事件」に示されているように、一部の尊王論者が京都の天皇に進講しようとし、江戸攻略の軍法を研究したため、幕府の厳しい弾圧を受けた。2)
ここで取り上げる懐徳堂教授五井蘭洲(1697‒1762、名は純禎)の『百王一姓論』が、まさにこのような背景のもとで形成された歴史大勢論と現実政治論の傑作といえる。
『百王一姓論』の冒頭にある「草茅臣純禎 誠恐誠惶 頓首頓首 死罪死罪 昧死以聞封事状」という表現にも明らかなように、同論稿は「封事」という密封して天子に差し出す機密意見書の形式を取っている。そして、文末には次のような重要な識語が書かれている。
「右一道、余三十年来所蘊胸中、其義窃自信非區々空言談道之比。恐為庶人之議、未敢筆書。然不是議朝政、恃論大勢云爾、何害之有。文辞已成、偶得廃疾不果、乃題以百王一姓論、以蔵篋中。後人尚閔余志之不遂、傳之播之、異日頼有燮理者采一得焉、則雖死之日、猶生之年。」3)
すなわち蘭洲が30年間このテーマについて熟考を重ねていたが、世人の非議を恐れるため、己の考え方を文章化することを控えた;おそらく1758年「宝暦事件」の刺激を受けて、蘭洲はついに執筆に踏み切ったが、翌年に中風のため、論稿を理想の形でまとめることができなかった;このままで原稿箱に秘蔵し、将来の識者による顕彰を待ちたい、ということである。
結論を先に述べると、『百王一姓論』に現れているのは、儒教的普遍主義と「大義名分」観念を両立させたバランス感覚、「天皇神格化」と「日本独善論」という非理性的傾向に歯止めを掛けようとした勇気、および朝幕関係と幕藩関係を安定化させるための政治知恵である。これらの点は、すでに蘭洲門下の中井竹山・履軒兄弟および孫弟子の山片蟠桃によってある程度継承・顕彰されていたが、作成されてほほ150年後の今日において、筆者がいま一度同論説を検討し、18世紀懐徳堂の政治思想を再評価したいと思う。 
一 「中正之道」を尊ぶ蘭洲の学問宗旨 

 

懐徳堂(1724‒1869)は第八代将軍徳川吉宗の官許を受けて創立された大坂の町人学校であり、近世中後期の教育史・学問史・思想史に大きな足跡を残した学校であった。同学校の学問と教育を基礎づけた主要人物の一人である蘭洲は、大阪の朱子学者五井持軒(1641‒1721)の子であり、家学の儒学と和学を受け継いた。1832年津軽藩の藩儒を務めはじめ、1839年致仕してからずっと懐徳堂で教鞭を取り、のちに大儒として知られる中井竹山・履軒兄弟の教育に心血を注いだ。1859年不幸にも中風にかかり、3 年後に逝去した。
蘭洲の著書について、懐徳堂研究の先達西村天囚(1865‒1924)が紹介した『蘭洲遺稿』、『鶏肋集』、『承聖篇』、『瑣語』、『茗話』、『質疑篇』および『古今通』などの書物以外、1947年大阪府立中之島図書館が新しく発見・収蔵した計68種92册の写本があり、内容も和漢両学にわたっている。その大半は朱子学関係のもので、『性理解』・『中庸首章解』、『中庸天命図解』などの著書、『近思録紀聞』、『性理字義講義』、『朱子文集講義』、『朱子書節要紀聞』、『朱子語類賢哉回也之章紀聞』、『大学或問講義』、『大学補伝或問段落』、『周易程伝紀聞』、『二程全書講義』、『性論明備録講義』、『伊洛三子伝心録講義』、『通書講義』、『書経蔡注紀聞』および『小学紀聞』などの講義録および『延平答問筆記』、『鈎深録』、『密察録』、『知新録』、『百一録』および『道学関轄録』などの筆記が含まれている。これらによって見れば、蘭洲の儒学造詣はかなり深いものであり、彼を江戸中期における有数の宋学通と見なしてよかろう。
蘭州は己の学問宗旨について次のように宣言したことがあった。
「余不肖幸守先人之業、乃窃儒者之号、大懼学殊異曩時、修正(斉)治平之方終墜於地。(中略)是以苟有不陥時学、志於古道者、必披心胆以相与。」4)
ここにいう「古道」は、すなわち「先人」の父から受け継いだ朱子学である。「時学」すなわち当時流行っている陸王学・仁斎学・徂徠学・闇斎学などの「四学」のことであったということは、次のような論述から知ることができる。
「為陸王学者、廃学問棄事物、其弊也禅荘。為仁斎学者、蔑義気疎心性、其弊也管商功利。為徂徠学者、局於修辞、遺敬以直内之訓、其弊也放蕩浮躁。為闇斎学者、頗過厳毅、乏雍容和気、其弊也刻迫寡思。惟此四学争弁強聒、道学乃四分五裂、使学者眩於所從。(中略)不如無偏無党中正之道、蕩々平々、唯以聖賢遺訓、切己以為心術徳行之基、如此後乃免四学之弊哉。」5)
この「四学」は、禅・荘・管・商などの影響により、あるいは文章・学問を廃棄し徳性の体認に専念するものであり、あるいは心性の修養を顧みず功利・文辞に没頭するものであり、あるいは寛容な態度と批判的精神に欠けるものであり、みな極端に走っている。正しい学問の目的と方法を知らざるこれらの時学に対して、蘭洲は、不偏不党の中正の道に従い、「聖賢の遺訓」をもって己の「心術・徳行の基」を涵養せよ、と提唱したわけである。
一方、蘭洲の和学について現代の研究者が高い評価を与えている。1950年代初期、近世大阪和学の研究の一環として蘭洲の『古今通』、『源語提要』および『源語詁』などを検討した小島吉雄氏は、「懐徳堂の和学には、蘭洲をはじめ、景範にも履軒らにも、共通する特色は、漢儒の眼をもってわが日本の古典を見ようとしていることである。(中略)また、その学風が文献学的であり、実証的であり、忠実なる本文解釈に立論の根拠を置くことも、その共通する特色である。(中略)思ふに、懐徳堂に於て、蘭洲の和学が学問として一番すぐれている」と述べた。6)1960年代末期には、中村幸彦氏が「五井蘭洲の文学観」の特質を、「勧善懲悪」を主眼とする「朱子学的文学観」ではあるが、古典文学認容という点では山崎闇斎・室鳩巣と違い、当代文学認容という点では荻生徂徠と違うと規定している。また、その文学観の形成要因を、大阪での生活による現実的な物の考え方、「明末清初の儒人の風」の影響、「中国小説や日本古典に接すること、他の儒者より多かったこと」などに求めた。7)
蘭洲の古代史関係著述には、『刪正日本書紀』、『紀第一 神武至応神』、『日本書紀神代巻講義』、『神代巻口訣紀聞』、『古語拾遺講義』、『先代旧事本紀紀聞』および『古事記紀聞』などがある。彼の研究には家の伝承があったともいわれるが、その根拠はおそらく『蘭洲茗話』における次のような自述であろう。
「余の家に、斎部氏の神道を伝えて、世の行はる神代直指抄は、余か家より出たり、其原本今にあり、先人もこのみて見給ひし、神代紀中に肝要の語は、伊弉諾尊のめをのことはりにたがへりとのたまへるぞ、神道の奥儀といふべしとありき。」8)
このほか、蘭洲が父の五井持軒のために書いた「持軒先生行状」において、「家伝日本記学及和語説、修之精詳、不雑怪誕不経之説」とも述べているのである。9)持軒の逝去した1721(享保6 )年に、蘭洲が父の遺命によりその「日本書紀神代巻」についての未完の注釈書を繕書したのが、それはすなわち現存の『神道遺書』である。大月明氏の研究によれば、その特徴は儒学思想(論理思想、合理思想等)を基礎とした解釈方法論や和語訓詁論にあるという。10)
たとえば、国常立尊に関する持軒の訓詁は次のようになっている。
「国常立尊、此尊の御名奥深き事にして、此和語をよく知らは、神道の大綱明なるへし、先国とはひろく天下をさしている詞なら、常は常なり、つねにしてほろびかはらさるなり、立は建立也、かたくたちて倒れさるなり、たをるゝとたつとは反せる語なり、たつときは治り、たをるゝときは見たる、存亡興廃もこの義にて心得べし、此見こと天下をしろしめしてとこしなへに立給ふなり、善なれば立ち、不善なれはたをるゝといへるは、古来より神道の教なり。」11)
蘭洲も『日本書紀神代巻講義』において、「国常立ハ、国トコシナヘニ立ト云意、コレヨリ帝王相続ノ基(以下欠文があるようである−筆者)、国常立尊ハ帝王ノ祖也」と解釈し、国常立尊を「帝王相続の基」を確立したという象徴的存在、後世の帝王が追遠できる仮の始祖としたことによって、これに一種の「人格」を賦与したわけである。12)これで、国常立尊など神代の神々を文字通りの「神」とする扱い方とは一線を画した。言い換えれば、五井父子が、書紀という歴代帝王の治国史から「善なれば立ち、不善なればたをるゝ」という「有徳者君主説」的教訓を見い出し、「勧善懲悪」論の依拠にしようとした立場をとっていたことが明らかである。後述のように、これは書紀などの古記録を天皇の帝位および君臣関係がはじめから動かざるものとして存在していることの史的根拠とする神道家の立場とは正反対なものである。
蘭洲の『日本書紀神代巻講義』にさらに天人関係と君臣関係に関する二大特筆もあり、その神道批判の重要な思想的背景となっているので、ここで紹介しておこう。
(1) 諾冊二尊(伊弉諾尊・伊弉冊尊)ノ「裁成輔相」
「大八洲生成」章の本文について、蘭洲は次のように述べている。
「此一段ハ天地ノ造化ニテ、日本ノ国ヲ生シタルヲ云一段ニテ、諾冊ヲ陰陽ニシテ説タルモノ也、下文ニ産生洲国ト産生ノ文字ヲ用ヒタルモ、諾冊尊ヲ陰陽造化ニシテカタルユヘ也、サテ此一段大切ノ處也、唯一神道ト云、両部ニ対シテ云意ニアラス、此一段カ唯一也、其意ハ、此一段天地造化ニ因テ日本開クヲ、諾冊尊高キハ削リ卑キハ埋テ国経営スルヲ云タルモノ也、其経営スルト云ハ、天地造化ノ不及処ハ人裁成輔相シ、其裁成輔相シテ経営スルモ、皆天地ニノットリテ経営シテ、天人唯一ナル處ヲ記シタリ、天人合一スル處ヲ唯一ト云タルモノ也、故ニ唯一ト云ハ、此一段ニアリ、」13)
もとより、この一節の主旨も一部の言葉遣いも垂加(山崎闇斎)の『風葉集』首巻にもとづいたことは否めないが、ここで重要なのは天地を「裁成輔相」するや、天地に「則る」といった観念の導入である。「裁成輔相」は要するに、「后」(=聖王)万物通泰の象に法って、天地の道を裁成し、天地の義を輔相し、もって人民を扶助するという意味である。14)蘭洲によれば、天地造化にも「不及処」があり、人の「裁成補相」を待たねばならず、諾冊二尊の「高キハ削リ卑キハ埋」る「国経営」はすなわちそれであるが、一方、二尊の経営はあくまで「天地ニノット」るものであって、それに背くものではないから、ここにおいて天人「合一」ないし「唯一」の論理が成立する。
これに対して、垂加の理解における二尊はどのような性格を有しているのだろうか。平重道氏の概括によれば、「第七代の伊弉諾・伊弉冊尊は造化と気化を兼ねた神で、天神の終り、地神の始りで、無形の方からいえば陰陽造化、有形の方からいえば男女気化の神である。前者を未生、後者を已生の諾冊二尊と称する。二尊が国土山海草木を生み、又人々を生み、神々を生むのは、気化と身化を兼ねた神であるから、何ら不思議ではない」そうである。15)両者を比べれば、蘭洲は二尊の人格神の側面を垂加以上に強調し、ある種の主体性、能動性をこれに賦与したことは明らかである。したがって、彼のいう「天人合一」、「天人唯一」は、自ら垂加のそれと違ってくるのである。
(2) 「君臣ノ義」ハ最初ハ未定
「四神出生」章では、諾冊二尊が天照大神を生んでからの感嘆と決定について次のように記している。「吾息雖多、未有若此霊異之児。不宜久留此国。自当早送於天、而授以天上之事。是時、天地相去未遠。故以天柱、挙於天上也」と。これに関する蘭洲の解釈は次のようになっている。
「吾息雖多ハ、上段ニ生某国ト云、皆ソゾレノ国ヘ御子ヲツカハサル事アレハ、日神ヲ生セラル前に衆子アリ、故雖多ノ語アル也、(中略)自当早送於天ハ、自ノ字カアリ、日神霊異ノ御子ユヘ、自然ト天ニ送ルト云事、此天ト云ハ、大和国高市郡ノ帝都ノ事也、帝都ヘツカハサレテ帝王トスル意也、授以天上之事ハ、帝王ノ業ヲ授ル也、是時天地相去未遠、故以天柱挙於天上ハ、天地相去未遠ハ、天地開ケテ間ナキユヘ、天ハ上地ハ下トハッキリト不分ト云ニハアラス、コレハ君臣ノ義イマダハッキリト不定ユヘ、此時、君ハ上、臣ハ下トイツマテモ不動ヤウニ定ルヲ天柱ハ不動ヲ云、挙於天上ハ、帝都ニテ君臣ノ義ヲ定ル意、」16)
前述したように、蘭洲は神代巻をある意味で古帝王の治国の事蹟を伝えるものとしたので、彼がこの一節中の「天」の字をことごとく帝都、帝王のことに置きかえたことは、決して不思議ではない。そして、とくに帝都を大和国高市郡と明記したのは、垂加神道流の説によったと見られる。17)しかし、「是時天地相去未遠」を「君臣ノ義イマダハッキリト不定」と解したのは、蘭洲の一大特筆といわざるをえない。その根拠の一つは、「吾息雖多」に対する解釈にある。この文章は普通、二尊の生んだ「大八洲国」と理解されているが、蘭洲は、二尊はそれを生むと同時に、「ソレゾレノ国ヘ御子ヲツカハサル」こともしたと述べている。彼にしてみれば、これらの「国司」とでもいってよい「衆子」が並立した時代は、まさに「君臣ノ義イマダハッキリト不定」の時代であった。
「君臣ノ義」ハ最初ハ未定とする蘭洲のいま一つの論拠は、神代卷下册の「天孫降臨」章における「高皇産霊尊」に対する解釈にあると考えられる。
「高皇産霊尊ハ、天子ニアラス、臣ニアラス、君ト臣トノ間ニ居テ、天下ノ事ヲ助ケタマフ故ニ、瓊々杵尊ヲ高天二祖御孫ト云、高ハ高皇産霊尊、天ハ日神也、崇養ハ高皇産霊尊ノ天下ノ事ヲ助ケタマフ、カタ手ニ養ヒタマフト云意トイヘトモ、(中略)当時ニテモ、次ノ位ヲツギタマフ御子ヲ皇太子トス、春宮也、春宮ニハ既政アリ、ヨッテ春宮ニハ官人ヲ置ルゝ也、官人ノ員数、令ニ見ユ、是崇養也、訓ハ政ノカタテニヒタスト云事ト、崇養ノ字ヲ会意シテ見ルヘシ、惣テ日本紀ハ訓ト文字ト会意シテ見ル處々アリ、ヒタスハ日々日ヲタシ成人サスル意也。」18)
ここでは、高皇産霊尊は天照大神とともに皇孫の祖であり、しかも瓊々杵尊を養育することから、「君ト臣トノ間ニ居テ、天下ノ事ヲ助ケタマフ」という特殊な位置づけを賦与されている。これによれば、天照大神が生まれて帝位に即いていても、「君臣ノ義」はなお単純化・絶対化されていなかったようである。逆に推論すれば、その生まれる前にあるいは生まれた当時に、「君臣ノ義イマダハッキリト不定」の一時期が存在したことがあることは、当然可能なわけである。もとより、度会延佳、あるいはその門弟の山本広足も「高皇産霊は、後代ノ摂政ノ躰に見えたり」と指摘したことがある。また、「是時、天地相去未遠」について、君臣上下のわかち未明して、遠からざるを申すにや」とも解釈している。19)蘭洲はこうした説の影響をうけたかもしれないが、しかし、その強調的解釈によりこの説は一層明確になり、加えて上記の「吾息雖多」に対する詮索によって、「君臣関係」の成立に不可欠な構成員である人格をもつ臣の存在がはじめて確認されたわけである。 
二 松岡文雄『神道学則日本魂』の論理 

 

ところで、上記の『百王一姓論』文末の識語によれば、蘭洲は己の考え方の文章化を30年間も控え、ようやく執筆した後も、未完の同論説をそのままで原稿箱に秘蔵したというが、蘭州はなぜこのような「明哲保身」の態度を取らなければならなかったのだろうか。当時の神道者の「天皇神話」はどのような論理をもって影響を伸ばし、世論の風圧をなしていたのだろうか。これについて、1744(延享元)年に懐徳堂と密接な関係にある大阪の郷校・含翠堂で『神代巻』講釈が行われたことや、同校の責任者である土橋宗信に「天照大神智優外国聖人説」(1748・寛延元年前後か)という論説があったことなどを見てもある程度分かる。20)ここでは、蘭洲も痛烈に批判した松岡文雄『神道学則日本魂』を例に説明することにしたい。
松岡文雄、名は仲良、字は文雄、のちに雄淵と改めた。1701(元禄14)年に生まれ、1783(天明3 )年に亡くなった。家は代々尾張熱田神宮の祠官であり、吉見幸和に国学、若林強斎に儒学、玉木正英に神道をそれぞれ学んだ。闇斎の門流においてはある意味で神儒兼学派の一員ともいえるが、結局、その立場は神道一辺倒となり、正英から垂加流の諸秘伝をことごとく受けた。しかし、そうした中で、正英の秘伝固守、行法神事偏重という垂加離れの傾向に不満を持つようになった。1733(享保18)年に著書『神道学則日本魂』が刊行されたが、その主旨はすなわち神道「大義」の復興にあった。そのため、正英から破門され、1737(元文2 )年に近世神道界の最大勢力である吉田神道の宗家卜部兼雄に学舘の賓師として抱えられ、死後も吉田家より渾成霊神と謚された。21)文雄はすでに『神道学則日本魂』を作成する七年前から弟子を持ちはじめたが、例えば『日本書紀通証』の作者谷川士清、「宝暦事件」で処罰された竹内式部などの傑物は、みな最初彼の門下に入り、後に正英に師事したのであった。22)
さて、文雄の考えた神道の「大義」と「日本魂」は、一体どのような内容や特徴を有するのだろうか。 『神道学則日本魂』においては、「国常立尊」が始源的、至高的性格を有する天地万国の主宰神と位置付けられ、そこに「神国」(=日本)の優越性や「神孫」(=天皇)の神聖性の根拠となっている。まず、「神国」日本の優越性については次のように説かれている。
「夫天地ハモト一物、(中略)万国一カタマリノ土也、(中略)身ニタトフレバ、(中略)神明ハ方寸膻中(心を指すー筆者)ニ鎮リ玉ヒテ、其妙用ハ四肢百骸ニアリ。スレバ万国モ亦然リ。西土・天竺皆手足鼻口ノ如シ。春ハ花サキ、秋ハ実ル。是則天地ノ全体主宰マシマス国常立ノ妙用ニシテ、国常立ハ万国ノ中デ人ノ方寸膻中ノ如クナル国ニ、ジット鎮リ玉ヒテ、万国ノ用ヲ為シ玉フ。其万国ノ為ニ方寸膻中ニアタル国ガ我国也。故ニ特ニ我国ヲ神国ト云。」
「吾が大祖国常立尊、(中略)天地の枢紐に建ち、四極の綱紀に居り、而して群を出で萃を抜き、八紘に跨り、六合に越え、独りその美を擅にする。」23)
 唯一神道の創始者である吉田兼倶(1435‒1511)の「根葉花実」論をもある程度取り入れたこの説法は、
彼が破門後早くも卜部兼雄に抱えられた一因となったかもしれないが、それはともかくも、ここにあら
われた日本中心主義の主張は実に強烈なものである。
なお、伊弉諾尊・伊弉冊尊という「諾冊二尊」は気化人体の神であるから、歴代天皇の血統・命脈はこれにつながるという通説的理解とは反対に、文雄は「神道」は「トリモナヲサズ国常立ノ道ナリ」と力説し、二尊の国経営の「御作業」も「これ国常立尊の統ぶる所、天地精霊の鍾る所に非るよりは、曷んぞ以てこれを得んや」と強調したのである。その上で、「其ノ二尊ノ生ンデ天位ヲサヅケ玉フ日神ノ御子孫ナレバ、ワケテ天君ヲ神孫ト仰ギ奉ル」というように、歴代天皇の現人神的性格を認めた。 そして、このような神格を有する天皇に対する絶対的服従こそが神道の特質であることについて、「中臣ノ道」、「比莽呂岐ノ道」(「日神の後裔たる天子を守護し神道の至極たる君臣の道を守るという意味をもつ」)などの概念を使って次のように説教されている。24)
「我国中臣ノ道ト申スハ、中ハ君ノ事、臣ハ臣下万民ノコト、開闢以来君ハ真中ニ立チ玉ヒテ、北極ノ如シ。臣下万民ハ衆星ノ如ク北極ヲトリマイテ、クルリクルリト旋ルナリニ、彼紫微宮ニ朝スル。是天一度開ケテ、南北極ノ動カザルハ、天地ノ枢紐ナレバナリ。君臣一度開ケテ吾天君ノ位カワザルハ、万国ノ統御ナレバナリ。」
「宝器一たび定り、王子皇孫その位を革めず。臣庶黎民その職を失はず。万古の前、復かくの如し。万古の後も亦かくの如し。これこれを中と謂ひ、これこれを庸と謂ふ。」
「只我国ハ昏フテモ天君ハ天君ト仰ギ戴キ奉リ、愚デモ宗領ヲ宗領トタツルヲ比莽呂岐ノ道トス。」
「只明ケテモ暮レテモ、君ハ千世マセマセト祝シ奉ルヨリ外、我国ニ生レシ人ノ魂ハナキハズ也。」
しかし、文雄の説はここにとどまらず、神国日本の獨善を「西土・天竺」との関係の中で論述したように、神道の優越もまた儒教、仏教の道との対比を通して立証しようとしたのである。それによれば、日本の神道は「天統丕に承け、一姓以て無窮に伝へる」のに対し、「堯舜教を設くるの国、簒弑常となり、反復して恥づるなく」、「夫堯舜之禅譲、湯武之放伐ヲ天命ト云フハ、何ヲ証文ニスルコトゾ。(中略)堯ノ子息ヲ取立テ後見スル所存ノナキハ、一点ノ私意ガナシトハイワレヌ。我国ノ道ヨリミレバ、賊子ト云モノ也」、湯武にいたっては「自ラ帝位ニ即テ四海ヲ治ル。是天命ヲカコツケ、位ヲ窃メル乱臣也。然レバ聖人トイヘドモ、皆日本魂カラ見レバ乱賊ノ棟領也」という。さらに、このような「臣その君を殺し、父その子を廃する」ということについては、「浮屠仁義を絶ち、礼楽を廃てて」、「倫理綱常を害する」のとは「未だ嘗て同じからずんばあらず」、「故に予、学者をして六経語孟の書を読ましむるは、則ち博学洽聞の資に充て、草木鳥獣の名を知るを以て期となす、力をその蘊に費すなかれとは、是が為の故なり」とも極論している。 
三 蘭洲の「百王一姓」論と「王覇関係」論 

 

では、蘭洲はどのように松岡文雄『神道学則日本魂』を見ていたのだろうか。
『蘭洲遺稿』には、次のような一節が記されている。
「頃読新刊書、号日本魂、京師人称文雄者之所為也。(中略)今雄以為我邦人推我邦俗、駕出唐虞三代之上之意、神道家者之私言也。其書大略以百王一世為誇張之具、以唐虞禅譲、湯武放伐、為父子之衰、君子之賊者。其意非不美也、然不知道、不知天、有所倚而肆罵詈而已。要避之可矣、乃欲与之強論其曲直焉、則嫌於非我国党斉州(中国を指す−筆者)臣子之可、不宜言矣。世儒観此書、箝口不弁、宜矣。然比之物茂卿・太宰純之徒以夷狄待我国自甘者、不可同日而論矣。雄亦有可観者、然殊不知我国之所以百王一世、度越万国者、勢之所以漸、非国常立所与也。不然則道鏡・押勝之属、豈有覬覦天位之意哉。余嘗著百王一世論詳之、後之君子請詳焉。」25)
すなわち文雄の極論に対して、一般の儒者はみな本邦軽視・中華崇拝のものと誤解されることを恐れて批判を控えていたが、蘭洲はその不偏不党の立場から敢えてこれを批判したわけである。その際、徂徠への批判も一言なされているが、それは、文雄の日本優越論のほうが徂徠・春台の日本軽蔑論よりは増しだ、ということである。それは確かに本音ではあるが、他方では世人の非難に備えて張った予防線でもあることが明らかで、しかもその中に文雄批判の契機も含まれているのである。蘭洲によれば、日本優越論というのは、徂徠一流の中華崇拝・日本軽視に対する神道家の「矯枉失直」、つまり曲がったものを直そうとして、正しいところを行き過ぎたことによるものである。26)『神道学則日本魂』はこのような偏向の一標本とされているが、同書の誤りは「百王一世を以て誇張の具と為し、唐虞禅譲、湯武放伐を以て父子の衰へ、君子の賊ひと為す」ことにあると蘭洲が見抜いた。
ここでは、まず、蘭洲の「百王一姓」論と「王覇関係」論を検討してみよう。
「百王一姓」問題について、蘭洲はただ「百王一世(姓)」は「勢ひの以て漸む所にて、いわゆる国常立の与ふる所に非ざるなり。然らざれば、則ち道鏡・(恵美)押勝の属、豈に天位を覬覦する心あらんや」としか論じていないが、しかし、彼の批判的視角がこの極めて簡潔な指摘によく現れているといってよい。文雄は国常立尊を天地万国の主宰神とすると同時に、「一姓以て、無窮に伝へる」皇統の根源ともしたが、蘭洲はその百王一世という現象の形成は「国常立の与ふる所に非」ずときっぱりと否定した。また、いわゆる「宝器一たび定り、王子皇孫その位を革めず。臣庶黎民その職を失はず」というのも、史実に反する神話だと蘭洲は考えている。なぜならば、歴史上、道鏡・恵美押勝(藤原仲麻呂)のような乱臣賊子が確かにあったからである。彼によれば、百王一世という現象は「勢ひの以て漸む所」であり、いいかえれば、歴史の推移の中で形成されたものなのである。
では、ここの「勢ひ」とはどんなものを指しているのであろうか。
丸山真男氏は、かつて「いきほひ」を日本人の歴史意識の基底概念の一つと捉え、「漢語の『勢』が日本語の『いきほひ』と伝統的用法において、もっとも親和性を帯びたのは、まさしく『勢』のこうしたダイナミックな側面であった。こうした意味での『勢』が歴史的時間の推移に内在すると観念されるとき、そこに― 中国の史書でさえ、稀にしか使用されない― 『時勢』、或は『天下の大勢』という概念が、日本の歴史意識および価値判断において極めて流通度の高い範疇を形成するようになるのである」と指摘している。27)蘭洲における「勢」の概念も主としてこのような意味あいで使用されたことは、次のような論述から窺われる。
「勢、此云伊幾遠比、又云那里、伊幾遠比者謂威権也、那里謂形状也、今所以形状言。」
すなわち己のいう「勢」とは、「伊幾遠比」(いきおひ・威権)の意味ではなく、「那里」(なり・形状)すなわち形勢の意味でいっていることを強調しているわけである。
では、百王一姓の形勢はどのように形成されてきたのであろうか。
「(百王一姓)固曰皇徳広大所致、亦勢之所使然、勢也者、協天意、服民心所生也。」
この冒頭の「固より曰く、皇徳広大の致る所」という文章は、『百王一姓論』が「封事状」(つまり古代中国の臣下が密封して天子に差し出す意見書)の文体で書かれたことにかかわっているので、実質上大した意味を持たないように思われるが、下の「勢なるものは、天意に協ひ、民心に服ひて生ずる所なり」は、肝心なところである。というのは、それは、百王一姓の形勢が単に一個の純客観的過程の自然的産物ではなく、人間(後述するように天皇、とくに将軍を指す)の意識的参与下に展開された客観過程の所産であることを明示したからである。
植手通有氏が、「江戸時代に用いられた『天命』・『天運』・『時運』という言葉は、人間との結び付きが遥かに強い。(中略)歴史認識の世界に現れる『天命』・『天運』・『時運』は、人間にとって超越的ないし外的なものというよりは、むしろある時点における人間には必然的ないし運命的ものとして与えられるが、それはそれ以前における人間の行為の積み重ねとしてそうなるのであって、窮極的には人間が統御できる、少なくとも人為を通じて現れるものにほかならない。天命は人心に現れるという意味はこの点を端的に示すものといえよう」と論じているが、蘭洲の所説をみれば、まさにその通りである。28)
歴史に即して論じる場合、蘭洲は神武帝から孝謙帝までの長い間、「王化 人心に洽」きため、蘇我蝦夷・入鹿・藤原豊成および道鏡のように「逆謀」を図ってもことごとく失敗に終わり、平清盛・足利義満のように専権していても「敢へて臣位に違はず」と指摘したが、しかし、その力点はむしろ王・覇の間の相互依存関係の重要性に置かれ、とりわけ周代封建制における王覇関係は一つの大きな教訓として捉えられていたようである。
「請以周室喩焉、姫姓王於斉州(中国を指すー筆者)、伝世三十、卜年八百、雖斉桓強覇、下拝上受、不敢微染指、其他問鼎請遂、皆為見黜。儻使斉不失覇業、数世能奉天子令諸侯焉、則秦雖虎狼、安能併六国、呑二周。(中略)假使周擁虚器於上、永不喪王号於下、於是乎百王一姓、可希望於周家、斉亦可百世以覇天下、六国乃可以永保其封疆。是天下大勢、非区々常策所能逆覩矣。是故斉之失覇、即周之所失王也、斉之失覇、勢之去也。」
ここにいう「斉桓」は、東周の前期すなわち春秋時代の斉桓公であり、管仲を任用して改革を励行し、「尊王攘夷」を唱えてはじめて制覇した有為の国君である。蘭洲によれば、周の王室は斉桓公と一種の相互依存関係にあり、斉桓公は強いが、王位に「染指」しようとはせず、周王室もその擁護で安定を保つことができ、そこから「勢」が生まれてきたわけである。もし斉が「覇業を失はず、数世能く天子を奉じて諸侯に令」し、周が「虚器を上に擁し、永く王号を下に喪はざれば」、周も百王一姓の正統を続けられたはずであった。そうだとすれば、秦の六国合併、二周呑滅が不可能となり、秦以降の王朝更迭の頻発も有り得ないこととなったはずであった。このように一見それぞれ適正に位置付けられてはいるが、結論的にいえば、その重心はやはり斉国の方に置かれたのであった。周の王権を「虚器」といい、「斉の覇を失ふは、即ち周の王を失ふなり、斉の覇を失ふは、勢の去るなり」というのは、このことを端的に示しているということができよう。また、斉に続いて覇権を握った晋国の行方についての論述、例えば「六卿」専権や「三晋」分立によって、結局制覇不能となり、「周亦た随ひて亡ぶ」なども同様の傾向を表わしている。したがつて、蘭州の論じるところの王覇相互依存関係は覇本位としたものと見られるのである。
この覇本位の王覇相互依存関係への重視は、当代政治に関する蘭洲の議論に一層明確な形で表出されたのである。
「在今保勢、何謂則可。曰尊王室也、懐諸侯也、贍兆民也。此三者、天意之所与、民心之所服、而勢之所存也。慶元之際、東師西征、再駕功成、群雄挙遵其約束、崩角稽首、各自就藩国。於是正朔爵位出于王室、利器未全假人守成。(中略)海内晏然、開千万年無窮太平、実我邦古来之所無、乃大勢於是乎定。(しかし、大小侯伯は)封内之入、不足以供朝覲道路之費、乃括民財。又仰給三都会富商、随傾随支。加以官家土木助役、又奉使京師、又饗王使、賂及輿台、乃府庫空虚、遂至奪家臣之俸尚不贍。哀哉。其極必至乞免朝聘、苟可之、則祖法廃、不可則無計可出。然十万石以上、猶可為之也、五万石以下不可為矣。宜潜遣吏人、検其貧富、果貧乎、或特免一朝、厳苞苴禁、不課助役、以舒之。則藩府上下、稍得蘇息、戴奉滋至、於是乎大勢益定。天下必謂、唯東照君裔而可為将軍、唯江戸可覇天下。乃就能御之、賀薩雖大、可以頤使、奥藩雖強、可以鞭背。方今王覇相為唇歯、可与桓文併案、勢之所係、其大矣哉。」
つまり蘭洲にして見れば、「王室を尊ぶ」ことは勿論重要だが、当面の幕府と朝廷とは、斉桓公・晋文公と周王室との関係のように「唇歯」同然の良好関係にあり、問題はいかに財政難を抱えている中小諸候に対する懐柔策(その困窮度を確かめてから参覲交代・助役などの義務を一時的に免除することなど)で人心を収攬し、勢を保っていくかということにある。それさえうまく解決できれば、「大勢益々定まる」ことになり、加賀・薩摩・仙台などのような外様大名をいつまでも完全にコントロールすることができるに相違なく、したがって、幕府の制覇にたよっている朝廷も永続できるわけである。ここでは、幕府の政権担当、政策運用は主導的、決定的なものとして位置づけられているのである。それはともかくも、百王一姓という伝統の形成原因に関するこのような歴史主義・人間中心主義的解釈は、文雄の神中心(国常立尊の賜与)的解釈とは根本から対立するものである。 
四 蘭洲の「湯武放伐」論と「神儒関係」論 

 

前述のように、『神道学則日本魂』において日本の百王一姓が誇示されると同時に、中国の易姓革命、特に湯武の放伐が激しく排撃された。これに対する蘭洲の反論はやはり歴史主義・人間中心主義の立場から発したものと見られる。
例えば、湯武の放伐について
「人受天地之中以生、乃有皆所以相生相養之道。統理之者、王者也。不然則弱之肉強之食、相争雄相呑滅、生民殆泯絶。生民泯絶、則天道幾乎息。方此之時、君臣之義為軽、湯武之所以放伐也。夷斉雖賢、知人未知天、唯知人事、不知聖人有裁成輔相之任。設使夷斉是湯武、非乎暴君虐主迭起代出、几使以滅相生養之道、民陥塗炭之中、無不為併、君臣之道亡之而已、聖人之所不忍坐視也。(中略)夫湯武可放伐、而放伐皆順天命而已。是以周祚八百年、桓文強覇、終全臣節。」29)
とある。この一節は、唐代・韓愈の『原道』における「古之時。人之害多矣。有聖人者立。然後教之以相生養之道」や「如古之無聖人。人之類滅久矣」などの論述によるところが少なくないが、しかし、たとえば「裁成輔相」、「方此之時、君臣之義為軽」などの観念の組み入れなどに示されているように、全体としてはその「湯武」・「夷斉」論の展開のため、言い換えれば文雄に反駁するために構築した独自の論理構造といえる。30)
文雄は、君臣の道を「開闢以来」一貫して存在している最重要な倫常と見なしたので、湯武の放伐をその倫常に背く反逆的行為と考えていた。しかし、蘭洲は「君臣の義」はこのような先験的範疇ではなく、歴史的に形成されたものであり、上古においては「君臣の義」は軽く、それよりも「天命」の順守、「天道」の維持のほうがはるかに重要な意義をもつものであったと指摘している。というのは、もし夏桀、商紂が「生民」の生存を脅かしたようなことを放任すれば、その結果、生民がことごとく絶滅し、「天道」も息滅していく可能性があるからである。したがって、暴君の非道から生民を守ることは、当時における最大の課題であり、この意味で商湯の夏桀放伐・周武王の商紂討伐は「天命に順ふ」正義の行為であって、これに対し、その討伐を諌止しようとした「夷斉」すなわち伯夷・叔夷の方は「天を知らず」、「聖人に裁成輔相の任が有ることを知ら」ざる無識見なものなのである。そして、「夫堯舜之禅譲、湯武之放伐ヲ天命と云フハ、何ヲ証文ニスルコトゾ」という文雄の、神器伝授の観念から発した詰難に対し、蘭洲は、結果的に周王朝が八百年も長続きし、「強覇」の「桓文」つまり斉桓王・晋文公も敢えてその権威に挑戦しようとはせず、臣として節操を全うしたことから、周武王の商紂討伐は天命に従った一番の証左であると弁護した。31)
さて、この「湯武放伐」論および上記の「百王一姓」論と関連して、蘭州は同時代の神儒論争のなかでどのような姿勢を取っていたのだろうか。儒教の立場にたった神道否定論者と神道の立場にたった儒教否定論者の間に己の位相を自覚する蘭洲は、不偏不党の立場をとっていたようである。
前者については、その一例として、たとえば太宰春台の次のような論述があるのである。
「神道は本聖人の道の中に有之候、周易に観天之神道而四時不忒、聖人以神道設教、而天下 服矣と有之、神道といふこと始て此文に見え候。」
「日本には元来道といふこと無く候、近き頃神道を説く者いかめしく、我国の道とて高妙なる様に申候へ共、皆後世にいひ出したる虚談妄説にて候。」32)
「日本には元来道といふこと無」いという論理をも含む一部の儒学者の中華優越論に対して、蘭洲は「近世我邦儒生、多党其所狃、尊漢以為中華、以我邦為夷狄、恬然安之、猶不敬其親、敬他人之類」というように、神道家の言葉を借りての攻撃さえおこなっている。33)しかし、このような攻撃は、彼が神道優越の論理に賛成していたことを意味しているのでは決してない。彼が儒教的普遍主義の立場にあったことは、次のような一節によく現れている。
「(神道者流)矯枉失直、輒言我邦素有神道在、奚假周孔之教、其然、豈其然乎。昔者先皇的知教法文物不如漢、乃修聘唐之使、設留学之生、聖心公平正大、絶無驕吝態。上宮王之作憲法也、大意取諸六経論語、不亦宜乎。夫道推放四海而準、人性固無彼此之別、鈞受諸天。堯舜周孔、豈此異人、吾何慊哉。万国分峙、各主其主、有名分、有一定之理、不可淆乱。但斉州之闢(斉州即漢−原文の割注)先我、疆土亦大、不能不推為丈人、行勢也。吾豈苟哉、観式史二策可見。且其地群聖継起、修道建教、大綱挙万目張、我邦之所以不及也。然若古儒典不航、則必有聖哲襲水土以有制作、不徒箝黙仰他国。夫不違陰陽二理、二尊之明戒也。堯舜之道不外陰陽、何多岐之有。儒典已航、其道与我俗符、乃宜由施行焉。復何爵火之用。」34)
この論述によれば、「夫の道、四海に推し放りて準し、人性固より彼我の別ち無し、鈞しく天に受く」ことから、堯・舜・周・孔のように日本の「聖哲」も道を制作する能力の持主であり、「若し古き儒典航らざれば、則ち必ず聖哲有り、水土に襲ひ、以て制作あり、徒だ箝黙して他国を仰がざる」というのである。いうまでもなく、この仮説は徂徠が道の作者を堯・舜・禹・湯・文王・武王・周公などの七人に限定したことへの反論であり、その強調点は、日本民族が漢字・儒学のような立派な文字・教説を造り出せなかった原因は、決して創造力に欠けていたことにあるのではなく、ただこれらを造ろうとした際に、先進文化の輸入によって作る必要がなくなった、ということにある。
反面、神道家の「我が邦素と神道あること有り。奚くんぞ周孔の教へを假らんや」というような極論に対して、蘭洲も反駁し、これを「驕吝態」つまりおごりでやぶさかな醜態として斥けた。その論法によれば、中国の「闢き、我に先んじ、疆土亦た大なり」、「群聖」のたてた道や教えも「我が邦の及ばざる」ところであり、「先皇 的らかに教法・文物 漢に如かざることを知り、乃ち唐に聘ふの使を修め、留学の生を設く」、「上宮王の憲法を作るや、大意 六経・論語に取る」のであるという。
ここでは、いくつかのポイントに注目する必要がある。まず、その「先皇」の「聖心」が「公平正大」という判断である。つまり遣隋使・遣唐使の派遣を当時の天皇の広い視野と抱懐の反映として、外来文化へのあるべき姿勢を提示したことである。次に、その聖徳太子の評価の分裂である。すなわち太子の仏教唱道などに対して悪評を与えた蘭洲が、ここではその「六経・論語」にもとづいた「十七条憲法」の作成(第二条の「篤敬三宝」を除いたことは上述の通りである)に好評を寄せたのである。そして、興味深いことに、一部の儒学者の中華崇拝を批判したときに使われた、「人性固より彼此の別ち無し、鈞しく天に受く」という儒教的普遍主義の論理は、ここで一転してその神道家批判の論拠ともなっているのである。日本人と性質上異なることのない尭・舜・周孔という中国の先聖が作った教えや道は、「我が俗に符ふ」、二尊の「陰陽二理に違はず」という「明戒」にも合うのであるから、これを利用してもよく、必ずしもこの異国の道を排斥し、野原に一から道を開拓する必要はない、と蘭洲はいうのである。
文雄が『神道学則日本魂』の末尾に、君臣道としての神道を「奉ルヨリ外、我国ニ生レシ人ノ魂ハナキハヅ也。吾常ニ此道ニ志ス人ニ、只此日本魂ヲ失ヒ玉フナト、ヒタスラニ教ルハ此故也」と強調している。これについて、蘭洲は、その読後感のなかで「日本魂者、出源語乙女篇、其言曰、大抵人以才学為本、辞藻為末、乃日本魂之用於世有余祐、是先帝之所以教光(源氏−筆者)也、謂人心而已」と、「人心」(=良識)にかえて神道への迷信を「日本魂」の内容とする文雄の曲解を強く非難した。35)蘭洲のこの解釈は、「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるゝ方も、強う侍らめ」という『源氏物語』「乙女」篇の文章に基づいていることはいうまでもない。36)その中の「才」は、通常学問とくに漢学と理解されているが、ここでは、蘭洲は「才」と「大和魂」との関係については論じなかった。しかし、その『承聖篇』においては関連論述があるので、ここで紹介しておきたい。
「余必しも仏をいとはす。ただもろこしにて。始めて僧となる者。尤にくむへし。(中略)魏の黄初年中に。中国の人はしめて僧となりと見たり。わか国の道をしらすして。他国の法をよしとおもへる者。先妄人といふへし。わか日本は。神の道に随ふをもてよしとす。然るに。其教法の條目いまだ具はぬ内に。もろこしの経典わたりたり。我道といふは。伊弉諾尊陰陽のことわりに従はせ給ひしより。国のミはしらたちはしめたり。もろこしの道も陰陽の外ならねハ。わか国の風にかなひたり。ゆへに先代帝王其條目によりて。これを用ひ給へり。されと。人は日本の人。源しものかたりにいへる。やまとたましゐのあれハ。事ことにもろこしの如くにせんとはし給はす。天子姓をかふるなど。日本の風ならぬゆへ。をのつから其ことなし。」37)  
おわりに 

 

冒頭で述べたように、蘭洲の『百王一姓論』に現れているのは、儒教的普遍主義と「大義名分」観念を両立させたバランス感覚、「天皇神格化」と「日本独善論」という非理性的傾向に歯止めを掛けようとした勇気、および朝幕関係と幕藩関係を安定化させるための政治知恵である。このようなバランス感覚、勇気と知恵は彼個人の幅広い学殖と深い識見の賜物であるだけでなく、懐徳堂という学校の性格やその置かれた社会経済的・学術文化的環境の所産でもあるといえる。町人の財力に依存し、幕府の官許も得た懐徳堂は、公儀とは一種の不即不離の関係にあった。そして、伝統的な政治・文化の首府である京都とも新興の政治・文化の中心である江戸とも離れている大阪の地理的位置およびその経済・漕運における中心的地位も、同学派の現実主義の発想や自由な発言を可能にした。
蘭洲の学問と政治思想の特質を際立たせるために、本稿は主として神道家松岡文雄の所論を取り上げたが、事実、このような批判や反論は当時において多く行われていた。すでに蘭洲の生年にあたる1697(元禄10)年に、崎門の神儒兼学者遊佐木斎(1658‒1734)と、木(木下順庵)門の儒学者室鳩巣(1658‒1734)という同時代人の間に神儒論争がおこったが、両者の間の往復書簡は、『神儒問答』(一名は『人物論』)という書物にまとまり、主に垂加の同門、とりわけ松岡文雄などによって転写され、世に知られるようになった。その中で、日本には四書六経の如きものがなく、礼楽刑政・典章文物など中国聖人の法にまたないものはないという鳩巣の神道否定論に対し、木斎は、我国は「風化之開也最遅」、かつ一王一統の政治なる故、礼楽・制度を立てるに汲々たらず、中世以後異邦と交通するに及び、制度の採るべきものを用い、「自家制作之煩労」を省いたが、勿論神霊の我国であるから、彼国の法を採用しなくても、時を待てば自ら成就するのは当然であると論じている。38)この木斎と鳩巣の論弁について、中井竹山は論じたことがある。「鳩巣ノ文字モ必竟ハ江戸贔屓ヨリ出テ、王室ヲ目上ノ瘤トスルナリ、山崎家ノ神道ヲ雑フルハ京贔屓ニテ、武家ヲ尾大ノ勢トスルナリ、笑フベキコトナリ。室氏・遊佐氏数返往復ノ弁論モ、双方ツヰニ贔屓窟中ヲ脱出セズ、歎ズルニ余リアルコトナラズヤ。総ジテ学者ノ公平正大ノ議論ヲ立ンニ、贔屓偏頗ノ沙汰ニ及ブコトハアルマジキコトナリ。ソノ上凡ソ我邦ニアル人、誰カ千載一王ノ沢ヲ仰ガザラン、凡ソ今ノ世ニアル人、誰カ御当家奕世ノ隆治ヲ戴カザラン」と。39)蘭洲の立場と論調を継承した竹山の面目が躍然としているといえよう。
にもかかわらず、「子生本朝、長本朝、而不奉神道、従外国周孔之教、何也」40)と迫る近世の国粋主義やナショナリズムの風潮に対処することは、蘭洲が身をもって示してくれたように、決して容易なことではない。このような風潮は、近代においても度々再生産されていた。明治期の内村事件は前述のとおりであるが、昭和戦前期のそれについて、丸山真男は闇斎学派を分析した際に、「日本人として日本の道を忘れて『異国の教』に従うのは、不忠不孝の『異邦人』であるという語調は、実はついこの間までわれわれの周囲に喧々囂々と鳴りわたっていた響きであった」と指摘している。41)日本に限らず、戦後の「鎖国」状態下の中国でも、似たような悲劇も多く発生した。決して忘れてはいけない教訓である。

1) 陶徳民「教育宗教衝突論争の背景に対する再考― 井上哲次郎の『敬宇文集』批評を手がかりに」、吾妻重二・黄俊傑編『国際シンポジウム 東アジア世界と儒教』所収(東方書店、2005年3 月)を参照されたい。
2) 徳富蘇峰『近世日本国民史・宝暦明和篇』(民友社、1936年普及版)参照。同書は「大義名分論」の出現を、中華崇拝の傾向を有する「徂徠学の汪溢」に対する反動と捉えている(118‒119頁)。この点について、本稿で取り上げた蘭洲の議論もその裏づけとなっている。最近、前田勉氏が「近世天皇権威の浮上」の原因を、主として元禄期以降の商品貨幣経済の進展で窮乏化した人々が神道や国学などの媒介を通じて精神的な救済主を求めた結果と分析している。『兵学と朱子学・蘭学・国学― 近代日本思想史の構図』第四章(平凡社、2006年)。同時代における国粋主義的傾向は、おそらくこの両面から考察してはじめて全体像を把握できるだろう。
3) 『蘭洲遺稿』(大阪府立中之島図書館所蔵)上巻、五七丁。句読点は筆者による。ここでは「百王一姓」とはすなわち百王一系、いわゆる「万世一系」と同じ意味である。場合によって、蘭洲は「百王一世」ともいうが、その意味も「百王一姓」と同じである。諸橋徹次『大漢和辞典』によれば、「一世」の意味の一つは「一王朝のつづく間。又、一血統のつづく間」であり、その出典は朱子の『論語集注』における「王者易姓受命為一世」にある。また「百王」について、『神皇正統記』における「百王」思想に関する石毛忠氏の分析(『日本思想論争史』、ぺりかん社、1979年、73頁)を参照。
4) 五井蘭洲「送安達精英如江都序」、同注3 )、下巻、二四−二五丁。
5) 同注3 )、上巻、三〇丁。
6) 大阪大学国文学研究室『語文』第十輯、1954年1 月。
7) 中村幸彦「五井蘭洲の文学観」、『中村幸彦著述集』第一巻(中央公論社、1982年)所収。
8) 西村時彦編『蘭洲茗話』(松村文海堂、1911年)上巻、二九丁。
9) 五井蘭洲「鶏肋篇」(懐徳堂文庫本)巻一所収。
10) 大月明「五井持軒の学問と思想に関する若干の考察」、同『近世日本の儒学と洋学』(思文閣出版、1988年)所収、16頁。
11) 五井持軒『神道遺書』、大阪府立中之島図書館所蔵。引用の際、大月明氏の翻字(同注10)を参照した。
12) 五井蘭洲『日本書紀神代巻講義』(大阪府立中之島図書館蔵)、三丁。原文には読点がないので、引用の際、筆者が適宜施した。
13) 同注12)、九−十丁。
14) 本田済訳注『易』(中国古典選、朝日新聞社、1966年)、97−98頁。
15) 平重道「近世の神道思想」(岩波書店『日本思想大系39』所収)、545頁。
16) 同注12)、十八−十九丁。
17) 山崎闇斎「神代巻講義」(岩波『日本思想大系39』所収)、162頁。なお、玉木正英の説は谷川士清『日本書紀通証・一』(臨川書店、1978年)、189頁参照。
18) 同注12)、下冊、一−二丁。
19) 『日本書紀神代講述鈔』、『神道大系』(論説編七・伊勢神道下)(同編簒会発行、1982年)、272頁、321頁。
20) 陶徳民「含翠堂の紳道観と古義学― 足代弘道と土橋宗信を中心に― 」『懐徳』65号、1996年。陶徳民『日本漢学思想史論― 徂徠・仲基および近代― 』(関西大学出版部、1999年3 月)にも収録。
21) 小林健三『垂加神道の研究』(至文堂、1940年)、403−410頁。平重道「近世の神道思想」、同注15)、555−556頁。
22) 同注21)、412、414頁。吉崎久「松岡仲良の門人簿― 京都大学蔵『渾成堂門人名簿』― 」(『神道史研究』21巻6 号)。
23) 松岡雄淵『神道学則日本魂』(『日本思想大系39』所収)、258頁、252頁。同学則は本文と問答の二部からなっている。以下の関連引用もこれによるので、必要な限りしか注記しないことにした。なお、小林健三「童蒙入学門の研究・上」における「学則とは何か― 徂徠学則と日本学則との比較― 」という節(『神道史研究』19巻3 号)を参照。
24) 同注23)、260頁。なお、454頁補注「神籬」条を参照。
25) 同注3 )、八一−八二丁。
26) 同注3 )、五九丁。
27) 丸山真男「歴史意識の『古層』」(『歴史思想集』、筑摩書房、1972年)所収、26頁。
28) 植手通有「江戸時代の歴史意識」、同注27)『歴史思想集』所収、79頁。
29) 同注3 )、八二丁。
30) 韓愈「原道」(清水茂訳注『唐宋八家文・上』(朝日新聞社、1966年)所収、214‒220頁。
31) 江戸時代における「放伐」論と「革命」論に関して、衣笠安喜『近世儒学思想史研究』(法政大学出版局、1976年)第二章第二節の「湯武放伐論」、丸山真男「闇斎学と闇斎学派」(『日本思想大系31』所収)、野口武彦『王道と革命の間― 日本思想と孟子問題― 』(筑摩書房、1986年)などを参照。
32) 同注21)、38頁、42頁。
33) 同注3 )、五九丁。これは、佐藤直方「討論筆記」(『佐藤直方全集』所収、日本古典学会、1941年、12頁)に伝わっている次のような神道家の論調を一部借用したと見られる。日本自神代以来。有道統之伝。而其伝授秘説。散見于神代巻。中臣祓。及諸家伝記。自儒学盛行。我神道之義。混雑而不明。甚則専従於儒教。信麁食之徒。背我神国之教。不知尊奉神社者。往々有之。夫生于我国。而尊異邦之道。猶不敬其親。而敬他人。忘神明之恩。失君臣之義。不孝不忠。莫過於此矣。盍速改而反其本乎。
34) 同注3 )、五九丁。
35) 同注3 )、八一丁。
36) 『源氏物語・二』(岩波書店『日本古典文学大系15』)、277、460頁。
37) 五井蘭洲『承聖篇』(懐徳堂文庫所収)上巻、二九丁。
38) 平重道「垂加学者としての遊佐木斎」(同『近世日本思想史研究』吉川弘文館、1969年所収)、282、236〜237頁。
39) 中井竹山「答大室第一書」、『竹山国字牘』下巻所収。蘭洲は崎門の君臣関係論の実質について次のように指摘したことがある(『鈎深録』四四〜四五丁)。山崎先生神道ヲ主張スルニ訳アリ。孔子『春秋』を述テ、微々タル周王ヲ尊崇シテ、君臣ノ名分ヲ正ス。山崎先生此意ニ従ヒ、日本ノ天皇ハ百王一世ノ神孫ナル事ヲ天下ノ人ニ知ラシメ、天皇ヲ尊崇シテ君臣ノ分ヲ正ス意也、其後絅斎先生『靖献録』ヲ著述シテ、古昔ノ忠信ノ人ヲ挙ラレタリ、コレ又山崎先生ト其取ル處ハ違ヘトモ、忠信ノ人ヲ挙テ君臣ノ分ヲ正シテ、天皇ヲ尊崇スルノ意ハ一ツ也、栗山先生ノ『保建大記』ヲ著述スルモ、又同一意也。朱子ハ綱目ニテ正統不正統ヲ正サル。
40) この設問は、五井蘭洲『鶏肋篇』(大阪大学懐徳堂文庫所蔵)巻一所収の神道批判の大綱『十厄論』の冒頭にあるものであり、注33)に引用の佐藤直方の文章を参照されたと見られる。句読点は筆者が適宜施した。なお、大阪府立中之島図書館所蔵『鶏肋篇』(『五井蘭洲遺稿 壱』)巻一所収の『十厄論』を参照した。
41) 丸山真男「闇斎学と闇斎学派」、岩波書店『日本思想大系31』所収、630頁。 
 
志賀重における国粋主義の観念 /  概念の両義性と論理の混乱

 

序論 
志賀重の思想の全体像についてはすでに何度か取り上げてきたが(1)、それらをもとに本稿は彼の国粋主義の観念についてあらためて再構成・論評したものである。志賀の国粋主義はかなり価値のある主張を含んでいるが、彼自身が概念性や論理性に弱いこと、また、本物の伝統主義者でなかったことが大きな原因となって、十分に展開しきれなかった。こういう点に注意しながら、彼の国粋主義を再構成してみる。

(1)拙稿「国粋主義の条件―志賀重の思想」(『名古屋学院大学研究年報』10、1997年12月)、同「国粋主義の成立条件―志賀重と三宅雪嶺」(『名古屋学院大学研究年報』12、 1999年12月)、同「志賀重の国粋主義」(『名古屋学院大学研究年報』13、 2000年12月)、同「志賀重の保守主義―丸山真男の陸羯南論との関係で」(『名古屋学院大学研究年報』15、 2002年12月)、同「志賀重の思想―国粋主義以降」(『名古屋学院大学研究年報』16、2003 年12 月)、同「三宅雪の国粋主義―志賀重と対比して」(『名古屋学院大学研究年報』17、2004年12月)、同「日本における伝統型保守主義はいかにして可能か―志賀重との関連で(上)」(『名古屋学院大学論集(社会科学編)』第四三巻第四号、2007年3月)、同「日本における伝統型保守主義はいかにして可能か―志賀重との関連で(下)」(『名古屋学院大学論集(社会科学編)』第四四巻第一号、2007年7月)などを参照。 
一 美としての伝統 

 

志賀は『南洋時事』で一躍論壇の注目を浴びるようになったあと、政教社で国粋主義を唱える前に『国民之友』第一〇号に「如何ニシテ日本国ヲ(シテ)日本国タラシム可キヤ」(明治二〇年一〇月)という論文を寄せている。これは小論ではあるが、彼がのちに言う「国粋旨義」(国粋主義)―「国粋旨義」という言葉自体はまだ使っていないが―の主張をまとまった形で表明した最初のものであり、また、伝統をめぐる苦悩が正直に出ていて注目される。
まず、志賀はこの小論の冒頭で日本とはなにか、日本の固有のものとはなにかについて、それは美しい風土であると明確に答えている。
「弥望一色春海ノ如ク、満朶ノ桜樹ハ紅白濃淡相交リテ紛披シ恍トシテ際涯ナキ処、会マ花幔ノ欠タル間ヨリ芙蓉峰頭ヲ望ミ、千仭ノ岳上朝将ニ昇ラントシテ半天紅ヲ発シ、閃々爍々トシテ東海ノ波涛方サニ色ヲ変シ掩映依稀トシテ漸ク遠キニ接スルノ風色ヲ嘱望スレバ、黄塵堆裡ニ奔走シ、黄金唯是レ崇拝スル無情冷淡ナル行商ト雖モ、猶且ヲ停メテ躊躇シ、覚ヘズ「吁嗟美ナル風色ナル哉、百万ノ黄金ニモ換へ難シ」ト歎賞スルコトナラン、而シテ此花ハ日本固有ノモノナリ、此山ハ日本固有ノモノナリ、此水ハ日本固有ノモノナリト知了スレバ、誰レカ日本風土ノ優美ナルヲ嘆賞セザルモノアランヤ、況ンヤ日本ノ土地ニ生レタル大和民族ヲヤ、所謂「敷島の大和心を人問はゞ、朝日に香ふ山桜かな」(中略)トハ偶然自然ニ発揮シタル感情ヲ直写シタルモノニ非ラズヤ、而シテ予ハ此感情ヲ利用シテ、隠約ノ間ニ日本ノ国基ヲ鞏固センコトヲ論ゼントスルモノナリ、」(1)
桜の花と富士の峰を例に挙げて、この優美な風土こそ日本の固有のものである、風土への愛を国家の礎としたいと。桜花も富士も日本美の例としてははなはだ通俗的であるが、やがて国粋主義を唱えることになる当人が、少なくともこの小論では国体論や武士道に一切言及せず、山河の美を伝統の核心として明快に主張する点で陸羯南や多くの日本型保守主義者とはまったく違う。
けれども志賀はこの伝統に対し屈折した感情、むしろコンプレックスに近い気持ちを抱いており、言葉とは裏腹に真の愛着が持てないのである。その複雑な感情はこの小論に早くも現れてきている。日本のこれからの方向を論じた以下の部分がそうである。
「且所謂改良論者ハ固ヨリ愛国ノ思想ニ富ムヲ以テ日本社会ノ改良ニ熱心奔走スルモノトセバ、何故ニ諸子ハ「ミミクリー」(類形)ノ事業ニノミ熱心奔走シテ、純然タル勢力保存ノ事業ニ周旋殫力セザルヤ、日本ノ如キ貧弱国ニ於テ所謂今日直接ニシテ且急務ナル勢力保存トハ、是レ致富ノ方策ニシテ、所謂殖産興業是レナリ、然レドモ予ハ今日ハ勧農及ビ商業拡張ノ講論ヲ暫ク止メ、他ニ日本ノ国基ヲ鞏固スルノ方策ヲ論ゼントスルモノナリ、其者如何、曰ク日本ノ山水風土花鳥ノ優美ナルヲ嘆賞スルノ感情ヲ層一層涵養シ、コレヲ培殖シ、以テ冥々ノ間ニ隠然ト日本国土ヲ愛慕スルノ観念ヲ儲蓄セントセシムルモノナリ、」(2)
志賀は日本人の採るべき方向として三つの選択肢を提示している。
(1) 外国品ばかりを崇拝する「ミミクリー」、つまり西洋の模倣
(2) 富国ないし殖産興業
(3) 日本国土への愛
彼が推奨するのは、もちろん(3)の「日本国土への愛」であり、(1)の「外国崇拝」は否定さるべきもの、(2)の「殖産興業」は強力に推進すべきであるが、とりあえずここでは議論しないでおくもの。
立論の趣旨から(3)の「日本国土への愛」を採るのは当然、(1)の「外国崇拝」を西洋かぶれと排斥するのも予想どおりだが、問題は(2)の「殖産興業」である。(2)について志賀は強い関心を示しながらここでの議論は打ち切っている。「殖産興業」と「日本ノ山水風土花鳥」的美意識がどうして簡単に一致しよう。近代文明の追求と伝統の保持がたやすくは相容れないことを認めざるを得なかった。こういう正直な認識は、近代文明と伝統の保持が矛盾しないかのように言い張る半年あとの『日本人』の議論よりはよほど好感が持てる。
しかし、それでもなおかつ、志賀は近代化に強い未練を残している。「国基ヲ鞏固」にする方法はないものかと言いさして、産業振興の方策についての議論をやめたところに志賀の苦悩が良く現れている。志賀の未練は(2)の「殖産興業」を「西洋化」とは言わずに、「勢力保存ノ事業」と書いているところにもよく出ている。「西洋崇拝」はダメであると断ったてまえ、「殖産興業」を「西洋化」などとは言えない。そこで「西洋化」ではなく「勢力保存」であるとしておけば、伝統主義の立場からも「殖産興業」を主張できる余地がいずれ出てくる。彼はこう計算したのであろう。しかし、産業立国は立派な近代化、本格的な西洋かぶれ以外のなんであろうか。
とはいえ、志賀が(2)についての議論をここでは打ち切ったことをやはり褒めてやるべきであろう。(2)の「殖産興業」を無条件に追求すると(3)の「日本国土(伝統)への愛」との整合性が決定的に破綻する。そういう破綻を無理にごまかそうとする論文は後でいくつも出てくる。矛盾に気がついて議論を打ち切ったところに、彼の苦悩がかえって正直に現れてしまったとも言える。
また、志賀が議論に行き詰ったのは伝統を日本の風土の美と定義したことにも起因する。美は本来、国家社会のあり方を示すものではない。美からただちに日本の進むべき方向を構想することはできない。日本の伝統が美であるとして、我々は一体どうすればよいのかわからないではないか。志賀は伝統、伝統と言いながら、内心、日本の伝統はこの程度のものなのか、もう少し何かないのかと忸怩たる思いに駆られたであろう。ただ、彼の議論はやがてやや深まりを見せ、美を調和・平和と解釈し、そこに歴史性や社会性を盛り込むことによって、この行き詰まりをある程度乗り越えようとするのである。
いずれにしても、彼はいったい伝統を復権したかったのか、それとも近代化を目指しているか。本心を抑えて、人間関係から国粋主義の陣営に投じたため、彼の論理は大きな混乱をきたすことになる。

(1)「如何ニシテ日本国ヲ(シテ)日本国タラシム可キヤ」、『国民之友』第一〇号(明治二〇年一〇月二一日)。
(2)同。 
二 国粋主義の思想 / 概念の両義性と論理の混乱

 

