彼岸花

彼岸花 / 彼岸花彼岸花2彼岸花3彼岸花4彼岸花考
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諸説 / 信仰と此岸の生死人花狐花・・・
 

雑学の世界・補考

 
彼岸花

ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。クロンキスト体系ではユリ科。リコリス、曼珠沙華(マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ サンスクリット語 manjusaka の音写)とも呼ばれる。学名の種小名 radiata は「放射状」の意味。
全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。
道端などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で、夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 - 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に包に包まれた花序が一つだけ付く。包が破れると5 - 7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る。
開花終了の後、晩秋に長さ30 - 50cmの線形の細い葉をロゼット状に出す。葉は深緑でつやがある。葉は冬中は姿が見られるが、翌春になると枯れてしまい、秋が近づくまで地表には何も生えてこない。
欧米では園芸品種が多く開発されている。園芸品種には赤のほか白、黄色の花弁をもつものがある。
日本での分布
日本には北海道から琉球列島まで見られるが、自生ではなく、中国から帰化したものと考えられる。その経緯については、稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったといわれているが、土に穴を掘る小動物を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、畦や土手に植えたとも考えられる。また鱗茎は適切に用いれば薬になり、また水にさらしてアルカロイド毒を除去すれば救荒食にもなる。そのような有用植物としての働きを熟知して運び込まれた可能性もある。
人里に生育し、田畑の周辺や堤防、墓地などに見られることが多い。特に田畑の縁に沿って列をなすときには花時に見事な景観をなす。湿った場所を好み、時に水で洗われて球根が露出するのが見られる。なお、山間部森林内でも見られる場合があるが、これはむしろそのような場所がかつては人里であった可能性を示す。
日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。また三倍体であるため種子で増えることができない。
有毒性
全草有毒で、特に鱗茎にアルカロイド(リコリン、ガランタミン、セキサニン、ホモリコリン等)を多く含む有毒植物。経口摂取すると吐き気や下痢を起こし、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死に至ることもある。
日本では水田の畦や墓地に多く見られるが、人為的に植えられたものと考えられている。その目的は、畦の場合はネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ように、墓地の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐためとされる。モグラは肉食のためヒガンバナに無縁という見解もあるが、エサのミミズがヒガンバナを嫌って土中に住まないためにこの草の近くにはモグラが来ないともいう。
有毒なので農産物ではなく年貢の対象外とされたため、救荒作物として田畑や墓の草取りのついでに栽培された。
鱗茎はデンプンに富む。有毒成分であるリコリンは水溶性で、長時間水に曝せば無害化が可能であるため、救飢植物として第二次世界大戦中などの戦時や非常時において食用とされたこともある。また、花が終わった秋から春先にかけては葉だけになり、その姿が食用のノビルやアサツキに似ているため、誤食してしまうケースもある。
鱗茎は石蒜(せきさん)という名の生薬であり、利尿や去痰作用があるが、有毒であるため素人が民間療法として利用するのは危険である。毒成分の一つであるガランタミンはアルツハイマー病の治療薬として利用されている。
名前
彼岸花の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある。別名の曼珠沙華は、法華経などの仏典に由来する。また、「天上の花」という意味も持っており、相反するものがある(仏教の経典より)。ただし、仏教でいう曼珠沙華は「白くやわらかな花」であり、ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである(近縁種ナツズイセンの花は白い)。『万葉集』にみえる「いちしの花」を彼岸花とする説もある(「路のべの壱師の花の灼然く人皆知りぬ我が恋妻は」、11・2480)。また、毒を抜いて非常食とすることもあるので悲願の花という解釈もある(ただし、食用は一般的には危険である)。
異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあるが、反対に「赤い花・天上の花」の意味で、めでたい兆しとされることもある。日本での別名・方言は千以上が知られている。
「花と葉が同時に出ることはない」という特徴から、日本では「葉見ず花見ず」とも言われる。韓国では、ナツズイセン(夏水仙)を、花と葉が同時に出ないことから「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味で「相思華」と呼ぶが、同じ特徴をもつ彼岸花も相思花と呼ぶことが多い。
学名のLycoris(リコリス)は、ギリシャ神話の女神・海の精であるネレイドの一人 Lycorias からとられた。
その他
季語・花言葉 / 秋の季語。花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」「転生」。「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
迷信 / 花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になると言われる。
日本におけるヒガンバナの名所
埼玉県日高市にある巾着田 : ヒガンバナの名所として知られる。500万本のヒガンバナが咲く。巾着田の最寄り駅である西武池袋線高麗駅に多数の臨時列車が停車したり、彼岸花のヘッドマークをあしらった列車を運行したりする。
神奈川県伊勢原市にある日向薬師付近 : 100万本のヒガンバナが咲く。
愛知県半田市の矢勝川の堤防 : 100万本のヒガンバナが咲く。一説には200万本とも。近くに新美南吉記念館があり、新美南吉作『ごんぎつね』の舞台として有名である。
岐阜県海津市の津屋川の土手 : 3kmにわたり10万本のヒガンバナが自生する。
広島県三次市吉舎町辻の馬洗川沿い : 第12回広島県景観会議「景観づくり大賞」の「地域活動の部」で最優秀賞を受賞。また、講談社『週刊 花百科2004.9.16号』で、ヒガンバナの名所全国ベスト10に選ばれた。
長崎県大村市の鉢巻山展望台 : 360度の眺望が広がる鉢巻山の山頂に、100万本のヒガンバナ群落が咲く。期間中、鉢巻山彼岸花祭りが開催されている。
埼玉県横瀬町にある寺坂棚田 : 棚田の畦に100万本のヒガンバナが咲く。横瀬町のシンボル武甲山と黄金の稲穂のコントラストが美しい。西武秩父線横瀬駅より徒歩15分。
相思華(そうしばな)
または「相思花」。彼岸花の異称。秋の季語。
彼岸花ほど異称の多い花も少ないのではないでしょうか。
その名前を拾ってみると、彼岸花・死人花(しびとばな)・天蓋花(てんがいばな)・幽霊花(ゆうれいばな)・捨子花(すてごばな)・狐花(きつねばな)・三昧花(さんまいばな)・曼珠沙華(まんじゅしゃげ)・相思華(そうしばな)。
これだけあれば、幾つかは聞いたことがある名が有りますね。本日取り上げた「相思華」もそうした名前の一つ。
この花は、秋の彼岸の頃に咲き始める強烈な赤色をした花で、あたり一面を埋め尽くすように群生する花です。その季節性と特徴的な姿と色から強烈な印象を与える花です。日本においては、お墓で見かけることの多い花でもあるためか、お墓や死人と結びついたちょっと不気味な名前が多いようです。
こうなってしまった理由は、この植物が有毒であることが関係しています。この花は花から茎、地下の球根に至までリコリンという有毒成分を含む猛毒の植物です。昔、土葬が一般的な埋葬方法であった時代、遺体を野犬などが掘り起こして傷めることを防ぐため、周囲にこの有毒植物を植えて守ったことから、墓地に多い花として墓地や死人と結びついてしまったようです。
田の畦や水路の土手などに多く生えるのも同じく、この毒によってもぐらなどが土手を崩してしまうことを防ぐために植えられたと考えられます。毒も使いようで役に立つという見本のようですね。
役に立ちながら、日本においてはあまりありがたくない名前を頂戴するこの花ですが、お隣韓国では「相思華」と呼ばれます。この呼び名が日本にも及んで「そうしばな」となりました。
相思華という名はこの植物の特殊な成長の様子から来ています。彼岸花の咲いている風景を思い出してください。真っ赤な花が一面を覆う風景の中に、なぜか葉の姿が有りません。この植物は花が咲くときには葉が出ておらず、葉が出る頃には花が散ってしまう不思議な植物なのです。
普通の植物ではあたりまえの花と葉ですが、この植物にあっては花と葉はすれ違い。同じ根から発しているにもかかわらず花と葉はお互いを見ることが出来ないのです。
葉は花を思い、花は葉を思う
お互いを見ることの出来ない花と葉がお互いを想い合うだけ。なんだか悲恋を連想させます。そう考えるとあの強烈な花の色も、毒々しいものではなく、思いの強さを伝えるものに思えてきます。名前一つで印象が変わります。
どこかで彼岸花を見かけることがあったら、そのときにはこの花のもう一つの名前、「相思華」を思い出し、そしてこの花を見直してみてください。 
ジャンボンバナ / 彼岸花はなぜ嫌われた?  
秋になると彼岸花が、田んぼのあぜや墓地などに真っ赤な花を咲かせます。ちょうど彼岸頃に咲くので彼岸花という名がつけられました。江戸時代以前には彼岸花という言い方はなく、インドの古いことば(梵語)の曼珠沙華を使っていました。日本にはマンシュシャカとして伝わりましたが、それがなまって「まんじゅしゃげ」になりました。赤い花という意味です。だが「まんじゅしゃげ」という共通語が全国的に普及する頃には、日本の各地でいろいろな名前(方言名)がつけられていました。死人花とか、幽霊花とか、仏花など縁起でもないことばや奇妙なことばが、千種以上もつくられました。聞いただけでも身震いがするといって、この花は毛嫌いされるようになりました。赤くて美しい花であっても、みんなから嫌われ、田んぼのあぜ道に咲いている彼岸花を見て楽しもうなどという人はいませんでした。
佐野では彼岸花を、昔からジャンボンバナと呼んでいました。今でもそう呼んでいる人が大勢います。ところで葬式のときにたたいて鳴らす鉦の音「ジャンボン」は、葬式の意に転じてしまいました。葬式のときに出す大きな葬式饅頭は、ジャンボン饅頭とよばれるようになり、かつて子どもたちは、それをもらって食べるのを楽しみにしていました。 
天上の花
竹の花、笹の花を「泥食い」といいます。おおよそ六十年に一度、竹や笹はその寿命の尽きるときに花を咲かせ、実を持ちます。その突然降って沸いた餌に、山のネズミは狂喜乱舞。イネ科の竹や笹の実は栄養価が高く、つまりその一大饗宴の後は、当然の結果としてのネズミの大発生となるわけです。
山のように生まれたネズミの子供たちに、餌はありません。ネズミたちは木の根をかじり、草をかじり、餌を求めて里に降りてきて、人間の食料をあさります。竹や笹の花が飢饉のときとかち合いでもしようものなら、人とネズミで残された餌の奪い合い。凶暴になったネズミは、人を襲うこともあったといいます。
かくしてすっかり食べるもののなくなった人々は泥を食う。竹や笹の花が「泥食い」といわれるゆえんです。
そんなネズミでも毒のあるものは食べません。例えば馬が酔う木と書く馬酔木(あせび)。ネズミと比べてはるかに大きな馬が、葉っぱを食べただけで酔ったようになるのですから、ネズミなどいちころ。若い木の多い林に、樹齢の高いアセビがあるのは、アセビが自身の毒のおかげで「泥食い」のときの被害を免れたからなのです。
動物のその鋭敏な感覚を逆手にとって、ご先祖様を祀る大事な墓を守るために、その周りに植えたのが彼岸花です。彼岸花にも毒があって、そのおかげで、ネズミやモグラに墓を荒らされることがなかったのだといいます。
その墓の印象があるからでしょうか、彼岸花には「死人花」とか「地獄花」とかいった、不吉な名前がつけられています。確かに彼岸花の赤は、血の赤のようにも見えますし、死肉を食らった毒々しさと見えなくもありません。しかし墓と結びつけさえしなければなにやら不思議な雰囲気を持った美しい花。それに彼岸花の球根には澱粉がたくさん含まれていて、水にさわせば十分に食用になる。「泥食い」のとき、ネズミに食べられずに最後に残った彼岸花は、人々にとって「天上の花(彼岸花の別名曼珠沙華は、サンスクリット語で天上の花のこと)」。仏様が下された、命をつなぐ最後の食料になったのかもしれません。
浅川マキの歌に、「悲しい恋なら何の花、真っ赤な港の彼岸花」という歌詞の歌があります。若いころ、本当に悲しい恋など知らずに歌っていた彼岸花の歌。では今なら悲しい恋の歌が歌えるかといえば。うーん。 
 
 
彼岸花(曼珠沙華)2

 

