労働運動

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雑学の世界・補考   

ストライキ (strike)

労働者による争議行為の一種で、労働法の争議権の行使として雇用側(使用者)の行動などに反対して被雇用側(労働者、あるいは労働組合)が労働を行わないで抗議することである。日本語では「同盟罷業」(どうめいひぎょう)あるいは「同盟罷工」と呼ばれ、一般には「スト」と略される。
転じて、ハンガー・ストライキなど労働争議ではないが組織的な抗議行動を指すこともある。
労働者がストライキをする権利(団体行動権または争議権の1つ)は、国際社会においては国際人権規約(社会権規約)の第8条(d)項で保障されている。日本では日本国憲法第28条により労働基本権のひとつとして保障され、主に労働組合法及び労働関係調整法で規定される。
ストを無視して働くことはスト破りと呼ばれ、ストライキ参加者からは忌まれると同時に労働組合の団結を乱したものとして除名・罰金・始末書提出命令などの統制処分の対象となることがある。このスト破りを防ぐと同時に、一般人へ目的の正当性を訴える手段としてピケッティング(ピケ)を張ることもある。
ストライキと法的責任
争議行為が正当である場合、その行為についての刑事責任(労働組合法1条)と民事責任(同8条)は免責される。ストライキも労務の不提供にとどまるならば合法であり、これらの免責を受ける。特にストライキによって使用者に生じた損害に対する賠償責任が免責される点が重要である。ストライキなどの争議行為が正当でなければ、これらの免責は受けられない。また、ストライキを設定している日に対して前倒し決行した場合、違法ではないがこれによる企業側の損失については、請求できる判例がある。なお、ノーワークノーペイの原則から、正規労働時間中に就業していない分の賃金は支払われない。一般に労働組合は組合員からあらかじめ積立金を「闘争資金」等の名称で徴収し、争議権行使で発生した賃金不払い分を組合が補填する。
正当でない争議行動の例
○法律で争議行動が禁止されている職種に就く者が行う争議行動
○政治的要求や社会運動を目的とするもの
○会社・事業所の施設を損壊・汚損する行為を含む争議行動
○乱闘・暴力により要求などを主張する行為を含む争議行動
ストライキの起きやすい産業と、ストライキの功罪
第一次産業・第二次産業についても、ストライキが多く見られた事例がある(遠洋漁業・鉱山・工場など。農家・林業者・漁師は自営なので必要がない)。
第三次産業では、ストライキに訴えて問題解決を図るのは主に公共サービス業である(事業者は公営・民間とも)。つまり、交通機関、医療などである。皮肉にも社会的弱者を含む社会の全階層がサービスを受けるこの種の業種について、ストライキという被用者(これも社会的弱者)の雇用主への問題解決の働きかけの手段がサービスを受ける側にとってのサービスの質の低下や断続をもたらすことになってしまった。
このため社会全体が貧しい場合やストライキによって解決が期待される社会問題(時に政治問題)の解決がストライキによるサービスの中断を上回る場合は、ストライキもある程度容認される傾向にある。しかし社会がある程度物質的に豊かになった場合、ストライキによるサービスの中断は社会的弱者を含む社会のあらゆる階層から非難を受けることが多い。
なお、電力・水道・ガス・ごみ収集などについて日本ではストライキが顕在化した例はほとんどない。しかし、1970年代のイギリス、2000年代のイタリアなどでは起きた例がある。この場合、ストライキによる社会への負担は計り知れないものがある。
商業・金融・証券・保険など公共サービス業とは異質の第三次産業では、よほどの政治問題が起きる状況でなければ通常ストライキは起きない。1915年の中国での日本の「対華21ヶ条要求」の際の商店でのストライキ、1923年のドイツでのフランスのルール工業地帯占領の際のストライキなどがそうである。日本・諸外国とも、少なくとも1960年代以降(公共サービス業ではストライキが多発した時代を含む)に個人商店の営業休止による抗議やデパート・スーパーマーケット・銀行・保険会社などのストライキによる営業休止、銀行のオンラインや証券取引所のストライキによる停止の例はほとんどみられない。これには、これらの業種においては休業が企業や国民生活の破綻に直結しかねないという事情がある(特に銀行業の場合、銀行決済が不能になれば、その損害は計り知れない)。
プロフェッショナルスポーツにおいては、年俸抑制策やチーム・選手の削減に対する抗議行動として実施されることが多い。
日本・諸外国(少なくとも西ヨーロッパ諸国)とも、1990年代以降ストライキの数は非常に少なくなっている。これは国営サービス業の一部(時には大半)の民営化(その影響は民営化された事業者のみならず、元々の民間事業者にまで及ぶ)、日本においてはグローバリズムやバブル崩壊による労働組合の弱体化、欧米諸国においては移民増大、EU統合・冷戦終結が背景にあるものと思われる。
日本でも、「労働者の権利」として労働組合の結成やストライキ等による問題解決は社会科の教科書・教材で書かれていた。しかし、社会人になってそれを行使する人は非常に少ない。
ストライキの激減のメリットとしては、公共サービスなどかつてストライキの多かった業種でのサービスの確実性がある。 デメリットとしては労働運動が雇用確保の手段とならなくなったことが社会に周知され、結果雇用者の身分が不安定になったことが考えられる。
ストライキに対する規制
日本の公務員は、ストライキを禁止されている(国家公務員法第98条、地方公務員法第37条)。戦後直後は一部の職種を除いて公務員のストライキも認めていたが、1948年7月31日、政令201号「昭和23年7月22日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」によってすべての公務員のストライキが禁止された。なおこの政令は1952年10月25日、日本国との平和条約が発効したことに伴うポツダム命令廃止法により失効している。また、1949年に国の直営事業から分離された公共企業体(日本国有鉄道と日本専売公社。1952年に日本電信電話公社が加わる)の職員に対しては公共企業体等労働関係法(現在の特定独立行政法人の労働関係に関する法律)が制定され、やはりストライキが禁じられた。
これを不満として、1975年に日本国有鉄道を中心とした三公社五現業職員がストライキ権認容を求めてストを起こす「スト権スト」というものが起こされた事があった。政府見解としては、ストを禁止している理由として、職務の公共性や人事院(かつての公共企業体については公共企業体等労働委員会による仲裁・裁定)があることを挙げている(なおこれは批准が留保されているとはいえ、市民的及び政治的権利に関する国際規約追加議定書に抵触する疑いがある)。
一方、公務員のストライキが認められている国も多い。フランスやイタリアでは公務員や教師のストライキ、ドイツでは軍人のストライキがあり(労働組合的性格を持つ団体「連邦軍連盟」がある)、公務員ではないが弁護士や医師がストライキを起こすこともある。イギリスでは消防士らのストまで行われ、このような場合には軍が公共サービスを代行する。アメリカ合衆国では警察官(巡査や事務官)がストを打つ事があり(警察の労働組合「警察官協会」がある)、このような場合は巡査部長級以上の管理職が第一線に出る。スペインでは航空管制官が2010年12月にストライキを打ち、国際線管制は空軍が行なう事態になった(国内線は運行出来ず麻痺した)。ブラジルでも公務員のストライキは認められているが、警察がストライキを起こした時、凶悪犯罪も多発している。
他に労働関係調整法第36条で、「工場事業場における安全保持の施設の正常な維持又は運行を停廃し、又はこれを妨げる行為は、争議行為としてでもこれをなすことはできない。」として、ストライキの禁止規定がある。
実際に「争議行為が発生したときは、その当事者は、直ちにその旨を労働委員会又は都道府県知事(船員法(昭和22年法律第100号)の適用を受ける船員に関しては地方運輸局長(運輸監理部長を含む。)以下同じ。)に届け出なければならない。」という規定が労働関係調整法第9条にある。
なお、公務員の争議権を含む労働基本権全般の規制と日本国憲法第28条に関する司法判断については、労働基本権#日本の公務員の労働基本権を参照。
公益事業に対する規制
労働関係調整法第8条で、公衆の日常生活に欠くことのできない「公益事業」として次の業種が指定されている。
1.運輸事業
2.郵便、信書便又は電気通信の事業
3.水道、電気又はガスの供給の事業
4.医療又は公衆衛生の事業
上記の公益事業の業種でストライキを予定する場合には、労働関係調整法第37条で、10日前までに労働委員会及び厚生労働大臣、又は都道府県知事へ文章によって通知することが規定されている。
また電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律で、電気事業では、電気の正常な供給を停止する行為その他電気の正常な供給に直接に障害を生ぜしめる労働争議行為を、石炭鉱業事業では保安業務の正常な運営を停廃する行為であって、鉱山における人に対する危害、鉱物資源の滅失若しくは重大な損壊、鉱山の重要な施設の荒廃又は鉱害を生ずる争議行為をしてはならないことが規定されている。
特にストライキが予定されることが多いのは、運輸事業のうち鉄道や路線バスなどの日常生活に密着した公共交通機関を経営する鉄道事業者、バス事業者である。ストライキが実施されると列車やバスなどの運休が発生するため利用者への影響が大きく、プロ野球が鉄道ストで試合中止になるなど各種イベントへの影響も大きかった。ただし近畿日本鉄道など一部の私鉄はストライキを行わないか、あるいは集改札ストに留まり、平常どおり電車を運転した。1990年代以降は大手私鉄ではストライキはほとんど行われなくなり、仮に突入しても朝のラッシュアワー前に収束されることが多い。事業者も、大手私鉄の春闘が妥結した後に春闘交渉が行われる地方の中小私鉄やバス会社の一部のみで、使用者側の回答を不満としたストライキが行われる程度である。ただし、北海道内の私鉄総連では1980年代以降も組合側の連帯責任を名目に集団交渉が継承されたため、1991年までは毎年春闘ストが行われていた。
このストライキの影響は、主に通勤・通学の乗客に見られた。当時は現在と比較して公共交通機関への依存度が高くまた大都市への人口集中も盛んだったので、ストライキの際の通勤客の負担(運行している代替交通機関での通勤での混雑など)は近年では考えられないほどだった。しかし通学客の場合、学校が休校になる場合もあり、負担は通勤客ほどではなかった。また春休みを除き行楽シーズンには通常ストライキは行われなかったので、主に行楽・観光旅行などで公共交通機関を用いる乗客にはストライキ自体あまり認知されていなかったようである。
国鉄や民営化以降のJRにおいては、千葉エリアを根城とする国鉄千葉動力車労働組合(通称:動労千葉)によるストライキが毎年のように行われており、千葉県内(東京から見て千葉駅以遠)のJR各線では、本線運転士の春闘のストライキにより2001年から2010年まで9年連続で列車の全面運休や大幅な運行本数の減少が発生していた。ただし、近年はJR側も要員の代替等の措置により影響を最小限にとどめるようにしており、実際に2013年は列車の運行に影響がでるストライキまでは至らなかった。
前述のように大手私鉄では1990年代以降、ストライキはほとんど行われなくなったが、相模鉄道が2014年にストライキを決行した。バス事業者でも同年に関東バスで決行した。
大手航空会社では、乗員組合によるストライキが実施される場合が多い。かつて、日本航空では盛んにストライキが行われていた。しかし、近年は特定の組合が一部ストに突入しても、管理職や他の組合に所属する社員である程度はカバーできるため、実際の運航への影響は限定的なものとなっている。さらに、航空業界では深夜になって交渉が妥結し、回避されることも多い。
放送事業者でも、組合によるストライキが実施される場合がある。生放送番組(主にニュース番組・情報番組)においては管理職のアナウンサーや外部のフリーアナウンサーを起用することで影響を最小限にしている。担当者が元から管理職のアナウンサーや外部のフリーアナウンサーを起用している番組もある。地方民放局では労働組合自体が結成されていないところもある。
調停・仲裁
ストライキ、ロックアウトといった争議行為がこじれて長引いた場合、内閣総理大臣と中央労働委員会による調停・仲裁が行われる場合がある。代表例は1960年の三井三池炭鉱の争議行為である。
主なストライキの種類
○ゼネラル・ストライキ(ゼネスト) / [general strike] 労働者が団結して行う労働争議の一形態で、一企業や組織によるストライキではなく全国的な規模で行われるストライキのことである。略してゼネスト。総同盟罷業ともいう。また、ある特定の地域や都市において様々な産業が一斉にストライキを行う場合もゼネストと呼ばれることがある。フランスのサンディカリスト・ジョルジュ・ソレルは『暴力論』でゼネストを肯定した。
○ハンガー・ストライキ(ハンスト) / [Hunger strike] マハトマ・ガンディーにより始められた非暴力抵抗運動の方法の一つである。何らかの主張を世間に広く訴えるために、断食を行うストライキの一種。「飢餓(ハンガー)によるストライキ」という意味である。略して「ハンスト」ともいう。公共の場や受刑者の場合は刑務所内に座り込み、断食することで、相手が要求を受け入れなければ餓死に至るという状況に追い込むことで注目を集め、自分の主義・主張を通そうとしたりそれを世に広めたりするのが目的である。完全に飲食を絶つのではなく水だけ、あるいは塩と水だけを摂ったりする場合もある。また流動食だけという限定的な断食もある。
○納金スト / 特に公共料金などの集金人が行う戦術で集金人がサービス利用者から集めたお金を直接経営者側に支払わず、労働組合側の口座などに留め置いた上で「自分たちの労働条件が向上されない限り、集金したお金は労働組合の口座に入ったままで会社には納金しない」というメッセージを会社側に送るやり方である。数ある労働闘争の中でも生産管理闘争の中に分類され「一時保管戦術」とも呼ばれる。使用者の財産権侵害という意味において、その正当性には問題がある。労働者側が業務上横領の罪で起訴され、違法性を問われた事件として、関西配電湊川事件(最高裁判所第二小法廷昭和33年9月19日判決、刑集12巻13号3047頁)、電産熊野分会事件(最高裁判所昭和33年9月19日第二小法廷判決、刑集12巻13号3127頁)がある。これらの案件は最終的に最高裁判所にまで縺れ込んだが、労働組合員側の無罪で幕を閉じた。
○政治スト / [political strike] 国又は地方公共団体など、公の機関を相手に、政治的目的のために行なわれるストライキのことを指す。
○同情スト / [sympathetic strike] 他の企業の労働者の労働争議支援を目的とした、ストライキの一種。企業別労働組合を基礎とした日本ではほとんど見かけることはない。
○スト権スト / ストライキなど争議権を認められていない公務員あるいは国家公務員が争議権を獲得するためにするストライキ。日本では、争議権のない労働者によって行われるので「違法行為」とされる。日本では1970年代初頭に国鉄で多数実施され「スト権奪還スト」、「順法闘争」などとも呼ばれたが、1975年末に行われた8日間のストを指すことも多い。
○山猫スト / 一部の組合員が組合指導部の承認を得ず、独自に行うストライキ。Wildcat Strikeを直訳した語で「山猫争議」ともいう。
○集改札スト / 鉄道で集札および改札の業務に限って行うスト。つまりフリーパス状態にすることで無賃乗車が可能となり乗客に迷惑をかけずに経営のみに打撃を与える。改札口には管理職の職員が代わりに立って集改札をおこなうことが多い。1970年代から関西の大手私鉄を皮切りに自動改札機が導入されると、ストライキ時には改札機の電源を切ってストライキに「参加」させる手法が用いられた。非接触ICカード乗車券を導入した事業者の組合で実施した例は現在のところない。
○一斉休暇闘争 / 一斉に有給休暇をとることによって、賃金を得つつストライキと同等の効果を得ようとするもの。経営側は「不当な休暇権の行使」と主張し、時季変更権を発動したりもする。
○部分スト(指名スト) / 組合の指示により、一部の者(主に操業の核となる人物)のみがストライキをすること。争議行為に参加しなかった組合員も賃金をもらえないということも起こりうる。「指名スト」とも。闘争時の臨時専従者の確保に使われることもある。
○時限スト / ストを行う時間を区切って行うスト。闘争の初期段階や、公共サービスに大きな影響を与える場合にこれを防ぐため、行われる。学校で教職員組合によって行なわれる場合もあり、この場合はその時間帯、授業が自習になる。
○一部スト / 産業別組合などのある組合がストに突入する一方、他の組合はストを行わなかった場合。企業別労働組合が普通の日本では、むしろ一部ストのほうが一般的である。
○支援スト / 他の組合のストライキを支援する目的で行われるストライキ。  
 
労働組合

 

1.1945年以降の労働組合の急速な発展
二十世紀初頭には、すでに日本に労働組合は存在していましたが、雇用者と集団交渉する権利は保障されておらず、その法的な位置づけは弱いものでした。さらに1940年、労働組合は解体され、組合員は、政府主導の国家規模の労働者団体、大日本産業報国会に組み込まれました。大日本産業報国会は、第二次世界大戦の終了まで存在しましたが、連合国軍総司令部(GHQ)は、早くも1945年秋には日本人労働者が労働組合を結成することを奨励し、12月には労働組合法が公布され、翌1946年3月に施行されました。組合加入労働者数は、1945年10月にはおよそ5,000人でしたが、1947年2月までには500万人にまで急増しました。 GHQは当初は労働組合の結成を奨励しましたが、共産党系の全日本産業別労働組合会議(産別会議)、社会党系の日本労働組合総同盟(総同盟)などが支援する全官公庁共闘が1947年2月1日に無期限の全国ゼネラル・ストライキ(二・一スト)を計画すると、警戒感を強めました。ゼネラル・ストライキに入れば、全国の通信、輸送、生産が停止し、公共の福祉を妨げ、占領目的に反するとして、GHQは二・一ストを突入前日に中止させました。
2.戦後日本の最初の労働法
戦後日本の最初の労働法である1945年労働組合法により、労働争議を監督し、労使両者を確実に法律に従わせることを目的とした中央労働委員会が設立されました。この委員会は、労働組合、経営者側、一般市民の代表から構成されました。これは国際労働機関(ILO)によって採用されている同種の三者委員会や、戦争中の労働争議を管理するためにアメリカで設立されたものを一部モデルにしています。 戦後日本の基本的な労働法の中で2つ目の1946年労働関係調整法は、必要不可欠な公共事業を麻痺させる可能性のある労働争議に政府が介入するための方法を規定したアメリカのタフト・ハートレー法をモデルにしています。1946年秋に日本の電気事業労働者が全国ストライキを行う構えをみせた時、この新しい法律によって、政府はストライキが始まる前に30日間の「冷却期間」を要求することができました。この規定は現在ではほとんど使われていません。
3.労働ストライキと生産管理
1945年から1946年にかけて、経済状況は厳しく、食糧の供給も不足していました。多くの企業は、生産の停止、あるいは仕事を必要としている労働者の一時解雇に踏み切りました。一方の労働者は、労働条件や地位の改善を要求するという新たな権利意識にめざめ、その結果、労働ストライキやサボタージュが徐々に増加しました。 経営者側との交渉が決裂すると、工場の労働者は工場長らを閉め出し、自分たちで工場を自主運営することにより「生産管理」を行うこともありました。生産管理は、1946年前半には200以上におよぶ鉱山、工場、鉄道、マスコミにまで広がりました。
4.血のメーデー(1952年5月1日)
毎年5月1日、日本の労働組合と左翼政党は政治的抗議の一環として大規模なデモンストレーションを行ないます。1952年、サンフランシスコ講和条約が発効した直後のメーデーで、条約反対のデモ隊が使用不許可となっていた皇居前広場に入り、警官隊と衝突しました。警察は催涙ガスを使用し、また武器を持たないデモ参加者に向けて銃を発砲したため、その年のメーデーは流血の惨事となり、多くの死傷者が出ました。憲法に保護された形の政治的表現を行使していたデモ参加者に対して、警察が殺傷力のある武器を使用したのは、戦後日本で初めてのことでした。その後、デモを統制するための警察の手続きは変更されました。警察はデモを監視する際には銃を持たず、1960年安保闘争まで催涙ガスが再び使用されることはありませんでした。
5.総評(日本労働組合総評議会)の設立
日本労働組合総評議会(総評)は、日本社会党の強い支持を受けて1950年に設立されました。この組織は、日本共産党と密接な関係にある「産別」に代わるものとして登場しました。日本共産党は1950年、GHQの追放(レッド・パージ)の対象となり、その上層部指導者の多くはその地位から追放されました。 総評は急速に成長し、日本最大の労働組合同盟となりました。次第に、総評はストライキ権が認められていない公共部門の労働者の多くを代表するようになりました。各産業における民間部門の労働組合が短期間のストライキを行い、毎年の賃金交渉の劇的な始まりを告げる春期労働闘争(春闘)も総評が開始し、組織したものです。 総評は、連合(日本労働組合総連合会)の設立とともに1989年に正式に解散し、その加盟組合は連合に合流しました。
6.急進的組合活動の盛衰
全日本産業別労働組合会議(産別)は1945年末に設立された全国労働組合連盟であり、新たに合法化された日本共産党と結びついていました。産別は、民間企業、公共部門両方の労働者の組織化を援助し、1946年秋には一連のストライキの指揮をとりました。GHQは1947年1月に全国ゼネラル・ストライキに向けた産別の計画を中止させました。産別は、指導者が1950年のレッド・パージによって追放された際に力を弱め、企業経営者たちは共産党に関係する労働運動家の解雇を開始しました。 企業経営者たちは、戦闘的な産別組合会議に代わって、労働者が穏健な労働組合を結成することを奨励し、その結果、経営者側は穏健な第2の組合とのみ交渉することを選択できたのです。次第に、大半の企業では穏健な組合が支配的となりましたが、戦闘的組合は一部の企業や産業でその後も勢力を保ちつづけました。
7.企業別組合
GHQや保守的な日本人政治家の支持により、経営者側に対する労働者の姿勢は次第に穏健になりました。1950年代に現れた新しい労使関係を企業別組合運動と呼びます。企業別組合とは、企業組合であって産業全体の組合や職能別組合ではありません。企業別組合は、職種に関わらず、ブルーカラー(肉体労働者)・ホワイトカラー(事務労働者)の両者を含む管理職以外のすべての「正」社員から構成されています。通常、まだ管理職に就いていない若手の一般事務職に属する従業員が指導者となります。一時的な契約社員は企業別組合から除外されるため、一般の組合員と同様の利益を受けることができません。企業別組合制のもとで、正社員が強力な雇用保障、高賃金、福利厚生を受けられるのは、組合員と同じ雇用保障や福利厚生を与える必要のない契約社員を企業が雇用できるためです。
8.三池争議
日本の最も深刻な労働争議の多くは、賃金や労働条件ではなく、企業による労働者の解雇、あるいは労働力削減をめぐって展開されます。戦後日本における最大の労働争議の一つは、1959年から60年にかけて、九州大牟田の三池炭鉱で起こりました。 石炭産業の全国的な再編成の一環として、1959年に三井鉱山は数千人の労働者を失業に追い込む三池炭鉱閉鎖の計画を発表しました。炭鉱労働者は閉鎖計画に抗議するためにストライキに突入しました。ストは1年以上続き、全国から支持を集めました。総評はスト参加労働者に全国的リーダーシップや支援を提供しました。しかし、次第に企業側が優勢となって炭鉱労働者は職を失いました。
9.日本式ストライキ
ストライキは、交渉の初期段階に1日または数時間というように、限られた期間に行われます。ストは事前に経営者側と打ち合わせがなされ、生産の重大な中断を目的とするものではありません。労働者は色とりどりのはち巻きをし、プラカードを掲げて職場をデモ行進します。このようなストライキの儀式は、交渉中の要求を支持し労働者の勢力を誇示するために行われます。それはまた、労働者を普段の経営者側との協力的関係から解放する役目も果たします。 無期限ストは、労使交渉が完全に決裂した時にのみ決行されます。1980年代以降、労働争議は徐々に減少しています。
10.ストライキ権は誰にあるか
1946年3月に施行された労働組合法によると、警察官、消防士、そして刑務官を除いた全ての労働者が雇用主からの報復を恐れることなく、労働組合に加入し、団体交渉やストライキを行うことができます。 教員を含む公務員、鉄道労働者、通信労働者、そして一般の会社員も組合を結成し、賃上げを要求して全国ストを行なう事態が予想されました。これに対して、政府は、労働委員会による斡旋・調停・仲裁という手続きからなる労働関係調整法を成立させました。この法律では、官民を問わず、公益事業についてはストライキが許可される前に30日間の冷却期間を設けることが規定されました。 1948年には、政府は公務員の組合加入を許可する法律を制定しましたが、ストライキを行うことは禁止しました。 1973年3月には、日本国有鉄道が史上初の大規模なストに突入し、朝のラッシュアワーに電車が運休となりました。 首都圏では職場への足を奪われた通勤客が26の駅で暴動を起こし、列車や駅の建物に大きな被害をあたえました。
11.ストライキの種類
労働ストライキでは、経営者側に圧力をかけて労働者の要求を実現するために、労働組合員は作業を停止します。組合連盟または1産業部門全体が組合員すべての統一要求を主張するために、より大規模なストライキを組織することもあります。 山猫ストは、事前の予告なしに行われるストライキで、違法の場合もあります。少数派の労働組合や強い不満をもつ労働者集団がそのようなストライキを行う場合があります。あるいは、経営者側の突然の行為に動揺した労働者が職場放棄を決意するという場合があります。 ゼネラル・ストライキは、全国または地方の労働組合連合や連盟によって組織されます。その目的は、政治目標を実現するために国内すべての労働を停止させることにあります。しかし、ゼネストに入ると全国の通信や運輸など公共の福祉に関わる機能が停止する恐れがあります。そのため、1947年1月、GHQは計画されていた全国ゼネラル・ストライキ(二・一スト)を禁止しました。
12.春期労働闘争(春闘)
春期労働闘争、いわゆる春闘は、企業に対する企業別組合の交渉力を強化するために日本労働組合総評議会(総評)が開始したものです。毎年春、各産業の全ての企業別組合が一斉にほぼ同水準の賃金要求を掲げ、賃金交渉を開始した日に短かいストライキを行います。個々の企業別組合はそれぞれの経営者側と交渉をしましたが、産業全体が協調することで業界を通じた同一水準の賃金目標が設定されました。 総評は各産業がストライキを決行する日程を調整しました。これによって、多様な春期ストライキ活動の波や、交渉過程における熱気や競争の雰囲気がつくりだされました。春闘は、1989年に総評が解散するまで、日本の労働組合活動の大きな特徴でした。
13.企業別組合の労使協調
春闘に参加する代わりに、全日本労働総同盟(同盟)は労使協調と労働者の経営への参加を奨励しました。これらの組合は、生産性向上のために経営者側と協力し働くことによって、企業と労働者の両者が共に発展できると考えました。この見解は、高度成長期の1960年代から1970年代にかけて、日本の企業別組合で支配的となりました。 1973年の「石油危機」の後、大企業の企業別組合の労働者は、長期雇用保障(終身雇用制)や高賃金、福利厚生などの条件と引き換えに、生産工程をより効率的にするために経営者側と密接に駆け引きを行いました。 これらの企業では、「ホワイトカラー」と呼ばれる事務職や管理職が組合加入労働者の大部分を構成するようになりました。従来主流だった「ブルーカラー」すなわち肉体労働の職に就く人々は、非組合員である契約社員とされたり、下請会社の労働者となって大企業の組合員からはずされました。その結果、労働者総数はほぼ安定しているにも関わらす、組合加入率は減少しました。
14.国鉄の民営化
日本国有鉄道(国鉄)は明治時代以来、日本の国有鉄道網を運営してきましたが、1987年、日本政府は、負債を抱えた国鉄を民営化しました。その結果、国鉄は、より小規模な地方のJR11社に分割されました。国鉄清算事業団は、国鉄の資産と長期の負債を引き継ぎ、その負債は国鉄所有の土地や株を新しいJR社が売却することによって返済する計画でした。新しいJR社では10万人を解雇する計画があり、そのほとんどは民営化に強く反対した国鉄労働組合員でした。 日本では通常、正社員を一時解雇または解雇することは非常に困難です。しかし、このケースでは、元来の雇用主である国鉄が解散したので、新しいJR社が労働者すべてを雇用し続ける必要はありませんでした。そのため、大量の失業という事態が必然的に起こったのです。
15.組合組織の合流による「連合」の結成
1980年代なかばには、日本の組合加入労働者は十分な雇用保障と賃金を獲得していましたが、全国規模の組合組織は十分な政治力をもたないという問題を抱えていました。1955年以来、日本の政治を支配していた自由民主党(自民党)は、労働者ではなく農民や企業の利益をより重視した政策をとっていました。そのような背景のなかで1989年、全国的組合組織は、所属政党には関係なく労働者に好意的な候補者を支持するために、互いに合流して連合(日本労働組合総連合会)と呼ばれる新しい組織を発足させました。 連合という新たな革新勢力の戦略は成功し、ほぼ40年ぶりに自民党支配に終止符を打つことに貢献しました。しかし、その後の選挙では、連合に加盟している労働組合はどの候補者を支持するかで合意に達することができず、その政治力は弱まりました。
 
日本で最初のストライキ

 

当時の様子を伝える山梨日日新聞の記事より。日本で記録に残っている最初のストライキは、1886年6月、甲府にあった雨宮製糸場の女工さんによるものでした。「同盟罷業」のふりがなに「すとらいき」と付されているので、明治19年には既にストライキという言葉が使われていたことがわかります。記事によれば、長時間労働自体よりも、時間管理についての不満であったとされています。なお、この後、6月18日の記事で、「時間を緩め其他何か特典ありしため無事治まり」として「工女和解」との記事が掲載されています。ストライキの開始を6月12日とする資料もありますが、6月12日は土曜日です。1876年(明治9年)3月12日に、官公庁は日曜日を休みとし、土曜日を午後からの半休とする太政官通達が出されました。雨宮製糸場がどうであったかはまだ調査中ですが、もし同様であったとすると、記事にあるように「議会を開き」は12日であっても、ストライキは週明けの14日からなのかもしれません。16日には終結したようです。
甲斐の国は江戸時代から養蚕が盛んで、女性が製糸に携わってきました。女性に一定の経済的基盤があったことを反映してか、江戸時代に甲斐は全国で四番目に多く離縁状の残っている国でした。明治に入って、殖産興業のために、甲府に当時としては全国でも有数の規模である県営の製糸工場が設立され、製糸工場が相次いで設立されました。その結果として、山梨県は明治期の生糸生産量が全国で4位から6位となっていました。
その生産を支えていたのは、農村部からの通いの工女でした。雨宮製糸場では朝4時半から夜7時半までの労働時間であるなど、労働条件は劣悪なものでした。しかし、農村部での生産でも年季奉公でもなかったため、不満であれば別の工場に移るという抵抗手段がありました。それを背景に、賃上げをもとめ求ることもあったようです。そこで工場主たちは生糸組合を作り、働くことのできる工場は一か所に限り、工女に「不都合」なことがあって解雇した場合には一年間どこの工場でもやとわないこと等をきめました。雨宮製糸場では、この取り決めを背景として、労働時間の延長、賃金の切り下げ、遅刻の罰金などを実施しました。それに対して怒った工女たち100名余が近くのお寺に立てこもったものです。工場主は、出勤時間の繰り下げなどの譲歩を行い、ストライキは収まりました。しかし、同年に甲府の4か所の工場で、さらにその後も多く争議が起こりました。(参考:米田佐代子『近代日本女性史 上』(新日本新書))
労働組合期成会が作られ、それを契機に日本で最初の労働組合である鉄工組合が誕生したのは1897年です。雨宮製糸場のストライキは、労働組合としての活動ではなく、自発的に自然発生的に起こったものです。初期の労働組合は男性中心でしたが、それ以前から、女性による労働運動が行われていたのでした。また、労働運動の目的を経済的条件の改善に矮小化する見解がよく述べられますが、このストライキでも見られるように、むしろ、工場運営への異議申し立てが主たる目的であったのでした。
雨宮製糸場は甲府市山田町(ようだまち)50番地、現在の甲府市中央3丁目にありましたが、今は駐車場等になっています。
女工さんたちが会した「同町の寺院」は、他に寺院がありませんので、青龍山瑞泉寺と考えられます。現地を見てみると、あるいは、雨宮製糸場と地続きかきわめて近接していたのではないかと思われます。浄土宗のお寺で、浄土宗府中五ヶ寺(誓願寺、尊躰寺、教安寺、来迎寺)の一つとして知られた古寺なのだそうです。1498年(明応7年)に、鎌倉の錦屏山瑞泉寺の名跡を古府中に移し造立され、1593年(文禄2年)に現在の場所に移ったと解説されています。ただ、鎌倉の瑞泉寺は鎌倉十刹に数えられる臨済宗の名刹ですし、現在も鎌倉に存在しますので、浄土宗の上人が甲府に移したというのはもう少し調べてみなければいけないようです。
また、本記事を掲載した山梨日日新聞は、現存する地方紙では最古の新聞です。山梨日日新聞は、現存する最古の新聞(全国紙も含めて)としているようですが、山梨日日新聞の前身である「峡中新聞」の創刊が1872年(明治5年)7月1日なのに対して、毎日新聞の前身である東京日日新聞の創刊が1872年(明治5年)2月21日ですので、全国紙も含めれば最古は毎日新聞です。ただ、このような古い新聞なので、本件のような記録も残っているし、それを現在でも読むことができるのでしょう。  
 
二・一ゼネスト

 

1947年(昭和22年)2月1日の実施を計画されたゼネラル・ストライキ。2.1ストとも言う。決行直前に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの指令によって中止となり、戦後日本の労働運動の方向を大きく左右した。
労組の急成長
1936年(昭和11)に42万人いた労働組合員は、戦争の勃発で労働運動が禁止され、解体されていたが、戦後に進駐したGHQ/SCAPは、日本に米国式の民主主義を植えつけるために、労働運動を確立することを必要と考え、意図的に労組勢力の拡大を容認していた。第二次世界大戦後の激しいインフレの中で、日本共産党と産別会議により労働運動が高揚し、1946年(昭和21)には国鉄労働組合が50万名、全逓信従業員組合が40万名、民間の組合は合計70万名に達した。これらの勢力がたびたび賃上げを要求して、新聞、放送、国鉄、海員組合、炭鉱、電気産業で相次いで労働争議が発生し、産業と国民生活に重大な影響を与えるようになっていた。
8月には総同盟と産別会議、9月には全官公労が結成され、11月には260万人に膨れ上がった全官公庁共闘が、待遇改善と越年賃金を政府に要求したが、吉田茂内閣は満足な回答を行わなかったため、「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。ここで挨拶に立った日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない。」と、労働闘争による吉田内閣打倒を公言し、日本の共産化を図った。冷戦の兆しを感じていた米国は、日本をアジアにおける共産化の防波堤にしようと考え始めていたため、全官公労や産別会議等の過半数の労働組合を指導している共産党を脅威と考えるようになった。
連合国の対日政策機関であるワシントンD.C.の極東委員会も、12月18日に民主化のための労働運動の必要性を確認しながらも、「野放図な争議行動は許されない」とする方針を発表した。この第3項で、労働運動は「占領の利益を阻害しない」こと、第5項で「ストライキその他の作業停止は、占領軍当局が占領の目的ないし必要に直接不利益をもたらすと考えた場合にのみ禁止される」として、労働運動も連合軍の管理下におかれることが決定された。また、吉田も共産党との対決を意識し、内部分裂した日本社会党右派に連立を持ちかけるなど、革新勢力の切り崩しを図った。
ゼネスト宣言
1947年(昭和22)1月1日、総理大臣吉田茂は年頭の辞で挨拶した。
「政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。」「しかれども、かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない。」いわゆる「労働組合不逞の輩」発言である。
非難されたと受け取った労組はいっせいに反発し、1月9日に全官公庁労組拡大共同闘争委員会(全官公庁共闘)がゼネラル・ストライキ実施を決定、1月11日に4万人が皇居前広場で大会を開き、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長が全官公庁のゼネスト実施を宣言した。1月15日には全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成され、1月18日には、要求受け入れの期限は2月1日として、要求を容れない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告した。実行された場合、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになり、吉田政権はダメージを受けることは確実であった。また、吉田が進めた社会党右派の取り込みは、4名入閣でまとまりかけていたが、スト計画を進める左派の強硬な圧力によって流産した。公然と叫ばれるスト実施と政情不安によって、社会不安が蔓延した。1月21日には天変地異を予言していた神道系の宗教団体璽宇教(横綱双葉山が入信し話題となった)が、GHQの指令によって摘発された。
ゼネストへの動きが高まる中で、占領の実務を担任する第8軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、鉄道のストにより日本各地に駐留する米軍への補給寸断・相互連絡の途絶が発生すれば、軍事的に重大な危機に陥ると判断、1月16日に参謀長C・バイヤース少将を通じ、GHQ経済科学局長ウィリアム・フレデリック・マーカット少将にゼネスト阻止を措置するよう要求した。
1月22日、伊井など組合幹部がマーカット少将と経済科学局労働課長エオドル・コーエンに呼び出され、ゼネストは許されないと忠告されたが、伊井は承諾しなかった。伊井はマッカーサーの命令と言い張る二人に対し、指令書の提示を要求したが、マッカーサーはマーカットに口頭で命じただけだった。米国大統領選挙へ出馬する予定であったマッカーサーは、本国での労組の目線を考え、まだこのときは、日本の労組を自ら取り締まろうとはしなかった。
1月29日、中央労働委員会の会長代理末弘厳太郎が、現行556円から1800円への平均賃金引上げ要求に対し、18歳で最低賃金650円、平均で1000円にするという調停案を出したが、共産党の徳田書記長は1200円を要求し、他の共闘委員も同調した為、末弘も1200円で政府に勧告した。政府は調停案を受け入れるとしながらも、当分は平均984円とする条件をつけたため、共闘が受け入れを拒否して決裂した。
1月30日、マーカットは再び伊井を呼び、ゼネスト中止令を出すよう命令したが、伊井は組織の決定として拒否し、マッカーサーが直接命令するべきと言い返した。共闘もマッカーサーが動かないことに気がついていた。しかし、目論見は外れた。
1月31日午前8時、ゼネストが強行された場合に備え、第8軍は警戒態勢に入った。午後4時、マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」としてゼネストの中止を指令。伊井委員長はGHQによって強制的に連行され、NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された。午後9時15分に伊井は、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙しながら発表した。
「声がかれていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく聞いて下さい。私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。…一歩後退、二歩前進」
そして放送の最後を「日本の労働者および農民万歳、我々は団結せねばならない」と伊井は締めくくった。翌2月1日には全官公庁共闘と全闘が解散し、伊井も占領政策に違反したとして占領目的阻害行為処罰令で逮捕され、懲役2年を宣告された。
影響・評価
二・一ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であったとされる。意図的に労働者の権利意識を向上させつつも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産党の影響力を感じた場合、連合軍は労働者の味方はしないことを内外に誇示した。個々の組合においては、個別交渉で賃金アップなどを勝ち取ったケースもあったが、結局は労働者側の敗北であった。その影響で、例えば翌1948年3月に全逓信従業者組合が計画したゼネストも、マッカーサーの命に反するとして中止されるなどした。
しかし、その後も労働運動はなお盛んであったため、マッカーサーは芦田内閣に書簡を送り、公務員のストライキを禁止するよう指示した。これに基づき、政令201号(1948年(昭和23)7月31日公布。即日施行)によって、国家・地方公務員のストライキが禁止された。後に国家公務員法・地方公務員法で正式に公務員のストライキ禁止が明文化された。この公務員のスト禁止は、1970年代の国鉄による「遵法闘争」の要因となる。
むのたけじは「民主主義を掲げたアメリカの占領政策はうそ」と激怒し「たいまつ」創刊号で魯迅の言葉を引き「沈黙よ! 沈黙よ! 沈黙の中に爆発しなければ、沈黙の中に滅亡するだけである」と書いた。
また、32年テーゼの中で占領軍を解放軍と規定していた日本共産党は、しばらくの間、この事実を受け入れられずに迷走した後、暴力革命路線へ転換することとなる。しかし、労働者からの支持を失ったことから労働組合からの求心力も低下し、その後の労働組合は日本社会党支持に傾いていくこととなる。 
 
戦後日本の労使関係・労働運動の歴史的総括 2000

 

発表にあたって
この小論文は、労働党内の中央関係者で議論したものを労働運動対策部がまとめたものである。こんにちの情勢から、労働運動の役割はますます重大になっている。だが、連合を中心とする労働運動は無力であるばかりか、連合指導部は二大政党制を推進するなど犯罪的役割すら果たしている。この現状を打開し、労働運動を再構築するためには、戦後労働運動の歴史的総括が必要だと考え、この文書をとりまとめた。これは、戦後労働運動の全面的総括ではないが、土台、骨子を提起したものとして、労働運動の発展を願って奮闘しているすべての活動家、関係者の皆さんの積極的なご批判、ご意見をいただき、労働運動の再構築のために、共同して戦後労働運動の総括を深めることができればと願っている。
はじめに
戦後五十五年、二十一世紀を目前にしてわが国労働運動は、長い停滞の時期を終え、新たな発展の転換期に当面している。われわれは、戦後日本の労使関係の歴史を研究することで、そのことを明らかにしたい。
日本的労使関係は、日本経済が第一次石油ショックをうまく乗りきった要因として世界の注目をあびた。それは一九五五年から始まる生産性向上運動の中で形成され、六〇年代の高度成長を基盤に発展してきた。その特質は終身雇用、年功序列賃金、企業別労働組合にあるといわれているが、その実質は労資協調路線・労使協議制による労働者支配のシステムであり、支配層の労働運動対策の中心的手段であった。わが国支配層は、日本的労使関係によって世界第二の経済大国を実現し、「社会の安定」が形成されたと自画自賛していた。労働運動はストライキを忘れ、ものわかりのよい「参加型」労働運動にすっかり変質した。
この日本的労使関係が今日、ほかでもなく独占企業自身の手によって破壊されている。
日産のリストラ(五工場閉鎖と二万一千人の人員削減、下請け切り捨てなど)をはじめとする独占企業各社のリストラ・ラッシュ、戦後最悪の三百三十万人を超す失業者、春闘でのゼロ回答続出、成果主義賃金の横行と総額人件費抑制、低賃金・無権利のパート・派遣労働者群の増大と雇用の流動化、サービス残業とかつてない労働強化。年功序列賃金も、終身雇用も過去のものになりつつある。独占企業とその政府は、世界的競争に勝ち残るために、もはやこれまでの安定した労使関係を維持できなくなり、労働者になりふりかまわぬ攻撃に出ざるをえなくなったのである。
こうした中で、労使協議の形骸化が進んでいる。
実物経済の何十倍もの巨額の短期資金が利を求めて瞬時に世界を駆けめぐり、一企業はおろか、一国経済さえ破たんにおとしいれる。市場がすべてを決定する金融グローバル化の時代、とりわけ九七年七月に始まったアジア金融危機を経て、世界的競争に勝ち残ろうとすれば、わが国独占企業にそれ以外の選択の余地は残されていない。
こうして財界の労務対策の大御所・桜田武が「社会の安定帯」と豪語していた日本的労使関係が、ついに崩壊の過程に入った。政治の分野では、自民党の一党支配のシステムが崩壊し、九三年以降、すでに政治再編の新たな局面に入っている。わが国労働運動も日本的労使関係の呪縛(じゅばく)から解き放たれ、力強く新たな前進を開始するチャンスがやってきたのである。
この小文の目的は、戦後の労使関係を歴史的に総括することで、労働運動はなぜ長期に停滞してきたのかを解明するとともに、今日新たな発展の転換期に当面していることを指摘し、闘いの基本方向を提起して、確信をもって労働運動を前進させることにある。
なお、あらかじめ断っておきたいのは、民間の労使関係を中心にすえた関係から、官公労の労働運動やその政治闘争には十分ふれることができなかった。
また、六一年綱領によって現代修正主義に転落した共産党は、六四年の四・一七スト破り、七〇年代に入って民主連合政府構想と結びついた「教師聖職論」「自治体奉仕者論」「スト万能論批判」など最近にいたるまで数々の裏切りを働いてきたが、この潮流に対する全面的批判も別の機会に譲らざるをえなかった。
労働運動の発展を願って日夜奮闘されているすべての活動家、理論家、政党・派の皆さんの率直なご批判、ご助言をいただければ幸いである。討論を通じての共同を心から切望するものである。
(一)日本的労使関係にいたる前史―敗戦直後の労働攻勢から共産主義者の弾圧、労働運動の非政治化へ
日本的労使関係という労働者支配のシステムは、戦後直後からあったものでも、また自然成長的に形成されたものでもない。それ以前に、一九四五年から四七年二・一ストまでの嵐(あらし)のような労働攻勢があり、労働運動が労使関係を主導する時期があった。日経連が「経営秩序の確立」が一応緒についたと評価するのが、ようやく一九五三年になってからである。
その間には、わが国独占企業と支配層がGHQ(連合国軍総司令部)の銃剣を後ろ盾に、労働運動を力でねじ伏せる過程があった。謀略を含む徹底的な弾圧で、労働運動から共産主義者をパージし、社会民主主義者と切り離した。他方で、総評結成に見られるように露骨な分裂工作によって、支配層にとってより都合のよい反共民同派に組合の指導権を握らせた。結果として、独占企業の「経営秩序」が確立され、労働運動はいわば合法主義の枠内に封じ込められた。
日本的労使関係は、こうした戦後十年間の労資間の激しい攻防とその結果のうえに形成が可能となった。したがって、日本的労使関係の特徴、意義を正確に理解するためには、その前史をふりかえっておく必要がある。
(1)嵐のような労働攻勢
一九四五年八月十五日、日本帝国主義は敗北し、「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏した。
わが国労働者階級はセキをきったように立ちあがり、嵐のような前進を開始した。闘いの火ぶたを切ったのは、北海道、常磐の炭鉱地帯で奴隷労働を強制されていた朝鮮人労働者、中国人捕虜であった。続いて北海道歌志内の炭鉱労働者が、賃上げと食料増配を要求してストライキに入り、北海道や九州各地の炭鉱に広がった。労働者は、長い戦争と敗戦の打撃で食糧不足、インフレ、失業、首切りなど極度に困難な状況におかれていた。食うため、人間らしく生きるために、三〜五倍の大幅賃上げ、首切り反対を要求して闘った。「悪監督者の追放」「戦争責任者の退陣」「経営の民主化」「食糧の人民管理」などの要求の中には、社会変革の熱望がつまっていた。
荒々しいストライキの波が、職場の重圧を一挙に吹き飛ばした。「どこの職場でも、要求がたくさんあったし、要求を出すか出さないうちに、ストライキに突っ込んでいた。暴動的な雰囲気があふれていた。職場の労働者にとっては、どこかに姿を隠してしまった事業者にとってかわって、自分らの手で職場を守りぬくよりなくなった。労働者にはやれそうもない事業経営が、集団討議の中で立派にやりとげられた。労働組合が決議しさえすれば、倉庫の扉を開くことができた。隠匿物資を掘り出すこともできた。食糧の買い出しも、食糧の公平な配分もできた。…この職場の主人は俺たちだという確信がわきあがってきた。こういう活動や自覚は、物資の枯渇していた当時の国民的要求と合致していた」(高野実「日本の労働運動」)。
四五年十月の読売新聞をはじめ京成電鉄、日本鋼管鶴見製鉄所、東京都職、東芝、北海道三菱美唄炭鉱などでは、生産をサボタージュする資本家に代わって生産管理闘争が成果をあげ、資本家の「経営権」を大きく制限した。闘争は、はじめは分散したままで闘われていたが、しだいに同一資本に対する共同闘争に移り、企業別連合を準備するとともに、地域的、地方的結集も始まった。
わが国を事実上単独で占領した米帝国主義は、当初、日本軍国主義復活を阻止する目的で、労働基本権の保障、財閥解体、農地改革など一連の「民主化」政策を実施した。十月に政治犯釈放、治安維持法など弾圧立法廃止、十二月に労働組合法が制定されたが、それらの措置は労働者の闘争と組織化をますます燃え広がらせた。企業別組合という形で組織化が急速に進んだ。敗戦から一年足らずの間に(四六年六月)一万二千の組合、三百六十八万人の組織労働者を獲得し、組織率は四一・五%に達した。国際労働運動史の中でもかつてないスピードであった。
こうした労働者大衆の嵐のような闘いの陰で、はやくも松岡駒吉、西尾末広ら旧総同盟の右翼社会民主主義・札付き幹部らの策動も始まった。彼らは戦後いちはやく三井、三菱、安田、住友などの財閥や政府側の要人を訪問、「新日本再建のために」新労働組合の組織について「相談」した。四五年十月十日には、全国労働組合結成懇談会を開いて「分裂を繰り返してきた労働運動を、左右を問わず一本として再出発し、労働組合の中立の原則にたって、労働者の労働条件の改善のために闘う」ことを決めた。懇談会が、徳田球一ら共産党の政治犯釈放日を選んで開かれたことが物語っているように、これら札付き幹部のねらいは、労働者の嵐のような闘いが共産党の影響下で急速に発展することを恐れ、労働者全体を御用組合の枠に閉じ込めておくことにあった。彼らは、四六年八月一日、総同盟(松岡駒吉会長、八十六万人)を結成した。総同盟の組織は、産業報国会の看板を労働組合とぬりかえただけの、上から組織された御用組合が多かった。したがって、当然にも激動する労働運動からおきざりにされた。
こうした分裂策動を打ち破れなかった結果として、戦後労働運動は当初から統一できずに出発した。四六年八月九日、共産党の影響が強かった産別会議が、闘う労働組合のナショナルセンターとして結成された(聴涛克巳委員長、百六十三万人)。産別会議は、高まる労働運動の主導権をにぎった。
四六年には労働者は、経済的要求だけでなく、政治的要求を掲げ始めた。四月には幣原内閣打倒人民大会、五月一日の戦後初のメーデーには五十万人が集まり、「民主人民政府樹立・食糧の人民管理」などを決議した。五月十九日には二十五万人参加の食糧メーデーで労働者は国民的闘いの先頭に立った。
九月の国鉄、海員の首切り反対闘争から四七年二・一ストへかけての時期は、戦後労働運動の高揚期であった。
まず国鉄七万五千人、海員四万三千人の首切り計画に対して組合はストライキで闘い、他産業労働者の支援も得て撤回させた。続いて東芝、新聞、全炭、電産など民間を中心に五十六万人が共闘、三十二万人がストに入った産別十月闘争へと発展した。ここでは生活給体系―「電産型賃金体系」を獲得、さらには八時間労働制、組合活動の自由、一方的人事を拒否するなどの条項を資本家に認めさせ、労働者の権利を大幅に拡大した。
民間労働者に続いて官公労働者も立ちあがった。国鉄、全逓を含む共同闘争機関=全官公庁共同闘争委員会がつくられた。大幅賃上げで始まった闘争は、政府に拒否されると、「吉田内閣打倒、社会党を中心とする民主政府の樹立」という明確な政治目標を掲げて、四七年の「二・一ゼネスト」へと発展した。それまで産別との統一行動に反対していた総同盟なども共闘を拒否できなくなり、社会党、共産党、産別、総同盟などによる「倒閣実行委員会」もつくられた。四七年一月には、ほとんどすべての労働組合が参加する六百五十万人規模の全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成された。一月二十八日には、全闘が主催して「吉田内閣打倒危機突破国民大会」が開かれ、東京では五十万人が参加した。
わが国労働者階級は、闘争の経験が浅く、たぶんに自然発生的な要素が強かったが、資本家に頼ってではなく、自らの階級の団結した力に頼って要求を実現し未来をきりひらく道を力強く歩み始めた。大幅賃上げ、首切り反対から始まった闘いは、ゼネラルストライキを武器に政府打倒のスローガンを掲げて政治を揺さぶるところまで急速に発展したのである。
まさにその時、GHQが強権を発動し、わが国労働者階級の前に立ちはだかった。マッカーサーは、「公共の福祉に対する致命的衝撃を与えることを未然に防止するために」との口実で、ゼネスト禁止命令を発動した。総同盟は早速呼応し、「ことここに至らしめないために、あらゆる努力を払ったが、政府の労働政策の貧困と一部共産党分子による煽動(せんどう)は、いっさいの妥協を排し、労働者大衆をぎまんし、一挙に政権奪取のゼネストを強行せんとして、ついに禁止さるるにいたった。…気狂いに刃物は危ないととりあげられてしまったのだ」とののしった。わが国支配層と政府は、GHQの強権に救われた。
この時期、わが国独占企業と支配層の側は、敗戦とGHQの「民主化」政策・財閥解体、独禁法、公職追放―などで打撃を受けながらも、じっとしていたわけではない。独占企業家は、「経営権の確立」のために、労働攻勢に対処すべく労働運動内部に手先を見いだすことに手をつくし、GHQには労働者弾圧を執ように働きかけていた。財界団体は復活を図り、四六年四月に経済同友会が、八月に経団連が、十一月に日本商工会議所が発足した。
(2)GHQの銃剣による労働運動  弾圧、レッドパージ
GHQの銃剣による二・一スト弾圧は、わが国労働者階級の闘う意思をくじけなかった。労働争議件数も衰えなかったし、一争議あたりの参加者数はむしろ増加した。
にもかかわらず、二・一スト弾圧は、独占企業と支配層が労働攻勢に対して反撃に移る転機となった。
背景に冷戦へと大きく変化する国際情勢とGHQの占領政策の転換があった。四七年三月、米帝国主義の新たな世界戦略・「共産主義封じ込め」が、トルーマン・ドクトリンとして発表された。六月には、マーシャルプランが発表された。四八年一月には、占領政策の転換が公式に発表され、わが国は極東における「全体主義者による戦争の脅威に対する防波堤」と位置づけられた。GHQの占領政策は、「民主化から自立化へ」、日本独占資本主義を復活させるものに転換された。
このGHQの政策転換と銃剣を後ろ盾に、独占企業、支配層は反撃に転じ労働攻勢の鎮圧を急ぎ、「経営権」を確立して生産復興をおしすすめた。
二・一スト弾圧後に成立した片山社会党首班内閣が、その最初の任に当たった。片山首相は、「危機突破のために、それぞれの分野に応じて犠牲を甘受していただきたい。インフレの克服、生産復興のために、このうえとも、耐乏の生活を続けていただきたい」と国民に耐乏生活を強い、賃金統制政策や賃金体系の改悪をおしすすめた。
四八年三月、片山内閣に代わって登場した芦田内閣は、施政演説で「ストライキを鎮圧し、ストライキ参加者を投獄する」と公然と述べ、生産管理闘争の力による弾圧に踏みこんだ。四月には、日経連(日本経営者団体連盟)が発足した。「宣言」には「経営権を確立し、産業平和の確保と日本経済の再建に向って、不退転の努力を傾倒せんとする」決意が述べられ、「経営者よ正しく強かれ」と檄(げき)をとばした。
わが国独占企業と政府は、GHQの銃剣を後ろ盾に、共同であるいは独自に、公然とあるいは非公然に労働運動の鎮圧に全力をあげた。
支配層・GHQの労働攻勢鎮圧作戦は、まず四八年七月、マッカーサー書簡と政令二〇一号による公務員労働者のストライキ権と団体交渉権の剥奪(はくだつ)から始まった。公務員労働者は当時の組織労働者の四〇%弱を占め、労働攻勢の主力部隊だったからである。「ポツダム政令」として国会審議もなしに即日施行され、反対運動を完全に封殺するやり口だった。わが国支配層は、四八年末の国家公務員法改正法、公共企業体労働関係法によって、それを追認し、今日にいたるまで官公労働者に対して憲法で保障された労働基本権に制限を加えつづけ、民間労働者との分断をはかっている。
続いて、民間労働者への弾圧に手がつけられた。民間の闘いに米第八軍が直接弾圧・介入をくり返しながら、吉田政府の手によって労働組合法改正が行われた。
発足したばかりの日経連は、「闘う日経連」と呼ばれ、積極的に争議に介入した。たとえば、「東宝争議」の場合には、組合活動家二百七十人のパージ、千二百人の大量人員整理、産別十月闘争で締結した団体協約の破棄をせまった。団体協約は、当時の労働者階級が獲得したもっとも進んだ協約の一つで、雇い入れ、解雇、人事異動に対する組合の承認権や事業場封鎖、機構改廃に対する組合の承認権(いわゆる同意約款)を確立し、労働組合の力で資本の一方的な経営権、人事権などの行使を強く制約するものであった。半年におよぶ争議の末、「来なかったのは軍艦だけ」といわれる武装弾圧(武装警官千八百人、米第八軍戦車八台が出動)によって、最終的には幹部二十人の退職と四六年末締結した団体協約破棄、資本側の絶対経営権を確認させられた。
他方で労働省は、四八年十二月、「民主的労働組合及び民主的労働関係の助長について」、四九年二月、「労働組合の資格審査基準について」という通牒(つうちょう)を発し、「民主的労働組合」育成に向け強力な行政指導を展開した。そのポイントは、戦後労働組合が闘いとった労働協約は「使用者の権限に過度の拘束を加え、労働者の一方的権限のみを認めさせた」ものと批判し、就業時間の組合活動の禁止、争議中の賃金は支払わないことなど戦闘的な労働組合活動を封じ、米国的・経済主義的な労働組合に「改造」する点にあった。こうした地ならしの上に四九年六月、労働組合法の「改正」が強行された。労働組合にとって打撃だったのは、解雇同意約款を含む協約の自動延長規定が無効となったことである。労働攻勢で獲得してきた労働協約は経営者側によっていったん破棄され、無協約状態をへて、GHQの指導による官製労働協約締結運動が展開されることになった。
労資の力関係は、民間でも次第に逆転されるようになった。
こうした労働組合無力化の攻撃は、四九年、ドッジ・ラインによる大規模な企業整備、行政整理の嵐の中で激しく展開された。ドッジ・ラインというのは、米帝国主義が日本独占資本を復活させるため指示した経済再建策で、「経済安定九原則」は緊縮財政、復興金融債の発行停止など荒療治をせまった。
企業整備、行政整理の嵐が吹きあれた。国鉄の十万人をはじめ全逓二万六千五百人、その他中央官庁二万六千人、地方自治体二万七千人、東芝、大同製鋼、トヨタ、日産自動車など四九年だけで一万近い民間事業所、整理人員四十四万人にのぼり、官民あわせて百万人の失業者がつくりだされた。企業整備、行政整理に反対する全国各地の連鎖的な闘争に対しては武装警官が出動した。天王山となった国労、東芝の首切り反対闘争には、三鷹・下山・松川などの謀略事件をでっちあげ、挫折させた。吉田首相は、「共産党は虚偽とテロを常套(じょうとう)手段にして、民衆の社会不安をあおっている。人員整理は国家再建の基礎である」と敵意をむきだしにした。
こうした人員整理の中で、たとえば国鉄では鈴木市蔵ら左派中央闘争委員十七人が、全逓労組中闘の半数が、という具合に首を切られた。民同派は、こうしてやすやすと指導部につき、指導権を左派から奪った。
翌五〇年六月には、朝鮮戦争ぼっ発を機に共産党幹部二十四人の公職追放、機関紙「アカハタ」発刊停止処分を行い、全労連を団体等規制令によって解散させた。ひき続いて、新聞協会、電力産業から始まって共産党員とその支持者の職場からの排除、レッドパージを強行した。レッドパージを実施した企業は発表されたものだけでも、五百三十七社、一万九百七十二人にのぼった。政府も、千百七十七人をパージした。実際には四八年頃から始まっており、これはほんの一部にすぎない。レッドパージは、一般にGHQによるものとされているが、GHQ、吉田政府、日経連、民間企業が密接に連携した計画的攻撃であった。その迅速さは、政府の特審局とGHQの諜報部が、指名追放する人物の完全な名簿を作りあげていたことを意味する。日経連は「赤色分子排除処理要綱」なる文書を企業に配って指示していた。こうした計画的攻撃によって労働組合の中の左派勢力はほぼ一掃された。
GHQの銃剣を後ろ盾にしたわが国支配層の、この時期の一連の労働運動弾圧、とりわけレッドパージは、戦後労働運動が闘いとった権利を剥奪しただけではない。共産主義者をはじめとする労働運動の先進分子を排除し、直接的にも組織を破壊し、戦闘力をそいだ。
この時期の弾圧の傷跡は消しがたく、労働組合の推定組織率統計グラフに急角度の下降線として刻まれている。四九年の組合数三万四千六百八十八、組合員数六百六十五万五千人、推定組織率五五・八%のピークから、五三年にはそれぞれ三万百二十九(マイナス四千五百五十九組合)、五百八十四万三千人(マイナス八十一万二千人)、三八・二%(マイナス一七・六ポイント)に一挙に落ち込んだ。労働組合の推定組織率は、一九七〇年代以降減少の一途をたどっているが、これほど劇的な減少を見せたのは、戦後五十五年の間にこの時期だけである。
(3)露骨な分裂工作、「組合民主化」を掲げた分裂潮流
労働運動を無力化するためにGHQや支配層が打った手だては、銃剣による弾圧によって共産主義者、左派勢力を排除するだけではなかった。より長期的な手だてとして、労働運動内部に自分たちに呼応する勢力やイデオロギーを広めること、分裂をもちこむことに全力をあげた。すでに述べたが、戦後直後から総同盟の結成を資金面でも支援するなど密接な関係が続けられていた。
二・一スト弾圧をきっかけに、GHQや支配層に呼応する裏切り者が「組合民主化」という旗をかかげて姿を現してきた。総同盟やいわゆる「民主化グループ」が、「共産党の組合支配反対」を唱え、「組合民主化運動」を活発化させた。産別会議の事務局次長の細谷松太らは「指導部の極左的な偏向と行き過ぎ」を非難し、「産別会議から共産党のフラク活動を排除するために闘う」と産別民主化声明を発表、四八年十二月には「産別民主化同盟」(産別民同)を発足させ、四九年七月には新産別を結成した。彼らは、「政党・資本家・政府から支配されない自主性の確立」、「共産党のフラク活動を排除する」という方針とあわせ、「生産復興闘争では資本家の欠点だけでなく、労働者の責任も追及し、職場秩序の確立に努力する」と主張し、経営者、支配層に呼応する正体を自己暴露した。国労の中に「反共連盟」が結成されたのをはじめ、全逓、日教組、日通、炭鉱、電産、電工、機器などでも民主化運動が展開され、産別会議からの脱退が相ついだ。総同盟は、四八年一月、「民主化提案」を決議し、「これらの志を同じくする労働組合と提携協力し、労働運動の本流となるべき新たな結集体を組織する」と激励した。
こうした民同派の策動によって一九四九年は、「戦後最大の分裂」を余儀なくされた。ドッジ・ラインによる企業整備、行政整理の一大攻撃に対して、労働組合が有効に対処できなかったのは、こうした労働戦線の分裂があったのである。民同派は、共産党を「極左的な偏向」と非難する一方で、敵の大規模な首切りに呼応し、国労、全逓などでは不当解雇を認めることで、共産党と左派勢力を組合機関から排除し、労働組合の指導権を奪った。GHQの工作によって、こうした民同派の結集は、四九年年末世界労連を分裂させて結成された国際自由労連への加盟を旗印とするようになった。国際自由労連は、「自由にして民主的な労働運動」を基調にかかげた。
そしてまさに朝鮮戦争ぼっ発直後の五〇年七月十一日、GHQの強力な工作によってこうした民同派をかき集めて、総評が結成された。加盟組合十七、オブザーバー組合十七、組合員約三百二十万人であった。
総評結成大会の宣言は、「日本共産党の組合支配と暴力革命的な方針を排除し、…自由にして民主的なる労働組合によって労働戦線統一の巨大なる礎をすえたのである」と述べている。そして「北朝鮮軍による武力侵略に反対する。ただし日本が占領下にある現在、総評は戦争に介入しない」との態度を表明した。
以下のエーミスGHQ労働課長の報告文書は、総評結成がGHQの工作の産物であり、産別会議を分裂させ民同派を育成してつくったものであることをきわめて露骨に語っている。
「総評のリーダーシップは主として産別、全労連、独立的大単産からの出身者で占められているが、これらのリーダーシップを産別支配下の民同運動から総評結成に至るまでに指導した経験から、アメリカ占領軍は金と人さえあれば少数グループでも大勢力に盛り上げることができるということを身をもって体験した。しかし、これは大きな誤りであった。なぜなら、総評は自由な状況下で多数派をかちとったのではなく、占領軍という超憲法的勢力の支配下で、しかも反対勢力を弾圧した後で結成されたものであって、決して成功成功といって騒ぎ立てるほどのことはないのである。…とにかく、総評結成という方針は明白に政治的色彩のきわめて濃厚な対日労働政策であったということができる。けだし、労働戦線の統一と中央集権化をモットーにした総評結成をGHQが援助した第一の理由は、全体主義的イデオロギーと戦術に対する有効な抵抗力を発展させることであったからである」(竹前栄治『アメリカ対日労働政策の研究』「一九五〇年の日本の労働事情」)。
「組合民主化」の旗をかかげた民同派の分裂策動が、いかに戦後の労働攻勢を無力化し、米帝国主義の朝鮮侵略戦争、アジア戦略の遂行を手助けするものであったか、その犯罪的役割は明白である。
だが、わが国労働者階級はこうした裏切り者の支配を許さず、闘い始めた。
一九五一年九月、内外の諸国人民の反対を押し切って、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が締結され、わが国は形式上の「独立」はしたものの、引き続き米帝国主義の支配下におかれる事態となった。
こうした重大な国の進路の岐路を前に、総評は第二回大会(五一年三月)で、講和問題をめぐり左右が激しく論戦し、「再軍備反対、中立堅持、軍事基地提供反対、全面講和実現」の「平和四原則」を採択、国際自由労連への一括加盟を廃案にし、高野実事務局長が選出された。総評はGHQの期待を裏切って、結成から一年もたたないうちに「ニワトリからアヒルへ」変身して、闘い始めたのである。平和四原則は、国労、全逓、日教組、私鉄、全日通など各組合大会で確認された。全自動車労組は、平和運動の推進力であった。七月には総評が主導して、社会党、労農党、国民各界による「平和推進国民会議」が結成され、九月一日、全面講和要求のデモが組織された。社会党は、講和問題・安保条約で対立し、左右に分裂したが(五一年十月臨時大会)、総評は左派社会党と政治的なブロックを組んで独立と平和の国民運動の先頭にたった。米軍射撃場に反対する内灘闘争では北陸鉄道労組が軍事物資輸送拒否のストライキで闘った。
また、「独立」後の治安対策として吉田政府が強行した破壊活動防止法の制定、労働三法の改悪に対しては、中立系単産と「労働法規改悪反対闘争委員会」(労闘)を結成し、五波のゼネストで反撃した。破防法は阻止できなかったが、二・一スト禁圧以来のゼネスト決行で労働者の団結の威力を示し、広範な国民各層との共同戦線をきずいた。
さらに、賃金綱領にもとづく電産や炭労の長期スト(五二年)、会社側のロックアウト、二組のスト破りにひるまず闘った全国自動車労組日産分会の闘い(五三年)、炭労傘下の三鉱連の「英雄なき百十三日の闘い」と呼ばれた首切り反対闘争の勝利(五三年)、「地域ぐるみ」「家族ぐるみ」で闘われた尼鋼争議、日鋼室蘭争議(五四年)など、大規模で長期のストライキが相ついだ。単に上からの指令に従うだけの闘いから、職場や地域で組合員の自発的な参加による下からの盛り上がりが特徴であった。また、全繊同盟の指導の下で闘われた近江絹糸の女性労働者の百日間におよぶ「人権闘争」の勝利(五四年)は全国の労働者を大きくふるいたたせた。
こうした総評のアヒルへの変身に対抗し、民同右派はまたもや新たな分裂をひきおこした。五一年六月の国労新潟大会で敗れた民同右派が新生民同を結成するのを皮切りに九月、全鉱、全造船、全繊、電産の右派が結集して「民主的労働運動研究会(民労研)」を発足させた。趣意書は、「極左勢力は再び組合内部に深く侵入し、活発な潜行活動を展開するに至った。われわれは自由とデモクラシーを守る原則を堅持し、共産主義と対決する指導方針を確立した社会主義インターの立場に立ち、国際自由労連との組織的連携を明確にしなければならない」と述べている。
この流れは、五二年十二月の全繊、海員、全映演、日放労の四単産声明(総評の方針を現実無視の闘争指導、政治闘争の行動部隊的偏向、共産党と大同小異の宣伝などと非難)を経て、「民労連」の発足、さらには五四年四月、後の同盟の前身となる全労会議の結成へと進んだ。民労連の実践綱領には、「経済活動中心、非政党化、議会主義の尊重、暴力的闘争の回避」の基本的立場とあわせ、「スト権乱用の自制、労使協調の是認、政治闘争・画一闘争の排除」など当面の活動指針が盛られていた。全労会議は約八十五万人で結成されたが、運動方針には「単純な階級闘争理論や、よこせ式方針では、有効な闘争を組織することはできない」と総評の方針を批判し、「経営参加」を具体的方針としてうちだした。

以上のように、わが国労働者階級は敗戦と同時に嵐のような前進を開始し、急速に労働組合を組織し、自らの階級の団結した力、ストライキに頼って要求を実現し、未来をきりひらく道を歩み始めた。
戦後復興をめざすわが国独占企業、支配層にとって、労資関係でイニシアチブを奪還して「経営権」を確立することが最優先課題であった。彼らは、GHQの占領政策転換と銃剣に依存して、労働運動の非政治化、無力化に狂奔した。一方で謀略をふくむ徹底した弾圧、他方で露骨な分裂工作によって、労働運動から共産主義者を排除し、指導権を反共民同派に握らせた。
労働者は裏切り者の指導部を乗りこえて闘い始めるが、五五年頃までには「経営秩序」が確立し、労働運動は基本的に合法主義の枠内に封じこめられるようになった。
五三年四月に開かれた日経連の設立五周年総会は、「終戦後労働攻勢のいき過ぎによりまったく均衡を失した労使関係にたいして、経営権の確立を主張し、本来経営者のあるべき地位の向上を図り、労働法規の改定と労働協約の改訂を通じて一応の実績を収めることができた」「産業の混乱と職場のかく乱を企図する破壊分子を排除し、ひきつづき経営秩序の確立につとめた」と総括している。
一九五五年、政治の分野では保守合同による自民党結成、左右社会党の統一が実現し、いわゆる「五五年体制」が確立し、議会制民主主義による政治支配、「選挙で政治が動く」状況がつくられるが、それは労働運動を無力化することによって初めて可能となったのである。その意味でこの時期の労働運動の弾圧は、戦略的攻撃であった。  
(二)日本的労使関係の形成と発展、変容

 

戦後十年を経てわが国経済は地固めを終えた。一九五六年度経済白書では「もはや戦後ではない」といわれ、「今後の高い成長の原動力は、技術革新のための近代化投資でなければならない」と強調されていた。
ドッジ・ラインと朝鮮特需で復活をとげたわが国独占資本は、サンフランシスコ条約と日米安保条約で国家主権を放棄し、冷戦体制下で米国に資本、技術、原材料、市場を全面的に依存しながら発展をはかる売国的で、反人民的な経済発展戦略を選択した。重化学工業化をテコに、欧米に追いつき、追いこせという考え方のもと、最新の設備、技術を積極的に導入し、優秀で勤勉な労働力で安くて良い製品をつくり、輸出によって経済成長を実現する経済成長路線をとることとなった。
わが国独占企業にとって、積極的な技術革新と設備の近代化による大量生産が経営戦略となり、それに対応する労務管理の再編、労働組合の協力をとりつけることが不可欠の課題となった。
だが労使関係の実際は、ようやく独占企業の側の「経営権」が確立し、経営秩序が回復されたばかりで労使関係のルール形成は混沌(こんとん)としていた。
こうした状況を突破するために、決定的役割を果たしたのが、生産性向上運動であった。わが国独占企業、支配層は米国政府の指導と全面的支援をえて、日本生産性本部を設立し、労働組合を引きこんで、生産性向上運動を大々的に展開した。生産性向上運動は、敗戦直後の労働攻勢に見られたような階級的労働運動を一掃し、労働運動を経済重視・労資協調型に路線転換させる戦略的ねらいをもっていた。太田・岩井ラインの総評も、共産党もこの攻撃に正しく対処できず、その結果、わが国労働運動は長期にわたって支配層の許容する労働運動、経済主義、労資協調路線の支配を許すことになった。
生産性向上運動が浸透するにつれて、協調的な日本的労使関係が形成された。重化学工業をはじめとする独占企業では、終身雇用、年功序列賃金、企業別組合を特質とし、労使協議制を軸とする日本的労使関係が生成し、高度成長の中で発展し、定着した。「民主的労働運動」「労働組合主義」を標榜(ひょうぼう)する右翼日和見主義の分裂潮流は、生産性向上運動に積極的に加わることで、急速に労働運動内部での影響力を拡大した。だが、第一次石油ショックによる高度成長の破たんは、日本的労使関係の最初の試練となり、変容を余儀なくされた。
以下に、日本的労使関係の形成、発展、変容の過程をあとづける。

一九五五年は高度成長の始まりの年であった。政治の分野では「五五年体制」がスタートした。労働運動も主流であった総評の指導体制が高野から太田・岩井ラインに代わり、春闘の母体となる「八単産共闘」が発足した。いずれも、その後の歴史に大きな影響を及ぼす事件だった。
とはいえ、歴史の現実はそれほど単純ではない。
前に五五年頃までに労働運動は合法主義の枠内に封じこめられたと述べたが、実際には、六〇年までは依然として経営効率化や生産性向上、経済構造・エネルギーの転換をめぐって労資の対立は激しく、大企業においては鉄鋼労連、王子製紙闘争など闘いが展開されていた。また、一九五七年には国鉄新潟闘争、日教組の勤務評定反対闘争が闘われ、五八年には労闘ストを上回る戦後最大の動員で警職法を廃案に追いこんで勝利した。
こうした中、一九六〇年、安保闘争と結びついて日本を揺るがした三池炭鉱労働者の闘いが起こった。三池闘争は、直接には千四百七十一人の指名解雇攻撃を撤回させる闘いであったが、「総資本と総労働の対決」といわれたように労使関係の路線をめぐっての闘争であった。政府、支配層は石炭から石油へのエネルギー政策転換のために、わが国労働組合の最強の砦(とりで)をつぶし階級的労働運動を根絶するために、天王山と位置づけてのぞんだ。
三池炭鉱労働組合は「資本家に勝手にクビを切らせない」「去るも地獄、残るも地獄。闘ってこそ道はひらける」「資本家はいなくてもヤマは残る」と、国内外の労働者の支援を受け、三百十三日の長期ストライキを頑強に闘い抜いた。安保闘争の高潮と結びついて政府を揺さぶり、岸内閣を退陣に追いこんだ。労働者階級の組織された力、団結の威力をいかんなく示し、戦後労働運動史にその名を残した。だが、中労委への異例の白紙委任に応じた炭労、総評指導部によって闘いは収束させられた。
日経連は、この結果を「闘争至上主義的な労働運動」から「生産性向上、成果の分配という経済重視の労使関係」への転換ときわめて意図的に総括することで、労働組合の意思をくじき、階級的労働運動を根絶しようと攻勢をかけた。これに対して労働組合の側は正しく総括できず、全体として清算主義におちいり、政策転換闘争に流れた。職場闘争をはじめ豊富な経験を残した闘争であったが、その経験は十分に学ばれず、三池闘争を境に労働運動での職場闘争は大きく後退した。三池闘争は、戦後労使関係の路線をめぐる転換点となった。
(1)生産性向上運動が決定的役割を果たした
日本的労使関係が形成されるうえで、生産性向上運動は決定的役割を果たした。
一九五五年二月、米国の指導と援助のもと日本生産性本部が設立された。
米国政府は一億二千万円、日本政府が四千万円、財界が一億円の資金をつぎこんだ。郷司浩平が専務理事に就任、会長はその後経団連会長になる石坂泰三、副会長永野重雄、中山伊知郎、理事には足立正、有沢広巳、稲葉秀三、桜田武、植村甲午郎らの有力な財界人、有識者が名をつらねた。
財界四団体、政府、支配層あげての生産性本部は、対米輸出主導型の経済発展戦略に、国民を総動員するための総司令部であった。とりわけ、そこに労働組合を引きこめるかどうかに成否がかかっていた。したがって、生産性向上運動の綱領、政治思想面、イデオロギー面が重視された。
生産性向上運動の綱領ともいうべき「三原則」には、労働組合を引き入れることに最大限の神経が使われた。
「(一)生産性向上は、究極において雇用を増大するものであるが、過渡的な過剰人員に対しては、国民経済的観点に立って、能うかぎり配置転換その他により失業を防止するよう官民協力して適切な措置を講ずるものとする。(二)生産性向上のための具体的方式については、各企業の実情に即し、労使が協力してこれを研究し協議するものとする。(三)生産性向上の諸成果は、経営者・労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配するものとする」。
要するに、技術革新や設備の近代化による生産性向上に当たって、雇用を守り失業者は出さない、成果は「公正な分配」、つまり賃上げで分配する、これを条件に労働組合は経営者と協力して合理化を進めてくれ、というものであった。
そこには、わずかばかりの賃上げで合理化を推進するだけでなく、階級的労働運動を放棄させ、経済重視・協調型労働運動、いわゆる参加型労働運動に誘いこもうとする戦略的な狙いがこめられていた。戦後の嵐のような労働攻勢を経て労働者が経験的につかんだ、要求をストライキで実現し、政治の転換を実現する階級的労働運動を変質させようとする攻撃であった。
賃上げ額をあめ玉に、「企業の繁栄は労働者の幸せ」「労使関係はパートナー」という考え方が、職場の労働者一人ひとりにうちこまれた。まるで階級社会ではないかのような考え方が宣伝された。大規模かつ徹底的なイデオロギー攻勢であった。ちょうどこんにちにおける市場経済万能論が幅をきかせているのと同じような雰囲気がつくられた。
たとえば、郷司専務理事は自らマスコミを使って、「鶏を育てなければ卵はとれない」と「成果配分の理論」(パイの理論)を宣伝して労働者をたぶらかした。「現在、米国労組の多くは、技術部とか技術管理部を設けて、会社の生産性向上に協力している。いわゆるストライキ組合から、科学的合理主義の組合に変貌(へんぼう)しつつあるともいえよう。これは賃金を争う前に、賃金を生む生産性向上に協力する方が、労働者のために有利だと認識したからであって、御用組合化したからではない。鶏を育てなければ卵はとれない。鶏の育成を拒否して卵を要求しつづければ、やがて卵は生まなくなる。生産性向上は鶏をふとらすことだ。…日本経済の生産性が高まって、自立の裏づけがなければ、『独立と生活を守る』運動も、つまるところスローガンに終わるほかない」(「朝日新聞」五五年二月二十一日)
こうした理屈は、「民主的労働運動」をかかげる裏切り者にぴったりするもので、彼らに階級的労働運動と対決する理論的武器を与えることになった。日産争議でスト破りとして登場した塩路一郎は、つぎのように述懐している。「私の出身である日産労組が結成されたのは、昭和二八年八月三十日ですが、私たちのおかれていた環境、当時の経験、それから私たちが連携をとり、ともに民主化運動を闘っていた他産業の仲間がかかえていた問題、あるいは問題意識、そういうものをずっとふりかえってみて、まず指摘しておきたいことは、日本の民間の労働組合の生産性向上運動は、当時の階級闘争論の激しい嵐の中から生まれてきたこと。階級闘争路線に対峙(たいじ)するもの、あるいは対決する運動路線の重要な理念として、この生産性向上という問題を考え始めたということです」と。
こうして階級的労働運動を放棄させ、経済重視・協調型の日本的労使関係へ誘導していく政治思想上の準備がすすんだ。
労働組合を思想動員するうえで、実践的には米国への視察団派遣という方法が大きな効果をあげた。生産性本部が発足直後から啓蒙活動に大きな力をそそぎ、米国を訪問して生産性向上のための技術、経験などを学ぶ大規模な視察団をひんぱんに組織した。トップマネジメント、産業別、中小企業などの視察団とならんで労働組合視察団も相当数派遣された。五五年から十年間で約六百六十回、六万六千人の企業経営者、労組幹部、学者や官僚が送りこまれた。このような大規模な海外派遣は、明治期にプロシアからさまざまな国家制度を導入したとき以来の大規模なものだった。
海外視察団の報告をもとに、国内の企業間、労働組合間の交流が活発にすすめられた。労働組合の幹部たちが洗脳されるのに、それほど時間はかからなかった。
つづいて生産性向上運動の重点として取り組まれたのが、労使協議制の普及であった。これは、日本的労使関係の組織的実体的な準備となった。
「労使協議制の第一は、労使の利害共通の原則である」「労使協議制とは、労使が企業や産業の将来を考え、その安定と発展とに共通利害の場を発見し、それに協力するために話し合い、その過程を通じて相互理解をえて、協力関係をつくりあげることをその本来の目的とする」という考え方で労使協議制が次々と設置されていった。
導入の主な狙いは、団交権、争議権の事実上の放棄によって闘えなくなる組合をつくり、合理化に積極的に協力し、実質的には会社の労務課の役割を果たす組合に変質させるところにあった。実際、会社側から彼らにとって都合のよい材料を注入され、すっかり洗脳されてしまった幹部が、団体交渉でも一方的に押しまくられてしまうことがしばしば見られた。
まさに、「階級闘争意識を脱却する意味で協議制が必要になって」(中山伊知郎)いたのである。
こうして生産性向上運動の浸透につれて、労使協議制を軸とする「健全な」日本的労使関係が形成されるようになった。
(2)労働運動は路線を問われた
生産性向上運動は、まさに労働運動内部のすべての潮流に路線を深刻に問うこととなった。当時の労働組合の対応は、大きく二つに分かれた。
一方には、積極的か条件つきか別にして、賛成するグループが現れた。
全労(五四年四月結成)、総同盟、海員組合、全化同盟、全金同盟の「民主的労働運動」をかかげる潮流は積極的賛成派であった。このグループは、国際自由労連と同様の考え方に立ち、日本生産性本部に参加して運動の推進をはかり、企業の合理化に協力して労働条件や生活水準の向上をはかろうという路線であった。総同盟の総主事古賀専は、労働組合を生産性向上運動に引きこむ中心的役割を演じた人物だが、「労働組合が生産性向上運動に参加することは、民主的労働運動の理念の普及・徹底、健全な労働運動の発展に寄与するものであるとの認識に立脚したものである」と述べ、生産性向上運動に参加するねらいが、「民主的労働運動」の潮流の影響力拡大にあることを公然と述べた。
五五年秋には総同盟、海員組合が、正式に本部に加わった。総同盟会長の金正米吉が五六年四月から六三年十二月まで生産性本部で労働側の副会長をつとめた(六四年四月からは滝田実、七二年四月からは造船総連の古賀専)。また、電労連、自動車労連、全映演、日駐労も参加して五八年一月、「全国労働組合生産性討論集会」を開いた。
全繊同盟、新産別は、条件付き賛成派だった。かれらは基本的に生産性向上運動に賛成の立場だったが、日経連が独善的で雇用の拡大、生活水準向上の具体的保証がないから協力しないと、当初の参加を見合わせた。だが、全繊同盟も六〇年六月には正式加盟した。
他方、総評は生産性向上運動に反対の態度をとった。中立系組合も反対した。
総評は「MSA再軍備経済政策の一環で、経営者側が労使協力、生産性向上の美名の下に、労働強化と賃金抑制を図る手段を研究しようする機関だ」(五五年二月十日)といち早く反対の態度を表明した。五五年大会でも「日本経済の隷属化」を強め、「労働条件を悪化させ国民生活水準をいっそう引き下げる『機構』」と暴露し、「『労使協調の幻想』を与え、労働組合の『産報化』を図る」と批判した。
にもかかわらず、総評は支配層の戦略的狙いを見抜けず、正しく対処できず、攻撃をうち破ることができなかった。
一つの大きな問題は、支配層の戦略的ねらいが階級的労働運動を放棄させ、経済重視・協調型の労働運動への変質をはかるところにあること、したがってイデオロギー、労働運動の路線が根本的に争われていることが見抜けなかった。イデオロギー、路線面の闘いについては、いくらかの教宣活動はやられたが、支配層の大がかりな攻撃に抗するには、一時的できわめて不徹底だった。それは、高野体制に代わった左翼社会民主主義の太田・岩井ラインの経済重視路線とかかわりがあった。太田らは、「政治闘争」を否定はしなかったが、「高野指導部は政治カンパニアに急で、労働者の前進にとって重要な経済闘争に冷淡だ。労働運動とは労働者の即物的な現実的な要求を取りあげて、立ちあがってゆくべきものだと思っている」と批判し、賃上げを重視する「産業別統一闘争」をかかげて登場した。高野がどの程度階級的労働運動の路線に立っていたかは別として、こうした太田の路線では、経済重視・協調型路線への変質をねらう支配層の攻撃に立ち向かうことなどできるはずもなかった。
それゆえ、総評が実際にやれたのは個々の「反合理化」闘争であった。現場の労組にとっては、生産性本部が労使協議制の推進を呼びかけているもとで、どのようにして生産性向上運動に対抗しうる運動を構築していくかはむずかしい問題であった。先進的労組による取り組みが模索されたが、一九五四年の炭労三鉱連の経営方針変革闘争は、その一つであった。「首切りが出されてからスクラムを組み鉢巻きをしめるのではおそい」「従来の労使協議制を一歩こえて、基本的な方針の中にくいこんでいく努力をし、力をもつこと」が必要だとして、それを支える力を職場闘争の推進によってつちかっていこうとした。だが、こうした闘いを組むのは容易でなく、高度成長とともに反合理化闘争は弱まった。
共産党は、本来、階級的労働運動の立場にたつ潮流として生産性向上運動の戦略的攻撃と真正面から争い、左翼社会民主主義者を激励し、闘いを主導すべきであった。だが、五五年にようやく六全協で合法舞台に復帰したばかりで大衆的影響力も弱く、学者を中心に若干の理論上の批判ができたにすぎない。
だが、はっきりさせておかなければならないのは、共産党が生産性向上運動に正しく対処できず、以降の労働運動の停滞に責任があるということである。一九六八年に発行された共産党の戦後労働運動の総括文書の決定版(「労働戦線の階級的統一をめざす、労働組合運動の新たな前進と発展のために」)では、生産性向上運動と闘えなかった党としての責任ある総括がないだけでなく、生産性向上運動が階級的労働運動の変質に果たした役割についての認識すら示されていない。これは、共産党が一九六一年の第八回党大会で六一年綱領を採択、宮本体制を確立して、現代修正主義に転落したこととかかわりがある。議会唯一主義・修正主義に転落した共産党の最大の関心は、もっぱら総評内部で「政党支持の自由」をかかげて共産党の票をいかにかすめとるかにおかれた。支配層が生産性向上運動を通じて経済主義・協調型の労働運動への変質をはかろうとする攻撃と真正面から闘って、ストライキによって要求を実現し、階級的団結を強め、政治変革を実現していく階級的労働運動の路線を守ることなど、眼中になかった。共産党のこうした態度は、労働運動内部の左翼社会民主主義者との間に対立を生み、組織分裂さえひき起こして「民主的労働運動」潮流が主導権を奪還するのを助けた。
全労会議書記長の和田春生は、「生産性運動は労働運動に一番大きな影響を与えた」といっているが、いかんながらその事実は認めざるをえない。当時、主流であった太田・岩井らの総評指導部も、共産党も、生産性向上運動という敵の戦略的な攻撃に正しく対処できず、経済主義・協調型の労働運動への変質を許すこととなった。
この生産性向上運動をめぐる一大攻防の結果は、前に述べた三池闘争の敗北とも重なって、支配層に日本的労使関係の形成を許す転換点となった。
(3)春闘方式による賃金闘争、労使協議制の普及と「労働組合主義」潮流の台頭
1 春闘方式による賃金闘争の定着
こうした経過を経て、新技術の導入、生産設備の拡大は円滑に進められ、個別企業の繁栄とわが国経済の高度成長がもたらされた。五〇年代半ばから七〇年代初頭まで、わが国経済は若干の景気変動をともないながらも、年平均GNP実質成長率一〇%の高度成長を達成した。一九七〇年の鉱工業生産は五四年の約八倍になった。繊維中心の産業構造は、鉄鋼、造船、石油化学、自動車など重化学工業主導型に転換した。
企業活動の拡大にともなって雇用は拡大し、高い企業の収益は賃金などの労働条件の改善という形で「それなりに」労働者に配分され、生産性向上運動の「三原則」がある程度説得力をもつようになった。安定した労使関係のルールが形成されるようになった。独占企業の多くのところで、日本的労使関係の特質といわれる終身雇用、年功序列賃金、企業別組合が整備、定着するようになった。
生産性向上運動は、組合にとっては、春闘を定着させ、大幅賃上げを獲得する環境を整えた。春闘は、「日本の労働組合が企業(別)組合を主体としていることから、一定の時期に、全産業規模で闘いを集中して、賃上げの社会的相場をつくりだし、これを賃金水準向上のために二千万人におよぶ未組織労働者を含めて三千万労働者に拡大、波及させる」(総評定期大会報告、一九七一年)ものであった。
太田・岩井ラインのもとで五五年に始まった春闘は、六〇年代に入るといよいよ本格化した。池田内閣による「所得倍増」政策も大きく影響した。官公労が五六年に、鉄鋼労連と造船労組が五九年に加わった。ナショナルセンターレベルでも、五九年に中立労連が参加し総評とともに春闘共闘会議を設置した。六三年には、同盟会議と新産別が、同時期に賃金交渉をかまえることになった。
春闘共闘会議は六三年春闘で初めて、「ヨーロッパ並み賃金の獲得」をかかげた。六四年の太田・池田会談によって「公労協賃金の民間準拠方式」が確認され、春闘の賃上げ相場とその波及メカニズムが政府によって「公認」された。
どの組合が賃上げパターンを設定するか、主導権が争われた。春闘以前は、電力、石炭、官公庁が主要な役割を果たした。五五年から六五年までは、私鉄と鉄鋼がパターンセッターとなったが、その後は金属四業種(鉄鋼・電機・自動車・造船)を組織する金属労協(IMF・JC)にとって代わられた。それは、労働運動の主導権が民間大企業労組の方へ移行していく表れであった。
こうして春闘は、高度経済成長の十八年間に、年平均一一・二%の賃金アップをもたらした。だが、それは生産性向上運動にもとづき、合理化に協力することと引き換えであった。したがって、生産性上昇率は実質賃金上昇率をはるかに上回り、相対賃金(利潤と比較した賃金水準)は逆に低下する結果となった。
わが国独占企業は、労働者に一一%程度の賃上げをほどこしても、さらなる設備投資を可能にする資金を確保でき、輸出主導でかせぎまくって、またたくまに世界的企業に成長した。わが国は世界第三位の経済大国になった。こうした独占企業の儲(もう)けぶりと比較するなら、労働者の受け取り分はほんのわずかのおこぼれを手にしたにすぎなかった。
しかも、そうした賃金アップを受け取ることができたのは、独占企業に本採用された特権的な労働者に限られていた。年平均一一%の賃上げを手にすることができたのは、第一部上場企業のうち、資本金二十億円以上、従業員一千人以上の労働組合のある企業二百九十社(六四年以前は百六十社)の優良企業に働く労働者だけであった。
新鋭重化学工業確立期に多数導入された臨時工・社外工はラチ外におかれた。臨時工は、六〇年には自動車、電機で三割以上を占め、社外工もたとえば八幡製鉄では四割を占めていたが、彼らには差別的な低賃金、劣悪な労働条件が押しつけられた。また、わが国独特の二重構造の中で、大多数の中小、下請け労働者も低賃金にしばりつけられていた。労働者の中で圧倒的多数を占めるこれら「下層」の人びとには、終身雇用制や年功序列賃金はおよそ無縁であった。
日経連はことあるごとに「人間性尊重の経営」などといって「日本的経営」の理念を美化しているが、日本的労使関係の階級的実態はそのようなものであった。
2 労使協議制の普及と「労働組合主義」潮流の台頭
生産性向上運動は浸透して、ついに総評系組合の幹部や書記を参加させることに成功した。労使協議制は急速に普及し、六四年四月には労使協議制の具体的設置基準についての構想とそのモデルを発表した。六八年には、総評系からも参加して全国生産性会議が設立された。さらに六七〜六八年には、労組側の要請で繊維、セメント、電線、海運、石炭、自動車、電力、造船、鉄鋼、金属鉱業、電機などの分野で産業別労使会議・懇談会が発足した。七〇年には、政・労・使の産業労働懇話会が組織された。七五年には労使協議制は、一部二部上場企業全体の九割に普及し、参加している組合人員は七百万人を超えた。
こうした過程を通じて、労使関係の一方の側面をなす労働運動の内部では民間大企業を中心に「労働組合主義」をかかげる潮流が急速に勢力を伸張させ、これまでの「民主的労働運動」を標榜する潮流と合流して労働戦線の再編を主導するようになった。
「労働組合主義」の代表・宮田義二は、有力な組織者として登場し、労働戦線再編で大きな役割を演じた。六八年「鉄鋼連絡会議幹事会」発行の「労働組合主義とは 労働組合主義者の組織活動のために」という文書は、彼らの綱領である。そこには、「階級闘争反対」をかかげ、「合理化は成果配分」と生産性向上運動の綱領と見まがうものが堂々とうたわれている。
「A 労働組合主義は、合理化の根本にある資本の自由化、産業再編成に対応する産業政策の確立によって労働組合の主張と見解を明示し、労働者の利益を守る運動を展開します。
B 労働組合主義は、合理化に対する事前協議制の確立を図ります。この制度によって成果配分を正当なものにすると共に労働者の犠牲を事前に最小限にとどめる活動を展開します。
C 労働組合主義は、合理化問題について成果配分の立場で対応します。この立場は企業の繁栄によって労働者の生活向上が可能であり、合理化によって企業の繁栄が確保されることを前提に協力の姿勢を基本的にとります。この上に立って、成果については労働者の労働条件の向上に向けられるよう要求し闘います」。
また、労働組合主義は、「議会制民主主義を堅持する立場から労働運動を通じて現行資本制社会の改良による福祉社会の建設を目標にします」と明確に体制改良の政治的立場をとっていた。
この潮流は高度成長と生産性向上運動の中で急速に影響を拡大し、六四年一月ナショナルセンターを超えたIMF−JCを結成した。また、六四年十一月には同盟が結成された。六七年には、民間に関するかぎり、同盟の組織勢力が総評を上回り、総評は官公労組主体のナショナルセンターとなった。六八年、総評事務局長の岩井自身が「総評の危機」を認めた。
こうした一連の動きの帰結として、民間大企業を中心に団体交渉が形骸化し、ストライキ権の行使はほとんどなくなった。団体交渉にかける事項はいちじるしく少なくなり、生産計画、要員配置などは労使協議制で処理するようになった。また、団体交渉権が下部の職場から失われ、より上部機関へ移行して、「職場に組合なし」という状況が広がった。団交制度は維持されても、ストライキを背景にしないかぎり、組合の交渉力は大きく低下するばかりであった。春闘はしだいに、幹部請負のスケジュール闘争におちいった。
このような六〇年代を、支配層は「成長と定着の段階」と総括している(五五年までの労使関係は「波乱と曲折の時期」)。「そこには労働組合の組織率、全国組織の固定化、国際労働戦線のこう着状態があらわれている一方、労働争議については六〇年の三池争議、六五年の海員争議の二大争議を除き、あとは毎年くり返される春闘もしくは賃金争議だけであって、前期に比べてはるかに安定的とはいえないまでも定着的となった」(六六年版「労使関係白書」)。
六〇年代末には、高度成長を基盤に春闘方式が定着、労使協議制を軸にした日本的労使関係は安定化していた。
(4)石油ショック 「経済整合性」論、政策推進労組会議
一九七三年十月、第四次中東戦争を契機にしたアラブ諸国の石油戦略(原油価格の大幅引き上げ、生産削減)が、世界とわが国をおそった。第一次オイルショックは、わが国企業と経済社会に深刻な困難をもたらし、十八年間続いた高度成長は破たんした。卸売・消費者物価は二〇%前後と大幅に上昇し、まさに狂乱物価に見舞われた。実質GDPの伸びは戦後初めてマイナス(七四年マイナス〇・二%)となり、悪性インフレをともなう深刻な不況におちこんだ。
それまで右肩上がりの経済成長を基盤に順調に発展してきた日本的労使関係は、初めての試練に直面した。七六年版「労使関係白書」は、次のようにのべている。
「ひと口にいって成長の中の共栄が去って、不況の中の苦闘がきたのである。労使関係の近代化が長い成長の時代に育成されたものとすれば、いまはそれをテストする時代である。育成された近代的関係が本物かどうか、それは労使がこの不況の中で互にもち合う関係によって試されるであろう。問題は抽象的ではなく具体的である。止むをえざるレイオフや人員整理に対して労使のそれぞれがいかに対処するか。賃金交渉の論拠を何に求めるか。一つ一つの当面する問題が労使にとって死活の意味をもつことになる。いかにしてこれをのり切るか。そののり切り方に労使関係の将来がかかっているといって過言ではない。」
周知のように、わが国支配層はこの試練を乗り切り、「先進国一の経済パフォーマンス」を達成してその要因としての日本的労使関係は世界の賞賛をあびた。
わが国独占企業は、賃金抑制、「減量経営」という名の人減らし、ME(電算化)合理化で乗り切った。繊維、鉄鋼、アルミ精錬など「構造不況業種」ではスクラップを進める一方、加工度の高い機械や小型自動車など省力化・省エネルギー化の設備投資とME化による技術革新をすすめた。自動車産業では、世界に先駆けてロボットが導入され、NC工作機械の導入はいくつかの産業に無人工場を実現させた。このオートメーション化の波に乗って企業は、大幅に賃金コストを削減し、国際競争力を倍加して、輸出を伸ばした。
だが、企業のこうした経営戦略は本来なら労使関係を緊張させずには具体化できない。危機に臨んで支配層は、育成してきた「労働組合主義」「民主的労働組合」の指導者たちの助けを借りて乗り切ったのである。日経連はこのときの彼らが果たした決定的役割を評価して、のちのちまで感謝している。「日本の経済が難局を乗り切れた最大の要因は、民間企業が自由経済の原則を踏みはずすことなく、労使の理解と信頼、それにもとづく協調の精神の上に行動をしたことであった」(八二年版労問研報告)。
独占企業と政府にとって、危機乗り切りの最大の課題は、労働者の高まる大幅賃上げ要求を押さえこむことであった。七四春闘で労働組合は、春闘史上最大のストライキを打ち、二万八千九百八十一円、三二・九%の大幅賃上げを獲得していた。これへの対処が、緊急の課題になった。日経連は先頭に立ち、七四春闘直後に「大幅賃上げの行方研究委員会」(七九年以降は、名称を改め「労働問題研究委員会」として継続、その報告は毎年春闘前に発表されている)を発足させ、異例にも十一月に七五年度以降の賃上げのガイドライン(七五年は一五%、その後は一ケタに)を示し、世論を準備した。七五年三月には、日経連の呼びかけで金属四業種(鉄鋼、造船、電機、自動車)の社長・労務担当役員の春闘対策協議の場がもたれた。七六年以降、この四業種からそれぞれ二社が出て八社懇を形成し、「同額同時決着」方式を主導することになる。メンバーは、鉄鋼が新日鉄、日本鋼管、電機が日立、東芝、自動車がトヨタ、日産、造船が三菱重工、石川島播磨であった。政府も密接に連携した。福田蔵相が「物価問題では賃金が大きな原因であり、来年の春闘では民主的なガイドラインができることが望ましい」と応じた。
労働側で積極的にこれに呼応したのは、春闘相場に大きな影響力を持つ「労働組合主義」潮流のJCグループであった。
代表格の宮田がまず、鉄鋼労連の大会で「経済成長がマイナス成長になろうとしているなかで、前年度実績プラスアルファの賃上げパターンを続けることは難しく、今後は実質賃金の着実な引き上げを求めていくべきだ」と発言した。それは七五春闘で「経済整合性」論として提唱されるが、「前年度実績プラスアルファ」というそれまで続いてきた春闘方式を転換するものであった。天池同盟会長、宇佐美ゼンセン同盟会長が続いた。政策推進労組会議の前身である民間労組共同行動会議は、「現代インフレと労働組合」と題するシンポジウムを開催した。
産労懇はじめ、あらゆる機会に政労会談が行われ、政府は七五年三月までに消費者物価を一五%以内におさえる決意を表明した。
こうした政・労・使の合作によって、七五春闘の結果はシナリオ通り一三・一%に押さえこまれた。
七五春闘は、春闘のあり方を一変させた。以降、春闘相場は経済全体との「整合性」が主要な基準となり、対前年比を下回り、消費者物価上昇分程度の小幅賃上げとなった。七六年以降の七〇年代の賃上げ率は、八・八%、八・八%、五・九%、五・〇%と低下の一途をたどった。JCグループが主導する労使間の密接な情報交換、交渉を踏まえた「ストなし一発回答」「管理春闘」がパターン化された。
宮田らは財界、政府の高い評価を受けた。七五春闘時労働省労政局長を務めた道正邦彦は「労使なかんずく宮田、塩路、竪山、高橋(正男)、宇佐美その他の民間労組を主軸とする組合幹部各位のご理解とご協力を抜きにしては七五年の賃金・物価大作戦は成り立たなかった」と回想している。
これらの労働組合幹部は、独占企業の「減量経営」にも異を唱えず、甘んじて受け入れた。
それまで大量生産システムの拡大をめざしてばく大な設備投資が続けられてきた製造業では、素材産業などいわゆる構造不況業種を中心に抜本的な過剰設備対策が迫られた。MEの導入による「合理化」、経営の多角化・複合化がすすめられる一方で、「減量経営」の名の下に「雇用調整」が実施された。臨時工・社外工を大幅に削減しただけでなく、本工に対しても出向、配転、一時帰休、希望退職など大規模に「雇用調整」が押しつけられた。とりわけ大企業の人員削減はきびしく、東証一部上場企業八百九十五社の正規従業員数は、七五年三月の三百八十一万人をピークに、八〇年三月には三百三十九万人にまで一一%も減少した。
代わりに、商業、サービス業など女子パートタイマーが急速に増え始めた。製造業では、七〇年から八二年までの十二年間にわずか三万人の従業者増加にとどまった。素材型部門、とりわけ、繊維、鉄鋼、アルミなど非鉄金属や造船が厳しかった。繊維産業では、七〇年から八〇年の十年間に四十六万人、鉄鋼・非鉄金属産業では三十三万人が削減された。ゼンセン同盟では、七四年二月から八三年八月までの九年半の間に、同組合のある企業で倒産・企業閉鎖、工場閉鎖四百六十六件を含め千百五十五件の合理化があった。
独占企業の賃金抑制、「減量経営」の攻勢に、企業内で闘争を放棄し積極的な協力の態度をとった「労働組合主義」「民主的労働組合」の潮流は、それをカバーすると称して「政策・制度闘争」に転じ、インフレ抑制、税制改革などに力を入れ始めた。政策制度闘争を前面に押し出した参加型労働運動の展開である。
たとえば、同盟はインフレの克服には賃上げ、一時金などの生活防衛闘争だけでは不十分として「政府並びに産業、企業の政策決定過程に労働者が参加して、現行の政策体系を転換する行動を強化しなければならない」(同盟「参加経済体制の実現のために 中間報告」七五年一月)と政府の各種審議会の機能強化など「政策形成への参加ルート」の拡大を求めた。JCも「もはや単なる企業内の名目賃上げ中心の闘いでは、現状の日常生活水準の維持すら難しくなっている」と、生活闘争の領域を「企業内から公的・社会的消費の領域に拡大」し、総合生活闘争を推進する必要を説いた(「鉄鋼労連第二期賃金政策」)。
こうして七六年十月、政策推進労組会議が発足した。ここには民間労組の有力十六単産(総評二、同盟六、中立労連三、新産別二、純中立三)と一組織(全国民労協)が加わった(三百十七万人)。代表世話人には竪山電機労連委員長、橋本電力労連会長、運営委員には宮田鉄鋼労連委員長、宇佐美ゼンセン同盟会長、塩路自動車総連会長、太田合化労連委員長、小方全機金委員長が名を連ねている点に表れているように、ナショナルセンターの枠を超えた民間労組の結集体であった。後に事務局長には、初代連合事務局長となる山田精吾がついた。
この組織は政策・制度に限定して共同行動をすることを目的としていた。結成趣意書には、「高度成長から安定成長へと転換がはかられる中で、労働者の生活を守り安定させるためには、今日の諸々の政策・制度の抜本的な改革を図ることが必要不可欠」として、当面「経済政策」「雇用」「物価」「税制」の四つに重点項目を絞り、共同行動を推進すると書かれてあった。
注目しておくべきは、民間先行の労戦統一の母体としての役割がになわされていた点である。趣意書には、「(戦後最大の転換期という)情勢に対処するため、今こそ民主的労働組合が一致団結して、その責任と役割を果たさなければならない」と明記されていた。「こんにち、諸般の情勢から日本の労働運動全体が一体となって行動することは、多くの困難がある。…そこでまず、経済的諸問題で共通の立場に立たされている民間労組が結集して、当面の諸課題の解決のために積極的に行動を起こすことが重大であり、そしてこの積み重ねが大きな将来展望をつくり出す」。
それまでの労働組合の政策制度闘争は野党との連携ですすめられていたが、政推会議は政府・省庁、政権党の自民党との窓口を開き、直接働きかけることに力点をおいた。首相官邸への申し入れから始まって、各省庁との定期協議、自民党を含む政党、経済団体への要請行動を活発化した。政策課題では、減税、物価対策、行政改革で「成果」をあげた。こうした政推会議の行動様式は、労働組合の政治参加の新段階を画し、以降、連合の制度・政策要求に引き継がれた。
こうした政推会議の活動は、総評の主力をなした公労協のスト権スト(七五年十一月)が孤立させられて収束したこともあって、労働戦線再編での民間主導を促進した。「保革伯仲」の政治状況下にあった自民党は、政推会議との連携を労働戦線分断、野党分断に利用したが、政推会議はそのことで政治的比重を高めた。社会経済生産性本部は、総評的運動路線と決別することを公然と訴え、「今まさに、容共的革新か民主的革新かの二者択一を迫られている時、政策推進労組会議の行動がその道しるべとなることを心から期待する」と支持を表明、政策推進会議をパートナーにして「参加社会システム」の構築、「企業、産業、地域、国家の各レベルの政策決定に労使が参加できるような制度」の確立をめざす、とあけすけに狙いを語った。
こうした経過を経て八〇年代に入るや、支配層は総評労働運動の解体を目標に据えて、「行政改革」の下に官公労働運動に攻撃をくわえた。中曽根政権による国鉄の分割・民営化攻撃はその天王山であった。総評労働運動は、決定的な打撃を受けた。
こうして民間主導での労働戦線統一の動きが強まった。
七七年春には、賃闘対策民間労組会議が発足し、同年秋には民間労組を中心に「特定不況業種離職者臨時措置法」を成立させた。七九年九月「労働戦線統一推進会」が組織され(塩路、宇佐美、竪山、中村、田中のちに中川)、八一年六月「民間先行による労働戦線統一の基本構想」を決定し、アピールを発表した。統一準備会を経て、八二年十二月には、全民労協が結成された。

第一次オイルショックによる高度成長の破たんは、日本的労使関係の試練となった。
独占企業は不況を乗り切るために、それまでのような賃上げに反対し(したがって「成果配分」もなしに)、「減量経営」で人員削減の攻撃に出た。これは、生産性向上運動の三原則を破棄するもので、日本的労使関係の基盤を動揺させるものであった。
安定した日本的労使関係が継続できるかどうかは、労働組合の態度にかかっていた。JCを中心とする「労働組合主義」潮流の幹部は、その時、積極的に協力する態度をとったのである。日経連の賃金抑制攻撃の前に、「経済整合性」論でこたえた。「減量経営」も甘受した。こうして企業内での闘いを放棄しながら、「企業内ではもはや解決できない」と合理化し、政府、政権党に対する「政策・制度闘争」、政治参加による打開をはかった。いわゆる参加型労働運動の展開である。これは、経済闘争重視からの転換には違いないが、労働組合的政治にすぎない。支配層にとってこの変化は痛くもかゆくもなく、「望むところ」であった。こうして日本的労使関係は、若干の変容を経て「労働組合主義」潮流幹部の裏切りで延命することになった。
支配層にしてみれば、戦後初めて危機に直面して、長期に育成してきた「民主的労働運動」の指導者たちに救われる経験を持った。企業内の労使関係の不安を押さえただけでなく、そのことを通じて社会不安、ひいては議会制民主主義の危機を未然に防ぐためにも、彼らの役割は決定的であることを学ぶ機会となった。日経連の桜田武会長が述べた「日本的労使関係は社会の安定帯」という評価が、その後支配層の中で定評となったのには根拠がある。
宮田らJCの「労働組合主義」潮流の幹部、労働運動内部の日和見主義者たちは、その見返りとして支配層から陰に陽に支援を受け、労働戦線統一の指導権を確実にした。
このようにして日本的労使関係は、第一次石油ショックによる経済成長の危機にもかかわらず、破たんせず、維持され強まって「安定成長」を実現した。だが、それは矛盾の爆発が先延ばしされたにすぎない。
(5)プラザ合意 連合の登場
一九八五年九月のプラザ合意は、日本的労使関係にとって今ひとつの転換点となった。
わが国独占企業の土砂降り的対米輸出は、米国の対日貿易赤字を急増させ、自動車や半導体、工作機械などハイテク製品をめぐる日米貿易摩擦が政治問題となった。わが国の貿易黒字は急増し、八五年には世界最大の債権国となった。他方、同年、最大の債務国に転落した米国は、九月のG5でプラザ合意をとりつけ、ドル高是正に転じた。以降、急速な円高ドル安が進み、わが国輸出産業がダメージを受けるとともに、日本企業の海外進出が高まった。
わが国政府も八六年、前川レポートで輸出主導型から内需主導型への日本の経済構造転換の姿勢を示さざるを得なかった。
こうした経営環境の変化は、わが国独占企業の経営戦略に転換を迫った。特徴は、国内生産体制と海外現地生産体制とを一体化して強化するグローバル戦略を推し進める点にあった。電機、自動車などの各企業は、海外への事業展開を本格的にすすめ、アジアは強力な部品供給基地となり、米欧には貿易摩擦対策として戦略的進出が進んだ。製造業の海外直接投資は、八五年度の二十三・五億ドルから八九年度の百六十二・八億ドルへと急増した。製造業全体の海外生産比率は、八〇年代半ばの三〜四%が九〇年代には六%台にまで上昇した。とくに自動車、電機は二〇%を超えた。その結果、国内の産業「空洞化」が問題になった。
他方で、本業部門の徹底的なスリム化、ME・情報技術の導入による高付加価値化がすすめられた。鉄鋼や造船などでは経営の多角化・複合化によるハイテク、情報通信部門、サービス部門など成長部門への進出でリストラが大規模にすすめられた。鉄鋼では高炉の休廃止と人員合理化が計画され、大手五社合計の人員削減予定数は四万四千三百人と総従業員数の二五%に当たる規模となった。造船も日立造船の因島撤退が示すように設備、人員が削減された。主要造船所の従業員数は、八五年から八八年の間に、社内工が三万四千人から一万六千人に、社外工が一万八千人から一万二千人に削減された。
そして、新規事業分野への進出とも関連して経済のサービス化、ソフト化が進んだ。情報処理業、人材派遣業、警備保障業、レンタル業、通信販売、レジャー産業などのサービス産業が大きく伸びた。製造業でも、ブルーカラーが減少し、ホワイトカラーの比率が高まった。
経営戦略の急速な転換を行う場合、新規採用では間に合わず、配転、出向、中途採用に多く依存するようになった。八九年六月に発表された調査では、上場企業の八四%が他社への出向・転籍を実施、移動元の出向者等比率は六・五%、受け入れ先での受け入れ社員は総従業員の二二%にものぼった。
また、パート、派遣労働者など低賃金で不安定な労働者が増えた。八八年労基法改悪など労働法制が改悪され、フレックスタイム制、変形労働時間制、裁量労働制が導入された。賃金政策でも、職能・業績をベースにした職能給、年俸制、契約制という新たな方式がとり入れられた。
この時点で、日本的経営の終身雇用、年功賃金はすでに改編され始めていた。
プラザ合意による経営環境の変化は、独占企業の雇用・人事戦略の見直しを迫り、部分的には着手されたが、円高不況が短期に終わり、八七年半ばからバブル景気となって、全面的な具体化は先延ばしとなった。
こうした情勢を背景に、労働運動は全民労協を経て八七年十一月、民間連合が結成され、八九年十一月には官民を含めた連合が正式に発足した。友好組織を含め七十八組織、約八百万人、組織労働者の約六割強を結集するナショナルセンターができた。初代会長には山岸章、会長代行に藁科満治、事務局長には山田精吾が選出された。
前に述べたように、労働戦線統一を主導したのはJCグループを中心とする「労働組合主義」の潮流であった。八一年五月に発表された「民間先行による労働戦線統一の基本構想」によれば、労戦統一の目的は政策制度課題、国際化時代への対応、労働組合のもつ社会的、政治的力量の結集であった。
「基本構想」は、統一の必要性と目的の第一番目に政策制度課題をあげ、「労働組合が労働者の生活全般の向上を実現するには、企業内だけの運動では不十分であり、政府に対する物価対策、不公平税制の是正、雇用の安定などの政策制度闘争が展開されなければならない。しかし、これら政治にかかわるとりくみについては労働側が分裂状態のままでは力を発揮することは不可能である。とくに今日のような国会勢力の状況のもとでは、なおさら労働側の力の結集が急がれなくてはならない」と述べていた。「基本構想」は総評の中で激しい議論を呼び起こしたが、もはや流れを変えることはできなかった。
労戦統一を主導した「労働組合主義」潮流は、日本的労使関係の片棒を担ぎ、第一次石油ショックの試練に当たっては、独占企業を助け、「社会の安定帯」となった。採択された「連合の進路」には、「世界を襲った二度にわたる石油危機と急激な円高にも、わが国の経済は、労働組合の適切な対応と質量ともに優れた労働力の存在などがあって、その困難を乗り越え、諸外国に比べて順調に推移してきた」と書きこまれている。
民間連合が結成された時に日経連の鈴木永二会長が述べた談話には、支配層の連合への期待が率直に述べられていた。「いうまでもなくわが国の労使関係は、企業別の労使関係にその基礎をおいており、その事実には今後とも変化はあり得ないと思われる。しかし、急激な国際化の進展や産業構造の変化等により、労使が直面する課題の中には、企業レベルでは解決しにくい問題が増えてくることにも注目しなければならない。…とりわけ、最近の円高によりわが国の賃金は、先進諸国の中で最高レベルになったが、他方、勤労者の実質的な生活がその水準に及んでいないことは労使双方にとって大きな問題である。当面は、その原因をなす土地問題、農産物の価格、あるいは税制等に労使が共通の認識をもって対処することが急務であろう。さらには中長期的には、産業構造の変化に伴う雇用の問題、来るべき高齢化社会に臨んでの社会保障のあり方等が課題になると思われる」。「国際化」への共同した対処である。
八八年の日経連労問研報告では、土地問題、農業問題、税制改革などを取り上げ、労使が共同して世論形成し、対政府への働きかけを強めようと呼びかけた。それは、農畜産物の輸入自由化、増税、大店舗法の規制緩和など、国際化時代にあっての多国籍企業の利害を代弁するものであり、労働運動の上層を引きつけようとする階級政策であった。連合指導部はこれにこたえた。
連合のこうした「ゆとり、豊かさ、社会的公平」の要求は、前川レポートの流れに沿ったもので、宮沢内閣の「生活大国五カ年計画」に反映された。 
(三)金融グローバル化の大競争時代へ--日本的労使関係の崩壊

 

(1) 経営環境の激変-金融グローバル化と大競争
一九八九年のベルリンの壁崩壊に始まる東欧・ソ連社会主義の敗北と冷戦の崩壊、アジア諸国の経済発展は、世界の政治・経済を大きく変えた。
社会主義の敗北は、帝国主義者どもをして世界の労働者階級に対するイデオロギー攻勢を強めさせ、政治や労働運動の路線をめぐる闘争を後景に押しやった。市場経済万能論が流行し、わが国でも「社会主義」の言葉が労働組合の文書から姿を消した。情勢分析も、まるでこんにちの社会が階級社会でなくなったかのような説明が堂々とまかり通った。バブル経済とも結びついて、労働者の意識を混迷させた。
だが、帝国主義者どもが勝ち誇ったのもつかの間だった。冷戦崩壊後に現れた現実は、かつて経験したことのない「金融グローバル化と大競争の時代」であった。この国際環境の激変は、バブル崩壊と重なって、わが国企業に困難をもたらし、経営のあり方に根本的な変更を迫った。
冷戦が崩壊し、それまで十億人程度の先進国に限られていた市場経済に発展途上国や旧共産圏が参入、四十億人のグローバルな市場経済が現れた。世界全体を一つの市場とする大競争が始まった。今日のグローバル化は、単にモノ、サービスが国境をこえて自由に移動するようになったことを意味するにとどまらない。もっとも核心的な変化は、カネ、資本が国境を越えて自由に移動できるようになったことである。
八〇年代、米国の金融自由化に始まった流れは、九〇年代の冷戦崩壊を経て先進国のみならず、途上国でも急速に広がり、資本の自由化がかなりの程度実施された。その結果、わずかな金利差や為替変動の期待を求めて投機マネーが国境を越えて飛び交うようになった。加えて、情報通信技術の急速な発展がデリバティブのような金融工学を駆使した金融派生商品を生み、トレーダーたちが端末をたたけば多額の資金を瞬時に動かせるようになった。
財やサービスで動く数十倍もの巨大な投機資金(一日、一・五兆ドルといわれている)が、一握りの国際金融資本の手に握られ、血に飢えたように世界中に利を求めては弱いところに食らいつき、生き血をすすって肥大化した。発展途上国は、一番のカモにされた。
だが、資金を必要とする発展途上国にとって、資金が簡単に手に入ることはありがたい。こうして九六年ころまでは「グローバル化は世界に繁栄をもたらすもの」と楽観的に評価され、「市場原理主義」の風潮が世界中をおおっていた。エマージング・マーケット(新興市場)といわれるところには、膨大な投機資金が殺到した。たとえば、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、韓国の五カ国には、九四年から九六年のわずか三年間で二千二百億ドルの民間資本が投じられた。「アジアの興隆」は、こうした資金が大きな役割をになったのである。
だが、資本の論理は非情にして冷酷である。利があるところにはわれ先に殺到し、危ないとみるや引き上げる。九七年タイの通貨危機に始まるアジア金融危機で、アジア五カ国からは、千百億ドルもの民間資本が引き上げ、これらの国々の経済と生活水準はいっきょにどん底に陥った。
九七年のアジア通貨危機から始まった金融危機は、九八年ロシアを経て、ブラジルなど途上国全体に連鎖的に波及、最後にはヘッジファンドのロング・ターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)の破たんとなって国際金融資本の本拠地、米国を襲った。
この一連の世界的に波及した金融危機は、大量の短期資本を握るヘッジファンド、背後にいる国際金融資本がいかに世界中で荒稼ぎしていたかを暴露すると同時に、このグローバル資本主義が構造的に不安定であることを露呈し、世界がこれ以上の危機に耐えられないことを示した。クリントン米大統領は、「この五十年間でもっとも深刻な金融危機」とあわてた。
九八年秋に世界的金融恐慌寸前を経験した後、先進国政府間で荒れ狂う短期資金の動きをコントロールする必要さは確認されたものの、実効ある具体策は見出されていない。したがって、目前の危機は去り、何ごともなかったかのように過ぎているが、嵐が再び来ないという保証はないのである。また今度危機が起きた時には、先進国を巻き込まないという保証はどこにもない。米国の株の暴落というリスクも抱えている。
日本の独占企業家たちが直面している金融グローバル化の大競争時代というのは、このようにかつて経験したことのない世界である。
血に飢えた国際金融資本が虎視眈々(こしたんたん)と獲物をねらってうごめいている中で、世界的巨大企業、金融資本同士が激しく争い、合併、買収、提携が日常的に起こっている。ここ数カ年の間に起きている米国、欧州、日本の巨大企業同士の合併、買収、連携による大再編は、百年に一度の現象だといわれている。そして、いわゆるIT(情報技術)革命が、競争にいちだんと拍車をかけている。
市場がすべてを決定する時代、個々の企業家にとっては投機家の圧力に始終さらされ、「勝ち組」と「負け組」の二極に仕分けされる時代に舞台が移ったのである。グローバル市場の信頼を失った企業は、一国政府がいかに支えようとしてももはや支えきれず、退場を迫られる。企業は投機家がどう見ているか、かれらの猛威におびえながら世界の企業家たちと競争しなければならなくなった。
かつて世界から賞賛された「日本的経営」が、まったく通用しなくなったのである。これまでのように「良いものを安く」作って売上高とシェアを拡大するやり方だけでは、グローバル市場で勝ち残れなくなった。単に生産コスト競争力が強いだけではだめで、効率的に収益をあげ、株主の利益が保証されるかどうか、わずかな差益をも見逃さない投資家に魅力があるかどうかこそが決定的となった。
(2)企業、支配層の新たな対応策-「資本効率重視の経営」への転換、新たな雇用・人事戦略
こうした金融優位のグローバル市場で勝ち残るために、わが国企業は経営戦略の根本的転換を迫られた。これまでの「日本的経営」は通用しなくなり、グローバル・スタンダード(世界標準)経営への転換が避けられなくなった。
九八年四月、経済同友会が発表した第十三回企業白書は、それを率直に認めた。
「市場主義は世界共通のルール」と確認し、「日本だけが出遅れるわけにはいかない。日本経済と企業は日本的経営ともてはやされた過去の成功体験にとらわれず、市場主義経済へ思いきって舵(かじ)を取る必要がある」と「資本効率を重視する経営」への転換を提言した。さらに、「資本効率を重視することによって利益をあげ、利益をあげることによって企業の価値と人びとの企業への投資インセンティブを高め、有利な資金調達で積極的に事業を展開して成長していく」「もはや市場と直結したサイクルを維持し、強化できる企業しか生き残れない。歴史が今、それを証明しはじめている」と述べている。トヨタ自動車の奥田会長は、「超競争時代の動きを俊敏、的確にとらえ、グローバル・スタンダードに適合した経営を実践することはもとより、自らもデファクト・スタンダード(事実上の標準)を確立する」(九八年年頭あいさつ)と、経営改革の決意を述べた。
「日本的経営」からグローバル・スタンダード経営、すなわち「資本効率を重視する経営」への転換は、企業自身のさまざまな組織再編を伴ったリストラ・ラッシュとなって、労働者の雇用と働く環境そのものを劇的に変えている。
独占企業は資本の効率的活用のために、経営資源を高収益部門に特化・集中する一方、低収益・不採算部門を閉鎖・売却する「選択と集中」を展開している。また、過剰設備を解消するために、資産リストラに積極的に取り組んでいる。
また、それと並行して持株会社、分社化、アウトソーシング、国境や企業グループの枠を超えた買収・合併、戦略的提携など、組織改革と再編が積極的に進められている。
さらに、実施され始めた会計基準の変更(連結決算、時価中心)は、親企業の利益重視の経営からグループ全体の企業価値の最大化へ変化を迫り、そのためグループ企業の再編が進み、事業の「選択と集中」が加速的に行われることになる。
まさに、労働者にとって「気がついたら別会社」という事態が進んでいる。
しかも、わが国独占企業はこうした個別企業での努力だけでは、激化する国際競争に勝ち残れない。支配層は、「高コスト構造の是正」と称して社会的コストの削減、とりわけ税財政コストの引き下げを求め、規制改革、構造改革、行財政改革を進めている。
この間も、物流、流通、旅客運送サービスなど非製造業分野での規制緩和が進められた。さらに、「生産性が低い」小売、食品加工、住宅、医療の各分野で、参入自由の確保、競争の促進、退出の促進などによって業界構造を変えようとしている。
とくに当面大きな問題は、税、財政改革である。「大きな政府」は、企業にとって最大の社会的コスト負担となっているからである。経団連は、政府債務残高が六百四十五兆円、GDPの一三〇%にまで危機的になっているとして、財政再建と規制改革を結合して打開しようとしている。「歳出の二割を占める社会保障や地方交付税、また、歳入の六割に満たない現行の税制を抜本的に見直せ」「年金、医療、介護、福祉の各制度について、給付と負担のあり方を見直せ」と要求している。公務員への成果主義賃金・人事制度の導入ももくろまれている。
こうしたかつてない大規模な企業組織再編、組織改革、それに加えての規制改革、構造改革は、あらゆる産業部門で下請け中小企業労働者はいうまでもなく、独占企業のホワイトカラーを含むすべての労働者の雇用と労働条件、生活条件を翻弄(ほんろう)し、経験したことのない不安につきおとさざるをえない。
たとえば、日産「リバイバルプラン」というリストラ策は、村山工場、愛知機械港工場、日産車体京都工場をはじめ五工場を閉鎖、グループ企業全体で二万一千人の人員削減、三年間で下請け・取引企業を半減し、購買コストを二〇%削減するものであった。これは、当該の工場と関連会社に働く労働者の雇用、労働条件を一変させた。工場閉鎖が決まった村山工場の労働者は、その日から遠隔地配転に従うか、「退職」するかが迫られた。下請け価格の大幅削減を要求された関連企業では、倒産・廃業するところ、労働者の首を切るところ、出向・転籍でしのぐところなどなど、労働者の運命はまさに木の葉のごとしである。
すでに市場から敗退した金融機関や企業からは、膨大な数の労働者が街頭に放り出された。合併では、人員削減はつきもので、関連企業への労働条件の引き下げを伴う出向・転籍、あるいは「希望退職」という事実上の首切りが待っている。遠隔地への単身赴任が言い渡されるかもしれない。今日まで働いていたところが、明日は別会社になり、人員削減の対象になるかもしれない。米欧人の社長に代わり、米欧流のドライな処遇と労使関係に当面するかもしれない、など。
市場の評価いかんで企業そのものがなくなるリスクがある以上、労働者の雇用・労働条件の安定など保証の限りではないのである。
こうした組織再編、リストラが展開される中で、それぞれの独占企業内では新たな雇用・人事戦略が具体化されている。
その一般的方向は、九五年五月、日経連が発表した「新時代の日本的経営−挑戦すべき方向とその具体策」(注)だが、もはやこれとて生ぬるくなっている。
経済同友会の第十四回企業白書(九九年二月)は、「『個』の競争力向上による日本企業の再生」という提言で、雇用・人事戦略へのより徹底した市場原理導入を訴えた。「『先が見えない』かつ『変動幅の大きな』市場環境下では、『いま』こそが真実であり、決定的に重要である。…人材面においても成果主義化、報酬の短期決裁化、労働力流動化こそが企業経営を襲う経済的嵐や地震に耐えうる柔軟な構造につくり変えることになる」。
ごく一握りの「国際競争力のある人材」に高報酬を与えることによって労働者同士を競争に駆りたてる一方、全体として人件コスト削減を最大限追求して、総額人件費管理の徹底、正社員の派遣、パート・アルバイトなど「安あがり」の労働者への置き換えなどを進めている。
こうした企業の新たな経営戦略、雇用・人事戦略をあと押しするために、ここ三〜四年、政府は戦後史を画する企業法制、労働法制の改悪、新設を次々と強行した。
企業法制でいえば、一九九七年二月に純粋持株会社の解禁、九九年七月には株式の交換で組織再編を容易にする「株式交換制度」容認、九九年八月にはリストラを支援する「産業活力再生法」の新設、九九年十二月民事再生法、二〇〇〇年五月には「企業分割」に関する商法改正が行われた。
労働法制も九七年六月、女子保護規定の撤廃、九八年九月、有期雇用契約期間や裁量労働の拡大など労働時間の弾力化、九九年十二月、原則自由とした労働者派遣法改定、二〇〇〇年五月、民間職業紹介解禁の職安法改定など、次々と成立させられた。
これらの法制化の動きは、グローバル化時代にわが国企業が勝ち残るための環境整備であり、徹頭徹尾、企業本位で、労働者の利害など何一つかえりみられていない。
「資本効率を重視する経営」とは、結局のところ、労働者の徹底的な犠牲で資本の側が高利潤をあげる経営である。日本的労使関係の特質である終身雇用制、年功序列賃金は、企業自身の手で反故(ほご)にされている。したがって、金融グローバル化の競争激化の下で、かつてのような一つの企業内で「良好な」労使関係が維持されると期待することは、まったくの幻想となった。 