(一)政教社の成立
『南洋時事』で一躍有名になった志賀は、明治二一(一八八八)年、政教社の結成に加わり、主筆となった。半月間の雑誌『日本人』第一号の発刊は同年四月三日。政教社の人脈は二つある。ひとつは杉浦重剛と宮崎道正が設立に尽力した東京英語学校(後の日本学園中学・高等学校)関係者で、杉浦そして宮崎を中心に志賀重・今外三郎・松下丈吉・菊池熊太郎、もうひとつは井上円了を中心とする哲学館(のちの東洋大学)関係者で加賀秀一郎・島地黙雷・辰巳小次郎・三宅雪嶺・杉江輔人・棚橋一郎ら。ときあたかも、鹿鳴館の欧化主義華やかなりしころで、この風潮を憂える人たちが政教社に集結した。主義主張を同じくする陸羯南が国民主義に拠って新聞『日本』を始めるのが、翌同二二(一八八九)年。すでに、平民主義を唱えて徳富蘇峰率いる民友社は同二〇(一八八七)年に雑誌『国民之友』を創刊しており、同二三(一八九〇)年には『国民新聞』を発刊することになる。
政教社に加わった志賀ではあるが、思想的に見ると、心からの伝統主義者ではなく、『日本人』グループとは相当の違いがある。たとえば、人脈の中心にいた杉浦重剛や井上円了らは本質的に国体主義者であると言ってよい。もちろん、他の文明的原理を排除しない、杉浦なら西洋の理学を、井上なら仏教を信奉・評価するところにいわゆる国体論と違う開明性や柔軟性があるが、しょせん国体論を中心にした採長補短主義者・折衷主義者である。立論のうちにさら明らかになるように、志賀の伝統観とはかなり違いがあるし、なによりも志賀は本質的に欧米崇拝者である。
にもかかわらず、彼は『日本人』の中心的同人だったわけであるが、それは彼が学んだ東京大学予備門や札幌農学校、そして南洋からの帰国後に勤務した東京英語学校の人脈的関係によるところが大きいであろう。政教社の後援者杉浦重剛はもと東京大学予備門長だったし(志賀はすでに札幌に旅立ってしまっていたが)、『南洋時事』の自題の「怨詞」に批文も寄せてくれた。宮崎道正は農学校時代の恩師で、杉浦とともに英語学校を設立・経営し、志賀をそこに推薦してくれた人である。政教社同人の菊池熊太郎と今外三郎は農学校のそれぞれ同級と一級下で、ともに東京英語学校の教師であった。
志賀は日本の伝統にそれほどの愛情を持っていたわけではないが、世話になった杉浦や宮崎、あるいは同窓生との人間的絆によって、多少心ならずも、政教社の仲間にはいったと考えられる。また、志賀が思想者としては緻密な論理や概念が苦手で、よく言えば豪放磊落な性格であったために、同人たちとのズレがそれほど気にならなかったのかも知れない。そして、彼は明治政府に対しても自由民権運動についても感謝と反感、評価と反発という複雑な感情を持っていた。官僚にもならず、そうかといって反政府にも回れない中間的な立場も国粋主義を選ぶ大きな原因になっているが、こういう人間関係や多少イデオロギー的立場からの旗幟の選択が本来の伝統主義者でない志賀の思考に概念と論理の狂いを生じさせることになる。
(二)国粋主義の思想 / 概念の両義性と論理の混乱
伝統主義としての国粋主義 志賀は『日本人』第二号(明治二一年四月一八日)に掲載した「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」の冒頭で「国粋主義(旨義)」とはなにかを次のように定義している。
「円錐形の鎮火山、秀然として海を抜き、屹立一万余仭、千年万年の氷雪、皚々として其峰嶺に堆積するものハ、実に富士の峰に非ずや、而して幾多の山系之を綿亘し翠を空に挿み碧を雲に横へ、遠く佇望すれば真個に一幅の活画の如く、転た人をして知らず識らず美術的の観念を発揮せしめ、而して漸くこれが発育を誘致したるものハ、蓋し偶然に非ざる可き耶、又一方より観れば、我日本の海島ハ温帯圏裡の中央に点綴し、其沿岸ハ均しく是れ温暖潮流の洗ふ処となり、天候和煦、風土潤沢なるを以て桜花此処に爛発し旭日と相映ずる処、一双の丹頂鶴が其間に翔するの状を倩視すれば、人をして自から優婉高尚なる観念を養成せしむる事ならん、而して又日本の海島を環繞せる天文、地文、風土、気象、寒温、燥湿、地質、水陸の配置、山系、河系、動物、植物、景色等の万般なる囲外物の感化と、化学的の反応と、千年万年の習慣、視聴、経歴とは、蓋し這裡に生息し這際に来往し這般を覩聞せる大和民族をして、冥々隠約の間に一種特殊なる国粋(Nationality)を剏成発達せしめたることならん、蓋し這般の所謂国粋なるものハ、日本国土に存在する万般なる囲外物の感化と、化学的反応とに適応順従し、以て胚胎し生産し成長し発達したるものにして、且つや大和民族の間に千古万古より遺伝し来り化醇し来り、終に当代に到るまで保存しけるものにしあれば、是れが発育成長を愈よ促致奨励し、以て大和民族が現在未来の間に進化改良するの標準となし基本となすハ、正しく是れ生物学の大源則に順適するものなり」(1)
日本人がその独自の風土歴史の中で古来保持し続けた特質、とりわけ、美しい山河と温暖な気候の中ではぐくまれた美意識が「国粋(Nationality)」である。これを未来にわたって継承発展させていかなければならないと。伝統の維持発展が国粋主義であるという志賀の説明はとくにすぐれた洞察を含んだものではないが、国粋主義を定義する場合に必ず言わなければならない事柄で、我々が常識的に持っている国粋概念に合致し、了解できる。
もうひとつこのような定義の例を挙げておく。「日本国裡の理想的事大党」(『日本人』第五号、明治二一年六月三日)にも「国粋」とは大和民族の伝統的美意識であると書いている。「吁嗟予輩が所謂国名とハ此の優美なる日本邦土を目指する者なり、国家とハ日本国土と、兼て日本国民が勢力を総併するに最重最大最経済的なる彼の帝室を名称するものなり、国粋とハ大和民族が固有特立の精神と、其最長所たる美術的の観念を唱導するものなり、吁嗟此の国名、此の国家、此の国粋を衛護し之を保存するは、豈に夫れ予輩大和民族が至大至剛なる本分に非ずして何ぞや」(2)
志賀は当然皇室を尊重しているが、国粋主義の説明に際し、上記引用にも表れているように、国体の観念によってこれを埋め尽くすというようなことはしなかった。前掲の「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」でも国体的な観念がある程度強く出てくるが、その場合でも水戸学者流から自分を自覚的に区別しており、天皇に対する絶対不変の忠義だけがわが国の精華であるというような言い方はしていない(3)。皇室制度を含めて、風土と民族の生活、とくに美意識が国粋の内容をなしていた。
勢力保存としての国粋主義 志賀はこのように美意識を中心として風土と民族生活のおりなす伝統の維持発展を国粋主義と説明しており、我々が常識的にイメージする国粋主義の概念もほぼこういうものであろう。ところが、彼が『日本人』に載せた国粋主義をめぐる諸論文を読んでみると、別の国粋主義の概念が存在している。「日本前途の二大党派」(『日本人』第六号、明治二一年六月一八日)での説明はこうである。
「「日本旨義」とは何ぞや、「勢力保存旨義」是れなり、勢力保存とハ何ぞや、自己が特有の勢力を歩々着々発揮進暢して、其基礎を鞏固にし、其重心線を垂直ならしめ、漸次の間に大勢力と化成するものを云ふ、然れば此の旨義ハ「欧州旨義」即ち模倣旨義と全然反対するものにして、日本国民が原性、本才、特能、精神、秀粋を養成蓄積し、淘汰改良し、以て日本国旗の命脈栄誉を永久万代の間に保維せんとするものなり」(4)
国粋主義(「日本旨義」)とは「勢力の保存」(コンサーヴェーション、ヲブ、エナジー)である、民族・国家の発展こそ国粋の発揮だと言うのである。「勢力保存」が「国粋主義」だと言いかねない気配は「如何ニシテ日本国ヲ(シテ)日本国タラシム可キヤ」にもあったが、前掲引用論文ではっきりと出てきた。この説明はまことに強引で問題がある。まず、国粋主義は伝統の維持発展であるという志賀のもともとの定義と大きく食い違い、もちろん、我々の常識的な概念からも完全に逸脱している。そして、そもそもこれでは国粋主義と近代化の区別が付かない。
民族国家が力を伸ばしていくことならば、国家の発展とか近代化とか富強化とか別の言葉を使うべきである(もし、「国粋主義」という言葉で志賀は対立する二つの観念を同時に表したのであると弁護する人がいるとすれば、それは強弁である)。そして、当然ながら勢力の保存・発展(民族や国家の発展)のためには、一般には伝統は邪魔で、西洋化するほうがよい。もっとも、伝統と言っても多種多様であるから、なかには近代化に比較的結びつきやすいものもあろう。たとえば、日本人は伝統的に器用であるが、これは工業立国に大きく貢献した。しかし、近代化に有利な伝統というのはむしろ例外であって、多くの場合、伝統の保持と国家の発展が即座に結び付くはずがない。たいていの近代化とは伝統に挑戦し破壊することである。ところが、志賀は伝統の保持も国家の発展も国粋主義であるというような実におかしな説明をしてしまったために、伝統と近代がまことに強引に結び付けられている。「『日本人』が懐抱する旨義を告白す」から引用する。
「後者(国粋主義―筆者)ハ日本を日本とし、而して後西洋学問の長所を以て其短所を補ハんとする者なり」(5)
「且つ夫れ「日本分子打破」論者の所説を数理学上に徴すれば、日本の開化ハ後進なるを以て仮りに1234 となせば西洋の開化は12345678910 なり、故に日本国裡に西洋の開化即ち10 を輸入せよと奨励するに過ぎず、焉んぞ知らん日本在来の分子を打破して0となし、而して遽然10の開化を輸入せば、0より10に飛越跳躍する者にして即ち其間に太だ空隙を生じ、為めに根柢基礎ハ偏に脆弱にして間撩倒するの畏れ無とせず、寧ろ1234を漸次に増進し来り、5678910となすの安全鞏固なるに若かざるなり」(6)
「只泰西の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以て之を咀嚼し之を消化し、日本なる身体に同化せしめんとする者也」(7)
日本的に咀嚼することによって文明化がうまくいく、日本の伝統の上に西洋化を図れという議論である。しかし、これでは「国粋主義」ではなく、「採長補短」や「接木」である。
しかも、志賀の言っているようにいつもいくはずがない。日本の伝統を近代化の中にうまく生かせる場合があったとしても、それはむしろ少数例である。(もし、あるというのなら、ぜひ示すべきである。日本の伝統を通して本当に近代化できるのか、どうすれば可能なのかをかならず語らなければならない。ところが、志賀はそれ以上なんの説明もしてくれないではないか。)だいいち、文明開化の時代にあえて日本主義、国粋主義を唱えるということは、本当は近代化を相当犠牲にして、あるいは修正してでも伝統を守れという主張でなければならない。そういう覚悟こそ国粋主義であろう。ところが、志賀はこういう伝統と近代の相克というきわめて重要な問題をつきつめて考えてみようとせず、じつに簡単に国粋主義と近代化を結び付けてしまった。当時の読者からも、これでは国粋主義と文明化の区別がつかないではないかという批判が寄せられている(8)。たしかにこれでは日本的開化と西洋的開化はたんなる発展段階の違いでしかなくなっている。鹿鳴館に象徴される政府の西洋化も志賀が批判するように浅薄であったろうが、彼自身の伝統と近代の結合の仕方もまことに安易である。
この類の強引な論法をもうひとつ挙げておく。
「予輩ハ「国粋保存」の至理至義なるを確信す、故に平等旨義を懐抱する者なり、故に調和旨義を懐抱する者なり、故に改革主義を懐抱する者なり 論じ去り論じ来りて此処に到れば、予輩は偏に「国粋保存」の経済利益的なるを確知する者なり、既に経済利益的なれば、即ち這般ハ実に宇内大勢の正流に順適する者なるを徴証すべし、然り而して彼の「塗抹旨義」と「日本分子打破旨義」とは経済利益的の本源本流に非らざるを以て、日本最大数の民人が最大幸福ハ実に這般の両旨義より湧出する者に非ざるや夫れ明か也、」(9)
「国粋保存」が平等主義で、調和主義と言うのも飛躍があって分かりにくいが、改革主義で、経済的利益に合致し、世界の大勢であると言うに至っては、安易粗雑を通り越してもはや支離滅裂である。どうして伝統の擁護がただちに改革主義や経済的利益になるのか。どうして世界の大勢なのか。思想者としてまことに無責任で没論理的な発言である。
もとより、いかに伝統の保持を叫ぼうと、日本の近代化は絶対に必要であった。伝統主義者とても近代文明に関心が行くのは当然である。近代化の中に伝統を、伝統の中に近代化をどう位置づけるかという難問に誠実に答えるのがそもそも国粋主義者であろう。ところが、志賀は西洋文明の受容にあたって、日本の伝統を生かし、日本的に咀嚼しなければならないと言うだけで、なにを生かし、どう咀嚼するのかについてよく考えていないし、手がかりさえ与えてくれないではないか。こういう困難であろうとももっとも重要な作業ができないから、日本的伝統になんとなく西洋文明を接木すればよい、また、できるというような言い方で問題をごまかしたのである。
他国の国粋 このような概念の混乱を他国の国粋を論ずる場合にも持ち込んでいる例を挙げておきたい。「豪洲列国の合縦独立せんとする(の)一大傾向」(『日本人』第二一号、明治二二年二月三日)がそれである。同論文は明治二二年一〇月の第三版以降の『南洋時事』に第八章「濠洲列国ノ合縦独立セントスル一大傾向」としても収録されている。志賀はオーストラリアの独立問題に関連させて、「国粋」の重要性を以下に論じている。この論文あたりがともかくも「国粋主義」を論ずる最後のものである。ちなみにオーストラリア連邦の正式宣言は一九〇一年、正式独立は一九三一年である。
「濠洲殖民の実力既に斯くの如し。これを一人に譬ふるに猶ほ少壮の漸く自己の見識を立て、知らず識らず特立特行の観念を開発するものに似たり。濠洲の殖民実力を蓄積して自から一見識を立て、之れと共に所在万般なる囲外物は彼等の間に漸く一種特殊なる国粋を発達せしめ、此の国粋愈々発達して本国の事物と愈々相隔離し、本国の利害と愈々相衝突す。此の国粋や一起して“Australia for the Australians”(「濠太利ハ濠太利人の濠太利たらざるべからず」と云ふ義なり)の喊声となり、再起して“National Party”(独立党)の団結となり、三起して濠洲列
国の合縦独立となる、」(10)
「彼れと云ひ此れと云ひ亦以て独立旨義の気を徴知すべし。然り而して其起因する処実に濠洲植民が有形上の実力を蓄積したると、無形上一種特殊なる国粋を発達したる二大元素に在り。真個に国粋の発達ハ民族独立の観念が発達と両々相行するの證左となすに足れり。(中略)進化の神は汝輩を呵護せり。」(11)
ここでも、志賀の国粋概念の欠陥が是正されずに、そのまま露呈している。引用部の「国粋」・「特立」とは、国家民族の成長発展と、その結果としての独立・自己権益の要求であって、伝統の保持とはとくに関係がない。だいいち、オーストラリアの独立は(この論よりあとのことだが)、いわばアメリカの独立と同じで、国家民族の発展から出てくる主体性の主張であり、その意味での政治的ナショナリズムの問題ではあるが、両国が独立に関連してとくに復古を強調したという話も聞かない。もともとオーストラリアやアメリカは伝統を云々するには歴史が浅すぎる。したがって、伝統の保持という意味での「国粋」を考える際に、オーストラリアの独立問題を例に出すのははなはだ不適切なのである。ところが、国家としての自覚発展も国粋主義であるということにしてしまったから、引用のようなおかしな議論をしてしまうのである。
このように志賀の国粋主義は伝統の維持発展と国家の強盛の両義性を持っていた。国家の強盛を目指すとすれば、近代化は避けて通れず、その方向は本質的に伝統と衝突する。このふたつはとうてい簡単には並立はできない。にもかかわらず、彼は両者を強引に等置し、ごまかしてしまうという重大な欠陥があった。それはまた伝統と近代の相克から目をそらし、結局は伝統が捨て去られて終わるという結果を招くことになる。
こういうことになったのは、志賀の論理性の粗さに加え、国粋主義の下に欧米主義の本音が隠されているからである。したがって、国粋主義は伝統主義であるというしごくもっともな説明をしておきながら、いっぽうで、国粋主義は勢力の保存発展(結局欧米化)と同じであるというような奇怪な説明になってしまったのである。

(1)「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」、『日本人』第二号(明治二一年四月一八日)。
(2)「日本国裡の理想的事大党」、『日本人』第五号(明治二一年六月三日)。
(3)「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」、『日本人』第二号(明治二一年四月一八日)。
(4)「日本前途の二大党派」、『日本人』第六号(明治二一年六月一八日)。
(5)「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」、『日本人』第二号(明治二一年四月一八日)。
(6)同。
(7)同。
(8)藤原秋義「国粋論を駁す(其一・其二)」、『東京経済雑誌』第四一九〜二〇号(明治二一年五月一九、二六日)。これは高野静子『蘇峰とその時代―よせられた書簡から―』(1994 年、中央公論社)、一七七頁に紹介されている。なお、志賀の反論と思われる「感涙を滴れたるもの」(無署名)が『日本人』第六号(明治二一年六月一八日)に載っているが、論理的ではない。
(9)「日本前途の国是は「国粋保存旨義」に撰定せざるべからず」、『日本人』第三号(明治二一年五月三日)。
(10)「豪洲列国の合縦独立せんとする(の)一大傾向」、『日本人』第二一号(明治二二年二月三日)。
(11)同。 
三 美の社会的生活 / その過去と未来

 

ところで、志賀はいったい伝統(美)からどのような国家社会像を導き出そうとするのか。彼の強引な論法のために、ほんらい徹底的に考えておかねばならないこのもっとも重要な点がほとんど浮かび上がってこない。美意識のような芸術的観念はそもそも政治社会論になりにくいという意見もある(1)。しかし、この点で手がかりになる論文がわずかだが存在する。美意識は過去にどのような生活となり、未来にどのような社会を描こうとするのか。
(一)美の社会的生活 / その過去
志賀は『日本人』第七号(明治二一年七月三日)に「大和民族の潜勢力」という論を載せている。これもさして長くはない。また、例によって論理が粗いという彼の弱点も顕著である。しかし、日本の美の特質は何か、そこから出てくる日本人の生活とはどのようなものか、ようするに日本人の本質とは何か、というテーマにともかくも正面から挑んだものである。同時代の国粋主義者たちは一体に伝統の保持を叫ぶわりに、伝統の本質とはなにかについてまったく定義も説明もしなかったり、曖味な説明で済ませる人が多い。『日本人』における国粋主義の概念そのものをめぐるきわめて重要な議論は低調に終わってしまったが、これは国粋主義者たちが日本の伝統を国体であり、分かりきったものと考えていることや、伝統に案外自信を持てないことが大きな原因ではないかと思われる。その意味で正面から日本人の生活の本質を問おうとした志賀の「大和民族の潜勢力」は注目に値する。そして、論理の強引さや説明不足に目をつぶると、言わんとするところは日本人の精神生活の核心をよくとらえている。その中心部分はこうである。
「夫れ西洋の開化ハ数理学より由来す、数理学の源流ハ分析なり、故に西洋の長処たる科学は皆分析法に因らざるものなし、化学、理学、生物学、星学、地学の如き即ち是れなり、然り而して這般分析的の感化ハ泰西社会の事々物々に浸入せざるなく、其極処に至れば陰険となり、自愛となり、射利となり、拝金となり、終に倫理道徳の壊敗を速くや夫れ明けし 日本の開化ハは泰西の開化と対角線的に相反対せるものにして、其源流ハ調和より由来す、調和ハ即ち美術の本元なり、美術とハ分析したる事々物々を集合点綴し、能く協合調和したるものゝ謂にして、仮令ば一人士の面貌を分析して眉目も美なり、鼻口も美なり、耳も腮も悉く是れ美なりとて、其人の容姿必ずしも優美なりと云ふべからず、亦以て美なる観念ハ分析したる事々物々を協合調和して、而して後発起するものなるを徴知するに足れり、既に然り大和民族の美処、長処、粋処ハ美術的の観念に在り、故に紫式部の小説となり、狩野流の絵画となり、陶器製造となり、漆塗となり、刺身と云ひ、口取りと云ひ、事々物々皆是れ美術的の空気を包含せざるものなし、然れども其極端に到れば、淫猥なる和歌となり、逸楽なる気象となり、或ハ茶の湯に沈溺し、挿花に拘執し、保守となり、放浪となり、怠惰となり、睡眠となるの傾向なきにしもあらざるなり 予輩ハ、敢て告白す、所謂日本の国粋ハ、美術的の観念に存在すと、然れども這般の観念は藤原氏執権の当代に軟弱となり、戦国の時期に退歩し、徳川氏の治世三百年の間に変則的の発達を作為したるものなり、然らば大和民族の気風が保守なり、放浪となり、怠惰となり、睡眠と化成したるハ、これ美術的の観念が一時邪路に行歩したるのみ、正道より隔離したるものゝみ、何んぞ這般を正則的に発達せしむるの希望なしとせんや、」(2)
志賀は調和こそ美の本質であり、日本の伝統の核心であると言う。美の本質が調和にあるかどうかはかなりむずかしい問題であって、すぐれた芸術作品はこれまでの調和や通念を破りつつ、より高い新たな調和を作り出していくところにその真髄があるとも思える。したがって、調和だけが美の本質とは言えない。しかし、日本の風土はおだやかに調和した相貌を持ち、破天荒な景観が少なく、また、我が国民はとかく小さくまとまって繊細なものを愛玩する傾向があるから、日本人の美意識・精神の特徴としてはかなり妥当である。志賀によればこの美こそ日本の伝統の核心にあり、それは社会生活としては調和である。協調的でやさしいところが古来日本人の決定的特徴である。そのかわり、どうしても安逸平穏に流れる。つまり、意志や勇気や主体性に乏しいのである。
この伝統解釈は日本人の長所特徴と、あたりまえのことだがそれと表裏一体の欠陥弱点をなかなかみごとにとらえている。彼は国体や武士道を畏敬しながら、しかし、ここでは多少予想とは違っていっさい持ち出していないのもよい。日本人のおだやかな気質は国体思想や武士道を時間的にも階層的にもはるかに超えた長く広い伝統だからである。
細かく見ると、志賀がこの日本人の特徴が良かれ悪しかれもっともよく発揮されたのは平安時代と江戸時代だと言っているのも正確である。平安の前期と江戸時代は平和が続いた。戦国時代には退歩したと言うのも納得できる。合戦が常態化している時に、武士がおだやかでは仕事にならないからである。
また、「漆塗」・「刺身」・「口取り」・「和歌」・「茶の湯」・「挿花」のような例のあげ方を見ると、志賀は日本の文化はとかく小器用で、悪く言うと矮小であるという評価を下しているようである。たしかに、日本人はものづくりがその典型で細部にこだわり、繊細でていねいである。そのかわり、大きな構想力に弱い。志賀は明示的に言ってはいないが、そういう例としてあげているとすれば、これも的確である。
しかし、日本人論としては本質を突いた志賀の論にいくつかの不満が残る。まず、短いということである。志賀の国粋主義についての論文は常に短い。せっかく国粋主義者が日本の伝統の核心に迫ろうとするのだから、もう少したんねんな考察がぜひとも必要なところである。たとえば、日本人が調和的だとすればそれはなぜなのか、どこから来ているのかという考察がない。志賀のこれまでの考え方から言えば、日本の風土がその主要な原因として挙げられてよいはずであるが、風土性への言及はない。また、民族の興亡がなく、単一民族で成り立っているという日本人独特の歴史と精神性との関係にも思考を及ぼすべきなのであるが、そういう原因分析もない。日本の伝統の由来起源についての考察があればこの小論の深さや厚みも増したであろうが、本来の伝統主義者でないという弱さがこの小論を小論のままにとどめてしまった。
また、論理も粗い。たとえば引用部で、西洋文明の基礎は数理学の分析的な手法にあると言っているのはいちおう理解できるが、その数理的手法が利己主義になり、拝金主義になり、風俗道徳の退廃を招くと言うに至っては理解不能である。数理的手法がなぜ拝金主義になるのかその仕組み・プロセスようなものはまったく説明されていない。このような論理的・概念的思考の弱さはとくにこの小論の最後に顕著で、例によって伝統と近代を矛盾しないかのように強引に接続する論理の飛躍というよりごまかしをやっている。それは次のような個所である。
「然ども予輩は敢て泰西の開化を輸入すべからずと論説するものに非らず、寧ろ鋭意挺進してこれを日本国裡に利導し、以て日本国粋を正則的に発達せしめ、其根拠をして愈々鞏固たらしめんとするものなり」(3)
「今や大和民族が特性中の美処、長処、粋処を縷説し、這般を保存し且発達せしむるハ日本国旗の命脈を当代の優勝劣敗場裡に保維する最大計最長策なるを説論して、此処に国粋論の筆陣を納めんとするものなり」(4)
後者の引用について言うと、伝統を保持することがどうしてただちに生存競争に有利に働くであろうか。もとより、伝統といえども多種多様であるから、なかにはそういったものもあるかもしれない。しかし、民族の生き残りを賭けるなら全体としては近代化するしかない。そう思って、日本は開国開化を選んだのである。逆に、伝統の保持は一般的には生存競争に不利なのは明らかなはずである。というよりも、あえてこの時代に国粋を唱えたのは生存競争的な近代化とは違う国家社会の方向を模索するためではなかったのか。伝統の維持が生存競争での勝利に簡単に結びつくわけがない。それを優勝劣敗にも有利だなどと言うのは、いつものことながら、志賀の致命的なごまかしである。
そして、最後に、志賀が日本の伝統にそれほどの愛着を持っていないことがこの論文からも感じ取れることを指摘しておきたい。国粋主義者たる者、無批判に伝統を肯定してはならないが、嫌悪・批判するだけでなく、同時に深い愛情を持っていなければならない。少なくとも批判と愛情の両者がなければ国粋主義者たる資格がない。ところが、この論文は伝統の評価すべきところを取り出そうとする趣旨で書かれているはずなのに、全体的な印象としては愛着よりも嫌悪の感情が強いように見える。だからこそ、結論の部分で伝統に近代を強引に接木するような論法が平気で出てくるのでもあり、これでは伝統を心から愛し真に活かすことは不可能である。新聞『みかは』の論説の場合 日本人のおだやかで調和の取れた社会生活に対する志賀の高い評価を新聞『みかは』の論説からも補強したい。彼は『南洋時事』の著者として、また『日本人』の同人として論壇に認められたすぐあと、いわば故郷に錦をかざる形で、岡崎の地方紙『みかは』の支援を依頼され、明治二二年一〇月から一年間、在京のままでその主筆の役割を引き受けた(5)。同紙は新聞とはいっても日刊ではなく、半月刊紙でしかないが、志賀の協力が始まると紙面が改良され、月三回の発行となった。『みかは』(第七号、明治二二年九月一日)は一〇月からの志賀の協力と紙面刷新を大きく宣伝し、一〇月一日の第九号に「三河男児歌」を含む論説を第一面に掲載した。これは無署名であり、三節に区分されているが、一節目のこの歌は志賀の作としてよく知られており、二節目がその書き下しでなおかつ全体が相互に連関しているから、第三節も彼が書いたものと見て間違いないであろう。
この第三節で志賀は世界に誇るべき日本人および三河人の事業についてこう説明している。
「敢テ問フ日本人種ハ世界ノ歴史上ニ何等ノ成跡ヲ遺シタルカ。日本人種ハ世界唯一無二ノ事業ヲ成就シタルコトアルカ。曰ク在リ。四筒ノ唯一無二ナル事業ヲ成就シタリ
  第一 鯨族ヲ漁猟スル戟戈ヲ世界ノ各人種ニ先チ初メテ製造シタルコト
  第二 三百年ノ長歳月間泰平昭世(二三ノ小一揆ヲ除ク)ヲ成就セシコト
  第三 二百年間ニ百五十万ノ人口ヲ保有セシ大都ヲ(江戸)創設セシコト
  第四 全世界ニテ最モ金銀ヲ縷メタル建築物(日光廟)ヲ造リ出セシコト
然リ而シテ鯨族ヲ漁猟スル戟戈ヲ初メテ製造シタル者モ三河ニ生産シタル人士ナリキ。
三百年間ノ泰平昭世ヲ成就セシ者モ三河ニ生産シタル人士ナリキ。二百年間ニ百五十万ノ人口ヲ保有セシ大都ヲ創設セシ者モ三河ニ生産シタル人士ナリキ。全世界ニテ最モ金銀ヲ縷メタル建築物中ニ廟祀セラルル者モ三河ニ生産シタル人士ナリキ」(6)
志賀によれば、(一)捕鯨用のモリの類の開発、(二)江戸時代の平和、(三)百五十万都市江戸の創設、(四)日光廟、この四つが三河人、日本人の世界に誇る事業である。国粋主義者が万世一系の国体を挙げなかったのは、さすがに彼のふるさと三河という土地柄を考えたからかもしれない。第一の捕鯨用モリの開発や第四の日光廟はどうかと思うが、第二の三百年に近い平和と、それに密接にかかわる第三の百万都市江戸の創設は、三河人のお国自慢的要素が出ているとしても妥当であろう。これは志賀の言うように世界史的に見ても日本人が誇ってよいことと思われる。武士道だの国体思想だのと言うよりもはるかに普遍的価値がある。三河人ならぜひとも武士道を出したいところを、志賀は日本人の世界に特筆すべき伝統としてその平和性をあげたのである。
(二)美の社会的生活 / その未来
そして、国粋主義はいかなる未来を、国家社会構想を持つのであろうか。志賀は当然鹿鳴館の舞踏会に象徴されるような安手の欧化主義が不満で、東京や都会が繁栄し、地方が困窮している状況を憂慮し、一般の国民の幸福や繁栄こそ国粋主義にかなう、しばしばそういう口ぶりをもらしている(7)。しかし、そのために提唱されたのは殖産興業であり、海外への進出であり、貿易や移民であった。こういう方法によって国民の生活を豊かに幸福にすることはむろん可能であるとしても、それは西洋の模倣・近代化そのものであって、国粋主義ではない。それでは伝統から未来を切り開いた事にはならない。伝統から未来を考えるといったいどういう社会が出てくるのか、この点について志賀はほとんど答えてくれていないが、『日本人』創刊号(明治二一年四月三日)掲載の「「日本人」の上途を餞す」にその手がかりが多少ある。これは時間的には先述の「大和民族の潜勢力」(『日本人』第七号、明治二一年七月三日)よりも少し前である。この「「日本人」の上途を餞す」は次のような宣言をしている。
「唯冀くハ彼の「カヅラ」の根、蕨の餅、一歳一回鎮守祭礼の節、麦粥を啜るを以て人生第一の快楽となし、日夕催租の胥吏が柴門を敲く毎に轍ち心を乱し膽を落し、或ハ被衣を典して之が督責に充て、母ハ病床に臥して児ハ飢寒に叫び、経営惨澹、意匠凄疎たること猶ほ
  “Give me three grains of corn, mother,
    Only three grains of corn;
   It will keep the little life l have,
    Till the coming of the morn,
   I am dying of hunger and cold, mother,
    Dying of hunger and cold,
   And half the agony of such a death
    My lips have never told.”
  “The king has lands and gold, mother,
    The king has lands and gold,
   While you are forced to your empty breast
    A skeleton babe to hold, ―
   A babe that is dying of want, mother,
    As I am dying now,
   With a ghastly look in its sunken eye,
    And famine upon its brow.”
                       ―Miss Edwards.
の如き、多数民人をして責ては六日の勤勉一日の休憩を獲せしめ、恰も好し此夕村落の春雨、霏々として糸の如く擔を繞るの点滴、声琴筑に似たる裡、眉雪の父老が靉靆鏡を把り一葉の新聞紙を展べ来り、家族の児孫を炉辺に集め之を講読しける後、共に携えて晩餐の食卓に就き、翁媼、夫婦、児孫団欒として相擁し、満盤の菘蔬雨を帯びて翠色滴んとする処、且一の鶏肉を賞味し罷んで、座ろに飽き来れば、被髪紅花の如き八才の小孫ハ翁媼の奨励に従順して轍ち起立し、可愛の音曲もて一曲の「君が代」を朗唱すれば満室の喝采涌くが如く、為めに采畦竹籬の鴿鳩をして驚起せしむてふ計りしきの清福快楽と、智力利便とを博取せしめんと欲する者なり」(8)
英詩を含む引用部の前半は現状を告発したもの、後半は目指すべき理想境という構成になっている。一般国民の悲惨な生活を告発しているのと、英詩(Miss Edwards という作者、詩人らしき女性についてはよくわからないが)を原語のまま引用しているのを見ると、『日本人』に一年ほど先立って世に出た『国民之友』創刊号を飾った徳富蘇峰の「嗟呼国民之友生れたり」(『国民之友』第一号、明治二〇年二月一五日)を明らかに強く意識した書き方である。
蘇峰はこの記念すべき論説の中で「我か普通の人民は寂蓼たる孤村、茅屋の裡、破窓の下、紙燈影薄く、炉火炭冷に、二三の父老相対して濁酒を傾るに過きす、」(9)と、文明開化の恩恵にあずかれなかった一般の国民の貧しくわびしい生活を描き出して、明治政府を批判し、また、終わりの方でミルトンの『失楽園』の一節を原語のまま抜き出して、日本の混沌たる状況にたとえた。
志賀は蘇峰のやり方をどうやら真似たようである。Miss Edwards の詩は飢えと寒さで死のうとする者が、母よ、せめてトウモロコシ三粒を、それで翌朝まで露命をつなごうと願うきわめて悲惨な光景を詠ったものである。人々の胸に強く訴える、いささか扇動的な情景を用意し、またハイカラに英詩を原語で引用してみせるというやり方は蘇峰を意識したものであろう。ともあれ、前半は扇情的ではあるが、比較的ありきたりな現状批判で、とくに新鮮味はない。
しかし、未来図にあたる引用部の後半は志賀の独自性が出ていてなかなか面白い。志賀が理想として描いたものは、多くの日本人が心の原風景として常に帰っていくところである。それは、まことにおだやかで、暖かく、つつましやかな家族であり、のどかで美しい村落の風景である。くわえて、中国の家族関係が親に対する子の孝を厳しく要求するのに対し、日本の場合は親が子をいつくしむことを大変麗しいものとし、それを道徳的義務にまで高めていったと言われるが、その意味でも祖父母や親の子(孫)に対する慈愛が溢れる家族の描写はいかにも日本的である。
こういうささやかで、しかし、平和であたたかい、親子の情が溢れる生活こそ日本人の伝統であることを、もし志賀が鋭く自覚したうえで、この人々の生活を明治政府の近代化に対しあくまでも守ろうとしたのであれば、彼はみごとに伝統を未来に投影することに成功したと言える。こういうおだやかなつつましい生活の擁護からは、平和とか調和とかある種の平等とか弱者の保護というような国家社会的原理が比較的無理なく導き出せるであろう。それは、軍備を増強し、弱者を犠牲とするような明治政府の近代化に対抗する立派な社会国家の構想に育て上げることができる。また、強引な文明化や都市化に対し、農村の保護、あるいは都市と農村の調和の取れた発展という主張にも展開できる。身の丈に合わない近代化はするな、国民の生活に配慮せよという国粋主義者の主張が日本人の伝統的生活を踏まえつつ新しい国家社会の理念として胎動しているではないか。志賀はこういう形で伝統を新しい社会の中に生かし、明治政府の近代化とはちがった国家の未来を構想してみればよかったのである。
ただ、問題はおだやかでつつましく慈愛に満ちた村落の生活を守れという主張が、たんなる未来図ではなく、まさしく伝統(調和)を未来に投影した形になっていることを志賀がどれほど深く自覚していたかである。この点に強い疑問が残る。日本の伝統を意識はしていたであろうが、それを生かそうという鋭い自覚のもとに書かれたようには読めない。国粋主義者は、たんなる未来図ではなく、伝統を未来に生かす試みを深く意識して書かなければならない。それでこそ国粋主義者である。しかし、残念ながらそう明快には読めないのである。むしろ、たまたまこういう主張が生まれただけという気配が濃い。だからこそ、せっかくの未来図もふたたび取り上げられることはなかった。もし、志賀が本物の伝統主義者であったならば、この構想を簡単に放棄することはなかったであろう。伝統を未来に活かすこの試みを繰り返し繰り返し提案し、深化させていったはずである。
結局、志賀はこれ以降、伝統と未来を結びつける作業をつきつめて考えることがなかった。それは彼が日本と日本人のためにさまざまな提案や構想をしなかったという意味ではまったくない。彼は終生、日本の将来のためにじつに精力的に行動し発言している。ただ、未来についてのさまざまな提案がどう伝統と結びつくのか、どう伝統を生かしたら豊かな未来が構想できるのかという観点から考えているようには見えないということである。これは、結局のところ、伝統への愛着が案外浅く、したがって、伝統を生かすことにこだわりを持っていないからである。それは西洋文明への批判が弱く、つい西洋を羨望してしまうことと裏腹でもある。志賀はついに国粋主義者・伝統主義者になりきれなかったのである。
志賀は『南洋時事』の中で日本人は冒険心が弱いと歎いている(10)。これは日本人がおだやかで平和性があるということを、逆から表したものと見ることができる。つまり、よく言えば、調和ややさしさを好む者は、どうしても大胆さに欠け、冒険心にも乏しいうらみがある。しかし、日本人は冒険心が乏しいと言って終わってしまっては国粋主義者にはなれない。冒険心は乏しいが、おだやかである、平和性がある、それを未来に生かそうと考えるところに国粋主義の可能性が出てくるのである。そこではじめて、伝統と未来を結びつける端緒が見えてくる。志賀にはその端緒があるが、展開しきれていない。

(1)植手通有「『国民之友』・『日本人』」、松本三之介編『政教社文学集(明治文学全集 37)』(1989年、筑摩書
房)、四〇九頁。
(2)「大和民族の潜勢力」、『日本人』第七号(明治二一年七月三日)
(3)同。
(4)同。
(5)志賀重「三河新聞紙上ニ於ケル予」、『みかは』第九号(明治二二年一〇月一日)。『みかは』新聞については、長坂一昭「重と『みかは新聞』―志賀重の人と思想を求めて(U)―」、『東海愛知新聞』(1981年10月28日)、宇井邦夫『志賀重 人と足跡』(1991年、現代フォルム)、三七〜九頁参照。
(6)「無署名(志賀重と推定)論説」、『みかは』第九号(明治二二年一〇月一日)。
(7)「日本前途の国是は「国粋保存旨義」に撰定せざるべからず」、『日本人』第三号(明治二一年五月三日)、「新内閣総理大臣に所望す」(明治二一年五月三日)、『全集』第一巻、九―一〇頁など参照。後者は『全集』では『日本人』第三号(明治二一年五月三日)所載となっているが、同号には見当たらず、出典は不明である。
(8)「『日本人』の上途を餞す」、第一次『日本人』第一号(明治二一年四月三日)。
(9)徳富蘇峰「嗟呼国民之友生まれたり」、『国民之友』第一号(明治二〇年二月一五日)。
(10)『南洋時事』(初版)、七五〜六、一九〇〜一頁。 
結論 / 保守主義における伝統理解の欠如と論理性の不在

 

志賀の国粋主義の観念を見てきたが、その主張はかなりすぐれた内容を持ち、そして、伝統を未来に活かそうとする試みにもまことに興味深い部分がある。これらの点で彼は他に抜きん出た保守主義者であったと言ってよい。しかし、彼は概念性・論理性が弱く、また、いかにもたまたま伝統主義者になっただけというところがあるため、その国粋主義は途中で放棄されてしまった。伝統を的確に理解し(この点では志賀はましであるが)、それを論理的に表現する思想者の不在が、日本の伝統主義をまことに貧しいものにしてしまったのである。
  
「日本会議」

 

1. 「日本会議」とは
「日本会議」(名誉会長: 元最高裁判所長官 三好達、 会長:外交評論家・杏林大学名誉教授 田久保忠衛、 副会長:東京大学名誉教授・評論家 小堀桂一朗、神社本庁総長 田中恆清ほか)という日本最大の皇室翼賛右翼国粋主義団体が存在します。
1997年5月30日に創設、歴代会長は、初代にワコール創業者塚本幸一、第2代に石川島播磨重工業会長稲葉興作、第3代に元最高裁判所長官 三好達、 いずれも皇室崇拝思想を持つ頑迷な右派復古保守主義者です。
国会議員組織に「日本会議国会議員懇談会」、地方議員組織に「日本会議地方議員連盟」を持ち、全都道府県に活動拠点を置く。さらに「皇室の伝統を守る国民の会」などを設立し、同傾向の思想を持つ多数の団体との連携を深めています。
しかし、私はこの団体の思想や活動にはおぞましさすら覚え、非常に強い懸念を抱かざるを得ません。 断固として反対の立場をとります。日本の将来を不幸にするその危険度・悪質性は、知らぬ間に増殖転移する悪性腫瘍(癌)そのものです。
加えて始末が悪いのは、会員や支援者が一定水準以上の社会的影響力を持つ政治家・知識人・文化人・評論家等であり、単純な右翼団体とは異なるということです。
2. 「日本会議」の電話取材
9月28日、この記事を書くに際し「日本会議」の事務局に電話取材しました。 しかし応対に選ばれた鈴木某氏はあまりに無能なのか、民間団体であることを盾に、回答不要と遮るのが精一杯の稚拙な対応に終始。 こちらの主張や指摘に、きちんと反論・弁明をしないと当方のそれらを認めたことになりますよとの再三の確認に対し、「しょうがないですねどうぞお好きなように」との趣旨の発言が同氏からも数回ありました。その結果、ウェブサイト上の問題箇所の記載内容は事実ではなく虚偽だと「日本会議」自身が認めたことになりました。どうやら「日本会議」は、会員・支援者の世話や庶務・対外折衝を担う事務方スタッフには、優秀な人材が集まらないようです。
一方、「宮内庁」にも何度か電話取材したことがありますが、いずれも優秀なスタッフが誠実に対応してくれたため、深みのある有意義な意見交換ができました。
3. 「日本会議」の目的と行動原理 皇室を中心とした国家形成を目指す
以下が「日本会議」が目指すものであり、行動原理の根幹にある最も基本的な考え方です。
「皇室を敬愛する国民の心は、千古の昔から変わることはありません。この皇室と国民の強い絆は、幾多の歴史の試練を乗り越え、また豊かな日本文化を生み出してきました。多様な価値の共存を認め、人間と自然との共生を実現してきたわが民族は、一方で伝統文化を尊重しながら海外文明を積極的に吸収、同化して活力ある国を創造してきました。125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう。私たち日本人は、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだき国づくりにいそしんできました。しかし、戦後のわが国では、こうした美しい伝統を軽視する風潮が長くつづいたため、特に若い世代になればなるほど、その価値が認識されなくなっています。私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています。国際化が進み、社会が大きく変動しようとも、常に揺るがぬ誇り高い伝統ある国がらを、明日の日本に伝えていきたいと思います。私たちはそんな願いをもって、皇室を敬愛するさまざまな国民運動や伝統文化を大切にする事業を全国で取り組んでまいります。」
ところが、ここに述べられたことは、ことごとく事実に反するものです。例えば文中にある
1「皇室を敬愛する国民の心は、千古の昔から変わることはありません。この皇室と国民の強い絆は、幾多の歴史の試練を乗り越え、また豊かな日本文化を生み出してきました。」
2「私たち日本人は、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだき国づくりにいそしんできました。」
3「皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、同じ日本人だという同胞感を育み・・・・・・」
これら123は果たして真実でしょうか?
実はこうした考えは、皇室崇拝者や皇国史観信奉者にありがちな、荒唐無稽な妄想(彼らの頭の中にだけ存在する「お花畑」)に過ぎません。「日本会議」は、夢想的な天皇信仰を行動原理とする、怪しげなカルト信仰集団というべきです。その鳥肌の立つような薄気味悪さは、何にもたとえようがありません。そして当然のごとく「日本会議」は、「靖国神社」とその付属施設である戦史博物館「遊就館」の主張や活動を支援します。
4. 政治への強い介入 安倍内閣の大臣 8割近くが「日本会議」信者
この怪しげなカルト信仰集団が、政治の世界を徐々にではあるものの着実に侵略しつつあります。一例を挙げれば、「日本会議」の政界侵攻への橋頭堡として「日本会議国会議員懇談会」があり、会長:平沼赳夫、 会長代行:額賀福志郎、 副会長:安倍晋三・石破茂・小池百合子ほか、 幹事長:下村博文といった具合です。そして290人近い国会議員が参加しています。
さらに例を挙げれば、下記の通り現在の第3次安倍内閣20名の閣僚中、15名の閣僚が「日本会議」に入会し信者となっています。
1.安倍晋三総理 2.麻生太郎副総理・財務相 3.高市早苗総務相 4.岸田文雄外相 5.下村博文文科相 6.塩崎恭久厚労相 7.望月義夫環境相 8.中谷元防衛相 9.菅義偉官房長官 10.竹下亘復興相 11.山谷えり子公安委員長 12.山口俊一沖縄・北方相 13.甘利明経済再生相 14.有村治子女性活躍相 15.石破茂地方創生相
既に「日本会議」は、時の政権にがっちりと食い込んでいるのです。
なお、入会していないのは、上川陽子法務相 太田昭宏国土交通相 林芳正農林水産相 宮澤洋一経済産業相の4閣僚のみ。遠藤利明オリンピック担当相は不明。
このように首相と多くの閣僚、国会議員がこの「日本会議」と深い関係にあり、これでは与党自民党と安倍政権自体がその強い影響下に置かれ、日本の政治が「日本会議」によって牛耳られてしまう怖れがあります。「日本会議」のようなカルト信仰集団が、公権力に食い込みそれを味方につけてしまうと、全く手に負えない危険な状況に日本を追い込みます。 その点では公権力に敵対したオウム真理教の方がまだましだったとさえ言えるでしょう。
さらに「日本会議」は、政治家だけでなく、評論家、学者、マスコミ関係者とも互いに影響を与え合う親密な関係にあります 。
こうした点を考えれば、「日本会議」問題は、安保法制や原発をもはるかに凌ぐ大きな政治問題です。あまり目立たない動きだけに、余計に危険です。
5. 「日本会議」がもたらす将来への危険性 戦前の国家体制への回帰
こうした「日本会議」が政治への影響力を増し続けると、いつしか憲法や政治体制が、戦前と同様なものに復古し、「不敬罪」や「治安維持法」が再制定され、言論表現の自由や思想信条の自由が大きく制限される事態になりかねません。そうなったら、私のこのような記事も書けなくなります。
そして再び天皇が神輿(みこし)に担ぎ上げられ、天皇への忠誠が強制され、その命令には絶対服従という形で強権的な政治が行なわれる危険性があります。つまり戦前の天皇を頂点にした国家体制「大日本帝国」への回帰です。明仁や徳仁、文仁は、「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」(小沢一郎が首相選出に際して述べた名言)にピッタリのはまり役だけに、余計にリスクが高いと言えます。そして再び「大東亜共栄圏」の実現という見果てぬ夢に向かって、無謀な国家運営を教唆・翼賛する可能性があります。
「日本会議」の会員や支援者の中には、あからさまに旧憲法(大日本帝国憲法・明治憲法)への回帰を主張する輩が大勢います。またジェンダーフリーには絶対反対の立場であり、戦前の家族制度・教育制度の復古を狙っています。彼らの主張を表すキーワードは、皇室中心主義、靖国神社、国家主義、時代錯誤(アナクロニズム)なのです。
愛する日本を将来不幸にしないためには、みなさんはまずは「日本会議」の存在を知り、その実態と危険性・悪質性を十分理解していただくことが重要です。彼らは、皇室奉祝行事や各種講演会・勉強会・書籍・人的ネットワーク等を活用し、極めて巧妙に勢力拡大のためにそそのかしを行ないます。
この「日本会議」の勧誘の悪辣さは並大抵ではありません。皆さんの身近にも忍び寄って来ますので十分ご注意ください。特に企業トップからの「命令」として、社員が会合や講演会、選挙活動に強制的に動員させられるケースも多いようです。
もし「日本会議」が、「日本は千古の昔から常に国民は皇室への敬愛の念に満ちていた」などと虚偽の話をすることによって、入会勧誘や寄付金集めをしたなら、それはもはや詐欺であり犯罪です。 また会社の「業務命令」の形をとって社員に活動を強要するのも、もちろん重大な犯罪行為です。
6. 課題
以上は「日本会議」の「思想と人とその影響」に関してのものですが、今後は当然「カネの流れ」の闇にも光を当てる必要があります。 また、これほど大きな問題であるにもかかわらず、テレビ・大新聞などメジャーなマスメディアが及び腰になり、「日本会議」のことを取り上げようとしません。
 
「日本会議」史観の乗り越え方  
1、その性格の暴露でなく、主張への批判が大事である
日本会議とは何か。みずから言明しているように、「国民統合の象徴である皇室を尊び、国民同胞感を涵養する」、「我が国本来の国柄に基づく「新憲法」の制定を推進する」ことなどを運動方針とした団体です。
日本会議が主張してきた元号法や愛国心を明記した教育基本法改正などが実現されていること、現在の安倍内閣の閣僚の8割が日本会議に加盟していることなどから、日本会議が安倍政権を動かして政策を実現させているなどと言う人もいます。明治憲法下の日本を現代に再現するという真のねらいを隠して策動する極右集団、カルト集団、陰謀集団だと指摘する人もいます。
私も、日本会議の影響力をどうおさえていくかということに、重大な関心を寄せています。一方、その影響力が、権力とのつながりや隠し事の巧みさ、陰謀などによって広がっているとは思いません。日本会議は、じつに正々堂々とみずからの主張を展開しており、その主張の内容が国民の心を捉えることによって影響力を拡大しているというのが、リアルなものの見方だと考えます。
つまり、少なくない国民は日本会議の右翼的な主張を容認しているのであって、その右翼的な性格をいくら暴露されても彼らにとっては痛くもかゆくもないのです。それだけ時代が右に寄ってしまったことの反映でしょう。
いま大事なのは、彼らの主張の中身を批判していくことです。しかも、彼らの主張が支持を得た理由を洗い出し、根源的な批判を展開することです。
2、影響力を拡大してきたのは歴史認識をめぐってである
批判すべき主張のなかで、もっとも大事なものの一つが歴史認識をめぐる問題です。日本会議(前身の「日本を守る国民会議」「日本を守る会」も含め)が国民のなかで影響力を持ち始めたのは、まさに歴史認識に関する言論を通じてのことだったからです。
日本の先の戦争を「侵略戦争」だとした1993年の細川護煕首相の発言、侵略と植民地支配に対してお詫びと反省を表明した村山富市首相談話に対して、日本会議は猛烈な批判を展開し、その後も継続的に同様の主張をしてました。その基調は、「日本の戦争は自存自衛の戦いだった」「日本はアジアの解放に寄与した」「日本は朝鮮半島の人びとを大切にしたのであって、欧米の過酷な支配とは異なる」「東京裁判は勝者の裁きだ」などというものでした。
こうした主張は、右派のなかでは戦後脈々と受け継がれてきたものですが、あの戦争を侵略だとは認めなかった歴代自民党政権のもとでは、あまり表面化することはありませんでした。細川発言、村山談話が出され、政治のレベルで自民党流の戦争認識が逆転しそうだったので、右派が存在意義をかけて闘いを開始したのです。
言論面だけではありません。この頃から、日本会議が主導して、右翼的な主張を掲げた街頭デモも行われるようになりました。議会への請願なども組織的なものとなっていきます。戦後の日本では、「運動」と言えば左派、革新派がやるものというのがお決まりでしたが、日本会議はそこに変化をもたらしたわけです。
その結果、日本の世論は、大きく右へと動きました。一方で社会党が消滅し、社民党も議席が減り続けていること、他方で安倍晋三氏のような歴史観を持つ人間が国政選挙で連戦連勝していることなど、左の退潮と右の伸長は明らかです。
では日本会議の主張の何が国民の心を捉えているのでしょうか。我々は何を訴えるべきなのでしょうか。
3、東南アジアでは「対日協力者」に否定的なイメージがない理由
その問題を考える上で、「対日協力者」という言葉を取り上げてみましょう。この言葉が、韓国や中国では、侵略者であり支配者である日本に加担した人を指すものとして、完璧に否定的な意味で使われていることは論を俟ちません。両国では、日本の侵略や植民地支配を批判するのに、何の証明も不要です。
しかし、では、東南アジアはどうなのでしょうか。たとえば、ビルマ史に詳しい根本敬氏は、『抵抗と協力のはざま』(岩波書店)で次のように語っています。
「英国の植民地だったビルマでは、宗主国の英国や戦時中の占領者である日本に対し協力した政治・行政エリートが、そのことのために戦後にマイナスのイメージを背負わされたり、非難されたり、否定すべき記憶として国家によって強調されたりするなどの事実は見られない」
我々は、中国であれ東南アジアであれ、日本は侵略した国家だという認識をもっています。その認識は正しいのです。しかし、同じ侵略であっても、独立国家である中国に対する侵略と、それ以前に欧米の侵略を受けて植民地支配されていた東南アジアに対する侵略とでは、おのずから性格が違っています。
ここでは詳しく書きませんが、東南アジアの人びとのなかには、欧米による植民地支配から抜け出すために、新たな支配者となった日本を利用するというような思惑もありました。実際にも、戦争が終わって再び支配者として戻ってきた欧米を打ち倒すため、日本によっていったんは欧米の支配から脱した事実を利用したのです。そのため、東南アジアの人びとのなかからも、日本の戦争がアジアの解放につながったという声が生まれることがあります。
日本会議は、そういう東南アジアの声を利用して、日本の戦争を肯定する見方を広げようとします。それに対して、日本の侵略を重視する人たちは、そういう声があることを無視したり、否定したりするやり方をとってきたと思います。しかし、その声があることは事実ですから、無視したり、否定するやり方では、日本会議の影響力を削ぐことはできなかったのだと思います。
4、光と影を統一した歴史の見方を提示することが大事だ
これは、ほんの一例です。他にも同じような事例がたくさん存在しています。
それらを貫くものは何か。単純化することになりますが、日本会議は、日本の歴史のなかの「光」の部分を取り上げ、それが日本の歴史の全体像であるかのように描いてきました。一方、それを批判する人びとは、「影」の部分を日本近現代史の本質であるかのように主張してきました。こうした構図のなかでは、国民世論というのは、聞いていて気持ちのよい「光」の強調のほうに傾くことになってしまったのだと感じます。
日本の近現代史が、ただ影ばかりの歴史だったかというと、それは事実に反します。欧米がアジア全体を植民地にしようと企んでいたなかで、日本が独立を守り抜いたという一点だけでも、誇るべきことだと思います。ただ、その光も、みずからが朝鮮半島を支配することになったという影と密接不可分だということなのです。
いま求められるのは、光と影を統一させる方法論だと感じます。著名な歴史学者である吉田裕氏も、次のように指摘しています(「戦争責任論の現在」)。
「戦後歴史学は、戦争責任問題の解明という点では確かに大きな研究成果をあげた。しかし、国際的契機に触発される形で研究テーマを戦争責任問題に移行させることによって、それまでに積みあげられてきた重要な論点の継承を怠ったこと、戦争責任問題、特に戦争犯罪研究に没入することによって、方法論的な問い直しを棚上げにしたことなど、戦争責任問題への向き合い方自体の内に、重要な問題点がはらまれていたことも事実である。戦争責任問題を歴史学の課題としていっそう深めてゆくためには、この問題の解明を中心的に担ってきた戦後歴史学そのもののあり方が、今あらためて、批判的に考察されなければならないのだと思う」 
 
右翼 1

 