真っ赤な彼岸花が咲き乱れる時期になりました。「子供の頃、彼岸花を見ると足がすくむほど怖かった」「何だか不気味」という人もいれば、「あの妖艶さが好き」「この花を見ると癒される」という人もいます。いずれにしても彼岸花ってとても“妖しい”……その秘密に迫ってみました。
数々の呼び名にはワケがあります
彼岸花といってもピンとこないけれど、別名でいえばわかる方も多いでしょう。たくさんの別名、しかもちょっと不気味な呼び名があるのには理由がありました。
彼岸花:ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草。
田んぼの畦道などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるため、お彼岸の頃に咲く花として親しまれています。
花言葉は、「情熱」「悲しい思い出」「独立」「再会」「あきらめ」。
サンスクリット語からついた「曼珠沙華」
「曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)」は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味。おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ています。サンスクリット語ではmanjusakaと書きます。
お彼岸の頃に咲くから「死人花」「幽霊花」
なぜ春分の日と秋分の日に墓参りをするの? この日は昼と夜の長さがほぼ等しくなるので、太陽が真西に沈みます。極楽浄土(あの世)は西方にあるとされているため、あの世とこの世が交わる日と考えられていました。極楽浄土と最も心が通じやすい日なので、先祖の供養をするためにお墓参りをするようになりました。
開花期間が1週間ほどなのに、秋の彼岸と時を同じくするかのように開花する彼岸花は、あの世とこの世が最も通じやすい時期に咲く花でもあります。
お彼岸に咲き、土葬をモグラや野ネズミなどから守る(次項参照↓)意味もあって墓地などによく植えられているため、「死人花(しびとばな)」「地獄花(じごくばな)」「幽霊花(ゆうれいばな)」のようなちょっと怖い呼び名もついています。
毒があることから「毒花」「痺れ花」
彼岸花にはアルカロイドという毒があるため、「毒花(どくばな)」「痺れ花(しびればな)」などと呼ばれています。
その反面、でんぷんを多く含んでいるため食用可能でして、毒は水にさらすと抜けるため、昔は飢餓に苦しい時に毒を抜いて食用にすることもあったそうです。田んぼの畦道に彼岸花が多いのは、その毒でモグラや野ネズミを防除するためだけではなく、飢饉に備えて植えたという説もあり、危険を覚悟してまで口にしなければならなかった昔の苦労がしのばれます。
花の姿からついた名前「天蓋花」「狐の松明」「葉見ず花見ず」
花の様子から、「天蓋花(てんがいばな)」「狐の松明(きつねのたいまつ)」「狐のかんざし」「剃刀花(かみそりばな)」など、全国にはたくさんの呼び名があります。
また、花のある時期には葉がなく、葉のある時期には花がないという特徴から、「葉見ず花見ず(はみずはなみず)」と呼ばれています。
彼岸花の生長サイクル
彼岸花には、すーっと伸びた茎に鮮やかな花だけがついていて、葉っぱが全く見あたりません。これも妖しく見える原因のひとつですが、実は、花が終わってから葉が出てくるのです。しかも、普通の植物とは逆のサイクルで!
【 秋に急成長・開花 】  彼岸花は、秋雨が降ってやがてお彼岸という頃になると芽を出し、1日に10cm近くも茎が伸びて、瞬く間に50センチ位になり、あの真っ赤な花を咲かせます。そして1週間ほどで花も茎も枯れてしまい、今度は球根から緑の葉っぱがすくすくと伸びてくるのです。
【 冬に葉を茂らせる 】 冬になって周りの植物が枯れても、たわわにしげった葉っぱのままで冬を越します。
【 春に光合成 】 せっせと光合成をして球根に栄養をため込みます。
【 夏に枯れる 】  夏を迎える頃には、葉を枯らして休眠期に入ってしまいます。
【 再び秋に開花 】 やがて秋雨をたっぷり含んでから、急ピッチで姿をあらわして、再び花を咲かせます。
まるで普通の草花とサイクルが逆で面白いですね。彼岸花には、鮮やかな赤だけでなく白や黄色いものもありますが、いずれも根のところに毒をもっているので注意してください。

 
彼岸花 3

 

彼岸時に咲き乱れる”彼岸花”とは
ヒガンバナ科の多年草。土手や田の畦に生える。秋の彼岸のころ、高さ約30センチの花茎を伸ばし、長い雄しべ・雌しべをもつ赤い6弁花を数個輪状につける。花の後、線形の葉が出て越冬する。有毒植物であるが、鱗茎を外用薬とする。別名、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)。死人花(しびとばな)。捨て子花。石蒜(せきさん)。天蓋花(てんがいばな)。天涯花。幽霊花。かみそりばな。などがある。
田んぼのあぜ道でよく見るのには理由がある
お彼岸の季節、田んぼのあぜ道や土手で見かけることが多いが、これはモグラやノネズミがあぜ道や土手に穴を開けるのを、彼岸花の毒性のある球根を植えることで防ぐため。また、彼岸花の根茎は強いため、田んぼのあぜ部分に植えてあぜの作りを強くするため。
彼岸花が持つ”毒”
全草有毒で、特に鱗茎にアルカロイド(リコリン、ガランタミン、セキサニン、ホモリコリンなど)を多く含む有毒植物。誤食した場合は吐き気や下痢、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死にいたることもある。
”水晒し”をする事で食用も可能だが・・・
毒を持っている鱗茎をどのようにして食べたかと言いますと、「水晒(さら)し」という技法によって良質のデンプンを得ることにあります。水晒しの順序は、まず臼(うす)などの容器内に鱗茎を入れ、つぶします。次に水でよく洗い水溶性である有毒成分を取り除きます。流水を利用して数日間ほど晒します。この作業によって完全に毒が抜かれます。水に十分晒したヒガンバナのデンプンは、乾燥させれば葛粉、片栗粉、馬鈴薯澱粉、コーンスターチと同じで、保存食料のできあがりです。
彼岸花は最後の最後に食べる”非常食”だった
食料が尽き、草や木の皮や、さらには土壁の藁までも食べ尽くし、最後の最後の非常食として彼岸花の球根を食べたというのである。餓死という窮地に立たされ、まさに死と直面した時に彼岸花を食べた、あるいはそのために用意された花であったのである。非常食であるから、そう簡単に食べられては困る。だから「彼岸花には毒があるので触っちゃだめだよ」と、寄りつかないように牽制しておく必要があった。しかし命を守る大切な花であるから、身近なところに植えておく必要があったのであろう。
彼岸花が”不吉な花”というイメージを持つ理由は他にもあった
開花期にふつう備わっているべき葉がひとつもなく、茎の頂上にいきなり花が咲いて、しかもその花が毒々しいほどに真っ赤であるからです。日本人の感覚では彼岸花の赤はけばけばしく、そうしたけばけばしさを好ましからざるものと見なすのです。
墓に咲く理由は”土葬者の墓標”として役立っていたから
遺体を土葬した時代、遺体を動物に掘り返されないために植えたものらしい。彼岸花の根に毒があるから、その毒を動物は嫌う。
突然現れる”彼岸花”は幽霊に例えられる事も
1日めに芽が出て、2日めでなんと20cmも伸び、5日めにはつぼみが赤く色づき、なんと7日めで開花したのです。確かに、ヒガンバナはちゃんと1週間で発芽から開花までしてしまうのです。
不吉なイメージが先行する彼岸花だが、不吉な事ばかりではない
「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味。おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ています。
彼岸花の花言葉
悲しい思い出・想うはあなた一人・また会う日を楽しみに
「再会」「情熱」「独立」「あきらめ」
韓国では”相思華”と呼ばれる
韓国では彼岸花のことを「相思華」ともいう。これは彼岸花が花と葉が同時に出ることはないから「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味である。  
 
 
彼岸花 4

 

日本では秋の花として親しまれる彼岸花。「リコリス」「曼珠沙華」とも呼ばれている植物の和名だということを知らない方も多いようです。映画や歌のタイトルにも使われたことから、日本では赤い花びらの彼岸花が一般的な名前として知られるようになりました。今回は、そんな彼岸花の花言葉や学名の由来や別名、種類、開花時期や見頃の季節についてまとめました。
彼岸花の花言葉
『情熱』『独立』『再会』『あきらめ』『転生』『悲しい思い出』『思うはあなた一人』『また会う日を楽しみに』
色別の花言葉
白色:思うはあなた一人/また会う日を楽しみに
赤色:情熱/独立/再開/あきらめ/悲しい思い出/思うはあなた一人/また会う日を楽しみに
黄色:追想/深い思いやりの心/悲しい思い出
彼岸花は、その印象的な赤い花色から「情熱」「思うのはあなた一人」といった花言葉が生まれたといわれています。しかし、彼岸花の花は死や不吉なイメージの方が強いですよね。それは、「彼岸花を家に持ち帰ると火事になる」「彼岸花を摘むと死人がでる」「彼岸花を摘むと手が腐る」という3つの恐ろしい迷信があるためです。これらは、花色や花姿が炎を連想させることと、彼岸花のもつ毒によるものとされています。決して怖い花言葉をもっているわけではないのですが、死や不吉な印象があることから贈り物として用いられることはほとんどありません。
彼岸花の学名・原産国・英語・別名
学名 Lycoris Radiata
科・属名 ヒガンバナ科・ヒガンバナ属
英名 Spider lily
原産地 日本、中国
開花期 7〜10月(原種は9月)
花の色 赤、白、ピンク、黄、クリームなど
別名 彼岸花(ヒガンバナ)
   曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)
   死人花(しびとばな)
   地獄花(じごくばな)
   幽霊花(ゆうれいばな)
   剃刀花(かみそりばな)
   狐花(きつねばな)
   捨子花(すてごばな)
   毒花(どくばな)
   痺れ花(しびればな)
   天蓋花(てんがいばな)
   狐の松明(きつねのたいまつ)
   狐花(きつねばな)
   葉見ず花見ず(はみずはなみず)
   雷花(かみなりばな)
   レッドスパイダーリリー
   ハリケーンリリー
   マジックリリー
彼岸花の花
彼岸花は、日本や中国に広く自生する球根植物です。元々日本に自生していたわけではなく、中国から稲作が伝来するのと合わせて広まったとされています。その名前は、秋の彼岸の期間(秋分の日を入れた前後3日間)だけに花を咲かせることに由来しています。7〜10月頃になると、赤や白い花を咲かせます。
彼岸花は花が咲いてから葉が伸びる
彼岸花は、花が咲いた後に葉っぱが伸び、秋に咲いて春に枯れるという通常の草花とは逆の生態をもっています。その葉と花を一緒に見ることがない性質から「葉見ず花見ず」と呼ばれ、昔の人は恐れをなして、死人花(しびとばな)や地獄花(じごくばな)などと呼ぶこともありました。
彼岸花はどうしてたくさんの別名があるの?
今でこそ夏に植えて秋に咲く植物はいくつもありますが、彼岸花の通常とは違う生態が昔の人々にとっては珍しく、また毒をもっていることも合わさり、恐怖や災害、危機を連想させる別名がたくさんつけられました。日本での別名は、方言のものを合わせて1,000以上あるとされていますよ。
また、学名は放射線状に花が咲く姿から、ラテン語で放射状を意味する「Radiata(ラディアータ)」とつけられました。一方、海外で呼ばれる名前には怖い印象はありません。英語(英名)の「レッドスパイダーリリー」は、その花姿がクモに似ていることに由来しています。また、「ハリケーンリリー」は、彼岸花が咲く時期に欧米ではハリケーンが頻繁に起こることから名付けられました。
彼岸花、曼珠沙華、リコリスは同じ花?
日本では「彼岸花」がこの花を指す一般用語となっていますが、リコリスが学名、彼岸花が和名、曼珠沙華が別名と、全て同じ植物を指しています。
学名は、甘草の名前で親しまれる「Licorice(リコリス)」と綴りは違いますが、同じ読みをしているので混同されがちです。
別名の曼珠沙華は、歌手の山口百恵さんが歌った曲のタイトルで有名になりました。これは、サンスクリット語で「天上に咲く紅い花」という意味があり、よいことがある前兆といわれています。
彼岸花の開花時期や見頃の季節
彼岸花の開花の時期は、9月下旬あたりです。自生している原種は彼岸である秋分の日前後に花を咲かせますが、品種改良によって最近では7〜10月頃までに見頃の時期を迎えるものもでてきました。また、乾燥状態が続いた後に大雨が振ると、一斉に花が咲くという現象があります。これが「雨後の彼岸花」とも呼ばれる由縁です。もし彼岸花を見に出かけるなら、雨が止んだ後を狙うとよいですよ。
彼岸花が一望できる場所といえば、埼玉県日高市の「ひだか巾着田」が一番有名です。彼岸花の名所とも呼ばれる巾着田では、コスモスや菜の花なども自生しており、自然豊かな環境で育つ植物たちを見て楽しむことができます。
彼岸花の種類と品種
彼岸花には何百という品種が存在し、今も品種改良によって日々新しいものが生み出されています。赤色がイメージカラーですが、原種には白、赤、黄、オレンジ、ピンクなどが存在します。ただ、日本では彼岸花の流通が少なく、園芸植物として人気が高くはありません。
リコリス・アルビフローラ(白花曼珠沙華/シロバナヒガンバナ)
白い花びらをしている白彼岸花とも呼ばれる品種です。花が咲いた後に葉がでる秋出葉型タイプで、花びらの縁がゆるやかな波を打って外側に反る特徴があります。
ショウキズイセン(鐘馗水仙/ショウキラン)
黄色の花びらをした原種で、秋出葉型なので花が咲き終わった後に葉っぱが生えてきます。上記のリコリス・アルビフローラ同様に、花びらが波を打って外に反り返る特徴があります。耐寒性が少しありますが、主に四国や九州に自生している品種です。
ホウディシェリー(白、真夏のクリスマス)
クリーム色から白色、白色からピンク色に花色を変える品種です。日本には自生していない、真夏に咲く彼岸花です。名前は著名な園芸家セシル・ホウディシェル氏からとったといわれています。
リコリス・プミラ
赤色の花を8月頃から咲かせる早咲き品種です。コヒガンバナとも呼ばれ、やや小ぶりな花の姿を楽しむことができます。
チェリーピンク
淡いピンク色の花びらを咲かせる10月頃に咲かせる、遅咲き品種です。気温も低い時期に咲くことから、長期間鑑賞することができます。遅咲き品種は数が少ないので「遅咲き彼岸花」という品種名で出回ることもあります。
飢饉のときの食料として彼岸花は育てられていた
彼岸花の球根は毒がある一方で、でんぷん質が豊富に含まれています。また、毒は水溶性なことから、昔の人は水洗いをして毒を抜いた後に食べていたといわれています。毒と聞くとおっかないイメージがありますが、その美しい花とともに花名の由来や歴史的な事実も学んでいくと、彼岸花の印象が変わるかもしれませんね。 
 
 
ヒガンバナ考

 