注 日経連の「新時代の日本的経営−挑戦すべき方向とその具体策」で提言されている雇用・人事戦略の内容は、以下の三つに要約できる。
第一の柱は、終身雇用制を転換し、雇用を流動化させ、企業が必要な人材を必要なとき、必要なコストで確保できるように緩和した。
今後の雇用形態としては大別して三つ−「長期蓄積能力活用型グループ」「高度専門能力活用型グループ」「雇用柔軟型グループ」のタイプを想定、「企業は常に仕事、人、コストを最も効果的に組み合わせ、職務構成と能力構成との関係をチャレンジ型、ダイナミックな形態にしておくことによって、能力や勤労意欲を高め、活力ある企業経営を実現するための『自社型雇用ポートフォリオ』の考え方を導入すべきである」という。
第二の柱は、複線型の人事処遇制度の採用である。
「人間尊重」と「個の主体性の確立」をベースに、従来のライン昇進の単線型から、あらたに職務にリンクした職能資格制度を導入し、昇進・昇格は厳密な業績評価の上に複線型を採用する。これからは、努力次第で過去の失敗をいつでも取りもどせる、いわゆる『敗者復活』が可能となるチャレンジ型、加点型の人事制度を導入する必要がある、という。そのために、専門職の育成・活用制度の確立が提起されている。
第三の柱は、賃金管理である。
一つは、総額人件費管理の認識のいっそうの徹底である。高コスト体質を改善するために、賃金、賞与に加えて退職金、福利厚生費などをパッケージにして管理する方法の徹底を提言した。二つは、現在の年功的色彩の濃い定期昇給の定義や運用を改め、年俸制を導入するなど、成果、業績によって上下に格差が拡大する、いわばラッパ型の賃金管理が提言されている。賞与制度をいっそう業績反映型にすべきであり、退職金制度を貢献度反映型にすべきだとしている。
(3) 労働者状態の急速な悪化
独占企業の新たな資本効率重視の経営戦略、それとリンクした雇用・人事戦略の具体化と支配層の規制改革、構造改革が進むにつれて、雇用と労働条件は様変わりし、労働者階級の状態は急速に悪化している。
1.失業者が急増している
バブル崩壊後の九二年ころから、独占企業を中心に大規模な「雇用調整」、人員削減が実施されてきた。わが国の名だたる多国籍企業、大企業での「雇用調整」が目立っている。とりわけ、九九年春闘時には人員削減の嵐が吹いた。
日立製作所が六千五百人(九九年度中)、NECが一万五千人にのぼる「人員削減」計画を発表するや、独占企業各社はセキを切ったように次々と大規模な人減らし計画を発表した。
目立つものだけでも、日産ディーゼル(九九年中に三千人)、東芝(二年間で七千人)、松下電器四千人(二〇〇〇年度を目標に)、ソニー連結社員数一万七千人(四年間で)、沖電気二千七百人(二年間で)、三菱化学二千人(三年間で)、日本精工一千人(二年間で)、王子製紙二千人(三年で)、公的資金注入の大手銀行十五行計で一万九千六百人(四年間で)、野村証券二千人(二〇〇〇年春まで)、ダイエー三千人(三年間で)など。日野自動車の社長は、目標が達成しないなら正社員のナマ首を飛ばすと口にした。
秋には、二万一千人を削減する衝撃的な日産リストラが発表された。
こうした独占企業のリストラは、系列下にあった中小企業の倒産や首切りを伴って、全体として失業率を押しあげる主な要因となっている。
また、「高コスト構造の是正」を口実にして規制緩和が進められ、私鉄、バス、タクシー、物流、流通、港湾運送などで失業者が増加した。
七〇年代前半までは一%台前半だった完全失業率は、八〇年代に二%台に上がり、九五年には三・二%と三%台になった。以降、九六年三・三%、九七年三・五%と増加の一途をたどり、九八年にはついに四・三%にはねあがった。二〇〇〇年三月の完全失業率(季節調整値)は比較可能な一九五三年以降の最悪を記録し四・九%となった。
総務庁が今年四月に発表した「労働力調査特別調査」によると、今年二月の調査時点での完全失業者数は三百二十七万人にのぼった。
うち、失業期間が一年以上の失業者数は前年に比べ十二万人増の八十二万人に達した結果、失業者の四人に一人が一年以上の長期失業者となっている。失業期間が一年以上の人数は八年連続増加した。
倒産やリストラになど「非自発的な理由」による失業が多くなっており、前年比一万人増の百三万人となり、「自発的な理由」による失業者は減って両者の数は拮抗(きっこう)状態となった。非自発的理由の内容についてみると、「人員整理・会社倒産」が三十四万人と最も多く、ついで「その他勤め先や事業の都合」(二十七万人)と「定年」(二十六万人)がほぼ同数で続いている。
わが国の失業者は、単純に計算しただけでも九二年から八年間の間に百八十五万人も増え、二・三倍になった。九八年以降は量的に拡大しただけでなく、質的に深刻さを増している。昨年は米国の失業率と逆転し、まさに失業大国となった。
2.雇用形態の流動化が進んでいる
「正規の職員・従業員」が削減され、「パート、アルバイト、派遣労働者」などの無権利で、低賃金の、いわゆる不安定労働者が急速に増えている。
「労働力特別調査」によれば、役員を除く雇用者数は、対前年比十万人減の四千九百三万人だった。うち、「正規の職員・従業員」の数は、前年比五十八万人も減り、三千六百三十万人(構成比七四・〇%、前年比五・八ポイント減)となって、三年連続で減少した。とくに九八年からの「正規の職員・従業員」の減り方は急激で、この二年間で百六十四万人が減少した。
これに対して、「パート・アルバイト」は千七十八万人(同二二・〇%)と前年より五十四万人増加、六年連続の増加となった。
また、労働省が六月発表した「一九九九年就業形態の多様化に関する総合実態調査」によれば、全労働者に占める非正社員の割合は二七・五%で、九四年に実施した前回調査から四・七ポイント上昇した。非正社員のなかでもパートタイマーのいる事業所の割合は五六・〇%と半数を超えている。非正社員を雇用する理由としては「人件費の節約のため」が最も多い。
3.賃金の差別化と引き下げ
成果主義、能力主義の賃金システムの導入は、当初は管理職がその対象だったが、こんにちでは一般社員にまで拡大してきており、職場にさまざまな矛盾と不満を呼び起こしている。
第一に、労働者間の競争をいっそう激しいものとし、労働者間の賃金格差をいちだんと拡大している。かつての年功制賃金の恩恵に浴してきた中高年層の労働意欲を減退させている。
第二に、若手から中高年の労働者にいたるまで、能力・成果主義賃金制度の評価システムには大きな不満がうずまいている。評価の基準が不透明、不満(七三・九%)、評価者や仕事の職種などで評価が変わる(六〇・五%)などがそのおもな内容である(日経BP社アンケート)。
第三に、成果をあげても不況で収入は増えていない。九八年にくらべ九九年の年収が減った(二七・二%)。変わらない(二七・三%)と半数以上が前年にくらべて年収が増えていない。その理由を、「会社の業績低化」と答えた比率は六六・八%におよんでいる(同)。
こうした差別賃金がまかり通るなかで、現金給与総額二年連続マイナス、実質賃金三年連続減となった(毎月勤労統計調査、平成十一年度分結果)。ボーナスが五・二%減少となったことから、現金給与総額は〇・八%減の三十五万四千百六十九円と二年連続の減少となった。実質賃金は〇・二%減と三年連続の減少となった。
また、賃金格差はむしろ拡大した。労働省の「賃金構造基本調査」(九九年三月発表)によると、九八年の男性の賃金について大企業(常用労働者千人以上)を一〇〇とすると、中企業(同百〜九百九十九人)は八四、小企業(同十〜九十九人)は七七。五年前に比べ格差は拡大している。
「毎月勤労統計調査」(労働省)で五百人以上を一〇〇として、各年の規模間格差をみると九五年百〜四百九十九人規模で七九・七、三十〜九十九人規模で六一・九、五〜二十九人規模で五五・八だったものが、九七年にはその差がそれぞれ七七・七、六二・七、五四・六まで拡大している。
九九年「連合白書」をみても、賃金の企業規模間格差がここ数年拡大傾向にあることがわかる。男性三十五歳勤続十七年の年収は、五千人以上と三十〜九十九人の間に百八十万円近くの差がある。毎月の平均給与・手当では六万円弱だが、賞与ではその格差が二・二倍まで拡大した。この格差は、ここ数年拡大基調にある。
4.労働強化とメンタルへルス
連合の「第三次緊急雇用実態調査」(一九九九年十二月〜二〇〇〇年一月実施、加盟民間単位組合四千四百二十三から回答)によれば、人員削減が進む中、大企業になればなるほど労働密度が強化される傾向があり、七八・〇%が「きつくなった」と回答している。「雇用調整」の有無との関連では、「雇用調整あり」のところが「きつくなった」人の割合が高くなっている。
この結果とも関連して、従業員数の削減が職場のメンタルへルスに重大な影響を及ぼすことが明らかになった。社会経済生産性本部の「経営指標とメンタルへルスに関する調査研究」によれば、従業員の減少は、上司・同僚との関係悪化、帰属意識の低下、仕事の負担感の増加、仕事の正確度の低下、将来の希望の減退と相関関係があったと結論づけている。
リストラは、職場の労働者に労働強化となってはねかえり、心を傷ませている。
(4) 支配層の危機救う連合指導部の対応
金融グローバル化の大競争時代に入ってわが国独占企業は、国外の独占企業と死活をかけて闘うだけでなく、もう一つの戦線、企業内部の労働者との激しい闘いを余儀なくされている。わが国の独占企業、支配層は長期にわたって重宝にしてきた労働者支配のシステム・日本的労使関係を、彼ら自身の手によって破壊せざるをえなくなっており、圧倒的多数の労働者を敵に回さざるをえなくなっている。
では、独占企業、支配層は、この局面をどう切り抜けようとしているか。
日経連は「新たな労使関係の方向と課題」(一九九九年五月)と題する提言を切り抜け策として提起した。
(1)企業と従業員、労働組合との立場、役割などを従来以上に明確にしつつ日本の良さを生かした労使関係を築く努力を、労使は今後とも続けていく必要があること。
(2)多様なチャンネルを活用した透明度の高い労使の話し合い、経営環境の変化に迅速かつ柔軟に対応できる労使関係を目指すこと。
(3)情報、危機意識を共有化し、経営の安定・発展と雇用の確保などに労使は知恵を出し、行動する労使関係を志向すること。
(4)労使の考え方、行動が国民全体に大きな影響を与えるため、労使は社会の安定帯として国内外から評価されるよう今後とも努力をしていくこと。
いろいろいっているが、決め手になりそうなものは何もない。実際には圧倒的多数の労働者にかつてない攻撃をかけながら、「あらゆるレベルでの労使の話し合い」なるぎまんの泥沼に労働者をひきずりこみ、不満の爆発、労働者の闘いを押さえ込もうとする策略である。それは、もはや雇用を守ることも、公正な分配を行うこともできず、労働者の犠牲でしか勝ち残れなくなった独占企業が、これまで育成してきた労働組合の日和見主義指導者たちの助けを借りて、もう一度危機を切り抜けようとするものである。独占企業には、もはやそれ以外に手がなくなっている。
労働運動の前進を願うものにとって、またとないチャンスが来ている。
このような時、最大のナショナルセンター・連合の指導部をにぎる潮流は、どう対処しようとしているか。
彼らは、「二十一世紀の労働運動の基本戦略」(九九年十月、第六回大会)として、「あらゆるレベルにおける参加を追求する」ことを提起している。「企業レベルにおける労使協議の深化、産業レベルの労使協議の制度化を通じて、産業民主主義を強化しなければならない。さらに、社会的分配の観点から、国(地方)レベルの政策形成に積極的に参加していく。参加なしに、企業、産業レベルの分配の公平は担保されないし、マクロにおける完全雇用と福祉国家の構築も実現を期しえない」というものである。
驚くべきことである。日本的労使関係の破壊にのりだしながら「あらゆるレベルでの話し合い」を説く支配層のぎまんを徹底して暴露し、闘いを呼びかけるべき立場にある連合指導部が、あろうことか支配層の切り抜け策にぴったり呼応する方針を「労働運動の基本戦略」として提起しているのである。支配層の「あらゆるレベルでの話し合い」に対して、「あらゆるレベルでの参加」と呼応している!
「二十一世紀型」の歴史的危機が迫り、わが国独占企業が二つの戦線で死活をかけた闘争を余儀なくされているとき、連合指導部の参加路線は、彼らの窮地を救い、労働者の闘いの発展を妨害する最大の裏切りといわなければならない。
すでに見てきたように参加路線は、戦後の労働攻勢、労働運動の階級的戦闘的発展をおしとどめ、体制内化、非政治化する上で決定的な役割を果たしてきた。一九五五年以降、生産性向上運動を通じて形成されてきた日本的労使関係、その片棒を担ぐものとして登場してきた「民主的労働運動」「労働組合主義」の潮流が唱えたものが参加路線であった。生産性向上運動の「三原則」と労使協議制を軸とする参加路線下で、高度成長期には労働者はいくらかのおこぼれを手にしたものの、ますます経済重視・協調型に変わり、職場闘争は大きく後退した。
石油ショックに当面すると、参加路線は個別企業にとどまらず、産業レベル、政治レベルまで拡大し、支配層といっしょに危機を乗り切り、「社会の安定帯」とほめられるようになった。連合の結成によって、参加路線は労働運動全体を支配し、ストライキを忘れ、もの分かりのよい労働運動にいっそう変質した。
連合指導部の参加路線の提起は、こうした戦後労働運動の中で果たしてきた犯罪的役割をさらに「発展」させ、いわば決定的瞬間に労働者階級を裏切るものである。
だが、参加路線の無力さと犯罪的役割も暴露が進んだ。連合結成から十年、とりわけ後半五年の間に、連合の参加路線は賃上げでも、雇用でも、制度・政策闘争でも無力さをさらした。
春闘での賃上げ結果は、九〇年は五・九%、約一万五千円であった。二〇〇〇年春闘では二・一%で過去最低を更新し、大企業でゼロ回答が続出した。二五%もの組合が「未解決、要求見送り」で大企業と中小の賃金格差は拡大している。そうして日経連に呼応して「春闘不要論」を公然と唱える電機連合のような動きが出てきて、賃金闘争すらおぼつかなくなっている。
連合の参加路線の無力さぶりをさらしたのは、独占企業のやりたい放題のリストラに何一つ闘いをくめなかったことである。日経連との雇用創出協定でお茶をにごした。「九〇年代の困難な時期においても、日本型労使関係があったがゆえに失業を抑制してきた」などというのは、みえすいた自己弁護である。まっとうな人なら、連合指導部の参加路線ゆえに、日本的労使関係を信じ続け、企業側のやりたい放題のリストラ策を許し、米国をしのぐ失業大国となったというにちがいない。
組織率がこの十年、低下の一途をたどってきたことは、連合の無力さを裏書きするものである。八九年には組織率は二五・九%であったが、九九年には二二・二%、三・七ポイントも減少している。ここには労働者大衆の、連合運動に対する評価が表れていると見るべきである。労働者は闘わない労働組合に何の魅力も、共感も覚えないのである。
さらに連合指導部は、財界のための政治支配の危機を救う犯罪的役割を果たした。
連合の結成を前後して、自民党の一党支配は崩壊の危機に瀕(ひん)し、グローバル競争にうち勝つうえで、財界のための新たな政治再編が緊急の課題になっていた。労働運動がストライキで闘えれば、財界の政治支配をうち破る絶好のチャンスであった。だが、参加路線の連合指導部が果たしたのは、それと反対のことであった。
一つには、財界と気脈を通じ、社会党を解体の危機に追い込んで財界のための政治再編に手を貸した。九二年四月発足した「民間政治臨調」(会長は亀井正夫住友電工相談役、副会長は得本自動車総連会長)に連合指導部のメンバーが加わり、保守二大政党制への再編を望む財界と気脈を通じた。九三年総選挙での自民党の過半数割れを契機にはじまった政治再編に山岸会長自ら小沢一郎と連携し、社会党を解体に追い込む役割を演じた。連合指導部は、企業内での協調にとどまらず、国政レベルでも財界のパートナーとなった。
もう一つは、連合指導部が「民主党基軸」の政治方針を決定し、労働者の中に財界の別働隊である民主党の支持をあおっていることである。今回の総選挙では、「日本の労働運動の命運を決する闘い」と位置づけて民主党のために働き、「二大政党に向け一歩前進」と評価して、民主党支持をいっそう強めようとしている。大銀行への巨額の公的資金導入、規制緩和推進の態度、党首の改憲発言、「課税最低限の引き下げ」の提起など、民主党は議員の構成から見ても、政策から見ても、決して労働者全体の利害を代弁する党ではない。都市部の労働者上層に基盤を置くブルジョア政党である。自民党が過半数をすでに失い、中間政党との連携でようやく政権を維持し、保守二大政党制を模索しているこんにち、「民主党基軸」の方針は有害で、保守政治の危機を救うものである。
このように、連合指導部が「二十一世紀の労働運動の基本戦略」として提起している参加路線は、労働者に何もたらさないばかりか、犠牲を強いるものであった。財界の政治支配の危機を救う犯罪的役割を果たし、「社会の安定帯」としてますます比重を高めた。
金融グローバル化の大競争がますます激しくなる下で、独占企業と支配層はさらに労働者の犠牲で乗り切ろうとしている。こうした状況下での、独占企業、支配層との「話し合い」は、まったくのぎまんにすぎない。連合指導部の参加路線に従うなら、労働者にとっていっそうの苦難の道が待っているだけである。
闘おうとするものは、いまこそ連合指導部の参加路線と決別し、闘う体制を固めるべきである。
ここで十分に展開はできないが、共産党の連合追随の態度についても、きびしく批判しておかなければならない。
周知のように共産党は、連合結成に当たって、「連合はもはや労働組合ではない」と非難し、自治労、教組などで組織を分裂させ、それらを基礎に全労連を結成した。だが、九七年の第二十一回党大会で保守勢力との政権参加をめざす「柔軟路線」に転換して以降、連合との「対話と共同」などといって追随の態度に変わった。この十一月に開催される二十二回大会の決議案では、「連合は、…労働者の要求を一定反映した行動をとりはじめている」と美化し、追随の態度をさらに強めようとしている。
共産党のこうした態度は、連合の参加路線を「左」から支え、結果として支配層の切り抜け策に呼応する犯罪的なものである。もっとも、「労働者階級の前衛政党」も、「社会主義」もきれいさっぱり捨て去って、名実ともに月並みなブルジョア政党に堕落した党のいきつくところにはちがいない。
(5) 参加路線と決別するときがきた−新たな闘いが始まっている
情勢は激変した。金融グローバル化の大競争時代の到来は、日本的労使関係を成り立たせていた条件を崩壊させた。
わが国独占企業はグローバル競争で勝ち残るために、「人間の顔をした市場経済」(奥田日経連会長)などとぎまん的な言葉を弄(ろう)して連合指導部を誘いながら、実際には日本的労使関係を破壊する攻撃を強めている。
最近、労使協議制の形骸化が進んでいる。社会経済生産性本部(九九年の労使協議制についての調査結果)によれば、経営側の労使協議充実への努力の低下、経営の機密情報の労組への提供の後退があるとして、「参加型労使関係の本質である労使協議制の後退」に警鐘を鳴らさざるをえなくなっている。
二〇〇〇年春闘では企業側のうむをいわさぬ攻撃的な態度がめだった。数万、数千規模の人員削減計画を発表する攻勢をかけながら、賃上げは史上最低に押さえ込み、「横並び春闘解体」に踏み込んだ。鷲尾連合会長は二〇〇〇年春闘でのJC回答を受けて、「グローバル時代で株主重視がいわれているが、ここまで強く出てくるとは思わなかった。いったん労使関係がこわれると回復するのは大変難しい。いまの経営者が過去の労使関係の経過を全く考えていないとすると由々しき事態だ。こうした傾向が続くと労使関係をそこなわせ、社会的不安定が生じる。いまの労組リーダーに批判が集中し、別種の組合リーダーが出てくることは経営者にとっても好ましくあるまい」と経営側に苦言を呈した。それは職場の高まる不満を背後に感じとってのポーズ以外のなにものでもないが、図らずも連合指導部自身が参加路線ではもたなくなった現実を認めたものである。
こういう現実を前にしてなお、労使協議、資本家の「良識」に労働者の命運を託すなどという道をとるものは、よほどのばか者か、ならず者と言わなければならない。
資本家はこの危機の時代に、資本家なりの仕方で、労働者に徹底して犠牲を押しつけ、リスクに備えようとしている。
そうだとするなら、労働者が労働者なりにリスクに備えるのは当然の権利である。労働者は資本家に頼るのではなく、独自に、階級としてリスクに備える道を確固として選択しなければならない。
もはや破たんが明らかとなった参加路線ときっぱりと決別し、労働者階級の団結した力に頼って未来を切り開く道、階級的労働運動の路線にそって前進すべきである。この道こそが、独占企業、支配層の攻撃と闘い、要求を実現し、リスクに備えるただ一つの道である。
連合指導部は「労働運動は『抵抗』から『要求』そして『参加』へと、運動のレベルを歴史的に発展させてきた」と言っている。これは真っ赤なウソである。
周知のように労働組合は、どの国でも、「はじめは、資本の専制的命令と闘い、この仲間同士の競争を阻止するかせめて抑制し、そうすることにより、せめてたんなる奴隷の地位よりもましなものに労働者を引き上げるような契約条件を勝ちとろうとする労働者の自然発生的な企てから生まれた」。だから、労働組合の直接の目標は、労資のあいだに必然的な日常の闘争に、資本のたえまない侵害を撃退する手段に、一言でいえば賃金と労働時間の問題に、限られていた。
これを連合指導部が『抵抗』と呼ぶならそれでも結構だが、肝心なことはこの『抵抗』はこんにちでも必要で、有効かつ正当であるということである。資本の側が労働契約の個別化を推し進め、労働者間の競争をあおっているこんにち、この『抵抗』は、ますます切実になっている。これを忘れた労働運動などありえない。
だが、もっと重要なことは、労働運動は『抵抗』の段階で前進をやめなかったということである。資本家階級といくども闘いをくりかえしながら、学び、闘い、革命的理論と結びついて新たな段階に到達した。それは連合指導部がいう『要求』や『参加』の方向ではない。労働者は資本との日常闘争にとどまらず、「賃労働と資本の支配の制度そのものに対抗して」、行動するようになった。「労働者階級の完全な解放という偉大な利益のために、労働者階級の組織化の中心として意識的に行動すること」を学び、政治権力を握って社会を根本的に改造するとるところまで到達した。そのために労働者は、農民、中小商工業者の利益に心を配り、政治的力を結集することを学んだ。労働組合は、経験を通じて「その目標が狭量な、利己的なものでは決してなく、踏みにじられた幾百万の全般的解放に向かって進むものであるという確信」をもつところまで高まった。
したがって、労働運動の歴史的到達点が『参加』であるというのは、歴史的事実をねじまげているだけでなく、労働運動を資本家や支配層の許容する範囲に永遠に押しとどめようとするもっとも悪質な階級的犯罪である。
われわれは、こうしたペテンにだまされず、迷わされず、確固として労働者階級がすでに闘いとった歴史的到達点を踏まえて前進しなければならない。われわれこそ、世界の労働者階級の経験をもっとも正統に、まっすぐにひきつぐものである。戦後のわが国労働運動も、二・一ストや三池闘争の経験をもっている。
その力はあるか。ある。資本家側のなりふりかまわぬ労働者攻撃は、いたるところに反作用を呼びおこしている。労働者状態の急速な悪化のなかで、広範な労働者の不満と怒りが高まっている。これこそ、力の源泉である。
中小、未組織労働者、派遣やパートなど不安定労働者の中に不満が高まっているだけではない。長期間、日本的労使関係を支えてきた大企業のホワイトカラー労働者の間では、会社への忠誠心が急速に後退している。九九年三月、ブリヂストンの出向社員(管理職)がリストラに抗議して社長の面前で割腹自殺する事件がおこった。自殺した労働者は死をかけた抗議文で、「従業員をごみくずのごとく扱う経営者の感覚に、一致団結し抵抗すべきだ」と訴えていた。この事件は、日本的労使関係が職場の足元から揺らぎ始めていることを示した。
職場秩序が流動化し、職場の自由が拡大している。大工場の職場でも、職場の仲間の不満を代弁する活動家が、組合役員に進出できるような条件が広がっており、現に進出している。
現実にも、闘いが始まっている。連合を支える民間の最大産別・自動車総連の足元から新たな動きが出ている。マツダ労連は、昨年の大会でこれまでの労使関係を無視した経営側のリストラ攻撃に抗議し、「これからはものわかりの悪い組合になってたたかう」と運動方針案の補強策を決定した。二〇〇〇春闘では、二十五年ぶりのスト権投票に入る構えをみせて、昨年実績を上回る一時金回答をかちとった。
北海道の日鋼室蘭労組(JAM)は、リストラに抗して、千八百人以上の労働者が十六年ぶりにストライキに立ちあがった。ゼンセン同盟、私鉄中小、全国一般などもストライキで闘っている。連合に加わっていない中小左派組合も戦闘的に闘っている。
日産のリストラ攻撃を契機に、「労働組合主義」潮流の支配する組合のしめつけをうちやぶって、職場を超え、企業の枠を超えて活動家の連帯と交流、現場労働者への働きかけが始まっている。また、中小労組、パート・派遣労働者の地域的、全国的ネットワークが組織されている。
全体としてはまだ闘うようになっていないにしても、連合傘下の労働組合もふくめて新たな闘いの芽が出てきている。
また、沖縄を先頭にして米軍基地撤去の闘いが各地で広がっているが、労働者の参加が増えている。沖縄の嘉手納基地包囲行動の成功、連合九州の日出生台の米軍演習に反対する闘い、北海道の矢臼別演習に反対する闘い、神奈川の厚木基地反対の闘いなど、闘いの先頭には労働組合が立っている。
さらに重要なことは、「民主党基軸」という連合の政治方針にもかかわらず、批判と不満が噴出し、産別上部の方針に抗して社民党を支持する労働組合が少なからず出てきている。それは総選挙での社民党の「健闘」の要因の一つとなった。
注目すべきは、どの程度意識されたものであるかは別にして、連合内部の中小労組から参加路線に対する批判が起こっていることである。
たとえば、九九年の連合大会で全国一般の代議員は「参加が本当に実現しているならば、なりふり構わぬリストラなどあり得ないはずだ。現実の職場の実態は、参加が幻想でしかないと思う。倒産した労組の委員長が『私たちの組合は労資協調でやってきたが、その協調は労組側の一方的な片思いでしかなかった』と語った」と発言した。また、ゼンセン同盟の代議員も「大きな問題は、近年、労働運動がデスクワークになってしまって、組合員の生活を脅かすさまざまな問題に対して適切機敏にこたえていないことだ。いいかえれば、連合は社会のさまざまな不正や理不尽に対して、率直な怒りを忘れ、そうした勢力と闘う心や気力を失ってしまっているのではないか」と発言して支持を受けた。
ゼンセン同盟の「二〇〇一〜二〇〇二年度運動方針案」は、「労使協議制度の機能強化」を方針として掲げながらも、全体として「市場経済至上主義に抗して」、経営側の攻撃に対抗して闘う方向を提起している。「労働運動の衰退をグローバルな大競争やIT革命、そして価値観の多様化等といった外的要因ゆえに、避けがたい帰結とみるよりは、衰退の原因は労働組合組織の内部にあると認識すべきときである」と述べ、「職場活動の再活性化」のための「見える運動、共感のできる運動の展開」を提起している。「活力を失いつつある労働運動の流れをくいとめ、反転する」ために、「組織化」の流れをつくりあげるとしている。さらには、造船重機労連の二〇〇〇年大会では、電機連合、NTT労組の「成果主義賃金」要求の動きと対照的に「年功賃金制」を決定した。
これまで連合の主要な潮流であった「労働組合主義」「民主的労働組合」の組合にも分化がおこるのは避けがたい。
闘おうとするものにとって、闘いの条件は広がっている。  
(四)おわりに

 

敗戦直後の労働攻勢から半世紀余、三池闘争から数えても四十年、わが国労働者階級は日本的労使関係にしばりつけられていた。労働運動は長期にわたって「民主的労働運動」「労働組合主義」などの日和見主義に牛耳られてきた。だが、情勢は激変し、ほかでもなく資本家側の手によって日本的労使関係は崩壊過程に入った。わが国労働者階級が日本的労使関係の呪縛(じゅばく)から解き放たれ、力強く前進する時代がやってきたのである。二・一ストや三池闘争をはじめとする戦後労働運動の先達たちがかかげた赤旗を、再び高々とひるがえして闘う時代がやってきたのである。
金融グローバル化の大競争時代は、各国労働者階級の反抗を呼び起こす時代である。欧米諸国で、アジア諸国で、労働者の新たな闘いが広がり、規制緩和、市場万能主義に抗する国際的連帯が進んでいる。わが国労働運動も、その一部をになわなければならない。
すでに述べたが、わが国独占企業、支配層は決して強い立場にはない。グローバル時代に入り、アジア金融危機を経て、選択の余地がなくなり、日本的労使関係を破壊することでリスクに備えようとしているのである。
だが、確かなことは資本主義の危機は深く、いつ「二十一世紀型危機」の嵐が見舞うか予測は不能で、独占企業・支配層の対策が間に合うとは限らないということである。その不透明さは、第一次石油ショックを乗り切った後、日本企業の代表として賞賛されていた日産自動車が、その十年後にはルノーの軍門に下った例をあげるだけで、十分推察できよう。
さらに、世界経済は、米国の株価がどうなるか、大きなリスクをはらんでいる。わが国の財政は膨大な借金を抱え、激変に備える上で支配層の制約となっている。
結局のところ日本の企業家、支配層の頼みの綱は、労働運動を牛耳る日和見主義指導者以外にない。だが、それとて保証のかぎりではなくなった。日和見主義指導部を買収する原資の確保が不安定になってきた。九九年になってわが国の所得収益(証券投資収益や直接投資収益など、資本・労働所得に関する対外収益)は、円高、アジア危機の影響で減少に転じた(グラフ1)。
また、わが国の競争力ランクの低下が言われている。自動車産業では買収、合併、連携など世界的再編が進んでいるが、マツダ、日産、三菱が外国資本の軍門に下り、日本の自動車メーカーの生産シェアは低下が著しい(一九九一年には世界の三七・四%まで増加したが、九八年推計で三〇・七%)。これまた、日和見主義の物質的基礎の脆(ぜい)弱さを示すものである。
闘いの前途は、まさにこれからのわれわれの闘いにかかっているのである。 
 

 

 
ストライキは絶滅したか

 

ストライキの技能伝承が危ない!
約10 年前にあった本当の話である。製造業のある大企業の労使が厳しい交渉をしていた。その企業は業績不振にあえいでおり、労働組合に対して労働条件の切り下げを提案した。それに反発した労組は、ストライキを構えて、ギリギリの交渉を続けていた。幸い、ストライキに入る前日に交渉は妥結し、スト突入は回避された。
組合役員たちがホッと胸をなで下ろしていたとき、ある組合員から本部に電話がかかってきた。ストライキを止めてもらっては困るというのである。理由を聞いてみると、次のような内容だった。「ストライキの当日、旅行に行く計画を立てていて、すでに代金を払い込んだ。これからだとキャンセル料を取られてしまう。何とかならないか。」ストライキの日は休みだと思っている組合員がいたという事実に、役員たちは然とした。
ストライキは休日ではない。組合員は通常通り会社に行く。しかし、会社側は組合員が構内に入ることを許可しないので、門は閉まっている。組合員たちは、門の外で集会をしながら交渉の行方を見守るのである。ただし、大企業の場合、正門前に多くの組合員が集まると交通の邪魔になったりするので、労使協定で会社の食堂を使うことを定めている場合もある。
日本の企業で、ストライキを経験したことのある人たちが急速に少なくなっている。表にあるように、日本企業で多くの人たちがストライキに参加した最後の年代は1974 年から75 年にかけてであった。労働損失日数は、年間800 万日から970万日に達した。これは、今から30 年以上前なので、当時の状況を知っているのは50 歳代以上の人たちである。ましてや、労組役員としてストライキを指導した人たちとなると、団塊の世代が最後になるだろう。一般に2007 年問題が言われているが、労働組合活動においても団塊の世代が持つ技能の伝承が急務である。その一つが「ストライキの作法」である。ストライキの作法は、経営側にも伝承されていない。労働組合がストに突入する前後に会社としてどのような準備をしなければならないかを知っている人はとても少ない。
ストライキは伝家の宝刀
1990 年代以降の日本社会では、ストライキはとても珍しい現象になっている。労働損失日数は、10 万日を大きく下回り、2005 年にはわずか6000日になった。日本だけ見ていると、ストライキは絶滅しかかっているように見える。しかし、西ヨーロッパ諸国を観察すると、少ない時期が続いた後に突然多くなる現象が確認できる。例えば、ドイツでは、1980 年代の労働損失日数は10 万日以下で、日本よりも少ない水準だった。しかし、1992年に155 万日に跳ね上がった。その後、1996 年から2001 年までは再び10 万日を大きく下回ったが、2003 年には31 万日に達している。何か問題が起こると、ストライキという手段を使っていることがわかる。フランスやイギリスにおいても同様の傾向が見られる。
ストライキは、日本国憲法によって認められた、労働者の権利である。憲法第28 条は、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」と定めている。そして、労働組合法は、第8 条で、正当な同盟罷業(ストライキ) によって経営側に損害を与えたとしても、経営側は損害賠償請求ができないと規定している。正当なストライキとは、組合員または代議員の無記名投票で過半数の賛成を得る手続きを踏んで決定されたストライキである。
ストライキは、労働組合が経営側に対して持つことのできる交渉力の一つである。組合員が連帯して働かないことは、生産活動の停止やサービス提供ができなくなる状態であり、経営側にダメージを与える。2005 年に労働組合としてのプロ野球選手会がストライキを決行し、プロ野球の全試合が中止になったとき、経営側は、入場料収入やテレビ放映権料、販売店の賃貸料など、大きな収入減を被った。
ストライキは、経営側に損失を与えるが、組合員側にも、給料がもらえないのに会社に出るというコストを発生させる。それゆえ、できれば採りたくない交渉手段である。「ストライキは伝家の宝刀だ」と言われるのは、万策尽きた後、最後の最後に発動される手段だからである。
ストライキが少なくなった理由
では、なぜ日本でストライキがこれだけ少なくなったのだろうか。1 つの理由は、不況が長く続いたことである。不況とはモノが売れない状態なので、経営側は生産やサービスの提供を減らしたいと考えている。そのようなときにストライキをすれば、経営側を喜ばせるだけである。ストライキは、好況の時に大きな効果を発揮する手段である。
2 つめの理由は、周囲の理解が得られない点である。ストライキをすると、利用者や取引先から大きな批判を浴びる。ヨーロッパでも、ストライキは多くの人に迷惑をかけるが、人々はどこかで「頑張れよ」という気持を持ってくれている。それは、その労組が勝ち取った労働条件が、自分たちの労働条件向上につながる可能性があるからである。しかし、日本では、「自分勝手だ」という冷ややかな視線しか感じられない。あるいは、「ストをやるような会社とは取引しない」とまで言われる。日本の労働組合は企業単位に組織されているので、企業業績が悪くなってしまうと、自分たちの生活にも悪い影響が出る。ストライキをしにくい環境がますます強くなっている。
ストが少なくなった3 つ目の理由は、ストライキという手段を使わなくても労働組合側の意見を経営側に認めさせることができるようになったからである。1980 年代以降、多くの日本企業の労使は、深い信頼関係を築いてきた。労使協議会をはじめとして、さまざまなルートで労使間のコミュニケーションが密にとられるようになっている。特に、一企業一組合の場合、労組の三役には平取締役が知らないような経営上の情報が開示され、情報共有の度合いを高めている。そして、経営側が労組の協力を得るために、労組の要求をある程度は認めようという姿勢で労使交渉に臨んでいることも観察される。
ストライキは絶滅したか?
では、日本ではストライキは絶滅したと言えるだろうか。ストライキが少なくなった理由のうち、1 番目の理由は景気変動に応じて変化する。好況になればストライキの効果が高まるので、使われる回数も増える可能性がある。2 番目の理由は、簡単には変わらない。労組が経営側と妥結した労働条件が社会や産業に対して一般的拘束力を持つようになれば別だが、近い将来、それが実現されるとは考えにくい。この面のストライキ抑制効果は続くだろう。
3 番目の理由は、若干の不安定さを持っている。労使の信頼関係が深まっていることは事実だが、本来あるべき労使の緊張関係が薄れてしまうという弊害も生まれているからである。本部の三役は経営の内情を知っているが、企業秘密にかかわる部分があるので一般組合員にすべてのことを説明できない場合がしばしばある。すると、労組リーダーが経営側にうまく丸め込まれているように組合員には見えてしまう。これは、労組内部の信頼関係を損なうことになり、組合員がホンネをリーダーたちに話さない傾向が出ている。
また、一部の企業において、労使協議が形骸化しているのではないかと思わせるような状況がある。「労使協議」という言葉を使っていても、その内容は企業ごとに異なっている。ある企業では、労使協議において労組の同意が得られない案件はそれ以上先に進めないという慣習がある。他方、労使協議は経営側の状況を労組の代表に説明して理解を求める場であり、質問だけ受け付けるという企業もある。「労使協議を行っています」と言われたとき、その内容まで詳しく尋ねないと、どこまで実質的な協議が行われているのかわからない。労使協議の質をめぐる企業間格差が拡大している。
日本企業の労使間の信頼関係は、紆余曲折を経てできあがってきた。信頼を得るには時間がかかるが、崩れるのは一瞬である。日本社会では、ストライキが少なくなり、絶滅しつつあるように見える。しかし、労使の信頼関係が弱くなると、復活する可能性は大いにある。無用な対立を避け、実質的な議論ができる場としての労使協議制の存在は、実は大きな意味を持っている。この点をもう一度確認し、経営の質と労働の質を上げていくために、労使間のコミュニケーションをより密にしていく必要がある。
参考文献
藤村博之(2006) 「労使コミュニケーションの現状と課題」『日本労働研究雑誌』No.546
労働損失日数 (千日) 計
1946 年   6,226
1947 年   5,036
1948 年   6,995
1949 年   4,321
1950 年   5,486
1951 年   6,015
1952 年   15,075
1953 年   4,279
1954 年   3,836
1955 年   3,467
1956 年   4,562
1957 年   5,652
1958 年   6,052
1959 年   6,020
1960 年   4,912
1961 年   6,150
1962 年   5,400
1963 年   2,770
1964 年   3,165
1965 年   5,669
1966 年   2,742
1967 年   1,830
1968 年   2,841
1969 年   3,634
1970 年   3,915
1971 年   6,029
1972 年   5,147
1973 年   4,604
1974 年   9,663
1975 年   8,016
1976 年   3,254
1977 年   1,518
1978 年   1,358
1979 年     930
1980 年   1,001
1981 年     554
1982 年     538
1983 年     507
1984 年     354
1985 年     264
1986 年     253
1987 年     256
1988 年     174
1989 年     220
1990 年     145
1991 年      96
1992 年     231
1993 年     116
1994 年      85
1995 年      77
1996 年      43
1997 年     110
1998 年     102
1999 年      87
2000 年      35
2001 年      29
2002 年      12
2003 年       7
2004 年      10
2005 年       6 
 
2011年は全国で57件、日本でストライキが少ない理由

 

「海外の工場などでストライキが起きたニュースをよくみますが、日本ではあまり聞きませんね。なぜですか」。近所の大学生の疑問に、探偵の松田章司が応じた。「昔はよく起きたというけど、確かに不思議だな。調べてみましょう」
デフレ下 賃上げ難しく
「これほど少ないとは」。ストライキ(スト)などの発生件数を調べた章司は驚いた。厚生労働省によると、2011年は全国で57件。ピーク時の1974年に9500件を超えていたのとは様変わりだ。
ストとは労働者が賃上げや労働条件の改善を求めて一斉に働くのをやめること。労働組合が会社への事前予告など手続きを踏み正当性が認められれば、ストで会社に生じた損害の賠償責任を免れるなど法の保護を受けられる。かつては鉄道やバスなどが停止するなど社会的な影響もあった。「04年にプロ野球選手会が球界再編を巡ってストをした事くらいしか覚えてないな」と章司。
一方、新興国では賃上げや待遇改善を巡ってストが頻発し日本企業も対応に苦慮している。スズキのインド子会社、マルチ・スズキのマネサール工場では昨年6月と10月に発生。今年7月には暴動が起き「安全確保のため会社側が工場を1カ月閉鎖した」(スズキ広報)。財政危機に陥ったギリシャやスペインなどで、緊縮政策に反対する公務員がストを起こしている。
「日本でも長時間労働やリストラなど、働く人に不満はあるはずだけど」。章司は電機業界などの産業別労働組合、電機連合を訪ねた。ストが減ったのは「経営側と組合が定期的に情報交換をする、労使協議の仕組みが普及してきたことが背景でしょう」と書記次長の岡本昌史さん(48)。
日本経済は70年〜80年代に石油ショックと円高に見舞われ、製造業を中心に先行きへの危機感が高まった。さらにバブル崩壊を経て長期低迷に陥った。難局を乗り切るために経営側と労組側は知恵を絞り、労使協調関係は一段と強まった。会社の経営が弱体化すると、倒産したり海外資本に買収されたりしかねないからだ。「深刻に対立する前に、話し合いで解決できるというわけか」
章司は労働経済学に詳しい大阪大学教授の大竹文雄さん(51)にも意見を求めた。高度成長期では年間5%以上の物価上昇が珍しくなく、激しいインフレに合わせて賃金も上げないと生活が苦しくなった。「来年どれくらい物価が上がるのか労使の見通しが食い違ったから、ストが多かったのでしょう」と大竹さん。
今は長期のデフレ傾向から抜け出せず、賃上げを求めにくくなった。年功序列や終身雇用が崩れつつあり、労組には雇用優先のムードも生まれストを起こしづらい環境になった。「長引く景気低迷も響いているのか」と章司はうなった。
事務所で報告すると、所長が首をかしげた。「ストが少ない理由はそれだけか。産業構造の変化にも原因があるんじゃないか」
そこで流通や繊維産業などの産業別労働組合、UAゼンセンを訪ねた。応対してくれた書記長の松浦昭彦さん(50)は「小売業や飲食業、介護などの業種で働く人が大幅に増えたこともストが減った一因だと思います」と説明する。
かつて日本では製造業で働く人が多く、労組に加入する比率も高かった。ところが小売業などは小規模の事業者が多いうえ、労組に加入しないアルバイトなどの非正規労働者の比率が高い。ほかの産業でも非正規労働者が増える傾向にある。厚労省によると、働く人のうち労組へ加入する人の割合を表す推定組織率は80年代初めまで3割を超えていたが、働き方の変化も加わって2000年代初めに2割を下回った。
「海外はどうなんだろう?」。章司は、労働運動総合研究所代表理事の熊谷金道さん(66)に事情を聴きに行った。「海外では業界団体ごとにトップ層と労組が交渉して、業界全体に関わるような大きなルールを決めます。企業ごとに交渉する日本に比べ、国民からストが支持されやすい環境にあります」
非正規労働者 増加も要因
「国民の支持か」。日本では企業の労組が単独で賃上げや待遇改善を訴えても、経済全体が長期低迷に陥り、多くの国民の共感を得られにくい。企業のサービスの低下につながるストは消費者でもある国民の企業イメージを悪化させかねない。企業競争が厳しくなるなかで、労組側もストには慎重にならざるを得ない。
非正規労働者も加入する労働組合、首都圏青年ユニオン書記長の河添誠さん(48)は「ストができないので街頭活動を通じて消費者や株主に訴えています。企業は昔に比べ外部の目を強く意識するようになってきたからです」と指摘した。
「日本でストは起きないのかな」とつぶやく章司に、労組に詳しい法政大学名誉教授の小池和男さん(80)が「実は見えない形でのストは今も起きている可能性があります」と指摘した。「労働条件に納得できない人が仕事に手を抜けば、それは実質的にストをしているのと同じだからです」
企業では業務が年々高度化し、個人のスキルや創造性などが生産性を左右するようになった。ストで労働時間を減らさなくても、働く人が労働の質を下げれば会社は経済的な打撃を受けるという構図だ。そこで社員のやる気を引き出し、優秀な人材を確保する環境作りが求められている。
労組も賃上げよりフレックスタイム制や育児支援など働く環境を充実させる施策を重視。企業側も時間をかけて議論に応じている。「新しい労使の緊張関係が生まれつつあるんだな」
報告を終えた章司に「うちの事務所はストはないし、労使協調の象徴だな」と所長。「ストをしなくても、抵抗手段はありますから」と章司が冷たい一言。

日本の労組 いつ組織? 第2次大戦後 全国で急速に
日本初の労働組合が誕生したのは明治後期のこと。米国で労働運動に触れた高野房太郎らの働きかけで労働組合期成会が1897年に結成され、金属機械工場で働く労働者が参加する鉄工組合が誕生した。政府が掲げる「富国強兵・殖産興業」の下、長時間労働など劣悪な労働環境が社会問題となっていた。
政府は多発した労働争議を抑え込むため、1900年に組合の団結やストなどを取り締まる治安警察法を公布。労働運動は弾圧を受けて、低調な時期が長く続いた。
だが、第2次世界大戦後に状況が一変した。民主化政策の一環として45年に労働組合法が公布され、日本で初めて労組が法律の保護を受けるようになる。インフレによる生活苦を改善するため賃金を上げる必要があり、全国各地で労組が急速に組織されていった。
力をつけた労組は経営側に労働条件改善を訴えるため頻繁にストを打った。特に注目を集めたのは、三井鉱山(現・日本コークス工業)が59年に三池炭鉱の人員整理を提案したことに端を発する三池闘争。60年1月に始まった無期限ストは282日間に及んだ。ただ長期ストにはしっかりした財政基盤が必要で、実施は一部に限られた。 
 
なぜ日本ではストが激減したのか

 

日本の労働争議事情概観
1970年代半ば以降、日本ではストライキの減少傾向が続き、国民の関心も大幅に薄れている。なぜストは減ったのか。経済的に困難な時代だからこそ、ストの意義を改めて見直す必要があるのではないだろうか。労働法の専門家が分析する。
「今日は、バス会社でストライキがあるから、途中まで歩かなくちゃならないよ」
1971年生まれの筆者には、小学生の時分、春になると、親がそのようなことを言いながら出勤していった日の記憶がある。春先には決まって、ストライキのために交通機関が止まるニュースが流れていたものだ。戦後の日本では、労働組合と経営側との労使交渉において、1955年に「春闘」と呼ばれる方式が開始され、1960年代以降に定着をみた。この「春闘」方式とは、日本で主流の企業別組合(特定の企業や事業所ごとに、その企業の従業員のみを組合員とする労働組合)によって行われる企業ごとの賃金交渉を、毎年春に足並みを揃えて短期集中的に行うもの。自動車や電機、鉄鋼といった製造業の有力な労組が交渉の口火を切って賃上げ相場のパターン・セッターとなり、そこで獲得された賃上げ相場を、他の産業の賃金交渉や、さらには労組に組織されていない中小企業の労働者の賃金水準にも波及させることを狙った戦術である。春闘を通じた賃上げは、日本の労働者全体の生活水準を向上させることに大きく寄与し、賃金交渉の妥結水準をめぐる攻防の中で実施される「春闘スト」は、1980年代初頭までは日本の春の風物詩の1つとなっていた。
しかし現在では、そうしたストライキのイメージは遠いものとなった。近年の日本ではストライキの件数が著しく減少し、2004年9月の日本プロ野球選手会によるストライキのような例外を除けば、社会的に話題となることも少なくなったからである。
減少を続けるストライキ
日本の労働争議は、経済の高度成長期にあたる1960年代から70年代にかけて、春闘の定着により賃上げ交渉が活性化したこともあり、顕著な増加傾向を示した。1960年には、半日以上のストライキ件数が年間1053件、行為参加人員数が91万7454人であったのに対し、1970年にはそれぞれ年間2256件、171万9551人に達している。その後、オイル・ショック後の不況から企業による人員整理が頻発したことを受け、ストライキの件数はさらに増加し、半日以上のストライキ件数が5197件、行為参加人員数が362万283人に達した1974年にピークを迎えた。その後、ストライキを伴う労働争議の件数は減少に転じ、特にバブル経済が過熱した1980年代半ば以降は減少傾向が顕著となっている。
問題は、バブル崩壊後の1990年代後半以降も、ストライキ件数に上昇はみられず、21世紀に入ってからも減少が続いていることである。この間、民間労働者の平均給与額もほぼ一貫して減少しているにもかかわらず、である。リーマン・ショック後の不況期に至っても、さらに労働争議は減少し、2010年には、半日以上のストライキ件数は年間38件、行為参加人員数は2480人に落ち込んだ。
ストライキ減少の原因
なぜ、現在の日本ではストライキが起こらなくなったのだろうか。その原因として、さまざまなものが考えられる。1つには、企業と労働組合との間で、対抗的な団体交渉よりも、相互が情報を共有し意思疎通と合意形成をはかることを目的とする労使協議が制度化され、定着してきたことが挙げられる。労使協議制が定着している企業では、経営側と労組との協議において、従業員の賃金のみならず、企業の経営方針全般や人事配置、社員教育、福利厚生など幅広い事項がテーマとされ、経営側からの情報提供も積極的に行われていることが窺われる(※1)。労使協議制のもとでは、企業の生産性を高めることなどを目的に、経営と労組の双方が正面からのぶつかり合いを避け、協調的で安定的な労使関係を構築することが了解されているのである。この背景には、日本で主流の企業別組合の組合員の高学歴化が進み、学歴や経歴の面で企業の経営者層と近い者が組合幹部となることから、経営側と労組との間の意思疎通が容易となっているという事情もあるだろう。いずれにしても、企業別組合をベースとする安定的な集団的労使関係が定着してきたことが、労組がストライキという強い実力行使に出ることを抑制する要因となっているのではないか、と考えられているのである(※2)。
組合における労働者の「分断」
もっとも、上記の事情は、主に、比較的大規模な企業における正規雇用の従業員を主な組合員とする企業別組合にあてはまるものであって、近年、労働者人口の中で比率を高めている非正規雇用の従業員や、中小企業の従業員については様相が異なる。それらの人々は、多くが労組に組織されていないか、あるいは、地域一般労組(一定地域で働く労働者を、企業や産業にかかわりなく組合員として組織する労働組合)に加入している。地域一般労組は、個々の組合員の雇用関係上の問題を使用者と交渉して解決する、という個々の労働者の代理人的な役割を果たす点では積極的な活動を展開しているものの(※3)、産業や企業のレベルで多くの労働者を組織するには至っていない。そのため、地域一般労組が一定の労働者集団の賃金水準を上げるためにストライキを実施することは現実的に困難である。このように、日本では、雇用される企業の規模や雇用形態の違いによって労働組合における組織の面で労働者の「分断」状況がみられ、そのことが労働者の連帯による団体行動を抑制する一因となっていると考えられるのである。リーマン・ショック後、企業の減産に伴う派遣労働者の失職が社会的に問題となった際に、1970年代の不況期とは異なりストライキがほとんど行われなかったことは、そうした事情を象徴しているといえるだろう。
公務員のストライキ禁止
さらに付け加えれば、日本では、公務員の争議行為が禁止されていることも、ストライキ件数が抑制されてきた一因であるといえるだろう。敗戦後、1946年に制定された日本国憲法では勤労者に労働基本権(団結権、団体交渉権、団体行動権)が保障された一方で、公務員に対しては占領政策の中で争議権が制限され、以降、現在に至るまで、非現業・現業を問わず国家公務員と地方公務員のいずれに対しても、ストライキを含む争議行為が法律で禁じられている。これに対して、かつては、争議行為を公務員が決行し、司法の場でも公務員の争議権制限が憲法違反にあたるかどうかが度々争われたが、裁判所による合憲判断が定着したこともあり、近年、特に21世紀に入ってからは公務員による争議行為はみられない。また、現在、日本政府が検討している国家公務員制度改革では、国家公務員の勤務条件法定主義(人事院勧告に基づき法律で公務員の給与等の勤務条件を定める原則)を一部見直し、集団的な労使交渉に基づく労働条件決定のしくみを導入する案が打ち出されているが(※4)、そこでも公務員の争議権回復についてははっきりとした方向性が示されないままになっている。
このような経緯から、昨今の日本では、東日本大震災の復興財源確保などを理由に国家公務員給与の大幅な引き下げ方針が打ち出されている現状でも、公務労働者によるストライキの声は聞こえてこないのである。
ストライキの意義を見直すとき
以上、概観してきたように、日本でのストライキをめぐる事情は、近年では非常に静かなものとなっている。厳しい経済状況や財政状況の下、さらには震災からの復興のために、多くの人々が「一丸となって」堪え忍んでいる状況では、一部の労組がストライキをして待遇改善を求めることには憚りがあるようにも見受けられる。しかし、今ここで改めて思い起こすべきは、そもそも春闘において、ある分野の企業の労働者たちがストライキを通じて獲得した成果を他の労働者にできる限り幅広く波及させることが目的とされ、それがある時期までは機能していた点である。つまり、ストライキを行うのは一部の労働組合であるとしても、それが他の多くの労働者の暮らしを支える労働条件の向上へとつながる回路があったわけである。現状では、高度成長期のような賃上げを目標とすることは困難であるかもしれない。しかし、そうした困難な時代であるからこそ、その時代に見合った労働者の連帯を、正規・非正規の労働者、あるいは民間・公務の労働者の間に構築することが労働運動には必要であり、その中で改めてストライキの意義を見いだすことが求められるのではないかと思うのである。

※1 梅崎修・南雲智映「交渉内容別に見た労使協議制度の運用とその効果─『問題探索型』労使協議制の分析」日本労働研究雑誌591号(2009年)25頁以下を参照。
※2 伊藤実「日本における安定的労使関係構築の背景」では、労働組合員数・組織率、労働争議件数、労使協議機関に関するデータを基に、労使関係の推移が検討されている。
※3 呉学殊『労使関係のフロンティア─労働組合の羅針盤』(労働政策研究・研修機構、2011年)264頁以下に、事例に基づく詳細な研究がある。
※4 2011年6月3日に閣議決定された「国家公務員の労働関係に関する法律案」の内容。 
 
労働革命 2016

 

サボる権利?
小林多喜二の『蟹工船』では,洋上の船(博光丸)という閉鎖的な状況で、「糞壺」に閉じ込められ、家畜以下の生活を送っていた労働者(漁夫たち)が、仕事を手抜きしてサボるということを覚え、その後に全面的なストライキに至る様子が活写されている。争議行為をやるという知恵は、船の修理のために上陸した者が入手した「赤化宣伝」のパンフレットから得ていた。
会社側は、もとより警戒はしていた。
「何時でも会社は漁夫を雇うのに細心の注意を払った。募集地の村長さんや、署長さんに頼んで『模範青年』を連れてくる。労働組合などに関心のない、云いなりになる労働者を選ぶ。『抜け目なく』万事好都合に! 然し、蟹工船の『仕事』は、今では丁度逆に、それ等の労働者を団結――組織させようとしていた。いくら『抜け目のない』資本家でも、この不思議な行方までには気付いていなかった。それは、皮肉にも、未組織の労働者、手のつけられない『飲んだくれ』労働者をワザワザ集めて、団結することを教えてくれているようなものだった」(112頁)。
「サボる」とは、sabotage (サボタージュ)というフランス語に由来する言葉だ。破壊行為や妨害行為といった意味だ。これを争議行為として行うことは許されているが、施設や機械などを破壊する「積極的サボタージュ」は、使用者の財産権を侵害するので、判例によると正当性は否定される。許されるのは、作業能率を低下させる怠業にとどまる「消極的サボタージュ」だ。こちらのほうが「サボる」の語感に近い。なお、ときどき「サボる」こと一般を「怠業」と言ったりもするが、少なくとも労働法上の「怠業」は争議行為としてなされるもので、権利として保障されている。
「サボる」のは、こっそり行うことができるので、うまくやればバレないという意味で、高等な争議戦術だ。ストライキとなると、それをやっていることが明確になるので、労働者にはいっそうの覚悟が必要だ。
博光丸でのストライキでは、ピストルを片手にもつ憎き上長(監督者)がひそかに外部と連絡をとり、駆逐艦がやってきて、労働者の代表者9名を連行してしまった。
ということで、これで終わりかと思ったが、そうではなかった。この小説の最後にある「付記」によると、博光丸の労働者は、監督者が外部に連絡できないようにして、もう一度ストライキをやったとある。これは成功したようだ。
ストライキは、絶望的な状況にある労働者の最後の抵抗手段だ。
ストライキの権利
近代市民法の考え方からすると、ストライキは、労働契約の債務不履行を、事前に謀議して、一斉に行うもので、許されざる行為だ。秩序紊乱の最たるものだ。だから博光丸の監督者は、これを弾圧しようとした。逆に言うと、こうした行為を権利として保障したところに、労働法のすごさがある。日本国憲法28条は、ストライキやその訳語である同盟罷業という言葉こそ用いていないものの、団体行動の権利を保障している。そこでいう団体行動にストライキなどの争議行為が入ることに異論はない。アメリカは、自国の憲法には、労働三権(団結権、団体交渉権、団体行動権)の保障がないにもかかわらず、日本の憲法にはもちこんでくれたのだ。日本の労働者からすると、戦争に負けた代償として、あるいは戦前の弾圧に耐えたご褒美として、ストライキ権が天から降ってきた気分だろう。アメリカのおおらかさに感謝したいところだが、アメリカは直ちに少し後悔することになる。
アメリカは、戦後すぐに、日本政府に対して五大改革指令を出している。その内容は、婦人解放(参政権付与)、圧政的諸制度の廃止、教育の自由化、経済の民主化であり、そして労働組合の結成奨励だ。労働組合法(旧法)が、敗戦からすぐの1945年12月に制定されたのも、このためだ。アメリカは、日本の民主化のためには労働組合運動が必要だと考えた。日本共産党も合法化した。とはいえ、冷戦が始まり、ソ連の影響がじわじわ広がり、労働運動が官公部門を中心に勢いを増してくると、アメリカはこの動きに警戒感をもつようになる。1947年連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の総司令官MacArthur(マッカーサー)は、2月1日に予定されていたゼネスト(2.1ゼネスト)を直前に中止させた。同年5月3日に労働三権を保障する憲法が施行されるが、翌1948年の7月22日、MacArthurは当時の芦田均首相に書簡を送り、公務員の争議行為を禁止する政令201号を公布させた。このときの書簡におけるMacArthurの論調は、憲法の保障する争議権を制限するという改憲論ではなく、国家公務員など公務員の争議行為は、憲法の精神に反するというものだった。後に最高裁大法廷判決は、この政令は憲法28条に違反しないと判断した。その判旨は、マッカーサー書簡の内容にほぼ則したもので、公務員とくに国家公務員は、「国民全体の奉仕者として(憲法15条)公共の利益のために勤務し、且つ職務の遂行に当つては全力を挙げてこれに専念しなければならない(国家公務員法96条1項)性質のものであるから、団結権団体交渉権等についても、一般に勤労者とは違つて特別の取扱を受けることがあるのは当然である」というものだった。仕事に取り組む精神は、こういうものであってよいが、それをストライキ権を剥奪する根拠とするのはいささか乱暴だろう。
その後、国家公務員法の本体も改正され、争議行為が禁止される(国家公務員法98条2項)。その他の公共部門の職員の争議行為も、次々と法律で禁止されて今日に至る(地方公務員法37条、地方公営企業等の労働関係に関する法律11条など)。昭和40年代、こうした法律の合憲性をめぐり、最高裁判所内で激しい論争があったようだが、今となってははるか昔の話だ。合憲論は、もう動かしようがない。
俺たちもストライキができる!?
ところが21世紀の日本で、激しい労働運動をしたわけでもないのに、これまでストライキが禁止されていた者にストライキ権を付与するという事態が再び生じた。2004年4月、国立大学は独立行政法人となった。国立大学の教職員は、それまでは国家公務員であったが、勤務の実態は何も変わらないのに、身分だけ公務員ではなくなった。つまり、国立大学の教職員は国家公務員法の適用を受けなくなり、一般の労働法が適用されることになったのだ。「ついに俺たちも、ストライキができるようになった」という感慨はひとしおだったが、まだ私自身はストライキをしたことがない。2012年度から始まった東日本大震災の復興財源の捻出のために、国家公務員に対する給与の7.8%減額という特例措置が、国家公務員ではない国立大学の教職員にまで及ぼされたとき(減額のさせ方は大学によって異なる)は、労働組合に加入して抵抗する絶好のチャンスだったかもしれない。いくら税金が原資だとはいっても、賃金は契約で決めなければならないし、就業規則による場合は、一方的な不利益変更が可能とはいえ、合理性がなければならない(労働契約法10条)。教職員が訴訟を起こした大学もあったようだが、私の知るかぎり労働者側がすべて敗訴だった。裁判になると、結果として復興財源の使い方がいい加減だったなどの事情は、合理性判断には影響しない。その時点では国家的危機だったと言われると、変更の高度の必要性も認められやすいだろう。さすがに今回の措置に抵抗して争議行為までしたという話は聞いていない。しかし法廷闘争では厳しいとなると、今後同種のことがあれば、ほんとうにストライキが起こるかもしれない。
ストライキをすることができる私たちはまだいい。公務員には、こうした手段さえない。人事院勧告にすがるしかない。公務員への争議権の付与をめぐってはいろいろな意見があり、現行法については違憲論もまだくすぶっているが、前述のように合憲論は確定判例だ。国立大学法人の教員は、争議行為ができるということの有り難さをもっとかみしめるべきなのかもしれない。扇動するわけではないが、いざというときの「抵抗権」でもあるのだ。蟹工船の漁夫たちの決断が脳裏をよぎる。
消えゆく階級
Karl Marxの『共産党宣言』の第1章の表題は、「Bourgeois und Proletarier」。すなわち、ブルジョアとプロレタリアである。その注(1888年英語版のEngelsの注)によると、「ブルジョア階級とは、近代的資本家階級を意味する。すなわち、社会的生産の諸手段の所有者にして賃金労働者の雇傭者である階級である。プロレタリア階級とは、自分自身の生産手段をもたないので、生きるためには自分の労働力を売ることをしいられる近代賃金労働者の階級を意味する」。そして、Marxは、「これまでのすべての社会の歴史は、「階級闘争の歴史(Geschichte von Klassenkämpfen)」だと述べた。資本主義社会で起きているのは、ブルジョア階級とプロレタリア階級との対立である。工業の発達は、労働者間の競争を激化させるが、それは労働者の孤立化ではなく、革命的団結をもたらし、そして最後はプロレタリア階級が勝利するとMarxは述べた。蟹工船の労働者たちも、船内で革命的団結の第一歩を踏み出していたのだ。
多くの政治的な革命は、労働者のストライキに端を発している。1917年に起きたロシア革命もそうだ。まず3月革命で、ロマノフ王朝が倒された。そこで誕生したブルジョア政権が倒されたのが、亡命から帰国したレーニンを指導者とするボリシェビキによる11月革命だ。これによりソビエト政権が誕生した。日本では第2次世界大戦の敗戦により、そこで事実上、天皇主権の体制は倒されていた。次に起こりうるのは、ロシアの11月革命と同じプロレタリア革命だとMacArthurが恐れたとしても、不思議ではない。こうして、日本に労働組合運動と共産党の復活をもたらしてくれたMacArthurは、一転して労働者の敵となった。1950年にはレッドパージが始まり、大量の解雇事件も起きる。
ちなみに解雇の規制は、レッドパージなどをみると必要だと思えるが、平常時には、解雇はそう頻繁にはなされない。経済状況がよく人手不足の時代には、会社は解雇などしなしいし、そういう状況でなくても、育成した人材を捨てるような行為は経済的合理性に欠く。出来の悪い労働者であっても、それを簡単に見捨てるような会社では、従業員はきちんと働かないようになるので、やはり解雇は経済的合理性を欠く。ところが、現実には、経済的合理性と関係なく、労働運動や共産主義の運動に熱心な労働者に対して差別的な解雇がなされてきた。だから解雇規制は必要だった。今日の解雇規制論義の迷走は、許されない差別的解雇と、経済的合理性からみてやむを得ずなされる解雇とを混同した議論をしていることに起因している。ITやAIなど新技術の発展により、衰退産業から成長産業へと人材が再配置される過程で生じる解雇も、日本経済の成長のために必要な解雇だ。こうした解雇は、本来、抑止されるべきではない。差別的解雇とは区別して論じられるべきものだ。
話を戻すと、Marxの唯物史観を支持するかどうかはさておき、労働者は、対資本家との関係で階級的従属性があるという見解は、多くの労働法の研究者(とくにプロレイバー)の基本的な認識とされてきた。ここでいうプロレイバーの労働法学の特徴を、籾井常喜教授の言葉を借りて説明すると、「(1)労働者階級の側に立ち、それと連帯し、(2)労働者そしてそれを組織する労働組合の権利擁護の立場から、(3)労働法現象を分析し、労働法理を構築するなどを通じ、(4)労働者・労働組合の権利闘争ひいては民主主義擁護運動に主体的にかかわりをもってきた労働法学」となる。労働者階級に特有の従属性に着目し、運動論的な立場から、さまざまな形で出現する従属性起因の労働問題を、法の解釈や立法により解決しようとする伝統的な労働法学の立場は、いっとき勢力を弱めていたが、格差やブラック企業が社会問題化するにともない、勢力を回復してきているように思える。その一方で、私のように、もう少し未来の社会を見ようとしている人間は、プロレイバー的労働法学の将来にいささか悲観的だ。技術の急速な発展により、労働法の基礎にある「従属性」というものが、劇的な変貌を遂げようとしているからだ。
Marxが直面していた、工場における労働者たちの姿は、産業革命のすさまじい影響を受けたものだった。世界史の授業で習うように、産業革命は、イギリスで18世紀前半に綿織物産業における機械の発明を契機に始まり、その後の動力革命、交通革命により、大きく展開していった。産業革命は、工場内の様相を一変させた。職人の分業で行われていたこれまでの工場制手工業から、機械が人間に変わって生産を行い、労働者はその機械のオペレーターとして働くという工場制機械工業に転換していった。熟練した技能をもっていた職人たちは、その技能を発揮する場を奪われ、工場内で、あたかも機械の歯車のごとく単純な労働に従事する存在となった。おりから、農業革命により農業生産の大規模化・効率化が起こり農地を追い出された農民も、工場のある都市部に流れ込んできて、工場労働者になった。工場を所有する資本家(有産者)と生産手段をもたず自己の労働力を売るしかない労働者(無産者)。労働者は都市にあふれ、労働供給が過剰な状況のなか、労働市場の弱者に転落していく。労働者と資本家との間の厳然とした格差があり、まさに階級対立というにふさわしい状況があった。
あれからおよそ150年。生産過程は一変しつつある。長らく産業の中心にあった製造業では、すでに1980年代以降のME革命で、工場の無人化は進んでいた。その後のIT革命で、生産過程でデジタル化が可能なものは、次々とデジタル化され、情報の重要性が飛躍的に高まった。いまや生産は、情報ネットワークのなかで行われる。IoT(Internet of Things)は、情報技術が生産を左右することを示す象徴的な概念だ。生産のネットワーク化により、一つひとつの企業の存在意義は相対的に小さくなる。企業はスリム化し、むしろ多数の企業の連携が必要となる。そこで求められる労働の主力は知識労働である。知識労働を提供する労働者は、必ずしも企業内で抱え込まなくてもよい。こうしてクラウドソーシングが増える。いずれにせよ、生産現場で肉体労働を提供するブルーカラーの需要は激減する。
それに現在は、3Dプリンターなどを使ったデジタルファブリケーションの時代だ。個人は誰でも、自分の好きなものを製造することができる。大量生産・大量販売のビジネスモデルはもはや通用しない。個人がお金を払うのは、モノそのものではなく、アイデアに対してだ。自分でモノ作りをできる人に商品を買ってもらうためには、そこにアイデアがなければならない。つまり重要なのは知的創造性だ。逆にいうと、アイデアさえあれば、誰でもビジネスできることになる。個人による起業も容易ということだ。今日、生産手段は、どんどんコストが低下している。アイデアは自分の脳の中にある。製造業であっても、起業にそれほど大きな資本は必要でない。
生産手段をもつ者と、もたない者の区別が、徐々に意味がなくなっているのだ。ブルジョワとプロレタリアとの階級的な対立はなくなる。というかプロレタリア階級はなくなりつつある。ブルーカラーのやってきた仕事はロボットがやるようになる。知的労働は人間に優位性がありそうだが、実は人工知能が一気に追い抜いていくだろう。人間がやるべき仕事がなくなるのだ。そこに幸せが待っているかどうかは、誰もわからない。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
日本社会党

 

かつて存在した日本の政党。略称は社会党、社会、SDPJ。新聞やメディアでは民社党と混同しないよう社党と記される場合もある。1945年に旧無産政党系の政治勢力を結集して結成され、1996年に社会民主党に改名した。
結党から片山内閣へ
日本社会党は1945年、第二次世界大戦前の社会大衆党などを母体に、非共産党系の合法社会主義勢力が一同団結する形で結成された。社会大衆党は左派の労働農民党、中間派の日本労農党、右派の社会民衆党(後の民社党)などが合同したもので、右派・中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもち、特に民社党として分裂するまでの右派は反共主義でもあった。日本労農党の中心的メンバーは、戦前、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、天皇を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、社会大衆党が結党後、大政翼賛会への合流を推進した議員が多かった。一方、左派は天皇制打倒とソ連型のマルクス・レーニン主義を目指そうとした者が多かった。なお最初の結党の動きは、終戦の翌日に西尾末広(後の民主社会党委員長)と水谷長三郎が上京に向けて動き出すところから始まり、旧社会民衆党の議員が中心となって動き出した。
結党当初、党名は「日本社会党」か「社会民主党」かで議論となり、日本語名を「日本社会党」、英語名称を「Social Democratic Party of Japan」(SDPJ、直訳は日本社会民主党)とすることで決着した。後に左派が主導権を握るにつれ次第に「Japanese Socialist Party」(JSP、直訳は日本社会党)の英語名称が使われるようになった。その後再び右派の発言力が強くなり社会民主主義が党の路線となると、SDPJの略称が再確認された。
このように労働農民党系、日本労農党系、社会大衆党系の3派の対立を戦前から引きずり、たびたび派閥対立を起こした。ただこの派閥対立は後述するように1959年の右派(後の民社党)が離脱後は自衛隊と日米安保を認めるか否かの対立はほぼなくなり、マルクス・レーニン主義か社会民主主義かを巡るものに収斂していった。
なお、日本労農党系は戦争に協力したとして、指導者の多くが公職追放され、結党当初は影響力を持つことが出来なかった。徳川義親侯爵など名望家を担ぐ思惑から、当初は委員長は空席とされ、初代の書記長に片山哲が就任した。(後に委員長に就任)
ポツダム宣言受諾により、大日本帝国憲法の改正が必要になると、各党から改憲案が出され、社会党も1946年2月23日「社会黨 憲法改正要綱」を発表した。民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎、森戸辰男等が起草委員となったが、3派の妥協の産物といえる内容だった。社会主義経済の断行を宣言する一方、天皇制を存置する代わりに実権を内閣と議会に移す、国民の生存権を保証し、労働を義務とするなど、社会主義を別にすれば、実際にできた新憲法にかなり近い内容であった。社会党案の独自性としては、社会主義経済を明記してあるほか、国民投票による衆議院解散・内閣総辞職を可能にし、直接民主制の要素を強めていること、議会を通年とすること、死刑廃止を明記したことなどが挙げられる。
新憲法下最初の総選挙である1947年第23回総選挙で比較第1党となり、その結果民主党・国民協同党との3党連立内閣である片山内閣が成立したが、平野力三農相の公職追放を巡って右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判したり党内対立はやまず、このため翌1948年に片山内閣は瓦解した。
西尾末広内閣官房長官は左派の入閣を認めず、左派は事実上の党内野党となっていた。それに続く芦田内閣でも社会党は与党となり、左派の一部も入閣したが、最左派の黒田寿男ら6人が予算案に反対して除名されるなど、最右派と最左派を切り捨てる結果になった。昭電事件で芦田や西尾副総理が逮捕されると下野に追い込まれた。12月3日、除名された黒田らは労働者農民党を結成。1949年1月の第24回総選挙では、48名に激減して委員長の片山も落選した。
総選挙敗北後の第4回大会で、国民政党か階級政党かをめぐって森戸辰男と稲村順三との間でおこなわれた森戸・稲村論争は、その後の左右対立の原型となった。なおこの時には、社会党の性格は「階級的大衆政党」と定義されて、決着した。1949年8月には、さらに左派から足立梅市らが除名され、社会党再建派を組織した。
左右の分裂と総評・社会主義協会の結成
その後、社会党左派と社会党右派の対立が深刻化し、1950年1月16日には一旦分裂する。この時には75日後の4月3日の党大会にて統一し、対立は収まったに見えたが、サンフランシスコ講和条約への賛否を巡って再び左右両派が対立して1951年10月24日再分裂する。左右両派が対立するなか、1950年に日本労働組合総評議会(総評)が結成される(武藤武雄議長・島上善五郎事務局長)。総評は労働組合から日本共産党の影響を排除しようとするGHQの肝いりで結成された。
しかし、国内で再軍備論争が過熱するようになると、総評内では再軍備反対派が台頭し、第二回大会では平和四原則が決定された。第二代事務局長の高野実も反米・反政府の姿勢を強めた。1951年には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的・理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。
1951年、分裂直前に委員長に就任した鈴木茂三郎は「青年よ銃をとるな」と委員長就任演説で訴え、非武装中立論を唱えた。この考え方は厭戦感情の強かった当時の若者などにアピールして、分裂以後も非武装中立論を唱えた左派社会党は党勢を伸ばした。左派社会党躍進の背景には、総評の支援もあった。一方、右派社会党は再軍備に積極的な西尾末広と消極的な河上丈太郎の対立もあって、再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、さらに労組の支援も十分にうけられなかったために伸び悩んだ。こうして、左派優位の体制が確立した。この間、1952年には、社会革新党の後身である協同党が右派に合流している。
左派社会党は1954年に、向坂逸郎らが作成に関与し社会主義革命を明記した綱領(左社綱領)を決定した。作成の過程で清水慎三から民族独立闘争を重視した「清水私案」が提出されたが、綱領委員会で討議の結果否決された。左社綱領は、労農派マルクス主義の主張が体系的に述べられたものであったが、左右社会党が再統一を果たすと、折衷的な内容の綱領である「統一社会党綱領」がつくられた。
社会党、特に左派は再軍備反対と共に、護憲を公約に掲げるようになった。1955年の第27回総選挙では、左右社会党と労農、共産の4党で、改憲に必要な2/3議席獲得を阻止する1/3の議席を確保したため注目された。
日本国憲法は社会党案に近い内容で、そのため制定当初から社会党は好意的であった。しかし、左派には社会主義憲法の制定・天皇制廃止を求める意見があり、一方の右派には再軍備賛成など、いずれも改憲が必要となる意見が存在した。そのため、左派は護憲派と名乗りながら実際の憲法の内容を必ずしも支持せず、逆に右派は後に分裂して民社党を結党していく勢力は、次第に明文・解釈改憲に傾いていった。
再統一と60年安保闘争・三池争議
左右両派は1955年10月13日に党大会を開き社会党再統一を果たした(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長)。1950年代の躍進により、再統一時の社会党の衆議院での議席は156にまで拡大した。同年11月には保守合同で自由民主党が結成され、両党を合わせて55年体制とも呼ばれるようになった。
当時は二大政党制を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた。1956年3月には、最高裁判所機構改革に並行し、違憲裁判手続法の法案を衆議院法務委員会へ提出した。また、7月の第4回参議院選挙では、自民61議席に対し、社会49議席と健闘した。そのため、社会党の総選挙にかける期待は大きかった。
1957年1月には労働者農民党が合流し、ようやく社会党勢力の分裂は完全に解消された。この時点で衆議院160議席となっていた。
しかし、1958年の第28回総選挙では社会166、自民287と保守の議席に迫ることができなかった。得票数は伸びたが、保守合同で候補者の乱立を抑えた自民の前に伸び悩んだのである。ただし、後から見れば社会党にとっては最高記録であり、また唯一 1/3 を超す議席を獲得した選挙だった。
1959年第5回参議院選挙では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親中ソ路線が敗因と批判した。さらに、安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障政策を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求した。逆に、総評の太田薫と岩井章は、共産党との共闘(社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立した。
これ以前の1956年、総評に批判的な右派労組が全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三井三池争議では会社側と協調する動きを見せるなどした(第二組合、左派から見た御用組合)。全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成する。なお、民社党の離反の背後には、米国CIAの支援もあった。
当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙った。福岡県大牟田市の三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成された。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。
構造改革論争と「道」の策定
民社党が分裂したものの野党第1党の地位を維持しながら、保守勢力に対する革新勢力の中心として存続した。浅沼稲次郎委員長刺殺事件直後の1960年第29回総選挙では、145議席を獲得。民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やした。
1958年総選挙直後から、党内では党組織の改革運動が始まり、中心人物の江田三郎は、若手活動家の支持によって指導者の地位を確立した。江田は安保闘争と三池争議挫折の反省から、漸進的な改革の積み重ねによって社会主義を実現しようという構造改革論を提唱するが、江田の台頭に警戒心を抱いた佐々木更三との派閥対立を激化させる結果に終わった。また、佐々木と手を結んだ社会主義協会の発言力も上昇した。党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に、指導者たちは派閥抗争に明け暮れ、社会党は専ら総評の組織力に依存する体質に陥った。1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。
社会党は社会民主主義政党による社会主義インターナショナルに加盟していたが(民社党も分裂後に別個に加盟)、社民主義は資本主義体制を認めた上の「改良主義」に過ぎないと、左派を中心に非常に敵視された。左派は、現体制の改良ではなく資本主義体制そのものを打倒する革命を志向し、社民主義への転換は資本主義への敗北だと受け止めたのである。民社党の離反による左派勢力増大もあり、党内右派も積極的に社民主義を主張できなくなった。その結果、社会主義インター加盟政党でありながら、ソ連・中華人民共和国や東欧諸国など東側陣営に親近感を示す特異な綱領をもつ政党となった。この間、社会党幹部はソ連や中華人民共和国に友好訪問を繰り返す一方、アメリカについては、1957年に訪米団を派遣してから、18年間も訪米団が派遣されないなど疎遠な関係が続き、共産主義の東側諸国に傾斜した外交政策がとられた。なお、社会主義インターは日本社会党が反対する米国の「ベトナム戦争」を支持したため、社会党はしばらくの間、会費を滞納していたという。しかし退会はしなかった。
この時期、日本共産党が第6回全国協議会(六全協)を開催し、混乱要因であった武装闘争路線を放棄し、ソ連・中国と決別し自主独立路線を採用した。日本共産党は日本社会のマイノリティーとも一線を引くことになり、部落解放同盟や朝鮮総連は日本共産党と距離をおき、日本社会党との距離を縮めていくことになる。
党内の派閥対立は、民社党として右派が離脱後は安全保障(自衛隊、日米安保を認めるか)を巡るものはほぼ解消され、マルクス・レーニン主義路線の是非と問うものに変わっていった。
停滞から低落へ
この間、1963年の第30回総選挙では前回比1議席減の144議席、1967年第31回総選挙では同4議席減の140議席と、予想に反して社会党の党勢は停滞・微減した。高度経済成長の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党の議席は本来増加するはずであった。社会党自身も、この時期は政権獲得に必要な過半数の候補者を擁立しなかったものの、後年の長期低落にみられるような候補者数の絞り込みはしていなかった。社会党も1964年成田三原則(議員党的体質、労組依存、日常活動不足)の指摘など、停滞克服の一定の努力はした。しかし、成田が指摘した三原則の克服は、党官僚の跳梁跋扈や、党活動家の左傾化、議員や議員後援会から党が遊離することなど、後に江田離党問題に浮上するような、世間から社会党が遊離する原因ともなった。また、社会変化に適応した政策策定の不十分と内部の派閥抗争により、結果的に有効な対策を打ち出せなかった。これについて、石川真澄は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は公明党や日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘している。また、田中善一郎などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析している。これらの指摘は、都市部で社会党支持者が離れたとの分析という点で共通している。
1969年の第32回総選挙では候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減した。これについて、石川真澄は、この当時の社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争(内ゲバ)、中華人民共和国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)など)のために、社会党に嫌気がさした旧来の支持層の多くが棄権し、各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためであるとの見解を示している。しかし、自主独立路線を確立しソ連や中国への批判姿勢を強めた日本共産党は、この時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)。また新左翼に対する若年層の支持はそれなりにあったし、中華人民共和国の文化大革命の実態はこの時点ではほとんど知られておらず、「ベトナム戦争はアメリカの不正義性とアジア各国の社会主義の優越性を示すもの」として、社会主義への期待は一部に残っており、むしろ、多党化現象の余波や都市部での都市流入層の組織化を怠った結果というほうが正確とする意見もある。
社会党の財政は弱体で、所属議員数に応じて会派に支給される立法事務費を党財政の足しにしていた。そのため、50議席減による減収によって、本部書記(職員)の退職勧誘が行われる事態になった。再就職の当てがある人材を対象としたため、優秀な職員を手放すことになったのも痛手であった。
1972年の第33回総選挙では、成田知巳委員長、石橋政嗣書記長(成田−石橋体制)のもとで前回の90から118へ戻し、ある程度の議席を回復したものの、完全に議席を取り戻すまでには行かなかった。
55年体制の成立当初は、社会党は政権獲得を目指したが、地域などへの利益誘導を武器とする自民党の一党優位体制が長く続くなかで、これに対抗するための地域の世話役活動が衰弱し、公明党や共産党に支持基盤を奪われることとなった。さらには中選挙区制のもとで、個々の選挙区の獲得議席を安定化させるために候補者絞り込みを行ってきたため、社会党は議席の現状維持を容認し長期低落傾向を示すようになった。社会党は「万年野党」と呼ばれ、支持者にも自民党政権の永続を前提とする認識が広がり始めた。
特に都市部での凋落はひどかった。東京都議会ではその傾向がひどく、1969年東京都議会議員選挙で、公明党に抜かれ第3党となり、1973年東京都議会議員選挙では共産党にも追い抜かれ、第4党に転落した。その一方、地方では自民党と社会党で議席を分け合う構図はほとんど変わらなかった。(ただし、圧倒的に自民党の議席が多く、北海道など一定の地盤のある県を除き、2:1以上に議席の格差があった)後述する革新自治体を都市部に誕生させる実績は残したものの、全体として社会党は都市型政党から次第に農村型政党に変貌していった。
革新自治体と社会主義協会派の台頭
1960年代後半から1970年代の社会党は日本共産党も含む全野党共闘路線をとり、自治体首長選挙では共産党と共闘し(社共共闘)、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させた。社会福祉の充実など一定の成果を残したが、財政悪化を招いたとの批判がいわゆる「保守政党」からされることがある。
この時期には、社青同内の解放派(のちの革命的労働者協会(革労協))など極左派が排除される一方、社会主義協会の影響力が組織的にも強まった。向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」の解釈ドグマを絶対視し、ソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。また組織的にも独自の綱領と地方組織をもち、所属議員はほとんど持たない一方で、社会党の地方組織の活動家や労働組合の専従活動家などの中心的党員を会員とし、党組織での影響力を強めていた。
親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、本来の左派である佐々木は中国との接近を強めるとともに、構造改革論争以来の仇敵の江田と結び、以後、協会派と反協会派の党内対立が激化した。1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、両者の対立はさらに激化した。ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党がソ連から援助を得ていたことが明らかにされたが、当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定した。
協会規制と「新宣言」
1976年の第34回総選挙で初めて自民党が過半数割れ(ただし追加公認で過半数確保)すると、政権交代は現実のものとして論議に上った。しかし党の内紛は続き、江田三郎は1977年党大会で協会派が代議員の多数を制し、副委員長を解任されたことで社会党に絶望したと述べて離党し、社会市民連合(後の社会民主連合)を結成した。江田離党と1977年参院選敗北が契機となり、成田委員長らは辞職し、協会規制がおこなわれ、社会主義協会の活動に一定の歯止めがかけられた。これ以降、総評の変化もあり1980年代以降の社会党は、飛鳥田一雄委員長、平林剛書記長の指導の下、日本共産党を除き、民社党や公明党などの中道政党と連立政権を作ろうという構想(社公民路線)をとった。
1970年代後半からは議席数では与野党が伯仲したが、有権者の意識の上では、自民党政権はむしろ安定性を増していた。1980年の衆参ダブル選挙(第36回総選挙・第12回参議院選挙)で自民党は大勝したが、1983年の第37回総選挙で再び与野党の議席は伯仲した。しかし社会党の議席は微増(107から112)にとどまった。公明・民社は表向き社公民路線を取りつつも、自民との政策協議を重視するようになった(自公民路線)。さらに労働界も、政府に対する政策要求の効果を高める目的で、IMF-JCを中心に社会党支持労組の中からも政策協議路線を後押しする動きが強まり、自民党を中心に政策決定していくことを前提にした政党間関係を構築していくようになる。こうした動きは日本共産党から「国政もオール与党化」「大政翼賛会の二の舞」などとの批判が浴びせかけられる。一方では、1960年代から続く、自民党との国対政治が常態となっており、自公民+社の政策協議路線と、自社両党の国対政治が交差しながら、低落した党勢の中で最大限に政策実現を図ろうとしていた。
1985年、社会主義協会の指導者であった向坂逸郎が死去し、その前後から社会主義協会内も現実路線と原則路線との対立が始まった。1986年、激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと、「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領的文書である「日本社会党の新宣言」が決定された。これは従来の、平和革命による社会主義建設を否定し、自由主義経済を認め、党の性格も「階級的大衆政党」から「国民の党」に変更するなど、西欧社会民主主義政党の立場を確立したものである。ただし妥協策として旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加したため、路線転換は明確とはならなかった。
土井ブームの盛り上がりと凋落
「新宣言」決定後も退潮はとまらず、1986年夏の衆参ダブル選挙(第38回総選挙・第14回参議院選挙)は大敗(衆院で112から85)し、退任した石橋委員長の後継に土井たか子が就任、議会政党としては日本初の女性党首が誕生した。土井社会党は土井の個人人気と女性候補(「マドンナ」と呼ばれた)を積極的擁立など女性層を中心とする選挙戦術を展開し、消費税導入やリクルート事件、農業政策に対する不満を吸収した「激サイティング!社会党」のキャッチコピーを掲げ、1989年の第15回参議院選挙では46議席を獲得。自民党は36議席しか獲得できず、連合の会と共に、自民党を非改選を含めても過半数割れに追い込み、改選議席で自民党を上回った。土井の個人的人気による選挙結果のため、土井ブームと呼ばれた。このとき土井は開票速報番組の中で、「山は動いた」という名言を残している。この時の候補者の多くが消費税撤廃を公約としたため、参議院において消費税廃止法案を提出・可決したが、衆議院において廃案になったため実現しなかった。
1990年の第39回総選挙でも60年代後半並みの136議席(公認漏れなどを含めると140)を回復し前進を示した。しかし、自民党は追加公認を含めて安定多数の286議席を獲得して底力を見せ、社会党がこの選挙で掲げていた政権交代の実現は頓挫した。つまり、社会党の議席増の相当部分は、自民党からでなく、他の野党から奪ったものであり、別の見方をすれば、この時期は日本社会党が西欧諸国の社民主義政党のように保守主義政党と政権交代を繰り返すような勢力となる、「保守政党と社民政党による二大政党制」へと発展できる最大の好機でもあった。
しかし、社会党にとって最大の好機にも関わらず、この選挙で社会党は定数512に対し149人しか擁立できなかった。社会党内の激しい派閥抗争に加え、長年続いた各選挙区における消極策が今回もあらわれたのだった。それは社会党の体力が奪われていることを示していた。土井執行部は180人擁立を目標にしていたが、無所属候補や他党系無所属候補の推薦を含めても160人にとどまった。本来なら陣頭指揮をとるべき書記長の山口鶴男さえ、自分の選挙区での2人目の候補擁立を暗に妨害する始末だった。さらに、資金難も候補擁立の障害となった。土井によれば、落選した場合の生活保障ができなかったことを理由に、勧誘を断られるケースが多かったという。しかし、社会党内部では、政権奪取に失敗にもかかわらず議席数の回復への安堵感が強かったため、社会党は政権獲得の意志を持たない万年野党に満足する政党だとの批判を受けた。さらに、社会党の一人勝ちに、社会党と共闘路線をとっていた民社党・公明党の離反を招く結果となり、社会党の右派はこれを理由に「社会党の一人勝ち」を内部から非難さえした。
なお、この選挙で特筆すべきは公認候補だけで56人という空前の数の新人が誕生したことである。後述のように、この後社会党は政権参加を経ながらも、曲折の後に凋落の一途を辿り、中堅・若手議員の多くが民主党に参加する。社会党出身議員はその重要な母体となるが、中でも90年初当選組は大きな役割を担い、やがて2009年に実現する民主党政権でも、政権中枢の要職に就くことになる(この選挙での初当選議員として、仙谷由人、松本龍、岡崎トミ子、赤松広隆、細川律夫、輿石東、大畠章宏、鉢呂吉雄らがいる。但し鉢呂は当選時無所属)。
いっぽう社会党の最大の支持基盤であった総評は槙枝元文議長、富塚三夫事務局長のもとで同盟、中立労連、新産別の労働4団体との「労働戦線統一」に向けて大きく舵をきり、1982年12月14日の全民労協の結成から、官公労も合流して1989年11月21日、日本労働組合総連合会(連合)の結成大会が開催された。これにともない総評は1989年11月に解散した。連合の初代会長には情報通信労連委員長・山岸章が選出された。これは総評の労使協調路線への転換によって、それまで対立してきた同盟との和解が可能になったことによって実現したものである。
1990年に発生した湾岸危機で政治課題となった自衛隊の派遣では、日本社会党は憲法9条堅持の立場から、「自衛隊海外派遣に反対」を主張し、民社党・公明党との関係は冷え込んだ。これと並行して民社党・公明党との協調を重視する連合など労組幹部などとの摩擦も強まり、土井執行部の求心力は急速に低下した。1991年の統一地方選挙で社会党は敗北、土井は責任を取って委員長を退いた。
なお、この年の東京都知事選では連合の山岸会長が公明党・民社党と共に磯村尚徳を担ぐよう社会党執行部に働きかけた。これは、山岸会長の持論である社公民路線の定着を狙ったものである。自民党の小沢一郎幹事長も磯村を自民党本部の候補として推薦した。社公民3党に小沢など自民党の一部が乗る形で実現した細川護熙内閣の構図はこのとき、既に出来ていたといえる。一方、社会党の独自性を強調する土井を中心とするグループは独自候補にこだわる一方で、なかなか候補者を決められず迷走した。土井を都知事候補に擁立し、土井人気を復活させようという動きも社会党の一部にあったが、土井が決断できず、水泡に帰した。社会党は選挙直前にようやく候補者を決定したが、供託金没収点にも満たない惨敗に終わった。
後任の委員長には、田邊誠と上田哲が立候補し、全党員投票による選挙となった。有力支持労組をバックにした田邊有利との観測が強かったが、湾岸危機による安全保障論議を背景に左傾化する党内世論のもと、護憲平和路線の維持を訴える上田が左派主体の一般党員に支持を広げ、田邊は労組からの集団入党者の票でようやく勝利した。この選挙結果は、田邊執行部に大きな足枷となり、後の党運営を縛るものとなった。
『在日韓国人政治犯の釈放に関する要望』署名問題
1989年多数の社会党議員が署名したが、この釈放対象に北朝鮮による日本人拉致事件の実行犯、工作員・辛光洙(シンガンス)らが含まれていたことが後に問題となる。前年の1988年3月26日の第112回国会予算委員会で梶山静六国家公安委員長が拉致を北朝鮮の犯行が濃厚と認めていた。
田邊執行部とPKO法案
後任の田邊誠委員長は、自民党の金丸信に近く、右派・水曜会のリーダーとして現実路線を期待された。しかしそのことがかえって党内活動家やそれらと連携する党外の平和運動活動家などの警戒的世論にさらされ、1992年のPKO法案の審議では牛歩戦術を連発するなど、強硬な対決姿勢を取った。社会党はPKOを自衛隊とは別組織にすることを条件にPKO法案を受け入れようとし、自民・公明・民社(自公民)の3党は一度は文民による別組織を作ることで合意しており、PKO法案はすんなり成立するかに見えた。しかし、自民党の本心はあくまでも自衛隊によるPKOであった。そのため、民社党・公明党の同意を取り付けるとたちまち別組織案を反故にした(ただし民社党は、公明党を味方につけるため別組織案に合意したのであり、本心は自民党と同じであった)。このため、社会党はPKO法案そのものに反対な強硬派が主導権を握ったのである。
一方、民社党・公明党は自民党と共に内閣信任決議を可決させるなど、実質的に与党となっていた(自公民路線)。社会党は全衆議院議員の辞職まで打ちだしたが、最終的には抵抗を諦めた。その直後、7月26日投開票の第16回参議院選挙は自民党の勝利に終わり、社会党・連合は大敗した。社会党執行部は、改選議席を確保できたことのみに着目してまずまずの結果と強弁し敗北を認めなかったが、結局、田邊執行部は退陣し、書記長の山花貞夫が後任の委員長となった。
金丸訪朝団
1990年9月26日、北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の金丸信、社会党の田辺誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。訪朝は北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇ら日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった。訪朝団に対する金日成の歓待ぶりはすさまじかった。2万人が動員されたマスゲームは代表例で「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節を熱烈に歓迎する!」という人文字が表示された。9月28日自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同宣言がなされたが、その中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、戦後における北朝鮮への戦後賠償の表明とみなされたため、後に大きな批判にさらされることとなった。
細川連立内閣の誕生から村山内閣へ
1993年の第40回総選挙で社会党は新党ブームに埋没し、改選前の136議席から70議席と議席をほぼ半減させた。社会党の有力支持母体であった連合は政権交代を重視し、加盟産別労組の一部は、これを阻害する社会党の護憲派・左派候補を露骨に排除する「選別推薦」を行い、新党候補などに票を回した(この「選別推薦」により連合の推薦を受けられなかった議員には、元党首の土井や岩垂寿喜男や上田哲がいる。なお、後に民主党の都議会議員となった真木茂は、選別の第一次案を自分が作ったと書いている)。特に都市部では、東京都で11議席から1議席に激減するなど、土井ブームで得た議席を失い、55年体制以来最低の議席数となった。長年の宿敵であった自民党が大敗した選挙であるにも関わらず、社会党は却ってその存在感を失うこととなり、後のことを考えれば皮肉にもこれが社会党にとっての"終わりの始まり”であったとも言える。
総選挙後に非自民・非共産連立政権の細川内閣に与党として参加。社会党は与党第1党ではあったが、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため、与党第1党にもかかわらず首相を出すことができなかったが、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な立場となった。閣僚人事においても、主要閣僚は新生党や公明党、日本新党等、細川護熙をはじめ羽田孜、小沢一郎、市川雄一ら旧与党内の実力者に独占された。
1994年、小選挙区制導入に反対した一部議員や党員が離党し、新党護憲リベラルや護憲新党あかつきを結成したことで党の弱体化に拍車がかかった(96年には社民党離党者が新社会党も結成)。細川首相退陣後、新生党・公明党との対立から社会党の連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの羽田孜政権参加に合意した。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「改新」の結成呼びかけに反発した村山富市委員長(総選挙敗北の責任を取って山花が委員長を辞任したのを承け93年9月に就任)は羽田連立内閣から離脱を決め、羽田政権は少数与党として発足した。
1994年6月、羽田連立与党は自民党の海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党、新党さきがけと連立した、自社さ政権)である村山政権が発足した。村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(後に1994年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。1994年12月には新進党結党により、衆議院で第2党から第3党に転落した。また消費税の税率を3%から5%にすることを閣議決定した。その後の1995年の第17回参議院選挙では16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わった。
社会民主党への改称
1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称し、3月には新党として第1回大会を開催、日本社会党の名称は消滅した。小選挙区比例代表並立制のもとでは、社民党単独での衆議院議席獲得は至難であることが予想されたため、新党さきがけとの合併や、鳩山由紀夫・船田元らが提唱した新党構想への合流などの議論が絶えなかった。現在の社民党は日本社会党との連続性を標榜しているが、成立当時は逆に社会党との断絶を強調していた。
その後
新党構想は結局、鳩山由紀夫・邦夫兄弟や菅直人らが中心となり同年衆議院解散直前結成された民主党として現実のものとなった。社民党は一旦、民主党への丸ごと参加を決定したが、鳩山由紀夫の「排除の論理」に反発して、すぐに撤回。現職の幹事長であった佐藤観樹を含め約半数の党所属国会議員が「個々人の決断」のもと社民党を去り、民主党結成に参加した。幹部候補生と目された前北海道知事横路孝弘も民主党を選んだ。一方、村山ら約半数の議員は社民党に残留し、土井たか子を党首に復帰させ、第41回総選挙に臨んだ。支持労組の大半は民主党支持に転じたが、地方組織のかなりの部分は社民党に残った。村山内閣時の路線転換に批判的な議員や党員の一部は、離党して1996年3月、新社会党を結成した。 2010年参議院選挙をもって渕上貞雄が引退し、社会民主党に社会党所属経験者の国会議員はいなくなった。
批評・批判
○日本共産党は日本社会党に対して、前身政党は侵略戦争に加担したため名称変更した、1946年の憲法案は「主権は国家に在り」として主権在民に触れなかった、新左翼などの「暴力集団」を「同盟軍」と位置づけた、1980年の社公合意で従来の社共共闘から社公民路線に転じた、などと批判している。
○丸山眞男は著作で、日本社会党が国会で「三分の一のカべ」を超えられない理由として「保守党の大企業偏重を裏返しにした形で、社会党は大労組偏重に陥っている」と記した。
○原彬久は2000年の著作「戦後史のなかの日本社会党:その理想主義とは何であったのか」で、日本社会党は「社会主義国日本」との理想を目指して結党したが、労農派マルクス主義を中心とする社会党左派は国際組織の社会主義インターナショナルと温度差があり、ソ連・中国・北朝鮮との交流を重視し、「理想主義」により急進左派とも接近したが、その理想主義は脆弱で体力と戦略が不足していた、と記した。
○森裕城は2002年の著作「日本社会党の研究 - 路線転換の政治過程」の中で、「現実主義化」の効果は民社党の停滞を見ても疑問だが、日本社会党は自民党政治の「牽制政党化」し、「新宣言」での西欧的な社会民主主義路線も政治的スローガンの転換以上の意味を持たず、「政権獲得へ向けて社会党が戦略的な行動をとりえなかった」と記した。
○依田博は上記の「日本社会党の研究 - 路線転換の政治過程」の書評の中で、日本社会党は政権担当政党としての信頼を有権者から得られなかったが、自由民主党と同様に「一枚岩ではない組織構造を持った政党」としては有権者の共感を得ていた、と記した。
○木下真志は2003年の著作「転換期の戦後政治と政治学:社会党の動向を中心として」で、1950年代には逆コースや再軍備への国民の広範な反対があり、社会党左派・総評左派・社会主義協会の「左派連合」の結束によって躍進したが、1960年代にはこれらが争点ではなくなり社会党は衰退した、と記した。
○山口二郎・石川真澄らによる2003年の共著「日本社会党 - 戦後革新の思想と行動」では、社会党の衰退原因として、戦前からの講座派と労農派の対立、末端の党組織の弱さ、中国・北朝鮮などとの「片面」的な関係、自衛隊廃止の具体的なプログラムを提示できなかったこと、「批判政党」との自己規定への満足、1980年代の連合成立と社会民主主義勢力の結集の期待の際に、社会党も民社党も有効な連合政権構想を提示できなかったこと、1990年代前期にも明確な政権構想を打ち出せず古い55年体制の既成事実に屈服したと受け止められたこと、などを挙げた。
○岡田一郎は2005年の著作「日本社会党:その組織と衰亡の歴史」で、社会党の衰退原因として労組依存体質と党組織の脆弱さ、左派と右派による不毛な派閥対立、構造改革論への反発、野党陣営の多党化、中ソ対立の影響、組織論なき路線転換、などを挙げている。
○保守系の知識人としては、渡部昇一が「自民党の政治家は戦前の人たちと同じ普通の日本人だが、野党の政治家はそうではなくイデオロギーにとらわれた人々という感じがあった」と述べている。
「日本における社会主義への道」
1964年から1986年までの日本社会党の綱領的文書。党内での略称は「道」。
1955年左右社会党合同時決定の綱領は折衷的なものだったため、党内左派の不満は強かった。民社党分離により左派の影響力が強まったことと、構造改革論争など路線問題整理の必要から、1962年1月開催の第21回定期大会で鈴木茂三郎を委員長、勝間田清一を事務局長として理論委員会の設置が決定された。「日本における社会主義への道」はその報告で、党大会での承認を受けたことにより、実質的に綱領に代わる文書として扱われた。第一部・日本の現状、第二部・社会主義運動の実践理論の二部からなるが、第一部は事実上は第二部の調査研究資料で、社会党内で討論・学習の対象となることはほとんどなく、一般には第二部が「日本における社会主義への道」とされてきた。第一部は1964年2月開催の第23回大会で承認、第二部は1964年12月開催の第24回党大会で承認、1966年1月開催の第27回党大会で修正補強された。
○内容
1.社会主義革命の必然性 社会主義体制、民族独立解放闘争の前進と資本主義諸国の矛盾の蓄積によって、資本主義体制は社会主義体制に道を譲らざるを得ない段階に来ている。
2.日本資本主義の性格 日本資本主義は国家独占資本主義である。資本主義の基本的矛盾は最高度に発展しており、社会主義革命の前夜にある。
3.福祉国家批判 「福祉国家論」は、国民の選択を社会主義に向かわせず資本主義体制に留めておくための資本の延命策である。資本主義のもとでは、真の意味の福祉国家は実現しない。
4.社会主義の原則と基本目標 社会主義は人間が人間を搾取する制度を廃絶し、人間疎外を最終的に解消する。主要生産手段公有化と計画経済により、生産性を高め国民に豊かな生活を保障する。国民の基本的人権を保障する。平和共存の国際関係を樹立する。初期の段階ではある種の階級支配を行わねばならないが、ソ連・中国のような「プロレタリア独裁」の形態は必要ない。 この部分は第27回大会で、日本における階級支配はソ連中国とは異なるが、それはプロレタリア独裁の本質における相違ではなく、機能のあらわれ、形態の相違である、と修正された。ただし本文の修正ではなく「審議経過」で触れられた。
5.日本革命の性格と日本社会党の任務 日本における社会主義への道は平和革命の道である。単に望ましいからではなく、日本には客観的にその条件があるために、積極的に遂行する。日本社会党は社会主義革命の指導的政党として、議会の内外において民主的多数派を獲得し、議会を通してすべての権力を握る。
6.過渡的政権 社会主義政権樹立以前に移行接近のために樹立される政権であり、社会党政権と呼ぶ。基本的性格は、護憲・民主・中立である。社会党単独政権が基本だが、他会派の閣外協力、他会派との連立政権もありうる。
7.外交路線と国際連帯 日本社会党の外交路線は、積極中立である。当面の課題は、日米安保条約を解消し、自衛隊を国民警察隊、平和国土建設隊に改組し、アジア太平洋地域の非核武装地帯の設定をめざす。
日本社会党は、資本主義国の社会主義政党・社会主義インター、インドなど非同盟諸国、ソ連中国など社会主義諸国との国際連帯をめざす。
○影響
「日本における社会主義への道」は、社会主義協会が策定に重要な役割を果たしたものの、社会主義への移行過程やブルジョア民主主義の意義を詳細に記述するなど「青写真」の要素があり、当初は構造改革派よりの文書ともみなされた。しかし、江田派など党内右派が構造改革論の革命性を放棄した60年代末以降、「道」は日本社会党が社会主義革命をめざす社会主義政党であり西欧社会民主主義政党ではないことを規定した文書とされ、社会主義協会など党内左派は「道」を積極的に擁護し、「道」を根拠に党内右派を強く批判した。1977年協会規制以降右派がしだいに党内指導権を握ると、「道」見直しが提起され、左派との間で激しい論争が繰り広げられた。この論争は、1986年「日本社会党の新宣言」で「道」などが歴史文書とされたことで、決着した。これは、1949年森戸・稲村論争以来の左派優位の終焉でもあった。
○評価
社会主義協会など旧社会党左派は、今日でも「道」を高く評価する。一方、党外の政治学者からは、「道」は社会党が高度成長期の新しい社会状況に適応することを妨げたと否定的に扱われることが多い。また、党内各派の妥協の産物でもあるため、記述の折衷性、曖昧さ、冗漫さや一部に日本語として熟さない表現があることも指摘されている。 
 
社会党路線論争小史 / 結党から「新宣言」まで 1989

 

はじめに
およそ政党であれば、論争の歴史のないところはないであろう。そのなかでも、日本社会党ほど論争の山を積み上げた党はない。それは、時代の流れとともに展開されたわけだが、振り返ってみれば、ときに時代髄れの、ときに時代逆行ともみられる論争であった。 戦前、戦後の特殊な日本的条件もあって、社会党、とくに同党左派とそれがもつ左バネは、戦争への危機に反対し、再軍備に反対して、平和の聞いの先頭に立ち、また果敢なストライキやデモンストレーションによって、階級闘争をたかめ、保守党や資本家の心胆を架からしめた。しかし広く社会的にみると、それがもつイデオロギーの硬直性によって、時代の変化に敏感な国民大衆の感覚と遊離し、結びつきを失い、社会改革の運動や政権党への道を自ら閉ざすことになった。
戦後40年にわたる社会党の論争史の決着点として採択された「新宣言」から三年、党首の土井たか子(以下人名は敬称略)が率いる社会党は、長かった低落傾向に歯止めをかけ、先の参議院選挙で大勝利をおさめ、政権への扉を半分開いた。その党の歴史の中から、主な綱領次元の論争の足跡をたどってみることは、同党のこれからを占う意味でも無駄はない、と思う。
三つの時代区分
論争史の背景をさぐるために、三つの時代に区分し、その特徴を耐乏、成長、成熟の時代ととらえる。それが社会党の論争と、どうかみ合うか、それぞれにみてみる。
第一の耐乏期は1945〜60年まで。その特徴を一口でいえば、占領から安保までの激動期で、国民にとっては、明日の暮らしがどうなるか、の耐乏の時期であり、米・ソ対立教化の谷間のなかで、イデオロギーが政治にカをもった時代といえよう。
第二の成長期は1961〜75年まで。朝鮮戦争、第一次技術革新をうけて、日本が世界でもまれな高度経済成長をとげる、いわゆる成長期である。池田内閣の「所得倍増論」と総評の春騒が、対立しつつもかみ合い、国民諸階層がパイの分け前をめぐって、綱を引き合った時期である。
新しい中間階層がうまれ、新旧の中間層を社会的基盤として、民社、公明の中道政党の存在が認知され、自民、社会の間にわけいって政治の三極構造をかたちづくる。都市集中の矛盾が、公害として噴き出し、革新自治体が花を咲かせた。総じて、この時代は、インタレスト(利害関係)が、政治の中で幅をきかせた時である。
第三の成熟期は1976〜現在まで。石油ショック、スタグフレーションの汲をくぐって、第二次技術革新、減量経営が進展し、綾やかな成長期に入ったが、輸出ドライブもあって経済大国になる。国際化が急速に進み、南・北の落差拡大、東・西の経済的格差が明らかとなり、緊張頼和、軍縮が漸進する。量より質、生産より消費、人々は生活とその環境に日をむけ市民的自覚が広がる。また女性の活動が活発となり、地域での諸運動をになう。一口でいえば、ライブリー(生活者)の政治に入る時代とみてよいであろう。
社会党の論争史を回顧するとき、そこに流れているのは、左派イデオロギーをめぐる論争でであり、それが歴史の推移とともに現実離れし、風化しても、なおかつ論争の主座を占め、同党の背骨となってきたという事実を見逃しえない。これは、日本共産党がたどった足跡とともに、日本の左翼がもってきた宿命ともいえるのである。
正統性の争い分裂
ここでは、戦前無産政党史をひもとく余裕はないが、その理由の一つは、治安維持法下にあっては、自己の理論を大衆の運動の中で十分検証することは許されず、従って観念論争が先行し、いたずらに理論上の正当性を争って分裂を繰り返すという不幸な体質を宿したことである。
また、もう一つの理由として、マルクス主義をはじめ、社会主義思潮の日本への導入が日本の近代化の遅れと関係しているのではないかと思われる。西欧では、自由、平等、博愛(連帯)の市民革命の理念が、歴史と風土に根づいているなかで、柔軟で批判的なマルクス主義の受けとめ方がなされたが、日本では、大正期、ロシア革命の成功と結びついて輸入され、公式的なマルクス・レーニン主義として輸入され、啓蒙された。
マルクスの西欧での通産継承を戦前の厳しい弾圧下におかれた日本の左翼と比べることは、無理があるか、とも思われる。しかしその業ともいえる悪しき体質を、戦後民主主義の進行と国民大衆の意識の向上のなかでも改められず、革新の名のもとに、長く持ち続けたことは、社会党の前進と日本の議会制民主主義の発展にとって遺憾なことであった。
第1期―左右論争の典型
森戸・稲村輪争
結党時、占領下という先行き不透明な状況の中で、共産党を除く戦前の諸潮流を穎結させるため、社会党は、いわゆる法三幸一「政治的には民主主義、経済的には社会主義経済留際的には平和主義」1という簡潔な目標で諺生した。結党時、論争の深入りを避けた同党が、片山内閣崩壊後、1949年の4回大会の運動方針の起草のなかで、初めて本格的な綱領次元の論争を行う。森戸・稲村論争である。
この論争は、結党時のツケを清算する意味で社会主義の目標、路線、党の性格を含むものとなった。原案は、労農漁マルクス主義の流れをくむ稲村順三が書き、右派の穏健な森戸辰男が、これに対置する草案を出した。
親方の論点は多岐にわたるが、その一つは片山連立政権の評価であり、稲村が「われわれの目標は社会主義の実現であり、」切の方針、政策は、この終極目標を達成するのに役立つか、否か、という一点から評価されなければならない」として、連立内閣の失敗を強調する。これに対し森戸は、敗戦後の大困窮に直面して「国家再建という見地から傍観することはできない。戦前無産政党の伝統である“反抗精神’’とは違った責任政党でなければならぬ」とし、片山内閣は「他党の無責任な扇動のなかで、食糧、工業生産、インフレ間遁などで、自立再建への一定の役割を果たした」と主張する。
また党の性格では、有名な稲村−「階級政党」、森戸−「国民政党」論を展開した。大会は、まとめ役に回った勝間田清一が稲村原案を下敷きに、森戸案も部分的に取り入れて運動方針の起草を終えた。そして「階級政党」か「国民政党」かについては、“階級的大衆政党”という用語が編みだされる。
この用語は、統一綱領、日本における社会主義への道(以下「道」)にも継承され、内容の解釈をめぐって常に論争の火種となった。社会党にとっては、古くて新しい論点である。
森戸・稲村論争は、共同戦線党としての社会党の初の本格的論争として、歴史に残るものだが、すぐ後の1951年、講和・安保条約への対応の違いで分裂した左右社会党が、それぞれ左社綱領、右社綱領を策定する。左社は、稲村が向坂逸郎(九大教授)らと協議してその原案をつくり、右社は、森戸草案をうけて、若い河上民雄、藤巻新平らが草案を作成した。左、右社会党の綱領は、かたや労農派マルクス主義の平和革命論が、かたや非マルクス、西欧社会民主主義の改良主義が、はっきりと打ちだされていて興味深いが、その紹介は割愛する。
両社綱領から統十綱領へ
1955年、統一への機運が高まり、合同して保守に代わる政権を狙おうとする両党内の主流派一鈴木、河上両委員長の決断によって統一準備の窓口が開かれ、統一綱領の作成にとりかかることになる。両社会党とも、内に反対派(左社は和田博雄系と松本治一郎系、右社は西尾末広系)をかかえているだけに、それぞれ自党の主張を反映すべく激しい論争が展開された。この困難な交渉をまとめあげた裏方の責任者は、左社は伊藤好道であり、右社は三輪寿荘であったが両人とも統一のすぐあと病で倒れて帰らぬ人になったことは惜しまれてならない。
統一綱領の特徴は、第一に党の性格を「労働者階級を中核とした階級的大衆政党」と規定し、第二は左社綱領ににじんでいたプロレタリア独裁を否定し、「共産主義は、事実上民主主義をじゅうりんし、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは相容れない存在となった」と明記していることである。
後に、この部分は反共綱領の神髄だとして、共産党はもとより社会主義協会など左派から非難の的となり、やがて綱領の補完文書である「道」の作製過程で変質していく。第三に「政権の帰属と移動とは、あくまでも自由に表現された国民の意志によって決定される」として永久政権を排し、第四は社会主義の目的についても「われわれの究極の目標である自由、平等、その他基本的人権を保障し、人間性を完全に解放する社会を実現することである」と規定されたのである。
これを見る限り、統一綱領では、社会民主主義の立場に立って、完璧ではないが、しかしよくその理念や原則を生かしているものとみられる。左右の典型論争の集約といわれるゆえんである。
戦後、とくに1950年ごろまでは、占領、貧困、インフレ、戦争の危機など、左派のいう革命の客観的条件が現実に存在し、階級闘争による革命論が一定の板拠をもつ情勢にあった。また共産党が、労働者、学生の運動をはじめ諸大衆運動の中に小さくない比重を占めていたので、それに対抗して優位性を確保するには、自ら理論武装を左傾化していく必要もあったのである。
従って労働者や学生たちの若い党員は、革命にロマンと情熱を燃やし、それが左派の主柱となった。当時は、社会党青年部と大量に入党した総評系の指導幹部の党員たちが左バネの担い手になり、論争や活動に積極的に参加した。右派にも独立青年同盟など青年組織もできたが、十分な魅力とエネルギーを持ちえなかった。こうして結党時の右派・中間派・左派のバランスは、急速に変化していった。
左右のシンクタンク
社会党左右の論争の背後には、研究、学習を受けもつ大学教授を中心とする応援田、いま流でいえばシンクタンクができあがっていた。左派では社会主義協会(山川均、大内兵衛、向吸逸郎等)であり、右派では民主社会主義研究会(閲嘉彦)やフェビアン協会(和田耕作)であった。これらの応援団は、社会党の本隊に欠けていた社会主義の思想、理論、政策の学問的研究を続けていく限り、党にとってはプラスになる。しかし社会主義協会は、当初の思想研究穎体から次第に実践活動をともなう組織に変質していく。左社綱領の作成、三池関争の指導などを経て、1960年代にいたり、マルクス主義から、さらにレーニン主義まで、その守備範囲をひろげ、構造改革反対から「道」作成の段階にいたり、自らもソ連共産党22回大会ばりのテーゼを持ち、組織の整備を図り、党内の左派派閥からも自立して、党外から党の科学的社会主義−マルクス・レーニン主義で思想統一をさせようとする党的存在になる。マルクス・レーニン主義が、理論と実戌の結合を使命とする哲学を持っている限り、その穎体が党派に転化していくことは当然であった。後に、これが社会党にとって、党改革論の主要な対象になるが、それは後述する。
第2期―左派の土俵での論争
由緒正しい小さな右派
この時期は、日本経済が高度成長期を迎え、安保の高揚で、一時その権力中枢まで脅威をうけた保守は、その教訓に学び、「所得倍増」を唱えて、国民の目を政治から経済に切りかえることに成功する。
社会党はじめ革新の側は、反岸・民主主義擁護と安保を結合して、聞いを大きく盛り上げ、「護憲・中立・民主の政府構想」をかかげて、あと一歩のところまで自民党を追いつめた。が、及ばず、浅沼委員長の死に報いることができず、空白の時を迎える。
しかし、社会党は、安保の前、党内右派の主力である社会民主党系一西尾グループが分裂して痛手をうける。既に述べたとおり、せっかく統一綱領を持ちながらも分裂を選んだ西尾派も甲斐性がないが、西尾除名を主張した当時の青年部と総評を抑制できなかった左派の幹部も、その章めを負わなければなるまい。
以後、社会党は、現在にいたるまで、“由緒正しい右派”(結党時から一貫して右流)は旧日労系を主体とする少数の河上派だけとなり、これが党の体質変化にも影響する。従って、社会党の派閥系譜は、右派の河上派と、あとは、五月会一鈴木一任々木派の左派主流、それに戦後の革新官僚派の和田派一勝間田派、松本治一郎系と労農党から帰ってきた黒田寿男系による平和同志会一安打同(安保体制打破同志会)となり、これらは、いずれもかっての左派社会党の構成部分であった。
ちなみにこの年、1959年は、西独社民党が、ゴーデスペルク綱領を採択して、マルクス主義の階級関争と決別して、改良、改革を進めて政権をめざす国民政党に変化をとげる年である。
構造改革論は、このような左派優位の内部変化をとげた社会党に、イタリア共産党から日本共産党を経て持ち込まれた。構造改革はイタリアでの大衆闘争を下敷きにして、マルクス・レーニン主義の公式論に疑問をもった内外の学者たちが、エンゲルス理論でお化粧して理論構成されたもので、西欧の社会民主主義とは縁のないものであった。
だから同党への導入は、右派ではなく、労農派マルクス主義を継承してきた左派の書記局を通じてでもあった。彼らは、共産党から離れた今井剋義や井汲卓一、佐藤昇、長洲一二らの教えをうけながら、伝統的なマルクス主義の解釈論に嫌気のさした頭脳を切りかえるべく学習を始めた。江田三郎、成田知巳らも、やがてその輪の中に入って、江田がその旗手となる。三池闘争後、炭労はじめ民間労組が、成長期を背景にうちだした政策転換闘争はたちまち構造改革論と結びつき、多くの労組が従来の抵抗闘争型からの転換を図る理論的裏づけとなった。
構造改革論の党内への登場は、1961年『社会新報』元旦号に発表された共同討議「構造改革の隙い」から始まる。
この共同討議は、簡潔にいえば、これまでの社会主義論は、一つは特殊な革命情勢、例えば恐慌や戦争などを前夜にした、いわゆる「恐慌待望論」的路線であり、他は院内を中心とした改良の闘いを積み重ねていけば、ひとりでに社会主義が実現できるという、権力の獲得を抜きにした、いわゆる「なし崩し革命路線一改良主義である」と規定して、これを乗りこえる第三の道こそ構造改革の闘いである、とした。
そして、資本主義の構造(生産関係)のなかに労働者が介入して、部分的に改革をかちとること、この部分的変革を通じて、陣地を拡大していって、社会主義の道を整備し、その闘いの基礎の上に権力の移動という質的変化をともなった騒いによって実現される、というのである。また構造改革は、国家をこつに分け、「経済国家」と「政治国家」の二重国家論を展開しているが、このあたりになると難解で矛盾に満ちたものとなる。
それにしても、構造改革の提起は、既に風化現象にさらされていた向吸派のマルクス主義にはない新鮮な発想がみられた。それだけに反対の急先鋒に立ったのが、伝統的左派理論一日本型マルクス・レーニン主義の平和革命論に立つ社会主義協会(以下協会)であった。
また構造改革の提起が労農派の流れをくむ鈴木左派主流のなかから生まれたので、やがて同派を二分するようになる。そして同派の大勢は、鈴木のあとを受けた佐々木更三を反構造改革の旗手としておし出すことになる。そして左右社会党統一以来、しっくりしなかった鈴木主流派と向扱が指導する社会主義協会が、よりをもどす。かくて宿命といわれる佐々木、江田の対決が、党内の主導権争いとからんで職烈に展開される。左派の理論家の一人である清水憤三は、当時を回顧して「構造改革の不幸な出発」と名づけた。
第二期の論争は、第一期の共同戦線党としての左右の典型論争ではなく、左派の土俵の枠組みの中での論争となる。その実体は協会を含む鈴木一佐々木派と江田、河上、勝間田三流の対立、抗争で、これをマスコミが、新しい左右の対立と名づけてから、第二期の社会党内の左右派閥の構図ができるのであるが、それは、マルクス主義の土台とする論争であるが故に、第一期とは違うものとなる。
構造改革論争は21回大会で妥協案として「構造改革は、平和革命を日本において達成するための闘いの戦術を多様に展開するもので、ただちに党の基本方針としてはならない」という決定が下され、そのうえで、当時、大会代議員の一人であった飛鳥田一雄から「社会主義理論委員会」を大会直属の委員会として設置し、引き続さ本格的な検討を進めるという提案があり、可決された。
もう一つの綱領「道」の決定
しかし、ここには、大きな落とし穴が待っていた。社会主義理論委員会(初代は委員長鈴木茂三郎、事務局長勝間田清一、後に委員長勝間田清一、事務局長北山愛郎となる)は、この決定をうけて、第一部日本資本主義の分析、第二部それに基づく革命の戦略、戦術を提起し、1966年、綱領の補完文書として「道」を決定することになる。
その作業は、結果として「過度期の政府論」とか、「反独占国民戦線」など構造改革論争の集約を採用する代わりに、革命の戦略には、左社綱領の規定を装いをあらたにして再び採用する。政権をとったあとも「ある種の階級支配は必要である」(プロレタリア独裁の変形)とか改良の積み重ねとしての「福祉国家論」はとらない等が、それである。
こうして、統一綱領が持っていた社会民主主義の党としての理念や議会制民主主義の原剋は、無残にも「道」によって剥ぎとられるのである。共同戦線の党とはいえ、綱領以上に綱領的体裁を整え、しかもそれが科学的社会主義の名の下に、統一綱領とは相矛盾する綱領の補完的文書をつくることは一体、何なのか。以来、社会党は1986年の「道」棚上げまでこつの綱領を持つことになる。世間からは、どちらの顔が党の顔なのか、いぶかられたことは当然である。構造改革の導入者たちの善意にもかかわらず、マルクス主義の枠の中での論争は、この時の党内の力関係では、しょせん「道」に収斂される運命になった。
第3期 改めて社会民主主義の党へ
「道」の見直しへ
1977年3月の江田離党、6月参議院選挙の敗北で成田・石橋体制は総辞職、これを機に党内は堰をきったように、協会に対する批判が噴き出し、党改革の論争が巻き起こった。
熱い7、8月の論争を経て、党内民主主義の確立、「道」の再検討など8項目の改革の課遁が決まる。この論争を推進したエネルギーは、協会と一部中間流を除く、党内各派が田結して与党改革推進グループモ を組織したことにある。かっては、構造改革論争で火花を散らした江田派と佐々木派が、協会の党支配という危機を前にして提携したのである。
既に明らかにしたように、協会が、単なる派閥の域を超えて党的存在に転化したのは、60年代半ばからであったが、これを党機関でとりあげることは、何となくタブーとなっていた。党全体の体質が、左に傾いていたうえに、協会と闘うことの卑しんどさモが、そうさせていたというべきであろう。
協会幹部が、中央執行委員会に出頭し、鋭い質問をうけた。火の出るような論議の結果協会は、党そのものではないが疑惑があるとして、テーゼ、規約の改正を行って、研究、学習組織に改編するとともに、.その実行を監視するため、「協会検討委員会」が設置される。総評はじめ社会党支持労組も、この規制は当然のこととして支持した。
党改革論争の集約として開かれた同年9月の臨時党大会は、党改革8項目、協会規制などを決定した。当時、横浜市長であった飛鳥田一雄を委員長に迎えることに異義がでた。その中心は流れの会であったが、最終的には、条件付き賛成を決めたにもかかわらず、大会最終日に流れの会の幹部、楢崎弥之助、田英夫、秦豊の三議員が離党するというハプニングが飛び出し、成田、飛鳥田の委員長交代は、さらに三方月延びるという事態になる。
1978年の42回大会では、これまでの社会主義理論委員会を改組、発展して、新たに学者グループを含めて、中央執行委員会のもとに「社会主義理論センター」(以下理論センター)をつくり、本格的な「道」見直しの論争に取り組むことになる。その手順を要約すれば、1「道」「新中期路線」「国民統一の綱領」を情勢の変化に対応させ、創造的に発展させるために必要な調査、研究と論点の整理2「道」「綱領」の調整を図るための論点整理3中期経済政策の中の「社会主義の構想」(大内力論文)についての論点整理である。この作業は、約10年の歳月を費やして、「新宣言」にたどりつくのであるが、その詳細はゆずるとして、まず1項から取り組む。党が80年代を展望する飛鳥田ドクトリンをまず提起し、理論センターの学者グループ(座長・福島慎吾専修大教授)とともに、全国的に討論集会を開く。その集約をもとに大内秀明(東北大教授)が学者作業グループの座長となって、学者報告を提案し、それを基礎にして、理論センターが「80年代の内外情勢の展望と社会党の路線」をとりまとめ、一年余の大衆討議を経て、1982年の46回大会で一部修正のうえ採択された。
ついで、3項の「社会主義の構想」の作業に入り、「新しい社会の創造−われわれのめざす社会主義の構想」案が起草され、大衆討議を経て同年12月の47回大会で採択される。この作業には、新田俊三(東洋大教授)、高木郁郎(日本女子大教授)らが、中心的にかかわった。理論センターは、13項の作業を終了した段階で、最後の2項については、中央執行委員会が自ら担当すべきだとして、勝間臥飛鳥田会談を行い、合意の上、中央執行委員会のもとに「党基本間遁検討委員会」を設置し、統一綱領と「道」をどうするか、その処理方針を決めることになる。
「新宣言」決まる
それから約二年余をかけて、党内の根まわしと「新宣言」の起草、大衆討論をすすめ、「統一綱領」と「道」およびその付属文書は、歴史的文書として事実上棚上げし、新たな綱領として「新宣言」を1985年12月の党50回大会に提案した。大会は、白熱的討議を展開し、協会を中心とする左派が修正案を出したが、運動方針委員会で否決する。しかし、本会議の多数決を避けたため、最終的には、86年1月の続開大会で満場一致で採択する。国民世論は、これを大いに歓迎した。当時の新聞はキ社会党・西欧社民の道へも等々という大見出しで、社会党は、西独社民党やフランス社会党をモデルに再出発したと、報道した。「新宣言」づくりの閏に、理論センターの委員や学者が、西欧の社会党、社民党を訪問し、意見を交換し、それをとりまとめて、多賀谷リポート(当時の理論センター所長)を党に提出した。これが党の内外に大きな反響をよび起こし、「新宣言」作業のはずみとなる。訪問頴の一員であった福田豊(法政大教授)は「世界の社会主義政党の中で唯一、特殊だった社会党が、やっと特殊でなくなった」と感想を述べている。
四つの論点
「新宣言」決定にいたる節々には、いくつかの重要な論争があったが、やはり出発点での四つの論点をめぐる論争が、大きな意味をもった。今からみれば、常識的なことだが、「道」にならされた党内からみれば、それは大変なことだったのである。
第一は、国際情勢。「道」は両体制間の対立を基軸にしている。しかし、今日国際関係の座標軸が多元化しており、その観点で世界をみる。第二は国内情勢。「道」は高度成長の下での時代背景と矛盾を分析。今日は、その終焉、産業構造の変化、労働者階級の階層化の進行、要求の多様化が進んでおり、その上で現代社会主義運動の立脚点を採る。第三は、政権構想。「道」の時と情勢が変わり、過度的政権では対応できない。いまは抵抗の党から政権の党へ。
第四は、社会主義像。固定的モデルはない。現実をふまえた創造的発展が必要。従来型の固定的モデルによる社会主義の「出口」を構想して、それに見合つた「入り口」を求めるのでなく、社会主義を創造的に模索し、「入り口」から「出口」を求める方法。これらの中で党自身の現代的性格も問われる、というものであった。
四つの論点をめぐって、社会主義協会が中心になり雑誌『社会主義』によって反論を展開し、各地の討論会でも、既に化石化した平和革命論に立って反撃を展開したが、現実から遊離した理論では、説得力はなかった。
「新宣言」作業(田辺誠小委員長)に入ってからは、社会主義の定義、社会主義と現憲法の関係、既存の社会主義はモデルとなるか、抵抗か参加・介入か、の運動論、階級の党か国民の党かの党性格論等が、論争点になったが、それは別項、「新宣言」と「道」の対比が分かりやすいので参照されたい。
また論争の10年間は、協会をも含め、伝統的な左派の分解が進行し、カを弱めることになる。左派主流の佐々木派一社研をはじめ、勝間田派も分散の過程に入る。そして協会も三方面に分解する。向坂派協会一党建協、社会党を創る会(山本系)、そして太田漁協会である。
”青い鳥”は
”青い鳥”はどこにいたか。戦後40年あまりにわたる社会党の綱領論争史は、社会主義のモ青い鳥モを求めてのツアーであった。ときに、そのモ青い鳥モは、革命という狂瀾の彼の岸−そのモデルはソ連、中国に−という思い入れもあったが、それも幻影となる。そしていま、「新宣言」によって”青い鳥”は、手の届くところにいる。日本国憲法の理念を、どれだけ現実の社会の中で具現化できるか、国民自身が担い展開する政治・経済・社会の全面にわたる絶えざる運動と改革が、”青い鳥” −社会主義そのものである、と。社会党は歴史上の第三期を成田知巳、飛鳥田一雄、石橋政嗣、そして土井たか子と継いできた。成熟社会にさしかかった現代こそ、ライブリー・ポリテイクス(生活者の政治)は、「新宣言」の示す方向のなかで、花開くものとなろう。
社会民主主義、それは崇高な理念をめざす哲学の政治であると同時に、現実ときり結ぶリアルポリテイクスの覇者でなければならない。  
 
社会党批判

 

第一章 社会党批判の実践的課題
なぜ社会党をとりあげるのか
日本社会党は依然として日本労働者階級の政治的多数派を代表しつづけている。共産党=産別ブロックが自己の誤りとアメリカ帝国主義(GHQ)の弾圧という両方の破壊力によって一九四九年から五○年にわたって解体され、日本階級闘争の前面から退場を余儀なくされて以来、これにとって代った社会党=総評ブロックは、一九五〇年以来、いっかんして、日本労働者階級の政治的多数派の座にありつづけてきた。
いまでも社会党は労働者階級の第一党派である。もちろん、この二五年間という政治過程のなかで、社会党の役割、位置、力量といったものはさまざまに変動してきている。そして歴史的に総括するならば、日本社会党はほぼ一九六五年を転機として、歴史的衰退の過程に入り込み、危機の過程に突入したといえる。このプロセスの開始は、ちょうど戦後日本資本主義が日韓条約をバネとして“アジア化”へ離陸し、それゆえにアジア革命との衝突の歴史的時代に突入した時期と重なり合うのである。
別の言葉でいうならば、“日本社会党を日本社会党たらしめてきた政治構造が解体しはじめた”ときから日本社会党の歴史的衰退が開始されたのである。
二五年間つづいた一国平和主義の枠内での戦闘的改良主義の蓄積と伝統をわれわれは決して軽視したり黙殺してはならないだろう。社会党が衰退過程に入り込んだからといって、このことは社会党が“自動的崩壊”にまでいくことを決して意味してはいない。
日本の革命に勝利するためには、改良主義である社会党のもとにおかれた労働者階級を革命的政治路線で再武装、再結集しなければならない。革命派にとってこれは大前提の任務である。労働者大衆を社民的政治路線から革命的政治路線へと獲得することは、実践的には党派闘争であり、かつまた統一戦線戦術である。われわれはこの実践によって、ブルジョア支配体制の左の一翼と化している社会民主主義を左から解体するのである。
真面目に真剣に革命に勝利することを考えるとするならば、いま現在の労働者階級の政治的主流に対する分析と評価と展望をもつことが、政治方針をみちびくこととあわせて大切なことである。われわれが結集しなければならない労働者は真空のなかにいるのではなくて、その多数は社会党=総評という政治潮流が作りだす環境のなかにいるのである。したがって、労働者に革命的工作をおこなおうとするならば、労働者の多数派の政治指導部への評価と批判をわれわれがもちあわせなければならないのである。
スターリニズムの社民化
社会党は議会主義であり、平和主義であり、現状維持であり、改良主義であり、……すなわち革命的ではない。世界の社会主義運動の歴史をみると、社会党(すなわち社会民主主義)の帝国主義への屈服は一九一四年にはっきりとしめされた。社会民主主義が革命党でないという結論は歴史的にはすでに祖国防衛主姿に転落した一九一四年(=第一次帝国主義戦争)で下されたのである。それ以後、社会民主主義は帝国主義政治体制の一支柱へと自己を転化して、このなかで生きのびてきている。
われわれが社会民主主義を問題にするときに、第二次大戦後の事情はもうひとつ労働者階級に困難さをつけ加えている。それはスターリニスト党の“社会民主主義化”である。各国共産党は一九一四年の各国社会民主党の帝国主義への屈服を断罪して、左へと分裂して、政治的自立を獲得して、帝国主義に降参した社会民主主義にかわって革命の前衛たらんとして結成されたのである。これがレーニンやトロツキーが意図したコミンターン(第三インターナショナル)の歴史的任務だったのである。しかし、スターリンがロシア革命の世界的孤立とロシア社会の後進的性格というプロレタリア政権に加えられたマイナスの圧力によってテルミドール体制を樹立してロシア革命を転落させ、同時にコミンターンと各国共産党も堕落させたことにより、共産党はスターリニスト党として、革命的前衛の道からはずれてしまった。
スターリニスト党は一九二〇年代後半から三〇年代前半にかけて政治的ジグザグをくりかえして革命の条件をむざむざと殺してしまい、各国の闘争を敗北にみちびいたのであるが、第二次大戦後は人民戦線戦術の帰結として共産党のブルジョア政府への参加からはじまって、議会主義、平和主義を強め、イタリア共産党の構造改革論からソ連共産党大会におけるフルシチョフ報告(革命の平和移行の可能性)に到ってその政治路線が全体系にわたって“社民化”を完成するのである。
日本共産党の政治路線における社民化の完成度は、最近になってその終点に到達した。社民的政治路線はいまや社会党一党だけでなく、共産党も加わって、社共合同の政治的影響力が、議会主義、改良主義の人民戦線派潮流として日本労働者階級の政治的環境を支配しているのである。これを左から解体打倒して改良から革命へと労働者階級を再編することがわれわれの政治的任務である。社民批判は実践的課題である。
「不思議な党」―日本社会党
毛沢東が日本社会党を指して「不思議な党」であるといってから、この言い方は随分と流行した。この言葉にはいろいろの意味を込めることができる。ふつうは“社会民主主義の党でありながら不思議と日本社会党は戦闘的で左翼的である”という内容を込めて使われる。日本社会党を論ずる多くの評者はこの党の階級性、左翼性を特徴として必ず指摘する。例えば、
「日本社会党、あるいはその支配下にある総評は、毛沢東から『不思議な党』といわれたように、きわめて特殊な存在であるとされてきた。この特殊性とは、イギリス労働党・フランス社会党など西欧の社会民主主義政党に対して、『日本的特殊性』といわれるもので、一言でいえばその左翼性・戦闘性なのである。」(岸本健一「日本型社会民主主義」・八頁)
この評価はひとつの代表的なものである。
世界の社会民主主義の党と対比してみるとたしかに日本社会党は左に位置している。社会民主主義の世界の各党は一九五一年に社会主義インターナショナルを結成したが、この社会主義インターは帝国主義に全面降伏してマルクス主義と絶縁をしたうえ、さらにマルクス主義を敵として、共産主義を全体主義に併置して、民主主義の対立物とし、“民主主義的”帝国主義を支持して、労働者国家とスターリニズムをファシズムと同列において不倶戴天の敵と規定するまでになったのである。イギリス労働党がヘゲモニーをとった結成大会における「フランクフルト宣言」は帝国主義の軍事力を支持する立場を公然と認めたのである。その後、西ドイツの社会民主党はゴーデスベルグ大会においてマルクス主義との完全かつ全面的絶縁を決定した。こうして戦後の社会民主主義勢力は帝国主義と労働者国家の対立のなかで、はっきりとなんのちゅうちょもなく帝国主義の側に立つことをあきらかにし、実践上もブルジョア政府への参加はもちろん、自らが第一党となるやブルジョア議会制政府を組織して、その中味は完全に中道ブルジョア路線を歩むのである。
世界の社民が帝国主義体制の枢要部に組み入れられるなかで、日本社会党はブルジョア議会制政治のなかの“反対党”の歴史を歩んできている。片山・芦田連立政府への参加の時期を除くと、社会党の歴史は議会内の反対派でありつづけた歴史といえる。もちろんこのことが戦闘性、左翼性を即自に証明するわけではない。社会党はマルクス主義と絶縁はしていない。この党のなかには、マルクス主義に反対する者もいれば、マルクス主義を修正すべきだと主張する者もいれば、われこそマルクス・レーニン主義の正統派であると自認する者もいる。そういう党である。同一の党内にマルクス主義を排斥する分派から、マルクス・レーニン主義の正統的後継者を自認する分派までが同居しているのである。これも不思議なことのひとつである。不思議なことはいろいろある。五万人しか党員がいないのに一千万票も選挙の票を獲得するのも不思議であろう。“日韓条約粉砕”を叫ぶ大会が“独占資本から金をもらわないようにしよう”と決議するのもこれまた不思議なことである。“ハノイ、ハイフォンが爆撃されたら、総評はゼネストをやれ”という同じ口で健康保険の大衆負担を増加させる法案に妥協するのであるから、これはやはり相当に不思議な党である。結局、本論はこの不思議さを歴史的にときあかすことが目的となるが、われわれはまず、不思議さに幻惑されて、社会党への誤った評価を下すようになったいくつかの場合をみておこう。
誤解から幻想が生まれる
社会党の内部に戦闘的、左翼的分派が生まれ存続してきたということを一面的に把えることによって、社会党への過大評価がなされてきた。
例えば社会党=民同ブロックの内在的な批判者である情水慎三は社会党に未来の革命党の期待を抱いている一人であるが、かれはこんな評価を社会党に対してくだしている。
「社会党左派が戦争と平和の岐路にあたって自国資本家階級にくみすることなく、これまでの歴史的伝統的意味の社会民主主義の常道を破って平和方針を貫き、あわせて自国の民族的課題に社会主義原則にもとづいて答えたことは政治史的にも社会主義運動史的にも特筆に値するできごとであった。たとえこの場合が自国資本家階級独自の帝国主義政策にもとづくものでなく、他国の帝国主義への従属的な荷担であってこれまでの西欧的事例と異なるものがあったにせよ、社会民主主義が反帝国主義を貫徹できた意味は大きかった。これを契機に、当時の社会党左派、後の左派社会党=統一社会党の主流は西欧社会民主主義諸党とは世界政治のなかで異質の座と機能を身につけていったのであった。」(清水慎三「戦後革新勢力」・一八一頁)
これは社会党が平和四原則(全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対)を党として確定しサンフランシスコ講和条約ののち、日米安保条約に反対する立場を持続することとなったが、これが社民的限界を突破して世界でも特異な立場をしめることだと評価したのである。ここで清水慎三は重大な誤りを重複して犯している。
第一に社会党の平和四原則なるものが、帝国主義と民族問題に対する社会主義的原則にのっとった立場であるかのように言うが、これはとんでもない論法で、帝国主義と民族問題に対する社会主義の原則はコミンターンの最初の五ヵ年に確立された原則であり、レーニンやトロツキーが第二インターナショナルの帝国主義への屈服妥協に対して闘争するなかで形成された原則であって、これは平和主義や中立主義とはまったく無縁である。平和主義や中立主義はまさに社民的な立場そのものであって帝国主義への降参の立場であり、まさにレーニンやトロツキーが断罪した日和見主義の立場なのである。
平和四原則はNATOを認めた西ヨーロッパ社会民主主義に対比するならば相対的に左の立場にあるが平和主義と中立主義という歴史的伝統的社民の政治路線を一歩もはずれていないのであり、厳然として社民の基本的立場を表現しているのである。
第二に清水慎三は、社会党が平和四原則を確立して世界政治のなかで「異質の座と機能」をもったと評価するが、このような評価が正しくないことはその後の歴史過程があきらかにしていよう。平和四原則の本質は日韓条約という真に日本資本主義の帝国主義的政策に直面してその社民的性格が暴露されたのであり、最近の韓国情勢への社会党の対応には「異質な機能」など見ることはできないであろう。平和四原則の有効性は未だ日本帝国主義がアメリカの傘の内にあって、帝国王義と民族の問題をそのものとしてつきつけられない一国的国民平和主義のなかにあったときには持続できたが、ほんものの帝国主義と民族の間題が提起されるや、社会党の平和四原則はその無効性、社民的本質が暴露されたのである。
いっぽう、社会党への外在的批判者として中核派の岸本健一は先に引用した『日本型社会民主主義』を著しているが、そのなかにこんなくだりがでてくる。
「日本型社民は、西欧社民や民社党に対する特殊性と同時に、日本共産党に対する独自性――日本社会主義革命における綱領的対立者としても特色あるものである。これは、日共がその綱領において日本における革命を、常に『民主革命』または『民族民主革命』とし、決して『社会主義革命』としなかったことに対する歴史的批判の現われである。日本型社民はこれに対し、曲りなりにも『社会主義革命』をかかげるものの代表者なのであった。
大衆がよく知っているとおり、『穏健』な社会党が『社会主義革命』で、『過激』な共産党が『民族民主革命』だ、ということは、日本革命運動を混乱させつづけたパラドックスの一つであった。しかしこれは、単に日共と日本型社民の問題でなく、全世界の共産主義運動が、一九二〇年代以後ずっと陥ってきた混乱――スターリン主義による『社会主義革命』の放棄の現われなのである。」(岸本健一「日本型社会民主主義」・一三頁)
社会党が「社会主義革命」であり共産党が「民主主義革命」だからといって混乱させられたのは日本の階級闘争ではなくて岸本健一の頭脳ではなかろうか。
日本の労働者、人民は社会党の「社会主義革命」の綱領などてんから信用していないのである。大体、労働者、人民は社会党に革命は期待していないし、革命を考える労働者、人民は社会党の綱領など信用しないのである。現行の社会党綱領は一九五五年の左右統一においてまったく水と油の二つの液体をご都合主義でまぜ合わせた便宜的代物であり、ここでいう「社会主義革命」は古典的な意味の「最大限綱領」であって、この革命は無限の彼方に考えられているのである。日本社会党を綱領によって把握し分析するととんでもないところへわれわれは行ってしまうであろう。社会党は綱領によって形成された党ではなくて、きわめてルーズなブルジョア議会内の反対派として形成された歴史をたどっているのである。岸本健一が社会党に「社会主義革命」の綱領を見出して、共産党の「民主革命」よりもより自身たちとの綱領的近さを感じていたのであるから、これはまさに日本の「新」左翼主義の政治的水準のひどさを端的にあらわしたというべきであろう。
これら社会党を過大に評価する人びとに共通するのは、「日本の」社会民主主義とか「日本型」社会民主主義とか、「日本」を強調していることである。社会党を社民的本質を契機として把握し分析するのではなくて、日本的特殊性――その中味は戦闘性と左翼性――を強調する契機をもって把握し分析するのである。したがってここから導かれるのは、「反日本共産党主義」の裏がえしとしての社会党への無原則的ズブズブ評価なのである。
中間主義者による社会党批判
帝国主義の危機がいっそう深化すると、この帝国主義体制のなかに組み込まれていた社会民主主義やスターリニズムが政治的に動揺を起こして、その内部からさまざまの左翼中間主義を発生させる。社会民主主義とスターリニズムも中間主義の一種ではあるが、この中間主義がさらにいくつかの中間主義を派生させるのである。
中核派、革マル派、共産同各派、構改派はスターリニズムの政治的危機と分解から誕生した左翼中間主義である。解放派や主体と変革派は社民の危機から派生した中間主義である。
そして、日本社会党の「左翼性」を表現する一つの要素とみられている社会主義協会派も社民の一翼を占める中間主義である。このグループのイデオロギーや理論の起源は日本社会党に求められるのではなくて、協会派の起源は戦前の日本共産党に求められる。すなわち、協会派はスターリニズムから派生した改良的分派であり、この立場から戦後の改良主義の党=社会党の左の椅子に自らの座る位置を見いだしたのであり、組織方針上の日和見主義、宿借り主義が歴史的に継承されて今日まで来ているのである。
日本社会党に対する分析と評価の流れは、第一に協会派によるもの、第二に共産党によるもの、第三に左翼中間主義諸派によるものが支配的であった。協会派による社会党評価は山川イズムからの歴史を正当化して日本社会党を労農マルクス主義(現在は向坂イズム)で“純化”する目的からなされるものである。清水慎三の立場も本質はこの協会の立場と同一であり、解放派もそうである。解放派の場合は山川均を是とし、向坂を非とするが、歴史をさかのぼると山川のところで合流するのである。
共産党の評価はスターリニズムの「社会ファシズム論」「社民主要打撃論」が前面にでていた時期――一九四五年〜五五年――から六〇年安保以後の時期とは表面上ことなってきているが、つねにその根底には「社会ファシズム論」が流れており、そのうえに無原則的な人民戦線戦術や連合政府路線がたてられているのである。共産党には正しい統一戦線の思想がないので、社民批判は絶えず発作的なジグザグを繰り返すのである。
第三の「新」左翼諸派の社民批判は何ら政治的独自性を認められない。革マル派の社民評価は協会派と同じであり、むしろ水準はもっと低く「反スタ」のための「社民利用」というプラグマチズムの水準である。共産同諸派は真面目に社民批判と社民との統一戦線を考えてもみないグループであって、これは情勢と無縁の存在である。
中核派は急進的闘争のヘゲモニーをとっていた時期――一九六八年〜七一年――に反日共・社民との統一戦線という方針をとっていた。この立場は誤った統一戦線であるがゆえに、すぐ破産する。岸本健一の著作はこの中核派の立場を表現したものであるが、中核派のこの時期の活動は社民とのゆ着、あるいは社会党との無原則的取引き、社民官僚とのボス交と社民影響下の労働者大衆への最後通謀主義など、統一戦線における誤りを典型的にしめしたのである。
統一戦線と党派批判
スターリニストによる打撃的社民批判や中間主義者による無原則的社民評価という誤りに対して、唯一われわれトロツキストが統一戦線の立場から社会党の分析と評価をおこなってきたのである。この理論と実践の双方の分野における活動は、日本のトロツキズム運動の開始とともに着手されたのであり、一九五〇年代のはじめから、山西英一氏の闘いから持続されてきている活動である。この活動ぬきには、日本のトロツキズム運動はありえなかったであろう。
独自の党の建設とともに、つねにその時期における労働者の多数派を占める党派に対する統一戦線戦術を駆使する活動は不可欠なのであり、まさにこの活動を通じて党が建設されていくのであるといえよう。
われわれの社民批判は改良的、議会主義的党派を暴露し、それを労働者大衆に公然と訴える活動として展開されねばならないが、それはつねに統一戦線戦術のなかに位置づけられた党派批判でなければならない。
社会党批判は最近ではかなりゴリでセクト的なグループ=社会主義協会派が社会党内に「抬頭」してきているので“やり甲斐のある”仕事であるが、それでも“のれんに腕押し”の感が強い。スターリニスト党との党派闘争は激しいやり合いを覚悟しなければならないが、社民批判はなんだか張り合いのない党派闘争に思われる。しかし社民批判は社会党や民同幹部をわれわれが攻撃して溜飲を下げるのが目的ではなくて、多数の労働者を政治的に獲得するために行なうのが目的なのである。次のトロツキーの指摘は貴重である。
革命の道への過渡的状態
「この二つの党は、中間主義組織を代表している。両者の違いは、スターリニストの中間主義がボルシェヴィズムの解体の産物であるのに対し、社会党の中間主義は改良主義の解体の中から生まれたという点にある。もうひとつ、これに劣らず本質的な違いがある。スターリニストの中間主義は、その発作的なジグザグにもかかわらず、強力な官僚階層の地位と利害に不可分に結びついた非常に安定的な政治体制を代表している。社会党の中間主義は、革命の道への出口を探し求めている労働者の過渡的な状態を反映している。」(レオン・トロツキー「ブルジョア民主主義の危機とフランス社会党」・第四インターナショナル・一四号・一四八頁)
社会党の動揺は労働者の過渡的状態を反映しているのであり、まさにそうであるからこそ、仮借ない党派批判の展開と、左からの統一戦線戦術の行使が必要なのであり、社民批判の実践的意義がここにこそあるのである。  
第二章 日本社会党の歴史

 