右翼団体
右翼思想を掲げる政治団体または政治的勢力である。
右翼的または保守的思想や団体は、古来よりあらゆる時代・地域に存在している。17世紀以降の啓蒙思想や、18世紀以降の産業革命による近代化により、進歩主義や自由主義や個人主義などの思想と、政治的・経済的には資本主義や社会主義などが進展すると、それらに疑問を持ち反対する対抗勢力として右翼思想や保守主義を掲げる団体も明確化していった。
右翼団体の多くは、その国や地域の文化的・歴史的・伝統的な価値観や、それらに基づく社会秩序や社会体制を支持しており、ナショナリズムや民族主義や国家主義あるいは地域的な共同体を重視した多数の思想や運動が存在している。
しかし「右翼団体」の公式な定義や範囲は存在しておらず、自称する団体、自称しないがそう他称される場合が多い団体、あるいは政治団体としての実態を伴わないが暴力団などが摘発回避のため偽装している団体、更には革新派や左翼団体からレッテル張りされた団体も少なくなく様々である。政治的スペクトル上の位置づけでは、通常は保守主義、権威主義、全体主義、君主主義、集団主義、あるいは反共主義などの指向を持つ場合が多い。
反共主義については、 国際勝共連合=統一教会( 文鮮明氏の設立)と共闘する部分もある。
日本の右翼
日本の右翼団体は、通常は観念右翼、正統右翼、仁侠右翼、革新右翼(国家社会主義)、街宣右翼、宗教右翼、新右翼(民族派)、行動する保守などに分類される。また「右翼団体」の呼称はあくまで左翼との比較における名称であるため、自ら右翼団体と標榜することはなく一般には「愛国者団体」という表現をする(連絡機関の団体名にも「愛国」の文字が見られる)。
伝統的な意味の右翼思想は、伝統や文化の価値を重視する保守主義であり、日本の右翼が思想的な源流を主張するのは近世の国学や、明治維新の三傑と目されながらも士族の反乱である西南戦争を起こした西郷隆盛などである。これらは、西洋化につながる近代化や、それを推進する中央政府を警戒し、地域の宗教や歴史や習俗の独立性や継続性を重視する、保守的・伝統的・地方主義的な右翼潮流として、以後の政府や資本家の用心棒的な「観念右翼」や、社会主義に対抗し、国内の腐敗を除去する「革新」を打ち出す「革新右翼」とは別に存在していくことになる。
日本では、車両を用いて駅前や街頭、官公庁近辺や攻撃対象となる企業や集会場の周辺等で大音量による抗議、宣伝活動や公道を大音量の音楽を流して走行する「街宣右翼」が広く知られ「典型的な右翼」と見られがちであるが、この活動方法は1970年(昭和45年)内外にあらわれたものであり、一部の団体は暴力団と表裏一体の右翼団体(仁侠右翼、右翼標榜団体)であり、思想面での政治運動には積極的ではなく、企業恐喝や政治家有名人恐喝などを目的としたいわゆる偽装右翼団体の場合がある。
歴史
明治以降
日本の右翼思想が確立するのは明治時代であるが、その源流は、江戸時代後期の国学者の一部が標榜した国粋主義や皇国史観などが挙げられる。また日本の右翼団体の起源は、1868年(明治元年)1月3日の明治維新(王政復古の大号令)だと目される。これを14年遡った1854年(安政元年)3月31日に、江戸幕府14代将軍徳川家定が鎖国を撤廃した時、勤王反幕の政治家が勢力を増した。幕末に生み出された大量の尊王派の志士の組織活動は、維新の成功によりいったんは政権に組み込まれ消失する。
画期となるのは征韓論事件を境とした九州・山口でおこった一連の士族反乱である。西郷を敬愛し国学・朱子陽明学の実践を願いながらも死にそびれ、あるいは取り残された者たちの在野集団が1881年(明治14年)に頭山満らが結成した玄洋社であり、これが日本の観念右翼のはじまりとされている。
1880年代に自由民権運動が発生し、激しい反政府運動が盛り上がった。明治政府は自由民権運動を公権力で取り締まるとともに、しばしば任侠集団に政治団体を結成させ、民権運動家の活動を妨害・弾圧する手段とした。その後、社会主義運動の高まりと共に労働争議、小作争議が各地に広まると、政界、財界からの要望により、任侠系の政治団体がそれらの運動妨害、弾圧運動に大きな役割を果たした。この系統を引く団体は、「任侠右翼」(暴力団系右翼)などと呼ばれる。
1910年代になると社会主義思想が日本にも波及してきた。政府はこれに自由民権運動以上の拒否反応を示し、公権力と任侠集団で取り締まりや妨害を行った。これらの任侠集団は明治元勲たちとも結びつきが強く、自由主義や社会主義に対抗して、国家を擁護する右翼団体を結成した。
また、近代化の過程で生じた諸矛盾を解決を目指す政治団体として、平等を目指す2つの流れが生じた。一つは社会主義革命により平等を目指そうとする流れ。もう一つは天皇の下に万民は平等であるとする流れである。これは、日清戦争や日露戦争を背景に、中華民国の成立や李氏朝鮮の近代化に関与した大アジア主義の潮流に乗る。また、社会主義の影響もとで国家主義によるアジアの近代化の実現を目指したために社会主義との接近をも起こし、その思想潮流はいわゆる国家社会主義や社会主義との複雑な影響の元にあった。思想的傾向は、必ずしも反共主義ではなく、反欧米色が強かった。この系統を引く団体は、「正統右翼」などと称される。
財界の要望に立ち労働運動を弾圧する「任侠右翼」(暴力団系右翼)と、理想を掲げて凡アジア的活動を行う「正統右翼」は、戦前の右翼団体の2つの大きな系統であった。これらは利害が一致する財界、軍部から資金援助を受けて活動をしていたと田中隆吉は述べている。
世界恐慌時代には、右翼も社会主義から強い影響を受け、一部の国学の系統を引く日本の保守思想家や左翼からの転向組の中から国家社会主義思想を持つグループが現れた。この系統は革新右翼と言い、陸軍の皇道派に近い民族主義的な観念右翼と、陸軍の統制派に近い革新右翼が対立を起こすようになる。これらは日独伊三国軍事同盟締結時の陸海軍の対立や、五・一五事件、二・二六事件などにも影響を与えた。右翼は大東亜戦争(太平洋戦争)直前に締結された日独伊三国軍事同盟については支持する立場を採ったが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムに対しては、自由主義や社会主義と同様の外来思想と受け止められ、東方会などの一部の団体を例外として大半からは無関心もしくは排斥の対象として捉えられていた。
第二次世界大戦終結後
1945年(昭和20年)に日本政府は降伏文書に調印した(第二次世界大戦での日本の降伏)。GHQにより多くの右翼団体は軍国主義の温床と見なされ、弾圧を受けた。また、右翼団体のパトロンであった軍部の消滅、財閥の解体、農地改革による地主層の没落により、資金面でも厳しい局面に追い込まれた。これにより革新右翼の流れを汲む民族派右翼(陸軍系)は衰退し、親米右翼の流れが増えていった。
冷戦時代
アメリカ軍を中心とする連合国軍の占領下に置かれた戦後混乱期には、GHQ主導で上からの民主化が進められたものの、東京裁判が終わると今度は冷戦が始まり反共主義による「逆コース」が進み、公職追放を受けた者が続々と政界に復帰した。すると、日本の再軍備化が検討されるようになり、公職追放解除や朝鮮戦争への日本の協力として旧軍人への法務府特別審査局の聞き取りなどがおこなわれ、それまで沈黙を保っていた旧軍人や右翼活動家も発言をおこなうようになった。再軍備にむけた旧軍人の組織的な活動は1951年(昭和26年)8月の大量の追放解除以降に活発化し、おおむね以下の5派が展開された。
1. 皇軍復活を主張した真崎甚三郎らの「皇道派」
2. 具体的再軍備案を提示のうえ連合国側に協力を提示した下村定らの「正義派」
3. 連合国との協力を変節者と見なしこれに対抗した岩畔豪雄らの「統制派」
4. 反共援蒋のために台湾派兵を計画した岡村寧次の「募兵派」
5. 制海・制空権を重視した再軍備計画を提案した野村吉三郎元海軍大将を中心とした「海軍派」
最初の組織化は前年に公職追放を解かれた赤尾敏による、1951年(昭和26年)10月に結成された大日本愛国党であるが、すでにその半年前の2月には第一回愛国者団体懇親会などができあがっており、また1952年(昭和27年)からは右翼団体が続々と設立された。
これらは冷戦にともなう「防共の砦」としての日本の防衛に危機感を持ったGHQの意向に適うものであり、左翼思想を統制する「逆コース」とも呼ばれた。1951年(昭和26年)には、日本国粋会初代会長・森田政治の申し出を受けて、木村篤太郎法務府総裁(後に法務大臣)が当時の金額で3億数千万の予算をつけ、テキ屋、暴力団、右翼をまとめた私兵「反共抜刀隊」を政策として立案したが、吉田茂首相に相手にされずに頓挫した。
占領期が終わると各右翼は天皇中心主義・反共主義・反社会主義・再軍備促進・憲法改正などのそれぞれの主張を標榜し、活動を再開した。これら戦後の右翼団体の大きな特徴としては「反共親米」路線を挙げることができる。
安保闘争中の1960年(昭和35年)にはドワイト・D・アイゼンハワー米国大統領来日を歓迎・支援するために、自民党安全保障委員会が、全国のテキ屋、暴力団、右翼を組織して「アイク歓迎実行委員会」を立ち上げ、左翼の集会に殴り込みをかけさせた。これらの動きに伴い、黒塗りの街宣車で大音量の軍歌を流す、典型的な「街宣右翼」が登場した。1992年(平成3年)の暴力団対策法施行以降は、暴力団組織が右翼団体に資金を提供、もしくは政治団体に衣替えする事例が続発し、右翼が国家に対抗し反権力を主張する状態になっている。街宣右翼は、相手を“反日”と断じたならば街宣をかけるというその性質から、様々な批評がされている。
任侠右翼の系譜としては、戦後しばらくして海軍と三菱財閥の流れを汲む利権に結びついた山口組系右翼の活動が目立った。彼らは海軍・三菱と共に長崎から船に乗って広島、神戸、横浜など造船所・港町を伝って全国へ広がった。天皇を立てた主張が近いため両者の識別は難しいが思想・活動目的、資金源は全く異なる。概ね親米か反米かで区別できる。戦後から昭和期にかけては児玉誉士夫のように政財界の黒幕として利権政治や談合に関与し、あるいは総会屋や仕手筋などとして暗躍するものもいたが次第に退潮した。正業を持たず資産家の資産を守る用心棒まがいのことをしたり、食客まがいの者もある。
他方では、1960年代後期から、「新右翼」や「民族派」と呼ばれる、街宣車を用いないか一般車のような外見の街宣車で演説をする活動に切り替える右翼活動家が現れ始めた。彼らは「反共」一辺倒の思想や暴力行為や大音量による宣伝活動に従来の観念右翼や街宣右翼に反発し、トークセッションに出演したり論壇誌に数ページの連載を持ったりする論理的な言論活動で日本や民族を訴える活動をしている。この背景には、従来型の右翼の黒幕である児玉誉士夫のロッキード事件での多額の蓄財の発覚や、三島事件、経団連襲撃事件などを契機とした、体制寄りの腐敗した「既成右翼」への反発がある。彼らは「反共反米反体制」や、場合によっては「民主主義、市民主義」を主張し、思想的には戦前の「正統右翼」との共通点も大きい。
冷戦後
冷戦時代には暴力団とつながった体制寄りの親米右翼が多かったが、冷戦終了後に施行された暴力団対策法や各地の暴力団排除条例により衰退し、反体制的な反米右翼も相対的に目立つようになっている。
21世紀に入ってからは在日特権を許さない市民の会に代表される、嫌中(反中)・嫌韓(反韓)を軸とした市民運動的スタイルの「行動する保守」が台頭し、街頭デモやインターネットを利用した「排外主義」的な宣伝活動で、国連の人種差別撤廃委員会を初め、国内外から批判されている。
分類
戦前(精神派・理論派)
戦前は組織・行動という分類ではなく、「純正日本主義」と「国家社会主義」とに分類され、前者は「精神派」、後者は「理論派」とされている 。
戦後(組織右翼・行動右翼)
組織右翼も行動を伴うが、嶋中事件の際に警察庁が「治安上注意を要する団体」として組織右翼と行動右翼という2分類をしている(『右翼関係団体要覧』、1972年。所在地記載のないものは東京所在)。
組織右翼は大東塾・不二歌道会、国民総連合、大日本生産党、国民同志会、日本青年連盟、国民社会党、合友会(名古屋)、日本同志会(岡山)。
行動右翼は大日本愛国党、護国団、治安確立同志会、防共挺身隊、国粋会、松葉会、義人党(日の丸青年隊)、大日本国民党、大日本独立青年党、師魂革新同盟(名古屋)、建国青年同盟(愛知)、愛国青年同志会(和歌山)、照国会(鹿児島)。
「行動右翼」の語は暴力団が右翼に参加した1960年(昭和35年)前後から一般化した。よって一部は暴力団の傘下団体(右翼標榜暴力団)である。
組織
伝統的な保守右翼、親米右翼、街宣右翼、観念右翼などとは別に、1960年代には学生運動など過激な左翼系運動の多発に対抗する形で、民族系右翼の大規模な組織化が行われた。右派学生らが立ち上げた民族派学生組織のうち、日本学生会議・日本学生同盟(2007年解散)・全国学生自治体連絡協議会などは、民族主義の立場から反米を含めた「YP体制打倒」を掲げ、大きな影響力を持った。しかし対抗勢力であった左翼の学生運動の退潮や組織の分裂により、民族派学生組織の運動も退潮し1990年代以降は目立った活動をほとんどしていない。
現在では、戦前からの系譜を引く任侠右翼や街宣右翼でも構成員数が三桁に達するところは皆無といってよい。ただし、任侠系はある程度組織が大きくなると部下に独立を促し別団体を結成させるため、個々の組織間の連携は密に取れている場合が多い。これら、任侠右翼や街宣右翼の構成員には、少からぬ数の在日韓国・朝鮮人が存在する組織があるのも特徴である。
活動
属する系統によって立場が違い、団体によって活動内容や方針も異なる。様々な右翼ないし保守主義者団体をまとめる連絡機関として、「全日本愛国者団体会議」(全愛会議)、「大日本愛国団体連合・時局対策協議会」(時対協)、「青年思想研究会」(青思会)、自民党議員も多く所属する保守主義者団体の「日本会議」などがあるが、必ずしも思想統一を行っているわけではない(特に、日本会議には行動右翼は全く加盟しておらず、逆に全愛会議や時対協には議員・評論家・実業家・宗教家といった人物は参加していない。交流などがあるのみ)。
他には年を表す際には西暦ではなく、元号や皇紀を優先的に使っている(元号法制定前には元号の法制化の推進運動や昭和51年から西暦を優先表記をするようになった新聞社を批判した)。
○ 明仁(当時皇太子)と皇后美智子(当時は「正田美智子」)の結婚に際し、松平信子・宮崎白蓮の働きかけを受けて婚姻反対運動を展開した(入江相政日記より)。
○ 日本共産党、社会民主党、日本教職員組合、全日本教職員組合などを「日本の赤化を企む暴力革命集団」とし、組合大会・教育研究全国集会や赤旗まつり、原水爆禁止日本国民会議世界大会等への抗議2008年(平成20年)2月の日教組大会に際しては、全体集会会場に予定されていたグランドプリンスホテル新高輪が、予約を受理していながら抗議行動による騒擾の恐れを理由にキャンセルし、抗議行動をする前に中止させる効果を生んだ。民事介入暴力も参照。
○ 戦後も、団体の多くは歴史的な経緯で学生運動や左翼テロの鎮圧に警察の動員数が不足した為、児玉誉士夫が暴力団にも要請した事から現在でも暴力団と関係がある。また任侠系であり、経営者の依頼を受け労働者のストライキ潰しや組合潰し、公害病患者のデモ潰しや脅迫(左翼系グループが関与している為)や、市民団体を標榜する左翼デモへの妨害、右派政治家の意を忖度しての放火、株主総会の“円滑な進行”など、資本家・権力層が直接手を下せない“汚れ仕事”も行う。暴力団対策法による締め付けを受け、名目上、思想団体として右翼思想を標榜しているだけという見方をされるケースも見受けられ、この場合は街宣活動を通じた恐喝行為・嫌がらせなどで、ある業務を取り止めさせたり金品をせしめたりするのが主な目的とされる(社会運動標榜ゴロ)。
○ 元公安調査官の菅沼光弘は「在日韓国・朝鮮人や被差別部落が暴力団員の9割を占め、右翼活動によって収益を上げている」との見解を示している。また、自身も在日韓国人である評論家の辛淑玉は英語版アサヒコムにおいて"Many, in fact, are Koreans, she said" ((彼女の話によれば右翼の中に)多数の在日韓国・朝鮮人がいる)と述べている。
○ 右翼思想に基づく団体でなくても左翼団体や近隣諸国に批判的であったりするとそう呼ばれることがあり、「右翼団体」の呼称に対する嫌悪感・ステレオタイプなイメージから、ある種のレッテルとして機能しているケースも見られる(中国のメディアは自国に批判的な日本の団体や人物を「右翼」・韓国では区別無く「極右」と表現している)。
呼称
「今上天皇」に絶対的敬意を示し、「天皇陛下」または「今上陛下」と称するのが普通である。歴代天皇では昭和天皇の事を「先帝陛下」・明治天皇には「明治大帝陛下」や「大帝陛下」・昭和天皇や大正天皇・明治天皇を「(元号)の天皇陛下」と称するもの者もいる(ただし昭和天皇のように死後に付けられた呼称は、それ自体に敬意が込められた追号であるので「昭和天皇」と呼称する者もいる)。他の皇族には「殿下」を付けたり「さま」を付けたり様々だが、「さま」では敬意が示せない(または失礼)や皇室典範に基づいて「殿下」を用いる方が多い(皇族への敬称を付けた呼び方は、皇族のページを参照)。 他の天皇に関する呼称では「天皇制」や「天皇家」を反天皇語(由来が天皇に批判的な者が作った言葉で「天皇家」の由来は皇室を参照)として使わない者もいる。
他には前述の様に「太平洋戦争」を「大東亜戦争」と呼んだりする(「太平洋戦争」にはアメリカの正義戦争という意味もあるとして)。
中華人民共和国を批判する際には「中共」(中国共産党への批判でも使われる)・「シナ・支那」・「シナ(支那)中共」、韓国や北朝鮮を批判する際には「朝鮮」(韓国を「南朝鮮」)、日本共産党を批判する際には「日共」と称したりする。
現在の祝日法に定められている祝日はGHQによって変更にされたものが多い為に、日本の右翼団体は現在の名称で言わずに戦前の名称で言う場合が多い。
○ 元日→四方節
○ 建国記念の日→紀元節
○ 文化の日→明治節
○ 天皇誕生日→天長節
○ 春分の日→春季皇霊祭
○ 秋分の日→秋季皇霊祭
○ 勤労感謝の日→新嘗祭
政治的主張
日本の右翼の主な政治的主張として、天皇制護持、反共主義、自主憲法制定論、国旗掲揚・君が代斉唱に賛成、太平洋戦争(大東亜戦争)の肯定・YP体制打破・靖国神社参拝、国防政策の強化・強硬的な外交政策の支持の支持などが挙げられる。政党に関しては、戦後最大の保守政党であり、長期間政権を保持している自民党や民主党の右派(主に旧新生党・民社党系)を支持する者が多いが、天皇親政の立場から議会制民主主義打倒を唱えたり独自の民族主義政党(維新政党・新風等)を組織する急進派も一部存在する。また、憲法改正論議では、ホワイトハウスによる「押し付け憲法論」・安全保障上の問題点等を指摘して改憲を主張したり、憲法無効論を唱える者も存在する。
対外的には、当事国や日本の左翼勢力が「その責任は日本政府にある」とする2005年(平成17年)の反日デモや前述の靖国神社問題、尖閣諸島の領土問題などから中華人民共和国と中華民国(台湾)、同じく反日デモや靖国神社問題、竹島の領土問題などから韓国、日本人拉致問題などから北朝鮮、ソ連の対日参戦の経緯や、それによってもたらされた北方領土問題からロシア(1991年)まではソビエト連邦)の5国を批判する事が多い。さらに、反共の立場と歴史認識の葛藤からベトナムや、反共の立場からキューバ、親米の立場から中東諸国、パキスタン、東ティモールなども批判の対象となることもある。
ただし、アメリカや韓国に対しての認識は団体によって異なる。反共の立場からアメリカや韓国を支持して来た右翼団体もあるが、冷戦後は靖国神社に対する態度や、1945年以前の世界を巡る歴史認識等を巡って、アメリカや韓国を批判する右翼が増えている。同様に、西側勢力にとって最大の脅威であったソビエト連邦が消滅したため、現状の日米安保体制は対米従属を推進させるだけだとして反米の立場を採った団体もあるが、中華人民共和国と北朝鮮の軍事的脅威や、ロシアとの間で抱えている領土問題で日本が不利な立場に立たされている事を主張して、依然として親米の立場を採る団体もある。
従来から反共のスタンスで中華人民共和国を否定し、中華民国を中国を代表する政府とするのが多くの右翼の立場であり、チベット独立運動、東トルキスタン独立運動、内モンゴル独立運動を支持する事が多い(独立運動は活発ではないが満州の独立を支持する団体もある)。しかし、中華民国は第二次世界大戦の連合国の一員であり、1945年(昭和20年)以前の世界を巡る歴史認識では日本の右翼と葛藤する立場である点から、近年は中華民国自体を否定し、台湾独立運動を支援する動きも見られる(なお中華民国が成立するまで台湾は大陸にとって人外・未開の地であり、一国として認識されてはいなかった)。これら活動の根拠として民主主義・人権・中国脅威論・民族自決などを唱えている。
左派系メディアの傾向があるとされる朝日新聞や毎日新聞に対しては、1990年代の慰安婦に関する一連の報道などから特に批判的である。また地方紙では北海道新聞や中日新聞、琉球新報、沖縄タイムスが敵視されている場合が多い。保守的論調の傾向がある読売新聞や産経新聞に対しては、肯定的な考えを示すことが多いが、場合によっては批判することもある(読売新聞が2004年に提言した憲法改正案で「天皇」の項目を第一章ではなく、第二章にした事を批判した事もある)。また、日本経済新聞に対しては、近年における大企業の中国への進出から、中国への肯定的な報道姿勢や進出した日本企業がチャイナリスクで生じる日本経済への影響もあるため、批判的であることが多い。日本経済新聞の論調である親米保守的な新自由主義やグローバリズムと、農本主義などの民族主義思想は基本的に相容れないものである。
歴史認識
○ 伝統的な右翼の歴史認識は、国体護持の立場から皇国史観を主張する。しかし具体的にどのような国家体制を理想とするかは多数の立場があり、古代などの天皇親政や貴族制度の復活、伝統的な国家のよりどころとしての皇室を強調し象徴天皇制を維持すべきとする意見、明治天皇のような啓蒙専制型の天皇親政の復活、更には北一輝などの近代国家の統合のための天皇機関説に近い国家体制などが存在する。
○ 五・一五事件、二・二六事件などのクーデターに関しては、天皇親政の中央集権的な新国家を創立しようとしたものとして評価する立場や、伝統的な保守主義や法治主義や明治憲法の立憲君主制を尊重する立場から批判的な立場も存在する。
○ 韓国併合や満州事変や日中戦争などの日本による大陸進出に関しては、多くの問題があり全てを肯定はできないものの、ロシア帝国やソビエト連邦の南下を防ぎ、近隣国の近代化を促進し、日本の生存圏を防衛するための必要性は否定できないと主張する立場が多い。ただし宗教右翼の一部は、各民族の伝統的な文化や宗教などを尊重する立場から、強制的な近代化や皇民化教育などの植民地政策を否定した。
○ 第二次世界大戦(太平洋戦争)に関しては、通常は大東亜戦争と呼び、自衛的な戦争であったと主張する。また、戦争は毛沢東やコミンテルンの陰謀により開始させられた、との共産主義陰謀論を主張する者もいる。他方では一部の保守主義または自由主義的な右翼は、統制派が主導した国家総動員法や言論統制や統制経済などの戦時体制は1種の社会主義であるとの立場から、これらを批判した。いわゆる「南京大虐殺」や「慰安婦強制連行」などに関して捏造ないしは誇張されたプロパガンダであると主張する傾向がある。
○ 第二次世界大戦後の日本に関しては、伝統的右翼・親米右翼・反共右翼の多くは、共産主義の影響を受けた左翼による自虐史観が教育現場やマスコミで横行していると主張し、大東亜戦争及び大日本帝国肯定・戦後民主主義否定、日本教職員組合や朝日新聞(左翼系)などへの批判、スパイ防止法、軍備力の増強、日米安保条約の強化などを主張している。他方では民族派右翼は戦後の日本を、アメリカとソ連などによる事実上の日本の植民地化である「YP体制」との立場から、反共主義と同時に反米を主張した。
主な批判対象諸国
日本の多くの右翼団体では、反共主義の立場からソ連崩壊までのソビエト連邦や、中国や北朝鮮などの国家・体制・政府や共産主義政党を批判している。また中国に弾圧されているチベット・東トルキスタン・内モンゴルなどの自治独立運動を支持する立場もある。冷戦期には、大日本愛国党などの大半の右翼団体は反共の立場から親米・親韓・親台湾・親体制(親米右翼)であったが、新右翼などは反共・反米・反体制(反米右翼)であった。
国家主義や民族主義の立場から、過去の南下政策や北方領土問題などでロシアを、竹島問題などで韓国や北朝鮮を、尖閣諸島問題などで中華人民共和国や台湾(中華民国)を批判する立場もある。また極東国際軍事裁判やGHQによる日本占領政策や靖国神社問題などを国際法違反の内政干渉として、当時の連合国を批判する立場や、欧米の新自由主義などを経済侵略や文化侵略と批判する立場もある。
更に日本や東洋の文化伝統や歴史を重視する保守主義や民族主義の立場からは、欧米型の個人主義・民主主義・自由主義などを批判し、近代化や、男女平等や死刑問題などの人権問題、捕鯨問題や環境保護運動、これらを含む教育問題などで、アメリカ合衆国・欧州連合・オーストラリア・ニュージーランドなどの欧米諸国や、その立場を反映しているとして国際連合や各種の非政府組織などを批判する立場もある。また宗教面ではキリスト教やイスラム教などの唯一神教に対し、多神教の神道や、あるいは仏教・儒教などの優位点を主張する立場もある。 
 
右翼 2  
右翼について
1 右翼の定義
右翼と呼ばれる結社のすべてに近い多くは皇室敬載を本義の第一義としている。そして、共産主義・社会主義の打倒撲滅を目指している。民族の伝統・文化の護持と外来・変質文化・思想への警戒。しかし、その主義、その思想、その主張は幅広く親米とヤルタポツダム体制打破の様に真逆のモノも多いため右翼は一人一党と言われる由縁でもある。
主義主張も多岐に別れ、民族主義、国体主義、日本主義、精神主義、大アジア主義、国粋主義、超国家主義、国家社会主義等がある。簡単に定義しきれないほど複雑な糸絡みの様な雑多な要素の連結であり、皇室・反共以外は単純にはひと括りは出来ない。
民族主義 / 西洋列強の日本支配に対抗する尊皇攘夷運動を源流とし、民族自決の精神を掲げ他国家(米中露)の干渉を排除する運動。
大アジア主義 / 頭山満等がアジアとの連帯を目指し、欧米列強の脅威からの脱却を思考したが、後日清戦争に平和協調路線を放棄し日本が盟主となる侵略型となった。
国粋主義・国家主義 / 自国民および自国の文化・伝統を他国より優れたものとして,排外的にそれを守り広げようとする考え方。
国家社会主義 / 日本的国家社会主義とは、天皇を中心として社会主義の一部を取り入れ、国家をより強靭な体制につくりかえようと北一輝を中心に思考した。
2 右翼にバイブルは必要か?
共産主義には『資本論』という理論のバイブルがある。よく右翼には理論のバイブルがないと言われるが、北一輝の「日本改造法案大綱」によって昭和維新(戦前右翼)のバイブルが誕生したと言える。しかし国体の本義に基づく右派・維新派・民族派に細かい理論がはたして必要であろうか?万世一系の天皇のもと日本古来の文化・風習・道統を守っていくことこそが役目ではないであろうか。机上の空論でしかない世界の社会主義国の末路を見れば理解でき、実践の中にこそ活路を見いだしていく道もまた正論であろう。愛国運動に挺身するには、気紛れだけでは続けられない。広い知識と修養が必要である。思慮深く見識を養いの誠意を持ち気迫を保ち続けなければならない。日本国体の本義である万世一系で連綿と天皇陛下を尊崇し、我が国独自の伝統や文化のもつ精神を基礎として国家の繁栄を目指す運動に挺身する実践活動を通じて多くを学んでいくべきである。
3 保守中道と反動
保守・中道は現在の体制や秩序を重んじ、反動である右翼は、過去の情勢や体制に美意識を見出し復古を目指すと言われてきた。 反動である左翼は、過去から続く伝統や今成り立っている現実を軽蔑し現実や過去を否定することで根拠なきより良き未来に夢を見る空中楼閣を作り上げようとしている様なものである。
世界情勢・国民生活等が急激に変化している現在において国民意識の変化も当然の状況である。 社会変革・社会改革を漸進的に進める手法を選ぶ保守派と対峙する勢力は急進的・革命的手法で国家改造を行おうとしたのである。 
右翼(右派)の源流と歴史
明治時代
明治維新時、薩長藩閥による専制政府が成立し各藩の武士は不満が暴発し、佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・西南戦争と反乱が続発する。福岡藩は筑前勤王党として勤王派諸藩の中にあって存在感を示していたのだが、幕府の圧力に屈し、総勢百四十名の大量の処刑という「乙丑の獄」と呼ばれた大弾圧を加え、勤皇派は壊滅した。その結果、明治新政府創建という大事業に、一人たりとも参画することが出来なかった。塾生には、頭山満・武部小四郎・箱田六輔・越智彦四郎・進藤喜平太・奈良原至・宮川太一郎らが学んだ。明治8年、頭山満等により「矯志舎」が結成されるが、神風連の乱・萩の乱に連座し社員税員が逮捕された。
明治維新時、薩長藩閥による専制政府が成立し各藩の武士は不満が暴発し、佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・西南戦争と反乱が続発する。福岡藩は筑前勤王党として勤王派諸藩の中にあって存在感を示していたのだが、幕府の圧力に屈し、総勢百四十名の大量の処刑という「乙丑の獄」と呼ばれた大弾圧を加え、勤皇派は壊滅した。その結果、明治新政府創建という大事業に、一人たりとも参画することが出来なかった。
下獄後の明治10年に「向浜塾」を結成し、10万余坪の山林開拓に乗り出す。明治12年に全国の欧化批判派が結集し大阪で開催された「愛国社」の大会参加後、塾を解散する。頭山満や平岡浩太郎・箱田六輔等が「向陽社」を結成し,3年後に「玄洋社」と改称した。
社員には、大隈重信爆殺事件(計画は失敗し右足切断の重傷)の来島恒喜や緒方竹虎・中野正剛・内田良平・広田弘毅…を輩出した。
「玄洋社」の基本精神である「社憲則三条」は、
第一条 皇室を敬戴すべし
第二条 本国を愛重すべし
第三条 人民の権利を固守すべし
系譜には、「黒龍会」「大東塾」「大日本生党」「東方会」「浪人会」
大正時代
大正期に入ると、任侠系・行動右翼が登場する。この系統には、「関東国粋会」「大日本国粋会」「大和民労会」「大正赤心会」「皇道義団」「大日本正義団」「赤化防止団」「鉄血団」…
大正8年、満川亀太郎・大川周明・山田丑太郎等により「猶存社」が結成された。主張は大亜細亜主義に加え国家革新を唱えた。その後中国上海にいた北一輝も帰国し参加し、北の「日本改造案大綱」の発行領布した。
主な同人には、鹿子木員信・安岡正篤・清水行之助・岩田富美夫・嶋野三郎・西田税・綾川武治・渥美勝等といった後の昭和維新運動の指導者達が結集した。系譜には、「大学寮」「大化会」「大行社」「行地社」「興亜学塾」「東興連盟」「士林荘」「全日本興亜同志会」「建国会」「国民戦線社」…
昭和前期の時代
大正末期からの不況に加え昭和に入る金融恐慌が起った。失業者は200万人を超え、農村は疲弊していた。 この様な世相を背景に国家社会主義を主流とした国家革新運動は急速にその勢力を成長させた。そして血に塗られたテロルとクーデター続発し、狂気の時代となっていった。
 昭和 5年 佐郷屋留雄による浜口雄幸狙撃事件
 昭和 6年 議会急襲未遂の3月事件・首相官邸襲撃未遂の10月事件
 昭和 7年 血盟団事件、5.15事件
 昭和 8年 神兵隊事件
 昭和 9年 士官学校事件、永田軍務局長刺殺事件
 昭和11年 2.26事件
 昭和18年 東方同志会事件、勤皇まことむすび・維新公論社事件
敗戦と占領の時代
敗戦によるショックに加え、占領軍(GHQ)の『皇国史観」の否定、右翼人の戦犯指定、団体の解散命令により右翼陣営は壊滅した。解散命令を受けた団体は300近くにのぼり、主なところは「大日本生産党」「大東塾」「玄洋社」「大化会」「時局協議会」「東方会」「建国会」「黒龍会」「国粋大衆党」「天行会」…
敗戦の混乱の中、忘れてはならない悲しい事件も続発した。
 8月22日、尊攘同志会員愛宕山自決事件
 8月23日、明朗会宮城前自決事件
 8月25日、大東塾代々木練兵場自決事件
大東塾系では、3年後の4月8日に影山庄平の弟・岩男が「占領下の教育に悲嘆し自刃。30年後の昭和54年5月25日塾長の影山正治が「元号法制化の実現を熱禱し奉る」と遺書し、切腹後拳銃心臓を打ち抜き自死した。
戦後の昭和時代
昭和21年の第回総選挙には、大政党に混じり「天皇制奉護同盟」「日本反共連盟」「日本革新党」 等の右派政党が400以上名乗りを上げた。戦前からの系譜を告ぐ団体も「救国青年連盟」「日本国民党」「菊旗同志会」「新日本党」「全国勤労者同盟」等や、復員軍人系の「菊水会」「日本戦友団体連合会」等も動き出した。朝鮮戦争後に右派陣営も追放解除になり、福田素顕・荒原牧水により「愛国者団体懇親会」や本間憲一郎の「新生日本国民同盟」や旧東亜連盟系を統合した「協和党」等が結成された。
昭和30年代には史上空前の規模の反政府・反米運動の安保闘争が繰り広げられ左派勢力の暴力の嵐が吹き荒れた。日ごとに高揚する政治闘争のうねりの中で、右翼派危機感を募らせ日本同盟・昭和維新連盟・生産党・日乃丸青年隊・殉国青年隊等により「全日本愛国者団体会議(全愛会議)」、児玉誉士夫系の「青年思想研究会(青思会)、福田素顯系の「大日本愛国団体連合時局対策協議会(時対協)」等行動右翼の連合体が次々結成された。  
日本の国体を守る会 / 正論社
綱領
1 青年の知育と徳育を練成し、祖国を愛する正しい民族愛精神の喚起につとめる。
2 広く同憂の士と同志体を結成連合し、力を合わせて「維新」の思想的研鑽と統合を図る。
3 思想を強固にし、日本の歴史と道統に反する矯激なる国際共産勢力を排撃し真正日本の顕現に必要と信ずる実践活動を実践する。
行動指針
弊会は真正日本主義に基づき、品格をもって活動するものとする。会員各自は、本職(生業)を最優先とし、研究会・奉仕活動・各運動はその余暇時間に極力参加するものとする。
○ 基本理念
真正日本主義を掲げ、日本国体の本義である万世一系で連綿と続く天皇陛下を尊崇し、我が国独自の伝統や文化のもつ精神を基礎として国家の繁栄を目指す運動に挺身する。
YP(ヤルタ・ポツダム)体制により荒廃した教育、拝金的資本主義体制を是正し民族自決の権利を取り戻す。
日本民族の生き方として天皇制を利用し使う政治勢力を決して許してはならず、徹底対決する。
○ 憲法に対する理念
占領下に押し付けられた原文英語の屈辱的憲法を即時改正し真の独立国としての自主憲法の制定を目指す。
○ 領土問題に対する理念
日本固有の領土である北方領土(歯舞・色丹・国後・択捉島及び千島列島)、竹島の即時返還を強固に推進する。
○ 防衛問題に対する理念
復活帝国主義的『ロシア』及び覇権主義的超独裁国家中共』の侵略及び狂犬国家『赤色朝鮮』並びに国際テロ組織に対する断固たる防衛体制の確立を目指す。
○ 教育問題に対する理念
日教組の即時解体と教育勅語を修正復活し、青少年に正しい知識見識と誠意を持つ真の日本精神を広める。
○ 歴史観に対する理念
正しい検証もせず日本を侵略国家・悪玉と一方的に断罪する「東京裁判史観」の打破、正しい歴史観の樹立する。
○ 靖国に対する理念と活動
国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊の御霊に対し哀悼の誠を捧げ、尊崇の念を忘れず、御霊安らかなれとご冥福をお祈りする奉仕活動をする。 
 
ポピュリズム [populism] 

 

人民主義と訳されるが、その意味は適用範囲によって異なる。 19世紀後半のロシアにおいて発生したナロードニキ運動はツアー体制打倒を目指す知識人たちが農村を拠点として展開した社会主義運動である。
(Populism)19世紀末に米国に起こった農民を中心とする社会改革運動。人民党を結成し、政治の民主化や景気対策を要求した。一般に、労働者・貧農・都市中間層などの人民諸階級に対する所得再分配、政治的権利の拡大を唱える主義。大衆に迎合しようとする態度。大衆迎合主義。
民衆の情緒的支持を基盤とする指導者が、国家主導により民族主義的政策を進める政治運動。1930年代以降の中南米諸国で展開された。民衆主義。人民主義。政治指導者が大衆の一面的な欲望に迎合し、大衆を操作することによって権力を維持する方法。大衆迎合主義。
一般的に、「エリート」を「大衆」と対立する集団と位置づけ、大衆の権利こそ尊重されるべきだとする政治思想をいう。ラテン語のポプルス(populus)=「民」が語源。こうした考えの政治家はポピュリストと呼ばれる。複数の集団による利害調整は排除し、社会の少数派の意見は尊重しない傾向が強い。「大衆迎合」「大衆扇動」の意味でも使われる。ただ、有権者の関心に応じて主張を変えたり、危機感をあおったりする手法は、ポピュリストとみなされない政治家も用いる。
政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶ。ポピュリズムは諸刃の剣である。庶民の素朴な常識によってエリートの腐敗や特権を是正するという方向に向かうとき、ポピュリズムは改革のエネルギーとなることもある。しかし、大衆の欲求不満や不安をあおってリーダーへの支持の源泉とするという手法が乱用されれば、民主政治は衆愚政治に堕し、庶民のエネルギーは自由の破壊、集団的熱狂に向かいうる。例えば、共産主義への恐怖を背景にした1950年代前半の米国におけるマッカーシズムなどがその代表例である。民主政治は常にポピュリズムに堕する危険性を持つ。そのような場合、問題を単純化し、思考や議論を回避することがどのような害悪をもたらすか、国民に語りかけ、考えさせるのがリーダーの役割である。
大衆の支持を基盤とする政治運動。一般庶民の素人(しろうと)感覚を頼りに、政権や特権階級、エリート層、官僚、大地主、大企業などの腐敗や特権を正す政治エネルギーとなることもあるが、一方で人気取りに終始し、大衆の不満や不安をあおる衆愚政治に陥ることもある。このため「人民主義」「民衆主義」などと肯定的に訳される場合も多いが、日本では「大衆迎合主義」「衆愚政治」などと否定的に使われることがある。なお、アメリカでは肯定的に、ヨーロッパでは否定的な意味で使われる傾向がある。ポピュリズムの特徴は、(1)理性的な議論よりも情念や感情を重視する、(2)政治不信や既存の社会制度への批判を背景に広がることが多い、(3)集団的熱狂、仮想敵への攻撃、民主主義の否定などに向かいやすい、(4)有権者の関心に応じて主張が変わり一貫性がない、(5)多くの場合一過性の運動である、などである。ラテン語の「ポプルス(人々、人民)」が語源である。もともとは19世紀末にアメリカ南西部で農民層を中心に結党され、民主化、景気対策、土地所有制限、大企業の寡占防止、所得再分配、貧富の差是正などを要求した人民党(People's Party、Populist Party)の政治運動をさす。1930年代以降、都市化の進んだ中南米諸国で相次いで出現し、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビアなどに広がった。1950年代前半にアメリカで起きた反共産主義運動「マッカーシズム」や、オバマ政権を批判する草の根保守運動「ティーパーティー運動」などは、ポピュリズムの一種とされている。日本では2000年代初頭の小泉純一郎政権の誕生以降、ポピュリズムということばが多用されるようになった。抵抗勢力との対決を掲げた小泉政権の構造改革路線や、大阪市長の橋下徹(はしもととおる)(1969― )を中心とする「維新の会」の動きなどがポピュリズムにあたるとされる。こうしたポピュリズムの動きは、既存政治システムへの不満や批判ばかりを繰り返すマスコミや知識層への不信の表れであるという指摘もある。
…英語ではポピュリズムPopulismという。大衆を支持基盤とした政治運動。…  
 
ポピュリズム

 

一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、または政治姿勢のことである。日本語では大衆主義や人民主義などと訳されるほか、政治指導者、政治活動家、革命家が大衆の一面的な欲望に迎合して大衆を操作する方法を指し、大衆迎合主義とも訳される。
また、同様の思想を持つ人物や集団をポピュリスト(英: populist)と呼び、民衆派や大衆主義者、人民主義者、もしくは大衆迎合主義者などと訳されている。
ここ数世紀の学術的定義は大きく揺れ動いており、「人民」、デマゴーギー、「超党派的政策」へアピールする政策、もしくは新しいタイプの政党へのレッテルなど、しばしば広く一貫性の無い考えや政策に使われた。英米の政治家はしばしばポピュリズムを政敵を非難する言葉として使い、この様な使い方ではポピュリズムを単に民衆の為の立場の考えではなく人気取りの為の迎合的考えと見ている。にも関わらず近年新たに学者によってポピュリストの見分け方や比較分類の為の定義がまた作られている。Daniele AlbertazziとDuncan McDonnellはポピュリズムの定義を「均一的(人種・宗教などが共通の)良民を、エリート層と危険な『違う人々』を両者共に主権者たる人々から権利、価値観、繫栄、アイデンティティー、発言力を奪う(もしくは奪おうとする)ものと説き、民衆と対決させる」理念としている。
近年では、「複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始し、真の政治的解決を回避するもの」として、ポピュリズムを「大衆迎合(主義)」と訳したり、「衆愚政治」の意味で使用する例が増加している。村上弘によれば、個人的な人気を備えた政治家が政党組織などを経ずに直接大衆に訴えかけることや、単純化しすぎるスローガンを掲げることを指すとする。
民主主義は民意を基礎とするものの、民衆全体の利益を安易に想定することは少数者への抑圧などにつながる危険性もあるという意味では、衆愚政治に転じる危険性は存在するが、それは民主主義の本質であって、ポピュリズムそのものの問題ではない。民主制は人民主権を前提とするが、間接民主制を含めた既存の制度や支配層が、十分に機能していない場合や、直面する危機に対応できない場合、腐敗や不正などで信用できないと大衆が考えた場合には、ポピュリズムへの直接支持が拡大しうる。その際にはポピュリストが大衆に直接訴える民会・出版・マスコミなどのメディアの存在が重要となる。
ノーラン・チャートによる定義では、個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても慎重ないし消極的な立場を採る政治理念をポピュリズムと位置づけ、権威主義や全体主義と同義としており、個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても積極的な立場を採るリバタリアニズム(自由至上主義)とは対極の概念としている。
歴史
「ポピュリズム」の用語は「ラテン語: populus(民衆)」に由来し、通常は「エリート主義」との対比で使用される。
古代ローマでは「populus」は「ローマ市民権を持つ者」の意味であったが、ポピュリスト達は「民衆派(大衆派)」とも呼ばれる事実上の党派となり、ティベリウス・グラックス、ガイウス・マリウス、ガイウス・ユリウス・カエサル、アウグストゥスなどは、元老院を回避するために民衆に直接訴えて市民集会で投票を呼びかけた。
19世紀にヨーロッパで発生したロマン主義は、従来の知識人中心の合理主義や知性主義に対抗し、大衆にナショナリズムやポピュリズムの影響を与えた。1850年から1880年のロシア帝国では、知識人(知的エリート)に対立する運動として現れた。
19世紀末のアメリカ合衆国では、人民党(通称ポピュリズム党)が既成の支配層である鉄道や銀行を攻撃し、政治思想としての「ポピュリズム」が広く知られるようになった。以後もアメリカでは、マッカーシズムや、2000年代のティーパーティー運動などがポピュリズムと呼ばれている。
1930年代のイタリアのファシズム運動、ドイツのナチズム、アルゼンチンのフアン・ペロン政権などは、既存のエリート層である大企業・外国資本・社会主義者・知識人などに強く反対し、大衆に対して雇用や労働条件向上を実現する変革を直接訴えたため、ポピュリズムと呼ばれる場合が多い。 
騙りの地平 虚飾の正義
ポピュリズムというのは、大衆迎合主義と訳されますが、そもそもは、エリート主義とは対立する概念として、19世紀から20世紀にかけ、アメリカで生まれた政治手法のことです。
大衆が政治の中心に位置するために、大衆が期待する政治や政策をアピールし、それによって、幅広い市民運動を形成するために、マスコミを動員した大衆の啓発と組織化がその本来の意味するものです。
大衆への情報開示や伝播をその柱とし、エリート集団だけで意志決定される政治から、大衆を広く取り込んだ政治を形成するという考え方です。
すなわち、民主主義には、このポピュリズムというのは切っても切り離せない関係にあり、民主主義が転ぶときには、同じように、このポピュリズムが重要な要因となります。
たとえば、アメリカ大統領選挙などに見られる、マスコミの活用はその典型ですし、生まれたときからネット社会にある、デジタルネィティブの若者たちが、インターネットの情報を通じて、世界中で連帯し、エイズ撲滅のための集会やデモを組織するというのも、この手法によるものです。
既成の価値観や既得権の壁を壊し、新たな運動を起こし、大衆を組織するという点で、そこには、反既成権力とその権力を支えている、官僚への反エリート主義があります。
しかし、これは、同時に人気主義による、衆愚政治ともなる諸刃の剣です。
戦前のドイツでは、ヒトラーが権力を自分一人に集約することで、ファシズムが形成されますが、これを支持し、支えたのは第一次世界大戦で世界で唯一の敗戦国となり、生活が疲弊して、自信を喪失していたドイツ人の国民感情です。
ヒトラーはこの民衆の生活への不満、他国への不満、そして、自信を喪失したやり場のない感情を巧みに読み、そこにゲルマン民族主義を強く訴え、これを大衆化することで、ファシズムを形成しました。
また、イタリアでは、ムッソリーニが反エリート主義を唱え、日本的に言えば、漁師の組合のおっつぁんが浪花節的に、「金持ちやエリートに政治は任せられネェ」と、生活に困窮する貧しい労働者を取り込むことで、民兵組織をつくり、これが文民政治に圧力を掛けることになり、ファシズムを形成しました。
同じようなファシズムでありながら、ドイツとイタリアのそれには大きな違いがあります。
ヒトラーのファシズムは反エリート主義はなく、徹底したエリート主義とも言えるもので、ヒトラー自身、ゲルマン民族の優位性を鼓舞することで、偏狭なエリート主義を国民感情に植え付けました。そのための敵として、反ユダヤ主義を提唱するわけで、ある意味、ヒトラーのファシズムには明確な一貫性と論理性があります。しかし、その冷徹な論理性ゆえに、日本、イタリアを除く、世界すべてを敵に回してしまったという愚さがあります。
しかし、イタリアのそれは、左派も右派もなく、義理人情や心情によって、「貧しいおらたちが、新しい、いい国にすんべ」といった類のもので、ラテン系らしく、非常に感情的で、直情的なファシズムです。言い換えれば、非常に無秩序で、無教養なものです。
日本の戦前、戦間期のファシズムは、一般にドイツのファシズムの形態を模倣したと言われていますが、現実的には、このイタリア型に似ていて、昭和15年に近衛文麿総理大臣によって、指導、発案され、曖昧なまま誕生した、大政翼賛会といわれる挙党体制も、まさしくこれです。
現在もそうですが、戦前においては、現在よりなお、欧米に比べ、政治の成熟度が非常に遅れていた日本では、世界各国の動向と思惑を収集できる情報力もなく、また、把握できていたとしても、これを分析できる頭脳もなく、適切な国際協調や連帯ができる、国際感覚とバランス感覚を持った、強力なリーダー、政治家が全くいませんでした。
そのため、昭和6年の関東軍による満州侵略以後、国政・外交において強い発言権を持つようになっていた、陸軍内部の交戦派(いわゆる、統制派と呼ばれていた連中)、簡単に言うと、国土拡張派(侵略と言うよりは「拡張論」の呼称の方が大東亜共栄圏構想の基本概念に近いため)と対峙するために、一国一党主義というドイツやイタリア、ソビエトのような統制国家構想が浮びます。
開戦を阻止できなかった総理大臣として批判されますが、近衛にしてみれば、大政翼賛会という挙党体制を取ることで、軍部を取り込み、その暴発を防ぐという狙いもあったのです。
しかし、結局は、太平洋戦争へ向け、文民官僚(背広)組も、陸軍の官僚組も、暴走する陸軍内部の交戦的な統制派(国土拡張論派)を抑えることができず、近衛が描いた軍部のコントロールはできなくなります。かつ、当時の明治憲法では、天皇を頂点とする万世一系の皇国史観とも、天皇の統帥権とも、一国一党構想は矛盾するため、混乱し、物議を醸すのです。
なぜなら、近衛文麿が国会から市町村議会までを統合する大政翼賛会の総裁となれば、天皇を頂点とする軍の指揮系統と矛盾するからです。
ところが、アメリカとの開戦が避けられない情勢になって、状況が逼迫してくると、政治家も軍部も、パニック状態になり、天皇の統帥権は棚上げし、理屈はともかく、主義主張はともかく、とりあえず、戦時下においては挙国一致でなければという単純な思惑から、乗り遅れてはヤバイと左派も右派も中道派もこれに参加するというていたらくを見せます。
ところが、こうした政党や軍部の動きに連動し、支持したのが、「打たれたら、打ち返せ!」と威勢のいい掛け声で結集した、烏合の衆、交戦よしとする教養のない、大衆でした。良識ある知識人たちの声も、軍部にわずかにいた国際感覚を持つエリート官僚たちの声も、すべて、その無知、無教養な声にかき消されてしまいます。
その結果、制服組による文民統制(シビリアンコントロール)は全く機能しなくなり、日本から姿を消します。そして、大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本婦人会・大日本青少年団といった、国民のあらゆる階層を取り込んだ国家最優先、陸軍の国土拡張論最優先の軍部主体の政策を支持する体制が出現したのです。
いわば、「アメリカがシーラインを封鎖するなら、こっちもやり返せ! でなきゃ、おらたちの生活がますます苦しくなるだに!」といった状況の中で、「あっちの村でもやるんなら、おらたちの村も、そのなんたらっていう団体に入っておかねぇば、取り残されちまうだ!」「あとで、オメオメ頭下げて、入れてくれっていったら、笑われちまうぞ!」といった勢いで、戦争へまっしぐらの大政翼賛会が誕生してしまうのです。
この点がイタリアの直情的なファシズムと非常に類似しています。
昭和13年、満州事変以後、中国大陸への出兵を続ける関東軍によって泥沼化していた日中戦争を継続するために、国家総動員法が、やはり近衛文麿によって誕生しますが、これも、こうした大衆心理に支えられていました。
そこにあったのは、世界恐慌によって国内経済が疲弊した中、追い討ちをかけるように、陸軍の一部が始めてしまった満州侵略によって、さらに生活が困窮していた国民の生活不安とジレンマがありました。
侵略によって、国土の拡張によって、国家経済がよくなると考えたのは、陸軍の統制派、国土拡張論派ばかりでなく、国民感情もそれを後押ししていたのです。しかも、陸軍の統制派と呼ばれる軍上層部は、エリートと言われた、士官学校、陸軍大学出身者の中でも成績の振るわなかった東条英機ら、落ちこぼれ集団です。
ここにイタリア的ファシズムの構造が成立してしまったのです。
つまり、軍部をコントロールしていたエリート官僚を脇に置き、威勢のいい掛け声を上げる、落ちこぼれの軍人たちが、反エリート主義を主張することで、軍の中枢を握り、かつ、その呼びかけに、ちまちましたエリート政治家や官僚に嫌気が差していた大衆が迎合したのです。
そこにあったのは、敗戦によって露呈した、虚飾の正義でした。
軍の力の誇示なくして、外交はできないという嘘をつき、武力には武力によって立ち向かうしか解決の道はないのだと国民を騙し、連呼し続けた一部の国際感覚なき、英語もまともにしゃべれず、書けず、欧米人とまともに会話もしたことのない、無知無能の国粋主義者たちです。
いまテレビや一部雑誌で、羞恥心もなく、先の戦争責任は日本にはなかったと愚かなことを騙り続けている、元航空自衛隊空爆長の田母神俊雄とそれに同調している、「新しい歴史教科書をつくる会」会長の西尾幹二、さらには、彼らを、無能の大衆よろしく、支持している、大政翼賛会雑誌WiLLのやっていることは、まさに、この反エリート主義を主張し、「文民政治家に政治は任せておけないから、田母神のような人間に政治の中枢を握らせろ!」と同じニュアンスで、結果的にファシズムを煽り続けているのです。
昭和13年頃の日本の政治経済状況と現在は非常によく似ています。生活格差を抱えた経済状況、にもかかわらず、企業は格差をよしとして人を切り捨て、政治は無能で、国民のための具体策を提示できない状況、それらが非常に類似しているのです。
現実に、WiLLの総決起集会には、田母神の講演に熱烈な拍手と賛同が沸き起こり、まさに、明日、北朝鮮に向け、自衛隊が出兵して、コテンコテンに打ちのめしてしまえというような熱気に包まれていました。
だから、核武装も当然という空気が会場を包みました。この扇動の責任は一体、だれがとるのか。
しかし、述べてきているように、緻密に過去の歴史を紐解けば、田母神の言っている歴史観や「新しい歴史教科書をつくる会」の論調が、いかに手前勝手で、うすっぺらいものかがわかります。
田母神を航空自衛隊の現場のトップの人事にさせた自衛隊の体質や防衛庁(当時)の見識のなさも非難されるべきですが、田母神は本来、そうした立場に立てるようなキャリアを積んできたエリート官僚ではありません。まさに、東条英機のように、成り上がってやっとトップの座を手に入れた人間です。
その男が講演で平然と、制服組を無知無能呼ばわりし、北朝鮮との温い外交交渉ではだめで、交渉が決裂すれば、自衛隊が出兵して徹底的に叩く必要があるとまで言い切っています。
自衛隊が憲法でその立場を保証されてない云々を彼は言いますが、彼の騙りの内容はその問題とはまったく関係がありません。彼の言動そのものがすでに憲法を無視しているからです。
彼は自衛隊の責任者の一人であり、国民が選んだ文民政治家によって統括管理される立場の公務員に過ぎません。まして、国の防衛という仕事に当たり、憲法に拘束される人間が、個人の意見だから何を言ってもいい根拠などそもそもないのです。
それは言論統制ではなく、憲法に拘束される立場の人間が国民への当然の責務として全うしなくてはならないことです。解任、更迭が言われたのもそのためです。
彼の理屈は、大統領じゃ頼りにならないから、核のスイッチを自分たち軍人に持たせろと言っているのに等しいことです。
憲法は国民が統治者、権力者を縛るための最高規範で、田母神のような公務員はこれに従う、公僕としての絶対の義務と責任があるのです。なぜなら、彼は私たちの血税によって生活を保証された人間で、それ以上の存在ではありません。
近代憲法の成り立ちについて、この人はまず勉強すべきです。
そして、何より、彼が厚顔無恥なのは、そうした反政府、反文民統制を主張しながら、ポストにしがみついて、自己の主張をし、民主主義の原理をまっこうから否定していることです。
そこまでのことを公務員が語れる権利はありません。憲法を理解する能力がないなら、まず、国家公務員法から勉強すべきです。さもなくば、自ら潔く職を辞すべきだったのです。日本男子という言葉を彼は連呼しますが、ならば、率先推移、職を辞し、日本男子としての誇りと名誉を示すべきだったはずです。その上で、持論を展開すればいい。その気骨もないところで、自分ではない若者の命を犠牲にする戦争を語る資格などありません。
しかも、そればかりか、私たちの血税から捻出された、退職金もしっかりもらい、かつ、テレビや雑誌に登場し、国粋主義を煽り、扇動することで金を稼いでいる。この姿は醜いとしか言いようがありません。
彼の講演に参加していた人々の多くが50代以上70代前後の連中だったのは救いでもありますが、同時に、危険でもあります。かつて、戦争をよしとした強い声は、自ら戦地へ向かうことのない、こうしたロートルたちだったからです。
しかし、現在のように、政治・経済が混迷しているとき、かつての日本のように、間隙を縫って、こうした大政翼賛会的な空気が勢いを増すのは予測できることです。
そして、田母神のような人間を利用して、私欲を膨らまそうとする輩が暗躍します。
その付けを最後に払うのは、だれなのか。
いま現実に企業が自分たちの付けをだれに払わせているのか。
いま、この国の政治が政治家の付けをだれに払わせているのか。
その一点を冷静にみつめても、田母神及び、彼を利用し、祭り上げている輩の背後にある者の浅ましき姿が見えてきます。
しかし、こうした深慮もせずに、芸人同然にテレビに露出させ、同じく学識も教養もないおバカタレントに、田母神の意見へ賛同させているテレビ制作者たちよ。
あなたたちは、視聴率のためには憚ることなく、人を利用しますが、かつて、300万人もの人々が命を落とした、戦争への道を、ファシズムへの扇動の責任を、あなたの命で贖う覚悟はおありなのですか?
私たちはポピュリズムの時代に生きている
先進デモクラシーの国々の多くは、ポピュリズムの時代を迎えている。イタリアのベルルスコーニ首相、フランスのサルコジ大統領だけではない。アメリカでは先の中間選挙で草の根保守としての「ティー・パーティ」が台風の目となり、安定した政治を経験しているかにみえる北欧諸国でも極右ポピュリズム(「ナショナル・ポピュリズム」)政党の躍進が止まらない。日本でも統一地方選挙を迎えて、ポピュリスト的な政策を打ち出す「首長新党」「地域政党」が既存政党の一角に食い込み勢いをみせている。こうしたトレンドは、偶然の一致では決してない。
『ポピュリズムを考える 民主主義への再入門』で目的としたのは、このポピュリズムのメカニズムを理解すること、つぎにそれがなぜ生じるのかのダイナミズムを抽出すること、そして何よりも、ポピュリズムを通じて現在の民主政治が抱えている困難を明らかにすることである。
「ポピュリズム」という言葉は頻繁に使われる日常用語であり、普通蔑称で用いられることが多い。しかし、その具体的な意味内容は必ずしも明確ではないところに特徴がある。はたして、ポピュリズムとはいったい何であろうか。
ポピュリズム=大衆迎合なのか? 
よくいわれるのは、ポピュリズムが「大衆迎合主義」にすぎないというものだ。だが、そもそも「人民の、人民による、人民のための統治」という、かの有名なリンカーン大統領による民主政治の定義を受け入れるならば、この「人民=人々(ピープル)」を価値体系の最上位におく「ポピュリスト政治」に論駁するのは難しい。
ポピュリズムは「大衆迎合主義」にすぎないと仮に打ち捨てたところで、現代の民主政治ではエリートや専門家による支配は到底受け入れられるものではない。つまり、「人々」に主権があるという「人民主権」の原則が徹底し、議会の門が「財産も教養もない」大衆に開かれるようになれば、「人々」が求めることを、この「人々」の「代表」たる政治家が充足するのはむしろ義務ですらあるのだ。この原理原則を弁えていないポピュリズム批判は、天に唾するのに等しいのである。
もっとも、こうした原理原則論を脇においても、そもそも現代の民主政治はポピュリズムを生起させるような構造になってきているところに難問がある。
変わってしまった「政治のモード」 
まず、戦後政治社会を支えてきた様々な制度や機関(政治エリート、政党、議会、労働組合、社会勢力など)は、低成長時代と社会保障の切り下げによって、これまで「人々」からえていた信任を失うようになった。
日本を含め、多くの先進国では、「自分たちの子どもは自分たちほどの生活水準を期待できない」と考える国民が多数にのぼっている。これは、戦後はじめて直面する状況であり、「国民を喰わせる」ことを目的にしているはずの政治家への不信を生じさせる。
こうして、民主政治を囲っていた防波堤は瓦解し、政治リーダーは人々との直接の結びつきを強めようとする。「大統領型」の政治を可能にする日本の知事が、地方議会をむしろ排除することによって「人々」を動員しようとするのは、まさにこうした構図に当てはまるからに他ならない。そしてここでは、もはや「利益の分配」よりも、「物語」や「価値」をめぐる政治が主たる対立軸になっていくことになる。
しかも、政治家は当選しなければならないから、有権者を安心させるための様々な約束をする。ただし、グローバル化と社会の複雑化を前に、彼らは無力である。したがって、いわば「空手形」が乱発されることで、政治家への不信はますます募っていく。
もうひとつの理由は、現代政治においては様々な専門家や独立専門機関の介在による「ガバナンス」が不可欠になっていることがある。先進デモクラシーにおいては少なくとも、政治体制(イデオロギー)をめぐる対立が遠のき、多様なアクター間の利害の調整を目的とする水平的な統治が前提となっている。
こうした政治モードが支配的になるなかで、意思決定はむしろ不透明なかたちで一部のプロフェッショナルの手によって下されるようになり、最近の日本の金融政策論争で確認されたように、共同体構成員の厚生を損なう結果をもたらしかねない。このような「ガバナンス」に対する反発としても、ポピュリズムは生起することになる。
その不信感を払拭して、いま一度政治の実行力を誇示するために、政治や行政の「改革」といった比較的結果が目にみえやすい政策がつぎつぎと打ち出されていく。これがネオ・リベラル的なポピュリズムの本質である。
他方で、そうした状況下では、政治の無力さを告発することが、有権者の歓心を誘うことにもなる。内閣や官僚の無能さをあげつらい、彼らは国民のことを考えていないとするのである。これが、現下でみられる「ポピュリズム」ということになるだろう。
 
大衆迎合主義が招く衆愚政治の恐怖

 

ポピュリズム旋風が世界に吹き荒れている
ラテン語の「populus(人民)」を語源とするポピュリズムは、元来、既存の支配層や知識人などによる「エリート主義」を批判して、一般大衆の願望や不安、不満などの「実感」を重視する政治思想、政治体制のことです。
民意を尊重するという意味では非常に民主主義的な概念なのですが、人々の欲求不満を煽って支持を集める手法は、しばしば衆愚政治を招きやすくなります。このため現代においては、ポピュリズムは大衆に迎合して人気を得ようとする「大衆迎合主義」というネガティブな意味で使われることが多くなりました。
ポピュリストたちの公約の嘘を見抜けない有権者
ラテンアメリカ、ベネズエラのポピュリズム=チャベス、マドゥーロ
ポピュリズムから衆愚政治に陥った典型例がベネズエラである。チャベス前大統領という極めつきのポピュリストが登場して、「21世紀の社会主義」を掲げ、貧困層向けの無料診療所や無償住宅の建設などバラマキ社会福祉政策を推進した。チャベス前大統領は2013年に癌で死去したが、チャベスの後を継いだ腹心のマドゥーロ大統領も路線を継承した。
バラマキの源泉は世界最大の埋蔵量を誇る石油資源である。しかし、1バレル=120ドル以上でなければ成り立たないような国家予算を組んで無駄遣いし続けた結果はどうなったか。1バレル=40ドル程度にまで石油価格が暴落したために石油産業は壊滅、ハイパーインフレに襲われてベネズエラ経済は破綻状態に追い込まれてしまった。
ない袖は振れないとばかりに政府は緊縮路線に切り替えたが、公務員を増やしすぎて、いくら削減しても追いつかない。とうとう週休2日ではなく週休5日制にして、公務員の給料を60%カットしたほどだ。手がつけられないハイパーインフレで国民生活は困窮し、人々は今頃になって政府を強く非難している。しかし、チャベスやマドゥーロを大統領に選んだのはほかならぬ国民自身なのだ。
欧州、ギリシャのポピュリズム=チプラス
これはラテンアメリカの途上国に現れた特異な事例ではない。民主主義の生まれた国であるギリシャも衆愚政治に陥っている。
ギリシャは巨大な財政赤字の隠蔽が明らかになって経済危機に陥り、EUから金融支援の条件として年金の4割カットや公務員の3割削減などの厳しい緊縮財政を求められてきた。しかし、放漫財政の受益者(たとえば年金の受給開始年齢は53歳で、国民の4人に1人は公務員)でありながら、ギリシャ国民としては自分たちの生活が苦しくなるような緊縮財政は受け入れたくない。
そうした“民意”に迎合して、「EUの厳しい要求を拒否しよう」と叫んで政権の座に就いたのがチプラス首相だ。
EUの財政緊縮策の否決という国民投票の結果を背負って交渉に臨んだチプラス首相だったが、デフォルトを目前に控えEUの言うがままに妥協を迫られた。これに無責任なギリシャの民衆は大激怒して、チプラスに退陣を迫っている。しかし、彼が「EUの緊縮策を受け入れるべきだ」と主張していたら首相になれなかったわけで、責められるべきは嘘を見抜けなかった国民なのだ。衆愚政治そのものである。
ギリシャほど危機的状況には至っていないものの、経済危機の火種と難民問題を抱えるヨーロッパは各国でポピュリズムの台頭が目につく。
EU離脱や反移民を主張する極右勢力や反緊縮を掲げる極左政党が勢いを増して、政策にも影響を及ぼしている。EU離脱派が制したイギリスの国民投票にしても、「離脱すれば移民を自分たちでコントロールできる」「EUの細かな制約に縛られなくてすむ」という離脱派のポピュリズムに先導された側面が強い。
米国のポピュリズム=トランプ、サンダース
今回の米国大統領選を見ていても、ポピュリズムの台頭が著しい。予備選の話題をさらったトランプ現象もサンダース現象もポピュリズムの観点ではまったく同じなのだ。共和党の候補者指名レースを確実なものにしたドナルド・トランプ氏は大衆が聞きたいことをズバリと言う典型的なポピュリストだ。
移民に仕事を奪われたと思っている白人の労働者階級には、「メキシコ国境に壁をつくれ」というトランプ発言は心地よく響く。ISなどイスラム過激派のテロに恐怖したり、怒りを覚えている人々に「イスラム教徒は入国禁止」というトランプ氏の主張は好感を持たれる。しかし、冷静に考えればメキシコ国境に万里の長城のような壁がつくれるはずがないし、メキシコに壁の建設費を払わせられるわけもない。
それに、いくらイスラム教徒の入国を禁じても、国内には約600万人のイスラム系移民がすでにいる。6月にフロリダで50人が死亡する最悪の銃乱射事件が起きた。射殺された容疑者はアフガニスタン系の米国人で、イスラム過激派との関係が疑われたが、どうやら単独犯によるヘイトクライムの可能性が高いらしい。イスラム教徒の入国を禁じても、ホーム・グロウン・テロリスト(国外の過激思想に共鳴して、国内出身者が独自に引き起こすテロのこと)には何の効果もないのだ。
トランプ氏が“右のポピュリスト”なら、“左のポピュリスト”は民主党の指名争いで善戦したバーニー・サンダース氏だ。自ら「民主社会主義者」と名乗り、若者世代や白人の貧困層に過大な公約をして旋風を巻き起こした。しかし、「公立大学の授業料無償化」とか「国民皆保険」とか、配る政策ばかりを主張して、財源についてはほとんど何も言っていない。
そもそも連邦政府の行政長である大統領になっても、公立大学の授業料を無償化する権限はない。アメリカの大学のほとんどはコミュニティカレッジ(2年制の短期大学)で、授業料が無料になったら運営が成り立たなくなるのだ。政府が授業料を補填しようものなら、税金がいくらあっても足りない。
国民皆保険にしても、3000万人に医療保険を補填したオバマケア(オバマ政権による保健医療制度改革)でさえ限界ぎりぎりなのに、それを上回る制度改革が実現可能とはとても思えない。
つまりトランプ氏もサンダース氏も、できもしない公約を並べ立てて、受益者とおぼしき人々から熱狂的な支持を集めてきたのだ。これまでの大統領選挙でも、ロス・ペロー氏のようなポピュリストはいくらでも出てきた。しかし、マスコミのチェック機能が働いて、予備選で排除されるのが通例だった。
ところが今回は泡沫候補と思われたポピュリストが不思議と残った。なぜか。マスコミのチェック機能が弱くなったのも確かだが、大きな理由の一つは、既存政党の当たり前の主張に飽き飽きしたり、不満を持つ人々が増えたからだろう。だから本命視されたヒラリー・クリントン氏が常識的なことを言えば言うほど「つまらない」候補として人気を落としてきたのだ。
日本はどうだろうか?
「低成長が長く続いても失業者はあふれていないし、給料が上がらなくても食い詰めて路頭に迷っている人は少ない。難民や失業の問題が深刻化していない日本ではポピュリストの出る幕はない」と思っているなら大間違いだ。
私が出馬した1995年の都知事選は青島幸男氏が「ちゃぶ台をひっくり返してやる」という意味不明な公約で圧勝したし、同時期の大阪府知事選で選ばれたのは後に強制わいせつ事件で辞任に追い込まれる横山ノック氏だった。
都市博を中止にしたぐらいで何の仕事もしなかった青島氏の後を継いだのは石原慎太郎氏。週に2、3日しか登庁しない石原氏を都民は4期も連続して選んで、後を継いだ猪瀬直樹氏や舛添氏も公約らしい公約はなく、それでも選挙は正統派のイメージだけで圧勝した。
いずれも大した仕事をしないうちに大きく躓いて、都政は停滞したままだ。
振り返れば、青島、石原、猪瀬と3代続けて作家が都知事になったわけだが、作家は物語をつくる人間であって行政能力を期待するほうがおかしい。もっとも行政能力がなくても“自動運転”で務まるのが東京都知事という仕事なのかもしれないが。
ベネズエラやギリシャのように、聞こえのいいポピュリズムに引きずられた民主主義が行き着く先は、衆愚政治である。
衆愚政治を避けるには、「me first(俺を先にしろ)」という考え方に染まらないことが重要だ。自分の損得ではなく、グループ全体にとって、コミュニティ全体にとっていいことなのか、悪いことなのかで判断する。自己中心ではなく集団全体に重きを置く。個人よりも全体をよくしようと発想できる人が過半数いなければ、民主主義は成り立たない。これは動物的には非常に高度な判断力、知性であって、身につけるためには公民教育が不可欠。
18歳になったら選挙権を与えるだけではなく、責任ある社会人として選挙権をどう行使すべきかしっかり教育すべきだし、知名度だけで選ばれてしまった過去の選挙をケーススタディにして候補者の見分け方まで学ばせる。
つまり過去を総括して伝える作業をぜひ一度やってみるべきだ。 
 
現代ポピュリズムの諸相

 