プロローグ
何処で初めてヒガンバナを見たのか、その名を覚えたのは何時なのか、残念ながら少しも記憶に残っていない。とはいえ、小学生になったころには、すでにこの植物を知っていたことはたしかだ。昭和19年の秋、日本帝国海軍牧之原飛行場を襲ったグラマンの1機が、対空砲火に被弾し、豊かに実った稲田に墜落炎上した。散乱した機体と黒焦げの肉塊と、それらを取り囲んだ、燃え盛る火のように赤い畦道のヒガンバナが、いまも脳裏に焼き付いている。もちろん、このような特異な状況での出会いはこのとき限りである。戦いに敗れた後の、平和の訪れた日本では、秋の彼岸が来るごとにヒガンバナは何事もなかったように咲いた。黄金色の稲穂の波打つ水田の際や、村のはずれの古寺の参道や、小川の土手などに、まるで篝火を連ねたようにこの真紅の花が咲くと、日本列島は秋霖の季節を迎えるのである。
とはいえ、水田耕作が機械化され、畦や農道が改修され、市街化が進むにつれ、このような秋の風景にはなかなか出合えないようになってしまった。マンジュシャゲという奇妙な名を教えられたのも子供のころだが、同時におぼえた死人花とか火事花などといういささか縁起の悪い名のせいもあって、この花を美しいと感じたことはなかったと思う。そんなヒガンバナに私が深くかかわることになったのは、四半世紀ほど前のことである。
当時、私はシダ植物の進化の道筋とその仕組みを、遺伝子の担い手である染色体と呼ばれる細胞内の構造を調べることで明らかにしようとしていた。来る日も来る日も顕微鏡をのぞき、新しい発見があれば、それがどれほど些細なことであっても嬉しくなって、よれよれになるまで祝杯を傾けていた。かかわりは、そんな日々の中で、一人の学生が卒業研究の材料にヒガンバナを選んだことから始まった。彼女は、水稲栽培の伝播に伴って有史以前に日本に持ち込まれたというのが通説で、いまでは北海道を除く日本各地に広く分布するこの植物の染色体構成(核型)に種内変異があるかないかを確かめようと思ったのだ。ヒガンバナは種子をつくらず、球根の分裂のみで繁殖しているから、常識的に考えれば考えれば染色体の変異はほとんど期待できず、したがっていまだ誰も試みたことない。彼女はそんな常識を疑っていたのである。仮に変異が検出されなくても、少なくとも染色体を観察する技術は身につく。そこで、「よいでしょう。頑張ってください」ということになった。
染色体を観察するのはさほど難しいことではないが、プレパラートを作る過程のほとんどが手仕事になるため、よい結果を得るためにはいささかコツがいる。そこで”先生”がお手本を示すことになる。ところが、当時の私は専らシダ植物の染色体を研究していて、ヒガンバナの染色体を観察したことがなかった。しかし基本的には同じ方法でプレパラートはできる。初めてにしては上手にできたプレパラートではあったが、その染色体を見て目を見張った。大きくて形にメリハリのある、まさに絵に描いたようなその染色体は、小さくて数の多いシダ植物の染色体で苦労していた私には感動ものであった。この第二の出会いがきっかけで、私はヒガンバナとその仲間たちの世界に魅入られてしまったのである。
はじめのうちこそ、艶やかな花を咲かせるヒガンバナに心惹かれたことを、恋人のように思ってきた決して花の咲くことのない日陰育ちのシダ植物に申しわけなく、仲間に知られることも気恥ずかしく思っていたのだが、結局は本気になり、ついにはヒガンバナとその仲間を求めて中国大陸の原野をさまようというところまでのめり込んでしまったのであった。
なぜか気になる人里植物
ヒガンバナは、花さえ咲いていればまず見落とすことのない植物だが、花時の秋彼岸に人里はなれた山の中をどれほど歩き回ってみても、ヒガンバナに出合うことはできない。もしも出合ったなら、その付近を探索してみるとよい。人間の生活したなごりが残っているはずだ。このように村落や都市など、人間の生活圏に限って出現する植物を「人里植物」と呼ぶ。人里植物は、早春の路傍に咲く空色のオオイヌノフグリ、桃色の小さな花穂を立てるホトケノザ、踏まれても咲くたくましいセイヨウタンポポ、夏の到来を告げるような濃いオレンジ色の花のヤブカンゾウ、秋の日差しを浴びて金色の波のように揺れるセイタカアワダチソウなどなど、数え上げればきりがないほど多い。これらの草々にはそれなりの風情もあり、俳句や短歌にも詠われているが、ヒガンバナはそれらとは少し違って、ひとたび目にすると忘れ難い、特異な印象を人々の心に残すようだ。そのせいであろう、この植物には1000余の里呼び名がある。日本に分布する植物でこれほど多くの呼び名をもつものは他にない。オチョーチンボンボラコのように子供の草遊びを表す楽しい名もあるが、一方では不吉な縁起のよくないものも少なくない。死人花、幽霊花、葬式花、地獄花、墓花、毒百合、親殺しなどである。なぜこんな名で呼ばれるのかは後で触れるが、これらの里呼び名から想像できるように、現代でもこの植物を嫌う人がいる。しかし最近では積極的に庭に植え込んで、その秋の色を楽しもうという人も増えてきた。いずれにしろ、秋の彼岸が来るたびに、なぜか気になる人里植物、それがヒガンバナだ。
魅せられた人々
「毎年ヒガンバナの咲くのを楽しみにしている。私は北海道育ち、二十数年前この地にきて始めてこの花を見たとき驚嘆し、この花にすっかり魅了されてしまった。(中略)みごとに咲いた群落が、無残にもなぎ倒されたり、踏みにじられているのを見ると腹が立つ。私は散策の折には、行く先々の野山へ球根を植えるように心がけている。やがて数十年もすると、そこにはヒガンバナの群落を見ることだろう。咲くのが待たれるこのごろである」
これは小田原市の木村四郎が1977年10月16日発行の『サンデー毎日』のペン・サロンに投稿した文である。この木村のような積極派は稀だろうが、ヒガンバナに魅せられる人々は少なくない。しかし、ではどこに惹かれるのかとなると、これはまた人さまざまである。
昭和6年、日本で最初にアイスクリームの紙カップの製造を始めたことで知られる詩人藤村雅光は、戦後間もない24年の夏、詩集『曼珠沙華』を出版した。このとき最愛のご子息は北朝鮮の地ですでに戦死していた。
曼珠沙華の花が/私は好きだ
庭の/雑草の中に/曼珠沙華の赤い花が/ぽつんと咲いている

私が妻をつれて/あてのない旅を/つづけていた頃のことだ/おりる人もない/山の中の小さな駅で/雨に濡れた/汽車の窓から/見たものは/曼珠沙華の赤い花であった
そういう記憶がある

私の妻が/病気になったことがある/その頃の私には/醫者に来て貰うことも/薬を買うこともできなかった/小さな庭の/こわれかかった板塀の下に/曼珠沙華の赤い花が/ぽつんと咲いていた
20何年か前のことだ