第一節 前史―社会民主主義の歴史的継承
明治からの社会民主主義の流れ
日本の社会主義運動は大きくふたつの源流をもっていた。ひとつはキリスト教社会主義の潮流であり、この流れが明治期の社会主義運動の多数派を形成し、この流れのなかから、労使協調、資本主義発達を支持する右翼社会民主主義の流れが生まれた。また片山潜のようにキリスト教社会主義のなかから左へと分化してマルクス主義に到達し、第二インターナショナルから第三インターナショナルにつながる流れも生まれたのである。
もうひとつの源流は自由民権運動というブルジョア急進民主主義の運動からの潮流である。幸徳秋水を代表としてこの最左派の民主主義者たちはマルクス主義に結びついて、キリスト教社会主義の流れの左の部分と合流して、明治期の社会主義運動が展開されたのである。
日本社会党のひとつの大きな要素である社会民主主義右派の流れは明治期において幸徳や片山らに対立していた社会主義運動、労働運動の右派の流れを起源としている。これはのちに日本共産党に対抗して合法無産政党を結成して離合集散をくりかえしつつも、一九四〇年に最後的に弾圧されるまで、労働運動、農民運動における改良的翼を表現するのである。
戦前の社民三派が社会党をつくる
戦後に結成された社会党であるが、その政治的伝統は戦前の合法無産政党=社民三派がになってきたのである。
一九二〇年代後半から三〇年代にかけて社民系の無産政党はさまざまな分裂と合同のくりかえしを経てきたが、基本的には社会民主主義は三つの政治的潮流に分化した。それは右派、中間派、左派である。そしてこの分派的流れが、ほぼそのまま戦後の社会党の分派を構成するのである。
右派=社会民衆党(社民派)この党は伝統的に右翼社民の立場で、指導者には安部磯雄、松岡駒吉、片山哲、西尾末広らがいて、大衆組織は日本労働総同盟、日本農民総同盟をもっていた。このグループは、戦争中は産業報国会、大政翼賛会に参加して、帝国主義の走狗となり、そして戦後の社会党結成のヘゲモニーがこのグループによってとられるのである。さらに六〇年安保からはこのグループが民社党をつくることとなる。
中間派=日本労農党(日労派)河上丈太郎、河野密、浅沼稲次郎らが指導者で、日本労働組合同盟、全日本農民組合をもっていた。このグループは社民派とともに社会党の右派を形成し、西尾たちが民社党を右へ分裂させたとき、日労派は西尾についていった部分と社会党に残った部分とに分裂した。西尾の去ったのちの社会党の右派はこの日労派グループが占めることとなる。
左派=日本無産党(日無派)鈴木茂三郎、加藤勘十、黒田寿男、高野実らがこのグループをつくり、社民左派を形成していた。このグループは社会党の左派をなしてくるが、片山政府のときには日無派の一部が労農党を結成して分裂し、その後も民同と革同への分裂、構改派の分裂など、左派内の再編がつづいてきている。
以上の社民三派が戦後の社会党の政治的骨格を構成するのである。
共産党の結成
戦後の日本社会党が先にあげた社民三派の政治的寄り合い世帯として結成されたことはその通りであるが、しかし、これだけでは正しい社会党の前史とはいえない。すなわち、戦後の社会党にはもうひとつの重要な政治潮流が流れ込むのである。それは、日本共産党の合法主義的右翼反対派ともいうべき山川イズムであり、山川イズムを起源とする労農派マルクス主義派 社会主義協会派と連らなる日本マルクス主義運動の右派がひとつの歴史的な流れを形成し、この潮流は戦前においては合法無産政党の社民三派の最左翼に、そして日本共産党の右に位置していたが、戦後の社会党の結党に参加して、社会党の左派の支柱を形成するのである。
労農派、協会派は人脈的には先にあげた社民三派のうちの左派=日無系と重なり合っているが、思想的な起源や政治的起源は日本共産党を結成した山川均らのなかに求められ、西欧社民とはことなった“日本的な”歴史的成立の事情をもっている。
一九二二年に日本共産党が結成された。結成されたときは数十名の小グループにすぎず、その政治的力は小さかったが、日本共産党の成立は歴史的には画期的な事件であった。共産党は第三インターナショナル日本支部として結成されたのであり、はじめて、日本の階級闘争と世界の階級闘争を結ぶ前衛党の建設の第一歩がしるされたのである。すでに、日本の社会主義運動は第二インターナショナルの運動に参加してきているが世界党の支部として共産党が結成されたことは、第二インターナショナルとの関係とはまったくことなった飛躍を意味していた。
レーニンとトロツキーは第二インターナショナルとその各国の社会民主党が第一次帝国主義戦争において帝国主義にひざまづき祖国防衛主義に転落してしまったことに対して第二インターナショナルの内部で激しい分派闘争をすすめたが、一九一七年のロシア革命の勝利を突破口として、帝国主義打倒・世界革命を闘うためには、第二インターナショナルと社会民主党では絶対に闘いえないし、勝利しえないと断定し第三インターナショナルの結成と各国社会民主党の最左派を結集して共産党をつくる方針を実践したのである。
東アジアにおいては中国、朝鮮、日本の三国に共産党を結成することが方針としてたてられ、オルグ工作がすすめられた。
そのときの日本の社会主義運動の状況は、右翼社民に対して左派がひとつの潮流に結集していたがその内部には幸徳の直接行動主義と片山・田添らの議会主義との対立を孕んでおり、さらに支配体制を完成させた明治天皇制国家権力の弾圧がすさまじい勢いで運動をおさえこんでいた。それでもなお、明治社会主義運動の成長は天皇制権力の恐怖するところとなり、一九一〇年に大逆事件の大弾圧がくわえられ、社会主義運動は一挙に崩壊させられてしまった。
堺利彦、山川均、荒畑寒村らは「冬の時代」といわれる一九一〇年代を窮乏のなかで送るが、第一次帝国主義戦争にみられる帝国主義体制の世界的危機は日本でも同じく、明治天皇制体制の衰弱が進み、一九一八年の米騒動は「冬の時代」として凍てついていた厚い氷をぶち被って、大衆闘争の爆発的昂揚の突破口をひらいた。米騒動にきびすを接して、労働者のストライキ、農民の小作争議が頻発し政治的にはブルジョア民主主義運動である大正デモクラシー運動をはじめ、アナキストの抬頭、急進的民主主義運動の抬頭がつづいたのである。
コミンターンの工作と国内の大衆闘争の高揚という条件のなかで、日本共産党が結成されるが、「冬の時代」を生きのびた堺や山川らは共産党結成に消極的であり、むしろ反対していた。山川が反対した理由はその後の山川の政治的立場が明らかにすることとなるが、かれら指導的人物の反対も、国際的、国内的階級闘争の圧力の前には抗し難くついに一九二二年に共産党の結党が実現するのである。そして共産党の結党によって、日本の社会主義運動はそれ以前とことなった党派的編成の時期をむかえるのである。
労農派の形成
コミンターン第三回大会は「大衆の中へ!」をメインスローガンとして、一九一七年からつづくプロレタリア階級の攻勢が、帝国主義戦争後に訪れた資本主義体制の一時的安定の前に、一直線には革命の勝利にまで到達することは困難であり、まず、革命的前衛が大衆の中に入って、労働者大衆の多数を獲得して次にくるであろう革命的危機にそなえなければならない、という戦略的展望からみちびかれた方針を提起した。レーニンの「共産主義における『左翼小児病』批判」も同じ趣旨から執筆されている。
山川均は共産党結党とともに、コミンターンの「大衆の中へ」という方針を我田引水風に利用して共産党を解党して、少数の社会主義者は大衆組織の中へ入っていくべきであることを主張する。共産党結成は一九二二年七月であるが、八月の「前衛」誌上に山川は「無産階級運動の方向転換」でかれの真意を発表するのである。
山川イズム――労農派マルクス主義、社会主義協会派――と呼称される独自の政治的内容はまさにこの共産党を否定し、前衛を大衆組織の中へ解消する山川の「方向転換」のなかに示されているのである。レーニンやトロツキーの「大衆の中へ」という方針は解党主義とはもとより無縁であり、革命的前衛政党の防衛は、どのような客観的に不利な条件のもとであれ、無条件的に追求されるべき第一の任務であったのである。これに対して、山川の方針は天皇制権力の苛酷な弾圧に対して敗北主義の立場であり、合法的右翼社会民主主義との無原則的野合であり、なによりも「何をなすべきか」に集約されているボルシェヴィズムの組織論と敵対する立場に他ならなかったのである。
山川の方針に沿って日本共産党は一九二四年に解党を決議する。この解党決議によってそれ以後、山川らは二度と再び共産党の“再建”には参加することなく、結局、組織上は合法社民の左派へと自己を次第に変化させていくのであるc 山川イズムは党建設論では「連合戦線」党の立場として特徴づけられるが、この連合戦線党は山川の意図に反して、その後の階級闘争のなかでついに実現することはなかった。山川は自らの理論に忠実たらんとして、無産政党組織の離合集散には“超越”した態度をとろうとしたが、それがますます組織論上の山川の日和見主義をあきらかにしただけであって、戦後の山川は調停的立場にまで転落していく。山川イズムの党派的実践的不能性に対して、山川が死んでのち、社会主義協会派のヘゲモニーを手中に納めた向坂逸郎が、協会派を宗派的セクトに固めて、このセクト主義で社会党のヘゲモニーをにぎろうとするのである。向坂イズムは山川イズムの現実への実践的不能性への自己否定、反措定の面とにもっている。
山川の「方向転換」論は共産党を否定してのちなお自らはマルクス・レーニン主義、コミンターンの正統的継承者であるという奇妙かつ法外な政治主張をもった潮流の出発点となるのである。共産主義運動の党は世界党とその各国支部としてのみ成立しうるという、マルクスの第一インターナショナル以来の歴史的公理を真向うから否定して、山川イズムは純粋一国王義の枠内で合法共産党を作ろうとするものであった。これはもともと誤りであり実践上も絶対に成功することはできない日和見主義的組織方針であった。
山川イズムで解党した共産党は「福本イズム」で再建される。これはそのセクト主義、最後通諜主義で純化された理論で、組織論では山川の対極に位置する内容をもっていた。こうして日本共産党はその出発の数年間において、組織方針の右翼路線をとって自ら解党し、次いで、その対極の極左路線をとって、極度のセクト主義で再結集するというジグザグを描くのである。
「方向転挨」に示された山川の組織論の立場は「労農派」の政治的起源をなした。一九三〇年代に入ってスターリニズムに支配されたコミンターンが日本共産党にいくつかの「テーゼ」をしめすが、このテーゼをめぐって論争が展開され、共産党の「講座派」と共産党に否定的な「労農派」とが大きく対立し、明治維新の評価から日本資本主義分析、日本革命の規定にいたる全面的政治対立がつくられるが、労農派マルクス主義はこの論争を通じて自己の理論を体系化していく。(この論争については本書・槙論文参照)
第二次大戦への日本帝国主義の危機のなかで共産党も社民各派も徹底的な弾圧をうけ運動としては潰滅し、社民の一部が公然とファシズム化したり、大政翼賛会に参加していき、社会主義運動としては日本帝国主義の敗北まで中断を余儀なくされてしまう。 
第二節 結党・人民戦線・片山政府

 

天皇万才・国体護持でスタート
第二次帝国主義戦争において日本帝国主義が敗北しアメリカ軍が占領統治を行うなかで、一九四五年十一月に日本社会党は結成された。結成のヘゲモニーは右翼社民が握り、西尾末広、水谷長三郎、平野力三らが指導権をとっていた。労農派を含む左派は少数派として結党に参加した。
結党大会では、賀川豊彦が国体の護持を訴え、浅沼稲次郎が閉会で“天皇陛下万才”三唱の音頭をとった。結党時の社会党はそういう党であり、そういう状況を反映する党であった。共産党がアメリカ占領軍を「解放軍」と規定したことは、その後の左翼運動で物笑いのタネになったが、社会党は権力の規定とも縁のない存在なのであったから、誤ることもなかったわけである。社会党は共産党を笑えないのである。しかし、共産党が徳田以下、GHQの前で「解放軍万才!」を叫び、社会党の方が結党大会の閉会で「天皇陛下万才!」を叫んだという歴史のエピソードはいまでこそ笑いながら語れるが、当時の労働者、人民にとっては生死をかけた闘争にかかわることであったのである。こういう指導部のもとでは日本の労働者、人民は救われないのも当然であろう。
結党のとき社会党は「政治上は民主主義、経済上は社会主義、外交上は平和主義」という法三章にもならぬ御都合主義の語呂合せを「綱領」にして、敗戦後の革命的激動のなかに船出するのであるが、結党のいきさつをみると「綱領が党をつくる」という党建設論の対極にたったきわめてブルジョア的結集であったことをわれわれは忘れてはなるまい。
人民戦線の気運
大衆の前に歴史上はじめて公然と姿をあらわした日本共産党は、まず、社会党に人民戦線の結成を申し入れるとともに、当面の任務はGHQが遂行する日本帝国主義の非軍事化と民主主義改革をおしすすめることであるとした。 そして、このGHQと共同してすすめる“氏主主義革命”の政治的内容での共産党としての独自性は「天皇制打倒」であった。戦後初の第四国大会において志賀義雄は作られるべき人民戦線は「反天皇制の人民戦線」でなければならないと社会党に対する最後通告的内容を表明した。右派のヘゲモニー下にある社会党は共産党の人民戦線結成の中し入れを拒否する。この右翼社民の反共主義と、さらに共産党の「社会ファシズム論」とが相乗して、人民戦線の最初のこころみはまず挫折した、
いっぽう一九四六年に入るや労働者階級の攻勢はいちだんと高まり、日本帝国主義はもはや労働者に対しても何の抵抗も不可能なほど解体的危機にあった。GHQがこの解体を最後の一線で防衛していた。
四六年一月朝日新聞が社説で「人民戦線の結成を急げ」と主張するほど情勢は危機的であった。隠とんから復帰した山川均の人民戦線結成の提唱も朝日社説の直後、四六年一月のことで、かくて人民戦線への気運が急速に高揚した。この状況のなかに野坂参三が中国から帰国したので野坂の歓迎大会は実際上は人民戦線結成へのステップとみられた。
しかし社会党は西尾をはじめブルジョアジーとの連立を画策した。かれらは何とかブルジョア内閣の一角に社会党大臣を実現しようと、醜悪な裏工作をつづけていたので、人民戦線へのゆさぶりを阻止しようと、社会党中執は組織としても個人としても人民戦線への参加を禁止する決定をくだしたのである。
山川の提唱した人民戦線はその実質は人民戦線の機能も内容ももたぬまま小規模な共闘組織のようにして発足したが、共産党が引き上げ、社会党は不参加なまま、労農派系の学者が個人的に参加するだけの惨胆たるもので破産した。
アメリカ帝国主義の占領下で人民戦線を結成する方針は、危機に瀕した日本帝国主義の資本制支配の骨格をその最終的段階において防衛し、大衆が革命へ向おうとするのを、民主主義的改革の枠内にとじこめることを意味していた。労働者の闘争は生産管理闘争を中心として、すでに、企業内では資本主義体制そのものに手をつけはじめていた。しかし、企業の外では、社会党はブルジョアとの連立に血道をあげ、共産党は占領政策の枠内で、日本資本主義を人民戦線の方針で最終的崩壊から救ってやる立場に立っていた。この指導部からは革命への突破口をしめす方針は出てこなかった。労働者の経験的闘争がアメリカ帝国主義の意図した“ニューディールによる日本資本主義の再建”と衝突するようになると二・一ゼネストの禁止のようにマッカーサーは弾圧にのりだした。
社会党、共産党のGHQとの共同による“民主主義革命”の甘い幻想はすぐに破産したが、社・共両党はそれに気付くまでにまだ時間がかかったのであり、そのために労働者階級は政治的武装もし得ぬまま、敗北を余儀なくされるのである。
片山中道連立政府
二・一ゼネストは禁止されたが労働者の力はまだ消耗されず、戦闘力を保持し四月の選挙では社会党を第一党におしあげた。右派指導部は組閣工作に入り、自由党、民主党、国民協同党のブルジョア三党を連立の対象とした。連立三条件は極左・極右に反対する、重要機密はもらさない、社会不安を招く行動に反対する、という内容でこれはブルジョア政党からの要求を社会党が呑んだのである。さらに自由党は連立したいなら社会党左派を切り捨てろと右派に迫ったが、左派の党員を入閣させないことで妥協が成立した。
左派は連立を認め、鈴木茂三郎、加藤勘十の二人の左派指導部は共産党との絶縁を声明して、片山政府は中道連立政府として成立するのである。
片山政府は労働者の攻勢をかわし、不満を鎮静させ、日本資本主義を拡大再生産過程にみちびくための政府としてGHQお気に入りの政府であった。片山政府は物価と賃金を凍結してインフレを抑止しようと貸金を一八〇〇円ベースに釘づけしたが、インフレは止らず、労働者の生活を破綻に直面させた。さらに国家財政を石炭、鉄鋼部門に重点的に投入する傾斜生産方式を採用し、資本主義のたてなおしをはかったのである。片山政府の唯一の“社会主義的”政策といわれた「炭鉱国家管理」はブルジョア政党からまったく骨抜きにされ、“社会主義”の痕跡も残さぬ代物になり果てたのである。
結局、片山政府は二・一ストの挫折の代替として労働者の希望を担って登場したが連立の性格がまったくのブルジョア中道政策の枠内であり、労働者を裏切って、労働者を犠牲にして日本資本主義を再建の途につかせる任にあたったのである。
しかし労働者は一八〇〇円ベース釘付けを打破する闘争に立ちあがり、片山政府の賃上分を公共料金値上げで補てんする予算案に左派が党内野党化を宣言して反対したため、片山政府は辞職に追い込まれた。
片山のあとを継いだのは芦田であるが、この芦田政府も片山政府と同じブルジョア中道路線の政府で、芦田政府の任務は資本主義の再建のため、外資導入や賃金抑止をすすめるところにあった。GHQは労働攻勢の主力をなしていた官公労労働者のスト権を奪うことによって労働攻勢を抑圧しようと意図して、芦田政府に政令二〇一号の公布を命じたのである。これを担当したのは社会党左派で芦田内閣に参加した加藤勘十労相であった。GHQ内のキレン労働課長はニューディラーとして政令二〇一号に反対して抗議の辞職をしたが、加藤労相は一言の反対すら表明することなくこの政令を公布し、官公労のスト権は剥奪された。
日本資本主義はようやく拡大再生産過程に入り政策転換したGHQの抑止力で労働攻勢を押えてもらった日本ブルジョアジーは敗戦処理から生産再建の過程で自信をとりもどし政治的には中道路線をお払い箱にしてブルジョア政権の“純化”をはかろうと中道政府を倒すことを決定した。そのために疑獄事件のワナが仕掛けられ、いとも簡単に芦田政府は崩壊し、社会党は致命的打撃をうけた。書記長・西尾が逮捕れた社会党はまさに存亡の危機に直面した。  
第三節 再建.左右分裂・総評とのブロック形成

 

選挙で一挙に転落
芦田政府が疑獄で倒れると第二次吉田政府が組織され、この政府がブルジョア支配体制の再建を担う吉田長期政権の出発となるのである。
社会党は疑獄で西尾を逮捕され解体の危機を迎えた。左派の一部は労農党を結成して分裂し、山川も新党結成の動きをはじめた。しかし結局、山川ら協会派は社会党左派に自己の組織路線を定着させる道を選ぶのである。
四九年一月の選挙で社会党は一四三名から一挙に四八名に転落した。共産党は三五議席を得て逆にこの党は一挙に拡大した。共産党は五回大会(四六・二)、六回大会(四七・一二)、一四中委(四九・二)といずれも占領下における民主主義革命を平和革命としてすすめる方針を確認し、ことに一四中委は三五名の当選者をだした直後だけに議会主義と平和革命論がはっきりと貫徹された。この共産党の路線に対して翌五〇年の年頭にコミンフォルム批判がなされ、共産党は分裂と地下活動と火炎ビン闘争の時期に突入するが、四九年はまさに共産党の議会主義と平和主義の最盛期であった。
社会党は四月に再建大会を開くが、この大会は「森戸=稲村論争」が展開され社会党に歴史的転機を印す大会となった。右派の森戸と左派の稲村を代表にしたこの論争は、党がマルクス主義を受け入れるか排斥するか、国民政党か階級政党かをめぐる観念的論議であった。この論争は左右の対立をあらわした論争であったが、社会党左派の理論上のヘゲモニーを労農派が掌握したことにわれわれは注目すべきであろう。さらにこの大会には民同が五〇名近い代議員を送りこんで左派と結びつき、右派と対決したことも注目すべきことであった。
すなわち、四九年の再建大会は労農派の主流が社会党左派として流れこみ、さらに総評民同(当時は産別民同)が共産党=産別ブロックに対抗して、自己の政治的表現を社会党左派に求めてこれと結合し、かくて、社会党左派と労農派マルクス主義と民同とがブロックとして形成される端初となった大会であった。
森戸=稲村論争は社会党における右派の圧倒的ヘゲモニーが解体し、左派が上昇して左右対立が本格化することを告げ知らせる大会でもあった。労農派マルクス主義の理論によって左派と民同がブロックをつくり、衰退する右派に攻勢をかけたが、四九年十二月の中執会議は左派のイニシアチブで平和三原則(全面講和、中立、基地反対)が決定した。この三原則はその後再軍備反対が加えられて平和四原則となるがこの“原則”こそ“日本型”戦後社民の全政治内容を集約したものといえよう。社会党は日本帝国主義が離陸する一九六〇年代中葉の時期まで、この原則にのっとって、一国的国民平和主義の政治構造そのものとなるのである。さらにこの原則は講和条約をめぐる左右対立から分裂への“引き金”ともなった。
アジア革命の前進と“戦後革命”の敗北
片山政府が成立した四七年五月に先立って出されたアメリカ大統領年頭教書はトルーマンドクトリンと呼ばれて、大戦後の帝国主義と労働者国家の対立構造をつくりだした“冷戦”の開始を告げた。四八年六月にはマーシャルプランが発表され、西ヨーロッパはアメリカのドルによって資本主義的再建に着手する。
アメリカの対日占領政策の転換はアメリカがまず西ヨーロッパにテコ入れしてのち、少しの時差をもってアジア革命の波の高まりに対応して急ピッチでなされた。四九年にはドッジ、シャウプの勧告が出されて、日本資本主義を経済と財政の大合理化によって再建する方途が確定され、政治的・軍事的にも“極東の工場”に対応して沖縄を中心に“不沈母艦”たらしめるべき軍事基地化がめざされた。
四八年九月には朝鮮人民共和国が成立し、つづいて四九年九月には中国革命の勝利が実現した。アジア全域で反帝武装闘争が展開され、アジアは革命的激動の時代をむかえていた。アメリカはアジア政策の手なおしをせまられた。日本を要塞化し、これを北端として南へと下る対労働者国家とアジア革命への軍事包囲網をアメリカは形成するのである。
昂揚するアジア革命とアメリカ帝国主義の対決は一九五〇年に朝鮮において激突し、朝鮮戦争が勃発した。
GHQは朝鮮戦争の遂行体制を日本において築くべく、次々と手を打ってきた。共産党の中央委員を追放し、「赤旗」を停刊させ、産別に代って総評をかれらの肝いりで結成した。労働組合にはレッドパージが相次ぎ、四五年以来の労働者階級の攻勢もアメリカ帝国主義の占領政策の転換によって抑圧され、ここにおいて“戦後民主主義革命”は一敗地にまみれた。
共産党はブルジョア議会内でこそ多数派を社会党に譲ったが、産別を通じての労働者階級の闘争においては、社会党のとうてい及ばぬ力を保持していたが、二・一ストの禁止からようやく公然化した党と産別フラクとの対立から、共産党はいっそう組合のひきまわしに走り、右からのきり崩しの基盤を提供した。GHQは下山、松川、三鷹事件というフレームアップをつくりあげて産別の主力に打撃をくわえ、さらに産別内からも民同が発生し、共産党=産別ブロックは急速にヘゲモニーを喪失していったのである。五〇年初頭のコミンフオルム批判は共産党を分裂に追い込み、五〇年を転機に共産党は以後一五年近い期間、大衆闘争と議会での多数派を完全に社会党にゆずるのである。
ニワトリからアヒルへ
一九五〇年六月朝鮮戦争が勃発するや七月に総評が結成され、「国連軍支持、北朝鮮侵略非難」の立場を表明する。しかしこのあからさまなアメリカ帝国主義寄りの政治的立場は社会党左派の立場とも対立するものであった。すでに社会党は五〇年一月に左右の分裂を経験しているが、四月の六回大会では統一してもとにもどっている。しかし、この分裂は来るべき五一年の分裂の前触れに他ならなかった。
五一年の七回大会は左派のヘゲモニーのもとで平和四原則の路線が確立された大会であるが、この大会の政治的影響は結成後、一年にもみたぬところで開催された三月の総評大会に波及して、総評は社会党の平和四原則を確認するのである。これは“ニワトリからアヒルへ”の変身であった。平和四原則の確認をめぐって民同は左右に分裂し、民同の右翼は反共愛国主義に純化して、右翼社氏と結びのち同盟・民社へと移るのである。早くも総評は社民右派の路線から社民左派のヘゲモニーが確立して、民同左派が多数派を形成したのである。この“ニワトリからアヒルへ”の転換ののち、総評は五一年の社会党左右分裂において左派社会党と結び社会党=総評ブロックを形成するのである。
左右分裂・社会党=総評ブロックの形成
労働者国家と植民地革命を包囲する反共軍事体制をつくりあげるため、アメリカは日本を占領統治から日米軍事同盟による包囲網への組み込みの方針を決定した。日米両国は講和条約の方針を帝国主義国も労働者国家も含めた全面講和とせずに、帝国主義国家とその支持国のみを相手とする単独講和として締結することを決定し、ダレスと吉田は早期締結を準備しはじめた。
社会党右派はアメリカの単独講和の方針を知るや平利四原則を攻撃し、この破棄を求め単独講和支持を表明しだした。
サンフランシスコ講和条約と日米安保条約に対する国会批准を控えて開催された社会党の第八回臨時大会は両条約反対の左派と、講和条約賛成の右派とが激突し、ついに大会は分裂した。両派は別の大会をもって左派社会党と右派社会党としてそれぞれ分裂を組織的に固定してイニシアチブを争う段階に入った。分裂のとき衆院議員は右派三二、左派一六名、参院は右派三二、左派三〇名で右派が議席において上回っていた。左右両派への分裂は労働組合に及び、右派は総同盟と左派は総評と結びつくこととなった。
両派は五五年の統一に到る四年間、分裂しているがこの間の選挙によって左派は右派を圧倒して統一のヘゲモニーは左派が握るようになるのである。このように左派社会党を押しあげたのは総評の力であった。
五二年一〇月の衆院選挙ではまず右派五七、左派五四となって両派は接近し、五三年の衆院選挙で右派六六、左派七二名となって完全に逆転した。この力関係で五五年に両派が統一するのである。
すでに民同は社会党の四回大会(四八年)から明確に社会党左派と結びつき、左右に分裂すると文字通り総評は全組織をあげて左派社会党をバックアップしたのである。右派とつながる総同盟に対して総評は産別なきあとの労働組合運動の主流を担っていたがゆえに左右の力の差ははっきりとしていた。
政治路線上も左派社会党は有利な位置に立っていた。朝鮮戦争が泥沼に入り込むのを対岸の火事のように見て、戦争はもうまっぴらという日本の大衆の平和主義と戦争反対の消極的気分は平和四原則とぴったりと適合していた。左派社会党は当時の大衆の意識を忠実に反映していた。単独講和に加担した右派に対して左派は政治的にも道義的にも大衆との関係で優位に立っていた。
さらに左派社会党を有利にしたのは日本共産党の「武装闘争」路線であった。共産党は五〇年初頭のコミンフォルム批判によって大分裂をおこし、朝鮮戦争の勃発とともに中央委員が追放され、地下に潜入した指導部のもとで五一年二月の四全協は「武装闘争」方針を決定し、議会主義と平和革命路線から手のひらを返すような転換をなしたのである。八月にコミンフォルムは四全協方針を支持し、一〇月に五全協は「新綱領」を採択して日本共産党は火炎ビン闘争に表現される大衆から孤立した闘争に入り込むのである。すなわち左派社会党は左からの共産党の“脅威”をうける心配はなく、労働者大衆の戦闘性を平和、中立、改良の枠内において全面的に発揮させることが可能となる条件を与えられた。
“日本型”あるいは“日本的”社民の戦闘性と左翼性は、まず第一に労働者階級の多数派を組織し、それを自己の政治的影響力のもとにおくことに成功し、第二に左からの批判を受ける心配がほとんどないことによって、その社民的本質をいんぺいすることが可能だったからである。
しかしより根本的には左派社会党のもとでの大衆闘争が帝国主義体制、資本主義体制の枠内にとじこめられ、戦闘的ではあるが改良主義の限界の内にあったことを指摘しなければならない。この体制の枠とはすなわち日本の一国的枠を意味しており、アジア革命と切断されたところに日本の階級闘争が孤立させられたという限界のことである。
平和共存体制への移行
五〇年に勃発した朝鮮戦争ははじめは北朝鮮軍の圧勝で南朝鮮軍と「国連」軍は南端にまで包囲されたが、かれらは反撃に転じて三八度線を北上して逆に北朝鮮を軍事的敗北直前の危機にまでおいつめたが、中国義勇軍が参戦して戦局は転換し、再び労働者国家の軍隊は帝国主義軍隊をおしもどし、戦線は三八度戦で膠着した。この膠着はアメリカ帝国主義が東アジアにおいて革命を決定的に潰滅し、反革命をもたらすことに失敗し、労働者国家の方はアメリカ帝国主義を完全に撃退するまでには勝利しなかったが、革命の基本的成果を防衛するところまでは果すことができた、この状況で両者が対峙していることの表現であった。
五三年に朝鮮戦争は休戦協定が結ばれ、戦闘は停止した。朝鮮休戦はアジアにおける帝国主義と労働者国家の平和共存への移行の準備をなした。中国は周恩来・ネール会談によって平和共存の原則をうちだし中国革命は帝国主義を追いつめることより、国内的体制整備の路線を選択することとなる。
アジアにおける平和共存の開始は日本における資本主義の再建、高度成長のための政治的条件をつくり出すこととなった。日本のブルジョアジーは戦略的にはアメリカの反共軍事包囲網に日本を提供し、労働者国家との軍事上の対峙をアメリカ帝国主義にまかせ、自分たちは経済主義的に日本を再建する任務をひきうけたのである。
左派社会党における綱領論争
社会党を綱領のうえから分析しても、この党の政治的本質に正しく迫ることができない理由は先に触れたが、向坂派の諸君が「金科玉条」として随喜の涙を流して喜びおしいただいている「左社綱領」についてはいささか立ち寄らねばならないであろう。
左派社会党は右派と袂を分ってから法三章の結党時の「綱領」ではない、新しい綱領を労農派理論のもとで策定することにした。起草の任には向坂や稲村があたったといわれている。かれらの起草した綱領はプロレタリア独裁を認めている、日本革命は社会主義革命である、平和革命方式による、という特徴をもっていた。一九五四年の時期におけるこの綱領の政治的性格は日本共産党の「新綱領」に対比して評価されるべきであろう。共産党の「新綱領」はアメリカ帝国主義を主敵とし日本を植民地と規定し、革命の性格と任務を民族独立民主革命とし、暴力革命をその手段のうちに容認していた。これに対して左社綱領はアメリカ帝国主義との闘争を回避もしくは軽視し、日本を独立国として規定し、革命を平板な社会主義革命のなかにとらえたものであり、平和革命は労農派マルクス主義の社民的本質を端的にしめしたものであった。もちろん共産党綱領が正しいとはいえない。むしろ誤っている。しかし、その批判者として登場した左社綱領が正しいとはなおさらいえない。より誤っているといえよう。今日からみてみると、左社綱領はその最大限綱領的性格、平和主義・改良主義的性格からして、スターリニスト党の社民化を先どりしているといってよい面をもっている。たしかに、戦前のその発生のときから、スターリニズムの右翼的分派として自己を形成し、その後は社民化を深めてきたのが労農派であり協会派なのであるから、スターリニズム社民化の「国際的先駆者」の栄誉をわれわれはかれらに与えるのにやぶさかであってはならないだろう。その点ではわが協会派はまこと“日本的”社民の優秀なる伝統を今日に伝えているセクトというべきである。
この左社綱領の策定において党内論争が生じた。主流の向坂ら協会派の原案に対して、協会派からぬけた清水慎三らが「民族独立社会主義革命」の戦略規定を盛りこんだ対案を提起したのである。結局、向坂らの案が部分修正を受けて採択されたが、清水等は共産党により近い立場から協会派の理論を批判する内容をもっていた。すなわち清水案は協会派と共産党の折衷であった。この左社綱領論争も、戦前の「講座派」「労農派」論争も、戦後の日本共産党の綱領論争もすべて日本のマルクス主義は総体としてスターリニズムの段階革命論と一国革命論の枠内での論争を超えることはできなかった。日本共産党は民族独立民主革命から社会主義革命へという二段階革命論であるのに対して、労農派は社会主義革命を「一段階」としてとらえ、永久革命としてはとらえないので、必然的に一国性をもち、双方の対立は世界革命から切断された日本の革命の段階をめぐる訓話解釈におちこんでいったのである。 
第四節 一国的国民平和主義における戦闘的改良主義の展開

 

左右統一・六全協・保守合同――一九五五年
アジアと世界における平和共存の傾向が増大し、日本資本主義が戦後再建から高度成長への入口にさしかかったことにより、政治支配体制の転機をなしたのが一九五五年である。
一九五五年七月に共産党は六全協を開いて極左軍事方針を清算する。六全協は党内における宮本顕治のヘゲモニー確立の出発点をなし、今日の日和見主義路線がスタートしたときでもある。共産党は日本帝国主義にたてつく異端分子ではなくて、この体制の反対派として政治上の市民権を得ようとする党に転化していくのである。まだ五五年の時点では社会党はこの共産党の転換のもつ政治的意味を自覚できなかったが、左派社民の存立の基盤を侵食しこれを危機におとしこむ共産党の社民化の出発点は六全協であった。
経済的に自信を回復したブルジョアジーは政治の次元で複数のブルジョア政党が争っている状態にいや気がさし、さらに五三年の選挙での左社の躍進に危機感を抱いて、ブルジョア政党の一元化を要求した。保守合同がそれであり、五五年十一月に単一ブルジョア政党・自由民主党が成立するのである。保守合同の気運に押されて左右社会党は統一を決定し、十月には統一大会を開催した。こうして、自民党、社会党が二大支柱となって形成する国民平和主義の政治構造がつくられる。
これに対応するように総評も高野事務局長体制から太田―岩井ラインに転換して、産別統一闘争の結合による賃上闘争―春闘方式を労働組合運動の基調とする構造となるのである。
高度成長期に入った日本資本主義にとって春闘方式は適応するものであったがゆえに、日本の階級闘争の主流はこの春闘方式のなかに集約されていったのである。すなわちこの高度成長に見合う範囲内での賃上げを獲得する春闘方式は、この枠内では労働者のエネルギーを目いっぱい解放してもブルジョア政治支配にとって決して危険ではなく、ここに“日本型”社民の戦闘的改良主義の成立する基盤があったのである。
すなわち“日本型”社民の戦闘性と左翼性は社会党の主体の内的戦闘性や左翼性に由来するのではなくて、日米軍事同盟の枠内における日本の大衆の反戦的・平和的意識や、日本資本主義経済の高度成長に対する改良的要求への大衆の戦闘力の発現として、このエネルギーが社会党総評ブロックに反映されたのである。この反映こそが社会党の「左翼バネ」であって、党の内的主体の本質は厳然たる社民的体質とイデオロギーに支配されていたのである。
軍事基地反対闘争
国民的平和主義の構造はその内部に安保をめぐる賛成と反対という境界線が引かれていた。この亀裂は本質的にはアジアにおける革命と反革命の対立の日本における反映ではあったが、国民的平和主義を瓦解させるほどには強力な反撥力をもっていなかった。
しかし、農民の生活破壊を直接にもたらす米軍事基地の拡張に対しては、反安保、平和擁護の国民的意識と農民の生活防衛の意識とが結合して、国民平和主義の時代にあってほとんど唯一の尖鋭な政治闘争となった。この軍事基地反対闘争の頂点は東京・砂川における闘争であるが、この五六年から五七年に到る闘いには、社会党議員たちはピケット要員の一員として参加し、基地内に突入し、逮捕され、裁判にかけられるところまで戦闘的闘争を展開した。安保闘争前の大衆闘争ではまさにこの軍事基地反対闘争は社会党の戦闘的改良主義の政治におけるもっとも典型的闘争といえる。
ちなみに、砂川闘争は共産党内に分裂のきっかけをつくり、全学連左傾化の端初となるのである。
砂川闘争に示された社会党の“戦闘性”はこの闘争の頂点で終りをつげ、右傾と官僚化、議員党の体質を濃くしていく。
革同の切捨て、民同の右傾化
階級協調の国民平和主義がスンナリと成立したわけではない。政治闘争においては軍事基地をめぐる対立があったが、労働者の闘争においては共産党・産別なきあとの左派を代表した革同へのブルジョアジーの攻撃が集中するとともに総評内の戦闘的組合をたたく策動がつづけられた。
国鉄新潟闘争、王子製紙闘争、日教組勤評闘争などはこの攻撃のあらわれである。左派社会党を押しあげてきた民同派の三羽ガラスといわれた岩井(国鉄)宝樹(全逓)平垣(日教組)の連合もこの時期には次第に政治的分解の過程に入り、民同労働運動は全体的に官僚化を深め、右傾しはじめるのである。
総評内の戦闘的労働組合への攻撃は高度成長の内実を構成していた重化学工業化、技術革新、油主炭従へのエネルギー構造の転換などが労働者へ犠牲を強要する攻撃としてなされた。この高度成長期の前半期に実行された総体としての合理化に対して、総評民同はほとんど階級的反撃を組織しえず、抵抗する組合はすべて孤立のなかで敗北させられていった。
政治的には国民的平和主義の枠を一歩もこえられず労働運動においては合理化と取り組めず賃上げ闘争しか闘えなかった社会党.総評ブロックの脆弱さは、六〇年安保闘争の水準を規定するとともに、その後の右派攻撃への無防備状況の前提となってくるのである。  
第五節 安保・三池闘争・組織改革・構改論の抬頭

 

勤評・警職法・安保国民会議
五九年三月、共産党をオブザーバーにして安保反対国民会議が結成され、第一次統一行動がもたれた。勤評闘争から警職法闘争を闘った大衆闘争は、まだ安保にはその力をあらわさず、第一次統一行動はささやかな集会で、ひとり全学連が突出しようとしていた。
社会党は五一年の安保締結の時と同じく、再び内部に分裂を孕んでいた。疑獄から復帰した西尾は安保改訂への社会党の反対闘争に対して陰に陽に妨害し、これに対して、青年部を突破口として西尾除名の声が拡大した。五九年一〇月、西尾は旧社民系の自派と河上派の一部をかかえて分裂し、民社党を結成することとなった。西尾分裂は社会党にパニックをもたらしたが、大分裂に到らず、多数はとどまった。しかし、安保闘争に対する右からの攻撃として西尾たちはきわめて有効な打撃を社会党・総評にあたえたのである。
左からは急進主義的戦術突破主義をもって全学連が社会党・総評をゆさぶった。社会党は右往左往し、総評と共産党が手を組んで全学連を抑圧した。この構図は七〇年の反戦青年委員会をめぐってもういちどくりかえされることとなる。
東京地評(当時、残り少ない革同が一定の力をもっていた)と結んで全学連は戦術左翼をもって一一・二七から一・二六、六・一五へとつき進んだ。一一・二七国会デモに対して社会党は右へブレた。つづいて一・二六羽田デモは国民会議は動員をとりやめた。こうしてブントのイニシアチブは礎立し、安保闘争は小ブル急進主義の戦術突破のためのカンパニアと、もはや戦闘性から身を遠ざけた国民会議の“お焼香デモ”に分裂し、しかし大衆は澎湃として怒りをたかめて闘争にたちあがったが、政治的有効打にはならず、“民主主義を守れ”に集約された。
三池闘争―協会派の限界
安保闘争がたかまりをみせているとき、九州・大牟田でも三池労組の反合理化闘争が決戦をむかえようとしていた。ブルジョアジー・自民党にとって「安保と三池」の結合は恐るべきものであった。安保の小ブル的カンパニア闘争が、組織労働者の武装ピケットの闘争にまで進んだ三池の闘争と結合し合体したら大変なことになるであろうとかれらはふるえあがったのである。しかし現実はこのふたつの大闘争は同じ時期に展開されながら、ほとんど結びつかずに別個に進んで一緒にうたれてしまった、そういう典型のような闘争であった。結論的にはふたつの闘争を結びつける階級的指導部が不在だったのでそる。
三井三池労組は向坂が手塩にかけて育てた組合であり、職場闘争と学習活動の徹底さとおいては日本のどの組合も三池に及ばぬほどであった。「資本論」に取組む炭鉱労働者が千の単位でいたのである。三池はブルジョアジーの炭鉱合理化を遂行しようとする行手にはだかる大きな巨人であった。
この三池に対する首切り合理化への労働者の反撃は二組切り崩しもともないつつ、ホッパー決戦にまでつきすすむのである。しかし安保との分断をはかるため、石田博英労相があっせんにのりだし、ホッパー決戦は回避された。決戦の回避は敗北への途となった。
三池闘争は社会主義協会派の長所も短所もさらけ出した。そしてなによりも協会派の反合闘争論が非政治的な権力の問題をぬきにした労働組合主義にほかならぬことを暴露したのである。
構改三派の形成と「社会主義のたましい」
浅沼が暗殺され安保は自民党が強行採決して成立し、岸は倒されたが池田がかわって動揺した自民党支配体制のたてなおしにのりだした。安保闘争の小ブル性やカンパニア的性格から、闘いが終るとみるみる大衆のエネルギーは引いてしまった。
三池の敗北ののち、江田はこの闘争を否定的に総括して、構改理論をとり入れた石炭政策転換闘争の方針にむかっていく。大黒柱・三池の敗北後の炭労はみるみるうちに資本攻勢の前に後退し、組織そのものの存亡が危うくなるに到った。この時点での政転闘争はまさに改良主義そのもので、何ら国家とブルジョアジーに迫る闘いではなかった。
安保と三池は日本共産党の「前衛の神話」を崩したといわれているが、この闘争がテストしたのはひとり共産党だけでなく、社会党も闘争の中心指導部であるがゆえの決定的テストを受けたのである。まさに安保と三池は社会党が政治路線で無能であり、組織力で無能であることをあきらかにしたのである。
テストに対して社会党から二つの回答が提出された。ひとつは向坂翁が雲の上の仙人が舞いおりてきてお告げをいうように、「社会主義者のたましい」論を再び三度びおごそかに語ったのである。向坂イズム信者は感泣し、ふるいたち、忠誠を新たにした。
もうひとつは、協会派の最大限綱領と最小限綱領の穴を埋めてくれそうな構改路線にとびつくことであった。向坂仙人のお告げにうんざりし、シラけた左派の一部が江田を筆頭にして構改派を形成する。そしてこの左派から分裂した江田派に和田派、河上派が同調して構改三派がつくられ、安保後の党内主導権をつくりあげるのである。
組織改革―政治新聞、青年同盟
江田は組織局長であった五九年に機構改革案をまとめた。この案は議員と労働官僚のよせ集めという本質的な実態からぬけ出すことのできなかった社会党を“近代的”組織政党へ転換させる意図をもっていた。
国会議員が自動的に大会代議員になることはやめる、県連組織(地域組織の連合を意味していた)から県本部―総支部―支部の機構へ転換させる、非議員中執を設ける、オルグ制度を設置する、党学校をつくる、機関紙を有料にする、という内容が骨格であった。
構改派のイニシアチブで機関紙活動に力が注がれるとともに、安保、三池に発現された大衆の力を組織し、共産党の民青や婦人組織に対抗するために社会主義青年同盟の結成と日本婦人会議の結成が決定された。この五九年から六〇年にかけての社会党の組織改革は社会党の歴史のうえでは大きなエポックをなしている。
社会党は議員の集団であり、議会の党であり、大衆への工作は総評という組織を利用しておこなう、というのが伝来の社会党組織論であった。これを直接に大衆を党や青年同盟に組織するという方針に転換したのである。これは画期的なことであった。社会党はこの方針をこころみたわけであるが、「百万人の党建設」というメインスローガンをはじめほとんどは失敗してしまう。
ただひとつ、社青同だけは他の組織改革の失敗とはことなって民青の左へ進出して戦闘的青年運動の歴史を経験することに成功するのである。(社青同については本書の織田論文を参照)
動揺常なく―ジグザグを描して衰退へ
ケネディが六一年一月に大統領に就任し、情勢は新しい段階を迎えた。社会党では構改路線がヘゲモニーをとって組織改革をすすめるが、この大衆を組織する活動は共産党と公明党という二大競争相手を向うにまわさねばならなかった。結局、社・共・公の大衆組織レースは共・公が勝ち、社会党は何馬身もひきはなされて敗北することとなる。
江田は構造改革論をいっそう改良主義的に“改革”して江田ビジョンをつくりあげ、日本社会党を新型の社民へと脱皮させようとした。このこころみには労働組合の右派攻勢とが重なりあって、江田路線はいっそう右に傾いていった。
六二年一月の二一回大会は左派がまず反撃した。大会は江田ビジョンを否決した。江田は書記長を代って江田と同じ構改派の成田が書記長となった。このときから、六五年の佐々木更三の委員長就任に到る期間、社会党は右派と左派の分派闘争がつづいた。
六四年一月の成田論文は「議員党体質、労組依存、日常活動不足」の“三悪”をあげてこれが根深く残っていることを指摘した。
高度成長のなかで春闘方式で賃上げをかちとる組織労働者は、ことさらに社会党に入る必要はなかった。そしてむしろ高度成長のヒズミのところで抑圧されている大衆を、共産党と公明党が現世利益をスローガンにして改良主義の路線で組織していき、選挙における票も急速に伸ばしていったのである。社会党の危機は足もとにしのびよっていたのである。 
第六節 歴史的衰退のはじまり

 

原水禁分裂・中ソ論争
安保国民会議は事実上解体して社共共闘の場は失なわれた。唯一、原水禁大会が最後の共闘組織として残ったがこれも六三年八月に分裂し、共産党は社会党をケネディ・ライシャワー路線の手先として攻撃し社会党は共産党を中国の核実験に反対しないとして攻撃した。中ソ対立が日本の社共両党に波及した。共産党は中ソ論争の公然化した六三年から宮本訪中団が毛沢東と決裂した六六年までは中国派であった。これに対して社会党は左派の一部を除いてソ連派が主流であった。
向坂派は中ソ論争の当初においてはあいまいであったが、ソ連派にかたまり、いまでは日本でもっとも忠実なソ連ボナパルチスト官僚のスポークスマンの任を受けもっている。すでに向坂は五六年のハンガリー革命において、ソ連の軍事介入を支持したし、この立場は六八年のチェコ八月革命においても貴かれ、ソ連軍介入を向坂は支持したのである。共産党がソ連ボナパルチスト官僚のエージェントとさらに日本ブルジョアジーのエージェントに業務を拡大したのに対抗して、社会主義協会は日本ブルジョアジーのエージジェントからソ連ボナパルチスト官僚のエージェントへと業務を拡大してきており、この両者は同じ商品を扱っているライバル会社のようなもので、それだけに相手に対する敵意だけは溢れんばかりにいっぱいなのである。
共産党が自主独立路線にたてこもって中ソともに正式の関係を断絶したことから、中ソ対立が社共対立から、社会党の内部にそれぞれソ連と中国の分派がつくられて社会党に反映するようになった。ソ連派は構改派と協会派で、中国派は左派のうちの非協会派社研グループと安打同(安保体制打破同志会)グループによってつくられた。
当初、中国派(毛派)は植民地革命の戦闘性と急進性を代表して、社会党が反戦と並んで六〇年代末の戦闘的大衆の圧力を受けたもうひとつの政治傾向であった。青年急進化の流れは党内にあっては解放派と構改系から左傾化した流れと中国派の三つがあった。反戦が“逆流”以降党を離れていったのに対して中国派は反戦“後”の党内最左派に位置していたのである。
しかし、アジア革命の高揚を間接的に歪曲して反映していた社会党毛沢東派は中国ボナパルチスト官僚そのものが米中平和共存の路線に軌道を定めるや、急速に政治分解していったのである。毛派はニクソン訪中以降はほとんど左のイニシアチブを失い、国際的に毛派の分解と混乱が演じられたが、日本でも同じで社会党内でも毛派の力は低下した。そして中国官僚と結び、その利害を表現するところに堕落し、佐々木更三は田中訪中の露払いの役割を果して、日中平和共存のブルジョアヘゲモニーの確立に奉仕するようになるのである。
最近とみに、毛派の衰退に乗じて、ソ連官僚の忠実な番犬ぶりを発揮しているのが協会派である。かれらは、自分たちがいかに共産党よりもクレムリンに忠誠であるかをかれらの雑誌で宣伝している。このひとつをとってみても協会派が反急進主義であり、植民地革命に否定的態度をもちスターリニズムの右翼路線を貫徹させているかが立証されるのである。
日韓条約―日本帝国主義の離陸
一九六五年の日韓条約の締結は日本帝国主義がアジアに向って本格的に離陸することを知らせるものであった。そして同時に日本の帝国主義化は従来の政治構造が破産していくはじまりでもあったのである。“日本型”の社会民主主義の存立基盤が解体されはじめたのである。
議席の上でも社会党は日韓条約を境として長期低滯に突入していく。日韓条約に表現される日本の帝国主義化は社会党に歴史的な転機をもたらしたのである。
“日本型”社民が“日本型”としての特殊性=戦闘性、左翼性を保持しえたのが日本の政治的経済構造であることは先に触れたが、日本帝国主義がもっとも至近の南部朝鮮を植民地経済をもって支配することに全面的に突入したことにより、日本は唯一の原爆被災国であるとか、平和憲法をもつ国であるとかという第二次大戦での敗北がもたらした事項をもって無害の平和国家であるという神話は崩れ去って、帝国主義の論理にたちむかわなければならなくなったのである。
帝国主義は歴史的なものであるから日本ブルジョアジーは戦後の国民平和主義を経過しても、帝国主義的本能は決して失ってはいないが、戦後の社会党は平和主義の所産であって、第二次大戦で敗北した日本帝国主義のその敗北をひきつぐ存在であったがために、日本帝国主義が復活拡大し、帝国主義的本能をあらわにしたとき、とうていこれに対抗する能力はもちあわせていない。
一九六五年を画期として社会党には政治的安定性はなくなって、ジグザグを描く時代に入るのである。目まぐるしい指導部の交替、しかも決して安定不可能な指導部の選出、その日暮しの政治方針、ブルジョアジーと手を結ぶ分派もあり、それでいて戦闘的革命的闘争の圧力を他のどの既成政党よりも敏感にうける体質も残っており、分派の離合集散はめまぐるしい。そういう時代に社会党は突入したのである。
北爆―アジアの革命と反革命
六五年二月、アメリカ帝国主義の北ベトナム爆撃はベトナム侵略をエスカレートさせたが、この北爆はアメリカの戦略的敗北につながる第一歩となった。そしてベトナム革命へのアメリカの全面的な反革命軍事介入が局地限定戦争の枠を破り、全世界的に帝国主義と労働者、人民大衆との対決の戦線を構築したのである。
五月の社会党二五回大会は左派の佐々木吏三が委員長となり、右派=江田派は敗北した。二六回大会で再び右派がもりかえすが二八回大会では左派が勝利する。安保後、IMFJC派や総評内右派をバックに構改論で右派攻勢のヘゲモニーを掌握していた江田派は北爆を端初として開始するアジアの革命と反革命の激突の局面において、右翼的路線が破産して構改論は力を失っていく。
北爆がもたらした激動の情勢は日本の一国主義的国民平和主義の政治情勢に一撃を与え、さらに日本帝国主義のアジア侵略への策動が公然化することと結びついて、歴史的な転換点をもたらした。ベトナム戦争のエスカレートは社会党を左へむけた。江田にかわって左派の佐々木が委員長に勝利して、佐々木はこれまでの江田による反共産党路線を修正して高山談話で共産党との共闘の道を開いた。
構改派の反共産党セクト路線はいっぽうでIMFJC派への社会党の屈服を意味していたが、構改派の退潮ははっきりと社会党と労働戦線内の流れを変えたのである。共産党との共闘に社会党が窓を開けたことはあきらかに左への圧力を受けたからであり、アジア革命の圧力がこの党に反映したことを意味していた。右派のヘゲモニー下で進められた労働戦線統一運動は壁にぶつかった。
日韓・原潜・ベトナム反戦の闘いを通じて鎮静化していた大衆闘争は上昇を開始し、とくに青年の急進化が急速にすすんだ。社会党はこの高揚する大衆闘争の波に乗ろうとしたのである。
急進的闘争の高揚と党の衰退
さてわれわれはここで社会党が急進的大衆闘争の圧力を受けて左へと押しやられながらも、本質的には決して大衆の圧力が社会党を党として強化はしていないことをみておかねばならない。
六五年七月の参院選で社会党は若干の伸びを示し、同じとき行なわれた都議選では自民党の汚職という敵失もあって第一党に進出したが、六七年一月の衆院選挙はふるわず議席は後退した。しかし四月の地方選では美濃部が勝利する。六八年の安保、沖縄を争点とする参院選では後退をつづけ、六九年十二月の衆院選は一挙に五〇議席を失って大敗北を喫するのである。
七二年の年末衆院選では五〇の失った議席の半分をとりもどすが、(一一八議席)この選挙では共産党の進出が著るしく、共産党は三八名になり、社会党の“回復”はむしろ共産党の進出の陰にかくれてしまった。
この六五年からはじまる社会党のブルジョア議会内における力の衰退はジグザグを描きつつも確実に進行している。国民平和主義のフレームで形成されたブルジョア議会制支配は日本帝国主義の内在的矛盾の激化と、アジア革命の力の上昇の局面に入るや衰退と解体の過程に入りこんだが、この衰退のまずはじめの影響は社会党に集中してあらわれたのである。共産、公明両党の伸びはブルジョア議会制支配の安定性や生命力がいまだに持続していることを証明したのではなくて、この両党の伸びは自民党や社会党では及ぼせない政治的影響力を共産、公明が集約したのであり、とくに共産党は社会党に代替する機能を果しているにすぎない。すなわち共産、公明両党はプロレタリアートと小ブルジョアジーの自民、社会ではすくいきれない部分をブルジョア議会制に組織し動員する任務を果しているのである。この任務は衰退するブルジョア議会制支配を左から解体するのではなくて、逆にこれをささえ防衛することを意味する。
社会党はブルジョア議会内で共産、公明の狭撃をうけつつその力を弱化し、さらにこれらの全体の党が依存している議会制政治そのものが衰弱しているのである。
したがって、六七年から開始された急進的大衆闘争が高揚したさなかでも、あるいは大衆が左傾化したからこそ、社会党は大衆の左への趨勢を全面的に受けとめることはできなくなっており、かつての社会党総評ブロックが大衆の戦闘的改良のエネルギーを吸収した機能がもはや失なわれており、情勢のなかで絶えざるジグザグをくりかえすのである。
“革新自治体”による改良の路線
六七年四月の地方選挙で美濃部が東京都知事に当選したことは政治情勢が転機を迎えたことを示した。ブルジョア議会制の危機のはじまりがまず社会党に表現されたが、美濃部の勝利は自民党の危機のはじまりをはっきりとしるしたのである。
労働者、人民は都市に集積した資本主義の矛盾の激化に直面してまず手近かの地方自治体に戦闘的改良主義のエネルギーをあらわした。
地方政治は自民党権力にとっては弱い環であり、とくに都市の小ブルジョアジーを組織できていないかれらにとって、大都市の大衆は自民党政治の統制のもっとも弱い部分であったがために、高度成長の矛盾が表面化し、それが大衆の生活をおびやかすことがはっきりしてくると、都市においては自民党政治が解体を早めていったのである。
社会党の江田派をはじめとする構改派はベトナムの一撃でかれらの路線が破産するや、新しい改良主義の脱出口をこの革新自治体に求めようとした。その後、構改路線による革新自治体の「戦略的位置づけ」は社会党の主調となるが、これはまた共産党が構改路線と同じ立場から革新自治体を民主連合政府のヒナ型として位置づけたため、革新自治体は人民戦線路線のテストケースとして社・共両党からもてはやされ革新自治体の拡大が革命そのものであるかの概を呈した。
しかし、革新自治体は労働者、人民が要求する問題の解決に無力であるばかりか日本資本主義経済が危機に突入するや逆に労働者、人民の既得権を奪いとり、労働者、人民の闘争を鎮静化して、ブルジョア議会制秩序を大衆の闘いから防衛する役割を受け持つようになるのである。
反戦青年委員会と社会党
急進的大衆闘争と社会党との関係をひとつの典型としてしめしたのが反戦青年委員会をめぐってであった。
一九六七年から六八年にかけて拡大した学園闘争に対して、共産党は“トロツキストの暴力主義”として全面的に否定し、これを警察権力の弾圧の対象として認め、ブルジョア支配に反抗して立ち上がった学生への警察権力による鎮圧を積極的に擁護したのである。
これに対して社会党は六八年一月の第三〇回大会において学生の闘争を認め、学生運動を“同盟軍”として位置づけたのである。
六八年はベトナムにおける二月のテト攻勢、五月のフランス革命、チェコスロバキアにおける八月革命と世界の政治情勢が激動し、革命と反革命の力関係が逆転して平和共存体制が歴史的に解体にむかい、全世界的に青年の急進化がひろがって、反帝国主義の闘争は急進的青年によってラジカルにすすめられた。日本での青年の急進化は反戦青年委員会と全国全共闘の運動によって表現された。
八月には反戦青年委員会が正式に結成され社会党はこの反戦を通じて急進的青年運動のエネルギーを党に吸収しようと試みるのである。
六九年五月の社会党青年問題委員会の報告は次のように青年の急進化に対する方針を確認した。
「党の総力をあげて反戦青年委を青年労働者のすべてのエネルギーをくみつくしうるものとして全国的に強化する。さきに党大会で決定した全国反戦委の強化再開、各県反戦委の拡大、さらにその基礎としての職場反戦の建設は、まさに青年、学生戦線が内包している弱点を労働者的たたかいによって克服しようとするものであり、七〇年闘争勝利のため緊急の課題となっている。」
共産党と社会党が示した全国反戦と全国全共闘に対する対応のちがいが先に引用したトロツキーの分析にぴったりであることをわれわれはすぐ気付くであろう。
改良主義が解体されて生まれた社会党の中間主義的ジグザグは、大衆とブルジョア権力との衝突の狭間にあって、絶えることなく動揺し、大衆が革命への突破口を探して行うジグザグを“反映”し“表現”しているのである。共産党は強固な官僚的装置をもち、かれらの強固にうち堅められた政治路線をこの官僚体制を通じて大衆に押しつけ、かれらの路線からはみでようとする大衆を抑圧するのである。
学生の闘争と全国反戦に対して示された社会党の寛容さは、改良主義が大衆の急進化で左から解体されていくプロセスにおいて社民が何らの防衛手段を持ち合わせていないことの表現であり、これはブルジョア議会制政治がそうであることを社会党が代表して示したともいえよう。
青年の急進化を容認しながら、六八年七月の参院選で社会党は後退する。青年の急進化はこの改良の党、議会主義の党を何ら強めるのではなくて、逆に左からつきあげつつ、解体を促進する作用として働いたのである。
社会党が急進的青年運動を容認したことに対して、総評は労働官僚の立場から、共産党はかれらの政治路線から非難をはじめる。
総評の民同官僚は学生の急進化がやがては全国反戦というルートを通じて青年労働者の多数が急進化の流れに合流する危険性を感じとった。青年労働者の急進化はまさに総評民同の基本構造を急速に崩壊させる恐るべき力をひめていると察知した民同は、官僚支配を防衛するために“反戦育成”から“反戦弾圧”に転換する。
全国反戦による青年労働者の政治闘争への参加が目立ちはじめるや、総評は六九年八月の大会で社会党の学生や反戦に対する“甘さ”を批判して、全国反戦からの新左翼の排除を決定する。共産党は総評の方針を支持し社会党を難詰した。六九年末の衆院選での社会党の敗北はこの総評、共産党の傾向に助勢してついに社会党は右へ舵をきる。流れは一転して反戦切り捨ての逆流となるのである。
七〇年四月、成田はまず反戦にも“よい反戦”と“悪い反戦”があると言及し、“悪い反戦”を排除し共闘に入れないことを指示した。かくて七〇年後半から“反戦パージ”が進み、七〇年党大会は機動隊の動員をたのんで反戦派を排除した。青年労働者の急進化に対して労働官僚、社民、スターリニストの共働による抑圧が加えられ反戦に参加した青年は孤立、分断させられて多くは職場から追放された。反戦パージによって民同の支配はからくも守られた。ブルジョア権力の暴力装置による街頭での徹底した弾圧と反戦派がパージによって労働者階級の本隊から切断されたことによって孤立を余儀なくされた急進的青年運動は急速に分解をはじめ、この運動を基盤にしていた「新左翼」諸党派は解体と堕落の過程に入り込むのである。
社会党の中から発生した中間主義の解放派や主体と変革派は“逆流”前の社会党の“左傾化”に大いなる幻想を抱き、社会党を革命党に変化させるつもりでいたが、“逆流”によってかれらは排斥されるか、自ら社民への幻想を打ち消して、右傾化した社会党と別れなければならなくなった。
成田が認めた“よい反戦”とは協会派系であり、これは反戦のなかでは無能・無力・日和見のもっとも質の悪い反戦で、たんに協会派が青年の急進化のなかで必死に自己防衛するためのカモフラージュにすぎなかった。不肖な息子ほど親は可愛いいのであろうか。
反戦への“逆流”のイニシアチブをとったのは協会派であった。本質的に反急進主義である協会派は社会党を共産党と同じ組織体質に作りあげ、官僚的統制と支配を大衆に及ぼそうとする意図をもちつづけており、かれらの反急進主義と官僚主義が結びついて、協会派は反戦パージのイニシアチブをとったのである。陰険な反戦パージのテルミドールは社会党中央本部や東京都本部の急進派を党から追放することとなり、社青同を協会派の私物とする手がかりをつかんだのである。
協会派は党内の急進分子を追放して、クーデター的に社青同を手に入れて、社会党内へ本格的な分派として進出しはじめるが、協会派の手に落ちた社青同はもはや青年の凝刺としたエネルギーを代表する機関ではなくなってしまった。
唯一青年の力が綱領も理論も組織も金もない社会党を左へ向かわせる衝撃力であったが、この最後の綱が断ち切られたのである。  
第三章 社会党はどこへ行くのか

 

戦闘性、左翼性を生みだした基盤の崩壊
“社会党の左翼バネ”として、清水慎三は戦前からの社民左派、労農派マルクス主義、民同グループ、青年部の四つのファクターをあげ、この四つの要素が情勢の転回のなかで社会党が右へブレるのを押しもどし、左へと反撥させる力であると分析している。この分析はまず大前提に社会党の左翼バネのインパクトが党を構成する主体に内在していることをアプリオリに認めている。まずこれが誤っている。
戦前派の社民左派(鈴木茂三郎や佐々木更三に代表される)は本質的に社民であって戦闘性、左翼性はただ大衆の圧力に対して柔軟であるときに表現されるのである。
労農派マルクス主義の日和見主義的本質はあきらかであり、本書槙論文によってこのグループの社民的本質が暴露されている。いまや、労農派グループの唯一の組織的結集体となった協会派は社会党がもっている大衆の圧力に対する“脆弱さ”をスターリニスト的官僚の専制によって除去しようとその先頭に立っている。協会派の社会党内におけるヘゲモニーの確立は、社会党を化石のようにしてこの党に残された唯一の“美徳”である「大衆の圧力に柔軟である」特質を奪い去ってしまうであろう。向坂派はもうひとつの合法共産党をつくろうとしているのである。
民同グループが社会党の左翼バネでないことはいまでは三才の童児でもよく理解されるところである。左派社会党の成長期に果した民同の左翼バネ機能は春闘方式の破産とともに喪失しているのである。民同は今では右へのバネとなっている。
青年部はどうか。社青同結成によって青年部はなくなったので、青年の力による社会党への左翼バネの機能は社青同に移行したものとしてとりあげなければならないが歴史的な事実として、協会派がヘゲモニーを社青同において掌握する以前は社会党青年部、社青同は絶えず社会党の最左派の行動隊として右派を糾弾し、戦闘的大衆闘争のエネルギーはまず青年部や社青同に反映し、ここをパイプとして社会党に押し流され、文字通り左翼バネとして機能してきた。しかし社民からするとこの青年のエネルギーを伝える組織は党に活力を与えはするが、いつ“暴発”して党に打撃を与えるかも知れない社民にとって危険な存在でもあった。反戦パージによって作られた協会派社青同は“暴発”する危険はないので党は安心していられる。しかしこの社青同は青年の活力をもたず、青年の力を党へ伝える能力ももたず、へ理屈ばかりこねてひねこびており、小ボス、小官僚が組織を牛耳っているのが実態である。いまや協会派社青同は社会党の左翼バネではなくて社民路線の優等生となっている。
清水のあげた左翼バネ要素はもはや歴史的に失なわれてしまっている。かれがあげた左翼バネは左派社会党を形成し、統一後に左派のヘゲモニーを形成する過程を通じるなかで機能してきたのである。しかもまごうかたなく左派社会党こそが国民平和主義そのものであったのであり、日本帝国主義の左の柱を背負ったのである。
戦闘的改良主義の終り
社会党を構成する主体に戦闘性と左翼性があったのではなく社会党が存立した基盤が戦闘的改良主義を許容したのである。それは先に述べたように、第一に高度成長であり、第二に一国的国民平和主義である。高度成長は労働者に絶えざる賃上欲求の力を拡大持続させ、春闘方式は改良の闘いではあるが大衆のエネルギーを動員して戦闘的に展開されてきた。アメリカ帝国主義の傘の下にあって温室としての国民平和主義の構造のなかで、社会党は反戦平和、反原爆の国民意識の政治的代表者たりえてきた。
社会党を論評する人びとが多く指摘するこの党の戦闘性と左翼性とは、そのほんとうの中味は戦闘的改良主義であったと、われわれはまず訂正しなければならないだろう。そして次に、この戦闘的改良主義を成立可能ならしめてきた基本構造とはとりもなおさず戦後日本帝国主義を復活・強化してきた基本構造そのものであったことを指摘しなければならない。そしていまやこの基本構造は解体過程に決定的に突入したのである。解体過程をもたらした歴史的な力学は、
日本資本主義の危機の深化
第三次アジア革命のはじまり
この内と外のふたつの衝撃が、社会党を存立させてきた国民平和主義的政治構造を分解させ、この党を激動のなかに押しやったのである。
日本資本主義経済が危機的過程に入り、高度成長が終りを告げ、高度成長期に蓄積された矛盾が社会の表面に噴出してくるようになると社会党、総評ブロックの春闘方式を軸とした改良主義が「国民春闘」として手直しされたとしてももはや根本的に情勢に対応できなくなったということは多言を要する問題ではないだろう。
非武装中立の社民路線はアジア革命の前に破産
現実には日米軍事同盟を結び、自衛隊を持ちながらこれらを観念の上で否定することによって国民平和主義がつづいた。この観念を“政策”にしたのが社会党の非武装中立である。非武装中立路線はアメリカ帝国主義がアジアに労働者国家と植民地革命を軍事的に包囲する戦略を選択して、日本の沖縄から北海道にいたる全島に軍事基地をつくりあげ、国内の階級闘争の鎮圧と、米軍への戦術支援を任務とする軍隊の創設を容認し、かつ育成した過程においては、これに反撥する日本の大衆の平和的意識を表現する立場として、現実の根拠をもっていた。
しかし、現実に存在するものを観念のうえで否定するしかない社会党の非武装中立の路線は、是非善悪はどうあれ大衆が現実に存在する自衛隊を“認め”ていく過程がすすむことによって、この根拠は崩れていったのである。非武装方針による自衛隊の否定と米軍駐留の否定は当初のラジカルな立場から、改良の立場へ移行して、自衛隊の存在を前提して、その性格や機能に対して平和主義的、改良主義的圧力をかけるところへまで屈服し、つとめて自衛隊の問題を労働者・人民の前からはずそうと努めたのであり、これは国民平和主義の意識のカべによって思うようには自衛隊を強化できない自民党の思惑に合致して、軍事問題を禁忌とする政治環境が持続されてきた。
帝国主義の武装解除、労働者、人民の武装、兵士を労農人民の側に獲得する、という労働者階級が帝国主義軍隊に対してとるべき原則に、社民は決して立つことはできないし、共産党も現在では基本的に社会党の立場に接近し、帝国主義の軍事力に対する労働者階級の意識を武装解除しているのである。
日本帝国主義が離陸して、アジア革命との対決の局面に入ったときから、基本的に外交路線は、――
日本帝国主義に対する革命的敗北主義か
日本帝国主義への祖国防衛主義か
の二者択一をすべての左翼に迫っているが、社、共両党は日本帝国主義の敗北をのぞまずに、日本帝国主義の祖国を防衛する立場に立っているのである。金大中事件をはじめ韓国との関係でみられる社、共の振舞いは国権論であって、祖国防衛主義そのものである。かれらは、アジア革命から日本帝国主義が打倒されぬようまず防衛して、しかるのち、この帝国主義をよくしよう、という改良の運動をすすめるのである。
日韓闘争を社、共、総評が闘いえなかったことは、この闘争があった六五年の時点では未だ顕現されていなかったが、すでに祖国防衛主義の社民的本質が潜在していたからであるといえよう。安保では“平和と民主主義”の意識を動員できたが、日韓では反帝国主義の意識を動員できなかったし、かれらが反帝国主義でもなかったのである。
中立路線は日米軍事同盟=アジア革命への敵対という自民党路線に対する日和見主義的外交方針であり抜本的に帝国主義政策と対決することはできない立場である。自民党がアメリカ帝国主義の手を借りて維持してきた日米軍事同盟の路線はベトナム革命の前進によるアメリカの戦略的後退によって危機を迎えたが、中国ボナパルチスト官僚の外交路線に助けられて、自民党は日中共存体制をもってこの危機を回避した。
かくて、日米軍事同盟と日中共存は見せかけの“中立”をしめしており、この外交路線が自民党、ブルジョアジーのヘゲモニーによって貫徹されたため、社会党をはじめ、すべての議会内反対党の中立方針は自民党の帝国主義外交と対決できなくなったばかりか、その補完物になり下ったのである。
ベトナムを先頭とするアジア革命が左から日本外交の社会的立場を解体したので、社、共はより右へ移行した。いまや、中立方針は何の“反体制”的性格を爪の垢ほどももってはいない。
社会党の「党是」が全面的に解体されたのである。
派閥の再編・社共路線と社公民路線
若手議員を集めて「新しい流れの会」が結成されたが、このグループは市民主義的性格をもち、構改派が没落した後では、このグループが大衆の意識の変化にもっとも敏感に反応している。来るべき次の大衆の急進化においては、非協会系左派グループとこの新しい流れの会のグループが急進的エネルギーの圧力に対応しようとするであろう。しかし、新しい流れの会は都市市民の民主主義的意識を平和的に表現しており、その基盤はプロレタリア的ではない。その性格はネオ右派ともいうべきもので、階級闘争の諸原則とは遠くはなれた存在である。自民党政治が強権化、反動化に向うとき、このグループは民主主義防衛をもって一定の戦闘性を発揮するかも知れない。しかし、このグループは戦略的な位置をもつことは決してないであろう。
左派の分解はこれまで、
○片山政府のときの労農党グループと主流との分裂
○構改路線による江田派の分裂(これは以後も山本、楢崎、大柴らの分裂としてつづく)
○中ソ論争による中国派の分裂
の三つの大きな分解があったが、六五年以降の左派分解の中心は社研派(左派の主流)が協会派と非協会派に公然と分裂していく状況であろう。
協会派はそれまで党内分派でなしに理論グループとして労農派マルクス主義の学者、旧日無系の議員、民同官僚指導層、党官僚などの横断的組織として、きわめてルーズなサロンのような性質をもって活動してきたのである。山川が死んで協会の指導権を向坂が握ると、向坂は協会派をもって党内の分派闘争に介入し、協会派を社会党の分派に転化していったのである。左派は党内分派として社研派をもっていたので社研という分派の論理と協会派という分派の論理が衝突するのは必然であった。
向坂イズムは政治的には社民であり、組織的にはスターリニズムであり、協会派は社会党を共産党的組織体質をもって支配しようとするセクトである。いま、向坂派は社会党と社青同において“拡大”している。われわれはこれをどう受けとるべきか。
結論的にいえば、協会派は社民の“寄生物”であって、決して自己を本体にまで転化することはできないであろう。もし、協会派が社会党で多数を占め、その恐怖政治を社会党においてふるうとするならば、これはもうひとつの右翼的共産党が生まれたことを意味しており、協会派支配下の社会党は共産党との血みどろの抗争に突入する。一国に二つのスターリニスト党は並びたつことは神(=スターリン)の許さぬ行為なのだから。
むしろ、協会化された社会党は大衆の圧力によって、組織として分解されてしまうであろう。これは、国民平和主義の“連合戦線党”的性格をもっていた社会党を自らの手で壊すこととなり、向坂は「恩師・山川」の教義を自ら裏切ることとなる。
協会派はこれから激しく左に右にジグザグを絶え間なくえがくであろう社会党・総評ブロックの寄生物となって、ジグザグしないためには向坂大先生の「科学的社会主義」を信じなさい、ということを布教する宗派集団でありつづけよう。かれらが多数をとると、それは自殺行為となるにちがいない。
いま、社会党は政治路線として社共共闘か社公民路線かで混乱している。七五年統一地方選を契機として大きな政治的再編がこの党を襲うであろう。激しい分解過程についていまあらかじめ占うことはあまり意味のあることではない。
階級的力関係を反映する党としての社会党
いま社会党の前に提起されている政治路線は、人民戦線、中道左派路線、中道右派路線である。どれをこの党はえらぶのか。それはこの党が主体的にはえらべないことである。ひとつだけはっきりしていることがある。まだこの党の前に提起されている路線は、いずれも日本帝国主義を左からささえる路線であって、まだ「革命への脱出口」となるべき路線は提起されていないことである。にもかかわらず、来るべき大衆の圧力はこの党をして激しく左右への動揺のなかへ押しやるであろう。この党はブルジョアジーの力、プロレタリアートの力のぶつかり合う階級闘争の力学を歪少化してはいるが反映させる党として存在しつづけよう。それがまた、この党の最後に残された“美点”である。
プロレタリア統一戦線へ
革命への脱出口をつくるのは、われわれしかいないのである。社民やスターリニストがあれこれ経験的行為をくりかえして、革命への脱出口をさぐりあてることはできないし、かれらはむしろそうするよりブルジョアジーに投降するであろう。スターリニストは自らがブルジョアジーに投降するのをいんぺいするために社民にあらん限りの悪罵を投げつけ、自己の正当性を守ろうとする。「社会ファシズム論」や「社民主要打撃論」がそれである。これは階級闘争と革命運動に致命的打撃を与える誤ったやり方であることは歴史が幾度も教えてくれたところである。
社民に対する統一戦線は、革命への脱出口を求めてジグザグを示す労働者階級の闘争を革命の勝利への扉へ向かわせる革命的左派の任務であり、社会党批判の実践とは、プロレタリアートの統一戦線を構築する闘争と同義であることを、いまわれわれは部落解放闘争をめぐるきびしい情勢の中で銘記すべきであろう。
(一九七五年二月二〇日)  
 
日本社会党はなぜ社会民主主義化できなかったか

 

序章
現代の日本政治では、民主党・自民党両党の政策距離は近いように思われる。安全保障政策・経済政策も有権者から見れば大差は見あたらない(1)。現在の政治状況と対比されるのが戦後日本の政治体制を担った「55年体制」であろう。かつて自民党と社会党(2)の間には保守・革新という対立軸があった。大獄によれば保革対立は「八〇年代に至るまで、一貫して、防衛問題、天皇制、労働者のストライキ、および憲法問題がこの保革の尺度をはかる最も的確な政策内容であった」(3)。しかし現在において社会党の直系である社民党は、その地位を大幅に低下させ、弱小政党として存在しているに過ぎない。なぜこのような事態になったのだろうか。
新川(2007年)によれば社会党の衰退は必然であった。「社会党の社会民主主義化を阻んだのは、左派優位を助長することになった党内制度構造(機関中心主義)であり、階級政治レベルにおける権力資源動員であったと思われる」 (4)と新川は指摘したうえで、総評依存の資源動員が社会党衰退の原因であるとの説を展開している。また社会党が教条主義化(左傾化)したのは、総評に代わる資源が得られなかったためであり合理的でもあるとしている。従って社会民主主義化は非合理的戦略と結論づけている。だが社会党の衰退は果たして必然であったのだろうか。1960年には構造改革論争があり、社会民主主義化への兆しが見受けられていた。70年代には自民党長期政権下において腐敗が相次ぎ、国民世論の左傾化が見られた。社公民路線(社会党・公明党・民社党)による連合政権も議論されており政権党への復活は絵空事ではなかった。人々の関心である生活の豊かさは、経済成長と言った量から質へと転換していた(5)。量から質への転換は、西欧社会民主主義政党が取り組んだ諸課題である。社会党のあり方次第で社会党が躍進する可能性は十分にあったと考えられる。
上述を踏まえて本稿では社会党が社会民主主義化しうる可能性が最も高いと思われる、60年代・70年代を中心にその可能性を探る。その上で社会党の社会民主主義化を阻害した要因と、社会党衰退の理由を考察していく。第1章では社会民主主義化、日本社会党の概要や先行研究を簡単にまとめ、議論の視座を得たい。第2章では60、70年以外の時代(1950,1980年から1990年)における日本社会党の概略に触れる。歴史的文脈を踏まえたとき、これら年代での社会民主主義化は非合理的戦略であったことを述べる。第3章では60年、第4章で70年代の社会民主主義化の可能性及びそれを阻害した原因を明らかにしたい。 
第1章 社会民主主義と日本社会党

 

1 社会民主主義と社会党
社会党は1986年の「日本社会党における新宣言」(新宣言)で「中ソなどの既存の社会主義からの脱却からの決別をうたい、西欧型の社会民主主義政党への移行をうたった」(6)。しかしそれまで社会党は「階級的大衆政党」(7)であって、「社会民主主義政党」とは様相を異にする。社会民主主義政党は修正資本主義、議会主義、福祉国家の3つで特徴付けられる(8)。例えばドイツ社会民主党(SPD)が社会民主主義政党の好例だ。SPDがこのような立場を取った背景にはドイツ国民において、根強いソ連・共産主義アレルギーがあったことが指摘されている。対して86年まで、日本社会党は「社会主義」的性格を持つ政党である。階級闘争によって政権を奪取し、最終的には社会革命を起こし社会主義政権成立させることを目的としていた。1964年党綱領である「道」(9)を見る限りではプロレタリア独裁にも含みを持たせており、結党当初の社会主義より幾分左傾化していた。さらに議会内での権力獲得よりは院外活動を重視する傾向があった。 
では社会党内の派閥はどのように分かれていたのであろうか。1950?70年代までの主だった思想(イデオロギー)は四項に分類できる。
1 客観主義・待機主義(10)に立つことで社会主義革命は確実に起こるとする。その上で社会主義政権を成立させる。最も教条主義的な思想は暴力革命も認めている。(労農派マルクス主義)
2 議会内で社会主義政権を成立させる。政権成立の後、社会主義政権維持のためプロレタリアート独裁にも含みを持たせる。(社会党左派)
3 政党を国民政党(全ての国民を支持基盤とする)と位置づけ、社会主義的政策を打ち出す。(社会党中間派・右派)
4 3の立場に加えて、安全保障面において現実的立場を取る(社会党右派:西尾派)
尚1、2、3は安全保障面として護憲平和主義に立つ。4の位置に立つ社会党右派、中間派は日米安保を擁護するなど現実的な外交を基軸にした。またイデオロギー的には左に立ちながらも現実的政策を打ち出す和田派もあった。
護憲平和主義か現実主義かは、社会党の性格を規定するイデオロギー対立であった。イデオロギー対立は、講和条約と日米安保を巡り右派社会党・左派社会党の分裂に至った。その後総評の支援もあり、社会党は統一後される。しかし、その統一は右派・左派両派のイデオロギー対立を棚上げにして成されたものであった。鈴木派・河上派が多数派を構成することで社会党のバランスを取っていたのだ。
このように社会党には元来社会民主主義と非常に近い高い西尾派 が存在していた。また第3章で詳しく触れる構造改革論争も社会民主主義化への第一歩を踏み出す要素を含んでいた。社会民主主義化を可能とする潜在的能力は初期において社会党は存在していたといえるだろう。
2 先行研究の概略
五十嵐仁によると社会党の衰退の要因は大まかに3つに分類される(11)。
1. 歴史的転換説:社会党がマルクス・レーニン主義に拘泥したことで西欧型の社会民主主義政党への転換に失敗したことに衰亡の原因を求める。論者として安東仁兵衛、石川真澄、山口二郎などがいる。社会党が左傾化した原因を自民党に求める「自民党内反動仮説」(大獄秀夫)と、共産党・公明党に対抗するために左傾化は合理的選択であったとする「合理的選択仮説」(河野勝)はその有力な仮説である。
2. 社会的基盤不在説:1960年代以降の企業主義的統合によって、社会民主主義を支える基盤がなくなったことに衰亡の原因を求める。主な論者として新川敏光,渡辺治がいる。新川はマクロな権力資源動員論でその原因を説明している。
3. 組織・活動説:近代政党としての態をなしていない社会党の組織や活動のあり方に衰亡の原因を求める。主な論者として岡田一郎、五十嵐仁などである。
これら先行研究では以下の点が争点となっている。具体的にはT構造改革論争をどう捉えるか、U教条主義化の原因を何に求めるか、V社会党の衰亡を必然と捉えるか、W総評の役割をどう捉えるかという点である。例えばVの議論において2の立場は、社会党の衰亡を必然と考えている。対して1、3は社会党の活動のあり方で社会党の衰亡は免れることが出来たという立場に立つ。一方1、3ではTの構造改革を巡って評価が異なる。具体的には、江田三郎が唱えた構造改革論を「マルクス・レーニン主義を脱却し、社会民主主義への萌芽を開く可能性を持っていた」と評価するか、「マルクス・レーニン主義枠内での改革でありその可能性は低い」として否定的評価を下すかという違いなどである。80・90年代の急速な現実主義化路線に対してどう評価するも分かれる。山口二郎は「創憲論」の立場から90年代に社会党躍進の可能性を求めているが、90年代の詳細な分析は本稿の目的ではないので、これ以上は立ち入らない。
著者は3の立ち位置に基づき分析を行う。これは序章で踏まえたように1960,70年代に社会民主主義化することで社会党は衰亡を免れる可能性があったと考えられるためである。本稿ではこれら3つの論を視座として踏まえ、比較検討を行う。 
第2章 社会民主主義化が非合理的戦略であった時代

 

1 50年代における社会民主主義化の可能性
議論に入る前に章題にある「非合理的戦略」について触れたい。政党は議会内(議会外)での権力拡大を目的とする存在である。そのために、政党は有権者からの支持を得ることが不可欠であるし、得票数を最大化するために行動すると考えられる。従って自ら得票数を減らすような行動を「非合理的」行動として定義する。社会党が政権獲得を真剣に狙っていたかどうかは論者によって評価は分かれるが、少なくとも60年代までは左派でさえ連立構想を練っていたことが明らかになっている(12)。党是である「護憲平和主義」を果たすためには最低全議席の3分の1を占める事が不可欠であるため、非合理的行動を意識的に選択することは無いと言えるだろう。
まず50年代を概観したい。50年代はまだ終戦間もない時期であり、日本は復興の途上にあった。社会党の党組織は脆弱であったが、社会党左派は総評依存の資源動員で党勢を拡大していった。
   図1 日本社会党の議席数変化(衆議院)(13)
図に示されるとおり、もちろん右派も党勢を拡大していったのだが左派に及ばなかった。冷戦構造は東アジアに波及し、吉田茂内閣・鳩山内閣などでは逆コース政策が取られた。50年代において、左派が唱えた護憲平和主義は国民的支持を得る状況にあった。再軍備反対を明確に訴えていたのは平和四原則を唱えていた社会党左派だけだった。これにより再軍備反対派の支持を一身に集めることができた(14)のである。加えて総評からの強力な社会党へのバックアップが大きかった(15)。総評は1952年の第3回党大会で、社会党左派を全面的に支持し総評・社会党ブロックの形成を目指した(16)。組織票としての資源だけでなく候補者として労組出身の若手を送り込むなど、総評は社会党に強力な支援を行った。社会党左派と右派が統一綱領で統一した後もこの状況は変わらず、社会党内の左傾化が進むようになった。
以上の歴史的文脈を考慮しても、50年代に限って言えば社会党が社会民主主義化するのは合理的選択とは言えなかっただろう。当時の状況では、西尾派のような社会民主主義路線は社会党の右傾化として国民から理解され、自民党左派と差別化が図れない恐れがあった。当然党勢を拡大していた社会党にとっては合理的選択と言えない。そもそも社会党統一を推進したのが、右派・中間派に属する河上派と左派の鈴木派である。社会民主主義勢力と言える西尾派自体も政策面で共通点があれば手を結ぶ現実主義的立場に立っていた(17)。こうした状況を考えたときに、右派がその左傾化を食い止め、かつ社会民主主義路線へ転換することは困難であった。そればかりか、左傾化の流れは右派を追い出す結果となった。1959年から60年にかけて日本社会党は「新日米安全保障条約」をめぐり再び右派と左派で対立する。安保条約に関して、対案を出すべきだとする西尾派に対して、護憲平和主義に立つ左派が反発した。前述した通り階級闘争主義に立つ総評に権力資源を依存していたため、社会党議員において左傾化が進んだ。社会党左派は総評とも密接に結びつき、西尾派追放を目指して執行部批判を公然と行った(18)。西尾自身当初は離脱することには消極的であったとされる。しかし党執行部の委員長であった鈴木茂三郎が自派の若手の突きあげを統制できないことに西尾は幻滅し(19)、離脱を決意したという。結局西尾派・河上派一部が離党し民社党を結成した。民社党の結成は今後の構造改革論争の行方を大きく規定したといえる。詳しくは第3章で述べたい。
2 80、90年代における社会民主主義化の可能性
80年代においては石橋委員長の下、社会党の社会民主主義化は進んでいた。86年には新綱領が採択された。しかしながらこの時期も党勢は伸び悩んでいた。背景としては社会党に対する国民の不信があった。それは社会主義協会の残滓が色濃く残っていたことである。新綱領を巡っては社会主義協会の流れを引く左派が抵抗を見せた。機関中心主義の社会党において活動家は一票の議決権をもっていた。左派は活動家層を中心に支持を固めており、彼らが現実主義路線に対して大きな抵抗力を持っていた。結局社会党の方針転換は有権者には目新しい物には映らず、得票数は伸び悩んだ(20)。土井は女性党首としての目新しさから社会党のイメージ刷新に成功し、幅広い層から支持を得た。しかし、その支持を生かすことなく社会党は現実路線を決定づけることはできなかった。社会党は護憲平和主義というイデオロギーに最後まで拘泥していた。社会党は91年の統一地方選挙で敗北する。その後細川連立政権に参画したことで、社会党は政策内容でも急速に現実主義化していく。村山首相が日米安保を容認した事が決定的だった。だがこれら一連の転換は場当たり的であり、社会党自身が主体的に取り組んだことでは無かった。もはや90年代以降社会党は党としての形態をなしていなかった。
以上の議論をまとめたい。50年代においては社会党が社会民主主義化するのは、当時の社会状況を踏まえても合理的選択でなかった。加えて総評依存の資源動員が最高のパフォーマンスを発揮していた事を考えれば、社会党の左傾化は合理的選択であった。80年代、90年代において社会党は実際に社会民主主義化した。この路線転換にも関わらず、党内対立が長引いたことで社会党は「古くさい党」のイメージを脱却できなかった。それは自民党が下野した93年総選挙において、自民党が議席数を維持したのにも関わらず社会党だけが議席を大幅に減らしたという事実がものがたっている。この時代においては社会党が衰亡を防ぐ手段はもはや残されていなかったといえるだろう。 
第3章 60年代の考察

 

1 構造改革論争とは何か
この節では構造改革論について説明していきたい。構造改革とは、イタリア共産党から誕生した社会主義の理論である。構造改革論とは、マルクス主義の枠内での社会改良を重ねていくことで、社会主義政権の樹立を図ろうとするものである。従来の社会主義の理論は1「前衛政党による暴力革命論をとったマルクス・レーニン主義型」、2「平和革命理論(21)に基づくカウツキー型マルクス主義」、3「社会改良主義に基づくベルンシュタイン型」に分かれていた。なお2は日本では「労農派マルクス主義」とほぼ同義と考えて良い。
構造改革論は2を乗り越える理論として登場した。構造改革理論は「独占資本に対する抵抗を通じて資本主義の社会的構造を漸進的に改革することで、平和的に社会主義への移行をめざす考え方」(22)である。この構造改革理論はイタリア共産党の理論であり、日本共産党の反主流の理論であった。社会党員にとって構造改革理論は、社会主義の先駆者である共産党コンプレックスを克服しうる理論であった。また党員拡大によって階級性と大衆性を両立することができる理論(23)とも言える。こうして構造改革理論は地方活動家や新たな理論を模索した(24)貴島らによって受け容れられた。同時期に江田・加藤は党機構改革として、社会党の党組織を拡大するため「二重党員制度」を導入しようした。他にも国会議員の自動代議員資格停止、書記や専従職員の身分保障などのイニシアティブを江田が取った。これら機構改革により、江田は末端の書記・専従職員といった貴島グループ等若手の支持を集めた。また江田自身も階級性と大衆性を両立しうる構造改革理論に関心を示していた。地方活動家・若手党員(専従職員、書記など)の支持をうけて、江田は構造改革理論の旗手となった。しかし構造改革論はあくまでも、マルクス主義を否定するものではなくマルクス主義に基づいて改良的な方向を目指すものであった。
2 60年代当時の社会党
西尾派と河上派の一部が離脱したことで、社会党の党勢は大きく削がれた。1960年浅沼が日比谷公会堂で刺殺され、委員長代行として江田が就任した。西尾派の離脱にかかわらず国民的人気があった江田を党の顔として選挙を戦ったため、社会党は145議席にまで回復した。この選挙結果を受けて江田は構造改革理論を社会党の方針として打ち立てた。同時に党組織の拡充も進められた。しかし、構造改革理論は大きな壁にぶつかる。1つは個人レベルでの権力闘争で、書記長就任を巡って鈴木派が江田派と佐々木派に分裂した。派閥の理としては江田書記長の後を継ぐのは鈴木派の先輩である佐々木であった。しかし江田の国民的人気の高まりに、佐々木・鈴木派は江田への対抗心を募らす。佐々木派は社会主義協会に接近した。こうして構造改革理論を支持する勢力が削がれた。社会主義協会は向坂を中心にして、構造改革理論を修正主義的として真っ向から批判した。もう1つは社会党の権力資源である総評を敵に回すことになったことである。階級闘争主義の総評も、構造改革論を修正主義として批判を加えた。総評指導部(岩井=太田ライン)も社会主義協会に所属していたこともあり、批判はある種当然であった。総労働と総資本の対決といわれた三池闘争に対して、構造改革派が批判的総括を行ったことも理由とされる。1962年の書記長選挙において江田が再任されたが、運動方針としては構造改革理論に歯止めがかけられた。構造改革を巡る論争は、江田派、佐々木派、和田派の派閥抗争へと転化してしまう。党執行部の人事ポストを巡り派閥が争う中、社会主義協会は着実に活動家層に基盤をのばしていく。旧来江田の構造改革理論を支持していた活動家層を、社会主義協会が取り込んだことが理由だ。社会主義協会が社会党左派と手を組むことで、社会党は左傾化(教条主義化)した。この事実を示しているのが、1964年に採択された新綱領「道」であろう。この新綱領はプロレタリア独裁を認める文言を含む、教条主義的マルクス主義の性格を帯びていた。
このような社会党のあり方を有権者はどのように見ていたのだろうか。少なくとも1960年代前半まで、社会党は一定の支持を集めていた。この事は社会党が政権交代を実現すると予測した石田博英論文が1962年に発表されていたことにも現れている。しかし、1963年総選挙で敗北して以降社会党は停滞傾向が続く。原因としては、党組織のあり方、選挙戦術のまずさ、社会主義に対する不信などが考えられる。しかし、社会党執行部は何ら手を打たなかった。
3 60年代における社会民主主義化の可能性
@社会民主主義化の可能性
1、2を踏まえたときに60年代に社会党が社会民主主義化する可能性はあったのだろうか。結論を述べるならば、可能性は極めて少なかったと言えるだろう。というのも構造改革理論の敗北は歴史的文脈に大きく規定されているからである。構造改革理論が力を持つ1960年から1964年は、西尾派らが離脱した直後である。もともと社会党左派は社会民主主義を改良主義とする批判を浴びせていた。西尾派らの離脱により、社会党内には民社党(社会民主主義)アレルギーが一層根強くなってしまった。構造改革理論は社会民主主義と政策的に類似しており、西尾派らの社会民主主義との違いを明確に打ち出せなかった。その理論的脆弱性を社会主義協会らによって批判された。活動家層自体は構造改革理論が社会民主主義につながる可能性があったから支持したわけではない。あくまでも自分たちの身分保障という目的や、労農マルクス主義に代わる理論という認識のために造改革理論を支持した。そのためイデオロギーとして魅力がある社会主義協会支持へと活動家層は変わったのだろう。そもそも江田三郎自体が60年代に社会民主主義を支持しているどころか、これを明確に否定している(25)。江田三郎が社公民路線や、社会民主主義路線への転換を模索するのは70年代に入ってからである。つまり60年代に社会党が社会民主主義化する可能性は無かったと言える。だが多くの論者が指摘しているとおり、構造改革理論は社会民主主義へと発展する可能性がある(26)。構造改改革派が勢力を保持し続ければ、社会党は衰退することなく自らの手で社会民主主義政党へと変わることができていたかもしれない。現にイタリア共産党は70年代にマルクス・レーニン主義を放棄している。では構造改革派を減速させたものが何であろうか。それは歴史的文脈以上に、構造的な要因であったと考えられる。
A社会民主主義化を阻害した要因
この構造的な要因して、1党の体質、2資源動員の2点が指摘できる。そしてこの2つが密接に絡み、不可分の関係にあったことが大きな要因であった。1の体質としては以下の点が挙げられる。
1. 自前の下部組織が存在していない
2. 議員政党であったのが、59年以降の党改革により機関中心主義へと変化した(議員以上に活動家が権限を持つようになった)
さて1は社会党結党以来の問題であった。社会党が政権を担当した40年代は、まだ日本の政党自体が名望家政党としての域を出ていなかった。都市有権者を主な票田としていた社会党議員は、組織的選挙をせずとも知名度・イデオロギーといったシンボルで戦うことができた。だがシンボルのみで戦うことは、支持基盤として脆弱であり限界があった(27)。加えて社会党は財源不足という問題を抱えていた。当時の保守陣営が戦前政党の流れを引いて資産を受け継いでいたのに対して、無産政党が大同団結した社会党はそのような資産を持たなかった(28)。そのため下部組織(地域支部など)が極めて貧弱だった(29)。その社会党の下部組織を余りある形で代替したのが総評であった。社会党左派の躍進を見ても、総評の動員力がいかに大きい物か分かるだろう。統一後右派の存在や政権奪取の意欲から、社会党左派も現実的感覚を持つようになる。社会党左派も政策において現実的感覚を持たなければ、右派と統一を維持できないからである。1959年に右派が離脱し総評の全面支持を得ていた左派だけが残る。結果として総評の影響力を大きく受ける事になる。とはいえ、国会議員は自民党と国対政治を展開する以上、政治に対する現実的感覚を残していた。だがそれを2の要素が阻害する事になる。議員政党であった社会党期においては、社会党も極端に教条主義化することはなかった。しかし党機構改革を機に国会議員が党大会の代議員になる特権が廃止され、活動家層を中心とする書記局が国会議員より強い力をもつようになる。佐々木派は旧鈴木派が手を組まなかった社会主義協会と手を組んで、佐々木派・社会主義協会による左派連合を組んだ。一方構造改革派は党内政治に明け暮れ、次第に活動家層の支持を失う。最終的には江田派として一派閥へと転落した。
以上の経緯から、社会党議員は総評と教条主義化した活動家層の意向に反することが極めて難しくなることになる。国政選挙における資源動員としての総評、そして社会党大会における資源動員としての社会主義協会に左派(佐々木派)は依存するようになる。このことは現実的政策への歩み寄りを困難にした。このことが教条主義的イデオロギーを強めた党綱領「道」に表れている。佐々木派に対抗した江田派は他派閥と統一行動を取る努力を怠り、権力闘争に常に敗北したのであった。 
第4章 70年代の社会党

 

1 70年代の社会党
社会党は60年代後半から衰退傾向を示すようになる(30)。これは社会党が頼りにしていた総評依存型の選挙戦略が機能不全化していたことを意味していた。第一の理由として、総評の力が弱まっていたことが挙げられる。1960年代に労使協調主義にたつIMF?JC(国際金属労連日本協議会)を中心とした階級交叉連合が成立し、生産性向上と賃金の上昇を果たしていた。総評に属する民間労組も、階級主義的産別化闘争ではなく生産性運動に協力していくようになる(31)。総評は民間労組での影響力を弱めていくようになった。第二の理由として、組織力を強化した共産党、公明党が社会党の票を奪ったからである。裏を返せば社会党自体の組織力は一向に改善されていないことを示している。第三の理由として、教条主義化した社会党を有権者が見放したことがあるだろう。従来から自民党と対比されるイメージで流動的な有権者の票を集めていた社会党であった。しかし自民党顔負けの派閥抗争や社会主義自体のイメージダウンに旧来の支持層が社会党から離れたと考えられる。
1960年代後半からは自民党長期政権の下、自民党の腐敗が次々と明らかになった。社会党優位の下馬評にも関わらず、社会党は1969年総選挙議席数を減らす結果になっていた。そんな停滞傾向に対して社会党は地方組織の充実など党として何ら手を打たなかった。次の図を見ていただきたい。これは各党の都道府県議会議員数の推移を示している(32)。表2からも分かるとおり、社会党は地方議会においても勢力を減らしていたのであった。
   図2 各党の都道府県議会議員数の推移
このように社会党は支持を失う一方で、国民世論は左傾化するという奇妙な状態が70年代にはおきていた。これは自民党政治の政治腐敗・開発第一の政策に有権者への反発によるものだ。この反発は国政レベルでは野党陣営の多党化として現れる。地方政治レベルでは革新自治体の登場として現れた。革新自治体とは革新陣営が首長である自治体を指す。東京都の美濃部、横浜市長飛鳥田などが典型とされる。しかしながら、革新自治体の隆盛と社会党の党勢向上とはリンクしていなかった。革新首長の躍進は、保守系首長と比較して個別政策、個人的人気や公明党、共産党の組織力が要因であった。革新自治体と社会党のつながりは見た目によらず希薄であった(33)。それどころか共産党の躍進を受けて、野党共闘路線に疑問を唱える勢力も現れ、社会党は次第に自民党候補に相乗りするようになる。ここに革新自治体は終焉を迎えた。 
70年代の党内政治を考察したい。党内においては社会主義協会が熱心な活動により勢力を拡大させた。向坂がマルクス・レーニン主義へ左傾化したことで、社会主義協会も左傾化した。1970年当時において社会主義協会(向坂派)は党大会代議員獲得数で、江田派、佐々木派を抑えて最大勢力となり77年には社会党代議員の25%に達していた。社会主義協会の勢力拡大は、佐々木派の警戒心を抱かせることとなり、74年には佐々木派と江田派は和解し社会主義協会への対決姿勢を明らかにしていく。だが77年党大会衆院選挙で江田・佐々木が落選すると、協会派は江田派・佐々木派批判を展開した。とりわけ「活発な党活動を展開した江田に非難が集中し、江田は反論の機会すら奪われ、離党を決意する」(34)。江田はその後急逝し、党内は反協会派で結束した。スト権ストの敗北以後合理化路線を唱えた総評は社会主義協会を見捨てた。こうして社会主義協会は一時期ほどの力を失った。
2 70年代の社会民主主義化の可能
70年代社会党は停滞傾向であったが、社会党が社会民主主義化は不可能でなかった。1つには世論全体の左傾化がある。社会が大衆化や無党派層化が進み、得票は流動的になっていた。社会民主主義的政策は有権者に十分受け容れられる可能性があった(35)。江田自体が社会民主主義路線を志向し、民社党・公明党との連立を模索していた。民社党・公明党も江田に接近し、71年参議院選挙では選挙協力もなされた。50年代、60年代とは異なり70年代の外部環境は社会党の社会民主主義化を後押ししていた。74年以降社会党内では、協会派と反協会派の対立が激化していた。反協会派が早い時期に統一行動に出れば社会民主主義化は可能であったと言える。実際に江田の死後、80年代に入り社会党は社会民主主義路線へと転換している。ではこのような条件にもかかわらず、なぜ社会党は社会民主主義化する事ができなかったのだろうか。それは60年代と同じく、総評依存の資源動員と党の体質が社会党の社会民主主義化を大きく阻害したと考えられる。それぞれ考察していきたい。 
総評は民間労組への影響力を失いつつはあった。だが公労協が階級闘争主義を持っており総評も階級闘争主義的であった。75年のスト権ストでの敗北まで、総評は社会党の社会民主主義化を志向する動きを阻害する役割を果たしていたと考えられる。60年代から続く総評の衰退にも関わらず、社会党は地方組織の拡充を行わなかった。1つには財源・人材不足があった。もう一つは拡充を行わなくても、総評による資源動員により平均120議席を組織票で獲得することができたからである。結局労組に社会党下部組織を代替してもらう状況であった。社会民主主義化を阻害した力としてもう一つある。それは総評と共に大きな役割を果たした社会主義協会であった。なぜなら社会主義協会と総評指導部はイデオロギー的親和性があり、社会党の社会民主主義化を阻害する志向で両者は一致していたからだ。社会主義協会はレーニン・マルクス主義化したことで、イデオロギー的動員を可能にし、組織拡大に成功した。この結果社会党代議員数で向坂派は最大勢力に踊り出る事になる。このため社会党指導部も社会主義協会や総評の意向に反することができなくなった。例えば中ソ対立を巡っては、社会主義協会の領袖向坂がソ連を礼賛したため党執行部(石橋委書記長)もソ連よりの姿勢を打ち出した。これに対し親中派の佐々木派は、社会主義協会と対立した。これを機に江田との和解に動くことになる。しかし78年まで社会主義協会は勢力を一貫して拡大していた。社会主義協会の勢力を削ぐ、あるいは反社会主義協会の勢力を拡大しなければ、社会党の社会民主主義化は不可能であった。社会党が社会民主主義化するためには、党機関主義から執行部中心主義(議員らによる)に代わる必要がある。加えて下部組織を拡充する必要があった。しかし向坂派以外の社会党諸派は下部組織を拡充できなかった。結局社会主義協会の抵抗力を削ぐことを可能にしたのは、江田の離脱と逝去に端を発する、反社会主義協会派の団結であった。そして穏健化した総評の斡旋があったからであった。反協会派が自力で社会主義協会を押さえることはできなかった。構造改革理論の敗北同様、またしても社会党は歴史的文脈によって、自身のあり方を規定されたのである。 
終章

 

第3章、第4章を通じて分析した、本稿の結論を述べたい。60年から70年代を通じて社会党の社会民主主義化を阻害したのは、総評依存の資源動員と党組織のあり方であった。これを2つの次元に分ければ理解しやすいと思う。1つは国政レベルにおける資源動員であり、これを総評が担った。もう1つが党内政治(権力闘争)における資源動員であり、佐々木派が主導権を握るために社会主義協会の資源を用いた考えることができる。
   図3 次元レベルにおける資源動員のあり方
さて社会主義協会の勢力拡大を可能にしたのは党機関主義を中心とする社会党組織のあり方だった。山川均が立ち上げた社会主義協会には、向坂、高野、太田、岩井といった総評指導部が名を連ねていた。このことから総評と社会主義協会は歴史的に深いつながりがあった。まさに両者は社会党の教条主義化を果たした役割では、表裏一体の関係であっと言えよう。この表裏一体化した総評と社会主義協会を崩さなければ社会党の社会民主主義化は不可能であった。そのためには社会主義協会の影響力及ばないような地方組織の拡充が必要不可欠であった(36)。地方組織拡充を妨げた要因はやはり党内抗争に力を費やしたことであろう。これは自民党と比較すれば良く分かる。自民党が政権党に留まるために、党内抗争を棚上げにして団結した。それに比べて社会党はイデオロギー対立があった分、党内抗争が激化することになった。自民党と対比しても、党組織のあり方や末端組織力のなさは明らかだ。こうした党組織や自前の組織力のなさが社会党の衰退を決定づけた。
このほかにも歴史的文脈に社会党が規定されていたことも指摘できる。片山哲内閣に端を発する連立恐怖症もあって、社会党は社公民路線、社共路線に踏み出せなかったともされる。社会党の社会民主主義化を阻害した要因としては何より西尾派の離脱が大きい。西尾・江田にしても、他派閥に対して政策的歩み寄りができる現実的感覚があった。仮に西尾派が離脱せずに60年代の安保闘争まで党内に留まっていれば、政策的親和性がある江田派との結びつきが可能であったと言える。62年まで江田派は河上派(社会党右派・中間派)と和田派(左派だが現実的政策を志向)と連携を組んでおり、ここに西尾派が提携できる可能性は高いように思われる(37)。しかし西尾派が離脱したことで、構造改革理論は理論的に脆弱性を抱えることになった。また佐々木派に対抗するための勢力を失うことになった。
社会民主主義化の好機は、社会主義協会と総評の表裏一体の関係に亀裂が入った時であった。しかし第2章で考察したようにこの亀裂が顕在化したとき、社会党このとき党勢を失いつつあった。党内の亀裂と組織の疲弊により、選挙を戦える力を持っていなかったのだ。加えて社会党が社会民主主義化しようとしても、社会主義協会の流れは党内抵抗勢力として残存した。これを精鋭化した一部労組がバックアップしたことで大きな抵抗力を持つことになった。この残滓は今日でも護憲平和主義や一部左翼集団として残っている。
最後に今後の課題を述べて本稿を閉じたい。やはり課題としてはミクロレベルでの考察が出来なかったことが挙げられる。例えば世論の動向を得票数(絶対得票数)や議席数で今回は判断したが、当時の報道の様子なども踏まえて分析する必要があったと考えている。特に地方活動家のオーラルヒストリー研究の成果(38)を反映できていない。本稿では構造改革派を支持した活動家の変節ぶりを、社会主義協会の地道な活動によって取り組まれたと説明している。しかし、それ以外の要因はなかったのかについては十分な考察を加えていない。また思想的分析も不十分であった。労農派マルクス主義の系譜に連なる社会主義協会が何故マルクス・レーニン主義へと変わったかも説明していない。これをソ連・中国による政治工作に落とし込むのはあまりに安直であろう(実際にはなされていたらしいが、今回は分析の対象にしなかった)。そして時間の制約で民社党・河上派の分析ができなかった。次回の卒論のテーマはまだ未定であるが、日本社会党の次は民社党や共産党を分析し、野党共闘がどれほど現実性を持っていたか分析したいと考えている。
脚注
( 1)これは小泉政権下の時、民主党が「改革の党」として新自由主義的政策を掲げ有権者の支持を訴えていたことからもわかるだろう。
( 2)以後断りがない場合は社会党=日本社会党を指す。
( 3)大獄秀夫『日本政治の対立軸』中公新書、1995年、4頁。
( 4)新川敏光『幻視の中の社会民主主義』法律文化社、2007年、51頁。
( 5)自民党側もこの点を認識して政策を打ち出していた。1973年には田中内閣は福祉元年を打ち出して福祉拡充を図った。また大平内閣も量から質への転換を図っていた。詳しくは福永文夫『大平正芳―「戦後保守」とは何か』中公新書、2008年を参照せよ.
( 6)岡田一郎『日本社会党?その組織と衰亡』新時代社、2005年、184頁。
( 7)階級政党=労働者政党、大衆政党=国民政党と二つの志向を持つこの名称は森戸・稲村論争によって決着した。右派・左派双方の妥協の産物である。玉虫色の決着になったことで社会党はこの後も幾度となく党内対立に悩まされた。
( 8)新川敏光、前掲書、67頁。
( 9)正式名称は「日本における社会主義への道」(1964年)
(10)これはカウツキー型マルクス主義の理論の1つである。資本主義において恐慌は不可避であるとして、この恐慌で階級闘争が激化し結果的に社会革命がおこるとした理論。
(11)ここでは五十嵐仁の紹介を行っている岡田(前掲書),pFと村上信一郎「日本社会党とイタリア社会党」『日本社会党―戦後革新の思想と行動』、日本経済評論社、2003年、171頁を著者なりにまとめた。
(12)これは谷聖美『日本社会党の盛衰をめぐる若干の考察?選挙戦術と政権・政策戦略』選挙研究vol.17(2002)、84〜99頁に詳しい。
(13)石川真澄、山口二郎編『日本社会党?戦後革新の思想と行動』日本経済評論社、2003年、222〜223頁から筆者が作成。
(14)岡田、前掲書、31頁。
(15)新川、前掲書、77頁に詳しい。
(16)新川敏光、前掲書、73頁。
(17)西尾派は社会党執行部(鈴木委員長)を支持していた。これは1958年の鈴木委員長の「釧路談話」を支持した事からも明らかである。党内対立が激化したのは1959年の総選挙を受けての党再建論争がきっかけであった。
(18)原彬久『戦後史のなかの日本社会党―その理想主義とは何であったのか』中公新書、2000年、140〜141頁。
(19)中北浩爾『日本社会党の分裂』「日本社会党―戦後革新の思想と行動」、日本経済評論社、2003年、64頁。
(20)このとき社会党は石橋委員長であった。彼自身は政治家としては卓越した手腕を持っているとの評価があるが(石田真澄、前掲書、204〜206頁)、社会党の古くさいイデオロギー体質を継承した政治家としてのイメージを払拭することができなかった。この事が「ニュー社会党」を打ち出したのにも関わらず支持を得られなかった要因と推測できる。
(21)革命とは一時的な断絶を示す。戦前・戦後における断絶を「八月革命説」という言葉で説明するのと同義の使い方である。なお平和革命は、恐慌や社会不安によって階級闘争が激化し、合法的に社会主義政権ができるという理論である。
(22)岡田、前掲書、79頁。
(23)中北浩爾、前掲書、55〜56頁。
(24)三池闘争・安保闘争などの院外闘争が盛り上がったのに関わらず、社会主義革命には繋がらなかったことに対して労農派マルクス主義を乗り越えようとして新たな理論を模索していた。
(25)梅澤昇平『戦後“革新”政党とイデオロギー―西尾末廣と江田三郎の“社会主義”』、「法政論叢 45(2)」、14〜26頁、2009年、日本法政学会
(26)構造改革理論は社会改良を通じて社会主義を実現する理論である。社会改良を志向する点では社会民主主義と同じである。ただし最終的なゴールが社会主義の実現か、社会改良的な政策実現を最終的目標とするかで異なる。なお安東仁兵衛はこの見方をしている。
(27)1949年衆院総選挙で、社会党は片山内閣の倒閣・昭電疑獄でイメージダウンし、社会党が143議席から48議席に落とした。このことは当時の社会党が知名度と言ったイメージで選挙を戦っていたことを示している。
(28)岡田、前掲書、5頁を参照。
(29)これは1958年、1959年の選挙結果を受けて党内から指摘されていた。社会党が一番支持を伸ばした時期であるが、社会党議員もこの現状を十分認識していた。財政基盤と世地方組織の拡充を図ろうとしたのが、江田三郎の党機構改革であった。
(30)石川真澄『日本社会党:最後の光芒と衰滅』「新潟国際情報大学情報文化学部紀要 2」39〜49頁, 1999年の図1、2を参考にしている。
(31)新川、前掲書、110頁を参照。
(32)岡田、前掲書、161頁の表5を筆者なりに編集した。
(33)岡田、前掲書、147〜151頁に詳しい。この中で美濃部陣営にとって社会党の存在はむしろお荷物となっていた感もあり、社会党と革新首長とのつながりは希薄であったと言える。
(34)新川、前掲書、171頁。
(35)これは革新自治体の背景として社会民主主義的政策(福祉政策、公害対策等)が有権者から支持されたことがある。国民世論の背景を考えれば社会党の社会民主主義化により都市中間層の支持を調達できたと考えられる。
(36)1975年には社会党千葉県本部では協会派と反協会派が対立することになった。末端の組織での対立は、裏を返せば反協会派の地方活動家もいたことを示唆している。社会主義協会は、マルクスレーニン主義派ではない活動家の入党を妨害したりしていた。
(37)70年代、社会党アレルギーがあった民社党も社会党の連立を模索した。江田派の政策も民社党の共通項があったからであり、民社党は江田に合流を呼びかけていたとも言われる。
(38)例えば社会党が編集した党機関誌や、国鉄労組の闘いなどを記した著作が数多く存在している。しかし、今回はそれら文献資料にまで時間を割くことが出来なかった。 
 
社会民主党

 

日本の政党。1996年1月に日本社会党が改称して発足した。社会民主主義を掲げる。略称は社民党(しゃみんとう)、社民(しゃみん)、SDP(エスディーピー)。1字表記の際は、社と表記される。 社会民主党は、綱領的文書の「社会民主党宣言」では「社会民主主義を掲げる政党」としており、「日本における社会民主主義の理念」は「平和・自由・平等・共生」としている。 1996年1月に日本社会党が改称して発足し、継続して自社さ連立政権に参加したが、1998年5月に連立離脱。2009年に民社国連立政権に参加したが、2010年に離脱。歴代党首は、村山富市、土井たか子、福島瑞穂、吉田忠智。機関紙は『社会新報』(週刊)、『社会民主』(月刊)。国際組織の社会主義インターナショナルに加盟しており、前党首の福島が副議長を務めている。
村山富市党首時代 (1996)
1996年1月の日本社会党第64回大会での名称変更決定を受け、3月に第1回大会を開き成立した。初代党首は前委員長の村山富市、幹事長は佐藤観樹。村山内閣総辞職により成立した第1次橋本内閣に参加し、自社さ連立政権の枠組みを引き続き維持した。党名変更と自社さ連立政権に批判的な左派勢力は、1月に離党し新社会党を結党した。
結党時はさらに新党を作るための過渡的政党との位置づけであり、新進党にかわって反自民勢力の中核となりつつあった旧民主党への合流も模索したが、総選挙を控えた同年9月に民主党は社民党・新党さきがけの長老議員で新党結成に消極的であった者の参加を拒否した(これに批判的なマスメディアなどから「排除の論理」と呼ばれる)。拒否されなかった佐藤観樹ら右派系および一部左派の議員多数は別個に民主党へ参加したが、社民党としては単独で総選挙を戦うことになる。
土井たか子党首時代 (1996-2003)
総選挙に向けた立て直しの一環として、1996年9月28日、社会党時代に委員長を務めた土井たか子が党首に復帰する。旧支持基盤の労働組合の大半が旧民主党支持に転じたため、土井党首は辻元清美ら市民運動出身者を積極的に立候補者に起用したが、第41回衆議院議員総選挙(10月20日実施)では15議席しか獲得できなかった。彼女らは「土井チルドレン」と呼ばれる。総選挙後は、閣外協力として引き続き連立政権に参加したが、1998年5月に連立政権から離脱した。
政権離脱後の1999年東京都知事選挙では旧社会党時代から唯一の都知事選における自主投票となった。第42回衆議院議員総選挙(2000年6月25日実施)では4議席増の19議席を確保したが、第19回参議院議員通常選挙(2001年7月19日実施)では得票・議席とも大幅に減らした。その結果、同年の第7回党大会で自社さ連立政権以来の旧幹部が退き、幹事長に福島瑞穂、政審会長に辻元清美など市民派が重要ポストに就いた。これ以後、自由民主党に対する対決姿勢が強まった。
2001年10月、日本近海で続く北朝鮮不審船対策として、停船命令に従わない不審船への船体射撃を認める海上保安庁法改正案に対し、「警察比例の原則を逸脱し、警備体制の充実を踏み越えた内容である」などの観点から反対。
2002年4月に国連の「テロ資金供与防止条約」を批准するための関連新法が国会で可決、成立した。テロ資金の授受で仮名口座などが受け皿になることが多いため、金融機関に対し口座開設や200万円以上の現金取引を行う際、顧客の身元確認(本人確認)を義務付ける法案であるが、「罪刑法定主義、構成要件の明確性を求める刑事司法の原則に違背し、この法律が施行されれば思想・良心の自由、信教の自由等を侵害する虞があり、戦争その他国家による武力の行使による犠牲者に対する人道的な国際的救援活動を制約する虞もある」という自由人権協会の意見を引用するなどし、反対の意見を表明した。
2002年9月17日の日朝首脳会談以降、日本人拉致事件を北朝鮮が公式に認めた。冷戦下、前身の社会党が朝鮮労働党と友党関係を結んで積極的に交流していたため、拉致問題への対応を巡って、党内外で大問題に発展する。
第43回衆議院議員総選挙(2003年11月9日実施)では、自民・民主の二大政党への流れを喰らい、議席数が18から6へ、3分の1に減ずる。選挙後、土井は党首を引責辞任する。
福島瑞穂党首時代 (2003-2013)
自民・民主二大政党間での埋没
2003年11月15日、福島瑞穂が党首に就任。護憲、憲法9条遵守の立場を維持するとともに、幹事長には自治労出身の又市征治が就任し、労組、エコロジー派、消費者運動、市民派 (NPO) 等の吸収を目指して、新しいグローバリゼーションの状況に対抗可能な社会民主主義の模索を開始している。
2004年の第20回参議院議員通常選挙(2004年7月25日実施)では、前党首の土井が「選挙違反をやっていいとは言わないが、すれすれのところまで、本気になって頑張ろう」と声明を発した厳しい選挙戦の結果、福島をはじめ比例区で2議席を確保し、複数議席獲得により解党などの事態は回避できた。
2005年8月8日、衆議院が解散されると、翌9日、副党首の横光克彦が、17日には元政策審議会長の濱田健一が離党表明、いずれも民主党に鞍替えした。一方、社民党は執行猶予中であったが、辻元清美を復党させ大阪10区で公認、比例近畿ブロックにおいて名簿順位1位で重複立候補させた。辻元は比例近畿ブロックで復活当選したが、同ブロックで単独立候補していた元党首の土井たか子は落選した(社民党の比例代表近畿ブロック当選者は1人で、土井は5位。ただし、2位から4位の候補者が供託金没収で復活当選ができないため、辻元が小選挙区で当選していれば土井も当選していた)。議席数は公示前の5議席から7議席に回復。
2006年2月11日、12日の第10回党大会で「社会民主党宣言」を採択した。この中で自衛隊は「現状、明らかに違憲状態にある自衛隊は縮小を図り、国境警備・災害救助・国際協力などの任務別組織に改編・解消して非武装の日本を目指します」と記載され、旧社会党時代の1994年に村山首相が打ち出した自衛隊合憲・容認路線は修正された。ただし、福島は大臣就任後の2010年3月1日の衆議院予算委員会において、自衛隊の憲法上の位置づけについて「(党として合憲か違憲か)結論を出していない」としており、同月12日の参議院予算委員会では、自民党の佐藤正久の「(自衛隊を)合憲と認めるか」との質問に対して、「閣僚としての発言は差し控えさせていただく」として回答を拒んだが、最終的に「社民党の方針は変わらない。内閣の一員としては内閣の方針に従う。自衛隊は違憲ではない」と答弁した。同時に、1993年に政治改革関連4法案に反対し処分された17名のうち離党した者を除く9名の処分を取り消したほか、元党首の村山富市、土井両人の「名誉党首」就任も決定された。一方、新社会党及び「9条ネット」については、又市は「『戻ってらっしゃい』と言っている。『村山政権のときに安保・自衛隊を認めた』と、馬鹿みたいな話をまだしている。」と批判した(新社会党幹部で07年参院選において確認団体9条ネット比例候補として出馬した原和美は2010年形式的に党を離党し社民党比例候補として参院選に出馬した)。
2007年4月20日、国の海洋政策を一元化するための海洋基本法と、ガス田掘削施設などの周辺への船舶進入を規制する海洋構築物安全水域設定法が、自民党・民主党・共産党・国民新党まで圧倒的多数の賛成で成立する中で、社民党だけが反対投票を行った。福島は「この法律は領土問題や資源問題について近隣諸国との関係に影響を与えるものである。拙速に行うと、交渉に悪い影響を与えることになる。」とコメントした。
ねじれ国会から政権交代まで
2007年に入ると、自民党の支持率が低減し、政権交代が現実味を帯びるようになる。
第21回参議院議員通常選挙(2007年7月29日実施)では、「憲法9条と年金があぶない! 今回は社民党へ」をキャッチコピーに、憲法と年金問題を中心に主張し、近年各政党が力を入れる政党CMではアニメを採用するユニークなCMを福島などが強調した。結果は幹事長の又市を含め比例区で2議席確保の参議院計5議席にとどまったが、民主党系会派と社民党の議席の合計が過半数に達し、野党は参議院における安定多数を確保した。
同年12月22日、本部にて第11回党大会を開催し、立候補者1名のみの無投票で福島の党首当選(3期目)を正式に決定した。福島は「次回の衆議院選挙で2桁(10人以上)の当選を目指す」と宣言した。この党大会では1998年(自民党当時総裁の橋本龍太郎)以来久々に、他党幹部として民主党代表代行の菅直人や国民新党副代表の自見庄三郎らが来賓出席した。また、党役員人事では副党首に幹事長の又市征治、幹事長に国会対策委員長の重野安正、副幹事長に東京都連副会長だった保坂展人が就くことになった。また、参院選比例区候補だった上原公子は、社民党を労組依存体質から脱却し、市民運動やNPOの連合体を目指す党改革案を提出し話題となった。
2009年東京都議会議員選挙では8年ぶりの議席回復を目指して2人の候補を擁立、福島党首が応援演説で「時代はだんだん社民党、時代はどんどん社民党」「自民党と民主党は、カレーライスかライスカレー(の違い)。社民党はオムライス!」と支持を訴えたが、議席回復はできなかった。ただし、昭島選挙区で社民党や民主党などの共産党を除く野党が推薦した元生活者ネットワークの星裕子が当選した(当選後は生活者ネットの会派に所属)。また、自民党が敗北を喫し、民主党が第一党になるなど、直前に迫った総選挙に向けて弾みとなった。
また、社民党から唯一、参院選全国比例で組織内候補を立てていた日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)が、渕上貞雄の引退に伴い、次から民主党から組織内候補を立てることを決定した。
民社国連立政権時代
2009年の第45回衆議院議員総選挙においては、党として上述の「次回の衆議院選挙で2桁(10人以上)の当選を目指す」に及ばず敗北した。しかし、圧勝した民主党に対して、国民新党と共に政策合意に基づく、歴史的な民社国連立政権に参加することになった。この3党合意により、鳩山内閣において、党首の福島の閣僚入り(消費者・少子化担当相)が決定し、基本政策閣僚委員会が設定された。自社さ連立政権以来、13年ぶりに閣僚を送り込み、11年ぶりに与党に復帰した。また、国土交通副大臣に辻元清美が就任した。
2009年12月の社民党党首選挙で福島瑞穂は、アメリカ軍普天間基地の問題について、国外や県外への移設を強く主張し、党内の照屋寛徳ら国外・県外移設を強く主張する議員に応えたこともあり、無投票で福島が再選した。
普天間基地移設問題は、従来からの社民党の主張である基地の国外・県外への移設を連立政権の中でも主張し、閣僚である党首の福島は「鳩山内閣が万が一、辺野古沿岸部に海上基地をつくるという決定をした場合には、社民党にとっても、私にとっても、重大な決意をしなければならない」と述べ、基地問題の解決のために、連立政権からの離脱も辞さない覚悟で基地を国外・県外へ移設させる強い覚悟を示した。2009年12月15日、与党3党で基本政策閣僚委員会を開き、民主党が具体的期日を設けることを求めたのに対して社民党は「重要なことは期限ではなく、沖縄県民の負担軽減と、沖縄県民、日本国民の多くが納得するような結論を3党で力を振り絞って出すこと。そうでなければ結局、この問題は解決しない」と述べ拒否したため、米軍普天間基地の移設先に関する方針決定を先送りし、連立3党実務者でつくる協議機関で再検討することを決めた。
12月24日、社民党は基地のグアム移転を目指して党内に米軍普天間飛行場の移設問題に関するプロジェクトチームを発足させた。プロジェクトチームは2010年1月中に米グアム島を視察し、米側の普天間移設問題に対する認識を確認するため、ワシントン訪問も検討した。同年1月10日、福島は、来日中の米議会下院外交委員会「アジア・太平洋・地球環境小委員会」の委員長エニ・ファレオマバエガ、マイク・ホンダ、ジョゼフ・カオら下院議員と米軍海兵隊を主力とする普天間飛行場移設問題について意見交換した。ファレオマバエガは、会談後の記者会見で「誰もが納得できるような解決につなげるための情報収集を目的に来日した。同移設問題の方針決定は日本の国内問題だが、今後も行方を見守り、解決につなげていきたい」と述べた。
福島は、「環境やジュゴンの問題も大事だが、一番大切なのは沖縄県民の気持ちだ」、「沖縄県民の大多数は県外、国外移設を望んでいると説明した。県民の思いが重要だというファレオマバエガの言葉は沖縄の基地負担を理解しているようで印象的だった」と述べ、米下院での今後の動きに期待を寄せた。1月の名護市長選で当選した稲嶺進は、当選後、就任あいさつで「選挙中、辺野古の海にも陸上にも新しい基地は造らせないということを訴えた」と同市辺野古への米軍普天間飛行場の移設反対をあらためて主張した。2月24日の沖縄県議会本会議では、「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書」案を全会一致で可決した。これらの世論の動向を受けるかたちで、福島からは、沖縄県内の民意を最大限尊重し、場合によっては、5月末決着を先延ばししてでも、慎重な政権運営を図っていきたいという意向が示された。また、政審会長の阿部知子は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設案として、米領グアムなどに全面移転する「国外移設案」や、国外移設までの期限付きで九州北部の既存自衛隊基地などに分散移転する「暫定県外移設案」など3案を、3月上旬にも開かれる政府・与党の沖縄基地問題検討委員会に提出し、最終調整に臨む方針(「私案」)も示した。
しかし普天間問題で、鳩山は結局自公連立政権時代の案に近い内容で政府案をまとめ、福島にも同意の署名を求めた。福島はこれを拒否し、内閣府消費者・少子化担当特命大臣を罷免された。直後に福島党首が開いた会見で「社民党は沖縄を裏切ることはできない」「数々の犠牲を払ってきた沖縄にこれ以上の負担を押し付けることに加担するわけにはいかない」と述べ署名に応じなかった経緯を説明した。また「言葉に責任を持つ政治をやって行きたい」と述べ上記の「重大な決意」を実行した社民党と、「国外、最低でも県外」の公約を守らなかった民主党を比較し民主党を批判した。これを受け党内では、「党首たる福島が罷免された以上連立を維持する意味がない」として、連立解消を求める意見が大勢となり、2010年5月30日に開いた全国幹事長会議で、最終的に連立を解消することを決定した。
琉球新報と毎日新聞が合同で緊急の沖縄県民世論調査を行った結果、社民党の政党支持率が大幅に上昇し10.2%でトップとなった。県内で社民党の政党支持率が他党をおさえてトップになるのは初めてである。その調査では普天間基地の辺野古移設に反対が84%、賛成が6%となった。
民社国連立離脱後
第22回参議院議員通常選挙では、改選議席数3を2に後退させた。沖縄県では比例での得票数こそトップになったものの、沖縄県選挙区では自民党公認の島尻安伊子が再選され、社民党が推薦した候補は次点に終わった。
2010年7月26日、辻元清美が社民党離党の意向を表明。同日夜に重野安正幹事長が、翌27日に福島瑞穂党首が離党を思い留まるよう慰留したが辻元は受け入れず、離党届を提出。次期衆院選には無所属での出馬を表明した。社民党執行部は離党届を受理せず、慰留を続けていたが、8月19日にようやく辻元の離党を了承した。
沖縄の基地問題だけでなく自民党などが提出した柳田稔法相の問責決議案に賛成するなど菅内閣への対立姿勢を示しつつも、国会運営に必要な3分の2の議席を必要とする菅内閣からは政権への協力を呼びかけられていた。社民党は与党には戻らないとしながらも、社民党の要求が通るならば政権に協力するという立場を表明した。菅政権も武器輸出三原則の見直しを先送りさせるなどして社民党に配慮した。
2011年9月28日、自民・公明など野党7党の国対委員長は、国会内で会談し、社民党を除く6党は、民主党の小沢一郎元代表の資金管理団体による土地取引事件について、小沢本人と、同氏の元秘書で有罪判決を受けた石川知裕衆院議員の証人喚問を求めることで一致し、29日の与野党国対委員長会談で民主党に申し入れた。この件で、社民党は衆院政治倫理審査会を主張した。翌29日午前の与野党国会対策委員長会談で、民主・国民新両党は、開会中の臨時国会を再延長せず、30日で閉会する方針を野党側に伝えた。石川知裕衆院議員ら元秘書3人が政治資金規正法違反の罪で有罪判決を受けた小沢一郎元代表の証人喚問についても「応じられない」と回答した。
党首・福島は米国の外交専門誌フォーリン・ポリシーが選ぶ2011年の「世界の100人」に名を連ねた。脱原発の活動を長く続けたとして、福島の事実婚のパートナーで原発訴訟に携わる弁護士海渡雄一と共同で選ばれた。同誌は2009年から、その年に政治、経済、平和活動など幅広い分野で影響力をふるった人物を挙げている。日本の政治家では福島が初めてで、オバマ米大統領や英仏独の首相・大統領、ミャンマー(ビルマ)の民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーらとともに選ばれた。
2012年2月、社民党の党首選が行われ、福島のみが立候補を届け出て、無投票で5選された。立候補には所属する都道府県連合の推薦に加え、党国会議員(10人)の3分の1以上(4人)か、党員200人以上の推薦が必要で、福島は重野安正・中島隆利・吉泉秀男・吉田忠智ら4人の国会議員から推薦を取り付けた。福島と対立する阿部知子・照屋寛徳・服部良一らは立候補要件を満たせず、対立候補を立てられなかった。また党員推薦で立候補を目指した稲森稔尚・三重県伊賀市議も、同県連合の推薦確保に難航し断念。福島は記者団に「社民党を元気にしたい。衆参の選挙で勝つことが一番大事な仕事だ。生活再建と脱原発を頑張りたい」と語った。
なお、民社国連立政権時代には与党の原子力政策(鳩山イニシアチブに基づく原発依存率の強化と原発増設)を容認し、2012年7月に実施された鹿児島県知事選挙では原発再稼動に反対する反原発団体事務局長で新人の向原祥隆を支援せず、現職の伊藤祐一郎を社民党系の県議全員が支援した(社民党鹿児島県連は自主投票とした)。
2012年11月15日、社民党による政策実現に疑問を持った阿部知子が離党届を提出し日本未来の党に合流した。さらに、第46回衆議院議員総選挙の陣頭指揮をとるはずだった幹事長の重野安正が脳梗塞で入院したため、11月18日に出馬断念に追い込まれた(重野の選挙区には吉川元が出馬)。
同選挙では第三極の台頭もあって、旧来政党でしかも小規模な社民党は新党乱立の中で埋没し、これまで以上の苦戦を強いられた。毎回安定した戦いを見せる照屋寛徳の沖縄2区を除く全議席が当落線上にあったものの、辛くも比例九州ブロックで1議席を確保。しかし総獲得議席数は小選挙区・比例各1議席ずつの合計2議席と、公示前の半減、阿部離党前と比すと3分の1に減少。比例代表における得票率は2.3%(前回総選挙は4.27%)、得票数は142万票(同300万票)とほぼ半減した(11ブロック中6ブロックで得票率が有効得票数の2%に達せず、新聞広告公費負担から外れた)。同じく第三極台頭の中で埋没した共産党が、議席減を1(9→8議席)にとどめて比較的善戦したのとは対照的な結果となった。
2013年6月23日の第18回東京都議会議員選挙では1人を擁立したものの議席獲得はできなかった。
第183回国会会期末の同年6月25日に安倍晋三内閣総理大臣に対する問責決議案を生活の党及びみどりの風とともに参議院に共同提出し可決させた、その結果、電気事業法改正案や生活保護法改正案などが審議未了のまま廃案となった。
2013年7月21日の第23回参議院議員選挙では、先の衆院選時における新党・第三極ブームは収まったものの、与党が圧勝し、参議院でのねじれ解消という展開となった。その中でも共産党や日本維新の会・みんなの党といった中堅野党勢力はそれぞれの反与党票を確保し比較的堅調な戦いを見せ、公示前より勢力を拡大させた。一方の社民党は民主党や生活の党などと共に、反与党票の受け皿とはなり得ず、逆に公示前より勢力を減らした。同選挙では選挙区に5人、比例区に4人擁立したが、比例で1議席(又市征治)を獲得するに留まった。この選挙でもかろうじて得票率が2%を越え、国会に議席が存在する限り2019年まで政党要件喪失を回避する結果とはなったものの、退潮傾向に歯止めがかからないことに変わりはなく、選挙結果を受けて党首の福島瑞穂は引責辞任を表明、党常任幹事会で了承されたが、選挙戦の敗北による引責を党首辞任理由に挙げながら、兼任していた選挙の実務責任者たる選挙対策委員長は辞任しなかった。なお、山城博治を当選させられなかった責任を取り、国会対策委員長を辞任すると表明していた照屋寛徳も、結局辞任はしなかった。
福島が後継党首指名もせず、後継党首選出方法も定めないまま辞任したため、後継党首選出方法から検討することになり、又市征治幹事長へ代表を異動する届出を8月7日に行い、次期党首が決定するまでの当面の間、党首代行を務める事となった。
後継党首選出方法の策定は混迷を極め、ようやく後継党首を決める党首選を9月27日告示、10月12日、13日に投票、14日に開票を行う日程を決定したのは、福島の辞任から一月以上経った8月29日の常任幹事会においてだった。
党首代行を務める又市が正式就任するのが既定路線と見られた中、当の又市は「衆院小選挙区で勝った人がやるべきだ」等と主張して照屋寛徳国対委員長を推す意向を示したが固辞されると、自らの主張を一転させて政審会長で参議院比例区選出の吉田忠智を擁立することを9月26日に決定した。一方、東京都豊島区議会議員の石川大我も同月25日に立候補を表明し、立候補に必要な党員200名の推薦を得た他、東京都連も推薦を決定した。これにより1996年に党名を変更して以来初、旧社会党時代から数えても17年ぶりの党首選挙が実施されることになった(土井たか子、福島瑞穂の両党首はいずれも無投票で当選)。
党首選のノウハウのない選挙戦で、党本部には、ほぼ連日「投票箱がない」「離島で夜まで投票して翌朝に県連本部まで届けるのは物理的に無理」などといった、様々な問い合わせが党本部に寄せられたが、ノウハウを持ち合わせていない党本部は「そちらで考えてほしい」と対応を地方組織に丸投げする有様で、その結果、北海道では、段ボールに紙を貼った即席の投票箱を設置するしかない投票所が出来たり、沖縄では離島の有権者は郵送で受け付けることとなるなど、混迷を極めた。
10月12日、13日の両日に投票が行われ、翌14日の開票の結果、吉田が9986票を獲得し、新党首に選出された。次点の石川は2239票を獲得したが、及ばなかった。
吉田忠智党首時代 (2013-)
吉田体制下での国政選挙は、第47回衆議院議員総選挙(2014年12月14日実施)であった。同選挙では、野党各党が対自民の選挙協力を行い、特に普天間飛行場問題が再燃して以降反基地闘争が盛んであった沖縄で顕著であった。自民党と一騎討ちとなった沖縄2区で照屋寛徳が当選、沖縄県内での比例得票数が10万票の大台に達し、比例九州ブロックの得票率が5.26%に躍進、1議席を維持した。しかし議席はこの2議席にとどまり、吉田と党首選を争った石川も比例東京ブロックで落選した。両院の総議席数は、公職選挙法の規定ギリギリの5議席を維持した。
この選挙では次世代の党とみんなの党(選挙直前に解党)が議席を大幅に減じ、この分共産党が躍進し、他に民主党が若干の議席増加の結果を得た他は、自民党も含めて殆どの政党が現有議席の微増減という結果となった。民主党も代表の海江田万里が落選するなど勝利とは程遠いムードであったため、選挙後は共産党が反自民運動の中核となり、社民党はかつてのライバルにますます差をつけられることとなった。
2015年の第18回統一地方選挙では、改選前議席よりわずかに議席を減らす結果となった。これを受けて党は今回の選挙戦は「大変厳しい闘い」であったと結論付けた。ただ、党は全員当選や議席増・県都での空白区解消を勝ち取った県、若手議員の増加などプラス要件もあったとも総括している。また、世田谷区長選で現職の保坂展人が保守候補に大差をつけて再選したことや、八王子市議会選挙で新人の佐藤あずさがトップ当選、石川が総選挙出馬の為に辞職した豊島区議会議員で返り咲くなど、明るいニュースもあった。
2015年夏の平和安全法制審議以降、反自民勢力として、民主党・維新の党・共産党・社民党・生活の党と山本太郎となかまたちが共産党のイニシアチブのもとで連携を深める。5党(民主・維新両党の合併に伴う民進党の結党後は4党)は翌年の選挙協力を行うことなどを確認したが、この動きは民共合作などと呼ばれるなど、4党のうち民進・共産がメインに扱われ、社民・生活は脇役とみなされた。2016年4月24日、参院選の前哨戦としての衆議院北海道5区補選で4党は民主系の池田真紀を野党統一候補として擁立し支援、自民党公認で公明党らが支援の与党統一候補・和田義明に挑んだが、一騎討ちの末、約1万2千票差(惜敗率90.92%)で惜敗する。
参院選直前の5月12日、吉田が民進党への合流を常任委員会で提案したが、福島ら党内から猛反発を受け、18日に撤回・謝罪に追い込まれた。また、参議院比例区における統一名簿構想(「オリーブの木」構想)を生活の党とともに検討したが、民進党が「時間的・物理的に困難」という理由で断り、結局社民党は今回も単独で選挙戦を戦うこととなった。
第24回参議院議員通常選挙(2016年7月10日実施)では、選挙区(東京・神奈川・愛知・福岡)は全敗、比例区では改選数2のところ1議席しか確保できず、党の名簿内の順位が1位になった福島のみ当選、吉田は2位に終わり、党首が落選という結党以来の事態となった。両院の総議席数も4となったが、比例区の得票率が2%を超えたため政党要件はクリアし、2022年までの延命を果たした。26日、生活の党とともに参議院で統一会派「希望の会(生活・社民)」(生活3人、社民2人)を結成した(会派代表には、福島が就任)。なおこの統一会派結成に伴い、社会民主党への改称以来20年余にわたり使用されてきた会派名「社会民主党・護憲連合」が消滅した)。吉田は今回の選挙の敗戦の責任を取って、党首の辞意を表明していたが、9月1日に行われた党常任幹事会の慰留を受け入れて続投することとなった(非議員の党首は、社会党時代の飛鳥田一雄委員長(当時:横浜市長)以来)。
東京都知事選(2016年7月31日実施)でも野党4党共同で鳥越俊太郎を統一候補として推薦したが、自民党を飛び出して立候補した小池百合子に完敗し、与党推薦の増田寛也にも及ばず、3位に終わり落選。
10月開催予定の衆議院後期補選では、社民党は9月1日に行われた党常任幹事会の中で、民進党に対して、今までと同様に野党統一での候補者一本化に取り組むよう求める方針を示した。そして10月5日に行われた野党4党(民進・共産・社民・生活)の書記局長・幹事長会談の場で野党4党での枠組みにおける共闘での選挙協力で合意。福岡6区は民進党・新井で一本化する事で合意に達し、共産党・小林は翌6日に立候補取り下げを表明、また東京10区は民進党・鈴木で一本化する事で合意に達し、共産党・岸は立候補取り下げを表明した。 
 

 

 
 

 

 
社青同の歴史(1960〜1988)

 