大衆迎合主義に騙されてトランプを選んだ白人の中低所得貧困層 2016/11 
異例である。NHKがずっとアメリカ大統領選挙の速報を流し続けている。
民放は、遠いアメリカの話よりは視聴率の取れると踏んだ博多駅前の大陥没を中継している。
「強者と強者」「金持ちと金持ち」の対決になったアメリカ大統領選挙は、一方の金持ちドナルド・トランプ氏が勝った。ポピュリズム(大衆迎合主義)の勝利である。
一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しているヒーローを装ったトランプ氏。白人の中低所得貧困層が抱く一面的な欲望に迎合して大衆を操作する方法、ポピュリズムが成功したといえよう。
アメリカ国民の中で多数を占める中低所得貧困層は、大統領としてどちらかの金持ちを選ぶ選択肢しかなかった。そして、白人貧困層にとっては、ヒラリー・クリントンがウォール街を占拠する上位1%の富裕層の仲間であることがはっきりしている。
と、すれば消去法で、もしかしたら自分たちに金を回してくれる親分かも知れない「もうひとりの金持ち」に投票するしかない。しかし、トランプ大統領もまた、実質は上位1%の富裕層の仲間なのである。
つまり、結局、貧困層には金は回ってこない。これは間もなく明らかになるだろうが、そうなった時、白人の貧困層、ヒスパニックの貧困層、アジア系の貧困層といった人々は大同団結してアメリカを変えることは出来るのか? はなはだ心もとない。
大衆が大衆迎合主義のトップを選んでも自らが勝つことは決してない。強者はどんな方法でも取りうるが、大衆がとりうる方法は数の力で勝つことのみである。それが民主主義だ。
民主主義で強欲資本主義に勝つしかないが、それをアメリカに望むのはしばらくは無理だろう。 
世界の市場覆う大衆迎合のリスク 2016/8
英国の欧州連合(EU)離脱決定によるマーケットの混乱がひとまず収束し、世界の株式市場は落ち着きを取り戻しています。支えになっているのは過去最高値圏にある米ダウ工業株30種平均。米景気の回復力は弱いものの、早期利上げ見通しが後退したことが好感されています。それでも、世界的に株価の上値は重い印象です。
大きな理由のひとつに米大統領選への不安があると私は考えます。とりわけ、共和党の大統領候補ドナルド・トランプ氏の人気が衰えないことは世界の株式市場にとって重大なリスクとなっています。
トランプ氏の主張する政策は、グローバル経済に背を向ける孤立主義であり、資本主義を否定しかねない社会主義色の強い政策といえます。日米同盟に背を向け、環太平洋経済連携協定(TPP)に反対を唱え、メキシコとの自由貿易協定(FTA)の見直しに言及する一方、米国内ではバラマキ型社会福祉を実施すると主張しています。11月の本選挙でトランプ氏が勝利すると日本だけでなく、世界の株式市場にとって逆風となります。
対する民主党の大統領候補ヒラリー・クリントン氏は、伝統的な資本主義・日米同盟を尊重する姿勢が見られます。とはいえ、クリントン氏が勝利すれば株式市場にとって追い風かというと、そうとも言い切れない部分があります。
トランプ氏の過激発言には米国内でも反発が強く、共和党はトランプ氏支持で一枚岩にはなっていません。ところが、クリントン氏も米国内では不人気で、民主党では予備選で最後までクリントン氏と競り合った自称社会主義者、バーニー・サンダース氏が若者に絶大な人気があります。彼の支持者はサンダース氏がクリントン氏支持を表明したことに強い不満を抱き、本選挙ではトランプ氏に投票する可能性があります。
トランプ氏が大統領になれば重大なリスクとなりますが、もしクリントン氏が大統領になっても、米国内で反資本主義の流れは収まらず、大統領として強いリーダーシップを発揮できなくなる可能性もあります。このように自由主義経済の旗頭として世界をけん引してきた米国の急変は、重大なリスクとなっています。
6月23日の英国民投票でEU離脱派が勝利したのも、大きなサプライズとなりました。規制緩和「ビッグバン」で先行し、欧州で最もビジネスがやりやすい国となることで「英国病」といわれる経済不振から奇跡の復活を果たした国が、グローバル経済に背を向けて孤立主義に向かうことを予想できた投資家はほとんどいませんでした。
EUや移民を悪者にし、低所得者層の人気を得て、離脱派の勝利を導いたボリス・ジョンソン前ロンドン市長の主張はトランプ氏の主張と多くの部分で重なります。英国がポピュリズム(大衆迎合主義)に流されて資本主義に背を向けるのか、大きな岐路に立っています。
私は日本株のファンドマネジャーをやっていたとき、中東・米国・欧州・中国へ出張し、大手機関投資家と日本株の投資価値について何度もディスカッションしました。日本株に投資する海外投資家にいつも聞かれるのは日本の政治動向です。日本の景気・企業業績動向についても質問されますが、それ以上に政治について熱心に聞いてくる投資家が多いと感じていました。
外国人投資家が日本の政治を評価する切り口はシンプルです。質問の仕方は投資家ごとに異なりますが、共通点を一言でいうと「日本の政治は資本主義の強化(経済成長重視)に向かっているか、社会主義の強化(社会福祉重視)に向かっているか」に尽きます。
小泉純一郎元首相の構造改革が勢いを得ていた2005年に海外投資家は「日本は資本主義を強化している」と判断し、日本株を積極的に買いました。その後、09年に民主党政権が誕生したときは「社会主義を強化している」と見なしました。アベノミクスが本格スタートした13年は再び資本主義を強化する政権が登場したと捉え、日本株を大量に買いました。
その外国人投資家の目で、今の米国と英国を見るならば両国とも社会主義寄りの政策が大衆の人気を得ていることが投資家として懸念される状況です。米国、英国がこのまま資本主義に背を向け続けるのか、あるいはポピュリズムの行き過ぎを反省する機運が育ち、伝統的な資本主義に戻っていくのか、注意深く見守っていく必要があります。 
世界を席巻するポピュリスト旋風は、どこまで広がるか?
民主主義発祥のギリシャで起きた衆愚政治
ラテン語の「populus(人民)」を語源とするポピュリズムは、元来、既存の支配層や知識人などによるエリート主義を批判して、一般大衆の願望や不安、不満などの「実感」を重視する政治思想、政治体制のことだ。
民意を尊重するという意味では非常に民主主義的な概念なのだが、人々の欲求不満を煽って支持を集める手法はしばしば衆愚政治を招きやすい。このため現代においては、ポピュリズムは大衆に迎合して人気を得ようとする「大衆迎合主義」というネガティブな意味で使われることが多い。
ポピュリズムから衆愚政治に陥った典型例がベネズエラである。チャベス大統領という極めつきのポピュリストが登場して、「21世紀の社会主義」を掲げ、貧困層向けの無料診療所や無償住宅の建設などバラマキ社会福祉政策を推進した。癌で死んだチャベスの後を継いだ腹心のマドゥーロ大統領も路線を継承した。バラマキの源泉は世界最大の埋蔵量を誇る石油資源である。しかし、1バレル=120ドル以上でなければ成り立たないような国家予算を組んで無駄遣いし続けた結果はどうなったか。1バレル=40ドルからせいぜい50ドル程度まで石油価格が暴落したために石油産業は壊滅、ハイパーインフレに襲われてベネズエラ経済は破綻状態に追い込まれてしまった。
ない袖は振れないとばかりに政府は緊縮路線に切り替えたが、公務員を増やしすぎて、いくら削減しても追いつかない。とうとう週休2日ではなく週休5日制にして、公務員の給料を60%カットしたほどだ。手がつけられないハイパーインフレで国民生活は困窮し、人々は今頃になって政府を強く非難している。しかし、チャベスやマドゥーロを大統領に選んだのはほかならぬ国民自身なのだ。
これはラテンアメリカの途上国に現れた特異な事例ではない。民主主義の生まれた国であるギリシャも衆愚政治に陥っている。ギリシャは巨大な財政赤字の隠蔽が明らかになってから経済危機に陥り、EUから金融支援の条件として年金の4割カットや公務員の3割削減などの厳しい緊縮財政を求められてきた。しかし、放漫財政の受益者(たとえば年金の受給開始年齢は53歳で、国民の4人に1人は公務員)でありながら、ギリシャ国民としては自分たちの生活が苦しくなるような緊縮財政は受け入れたくない。そうした“民意”に迎合して「EUの厳しい要求を拒否しよう」と叫んでトップの座に就いたのがチプラス首相だ。
EUの財政緊縮策の否決という国民投票の結果を背負って交渉に臨んだチプラス首相だったが、デフォルトを目前に控えEUの言うがままに妥協を迫られた。これに無責任なギリシャの民衆は大激怒して、チプラスに退陣を迫っている。しかし、彼が「EUの緊縮策を受け入れるべきだ」と主張していたら首相になれなかったわけで、責められるべきは嘘を見抜けなかった国民なのだ。衆愚政治そのものである。
ギリシャほど危機的状況には至っていないものの、経済危機の火種と難民問題を抱えるヨーロッパは各国でポピュリズムの台頭が目につく。EU離脱や反移民を主張する極右勢力や反緊縮を掲げる極左政党が勢いを増して、政策にも影響を及ぼしている。EU離脱派が制したイギリスの国民投票にしても、「離脱すれば移民を自分たちでコントロールできる」「EUの細かな制約に縛られなくてすむ」という離脱派のポピュリズムに先導された側面が強い。
トランプもサンダースもポピュリストだ
今回のアメリカ大統領選を見ていても、ポピュリズムの台頭が著しい。予備選の話題をさらったトランプ現象もサンダース現象もポピュリズムの観点ではまったく同じなのだ。共和党の候補者指名レースを確実なものにしたドナルド・トランプ氏は大衆が聞きたいことをズバリと言う典型的なポピュリストだ。移民に仕事を奪われたと思っている白人の労働者階級には、「メキシコ国境に壁をつくれ」というトランプ発言は心地よく響く。ISなどイスラム過激派のテロに恐怖したり、怒りを覚えている人々に「イスラム教徒は入国禁止」というトランプ氏の主張は好感を持たれる。しかし、冷静に考えればメキシコ国境に万里の長城のような壁がつくれるはずがないし、メキシコに壁の建設費を払わせられるわけもない。
それに、いくらイスラム教徒の入国を禁じても、国内には約600万人のイスラム系移民がすでにいる。6月にフロリダで50人が死亡する最悪の銃乱射事件が起きた。射殺された容疑者はアフガニスタン系のアメリカ人で、イスラム過激派との関係が疑われたが、どうやら単独犯によるヘイトクライムの可能性が高いらしい。イスラム教徒の入国を禁じても、ホーム・グロウン・テロリスト(国外の過激思想に共鳴して、国内出身者が独自に引き起こすテロのこと)には何の効果もないのだ。
トランプ氏が右のポピュリストなら、左のポピュリストは民主党の指名争いで善戦したバーニー・サンダース氏だ。自ら「民主社会主義者」と名乗り、若者世代や白人のプア層に過大な公約をして旋風を巻き起こした。しかし、「公立大学の授業料無償化」とか「国民皆保険」とか、配る政策ばかりを主張して、財源についてはほとんど何も言っていない。
そもそも連邦政府の行政長である大統領になっても、公立大学の授業料を無償化する権限はない。アメリカの大学のほとんどはコミュニティカレッジ(2年生の短期大学)で、授業料がなくなったら運営が成り立たなくなるのだ。政府が授業料を補填しようものなら、税金がいくらあっても足りない。国民皆保険にしても、3000万人に医療保険を補填したオバマケア(オバマ政権による保健医療制度改革)でさえ限界ぎりぎりなのに、それを上回る制度改革が実現可能とはとても思えない。
つまりトランプ氏もサンダース氏も、できもしない公約を並べ立てて、受益者とおぼしき人々から熱狂的な支持を集めてきたのだ。これまでの大統領選挙でも、ロス・ペロー氏のようなポピュリストはいくらでも出てきた。しかし、マスコミのチェック機能が働いて、プライマリー(予備選)で排除されるのが通例だった。ところが今回は面白いように泡沫候補と思われたポピュリストが残った。なぜか。マスコミのチェック機能が弱くなったのも確かだが、大きな理由の一つは既存政党の当たり前の主張に飽き飽きしたり、不満を持つ人々が増えたからだろう。だから本命視されたヒラリー・クリントン氏が常識的なことを言えば言うほど「つまらない」候補として人気を落としてきたのだ。 
右派ポピュリストの台頭、グローバル化否定の兆しではない
先進諸国が1930年代以来最悪の不況期を耐え忍ぶ中、各国の有権者は国外の人々が持ち込む痛手を非難するポピュリスト(大衆迎合主義者)に群がっている。これを受けて、グローバル化が逆行しファシズムが台頭した世界大恐慌と比較する不穏な動きがみられる。
だが詳しく吟味すれば、類似性の指摘には不備があることが分かる。
欧州大陸にみられる中道右派のポピュリストや英国の欧州連合(EU)からの離脱に賛成する人々、米大統領選で共和党候補に指名される見通しのドナルド・トランプ氏などに対する支持は、グローバル化に対する幅広い反発よりも、移民という特定の一面から生じている。この問題が、経済面だけでなく、人種や文化面での不安を高めている。
ドイツの例をみると、2013年の選挙では、極めて人気の高いメルケル首相が率いる中道右派与党が、反ユーロを掲げるポピュリスト政党の「ドイツのための選択肢」(AfD)を圧倒した。AfDの得票率はわずか4.7%だった。ところがその後、与党の支持率は低下し、AfDが支持を大きく伸ばしている。
今年3月の州議会選挙におけるAfDの得票率は、ザクセン・アンハルト州で24%、バーデン・ビュルテンブルク州では15%、ラインラント・プファルツ州で13%だった。こうした動きは経済とは関係ない。ドイツの失業率はユーロ危機以前の半分の水準になっている。中東を中心に100万人超の難民流入を許したメルケル首相の判断に対する反発が背景にある。州議会選挙では、AfD支持者の半数以上が難民は明らかに問題だと指摘した。経済を問題視する声はわずか4分の1だった。
歴史的にみて、金融危機は政治の両極化や断片化につながってきたが、ユーロ危機もその例に漏れない。欧州全体で既成主流派政党に対する支持が低下している。だが、自動的に極右派の支持にはつながってはいない。
米ジョージア大学のカース・マッデ准教授(政治学)によると、ユーロ圏で金融支援を受けた5カ国では、右派ポピュリストの得票率は平均2%未満だ。緊縮への抵抗が、ギリシャでは左派ポピュリストに政権を握らせ、スペインで先ごろ行われた選挙で2位政党の地位を与えたが、どちらもユーロ圏からの離脱を提唱してはいない。
これとは対照的に、ポーランドとハンガリーでは中道右派ポピュリストが政権についた。両国ともユーロを導入しておらず、ユーロ危機を免れ、低い失業率を享受している。オランダ人のマッデ准教授は「経済情勢が全く関係していないということではない。だが、社会文化的な意味、つまり汚職や犯罪、統合に対する懸念に関連したこととして解釈されると、極右派に有利に働く傾向がある」と語った。
フランスの場合は事情がさらに複雑だ。ユーロと経済に対する幻滅感から極右政党「国民戦線」への支持が高まったが、反移民の姿勢はフランス政界における一勢力としていまに始まったことではない。
同様な動きが英国でも、EU離脱の是非を問う6月23日の国民投票が近づくにつれて目立ってきている。ユーロ懐疑派の中心的な人々はかねて、EU本部のおせっかいな官僚らが英国の民主主義を傷つけていると不満を漏らしてきた。だが、世論調査会社イプソスによると、EUを離脱したいとする英国民のうち、移民を理由に挙げる声が49%だったのに対し、法制上の独立性を理由とした人はわずか30%だった。
米国の有権者はいつも懸念材料の第一に経済を挙げるが、グローバル化の拒否には結びついていない。全体として、自由貿易と移民に対する米国人の支持は、07年〜09年のリセッション(景気後退)以降に低下ではなく増加傾向をたどっている。トランプ氏は自由貿易に反対を唱えているが、移民に対する反対や人口のほんの一部における人種上の懸念ほど、選挙運動の成功において中核をなしていないように思われる。
出口調査では、移民を問題の第一とした共和党員は約10%にすぎなかったが、トランプ氏を支持した人々の間では、共和党員全体よりもその比率ははるかに高かった。ピュー・リサーチ・センターによると、トランプ氏を支持する人の69%程度が移民は米国にとって負担だとしているが、同氏を支持しない共和党員の間でこうした意見は47%だった。
違法移民を非難する向きの多くは実際のところ、合法的な移民が順番を待ち必要とされる技術を持っている限りにおいて歓迎している。だがトランプ氏支持層の多くは、経済面と同じくらい文化面を心配している。ピュー・リサーチ・センターによると、トランプ氏は特に、米国の人口における白人の比率低下を問題視する共和党員の支持を集めている。
念のために言うと、ここには経済上の背景もある。トランプ氏に対する支持は学歴の低い白人層に大きく集中している。この層は、良い賃金の仕事が外国に移ったり、自動化されたり、大卒者に移ったりしたために不釣り合いに苦しめられ、いまや仕事を移民と競っている。
だが、経済全体が繁栄しても、文化や人種を巡る政治的な緊張は必ずしも緩むものではない。1960年代は中間層の所得が飛び抜けていたが、南部の白人社会は公民権法を巡り民主党に目を向けなかった。移民排斥主義の政治家らが東欧や南欧からの移民には共産主義者や無政府主義者が含まれると不安をあおって厳格な移民規制を押しつけたのは、世界大恐慌の時期ではなく「狂騒の20年代」と呼ばれる好況期だった。テロリストがいるかもしれないとしてイスラム教徒を排斥するトランプ氏の考えに似通っている。
経済成長がさらに強まり幅広く共有されれば、いま有権者を分断している問題の多くから怒りがある程度は薄れるだろう。だが歴史が示す通り、移民はその一つにはならないだろう。 
トランプ氏はキリスト教徒か
世界に約12億人の信者を抱えるローマ・カトリック教会最高指導者、ローマ法王フランシスコは18日、7日間のメキシコ訪問を終え、ローマへの帰途の機内で慣例の記者会見を行った。そして米共和党大統領候補者の1人、不動産王のドナルド・トランプ氏について、「架け橋ではなく、壁を作る者はキリスト教徒ではない」と指摘、移民ストップやイスラム教徒の入国禁止などを主張するトランプ氏をキリスト教徒ではないと批判した。
トランプ氏を擁護するつもりはないが、ペテロの後継者ローマ法王は如何なる理由があるとしても、「あなたはキリスト教徒ではない」と切り捨てることはできないはずだ。法王は、「米大統領選に干渉する考えはない」と断っているが、その発言内容はかなり政治的だ。
問題は、法王が共和党大統領候補レースに干渉しているからではない。羊飼いの立場にあるローマ法王が、羊の信者たちに向かって、「お前はダメ」「お前はいい」と刻印を押すことは牧会を聖職とする法王に適しているのかだ。
暴言や問題発言をしなかった政治指導者は皆無だろう。さまざまな暴言発言が政治家や指導者の口から飛び出す。その内容がイエスの隣人愛と合致していないという理由で、「お前はキリスト教徒ではない」というならば、世界12億人の信者を抱えるカトリック教会でどれだけ本当の信者がいるだろうか。
清貧を説き、謙虚と慈愛を求めてきたフランシスコ法王から、裁判官のような発言が飛び出したのだ。キューバでロシア正教のキリル1世と歴史的会合を果たし、メキシコでは多種多様の礼拝、イベントに参加してきた79歳の高齢法王はローマ帰途の機内でリラックスし、口が軽くなった結果、飛び出しただけだろう。
それにしても、フランシスコ法王には問題発言が少なくない。法王は昨年1月19日、スリランカ、フィリピン訪問後の帰国途上の機内記者会見で、随行記者団から避妊問題で質問を受けた時、「外部から家族計画について干渉することはできない」と述べ、「思想の植民地化」と呼んで批判する一方、避妊手段を禁止しているカトリック教義を擁護しながらも、「キリスト者はベルトコンベアで大量生産するように、子供を多く産む必要はない。カトリック信者はウサギ(飼いウサギ)のようになる必要はないのだ」と述べ、無責任に子供を産むことに警告を発したのだ。法王の「うさぎのように…」という発言内容が伝わると、「大家族の信者たちの心情を傷つける」といった批判だけではなく、養兎業者からも苦情が飛び出したのはまだ記憶に新しい(「批判を呼ぶ法王の『兎のたとえ話』」2015年1月22日参考)。
前法王べネディクト16世も在位期間(2005年4月〜13年2月)、問題発言がなかったわけではない。法王就任年の2005年9月、訪問先のドイツのレーゲンスブルク大学の講演で、イスラム教に対し、「ムハンマドがもたらしたものは邪悪と残酷だけだ」と批判したビザンチン帝国皇帝の言葉を引用した。そのため、世界のイスラム教徒から激しいブーイングを受けたことがあった。
学者法王べネディクト16世と南米法王フランシスコは、問題発言の内容もかなり異なっている。南米気質の法王を知るジャーナリストは法王から面白い発言を引き出そうと腐心しているはずだ。
問題に戻る。トランプ氏はキリスト教徒ではないのだろうか。
同氏はプロテスタント系の長老派教会に所属するキリスト教徒だが、集会で聖書をもって語り掛けることもある。しかし、他者を批判し、困窮下にある人間への愛の欠如はイエスの教えには一致しないことは明らかだ。が、それはトランプ氏だけではない。トランプ氏も自身の発言が問題を呼び、メディアの注目を浴びることを知った上で語っているはずだ。その意味で、トランプ氏は間違いなくポピュリストだ。
一方、トランプ氏を批判したフランシスコ法王も自分の発言が法王らしくないことを十分知っているはずだ。法王もトランプ氏に負けないポピュリストの面があるというべきだろう。
だから、2人のポピュリストの発言について、当方のこのコラムのように、「ああだ」「こうだ」と評することはあまり意味がないばかりか、それこそポピュリストの罠に堕ちいることにもなる。 
英国のEU離脱は、国家の崩壊への序章!?
英国国民は国民投票で「EU離脱」を選択
EU(欧州連合)からの離脱の是非を問う英国の国民投票は、僅差で離脱支持派が制しました(残留支持派の得票率48.1%に対して、離脱支持派は51.9%。投票率は約72%)。事前の世論調査などから接戦が予想されていましたが、「最終的には残留派が勝利して英国はEUに留まることになるだろう」という見方が大勢でした。それだけに離脱派の勝利は激震で、国民投票の開票日の東京、一夜明けた6月24日の世界の株式市場は全面安の展開となりました。
為替市場では英ポンドが売られて1985年以来の水準に下落、1日の下げ幅としては過去最大を記録しました。当事者である英国国民にとっても予想外の結果だったようで、彼らの後悔の念は相当に強いものがあります。
国民投票で「信任」とタカをくくっていたキャメロン元首相の大誤算
キャメロンが犯した3つのミス
今回の国民投票では世代間の意識の違いが明確に出た。
「We European」で育っている若い世代は圧倒的多数がEU残留を支持し、逆に高齢世代の多くは離脱を支持したのだ。極端に言えば高齢者世代は6対4で離脱支持、若者世代は7対3で残留支持という構図に色分けされた。
こうした分析結果を受けて「英国の運命を自分たちが決めたのは間違いだった。若い人たちがそんなに残留を望んでいるのなら、我々も残留に投票すべきだった」という声が高齢層から聞こえてくる。実際、英国議会には国民投票のやり直しを求める署名が殺到しているが、キャメロン元首相は(引き継いだメイ新首相も)「国民投票のやり直しはしない」と明言している。
EU残留を呼びかけてきたキャメロン元首相は「離脱に向けて新しい指導部が必要だ」と辞意を表明した。キャメロンというリーダーは頭は悪くないのだろうが、以下のような3つのミスを犯したと思う。
(1)スコットランド独立の是非を問う住民投票を認めたこと
独立は否決されたものの、下手をすれば英国という国家の分裂の引き金になりかねなかった。
(2)今回の国民投票
キャメロン元首相は3年前に国民投票の実施を表明して、「我々保守党が勝ったら、これをやります」と昨年の総選挙で公約に掲げた。つまり法律にもない国民投票を政権延命の道具に使ったのだ。キャメロン元首相としては住民投票や国民投票を約束してガス抜きすれば、最後は“良識的”な結論に落ち着くという甘い読みがあったのだろう。スコットランドの住民投票では現状維持派がきわどく上回ったが、今回の国民投票は完全に読み違った。残留派のキャンペーンではジョン・メージャーやトニー・ブレアら歴代のリーダーを総動員して残留のメリットを説き、中央銀行の総裁までが「(離脱の)経済的な損失は計り知れない」と訴えた。しかし政界や財界のエスタブリッシュメントが「離脱なんてバカな選択はありえない」と口を揃えるほどにエリート支配に対する反発が強まって、離脱派支持に国民が傾いた側面もある。
(3)国民投票の結果を受けて、すぐさま辞任を表明したこと
蒔いた種は自分で刈り取るべきなのに、EU離脱に向けた舵取りを投げ出してしまった。ただし、議会を解散(議員の3分の2の賛同が必要)しなかったのは賢かった。解散すれば総選挙だが、解散しなければ保守党は政権を維持したまま、後継者を決められるからだ。
国民投票の結果を覆す逆転シナリオはありうるか
当初、有力な後継候補と目されていたのは離脱派を主導してきたボリス・ジョンソン前ロンドン市長だった。しかし側近の裏切りにあって、党首選への出馬を断念。結局、党首選を制したテリーザ・メイ前内務大臣が新首相に就任した。マーガレット・サッチャー以来26年ぶり、2人目の女性首相の誕生である。
メイ首相は国民投票ではEU残留を支持していたが、首相就任後は国民投票で過半数を得た「離脱」を推進する考えを示し、組閣で離脱派のボリス・ジョンソン氏を外務大臣に任命した。「離脱を成功裏に進めたい」としながらも、「EUとの交渉戦略を策定するために時間が必要」として、年内は離脱手続きを開始しないとの立場を新首相は表明している。
さて、加盟国がEUを離脱した前例はないが、EUの基本条約であるリスボン条約の50条に離脱の手続きについて規定されている。
それによれば、当該国が欧州理事会(EUの最高協議機関)に離脱の意思を通告することから離脱手続きは始まる。その後、欧州委員会と脱退協定を締結するための交渉を行う。合意した脱退協定が欧州議会で承認され、さらに欧州理事会で承認されれば、脱退協定の発効日を以て晴れてEU離脱となり、離脱国にEU法は適用されなくなる。
また、交渉が難航して脱退協定が締結できなかった場合は、離脱通告から2年でEU法は適用除外となる(全加盟国の同意で延長可能)。つまり、EUを離脱するには最低でも2年以上かかるわけだが、英国はまだ離脱通告すら行っていない。通告をしなければ離脱の手続きは始まらないのだ。
通告をダラダラと引き延ばしてEUに留まり続けるという道筋もなくはないが、混乱の拡大を危惧するEU側は英国に対して「離脱するならさっさと出ていけ」と突き放している。
英国は自国通貨のポンドを使っているし、域内の自由移動を保証するシェンゲン協定にも加入していない。すでに特権的な立場にあるわけで、「離脱をちらつかせる英国にこれ以上いいとこ取りはさせない。離脱するなら勝手にすればいい。我々は27カ国で結束していく」というのがEUの断固たる姿勢なのだ。
英国としては粛々と離脱手続きに入るか、もしくは国民投票の結果を覆す逆転シナリオも考えられる。国民投票はキャメロン元首相が約束した公約にすぎず、その結果に法的拘束力はない。法的な拘束力があるのは議会で決まったことである。
私が英国の首相だったら議会にこう呼びかける。
「国民投票の結果は尊重されなければならない。しかし、これからあらゆる情報を取り寄せて、イギリスにとって何が得策なのか、選良である我々でもう一度議論しようではないか」
議論のプロセスはすべて国民に公開して、離脱すべきか残留すべきか、議会で結論を出す。そのうえで解散総選挙を行って国民の審判を仰ぐ――というシナリオだ。これは決して絵空事ではない。
1970年代に私は何度も英国を訪れているが、当時は慢性的に経済が停滞して失業率は11%に達し、「英国病」という言葉がメディアを賑わしていた。しかし、今の英国の失業率はわずか5%、欧州で最も移民を受け入れている国の一つが英国だが、それでも昔のような失業率にならないのはなぜか。なぜ今の英国に雇用があるか。そういう議論が今回の国民投票のプロセスでは抜け落ちていたように思う。
この30年間、英国が世界中から投資を集めて雇用を生み出してきたのは、サッチャー改革の成果ばかりではない。英国がEU28カ国の“ヘッドクオーター”として重宝されてきたからだ。日本企業にしても英国に欧州本部や工場をつくれば、そこからEU全体に容易に事業を展開できる。ロンドンのシティにしてもEUに入ってから世界の金融センターとして断トツに発展した。日本の銀行や証券会社がシティに拠点を置くのは、あそこが“欧州”だと思っているからだ。
英国の繁栄はEUの中にあってこその繁栄であり、離脱してひとりぼっちになったら、英国は元の英国一国に戻り、投資の魅力は大きく減退する。今回の国民投票で離脱の恐怖を肌で感じた英国国民は少なくないだろう。世界経済、ひいては自国経済に与えるインパクトも、ポンド暴落の可能性も見えた。
さらにいえば、残留派が多数を占めたスコットランドや北アイルランドの動向も見逃せない。スコットランド自治政府のニコラ・スタージョン首相はスコットランド単独のEU加盟に向けた諮問会議の設立を表明、独立に向けた2度目の住民投票の準備も始まった。北アイルランドでもEU残留とアイルランドとの統一の動きが加速し、離脱派が多数を占めたウェールズでも独立を模索する動きが出てきた。
ということで、英国が離脱に向かえばグレートブリテンは空中分解しかねない。離脱後のUKの運命、すなわち崩壊、という問題はいまだに国民的な議論がなされていないのだ。
このようなデメリットを改めてカウントしていくと、離脱の道は遠く霞んでくる。EUの強気の姿勢を見ている限りでは、離脱交渉を英国が優位に運べる可能性も低い。従って上に述べたような逆転シナリオも十分にありうる。英国の離脱は英国という国家の終わりの序章ではあるが、巷(ちまた)で言われているような「EUの終わりの始まり」になることはないだろう。  
トランプとスペインの急進左派政党ポデモスは似ているのか
<ドナルド・トランプとスペインの急進左派政党ポデモスは似ている...。 似たような支持者を獲得し、人々の情熱に語りかける。右派ポピュリズムを止められるのは左派ポピュリズムだけなのか?>
米大統領選の結果を受け、スペインでは、ポデモスのパブロ・イグレシアス党首とドナルド・トランプを比較する人々が出て来たので、イグレシアスはこれに憤慨し、「ポピュリストとはアウトサイダーのことであり、似たようなメソッドを使うことはあるものの、それは右翼でも、左翼でもあり得るし、ウルトラリベラルの場合も、保護主義者の場合もある」と主張しているとエル・パイス紙が伝えている。
ポピュリズムとは大衆迎合主義なのか
パブロ・イグレシアスは、「ポピュリスト」の概念についてこう語っている。
「ポピュリズムとは、イデオロギーでも一連の政策でもない。『アウトサイド』から政治を構築するやり方のことであり、それは政治が危機に瀕した時節に拡大してくる」
「ポピュリズムは政治的選択を定義するものではない。政治的時節を定義するものだ」
スペインは今年6月に再総選挙を行ったが、昨年末の総選挙同様に議席が2大政党と新興2党に分裂したまま政権樹立に至らなかった。その上、最大野党の社会労働党で内部クーデターが起きるなどしてゴタつき、ラホイ首相続投の是非を問う信任投票で棄権したため、結局は国民党が政権に返り咲いている。
イグレシアスは社会労働党のふがいなさを激しく非難しており、ポデモスは野党第一党になる黄金のチャンスを掴んでいるとも報道されている。「妥協をしながら国家制度のなかで地位を確立するポデモス」と「左派ポピュリズムとしてのポデモス」との折り合いをどうつけるかという以前からあった問題が、いよいよ切実なものになってきたようだ。イグレシアスはこう言っている。
「これからの数カ月、議論しなければならないのは、ポデモスはポピュリストのムーヴメントとして存在し続けるべきか否かということだ」
「ポピュリズム」という言葉は、日本では「大衆迎合主義」と訳されたりして頭ごなしに悪いもののように言われがちだが、Oxford Learner's Dictionariesのサイトに行くと、「庶民の意見や願いを代表することを標榜する政治のタイプ」とシンプルに書かれている。19世紀末に米国で農民たちの蜂起から生まれた政党の名前がポピュリスト(人民党)だった。これはPOPULACEに由来する言葉だ。一方、POPULARから派生したポピュラリズムは最近よく政治記事で使われるようになってきた言葉だが、むかしから音楽関係の英文記事を読んでいる人は目にしたことがあると思う。クラシックに大衆音楽の要素を混入したり、インディー系の知る人ぞ知るアーティストがポップアルバムを出したりするときに、評論家たちは「ポピュラリズム」と呼んできた。
「ポピュリズムの行き過ぎたものがポピュラリズム」という解釈もあるが、ポピュリズムは大前提として「下側」(イグレシアス風に言えば「アウトサイド」)の政治勢力たらんとすることで、テレビに出ている有名なタレントを選挙に出馬させたりする手法は単なるポピュラリズム(大衆迎合主義)だ。そのタレントが下側(アウトサイド)の声を代表するつもりかどうかはわからないからである。
左派と地べたの乖離
EU離脱、米大統領選の結果を受けて、新たな左派ポピュリズムの必要性を説いているのは英ガーディアン紙のオーウェン・ジョーンズだ。
「統計の数字を見れば低所得者がトランプ支持というのは間違い」という意見も出ているが、ジョーンズは年収3万ドル以下の最低所得者層に注目している。他の収入層では、2012年の大統領選と今回とでは、民主党、共和党ともに票数の増減パーセンテージは一桁台しか違わない。だが、年収3万ドル以下の最低所得層では、共和党が16%の票を伸ばしている。票数ではわずかにトランプ票がクリントン票に負けているものの、最低所得層では、前回は初の黒人大統領をこぞって支持した人々の多くが、今回はレイシスト的発言をするトランプに入れたのだ。
英国でも、下層の街に暮らしていると、界隈の人々が(彼らなりの主義を曲げることなく)左から右に唐突にジャンプする感じは肌感覚でわかる。これを「何も考えていないバカたち」と左派は批判しがちだが、実はそう罵倒せざるを得ないのは、彼らのことがわからないという事実にムカつくからではないだろうか。
「ラディカルな左派のスタイルと文化は、大卒の若者(僕も含む)によって形成されることが多い。(中略) ・・・だが、その優先順位や、レトリックや、物の見方は、イングランドやフランスや米国の小さな町に住む年上のワーキングクラスの人々とは劇的に異なる。(中略)多様化したロンドンの街から、昔は工場が立ち並んでいた北部の街まで、左派がワーキングクラスのコミュニティーに根差さないことには、かつては左派の支持者だった人々に響く言葉を語らなければ、そして、労働者階級の人々の価値観や優先順位への侮蔑を取り除かなければ、左派に政治的な未来はない。」
右派ポピュリズムを止められるのは左派ポピュリズムだけ?
エル・パイス紙は、ポデモスとトランプは3つのタイプの似たような支持者を獲得していると書いている。
1.グローバル危機の結果、負け犬にされたと感じている人々。
2.グローバリゼーションによって、自分たちの文化的、国家的アイデンティティが脅かされていると思う人々。
3.エスタブリッシュメントを罰したいと思っている人々。
「品がない」と言われるビジネスマンのトランプと、英国で言うならオックスフォードのような大学の教授だったイグレシアスが、同じ層を支持者に取り込むことに成功しているのは興味深い。
マドリード自治大学のマリアン・マルティネス=バスクナンは、ポデモスとトランプが相似している点は「語りかけ」だと指摘する。「トランプには理念があるわけではなく、彼の言葉は、ヘイトや、オバマ大統領が象徴するすべてへの反動に基づいています。人々の感情を弄び、極左や極右がするように、共通のアイデンティティを創出しようとします。問題は、人々の情熱がどのように利用されているかということなのです」と彼女は話している。
感情と言葉の側面については、英国のオーウェン・ジョーンズもこう書いている。
「プログレッシヴな左派は、ファクトを並べて叫べば人々を説き伏せることができると信じている。だが人間は感情の動物だ。我々は感情的に突き動かされるストーリーを求めている。一方、クリントンの演説は、銀行幹部の役職に応募しようとしている人のように聞こえた。(略)・・・左派も感情を動かすヴィジョンを伝えなければならない。ただ事実を述べてわかってくれるだろうと期待しているだけでは、右派の勢いを鈍らせることも、プログレッシヴな勢力の連合も築けないとわかったのだから。」
ポデモスの幹部たちは「右派ポピュリズムを止められるのは左派ポピュリズムだけ」と言ったベルギーの政治学者、シャンタル・ムフに影響を受けているという。エル・パイス紙によれば、スペインは欧州国としては珍しく、英国のナイジェル・ファラージのUKIPや、フランスのマリーヌ・ル・ペンの国民戦線のような右派ポピュリズムがまだ出現していない。
ちょっと希望の押し付け過ぎではないかとも思うが、オーウェン・ジョーンズが「ポデモスが崩れたら欧州の左派に未来はない」と言うのも、右派ポピュリズムへの抑止力として機能している左派ポピュリズムが他に見あたらないからだろう。 
刻々と忍び寄る!?中国経済危機の足音
習近平 vs 李克強 経済政策をめぐり対立が激化か?
いま中国では、習近平国家主席と李克強首相との間で、経済政策をめぐる対立が激化しているといわれます。
国有企業保護政策を維持して権力掌握を進めたい習主席に対し、李首相が「ゾンビ企業(経営の行き詰まった国有企業)の淘汰」など「痛みを伴う構造改革」を提唱しています。「今年前期の景気は良好」とする李首相の見解を習主席の側近が真っ向から否定し、「(このままなら)中国経済は『V字回復』も『U字回復』もなく、『L字型』が続く」と主張し、痛烈に批判したと人民日報が報じました。
中国の債務残高は2600兆円以上?
この景気判断については習主席のほうが正しいと思う。例えば、今年6月に中国社会科学院の学部委員で国家金融・発展試験室の理事長を務める李揚氏が「2015年末の時点で、中国の債務残高は168兆4800億元(約2600兆円)と巨額で、GDP(国内総生産)の249%に達し、うち企業分が156%を占める」と発表した。
発言の趣旨は、中国の債務はコントロール可能な範囲で、債務リスクに対応するための十分な資金があることを理由に「債務危機は存在しない」と強調するものだったが、この数字は経済規模が違うとは言え、日本の借金の1000兆円の2.6倍だから、やはり寒気がするような規模である。
李揚氏は「借金より資産のほうが多い」から安心と言うが、実は中国の借金が正確にはいくらあるのか、誰にもわかっていないと思う。
中国の借金には大きく4つの要素がある。
(1)国営企業
(2)民間企業
(3)地方政府
(4)国
――である。
249%のうち、企業分が156%ということは、地方政府と国が残りの93%という計算になる。
だが、15年9月に既に指摘したように、これまで地方政府の富の源泉だった農地を商業地や工業団地に用途変更して利益を得る不動産開発やインフラ整備などの投資プロジェクトはことごとく行き詰まり、地方政府は莫大な借金を抱えて収拾がつかない状況に陥っている。おまけにアリババ(阿里巴巴)などのネット通販が隆盛している影響で多くのショッピングモールはテナントが入らずに「鬼城(ゴーストタウン)」化している。そのため、地方政府が商業地などの開発によって儲けるという従来の仕掛けは、もはや機能しなくなっている。
国も、鳴り物入りでスタートしたAIIB(アジアインフラ投資銀行)に気前よく資本金1000億ドルの3割(約3兆円)を出資したが、海外インフラプロジェクトで利益を出すのは至難の業である。しかも、中国は海外インフラプロジェクトのノウハウを持たない。海外インフラプロジェクトには、ファイナンスやエンジニアリングなど、全部をきめ細かくコーディネートするプロジェクトマネージャーが不可欠なのだが、そうした経験も人材もノウハウも持っていない中国が海外で高速鉄道などの大規模なインフラプロジェクトを成功させることができるとは思えない。おそらく、AIIBのプロジェクトは軒並み失敗するだろう。
また、国営企業も国内経済の急減速によって鉄鋼、セメント、造船、鉄道などが飽和状態で、生産力が完全にダブついている。
例えば、中国には鉄鋼メーカーだけで100社くらいあり、2015年の粗鋼生産量は約8億トンに達し、世界全体の5割を占めている。日本もかつて鉄鋼生産世界一の時代があったが、その後、鉄鋼不況(鉄冷え)に直面し、当時の通産省が国策として生産能力の削減に大ナタを振るった。造船、繊維、石炭などでも同様に通産省が主導して生産能力を劇的に削り、不況を克服していった。
それと同じことを中国ができるのか?いくら独裁者・習近平でも無理だろう。
なぜなら、中国の地方自治体の多くは、そこに立地している鉄鋼、造船、セメントなどの企業によって成り立っているからだ。つまり、企業を潰したら地元の地方自治体も消滅してしまうのである。もし、それらの地方自治体のうち、習近平が任命した首長や書記がいる地方の企業だけが生き残ったりしたら、怨嗟(えんさ)の渦で政権そのものがもたないだろう。
M&Aという大義名分で中国企業の経営者は国を見捨て海外に“高飛び”
また、民間企業の経営者は続々と海外に脱出している。7月28日の「中国新聞網」によると、2016年に入ってからの中国企業による海外企業のM&A(合併・買収)総額は約15兆円に達し、すでに15年通年の約11兆円を上回ったという。
だが、その大半は実は“海外逃亡資金”である。つまり、M&Aという名目であれば、企業の国際化ということで政府が認めてくれる。だから経営者たちは米国の投資銀行などが持ち込んだM&A案件に飛びつき、せっせと資金を海外に持ち出しているのだ。
かつては日本企業は急激な円高や苛烈な貿易摩擦に直面した時、必死に生産性や付加価値の向上、コスト削減などのイノベーションを重ねて生き残ったが、中国の経営者はすでに国を見捨てて海外に“高飛び”しているわけだ。
以上を総合すると、中国経済が刻々と破局に近づいていることは明らかだろう。
では、これから中国はどうなるか?これも16年2月に既に書いたように、中国経政府が人件費を市場に委ねずに強制的・人為的に毎年15%ずつ引き上げてきたせいで中国企業の競争力は低下したのだが、だからといって賃下げは人民の反発が怖いからできない。
となるとおのずと為替は元安に向かうので、変動相場にするしかなくなる。変動相場制にしたら一気に元安が進み、現在の1ドル=6.6元が半分の1ドル=13元ぐらいまで下がらざるを得ないだろう。そうなれば輸出競争力は回復するかもしれないが、経済はハイパーインフレになって人民の生活は困窮する。
中国経済が破綻すれば、世界経済は大混乱する。もしかすると、1929年当時の新興経済大国米国のバブル崩壊が引き起こした大恐慌のような状況になるかもしれない。
ただ日本は、オーストラリアやブラジルなどの資源国に比べれば対中輸出に依存していないし、元安によって中国から輸入している食料品、電気製品、衣料品などが安くなり、中国に進出している日本企業のコスト競争力も強くなるから、日本にとってはマイナスよりもプラスのほうが大きいだろう。  
共産党ツートップがここまで対立するのは近年珍しい 2016/7
 習近平vs李克強 中国行政の現場が混乱している
「南院と北院の争いに巻き込まれて大変だ」。7月中旬、久々に会った中国共産党の中堅幹部がこう漏らした。北京市中心部の政治の中枢、中南海地区には、南側に党中央の建物、北側に国務院(政府)の建物がある。党幹部らは最近、習近平総書記(国家主席)と李克強首相の経済政策などをめぐる対立について、冒頭のような隠語で表現しているという。
国有企業を保護し、経済に対する共産党の主導を強化したい習氏と、規制緩和を進めて民間企業を育てたい李克強氏の間で、以前からすきま風が吹いていたが、最近になって対立が本格化したとの見方がある。
江沢民氏の時代は首相の朱鎔基氏、胡錦濤氏の時代は首相の温家宝氏が経済運営を主導したように、トップの党総書記が党務と外交、首相が経済を担当する役割分担は以前からはっきりしていた。しかし最近、権力掌握を進めたい習近平氏が経済分野に積極的に介入するようになったことで、誰が経済政策を主導しているのか見えにくい状態になったという。
党機関紙、人民日報が5月9日付で掲載したあるインタビュー記事が大きな波紋を呼んだ。「権威者」を名乗る匿名の人物が、「今年前期の景気は良好」とする李首相の見解を真っ向から否定し、「(このままなら)中国経済は『V字回復』も『U字回復』もなく『L字型』が続く」と主張し、痛烈に批判した。
共産党最高指導部内で序列2位の李首相をここまで否定できるのは序列1位の習主席しかいないとの観測が広がり、「習主席本人がインタビューを受けたのではないか」との見方も一時浮上した。
複数の共産党幹部に確認したところ、「権威者」は習主席の側近、劉鶴・党財経指導小組事務局長であることはのちに明らかになった。しかし、インタビューの内容は習氏の考えであることはいうまでもない。最近の株価の下落や景気低迷の原因は、李首相の経済運営の失敗によるものだと考えている習主席は、周辺に李首相への不満を頻繁に漏らしているという。
習主席は7月8日、北京で「経済情勢についての専門家座談会」を主催した。経済学者らを集め、自らが提唱した新しいスローガン「サプライサイド(供給側)重視の構造改革」について談話を発表した。李首相はこの日、北京にいたが会議に参加しなかった。共産党幹部は「“李首相外し”はここまで来たのか」と驚いたという。
その3日後の11日、今度は李首相が「経済情勢についての専門家・企業家座談会」というほとんど同じ名前の座談会を主催した。自らの持論である「規制緩和の重要性」などについて基調講演を行った。
李首相周辺に近い党関係者によると、李首相は習主席に大きな不満を持っており、自分が主導する経済改革がうまくいっていないのは、習氏による介入が原因だと考えているという。
共産党のツートップがここまで対立することは近年では珍しい。「天の声」が2つあることで、行政の現場で大きな混乱が生じているという。8月に河北省の避暑地で開かれる党の重要会議、北戴河会議で、党長老たちが2人の間に入り、経済政策の調整が行われるとみられ、行方が注目される。 
 
現代日本 ポピュリズムの諸相

 

橋下氏のポピュリズム 2012/8
ポピュリズムは良い響きを持つ言葉ではありません。普通は「大衆迎合」と訳されるように、大局的、長期的損得を考えず、その時点で多数の人に受け入れられる政策を掲げる。目的は大衆的人気を得て権力を獲得すること。国民のことより自分のことしか結局は考えていない。ポピュリストと政治家を呼ぶのは、強い非難をこめているのは間違いありません。
最近、橋下大阪市長に対しポピュリストという批判が出ています。人目を引くテーマでスタンドプレーを繰り返すが人気取り以上のものではない、というのが批判の理由です。耳目を集めることの多い橋下氏ですが、読売新聞主筆渡辺恒男氏は最近の著書、その名も「反ポピュリズム論」で橋下氏をポピュリストの典型と位置付けています。
ところが当の橋下氏はポピュリズムにそれほど否定的なイメージを持っていないようです。橋下氏はツイッターの中で次のように言っています。
「しかし政治行政の本質は多数の意見で進めることだ。ポピュリズムと軽蔑されようがなんであろうが、民主制とはそういうものだ。それが嫌なら、民意を軽蔑する、賢人政治にするしかない。そんな政治はまっぴらごめんだ。賢人などいるわけがない。民主制は完ぺきではないがそれに替わる政体はない。」
実はポピュリズムを「大衆迎合」と訳すのは、政治学的な意味では正しくはありません。学問的にはポピュリズムは特定のエリート、権力者が国民を率いていく「エリート主義」と対比されて「大衆主義」「人民主義」とするのが普通です。
橋下氏はまさにその「反エリート主義」としてポピュリズムという言葉を受け止めているようです。橋下氏は同じくツイーターの中で、「インテリ」と呼ばれる人達に鋭い批判を浴びせます。例えば、橋下氏は文楽への補助を大阪市が減額することを検討していることに対し、「橋下市長は伝統芸能を理解していない」と言われたことに反発して次のように述べています。
「文楽について素朴な疑問をぶつけると、いわゆる自称インテリ層が、文楽のことを分かっていない!!伝統芸能を分かっていない!!と来る。首長や行政マン、そして自称インテリ層は文化音痴という批判、この言葉が一番嫌なんだね。だから文化は大切だ、文楽は重要だとしか言わなくなる。」
橋下氏は「インテリ」が様々な形で観念論で政策の批判をすることを激しく攻撃します。橋下氏の中にあるのは、政治は一部の知識人、マスコミが無知な一般大衆を「善導」することで行われるべきではなく、現実的な実務を広く国民一般の目線で行うべきだ、という強い信念のようです。
「結局新聞などに寄せられる自称インテリ層の意見は、国民総数からするとほんの少しの意見なのに、新聞紙面には多くを占める。いわゆるデモと似ている。新聞の自称インテリ層の意見が、国民大多数の意見だと見誤るとえらい目に遭う。もちろん、数だけが全てではないことは分かっている。」
橋下氏の矛先は評論家的な「インテリ」層だけではありません。地方に対する中央政府に対して、道州制による地方への大幅な権限移譲を求めています。これは、中央の政治家、官僚という日本のエリート層に対峙する本来の意味のポピュリズム的主張と言うことができます。
橋下氏にとって、ポピュリズムこそ民主主義の本質です。政治は一部のエリートのものではない。当り前のこの考えを「インテリ」は知的な傲慢さで、内心では否定している。否定しているからこそ伝統芸能、文楽への補助金の廃止という政策決定プロセスを「文化を理解していない」と切って捨てようとする。橋下氏はこう考えているようです。
これは日本の政治の中でかなりユニークな考えという気がします。同じような体制側に対する挑戦でも、暗に「意識の高さ」を誇る多くの市民運動家や、「支配される側」の立場を取る伝統的な社会運動家とは正反対と言っても良いかもしれません。
しかし、反エリート主義を掲げても、それだけで現実の政治ができるわけではありません。橋下氏自身も次のように指摘しています。
「政治家が行政実務をできるわけない。ただし裏を返せば、官僚組織は、今までのやり方を大きく変えることはできない、利害関係者・既得権者を振り切ることはできない、議論が膠着したときに決定できない、正解が分からない場合には今までやってきたことを踏襲する、となる。」
橋下氏の言うように、政治家は方向性を示し、官僚機構が実行する。これは簡単なことではありません。なぜなら、政治は政策を法律にすることと、実行のための予算配分がなければ機能しません。その能力なしで政治主導と言っても、それは単なる掛け声だけでしかないのです。そしてその能力を独占することで官僚機構は日本の政治を実質的に動かしてきたのです。
橋下氏の反エリート主義が本当の意味の政治主導を実現していくことができるか。橋下氏の下に集まった「維新の会」が、怪しげな人物の多い言わば烏合の衆だった、過去の新政党と本当に違うのか。しばらく見守っていく必要がありそうです。 
大衆迎合政治が日本を蝕んでいる 2012/9
 『反ポピュリズム論』を書いた渡邉恒雄氏に聞く
「衆愚の政治」と断固戦うという、読売新聞主筆による渾身の政治論とは。
世の中にポピュリズムが蔓延しているようですが。
『広辞苑』では第六版から、ポピュリズムについて「一般大衆の考え方、感情、要求を代弁しているという政治上の主張、運動。これを具現する人々をポピュリストという」という定義が追加された。しかし、これではポピュリズムではなくて、単なる民主主義の定義みたいだ。なぜ、大衆迎合政治と言わないのか。最近、朝日新聞が「民主主義を鍛え直そう」と題する社説の中で、脱原発デモという直接民主主義を礼賛している。これこそ「ポピュリズム万歳」と言っているようなものだ。
1999年にも著書『ポピュリズム批判』を出版しています。
ポピュリズムに興味を持ったのは石橋湛山元首相の影響もある。石橋さんはアンチポピュリストだった。戦前、世論全体が大国主義に向かっているときに、植民地を捨てよ、むしろいらないと主張した。事実、日本は軍事力を使って植民地を得、結果的に敗戦し、戦後は植民地を失って通商国家として復興に成功した。
駆け出し記者の頃、僕は石橋邸の近くに住んでいて、朝、国会まで車に同乗させてもらったこともある。僕は大学時代は共産党員で、その後転向したが、理論的な基礎は石橋さんたちの「小日本主義」だった。当時、まさに石橋さんはポピュリズムの逆に位置していた。その頃は「昭和維新の歌」がはやっていて……。
青年将校たちが口ずさんでいたといわれる……。
彼らはこの歌を歌いながら五・一五事件、二・二六事件を起こす。10節ある歌詞の中に、「財閥富を誇れども社稷(しょしゃく)を思ふ心なし」とある。権力は富に驕り国家を思っていないとして、彼らは「維新」へと動く。
普通の人は維新という言葉を聞くと明治維新を連想するが、僕は、子ども心に記憶が鮮明な昭和維新を思ってしまう。今、維新といえば「善」の範疇でとらえられているが、そこが僕の世代とのずれだ。だから、「橋下徹さん、大阪維新と昭和維新はどう違うの」と言いたくなる。
橋下大阪市長の国政向けの公約「維新八策」はポピュリズムの政策でしょうか。
維新八策は、いいことも言っている。民主党でも自民党でもできなかったことをやると言い、おかしいことはおかしいと改善に取り組もうとしている。
疑問を持つのは、消費税を全部地方税にせよというところ。その代わり、地方交付税交付金はいらないというが、現実的に無理だ。彼の周りのブレーンが悪すぎる。ブレーンの一人だった大前研一さんは原子力の専門家だったので橋下市長に批判的な文章を書いているが、原子力発電所を夏場だけ動かせという橋下市長の発言は、原子炉の構造に対する無知によるものだ。周りにいる人間が、人気取りのために、彼に脱原発・反消費増税と盛んに言わせようとしているのではないか。彼には優秀なブレーンを集めることが必要だ。
原発や消費税への取り組み方にもポピュリズムが見て取れるのですか。
たとえば、脱原発と一口に言うが、原発の稼働を中止しても、その後も冷却し続けなくてはいけない。その費用も膨大だ。そうするよりも、最大限安全に稼働させて、前向きに技術を向上させるほうが大事ではないか。どうせ先はないのだと思うようになると、一所懸命に取り組む技術者が減って、かえって危ない。
大飯原発では、すべての電源を失った際に原子炉を冷却できる時間が、再稼働前はわずか5時間だった。蓄電池しかなかったからだ。それが今は冷却用の水の備蓄などによって、全電源が失われても16日間も冷却を続けることができるようになった。同じように改善すれば、佐賀県の玄海原発は既設の電源を失っても65日間に、鹿児島県の川内原発は104日間にまで冷却期間が延びる。福島原発をめぐって各種の事故報告書が出ているが、いずれも人災だと結論づけている。人災なら人間の力で防ぐことができるはずだ。
では、再生可能エネルギーへの転換をどう評価しますか。
たとえば太陽光による電力。原発1基分の太陽光パネルといったら、東京のJR山手線の内側全体に相当する面積が必要だが、そんな場所は日本にはない。この前、太陽光電力を1キロワット時42円で買い上げると国会が決めたが、これこそよく考えもしない人気取りのポピュリズムだ。火力発電のコストは1キロワット時約12円だが、燃料代はどんどん上がっている。ホルムズ海峡で問題が起きたら、50円ぐらいにハネ上がってしまうかもしれない。これに対して原子力発電は、1キロワット時約9円でできるのだから、技術的に安全性を確保したうえで、稼働し続けたほうがいい。
消費税増税は民主党内でも踏み絵になりました。
増税反対と言っているが、増税分は何に使われるのか。主に社会保障費に使われるのだ。
民主党のマニフェストにある「コンクリートから人へ」は、ポピュリズムの象徴として後世に残る言葉ではないか。確かに自民党政権は、相当量の公共事業を進めた。新幹線を造ったり、高速道路を造ったり。また、公共事業として天災対策も行ってきた。自民党のやってきたことに批判はあるだろうが、これらをやってこなかったら、今どうなっていたか。
ポピュリズムが蔓延する中での新聞の役割は何ですか。
新聞は、誤った政策を推し進める勢力や不正を犯した者をただしていく。批判する場合は、法律や社会常識・道徳を踏まえ、論理的・体系的に行わなければならない。新聞には、それができる。小選挙区制とマニフェスト至上主義が、日本の政治を決定的に悪くした。これらとの決別が、ポピュリズム政治から脱するためには絶対必要だ。
「中型連立政権」を推奨しています。
日本の政治が「衆愚政治」に堕ちていくのを食い止めるのに、それ以外の道はあるだろうか。少なくともギリシャ、スペインは大失敗をした。原因はポピュリズムだ。この本でギリシャ危機を取り上げたのは、典型的な大衆迎合政治がその原因だったからだ。
日本も新しい政治の方向に行けば凋落は免れる。民主党と自民党が、第二の保守合同のつもりで一つの政党になることだ。自民党との連立で政権党としての経験を積んできた公明党も、連立政権に加わる能力がある。 
日本は「ポピュリズム(大衆迎合)型政治」から脱却すべき! 2012/12
ポピュリズム政党「日本維新の会」は「第二民主党」である
今回の衆議院選挙の特徴は、新党結成や政界M&Aが起こり、政党が乱立したことが最大の特長です。
特に、「日本維新の会」は「野合のデパート」と称されている通り、「脱原発」を掲げる橋下氏と「原発推進」を掲げる石原氏が恥ずかしげもなく、「政策が一致」したと発表し、野合したことは噴飯物です。
日本維新の会の本質は、民主党と同じ「理念なき寄合い所帯」であり、政策が一致しない者同士が「風」に乗って議席を獲得するために集まった「野合政党」の極みであり、民主党と同じく、内部分裂は不可避です。
実際、日本維新の会の候補者は、「風」に乗るために、「どの党に入ったら当選できるか」といった自分の政治生命を延命させるための判断で政党を渡り歩いている「政界渡り鳥」たちが少なくありません。
日本維新の会は、石原氏など「保守の顔」を前面に押し出していますが、実際は、元社会党、元民主党などの同和系や労組系、外国人参政権賛成議員も少なくありません。
すなわち、「日本維新の会」は「民主党」の看板をすげ替えた、単なる「第二民主党」に過ぎないのです。
「大衆迎合の政治文化」からの脱却を!
京都大学・佐伯啓思教授は、11月22日産経新聞の「正論」で、「小沢一郎氏による自民党離脱からはじまる政治改革は、自民党に変わる二大政党政治を唱え、そのことによって民意を反映する」ことをねらったものであると指摘しています。
しかし、「民意を反映する政治」の流れは、日本では「ポピュリズム」に陥り、「大衆迎合の政治文化」の悪しき風習が出来上がってしまいました。
その象徴が、一部のマスコミが報道する「国民の総意としての脱原発」です。
自民党・安倍総裁でさえ、票が減ることを恐れて「原発の政策」についてはっきり言うことさえ出来ません。それではどこへ国民を導いていくのかさえ、不安になります。
政治家は政策を国民にしっかり説明せよ!
そうした意味では、幸福実現党は「原発推進」をはっきりと打ち出し、脱原発がもたらす経済の没落や国防面から見た原発推進の理由を国民の皆様に説明しています。
政治家に必要なことは、大衆に迎合することではなく、その大衆が選んだ選択が不幸を及ぼすときには、しっかりと説明し、時には逆風を突いて政策を断行する勇気が必要です。
昔の政治家には、岸信介元総理のように、大規模なデモ隊によって取り囲まれ、投石と共に「岸を殺せ!」という怒号に包まれようとも、「千万人といえども吾往かん」という断固たる気概で日米安保改定を成し遂げたような方がいましたが、今の政治家にそのような人物は見当たりません。
マスコミがつくりあげた「人気主義」との決別を!
また、前出の佐伯啓思教授は、こうも指摘します。「政治は、マスコミメディアを通した人気主義に大きく左右されることになった」と。
政策は二の次で、現在の日本の「政治文化」は、マスコミが音頭を取った「人気者」が当選する空気が出来上がってしまいました。
幸福実現党は「大衆迎合」ではなく、正々堂々と日本国民の幸福、日本経済の発展をどのようにつくるのか、真っ向から正論を訴えています。
国民の皆様には、マスコミが作り上げた「人気」ではなく、幸福実現党の「正論」こそが国民を真に幸福にすることを是非ご覧頂きたいと思います。  
小泉純一郎の日本型ポピュリズム
大嶽秀夫氏は「日本型ポピュリズム」のチャンピオンとしての小泉純一郎を、アメリカのレーガン元大統領と比較しながら考察している。もっともこの本(「日本型ポピュリズム」中公新書)が書かれたのは2003年5月以前のことであり、小泉は首相として任期半ばであった上に、彼のポピュリストとしての特徴は、2005年の郵政民営化選挙の際にもっと凝縮された形で発揮されたことからすれば、中間的な総括としての限界を持たざるを得ないところだが、それでも、小泉が体現していた日本型ポピュリズムの特徴をよく捉えているといえる。
ポピュリズムには二つのタイプがあると氏はいう。下からのポピュリズムと上からのポピュリズムである。下からのポピュリズムはアメリカの政治的な伝統の中で、人民党など、民衆の意思を体現する運動という形をとった。それは往々にして、大衆迎合的な色彩を帯びる。一方上からのポピュリズムはラテンアメリカの歴史において、大衆的支持を得た権威主義体制として現れたのが典型的な例である。それは扇情的な大衆動員という色彩を帯びる点で、ファシズムとの近縁性を感じさせることもある。学者によっては、この形のポピュリズムをデマゴギーと呼ぶ者もいる。
この両者のポピュリズムは近年次第に収斂しつつあると考えられる。それは、いずれの形のポピュリズムも次のような特徴を共有していることから来る自然の趨勢だといえる。(これらの特徴は、アメリカの政治学者ケイジンの研究をもとに導き出されたものである。以下は大嶽秀夫「日本型ポピュリズム」から引用)
"ポピュリズムとは、「普通の人々」と「エリート」、「善玉」と「悪玉」、「味方」と「敵」の二元論を前提として、リーダーが「普通の人々」の一員であることを強調すると同時に、「普通の人々」の側に立って彼らをリードし、「敵」に向かって戦いを挑む「ヒーロー」の役割を演じてみせる、「劇場型」政治スタイルである。それは、社会運動を組織するのでなく、マス・メディアを通じて、上から、政治的支持を調達する政治手法のひとつである。"
ロナルド・レーガンは、ここで定義されたようなポピュリスト的な政治スタイルを存分に発揮した政治家だった。彼はアメリカ人の大多数を占める「普通の人々」が政治的に無視されてきたと語り、彼らを無視する政治的なエリートを敵として、普通の人々の代表者として戦う姿勢を示したわけである。こうしたやり方は、ブッシュやクリントンも引き継いだ。彼等もまた、「普通のアメリカ人」と「ワシントン・エスタブリッシュメント」との二元論に依拠して、広範な大衆の支持を動員したのである。
そのレーガンと比較しながら小泉純一郎のポピュリズムの特質を分析すると次のようになる、と氏はいう。
第一に、レーガンの政策の軸になっていたのは、新自由主義であった。すなわち、小さな政府と市場への信頼である。小さな政府は、官僚などの既存のエリート勢力を敵にして、普通のアメリカ人の利益を守るという主張につながるものだ。それに対して小泉も。「郵政民営化」などに関して、小さな政府を主張したが、レーガンほど政策が明確であったわけではないと氏は言う。レーガンの場合には、敵は官僚と並んで労働組合などの左翼勢力にも向けられた点で、右翼的な色彩が強かったわけだが、小泉にはレーガンと比べて左翼との対決姿勢が弱いというわけである。それは小泉の立場が新自由主義的思想体系の産物ではなく、官僚批判と現実の財政危機から発したものであり、具体的な処方箋のレベルを出ていないことによるという。
第二に、小泉のポピュリズムはレーガンと比べて扇情的な面が少ないという。レーガンはアメリカが神によって選ばれた国であるというアメリカ人特有の宗教意識に訴えかける一方、外部の敵の脅威を強調してナショナリズムを煽った。小泉には日本人の自尊心を煽るようなポジティブな要素は少なく、敵を攻撃するだけのネガティブなポピュリズムとしての面が強いという。
第三に、同じ劇場型の政治といっても、レーガンと小泉にはかなりな相違がある。レーガンは俳優出身ということもあって、雄弁で話もうまく、「女性的」なイメージを併せ持ったリーダーだった。小泉の方は、其れとは対照的に寡黙で、男性的なイメージが強かった。またレーガンが大衆の支持を獲得するために入念で科学的な準備をしていたのに対して、小泉にはそのような努力の形跡は見られない。小泉は突如、思いがけずに大衆の人気を獲得したのである。
こうした相違は、小泉自身のキャラクターとも大いに関係しているだろう。氏はそんな小泉らしいところをいくつか抽出している。
まず、先の第三の点と関連するが、小泉は寡黙で、何を考えているのかわからないところがあったといわれるように、思想・信条をとらえる手掛かりに乏しいのであるが、言うこと為すことが浪花節的だというのである。これは小泉の家系と関係があるのかもしれない。
浪花節的だとは、義理人情に篤いということであるが、小泉にはそうではないところもある。小泉は人間関係については意外とドライな面を併せ持っていた。
次に、小泉は感情をかなりストレートに表現する政治家である。逆に言うと、感情をコントロールすることが苦手である。そのため、言動に情緒的な色彩を伴った。
このことの裏返しだが、小泉は複雑な社会現象を、抽象的なレベルで体系的に思考する能力が弱い。そのため、政治問題を、極めて単純なレベルでとらえる。
小泉の持つこうした「浪花節的」、「感情的」、「単純」といった特質が、大衆受けする手段として機能することはいうまでもない。
最期に小泉の信条について。普通ポピュリストと呼ばれるような政治家は、伝統回帰的でタカ派的なイメージが強いものだが、小泉は必ずしもそうではない。周辺諸国の反発を無視して靖国神社に参拝し続けたことは、小泉の伝統尊重を物語る例だと思われないでもないが、それ以外のイシューで小泉が伝統主義者だったと強く思わせるような証拠はない。また外交の面でもタカ派ぶりを発揮したという形跡も殆どない。その辺のところを総括して、氏は次のように言っている。
"彼の信条には、日本の美風、あるいは皇室への敬愛といった伝統主義の要素は弱いし、防衛政策でも、教育政策でもとくに右翼的ではない。ピル解禁への反対も保守政治家がしばしば依拠し、唱える公序良俗論など伝統主義を根拠とする主張ではない。その意味で、彼のタカ派的主張は、根の浅いものである。  
大衆迎合政治は大きなリスク 2015/10
政治が大衆迎合的(ポピュリズム)になると経済的に間違った政策が行われる例は多い。記憶に新しいのは米国のリーマン・ショック時に、「ウォール街を救うために税金を使うのはけしからん」という世論におされて、金融安定化法案が否決された。後に再可決されたが、否決されたことで金融政策への不信感も一気に高まり、世界中から「信用」という信用が消滅し金融危機は破滅的なレベルに突入した。リーマン破綻時よりも金融安定化法否決時の方が株価などの暴落や金融市場の混乱は激しかった。
日本でもバブル崩壊時に「庶民が家を買えなくなるのはけしからん」という世論やマスコミの騒ぎにおされて、急激な引き締めを行ったことで、バブルを破滅的に叩き潰すことになった。その後の金融機関への資本注入に際しても、米国のリーマン・ショック時と同じく、「税金で金融機関を救うのはけしからん」という声におされて資本注入が遅れ、バブル崩壊の影響がさらに長期に及ぶことになった。
その時々の雰囲気や世論におされて政治の意思決定が行われると、経済的には大きく間違ったことが行われるリスクがある。
本物の政治家とは国民に人気がなくても、国益や将来的な観点からみて正しい政策を実行できる政治家だ。ほとんどの民主主義国家で直接民主制ではなく間接民主制がメインの意思決定システムとして採用されているのは、一時の熱狂で偏る「拍手と喝采」の政治ではなく、選良による賢明な判断のほうが結果として正しい選択ができるという歴史的な経験に基づく。
ポピュリズムによる経済的に誤った政策が実行されるリスクは常に存在する。政治家は国民の人気にないことを行ったことで次の選挙で落選することを最も恐れているからだ。
最近では日本の消費増税の軽減税率論議がこれにあたるといえよう。食料品等に軽減税率を適用する弱者や低所得者に優しい政策というと聞こえはよいが、システムコストや業者のコストを考えると結局国民の負担が増える可能性がある。また、軽減税率を適用する線引が難しく、利権の温床となりこのコストも国民に跳ね返ってくる可能性がある。  
また、米国でヒラリー・クリントン氏がTPPに反対したり、金融市場の規制を引き締めようとしているのもポピュリズムの典型といえよう。従来の主張を曲げ、大統領選で勝利しようとして目先の人気取りの主張をしているのはいただけない。
結局、正しい政策が行われるためには、国民一人一人が一時の趨勢に流されたりマスコミの煽りに乗らず、冷静に正しい政策を考えて行動する必要があるが、これはこれで非常に難しいことだ。
時代が変化しても、民主主義国家の大衆迎合政治は大きなリスクとして存在し続け、これを避ける有力な手段は見当たらない。 
憲法改正で自衛隊は“米国のポチ”化する?
3分の2の議席を確保して改憲勢力の動きが本格化
改憲勢力が3分の2の議席を確保したことを受けて、にわかに改憲議論が高まっています。安倍晋三首相は「憲法審査会での議論を優先する」といいますが、すでに「第9条」や「緊急事態条項」などについて詳細な改憲草案を作成している自民党が“数の力”で議論を主導していく可能性が高まっています。
自民党の「日本国憲法改正草案」はどこがどう問題なのでしょうか?米国の同盟国である英国が米国ともにイラク侵攻に至った経緯を調べてきた独立調査委員会(ジョン・チルコット委員長の名前から、通称「チルコット委員会」)が2016年7月に明らかにしたレポートを踏まえ、大前研一が解説します。
自民党ペースの改憲議論は危険だが、改憲全面否定は時代遅れ
「集団的自衛権」を合憲化するための自民党9条改正案
英国が米国とともに2003年にイラク侵攻に参戦した経緯などを検証していた独立調査委員会(チルコット委員会)は2016年7月、7年間にわたる調査の結果、トニー・ブレア元首相の参戦判断や計画策定に数々の誤りがあったとする報告書を発表した。
さらに報告書は、ブレア首相が開戦8か月前の2002年7月、米国のブッシュ大統領(当時)に「何があっても協力する」と武力行使での連携を書簡で確認したことも明らかにした。要するに、ブレア元首相の決定的なミステークは“米国のポチ”になったことだったのである。
これは安倍首相への警告と言えるだろう。集団的自衛権の行使を容認し、他国軍の後方支援のために自衛隊をいつでも海外に派遣できるようにする安全保障関連法は、まさに「米国にお供します」という宣言であり、それがいかに危険なことか、上述した報告書が如実に物語っているからだ。
常に米国が日本よりも正確な情報を持ち、正しい判断をしているのなら、米国に追従するのは仕方がないし、東西冷戦時代であれば西側陣営の一員としての義務もあったと思う。しかし、上述した報告書を待つまでもなく、米国がこの20年間にイラクやアフガニスタンなどで展開してきた中東政策は、ことごとく間違っていた。それ以前の歴史を振り返ってみても、ベトナム戦争という大きな過ちを犯したし、中南米でもパナマ侵攻などのミステークを重ねて反米勢力を増やしてしまっている。
そういう判断力なき米国と盲目的な軍事同盟を結ぼうというのが、2015年9月に施行された安保関連法である。
そして今、遡上に載せられようとしている自民党の憲法改正草案は、戦争放棄を謳った第9条を以下のように変えようとしている。
第2章 安全保障
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
この改正の狙いについて自民党の「日本国憲法改正草案Q&A増補版」では以下のように解説している。まず、現行憲法の第9条第1項については文章の整理のみとする。さらに2項で「戦力の不保持」等を定めた規定を削除したうえで、改めて「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」として自衛権を明示。「この『自衛権』には国連憲章が認めている個別的自衛権や集団的自衛権が含まれていることは、言うまでもありません」。
これまでの歴代内閣は、「集団的自衛権の行使は憲法第9条で禁じられている」ものとして解釈してきた。安倍首相はその解釈を変更し、集団的自衛権は現行憲法の下でも当然認められるということで安保関連法を成立させた。
従来の憲法では認められていなかったものを、改憲した上で法律にも反映するという理屈なら分かるが、実際は、新たに施行された法律に合わせて憲法を修正しようということになる。つまり、自民党は、第9条改正によって安保関連法を憲法に反映させるという「後付け」で正当化しようとしているのだ。そこにはブレア元首相が犯した過ちへの反省や、米国が過去20年間繰り返してきた間違いだらけの中東政策についての反省は微塵もない。これはあまりにも杜撰で危険だと思う。
特に、日米ガイドラインでは、日本は後方支援するといっても、現地に派遣された軍隊は米軍の司令官の指揮下に入ることになっている。つまり、ひとたび戦地に赴いた場合は、国会も内閣も自衛隊の統制権を失う危険性があるのだ。英国の資料に出てくるこうした点の議論も、日本で行われているのを寡聞にして知らない。
安倍首相は憲法改正に向けて、第1次政権時代に国民投票法を成立させ、昨年安保関連法を強行採決した。そして、今夏の参院選で改憲の3分の2以上の議席を改憲勢力で確保した。この勢いで一気に改憲へ、と考えているかもしれないが、「Gゼロ」時代になった今こそ、いったん立ち止まって米国との戦後70年を再考し、国際社会の中で日本はどうあるべきかということを、もっと真摯に議論しなければならない。
もともと安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を主張していた。しかし、米国との関係を見直すことの難しさに直面し、中国、韓国との関係悪化を経て、結局、米国に擦り寄った。2015年4月、連邦議会上下院合同会議の演説で「日本にとって、米国との出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした」などと歯の浮くようなおべんちゃらを言ったのは記憶に新しい。要するに安倍首相は、実は腰が定まってないのである。だから現在の日本の状況は、なおさら危険と思うのである。
「緊急事態条項」は「国家総動員法」の再来で危険
安倍首相は2014年の衆院選と2016年の参院選で国民の信任を得たという。実際は民進党などの野党が自滅しただけだが、選挙での勝利を、安保関連法やアベノミクスなどの“錦の御旗”にしている。
実はこのやり方は、かつてのナチス・ドイツと同じである。ナチスのアドルフ・ヒトラーも国民が困窮する中で失業・景気対策や移民排斥を訴え、選挙のたびに国民の支持を拡大して強大になっていった。
自民党の憲法改正の草案に盛り込まれている改憲の焦点となっている「緊急事態条項」(「日本国憲法改正草案」第9章)は、まさにナチスを彷彿とさせる。その中では、我が国に対する外部からの武力攻撃や大規模な自然災害などが起きた時に首相が緊急事態を宣言すれば、法律と同じ効力を持つ政令を内閣が定めたり、財政上必要な支出を首相が決定したり、地方自治体の長に対して必要な指示を出したりすることができ、国民は国や公の機関の指示に従わなければならないとしている。これは1938年に制定された「国家総動員法」のようなもので、すこぶる危険だ。
自民党の憲法改正草案で主要な争点となっている部分を見ていくと、同党のペースで改憲議論が進むのは極めてリスクが高い。
ただし、その一方で野党・護憲派の改憲全面否定も、すでに時代遅れだ。確かに第9条が果たしてきた歴史的役割はとても大きく、その結果として日本が戦後70年間で非常に良い国になったのは紛れもない事実である。だが、今や国際情勢は混迷・混乱を深め、日本は人・モノ・カネ・技術・ノウハウ・経験など様々な面で世界に貢献出来る状況になっている。
この新しい時代の中で自分たちの今後数十年を規定していく憲法をつくるという作業は絶対に必要であり、単に現行憲法を「不磨の大典」として崇め奉るだけで何も新しいアイデアや対案を出さない護憲派は、知的怠慢の誹(そしり)を免れることができない。 
新たな黒田バズーカで勢い付く円弱気派、安倍・トランプ会談後も一層に
外国為替市場の円弱気派が一段と勢い付いている。ドナルド・トランプ次期米大統領の経済政策を先取りした米国の金利上昇が続く中、日本銀行の黒田東彦総裁が利回り指定の新型の国債購入に動くなど、円安要因になり得る日米金利差の拡大観測が一段と強まっているからだ。
米10年物国債利回りは18日に一時2.36%と年初来の高水準を付け、米大統領選の結果が判明する直前の水準を50ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)上回った。同年限の日本国債利回りも2月以来の高水準となる0.04%を付けたが、金利の上げ幅は米債に比べ5分の1程度と小さい。トランプ氏と安倍晋三首相が会談後に友好関係の構築への意欲を共に示した同日の日米10年債の利回り格差は5年以上ぶりの水準にまで拡大している。
この日の円の対ドル相場は一時1ドル=111円12銭と前週に引き続き5月31日以来の円安値を更新。トランプ氏が公約した大型減税やインフラ投資などが米国の経済成長とインフレを加速させ、米利上げが進むとの見方を背景にした円売り・ドル買い圧力は根強く残っている。モルガン・スタンレーは、円が「かなり」下げると予想。バンク・オブ・アメリカ(BofA)は、来年は120円程度まで円安・ドル高が進む可能性があると読む。
メリルリンチ日本証券の山田修輔チーフFX/株式ストラテジストは「トランプ氏の当選に伴う米金利の上昇に釣られていないのは日本だけだ。黒田総裁が指し値オペの発動で金利の抑制を続けると意思表示したので、米10年債利回りがさらに上昇しても国内金利がどんどん上がっていくとは考えにくい」と指摘。「日本では追加緩和しなくても、金融緩和の度合いが自動的に強まっていく」とみている。
円安・株高を背景とした追加緩和観測の後退を受け、日本の中期債利回りがマイナス幅を急速に縮小した日の翌17日。日銀は2年債をマイナス0.09%、5年債をマイナス0.04%で買い入れる指し値オペを初めて実施した。実勢より高い利回り(安い価格)という条件だったため、金融機関からの応札額はゼロ円だったが、市場は日銀からのけん制球だと受け止めた。
日銀は9月に金融緩和策の枠組みを変更。日銀当座預金の一部にマイナス0.1%の付利を課すのに加え、10年債利回りがゼロ%程度で推移するよう、国債を購入する「長短金利操作」を中心に据えている。黒田総裁は18日の衆院財務金融委員会で、中期ゾーンの金利上昇が「かなり急ピッチ」で適切でなかったと説明し、今後も「場合によってはいくらでも無制限に買い増す」と語った。
モルガン・スタンレーのチーフグローバル通貨ストラテジスト、ハンス・レデカー氏(ロンドン在勤)はインタビューで、日銀はイールドカーブ(利回り曲線)を望ましい水準に誘導するために「非常に賢明に対処している」と指摘。円安・ドル高が「かなりの勢いで進むだろう」との見通しを示した。
生保は国内回帰せず
生命保険協会の根岸秋男会長(明治安田生命保険社長)は18日の記者会見で、日銀が10年債利回りの上昇を0.10%程度までは容認すると思っていたので、現在の水準で指し値オペを発動したのは意外だと発言。国内金利は従来の円債投資計画を修正する水準ではないとの認識を示した。かんぽ生命保険や日本生命保険など主要生保は今年度下期、超低金利が続く国内債券の保有残高を減らす方針を示している。
スタンダード・ライフ・インベストメンツでシニア日本アナリストを務めるゴビンダ・フィン氏(香港在勤)は、今回の円安をもたらした日米金利差の拡大は「日銀のイールドカーブ・コントロールによって確実性が高まった」と分析。「今後の焦点は明らかに、日銀が現在の水準に踏みとどまるか否かだ」とみている。
JPモルガン・アセット・マネジメントの塚谷厳治債券運用部長は「日銀が残存10年程度までの利回りを自らが望む水準に抑えたいという姿勢が指し値オペの発動で鮮明になった」と指摘。「当面は米金利がさらに上がって円安・株高になっても、国内金利の上昇は限られる」と読む。米10年債利回りについては当面2.5%程度まで上昇するが、日本は0.07−0.08%止まりで、円安・ドル高が112−113円まで進むと予想する。
トランプ氏の政策期待で、同国の予想インフレ率は14日に昨年4月以降で初めて2%台に迫った。日本の同指標も上昇しているが、トランプ氏当選後の上げ幅は米国の半分程度にとどまっている。
早川英男元日銀理事は先週のインタビューで、トランプ氏の当選を受けた米財政赤字の拡大やインフレ圧力の高まり、長期金利の上昇とドル高、保護主義の強まりという流れは、まず変わりようがないと指摘。日銀は恐れていた円高が遠のくため、「何もしないでこのままごろ寝をしていればよい」と述べた。 
 