醫者に診て貰うこともできなかったが/少しは歩けるようになった/私の妻は/庭におりていった
痩せほそった指の間から/仁丹の小粒が/こぼれ落ちているのも忘れて/私の妻は/曼珠沙華の花を/いつまでも見ていた
詩集を賣って/仁丹を買ったその残りの金で買ってきた/タバコを吸いながら/私も庭におりていった
暮れかかった小さな庭の/曼珠沙華の赤い花の下に/こぼれている/仁丹の銀色の小粒を見ているうちに/瞼のなかが/熱くなってきたことを/私は今に覚えている
詩人藤村にとってのヒガンバナは、彼のこまやかな心の波動に同調する赤い花であった。それはまた、病んだ妻の姿とも重なるものであった。
室町時代から曼珠沙華と呼ばれていたヒガンバナは江戸時代の本草家にもよく知られていた。しかし彼らは魅せられると言うより、『本草綱目』を初めとする中国の本草書に「石蒜」の名で取り上げられている薬草として認識していた。一方、同時代の文人の多くはこの花にふれることもなかった。わずかに森川許六の「弁柄の毒々しさよ曼珠沙華」や蕪村の「まんじゅさげ蘭に類て狐啼」などの句が知られるに過ぎない。許六の目はこの有毒の真紅の花に優しくはないが、寂しげに狐が鳴くフジバカマの香る野中のヒガンバナを見る蕪村の目は秋の日差しのようだ。中興期の信濃の俳人大島寥太は醒めた目で「此のごろの西日冷たし曼珠沙華」と詠んでいる。
明治時代以降になると、なぜか文芸作品にヒガンバナを登場させる人たちが急増する。正岡子規もその一人だ。あまり知られてはいないが、彼は『曼珠沙華』という短編小説を明治30年の秋に書き上げている。それは、玉枝という名の金持ちの総領息子と蛇使いを父にもつ極貧の花売り娘みいとの幻想的な恋物語である。田の中の大将塚に茂る大きな木の下に、傾く西日に映えて真っ赤な毛氈を敷きつめたように咲くヒガンバナの群落。その中に座って、娘が手折った花茎を束ねている。足の親指の爪が破れ赤い血が流れている。二人の出会いのシーンである。娘の好きな花がヒガンバナだと聞いて、「葬礼花、蓮華花、死人花などいふて誰でもいやがる花がお前には好いの、葉も枝も何もなく・・・・、色といや厭に真赤な色で、あかくても子供さえ取らん花を、それが好きなの、その人の嫌う花が」と訊く玉枝に「それだから可愛がってやるのぢゃがなぁ」とヒガンバナを薬玉にして首に下げた娘が答える。忌まれる身分ゆえ、忌まれる花に心寄せるのである。
GONSHAN. GONSHAN. 何処へゆく/赤い、御墓の曼珠沙華/けふも手折りに来たわいな。
GONSHAN. GONSHAN. 何本か、/地には七本、血のやうに、/血のやうに、/ちやうど、 あの児の年の数。
GONSHAN. GONSHAN. 気をつけな、/ひとつ摘んでも、日は真昼、/日は真昼、/ひとつ あとからまたひらく。
GONSHAN. GONSHAN. 何故なくろ、/何時まで取っても、曼珠沙華、/恐や、赤しや、 まだ七つ。
これは明治44年に北原白秋が出版した歌集『思ひ出』に収録された「曼珠沙華」である。曼珠沙華には”ひがんばな”とルビが振られている。GONSHANは柳河の方言で良家の令嬢のことだという。集中冒頭の「わが生ひたち」には「美しく小さなGonshan. 忘れもせぬ七歳の日の水祭りに初めてその児を見てからといふものは私の羞恥に満ちた幼い心臓は紅玉入りの小さな時計でも懐中に匿してゐるやうに何時となく幽かに顫へ初めた」と、蚕豆の青い液に小さな指先を染めて黒い瞳をみひらいて立っていた初恋の Gonshan との出会いが記されている。
少年の日の白秋の脳裏に焼きついた、「曼珠沙華」の御墓で泣いているGONSHANは、この小さな Gonshan なのだろうか。白秋は童謡集『とんぼの眼玉』を編むにあたり、童謡味の勝ったものとしてこの詩を採っているから、ヒガンバナを手折りに来たのはやはり初恋のGonshanなのだろう。しかしこの「曼珠沙華」はまったく違う読み方もできるように思える。「わが生ひたち」を読む以前に、何の予備知識も無く初めてこの詩に出合ったとき、私が思い描いた情景は、父なし子を産んで死なせて気のふれたGONSHANが、昼日中の墓地で咲き乱れる鮮血色のヒガンバナを涙を流しながら折り取っている姿だった。ゴンシャンという言葉は『広辞苑』など手元の辞書にはなく、もちろんラテン系の言葉でもなかった。そこで、墓地との連想から、仏・菩薩が衆生を救うためこの世の人の姿となって現れたものを意味する権者(GONJA)という言葉に由来するもので、美しい女人、ひょっとしたら遊女のことではないかと勝手に解釈した次第である。白秋の思い出に残るGonshanは、水祭りの日に見初めたGonshanだけではない。「あの情の深そうな、そして流暢な、柔らか味のある語韻の九州には珍しいほど京都風なのに阿蘭陀訛の溶け込んだ夕暮れのささやき」が懐かしいGonshan(良家の娘、柳川地方の方言)もいる。蒼白い薬種屋の乱行娘もGonshanの一人であろう。この娘たちの誰かが、御墓でヒガンバナを手折るGONSHANであってもよいように思える。
この詩には後に山田耕筰が曲をつけている。もう20年近くも前になるが、東京文化会館で開催された東混特別演奏会での指揮・岩城宏之、ピアノ・林光による合唱は、まさに凄絶な「曼珠沙華」であった。明治以来もっとも凄い歌と評した人もいたほどである。作曲者による演奏上の注意書きを読むと、山田耕筰にとってのGONSHANはあどけない少女ではなかったようだ。
まんじゅしゃげ昔おいらん泣きました    渡辺白泉
白泉のこの句は白秋の前出の詩の影響を受けているように思える。大岡信は朝日新聞に連載した『折々のうた』で、この句を「人を食った句で、何の細かい説明もない。それでいて“おいらん”という語が秘める悲運、悲哀の情を汲みつくしている感じがする」と評している。
大正歌壇を代表する歌人、木下利玄もヒガンバナに魅了された一人で、この花を詠んだ短歌をたくさん残し、”曼珠沙華の歌人”とも呼ばれている。
利玄は『李青集』に「・・・・私はあの花が大好きです」「その紅の反くり返った花弁は、まだ炎威をのこしてゐる秋陽に照り映えて、毒々しいまでに燃えてゐる。それが夕方村を通り過ぎたりして、路傍の小高い丘の、日露戦役の戦死者の墓の処などに、かたまって咲いてゐるのを見かけると、赤い夕日に照らされてといふ、センチメンタルな唱歌の節などが、思ひ合はされて、不思議な淋しさを、人の心に投げかける」と書いている。
長年にわたり結核に苦しめられた利玄は四十路を目前にして他界するが、そのほんの1ヶ月前に雑誌『日光』に「曼珠沙華の歌」が発表された。大正14年のことである。“曼珠沙華の歌人”とよばれるゆえんである。。
「わが故郷にては曼珠沙華を狐ばなと呼ぶ、われ幼き頃は曼珠沙華の名は知らざりき」との詞書に続けて、
舂ける彼岸秋陽に狐ばな赤々そまれりここはどこのみち
高熱にうなされながらヒガンバナが篝火のように連なる故郷の小道を夢に見たのだろうか。秋の陽が山の端に沈みかけた夕暮れ、気がつくと少年は独り、ぽつんと、狐ばなに囲まれていた。
『大伴家持の研究』や『西行法師伝』などで知られる国文学者の尾山篤二郎は歌誌『自然』を主催した歌人だが、やはり数多くの曼珠沙華の句を詠んでいて、歌集『雲を描く』には20余首が採録されている。
赤々と地よりしみみにつくづくと火を焚きあぐる曼珠沙華の花
あなさけやあな赤々と曼珠沙華あなさけや田の畦の細径
美しとわれは見つれど曼珠沙華ただそれなりに枯るるまで咲く
斉藤茂吉は「元来小生は医者で一生を終わらねばならぬ身」と承知のうえ伊藤左千夫師事し、「業余の吟」と言いながらも歌人として大成した。この茂吉もヒガンバナに惹かれた。
秋のかぜ吹きてゐたれば遠かたの薄のなかに曼珠沙華赤し   (赤光)
ふた本の松立てりけり下かげに曼珠沙華赤し秋かぜが吹き    (赤光)
曼珠沙華咲くべくなりて石原へおり来む道のほとりに咲きぬ    (つゆもじ)
冬岡に青々として幾むらの曼珠沙華見ゆわれひとり来む      (寒雲)
上記の寒雲の短歌や、無形文化財紙塑人形の創作者でアララギ派の歌人としても著名な鹿児島寿蔵の「海崖のけはしき畔は曼珠沙華冬の群立ちただいさぎよし」に見るように、花ではなく厳冬に青々と重るつややかな葉群の生命力も注目された。篤二郎や茂吉や寿蔵の目をひいたヒガンバナからは、すでに”不吉な花”の印象は薄れ、日本の秋を彩る花の一つとなっている。この傾向は時代が新しくなるにつれて強まるようだ。とはいえ、おおかたは「彼岸花忌みてはみれど美しく」と詠む河野南畦のように、この花の背後に在る、悲しみを誘う何物かを意識しているようだ。
曼珠沙華抱くほどとれど母恋し         中村汀女
父若く我いとけなく曼珠沙華            中村汀女
あせたるは悲傷に似たり曼珠沙華        島村正
曼珠沙華さいてここが私の寝るところ     種田山頭火
南方では日本軍が海南島に上陸し、北方ではノモンハン事件が勃発し、朝鮮半島では総督府が創氏改名を強制した昭和14年頃から戦後にかけて流行した歌謡曲、梅木三郎作詞・佐々木俊一作詞の『長崎物語』にも曼珠沙華が歌われた。
赤い花なら曼珠沙華/阿蘭陀屋敷に雨が降る/濡れて泣いてる じゃがたらお春/未練な出船の ああ鐘が鳴る/ララ 鐘が鳴る
長崎はヒガンバナ、というより、曼珠沙華のよく似合う街であった。かつて私が訪れたときも金毘羅山の麓の野道が赤く染まっていた。この歌を口ずさんだ往時の人たちは、異国情緒色濃いオランダ屋敷と雨に濡れた真紅の曼珠沙華に、江戸は寛永の昔、混血がゆえに平戸の港から追われた悲運の娘、お春の姿を重ね見ていたのであろう。家光により鎖国令が発せられたのが寛永10年(1633)、イタリア人航海士を父に持ったお春が、在留中だったオランダ人・イギリス人とその妻子らとともにオランダ船プレ ダ号で日本を追われたのはその6年後、お春14歳の秋のことであった。バタビア(現在のジャカルタ)に送られた彼女は望郷の熱い思いを胸に、元禄10年、その波乱の生涯を閉じた。72歳であった。その彼女が“ジャガタラお春”の名で知られるようになったのは、長崎出身の西川如見が『長崎夜話草』に「紅毛人子孫遠流之事附きジャガタラ文」としてお春が親友おたつに宛てた手紙を紹介したのが始まりだといわれる。その文は「千里ふる神無月とよ、うらめしの嵐や。まだ宵月の空も心もうちくもり。時雨とともに故郷を出しその日をかぎりとなし・・・・・」とはじまり「・・・・あら日本恋ひしやゆかしや、見たや見たや見たや」と終わる。しかし、『長崎物語』のジャガタラお春は江戸時代のお春ではなく、サンダカンなど南方の娼婦館に売られた近代のお春だと信じてこの歌を歌っていた人も少なくないようだ。
私見ではあるが、総じて歌謡曲の作詞者は、ヒガンバナそのものに魅入られたというのではなく、曼珠沙華なる言葉が聴衆に与えるインパクトを狙っているように思える。ことに、山口百恵が歌っていた、阿木耀子作詞の『曼珠沙華(マンジューシャカ)』は植物学的に見ればヒガンバナではない。なにしろ、ほのかに香ったり、はかなく散ったりするのだから。もっとも、かつて熱烈な百恵ファンであったらしい家人にこの話をしたところ「つまらないことをゆうのね」と顰蹙を買ってしまった。そういえば、写生を身上とするホトトギス派のさる人の句にも「曼珠沙華散るや赤きに耐へかねて」というのがあるそうだが、赤い花びらは白く色が抜け、褐色の糸のように捩れ縮れて、朽ち果てる。けして散ることはないのである。
ヒガンバナに対して民俗学的な、あるいは生物学的な興味を抱いた人も少なくない。
日本民俗学の創設者とみなされている柳田國男は『野草雑記』の「草の名と子供」のなかでこの植物にふれている。ヒガンバナには1000を越す里呼び名があることは前に書いたが、民俗学のアプローチの一つとして”方言”を研究していた柳田はこれに注目したのである。「東京の郊外で彼岸花、俳諧で曼珠沙華などといっている草の葉を、奈良県北部ではキツネノカミソリ、摂津の多田地方ではカミソリグサ、それからまた西に進んで、播州でも私たちは狐の剃刀と呼んでいた」と始まる彼の小論では、各地に残る呼び名を上げ、その名の由来を考察している。『方言覚書(鍋墨と黛と入墨)』でとりあげた程度で、柳田自身はその後この草の名を本格的に論じたものは著していない。
しかし、柳田の著作に刺激され、ヒガンバナの方言の収集に心血を注ぐとともに、この植物の渡来の時期についての考察を進めたのが山口隆俊である。山口は会社員としての勤務のかたわら、昭和2年に東京リーダー・ターフェル・フェラインを創立し初代指揮者をつとめ、その後も長くさまざまな音楽活動に参画したが、この間、国立科学博物館の機関誌『自然科学と博物館』や『言語生活』などにヒガンバナについての興味尽きない論考を発表するとともに1000余の方言を収集した。その成果は彼の死に伴い日の目を見ることなく『ヒガンバナ里呼び名カード辞典』として国立国語研究所に収められている。 また、昭和40年には彼岸花を詠んだ短歌81首を収録した小冊子『ある男のノート』を出版している。
柳田国男が、「縛られた巨人の眼差し」をした「日本人の可能性の極限が、又時としては更にそれよりもなほひとつ向ふかと思ふことさへある」人物と回顧し、親交のあったロンドン大学事務総長F.V.ディキンズが「私の知るもっとも卓越した日本人」と記している南方熊楠も、ヒガンバナに興味を抱いた一人である。大正4年元旦発行の『日本及日本人』に発表された「石蒜の話」は南方の博学ぶりが遺憾なく発揮されている。石蒜はむろんヒガンバナの中国名である。この小論にはヒガンバナのさまざまな民俗、薬効、毀誉褒貶の変遷、呼び名の由来などのほか、この植物がヨーロッパへ紹介された時代や南アフリカ原産のネリネ・サルニエンシスと混同された経緯にも触れている。私の“ヒガンバナ考”の原点に位置する論文の一つである。めでたい正月号に世間一般が縁起の悪いものと見ていたヒガンバナをとりあげたところなども南方一流の皮肉で「種々面黒い珍談のついた草ゆえ、新年号の拙文の外題に選み立てたんじゃ」というわけである。
当然のことながら、近代の植物学者もこの植物に注目した。牧野富太郎も、ヒガンバナについてはことあるごとに書いている。例えば『随筆草木誌』では、その毒性について記し、『植物一日一題』では万葉集に出る壹師をヒガンバナと考察したり、幻の純白のヒガンバナのことなどに触れている。ドクウツギの古赤道起源説やカンアオイ類の研究で有名な植物系統分類学者の前川文夫もヒガンバナには並々ならぬ興味を抱いていた。岩波新書の『日本人と植物』の第8章「ヒガンバナの執念」を一読すればその執着ぶりがよくわかる。市井のヒガンバナ研究家、松江幸雄は日本全土を巡り、精力的に分布や生態や民俗を記録したが、その情熱は『ひがんばな〜妖艶な花のすべて』や『日本のひがんばな』に結実している。また、『ヒガンバナが日本に来た道』を著した愛知大学の有薗正一郎は、文学者の立場から、豊川流域や渥美半島のヒガンバナの分布状態を精査し、この植物の渡来の経路に迫っている。
このほか、インターネットで検索してみれば直ちにわかることだが、実に多くの人たちがヒガンバナについて書き記しているし、彼岸のころともなれば、TVのニュース番組でも、咲き盛るヒガンバナの映像を頻繁に放映している今日この頃である。 
 

 