第一節 結成と安保・三池闘争
( 1) 日本社会主義青年同盟は、一九六〇年一〇月一五日の第一回全国大会で結成された。結成の中心となったメンバーの多くは、社会党員(青年部)としての活動歴をもっていた。それをとおして社青同は、理論的にも実践的にも、日本社会党とくに左派(左派社会党)の諸経験を受けついでいる。このなかに一九二三年第一次日本共産党結成当時からの山川均を頂点とする労農派マルクス主義(今の社会主義協会)の思想的伝統も含まれた。社青同結成の準備活動は、一九五九年から社会党青年部を中心に行なわれた。準備期間はちょうど六〇年安保闘争と「三池闘争」との巨大な高揚の時期である。このたたかいのなかで立ちあがった青年活動家が、二つのたたかいの経験をたずさえて、誕生した新しい青年同盟に多数合流したのは当然だった。こうして社青同の初期の性格が決まった。この意味では社青同は「安保と三池から生れた」といわれる。
( 2) 「六〇年安保闘争」は、一九五二年に結ばれた日米安全保障条約を現在の形に改訂して結びなおそうとする、岸信介自民党内閣・日本独占の策動にたいするたたかいだった。この策動は戦後の日本独占資本が行なった、最初の主体的な対外政策だったといってよい。日米の軍事同盟関係と将来のアジア進出へ向けての協力関係とを確立しておくのがその意図であった。このような対外政策を主体的に展開しはじめた事実は、日本独占資本が戦後一五年の間に、アメリカ帝国主義の援助のもとで完全に復活したことを意味している。敗戦による独占資本の後退によって、戦後の日本では、アメリカヘの従属による抑圧をうけながらも、反戦平和と、民主主義的政治への意識が比較的自由に発展することができた。戦前の軍国主義とフアッショ体制が敗退した事実が平和・民主主義の意味を大衆的なものとして確立した。六〇年安保条約はこの「戦後の社会」が変化することを意味したわけだから、それまで発展してきた反戦平和・民主主義・民族独立の大衆的にゆきわたった意識と激突し、大闘争が爆発した。しかし六〇年安保条約の根源が、六〇年代から内外に全面的な帝国主義策動を開始しようとする日本独占にあること、独占資本のもとでは真の民主主義や恒久的な平和はあり得ないのだと訴える階級闘争の立場はまだまだ弱かった。
( 3) 「三池闘争」は三井三池炭鉱にかけられた典型的な合理化を背景にし一二〇〇名の中心活動家指名解雇により三池労組を破壊しようとする攻撃に直接的には端を発した。だが、それはたんに一組合の一個別闘争ではなかった。復活した日本独占は、より安く商品を作り、敗戦で立ち遅れた生産技術水準をとりもどし、また独占禁止法等によって解体分散していた資本を再編集中し、欧米の独占資本主義国に追いつこうとしていた。これらはいずれも労働者への合理化、強労働と人べらしをもたらした。またそのための労働組合の破壊、労資協調の思想攻撃を含んでいた。三池への攻撃は、このような六〇年代の体制的合理化攻撃の第一波であり、資本の突破口だった。当時炭鉱労働者は質量共に総評の主柱であり、三池労組がその中心組合だったからである。安保闘争と同じく、三池闘争も根底から変化する目本の社会と国家を象徴する大闘争となった。三池労組はこの時すでに一〇年以上、学習と職場闘争を非常に広い組合員の積極的な参加で積み重ねていた。三池労組の基本的な運動方向は、総評の「組織綱領草案」などの形で、広く、労働者の中に影響をひろげようとしていた。
( 4) 三池闘争、また広く反合理化闘争には、六〇年安保闘争よりはるかに強く、階級闘争としての自覚が育っていた。労働者と資本の妥協のできない対立、攻撃の根源は独占資本主義だという事実が自覚されていた。資本や国家は、この階級対立を隠そうと、大規模な思想攻撃を繰り返えす。労働者の生活の仕方や環境自体が資本主義的なものだから、この物質的基盤がすでに、不断に労働者を引きこみ、階級対立を陰弊する。しかし三池労組は、階級対立と階級闘争の立場を、労働組合として大衆的に確信し、提起しはじめていた。六〇年三池闘争でも、その後一〇数年のたたかい(CO闘争など)でも、三池労組の先輩たちはますます確信を深め、その故に不屈にたたかっている。六〇年の十ヶ月の激闘の後、三池闘争は「敗北」したが、この提起は重大な意味をもって残った。独占資本は三池労組が全総評に対してもちつつあった指導性・影響力を完全に消しさることはできなかった。
( 5) 六〇年安保闘争と三池闘争のなかから社青同に加盟した青年のなかで、質量共に中心をなしたのは総評系労働組合の活動家だった。社青同は労働組合青年部と切っても切れない関係をもつことになる。民青、新左翼などの様々な青年同盟、またさらに世界民青連に加わっているヨーロッパの青年同盟とくらべても、社青同の大きな特徴である。労働組合青年全体を組織するために、青年部全体の決定を得て、青年部自身の取り組みにより活動する。社青同同盟員や一部のシンパだけでする活動は、学習(思想闘争)をのぞけば、原則としてない。この性格は今日も定着した正しいことである。しかし社青同に加盟してきた仲間のなかには三池闘争とその提起した内容にはかかわりがなく、安保闘争だけをつうじて立ち上がってきた者もいた。平和・民主主義・民族独立の一般的なムード、つまり反日本独占への方向を本当にはつかめないままの意識も含まれる。そのなかでとくに第四インタートロツキストの意識的な「加入戦術」にもとづいて加盟した者、および社青同に加盟してから翌年には結成された解放派(今の革労協)の「社民解体戦術」にもとづいて活動しはじめた者がいたことは後に重体な問題となった。
第二節 六〇年代前半
( 6) 一九六〇年代、とくにその前半、日本独占資本、自民党は、平和・民主主義などの意識を刺激する政治面の対決をさけて社会の生産基盤(いわゆる経済面)の攻撃に集中してきた。ここでは、体制的合理化が全産業で全面的にはじまり、反対闘争−とくに三池的な職場(抵抗)闘争をねらいうちで抑圧する支配体制・思想攻撃・組織破壊・労務管理が、急速に激化していった。首相は岸信介から「経済の」池田に代り、「国つくり・人つくり」が基本政策となった。合理化に支えられた造船・電機・合成化学・鉄鋼・自動車などの独占資本は、急テンポで資本を蓄積し合併集中をくりかえして、世界的な大企業にのし上がる。労働者にとって、それは、搾取が徹底的に強まることである。しかし政治面をさけて経済面だけを、弾圧は少なくして思想攻撃や教育を、直接の賃金抑圧だけでなくインフレによる間接的な搾取をといった日本独占のやり方は、かなり巧妙で成功した。
( 7) 労働者側にはこの新情勢をとらえ迎えうつ思想性が弱く、六〇年安保闘争高揚への幻想―平和・民主主義・民族意識を無原則的に評価して反独占の階級意識の弱さに気づかぬ幻想が渦まいていた。社会党内では六〇年闘争の総括として「政権構想の重要さ」だけが議論され、選挙・国会闘争だけに一喜一憂し、いわゆる「江田ビジョン」(構造改革論)がだされた。共産党は党・組織建設を重視はしたが、「愛国・正義」が当時の中心スローガンであったように、実は同じ幻想に在っていた。エネルギーはもうある、それをまとめる政策を、的衛党への組織化を、ということで階級闘争の自覚を高める方法は考えようともしなかった。共産党の組織建設は、この根本がぬけたままでそれでも六〇年代の資本主義が相対的に安定していた条件のなかでしゃにむにすすめられた。民主青年同盟も「歌ってレーニン踊ってマルクス」などといわれたようなレクリェーション活動を重視し、そのかぎりでは飛躍的に組織を拡大した。
( 8) 労働者側に必要だったのは、平和・民主主義の民族独立の意識を重視しながらも、労働者階級としての自覚をもっと重視することである。それは、体制的合理化に正面から対決するたたかい、資本主義合理化絶対反対の闘いを基礎としてはじめて可能である。そこから、ますます多くの仲間が、真剣に学習の必要性にきづき真剣にまなびはじめなければ、独占資本の巧妙なやり方をみぬくことはできない。資本主義的合理化との闘争の重要性、マルクス経済学の学習の必要性を本当に理解している指導者は少なかった。この問題を提起し、生産点の、合理化の真相を鋭く暴露しつづけた三池労組の人々は、しかし六〇年以後一〇年間、激しく論争しなければ一歩もこの思想をひろげられなかった。三池のような考え方にたいして江田ビジョンは「教条主義」、共産党は「経済主義」という「批判」をあびせた。そして独占資本は三池労組の「敗北」を大々的に宣伝した。
( 9) これらの情勢と思想潮流は、結成直後の社青同指導部にも反映した。江田ビジョンの影響を受けて、平和・民主主義・民族独立の意識、自然発生的なムードに、自分たちの指導を無原則に、追従的にあわせる運動がめざされた。社青同も運動をこの次元に低めれば簡単に組織拡大できるはずだと考えられていた。こうして原水禁運動(「核武装阻止」)が重視され、それも核実験や原子力潜水艦寄港などアメリカ帝国主義との対決が中心であった。逆に反合理化闘争についてはそもそも「反合理化」のスローガンさえ激しい議論で決定できない状況だった。この頃から、社青同の内部には、いわゆる「路線論争」が大きな比重を占めるようになった。つまり「いかにたたかうか」の「方法」だけを問題にして関心がそこに集中した。しかしそのかぎり、当時の中央執行委員会の指導にたいしてしだいに批判がたかまり、社青同内部で左派が結集しはじめた。それは三池労組の提起にまなぼうとするものであり、総評系労働組合青年活動家である大部分の社青同同盟員に共通の方向となっていった。
(10) 左派の考えは、反合理化闘争を重視し反独占の鋭い階級意識の形成を重視し、それを基礎として政治闘争を方向性においても闘争形態においても台頭する日本独占資本主義に対決しうるものに高めようとする方向である。左派は原水禁運動でいえば日本独占の核武装阻止を強調し、政治闘争全体の中心を当時池田内閣がすすめていた憲法改正公聴会の阻止におくことを主張した。公聴会阻止闘争は一九六二年、各地で左派によって担われ盛上がった。そして一九六四年二月、社青同は第四回全国大会をひらき、執行部原案を修正して「改憲阻止・反合理化」というスローガンを今後のたたかいの中心に決定した。これが社青同のなかで『基調』(または基調の確立)と呼ばれているものである。
第三節 第四回大会と『基調』
(11) 『基調』の確立によって全同盟の意志統一−思想によって団結する青年政治同盟への成長がはじまった。それまでの社青同は総評系労働組合のたたかいで立ち上った青年活動家の、漠然たる集合体にすぎなかった。『基調』はだいたいにおいて正しくこれらのたたかいの内容を整理して理論化し、目的・方法が厳密に一致した団結をめざして努力がはじまった。同時にこの整理は、六〇年以前の教訓・提起を受けつぎつつも、むしろ六〇年以後の日本独占資本主義とその支配体制に対抗する方法を探る立場に立っていた。いいかえれば、六〇年の高揚に無原則的に溺れた幻想をうち破ろうとするものであった。
(12) 『基調』は日本独占資本との対決に、なかでもその支配体制強化の策動に、たたかいの主軸がおかれなければならぬことを明らかにした。独占資本は平和と民主主義を口にし、政治的対決をさけるかに動いている。しかしそれは長くはつづかない。彼らの真のねらいは逆のところにある。ブルジョア民主主義の法律・制度をまきかえしてブルジョア独裁体制を強化すること、これは敗戦によって国内支配体制を大きく後退させていた日本独占の致命的弱点を克服することであり、したがって六〇年代をつうじて現在でも彼ら最大の政治課題である。「現在の日本独占の攻撃は・・・帝国主義的支配体制を確立しようとしている。・・・彼らの攻撃が全面的な合理化、およびその政治的集約としての改憲を基調としてすすめられているのである」(『基調』原文)。したがって、『基調』は六〇年安保、後の日韓条約などの現実に始まってゆく帝国主義対外策動へのたたかいをもその他すべてのたたかいも、支配体制との対決に主軸をおいて展開し結集しようとする考え方であった。またもう一つ、日本での反独占(青年)統一戦線をも右の考え方で提起するものだった。改憲阻止戦線という言葉が原文に含まれ、「改憲阻止青学共闘」「行動委員会」の二つの組織形態も具体的に提起された。
(13) 『基調』は社会の生産基盤(いわゆる経済面)での攻撃の重大な、破壊的な意味を明らかにし、これに対決する反合理化闘争、思想闘争の重要性を明らかにした。またこの二つの闘争こそが勝利に導く力を生みだすこと、いいかえれば、革命を担う階級的政治的意識をつくる基礎づくりである点を明らかにした。「職場の改憲攻撃ともいうべき合理化攻撃に真に抵抗し、改憲阻止が闘えるような思想に武装された労働者の組織力を強めることが肝じんである。」(『基調』原文)。また基調は、帝国主義的支配体制と合理化攻撃に抗してどうたたかうか、その「方法」をさらに追求してゆく出発点と考えられた。これを社青同では『基調の豊富化』と呼んだ。第五回大会での「長期抵抗路線」、第六回大会での「大衆闘争路線」、そして第七回大会での機関紙活動強化決定などが、このように位置づけられた。
(14) 以上のような『基調』とその豊富化とは、大多数の同盟員の共感のうえに立っていた。しかし部分的だったが激しい批判も生まれ、社青同内部の討論は先鋭化した。一つの思想がそれまでの討論をまとめた形で提出されれば、それを支持するかどうかによって討論は整理され、新しい高まった次元の討論がはじまる。これは間違いではないどころか思想がより正確になり意志統一がより厳密になってゆくための、正しい発展の筋道である。しかしたがいにまなびあう姿勢、発展へ向う方向ではない、自己目的的な論争がはじまれば、それは分派闘争である。この場合、『基調』批判に、加入戦術をとる極「左」派が便乗してきた。加入戦術とは、(社青同の)思想・運動・組織・構成員の全体を認めず、全体はだめだが部分的によい者がいるという考え方で加盟することである。したがって全体強化や全体の意志統一を追求せず、正反対に、全体から「正しい部分」をいかに分離させ別の方向に向わせるかを追求する。社青同の自由な討論はよくこのような加入戦術に利用された。
(15) 群馬・栃木・東京・愛知・大阪・京都・徳島など少なからぬ重要な県で、極「左」の加入戦術がおこなわれ、激しい分派闘争がしかけられた。東京では彼らが地本執行委員会を握り、地本内部でも全国の同盟にたいしても、『基調』がいかにまちがっているかの「討論」や「教宣」をつづけた。第四インターはとくに三多摩地区を中心にかなりの勢力をもったが自己崩壊し、東京では一九六八年頃までには社会党系の運動からひきあげた。解放派は「社会党・社青同などの社民勢力を解体しておかなければ、新しい前衛党建設をはじめても革命的労働者は結集できない」という、奇妙に自信のない発想に立つ。つまり本当の目的である新たな前衛党を公然とうちだすのではなく、社会党・社青同内部で分派闘争を恒常的に自己目的的に展開し、最後に分裂してゆくという。この立場から第四回全国大会以後、『基調』を支援する者=社会主義協会こそ「日本革命の最大の敵」と公言し、『基調』による全同盟の意志統一を、手段をえらばず妨害しようとした。その頂点は一九六六年九月三日の東京地本第七回大会(流会)であった。第四インター・解放派は、この大会の代議員選出基準を規約による慣例から変更し是が非でも執行部独占を意図し、さらに開会直後手に手にゲバ棒をもった数時間にわたる暴行・テロを加えた。百数十人の負傷者のなかには二年間半身不随で療養する同志もあった。これがいわゆる「九・三事件」である。緊急中央委員会の決定で東京地本はいったん解散され、同年一二月に再建されたのが今の地本組織である。解放派・第四インターは、再登録にともなう自己批判を拒否し東京では社青同を脱退した。
第四節六〇年代後半
(16) 六〇年代後半、「全国総合開発計画」「経済社会発展計画」などの国家計画が打ち出され、国家権力を駆使して独占資本の抑圧と搾取が強化された。インフレと財政投資にたすけられ、法律や「行政指導」に導かれて、独占資本はますます資本を蓄積した。銀行・造船・鉄鋼などでは「世界のトップ・メーカー」もいくつか生まれた。資本の側では、これを「高度成長」とよび、われわれは「体制的合理化」とよんでいる。資本はGNP(国民総生産)が世界第二位になったと誇るが、われわれはこの過程で、社会のほんの一部にますます富が集中され、大多数をしめる勤労大衆には、疲労と貧困が蓄積されたことを知っている。日「韓」条約(一九六五年)、佐藤とジョンソン、あるいはニクソンとの間に取り加わされた「日米共同声明」(六八・九年)、そして沖繩「返還」などの対外政策をつうじて、日本独占のアジアヘの帝国主義的進出も本格化し、それを防衛する政治的軍事的体制も強められた。国会での反民主主義的な策動も日常茶飯のものになった。平和と民主主義を口先ではとなえながら、独占資本は、実は平然とそれを踏みにじった。
(17) しかし資本と労働者階級の敵対的対立関係は、独占資本と大多数の大衆の利害が相反するものだという事実は、外見上は、みえにくいものになった。人々は「戦後は終った」といい、新しいものがはじまったのではないかとの幻想さえ持たされた。「所得倍増」、「経済大国」、「福祉国家」−−。戦後、日本社会党に集中していた勤労大衆の支持は分解しはじめ、民社党が微増ながら議席をのばしたり、また宗教的な装いをもった中間政党である公明党(創価学会)が台頭したりした。また共産党も、このような勤労大衆の意識に巧みに政策や外見を合致させることを努力して、飛躍的に得票をのばした。労働運動でも、同盟系が増え、とくに民間製造業では右翼的な改良主義がはびこった。職場抵抗や学習は軽視または放棄され組職づくりは形骸化されたものになった。総評は民間単産だけでなく、公労協でも宝樹文彦氏(全逓)などの右翼的な思想が幅をきかせだし、公務員で共産党の影響力が伸びはじめたといっても、それも右翼的な「政党支持自由化」や「よい合理化もある」「中立・自衛」などのスローガンをいいはじめたことによった勢力拡張にすぎなかった。
(18) このような状態にたちむかおうとする人々も、社会党を中心にもちろんいたが、その多くも、独占資本と勤労大衆との階級的対立という法則にそってではなく、その一部分であることは事実だか、日本独占の海外進出に集中し、これとたたかうことに主力を置いて考えていたといえる。このような傾向は青年のなかでとくに強かった。アメリカのベトナム侵略戦争が本格化し、日本独占がこれに積極的に加担しかつ経済的にもこれを利用していくとともに、反戦闘争はそれなりに強化された。各労働組合でも、少しづつ、このたたかいの必要性は理解された。そこで日本労働者階級は、一つの前進をかちとっていた。しかし反戦闘争の位置づけには不充分さがあった。外見上は安定期にあり、はなやかな「高度成長」をつづけていた資本主義経済の内実は、ますます階級対立が先鋭化していくことに他ならない。このことを確信をもってみつめ、この法則にそって反戦闘争を位置づけることが弱かった。反戦闘争を自己目的化したり、反合理化闘争はもうたたかえないが反戦闘争ではたたかえると逃げたりする傾向は、多かれ少なかれ運動全体の中に入りこんでいた。
(19) このような状況の中で、公労協青年部を中心に、「反戦青年委員会」が結成され、一九六五年日「韓」条約反対闘争から活動しはじめた。青年はもちろん、社会党のなかでも、この組織や運動にたいする期待はかなり大きかった。「反戦青年委員会」ははじめ、労組青年部の団体共闘を中心に、社会党・社青同が加わり、さらに個人加盟を認め、様々な学生集団のオヴザーヴァー参加をも認める構成だった。そして中央につづいて、各県段階、さらに地区段階にも結成されて大きな役割りを果した。しかしこのように下にひろがってゆく途中で、学生から個人参加メンバーというルートで、極「左」主義諸潮流が積極的に加入戦術をとるようになった。そして一九六八年頃になると、もともと社青同に「加入」していた解放派や第四インターだけでなく、革共同革マル派、中核派などが、社会党・社青同の指導性の弱い地区や単産に入りこみ、「反戦青年委員会」の運動をつうじて勢力を拡大するとともに、「反戦」を引きまわすところも出てきた。彼らは独自の「反戦」運動を提起しはじめ、「第三期反戦青年委員会運動」を自称していた。その頂点は、いわゆる「職場反戦青年委」で労働組合を真向から否定した。「自主・創意・統一」というスローガンを悪用して、やりたい者だけをあつめ、生産管理だの山猫ストを叫ぶようになった。このような状態が部分的にせよ生まれたのは、根本的には、労働運動全体の右翼化のいわば「罰」である。少なからぬ青年労働者は学習も足らずまた指導もなく、階級闘争にむけて本当の前進をかちとることができなかったが、それでも職場の矛盾を感覚的につかみ、たたかおうとしてその場所を探しはじめていたのである。
(20) 社青同のなかで、これらのことが反映し大きな論争がはじまった。一九六七年第七回大会が終わったあと、その秋ごろからこの論争がはじまった。翌年の第八回大会では、事実上三つの流れが生まれ、一九六九年九月の第九回大会では、いわゆる「三つの見解」がてい立してまとまらず、次の一年間、この三つの見解書を中心に、徹底的に討論し、再び団結する道を探そうということになった。この一年間は社青同の歴史のなかで、最も困難な時期だった。一部の人々(太田派と解放派)は、この第九回大会の決定を拒否し、事実上の分裂活動をはじめていた。だから、社青同そのものへの失望も内外に生まれた。しかし同時に、少なからぬ同盟員が、この混乱を、結局は自分たちの弱さが原因だと真向から受けとめ、そこをとおって自分を高めよう、社青同の成果をうけつぎ発展させようと、本当に一人ひとり立ち上った。
第五節 論争と第一〇回大会
(21) 「三つの見解」はそれぞれ、第一見解、第二見解、第三見解と略称された。社青同の今日を築いてきたのは第一見解であり、これを支持した同志たちだが、説明の順序は逆にのべる。論争は、「第三期反戦青年委運動」の評価をめぐっておこったようにみえるが、本当は、もっと根本的なものから生まれている。そして実際、かなり広い範囲をあつかう論争に発展した。それはいわゆる「社会党・総評ブロック」の評価であった。社青同は組織的にも運動上も、また同盟員の育ちかたからいっても、社会党の影響下にあったし、総評労働運動を基礎としていた。すでにのべてきたように、六〇年代後半はこの社会党・総評系の運動全体が、自己のよって立つ原則を見失ないかかっていた時期であった。もちろんきちんと階級対立、階級闘争の立場に立って、独占資本のつくり出す幻想にダマされない指導者も少なくなかったが、社会党の中で「階級闘争」を主張する幹部さえこの本来の方向は不徹底だった。このなかで、極「左」派は、「第三期反戦青年委運動」をテコに青年をかきあつめ、もう社会党も総評もダメだ、別の党や別の運動をつくらなければならないと主張し、積極的な攻撃を開始したわけである。社青同内部にはいなかったが、社会党などの一部幹部からは、社会・公明・民社三党の合同による新しい改良主義政党結成構想や、総評・同盟を「統一」(?)した労働運動の「再編統一論」が出されていた。右派と極「左」派は、社会党と総評を解体させようという点では同じ目標を追っていたことになる。そして、この全体の動き、論争の中で、社責同内部の論争も進んだのだった。社青同を守り発展させてゆくための闘争は、また同時に、社会党と総評を守り、発展させてゆくための闘争だった。
(22) 第三見解は、それまでの社青同の委員長をはじめ中央執行委員会の多数派を中心に出された意見であり、太田薫氏と思想上のつながりを持っていたので太田派ともよばれた。この見解は激しく極「左」派に反発したがさりとて社会党や総評の基本的方向に確信をもっていなかったので、今後どうすべきかを提起することはほとんどできなかった。第四回大会の『基調』を守ること、とくにそこにいわれている改憲阻止青年会議(個人加盟)の組織化を強調したが、すでにのべてきた論争の本質についてはたいへんアイマイで中間的だった。社会党ナンセンスといわれれば、そうだといい、しかも社会党を見捨てて新党をつくるというわけでもないから(一部はこのコースをとって人民の力派をつくった)、党内闘争を積極化すると主張した。総評についても、「新たな潮流」を形成すべきだ、ただし総評から飛び出すとはかぎらないという主張だった。もっとも重要な反合理化闘争については「いかなることがあってもたたかう」と強調したが、たいへんモノトリ主義的な意味であった。それと裏表の関係をなす誤りとして、学習はたいへん弱く、「もうわれわれは分かっているのであって学習が足らないのは社会党員だ」という姿勢だった。
(23) 第二見解は極「左」派そのものである。もともと極「左」諸潮流からの加入分子である解放派、第四インターを中心に、第四回大会以前に中央本部に多かった右派の後身が迎合し(構改左派・主体と変革派)、また福岡地本執行部を中心にした部分が、動揺をくりかえした後、ここに加わった。彼らは多くの場合合同して行動したが、内部でも論争しつづけていた。すでにのべたような社会党外部の極「左」諸派と同じことを主張したわけだが、社青同ではとくに第四回大会の「基調」を攻撃した。はじめは「基調を守る」といっていた第三見解に突っかかっていたが、やがて思想内容からいっても組織的な力からいっても第一見解が敵だと気づくと、ここに激しい攻撃を集中しながら第三見解を引きつけていこうとした。中心は、すでに六〇年代前半から、このような「社青同・社会党の解体」を追求していた解放派であった。解放派は、すでに一九六六年に脱退していた東京の残党も一緒になり、暴力攻撃を含むあらゆる手段をとった。
(24) 第一見解は、第九回大会までの中央執行委員会の少数派を中心に提出され、兵庫・東京・福島などの地本、そして労働大学の学習誌『まなぶ』の読者から支持された。この見解は、社会党も総評も、今は弱くてもかならず強化されると考えていた。資本主義社会の法則的な力がそうすること、社会党や総評が、この湧き起る力を受けとめ得る基本方向を持っていることを、感覚的にだが確信していた。まして、労働組合から一時的にせよ撤退して、先進部分の個人加盟組織をつくる主張には耳をかさなかった。だから反戦闘争ては、「第三期反戦」「職場反戦」はもちろん、改憲阻止青年会議にも批判的だった。むしろ班が政治宣伝を積み重ね青年部全体をかためてゆく地道な方向を主張した。青年部の団体共闘としての結成当時の反戦青年委員会をつづければよいと主張した。反合理化闘争でも、組合全体の右傾化に苦しみ迷いながら、組合員大衆も苦しみ、怒りや要求を持っていること、それを引きだせないのは、社会党・総評幹部が悪いというより自分自身の弱さだということを主張した。大衆闘争路線を実行する自分の能力を高めようということである。
(25) 第九回大会以後、第一見解の人々が社青同中央本部を担って、ともかく組織を継続させる責任を買って出た。職場での各々の実践を含む論争をつづけて、一年後に組織としての結論を出そうということである。だから執行部の責任を負うといっても、多数決で決定をおしつけるようなことはしなかった。第二見解は解放派をのぞき、この執行部に代表を送ったが、所詮は社青同解体を本質としていたから、一年たたぬうちに辞任し、第一見解の人々にも総辞職を要求した。それによって社青同解体が完成すると考えたからである。しかし他方彼らの大衆運動は、極「左」派といっても革共同革マル派、中核派などにくらべれば基本方向の意志統一もできていない連中だったので、しだいに自己崩壊していった。今日も残っているのは、革労協と名をかえた解放派の一部だけである。第三見解は、執行部に代表を送らず、大会後すぐ事実上の分裂活動をはじめ、繰り返えされた復帰の呼びかけを拒否しつづけた。はじめは、みかけの上で旧主流派として支持者も多かったが、実は最も、意志統一のない中間派であり、社会党・総評についてだけでなく社青同のこの混乱に関しても、すべて人のせいにして逃げまわったので、急速に影響力を失なってしまった。現在も限られた県で「社青同」を名乗っているが、今では反合理化より文化活動を優先したり、総評の社会党支持決定撤回を主張したり、確固たる主張は何も持っていなかったことを露呈している。一年半後の一九七一年二月、第一〇回大会が招集されたとき、第二見解はこれを暴力的に破壊することを宣言、第三見解は開催に反対と、二つとも要するに論争からは逃亡してしまった。そして実際、この時点ですでに、いうにたりる勢力ではなくなっていた。論争の結論はすでに職場でついていた。
第六節 七〇年代の前進へ
(26) 七〇年代とともに、独占資本の虚構は、崩れはじめ、その真の姿が公然とあらわれはじめた。繁栄とみえたものは資本主義の矛盾の蓄積にすぎなかった。日本独占がつくりあげた巨大な生産施設は生産力の過剰であり、好調にのびつづける日本の輸出は帝国主義列強との対立の激化だった。アメリカ独占がドル防衛のためのニクソン声明を打ち出したことを契機に、世界的に資本主義の安定した外見はくずれ、日本資本主義は激しく動揺しはじめた。
(27) 資本主義経済の動揺は、また社会的政治的な動揺の開始でもあった。労働者階級のなかに実はひろがっていたこの社会への批判は、いろいろな問題を契機として広範に、闘争として結晶しはじめたし、さらに勤労大衆全体のなかにも同じことがあらわれた。労働運動では、全逓の一九六九年年末の闘争がその典型であり、一年後には宝樹文彦委員長の退陣を結果して、あきらかに労働運動路線の内容を問題にしはじめた。それは国労につながり、一九七○〜七一年、生産性向上運動(マル生)にたいして、一〇年ぶりに単産としての大闘争が取り組まれた。総評解体の「労働運動の再編統一」論は、一九七二年末にはほぼ粉砕された。七二、七三春闘は、同盟系労組も含めて非常に広範に、また戦闘的に展開され、公務員の中にも、さらに民間でさえ急速な変化が生まれている。農業切捨て(構造改革)政策の諸結果にたいして農民も革新化しはじめ、もはや自民党の票田とはいえない。労働組合には関心のうすい人々も居住地では、公害・交通事故・保育所問題などで活発に運動に加わる部分が生まれてきた。革新自治体は急増している。反戦闘争も、反基地・反自衛隊の内容がもっと生活に密着して具体的にとらえられるようになり、したがって今までよりもっと広い人々が加わりはじめた。
(28) 日本社会党の中では、この現実をしっかりととらえることのできる、つまりマルクス・レーニン主義の視点で、経済・社会・政治の変化を評価できる人々の発言力が急速にたかまった。これら全般的な変化を確信をもってとらえ、この流れがどのように進まざるを得ないかを、社会党はほぼ正確に語ることができるようになった。青年はもちろん、真剣に情勢に対応しようとする人々の中で、社会党は再評価されはじめた。それはまた、科学的社会主義の思想・理論の再評価であり、学習への意欲でもあった。「社・公・民」路線をとる部分と極「左」派は、一九七〇年年末の第三十四回社会党大会に、党解体の策動を各々の立場から集中した。しかしこの大会は逆に、社会党がすすむべき正しい道を、あらためて確立した大会になった。社青同員もこの大会を極「左」の暴力から防衛するために協力し、社会党には立派な革命家が少なくないことをそこであらためて知った。一九七二年の暮の総選挙では、社会党は再確立された党の基本路線にそってたたかって立派な成果をあげた。そして社会党の周辺に、最も活動的であり、かつ学習しようという意欲にみちた青年労働者が結集しはじめていることも証明された。
(29) 第一〇回大会の後、社青同はかなり早いテンポで、質量共に前進している。この大会の時は、第二見解派の脱落によって同盟員数は、へっていたし、第三見解派も正式に脱退していった。しかし第一〇同大会に参加して社青同の組織と運動を守った仲間は、その後一年半、第一一回大会までに二倍近く増えた。この大会で再登録がおこなわれて全同盟員が一人ひとり、あらためて社青同員として積極的に活動してゆく決意を固め、次の一年でさらに五割をこえる仲間が加わった。七三年暮の第一二回全国大会で、社青同は結成いらい事実上最大の組織を持つようになった。このことは第一に、思想、基本方向を獲得しそれによって団結した時、そこに生れる力がいかに大きいかの証明である。第二にその思想の内容については、漠然としていたとしても、第一見解が次のような姿勢を定着化させていたことの重要さである。つまり困難に直面してもたじろがず動揺せず、大筋の基本方向を堅持して踏みとどまる姿勢。それから他人のせいにせず、自分自身がまなび、自分を鍛えることによって展望を切りひらこうとする姿勢である。第一見解を支持した青年同盟員の主張はまだきわめて不充分だった。しかし基本的なあやまりはなかった。またこの見解は、あたりまえのことを不屈に、地道に粘り強くやっていく姿勢、そして謙虚な姿勢を保証した。この故に、第一〇回大会前後から社青同は情勢の発展に適応し、必然的に湧き起る労働者階級の力をいっぱいに汲みとって、急速に前進してきた。
(30) 第一〇回大会前後、社青同の同盟員は、第一見解を出発点にさらに多くのことをまなびとって組織の共通の認識にしてきた。その中心は「階級および階級闘争」だといえる。資本主義社会は階級対立の社会であり、資本家階級と労働者階級は敵対的に対立している。資本主義は日々、労働者階級を搾取し抑圧し、その生活と、生命さえ奪っている。そしてそのことによって、この階級の自覚、団結、革命闘争を、日々強めている。われわれはこの法則に沿って活動しなければならない。平和や民主主義を守る闘いも、この基本方向にたった働きかけでなければならない。そして最も重要なのは、資本主義的合理化にたいするたたかいとマルクス経済学・唯物史観を中心にした学習である。この二つを中心に、自分自身もまた広い仲間たちにも、社会を動かし歴史を変える法則をまなびとることができる。自分たちが日々おかれている状態は、職場で生活の全域で、かつて分っているつもりだった頃よりずっと厳しく認識されはじめた。資本はこのオレの生命まですりへらしている人殺しである。他人のせいにするわけにはいかないのはもちろん、解決の道は、それがどんな種類のものであっても、もともと簡単ではなかったのだ。合理化とたたかうといってもこうすれば攻撃をハネ返えせるといううまい「方法」がどこかにあるわけではなかった。第四回大会『基調』も、このような搾取と抑圧に抵抗しぬくことの呼びかけであり、この抵抗が積み重ねられ広がってゆくとき、どのようにそれが発展するかの筋道を示したものであった。個々の抵抗のなかで、労働者は時々勝利することができる。しかし真の勝利は、階級のない私有制のない社会を創る他なく、それが自分たちにはできるのだという確信、その団結、そして社会主義社会のための革命闘争こそ真の勝利なのである。社青同第一二回大会で決定された新しい綱領は、このような新しくまなびとられたものの成文化である。
第七節 生命と権利の闘いの提起
(31) 独占資本は、佐藤長期政権に変わって七二年に田中内閣を登場させた。「日本列島改造論」と「日中国交回復」を手に、はなばなしく登場した田中内閣であったが、公共投資の大安売りを伴った日本列島改造論(赤字公債の大量発行)、「石油危機」を利用した独占資本の物価吊り上げによって、日本経済は世界資本主義に輪をかけて激しいインフレにみまわれた。さらに、「新全総」「新経済社会発展計画」にもとづく激しい体制的合理化を推しすすめスクラップ・アンド・ビルドは全産業において強行された。これと一体に、独占資本の支配を強化するために「金権政治」だけでなく、小選挙区制の導入、刑法改悪、アジア安保体制の強化の推進などの策動をたえず繰り返してきた。このような情勢のなかで、日本社会党は「中期路線」につづいて、「国民連合政府綱領」(七三年)を提唱した。また、日本共産党や中間政党の公明・民社党も問題は含みながらも反独占の方向をもつ連合政府綱領を打ち出した。こうした動きが、インフレの激化と重なり、全野党的な反インフレ共闘が結成された。総評も反独占闘争の強力な組織化として「国民春闘路線」(七四年)を打ち出した。また、総評は長期路線の検討もはじめ、国労、全逓、自治労、全電通などでも戦後組合結成以来、はじめての綱領改正論議や長期方針の検討がはじまったことは注目すべき点であった。七四春闘は、量的、質的にもかつてない規模のストライキで三二・九%の賃上げをかちとった。政府・独占資本は官公労の分断と教育の反勧化を目指した日教組に対する不当弾圧や職場における節約運動などの導入によって、労働者のたたかいに水をさそうとしたが、春闘は大きく高揚したのである。七四春闘を足場に参議院選挙闘争も力強くたたかわれ、社会党を支持する青年共闘会議も全国で組織され、社会党前進の一翼を担い奮闘した。そして、「保革伯仲」の状態が生み出され、多くの労働者に新しい時代への期待をいだかせたのである。この頃、国際的にも反帝国主義闘争が激しく展開された。七三年のチリでのアジェンデ政権の成立や七五年のベトナム・ラオス・カンボジア解放は、反帝闘争の巨大な勝利の象徴的なできごとであり、社会主義勢力の優越を力強く示した。
(32) 社青同は七三年一二月に第一二回全国大会を開催した。大会では、綱領・規約の改正とならんで、「生命と権利のたたかい」の提起が行われた。そのしばらく前から、『青年の声』一面で「奪われる生命と権利」の連載が行われていた。それは、資本主義において、労働者を犠牲にしながら利潤追求がつづけられている事実を鋭く告発すると同時に、当時の反合理化闘争の弱さについて、反省を促すものであった。例えば、反合理化闘争について、繰り返し議論しながら、その会議の参加者が、合理化病である腰痛症に苦しんでいる現実をみすごしていた。頸肩腕症候群も、同盟員のなかでさえ、体質や特殊な病気で一般性はないものと、みられていた。そうした反合理化闘争の空まわりを気づかせたのが、この提起であった。全電通郡山分会の鈴木千恵子さんの入水自殺という悲しいできごと(七三年)は、改めて、合理化が労働者の生命を奪うものであることを、全国の仲間に告発した。自分のところでは反合理化闘争に熱心に取り組んできたから、合理化病はないと思われていた職場でも、仲間たちと討論してみると、予想外の現実を眼の前につきつけられた。胃薬や目薬を常用している者、肩こりに苦しむ者、腰痛で通院中の者など、多くの仲間が合理化の結果として、生命をすり減らしながら働いていた。この現実は、資本への怒りをかきたてた。反マル生闘争勝利の後でもあったので、職場抵抗の火は、多くの職場に急速に広まった。そのたたかいは、たくさんの若い仲間の心をとらえた。当時、インフレによる生活破壊も著しく、七三、七四春闘は激しく燃え上がった。社青同も全力を上げてたたかった。要求討論からストライキの準備、実行まで、労組の行動を担った。反合理化・職場闘争の前進、春闘の高揚は、若い労働者の自覚を高めた。この時期、社青同の拡大は最も急速にすすんだ。その春闘を終え、各職場の状況を集約してみると、重要な事実に気づいた。盛上がった職場では、管理者が奇妙に協力的であったことである。それが「正常化路線」の開始であった。労資間の対立を、表面上にはやわらげつつ、職場闘争の火を消そうとしてきたのである。七四年、全電通千葉県支部の役員選挙に対する、公社の露骨な介入があった。頚腕闘争をはじめ、生命と権利を守る反合理化闘争を労組として実践している千葉県支部の存在を、資本は容認しなかったのである。この攻撃と「正常化路線」は、表裏一体をなしていた。七四年一一月に第一三回大会が行われた。ここで、労働者の生命と権利をめぐる攻防こそが階級闘争の焦点であり、資本主義的合理化の現実をしっかりつかんで、反撃を組織しようとの意志統一を行った。たたかいの前進に自信をもちつつ、同時に、「正常化」路線の敵対的性格を厳しくとらえて、決意を新たにしたのであった。たたかいのなかで重要な役割を果した機関紙『青年の声』は七四年十一月四目から総局制に切りかえられ定期・敏速な配布体制が確立された。
(33) 七十年代前半、青年の共闘運動は飛躍的前進をとげた。社会党青少年局、総評・労組青年部、社青同を基軸とした、いわゆる「三者共闘」による事実上の反独占青年運動の出発であった。この前提には、第一に社会党第三三回大会(七〇年)における青年運動方針と青少年局体制の確立や社青同第一〇回大会での主体的条件の確立、第二に、総評四四回大会(七〇年)での青年部運動強化の方針化、第三に郵政、国鉄職場での反マル生共闘運動や地域段階での反戦、沖縄闘争など課題別共闘の存在などがあった。反戦青年委員会運動の破綻後、社会党が提起した「青年選対」力針を受けて七三年東京都議選「都議選勝利・社会党を支持する青年共闘会議」が結成された。七四年の参院選では、「社会党を支持する青年共闘会議」として全国化がはかられ、それは四二県、七百地区、四十万の青年を結集する運動体へと急速に発展した。この運動は、社会党・総評ブロックにおける青年運動の一つの発展方向を示したと同時に、反独占・社会主義をめざす社青同の成長と不可分なものであった。その中身は、従来の青年運動における青年行動隊的扱いや動員主義を排し、青年自らがまなび成長することに主眼をおいた点にあった。そのため、企業・産別・階層を越えた青年の交流と学習を活動の中心にすえて、「地区共闘運動」として定着していった。社青同が「三者共闘」運動のなかで重視したことは、個別の共闘課題を大切にしながら、そのたたかいをつうじて、反独占をたたかう青年の階級的団結と社会主義にむけた政治的自覚を促すことであった。社会主義運動と労働運動の融合を追求し、職場反合理化闘争と政治闘争の結合を重視したことである。また、社青同にとっては、社会党との「支持協力関係」のもとでの青年運動の形態と内実を明らかにしたという意味をもっていた。七〇年代前半はまた、平和友好祭運動にとっては、六〇年以来の混乱を終えて、東京地区実連、東京地評を加えて日本青年学生平和友好祭実行委員会が再確立された。全国青年団結集会実行委員会は六七年に自治労青年部・社青同で発足したものが総評青年局・社会党青少年局の参加へと発展するなど前進を示した。こうした前進も当然、幾多の困難を経ながらであった。総評では青年運動の育成のなかで青年協の結成が目指されたが、七三年の延期を経て、七四年に頓挫してしまった。社青同及び反独占青年運動の前進に畏怖した革マル派、「全国協」、民青などの党派的介入によるボイコット、妨害によるものであった。平和友好祭運動でも第一五回中央祭典(七三年)において、革マル派に影響された動労による暴力失明事件(山中湖事件)によって中央祭典が中断され七六年に再開されるという事態があった。これは、「反帝連帯」か「反帝・反スタ」かという平和友好祭運動の基調をめぐってのものであったが、運動の広がりのなかで克服されていった。七三年夏、ベルリンで開催された平和友好祭第一三回世界青年学生祭典は、「反帝連帝・平和・友情」のスローガンのもとに行われた。また、社青同の国際活動も七O年から開始されていたDDR留学生派遣に加え(七九年まで)ソ連への留学生派遣(七五年から)や定期交流などが開始された。
第八節 七〇年代後半の攻防
(34) 七〇年代前半に高揚した労働運動に対して、七四年後半から七五年にかけて、独占資本は強力な巻き返しをはかってきた。不況の影が次第に色濃くなる情勢を逆手にとって、「不況・赤字」宣伝を繰り広げながら、また、「労使正常化」という欺瞞的なポーズを取りながら、巧みに活動家と組合員の分断をはかり活動家の孤立化がすすめられた。七四年、田中内閣は倒れて三木内閣が生まれ、「対話と協調」が唱えられた。社青同はこれを「国家的規模の正常化路線」と分析し警鐘を打ちならした。七五春闘は、はじめての本格的な不況下での春闘であったが、独占資本の一五%ガイドラインにおし込められた。独占の攻撃は、七四年末にだされた「大巾賃上げの行方研究委員会報告」に基づいたものであり、各資本の結束はかつてなく強固なものであった。当時、職場では資本の労務管理と思想攻撃が小集団運動を挺にますます強められていた。その一環として、七六年頃より「地方財政危機」宣伝と、交通費や超勤手当を材料にした「ヤミ・カラ攻撃」が強化されていた。社青同はこの攻撃を重視し、職場の実態をふまえた反論を行った。この論争が、後の行政改革をめぐる攻防の前哨戦であった。七五年以降の独占資本の巻き返しと労働運動、社会党の後退のなかで、社青同のたたかいもこれまでのような前進はできなくなった。七五春闘において、社青同はマルクス経済学の学習、生活実態からの大巾賃上げ要求をかかげて、たたかいを担った。しかし、資本の構えは前年とはまるで違っており、日経連の指標どおりに抑えられてしまった。同時にたたかわれた自治体選においても、恐慌下で必死の保守陣営におされて、社会党は伸び悩んだ。職場のなかでも、抵抗闘争を担っている活動家への攻撃が強められた。その一側面として、電電公社の圧力を受けた全電通労組との論争が激化した。豊島支部電報合理化反対闘争に関する「社青同の介入」という非難に対して、職場の労働者の一員として、独占資本の攻撃とたたかい抜く社青同の姿勢を明らかにした(八・一申入れ)。以後、全電通労組との論争がつづくが、社青同はあくまでも、公社こそが敵であり、たたかいの相手であるという認識を崩していない。七五年一〇月、第一四回臨時大会と結成一五周年記念の全国交流会、一万人集会が行われた。職場・地域で仲間たちの怒りを組織しつつ、独占資本の包囲攻撃を打破ろうと意志統一した。労働運動は公労協、地公労による一九二時間に及ぶスト権ストを打ち抜いた(七五年一二月)。日教組も画期的な主任制度反対ストでこれにつづいた。しかし、三木内閣の「ブルジョア民主主義の法と秩序を守れ」という基本路線にもとづき、資本の側は一歩も引かず、やらせてたたくという姿勢を貫いた。保守系住民を扇動してのストヘの非難、大量不当処分で組合組織を揺さぶり、損害賠償を突きつけ、反合理化方針の変更をせまった。スト権ストは八日間もたたかいつづけられたが要求は何も取れずに収束した。スト権ストの敗北後、総評を中心とする労働組合の勢いは年々、後退していった。職場は小集団運動と労使協議制を柱にした日本的経営参加の体制が民間の大企業を中心に築かれ、多くの職場で労使はパートナーとなり、合理化推進、生産性向上にすすんだ。不況・赤字攻撃、「正常化」路線で反合理化闘争は労使協議制におきかえられ、職場のたたかいは孤立させられていくのである。七六春闘にむけて、日経連は「製造業だけで二OO万人の過剰人員」との脅しをかけながら、「雇用か賃金か」と迫ってきた。賃金は「一桁以下」のガイドラインをしめした。そういう時だけに社青同は、マルクス経済学にもとづく大幅賃上げ要求を強く打ち出した。労働者の生活実態を掘り下げてとらえるために、家計簿づけからの要求づくりを強化し、「まあまあの生活」と思っている者が、実は労働力の再生産もまともにできないように我慢させられているという事実をえぐりだした。そして、大幅賃上げが願望ではなく、譲れない切実な要求であると訴えた。しかし、七六春闘は一桁台の賃上げで不十分なたたかいのまま、資本におし切られた。
(35) 七六年一〇月、第一五回大会が行われた。この大会では、「重たい職場の現実」「正常化」をめぐって、討論が行われた。職場の仲間たちは、われわれの働きかけに対して、二、三年前のように敏感には、応えなくなっていた。長期の不況と資本の攻撃のなかで、右傾化の基盤がつくられはじめていたのである。社青同は、そういう情勢下であるからこそ、生活と労働の実態にくらいつき、階級対立の事実を明らかにしながら、労働組合強化の力を組織しようと討論した。その内容が基調のなかで、1生命と権利の視点の確立、2三つの先生(資本、古典、仲間)にまなぶ、3二つの目的 (改良の実現、主体の強化)の再確認となった。七七春闘にあたって、大巾賃上げの声が春闘共闘から消えていきつつあるなかで、『青年の声』では、労働者の人間らしい生活のためには譲れない要求として、大幅賃上げの声を、毎号、強く訴えた。そのなかで、階級対立の本質を、鋭くつきだしていった。春闘のさなかに、京成労組による、一〇〇〇名首切り合理化に対するストがたたかわれた。資本の側は、赤字宣伝とならんで、京成の職場闘争を取り上げ、「住民は高い運賃で損をしている」と非難した。京成労組は真向から反論し、社青同も全力をあげてたたかいを支援した。七月の全電通大会では、社青同を「敵対組織」と規定した。前年から、社会党中央に申し入れを行いつつ、圧力をかけていた全電通は、なりふりかまわず、職場のたたかいを抑え、社会主義と労働運動の融合を拒否してきたのである。独占資本の意図に迎合し、労働運動右傾化の先端をいく動きであった。社会党、総評の指導部は、七五年以降の資本の体制的危機意識にもとづく、攻撃の本質を見抜けず、容易な「国民的多数派形成」や「政権の夢」をおい求めた。当時の幹部の口から「反合理化闘争では、民主的多数派は結集できない」「大幅賃上げでは、世論を味方にできない」「反独占では幅が狭いから、反自民で民主的多数派を」と、独占資本との階級的対決をさける傾向が強まった。独占資本の攻撃は社会党から反独占・社会主義の牙を抜くことをめざしてきた。七七年四月に江田氏の離党、そして、七七年の参議院選挙を前後して、「党改革」論争が活発化した。社青同に対する批判も強まった。社会党、総評の当時の指導部は、反合理化闘争と科学的社会主義の学習を重視し、階級闘争路線に立った青年活動家の成長に恐怖を感じていた。それまで大いに歓迎していた青年共闘運動が一定の力をもってくると自らの地位に不安を抱くようになった。また、反ソ・反社会主義宣伝や科学的社会主義は自由の敵という思想攻撃のなかで、多くの中間層がマルクス・レーニン主義に恐怖を感じるようになっていった。社会党、総評内の右派は、「左派」の活動を警戒し、排除に動き出した。そのことを一気に噴出させたのが、七七年の「社会主義協会規制」であった。社会党、総評の運動の前進を妨げている教条主義という攻撃を強めて、社会主義協会と社青同に非難と憎悪が集中された。「社会主義協会規制」は職場においては「反合理化・職場闘争規制」であり、あたり前の権利の主張、学習への呼びかけが「社会主義協会派の教条的、セクト主義的行動」とされた。社青同は、われわれこそが青年労働者のエネルギーを組織して、党強化に結びつけてきた事実を示しながら明確な反論を行った。しかし、それ以降、党と青年同盟との支持協力関係を断ち切ろうとする圧力が不断につづくことになった。こうして、「左派」の活動家を運動から排除することは、労働運動の活動力を落とすと同時に資本の職場支配体制の強化を許すことになった。総評は七七年八月の第五五回大会で「反独占」を外した「反自民統一戦線」を提唱することになる。ときあたかも、成田委員長から飛鳥田体制の下に出発した社会党は「百万党建設」「国会議員の代議員権付与」「中期経済計画」の方針を決定し、従来の路線と明らかに違った方向へと強く傾斜していくのである。七八年夏、「反帝連帯・平和・友情」の基調にもとづいて世界青年学生平和友好祭典がキューバで開催された。この祭典は、七五年のインドシナ解放をはじめ、ポルトガルからの独立をなしえたアンゴラ、モザンビーク、ギニア、ナミビア、そして、エチオピア、ジンバブエの民族民主革命をはじめ、七八年のアフガン、七九年のニカラグアの解放という七○年代後半の反帝民族解放闘争を色濃く反映したものであった。また、ポーランドでのストライキ問題、アフガンのソ連軍の駐留に関しても社青同はプロレタリア国際主義の立場を堅持してきた。
(36) 七七年、三木内閣から福田内閣という反動の親玉に変わり、資本の側の結束はさらに固くなっていった。七八年は、吹き荒れる不況がその頂点に達し、四百万人首切りが宣言され、倒産と首切りの実態はすさまじく進行した。造船、繊維、鉄鋼などの民間企業や公労協、公務員の職場にも首切りの攻撃が吹き荒れた。七八年には、全逓名古屋中郵事件に関する最高裁の反動判決が出され、これを挺に「郵便法違反」を口実とした弾正が強められ、七八春闘では全逓はスト中止に追い込められる。そして、三池闘争以来、影をひそめていた指名解雇が公然と復活し、沖電気での三百名の指名解雇(七八年十月)はその第一陣であった。このように一貫した戦略をもって、独占資本は、たたかう労働組合をつぶすことに全力を上げてきたのである。また、二百カイリ問題では、反ソ・反社会主義キャンペーンを繰り広げ、階級対在を隠蔽する攻撃も強化された。七八年九月に第一六回全国大会を開催した。同年四月には社青同専従者基金制度を発足させた。大会では反合理化闘争と春闘の後退のなかで、民間の仲間の反首切り闘争にまなびながら、いかに反撃していくかを熱心に討論した。そのなかで、生活実態とマルクス経済学の立場に立つ大幅賃上げ要求討論のあり方をめぐって、論争がおこった。その前の第六八回中央委員会から始まったもので、労組の現状にそぐわない大幅な要求は、かえってたたかいを弱めるのではないか、という疑問から出たものであった。中央委員会は大幅賃上げ要求の討論はすすめつつ、賃金闘争とその思想を広げていくという立場で討論を集約した。翌年、全逓の反マル生闘争に対する大量処分(四・二八)が出されたが、これは、社青同に対する攻撃でもあると、受け止められた。なぜなら、生産性向上運動に対する職場抵抗の組織化は、生命と権利を奪うことを許さない社青同自身のたたかいでもあったからである。このあと全逓は団交重視、特昇協約と路線を変えてゆくが、全逓内の同志は階級闘争路線を確立し頑張り抜いている。社会党青少年局からの日朝青年連帯委の提起も、次の項にのべるように、社青同にとって重要な判断を迫るものであった。七九年一二月の第一七回臨時大会は、日朝連帯委、党、総評と社青同の関係を中心に討論が行われた。八○春闘は、交通ゼネストの中止をもって、事実上のストなしにおわった。そのなかでたたかわれた京成闘争は、「社青同は企業をつぶす」という攻撃に抗するたたかいをも含んでいた。社会主義と労働運動の融合に対する資本の攻撃の典型ともいえるものである。五月には、国労、動労に対して停職一九〇人を含む三八〇四人の処分が出された。これも階級的労働運動を圧殺しようとする、資本の意志を示すものであり、八○年代の厳しい対決を予測させていた。
(37) 七〇年代後半は青年の諸共闘においても今日に至る攻防の諸問題点が出されてきた時期であった。青年の諸共闘運動から社会党、総評の召還がはじまっていった。社会党を支持する青年共闘会議は、七七年参院選において、総評が召還し活動しえず、七七年末の社会党青少年局長の交替を期に事実上「開店休業」の状態に追いやられた。団結集会実行委員会は、七六年から総評が「欠席」の状態になっていった。さらに平和友好祭実行委員会では「幅が狭い」「単産縦割参加を認めよ」という全電通などからの意見と反帝連帯・平和・友情の基調をめぐる議論が激化し、あわせて、七七年、七八年と「全国協」加入が総評などから主張されるようになってきた。七九年に入り、青年の共闘運動は大きな変化のなかでの「決断」をうながされ、社青同はより強い「決意」をすることになった。この年、社会党を支持する青年共闘会議は総評青年局の「欠席扱い」(事実上、空席)のまま再スタートし、全国青年団結集会実行委員会も総評青年局は同様の扱いとなり社会党青少年局は後援団体という位置で再スタートした。さらに日本平和友好祭実行委員会は実行委員長に総評青年局はとどまったものの、事務局長は総評青対部が降り、単産青年部(総評青年協として)のもちまわりで努めることになった。この七九年の「決断」は、作りあげてきた「三者共闘」の内実を確保しながらも、形態上における「変則」を事実認識しながらの「決断」と出発であった。だが、この「決断」は生き残りのための方途としての選択としてではなく、「三者共闘」の運動を守るための精一杯の努力であった。したがって、社青同が改めて決意することの意味が厳しくつきつけられた。つまり、単産青年部が表に出て総評青年協が分岐する(総評確認は「単産・県評青年部の自主性を認める」という内容)、あるいは各県段階における分断攻撃による差異などのもとで、貫かれるべきは「三者共闘」の運動を守るという点にあり、この点で、どのような形態が残されているかということであった。この「新たな時代の始まり」は、そうした事態を社青同として、それぞれのおかれた差異のある条件下で統一的に認識できるかという点が要であった。すでに七八年一月の第五九回中央委員会の『地方選と自治体問題についての決議』で、社公民路線下における社青同及び青年共闘の一員としての選挙闘争での立場についてふれている。そこでは、社青同が独立の組織として方針を持ち、主張することは当然の原則であるとしながら、選挙闘争に際しては社会党の最終決定、社会党の運動の一環を担っていくとしてきた。つまり労働運動や大衆運動の成長・発展の芽を与えられた条件のなかでつかみ、それに沿った活動形態を発見し全力で取り組むことによって社会党、総評の団結を強めるというものであった。そうであるが故に、社青同は独自に宣伝・扇動し、学習や討論を組織するが、可能なかぎりそれは社会党員を中心とする革新勢力、及び大衆運動の団結を守っていく立場をとるということであった。七九年の「新たな一時期の始まり」についても、そのなかでの「総評の召還」「単産自主性への移行」を次のように考えてきた。「分岐」を「瓦解」への一歩としてではなく、総評青年運動内に否定しがたく「三者共闘」の運動実体がうちたてられていることに依拠し、大衆的運動を背景として、これを守り抜き発展させていくことであった。社会党もその事実を否定しえなかったのである。よって、「不況・赤字」攻撃と「企業主義」の台頭の下で、総じて労働運動のなかに組合主義が成長し社会党をも組合主義的政治で包含しつつあった時、七九年の状況は確かに「妥協」を含む再出発ではあったが、一方で前進のための力と足場を再確認しあえたという意義をもっていたといえる。
(38) 七〇年代後半から八○年代にかけ、社会党・総評ブロックの青年運動に大きな問題を投げかけたものに社会党の「複数青年運動論」があった。七七年の第四一回大会で社会党系青年組織として「全国協」「青年懇」が言及され、七八年の第四二回大会で「複数青年運動論」として打ち出されてきた。この路線的背景をもって七〇年代後半の青年の共闘をめぐる攻防が激化し、七九年の再出発を迎えたわけである。七九年の再出発は新たな論争の出発でもあった。それは「日朝連帯青年委員」の結成をめぐる論争として、実体化されてきた。そこで社青同が問題にしたのは「複数青年運動論」による「全国協」「全青連」の形態上の認知問題と同時に、日朝連帯運動の内容であり、全国統一闘争としての組織化の方向についてであった。社青同は「反独占・反帝連帯」という基調の明確化や、運動の統一的提起とその集約が行われる中央、各県を含めた全国組織の結成を求めてきた。それが「複数青年運動論」による社青同及び反独占青年運動の解体の目論みを克服する道であったからである。結局、八一年に社青同抜きで日朝連帯青年委員会は発足したが、社青同は党内の先輩や労組青年部の仲間たちとの精一杯の努力と、各県で作りあげてきた日朝連帯運動の実態を背景として八二年に参加していった。七○年代後半からの社会党、総評ブロックの青年の共闘運動は「単産自主性を認める」方向での対処によってしか総評の統一性を保持しえないという総評青年運動の停滞と瓦解を土台に、これに社会党が追随することで「三者共闘」運動の前進が阻まれてきたといえる。このように青年の共闘運動は社会党、総評労働運動の推移に規定されながら歩んできた。同時に社青同は常に大衆運動に依処し、その運動が併せもつ思想と統一闘争が求める共闘形態をもって問題に対処してきたといえる。
第九節 生命と権利の闘いの再強化
(39) 社青同は八〇年十月の第一八回大会で生命と権利のたたかいの再強化を打ち出した。この提起は七〇年代後半の独占資本の体制的合理化と労働運動の後退を主体的に受けとめ、生命と権利のたたかいの再強化によって、階級的労働運動の再構築をはかっていく決意であった。この再強化の課題が具体的に提起され討論されていくのは大阪で開催した全国交流集会(八一年十月)であった。全国交流集会基調には大衆闘争路線の確立とその実践にむけて、次の三つのことが提起された。1われわれの主張とたたかいは仲間の反抗と結びつきはじめているが、その一面で、敵の攻撃と労働連動の後退のなかで生み出される「お前たちの言うことはわかるが、俺にはできない」との反論に代表されるように、不満と怒りがしっかりと組織されずにアキラメとなっている現状がつくられており、ここを克服するには何が求められているか。2その克服の方向として、仲間に対して、あいつはだめだと切りはなしたり、あきらめたりするのではなく一人ひとりの置かれている条件をつかみ、窮乏化している実態を取り上げて、これをどう見るのか、これでいいのか、どうするのかという大衆的討論を仲間と共に積み上げる大衆行動が必要であり、この積み上げのなかから、当局(資本)は労働者を人間らしく扱っていないという共通の怒りに高めていくこと。仲間とどうたたかうか(思想)は違っていても、生活苦、労働苦、健康で働きつづけ生きつづけたいことは一致しており、違っていることは当局(資本)にすがって解決しようとするのか、それとも組合に結集し、仲間との団結の力で解決するのかであり、ここを一致させるためには、不平・不満の共通認識をつくり、そこからやれる小さな抵抗を積み上げていく活動こそが求められている。思想統一の前に、仲間との共通課題を取り上げて一致させていく積み上げ活動、大衆行動を通して思想統一をはかっていくことを重視すること。3この活動を展開していける同盟員の主体性を確かしていくために、三つの先生にまなぶ(資本、古典、仲間)班活動が必要であるとされた。全国交流集会では、体制的合理化が強化されるなかで生命と権利が奪われつづけ、仲間の不平、不満は強まっており、その仲間の不平や不満にしっかり結びつきながら、生命と権利のたたかいを再強化していくことを意志統一しあった。この意志統一は、ときあたかも第二臨調・「行革」が「戦後政治の総決算」攻撃として国鉄労働者をはじめとする全労働者にかけられようとする時期でもあった。生命と権利のだたかいの再強化とそのたたかいをすすめる社青同の主体的課題が、体制的合理化として本格的に強まろうとしていた第二臨調・「行革」攻撃という客観的情勢を受けとめて、これと正面からたたかう労働者階級の主体性の強化として決意されたのである。民間職場で苦闘を強いられながら、十数年間、たたかい続けてきた同志相互の交流を目的とする民間班協交流会、争議団交流会が七九年から開始された。また、資本の体制的合理化は、労働者の生命と権利、健康を奪うものであり、頚腕をはじめとする職業病は資本主義的合理化病だとして、罹病者を守り、資本に対する責任追求のたたかいを強化していくための「全国職業病・罹病者交流会」が八○年から開始され、それは労災・職業病対策委員会として強化されることになった。
(40) 八○年代に入って、独占資本の攻撃は、「官公部門の効率化」(八〇年一二月発行の労働問題研究委員会報告)を打ち出した。具体的には、八一年三月に臨時行政調査会(第二臨調)を発足させ、赤字国債の乱発による国家財政の危機を「増税なき財政再建」と称して、国民世論を操作しながら三公社の改革、特に国鉄改革をその目玉として「行革」攻撃がはじまった。資本主義の矛盾を労働者、勤労諸階層全体への犠牲へと転化するこの攻撃は、体制的合理化を柱に、福祉切捨て、軍拡路線など支配階級の全面的な攻撃であったが、特に総評労働運動の機関車である国鉄労働者ヘと集中された。八二年一月、自民党は三塚委員会を発足させ、ヤミ・カラ、現場協議制の批判キャンペーンなどをマスコミを総動員して行い、「国鉄赤字の責任は国労の職場闘争にある」との世論工作を強めてきた。その世論工作に一定、成功したと判断した第二臨調第四部会は、同年五月に、職場規律の確立や新採停止を柱とする「緊急十一項目」を発表した。自民党政府は、これを「国鉄再建緊急十項目」として、同年、九月に閣議決定し、これを挺にして、「経営形態移行」(分割・民営)までの五年間、国鉄労働者への徹底した合理化と組織破壊攻撃のかぎりをつくしてきた。「行革」攻撃と同時に、総評労働運動と社会党解体攻撃が準備された。日経連は労働問題研究委員会報告(八○年一二月発行)で、日本の民間大手組合の労使関係は「日本の宝である」と賞賛した。七O年代後半の不況期のなかで、民間大手の労働組合を掌中にした勝利宣言である。その民間大手組合を中心にして、八○年九月に「労働戦線統一推進会」(鉄鋼、全日通、全繊、電力、電機、自動車の各単産が代表)が、労働四団体公認で発足した。「労働戦線統一推進会」は、八一年六月に労資協調路線を基調とした「基本構想」を発表した。その内容をめぐって、総評内で激しい論争となり、総評拡評は「五項目補強見解」を決定し、対応することになったが、一二月に「労働戦線統一推進会」は「統一準備会」(三九単産、約三八〇万人)へと発展し、八二年一二月には全民労協第一回総会(発足)が行われた。八五年一一月の第四回総会では、八七年に「連合体移行」を決定した。同盟・JCからの「労戦統一」攻撃におしまくられ、これにすり寄っていく総評指導部によって、総評は解体の危機を深めていくことになる。総評の解体の危機に対して、国労や日教組を中心とする「左派」単産の奮闘とあわせて、総評顧問(大田、岩井、市川)の三氏が代表委員となって結成された「労働運動研究センター」(八二年一二月結成)は、総評労働運動の強化をめざして活動を開始した。総評労働運動の後退は、社会党へも強く影響した。社会党は第四四回大会(八○年二月)で「社公連合政権構想の合意」を決定した。同年一二月の第四五回大会では「理論センター中間報告」として、「八○年代の内外情勢の展望と社会党の路線」が提案され、社会党の綱領的文書とされてきた「日本における社会主義への道」を見直す「『綱領』と『道』の調整」作業がすすめられていくことになる。つづいて、第四六回大会(八二年一一月)では「新しい社会の創造−われわれのめざす社会主義の構想」が決定された。
(41) こうした労働運動、社会党の後退はどのように準備されてきたのであろうか。それは、一九七〇年代前半の「石油危機」を背景としてすすめられてきた独占資本の「不況・赤字」を挺とした思想攻撃への全面的屈服であった。「会社が赤字だから、賃上げはがまんしよう」「雇用のためには合理化に協力しよう」という民間大企業労働組合と官公労一部労働組合の労資協調路線の台頭である。この路線で日本労働運動を再編成し、日本社会党を「国民政党」へ変質・転換させようという攻撃であった。同盟やJCなどの組合は、第二臨調「行革」攻撃に対して「行政の諸制度全般にわたって大胆な改革案を示しており、われわれのこれまでの主張に沿ったものであり評価できる」として、賛成の態度を表明した。総評も、第二臨調・「行革」攻撃に対して、資本主義社会のなかで支配者側が「国民のための行革」を実行するはずがないのに「国民的立場からの行政改革」として、階級対立をあいまいにし、これと正面からたたかうことを避けた。社会党も「国民のための行財政改革をめざして、平和、福祉、分権の行財政システムの確立」「民主化、分権化、公平、効率化など本来の行政の改革に取り組むよう強く要望する」との、改革案、見解を発表した。これは結果的に、労働組合自らが、合理化案を提案するという矛盾を含んだものである。その弱点は国鉄の「分割・民営化」のたたかいに現われた。総評、社会党は「分割には反対するが、経営効率をたかめるために可能な限りの民営的手法をとり入れる」として、民営化には実質的に賛成の態度をとり「分割・民営化」反対の大衆運動を放棄した。こうした総評、社会党の後退が、国鉄労働者の二十万人にも及ぶ首切りを許し、国労の分裂を加速させたのである。八四年四月には、電電、専売が民営化された。反合理化闘争路線の動揺は、総評に結集する官・民を間わず全ての単産に表面化した。全逓では第三五回大会(八一年七月)で「一〇・二八確認」(「労使が事業という共通認識をもつこと」)を確認し、これまでの企一、企二の長期抵抗大衆路線を基調とする反合理化闘争路線を転換し、事業防衛にたった団交重視、制度政策闘争に大きく踏み出す方針を決定し、急速に右傾化の道をたどることになった。さらに、戦後日本労働運動のなかで、最大の労働者の統一闘争として発展してきた春闘は八○年代に入って、解体の道をたどっていくわけであるが、その最大の要因は、賃金闘争の考え方の後退であった。独占資本の「不況・赤字」攻撃や「支払い能力論」「生産性基準原理」に反論できずに、経済成長の度合い(生産性の伸び)から要求を考えたり、賃上げが物価上昇をもたらさない範囲で要求を考える「経済整合性」論や、経済成長をはかるために賃上げ要求を考える「内需拡大春闘」に転換してきたことにあることは明らかである。この考え方はそもそも同盟(第二組合)の路線であり、八二年に全民労協が結成され、八三春闘から総評にかわって、全民労協が春闘の主導権をにぎることになってから、要求の自粛、話合いストなし春闘が定着させられてきたということができる。総評労働運動、社会党の後退は、独占資本の後押しによって育成されてきた民間大企業労働組合と一部官公労働組合の労資協調路線を唱える労働組合の台頭ということができるが、より基本的には、総評が結成直後に確立した「生産性向上運動反対」や「賃金綱領」「賃金行動綱領」、さらに「平和四原則」の基調にもとづく反合理化闘争、大幅賃上げ闘争、平和と民主主義闘争をはじめとする大衆運動で発揮した戦闘性、階級性の喪失ということであった。
(42) 生命と権利のたたかいの再強化を打ち出して、二年間のたたかいは、第二臨調・「行革」攻撃、とりわけ 国労への攻撃が本格化し、反合理化闘争路線の転換、大幅賃上げ闘争の後退が全ての単産、職場で生まれるなかで、社青同のたたかいも困難さが増大した。しかし、社青同は、社会の主人公である労働者が、健康で働きつづけ生きつづける権利があり、これを保障するのは資本、社会の義務であるとの労働者思想を堅持し、合理化絶対反対、大幅賃上げ闘争を職場から、仲間と共につくり出す努力を強化した。八二年から開始した「生活・職場実態点検手帳」づけ運動は、後退させられてきた春闘を労働者一人ひとりの生活・職場実態を点検し、その実態を「人間としてこれでいいのか」の討論とマルクス経済学(賃金論)の学習を結合するなかから、譲れない大幅賃上げ要求と職場労働条件改善要求を掲げ、資本へつきつけていく職場からの春闘再構築のたたかいであった。「手帳」は全国で七O万部以上、発行され、八二年九月の政府閣僚会議での三三年ぶりの「人勧凍結」の暴挙に対して、自治労青年部は、その実損額を「手帳」づけのなかで運動化するなど、生活実態からの大幅賃上げのたたかいは、青年の統一闘争としての発展をみせた。また、社青同は、八二年のヤミ・カラ攻撃以降、機関紙『青年の声』で国鉄労働者の実態を取り上げ、国鉄労働者のたたかいを激励しつづけ、自らも職場での反合理化闘争をつくり出すたたかいを強化した。社青同第一九回大会(八二年十月)は、生命と権利のたたかいの再強化を打ち出してから、二年間の総括を行ったが、大会は「仲間がいないとたたかいつづけられなかった」「支えてくれる仲間が、組織(班)があったからたたかいつづけてこれた」といわれたように、仲間に学ぶ実践、仲間と共にかたかっていく大切さが強調された。社会党第四八回大会(八三年九月)では飛鳥田委員長が辞任し、石橋委員長が選出された。石橋委員長は「ニュー社会党」を看板にして、「自衛隊の違憲・合法論」(八四年二月、第四八回続開大会)、「原発容認」(八五年一月、第四九回大会)という現実路線を打ち出したが、大会の論争で一定程度、党の基本政策が守られた。しかし、第四九回大会では『道』と『綱領』の処理方針として、「新宣言」(「綱領)を次期大会で決定し、『道』を歴史的文書にするとされた。このように、独占資本は、第二臨調・「行革」攻撃をつうじて、とりわけ国労にその攻撃を集中し、国労の反合理化職場闘争路線を転換させることによって、総評労働運動の中核としてたたかいつづけてきた国労を弱体化し、総評と社会党の解体を狙ってきたのである。社青同第二○回大会(八四年十月)ではいよいよ本格化した国鉄闘争を軸に反「行革」統一闘争を構築していくことが大会の課題とされた。国鉄闘争を軸に反首切り、反「行革」闘争を精一杯、たたかい抜いてきたプリマ、鹿児島交通、全電通、国鉄をはじめとする全国の仲間が共通してのべたことは、1資本への怒りを実態から自分自身のものにすること。2労働者が合理化のなかでどのように扱われているか、何で怒っているのかをつかみ、仲間との共通認識にしていくこと。3一人の労働者の問題を取り上げ、労働運動全体に広げ、資本につきつけていく大衆行動を強化すること。4一人ひとりの同盟員がたたかいつづけることを保障していく班活動を作り出すことであった。この班活動の課題については、社青同結成二五周年(八五年十月)運動のなかで開催された全国交流集会でまなびあわれた。さらに、これまで積み上げられてきた「学習と交流」を基調とする青年共闘運動は、国鉄闘争のなかでもその力を発揮した。国鉄労働者への支援激励行動、職場交流をつうじて、国鉄労働者の実態は、自分の問題であり、自分の単産の課題でもあるという自覚を広げた。総評、社会党が、国鉄の「分割・民営化」反対闘争を実質上、放棄したなかでも、全国で国鉄労働者と共に「分割・民営化」反対の共闘組織が結成され、その運動が追求された。大量首切りと無権利状態、命令と服従の支配体制が確立されたなかでの国鉄労働者のたたかいは、毎日毎日が不安と動揺の連続であり、何よりも労働者全体の支援、連帯活動がなければたたかいつづけられなかっただけに、総評、社会党中央の態度は、厳しく糾弾されなければならなった。八五年には一九六三年の三井資本の合理化、保安無視によって引き起こされた三池三川坑大災害でつくらたCO患者の保障と責任追及を求め、たたかいつづけてきた三池労組が、財政やたたかいの展望を理由にして、和解を打ち出し、原告団は分裂した。そのなかで三二人の原告団(冲団長)は、三井資本の責任追及を求め、たたかいつづける決意をした。資本の攻撃は、三池労組をも巻き込んで労災・職業病闘争の圧殺をはかってきたのである。社青同は、冲原告団との交流を広げ、CO闘争の責任追及のたたかいにまなんでいった。
(43) 七九年の諸青年共闘の「再開」以降も、青年の共闘運動を破壊する動きは強まらざるをえなかった。右翼的労働戦線の統一や全民労協発足の歩みと同じくした一つの大きな流れが根底にあった。いくつかの単産青年部は諸共闘へのかかわりが困難になり始めてくる。社会党は八○年の第四四回大会方針で「階級的青年運動を青年同盟をつうじて組織する」ことを削除した。それは、これまでの『目本における社会主義への道』にもとづく反独占の階級的青年運動の育成強化の方針をとらないということであった。八二年の第四六回党大会には「『支持団体のあり方検討委員会』報告」を出し、党内の青対方針[を]めぐる論争を「党の上に青年同盟をおく」「青年同盟の意志を党にもちこもうとしている」との批判にすりかえた。形式的には青年政治同盟と党との関係は否定しないが、複数青年組織の是認を迫るものであった。具体的には、日朝連帯運動で反独占・反帝連帯の基調をアイマイにしたり、各県の連帯運動との統一闘争を切り離すこととなって現われた。また、八三年参院選の選挙闘争でも「社会党系の全ての青年の結集」を名目にした「青年選挙対策委員会」を認めなければ青年共闘も認めないということとなって現われた。社会党の「複数青年運動」が真に青年運動を作ろうとするものでないことは、日朝連帯運動が八二年一一月の「国際会議」以降、閉店状態になっていることを見ても明らかである。「複数青年運動」の狙いは、各県などの局地的部分的なものとしては容認しつつも社会党・総評ブロックの青年運動が、科学的社会主義の思想で全体的統一的になることを否定することにあった。このことは、県段階でも、県総評青半協が抜けたり、あるいは親が直接青年協を凍結するなどの三者共闘運動の破壊となって現われた。こうした階級的青年運動を否定する動きに対して、その一つひとつに見解を持ち、全国的な運動に依拠しながら、その力で青年の共闘運動を守る努力を強化した。日朝連帯運動も全国的な運動を背景にして八四年に全国交流会を持たせた。しかし、その後の中央における閉店状態を克服しえていない。また八二年の第四六回党大会では九県本部代議員による「社青同中軸」「青少年局運営の民主化」を求める修正案が出され、今日も係争中となっている。こうして一つひとつの攻防がつづいてきたが、実態としてはより一歩踏みこまれている。「複数青年組織の認知」を社青同にせまり、それを拒否したからと「援助金」のストップをしたり、また直接的な青年共闘運動の破壊(八六年参院選)も行われた。中央青年共闘として全国の青年の統一闘争の武器たる『青年共闘パンフ』の発行が否定されたりもした。社青同は、八○年以降、青年の共闘運動の中心を、「行革」合理化がもたらす首切り・賃上げ攻撃に対決して、国鉄闘争を軸として反「行革」統一闘争を作り出すことに全力を上げてきた。とりわけ敵の集中攻撃は国鉄職場にかけられているなかで、国鉄の青年労働者への激励、職場訪問、学習と交流などを全国で無数に組織した。当初は「国鉄の職場はひどい」という感想も多かったが、国鉄職場への攻撃は自分の職場の「行革」合理化と同じことであることが、学習と交流の継続のなかで共通の自覚として少しずつ広まっていった。この「行革」攻撃のなかで、学習と交流を通して地区労青婦協の再建・結成や、単組青年部の強化をも作り出していく成果もかちとってきた。また、団結集会も地区をはじめ、全国で生活・労働の実態をみなおし、要求の根拠を明確にするための「生活・職場実態点検手帳」づけの取り組みを行った。全体として資本家の主張におされ、要求さえも出せなくなるなかで、労働者の立場を明確にすることは重要であり、青年のアキラメの克服とたたかう決意に果たした役割は大きかった。社青同の国際活動も八三年十月、日ソ勤労青年交流集会(六五名が訪ソ)や八五年夏の世界青年学生平和友好祭典(モスクワ)に参加するなど強化された。このなかで社青同は、帝国主義下における自らのたたかいを自覚し、プロレタリア国際主義の立場はどうあるべきかをまなんできた。八○年の南朝鮮での光州事件以降、四・一九〜五・一八を日朝連帯月間として提唱し、活動を強めてきたことに加え、アフガン、ニカラグアなどへの連帯支援運動を取り組んできた。
第十節 八○年代後半の闘い
(44) 中曽根内閣は、八五年の内政の課題として、教育臨調、地方「行革」、国鉄改革の推進を表明した。自治省は一月に「地方行革大綱の策定」についての通達を各自治体へ出し、八五年を「地方行革元年」にする意気込みを示した。六月に臨時教育審議会は「教育改革に関する第一次答申」を発表する。七月に行革審は「行政改革の推進方策に関する答申」を発表し、内閣の総合調整機能の強化、規制緩和、国有地の活用をはじめとする「行革」の全面的展開を表明する。また、同月、国鉄再建監理委員会は「国鉄改革に閣する意見」のなかで、「分割・民営化」をはじめとする一二万四千人の首切りを発表する。一二月には、国鉄当局は国労をはじめとする組合に「労使共同宣言」を強制するが、国労はこれを拒否した。「分割・民営化」を一年余り後に控えた国鉄当局は、国労への攻撃を集中し、「雇用不安」を利用しながら、分断・分裂工作を強めてきた。動労の国鉄当局への屈服をはじめ、国労からの分裂組織が結成されていった。八六年七月には、動労が総評を脱退した。合化労連では、春闘、反合理化闘争をたたかうことを求める組合と全民労協を支持する合化本部との対立がつづき、臨時大会で(一二月)三五組合(約二万万千人)の除名が決定された。独占資本は労資協調を唱える全民労協を歓迎するかたわら、一方で国労をはじめ反合理化闘争を基軸にして、たたかう労働組合と労働者の排除攻撃は織烈さを増し、労働運動内部では、全民労協の路線をめぐって総評を二分する意見の対立となった。八六年十月九日、国労は第五〇回臨時大会(修善寺)を開催した。大会は執行部が提案した「労使共同宣言」を否決し、たたかう路線と組織を守った。その後、国労旧主流派は、国労から脱退して、「鉄産総連」を旗上げした。総評、社会党指導部は、国労旧主流派との結びつきを強め、国労への冷たい態度をとりつづけた。八七年四月一日の「分割・民営」後の新会社の採用、清算事業団への配属の実態は、国労への不当差別、不利益扱いであることを衆知のものとした。
(45) 社会党は『日本における社会主義への道』に変わる「新宣言」を八六年一月の第五〇回続開大会で決定した。「新宣言」という改良主義路線は、大量首切りと政治反動の吹き荒れる客観的条件から大きく離れたものであった。その結果は八六年七月に行われた衆・参同時選挙に現われた。自民党は二百五十議席から三百四議席へ躍進、社会党は百十議席から八十六議席へ後退という衆議院の結果であり、中曽根内閣に「五五年体制の崩壊から八六年体制」と言わせしめた。総評は八七年の第七七回大会で「一九九〇年に全的統一を達成して総評を解体する」ことを決定した。全民労連が一一月二〇日に結成されるに伴って、同盟、中立労連は解散を決定した。これによって、国民春闘共闘会議は解散されるなど総評労働運動の軸足は全民労連へ移行されることになった。社会党も全民労連の発足を前にして「自前の党づくり」として、安保や自衛隊をはじめとする党の基本政策の見直し、「新言言」に基づく「組織改革」(案)が提案され、社・民の歴史的和解が叫ばれるようになった。そうしたなかで「新宣言」に反対した党県本部代議員を中心に党の基本政策の変更を許さないことを基本活動とする党員活動家による「党建設研究会全国連絡協議会」が発足した(八七年六月)。国労は八七年九月に第五〇回大会から試練の一年を経過し、「分割・民営」後の五ヵ月余のたたかいを総括する第五一回大会を開いた。大会では国労の反合理化闘争路線を堅持し、総評解体反対、たたかう労働戦線の統一をめざして他の単産との共闘を強化し、その先頭に立ってたたかいつづけることを宣言した。国労、全港湾などの呼びかけによって、総評解体反対の単産の結集が民間中小労組や日教組内の奮闘などと連動しながら、全国的な動きとなりはじめた。社青同もこれを支持し、青年運動のたたかいと総括から反合理化闘争を自らの職場から再構築していくことを重視しながら、全民労連に反対し、総評労働運動解体反対の取り組みを強化した。
(46) 社青同は、国鉄闘争が正念場を迎えた八六年十月に 第二一回大会を開催した。十月九日の大会開会の委員長挨拶で国労修善寺大会で「労使共同宣言」を否決したことが報告され、会場は万雷の拍手でこれに答えた。資本の集中的な攻撃のなかで、たたかわれてきた国鉄闘争は、総評や社会党の弱さを明らかにしたが、同時にたたかう国労への大きな期待が広く存在していることも示した。とりわけ、熾烈な体制的合理化が全産業、全職場で吹き荒れるなかで「国鉄闘争は自分の問題だ」という企業を越えた労働者の連帯意識を育て、反合理化、反「行革」統一闘争が全国で組織された。敵の攻撃で国労組織は減少させられたが、たたかう路線と組織が残った意義は大きい。大会では労働者が人間らしく健康で働きつづけ生きつづけていくためには、資本とたたかいつづけるしかないこと、当局にすり寄っても、生活と権利は守られないこと、そして資本とたたかいつづけていくためにはもう一人の仲間、家族を含めた団結がないとたたかいつづけられないことが、統一的に強調された。これが国鉄闘争を軸に反「行革」統一闘争を全国から追求してきた同志たちの結論であった。資本への責任追及のたたかいを強めるために、仲間と結びつき、仲間と共に反合理化闘争を労働組合の機関としてたたかっていく努力を強化していくことを意志統一しあった。そのためにも、自分自身の怒りをはっきりさせ、仲間と結びついていける同盟員の主体性が強く要請されていることも明らかとなった。そのことを大会議案の基調では次のように提起された。「資本、仲間、古典の三つの先生に統一的にまなぶことが必要である。労働者の権利意識を確立し、もう一人の仲間をつくりつづけたたかいつづけていく同盟員と仲間の成長をかちとっていくためには、どの一つが欠けてもだめである。三つの先生に統一的にまなんでいく相互討論、相互批判を組織的に展開していく班活動を確立しよう」と。奪われる生命と権利の実態を取り上げ、反合理化闘争として組織していくためには、資本への怒りはどうか、仲間のことがつかまれているか、たたかいの展望(法則への確信)がどうかという三つの先生に統一的にまなんでいくことがないとたたかいは組織できにくいし、たたかいつづけていけないということであった。八七年十月にロシア革命七O周年を記念して開催された全国交流集会では全ての職場に「仕事優先」が強制され、そのもとで現職死亡や自殺、健康破壊など、生命と権利が奪われつづけていることが共通して報告された。そのなかでたたかいをつくりだしていくには再度、働かされ様や扱われ方にこだわり、労働者は労働力を売っても、生命と権利、健康までは売っていないとの労働者の物の見方、考え方をはっきりさせ、仲間との共通認識をつくり上げなから、資本への責任追及のたたかいを強化していくことの大切さをまなびあった。人間らしく健康で働きつづけ生きつづけるために、班と職場の往復運動を積み上げながら、具体的に反合理化闘争を組織していく社青同の主体性の強化を意志統一した。国際活動では八七年八月にロシア革命七〇周年記念訪ソ団(一〇七名)を派遣し、その後の国際友好文化センター結成(八八年六月)の基礎を築いた。
(47) 八六年に人って、失業者は三%を越えた。円高不良のもとで、産業構造の再編成という国家ぐるみでおしすすめる体制的合理化は大量首切り(失業)と低賃金労働を労働者階級におしつける。国内での産業構造の再編合理化にとどまらずに、海外への資本輸出を行い、国内外の労働者階級からの搾取を強めてきた。八時間労働制の崩壊や労働時間の弾力的運用による長時間労働の強制を合法化する労働基準法改悪が四○年ぶりに強行された。そのもとで労働者の生命と権利が奪われ、人間として健康で働きつづける条件が増々困難となっている。労働者階級の反抗の増大は必然である。独占資本は体制的合理化を労働者階級の抵抗を抑えて遂行するためにこそ、この十数年間、周到な準備と組織づくりによって、労資協調路線の全民労連を育成し、援助してきたのである。しかし、資本主義の根本的矛盾である「失業の不可避性」は労資協調そのものの基盤を崩さざるをえない。現に八七春闘全体としては、ストなし低額回答におさえこまれたが、私鉄一畑やプリマをはじめ中小民間の職場では、第二組合を含めてストライキに立ち上がらざるをえなくなっている。また、国鉄の清算事業団のなかて、反首切り闘争に立ち上がっている国労の仲間は不安と動揺を学習と交流、家族ぐるみをつうじて克服し、たたかいつづけている。国鉄闘争を軸とする反首切り反「行革」統一闘争も全国で組織されている。われわれは、資本主義社会の「失業の不可避性」という客観的条件と、そのもとで労働者階級は資本とたたかわないかぎり、人間らしく生きていけないという自覚が労働者のなかに広がらざるをえないという科学的社会主義の路線に確信をもたなければならない、そのことを見定めて、組合員大衆が苦しんでいる首切り、出向、配転、賃下げ、労働強化、諸権利の破壊など、奪われる生命と権利の問題を具体的に取り上げ、反合理化闘争として組織していくことが強く求められている。このたたかいを通して、階級対立を自覚し、社会主義社会を実現するしかないという階級的意識をもった青年労働者を大量に育成していくことが社青同の任務である。総評解体の危機が深まるなかで、労働者の組織がどうなるのかという不安、動揺も深まってくる情勢ではあるが、今日の運動の後退が、労働者階級の焦眉の課題である首切りや賃下げ、奪われる生命と権利の問題を反合理化闘争として組織できなくなってきたところにあるとすれば、ここでの運動の再構築をおいて、有効な反撃はないはずである。社青同は、あくまでも科学的社会主義の学習と反合理化闘争を土台に、資本主義社会への根本的批判の思想をもって、右傾化と断固としてたたかい、全民労連に反対し、反独占政治的統一戦線の中心的勢力である総評労働運動の階級的強化をおしすすめることを意志統一し奮闘した。
(48) 社会党は八八年一月の第五三回大会で「新宣言」にもとづく「組織改革」(協力党員制度の導入と民主集中性の放棄を内容とする)を決定した。安保、自衛隊、原発、「韓」国問題などの基本政策の変更を狙った攻撃も執拗に繰り返されてきた。総評は、同年三月の拡大評議会に、前年の第七七回大会で決定していた「九〇年秋の総評解体」を一年早めて、「八九年全的統一して、総評解体」を提案した。全民労連を主導とする労働運動の右翼的再編成によって、いよいよ総評が解体されることが必至となった。国労、全港湾、新聞労連をはじめとする全民労連に参加していない民間単産は総評が実質上、春闘を放棄したなかで「八八春闘懇談会」(三〇単産二十五万人)を発足させ春闘の発展・継承をめざした。また、労研センターは、総評解体を想定して全民労連に反対する全ての労働者、労働組合の結集をめざす連絡・共闘組織として「全国労働組合連絡協議会」を提唱した(八八年六月)。また、総評解体の流れのなかで、これまで総評・社会党ブロックのなかで発展してきた反独占青年運動も、大きな影響を受けざるをえなくなった。その具体的現われとして、八八年の第二一回全国青年団結集会の開催要綱(講師)に対して、総評から見解が出され、実行団体(単産青年部)の不一致が生まれた。これは団結集会だけの問題にとどまらずに、他の青年共闘にも波及する。これまでの形態での青年共闘の維持が全民労連の発足と総評の解体によって、困難になってきたのである。全民労連は青年組織委員会を発足させて、青年部活動に着手しはじめた。そうした状況を受けて、反独占青年運動の路線と組織をどのように維持し、前進させていくかが問われた。右傾化が資本との闘争の解体(資本への協力)をつくり出しているなかで、青年運動を強化していくには、青年の実態からの論争とたたかいを職場、地域から強化しなければならなかった。全民労連の青年活動方針には、反独占の具体的たたかいと運動をもって対決していくしかない。同盟のようにボランティア運動と富士政治大学の取り組みなど、青年運動といえないような状況があるなかで、「行革」合理化による首切り、賃下げ、労災・職業病など青年労働者の切実な闘争課題を取り上げ企業を越えた交流を組織し、これを大幅賃上げ、反合理化統一闘争にしていくことをめざした。青年の共闘運動は春闘や反首切り、反合理化闘争を中心とする闘争課題による企業を越えた青年の統一闘争にとどまらずに、そのたたかいをつうじて、資本主義社会を打倒し、社会主義社会をめざしてたたかう青年の階級的自覚と団結を構築していくことにあった。七七年以降の青年の共闘運動の破壊攻撃の狙いも、この闘争路線と組織を解体することにあった。社青同はそうした認識の上にたって、運動の基調を大事にしながら大衆運動を背景にしてその運動と組織を守ってきた。そのたびに鍛えられ成長してきた。その論争は資本の「不況・赤字」攻撃、「行革」攻撃で、企業主義に立つ合理化協力路線が総評労働運動に浸透してくるなかで、これまで通りの主張と運動をつづけようとする運動とのぶつかりであった。「生産に協力し企業再建することが雇用を守る」という「雇用確保」路線と青年の共闘運動はぶつかった。共闘の問題でありながら反合理化闘争そのものが、議論となった。反合理化闘争による労働者の階級的統一と、社会主義をめざしてまなびたたかう青年同盟としての闘争路線が問われたのである。この青年の共闘をめぐる論争は、たんに社青同の路線・主張だけの問題ではない。各職場の労働者一人ひとりと労働組合の態度が問われているのであり、資本の攻撃にたたかって生命と権利を守るのか、すりよって守るのかの厳しい討論である。労働組合とは何か、何のために誰と共闘するのかなど、組合民主主義に立った大衆的討論が求められた。厳しくともその論争はさけられない。それはとくに国鉄闘争への連帯で鋭く問われた。社会党・総評が、たたかう国労への支援・連帯を明らかにせず、むしろ「雇用確保」路線でおさえこもうとする動きが強まった。そういう妨害をはねのけて、社青同は国鉄闘争の強化に全力を上げ支援連帯活動を全国で組織した。団結集会運動は四二都道府県・三〇〇地区で組織され、その参加者は六〜七割が同盟員以外の青年である。そして、反合理化闘争と同時に、政治闘争でも積極的に闘争をもちこみ=共闘の内実を、作る努力を始めた。八二年広島から始まった反核平和の火リレーは八八年平和友好祭(日本実行委員会)のなかで三四県に広がり三万人の青年が行動に参加するようになった。平和友好祭でのアンケート活動、あるいは青年部としての三宅島訪問、また反基地・反自衛隊闘争の継続的取り組みが開始され強化された。社会党・総評ブロックの解体がすすめられるなかで、これまで通りの路線を守り、運動を作り、たたかいを呼びかけ、仲間を組織しつづけている意義は大きい。そこには科学的社会主義の学習を土台に育成された労組幹部・活動家が多数配置され、日常的な五人組活動、家族ぐるみ、学習会、職場反合理化闘争など三池の長期抵抗統一路線に立った二十年余りの運動の積み上げがある。この実践にまなぶことである。攻撃の厳しさだけで総評労働運動が解体したのではない。大衆闘争路線の実践の不十分さが今日の事態を招いたのである。労働運動と社会党の強化の展望は、自分の職場から科学的社会主義の学習と職場闘争を粘り強く積み上げながら、もう一人の仲間作りをすすめ、春闘や反合理化闘争を再構築していくことである。そのことを抜きに新しいことを考えたり幹部批判だけでは一歩も進まない。一人ひとりの労働者、労働組合、社会党に問いかけて、労働者の切実な闘争課題を反独占大衆運動として組織し、全体のものにすることを通して、反独占青年運動の解体を阻止することに全力を上げる時である。この先、青年の共闘の形態がどうなるかは分らない。右傾化した労組のなかで青年部組織すらない例が多い。しかし、奪われる生活、権利の実態が広がっているなかで、広範な青年がたたかうことを求めている。科学的社会主義の学習と反合理化職場闘争を粘り強く組織し、労組青年部運動の再構築をめざしながら、反独占のたたかいを呼びかけていけばいつの時代も青年は無限の力を発揮する。「この階級へのそれとともにまた政党へのプロレタリアの組織化は、労働者自身の間の競争によってたえず繰り返しうちくだかれる。だが、それはいつも、一層強力な、一層強固な、一層有力なものとなって復活する」(共産党宣言)総評解体という事態を受けて、われわれが意思統一すべきことは、社会主義革命にむけた強固な主体性を不断の学習と大衆闘争をつうじて再構築していくことである。 
 

 

 
 

 

 
日本共産党

 

日本の政党。略称は共産党、共産、JCP。1字表記の際は、共と表記される。所属国会議員数で民進党に次ぐ野党第2党。
科学的社会主義を党是とする。当面は対米従属と大企業の支配に対する民主主義革命を、将来的には社会主義的変革を目指すとする。日本共産党の国会議員数は、衆議院議員21名、参議院議員11名で民進党に次ぐ野党第2党である。また、7人の党員地方自治体首長や約2800人の地方議員を抱える。
正式な党名は日本共産党。略称は共産党、共産。英語名は Japanese Communist Party。英語略称は JCP。
「日共」との呼称は批判的立場から使用される場合が多い。また党本部の住所は千駄ヶ谷だが最寄り駅が代々木駅のため、暗示的に「代々木」と呼ばれる場合もあるが、これは日本共産党(の現執行部)を日本の正統な共産党と認めない新左翼などの他の共産主義者から使用される場合に多い。同様に、数多く存在した「日本共産党」を自称する他の党派と区別するため、特に「日本共産党(志位派)」「日本共産党(代々木派)」などと表記することもある。更には日本共産党の正統性を否定する立場から「日「共」」のように鉤括弧を付けた記載例もある。
党章は、一つに合わせられた、民主主義革命・民主統一戦線・国際統一戦線・日本共産党建設をそれぞれ表す4枚の赤旗の上に、農民と労働者を表す、稲穂を通した歯車。
■綱領
現状認識と二段階革命論
2004年に改定された現在の日本共産党綱領(以下、綱領とよぶ)では、現在の日本を「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている」と現状認識し、現在、日本で必要な変革は社会主義革命ではなく「民主主義革命」であり、その次の段階で「社会主義的変革」をめざすとしている。これは、いわゆる二段階革命論の一種で、1961年の綱領から続いている。
戦前のコミンテルン日本支部として位置づけられた時代に、コミンテルンが日本の君主制廃止を決定した27年テーゼや、「絶対主義的天皇制廃止のためのブルジョア革命を起こし、次いで社会主義革命を起せ(2段階革命論)」と提起した 32年テーゼ、研究によって32年テーゼと同様の認識にいたった日本資本主義論争における講座派の流れを汲んでいるということもできる。
批判的な立場からの言及としては、1970年代に1961年綱領をもとに現在の主張と最終的な目標が異なる(反対する政党の幹部は、〈熱海にいくつもりで「こだま」号に乗ったら「ひかり」号で名古屋まで連れていかれる〉というたとえを使った)とする説が提起された。その後、2004年の綱領改定後も依然として二段階革命論は生きており、場合によっては暴力もありうるため警戒すべきだと主張する意見がある。
民主主義革命
2004年1月の第23回党大会改定の綱領において、日本社会が必要としている変革は社会主義革命ではないとし、「民主主義革命と民主連合政府」が目標として掲げられた。大企業・財界と対米従属の勢力から、日本国民の利益を代表する勢力への権力の移譲を民主主義社会での革命と位置づけ、資本主義の枠内で可能な民主的改革と位置づけている。 日本共産党は、現在の日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、以下の民主主義革命であるとしている。
○国の独立・安全保障・外交の分野
 ○対米従属を打破し、日米安全保障条約の廃棄と非同盟・中立の日本を実現する。アメリカ合衆国とは対等平等の友好条約を結ぶ。等々。
○憲法と民主主義の分野
 ○憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。
 ○議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。
 ○18歳選挙権を実現する。
 ○日本国民の基本的人権を抑圧するあらゆる企てを排除する。男女の平等、同権をあらゆる分野で擁護し、保障する。信教の自由を擁護し、政教分離の原則の徹底をはかる。等々。
○経済的民主主義の分野
 ○長時間労働や一方的解雇の規制を含め、ヨーロッパの主要資本主義諸国や国際条約などの到達点も踏まえつつ、「ルールある経済社会」を実現する。
 ○大企業(独占資本)へのさまざまな民主的規制と、軍縮や無駄な公共事業の中止、大企業・資産家優遇税制の見直しを財源とした社会保障の充実。等々。
以上の民主主義革命によって、日本はアメリカの事実上の従属国の地位から抜け出し、真の主権を回復するとともに、国内的にも国民が初めて国の主人公になる。また、日本は軍事的緊張の根源であることをやめ、平和の強固な礎に変わる。
この民主主義革命は、1961年綱領では、「日本の当面する革命は、アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配――2つの敵に反対するあたらしい民主主義革命、人民の民主主義革命である」とされ、1994年の綱領までほぼ同一の表現であった。2004年の綱領改定時には「多数者革命」や「議会の多数を得ての革命の路線」との説明がなされた。
民主主義革命への過程:統一戦線に基づく「民主連合政府」構想
日本共産党は、「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。」として、単独政権ではなく統一戦線にもとづく連合政権をめざしている。また「国会を名実ともに最高機関とする議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。」としている。
この「統一戦線」は歴史的には、1945年の綱領では「いっさいの民主主義勢力の結集による人民戦線の結成」や「正しき実践的目標の下に協同しうるいっさいの団体および勢力と統一戦線をつくり」とされ、1947年の綱領では「広範な民主戦線」、1961年から2004年までは「民族民主統一戦線」と表現されていた。この「民族民主統一戦線政府」は「革命の政府」へ移行するとしていたが、2004年の綱領改定でこの規定は削除された。
社会主義的変革
日本共産党は、当面の民主主義革命の後に、社会主義を支持する国民の合意を前提に、国会の安定した過半数を得て社会主義をめざす権力をつくり、以下の社会主義的変革をめざすとしている。
○資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる
○主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化
○民主主義と自由の成果、資本主義時代の価値ある成果のすべてを受けつぎ発展させる
○思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由を厳格に保障する
社会主義・共産主義の社会では、「さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。」とし、一党独裁制や指導政党制は採らないとしている。また、ソ連型社会主義の官僚主義・専制の誤りは繰り返さないと強調している。これらは「自由と民主主義の宣言」に より詳しく記載されている。ただし、これらは主に理念的な内容であり、社会主義・共産主義の社会での、憲法、政府、軍備、議会、私有財産制の範囲などの具体的な詳細は記載されていない。日本共産党は、これらは将来の世代が創造的に取り組む課題であり、いまから固定的に決められないとしている。
社会主義社会が高度に発展すると、搾取や抑圧を知らない将来の世代では「原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」への展望が開かれるとしている。
なお、この「社会主義的変革」は、1961年の綱領では「社会主義革命」との表現であったもので、1994年に「社会主義的変革」という表現に変更された。また、「社会主義社会は共産主義社会の低い段階である」とする二段階発展論がマルクス・レーニン主義の定説であったが、マルクス、エンゲルス自身はそういう区別をしていなかったとして二段階発展論をやめ、2004年の綱領改定で「社会主義・共産主義の社会」という表現に変更された。
日本国憲法の取扱い
綱領では、日本国憲法を「民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた」と評価し、当面の「民主主義革命」では「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」としている。将来の社会主義的変革における憲法に関する記述はない。
歴史的には、敗戦直後の大日本帝国憲法下で「天下り憲法廃止と人民による民主憲法の設定」を掲げた(1945年の行動綱領)。現憲法制定時(1946年11月3日)には政党として唯一反対し、日本国憲法公布記念式典に誰一人参加しなかった。国の独立には自衛権と軍事力が必要と表明し、第9条について「われわれは、このような平和主義の空文を弄する代わりに、今日の日本にとって相応しい、また実質的な態度をとるべきであると考える…それゆえに我が党は民族独立の為にこの憲法に反対しなければならない(野坂参三)」と述べている。1961年の綱領では「憲法改悪に反対し、憲法に保障された平和的民主的諸条項の完全実施を要求してたたかう」とした。
天皇制の取扱い
綱領では、日本国憲法の天皇条項について、「民主主義の徹底に逆行する弱点を残した」との批判と、「天皇は「国政に関する権能を有しない」ことなどの制限条項が明記された」との評価が併記されている。また、共産党は、「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ」としている。同時に、「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」と、日本国憲法第1条後段(天皇の地位は主権がある日本国民の総意に基づき決せられる)に遵うとしている。
歴史的にみると、日本共産党は敗戦直後の、天皇が日本を統治していた大日本帝国憲法下で「天皇制の打倒、人民共和政府の樹立」を掲げた(1945年の行動綱領)。1961年の綱領では、現行憲法について天皇条項など「反動的なものをのこしている」として、民主主義革命のなかで「君主制を廃止」するとしていた。2004年の綱領改定で現在の方針となった。現在の日本について、日本共産党は、君主制にも共和制にも属さない過渡的な状態との認識を示している。
こうした立場から、日本共産党はいわゆる「皇室外交」について「憲法違反」として認めておらず、中止を要求している。また、帝国議会の開会式の形式をそのまま引き継いでいるとして日本共産党の国会議員団は天皇の出席する国会開会式に欠席してきたが、2016年の通常国会(第190回国会)で初めて開会式に出席した。
自衛隊の取扱い
綱領では、「民主主義革命」後に「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」とする段階的解消論である。
歴史的にみると、1946年には日本国憲法第2章は自衛権の放棄で民族の独立を危うくすると反対していたが、1961年の綱領では自衛隊は「事実上アメリカ軍隊の掌握と指揮のもとにおかれており、日本独占資本の支配の武器であるとともに、アメリカの極東戦略の一翼としての役割をおわされている」とし、1961年から1994年までは「自衛隊の解散を要求する」と明記していた。1980年代ごろまでは、対米従属の自衛隊は解消し、その後に改憲を視野に入れて自衛のための組織を持つという武装中立政策であり、非武装論や護憲論ではなかった。
その後、日本共産党は1994年の第20回党大会で、現行の日本国憲法第9条(戦争の放棄、戦力の不保持)は将来にわたって継承・発展させるべきものであり、社会主義・共産主義の理想と合致したものであると表明した。さらに2000年の第22回大会で、同党の自衛隊政策を、(1)軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2)日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3)国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という「段階的解消論」に転換した。
なお、第22回大会では、(1)または(2)の段階で万が一、急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定した。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重である。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられ、大会でも代議員から批判的な意見も出た。
2001年12月22日の九州南西海域工作船事件では当初は態度を表明しなかったが、委員長志位和夫は「日本への主権侵害に対応するのは第一義的に警察力である海上保安庁だ。その機能を充実させることは必要だ」と発言し、後に海上での攻撃を可能とする海上保安庁法改定案に賛成した。
2007年6月には陸上自衛隊情報保全隊が密かに収集していたイラク戦争反対の市民団体や著名人のリストを入手し公表した(詳細は情報保全隊の市民活動監視問題を参照)。
2015年12月18日、埼玉県上尾市の平田通子市議は、陸上自衛隊高等工科学校について、「工科学校は人を殺す練習をする学校」と発言している。
自由と民主主義の取扱い
日本共産党は綱領で、当面の「民主主義革命」において「議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する」としている。将来の「社会主義的変革」においても、「民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる」としている。
なお、日本共産党は1976年に「自由と民主主義の宣言」を発表し、3つの自由として、(1)生存の自由、(2)市民的政治的自由、(3)民族の自由、を将来にわたって守ることを公約している。特に、市民的政治的自由については、旧社会主義諸国の否定的経験も踏まえ、議会制民主主義や三権分立の堅持と発展・言論・出版の自由やその他一切の表現の自由・信教の自由・学問の自由・団結権・人身の自由・文化の自由・芸術の自由の擁護と発展・国定哲学の否定・少数民族・個人生活の自由の擁護を宣言している。
歴史的にみると、1945年の綱領には「いっさいの反民主主義団体の解散」や「民主主義の敵たる天皇主義御用政党の排撃」とあり、1961年の綱領には社会主義建設の一環として「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」が挙げられていた。1973年に共産党は「ディクタツーラ」の訳語を「独裁」から「執権」に変更し、1976年には「プロレタリアート執権」も削除して、上述の「自由と民主主義の宣言」を発表した。
■組織
日本共産党は職場、地域、学園につくられる支部を基礎とし、基本的には、支部――地区――都道府県――中央という形で組織される(規約第12条)。基本的には個々の党員が所属し、日常的な党生活を送る組織は支部であるので、支部は党の基礎組織と位置づけられている(第38条)。その上で、国会議員団、地方議員団および党外組織の常任役員でつくる「党グループ」等、支部以外の特殊な基礎的組織が、組織体系を補完している。これらは相応する指導機関の直接指導下にある。地区以上の指導機関の役員や何らかの特殊事情のある党員など、例外的に上級組織に直属する党員もいる。
各級組織におかれている機関には、組織の最終的な意志を決定する機関(議決機関)たる「最高機関」と、その決定の実行に責任をおう機関(執行機関)である「指導機関」の2種類があり、これらを総称して党機関という。最高機関として、中央では党大会、都道府県では都道府県党会議、地区では地区党会議、支部では支部総会がおかれ、地区以上の各最高機関を構成する代議員は1級下の最高機関より選出される。支部総会は支部に属する党員が出席する。指導機関には上記の最高機関に照応して、中央委員会、都道府県委員会、地区委員会および支部委員会または支部長がある。
地区委員会および都道府県委員会は、経営や地域、学園にいくつかの支部がある場合、必要に応じて、補助指導機関をもうけることができる(第18条)。その任務は、自治体活動やその地域・経営・学園での共同の任務に対応することにあり、指導機関(地区、都道府県委員会)にかわって基本指導をになうことではない。補助指導機関を設置するさいには、1級上の指導機関の承認を必要とし、構成は、対応する諸地区委員会および諸支部からの選出による。
指導機関の構成員(役員)は当該級の最高機関が選挙によって選出する。役員に選出される資格として2年以上の党歴が必要である。役員候補者は最高機関の選挙人が自薦を含めて自由に推薦できるほか、指導機関が次期委員として推薦する(第13条)。選挙方式には大選挙区完全連記制が採用されている。
党組織には、上級の党機関の決定を実行する責任がある。その決定が実情にあわないと認めた場合には、上級の機関にたいして、決定の変更をもとめることができる。上級の機関がさらにその決定の実行をもとめたときには、意見を保留して、その実行にあたる(第16条)。たとえば、都道府県委員会の決定に対し、指導下にある地区組織および支部は、それに反対している場合でも、都道府県委員会が認めなければ、実行にあたらなければならない。また、全党の行動の統一をはかるために、国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表することをしない(第17条)とされ、行動のみならず意見の公表にも制限が加えられている。
このように上級の決定が下級の言論活動を含む実践一般を強く拘束する一方で、党規約は党機関が決定にさいして、党組織と党員の意見をよくきき、その経験を集約、研究することを要求する(第15条)。また、党員と党組織の側にも、党の政策・方針について党内で討論し、意見を党機関に反映させることを求めている。
以上、第15〜17条は党規約第3条に組織原則として示された民主集中制の内容を組織運営一般の次元で明らかにしたものである。
都道府県機関と地区機関は地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、自治的に処理する(第17条)。ただし、中央委員会は地方党組織の権限に属する問題でも、必要な助言をおこなうことができる(第21条第7項)。また、都道府県委員会も同様にして、地区党組織に必要な助言をおこなうことができる(第31条第5項)。このような権限・権利を地方党の「自治権」と呼ぶこともある。
中央組織
党大会は党(中央組織)の最高機関である(詳細は「日本共産党大会」を参照)。原則として2年から3年に1回開くが、特別な事情のもとでは、中央委員会の決定によって、党大会の招集を延期することができる。また、中央委員会の決議や3分の1以上の都道府県党組織の要求によって臨時党大会をひらくこともできる(第19条)。党大会は都道府県党会議の選出する代議員と党大会を召集した中央委員会構成員(前回大会が選出)からなる。党規約第20条は党大会のおこなうことを、(1)中央委員会報告の確認、(2)中央委員会の提案議案の審議・決定、(3)綱領・規約の改正、(4)中央委員の選出、の4項目に定式化している(要旨)。
中央委員会は、党大会からつぎの党大会までの党の指導機関である(詳細は「日本共産党中央委員会」を参照)。党大会決定の実行に責任をおい、対外的に党を代表し、全党を指導する。現在は計200名弱の中央委員と准中央委員から構成されている。任務は規約第21条が、(1)対外代表と全党指導、(2)中央機関紙、(3)国際・全国的問題、(4)方針と政策の徹底と実践、(5)理論活動(科学的社会主義)、(6)幹部政策、(7)地方党組織への助言、(8)財政の8カ条に定式化している(要旨)。
中央委員と准中央委員はどちらも党大会で選挙によって選出される。その際、中央委員会は候補者を推薦する。代議員(選挙人)も自由に候補者を自薦も含めて推薦することができるが、前例は少ない。2010年1月の第25回党大会では、中央委員会が候補者として中央委員162人、准中央委員35人を推薦し、投票の結果、163人の中央委員と35人の准中央委員が選出された。
内部には権限の大きさと任務の内容にしたがって中央委員会総会、幹部会、常任幹部会(他の共産主義政党・団体における政治局に相当)等の合議制機関が階層的に配置されている。中央委員会総会(年2回以上開催)を最高決議機関とし、常任幹部会や書記局、中央機関紙編集委員会などが日常的な指導や事務をつかさどる。書記局は政策委員会や国民運動委員会、中央委員会付属社会科学研究所(所長:不破哲三)、出版局など、さまざまな部署に分かれた中央委員会の内部機構を統括している。総会から総会のあいだ中央委員会の職務をおこなうのは幹部会で、幹部会の職務を日常的に遂行するのは常任幹部会である。したがって、中央委員会の日常的任務をになう機関は常任幹部会ということになる。常任幹部会は毎週開かれる。党規約は最高職を明記していないが、一般的には中央委員会議長、中央委員会幹部会委員長、同副委員長、中央委員会書記局長が党三役として、とくに幹部会委員長は党首として扱われている(現在の具体的人事は#現在の執行体制を参照)。
都道府県組織
都道府県組織の最高機関は都道府県党会議、指導機関は都道府県委員会である。都道府県委員会は、都道府県党会議決定の実行に責任をおう。党規約第31条は党委員会の任務として以下の6項目を列記している(抜粋)。
1.その都道府県で党を代表し、都道府県の党組織を指導する。
2.中央の諸決定の徹底をはかるとともに、具体化・実践する。
3.地方的な問題は、その地方の実情に応じて、自主的に処理する。
4.幹部を系統的に育成し、適切な配置と役割分担をおこなう。
5.地区党組織の権限に属する問題でも、必要な助言をおこなうことができる。
6.都道府県党組織の財政活動の処理と指導にあたる。
都道府県委員会の最高決議機関は都道府県委員会総会で、すべての都道府県委員と准委員から構成される。都道府県委員会総会は委員長と常任委員会を選出し、常任委員会は、都道府県委員会総会からつぎの総会までのあいだ、都道府県委員会の職務をおこなう(第32条)。都道府県委員会は、大都市など、いくつかの地区にわたる広い地域での活動を推進するために、補助指導機関をもうけることができる(第18条)。また、経営や地域(区・市・町村)、学園にいくつかの支部がある場合も補助的な指導機関をもうけることもできる。これら補助指導機関の設置には中央委員会の承認が必要である。
地区組織
東京都23区では特別区を単位に細かくおかれている一方で、人口・党員の少ない都道府県では、県土を2 - 3つにわけた程度の広範囲を管轄する地区組織もある。たとえば、島根県は、東部、西部、中部の3地区に分轄されている。地区組織の最高機関は地区党会議、指導機関は地区委員会である。地区委員会は、地区党会議決定の実行に責任をおう。党規約第36条は党委員会の任務を都道府県委員会に準じた内容の6項目に整理している。
地区委員会の最高決議機関は地区委員会総会で、すべての地区委員と准委員から構成される。地区委員会総会は委員長と常任委員会を選出し、常任委員会は、地区委員会総会からつぎの総会までのあいだ、地区委員会の職務をおこなう(第37条)。地区委員会は、経営や地域、学園にいくつかの支部がある場合、補助的な指導機関をもうけることもできる(第18条)。設置には都道府県委員会の承認が必要である。
支部
職場、地域、学園などに、3人以上の党員がいるところでは、支部をつくる。支部は党の基礎組織であり、それぞれの職場、地域、学園で党を代表して活動する(第38条)。かつては「細胞」と呼ばれていた。1人の党員が複数の支部に重複して所属することはない。支部の数は2010年現在、およそ2万2000おかれている。2006年1月の第24回大会の2万4000からおよそ2000支部減少した。この間党員数は微増している。
職場にもとづいてつくられる支部は「職場支部」、地域で結集する支部は「居住支部」ないし「地域支部」、大学など学園の学生で組織されるものは「学園支部」などと呼ばれる。共産党支部は、他の日本の政党には見られないほど多く組織され、都市部の居住支部はとくに身近に存在し、このことが同党を大衆政党(組織政党)として特徴づけている。
支部の最高機関は支部総会、指導機関は支部委員会である。ただし、党員の少ない支部は支部長を指導機関とする。支部総会はすべての党員から構成され、支部委会員ないし(指導機関としての)支部長を選出する。支部委員会はその内部機関として、支部長を選出する。支部には必要に応じて、副支部長をおいたり、下部組織としての班をもうけたりできる。班には班長をおく。
例外だが、状況によっては、社会生活・社会活動の共通性(階層)にもとづいて支部をつくることができる。現在は青年という年齢層にもとづいて組織される「青年支部」、複数の学校にまたがる「学生支部」(学園支部は同じ学校で組織されるので区別される)がある。
党員が3人にみたない地域・職場・学園では、党員は付近の支部にはいるか、または支部準備会をつくる。
後援会
議員や候補者個人の後援会はつくらない方針をとっており、すべて党後援会となっている。党後援会員は380万人以上である。党支部に対応する「単位後援会」と、各階層・大衆運動ごとにつくられるものの2種類に大別される。「日本共産党後援会全国連絡会」「日本共産党・全国業者後援会」「日本共産党全国女性後援会」「日本共産党全国農業・農民後援会」の4つの全国組織がある。個人名(候補者名)を冠した個人後援会を組織した時期もあったが、1980年の第15回大会が「後援会を日常不断に活動する恒常的な組織として大きく発展させ、「特定の候補者だけの支持活動でなく、各種の選挙で共産党の議員候補者を支持して連続的にたたかえる、共産党後援会的な機動性をもった組織」として確立することを」決議し、以後、個人後援会は党後援会に再編にされた。
■政治資金
日本共産党は党規約で政治資金を、党費、党の事業収入および党への個人の寄付などによってまかなうと規定している(規約第45条)。日本共産党規約の第45条から第47条よりなる第10章(資金)が党財政の通則にあたる。内訳は事業収入が最も大きく収入の9割近くを占め、そのほとんどが「しんぶん赤旗」等の機関紙誌の購読料収入である。企業・団体献金と政党助成金は受取りを拒否している。支出面でも機関紙誌の発行事業費が6割以上をしめる。このように、機関紙事業の規模が大きいことが資金を大規模化させており、例年、総額は日本の政党としては最大級の200億から300億円規模に達している。一般に、日本の議員は政治資金の面で、党からの交付よりも政治献金を含めた自己資金に依拠する傾向が強いが、日本共産党の議員は党が政治資金を支えている。
産経新聞は、神奈川県逗子市、川崎市、座間市、福岡県行橋市といった自治体で日本共産党の議員らが「しんぶん赤旗」の勧誘・配布・集金を行っている、と報道している。また、橋下徹大阪市長は日本共産党が政党助成金に反対していることを「きれい事」「全国の役所が購入してすさまじい額のお金を払っている。政党助成金そのものだ」と述べている。
政治資金収支報告書(2011年3月28日宣誓)によると、2010年の収入(前年からの繰入を除く)は約237億4600万円、支出(翌年への繰越を除く)は232億4200万円であった。収入の内訳は、党費が約8億2100万円(約3.46%)、寄付が4億4400万円(1.87%)、事業収入が208億6700万円(87.88%)、借入金が100万円(0.00%)、「本部又は支部から供与された交付金に係る収入」が13億2200万円(5.57%)、利息や地代・家賃など「その他の収入」が2億9100万円(1.23%)であった。寄付は全額が個人から。事業収入のうち、機関紙誌は205億3600万円で、全収入比でおよそ86%を占める。
支出(翌年への繰越を含む)の内訳は、経常経費が約37億8400万円、政治活動費が205億2200万円(うち、「本部又は支部に対して供与した交付金に係る支出の内訳」が76億6300万円)となっている。機関紙誌の発行事業費は政治活動費に含まれ、148億8100万円と支出全体の64%を占める。なお、政治資金パーティー開催事業費は支出していない。このように、機関紙活動を中核とし、企業・団体献金や交付金を排除した財務構造について、共産党は「国民と草の根で結びついて活動していることの反映であり、他の政党とまったく異なるわが党の財政の健全さをしめすもの」であると肯定的に評価している。
党費は、実収入の1パーセントとし、月別、または一定期間分の前納で納入する。失業している党員、高齢または病気によって扶養をうけている党員など生活の困窮している党員は、党費を減免できる(第46条)。日本民主青年同盟の同盟員として活動している党員は、納入する党費から同盟費(550円)を差し引いた額を納める。2010年は延べ数で約300万人が党費を納めた。中央委員会、都道府県委員会、地区委員会は、それぞれの資金と資産を管理する(第47条)。規約第47条に対応し、各級組織の「財政活動の処理と指導」が、当該級指導機関の任務のひとつに規定されている(第21条第8号、第31条第6号、第36号第6号)。なお、支部には党費を集める任務がある(第40条第3号)。
中央委員会には財務部門として、書記局のもとに「財務・業務委員会」が設けられている。同委員会は一般的な意味での財務のみならず、赤旗など機関誌紙発行事業の総務も所掌している。委員会の前身は第24回大会(2006年)期までは「財務・業務局」という独任制の部署であった。第25回大会時(2010年)に常任幹部会は、財務・業務委員会の責任者に、財務・業務局長の上田均(常任幹部会委員)を引き続き任命した。委員会には事務局と財政部、機関紙誌業務部、管理部、厚生部、赤旗まつり実行委員会がある。上田は政治資金収支報告書に記載される会計責任者を兼ねる。会計監査は中央委員会監査委員会が行っている。
企業献金については、「見返りを求めない企業献金などあり得ず、政治を腐敗させる元凶」として受け取らず、団体献金についても「団体に所属する構成員の思想・信条の自由を侵害する」という理由で受け取っていない。ただし、企業経営者からの個人献金は受け取っている。
政党交付金(政党助成金)については憲法違反の制度であるとして受け取りを拒否している唯一の党である。かつて第二院クラブが、登録はしておいて助成金の受け取りを拒否し、自党が受け取るはずの助成金を国庫に戻させることにより、自党分の助成金が他政党へ配分されることを回避していたが、日本共産党は登録をすること自体が政党助成制度を認めるとして登録をしないため、共産党に割り当てられるはずの政党交付金は他党に配分されている。
■機関紙誌
日本共産党は機関紙活動を党活動の中心に据えており、「しんぶん赤旗」を筆頭にさまざまな機関紙誌を発行している。それらは誰でも購読する事ができる。
中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。非党員の支持者の読者も多い。第25回大会(2010年1月)で中央委員会は購読者数の現勢を日刊紙、日曜版あわせて145万4千人と報告している。うち、日刊紙は2011年7月に24万部であると第3回中央委員会総会で明らかにされた。中長期的な購読者数の趨勢は第15回党大会(1980年)時の355万部をピークに一貫して、減少傾向を示している。1980年代のうちは300万部以上を維持していたものの、1990年(第19回大会)に1987年より30万部近く減らして286万部と報告された。さらに10年後の2000年には199万余に後退し、2006年1月(第24回大会)の164万部を経て、2013年10月末時点では前述の123万部にいたった。この23年間で通算すると、ほぼ半減の163万減となる。
雑誌には『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』の4つの月刊誌があり、日本国内ではいずれも一般の雑誌書籍の流通ルートから手に入る。かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『世界政治資料』。1992年12月の第875号をもって廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号をもって廃刊)などの刊行物もあった。1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号をもって「休刊」している。都道府県委員会など地方組織の指導機関が編集・発行する地方機関紙もある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が多い。京都民報社の『京都民報』や大阪民主新報社の『大阪民主新報』など、他大衆団体との共同機関紙というコンセプトから、党外団体を発行主体とする場合もある。その他、地方議会議員(団)の広報紙がある。
普及協力
新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及・宣伝に協力しており、党の事務所では販売や定期購読の申し込みを受け付けている。かつては同様の普及協力誌に、総合月刊雑誌の『文化評論』や『あすの農村』、『労働運動』、『科学と思想』(年2回刊)があったが現在は休刊・廃刊している。
また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』(月2刊)の購読の仲介もしている。過去には民青同盟の『われら高校生』、学生新聞社(所在地は新日本出版社とおなじ)の『学生新聞』や、小中学生向けの『少年少女新聞』(少年少女新聞社)も普及していたが、現在は休刊・廃刊した。
■歴史

 