一歩前進、二歩後退 / 逆進する世界の民主主義とその原因

 

アメリカの国際問題専門誌『フォーリン・ポリシー』3/4月号が、冷戦後拡大してきたグローバルな民主主義が今や後退期にはいっているという、表記の論文を掲載している。その原因は、民主主義の主体として評価されてきた中産階級の弱体化と無気力にあるという。筆者のジョシュア・カーランチックは国際問題評議会東南アジア研究員で、近著に『後退する民主主義:中産階級の反乱と代議制統治の世界的な衰退』がある。
民主主義の前進がピークアウト、後退局面に ― 2005年以降
過去2年間、アラブ世界、アフリカ、アジアにおいてこれまで予想されなかった急激な変化に世界の関心が惹きつけられてきた。
ビルマでは、たった6年前まで乱暴な軍部が黄色な僧衣を纏った僧侶を街頭で射殺したが、過去2年間に民主主義的な民政へと正式かつ本物と見える移行が進んでいる。
チュニジア、エジプト、リビアでは長期の専制政権が人民革命によって打倒されたが、これらの国の市民は民主主義の落とし穴を実感しつつあるように見える。『ニューヨーク・タイムス』は、アラブの人民が「我が国が支えてきた暴力的で専横な政権に対して自らの回答を持って立ち上がった」と書いた。
誇大な宣伝を信じてはならない。現実には民主主義が後退している。アフリカとアラブ世界の一部の国は過去2年間にわずかに解放されたが、かつて政権交代の模範とされてきた他の国では、落胆すべき民主主義のメルトダウンが共通してみられる。「フリーダム・ハウス」(評者注:市民的自由を評価する格付け報告を毎年発表している国際的NGO)は、ここ7年間にわたって継続的に低下してきた世界における自由が、2012年には今世紀最低に堕ちたとしている。
ますます多くの国で、ポピュリスト(大衆迎合)的極右排外主義的で、民主主義をほとんど尊重しない政党が人気を博するようになっている。政権に批判的活動家を弾圧しようとする政府も増加した。
「アラブの春」は、域内でシリアのバシャ―ル・アル・アサドやバーレインを支配するアル・カリファ一家を追い詰めたが、反面で世界中の専制的政権に強硬路線を民衆に対してとらせることになった。
中国は抗議を意味する間接的な表現までも検閲削除の対象とさせているし、ロシアでは新しい国家反逆罪が制定され、人権NGOが弾圧された。アラブの春以降、変革を求める大衆運動に体制側が敏感になり、巧妙で厳しい抑圧策を採るようになっている。 
もちろん、その責めをアラブの春に負わせるわけにはゆかない。民主主義の世界的な前進のピークは2000年代のはじめに終わっている。グローバルな民主主義を包括的に調査している「ベテルスマン財団」の変化指標によると、「開発途上国において全般的に民主主義の質が低下した」それによれば、とても本物の民主主義国とは思われないほど制度、選挙、政治文化が劣化した国が52に上った。
軍部が権力の中枢を握る国が近年再び増加傾向
ロンドンの『エコノミスト』誌調査部の大がかりな調査によると、2011年に調査して167ヵ国中、48ヵ国で民主主義が劣化した。その報告は、「過去5年間、グローバルな支配的パターンは後退である」と述べている。
これらが指しているのは、悪名高いウガンダやパキスタンだけではない。反対派の声に機会が奪われ、法による統治が欠け、代議制の機能しない政治機構を持つ国々を専制政治とあまり相違のない「極めて不完全な民主主義」と変化指標は分類している。
新しい民主主義のモデルとしてしばしば挙げられてきた国でさえも、過去10年間に逆進している。チェコ、ハンガリア、ポーランド、スロベニアは、2004年にEUに加盟した当時、成功物語と持て囃された。しかしながら、EU加盟後10年にして、その輝きが曇ってしまった。特にハンガリアは、共産党支配下とあまり変わらないほど、報道の自由が大幅に後退した。
ヨーロッパの民主主義が揺らいでいる一方、旧型のクーデタが各大陸で復活してきた。アフリカ、アジア、ラテンアメリカにおいて、1990年代には軍事クーデタが稀になっていた。しかし、2006年から2012年の間にバングラデシュ、フィジー、ギニア、ギニア―ビソウ、ホンジュラス、ホンジュラス、マダガスカル、マリ、ニジェール、タイなどで軍部が権力を握った。エクアドル、メキシコ、パキスタンなどの国では、軍部はむき出しのクーデタこそ謀りはしなかったものの、政治の中心的立役者として権力を回復した。
中近東においても全般的にこの傾向がみられる。アラブ民衆の蜂起が軍部の力を弱体化させ、大規模な不安を惹起し、中産階級リベラルの国外脱出を招き、スラム主義者の台頭を促した。イエメンからエジプトに至る諸国で抗議運動は勇敢に指導層に挑戦したが、支配者が残ることができたかどうかは軍部の支持によって決まった。
民主主義弱体化の理由はなにか / 中産階級の政治的変質と無気力
どうして事態が悪化したのか。中産階級という、意外な犯人を名指しすることから始めたい。サムエル・ハンチングトンの近代化論とは逆に、セイモア・リプセットやほとんどの西欧の世界的リーダーたちは、開発途上国における中産階級の成長が民主化のブームを生むと長年にわたって主張してきた。ところが、そうは作用しなかった。
理論的には、中産階級が拡大するにつれて、教育水準があがり、経済的社会的政治的民主主義拡充の要求が高まるはずであった。ひとたび一人当たり所得が中間的所得水準に達した国は、専制的政治に後戻りするはずではなかった。
「(民主化された)ほとんどの国で、民主化のもっとも積極的な支持者は中産階級であった」ハンチングトンは書いた。ロシアのエコノミスト、セルゲイ・グリエフは「ロシアの中産階級は非常によく教育を受け、生活の質を享受しようと意欲的なので」プーチンの忍び寄る専制主義ではなく「腐敗の削減と参加機会の拡大を要求するだろう」と今年2月に述べている。
しかし、彼らの云う通りになっていない。中産階級がグローバルに見て拡大しているのは事実である。中産階級は、世界銀行の推算によると、1990年から2005年の間にアジアの開発途上諸国で3倍になり、アフリカ開発銀行によると、アフリカでは過去10年間に3分の1以上増加した。今日、世界中で約7000万人が毎年中産階級入りしている。
しかしながら、このグローバルな新中産階級は、何よりも安定を選択している。アルジェリアからジンバブエに至る中産階級は、大衆的民主主義に対する障壁として軍部を支持してきた。彼らは、貧民、宗教者、無教育なものを恐れた。
過去10年間の開発途上世界におけるクーデタ(成否を問わず)を調査し、現地のメディアや世論を分析したところ、50%のケースで中産階級が事前にクーデタを煽るか、事後に全面的に軍部を支持していた。もともと中産階級はこれまでパキスタンやタイなどで軍部を政治から排除する運動の先頭に立ってきたことから見れば、これは驚くべき数字である。
多くの国において、暴力的行動ではなく、選挙よって政治指導者を交代させる民主主義の原理を中産階級が軽視している。ボリビア、ベネズエラ、フィリピンなどで、中産階級が選挙で選ばれた指導者を追放するために街頭デモや裁判闘争をおこなっている。
こうした傾向は強くなるばかりである。多くの開発途上国での世論調査は、民主主義の質が低下しているだけでなく、民主主義についての一般大衆の見方が後退している。亜サハラ地域のアフリカ、中央アジア、旧ソ連でこれが特に著しい。最近の世論調査では、民主的に国を統治することが非常に重要であると答えたロシア人は16%だけであった。
同様に、コロンビア、エクアドル、ホンジュラス、グアテマラ、ニカラグア、パラグアイ、ペルーという中南米諸国で、民主主義が他の統治形態よりも好ましいと答えた人は、過半数をわずかに上回るか、少数派にすぎなかった。
金融財政危機で市場主義が民主主義を圧倒
2008年の金融危機以後のグローバルな経済的低迷が民主主義に対する市民の支持を弱めた。各国、特に東欧において、この経済的混乱が中産階級に打撃をあたえた。2011年の欧州復興開発銀行報告は、新EU加盟10ヵ国すべてにおいて危機が民主主義に対する支持を深刻に低下させたとみている。「より自由を享受しているものが、危機によって打撃を蒙った時に、民主主義よりも市場を優先した」と報告は述べている。
世界で最も経済的に活気があり、グローバル化している地域であるアジアでさえも、世論が民主主義に不満を持っていることを示している。例えば、インドネシアは、2000年代における民主主義の成功物語と見做されている。だがしかし、票の買収や選出された議員の腐敗が問題視され始めている。2011年の調査では、回答者の僅13%のみが、民主的に選挙された政治家がスハルト時代の指導者よりましだと述べたにすぎない。
民主主義がもっと深く根付いている国でさえも、近年、政治にたいする幻滅が浮上している。インドでは何十万の人々が政治腐敗に抗議デモを行い、イスラエルでは基礎的な経済問題を政治家が軽視していることに対する抗議の座り込みがテルアビブで続き、フランスでは政府の緊縮措置を国民が押し返すなど、中産階級はその主張をますます街頭で表明するようになっている。
失業率が50%を超えたスペインでは、「投票に行くのは政治の恩恵を受けてきた両親たちだけ」と若者が新聞記者に語っている。「我々の世代にとって投票は無意味」だと。
オバマは、「世界中の民主主義の推進に助力する、とこれまでの大統領と同じように、第二期の就任演説で述べた。オバマの意図するところは良いが、実際にはほとんど出来得ることではない。開発途上国における民主主義の後退は悲しいが、アメリカが制御しうるものではない。アメリカはまず自国を制御しなければならない。

本論文が指摘しているような、民主主義よりも政治的安定と市場を優先する潮流が、参議院選挙以降日本でも一段と強まることが懸念される。日本の民主主義が今後さらに逆流するのを許せば、もっとも主要な先進産業国の一つがこの傾向を初めて顕著に示すことで、21世紀の歴史上、禍々しいランドマークとなるだろう。
20世紀末にソ連とその共産圏が崩壊したことで冷戦が終わり、ドミノ的に他の政治独裁が相次いで消滅した。独裁の担い手もしくは後ろ盾であった軍隊は兵舎に引き上げ、民政移管が進んだ。東アジアにおいては韓国や台湾が、冷戦終結前より政治の民主化の先鞭をつけていたので、冷戦終結に民主主義拡大を起因するのは短絡にすぎる。ソ連の崩壊と冷戦の終結にすべての民主化の根源をみる、フランシス・フクヤマ流の単純な民主主義普遍化論はさすがに影が薄くなった。共産主義が崩壊したので、民主主義に挑戦する政治理論が無くなり、政治体制は「歴史の終わり」に到達したというよう楽観的で、ノー天気な民主化論は姿を消した。
地球の環境・資源・人口などから見た制約を無視ないし軽視し、景気回復と経済拡大、そのための経済競争力拡大を優先する「アベノミクス」的近視眼的ポピュリズムが、民主主義の根底を揺るがす「政治的回帰」と精神的里帰り傾向と結合するときに、極めて危険かつ無責任な扇動型政治家が登場する素地が生まれる。これは必ずしも日本だけに固有な現象ではない。
シュレジンジャー・ジュニアが、かつて本誌で紹介した『フォーリン・アフェアーズ』の論文で警告していたように、情報の流通と政治プロセスのデジタル的加速化が進むことが、対話とか検証という時間のかかるプロセスを必要とする民主主義に危機をもたらす危険を強く実感するようになった。検証されない情報が大量にマスコミとネット上で垂れ流され、批判的議論のプロセス抜きに行われる「世論調査」で生まれた思想的潮流が、「世論」を流砂のように風次第として、政治を左右する加速的流動をうんでいる。
政治的民主主義が社会的民主主義と経済的民主主義によって補強されてない社会では、民主主義は「ひ弱な外皮」に止まり、絶えず政治的不安定によって脅威にさらされることになる。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
保守主義

 

伝統か、革新か
古いものと新しいもの、どちらを大切にするべきかという答えを持ちかけられた場合、どちらを重視するべきかと答える人が多いだろうか。筆者個人の見解としては、昨今の状況を鑑みて新しいものを重視した方が断然良い、などと答える人が多いかもしれない。何に対してというわけではなく、ただ概念として求められると迷ってしまうかもしれない。そしてこの古いものと新しいものを天秤に掛けた質問を尋ねるにしても、対象とする物をどれに焦点を絞って話をしているかでまた変わってくる。はかりとして用いられる材料がスマホや洋服といった、市場において入れ替わり立ち代りの激しい商品事情に当てはめて考えると、大多数が新しいものが良いと答えるだろう。古い物が良いと答える人の中にはブランド物などという例外過ぎる答えを提示する人もいるかもしれない。対象を定めないでただ漠然と古いものと新しいもの、どちらに価値を見出すかという質問に迷う姿勢を見せるほうがこの時正しいのかもしれない。
ではこの古いものを『伝統』か『革新』かで選べと聞かれたら、答えは二分するだろうと予測する。ただ答えを抽象的から具体的にするだけで質問の意図も印象も見事なまでに異なってくるだろう。そしてこの質問でどちらが正しい答えかというのを決める事は難しい、どちらにも利点が存在しており、そしてどちらにもそれなりに欠点が存在しているからだ。物事においてそれは自明の理というように当然のことだが、どちらが正しくて、間違っているのかという極端な答えを導き出すことはできないだろう。
この問題はこれからも説かれ続けていくことになるだろうということで区切りをつけて、本題に移ろうとする。古代より人は常に伝統と革新という二つの狭間で迷いながら、時に前進し、時に後退しては、その時折で伝統と革新の両方を利用し続けている。便利な道具のように聞こえるが、その代わり伝統を重んじれば革新的な見方は無くなり視野は狭くなる、一方革新を推進し続けてしまえば伝統という由緒ある歴史を風化させてしまうという恐れがある、などといった危険性も出てくる。
どちらも外せない問題であり軽視してはいけない問題だ、人は常にこうした2つの物事のせめぎ合いに立たされては、その都度議論を交わしていくこととなる。ではその答えを導き出すことが出来るのかと聞かれたら、まず不可能だろう。どちらの方針を重視したとしても、内心ではその片方の良さを人は無自覚に理解しているからだ。だからこそ矛盾が生じる、そして人同士の争いが起きるのかもしれない。こうして考えてみると、この二つの原理は人間の根源的な感情に直結しているのかもしれない。
そんな原理の中、今回は伝統という意味で政治思想の1つとして昨今でも度々議論されている『保守主義』、という言葉について考察をしていこうと思う。保守主義とは結局どういうことなのか、そして保守主義を導入することで、国にどのような影響をもたらすのか、その点についても触れながら話を展開していこう。
保守主義とは
保守主義とは何か、と聞かれたら一言で答えるのは難しい。何より政治思想についてこれはこれであると簡単に述べることが出来ない事は、最近の日本政治事情を垣間見れば理解できるだろう。一重にこれがこれだからといえれば単純明快で至極分かりやすいのだが、そうもいかないのがこの世界の特徴だ。そんな世界で頻繁に用いられている保守主義とはどういう定義なのかについて、アメリカの政治学者故『サミュエル・R・ハンティントン』は次のように話している。
1:貴族定義史実において特殊な運動を主に定義し、フランス革命のように代表される封建主義のような考え方2:自律的定義思想そのものの内容や固有観念、価値といったものを定義し、その中で保守主義とは正義や秩序、均衡などといった普遍的価値に値するという考え方3:状況的定義どのような時代において史実という枠に当てはまらない定義として扱われ、現存する社会制度を肯定するものだとする考え方
だと考えていると述べたが、それでも1と2については定義として曖昧であり不明瞭と述べているものの、3についても現在の社会制度を肯定しているだけで、その先に何かが誕生するような進歩的概論は存在しないと考えている。つまり、一般的にあえて固定するのであれば上述の三つの定義が最も定番となってはいるものの、どれも肯定的と感じるところもあれば、否定的とも取れるような見方をすることが出来るということを指している。アンバランスな考え方だが、政治思想とはこういうものだ。1つの物事に捉われながらも、更に生じるもう1つの事象を軽視することも出来ないという意味では、この主義思想もどこか不完全な部分が存在しているといえるのかもしれない。
保守主義の原理として
また哲学者のアンソニー・クイントンはこの保守主義を突き動かす原理について述べている。その原理とはどのようなものなのかだが、それは次の原理によって構成されていると考えたという。
伝統主義確立された慣習や制度に対する保守主義者の愛着、尊敬という形を取るもの有機主義的社会という一個体は自然に成長するものであって、機械的なよせ集めから構成されるモノではなく、組織された生きた全体ということ政治的懐疑主義政治的な問題を解決するには、歴史が積み上げてきた社会的経験の中においてその知識を見出すことが出来るということ
保守主義とはこうした原理によって構成された政治思想であるということであると考えられた。この三つの原理を見れば何となく理解できると思うが、軍隊としては立派な思想かもしれないが、非常に閉鎖的な考え方をしていると取れるだろう。こうした考え方の日本人が良く知る例として挙げられる事項は、やはり江戸時代における鎖国ではないだろうか。その時代、極端に諸外国の勢力が日本に入り込むことを嫌った徳川家は日本という国から徹底的に外国という文化を排他的に扱うことにした。一部の港湾都市を除いた場所で行われたこの政策によって、日本という国が井の中の蛙という存在として扱ってもおかしくないような状況になったことだけは間違いない。しかしこれで本当に日本という国が一致団結したかどうか、という点についてはNOと答えていいだろう。結果として徳川の世の終焉と共に日本に再度外国の文化が流通するようになると、それまで知らなかった文化を知ることになる。
この例を考えると保守主義というものがどういうものかというのを知ることが出来るだろう。
こういう風に考えている人もいる
保守主義についての説明をしたが、これでは正直わかりにくいという人もいるだろう。ではもう少し噛み砕いた言い方はないのかと探していたところ、保守主義の事をこのように表現している人もいる。
保守主義とは、
神や自然などを畏怖する対象とし、
科学技術が万能の叡智だとする考え方を持つべからず
というものだ。これはこれで極端な見方のように思えるが、側面として見ればある種正しい部分もあると肯定することが出来る。人間の意志そのもので社会そのものを仕組みを理想的なまで構成して作り上げる事は不可能であるということを述べているとも述べているので、どことなく宗教的思想が混じっているために反感を買うことになりそうな意見なので肯定するということは中々出来ないかも知れない。筆者としてはこうした考え方も面白いとは思うが、人間が社会の仕組みに対してどのような干渉を行っても改変することが出来ないという、そんな極端なことは思わない。確かにあらゆる社会の体制を整える事は不可能かもしれないが、人間が作り出した社会について話は別だろう。人間自身が王ないし、神になって国という国家を作り上げることで一種の序列を生み出すことに成功した。そうした社会において人間は頂点に立つ存在だと考えることも出来る。
誤解を招くといけないので付け加えておくと、あくまでこのように自然という存在を第一に考えるとするなら、とする筆者独自の見解となっているのでそこのところは説明しておく。政治的思想とは常に己が信ずる道にこそ正義があり、そしてその先に真の安寧が約束された未来があるという信念を持つことによって生じる特異な考え方となっている。 
イギリスにおける保守主義

 

政治的保守主義、近代保守主義とも呼ばれていた
ではこうした保守主義は世界各国ではどのように見られていたのかについてここから分析しながら考えて見よう。まず始めに代表的な保守主義として語られるものとして、イギリスを例にして見てみる。かつてのイギリスにおいての保守主義とは、現在でも刊行されているコモン・ローという法思想を中心に展開されていたモノで、17世紀においてイングランドの法律家としても活躍していた『エドワード・コーク』が中世ゲルマン法を継承したコモン・ローの体系を理論化したものとして扱われるようになる。
その後保守主義の父と謳われるようになる『エドマンド・パーク』によって保守主義というものが大成することになった。エドマンドは伝統として存在していたコモン・ローを踏まえて考え出したものとなっており、その時に執筆した『フランス革命についての省察』において、フランス革命時における恐怖政治への批判を書きとめたものとしても有名だ。この著者をきっかけにエドマンドという学者の名はイギリス中に広がるようになり、その後革命の脅威を説いたことで1790年5月6日が近代保守主義誕生の日と定義されるようにもなった。
こうした活動によってもたらしたエドマンドの功績とは何なのかという話になるのだが、端的に言うと古代から続く教会の力を最優先にして考えるべきだとすることを説いた事がその目的だったと見て良いだろう。事実、彼が定義した保守主義とにおいて、史実において継承され続けてきた社会の一般的な考え方に対しての意見や信念というものを、国教会とするべきだとし、教会の意志こそイギリスという国家を突き動かす存在であるとする考え方を定義したのだった。これにより、以前にも増してその力を圧倒的なまでに普及させることを後押しすることになる。
但し国家というものについてもまだ明言しており『一時的な便宜の観念に従って取り上げたり、拠り出したり出来るモノではない』と定義するなどして、国家とはつまり憲法の礎であって教会と共に不可分の存在とするべきだとしたのです。何故このように考えたのかというと、それはかつて『ジャン=ジャック・ルソー』が唱えた思想に対する反攻から来たものだった。どうしてそのようなことをしたのかというと、エドマンド自身が社会契約説、またフランス革命のように人為に対して信頼を寄せることはできない、そうしたことから人為を元にした正当化理論を採用する事はできないと、そう考えるようになったという。
だからこそエドマンドという学者は教会という存在がいかにどれだけ正しい存在なのか、ということを伝えたかったのかもしれない。そしてそれら人間を統べるものとして、コモン・ローというものがイギリスにおける保守主義の原点として見る事も出来る。
コモン・ローとは
日本と違ってアメリカやイギリスには明確な法律がないということをご存知だろうか。法律がないというのはどういうことなのかというと、日本のようにきっちりと何かの犯罪に対して定義してそれらに対する罪をしっかりと明文化しているのに対して、アメリカやイギリスを始めとした国では事件に似ている事例から分析することによって罪を問う判例法がその全てにおいて優先事項として扱われている。そのため、アメリカやイギリスなどの弁護士はまずとある事件を解決する際にこれまで起きた事件とよく似ている案件から分析することから始まるという、日本の法律とはアプローチの違いが顕著に出ていることがよく分かるだろう。ここでどちらの国の弁護士の仕事内容、という説明は割愛させてもらうとして、こうしたアメリカやイギリスなどの国における弁護士の活動は全て、古代から継承されている『コモン・ロー』というモノで画一化されている。
このコモン・ローとは一般的な意味での性質については次のようなものとなっている。
コモン・ローの性質
○ 1 法の支配王国の一般的慣習によって作られた公法を元にした法律となっており、こうした慣習からその後における『国王といえども法の下にある』とする考え方が生まれた。
○ 2 司法権の独立コモン・ローにおいて裁判官は弁護士の指導者から選択し、そうすることで正義が最も達成しやすいとするだろうと考えられていた。この考えが生まれたとき、行政から司法権が分離した始まりとも言われている。
○ 3 陪審制コモン・ローを基盤とする法整備が整えられている国において、一般市民から選出された陪臣が裁判の判決を下さない限り、重罪における有罪の判決を与えられることはない。
○ 4 判例法主義現在のイギリスでも用いられている法主義で、同一事実における裁判においては先例と同一に裁判するのが判例法となっている。
○ 5 ローマ法からの疎隔イギリスがまだブリテンと呼ばれていた頃、ローマからの侵略を受けることになったが法に対しての侵食は行われなかった。その理由として諸侯らが国王に反抗して成果を収めたことで、固有の法習慣たるコモン・ローの擁護が政治的に有利だったからこそ、現在まで推し進められるようになる。
トーリー党から保守党へ
そんなイギリスにおいて保守主義を前提に活動している政党の事を『保守党』と呼んでいるが、かつては『トーリー党』と呼ばれており、現在でも新聞などの見出しではトーリーと呼ばれるなど、日本で平然と使用されている保守党という言葉はあまり使用していない。
このトーリー党の始まりは1600年に起きた王政復古時代において誕生した『トーリー主義』によって、その思想を共にする人々から構成されるようになっていた。構成員としても歴史的に著名な人物がその名を連ねており、代表的な人物として『サミュエル・ジョンソン』などが存在している。保守主義の父として語られているエドマンドについてはトーリー党に所属していなかったとも言われているなど、真偽は定かではないが彼自身どこかの政党に傾倒した考え方を持っていたわけではないようだ。
トーリー党はその後勢力を伸ばしていくことになるが、歴史の変遷と共に組織変革を求められるようになるなどした中で、1840年代に改めて保守党とすることで、現在までの活動を続けている。 
アメリカの保守主義

 

イギリスとはまた違った発展をしたアメリカの保守主義
次に紹介するのはアメリカの保守主義についてだが、こちらに関しては物申すという人が出てきてもおかしくないかもしれない。というのも、本来ならアメリカはかつてイギリスの植民地としてその時代を築き上げたものとなっている、その後独立を果たすことになったものの考え方や思想、そして宗教そのものはイギリスから伝え聞いていたものであることに他ならなかった。先住民たちこそ確かにいたが、アメリカの時代を作り出したのは間違いなく新大陸開拓を目的としたイギリス人たちであることに代わりはない。
しかしそれはあくまで歴史上における過程でしかない。アメリカはその後世界の超大国としてその名を知らしめるようになるほど発達を遂げることになったが、そうした中でアメリカ大陸独自の考え方も普及するようになる。その中の一例として保守主義を取り上げてみると、アメリカでは保守主義とはいくつかの普遍的なものであると定義することにした。その定義としては、
伝統の重視
共和主義の支持
法とキリスト教の信仰の規範、
及び現代主義文化と全体主義政府に対抗する西洋文明の防衛
とした考え方を持ってして、アメリカ独自の保守主義としての形を導き出すことに成功した。この中でも特に3つ目は何より印象的だ、法とキリスト教に対する信仰はそのままにしながらも、それとは別にして西洋文明に対抗する防衛という意味を持って考えられる事は、やはりアメリカにはアメリカならではの考え方を持ってして運用して行く事が望ましいと考えられたということだ。この時、イギリスから移民してきた人々は何を思っていたのかという点について知ることは難しいかもしれないが、ただ1ついえることとしては、それまでにない新しい国を作り出そうとする動きが強かったということは間違いなさそうだ。
こうして出来たアメリカという国でも発達した保守主義という考え方についてだが、アメリカにおける保守主義とは常に競合する思想との間に緊張関係を持っていることも特徴だった。具体的にどんなことと緊張関係にあったのか、そこのところに焦点を絞って話を進めていこう。
アメリカにおける保守主義という形
アメリカという国がどれ程広大な土地なのかは理解しているだろう、そしてそんな大量の人々が存在している中で保守主義という考え方を持っている人間は数ほど存在している。ではこの国における保守主義とは一体どのような考えを持っている人が多いのかについて少し説明していこう。まず最初に大まかに区分すると、『経済的保守主義』と『社会的保守主義者』、また『新保守主義者』に『超保守主義者』という4つの分類に分けることが出来る。保守主義と一言で言っても実は同じ思想でありながら考えを別のモノとする政治を目指しているというのだ。こうしてみると非常に面倒な仕組みをしているなと感じるところだが、それもまたアメリカという国の特殊なところかもしれない。
ではこれらの主義者について簡単に説明していこう。
経済的保守主義者とはまず最初に経済的保守主義者についてだが、この主義者の基本的思想として市民を中心とした自治体運営を目的としており、代表的なのは公的な政府を介さない民間を基準とした小さな政府の存在、また低い税率や少ない規制、それに伴う自由な事業運営をすることを目的として活動している人々の事を指している。社会的保守主義者とは一方で社会的保守主義者とは、伝統的な社会価値観を世俗主義の脅威から専守防衛し、それらを見越して学校などの教育機関で礼拝を支持する傍ら、最近度々話題になっている同姓婚の合法化などに対して反対の意志を示している人々のことを指している。新保守主義者とはそして最近何かと話題になっている新保守主義者という存在についてはかなりの曲者、という風に表現することが出来る。どういうことかというと、簡単に言うならアメリカが最も理想とする世界を広げること、さらにイスラエルに対して強力な支援を望んでいるとする過激派とも取れるような集団となっている。超保守主義者とはそして4つ目の超保守主義者というものについてだが、こちらも新保守主義同様に少しばかり過激な行動をとりかねない思想を持っている人々が集まっている事が特徴かもしれない。そんな超保守主義者が目指す思想としては、多文化主義の反対、また移民を規制するなどしたものとなっている。
現代における保守主義の形
こうした歴史を持つアメリカだが、現在までに保守主義とする考え方を持っている人がどれほどいるかについて考えてみると、意外なことに保守主義とする考え方は全体の4割ほどとなっており、その他は中庸、もしくはリベラル的な思想を持っているとされている。そしてこの数字は現在までも横ばい状態が継続しているのも特徴的となっており、全てのアメリカ人が一部の保守主義のような過激な考え方を持っているわけではないということだ。
ただこうした考え方の中でも特に現代における保守主義としての考え方の中には空恐ろしくなるようなことを考えている面もある。内容として、
世界政府への反対
環境問題の重要性と妥当性に対する懐疑
問題解決を政府に頼るばかりではなく、自律的に考える事の重要性
イスラエルという中東最大の同盟国の支持
などがある。こうした施策への反対を示す意図としては、それまでアメリカがしてきた事は決して間違っていなかったということを意味し、そしてこれまでもアメリカは世界の中心に立ち続ける事を目的とする考え方を認めようとする動きが強いことを意味しているに他ならない。ここでその考えについて正否を問う事はしない、しかし実際にアメリカにおいても保守主義というものがアメリカ社会において重要な基盤を形成していた事は間違いなく事実となっており、アメリカの歴史においても重要な役割を担っていことを忘れてはいけない。 
日本では保守主義をどう見ているか

 

日本人視点の保守主義とは
イギリス、アメリカという二つの国における保守主義について考察をしてきたが、これに対して日本における保守主義とはどのように語られているのかについて考察をしていこう。昨今の日本ではこうした保守という概念に対して再認識する、といった動きが強くなってきている。こうした動きの発端となる理由としては、諸外国との関係性が均衡を崩しかねないほど悪化しているという確かな事実に基づいて行われているということだ。現在騒がれている安倍晋三の憲法改正について議論が立ち込めてはいるものの、現在の世界情勢を考えた際には日本としても万が一という場合に備えていなければならないのも、また事実だ。戦争が起こらなければそれでいいのだろうが、そうだと断言できるような保証などどこにもない。しかし戦いを好んで参戦したいと考えている国民もいないはずだ、そうすると安倍政権の政策が間違っていると肯定することが出来ると、安直に答えを導き出せるのだろうか。戦争をすることで日本がどれ程の被害を被ることになるのか検討も付かない、しかし自らが死地に赴くことを望んでいるような死にたがりの人がいるわけはない、人々の意識を改革するためにも徴兵制が復活しかねないとも言われている中で、日本がどのように動いていくことになるのかを見守り、十分に精査する必要はある。
色々と考えなくてはならない事はあるが、ここでは現在の政治思想に対して批判などをするといった事はしないで、単純に日本における保守主義の歴史、そしてそれに伴って昨今回帰復古しているとも言われている保守というものについて、改めて見て行こう。
新たな日本へと
日本の保守主義の原点には自由経済の保全というものが名目として立てられていた。その時代としては大体戦後直前にまで遡ればある程度状況を確認することも出来るだろう、当時の日本が敗戦国だったこともあり、一刻も早く一主権国家としての威厳と存在を取り戻そうと必死になっていた時でもあった。ただ日本という国がおかれた状況は単純に史実という視点から語ることが出来るほど単純な問題でもない。というのも近隣諸国が保守主義を第一に考えている国家が密集していたからだ。現在でもその態勢を貫いている国もあるが、当時においてはソ連や中国といった大陸に位置している国々がこぞって社会主義をモットーとした国家体制を基盤としている中で、日本が戦争に敗北したことによってGHQという国連軍に支配されていたことも影響して、アメリカを初めとした資本主義の立場を重視した西側諸国に属しているという、あまりよろしくない状況でもあった。
現代でもあまり良好とは言えないものの、当時の事を考えたらそれはそれで仕方がなかったといえる部分もある。何より、戦後によって負けたという確かな事実を突きつけられた日本にとって勝利者であるアメリカなどの国々に反抗するほどの余力は残されてはいなかったからだ。こうした中でかつて存在していた大日本帝国という国は解体され、日本という日の国として再建国したと表現してもいいだろう。何より自国の復旧を先んじて行わなければならなかった、そのやらなければならない事実を胸にして当時の政治家達は活動していたのだろう。結果として『東洋の奇跡』などと呼ばれるような経済発展を遂げることに成功したのだから、大したものだ。
こうして改めて分析してみると、確かに日本の経済発展を促した当時の政策として環境破壊などを招いて公害を生み出してしまったなどの功罪が生まれてしまったが、それでも僅か30年足らずで先進国として認定されるほどに発展したという事を考えると、ある意味でこの頃は日本としても政治機能云々はともかくとして一致団結していた事は間違いといえるはず。どの時代にも罪の傷跡を残してしまうことはある、それでも確かな前進を踏み出していた昭和の日本を思えば、現代の日本というものが停滞している気味と感じても仕方のないことだろう。逆にこうした状況を保守として見るか、それとも革新的な活動だったのか、決めるのは今の時代を生きている我々だということを忘れてはいけない。
社会主義との対立
日本の保守主義の話をするとその歴史上において、必ず社会主義との対立が構図として描かれることになる。ここでもまた戦後にまで話が遡ることになるが、この頃はまだ社会党や共産党といった一派が非常に活発に活動していた時期でもあり、そして保守党もそこかしこに乱立するというどちらが政権を獲得するかと争いを続けていた時代でもあった。そんな折、1955年に社会党の右派と左派が合併して与党第一党となったことで危機感を覚えた財界からの要請もあって、日本民主党と自由党の2つの政党が合併したことによって『自由民主党』が完成し、与党第一派として君臨することになった。その後社会党と自由民主党との二大政党理論が理想とする考え方に基づいていたとするが、その後の時代において社会党は徐々に力と求心力を失っていき、現在までに社会民主党として、そして小さな政党にまで衰退するまでに落ちぶれたのだった。
この事実だけ見れば保守派の意見が買ったようにも見えるが、その頃から保守主義というものがいまだに日本で普及していたかどうか、という点については疑問を持ってしまいかねない部分でもある。確かに社会党との争い、そして60年代から発生する政治に対する抗議運動なども活発に行われていた時期もあった。しかしその後急速に没落して行くこととなり、そして平成という新しい時代を迎えるようになったことで保守主義そのものに対する定義を改める必要があるのでは、そう考える人が出てくるほどだった。
こうした中で突如として保守主義というものを評価するといった見方も出てきているところを見ると、政治思想とは一重にその時代を築き上げることが無くてもいつでも再燃するだけの余力を残している場合もあるということを自覚しておく。 
宗教的観点から見る保守主義

 

日本ではあまり馴染みのないこと
日本において政治に宗教色を混ぜての政策は禁じられている、ということを社会人として働いている人は誰もが聞いたことがある言葉、学生の中でも小学生以上の世代では授業の一環として勉強をしているだろう。政治とは公平に行わなくてはならないものである、そこへ宗教という信仰心を盛り込む事は民意を欠く事になるため排さなければならないと、そう考えられている。こうした考えの事を『政教分離の原則』などと言われているが、簡単に言えば政治に宗教を入り混じって議論を始めたらキリがないということだ。
ものすごい大雑把な考え方だとする、政教分離という考えがもしも世界に存在していなければ国としての機能はまともに稼動することはないだろう。それこそ誰もが自分が思い描くような世界を構築するためにと、好き勝手に改革案を持ち出してしまうといった混沌とした状況になってしまう。宗教と政治は古くから強い繋がりを持っている事は事実、しかしその歴史においてまともな政権を形成する事が出来たという事実を残した事はほとんど無い。
イギリスなどの特殊な例外も存在してはいるものの、それはそれでまた別の話と考えていいだろう。まず日本ではそんな話はまともに通じるような議会になることはない、何しろ日本は大半が無宗教と言う状況で、時と場合によって宗教を使い分けるという恐ろしい国民性持っているからだ。信奉している宗教は何かと聞かれたら、大半の日本人が質問が十人十色といった面白い回答を述べることになるのではと、筆者は考えてる。
政治に宗教を挟むなんて野暮な事はするモノではないと考えるのは日本を含めた世界にもそれなりに存在しているが、イギリスなどの密接な繋がりを持っている国において政教分離とする考え方はほとんど通じないだろう。イギリスと日本を比較対照するようなはかりではないため天秤では比べられないものの、現代のとある国によっては政治と宗教のいまだ深い関係性に置かれている。それは教会という存在が中心となっているが、教会以外で国として政治思想に宗教色を織り交ぜている国はある。その中でも、アメリカという国では保守主義と宗教に繋がりを見出している。
アメリカの宗教的保守主義
ではアメリカにおける宗教的保守主義とはどのような事を意味しているのかについてだが、この場合においてはその実態としてキリスト教徒としてまず手放すことはない聖書の内容を絶対遵守し、そしてそこに記載されている事実こそ世界の心理とする考え方を持っているということだ。表面的な触りをまず提示してみたが、こうした考え方を政治面に持ち出すことになったら面倒なことになるのは目に見えているだろう。それも果てしなく議論に終わりが見えることも無ければ、どのような結末を迎えることになるのかさえ検討が付かない。そしてこうした宗教的保守主義派は『人々はキリストの十字架による身代わりの贖罪によって救われることとなる』、そう強調していることから『福音派』と呼ばれている。
ただ宗教的保守主義としての立場をとっている人々にとって『自由主義神学』という宗教の理念は非常に受け入れがたいとする考え方がある。それはどういうことなのかというと、この理念の特徴を見てみると、よく理解できる。
○ 1 道はちがえどもすべての宗教は人々を救いに至らしめるものである
○ 2 思想的哲学的潮流に影響されやすい
○ 3 神学的に聖書を尊重しない傾向がある
といったものだ。聖書に記載されている内容をまごう事無き真実であると肯定していることもあり、福音派としてはこの理念に賛同することはできないとする人々も多数存在している。同じキリスト教とはいっても、思想そのものが根本的の異なっていると考えは対立するものだ。そうした影響もあって彼らと対立していると見なされているプロテスタント派は、聖書の内容を歪曲した見方をしていると批判しているところもある。
ただ一概に聖書の内容を信じているからといって、戦争を推奨している人ばかりではないとも言われている。宗教的に保守を理念としている人の中には戦争に対して反対姿勢を示している人も多く、その反対派の考え方としては聖書が伝えようとしている内容が人同士の和解という平和主義をキリストの十字架は訴えているんだとするんだとも考えているという。
こうした事を見ると単純に同一の思想を共にしているからといって、すべてが画一化された考え方で統一されているわけではない事が理解出来る。そして宗教に政治職を持たせてしまうと人によって見方がばらついてしまうといった問題も生じるため、政教分離を行うべきだとする考えが広まった理由も分かる気がする。
教会として
では実際にキリスト教の本拠地ともいえる教会において保守主義はこうした思想によって満たされているのか、という点について考察してみたいところだが、案外先ほど記述したような思いを持っているわけではないようだ。確かにカトリック教会において保守派といってもプロテスタントという別体制の保守派とは相容れない関係にある事を含めると、彼らにとって簡単な話ではない。
ところがギリシャや東ヨーロッパなどを始めとした『東方教会』においては、そもそも宗教改革や自由主義神学という歴史を有していないこともあって、そもそも保守と革新という言葉の意味は西方教会側とは大きく異なっているのも特徴だ。これは国の意向も強く関係していると見て良いだろう、イギリスなどの国では政治と宗教が繋がりを持つ事が当然のように見なされるようになった一方で、東方教会を主とする国々ではそもそも神職が政治に関与しているという事実こそが薄く、宗教面でこそ関与しているという事実しか出てこないというのだ。
政教分離というものを敢行しなければならなくなった国がある一方で、そもそも教会が政治的な面で深く関与するという考え方そのものが存在していなかった国もあったというのは、面白い話かもしれない。 
 
新保守主義

 

通称ネオコンと呼ばれている
時代が現在へと近づいていくたびに政治思想もその時々によって変化をきたすことになる。特有の思想もある一定の改革を求めて、そしてそれらが更に進化した姿となるといったこともある。保守主義もそうだ、時代の申し子たちによって保守主義というものが変遷して行くことになる中で、1980年代において保守主義としてではなく、新しい考え方がこの時より生まれることになる。それは『新保守主義』というモノであり、ネオコンサバティズム、通称ネオコンという風に呼ばれている。本格的に新保守主義を信念とする政治家が出てくるのはこの頃ですが、原点としては1950年代のイギリスの保守党がその代表的な新保守主義を貫いたと言われている。
新保守主義という言葉を用いるとややこしくなると感じている人もいるので補足すると、現在の日本において新保守主義と保守主義は使い方を分けている。新保守主義は新しく台頭したということで、かつての『保守主義としての扱い』となり、保守主義はネオコンなる物が登場したことによって、『それまで伝統主義と評されていた概念を含んだということで保守主義として定義された』、と固定されるというのだ。つまり、今の日本で新保守主義と保守主義を同一のものとして扱っているとどちらの思想を重視しているのか分からないと、そんなことをいわれかねないという危険性が生まれることになる。
ただ日本ではまだ新保守主義と評される人々は世界基準で言えば生易しい、そう表現することが出来る。というのも西欧方面における新保守主義として活動している人々が、言うなれば喧嘩上等、独裁政権をしている国なんてぶっ潰してしまえばいいんだと、少し荒っぽい表現をしてしまったが過激な思想を持っている人々の事を指すことになる。
その一方で英米などにおいての新保守主義とは、経済面では日本の上を行く自由経済を推進しているが、キリスト教としての伝統を慮っているという意味で、道徳的理念を重視する傾向が非常に強いことも有名でもある。
新保守主義という理念
ではそんな新保守主義という思想の特徴をもう少し詳しく見ていこう。新保守主義とは簡単に言えば戦後において推奨されてきた自由主義へになるのだが、もっと平たく言うとその自由主義をものすごく詳細に細かく区分分けすることによって、全体的な国家の運営の軌道を載せることが出来ると考えられている思想ということになる。例を挙げて説明すると、分かりやすいのは自治体などによってそれぞれの地域運用を行なうことになる小さな政府という考え方が一番分かりやすいだろう。
こうしたところを見るとより国民に対して自由に経済活動を行なってもいいよといっているように見えるが、それはそれで話がまた異なり、新保守主義とは自由至上主義という考え方とはまた次元の異なる概念となっている。ここのところが少し判りにくい部分でもあるかと思う、自由すぎてもしょうがないので多少の束縛はするして行くからよろしくねということだ。
新保守主義という考え方についての反対勢力というのもある、その代表的な思想として社会主義といった全体としてまとまって活動して行く事を主とし、個人の意志による活動を制限する考えを持つ事は禁止している思想などが新保守主義の対抗勢力でもある。これまでは保守主義という言葉を利用した場合においては伝統などのそれまで固辞していた古典的な部分を破壊することを意味していたが、ネオコンなる物が誕生したことによって、それまでの保守主義に見られたような革新的な活動を行っていくべきだとするのではなく、新保守主義は自由は上げることは出来ても、ある程度制約を加えることになるという意味に繋がることになるので、ここのところをキチンと区別して思想を理解すれば政治も少しは面白くなるかもしれない。
新保守主義がもたらした結果
こうして新保守主義について話をしてみると一見して言いように聞こえてくるが、しいて言うと自分でしたことはキチンと自分たちで責任を取るようにしてくださいねと、そんなことを言わんばかりのことを提示しているようにも聞こえてくる。事実、現在新保守主義なる言葉を使うものなら、それに対して異常なほどの拒否反応を示してしまう人の数が結構多いからだ。日本でもそうだ、この新保守主義として代表的な思想を持ってして政策に励んでいた首相の代表格としては『中曽根康弘』・『小泉純一郎』という2人を上げることが出来る。
この二人の名を聞いてろくな思い出がないという苦渋を思い出す人もいるかもしれない。筆者は中曽根政権の時代を生きていたわけではないのでその当時の状況は文献でのみ知ることが出来るが、小泉政権時においての影響を現在まで蒙るようなことになっているので、何となくは理解できる。昭和後期頃に誕生した新しい政治思想概念であることに間違いはないが、このネオコンを推奨した政治家達の思惑のせいで自分達の生活が余計苦しめられるようになったとする思い出を持っている人が多すぎてしまい、この話をする際にはそれなりに配慮しながら話をしていかなければならない。
問題として語る事は山ほど、尽きることもないその止まらない情動を押さえながら話を進めていくにしても背景などを鑑みて、事案をややこしくしないようにすることも必要になってくるので、新保守主義が本当に誕生してよかったと、心の底から思える人はほとんどいないのかもしれない。  
アメリカの歴史から見る新保守主義

 

新保守主義の代表的な例
そんな新保守主義という考え方についてもう少し考察していこうと思うとなると例が必要だ、というとここでもやはり代表的な例としてアメリカを取り上げることが出来る。こうしてみるとアメリカが独立してから政治的な面でも何かと論争を呼ぶに呼び続けているという印象を持つことが出来る。そんな中で誕生した新保守主義という思想を持っている人々は、元から保守的な考え方を持っていたわけではなく、元は自由主義をモットーにした左翼的な思考をしている人々が鞍替えしたことによって生み出されたものとなっている。
こう呼びかけているのはそれまでの保守主義者がそう呼びかけているものであり、彼らからすればネオコンと自分たちと同一視される事は心外だ、と取れる一幕でもある。何よりこうした発言をしたのが時の大統領でもある『ジョージ・W・ブッシュ』を始めとしているというのも大きいだろう。だがその意見については少なからず筆者としても賛同できる部分もある。かつての保守主義としての考え方としてはあくまで文化的な部分である伝統などを保全することを最優先にしている一方で、ネオコンの人々の指標がどこを向いているのか定かではないとする見方もすることが出来るからだ。
ネオコンとして活動している人々はかつての意思を曲げて鞍替えした結果、保守主義とは性質の違う保守を唱えたことによって、彼らの考えと保守主義と指定活動してきた自分たちが同一視されるようなことになれば、大変な誤解を生むことになるとアメリカの保守主義者達は危惧したということになる。名称が似ているからという一言で括れるほど、政治思想は簡単ではないのは重々理解しているつもりだが、これがアメリカともなるとややこしくなるのは何故かそこまで驚くようなことでもないだろうと思ってしまうのも不思議なところだ。
そんな保守主義と一時期は対立関係にあるとされてメディアでも揶揄されていた歴史もある、新保守主義という概念はアメリカにおいてどのように見られていたのか、分析してみよう。
アメリカにおける新保守主義者の歴史
性質と、アメリカで新保守主義者がどのように見られているのかについては理解してもらえただろう。構図として現状を見てもらうと分かるように、あまり他の思想家達との関係はよろしくないようにも見えてしまう。そんな新保守主義者と呼ばれる人々がアメリカで活動を始めた時代は、1930年代にまで遡る。この頃反スターリン主義として活動していた左翼派として活動していたレフ・トロツキーの思想を受け継ぐ『トロツキスト』たちであり、彼らの大半はユダヤ人で構成されていた。そしてこの集団は後に『ニューヨークの知識人』などと呼ばれるようになる。このグループの中には当時著名な学者も賛同しているなどかなり色の濃い集団だったことが伺える。
また、ユダヤ人で構成されていたというのも特徴だろう。この頃はまだ戦時下ということもあってユダヤ人に対する見方もアメリカでは非常に排他的な見方を取られていた事がよく窺い知れる。そして個のニューヨーク知識人という集団名も、アメリカの公立大学として最も歴史のあるニューヨーク市立大学シティカレッジに通学していたということから取られているという。ユダヤ人がアメリカで勉学を学ぶ場を与えてくれる大学が存在しているというのもかなり珍しいことで、当時はほとんどの大学でユダヤ人という人種だけで入学試験そのものを受験させてくれないところが多かったという。こうした意味で人種的に自由を謳っているアメリカの自由主義には色々と疑問を感じるところだが、仕方のないところかもしれない。
そうした経緯もあり、その人種を問わず入学した生徒が高度水準の教育を受けることが出来ることから、『プロレタリアのハーヴァード』などと呼ばれていた大学に通っていたグループに入っていた知識人達が先導して新保守主義という体制を作り上げたという。ただそれらすべての知識人が新保守主義としての意向を示したわけではなく、一部の学者などが率先して活動をすることになるなど最初から全ての人間がそんな活動をしていたわけではなかった。
こうした新保守主義として精力的に活動していたのは『マックス・シャハトマン』などはその力を少しずつ増していき、本格的に政治家として活動し始めたのは戦後に入ってのことだった。満を辞して民主党に入り込むと、自身の団体のメンバーを各グループに送り込むなど活動に余念がなかった。このまま勢力図を拡大して行くかと思いきや、その後の顛末としてグループはシャハトマン本人が死亡したことにより空中分解することになる。シャハトマンのこうした活動は最後はどこかうやむやになった部分もあったものの、結果にはユダヤ人たちが現実の政治社会に対して影響力を与えられるだけの道と回路を形成することに成功したと、そう肯定することも出来ると述べられる。
ネオコンを支えるイスラエルの存在
ネオコンとして活動している人々のこうした活発な動き、何も彼らに潤沢な資金を有していた人間がいたわけではない。では精力的に活動することが出来たのは何故かというと、それは彼らの後に暗躍していたイスラエル政策を支持していたアメリカ在住のイスラエル・ロビーを行っていた人々だった。私的に政治活動することをロビー活動する事というが、そんな人々は基本富裕層に位置していることが多く、そしてさらにアメリカの国防と安全保障に深く関係しているという蜜月な関係もあったことから、惜しみない援助をすることが出来た。
何故そのような人々がそういった支援をすることになったのかというと、それもまた歴史における事実によって有権者の心が共産党へと移行したことに大きい。ユダヤ人は歴史において酷い迫害を受けていたことは誰でも知っている、そうした背景があるために基本民主党支持とする自由というものに固執している人が多かったが、かつての大統領でもあった『ビル・クリントン』が推し進めた中東に対する政策に反発するように、新保守主義者も活動がしやすくなったという。特にブッシュ政権時に起きた同時多発テロ事件後においては、強硬政策時にはネオコンはもちろんそれらを支援する人々が参入するなど推し乱れた展開が行われていたというのだ。
事実として知らなかった場合には、この一連の流れに対してどのように感じるかも人によっては代わってくるかもしれない。 
新保守主義がもたらした歴史の一幕

 