花は咲けども
彼岸の入りの今朝も、TVでは日高市の巾着田に真紅のカーペットを敷き詰めたように咲く彼岸花と、その中を散策する大勢の人々の映像を流していた。いったいヒガンバナの何が人々を魅了するのだろう。日本の野に咲く花としては異例の、紅蓮の炎、あるいは鮮血のような彩り、人里に、それもしばしば墓地や社寺の境内に生えていること、死をも招くことのあるその毒性、そして、あれほどまでに咲き誇っていても決して実を結ばず、それにもかかわらずどんどん増えてゆく不思議。こうしたさまざまなこの植物の特徴が複雑に絡み合って、人々の心を揺さぶり、異界の花、つまり別の世界からやってきた花と直感させるのだろう。
この直感が正しかったことは、実を結ばない謎、つまり不稔性の原因が解明されることによって証明された。
ヒガンバナに種子ができないことの不思議を最初に指摘したのは牧野富太郎だった。彼は明治40年(1907)に出版された飯沼慾斎の『増訂草木図説』のマンジュシャゲの補記に「予ハ未ダ本種ノ結実セシモノヲ見タルコトナシ」と書いている。江戸時代の本草家はこのことには気づいていなかったようだ。そればかりか反対に、天保15年(1844)刊行の小野蘭山著『重訂本草綱目啓蒙』には「花後圓實を結ぶ、實熟して莖腐り新葉を生ず」とある。思い違いの可能性もあるが、蘭山ほどの学者が実物にあたらなかったとは考えにくい。後で詳しく書くが、ごく稀れに結実することもあるので、そのような株を見たのかもしれない。しかし牧野富太郎は「蘭山は花後に尚存する緑色の略円き子房を見て其れを実が熟したと誤解している」と断じている。
ではどうして種子ができないのだろう。
オシベからメシベへ花粉を運んでいる花粉媒介者がいないからだろうか。そんなことはない。天気がよく風も穏やか日には花を訪れるアゲハチョウの姿を見ることができる。コハナバチのような小さな蜂が花粉を集めに来ることもある。また風が吹けば、身を寄せ合って群れ咲いている花は頻繁に触れ合う。しかし調べてみると花粉が多量に付着しているメシベ(柱頭)は滅多になく、なかにはまったく受粉していないものもあった。統計を取ってみるとそれでも約20%のメシベに多かれ少なかれ花粉がついていた。つまり、受粉することがないから種子ができないというわけではない。植物によっては、自家不和合性といって、同じ株の花粉では受精できないものもある。ヒガンバナは自家不和合なのだろうか。この点に関しては、東京帝国大学で生物学を学んだ終り徳川19代目の当主の徳川義親やヒガンバナ類の育種で知られた寺田甚七、同志社女子大教授時代の小山松太郎などが人為自家受粉実験を行い、興味深いデータを残している。
徳川義親は徳川生物学研究所を設立したことで知られる”殿様”だが、大正3年(1914)の論文『花粉の生理』のなかで、ヒガンバナの不稔性は「恐ラク栄養状態ニ関係アルモノトミラル」と書いたが、大正14年の植物学雑誌に『彼岸花ノ種子ニ就テ』という論文に彼の行った自家受粉実験の結果を報告している。それによれば、総計約140花をつけた20本の花茎を切り採り、自家受粉をさせ、1茎ずつ花瓶に差し、数日ごとに水を取り替えるとともに腐り始めた花茎の下部を切り詰めながら栽培したところ、約2ヵ月後に5個の種子が得られたという。この5個の種子を蒔いた結果は2年後の江本義数と共著の論文『Lycoris属植物ノ種子形成ニ就テ』に「終ニ発芽セシムルコトヲ得ザリキ」と報告している。この論文を読むと、不稔性の原因を探るため彼らはさまざまな実験をしたが、まがりなりにも種子が採取できたのは切り取った花茎を水栽培した場合だけであった。この方法でも4768花から採れた種子はわずかに17個で、しかも発芽したものはなかった。
寺田甚七は昭和12年に同様の実験をするとともに他家受粉をも試みているが、やはり一粒の種子も得られなかった。ところが、小山松太郎は毎日水を取り替える方法で18912個の花から479個の種子を採り、この内の22個を発芽させている。
切り取り栽培実験ではなく、自然状態に放置した場合はまったく種子をつけないのだろうか。あるいは実験結果と同じように少しは結実するのだろうか。千葉県木更津市の大きな群落で調査したところ、約0.016%の花でさまざまなサイズの種子を採取できたが、発芽したものはなかった。一方、園芸家の城下重春が長崎県の野外で採取した4粒の種子の内の1個が発芽し、外見上は正常な形態の花をつけた。後に、この個体のクローンの染色体を調べたところ2n=33ではなく2n=32で欠失が観察された。
以上のような実験や観察の結果からみると、ヒガンバナは極々稀には種子で繁殖することがあるものの基本的には不稔性植物である。
どうしてこれほどまでに種子ができにくいのだろう。
その答えは細胞遺伝学と呼ばれる分野の研究から得られた。
明治33年(1900)にメンデルの法則が再発見されるとともに、遺伝子が染色体に担われていることが明らかになる。生物の体を構成する基本単位の細胞には核と呼ばれる構造があり、この中に染色体が納まっているのだが、その数と形が原則として種ごとに決まっていることも知られるようになった。そこで、さまざまな種の染色体の数や形態を詳しく調べるとともに配偶子が形成される際の染色体の動向を観察し、染色体のどの部分にどんな遺伝子が存在するのかを示す染色体地図を作成したり、栽培植物の起源や野生種の類縁関係などを解明することを目的とする細胞遺伝学の研究が盛んになった。
ヒガンバナの不稔性の原因を、この新たな視点から探ったのが京都帝国大学農学部の西山市三である。そしてその研究結果をまとめた論文『ひがんばな属植物ノ減数分裂』が発表されたのが昭和3年(1928)である。ではなぜ減数分裂(花粉と胚嚢を形成するための細胞分裂)を研究すれば不稔性の原因がわかるのだろう。西山の研究の結果を紹介して説明しよう。
説明を進める都合上、先ず始めに細胞分裂と染色体数の変化の仕組みについて簡単に解説しよう。
細胞分裂には2つのタイプがある。一つは個体が生命を維持し成長するために行う分裂で、体細胞分裂と呼ばれ、今ひとつは卵子と精子(植物では胚嚢細胞と花粉)を形成するための分裂で、減数分裂と呼ばれる。身体を構成している細胞には雌の配偶子に入っていたn本の染色体と雄の配偶子に入っていたn本の染色体、つまり2n本の染色体がある。分裂をしようとする細胞は個々の染色体を複製(コピー)して4n本にしたのち、体細胞分裂ではこれを均等に2分して2n本の染色体をもつ2つの体細胞になる。減数分裂は引き続く2回の分裂で、まず複製して4nにした染色体を体細胞分裂とは異なる方法で二つの細胞に2n本ずつ配分し、次には複製なしで2n本をn本ずつ2つの細胞(配偶子)に配分する。そしてこの配偶子が受精すれば出発点の2nにもどり、これが次世代となるのである。しかし、減数分裂の結果の配偶子の染色体のセットに乱れが起こるつと、正常な次世代を作ることができなくなる。植物でいえば種子ができないか、できても発芽しないことになる。これが不稔性である。乱れが起こる原因には外的なものと内的なものとがある。外的なものとは異常な高温や低温、放射線の照射、有害な化学物質などの刺激が分裂の途中で加わることであり、内的なものとは減数分裂に関わる遺伝子が壊れたり、奇数の染色体数などのように染色体構成がアンバランスになっている場合である。
西山は「きつねのかみそりトひがんばなトハソノ形態並ビニ習性ガ非常ニ相類似シテオルノニ関ラズ、獨リひがんばなノミハ全ク種子ヲ生ズルコトガナイ」点に注目し、この2種の減数分裂を研究した。その結果、キツネノカミソリの体細胞は22本の染色体を持ち、減数分裂は、まず22本の染色体の内の2本ずつが対合して11個の2価染色体ができ、その後も分裂は整然と進行して11本の染色体を持った花粉が形成されることがわかった。体細胞の染色体数が22ということから胚珠の中で胚嚢細胞を形成する際の減数分裂も正常に行われ11本の染色体を持つ卵細胞ができることもわかる。つまり、キツネノカミソリでは正常な減数分裂の結果として、受精後に正常な種子ができるのである。一方、ヒガンバナの体細胞では33本の染色体が数えられた。そして減数分裂を観察すると、最初の分裂では細胞ごとにさまざまな染色体の組み合わせがおこり、キツネノカミソリのように同数の染色体を持った2つの細胞に整然と分かれることができない。したがって2回目の分裂で形成される花粉の持つ染色体の数も一定しない。同様のことは胚嚢細胞の分裂でも起こるので、異常な染色体数の卵細胞ができる。この結果、ヒガンバナでは仮に受精までこぎつけたとしても正常な種子を作ることができないということが明らかにされたのである。
キツネノカミソリの花粉の持つ11本の染色体セットを”X=11"と表すとその体細胞は”2X=22”で、これを2倍体とよぶ。これに対してヒガンバナの体細胞は33本の染色体を持つので”3X=33”である。これを3倍体と呼ぶ。つまり、3倍体は減数分裂を正常に終了させることができず不稔性になるのである。
この後、稲荷山資生がさらに多くの個体で減数分裂を観察して、西山と同じ結論に達している。稲荷山(1951)の論文によれば、発芽させたヒガンバナの花粉の染色体数は12から19までさまざまで、15のものが26.4%、16が29.6%、17のものが19.2%であった。稲荷山は観察していないが11や22の花粉があっても不思議ではない。このようにして、ヒガンバナの不稔性は、それが3倍体で正常な減数分裂ができないことに起因することが解明されたのである。
しかしながら、野生の大きな群落の中では膨大な数の花粉と胚嚢細胞が作られているわけで、非常に稀ながらバランスの取れた染色体の組み合わせができる可能性がある。城下が長崎で種子を採取して育てた株はこのごく稀な組み合わせの産物だったのであろう。小山が人工的にヒガンバナの自家受粉を行い22個体の実生を得たことは前に書いたが、その内の10個体の染色体数が報告されている。それによれば6個体が2n=22、3個体が2n=23、1個体が2n=25である。いずれも偶然から生じた生存可能な染色体の組み合わせであろう。これらの2倍体と異数体が開花に至ったか否かは報告されていない。また、人為的に自家受粉をさせれば、自然状態では不稔の3倍体から、さまざまな染色体数の実生が得られることがユリ属やネギ属などでも報告されている。竹村英一(1962)は高槻市の平林寺付近で3倍体ヒガンバナの群落内に混生していた2倍体を採集しこれを交配実験の片親としたが、これも偶然に3倍体から誕生した2倍体であろう。
今のところ日本で発見された野生の2倍体と確認されているのはこの竹村の使った個体だけである。
種子から生まれたヒガンバナ
種子で繁殖できないにもかかわらず、ヒガンバナは東北地方以南の日本列島に広く分布していて、場所によっては大群落を形成している。これは云うまでもなく球根が分裂し増殖できるからである。しかし、ヒガンバナはどうしてここにあるのだろう。球根で増殖することしかできない3倍体のヒガンバナは何処でどのようにして誕生したのだろう。
3倍体の植物が誕生する仕組みは二つある。
第一は2倍体(2X)と4倍体(4X)が偶然に交雑した場合である。2倍体が作るX本の染色体を持つ配偶子と4倍体が作る2X本の染色体を持つ配偶子が受精してできる3X本の染色体を持つ個体が3倍体である。2倍体が母方となれば、その子房の中にできた種子(胚)が3倍体の出発点となる。第2は2倍体(2X)の個体が何らかの原因で減数分裂が抑制され、X本の染色体を持つ通常の配偶子の代わりに非減数性の2X本の染色体を持つ配偶子(精核または卵細胞)を形成し、この配偶子がX本の染色体を持つ通常の配偶子と受精し3Xの染色体を持つ種子(胚)となった場合である。つまり、最初の3倍体のヒガンバナは種子で繁殖できる2倍体ヒガンバナがあってはじめて誕生できた。
故郷をもとめて
北海道をのぞく日本列島に広く分布している3倍体のヒガンバナは何処で誕生したのだろう。2倍体がなければ3倍体はできないのだから、2倍体が分布している場所が誕生の地である。だが、現在の日本には種子で繁殖している2倍体は存在しない。とすれば、可能性があるのは海の向こうの中国や韓国である。
韓国では一輪のヒガンバナを描いた切手も発行されているが、日本でのようにありふれた植物ではなく、栽培ないしは逸出状態で散見されるに過ぎないが、最近は全州郊外の公園のように大量のヒガンバナを植え込み、秋になると観光の目玉としている場所も出てきてはいる。全北国立大学の金茂烈教授の調査によれば現在のところ、ソウル、大阜島、月岳山、禅雲山、白羊山、仏甲山、双渓寺、頭輪山などで見ることができるという。私も数年前、全羅南道を中心に半島の南部を巡ったが、済州島をふくめ一度も目にすることはなかった。現在はむろん過去にも稔性の個体は報告されておらず、染色体を観察された個体もすべて3倍体であった。韓国に2倍体が存在する可能性は先ずないと見てよいだろう。
一方中国では日本どうようにヒガンバナはありふれた植物で、大きな群落も見られ、昔から救荒植物の一つとしてよく知られていた。だが、明の李時珍の『本草綱目』をはじめとするヒガンバナをとりあげている本草書のいずれにも稔性の有無についての記述はない。   
その中国のヒガンバナの中に3倍体とともに2倍体が存在することを最初に明らかにしたのは、ヒガンバナが3倍体ゆえに不稔性を示すことを発見した西山市三(1939)であった。
西山はその論文に「昭和4年の頃小見益男氏が支那大陸産(浙江省)のLycorisを二種類寄贈してくれた。その中の一つは本邦各地に自生するヒガンバナとまったく同一種であった。他の一種はヒガンバナとよく似ているが、詳細に比較して見ると明らかに異なったものである。」と記しており、これが2倍体であった。西山はこれをシナヒガンバナと呼んだ。稲荷山(1953)も詳しい産地には触れていないが中国産のヒガンバナに稔性のある2倍体を見いだし、これをコヒガバナと名づけ、L. radiata (L'Herit.)Herb. var. pumila Gray にあてた。この学名は正式に記載されたものではなく、Gray(1938)がヒガンバナの倭性の系統に暫定的につけた学名で、稔性の有無についての記述はない。したがって3倍体であったのかもしれないが、稲荷山が2倍体にこの学名をあってて以来、var. pumila といえば2倍体ヒガンバナをさすという暗黙の了解がある。L. radiata にしても、記載された時点では稔性の有無には触れられていない。しかし日本産の個体を元に記載された学名ゆえ、こちらは3倍体としてよいだろう。
このように、西山と稲荷山の研究によりヒガンバナの故郷が中国大陸である可能性が高くなった。しかし、日本で竹村が拾い出した株のように、3倍体由来の偶発的産物の恐れもある。これに決着をつけるためには中国での2倍体(コヒガンバナ)と3倍体(ヒガンバナ)の分布の実態を明らかにする必要がある。
広大な中国大陸を私自身がくまなく回ってこの目で確認できれば云うことはないが、現状ではさまざまな制約がある。そこで上海復丹大学の徐炳声教授(現名誉教授)の助けを借りて、北京の中国科学院植物研究所、南京植物園、杭州植物園、復旦大学、成都植物研究所、昆明植物研究所などの標本庫に収蔵されている押し葉標本にあたって、採集地を確かめ、分布範囲を調べた。
実際に当たってみてわかったことは、押しつぶされ色が抜けたり変色したりしている標本をもとに、それが2倍体か3倍体かを決めることの難しさである。染色体数が確定している個体の形態を統計的に比較すれば、2倍体より3倍体の方が花茎は太く長く、小花の数は多く、花糸長・花柱/花被片長は大きく、葉身も長いのだが、こうした数値は個体レベルでは重なり、確かな決め手にはならない。しかし、種子のついている標本があれば2倍体と決められるし、よい葉の標本があれば気孔のサイズからどちらか判定がつく。ところがヒガンバナ類の特徴として花時には葉がなく、葉が出ているときは花がない。したがってこの二つの器官が揃った標本は皆無に等しい。また花のほうが目立つためその標本はあっても葉の標本は少ない。また花の終わった後の花茎の標本も非常に少ない。
ある程度は頼りになるのはもう一つの形質、開花期である。これも多少の重なりはあるものの2倍体は早いものでは8月の上旬から咲き出し、3倍体は9月中旬(稀には9月上旬)から咲き始める。したがって、花のある標本のラベルに採集した日付があれば判定可能である。しかしその年の気象条件や生育地の状況によってあるていど花期がずれることがあるので、8月の終りから9月の初めにかけて採集された標本は除外することにした。
この開花特性は採集した球根は日本に持ち帰って栽培しても保持されているので、もし日本にも8月上旬から咲き始めるものが自生していれば2倍体である可能性が高い。そこで、斉藤茂吉が長崎医学専門学校教授の時代、大正9年の夏、病を癒すために逗留した雲仙温泉で詠んだ短歌、「曼珠沙華咲くべくなりて石原へおり来む道のほとりに咲きぬ」が注目される。“石原”は「温泉神社(四面宮、国魂神社)裏の石原」である。8月4日に詠まれたものである。茂吉は偶然に2倍体と出合ったのではないか。そう考えてかの地を訪ねてみたが、残念ながら2倍体を採集することはできなかった。島原半島には7月から開花するオオキツネノカミソリはある。しかし植物には詳しかった茂吉が間違えたとは考えにくい。これは謎として残しておこう。東京大学の標本庫には、種子は付いていなかったが、台紙に「種子は黒熟する」と書き込まれた標本がある。熊本県益城郡中央町樫志田で採集されたものであった。そこで現地に出かけ堅志田のみならず阿蘇の外輪山南山麓一帯を調査したが、ここでも2倍体を見つけることはできなかった。
日本に2倍体が分布するか否かの問題は置くとして、上記の手法での調査の結果、中国では3倍体は主に揚子江本流とその支流域に広く分布し、山岳地帯の多い雲南省や南西部の江西チワン自治区などでには少ないことがわかった。一方、花期と種子を持つことから2倍体と判定されたものはわずかだったが、四川・湖南・貴州・安徽・浙江・江蘇省の6省で3倍体と重なるように分布していた。
2倍体がごく狭い地域のみに分布しているのであれば、そこが3倍体の起源の地の可能性が高いが、残念ながら今回の調査からはそれは特定できず、揚子江の中・下流域のどこかだろうとの推測しかできなかった。
日本に分布するヒガンバナが単一のクローンである可能性は核型の研究(Kurita, S., 1987)や酵素多型の研究(小和田理子、未発表)が指摘したが、韓国に分布するものも酵素多型の解析から単一クローンであることが示されている(Chung, M.G., 1999)。したがって、日本と韓国のヒガンバナは中国から人為により持ち込まれたものと考えるのが自然だろう。では中国に広く分散して分布するものも一回起源のクローンだろうか。核型と外部形態から見た限りではいくつかのタイプがあり、どうやら複数回起源のようだ。日本や韓国へはその一つが持ち込まれたのであろう。日本のものと同じ酵素多型パターンは南京産のヒガンバナで観察されている。また、日本に分布するヒガンバナが単純な同質3倍体ではないことは核型の研究から示唆されていた(Kurita, S., 1987)が、ごく最近の葉緑体遺伝子の塩基配列に基づく研究(Hayashi, A., Saito, T., Mukai, Y., Kurita, S. and Hori, T., 2005) からも確かめられている。
このようにヒガンバナそのものの起源についても問題が残されてはいるが、それは置くとして、現在の日本に分布しているヒガンバナがどのような方法で中国大陸から日本にやって来たのかについての論考を『ヒガンバナ渡来再考』と題して以下で紹介する。 
ヒガンバナ渡来説再考 (1)