■戦前:非合法時代
結党
1922年7月15日、堺利彦・山川均・荒畑寒村らを中心に日本共産党が設立(9月創立説もある)され、一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。
11月にはコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部・日本共産党となった。この時、コミンテルンから「22年テーゼ(日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。
「綱領草案」は、政治面で、君主制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結・出版・集会・ストライキの自由、当時の軍隊・警察・憲兵・秘密警察の廃止などを求めていた。経済面では、8時間労働制の実施、失業保険をふくむ社会保障の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と小作地の耕作農民への引き渡し、累進所得税などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国にたいするあらゆる干渉の中止、朝鮮・中国・台湾・樺太からの日本軍の完全撤退を求めた。
日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。
日本共産党は一斉検挙前に中心人物が中国へ亡命したり、主要幹部が起訴されるなどにより、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは共産主義運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。赤松など国家社会主義等に転向する者もいた。
その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が制定された。
再結党と戦前の活動
1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)の手で共産党は再結党された(第二次日本共産党)。その際の理論的指導者は福本和夫であり、彼の理論は福本イズムと呼ばれた。福本イズムは、レーニンの『何をなすべきか』にのっとり、「結合の前の分離」を唱えて理論的に純粋な共産主義者の党をつくりあげることを掲げた。福本和夫が政治部長、市川正一、佐野学、徳田球一、渡辺政之輔らが幹部となった。1927年にコミンテルンの指導により福本和夫は失脚させられ、渡辺政之輔ら日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して「日本問題にかんする決議」(27年テーゼ)をつくった。「27年テーゼ」は、中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけた。その一方で、社会民主主義との闘争を強調し、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用した。「27年テーゼ」が提起した日本の革命や資本主義の性格をめぐって労農派と論争が起こった。詳細は日本民主革命論争、日本資本主義論争を参照。
当時の党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労農党や労働組合などの合法活動に顔を出し活動を支えた。共産党員であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動や、小林多喜二、宮本百合子らのプロレタリア文学は社会に多大な影響を与えた。
1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一、山本懸蔵をはじめとする何人かの党員が労農党から立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし、1928年の三・一五事件で治安維持法により1600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年の四・一六事件と引き続く弾圧で約1000人が検挙されて、日本共産党は多数の活動家を失った。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。
相次ぐ弾圧で幹部を失うなかで田中清玄らが指導部に入った。田中らは革命近しと判断して、1929年半ばから1930年にかけて川崎武装メーデー事件、東京市電争議における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などの暴発事件を起こした。
1931年4月、コミンテルンより「31年政治テーゼ草案」が出された。この草案は当面する日本革命の課題を社会主義革命としていた。
このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。1931年9月に発生した満州事変に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とする声明を出した。1932年には軍艦や兵営の中にも党組織をつくり、「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。
1932年5月、コミンテルンにて32年テーゼが決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、地主的土地所有と独占資本主義という3つの要素の結合と規定した。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定し、中心的スローガンを「帝国主義戦争および警察的天皇制反対の、米と土地と自由のため、労働者農民の政府のための人民革命」とした。
1932年5月、全協の活動家であった松原がスパイとしてリンチされ、赤旗に除名公告が掲載された。8月15日には朝鮮人活動家の尹基協がスパイ容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。立花隆は、スパイMを通じて日本共産党の中枢を掌握した当局が、全協をもコントロール下に置こうとして仕組んだ事件と推測している。この頃から党内部でのスパイ狩りが始まり出した。
10月に熱海で全国代表者会議が極秘裏に招集されたが、当局により参加者らが逮捕された(熱海事件)。同月、赤色ギャング事件が発生している。松本清張は『昭和史発掘』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。日本共産党も同じ見解であり、特高警察が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内部に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。警察の工作員や協力者が共産党の幹部になり、彼らの働きで暴力的事件を起こさせ、日本共産党の社会的信用を失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとされている。実際にスパイであったことを公判で自白して、治安維持法違反の容疑を否定したものもいた。
さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した(共同被告同志に告ぐる書)。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。党内の動揺はいよいよ激しくなり、1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった袴田里見の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。
戦時下の活動
1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルン第7回大会(1935年)が人民戦線戦術を決議すると、野坂参三らは「日本の共産主義者へのてがみ」を発表して日本における人民戦線運動を呼び掛けたが、党組織は壊滅しており現実の運動とはならなかった。
日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。
その後も、関西には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも当局によって弾圧された1937年12月から1938年にかけて労農派に治安維持法が適用され、930人が検挙された(人民戦線事件)。また、国外に亡命していた野坂は、延安で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において日本共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。
■戦後:合法化以降
日本の敗戦と合法化
第二次世界大戦が1945年8月15日に日本の降伏で終結した後、日本共産党は徳田球一を書記長として合法政党として再建された(戦前の共産党(第二次共産党)との断絶を重視する立場(加藤哲郎など)からは、これ以降の共産党を「戦後共産党」(第三次共産党)と称することもある)。出獄した幹部は、釈放を喜び、はじめのうち連合国軍を「解放軍」と規定した(現在は否定している)。1946年の第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。
独自の憲法草案として、日本国憲法の制定前の時期に「日本人民共和国憲法草案」を発表。日本国憲法制定時の採決では、「天皇制の存続による民主化の不徹底」や内閣総理大臣吉田茂の「自衛戦争の否定」発言などを理由に、反対票を投じている。
連合軍に解放された党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜、ゼネラル・ストライキ中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。
日本国憲法施行により実施された一連の選挙、第23回衆議院議員総選挙・第1回参議院議員通常選挙・第1回統一地方選挙では、天皇制廃止や食糧・炭鉱の人民管理などを主張する共産党は急進的すぎると見られ、党の思惑通りの議席数は得られなかったが、統一地方選挙では青森県新城村(現・青森市新城地区)をはじめ、全国11の自治体で共産党員首長が誕生した。その後も国民の生活困窮を背景に活発な大衆運動を続けた事で党勢を拡大し、片山・芦田内閣の迷走で社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では従来の約9倍にあたる35議席を獲得した。特に東京都区内の7選挙区全てで当選者を出すなど、大都市部やその周辺だけでなく、農民運動のさかんだった鳥取県全県区や山梨県全県区など、ほかにも新潟や石川など、東北・四国地方以外のすべての地域で当選者をだした。
1950年問題(分裂、武装闘争方針)
平和革命論批判と分裂
アメリカ合衆国による日本占領が続く中、1948年の朝鮮半島で分断国家である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の成立、1945年の中国での国共内戦に勝利した中国共産党による中華人民共和国の成立などで、東アジアの緊張が高まった。
1950年1月6日、ヨシフ・スターリンが指導するコミンフォルムは、機関紙に論文「日本の情勢について」を掲載し、当時の日本共産党の野坂参三らの「占領下での革命」論(平和革命論)を批判した。これに対して徳田球一らは論文「“日本の情勢について”に関する所感」を発表して反論した(このため後に所感派と呼ばれた)。しかし中国共産党も人民日報で日本共産党を批判すると、第18回拡大中央委員会で宮本顕治らはスターリンや毛沢東による国際批判の受け入れを表明して、主流派の徳田らと平和革命論を批判した(このため後に国際派と呼ばれた。不破哲三は後に、当時はアメリカ占領軍撤退が優先されるべきと思ったと発言している)。また1950年2月には徳田要請問題が発生し、徳田が証人喚問される事態になった。
1950年5月には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして日本共産党の非合法化を検討しているとの声明を出した。直後に日本共産党と占領軍の間の大規模な衝突である人民広場事件が発生し、6月にはマッカーサーは共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止(レッドパージ)を指令した。7月には9人の共産党幹部(徳田球一、野坂参三、志田重男、伊藤律、長谷川浩、紺野与次郎、春日正一、竹中恒三郎、松本三益)に対し、政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反で逮捕状が出た(後に春日正一に懲役3年の有罪判決、松本三益に免訴判決が言い渡された)。
公職追放と逮捕状が出た徳田球一や野坂参三らは、中央委員会を解体して非合法活動に移行し、中国に亡命して「北京機関」とよばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った(これらを後の日本共産党指導部は「一種の「クーデター的な手法」による党中央の解体」と呼び批判している。)6月25日には朝鮮戦争が勃発した。
コミンフォルム論評への対応に加えレッドパージによる弾圧もあり、日本共産党は、主流派である徳田らの所感派と、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。
所感派の非合法活動
所感派の指導の下に、様々な非合法活動が行われた。しかし、これらの武装闘争路線は国民の支持を得られず、多数の離党者を生む結果となった。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになった。また、武装闘争方針は政府与党にたいし治安立法強化の口実を与えることになり、1952年には破壊活動防止法(破防法)が制定された。破防法における破壊的団体の規制に関する調査を行う公安調査庁は、発足当初から一貫して日本共産党を主要な調査・監視対象としている。
武装闘争路線の放棄と「再統一」
1951年9月に日本はサンフランシスコ講和条約を締結。1952年4月に条約が発効され、日本は主権を回復した。これにより、公職追放は解除された。所感派中心の北京機関は、地下放送の自由日本放送で武装闘争を指示したが、内部でも徳田球一と野坂参三の対立が発生した。1953年に徳田球一が北京で死亡した。また朝鮮戦争が1953年に休戦した。
1955年7月、日本共産党は第6回全国協議会(六全協)を開き、従来の中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議した。またこの大会で志賀義雄、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握った。宮本らは再統一を優先して個々の党員がどういう機関のもとに活動していたのかは不問とする方針を示し、旧所感派の野坂参三を第一書記として「再統一」を宣言した。
更に1958年の第7回党大会では宮本顕治が書記長(後に委員長)となり、この第7回党大会と1961年の第8回党大会で、1950年から1955年までの分裂と混乱を「五〇年問題」(50年問題)や「五〇年分裂」(50年分裂)と呼び、その「軍事路線」はソ連・中国の大国による干渉と「徳田、野坂分派」の「政治的クーデター」による、暴力革命が可能という政治情勢が無いにもかかわらず武装闘争を行った極左冒険主義であると規定して批判した。これらは以後、外国の干渉は受けないとの自主独立路線の始まりとなった。以後の日本共産党執行部は、2012年現在でも、この「五〇年問題」の期間に行われた五全協、六全協での「再統一」宣言や「軍事方針」である「51年綱領」の決議、「北京機関」からの指示、それらに従って行われた武装闘争などは全て、徳田、野坂分派が党中央を無視して勝手に行ったもので、無効であり、従って「日本共産党の大会とも中央委員会とも何の関係なく、日本共産党の正規の機関が武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは一度もない。としている。
この日本共産党の武装闘争路線と、突然の路線変更は各方面に大きな影響を与えた。党の方針と信じて武装闘争に参加していた党員は、党とは無関係に勝手に不法行為を行った形になり、一部は「党中央に裏切られた」と不信感を持ち、後に日本共産党への「スターリン主義」批判や新左翼運動にもつながった。また、以前の「平和革命」の支持者や、マルクス・レーニン主義の暴力革命の原則を支持する一部の知識人や共産主義者、武装闘争に批判的な大多数の国民のそれぞれから、不信感や警戒心を持たれた。公安警察と公安調査庁は、日本共産党は「敵の出方論」や暴力革命を実際には放棄していないとみて、現在でも違法な「調査活動」を続けている。1986年には日本共産党幹部宅盗聴事件が発覚した。日本共産党はこれらの不法行為によるスパイ行為を批判している。また警察庁の『警察白書』では、現在も共産党を調査対象団体とし、数ページを割いて動静を追跡しているが、これは国会に議席を持つ政党に対しては唯一の扱いである。警察学校の「初任科教養」でも、警察は政治的中立を保たなければならないのに、党の綱領や決定について批判的な講義がされている。一方、破壊活動防止法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、党組織や日本国民救援会などの人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。共産党が武装路線を放棄した後も1960年代半ばまで、朝日新聞などの全国紙では、政党担当記者が共産党を取材して記事を書くのではなく、警察担当記者が公安情報を元に記事を書くという不正常な状況が続いた。そういうマスメディアに共産党側は「新聞は権力の手先」と反発していたという。
■合法活動路線と「自主独立路線」以降
1955年以降の宮本・不破体制
1955年頃から宮本顕治が事実上の指導者になり(比喩的に55年体制とも呼ばれる)、1960年代半ばには党の指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立、不破哲三に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し、「クリーンな党のイメージ」を打ち出した。1958年の第7回党大会以降は、不破哲三や上田耕一郎などの「改革派」が党中央の要職に就任した。
合法活動路線への転換や1956年のスターリン批判を経て、元党員のトロツキー主義者らは日本トロツキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは共産主義者同盟を結成した。1960年の安保闘争では強硬な運動を主張する全学連指導部を一時簒奪した勢力が日本共産党を主要な打倒対象として激しく対立。共産党は彼らをまとめて「トロツキスト」と非難したが、必ずしも批判された側すべてが「トロツキズム」を主張していたわけではない。
1960年代の党勢拡大と中ソ批判
合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年の第29回総選挙からは、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続た。
1961年に再開されたソ連の核実験に対して、日本共産党は当時、ソビエト連邦の核実験は防衛的と主張し、「いかなる国の核実験にも反対」と主張する日本社会党系との間で方針対立が激化。1965年に日本社会党系は原水協を脱退して原水禁を結成し、以後は日本の原水爆禁止運動は世界大会を含め分裂が続いている。この状況に日本共産党は「社会党、総評の特定の見解を世界大会に押し付けようとしたのが原水禁」で、原水禁は対話を拒んでいると主張している。
1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し、その中の一派共産主義労働者党を結成。春日らは、宮本の専横的な党運営を批判し、「一時離党」するとして「日本共産党万歳!」と声明したが、党は離党届を受け付けず除名処分とした。
1964年には中ソ対立の中で党の「中国共産党寄り路線に反対する」とし、国会での部分的核実験停止条約批准に党の決定に反して賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ連派が除名され、「日本共産党(日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時志賀鈴木らに同調して党に離反している。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両党は激しい論争となった。この時期、日本共産党員は競って中国語を習い、自分の名前を中国語読みし、「北京周報」を読むなど中国共産党への支持が強まっていった(親中派)。4.17ゼネスト問題で、スト破り的行為をとった日本共産党は、その後の自己批判にもかかわらず総評からの支持も失い、新左翼諸党派から厳しく非難された。この問題の真相は不明であるが、当時日中国交正常化を目指していた中国共産党が池田内閣を窮地に陥らせないために日本共産党に指令したという説がある。
また、1966年、文化大革命発生と同時期に中国共産党と中国政府から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界各国の共産党でも同じような現象がおきたが中国文革に同調し毛沢東を個人崇拝するグループが各地でつくられ、山口県委員会などは一時中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的親中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された」(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)。この過程で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中共派が党規約にそむいたかどで除名された。その後「日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党(解放戦線)」、「日本労働者党」などを結成した。国民の支持を仰ぎ議会多数を得ての革命路線への転換以後のこれらの党内闘争において、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを、日本共産党を飛び出した側が総じて掲げていた。しかし、実質的には武装闘争路線への回帰や外国の政権党の指導を受け入れることを路線として掲げていたもので、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と見ることができる。
ソ連・中国と距離を置いてから、日本共産党は「共産党イコール既存社会主義国の手先」というコミンテルン以来のイメージとはまったく違った対応を国際問題でとった。1968年のプラハの春を制圧したチェコスロバキア侵攻に際し、日本共産党はソビエト連邦共産党を明確に批判した。1979年12月にソ連がアフガニスタンに軍事介入すると(アフガニスタン紛争)、翌年1月にソ連を批判し軍の撤退を要求した。また中国によるベトナム侵攻(中越戦争)を批判し、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部(朝鮮労働党)によるとされる大韓航空機爆破事件・ラングーン事件・日本漁船銃撃事件などにも厳しい態度をとった。
一方でソ連派が党内に潜伏していたと見られ、ソ連崩壊後、ソ連共産党内部文書の公開が始まると日本共産党は独自調査団を派遣したが、明らかになった事実をもとに野坂参三はソ連内通者として除名された。
日本共産党は、こうした自党からの分派は勿論、新左翼の共産同・ブントや革共同中核派、革共同革マル派、革労協、社会主義労働者党(社労党)などの政治団体・運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治などの問題で共闘を拒絶し、排斥した(党派闘争参照)。大学では、日本共産党・民青はこれらの党派と厳しく対し、1971年6月19日、琉球大学の男子寮で民青と革マル派が衝突した際、革マル派の町田宗秀が寮の4階から転落して死亡した。
こうして、ソ連と中国との激烈な論争で大量の除名や分派を生み出しながら、同党は1960年代半ばごろに「自主独立」路線を確立し、むしろ50年以来傷ついた威信と党勢力を70年代前半にかけて長期的に回復・拡大していった。1967年に長野県塩尻市で初の党員市長(高砂政郎)が誕生した。
1970年代の躍進と共産党排除の進展
1970年7月の第11回大会で、革新統一戦線によって1970年代の遅くない時期に民主連合政府を作るとの政権構想を打ち出した。1972年の第33回衆議院議員総選挙では38名の候補者が当選し、議会第3党・野党第2党に躍進する。また、同年には田代文久が特別委員会の石炭対策委員会委員長に選出され、共産党議員として初の国会委員長が誕生した。
一方、党の内部では、1972年には中央委員で青年学生対策部長であった広谷俊二と日本民主青年同盟(民青同盟)幹部であった川上徹を中心とした分派が結成され、その摘発といういわゆる「新日和見主義事件」が発生した。
1973年の東京都議会議員選挙では当選者数が日本社会党を上回り、1975年の統一地方選挙では大阪府知事選挙で黒田了一を共産党の単独推薦で再選させた。
1973年11月、第12回党大会で綱領を一部改定し、「ソ連を中心とする社会主義陣営」から「ソ連を中心とする」を削除し、「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」の後半を「プロレタリアート執権の確立」に変更した。更に1976年7月、第13回臨時党大会で綱領から「プロレタリアート執権の確立」自体を削除して「労働者階級の権力」のみとし、また綱領と規約の「マルクス・レーニン主義」を「科学的社会主義」に変更した。また「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」では、民主連合政府では憲法9条を「あくまで厳守する」として「竹やり論」とも言われたが、同時に党としては「将来は、独立・中立の日本をまもるための最小限の自衛措置をとるべき」とした。
1974年、公明党の母体である創価学会と、松本清張の仲介で池田大作と宮本顕治で相互不可侵・共存を約した協定を10年間の約束で結んだ(創共協定または共創協定)。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、山崎正友による宮本顕治宅盗聴事件が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。その後、1980年6月、顧問弁護士・山崎正友が『週刊新潮』(平成5年10月21日号)で自らの犯行を告白。東京地方裁判所は2009年1月28日の判決で、山崎が共産党委員長宮本顕治邸盗聴事件を独断で行ったことを認定した。
1975年、文藝春秋誌上で立花隆の「日本共産党の研究」が連載開始され、1976年、この連載に「共産党査問リンチ事件」の裁判記録が掲載された。当時委員長であった宮本顕治と副委員長であった袴田里見が被告となったこの裁判の記事は国会でも取り上げられ、大きな話題となった。1976年の第34回総選挙では共産党の議席は17議席にまで落ち込んだ。
1976年に「自由と民主主義の宣言」という準綱領文書を採択し、ここでソ連モデルとは違う社会主義像を提起した。この流れは「ユーロ・ニッポコミュニズム」(欧州(西欧)的・日本的な共産主義)と呼ばれた。また1977年、袴田里見が除名された。一方で、1970年代後半からは一部の党員研究者によるネオ・マルクス主義的な思潮も現れ、党中央との軋轢がはじまる。
1979年の第35回総選挙では最高の39議席を得た。1979年10月に林百郎が衆議院懲罰委員長に選出され、共産党議員として初の国会常任委員会委員長が誕生した。その後は自民党や産経新聞を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンやサンケイ新聞事件などの強烈なネガティブキャンペーンの影響で落ち込む。この当時、『小説吉田学校』を執筆した戸川猪佐武が、『小説自民党対共産党』という本を出している。「70年代は自共対決の時代」と持て囃されたこともあった。
日本社会党と日本共産党は、日本政治の中では革新陣営に属し、中道の民社党、公明党をはさんで保守の自由民主党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を樹立するというのが当初の社共の方針であった。
共産党は民主連合政府で社会党との連立を前提としていたが、社会党内部には社共共闘より社公民路線を重視すべきだという意見が有力となった。民公、特に強い反共主義姿勢を持つ民社の側(特に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。これに同調したのが、社会党内の構造改革派・社公民路線派の一部が社会党左派に追われる形で独立した社会民主連合であった。共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。
1979年4月、東京都知事選挙で革新統一候補の元総評議長太田薫が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結した)による右傾化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員・支持者が共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を持った」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の国会対策委員長による会談」(国対政治)が常態化して、共産党の排除が進んだ。
1980年代の「革新懇」と「非核の政府」
1980年1月、社会党と公明党が日本共産党排除を前提とした政権構想に合意した結果(社公合意)、社会党との連立を前提にしていた民主連合政府構想は実現性が遠のいた。このため1981年、平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会(全国革新懇)を結成し、「軍事費を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」模索ではなく、「思想、信条、支持政党、の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、無党派との共同による新たな革新戦線を全国的に追求するとした。しかしこれは、社会党と共産党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見る見解もあり、亀田得治(元参議院議員)、成瀬昇(元愛知県評議長)、西岡瑠璃子(元参議院議員・歌人)、栗原透(元社会党高知県委員長・高知県議)、矢山有作(元衆議院議員)ら元社会党員も多数参加しているにもかかわらず、具体的な選挙共闘としては愛知県・高知県などを除き余り大きな成果は得られていない。革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、学区などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され、活動しているが、実態は党が名前を変えただけの組織である場合が多く、幅広い結集となっているとは言い難い。
なお、共産党が国政選挙で他党や無所属の候補を推薦・支持・支援した例としては、田中美智子、安田純治、陶山圭之輔、喜屋武眞榮、西岡瑠璃子、川田悦子(以上無所属)、島袋宗康、仲本安一、糸数慶子(以上沖縄社会大衆党)らがおり、そのうち田中・安田は当選後、院内会派「日本共産党・革新共同」に入っている。
1980年代、日本共産党は「民主連合政府」のスローガンを事実上棚上げし、「非核の政府」という路線にきりかえ、全国の自治体で「非核平和都市宣言」条例の制定運動などを行なった。これは、当時ソ連共産党が全世界的に展開していた「反核運動」と一定程度呼応するものであり、日本共産党とソ連共産党の一定の接近を意味した。だが、「非核の政府」には日本社会党が反対し、国政においては広がりを欠いた。
1989年元旦の「赤旗」の宮本顕治議長のインタビューを機に、党は事実上社会主義革命を棚上げし、二段階革命論に基づいて「資本主義のもとでの民主的改革」を強調するようになった。
1990年代のソ連崩壊の影響
1989年の東欧革命後の、1990年7月の第19回党大会では、社会主義はまだ生成期のために大国主義や覇権主義や官僚主義などの問題があるとした(社会主義「生成期」論)。1991年8月のクーデター後に発表されたソ連共産党の解散には、「もろ手を上げて歓迎する」という宮本顕治の発言が発表され(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)、その翌日に常任幹部会は「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する - ソ連共産党の解体にさいして」との声明を発表した。その一方、ソ連・東欧諸国の脱社会主義への動きを「歴史の逆行」とも評しており、その整合性に疑問の声も上がった。また1980年代には中国共産党に反論する形で、「社会主義完全変質論」を否定して「社会主義の復元力」を主張していたこととも矛盾していた。ほぼ時を同じくして、政府与党や社会党(現在の社会民主党)を含む他の野党、マスコミなどにより「体制選択論」「冷戦終結論」「保革対立消滅論」が大々的に宣伝され、党員の所属する労組・団体の弱体化が進み、党・労組・団体の解散と政治・社会運動からの撤退などの要求を突きつけられるなど、その後の選挙では苦戦を強いられた。また、核兵器問題など外交問題をはじめとする諸問題で、ソ連やルーマニアの指導者と共同声明を出したこともあった。特に、「宮本顕治同志とニコラエ・チャウシェスク同志の共同宣言」は、党内外からきびしい批判にさらされることとなった。1994年の第20回党大会では、ソ連は問題もあるが社会主義社会であるとしていた従来の「生成期」論を修正して、「スターリン以後のソ連社会は経済的土台も社会主義とは無縁」で、「社会帝国主義的」とした。
1970年代後半から生じていたネオ・マルクス主義の思潮と党中央との理論軋轢は、1990年代前半には丸山真男批判の動きも加わって、ネオ・マルクス主義の立場にある一部党員学者の除籍や離党へと帰結した。当時、法政大学教授であった高橋彦博(政治学)は1993年の『左翼知識人の理論責任』の出版を契機に除籍された。1994年には田口富久治(名古屋大教授、政治学)が同年の党大会における丸山真男批判(大会決議にも含まれる)を、きっかけとして、離党している。
1990年代前半の「政治改革四法」には強く反対したが、結局成立し小選挙区制が導入された。小選挙区での共産党単独候補の当選はきわめて困難なため、苦境に立たされることも予想されたが、1990年代後半には日本社会党からの離反層を取り込み、また集合離散の続いた他党候補者の濫立も有利に作用し、一時的に党勢が回復した。1996年の第41回総選挙では小選挙区で2議席(京都3区の寺前巌と高知1区の山原健二郎)を獲得するなど26議席を獲得。1998年の参議院選挙では15議席を獲得し、非改選議員とあわせて予算を伴う法案の提出権を初めて獲得した。
しかしその後は小選挙区制の定着による二大政党制指向の強まりや総議員定数の削減、日本周辺の国際情勢も相まって国会の議席が後退した。『しんぶん赤旗』の発行部数もピーク時の半分ほどにまで減少した。
1997年の第21回党大会で、無党派と共同して21世紀の早い時期に民主連合政府を実現するとした。
2000年代の不破・志位体制と国政における小政党化
2000年の第22回党大会第7回中央委員会総会(7中総)では、党規約から「前衛党」規定を削除する規約改定案が提案され採択された。また自衛隊解消前の「過渡期な時期」に必要に迫られた場合には「存在している自衛隊を国民の安全のために活用する」とした(自衛隊活用論)。また、同年不破哲三に代わり志位和夫が委員長となり、不破は宮本に代わり議長となった。この不破・志位体制の成立により、宮本の影響力は低下した。2006年1月11日 - 1月14日に開催された第24回党大会で、いわゆる「現実・柔軟路線」を指導してきた不破哲三が、議長職を高齢と健康などを理由に退き、「委員長志位・書記局長市田体制」(志位・市田体制)が確立した。
共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党・公明党の選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れ、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させた。また、共産党候補の供託金没収選挙区も大幅に増え、党の財政を圧迫する要因となった(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間、日本社会党・新進党に代わり民主党が野党第1党となった。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25選挙区の「共産空白区」が出てきた。「共産空白区」では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。共産党の小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300選挙区に候補者を立て235選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果だった。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。投票率が上がったため得票率は下がっている。
2006年の国政選挙では、4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。また、2007年4月に行われた参議院議員補欠選挙では、福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、民主党や社民党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている。
国政選挙で単独での小選挙区当選は困難だが、民主党はもとより、護憲という立場で政策距離が近い社民党との選挙協力の目処も立っていない。その一方、市町村合併にともなう各地の地方選挙では着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では公明党、自民党に次いで第3党の位置を保っている。また他党との協力については東京都多摩地区や青森県、沖縄県などで一定の共闘が実現している。国会内では、2007年9月4日に野党の国対委員長会談に復帰し、他の野党との共闘を強化することになった。
2007年9月8日の第5回中央委員会総会で、次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区に擁立する選挙区を絞り込む(ただし、各都道府県で最低1人は候補の擁立を目指す)方針を幹部会は提案した。9月9日、中央委員会はこの提案に賛成し、決定した。この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収されることによって、党財政の悪化の原因となっていることがあるとされる。
2008年9月、麻生内閣の発足に伴い、総選挙への総決起体制として第7回中央委員会総会を開いた。席上で志位委員長は、「働く貧困層」の解消など、自党の語ってきた問題が争点になっていること、自公政権が行き詰まっていること、しかし民主党は自民党の政治悪をただす立場にはないから、共産党の躍進が必要であることなどを述べた。また、「民主連合政府」が求められていることを強調したが、現時点で他党との協力はないという認識は変わっていない。ただし、国会では是々非々で「問題ごとに協力していく」としている。また、総選挙体制のため中央委員会は、2009年1月に予定していた党大会の延期を決定した。
2009年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区の候補を大幅に減らした。これは野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である。代わりに、比例区との重複立候補を増やしたので、比例での候補者数は増えた。また、大連立騒動や小沢・鳩山の献金問題などから改めて民主党を自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定してきた。さらに、2009年6月5日には、志位委員長は「どちらが政権の担い手になるかの選択ではなく、21世紀の日本の「進むべき道」の選択が問われていること、その「旗印」を示せる党は日本共産党をおいてほかになく」「「二大政党」の競い合いによる暗黒政治への逆行を許さない一番たしかな力は日本共産党をのばすこと」と述べ、民主党による政権交代は無意味どころか、暗黒政治への逆行になるとの見解を示した。
しかし、同年7月には東京都議会議員選挙で44年ぶりに議席が1桁(8議席)に落ち込んだ結果を踏まえ、若干路線を修正。民主党内の改憲論や衆院比例定数削減方針に反対する一方で、「一致点での協力を追求」と明記。労働者派遣法や障害者自立支援法の抜本改正、後期高齢者医療制度の撤廃、農家への所得補償、米軍基地の縮小・撤去などを挙げ、「(自公両党による)暗黒政治への逆行を許さない」と強調し、民主党を「暗黒政治」の批判対象から外した。一方、自民党の松浪健四郎は、第45回総選挙において、共産党の独自候補擁立が自党有利になるとの見解を示した。選挙区によっては、自民党が直接共産党に擁立を働きかけた事例もある。結果として議席数は現状維持であり得票率は郵政選挙の7.25%から7.03%に後退したものの、得票数では491万9000票から494万4000票と増加した。選挙後発足した民主党を中心とする非自民非共産連立政権に対しては、「建設的野党」として「良いことには協力、悪いことにはきっぱり反対、問題点はただす」と是々非々の立場を貫くと主張している。 その他、2008年にニコニコ動画に党公式チャンネルを設置したり、ツイッターやfacebookに党公式アカウントを取得するなど、このころからネット選挙を意識した試みを行っている。
2010年の第22回参議院議員通常選挙では、民国連立政権の普天間基地移設問題における違約や、菅直人の消費税増税発言などを厳しく批判した。しかし、議席を伸ばしたのはみんなの党と自民党で、共産党は比例のみの3議席に留まり、また得票数・率共に減らした。その結果、敗北を認める声明を出し、「党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意」を表明した。さらに、9月25日〜9月27日に行われた第2回中央委員会総会(2中総)で、志位委員長は参院選での後退を詫び、党員数は40万を維持しているものの、高齢化が進んでいること、党費納入率が62%に留まっているなどのデータを挙げ、党勢の衰退を認めた。その上で、「五つの挑戦」を打ち出し、次期総選挙で650万票を目標とすることを表明した。
従来40万人としていた党員数だったが、2012年5月24日、全国活動者会議で志位委員長が報告したところによると、「実態のない党員(幽霊党員)」が9万人以上いたためすべて離党させ、2012年5月1日現在で党員数は31万8千人になったと報告した。また、国政選挙での供託金の負担を、従来は党中央と地方組織で折半していたものを、6対4に改め地方組織の負担を減らした。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では組織的な被災地支援活動を行った。また、岩手県、宮城県、福島県の被災3県の県議選では復興や原発ゼロを訴え、いずれも前回を上回る議席を獲得した。
「自共対決」と党勢の復調
民主党政権が行き詰まりを見せた2012年9月に安倍晋三が自民党総裁に返り咲き、早期の首相復帰が確実となる。直後の第46回衆議院議員総選挙(2012年12月16日投開票)では、自民党は経済政策「アベノミクス」や安保政策などの政策を打ち出した。共産党は、前述の政府のTPP交渉参加に反対、歴代政権の原発政策、3党合意で決定された消費税増税法案を特に厳しく批判。同時に護憲、障害者に費用の原則1割負担を求める障害者自立支援法の撤廃などに代表される社会保障の拡充、労働問題の改善、尖閣諸島問題を初めとした領土問題の解決などを強く主張し、民主党のならず、政権復帰をうかがう自民・公明両党とも対決の姿勢を強めた。また前回の擁立方針を改めて、社民党の照屋寛徳を支援した沖縄2区以外の全選挙区に候補者を立てた。更に、反TTPを訴えたことから、自民党の支持基盤である農協の一部の支援も受けた。選挙結果は、前与党の自民党、公明党と、右派系野党の日本維新の会、みんなの党であった。共産党は1減の8議席(全て比例区)に留まったが、与党の民主党、国民新党と左派系野党の日本未来の党、社民党が議席大幅減となった中では、相対的な善戦であった。
翌年に控えた参院選に向けて、反アベノミクス、反TPP、反原発、反消費税増税、護憲など自民党の政策に真っ向から対決する政策を掲げ「自共対決」と大胆な方針を打ち出す。参院選の前哨戦として注目された都議会議員選挙(2013年6月23日投開票)では前回の8議席から17議席を獲得。選挙前の第1党から激減させた民主党を上回って第3党、野党では第1党となった。この結果、2009年選挙で失った議案提出権を回復した。
次いで行われた第23回参議院議員通常選挙(2013年7月21日投開票)では、勢いを維持して反自民の訴えを続ける。また若者を取り込むために解禁直後のネットでの選挙活動や雇用環境対策(ブラック企業批判等)にも力を注いだ。選挙結果は改選3議席から比例5議席、選挙区3議席を獲得。非改選を含めると11議席となり、議案提案権を9年ぶりに回復した。比例代表の得票は2010年選挙の356万票から515万票へと大幅に増加したほか、12年ぶりに選挙区で議席を獲得した(東京、大阪、京都)。3選挙区ではいずれも、民主党と第三極勢力を抑えての議席獲得となった。国政で議席を増加させたのは1998年参議院選挙以来、15年ぶりとなり、党はこの結果を大躍進と肯定的に評価、志位は「自民党と正面から対決して暴走にストップをかける頼りになる政党としておおいに力を発揮していきたい」と述べてた。一部大手紙は共産党の今回の躍進の背景に低投票率や反自民票が共産党に流れたこと、第三極勢力の戦略ミスの影響もあったと論じている。
都知事選(2014年2月9日投開票)では宇都宮健児を推薦、左派陣営は分裂選挙となり、落選するも元総理大臣の細川護煕を上回り次点となった。
第47回衆議院議員総選挙(2014年12月14日投開票)でも「自共対決」と銘打ち活発に活動。その結果、前回の2倍以上の21議席を獲得した。比例の得票数は11.37%、票数では600万を超え、小選挙区でも1996年の第41回衆議院議員総選挙以来18年ぶりに議席を獲得した(沖縄1区の赤嶺政賢)。参議院に続き衆議院でも議案提出権を獲得した。党はこの結果について「第26回党大会で決定した目標を基本的に達成することができた」「全体として、総選挙の結果は、画期的な躍進といえるもの」という発表を行っている。
2015年の第18回統一地方選挙の前半戦では、選挙が行われた全ての41県府議会で議席を獲得した。今までは、共産党の議員が存在していなかった栃木、神奈川、静岡、愛知、滋賀、三重、福岡の各県議会にも共産党の議員が誕生した。非改選の6議会も含めて、全ての都道府県議会で共産党が議席を獲得したのは結党以来、初の出来事である。同時執行の17政令市の市議会選挙でも共産党は選挙前の議席数を上回る136議席を獲得、民主党を抜く改選第三党、野党では第一党となった。後半戦でも勢いは変わらず、東京区議選挙で7議席、一般市議選挙で44議席、町村議選挙で11議席、合計62議席を新たに増やした。これを受けて党は本選挙戦は全体として躍進という結果だったという声明を発表した。
2012年から2014年にかけては、民主党、社民党、生活の党など他の左派政党が軒並み不調に陥る中で、ほぼ共産党の一人勝ちの状況が続いた。
2015年夏から秋にかけての平和安全法制の審議では反自民の政党による反対運動を主導し、民主党、維新の党、社民党、生活の党の4党と連携を深める。同法案の審議を境目に、共産党は従来の「独り勝ち」方針を改め、安保法制廃止の一点での連立政権を樹立するために選挙協力を行うことを提案した。かつての民主連合政府構想における共産党との政策や価値観の共有よりもハードルを下げた提案であり、社民、生活両党は賛意を示したが、身内に保守系議員を抱える民主党は難色を示した。共産党は民主党の反対を受けて、連立政権の案件を凍結、翌年の参院選での野党5党の選挙協力を提案した。翌年にかけて参議院一人区での統一候補の擁立作業が進んだ。結果、共産党は発表していた一人区の候補者擁立を取り止め(香川県選挙区を除く)、全員を比例区に回す措置をとった。
2016年の主要選挙には、概ね野党5党(3月に民主、維新両党が合併して民進党となってからは4党)の連携体制で臨んだ。まず4月24日投開票の衆議院北海道5区補欠選挙では、先に決定していた共産党候補の立候補を取り下げ、民進系の池田真紀を、共産・民進・社民・生活推薦の無所属候補として擁立。自民党公認で公明党らが支援の和田義明との一騎討ちとなり、前評判と較べて健闘したものの約12,000票差・惜敗率90.92%で落選した。一方、同日行われた京都3区の補欠選挙では、この野党共闘を優先する形で候補者の擁立を見送った。ただし民進党公認候補をはじめ、他の候補の支援・推薦には回らず、自主投票とする。
7月10日投開票の第24回参院選では、東京選挙区で1議席を獲得し、比例の5議席と合わせて6議席を獲得。非改選の8議席と合計して14議席となる。比例票は6,016,195 (10.74%)。参議院議員選挙としては、1998年の第18回通常選挙以来、18年ぶりの10%越えを達成した。
参院選直後の東京都知事選挙(7月31日投開票)でも野党統一候補として鳥越俊太郎を擁立、支援したが、選挙の告示直前の出馬(いわゆる「後出しジャンケン」)だったこともあり、準備不足も相まって3位に終わった。
8月9日、10月23日実施の衆院補選のうち、共産党福岡県委員会は、鳩山邦夫元法相の死去に伴う福岡6区の補選に新人で党筑後地区委員長・小林解子の擁立を表明したが、それと同時に民進党などと野党共闘に向けた協議を始める方針を表明。協議の結果次第では、4月の北海道補選と同様に擁立を取り下げる可能性も示唆した。また、小池百合子前議員の都知事選出馬に伴う東京10区の補選でも、新人で党豊島地区委員長の岸良信を公認候補として擁立しているが、野党共闘に前向きな姿勢を見せており、民進党側に対し候補統一に向けた協議を呼びかける意向を示している。
■その他
自主独立路線の影響と離党
1950年代に中ソに盲従することで党組織に壊滅的な打撃を受けた経験から、同党は「自主独立の重大性を認識させる契機」(同党第20回大会報告)となった。しかし同時に「ソ連などの覇権主義にたいする認識は、はじめから全面的であったわけではありません」(同)と記載されているように、50年問題解決後も、ソ連のユーゴスラビア非難への同調をした。ハンガリー事件を契機に、学生などが共産党の影響をはなれ、全日本学生自治会総連合などにいた学生党員を中心に日本共産党に反対する共産主義グループがつくられていった。
こうして、日本共産党を離れた人が結成したグループからの日本共産党への集団的な「復党」の動きは見られない(個人はある)。民主統一同盟や元第四インターナショナル・中核派活動家村岡到の個人党派「政治グループ稲妻」など、元は「日本共産党打倒」を掲げていた勢力が、共産党の側の新左翼への譲歩を前提として日本共産党との共闘を呼びかけた動きや、第四インター各グループが「よりまし」として選挙で共産党への投票を呼びかける動きもあるが、共産党側は「反省も無しに共闘には応じられない」と拒否している。もっとも1990年代以降、日米安保新ガイドライン改定反対、有事法制反対、憲法改正反対などの運動で、両者が集会を共にする機会は増えている。
スターリン支配のコミンテルンの「各国運動の自主独立」を標榜した解散から、戦後の「諸国共産党連絡調整機関」を標榜したコミンフォルムの実態、そしてコミンフォルム解散後も、政権党であったソ連共産党ならびに中国共産党が、各国の共産党を金銭的援助とともに「指導」する傾向が続いたにもかかわらず、日本共産党が資金援助を受けず、未だ政権党ではない中で、自主独立の立場を鮮明に出来たのは民主集中制の堅持と、戦前からの日本のマルクス主義研究の独自の伝統と、機関紙発行中心の近代議会主義にマッチした財政活動の確立が決定的なものであったと党は主張している。
1970年代には「自由と民主主義の宣言」や「宗教についての日本共産党の見解と態度」(宗教決議)、マルクス・レーニン主義の「科学的社会主義」への呼び変え、「プロレタリア独裁」や「前衛党」などの用語の綱領からの削除などを進めた。これらは当時のヨーロッパでのユーロコミュニズムの主張と類似点があり、上田耕一郎などはユーロ・ジャポ・コミュニズムなどと発言し、欧州諸党との親和性を強調した。これはソ連に主導された国際共産主義運動の動向・意向に敏感に従っていたそれまでの党のあり方と異なる点で、以後の日本共産党の特徴となった。なお、宗教に融和的な「宗教についての日本共産党の見解と態度」は、党内からの反発があり、党員の宗教学者が除名された。また大武礼一郎は第7回党大会の代議員として出席したが、第7回大会の方針は日和見主義であるとして党を離れ、「日本マルクス・レーニン主義運動」を通じて日本共産党(行動派)(下部組織に日本人民戦線)を結成した。
部落解放同盟との対立
部落解放同盟は元々、共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年10月8日、内閣同和対策審議会答申が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「毒まんじゅう」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、右翼社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。この当時の消息について、井上清は
「部落解放全国婦人大会をやりますと、それが部落問題は行方不明の、共産党の新婦人の会の大会みたいになるんだ。極端な例でいえば、洗剤は有害である、だから洗剤はやめましょうという話が、婦人集会で出る。これは、そのこと自体はいいんですよ、ところが、洗剤追放と部落の婦人解放とが結びついた話にならなくて、日共の例の「二つの敵」のことに部落問題が解消してしまう。洗剤っていうものはアメリカ帝国主義が日本に石油を売り込むためにやっているんだ、洗剤追放すなわち反米闘争すなわち部落解放運動だというので洗剤追放が部落解放の婦人運動の中心題目みたいな話になっちゃうんだな。どうにもあんた、解放運動の側からいうと、わけがわからない。(略)それでとうとう、解放同盟の古くからの闘士の先生方が我慢できなくなっちゃった。」
と語っている。 また、元衆議院議員の三谷秀治は
「解放同盟本部と社会党が答申を手放しで賛美したのに対し、地方支部の一部や共産党は、答申が、差別を温存してきた政治的責任に触れないで、いままた自民党の高度経済成長政策の枠のなかで欺まん的に部落問題の解決を求めようとしているとして、その融和的な性格を批判した。」
「同和問題が憲法にうたわれた基本的人権の保障の課題として位置づけられたことは基本的に正しかったが、非人間的差別を部落に押しつけてきたものはだれなのか、差別を利用して部落民を苦しめてきたものはだれであったのか、という政治的分析にはまるで触れられていなかった。部落差別の根っこが隠蔽されていることから、差別の敵を社会一般に求めようとする誤りが生まれた。」
と説明している。分裂前の部落解放同盟に対して「共産党とさえ手を切ってくれるなら同和対策に金はいくらでも出そう」という誘いがさまざまな筋からあり、北原泰作は断ったが、これに乗ってしまったのが朝田善之助だったともいう。
大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり、解放同盟京都府連と部落問題研究所との間で紛争が発生した(文化厚生会館事件)。さらに同和対策事業特別措置法制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「改良主義的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「矢田教育事件」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、解放同盟大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を挙げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には部落解放同盟正常化全国連絡会議(のちの全国部落解放運動連合会、全解連)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や利権、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の兵庫県立八鹿高等学校における、八鹿高校事件の発生であった。
現在でも共産党・解放同盟両者の関係は極めて険悪である。共産党は、部落解放同盟と呼ぶことを極力避け、必ず鉤括弧書きで「解同」と表記している。1990年代初頭までは「朝田・松井派」と、解放同盟側を分派として糾弾する姿勢をとっていた。すなわち、「解放同盟を自称しているが、実態は利権あさりの集団に過ぎない」という党見解を反映したものである。また、共産党は「志賀義雄一派と結びついた反共勢力が指導部を占拠(「解同」朝田派)し、「部落民以外はすべて差別者」とする部落排外主義を振りかざして、反対勢力を組織から排除しました。」という認識を示している。裏返せば、共産党内の親ソ派を排除した抗争が、解放同盟に飛び火したと認識していることになる。
現在一部の自治体では、地域の街づくり会議などで、互いの陣営が同席することも見られるようになった。これらは、地域の過疎化や世代交代によって、それぞれの勢力が減少傾向にあることや、部落差別の早期解消に向けて、一致点での共同を進めようとする努力の結果だともいえる。しかし、政治戦においては、支持政党の違いによる軋轢は今なお強く残っている。特定の選挙で野党共闘が成立した場合、結果的に同一の候補を支援することがあっても、一定の距離を保ちつつ、互いに独自の支援活動をすることが多い。
選挙方針
日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。社共共闘の破綻後は、地方選挙でも独自候補を積極的に擁立し、日本全国で少数派としての存在を示した。この戦術は、当選者が複数の中選挙区制では有効であった。定数1(小選挙区制)の選挙区では自民党と競り合う社会党の票を奪うことで、しばしば自民党候補の過半数以下での当選という結果をもたらした。自民党の長期支配が続く中、共産党の独自擁立も結果として自民党政権継続に有利に作用する要素として取り込まれていったと見られることもある。
その一方、地方の首長選挙で自民党と社会党が同調して、共産党以外全政党相乗りの候補が出現するようになると、「日本共産党の存在によって選択肢が確保され」ているとして「オール与党」批判の宣伝を行うようになった。ただ、滋賀県の武村正義、神奈川県の長洲一二、岡山県の長野士郎、世田谷区の大場啓二、神戸市の宮崎辰雄など、共産党も相乗りに加わる候補も一部に存在した。それについては「革新首長に自民党が同調し、乗っ取っていく過程に生じた一時期のものであり、次の出馬の際には共産党は排除されていった」と主張している。事実、共産党を含む相乗りは長続きせず、後に相乗り候補対共産党候補という構図が出来上がっている。
有権者の投票行動から見た場合、共産党は保守政党である自民党(および協力関係にある公明党)とはもちろん他の政党とも、特に国政に於いては政策的距離がきわめて大きいため、いわゆる無党派層の支持者において特に、選挙のたびに候補者選択に苦慮することになり、非自公間の選挙共闘が成立しにくい。小選挙区制の性質上、現在の共産党の戦術が非自公に極めて不利に働くことも事実である。自公政権時代は、得票総数では与党(自民・公明)を上回りながら、野党候補が落選するという事態が多発し、与党批判票が分散する事態が起きた。そのため、政策的に遠い民主党とはともかく、社共共闘の復活への待望論は少なからずある。支持者の一部には「当選の可能性がない以上、選挙区では民主党候補に投票する」動き(戦略投票)が一定数出ていることに対する警戒感は選挙の度に機関紙上で強調されている。都道府県知事選挙や国政選挙などで独自候補を擁立しても、自民党や民主党の候補と比べると報道は少ないため、機関紙などの自前メディアや街頭演説・ビラ配布など自前の活動が政策提言や意見表明を届ける大きな手段となっている。一方で、葛飾区や豊後高田市などでビラ配布を理由に党員や議員が逮捕される事件も起きている(葛飾政党ビラ配布事件参照)。党はこれらの事件を「言論弾圧事件」として厳しく批判し、裁判闘争を行なっている。
民主党は、小沢一郎が代表であった当時、共産党との協力の可能性に言及する変化も見られたが、選挙では両党の協力はほとんど行われていない。なお、2007年参院選後の首班指名選挙では共産党は参議院の決選投票では直近の民意を重視し、小沢一郎に投票している。なお、小沢一郎は1993年に自民党を離党するまで有力派閥田中派及び竹下派の有力人物であり自由民主党幹事長を経験するなど政権中枢の中心人物であり、当時は共産党は小沢一郎と大きく対立していた。
■公安調査庁・警察庁による監視
公安調査庁の破壊活動防止法(破防法)に基づく監視対象団体として指定されている。2016年3月の時点においても、日本政府は「現在においても破壊活動防止法(破防法)に基づく調査対象団体である」としており、共産党が「暴力革命」の方針を捨てていないと認識している。同じく、警察庁も、共産党が「暴力革命の方針」を保持していると認識している。これに対して日本共産党は公安調査庁を以下のように批判し、破壊活動防止法と共に廃止を主張している。
○国民に対するスパイ活動を日常的に行っている秘密警察である。
○アメリカと大企業の利益最優先の政治をすすめる上で障害になるとみなした国民の運動を敵視・監視することが公安調査庁の最大の課題となっている。
○日本共産党や一致する要求に基いて正当な活動をしている民主団体を、破防法の規定にすら反して主な標的として活動してきた。
○監視の手口が盗聴、脅迫、窃盗、飲食や金品の提供によるスパイ工作など、違法・卑劣なものである。
○近年では、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の救援にあたったボランティア活動、「官官接待」などを追及する市民オンブズマン活動、サッカーくじの導入に反対した女性団体、PTA組織、弁護士会、消費税増税反対の労働組合や老人クラブ、原発・基地・産廃処理場建設をめぐる住民投票、従軍慰安婦問題での市民運動などに監視の手をのばしてきた。
○オウム真理教(現・アレフ・ひかりの輪)の犯罪行為に対しては坂本堤弁護士一家殺害事件以来何の役割も果たしていない。
■他党との関係
1980年の社公合意以降、他党との選挙協力は沖縄以外行わない姿勢をとってきたが、2015年9月19日、「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」に賛同する野党との選挙協力をすると発表した。
共産党と他の政党が協力関係を築けていない理由として以下が挙げられる。
1.政策的な違い
2.日本社会党や部落解放同盟との長年の確執
3.共産党の組織を維持・伸張させるために独自候補を擁立する必要があるという内部的な要因
4.共産党が過去に労働運動の分野で労使協調路線に対して御用組合と痛烈な批判を行ったこと
こうしたこともあって、民主党・社民党、部落解放同盟などから「独善的体質」「セクト主義」と批判されており、政治評論でもそういったイメージで語られることが多い。
他党の反応とその事例
同様に他の野党も、共産党との連携に消極的な事が多い。
1990年の総選挙の際には、定数3で共産党議員が長く議席を保持してきた選挙区に、当時の社会党が新人候補を立てたケース(東京9区や和歌山1区など。和歌山1区では社会党候補が共産党に代わって当選)や、現在の民主党が定数1の沖縄県議補欠選挙で泡沫候補を立てて野党票を割り革新系無所属候補の当選を「阻害」したケースも見受けられる。
小選挙区制導入以降、国政・地方選を問わず、共産党は孤立する傾向をより深めている。以下、いくつかの事例を挙げる。
2006年の沖縄県知事選挙では、糸数慶子を推すことで、近年の主要選挙では稀になった事実上の全野党共闘が成立した。民主党内部では長島昭久など党内右派から「共産と手を組んでいる」との批判が行われ、自民党も「共産と手を組んだ民主」などと攻撃した。結果は自民党推薦の仲井眞弘多に敗れた。このように、保守層を中心とした「共産党と手を組むことが悪なのは自明」論の影響力は大きく、他の野党も自民党やマスコミに共産党との協力関係を批判されると、容易に動揺する傾向が見られる。
こういった社会的風潮もあり、表だった協力関係ではなく共産党側に「内部に対しては共闘先の候補者の選挙活動を行ない、その候補へ投票するよう指導・動員を強めるべきだが、対外的には推薦・支持などを公式には表明せず、(共産)党員はあくまでも無党派の支援者として振舞うべき」などの「配慮」を求めるケースもあった。これに共産党側が反発し、非難合戦となったこともある。
その一方で、「共産党を落とす」ため、共産党が接戦・優位な選挙区では自民党、民主党が国政等で対立しているにもかかわらず、協力するケースも多い。
2004年には、参議院大阪府選挙区で、辞職中の辻元清美(当時、社民党)の支持者から、辻元を共同候補にし、共産現職の宮本岳志に引退を「強要」する言動がなされたとされる(宮本岳志の項目参照)。結果は辻元も宮本も落選した。
2007年2月の愛知県知事選挙では、共産党は当初、民主党の候補予定者であった前犬山市長の石田芳弘を共同で推そうとして協議を呼びかけた。石田本人は含みを持たせていたものの、陣営はこれを拒絶。共産党は急遽阿部精六を推薦。結果は阿部が予想を上回る票を獲得し、現職で3選を目指していた神田真秋を急激に追い上げていた石田は僅差で敗北した。
2007年3月の東京都知事選挙では、共産党推薦の吉田万三と、市民団体が擁立し民主・社民の実質的な支援を受ける元宮城県知事の浅野史郎、現職知事の石原慎太郎の有力三候補が競う形となった。共産党は現職の石原都知事を批判しており、浅野もまた反石原という点では一致していた。石原都知事の圧倒的優勢を覆すため、市民団体は「反石原」で吉田の出馬取り下げを要求した。これに対し、話し合いもないまま取り下げを強要されたと吉田陣営が反発(ただし市民団体側は事前の申し入れはしていたと反論)。志位和夫は「(浅野と)石原都政はうり二つ」と断言しこれを拒否した。その理由は、民主党が都議会において「オール与党」体制の一翼を占めており、吉田候補は集会等で「他に共闘対象となる候補者が出れば、自分は降りてその人を支援しても良い」と発言していたが、同席していた民主党都議は共産党との共闘を明確に拒否した。このような足並みの乱れもあり、選挙は石原が前回に続いて大勝した。その直後の都議会では、民主党や東京・生活者ネットワークは、知事提案の議案にすべて賛成した(社民党は都議会の議席をもっていないが、議席のあった2001年までは知事提案にすべて賛成する石原与党であった)と、共産党側は批判している。
この三例の共通点は、民主党が共産党側に何の利益も与えず、「無償で」自候補への協力を強制したと共産党側が主張していることにある。その真偽は定かでないものの、共産党の反応が極めて厳しいことは確かである。このような真偽不明な双方の見解の相違が頻出し、特に共産党側が事態の打開を望まないともとれる態度を示す点が特徴的である。
2013年の第23回参議院議員通常選挙では、定数2の京都府選挙区で自民党の西田昌司が序盤から優位に立ち、2議席目を共産党の倉林明子と民主党新人で元首相補佐官の北神圭朗が争う展開となり、各メディアの情勢で北神の接戦・劣勢が伝えられると、府内の財界や山田啓二京都府知事、門川大作京都市長が「共産党落とし」を進めただけでなく、北神陣営が自民・公明両党に票を流す依頼まで行った。結果は、倉林が1万8000票差で北神を振り切って初当選したものの、京都新聞の出口調査では公明支持層の35.2%が推薦した西田に投票した一方、それを上回る38.9%が北神に投票していた。
一方、2011年大阪市長選挙では、当時の大阪府知事の橋下徹(大阪維新の会)の政治姿勢を独裁者と批判し、「独裁政治と教育基本条例案の成立を阻止」の名目の元、独自候補の渡司考一の擁立を撤回し、2007年大阪市長選挙では対立候補だった平松邦夫支持を呼びかけ、既存の他党と連携を行うという戦術を取り、次の2015年の市長選では自民党推薦の柳本顕を支持するという方針を出した。
他党が共産党候補の支持を表明したのは、保坂展人が狛江市長矢野裕(4期:1996年 - 2012年)を応援した例や、新社会党や沖縄社会大衆党などによる推薦・支持など、ある程度限られる。国分寺市長山崎真秀(1期:1997年 - 2001年)は、共産党と新社会党のみの推薦で5党相乗りの現職との一騎打ちに勝って当選した。

「日本共産党はどこへ行く」  1974

 

第一章「民主主義の党」にむかって
a 六一年綱領の性格
同志沢村は、五八年七月、日本共産党第七回大会に提案された「日本共産党党章草案」にたいする原則的批判を、四つの点において、すなわち「一国主義、平和主義、民族主義、議会主議」という点でおこなっている。その批判は、「党章草案」について革命的共産主義者が指摘すべき基本的問題点の、ほとんど全てを網羅していると言って良い。日本共産党中央官僚は、同志沢村の批判にこたえる能力を持っておらず、そのため、それを党内論争から抹殺し黙殺することに決め、実行した。かくて同志沢村は、その批判文書を公開して、直接に党内外の先進的な活動家に提起する方法をえらんだ。
第七回大会は、「党章草案」を採択することができなかった。都委員会「左」派――構造改革派を中心とする反対派の圧力によって、党章草案の採択は、見合わされたのである。
中央官僚は、草案の採択を次の大会まで延期した。だが、延期にあたって中央官僚は三つの方法で、この草案の基本的思想を全党に“密輸出”した。第一には、草案の“行動綱領部分”を当面の“行動綱領”として採択したこと、第二には、草案の“組織論”に関する部分を“規約前文”として採択したこと、第三には、草案の残りの部分、いわゆる“政治綱領”部分を、全党が討議し検討すべき草案として認めさせたこと、以上の三つが、一見、反対派の主張に耳を傾むけたような見せかけを示しながら、事実上草案の思想で全党を統制していこうとした、中央官僚の手続きであった。“政治綱領”部分の採択は阻止したものの、これら三点の措置を受け入れざるを得なかった時点で、反対派の敗北は、すでに決定したのである。
こうして基本的な勝利を手中にした中央官僚は、第八回大会での全面的な勝利のために、もっとも確実な手段を精力的に駆使した。それは、反対派を組織的に排除することであった。全学連の活動家を中心とする左翼反対派が、第七回大会以前、またはその前後にすでに党を離脱し、排除されていたという事情のもとで、“社会主義革命”を主張しつつも多分に右翼的な性格の構造改革派は、六〇年安保闘争の大衆的高揚のなかで孤立し、ほとんどなすすべもなく追放された。全学連を中心とする“トロツキスト派”と対抗するのに役立つ限りにおいては彼らの存在は中央官僚によって利用されたが、その役割が終ると、使い古しのゾウキンのように、彼らは党から放り出されてしまった。
六一年七月、「社会主義革命派」を排除したうえで開催された第八回大会は、党章草案を若干手直しした「綱領」を、満場一致で採択した。この時から今日にいたるまで、六全協以後の一時期に存在した党内の“自由化”は、復活しない。徳田球一にかわる宮本額治の個人指導体制が確立されたのである。
八回大会で決定された綱領は、七回大会で提案された党章草案に若干の修正を加えたものであって、大綱において変更されているわけではない。だが、一つの点でこの修正は、決定的な内容を含んでいる。
党章草案は、党の任務について次のようにのべる。
「党の当面の中心任務は、アメリカ帝国主義と独占資本を中心とする売国的反動勢力の戦争政策、民族抑圧と政治的反動、搾取と収奪に反対し、平和、独立、民主主義、生活向上のための労働者、農民、勤労市民、知識人、婦人、青年、学生、中小企業家をふくむすべての人民の要求と闘争を発展させることである。そして、そのなかで強力で広大な統一戦線をつくり、その基礎のうえに平和、独立、民主の日本をきずく人民民主主義権力を確立することである。」
ここのところが、「綱領」の方では、次のようになっている。
「当面する党の中心任務は、アメリカ帝国主義と日本の独占資本を中心とする売国的反動勢力の戦争政策、民族的抑圧、軍国主義と帝国主義の復活、政治的反動、搾取と収奪に反対し、独立、民主主義、平和、中立、生活向上のための労働者、農民、漁民、勤労市民、知識人、婦人、青年、学生、中小企業家をふくむすべての人民の要求と闘争を発展させることである。そしてそのたたかいのなかで、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配にたいする人民の強力で広大な統一戦線、すなわち民族民主統一戦線をつくり、その基礎のうえに独立、民主、平和、中立の日本をきずく人民の政府、人民の民主主義権力を確立することである。」
傍点を付した個所に注目していただきたい。「平和、独立、民主」は、「独立、民主、平和、中立」となっている。「統一戦線」は、「民族民主統一戦線」と変っている。これらの変更は、何を意味するだろうか。
これらの変更の意味を解くにあたって、第七回大会から八回大会までの三年間に、日本共産党が経験した重要な変化を二つ指摘しておかなければならない。
第一の事情は、党内闘争に関するものであるが、「社会主義革命派」が一掃されたことである。中央統制委員長春日庄次郎と山田六左衛門ら六名の中央委員を含むこの派は、第八回大会代議員選出の過程で組織的に排除され、この処置にたいする抵抗を試みると、党そのものから追放された。
「社会主義革命派」は、日本独占資本主敵論者である。彼らは、日本独占資本と日本労働者階級の対立、すなわち階級矛盾が主であって、アメリカ帝国主義と日本人民の対立、すなわち民族矛盾は従であると主張する。この主張は、つきつめていくと第二次大戦後の日本共産党の伝統的な革命論である「民族解放民主革命論」と衝突することになり、基本的にこの革命論を継承する中央官僚と非妥協的に対決せざるを得なかった。
第二の事情は、六〇年安保闘争の経験である。中央官僚は、六〇年安保闘争から二つの教訓を引き出した。一つは、アメリカ帝国主義と日本人民の対決としての安保闘争の高揚である。安保条約の改定が成立したことによって、アメリカ帝国主義の日本支配はますます深まっており、安保闘争に示された人民のエネルギーがこれとはげしく対立していくことが、今後の政治情勢の基軸となるだろうという展望を、彼ららは安保闘争の結論として引き出した。
安保条約の改定は、日本帝国主義の力の復活の現状に応じて、日米の役割の分担を修正したものである。それは、日本帝国主義がアメリカ帝国主義の軍事的、経済的保護から自立していく方向を定めたのである。だが共産党中央は、事態を逆の方向にとらえた。彼らは、安保条約の改定をアメリカ帝国主義による民族的支配の深化であると把握した。そこから彼らは、日本革命の当面の中心の環が、民族矛盾にあるとした。
二つめの教訓は、安保闘争の最大の高揚が「民主主義を守れ!」というスローガンのもとでひき出されたということである。安保闘争は、五・一九強行採決以降、「民主主義は死んだ!」という小ブルジョア的な危機感に支えられて頂点に達した。この事実は、共産党中央官僚の「民主主義革命論」に大きな「はげまし」を与えた。そこから彼らは、「民主主義」の要求が「封建的なのこりもの」にたいする闘争のスローガンであるだけでなく、日本独占資本にたいする闘争のスローガンでもあることを発見したのである。「民主主義」の要求は政治闘争の領域にも、経済闘争の領域にもひろげられた。政府の政治的弾圧に抗する「民主主義」、大企業の経済専制に反対する「民主主義」――人民は「民主主義」を要求している、これが安保闘争から引き出した彼らの二つめの教訓であった。
アメリカ帝国主義の支配にたいしては「独立」を、日本独占資本の支配にたいしては「民主主義」を、かくて「二つの敵」にたいする「民族・民主統一戦線」を――これが彼らの安保闘争の総括である。「独立」と「民主主義」は、小ブルジョアジーの全部と一部の良心的なブルジョアジーをまき込むことが出来るという点で共通している。だが「社会主義革命」では、それらの諸階級、階層を離反させる恐れがある。安保闘争は、ますますもって、党中央の「社会主義革命派」排除の路線が正しかったことを証明した、というわけである。
すでにわれわれは、七回大会「党章草案」が、八回大会「綱領」に、どの点で重大な「飛躍」をなしたか、どの点でいっそう「豊富」になったかをのべているのである。八回大会「綱領」は、民族矛盾が第一義的であるとし、国内の敵――日本独占資本にたいしては、最終的に打倒するのではなくて制限すること、アメリカ帝国主義から切りはなすこと――つまり「民主化」することに限定した。これがなぜ「独立」「民主」「平和」の順序が変ったのか、なぜ統一戦線が「民族・民主統一戦線」と規定されたのか、ということの意味である。
「綱領」には、アメリカ帝国主義の支配の事態を明らかにするための多くの文章がつけ加えられている。ほんの一にぎりの独占資本を除けば、全ての階級と階層が、アメリカ帝国主義の支配に反対していることも強調されている。「民主主義」は、いうまでもなく、少数者が多数者に従うことである。共産党は、党内でこの原則を貫徹している。「社会主義革命派」を排除したのは「民主主義」である。だとすれば、その論理を日本国内にひろげて悪いわけがあろうか。少数者である「二つの敵」は、多数者である「その他全部」に従えと要求して悪いはずがあろうか。それが「民主主義」なのだ。アメリカが日本にもち込んだ「民主主義」なのだ。アメリカは自分の言葉に責任をとれ! 以上のような順序で、「独立」は「民主主義」であり、「民主主義」は「独立」であるという、両者の論理的同一性があますところなく証明された。容本顕治の指導のもとで、日本共産党は、論理的同一性を回復し、いまや二つの敵にむかって決然と立つ。
だがわれわれはすでに見ている。この論理的同一性がどのような政治的な動機に根ざすのかということ――すなわち、この同一性は、小ブルジョアジーの全部と一部の“良心的“ ブルジョアジーを統一戦線に引き込みたいという熱望を表現しているのだ、ということを。これが日本共産党綱領が、同志沢村によって批判された党章草案から引きつぎ、さらに“豊富“化した性格なのである。
b “自主独立”への道
日本共産党の「二つの敵」との“勇敢な”たたかいは、このようにして始まった。だがそれは、平担な道を進むようなわけにはいかなかった。それどころか、きわめて重大な難問にぶつからざるを得なかったのである。
難問は、中ソ対立であった。六二年から六三年にかけて、中ソ両国共産党の論争は、ヨーロッパ各国の共産党をまき込んで公然化した。はじめのうち、「中ソ対立はデマであり、国際共産主義運動の内部に対立はない」と強弁していた日本共産党は、論争の公然化をつきつけられて、自らの態度を決定することを強制された。
六三年八月、部分核停条約の国会審議に際して、日本共産党の最終的態度表明が要求された。部分核停条約は、ソ連とアメリカが核兵器を独占しようとする陰謀であると主張する中国共産党の態度が示されて六三年八月以降、日本共産党は公然と中国共産党を支持する立場を取った。共産党議員団は、部分核停条約に反対投票した。
なぜ日本共産党は、中国共産党の立場を支持したのか。なぜ「中国派」の一員にこのときはっきりと加わったのか。
中国共産党は、世界の「民族解放革命派」の頭目であった。ソ連共産党は、「平和共存第一義派」であった。すでにわれわれは、第八回大会で出発した新たな日本共産党の路線が「民族矛盾第一義派」の性格をもつものであることを明らかにしている。日本共産党がまず防衛しなければならなかったのは、この点である。もし彼らが、ソ連共産党の側にくみしたとすれば、彼らは「社会主義革命派」の逆攻勢にさらされ、社会党との組織競争で追いつめられていったであろう。
第九回大会は、六四年一一月にひらかれた。大会は、志賀義雄、鈴木市蔵、神山茂夫、中野重治らの「ソ連派」を排除した。中国共産党は、こうした“努力”を高く評価して、長文のメッセージを送った。
「日本共産党と日本人民は、中国共産党と中国人民がけっしてかわることなくあなたがたの側にたち、あなたがたの偉大な正義のたたかいを断固支持することを確信することができます。」
官僚の約束がどれほどあてにならないものであるかということについて、このメッセージは、好例の一つにかぞえられる。
日本共産党と中国共産党の密月は、きわめて短いものであったために、かえって熱烈であったと言えるであろう。共産党員はとつぜんに「中国通」になり、中国語をならい、自分の名前を「中国語ふうに」発音して無邪気によろこび、「青春の歌」を読み、きそって甘栗を食べたりした。党はあげて「現代修正主義」――フルシチョフ一派非難の大合唱に加わった。
この有頂点に冷水をあびせたのは、六五年のインドネシア・クーデターである。九・三〇事件以後、インンドネシア共産党員とシンパ約三〇万人が虐殺され、中国共産党の路線の最も忠実な追随者であり資本主義世界最大の共産党であったインドネシア共産党は、文字通り抹殺されてしまった。
中国共産党は、単に「民族解放革命派」であっただけではない。それは同時に「武装闘争派」でもあった。北京の指導部は、ソ連、アメリカとの二正面作戦において、アメリカ帝国主義の中国包囲の圧力を少しでもやわらげるために、資本主義各国の中国派共産党が「武装闘争」に決起するよう、期待を表明した。この期待は、見せかけは、各国革命の勝利のための路線として提起されたのだが、根本的には、中国の安全、中国の防衛という一国的利益の観点にもとづくものである。こうした官僚的要求がどのように悲惨な敗北を各国の革命にもたらすのかということを、インドネシア・クーデターは示した。それは、三〇年代の“スペイン”を、六〇年代に、「左」から再現したのである。
インドネシアが浴びせた冷水は、プラグマティスト官本顕治の酔をさますのに十分すぎるほど冷たかった。もともと日本共産党の「中国派」支持は、短期に撤回されるべき運命にあった。日本共産党は「民族解放派」であるとともに「議会革命派」である。このふたつのものを両立させることは、日本ではインドネシアの場合以上に困難である。
六六年一〇月、第二〇回大会は、こっそりと、二つの党の密月が終ったことを告白した。「二つの敵」とたたかうわが共産党には、さらに、「二つの戦線での闘争」が背負わされた。「現代修正主義」とたたかうだけでなく、「教条主義・セクト主義」ともたたかわなければならないことになった。「対外盲従分子」中央委員西沢隆二や、山口県委員会左派などが追放された。
この大会をさかいにして、情勢分析の基調が変って来た。九回大会までは、「社会主義諸国・民族解放運動」の「偉大な前進」が、ことに強調され、「情勢はますます有利である」とえがかれていた。一〇回大会では「国際共産主義運動の不団結」による「情勢の困難な側面」も忘れてはならないこととなった。「アメリカ帝国主義の各個撃破政策」の進展が強調されるようになった。
宮本指導部は、重大な決断を下した。「自主独立の路線」である。ソ連共産党と対立し、いままた中国共産党とも手を切らなければならない。外国の党に追随するとろくなことにはならない。「自主独立」の道をとるにかぎる。
こうして六一年第八回大会から五年にして、日本共産党は「国際共産主義運動」における第三者の道を歩みはじめたのである。ところで、“自主独立”という勇ましい合言葉の持つ政治的意味を明らかにしておかなければならない。それが、ふつうに考えられるような、たとえば水前寺清子の歌のように「男一匹、誰の力も借りないぞ」などという元気の良い合言葉では、実際はないのだということを明らかにしておく必要がある。
「現代修正主義と教条主義、セクト主義の両翼の誤りと結びついた外国勢力の干渉を排除して、日本の民主運動の自主的な団結を堅持することが、きわめて重要になっている。」
「われわれはこれまで、いくつかの重要な問題で意見の相違のある外国の党との関係についても、その党が、わが党および日本の民主運動への干渉と破壊をわが党にたいする基本的態度としているものでないかぎり、共通の敵にたいする闘争課題において正しい一致点を見いだし、それにもとづいてできるかぎり共同するために努力するという基本的態度をとってきた。」
「わが党は、今後、いかなる外部勢力からの干渉にたいしても、これをだまって見のがすことなく、全党をあげて、断固として粉砕しなければならない。……またこれは、真にプロレタリア国際主義とマルクス・レーニン主義にもとづく、自主・独立・平等・相互の内部不干渉などの原則による党と党との関係の基準を擁護する正義の闘争である。」(以上、第一〇回大会「中央委員会の報告」から)
“自主独立”というのは、外国の勢力、外国の党からの自主独立である。日本の党の方針は日本で決めるから干渉しないでくれということである。党と党との関係は、「相互の内部不干渉」が原則だというのである。これにマルクス・レーニン主義、プロレタリア国際主義の名がかぶせられるのだから、諸君、なんとも元気の良い話ではないか。
各国の党は世界革命の一部である。各国の党がどのような方針をもってたたかうかは、世界革命がどうなるかを決定する。世界革命がどうなるかということは、また各国の革命がどうなるかを決定する。だから各国の党は、他国の党に重大な関心を払い、そのたたかいに意見を表明するし、誤りがあればただそうとする。だがそういったことは、原則的に誤りであって、党は国境を超えて意見を持ってはならないというのが、わが共産党の“自主独立”の道なのである。
“自主独立”のこうした奇想天外な着想は、あきらかに平和共存の国家関係を、党と党との関係に引き寄せたものである。国家と国家が「相互の不干渉」を原則としなければならないというのが、平和共存論である。この「相互不干渉原則」が、一国の内部に適用されてはならないという「歯ドメ」は、どこかに存在するだろうか。“自主独立”を、外国の党との関係にだけ限定するためには、国境が、プロレタリアートの運動にとってどういう意味をもつかを明らかにしなければならない。だが、プロレタリアートが、国境を「超越し、突破する」存在であることは、マルクス以来明らかであろう。「相互不干渉」原則に、国境の限界をもちこむ論理をたてることはできない。また、平和共存論が、資本家国家と労働者国家との「相互不干渉」を説く以上、党と党の関係の場合に、その階級性の相違を理由として、「相互不干渉」原則に例外をもうける正当な根拠もありえない。
そこでわれわれは、日本共産党に質問するのである。なぜ諸君は、自由民主党に干渉するのか、なぜ民社党、公明党、社会党に干渉するのか、なぜ彼らをほおっておかないのか、彼らは迷惑しているではないか。
“自主独立”の路線は、国際的党派闘争からの召還の論理であり、その帰結は、彼ら自身の解党でなければならない。国際的党派闘争から召還する論理をつきつめれば、国内的党派闘争からも召還しなければならないからである。
だが実は、宮本顕治の指導部が、ソ連派、中国派の両方から手を切るために、これ以外の理由づけをすることができないという点では、“自主独立路線”は必然でもあったし、同情にもあたいする。日本共産党の綱領は、ソ連派であると同時に中国派である。社会改良派であり議会主義派であるという点では、西欧の共産党と同じようにソ連派であり、民族独立派でありブルジョア革命派であるという点では中国派でもあるのが、日本共産党の綱領である。したがって、路線としての、戦略としてのソ連派、中国派のどちらを批判したとしても、その批判は自分自身にかえって来ざるを得ないのだ。宮本指導部としては、一切の理論的批判をさげて、両国の党から別れなければならない。“自主独立”という形式論理は、こうした彼らの苦しい事情からうまれたのである。
c 「民主主義の党」へ
「共産主義建設の道をすすむソ連とともに、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、モンゴル人民共和国、ベトナム民主共和国など、わが国をとりまく国ぐにで着々と社会主義建設がすすめられ、経済と文化のあらゆる分野で飛躍的発展がおこなわれている。それは、日本人民の独立、民主、平和、中立をめざすたたかいをはげまし、人民各層をこのたたかいに結集するのにますます有利な国際的条件をつくりだしている。」
第八回大会政治報告の冒頭で、野坂参三はこのようにのべた。
ところでそれから一二年後、中央委員会を代表して宮本顕治は次のようにのべる。
「今日、ニクソン政権が展開している対中、対ソ外交をとらえて、たとえニクソンの側にどんな動機があるにせよ、これはアメリカの対外政策の平和共存政策への転換をしめすものだとする見方が一部にあります。……しかしこれらの事態をもって社会主義諸国の平和共存政策にたいするニクソンの譲歩や屈服だなどと単純に評価することが正しいでしょうか。そうした評価は、ニクソン政権の世界戦略の侵略的な本質と、米中、米ソの接近がニクソン戦略のなかでもつ位置と役割をまったく見誤ったものといわなければなりません。」
「社会主義陣営の不団結や、アメリカ帝国主義への無原則的な協調の傾向などが、アメリカ帝国主義にこのような侵略を許す国際情勢上の、重要な要因の一つであったことは、だれも否定しえない明白な歴史的事実であります。」
「軍事的、政治的に敗北し、力関係上後退を余儀なくされたところでは、若干の後退はするが、しかし可能なところではどこでも侵略と戦争の政策をおしすすめ、新植民地主義の野望を追求するとともに、侵略と反革命のあらたな突破口をひらく、この各個撃破政策が、依然としてアメリカの基本政策であります。」
日本をとりまく情勢についての、二つの報告にみられる認識のちがいは、日本共産党の戦略にかかわる重大問題である。すでに沢村論文が明らかにしているように、日本における「平和革命の可能性」の唯一の論拠は「社会主義諸国と民族解放闘争のますます巨大な前進」だった。彼らの議会主義的なたたかいが、革命党の実践として正当化される最大の根拠は、まさに「有利な国際情勢」にあったのである。この点は、平和革命の可能性を「高度に発展した資本主義社会の構造」に求める社会民主主義、日本社会党の場合とはちがっている。
国際情勢が必ずしも「有利でない」ことは「チリの挫折」においても実証された、と宮本顕治はとらえる。だが、それならばどうすれば良いのか、暴力革命論に転換するのか、平和革命の可能性はうすらいだと決断するのか。
宮本顕治の思考は、逆の方向に作用する。「国際情勢の一定の困難」は、基本的には、「国際共産主義運動の不団結」が解消されれば突破されるであろう、その時期はいずれ来るだろう、たしかに平和革命には時間がかかるが、大切なことは歩みを遅くし、姿勢を低めて、少しづつ前進することだ……と。「国際情勢の困難」、「ニクソンの各個撃破政策」は、平和革命の放棄ではなく、その「長い時間をかけた準備」の根拠である。国際的な同盟者を失なった損失を国内で取りかえすために、ますます深く小ブルジョアジー、「民主的大ブルジョアジー」の支持を得ようとする政策が展開されるのである。
姿勢を低め、もっとゆっくり前進するという志向は、「反帝・独立」と「反独占・民主」の二つの課題のうち、いっそう広汎な人民の支持を得られる「反独占・民主」の課題に重点をしぼるという結論に導びかれる。まず「民主」、次に「独立」、それから「社会主義」へ……。
第八回大会では、「独立」と「民主」は同一の課題であり、「独立・民主」から「社会主義」へという二段階革命の路線が確認された。今日、「独立・民主」は分割されて、順序も逆転した。日本共産党の戦略は、実に三段階革命へと「緻密化」したのである。
こうして「民主主義」の課題は、当面の戦略的課題にすえられた。政府綱領はまずもって「民主連合政府」となった。「民族・民主統一戦線」、「独立・民主・平和・中立」、「反帝・反独占」……これら一連の「二つの敵」にたいする闘争の諸規定、諸目標から、前半が取り去られることになった。日本共産党はいまや、まぎれもなく「民主主義の党」である。
“自主独立”を余儀なくさせた「国際共産主義運動の不団結」、われわれの用語でいえば、国際スターリニズム運動の分解と衰退が、日本共産党を「民主主義の党」に押しやったのである。彼らは、国際的同盟者、頼りになる外国の党と国家の支援をあてにすることができない。だが彼らには、彼らの信頼を裏切った外国の党とたたかい、その指導部をてんぷくさせようとこころみるだけの力も、理論も、勇気もない。そうであるかぎり、彼らが国内でますます深く人民の中へ、小ブルジョアの中へ、「民主的大ブルジョア」の中へもぐり込んで安全を手にしようと試みることを、誰が責めることができようかn
しかし、われわれは、日本共産党のこの新たな右傾化、「民主主義の党」への転落を、いかなる同情心も捨て去ってきびしく糾弾し、それをのりこえようとしてたたかうであろう。われわれは、彼らの路線が、はじめから終りまで間違っていることを公然と明らかにするであろう。さらにわれわれは、彼らがどこへ行こうとするのか、どんな存在に転落していくのかを予見し、全ての労働者、人民に警告するであろう。われわれの、宮本指導部との原則的違いはすでに沢村論文において、十分に明らかである。今日の段階では次のことをつけ加えれば足りる。
第一に、われわれは、世界情勢は、世界革命と日本革命にとってますます有利に展開していると判断している。アメリカ帝国主義は敗北しつつある。未曽有の後退を強制されている。中・ソの対立の激化もまた、基本的には世界革命の前進の反映にほかならない。
だが第二に、世界革命の前進が、「平和革命」の可能性を近づけるのではなく、革命と反革命の暴力的対決の決定的接近の条件をつくり出すことを、しっかりと、胆っ玉をすえて自覚しなければならない。追いつめられた支配階級が、自分から退場するようなことはありえない。
第三に、したがって、最も抑圧され、もっとも搾取されている多数者、労働者と被抑圧人民の無限のエネルギーにますます深く、強く依拠することが必要なのであって、保守的小ブルジョアジーや「民主的大ブルジョアジー」におもねる路線は、接近しつつある政治決戦に大敗北を契する自殺の道でしかないのだ。彼らに依拠する道、彼らのエネルギーを最大限に溢れさせ、団結させる道、それは、「民主主義」でもなければ、「独立」でもなく、まして「自主独立」の道でもない。
アジア人民とかたく連帯した社会主義の道、これが全ての共産主義者が、現在歩む道でなければならない。
日本共産党とわれわれの原則的ちがいは、これらの点に厳然とある。だが、ここでのわれわれの任務は、われわれの主張それ自身を詳述することではなく、日本共産党を解明し、批判し、彼らが究極のところ、どこへ赴むこうとしているのかを明らかにすることである。われわれはすでに、日本共産党の「民主主義の党」への道程が、どんなものであったかを見て来た。結論にうつる前に、彼らの「民主的幻想」の内容を把握しなければならない。「民主連合政府」提案の基本的性格を解明すれば、その課題はほぼ解決されるであろう。  
第二章 民主連合政府の幻想

 

a 三つの虫の良さ―民主連合政府はどうやってできるか―
日本共産党が推す「民主連合政府」は、「七〇年代のおそくない時期」にできあがることになっている。昨年末の総選挙で共産党が躍進したことによって、この見通しは非常に現実的であることが証明されたとしている。
この民主連合政府ができあがる道すじは、選挙にもとづき、国会の指名を得る方法によっている。つぎの参議院選挙で自民党が過半数を割り、さらにつぎの衆議院選挙で過半数を割れば、民主連合政府の必要な基盤の最初のものがととのうわけである。その場合に、もうひとつ必要になる条件は、自民党以外の野党四党が結束することである。共産党・社会党・公明党・民社党の四党が民主連合政府に賛成して、協力して連合政府を国会で指名すれば、できあがるのである。
この四党のなかで一番あやふやで、自民党に協力的なのが民社党である。そこで日本共産党は、民社党をたたき、孤立させ、大衆の圧力で民社党を消滅させ、その支持者を共産党・社会党の側に獲得するか、それに恐れをなした民社党が自ら民主連合政府の方針を受けいれるかのどちらかを実現するために、民社党攻撃を批判の中心に置いている。公明党については、この党が労働者政党ではなく、ほっておいても労働者の支持が公明党に集まる基礎はないと考えるから、さほど強く批判する必要をみとめないし、さらに総選挙の敗北で打撃を受けたこの党が、民主連合政府の方向、つまり反自民の方向に歩み寄りつつあるところから、いまそれを挑発するような刺激的な批判活動は避けた方が良いと判断している。
社会党の場合は、労働者に基盤をおく政党であるから、これを批判しても自民党に最終的に癒着してしまう危険はない。そのかわり労働者階級の主導権をどちらがとるかというライバルであるから、独自に批判活動をつよめなければならず、それによって、民主連合政府における共産党の指導力が確立されると考える。
“トロツキスト暴力分子”の場合はどうか。「民主連合政府」はいきなり革命をやるのではなく、敵の抵抗をすこしずつ弱めながら民主主義革命の戸口にとりつくところまで進もうという“政府革新”の運動なのであるから、敵の警戒心を強め、民主的なブルジョアジーやプチ・ブルジョアジーとのあいだに分裂をつくり出すような危険な挑発は、極力排除しなければならない。したがって、“トロツキスト暴力分子”は、おそくとも民主連合政府が端緒につくまでに退治しておくべきであると、なみなみならぬ決意をかためている。
このようなわけで共産党の統一戦線政策は、民主連合政府樹立のために、首尾一貫した目的意識性にもとづいている。きたるべき民主連合政府の時代に果すであろう各党の役割も、基本的にきまっている。この政府の一貫した推進力は共産党であり、他の諸党は、この政府の成立のときよりもはるかに弱く、小さくなって、民主主義革命の時代にたどりつくことになり、その頃には共産党が全大衆の多数を引きつれて平和な民主主義革命をやり通すことができるような「触媒」の役を果してくれるのである。
たいへんに虫の良い話は、この統一戦線の問題だけにとどまらない。この民主連合政府ができあがる道すじは、ひたすら国民一人一人が投ずる「票」で敷きつめられているのであり、この「票」の「大道」を妨げる勢力は、どこからもあらわれて来ないことが、そもそも前提になっている。したがって長期の政権の独占をやめさせられ日本の政治支配から永遠に追放される自民党の抵抗が、ただ次の選挙でもう一度多数をとることにかぎられるであろうというような「見通し」のうえに成り立っているのが、この民主連合政府なのである。
「しかし、自民党や独占資本は選挙で負けて、政府の座から追われたといっても、官僚機構の中枢や経済界の支配は、まだにぎっているし、選挙でまた政権をうばい返そうとするし、本当に国民が国の主人公になったとはいえません」(「赤旗」七三年三月二九日号、上田政策委員長)
ところで、わが支配階級は、選挙の敗北をみすみす受け入れるよりは、暴力的な方法で、たとえば徹底的な弾圧や、場合によってはクーデターに訴えても、政権を守り通そうとはしないのであろうか? これは当然おこる疑問であるから、わが「マルクス主義者」上田政策委員長といえども、避けて通るわけにはいかない。そこで彼は自問自答をつぎのようにおこなう。
「民主連合政府ができる前に、そのもり上った革新的な国民運動そのものをおしつぶそうとして、反動勢力がクーデターや、議会制度破壊、あるいは弾圧などの暴挙に出るということも、まったくありえないわけではありません。そういう敵の出方にたいしては憲法がさだめた民主的権利、さらには憲法そのものと代議制度まで破壊しようとするこうしたファッショ的暴挙を、民主主義を守る国民の世論と行動で包囲して孤立させ、失敗させることが必要だし、適切にたたかえば、大いにできると思います」(同右)
証明しなければならないことを前提のなかに入れてカッコでくくってしまえば、人は、どんな命題でも勝手につくれるものである。どんな困難なたたかいであっても、たしかに「適切にたたかえば」大いにできるにちがいない。しかしかんじんのことは、どんなたたかいが「適切」であるのかを説明することではないだろうか。
支配階級を「包囲し孤立させる」ことは、なにより必要であるにはちがいない。しかし、支配階級が暴力的方法に訴えるのは、彼らが「国民の民主的世論や行動」で包囲され、孤立しているからなのである。包囲され、孤立しているからこそ、この包囲を解き、孤立を支配力の強化に逆転させるために、クーデターや、強権的な弾圧の手段に訴えるのである。
平和な大衆行動の段階で、けっして手をつけることができない警察権力や自衛隊を、無傷のままにもっている支配階級が、包囲と孤立の状況のなかで、それを使う誘惑にかられないというような虫の良い「見通し」がありうるだろうか。そういう状況のなかでの「適切なたたかい」とは、まさに敵のもっている手段、その強力な武器を、こちら側が手をつけ、とりこわし、奪いとるたたかい以外のものであるだろうか?
このような「見通し」のもとで民主連合政府ができ上るとするならば、わが支配階級は、おそろしく善人の集団であって、自分の大事な財産を他人がよこせといったら、争わないでくれてやるような気前の良い人達であるということになる。わが政策委員長上田氏は彼の「適切なたたかい」が労働者階級の武装闘争ではないということを証明したければ、まずわが支配階級の社会的心理に関する「性善説」を証明してみせなければならない。
つづいて第三番目の虫の良い話が登場する。
民主連合政府は安保条約の廃棄を通告して、一年間じっと待つのである。共産党がいつ安保条約を認めたのかは知らないが、やめる方法はこの条約の手続きにしたがっておこなおうというのである。しかしそれは良いとしても、アメリカは、この廃棄通告をおそらく受け入れるであろう、というのであるから、まことに虫の良い見通しである。
「なんの理由もないのに、自分がとりきめた条約を破ることは、アメリカが公然と国際的無法者であることをみずから立証する結果になるでしょう。廃棄通告拒否という暴挙は、そう簡単にはできません。現に一九六六年にフランスがNATOの軍事機構から離脱したときも、アメリカはこれを認めざるをえませんでした」。(同右)
国民諸君、安心してくれ! 安保条約はアメリカが押しつけたのだから、これをやめるときも、安保条約にもとづいた手続きさえとれば、アメリカもいやとはいうまい!!
もちろん「万が一」そうならない場合も「まったくないとはいえない」が、
「民主連合政府の側としては、対等平等という原則を守ってアメリカをふくむすべての国ぐにと平和五原則にもとづく国交関係、外交関係をむすぶ政策をとりますから、アメリカが一時的に報復的なことをやったとしても、けっきょく失敗に終るでしょう。」(同右)
このようにしてわが民主連合政府の構想は、すくなくとも三つの虫の良さのうえに成り立っていることが明らかになった。それは他の諸党にたいして「虫が良く」、支配階級にたいして「虫が良く」アメリカ帝国主義にたいして「虫が良い」。これらの「虫の良さ」を、ひとつひとつとってみればすこしはありそうな「虫の良さ」だとしても、三つも重なるとかなり深刻に「虫が良い」話になる。三分の一の可能性が三つとも起る確率は、二七分の一である! このような場合には、もはや非現実的な見通しであると断定しても良いのではないだろうか。しかもこの非現実的な見通しのもとで、わが日本共産党の当面の政策のすべてがなりたっているのである!
b 良心的ブルジョア政府―民主連合政府は何をするか―
そこでつぎは、この「虫の良い」つくられ方をした民主連合政府が何をするつもりなのかを聞いてみることにしよう。
むろん読者諸君は、わが民主連合政府をとりまく恐るべき善人の集団である、日本独占資本主義の秩序と土台に、この政府が一指もふれないからといって驚きはしないであろう。
われわれの前には、「いのちとくらしをまもり住みよい国土をつくる総合計画」という、日本共産党中央委員会のパンフレットがある。
この「総合計画」の目的は、日本独占資本主義社会の構造を破壊することなく、その汚れきった肥大した手を肩の付け根からもぎとってしまうことなく、しかも日本人民のいのちとくらしをまもりぬこうということである。たしかにこういう計画であるならば、自民党と支配階級が政権を追われても、大資本が「サボタージュ」を組織する恐れがなく、反動的クーデターに訴える危険も少ない、というわけだ。
具体的に見てみよう。
「計画」は高度成長の分析からはじまる。日本資本主義の高度成長はなぜ悪いか。それが大企業優先であり、国民生活を犠牲にしておこなわれてきたからである。それが社会福祉や国民生活の改善を優先していないからである。
それでは高度経済成長運動をくりかえして今日の巨大化・肥大化をなしとげた日本経済が、社会福祉や国民生活の改善を優先する方向に転換することは可能なのか。
それは可能である、と「計画」はこたえる。
「わが党は、日本経済(日本資本主義経済を指していることを忘れてはならない――引用者)のこうした新しい方向が国民の圧倒的多数の利益と要求に合致しており、また、だからこそこの方向がかならず実現できると確信しています」
「いのちとくらしをまもり、住みよい国土をつくる総合計画の実行を二〇世紀の最後の四分の一世紀の、日本国民にとっての歴史的な事業としなければなりません(すなわち二一世紀まで、われわれはこのくさり切った資本主義経済とつき合いつづけなければならないのだ――引用者)。世界で第三位の地位に達した日本の経済の大きさ(わが共産党は、日本ブルジョアジーをなんと誇りにしていることだろう!――引用者)、国民の知恵と勤勉さ、民主的・民族的エネルギーの大きさからいって、この事業を実際に実現する可能性を、日本国民はもっています」
だがもちろんこのような「根本的転換」にたいして、なんの抵抗もないなどとは「計画」も言わない。独占資本が抵抗するだろう。そこで「独占資本にたいする民主的規制(あくまでも民主的、すなわちマルクス主義の主張する『収奪者の収奪』ではなく、おだやかな、法律にもとづいた、納得づくの『規制』)」が必要となる。この「民主的規制」には、二つの方向がある、と「計画」は指摘している。
その一つは、独占資本の悪事を「国民の監視のもとにおき、有効に取り締まれる民主的な制度をつくりだすこと」であり、もう一つは、「独占資本の設備投資や産業立地・事業活動」を「民主的な産業発展の計画、民主的な国土づくりの計画にしたがわせる」ということである。
ところでこのような結構な「民主的な制度」や「民主的な計画」にたいして、私欲まる出しの独占資本ははたしてしたがうのであろうか? そしてもししたがわなかったならば、どうすれば良いのであろうか?
わが「総合計画」は、はじめからこのような疑念を受けつけようとはしない。したがって「総合計画」は、独占資本の抵抗を粉砕する「計画」はもっていないのである。
「いのちとくらしを守る」各論について見ても、まったく同じことが言える。
「総合計画」は、物価を安定させ、大巾減税を押しすすめ、さらに「社会保障五ヵ年計画」を遂行する、と主張する。「はたらく国民の所得」を大巾に向上させることはいうまでもない。病気にかかっても安心して医者にかかれるし、職業病の懸念もなく健康に働けるし、教育施設はととのい、保育所は十分な数だけ設置され、スポーツの普及のために、公共スポーツ施設も大きく増設されることになっている。
「住み良い国土づくり」の方はどうなるか。
大企業の土地買占めはやめさせられる。土地利用は民主的に決められ、都市には緑がもどって、交通事故はなくなり、そしてまさに決定的に公害、災害もなくなるのだ!
そうすれば「どこに住んでも住みよい国土」になり、田中政府の「列島改造計画」も粉砕されるのである。すべて民主的に、地域住民の「総意」で決められるから、開発の主体は「地方自治体」になり、大企業の横暴は許されなくなるであろう。
ところでこのような、良いことづくめの「総合計画」を実現していくのには、金がかかる。その財源はどこから来るのか?
「税制を民主化する」「国家財政を民主化する」「地方税制を民主化する」「地方財政を民主化する」このように民主化すれば、財源が出てくる、というわけだ。
「民主化」とはなにか。大企業にもうすこし税金を出してもらうこと(たとえば、法人税率を七パーセント程度引き上げ、脱税をとりしまること、輸出関税を一〇パーセント程度かける等々)、支出を国民本位にすること(四次防をやめ、アメリカ軍事基地への経済協力をやめ、皇室費などを節減し、等々)である。このように収入と支出の重点を、ほんのすこし(この程度ならわが独占資本も決定的な反対を断念するだろう、と思われる程度)移動させることが「民主化」なのである。
だから独占資本家の諸氏は、わが共産党の真意を理解すべきなのである。
「われわれが『高度成長』を批判するのは、国民総生産の伸び率が高すぎるということの前に、まず『高度成長』の中身が問題だからです」。
「われわれは、このような大企業の猛烈なテンポでの事業拡大を優先させる『高度成長』をやめなければならないといっているのです」。
もし独占資本家の諸氏が、もつすこし国民の生活を考え、もうすこし「つり合いのとれた産業発展計画」を考え、もうすこしゆっくりしたテンポでやろうというのならば、その「高度成長」をあえて責めるわけではないのだ。諸氏がこの程度妥協してくれるならば、わが国では不平不満をなだめられたおだやかな国民の、ゆたかな社会ができ上るはずなのだ。諸氏のもうけを全部とり上げようなどと言っているのではない。諸君の所得税も、最高でたかだか四パーセント引き上げようというだけだ。
つくられ方が「虫が良い」だけではなくて、やろうとすることもおおいに虫が良い。
「いのちとくらしをまもり、住みよい国土をつくる総合計画」にしたがえば、日本国民のすべてがいま住んでいる耐えがたい生活苦や不便から、こんなにみごとに解放されるのである。そしてそのようなすばらしい生活をプレゼントしてくれるのは一体誰だったかと気がつけば、民主連合政府でありその導き手たる日本共産党なのである。かくてわが日本国民は、いまや日本共産党を、「国民的に、民族的に」信頼してあつまり、そのさし示す「社会主義革命に連続的に移行する民主主義革命」の道を歩むのである。
こうして民主連合政府のなすべきことは終る。
だが、残念ながらわれわれは、この「総合計画」が、はじめから終りまで根も葉もないウソ、なんの裏づけもない幻想に終ることをいまからはっきりと断言しなければならない。この「計画」は、絵に描いた餅である。ユートピアにしては貧弱で(あまりにも貧しいではないか、日本資本主義をその土台からくつがえして、すべての生産力を労働者・人民の手にうつしさえすれば、どれほど大胆な新しい文明をきずくことができるか、はかり知れないのだ)、この資本主義社会のなかで独占資本に金を出させておこなおうという「現実的」な政策としては、まるっきり絵空事にすぎない。
なぜか?
日本資本主義の高度成長が、大企業優先であった、というのは、いわばあたりまえなのである。それは日本労働者・人民の「高度成長」ではなく、大企業の「高度成長」だったのだから。大企業優先でない「高度成長」などというのは、ありえなかったのである。
われわれは、「高度成長」の良い面と悪い面を区別するのではなく、それを真正面から否定するところから出発しなければならない。高度成長を通じて、日本社会のすみずみまでその手ににぎりしめている巨大独占企業にたいしてわれわれがいどむたたかいは、その分け前を労働者・人民にもうすこし多めに増やしてもらうことでは断じてない。彼らが手に入れたもののすべてを、奪い返さなければならないのだ。
全部奪い返そうとすれば激しいたたかいが必要だが、すこし分け前をよこせということであれば、すなおにしたがうだろう、というような推測が成り立つだろうか。
それは二つの理由で斥けられる。第一に、独占企業が利益を、すこし多めにはきだすなどということを期待することは、ベトナムやカンボジアに投げ落すアメリカ帝国主義の爆弾の量をもうちょっと少なくしてもらいたいと期待するのと同じように、正当でもないし現実的でもない。彼らがすこし譲歩することが、やがては歴史の舞台から完全に退場することにつながることを知っている以上(事実共産党自身がそのように主張している)、最初の一口を吐き出すまいとして、まるで全部吐き出させられる場合のような抵抗を彼らはこころみるであろう。
二つめの理由は、このことから導き出される。そのような死にものぐるいの抵抗を覚悟する独占資本とその権力とたたかうことは、労働者・人民自身にとっても必死のたたかいを意味する。それは右翼私兵・警察・自衛隊との街頭における激突を意味し、企業においても職制・経営者との「首」をかけた闘争にならざるを得ない。
しかし誰が、独占資本をほんのすこしだけ譲歩させるために、全生活をかけてたたかうだろうか。ただの一口だけ吐き出してもらうために、だれか今日の生活を投げ出しても独占資本の喉首にかみつこうと決意するだろうか?
つまりこの「計画」の主観的願望は、敵を甘く見るだけではなくて、味方を、労働者・人民のたたかうエネルギーと意識を安く見積もっているのである。
だからそれは、絵に描いた餅におわるのである。
c 「民主的幻想」を粉砕せよ―民主連合政府とわれわれの立場―
だがこの「虫の良い」民主連合政府は、なんのための政府なのであろうか。
共産党は、その綱領に革命をかかげる党である。革命をかかげる党が、革命にたどりつくため以外の目的で政権構想を語るはずがない。すくなくとも主観的には、この民主連合政府は「社会主義革命へと連続的に発展する民主主義革命」の第一段階を構成する政府として提起されているのである。まずこの民主連合政府を通じて、共産党が国民の大多数の信頼を獲得し、ブルジョアジーの権力を弱め、民主主義革命の前提条件をつくり出すことが意図されているのである。しかしそれならば民主連合政府は、革命ではないが革命の前提条件をつくり出すことができるような「革新」を、どのような基準のもとで遂行するのであろうか?
一言でいえば「日本国憲法」である。民主連合政府は、「憲法完全実施」の政府なのである。
「憲法」にもとづいて自衛隊を解散し、「憲法」にもとづいて国民の「いのちとくらし」を守り、「憲法」の理念にしたがって中立外交をおこなう。独占資本の国有化とか、天皇制の廃止とか、警察機構の解体とかは、「憲法」に定められてはいないことであるから、次の民主主義革命の時期まで引きのばされるのである。すなわち、民主連合政府とは、およそ考えられるもっとも平和で良心的なブルジョア政府なのである。
史上もっとも良心的なブルジョア政府、労働者人民が熱烈に支持し、その支持の超階級的な熱烈さのあまり、帝国主義ブルジョアジーといえども弾圧をためらい、その基準のブルジョア的厳密さ――資本の私有財産には手をつけないという――のゆえに、大独占といえども死にものぐるいの抵抗を決意するほどには追いつめられないような政府、このような「八方美人」政府を、わが共産党はうちたてようというのである。
いっさいの「虫の良さ」がここから発することは明白である。われわれが直面している階級的利害のはげしい激突の時代にまったくふさわしくないこのように万事まるくおさまる解決策が非現実的であることを、われわれは言葉をつくして証明しなければならないであろうか。ベトナムの人民が払わなければならなかった犠牲を強要した時代の性格が、こと「東西の谷間」日本にかんするかぎりは頭上を通りすぎる一過性の突風にすぎないと考えることをわれわれは許されるのであろうか。われわれが真剣にこの社会の根本的変革をくわだてるのであれば、その公然たるはじまりから、ベトナム人民のたたかいを模範とすることが、今日の世界情勢そのものから要求されるであろうという真理にたいしてこれほどまでに盲目でいられるものであろうか。
われわれは絶対にこの幻想、良心的ブルジョア政府を、ブルジョアにかわってプロレタリアートがしかも平和裡にうちたてようという幻想にくみしない。
このような幻想を提起することによって、ブルジョア的日本の今日の袋小路をおおいかくし、ただ社会主義的解決が、したがって暴力的対決を通過してのみ達成される解決だけが現実的であることをあいまいにし、さらに、危機にむかってどうしようもなく押し流される日本帝国主義ブルジョアジーの前途とその狂暴な本質をおおいかくすような行為は、単に非現実的であるだけではなく、明白に犯罪的であるとわれわれは主張し、弾劾する。このような重大な「虫の良さ」は、ただブルジョア支配階級にとってだけ利益をもたらすのである。
民主連合政府とは何か。
一言でいえばそれは、体制を変えないにしてはあまりにも多すぎる約束をし、体制を変えるにしてはあまりにも少ない約束をすることである。そして約束以上のことはなにもできないのだ。
われわれがつくろうとする政府はこのようなものではない。
それは日本社会主義革命の開始として、独占資本主義と帝国主義の全体に、はっきりとした挑戦状をつきつける労働者・人民の権力である。
それは生産手段の私有そのものに手をつけ、その管理をブルジョアジーの手からうばう。
それは議会を通してつくられるのではなく、工場と街頭のたたかい(むろん、その効果的な一部に議会における暴露がある)のなかから生まれる、労働者・人民の直接民主主義(共産党がほれ込んでいる「代議制民主主義」とは根本的にちがう)の機関がつくり出す。
それは帝国主義国家権力と独占資本の激しい抵抗を予想し、自衛隊を解体して労働者・人民の武装自衛と、叛乱する兵士を組織し、日本労・農赤軍を建設する。
それは公然とアメリカ帝国主義を糾弾し、アジア人民と連帯し、一切の条約を即時破棄して、国際プロレタリアートの支援に頼る。
日本共産党の諸君は、これを非現実的であると笑うであろう。
だが、現実的なものが何かということは、誰かがあらかじめ机の上で決めてくれることではない。たたかいの発展、情勢の深化が決めるのである。ロシア・ボルシェヴィキの権力奪取の三日前に、そしてその後約三年間にもわたって、ヨーロッパ・ブルジョアジーと社会民主主義者は、ボルシェヴィキがロシアの権力をとり、それをほんの数日間でももちこたえられるなどという「夢想」が、ほんの少しでも現実性をもつているとは想像もして見なかった。
諸君は今日の現実を明日に引きのばし、さらにそれを数十年の長さに延長する。そのようにして諸君は、労働者・人民の深部に息づく革命的エネルギーの巨大さにたいして目をつむりつづける。
だがわれわれは、明日、明後日の、たたかいとるべき「現実」をかかげて今日なすべきことを決める。そしてこのようなたたかい方だけが、革命的マルクス主義者の用語における「現実性」なのである。
われわれは「民主連合政府」の展望が、極端な幻想のうえに立脚していることを見てきた。この展望は、政府の問題、権力の問題を危機の展望ときりはなして立てるところに特徴をもっている。社会的危機のなかでのさまざまな階級の動向は、安定期におけるそれらの動向とは、根本的に異なったものであることを知らなければならない。安定期において慣らされてしまっている人民の思考方法や感性を土台にして、権力獲得の方法を考えるものは、平地を歩く装備だけを用意して冬山にのぼろうとするようなものである。彼は気候の激変についていくことができず、道を踏み迷って孤立し、雪崩に押し流されるであろう。
民主連合政府の構想こそ、このような愚の典型である。そこには危機の展望がない。それは、アジア革命のはげしい前進と帝国主義の激突、日本独占資本の高度成長の破局と人民の経済生活に押しつけられる耐え難い困窮、都市機能のマヒと人民の直接的な抵抗の激化、警察権力と結託した右翼、ファシストの私兵による公然たる襲撃、大衆行動にたいする自衛隊の出動とアメリカ軍隊の軍事的どうかつ、そしてそれらをはねかえして前進するであろう日本労働者・人民の反帝国主義・反ブルジョア国家の権力闘争の時代、このような危機の時代のなかではじめて位置と力を得る政権構想ではないのである。
共産党それ自体が、冬山の愚かな遭難のうき目に会うのは、なんら同情するに値しない。彼らはその五〇年の一貫した「裏切りの歴史」を引きずって墓場に行けば良い。だが、われわれが問題にしなければならないのは、この党に幻想をいだき、この党に「力」を感じていま身を寄せつつある数百万の労働者大衆である。情勢は未だ全面的な危機の到来ではなく、そのきざしを示しているにすぎないが、しかしその最初の反応が、共産党への幻想として表現されていることのなかには、危機にむかう確実な徴候と同時に、わが革命的左翼の未成熟の問題が、立ち遅れがつき出されてもいるのだ。歴史は何回もやり直すことができない。
すでにわれわれは、わがイデオロギー闘争と組織活動の主たる「競争相手」に、共産党をこそ設定しなければならないということを確認して来た。同盟第六回大会はこの課題を、戦略的な環として承認した。
一つ一つ系統的に、われわれは「共産党批判」のたたかいをはじめなければならない。この分野で相手をみくびり、相手の力を過少評価するならば、われわれは間もなく手痛い罰を受けることになるのである。
共産党は、危機を回避しようとする党である。われわれは危機のなかでこそ成長し、人民を獲得する党派である。それゆえ共産党にとってわれわれは、絶対に容認しえない存在である。共産党が危機を回避しようとする努力、そのまさに社会民主主義的な努力は、危機の最初の局面においては、危機を歓迎し、それを拡大し、権力獲得のチャンスを人民の手に確実に握りしめようとするわれわれのような存在――“トロツキスト・暴力分子”を大衆の中から追放し、組織的に壊滅させようとする努力となってあらわれるであろう。われわれは、共産党のこのような攻撃をはね返す組織的な力と大衆的支持を、いまから、しっかりと積み上げていかなければならない。
このたたかいは、非妥協的である。そこでは、すでに五〇年の歴史をもつトロツキストとスターリニストの凄絶で原則的な党派闘争が、くり返されるのである。宮本顕治の、気持がわるくなるような笑いをうかべた蛇のように残忍な官僚の目を見つめてみることは、はなはだ教訓的であろう。それは彼らの統制や思惑をこえて、事態を革命と反革命の激突に導びこうとする“はね上り分子”に向けられている。
共産党のイデオロギーと政策の体妥を根本的に批判する最初として、われわれはその民主連合政府の輪郭を大筋においてとり上げた。さらにわれわれは、一歩も二歩も踏みこんでこの批判の武器をきたえなければならず、そして「批判の武器」を「武器の批判」へ、すなわち、大衆運動における統一戦線戦術の駆使による組織的批判と解体、獲得のたたかいに代えなければならない。きたるべき危機がいやおうなしに、われわれ――第四インターナショナルと日本共産党の対決を、現代革命の前衛的役割をめぐる伝統的対決、トロツキズムとスターリニズムの対決の日本における展開として押し出すことは必然である。  
第三章 一二回大会路線の本質

 

a 権力の強化をめざす規約改正
七三年一一月にひらかれた第一二回大会は、いくつかの意味で画期的である。
大会は、「民主連合政府綱領」を決定した。字句上の修正ということで、綱領、規約の数個所の改定をおこなった。大会はさらに、「人民的議会主義」という新しい用語と戦略をうち出した。
これらの諸決定は、従来の路線の延長上にあるものではあるが、それだけにとどまらず、一歩進んで「一二回大会路線」とでもいうべき新しい軌道が敷設されたことを意味している。
「民主連合政府」については、すでに前章でのべてあるので、ここではくりかえさない。そこでまず、綱領・規約の修正について見てみよう。
規約改正の主要な点は二つある。
前文の(二)、党の任務の規定のなかで、革命と党と大衆の関係は、次のように改められた。
<改正前>「革命は、労働者階級をはじめとする幾百千万の人民大衆がおこなうものである。党の任務は、歴史の創造者であるこの人民大衆の真の利益を擁護して、人民大衆がみずからを解放する革命の事業を達成するよう援助し指導することにある。」
<改正後>「きたるべきわが国の革命は、党と労働者階級をはじめとする幾百千万人民大衆の歴史的事業である。党の任務は、人民大衆の真の利益を擁護し、人民解放のこの事業達成のために先進的役割をはたすことにある。」
一見してあきらかなように、この規約改正は、単なる字句上のものではなく、革命の性格規定についての本質問題に関係している。改正は、階級と大衆の上に党を置くスターリニストの組織論にもとづいている。革命が労働者階級と人民の自己解放の事業であり、自ら歴史を創造する事業であるという根本的概念が否定された。もともと改正前の規約は、共産党の組織論としてふさわしいものではなかった。革命的マルクス主義者にとっては自明である階級と党の本質的な関係についての理論は、スターリニストによって、“自然発生性への屈服”としてつねに非難されてきた。党は階級の最高の組織であり、階級と大衆は、党のもとで指導、管理されるべきだというのである。それにもかかわらず、改正前の規約が採用されたのは、五〇年分裂とその後の極端な孤立のなまなましい経験から、大衆と党の結合をできるかぎり広汎なものにしたいという願望が党の共通の感情になっていたという事情にもとづいている。いわばそれは、党の大衆にむけた妥協であった。三〇万を超える党員を持ち、五〇名の国会議員を有するに到った今日では、こうした妥協はもはや不必要であるというのが、宮本指導部の判断である。
二つめの修正は、第一条についてである。
<改正前>「党の綱領と規約をみとめ、党の一定の組織にくわわって活動し、党の決定を積極的に実行し、規約の党費をおさめるものは党員となることができる。」
<改正後>「党の綱領と規約をみとめ、党の一定の組織にくわわって活動し、規定の党費をおさめるものは党員となることができる。」
提案者によるとこの改正は、党員の資格をゆるめるためのものではなく、前提であるからあえて表現する必要のない文章を取り除く措置であるという。だが、前提であってあえて表現する必要のないことを、なぜ規約の第一条というもっとも重要な個所でのべてあったのだろうか。この改正もまた単なる字句上の問題ではない。より大量の、よりおくれた層を党にむかえ入れるという、組織方針上の措置なのである。
提案者は「党員が党の決定を実行する活動のあり方などは、入党後、情勢と党の必要、および各党員の条件と能力に応じて具体的にさだめられるものであり……」「入党にさきだって党の決定をよく知ってその積極的実行をもとめることは、厳密にいえば、綱領への精進を入党前にもとめるのに類することになる。」などとのべている。入党に先立って活動家である必要はなく、入党してのちに活動家になれば良いのであって、求められるのは綱領を承認することだけだ――これが改正の趣旨である。
前文中の改正は、党の「権威」を強化するねらいであり、第一条の改正は、党員の「質」をうすめる措置である。一見相反するように見られる、この二つの改正は、党の官僚主義化の促進という点で分ちがたく結びついている。党員の質と水準を低下させることによるて官僚に盲目的に従う多数派をつくり出し、反対派を孤立させ党の官僚主義化を促進する措置は、スターリンが発見した方法であった。党を「大衆化」することと、党を「大衆の上に置く」こととは、革命党の弁証法では両立しない論理であっても、官僚主義の党組織では、合目的的に一体なのである。
民主連合政府と人民的議会主義にむけて、全党の突撃を命令した一二回大会が、同時に、党の官僚主義化を決定的に推進する規約改正をおこなったことは、偶然の一致ではない。宮本指導部は、今日の情勢が危機と激動をはらむものであることを知っている。危機の深化と大衆の自然発生的な流動が、党の人民的議会主義、平和革命のコースを動揺させ、党内の分化をつくり出す可能性は予見できるものである。だが、宮本の判断では、暴力革命の路線と権力への早すぎる革命的挑戦は、「国際共産主義運動の不団結」に支えられた「ニクソンの各個撃破政策」のエジキにされるだけである。冒険主義は何としても避けなければならない。きわめて長期にわたる人民的議会主義の堅持以外に、勝利する道はないという展望に立つ宮本は、予想される危機と激動の数々の試錬に耐えて、その平和革命のコースを守りぬく組織的保証を求めているのである。
党を大衆の自然発生的戦闘化から防衛する従順な多数派を構成しようという目的意識によって、今回の規約改正はおこなわれている。スターリンは、ボルシェヴィキ党の前衛的部分に強大な影響力を持っているトロツキーとの対抗の必要から、入党運動を推進した。日本共産党は、いくつかの反対派をすでに排除し、今日の党内に有力な反対派はない。それらの反対派は、日本の大衆自身に基盤を持つものではなく、ソ連・中国の思想的影響と組織的つながりに依拠するものであった。すでに日本の大衆運動のなかに深い根をはっている宮本指導部にとって、ソ連派的、中国派的反対派は恐れるに足りない。
宮本が規約改正によってあらかじめ自己を防衛する保証を取りつけようとしているのは日本の大衆運動の自然発生的な戦闘化、急進化にたいしてである。一二回大会の規約改正は、このような点で、革命的共産主義者が注目しなければならない重大な意味をもっている。それは、危機の時代の大衆の広汎な戦闘化、急進化を抑止し、鎮圧する能力を持つ官僚の党としての、日本共産党の組織路線を確定したのである。
b 人民的議会主義の綱領への貫徹
綱領の改定は三点である。第一点は、「ソ連を先頭とする社会主義陣営」という表現から、「ソ連を先頭とする」を削除したものであるが、この点については、すでに第一章でのべてあるので説明を要しない。
第二の改定は「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具」という表現の「道具」のかわりに、「機関」という用語を使用するようにしたことであり、第三の改定は、プロレタリアートの「独裁」を「執権」に置きかえた点である。
改定の理由は、「道具」とか「独裁」とかいう言葉の語感から説明されている。「道具」という言葉は、国会にたいする人民の尊重心を呼び起さず、「機関」という言葉であれば国会を重視する党の立場にふさわしい語感を人民に与えることができるというのである。また「独裁」のもつ語感は、「独断で決裁する」とか、特定の個人や集団への権力集中という印象を与えるから使用すべきでないという。
賢明な読者諸氏は、この用語上の改定が、戦略上の関心から発しているものであることに、すぐお気づきのことと思う。問題は語感にあるという。用語の科学的な概念のうえで、誤まりを正すという場合には、多かれ少なかれ理論上の検討を要する。語感にもとづく言葉の問題として提出されているためにかえって、改定の政治的意図があからさまになる。つまりこれらの用語変更の意味を把握するためには、日本共産党の政治戦略の検討を直接におこなうことが要求されるのである。
だが、そのまえに、語感の問題として処理された用語の置きかえそれ自身が、重大な概念の変更をおこなっていることを指摘する必要がある。この指摘によって、われわれがおこなうべき政治戦略の検討の結論も、予備的に浮び上ってくるだろう。
「道具」という用語と「機関」という用語のあいだには、語感のちがい以上のものがある。「道具」という用語は、その道具をつかう主体のイメージと強く結びついて表象される。「道具」は、目的と主体を媒介するものであって、主体(目的)→道具→対象(目的)という運動構造のなかに位置づけられている。だから、国会が「道具」であるという場合には、国会を「道具」とする主体=階級が前提されているのである。
むろん「機関」という用語も、「道具」と同じような論理にはめこむことはできる。だが同時に、「機関」を全然別の方法で使うこともできる。「機関」を主体と切りはなして構想することもできるのである。
「機関」という用語は、客観的に独立した存在をあらわすことができる。「機関」と主体の結合は直接的ではない。「機関」を主体と結合するためには、認識は一段階突き進むことを要求される。
「道具」という用語で国会を規定する場合、それを使用する階級の目的に従って改造するイメージを抱くことも可能である。共産党はそんなふうには言わないが、ソビエトが国会を占拠して、これがわれわれの国会だと強弁することでもイメージできなくはない用語なのである。だが、「機関」という用語の場合には、現にある国会そのものと別のものを構想することは許されない。国の「最高機関」としての現国会を、そのものとして受けとり、それを根本的に破壊してはならない。現行の国会のなかで多数派になるというイメージ以外のものを受けつけない用語なのである。
「道具」を「機関」にかえることは、したがって次のような政治的意味をつけ加えることになる。第一には、国会それ自身は階級性を持たないものであって、階級から独立しており、たまたま国会内の多数派が自民党であるからブルジョアに役立つのであり、共産党が多数派になればちがった役割を果すのだということ、第二には、労働者・人民の権力は既存の権力を破壊するのではなく、引きつぐのであるということである。
次に「独裁」と「執権」のちがいにうつろう。「独裁」が「執権」に置きかえられることによって、権力の概念から「排他性」が矢なわれる。「独裁」は、他を排除することが前提となっている。プロレタリアートの独裁という場合には、プロレタリアートだけが掌握し、他の階級によって本質的に左右されない権力、他の階級にたいしては多かれ少なかれ「強制」として行使される権力が表現される。だが、「執権」という用語は、権力それ自身は客観性を持ったもの、その権力を行使する主体から独立したものであって、その客観的な権力をある主体が行使するということを意味している。また、その権力を他の主体と連合して行使することも想定できる。
このように、「独裁」と「執権」はことなった概念なのである。「独裁」は権力の本質を規定している。だが「執権」は権力の本質を規定しているのではなく、権力の行使を意味するにすぎない。
次のように考えれば良くわかる。「権力とは何か」という問が発せられたとしよう。「それは、ある階級の他の階級にたいする独裁である」という答えには意味がある。だが、「それはある階級の執権である」というのでは同義反復であり意味がない。
「独裁」を「執権」に置きかえることによって、共産党の綱領は、権力の規定を変更したのである。権力を階級から独立したものととらえる概念をもちこんだわけである。こうして、国会をそのまま労働者・人民の権力機関に転換することが可能だと主張する根拠が与えられるのである。労働者階級が他の階級と連合して権力を構成する道をひらいたのである。
「道具」を「機関」に、「独裁」を「執権」に置きかえた綱領の改定は、したがって、一二回大会における議会主義路線の「発展」――人民的議会主義の戦略が、一時的便宜的な路線ではなく、革命にむけた基本的な戦略を確定したものであったことを意味している。
人民的議会主義という言葉自身は、一一回大会から使用された。
「国会を名実ともに国の最高の機関にするという、真に民主的で進歩的な代議制度の重視――ことばをかえていえば、人民的な議会主義……」(中央委員会報告)
まだこの言葉は、一一回大会では、大会決議のなかには現われて来ない。
一二回大会にいたって、人民的議会主義は報告においても決議においても、一項目を占めるようになる。それは当面の戦略であるだけではなく、革命にいたる基本的な戦略であることが主張されている。
「人民的議会主義の立場は、その現在とともに、その将来をもっています。
第一一回党大会の決定がすでに的確にしているように、第一に、国会の審議をつうじて、政治の実態を国民のまえにあきらかにすること、第二に、国会活動と議会外の国民の運動を積極的に結合しつつ、国会を、国民のための改良の実現をはじめ、国民の要求を国政に反映させる闘争の舞台とすること、そして第二には、国会の多数の獲得を基礎にして、民主連合政府を樹立する可能性を追求すること、これが、わが国の今日の条件のもとでの、人民的議会主義の活動の主要な内容をなすものであります。」
「では、その将来はどうか。わが党は、民主連合政府の段階はもちろん、反帝反独占の民主主義革命をへた独立・民主日本の段階でも、さらにすすんで社会主義日本の段階でも、すべての段階をつうじて、国会を名実ともに国の最高機関とする民主的な政治制度の確立、発展をめざすものであります。」
「このようにわが党の人民的議会主義は、当面の一時的な戦術ではなく、現在から将来にわたる一貫性をもった立場であります。そして、その根底には、社会進歩をめざす人民の意思と運動を歴史と社会発展の原動力とみなし、真に民主的で進歩的な議会制度を一貫して重視する科学的社会主義の根本的見地があるのであります。」(中央委員会報告)
語感を口実とした綱領の用語改定が何故おこなわれなければならなかったか、いまやまったくあきらかである。人民的議会主義は、革命にいたる基本的戦略であり、さらにおどろくべきことには、社会主義社会においてさえ「国の最高機関」なのである。
社会主義社会において、人間がどのような組織をもつべきであるかということについて、われわれは宮本顕治と論争する意欲を持たない。人間が社会主義社会に入るということは、資本主義社会が終ったということを意味するのである。資本主義社会が終るということは、階級が消滅することであり、したがって、国家も死滅するのである。社会主義社会は、国家を持たない社会である。国家を持たない社会で、なぜ、「国の最高機関」や、「真に民主的な代議制度」が必要なのかということについて、宮本顕治と論争してもはじまらない。彼の言う「社会主義日本」というのは、せいぜい「過渡期へ資本主義から社会主義への)の日本社会」という意味でしかないのである。そのような言葉使いをする宮本顕治の、マルクス主義にたいする無知をあげつらってみてもあまり生産的ではない。
しかし、絶対に問題にしなければならないのは、ブルジョア国家の権力機関が、そのままプロレタリア革命の権力にすりかわっていくという発想である。これは社会民主主義者のもっとも基本的な理論である。パリ・コミューンのマルクスによる総括を通じて原理的に確立され、レーニンが第二インターナショナルとの闘争と、ロシア革命自身の経験によって発展させた権力に関する基本的論理を、真正面から否定する立場である。プロレタリアートは、でき合いの権力をゆずり受けて革命をやるわけにはいかない、敵の権力を打倒して自分自身の権力をつくらなければならないという立場こそ、マルクス・レーニン主義の核心である。
人民的議会主義を持ち上げ、ほめそやした宮本顕治の一二回大会報告は、日本共産党のマルクス・レーニン主義からの最終的離脱、社会民主主義の陣営への加入の宣言として、記憶されるべきである。
宮本顕治は、かつて、平和革命の可能性については、つぎのようにのべた。
「五一年綱領が、『日本の解放の民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである』という断定をおこなって、そのような変革の歴史的・理論的可能性のいっさいを思想としても否定して、いわば暴力革命不可避論でみずからの手を一方的にしばりつけているのは、あきらかに、今日の事態に適合しないものとなっている。したがって、七中総の決議は、どういう手段で革命が達成できるかは、最後的には敵の出方によってきめることであるから、一方的にみずからの手をしぱるべきではないという基本的な見地にたっておこなわれた必要な問題提起であった。」
「また、平和的な手段による革命の可能性の問題をいわば無条件的な必然性として定式化する『平和革命必然論』は、今日の反動勢力の武力装置を過少評価して、反動勢力の出方がこの問題でしめる重要性について原則的な評価を怠っている一種の修正主義的な誤りにおちいるものである。」(第七回大会、「綱領問題についての報告」)
七回大会から今日までのあいだに一五年の時間がたしかに過ぎた。だが、当時の国際情勢は、彼らの目では「ますます有利な情勢」であった。今日、彼らは、「情勢の一定の困難な側面」を強調している。人民的議会主義の立場は、うたがいなく、「平和革命必然論」である。あるいはむしろそれよりももっと悪い、「国会革命論」とでも呼ぶべきものである。
七回大会で「敵の出方論」を主張した官本顕治が、一二回大会では、「敵の出方」にかかわりなく、その予測を立てることもせず、まさに「一方的にみずからの手をしばる」やり方で、議会主義――平和革命のコースを主張するのは、どうしてなのか。すくなくともこの変化は、「情勢の有利な発展」にもとづくものではない。彼らの情勢分析は、そのような論拠を提出していないからである。それならばなぜ、「一種の修正主義的な誤り」とかつて主張した「平和革命必然論」を、宮本は今日提起するのか。
われわれは、この問題にこたえることが、「日本共産党はどこへ行く」という、最初の問題提起に回答を与えるものとなると考える。そこでこの点については、次の項――最後の項で検討することにしよう。ここでは、ひとまず、一二回大会は、人民的議会主義が党の根本的戦略として採用され、綱領にまで貫徹した大会であったということ、この意味できわめて重大な、画期的な大会であったということを、確認しておこう。
c 日本共産党はどこへ行く
宮本顕治による人民的議会主義の説明には重大な欠落がある。人民的議会主義、すなわち国会を通じる革命のコースが、なぜ、有効なのか、なぜ勝利し得るのかという根拠が、なにひとつ提出されてはいない。強調されているのは、党が真剣に、まじめに、一貫してこの議会主義を実践するつもりなのだということだけであり、なぜそうしなければならないのかという理由は、一言もふれられてはいないのである。
人民的議会主義の戦略が科学的に妥当であるためには、その勝利の展望についての最小限度の必然性が理論的に解明されなければならない。政治的戦略の成否が、主体的実践のなかで決定されていくものであることはいうまでもないが、それでもそこに勝利の必然性があらかじめ解明されていない場合には、単純な賭けとかわるところがない。
人民的議会主義の戦略は科学的な裏づけを欠いている。いいかえれば、倫理的な要請以上のものではないのである。倫理的要請に過ぎないようなこの戦略が、なぜ党の基本的立場として確立されなければならないのだろうか。ここまで読み進んで来られた読者の諸君には、すでに十分におわかりであろう。
人民的議会主義の採用は、広汎な小ブルジョアジーの支持を獲得し、大ブルジョアジーの警戒心を解こうとする政治的意図にもとづいている。こうした意図にかんするかぎり、科学的妥当性は問われない。小ブルジョアジーを政治的に解体せずに、支持を得ようとすれば、科学的妥当性の追求はかえってじゃまである。問題の科学的な解明は、小ブルジョアには未来がないということを暴露するだろうからである。
人民的議会主義は、小ブルジョアジーの平和主義的・民主主義的願望にたいする、共産党の戦略的屈服を表明している。それは、プロレタリアートの政治的な団結を、小ブルジョアジーの政治性の枠内に封じ込め、ひざまづかせようとするのである。
だが、なぜ共産党は小ブルジョアジーに依拠しようとするのか。このことについては、すでに第一章で基本的に解明されている。共産党は、国際的同盟者を失った。「国際共産主義運動の不団結」が、共産党の革命展望をいっそう一国主義化させ、小ブルジョアジーにむけて押しやった。彼らは、プロレタリア独裁を放棄し、民主主義の忠実な保護者となることを誓って、孤立を回避しようとする。
このようにして“自主独立”――“人民的議会主義”――“民主連合政府”は、ひとつながりの鎖のように連結している。この鎖の一方の極には共産党が立ち、他方の滋は小ブルジョアジーの階級が握っている。鎖はプロレタリアートを包囲している。以上が今日の共産党の位置と役割を示す図式である。
さて、それでは日本共産党はどこへ行くのであろうか。 ここから先は予測の問題である。
宮本顕治は、「人民的議会主義には将来がある」と主張する。だがわれわれは、正反対の予測を立てなければならない。人民的議会主義には将来がない。議会内多数派をめざす共産党の「躍進」は、ごく近い将来に壁にぶつかるであろう。そこから、日本共産党の新しい局面が始まるのである。
日本共産党は、ひきさかれていく。
第一に、その綱領の二つの要素、「反帝・独占」と「反独占・民主」とのあいだの「対立」が深まるであろう。一方における日本帝国主義のアジア進出、他方で共産党の一国主義の純化と小ブルジョアへの屈服が「反独占・民主」の傾向をますます前面に押し出しており、党の伝統的側面である「反帝・独立」の傾向は後景に退いていっている。このことは、党内の政治的分化の大きな背景をつくり出している。
第二に、広汎なる労働者・人民の戦闘化と党の「民主主義」路線、人民的議会主義の路線との間の衝突が不可避である。人民的議会主義――人民戦線のコースは、すでに「革新自治体」において現実的な試練にさらされている。労働者・人民の直接的な利害と、人民戦線の理念との具体的な衝突がはじまっている。
第三に、アジア革命の発展と“自主独立”とのあいだに亀裂が深まる。アジア人民の反帝闘争は、日本労働者・人民の意識に働きかけるだけでなく、日本帝国主義そのものに重大な打撃を与えることを通じて、“自主独立”の一国主義路線を左からつきくずす圧力になるのである。
第四に、こうした政治的圧力は、党内のプロレタリア的基盤と小ブルジョア的基盤との不可避的な対立を呼び起すであろう。三〇万を超える党に成長する道程で、共産党は、党内に小ブルジョアジーの一定のカードルをすでにかかえ込んでおり、一二回大会路線のもとで、この政治傾向の比重が増大していくことは確実である。
日本共産党は、これらの異なった、対立する力によってひきさかれていくのである。この対立を調停し、和解させる能力は、宮本指導部にしかない。だが宮本指導部の統卒力と権威は、イデオロギー的な力によっているのではなく、彼らがこの一五年間につみ上げて来た実績にもとづいている。宮本指導部の特色は、プラグマティズムにある。人民的議会主義に「将来」がある間は、この指導部は説得力をもっている。だが、事実が人民的議会主義の展望に打撃を与えはじめると、この指導部の権威と統卒力も崩壊をはじめるのである。
社会的・経済的な危機の連続的な深化が、人民的議会主義のコースを左右から阻むであろう。「野党」をふくめたブルジョア中道派の団結が一方で進み、労働者・人民の戦闘化した大衆闘争は権力との直接的対決を他方で要求するであろう。ブルジョアジーが人民戦線を受け入れることによって、人民的議会主義の道を開く可能性は、きわめてわずかなものである。
一二回大会の規約改正によって準備されている党の官僚主義的な統制力が、党内の政治分化と党内闘争の発展をどこまで抑止し、政治情勢の危機をのり切って階級闘争の平和期につないでいくか、宮本指導部がただそのことにだけたよらざるを得ないような激動期に投げ込まれることは必至である。そしてまさにこの期間こそ、革命派がこの党に介入する絶好の機会を提供するであろう。われわれは、この機会をのがさないために、今日から、準備を怠ってはならない。   (一九七四・五)  
 
不破哲三の宮本顕治批判 / 日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件

 