ネオコンを取り巻く環境
新保守主義がこれまでにはないような考え方でありながらも、その力は確かに現在のアメリカ政策に対して大きな影響力を持っている事は間違いない。しかしそうした新保守主義、ネオコンと呼ばれる人々の思想が全てにおいて良い結果を生み出すわけではない。当然だがネオコンとして活動している人間にも思惑というものは存在している反面、協力している人間側にもそれなりに自分たちにとっての利を求めていることだ。これはどんなときにおいても必ず生じるものだと見ていいだろう、損得関係なく人間に力を貸し与えるという事実はほとんど存在しないと見て良いだろう。特に政治のように駆け引きを重要とする世界においてはなおのこと、相手の思惑を把握しないままで手の平で踊らされているような状態でいたら、いつ寝首をかかれるか分かったモノではないからだ。
人間同士の繋がりというものを意識したら仕方のない部分なのかもしれないが、その利害関係が成り立たないという例は何も第三者だけではなく、味方同士においても十分ありえる。これはアメリカにおける保守という立場を貫いている組織や個人といった部分でも、それが等しく当てはまる。中でも新保守主義者は伝統を重んじる保守主義と自由主義といった二つの勢力と対立する事が頻繁に起こっているからだ。ただその対峙も何かと起こるわけではなく、あくまで議論すべき物事に対してどちらにとっても利害関係を汲めば損をすることもなければ、得をするかもしれないという可能性があるからだ。
そのため、案件によっては同意を得られることもあるかもしれないが、その際によほどアメリカという国を慮った際に看過する事の出来ないような行動を引き起こした場合には、深刻といえる政治的対立を生み出してしまうこともある。ネオコンと呼ばれる人々の環境があまり穏やかなモノではないものの、こうした問題を引き起こしてしまっている原因としては保守主義という団体に共通している思想の分離が大きな影響をもたらしているかについて考察してみよう。
保守派の躍進
保守主義という1つの政治思想カテゴリとして考えたとき、ネオコンにしても保守主義にしてもそうだが思想がいくつも存在しているという時点で、まとまりがないと言う印象を受けるかもしれない。だが根本的に考えている原理が異なっているため、どうしても共通概念を共有することはできないだろうとも見ることが出来る。難しい事のようにも思えた溝もあるきっかけを境にしてまとまりを持たせることが出来るようになった。それは1955年に刊行された『ナショナル・レビュー』という雑誌の存在だ。
たかが雑誌、されど雑誌といったところか、この紙面に記載されている内容には伝統的な保守派について書かれているのではなく、元左翼として活動していた人間をピックアップしたことによって、新保守主義をスローガンとしている人々の意識を傾倒させることに成功する。では何をどうしたら分裂して和解の和の字さえなかった他思想の人々の心を動かしたのかというと、それはリベラリズムが障害となっていたと説いたのだ。実際、雑誌に記載された分として次のような物がある。
リベラリズムは反共主義者の嫌う共産主義を容認し、
リベラリズムは伝統主義者の嫌う伝統の破壊者であり、
リベラリズムはリバタリアニズムの嫌う大きな政府の支持者である。
こうした定義を掲載したことでそれまで決して分かりあうことの無かった保守主義者たちが合同するという事に成功し、その後1960年代のアメリカ保守主義運動と連動しつつ、新しくも1つの潮流を生み出すことに成功した。
また1964年にバリー・ゴールドウォーターの演説もまた保守党としても賛同の意を見せるようになり、その時の演説によって次代のアメリカ政権に大きな影響を与えることになる。
注意点としてここで一つ、注意点を述べておく。先ほどにも述べたネオコンとして活動している人々が共和党として活動していた、といったような見方が出来るかもしれない。共和党が保守派を利用しているように見られがちだが、図式は全く逆で保守派が共和党を利用していたという歴史的事実を見ない不利にすることはできないので要注意だ。いつしか共和党は保守派に利用されるようになると、共和党内部でも保守化が進行したことによって、やがて来るレーガン政権・現代のブッシュ政権まで派生することになる。
保守主義者の軍事・外交政策について
新保守主義者として活動している政治活動の目的としては『自由主義を世界に広めること』・『民主化を理想とする』、といった信念を元にして活動している。またこれらを完遂するためには軍事力を行使することも厭わないとする『新現実主義路線』とも言われている。活動の目的でもある自由民主主義については『人類普遍の価値観』であるとも述べており、啓蒙と拡大についても努めているが、それに伴って戦時力を利用した外交政策によって、本当の意味で民主主義というものが導かれるのだろうかなどの問題もあるため、簡単に結論付けることはできないだろう。
良いことを言っているように見える新保守主義のありようだが、正直なところこれには関心を寄せる事はあっても、中々民意を集めるという意味では難しいだろう。最終的に戦争をして勝てばそれで正義が証明される、筆者にはそう取れるような気がするからだ。アメリカのこうした保守主義を重要視した外交政策については、度々議論を集めることになり、また国内でも新保守主義が敵視している組織も多く存在しているため、彼らの敵となる存在は山ほどいる事は思想が誕生した頃からあまり状況は一転していなさそうだ。
CIAと険悪らしい噂話程度でしかないが、保守主義者たちにとってCIAという存在は目の上のたんこぶといった存在にいるようだ。どういうことなのかというと、CIAがかつて反共和党を掲げて、腐敗して行く独裁政権や軍事政権に対して援助を続けていたために反感を持っていたとする動きもあったという。この話も定かではないが、保守主義とCIAの両間において良好な関係が形成されることは中々難しいようだ。 
 
自由主義

 

常々対比として用いられる
保守主義という話をしている中で度々出てきた単語『自由主義』、こちらも政治・経済という学問においては必然的に習う言葉となっている。そしてこの自由主義もまた政治という世界において重要な思想の1つとして用いられており、それに対して保守主義もまた同様に用いられてくる。ではここからはそんな政治思想として用いられている『自由主義』についての考察をしていこう。
まず簡単な概要として、自由主義とは一般的に言うと『人間には理性があり、既存として存在している権威においても侵食されない自由を有していることで、政治としても、経済としても、あらゆる面で個人としての尊重が伴われるものである』と、そのように見られている。人は生まれながらにして自由を有しているんだから、誰かに束縛されることは無く自由に政治活動をすることが出来るということだ。それに伴って経済的な面においても資産を有する事が可能となり、そうした社会の中で人が人と触れ合うことによって更に政治としても、経済としても発展することが出来ると考えられている、そう筆者は考えている。
ただ自由と言う言葉を使えば聞こえはいいかもしれないが、真なる意味で自由は存在しないことは誰もが知っていることだろう。日本ないし、世界のどの国においても、生まれた瞬間から自分は自由なんだから好きなように生きて問題ないとする、そんな極端な思考をする人も中々いないと思う。自由という言葉に託けて、実際のところはがんじがらめの束縛状態であるという事を知るまでに時間を要することはない。
筆者としてはこうした自由主義に対しては必要だと考えている部分はあるが、何者にも縛られないという生活を送る方がよほど辛いだろう。自由だからこそ何をすればいいのか迷い、自由なためにどうすればいいのか分からなくなってしまう、そんな状況に陥ってしまうからだ。先ほどまで話した保守主義においても自由主義を肯定している部分はあるにしても、そうした行動の中には政府としても干渉する部分は必ず出てくると、暗に表現している資料がほとんどだった。自由という言葉を使用する事は簡単かもしれないが、実際のところ本当の意味で束縛のない状況になったら案外困ってしまうだろう。
さて、ではそうした人間に本来依拠している思想でもある『自由主義』について、先ずはその起源から探ってみよう。
自由主義の史実による始まり
人間の自由性を最初に唱えたのはヨーロッパで哲学者として、そして政治学者として活動していた『c』という学者によるものだった。彼は人間に備わっている自由とはいかなるものなのかということについて、次のように述べている。
『人間は生来自由で可能性に満ちた生き物であり、いかなる人間にも自らの自由な意思と選択で生きることが認められている』
こう表現した、当時の人々からすれば教会と国を全て王の言葉こそ絶対であり、そしてそれこそが自分達の全てであると考えられていた。彼の言葉は中世という事態にとっては非常に異端な言葉であった事は間違いない、だがその言葉を受けて本当はそうではないのかと思う人々も少なからず存在していたはずだ。こうした人間の生来備わっている自由という権利は『自然権』として呼称されるようになり、その自然権は例え王であったとしても妨害することはできない思想であると述べた。
絶対王権主義とする考え方が根付いていたヨーロッパでは、共感を招くこともあるかもしれないが、大半の人には何を言っているのか理解する事が出来ないという風に感じていた人もいたのは安易に予想することが出来る。彼の言葉を聞いてどれ程の人が感銘を受けることになるかは知ることは出来なくても、歴史として彼の言葉は後世に語り継がれることとなる。
その後ロックはさらに、財産についても私有化することが許されていると述べるまでに至った。それは例え王であったとしても個人で所有しているものを勝手に奪うことは許されないと考えていた。また、財産となるものは自然界の共有物から切り離されたもので、それをしたのも財産の所有者となる持ち主が汗身を惜しんで獲得したものだと、こうも述べている。そうした物品を国ないし、第三者が使用する事は認められず、奴隷化と同等で正義という理念からかけ離れているとした。ロックという哲学者が生きているなら、彼の言葉に多くの人々が感銘を受ける事は間違いない。そしてこれによって政治思想としての自由主義と、人間としての個人の自由という概念が許諾されるべきものだとする一般的価値観が普及することになる。
現代の自由主義について
ロックが唱えたこれらの思想はその後現代ではどのように形として表現されるようになったの課というと、概ね彼の通りに現代では自由主義を肯定化されることとなった。自由主義、現代では『リベラリズム』とも呼ばれているが、その定義としては次の通りになる。
『自己と他者の自由を尊重する社会的公正を思考する思想体系を指している』
こうしてみるとあくまで政治的な価値観で構成されているが、要するに現代においては自由とは人間という個体全てにおいて独立しており、その中ではあらゆる選択をする事が可能となり、他者に虐げられる様なことのない暮らしをすることが出来るようになる。そこに男女という垣根も存在せず、そして与えられる機会についても常に平等であり、そして不幸というものも最小限に留められるようにするとしている。
さて、こうした事が本当に個々人にだけ任せていれば本当に実現するかどうか、という点に着目して考えてみると、まず不可能だろう。人間が2人集えば折り合いのつかないことが起きれば解決策を見出さなければならない。その解決策も時と場合によっては最悪殺し合いなどといったものへと発展することもある。そうならないために仲介役として自治体などの地域社会や政府といった、公的機関の介入によって実現することが出来ると考えられている。
結局、人間は生まれながらに自由を有していることに変わりはないが、そこから人間社会というシステムの一部として組み込まれ作動して行く中で、システムの機能がキチンと稼動するためにも1つの大きなパーツが必要になるということだ。そしてそのパーツを介することによってよりシステム機能を循環させることとなる。結局のところ、真の意味で自由というものを追求することになったら、かなり無理な話だという事がここで証明される結果となってしまった。
自由至上主義との違い
自由主義という話をしている中で出くわすことになる『自由至上主義』という言葉がある。リバタリアニズムとも呼ばれているこの思想は、端的に言うと自由を生まれながらにして持っており、そしてそんな自由を有している人間の活動に政府は最大限尊重して干渉するべきではないとする考え方となっている。つまり、限界まで自由にやらせてみた結果、自由を侵害する行為を行ったものに対しては容赦ない制裁を与えるべきだとする思想となっている。
先に述べた自由主義との違いというものを提示すると、自由主義は自由を許しながらも社会として『公正に』物事を運用して行くことを目的としている一方で、自由至上主義とは、自由を許して他人との競争を促すことになるが、そこに『公平』というものは存在していない、という点だ。こうなるとどちらを主とするべきかと聞かれたら、間違いなく前者と答える人が多いだろう。それもそうだ、リバタリアニズムとはつまり、ある物事に対しての知識を保有しているかどうかで貧富の差を分かつことになってしまうという、自由というものの最大の功罪を浮き彫りにしてしまうからだ。
もしもリバタリアニズムという思想を重視した政治を基本としてしまえば、それだけで国民間で貧富の差というものが拡大に広がってしまう事は明白であり、危惧しなければいけない問題でもある。独裁的な政権であるならそれもアリかもしれないが、民主主義を名目としている国家でリバタリアニズムを容認しようものなら何が起こるか分かったモノではない。
政治思想としてどちらも重要になってくるが、現在のところリバタリアニズムを重点的に考えている国もないと思うので、とりあえず自由主義という言葉についての理解を深めておくに越したことはない。 
初期の自由主義について

 

古典的自由主義という考え方
現代でこそ自由主義という思想についてわだかまりを持っている人はほとんどいないだろう、しかしこれがロックの生きた時代において彼の思想を徹底的に否定した人の数は圧倒的だった。それこそロックという人間が発したこの思想そのものを抹消せんがために動いた人もいたことだろう。それだけ彼の残した自由主義という考え方が広く影響を与えると共に、その思想を人々が享受してしまうことで氾濫がおきかねないとする、恐ろしい状況になりかねないと戦々恐々とした人々も多かったことだろう。それだけ中世の時代においては自由というものは常に選ばれたものだけに与えられたものだとする考え方が、庶民に広がることだけは避けなくてはならないと考えていたということだ。
ヨーロッパでは圧倒的に自由などというものが根付いてはならないとして、多くの反対勢力の弾圧を受けることになったが、それだけ庶民という存在は生まれながらにして帰属である自分達の貴重な労働力である、そのように考えていたのかもしれない。時には王が自分のことしか考えていないがために、自分達の力で王を支えていくという図式を守りたかったのかもしれない。そういう意味では、貴族達の勝手な誹謗中傷によって、稀代の悪女として描かれることもあるマリー・アントワネットという存在もまた、自由主義と言うものが広がりつつあった時代における被害者なのかもしれない。
こうした社会的背景を鑑みながら、当時に誕生した自由主義の事を『古典的自由主義』と表現することが出来る。この主義が現在の自由主義とは異なっている事は概ね理解していると思うが、そちらについても詳しく考察を加えていこう。
最初期における自由主義の理念
現在の自由主義においては個人の自由は認められてはいるものの、そこには社会的公正という秩序が敷かれている事が前提となっている。そうしなければ人同士の争いが絶え間なく生じてしまうからだ。ただ古典的自由主義においてそこまでの事は考えられておらず、とにかく個人の自由というものを尊重するものとして定義されている。その内容としては、自由主義とは常に『自律権』と『財産権』という2つの原理によって構成されており、これらを運用することが出来る社会こそ理想的だとする、そう考えられていた。また古典的自由主義における経済には『束縛されない市場』こそ、人間の経済発展に大いに役立つとする考えられもしていた。今でこそそれが後に大きな問題招くことになるなどの問題も発生することになるのは、自由主義の項目で説明したとおりだが当時は疑う人もほとんどいなかったため、そのまま受け入れられた。
古典的自由主義もヨーロッパにおいては中々普及するに至らなかったが、それでも確実にその根を大地に降ろして人々の自由と尊厳を提供することこそ、社会として必要なことであると考えられるようになった。また、この主義に対して政府を始めとした第三者が介入することも出来ないとされ、これらの権利が個人に寄与されている自然権であり、内在的なものであることを定義している。それが意味するところはかつてアメリカの政治家だった『トマス・ジェファーソン』が語った『不可侵の権利』そのものである、ということだ。
語られている内容としては良い事を言っているように見えるが、自由というものを非常に狭義的な意味合いでしか捉えられていないという風な印象を感じるところでもある。確かに自分達は自由を有しているが、そうした自由を自ら行使するものではなく、他人からの不用意な介入などが生じる事があれば提示するべき権利だと、そのような性質であると述べているようにも思えるところだ。自由なのに余計に自由ではないような気もする古典的自由主義だが、これも当時の時代背景が大きく影響しているのかもしれない。それまで支配されていた人々にいきなり自由という名のプレゼントを提供されても、使い道が分からないということになってしまう。それまでの生活とは違う自分らしく生きるなどと、奴隷として働いていた人からすればいきなり衣住食すべてを自分で調達して生活してください、そんなことを言われて誰が自由を欲するだろうかと、いうところだ。
アメリカにおける古典的自由主義
ヨーロッパにおける自由主義は時間を掛けてゆっくりと、思想の1つとして認められていくことになるがそれに反するようにアメリカにおいては自由主義というものを何の抵抗感なく受け入れられるようになった。先達として上陸したイギリス人たちも、植民地として手に入れたアメリカという広大な土地を見て、これからの自分達の生活の基盤をここで形成していくという事実を胸に大いに高ぶったことだろう。先住民も存在していたが、彼らとも交流を重ねていくようになり、やがては世界最大の超大国として君臨するアメリカという国が創造されていくことになる。
当初はヨーロッパ地方の奴隷のような存在であったが、元々社会そのものが構成されていなかったこともあって、自由というものを重視した社会構造が自然と構築されていくこととなり、現代のアメリカにおける自由という名の信念を徐々に強めていくことになる。それも全てヨーロッパからの確固たる支配されているという事実から、より自由主義は広く浸透して行くこととなった。
そんなアメリカは独立後、自由主義を片手に経済発展を繰り返し行っていくことになるが、とある分岐点によってその思想に変化をきたすことになる。その起因となったのは『産業革命』と『大恐慌』という時代を経ることによって、それまでのアメリカにおける自由主義に内在していた国家に対する考え方を改めるようになった。その時における転換をかの歴史家でもある『アーサー・シュレジンジャー』がこう表現した。
産業構造が複雑化することによって、機会の平等を保障するために、政府による強い介入が求められたとき、伝統的な自由主義とはただドグマという洞窟に捕われているだけではなく、最終目標に忠実であろうとし、国家に対する見方を変えることになる。
こう表現している。ただそれまでに自由主義と言う考え方は他に誕生していた思想たちと比べたらかなり弱い位置に属していたこともあって、意義についての変化をきたすことはその時こそ無かったが、後に世界情勢の影響によって考え方を改めるようになる。
その後古典自由主義という考え方は衰退し、現代式の自由主義へとその意向を転換するようになるが、歴史的観点からすれば古典的自由主義というものがあったからこそ、現在までに続くリベラリズムというものの形が構成されるようになった、ということだけは忘れてはいけない。 
自由主義のパラドックス

 

矛盾した原理でもある
パラドックスという言葉を聞いたことがあるだろうか、直訳すると『矛盾』や『ジレンマ』など文脈によって意味は異なるところだが、そんなパラドックスとしての原理が自由主義についても当てはめて考えることが出来る事をご存知だろうか。自由というものがどれくらい不自由なものか、ということは先にも書いたとおり何となく理解してもらえるだろう。そもそも本当の意味での自由など存在しないのではと思ってしまう人もいるかもしれないが、逆に本当の自由と定義される根拠と概要を是非とも提言してもらいたいと個人的に思ってしまうところだ。
自由というものに固執した考えを持ってしまうと、どうしてもそこから生じる社会的矛盾に戸惑ってしまうこともあるだろう。それは中世だけというのではなく、現代気においてもこうした矛盾はそこかしこに存在しているものだ。ここでは主に政治思想における自由主義について述べているが、そんな自由主義にも矛盾は存在している。そうした理論の事を『自由主義のパラドックス』という風に呼ぶことが出来る。この概論が指すものとしてどういうことなのかは順を追って説明して行くことにして、この理論を考えたのは誰かについての話を先にしていこう。
この自由主義のパラドックスという考え方を提示したのは、インドの経済学者の『アマルティア・セン』という人物だ。かなり聡明かつ著名な人として業界においてその名を知らない人はいないとまで言われているこの人が考え出した、自由主義のパラドックスとは一体どのようなものなのか、具体的な例を挙げて話をしていこう。
意図を理解するのは難しいにしても
自由主義へのパラドックスというものがどんな意味を持っているのかについてだが、簡単に説明できるほど簡単な内容でもない。というよりも素人目線では分かるかどうかさえあやふやな部分でもあるため細かいところを話しているとおそらく3日ほどは費やして話をしなければ解決策を見出すことが出来ないのではと、そう思っている。先ずは単純にパラドックスというものについてだが、矛盾やジレンマという意訳を行うことが出来るところを見ると、ある一定のテーマに対していくつか提示する前提の中には間違った物が存在しているものだ。そうした正しいものと間違っている物が混同している中で、そうした前提を全てひっくるめて考えた結果、出された結論がどんなに受け入れがたいことであったとしても、それは実のところ正しいものだとするという、何とも納得のいかないような結論を導いてしまうというわけだ。
簡単に説明したつもりだが、これでも難しいと思う人もいるだろう。それだけ自由主義というテーマを元にしたパラドックスについて考察をするとなったら、容易にその真意を把握することはできないだろう。
具体例を提示してみると
では少し分かりやすくするために具体例を提示して話をしていこう。登場人物は2人、とある女性と男性が存在しているとする。そしてその男性がとある啓蒙書籍を所持していたとして、その作品の良さを是非ともその場にいる女性にも理解してもらいたいとする。男性に熱弁されるが実はそういう本が非常に苦手な女性は、読むことに対して積極的ではない。出来るなら見たくもないところだが、あまりの勢いに押され気味なためにとりあえず受け取っておくだけにしておくのもいいかもしれないとする。この時の男性の心理としては捨てる事はないだろうという前提でいることを想定して話を進めていくと、ここからが本番だ。
さて、この時この啓蒙書籍を誰が持つのが相応しいのか、それとも廃棄してしまったほうが解決するのかと考えたとき、どんな答えが相応しいとなるのか。この時想定される展開としては以下の三通りとなる。
○ 1.啓蒙書籍は男性本人が持つべき
○ 2.勧められた女性は啓蒙書籍を持つ
○ 3.ここは間をとって廃棄する
とした三つの結末を迎えることになるが、この展開についてそれぞれの意識下において優先度となる順位は次のように表現することが出来る。
     男性   女性
  1位  2.の例  3.の例
  2位  1.の例  2.の例
  3位  3.の例  1.の例

このようにそれぞれの思惑として優先すべき順位が決定付けられることになる。では真にどの行動が自由主義という観点から選択されるべき点なのかについて考えてみると、答えを導き出す事は非常に難しいという事が理解できるだろう。
男性にしてはまず捨てるという考え方そのものがあるかどうか微妙だ、最悪自分でまた持てばいいだけもあり、また自由に選択することができるという主義を尊重すると3.の例が選択されることはまずありえないからだ。では一方で女性については廃棄したいという考えと、出来ないなら持つだけ持っておこうとするといったように見方をすることが出来るが、持ちたくないものを持たせるという強制は自由主義において当てはめることはできないため、必然女性にとっての選択肢は廃棄か返す、どちらかになる。
では逆に満場一致性を用いてみると、男性が持つということは2人が総意に望んでいることではないため、自由主義という観点で考えることになったら男性の手に戻るという選択肢は選ばれるべきではないことになってしまうのだ。
難しくなってしまったが、結局何が言いたいのかというとどの選択肢も選択できそうで『選択することが出来ない』ということだ。こうしたなんでもない出来事について三つの展開を想定して考えてみると、どれも容易に選択することが出来ないということ、自由とは非常に不自由であることを暗に証明したのが『自由主義のパラドックス』という原理になる。
この原理は非常に興味深いものと思う、この理論を元にして考えてみると日常の出来事においてもパラドックスが当然として発生していることになる。それでも何かと折り合いをつけることが人間に出来るため、問題を大きくすることもない。自由主義のパラドックスが示す意味として、本来なら答えを導く事が出来ない問題を自由主義に当てはめて考えてしまうと結論を導くことが出来なくなってしまうのだ。自由主義とはいかに難しい原理なのか、簡単に言葉で述べることはできないものであるということを、この法則では示しているのだろう。自由とはまこと不便なものなり。 
 
自由主義と国民主義の歴史

 

1 自由のための戦い 
1-1 ウィーン会議 
フランス革命とナポレオン戦争の戦後処理のため、1814年9月から翌15年6月にかけてウィーン会議が開かれた。この会議は、オスマン=トルコ帝国を除く全ヨーロッパ諸国、90の王国・53の公国の代表が参加して開かれた大国際会議であった。
各国の主な出席者は、イギリスからはウェリントンと外相カスルレー、オーストリア外相メッテルニヒ、プロイセン首相ハルデンベルク、ロシア皇帝アレクサンドル1世、そしてフランス外相タレーランらであったが、会議を主宰したのはメッテルニヒであった。
メッテルニヒ(1773〜1859)は、ライン地方の名門貴族に生まれ、大学で法律・外交を学んだ後に外交官となった。フランス駐在大使(1806)などを歴任し、1809年には外相となり、ナポレオンとオーストリア皇女マリ=ルイーズとの結婚を画策した(1810)。ナポレオンのロシア遠征失敗後は、解放戦争に参加し(1813)、ウィーン会議では議長として新秩序の形成に努めた。1821〜48年までオーストリア宰相として国政を指導するとともに、ウィーン体制の維持に努めた。
会議は、イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの指導のもとに進められたが、領土配分をめぐる問題では各国の利害が対立して解決は困難をきわめ、「会議は踊る、されど会議は進まず」と評された。しかし、ナポレオンのエルバ島脱出の報が届くと(1815.2)、各国は急速に妥協にふみきり、ワーテルローの戦いの直前にウィーン議定書(ウィーン条約)が調印された(1815.6.9)。
ウィーン会議の基本原則となったのは、正統主義と勢力均衡であった。正統主義とは、フランス外相タレーランによって提唱され、フランス革命前の主権と領土を正統とし、革命前の正統王朝と旧制度の復活をめざす復古主義的な理念である。
タレーラン(1754〜1838)は、貴族の家に生まれたが聖職者となり、三部会には第一身分の代表として選出された。フランス革命を支持し、教会財産の国有化を提案して教皇から破門された(1791)。8月10日事件(1792)後、イギリスに亡命し、後にアメリカにも滞在した。総裁政府の成立(1795)後、帰国して外相となり(1797〜99)、ナポレオン政権と第一帝政でも外相となった(1799〜1807)。しかし、やがてナポレオンに見切りをつけ、ブルボン家に接近して王政復古に尽力し、王政復古後三度外相となり、ウィーン会議にはフランス代表として参加し、正統主義を提唱してフランス(ブルボン家)の戦争責任を巧に回避した。
ウィーン議定書は、全文121カ条からなるが、その主な内容は次の通りである。
正統主義の原則に基づいてフランスではブルボン家が復位した。フランスの国境は1792年の国境に縮小されたが、フランスはわずかな犠牲を払っただけであった。スペインでもブルボン家が復位し、またローマ教皇領も復旧した。
しかし、ライン同盟が廃止されたドイツでは、神聖ローマ帝国は復活されず、オーストリア・プロイセン以下の35の君主国と4自由市からなるドイツ連邦が組織され、オーストリアが連邦議会の議長として指導権を握った。
オーストリアは、ネーデルランド(後のベルギー)を放棄し、その代償として北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを獲得したので領土は一つにまとまった。
プロイセンは、ポーランド分割で獲得したポーランドの領土を放棄する代償として、ザクセンの北半部と当時ドイツで最も産業が発達していたライン中流左岸地域を獲得した。
ロシアは、ポーランド・フィンランド・ベッサラビアを獲得した。ワルシャワ大公国の大部分がポーランド王国となったが、ロシア皇帝がポーランド国王を兼ねることになったのでポーランドは事実上ロシア領となった。
イギリスは、ナポレオン戦争中に占領したマルタ島と旧オランダ領のセイロン島・ケープ植民地の領有が認められた。
オランダは、セイロン島・ケープ植民地を失った代償としてオーストリア領ネーデルランド(後のベルギー)を獲得した。
上の領土問題の取り決めをみると、ポーランド・ベルギーなどの弱小国・弱小民族の犠牲の上に立って強国の勢力均衡(balanceofpower)がはかられていることがよく分かる。
またスイスは永世中立国となった。 
1-2 ウィーン体制とその動揺 

 

ウィーン会議の結果成立したヨーロッパの新しい政治体制はウィーン体制と呼ばれる。ウィーン会議の基本原則である正統主義は、フランス革命前の状態に戻し、それを維持していこうという復古主義であったので、ウィーン体制は保守反動体制となった。そして革命や戦争の再発を防ぎ、この新しい国際秩序を守るために、神聖同盟や四国同盟が結成された。
神聖同盟は、1815年9月にロシア皇帝アレクサンドル1世(位1801〜25)が提唱し、オーストリア皇帝・プロイセン国王の3人の間で結ばれた同盟であったが、やがてイギリス国王・ローマ教皇・オスマン=トルコ皇帝を除く各国君主が参加した。神聖同盟は、各国君主がキリスト教の正義・友愛の精神に基づいて平和維持のために協力することを謳った精神的な盟約で条文などはなかった。
イギリス国王・ローマ教皇・オスマン=トルコ皇帝は神聖同盟に参加しなかった。イスラム教国であるオスマン=トルコはキリスト教君主との同盟を拒否して参加しなかった。またローマ教皇は、ロシア皇帝のいうキリスト教とはギリシア正教であるので、カトリックの教理と合致しないこと、そして新教諸国との同盟を避けるために参加しなかった。イギリスの不参加の理由は簡単に説明できないが、当時の外相カスルレーは、精神的な盟約で罰則も締結者の義務も定められてない神聖同盟を「気高き神秘主義とナンセンスの紙切れ」と酷評している。
神聖同盟は、キリスト教の正義・友愛の精神に基づいて平和を維持することを謳っているところから、国際協力による平和維持の思想の先駆とされているが、その前提になっているのは反動的なウィーン体制の維持にあり、現在の国際連合などとは全く性格が異なるものであった。
1815年11月、同盟国とフランス間で第2次パリ条約が結ばれ、フランスの国境を1790年の国境に戻すこととフランスに賠償金を課すことが定められた。この第2次パリ条約と同じ日にイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの間で四国同盟が結ばれた。
四国同盟の目的は、四カ国が協力してヨーロッパの平和を維持する、そのためにフランスを監視してボナパルト家の復活やフランスの侵略戦争を防止しようとするものであった。ところが1818年9月には、監視されるはずのフランスの加入が承認され、五国同盟が成立した。
五国同盟の成立によって、その目的はフランスを監視することから、フランス革命やナポレオン支配のもとで目覚めた諸国民の間に起こってきた自由を求める自由主義運動や民族の統一と外国支配からの解放を求める国民主義(ナショナリズム)運動を抑圧し、反動的なウィーン体制を守るということに替わった。
保守反動政策の中心人物であり、19世紀前半のヨーロッパ外交をリードしたメッテルニヒは、神聖同盟や四国同盟(五国同盟)を自由主義運動の抑圧に利用した。しかし、自由を求める運動は、1810年代から20年代にかけてヨーロッパ各地で次々とおこった。
ドイツでは、1817年10月18日、ブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟、1815年に成立したドイツの大学生の団体)が、ルター宗教改革300年祭とライプチヒ戦勝記念式典をワルトブルクの森で行った。自由とドイツの統一を求めてドイツ各地から700〜800人の学生が集まり気勢を上げた。
メッテルニヒが学生の自由主義運動の弾圧に乗り出した。彼は、1819年にカールスバードでドイツ連邦議会を開き、ブルシェンシャフトの解散・言論出版の自由の制限・進歩的な教授の追放などを決議した(カールスバード決議、1819.9)。これによってブルシェンシャフトは壊滅した。
スペインでは、1820年1月にスペイン立憲革命が起こった。スペインでは、ナポレオンに対するスペイン反乱(1808〜14)のさなかにコルテス(議会)が成立し、主権在民・男子普通選挙制・出版言論の自由などを定めたスペイン最初の自由主義憲法(1812年憲法)が定められていた。しかし、ナポレオンの没落後、ブルボン朝が復活すると憲法が廃止され再び専制政治に逆戻りしたので、リェーゴ(1785〜1823)らが立憲革命を起こし、1812年憲法の復活を宣言した(1820.1)。
革命が全国に波及するなかで、国王も憲法復活を布告し(1820.3)、スペイン立憲革命は成功するかに見えたが、1822年の選挙で急進派が勝利すると国王は神聖同盟に干渉するように要請した。
これを受けて五国同盟はヴェロナ会議(1822.10、ヴェロナは北イタリアの小都市)を開き、スペイン革命の鎮圧をフランスに委譲することを決議した。この決議に基づいて、フランスは翌1823年にスペインに出兵してマドリードを占領し(1823.8)、スペイン立憲革命は挫折した。そしてリェーゴは王党派によって処刑された(1823)。
このヴェロナ会議で、イギリスはスペインへの干渉に反対し、五国同盟は事実上崩壊した(1822.10)。イギリスが反対したのは、スペイン及びその中南米植民地がイギリス市場及び原料の供給地として価値が高く、それを失うことを恐れたからである。
イタリアでも、カルボナリ(炭焼党)によるナポリ革命(1820)・ピエモンテ立憲革命(1821)が起こった。カルボナリは、1806年頃、南イタリアで結成された革命的秘密結社で、専制政治の打倒・自由平等の実現を目的とした。1814年以後、北イタリアにも浸透するにつれて立憲自由主義運動としての性格が強まった。彼らは炭焼き人夫を装って山中に入り、炭焼き小屋で集会を開いたので炭焼党と呼ばれるようになったといわれている。
カルボナリは、1820年7月にナポリで蜂起し、国王にスペインの1812年憲法とほぼ同じ内容の憲法を認めさせた。翌1821年3月にはピエモンテ(北イタリアのポー川上流地方、トリノを州都とする)でも蜂起し、サルデーニャ(サルディニア)国王にスペインの1812年憲法の採用を約束させた。
これに対してメッテルニヒは、オーストリア領の北イタリアに革命が波及することを恐れ、1821年にライバッハで五国会議を開き、イタリア革命に対する武力干渉とオーストリアの出兵を承認させた。オーストリア軍は、1821年3月にナポリを占領し、4月にはピエモンテに侵入してカルボナリを中心とする革命派軍を破り、革命派を徹底的に弾圧した。
ロシアでは、1825年12月にデカブリスト(十二月党)の乱がおこった。ナポレオン戦争でフランス軍と戦ったロシアの青年貴族将校達は、自国の後進性を痛感し、フランス軍が強い理由は、フランス軍の中心である農民が農奴から解放された中小土地所有農民であることだと考えた。彼らは帰国後秘密結社をつくり(1816)、専制政治と農奴制の廃止・憲法制定を目標とした。
1825年12月、アレクサンドル1世が急死してニコライ1世(位1825〜55)が即位した日に、デカブリストは蜂起したが鎮圧された。
こうして、1810年代から20年代に起こった自由主義運動はいずれも鎮圧された。
1810年代から20年代に起こった自由主義運動はいずれも鎮圧されたが、時代の流れに逆らって自由主義・国民主義運動を抑圧しようとするウィーン体制は次第に崩れ始めた。
その動きは、まず新大陸のラテン=アメリカの独立運動として始まった。ラテン=アメリカは、19世紀初めまでは主にスペインの植民地(ブラジルのみはポルトガルの植民地)であったが、スペイン・ポルトガルの植民地はアメリカ独立革命やフランス革命の影響を受け、また本国がナポレオンの支配下に置かれたのに乗じて独立運動を起こした。
ラテン=アメリカで、まず独立したのはハイチであった。ハイチは1697年にスペイン領からフランス領になった。フランス革命に際して、黒人奴隷が反乱を起こし(1791)、独立運動が始まった。その後、ナポレオンの軍を撃退して1804年に独立し、世界最初の黒人共和国となった。ハイチの独立に続いて、1810年代になると反乱は各地に広まった。
ラテン=アメリカの独立運動の中心となったのは、植民地生まれの白人であるクリオーリョであった。彼らは、本国から来た役人・軍人などから差別されていたので、本国の政策に対して強い不満を持っていた。また白人とインディオの混血であるメスティーソや、白人と黒人の混血であるムラートはクリオーリョよりもっと厳しい差別を受けていたので、彼らも独立と解放を望んでいた。
シモン=ボリバル(1783〜1830)は、ベネズエラのスペイン人大地主の家に生まれたクリオーリョであった。スペインで教育を受けた後、帰国して大農場を経営していたが、1810年に独立運動に参加した。カラカス解放に成功し(1814)、「解放者」の称号を得たが、本国軍の反撃にあって一時亡命した。1819年には、大コロンビア共和国(現在のコロンビア・ベネズエラ・パナマを合わせた国、後にエクアドルも加わった)の樹立に成功し、その大統領となった。その後、ボリビア共和国(ボリビアの国名はボリバルの名に因んでいる)の独立にも成功した(1825)。しかし、大コロンビア共和国の解体(1830)に失望して引退し、まもなく病没した。
アルゼンチン・チリ・ペルーの独立運動の指導者であるサン=マルティン(1778〜1850)やメキシコの独立運動の指導者であるイダルゴ(1753〜1811)もクリオーリョであった。
こうして1810年代には、パラグアイ(1811)・アルゼンチン(1816)・チリ(1818)・コロンビア(1819)・ベネズエラ(1819、最初は大コロンビアと合邦、1830年に分離独立)などが独立して共和国となった。1820年代には、メキシコ(1821)・ペルー(1821)・中央アメリカ連邦共和国(1821、コスタリカ・グアテマラ・ホンジュラス・ニカラグア・エルサルバドルが合邦して形成)・ブラジル(1822、ポルトガルの王子を頂いて帝国として独立)・ボリビア(1825)・ウルグアイ(1828)なども独立した。
ウィーン会議の正統主義に従えば、ラテン=アメリカはスペイン・ポルトガルの植民地であるべきで、ラテン=アメリカ諸国の独立はウィーン体制の破綻に繋がることになる。そこでメッテルニヒは、ラテン=アメリカの独立運動を革命とみなし、ウィーン体制を乱すものと考え、神聖同盟の名の下にラテン=アメリカの独立運動に武力干渉を行おうとした。
イギリス外相のカニング(1770〜1827、任1807〜09、22〜27)は、ラテン=アメリカ市場へのイギリス商品の進出のため、神聖同盟の干渉に反対し、ラテン=アメリカ諸国の独立を承認・援助した。
またアメリカ合衆国の第5代大統領モンロー(任1817〜25)も、1823年12月に、有名な「モンロー宣言(教書)」を発表し、「それゆえに、われわれは率直に、また合衆国とこれら諸国との間に存する友好関係に恩義を感じつつ、これら諸国の政治体制を西半球のどの部分にも拡張しようとする企てはわれわれの平和と安全を害するものと考えることをここに宣言する。ヨーロッパ諸国の現在の植民地あるいは従属国についてわれわれはかつて干渉したことはないし、将来も干渉しないであろう。しかし、すでに独立を宣言し、それを維持し、またその独立についてわれわれが熟考し、正しい基準にもとづいて承認した諸政府については、われわれはヨーロッパ諸国がその独立政府を抑圧し、あるいは他の方法でその運命を支配するような目的をもってするどのような干渉も、合衆国に対する非友好的態度の表れとみなさないわけにはゆかない。・・・」と神聖同盟によるラテン=アメリカ諸国の独立運動への干渉に反対し、ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を唱えたので、メッテルニヒの企ては失敗に終わった。
ラテン=アメリカ諸国の独立によって、ウィーン体制はヨーロッパ外から崩れ始めたが、1820年代にはヨーロッパ大陸でも、メッテルニヒらウィーン体制を維持しようとする勢力に大打撃を与える出来事が起きた。ギリシアの独立である。
ギリシアは、1000年以上にわたってローマ帝国・ビザンツ帝国の支配下にあったが、ビザンツ帝国の滅亡後(1453)はオスマン=トルコ帝国の一州となり、イスラム教徒の支配下に置かれてきた。しかし、オスマン=トルコが17世紀以後衰退に向かう中で、ギリシア人は商人・官僚として活躍し、経済や外交面で大きな力を持つようになっていた。
19世紀に入ると、フランス革命やナポレオン戦争による自由主義・国民主義がギリシアにも及ぶようになり、ギリシア人はオスマン=トルコからの独立を求めて立ち上がった。
1820年にアルバニアでオスマン=トルコに対する反乱が起きると、翌1821年にヘタイリア=フィリケ(ギリシアの独立をめざす秘密結社、ギリシア語で「友の会」の意味)がルーマニアで反乱を起こした。この反乱は失敗に終わったが、これがギリシア独立戦争(1821〜29)のきっかけとなった。
1821年3月にペロポネソス半島で始まったギリシア人の独立蜂起はたちまちギリシア全土に広まり、1822年1月には独立宣言が行われた。
これに対して、オスマン=トルコは報復として、コンスタンティノープルでギリシア人の大虐殺を行うとともに、シオ(キオス)島に軍隊を送り込み、2.2万人の島民を虐殺し、4.7万人の男女を奴隷とした(シオの虐殺、1822.4)。
フランスのロマン派の代表的な画家ドラクロワ(1798〜1863)は、「シオの虐殺」(1824年に出品)を描いて、ギリシアへの救援を訴えて大きな反響を呼んだ。
さらにオスマン=トルコは、エジプト太守のムハンマド=アリ(1769〜1849)にギリシアの鎮圧を命じ、トルコ軍はイオニア海岸のミソロンギを包囲し(1825)、翌年陥れた。
この時、イギリスの代表的なロマン派の詩人バイロン(1788〜1824)は、自分の炭田を売り払って資金を作り、武器・弾薬を積み込んで、1824年1月にミソロンギに入ったが4月に病死した。
ヨーロッパの人々にとって、ヨーロッパ文明の発祥の地であるギリシアはあこがれの地であり、また異教徒のトルコ人に対して独立のために戦うギリシア人に同情し、バイロンをはじめ多くの人々が義勇兵としてギリシア独立運動に参加した。
ミソロンギの陥落(1826)後の不利な状況のなかでも、ギリシア人の独立運動は続けられた。その頃、ヨーロッパの国際関係に変化があらわれ、ギリシアにとって有利な状況が現れてきた。
メッテルニヒは、正統主義の立場からギリシアの独立戦争に対してはオスマン=トルコを支持していたが、1825年にロシアで、メッテルニヒに同調してきたアレクサンドル1世が急死してニコライ1世(位1825〜55)が即位すると、ロシアはギリシア援助を口実にトルコに宣戦してバルカン半島へ南下する可能性が出てきた。
ロシアの南下を警戒するイギリスは、フランス・ロシアを加えた3国でロンドン会議(1827〜32)を開き(1827.7)、トルコに休戦の調停を申し入れる・トルコが受け入れないときはギリシアを援助して海軍を出動させるというロンドン条約を結んだ。しかし、トルコがメッテルニヒの支援を期待してこれを拒否したために、イギリス・フランス・ロシア連合艦隊が出動し、1827年10月にナヴァリノの海戦でトルコ・エジプト艦隊を撃滅した。この海戦によってギリシアの独立が可能となった。
翌1828年4月、ロシアはトルコに宣戦してアドリアノープルを占領し、アドリアノープル条約(和約)(1829.9)が結ばれた。この条約で、ロシアはトルコにドナウ川沿岸・黒海沿岸を割譲させ、トルコはギリシアの独立を承認した。
そして、1830年2月に開かれたロンドン会議で、ギリシアの完全独立が国際的に承認され、1832年にはバイエルン王家からオットー1世(位1832〜62)が国王に迎えられた。
ギリシアの独立は、ウィーン会議後のヨーロッパにおける最初の領土変更で、ウィーン体制がもはや維持できなくなったことを示している。 
1-3 七月革命とその影響 

 

フランスでは、ナポレオンの退位直後に、ルイ18世が帰国して即位し、ブルボン朝が復活した。
ルイ18世(1755〜1824、位1814〜24)は、ルイ16世の弟で、ヴァレンヌ逃亡事件(1791.6)と同時に国外へ逃亡し、反革命運動を行った。ナポレオンの没落後に帰国して王位についたが(1814.5)、ナポレオンの「百日天下」の間はベルギーに亡命し、1815年7月に復位した。
ルイ18世は、即位後間もなく新憲法(憲章)を発布し(1814.6)、立憲君主制をしいたが、選挙権が財産資格によって極端に制限されていたので亡命貴族(エミグレ)が議会の多数を占めた。革命への怨みをはらそうとする執念にとりつかれた彼らは過激王党派(ウルトラ)を組織し、「国王より王党的」であった。
ルイ18世は、1816年9月に過激王党派が多数を占める議会を解散した。10月に行われた選挙では立憲君主主義者が過半数を占めた。これに対して過激王党派は、その中心人物であったアルトワ伯(後のシャルル10世)の次男が暗殺されるという事件(1820.2)をきっかけに、再び巻き返して反動政策を推し進めた。
ルイ18世の死後、過激王党派の中心人物であったアルトワ伯がシャルル10世(1757〜1836、位1824〜30)として即位した。ブルボン朝の最後の王となったシャルル10世は、ルイ16世・ルイ18世の弟で、フランス革命中は亡命して反革命運動を行った。ナポレオンの没落後帰国し(1814)、アルトワ伯と称して過激王党派を指導した。
シャルル10世は、即位すると亡命貴族を優遇し、反動政治を推し進め、1825年には「10億フラン年金法」を制定し、革命中に土地・財産を没収された亡命貴族に多額の補償金を支出した。
シャルル10世は、1827年11月に議会を解散して総選挙を行ったが、自由主義派(反政府派)が勝利をおさめた。追いつめられたシャルル10世が、過激王党派の指導者ポリニャック(1780〜1847)を首相に任命すると(1829.8)、国王と議会の対立が深まった。
1830年5月、シャルル10世は再び議会を解散したが、7月の選挙では自由主義派(反政府派)がさらに増加した。そのためポリニャックは、国内の危機を回避するために、国民の目を国外に向けようとしてアルジェリア出兵(1830.7)を行なうとともに、七月勅令の発布を進めた。
1830年7月25日に発布された七月勅令では、7月の総選挙で自由主義派(反政府派)がさらに増加した未召集の議会を解散すること、次回の選挙を9月に行うこと、地主以外の有権者の選挙権を奪うこと、言論・出版の統制を強化することが布告された。
これに対して、7月27日、パリの学生・小市民・労働者ら約6万人は共和主義者を中心にバリケードを作り始め、28日には市街戦が激化し、29日には民衆がルーヴル宮・テュイルリー宮殿やノートルダム寺院などを占領した。これが七月革命である。市街戦が行われた7月27日から29日は「栄光の三日間」と呼ばれている。この「栄光の三日間」の市街戦の様子は、三色旗を掲げる自由の女神が革命軍の志士を率いているありさまを描いたドラクロワ(1798〜1863)の有名な「民衆を導く自由の女神」(1831年出品)に描かれている。
シャルル10世は、8月2日に退位を宣言してイギリスに亡命し、8月9日にはオルレアン家の自由主義者ルイ=フィリップが「フランス人民の王」として即位した。そして14日には新憲法が制定され、七月王政(1830〜48)が始まった。
ウィーン体制はラテン=アメリカ諸国の独立・ギリシアの独立によって破綻しつつあったが、七月革命は今までのように新大陸やイスラム教国での出来事でなくフランスでの出来事であり、また七月革命の成功によってフランスが神聖同盟から離脱したことは、ウィーン体制を守ろうとする勢力にとっては大きな衝撃であった。そのため七月革命はウィーン体制下のヨーロッパ諸国に大きな影響を与えた。
七月革命の影響は、まずオランダ領ベルギーに現れた。ベルギーはウィーン会議ではオランダに併合されたが、もともとオランダとベルギーの間には民族・言語・宗教などの面で大きな相違点があった。
オランダ人がドイツ系でカルヴァン派を信仰していたのに対し、ベルギー人はフランス系でカトリックを信仰していた。オランダがベルギーの宗教・言語・教育に干渉し、ベルギーの工業の発展を抑えたので、ベルギー人の不満が強まっていた。さらにオランダ語を公用語とし、オランダ語が話せない者は官吏に任用しないという布告が出されると反オランダ運動が高まり、七月革命の報が伝えられると、1830年8月26日にブリュッセルで独立蜂起が始まった。
ベルギーは、鎮圧に向かったオランダ軍との「九月の四日間」の戦闘で勝利を得、10月に独立を宣言した。イギリス外相パーマストンの仲介によってロンドン会議が開かれ、1830年12月に独立が承認され、翌1831年にはレオポルド1世(位1831〜65)が即位して立憲王国となった。
ベルギーの独立運動は成功したが、ポーランド・ドイツ・イタリアで起こった革命運動はいずれも不成功に終わった。
ウィーン会議後ロシアの支配下におかれていたポーランドでは、ニコライ1世の反動政治に対して独立運動が秘密裡に進められていた。そこへ七月革命やベルギーの独立の報が伝えられると、1830年11月にワルシャワの士官学校の生徒が蜂起したのをきっかけとしてワルシャワ革命が起こった。
ポーランド人は一時はロシア総督を追って革命政府を樹立し、革命政府は1831年1月に独立を宣言した。しかし、ロシアは大軍をポーランドに派遣し、ポーランド人の抵抗を抑えて9月にはワルシャワを占領した。ニコライ1世は革命勢力を徹底的に弾圧し、ポーランドをロシアの属州とし、以後ロシア化政策を推し進めた。
ウィーンでワルシャワ蜂起の報を聞いたポーランドのロマン派の作曲家ショパン(1810〜49)は、パリに向かう途中のシュツットガルトでワルシャワ陥落の報を聞き、その時の衝撃をピアノ練習曲「革命」で表現している。
ドイツでは、1830年にザクセン・ヘッセン・ハノーヴァーなどで革命暴動が起きて憲法が制定されたが、メッテルニヒはドイツ連邦議会を利用して革命運動を弾圧した。
イタリアでも、1831年に七月革命の報が伝わると、カルボナリがボローニャ・モディナ・パルマなどの中部イタリアで蜂起したが、オーストリア軍によって鎮圧され、カルボナリは壊滅した。
マッツィーニ(1805〜72)は、カルボナリに参加して逮捕され、その後マルセイユに亡命していたが、1831年にこの地でカルボナリの残党を吸収して「青年イタリア」を組織し、共和主義によるイタリアの統一をめざした。彼はサルデーニャ国王カルロ=アルベルト(位1831〜49)に統一を呼びかけたが拒否されて失敗に終わった。 
1-4 イギリスの諸改革 

 

産業革命をいち早く成し遂げたイギリスではブルジョワジー(産業資本家)の地位が高まり、1820年代には自由主義的傾向が強まり、1830年代には七月革命の影響のもとで自由主義改革が次々と行われた。
クロムウェルの征服以来、宗教・政治・土地所有などの面で差別に苦しんできたアイルランドでは、カトリック信仰の自由と政治的自治を求めて17〜18世紀にしばしば反乱が起きたがすべて鎮圧された。こうした状況のなかで、イギリス議会はアイルランド人の要求を無視して、1800年に合同法を可決し、翌1801年にアイルランドを正式に併合した。
アイルランドの地主の家に生まれたオコンネル(1775〜1847)は、1823年にカトリック教徒の選挙権獲得をめざしてカトリック協会を設立し、アイルランドの解放運動を指導した。1828年に下院議員に選出されたが、非国教徒が公職に就くことを禁止した審査律にふれて議席を拒否された。
オコンネルの議席が拒否されたことにアイルランド人は強く反発した。さらに反乱に発展することを恐れたウェリントン首相は国王に譲歩を勧め、1828年5月に審査律が廃止された。審査律の廃止によってカトリックを除く非国教徒の公職就任が可能となった。
オコンネルらは、さらに併合の際の公約であったカトリック教徒の選挙権獲得をめざす運動を展開し、翌1829年についにカトリック教徒解放法案が成立し、カトリック教徒の公職就任が可能となった。これによってイギリスでは宗教による差別が撤廃された。
当時のイギリスにとって最大の問題は選挙法改正問題であった。イギリスは議会政治の先進国であったが、18世紀の議会政治にはさまざまな問題があった。参政権は相当の土地を所有する地主に限られ、投票の秘密はなく、投票権の売買も行われていた。
また産業革命の結果、人口の都市集中がおこり、激しい人口の移動がおこっていた。しかし、選挙区は昔のままで、人口が激減したにもかかわらず従来通りの議員選出の特権を持ち、有力地主・貴族の意のままになった選挙区、すなわち腐敗選挙区が多くある一方で新興の大工業都市にはほとんど議員定数の割り当てがなかった。例えば、人口200人以下の選挙区が111あり、人口ゼロの選挙区も34あった。こうした不合理な選挙制度の改正を求めたのは産業資本家や労働者達であった。
ホイッグ党は、1819年から4回選挙法改正法案を提出したが、いずれもトーリー政権の反対にあって否決されていた。七月革命が起こると、その影響を受けて、1830年12月の選挙ではホイッグ党が進出し、グレー内閣(任1830〜34)が成立した。1831年にグレー内閣は選挙法改正法案を提出したが、下院を通過しても上院では否決された。
こうした状況の中でグレー内閣の退陣・ウェリントンの再組閣の報が伝わると、イギリスは革命前夜の状態に陥り、再任されたグレー内閣のもとで、1832年6月にやっと選挙法改正法案が成立した(第1回選挙法改正)。
これによって、56の腐敗選挙区が廃止され、143議席が再配分され、新興都市にも議席が与えられた。また都市の産業資本家など市民階級に選挙権が与えられ、有権者数は50万人から81万人に増加した。
しかし、この改正では労働者には選挙権が与えられなかったので、労働者は普通選挙を要求する運動を起こした。この運動はチャーティスト運動と呼ばれ、労働者による最初の政治運動となった。
彼らは6カ条からなる「人民憲章(People'sCharter)」(1837年にまとめられ、翌1838年に全国に配布された)を掲げて運動を起こし、1839・1842・1848年に多数の署名を添えて議会に請願書を提出し、大規模な請願デモを行った。
人民憲章6カ条は、男子普通選挙・無記名投票(それまでは口頭だった)・議会の毎年召集・議員の財産資格制限廃止・議員への歳費支払い・平等選挙区制であった。
しかし、彼らの請願は拒否され、1848年の大デモ行進を最後に衰え、労働者はチャーティスト運動によっては選挙権を獲得することが出来なかった。
参政権を獲得した産業資本家は、次に経済面での自由主義的改革を求め、自由貿易主義の実現を要求した。すでに1813年に東インド会社の対インド貿易独占権は茶を除いて廃止されていたが、1834年には東インド会社の対中国貿易独占権も廃止された(廃止の決定は1833年)。
経済面での自由主義的改革のうち最も重要な改革は穀物法の廃止であった。穀物法は、1815年に制定された地主の利益を擁護するための法律であった。ナポレオン戦争が終結し、大陸封鎖令が解かれると、イギリスには工業製品の見返り品として、東ヨーロッパ・北ヨーロッパ・カナダなどから大量の安い穀物が輸入されるようになった。そのため、ナポレオン戦争後も穀物価格を高く維持するために、国内価格が1クォーター(約242リットル)80シリングに達するまで外国産小麦の輸入を禁止した。その後、穀物価格の騰落に応じて輸入関税を増減する方式に改められた。
当時、消費者である労働者の数が飛躍的に増大すると、労働者は高い食糧を押しつける穀物法に強く反対したが、穀物法反対運動の中心になったのはコブデンやブライトらの産業資本家達であった。
コブデン(1804〜65)は、農家に生まれ、ロンドンで事務員となり、後にマンチェスターで捺染工場を興して富豪となった。アダム=スミスの自由主義経済学に共鳴し、自由貿易を主張した。またブライト(1811〜89)は、紡績工場を経営する産業資本家であったが、コブデンと知り合って、1839年に反穀物法同盟を結成し、穀物法の廃止運動を展開した。
ピール保守党内閣(任1834〜35、1841〜46)は、1845年のアイルランド飢饉をきっかけに穀物法の廃止を決意し、穀物法は1846年についに廃止された。
また1849年には航海法(1651年にクロムウェルが制定)も廃止され、外国船はイギリス船と同等の権利をもってイギリスの海運に従事することが出来るようになり、輸送費が安くなり、イギリスの貿易がさらに盛んとなった。
穀物法の廃止・航海法の廃止によってイギリスの自由貿易主義体制が確立された。 
1-5 社会主義思想の成立 

 

産業革命によって大量の労働者が生み出された。彼らは資本家の利潤追求の犠牲となり、低賃金で長時間働かされ、貧困に苦しみ、悲惨な生活を送っていた。そこで彼らは生活改善のために団結して労働運動を起こすようになったが、イギリスでは、1799年・1800年に団結禁止法が制定され、違反者は投獄などに処せられた。
労働者や手工業者らは初め、その生活が苦しい原因は新しく発明された機械にあると考え、機会打ちこわし運動を起こした。1811〜17年に、イギリス中・北部の織物工業地帯で起こった機会打ちこわし運動は、伝説的な人物ラッドにちなんでラダイト運動と呼ばれたが、政府によって厳しい弾圧を受けた。
1824年に団体禁止法が撤廃されると、多くの労働組合が結成され、労働運動の主体となった。当時のイギリスで労働運動に大きな影響を及ぼしたのがロバート=オーウェンである。
ロバート=オーウェン(1711〜1858)は、徒弟奉公から身を起こして紡績工場の支配人となり、ついでスコットランドのニュー=ラナーク紡績工場で経営者となり、この工場で利潤の追求よりは労働者の生活改善・幼少年の教育・福祉の向上に努めた。さらに私財を投じてアメリカのインディアナ州に「ニュー=ハーモニー」村を建設して共産主義的な協同社会の建設を試みたが(1825〜29)失敗し、全財産を失って帰国した。
帰国後は全国労働組合大連合の結成(1834)に努力したが、政府の弾圧と内部分裂によって数ヶ月で崩壊すると、チャーティスト運動などからも離れ、貧窮のうちに没した。この間、社会環境の改善による人間性の改善を提唱し、工場法の制定にも尽力した。
工場法は、年少労働者の労働条件を規制した法律で、1802年の幼年徒弟の労働時間を12時間に制限した法律が最初の工場法といわれている。1819年の工場法は、オーウェンの尽力で制定され、9歳以下の雇用禁止・9〜16歳の12時間労働が規定された。この工場法で9歳以下の雇用が禁止されたということは、それまで9歳以下の多くの子供が雇用されていたことを示している。
そして、1833年の工場法で、9〜13歳の9時間労働・18歳以下の12時間労働や工場監督官制(工場法が守られているかどうかを監督する制度)が規定された。さらに、1847年には婦人・児童の10時間労働が定められ、労働者の労働条件は次第に改善されていった。
オーウェンと同じ頃、フランスではサン=シモンやフーリエらも労働者を保護する新しい社会秩序の建設を説いていた。
サン=シモン(1760〜1825)は、パリの貴族に生まれ、16歳で軍隊に入り、アメリカ独立戦争に義勇兵として参加した。フランス革命によって全財産を没収されたが革命を支持し、革命後は人々が自由に能力を発揮できる平等な社会の実現を説いたが、彼自身晩年は貧窮に苦しんだ。
フーリエ(1772〜1837)は、富裕な毛織物商人の子に生まれ、少年時代から商業に携わりヨーロッパ各地をめぐった。彼は、その体験に基づいて資本主義を批判し、「ファランジュ」と呼ばれる協同組合的な理想社会の実現をはかったが失敗し、彼も貧窮のうちに没した。
ロバート=オーウェン・サン=シモン・フーリエらは、人道主義的な立場から理想社会の実現をめざしたが、その理論は現実社会の分析が不十分で、理想社会実現の方法が空想的であったので、マルクスやエンゲルスは「空想的社会主義」と呼んで批判し、自分たちの思想体系を「科学的社会主義」と称した。
フランスではサン=シモン・フーリエらに続いて多くの社会主義思想家が現れた。ルイ=ブラン(1811〜82)は、生産の国家統制を主張し、二月革命後の臨時政府に参加し、国立作業場(国立工場)の設置に尽力した。
プルードン(1809〜65)は、その著『財産とは何か(所有とは何か)』(1840)で「財産、それは窃盗だ」と述べ、私有財産制を批判して有名となった。彼は私有財産制と国家の廃止を主張したが、社会問題の解決を相互扶助に求めた。また彼の思想は無政府主義に大きな影響を与えた。
ドイツのマルクスやエンゲルスは、オーウェンらの空想的社会主義を批判し、科学的社会主義を唱え、資本主義の没落と社会主義社会の実現を科学的に論証した。
マルクス(1818〜83)は、ライン州トリールでユダヤ人弁護士を父として生まれた。ボン・ベルリン大学で法律を学んだが、歴史や哲学にも熱中した。卒業後、『ライン新聞』の編集長となり、貧困や抑圧に苦しむ労働者や農民に接する中で、当時のドイツ社会への批判を強めていった。そのため新聞は発禁処分となり、彼はパリに赴いた(1843)。
その後、ブリュッセル・ロンドンで共産主義運動を始め、ロンドンでドイツ移民を中心に「共産主義者同盟」が結成されると、その綱領の執筆を依頼され(1847)、エンゲルスと共同で『共産党宣言』(1848.2発表)を起草した。
1848年に、フランスで二月革命・ドイツで三月革命が起こると、パリを経てケルンに帰り、『新ライン新聞』の主筆として活躍したが、革命の失敗後パリを経てロンドンに亡命し(1849)、終生ここに住んだ。
ロンドンでは苦しい亡命生活を余儀なくされ、すさまじい貧困に苦しめられたが、この苦境のなかにあったマルクスを物心両面から援助したのがエンゲルスであった。マルクスは大英博物館に通って研究に打ち込むとともに国際的な労働運動の指導に尽力し、第1インターナショナル(1864〜76)の設立にも関わり、その創立宣言を起草した。
彼の主著『資本論』は、1867年に第1巻が公刊されたが、第2巻・第3巻はマルクスの死後エンゲルスの編纂によって刊行された。そして晩年は貧困と病苦に悩まされながら、ロンドンで没した。
エンゲルス(1820〜95)は、ライン州の紡績工場主の子に生まれ、父の会社の関係でイギリスに渡り、仕事のかたわら研究・執筆活動を行った。1844年にパリで亡命中のマルクスと再会し、以後終生変わらぬ友情と協力関係を結んだ。特にロンドンに亡命したマルクスを経済的に援助し、また彼の著作の普及に努めた。
マルクスの思想は、「一つの妖怪がヨーロッパをはい廻っている−共産主義という妖怪が」という有名な文で始まる『共産党宣言』に簡潔に要約されている。
マルクスは、人間社会や歴史の基礎をなすのは人間の物質的な生産活動であり、その経済的な土台の上に政治・制度・文化が成立すると考え、歴史は生産力と生産関係の矛盾を原動力として発展していくと説いた(唯物史観・史的唯物論)。
そして「今日までのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である。自由民と奴隷・貴族と平民・領主と農奴・ギルドの親方と職人、要するに抑圧者と被抑圧者は常にたがいに敵対し、ときにはひそかに、ときには公然とたえず闘争を続けてきた。」(共産党宣言の一部、以下同じ)と述べ、古代奴隷制では奴隷所有者と奴隷・中世封建制では領主と農奴・近代資本主義では資本家と労働者という形で階級闘争が行われ、歴史が発展してきたと説いた。
そして近代資本主義では「大工業の発展ともに、ブルジョワ階級の足もとから、彼らがそのうえで生産を行い、生産物をわがものとした基盤そのものが失われていく。ブルジョアワ階級は何よりも自分自身の墓掘り人をつくりだす。彼らの没落とプロレタリア階級の勝利はともに不可避である。」と述べ、大工業の発展によって資本家と対立する労働者階級が大量に生み出されるから、資本家と労働者の対立は労働者階級の勝利に終わる。従って資本主義体制の没落と社会主義社会の実現は歴史の必然であると主張した。
しかし、資本家の力は強いから、社会主義社会の実現には労働者の国際的な団結が必要であると説き、「共産主義者は、今までのいっさいの階級秩序の暴力による転覆を通じてのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級は共産主義革命の前に恐れおののくがよい。プロレタリアは鉄鎖以外に失うものは何ももたない。うるのは全世界である。」と述べ、「万国のプロレタリアよ、団結せよ。」という言葉で結んでいる。 
1-6 二月革命とナポレオン3世 

 