 

日本に分布しているヒガンバナの故郷が中国大陸の揚子江流域のどこかだということが、かなりの確かさでわかってきた。 だとすると、どのようにして東シナ海を渡ったのだろう。いくつもの仮説が提唱されたが、整理すれば自然分布説と人為分布説に分けることができる。
1) 自然分布説 
栽培品種やごく一部の種を除けば、植物は人間の存在にかかわりなく自らの子孫を残し、その分布を広げてきた。種子散布という分布域を拡張する手段を獲得した植物は、すでに古生代には出現している。種子という繁殖のための構造が出現するまでは、ほとんどの植物はシダ類のように数10ミクロンの胞子を放って新天地を求めたのだが、約2億年前ゴンドワナ大陸に繁茂していたグロッソプテリスなどの原始的な種子植物の種子も数ミリメートル以下の粉のようなものであった。気流に乗って分散したのであろう。その後、現在に至る長いときの流れのなかで、より効率よく、そしてより確実に子孫を増やすために、種子も進化し、今に見られるような多様な散布様式を獲得した。
昔ながらの風を利用する種には微細種子型を踏襲するもののほか、カエデのように翼果をつくるものとタンポポのように羽毛状果を発達させたものがある。熱帯雨林やモンスーン地帯などの水に恵まれた環境には雨水や川の流れや海流を利用した水散布型の種子がある。自由に移動できる動物たちを利用する動物散布型のものもある。スミレやカタクリのようにアリの好物の物質(エライオソーム)を種子つけて運んでもらうもの、おいしい果実目当ての鳥たちに食べてもらって運ばれるもの、センダングサ、ヌスビトハギ、ミズヒキなどのように鉤刺を発達させて獣や鳥の体に付着して移動するものなどさまざまである。自動散布と呼ばれる方式のものもある。ホウセンカやカタバミのように接触刺激で子房壁が弾けて種子を飛ばすものである。このほか、遠距離への分散はおぼつかないが重力分散という方法もある。種子が親個体の周りに落下するタイプである。このタイプは例えば鉤刺のような散布のための特別な構造は発達させていないが、地表で採食する動物や水流などで比較的遠くまで運ばれることもある。ヒガンバナ属の種子はこの最後のタイプである。
一例だが、コヒガンバナ(L. radiata var. pumila)は35cm前後の長さの花茎1本につき平均5個の種子をつける。10月になり種子が熟す頃になると花茎は地表に倒れ、やがて黒くて丸い、平均直径6.6mm、平均重量0.2gほどの種子が親株から少し離れた場所にこぼれる。種子は運良く枯葉などの下に入り乾燥から逃れることができれば、その年の内に発芽して、まず根を伸ばすが、乾燥して皺がより固くなったものは発芽しない。一年後には長さ数センチメートルの細い第一葉が地上に現れる。つまり、親株から35cmほど離れた場所に分布を広げたことになる。生えている場所が傾斜地であれば、転がってもう少しは遠くまで分散できるだろう。
光沢のある種子は肉眼で見た限りでは滑らかだが、顕微鏡で観察すれば種皮に細かな凹凸がある。このため撥水性があり、静かに水面に置けば表面張力が働いて浮かぶ。しかしいったん水没すれば、水流で水面に持ち上げられない限り沈んだままである。種皮は薄く傷つきやすいので、激しい流れの中ではながもちしないだろう。ハマユウのそれのように海流で遠くまで運ばれるような種子ではない。しかし、雨水などによりかなり離れた場所まで運ばれる可能性はある。
実際には統計的な計測データはないので、どれほどの分散能力があるのか不明だが、最低でも35cm程度は移動できる。しかし、実生株は7年ほどたたないと花を咲かせないので、うまくゆけば7年で70cm、年平均10cmの速度で分布を広げることができるわけである。この程度の速度でも同じ方向へ直線的に移動できれば1000万年で1000kmである。とはいえ、花茎が倒れる方向はまちまちで、地形にも山あり谷ありで、分布圏の拡大は非常に緩やかなものになるはずである。
コヒガンバナと違って、球根の分裂以外に繁殖手段を持たないヒガンバナの分布圏拡大はさらに緩やかで遅々としたものになるだろう。
松江幸雄は1965年に平均的なサイズのヒガンバナの球根を1球ずつ5ヶ所に植えて、増殖するようすを継続的に観察した。分球が進み株が大きくなるとともに、地表に露出するいわゆる浮上株が増加する。その結果、1993年にはそれぞれの株は地表に顔を出しているものだけでも平均180球、株の直径約50cmまでに増殖した。32年後の1996年に一つの大株を掘り起こして数えると926球もあった(松枝、1997)。ほぼ1000倍になったわけである。しかし、仮にすべての球根が1年に1回の率で分裂すれば10年で1024球、20年で100万球以上になってしまう。したがって分球の速度はそれほど早くはなく、またあるていどの球根数に達すると増殖率は低下するとみなせる。
一方、高橋道彦は自生状態を調査し、香川県の平野部では株は30cmX50cm〜50cmX50cmの楕円形ないしは円形となり、その平均球根数は約148と報告している(1980)。調査した自生の株群が何年経過したものかはわからないが、松江幸雄の観察結果から想像するとあまり年月を経ていないのかもしれない。あるいは、野外環境では栽培しているものに比べ、増殖率を抑制する別の因子が働いているのかもしれない。
いずれにしろ、球根が分裂するだけでは分布圏の拡大はおぼつかない。
中島庸三は東北大学植物園内でのヒガンバナの分布拡大のようすを次のように報告している(中島、1960)。1939年に直線上にほぼ50cm間隔で4ヶ所に数個ずつ球根を植え20年放置した結果、飛び火的に分布が広がり、最も隔たった個体は親株から7.5mに位置していた。また、親株から離れて点在する株のサイズは大小さまざまであった。この実験が行われた場所は、園内の落葉高木の下の平坦地で、地表植物ではクマスズタケが優占種だがときどき刈り取られるため冬季でも日当たりは良い。最も遠くまで移動したものは、単純に計算すれば1年につき約38cm動いたことになる。なぜ球根が飛び火的に分散できたのだろう。中島は動物による地表の攪乱が原因と考えた。この場所はモグラの生息地で、あちこちに押し上げられた土塚が見られる。犬も徘徊し、その糞もあり、夏には蝉取りの子供たちが遊び、タケを刈る作業員も立ち入る。これらのヒトや獣が無意識のうちにヒガンバナの株群を乱し、浮上球などを遠くに移動させたのであろう。
中国の山間部でしばしば見るように、沢の近くや河原などに生えている場合は、台風にともなう洪水などの自然現象で球根そのものが一気に遠方へ散布する可能性もある。したがって、種子ができなくても分布圏を広げることはできる。もちろん、コヒガンバナのように種子と球根とをセットにしたものの方が分散には有利である。
ヒガンバナ属の最初の種、つまり現生種の祖先がいつどこに出現したかはわかっていないが、アジアの地形がどのような変遷をたどったかは化石や地層の調査を基にした古地理学の研究によりあるていどは解明されている。
被子植物が適応放散を始めた約1億年前の白亜紀後期から2500万年前の中新世に入るころまで日本海は形成されておらず、現在の日本にあたる位置は太平洋の波に洗われる大陸の沿岸域であった。2000万〜900万年前の中新世中期から後期にかけては海進により大陸から切り離されるとともにいくつもの小島に分断される。直立原人が東アフリカに出現した更新世前期の200万年前あたりから地球は寒冷期に入りそれぞれがギュンツ・ミンデル・リス・ウルムと呼ばれる4回の氷河期が波状的に繰り返された。当然のことながら氷期には海水準は下がる。湊正雄(1978)らによればミンデル氷期には現在の東シナ海は完全に陸化していたようだ。このように、1万年ほど前にウルム氷期が終わり完新世に入るまで、いくたびか大陸とつながったり離れたりしながら、次第に現在の日本列島の姿に近づいていった。
この間、植生も複雑に変化した。あるときは現在の北海道のあたりまで亜熱帯性の植物が茂り、またあるときは針葉樹林などの寒帯性の植生が九州にあたる緯度まで南下した。気候の変動のみならず地形の変化にともない海流も複雑に変化したに違いない。
一方、中新世の地層から発見される植物化石のほとんどは現生の属に分類することのできるので、ヒガンバナ属植物の化石は発見されていないものの、すでに2500万年前のこの時代にヒガンバナ属が存在していた可能性を否定することはできない。とはいえ、無論のこと、もっと新しく、数百万年ほどの歴史しか持たないものかもしれない。
仮に、中新世にヒガンバナが現在の華南にあたる地域に出現していたとすると、前に述べたような緩やかなペースで分布圏を広げたとしても、距離的には十分に日本列島までたどり着けたことになる。しかし現実には地形は複雑に変化し、気候もかなり激しく変動したことがわかっている。また、いったん分布を広げたとしても、その地が針葉樹林で覆われたり、あるいはマングローブの林が茂るような気候になれば、ヒガンバナは絶えてしまう。古環境学の手法によれば、数万年にわたって堆積した地層に残された花粉を分析すれば、過去の植生の変遷を推定することができる。これにより2万年前ごろの最終氷期の日本列島では、現在ヒガンバナが分布している地域は亜寒帯性の針葉樹や冷温帯性広葉樹林に覆われ、照葉樹林は南西諸島以南へ押しやられていたことが明らかにされている。したがって、大陸の現在の華南あたりに現れたヒガンバナが辺縁の日本の位置にたどり着いて現在のような分布を占めることは容易なことではなかったのである。
とはいえ、現在の日本と中国の植物相には多くの共通要素がある。その中には氷河期の生き残りとみなされるものも少なくない。これは、両地域間での種の分散が行われた証拠である。
ヒガンバナは中国大陸と陸続きだった地質時代に日本へ分布を広げたとみる「自然分布説」を主張したのが稲荷山資生(1955)と中島庸三(1964)である。われわれ日本人の祖先がこの島に渡ってくる遥か以前から秋の野を彩っていたというわけである。稲荷山は『ヒガンバナの話』に「ヒガンバナ属の植物、とくにヒガンバナは種子ができないにもかかわらず、山間の奥地まで広く分布しているところをみると、渡来種であると考えることには難点がある」と記している。一方、中島(1960,1962)は陸地伝いの伝播とは別に、海流による分散の可能性を論じて“海流漂着説”を提唱した。彼はヒガンバナの球根は2年以上室内に放置され乾燥しても枯死しないことと乾燥した状態で出葉した球根は海水に浮き、45日間そのままにしておいても生活力が失われないことを確かめ、海流漂着に思い至ったという。
海流を利用して分布を広げる植物は少なくないが、その多くは種子ないしは種子を抱いた果実による散布である。砂浜に咲く桃色の花が美しいグンバイヒルガオもその一つである。このサツマイモ属の蔓草の種子は軽く対塩性があり表面に黄褐色の毛が密生し海水をはじくとともに、その内部には空気室を備えている。このため長期間の海流に乗っての旅に耐え、浜辺に打ち上げられれば発芽する。火山活動停止後わずか1ヶ月の西之島新島の波打ち際で見つかった一株のグンバイヒルガオも新天地を求めて旅していた種子の一粒が定着したものである。「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実一つ」と島崎藤村が詠んだココヤシをはじめとして、海流により散布する植物の多くは熱帯から亜熱帯に生育する木本性のものである。ちなみに、ガラパゴス諸島やセントヘレナ島のような海洋島の珍しい植物をその目で見てきたC.ダーウィンも、進化理論の確立には地理的分布の成立過程を知ることが不可欠と考え、種子が海水中でどのくらい生きているかを知るためにさまざまな植物で実験をしている。
グンバイヒルガオやハマナタマメなど、数少ない草本性の漂着植物の中にヒガンバナ科のハマオモトがある。この純白で香り高い花を咲かせる暖地性海浜植物は万葉集にも登場する古代から日本人に親しまれた植物でハマユウ(浜木綿)とも呼ばれる。この名の由来については、垂れ下がる白い花びらが木綿(ゆう=コウゾの樹皮から採った白い繊維)に似ているからという本居宣長の説と、偽茎と呼ばれる葉の基部の束が白い布を幾重にも重ね着しているようにみえるからという貝原益軒などの説がある。ハマオモトのやや歪んだ球形の種子は大きく、直径は25mmにもなるが軽い。胚乳の周縁部にコルク層が発達しているためで、数が月以上も海水に浮いていることができる。小清水卓二(1952)によると発芽した状態の種子でも2ヶ月以上は浮いているという。