はじめに / 宮地コメント 
不破氏の[秘密報告]スタイルは、フィクションで、200X年、第2X回党大会における報告である。ただし、[報告]内容は、すべて1970、80年代に、宮本・不破氏が行った「日本共産党の逆旋回と粛清事件」の事実に基づいている。
スターリンは、1953年3月に死去した。フルシチョフは、3年後の1956年2月、第20回大会で[秘密報告]『個人崇拝とその結果について』で、スターリン批判を行い、世界に衝撃を与えた。その内容レベルは、ソ連共産党・国家の誤りと責任を、スターリン個人の資質・独裁に転化・矮小化し、フルシチョフら側近の責任を棚上げした、まったく不十分なものだった。なぜ[秘密報告]が行なわれたかは、その内容・形式にしろ、スターリン死後、一定の誤りを公的に認めないかぎり、ソ連国民、2000万人から5000万人の被粛清犠牲者との関係で、ソ連型社会主義システムをそれ以上維持できないという危機意識によって、ソ連共産党政治局が一致したからである。
日本共産党において、このような[秘密報告]が将来発生する可能性は皆無であろうか。共産党は、党勢力ピークの1980年以降、26年間にわたって、歯止めのきかない党勢減退をしてきた。宮本路線・体質・「党勢拡大」システムを堅持するなかで、2000年11月の第22回大会時点で、『党大会報告』にあるように、党員は49万から38.6万に、赤旗HN部数は355万から199万に減り、民青は20万から2.3万に大激減している。
現在、日本共産党は、1)、対外的に、政策の部分的手直し「柔軟路線」を取り入れつつも、2)、党内において、民主主義的中央集権制という「党内民主主義抑圧・閉鎖体質=硬直路線」を堅持している。そのような党内外で矛盾した路線を続けることで、有権者の支持を減らし、かつ、国民の「共産党体質への拒否率」を高め、党内部崩壊の危機を迎えたとき、常任幹部会には、どのような選択肢が残されているのか。
(1)、危機回避手段として「トップによる宮本批判」という対症療法が不可避となる。
(2)、それとも、その場合でも、「スターリン批判」のようなスタイルを採らずに、いつものようにウソと詭弁を駆使した、なし崩し的転換手法で切り抜けようとするのかもしれない。
(3)、それだけでなく、さらに、もう一つの手口がある。レーニン死後、スターリンは、自分よりも有名で、人気のあるトロツキーを党内権力闘争で追い落とし、追放するために、10月武装蜂起以来レーニン路線と一体であったトロツキーにたいして、亡命時点の2人の対立点をことさらに強調・宣伝し、『レーニン全集』を編纂させた。レーニン最后の闘争におけるトロツキー評価・スターリン批判という屈辱を覆い隠すために、クループスカヤの反対にもかかわらず、レーニンの遺体を「化学処理・永久保存」して、レーニン崇拝で危機を乗り切ろうとした。スターリン死後のブレジネフ体制もレーニン神話依存症によってのみ、権力を維持しえた。それと同じスタイルで、不破・志位・市田体制は、「宮本神話」をねつ造、エスカレートさせることによって、かつ、宮本氏の誤りを何一つ認めないことによって、自己の党内権力の維持を図る手口を採ることも考えられる。そのケースでは、スターリン批判のような[報告]は一切ない。
以下の内容は、[不破報告]スタイルにしたために、不破氏の誤り、個人責任を追及する書き方になっていない。しかし、宮本私的分派・側近グループ支配下とはいえ、「宮本・不破体制」も実質であり、その路線・粛清事件すべてにおいて、不破氏はトップの一人として、その共同遂行者であり、宮本・不破氏は同質の個人責任を持っている。このファイルにおける私(宮地)の立場として、宮本批判内容は、「上田・不破査問事件」を除いて、すべて宮本・不破批判の内容として書いている。 
1、第20回大会と4つの誤り 1994年 
私(不破)は、従来、宮本引退を求める党内外からの強い意見にたいして『余人をもってしては代えがたい人』と宮本擁護をしてきた。しかし、第20回大会決議案討論や諸決定にいたる過程で、『老齢・老害の宮本氏には引退してもらわなければならない。これを放置したままでは党がつぶれてしまう』ことを痛感した。その想いを、1997年の第21回大会における『宮本引退・党中央人事抜本的改革』実現に向けて、多くの同志たちと語らって、ひそかに行動に移した。私自身、当時の委員長として賛成したことへの自己批判を含むが、従来の情勢評価や1994年の第20回大会諸決定も抜本的に見直すべきである。
1989年の東欧革命を『あれは革命ではない。資本主義への後退である』と規定したのは完全に間違っていた。東欧革命から1991年ソ連崩壊にかけて、社会主義10カ国とその前衛党が一挙に崩壊した。わが党の『1961年革命綱領』は、それらの社会主義国全盛時代に作られ、そのレーニン型一党独裁体制を日本社会主義の理想としたものだった。また党規約、体質も、それらの前衛党とまったく同質であった。
その崩壊事実は何を示すか。『61年綱領』における理念とその前提条件の完全な破綻である。“現存した社会主義国”は、他党派すべてを秘密政治警察の暴力で粛清し、反民主主義的・暴力依存症型独裁政党でありながら、表向きは『平等、公平、正義』を看板として唱える、まったくの欺瞞的国家であった。そこでの前衛党は、国家機構を党の下部機関とし、マルクス・レーニン主義を「教義」とする一種の国家宗教政党であった。その実態は、全世界と日本国民の前に暴露されてしまった。
10カ国のいっせい崩壊は、同時にマルクス・エンゲルスの“資本主義は崩壊し、必然的に社会主義になる”とした『史的唯物論』の誤りとその空想性、非科学性を証明したのである。それは、19世紀ダーウィニズムの生物学進化論を歴史学に機械的に導入した“単線的な進歩史観”であり、単純な“階級闘争還元史観”という限界をもつ理論であることが、明らかとなっている。今や、『史的唯物論』が歴史学、政治学として正しいと唱える学者は一人もおらず、学者党員でさえもその科学性を主張する者がいない。
1994年の第20回大会は、4つの内容を柱とするイデオロギー大会であった。その4つともがすべて誤りであったと報告するには、私(不破)も委員長として、個人責任があるので、勇気がいる。その誤った決定に賛成したことについては、若干の弁明もあるが、後でのべる。
第一、綱領部分改定で、従来の『社会主義国』規定を、(1)『社会主義をめざす国ぐに』と(2)『社会主義をめざす道にふみだした国ぐに』と2つに腑分けし、性格をすりかえた。
これは、社会主義崩壊を原因とするわが党の内部崩壊を避けるための欺瞞であった。社会主義国とは、抽象的な概念ではなく、14の“現存した(する)社会主義国”を指し示す歴史的現実的用語である。この変更については、党外からも馬鹿にされたが、今や38.6万党員でこのすりかえ分類用語を使う者は一人もいない。また、国際的にみても、このような意図的にあいまい化した規定を綱領に取り入れた共産党は、どこにもない。宮本氏は、この腑分けを指令し、綱領の根幹部分を改変した。
第二、また、『冷戦は崩壊していない』と大キャンペーンを行った。
それには『共産党は頭がおかしくなったか』と党内外から罵倒され、まったく不評だった。冷戦も、抽象的な用語ではなく、第二次大戦末・終了後以来の『米ソ冷戦』という歴史的具体的概念であり、冷戦構造の一方のソ連が崩壊した以上、米ソ冷戦も消滅したのである。この『冷戦崩壊否定』論を論証しようと、アメリカ帝国主義の威圧、膨張を力説した。しかし、アメリカ単独覇権には別の日本語を使うべきで、1994年時点での『冷戦は崩壊していない』などという情勢認識はナンセンスであった。宮本氏と常任幹部会が“ひとり相撲”のキャンペーンを張っただけで、当時の36万党員も誰一人として、“心の中では”それに賛同しなかった。学者党員への大会決議案説明会では、全員から強い反対意見が出され、党中央の説明を納得させられないままで会議を終えたほどである。
第三、もう一つ、『丸山真男批判』大キャンペーンも展開した。
「前衛」「赤旗」「党大会決定」「改定綱領」「日本共産党の七十年」等で13回も丸山批判を行ったが、これも誤りだった。社会主義10カ国崩壊によって、1930年代のコミンテルンの対日本支部方針や日本支部自体の活動にかなり重大な誤りがあることが明らかになってきた。それへの一定の総括とその公表を求めた丸山氏の当時の論旨にたいして、宮本氏はスターリン全盛時代の1930年代における自己の栄光を擁護するために、過剰なまでの拒絶反応を示した。これがあのキャンペーンの本質である。しかも、丸山氏の戦争責任論批判だけでなく、そのプロレタリア文学運動論、天皇制認識批判まで広がり、ほとんど丸山真男政治学業績の全否定にまでつき進んだ。これにたいして、党内外の学者、マスコミから強烈な批判、揶揄を受けた。この批判内容とキャンペーンに反対意見をもって、かなりの学者党員が離党した。
第四、党規約改定で、(旧)規約前文(三)に『誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁である』とする文言を入れた。
それは、党内民主主義を抑圧する否定的役割を果たした。党大会準備の過程で、宮本議長85歳高齢による引退要求、意見が党内外から多数出された。マスコミでもほとんどが引退勧告を打ち出した。党内で大会決議案への正規の文書意見が367通提出された。そのうち327通を「赤旗評論特集版」で6回にわたり掲載したが、不掲載の40通、11%のほとんどが宮本退陣意見書だった。宮本氏はその意見内容を『誹謗、中傷』と断定し、不掲載を強烈に主張したのである。それ以後、党内では、党中央批判意見にたいして『誹謗、中傷』レッテル貼りが乱発されるようになった。党中央批判の抑圧にとって、これほど簡便な規約用語はない。
第20回大会では、85歳の宮本氏が健在で、これらすべてを強力に主張、指令した。これらのイデオロギー的誤りは、最高指導者高齢化による“老害”に原因の一つがある。しかし、それだけではない。第20回大会の基本評価を逆転させるにあたっては、宮本氏について、ここで他のいくつかの事実を明確にしておかなければならない。
2、宮本私的分派・側近グループの拡張と完成 
宮本氏は、それまでに宮本秘書出身者を十数人も常任幹部会委員や中央役員に昇進させて、党本部内で有名な“宮本側近グループ”を作っていた。一種の“党中央内・党”という宮本私的分派を育成し、絶対的な党内実権を握っていたのである。赤旗記者をふくむ党本部専従800人、大衆団体グループ内で「ごますり」「茶坊主」といえば、そのリストが想い浮かぶほどの状況になっていた。これは、徳田球一が自ら作った最高指導者私的分派、家父長的個人中心指導と同質のものである。徳田体制、宮本体制の両者とも、その態様は、たんなる個人中心指導、個人独裁とは異なり、それと私的分派が結合したものである。
1977年の第14回大会とは、袴田副委員長・常任幹部会員の全役職剥奪をした大会である。宮本氏は、袴田粛清担当で大活躍し、私的分派ボスの栄光と権威を守りぬいた小林中央委員・元宮本秘書の功績を高く評価し、常任幹部会員へと2段階特進させた。1994年の20回大会とは、宮本引退前の大会である。宮本秘書出身者のかなりを常任幹部会員に抜擢し、側近グループ・私的分派を土台とする宮本個人独裁は絶頂期に達し、完成していた。このメンバー以外にも、宮本側近グループと党本部内で言われている幹部が数人いる。いずれも宮本氏に大抜擢され、幹部会員、常任幹部会員となり、党中枢部門を担当し、宮本氏の周辺を固めていた。
これは、“前衛党最高指導者が自ら形成する私的分派”である。この現象は、宮本氏固有のものではない。14の一党独裁国前衛党でも、そのほとんどで、この性質の分派が形成されていた。徳田・野坂も、『党史』で認めているように、50年分裂当時、党勢力の約10%の宮本分派を排除して、90%からなる主流派分派を作り、地下へ潜った。90%を『分派』と呼ぶのは変だが、宮本式『党史』では、“勝てば官軍”で、『徳田・野坂分派』と規定している。その徳田書記長は、有名な『家父長的個人中心指導』という最高指導者私的分派を作っていた。
その体制の下で、第20回大会で上記4つの決定がなされた。これらの誤りには、私(不破)も委員長としての個人責任が当然ある。しかし、宮本氏とその側近グループの結束、威圧の前には、情けない話しだが、どうしようもなかったのである。今まで「宮本・不破体制」と言われてきた。しかし、その実態は、私の弁解の立場から言えば、「宮本と側近グループ“宮本秘書団”体制」であった。 
3、日本共産党の逆旋回 
1970年代半ばから1985年までの約10年間とは、どういう時期だったのか。国際・国内情勢、党内状況から検討する。その中で4つの連続粛清事件をどう位置づけるかであるが、概略的説明にとどめる。
国際共産主義運動 1973年以来、ユーロコミュニズムが台頭し、わが党もそれに急接近した。その中心のイタリア、フランス、スペイン共産党とは、それ以来、1976年にかけて、何度も会談したり、相互訪問し、意見交換をした。そして、1976年、第13回大会では、その影響もあって、「自由と民主主義の宣言」を決定した。1977年3月には、イタリア、フランス、スペイン3党書記長会談が行なわれ、その方向、傾向が明確になってきた。「ユーロ・ジャポネコミュニズム」とまで言われるほどに、その3党との一致点が増えた。こうして、宮本氏は、1976、77年には、わが党を『ユーロコミュニズム寄りに急旋回』させた。
ユーロコミュニズムはなぜ起ったのか。1970年代に入ると、ソ連・東欧型社会主義の停滞が明らかとなり、地続きのヨーロッパでは、生の情報がたえず流入し、それまでの多くの亡命者たちも含めて、その問題点・欠陥が国民的規模で認識されるようになった。スターリン問題研究が党内外で活発化し、深化した。それにつれて、従来のレーニン型暴力革命路線、反民主主義的・閉鎖的な組織原則・体質を発達した資本主義国前衛党が堅持することは、もはや不可能となり、時代錯誤とする党内認識も高まった。それだけでなく、現実にヨーロッパのすべての共産党で、党勢減退が激しくなり、選挙での後退・敗北が続いた。
そこで、まず1970年代初めから、ポルトガル共産党を筆頭として、(1)暴力革命路線放棄、(2)プロレタリア独裁理論放棄を全ヨーロッパ共産党が公然と宣言した。(3)その後、80年代にかけて、民主主義的中央集権制・分派禁止規定を『誤った組織原則だった』として、ポルトガル共産党以外の全ヨーロッパ共産党が放棄した。その方向は、スターリン批判を突き抜けて、明確なレーニン批判、レーニン路線・組織原則の否定と、党内民主主義の全面拡大を保障する規約改正へと進んでいったのである。その「断絶的刷新・転換」なしには、ヨーロッパ市民社会において、左翼政党として生き残れなかったからである。
国内政治 1975年、革新自治体が、160自治体、9都道府県に広がった。そこではすべて、各自治体首長選挙での社共政策協定が結ばれていた。1973年第12回大会の「民主連合政府綱領」が、“社共を中心とする革新自治体の中央政府包囲”の形で実現するかと思わせた。同年7月には、「共創協定」も結ばれた。「社共」と「共創」のブリッジ協定の確立である。しかし、1978年から79年にかけて、革新自治体は次々と敗退した。80年には、「社公合意」が結ばれた。わが党は、一転、社会党、公明党批判を強め、総評を“右転落”ときめつけ、対立を深めた。1980年以降、わが党は、一挙に孤立化した。1980、81年、核兵器ヨーロッパ配備等で国内外の反核平和運動が高揚し、統一行動が進展したヨーロッパとは、“逆情勢”となったのである。
党内状況 ユーロコミュニズム発展とその理論的影響を受けて、学者党員たちの間に、スターリン問題研究、ユーロコミュニズ研究の共同作業が活発になった。田口富久治名古屋大学教授、藤井一行富山大学教授、中野徹三札幌学院大学教授、その他多くのマルクス主義者が、雑誌『現代と思想』等での共同研究に参加し、次々と個別論文、著書を発表した。水田洋名古屋大学教授も、マルクス主義批判をのべるようになった。党中央内でも、上田耕一郎同志が、先進国革命路線のあり方、新しい党組織論について、論文、著書を発表した。党中央機関内にも、多元的社会主義論、民主主義的中央集権制の見直し論などの影響が大きく現われてきた。それらの著書のいくつかは、当時、大月書店勤務の加藤哲郎が、編集・出版を担当していた。当時、出版労連の活動家党員たちは、学者党員たちと連携して、イタリアなどのスターリン批判著書の大量出版計画を立てて、精力的に取り組んでいた。
それらの本はかなり売れ、党内でもその論旨を支持する雰囲気が高まってきた。そこから、“上耕信仰”と呼ばれる傾向さえ生まれてきた。その内容は、上田耕一郎の理論展開を支持し、彼こそが、わが党をユーロコミュニズム型政党に発展させる次期リーダーと期待するものである。上記の学者党員たちと“上耕”とは、理論的、思想的にほとんど一致していると思われた。田口、藤井らは、その著書や「あとがき」に、上田論文を“わざわざ”引用していることからも、その一致と期待がうかがわれる。“上耕”人気が高まるのに反比例するように、宮本氏の理論的権威は低下していった。私(不破)も、それなりの論文など発表しているのに、「兄」のような人気は出なかった。なぜだかよくわからないが……。私は、1976年、「プロレタリアート独裁」を「プロレタリアートの執権」と解釈すべきとした、『科学的社会主義と執権問題』を発表した。私の人気が出るどころか、中野徹三などは、その論文にたいして、同年、その「執権規定」内容を真っ向から批判し、従来の「独裁」訳語が正しいとする、マルクス理論の分析に基く学術研究論文を公表した。
宮本氏は、それらの状況を、どう受け止め、どう対応したのか。
1976年、スペイン、フランス共産党、その他と会談した頃から、宮本氏は、ユーロコミュニズムが目指す方向に疑惑を抱くようになった。3党とも、ユーロコミュニズムの根幹理念の一つとして、スターリン批判、研究を各国の党内外で強化していた。その研究が進むにつれて、当然のことながら、レーニン主義全体にも疑問を深め、民主主義的中央集権制放棄を志向し始めていたのである。いったん、その研究を始めれば、レーニンとスターリンとは、どこが連続性を持ち、どこが非連続なのかの深淵テーマにはまり込まざるをえないからである。彼の疑惑は、その後、3党いずれもが、まずレーニン主義組織原則である民主主義的中央集権制と分派禁止規定を公然と放棄した事実からも証明された。
彼は、その進展方向に批判を持ち、1977年第14回大会前後から、一転して、イタリア共産党批判を、まず常幹内部で口にするようになった。そして、1982年7月、第16回大会で、明確に「イタリア共産党の清算主義批判」を打ち出した。私たち兄弟2人がその理論的影響を受けた、1950年代の「構造改革路線」とは若干異なるが、イタリア共産党が、マルクス・レーニン主義と断絶して、「強力な構造改革路線」政党に大転換することを、早くも“嗅ぎとった”のである。
宮本氏は、1930年代スターリン全盛時代に、検挙されるまで、コミンテルン日本支部中央委員を8カ月間だけ勤め、獄中12年間中も、レーニン・スターリン主義の絶対的信奉者だった。戦前のコミンテルン日本支部党員2300人中で、『真の「非転向」は、俺と春日(庄)ぐらい』と発言しているように、その信奉は強固だった。その彼にとって、スターリン批判だけでとどまるのならともかく、レーニン批判にまで深化し、さらに民主主義的中央集権制の放棄に行き着く研究方向などは、断じて許されないことだった。彼は、ユーロコミュニズムと波長を同じくして、当時波高くなってきた党内外でのスターリン批判の研究・出版活動を放置すれば、それは当然のようにレーニン批判に行き着くことを怖れた。
そこで、彼は、“自分と愛すべき「宮本秘書団」の党”・日本共産党をユーロコミュニズムの影響から絶縁させ、「日本共産党の逆旋回」を断行するために、全力を挙げた。彼が採った行動を、表・裏両面から見てみる。
表面では、(1)1977年第14回大会で、まず「民主集中制の規律の強調」をした。(2)1978年11月から1980年3月まで、多元的社会主義を提唱する「田口富久治理論」批判大キャンペーンを行ない、その田口批判「前衛」論文の執筆を2回、私(不破)に指令した。(3)1979年2月、6中総で、田口理論批判の強化を指令し、「分散主義との闘争」を全党に呼び掛けた。(4)1980年2月第15回大会で、「田口・藤井理論に象徴される自由主義、分散主義との闘争と全党的克服」を決定した。(5)1980年11月、宮本『文芸評論集第一巻』の長大な「あとがき」で、戦前の自己のプロレタリア文学運動とその理論を、蔵原惟人批判、鹿地亘批判を含めつつ、全面正当化した。それによって、「プロレタリア文学運動」の「戦後的総括」を試みた。(6)その流れの中で、1982年、私たち2人を査問し、その“一冊の本”を、イタリア共産党の「構造改革理論」の影響を受けた内容を一部持つときめつけた。そして、『お前たち2人は、26年前、自由主義、分散主義、分派主義の誤りを犯した』と断定した。
裏面では、陰湿な排除・報復活動を必ず伴っている。以下の4連続粛清事件である。 
4、逆旋回遂行のための4連続粛清事件 
4-1 ユーロコミュニズム、スターリン問題の研究・出版活動粛清事件 
1、『田口・不破論争』1978年〜『高橋彦博除籍』1994年
『ネオ・マル粛清』とは、ネオ・マルクス主義の学者党員の研究・出版活動、出版社党員にたいする一連の粛清事件の総称である。ただし、個々のケースは、かなり違いがあり、そのため、従来はばらばらに捉えられ、統一された粛清方針に基づく事件として見られなかった。ましてや、私(不破)たち兄弟にたいする『上田・不破査問、自己批判書公表事件』は、別問題として切り離され、党史の闇に葬り去られてきた。この[秘密報告]は、宮本氏とその私的分派による屈辱的査問の真相を明らかにするということも、動機の一つである。
その“宮本式逆旋回”を成功させる上で、当面する最大の邪魔者たちは、“党内に巣食い、ユーロ・ジャポネコミュニズム方向を紹介、宣伝、扇動する「ネオ・マルクス主義者」たち”だった。その逆旋回に抵抗するであろう邪魔者には、3つがあった。1)ネオ・マルクス主義学者党員では、田口富久治名古屋大学教授、藤井一行富山大学教授、中野徹三札幌学院大学教授らが、雑誌『現代と思想』・連続シンポジウム「スターリン主義の検討」で精力的にスターリン批判を展開し、それぞれ単行本も出版していた。2)共産党系出版社内党員では、大月書店の加藤哲郎らが、田口著『先進国革命と多元的社会主義』の編集・出版を直接担当するだけでなく、青木書店とも連携して、イタリアのスターリン批判研究文献多数の翻訳・出版も企画していた。3)“上耕”も、田口、藤井が引用した論文を発表していた。彼の当時の論文、発言、行動は、党中央最高幹部内では、ユーロコミュニズム理論、方向にもっとも接近し、それを公然と目指していた。
(1)田口富久治は、1976年7月、「朝日夕刊」のデュヴェルジェ理論紹介記事『さまざまな「傾向」が党内部で共存する権利』を発表した。それにたいして、党中央は、彼を個別党内批判・詰問をした。1977年、彼は、雑誌論文『先進国革命と前衛党組織論』を掲載した。党中央は、その内容にたいする「関原利一郎」名の批判論文を発表した。「関原利一郎」とは、榊利夫、上田耕一郎ら4人共同執筆のペンネームである。彼が、2度の批判にも屈しないので、1978年、『田口・不破論争』を公然と開始した。このとき、田口教授の下に、大月書店を退社した加藤哲郎が、法学部助手として、後房雄が院生としていた。この2人とも後に、「ネオ・マル粛清」の対象として批判した。1978年、『前衛』での「田口批判」開始と同時に、愛知県青年学生グループ会議を緊急招集して、彼を学生自治会、民青の講演会講師にいっさい呼ばないように厳重指令した。彼の理論的影響を、青年学生運動から徹底的に排除する手を打った。
(2)藤井一行には、1976年、論文『民主主義的中央集権制と思想の自由』にたいして、榊が1980年1月に批判論文を発表した。1978年、著書『民主集中制と党内民主主義』にたいして、宮本氏は、私(不破)に指令して、1978年11月、党中央理論部門研究会で藤井批判を行なわせた。
(3)中野徹三は、1980年、『田口・不破論争』参加の論文を発表し、また、不破論文批判の学術研究論文『マルクス、エンゲルスにおけるプロレタリアートのディクタトゥーラ概念』を発表した。プロレタリアート執権問題での不破批判学術論文発表の件で、その行為は“党内問題を党外にもちだした”規律違反だとねつ造し、1980年5月に査問した。学術論文発表を規律違反と見なす党中央と北海道委員会による査問にたいして、彼と大学職員支部の抵抗が激しく、すぐ処分できなかった。その後、“幸いにも”「別件問題」が現われ、それを“口実”として除名した。
(4)水田洋のマルクス主義批判には、「赤旗評論特集版」で、水田理論を“奇妙な異論”として全面否定した。
(5)加藤哲郎らのスターリン問題等の何冊もの出版計画は、大月書店、その他書店に圧力をかけ、途絶させた。加藤哲郎は、そこで大月書店をやめて、田口富久治の勧めで名古屋大学法学部の助手になった。
宮本氏は、その後も、ネオ・マルクス主義者らの研究・出版活動にたいする粛清を継続した。
(6)『日本共産党への手紙』が教育史料出版会から、1990年6月出版され、大きな反響を呼んだ。そこでの加藤哲郎論文『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』と藤井一行論文に、宮本氏は激怒して、大掛かりな“報復”をした。その編集をした有田芳生を査問し、除籍した。党員である、その出版社社長を査問し、党員権6カ月間停止処分にした。
(7)高橋彦博が、『左翼知識人の理論責任』を出版した。それにたいして、『その内容には、党への誹謗中傷が数箇所ある』といいがかりをつけて、規律違反とでっち上げ、1994年5月、査問し、除籍した。
(8)他のネオ・マルクス主義学者らの研究・出版活動に圧力をかけ、または除籍した。党中央・県役員2人が、自宅に乗り込んで、その学者党員の異論を『党中央決定違反の論旨』と詰問し、それに屈服しなければ、公然と批判すると脅かした。その結果として、“自発的に離党する”よう追い込んだ。学者党員たちは、これらを『ネオ・マル粛清』と呼んでいるが、政治学、社会思想史分野でそれを知らぬ党員はいないほどである。その宮本式脅迫に遭って、かなりの学者党員は、あまり抵抗せずに、“党中央の思惑どおり”異論発表を止めるか、あるいは黙って離党した。高橋彦博のように、自分の除籍経緯を公表するなどは、異例である。
こうして、この表裏両面からの、日本におけるユーロコミュニズム研究、スターリン問題研究、社会労働運動史見直し研究活動の抑圧が強行され、宮本氏と側近グループは、それらに関する学者党員らの研究・出版活動の全面鎮圧に成功した。そのため、日本のスターリン問題研究レベル、スターリンの粛清事実の国民認識度は、ヨーロッパの発達した資本主義国に比べて、飛びぬけた、“誇りうる低さ”になっている。
“幸いにも”、排除・報復をした数十人以外の学者党員、出版関係党員は、党中央の鎮圧行動にたいして、まるで反対意見を出さず、沈黙していた。中野徹三一人だけが、田口・不破論争は「前衛」誌上公表で行なわれている以上、それは“公開論争”であり、学者党員であろうとも、それに自由に参加できるとして、論争参加の論文を発表した。宮本氏は、それは“党内討論”であるとこじつけた。そして『党外での論文公表は規律違反』といいがかりをつけて、それも査問項目の一つとした。ルイ・アルチュセールが書いているように、フランス共産党中央の誤りにたいして、千数百人もの学者・知識人党員が、党中央の報復を覚悟で公然と抗議の声を挙げる状況が、この当時、わが党内で起きていれば、宮本氏の意図は挫折していたであろう。数万人の学者・文化人・知識人党員は、この問題に無関心だったのか、それとも、党中央の報復を怖れて“日和見を決め込んだ”。私たち兄弟の、査問による自己批判書にたいして、党外からの敏感な、過剰なほどの反応に比べて、『その内容、発表ともおかしい』とする意見書は、学者・知識人党員から一通も上がってこなかった。水田洋が言うように、わが党には、学者・知識人党員たちを『思考停止人間』にした“戦後責任”があるのかもしれない。
2、私(不破)にたいする2つの査問−1951年と1982年
一連の党大会決定、方針にたいして、私が抵抗できなかったもう一つの要因が存在した。第20回大会評価だけでなく、今後、路線、規約の大転換をする上では、委員長でありながら、議長と側近グループに抵抗できなかった別の理由も、この際、明らかにしておく責任がある。自己弁明になるが、常幹メンバーならよく知っている2つの査問体験を、私なりの視点からのべる。経過が複雑なので、かなり長くなる。
○第一、スパイ容疑・2カ月間監禁・リンチ査問事件 1951年2月
当時、私(不破)は、国際派の東大細胞に所属していた。早稲田大学細胞が捕まえたスパイが、東大にいるスパイ3名を自白したというのが発端だった。その名前は、キャップ戸塚、LC不破、都学連委員長高沢だった。東大細胞は、私たち3人を2カ月間監禁査問し、スパイの自白をせよと、殴る・けるのリンチ査問を行った。
突如武井の手が不破の顔面に飛び、なぐり飛ばされた不破の眼鏡がコンクリートの床の上で音を立てて滑った。「貴様!」武井は殴打しながら不破をなじった。戸塚と不破の顔が変形してきたが手はゆるめられるどころかはげしくなった。不破の兄、上田耕一郎が急に連絡がなくなってしまった弟の消息を尋ねて細胞の部屋に来た。もちろん誰もことの次第を彼に話すはずもない。査問はもはやリンチと呼ぶ他はない様相を呈してきた。「未だ吐かない」「しぶとい奴だ」いら立てばいら立つほど交替で追及する者のリンチは強くなっていった。私もついに戸塚に数発手を下した。「手を下す」などといった生易しいものではなかった、と、安東仁兵衛が『戦後日本共産党私記』(文春文庫、1995年)の「第七章」でその経過と結末を詳述した。
安東仁兵衛は査問委員として「殴る側」であった。「殴られた側」の私からみれば、そのリンチはそこに書かれている以上にもっと凄惨なものであった。そのリンチ程度のひどさ、階級敵にたいするような拷問査問の激しさは、キャップ戸塚がリンチにより気絶したり、その後自殺を図ったことからもうかがえる。しかし、ここでは、その査問内容、やり方をのべるのが目的ではない。
1951年2月は党分裂時期だった。国際派トップの宮本氏は、その指導下にある東大細胞から報告を受けて、監禁リンチ査問を知りつつ、一度も止めようとしなかった。なぜなら、国際派・統一会議ビューローの一人が、査問開始後に指導に来て、『スパイは徹底的にやっつけろ』とアドバイスしていったこと、宮本氏は戸塚自殺未遂後、戸塚「手記」を読んだ事実があることからも、彼は最初からこの監禁査問を知っていたことが明らかだからである。しかし、宮本氏は、私たちへのリンチ査問を止める指示を出すことができる立場にありながら、それを2カ月間放置した。
1982年の査問は、この1951年の査問と並んで、私の生涯でのもっとも屈辱的な体験である。しかも、そのいずれもが、まったく不当な、誤った査問だった。そのいずれにも宮本氏がからんでいた。
○第二、『戦後革命論争史』出版行為・執筆内容査問事件 1982年
宮本氏と側近グループは、1982年、上田同志と私(不破)が26年前に出した『戦後革命論争史』(大月書店、上1956年、下1957年発行)の出版行為と執筆内容のいずれもが重大な誤りであるときめつけた。その問題で、彼らは、私たち兄弟2人を査問し、自己批判を強要し、打撃的批判を加えた。その本は、宮本氏の指令で、すでに18年前の1964年に絶版にされていたにもかかわらず、である。査問委員会の責任者は側近グループの一人だったが、その事実上の査問委員長は宮本氏だった。
2人への査問では、宮本氏は、著書執筆のための事前集団討議、出版行為が『自由主義、分散主義、分派主義』であると断定した。一体どこに『分派主義』、分派活動があったというのか。彼らは、私たちの『分派主義』への反省が足りないとして、査問中に打撃的批判を加え、何回も自己批判書の書き直しを命じた。結局、私は『自由主義、分散主義、分派主義の誤りを犯した』ことを6回、上田同志は5回、共著者2人で計11回も書き入れさせられた。これは、『日本共産党の六十年』出版過程の党史認識・思想統制の一部として行われた。そして、宮本氏と常任幹部会は、1982年12月に、その自己批判書をようやく承認した。
常幹内部だけの査問と承認だけでなく、それから9カ月も経ってから、宮本氏は『前衛、1983年8月号』にそれを掲載するよう指令した。自己批判書の題名は、『民主集中制の原則問題をめぐって―党史の教訓と私の反省―不破哲三』(「前衛」6ページ分)、『「戦後革命論争史」についての反省−「六十年史」に照らして−上田耕一郎』(「前衛」6ページ分)とされた。
常幹内部だけにとどめずに、18年前に絶版になっている、26年前の出版行為を重大な誤りとして、党内外に“派手派手と”公表する、どんな必要があったのか。この本は、当時ある程度有名となり、売れもしたが、常識的にみて、絶版になっている本の政治的理論的影響力など残っている筈もない。『26年前の本だが、反共攻撃に利用される』との批判もされたが、それはこじつけにすぎない。したがって、それは常幹内の承認だけですむものであった。
そして、26年前の『分派主義』の誤りに関する自己批判書『前衛』公表という“異様さ”にたいして、党外からさまざまな疑惑、推測が出された。それらにたいして、宮本氏は、長大な「赤旗主張」(1983.9.25)を載せ、その疑問を『日本共産党への「新手」の中傷・かく乱』ときめつけ反論した。
この査問の不当性、誤りを証明する上で、『戦後革命論争史』出版経緯を明らかにしておく必要がある。1955年、「戦後の戦略思想」を集団で研究しようという話が出て、その研究討論会が3カ月間行われ、その内容を大月書店から出版することも決まった。メンバーは、50年分裂段階の宮本・国際派学生対策委員5人と学生側委員上田同志だった。上田同志は、討論の筆記役にすぎず、単行本執筆予定は討論側の一人だった。その予定者内野壮児が遅筆のため、上田同志が急遽、執筆することになった。その時、上田同志が申し出て、「弟」も一部を分担執筆することになった。上田同志は、当時28歳で市民運動の「新聞」編集者、私は鉄鋼労連書記で、2人とも党幹部でなく、まったく無名だった。
私は、その研究討論会には一度も参加していない。その私の一部分担執筆が、どうして『分派主義』になるのか。上田同志が筆記したメモ・ノートに基いて、2人で討論しながら書いたことが、『2人分派』になるとでもいうのか。また、共産党系の大月書店から刊行予定の、そのテーマでの本出版目的討論会のどこが分派活動なのか。5人の中に石堂清倫がいたから、『分派主義』に“汚染”されたとでもいうのか。たしかに、宮本氏は、石堂氏を、いくつかの理由をつけて、毛嫌いしていた。しかし、石堂氏は、その時点でなんの処分も受けておらず、立派な現役党員だった。そこでの私の行為には、なんの分派活動も『分派主義』もない。1955年当時の2人の行動には、1955年7月「六全協」前後の状況で、他の全党員と同じ程度には若干の規律上の問題点はあったとしても、基本的な規律違反などなかった。また、著書内容でも、一部問題点は当然あるが、基本的には正しかった。
そもそも執筆をしていた1955年とは、どういう時期だったのか。
1950年以来、5年間以上にわたり党分裂が続いていた。1955年7月の「六全協」では、“一定の統一を回復”したが、党指導部構成、準備過程、規約上で重大な欠陥を持っていた。徳田は中国で死亡していたが、その分派指導者の野坂らが準備の中心であり、統一原案はソ連側原案を基本にして作られた。武装闘争路線の事実上の指針となっていた『51年綱領』は正しいとされた。
最高時2000人いた「北京機関」はいまだ解体されず、その最終的解体は1957年3月まで引き延ばされた。その2000人は、中国共産党手配の「人民艦隊」で常時出入国し、『鉄砲から権力が生まれる』式毛沢東路線で教育され、武装闘争軍事訓練を受けていた強力な職業革命家軍団であり、日本における「火焔ビン闘争」「警察署襲撃闘争」を指導する非合法軍事委員会『Y』の経験者であった。徳田・野坂らは、1950年朝鮮戦争における国連軍後方補給基地日本での後方かく乱武装闘争を指令したスターリン、毛沢東に盲従した分派である。しかし、それは90%の勢力を擁し、「人民艦隊」で人員、資金、武器密輸をひんぱんに行い、非合法地下活動をしていた。その費用は、ほぼ100%中国共産党、一部をソ連共産党が提供した。
「六全協」とその後の経過は、はっきりいって、その武装闘争路線を中国、ソ連資金に100%おんぶして行ってきた90%主流派分派を、合法活動路線の宮本・国際派10%分派が、武装闘争総括をあいまいにしたままで、かつ、「北京機関」を解体しないままで、“吸収合併”しようとしたことなのである。それらを10%分派が“併合”し、党内指導権を握ろうとし、さらに、1956年9月「六全協八中総」で第7回大会開催を決定し、そこで新しい綱領、規約を決めようとする以上、10%と90%との激烈な指導権争いが繰り広げられていた。10%分派の国際派は、分裂時期は「統一会議」という分裂党機関をつくっていた。しかし、綱領論争が激化する中で、10%分派の国際派は、「統一会議・宮本系」と、「統一会議・春日(庄)系」に事実上再分裂したのである。実態としての“統一を一定回復した状況における新たな分派抗争”が激しく再燃してきたのが、1955、56年時点の党の実態であった。
そこでの10%分派中心指導者である宮本氏が、綱領理論問題での公的機関討議だけでなく、その裏面で、多数派になるための、さまざまなレベルにおける分派工作を一番率先して行っていたことは、当時の幹部なら誰でも知っていることである。彼は、「1961年綱領」にある二段階革命路線を制定する上での理論活動の中心であった。同時に、その路線支持に多数を集めるための宮本氏の分派活動のすさまじさは、まさに特筆すべきものがあった。彼は、まさに分派活動の天才でもあった。
徳田・野坂90%主流派分派の切り崩し、宮本分派への加入工作、説得などの裏工作=分派活動なしには、また「六全協」後、別の路線分派として誕生してきた「反独占社会主義革命路線」分派、「構造改革路線」分派との組織闘争なしには、「61年綱領」採択にまではとうてい行き着けなかったのである。そのやり方は、説得、理論論争だけでなく、違う路線分派幹部の排除、言論抑圧、除名などのクーデター的手腕を伴って行われた。その組織抗争の激しさは、1958年7月の第7回大会でも、規約は決まったが、綱領を決めることができなかったことからも証明されている。
1955年7月「六全協」から1961年第8回大会までには、党内に4つの分派が実質的に存在し、綱領路線論争と組織抗争の表裏両面での闘争を繰り広げていた。(1)「北京機関」2000人の職業革命家軍団を中心とする武装闘争路線の、90%主流派残存分派、(2)統一会議・春日庄次郎系の「反独占社会主義革命路線」分派、(3)イタリア共産党の理論的影響を受けた「構造改革路線」分派、(4)10%の統一会議・宮本顕治系「二段階革命路線」分派である。そして、「六全協」で武装闘争路線が明白に否定されたからには、(1)90%主流派残存分派を“草刈り場”として、(2)(3)(4)のいずれの分派がどれだけ多くの“支持票”を獲得するかが、その後の路線論争、分派抗争の勝敗を決したのである。
この期間は、『統一を回復』して『61年・二段階革命路線綱領』を“全員一致”で採択した、という表向きのきれいごとだけではない。裏側から見れば、それは、他の3分派を徹底して切り崩し、宮本派への“転向”を説得し、あくまで反対する者・分派は排除する“宮本分派・党内クーデターの勝利”ともいえるのである。彼は、『相手の方が悪い、規律違反を犯した』とする口実をねつ造しつつ行う反対分派排除活動の天才でもあった。
宮本氏は、綱領路線論争討議が公正、民主的に行われた証拠として、1961年3月の6中総一回だけで、春日(庄)に47回、内藤知周に68回の発言を保障したと『党史』、その他で何回となく主張している。その公的会議一回での討論回数は事実である。しかし、その裏側での分派工作にこそ、14カ国前衛党トップと同じく、宮本氏の真髄が発揮されていた。
1961年7月25日からの第8回大会直前の、22日に『21人の党員文学者連名』による“宮本氏の党内民主主義抑圧工作を告発した声明”が公表された。その内容と公表行為は、裏側での、宮本氏と宮本分派による陰湿な反対派排除工作、言論抑圧のクーデター手法の“えげつなさ”を証明している。3日前時点には、すでに各都道府県選出の党大会代議員リストが党中央に提出されていた。宮本氏は、党大会代議員の『二段階革命路線綱領』全員一致採択=宮本分派クーデターの完全勝利を、そのリストによって事前計算できていた。宮本氏は、彼ら全員を『反党声明』分派活動グループときめつけ、その『声明』内容を問答無用と排斥した。そして、瞬時に彼ら21人を査問、除名、権利制限をした。武井昭夫、大西巨人、針生一郎、安部公房、野間宏らの除名である。
余談になるが、武井昭夫は、下記の1951年2月、国際派・東大細胞による戸塚、不破、高沢へのスパイ容疑・2カ月間監禁・リンチ査問事件において、私にスパイの自白をせよと査問し、私の眼鏡が吹っ飛ぶほど、何回も、力まかせにぶん殴り、査問委員の中で、戸塚や私にもっともひどいリンチを加えた張本人であった。
この「六全協」前後における、党幹部でもない、無名の私たち2人の“一冊の本”執筆、出版行為を『分派主義』ときめつけるのであれば、宮本氏は、もっと何倍もの、明白な『分派活動』を強力に展開していたのであり、宮本氏自身が自己批判書を書くべきであろう。
それでは、なぜ、宮本氏は、自分が行ってきた、反対3分派クーデター的排除のための分派活動を自己批判せずに、当時無名の私たち2人を査問し、26年前の「誤り」を認めさせ、党内外にわざわざその「誤り」を公表させたのか。
彼は、年をとるにつれて、自分に100%服従しない、その具体的言動で忠誠心を表わさない幹部への猜疑心(さいぎしん)をつのらせた。彼は、絶対忠誠を誓い、その党派性(=自分への盲従性)の高い宮本秘書出身者しか信用しないようになった。なぜなら、他の最高幹部の多くは、分裂時期の徳田・野坂90%分派から、『二段階革命路線綱領』勝利者への“風見鶏的な転向者”であり、心底からは信用できなかったからである。彼は、自分への無条件忠誠者と、下心や異論を秘めた者、面従腹背者を“嗅ぎ分ける点”では、異様なまでに発達した嗅覚の保持者だった。彼は、党本部内で「ごますり」「茶坊主」と呼ばれる秘書出身者たちを“愛し、重用し”、側近グループとして、党中央役員につぎつぎと大抜擢した。彼と秘書出身者を基本とする側近グループは、次第にグループ活動、分派活動を強化し、公然と立ち振る舞うようになった。1994年第20回大会では、その中核メンバーは十数人にもなり、常任幹部会員のかなりを占めた。その結果が、上記党大会での4つの誤りになったのである。
たしかに彼は、私たち2人を、宮本秘書出身者でないのに、大抜擢した。その点では感謝している。綱領確定までの優れた理論活動、党勢拡大での強力な指導力発揮は尊敬している。しかし、彼は、自分の老齢化後、私たち2人が党内実権を奪って、反宮本路線を取るのではないか、多数の幹部を粛清しつつ築いてきた“自分の党”を『戦後革命論争史』にその影響が一部あるような構造改革路線、改良路線に転換させるのではないかと怖れた。
そこで、2人に自己批判させるだけでなく、『前衛』公表によって、全党に不破・上田は、実は、26年前に『分派主義』という共産党員としてもっとも恥ずべき“反党行為”の汚点経歴を持った幹部であるとして、2人を『心から信用してはいけない要注意人物』と見なすレッテルを貼ったのである。常任幹部会内部での2人の抵抗力を奪うだけでなく、全党にそのチェックを呼び掛けたのである。
しかし、この査問が、なぜ1982年だったのかという別の疑問が残る。
1982年12月9日に『日本共産党の六十年』が発行された。査問と「前衛」公表の表向きの理由は、その党史認識に合わせて、『不破、上田両氏は、この「六十年」を指針として、二十六年前の著作ではあるが、「戦後革命論争史」にみずから点検をくわえ、その「出版でどういう性格と内容の誤りをおかしたのか」を深く自己分析しています』(赤旗「主張」1983.9.25)とするものだった。しかし、それは、この査問事件が、宮本氏が企んだ日本共産党の逆旋回の一環である『ネオ・マル粛清』の一つとして位置づけることで、初めて疑問が解けるのである。
1982年の、2人への査問と『自由主義、分散主義、分派主義の誤り』断定は、これら大規模な『逆旋回』作戦の一環として、宮本私的分派が行なったものである。田口富久治、藤井一行を『自由主義、分散主義』ときめつけて、その批判論文を書いた私(不破)が、逆に同じレッテルを貼られるとは、いったいどういう不条理なのか。
宮本氏は、いったんは、『ユーロコミュニズム寄りに急旋回』した。しかし、“自分と「宮本秘書団」の党”を、急きょ、『逆旋回』させるには、上記の表向き作戦だけでは、不十分と考えた。また、自分の権威を脅かす危険が高まってきた“上耕人気”に鉄槌を下す必要があった。宮本氏たちは、『逆旋回のための自由主義、分散主義との闘争』の象徴的批判対象として、スターリンによるモスクワ「見世物」裁判のように、26年前に同じ誤りを犯したとする件で、2人を査問し、「自己批判書」を公表させ、「見世物」にしたのである。
それは、日本におけるスターリン批判研究・出版を途絶させ、ユーロコミュニズムと訣別する上で、かつ、『急接近と逆旋回』の自己責任を回避、隠蔽して、2人にその責任転化をする上で、もっとも劇的効果のある「儀式」であった。宮本氏は、実に偉大で、典型的な「前衛党指導者」であった。
これらがこの査問事件の真相である。それ以降、2人は、委員長、副委員長でありながら、まことに申し訳ないことであるが、宮本氏と彼に盲従し、強化されていく側近グループに抵抗できなくなった。『それは卑怯な言い訳にすぎない』と党内からは信じてもらえないだろうが・・・・・・。
なぜ、今、これら2つの査問事件をながながと報告するのか。それは、このような不当な査問をする党体質と断絶し、抜本的刷新をする必要があると考えるからである。民主主義的中央集権制は、たしかに党の統一と団結を守る上で大きな役割を果たしてきた。しかし、それは一方で、何百何千にもおよぶ査問事件、多くの幹部の排除・除名を含め、党内民主主義を抑圧してきた。『民主主義的中央集権制』とは、暴力革命路線のための『中央集権制軍事規律』『鉄の規律』としてレーニンが“創作”したものである。それは、ロシア・ナロードニキの『裏切者死刑・上級への絶対服従中央集権制』を基本としつつ、その上に「党内選挙制、報告制」などの『民主主義的』要素を“付加”して、『民主主義的』・『中央集権制』と名付けたものである。
この軍事規律は、帝政ロシアにおける武装蜂起路線政党の規律、内戦をたたかう赤軍内規律としては、適合性を持っていた。しかし、それをヨーロッパ、日本などの発達した資本主義国における革命政党にも適合する“普遍的な組織原理”にまで拡張し、『暴力革命』手法、『プロレタリアート独裁』理論と並んで、『それを採用するかどうかが前衛党の試金石』『コミンテルン加入規約』の一つとしたのは、レーニンの重大な誤りであった。この反民主主義的党体質の誤り、欠陥は、社会主義10カ国のいっせい崩壊によって証明された。
この暴力革命軍事規律としての『民主主義的』・『中央集権制』を『民主集中制』と略語化し、その略語によって『民主と集中の統一』という解釈にすりかえる欺瞞手法は、もうここらで止めなければならない。
この崩壊事実を直視して、反民主主義的規約と断絶すべき時が来た。イタリア、フランス、スペイン、イギリス共産党などはすでに放棄している。現在の日本では、党規約には『党内民主主義の全面的保障』だけで十分である。そもそも、日本語の『民主主義』には、『集中』の要素が当然含まれているからである。
以上の考えは、2回の屈辱的査問を受けた私の個人的体験からも言えることである。
宮本氏と側近グループは、学者らの研究活動、加藤哲郎らの出版活動への抑圧、排除だけでなく、大衆運動、その他の分野にまで、排除対象を拡張した。そこでのユーロ・ジャポネコミュニズムの思想的影響を断ち切り、共産党傘下の大衆組織を“宮本氏と「宮本秘書団」党”の指令に無条件に従う、“従順な大衆組織”に変質させようとした。それは、以下の『民主文学4月号』問題、平和委員会・原水協問題、東大院生支部『宮本勇退決議案』問題である。
(宮地・注)
1)『戦後革命論争史』出版経緯については、石堂清倫氏『手紙3通と書評』が明らかにしている。
2)増山太助著『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社)に、宮本氏の分派活動の証言がある。
『五〇年一月、党中央は「コミンフォルム論評」を受けて分裂状態におちいり、六月にはマッカーサーの公職追放令で中央委員全員が追放されると臨時中央指導部が設置されることになり、多田もメンバーのひとりに選ばれた。しかし、彼は志賀義雄、宮本顕治を支持して「国際派」を表明し、たちまち除名処分に付され、六全協まで分派活動に余念がなかった。六全協後、久し振りに会った多田は相変わらず大声を発して「宮本さんと志田君が組めば鬼に金棒や」とはしゃいでいたが、志田重男が失踪するとこんどは「宮本を中心に党をつくり直すのだ」とひとりで張り切っていた。
そして、多田は原田長司を誘って私を呼び出し「ぜひ宮本部屋に入ってくれ」と口説くので、私が「相撲部屋みたいなものをつくる気か」と言うと、二人は「宮本を取りまく組織が必要なのだ。宮顕は監視していないと何をしでかすかわからない」と、亀山幸三と同じようなことを言っていた。七回大会が近づくと、私は本部細胞のキャップに選ばれ、大会の代議員選挙に専念しなければならなくなった。』(P.192)
3)スパイ容疑・2カ月間監禁・リンチ査問事件の詳細は、安東仁兵衛著『戦後・日本共産党私記』第七章(文春文庫)が書いた。リンチ査問のごく一部の引用は、『袴田政治的殺人事件』2章後半にあります。 
4-2、民主主義文学同盟『4月号問題』事件 1983年 
1、党中央による全面批判
1983年4月初め、党中央は、『民主文学』4月号の『赤旗』広告掲載を、発売とともに拒否した。広告の拒否は『民主文学』にたいする党中央のきびしい批判だった。当初、広告部の責任者には、載せない理由は言えない、とつっぱねさせた。その号には、小田実寄稿文が載り、「野間宏を団長として、中国訪問した」記述が“5行”あった。編集後記には、中野健二編集長の寄稿謝辞が“一言”あった。
4月、党中央は、文学同盟常任幹事の党グループ会議を招集した。その会議へはいつものグループ会議とちがって、党中央の文化関係幹部5人を派遣した。中心は、教育・イデオロギー担当の書記局次長宇野三郎(常任幹部会員)とした。そのほかは、知識人委員会の責任者小林栄三(常任幹部会員)、文化局長兼文化部長で文学同盟の幹事でもある西沢舜一(幹部会員)、新日本出版社の幹部で文学同盟の常任幹事である津田孝(幹部会員)、文化部員の高橋芳男である。そして、4月号の問題だけでなく、最近の文学同盟の活動全般にわたって党中央が批判を行なった。宇野は、約一時間半にわたって、用意してきた原稿を読みあげた。それには三つの問題があったが、要約は以下である。
1)「4月号」問題 中国共産党はわが党への乱暴な干渉をいまなお謝ろうとしないばかりか、依然として反党分子との交渉をつづけて反省の色がない。日中文化交流協会常任理事である野間宏らの訪中もそのひとつである。したがって野間訪中の事実を記述した小田実論文をのせ、しかも貴重な原稿をいただいて感謝するという中野健二編集長の編集後記を載せるような雑誌の広告を『赤旗』に掲載できない。また、日本の革新運動の一翼をにない、中共の無礼な干渉をうけた民主主義文学同盟(注、寄贈していた『民主文学』が送り返されてきた)の立場からも、このような記述をのせることは、運動の基本方針と伝統から逸脱した軽挙であり、思想の風化がみられる。とうぜん編集長の責任が問われなければならない。
2)文学者の反核声明 1982年1月20日、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」が発表され、マスコミでも大きな反響をよんだ。この声明は34名の「お願い人」が文学者たちに署名をおねがいして、約500人の賛同をえたものであったが、文学同盟では中里喜昭が「お願い人」の一人になっていた。ところが、「お願い人」のなかに「反党分子」が一人入っていた。反核運動は重要だから、党員文学者がそれに署名するのはいい。しかし、あの声明の呼びかけ人には反党分子がはいっていること、また「すべての政党・団体・組織から独立した文学者個人」の署名を呼びかけていることには、党員としてはちゃんと批判すべきである。長崎の中里には、党中央文化部長から「お願い人」などになった責任を追及するきびしい電話をした。理由はいうまでもなく、「お願い人」のなかに反党分子が一人入っているということであった。
3)民主主義文学同盟第10回大会への幹事会報告草案 (1)、中国の大国主義的な干渉が、日本の民主運動・民主文学運動に障害をもたらしている事実に言及すべきである。(2)、革新統一運動の一翼としての文学運動であることの認識が弱い。(3)、現代の危機を悲観的にとらえ、危機とたたかっている革新勢力についての記述がよわい。環境破壊や科学技術についても、文明の終末論的にとらえられていて、独占資本の経済的ゆきずまりや、科学技術を民主的にコントロールできなくなっている事実にはふれていない。(4)、戦後民主主義のブルジョア的限界にふれず、民主主義を絶対的に擁護すべきものとしてとらえている。(5)、個の確立が抽象的に強調されすぎている。(6)、『民主文学』の作品はみな褒めてあって、問題点の指摘がなく、めでたしめでたしになっている。(7)、全体として近代主義的で、思想のノンポリ化がめだつ。
文学同盟の幹事会で決定してプリントまでされた大会報告草案に、党中央が全面的に批判を加えることは、これまでないことだった。しかも、文学・イデオロギー関係の幹部5人が勢揃いして、ながながと批判した。宮本顕治氏と党中央は、「4月号」問題を機に、民主主義文学同盟の徹底的な思想改造を意図したのであった。これらの党中央見解原稿は、事前に宮本氏の見解に基き、宮本氏と5人が綿密に打ち合わせし、作成したものであった。宇野(元宮本秘書)は、それを一字一句間違えないよう、ぼう読みするかたちで開陳した。
この党中央見解には、小田実と「日本はこれでいいのか!市民連合」(以下「日市連」と略)の問題、宮本氏の1981年1月1日の『赤旗』の新春インタービューでの「市民運動がほんとうに発展するためには、反共主義的偏見は捨てなければならない」発言、上田副委員長と宮本委員長とのあいだに、「日市連」評価のくいちがい問題などが関連しているが、それは省略する。この2人の意見の違いは、後にのべる『平和委員会・原水協問題』とも関連している。
2、文学同盟側の反論
民主主義文学同盟にたいするこうした全面的な党の批判は、前代未聞だったので、みな驚き、反発して、反論が続出した。そのため、4月号問題だけでも論議をつくすことができず、討議は翌日にもちこした。
議題1)「4月号」問題について、翌日のグループ会議における、党側出席者は昨日と同じであった。宇野書記局次長はまず、昨日論議が集中した「4月号」問題について、党側見解をくりかえした。それにたいして文学同盟は、多くの人が前日にひきつづいてほぼ次のように反論した。
問題になっている小田実の文章は、「昨年くれの中国訪問で、私は何人かの中国の作家とあった。野間宏さんを『団長』としてかっての『使者』の同人仲間と一種の『作家代表団』をかたちづくって行ったので(野間さんと私の他に行ったのは、井上光晴、篠田浩一郎、真継伸彦の諸氏だ)、招待者の作家協会のほうでもそういう機会をつくってくれた」――というくだりだったが、そこを読んで、これはまずいと思った人は、津田孝のほかには誰もいなかった。
もう一つの問題とされている編集後記は、「翻訳の労をとられた福地桂子氏ならびに小田、丸山両氏のご好意に編集部として感謝したい」であり、それに不都合を感じた人も、誰もいなかったのである。当時の日中両党の関係からいって、日本共産党が野間訪中団を非難することはありうるが、小田実がそれについて、大衆団体の雑誌である『民主文学』にたった5行ふれたのが、どうして不都合なのか理解できない。小田実は野間訪中団に加わって訪中した事実をかいているだけで、それについてとくべつのコメントをしているわけでない。それに、小田は民主主義文学運動にとって数少ない理解者の一人であり、その原稿がもらえたことに感謝するのはあたりまえである。そしてなによりも、津田孝をのぞく常任幹事のだれもが小田論文に疑問をもたなかったし、幹事からも、同盟員からも、読者からも、それを指摘してきた人は一人もいない。それが世間の常識である。それを党中央がめくじらたてるのは異常ではないか、などの反論だった。
3、“かんまんな精神的拷問システム”の5カ月間継続
この全面批判を貫徹するために、まず、党中央文化関係の機構人事を変えた。これまでの文化局と知識人委員会を統合して文化・知識人局を新設し、局長に宇野三郎、次長に津田孝をすえ、津田を文化部長にも抜擢した。また、『赤旗』には「干渉主義を正当化する張香山発言について」という、中国共産党批判の一ページ大の無署名論文を載せ、つづいて翌日には、池上芳彦署名の「中国からの干渉の問題と民主主義文学運動の伝統」という論文を載せた。池上論文は、グループ会議で宇野元秘書が「4月号」問題についてのべた党の見解とおなじ趣旨であった。党の規約では、党内で論議中の問題は外部にだしてはならないことになっている。しかし、それは下級組織への統制、規制であって、党中央にはそういう制約はなく、自由に国民大衆に訴える権利がある、という一方的な事実を、この池上論文は示した。
さらに、党中央は「4月号」問題をたんに文学同盟の内部問題、思想・文学の問題でなく、党員としての政治的原則の問題であることを強調するようにエスカレートさせた。党中央はこの思想キャンペーンを重大視して、もし常任幹事グループがあくまで「4月号」問題の責任を認めようとしないなら、直接の責任者である編集長の党除名もありうる、また文学同盟の分裂も、『民主文学』の停刊も辞さない、という強い姿勢を“言外に”伝えた。
これら“裏側の党フラクション”党グループ会議と、“表側”の文学同盟常任幹事会は、大会後もあわせて、延べ5カ月間継続した。その中で党中央派遣5人は、宮本氏への連日報告、直接指令に基いて、常幹22人の結束を崩すことに全力を挙げた。グループ・メンバーへの各個撃破を執拗に行い、当初の姿勢を変え、あるいは軟化させることに成功した。党中央の強硬な姿勢を見て、常幹側も、5月3日の大会直前になって、最初の妥協をした。彼らは、編集長の人事問題にはしないことを条件に、小田原稿のあつかいは適切でなかったことを、常任幹事会として認めることになった。それにはまだ反対意見もあったが、編集長を救うためには、それもやむをえない、ということに追い込まれた。そこで党側の責任者である宇野も、『編集長の人事は文学同盟の問題だから、党はそれには関与しない』と明言した。
ところが、宇野発言は、“建て前だけのウソ”であった。グループ会議のあとの文学同盟の常任幹事会になると、津田常幹(党中央文化・知識人局次長・文化部長)は、『あくまで編集長を辞めさせよ』とする党中央秘密指令に基いて、編集長の責任問題をもちだした。しかし、みなの反撃にあって孤立してしまったので、『この問題は大会後の新常任幹事会でまた問題にしたい』と意見を保留した。
1983年5月3日、民主主義文学同盟第10回大会が開かれた。宮本氏と5人は、大会後の情勢はかれらに有利になる、とのヨミがあった。しかし、それはすっかりはずれてしまった。大会は、冒頭から4月号問題で荒れた。大会には幹事会の一般報告のほかに、4月号問題の非をみとめた常任幹事会の合意事項が補足報告されたが、その合意事項についての質問が殺到したのである。
合意事項は、一、野間宏を団長とする文学代表団の訪中は、文学同盟にとっても容認できない中国の干渉主義のあらわれである。二、そのことを肯定的に記述した小田実の原稿を『民主文学』に載せ、寄稿に感謝するとしたのはあやまりであった。三、この教訓をこんごに生かしていきたい。というものであったが、それは党中央の主張をおおすじで容認したものであった。
討議に入ると、その三点合意にたいする異議と質問が殺到した。とくに、二が納得できないという若い人たちのきびしい糾弾があいついだ。霜多議長はそれらに弁明した。『この問題は常任幹事会でも意見がわかれて、長いあいだ論議をかさねたすえに、やっと到達した結論である。だから、ここでこれ以上論議しても、結論はなかなかえられないとおもうので、常任幹事会ではこういう結論になったのだということを了承して、大会ほんらいの文学論議にうつっていただきたい』。この弁明はいちおう了承されて、つぎの議題にうつった。霜多の『南の風』を批判した「津田個人報告」にも、予想をこえた批判が集中した。霜多も反論したが、及川和男や中里喜昭、あるいは小田悠介、草野ゆき子など主として若い人たちからの集中攻撃をうけて、津田常幹(党中央文化局長)は立ち往生した。
大会の最後に、次期幹事を選出する選挙になった。津田より(党中央方針支持派)とみられる人たちが、こぞって低位当選、逆に編集長支持派はみな上位当選という結果になった。党中央は、津田常幹に、役員選考のさい、中野健二を編集長からはずせという“秘密指令”を与えていた。しかし、大会最終日におこなわれた新幹事会で、津田常幹による、その執拗な主張はとおらなかった。
大会が終わると、『赤旗』はさっそく大会取材記事で、常任幹事会の合意事項が大会で「採択された」と強調し、佐藤静夫文学同盟副議長も『赤旗』でそれを主張した。4月号の不当が大会で承認されたとなれば、編集長の責任追及が容易だからである。しかし『民主文学』では、中里喜昭が、大会事務局の録音テープをおこして、合意事項の補足説明は採択されていないことを証明した。合意事項には反対だという発言が続いたので、それは常任幹事会での合意であることが強調されて、そのことが了承されたのであって、合意事項が大会で「採択」などされていないことを明らかにしたのである。それにたいし、『あくまで合意事項は大会で採択された』とする党中央は、中里は大会決定違反だとして、『赤旗』その他で批判した。
1983年5月、大会後すぐ、党中央は、第4回中央委員会総会を開いた。そこでは、中国の干渉問題と「日市連」の問題をとりあげて、文学運動だけでなく、一般知識人のあいだにも思想の風化がひろがっているので、イデオロギー活動の強化が必要だと強調した。
中央委員会総会後、『「赤旗」陣容も、文化・知識人局の陣容も充実させ、共産党らしいイデオロギー活動をやる』という宮本議長の言葉どおり、文学同盟でもさっそくグループ会議を招集し、小田と「日市連」問題、中野編集長の責任問題を再び追求した。そして、その後も、大会前後で5カ月間にわたり、何回となく会議を招集し、個人的な説得もますます執拗に行なった。党中央は、5人に『常幹側意見をきくというのではなく、中央の意見をききいれるまでは、なんどでも説得を続けろ』と指示していた。このため、中野編集長を擁護してきた役員たちは、もはや党との関係では文学路線の対立解消を期待できないとして文学同盟役員を辞職することを決意した。
そこで、中野健二が編集長を、霜多が議長を、山根献も事務局長を辞退し、3人は同時に常任幹事を辞任した。そして常幹22人中、松崎晴夫、中里喜昭、上原真、井上猛、武藤功、飯野博、平迫省吾らを合わせて10人のメンバーが、常任幹事を辞任した。編集部員の織田洋子と荒砥例は退職した。
党中央としては、中里と中野の排除を目論んで、これらの行動に出た。しかし、霜多をはじめ常任幹事の半数近くが、それに反対するとは予想外のことであり、こうした結果に終わったことは、党中央としても失敗だった。その「混乱」の指導責任を問うとして、西沢文化局長を辞任させた。
4、『葦牙』批判大キャンペーンと粛清
1984年11月、辞任メンバーは雑誌『葦牙(あしかび)』を創刊して、抵抗した。わが党は、自分たちに対する彼らの反抗を“反党行為”とみなし、それを一切許さないと決断した。1985年4月以降、徹底した『葦牙』批判キャンペーンを、『前衛』『民主文学』『文化評論』『赤旗評論特集版』で、17回にわたって展開した。それだけでなく、党からの排除、粛清をした。
(1)霜多正次は、「離党届」を出したが、党中央は彼の“離党の自由”を認めず、4カ月間放置し、その上で規約に基く「除籍」措置にした。これは、「除名」処分と同質の党外排除である。彼は、『ちゅらかさ―民主主義文学運動と私』を発行し、そこで「4月号問題」とその経過を克明に分析、発表した。
(2)中里喜昭は、1987年3月、「離党届」を出した。しかし、党中央はその受け取りを拒否し、半年後の9月、彼に「除籍」を通告した。彼は、『葦牙』誌上で、党中央の『葦牙』批判キャンペーンへの反論・批判文を書いた。党中央は、17回の『葦牙』批判キャンペーン中、『中里喜昭の変節と荒廃』など、6回にわたり中里名指し題名の批判文を掲載した。
(3)武藤功は、キャンペーンへの反論文だけでなく、『宮本顕治論』を発行し、そこで宮本氏の「あとがき」内容を詳細に分析、批判した。党中央は、武藤を「党内の問題を党外に持ち出した」として「査問」した。その「党内の問題」というのは「民主集中制」を一般公刊の書物で批判したことである。「葦牙」関係で「査問」をしたのは武藤一人である。査問は2日間行い、場所は茨城県委員会の建物の一室だった。中央委員会を代表して文化局長が、武藤「党籍」のある水戸まで出張し、茨城県委員会からは3人の常任委員(副委員長、書記長、文化担当常任委員)が党側のメンバーだった。「査問」の上、彼を「除籍」した。
彼は、「葦牙1993年1月号」で、『久野収とのインタヴユー「市民権思想の現代的意義」』を行なった。その内容、とくに丸山真男『戦争責任論の盲点』からの引用個所に宮本氏は激怒した。久野による引用内容は、『日本共産党の非転向の指導者たちはたしかに思想的には立派にちがいないが、政治的にはどうなのか。彼らは軍旗ごと捕虜になってしまった部隊ではないのか。軍旗を下ろさなかった点ではまことに立派であるが、丸山眞男ふうに言うと、木口小平は死んでもラッパを離しませんでした、というような結果になりはしないか』というものであった。13回にわたる『丸山真男弾劾キャンペーン』はここから出た。しかも、そのキャンペーンは、第20回党大会での党綱領改悪の基礎となった。
(4)中野健二は、第10回大会で編集長を辞めさせるという党中央戦略が失敗した後も、辞任に抵抗し続けた。しかし、彼が、他の常幹たちとともに辞任したので、事実上の「除名」処分である「除籍」措置にはせずに、「離党」を許可した。
(5)わが党の第20回大会前後の丸山真男批判大キャンペーンには、丸山のプロレタリア文学運動論への批判も中心の一つだった。山根献は、『葦牙』の「丸山真男追悼集」で、「政治の優位性」論への批判を、丸山の見解と対比しつつ、緻密に展開している。 (6)『葦牙』同人会は、その後、隔月刊誌『葦牙ジャーナル』も、吉田悦郎を編集責任者として発行した。(7)元常幹上原真は、そこで、毎号『深夜妄語』を連載している。さらに、同人会として、『霜多正次全集全5巻』を刊行した。彼らは、インターネットHP『葦牙』において、『文学運動における「自主」と「共同」』を追求しつつ、「4月号問題」とその経過を解明する、特集記事、論文を多数載せて、批判活動を続けている。
5、『葦牙』側の反論
『葦牙』側は、党中央による批判キャンペーンにたいして、繰り返し反論文を掲載した。その中で、以下は、これらの背景に関して『葦牙』側が反論として行なった、宮本『文芸評論集第一巻』「あとがき」分析の要点である。1970年代は、高度経済成長による社会構造や生活意識の変化が大きくなった。そのため、民主主義文学同盟作家たちは、現実の変革主体の形成をめぐって、これまでのような単純にたたかう労働者よりも、職場や地域での、人びとの共同・連帯をつくりだすための地道な努力を重視し、それぞれ独自の方法を追及、模索していた。二度の石油ショックで世界経済が深刻な打撃をうけたなかで、日本の企業は徹底した「減量経営」で労働者への収奪をつよめ、労働組合運動の右傾化が一段とすすんだ。1980年には、「社公合意」(社会党と公明党が共産党排除の政権構想に合意)ができ、つづく衆参両院のダブル選挙では自民党が大勝するという事態になって、宮本委員長は「戦後第二の反動攻勢の時期」と規定した。
1980年11月、宮本氏は、『文芸評論集第一巻』「あとがき」を出版した。宮本氏は「あとがき」の長大な論文で、プロレタリア文学の総括をおこなった。宮本氏は、この「あとがき」後、「もう、ぼくも文学に発言権ができた」と発言して、『民主文学』を中心に主要な論文や大会報告などを調べた。そして、文学運動は、運動を推進する強力な機関車が必要であるが、いまの文学同盟は、その機関車の役目をはたす理論活動が弱い。そのため、運動の高い峰が形成されず、裾野も広がらないことになる、と発言するようになった。宮本委員長のこのような発言は、とうぜん、まず『赤旗』や『文化評論』などの党出版物に忠実に反映され、文学の理論活動が活発に行なわれるようになった。
それだけでなく、民主主義文学同盟が討論していた、独自の方法の模索と多様化を批判するかのように、『赤旗』の文化欄で、民主主義文学とはなにか、現実をどうとらえるか、批評の基準はなにか、などというテーマがつぎつぎにとりあげられるようになった。その意図は党的な批評の基準をおしつけようとするものであったから、動員される作家や評論家たちを反発させた。党では、「第二の反動攻勢」にたちむかう民主主義文学運動は、日本の革新統一運動の一翼をになうものであることを強調し、とくにその中心になる共産党員の活動がえがかれなければならない、としていた。しかし、そのような主張は、文学同盟の作家や評論家たちの問題意識とはかなりずれていたのである。
「4月号問題」とは、「あとがき」の思考を、傘下の民主主義文学同盟運動、作品に“強行持ち込み”をしようとしたものであった。彼は、そこで「プロレタリア文学運動」の「戦後的総括」を試みた。しかし、その戦後的文学の内実をしっかりと把握できていなかったために、「社会的発展性」とか「科学的法則性」とかいう空疎な観念でしか、文学創造の方法を見出すことができなかったという事態に立ち至った。それは「戦前回帰」というよりは「戦後認識の欠落」の文学的な現れだった。それは政治的には、政治における「戦後認識の欠落」と軌を一にする事態だといえる。当時、「4月号問題」における“宮本代理人5人”と民主主義文学同盟常幹たちとの議論で意見が分かれたのはまさにその文学における「戦後問題」だった。
つまり、辞任した10人の常幹たちは、戦後的な情況における人間認識・把握については、そのヒューマニズムや人権のあり方、男女のあり方、政治的自由のあり方など多様な実態を固定的にではなく、ビビットに描くべきだと主張したのにたいして、“宮本氏の「戦後的総括」に忠実な代理人5人”は、「社会発展の方向」を描けとか「先進部分の闘い」を描くべきだというような「戦後的階級史観」を強固に主張し、ノンポリ化やマイホーム主義を批判すると称して実質「政治の優位性」の戦後版というような作品の創造を主張した。その文学路線の違いが「4月号問題」の根底にあったのである。
6、「4月号問題」の性格
小田実論文“5行”と中野編集長“謝辞一言”批判は、こじつけの口実であった。宮本氏と党中央の本音は、霜多正次の小説『南の風』など、常幹中心メンバーの作品・文芸評論内容や方向に危機感を抱いたことによるものである。彼らが、ユーロコミュニズムの一定の影響や、「文学にたいする政治(=共産党中央)の優位性」を押し付けたスターリンへの批判も根底にあって、『文学運動における「自主」と「共同」』を思考し、作品にも表わし始めていたからである。
宮本逆路線とは、第14回大会以降、ユーロ・ジャポネコミュニズム路線と絶縁し、スターリン批判の研究・出版活動をストップさせ、『自由主義、分散主義との全党的闘争』に、“宮本氏と「宮本秘書団」の党”を、再転換させようとする、一大作戦であった。この宮本・宇野式粛清事件は、その逆路線を、民主主義文学運動分野でも、“常幹辞任を強要する手口”を駆使して、貫徹させたものである。それによって、宮本氏は、“文学者として見事に復活”し、「宮本型民主文学」の偉大なリーダーになった。党派的文学とはどうあるべきかを教える、74歳現役の文学教師となった。
宮本氏は、“愛すべき”宇野三郎・元宮本参議院議員国会秘書が、文学運動分野での拷問システムを、ねばりづよく遂行し、10人を放逐した手腕にいたく満足した。「宮本・7項目批判」原稿を、一字一句も読み間違えてはいけないと、1時間半も“棒読み”をする、その絶対忠誠度に感激した。そこで、宇野・元秘書を常任幹部会員に抜擢するだけでなく、「社会科学研究所所長」「党史資料室責任者」にも大抜擢した。
宇野・宮本コンビは、1988年『日本共産党の六十五年』、1994年『日本共産党の七十年』で、“宮本賛美を文学的に粉飾、改ざん”するための、緊密なチームプレイを発揮した。宇野・元秘書は、宮本側近グループの一人として、“文学作品「宮本史観党史」を創作”する上で、偉大な貢献をした。その『党史』で、宮本氏は、“左の共産党の中にも、右の天皇制の思考、体質が反映している”と分析した丸山真男を、真っ先に槍玉に挙げた。丸山だけでなく、田口富久治、霜多正次、中里喜昭、古在由重、草野信男、加藤哲郎、藤井一行らも、“その宮本「左側」天皇に、不届きにも逆らった、「不敬罪」に該当する学者・文化人”として、『党史』に「その罪状」を掲示した。
緩慢な精神的拷問システムによって“常幹辞任を強要”された10人は、いずれも、当時、『民主文学』『文化評論』『赤旗』で活躍し、民主主義文学同盟の中心的活動家だった。10人粛清後の、“残存した”現民主主義文学同盟は、見事なほどに“「スターリン式・政治の優位性」を認める、従順な文学組織”に変質させられた。前衛党に従属し、単なるベルトになった文学組織が、どのような作品を生み出すかは、スターリン・ブレジネフ時代の「ソ連文学」を見れば分かる。前衛党“収容所群島”権力への批判・抵抗精神こそが、ソルジェニーツィンの一連の作品を生む原動力となった。
(宮地・注)、上記経過を克明に分析した、霜多正次著『ちゅらかさ−民主主義文学運動と私』の「13、4月号問題」は、HP『葦牙』の「4月号問題記録文書館」に全文が載っています。 
4-3、平和委員会・原水協一大粛清事件 1984年 
ユーロ・ジャポネコミュニズムの影響は、反核平和運動にまで及んできた。1977年、それまで分裂していた原水協と原水禁は、「年内をめざして国民的大統一の組織を実現する」との「5.19合意」を結んだ。ところが、金子満広統一戦線部長は、宮本氏の指示を受けて、原水協内・共産党グループが党中央の許可を得ずに勝手に、自主的に結んだ「合意」を認めないと批判した。そして、「原水禁との共闘を許さない。原水禁を解体させて、原水協による組織統一が優先」と、大衆団体レベル合意の破棄を指令した。
金子・宮本指令の根底には、何から何まで、分裂組織である原水禁を含めた共闘組織で行なうようになれば、「原水禁運動の本流」である原水協の影は薄くなり、原水禁運動の組織統一も不可能になる、という危機意識があった。その指令に基く紛糾が、「平和行進での団体旗自粛」「反トマホーク集会」問題などをめぐって、いろいろ発生した。それにたいして原水協、平和委員会から強烈な党中央批判が噴出した。宮本氏は、それを抑えきれないと見て、金子同志一人に“詰め腹を切らせ”、統一戦線部長を解任した。
平和問題担当後任は1980年以降、上田同志になった。彼は、反核平和運動の高揚を前にして、原水協、平和委員会側の提案を受け入れ、金子・宮本方針を事実上完全否定する「原水協と原水禁の限定的持続共闘論」を提起し、第1回方針転換を強行した。これによって、“上耕人気”は、先進国革命理論、新しい党組織論以外に、反核平和運動分野でも高まった。宮本権威は、大衆運動分野でも“上耕人気”に脅かされるようになった。それらが、1982年の2人への査問原因の一つとなったのである。ただ、査問後も、上田同志は平和問題担当を解任されなかった。1984年2月、市民団体が、反核平和運動の恒常的組織づくりを提案した。その運動のすべての団体が、それに賛成したが、金子・宮本氏は反対した。上田同志の賛成主張、説得工作により、党中央も賛成になった。これは、第2回方針転換であり、反核統一行動の展望を大きく開いたと、歓迎された。
ところが、宮本氏は、そこで方針を逆転換させたのである。上田同志を解任して、再度金子同志を統一戦線部長に据えた。赤旗論文を矢つぎばやに掲載して、そこで、原水禁批判、総評“右転落”批判をし、上田同志や平和委員会・原水協内党員が推し進めた限定的持続共闘論を否定した。現実的可能性の低い組織統一優先の路線に戻った。金子・宮本氏による、上記2回の転換を全面否定する、第3回目の逆転換である。
その後の経過は、さらにいろいろあるが、ここでは省略する。2回の上田“方針転換”を支持し、反核平和運動の現場から盛り上がってきた統一意志と限定的持続共闘拡大にあくまで固執して、金子・宮本“逆転換方針”に抵抗する党員は、ことごとく排除・粛清した。その粛清経過は以下である。
(1) 1984年6月1日、森賢一平和委員会事務局長を、『党中央決定である。平和委員会など大衆団体を一切辞めろ。自ら辞任した形にせよ』として、事務局長の辞任決意を迫った。それは、6月2日からの平和委員会全国大会の前日だった。
(2) 小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長らは、彼から聞いて、彼への辞任強要は誤りとした。6月2日の大会で、森事務局長の辞任表明とともに、小笠原、長谷川2人も抗議の辞任表明をした。大会は、そんな“逆転換方針”の方こそ誤りとして、3人の辞任を承認しなかった。そこで、金子・宮本氏らは、各都道府県レベルで、平和委員会内共産党グループを緊急招集し、“逆転換方針”支持派に大会代表を差し替えさせた。そして、“新代表”で固められた、人事問題だけの二度目の大会を、6月9日に強行開催して、3人とも辞任させた。
(3) 県レベルで、辞任強要に反対する最初の大会代表数十人は、大会代表からも、党からも排除した。
(4) 森賢一を、平和委員会事務局長から辞任させた後で、彼は規律違反を犯していたとして権利停止処分にした。彼が、その『森一人だけに通告した党中央秘密指令』を、長谷川正安同志や吉田嘉清らに漏らしたのは、『党内問題を党外にもちだした』規律違反である、とした。森は、平和委員会・党グループ所属党員である。長谷川正安同志は、名古屋大学教職員・法学部支部所属党員であり、吉田嘉清は、原水協・党グループ所属党員である。森にとって、民主主義的中央集権制の「横断的交流禁止」組織原則に照らせば、他の2人は『党内』ではなく、『党外』なのである。2人に党中央秘密決定を漏らした森の行為は、規約第2条8項違反の重大な規律違反として、彼を査問し、処分した。そして、平和運動からの“永久追放処分”にもした。
(5) 6月21日、吉田嘉清原水協代表理事に、『党中央決定である。代表理事と原水爆禁止世界大会準備委員を辞任せよ』と強要した。しかし、彼は、そのいずれの辞任も拒否した。原水協全国理事会は「原水協規約」で9人の代表委員が招集することになっていた。金子・宮本氏は、赤松事務局長に指示して、「吉田解任目的」だけの全国理事会を招集せよ、と指示した。しかし、代表委員たちは、5月に全国理事会を開いたばかりなので、その必要はないと決定した。ところが、金子・宮本氏の指令を受けて、赤松事務局長は、「代表委員名」を“騙(かた)って”全国理事会を招集した。その上、平和委員会での森辞任強要時と同じく、共産党ルートで全国党組織に緊急指令をして、金子・宮本逆転換路線支持=「吉田解任」賛成派に各都道府県理事を差し替えた。“その規約違反”の全国理事会は、吉田嘉清を解任した。
(6) その“からくり”に反対した代表委員草野信男、江口朴郎、小笠原英三郎、櫛田ふきら9人を、規約の「代表委員制度」廃止という第2の“からくり”を強行して、放逐した。
(7) 7月10日、原水爆禁止世界大会準備委員会運営委員会で、“規約違反”全国理事会で選出された運営委員・赤松原水協事務局長が大声で、運営委員を解任した吉田嘉清がこの場に出席しているのは認めないとして、吉田退場を大声で主張した。古在由重は『吉田君が退場になると、私も吉田君と同じ意見だから退場になる』と発言した。
(8) 8月9日、日中出版社が『原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る』を緊急出版した。金子・宮本氏らは、その出版を阻止しようと、様々な出版妨害活動を展開した。創価学会の言論・出版妨害事件とまったく同じ性質の出版妨害を、日本共産党が行なったのである。しかしその大がかりな工作は、妨害事実を日中出版社柳瀬宣久社長が、マスコミに公表したことにより、失敗した。彼らは、その出版は反党行為であると断定し、1985年、柳瀬社長と社員3人を査問し、全員を除名した。
(9) 9月26日、吉田嘉清が反党行為をしたとして、査問し、除名した。
(10) 原水協事務局山下史は、自分の意志で辞任し、理事会もそれを承認した。金子・宮本指令により、理事会は、その承認を取り消して、彼を懲戒免職とする決定をし、退職金支払いを拒否した。山下は、裁判に訴えた。東京地裁は、1985年1月、『懲戒免職の事由は認められない。申請人(山下)は退職金170万円の支払いを受ける権利がある。原水協はさしあたり120万円を支払え』とする仮処分の裁定を出した。しかし、党中央は、『その裁定を無視せよ』と指示し、原水協は“共産党直営大衆団体”として、いまなお支払っていない。
(11) 10月、金子・宮本氏らは、古在由重が、提出した「離党届」の受け取りを拒否した。その上で、彼が「厳密にいえば分派活動」の規律違反を犯したとして、査問し、除籍した。
(12) 1990年3月、古在由重の死去で、ほとんどのマスコミが朴報、追悼記事を載せたのに、「赤旗」は、完全黙殺した。それへの党内外からの批判が高まり、共産党本部や「赤旗」編集局に抗議が殺到し、かなりの人が「赤旗」購読をやめた。すると、金子・宮本氏らは、5月23日付「赤旗」で、『古在由重氏の死亡の報道に関して――金子書記局長の報告の要点』を掲載した。そこでは、わざわざ『原水禁運動をめぐっての1984年10月の「除籍」にいたる日本共産党との関係』として、彼の「厳密にいえば分派活動」規律違反行為をわざわざ分析してみせて、“死者に鞭打った”。
(13) 9月14日、川上徹が、藤田省三らとともに、「古在由重先生を偲ぶつどい」の企画、事務局側の一人となった。呼びかけ人には、家永三郎、久野収、加藤周一、遠山茂樹、川本信正らが名を連ねた。川上徹は、1400人の参加者のまえで「つどいの経過報告」をした。党中央は、それを、“規律違反で除籍した者を偲んだ”規律違反として、川上徹を査問し、除籍した。
(14) この間、各都道府県レベルの平和委員会・原水協役員である党員数十人の役員解任をし、党から除籍をした。これらの反核平和運動内党員活動家にたいする金子・宮本式大粛清に怒って、草野信男代表委員をはじめ、多くの平和運動活動家が離党した。
(15) 森賢一は、辞任したので、権利停止処分だけで、除名にはしなかったが、平和運動一切からの、事実上の“永久追放処分”にした。彼は、出身地名古屋に帰って、そこで、めいきん生協アジア連帯室長などを経て、現在はアジア・ボランティア・ネットワーク東海事務局長をしている。そして、名古屋市と友好提携を結ぶ南京市と、市民レベルの交流を進めている。交流団を派遣し、南京大虐殺記念館近くに、中国語で「二度と過ちを犯さない」と書いた石碑を建てた。また、近い将来、「ヒロシマ・ナガサキ被爆写真展」を南京市内で開くよう、南京市・総工会との約束を取り付けた。
(16) 吉田嘉清らは、その後、「平和事務所」を設立し、「ぴーす・ぴあ」誌を発行し、国内での平和運動を続けている。それとともに、チェルノブイリ被爆者の救援と、現地で被爆治療に携わる医師たちへの支援運動をねばりづよく行なっている。2人や多くの活動家たちは、“金子・宮本式平和運動”から、強制排除されたが、“自立した、自主的反核平和運動”を展開している。
(17) 党中央は、「平和事務所」を分裂組織であるとして、その策動を絶対許さないとする方針を固めた。平和事務所が「暴力分子と密着した関係にある」とし、「原水爆禁止運動にたいする妨害・破壊・かく乱分子の根城である」と、くりかえし「赤旗」で批判キャンペーンをおこなった。「暴力分子と密着した関係」「妨害・破壊・かく乱分子」問題では、第一、吉田嘉清個人が東大駒場祭、早稲田大学祭に、講師で呼ばれた集会が「革マル」系だった。党中央は、“吉田は「平和事務所」を代表して彼らを激励した。よって「平和事務所」は、暴力分子と密着した関係にある”証拠とした。
第二、平和事務所が企画して、一回だけ丸木美術館に、電車と路線バスで見学に行った。党中央は、“丸木夫妻は、滝田某をかくまった容疑で家宅捜査をうけ、また中核派を礼賛している札つきの人物である。さらに、くりかえし丸木美術館にバスツアーを行なった。よって「平和事務所」は、暴力分子と密着した関係にある”証拠とした。
第三、草野信男が、1985年、市民団体の平和行進に参加した。市民団体は、彼の参加を禁止するはずもなかった。党中央は、赤旗大見出しで“平和行進にもぐりこむかく乱者草野信男。市民団体は認知せず”と載せた。これらは、金子・宮本氏が『「平和事務所」の行動を尾行、張り込みせよ。批判キャンペーンの証拠を集めよ。それらを歪曲、ねつ造して「赤旗」記事にせよ』という指示にもとづく、でっち上げであった。金子・宮本氏および党中央には、吉田・草野らがすることなすことすべて、さらにすすんで、彼らの存在自体を認めないとする考えがあった。
(宮地・注)、「平和事務所」行動への党中央、「赤旗」記者による、執拗な尾行、張り込みの事実については、吉田嘉清氏が、共産党による私(宮地)への『尾行・張込み』HPへの返事で、証言しています。
金子・宮本氏は、これら大粛清シリーズによって、「原水爆禁止運動の本流としての原水協」の独自性と権威を、立派に守り抜いた“反核平和運動の英雄的指導者”となった。
1970、80年代は、国内で第三次産業比率が高まり、国民の生活レベル、意識も激変し始め、社会構造が大きく変化してきていた。冷戦下での核配備と地域核戦争の危険も増大していた。社会主義国は停滞し、その問題点が急浮上していた。ヨーロッパ、日本における先進国革命論と、旧来のマルクス・レーニン主義理論との不適合、ずれが明らかになっていた。それらから生まれたユーロ・ジャポネコミュニズム路線とスターリン批判研究進展の影響は、党内や学者党員だけでなく、大衆運動分野でも、さまざまな模索方向を生み出していた。
共産党系大衆団体内党グループは、それらの国際・国内状況、国際共産主義運動の影響を受けて、各分野での自主的方針=党中央盲従からの自立的方向に歩みだし、その運動方向が大衆的支持を受けてきた。宮本氏にとっては、その方向を放置すれば、大衆団体内党グループにたいする党中央の統制が“制御不能になる危険性”が急速に高まってきた。これらは、それらにたいする宮本私的分派の“党中央統制再強化政策”であった。それは、1980年代になって、再びスターリン・ベルト理論を“よみがえらせて”、宮本方針が貫徹できる、文学・平和大衆組織を再構築する荒療治だった。
その点で、これは、1972年新日和見主義事件での、宮本氏と側近グループによる対民青クーデター=民青を宮本忠誠派に差し替える、600人査問、100人処分の一大冤罪粛清事件と同質のものである。対民主主義文学同盟クーデター事件、対平和委員会・対原水協クーデター事件と合わせて、これらが、宮本私的分派による『共産党系大衆団体内党グループを宮本忠誠派に総入れ替えするための、三大クーデター事件』と言われているものである。宮本氏は、上記1950年代の「4分派抗争」における、統一会議・宮本顕治系『二段階革命路線』分派を完全勝利させるために使った、さまざまなクーデター手口を、ここでも3つの大衆団体グループに向けて、全面発揮した。宮本氏こそ、そのクーデター手法の使い分けの面では、“わが党が誇りうる、天才的指導者”である。 
4-4、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件 1985年 
1、『宮本勇退決議案』提出、背景と、その粛清経過
1985年7月、東京都委員会「直属」東大院生支部指導部が、同年11月開催の第17回大会に向けて、『宮本勇退決議案』を東京都委員会に提出した。『決議案』での宮本勇退要求理由は、党中央委員会、とくに宮本議長は、1977年第14回大会後から誤りを犯し、国政選挙10年来停滞の指導責任がある、敗北主義・分散主義等党員にたいする様々な「思想批判大キャンペーン」をする誤りの責任があること等を問うものであった。
宮本批判の根底には、第14回大会以降の「民主集中制の規律強化」「自由主義、分散主義との全党的闘争」を推し進め、ユーロコミュニズム・先進国革命とは逆方向に向かう宮本路線への、東大以外も含めた学者党員、学生党員の党中央批判の感情、意見を反映していた。したがって、この問題は、(1)たんに党内民主主義の問題だけでなく、(2)日本におけるユーロ・ジャポネコミュニズム・先進国革命路線の継続発展か、それとも、(3)第14回大会以降の宮本逆路線か、という、1985年時点での路線選択問題の“劇的再提起”でもあった。しかも、その逆路線批判の最初の組織的表れだった。
院生支部は、規約に基く正規の提出スタイルを求めて、中央委員会と1回、都委員会と2回協議し、私(不破)にも「質問書」を提出した。
9月、党中央は、支部にたいして、「1)大会議案は提出できる、2)提案は支部でなく、代議員個人」と正式回答した。
10月、東大大学院全学支部総会が開かれた。都党会議の代議員枠2人にたいして、4人が立候補した。結果は、宮本勇退派1人、党中央派1人で、党中央の裏側での、強烈な、勇退派落選工作は失敗した。しかも、投票内容は、宮本勇退派Y23票、伊里一智13票の60%獲得にたいして、中央支持派は17票と7票で40%しかなかった。全学支部総会は、東大大学院各学部支部から選ばれた代議員60人で構成されていた。そこでの得票率は、事実上、院生党員全体の60%が『宮本解任・勇退』を要求していることを示すものだった。宮本氏と側近グループは、落選工作の目論見が外れて、大いにあわてた。なぜなら、その1人・Yが、「代議員個人」として、まず都党会議で、その『決議案』を出すことは明らかだからである。しかも、党中央は、「個人なら、規約上提案できる」と回答していた。
7月から10月にかけての、3カ月間にわたる、公然とした、合法的な『宮本勇退決議案』提起運動は、共産党の大学組織の特徴から、教職員支部、院生支部と学生支部の、この『決議案』問題に関する情報交流が、強い関心と共感、暗黙の支持の下になされていた。大学内3支部間の情報交流、共同行動は、1970年代の学部封鎖と封鎖解除作戦という“非常事態”で証明されている。それは、「安田講堂封鎖」以来の、東大全学共産党3組織にとっての“非常事態”であった。しかも、今度は、封鎖をどう解除するかという受身ではなく、自らが作り出した“宮本逆路線批判への決起行動”だった。60%もの『宮本解任・勇退』得票率は、院生党員内だけでなく、東大全学における宮本逆路線批判の強烈度合いと、その共同意志をも示すのではないかという、“今そこにある危機”を浮き彫りにした。
都党会議でのY代議員提案を許せば、公然とその討議をせざるをえず、一大問題、スキャンダルとなり、党内外への影響も計り知れなかった。宮本氏にとって、そのような屈辱は、だんじて認められなかった。また、Y代議員は、第17回大会代議員にも、「機関推薦立候補」する意志を申し出ていた。事態は、まさに、(1)東大全学60%の宮本批判をバックにして、『宮本解任・勇退決議案』討論が、都党会議だけでなく、第17回大会まで行ってしまうのか、それとも、(2)あくまで、『宮本擁護、宮本逆路線推進=ユーロコミュニズムとの絶縁路線』のための「非常手段」を採るのか、という“危機管理上の選択”となった。そこで、宮本氏は、躊躇せず、(2)の選択肢を選んだ。いかなる卑劣な「規約違反」手段を採ろうとも、Yの「代議員権」を剥奪することを決意し、指令した。
11月5日、東京都常任委員会は、「決議案は、当初5人の連名である。それは多数派工作によるものであり、分派活動である」と、でっちあげた。(1)直ちに、その5人を査問し、権利停止6カ月処分にした。(2)さらに、査問中、権利停止中であることを理由として、勇退派・Yの「代議員権」を剥奪した。
11月11日、都党会議が開かれた。そこでは、上田同志が党中央を代表して、「“宮本氏がでっちあげた”Yと伊里一智一派の分派活動なるもの」を40分間にわたって批判する、大演説をした。その上田同志の“宮本忠誠派ぶり”のY・伊里一智批判に幻滅を感じて、それ以後、“上耕人気”は急速に低落した。
11月19日、第17回大会会場入口で、伊里一智は、その経過を書いたビラを配った。
1986年1月、党中央は、伊里一智を査問し、除名した。
2、この粛清事件での志位「青年学生対策委員」と河邑赤旗記者の役割
この粛清では、志位和夫同志と河邑重光幹部会委員・赤旗記者が、“大活躍”した。
志位君は、当時の肩書きが、「党中央・青年学生対策委員」であり、彼は、この粛清の先頭に立った。5人の査問、権利停止処分と、Yの代議員権剥奪を、直接担当した。宮本氏との直通ルートで、ひんぱんに連絡し、指示を受けた。そして、彼らの『決議案』を、「分派の自由を要求する解党主義、田口富久治理論のむしかえし」ときめけた。
河邑記者は、伊里一智批判の大キャンペーンで、「負け犬」「ビラまき男」とする“宮本氏が大喜びする”ようなレッテルを彼に貼った。そして伊里一智の思想的・人格的低劣さをねつ造する記事を“大量生産”して、一躍名を挙げた。その記事は、当然ながら、宮本氏の事前の、個人的校閲を直接受けていた。宮本氏は、従来から、自分にたいする批判者の排除、党内外からの宮本批判への反論記事内容については、細部にわたって、直接、指示、点検、事前校閲するのが、ならわしだった。
河邑記者は、それらのキャンペーン記事によって、東大全学60%における宮本逆路線批判共同意志問題を隠蔽し、伊里一智一人だけの、気狂いじみた「ビラまき男」問題に矮小化してしまった。実に“赤旗・ペンの力は偉大である”。1977年第14回大会以来の宮本逆路線を批判する、最初の組織行動という、この問題の性格は、志位君と河邑記者の、宮本直接指令を受けた、大奮闘によって、『負け犬の、ビラまき男による党大会会場入口事件』にすり替えられ、一人の気狂い党員の行動として、葬り去られた。
志位君と河邑記者2人こそが、宮本ボディガードに自ら立候補して、宮本氏を“今そこにある危機”から救出したのである。上田同志も、その一翼を担ったが・・・・・・。まさに、手に汗を握るような“危機管理ドラマ”であった。東大大学院支部粛清に怒って、多数の党員が離党した。私(不破)が、「兄」をこのように名指しで、直接批判するのは、心苦しい・・・・・・。しかし、この粛清への「兄」の加担は事実なのでやむをえない。
志位君と河邑記者2人は、宮本秘書出身ではなかった。しかし、宮本擁護のための、手段を選ばない粛清手口と、記事ねつ造手口は、「宮本秘書団」よりも、その忠誠度が高かった。“子飼いの秘書たち”以外に、このような若手の忠誠派は、宮本氏にとって、“愛すべき次期側近グループ候補”と映ったのである。スターリンの側近たちは、全員が、1930年代後半における大テロルでの大量、陰湿な密告・粛清手口をスターリンに認めてもらって、大抜擢された。
宮本氏は、志位君をその論功行賞で、次回の第18回大会で「最年少の准中央委員(33歳)」にした。さらに、第19回大会では「中央委員、新書記局長(36歳)」に“超・超・大抜擢”をした。志位君は、宮本氏から、“宮本擁護とあらば、いかなる卑劣なでっちあげも平然と行い、それに基く粛清をも手がけ、「汚れた手」になるのも、いとわない、最も党派性(=自分への盲従性)の高いヤングマン”と、「お墨付き」を頂戴した。第20回大会では、河邑記者を「常任幹部会委員」に抜擢した。かくして、『宮本解任』『宮本老齢化による退陣』を要求する党内意見、マスコミ勧告を撃破するために、『宮本−不破−志位の重層的指導体制』という日本語を“造語”して、大々的に宣伝した。
余談になるが、それでは、私は、40歳の若さで、書記局長に、なぜ異例の大抜擢をされたのか。それは、全党員もよく知っているように、志位君と違って、私は、「宮本擁護のための、手段を選ばない粛清手腕」で評価されたわけではない。

これら一連の表裏抑圧・鎮圧作戦は、宮本氏と側近グループによる『日本共産党の逆旋回』と規定できる。その結果、わが党は、“マルクス・レーニン主義をほぼ100%原形保存した資本主義国唯一の前衛党”として、2001年においても、生き残っている。
今日の私(不破)の報告を聞いて、自己弁明、または宮本氏への責任転化ばかりで、私の自己批判が足らないと思われるだろう。宮本私的分派についての報告を[秘密報告]スタイルでなく、正式に発表するときには、それぞれの粛清事件における、委員長としての私の関与の度合と、それらに関する自己批判も、きちんと報告するつもりでいる。 
5、『宮廷革命』第21、22回大会 1997年、2000年 
しかし、ついにチャンスが来た。宮本議長は、1994年第20回大会後は、85歳の高齢と病気のため、中央諸会議に次第に出席できなくなった。そこで私たち(複数)は、1997年、第21回大会を前にして、88歳の宮本氏に“強引に”引退を迫った。宮本氏はかなり抵抗したが、最終的には引退を決断してもらった。
私たち(複数)は、直ちに、次の行動を起こした。「宮本秘書団」を中核とした側近グループ=宮本私的分派の解体、排除である。
まず、党機関内における解体、排除に手をつけた。(1)宮本秘書出身の常任幹部会委員小島優同志、(2)常任幹部会委員宮本忠人同志は、「名誉幹部会委員」に“引退”してもらった。(3)宮本国会秘書出身の常任幹部会委員宇野三郎同志、(4)宮本秘書出身・元宮本議長室室長の常任幹部会委員佐々木陸海同志、(5)宮本秘書出身の常任幹部会委員白石芳朗同志は、「幹部会委員」に“格下げ”した。(6)宮本秘書出身・元宮本議長室室長の幹部会委員有働正治同志は、「中央委員」に“格下げ”した。それ以外も合わせて、側近グループ中核メンバーのうち、全部で7人の排除に成功した。
次に、衆参国会議員団に“配備”されていた宮本私的分派の解体である。(4)宮本議長室室長出身の佐々木陸海同志は、衆議院議員になっていた。“格下げ”後の2000年総選挙では、前回行なわれた比例区名簿から外し、当選見込みのない小選挙区の候補者だけにし、“合法的に落選させ”、衆議院議員団から排除した。(6)宮本議長室室長出身の有働正治同志は、参議院議員になっていた。そこで、 “格下げ”と合わせて、1998年の参院選候補者から降ろし、参議院議員団から排除した。こうして、宮本氏が用意周到に衆参国会議員団内にも送り込んでいた側近グループ解体に成功した。
また、中央機関紙編集委員会については、1999年10月、常任幹部会委員河邑重光同志を、編集委員会責任者(赤旗編集局長)から解任した。第22回大会では幹部会委員に格下げした。河邑記者は、上記の東大大学院支部『宮本解任決議案』問題で、“宮本擁護”のために大奮闘した。その“東大全学60%”による宮本逆路線批判組織的決起という路線選択問題の性格を、「ビラまき男」一人の問題にすりかえることに大貢献し、宮本氏から特別に高く評価されていた。ただ、志位君も、同じ問題での粛清において、辣腕をふるって、宮本氏から大抜擢された。志位君は、『宮本−不破−志位の重層的指導体制』の一翼を担い、“わが党における、もっとも有能で、宮本氏に絶対忠誠を誓うヤングマン”と評価されてきたので、頑張ってもらっている。
第20回大会時点での、宮本側近グループの中核は、常任幹部会委員、幹部会委員、中央委員を合わせて、十数人にのぼっていた。1961年の国際派・「統一会議」宮本顕治系分派の『二段階革命路線綱領』の勝利以来、宮本氏は、最高指導者となり、1994年第20回大会に至るまで、33年間、“資本主義国共産党における最長不倒翁”の地位を占めていた。その期間での、宮本秘書団、宮本議長室室長出身者、宮本参議院議員当時の国会秘書は、かなりの人数にのぼる。彼らは、宮本氏の指令に無条件に従うという、その党派性(=宮本氏への盲従性)の高さに応じた党内地位に大抜擢された。赤旗記者、党本部専従800人の中で、「ごますり、茶坊主」と陰口をたたかれようとも、宮本氏健在の間は、「虎の威をかる狐」のごとく、その傍若無人的党内権力をふるった。藤原道長の「満月の歌」の心境を、宮本氏とともに味わっていたのである。
もちろん、第21回大会一回の役員人事だけで、長年にわたって形成されてきた宮本側近グループとその影響力を、一掃することはできない。それに、宮本秘書出身、宮本議長室室長出身だから、または、宮本私的分派活動を一時期していたからといって、そのことだけを理由にして、私たち(複数)に忠誠を誓うように「変節・転向」した幹部までをも排除する必要はない。
(7)小林栄三常任幹部会員は、今まで、宮本秘書出身として、宮本氏の粛清指令を受ける、党中央統制部門担当だった。そこで、多くの人々の査問をし、中央役員・県役員・専従・赤旗記者の解任にかかわってきた。そこから、彼には、赤旗記者、党本部専従800人内で『代々木のベリヤ』というあだ名が付いている。しかし、第21回大会時点は、秘書出身でありながら、宮本引退と側近グループ7人排除において、私たち(複数)の側に立って、貴重な働きをしてくれた。しかし、『ベリヤ』的経歴への党本部内反発も強く、第22回大会で引退させた。
こうして今や、第20回大会の上記4つの誤りを根本的に是正し、路線の大転換をする党内条件が整備された。ただし、私(不破)は、これを、あくまで[秘密報告]にとどめ、フルシチョフのスターリン批判のような、宮本個人批判を現時点で公表するつもりはない。それをすれば、宮本批判だけにとどまらず、私や他の常任幹部会員への批判、追求も爆発することを怖れるからである。
赤旗記者、党本部専従、国会議員秘書内には、宮本側近グループ「ごますり、茶坊主」排除を“快挙”として歓迎しつつも、それを私たち(複数)による『宮廷革命』とみなす噂もある。それだけでなく、『新たな不破私的分派・側近グループの誕生』と邪推する党本部専従も一部いる。「引退」をいやがる88歳の宮本氏を、その決断に追い込み、その強力な私的分派・側近グループを、第21回大会・第22回大会を通じての、二段階解体の形で成功させるには、一定の集団的・非公然スタッフ結成と秘密の意志統一、長期にわたる隠密行動を要するのは、当然である。それを『不破たちの分派活動』というのなら、それは『宮本私的分派解体のための正義の分派活動、あるいはやむをえざる必要悪の分派行動』といえるものである。
しかも、その役員人事は、1997年第21回大会、および2000年第22回大会での正規の役員選挙による、規約にのっとった公正な手続きを経たものであり、私にはなんのやましいところはない。そもそも、社会主義14カ国前衛党において、最高指導者の死亡、引退後には、新しい最高指導者が前指導者の側近グループ、私的分派をすべて排除、粛清し、自分に忠誠を誓う地縁・血縁・担当部署部下メンバーに総入れ替えするのは、その都度、例外なく行なわれてきたことで、なんら異常なことではない。ましてや、今回の人事入れ替えは、路線大転換の準備体制を整備するための、わが党サバイバル作戦作業の一環であって、正義の大義名分は私たち(複数)にある。そこには、宮本氏と違って、私の私的分派をつくろうとする意図などある筈もない。
2000年2月に出版した『1917年「国家と革命」』で、私(不破)は、日本共産党史上、党最高幹部として初めて、名指しでレーニン批判をした。それにたいして「AERA」のインタビューを受けた。そこでの記者の『レーニン批判は、宮本顕治名誉議長にも報告したのですか』という質問にたいして、私は答えた。『もう引いた人ですから』と。 
 

 

 
 

 

 
日本労働組合総連合会 (連合)

 

日本の労働組合におけるナショナルセンターである。国際労働組合総連合(ITUC)に加盟している。
成立
1960年代後半から繰り返し志向されてきた社会党系の日本労働組合総評議会(総評=社会党右派を中心に中間派・左派を含む)、民社党系の全日本労働総同盟(同盟)、全国産業別労働組合連合(新産別)、中間派だった中立労働組合連絡会議(中立労連)の労働4団体の統一を目指す「労働戦線統一」の動きは、1982年12月14日の全日本民間労働組合協議会(全民労協。初代議長は竪山利文・電機労連委員長)の結成により大きく進展した。
全民労協が1986年11月の第5回総会で翌年秋の連合体移行を確定したことを受け、まず同盟が1987年1月の第23回年次大会で解散方針を決定し、総評、中立労連、新産別の3団体も秋までに「連合」への合流を決定した。
1987年11月19日、同盟と中立労連が解散し、翌日11月20日に55産別、組合員539万人を集めた全日本民間労働組合連合会(全民労連、「連合」。 初代会長・竪山利文)が発足した。 新産別も1988年10月に解散して合流する。 総評は翌1989年9月の第81回定期大会で11月解散を最終的に確認した。
1989年11月21日、東京厚生年金会館で日本労働組合総連合会の結成大会を開き、初代会長に情報通信産業労働組合連合会(情報通信労連)委員長・山岸章を選出した。 総評系産別を加えて78産別、組合員約800万人を結集させ、労働4団体の統一を完成させた。なお、山岸は“労働戦線統一の功績”により2000年4月に勲一等瑞宝章を受章した。
連合を反共産主義・労使協調路線と批判する日本共産党系労組は、これに対抗して連合結成と同じ1989年11月21日に全国労働組合総連合(全労連)を、総評左派系(社会党左派系)の一部は12月9日に全国労働組合連絡協議会(全労協)を結成した。そのため、連合の結成は真の意味での「統一」とはいえないとする見方もある。
勢力
1989年11月:78産別、組合員数約800万人(結成時)
2016年2月:51産別、689万0,619人
地方組織
地方連合会は47都道府県全てにあり、正式名称は「日本労働組合総連合会○○県連合会」、通称は「連合○○」である。地方ブロック連絡会は北海道(本部:札幌市)、東北(同:秋田市)、関東(東京都港区)、東海(名古屋市)、北陸(富山市)、近畿(大阪市)、中国(広島市)、四国(高松市)、九州(福岡市)にある。
現体制
7代目会長:神津里季生
会長代行:川本淳(自治労中央執行委員長)
事務局長:逢見直人(UAゼンセン会長)
加盟産別は51産別(友好参加組織2産別を含む)と地方連合会に加盟する組織を合計した組合員数は約689万人である(2015年6月30日現在)。産別の数は総評・同盟並立時代に競合していた同業種組合の合併などで減っている。正社員のみを組織対象とした組合が多く、雇用形態の多様化に対応した対応が十分でなかったため、労働省(当時)調査で最大時762万ほどだった組合員は、2006年6月現在で665万人足らずとなるなど、永らく組織人員数の減少に歯止めがかかっていなかった。しかし、2007年12月発表の、同年6月現在の組織状況では、組合員数675万、対前年比10万1千人の増加となり、久方ぶりの純増を達成した。
結成当時「労働戦線の全的統一が完成されれば、社会的影響力が発揮される」と言われていた。しかし結成以来の組合員数、組織率の減少は連合の社会的地位を低下させた。
ホワイトカラーエグゼンプションへの対応については、集会や厚生労働省での審議会で反対の意思表示をしているが、広範な反対運動を組織するには至っていない。恒例で行われる春闘やメーデーで集会を催す以外は現状では広範囲な活動が行われておらず、一部の非連合労組などからは資本側となれ合う「御用組合」との批判も存在する。
かつては企業側の経営合理化によるリストラなどに対して半ば容認の姿勢であったが、近年は格差社会の広がりにより労働組合の役割が再確認され、連合も正社員以外に非正規雇用者(アルバイト、パートタイマー、派遣労働者など)の組織化に関して特に力を注いでおり、パートの組合員が2003年の約33万1千人から2007年には約58万8千人にまで増加した。特に、流通や食品関連の労組であるUAゼンセン傘下労組のパート労働組合員の増加が目立っている。国内のパート労働者1,469万人のうち約7.0%が労働組合に加入している計算になる。また、それまで一貫して規制緩和の方向で改正されていた労働者派遣法についても、一定の歯止めがなされるための改正を求めた結果、不十分ではあるものの2012年3月の成立につながった。
一方、労働者を含む国民の生活に対して重大な影響を及ぼすおそれがある消費税増税を含む社会保障・税一体改革関連法案については条件付で容認する見解を示し、その成立に協力したとともに、プライバシー侵害のおそれなどが指摘されているマイナンバー制度の採用についても容認している。
国民体育大会については、「勝利至上主義で開催地自治体に過大な負担を強いる」として廃止を主張している。
国政とのかかわり
連合の会→民主改革連合
全民労協と全民労連(旧・連合)時代から、連合系労組幹部は、日本社会党と民社党の合同を念頭に、「社民勢力の結集」を唱え、その「接着剤」となることを標榜していた。1989年に行われた第15回参議院議員通常選挙において、連合の会で11名の当選者を出し、労組間の路線対立を乗り越えた勢力結集に尽力する。しかし、1992年の第16回参議院議員通常選挙で連合の会公認候補は全員落選。連合の会は1993年には「民主改革連合」に改称し、細川内閣へ連立参加した。
自社連立時代
一方、伝統的に社会党を支持してきた旧総評系労組と民社党を支持してきた旧同盟系労組は、連合結成後もそれぞれ総評センターと友愛会議での政治活動を継続した。しかし、まず、1993年の第40回衆議院議員総選挙で社会党が大きく後退した。結果として非自民の細川内閣ができたものの、社会党の威信は大きく低下し、その後連立の組み換えで自民党と組むなどしてしばらく与党に居続けた。旧総評系労組も、自社連立に不満を抱えながらも、社会党への支援を継続した。
その一方、民社党は細川内閣・羽田内閣に参画した後、新生党や公明党などと合併して1994年末に新進党を結成、自社連立政権に対する野党第一党となり、友愛会議系は新進党支援を打ち出した。そのため、連合は政治的スタンスを巡り旧総評系と旧同盟系の間で分裂し、「股裂き」状態になったと評された。 1996年の第41回衆議院議員総選挙を前に、民主党が結成されると、旧総評系労組の多くは社民党(社会党が1996年1月に改称)から民主党へ軸足を移した。
新・民主党結成後
1997年末の新進党分党後、1998年の参議院選挙を前に、旧小沢系(自由党を結成)以外の主な旧新進党会派と民主党が大同団結する形で新しい民主党が結成された。新党友愛として活動していた旧民社系もこの新・民主党に参加、友愛会議系労組もこれを支援した。旧総評系労組も、連合の「股裂き」を解消するものとして、この動きを歓迎した。そのため、紆余曲折はあったものの、連合内は現在までに民主党支持で大勢が決する形になった。旧総評系・旧同盟系が別々に継続させてきた政治活動・選挙活動についても、1999年の連合政治センター結成により一応統合された。
2005年9月の第44回衆議院議員総選挙後、民主党代表に就任した前原誠司は、労働組合(連合)、特に官公労との関係を見直し、距離をとるという姿勢を繰り返し示して、連合側が反発した。これには、大阪市の職員厚遇問題などでのイメージ悪化、組織率低下による影響力の低下などで国民からの批判を浴びた連合を抑え、「政策立案を独自に行い政権を担える自立政党」への脱皮を図ろうとする前原執行部の理想と、実際の選挙では自分達が最大の支持組織として活動していると自負する連合側の現実との齟齬による対立があった。また、連合系の民主党議員・一般党員の多くが、前原が唱える日本国憲法の改憲路線、特に自衛隊海外派遣の積極推進や中国脅威論の高唱などの外交・安全保障政策に反発し、さらには「対案路線」を採る前原執行部の主張が小泉純一郎内閣の「構造改革」路線に接近し、小泉から称賛されて大連立まで噂される事態となると、改憲論議自体には柔軟な連合首脳陣まで前原に反発するという疑心暗鬼も重なり、両者の関係は冷え込んだ。
しかし、2006年に前原が任期途中で辞任すると、4月に就任した新代表の小沢一郎は連合との関係修復に腐心した。小沢は元来自民党の実力者だったが、悲願の政権奪取のためには企業団体との関係強化に加えて連合との和解も必要と判断し、融和策を採った。一方、小沢を警戒していた連合側も、小沢の主張に労働者保護などの要素が強まったのを見て支持を強め、民主党との関係も改善されている。第21回参議院議員通常選挙があった2007年には高木会長と小沢が一緒に激戦区を行脚し、選挙の応援に出かけたり労組幹部と会談を持つなど両者の関係は緊密になっていた。
ゼロ金利政策と量的緩和
2001年3月から2006年7月にかけて、日本銀行は金融政策としてゼロ金利政策を実行した。 この政策が解除される2006年7月に連合は、解除に否定的な見解を示した。これは、解除当時、依然として不安定雇用の増大や若者の未就業問題等に起因する格差の拡大、地域・産業・企業間の二極化の動きが起きていたからである。更に、物価情勢も小幅の増加であり、完全にデフレ脱却を果たしたとは言い難い状況にあったためである。
しかし、連合の支持する民主党や社民党などは、日本銀行のゼロ金利政策の解除を支持した。
民主党政権
2009年9月に連合が支持する民主党・社民党の連立政権成立後は、政権を積極的に支持する意向を固め、民主党側も2010年に行われる第22回参議院議員通常選挙への連合の協力を呼びかけた。一方、連合はこれまで明確にしていなかった原子力政策の態度を明確にし、「原子力発電所の新設」を支持する方針を固めた。民主党は「着実に取り組む」と賛同を得られたが、連立パートナーであり一部の労組が支持する社民党は「脱原発」が党是であるため、社民党との距離が広がった形となった。
現在
民進党の最大の支持基盤とされる。但し、政治献金の総額は、政治資金規正法第21条の3の3号の規定により3000万円に規制されている為に資金面での直接的支援は限定的となっている。
社民党や生活の党と山本太郎となかまたちとも協力関係を保ち、社民党への支持・協力を続ける加盟団体(全日本自治団体労働組合、日本教職員組合といった主に旧総評系の一部地方組織)もある。
連合の大会や、連合主催の大きな集会(メーデーなど)には、民主党・社民党だけでなく、自民党や公明党、生活の党からの来賓出席や祝電の披露もある。さらに、2012年12月の政権交代以降は、民主党との連携を維持しながらも自民党・公明党との協力強化を求める意見も出ている。
国会や地方議会に組織内議員や準組織内議員を多数輩出する他、民主党及び社民党の候補者の一部を推薦する形で支援している。ただし、原子力発電の存廃、TPPの賛否など、組合毎の利害が対立する政策では、国政選挙でも自民党、公明党候補を支援する組合が出ることは珍しくない。この傾向は特に旧同盟系が優位な地域に目立つ。地方首長選挙ではさらにこの傾向が強く、民進党が自民・公明と相乗りした時はもちろん、他の候補を支援しても自公系の候補を推薦する事例がある。
県議会によっては、大分県議会のような民進党と社民党で連合を軸とした統一会派を組んでいる。連合組織内議員懇談会では民進、社民の国会議員(地方では地方議会議員)が出席し、社民党勢力が強い地方ではその会長が社民党県議の場合もある。
古賀伸明会長(当時)は「賃上げすれば必ず消費は上向く」という思想のもと労働者の賃上げを主張しているが、2013年3月7日の定例記者会見で、「安倍政権の要請に応える」という理由でボーナスを積み増している企業が増えている事について、この賃上げが「政権への親和性が強い企業の動きだ」と述べ、連合側には喜ぶ気配がないと報道された。
2013年8月23日、消費増税について「粛々とやるべきだ」と述べ、予定通り税率を2014年4月に8%、15年10月には10%にそれぞれ引き上げるべきだとの認識を示している。 
 
「労働組合の挑戦」 2006

 

高木剛・連合会長 / 高木郁朗・日本女子大学教授 / 梅本修・損保労連委員長 / 吉川沙織・情報労連特別中央執行委員 / 司会・石田光男・同志社大学教授
「現代の労働組合が抱える課題について」
1.産業・企業レベルにおけるワークルールの形成
石田… 今日は連合寄付講座の最終回になります。修了シンポジウム、労働組合の挑戦というタイトルで、ゲストスピーカーとして連合会長の高木会長、損保労連委員長の梅本様、情報労連特別中央執行委員の吉川様。吉川様は四月にも来ていただいております。それから日本女子大学の高木先生にお越しいただいております。私一応司会役を務めさせていただきます。よろしくお願いいたします。6月の最後の授業に4月からの講義を踏まえて、まとめをしました。そこでまず、労働組合の挑戦ということの意味ですけれども、この間、日本経済のみならず世界的に基本的には市場原理という名の挑戦があったと思います。現場では有期雇用契約というのが、大変な規模で膨らんでおりますし、直用ではない請負だとか派遣という外部人材ですね、この活用が広がっております。それからいわゆる正社員の世界でも成果主義という名前の長時間労働であったり、成果主義という名前の下での厳しい精神的プレッシャーがかかる業務に従事しているという現象も広がっております。そういう市場原理というものが、もたらしてきた日本社会の変容、これがまず前提にあろうかと思います。他方、その結果、市場原理だけでは、「よくない」という感触も併せて近年日本社会に広がっているのではないかと思います。そこで労働組合が、いわばそういう市場原理がもたらした問題点について、立ち上がるという意味合いを込めて労働組合の挑戦というタイトルになっているのかなと思います。その場合の焦点は、ルールの明示化ということが今、実は求められているのではないか。信頼関係に基づくルールというのは、ほとんど管理とすれすれになっているのですが、労働組合の努力としては、それをもう少し明示的なルールとしてそこに表現してみるという努力が必要になっているのかなというふうに思います。要するに、まずひとつは、産業企業レベルで仕事のワークルールをどう形成するかという問題と、それを越えて日本の社会改革にどう結びつけるのか。そこで労働組合は、どう行動すべきかと、大きくは非常に伝統的なワークルールの問題とそれから社会全体の仕組みをどう変えるかという二つの次元があると思っています。そこでまず、雇用の安定について4人のゲスト方からそれぞれどういう課題がここにあるのかというお話をお伺いしたいと思います。自由に話題を提供していただければと思います。高木会長からひとつそれについての考え方をお願いします。
高木会長… 皆さん、こんにちは。連合の会長をしております高木剛といいます。雇用の安定ということで、石田先生からご提起がありました。日本は1990年代の半ばぐらいま    では、一旦どこかの企業に正社員で入社をしますと、会社の業績がよほど悪くなったり、あるいはご当人が何か不始末をしなければ、大方の人は本人が望めば定年まで働けるという正社員雇用中心の終身雇用型が一般的な雇用の姿でした。1995年に当時の日経連が、「新しい日本型経営」という一種の経営論に関わる方針を出しまして、企業はこういう雇用のポートフォリオでやっていけばいいのだという方向を示しました。定年まで働いて欲しいと思って採用する、いわゆるコアの正社員群、それから二番目には、定年までではないかもしれないけど、ある分野で非常に専門性の高い仕事をする専門職、それから三つ目は、仕事の繁閑によって雇用の量を調整することが可能な労働力、この三つを組み合わせて雇用のポートフォリオをすべきだという考え方です。95年以降、戦後初めて正社員に位置づけられてきた人たちの雇用の数が減りました。と、同時に、正社員の数を減らして、その分を有期雇用の契約社員や派遣、パートといった人たちにどんどん置き換えました。また、従来は社員でやっていた仕事を、アウトソーシングと言いますが、請負に出すという方法もとりました。そういう意味では、95年以降、日本は完全にそれ以前と雇用を取り巻く状況が変わってしまったのです。こうした流れのなかで、今の20代後半から30代ぐらいの人たちの働き方は、完全に二極分化しています。二カ所くらいでパートタイマーやりながら、毎日過ごしている人と、正社員型で働いている人。正社員型の人たちは、雇用という意味での安定は高いけれど、そのかわり時間外労働をさせられています。だからもう、嫌というほど時間外労働している正社員か、フリーターという働きぶりで働いている非典型社員か、この二つに大きく二極分化しており、この辺の問題がいろんな社会的な影響を与えているという状況になっています。内部労働市場、外部労働市場の関係がありますが、日本の場合は就職じゃないですよ。日本は就社、会社に入社するのです。日本の場合は、どこかの会社に入るか、入ってどういう仕事をするのか、入って配属されてみて初めて分かるという部分がまだまだたくさん残っております。最近、外部労働市場、特にあの派遣労働だとかパートタイマーの皆さんは、企業の内部労働市場というよりは外部労働市場、企業の外へ出たり入ったりすることが非常に多い。その面を含めて日本も外部労働市場が少し広がってきておりますが、まだまだ内部労働市場の色合いも強くもっていることかなと思います。
石田… どうもありがとうございました。この雇用の安定については、たとえば私の友人の東大の佐藤博樹さんなんかの本を読ませてもらうと、企業別組合の中で外部人材は直接の雇用の関係はありませんので、せめて労使協議の場で、企業はどういう仕事にどの会社になぜお願いするのだと。で、そこでの人材というのは、発注元ですけども、そこでの仕事をやれるだけの技能をきちっと持っているのかどうか等々含めてですね、外の人材といえども会社の意思決定についてきちっと発言を及ぼしていると。そういう労使協議を、意図的に追及しなきゃ駄目じゃないのかと。そのようなことを、やっていく必要があるのかと思います。それから、有期雇用の方で言うと、やっぱりそのパートの方、ある程度力のある有期雇用の方々については正社員との行き来をフリーにできる地続きのキャリアパスを作るとかですね、そういうような取組を積み上げていくことは非常に重要かなと思っているのですが。もう一度、高木会長に端的言ってこの問題について、一体どういうふうに考えたらいいかということをお伺いします。
(1)有期雇用に関する考え
高木会長… フリーターの方々は正社員と同じ職場で働いているわけですから、そこで、正社員に登用してもらう、正社員としての雇用に切り替えてもらう、そのための訓練をしてもらい、それなりにその企業の採用のスペックに合えば正社員にどんどん登用していってくださいと、私たちは経営者の皆さんにお会いするたびにお願いしています。日本は今、不安と不信社会だと言われておりますが、私は、この一番大きな原因はやっぱり企業にあると思っております。産業、企業の調子が悪くなりますと、企業は雇用の量を減らします。厚生労働省の試算ですと、今年の三月までの一年間にフリーター型から正社員型に変わった人は20万人くらいと言われております。これを30万人、40万人へと増やしていくことがひとつかなと思います。それからルール作りという意味で言えば、同じ職場に派遣の人も来ている、パートさんも来ている、期間限定の契約社員の人もいるわけですが、たとえば、正社員だけで組合をつくり正社員の利益だけで交渉するのではなく、パートで働く人や派遣で来ている人の利益も公正に代表して交渉しないとダメだというルール、公正代表義務というルールがアメリカにはあります。日本にはそういうルールがありません。日本の労使にも、この公正代表義務というルールをかぶせないとダメです。そういうルールを作るべきだと、今、学者の先生から言われております。こういう意味での社会的な視点を含めてルールを形成する役割は連合の仕事、産業内のルール形成をするのは産業別組織の仕事、それぞれの企業の中で、社会的なルールなり産業内のルールに応じて企業内のルールをきちっとするのが企業別労働組合の仕事、と仕分けをしてルール作りをしていく必要があります。
石田… ありがとうございました。続いて梅本さん。なるべく端的なお話をしていただければ結構かと思います。
(2)雇用の安定について
梅本… 損保労連委員長の梅本と申します。私は同志社大学のOBということもあり、本日このような場に参加させていただく機会をいただいたのではないかと思います。今、損保会社の職場でも、いわゆる正社員だけでなく、パート社員、契約社員など、さまざまな雇用形態の人たちが働いています。このように、職場における雇用形態が多様化したのは、企業における価値観が狭く、固定化されていたことも一つの要因であると思います。長時間働き、残業もいとわないのが正社員という一つの価値観のなかで、そのような働き方ができない労働者は非典型労働者という道しか選択肢がなかったというのが、これまでの企業における現実ではなかったかと思います。働く者の価値観が多様化するなか、企業の価値観は固定化されていたがゆえに、働き方の多様化ではなく、雇用の多様化でしか対応しきれず、その結果、パート社員など、非典型労働者が増えたという側面があるのではないかと感じます。そして今、私たちの働く職場をみたとき、昔と比べて大きく違うと感じるのは、「人と人とのつながり」が壊れてしまったという点です。こう感じたのは、昨年、損保労連の運動方針を抜本的に変えようと考え、全都道府県を訪問し、各単組(企業別組合)の地方の組合役員と対話したときです。「自分たちはどう働きたいか、どうありたいか」というテーマで徹底的に対話したのですが、圧倒的に多かったのが、「認めあい、支えあい、つながりを感じながら働きたい」ということでした。これは市場原理がもたらした重大な負の遺産ではないかと感じました。このようななか、労働組合は、組合員の声のみならず、同じ職場で働くすべての仲間の声をしっかりと聞き、本当の意味で働く者を代表する組織であり続ける必要があると思います。また、これからはパート社員として働いている人たちの価値観やスタイルも積極的に組合活動に取り込んでいくことも必要だと思います。このような取り組みによって、「価値観の多様化」や「雇用形態の多様化」に対応できる組合へと進化することができると考えています。
石田… 続いては吉川さんお願いします。
(3)フリーターとニート
吉川… 情報労連の吉川沙織と申します。私が就職活動した時は、1998年でした。さきほど高木会長のお話にもありましたが、95年度以降はもう正社員の採用がどんどん減った時代でした。今日は学生向けということでフリーターとニートに限ってのお話をさせていただきます。若年層における格差拡大は、今後日本全体の格差社会化につながる可能性、こんな恐れを内包しています。私たちの世代である20代、これは昔の賃金体系でいけば、ある程度低い賃金で抑えられていても30代に入れば、少しずつ上がっていくというのがこれまでの働き方でした。でも、今はその賃金体系も、石田先生からもありましたように、成果主義が入りなかなかそれが上がらない。昔の30代と比べれば、やはり低い、そういう現実があります。労働組合としてもそうですが、若年層の雇用対策そして教育訓練の機会を設けるということは、企業にも求められますし、政府にももちろん求められることです。ただ、二つの観点から、なかなか進んでいないのが現状であると私は考えています。一つが若年層に関わる点。そして、もう一つは働く人全体に関わる点です。若年層に関わる点ですが、たとえばその政権を担う政党を決めるとき、選挙するとき、若年層はあまりその行動に関心を示しません。そうなると、やはり投票に行く高齢者の人に向けた政策が優先的になされていきます。もちろん、これらの課題も重要であることに相違ありませんが、若年層は、今後の日本の社会のあり方を考えたときに、もっとその自らの行動で意思を示すべきであるという考えを持っています。もう一つは、働く人全体に関わる点です。働く私たちの問題、雇用の安定も含めてそうなのですが、働く私たちも選挙を通じてもっと意思を示していかなければ、その政策課題としても優先順位が低くなると考えられます。日本の今後の経済社会、社会全体のあり方を考えたとき、労働組合としても放っておけません。だから高木会長を筆頭に、労働組合はこういった問題に焦点を当てていくことになると思います。ありがとうございました。
石田… はい、ありがとうございました。高木先生、企業レベル産業レベルのワークルールについて何かお考えがありましたら。
(4)長期勤続システムに関して
高木郁… 今、高木会長が指摘されましたように、終身雇用制というか長期勤続システムのルールが大きく壊れているということは非常に大きな日本社会全体の問題だと思いますから、それを中心に考えてみたい。いくつかの論点があるだろうと思います。一つは、終身雇用は1920年代からおよそ50年をかけて形成されてきましたが、その ルールが完全に適応されたのはたぶんひとつの世代だけ、1950年代に就職して90年代に職業生涯を終わった人たちだけです。このことが何を意味しているかは、これから少し長い展望を持ってどのような雇用のルールを作っていくかについて、若い世代の組合リーダーとこれから就職していく人たちと、みんなで考えてもらわなければいけないだろうと思います。第二点は、この長期勤続システムというルールは、労働者全体の3分の1とか4分の 1しかカバーしていないルールであったことも忘れてはいけないと思います。まず女性たちはこのルールから基本的に排除されていました。それから、雇用者のおよそ3分の2を占める中小企業の労働者はいつ倒産するか分からない、ということもありまして、実際に長期勤続がどこまで作用していたか、安定的に作用していたかどうかは分かりません。やはり、色々な人たちをカバーできるルールを作り直していかなければならないであろうと、僕は思います。それから三つ目の問題ですが、長期勤続システムは二つの要素によって形成されまし た。一つは労使関係を安定させるというレベルの問題であり、もう一つは技術、技能的レベルの問題です。たぶん、長期勤続システムは企業にとっても有利な側面があったと思います。プラスの側面は現在も残っています。企業がただ流行に乗ったり、短期的な視点だけで雇用問題を取り扱う風潮をやめさせなければならないと思います。最後に四点目として、しかしながら、やはり変化をしています。そういう変化の中で、 新しいルールを考えなければならないのですが、ルールの基本になるのは、人を雇う使用者には使用者としての責任があるということです。このことを明確にしておくことが必要で、その義務が労働組合にはあるのだということは申し上げておきたいと思います。
石田… どうもこのワークルールっていうのは、多くの場合企業で作られると私は理解しています。もちろんそうじゃないルールもあるのかもしれませんが、どうしても企業中心の労使関係を論ぜざるをえない課題ですけども、成果主義の問題は結局は私は評価問題だっていうふうに思っております。問題はその評価問題って言ったときに労働組合がどう関与できるのかというところに、私はおそらく絞られていると思います。成果主義の中で目標面接というツールの中で個々人が非常に孤立感を深めた働き方になっているのではと。労働組合っていうのはそれじゃ駄目だということが言える組織だと、私は勝手にそう思います。先ほど梅本さんが話された、人と人とのつながりを感じながら働きたいっていうのがたぶん正しいところだと思うのです。労働組合が生き返るためには、議論して、結果として差がつくのは、これは日本の労使関係でとっくの昔にクリアされているので、それはみんな納得すると思いますが、せめてそこにみんなで議論して、みんなで力を合わせて目標達成しようという関係は企業別組合でもできるのではないか。あと、労働時間問題について私も少し意見を言いますと、労働組合はやっぱりこの 労働時間問題を、いい仕事してもらうためにもやるというような位置づけで取り組んでもらえばいいっていつも言っているのですが、ゲストの方々、この賃金問題、労働時間、こうあまり分けなくて、そこいらの問題について、特に強調したい点がありましたら、必ずしも一人ずつってわけではないですが、梅本さんによろしくお願いいたします。
(5)賃金と労働時間に関して
梅本… 石田先生のおっしゃった評価に組合がどう関わるかということについては、二つあ ると思います。ひとつは、評価を単に単年度の賃金に差をつけるためだけのものにしてはいけない ということです。評価を従業員の自律的なキャリア形成にしっかりと生かしていくことができるよう、必要な環境整備を求めていくことが重要です。具体的には、コーチングなどをとりいれた日常のマネジメント、十分な面接対話、適正な目標設定、達成感を実感できるフィードバックなどであり、さらに言えば一人ひとりの能力開発にもつなげていく必要もあると思います。上司としても自分自身がまったく経験したことのない方法で部下を育成しなければならないのですから、すぐにうまくいかないことも多いと思います。しかし、労働組合としても新しい人事制度の導入を了承したのですから、当初掲げた導入の趣旨どおり、人材育成につながる評価制度となるよう、制度導入に費やした労力以上に、運営についても注力しなければならないと思います。もうひとつは、労働組合として一人ひとりの相談にのる必要があるということです。会社にも苦情申し立て制度があることが多いですが、これは一般の従業員からすればハードルが高いというのが実態です。だからこそ、労働組合としてハードルの低い相談窓口を開設する必要があります。これを行うことで、一人ひとりの理解度や満足度を高めることができるだけでなく、制度導入の趣旨がどれだけ職場に浸透しているかについても、その実態を把握することができます。職場に共通するような問題点があれば、原因を分析して労使協議で改善を求めることも必要だと思います。次に、労働時間については、言うまでもなく労働組合として極めて重要な課題であり、 長時間労働の問題について、これまでも懸命に取り組んできました。しかし、残念ながら、依然として解決できていません。ここで考えなければいけないのは、この問題がなぜ解決しきれないのかという根本的な原因を突き詰めてみるということです。この根底には、会社が従業員に終身雇用を提供し、従業員は会社に尽くすという基本的な構造、無意識の前提があることに起因している面もあるような気がしています。職場では、みんなの知恵と工夫で、懸命に生産性を向上し、効率性を高め、時間を創出したにもかかわらず、要員が削減されたり、新たな業務が増えるなど、結局は時間的なゆとりが実現しなかったというようなことが起こっています。このようなことがなくならない限り、長時間労働という課題は永遠に解決できないと感じます。ただし、終身雇用など、これまで培ってきた日本的経営の良さ、強みは絶対に維持すべきであり、逆にそれがなければ日本企業は持続的に発展し続けられないと思います。そのうえで、日本企業における基本的な構造、無意識の前提を変えるとき、どうしても必要となる新しい価値観がワーク/ライフ・バランスだと考えています。日本におけるdecent workとは、ワーク/ライフ・バランスの実現ではないかと思 います。これは労働組合の大きな挑戦だと考えています。
石田… これはその日本の働くことをめぐるなんていうか契約観っていうか、つまり一対一対応として労働とその対価を見ないというね、つまり団体交渉、取引になるためには労働とその対価が一対一対応があるから取引になるわけで、なんとなく長期的につじつまが合いますよっていう関係で今まで認識してきたという問題があると思うのですね。じゃあ、1600時間の正社員がいたら、賃率いくらにするのですかと。これは意味の ある交渉だと思っているのですが、それがこれまではなじまないルールであった。そういうなんていうか、従来は正社員であればまるごと35年間の勤続に対して、まぁ見るから困ったときはやってよということでこなしてきた。これは日本的なルールだと思うのですね。そこはやっぱり一対一的な組み換えが必要になっていて、ワークライフバランスっていうことになったときには、相当バーゲニングに対する意識を労使ともに切り替えていかないといかんかなって、今、梅本さんの話を聴いて思いました。非常に面白い論点だなと。吉川さん何か、多少関係が無くても結構ですので。
(6)生活時間に関して
吉川… 情報労連には、成果主義が導入されている企業もあります。定量的・定性的に判 断すること、評価者を一次・二次と設けて客観性を高めることなど、工夫がなされていますが、より納得性・公正性を高める必要があるのが現状です。私自身、そういう環境の中で働いていましたので、仕事に対するモチベーションを高めるためにも、評価制度・成果主義には公正さが求められると考えます。あと、仕事と生活の調和という観点から生活時間に関して具体例をひとつだけ紹介したいと思います。たとえば、NTTグループには様々な企業がありますが、その中にはシステム提案・構築等をしている会社もあります。これらの会社では受注した場合、そのシステムをお客様のところに納入して、安定的な運用がはかられるまで、恒常的な長時間労働となってしまうケースが少なくありません。また、トラブル等が発生した場合、時間帯や居場所に関わらず対応が必要なケースもあります。このような働き方は、情報通信産業・情報サービス産業ならではかもしれませんが、生活時間をどう生み出して、それをいかに活用していくのかということが課題のひとつとなっています。情報労連としては、今現在、どんな働き方を組合員の皆さんがしていて、どのような生活時間を送っているのかを調査・分析し、今後の活動につなげていきたいと考えています。
石田… はい。高木先生お願いします。
高木郁… 1989年に連合が成立して以降、政府に対する政策課題は連合がナショナルセンタ ーとしてやるけれども、賃金とか労働時間などの労働条件面の問題は産別や企業別労働組合の任務であると言い切ってしまいました。これはいい側面もあるのですが、日本の労働者の現状からみると、ちょっと割り切りすぎでしょう。ナショナルセンターが賃金問題や労働時間問題に関するルール形成に積極的に発言する、指導するということがあっていいのではないかと思います。賃金や労働時間についてもナショナルセンターの役割というものがルール形成の上では大変重要ではないかと思います。最近は研究者の方も賃金の決め方をすぐ問題にするわけです。でも、賃金の決め方以前に賃金の決まり方というのがあって、要するに、水準は社会的に決まっていくことを抜きにして、いきなり決め方を論議するような研究のあり方、やはりルールの相場というものはみんなで作り、決め方についてはそのなかで論議しないと労働者の幸せにはつながらないのではないかと思います。
石田… 私、確かに、賃金の決め方にもっぱら関心がありまして。賃金水準論というのはなかなかうまく議論できてない。私自身できてないっていう反省がありますけど、多分あの、企業ごとに賃金が団体交渉で決まっているので、なかなかその水準に関するルール形成をきちんと論ずるためには、団体交渉のレベルの問題という大きな問題が横たわっている。たとえば具体的には産別交渉が成り立つかどうか、あるいはかつてのスウェーデンみたいに、労使のナショナルセンターのトップで賃金交渉ができるという条件が無い日本で、研究、一研究者として言うと、その水準論のルールをやるとほとんど論文が書けない、非常に情けない話ですけどもね、そんな事情がある。ちょっとあの、高木会長が今の高木先生の非常に本質的な問題提起に対してどんなふうにお考えなのかをお伺いしたいと思います。
(7)労働組合の存在意義
高木会長… まず成果主義についてですが、成果主義は人件費削減の手段みたいなおもむきがどうしても出ている例が多い。一人ひとりの仕事の内容なり、その遂行のレベルを評価したときに、どうしてもこの成果主義は評価にブレが出たりします。異議申し立てをしてもいいですよということですが、チームで仕事をする習慣の強い日本の企業社会で、そうなかなか異議申し立てしても、言うほど簡単にはいきません。私はこの成果主義に反対をしませんが、うまくいっていないのはどうしてなのだろうかということを色々な観点から検証しながら、導入過渡期の問題点の整理を行っている時期にあるのかなと思っております。ワークライフバランスは率直に言って、99%が労働時間の問題から始まると思ってお ります。今、正社員の人たち、とりわけ、20代から30代のなかには、毎月の残業時間が60時間を越える人が2割以上もいると言われております。毎月60時間ですよ。皆さん方に是非ご理解いただきたいのは、日本では一日の労働時間の最長時間が法律では決められていません。たとえば、フランスでは一日の労働時間は残業時間も含めて、どんなに長い日でも11時間働かせたらいけないという法律になっているわけです。日本にはこれ以上働いたらダメ、という一日あたりの労働時間の上限規制がありませんから、それを日本の労働基準法は労使に委ねているわけです。わざわざ労使に一日の労働時間の上限を、きちんとする権限を委ねているのですが、委ねられたほうが意味を分かっていないと言われてもしょうがないような実態です。高木先生が言われたのは、私に言わせたら当たり前の話をおっしゃられたのではと思います。ところで、労働組合の存在意義はつぎの二点にあるだろうと思います。まず第一点、 組合員の皆さんの生活と権利を改善すること。生活の内容と権利を改善すること。二つ目は日本の社会を民主的に健全に発展させるために役割を果たすこと。この二つが労働組合の存在意義だろうと思います。労働条件は産別に任せろという議論もありますが、連合としてもそれなりに、こういうふうにやりましょうと提起しています。賃上げを何千円要求するしないかは、それぞれ判断してもらったらいいと思いますが、たとえば、今年は山登りに行くことぐらいは皆で確認をして、みんなが山登りしているときは下では花見酒というわけにはいかないことを、連合はきちんとみなさんに示していく必要があるのかな ― そんなふうに思っているところでございます。
石田… ありがとうございました。ここで少し休憩を入れたいと思います。
2.労働組合の社会改革的役割
石田… それでは、後半を再開させていただきたいと思います。社会改革の担い手としての組合、労働組合の役割ということなのですけども、前回6月に私、ウエッブの産業民主制論という本を紹介しました。その中で、労働組合の機能として、三つの方法があるというわけです。一つは、ようするに共済組合ですね。保険制度。二つ目は、労使協議、団体交渉で、今日のお話の企業内、産業レベルでのルール形成っていうのは基本的には労使協議、団体交渉できちっとやっていくというテーマだと思いますが、ウエッブが三つ目の方法として挙げておるのが、法律制定の方法っていうのがあります。この法律制定という方法は、全労働者を組合が組織できないわけでありますから、法律でもって国全体の最低限を決めていくというのは労働組合にとって極めて重要なテーマだろうと思うのです。労働をめぐる法の現状と改革方向、規制緩和に関する考え方このあたりの問題を、一番このことに深く関わっておられる高木会長のほうから現況なり現在の問題意識をお話いただいて議論を深めたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
(1)労働法制、規制に関して
高木会長…労働法制に関わる問題、あるいは労働に関わる社会的な規制のあり方について、 私どもの問題意識を少し申し上げてみたいと思います。一つは、先ほどから出ておりますパートタイマー、派遣労働、請負労働という働き方についてのルールが、まだ未整備なところが色々残っているということです。このパートタイマーの処遇をめぐりまして、労働に関する基本的な原則の一つに同一価値労働、同一賃金の原則というのがあります。こういう原則があるにも関わらず、正社員は、たとえば100貰っているけれど、パー トタイマーで働いている人は正社員と同じような仕事をしているにもかかわらず、それが40だ50だ60だという人がたくさんいます。こういうパートタイマーについては課題を抱えておりますし、あるいは男女雇用機会均等法という法律が20年前にできて、男女均等関係、形式的にはきれいになってきましたが実態的にはまだまだ差別が続いています。そういう状態がたくさんあり、間接差別という言い方をすることもありますが、そういう問題等を抱えております。規制緩和ということですが、全部反対しているわけではありませんが、なかには乱暴な議論もあります。
石田… どうもありがとうございます。高木先生のほうから何か、今のこの社会改革。今の国会での法改正の議論等々コメントがございましたら。
(2)規制緩和に関して
高木郁… 内容的には高木会長の言われた通りですが、僕は、連合も最初の時点では規制緩 和について取り違いがあったのではないか、という気がしないでもないですね。つまり、規制緩和というのは、国民にとって利益があるという思い込みがちょっとあったのではないでしょうか。今はそうではない気がしますけども、歴史的に見ると1980年に始まるサッチャーの規制改革は、労働組合による規制が真正面から、最初に対象になったわけですが、deregulationは労働組合によるルール作りを破壊することであったという一番本質的なところは必ずしも十分に理解されていなかったような気がするのが一点です。もう一つ。僕は、規制緩和には二つの側面があると思っています。一つは、労働の観点から見ますと、直接的な規制緩和です。たとえば、今の話のように労働基準法とか、white color exemption、すなわちホワイトカラーを労働規制から全部除外してしまうという直接的な規制緩和の影響は非常に大きいと思います。もう一つは間接的な影響です。典型的に言いますと、たとえば、タクシーの規制緩和によって、今年の統計はまだ見ていませんけども、たぶん、1990年を基準にしますと、タクシードライバーの賃金は100から60%ぐらいまで低下していますが、これは業界の規制緩和が労働条件に影響を及ぼしている間接的な影響です。この直接的な規制緩和と間接的な規制緩和の両方を労働の観点から議論をしないといけないのではないかと思っています。
高木会長… 今、全国各地の特にタクシードライバーの人達、あるいは長距離トラックで荷物を動かしている人達、この方々の働く条件・状況は非常に悪くなっています。この規制緩和の影響を受けまして、過当競争等により働く環境・状況が悪化しているわけです。だから今、逆規制をかけることを国土交通省とやらないといけないという状況になっています。色々な産業を規制する産業法がありますが、こういう産業法がそれぞれ働く人間にどういう影響を与えるのかということは非常に大きなポイントです。単に労働、頭に労働なんとかが被さっている法律だけではなく、業法なり国際的な各国間の協定等も、労働に色々な影響を与えていることを承知しておかなければなりません。
石田… どうもありがとうございました。今の規制緩和deregulationについて僕の感想は、非常に高木先生と重なっている部分が実はあります。規制緩和、やっぱり欧米の場合ターゲットは労働組合だったと私は思うのです。しかし、日本の場合に労働組合がそこまで経営妨害的なルールを構築してなかったために、ターゲットが労働であるという面が意外と見えにくい構造で推移してきました。規制緩和が、じりじり効いてきてですね、ここにきてもう一度、心を入れ替えて考えなきゃいけないなっていう感じになってきたのかなと思います。それで今、社会改革の話あるいはワークルールの形成問題、いずれも最後は組織力の問題になってくるわけでございます。労働組合の機能とその体制作りということで、そこに地域重視の連合方針の意味だとかそれから、いわゆる非典型労働者を含めた組織化これも連続の講義の中で随分学生からも問題意識が出されております。また高木会長申し訳ないですが、口火を切っていただいてこの辺の絡みで少し説明いただきたいと思います。
(3)非典型雇用の組合参加について
高木会長… 日本の労働組合組織率は18.7%、五人に一人も参加いただいていないという状況です。組織率が一番高い時は、60%近くあったわけです。これは分子と分母の関係ですから、賃金をもらう労働者、分母が非常に増えたのに、分子の労働組合に参加する労働者の数が増えない、減っているということです。今、労働組合の社会的な影響力は当然小さくなっているわけです。労働組合が運動する力量も落ちていると言われてもやむを得ない面があるわけです。ちょっと八つ当たり的な言葉を使わせていただくと、弱い者はなめられるのです。力のない者の言うことは通らないという側面がどうしても出てこざるを得ません。職場で働く人の半数も組合員として参加していただいていません。そういう意味で、 この空洞化をなんとかしようという意味も含めて、パートタイマーの皆さんにも色々な働きかけをして、組合への参加をここ数年躍起になってお願いをしているところです。ただパートさんにお願いしますと、「あんた達長い間、ほったらかしにしといて、急に最近になって、猫なで声を出して組合に入るよう言ってくる、何が魂胆なの?」とか、「組合に入れって言われたら、組合費払わなきゃいかんのでしょ、ちゃんと組合費払っただけのことがあるの?」とか、「組合費とりっぱなしでいい加減にしないでしょうね」などと言われながら、今、一緒に力を合わせて働く状況を良くしましょうということで労働組合に参加してくださいというお願いを一生懸命しているところでございます。多くの人は、「そう言うなら入ってあげるわよ、その代わり組合費だけ取ってメリットが感じられなければ、すぐ抜けるからね」と言いながら参加してくれるパートタイマーが増えています。いずれにしましても、労働組合に与えられている権限をきちっと発揮できるような、そういう基盤を作るという意味で組織拡大の仕事、あるいは、それぞれの組合が色々歌を忘れたカナリアになっている部分があるとしたら、もう一度歌を思い出すという面も含めてこの問題にアプローチしているところでございます。
3.まとめ
石田… どうもありがとうございました。時間がかなりたっておりますので、まとめなのですが。労働組合をめぐって、労働組合の挑戦にとって、いくつかの難しい問題が山積しているわけです。学生は浮き足立たずに、それをきちっと観察する目を持っていただきたい、労働組合をはなから、自分の社会観に関係ないってことは是非なくしてもらいたいというのが心からの希望です。社会改革といった時に私は色んなアイデアがあると思うのですけども、たぶん消費税問題っていうのは避けて通れない問題だと思います。今ここで労働組合の挑戦としていくつかの、成し遂げねばならない、格差問題の是正だとか課題が上がっておりますが、私の好みからするとこれはきちっと国民生活のあるべき最低の条件がクリアされないと消費税問題は、話になりませんというような迫力ある、つまり「市場原理」かそうではない「良き社会を目指すのか」ということが改めてきちっと争われる格好で私は問題提起をしていただきたい。私のまとめが下手でなかなか議論がうまく進まなかったかもしれませんが、特に学生にとっては労働組合が自分らの職業生活にとってリアリティのある存在であること、自分の将来にとって身近なのだなと、そういう感覚を是非大事にしていただいてさらに勉強を続けていただければというように思います。今日はわざわざ東京からお越しいただいてありがとうございました。みなさんで拍手を持って感謝しましょう。
高木会長… 学生の皆さん、お付き合いいただいて、ありがとうございました。皆さん方もいずれどこかで仕事をされるときがくるだろうと思いますが、労働組合のない職場に就職されたら、是非、労働組合を作ってください。それから労働組合がある職場に行ったら、組合の役員を一度でいいから経験していただきたいと思います。そのことをお願いして感謝の言葉に代えたいと思います。どうもありがとうございました。 
 
労働組合と政治 / 政策・制度の実現に向けて 2007

 

はじめに
こんにちは。ただいまご紹介いただきました連合副事務局長の逢見です。本日は、「労働組合と政治―政策・制度の実現に向けて―」をテーマに、これまでの講義とは少し違った視点から、労働組合と政治との関わりについて、連合の政策・制度要求の取り組みを中心に、お話させていただきます。
お手元資料の2ページ目に、3枚の写真を掲載しています。まず1枚目の写真で、「税調は働く者の声をきけ!」「定率減税の廃止・縮減反対」という横断幕が張られた車上で演説しているのが連合の高木会長です。これは、2005年の秋に定率減税の廃止を巡って政府税調で大変な議論が展開されていた当時、高木会長が政府税調に出席する直前に、財務省前で定率減税廃止反対を訴えたときの写真です(2005年10月)。残念ながら定率減税は廃止となり、国から地方への税源移譲も実施された結果、今月(2007年6月)から住民税が一気に上がってしまったことは皆さんもご存じのとおりです。2枚目の写真は、連合が民主党と結んだ共同宣言の調印式の際の写真です(2006年10月)。左側で、高木連合会長と握手しているのが民主党の小沢代表です。いよいよ来月には参議院議員選挙が行われますが、通常、こうした国政選挙の際には連合と民主党との間で政策協定が締結されます。その中で私は、前述の共同宣言や政策協定等の策定作業の責任者をつとめています。3枚目の写真は、公務員制度改革に関して、連合の代表が、当時の小泉内閣の竹中総務、中馬行政改革担当、川崎厚生労働の三大臣との間で政労協議を行ったときの写真です(2006年1月)。
ご紹介したのは、あくまでほんの一例ですが、これらはすべて“連合の仕事”です。本日は、このようにナショナルセンター連合が、なぜ政策・制度要求に取り組むのか、また、具体的にどのような取り組みを行っているのかについてお話を進めていきます。
はじめに、若干自己紹介をいたします。資料の3ページ目に私がつとめる主な公職を記載していますのでご覧下さい。「行政減量・効率化有識者会議」は小泉内閣当時に設置されました。政府の肥大化を防ぐ、公務員を減らして小さな政府を実現する、という小泉政権の方針に加え、「増税を実施する前に、まずは行政改革を」という国民の声を受け、本有識者会議では、公務員の総人件費の圧縮に向けた具体的施策や、独立行政法人の整理・合理化の進め方等について議論しています。次に、「官民競争入札等監理委員会委員」です。2006年に成立した公共サービス改革法に基づき、現在、公共サービスの改革議論を進められています。具体的には、これまで主に国や地方自治体等が独占的に提供してきた公共サービスの世界に市場原理を導入しようとするものであり、競争の導入による公共サービスの改革の実施過程の透明性や中立性、公正性を確保するために設置された当委員会では、公共サービスのどのような分野を市場化テストにかけるべきか等について審議を行っています。「社会保障審議会・同医療保険部会」では、2006年の国会で抜本的見直しがなされた医療保険制度について、働く者の立場から連合の主張の反映に努めています。経済産業省の審議会である「産業構造審議会基本政策部会」においては、日本の経済社会の持続的な活力の向上に向けて、広く経済社会のあり方を調査審議し、中長期的な政策の立案に参加しています。「産業構造審議会環境部会地球環境小委員会」と「中央環境審議会地球環境部会」は経済産業省と環境省が合同で開催している審議会です。ご存じのとおり、京都議定書において、日本に対しては、温室効果ガスを1990年比で6%削減することが義務づけられています。いよいよ来年2008年からは第一約束期間がスタートしますが、現在、わが国の温室効果ガス排出量は、目標である90年比マイナス6%どころか、プラス8%強となっており、実際の削減率は14%以上という大変厳しい状況です。このような中、産業界も自主行動計画における削減目標の引き上げ等に取り組んでいるところですが、本合同審議会の場においては、こうした追加的対策も含めたそれぞれの削減施策の実効性を検証しつつ、議定書目標の達成に向けた各種課題について審議しています。少子化対策の再構築・実行に向けた検討を行う「『子どもと家族を応援する日本』」重点戦略検討会議」の大元の分科会である「基本戦略分科会」においては、子育て支援税制や現金給付など経済支援のあり方や子育て期の所得保障のあり方、子育て支援策の財源等をテーマに審議・検討に参画しています。
連合が取り組む政策・制度要求の前提と目的
 なぜ労働組合が政策活動に取り組むのか
連合の政策・制度要求の前提
はじめに、なぜ連合が政策活動に取り組むのか、その前提となる考え方についてお話しします。一言で政策活動と言っても、例えば日本経団連が経営者の立場から政策提言したり、日本医師会が医師の立場から医療政策に関する要望を出したりと、色々な団体が色々な立場から政策実現要求を行っています。こうした中で、連合は、働く者の立場から政策・制度要求を行っているわけですが、連合は、単なる自己利益のために政策活動に取り組んでいるような団体と違い、どういう理念を持って政策を要求していくのか、その行き着く先としてどのような社会を目指すのか、といった政策活動に取り組むにあたっての基本的な座標軸をしっかりと持っているところが大きな特徴です。
<労働組合主義(Trade Unionism)に基づく運動>
連合の政策活動の前提となる基本的な考え方の1つ目が、「労働組合主義(Trade Unionism)に基づく運動」です。かつてウェッブ夫妻は、その著作『労働組合運動の歴史』の中で、労働組合について、「労働組合とは、賃金労働者がその労働生活の諸条件を維持または改善するための恒常的な団体である」と定義づけました。これが労働組合主義に基づく古典的な労働組合の定義です。この労働組合主義に基づく運動を、さらに3つにブレークダウンすれば、その1つ目は、「生活諸条件改善のために、経営者との交渉による労働協約によって獲得するもの」です。つまり、経営者との団体交渉によって労働条件を改善し、これを労働協約化するということです。皆さんにとっては一番イメージしやすい労働組合の姿だとは思いますが、かといって、経営者との団体交渉だけでは、すべての労働生活諸条件を維持改善することはできません。そこで、1つ目の柱とともに、労働組合主義に基づく運動の大きな柱に位置づけられるのが、「政治的要求によって、政府に実現を求めるもの」です。国によってその手法には違いはあるものの、いずれの先進国の労働運動でも、政府に対して政治的要求を掲げその実現を求めるといった取り組みは行われています。本日のお話は、この取り組みに関するものが中心となります。最後に3つ目は、「協同組合や共済活動によって実現するもの」です。労働運動の原点とも言える取り組みであり、わが国の多くの労働組合が様々な共済活動を展開しているところです。
<市場経済を前提とするが、市場原理主義には対決>
基本的な考え方の2つ目は、「市場経済を前提とするが、市場原理主義とは決別する」というものです。そもそも連合は、市場経済や市場原理を否定していません。世の中には、市場経済体制そのものを否定するイデオロギーも存在しますが、連合はそうした考え方とは相容れません。ただし、「市場原理に委ねれば、全てはうまくいく」といった市場原理主義とは対決していくというスタンスであり、社会的連帯や社会的弱者に対する政策的配慮を重視する政策を強く求めています。また、連合は、産業民主主義に基づき、政策決定プロセスへの参加を通じて、働く者の声の反映に努めています。
<「労働の尊厳」を大切にした働き方の追求>
3つ目の基本的な考え方として、連合は、「労働の尊厳」を大切にした働き方を追求しています。「労働の尊厳」とは、働くことを通じて社会に貢献していることに自信と誇りを持つという思想です。連合は、政策・制度要求の取り組みの根底に存在する、この「労働の尊厳」を重視し、労働の社会的意義の昂揚をめざしています。その上で、産業・企業の健全な発展と生産性の向上のために、労働組合として主体的な役割を果し、そのことを通じて国民経済の発展に貢献しようという考え方です。
<社会正義の追求>
4つ目は、「社会正義の追求」です。昨今、「格差はあって当たり前。格差が拡大して何が悪いんだ」といった主張も喧伝されていますが、こうした社会正義を軽んじる風潮には強い危機感を持っています。連合は、人間愛に基づいて、貧困や失業、不平等、格差の拡大、人間疎外といった社会の不条理に反抗していこうと考えているのです。また、連合は、企業や組織に対して、倫理的行動を強く求めています。元来、企業というものは、市場における競争を通じて利潤を追求する存在でありますが、だからといって、「金儲けのためなら何をしてもいい」はずはなく、法令を遵守しなければならないことなどは言うまでもありません。企業・組織に倫理的行動を求めること−これも連合が重視する社会正義の一つです。連合は、個人の利己をむき出しにした無制限な競争ではなく、社会的連帯の精神に基づく理性的な社会秩序のもとでの競争を求めています。他人の痛みをわが痛みとして受け止める「友愛」精神というものがあります。私が労働運動の世界に飛び込んで間もない頃、職場の先輩から、この「友愛」という言葉をよく聞かされたものです。人々が今、貧困に苦しんでいる、あるいは職を失い悩んでいる−そうした他人の痛みを、わが痛みとして受け止め、助け合いの手を差し伸べる「友愛」の精神も、連合が大切にしている社会正義の一つです。そして、すべての個人が自由・平等で豊かな生活を送れるような社会をめざし、連合は政策活動に取り組んでいます。
<「雇用社会化」を踏まえた役割の自覚>
5つ目の考え方は、「雇用社会化」したわが国における労働組合の役割を自覚するということです。「雇用社会」とは、企業などに雇われて働く雇用者が多数を占める社会のことを言います。現在、日本の就業者数が約6,400万人、うち約5,500万人が雇用者です。かつての日本は、自営業者をはじめとする雇用者以外の人たちの比率が高かったわけですが、その後、雇用者の比率が高まり続け、今や全就業者数に占める雇用者の比率は85%を超えています。本日こちらにおられる学生の皆さんの多くも、卒業後はどこかの会社、あるいはどこかの役所に就職して働くという道を選択されるのだろうと思います。つまり、皆さんの多くも雇用者となるわけであり、今の日本社会は雇用を中心とした社会になっているということです。雇用は、その雇用関係から得られる収入によって、働く本人だけでなく、その家族の生活を支えています。「雇用社会」と言われる社会においては、極めて多くの人たちの生活が雇用によって支えられているのです。また、雇用は、人々が能力を発揮して自己実現を図る最大の場でもあります。人々の人生の中で、職業人生というものは相当大きなウエイトを占めていますが、今後、高齢化の進展に伴い人々の職業生活の期間が延長するとともに、働く場への女性の参画が進展していこうとする中では、これまで以上に、一人ひとり人生と雇用との関わりは大きくなっていくでしょう。そのような意味でも、「雇用社会」と言われる日本において、人々がその職業人生の大部分を雇用関係という枠組みの中で設計するとすれば、そうした雇用関係を巡るルールや労使関係をきちんと律していくことは極めて重要なことなのです。
一方、グローバル化や金融化といった近年の経済環境の変化も、雇用そのものにも大きな影響を与えます。皆さんもご存じかと思いますが、先般、ソース会社である「ブルドックソース」が、「スティール・パートナーズ」というアメリカ系プライベート・エクイティ・ファンド(PEファンド)から敵対的TOBを仕掛けられたことが大きなニュースになりました。昨日6月28日は日本国内で株主総会が一番多く開かれた日でしたが、去る6月24日に開催された「ブルドックソース」の株主総会で、「スティール・パートナーズ」の敵対的TOBに対する対抗策(新株予約権の割り当て)が承認され、さらに昨日は、東京地裁において、新株予約権の行使の差し止め等を求める訴訟を提起した「スティール・パートナーズ」の申し立てが却下されました。(※注:その後、「スティール・パートナーズ」は東京高裁に即時抗告を行ったが、7月9日、東京高裁は「ブルドックース」の対抗策を正当なものと認め、逆に「スティール・パートナーズ」を濫用的買収者と認定し抗告を棄却された。また、最高裁においても、8月7日、「スティール・パートナーズ」の特別抗告・許可抗告はいずれも棄却された。)現在、多くの企業が導入を進めている、こうした買収防衛策に対し、「経営者の自己保身だ」と批判する声もありますが、企業の経営と市場における公正なルールが未整備なわが国の現状を踏まえれば、こうした企業行動には一定の価値があると言えますし、本来であれば、産業や企業の持続的な発展を危うくするような企業買収を規制する仕組みは、法律や市場のルールの枠組みの中で解決が図られるべきと考えています。
さて、プライベート・エクイティ(PE)とは、投資のために集められた共同資金で民間企業に直接投資することを目的に運用されるものであり、PEファンドとは、この資金を積極的に管理するファンド・マネージャーあるいは管理会社のことです。PEは、短期的な収益を目的にして動くハイリスク・ハイリターン型のファンドであり、一般的に、PEファンドは買収から2年〜3年以内に投資から撤退していきます。また、私募債を発行し私的に資金を募るという性格上、PEの投資家たちの正体は公にされません。PEファンドの主たる目的はあくまでも短期間で投資を回収することであり、一般的にファンドに買収された企業は、長年営々と築いてきた利益や内部留保を短期間で吸い取られる恐れがあると言われています。また、被買収企業で働く労働者にとっても、従業員削減や賃金引き下げ等が行われることも多く、さらには経営者が労働組合に敵対心を持つ傾向があるなど、雇用や労働条件、労使関係の不安定化が懸念されます。今後、例えば、皆さんが就職する企業が、突然何の予告もなく、どこかの見知らぬファンドに買収される可能性だってあるわけです。そのときに、「自分たちの雇用や労働条件はどうなってしまうのだろうか」と、そこで働く人々が不安を抱くことは当然です。
このように、近年、PEファンドやヘッジファンドなど投資ファンドが関与する企業合併や買収の増加が、経済と雇用に大きな影響を与えており、国際労働運動においても大きな課題となっています。こうした投資ファンド台頭の背景には、原油価格の高騰に伴うオイルマネーの流入や新興国の外貨準備高の増加など、世界的な“カネ余り”があると言われています。また、かつては一部の資産家が投資対象としていた投資ファンドについて、最近では、金融機関や年金基金等がポートフォリオに組み込む傾向も見られます。つまり、労働者たちが拠出した資金が、一部の投資ファンドを経由し、結果的に、労働者たちの雇用や労働条件を不安定化させているという側面もあるのです。
ところで、株式の過半を所有すれば会社を支配できるといった株主至上主義の考え方に立てば、「会社」は売買の対象物に過ぎず、そこで働く生身の労働者たちのことなどは埒外に置かれてしまうでしょう。会社の企業価値は、あくまで株式の時価総額や保有資産の評価額でしかなく、また、株主が株価の上昇や高額の配当を求めるあまり、経営者たちは、そうした期待に応えるためにも、短期の業績や利益を重視し、人材育成や基礎研究など長期的視点に立った投資には消極的になってしまいます。一方、私たち連合が考える「会社」とは、「ヒト」である従業員の集団が、「モノ」や「サービス」を提供することによって事業を発展させ、知的財産を生み、社会に貢献するという“社会の公器”であり、「ヒト」としての会社(コミュニティ)です。労働力を費用と考えるなら、コストは安ければ安いほどよいでしょう。しかし、私たちが考える“コミュニティとしての会社”においては、労働力は、企業価値を高め、その持続的発展を実現させるための人的資源なのです。
私たち連合としても、投資ファンドや投資行動自体を否定しているわけではありませんし、将来性ある企業への資金供給や経営が行き詰まった企業の再生など、企業や経済の持続的発展や労働者の雇用確保等を資金面から支える高い社会性の側面があることは理解しています。私たちが問題視しているのは、こうした投資ファンド本来の意義を歪曲し、企業の持続的成長や、そこで働く者たちの雇用を犠牲にしてまでも、投資家への高配当を追求する一部の投資ファンドが存在していることです。連合は現在、企業の経営や市場における公正なルールを確立し、規律ある健全な資本市場へと発展させるとともに、投資ファンド等による企業買収から労働者の雇用や労働条件を守るため、その政策的課題の整理と労働組合としての対応策の策定に向けて議論を加速させています。また、投資ファンドが世界中の市場で活動している中では、一国だけで投資ファンドの規制や対策を実施することには限界があり、各国が連携を図りながら、グローバルな視点で取り組まなければなりません。そのためにも、連合は、ITUC(国際労働運動総連合)などグローバルユニオンとの連携も強化していかなければなりません。(注:連合はその後、2007年9月に「ヘッジファンド、PEファンド等に関する政策的課題と対応の考え方」をとりまとめている。
これまでお話ししてきた投資ファンドによる企業買収等による雇用や労働条件の不安定化も、グローバル化、金融化や規制緩和によって引き起こされた雇用への大きな影響の1つであり、「雇用社会」と言われる日本においては、なおさら、その影響は深刻です。このような中、働く者の利害や主張を反映し、実現していく役割を担っているのが労働組合なのです。私たち連合は、労働組合に加入する組合員という範囲にととまらず、労働組合に加入していない、あるいは労働組合が存在しない企業で働く人たちも含め、すべての働く者の代表として、政策・制度要求に取り組んでいます。政治には、様々な利害関係者の政治パワーの調整の場という側面がありますが、連合は、こうした政治の場においても、全就業者の85%にものぼる雇用者の声を代弁する社会集団という立場から発言しているのです。
<理念・目的が一致する政党・政治家を支援>
6つ目の前提として、政党・政治家との関わりについてお話しします。連合は、「理念・目的が一致し、政策・要求が一致する政党、政治家を支援する」という立場をとっています。つまり、単に一つひとつの個別政策が一致すれば、即、支持・支援関係を結ぶというのではなく、まずは、各政党・政治家が有する理念・目的がそもそも一致していなければならないという考え方です。もとより、労働組合と政党とはその機能が異なり、相互に独立し不介入の関係にあります。連合は、一部の政党が労働組合の活動に介入したり、自らの下部機関の如く位置づけることを決して許しません。逆に、連合は、政党に対して政策・制度の実現を要求したとしても、政党の組織運営や人事に介入したりすることはありません。また、連合は、政権交代可能な二大政党的体制をめざしています。政権交代が起こらないまま、ある特定の政党が長期に政権を担当し続けることは政官業の癒着などの数々の腐敗をもたらします。そうした意味で、民主主義が健全に機能するためには、政治の場に政権交代の可能性という緊張感が必要です。ところが、残念ながら日本では、ある時期を除いては、ほとんどが自民党の一党あるいは連立政権が長期間続いてしまっています。私たち連合としても、大変歯がゆい思いを持っていますが、自民党に変わる政権担当能力を有した勢力を伸ばし、真の二大政党制を日本に定着させたいと考えています。その上で、現在、連合は、民主党を基軸に支援することとしています。民主党は、そのめざすべき社会として「自立した個人が共生する社会」などを掲げており、その基本理念・姿勢は、「自由・公正で平和な社会づくり」を掲げる連合の理念や目的と多くの点で共通しており、また、政策についても、その方向性や基本部分の多くを共有しています。また、民主党は、自民党に対抗して政権を争いうる政党としての実力と可能性を有した唯一の政党と言えます。こうした理由から、現在、連合は、自らの政策・制度要求を実現させるために、基軸政党として民主党支援を運動方針に明記しているのです。
連合が政策活動に取り組む目的
以上、連合の政策・制度要求の取り組みの前提となる考え方についてお話しました。ここで、連合が政策活動に取り組む目的についてまとめます。
まず1つ目は、労働組合主義の発展を通じて、働く者の雇用を守り生活諸条件と権利を向上させることです。そのためには、立法化に向けた運動、政策・制度の見直し議論にも、労働組合として影響力を行使すべきと考えています。またその際は、議会制民主主義を堅持し、法秩序を守り、現実的改革を推進することを基本に取り組んでいます。さらに、労働組合の国際連帯を通じて、人権や労働基本権の擁護に取り組むこととしています。
もう一つの目的は、労働組合として、働く側のニーズに応えていくことです。「産業・経済の発展」や「雇用機会と公正な労働条件の確保」「安心して暮らせる社会」「公正・公平な社会」「持続可能な社会」「国民重視の政治・行政・司法」−こうした働く人々の期待に応えていくため、連合は政策・制度要求に取り組んでいるのです。
連合の政策・制度要求の領域と視点
労働組合の政策活動の歴史、連合の政策・制度要求の領域
次に、連合の政策・制度要求の領域と視点についてお話します。
実は、日本の労働組合にとって、政策・制度要求の取り組みの歴史はそれほど古くはありません。そもそも日本のナショナルセンターが、政策・制度要求の重要性を強く意識するようになったのは、1973年から1974年にかけた異常インフレとその後の不況がきっかけでした。1976年10月には、民間労組16単産1組織が様々な労働団体の枠を超えて「政策推進労組会議」を発足させました。当初は、経済政策、雇用、物価、税制の4つの分野から政策要求をスタートさせました。その後、82年12月に発足した「全民労協」が、民間先行による労働戦線統一を展望しつつ、民間部門に共通する政策・制度課題の改善に取り組み、そして、87年10月の民間「連合」結成を経て、89年10月に官民統一体として「連合」が結成されました。政策・制度要求に向けた労働者の団結の必要性がその大きな原動力の1つとなって、こうした労働界の統一が成し遂げられたのです。「政策推進労組会議」当初は4分野でスタートした政策・制度要求の領域も、年金・医療や土地・住宅、資源エネルギー、女性、行政改革、さらには教育、食糧、環境など、労働や生活を取り巻くあらゆる分野にまで拡大していきました。現在、連合が取り組む政策・制度要求は、「経済」「雇用」「社会保障」「住宅・社会インフラ」「人権・教育」「環境・食の安全」「国民重視の政治・行政・司法」「国際」という8つの柱で構成されています。
連合の政策・制度要求の視点
こうした広範な政策・制度要求の基本的視点は、何と言っても「公正・公平な社会の実現」にあります。また、「国民生活の安定と向上」も重要な視点です。さらに、「国民生活に関連の深い諸課題に対する政策立案と合意形成、立法化に向けた運動」を加えた3つを基本的視点に据えて取り組んでいるのです。
連合は、その政策立案能力の向上の観点から、どこかの団体に政策づくりを丸投げしたりするのではなく、まずは“手作り”の政策立案にこだわっています。また、連合のシンクタンクとして基礎的研究を行っている「連合総合生活開発研究所(連合総研)」との連携も充実させながら、連合の政策立案に反映させています。
また、要求内容の策定にあたっては、組織内の合意形成に向けて、まずは組織内の討議を尽くし、合意されたものから積極的に取り上げていくというスタンスをとっています。まだまだ合意できない政策課題もありますが、合意が形成されるまで議論を続けるということには手間を惜しみません。
さらに、連合の中央本部だけが政策活動に取り組んでいるのではなく、地方連合会においても、対応する地方自治体に政策・制度要求を行うなど、中央における活動と合わせて、地方レベルの運動の展開にも努めています。
政策・制度要求の実現手法とその成果
連合の政策・制度の実現手法
<政府との協議、政党との協議、国会対策>
ところで、連合は、策定された政策・制度要求を、実際に実現させるために、どのような取り組みを行っているのでしょうか。まずその手法の1つが、政府との協議です。政府の最高責任者である内閣総理大臣との間で、原則として年2回、政労会見を行っています。首相官邸において、内閣総理大臣、官房長官に加えて、関係大臣として厚生労働大臣が同席して行われます。その他にも、関係各府省(内閣府・総務省・法務省・財務省・文部科学省・厚生労働省・農林水産省・経済産業省・国土交通省・環境省・最高裁判所)に対して政策・制度要求の申し入れを行っています。
次に、政党との協議や国会対策です。先ほど申し上げたように、現在、連合は民主党を基軸に支援することとしており、理念・目的や政策においては、民主党との距離が一番近いわけですが、政策協議については、民主党以外の政党、つまり、現在の与党である自民党と公明党、野党では民主党以外にも社民党、国民新党との間で、定期的あるいは必要に応じて政策協議を行っています。なお、連合と理念・目的が異なる日本共産党とは政策協議は行っていません。また、国会で公述人・参考人として意見陳述も行っています。ちなみに私は、昨年と本年の国会において、衆議院の予算委員会の公述人として、主に格差問題について意見を述べました。予算委員会以外の常任委員会等の場においても、審議されている個別法案に関する連合の考え方等について、参考人として意見を述べる機会もあります。他にも、民主党の政策調査会や各部門会議、自民党の政務調査会や各調査会・政策部会等に招かれて、各種政策に対する連合の考え方について発言しています。さらに、国会運営や法案審議に関わる各種情報の収集に努めるとともに、民主党の国会対策委員会との連携をはじめ、連合と支持・協力関係にある政党および議員を通じた国会対策、法案対策にも取り組んでいます。例えば、民主党の議員に対して、国会における法案審議にあたって、「委員会でこういう質問をして欲しい」「こういう政府答弁を引き出して欲しい」といった打ち合わせを行ったりもしています。
<審議会等への参加と意見の反映、経営者団体との定期協議>
審議会等への参加と意見反映も、連合の政策・制度要求の重要な手法の1つです。先ほども触れたように、連合は政策決定過程への参画を大変重視しており、現在も「財政制度等審議会」「税制調査会」「産業構造審議会」「社会保障審議会」「中央教育審議会」など数多くの重要な審議会の場に、連合の代表が審議会委員として議論に参加しています。とりわけ、労働法制制定に向けた公労使三者構成による審議の場には、連合が労働側を代表し意見を述べています。他にも、冒頭の自己紹介でも一部触れた「行政減量・効率化有識者会議」や「子どもと家族を応援する日本」重点戦略会議、「成長力底上げ」重点戦略会議など、最近増えている官邸主導の各種有識者会議や戦略会議にも連合の代表が議論に参加しています。
次に、経営者団体との定期協議です。連合は、日本経団連や日本商工会議所、経済同友会との間で定期的に政策協議を行っています。さらに、双方で意見一致をみた内容については、必要に応じて共同宣言や共同行動を行ったりもしています。近年の事例としては、連合と当時の日経連の共同による「NR住宅協会」(首都圏で低廉で良質な共同賃貸住宅供給を実現するためのもの)の設立があります(1990年)。また、1998年の「政労使雇用対策会議」、2002年の「ワークシェアリング政労使懇談会」、2004年の「社会保障のあり方に関する懇談会」などは、いずれも労使合意からスタートし、政府に持ち込んだものです。
<国際機関との連携>
連合は、政策・制度要求の実現のために国際機関との連携にも力を注いでいます。なお、ILOの活動に関しては、第5回講義でILOの中嶋労働側理事から詳しく説明されたと思いますので本日は割愛させていただきます。世界30カ国の先進国が経済問題を中心に政策協議を行うOECD(経済協力開発機構)には、労働組合の参加の場としてOECD労働組合諮問委員会(OECD/TUAC)が設置されています。連合は、このOECD/TUACにおける意見反映を通じて、OECDの政策決定過程に参画しています。また、ITUC(国際労働組合総連合)やITUC−AP(ITUCのアジア太平洋地域組織)との連携や、G8労働組合指導者会議(通称「レイバーサミット」)、G8労働大臣会合でのソーシャルパートナーとしての参加等を通じて、国内だけでなく、国際的な舞台で連合の意見の反映に努めています。
<職域、職場における運動>
もう一つ、政策・制度要求の実現手法として重要なのが、職域、職場における運動です。労働組合の原点は何と言っても職場であり、連合は、政策・制度要求の取り組みにおいても、職域、職場との連携を重視しています。具体的には、アンケートや地方ブロック会議、対話集会等を通じて、職場の“生の声”を、連合の政策づくりに反映させることに努めています。
ところで、皆さんにとっては、「政策」と耳にすると、何となく生活感が乏しく感じたり、とっつきにくい印象を持ったりするかも知れません。そこで、ぜひこの場で「お医者さんにかかったら領収書をもらおう運動」についてご紹介したいと思います。この運動は、連合として1996年から継続して実施しているものです。例えば、皆さんが町で買い物をされたらお店で領収書をもらうのは当然です。しかし、医療機関を利用した時に領収書をもらうというのは、実は当たり前ではなかったのです。仮に医療機関で診断・治療を受けたり、薬を処方された後、窓口でお金を支払っても、自分がどのような検査や治療を受けて、それぞれにいくらお金がかかったのか、その明細もわからないというのが実情でした。しかしながら、一人ひとりの患者には、それらが正しく請求されているかを知る権利があります。おそらく皆さんの多くは、まだご両親の扶養家族だと思いますが、健康保険証を持参して病院に行く場合、診察後に窓口で負担するのは、医療費の3割であって、残りの7割は健康保険や国民健康保険など医療保険によってまかなわれています。皆さんが診察を受けた医療機関は、診療報酬を請求し、その請求に基づいて医療機関に対して、残りの7割が支払われるのですが、おそらく大部分は正しく請求されているのでしょうが、中には医療機関からの水増し請求や不当請求も見受けられます。それは、結果として、皆さんのご両親をはじめ働く者たちが日頃から負担している医療保険の保険料を横領しているようなものであり、決して許されるものではありません。それを防ぐためにも、私たち一人ひとりが、医療機関を利用した場合は、必ず明細書付きの領収書の発行を求め、後日、健保組合等から送られてくる医療費の通知書類と内容をつきあわせてみる、というのが「お医者さんにかかったら領収書をもらおう運動」なのです。当初は、日本医師会にも非常に抵抗されました。また、運動の取り組み主体である組合員の皆さんからは、「窓口で自分の口からは、なかなか言い出しにくい」といった声もありましたので、連合として、「領収書をください〜合計金額だけではなく明細のわかる領収書を!」という医療機関向けのカードを作成し、組合員の皆さんに窓口で保険証と一緒に提出してもらうという取り組みを行いました。こうした具体的な行動を粘り強く展開し続けた結果、2006年の医療制度改革において、医療機関による領収書発行の義務づけを法制化することができました。今では、皆さんが医療機関に行かれた場合、それが大病院でも小さな町の診療所でも明細書付きの領収書が発行されているはずです。連合の地道な取り組みが、こうした成果につながったということを、皆さんにもぜひ知っておいてもらいたいと思います。
その他には、例えば「連合エコライフ21」という運動も行っています。地球温暖化防止は喫緊の課題であり、これまでの「大量生産・大量消費・大量廃棄」の社会経済システムを循環型社会システムに変革する必要があります。こうした中、地球環境に優しいライフスタイルを実行する運動が、1998年にスタートした「エコライフ21」であり、まずは連合組織全体の取り組みとするために、産業人であり生活人である連合加盟組合員とその家族を中心に、まさに足元から運動の浸透と定着を図りながら、徐々に国民的な運動への発展をめざしてきました。今では町で普通に見かける夏季の軽装運動(政府が提唱する「クールビズ」)などは、連合内では随分昔から当然のことと認識されてきましたし、他にも、地域における「連合の森づくり」や「列島クリーンキャンペーン」、NPOが主催する6月の「ライトダウン行動」や環境省の「チームマイナス6%」への参加など、取り組みは内外に広がりを見せています。最近では、「レジ袋削減・マイエコバッグ利用」運動も本格的にスタートさせました。買い物に行ってもレジ袋をもらわないで自分で持参した買い物袋に詰めて帰ろう、という取り組みであり、連合でエコバッグを作ったりもしています。こうした職域、職場とのつながりをもった運動も、連合の政策・制度要求実現のための大変重要な取り組み手法の1つなのです。
<大規模キャンペーン>
さらに、大規模なキャンペーンを展開するというのも、政策実現のための取り組み手法の1つです。2005年〜2006年には「サラリーマン増税反対キャンペーン」を展開しましたが、その中で、「シンク・タックス〜増税について考えてみませんか」というサイトを連合のHPに立ち上げました(「think−tax.jp」プロジェクト)。インターネットでHPにアクセスしてもらい、所得や家族構成など必要なデータを入力するだけで、その人の増税金額が一目でわかる、というものです。これには非常に多くのアクセスがあり、内外から大変高い評価をいただきました。他にも、皆さんも新聞等で見聞きしたことがあると思いますが、「ホワイトカラー・イグゼンプション」に反対するキャンペーン、さらには、現在も継続中の「STOP!THE格差社会キャンペーン」では、宣伝カーを回して街頭で演説したり、ビラやチラシを配布するとともに、大々的に新聞広告をうつといったことにも取り組んでいます。
これまで実現した主な政策・制度
こうした多岐にわたる取り組みを通じて、連合は数々の政策・制度要求を実現してきました。いくつかの主な成果を挙げれば、「育児休業法の制定(1991年)」や「介護休業の制度化(1995年)」、「地価税(大土地保有税制)の創設(1991年)」や「6兆円の大型所得減税(1994年)」、「労働基準法改正をはじめとする労働時間短縮のための制度的改善」「パート労働法の制定(1993年)」、「解雇権濫用法理の労働基準法上の実定法化(2003年)」「介護の社会化としての介護保険法制定(1997年)」「基礎年金の国庫負担1/2の法制化(2004年)」「倒産法制の見直しによる労働組合関与の強化と労働債権の地位向上」、そして先ほどお話しした「医療機関の領収書発行の義務化(2006年)」などです。
このように、連合は数々の政策・制度を実現させてきましたが、私たちは、こうした成果に決して満足しているわけではありません。やはり、一時期を除いて、支援する政党が政権担当政党ではなかったことも大きな壁の1つだったと言えるでしょう。
さいごに〜今日的課題−格差問題について
本日の講義を締め括るにあたり、今日的課題である「格差問題」についてお話したいと思います。
連合が2006年末に行ったインターネット調査によると、現在、9割の人が格差の拡大やその固定化を実感しています。また、同調査によれば、こうした格差の最大の要因は、正規労働者と非正規労働者による所得格差であると認識されています。近年の正規雇用から非正規雇用への置き換えを背景として、民間給与は90年代後半から低下し続けています。中でも、年間所得200万円未満という世帯が約2割を占めており、貯蓄なし世帯も過去最高水準に達しています。OECDの2005年の調査によると、相対的貧困率(可処分所得が全人口の中央値の50%以下の人の割合)において、OECD加盟先進国中、日本は下から2番目に位置しており、さらに年齢別の相対的貧困率では、高齢層とともに若年層の貧困率が深刻化しています。また、生活保護世帯は増加し、可処分所得が生活保護水準以下という世帯の割合も増え続けています。昨今、日雇い派遣やネットカフェ難民といった「ワーキング・プア」が社会問題になっているように、わが国において現在、格差と貧困が広がり続けているのです。また、正規労働者の減少と非正規労働者の増大により、今や非正規労働者数が全労働者の1/3を占める中、労働者の働き方の二極化も進行しています。正規労働者の年間総実労働時間は2,023時間(2006年)と高止まりしており、国際比較においても、週50時間以上働く人の割合はダントツで世界一です。特に、週60時間以上働く労働者は600万人にのぼり、しかも、これが子育て期の世代に集中してしまっています。一方、パート労働者や派遣労働者など非正規労働者の増加の主たる理由は、コスト競争の激化による人件費削減にありますが、その結果、例えば、厚生労働省の調査(2005年)によると、パート労働者の賃金(時給)を一般労働者と比較した場合、男性で52%、女性で69%という水準にとどまるなど、非正規労働者と正規労働者には大きな賃金格差が生じています。また、国民年金第1号被保険者の内訳を見てみると、約6割が雇用労働者であり、2割を超える人たちがフルタイムで働いている実態にあります。本来であれば、厚生年金に加入していなければならない人たちが、国民年金にシフトしているのは大変大きな問題であり、連合は現在、すべての労働者に対する厚生年金の適用拡大 に向けて取り組んでいるところです。さらに、解雇や労働条件の切り下げを巡る個別労使紛争も増加の一途を辿っています。近年、金融化・市場化・情報化が、地球の距離を短くし、グローバル化を促しています。ヒト・モノ・サービス・資本・情報などが国境を越えて自由に行き交う中で、わが国の産業構造も大きな変化を余儀なくされています。こうしたグローバル化の進展、ポスト工業化社会という中で、労働の分野においても、専門化・プロフェッショナル化と、単純労働・随時的労働の拡大が同時進行しています。かつて、クリントン政権時に労働長官をつとめたロバート・ライシュという経済学者は、その著作『勝者の代償』の中で、「従来の大量生産型工業社会(オールドエコノミー)では、安定的に雇用される大量の労働者がいたが、ニューエコノミーでは、豊かになればなるほど、生産者・労働者は不安定になり、所得格差が拡大し、二極化が進行する」「勝ち組も、さらに勝ち続けるためには、個人生活を犠牲にして働き続けねばならない」と述べています。格差と貧困が拡大するわが国の状況を見ると、ライシュが指摘した「ニューエコノミーの矛盾」というものが、現在、わが国でも現実化してきているのではないか思われます。
こうした中、連合は、格差是正のための政策的枠組みとして、「機会の平等の確保」「再挑戦できる社会の実現」「ワーク・ライフ・バランスの実現」「セーフティネットの強化」「再分配機能の強化」「新しい公共の創造」を掲げ、取り組みを強化しています。具体的施策について何点かご紹介すると、まず、「セーフティネットの強化」として、賃金底上げ機能を発揮する最低賃金制度の確立に向けて、最低賃金法の改正と最低賃金水準の大幅引き上げを要求しています。最低賃金については、政府の「成長力底上げ戦略推進円卓会議」において議論が進められるとともに、現在開会されている通常国会(第166回通常国会)に改正最低賃金法案が上程されました。当初、今国会は「労働国会」と銘打たれていたわけですが、皆さんもご存じの年金記録問題の煽り等を受け、残念ながら改正最低賃金法案は継続審議となり、次回以降の臨時国会(第168回臨時国会)に先送りとなりました。連合としても、秋以降、政党との協議や国会対策など、さらに取り組みを強化していきたいと考えています。(注:第168回臨時国会において、最低賃金改正法案は2007年11月28日の参議院本会議で可決成立した)また、パートや派遣といった非正規労働者の雇用の安定と均等待遇の確立にも全力で取り組んでいます。今国会においては、13年ぶりに「パート労働法」が改正されました。ただ残念なことに、均等待遇の適用範囲が極めて限定的なものとなってしまいました。連合は、引き続き、均等待遇の実効性を高めるための取り組みを進めるとともに、労働者派遣法の見直しや、偽装請負・違法派遣の一掃に向けた監督強化にも取り組んでいきます。さらに、「ワーク・ライフ・バランス」の実現に向けた公正なワークルールの確立の観点では、時間外・休日深夜労働の法定割増率の引き上げや労働時間管理の適正化、長時間労働の是正など労働時間法制の見直し等も格差是正施策の柱の1つです。その他、公的制度としての無償給付奨学金制度の創設や就学困難な学生への支援など「機会の平等の確保」、若年者・高齢者の雇用促進や離職した女性の再就職支援の拡充など「再挑戦できる社会の実現」、給与所得を狙い撃ちにする増税の阻止や不公平税制の見直しなどによる「再分配機能の強化」、市場万能主義によらない規制改革のあり方の確立など「新しい公共の創造」を、それぞれ格差是正のための具体的施策として掲げ、「STOP!THE格差社会」を旗印に、深刻化する格差問題の是正に取り組んでいるところです。また、年金など社会保障制度の一体的改革や、雇用保険をはじめとしたセーフティネットの確立に向けた取り組みも極めて重要です。その意味で、最後に、現在、連合が提案している「積極的雇用政策と新たな最低生活保障制度の確立のための社会的セーフティネットの再構築」についてご紹介します。まずは、第1ネットである既存の雇用・社会保険ネットの整備・充実です。そのための具体施策として、正規労働者の拡大や非正規労働者の均等待遇、最低賃金の大幅引き上げ、母子世帯等への就労・自立支援の充実や障がい者雇用の促進など積極的雇用政策を推し進めながら、それらと連携し、非正規労働者への社会保険・労働保険の完全適用に取り組みます。しかし、それだけでは不十分です。長期失業者や「ワーキング・プア」、母子世帯等を対象に、雇用保険と生活保護制度との間に、就労支援プログラムと連携した新たな「就労・生活支援給付」制度を創設し、経済的支援を行う仕組みを整備します。これを第2ネットと位置づけた場合、さらに第3ネットとして、住宅手当の単独給付化など現行の生活保護制度の再編を図ります。連合は、現行のセーフティネットについて、ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)の視点から、こうした新たな3層構造の仕組みに再構築することを、格差是正政策の大きな柱として提案しています。
以上、本日は、「労働組合と政治」と題し、ナショナルセンター連合の政策・制度要求の実現に向けた取り組みについてお話してきました。「人間の顔をした経済」「公正・公平で安心して暮らすことのできる社会」の実現のために、私たち連合は、引き続き全力で取り組んでいくという決意を申し上げ、本日の講義を終わりたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。 
 