フランスでは、七月革命(1830.7)後、新政府の政体をめぐってブルジョワ派と共和派が対立したが、ブルジョワ派が共和派を抑え、自由主義者として知られるオルレアン家のルイ=フィリップを王に迎えて七月王政(1830〜48)が成立した。
ルイ=フィリップ(1773〜1850、位1830〜48)は、オルレアン公フィリップ(フランス革命で刑死)の長男に生まれ、父の死後オルレアン家(ブルボン家の分家)を継いだ。フランス革命中は国外に亡命し(1793〜1814)、ナポレオンの没落で帰国した。帰国後はブルジョワの自由主義者と交わり、七月革命後にブルジョワの支持で王に迎えられ、「フランス人民の王」として即位した(1830.8)。
フランスでは、七月革命後、産業革命が本格化し、産業資本家の力が増大する一方で多くの労働者階級が生み出されていた。
しかし、七月王政(1830〜48)の支持者は、大資本家や銀行家(金融資本家)などの大ブルジョワと大地主などで、七月王政下では大資本家や銀行家に有利な政策が取られたので、中小資本家や労働者・農民などの不満が強まった。
当時のフランスは極端な制限選挙であったが、選挙の度ごとに有権者数は徐々に増加していた。1830年の約9万人から、1839年には約20万人に増加したが、総人口に対する割合は0.6%にしか過ぎなかったので、中小資本家や労働者は選挙法の改正を要求した。
フランスは、1846年に凶作にみまわれ、さらに翌1847年には国際的な恐慌の影響を受け、国民は食料品の値上がりや失業に苦しんだ。これに対して政府は適切な対策を取ることが出来ず、次第に人気を失った。こうした状況の中で選挙法改正運動が急速に高まった。
1847年の夏頃から、「改革宴会」と呼ばれる選挙法改正を目的とする集会が各地で開かれるようになった。この集会は、最初は宴会の形をとって「国王万歳」などと祝杯があげられたが、次第に普通選挙や人民主権など政治・経済・社会問題が熱心に論じられ、政府に対する批判も行われたので「改革宴会」と呼ばれた。
「ヨーロッパ文明史」の著者で歴史家としても知られる当時の首相ギゾー(任1847〜48)は、「金持ちになり給え、そうすれば選挙人になれる」と述べて改革宴会への干渉を強め、パリでの改革宴会を禁止した(1848.1)。
1848年2月22日、この日予定されていたパリの改革大宴会は政府の干渉で中止されたが、禁止されていた無届けの集会とデモが強行され、デモ隊はブルボン宮殿を囲んで「ギゾーを倒せ」・「改革万歳」と叫んだ。
翌2月23日、デモはますます激しくなり、バリケードが築かれた。政府は国民軍を動員して鎮圧にあたらせようとしたが、国民軍の大半が反政府にまわったので、国王はギゾーを解任した。
しかし、23日の夜、デモ隊への軍隊の発砲をきっかけに2月24日には激しい市街戦が行われ、民衆は市庁舎を占領し、テュイルリー宮殿に侵入した。ルイ=フィリップは退位してイギリスに亡命し、共和政による臨時政府が成立した。これが二月革命である。
二月革命直後に成立した臨時政府は、有産市民を代表するラマルティーヌ(1790〜1869、ロマン派詩人としても有名)ら7人のブルジョワ共和主義者と労働者を代表するルイ=ブランら2人の社会主義者、そして小市民を代表する2人から成り立っていた。しかし、政府内ではブルジョワ共和派と社会主義共和派との対立が激しかった。
臨時政府は、ただちに共和政宣言を行い、第二共和政(1848.2〜52.12)が発足した。そして普通選挙制・言論と結社の自由・植民地の黒人奴隷制の廃止などの民主的な改革を進めるとともに、ルイ=ブランの主張に基づいて国立作業場(国立工場)が設立された。
国立作業場は失業者の救済をめざしておもに土木事業を行ったが、資材の供給や仕事の配分が混乱したためにたいした仕事も与えられず、労働者は一日の大半をむなしく過ごしながらも日当を支給されていた。
1848年4月、普通選挙による憲法制定議会議員選挙が行われ、ブルジョワ共和派が圧倒的な勝利をおさめ、社会主義者は惨敗し、ルイ=ブランも落選した。
四月選挙でブルジョワ共和派が勝利をおさめ、社会主義者が惨敗した理由としては、フランス革命によって土地を所有した農民が社会主義イコール私有財産の没収と思いこんで土地を失うことを恐れてブルジョワ共和派を支持したこと、また革命前からの凶作・恐慌による食料品の値上がり・失業に苦しむ市民・労働者らがほとんど働かないで日当をもらっている国立作業場の労働者に反感を抱いたことなどがあげられる。
6月21日に国立作業場の廃止が決定されると、パリの労働者は反政府運動に立ち上がった。23日には全市にわたってバリケードが築かれ、23日から26日にかけて激しい市街戦が繰り広げられたが、政府軍に鎮圧され、1500人が即時銃殺され、2万5千人が逮捕されて死刑・流刑・強制労働に処せられた。この六月暴動(六月蜂起)によってブルジョワ支配が確立した。
また六月蜂起は、「諸国民の春」(1848年春にヨーロッパ各国で自由主義・国民主義が高揚したことをいう)に影響を及ぼし、その鎮圧を機にヨーロッパ各国の自由主義・国民主義運動が後退し、各国で反動勢力が復活した。
憲法制定議会は、11月4日に第二共和国憲法を制定した。この憲法は人民主権・三権分立を主要な原理とし、国民投票によって選ばれる任期4年の大統領が行政権を行使する大統領制を採用した。そして12月10日に新憲法に基づく第1回目の大統領選挙が行われ、ルイ=ナポレオンが圧倒的に多数の票(約74%)を獲得して当選した。
ルイ=ナポレオン(1808〜73)は、ナポレオン1世の弟オランダ王ルイの第3子として生まれた。ナポレオンの没落後は各地に亡命し(1815〜30)、1830年にはイタリアでカルボナリの一員として革命運動に参加した。1836年にはストラスブールで帝政復活の反乱を企てて失敗し、アメリカへ追放されたが、その後ロンドンに移住した(1838)。1840年にもブーローニュに上陸して再び帝政復活の反乱を企てたが失敗して逮捕され、終身刑に処せられて投獄されたが、1846年には労働者に変装して脱獄に成功してロンドンに逃れた。1848年、二月革命後の6月の補欠選挙でロンドンにいたままで選出された。この時は失格とされたが、9月の補欠選挙でも当選して議員となり、12月の大統領選挙に立候補して当選した。
1849年に行われた選挙では王党派が圧勝し、ルイ=ナポレオンと議会の対立が強まったが、王党派が反動政策で人気を失うと、ルイ=ナポレオンの人気が高まった。
ルイ=ナポレオンは、人気を利用して独裁権を固めようとし、大統領の再選を禁止した憲法の修正が否決されると、1851年12月2日にクーデターを起こして武力で議会を解散し、王党派を一掃し、共和派の抵抗を抑えて独裁権を握った。
ルイ=ナポレオンは、1852年1月に新憲法を発布して大統領の任期を10年に延長し、さらに同年11月には国民投票を行って782万票対25万票という圧倒的な支持を得、12月2日に皇帝となり、ナポレオン3世(位1852〜70)と称した(第二帝政、1852〜70)。 
1-7 二月革命の影響 

 

二月革命は、ヨーロッパの自由主義・国民主義運動に大きな影響を及ぼし、全ヨーロッパで自由主義・国民主義が高揚したので、1848年の春は「諸国民の春」、1848年は「革命の年」と呼ばれている。
二月革命の影響はドイツに及び、三月革命が起こった。1848年3月13日にウィーンの三月革命(ウィーン暴動)が起こった。この日、学生・市民・労働者が蜂起し、メッテルニヒの罷免を要求して宮殿に殺到した。軍隊が民衆に発砲したが、民衆は宮殿を包囲し、夜になると宮殿内に侵入した。
翌14日、長年ヨーロッパの反動勢力の中心であったメッテルニヒは、変装して脱出に成功してロンドンに亡命した。これによってウィーン体制はついに完全に崩壊し、皇帝は憲法の発布と議会の召集を約束した。
マジャール人(ハンガリー)・チェック人(ベーメン)・イタリア人・スラブ系の諸民族などからなる複合民族国家であったオーストリアでは、ウィーンの三月革命に続いて各地で民族独立運動が起こった。
ハンガリーでは、民族独立運動の指導者であるコッシュート(1802〜94)らが、1848年3月に憲法改革と責任内閣制を要求して皇帝に承認させ、コッシュートはハンガリー最初の内閣の蔵相に就任した。
オーストリアの反動化によって革命戦争(1848〜49)が勃発すると、1849年4月に、ハンガリーはコッシュートの指導下で独立を宣言し、コッシュートは臨時政府の執政官となった。しかし、オーストリアの要請でロシア軍が介入し、コッシュートはロシア軍に敗れて亡命し(1849)、ハンガリーの独立運動は鎮圧された。
ベーメンでも、1848年6月にプラハを中心に独立蜂起が起こったが鎮圧された。
イタリアでも、ウィーンの三月革命の報が伝わると、ロンバルディア・ヴェネツィアで反オーストリア暴動が起こった。
この情勢を見て、サルディニア国王カルロ=アルベルト(位1831〜49)はオーストリアに宣戦し(1848.3)、ロンバルディアに進撃した。しかし、オーストリアのラデツキー将軍(ラデツキー行進曲で有名な人物)にノヴァラの戦い(1849.6)で敗れて退位した。
二月革命の影響でローマに暴動が起こり、教皇ピウス9世がローマを脱出すると、マッツィーニの率いる青年イタリアがローマ共和国(1849.2〜49.7)を樹立し、イタリアの統一をめざして憲法会議開催を呼びかけた。
ピウス9世は、カトリック諸国に鎮圧を呼びかけ、これに応じたフランス軍の介入によってローマ共和国は崩壊し、イタリアの統一運動も失敗に終わった。
ウィーンの三月革命に続いて、プロイセンの首都ベルリンでもベルリンの三月革命(ベルリン暴動)が起こった。1848年3月18日、ベルリンでブルジョワ・労働者が蜂起し、プロイセン国王に憲法制定を約束させた。
三月革命後の革命的機運の高まりの中で、1848年5月18日にフランクフルト国民議会が開かれた。フランクフルト国民議会は、ドイツ最初の全国的な議会で、議員はドイツ諸邦から普通選挙で選ばれ、議員の多くは学者・官吏・ブルジョワで占められていた。
フランクフルト国民議会は、ドイツの統一の方式や全国憲法制定などを議したが、議論に多くの時間を費やし、決断と実行力に欠けていた。
フランクフルト国民議会は、1848年12月にやっとドイツ国民の基本法(憲法の基本原理を定めたもので人権宣言にあたる)を、翌年3月にはドイツ国憲法を作成・公布した。
ドイツの統一の方式をめぐっては、大ドイツ主義と小ドイツ主義が対立した。大ドイツ主義は、オーストリアの指導のもとで、オーストリアを含めたかっての神聖ローマ帝国の全領域を統合しようとする立場である。これに対して小ドイツ主義は、複合民族国家であるオーストリアを除外してプロイセンの指導によるドイツの統一をめざす立場であったが、結局小ドイツ主義が勝利した。
1849年3月に制定されたドイツ国憲法は立憲君主制を採用していたので、プロイセン国王を統一ドイツの皇帝に選出したが、プロイセン国王がこれを拒否したので議会は紛糾した。プロイセン国王は、他の諸王侯の同意があるまでは受けることが出来ないとの理由で拒否したが、本当の理由は革命派からの帝冠は受けられないということであった。
議会は憲法の実現を訴え、これを支持する民衆の蜂起が5月以後各地で起こったが鎮圧される中で、諸邦は議員を引き上げ、フランクフルト国民議会は1849年6月には武力で解散させられ、ドイツの統一と全国憲法制定の試みは失敗に終わった。
イギリスでは、二月革命の影響のもとで、1848年4月にチャーティスト運動が最高に盛り上がった。チャーティスト達は、大規模なデモを行い議会に圧力をかけようとしたが政府の厳しい弾圧を受けて失敗に終わり、以後チャーティスト運動は衰退に向かった。
なお、マルクス・エンゲルスによって『共産党宣言』が出されたのも1848年であった。
このように1848年の諸革命はウィーン体制を崩壊させたが、1848年末から1849年にかけて反革命が勝利し、ヨーロッパは再び反動化していった。メッテルニヒの失脚後、この反動勢力の中心となったのは「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれたロシアであった。 
 
2 自由主義と国民主義 

 

2-1 イギリスのヴィクトリア時代 
1837年、イギリスではヴィクトリア女王(1819〜1901、位1837〜1901)が18歳で即位した。イギリス国王中で最長の64年に及ぶ治世は「ヴィクトリア朝時代」と呼ばれ、大英帝国の黄金時代であった。
ヴィクトリア朝時代を代表する偉大な政治家が、保守党のディズレーリと自由党のグラッドストンであった。19世紀後半のイギリスでは、この二人の政治家のもとで、保守党と自由党による典型的な二大政党制が発展した。
トーリー党は、1830年頃から保守党と呼ばれるようになった。トーリー党を近代的な保守党に脱皮させたのは、穀物法の廃止(1846)を断行したピール(首相、任1834〜35、1841〜46)であった。
ホイッグ党は、第1回選挙法改正(1832)後に自由党と呼ばれるようになった。30年にわたってイギリス外交をリードしたパーマストン(1784〜1865、首相(任1855〜58、1859〜65))の死後、グラッドストンが指導権を握り、多くの自由主義改革を行った。
19世紀後半のイギリスにとって最大の問題は選挙法改正であった。第1回選挙法改正で、選挙権を獲得できなかった労働者はチャーティスト運動を起こしたが失敗に終わった。
1866年に自由党が提出した4回目の選挙法改正案が否決されると、ロンドンで選挙法改正を要求する大規模なデモが起こり、労働者に選挙権を与えることは避けられない状況となった。
この状況をみて、保守党のディズレーリは、保守党の手で改正を行って民衆の支持を得る方が得策と考えて自由党の改正に応じ、保守党ダービー内閣(第3次、任1866〜68)のもとで、1867年8月に第2回選挙法改正が行われた。これにより都市の労働者に選挙権が与えられ、新有権者の数は110万人以上増加した。
ダービーは、翌1868年に病気で引退し、第1次ディズレーリ内閣(1868)が成立した。しかし、第2回選挙法改正後に行われた1868年の総選挙では自由党が勝利し、第1次グラッドストン内閣(1868〜74)が成立した。以後、ディズレーリは2回、グラッドストンは4回にわたって内閣を組織した。
ディズレーリ(1804〜81、首相(任1868、1874〜80))は、祖父の代にイギリスに移住したユダヤ人の家に生まれた。キリスト教に改宗し、弁護士事務所に勤務しながら小説を著した。数回の落選後、1837年に下院議員に当選し、政治小説を書いてトーリー=デモクラシーを主張した。穀物法の廃止(1846)に反対してピールとたもとをわかち、その後保守党保護貿易派の首領となり、ダービー内閣で3度蔵相を務め、第2回選挙法改正(1867)を行った。ダービーの引退後、2回内閣を組織し、スエズ運河の株式の買収(1875)・インド帝国の成立(1877、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる)・ベルリン会議でロシアの南下策を阻止するなど積極的に帝国主義的外交を展開した。
グラッドストン(1809〜98、首相(任1868〜74、1880〜85、1886、1892〜94))は、リヴァプールの豪商の家に生まれ、オックスフォード大学を卒業後、1833年に保守党の下院議員となった。穀物法廃止の際はピールを支持し、その後ピール派として保守党から次第に離れ、1859〜66年にパーマストン自由党内閣・ラッセル自由党内閣で蔵相に就任し、ラッセルの引退後は自由党党首として4回首相を務めた。
グラッドストンは、主に内政問題に力を注ぎ、1870年には教育法を制定して宗派に関係ない公立学校を増設し、翌1871年には労働組合法を制定して労働組合運動を合法化した。さらに1884年には第3回選挙法改正を行い、農業労働者及び鉱山労働者に選挙権を与え、これによって有権者は約500万人(成年男子約700万人中)となった。
グラッドストンが最も力を入れて取り組んだのがアイルランド問題であった。アイルランドは、クロムウェルに征服されて(1649)以来、事実上イギリスの植民地状態におかれ、アイルランド人は宗教・政治・土地所有などの差別に苦しめられた。1801年に正式にイギリスに併合され、ロンドンの議会に代表を送るようになり、1829年のカトリック教徒解放法で議会に進出した。しかし、アイルランド人は長い間イギリス人不在地主の小作人であったので生活は苦しく、1874年にイギリス議会に選出された60〜80人のアイルランド選出議員を中心にアイルランド国民党を結成して、アイルランドの自治権獲得をめざす運動を展開した。
グラッドストンは、アイルランド人小作人の地位向上のためにアイルランド土地法の制定に取り組んだ。1870年法で適正な地代・小作権売買を認め、1881年法では土地購入権を認めた。また1885年法・1891年法では自作農創設のために小作人の土地購入を促進する法を制定した。
さらにグラッドストンは、議会内第3党となったアイルランド国民党と結んで、1886年にアイルランド自治法を提出したが、自由党の一部が反対にまわり、自由党が分裂したために失敗に終わり、1893年には再度、第2次アイルランド自治法案を議会に提出した。この時は下院を通過したが上院で否決され、グラッドストンは翌年政界を引退した。
当時のイギリスでは、植民地に関して大英国主義と小英国主義が対立していた。小英国主義は、自由貿易による利益の獲得こそが重要であって、植民地は財政負担を増加させる重荷に過ぎないとして植民地放棄論を唱えて帝国の拡大に反対する立場で、自由党のグラッドストンはこの小英国主義を支持した。これに対して保守党のディズレーリは大英国主義を主張し、インド・アフリカ・中国への進出を強めた。
19世紀後半のイギリスは、インド帝国を中心としてオーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・カナダなどに広大な植民地を持ち、第2次イギリス帝国(七年戦争までに形成された帝国を第1次帝国と呼ぶ)を形成していた。第2次イギリス帝国では、次第に白人植民地の自治が認められ、白人植民地は自治領となった。まず1867年に、カナダがイギリス帝国内で最初の自治領となった。
自治領は、イギリス植民地の中で自治権を与えられた国で、イギリス国王を元首とした。カナダに続いてオーストラリア(1901)・ニュージーランド(1907)・南アフリカ連邦(1910)も自治領となった。 
2-2 イタリアの統一 

 

近代に入っても分裂を続けていたイタリアは、ウィーン会議後も分裂を続け、しかもウィーン会議でロンバルディア・ヴェネツィアがオーストリア領となったので、イタリア統一のためにはまず外国勢力を排除しなければならなくなった。
しかし、オーストリアの勢力は強く、1820年代のカルボナリの革命、七月革命後のカルボナリの革命はいずれもオーストリアによって鎮圧された。
1848年、二月革命が起きると、その影響のもとでサルデーニャ王国のカルロ=アルベルト(位1831〜49)は統一戦争に乗り出した。サルデーニャ王国は、1720年にサヴォイ家がサルデーニャ島を領有して成立した北イタリアの小王国で、トリノを都とした。
しかし、サルデーニャの統一戦争はオーストリア軍とのノヴァラの戦いに敗れて失敗に終わり、マッツィーニの指導する青年イタリアが建設したローマ共和国もフランス軍の介入によって倒された。
サルデーニャ国王カルロ=アルベルトはノヴァラの戦いでの敗北の責任をとって退位し、息子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(1820〜78、サルデーニャ国王(位1849〜61)、初代イタリア国王(位1861〜78))が即位してリソルジメント(イタリアの自由・独立・統一を目ざした自由主義・民族主義運動)を続行するために、自由主義者のカヴールを首相に任じた。
カヴール(1810〜61、任1852〜61)は、名門の貴族の子としてトリノで生まれた。初め軍人となったがまもなく引退し、地主として農業経営にあたった。その間、イギリス・フランスを旅行してイギリスの議会政治に心酔し、同志と新聞「リソルジメント(復興)」を発行し(1847)、サルデーニャ国王を中心とする立憲君主制によるイタリア統一を主張した。1848年に議員となり、1852年に首相に任じられた。
カヴールはサルデーニャ王国の近代化のための政策を積極的に推し進め、近代産業の育成・軍隊の近代化を進め、国家財政の基礎を固めるために強い反対を押し切って修道院を解散し、その土地を国有化した(1855)。
その一方で、カヴールはサルデーニャ単独ではオーストリアを破って統一を達成することは不可能と考え、イギリス・フランスなど大国の援助が不可欠と考えた。そのためイギリス・フランスと同盟を結んで1855年にクリミア戦争(1853〜56)に参戦し、1万5千の将兵をクリミア半島に送り、サルデーニャの国際的地位の向上に努めた。
さらに、1858年7月、カヴールはナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を結んだ。この密約は、サルデーニャがサヴォイアとニースをフランスに割譲し、その代償としてイタリア統一のための対オーストリア戦をフランスが支援するという内容であった。
プロンビエールの密約を知ったオーストリアは、1859年4月にサルデーニャと開戦し、イタリア統一戦争(1859.4〜59.11)が始まった。フランスの援助を受けたサルデーニャは連勝し、6月のソルフェリーノの戦いでオーストリア軍を撃破し、全ロンバルディアを奪回した。この時、ナポレオン3世は、サルデーニャの強大化とイタリアの統一を恐れ、突如サルデーニャを裏切り、単独でオーストリアと講和条約を結んだ(1859.7)。
カヴールはナポレオンの裏切りに憤激し、サルデーニャ単独で戦いを続けることを国王に進言したが容れられず辞任し、1859年11月に正式に講和条約が結ばれ、サルデーニャはロンバルディアを獲得したにとどまった。
カヴールは、イタリア統一を外国の援助に頼ろうとしたことの誤りを悟り、イタリア統一はイタリア人の手で達成すべきだと考え、首相に復職してナポレオン3世との取引にふみきった。彼はサヴォイアとニースの割譲と引き替えに、統一戦争中にサルデーニャとの併合を要求していたトスカナ以下の中部イタリア諸邦の併合を認めさせた。これによって中部以北のイタリアの統一が実現し、サルデーニャ王国は人口約500万人の国から一躍1100万人の国となった。
南イタリアのナポリ王国(両シチリア王国)には、ウィーン会議でブルボン朝が復活したが、国王による圧政が続いていた。1860年4月にシチリア島でナポリ王の圧政に対する反乱が勃発し、反乱の指導者がガリバルディに援助を求めてきた。
マッツィーニ・カヴールと並んで「イタリア統一の三傑」と呼ばれるガリバルディ(1807〜82)は、ニースで船員の子に生まれ、サルデーニャの海軍に入った。青年イタリアに参加し(1833)ジェノヴァ蜂起に敗れて亡命し(1834)、南アメリカでウルグアイなどの独立運動に参加した。1848年に帰国し、ローマ共和国の防衛に活躍したが敗北して再び南アメリカに亡命した。1854年に帰国してからは、青年イタリアの共和主義運動よりもサルデーニャ国王による統一運動に共感し、統一戦争に参加した(1859)。
シチリアからの救援の要請を受けたガリバルディは、ジェノヴァで千人隊(赤シャツ隊)と呼ばれる義勇軍を組織し、千人隊を率いてジェノヴァを出発し、シチリアの救援に赴いた(1860.5)。
1860年5月、ガリバルディ軍はシチリアに上陸し、7月末までにはシチリア全土を占領した。8月にはイタリア本土に上陸し、北上して9月にナポリに入城した。
ガリバルディはさらに教皇領を目ざして北上を開始した。カヴールは、ガリバルディのローマ進撃が教皇領を守るフランス軍との紛争を引き起こすことを恐れ、またガリバルディ配下の共和主義者によって南イタリアに独立共和国が成立することを恐れて、サルデーニャ軍をボローニャとフィレンツェから南下させた。サルデーニャ軍は教皇領を通過して南下し、10月に両軍はナポリの北方で相対した。
サルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世とガリバルディは、道路上で会見し、ガリバルディは一部の部下の反対を退けて占領地をサルデーニャ国王に献上し、11月には国王と並んでナポリに入城した。その後ガリバルディは司令官を辞してカプレラ島に帰っていった。
こうしてイタリア統一が達成され、ヴェネツィアとローマ教皇領を除く全イタリアの代表がトリノに集まりイタリア最初の議会が開催された(1861.2)。
そして1861年3月にイタリア王国が成立し、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が王位についた。
その後、普墺戦争の際にヴェネツィアを併合し(1866)、さらに普仏戦争の時にフランス守備隊が撤退したのに乗じて1870年にローマ教皇領を占領し、イタリアの統一が完成した。そして翌1871年にローマに遷都した。
ローマ教皇は、イタリア王国の武力による教皇領占領に抗議し、教皇ピウス9世は捕囚されたと宣言し、以後「ヴァチカンの囚人」と称してイタリア国王と対立を続けた。
また、1870年の統一後も、トリエステ・南チロルなど国境地帯はオーストリア領に留まったので、イタリア人は「未回収のイタリア」と呼んでその併合を要求し続けた。 
2-3 ドイツの統一 

 

ウィーン会議によって、ドイツにはオーストリア・プロイセン以下35の君主国と4自由市から成るドイツ連邦が成立した。ドイツ連邦の領域は、旧神聖ローマ帝国の領土を踏襲していたので、オーストリアは連邦内の領土よりその外にある領土の方が大きく、プロイセンも領土の約4分の1は連邦外にあった。
プロイセンは、ウィーン議定書でワルシャワ大公国の北部とザクセンの北半及びライン中流左岸地域を獲得した。特にドイツで最も工業が発達していたライン地方を獲得したことはプロイセンの以後の発展にとって非常に有利な条件となった。
ウィーン体制下で、政治的にオーストリアの下風に立っていたプロイセンがオーストリアより優位に立つきっかけとなったのが、歴史学派経済学者のフリードリヒ=リスト(1789〜1846)によって提唱されたドイツ関税同盟であった。
プロイセンは、領土が東西に二分されていたので、近隣諸国との間に関税同盟を結んで経済圏の統一をはかり、1828年にヘッセンと関税同盟を結んだ。同年、中部ドイツ関税同盟・南ドイツ関税同盟が成立していたが、プロイセンは諸邦と根気よく交渉し、1833年にこれら3つの関税同盟はプロイセンの主導下に統合され、翌1834年にドイツ関税同盟が発足した。
ドイツ関税同盟は次第に加盟国を増やし、オーストリアを除くドイツを経済的に統一した。このドイツ関税同盟の成立によって、ドイツでは政治的統一に先立って経済的統一がほぼ出来上がり、これを主導したプロイセンは政治的統一においてもオーストリアに対して優位に立った。
1848年の二月革命はドイツにも大きな衝撃を与えた。ウィーンの三月革命によってメッテルニヒが失脚し、ウィーン体制は完全に崩壊した。またベルリンの三月革命では、プロイセン国王に憲法制定を約束させた。
そして1848年5月に、ドイツの統一と全国憲法制定のためにフランクフルト国民議会が開かれた。フランクフルト国民議会では、ドイツの統一の方式をめぐって、オーストリアの指導のもとでドイツ統一を実現しようとする大ドイツ主義とオーストリアを除外してプロイセンを中心にドイツの統一を達成しようとする小ドイツ主義が対立した。結局小ドイツ主義が勝利し、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世(位1840〜61)を統一ドイツの皇帝に推したが、プロイセン王が革命派からの帝冠を拒否したために失敗に終わった。
1861年1月、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の死後、ヴィルヘルム1世(1797〜1888、プロイセン王(位1861〜88)、初代ドイツ皇帝(位1871〜88))が即位した。ヴィルヘルム1世は、摂政時代からプロイセンの軍制改革に取り組んでいたが、軍備拡張の予算案が議会で否決されると、この難局を打開するためにビスマルクを首相に起用した。
ビスマルク(1815〜98、任1862〜90)は、ベルリン西方のシェーンハウゼンという小村でユンカー(エルベ川以東の大土地貴族)の家に生まれた。ゲッティンゲン大学・ベルリン大学に学んだが、酒と決闘に明け暮れ、「乱暴者ビスマルク」と呼ばれた。卒業後、一時軍務についたが、父の死後は領地の経営にあたった。
1847年に連邦地方議会議員に選出され、1848年に三月革命が起こると故郷の農民を武装させてベルリンに進撃しようとするなど反革命派として活躍した。革命後、フランクフルトのドイツ連邦議会にプロイセン代表として派遣され(1851〜59)、しばしばオーストリアと対立して小ドイツ主義者となった。その後、駐ロシア大使(1859)・駐フランス大使(1862)等を経て、1862年にヴィルヘルム1世によってプロイセンの首相兼外相に任命された(1862.9)。
ビスマルクは、首相就任から1週間後に、下院予算委員会で「・・・ドイツの着眼すべき点は、プ口イセンの自由主義ではなく、その軍備であります。バイエルン・ヴュルテンベルク・バーデンなどの諸邦は、それぞれの自由主義を認めるでありましようが、それゆえにこそ誰もプロイセンに課せられた役割をそれらの諸邦に課するものはないでありましよう。プロイセンは今まで何回か好機を失って来たのでありますが、これにがんがみてプロイセンは今後の好機にそなえて力を結集しておかねばならないのであります。プロイセンの国境は、健全な国家のそれにふさわしいものではありません。言論や多数決によっては現下の大問題は解決されないのであります。言論や多数決は、1848年および1849年の欠陥でありました。鉄と血によってこそ問題は解決されるのであります。・・・」という有名な「鉄血演説」を行い、議会による予算案の否決を無視して軍備拡張を実行に移し、議会と対立した。
こうした状況のなかでシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題が起こった。シュレスヴィヒ・ホルシュタインはユトランド半島の南半分に位置する2つの小公国で、デンマークの主権下に属していたが、住民の多くはドイツ人であった。
1863年にデンマークが北のシュレスヴィヒ公国の併合を宣言すると、住民はドイツ連邦に援助を要請した。プロイセンとオーストリア両国は同盟してシュレスヴィヒ公国の併合に抗議したが、デンマークが両国の要求を拒否したため、1864年2月にプロイセン・オーストリア両国はデンマークと開戦し、デンマーク戦争(1864.2〜64.7)が始まった。
プロイセン・オーストリア両国は、デンマーク軍を破ってシュレスヴィヒ・ホルシュタインを占領して休戦条約を結び(1864.7)、10月のウィーン条約でシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国はプロイセン・オーストリア両国の共同管理下に置かれることになった。そして翌1865年にプロイセン・オーストリア両国は、プロイセンがシュレスヴィヒを、オーストリアがホルシュタインを管理下に置く協定を結んだ。
ビスマルクは、早くから対オーストリア戦を予想して軍備拡張を強行していたが、1865年にはナポレオン3世と会見し、ライン左岸地方の割譲をにおわせながら対オーストリア戦開始の場合の中立を約束させ、1866年2月には御前会議で対オーストリア開戦政策を決定した。さらに同年4月、戦後にヴェネツィア併合を認めることを条件にイタリアと攻守同盟を結んだ。
そして、イタリアと攻守同盟を結んだ翌日に、ビスマルクはドイツ連邦議会に、ドイツ全国民の直接選挙により議会を召集するという革命的な提案を行った。これに対してオーストリアは、1866年6月にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン処理問題を改めてドイツ連邦議会に提出し、プロイセンとオーストリアの関係は決裂した。プロイセンはホルシュタインに兵を進め、ドイツ連邦議会はプロイセンに対する制裁を決議し、ここに普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争、1866.6.15〜66.8.23)が始まった。
プロイセンは、開戦と同時に鉄道を利用して電撃的な速さで兵力を集中し、ザクセン・ベーメンに入り、7月3日のサドヴァ(ケーニヒグレーツ)の戦いでオーストリアの主力軍を撃破し、ウィーンに迫った。オーストリアは開戦後わずか50日で降伏し、7月26日に仮条約が結ばれ、8月23日にプラハ条約が結ばれた。このため普墺戦争は7週間戦争とも呼ばれている。
プラハ条約で、ドイツ連邦の解体とプロイセン指導下の北ドイツ連邦の設立・シュレスヴィヒとホルシュタインのプロイセンへの併合・賠償金の支払いが決められ、またオーストリア・イタリア間の平和条約でヴェネツィアのイタリアへの割譲が認められた。
普墺戦争の翌年、1867年7月、ついに北ドイツ連邦が成立した。北ドイツ連邦は、オーストリアと南ドイツ諸国を除くマイン川以北の22の諸邦で組織され、プロイセン国王を連邦議長とした。北ドイツ連邦の成立によってドイツの統一はほぼ達成された。
一方、普墺戦争に敗れてドイツから除外されたオーストリアでは、ハンガリーの自治が認められ、1867年6月にオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世(位1848〜1916)がハンガリー王を兼ね、別々の政府と国会を持つオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が成立した。
フランスのナポレオン3世は、プロイセンによるドイツの統一によって隣に強大な国家が出来ることを恐れ、ドイツの統一を妨げようとしてしきりにプロイセンに干渉した。そのためビスマルクはドイツの統一のためにはフランスとの戦いは避けられないと考え、準備を進める一方で開戦の機会をうかがっていた。
ナポレオン3世は、国内における威信が低下し、またメキシコ出兵(1861〜67)の失敗や普墺戦争の際に中立を保った代償としてライン左岸地方の割譲を要求したがビスマルクに拒否されるなど外交上の失敗が続いていたので、皇帝の威信を保とうとあせっていた。
こうした状況の中でたまたま起こったのがスペイン王位継承問題である。スペインでは1868年に革命が起こり、イサベル2世(位1833〜68)が国外に逃亡して空位となり、1870年6月にプロイセン王家の支流ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家のレオポルトが後継者に指名され、レオポルトはこれを受諾した。
ナポレオン3世はホーエンツォレルン家によって東西から脅かされることを恐れてレオポルトの即位に猛反対した。プロイセン王ヴィルヘルム1世はナポレオン3世の抗議を受け入れて、レオポルトに立候補の取りやめを勧告し、7月に辞退した。
これによって事件は終わったかに見えたが、フランスは、7月13日にエムスで静養中のヴィルヘルム1世のもとへプロイセン駐在フランス大使を派遣し、将来もホーエンツォレルン家からスペイン王を出さない保障を迫った。ヴィルヘルム1世は将来への保障を拒否し、この件の経過をベルリンのビスマルクへ打電した。
電報を受け取ったビスマルクは、故意に電文の一部を削除し、フランス大使がプロイセン王にしつこく迫り、立腹した王が大使を追い返したように書き改めて公表し、ナポレオン3世を挑発した。これが有名な「エムス電報事件」である。
この電報が新聞に公表されると、ドイツ人は激昂し、フランスは侮辱ととらえ、両国の世論がわきかえる中で、1870年7月19日、ビスマルクの術中にはまったフランスはプロイセンに宣戦を布告し、普仏戦争(独仏戦争、プロイセン=フランス戦争、1870.7〜71.5)が始まった。
モルトケ(1800〜91、プロイセンの優れた戦術家)の指揮するプロイセンを中心とし、北ドイツ連邦諸国と南ドイツ諸国(ナポレオン3世はフランス側につくと期待していた)を合わせた約38万のドイツ軍は、瞬く間にフランス国境を越え、連勝を重ねて8月末にフランス軍の主力をメッツに包囲した。ナポレオン3世はメッツの救援に赴いたが、セダンで包囲され、9月2日に8万2千の将兵とともに降伏してドイツ軍の捕虜となった。
1870年9月4日、パリでは帝政廃止・共和政樹立が宣言され、国民防衛政府が成立した。国民防衛政府は抗戦を続けたが、プロイセン軍は9月19日にはパリを包囲した。プロイセン軍のめざましい勝利を見て、11月にはバイエルンなど南ドイツ諸邦が北ドイツ連邦に加入した。
1871年1月18日(プロイセン王国建国170年の記念日)、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間においてプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が行われ、ドイツ帝国(1871〜1918)が成立した。
1月28日にはパリが陥落して休戦条約が結ばれ、2月26日にヴェルサイユで仮講和条約が、そして5月10日にフランクフルトで正式に講和条約が結ばれた。
この条約によって、フランスはアルザス・ロレーヌ両州をドイツに割譲し、50億フランの賠償金を支払うことが決められた。この苛酷な条約はフランス国民に強い対独復讐心を抱かせ、以後ドイツとフランスの対立が深刻になっていく。
1871年に成立したドイツ帝国は、22の君主国と3つの自由市から成る連邦制国家で、連邦を構成する各邦はそれぞれ政府と議会を持ったが、主導権はプロイセンが握った。
1871年4月に制定されたドイツ帝国憲法(大日本帝国憲法はこの憲法を範としている)によって、ドイツ皇帝はプロイセン王ヴィルヘルム1世が兼任し、皇帝によって任命される帝国宰相にもプロイセン首相のビスマルクが就任した。なお帝国宰相は、議会に対してでなく皇帝に対してのみ責任を負った。
立法府は連邦参議院と帝国議会から成り、25諸邦代表から成る連邦参議院が立法・宣戦・外交などで大きな権限を持ち、議長は帝国宰相が兼任した。帝国議会は男子普通選挙で選出された議員で構成されたが、その権限は弱く、諮問議会的な存在で、立憲主義は外見に過ぎなかった(外見的立憲主義)。ビスマルクは帝国宰相として、以後約20年間にわたって内政・外交に独裁的な権力をふるい、ビスマルク時代(1871〜90)を現出した。
ビスマルクは、統一後、反プロイセン(プロイセンは新教・ルター派)的なカトリック教会を国家の統制に従わせようとしたが、これに対して南ドイツのカトリック教徒は中央党を組織して(1870)反対したので、ビスマルクとカトリック教会及び中央党との間で文化闘争(1871〜80)と呼ばれる争いが起こった。ビスマルクはカトリック教会の支配下にあった学校も国家の支配下に置こうとしたが、カトリック教徒は屈せず、中央党の勢力は逆に増大した。
ビスマルクは、1870年代後半から強くなってきたもう一つの敵対勢力である社会主義勢力を抑えるために、また自由貿易主義から保護関税政策へ転換するために帝国議会の第2党であった中央党の支持を必要とし、反ビスマルクの教皇ピウス9世の死(1878)を機にカトリック教徒と妥協し、文化闘争を終わらせた。
ドイツ資本主義は、ドイツの統一によって急速に発展した。ビスマルクは、初め自由貿易主義をとったが、ドイツが工業国に発展してくるとイギリスとの競争のために国家の保護が必要となり、保護関税政策に転換した(1879)。
資本主義の発展に伴って多くの労働者が生み出され、1875年にドイツ社会主義労働者党が成立し、労働運動・社会主義運動が盛んとなったので労働者対策も必要となった。
1878年に皇帝狙撃事件が起きると、ビスマルクはこれを社会主義者弾圧の口実とし、1878年に社会主義者鎮圧法を制定し、社会主義的政党・労働組合・集会・出版を厳禁し、社会主義労働者党を弾圧した。しかし、その一方では疾病・災害・養老などの社会保険制度を実施した。 
2-4 ビスマルク時代の国際関係 

 

ビスマルクの本領は外交において発揮された。ビスマルクは統一後まもないドイツが戦争に巻き込まれることを避けるために、フランスの孤立化とヨーロッパの平和維持を軸とする、いわゆるビスマルク外交を展開した。
ビスマルクは、普仏戦争によってアルザス・ロレーヌを奪われ巨額な賠償金を課せられたフランスで対独復讐心が強まると、フランスの復讐を未然に防ぐためにフランスを孤立化させることに意を用いた。そのためにフランスと同盟する可能性のある諸国をドイツ側に引き入れることをはかり、特にロシアがフランスと同盟を結べばドイツは東西からはさまれる形になるのでロシアとの提携強化に努めた。
まず、1873年10月に、ビスマルクはオーストリア・ロシアとの間で三帝同盟を結んだ。三帝同盟は、6月にウィーンを訪問したロシア皇帝アレクサンドル2世がオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世との間で結んだ協約にドイツが参加する形で成立した。
またビスマルクは、バルカン半島でロシアとオーストリアの対立が激化して両国が戦うことを恐れ、必要に応じて両国の紛争を調停してバルカンでの現状維持政策を推し進めた。
1877年に露土戦争(ロシア=トルコ戦争、1877〜78)が勃発し、翌年サン=ステファノ条約(1878.3)が結ばれてロシアの勢力がバルカン半島に拡大されると、イギリス・オーストリアは猛烈に反対し、戦争の危機をはらんだ。
そこでビスマルクは、ベルリン会議を開催し(1878.6)、「誠実な仲買人」と称して調停に乗り出した。しかし、ビスマルクはイギリス・オーストリアの主張を支持し、サン=ステファノ条約を破棄して新たにベルリン条約を結び(1878.7)、ロシアの南下政策を阻止したので、ロシアはドイツから離れて三帝同盟は事実上有名無実の状態となった。
ビスマルクは独墺同盟(1879.10)を結んでロシアからの攻撃に対して相互に全面的な援助を約束する一方で、あくまでロシアを陣営内に留めてフランスを孤立させようと努力し、1881年6月に三帝同盟を復活させ、新三帝同盟(1887年まで存続)を締結した。
さらに1882年5月には、チュニジアをフランスに奪われたことに不満を持つイタリアをさそい、ドイツ・オーストリア・イタリア間で三国同盟(1915年まで存続)を成立させた。
1885年から87年にロシアがブルガリアに進出し、オーストリアとロシアの対立が激化して新三帝同盟が崩壊すると、ビスマルクは1887年6月にロシアとの間で再保障条約(二重保障条約)を結んだ。この条約はバルカンにおける国境の現状維持を主内容とし、条約国の一方が他から攻撃された場合は中立を守ることを約した条約であったが、ビスマルクは独墺同盟があるためにオーストリアに漏れることを恐れて秘密条約とした。
こうして1887年頃には、ドイツはオーストリア・ロシア・イタリアだけでなくイギリスとも親しい関係にあり、フランスはヨーロッパで完全に孤立していた。しかし。このビスマルク体制は、1890年のビスマルク辞任によって急速に崩れ、翌1891年には露仏同盟(1894年に完成)が結ばれてビスマルクが最も警戒していた状況となり、ヨーロッパにおける国際関係は大きく変化していくことになる。 
2-5 フランス第二帝政と第三共和政 

 

1852年11月に行われた国民投票で圧倒的支持を得たルイ=ナポレオンは、翌12月に皇帝ナポレオン3世(位1852〜70)となり、第二帝政(1852〜70)を開始した。
第二帝政においては、普通選挙によって選ばれる議会はあったがほとんど権限がなく、皇帝が行政・軍事・外交の全権を握ったので、実質的には皇帝独裁であった。
ナポレオン3世は、カトリック勢力・農民の支持を基盤とし、資本家と労働者の均衡の上に立って、軍隊・警察の力で反対派を抑えて専制的な政治を行った。このようなナポレオン3世の政治形態はボナパルティズムと呼ばれている。
ナポレオン3世は国民の人気を保つためにさかんに対外進出を行った。クリミア戦争(1853〜56)に介入して名声を博したナポレオン3世は、アロー戦争(1856〜60)で中国に進出し、インドシナ出兵(1858〜67)によってヴェトナムに領土を獲得し、さらにイタリア統一戦争(1859)に干渉してサヴォイア・ニースを獲得した。しかし、メキシコ出兵(1861〜67)の失敗によって対外的な威信を失った。
ナポレオン3世は、財政難に陥ったメキシコが外債の利子不払いを宣言すると、1861年にイギリス・スペインと共同でメキシコに出兵し、両国が撤兵した後も干渉を続け、共和政府を倒してオーストリア皇帝の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝につけた(1864.4)。しかし、メキシコ人の抵抗やアメリカ合衆国の抗議のためにマクシミリアンを見捨てて撤兵し(1867.3)、マクシミリアンは処刑された(1867.6)。
このメキシコ出兵の失敗でナポレオン3世の人気は低下し、焦ったナポレオン3世はドイツ統一の妨害に乗り出したが、普仏戦争に敗れて退位した(1870.9)。
ナポレオン3世の退位後も、パリに成立した国民防衛政府はさらに抗戦を続けたがドイツ軍に降伏して休戦条約を結んだ(1871.1)。休戦条約による総選挙で国民議会が成立し、ティエール(1797〜1877)を行政長官(首相にあたる)とする臨時政府がヴェルサイユに成立し、ドイツと仮講和条約を結んだ(1870.2)。
仮講和条約ではアルザス・ロレーヌの割譲・50億フランの賠償金・ドイツ軍のパリ入城が定められていたので、パリの民衆は屈辱的な条約であるとして強く反対した。
1870年3月18日、ティエール臨時政府がパリ国民軍の武装解除を行おうとしたことから反乱が勃発した。ティエールはパリを放棄して政府と軍をヴェルサイユに移したので、パリは蜂起した市民・国民軍の手に落ちた。
3月26日にコミューン議会の選挙が行われ、3月28日にパリ=コミューンの成立が宣言された。パリ=コミューンは労働者・小市民が中心となってつくった自治政府で、世界史上最初の社会主義政権といわれている。
パリ=コミューンは行政委員会をはじめ10の委員会を設置し、労働者の解放を目ざす多くの改革を行ったが、4月に入るとドイツ軍の支援を取り付けたティエールがパリ攻撃を開始し、ヴェルサイユ軍は5月21日にパリに突入した。5月21日から28日までのいわゆる「血の一週間」による虐殺によってパリ=コミューンはわずか2ヶ月で鎮圧された。
その後、ティエールが第三共和政の初代大統領に選ばれ(1871.8)、王党派と共和派の対立に悩まされながらも、対ドイツ賠償金の支払いと財政の立て直しに努めた。しかし、王党派と共和派の両派から攻撃される中で辞任し(1873.5)、マクマオン(任1873〜77、普仏戦争の時の司令官の一人、パリ=コミューンを鎮圧した)が大統領に選ばれた。
1875年2月、三権分立・二院制・任期7年の大統領制・男子普通選挙などを骨子とする第三共和制憲法が議会でわずか1票差で可決・制定され、第三共和政(1870〜1940)の基礎が確立した。しかし、第三共和政は、議会で小党が分立し、政府は連立政権だったので政情は不安定であった。 
2-6 ロシアの改革 

 

ロシアではアレクサンドル1世の死後、弟のニコライ1世(1796〜1855、位1825〜55)が即位に際して起こったデカブリストの乱を鎮圧し、反動的な内政・外交を行った。
ニコライ1世はヨーロッパの革命がロシアに及ぶのを恐れ、七月革命の影響のもとで起こったポーランドの反乱を鎮圧し(1831)、さらに二月革命・三月革命の影響のもとで起こったハンガリーの独立運動を鎮圧する(1849)など「ヨーロッパの憲兵」の役割を果たし、メッテルニヒの失脚後はヨーロッパの反動の中心人物となった。
その一方で領土の拡大に努め、特に黒海から地中海に進出する南下政策を進め、東方問題に介入してトルコを圧迫し、クリミア戦争(1853〜56)を引き起こしたがイギリス・フランスの介入で敗れ、失意のうちに急死した。
クリミア戦争中に即位したアレクサンドル2世(1818〜81、位1855〜81)はクリミア戦争を収拾したが、クリミア戦争の敗北はロシアに大きな衝撃を与えた。
クリミア戦争の敗北によってロシアの後進性・近代化の遅れを痛感し、改革の必要性をさとったアレクサンドル2世は、「下からの改革」を恐れ、「下から農民が解放するのを待つよりは上から農奴制を廃止した方がよい」と考え、「上からの改革」にふみきり、1861年3月に「農奴解放令」を発布した。
当時、売買の対象にもされ、人口の3分の1以上を占めていたロシアの農奴は、「農奴解放令」によって人格的自由と土地の所有が認められた。しかし、農地の分与は有償で、地主に2カ年以内に買戻金を納めなければならず、それが不可能な農民には政府が代わって地主に買戻金を支払い、農民は49カ年賦でその債務を政府に返すことになった。しかも土地は私有地にはならずミール(農村共同体)の共有地となり、ミールがその共同利用や買戻金の返還などに責任を持った。
このようにロシアの農奴解放は旧地主本位で不徹底なものであったので、自作農も出現したが、その一方で多くの土地を失う農民が現れ、彼らは離村して賃金労働者になった。しかし、このことがロシア資本主義発達の出発点ともなった。
農奴解放令に始まるアレクサンドル2世の自由主義改革はポーランド反乱(1863.1〜64.5)の勃発によって一時中断された。
アレクサンドル2世はポーランド人の不満を抑えるためにポーランドにも自由主義的改革を及ぼそうとしたが、独立運動の急進派は完全独立を目ざして1861年に反乱を起こした。ポーランドの保守派政府は徴兵制をしいて、青年特に学生を軍隊に入れて反乱を防ごうとしたが、これがきっかけとなって1863年1月に大規模な反乱が起こり、18ヶ月にわたってロシア軍・政府軍と戦った。
全ヨーロッパの自由主義者がポーランドの反乱を支援し、特にイギリス・フランスの労働者の支援運動が第1インターナショナル(国際労働者協会)創立の契機となった。
しかし、ポーランド反乱は、自国への革命の波及を恐れるビスマルクの支持と協力を得たロシア軍によって1864年5月までには鎮圧され、数千人が死刑・シベリア流刑に処せられ、ポーランドはロシアの一地方に編入されてしまった。
アレクサンドル2世は、ポーランドの反乱鎮圧後、ゼムストヴォ(地方議会)の創設(1864)や裁判制度の改革(1864)などの改革を行ったが、その後次第に反動化し、専制政治を強行した。
アレクサンドル2世の反動化が進む中で、1870年代以後インテリゲンツィア(知識人)や学生などを中心とするナロードニキ(人民主義者)の運動がさかんとなった。
ロシアはミール(農村共同体)を基礎として西欧とは異なる独自のコースで社会主義に到達できると考えた革命的知識人や学生らは、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」を合い言葉にしたのでナロードニキと呼ばれた。
彼らは、医師・看護婦・教員などになって農村へ入り、農民を啓蒙して革命を起こそうとした。しかし、生活をしていくことが精一杯という貧しく・文字も読めない農民にはナロードニキの説く革命理論は全く理解できず関心も示さなかった。この農民の無関心と官憲による激しい弾圧によってナロードニキの運動は挫折・分裂した。
絶望した人々の間に、ニヒリズム(虚無主義、いっさいの権威と価値・国家や社会秩序を否定する思想)が広まり、彼らの中にはテロリズムによって皇帝や政府高官を暗殺することによって専制政治を打倒しようとする一派が現れ、数度の失敗の後に、1881年3月に皇帝アレクサンドリア2世を暗殺した。
この間、アレクサンドリア2世は対外的には、清朝とアイグン条約(1858)や北京条約(1860)を結んで東方で領土を拡大し、またバルカン半島へ進出をはかって露土戦争(ロシア=トルコ戦争、1877〜78)を引き起こした。 
2-7 ロシアの南下政策と東方問題 

 

ロシアは、17世紀に東方のシベリア方面へ領土を拡大し、18世紀には北方戦争(1700〜21)やポーランド分割(1772〜95)によって西方のバルト海方面へ領土を拡大した。さらに南方に向かっては、18世紀以後黒海へ進出し、19世紀に入ると不凍港の獲得とウクライナの穀物輸出の通路を求めて黒海から地中海への進出をはかる南下政策を積極的に推進した。
19世紀に自由主義・国民主義がさかんとなる中で、オスマン=トルコ帝国の支配下におかれていた諸民族は独立運動を起こすようになった。しかし、これらの諸民族は自力では独立を達成する力がなかったので、オスマン=トルコの衰退に乗じてトルコ領内への進出をねらっていたロシアを初めとするヨーロッパ列強はこれに干渉し、オスマン=トルコ帝国の領土と民族問題をめぐって国際的諸問題が起こった。西ヨーロッパ列強はこの問題を「東方問題」と呼んだ。
ギリシアがイギリス・フランス・ロシアの援助で独立したのはその最初の出来事である。このギリシアの独立の際、孤立したオスマン=トルコを援助したのがムハンマド=アリーであった。
ムハンマド=アリー(メフメト=アリー、1769〜1849)は、マケドニア生まれのアルバニア人でオスマン=トルコに仕えて傭兵隊長となり、ナポレオンのエジプト遠征の際にはアルバニア連隊を率いて戦い、ナポレオンの撤退後、エジプト太守(総督、パシャ)となり(1805)、ムハンマド=アリー朝(1805〜1953)を創始した。1811年にはエジプト全土を支配下において事実上独立し、行政・産業・教育・軍事の西欧化を進め、エジプトの近代化に努めた。
ムハンマド=アリーは、ギリシアの独立戦争(1821〜29)ではオスマン=トルコを援助してクレタ・キプロス島を獲得した。しかし、さらにシリアを要求して二度にわたってオスマン=トルコと戦った(エジプト=トルコ戦争(エジプト事件)、1831〜33、1839〜40)。
1831年、ムハンマド=アリーはシリアを要求してオスマン=トルコと開戦し、翌1832年には全シリアを占領した(第一次エジプト=トルコ戦争、1831〜33)。この時ロシアはトルコを援助しようとしたが、ロシアの南下を恐れるイギリスとフランスがトルコに干渉し、トルコはエジプトの独立を承認してシリアを割譲した。
これを不満とするオスマン=トルコは、1833年7月にウンキャル=スケレッシ条約を結び、ロシアと相互援助を約した。この条約は、オスマン=トルコにロシア援助義務の負担を免除する代償として、ロシア以外の外国軍艦に対してダーダネルス・ボスフォラス両海峡を閉鎖するという秘密条項を含んでいたのでイギリス・フランスは強く反発した。
これによってロシアはダーダネルス・ボスフォラス両海峡を確保して、ロシアの南下政策が成功するかに見えたが、第二次エジプト=トルコ戦争の勃発によってロシアの南下政策は阻止された。
1839年、ムハンマド=アリーはさらにエジプト・シリアなどの領土の世襲権を要求し、これを討伐しようとしたオスマン=トルコとの間で第二次エジプト=トルコ戦争(1839〜40)が起こった。ロシアの援助を受けたトルコはシリアに出兵したが、フランスの援助を受けたエジプトに大敗した。
この情勢を見たイギリスのパーマストン外相は、フランス勢力がエジプトに定着することを恐れてトルコ保全策に転じ、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアとの間に四国同盟を結んでトルコを援助した。このため国際的孤立化を恐れたフランスはエジプト援助をうち切り、孤立したムハンマド=アリーは屈した。
1840年にロンドン会議が開かれ、ロンドン四国条約が結ばれた。この条約により、ムハンマド=アリーのエジプトでの世襲権を認める代わりに、彼の世襲領域をエジプトとスーダンに限定し、シリアを放棄させた。またウンキャル=スケレッシ条約も破棄され、外国軍艦のダーダネルス・ボスフォラス両海峡の通航が禁止され、これによってロシアの南下政策は阻止された。
しかし、ニコライ1世は南下政策をあきらめず、たまたま聖地管理権問題が起きるとオスマン=トルコに抗議するとともに、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を要求し、これが拒否されるとトルコに宣戦し、クリミア戦争(1853〜56)を引き起こした。
聖地イェルサレムの管理権は、16世紀以降カトリックの保護者としてのフランスが保有していたが、フランス革命時にギリシア正教会がロシアの支持を得て管理権を握った。ナポレオン3世は国内のカトリック教徒の支持を繋ぐためにオスマン=トルコに聖地管理権を要求し、それを象徴する神殿の鍵を与えられた。
ニコライ1世はこれを不満としてトルコに抗議するとともに、トルコ領内のギリシア正教徒をロシアの保護下におくことを要求し(1853.2)、これが拒絶されるとトルコ領内のモルダヴィア・ワラキアに侵入して占領した(1853.7)。トルコはイギリス・フランスの支持を得てロシアに宣戦し(1853.10)、ロシアもトルコに宣戦して(1853.11)クリミア戦争(1853〜56)が始まった。
翌年にはイギリス・フランスがロシアの南下政策を阻止するためにトルコと同盟してロシアに宣戦し(1854.3)、サルデーニャもトルコ側に立って参戦した(1855.1)。
戦場はバルカン半島からクリミア半島に移り、やがてイギリス・フランス・トルコ軍はロシア軍のこもるセヴァストーポリ要塞を包囲し(1854.10)、ほぼ1年続いた激戦の末についにこれを陥れた(1855.9)。
当時のロシアは鉄道網が未発達で十分な兵員・武器・弾薬などを戦場に送ることが出来ず、またイギリス・フランスのスクリューで走る重装備の軍艦に対して、ロシア艦隊の大部分は帆船から成っていた。このようなロシアの後進性・近代化の遅れが敗戦の最大の原因であり、その改革が戦後ロシアの課題となった。
またクリミア戦争の戦場での惨状を知ったナイティンゲール(1820〜1910)が戦傷やコレラで苦しむ兵士の看護に活躍して「クリミアの天使」と呼ばれ、後に近代看護婦制度の確立に貢献したことはよく知られている。
1855年3月にニコライ1世(位1825〜55)が急死し、アレクサンドル2世(位1855〜81)が即位してオーストリアの仲介で停戦し、1856年3月にパリ条約が結ばれた。
パリ条約では、トルコの独立と領土の保全・トルコは宗教的な差別をしないこと・外国軍艦のダーダネルス・ボスフォラス両海峡通航禁止の確認と黒海の中立化・ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに割譲してモルダヴィアとワラキアをトルコの主権下におくこと・ドナウ川の自由航行などが決められた。
黒海の中立化によって、黒海や港は全ての国の商船に開放されたが、軍艦に関しては禁止され、ロシアとトルコは黒海に軍艦を持つことを禁止され、ロシアの南下政策はまたもや失敗に終わった。
19世紀中頃以降、バルカンではスラヴ民族の統一と団結をめざすパン=スラヴ主義がさかんになった。ロシアはトルコやオーストリアに対抗する勢力の結成を期待し、パン=スラヴ主義を利用してバルカン半島の諸民族への影響力を強め、バルカン半島への勢力の拡大をはかった。1870年にはパリ条約(1856)の黒海の中立化条項を破棄して再び南下政策をとるようになった。
1875年7月にトルコ治下のボスニア=ヘルツェゴヴィナでトルコに対するギリシア正教徒の反乱が起こると、翌年にはブルガリアでも反乱が起こった。しかし、この反乱はトルコ軍によって残虐に鎮圧された。
ロシア国内ではスラヴの同胞を救えというパン=スラヴ主義が高まった。列国もこれに抗議するとともに会議を開き、調停案を作成してトルコに示したがトルコはこれを拒否した。これを見てロシアは単独でトルコに宣戦し、1877年4月に露土戦争(ロシア=トルコ戦争、1877.4〜78.3)が始まった。
ロシアは一時苦戦したが、翌年1月にアドリアノープルを占領し、さらにコンスタンティノープルに迫った。トルコは屈服し、1878年3月にサン=ステファノ条約が結ばれた。
この条約で、ロシアはトルコにルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、マケドニアを含む大ブルガリアをトルコ領内の自治国としてロシアの保護下におくことを認めさせたのでロシアのバルカン支配・地中海進出が成功するかに見えた。
しかし、これに対してスエズ運河の株式買収(1875)に成功したイギリスとバルカンにおけるパン=スラヴ主義の発展を恐れるオーストリアが激しく反発し、ロシアとイギリス・オーストリアとの間に戦争が起こりかねない状況となった。
統一後間もないドイツがこの戦争に巻き込まれることを恐れるビスマルクが調停に乗り出し、1878年6月にベルリン会議が開かれた。ビスマルクはベルリン会議を開催するにあたって「誠実な仲買人(公正な仲買人)」と称したが、実際にはイギリスの主張を支持し、サン=ステファノ条約は破棄されて新たにベルリン条約が結ばれた(1878.7)。
ベルリン条約では、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が承認され、ブルガリアについては領土が大幅に縮小されてトルコ治下の自治国となった。ロシアはベッサラビアを得たがバルカンから後退し、南下政策はまたもや阻止された。
これに対してイギリスはキプロス島を獲得し、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得した。このためロシアはビスマルクに対して不信感を抱き、三帝同盟は事実上崩壊し、後にロシアをフランスに接近させる原因となった。
露土戦争の失敗後、ロシアはバルカンへの南下政策を一時あきらめ、もっぱら東アジアと中央アジアへの進出に努め、国際関係は新たな展開をみせることになる。 
2-8 北ヨーロッパ諸国 

 

スウェーデンは、ナポレオン戦争でフィンランドをロシアに奪われたが、ウィーン会議ではデンマークからノルウェーを同君連合として割譲させた。19世紀半ば以降、対外的平和と国内の民主化に努力し、二院制議会を設ける(1866)など立憲王国として発展した。
ノルウェーは、ウィーン会議の結果、デンマーク領から同君連合のスウェーデン領となった。その後の独立運動の結果、1905年に国民投票によって平和的に独立を達成した。
デンマークは、ナポレオン戦争でノルウェーを失った。1848年には二月革命の影響を受けて立憲君主制を宣言して自由主義的な憲法を制定した。デンマーク戦争(1864)でプロイセン・オーストリアにシュレスヴィヒ・ホルシュタインを奪われ、以後は対外平和政策と福祉政策の充実・農牧業を中心とする国づくりに努め、民主的な立憲王国への道を進んだ。 
2-9 国際的諸運動の進展 
1851年にロンドンで第1回万国博覧会が開催されたが、それはイギリスの国力を誇示する場でもあった。1855年にはナポレオン3世が勢威を誇示するためにパリで第2回万国博覧会を開催した。1862年には再びロンドンで万国博覧会が開催されたが、この時フランスの労働者代表がイギリスに渡り、労働者の国際的組織設立の動きが始まった。
そして1863年のポーランド反乱に対するイギリス・フランスの労働者の支援運動が契機となり、1864年9月にロンドンで第一インターナショナル(国際労働者協会、1864〜76)が結成された。創立宣言を起草したマルクスがその指導者となったが、まずプルードン派と、次いでバクーニンらの無政府主義者と対立した。こうした内部対立とパリ=コミューン(1871)を公然と支持して各国政府から弾圧され、1876年に解散した。
第一インターナショナル解散後は各国別に運動が展開されていたが、1889年7月にパリでフランス革命百年祭が催されたときに、欧米19カ国の代表によって第二インターナショナル(1889〜1914)が結成された。第二インターナショナルは、各国の社会主義政党が中心となって組織され、特にドイツ社会民主党が指導的な地位を占めた。しかし、第一次世界大戦の勃発で、各国社会主義政党が自国政府の戦争を支持したために崩壊した。
19世紀末、帝国主義列強の対立によって戦争の危機が迫るなかで、ロシア皇帝ニコライ2世の提唱によって万国平和会議が1899年と1907年の2回にわたってオランダのハーグで開催された。第1回会議には26カ国が、第2回会議には44カ国が参加した。
平和確保のための軍備縮小が論議されたが成果は得られなかったが、第1回会議では国際仲裁裁判所の設立が決まり、1901年にハーグに設置された。国際仲裁裁判所は国際紛争の平和的解決を目標としたが、第一次世界大戦前にはほとんど成果をあげることは出来なかった。
この間、クリミア戦争におけるナイティンゲールの活躍とイタリア統一戦争でのソルフェリーノの戦いを目撃してその惨状に心をうたれたスイス人のデュナン(1828〜1910)の提唱によって、1864年に26カ国が参加して国際赤十字社が設立された。
またフランスのクーベルタン(1863〜1937)の提唱によって近代オリンピック大会が始まり、1896年にアテネで第1回国際オリンピック大会が開催された。
その他、国際電信連合(1865年創設)や万国郵便連合(1875年に成立)などの国際的な機関もつくられた。 
 
3 アメリカ合衆国の発展 

 

3-1 民主主義の発達と領土の拡大 
アメリカ合衆国では、1789年に連邦政府が発足し、ワシントン(任1789〜97)が初代の大統領に就任した。ワシントンは大統領を2期務め、3選を固辞して「告別の辞」で中立の必要を説いて引退した。
独立宣言の起草者の一人でワシントンのもとで副大統領を務めたアダムズがフェデラリスト(連邦派)の指導者として第2代大統領に就任した(任1797〜1801)。
1800年の大統領選挙では、アンチ=フェデラリスト(反連邦派)のジェファーソンがアダムズを破って第3代大統領となったが、この出来事は「1800年の革命」と呼ばれた。
ジェファーソン(1743〜1826、任1801〜09)は、ヴァージニアのプランター(大農園主)の子に生まれ、弁護士となり、ヴァージニア植民地議会議員を経て大陸会議の代表となり、独立宣言の起草者となった(1776)。ワシントン大統領のもとでは初代国務長官となったが、ハミルトンやアダムズらのフェデラリストと対立して国務長官を辞任した(1793)。そしてアンチ=フェデラリスト(反連邦派、1787年の憲法草案に反対した人々)を中心にリパブリカン党(後に民主共和党に発展)を結成し、1800年の大統領選挙でフェデラリスト(連邦派)のアダムズを破って第3代大統領となった。
ジェファーソンは民主主義の発展に努め、少数意見の尊重・憲法によって保障された権利と自由を維持すること・州の正当な権限を保障することなどを主張し、自営農民こそが民主主義の中核だと考えた(ジェファーソニアン=デモクラシー)。こうした彼の民主主義に対する考え方は後世に影響を与え、リンカーンはジェファーソンを「アメリカ民主主義の父」と呼んだ。
ジェファーソン在任中の出来事の中で、以後の合衆国の歴史にとって最も重要な出来事の一つとなったのが、1803年のルイジアナ購入である。
ジェファーソンの在任中はナポレオンの全盛期であった。ナポレオンはスペインからミシシッピ以西のルイジアナ(1763年にフランス領からスペイン領となる)を取り戻したが、ジェファーソンは西部農民の要請を受けてフランスと交渉し、ナポレオンからルイジアナを購入した。
ルイジアナはミシシッピ川とロッキー山脈にはさまれた面積約214万平方km(日本の国土面積は約37.8万平方km)の広大な地域であったが、合衆国はこれをわずか1500万ドル(1平方km当たり約7ドル)で購入し、これによって合衆国の領土は倍増した。
ナポレオン戦争(1796〜1815)が始まると、ジェファーソンはワシントン以来の中立主義をとり、貿易上の利益を得ていたが、イギリスがナポレオンの大陸封鎖に対抗するために海上封鎖を行って通商を妨害したので、議会では対英開戦論が強まった。
第4代大統領マディソン(任1809〜17)の在任中、1812年6月に合衆国はイギリスに宣戦し、米英戦争(アメリカ=イギリス戦争、1812.6〜14.12)が始まった。
アメリカはカナダの奪取をねらったが失敗し、海軍もイギリス海軍に封鎖された。米・英ともに決定的な勝敗をみないうちに、ヨーロッパでナポレオン戦争が終わったので、米・英ともに継続する理由がなくなり、ガン条約が結ばれて米英戦争は終結した。
戦争中にイギリス商品が全く入ってこなくなったので、米英戦争はアメリカの経済的な自立を促し、木綿工業を中心とするアメリカの諸産業が発展した。このため米英戦争は、政治的な独立を果たした独立戦争に対して、経済的な独立を果たしたという意味で「第二次独立戦争」と呼ばれている。
第5代大統領モンロー(1758〜1831、任1817〜25)は、ヴァージニア州出身でヴァージニア州選出の下院議員を経て上院議員となり、アンチ=フェデラリストの指導者として活躍し、ジェファーソン大統領のもとで国務長官を務めた。1816年の大統領選挙でリパブリカン党から立候補して当選し、大統領を2期務めた。
モンローはラテン=アメリカ諸国の独立を支援し、メッテルニヒがラテン=アメリカ諸国の独立運動に干渉しようとすると、1823年にモンロー宣言(教書)を発し、相互不干渉主義を主張してこれに反対した。モンロー宣言は、ワシントン以来の中立政策をより明確に表明したもので、後の孤立主義に発展し、合衆国の外交政策の基本方針となった。
第7代大統領ジャクソン(1767〜1845、任1829〜37)は西部出身の最初の大統領として、「ジャクソニアン=デモクラシー」を推進した。
ジャクソンは、当時の西部辺境であったサウス=カロライナ州の貧しい開拓民の子に生まれ、テネシー州選出の下院・上院議員となり、米英戦争では司令官としてイギリス軍に大勝して一躍国民的英雄となった。1828年の大統領選挙で庶民の支持を得て当選し、西部出身の最初の大統領となり、また庶民の大統領として注目された。
ジャクソンは、西部の自営農民・東部の小市民や労働者らの要求を巧にとらえ、特権や独占に反対して庶民の側に立って民主主義を推進した。普通選挙制度・公立学校の普及・婦人参政権運動の始まり・官職交替制・特権に反対する自由企業の発展などの民主化が進展したので「ジャクソニアン=デモクラシー」と呼ばれた。
ジャクソンの支持者たちは1820年代に南部を主な基盤とする民主党を組織した。これに対して反ジャクソン派は北部を主な基盤とするホイッグ(ウイッグ)党を組織した(1834)。後にホイッグ党を中心に、奴隷制反対をスローガンとする共和党が結成された。
合衆国の領土は、独立当時はミシシッピ川以東であったが、以後次第に西方へ拡大し、1848年にはその領土はついに太平洋岸に達した。
1803年にはフランスからルイジアナを購入して領土を倍増させた後、1819年にはスペインからフロリダを買収した。
1840年代になると、合衆国の領土拡張と西方への進出を正当化する考え方として「マニフェスト=ディスティニー(明白な運命)」(合衆国の領土拡張はアメリカ人が神から与えられた運命であるとの意味)という言葉が広まった。
テキサスは、1821年にスペインから独立したメキシコの領土であったが、合衆国から多くの移住民が入り込み、奴隷制を持ち込んだ。そのためメキシコはそれ以上の移住を禁止し、奴隷制の廃止を命じた。これに対して移住民が反乱を起こし、1836年に独立を宣言して共和国となったが、合衆国は1845年にテキサスを併合して第28番目の州とした。
翌1846年にはイギリスとオレゴン協定を結び、オレゴン地方を北緯49度(現在の国境線)で南北に分割し、オレゴンを併合した。
さらに合衆国はカリフォルニアの獲得を望み、メキシコに売却を求めたが拒否されたため、テキサスとメキシコの国境地帯に軍隊を派遣してメキシコを挑発し、アメリカ=メキシコ戦争(1846〜48)を起こした。戦争は合衆国の完勝に終わり、1848年の講和条約でカリフォルニアとニューメキシコを獲得し、合衆国の領土はついに太平洋岸に達した。
19世紀の合衆国の歴史はフロンティア(辺境)が次第に西方へ移動していく歴史である。19世紀を通して西部開拓が進展し、フロンティアは西へ西へと進んでいった。この西方への移住・開拓の動きは総称して西漸運動と呼ばれている。西漸運動は植民地時代にも行われたが、独立後本格化し、1820年代に急速に促進された。
西部という言葉には、新しく開拓されて文明地域に加えられた地域という意味が含まれている。従って西部は時代によって場所が異なり、独立した頃にはアパラチャ山脈の西が西部であったがその後は次第に西へ移っていった。
開拓地と未開拓地との境界地帯はフロンティアと呼ばれた。フロンティアとは、1平方マイル(約2.6平方km)につき人口密度が2〜6人の人口が希薄な地域のことである。
1783年のパリ条約で合衆国の独立が認められ、ミシシッピ川以東の地が合衆国の領土となった。この新しい領土をどうするかは独立当初の大問題であった。当初13州で分割する案もあったが、結局1787年に北西部条例が制定され、西部の土地については一定の地域で自由人の成年男子の数が5000人に達すると、准州として自治政府を設け、准州の自由人口が6万人に達したときは連邦議会の承認を得て州に昇格し、最初の13州と同じ資格で連邦に加入させることとなった。
またこれより2年前には土地条例が制定され(1785)、アパラチャ山脈以西の土地を1平方マイル(640エーカー)を単位として1エーカー当たり1ドルで売却することが決められていた。しかし、貧しい農民にとっては640ドルは大金であったので、もっと買いやすくしてほしいという要求がくり返され、19世紀に入ると最低売却面積が小さくなり、1820年には80エーカーでも買えるようになった。
農民や東部で生活が困難な者・ヨーロッパからの移民が西部へ移住し、定着して開墾に従事した。彼らは自然やインディアンと戦いながら荒地を切り開き、丸太小屋を建て、周辺の土地を農地に変えていった。
そうした開拓民の生活の中から、自主独立・何事にも屈しない不撓不屈の精神・他人との協力・冒険心に富む楽天的な性格などのアメリカ人気質、いわゆるフロンティア=スピリット(開拓者精神)が形成された。また西部は伝統や家柄などにしばられない実力主義の自由な社会であったので、アメリカの民主主義を発展させた。
しかし、西部開拓の歴史は、先住民のインディアンにとっては白人による抑圧・迫害の歴史であった。
「ジャクソニアン=デモクラシー」を推進したジャクソンは、1830年にインディアン強制移住法を制定し、インディアンはミシシッピ川以西の土地へ移住を強制され、従わない部族は武力で討伐された。
南北戦争後、西部開拓が大規模に進められるようになると、追いつめられたインディアンは各地で激しく抵抗したが、1871年にはインディアンは特定の居留地に押し込められることになり、1890年頃までにインディアンの抵抗はすべて鎮圧された。そのためアメリカ独立の頃は約115万人と推定されたインディアンの人口は、1890年頃には25万人にまで減少した。 
3-2 奴隷制度と南北戦争 