コヒガンバナのことはすでに書いたが、それ以外のヒガンバナ属植物の種子も水に浮く。だがその浮力は小さくいったん波をかぶって沈水すれば再浮上はできない。種子が潮流に乗って遠くまで旅をする可能性は皆無といえるだろう。ただし、流木などの隙間に挟まって漂着する可能性までは排除できない。
種子がだめなら、球根が海流で運ばれることがあるのだろうか。牧野富太郎はヒガンバナ科のスイセンをその例に挙げている。琉球諸島から九州・四国の沿岸に、本州では太平洋側は房総半島まで、日本海側では能登半島の富山湾まで、海辺近くの山地丘陵に野生状態で分布していることが海流で球根が運ばれたと考えた理由である。伊豆の下田など、スイセンの群落が近くにある海岸にはしばしばその球根が浜辺に打ち上げられているので、海流による分散は確かに行われているとみてよい。面白いことにスイセンも3倍体で、球根の分裂のみにより繁殖している。すると、スイセンの故郷も中国大陸で、そこから海流に運ばれてきたのだろうか。
たしかに中国には日本と同じ3倍体のスイセンがある。だが、スイセンの原産地はスイセン属のほとんどの種が分布している地中海地方、それもスペイン南部とモロッコ・アルジェリアの山地と考えられている。そこには種子繁殖のできる2倍体もあり、海辺近くの畑の縁や草原や荒原の岩の割れ目などに生育している。スイセンは地中海沿岸のほぼ全域に分布しているが、クレタ島・イタリア半島・シシリー島とバルカン半島には自生していない。このことは海流による遠距離散布はそれほど頻繁ではないことを意味しているのかもしれない。海岸伝いに少しずつ分布を伸ばしたとしても、東アジアへ到達するためには喜望峰を巡りインド洋沿岸を北上し、アラビア半島、インド、インドシナ半島をたどらなければならない。地中海東岸のシリアやイスラエルからイラク・イランにかけても自生するとの報告もあるので、アフリカ迂回ルートも考えられるが、いずれの場合でもスイセンの生育には不向きな熱帯圏を経由することになり、東アジアの沿海部への到達はおぼつかない。
すると、中国と日本へはどんな方法で到達したのだろう。海流によったのではないことは、いくつかの文献によると確かなようだ。「水仙」という漢語は明代の汪機が著した『本草會編』に初めて登場するといわれていますが、唐代の860年ごろに段成式が著した『酉陽雑俎』の第18巻に拂林国(現在のシリアあたり)の原産で蒜のような葉と鶏卵ほどの球根をもち、種子はできないが花を圧搾して香油を採ると記されている「柰祗(Nai-qi)」がスイセンのことだと最初に指摘したのは『本草綱目』の著者の李時珍であった。その後、B.ラウファー(1919)は『SINO-IRANICA』のなかで「naik'i ; nai-gi」の語源はスイセンを意味する中世ペルシャ語の「nargi」、新ペルシャ語の「nargis」、アルメニア語の「narges」だとしている。このことは中国へスイセンが入ったのは海流によってではなく、シルクロードを経て渡来したことを強く示唆している。唐の時代には外来植物がゆえに原産地の呼び名をそのまま漢字表記していたものが、時の経過とともに広く栽培されるに及んで「水仙」という中国名で呼ばれるようになったと考えられる。李時珍は「これは低地の湿った場所に生え、水が欠かせないので水仙という」と書いているが、この命名の背景にはシルクロードから伝わった美少年ナルキッソスとこの花にまつわるあのギリシャの神話があったのではないだろうか。日本に水仙が到達したのはいつのことだろう。奈良時代の『万葉集』をはじめとし、平安時代初頭に編まれた『本草和名』など、この時代の文典にはそれらしきものは登場していない。しかし、室町時代の1444年に刊行された国語辞書『下学集』には「水仙華、俗名雪中華」と採りあげられているので15世紀までには渡来していたのだろう。
この後はさまざまな書物にその名が見られるようになる。江戸時代の文政年間の『古今要覧稿』に至れば「この花元より此国に自生多くして・・・・・、さて安房国も暖気にて自生殊の外にこえたり・・・・」ということになる。4〜5百年の間に日本各地に伝播し、一部が野生状態になったと考えられる。中国から日本へは、シルクロードに沿って唐に至ったように、人により持ち込まれたとする説が一般的だが、確証はない。華南の沿海地方に野生化したものが、南シナ海にこぼれ、北上する海流に乗って日本まで分布を広げた可能性も、日本での分布パターンを見ると、否定しきれない。
では、ヒガンバナはどうだろう。
中島が漂着説を提唱するや、山口隆俊(1961)がこれに異を唱えた。山口は『ヒガンバナさすらわぬ記』に前川文夫や山田修の中国での観察記録をもとに「恐らくその原産地は揚子江流域であることはまちがいないことであろう。だから中島氏が揚子江岸壁が凍融のさい崩れおちて、ヒガンバナが河中にほうりだされて、海まで運ばれたのではないかと、書いてきておられるのは、ありそうなこととして同意できる。しかしヒガンバナが海で漂流をはじめたその先に、問題がたくさんあって、同氏が考えたように易々と日本には漂着しそうにはないのである」というのだ。その論拠はいくつかあるのだが、山口はまず第一に、東シナ海に存在する黄海へ北上する海流と中国沿岸に沿って南下して南シナ海に至る海流を挙げる。これが揚子江から流れ出る球根が日本に漂着するのを妨げているというわけである。また、洪水が起こるであろう季節の風向きも日本への漂着には不向きだと指摘する。しかし、気象条件によっては黒潮ですら大きく蛇行するように、海流は、とくに東シナ海のような水深200mたらずの浅海では複雑である。さらに東シナ海にはいくつもの大きく回転する環状の海流もある。1980年代まで台湾の国民党が中国本土の人々に読ませる目的で、政治的宣伝文を詰めた「海漂器」と呼ばれるプラスチック製の容器を福建省の沿岸近くで放流していたが、その一部はしばしば玄界灘の浜に打ち上げられていた。したがって、球根が数ヶ月にわたって浮き続け、しかも生活力を保持することができれば、海流によって分布を広げることは可能である。
海水への耐性については竹村英一(1962)が報告している。それによれば、26日間海水に浸した球根の一割は細々ながらも生活力を保ち、土に植えると新しい葉を伸ばすことができた。また、26日間浮き続けたものは約 1.7%であった。山口隆俊(1963)は人工海水中に、5月末に掘り取った200球を浸けて浮沈の様子を観察したが、329時間(約2週間)ですべてが沈降したと記している。冬季の葉のついている球根ならばもっと長時間浮かんでいるかもしれない。つまり、海流による長距離への分散は不可能ではないにしても、海流散布に適応している種子をもつハマオモトなどに比べれば、真におぼつかないといえよう。竹村は長崎県松浦市大崎海岸や五島列島の中通島海岸などのヒガンバナ群落が漂着の例かも知れないと書いている。
私の知る限りで、確実な漂着例と思われるものが一つある。それは近藤富蔵が著した『八丈実記』の巻8海島之部鳥嶋の章に見ることができる。これは天明5年(1785)に漂着してアホウドリを食料に生き延びて13年目を迎えた土州鏡郡赤岡の水主の長平、天明年から11年目の摂州大阪の沖船頭代の儀三郎、寛政3年から7年目の薩州志布志浦の船頭の栄右エ門ら14人が、寄り物を集めて組み立てた小船で寛政9年(1797)に脱出して幕府の役人に申し立てた漂流譚だが、その“草木”の項に、房総半島の南約480kmに位置するこの絶海の無人島に咲く石蒜(ヒガンバナ)が登場する。難破船の積荷に紛れ込んでいたのか、遥か彼方から海流に乗って来たのかはわからないが、漂着したものには違いない。
2) 人為分布説
自然分布説に対し、ヒガンバナはある目的意識を持った人間が大陸から島国日本に運び込んだとするせつがある。これを人為分布説、ないしは史前帰化植物説と呼ぶ。この説のよって立つところは、まず第一に、日本列島でのヒガンバナの分布パターンの特異性である。
ヒガンバナの分布については数多くの報告があるが、とりわけ松江幸雄(1985)が詳しく調査している。私も京都大学、東京大学、国立科学博物館、東京都立大学牧野表本館、東北大学などに収蔵されている標本の産地を調べるとともに、各地で採集をした。これらの記録をまとめてみると、ヒガンバナの分布の北限は日本海側では北緯40度付近、太平洋側では北緯39度15分あたりであった。青森県と北海道では自生は見られず、分布はしているものの、秋田県・岩手県とも北部にはまれで、内陸部では北上川流域を除き分布していない。そして分布の密度は関東から九州へと南西に行くほど高くなる。しかし、このような分布密度の傾斜はヒガンバナのみの特徴というわけではない。暖地性の植物には似たような分布をするものが少なくない。
では、ヒガンバナの分布パターンのどこが特異なのなろう。それはこの植物が見られるのが人里に限られるということです。“人里”という言葉はいかにも古めかしく、昔物語の舞台のようでもあるが、昔に限らず、現代の都市もふくめて人が定住する場所をとりまく環境が人里である。我々の祖先がこの極東の島に定住したときには既に長い歴史を背負った土着の植物が茂っていたはずである。すると人里に限って生育する植物は人と深いつながりを持ってそこにある特別なものと考えることができる。このような植物のうち、畑や庭園で栽培されるものを除く、野生状態で繁殖しているものが人里植物と呼ばれる。
人里植物といえども、元来は人間とはかかわりなく自然植生の一員であった。それが人里植物となった過程はさまざまであるが、大別すれば二つの筋道が考えられる。一つは蔬菜や薬草あるいは観賞用として栽培されていたものが、本来の用途があいまいになり、管理の手を離れて雑草化するものである。二つ目は人間が農耕を始め定住することにより出現した、それまでは存在しなかった定期的に耕され施肥され、あるいはその過程で撹乱される新しい環境に入り込んできて適応を遂げるというものでる。このタイプの植物の多くは、自然植生の中では、大型草食獣の群れる草原と河原や山野の崩落地などの不安定な環境に適応していたものと考えられている。また、これらの人里植物のうち、比較的に近い過去に、人間の移動にともなって別の文化圏(外国)から持ち込まれ野生化したものを帰化植物と呼んでいる。
さて、ヒガンバナといえば、水田の畦、灌漑用の小川の土手、果樹園の縁、社寺の境内、そして墓地などのような環境に限って生育しており、人が居住したことのない自然植生の構成員になることはない。典型的な人里植物である。しかもこの分布パターンは栽培植物から野生に戻ったと推定されるものにみられるものである。 
人為渡来説はこのような分布パターンから導かれたものである。
そこで、照葉樹林文化論の提唱者の一人として知られる中尾佐助は、ヒガンバナは縄文時代に食料として中国大陸から日本列島へ持ち込まれたものだと考えた。照葉樹林文化は、東アジアの暖温帯に東西につらなる一つの生態学的領域である照葉樹林帯に生活する多様な民族に共有される、衣食住にかかわる要素的な文化で、これは中国雲南省を重心とする“東亜半月弧”と名づけられた地域をセンターとして、そこからの伝播によって生まれたものと定義されている。
中尾(1967)は今西錦司還暦記念論文集『自然ー生態学研究』に寄せた「農業起源論」で、照葉樹林文化における農耕方式の発展段階をつぎの5段階に区分した。
T:野生採集段階 U:半栽培段階 V:根茎作物栽培段階 W:ミレット栽培段階 V:水稲栽培段階
野生採集栽培段階は野生の堅果類(クリ・トチ・シイ・クルミ・ドングリなど)と根茎類(クズ・ワラビ・テンナンショウなど)山野で採集して生活していた時代。半栽培段階はクリやジネンジョなどの野生種の中から収穫量の多いものや味のよいものなどを選抜し品種の改良を試み始めた時代。根茎作物栽培段階はサトイモ・ナガイモ・コンニャクなどのいわゆるイモ類の本格的な栽培と焼畑農業が始まった時代。ミレット栽培段階は雑穀(ひえ・アワ・キビ・シコクビエ・オカボ)を主体とした農耕の時代である。水稲栽培段階はイネの水田栽培が中心となった時代である。
中尾佐助は上記の論文の中で、ヒガンバナは半栽培段階にあった縄文時代中期の人々が中国大陸からデンプン源として受け取ったものと推測している。この時代に大陸と何らかの交易が既に行われていたことは、福井県の縄文時代前期、約6000年前の遺跡から出土した耳飾が中国大陸に産出する石を素材にしていることからも確かである。
日本人が土着の野生植物から選抜した栽培植物はウド・セリ・ミツバ・フキなどごくわずかで、しかもデンプン含有量が少なく、副食の域を出ない。穀物をはじめとし、主食の地位を占めるものはすべて外部から受け取った作物である。縄文時代の人々が野生採集段階から農耕段階に移るためにはどうしてもこのような主要作物の導入が必要だった。中尾はその移行期に補助的な食物として持ち込まれたものの一つがヒガンバナだと考えた。