民主党政権下での労働運動について  2010

 

はじめに
この講座の全体のテーマは「働くということ」です。働くということは、真空のような何もない中でおこなうべきものではありません。しっかりしたルール、しっかり制度の下で働かなければいけません。先進国の歴史を振り返ってみますと、働くための制度は政治と非常に深い関わりがあります。現在、「福祉国家」という言葉がありますが、この「福祉国家」を実現するために、ヨーロッパでは労働組合と政党が協力して努力するという歴史もあります。つまり、「働くということ」を考えるとき、政治というものの意味を無視してはいけないと思います。したがって、今日「民主党政権下の労働運動――歴史と海外の事例から考える――」というテーマで、労働組合と政党、政治の関わりを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
1.労働組合と政治
昨年の8月30日に行われた総選挙の結果、いわゆる政権交代が実現されたわけです。その結果として、労働組合が支持・支援する政党が、国会のなかで安定的な議席を得て、政権の座につきました。これは日本の政治史上、実質的にはじめてのことです。日本の歴史上、労働組合が支持する政党が政権の座につくのは、「短期」ということであれば、ないわけではありません。1947年の片山(社会党)内閣、1993年の細川内閣(7党1会派、社会党、民社党参加)、1994年の村山内閣(自民党と社会党との連立政権)、これらの政権は労働組合が支持する政党が関わっていました。しかし、「短期」に終始しただけでなく、内閣の構成のなかで、労働組合が支持する政党は少数派にすぎませんでした。この2つの理由でこれらの政権は積極的に労働者の立場にたった政策形成をおこなうには至りませんでした。しかし今回は、以前と違って、労働組合が支持・支援する民主党が、国会のなかで圧倒的な多数の議席を取りました。現在、マスコミは連日、鳩山政権の存続について報道していて、これからどうなるかは、間もなく参議院選挙もありますし、私も分かりません。とはいえ、昨年8月の政権交代を通じて、労働組合(連合)は、支持政党が政権与党の座についたという歴史的な変化を起こしたのです。
現在、新聞やテレビなどのマスコミが「労働組合が政治や政権に接近する、あるいは政党を支持・支援することは悪いことである」という考えを宣伝している例がとても多くあります。しかし、国際的な常識からいえば、全く間違った解説をしていると思います。先ほど紹介した通り、労働組合が支持・支援する政党が実質的に政権の座につくのは、日本でははじめてのことですが、欧米ではむしろ自然のことです。例を挙げますと、イギリスでは労働党が政権につくことがよくあります。1920年代には短期でしたが、第二次世界大戦後は保守党とおよそ半々です。現在のブラウン政権も、支持率が低下していてつぎの選挙ではどうなるかわかりませんが、現段階では労働党政権です。この労働党政権は、イギリスの労働組合が支持・支援する政党です。アメリカでは、民主党政権が、労働組合が支持・支援する政党です。典型的な例としては、1930年代のルーズベルト大統領は民主党政権でありますし、現在のオバマ政権も民主党政権です。ドイツでは、社会民主党が労働組合と深い関わりを持つ政党です。現在のドイツは保守党政権ですが、1970年代以降は社会民主党と保守党がほぼ半々、政権の座についていました。そしてスウェーデンにおいては、社会民主党が、労働組合が支持する政党です。現在のスウェーデンは保守派内閣ですが、1930年代以降の長い時期、約80%の期間が社会民主党政権でした。このような国際的な常識からみると、労働組合の支持政党が政権与党の座につくのはごく当たり前のことだと言えます。
現実からみると、労働組合は積極的に政治的な活動をせざるを得ないということを示す事例が多くあります。日本の「労働組合法」第2条には、「労働組合とは、労働者が主体となって自主的に労働条件の維持改善その他の経済的地位の向上を図ることを主たる目的として組織する団体又はその連合団体をいう」、そして第2条の第4項には「主として政治運動又は社会運動を目的とするものは除外」と書いてあります。具体的に想定されているのは、労働組合の活動は労使関係を通ずる労働条件形成、すなわち労働に関わるルールの形成だということです。しかし、主たる活動ではないが、労働組合の政治との関わりを否定してはいません。現実的にも、労働者の労働条件を維持・改善するためにも、経済的地位を向上するためにも政治活動が必要です。つまり、労働組合の政治活動は、労働組合にとって主たる活動ではありませんが、必要な活動であると認められているのです。
2.労働組合が政治とかかわる理由
それでは、なぜ労働組合は政治と関わらなければならないのでしょうか。いくつかの理由があります。1つは、労働組合の存在自身が、政治制度に左右されるということです。皆さんで勉強していただければ良いと思いますが、世界で本格的な労働組合が作られたのは1760年代のイギリスです。そして、労働組合が作られて間もなく、1799年に「団結禁止法」が制定されました。要するに、この法律によって、労働組合の存在は非合法となりました。労働組合は活動すると、また個々の労働者が労働組合で積極的な活動をすると、犯罪になるということです。日本でも1897年に高野房太郎という人が創設した「労働組合期成会」があります。これは労働組合の結成を目的とした団体です。この団体が結成された直後、鉄工組合、日本鉄道矯正会などの労働組合が結成されました。しかし3年後の1900年に、日本では「治安警察法」が制定されて、労働組合の活動やストライキは犯罪であるということになってしまいました。しかし現在では、先進国では労働組合の存在は当たり前になっています。
日本では、憲法28条に労働三権に関する条文がありますが、保守政党は一般に、労働組合の権利の制限に力を入れる傾向にあります。日本では公務員制度問題があり、公務員には団結権がない状態になっています。今、民主党政権がどのように公務員制度を改革するのか、その動向に注目すべきです。そして自民党政権の時期には、チェックオフ禁止規定が制定されました。チェックオフとは、使用者が給与支給の際、労働者の賃金から組合費を天引きし、労働組合に一括して渡すことをいいます。チェックオフが認められないと、労働組合は組合員の一人ひとりから組合費を徴収しなければならず、事務運営が大変になるわけです。自民党政権ではチェックオフを禁止して、組合を弱めようとしていました。
また、直接組合弾圧を意図していないようにみえる立法でも、労働組合の組織率に大きな影響を与えるケースがあります。例えば労働者派遣事業法の制定です。
外国にも、例えばイギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、ブッシュ政権などは、労働組合の活動を制限していました。したがって、労働組合からみると、政治というものは、労働組合の存在それ自体にとって非常に重要だと、歴史と現実から読み取れます。
2つ目の理由は、労働をめぐるルールは、少なくともその最低基準を法定化しないと労働者全体のなかでは実効がないということです。労働組合の最も大きな役割は、仕事をめぐるルールを作ることです。ルール形成の中心は、団体交渉です。日本では企業別団体交渉ですが、団体交渉では、基本的に組合員のみが対象となり、未組織労働者には適用できないのです。これにはもちろん例外があり、例えばフランスでは、労働組合の組織率は10%もないのに、労働組合と経営者側と交渉して締結した労働協約が80%以上の労働者に適用されています。しかし日本ではそうなっていません。
現段階の事例を挙げますと、ワーキクングプアといわれる、貧困状態にある労働者がかなり増えていることがあげられます。その少なくとも1つの要因は、労働者派遣事業法の制定と無制限化です。周知のように、現在日本の労働組合の組織率は18.1%であり、かなり低い水準にあります。大企業の労働者は組合に加入していますが、多くの中小企業には労働組合がない状態にあります。そして非正規労働者は近年急増してきて、彼らのほとんども労働組合に加入していません。したがって、労働組合は、労働にかかわるルールを全労働者レベルで実効あるものにするために、労働関連の法律、例えば労働基準法、労働安全衛生法、最低賃金法、男女雇用機会均等法、育児・介護休業法などの創設と拡充のために努力をしています。例えば最低賃金法の改正は、2007年参議院選挙で民主党が勝利して実現しました。そして育児休暇制度は1960年代にはじめて企業段階の協約として成立しましたが、これは、当時の電電公社(現在のNTT)の労働組合が最初に要求したのです。当時の電電公社には女性労働者が多かったので、組合は育児休暇制度の創設を会社側に要求し、交渉して制度を創設しました。しかしこの育児休暇は、当時、あくまでも電電公社の労働者に適用される制度でありました。しかし、全労働者に適用するためには、やはり法律がないといけないということで、育児・介護休業法が創設されたのです。つまり、労働に関する制度は、政治のあり方によって違ってくるのです。アメリカでも同様で、アメリカの最低賃金は4年前に民主党が議会で多数派を獲得した後に、引き上げられたのです。
3つ目の理由は、ソーシャル・セーフティネットがなければ労働者は生きていくことはできないということです。労働者はその生涯をつうじて、いつもリスクにさらされています。具体的には、傷病、失業、引退後の所得の喪失、要介護状態などです。これらのリスクに対応するために、ソーシャル・セーフティネットの考え方が出てきました。最初、労働組合はお互いに助け合う仕組み、すなわち共助の仕組みを作って、リスクをカバーしようとしていました。イギリスでは1850年代のクラフトユニオン、日本では1890年代の機械工組合などが共助の仕組みを作っていました。例えば、組合員の誰かが失業した場合、労働組合が組合員から徴収した組合費から彼に提供して保障するという仕組みでした。ただし、この制度では、すべての労働者の面倒を見ることはできません。したがって、国家の制度としてさまざまなリスクに対応する制度、いわゆるセーフティネットの確立が求められたのです。
最後に4つ目です。今のマスコミには非常に良くない点があります。それは国民を観客席においていることです。たとえば、支持率は何%とか、政権は良いか悪いかなどで、本当に大事なことは、国民がどれだけ政治のあり方に参加しているかということです。近代社会の最初の時点では、労働者には発言権はありませんでした。企業の中では経営者の専制があり、政治は資産家だけが影響力を持っていました。このような状況の中で、労働組合は労働運動を通じて、企業と社会の両面での発言権の制度化を求めたのです。発言権は、政治では普通選挙権を通じて実現されますが、企業内では団体交渉権から共同決定へというプロセスを通じて実現されます。現在、国の重要な政策決定にあたっては、ソーシャル・パートナーシップ、要するに政労使(政府、労働者、使用者)三者の協議制度が確立されている国が多くあります。日本では労働政策に関しては公労使参加の審議会がありますが、「公」の部分はほとんど大学の教員になっていて、政府の代表ではありません。したがって国際的な基準からすれば、似非三者協議制度であるといえます。
これまで述べてきたとおり、労働組合は、経営者(経営者団体)を相手にして団体交渉をおこない労働条件の確保をはかると同時に、政治面でソーシャル・セーフティネットの確立と発言権の強化を内容とする制度・政策の実現を課題として活動してきました。ソーシャル・セーフティネットと参加は、福祉国家の中心的な内容です。したがって労働組合は、社会民主主義政党あるいは労働者政党とともに、福祉国家の実現を求めて活動してきました。
3.労働組合はどのように政策実現をはかるか
どの国の労働組合も政治と関わっていますが、その関わり方の大きな部分は、政権を担当しているか、または政権をめざしている政党との関係です。国によって違いがあります。この関係の大きな流れは歴史的には3つのタイプがあります。
1つ目は労働組合が労働者政党を作るタイプであり、イギリスが代表的な例だと思います。1906年結成された労働党は、実際に労働組合が作った政党です。今、イギリスの労働党は若干変化し、すべて労働組合の意向をくんだ政策形成をおこなうわけではなくなりましたが、創立された時点で言うと、労働組合が作った政党です。
2つ目は労働組合が社会民主主義政党を実質的に支援するタイプで、ドイツはその代表例だといえます。19世紀半ば、社会主義政党の結成が先行し、その影響下で労働組合が作られました。第二次世界大戦後、西ドイツでは政党支持の自由の原則のもとに統一労働組合が成立しましたが、実質的には社会民主党を支持・支援する組織が多かったのです。そして現在のドイツは、労働条件決定レベルでは、労働組合と従業員代表制による「二重の代表制」、政治レベルではソーシャル・パートナーシップ制と位置付けることができます。労働組合が明確な政策上の焦点を持っていることが特徴です。
そして3つ目は相対的にリベラルな政党を支援するタイプであり、アメリカはその代表だといえます。労働者の政党ではないが、リベラルな政党の中に、労働組合のグループを作って、その政党を支援するというやり方です。現在の日本はこのアメリカ型の類型に属するといっていいと思います。
4.労働組合の求めていることがなんでもできるわけではない
しかし、労働組合が支持・支援する政権ができたからといって、労働組合の要求がただちに実現するわけではありません。労働組合が求めていることがなんでもできるわけではなく、これは当然のことです。具体例を挙げますと、1974年、イギリスの第二次ウイルソン内閣のもとでの社会契約があります。当時、労働組合はオイルショック後のインフレに対応するために、大幅の賃上げを要求しようとしました。生活が苦しいから、労働組合は当然賃上げを先に思いつきます。しかし、賃上げによりコストプッシュ・インフレーションが生じてしまう恐れがあり、まずは物価を抑える必要がありました。そこで政府と労働組合の間で社会契約を結び、保守党政権下での労使関係法を撤廃し、高所得者に対して課税を強化し、物価抑制策を実施することなどに政府が責任をもち、一方、労働組合は賃上げ闘争をしないと約束しました。先ほど、日本でもソーシャル・セーフティネットを作るべきと紹介しましたが、これを実現するためにはかなり厖大な費用が必要となります。資金はどこから出すかは、これから労働組合と政府の間でかなり深刻な議論になると思います。
また、労働組合間の対立が発生してしまう可能性もあります。実際の例がありますが、1981年フランスのミッテラン左翼政権の時、CFDTという組合は社会党を支持し、CGTは共産党を支持しました。
日本では、歴史的にはドイツ型に近かったといえます。労働組合は無産政党の分立とともに分立していました。しかし1989年連合が結成された後、分立状態が終結し、労働組合と民主党との関係はアメリカ型に近い形になりました。
連合には2つの視点があります。1つはセーフティネットを中心にして、労働者生活の立場から制度・政策に力をいれることであり、もう1つは民主主義の進化発展のために、政権交代を実現することです。この2つの視点に基づいて、労働組合(連合)は民主党に対して積極的な支援をおこなってきたといえます。特に2000年以降になると、小泉首相・竹中大臣は市場万能主義の考えに基づいて、多くの労働や労働者に関するルールを緩和しました。民主党政権はまず、これらの「負の遺産」を整理しなければならないと思います。すなわち、多くの労働や労働者に関するルールを見直さなければならないということです。
5.観客席からプレーヤーへ
では、鳩山政権成立後、連合はどのように政治・政権に関わっているかというと、1つ重要なのは政府・連合トップ会談という形です。今まで2回トップ会談を実施しました。これは今までの政権と大きく異なっており、政権交代後の大きな変化を象徴していると思います。小泉内閣時代にも「経済・財政諮問会議」がありましたが、財界メンバー中心で構成されていて、労働組合代表は選任されていませんでした。トップ会談では、厳しい雇用情勢をどうやって改善していくかについて議論がおこなわれています。人事の面でも、政府の中に、組合のリーダーを務めていた人たちが登用されていて、労働組合の発言権は政権交代を通じて大きく強化されつつあるといえます。
しかし問題は中身です。連合が求める政策の内容は何かというと、1つは「労働を中心とした福祉型社会」の実現です。そして格差社会の是正や、貧困問題の解決、尊厳ある労働の確立、社会的セーフティネットの再構築などがあります。また、「日本版グリーン・ニューディール政策」の推進やワーク・ライフ・バランスの推進などもあります。連合はこれらの問題について、政府と議論しながら政治、政策の面から解決策または推進策を考え、推進していく必要があります。
これらの政策内容を求めていく中で、やはり労働組合は次の側面で努力しなければならないと思います。1つ目は、日本の雇用労働者を代表する資格をより強めることです。18.1%の組織率はやはり低く、組織率を高めていく必要があります。2つ目は、加盟している産別組織の利害を超える、ナショナルセンターとしての統一性を強化することです。例えばCO2の削減について産別間では意見が異なっていますが、連合は各産業間の異なる意見を統合しなければなりません。3つ目は、社会に多様な利害と意見があるなかで、議論・調整する場を設定することです。連合は日本でも有数の大きな組織ですが、ほかに多くの社会団体やNPO組織などがあります。これらの組織の議論への参加を保障し、多様な活動主体とのネットワークを構築することも非常に重要です。
今までの自民党政権時代において、労働組合は野党側としての立場から、「反対」「要求」という形での取り組みが中心でしたが、現在の民主党政権においては、例えば就業・雇用機会の拡大やソーシャル・セーフティネットの構築などの問題を考える際に、要求するだけではなく、共に創る視点が必要になってきました。一緒に作っていくという考え方が必要ということです。すなわち、観客席からプレーヤーへ、受益者または被害者から、政策当事者への転換が重要になってきたのです。
民主党政権になって、労働組合は政権に参加でき、「労働を中心とした福祉型社会」の実現が可能となる時代になりました。労働組合はこのチャンスをぜひ掴んで、今までと異なるアプローチをおこなっていかなければならないと思います。 
 
労働諸条件の維持・向上に向けた取り組み
 2015年春闘における取り組み

 

はじめに
みなさん、こんにちは。自動車総連の光田と申します。本日は「働くということ」、特に「労働諸条件の維持・向上に向けた取り組み」について話をしたいと思います。冒頭、簡単に自分の経歴を紹介し、その後、労使関係、そして春闘とは何かを臨場感をもって、今年の要求や交渉内容について具体的にお話しできればと思います。
私は1999年にトヨタ自動車に入社しました。入社7年目ころから3年間、シンガポールとタイに駐在しました。その後、日本に帰国してすぐに、これまで労働組合の活動はほとんどしたことが無かったのですが、労働組合の人からいきなり言われて、労働組合の活動をすることになりました。現在、会社を休職し、専従で組合活動に携わっています。昨年までトヨタ自動車労働組合で賃金・一時金の担当をしており、現在、自動車総連で労働条件に関する仕事に携わっています。
本日の講義を通して、皆さんに、労働組合の仕事は、特別な人ではなく、私のような普通の企業で働く人間がやっている普通の仕事だということを理解していただきたいと思います。そして、労働組合は特別な存在ではなく、働きやすい環境を作るために活動していることを理解していただければと思います。
1.労使関係について
労働者と使用者の関係を略して労使関係と言います。日本では、労働組合は会社の枠の中にあります。私のように会社に入社した人間が、より働きやすい環境をつくっていくため、そしてより良い会社にしていくため、組合の一員として、経営者と日々交渉・話し合いをしています。労働組合と会社は車の両輪に例えることができます。この両輪が同じ目標に向いていないとうまく進むことができません。具体的には、労使の徹底した話し合いを通じて、企業業績をより良くするとともに、働く者とその家族の生活の維持・向上も達成して初めて、会社全体が良い方向に向いていくことができます。
労使関係は相互信頼・相互責任の精神に基づいたものでなければならないと思います。相互信頼とは、組合員である労働者が日々頑張って改善を進めれば、それに対し会社は給料や一時金で労働者の働きに報いてくれる、逆に会社は給料や一時金で報いれば、組合員はこれまで以上に頑張って働いてくれる、こうした信頼関係が相互に存在していることと言うことができます。そして、相互責任とは、トヨタにおいて「言ったことは必ず守る」というルールがあるように、労働者も会社も、たとえそれが口約束であっても自分の発言に責任を取る、つまりお互いに言ったことは必ず守る、守れない約束はしないということです。
2.「春闘」について
「春闘」とは、簡単に言えば、毎年春に労働組合が翌年度の賃金・一時金等の労働条件について、経営に対し要求を行い、協議・交渉をすることと言うことができます。春闘は自分の財布に関係し、また賃金の増減が景気に影響を与えるため、新聞やテレビで報道されるなど、社会的な注目度が高いです。
ただ、春闘では賃金・一時金だけを交渉するわけではありません。会社を取り巻く状況や会社の現状、今後の会社の方針等についても話し合います。こうしたことから、「春闘」は「労使の1年間の総決算」と言うことができます。
(1)要求項目とその決まり方
労働組合の組織をみると、最も上には日本の労働組合を取り纏めるナショナルセンターと言われる「連合」があります。その下には産業別組織で、自動車産業を代表する自動車総連や、電機産業を代表する電機連合などがあります。また、その下には、自動車総連の場合では、企業ごとのグループ別組織として、トヨタグループの部品会社の労働組合、自動車販売会社の労働組合も加盟している全トヨタ労連や、日産のグループ会社の労働組合が加盟している日産労連などがあります。さらに、その下には、個別労働組合として、私の出身のトヨタ自動車労働組合や、日産自動車労働組合などがあります。
「春闘」における主な要求は、賃金と一時金、労働時間の3つです。要求は、一番上の連合がまず方針や考え方を決め、それを踏まえ、産別やグループ別組織、個別組織と上から順番に決めていきます。ただ、上から決めていくと言っても、上部組織が「今年いくらでやりなさい」と勝手に決めることはなく、下部組織と相談して決定しています。
(2)交渉の様子
具体的な交渉の進め方をみると、例年、スケジュールは大体決まっています。トヨタでは毎年2月中旬ぐらいに要求を出して、3月中旬ぐらいに会社から回答をもらいます。その間、毎週1回、要求提出を除いて計4回ほど、組合と会社が交渉を行います。少し詳しい進め方をお話ししますと、要求提出の後、1回目は、要求の裏付けと会社がおかれている状況を話し合います。次に2回目は、個々の論点を出し合い議論します。それを踏まえて、3回目はより具体的な話をします。そして、最後の4回目に回答が出るというのが標準的な流れとなります。
賃金については、年によってどこに重点を置くか変わるものの、次の4つが毎年の交渉時における主な論点です。1つ目は「労働の対価」で、働きに見合った賃金になっているかです。ただ、賃金は働きに見合うかどうかだけで決まるものではありません。そこで2つ目の論点として「生活の原資」があります。インフレであれば、同じ生活費の10万円でも1年後には価値が落ちています。そのため、物価上昇を踏まえ、賃金をいくら上げるべきかを要求します。一方、会社は会社で、購入する部品代が上がっているなど、企業を取り巻く環境の厳しさに関する意見を主張してきます。今年の春闘ではこの「生活の原資」、消費者物価の上昇と生活への影響という点が大きな論点になりました。3つ目は「企業の競争力」です。企業はグローバルな競争に勝ち残っていくために人件費はこれ以上上げられないと言い、一方、組合としては、それでは組合員のモチベーションが上がらない、賃金を引上げ人への投資を行うことでモチベーションの向上を、と主張しています。最後の4つ目は「経済環境」です。企業を取り巻く環境も考慮した上で賃金を決めていきます。
特に直近1〜2年の交渉のポイントは、[1]「デフレ脱却と経済好循環に向けて」、[2]「物価動向の取り扱い」、[3]「トリクルダウンかボトムアップか」、[4]「労働生産性向上分の配分」の4つです。
この他に、春闘について皆さんに知っていただきたいことが3つあります。1つ目は実際の交渉がとても重い雰囲気の中で真剣にやり取りが行われていることです。2つ目が、労働組合が会社の知らなかったことを伝えた時など話の内容によっては会社の考えが変わることもあることです。3つ目は毎年同じ時期に日本全体で春闘に取り組むことには、大手組合の結果を中小など他の組合に波及させていくためにも意味があるということです。
(3)賃上げと経済好循環との関係
次に、賃上げと経済好循環の関係をみてみたいと思います。どこを出発点にするか議論はありますが、ここではスタートを企業業績の改善とすると、それが企業の設備投資や雇用の拡大、賃金の上昇につながり、その結果、消費が拡大し、再び企業業績の改善につながるというような経済好循環がつくられます。ただ、過去20年間はこれと逆にデフレスパイラルといわれる悪循環に陥っていました。
こうした悪い流れを変えるため、ここ2年間、「経済好循環実現に向けた政労使会議」が開催されています。景気回復の大きなカギは消費、特にGDPの6割を占める個人消費の増加です。また、政府の公約といえるデフレ脱却、経済好循環実現のためには、企業業績の回復、雇用の改善が不可欠であることから、経済活動の主体でない政府も含めた政・労・使の3者で会議が開催されました。
3.2015年の要求と交渉
(1)自動車産業の状況
それでは、本年2015年の要求と交渉について、ここからお話をしていきたいと思います。まず要求を考える上では、取り巻く環境を踏まえる必要があります。自動車産業の状況をみると、2014年の世界自動車販売台数は8,720万台となり、国別では、中国が2,350万台で過去最高を記録、米国は1,650万台と8年ぶりの高い水準となり、日本は556万台でした。90年代には、日本は約800万台も販売していましたが、2000年代以降は、一貫して500万台前後です。今年も約504万台という予測が出ています。今年の国内販売状況をみると消費税増税前の駆け込み需要の反動減により、前年同期比の伸び率は概ねマイナスになっています。
2014年の国内における自動車生産台数は977万台で、6年連続で1,000万台割れとなりました。我々としては、1000万台以上の生産台数がないと国内の自動車産業の雇用は守ることができないと危機感を持っています。一方で、海外生産台数は過去最高を更新する見込みです。
2012年後半以降、為替が歴史的な円高から円安へと是正されたため、全体としては自動車会社の経営状況は良くなってきています。
(2)総合生活改善の取り組み方針
○[1]現状確認
2015春闘における要求を組み立てる際に、まず、GDPや消費者物価、完全失業率をはじめとする経済指標を確認することから検討を開始しました。その結果、経済は回復基調が続く見込みで、消費者物価の明確な上昇が見られると判断しました。求人状況は、有効求人倍率が直近20年間で最高の1.15倍になっていました。一方で、非正規労働者の数は過去最高の2,016万人にも達し、それにより一人当たりの雇用者報酬は1997年をピークに大きく低下しています。平均所定内給与についても、デフレが続く中で消費者物価指数以上に下がっています。前年同月比では、名目上の賃金は概ね増加していましたが、物価変動を除いた実質賃金は18か月連続で低下していました。
こうした状況に鑑み、労働者全体の賃金が改善されず、物価上昇だけが進めば、個人消費はさらに落ち込み、景気の腰折れ、さらには悪いインフレを引き起こしかねない状況であると判断をしました。こうした悪循環を防ぐためには、日本全体の底上げ、底支えが必要で、物価上昇と賃上げのトレンドを日本経済に根付かせていくことが必要との判断に至り、この点を今年の方針の柱にしました。
○[2]賃金要求と格差是正
前述した現状を確認した上で、労働組合として経済好循環の実現に向け社会的な役割を発揮するとともに、自動車産業の健全で持続的な成長に向けた「中小企業の格差是正」と非正規労働者の処遇改善による「全体の底上げ」に取り組むこととしました。
具体的には、「すべての単組は、めざすべき経済の実現、物価動向、生産性向上の成果配分、産業実態、賃金実態を踏まえた格差・体系の是正など様々な観点を総合勘案し、6,000円以上の賃金改善分を設定する。なお、直接雇用の非正規労働者の賃金についても、原則として、賃金改善分を設定する」という平均賃金要求を提出しました。
先程、格差の是正ということをお話ししましたが、是正すべき格差の1つに部門間の賃金格差があります。グラフを見て頂くとおわかりのように、メーカーで働く労働者の賃金を100とすると、部品部門は84.6、販売は81.5、輸送は72.4と格差は一目瞭然です。企業規模別で見ますと、3000人以上はさほど賃金格差はありませんが、規模が小さくなるにしたがって、格差は拡大していきます。我々としては、少なくともこれ以上の格差拡大は止めたいと考えています。
また、自動車産業では、正規労働者と期間従業員などの非正規労働者が同じラインで働くことが多いにも関わらず、正社員と非正規労働者間で賃金の差が大きいのは理不尽だと我々は考えています。職場全体のチームワークで生み出した成果は職場全員で共有するのが基本だと思います。そこで、我々は先ほど述べた通り、「直接雇用の非正規労働者の賃金についても、原則として、賃金改善分を設定する」という要求を出したわけです。
今春闘における交渉で特徴的なことは、会社が「経済好循環を実現していくことは労使共通の思い」だと発言したことです。会社はこれまでこうした内容の発言はしてきませんでした。これは、会社もデフレから脱却しないと、業績が良くならないと認識したためだと思います。ただ、会社はコストについて、一度引き上げるとなかなか下げることができず、中長期的に課題がのこる、人件費が上がると中国との競争に勝てないなどと、引き続き主張しています。一方、組合としては、組合員の1年間の頑張りを会社に訴えてきました。
自動車総連全体の要求・妥協状況として、賃金改善分要求単組は1,076組合と前年より増加しました。5月27日時点の解決率は80.5%で、賃金改善分獲得単組は696組合になっています。賃金改善分獲得額は、自動車総連全体で昨年より約500円高い、1,627円となっています。メーカーや販売など個別の業種でみても、全業種で賃金が上がっています。ただ、課題としてはメーカーが最も引き上げ額が高くなっていることです。また、会社の規模別でみても、いずれの規模も賃金が上がっています。
一時金については年間5ヶ月の基準を堅持していくこととしました。自動車総連全体の獲得月数の推移をみると、リーマンショック前は4.39ヶ月で、その後は減少しましたが、2014年にはリーマンショック前に近い水準である4.34ヶ月まで戻ってきています。
結びに
冒頭に申し上げた通り、本日の講義では皆さんに労働組合の仕事は何か特別の人ではなく、私のような普通の企業で働く人間がやっている普通の仕事だということ、そして働きやすい環境は自主的につくっていく必要があることが理解いただけたら幸いです。ご清聴どうもありがとうございました。 
 

 

 
民主党

 

かつて存在した日本の政党。略称は民主、DPJ。2009年9月から2012年12月までは第1会派として政権を担当した。2016年3月に、維新の党が合流し民進党に改称。
1998年4月、院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)に参加していた民主党・民政党・新党友愛・民主改革連合が合流して結成された。法規上は民主党以外が解党して合流したという形をとっているものの、人事や要綱、ロゴなどを一新したこともあって、同じ政党名でありながら旧民主党とは区別して扱うことが慣例になっている。その後、2003年9月に自由党が合流(民由合併)。
結党時には保守中道を掲げる旧民政党系と中道左派を掲げる旧民主党系が対立した結果、党の基本理念を「民主中道」とすることで落ち着いた。
保守・中道右派を自認する自民党に対して、主に海外メディアからはリベラル・中道左派の政党と位置付けられる。しかし、結党の経緯により主に自民党の流れを汲む保守本流・保守左派の議員や旧民社党系の反共色の強い議員も一定多数存在しており、更に後の民由合併により保守派の議員を多く抱え込んだため、左派政党と位置付けられることに否定的な党員や支持者も存在する。なお、2001年に党内左派より「中道左派という概念から社会主義インターナショナルに加盟すべき」という提案がなされたこともあるが、当時の代表である鳩山由紀夫は「左派というのは民主党のコンセンサスではない」と反対し、頓挫した経緯がある。
国際組織の民主主義者連盟に加盟している。
自民党は1955年の結党以来、国政選挙の選挙区の公認候補の当選を47都道府県全てで経験しているが、民主党は1998年の結党から2016年の改名までの間に福井県・島根県・宮崎県の3県で国政候補の当選者が出なかった。
2016年の維新の党との合流にあたり党名を民進党に改称。旧民主党から続いた党名は20年で消滅した。
結党の背景
1980年代の後半からリクルート事件などを契機として政治とカネのあり方が問われ始めると、小沢一郎や後藤田正晴らを中心に自民党内の一部で小選挙区制と政党交付金の導入を主張する政治改革の機運が高まっていった。これには政権交代可能な二大政党制を実現させ、中選挙区制によって馴れ合いに陥っていた(小沢談)55年体制を打破するという目的があった。
小選挙区制への移行は短期的には最大政党の自民党に有利なものであったため、野党は一斉にこれに反発した。一方で自民党内でも、将来的に政権から転落する可能性が高まることや特定団体からの組織支援効果が薄まることなどから反対論が相次ぎ、海部内閣では政治改革四法は廃案に追い込まれた。
1993年、宮澤内閣でも法案が否決されるに至って党内の対立は決定的となり、小沢・羽田孜・岡田克也ら改革推進派は内閣不信任案に賛成票を投じて自民党を離党した。首相の宮澤喜一は衆議院を解散して第40回衆議院議員総選挙に踏み切るも、自民党は政権から転落。この選挙では枝野幸男・前原誠司・野田佳彦・小沢鋭仁ら、後に民主党の主要メンバーとなる議員が政治改革を訴えて日本新党から多数初当選した。
この選挙の結果、小沢・羽田らは、8党派連立による非自民・非共産連立政権を樹立、政治改革四法を成立させた。しかしその後は政党間による対立が表面化し、約1年ほどでこの連立政権は崩壊した。
また不信任案には反対した鳩山由紀夫らも新党さきがけを結成し、翌1994年には小沢、羽田、岡田らが新進党を結成。この二つの政党の一部に社民党右派議員を加えたものが、後の民主党のおおまかな源流となる。
結党、黎明期
1996年9月、新党さきがけを離党した鳩山由紀夫、菅直人らと社民党右派議員、ほか鳩山邦夫らが集い、「官僚依存の利権政治との決別」「地域主権社会の実現」を標榜して旧民主党を結党。両院合わせて57名での船出であった。翌月に控えていた第41回衆議院議員総選挙を横ばいの議席で乗り切り、翌1997年には菅が党代表に、鳩山由紀夫が幹事長にそれぞれ就任して党の体制が整えられた。
一方の新進党は同じ総選挙で政権獲得はおろか議席を減らすという敗北を喫していた。党の求心力は急激に衰え、1997年12月、党の再生が困難だと判断した小沢は新進党の解党を宣言。自民党に復党、合流する議員が更に多数出る中、小沢を中心とする自由党にも公明党にも与しない形で野党に留まる勢力があった。
旧民主党はこれら民政党・新党友愛・民主改革連合と1998年1月に院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)を結成し、合流に向けた協議を進めた。旧民主党の枝野幸男、民政党の岡田克也、新党友愛の川端達夫らが基本理念をまとめる協議にあたり、合意に至った。同年4月27日、新たに「民主党」が誕生。手続上は他政党が解散し、民主党に合流した形となった。
新民主党は、「行政改革」「地方分権」「政権交代」を掲げ、自民党に代わる政権政党となること、二大政党時代を作り上げることを目指すとした。「生活者」「納税者」「消費者」の代表という立ち位置、「市場万能主義」と「福祉至上主義」の対立概念の否定などを結党時の基本理念に掲げている。
この年の第18回参議院議員通常選挙では、大型公共事業の抜本的見直しや地方分権の推進などを訴え、10議席増の27議席を獲得した。しかし、当時衆議院で単独過半数の回復に成功していた自民党と比して、この頃の民主党を二大政党の一角と見る動きはまだ少なく、あくまでも最大野党という位置付けが一般的であった。
1999年9月、代表選挙で菅を破った鳩山由紀夫が代表に就任。
党勢拡大、二大政党へ
2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では、定数削減があったにも関わらず改選前の95議席を大きく上回る127議席を獲得、二大政党時代の到来を宣言した。とはいえ、自公保政権は引き続き安定多数を維持しており、与党を過半数割れに追い込むという狙いは達せられなかった。この選挙では、現行消費税の年金目的税化、扶養控除の廃止と児童手当の金額倍増などが公約に盛り込まれた。
2001年4月、小泉政権が公共事業改革や分権改革を推し進める聖域なき構造改革を掲げて発足。これらの改革は民主党の政策と共通するものを含んでいたため、鳩山は小泉に対し「協力することもやぶさかではない」という姿勢も見せ始めるようになる。以後、小沢が代表に就任する2006年までは、改革の速度や手法を競う「対案路線」で与党と対峙することになる。
同年7月の第19回参議院議員通常選挙では小泉旋風の前に伸び悩んだものの、4議席増の26議席獲得し、引き続き党勢を拡大させた。選挙公約には、道路特定財源の一般財源化、天下り禁止法の制定、全てのダム建設の一時凍結などが新たに盛り込まれた。
2002年9月に鳩山は代表に再選されたが、これに関連して中野寛成を幹事長に起用する論功行賞人事が党内の求心力の低下を招き、自由党との統一会派構想の責任を取る形で12月には辞任に追い込まれた。同月、岡田克也を破った菅直人が代表に返り咲く。
2003年9月、来る総選挙を前に執行部が自由党との合併に踏み切ることを正式に決断する。枝野幸男らをはじめ強硬に反対を唱える声もあったものの、役員、要綱、党名を据え置くという民主党による事実上の吸収合併という形で決着を見せた。この民由合併により民主党は両院合わせて204人(衆議院137、参議院67)を擁するまでに党勢を拡大させた。
同年11月、日本初のマニフェスト選挙となった第43回衆議院議員総選挙では、明確に「政権交代」を打ち出し、改選前を40議席上回る177議席を獲得、大きく躍進する。比例区の得票数では自民党を上回った。高速道路の原則無料化、年金制度の一元化、衆議院の定数80削減などがこの選挙から新たに政権公約に加えられた。
2004年、年金制度改革を巡るいわゆる「年金国会」において菅の納付記録に未納期間があることが判明し、代表辞任へと追い込まれた。(後にこれは社会保険庁職員の怠慢による手続きミスであったことが明らかとなり、厚生労働省が謝罪している。)菅の後継にいったんは小沢一郎が内定したが、小沢にも年金未納が発覚し、出馬辞退に追い込まれた。
同年5月、新代表に若手の筆頭格であった岡田克也を無投票で選出。間を置かず7月の第20回参議院議員通常選挙を迎えた。発足間もない新体制に一部不安視する声もあったが、50議席を獲得し、国政選挙において初めて自民党(49議席)に勝利を収めた。
この時期から政権選択選挙という言葉が急速に現実味を帯び始めるようになる。
郵政選挙の大敗、出直し
2005年8月、首相の小泉純一郎が郵政民営化の是非を問うとして衆議院を解散(郵政解散)。自民党は民営化に反対したいわゆる造反議員との分裂選挙に突入した。選挙戦の序盤は「漁夫の利」などとして民主党に楽観的な論評も飛び交い、政権交代を確実視して伝える一部海外メディアもあった。
郵政民営化の是非を争点に選挙戦を展開した与党に対し、民主党は郵貯・簡保の徹底的な縮小と郵便事業への民間事業者参入促進など、2003年以来党が掲げてきた改革案で応えた。また、郵政問題よりも重要な争点として、利益誘導型政治・官僚支配からの脱却、公務員人件費の2割削減、18兆円に及ぶ税源の地方への委譲、大型公共事業の見直しなどを改めて提示し、「徹底した無駄削減」と「コンクリートからヒトへ」による大胆な社会構造の変革を訴えた。
しかし、「造反議員」と「刺客候補」の対決構図が連日のように報道されていく中で政策論争は次第に世論の関心を失い、民主党は小泉劇場の前に埋没していく。結局、改選前を大きく下回る113議席という結果に終わった。岡田は即日代表辞任の意向を表明した。
党代表後継には菅直人と前原誠司が名乗りを上げた。当初は菅有利と見られていたものの、最終演説で投票議員の心を掴んだ前原が僅か2票差で選出された。前原は、「脱労組」「世代交代」を打ち出し、党の再建に着手。当時43歳の前原は清新なイメージを与え、耐震偽装問題で馬淵澄夫による証人喚問が世論の喝采を浴びるなど、新生民主党は順調な出直しを図ったかに見えた。
しかし、2006年2月に堀江メール問題が起きると、一転して民主党は激しい世論の批判を浴びることになる。情報の真偽を巡って執行部の対応が後手に回ったことも問題を長引かせる要因となり、翌3月にはついに前原が辞任に追い込まれた。これにより、民主党は解党の噂すら囁かれる、危機的な状況に陥った。
小沢体制、政策の転換
2006年4月、小沢一郎が菅直人を破り、新代表に就任。小沢は菅を代表代行に指名し、幹事長を務める鳩山と共に「トロイカ体制」と言われる挙党一致体制を敷いた。
小沢体制ではまず小泉構造改革を否定するという大きな政策的転換が図られた。それまで民主党の方針であった経済成長路線は影を潜め、子ども手当ての導入、農家への戸別所得補償といった多額の財政出動を伴う政策が打ち出された。更に2005年総選挙時に掲げていた年金目的消費税を凍結するなど、財源に関して甘い見通しが立てられたのもこの時期である。
地方組織が磐石ではない民主党にあって、小沢は各議員・候補に徹底した地元活動を求めるなど、地盤の強化にも力を注いだ。2007年4月の統一地方選挙を勝利し、7月の第21回参議院議員通常選挙でも60議席獲得と大勝。ついに参議院で与野党を逆転させた。
小沢は参議院での多数を武器に与党に激しく抵抗する「対立軸路線」を敷き、政権を追い込む戦術を選択した。一方で11月、小沢はねじれ国会の運営に行き詰った福田康夫に大連立構想を提案。しかし、予てから「健全な二大政党制」を望んでいた民主党役員会では小沢を除く全ての議員がこれに反対、世論も同様の反応を示した。その後、民主党は2008年のガソリン国会などで抵抗を続け、ねじれ国会の中で有利に戦いを進めた。この頃には首都圏の政党支持率では自民党を圧倒するようになった。
ところが2009年3月、西松献金問題で小沢の公設第一秘書が逮捕・起訴されると、支持率は軒並み低下。迫る総選挙への影響を避けるためとして5月、小沢は代表を辞任した。
次期総理候補を決める代表選挙として大きな注目を集める中、小沢に近い議員らが推す鳩山由紀夫と、世論の後押しを受けた岡田克也が争った。消費税率見直しは4年間議論もしないとした鳩山と、議論は行うべきだとした岡田であったが、参議院票の取り込みで優勢に立った鳩山が接戦を制した。初めて表面化した親小沢と非小沢との対立構図であったが、選挙後は岡田が幹事長職を引き受けるなど、このときはまだ選挙後の融和が図れる比較的穏やかなものであった。小沢の献金問題で一時的に落ち込んでいた政党支持率も持ち直した上、さらに上昇し、自民党に拮抗する調査も出始めるようになった。
7月12日、総選挙の前哨戦とも位置付けられた東京都議会議員選挙で第1党に躍り出た。島部を除く全ての選挙区で民主系の候補者が1位当選を確保するなど、地滑り的大勝を飾った。
翌13日、首相の麻生太郎が衆議院を解散する意向を表明。この月、NHKの全国世論調査で初めて民主党が政党支持率で自民党を逆転した。
政権交代、鳩山内閣の挫折
2009年7月21日、衆議院が解散され、事実上の任期満了選挙に突入する。鳩山由紀夫はこの総選挙を「政権交代選挙」と銘打ち、連立をみすえる社民党・国民新党と合わせて過半数の議席確保を目指した。マニフェストには、前回の参院選で訴えた内容とほぼ変わらぬ政策が盛り込まれた。各種世論調査では終始民主党の圧倒的優勢が伝えられた。
結果、絶対安定多数を超える308議席を確保して、結党以来の悲願であった政権交代をついに実現する。308議席は一つの党が獲得した議席数としては戦後最多であった。また比例区の得票も2984万4799票を獲得し、日本の選挙史上で政党名の得票としては過去最高を記録した。
第172回国会で鳩山由紀夫内閣が正式に発足し、社民党・国民新党との連立政権が誕生。党幹事長に小沢一郎、内閣官房長官には平野博文が起用された。
鳩山内閣は当初、70%を超す高い支持率を得てスタートした。CO2削減目標の引き上げ、自衛隊インド洋派遣の撤退、公共事業の見直しなどの政策を推し進めるが、同時に幹事長の小沢と鳩山自身に政治資金収支報告書の虚偽記載問題が再燃する。「政治とカネ」を巡る不信に加え、鳩山よりも小沢に実質的な権力が集中する「二重権力構造」や、選挙支援と引き換えに予算配分を行う小沢の政治手法などが党内外で問題視されるようになると、内閣支持率は一転、下降の一途を辿ることとなる。
そんな中、行政の無駄をあぶりだすことを目的に事業仕分けが行われ、これが世論から概ね好意的な評価を受ける。しかし子ども手当などの新たな歳出や、不況による税収落ち込みもあって平成22年度予算では過去最大となる44兆円の国債発行をするに至った。
2010年1月、くすぶり続けていた政治資金収支報告書の虚偽記載問題で、衆議院議員の石川知裕を含む小沢の公設秘書と元秘書ら3人が逮捕される。3月には衆議院議員小林千代美の選対関係者2人も政治資金規正法違反で起訴され、民主党は厳しい批判を浴びることとなった。特に小沢に対しては幹事長、又は国会議員の辞職を求める声が世論の8割を超えるまでに高まった。また、鳩山自身の献金問題も、国会などで厳しい追求を受けた。ただ、これらの「政治とカネ」問題そのものは、政権を揺るがすまでには至らなかった。
内閣にとって決定的な打撃となったのは、前年から徐々にクローズアップされてきたアメリカ軍の普天間基地移設問題であった。移設先を「最低でも県外が期待される」と総選挙時に明言していた鳩山は、沖縄及びアメリカが合意していた辺野古沿岸部へ移設する現行案を白紙に戻し、県外・国外移設の道を探っていた。しかし5月、移設先を見つけることができず、これを断念。失望した沖縄が現行案の辺野古沿岸部案をも受け入れ撤回する事態に発展し、移設問題は大きく後退してしまう(この際、あくまで県外移設を求める社民党が連立を離脱した)。
このほか、野党時代の民主党の主張と、与党としての民主党の能力や政策との乖離が徐々に明らかになるにつれ、鳩山内閣への国民の不信はピークに達し、来る参議院選挙では20議席台に留まるという衝撃的な事前調査も明らかとなる。鳩山は事態打開のため、一連の問題の責任を取る形で首相を辞任した。
菅内閣、党内対立の激化
後継の代表選挙は、まず小沢の影響力排除を目指す菅直人がいち早く出馬を決め、小沢と距離を置く議員から支持を受けた。これに対し党内最大勢力を誇る小沢グループは中立派として出馬した樽床伸二を支持した。6月4日に行われた両院議員総会では、小沢グループ以外の票を固めた菅が圧勝した。この代表選では小沢の処遇を巡って党を二分する激しい攻防が繰り広げられ、党内には深刻な対立が残ることとなった。
菅内閣は発足にあたり、党幹事長に枝野幸男、内閣官房長官に仙谷由人など、主要ポストにいずれも非小沢の急先鋒を据えた。政策面では「強い経済、強い財政、強い社会保障」を一体的に実現させていく「第三の道」を打ち出し、財政再建と雇用創出を最大の国家的課題とする方針を表明。併せて消費税率見直し議論の提起、経済効果の薄い一部マニフェストの修正に着手するなど、鳩山内閣の政策方針からは大きな転換を図った。発足当初は、60%を超える高い内閣支持率を記録した。
しかし、選挙戦での菅自身の消費税を巡る発言が二転三転したことで、2010年7月11日の第22回参議院議員通常選挙では現有の54議席に届かず44議席獲得に留まり、参議院で過半数を失うねじれ状態に陥った。小沢グループは参院選敗北の責任は選挙前に消費税議論を提起した菅にあるとし、総理退陣や枝野の幹事長更迭を迫った。しかし国民の7割超は菅の続投を支持し、これを背景に菅も応じる姿勢を見せなかった。
こうした中で迎えた9月の代表選挙に小沢が出馬。小沢による事実上の倒閣宣言であった。財政再建とマニフェスト一部修正を目指す菅陣営には菅・前原・野田の各グループに加え岡田克也が、消費税議論封印とマニフェスト堅持を掲げる小沢陣営には小沢・鳩山・羽田・樽床の各グループが参集し、結党以来最も深刻な党内抗争が始まった。新聞主要四紙が揃って小沢と鳩山を批判し、世論調査でも菅支持が小沢支持の4倍超を記録するなど、戦いは次第に菅優勢へと傾いていく。9月14日、地方議員票と党員・サポーター票で大差を付けた菅が圧勝で再選された。幹事長には外務大臣から転じた岡田が再登板となり、閣僚からは小沢グループの議員は一掃された。この戦いにより党内の亀裂は更に深刻化することとなった。
尖閣諸島中国漁船衝突事件の対応を巡り内閣官房長官の仙谷由人と国土交通大臣の馬淵澄夫に対する問責決議が参議院で可決されるなど政局は混乱。これを受けた内閣改造により、2011年1月14日に菅第2次改造内閣が成立。3月11日には東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、政権は震災復興と福島原発事故の対応に追われることになった。
6月1日、「菅首相では災害復旧と復興、原発事故の処理に対応できない」との理由で自民党などが提出する内閣不信任決議案に対し、小沢に近い50人余りの議員が同調する意向を示したが、翌2日の採決前に開かれた党代議士会で菅が辞意とも取れる発言をしたことで小沢グループは自主投票となり、不信任案は否決された。菅はその後、福島第一原発事故の対応にメドがつくまで続投する意欲を示したが、仙谷由人官房副長官ら党執行部内からも菅への退陣要求が出始めた。
8月26日に菅が退陣を正式に表明したため、民主党代表選が行われることとなり、野田佳彦・海江田万里・前原誠司・鹿野道彦、・馬淵澄夫の5人が出馬した。代表選では小沢と鳩山のグループから支援を受けた海江田が先行し、前原と野田が追う展開となった。第一回投票では海江田が最多の143票を得るが過半数には至らず、野田との決選投票では前原・鹿野陣営の支持を集めた野田が勝利し、第9代党代表に選出された。
野田内閣、消費税増税と党の分裂
第9代党代表に選出された野田は、2011年8月30日の衆参両院本会議内閣総理大臣指名選挙において第95代内閣総理大臣に指名された。野田は代表選挙当時から消費税率を現行の5%から10%に引き上げる消費増税を掲げたが、歳出削減が進んでないうえ、景気にも悪影響だとして党内の小沢グループや連立を組む国民新党などから反対意見が噴出した。
このため、野田は小沢とも良好な関係にある党参議院議員会長の輿石東を『党内融和』の象徴として幹事長として起用(党参議院議員会長も兼務)し、挙党体制の構築に努めた。
しかし、閣内では経産相の鉢呂吉雄が福島第一原子力発電所事故に関する失言問題でわずか10日で辞任に追い込まれ、さらには小沢グループから起用された国家公安委員長山岡賢次のマルチ商法関与疑惑や、防衛相一川保夫の失言ならびにブータン国王来日歓迎の宮中晩餐会の私用欠席問題など、閣僚の資質が問われる問題が続出。12月9日には山岡と一川に対して参議院において問責決議が可決された。
野田・輿石が提唱する『党内融和』『挙党一致』路線であったが、党が進める消費増税路線などの政策に反対の意を表し、離党(除籍)者が続出する事態となった。
菅内閣の不信任案に賛成し除籍処分となり、首相指名選挙で海江田を支持した松木謙公は著書の中で2011年中の新党大地への入党を示唆していたが、12月28日に横峯良郎が一身上の都合により民主党から離党届を提出(認められず除籍処分)したことで、横峯や既に離党していた石川知裕とともに新党大地へ合流、新党大地・真民主を結党した。
さらに同日、小沢に近い内山晃・渡辺浩一郎ら9人の衆議院議員が離党届を提出(認められず除籍処分)、新党きづなを結成。また、八ッ場ダム建設問題でも前原系の中島政希が離党した。このほか、党の増税方針に反発し党を離脱した佐藤夕子(減税日本へ入党)、菅内閣不信任案に賛成し除籍された横粂勝仁をあわせ、2011年の間だけでも民主党は14人の議員を失うことになった。
2012年1月13日、野田は内閣改造を行った(野田内閣 (第1次改造))。今国会の最大の課題とする消費増税関連4法案を含む社会保障・税一体改革関連法案を国会で成立させるため、野党との協力関係構築と人心一新、体制強化を目的とした。
しかし、改造後も閣内外で問題が頻出。防衛相の田中直紀は北朝鮮ミサイル問題に関する失言で、国交相の前田武志は公職選挙法に抵触する可能性がある問題で、閣僚としての資質が問われ、4月10日に参議院で問責決議案が可決された。
また、社会保障・税一体改革関連法案が閣議決定されたことに抗議し総務副大臣の黄川田徹ら4名の副大臣・政務官、党内でも幹事長代理の鈴木克昌ら13人が辞表を提出した。さらには離党者も続き、連立を組む国民新党も社会保障・税一体改革関連法案が閣議決定された事で連立離脱派と維持派が対立、離脱派で代表の亀井静香、政調会長の亀井亜紀子が離党する(金融・郵政改革担当大臣の自見庄三郎が代表となり、連立維持)など党内外で混乱を露呈する事態となった。
その後、5月には中国の一等書記官によるスパイ疑惑が農水相の鹿野道彦ら農林水産省を舞台に政治問題化したこともあり、野田は組閣からわずか5ヶ月余りで、内閣再改造(野田内閣 (第2次改造))を行う事態となった。
社会保障・税一体改革関連法案の採決は6月26日に衆議院本会議で行われ、民主党・国民新党・自民党・公明党・たちあがれ日本などの賛成多数で可決された。消費増税法案の採決では反対の意を表明していた鳩山、小沢以下57名が反対票を投じ、元総務相の原口一博・元環境相の小沢鋭仁ら13名が棄権、2名が欠席(病欠した元首相の羽田孜を除く)するなど72名の造反者を党内から出した。
野田は造反者に対して除籍も含めた厳しい処分方針を示唆した。一方で輿石は党内融和と分裂回避を重視する観点から小沢と数回に渡って会談を持つも、あくまで消費増税法案の撤回を求める小沢と分裂を避けたい輿石の議論は平行線をたどった。小沢が離党と並んで検討していた党籍を残したまま会派を離脱する案は野田が拒否。院内会派離脱願が受理される可能性がなくなったため、7月1日午後に小沢は記者に離党の意思を表明した。
2日午前、小沢ら衆参合計52名(衆40・参12)の離党届を山岡賢次と広野允士が輿石の側近議員を通じて提出した。提出時点は52名であったが階猛と辻恵が撤回したため50名に修正された。3日、党執行部は反対票を投じた衆院議員57名のうち、同日離党届を撤回した水野智彦(10月に再度離党届を提出)を除く離党届を提出した小沢ら衆議院議員37名について除籍処分とする方針を決定。残りの衆院議員20名については鳩山は党員資格停止6か月、鳩山と平智之を除く18名は党員資格停止2か月の処分とする方針を決定した。参議院議員12名と採決前に離党届を提出していた平については処分を行わずに離党届を受理した。棄権、欠席した衆院議員15名についてはそれぞれ常任幹事会名の厳重注意、幹事長名での注意とした。4日、採決で反対票を投じていた加藤学が離党届を提出した。
党倫理委員会での審査を経て、9日、党執行部は小沢ら衆議院議員37名の除籍を正式決定。党執行部が党員資格停止の処分とする方針としていた鳩山ら衆議院議員19名については鳩山の党員資格停止の期間を3か月に短縮し、鳩山と加藤を除く17名は党員資格停止2か月とすることを決定した。あわせて、6日に離党届を提出していた米長晴信参院議員の離党を承認した。17日、党執行部は加藤を除籍処分とした。
さらに小沢グループの離脱後も分裂の流れは収まらず、17日には参議院議員の谷岡郁子・舟山康江・行田邦子の3名が、18日には衆議院議員の中津川博郷が離党届を提出。消費税増税関連法案の採決以後の離党者が55人となり、特に参議院では第2会派との差がわずか2人まで縮まることとなった。党執行部は24日、谷岡らの3名の離党を承認し、31日には中津川を除籍処分とした。
8月に入ると、社会保障・税一体改革関連法案の参議院での採決が迫り、先に除籍された小沢らが結成した国民の生活が第一を含む、自民党・公明党を除く野党各会派が、消費増税法案採決を阻止すべく野田内閣に対する内閣不信任決議案を上程した。
採決前日の8日、野田は、自民党総裁の谷垣禎一と公明党代表の山口那津男を交えた党首会談において、衆議院解散について「近いうちに国民に信を問う」こと、消費増税法案に賛成することで合意。一部を除く自民・公明の各衆議院議員が採決を欠席したため、内閣不信任案は反対多数により9日否決された。 しかし、内閣不信任案では党内から小林興起・小泉俊明の両名が賛成票を投じ、10日に参議院で採決された消費増税法案でも有田芳生・水戸将史ら6名が反対票を投じ造反した。
小林、小泉は採決前日に離党届を提出したが受理されず除籍処分となり、減税日本へ入党、先に離党した平智之とともに院内会派「減税日本・平安」を結成した。
その一方で、29日に参議院で上程された野田首相に対する問責決議案では、一転して自民党が賛成に回り可決されるなど、野田の求心力の低下が顕著となった。
9月に入り、大阪維新の会が、国政進出を目指して新党日本維新の会を結成。その動きに呼応し、党内から元内閣官房副長官の松野頼久、衆議院議員の石関貴史・今井雅人、参議院議員の水戸が離党届を提出し合流。執行部は各議員の離党届を受理せず除籍処分としたが、離党者の増加に歯止めがかからない状況となった。
10日、党代表選挙が告示され、一時は再選を狙う野田に対し、総選挙での惨敗を危惧する勢力から環境相の細野豪志を候補に擁立する動きを見せたが断念、最終的に野田と元農水相の赤松広隆、元総務相の原口、前農水相の鹿野が立候補し、野田が1回目の投票で総投票数の過半数となる818ポイントを獲得し、再選された。
24日、野田は党役員人事を行い、輿石幹事長の続投、政策調査会長に環境相の細野、幹事長代行に財務相の安住淳、国会対策委員長に国会対策副委員長の山井和則を充てた。
党人事を受けて、10月1日には野田は内閣改造を実施した。閣僚待望組を多く登用した形だが、野田と代表選で戦った原口、赤松、鹿野の3グループから登用はなく、代表選で鹿野を支持した篠原孝は「口ではノーサイドと言いつつ、平然とこんな人事をするなんて度が過ぎている。横暴だ」と野田を批判。また、杉本和巳は今回の内閣改造・党人事を「メリーゴーラウンド人事をしていては組織が活性化するとは思えない」と野田政権を批判したうえで離党しみんなの党へ移籍、「離党予備軍」と目される反主流派議員の人心掌握に至っていないことが露呈した。
また、さらなる党人事として、新たに国会対策委員長代行・代理、政策調査会長代行・代理のポストを新設。国対委員長代行には奥村展三、国対委員長代理に後藤斎と津島恭一、政調会長代行に細川律夫、政調会長代理に馬淵澄夫と高橋千秋を起用した。
しかし、3度目となった内閣改造も、法相の田中慶秋が外国人からの献金や暴力団関係者との交際が発覚し早期の辞任(事実上の更迭)に追い込まれ、内閣改造で退任した前法相の滝実を起用する事態となった。また、野田が自民党前総裁の谷垣らと交わした「近いうちに解散する」という約束をめぐり、解散時期について自民・公明両党と対立。他の野党と共に前法相田中の任命責任を追及する構えを見せ、国会審議において重要法案の採決に際して野党より協力を得られない可能性が高まった。
28日、野田政権下において初の国政選挙となる衆議院鹿児島3区補欠選挙では、党が推薦した国民新党公認の野間健が自民党公認候補の宮路和明に敗れ、与党側の議席を守ることが出来なかった。
29日、臨時国会が召集されたが、冒頭で党所属の熊田篤嗣と7月に一度は離党届を出しながらも撤回した水野智彦が離党届を提出し減税日本への移籍を示す(後に除籍処分)など離党の動きを抑えることが出来ず、野田の求心力の低下がさらに露となった。
衆議院解散と創設者・鳩山の退場
報道各社による世論調査において内閣支持率が軒並み低迷し、求心力を失っていた野田は、日本維新の会などのいわゆる「第三極」の選挙準備が整う前に解散・総選挙を行うのが得策と判断。11月に入ると自民・公明両党の求めに応じる形で、年内に解散・総選挙を行う意向が明らかとなった。野田は、衆議院議員定数の削減や環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP)交渉参加推進などを党公約として選挙戦に打って出る構えを見せたが、党内では今選挙を行えば惨敗必至との声が根強く、解散に反対する意見が続出。幹事長の輿石は「党内の総意」として早期解散に反対する意見を取りまとめた。しかし11月14日、国家基本政策委員会合同審査会における党首討論で自民党総裁の安倍と対峙した野田は、「(衆議院議員定数削減法案への賛同の)御決断をいただくならば、私は今週末の16日に解散をしてもいいと思っております」と発言。これを受けて自民・公明両党も野田の提案を受け入れ、事実上16日の衆議院解散が決定した。
この電撃的な解散決定を受けて、早期解散に反対していた党内から離党届を提出する議員が続出した。閣僚経験者では、元環境相の小沢鋭仁が日本維新の会へ移籍を表明、元農水相の山田正彦はTPP交渉参加反対を強硬に主張して亀井静香とともに「反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党」の結成を表明。また政権交代の象徴的存在だった福田衣里子も山崎誠や初鹿明博とともに先に離党していた谷岡郁子らの「みどりの風」へ移籍することでこれを政党要件を満たす国政政党化した。さらには長尾敬のように自民党へ入党を希望する者もいた。結局この解散を前後しての離党者は11名、2009年9月の民主党政権誕生以後党を離党・除籍された衆参両議員はあわせて103名を数え、民主党は両院で少数与党に転落した。
11月16日、衆議院は解散され、第46回衆議院議員総選挙は12月4日公示・16日投開票の日程で行われることが決定した。
党執行部は解散前後に離党届を提出した前議員を除籍処分とし、また党公認に際しては党の定める方針に従う誓約書に署名させ、従えない立候補予定者には公認を与えないと決定した。そのような中、党創設者の一人で7月に消費増税法案に反対したことで去就が注目されていた元首相の鳩山は、消費増税やTPP交渉推進など野田が掲げる主要政策には従うことができず、公認をもらって戦うことはできないと判断、総選挙への不出馬と政界引退を表明した。
衆院選記録的大敗により野党転落
第46回衆議院議員総選挙では、解散前の230議席を大きく下回る57議席と大きく後退した。特に、前回の勝因となった小選挙区で軒並み敗北し27議席しか獲得できず、比例も30議席にとどまる記録的な大敗となった。野田内閣の閣僚では官房長官の藤村修、財務相の城島光力、総務相の樽床伸二、文科相の田中眞紀子、厚労相の三井辨雄、国家公安委員長の小平忠正、金融相の中塚一宏と現憲法下で最多の7閣僚(国民新党で郵政改革相の下地幹郎も含めると8閣僚)、さらに3人の首相補佐官、23人の副大臣・政務官など政務三役が大量に落選した。閣僚経験者でも元官房長官の仙谷由人、元農水相の鹿野道彦、元文科相の川端達夫、元厚労相の小宮山洋子など多くの主要議員が落選した。前首相の菅、前衆議院議長の横路、元経産相の海江田、元総務相の原口、元農水相の赤松らは小選挙区では落選したが、比例重複により復活当選した。他の党公認候補も苦戦を強いられ、小選挙区では第3位以下の得票数となる候補が続出し、供託金没収となる候補まで出る結果となった。この結果、有力政党としては珍しい参議院議員が衆議院議員を上回る党内構成となった。
野田は大敗を受けて開票センターとなっていた都内ホテルで会見し「たいへん厳しい結果となった。同志を失ったことは痛恨の極み」とし「全ての責任は私にある」と代表辞任を表明した。連合会長の古賀伸明は、「敗因は内部抗争」と発言した。
野田の代表辞意表明を受けて、12月25日に代表選挙が党所属国会議員のみの投票で行われ、海江田万里が馬淵澄夫を破り、代表に選出された。
12月26日午前、野田内閣は臨時閣議を開き、辞表が取りまとめられ総辞職した。民主党を中心とした連立政権(民社国連立政権→民国連立政権)は1198日で終焉した。同日午後、第182回国会の首班指名選挙にて自民党総裁の安倍晋三が第96代首相に指名され、大勝した前回衆院選から3年3カ月で再び野党に転落した。
海江田体制発足と党再生への道
新たに代表に就任した海江田は執行部人事に着手、代表代行に元国交相の大畠章宏、幹事長に前政策調査会長の細野、政策調査会長に前厚生労働副大臣の桜井充、国会対策委員長に元文科相の木義明を宛てた。幹事長を退いた輿石は参議院議員会長のみの職となった。 また、3年3か月にわたる政権運営を検証する「党再生本部」・「党綱領検討委員会」を設置、政策決定機関である「次の内閣」(ネクスト・キャビネット)を復活させ、「党再生内閣」と名付けた。
党勢の立て直しが求められる中、次期参議院議員選挙で改選期を迎える参議院議員の川崎稔、植松恵美子が相次いで離党を表明、さらには党創設者でもあり、前年の総選挙に立候補せず議員を引退した元首相の鳩山も「4年間の総括を見る限り、これでは民主党の再生は難しい」と党を批判し、離党を表明した。また、2013年4月5日に日本維新の会やみんなの党など他の野党との選挙協力を断念したことを明らかにした。これに対して、前原誠司らからは「野党がバラバラに戦っていては自公が喜ぶだけだ」などと批判の声が上がった。さらに4月17日には、同じく改選期を迎える参議院議員の室井邦彦が離党を表明し、参院第2会派の自民党に1議席差と迫られることとなった。
参議院選挙の前哨戦と目される東京都議会議員選挙では、民主党は1人区で全敗するなど改選前の43議席から15議席と大幅に後退。都議会第1党から、公明党はおろか共産党すら下回り第4党に転落した。
第23回参議院議員通常選挙では1人区で候補が擁立できない「不戦敗」(富山・和歌山・山口)を含めて全敗し、複数区でも東京・埼玉・宮城・京都・大阪・兵庫で候補者が落選し、比例代表でも7人にとどまるなど改選前の44議席から17議席へと減らす大敗で、非改選と合わせた参議院の議席数は59議席となり第2党に転落した。また青森・秋田・群馬・富山・石川・福井・鳥取・島根・山口・徳島・宮崎・鹿児島・沖縄の13県では県連に所属する国会議員がいなくなった。ただし、引き続き参議院議員が衆議院議員を上回る党内構成は維持された。
海江田体制発足後1年となる2013年12月までに「民主党に限界を感じた」「民主党は存在意義を失った」などの理由で当年の参院改選組および衆参落選組から離党者が続出。衆議院議員の山口壮は離党届を提出した上で自民党の二階派に入会し、除籍された。 前原誠司は、「このままでは統一地方選は厳しい。しかるべきときには立ち上がる」と述べ、場合によっては執行部交代へ動く可能性も示唆した。同年12月の結いの党結党などに伴う野党再編の動きも相まって、「海江田おろし」が始まるという指摘も出ている。
その後、民主党内部では岡田克也などから代表交代を求める声が出るなど、不穏な動きが続いている。また、他の野党との協力体制も、それぞれの党の思惑の違いなどでうまく構築できているとは言えず、現状では自民党による「一強多弱」体制を突き崩すことができていない。
第47回衆院選と海江田の落選
安倍首相は前回の第46回衆院選の争点となった消費税率引き上げを先送りすると表明し、この判断の是非を問うということで衆議院を解散した。
民主党にとっては野党転落後初の総選挙である第47回衆議院議員総選挙が行われた。12月14日の投開票の結果、民主党は小選挙区と比例代表合わせて73議席を獲得し、改選前の63議席から10議席増やした。しかし、党の顔とも言える代表の海江田万里が東京都第1区で敗れ、重複立候補していた比例東京ブロックでも惜敗率の関係で復活当選できなかったため、議席を失った。党としては前回衆院選ほどの逆風はなかったにもかかわらず、小選挙区比例代表並立制導入後初の野党第1党首落選となった上、対する与党は3分の2以上を獲得し、「一強多弱」の情勢は崩しきれなかった。
当初、海江田は代表の引責辞任を否定していたが、民主党は党規約第8条で役員を国会議員から選ぶと規定しているため、議席を失った海江田が代表を続けることはできない。そのため、海江田は12月15日に党代表の辞任(事実上は解任)を表明した。12月17日に両院議員総会が党本部で開催され、2015年1月からの常会までに新代表を選出するため、1月7日に告示、1月17日に郵便投票分予備開票、1月18日に臨時党大会を開き新代表を選出する、という日程を決定した。
岡田の再登板と野党再編
1月7日に告示された第18回民主党代表選挙には、長妻昭、岡田克也、細野豪志の3人が出馬した。
1月18日に実施された臨時党大会で投開票が行われた。1度目の投票では3候補とも過半数を確保できず、2回目の投票では1度目でトップの細野と2位の岡田で国会議員らによる決選投票となり、長妻を支援した議員らが岡田に投票したことで細野を逆転し、岡田が第10代民主党代表に選出された。岡田は第44回衆院選敗北を受けての引責辞任以来、約10年ぶりの再登板となる。
12月18日、民主党と維新の党は、衆議院事務局に統一会派「民主・維新・無所属クラブ」の結成を届け出た。会派には無所属の衆議院議員野間健も参加し、93名となった。会派代表には民主党の枝野幸男が就任した。
2016年2月22日、岡田克也代表と維新の党の松野頼久代表が会談し、民主党が維新の党を吸収合併することで合意した。これに合わせて党名やロゴマーク、綱領を刷新する方向で検討しており、党名の候補には「立憲民主党」や「日本民主進歩党」、「民主党立憲同盟」、「国民党」、「憲政党」などが浮上している。維新の党前代表の江田憲司は、「『みんなの党』や『結いの党』のようなキラキラネームではなく、政治理念や政治信条を化体した本格的な名前にしていかなければならない」としている。また、無所属議員や日本を元気にする会・生活の党と山本太郎となかまたちなど他の党にも参加を呼び掛けている。そして4日後の2月26日、岡田・松野の代表会談が再び行われ、民主・維新の両党が3月中をめどに合流することで正式に合意。ただ、新党の党名で両党の間に隔たりがあり、3月3日に両党が記者会見で、合流に伴う新たな党名案を4日から6日にかけて、両党のホームページとファックスを使って、国民から一般募集すると発表した。世論調査の結果も反映して、3月10日には二つの新党名の案が決まった。民主党側は「立憲民主党」、維新側は「民進党」を提示した。3月14日、民主党と維新の党がそれぞれ実施した各サンプル数約2000の電話世論調査の結果、民主党の調査では「民進党」24.0%、「立憲民主党」18.7%、維新調査は「民進党」25.9%、「立憲民主党」20.9%といずれも「民進党」が「立憲民主党」を上回ったため、新しい党名を『民進党』とすることが決定した。維新の党の江田憲司は、党名には「国民と共に歩むという意味」があるとしている。
民主と維新が合流に合意した同じ日、新党大地代表代理で、鈴木宗男代表の実娘の鈴木貴子衆院議員(比例北海道ブロック)が民主党からの離党を表明し、離党届を提出。後に、民主党から除籍・除名処分を受ける。なお、貴子は当面の間、無所属として活動するが、新党大地が今後選挙協力する自民党との統一会派結成を検討する方針。
両党の内部では合併における党内手続きが進められ、3月25日、松野・岡田の代表会談が国会内で開かれ、合併協議書に調印した。これにより両党の合併手続きがすべて完了したこととなる。3月27日、民主党・維新の党、それに改革結集の会の一部などが合併された新党として『民進党』結党大会が開催され、これを以て民主党は結党以来18年の歴史に幕を下ろすことになり、「民主党」の党名は旧・民主党時代も含めて20年で消滅。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
日本国家公務員労働組合連合会 [国公労連]

 

日本の国家公務員や独立行政法人職員などで組織する産業別労働組合である。略称は、国公労連。加盟単組は15(オブザーバー加盟込みで18)、組合員数は約7万2,000人である(同9万人)。全国労働組合総連合と公務労組連絡会に加盟している。1975年(昭和50年)10月に、国家公務員労働組合共闘会議が発展して結成された。
国公労連が組織対象とする労働者は国家公務員や独立行政法人職員等の国公労働者で、国の行政機関や独立行政法人、裁判所などに組織をおいている。組合員数は、労働組合基礎調査(2013年度)によると2013年6月30日現在、7万2178人である。前年比で2,861人減少した。オブザーバー加盟組合の全国大学高専教職員組合(全大教)などを加えると、約8万9,900人となる。公称組合員数は、10万人。この組合員数は全労連加盟の官公庁労組としては自治労連、全教につぐ3番目の大きさであり、日本の国公労働者の労働組合(国公労)としては連合に加盟している国公関連労働組合連合会(略称:国公連合、オブ加盟除外で約9万3600人)につぐ。
直加盟している組合(加盟単位組合)の数は19、うち全大教(全国大学高専教職員組合)など3組合がオブ加盟である。主な加盟単位組合は全医労(組織対象:国立病院)、国土交通労働組合(国土交通省)、全労働(旧労働省)など。これらの加盟単位組合を通して37の単一労働組合、約1,200の単位労働組合を組織している。
組織をおく職域は1府7省とその所管独法、人事院及び裁判所であり、財務省と農林水産省が中心の国公連合より広い。一方、特殊法人一般の労働組合は、国公連合と異なり加盟していない。組合員のうち非常勤職員は3,439人で全組合員の約4.7%に達しており、国公連合の0.49%(457人)に比べて高い比率をしめしている。
第59回定期大会(2013年8月29〜31日)が改選した現在の役員は、中央執行委員長が宮垣忠(旧全運輸出身)、書記長に鎌田一(全労働)、他に全労働、国土交通労組、及び書記局出身の中央執行副委員長3名となっている。機関紙は「国公労新聞」、機関誌は『国公労調査時報』。ともに国公共闘時代から同じ表題で発行し続けている。1991年から組合員を相手方とした共済事業を国公共済会を通して行っている。
歴史
全官労から国公共闘
太平洋戦争終結後の1946年から1947年にかけて、官公庁労働者の労働組合(以下、官公庁労組)の結成が急速に進み、その過程で非現業国家公務員の組合(以下、国公労)は1946年9月26日、「全国官庁労働組合協議会」(略称:全官労)を結成した。この全官労が現在の国公労連を含む国公産別の起源にあたる。官公庁労組は国労や全逓従など現業官庁を中心に、当時の労働運動を急進的に牽引した。全官労はその一翼を担い、二・一ゼネストや三月闘争、七月闘争に象徴される官公労働運動の高揚に貢献したが、1947年後半から運動は、政令201号によるスト権剥奪やドッジ・ラインにもとづく大量馘首、レッドパージなどGHQ・日本政府の巻き起こす逆風にさらされた。1950年には全官労の加盟する全国労働組合連絡協議会(全労連)と全官公庁労組連絡協議会(全官公)が解散・消滅に追いこまれる一方で、それらの潮流から分岐した日本労働組合総評議会(総評)と日本官公庁労働組合協議会(官公労)が台頭しつつあった。
このような情勢下、1951年1月25日の全官労第4回臨時大会は執行部の先鋭的方針を戦術的偏向と批判し、組織を連合会から協議会に改め、「日本官庁労組協議会」(日官労)に改称した。さらに国公労働運動の戦線統一を進めるため、同年7月21日、日官労加盟14組合は他の組合とともに「官庁労働組合協議会」(官労)を結成し、日官労は解散した。これは日官労が当時参加していた官庁給与共闘を発展させたものである。官労発足当初は22組合が正加盟、6組合がオブ加盟していた。
1952年、今度は官労と官公労の間で、破防法制定と労働関係調整法改正に対する反対闘争の統一行動をとおして、組織統一の機運が高まった。当時の両組織の勢力は、官労が8万5,000人、33組合、官公労は155万人、19組合だった。前者は国公労であり、後者は国労、全逓、日教組、自治労協、全農林などを翼下に収める、三公社五現業・地公・国公の全官公庁労組を網羅していた。1952年6月、官労は総評への加盟と、「官公労との共闘を強化し、すべての官公庁労働戦線の統一」を機関決定した。数十回の折衝の後、官労と官公労は官労が解散し、その加盟組合は官公労へ個別に一斉加盟する旨を確認した。1953年6月8日、確認は実行され、官公労働戦線の統一が果たされた。また、同時期に官労加盟組合が総評に相次いで個別加盟した。合同の翌7月には官公労加盟のすべての国公労から構成される官公労下部機関の「国公部会」が発足する。
1954年7月、人事院は民間賃金が公務を9%以上上回ることを認めつつ、給与勧告を行わず、続く1955年の勧告でも政府にベースアップを求めなかった。この措置は国公労働者の不満を高め、労組間の結束を強固にする結果となり、1956年2月7日、国公部会の全組合は独自の共闘組織である「日本国家公務員労働組合共闘会議」(国公共闘)を結成し、官公労からの相対的な自律性をつよめた。この国公共闘の後身が現在の国公労連である。
官公労の部会が独自の共闘組織を結成して自主性を強める動きは1950年代、他の2部会にもおこり、公企労部会では公労協、地公部会では地公連が形成された。官公労の主要労組は同時に総評の中核でもあったため、官公労は総評と活動が重複することが多くなり、官公労働戦線統一の5年後である1958年8月11日、官公労は第10回大会は解散を決議した。自動的に官公労の機構である国公部会は消滅し、国公労を統合する機能は国公共闘へ一本化された。当時(1958年6月末)の国公共闘組織人員は約22万6000人であった。
国公労働運動の分散化
1960年代前半に国公共闘の一部加盟単組で第二組合の結成が相次ぎ、国公共闘側はその挑戦を受けるようになる。具体的には、1962年から1964年にかけて、建設省、国税庁、税関、総理府統計局における組合間の対立であり、それらは当局による国公共闘系からの脱退工作や同組合員の差別的な不利益取り扱いなどの団結阻害行為(不当労働行為)が付随する場合もあった。抗争の推移は官庁で違いがあり、建設省では劣勢から国公共闘系の全建労が70年代に巻き返しに成功したが、国税・税関では劣勢のまま少数派組合に転落して現在に至る。
官公労解散に前後して、従来の総評系組合から分裂して全労会議(のちの同盟)へと流れる官公庁労組の新潮流が登場した。この潮流は全特定や教団連、国鉄職能労連など国公以外の第二組合群からはじまり、1959年9月、全日本官公職労協議会(全官公)の結成へと到った。1960年代から国公共闘と激しい対立を繰り広げた第二組合群の多くもまた、後にこの全官公へと加盟した。
国公共闘の内部にも対立が生じ、1963年の全農林をはじめ脱退する組合も現れた。脱退した全農林や全開発、全財務等7組合は1965年12月に国公共闘に対抗して国家公務員労働組合連絡会議(国公連)を結成した。ただし、国公共闘に離脱した組合もいずれも総評には個別加盟していたので、この分裂状況は同一のナショナルセンター内部での不統一という形をとった。
結成
1970年代に入って総評内の国公労を再統一する動きが活発化する。1970年6月、国公共闘を中心に国公連、会計検査院労組、国会職連、京都国税の5組織で「全国公賃金共闘」が結成された。翌1971年9月には国公共闘が、「すべての国公労働者の大同団結」と「国公共闘の組織強化」の方針を決定した。続いて同年12月、総評傘下国公労の統一を目指して総評・国公一本化委員会が発足し、国公共闘もこれに参加し、委員会をつうじた統一を目指しはじめた。1971年9月に決議した「国公共闘の組織強化」方針は、1973年9月29日に開催された初の定期大会(〜10月3日)で、決議機関・執行機関や青年・婦人組織、財政等の強化や上部団体(総評)への一括加盟等として具体化され、国公共闘は連合体化への足を速めた。国公共闘は自身の組織強化を国公労統一方針に沿うものと位置づけ、1973年度運動方針のなかでも1971年と同様に「国公労働組合の全的統一」を目標に掲げた。
その後、一本化委員会による統一は進まず、その早期実現が困難であることをにらんだ国公共闘は、1974年10月の定期大会で、自身が先に連合体になることを決定し、これをてことした統一を志向するようになる。1年間におよぶ下部組織における討議の末、国公共闘は1975年10月1日、日本国家公務員労働組合連合会(国公労連)の結成大会を開催し(〜4日)、すべての構成組合がこれに移行した。結成当初の勢力は、組合員数は公称約12万6000名、正式加盟は全労働、全司法、全商工、全法務、全運輸、全建労、全気象、全港建、全厚生、全電波、全国税、文部職組、総理府労連、全行管、全税関、人職の16組合、オブ加盟は日教組大学部、全医労、国共病組、虎門病院の4組織であった。初代委員長は全港建の樋口緑。加盟単組と総評との関係も個別加盟から国公労連による一括加盟に移行した。国公労連は統一労組懇に加盟し、全日自労や日本医労連などとともに総評反主流派を形成するようになる。
国公労連の結成については、国公連の中心である全農林もこれを歓迎した。国公連も1976年10月29日に解散し、翌日、旧加盟組合は新たに協議会組織の国公労協を結成した。国公労連の結成に触発された組織再編で、やはり国公労働運動の全的統一を意図していた。国公労連・国公労協の共同行動は続き、1979年2月20日、全国公賃金共闘は全国公に発展したが、国公労統一の動きはここで停滞局面に入り、総評内で国公労連と国公労協系の並立は固定化し、総評解散の1989年まで続いた。結局、国公労連の結成は国公労統一にはつながらなかったが、国公労連は結成について現在、「70年代に入って、日本の労働運動全体の右翼再編をねらうしつような動きがつづいていた。このような時期に「革新統一戦線」をかかげた国公産別の連合体組織が誕生した意義は大きかった」と評価している。
労働戦線再編から現在
1980年代のナショナルセンターの再編成(労働戦線再編)で総評内の並立状態は終わりを迎える。国公労連はこの再編構想を労働戦線の右翼再編であるとみなし、連合への合流に積極的な総評主流派の動きを批判。労戦再編の最終局面である1989年11月、国公労連は全労連の結成に参加し、一方、国公労協は連合体の日本国家公務員労働組合総連合会(国公総連)に移行した上で、日本労働組合総連合会(連合)へと流れ、両者は袂を分かつに至った。この分岐で全国公は消滅した。連合には国税労組や建職組など全官公(1959年結成。旧同盟系)加盟で、国公労連と競合する国公労も合流したが、連合結成後およそ10年間、国公総連と全官公系は統一した国公単産を結成できず、今度は連合内で並立状態が続いた。国公労連は国公労働運動における多数派産別の地位を保ち続ける。
1990年3月、組合員の福利厚生事業の一環として、日本国家公務員労働組合連合会共済会(国公共済会)を設立し共済事業をはじめた。
90年代末から連合内でも国公労統一の機運は高まり、2001年10月26日、連合の国公労は国公関連労働組合連合会(国公連合)を結成し、これをつうじた一括加盟に移行した。結成当初の組合員数は、隣接分野の特殊法人と駐留軍の単産も取り込んだこともあり、公称で約13万5,000人に達し、国公労連を抜いた。この統合で国公労連は運動における相対的な多数派ではなくなり、運動は国公労連と国公連合に二分される局面に入った。国公連合結成後、最初の労働組合基礎調査によると2002年6月現在、国公連合の組合員数は約12万8,000人、国公労連は11万2,000人となっている。ただし、国公連合から政労連と全駐労を引くと、約8万1,000人となる。なお、国公総連は組織を保存し、国公連合に直加盟した。国公総連が解散したのは2011年10月のことである。
国公労連の支援の下、2003年12月14日、国公労連の加盟単位組合として、国公労働者の合同労働組合である国家公務員一般労働組合(国公一般)が結成された。勤務する省庁を問わず加入できる組合であり、東京霞が関の本府省を中心に増大する非常勤職員や派遣等の非正規国公労働者を組織化することを意図した。翌年7月20日、国公連合も同様の機能を担う「国公ユニオン」を設立した。
2011年3月の東日本大震災を受けて、菅直人政権は復興財源の確保を理由に、2011年度から3年間国家公務員給与を1割程度引き下げる方針を打ち出し、5月から国公労との交渉をはじめた。国公労連は宮垣委員長を責任者として交渉に臨み、政府提案を拒絶した。復興予算は賃下げで確保できる金額より桁違い大きいので財源たりえず、他部門の賃金水準への波及によって景気に悪影響を及ぼし、震災対応に携わる職員の士気にを下げ、人事院勧告に基づかない給与引き下げは労働基本権を侵害している等と批判。国公労連と菅内閣の交渉は平行線をたどり6月2日、片山善博総務相との最終交渉が決裂した。一方、連合系の国公連合は5月23日、団体協約締結権付与を柱とする公務員制度改革法と同時に成立させることを条件に、3年間、一般職平均7.8%の給与減額法の同意した。国公労連との交渉打ち切りの翌日3日に、菅内閣は国公連合との合意内容に沿った法案を閣議決定し、国会に提出した。
2012年2月、民主・自民・公明3党は、政府法案とは別に「国家公務員の給与の改定及び臨時特例に関する法律」を国会に提出した。2011年度は2011年9月になされた人事院勧告を実施し、2013年度までの2年間だけ7.8%減額するというものであった。2月23日に衆議院で可決、29日に参議院を通過・成立した。この過程で、参議院総務委員会に国公労連から宮垣委員長が参考人として出席し、3党提出法案に反対する意見を陳述した。
5月25日、国公労連は東京地方裁判所に、給与臨時特例法施行によってカットされた給与の返還と慰謝料の支払いを国に求める「公務員賃下げ違憲訴訟」を提訴した。国公労連行政職部会と同組合員241名が原告である。訴状で臨時特例法およびその成立にいたる内閣総理大臣と国会議員の行為は憲法やILO条約等に違反しているとしている。  
 
国公労連 2

 

国公労連とは
日本国家公務員労働組合連合会(国公労連)は、1府7省(内閣府と総務、法務、財務、文部科学、厚生労働、経済産業、国土交通の各省)と人事院や裁判所、及びその関係する独立行政法人や国立大学法人などに働く正規・非正規の国公関連労働者で組織する産業別労働組合です。
国公労連は、その前身である共闘組織の日本国家公務員労働組合共闘会議(国公共闘、1956年2月発足)から、1975年10月に現在の連合体組織に移行しました。
国公労連はこんなことをめざしています
公務員も、一般の労働者と同じように、賃金によって生計を立てています。
同時に、憲法第15条第2項に「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定められており、公務員として行政上の公正・中立性が求められています。
また、憲法は国の最高法規として、天皇や内閣総理大臣はもとより、裁判官やその他の公務員にも「尊重・擁護の義務」(99条)を課しています。
労働者と家族の生活、労働条件の向上をめざします
そのことから、国公労連は、「二つの責任と一つの任務」を合言葉にして運動を進めています。第一の責任は、公務労働者とその家族の生活や労働条件の維持向上、また、憲法と平和・民主主義を守るという労働組合共通の責任です。
国民の立場に立った行財政・司法の実現をめざします
第二の責任は、公務・公共サービスをになう労働者として、その専門的な知識と能力や条件をいかし、国民のための行財政・司法の確立をめざして、国民といっしょにとりくむ責任です。
国公労連は、この「二つの責任」を実行するとともに、公務や民間の多くの労働者とスクラムを組み、「雇用・くらし・いのち」が大切にされる社会をめざすために積極的役割を果たすという「一つの任務」を果たすことを、運動の基本にすえています。
労働組合
労働組合のルーツは助け合い
あなたにとって、労働組合はどういうイメージですか?
労働組合のルーツは、18世紀末に産業革命下のイギリスではじまりました。最初は、労働者が、居酒屋(パブ)に集まって、話し合うなかで、仲間のケガや病気、死亡などの不幸にたいして援助しあった共済活動に起源があるといわれています。やがて、労働者がストライキでたたかうようになると、国家は団結禁止法をつくるなどして労働者を弾圧しました。しかし、ねばりづよいたたかいのなかで、労働者はみずからの力で団結権、団体交渉権、争議権などの労働基本権をかちとったのです。
労働者が、人間らしく生き、働くために団結し、恒常的に活動する組織、それが労働組合です。
憲法に保障された権利
日本国憲法では、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」(第28条)としています。この規定は、生存権(25条)や勤労権(27条)と切ってもきれない関係にある『基本的人権』です。労働者(勤労者)は、民間企業や公務、非正規・パートを問わず、賃金を得て生活する人の総称です。いま、日本の労働者は5523万、就業者の86.1%(2007年労働力調査結果)です。労働者を「物」のように扱う使用者に対抗するには、みんなで力をあわせることが必要です。
国家公務員も労働者
国家公務員にも労働者として、労働基本権が保障されていました。しかし、今から60年前、占領軍の命令によって、争議権、労働協約締結権を奪われました。それでも先輩たちは、「時間内職場集会」など事実上のストライキでたたかい、多くの成果をかちとってきました。
先進国で、日本のように公務員の労働基本権を制約している国はありません。ですからILO(国際労働機関)は、日本政府にたいして公務員の労働基本権制約はILO条約違反という勧告を、2003年から06年にかけて3回もしています。国公労連は、公務員の労働基本権回復のためにたたかっています。
国公労連の運動の姿は
労働条件改善と行政民主化を両輪で
いま政府は、「構造改革」の重要な柱として、公務員制度改革、道州制の検討や公務の民間開放などを進めています。こうした「改革」は、「貧困と格差」を拡大し、行政の役割を変質させながら私たちの労働条件を低下させています。
また、国と地方をあわせて773兆円(2007年度末推計)もの借金財政(長期債務残高)を口実にして、税制や社会保障制度をさらに改悪しようとしています。
国公労連は、こうした労働者・国民犠牲の悪政に反対し、みずからの生活と労働条件の改善をめざすとともに、民主的な行財政・司法の確立、教育・医療・福祉の充実をめざして運動を進めています。
くらしと職場に憲法を
自民党や財界は、日本を「戦争する国」につくり変えるため、憲法改悪の動きを強めています。自民党の新憲法草案では、戦力の不保持と交戦権の否認を定めた9条2項を削除して、自衛隊を「軍隊」とし、「集団的自衛権」を口実に戦闘行為を伴う「国際協力」も可能にしようとしています。
国公労連は、「国民全体の奉仕者」(15条2項)であり、「憲法遵守の義務」(99条)を負う公務員の労働組合として、「9条改憲」反対を運動の中心にすえ、国民過半数の賛同を求める署名運動や、職場・地域での「9条の会」結成などの活動を進めています。
「公共サービスの商品化」に反対
2001年の1府12省への再編、試験研究機関や自動車検査などの独立行政法人化につづき、国立病院の独立行政法人化や国立大学の法人化(いずれも2004年4月から)が強行され、国家公務員の数が大幅に減らされています。
さらに、教育や医療など国民への公共サービス提供の仕事のほとんどを民間企業に委ね、もうけの手段を提供しようという「公共サービス商品化」の動きが強まっています。
政府の「構造改革」によるこうした動きは、貧富の差で受けられるサービスが違って当然とばかりに、社会的な貧困と格差を拡大し、憲法が保障する健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を奪うものです。
国公労連は、公務員減らしに反対し、「公共サービスの商品化」を許さないため、「競争より公正な社会を」のスローガンのもと、国民の支持を広げる全国的なキャンペーンを進めています。
国民のなかへ、国民とともに
賃金などの労働条件はもとより、「構造改革」に対しても、私たちだけで要求を実現させることはなかなか困難であり、多くの人たちと共同した運動が必要です。
国公労連は、労働組合の全国組織(ナショナルセンター)である全労連(全国労働組合総連合)に加盟し、123万人のなかまと力をあわせてたたかっています。
また、「国民のなかへ、国民とともに」を合言葉に、地域からの共同のとりくみを進めています。こうした運動には、全国8ブロック国公と47都道府県国公が大きな役割を果たしています。
各府省庁の労働組合(単組)の運動をタテ糸に、ブロック国公・県国公の運動をヨコ糸にして、さまざまな活動を進めています。それが国公労連の運動の姿です。
一人でも加入できる「国公一般」
国家公務員一般労働組合(国公一般)は、正規・非正規や派遣・委託を問わず、職場に労働組合がなくても、一人でも加入できる労働組合として、2003年12月14日に結成されました。2008年1月には愛知でも国公一般が結成され、宣伝や労働相談を通じて広く加入を呼びかけています。 
 
国公労働運動の歴史

 

1 労働組合が地球上に初めて誕生
労働組合が誕生したのは、産業革命下の18世紀末のイギリスといわれています。工場制機械工業が発達し、大勢の労働者が一ヵ所で働き、多くの商品をうみ出しました。しかし、それらの生産物と富は、労働者を豊かにすることなく、経営者のものとなり、労働者は低賃金、無権利で、長時間労働により酷使され、ケガや病気、貧困に苦しんでいました。
共済活動から始まり、ストライキを発見
そうしたなかで、イギリスの労働者は仕事帰りの居酒屋(パブ)などで知り合った者同士が、ケガや病気などの相互扶助を目的に自主的な共済活動を始めました。このようななかで労働者の連帯と団結が生まれ、首切りや賃下げ、長時間労働などの無権利状態を解決するために、ストライキなどの戦術が自然に発生しました。ストライキをすることによって労働者は、自分たちが職場や社会を動かす大きな力をもっていることを知ったのでした。しかし、一時的なたたかいでは、圧倒的な力を持ち、政府によって支援されている経営者と対抗するには無力であり、恒常的な団結の組織、すなわち労働組合が必要でした。
8時間労働制の要求からメーデーに
こうして、地球上に初めて労働組合が誕生したのですが、その道のりは平坦なものではなく、政府による弾圧、団結禁止法の制定など、さまざまなハードルがありました。それでも労働者のたたかいは止むことなく、イギリスでは19世紀の前半に団結禁止法が撤廃され、20世紀前半までに労働法制が確立していきました。また、1886年に8時間労働制を要求して、ストライキで立ち上がったアメリカの労働者に連帯するため、世界の労働者に連帯のたたかいが呼びかけられました。これがメーデーの起源ですが、第1回国際メーデーは1890年に行われました。
パブ / 単なる居酒屋ではなく、居住地の寄り合い所(パブリックハウス)という性格の強いもので、マスターが書記局の役割を果たしたり、求人・求職の役割も果たしたといわれています。ストライキになればパブが闘争本部になりました。
近代イギリスの労働法制略年表
1799年 「団結禁止法」制定(これ以前には地域・産業限定の同法が多数)
1824年 「団結禁止法」撤廃(団交権・争議権は制限)
1871年 「労働組合法」成立(同時に刑法を修正)
1875年 「争議権」承認(刑事免責も)
1906年 「労働争議法」(民事免責、ピケット権、同情スト権認める)
1913年 「労働組合法」制定(政治活動認める)
2 日本では19世紀に労働組合が登場
日本では、明治政府によって「富国強兵」政策がとられ、上からの資本主義経済への移行が進められました。政府は官営の工場などを興し、富裕な大商人などに払い下げるやり方で、近代産業資本を育成しました。それらの工場では、高い税金で苦しむ農民の子女、没落士族、職人層などが賃金労働者として働くようになりました。
女性のストライキが“日本初”
そして、日清・日露というアジア大陸への侵略戦争による軍需景気で「産業革命」が進展し、自由民権運動、1885年の山梨県甲府の製糸工場ストライキ(日本初、女工による)、労働組合期成会の設立などを経て、1897年に結成された「鉄工組合」が日本で最初の労働組合といわれています。その後、第1次世界大戦、軍需景気と財閥の形成、日本最初のメーデー(1920年)、製鉄や造船工業における大ストライキ、世界大恐慌などを経て、戦時体制づくりが進められ、1940年に全ての労働組合は解散させられ、第2次世界大戦へと歴史が刻まれました。
恐慌下で官吏も増給のたたかいに
戦前の国家公務員は、絶対主義天皇制のもとで、高等官(勅任官・奏任官)、判任官の「官吏群」とそれ以外の「雇・傭人」というきびしい身分差別、待遇差別がありました。下級官吏の生活は、経済的にはあきらかに労働者化し、熟練労働者をかなり下回る水準にあったので、生活改善の要求は切実でした。激しい物価上昇や恐慌のなかで、賃金引き上げ、減俸反対などに判事、検事も立ち上がり、「下級官吏」も増給運動に参加してたたかいました。
高等官 / 勅任官で天皇が自ら任命した「親任官」(大臣級)と、それ以外の勅命(天皇の命令)で任命された「勅任官」(局長級)、内閣総理大臣が天皇に“推薦”して任命された「奏任官」(課長級)の総称です。その下に、各省大臣等が有資格者のなかから任命した「判任官」が置かれました。これらの分類は、天皇との距離にもとづくものと理解されていました。
戦前の日本と労働組合の登場
1868年 明治維新(封建制?資本主義へ)
1885年 甲府の製糸女子労働者による日本最初のストライキ
1897年 労働組合期成会設立/鉄工組合結成(日本初の労働組合)
1889年 明治憲法発布(絶対主義天皇制)
1894年 日清戦争(?95年)
1900年 治安警察法制定(「労働組合死刑法」?45年)
1904年 日露戦争(?05年)
1914年 第1次世界大戦(?18年)
1917年 ロシア革命/日本のシベリア出兵
1919年 ILO(国際労働機関)設立
1925年 治安維持法制定
1929年 世界大恐慌(?33年)/浜口内閣、官吏1割減俸案:撤回
1931年 満州事変/官吏2割減俸案(「本俸100円以上」に限定させる)
1937年 日中戦争はじまる
1938年 国家総動員法
1940年 大政翼賛会/産業報国会(すべての労働組合解散)
1941年 第2次世界大戦(?45年)
3 戦後の労働組合運動高揚期
第2次世界大戦が終わって日本で最初にできた法律は、占領軍の意向をうけた労働組合法(1945年12月)でした。戦地から生きて帰った人をはじめとする労働者は、戦時体制の重圧から解放され、労働組合をつぎつぎに結成。戦後経済の混乱のもとで、生活を守り立て直す運動の先頭に立ちました。
敗戦から立ち上がる国公労働者
戦後、国公労働者もいちはやく労働組合を結成し、官庁民主化と食糧危機突破に立ち上がりました。「1947年末までに結成されたおもな組合は、大蔵、会計検査院、農林、労働、厚生、財務(国税)、気象、商工(通産)、医療、運輸、文部、総理府恩給、外務、司法、土木(建設)、税関、法務など」(『国公労働運動の五十年史』より)でした。1946年9月には、国公労連のルーツとなる非現業国家公務員の全国官庁職員労働組合協議会(全官労)が結成(20組合9万2000人)されました。
「2・1ゼネスト」の高揚と官公労働運動への弾圧
46年11月に、国鉄、郵便・電電、教職員、自治体、全官労などの官公労の組合は全官公庁共闘(153万人)を結成し、1947年の「2・1ゼネスト」を準備しました。民間労組も相次いで「ゼネスト」参加を表明し、400万人のゼネスト必至の状況となるなか、GHQ(連合国軍総司令部)は前日に禁止命令を発し、ゼネストを中止させました。しかし、このたたかいによって公務員の賃金は倍になり国公の各組合は各省当局との労働協約の締結を促進しました。
官公労働運動の高揚に恐れをなしたアメリカ占領軍は1948年7月、最高司令官のマッカーサーが書簡を出し、これを受けた政府は政令201号により、公務員労働者の団体交渉権を制約するとともに、争議権を一方的に剥奪。同年11月には争議権と協約締結権の剥奪、政治活動を全面的に禁止する国公法改悪を強行しました。この後、官民を問わず吹き荒れたレッドパージにより労働運動は大きな打撃を受けました。

<1945年>
8/15 第2次世界大戦終わる
10/30 大蔵省での組合結成準備会(?47年頃各省庁での組合結成が集中)
12/22 労働組合法公布(46.3.1施行)
<1946年>
5/ 1 復活第17回メーデー
9/26 全国官庁職員労働組合協議会(全官労)結成(国公労連のルーツ)
11/ 3 日本国憲法公布
<1947年>
1/31 占領軍が2・1ゼネスト禁止を命令
4/ 7 労働基準法公布(9.1施行)
5/ 3 日本国憲法施行
10/21 国家公務員法公布(48.7.1施行)
11/ 1 臨時人事委員会発足
<1948年>
6/22 マッカーサーGHQ司令官、芦田首相に公務員の争議禁止を含む国公法改正の書簡
7/31 政令201号で官公労働者のスト権剥奪、団交権制限
11/30 改悪国公法成立(12.3公布、施行)
12/ 8 人事院発足
12/10 人事院初の給与勧告(6307円ベース、完全実施)
<1949年>
4/30 行政整理26万7300人を閣議決定
5/31 行政機関職員定員法成立
<1950年>
9/ 1 レッドパージの方針を閣議決定
<1951年>
1/25 全官労、日本官庁労働組合協議会(日官労)と改称
6/21 官庁労働組合協議会(日官労を解散して官労)を結成
4 人事院勧告制度、ILO87号条約批准をめぐる攻防
弾圧をはねのけて力を回復した国公労働者は、1956年に「国公共闘会議」を結成しました。労働基本権制約の「代償措置」としてできた人事院勧告制度のもと、国公法第28条により官民較差が5%以上ある時は勧告しなければならないのに、人事院は民間との賃金格差に目をつぶり、54年から59年まで勧告をださない事態がつづきました。
統一ストで勧告出させる
1960年の安保闘争の国民的な盛り上がりのなかで統一賃金闘争が発展し、7年ぶりに勧告を出させました。しかし、政府は、「5月実施」と明記された勧告の実施時期を値切り、賃上げは10月実施となりました。
その後、「60年安保」で危機感をつのらせた支配層や当局は、組織破壊攻撃、分裂攻撃を行いました。しかし国公労働者は、組合員の要求を基礎に着実な闘争を発展させて組織的危機を乗り切り、69年11月には9年ぶりに統一ストライキ闘争を成功させて「人勧完全実施」を確約させました。
70年の安保改定期を前に、国民的な公害反対運動や革新自治体のひろがりとともに、ベトナム侵略戦争反対運動などが大きく広がり、この時期、労働組合の賃金闘争も大きく前進しました。
ILO87号条約批准と国公法改悪
国公共闘などの官公労働組合は、労働基本権回復をめざして奮闘しました。しかし、政府は、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護)批准に便乗して、条約の趣旨とは逆に団結権を侵害し、権力に従順な公務員づくりを企図する国公法改悪に着手しました。国公労働者は国公法改悪案を5度にわたって廃案に追い込みましたが、65年に成立させられました。国公労働者はこのたたかいのなかで、みずからの権利状況を国際的視野でとらえることの必要性を学びました。

<1953年>
6/ 8 官労と官公労が組織統一(官労解散)し、官公労働戦線の統一を実現
7/28 官公労国公部会発足
<1956年>
2/ 7 官公労国公部会を国公共闘に改組
<1958年>
8/11 官公労解散大会
11/ 5 警職法反対統一スト(全農林警職法事件)
<1959年>
9/19 総評 国公・地公共闘会議を設置
<1960年>
2/ 2 国公共闘青年婦人協結成
2/29 国公・地公共闘会議を公務員共闘と改組
3/ 3 政府が給与担当大臣を設置
6/ 4 統一ストライキ(安保仙台6・4事件、6.15、22統一ストライキ)
11/12 国公共闘、団結権問題でILO提訴
<1965年>
5/17 ILO87号条約批准と改悪国公法成立
8/31 ILOドライヤー委員会報告書発表
<1966年>
10/26 全逓中郵事件で最高裁無罪判決
<1969年>
4/ 2 安保仙台6・4事件で最高裁上告棄却するもスト禁止違憲の疑い
11/13 統一ストライキ(29分)
<1971年>
7/15 統一ストライキ(29分)
<1972年>
8/15 人事院勧告初の4月実施(10.68%、8097円引き上げ)
5 史上最高29%・3万円の賃上げも
1973年の「年金スト」は、物価スライド制を獲得するなど「国民春闘」への発展方向を示しました。そして、第1次オイルショックによる狂乱物価・物隠しが国民的な怒りを呼び起こし、74年春闘の史上最高の賃上げ獲得につながりました。公務員賃金闘争においても、暫定勧告を引き出し、最終的に29.64%、3万1144円の大幅賃上げを実現しました。
国公共闘から「国公労連」に発展
こうした盛り上がりのなかで、国公共闘を組織的に発展させ「国公労連」が75年に結成されました。このような労働組合運動の前進に危機感をもった日経連は、74年に「大幅賃上げ行方研究委員会」(のちの「労働問題研究委員会」、経団連との統合後は「経営労働政策委員会」)を発足させるとともに、労使協調主義の潮流を進める右翼的な労組幹部と呼応して、賃金の抑え込みをはかりました。その構図は今日も続いています。
労使協調の管理春闘下に
75年春闘では賃上げ率13.1%、76年が8.8%というように、以降1ケタ台の賃上げに抑さえ込まれました。こうして、「管理春闘」といわれる事態が続くようになってしまいました。
78年には、同盟が反共・労使協調のナショナルセンターづくりの方向を打ち出し、総評は80年から賃金要求自粛の方向に傾斜していきました。
日本経団連 / 日本経済団体連合会の略称で、2002年5月に、財界の「労務対策部」といわれた日経連と、財界の総本山といわれる経済団体連合会(経団連)が統合されたもの。70年代前半の労働組合運動の発展に危機感をもった日経連は「大幅賃上げの行方研究委員会」を発足させ、毎年、財界の「春闘対策(労問研報告)」を作り1月の臨時総会で決定していました。

<1973年>
4/23 全農林警職法事件、最高裁1票差で逆転有罪判決
8/ 9 人事院勧告(15.39%、1万4493円引上げ)
12/14 期末手当支給の特例法成立(17日公布・施行)
<1974年>
4/ 4 人事院勧告(期末手当0.3月分増額)
5/30 人事院勧告(給与の暫定措置・本俸の10%増)
7/26 人事院勧告(暫定を含め29.64%、3万1144円引上げ)
<1975年>
4/30 ベトナム戦争終結(アメリカ敗退)
8/13 人事院勧告(10.85%、1万5177円引上げ)
10/ 1 国公共闘会議を連合体化し、国公労連を結成
11/26 公労協スト権スト8日間
<1976年>
7/27 田中角栄前首相ロッキード事件で逮捕
8/10 人事院勧告(6.94%、1万1014円引上げ)
<1977年>
5/ 4 全逓名古屋中郵事件で最高裁逆転有罪判決
8/ 9 人事院勧告(6.92%、1万2005円引上げ)
<1978年>
8/11 人事院勧告(3.84%、7269円引上げ、12月期末手当0.1月カット)
<1979年>
2/20 国公労連、国公労協らで全国公結成
8/10 人事院勧告(3.7%、7372円引上げ)
6 労働戦線の再編、全労連が発足
81年春闘は、3月に発足した第二臨調が公務員の定員、給与、退職金抑制等の検討に着手するなど、政府・財界による公務員攻撃が本格化するなかでたたかわれました。結果は、要求自粛と「ストなし春闘」となり、公務員給与は“政治決着”で、1970年の完全実施以来11年ぶりに「値切り」が強行されました。退職手当削減、地方公務員の定年制などの法案も成立しました。
人勧「凍結」に、俸給表改ざんまで
政府は、82年の人事院勧告(4.58%の賃上げ等)を財政非常事態宣言を理由に「完全凍結」しました。83年には、勧告を値切り、政府が俸給表を改ざんするという暴挙に出て、人事院総裁も政府を批判しました。このような状況のもと、国公労連は、統一ストライキでたたかうとともに、83年5月の全国活動者会議をへて、国民との共闘を重視する「国公大運動」を提起しました。臨調・行革路線のもとで、低額勧告・値切りが続きましたが、86年には勧告を完全実施させることができました。
たたかうナショナルセンター全労連が発足
89年は、ベルリンの壁崩壊、ルーマニアの政権崩壊など、東欧諸国を中心に世界情勢の劇的な変動がありました。また、日本の労働戦線も大再編が行われるなど、まさに歴史の転換点といえる年になりました。11月21日には、二つのナショナルセンターが結成されました。総評が解散し、旧同盟・中立労連などによる「連合」と、日本労働運動のたたかう伝統を引き継いだ「全労連」が発足し、国公労連は全労連に加盟しました。
第二臨調 / 1981年から83年まで設置された「第二次臨時行政調査会」のこと。アメリカに同調して日本の役割分担を強化するために、日本の政治・経済の反動化を目指そうとするもの。憲法が保障する国民の生存権、戦争放棄、地方自治、行政の国民全体への奉仕などの「平和的・民主的原則」をくつがえそうとするものでした。

<1981年>
3/14 第2次臨時行政調査会発足
<1982年>
9/20 人勧完全凍結の閣議決定
12/14 右翼再編のための全民労協発足
12/16 統一ストライキ(2時間)
<1983年>
10/ 7 統一ストライキ(29分)
10/21 人勧6.47%を2%に抑制の閣議決定
<1984年>
10/26 統一ストライキ(29分)
12/11 人勧6.44%を3.37%に抑制する閣議決定
12/20 電々公社(現NTT)民営化法成立
<1985年>
4/17 統一ストライキ(29分、交渉拒否に抗議)
11/ 8 人勧7月実施(3カ月値切り)の閣議決定
<1986年>
11/28 国鉄(現JR)分割民営化法成立
<1989年>
11/ 9 ベルリンの壁崩壊
11/13 公務共闘結成
11/20 統一労組懇解散
11/21 全国労働総合総連合(全労連)結成
      総評解散、連合結成
<1990年>
1/16 国民春闘共闘委員会結成
<1991年>
12/21 ソ連崩壊
7 転機むかえた労働組合運動
90年代もソ連邦の崩壊(91年12月)など激動の情勢が続き、日本経済はバブルの崩壊後、長期不況に入りました。財界は、「21世紀戦略」により、行革・規制緩和、経済構造改革を2本の柱として、大企業に都合のよい経済や財政に変える動きを強めました。95年には日経連が、終身雇用、年功賃金という日本型労使関係を見直す「新時代の『日本的経営』」を打ち出しました。
これに対し国公労連は、財界・大企業本位の行財政を、「国民本位の行財政」に転換する立場で、96年から3年有余のたたかいを展開しました。この間、賃金闘争では、全労連を軸にした国民春闘共闘がねばりづよくたたかい、一貫して率・額ともに連合を上回る賃上げ相場を築きました。
ルールなき資本主義に抗して
20世紀末を迎えるなかで、「ルールなき資本主義」といわれるほどの財界・大企業によるなりふり構わないリストラ「合理化」が強まり、賃下げ・大量失業などが日本経済をさらに悪化させました。また、雇用の流動化政策もすすみ、非常勤、パート、派遣などの不安定雇用労働者が大量に生み出されました。このようなきびしい状況のもとで、全労連と連合の2つのナショナルセンター間に、一致する要求にもとづく部分的な共同が行われるなどの変化もうまれています。
「国民とともに」逆風に立ち向かう
政治も大激動期を迎えました。1993年、自民党の単独政権に終止符が打たれ、非自民の細川連立政権が誕生しましたが、基本的には自民党政治の枠内で、国民の願いとは逆行する悪法が次々に成立したように「オール与党化」が進行している一面もありました。
国公労連は、転機を迎えた労働組合運動を直視し、92年1月に続く99年12月の全国活動者会議で「いま国民のなかへ、国民とともに」のスローガンを確認しました。この基本的立場で、賃金闘争や行政民主化闘争を軸に、国民的な支持をかちとる取り組みを強めました。

<1993年>
1/ 1 欧州連合(EU)発足
8/ 9 細川非自民連立政権発足
<1994年>
3/ 4 小選挙区制法成立
6/29 自民・社会大連立の村山内閣発足
<1995年>
1/17 阪神淡路大震災(死者行方不明 6,400人以上)
3/20 地下鉄サリン事件
5/17 日経連「新時代の『日本的経営』」
<1997年>
4/ 1 消費税3%から5%に
12/ 3 行革会議が1府12省への省庁再編などの最終報告
<1998年>
6/12 中央省庁等改革基本法公布
<1999年>
5/24 日米防衛協力のためのガイドライン関連法成立
8/ 9 日の丸・君が代法成立
<2000年>
1/20 衆参両院に憲法調査会設置
12/ 1 「行革大網」を閣議決定
<2001年>
1/ 6 1府12省庁新体制発足
4/ 1 独立行政法人制度発足
9/11 アメリカで同時多発テロが発生
8 21世紀を生きる公務労働運動をめざして
1府12省庁や独立行政法人制度の発足など行政機構の新体制で始まった21世紀。この間、働くルールの破壊や「小さな政府」づくりなどの構造改革が強引に進められましたが、大企業中心の自民党政治と国民との矛盾は激化。2008年末の「年越し派遣村」に象徴される雇用の破壊や地域の疲弊を進めた構造改革に反対する国民のエネルギーが、2009年8月の総選挙で自民・公明政権を退場させました。
しかし、国民の期待に反して民主党政権は、米軍普天間基地の県内移設や法人税減税に踏みだし、環太平洋経済連携協定(TPP)参加や消費税増税を打ち出すなど構造改革路線の政治に回帰しています。
国民の安心・安全を確保する国の責任
2011年3月11日に発生した東日本大震災。巨大な地震と津波、原発事故が甚大な被害をもたらしました。同時に、行政の縮小、市町村合併をすすめた「構造改革」が被害を拡大しました。一方、被災者救援と被災地の復旧・復興で果たした国の出先機関と公務員の役割があらためて明らかになりました。
2009年12月末の社会保険庁廃止に伴って525人の社保庁職員が分限免職(整理解雇)されてから2年が経過。懲戒処分歴のある職員は年金機構に採用せず、まともな解雇回避も行わない不当解雇です。出先機関廃止などでの公務員の雇用破壊を許さないためにも、全厚生組合員39人の不当解雇撤回のたたかいの強化が重要です。
公務員バッシングを乗り越え、国民共同のたたかいを
国公労連は、いわれのない公務員バッシングを許さないためにも、「財界奉仕の公務員づくり」や「憲法に背く地域主権改革」などの問題を世論に訴えるとりくみを強めています。公務・公共サービスの切り捨てや憲法改悪を許さず、「構造改革」がもたらした雇用や安心・安全の破壊、地方の切り捨てに反対する様々な運動と共同・連帯する公務労働運動を大きく展開することが求められています。

<2002年>
8/ 8 人事院勧告(史上初の本俸切下げ)
11/21 ILO結社の自由委員会報告・勧告
<2003年>
6/ 6 有事関連3法成立
<2004年>
1/ 9 自衛隊をイラクに派遣
6/ 5 年金改悪関連法成立
<2005年>
8/15 人事院勧告(給与構造見直し)
9/11 総選挙で自民「大勝」
10/14 郵政民営化法成立
<2006年>
5/26 行革推進法・市場化テスト法成立
8/ 8 人事院勧告(比較企業規模引下げ)
12/15 改悪教育基本法成立
<2007年>
10/19 行革推進本部専門調査会が労働協約締結権付与の「報告」
<2008年>
6/ 6 国家公務員制度改革基本法成立
8/11 人事院勧告(勤務時間15分短縮)
<2009年>
5/ 1 夏季一時金一部凍結の人事院勧告
8/30 総選挙で自民・公明大敗、政権交代
12/31 社保庁職員525人を分限免職(社保庁解体・民営化)
<2011年>
3/11 東日本大震災で死者不明2万人近く、福島第一原発事故がレベル7
<2012年>
2/29 マイナス人勧含む平均7.8%の賃下げ法案が議員立法により成立 
 
内閣人事局と日本国家公務員労働組合連合会とのやりとり (概要)
   案件 / 人事院勧告に関する要求書の受取り
   日時 / 平成28年8月9日(火) 15:45 〜 16:00

 

国公労連
昨日、人事院は、月例給を708円(0.17%)、一時金を0.1月、いずれも3年連続で引き上げる内容の人事院勧告を行った。
俸給表改定では、若年層で1,500円としたほか、全ての号俸で400円引き上げるとしているが、物価上昇分にも届かず、生活改善にはほど遠い、低額改善といわざるを得ない。さらに、昨年同様、現給保障により俸給表改定が月例給引き上げに結びつかない職員が多数存在しており、「給与制度の総合見直し」により、勧告に基づく賃金改善効果に、地域や年齢による格差を生じさせていることは、重大な制度矛盾である。
また、政府は、8月2日に決定した「来年度の体制整備と人件費予算の配分方針」でも、「給与制度の総合的見直しを着実に進める」としているが、それは賃金の地域間格差を拡大して、地域経済を冷え込ませ、景気回復に逆行するものである。
景気が低迷する中で、国をあげて景気回復をめざし、それに向けて、政府も労働者賃金の引上げや、賃金格差の是正に言及している中で、人事院勧告が、約770万人もの労働者の賃金決定に影響を及ぼすことを踏まえれば、「給与制度の総合的見直し」措置を中止して、地域間賃金格差の是正とともに、物価上昇を上回る大幅な賃金引き上げをおこなうべきであり、したがって、2016年人事院勧告の扱いについては、私たちの要求をふまえた交渉協議に基づく合意のもとで決定することを強く求める。
扶養手当の見直しについて、人事院は配偶者にかかる手当の引き下げと、それらを原資とした子にかかる手当の引き上げなどを柱とする扶養手当の「見直し」を勧告した。この「見直し」で、少なくとも、手当受給者の半数を超える7万7千人余りが扶養手当引き下げとなる。
勧告内容もさることながら、最大の問題は、人事院の手続き面であり、重大な労働条件の不利益変更にも関わらず、我々の再三にわたる主張に耳を傾けることなく、当事者・労働組合との協議や職場合意を得ることなく、一方的に勧告したことにある。
人事院が当事者と協議もせず、一方的に政府・使用者の要請にのみ従った労働条件改悪を勧告するのであれば、人事院勧告制度という「代償措置」が本来の機能を果たしていないといわざるを得ない。
勧告内容が、「代償措置」の体をなしていない以上、勧告に基づく扶養手当「見直し」などあり得ないものであり、勧告の不実施は当然であると考える。
両立支援制度の拡充について、あらためて公務の特質やその実態に合った制度の充実、実効ある両立支援制度の拡充を公務が率先して推進するとともに、制度が十分に活用できるよう、労働時間短縮や実効的な代替要員の確保など職場環境の整備が必要であり、実施に向けた検討を求める。
雇用と年金の接続・定年延長については、政府は、「年金支給開始年齢の引上げの時期ごとに改めて検討」などとしており、再任用の処遇改善を含め、制度は人事院、任用は各府省といわんばかりであり、使用者としての責任が感じられない。
年金支給開始年齢が65歳となる定年退職者が出るまで、あと5年、来年度末の定年退職者は年金支給開始年齢が63歳となる。少なくとも今年度内に対応方針を決めなければ予算要求に対応できない。雇用責任を負う政府・使用者として、この現状をどうとらえ、何を検討しているのか明確に説明する義務があるはずだ。雇用と年金の確実な接続を行うためには、定年延長以外にはなく、直ちに具体化に向けた協議を開始するよう求める。
政府が、再任用で雇用と年金の接続を図るとしている以上、使用者としての雇用責任を果たすべきである。短時間勤務中心の運用が続いているが、各府省任せの対応では限界があり、人事院の今年の報告でも触れているとおり、新規採用者を確保しつつフルタイム中心の再任用が確保できるような中期的な定員管理が可能となるよう政府・内閣人事局の責任と権限で、定員管理の在り方を見直すなど具体的な対策を行わない限り、前進しない問題である。使用者としての責任ある対応を求める。
非常勤職員の処遇改善については、政府は「同一労働同一賃金」を打ち出し、「非正規雇用という言葉をなくす」との決意で格差是正、待遇改善を進める方針を示す一方で、公務職場に働く非常勤職員の問題を放置していることは、政策矛盾と言わざるを得ない。職務給原則にも反する非常勤職員の処遇を改善し、不安定な雇用を是正するため、政府・使用者として労働契約法の準用も含め、制度の抜本見直しに着手すべきである。
非常勤職員の実態調査は、職場での問題点をしっかり把握し、改善する立場で実施すべきである。画一的な「公募要件」や3年一律の雇い止めが人権問題と指摘されていることなど、早急な対応を要する課題もある。均等待遇や常勤化を含む雇用の安定に向け、国公労連と具体的な検討・協議を行うよう求める。
政府は、使用者として、非常勤職員の職務の実態を踏まえ、均等待遇と雇用の安定を図るよう、予算の確保や無期雇用化など具体策を示すべきである。独立行政法人で可能なことが公務でできないわけがない。それが良質で安定した行政サービス提供の観点からも重要と考える。
人事院は、2008年に示した給与に関する指針に沿えば「初任給改善と非常勤職員の賃金改善はイコールだ」などと回答している。ならば、非常勤職員についても、4月に遡及しての賃金引き上げは当然であり、予算措置とともに、各府省で統一的に実施するよう、政府・内閣人事局の対応を求める。
独立行政法人については、民間労働法理が適用され、労働条件決定も労使自治にもとづき決定されることが当然である。この間政府は運営費交付金の削減をちらつかせながら国公準拠の賃金引下げを「要請」するなど、政府による実質的な干渉が行われてきている。労使自治を尊重し、不当な介入・干渉を行わないよう求める。
今年6月に、ILOから日本政府への10回目の勧告が出ているが、「労働基本権の回復を」という基本姿勢に加えて、労働基本権を回復するまでの代償機能についても政府に情報提供を求めていると承知している。その意味で、今回の扶養手当「見直し」の手続きも、人事院が公務員労働者の権利擁護という役割や公平・中立な第三者機関としての責務を投げ捨てたに等しく到底認めることはできない。政府自らが言及した、自律的労使関係制度の確立も何ら議論されていない。この課題一本に絞った議論の場を設定し、相互に真剣な議論が必要だ。具体化を求める。
内閣人事局
昨日、人事院から給与改定に関する勧告が提出されたところであり、速やかに給与関係閣僚会議の開催をお願いし、その取扱いの検討に着手したいと考えている。
国家公務員の給与については、国家公務員の労働基本権制約の代償措置である人事院勧告制度を尊重するとの基本姿勢に立ち、国政全般の観点から、その取扱いの検討を進めてまいる所存。その過程においては、皆様方の意見も十分にお聞きしたいと考えている。
また、併せて両立支援制度に係る勧告及び意見の申出も行われたところであり、この勧告等を踏まえ、皆様方の意見も十分にお聞きしつつ、必要な対応を検討してまいりたいと考えている。
国公労連
具体的な検討にあたっては我々と十分な協議を行って、可能な限り合意に基づいて実施をしていただくよう求める。昨年は異例であったが、本年は臨時国会に向けた速やかな検討をお願いしたい。  
2016年人事院勧告の取扱い等に関する要求書
人事院は8日、国会と内閣に対し、官民の給与較差にもとづき国家公務員の本俸を708円、0.17%、一時金を0.10月引き上げるとともに、扶養手当「見直し」などを勧告しました。
官民の格差にもとづく賃金改定勧告は、私たちが要求した水準には遠く及ばず、物価上昇にも満たない低額で生活改善につながらない大変不満なものです。
また、勧告には、少なくとも7万人以上が労働条件引き下げとなる扶養手当の改悪が盛り込まれました。しかし、その具体案が示されたのは勧告のわずか1週間前であり、協議する時間の保障はおろか、その合理的理由の説明もなく一方的に不利益変更を勧告したことは断じて認めることはできません。政府として労働組合と誠実に協議することを求めます。
国家公務員の賃金は770万人の労働者に直接影響し、地域経済にも多大な影響を及ぼします。「景気回復」のためにも、国が先行して物価上昇を上回る大幅な賃金引き上げを実施し、すべての労働者の賃金引き上げにむけた政策を展開することが必要です。さらには、政府が「同一労働・同一賃金」「均等待遇」に言及しているもとで、非常勤職員の雇用の安定、賃金・休暇などの労働条件改善をはかることが求められています。
以上のことなどから、下記の要求事項について、誠意ある回答と対応を強く求めます。
   記
1.2016年人事院勧告・報告ならびに意見の申し出の取り扱いにあたっては、国公労連との交渉にもとづく合意のもとで決定すること。
(1) 官民較差に基づく給与・処遇の改善をはかること。
(2) 労働条件の引き下げとなる扶養手当の改悪は行わないこと。
(3) 職場実態に則した両立支援制度の拡充をはかるとともに、十分な制度活用ができるよう職場環境を改善すること。
2.雇用と年金の確実な接続を実現するため定年年齢の段階的引き上げを行うこと。当面、定員確保を行うなど希望者全員のフルタイム再任用を保障するとともに、給与水準を引き上げること。
3.非常勤職員の賃金・労働条件の改善をはかり、均等待遇と雇用の安定をはかること。
4.独立行政法人等の賃金決定に対する不当な介入・干渉を行わないこと。
5.労働基本権の全面回復など憲法とILO勧告に沿った民主的公務員制度を確立すること。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
日本教職員組合 (日教組)