 

合衆国の領土の拡大・西部の発展とともに、北部・西部・南部のセクション(地域)が成立し、セクション間での対立が激しくなった。
南部では、植民地時代からタバコ栽培を中心とする黒人奴隷を使用するプランテーションが発展していたが、イギリスの産業革命によって綿花の需要が増大し、特にホイットニーの綿繰り機の発明(1793)によって綿花栽培が急激に増大し、イギリスへの綿花輸出も飛躍的に増大した。そのため南部は奴隷制の存続と自由貿易を主張し、1816年以後続けられていた保護関税政策に強く反対した。
これに対して米英戦争(1812〜14)後、産業革命が進展して資本主義が発達した北部は、先進工業国イギリスから北部の産業資本を守るために保護関税政策を主張し、奴隷制については人道上の理由からも反対した。
また北部は保護関税政策を維持するために連邦主義を主張したが、南部は州権主義(州の自治・主権を主張する立場)を主張した。
北部と南部の対立は奴隷制度をめぐって激化した。奴隷制度を禁止するか認めるかは州の法律で決められ、また合衆国の上院は各州から2名の議員が選出されるので、自由州(奴隷制度を禁止した州)と奴隷州(奴隷制度を認める州)の数は上院の勢力分布に直接反映されることになる。そのため西部の発展によって新州が成立して連邦に加入する際に、自由州にするか、奴隷州にするかをめぐって南部と北部は激しく争った。
ミズーリ准州が州に昇格する際に、南部と北部が対立した。結局ミズーリ協定が結ばれ、ミズーリ州を奴隷州とするが、以後はミズーリ州の南境界線の北緯36度30分以北には奴隷制度を認めないことが決議された。
1820年以前には、自由州が11州・奴隷州も11州だったので、ミズーリ州を奴隷州として認める代わりに、マサチュセッツ州からの分離を要望していたメイン州を自由州として認めて連邦に加入させ、自由州と奴隷州の均衡がはかられた。
しかし、アメリカ=メキシコ戦争(1846〜48)によって獲得したカリフォルニアのサクラメントの近くで1848年に金鉱が発見されると、世界中から一攫千金を夢見るおびただしい移民が殺到し、翌1849年だけでも8万人以上の人々がカリフォルニアに押しかけた。彼らは、1849年に移住してきたので「フォーティ=ナイナーズ」と呼ばれている。
この「ゴールド=ラッシュ」によってカリフォルニアの人口が急増し、1849年には早くも10万人に達し、州に昇格する条件を満たした。
当時の自由州と奴隷州の数はともに15州であった。カリフォルニアが自由州として連邦に加入を希望すると、自由州と奴隷州との均衡が崩れるので再び南部と北部の対立が激化した。
カリフォルニアは南北に大きな州で、北緯36度30分が州の中央やや南を通っていたので、ミズーリ協定で解決することは不可能であった。結局「1850年の妥協」が成立し、カリフォルニアを自由州にする代わりに厳重な逃亡奴隷取締り法を制定することで南部と北部は妥協した。
奴隷制廃止論者たちは、逃亡奴隷取締り法に強く反対し、「地下の鉄道」という秘密組織をつくり、南部から逃亡してきた奴隷をかくまってカナダへ送り込んだ。
ストウ夫人(1811〜96)は逃亡奴隷取締り法に怒りをかき立てられ、1851〜52年に「アンクル=トムの小屋」を雑誌に連載した。「アンクル=トムの小屋」が出版されると(1852)、1年間で30万部以上が売れてベストセラーとなり、人々に大きな感銘を与えるとともに大きな社会的反響を呼び起こした。
このような状況の中で、1854年に「カンザス=ネブラスカ法」が成立した。これはカンザス=ネブラスカ両州を准州とする際、両州が将来自由州になるか奴隷州になるかは住民の決定にゆだねるという法であった。
カンザス=ネブラスカ両州は、ミズーリ協定では当然自由州になるはずであったが、南部はミズーリ協定がある限り新州が奴隷州になる望みがないので、ミズーリ協定の廃棄を強く要望していた。
カンザス=ネブラスカ法の成立は、このミズーリ協定の廃棄を意味し、また奴隷制度が北部へ拡大する可能性があったので、南部と北部の対立が再び激化した。
カンザス=ネブラスカ両州が将来自由州になるか奴隷州になるかは住民投票で決定されることになったので、南部と北部は多くの人々を両州に移住させ、将来両州を自由州または奴隷州にしようと争ったので対立はますます深まり、武力衝突も起こった。
カンザス=ネブラスカ法の成立から2ヶ月後に、奴隷制反対をスローガンとしてホイッグ党を中心に共和党が結成され(1854)、奴隷制度をめぐる南北の対立は決定的となった。
こうした状況の中で1860年に行われた大統領選挙は激戦であったが共和党のリンカーンが当選した。
リンカーン(1809〜65、任1861〜65)は、貧しい開拓農民の子としてケンタッキーの丸太小屋で生まれ、イリノイ州に定着した。独学によって弁護士となって開業するとともに、州議会議員・下院議員に選出されてホイッグ党員として活躍した。一時政界を引退したが、共和党が結成されると奴隷制拡大反対論者であったリンカーンは共和党に加わり、イリノイ州選出の上院議員に立候補した(1858)。この選挙では敗れたが選挙中の演説で全国にその名を知られるようになり、1860年の大統領選挙では共和党の大統領候補となった。そして民主党の分裂などに助けられ、第16代大統領に当選した。
リンカーンの当選は南部の奴隷州に衝撃を与え、連邦を脱退して別の国家をつくろうとする空気が強まり、リンカーンの当選の翌月にサウスカロライナ州はついに連邦脱退を宣言した(1860.12)。これに続いてリンカーンの大統領就任(当時は大統領就任式は3月に行われた)までの間に6州が脱退した。
1861年2月、合衆国を脱退した南部諸州はアメリカ連合国(アメリカ連邦)を結成して憲法を制定し、ジェファーソン=デヴィス(1808〜89、ミシシッピ州選出の上院議員からアメリカ連合国の大統領となる、任1861〜65)を大統領に選んだ。アメリカ連合国は最初7州で形成されたが、5月までには11州が加わった。
1861年3月に大統領に就任したリンカーンは連邦の維持を至上目的とし、連邦を脱退した南部諸州に連邦への復帰を呼びかけたが南部は応じず、南部にあった合衆国の要塞や武器庫を接収しようとした。この動きを見たリンカーンはサウスカロライナ州のサムター要塞への弾薬・物資の補給を命じた。
1861年4月12日、南軍はサムター要塞に砲撃を開始し、ここに南北戦争(1861.4〜65.4)が始まった。南北戦争は英語では、theCivilWar(内乱)である。北部は南部諸州の合衆国からの脱退を憲法違反として認めず、従ってアメリカ連合国を国家として認めず、南部諸州の合衆国に対する内乱という立場をとった。これに対して南部は、アメリカ連合国とアメリカ合衆国との戦争という立場をとり、南北戦争をtheWarbetweentheStates(諸州間の戦い)と呼んでいる。
南北戦争が始まったときには、北部も南部も戦争は短期間で終わると考えていたが、予想に反して全面戦争となり、4年間にわたる大内乱となった。
近代戦の勝敗を決定するのは経済力を含めた総合的な戦力である。この点では北部が圧倒的に優勢であった。北部(23州)の人口約2200万人に対して南部(11州)は約900万人であったがその中には約400万人の奴隷が含まれていた。経済力では北部が圧倒的に優勢で、北部は近代的な工業力を持ち、当時の工場の約81%は北部にあった。また鉄道などの輸送力の面でも北部が断然優れていた。また海軍力においても優位に立つ北部は南部に対して海上封鎖を行ったので、南部は唯一の重要な輸出品である綿花が輸出できなくなり、さらに武器・弾薬・食糧などの輸入も止まり大打撃を受けた。
しかし、初期においては南軍が名将リー(1807〜70)の指揮下に優勢に戦いを進めた。
1862年になると、北部は西部戦線でニューオリンズを占領して(1862.5)戦いを有利に進めたが、東部戦線ではリッチモンド(アメリカ連合国の首都)攻略戦が南軍の激しい抵抗にあって敗退を重ね、苦戦を強いられていた。
1862年5月、リンカーンは大統領選挙での公約であったホームステッド法(自営農地法)を制定した。これは公有地に5年間定住して開墾に従事した者には160エーカー(約65ha)の土地を無償で与えるという土地立法であったので、農民の西部進出と西部開拓が促進され、また北部はこれによって西部の支持を得ることが出来た。
リンカーンは奴隷制度には反対であったが奴隷制拡大反対論者であり、解放論者ではなかった。彼の南北戦争における最大の目的は連邦の維持にあった。そのため奴隷制即時廃止論者はリンカーンに奴隷制廃止のためにもっと強い政策をとるように要求した。これに対してリンカーンは次のように回答している(1862.8)。
「この戦争における私の至上の目的は連邦を救うことにあります。奴隷制度を救うことにも、亡ぼすことにもありません。もし奴隷を一人も解放せずに連邦を救うことが出来るものならば私はそうするでしょう。そしてもしすべての奴隷を解放することによって連邦を救えるならば私はそうするでしょう。またもし一部の奴隷を解放し、他の者をそのままにしておくことによって連邦を救えるものならそうもするでしょう。私が奴隷制度や黒人種についてすることはこれが連邦を救うに役立つと信じているためなのです。」
リンカーンは、内外の世論の支持を得て戦いを有利に展開するために奴隷解放宣言を行うことを決意し、1862年9月に予備宣言を行った。以下はその一部である。
「1863年1月1日を以って、いかなる州においても、また特に州内で人民が上記年月日に合衆国に対して謀反中と指定される地方において、すべて奴隷の身分におかれている者は、その日より永久に自由人となるべきである。」
1863年1月1日に奴隷解放宣言が行われた。しかし、この時解放されたのは合衆国に反乱を起こしている州内の奴隷で、ミズーリ州など合衆国にとどまった奴隷州(4州)の奴隷は除外されており、合衆国国内の奴隷制度が全面的に廃止されたのは憲法修正第13条(1865年発効)によってである。
1863年7月、リー将軍は7.5万の南軍の主力を率いてワシントンを迂回してペンシルヴァニアに侵入し、北軍8.7万と3日間にわたって戦った。これが南北戦争中の最大の激戦といわれるゲティスバーグの戦いである。北軍が勝利をおさめ、南軍は退却を余儀なくされた。この戦いでは北軍2万、南軍2.5万の戦死者がでた。
リンカーンは戦死者を祀る国有墓地を設立するための式典に出席するためにゲティスバーグを訪れ、有名な「ゲティスバーグの演説」を行った(1863.11)。
「・・・これら名誉ある戦死者よりいっそうの献身を受け継いで、彼らが最後の全力をあげて身を捧げたその主義のために尽くすべきであります。これら戦死者の死をむだに終わらしめぬよう、ここに固く決意すべきであります。この国に、神の恵みのもと、自由の新しき誕生をもたらし、また人民の、人民による、人民のための政府が、この地上より消滅することのないようにすべきであります。」
1864年、グラント(後の第18代大統領、任1869〜77)が北軍の総司令官に任命された。彼はリッチモンドを目ざし、これに呼応してシャーマンの率いる軍がテネシー州からジョージア州に入り、アトランタを陥れ、そこから北上してリッチモンドに向かった。シャーマンの軍は破壊と略奪の限りを尽くし、南部の市民を震え上がらせた。
映画でも有名なミッチェル(1900〜49)の『風と共に去りぬ』(1936)は、南部の立場から南北戦争を描いた名作であるが、その中にも南部の人々がどんな気持ちでシャーマン軍を迎えたかが書かれている。
1865年4月、北軍がアメリカ連合国の首都リッチモンドを占領し、4月9日リー将軍が降伏して南北戦争が終わった。
南北戦争が終わってわずか5日後、1865年4月14日、二期目の大統領に就任したばかりのリンカーンが暗殺された。その夜、ワシントンのフォード劇場で観劇中のリンカーンは南部出身の俳優ブースに狙撃され、翌朝死去した。 
3-3 南部の再建 

 

南北戦争が終わってから、1877年に南部諸州が合衆国に復帰するまでの時期は「再建」の時期といわれている。
リンカーンは、南部が奴隷解放さえすれば寛大な条件で出来るだけ早く合衆国に復帰させようと考えていた。彼の暗殺後大統領となったジョンソン(位1865〜69)もリンカーンの方針を受け継いで南部の再建をはかろうとした。
しかし、共和党の急進派はこれに反対し、独自の再建案をつくり、1867年3月に再建法が成立した。この再建法は、南部を5つの区域に分けて北軍の軍政下におくこと、黒人の選挙権と黒人に白人と同等の市民権を保障する州憲法を制定することなどを規定し、これを南部諸州が連邦に復帰する絶対条件とした。この再建法はその後10年間にわたって行われたが、1877年に軍政が解かれた。
南北戦争後、1865年には憲法修正第13条によって合衆国内における奴隷制度が全面的に廃止され、翌年には黒人の市民権を保障する市民権法が成立し、これは憲法修正第14条として1868年に確立した。さらに黒人の選挙権を保障する憲法修正第15条も1869年に議会で可決され、翌年発効した。
しかし、解放された黒人には市民権や選挙権は与えられたが、土地は与えられなかったので経済的に自立することが出来ず、大部分はシェア=クロッパー(分益小作人)となった。彼らは、地主から土地・住居・種子・農具・家畜などを貸し与えられたが収穫の約半分を地主に納めなければならなかったので、黒人は貧しい・苦しい生活を強いられた。
また白人たちはK・K・K(クー=クラックス=クラン)と呼ばれる反黒人秘密結社を結成し(1865)、黒人を襲い・暴行を加え・投票場に行くことを妨害するなど暴力的な迫害を行い黒人に恐怖を与えた。
こうして合衆国復帰後の南部諸州では、次第に白人支配が復活し、州法その他によって黒人の市民権や選挙権が骨抜きにされ、黒人に対する社会的差別待遇を進めたので、黒人問題は20世紀の後半までその解決が持ち越されることとなった。 
3-4 大西部の開拓と工業の発達 

 

南北戦争中に制定されたホーム=ステッド法(1862)によって、公有地に5年間定住し開拓した者には160エーカーの土地が無償で与えられることになったので、西部に多くの農民が進出し、西部開拓が急速に進んだ。
またコロラドでゴールド=ラッシュが起こり(1859)、同じ頃ネヴァダでも金・銀鉱が発見されたので、金・銀の採掘を目ざす鉱夫たちが西部に進出した。次いで大平原(ロッキー山脈以東に広がる草原地帯)で放牧を行う牧畜業者が進出し、1860年代から80年代にはカウ=ボーイによる牛のロング=ドライブが行われ、数百万頭の牛が東部の市場へ送られた。
さらに1870年代の終わり頃から、乾燥地帯での農業技術の進歩・機械化などに助けられて農民が大平原に進出し、大平原は世界一の穀倉地帯になっていく。なおこの農民の大平原への進出には有刺鉄線の発明(1874)が大きな役割を果たしたといわれている。
西部の発展に伴い、東部と西部を結ぶ鉄道建設が行われ、1869年には最初大陸横断鉄道が完成した。これによって西部の開拓と国内市場の統一がますます促進され、1890年代にはフロンティアがついに消滅した。
南北戦争は、経済の面からみると、北部産業資本と南部プランテーション奴隷制度との戦いであった。そして北部産業資本の勝利によって、南部は北部の市場に組み込まれ、西部市場の拡大とあいまって広大な国内市場が出来上がった。この広大な国内市場を基盤として南北戦争後アメリカ資本主義は急激に発展した。
特に石炭・製鉄・石油などを中心とする工業がめざましく発展し、合衆国は農業国から工業国へ転換し、1890年代にはイギリスを追い抜いて世界一の工業国となった。
このような工業発展の原因の一つとなったのが安価な労働力としての移民の流入であった。南北戦争後、それまでの西ヨーロッパ・北ヨーロッパからの「旧移民」の数が減少し、南ヨーロッパ・東ヨーロッパ・アジアからの「新移民」の数が増大した。この頃になると西部で自営農民になることは次第に不可能になっていたので、「新移民」の多くは都市に集中して未熟練労働者となった。このためスラム街の出現などの社会問題が生み出された。
対外的には、カリフォルニアの獲得によって領土が太平洋岸に達し、太平洋への関心が高まる中で、1853年にはペリーが浦賀に来航し、翌年日米和親条約が結ばれた。
南北戦争中に行われたナポレオン3世によるメキシコ出兵(1861〜67)に対して、合衆国は南北戦争が終わるとモンロー主義の立場から激しく抗議し、フランス軍を撤兵に追い込んだ。
アラスカは、ベーリングの発見によってロシア領となり(1741)、その後はロシア=アメリカ会社が植民地経営に当たった。19世紀初めにはロシア人は太平洋岸沿いに南下した。1823年に出されたモンロー宣言には、ロシア人の太平洋岸への南下を抑えるという目的もあった。その後1866年にはロシアからアラスカを売却したいという申し出があり、合衆国内には反対の声も強かったが1867年に720万ドルで買収した。そのアラスカでは19世紀末にゴールド=ラッシュが起こり、1958年には第49番目の州となった。 
 
4 19世紀のヨーロッパ文化 

 

4-1 文学 
17世紀のフランスに始まった古典主義は、18世紀中頃から19世紀初期にはドイツで盛んとなった。
ドイツでは、1770年代から、世俗的な道徳や因襲を否定し、個性や感情と自然を尊重する「疾風怒濤(シュトルム=ウント=ドランク)」と呼ばれる革新的な文学運動が起こった。若き日のゲーテやシラーが中心となったこの運動は10年ほどで衰退した。ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』(1774)やシラーの『群盗』は疾風怒濤期を代表する作品である。
ゲーテ(1749〜1832)は、「疾風怒濤」の文学運動の中心人物で、後にシラーとともにドイツ古典主義文学を大成した。晩年の作品『ファウスト』はゲーテの古典主義の代表作とされている。ゲーテはヴァイマル(ワイマール)公国の宰相を務めるなど政治家としても活躍した。
シラー(1759〜1805)もゲーテとともに疾風怒濤期の代表的な作家であり、後にはゲーテとともにドイツ古典主義文学を大成した。彼は歴史研究者でもあり、史劇に優れた作品を残した。『ヴァレンシュタイン』・『オルレアンの少女』・『ヴィルヘルム=テル』の三部作の史劇は彼の代表的な作品である。なおヴァレンシュタインは三十年戦争で活躍した傭兵隊長、オルレアンの少女とは百年戦争の末期に活躍したフランスの愛国的少女ジャンヌ=ダルクのことであり、ヴィルヘルム=テルはスイスの独立運動で活躍した伝説的英雄である。
18世紀末から19世紀前半にかけては古典主義に対抗してロマン主義が現れて盛んとなった。ロマン主義は、当時盛んであった啓蒙主義の主知主義に反発し、個性や感情を重んじ、歴史や民族文化の伝統を尊び、中世を讃美した。ドイツのハイネ・イギリスのバイロン・フランスのユーゴらはロマン主義を代表する詩人・作家である。
ハイネ(1797〜1856)は、ユダヤ系ドイツ人で、ウィーン体制下で自由主義を唱え、七月革命に刺激されてパリに亡命し、マルクスらと交わって社会主義に傾き、革命詩人と呼ばれた。
バイロン(1788〜1824)は、『チャイルド=ハロルドの遍歴』で有名となり、後にギリシアの独立戦争に義勇兵として参加するためにギリシアに渡ったが病死した。
ユーゴ(1802〜85)は、最初は詩人として有名になり、後に劇作家・小説家として名声を博した。彼は次第に政治に関心を寄せ、二月革命後は共和主義者として議員に選出された。ナポレオン3世が政権を握ると反対の立場をとって国外追放になり、英仏海峡の小島で8年間に及ぶ亡命生活を送り(1852〜70)、ここで大作『レ=ミゼラブル』(1862)を書いた。第二帝政崩壊後はパリに戻って上院議員にもなった。
彼らの他にロマン主義を代表する詩人・作家を列挙すると、ドイツでは初期ロマン派の詩人であるノヴァーリス(1772〜1801)・ロマン主義運動の理論家シュレーゲル兄弟(兄1767〜1845、弟1772〜1829)・『子供と家庭のための童話』(グリム童話集)で有名なグリム兄弟(兄1785〜1863、弟1786〜1859)らがいる。
フランスでは、ネッケルの娘で熱烈な自由主義者でナポレオンに追われて各地に亡命したスタール夫人(1766〜1817)・ナポレオンと復古王政に仕えた政治家でもあるシャトーブリアン(1768〜1848)など、イギリスでは湖畔の詩人と呼ばれたワーズワース(1770〜1850)、『湖上の美人』や歴史小説『アイヴァンホー』で有名なスコット(1771〜1832)など、そしてロシアでは、ロシア国民文学の創始者で『オネーギン』や『大尉の娘』を書いたプーシキン(1799〜1837)などがあげられる。
またアメリカでは、アメリカの知的独立宣言とされる『アメリカの学者』と題する講演を行ったエマーソン(1803〜82)・ピューリタン文学者で代表作『緋文字』で知られるホーソン(1804〜64)・詩集『草の葉』でアメリカ民主主義を讃美したホイットマン(1819〜92)らが活躍した。
19世紀後半になると、資本主義が発達し、市民階級の力が大きくなるとともに労働者階級の悲惨な生活が社会問題となった。また科学・技術の急速な発達が文学にも影響を及ぼし、非現実的なロマン主義に対する反動として、社会や人間を客観的にありのままに描こうとする写実主義・自然主義がフランスでおこった。
フランスの写実主義を代表する作家はスタンダール・バルザック・フロベールらである。ナポレオンのロシア遠征にも従軍したスタンダール(1783〜1842)は『赤と黒』・『パルムの僧院』などによってフランス写実主義の先駆的作家とされる。バルザック(1799〜1850)は『人間喜劇』(約90の短編小説の総称)で市民社会と小市民の姿を描いた。またフロベール(1821〜80)は『ボヴァリー夫人』(1857)によってフランス写実主義文学を確立した。
フランスに起こった写実主義は、その後イギリス・ドイツ・ロシアに及んだ。イギリスでは、『虚栄の市』で19世紀初めのイギリス上流・中流社会を描いて諷刺したサッカレー(1811〜63)、『オリヴァー=トゥイスト』など下層社会に題材をとり下層階級を同情的に描いたディケンズ(1812〜70)らが代表的な作家である。なおディケンズの『二都物語』はフランス革命を背景にパリとロンドンを舞台とする優れた歴史小説で彼の代表作の一つとされている。
ロシアでは、農奴制下のロシアの頽廃・矛盾・不正を描いたゴーゴリ(1809〜52)が『死せる魂』などを書いて写実主義を確立した。トゥルゲーネフ(1818〜83)は、『父と子』(1862)で農奴解放後のロシア社会及び新旧世代の対立とニヒリスト(虚無主義者)を描いた。
ドストエフスキー(1821〜81)は、社会主義を研究するサークルに関係してシベリアに流刑となり4年間囚人生活を送った。この間にギリシア正教に心の拠り所を求め、その後は革命に反対した。以後、大作『罪と罰』(1866)・『カラマーゾフの兄弟』(1880)などで帝政末期のロシア社会の諸相を鋭く浮き彫りにし、人間の魂の苦悩と救済を描いた。
トルストイ(1828〜1910)は、古い貴族の家に生まれ、軍隊に入ってクリミア戦争に従軍した。軍務を退いた後は自分の領地で地主として暮らし、農民の教育にも務めた。ナポレオンのロシア遠征を背景にロシア貴族の生活を描いた歴史小説の『戦争と平和』(1869)や1860年代のロシア貴族社会を背景に人妻アンナの悲恋を描いた『アンナ=カレーニナ』(1877)で世界的な名声を博し、晩年には『復活』など宗教的な人道主義の作品を多く書いた。
1870年代以後は写実主義をさらに強調し、現実を実験科学的にとらえて表現する自然主義が盛んとなった。
フランスの自然主義文学を代表する作家ゾラ(1840〜1902)は、「科学者が実験室で観察するように冷静に人間及び社会を観察し、遺伝と環境によって形成される人間を描く」ことを主張し、『ナナ』・『居酒屋』などでパリの労働者社会の悲惨な生活を描いた。またゾラはドレフュス事件(1894〜99)で被告のドレフュスの無罪を主張し、「私は弾劾する」の論陣をはった。
ゾラと並んでフランス自然主義文学を代表するモーパッサン(1850〜93)は、『女の一生』(1883)で有名であるが、彼には短編・中編の方が多く、短編小説形式の完成者とされている。
女主人公ノラを中心に女性解放を主題とした戯曲『人形の家』を書いたノルウェーの劇作家イプセン(1828〜1906)やスウェーデンのストリンドベリ(1849〜1912)らも自然主義の代表的な作家として知られている。 
4-2 美術と音楽 

 

絵画では、18世紀末から19世紀初めにかけて格調高い・均整のとれた古典主義絵画が発達した。ナポレオンの首席宮廷画家を務めたダヴィド(1748〜1825)が代表的な画家で、「ナポレオンの戴冠式」や「サン=ベルナールを越えるナポレオン」などの作品はよく知られている。そして、代表作「泉」で知られるダヴィドの弟子アングル(1780〜1867)によって古典主義絵画が完成された。
19世紀に入ると、古典主義に対する反動として、色彩による強い感情表現を求める情熱的・幻想的なロマン主義絵画が起こった。
フランス=ロマン主義絵画の指導者ドラクロワ(1798〜1863)は、ギリシアの独立戦争に題材をとった「シオの虐殺」(1824)や七月革命の市街戦を描いた「民衆を率いる自由の女神」(1831)など強烈な色彩と動的な構図で劇的な場面を描いた。
スペインの画家ゴヤ(1746〜1828)は、ロココ式の影響を受けながらも斬新な写実的な表現で「裸のマハ」などの肖像画に傑作を残した。またナポレオンのスペイン侵入に対する抵抗を題材とした「1808年5月3日の処刑」を描いた。
写実主義や自然主義の流れは絵画にも及び、現実の自然や人間の生活をありのままに描写しようとする写実主義絵画や自然主義絵画が起こった。
自然や農村の風景を多く描いた自然主義絵画ではフランスのコローやミレーらのバルビゾン派が中心となった。コロー(1796〜1875)はフランス風景画の代表的な画家とされ、ミレー(1814〜75)は農村の生活に深い共感を抱き、農民生活を題材とした風景画を描いたが「落穂拾い」・「晩鐘」は特に有名である。
フランス写実主義絵画の代表的な画家としてはドーミエ(1808〜79)・クールベ(1819〜77)らがいるが、代表作「石割り」で知られるクールベはパリ=コミューンの委員にも選ばれている。
19世紀後半のフランスで、光と影の色彩を主観的感覚でとらえて表現しようとする印象派が生まれ、マネ・モネ・ドガ・ルノワールらが活躍した。
「草上の昼食」・「笛を吹く少年」などで知られるマネ(1832〜83)は、外光によって変化する光と色彩の表現を追求し、フランス印象派の創始者とされる。モネ(1840〜1926)は「色彩は光の変化で変化する」という理論と実践を展開し、晩年には「睡蓮」を好んで描いた。
ドガ(1834〜1917)は、市井の風俗を題材として動作を瞬間的にとらえる独特の画風を確立し、「踊り子」などを描いた。またルノワール(1841〜1919)は情感あふれる色調で裸婦やバラを好んで描き、「色彩の魔術師」と呼ばれた。
19世紀末には、光や色彩上の手法にとどまらず、主観的な表現を試みる後期印象派が盛んになり、20世紀の絵画にも影響を及ぼした。後期印象派の代表的な画家はセザンヌ・ゴーガン・ゴッホらである。
フランスのセザンヌ(1839〜1906)は肖像画・風景画・静物画などに独自の画風を開き、近代絵画に大きな影響を与えた。またフランスのゴーガン(1848〜1903)は単純な形と原色を用いて独自の画風を追求し、原始と熱帯の自然に引かれて1891年以来タヒチ島に移住して「タヒチの女」などを描いた。
オランダのゴッホ(1853〜90)は、パリに出て印象派や日本の浮世絵の影響を受け、強烈な色彩と線を特徴とする独自の画風を築いた。代表作には「ひまわり」や「糸杉」などがある。
彫刻では、「考える人」や「カレーの市民」などで知られるフランスのロダン(1840〜1917)が鋭い写実で人間の内面性を追求し、近代彫刻を確立した。
音楽では、18世紀末から19世紀初めにかけて、オーストリアの作曲家で「交響曲の父」と呼ばれるハイドン(1732〜1809)、オーストリアの作曲家で短い生涯に交響曲・室内楽・歌劇など600以上を作曲をした天才モーツァルト(1756〜91)、「英雄」・「運命」・「田園」・「合唱」など9つの交響曲をはじめ多くの名曲を書いたドイツのベートーベン(1770〜1827)らによって古典派音楽が完成された。
19世紀前半には、個性や感情を表現するロマン派音楽が盛んとなった。代表的な作曲家としては、「未完成交響曲」や多くの歌曲を書いたオーストリアのシューベルト(1797〜1828)、標題音楽の「幻想交響曲」で有名なフランスのベルリオーズ(1803〜69)、ドイツの初期ロマン派の作曲家リスト(1811〜86)、「ピアノの詩人」と呼ばれたポーランドのショパン(1810〜49)、交響詩を創始し、また近代ピアノ奏法を確立したハンガリーのリスト(1811〜86)、楽劇の創始者ワーグナー(1813〜83)などがいる。
19世紀中頃になると、民族的伝統を表現しようとする国民学派が現れ、ロシアではグリンカ(1804〜57)やムソルグスキー(1839〜81)が活躍し、アメリカのフォスター(1826〜64)は親しみやすい素朴な民謡的小歌曲を作曲した。
またロシアのチャイコフスキー(1840〜93)は、西ヨーロッパのロマン派の技法やロシア国民学派の影響を受け、スラヴ的色彩の濃い交響曲第6番「悲愴」や序曲「1812年」・「スラヴ行進曲」など多くの名曲を残した。
19世紀末には、フランスの作曲家ドビュッシー(1862〜1918)が印象派音楽を創始し、近代音楽に大きな影響を及ぼした。  
4-3 哲学と人文・社会科学 

 

哲学では、18世紀末にドイツのカント(1724〜1804)がイギリス経験論と大陸の合理論を総合・批判してドイツ観念論哲学を創始した。
ドイツ観念論哲学は、ナポレオンの占領下で「ドイツ国民に告ぐ」と題する連続講演を行ったフィヒテ(1762〜1814)やシェリング(1775〜1854)に引き継がれ、ヘーゲルによって完成された。
ヘーゲル(1770〜1831)は、世界を精神の自己発展の過程としてとらえ、その発展の論理として弁証法を提唱した。弁証法は、あるもの(正)があると必ずそれと矛盾し・否定するもの(反)が生まれ、その対立・矛盾・否定を通してより高いものに総合される(合)、この正・反・合がくり返されて事物が発展していくとする考え方である。
ヘーゲルは、精神は主観的精神・客観的精神・絶対的精神(絶対精神)の三段階に発展していく、精神の本質は自由にあるから世界史は自由が実現される過程であると論じた。
ヘーゲルの死後、ヘーゲル左派のフォイエルバッハ(1804〜72)はヘーゲル哲学を批判し、人間は自然物であり、自然物以外は何者も存在しないとする独自の唯物論(一般的には、世界を精神的なものと物質的なものに区別し、物質的なものが世界を動かしていく根本原理であるとする考え方)を樹立した。
マルクス(1818〜83)は、フォイエルバッハの唯物論とヘーゲルの弁証法を受け継いで弁証法的唯物論を確立し、歴史の発展を弁証法的唯物論の立場から解明する唯物史観(史的唯物論)を唱えて資本主義の没落と社会主義への移行の必然性を説いた。
またドイツのショーペンハウエル(1788〜1860)は、カントの後継者を自任し、フィヒテやシェリングを攻撃し、インド古典哲学の研究に打ち込み、「生きることは苦しみの連続である」という厭世哲学(ペシミズム)を展開した。
イギリスでは、ベンサム(1748〜1832)が功利主義を創始した。ベンサムは人生の目的を幸福におき、快楽の量が大きいほど幸福であると考え、幸福・快楽を道徳的に善とみなし、幸福や快楽をもたらすものを功利と呼んだ。そして個人の幸福と社会全体の幸福の調和が大切であるとして「最大多数の最大幸福」を功利主義の標語とした。
ジョン=ステュアート=ミル(1806〜73)は、ベンサムが快楽の量を重視したのに対して、「満足した豚であるよりは、不満足な人間である方がよく、満足した愚か者であるよりは、不満足なソクラテスである方がよい」と述べて、快楽の質を重視し、功利主義をさらに発展させた。
フランスのコント(1798〜1857)は、実際に確かめることの出来る経験的な事物のみを学問的知識の源泉とする実証主義を体系化し、また社会活動を支配する法則も科学的に求められるとして社会学を創始した。
デンマークの思想家キルケゴール(1813〜55)は、ヘーゲルの観念論哲学を批判し、世界の発展を論じるよりも、今ここに存在している自分がいかに生きるかを追求する方が大切であるとし、神への信仰を通じて人間は絶望から立ち上がることが出来ると説いた。キルケゴールは、20世紀に盛んとなる実存主義の先駆者とされている。
19世紀は「歴史の世紀」と呼ばれている。ナポレオン支配に対して民族意識が高まったドイツが歴史研究の中心となった。
19世紀最大の歴史家ランケ(1795〜1886)は、生涯のほとんどをベルリン大学で過ごしたが、彼は厳密な史料批判によって史実を確定する客観的な歴史研究の方法を確立し、近代歴史学の祖と呼ばれている。ランケは、16〜17世紀のヨーロッパ各国の歴史を多く書いた。また各国史の寄せ集めでない「世界史」を書こうとしたが未完に終わった。
ドイツの歴史家としては、ランケ以外に、『ヘレニズム史』を書いて、ヘレニズムという言葉を初めて使ったドロイゼン(1808〜84)、『十九世紀ドイツ史』を書いたトライチュケ(1834〜98)、『ローマ史』で有名なモムゼン(1817〜1903)らが有名である。
フランスでは、七月王政末期の首相で『ヨーロッパ文明史』を書いたギゾー(1787〜1874)、『フランス革命史』を書いたミシュレ(1798〜1874)らが現れ、またイギリスでは、ホイッグの立場から『イギリス史』を書いたマコーリー(1800〜59)や『フランス革命史』で有名なカーライル(1795〜1881)らが現れた。
法学では、自然法思想や啓蒙合理主義に対して、一国の法はその国民の固有の文化から生まれた歴史的所産であると考え、法の歴史性や民族性を主張する歴史法学がドイツのサヴィニー(1779〜1861)によって唱えられた。
経済学では、イギリスのマルサスやリカードがアダム=スミスに始まる古典派経済学を継承・発展させた。
マルサス(1766〜1834)は古典派経済学を代表する学者であるが、『人口論』の著者としてよく知られている。彼は、『人口論』(1798)において「人口は幾何級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しない」ので、過剰人口による食料の奪い合いや貧困の増大は不可避であると考え、禁欲による人口増加の抑制が必要であると説いた。
リカード(1772〜1823)は、労働価値説(商品の価格はその商品の生産に要する労働時間によって決定されるという説)・差額地代説・分配論などを完成し、古典派経済学を大成した。
ドイツでは歴史学派経済学が生まれた。歴史学派経済学は経済現象を歴史的に考察しようとするもので、その先駆者となったドイツのフリードリヒ=リスト(1789〜1846)は、経済発展の遅れた国では国家による保護が必要であるとして、自由貿易政策を批判して保護貿易政策を主張し、ドイツ関税同盟(1834年発足)の結成に努力した。
またマルクスは、資本主義を研究・分析して『資本論』(第1巻は1867年刊)を著し、マルクス経済学を樹立した。 
4-4 自然科学と技術 

 

19世紀は「科学の世紀」とも呼ばれる。18世紀までにほぼ基礎が出来あがっていた近代自然科学は、産業革命による工業の飛躍的な発展にともない、19世紀中頃からめざましく進歩した。
物理学における「エネルギー保存の法則」の発見・生物学での進化論及び生物体の細胞説の確立は、19世紀における自然科学の三大業績と呼ばれている。
エネルギー保存の法則は、ドイツの物理学者マイヤー(1814〜78)とヘルムホルツ(1821〜94)によって1847年に発見された。
物理学の分野では、イギリスのファラデー(1791〜1867)が1831年に電磁誘導(モーターの原理)を発見し、電磁誘導の発展に貢献した。またドイツのレントゲン(1845〜1923)は1895年にX線を発見し、その功績によって第1回ノーベル物理学賞を受賞した(1901)。フランスのキューリ夫妻(夫1859〜1906、妻1867〜1934、ポーランド生れ)は共同で放射線物質を研究し、1898年にラジウムを発見して原子核物理学の先駆となった。
化学の分野では、ドイツのリービヒ(1803〜73)が有機化合物の元素分析法を改良し、有機化学の基礎を確立した。
医学の分野では細菌学が著しく進歩し、フランスのパストゥール(1822〜95)は狂犬病予防接種に成功し、ドイツのコッホ(1843〜1910)は結核菌(1882)・コレラ菌(1883)を発見した。
「科学の世紀」における最大の業績の一つはダーウィンの進化論である。進化論は自然科学の分野だけでなく、社会思想・文化一般に大きな反響を呼び起こした。
イギリスのダーウィン(1809〜82)は1859年に『種の起源』を著し、生物は生存競争・自然淘汰によって適者のみが生存し・進化するという説を唱えた。進化論は、生物は神の創造物であると考える従来の人間観・自然観に大きな衝撃を与え、賛否両論の激しい論争を巻き起こした。特に教会は進化論は聖書の教えに反するとして激しく攻撃した。
生物学の分野では進化論の他に、ドイツのシュライデン(1804〜81)とシュヴァン(1810〜82)が1838・1839年に生物体の基本単位は細胞であることを発見し、オーストリアのメンデル(1822〜84)は遺伝に関する「メンデルの法則」を発見した(1865)。
自然科学の発達とともに新しい技術の開発も大いに進んだ。19世紀最大の成果は新しい電気エネルギーの利用で、電気は広い範囲で利用されて人間の生活を大きく変えた。
電力が一番早く実用化されたのは通信の分野で、アメリカのモールス(1791〜1872)は1837年に電信機を発明した。またアメリカのベル(1847〜1922)は1876年に電話機を発明した。少し遅れて電灯が1879年にアメリカのエディソン(1847〜1931)によって発明された。発明王エディソンは電灯の他に蓄音機(1876)や映画(1893)なども発明した。イタリアのマルコーニ(1874〜1937)は1895年に無線電信を発明し、1901年には大西洋横断の交信に成功した。
1879年にはドイツのジーメンス(1816〜92)が発電機を発明し、1870年代以後、電力は工場の動力源、交通・運輸機関の動力源としても利用されるようになり、19世紀末から20世紀初めには蒸気力の利用を圧倒するようになった。
ドイツのディーゼル(1858〜1913)は1897年に従来の石炭ガスに代わって石油を燃料とする内燃機関、いわゆる「ディーゼル=エンジン」を発明し、ドイツのダイムラー(1834〜1900)は1883年に軽量のガソリン=エンジンを発明してまず二輪車次いで四輪車につけて動かすことに成功した。世界最初の自動車は時速18kmを出すことが出来た。
化学工業も発展し、スウェーデンのノーベル(1833〜96)は1867年にダイナマイトを発明して巨富を成し、彼の遺産を基金として1901年にノーベル賞が設けられた。
その他、人造ソーダ・人造繊維・人造染料なども19世紀末に発明された。 
4-5 地理上の探検 

 

19世紀は探検家の時代でもあった。探検家たちは未知の土地を求めてアフリカ・北極・南極・中央アジアへと出かけていった。
18世紀後半、イギリスのクック(1728〜79)は3回にわたって太平洋を探検した。第1次航海(1768〜71)でタヒチ島・ニュージーランド・オーストラリア東岸を、第2次航海(1772〜75)では南極圏に到達し、第3次航海(1776〜79)ではタスマニア島・ニュージーランド・タヒチを経てハワイに至り、さらに北上して北極海の一部に入ったが、帰途ハワイで島民に殺された。
19世紀に入っても、サハラ砂漠以南のアフリカ内陸部はヨーロッパ人にとっては未知の大陸であった。イギリスのリヴィングストン(1813〜73)は、宣教師としてアフリカに赴き、1840年代から約30年間にわたってアフリカ奥地の探検を行ってヴィクトリア瀑布などを発見した。ナイル川の水源を探る探検に出て、一時消息不明となったがスタンリーに救出された。
イギリス生まれのアメリカ人であるスタンリー(1841〜1904)は、リヴィングストン捜索のためにアフリカに渡り、タンガニーカ湖畔で感激の対面をした。後にベルギー王の援助でコンゴー地方を探検し、アフリカ大陸の横断に成功した。
中国の奥地や中央アジアへの学術探検も19世紀末に始まった。スウェーデンの地理学者・探検家のヘディン(1865〜1952)は中央アジア・チベット・タリム盆地などを4回にわたって探検し、ロブ=ノールの桜蘭(シルク=ロードの要衝として栄えたが、前漢の武帝に征服され、漢の属国となった)遺跡を発見した(1901)。またイギリスの考古学者・探検家のスタイン(1862〜1943)は4回にわたって中央アジアを探検し、敦煌文書を発見・紹介した。
極地探検も19世紀末から始まった。ノルウェーのナンセン(1861〜1930)は北緯86度に達し、極地が海洋であることを確かめた(1895)。その後、アメリカのピアリ(1856〜1920)が1909年に初めて北極点に到達した。
ノルウェーのアムンゼン(1872〜1928)は、北極点到達をピアリに先んじられたので、目標を南極点に向け、1911年12月に南極点に初めて到達した。この時、イギリスのスコット(1868〜1912)が南極点到達を競ったが、アムンゼンに35日遅れ、1912年1月に南極点に到達した。スコットは本船に戻る途中で吹雪にあって氷原で没した。 
 
デモクラシー

 

1 デモクラシーと民主主義の違い
デモクラシー(democracy)という言葉は、ギリシア語の「ディモクラティ(demokrati)」から出ている。ディモス(demos)はピープル、クラティア(Kratia)はガバメント、政治制度をいう。日本ではこのデモクラシーを民主主義と訳しているが、「主義」は本来「イズム(ism)」でなければならない。もしデモクライズムあるいはデモクラティズムならば民主主義となるが、デモクラシーは民主政治、あるいは民主制、民主政治制度とすべきである。この「制度」とすべきものを「主義」と誤訳してしまったところに戦後の日本のデモクラシーの大きな落とし穴があるように思うのである。
Democracy → demos kratia
demos = people
kratia = sway,institution(governing)
民主制(政)、政治制度   ※民主主義は誤訳
例)
Socialism  社会主義   ⇔   Autocracy 独裁政治・専制
Liberalism  自由主義       Aristocracy 貴族政治
「デモクラシーは、統治形態の概念である。政策決定作成のためのテクニックである。決して政策決定の内容の概念でもないし、社会構造に影響を及ぼす方法の概念でもない。デモクラシーは、異なった政治的信念に共通しているという意味において、一種の超イデオロギーとして記述できよう」
スウェーデンの著名な社会学者であり、新聞編集者でもあるハーバート・ティングステン教授の、このデモクラシーの概念に私は賛成である。わが国では、言葉の上で、「デモクラティズム」ではない「デモクラシー」が、時によって、民主主義という「イズム」にとられている過ちを第一に指摘したい。現実に、北欧諸国、中欧諸国、南欧諸国、そしてイギリスおよびアメリカ合衆国では、日本でいわれているような民主主義というイズムとか、価値体系としてのデモクラシーといったものは、少なくとも現在は存在していないという事実を、明確に頭にたたき込んでおく必要がある。つまり、日本人が、戦後の日本人が、民主主義!民主主義!とお題目のごとくに唱えているモノの中味は、日本だけに通用する一種の"風土理念"であって、いわゆるデモクラシーの先進諸国で使われているものの中味とはまったく異なっているという事実である。
2 デモクラシーの発展・古代、原始時代及びキリスト教の政治的影響
それではデモクラシーとは何か。私は、デモクラシーという政治制度は次の六つの精神的歴史によって形成されていると考える。
Democracyの思想的基盤、基本原理
   1 ギリシアのストア哲学
   2 キリスト教の精神   
   3 文芸復興・ルネサンス(人間の生)
   4 宗教改革
   5 アメリカの独立戦争
   6 フランス革命の思想
まず、第一は、ギリシアのストア主義がその思想原理となっている。「ストイック」という言葉があるように、ストア主義は禁欲思想に裏打ちされている。神の前において人間は万人平等、克己、禁欲を基本原理とし、また自分たちの集団に対する義務を最高至上のものとする考え方である。
第二は、そのストア主義の影響を受けたクリステャニティ - キリスト教の考え方が原理となっているということである。キリスト教の考え方を一言で要約するのは非常にむずかしいが、あえて要約してみれば新約聖書の冒頭にあるマタイ伝の中の山上の垂訓に集約できよう。聖書学者によれば、山上の垂訓の狙いはアガペーの思想であり、つまり自己犠牲による人類愛の精神とその実践こそ基本となる考え方だという。ギリシア語のあいにはアガペーとエロスとがあるが、エロスは生まれながらの人の持つ愛で、自己中心的な愛。つまり相手に愛される資格がありやいなやを問い、相手から奪う愛である。
第三は、ルネサンス以降起こってきた「個人の尊厳」という思想がある。すなわち個の確立であり、敷衍すえれば個人主義ということである。この点で日本においては歴史的に「個の尊厳」が確立しているとはいえない。それはたとえば、近年情報化社会の進展に伴って個人のプライバシーに関する問題でもいえる。(中略)
デモクラシーを支える第四の柱は宗教改革におけるプロテスタンティズムの思想と信仰体系の問題である。すなわちカソリック神学からの解放である。マルチン・ルターの厳しい宗教改革の精神はその後に出てくるピューリタンの考え方として、オランダからイギリスに受け継がれている。このピューリタンの伝統は申すまでもなく内なる良心「インナー・ライト」(内なる光)の声に従うということである。(中略)
第五の問題は、アメリカ合衆国の独立宣言の精神である。初代大統領ワシントンのもとで国務長官をつとめた三代大統領トマス・ジェファーソンは、ジョン・ロックやモンテスキューの影響を強く受けており、彼の起草した独立宣言の中に十分それがうたわれている。すなわち神の前における自由、平等、博愛の考え方である。
そして第六として、フランス革命と人権宣言の精神である。これには近代市民社会の思想的基礎となるスローガンがすべて打ち出されているといってもよい。
以上の六つの歴史的な経緯や事件が、欧米のデモクラシーにおけるきわめて重要な基礎となっているわけである。
ところが日本においてはこうした体験を経たわけではなく、デモクラシーという政治制度を支える精神的支柱がないから、制度であるべきものを主義と誤訳して今日までのほほんとしている。そこに問題があると私は思うのである。
3 デモクラシーの成立条件
T 外在的条件(先駆的基盤の存在)
  ア 社会的同質性(共通の社会的構成)
  イ 国民的同質性(共通の国民的伝統)
U 内在的・精神的条件(運営条件)
  ア 一種の精神的習慣 
  イ いかなる討論による政治の体系の中にも内在している
V 承認されるべき条件
  第一の原理  対立同意の原則
  第二の原理  多数決の原理
    1 形式的側面  
    2 実質的側面
  第三の原理  妥協(譲歩)の原則
    1 共同社会を公平に取り扱う
    2 社会の全体的普遍的性格を十分に満足させるような精神
manyをgeneral willとするための「条件」
    1 数<外的事実>
    2 価値<内面的事実>
    3 討論 discuss 時間をかけて吟味する
     → many がall でないけれど集団の意思となる。
4 社会科学としての政治学
政治学とは、社会の政治現象を研究する社会科学である。社会科学は人間の集群減少である社会を研究対象とする学問であり、この社会科学の特殊部門である「政治」という人間集群現象を研究する学問が政治学なのである。
科学と哲学の違いは何か。科学とは常に研究対象を客観的事実として観察・考察する学問で、帰納的に普遍的概念を見出し、法則(方向性)を考えるものであり、哲学とは人間の主観的内面的思想、思惟の論理の選び方の妥当性、真・善・理の批判の基準となる価値の根拠の確立を目的とした学問である。
社会法則 人間の意志の自由
   主観的には(哲学)・・・自由がある。
   客観的には(社会科学)・・・拘束がある。
存在拘束性   人間の行動を決定する。
 1 論理的規定 ・・・主観的
 2 規範的規定 ・・・主観的
 3 自然的規定 ・・・客観的
 4 社会的規定 ・・・客観的
「社会科学の方法」 マックス・ウェーバー
思想の存在   その時代の思想(背景)に看過される。
社会科学と自然科学の違い
   自然にただ存在するものだけを分析(因果法則) ← 自然法則
   単に存在だけでなく行為まで分析するのが社会科学
行為 = 社会的規定+思想
社会法則 → 行為法則
5 政治科学とピューリタニズムとの関係
5-1 17世紀のイングランドのピューリタン
民主主義の本質、すなわち近代民主主義にとって基本的な諸性格と考えるものについて論じようとするこの書物は、その叙述の方法において理論的-わけても政治理論的-であることはいうまでもありませんが、そうした理論的展開に先立って、リンゼイは近代民主主義の源流を17世紀のイギリスにおけるピュウリタニズムにもとめて、その歴史的考察を試みていることは、他にみられないこの著述の顕著な特色といえるかと思います。
方法論 − 理論的分析と歴史的考察の構造的関連
意図 − デモクラシーを歴史から分離した抽象概念ではなく、近代に固有な歴史的理念として把握。
5-2 日本の分析傾向
(リンゼイの)歴史的考察は、もっぱら17世紀ピュウリタニズムに向けられていることも、わたくしたちにとっておおくの示唆を含んでおります。なぜなら、わたくしたちの国において、近代民主主義についての歴史的考察がなされる場合、その多くは考察の対象としてフランス革命わけてもルソーの思想を取り上げ、もし17世紀のイギリスがとり上げられることがあったとしても、一般にはホッブスに端緒的に示され、のちその世紀が政治理論の理論的支柱となったと考えられている自然主義的・個人主義的な自然権思想に考察の眼が向けられることはあっても、それとは対照的なピュウリタニズムのキリスト教的な人権および《集会》にもとづく共同社会的理念が本書におけるようにその主たる考察の対象となるということはほとんど皆無であります。(『民主主義の本質』永岡薫訳・訳者あとがきより、カッコ内管理人)
日本の近代デモクラシー分析の傾向
 1) フランス革命との関連 <ジャン・ジャック・ルソー>
  ルソーを重視して、デモクラシーをないがしろにしている。
  ヒトラーが利用した
 2) トマス・ホッブスの思想「自然主義的・個人主義的自然権思想」
 3) ピューリタニズムのキリスト教的人権と集会(congregation)に基づく共同社会的理念の考察はしない。
ピューリタニズムと近代社会の関係の考察 
 1) マックス・ウェーバーの方法
  近代資本主義成立史の視点から近代デモクラシーとの関係を論ずる
 2) ゲオルグ・イエリネックの方法
  19世紀国家学から近代的個人の人権思想の起源をピューリタニズムに求めた
 3) ダンロップ・リンゼイの方法
  ピューリタニズムの集会(共同社会的理念の原型)
  日本での分析は皆無に等しい
5-3 デモクラシー
わたくしたちの国では、(民主主義の原理を宣伝しようとしている)そうした超越的啓蒙が戦後繰り返しなされていることは事実のようです。しかし、この書物におけるリンゼイの意図は、もとよりそうしたところにはなく、むしろ民主主義を、基本的には近代に固有な非政治的共同社会のいわば生活様式とでもいったものとしてとらえて、その存立のための基礎的条件を地味に追及してゆこうとするところにあります。そして、その条件として最も重要にして不可欠なものは、一般によく考えられているところの《同意 consent》ではなく、なによりもまず《討論 discussion》でなければならないというのです。なぜならかれにとっては、民主主義にとって大切なことは、反対の立場を認め、それぞれの見解が明白に表明され、十分に討議されること-相違の中における平等な参与-によって、共同活動の原則発見のため互いに貢献するということにあるからです。《同意》は民主主義の結果であっても条件ではないと考えるのがリンゼイの立場なのです。
近代に固有な非政治的共同社会の生活様式(Way of Life)に焦点をあて、その存在のための基礎的条件の追及
(1) 同意(consent)ではなく、話し合い(discussion)。
デモクラシーで重要なことは、反対の立場を認め、それぞれの見解が明白に表明され、十分に話し合いがされ、相違の中における平等な参加により、共同活動の原則が発見される。
(2) 同意(consent)はデモクラシーの結果ではあっても、条件ではない。
(3) 共同思考(collective thinking)
  市民社会の基本 
  集いの意識(sense of meeting)の構築
  反対意見の尊重、共同活動の原則、自発自律の精神気運
リンゼイは民主主義を、たとえばわが国でよく知られている純粋法学者ハンス・ケンゼルの考えるように、たんに社会的意思を形成する政治的形式(方法)としてではなく、むしろ、そうした意志 - 輿論ないし世論といった方がより適切なもの - の形成主体であり促進母胎でもある社会そのものの健全にして活気に充ちた自発的運動態として把握しているといえます。その上、そうした討論の行われている生き生きとした動的現実態としての社会においては、政治的無関心といった自体は現象化する余地さえないと考えられるわけですから、不条理な大衆的熱狂や社会的興奮を煽りたててみせかけの万場一致にもってゆく必要性もないということになります。
  注意!
  ハンス・ケルゼンの説 ・・・ナチスが利用
  純粋法学のウィーン学派「社会意思を形成する政治的形成・方法」
  話し合いを世論形成主体、世論促進母胎である社会の健全・活気に満ちた 自発的運動実態として把握 → デモクラシーは絶対に手続きや形式的なものではない!
(4) 討論のある動的実態としての社会の規定
  イ) 政治的無関心は生じにくい
  ロ) 不条理は大衆熱狂や集団ヒステリーや煽動は不要
  ハ) みせかけの満場一致は不必要
  ニ) 日常的陶酔の否定
  ホ) 市民的日常性に基礎を置く、真の討論社会の創設
6 デモクラシーのイデオロギー
デモクラシーを信頼するということは、保守主義、自由主義、あるいは社会主義に匹敵する政治的信念とは異なるものである。デモクラシーは統治形態の概念であり、政策決定作成のためのテクニックである。決して、政策決定の内容の概念でもないし、社会構造に影響を及ぼす方法の概念でもない。デモクラシーは、異なった政治的信念に共通しているという意味において、一種の超イデオロギーとして既述できよう。人々はデモクラシーを信じ、一方では同時に自由主義とか社会主義を信じる。
J.ルソー
ルソーは、一般意志は客観的に決められうるものであると考える。また、他方で、ルソーは、多数派はこの判断においていつも正しいということを前提としている。(中略) 彼は二つの方法で社会を考える。すなわり、時には自主的な考えを持つ人々の結社として、また時には、超個人が諸個人の想定した同質の集団を支配する有機体ないしは相対であるとみる。理想社会としてルソーは、ますます全体主義的な、統一された社会に帰着するように思われる。(中略) ルソーはまた、現代のファシズムの先駆者の一人として考えられてきた。この点で重要なことは、一般意思が、個人の"真"の意志を包含しているという彼の説明である。この説明は民衆の公益に向けられている。多数はと同様に少数派も、一般意志の代表者であると自分自身を考えることができた。また、その名のもとに、少数派は無条件の服従を要求したのだった。
Democracy ← 英米 個人+個人・・・代議制デモクラシー
     ←ルソー 全体 みんなが参加・・・代議制の否定
ルソーのデモクラシーは偏っている。全体独裁思考家がこの考えをうまく取り込んでいる。→ナチズム
トーマス・ペイン
Common Sense コモン・センス / 人間がすべてうまれながらにして、いろいろ関係なく、神様の前ではみんな共通だというセンス。  
トーマス・ペインは、すくなくともアングロ・サクソン諸国ではルソー以上に大きな影響力をもっていた。彼の厳格で明確な教えは、他のいかなる著者の教義よりも18世紀末期におけるデモクラシー的概要を代表しているであろう。1776年に出版されたパンフレット『コモン・センス』は、『アンクル・トムの小屋』が南北戦争に対してもったと同じぐらいアメリカ革命にとって重要性を有していたといわれている。
ジョン・スチュアート・ミル
『代議政体論』 "Representative Government" デモクラシーあるいは代議政治は、明らかに「理念として最善の統治形態」であるとジョン・スチュワート・ミルは書いている。すなわち、その形態は、その確立と維持する必要なる諸条件が具備される時、最善なものとなる。人間の福祉に直接的な効果に関して、デモクラシーの優位性は二つの自明な理に基づいている。「第一は、すべての者と、いく人かの者の権利や利害関係は利害関係を持った人が自分自身で、それを擁護することができ、またいつでも擁護したいと思っている時には、無視されるような恐れだけはないのである。第二は、一般的繁栄はそれを増進するために協力した個人的エネルギーの量や種類とに比例して、もっと高度の水準に達し、更に広く普及されるということである」。
『自由論』 "On the Liberty" ジョン・スチュワート・ミルは、彼の著書『自由論』(1859年)において、いくらか異なる思想系列に沿って思想や言論の自由に対し詳細な主張をしている。彼は自分の主張を四点に要約している。
・ 抑圧された意見は実際問題として正しいかもしれない。
・ たとえ正しくない意見でも何か真実を含んでいるかもしれない。
・ たとえ、ある問題の伝統的説明が真実であっても、それにもかかわらず、それは合理的基礎の理解なく受け取られる説明を偏見に堕しないような批判や討論を受けなければならない。
・ そのような説明は生命力を失う危険があること。それゆえに、既に発見された真実に関してさえも、誤りが広がることは許されなければならない。すなわち、能力のある者は他人との競争を通じて、自分の力と能力を保持するのと同時に、真実は偽りとの絶え間ない戦いの中で隆盛を極める。
7 デモクラシーと討論
「友情ある説得」という心に響く、私の大好きなすてきなことばがあります。英語ではFriendly Persuasion(フレンドリー・パースウェージョン)といいますけれども、これは「友だちとして心から打ち明けて説得する」という意味です。「友だちとして」と「心から」というのが大切なところです。
人を説得するには心のこもった言葉が必要であり、はっきりと自分の考えを主張するためには討論(ディスカッション)が重要な役割を果たします。「討論する」(ディスカス)という意味のdiscussという英語は「充分に時間をかけて物事を味わう」という内容を含んでいます。じっくりと時間をかけて相手の意見に耳をかたむけ、どこかに自分と心のふれあう接点がないかを慎重に考える、そのための人間社会のきわめて重要な手段が討論(ディスカッション)なのです。
トーマス・ジェファーソン
自由な討論のある所では、意見の相違は"流れ行く雲"のように消えていく。そして、以前より空は晴れ、おだやかになる。討論は「新聞のない政府」より「政府のない新聞」の方がよりよいといえるほど絶対必要なものである。
H.ティングステン
デモクラシーは、それが正しい反省と本質的にその問題について討論することなしに導入されたところでは、どこでも傷ついてしまっていることをよく認識しておく必要がある。

デモクラシーにおける平等とは人間の同一性に由来するものではなく、各人それぞれの個性の相違を認めたうえでの平等なのです。デモクラシーがすべての人間に政治的権利を平等に要求するゆえんは人々が他人と同じ意見、同じ考え方をもっているからではなく、各人がそれぞれ独自の特徴ある政治的公健を果たさなければならないという基本的認識があるからです。
したがってデモクラシーの実現のためには、それぞれの人間の意見ははじめから異なっているのであり、異なっているのが当たり前だという前提で、時間をかけてそれぞれの相違点をうきぼりにし、はっきりと認識する必要があります。そのためにお互いを仲間同士しっかりと確認する方法が討論であり、話し合いなのです。
民主的で最良な方法はこのディスカッションをとおして、あまりに特殊な見解や偏狭な考え方が取り除かれ、それと同時にそれぞれ各人の考えにもとづいて、最も重要だと思うことがらについてみなが、寛容で公平な態度をもって臨めるような共同活動の原則が発見されることなのです。 
 

 

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