 

日本の教員・学校職員による労働組合の連合体である。教職員組合としては日本最大であり、日本労働組合総連合会(連合)、公務公共サービス労働組合協議会(公務労協)、教育インターナショナル(EI)に加盟している。また、かつては旧社会党と共産党及び民主党、その後は民進党、社民党の支持団体の一つであり、両党に組織内候補を輩出している。
概要
日本の教職員組合の中で最も歴史が古く、規模も最大である。日本国憲法や改正される前の教育基本法の精神を基本に、民主主義教育の推進と教職員の大同団結をめざすとしている。
教職員の待遇改善・地位の向上、教職員定数の改善をはじめとする教育条件の整備などを主な目的として活動している。2007年の教育基本法改定、教員免許更新制導入に反対する運動など、教育課題に直接関係する活動のほか、政治的な活動も行っており、入学式や卒業式で国旗掲揚及び国歌斉唱を強制する文部科学省の指導に対しては、「強制」であるとして批判的な立場をとる。こうした日教組の政治色の強い活動に対しては様々な批判や指摘がなされている。
日教組の政治活動が大きな問題となった例としては、日教組系の山梨県教職員組合による政治献金問題や、教職員組合の政治活動問題などがある(詳細は下記の『教職員組合の政治活動への批判』などを参照)。
かつては共産党支持のグループも日教組に属し、社会党右派、同左派、共産党系にほぼ3等分されていたが、1989年の労組再編で共産党支持グループが日教組を離脱し、全教を結成。社会党系だけになった日教組は連合(旧総評系)の有力単産となり、組織として日本社会党を支持した。その後は民主党(現在は民進党)を基軸に社会民主党も支持しているが、岩手県、大分県など社会民主党を軸に支持するところや、広島県のように新社会党を支援するところもある(大分県の例については大分県教職員組合を参照)。
NGOであるEducation International(EI)に加盟している(EIには米国の全米教職員組合など世界のほとんどの教職員組合がメンバーである)。
「国立・公立・私立の幼稚園、小学校、中学校、高等学校、特別支援学校、大学、高等専門学校、専修学校、各種学校などの教職員で構成する組合と、教育関連団体スタッフによる組合を単位組織とする連合体組織」と、自己規定している。現状では小学校、中学校、高等学校の教職員が組合員の大半を占めている。
文部科学省が毎年10月1日に実施している教職員団体への加入状況調査や、厚生労働省が毎年6月30日に実施している労働組合基礎調査などから、日教組の加入者数が緩やかな減少傾向にあることが明らかになっている。
現状
日教組の組織の形態は法人格のない社団であり、そのことに起因する活動範囲、権利能力及び財産管理など(団体名義による契約締結及び口座開設並びに登記などができないこと)の問題を改善するために法人格取得への動きがあるが、その実現は現在もなお難航している。ただし、公式ウェブサイトのドメインjtu-net.or.jpは「公益法人」として取得している。
かつては日本の学校教育に大きな影響力を持ち、文部省(現在の文部科学省)が教育行政によるトップダウン方式で均質かつ地域格差のない教育を指向するのに対し、現場の教員がボトムアップ方式で築く柔軟で人間的な教育を唱え、激しく対立した。その後、1995年(平成7年)に日本教職員組合は文部省(当時)との協調路線(歴史的和解)へと方針転換を表明した。
組織内候補として日本民主教育政治連盟(日政連)に所属する議員を推薦して、国会に送り込んでおり、連合に所属する産別の中では、政治的影響力は大きいとされる。国会議員では衆議院議員に横路孝弘、参議院議員には神本美恵子・那谷屋正義・斎藤嘉隆・鉢呂吉雄がいる。
組織率
公立小・中・高等学校における組織率及び組合員数は、文部省及び文部科学省発表による。単組数は直接的な下部組織のみ。
1958年(昭和33年):86.3%(調査開始時)
2003年(平成15年):30.4%、76単組、組合員数約31万8,000〜33万人
2004年(平成16年):29.9%、76単組、組合員数約31〜32万2,000人
2006年(平成18年):28.8%、76単組、組合員数約29万6,000人
2007年(平成19年):28.3%、76単組、組合員数約29万人
都道府県で組織率に格差があり、山梨県、静岡県、愛知県、新潟県、福井県、三重県、兵庫県、大分県、北海道、大阪東部などで比較的高い組織率を保つ一方、栃木県、岐阜県、愛媛県など、ほぼゼロのところ、和歌山県のように、和歌山市に200〜300人がほぼ集中しているところ、京都府のように、100人前後を組織するにとどまっているところもある。また、2007年10月1日現在の新採用教職員の加入者数は5,560人(約21.7%、前年比0.2ポイント減)。
厚生労働省による「労働組合基礎調査」によれば、私立学校教員や大学教員、教員以外の学校職員を含んだ組織人員は約28万5,000人(2008年6月30日現在)
組合歌
日本教職員組合歌 作詞:今井広史、作曲:佐々木すぐる / 正式な組合歌は「日本教職員組合歌」であるが、現在、集会などでよく歌われているものは、日教組が公募して「君が代」に代わる国歌として1951年に選ばれた「緑の山河」である。
歴史
第二次世界大戦後に日本を占領下に置いた連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)は、「民主化の一環」として1945年12月に教員組合の結成を指令した。既に11月には京都や徳島で教職員組合が結成されていた。12月には全日本教員組合(全教。翌年より「全日本教員組合協議会」)が、また翌年、教員組合全国同盟(教全連)が結成された。これら2つの組織に大学専門学校教職員組合協議会を加えて、組織を一本化する機運が生まれ、1947年(昭和22年)6月8日に奈良県高市郡(現在の橿原市)橿原神宮外苑で日本教職員組合の結成大会が開かれた。大会では、日教組の地位確立と教育の民主化、民主主義教育の推進を目指すと定めた3つの綱領を採択し、6・3制完全実施・教育復興に向けての取り組みを開始するとした。
1950年6月に北朝鮮が韓国に突如侵攻したことで朝鮮戦争が勃発し、連合国軍最高司令官のマッカーサーは警察予備隊の創設を指令、再軍備に道を開き、日本を「反共の砦」と位置づけた。また日本政府も連合国軍による占領終了に伴う主権回復を前にして、「日の丸」「君が代」「道徳教育」復活など、一部から戦前への「逆コース」といわれる教育政策を志向し始めた。戦後教育見直しや再軍備への動きの中で、日教組は、1951年1月に開いた中央委員会でスローガン「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」を採択し文部省の方針に対立する運動を開始した。また、1951年11月10日、栃木県日光市で第1回全国教育研究大会(教育研究全国集会=全国教研の前身)を開き、毎年1回の教育研究集会を開催、現在に至っている。
その後も、「教師の倫理綱領」を定めて新しい教員の姿を模索する一方、文部大臣(現在の文部科学大臣)と団体交渉を行ってきた。
「教育の国家統制」や「能力主義教育政策」に反対する立場を取り、1956年(昭和31年)における教育委員会が住民による公選制から首長による任命制に移行することへの反対、1958年(昭和33年)における教員の勤務評定を実施することへの反対、1961年(昭和36年)における日本の全国統一学力テスト実施への反対、1965年(昭和40年)における「歴史教科書問題」をめぐる裁判(家永教科書裁判)の支援などを行った。
また、同じく「教育の国家統制」に反対する立場から1950年(昭和25年)以降、国旗掲揚と国歌斉唱の強制に対して反対している(なお、この様な方針を掲げる教職員組合は世界では日本のみである)。
国政においては、日教組の政治組織である日本民主教育政治連盟は、1956年の総選挙で日本社会党などから推薦候補20人(うち、日教組組織内候補13人)を当選させ、1956年の参院選では10人を当選させた。
1974年の春闘では、本部委員長をはじめ21人が逮捕され、12都道府県13組合999か所が捜索を受けた。この事件を前後して教師のストライキ実施方法で日教組内で対立をもたらした。また、1980年代の労働戦線統一の論議で社会党系と共産党系が対立し、1989年11月には共産党支持グループが離脱して全日本教職員組合協議会(1991年以降全日本教職員組合、略称:全教)が結成された。こうして日教組を構成していた一部の組合員や単位労働組合(単組)が脱退した。
1994年(平成6年)には、日本社会党の路線変更に伴い、それまで社会党を支持していた日本教職員組合も方針を変更し、文部省(現在の文部科学省)と協調路線をとることに決定し、文部省と和解した。2002年度(平成14年度)から翌年度にかけて施行された文部省告示の学習指導要領では、日本教職員組合がこれまでに取り組んできた「自主的なカリキュラムの編成」運動における「総合学習」の考え方に近いとも考えられる「総合的な学習の時間」が新設された。
時代の変化とともに対立から協調へと変化しており、特に20世紀末から21世紀始めにかけては、日本教職員組合と文部科学省との長期の対立に終止符が打たれたのではないかという捉え方もされている。
離脱・独立
○全日本高等学校教職員組合
日教組は組合員の多くが小学校や中学校の教職員であることから、小・中学校重視の活動を続けてきた。これに不満を持っていた高等学校組合員も多く、文部省の打ち出した高校教員優遇政策に乗り、多くの高等学校の組合が日教組を離脱した。これは当時の高等学校教職員組合のほぼ半数に当たる。1950年(昭和25年)4月8日に全日本高等学校教職員組合(略称は全高教、現在の日本高等学校教職員組合)を組織した。
○全日本教職員組合
1980年代後半、日本教職員組合が日本労働組合総連合会(連合)への加盟の是非をめぐり、三つどもえの対立(いずれも日教組内の三分の一の勢力を持っていた)が激化した。
1.加盟に賛成していた主流右派
2.加盟に消極的な主流左派
3.強硬に反対していた反主流派
その過程で東京都教組の査問問題や日教組四百日抗争など、組織上の混乱が発生した。そして主流左派の妥協により、連合加盟が確実となった1989年(平成元年)9月の定期大会を反主流派のほとんどが欠席したことで分裂は決定的なものになり、反主流派の大半は日本教職員組合から脱退して全日本教職員組合協議会を結成、全労連に加盟した。1991年(平成3年)3月6日、協議会・全教は同じく全労連加盟組合だった日高教一橋派と組織統合し、新組織全日本教職員組合(全教)を結成した。日本教職員組合から離脱した単位労働組合は、青森県・埼玉県・東京都・岐阜県・京都府・奈良県・和歌山県・島根県・山口県・香川県・愛媛県・高知県の教職員組合の12組合であるが、逆に一部の教職員がその単位労組を脱退分裂し日教組に再加盟している。大阪府・兵庫県の教職員組合は組合が分裂した。これらの県以外を対象区域としている組合については、各都府県の教職員組合から離脱したこととされている。日教組は、反主流派の離脱を「日本共産党の分裂策動」として強く非難した。脱退した単組があった都府県のうち、義務教育の教職員を組織する組合についてはすべての都府県、高等学校の教職員を組織する組合にあっては約半数の府県で、日教組中央の方針を支持する教職員による新しい組合の「旗揚げ」を支援した。
○全国大学高専教職員組合
大学教職員組合は、「大学部」という形で日教組に加盟してきたが、大学教組の側では独立した単位組合として認めるよう要求し、日教組中央と対立してきた。 反主流派が全教を結成して日教組を離脱するのと相前後して、大学部も日教組大会をボイコット、新たに全国大学高専教職員組合(全大教)を結成し、日教組から事実上独立した。国公労連(日本国家公務員労働組合連合会)にオブザーバー加盟。日教組は1990年(平成2年)から翌年にかけて各大学教職員組合の脱退を相次いで承認した。あわせて日教組は日教組方針を支持する大学教職員を組織して日本国公立大学高専教職員組合(日大教)を新たに発足させた。しかし日大教の組織拡大は一部の大学、附属校を除き前進せず、日大教の組織拡大は事実上停止した。現在の日教組と全大教は、全大教の大会や教研集会に日教組が来賓あいさつをしたり、給与問題での日教組、日高教と全大教との共同行動が行われたりするなど、一定の共闘関係を築くようになっている。
○その他の教職員組合
連合結成に伴う教組運動の分岐は全教や全大教の結成にとどまらなかった。東京教育労働者組合(アイム'89)、千葉教育合同労組、大阪教育合同労組など、全労協に加盟する小規模の教職員組合もいくつかの地域で結成された。
日教組の関係した活動に関する論議
日教組の活動をめぐっては、教育および教育行政のあり方を巡って、しばしば議論の対象となってきた。
君が代不斉唱 不起立問題
1996年(平成8年)頃から教育現場において、当時の文部省の通達により日章旗(日の丸)の掲揚と、「君が代」の斉唱の指導が強化された。日教組などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、「日の丸」の掲揚、「君が代」の斉唱は行わないと主張した。1999年(平成11年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、「日の丸」掲揚や「君が代」斉唱を求める文部省通達の実施を迫る教育委員会とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。これを一つの契機として「国旗及び国歌に関する法律」が成立した。国会での法案審議の際、政府は「この法を根拠に国旗掲揚・国歌斉唱の強制はしない」と答弁しているが、文部科学省は同法を根拠に教育現場を「指導」しており、国旗掲揚・国歌斉唱を推進する側との対立は続いている。
日教組傘下では、一部の単組で国旗掲揚・国歌斉唱の強制に反対する運動が存在しており、こうした活動を保守派ジャーナリズムがしばしば取り上げるほか、個人の立場で国旗・国歌問題で反対運動に加わる教員について、「日教組の活動」として語られることがある。一方、多くの地域では、日教組加盟組織がそれらの課題に取り組もうとせず、事実上黙認状態であることに対して、反対を貫けと主張する陣営から強い批判を受けている。
教育基本法改定反対運動
2006年(平成18年)、安倍内閣は、「国を愛する心」や「日本の伝統尊重」を盛り込んだ教育基本法改正案を国会に提出した。日教組はこの法案に強く反対し、国会に教育基本法調査会を設けて慎重審議を求める署名運動を展開、200万筆を集めた。また、労働組合・市民団体と共に「教育基本法改悪ストップ!全国集会」とデモを繰り返し開催し、国会前での座り込みなどを行った。また、一部の組合員は、国会前での「ヒューマン・チェーン(人間の鎖)」その他の集会に参加した。この集会には全国の多数の組合員が参加したが、授業のある平日に行われていたため批判もあった。この点について日教組は、「集会に参加した組合員は年休を取り、他の教員に補講等を頼んでいる」と説明した。
ゆとり教育の推進
日教組は、「ゆとり教育」の提唱者であるとされている。
1972年、日教組が「学校5日制」「ゆとりある教育」を提起。
1995年、自社さ連立政権(村山内閣)の誕生により、長年対立関係にあった文部省との協調へと路線を転換。
1996年、文部省の中教審の委員に日教組関係者が起用され、「ゆとり」を重視した学習指導要領が導入された。
2007年、安倍内閣でゆとり教育の見直しが着手されはじめたが、日教組は、「ゆとり教育を推進すべき」という考えを変えていない。
教職員組合の政治活動への批判
北海道教職員組合の政治献金問題をきっかけに、自民党などから教職員組合の政治活動に関する批判がなされた。これに対し、2010年3月に行われた日教組の臨時大会において、中村譲委員長は「教職員組合の政治活動が許されないとの議論はまったく誤り」として、日教組の政治活動は正当だと強調した。また、教員の政治活動に罰則規定を設けるべきだという意見についても、「教育に政治的中立性が求められるのは当然だが、罰則規定を設けるのは、(世界人権宣言などの)国際的な常識などを無視した時代錯誤の考え」と批判した。
教研集会全体集会の中止
○2008年2月2日から3日間の日程で開催された第57次教育研究全国集会(全国教研)において、初日の午前中に開催予定だった開会式を兼ねた全体集会が、中止された。1951年にこの集会が開かれるようになってから、初めての出来事であった。これは、会場として予約していたグランドプリンスホテル新高輪が使用を拒否したためである。会場の予約は2007年3月に行われたが、ホテル側が右翼団体による妨害活動を理由として同年11月に解約を通告した。
○日教組側は右翼団体の妨害活動が行われることは事前に知らせていたとして提訴し、裁判所は東京地方裁判所、東京高等裁判所のいずれも解約の無効と、使用させる義務があることを確認する仮処分を決定した。しかし、この仮処分にホテル側は従わなかった。
○主要紙は相次いで社説を発表し、言論・集会の自由に関わる問題としてホテル側を厳しく批判したほか、日弁連会長も2月8日、談話を発表し、ホテルの対応を批判した。連合は2月1日付けでホテル側の対応を遺憾とする事務局長談話を発表したほか、2月15日にはプリンスホテル系列の施設を利用しないよう呼びかけることを決めた。
○2月18日の衆議院予算委員会における民主党・山井和則委員の質問に対して鳩山邦夫法務大臣が「ご指摘のあった案件、というような個別の案件については法務大臣としてコメントすることは差し控えたいと思っております。あくまで一般論、あくまで一般論として申し上げればいかなる紛争であれ裁判所が公正な審議を経た上で出した裁判、それを無視してあえてこれに反する行動を取られる当事者がもしいらっしゃるとすれば、法治国家にあるまじき事態であると私は考えております」と述べ、舛添要一厚生労働大臣は同ホテルが集会参加者の約190室分の予約を取り消したことについて「旅館業法に違反している疑いが濃厚だ」と述べた。
○2月21日、港区は旅館業法違反の疑いでホテル側から事情聴取を行った。
○2月26日、ホテルの経営陣らが「考えを説明したい」と初めて記者会見に臨んだ。この会見でプリンスホテルの親会社である西武ホールディングスの後藤社長は「憲法は集会の自由を保障しているが、個人の尊重もうたっている。集会当日と前日には周辺の学校で7000人が受験に臨んでおり、街宣車が押し寄せたら取り返しのつかぬ事態になった」と述べ、集会が招く混乱については「予約を受けた時点で調べておくべきだった。反省している」と述べた。また港区からの事情聴取についてホテル側は「集会と宿泊は一体となっており、共に解約した」と説明した。
○4月15日、港区はプリンスホテルの「宿泊拒否」が旅館業法違反にあたるとして口頭による厳重注意を行った。
○一連の騒動について、日教組はホテル側に損害賠償として2億9000万円を請求した。2009年7月控訴審で日教組はホテル側から1億2500万円の慰謝料を受け取る判決が得られた。
日教組系の単組の関係した活動に関する論議
日教組系の単組の活動をめぐっても、しばしば議論の対象となってきた。
ストライキの実施
日教組は教育行政に関する文部省や教育委員会の決定の多くに反対してきたが、その手段としてストライキを用いることがあった。近年では、1998年(平成10年)7月10日の東京都教育委員会による管理運営規則改正に反対した都高等学校教職員組合(都高教)と都公立学校教職員組合(東京教組)による時限ストや、2001年(平成13年)3月21日の北海道教職員組合(北教組)による、1971年(昭和46年)に北海道教育委員会と北教組が結んだ労使協定(46協定)の一部削除に反対する時限ストや、2008年(平成20年)1月30日の北教組による、査定昇給制度導入に反対する時限ストなどがあった。
地方公務員である教職員は、地方公務員法第37条により、いかなる争議行為も禁止されている。しかし、教職員の争議行為を一律に禁止すること自体が、日本国憲法第28条に違反するとする反論もある。
山梨県の事例
○輿石東と山教組の関係について
山梨県教職員組合(略称:山教組)は、民主党の輿石東参院幹事長(当時)の2004年夏に行われた第20回参議院議員通常選挙に向けて、校長、教頭を含む小中学校教職員らから組織的に選挙資金を集めたとして、産経新聞に報道された。産経新聞は、この資金集めが山教組の9つの地域支部や傘下の校長組合、教頭組合を通じ、「カンパ」や「選挙闘争資金」の名目で、山教組の指令により、半強制的に実施されていると報じた。同紙には複数の教員による「資金は輿石東への政治献金として裏口座でプールされた」という証言が掲載された。教員組合による選挙資金集めは、教員の政治活動などを禁じた教育公務員特例法に違反する疑いもあるほか、献金には領収書も発行されておらず、政治資金規正法(不記載、虚偽記載)に抵触する可能性も指摘された。山梨県教育委員会は、山教組委員長や校長ら19人を処分したが、文部科学省は再調査を求めた。また国会でもこの問題が取りあげられ、「法令が禁じた学校での政治活動だ」との追及がなされた。その後、山教組幹部ら2人が政治資金規正法違反で罰金30万円の略式命令を受け、山梨県教育委員会も24人に対し、停職などの懲戒処分を行った。山教組幹部らは「教育基本法改正を前に狙い撃ちされた」と批判したが、こうした山教組の姿勢には批判の声もあがった。また、全国で日教組の組織率が低下している中、山教組は100%近い組織率を維持している。
○山教組が呼びかけた募金について
産経新聞の報道によると、2009年5月に開催された、山梨県教職員組合(山教組)の定期大会で「子どもの学び保障救援カンパ」が採択され、主にあしなが育英会奨学金への寄付を名目として約1億7000万円が集まったが、実際にあしなが育英会に寄付された金額はそのうちの7000万円のみであった。残りの1億円については日教組が加盟する日本労働組合総連合会(連合)に寄付され、その後連合から日教組に助成金として3750万円が交付されたとされる。。 この報道に対し連合と日教組側は、寄付金の使途は就学支援に限定し、募金の趣旨に沿っているので問題ないとしている(寄付金の連合経由での使用は募金の要項でももとから明記されている) 。
北海道の事例
○北海道滝川市でのいじめ調査に対する妨害
2005年、滝川市立江部乙小学校にて、小学6年生の女子児童がいじめを苦にして自殺した。(滝川市立江部乙小学校いじめ自殺事件)この事件について、北海道教育委員会が2006年12月にいじめの実態の調査を実施しようとしたが、北海道教職員組合の執行部は、同組合の21ヶ所の支部に対して調査に協力しないよう指示していたことが報道され、いじめの隠蔽であると批判された。校長は減給、教頭と当時の担任教諭は訓告となった。法務省札幌法務局も事件について調査した結果、この事件を人権侵害事件であると認定した。
○北海道教職員組合の政治資金規正法違反事件
2010年2月15日、北海道教職員組合(北教組)が民主党の小林千代美衆議院議員に対し第45回衆議院議員総選挙の選挙対策費用として1600万円を渡したことに関し札幌地検は政治資金規正法違反容疑で札幌地検が札幌市中央区の北教組本部や小林千代美の選挙対策委員長を務めた北海道教職員組合委員長代理の自宅マンションなど数ヶ所を家宅捜索し、翌3月1日に北海道教職員組合の委員長代理、同書記長、及び会計委員の3人と小林陣営の会計責任者を同法違反の疑いで逮捕した。なお、同事件に対し北教組は札幌地検に対し「不当な組織弾圧」とした資料を配付しただけで事件への説明は無く、「外部からの問い合わせには一切答えないように」と道内支部に対しかん口令を敷いた。
広島県の事例
日教組は、前述の通り、教育現場での国旗掲揚・国歌斉唱の文部科学省の指導に対して強制だとして強硬に反対してきた。 1999年(平成11年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺した。「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱を求める文部省通達の実施を迫る教育委員会とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかといわれた。
同じ広島県で、2003年(平成15年)3月には、小学校の校長が自殺する事件があった。この校長は広島県尾道市の小学校に勤務し、同県が進めていた民間登用制により着任した元銀行員であった。
自殺の原因としては職場環境の違いによるストレスや就労時間の多さなどが考えられたが、現場教員による「突き上げ」が原因であるとする主張も、県内保守派を中心としてあった。さらに、広島県は、文部科学省が行った「是正指導」までは広島県教職員組合(広教組)と広島県高等学校教職員組合(広高教組)と部落解放同盟とを中心に、「解放教育運動」の盛んな地域であった。それは文部科学省の「国旗・国歌強制政策」への反対運動にも結びついていた。この運動について、これに反発する保守派は「教育現場では校長に対する『突き上げ』となっており、それはいじめにも等しい」と主張した。
広島県では1970年(昭和45年)から現在まで12人以上の校長・教育関係者が自殺しており、これらの一部は「解放教育運動の影響は少なからず存在する」とする発言もあった(宮沢喜一の国会発言など)。なお、同事件が発生した後、ネット上の一部で広教組が「殺人集団」と誹謗されたり、広教組本部が入っているビルの玄関に銃が撃ち込まれる事件が起きたりもした。
東京都の事例
○「病休指南」ととられかねない記事の掲載
産経新聞の記事によると、東京都公立学校教職員組合の機関紙「WEEKLY 東京教組」の2009年12月8日付の紙面に「かしこく病休をとる方法」との見出しがつけられた記事が掲載された。記事内容は、勤勉手当など手当の休日数による減額割合や、昇給に影響しない休日日数など、組合員が不利にならない最低限度の減額で最大日数の効率的な病休の取り方等、「病休指南」ととらえられかねないものであった。東京都教育委員会は「教員の病休が深刻な問題となっている状況で、不必要な病休を増長しかねない」として訂正記事の掲載を求めた。東京教組側は記事の意図について、「組合員に病休制度を理解させることにあり、病休を勧めるものではない」とした上で、「真意と異なる見出しを付けたことを反省している」と釈明した。
批判
御用組合的体質の指摘
現場教員のほとんどが加入している組織率の高い都道府県では、組合役員を経験することが、管理職や教育委員会への登用など、出世のための定番コースとなるという、民間企業労組の労使協調路線に類似した人事が行われている事例も存在する。愛知県教員組合がこの典型例である。このような地域では、組合役員が当局とのトラブルを怖れ、組合員の不満を率先して抑圧し、有効なチェック機能を果たさない、単なる御用組合に堕しているという批判もなされている。
また、日本教職員組合の思想や方針をめぐっては意見の内部統一がとれずに組合の一部が分離・独立したことが何回かあり、そのようにして作られた日教組とは別の教職員組合もいくつか存在する。(後述)
批判者による「教育荒廃の元凶」論
55年体制下では革新勢力と連携し自民党政権の文教政策としばしば激しく対立してきた経緯から、自民党の政治家などから日教組が「今日の教育荒廃の元凶」であるとの批判がある。また、産経新聞などの一部メディアも同様の論調である。
近年行われた批判の主な具体例には次のようなものがある。
山田宏は杉並区長在任当時、「自分達の権利だけを主張している日教組は、すでに保護者から見放されており、そのような態度を改めない限り、組織率低下もこのまま続いていくであろう、日本の教育が悪化した原因は日教組にある」と、日教組を批判している。
2005年、当時の外務大臣であった町村信孝(125代の文部大臣であり、初代の文部科学大臣でもあった)もNHK内の番組において、日本の教育がなぜ近現代史を詳しく取り扱わないのかという疑問に対し、戦後の教職員組合がマルクス・レーニン主義的な教え方をしたがるため、文部省が衝突を避けるために近現代史はあまり取り扱わないようにしたのだ、と述べた。
中山成彬の発言に関する論争
2008年9月には、国土交通大臣に就任直後の中山成彬(第5・6代の文部科学大臣)が、「(贈収賄事件のあった)大分県の教育委員会のていたらくなんて日教組ですよ。」「日教組の子供なんて成績が悪くても先生になる。」「(日教組が強いから)大分県の学力は低い。」「日教組は日本のガン」「解体しなければいけない」などの批判を行った。中山は「日本は単一民族」などの発言もしていたため、日教組や野党だけでなくマスコミや、与党からも批判され、国土交通大臣を辞任する結果となった。中山は他の発言に関しては訂正や謝罪をしたが、日教組批判については「事実」であり、撤回するつもりはないと語った。
○この発言の後で行われたJNNの世論調査では、中山の発言に関する国民の反応はほぼ半分に割れ、賛否両論が拮抗する結果となった。
○当時大阪府知事であった橋下徹大阪市長は中山の一連の日教組に対する批判に対し「本質を突いている」と支持の立場をとり日教組を批判した。
○朝日新聞は「日教組の活動が強いところは学力が低い」との中山の主張に対して、「そのような関係は見受けられない」と紙面で批判した。
○産経新聞は、「日教組の強さを勝手に組織率に置き換えている」と批判した上で、「日教組の組織率の高さと組合運動の強さが正比例しているわけではない。組織率が高くても、イデオロギー色が薄く互助組合のようなところもある。」と、組織率と組合活動の過激が比例しているわけではないとの解説を載せつつ、「日教組が強いとは、質の問題であり、イデオロギー色の強い活動をどれだけしていて、闘争的な組合員がどれだけ全体に影響を持っているかということであり、低学力地域には日教組が強い地域が多い」と反論した。
○高崎経済大学教授の八木秀次が、「日教組の強さと、学力には相関関係があり、国民が肌で感じてきたことだ」との意見を述べた。
○三重大学教授の奥村晴彦(情報教育)は、産経新聞の記事の根幹の主張である「『参議院比例区での日教組組織内候補者』の得票数が多いところは学力が低いのではないか」という見方に対しては「(学力)上位10県と下位10県の票数÷有権者数の平均」と、「全国学力テストの成績」とのt検定を行ったところ、P値が0.273であることを示し、統計的には有意な差がないとして、中山や産経新聞の主張を否定する考えを表明した。
座り込み・デモへの批判
日教組が教育基本法改正の反対運動に対して約3億円の資金を投入したことや、授業のある平日に年休をとって国会や議員会館の前で行ったデモや座り込みなどの抗議活動について、「高い給料をもらいながら政治活動していいのか」(中川昭一)、「民間企業で働く多くの社会人は常識が邪魔してできないでしょうね」(清谷信一)などの批判がある。 また、自民党系の教職員団体である全日本教職員連盟は「国会の後ろで座り込みをやったりデモをやったりするのは、本来の教師の姿ではない」と批判している。 これに対して日教組側は、「教育現場への不当な介入に反対しているだけ」などと反論している。
自衛官や警察官への職業差別および、その子弟へのいじめ
日本教職員組合の組合員の中には、自衛官や警察官への差別意識を持つ者、彼らの子供を差別的に扱う者がいたとして、組織としての日教組の体質と結び付けた批判もある。
佐々淳行は自著や産経新聞において、日教組組合員の教師が、警察官と自衛官の子供を立たせて「この子達の親は悪人です!」と吊し上げた事を記している。佐々は激怒してその教師を家庭訪問させたが、教師は反省の弁を述べるでもなく、自民党や自衛隊、警察を非難するばかりであった。業を煮やした佐々が、教育委員会に訴え出て免職させると言うと、教師は一転して土下座して謝罪し始め、「みんな日教組の指示によるもの」と述べたという。
また、同紙社会部次長・大野敏明は、「自衛隊員の息子として教師から虐めを受け、登校拒否になった」と記している。同じく自衛官の息子だった友人は内申書の評価を下げられており、親の職業を言いたがらない者もいたと語っている。
特定の思想と歴史認識
○ジェンダーフリー思想
ジェンダーフリー思想に基づいて推進している男女教育や性教育の事例に対して、行き過ぎているとの批判が存在する。都議が告発した東京で行われた性教育の例は日本文化チャンネル桜の番組でも批判された。正論2003年4月号「これは本気だぞ!「男女平等」教育の真の狙いは革命にあり」(本誌小島新一)の記事においても、ジェンダーフリー思想による行き過ぎた男女教育や性教育を批判している(小学四年生が学ぶ「自慰のマナー」や、女子はズボン、男子はスカート等)。日教組加盟の一部単組では、学校において男子を「君」ではなく「さん」付けで呼名することを推進しているが、一部の教師や保護者からは違和感や懸念も示されている。
○授業における思想・歴史認識の強制
日教組は、国旗国歌の掲揚などについては「思想の強制」として批判を展開しているが、日教組加盟の一部教師が持つ思想については生徒へ強要しているとの指摘がある。2012年1月に開催された教研集会では、授業で原子力発電所の危険性を挙げた後、学科ごとに、原発に“賛成”か“反対”かを問う調査を実施した仙台市の高校における事例が報告された。調査の結果“反対”が少ない学科があったことについて、「教職員の授業における操作的射程は意外と成功しなかった」との報告もなされた。また、中学校の授業で「百人斬り競争」を歴史的事実として教えていることが報告された。これについて藤岡信勝は、中国のプロパガンダを教えている点で問題であり、学習指導要領にも反すると批判した。
日教組と北朝鮮
日教組は支持政党である日本社会党が朝鮮労働党との関係を強化した1970年代から北朝鮮との連帯を強調し、訪朝団の派遣を積極的に行い、北朝鮮の指導者を賛美した時期があった。
指導者・幹部による北朝鮮礼賛
1971年から1983年まで委員長だった槙枝元文は1972年4月の「金日成誕生60周年」に際して訪朝し、同国の教育制度を絶賛した。同年、制度検討委員だった岩井章も北朝鮮における思想教育について感銘を受けたと述べた。
槙枝は、最も尊敬する人物として金日成をあげ、1991年(平成3年)には北朝鮮から親善勲章第1級を授与されている。
晩年、拉致を知ってからは、家族が北朝鮮の話題をふっても乗らなくなったという。息子の一臣は「あの国を許せないという思いが募り、自分のミスジャッジに整理がつかなくなったのでは」と語っている。
主体思想との関連
北朝鮮の公式政治思想である主体思想を信奉する団体日本教職員チュチェ思想研究会全国連絡協議会では日教組関係者が歴代会長職を務めており、2006年には福島県教組委員長、日教組副委員長を歴任した同会の清野和彦会長一行が朝鮮総連中央会館を訪問し、朝鮮総連の徐萬述議長から同会の主催で行われる「日朝友好親善を深めるための第30回全国交流集会」に送られてきた朝鮮対外文化連絡協会名義の祝旗を伝達されている。
北朝鮮による日本人拉致問題への対応
○日朝首脳会談への評価
日教組は2002年の日朝首脳会談を受けて「拉致問題を含めた懸案事項については、日本の国民感情からも直ちに納得できるものではないが、日朝の首脳が国交の樹立への交渉再開に合意したことを評価したい」とする声明を発表し、「日本が侵略、植民地支配を行ってきた国々とのあいだで共有できる歴史認識の確立、それらの国々の個々人を含めた戦後補償の実現、アジアの平和共生のための運動を引き続き推進していきたい」とコメントした。
○拉致問題に対する姿勢
2003年1月25日から28日にかけて奈良県で開催された第52次教育研究全国集会では、北朝鮮による日本人拉致問題を主題にした報告は皆無で、「北朝鮮の国家犯罪は過去の日本の朝鮮統治で相殺される」とする認識が目立った。日朝関係への言及が多い「平和教育」の分科会では、「小泉内閣は拉致問題を最大限利用し、ナショナリズムを煽り立てながら、イラクや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を壊滅しようとしているブッシュに付き従って参戦しようとしている」(東京教組)、「いたずらに拉致問題や不審船問題を取り上げ、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)にたいする敵意感を倍増させている。真相究明・謝罪・補償を訴えることは被害者家族の心情を考えれば当然のことだが、そこで頭をよぎるのは日本の国家が1945年以前におこなった蛮行である。自らの戦争加害の責任を問わずしてほかに何が言えようか」(大分県教組)などの発言があった。また日教組は、拉致問題を扱った教科書について「北朝鮮敵視」であると批判した。
北朝鮮および朝鮮総聯の教職員との交流
日教組は2003年度の運動方針に、北朝鮮の官製教職員団体である朝鮮教育文化職業同盟との交流を掲げていた。
日本国内では、朝鮮総聯の傘下団体である在日本朝鮮人教職員同盟(教職同)とも連携しており、交流集会・研究会を共催している。
2007年2月24日に開催された「第8回日本・朝鮮教育シンポジウム」において、日教組の代表は「日教組は嫌がらせから在日朝鮮人生徒を朝鮮学校の教員とともに守っていきたい」と述べた。  
 
全日本教職員組合

 

日本における教職員組合の全国連合組織のひとつであり、全労連に加盟する団体である。略称は、全教(ぜんきょう)。
1989年11月の日本労働組合総連合会(連合)結成に至る流れの中で、これに反発する単組が日本教職員組合(日教組)の中にも多数あった。これらの内、統一戦線推進労働組合懇談会(統一労組懇)の教職員部会に所属していた単組を中心として、日教組が連合加盟を決定した第68回定期大会(同年9月6 - 9日)をボイコット、日教組を事実上離脱して約2ヶ月後の11月17・18日、全日本教職員組合協議会を結成した。発足時の公称組織人員は18万人。
その後、全日本教職員組合協議会と日本高等学校教職員組合(日高教左派・一橋派)との組織統一により、1991年3月6日、公称21万人の組織(当時の労働省の調査では、実際の組織人員は約16万8千人)として発足した。
現在の加盟単組は、日高教左派加盟単組が31組合(準加盟1)、全国私立学校教職員組合連合(全国私教連)加盟単組39組合、その他24組合が加盟する94単組の連合組織となっている。結成以来現在まで、日教組に次いで2番目の組織規模を持つ教職員組合である。3番目の組織としては全日教連がある。
都道府県別に見ると、教職員組合の中で全教傘下の組織が最大の勢力を持つのは青森県、埼玉県、東京都、京都府、奈良県、和歌山県、島根県、高知県である。
2008年12月発表の文部科学省調査によれば、同年10月1日現在の公立学校における組織人員は約6万4千人(組織率6.4%、前年比0.3ポイント減)、新採用教職員の加入者数は373人(約1.3%、前年比0.4ポイント増)であり、他の教職員組合と同様、漸減傾向が続いている。また、厚生労働省による「労働組合基礎調査」によれば、私立学校教員や、教員以外の学校職員を含んだ2009年6月末現在の組織人員は、前年比2千人減の約10万人である。
日教組活動との違い / 民主的教師論
「教え子を再び戦争に送るな、青年よ再び銃を取るな」を綱領に明記し、日本国憲法と教育基本法、児童の権利に関する条約に根ざした教育の推進、教職員の生活と権利、世界平和を主張していることは日教組と同様であるが、教師は「聖職者」でも、単純な「労働者」でもなく、「民主的教育労働者」であると定義する点が日教組との違いであるとされている。「教師は労働者であるとともに教育の専門家である」として、労働者としての立場と、国民全体と生徒のために働いているという立場を一体とのものとし、教師としての責任を全うしていこうという考え方である。
綱領によれば原則的に組合員の政治活動は自由であり、特定政党の支持はしないことになっている。教職員の経済的、社会的、政治的な個々の政策ごとにそれぞれの政党等と政策合意することで各要求の実現をはかることとされている。日教組は組織内候補者として民主党や社民党の候補者を推薦し、組合活動として「選挙闘争」を行ってきた。全教はこのような活動を「特定政党支持」の誤りと考え、組合としての特定政党の支持は一切行っていない。
その他、日教組や他の教職員組合の労使協調的姿勢を批判し続けている。また、部落差別はもはや存在しないとして「同和教育」完全終結を主張し、現場で反対運動を展開していることも日教組と違う。日教組より、より左翼的とする意見もある。
日教組からの離脱
1989年9月の定期大会で、日本教職員組合(日教組)は連合加盟を決定したが、日本共産党の影響の強い単位労働組合は「日教組はもはや後戻りの出来ない右転落をした」と批判して大会をボイコットし、事実上日教組を離脱。11月に全日本教職員組合協議会を結成した。日教組本部はこれに対抗し、共産党系の専従役員を統制処分に付すとともに、同年12月及び翌年3月の臨時大会で全教加盟組織を日教組から脱退したと見なして構成組織から除外することを明確にする一方、すべての離脱県で、日教組方針を支持する支部・組合員による新組合を旗揚げさせた。
日教組から離脱した単組は青森県・埼玉県・東京都・岐阜県・奈良県・和歌山県・島根県・山口県・香川県・愛媛県・高知県の教職員組合、11組合と私学部。京都府・大阪府・兵庫県の教職員組合は組合が分裂。その他の組合は各県の教職員組合から一部支部や共産党系組合員個人が離脱し結成された。
なお、共産党系が執行部を握る単組のうち宮城県教組や長野県教組は日教組系と勢力が拮抗していたため全教加盟方針が提起できず、宮城高教組、名古屋市立高教組、福井高教組などは、大会や全組合員による批准投票などで日教組離脱方針が否決され、全教加盟は不可能となった。これらの日教組傘下組織と全教は、「教組共闘」という組織を通じて共同行動を行っており、それらの活動を通じて、日教組への浸透と、切り崩しを図っている。
同じ都道府県でも地域によって状況は異なり、ある地域では全教の教職員が多くを占めるが、別の地域では日教組の教職員がその多くを占めるという状態もある。これは、上記のように、都道府県教組から一部組織が離脱して日教組あるいは全教傘下組織が結成された経緯の名残である。 
 
学制百二十年史

 

■第四章 教員及び教員養成
第五節 教員の給与・教職員団体等
一 教員の給与
二 育児休業法の制定
三 教員の福利厚生
四 教職員団体の動向
一 教員の給与
教員の待遇改善の動向
昭和四十六年六月の中央教育審議会答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」は、教員の資質向上のための基本的提言の中で、義務教育の教員の初任給を一般の公務員より三〜四割高くすることを提案している。これは、当時の教員の給与水準は、一般行政職公務員の給与水準及び民間企業の給与水準と比較しても、決して高いものではなく、また、目覚ましい産業経済の発展等もあって、優秀な人材が教職以外の職域を目指し、我が国の将来を担う青少年を育成する教育の場に人材が集まらなくなる傾向が出てきたことが背景となっている。
戦後における教員独自の処遇改善措置は、四十六年制定の「国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」に基づく四十七年一月からの教職調整額の支給措置(超過勤務手当を支給しない代わりに俸給の四%相当額を支給するというもの)に始まったと言ってよい。この制度の創設をめぐって、教員の勤務態様の特殊性や教職の専門性・重要性が論議され、ひいては教職への人材確保と教員給与の抜本的改善の必要性に各方面の大きな関心が寄せられるようになった。自由民主党においても、教員の待遇の抜本的改善等についての提言がまとめられた。
人材確保法による待遇改善
このような状況を踏まえ、文部省は、特に義務教育は国民としての基礎的資質を養うものであることから、優れた人材を確保し、学校教育の水準の維持向上に資するため、昭和四十八年二月、「学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法案」(いわゆる人材確保法案)を国会に提出した。この法案については、政府部内でも他の公務員との均衡が崩れるという懸念から法案作成段階で議論があり、国会に提出してからも、この法律による給与改善計画が四十六年の中央教育審議会答申が提言した五段階給与の導入につながるとして野党や教育界の一部から強い反対があった。最終的には、五段階給与は考えないことを明確にし、必要な修正を行った上で、国会提出以来ちょうど一年を経た四十九年二月成立した。この法律は、教員給与の抜本的改善を計画的に進めるためのものであり、教員の資質向上を図る上で画期的な内容を持つ措置であった。
この人材確保法の趣旨に沿って、四十八年度以降三次にわたる教員の給与の計画的な改善が行われた。その内容は、まず、第一次改善として四十九年三月に初任給、最高号俸の引上げを含む平均九%の給与引上げを行う人事院勧告がなされ、四十九年一月に遡(そ)及して実施された。この結果、教員の初任給は、一般行政職のそれに対し、一五・一%高くなり、また、改善前は初任給は一般行政職より八・六%高いものの、以後経験年数を経るごとにこの高い額が減少し、十五年後には逆転、最高に達しても行政職俸給表(当時)の五等級(県の係長相当)と四等級(県の課長補佐相当)の中間水準であったものが、常に行政職の四等級を上回るように改善された。
第二次は、五十年一月に実施された。それは、俸給表の改定により平均三%、義務教育等教員特別手当(俸給月額の四%相当の定額手当)の新設により、合計で平均七%の改善が行われた。
なお、四十九年九月に施行された学校教育法の一部改正によって、教頭の職が法律上明確化されたことに伴い、俸給表の等級構成(三等級別制)の一部を改め特一等級を新設することとし、教頭については、一等級が適用され、校長については特一等級が適用された。
第三次は、二回に分けて実施された。第一回目は、五十二年四月に義務教育等教員特別手当が引き上げられ(俸給月額の六%相当の定額手当)、また、主任手当、部活動手当が創設されて学校運営における主任の職務や部活動指導の重要性が給与上評価されることとなった。
第三次の第二回目については、五十三年四月に中堅教員の俸給表改善及び義務教育等教員特別手当が引き上げられ(平均月額の二〇%増)、また、主任手当の支給対象拡大、大規模校の校長、教頭に係る管理職手当の引上げが行われた。
これらの給与改善の結果、改善前には例えば校長の場合、行政職の課長補佐と同程度の水準であったのが、部次長と部長の中間水準までになった。また、義務教育等教員特別手当、主任手当、部活動手当などの新設や管理職手当の引上げ等によって、学校教育活動に取り組む教員の待遇改善が図られた。
二 育児休業法の制定
女子教員の増加傾向を背景として、昭和四十年代になって、女子教員に育児休業制度を設けることについて関係者の要望が高まり、四十二年から数回にわたり、議員提案により、その制度化のための法案が提出されてきたが、いずれも審議未了となっていた。四十七年には、勤労婦人福祉法が制定施行され、その中で、事業主に対して育児休業の実施についての努力義務を課した。このようなことを背景として、育児休業の対象として、女子教育職員のほか、看護婦、保母等も対象とすることとして、議員提案による「義務教育諸学校等の女子教育職員及び医療施設、社会福祉施設等の看護婦、保母等の育児休業に関する法律」が、五十年の第七五回国会において与野党議員一致の下に可決成立した。
この法律による育児休業制度においては、国・公立学校の女子教育職員が、その子供が一歳に達するまでの期間を限度として、任命権者が定める期間を育児休業できること、育児休業の許可に際して任命権者は代替教職員を臨時的に任用するものとすること、育児休業期間中は無給とするが、当分の間、育児休業給として共済掛金相当額を支給されることとされた。その後、平成三年五月に民間の労働者を対象とする「育児休業等に関する法律」が、また、同年十二月には「国家公務員の育児休業等に関する法律」及び「地方公務員の育児休業等に関する法律」がそれぞれ成立し、いずれも四年四月一日から施行された。これによって、女子教育職員も含めて一般職の公務員全体について育児休業制度が設けられ、「義務教育諸学校等の女子教育職員及び医療施設、社会福祉施設等の看護婦、保母等の育児休業に関する法律」は廃止された。
新しい公務員の育児休業制度においては、従来と同様に、育児休業に伴い臨時的任用を行うとともに、女子教育職員については当分の間、育児休業給を支給することとしているほか、新たに、一日の勤務時間の一部について勤務しないことを認める部分休業制度が設けられている。
現在、国立及び公立の学校の教員については、出産した教員の九〇%以上が育児休業制度を利用している。
三 教員の福利厚生
昭和三十年代に整備された共済組合制度は、国立・公立・私立のそれぞれの教員の福利厚生を図る制度として、短期給付(医療)、長期給付(年金)及び福祉(保健、住宅貸付等)の各事業の充実を図りつつ発展してきた。平成二年度末現在で、文部省共済組合一四万人、公立学校共済組合一一六万人、私立学校教職員共済組合四〇万人の合計一七〇万人の組合員を擁している。このうち、長期給付の年金事業については、平成七年を目途に公的年金制度が一元化されることとなっており、昭和六十一年度には、全国民共通の基礎年金制度の導入等による給付の一元化が実施された。このように、共済年金については、独自の意味が薄くなってきているが、教員の健康の保持増進や生活福祉の向上等に共済組合の果たす役割は依然として大きいものがある。
他方、高齢化社会と人生八十年時代の到来を迎え、教職員が、退職後も視野に入れた自らの生涯生活設計を確立し、その実現を図っていくことの必要性を背景として、平成四年六月に、地方公共団体、共済組合、職員団体その他の教育関係団体の協力により、国公私立学校の教職員に係る生涯生活設計の総合的推進の中核となる組織として財団法人教職員生涯福祉財団が設立された。
四 教職員団体の動向
日教組の反対闘争
日本教職員組合(日教組)は、昭和二十年代後半から、国の文教行政と対立し、新しい文教施策が採られるごとにストライキを含めた激しい反対闘争を展開してきた。三十年代には、勤務評定の実施阻止闘争(三十二年〜三十四年)、道徳教育を含む学習指導要領の改正に対する反対闘争(三十三年〜三十五年)、全国学力調査反対闘争(三十六年〜三十七年)などの反対闘争がある。四十年代後半になって、日本労働組合総評議会(総評)、日教組等はスト権奪還を目標にストライキ等の実力行使を拡大し、また、裁判、公務員制度審議会及び国際労働機関(ILO)の場に持ち込んで闘争を展開した。
四十九年四月十一日、日教組は、春闘の統一行動の一環として、スト権奪還、賃金引上げなどの目的を掲げて全国的規模で約三〇万人参加の全一日ストライキを行った。これに対し、検察・警察当局は、これらの違法行為をあおる等をした組合幹部の行為が地方公務員法第六十一条第四号に該当するとして、約二〇名を逮捕し、そのうち四名(当時の日教組委員長ら組合幹部)を起訴した(四名のうち三名は、平成元年及び二年の最高裁判決で有罪確定)。
一方、裁判においては、公務員の争議行為をめぐる憲法上の解釈をめぐって最高裁判所の判例上の変遷があり、公務員の職務の公共性と争議行為の態様とを勘案して罰則を適用する必要があるとの限定解釈説を採る最高裁判決があって、勤務評定の実施阻止闘争をめぐる都教組事件の東京地裁判決(四十六年十月)で都教委側が敗訴するなど混乱した状況が見られた。これに対し、四十八年四月の全農林警職法改正反対闘争事件に関する最高裁大法廷判決は、公務員の争議行為の全面一律禁止を定めた現行法の規定は合憲との判断を示し、従来の限定解釈の考え方を変更した。五十一年の岩教組事件の最高裁判決もこの判断を踏襲し、これによって、裁判上の問題には事実上終止符が打たれた。公務員の争議権については、公務員制度審議会においても審議が行われ、四十八年九月の答申において、非現業公務員のスト権については三論併記という形になったが、同年四月の最高裁判決を踏まえ、争議権の問題について憲法解釈をめぐる論議を避けて、立法政策の問題として解決すべきことを基本認識として示している。
また、ストライキによる懲戒処分をめぐっては、ILOへの提訴問題があり、四十六年の国鉄労働組合(国労)等の提訴に始まり、四十八年には日教組、日本高等学校教職員組合(日高教左派)等の大量提訴があった。四十八年から四十九年にかけて採択されたILO結社の自由委員会の報告では、政治ストは結社の自由の原則を逸脱するという指摘がなされるなど、基本的には日教組等の態度に厳しく反省を迫るものであった。なお、四十九年には、同年四月の統一ストによる当時の日教組委員長の逮捕をめぐってILOへの提訴が行われたが、五十三年に、結社の自由の侵害とは言えないとの報告が採択されている。
日教組の分裂
昭和五十年代になっても、日教組のストライキ闘争は続けられ、五十年からの主任制度化・主任手当支給阻止闘争等により、ストライキを反復実施した。このような長期にわたるストライキ闘争により懲戒処分を受けた教職員は多数に上り、この支援のための組合費負担も高まり、労働運動に対する無関心層の増加とあいまって、日教組の加入状況は大きく低下してきた。三十年代には九〇%近くを占めていた日教組の組織率は、六十年には五〇%を下回り、特に新規採用教職員の加入率は三〇%程度で組合離れの傾向は著しくなった。
他方、労働界全体が総評・全日本労働総同盟(同盟)などに分立している状況を再編統一する動き(労働戦線統一問題)が、五十七年ごろから民間労組先行で進行するに及び、この問題に対する日教組方針をめぐり、主流派と反主流派が激しく対立し、更に主流派内部からも執行部批判がなされるなど、複雑な内部対立を生むこととなった。このような動向の中で、六十一年度が委員長はじめ本部役員の改選期に当たっていたが、主流派内で委員長人事をめぐる対立が激化し、六十一年度の定期大会を開催できないという状況となった。その後も、委員長人事問題に労働界再編統一の動向に対する路線問題も絡み、定期大会が開催できないという混迷の状況(いわゆる「四〇〇日抗争」)が続いた。総評が調停に入ったことで、人事・路線問題に関する一定の合意が主流派内でなされ、六十三年二月に六十年七月大会以来、二年七か月振りに第六四回定期大会を開催し、役員人事・予算等を決定して麻痺していた本部機能を回復した。
しかし、その後も、労働界再編統一に対する対処方針(「日本労働組合総連合会(連合)」への加盟問題)をめぐり、日教組の内部対立は混迷の度を深めた。平成元年九月の第六八回定期大会において、日教組は連合加盟を正式に決定したが、この大会は反主流派教組の大半のボイコットにより事実上の分裂大会となった。一方、反主流派教組は同年十一月、全日本教職員組合協議会(全教)を結成、日教組も同年十二月の第七〇回臨時大会で全教加盟の教組を事実上の除名処分とすることを決定し、これにより日教組の分裂が確定した。この日教組の分裂は、各都道府県(高)教組段階の分裂・新組織結成の動きに波及(現在までに二三県において分裂)すると同時に、日教組の組合員数は激減して約四二万人(組織率約三六%)となり、現在では非加入者の占める割合(約四〇%)を下回る状況となっている。
日教組は平成二年六月、連合加盟後、組織分裂後初めての定期大会(第七二回定期大会)において、「参加・提言・改革」のスローガンを打ち出し、翌三年七月の第七三回定期大会では、対話と協調を基本としたよりソフトな表現の運動方針を決定するなど、従来の「反対・粉砕・阻止」の姿勢を現実路線に改める旨を標傍(ぼう)しているが、運動方針の各論部分では、依然として初任者研修、学習指導要領、国旗・国歌、主任制度などに基本的には反対の姿勢を示しており、国の教育政策に反対する姿勢自体に大きな変化は見られない。また、四年三月の第七四回臨時大会では、法人格取得のための規約改正(大会決定事項から「争議行為に関すること」を削除するなど)を行ったが、同大会で決定した春闘方針では、ストライキ闘争をやめるとはしていない。
その他の教職員団体の動向
全日本教職員組合協議会(全教)は、連合の結成と同時期に結成された反連合の全国労働組合総連合(全労連)に加盟し、同じく全労連加盟の日高教左派との間で組織統一のための協議を進め、新組織の名称を「全日本教職員組合(全教)」として平成三年に発足した。全教の運動姿勢は、国の教育政策との対決姿勢を強く打ち出している。
日本高等学校教職員組合(日高教右派)は政治的中立の立場に立ち、関係機関への要請など穏健な活動を展開している。
日教組の闘争方針に批判的な教職員が、日教組から脱退し、教育の正常化等を目標に結成した団体に、日本教職員連盟(日教連)、日本新教職員組合連合(新教組)があったが、両組織間に統一の機運が持ち上がり、五十九年に全日本教職員連盟(全日教連)として統一された。全日教連は、四十九年に結成された全国教育管理職員団体協議会(全管協 校長・教頭が組織する職員団体)などの諸団体とともに、教育の正常な発展を目指した活動を行っている。
教職員等によって組織される教育研究団体(職能団体)には、三十八年に結成された日本教師会と五十年に設立された社団法人の日本教育会がある。 
■第十二章 教育行財政
第一節 国における教育行財政
一 文部省の行政体制
二 文教予算
三 文教関係の税制
第二節 地方における教育行財政
一 地方教育行政
二 地方教育財政

 

一 文部省の行政体制
文部省機構の改革
昭和四十七年の機構改革の後、今日までに文部本省、外局の内部部局において行われた機構改革を要約すると次のとおりになる。
(一)学術国際局の設置 四十九年六月、高等教育の急激な拡大、高度な学術研究の振興や教育、学術、文化の国際交流・協力の推進に対応するため、大学学術局を改組し、高等教育の計画的整備等高等教育を担当する大学局と学術振興と国際交流を担当する学術国際局を設置した。また、学術国際局にはユネスコ国際部を置き、国際的な事務の総合的な推進を図るとともに、日本ユネスコ国内委員会の事務を処理することとし、これに伴い日本ユネスコ国内委員会事務局を廃止した。
(二)昭和五十九年の機構改革 五十九年七月、臨時行政調査会の答申を踏まえ、社会の変化に対応する総合的な文教行政を推進するための機構改革を行った。
ア 総合調整機能の充実強化を図るため、大臣官房に総務審議官を設置するとともに、各局に置かれていた審議官を官房に集中し、機動的対応が行えるようにした。
イ 各局に分散されていた義務教育を中心とする学校教育の人的・物的条件の整備に係る行政を一体的に遂行するため、教育助成局を設置し、同局には財務課、地方課、教職員課、海外子女教育課(六十三年六月までは海外子女教育室)、施設助成課が置かれた。また、これに伴い、初等中等教育局を再編成し、同局では教育内容及び方法等や生徒指導など指導行政を一元的に所掌することとした。
ウ 国・公・私を通じた総合的な大学教育その他高等教育に関する行政を推進するため、管理局で所掌していた私立大学等に係る事務を大学局に移管し、大学局を高等教育局とするとともに、学校法人等私学関係行政の一体的推進を図るため、同局に私学部を設置した。
エ 文化行政に係る企画部門を充実し、本省の事務との連携を強化するため、文化庁の長官官房の庶務課を総務課とするとともに、文化財保護部の管理部門の簡素化を図るため、管理課及び無形文化民俗文化課を統合して伝統文化課を設置した。
以上の機構再編成に伴い、管理局及び従来学術国際局に置かれていたユネスコ国際部を廃止した。
(三)生涯学習局の設置等 六十三年七月、臨時教育審議会の答申を踏まえ、生涯学習体系への移行への積極的対応を図るため、社会教育局を改組して、生涯学習の振興に関し、学校教育、社会教育、体育・スポーツ、文化を通じて、関係施策の企画調整を行う生涯学習局を新たに設置し、同局には生涯学習振興課、社会教育課、学習情報課、青少年教育課、婦人教育課を置いた。また、スポーツに対する国民のニーズの増大と多様化にこたえる一方、我が国の競技力の向上を図るため、体育局のスポーツ課を生涯スポーツ課と競技スポーツ課に分離するとともに、健康教育の総合的な推進を図るため、学校保健課と学校給食課を統合して学校健康教育課を設置した。
(四)教育改革推進本部の設置 なお、五十九年八月に総理府に設置された臨時教育審議会から六十年六月に出された第一次答申を具体化するため、同年六月全閣僚から成る教育改革閣僚会議が設置されたことを受け、文部省として教育改革を推進するため、同年七月文部省内に事務次官を本部長とする教育改革推進本部を置いた。さらに、六十二年八月同審議会が解散した後は、教育改革のための施策を実施していくため、同年八月文部大臣を本部長とする教育改革実施本部を設置した。
所轄機関、附属機関等
昭和四十七年以降、国立沖縄青年の家ほか四カ所の国立青年の家が新たに設置され、また、五十年十月国立室戸少年自然の家を第一号とし、その後、一三の国立少年自然の家が、五十二年五月国立国際美術館が、同年十月国立婦人教育会館がそれぞれ設置されるとともに、五十五年五月国立オリンピック記念青少年総合センターが特殊法人から直轄機関とされた。また、六十一年七月国立社会教育研修所が特殊法人国立教育会館に統合・廃止された。さらに、五十二年五月大学入試センターが、平成三年七月学位授与機構が、四年七月国立学校財務センターがそれぞれ設置された。
審議会の設置
昭和四十七年度末文部省に設置されていた審議会は、中央教育審議会をはじめ、一八審議会であったが、その後、五十三年五月高等専門学校審議会が廃止され、六十二年九月従来の大学設置審議会と私立大学審議会が改組されて大学審議会と大学設置・学校法人審議会が設置され、また、平成二年七月従来の社会教育審議会が発展的に改組され、分科会として社会教育分科審議会を置く生涯学習審議会が設置された。
二 文教予算
昭和五十六年度までの文教予算
昭和四十七年度の国の一般会計総予算額は、一一兆四、六七七億円でこのうち文部省所管の予算額は、一兆一、八一二億円(国の総予算額に占める割合一〇・三%)であった。これが十年後の五十六年度には国の一般会計総予算額は、四六兆七、八八一億円に、文部省所管の予算額も四兆四、六八七億円(国の総予算に占める割合九・六%)に達している。その間、文教予算に関連しては、学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法の制定(四十九年)、私立学校振興助成法の成立(五十年)、養護学校義務制の実施(五十四年)、小・中学校の四十人学級の実施を含む教職員定数改善計画の着手(五十五年)などの重要な施策が講じられている。
国の一般会計予算額も文部省所管の予算額も五十四年度までは一〇%台の増加を続けたが、五十五年度からは一桁台の伸びに落ち込んだ。その背景には、四十八年に起こった第一次石油危機後の不況による租税収入の減少に対処するため、政府は五十年度補正予算からいわゆる赤字公債の発行を余儀なくされ、その後、国の財政が大きく公債に依存するようになった事情がある。このため財政再建が政府の課題となり、五十六年に設置された臨時行政調査会の第一次答申では、「財政の再建と行政の効率化」を「時代の要請にこたえ得る行財政を実現する上で避けて通れない第一の関門」と位置付け、緊急に取り組むべき方策の一つとして、「支出削減等と財政再建の推進」を挙げ、「行財政の徹底した合理化・効率化を進めるべきである」として、五十七年度予算に臨むべき方針を示した。
財政再建下の文教予算
この答申を受けて昭和五十七年度予算案は、歳出規模を厳しく抑制するなど公債発行額を着実に縮減することを基本として編成された。特に、各省庁の概算要求に先立ちその要求の基準を示した概算要求基準において示されている概算要求基準枠については、五十七年度予算からいわゆるゼロシーリングとなり、五十八年度にはマイナスシーリングとなり、文教予算にとっても極めて厳しい対応が迫られた。
この結果、国の一般会計予算の増加率は、五十七年度から平成四年度までの間で年平均約四%で推移し、また、文部省所管の予算額も年平均一%台の低い伸びに落ち込んだ。この間、国債の元利払費の増等により国の予算全体の規模が増大したことにより、一般歳出(国債費や地方交付税交付金を除いた政策的経費)が国の一般会計予算額に占める割合が減少した。文部省一般会計予算額が国の一般会計予算額に占める比率も減少し、昭和五十六年度には九・六%と一〇%を切り、平成四年度には七・四%となっている。しかし、国の一般歳出に占める文部省一般会計予算額の割合は、ここ数年一四%前後で推移している。四年度の文部省一般会計予算の事項別構成比を見ると、義務・養護教育費国庫負担金が二兆八、三〇九億円で全体の五三・二%を占めている。次いで、国立学校特別会計への繰入れが、一兆三、七九六億円で二五・九%、私学経常費助成が三、四二五億円で六・五%、公立学校施設費が二、五〇六億円で四・七%となっている。さらに、育英奨学事業費が八二九億円で一・六%、科学研究費補助金が六四六億円で一・二%となっている。
この厳しい財政事情の下で、文部省予算に占める人件費の割合は、昭和五十六年度に六三・六%であったが、平成四年度には七八・〇%となっており、文教予算は、時代の要請にこたえる新たな政策的経費への対応が難しくなっている。
このような状況の中でも二十一世紀を担う国民の育成を図るため教育施策の着実な推進を図っていかなければならない。特に、昭和五十九年八月に発足した臨時教育審議会は、二十一世紀を展望して我が国の教育全般の見直しを審議し、生涯学習体制の整備、初等中等教育の充実と改善、高等教育の個性化・高度化、学術研究の振興など広範な事項について四次にわたる答申を行った。その中では教育改革を推進するため教育財政の充実と重点配分、教育財政の合理化・効率化などが強調されている。文部省においては答申の趣旨に沿って、各般の教育改革を推進するため予算の重点配分等の配慮を行ってきたところである。そして、臨時教育審議会の答申の趣旨をも踏まえて、平成四年度までに生涯学習を推進するためのモデル市町村事業など種々の施策の推進、初任者研修制度の導入、小・中学校の四十人学級の実施を含む教職員定数改善計画の達成、特色ある教育研究プロジェクトに対する助成を重視するなど私学助成の推進、科学研究費補助金の大幅拡充などの学術の振興、二十一世紀初頭における一〇万人の留学生受入れ計画の推進などの施策を着実に進めてきたところである。さらに、二年三月には芸術文化振興基金、また、二年十二月にはスポーツ振興基金が、それぞれ国と民間の出資を基に設置されるなど、様々な行財政上の工夫も採られつつあるところである。
なお、本格的な高齢化社会の到来する二十一世紀を見据え、着実に社会資本整備の充実を図っていくため、二年六月に「公共投資基本計画」が閣議了解され、、今後十年間におおむね四三〇兆円の公共投資を行うこととされた。この計画の中で文教全体が「生活環境・文化機能」の中に位置付けられている。四年度予算では、この計画の着実な実施を図るため、三年度予算から、いわゆる「生活関連重点化枠」等が設けられており、文部省予算においては、これらを活用して公立学校や国立学校施設、社会教育施設、文化関係施設の整備を行っている。
三 文教関係の税制
寄附金に関する税制
教育、学術、文化、スポーツ等の事業に対して法人や個人が支出する寄附金に関して、1)国又は地方公共団体に対する寄附金、2)使途等の審査により認められる「指定寄附金」、3)「特定公益増進法人」(昭和六十二年度までは「試験研究法人等」)に対する寄附金について、税制上損金算入(法人)や寄附金控除(個人)の上で優遇措置が講じられ、年々広く活用されてきている。
このうち、科学技術の振興に寄与する寄附金の募集を容易にするために三十六年度に創設された「試験研究法人等」については、当初の科学技術に関する試験研究を主たる目的とする法人、学術に関する研究を主たる目的とする法人で日本育英会の奨学金返還免除対象法人、科学技術に関する試験研究に対する助成を主たる目的とする法人、科学技術に関する知識思想の総合的普及啓発を主たる目的とする法人、学校教育に対する助成を主たる目的とする法人、学資の支給貸与や寄宿舎の設置運営を主たる目的とする法人、学校教育法第一条に規定する学校の設置を主たる目的とする学校法人、日本育英会、私立学校振興会(現在の日本私学振興財団)の限定された範囲から、その後、日本学術振興会(四十二年度)、財団法人日本体育協会(四十六年度)、青少年に対する健全な社会教育を主たる目的とする法人(四十八年度)、芸術の普及向上又は文化財の保存活用を主たる目的とする法人(五十一年度)、大学の教授研究のための宿泊研修施設の設置運営を主たる目的とする法人(五十二年度)、放送大学学園(五十七年度)が追加された。六十三年度には、「試験研究法人等」から「特定公益増進法人」に改称されるとともに、人文科学に対する助成を主たる目的とする法人が追加され、その後更に、国立劇場(現在の日本芸術文化振興会)(平成元年度)、財団法人日本オリンピック委員会(三年度)、博物館の振興を主たる目的とする法人(三年度)、日本体育・学校健康センター(四年度)、留学生交流を主たる目的とする法人(四年度)が追加された。
また、昭和六十二年度には、著しく公益性が高いと認定された公益信託についても、特定公益増進法人と同様の優遇措置を講じる「特定公益信託」が創設され、科学技術に関する試験研究に対する助成を目的とする公益信託、学校教育に対する助成を目的とする公益信託、学資の支給貸与を目的とする公益信託、芸術の普及向上又は文化財の保存活用に関する助成を目的とする公益信託について認められている。
寄附金控除については、四十八年度の最高限度額の引上げ(所得金額の一五%から二五%)及び四十九年度の最低限度額の引下げ(一〇万円から一万円)により控除枠が拡大された。
公益法人に関する税制
学校法人、宗教法人、民法法人等の公益法人について、利子所得、配当所得等に係る所得税の非課税措置及び非収益事業に係る法人税の非課税措置や収益事業に係る法人税の軽減税率の措置が講じられている。収益事業に係る法人税の軽減された税率は、この措置は昭和二十七年に設けられたが、四十一年度二三%、五十六年度二五%、五十九年度二六%、六十年度二八%と変更され、六十二年度以降二七%となっている。
また、学校法人が行う収益事業による所得金額を学校法人会計に繰り入れる場合、一定の限度額以内において、繰り入れた金額を損金に算入する措置が講じられている。損金算入の限度額については、この措置が設けられた二十五年度には所得金額の三〇%であったが、四十二年度に五〇%に引き上げられ、五十年度以降は五〇%と年二〇〇万円のいずれか大きい金額となっている。
このほか、平成三年度に新たに創設された地価税において、公益法人の有する土地は、未利用地等を除き原則として非課税とされた。
その他の税制
所得税、住民税において従来から、人的控除として勤労学生控除の制度が設けられていたが、これに加え、家計の教育費等の負担の軽減の見地から、昭和六十一年四月及び六十二年四月の臨時教育審議会答申(「特に高校生、大学生を抱える中高年齢層など教育費負担の重い層への配慮がなされる必要がある。」)などを背景として、所得税については平成元年分から、住民税については二年度から、教育費などの支出のかさむ十六〜二十二歳の扶養親族に係る扶養控除額の割増措置(所得税については一人当たり一〇万円、住民税については同五万円)を講ずる特定扶養親族の制度が創設された。
間接税においては、元年度から新たに消費税が導入された。これに伴い、物品税、入場税が廃止され、これまで免税制度が設けられていた、学校、図書館・博物館、大学・民間学術研究機関等による物品の購入や、学校、社会教育関係団体等主催の催物への入場についても課税されることとなった。消費税は、すべての物品やサービスを課税の対象とすることが原則であるが、政策的配慮により、文教関係では、授業料、入学検定料について非課税とされ、さらに、三年十月から入学金、施設設備費等及び教科用図書が非課税範囲に追加された。
文化財関係では、これまでの、重要文化財や史跡名勝等に指定された家屋及びその敷地の固定資産税の非課税措置(昭和二十五年度)や個人又は法人が史跡等に指定された土地を国又は地方公共団体に譲渡した場合の譲渡所得の特別控除(四十四年度)に加え、四十七年度には個人が国に重要文化財(土地以外)を譲渡する場合の譲渡所得の非課税措置が、平成元年度には伝統的建造物の家屋に係る固定資産税の非課税措置が、三年度には指定文化財に係る土地についての地価税の非課税措置が講じられた。
一 地方教育行政
教育委員会制度の運用をめぐる諸問題
教育委員会制度は我が国の教育制度の中で次第に定着し、今日に至っているが、その運用をめぐって、いくつかの問題が提起された。
第一は、県費負担教職員の任免の際、市町村教育委員会が都道府県教育委員会に対して行う内申に関する問題である。昭和四十二年九月、日教組の指示を受けた福岡県教職員組合のいわゆる「内申阻止闘争」の結果、福岡県教育委員会の一般的指示にもかかわらず、一部の市町村教育委員会から、争議行為を行った教職員に対する処分内申書が提出されないという事態が発生した。文部省は、四十九年十月、初等中等教育局長通達により、都道府県教育委員会が市町村教育委員会に対し内申を求め、最大限の努力を払ったにもかかわらず、市町村教育委員会が内申をしないというような異常な場合には、市町村教育委員会の内申がなくても任命権を行使することができる旨の解釈を示し、これに基づいて、福岡県教育委員会は、内申がないままで懲戒処分を行った。処分を受けた者は、これを不服として処分取消請求訴訟を提起したが、六十一年三月、最高裁は県教育委員会の処分を認容する判決を行い、この問題の解決が図られた。
第二は、教育委員の選任方法の問題である。旧教育委員会法下において行われていた教育委員の公選制は、教育の政治的中立性という観点から問題があったことから、現行の地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法)においては、地方公共団体の長が議会の同意を得て教育委員の任命を行うこととなっている。ところが、東京都中野区においては、教育委員の選任に際して区民投票を実施し、区長はその結果を尊重しなければならないという、いわゆる「準公選」の実施を求める動きが起こり、五十三年十二月、準公選条例が区議会で可決された。このような条例は、長の専属的な固有の権限である、教育委員候補者の選定権に制約を加えるものであることから、文部省は、五十五年二月に初等中等教育局長通知により是正を指導した。しかし、中野区においては、その後の度重なる指導にもかかわらず、五十六年二月に第一回区民投票を実施し、現在まで三回にわたって区民投票を行ってきているが、回を重ねるごとに投票率は低下してきている。
教育委員会の活性化
昭和六十一年四月、臨時教育審議会は第二次答申において、教育委員会の状況を見ると、必ずしも制度本来の機能を十分に果たしているとは言い難いとして、その活性化のため、教育長の専任化(市町村)と任期制の導入などの提言を行った。文部省はこれを受け、「教育委員会の活性化に関する調査研究協力者会議」を発足させ、同会議の報告を参考に、六十二年十二月、教育助成局長通知を出し、時代の進展に応じた行政需要にこたえるため、教育委員及び教育長に適材を選任すること、教育委員会の会議の運営の改善を図ること、地域住民の意向等の反映に努めることなど、教育委員会の組織及び運営の改善充実について指導した。また、六十三年三月、教育長の専任制(市町村)及び任期制の導入を内容とする地教行法の一部改正法案を国会に提出したが、審議未了廃案となった。
二 地方教育財政
昭和三十年代、四十年代は、我が国の経済の高度成長期に当たり、地方教育財政も地方財政の中で、安定した地位を占めることとなり、また教育諸条件も各種国庫補助金の実施で整備・充実が進められた。
四十八年、五十三年の二度にわたる石油危機を経て、我が国経済は、高度成長から安定成長へと移行していったが、国の財政も五十年度から多額の特例国債の発行が行われ、歳入における国債への依存度が高まり、国債発行残高が累積する一方で、高齢化社会への対応などの諸課題に直面するなど、我が国財政を取り巻く環境は極めて厳しいものとなってきた。
これらの状況を背景にして、地方財政における教育費は次のような推移をたどっている。
まず、都道府県の行政費に占める教育費の割合を見ると、四十年代にはおおむね二七%台を推移していた教育費は、五十年代には二九%台を推移し、六十年代になると低下傾向を示し、六十三年度には二七・一%となっている。また、市町村の行政費に占める教育費の割合を見ると、四十年代から五十年代前半まで二〇〜二一%で推移してきた教育費は、五十年代後半から低下傾向を示し、六十三年度には一六・七%となっている。
次に、公教育費総額の負担区分を国・都道府県・市町村の各財政主体別に見てみると、国の負担した教育費は、四十年代後半から五十年代前半まで四六〜四七%の幅で推移してきたが、五十五年度以降漸減し、六十三年度で四二・○%となっている。
一方、都道府県が負担した教育費は、四十年代、五十年代を通じて約三〇%で安定して推移し、六十年度以降漸増し、六十三年度で三三・七%となっている。又、市町村は四十年代後期から二四〜二五%で安定した割合を占めてきている。
このような地方教育財政の近年の推移は、第二次ベビーブーム出生者(四十六〜四十九年生まれ)の影響や、人口の都市集中化等の我が国の人口動態の変化が重要な要因となっていると思われるが、もう一つの大きな要因は、国の財政事情の変化が挙げられる。
我が国の公教育費の大きな部分を占める義務教育費国庫負担制度について見ると、四十七年児童手当法の制定に伴い、児童手当の支給に要する経費を国庫負担の対象とし、四十九年には、学校栄養職員を県費負担教職員とし、国庫負担の対象に含めることとなった。
しかし、国の財政事情が一層の厳しさを増してくる中で、義務教育費国庫負担金についても見直しが行われ、六十年度には、「国の補助金等の整理合理化並びに臨時特例等に関する法律」により、教材費及び旅費については、地方交付税措置により財源確保を図ることとなった。なお、六十年度には、義務教育費国庫負担金以外にも、従来の定時制及び通信教育手当補助金及び特殊教育介助職員設置費補助金についても地方交付税により措置され、いわゆる一般財源化された。
六十一年度には、恩給費及び共済費の追加費用について三年間の暫定措置として、国庫負担率を二分の一から三分の一へ引き下げた。翌六十二年度には、共済費の長期給付に係る経費の国庫負担率を二年間の暫定措置として二分の一から三分の一に引き下げた。平成元年度には、恩給費は国庫補助の対象から外し、地方財源によって措置することとされ、共済費の追加費用等の国庫負担率の暫定措置を二年度までの二年間延長するとともに、共済費長期給付については、負担率を二年度に復元することとし、元年度に負担率を八分の三とした。
三年度には、共済費追加費用等については、国庫負担率の暫定措置(二分の一から三分の一)を継続することとしたが、四年度以降三年間で段階的に地方財源により財源の確保を図ることとなった。
このように、義務教育費国庫負担制度については、その沿革、経緯、経費の性質等を考慮しつつ、見直しを行ってきたが、義務教育の機会均等とその水準の維持向上とを図るという制度の根幹は維持が図られている。 
 
教育労働者の法律論 / 当不払いを合法化した給特法  2009

 

(1)
給特法をめぐるたたかいは戦後の教育労働運動の最大の分水嶺であった。教員が労働者として生きるのか、それとも聖職教師として生きるのかきびしい選択をせまられた。 
そして日教組が超勤手当の請求を放棄して四%の優遇措置を受け入れたときから、全国の教員は労働者として生きることをやめて聖職教師として生きる道を歩くことになる。その意味で日教組の責任は重大であったといえよう。日教組がたたかえなくなった根本的理由が給特法闘争にある。
戦後の教員給与制度の歴史をふり返っておこう。
一九四八年に「政府職員の新給与実施に関する法律」(「新給与法」)が制定公布され公務員の職務給与制度が確立した。この法律で教員は一般公務員より約一割高い給与となった。そのさい、教員の勤務の特殊性から週四八時間以上勤務するものとされ、「超過勤務手当は、教員には支給しない(宿直、日直は除く)」とされた。
一割高い給与の理由について、同年、文部省はつぎのように説明している。「勤務時間を標準としたというよりは、むしろ教育労働の特殊性を理由としている」「(教員の)勤務時間は一定のものとしてきめかねるので、時間外の勤務もきめられず、したがって教員の時間外手当は、原則としてないこととなる。」
つまり、教員の勤務時間の実態を把握するのは困難なため、「教育労働の特殊性」を理由に超勤手当支給を認めないとしたのだ。背景には約一割高い給与措置で、超勤手当を支給しないですませようという文部省の意図があったといえよう。
一九五四年から教員給与は一般職俸給表から独立して特別俸給表となり、いわゆる三本建て(大学・高校・小中校)の差別給与が実施された。さらに、一九五七年に給与制度が改正された結果、従来の教員給与の有利分は解消されて一般職との差がなくなった。
前述した一九四八年の新給与法で、一般公務員より有利な給与措置をとったことと関連して教員に超勤手当は支給しないとされた。だが教員にも労働基準法が適用されるから、本来なら超勤手当を支給しなければならない。そこで文部省は「教員の勤務時間について」(一九四九年)という通達をだして、「教員には原則として超過勤務を命じないこと」を指導方針とした(以下抜粋)。
「二.勤務の態様について
勤務は必要に応じ必ずしも学校内ばかりでなく、学校外で行い得ること。尚教育公務員特例法第二〇条の規定による研修の場合は当然勤務と見るべきであること。夏季休暇等の職員の勤務については、教員の教育能率を向上せしむるため、休暇を研究、講習及び校外指導等に利用せられるよう学校の長は特に配慮すること。
三.超過勤務について
(1)勤務の態様が区々で学校外で勤務する場合等は学校の長が監督することは実際上困難であるので原則として超過勤務は命じないこと。」
すなわち教育能率向上のために授業後職場に拘束するのではなく、校外で自由に勤務できるものとの立場に立っていた。しかも校外自主研修は職務であり、それゆえ勤務時間内におこなわれるものであると明確に位置づけていた。また原則超勤は命じないが必要あれば命じることができるとし、その場合は変形労働時間制を採用するものとしていた。
右の通達の直後に、文部省は再び「教員の超過勤務について」という通達をだしている。原則として超過勤務を命じないが、例外としてつぎの五つの勤務については超過勤務を命じることができるとし、超勤手当を支給してさしつかえないとしている。
「一.宿直  二.日直  三. 入学試験事務  四.身体検査(委員に限る) 五.学位論文審査」
しかし教員に労基法が適用されるかぎり、超勤手当の支払い問題は未解決のままだ。一九五〇年代以降、全国各地で超勤手当請求訴訟がふえていく。とくに一九六八年は日教組による超勤訴訟が全国一斉に提起され、訴訟総数は全国二五都道府県で三〇〇件、原告数は一万三〇〇〇人にのぼる。
この結果五〇年代から七〇年代初頭にかけて、職員会議、各種委員会、運動会・文化祭、修学旅行・遠足、入学式準備、授業の整理・準備、クラブ活動等の超勤訴訟がつぎつぎと勝訴していく。超勤訴訟の勝訴を受けて、一九七一年の時点で全国の過半数の都道府県で教員に超過勤務手当を支給する条例が制定されている。
日教組の全国的超勤訴訟の勝利におされて、政府・文部省も対応をせまられることになる。一九六四年に人事院は給与勧告の付属の報告書において、教員の超勤手当についてつぎのように検討の必要があると指摘した。
「現行制度のもとに立つかぎり、正規の時間外勤務に対しては、これに応ずる超過勤務手当を支給する措置が講ぜられるべきは当然であるが、他方、この問題は、教員の勤務時間についての現行制度が適当であるかどうかの根本にもつながる事柄であることに顧み、関係諸制度改正の要否については、この点をも考慮しつつ、さらに慎重に検討する必要があると考える。」
そして一九六五年の文部大臣と人事院総裁の会談で、教員の勤務実態を明確にする必要があるとして調査・検討することが確認された。さらに同年の文部大臣と日教組との会見で文相は、一九六六年度に教員の勤務実態調査をおこないその結果をまって検討する考えであると文書回答している。
(2)
一九四八年の「新給与法」の成立によって、教員は一般公務員より約一割高い給与となり、超勤手当は支給しないとされた点については前回ふれた。それゆえ文部省は一九四九年の通達で教員には原則超勤を命じないとした。
ところが文部省は、一九四九年の文部省告示で「教育職員の勤務時間が明確にされたので、必然的にその勤務をこえて勤務を命ぜられた場合」「超過勤務手当は支給して差支えない」との態度をとり、超勤を命じた場合超勤手当を支給してよいか人事院に回答を求めている。
それに対し人事院は「支給されるべきである」と回答している。あらためて一般公務員と同じあつかいがされるべきであることが確認されたのだ。
一九五一年の文部省調査普及局長通達では、「公立学校の教員の超過勤務手当を支給すべきか」という質問につぎのように回答している。
「地方公務員法五八条の規定により労働基準法の規定が適用されるので、同法三六条、三七条により超過勤務手当は支給しなければならない。ただいかなる勤務を超過勤務として命ずるかは問題が存するところであるので、給与、勤務時間その他の勤務条件に関する条例により適切な定めをし、且つ具体的運用については勤務時間の割振りを行う等適宜措置されたい。」
超勤制度そのものは認めながら、超勤しても勤務時間の割振りですませてしまおうという方針である。以後この方針が各県の教育委員会によって踏襲され、法のタテマエと実態が完全に背理していく。
要するに教員の超勤については、「教育労働の特殊性」を理由に超勤手当は支給しないというのが戦後の文部省の一貫した方針であった。教師は聖職者であって労働者ではないといった「教師聖職論」や、教育労働は時間で測定できないといった「教育労働の特殊性論」にあぐらをかいて、無定量・無限定・無報酬の労働を強制し、安上がりの教育労働を確保してきたといえよう。
しかし教員にも労基法が適用される以上、超勤手当は支給されなければならない。労働省の行政解釈においても、「教育職員が使用者の明白な超過勤務の指示により、又は使用者の具体的に指示した仕事が、客観的にみて、正規の勤務時間内でなされ得ないと認められる場合の如く、超過勤務の黙示の指示によって定められた勤務時間外に勤務した場合には、使用者は労働基準法三十七条の規定する割増賃金を支払わなければならない」(昭二五・九・一四基収二九八三号)とし、職員会議・運動会・遠足・修学旅行・生活指導・PTAなど各種の行事について超勤手当の対象となると解している。
だがこのような取りあつかいは教育現場においては実施されることなく、超勤手当不支給が固定化していった。
また、戦後初の超勤手当請求裁判「翔鸞小学校超勤手当請求事件」京都地裁判決(一九五〇年)では、教員に「労基法を適用すべき必要性においては他の工場労働者と異るところはない」と判断した。そして教員には労基法三三条三項で超勤を命じてはならないこと、実際におこなわれた超勤については手当を支給すべきであることを命じた。判決文はつぎのようにいう。
「小学校教員と雖も正規の勤務時間の定められている以上それを超えて労働した時間に対し、労基法に従う割増賃金を支払うことは何等妥当性を欠くことではない。この場合被告の主張するような教員の労働が精神労働の範囲に属するとか、労働の成果を時間的に算定することが困難であるとかということは超実定法的な立法論としてならば格別、然らざる限り直接の関係はない」
「教員が校長の明示又は黙示の命令によって正規の勤務時間後に残って仕事をした場合、その居残りの関係は法律的には当該労働契約上の労務の給付がなされたものと解するを相当とする。」
教員の時間外・休日労働について、当時の文部省がどう考えていたか興味ぶかい資料があるので引用しておく。『教育委員会月報』(一九六三年七月号)の「教員の勤務時間に関する問題点」である(以下抜粋)。
「(6)[時間外勤務手当]1.超勤手当は、明示の命令のみならず黙示の命令でも支給しなければならないが(京都地裁昭二五)、現在、一部の県立高校教員に支給されているのみである。また、超勤手当を給与条例に定めていないために、労基法上の支給義務は生じても、地方自治法上支給してはならないという矛盾を生ずる。さらに、超勤手当の予算を組んでいないのに、条例で支給することには疑問がある。」
以上みてきたように、文部省は教育現場の労基法違反の時間外・休日労働を認めながら、法制度の確立や予算措置を講じようとする姿勢は皆無である。現状を放置して従来どおりの安上がりな教育労働を確保しようとしている。もっとも法制度の確立や予算措置がなされなかったことを、文部省の教育労働政策の責任にのみ帰結させることはできない。
戦後の日教組運動は「教師の倫理綱領」で「教師は労働者である」と宣言した。だが戦前からの聖職意識を払拭することはできなかった。そのことは重要な労働条件である超勤手当請求にしても、一九六五年に日教組が運動方針としてかかげるまでほとんど問題にすらならなかったことに象徴されている。教員の無定量・無限定・無報酬の労働を許してきた最大の要因は、聖職意識にあったといえよう。
山本吉人は「教師聖職論」についてつぎのようにのべている。「古くから教員については、「聖職教師論」の立場から、その労働者性を否定したり、一般労働者とは特殊の存在であるとする見解が展開されてきている。しかし、かつてこの議論は、教員の労働条件を向上させるための役割を果したことはなく、逆に、労働運動を抑圧したり、労働条件の切下げのための議論であったことに注目する必要があろう。聖職者論が花盛りであった戦前の教師がいかなる生活をしていたか、いかに国家権力に対し弱い存在であったか、などについてはあらためて論ずるまでもない」(『労働時間制の法理論』総合労働研究所)。
教師聖職論に戦後の教員も強く呪縛されて、時間外・休日労働が賃金によってペイされる労働であるとの認識を失い、「愛による無償労働」を内在化してきた。このような教員の聖職意識を利用して、戦後の教育行政はタダ働きによる無報酬労働を基盤とした学校運営をおこなってきた。
教育愛にあふれた戦後教員集団の中で、権利闘争をたたかう主体は歴史の舞台に未だ少数しか登場していない。教師聖職論に依拠した日教組の労働条件闘争はきわめて脆弱であった。そのことが給特法闘争の敗北につながっていく。
(3)
前回ふれたように、教員には労基法三二条以下の労働時間制が全面的に適用される。ちなみに戦争直後に労基法の原案が検討されたとき、教員を労基法の適用対象とすることに各界の異論はなかった。ひとり文部省のみ、教育労働は「他の労働に比べて特質がある」として教員を適用対象外とするよう主張した。しかし教員を労基法上の労働者から除外すべきだという意見は文部省以外なかったという(山本吉人「教育労働者の労働時間」『季刊 教育法』三号)。
時間外労働については、労基法三三条三項(時間外・休日労働)は非現業公務員を対象とするので教員には適用されない。労基法上適用されるのは、三二条二項(変形労働時間制)と三三条一・二項(非常災害)および三六条(労使協定)である。このうち三三条一・二項は非常災害時のときの例外であるから問題外である。三二条二項は同法の中では悪名高いもので教員には適用しがたい。したがって三六条以外には教員に超勤を認めることは不可能で、三六協定なしには超勤をおこなわせることはできない。
ところが三六協定による超勤は教育現場では実施されなかった。山本吉人はその点についてつぎのように書いている。「その理由は教育の特殊性によるものか、組合側の弱さによるものか、教育行政当局の無理解によるものか―いずれにしても労基法違反であったことはまちがいない」(山本・前掲論文)。三六協定が締結されなかった最大の理由が、「教師聖職論」に依拠した「組合側の弱さ」にあったことはまちがいない。
しかし日教組も一九六〇年ごろからようやく超勤手当獲得闘争に取り組む。職場における超勤を明確にし、それを当局側に確認させ、超勤手当を獲得する運動を進めていく。日教組が超勤手当問題を具体的な運動方針として提起したのは一九六五年である。勤務実態調査の実施、超勤排除と勤務時間厳守の要求、原則超勤はおこなわないこと、やむをえずおこなう超勤については三六協定による超勤手当請求等を提起している。
日教組の運動方針をうけて、各県教組は県人事委員会に超勤手当請求の措置要求を提訴していく。その最初の措置要求闘争が一九五八年の千葉県教組の措置要求である。以後島根・宮城・広島・東京・静岡などの各県でも超勤手当請求の措置要求が提訴された。県教組の措置要求闘争に対し、一九六〇年の福島県人事委員会の判定を筆頭に多くの人事委員会が超勤手当を支給すべきであるという判定をだした。
この判定に対して各県教委は超勤を命じないということで対処しようとした。そのため教組側は裁判に提訴するという戦術にでる。とくに一九六八年には政府自民党が提出した「教育公務員特例法改正案」に対抗するため、日教組は全国一斉に超勤訴訟を提起した。その結果超勤訴訟は二五都道府県で三〇〇件をこえ、原告数も一三四四〇人にのぼっている。
一九六五年一二月、静岡地裁は静岡高教組事件で職員会議出席の超勤手当の支払いを命ずる組合側勝訴の判決をだした。判決の要旨はつぎのとおりだ。
「勤労者である教職員の場合、勤務時間も定められており、無定量の奉仕義務はない。校長は労基法上の使用者であり、学校日誌や職員会議録を調べた結果、職員会議のための超勤を命じた事実が確認できるので、県は超勤手当支払いの義務を免れることはできない。」
静岡高教組事件での当局側の敗訴は、当事者である静岡県教委だけでなく文部省もおどろかせたという。従来教育行政が否認してきた超勤を真正面から認め、超勤手当支給を承認するもので全国的な影響は必至であった。そうなると教員のただ働きによる安上がりな教育労働の確保は困難になる。文部省は勤務時間管理の適正化をせまられることになる。
一九六六年一月には静岡市教組事件の静岡地裁判決で、休日の課外活動参加について超勤手当請求が認められている。その後も大阪・東京・盛岡・松江等の地裁で入学式・運動会・文化祭・修学旅行・クラブ活動等で超勤手当支給を命ずる組合側勝訴の判決がつぎつぎにだされていく。
超勤訴訟で敗訴した文部省は「静岡方式」を参考に変形八時間制の指導にのりだす。静岡方式とは地裁判決で敗訴した静岡県教委が、規則を制定して変形八時間制の実施を指導したことをさす。変形八時間制とは、四週間を平均して一週間の労働時間が四八時間であれば、特定の日に八時間または特定の週に四八時間をこえて労働させることができるという制度である。静岡県教委が変形八時間制を採用したのは、超勤を合法化し超勤手当を支給しない意図からであった。
変形労働時間制は「交替制による労働」や「夜間あるいは長時間フル操業を必要とする企業」に適用されるもので、教育労働に適用するのは制度の濫用であり不法・不当である。にもかかわらず文部省は変形八時間制のための条例・規則改正のモデル案までしめして指導を強化していく。それに対し日教組は変形八時間制反対の運動を展開し、一九六七年にはその撤回要求を文部大臣に提出した。だが文部省の変形八時間制の指導は、多くの教育委員会が採用を見合わせたこともあって十分にその成果をあげることができなかったとされる。
日教組の超勤訴訟の勝訴におされて、政府・文部省も緊急の対応をせまられていた。すでに一九六五年文部大臣と人事院総裁の会談で、教員の勤務実態を明確にする必要があるとして調査・検討することが確認されている。同年日教組は文部大臣に対して超勤手当制度の確立を要求した。中村文部大臣は日教組代表との会談で、「日教組の要求に対しては文部省としては誠意をもってとりくむ。そのため昭和四一年度に約八六〇万円の予算もって教員の超過勤務の有無について全国実態調査を行ない、その結果を得てさらに日教組と話し合い解決のための結論をだす」という確約をおこなった。
一九六六年四月から翌年の四月まで、一年間にわたって文部省の教員勤務実態調査が実施された。調査の結果、教員の超勤は一週間平均で小学校二時間三〇分(月一〇時間)、中学校三時間五六分(月一五時間四五分)、高校三時間三〇分(月一四時間)であった。しかしこの調査では自主研修や宿日直を対象外とし、さらに学校外の勤務のうち学校行事以外を除外している点できわめて恣意的なものであった。日教組が一九六三年に実施した超勤調査では、一週間あたり小学校一六時間四七分、中学校一二時間三四分であった。週六〇時間労働という日教組調査こそ、教員の労働実態を正確に反映していたであろう。
この調査にもとづいて文部省は一九六七年に超勤手当制度確立の方針を内定し、日教組に「一九六八年度から超勤手当を支給する方針である」旨回答している。国会では衆参両院文教委員会で劔木文部大臣が超勤手当支給を再三にわたって言明した。そして一九六八年度予算編成ではその概算要求として六三億円を要求した。教員一人当り週二時間の超勤をすると想定し、その手当約一二〇億円の半額国庫負担分だった。六三億円とは給与月額の四・三%分である。前記文部省調査でも超勤分は平均約九%で一〇四億円が必要とされていたから予算要求は半額程度にすぎない。
文部省の超勤手当支給方針に対し、予算審議の段階でまず大蔵省が財政硬直化を口実に予算削減を主張した。さらに自民党文教部会が、「教師は労働者ではないから、労基法にもとづく超勤手当は支給すべきではない」と猛反対した。文教部会は教員への優遇措置で教員を労基法から適用除外せよと主張した。その結果文部省の超勤手当支給方針は撤回される。
そこで自民党・文部省は特別立法によって超勤問題を解決しようとし、超勤手当不払いを既成事実化する法律づくりに奔走する。これをうけて国会での劔木文部大臣の答弁も変化する。「教員の超過勤務を解決する方法は、超勤手当を支給するか超勤手当を支給しないですむ給与体系にするかどちらかだ。超勤手当を支給しないですむ特殊な給与体系ができれば超過勤務というのを考えなくてすむ」と。
こうして一九六八年度予算では一五億円の「教職特別手当」の予算が計上された。教職特別手当は超勤手当ではなく、教員の「勤務態様の特殊性」に対する手当として支給するものと閣議決定された。この閣議決定にもとづいて一九六八年「教育公務員特例法改正案」が国会に提出された。
(4)
一九六八年に国会提出された「教育公務員特例法改正案」の内容はつぎのとおりだ。
(1)教員の勤務態様の特殊性にかんがみ「教職特別手当」(給料月額の四%)を支給する。
(2)それとひきかえに労基法三七条(時間外手当・休日手当)を適用除外する。
日教組は「教特法改正案」は教員に無定量勤務を強いるものだとして、労基法にもとづく超勤手当制度を確立するよう灘尾文部大臣に申し入れた。そして法案阻止のため、国会審議の山場にストライキでたたかうことを決定した。
結局、教特法改正案は廃案となった。原因は日教組や野党の反対運動もさることながら、特別手当は超勤手当の変形だという自民党内部の異論もあったという。自民党には是が非でも法案を成立させようという熱意がなかったし、大学紛争でそれどころではなかったという事情もあった。
翌一九六九年、自民党文教制度調査会は六%の「教職特別調整手当」を支給する法案を国会に提出する動きをみせた。この年の二月には静岡高教組事件が東京高裁でも勝訴し、最高裁判決の勝訴を目前にしていた。それゆえ政府も超勤問題の解決を急いでいた。
こうした自民党の動きに対して、日教組は労基法にもとづく超勤手当支給という原則を放棄してしだいに条件闘争へと傾斜していく。一九六九年一月の全国戦術会議で、(1)教員に対して超勤命令がだせないよう法的措置をとらせることを前提として、(2)超勤手当請求権を一時的に留保し、包括超勤手当分として八%を支給させる運動方針をうちだした(『日教組三〇年史』)。
この運動方針に対して中央委員会では、「手当要求は賃金改善には役立っても労働条件改善にはならない」「労基法適用排除を認めるたたかいは超勤闘争の方向を不明にする」といった反対意見がだされた。
右の自民党案に対し、社会党が女子教員育児休暇法案とひきかえに接近しほとんど妥結するところまで進捗した。だが日教組の反対で社会党が態度を変えたため法案の国会提出には至らなかった。
八方ふさがりとなった超勤問題は人事院勧告をまつほかになかった。しかし人事院の作業は政治諸勢力の圧力で難航していた。一九七〇年にはいると日教組は超勤手当制度の確立を要求して人事院と交渉を開始した。人事院は超勤制度については日教組と話し合い別途勧告する旨回答した。そして同年一二月に勧告をだすことを予告していた。
人事院勧告が予告されると、日教組は一九七〇年一二月の中央委員会でつぎのような運動方針を提起した。
(1)職員会議・学校行事など、測定可能な超勤に対しては労基法三七条にもとづく超勤手当を要求する。
(2)教育労働の特殊性にかんがみ、自主研修や家庭訪問などの自主性・自発性にもとづく超勤に対しては四〜八%の特別手当を要求する。
測定可能な超勤には超勤手当を、測定不可能な超勤には特別手当をという二本建て要求である。「無定量勤務を可能にするすべての法案を阻止する」としていた昨年までの運動方針を変更したのだ。これは事実上自民党の主張する「教育労働の特殊性」を認めるものだった。
この戦術転換について槇枝書記長は、「これまでの日教組の要求は、正直いって適切でなかった。測定できない自発的研修などがある現実は認めなければならない」とその理由をのべている。
日教組の方向転換に対しては内部で激論と対立があったといわれる。中央委員会には反戦青年委員会のメンバーを中心に組合員約五〇名が会場の教育会館に乱入し、二本建て案は中教審路線への妥協だとして執行部案の撤回を求めて演壇を占拠し、日教組本部員が実力排除する騒ぎがおきた。当時の日教組書記の望月宗明は、「ズルズルと右に押し流される日教組を、給特法のいきさつで思い知しらされた若い教育労働者の、それは叛乱であった」と書いている(『ぼくの戦後三〇年 日教組とともに』)。
一二月の中央委員会執行部原案に対して都高教からはつぎのような反対意見がだされた。
「超勤に対する最高裁判決がだされようとしているとき、日教組がなぜあきらかな包括超勤手当要求を提起したのか理解できない。教員には補足できない労働があるのだから一般公務員より正規の勤務時間を短くせよという要求になぜしないのか。これでは四四間以上働きますということを是認する結果になる。四〜八%の包括超勤をもらってしまうと、半永久的に無定量勤務をやらされることになる。」
最高裁判決をださせて超勤制度を確立し、つづいて時短を獲得せよという都高教の修正案は、当時の情勢分析からいって適確であった。包括超勤をもらうと半永久的に無定量勤務をやらされるという都高教の批判は、重大な問題提起をしていたが執行部にその危機感はなかった。
日教組は戦後最大の労働条件闘争を、勤評闘争以来の「非常事態宣言」を発して組織の総力をあげて取り組む必要があった。だが条件闘争にシフトした執行部は、大衆闘争を放棄して水面下で妥協工作をおこなっていた。当時、槇枝書記長と西岡政務次官の非公式会談が何度もおこなわれ、反主流派から「なれあい」と批判されていた。
日教組は二本建て案で人事院と何回も事前交渉し、この案に沿った勧告をだすよう要求した。だが日教組の見通しは甘かった。人事院は二本建て案を逆用して超勤手当を否認する勧告をだす。一九七一年二月、人事院は「意見の申出」という形で人事院勧告をおこなった。勧告の要旨はつぎの通りである。
「超過勤務制度は教員にはなじまない。よって、教員の職務と勤務の態様の特殊性に応じたものとする必要がある。
(1)正規の勤務時間内であっても、業務の種類性質によっては学校外における勤務により処理しうるよう運用上配慮をする。また、夏休み等の学校休業期間については教育公務員特例法一九条・二〇条の定の趣旨に沿った活用をはかる。
(2)教員の勤務は、勤務時間の内外を問わず包括的に評価することとし、現行の超勤手当および休日給の制度は適用しない。これに替えて新たに給料月額の四%の教職調整額を支給する。
(3)教員に超勤を命令ずる場合、文部大臣は人事院と協議してその基準を定める。」
これは現行の労働法制度を根底からくつがえす勧告であった。また一九六九年に発表された授業時間中心の時間管理という人事院構想からも大幅に後退した内容であった。
勧告には大きな矛盾点があった。第一に、「教員の職務と勤務の態様の特殊性」とは何か、なんら具体的に説明することなく超勤手当不払いの理由とした。第二に、実質的には四%は超勤手当でありながら表向きは超勤手当ではないとして説明した。
同年二月の日教組の全国委員長・書記長会議では、つぎの三点を基本にしてたたかうことを確認した。
(1)超勤の一方的命令行為は排除する。(2)超勤の業務と時間限定は日教組と文部省の協議で決める。(3)協議による超勤については労基法三七条にもとづく特別手当を四〜八%支給する。
この運動方針は、労基法三六条・三七条の適用を主張していた前年一二月の段階よりさらに後退した内容であった。執行部原案に対し、「無定量勤務の強要を阻止するとともに、時間外労働に対しては労基法三六条、三七条の適用を要求してたたかう」という修正案が福岡・宮崎・北海道からだされた。この修正案の票決結果は賛否同数で議長採決でかろうじて原案が可決された。
日教組がこのような柔軟路線に方向転換した背景には、超勤手当一本槍では人事院が認めないだろうという情勢判断もあった。しかし最大の理由は、「もらえるものはもらおう」という組合員の声、特に中高年層の強い要求を無視できなかった点にある。野ばなしの超勤がおこなわれている現実に照らし、四%の特別手当は給与改善でありこの点を評価する教員も多かった。 
(5)
文部省は人事院勧告にもとづきただちに立法化にはいり、閣議決定をへて一九七一年三月、「国立及び公立の義務教育諸学校等の給与等に関する特別措置法案」(「給特法」)が国会提出された。法案は一一条からなるが、一九六八年に廃案となった「教特法改正案」とほとんど変わりはない。内容はつぎのとおりだ。
(1)(教員の職務と勤務態様の特殊性にもとづき)俸給月額の四%に相当する「教職調整額」を支給する(三条)。
(2)「教職調整額」の支給とひきかえに、公立学校においては労基法三三条三項を適用し、三七条(時間外手当・休日手当)を不適用とする(一〇条)。
(3)「教職調整額」を給与とみなして、退職金・期末手当などへのはね返りを認める(四条・九条)。
(4)超勤をさせることができるのは、文部大臣が人事院と協議して定める場合に限る。この場合においては、教職員の健康と福祉を害することとならないよう十分な配慮がなされなければならない(七条)。
衆院文教委では社会・公明・共産の三野党が修正案を共同提案した。修正案の内容は測定不可能な超勤には調整手当を、測定可能な超勤には超勤手当を支給すべきだという日教組の方針にそったものである。そして超勤をさせる場合には当局と組合との協議で決定するというものだ。
だが修正案の提案理由が十分おこなわれないうちに、法案は衆院文教委で強行採決され、衆院本会議を通過した。また、参院文教委でも自民党は審議を打ち切り強行採決し、参院本会議で可決されて五月末に公布された。
こうして、戦後の教師像を根本から変革するといわれた給特法は翌一九七二年一月に施行されることになった。
しかし、国会段階で野党のはげしい反対があり、自民党の強行採決という形をとったが、それとても一部野党と与党間で「前もってほぼ話し合いがついていた」とする新聞報道もあった。また日教組の反対闘争もかつての教特法改正案のときとはちがい低調であった。日教組がなれあい強行採決を自民党に頼んだというデマまで飛んで執行部を困惑させたが、そうしたデマが流れてもおかしくないほど日教組と文部省の水面下での妥協工作がおこなわれていた。
法案に対する日教組の態度があいまいであったのは、給与の値上げにつながる給特法を歓迎する多くの組合員の声を無視できなかったからでもある。手当なしの超勤が現実に数多くおこなわれている実態に照らし、四%は給与改善であり、この点を評価する教員が多かった。  
それでは、国会審議の過程で法案の問題点がどのように論議されたか、国会議事録をもとにみていこう。
第一に、政府・自民党は一貫して「超勤手当は教員にはなじまない」とし、その理由として「教員の職務と勤務態様の特殊性」をあげている。「教員の職務と勤務態様の特殊性」とはなにか、国会答弁によるとつぎのとおりだ。
(1)職務の特殊性―教育は高度で専門的な知識・技術を必要とする自発的・創造的仕事である。
(2)勤務態様の特殊性―学校内での勤務だけでなく、修学旅行・家庭訪問など学校外での勤務や夏休み中の研修など、一般公務員と違う特殊性がある。
それゆえ、教員の仕事は厳格な時間管理ができないから勤務時間の内外を包括的に評価して教職調整額を支給したと答弁している。なお教職調整額は「超勤手当」ではなく、勤務時間を超越した評価であり法に規定するように「給与の一部」だとのべている。
高度で専門的な知識・技術を必要とする自発的・創造的仕事は、なにも教員の仕事だけにかぎらない。世の中の専門的な仕事はすべてそうである。また学校外での勤務時間の算定が困難だとしても不可能ではない。「職務と勤務態様の特殊性」とはためにする議論にすぎない。
第二に、政府は国会答弁で四%の教職調整額は教員の待遇改善であるとさかんにのべている。ではなぜ給与法上の措置をとらなかったのか。第一の理由は、俸給月額は正規の勤務時間に対する報酬であるため、超勤手当としての性格をふくませることができないからである。第二の理由は、俸給月額を上げるだけなら将来必ず超勤問題が再燃して論議をよぶことになるからである。
四%は実質超勤手当でありながら、なぜ政府は超勤手当ではないと強弁したのか。超勤手当だといえば、四%が教員の超勤実態を反映しているか将来にわたって問われつづけることになり、その点をあいまいにしたままで超勤手当に決着をつけようとした。それをごまかすためにもちだしたのが、教員の「職務と勤務態様の特殊性」という(屁)理屈である。
それでは四%とした根拠は何か。一九六六年度に文部省が実施した教員の勤務実態調査である。八月をのぞく一一ヵ月の一週間平均の教員の超勤は、(1)小学校=二時間三六分、(2)中学校=四時間三分であった。右の時間からつぎのような時間を差し引きまたは相殺する。(1)服務時間外に報酬を受けて補習をおこなっていた時間を差し引く。(2)社会教育関係活動等の服務時間内の勤務時間は、服務時間外の勤務活動から相殺減する。
その結果、一週間平均の超勤時間はつぎのようになる。(1)小学校=一時間二〇分、(2)中学校=二時間三〇分、平均=一時間四八分(高校は算定から除外)。この時間にみあう超勤手当分が四%に相当するというのだ。全国の教員は月約八時間程度の超勤手当分で、以後無定量の超勤をさせられることになる。
第三に、衆院文教委で共産党の山原議員が、「教員に超勤制度はなじまない」という政府答弁は、人事院が調査した米・英・独・仏四カ国の超勤手当調査からでているのではないかと質問している。欧米諸国の多くは授業時間が勤務時間となっている。したがって超勤手当というものはない。
しかし山原議員が指摘しているように、欧米諸国でも超勤手当がある国もある。フランス・ルクセンブルク・フィンランド・・ソビエト…などである。それに対し佐藤人事院総裁は、われわれが調査したのは一流国だけで、二流・三流国は調査していないと差別的な答弁をしている。
超勤手当を支払わないのであれば、日本でも授業時間を勤務時間とすべきである。時間外労働規制だけはずして労働時間規制をそのままにしておくのはフェアではない。それに対する参院文教委での佐藤総裁の答弁。授業時間が勤務時間となるのが将来の方向であり、本法はその基盤整備をしたものだとのべている。だがその後、授業時間規制の法整備はおこなわれていない。政府・文科省の怠慢以外のなにものでもない。
第四に、労基法三七条を適用除外すれば超勤が無制限におこなわれる恐れはないかという野党議員の質問に対し、参院文教委での佐藤総裁の答弁がふるっている。勤務条件改善については人事院・人事委員会への措置要求という強力な道がある。さらに超勤を命ずる場合は文部大臣が人事院と協議して基準を決める。ブレーキが二つついている。至れり尽せりの立法であると胸をはっている。
愛知県では今日まで勤務条件について何百件もの措置要求が提訴されてきた。だが九九・九九・・・%は負けている。判定はすべて行政を勝たせている。人事委員会は公正な第三者機関などではない。当局と一体化し当局そのものだ。
第五に、三六協定の問題である。参院文教委(五月二一日)で野党議員が、労基法三六条はそのままのこるのかという質問に、政府は「はずしていない」と答弁している。しかし政府は、形式論としてはのこるが労基法三三条三項の一般公務員と同様になるので、三六条は現実問題として適用の余地がないと再答弁している。
たしかに後述するように、超勤させることができる限定四項目はそのとおりだろう。しかし四項目以外の超勤は労基法三三条三項にもとづく超勤ではない。したがって四項目以外の超勤をさせるには、従来どおり組合と当局で三六協定を締結しなければならない。 
(6)
超勤の職務内容と限度については、「関係労働者の意向が反映」されるよう適切な措置をとるようにという中基審の提言で、文部省と日教組との間で交渉がおこなわれた。
文部省は参院文教委で超勤の範囲としてつぎの九項目をあげていた。(1)児童生徒の実習、(2)修学旅行・遠足・運動会・学芸会・文化祭等の学校行事、(3)学生の教育実習の指導、(4)教職員会議、(5)身体検査、(6)入学試験、(7)学校が計画実施するクラブ活動、(8)学校図書館、(9)非常災害等やむをえない場合。
これに対して日教組は、「九項目は授業以外のすべてがふくまれており、これを超勤命令の対象とするのは不当だ」として、(1)生徒の実習(農林・水産業)、(2)学校行事のうち修学旅行的行事、(3)非常災害の三項目にかぎって受け入れると主張した。超勤は臨時または緊急の必要がある場合にかぎり命じうるものだから、この三項目の他は入学試験および緊急事態における職員会議等にかぎられるべきであり、それ以外は超勤が不可欠とは考えられないと反論した。
しかし、校長会等では範囲を限定せず漠然としておくべきだという意見も多かった。また教育委員会連合会は生徒指導や研修をくわえることを要求し、教頭会では生徒の生活指導を、国立大学附属学校連盟では研究時間をふくめよという声もあるなど、他の教育諸団体からは超勤範囲拡大の動きもあった。
日教組は文部省・人事院との間で何度も交渉をかさね、「原則として超勤を命じないこと、超勤の範囲を五項目に限定すること」で合意した。そして日教組と文部省との交渉で、「給特法実施について日教組と文部省の確認事項」(一九七一・七・一)が合意された。この確認事項にもとづいて文部省訓令二八号「教職員に対して時間外勤務を命ずる場合に関する規定」が制定された。さらに「訓令」を詳細化した文部省通達「給特法の施行について」がだされた。
日教組と文部省の間で合意された「確認事項」は重要なので以下全文掲載しておく。
○ 別紙一 教職員に対し超過勤務を命じる場合
一.生徒の実習に関する業務―通達において、校外の工場・施設(養鶏場を含む)、船舶を利用した実習および農林・畜産に関する臨時の実習であることを明らかにする。
二.学校行事に関する業務―通達において、修学旅行的行事、学芸的行事および体育的行事であることを明らかにする。
三.学生の教育実習の指導に関する業務―通達において、附属学校の場合であることを明らかにする。
四.教職員会議に関する業務
五.非常災害等やむを得ない場合に必要な業務―通達において、「等やむを得ない場合に必要な業務」とは、児童・生徒の負傷疾病等人命にかかわる場合における必要な業務および非行防止に関する児童・生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする業務であることを明らかにする。
○ 別紙二
一.教職員の勤務時間の管理については、教育が特に教職員の自発性・創造性に基づく勤務に期待する面が大きいこと、および夏休みのように長期の学校休業期間があること等を考慮し、正規の勤務時間内であっても、業務の種類・性質によっては、承認の下に、学校外における勤務により処理しうるよう運用上配慮を加えるよう、また、いわゆる夏休み等の学校休業期間については教育公務員特例法第一九条および第二〇条の規定の趣旨に沿った活用を図るよう指導する。
二.教職員については、原則として超過勤務を命じないよう指導する。
三ア.教職員ついて日曜・休日に勤務させる必要がある場合は代休措置を講じて週一日の休日の確保に努めるよう指導する。
イ.教職員については、長時間の超過勤務をさせないよう指導する。やむを得ず超過勤務をさせた場合は、適切な配慮をするよう指導する。
四.条例で定めた業務について校長が超過勤務を命ずる場合は、学校の運営が円滑に行われるよう、関係教職員の繁忙の度合い、健康状況等を勘案し、その意向を十分尊重して行うよう指導する。
五.各都道府県において、超過勤務を命ずる場合を条例で定めるにあたっては、国の例を基準とすることとされているが、「国の例を基準とする」とは、国の例と全く同一のものでなければならないものではないと解する。
六.超過勤務を命ずる場合の定めは、勤務条件として地方公務員法五五条の交渉事項であると解する。
右の確認事項にもとづき制定された「超勤に関する文部大臣訓令」は、教員に対し超勤を命ずる場合の規定をしている。以下必要な条文を抜粋しておく。
   第三条 教育職員については、正規の勤務時間の割振りを適正に行い、原則として
   時間外勤務は命じないものとする。
   第四条 教育職員に対し時間外勤務を命ずる場合は、次に掲げる業務に従事する
   場合で臨時又は緊急にやむを得ない必要があるときに限るものとする。  
    一.生徒の実習に関する業務 
    二.学校行事に関する業務
    三.学生の教育実習の指導に関する業務 
    四.教職員会議に関する業務 
    五.非常災害等やむを得ない場合に必要な業務。
すなわち、勤務は正規の勤務時間内でおこなわれるべきであり、「原則として時間外勤務は命じない」というのが大原則である。超勤が許されるのは、?「臨時又は緊急にやむを得ない必要がある」場合で、?「限定五項目」(公立学校の場合四項目)にかぎるとする二重の要件が必要である。
「限定五項目」については、文部省「通達」で前記「確認事項」どおりの内容がだされているが、補足しておけばつぎのとおりだ(以下、日教組の「教職特別措置法の実施について 日教組委員長から各都道府県委員長あて」七一年七月参照)。
[一]はいずれも職業課程高校を対象とするもので、そのうち工業・水産は校外の工場施設・船舶を利用する実習に限定し、農林・畜産については家畜の出産とか疾病の発生、天候の急変等による緊急の作物管理業務等臨時の実習に限定したものである。
[二]は広範な学校行事を三項目に限定したものである。臨時または緊急の場合にかぎり、学校の教育課程に編成された文化祭・体育大会・修学旅行等の泊を伴う行事に限定される趣旨である。
[三]は学生の教育実習指導は附属学校のみが対象であることを明らかにしたものである。附属学校以外の学校の場合は、教育実習生の受け入れは別個の委託契約にもとづくものであって、当該学校教員の本来の職務ではないからである。
[四]の教職員会議は定例的恒常的なものは正規の勤務時間内に終了するようにしなければならない。超勤が許されるのは、校内暴力やいじめ等の「問題行動」が突然発生し、臨時または緊急にその対処策を協議する必要が生じた場合にかぎられる。
[五]は「非常災害等」の「等」について限定したものである。「非行防止に関する児童・生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする業務」としたのは、日常的な非行防止に関する指導(校外補導の巡視や対策会議)はふくまない趣旨である。 
(7)
やむをえず超勤をおこなう場合についても、その実施にあたってはつぎのような配慮が必要とされる。文部大臣訓令第三条「時間外勤務に関する基本的態度」について、文部省「通達」では実施にあたってつぎの三点が留意点としてあげられている。前記日教組と文部省の「確認事項」と重複するが、これも重要なので必要箇所を引用しておく。
(1)教育職員については長時間の時間外勤務をさせないようにすること。やむを得ず長時間の時間外勤務をさせた場合は、適切な配慮をすること。
(2)教育職員について、日曜日または休日等に勤務させる必要がある場合は代休措置を講じて週一日の休日の確保に努めるようにすること。
(3)教育職員に対し時間外勤務を命ずる場合は、学校の運営が円滑に行われるよう関係教職員の繁忙の度合い、健康状況等を勘案し、その意向を十分尊重して行うようにすること。
また教育職員の勤務時間の管理については、教育が特に教育職員の自発性、創造性に基づく勤務に期待する面が大きいことおよび夏休みのように長期の学校休業期間があること等を考慮し、正規の勤務時間内であっても、業務の種類、性質によっては、承認の下に、学校外の勤務により処理しうるよう運用上配慮を加えるよう、また、いわゆる夏休み等の学校休業期間については教育公務員特例法第一九条(研修)および二〇条(研修の機会)の規定の趣旨に沿った活用を図るよう留意すること。
(1)と(2)は超勤がおこなわれた場合、「教育職員の健康と福祉を害することとならないよう勤務の実情について充分な配慮がされなければならない」(給特法七条一項)、「公務員の健康及び福祉を害しないように配慮しなければならない」(同一〇条)を受けたものである。
以下、日教組の「教職特別措置法の実施について 日教組委員長から各都道府県委員長あて」(七一年七月)より引用しておく。
(1)の「適切な配慮」とは、超勤の翌日またはこれに接近した日に代休等の休養措置を講ずることである。
(2)は日曜日に体育大会等おこなう場合、あらかじめ振り替えのなされていない日曜日・休日に臨時または緊急に勤務した場合、代休をあたえて週一日の休日を確保すべきことを明らかにしたものである。
(3)の前段、「時間外勤務を命ずる場合・・・関係教職員の・・・意向を十分尊重して行う」とは、「確認事項」にあるように勤務条件の変更であるから組合交渉の対象となる。当該教職員だけでなく当該学校の教職員集団との協議を意味する。超勤は当該教職員に直接かかわるだけでなく、代休などの回復措置との関連などもあり、学校運営全体とのかかわりを有してくるからだ。また当該教職員の超勤とその回復措置は、他の教職員にとってもその先例ともなりうる。  
また当該教職員の「繁忙の度合い、健康状況等を勘案し、その意向を十分尊重して行う」とは、校長が超勤を命ずるにあたって、当該教職員の同意を得ずに一方的に命ずることは許されないことを意味する。超勤が許されるか否か、当該教職員の同意、関係教職員の意向の尊重、代休等の回復措置など、超勤手つづきのすべてが組合交渉を必要とする。
後段については、自主研修・授業の準備・整理等自主性にもとづく個別的業務については、原則として勤務場所を学校に拘束しないということである。したがってここでいう「承認」とは、個別にそのつど校長の許可をえるという意味ではなく、「一言ことわる」程度の意思表示で足りるものである。また、つねに個別の承認ではなく包括的な承認もふくまれるから、年度当初の職員会議において校外勤務について確認しておく等による運用もこの趣旨に沿うものである。
さらに、長期休業期間中における教特法一九条・二〇条の活用についても同様に、長期休業日前の職員会議において決定された登校勤務日以外は、承認された校外の自主研修日として活用する趣旨である。
(8)
さて給特法成立後、各都道府県議会で給特条例が制定された。それに先立って、全国的に県教委と県教組の間で「条例闘争」とよばれる交渉がおこなわれた。文部省はモデル条例案を作成して各県教委を指導したが、「条例は国の例と全く同一でなくてよい」とした「確認事項」にもとづき、条例闘争でさらに超勤に歯止めがかけられた。
全国的に限定五項目中「教育実習の指導」が除外されて、「生徒の実習・学校行事・職員会議・非常災害」の限定四項目とされた。つぎにその他の歯止めの具体例をみていこう(以下、三輪定宣「教職給与特別措置法と教職員の労働条件」『日本教育法学会年報第二号』有斐閣等参照)。
【生徒の実習】=「生徒を直接対象とする実習指導で農業の実習における家畜の分娩、天候の急変による作物の管理、水産実習における乗船実習に限る」(北海道)。
【学校行事】=「修学旅行(見学旅行、宿泊研修)に限る」(北海道)。「その実施当日において、予測できない緊急やむをえない事態が発生した場合の業務に限る。学芸的行事は文化祭、体育的行事は体育祭、修学旅行的行事は修学旅行・集団宿泊指導とする」(群馬)。「体育的行事、学芸的行事にあたっては、・・・予想できない真に突発的、緊急事態で、緊急の措置を必要とするものに限る」(高知)。「修学旅行・遠足的行事に限る」(長野)。
【職員会議】=「全教職員で行なう会議に限る」(群馬・長野・富山・滋賀・佐賀・長崎など)。「全教職員で行なう緊急職員会議に限る。但し生徒の人命にかかわる場合と非行防止等の緊急対策の場合に限る」(群馬)。「非常災害など緊急に必要なものに限る」(北海道)。「通常の教職員会議を延長するなどの便宜的運用はしてはならない」(高知)。
【非常災害】=「校外指導や巡視は除く」(群馬・佐賀)。
【超勤は交渉事項】=超勤を命ずる場合、日教組と文部省の交渉で、「超過勤務を命ずる場合の定めは、勤務条件として地方公務員法五五条の交渉事項であると解する」「校長が超過勤務を命ずる場合は・・・関係職員の・・・意向を十分尊重して行なう」(議事録)ことが確認された。この点は条例闘争の段階ではさらに具体化された。
「教職員に超過勤務をもとめる場合は地方公務員法第五五条にもとづき、当該職場の教職員組合との交渉によって行なう」「超過勤務をもとめる場合は教職員の合意を得る」(北海道)。「教職員の納得を得る」(長野)。「今後、解釈上、運用上疑義が生じた場合は、ただちに、双方が誠意をもって交渉を重ね、その結果双方が了解に達したものに従う」(高知)。
その他大部分の県で、超勤命令の場合は本人の合意を条件とすることが確認されている。
【超勤時間数と回復措置】=超勤の回復措置については法はふれていないが、日教組と文部省の交渉で休日出勤の代休措置、長時間勤務後の「適切な配慮」(議事録)が確認され通達に明記された。条例闘争の段階で超勤の回復措置の規定はさらに具体化した。「日曜、休日の代休はこれを保障する。代日代休は職免とする。通常の勤務日において、時間外勤務が行なわれた場合は、疲労回復のために職免の措置が講ぜられるようにする」(高知)。
超勤時間数および回数についても法は規定せず、日教組と文部省の交渉でも問題になったが合意にたっしなかった。交渉では「長時間の勤務をさせないこと」(議事録)が確認されて通達に明記されたにすぎなかった。具体的に超勤時間数や回数に歯止めをかけたのも条例闘争であった。
超勤は教職支給額を勘案し、月八時間一回二時間程度とし、それを超えたら学校運営上可能な限り一日を単位とした休養措置を講ずる(大阪)。「一日一時間、一週二時間を基準」(群馬)。「年三回以内の教職員会議に限り一週四四時間の範囲内で一日八時間をこえて一時間を限度として勤務することがあり得る」(長野)。
【変形労働時間制】=通達の「時間外勤務を命ずる場合」の超勤項目についての留意点中、日教組との確認事項にないつぎのような文言がある。「なお、勤務時間の割振りを適正に行うためには、労働基準法第三二条第二項の規定の活用について考慮すること」。労基法三二条二項は「変形労働時間制」の規定である。変形労働時間制が採用されれば、超勤の歯止めはほとんど意味をなさなくなる。
文部省は変形労働時間制のモデル条例案を作成して各県教委を指導した。この変形労働時間制導入阻止は、条例闘争で最大の争点となった。その結果、給特条例に変形労働時間制が定められた県は六県にとどまり、既存条例にそれが定められている県とあわせても一一県にすぎず、多くの県で導入が阻止された。
【校外勤務・校外自主研修】=政府は給特法による超勤命令制度の代償として、校外勤務と校外自主研修を認めざるをえない立場に追いこまれた。すでにのべたように、人事院も給特法の意見説明で勤務時間中の校外勤務と休業期間中の校外自主研修を容認せざるをえなかった。
この点をふまえて前述したように通達では、(1)正規の勤務時間内であっても学校外での勤務で仕事を処理することができる、(2)長期休業中は教特法一九条・二〇条の研修取得ができるようにするという二点が明文化された。条例闘争ではこの校外勤務・校外自主研修がひとつの争点となった。そして多くの県で通達を上まわる内容の協定・確認がされた。
北海道では道教委と道教組との間でつぎのような協定書が交わされている。(1)教職員が授業の準備・監理・研修および生徒指導に関する業務をおこなう場合は、校長の承認のもとに勤務時間内であっても学校外において勤務することができる。(2)長期休業期間についてつぎの通りとする。1.教特法一九条・二〇条の規定により原則として校外研修日とする。2.校外研修に際しては、所定の手続きをへて事前に研修項目と居場所をとどけでるものとする。3.帰省、スクーリング、海外研修などは前項2と同じ扱いとする。4.教職員の各種研修会、研究会等への参加については、主催者により差別しない。
全国的にも、校外勤務や校外自主研修を大幅に認める方向で組合と教委との協定書・確認書が交わされた。それは給特法闘争で後退戦を強いられながらの、日教組の一定の闘争の成果であった。
(9)
教員も労働者であり、労基法三二条以下の労働時間制が全面適用されることは本連載ですでにのべた。 給特法は教員に三三条三項(時間外・休日労働)を適用し、三七条(時間外・休日労働の割増賃金)を不適用とした法律である。すなわち限定四項目の超勤は三六条によらず三三条三項で命じることができるとし、四%の教職調整額と引きかえに三七条を適用除外した。
それでは給特法の法的問題点についてみていこう。
第一に、下位法による労基法の脱法・改悪である。労基法三二条は一日八時間・一週四〇時間(当時は四八時間)を上限とする労働時間制を原則としている。これを超える労働には労使協定(三六条)と二五%以上の割増賃金(三七条)の制約を課している。労基法は時間外労働を例外的に認めているにすぎず、三六条・三七条は時間外労働を制約するための規定である。労基法の定める労働時間制は、最低基準であり、これを下まわる労働時間をおしつけることはいかなる理由でも許されない。
給特法は教員の「職務と勤務態様の特殊性」を理由に、時間外・休日労働について重要な例外を定めたものである。労基法の時間外労働規制の適用除外は労働時間の設定を無意味にし、使用者(校長)の一方的命令で教員に無定量の超勤をさせることを可能にする。しかもいくら超勤をしても四%の教職調整額以外なんの対価も保障されない。これは労基法の時間外手当支給の脱法行為である。「教育労働の特殊性」を理由に教員のみが時間外労働で一般労働者と差別されるいわれはない。いくら超勤をしてもただ働きであるということを労基法は容認しない。
なぜ教員だけが八時間労働のままで時間外労働規制だけ適用除外されなければならないのか。時間外労働規制をはずすなら一般労働者より労働時間を短くするというなら理屈は通る。教員の労働時間を一日七時間にするとか、欧米並みに授業時間を労働時間にするというのなら理解できる。時間外労働規制だけはずして労働時間規制をそのままにしておくのは不公正である。給特法は「教育労働の特殊性」に名をかりた労基法の改悪であり下位法による上位法の下剋上である。
第二に、教員の超勤手当を認めた多くの判例を反古にしたことである。超勤手当請求訴訟は当時全国二五都道府県で三〇〇件を超えた。そのほとんどが地裁・高裁で勝訴し最高裁での勝利を目前にしていた。静岡高教組事件の地裁判決はそうした多くの判例の代表例だがつぎのようにのべている。
「教職員の職務の形態についてみるに、…労働時間の算定が困難であっても、不可能というものではない…教職員の職務の性質上当然に時間外勤務の観念を否定しなければならないことになるものではない。…使用者としての校長の指示にもとづいて、正規の勤務時間外に職務としての職員会議が行われた以上、…職員会議への出席という時間外勤務に対し所定の割増賃金を支払わなければならない」。
多くの判決が教員に超勤手当を支給すべきであると判示した。このような超勤手当支給の判決を無視して成立した給特法は立法政策上重大な瑕疵がある。政府・文部省は現行法制と判決をふまえて、超勤手当を支給できる立法措置と財政措置を講ずるべきであった。ちなみに私学の教員には労基法が適用されて超勤手当が支給されている。
超勤手当を支給しないというのであれば、文部省は教員の仕事量をへらして超勤をなくする施策をとるべきであった。なぜなら超勤問題の根本的解決は手当支給の問題ではなく超勤をなくすことにあるからだ。超勤の解消は定員増や雑務排除、授業時間数の削減や少人数学級の導入等により実現すべき課題である。こうした教育諸条件整備こそが教育基本法一〇条のいう教育行政の責任である。給特法は教育行政の立法措置と教育諸条件整備の責任を免責し、教員に負担をおしつけて超勤問題を放置した点で違法かつ不当である。
第三に、いくら超勤の範囲を四項目に限定しても事項制限であって時間制限ではないということである。それゆえ四項目の範囲内であれば管理職の一方的命令でいくらでも超勤させることができる。現に修学旅行など二四時間勤務だとうそぶく校長さえいる。実質的にも宿泊行事は二四時間勤務で、二泊三日の修学旅行など約六〇時間の連続労働である。こうした非人間的連続労働が労基法上許されるのかということだ。
本連載でのべたように、四%は文部省の勤務実態調査による超勤手当積算基礎額に見合うものであった(文部省の超勤実態調査そのものは容認できないが)。四%は週二時間・月八時間程度の超勤手当に相当する。そうであるなら、週二時間・月八時間までしか超勤させることができないと法に明記すべきであった。そうした時間制限がないため無定量の超勤が可能なのだ。しかも限定四項目も抽象的規定で(とくに「非常災害」はそうである)いくらでも拡大解釈できる。文部省が通達で四項目の内容について指導しても行政指導だから法的拘束力はない。
案の定、法案成立後は教委や管理職の勝手放題な法解釈と乱用により、学校現場では無報酬・無定量労働が日常化してきた。給特法のふたつの歯止め、(1)限定四項目以外超勤を命じることはできない、(2)限定四項目であっても「臨時又は緊急」の場合以外超勤を命じることはできない、も完全に無視されてきた。そのため学校は違法な超勤の蔓延で「無法地帯」と化している。
第四に、教員の勤務時間把握の問題である。教員の勤務時間は「教育労働の特殊性」ゆえ把握が困難だから超勤手当は支給されないとされた。だが校内での勤務はすべて計測可能である。教員は勤務時間外でも諸会議・生徒指導・教材研究・クラブ活動等みないそがしく立ち働いている。管理職はこうした教員の超勤を把握できないはずがないし把握すべき責任がある。必要ならタイムカードを設置すればよい。
校外勤務とて同様である。生徒指導・家庭訪問・研修等で校外勤務する場合、管理職は事前に職務内容を把握し、終わりしだい職場に電話連絡するように指示すればよいだけだ。持ち帰り仕事にしても職務内容から標準的な勤務時間を算定することは可能である。
夏休み等の長期休業中は教特法に認められている研修である。仮に勤務実態が把握できないとしても通常勤務したものとみなせばよい。新聞記者や雑誌編集者・外務員など事業場外で働く労働者で、勤務時間の把握が困難な労働者にも時間外労働を否定していない。特に勤務時間の算定がむずかしい場合のみ、「通常の時間労働したものとみなし」てよいとされているだけである(労基法施行規則二二条)。  第五に、四%の教職調整額の問題である。給特法成立時四%の支給率はほとんど論議の対象にならなかった。日教組は当初自主性・自発性にもとづく超勤に対しては、四―八%の特別手当の支給を要求していた。四%は期末手当などへのはねかえり分もふくめると実質六%で、日教組の要求と大差なかったからでもある。しかし四%が超勤手当積算基礎額に見合うものだとしたら、教員の超勤実態を正しく反映しているかつねに問われつづけなければならない重要な問題である。 
その点について文部省はもちろん日教組さえもその後問題にしてこなかった。四%は人勧の対象であり(給特法六条)、賃金等とともに毎年勧告される労働条件のひとつであった。日教組はおりにふれて独自の教員の超勤実態調査を実施してきたのだから、超勤実態に見合った教職調整額を人事院勧告に反映するよう要求すべきであった。だが日教組がそのような要求をしたとは寡聞にしてきいたことがない。
第六に、適用範囲の問題である。適用範囲は国公立の小・中・高および盲・聾・養護学校の小学・中学・高等部とされ、幼稚園・高専は対象外とされた。幼稚園と高専が対象外とされたのは、一九六六年度の文部省の勤務実態調査の対象外であったため、超勤実態が把握できなかったからである。人事院勧告では、「その他の学校の教員等については、今後の検討課題とする」としていたが、その後こんにちにいたるまでなんら実態調査もされずに放置されてきている。人事院・文科省の怠慢以外のなにものでもない。 
(10)
最後に限定四項目以外の超勤についてである。労基法三六条は適用除外されていない。そのことは国会の審議でも確認されている。一九七一年五月二一日の参議院文教委員会で、野党議員の「教特法(給特法)ができても三六条はそのまま残りますね」という質問に、政府は「三六条ははずしておりません」と答えている。さらに野党議員の「三六協定の相手は市町村か校長か」との質問には、政府は三六条の「当該事業場」という点からいえば「校長である」と回答している。
したがって、現行法下でも限定四項目以外の超勤(限定四項目であっても臨時・緊急以外)については三六協定の締結が要件である。なぜなら給特法は限定四項目についてのみ超勤を容認したのであるから、それ以外の超勤については労基法三三条三項にもとづく超勤ではないからだ。それゆえ三六協定がないにもかかわらず四項目以外の超勤をさせることは違法である。逆にいえば三六協定のない四項目以外の超勤の義務は教員には一切ない。
ところで限定四項目以外の超勤の場合、割増賃金が支払われるのかという問題がある。これにはふたつの解釈がある。ひとつは、給特法によって労基法三七条は適用除外になっているから割増賃金の支払い義務は使用者には義務づけられないが、その時間に見合った賃金の支払いは義務づけられるというものだ(青木宗也)。もうひとつは、給特法は限定四項目にかぎって超勤を認めているのだからそのかぎりで労基法三七条の適用除外が有効とされるのであって、四項目以外の超勤については三七条が適用されて割増賃金が支払われるべきだというものだ(萬井隆令)。わたしは後者の見解が法論理的に整合性があると考える。
さらに深夜労働に対する割増賃金の問題である。文部省内教員給与研究会編『教育職員の給与特別措置法解説』はこの点についてつぎのようにいう。教員は労基法三七条が適用除外されて深夜労働の割増賃金に対する労基法上の定めはなくなる。「しかし、公立学校の教員については、国家公務員に対する夜勤手当の支給を定めた給与法第一八条および公立学校の教育公務員の給与の種類と額は国立学校の教育公務員の給与種類と額を基準として定めるとする教育公務員特例法第二五条の五第一項の規定により国家公務員の場合の夜勤手当に相当する手当は支給されるべきこととされるものである。実際には、教員については午後一〇時以降に正規の勤務時間を割り振り、夜勤手当を支給すべき場合は考えられない」
つまり現行法でも夜一〇時以降に勤務させた場合、二五%割増の夜勤手当を支給しなければならないのだが、文部省は夜一〇時以降の勤務はないのだから支給は考えられないというのだ。文部省はかつて修学旅行についてつぎのように学校現場を指導していた。就寝時刻から起床時刻まで、「この間は、原則として勤務することはあり得ないから、勤務時間を割り振る必要はない」と(「学校管理講座? 教員の勤務時間の管理(その二))『教育委員会月報』一九六七年七月号)。だが前述したように修学旅行などの宿泊行事は校長みずから二四時間勤務だといい、教員は夜一〇時以降も勤務しているのが実態であり、深夜とて生徒に何かあったら即座に対応しなければならない手待ち時間であり実質二四時間勤務なのだ。それゆえ深夜勤務に対しては法にのっとり割増賃金が支給されるべきである。

一九六〇年代の日教組の超勤訴訟の勝訴に文部省はしだいに苦しい立場に追いこまれていった。こうした事態にもっとも危機感をいだいたのが自民党の若手文教族である。七〇年に坂田文部大臣の政務次官に西岡武夫が就任する。西岡は槇枝との会談で「教師を聖職などとよぶのはもう古い」(槇枝・前掲書)と公言していた。西岡は当時を回想してつぎのようにのべている。
「当時、初中局の問題でどうにもならなくなっていたのが、超過勤務の問題だった。最高裁でも勝てそうにない。自民党が法の整備をしないで放置してきたからこんなことになったのだが、これを解決しないことには文部省はどうにもならない。最高裁で敗れでもしたら、教育の現場は大混乱する、ということで、私はこの問題に精魂傾けた」(山崎政人『自民党と教育政策』 以下同書参照)。
西岡が河野洋平ら若手文教族とともに精力的に立法作業をすすめて作成したのが給特法案である。この法案に自民党文教部会が内部分裂した。教師聖職論に固執し超勤そのものを認めようとしない古参文教族と、とにかく超勤問題にケリをつけなければとあせる若手文教族の対立であった。古参文教族は、「教師は労働者ではなく超勤手当の対象ではない。超勤手当のかわりのものをだす必要はない」と頑強に抵抗し、はげしい内ゲバをくりかえした。だが最後は文教族最タカ派の稲葉修らも西岡の説得におれた。古参聖職派が若手専門職論派に屈服したのだ。
時代の転換期に自民党のすぐれた危機管理能力が遺憾なく発揮された事例だといえよう。それに対し日教組は、給特法が「聖職的専門職論」にたっているとの危険性を認識しながらも、「もらえるものはもらおう」と超勤手当支給の原則を放棄して自民党案にすりよっていく。「槙枝は、教師も一般労働者とおなじだ、だから時間外手当を払え、というだけではすまないことを感じ取っていた」(山崎・前掲書)。
そこで一九七〇年一二月の日教組中央委員会に提案された運動方針が、(1)測定可能な超勤には超勤手当を、(2)測定不可能な超勤には特別手当をという二本建て案であった。四%はほしいが無定量の超勤はこまるという、いわば足して二で割る妥協案である。測定不可能な超勤を理由とした特別手当の要求は、事実上自民党の主張する「教育労働の特殊性」を認めるものだ。それは専門職賃金論に依拠する日教組運動の当然の帰結ともいえた。
「「二本立て要求」は、日教組が労働時間の非計測性という権力の「専門職」論を許容する