しかし、食料としてヒガンバナをとらえるとき、忘れてはならないことがある。それはヒガンバナは有毒植物だということである。ヒガンバナの里呼び名のなかにオヤコロシ・シビレバナ・テクサリバナ・ドククサ・イットキゴロシなど、毒性に関連した名が多いのもこのためである。毒の正体は細胞内の液胞に溶けている窒素原子を含む塩基性分子でアルカロイドと総称される化合物の一つである。昔アイヌの人々が矢毒に使ったトリカブトの猛毒成分のアコニチン、古代ギリシャの哲学者ソクラテスを死に至らしめたドクニンジンに含まれるコニイン、ケシのモルヒネ、タバコのニコチン、これらもすべてアルカロイドの一種である。ヒガンバナのアルカロイドは明治時代の中頃から昭和の初期にかけて森嶋庫太(1896)、外山清太郎(1910)、朝比奈泰彦・杉井善雄(1913)、近藤平三郎・富村邦好(1927)などの薬学者により研究され、リコリン、セキサニン、ホモリコリンなど、多数の化合物が報告された。なかでもリコリンはヒガンバナ科の多くの種に共通するアルカロイドである。
リコリンの中毒症状としては、先ず自発的運動が減衰し、呼吸が抑制され、重篤な場合は呼吸停止に至る。中央アフリカはザイール南東部の部族や南アフリカのブッシュマンが狩りに使う矢毒の中にもリコリンが調合されている(Neuwinger, 1996)。一般にアルカロイドは神経伝達物質であるアセチルコリンなどに似ているため神経毒として作用する。ただしアコニチンが強壮薬に使われたように、用法によっては薬にもなる。群馬県高崎地方にはワスルソウというヒガンバナの里呼び名があったが、これは球根をすりつぶしたものでシップをすると熱や痛みが忘れられることに因むものだという。近年ではリコリンが腫瘍細胞の活性を顕著に低下させたり(Gohsal et al., 1985)、ポリオウイルスの増殖を阻害する(Suffness, 1985)ことなどが報告されている。
しかし、有毒植物がとうして食料となりえたのだろう。縄文時代の人々はヒガンバナに含まれる程度の有毒成分など問題にしないような体質だったのだろうか。だがこれは生物学的にみてもちょっとありえないことである。ではなぜだろう。答えは簡単で、毒消しの方法があればよいわけである。この毒消しの技術は縄文時代の人々は既に獲得していたと考えられる。いわゆる“水晒しによるアク抜き”がそれである。中尾佐助は、植物体を石の上で叩き潰し、これを水に浸けてアク(毒)を飛ばし、可食部分を集めるこのテクニックは水の豊富な照葉樹林帯に居住する人々により野生採集段階の頃からすでに確立されていた文化、つまり照葉樹林文化の一つだと考えた。なぜなら、このテクニックを知らずしてはクズやワラビなどの根茎に含まれるデンプンの効率的な採取はできず、当時の林床に抱負に生育していたと考えられるテンナンショウやヤマノイモなどの、アクの強い野生のイモ類の利用も難しかっただろう。縄文時代の遺跡から出土するクリ・カシ類のドングリやトチの実のアク抜きにもこの方法を使ったに違いない。したがって、半栽培段階で大陸から有毒植物のヒガンバナを受け入れて食料として利用することには、何らの問題もなかったということである。とはいえ、これらは有史前のことで、確証はない。花粉分析などで復元される先史時代の植生や発掘された遺跡から出る炭化物、現代の照葉樹林帯に生活する多様な民族に継承されている文化などから推測せざるをえない。
ヒガンバナの故郷の中国でも古代から食用したのだろうか。
これについての現存する最古の記録は私の知るかぎりでは明代永楽4年(1409)に出版された『救荒本草』に見ることができる。
この書は飢饉の際に利用できる400余種の植物を挙げ、図とともにその形態や調理法を簡単に解説したものである。図は当時のものとしてはかなり写実的である。ヒガンバナはその上巻草部の根可食の項にツルボなどとともに“老鴉蒜”の名でとりあげられている。その図は栄養器官だけで花が描かれていず、しかも球根の鱗片に甘みがあると解説されていて本当にヒガンバナのことなのかといささか疑わしいが、万暦18年(1509)に刊行された『本草綱目』のなかで著者の李時珍は老鴉蒜は石蒜(ヒガンバナ)の別名と判定し、以後はこの李時珍の説が踏襲されている。『救荒本草』の処方では、薄く油を引いた鍋で球根が弾けるまで炒った後、冷水でよくアク抜きし、塩油で調理してたべるとある。
李時珍もこの『救荒本草』のレシピを紹介しているが、有毒性についても言及している。しかし彼は食物としてよりも薬草としてのヒガンバナを重視していて、さまざまな薬効とその処方を記している。たとえば、疔瘡悪核(顔面などにできる根の深い悪性のできもの)には水で煎じたものを飲み発汗を促しすとともに搗き潰したものを貼り付け、水当りには酒で煎じたものを1リットルほど飲んで吐くのがよい、などとある。崇禎年間(1626〜43)に姚可成が著した『救荒野譜補遺』では煮て食べることになっている。
近・現代の中国でも食料として認識しているのだろうか。
『中国植物誌』や『中国高等植物図鑑』を始めとし、近年出版された各省の植物誌には民間薬とされることは書かれていても、食用するという記述はない。そればかりか共同研究者の徐炳声教授や傳承新教授のみならず面識を得た植物学者の誰もが、ヒガンバナが食料として利用できる事実を知らなかった。『世界花の旅』の取材で中国のヒガンバナに会いにでかけた朝日新聞記者の川上義則も「上海や長沙で『本草綱目』を引いて何人かの専門家に彼岸花の食習慣について尋ねた。ところがだれもが言下に否定した」と記している。
しかし川上たちは、そこに大群落があるはずと聞いて訪ねた、洞庭湖に注ぐ豊水の流域の名勝として知られた武稜源の入り口に位置する張家界で、ヒガンバナを食べる習慣が連綿と息づいていることを知った。湖南省のこの一帯には古来少数民族の苗族と土家族が住んでいる。川上らが張家界の一老婦人、張得松から聞き取った話の概略は次のようなものであった。この地では先祖代々、ヒガンバナの球根を擂り潰すか切り刻み、長時間水で晒し、穀類と混ぜて食べていて、近いところでは1959年から3年間に亘った異常気象による大旱害時の飢えを癒すのに大いに役立った。ひどいときには球根の粉末と塩味のスープだけでしのいだこともあり、花茎も炒めて食べた。食糧事情が好転した76年あたりまで食べていた。また、食べるだけでなく『本草綱目』の処方のように“できもの”に貼っていた。毒蛇に咬まれた傷にもつけるので「背蛇生」の名もある。魔除けの霊力があるとして戸口に植える習慣もあるという。
鹿児島県では薩摩半島南端の頴娃町や知覧町の民家の一部で、門口や生垣の下生えにヒガンバナとショウキランが植え込まれているが、張家界と同じような魔除けの風習の名残だろうか。ちなみに張家界のヒガンバナは9月半ばですでに花が萎れ花茎のみが棒のように立っていたというから、断定はできないが2倍の可能性が大きい。
日本にも古代からヒガンバナを食べていた記録があるのだろうか。
残念ながら江戸時代中期より古い文献で食料としてのヒガンバナを記述したものは知られていない。わずかに江戸時代後期の享和3年(1803)に小野蘭山が著した『本草綱目啓蒙』、天保8年(1837)の遠藤泰通著『救荒便覧』、天保14年(1843)小野識孝著『救荒本草啓蒙』、そして弘化4年(1847)の小野蘭山著『重修本草綱目啓蒙』に勢州粥見(三重県松坂市飯南町粥見)で食用すること、阿州一宇(徳島県美馬郡一宇)の山地の住人が葛粉を採る要領で球根からデンプンを集め水粉と呼んで食べることが記されているにすぎない。分化13年(1816)に岩崎常正がまとめた『救荒本草通解』でも「此物毒アリ妄リニ食スベカラズ」と注意を喚起しているほどである。過去に起こった中毒事件の記憶が生々しかったからだろう。
しかし明治時代以降になると、民間の口伝を含め、ごく近年まで食べていた記録が散見されるようになる。牧野富太郎は昭和6年の論文に「土佐の国では明治年間頃、ところにより其球根を農家で食用していましたが、今日でも僻地の山間では、なおその風が存していると思います」と記し、さらに友人から聞いた話として、高知県長岡郡新改村(高知県美香市)の貧しい農家はこれを常食としていたと書いている。牧野自身も「明治10何年といふ頃、私は高岡郡鳥形山に採集にいったことがあったが、その山下の長者村字泉で一農家の傍らの水の落ちるところに其球根を搗き砕きて布袋に容れ晒してあったことを見受けたことがあった」と報告している。
第2次世界大戦の末期、食糧事情も逼迫していた昭和19年、東北帝国大学農学研究所の岡田要之助と石川重夫は『澱粉資源植物に關する調査』という論文を書いているが、その中でヒガンバナの食習慣についての口伝・伝承再調査の結果を報告している。小野蘭山がヒガンバナを食べる土地として挙げた粥見では、当時の小学校校長の服部大定が「最近の食糧事情に促されて、再び之を利用するの風を生じた」と嘆いている。ここでの調理法も水晒しによる毒抜きに始まる。球根を一週間水に浸け、穀類(もち米、粟、キビなど)の上に乗せ、蒸して餅に搗いて食べる。これを“ヘソビ餅”と呼んでいた。徳島県女教員会がやはり昭和19年に編纂した『阿波郷土食の伝承と将来』をみると、剣山を中心とする三好郡西祖谷山、美馬郡東粗谷、名西郡神領、那賀郡坂州などの山間の村落にヒガンバナ食の風習があったことがわかる。いずれの地方でも球根を搗き砕き水に晒して団子や餅にして食べている。ここではツブロダンゴ、ツブロモチ、オシロイモチ、マンジュモチなどと呼んでいた。また、天明年間と天保年間の大飢饉に際してはヒガンバナに笹の芽を蒸し焼きにして作った粉を混ぜて飢えをしのいだとの言い伝えもこの地にあるという。奈良県と和歌山県の十津川に沿った地域にもヒガンバナ食にかかわる口伝が残る。
『いよのことば』の著者の杉山正世は愛媛県の老人の話として「アナ、エグイモンガ食ベラレマスカイ、花ヲ折ッタテ、ヨイヨクサイジャケン。ソヤケド、アノ球ヲ水デサラシテ、ソレヲコーニシタモンヲ御米ニマゼテ食ベタラ食ベラレルソウナガ、サア、ドウジャロカ」という言葉を紹介している。大庭良美の民謡集『水まき雲』に収録されている「山中へ娘やりたや/もてくるつとは煮モメラ/煮モメラもじょうにやもてこぬ/葛の葉にこそ包んで」という島根県鹿足郡の高津川上流の日原で歌われた麦踏み唄の“煮モメラ”は、ヒガンバナの球根を湯がいて擂り潰し、麦粉とまぜてつくった餅のことである。歌詞のなかの“つと”は土産の意味ですから、救荒食というより菓子のようなものだったのだろう。
高橋道彦(1980)は高知県土佐山村中切(高知市土佐山中)には当時でも伝統的なヒガンバナの調理法を受け継いでいるご婦人がいることを報告してしている。聞き取った調理の手順はおよそ次のようなものであった。
1 球根は地上部が枯れている4月から8月に採集する。
2 球根の上下を切り落とす。黄色みをおびたヘソ(茎)をえぐりとる。
3 桶にいれ水を注してかき混ぜて褐色の鱗皮を除く。
4 鍋などにたっぷりの水をとり、白くなった球根と晒しに包んだ灰(消石灰)を入れ、強火で煮る。 球根が黄色になったらよくかき混ぜて球根を潰し、粗い糊状にする。
5 内側に晒しを張ったカゴの上に目の細かいザルを置き、ここへ潰したものを入れ水を注ぎながら撹拌する。黄色を帯びたデンプンがカゴに沈殿する。ザルに残ったものは捨てる。
6 沈殿したデンプンは黄色みが失せて白くなるまでときどき緩やかに撹拌しながら流水で晒す。
7 アルカロイドが抜けた白いデンプンは、晒しに包んだまま圧し絞り、よく水を切る。
8 別の容器に移し、粘りを持たすための葛粉や屑米、調味料を加え、手のひらほどの大きさの餅にして炭火で焼き上げる。
このような手順で集めたデンプンに少量の小麦粉と砂糖・塩を添加して焼き上げたものを試食した高橋は、「ヒガンバナ特有の味と風味を持ち、代用食として充分に食することができた」と記している。
ここまでに書いてきたように、中国では明代以降、わが国では江戸時代後期から現代までヒガンバナが食料として大いに利用されたことはわかった。では中尾佐助の主張するように、この植物は本当に縄文時代前期には日本へ渡来していたのだろうか。当時既に渡来していたことが証明できないだろうか。一縷の望みはある。
渡辺誠著『縄文時代の植物食』によれば、ヒガンバナのそれよりずっと小さなノビルの球根の炭化物が、東京都中野区の新井小学校裏手の縄文時代後期にあたる遺跡から出土した壷の中に、ほぼ完全な姿で残っていた。またノビルは八王子市宮下の縄文時代中期の遺跡からも発見されている。クログワイの球茎も同時代の青森の遺跡で発掘されている。これらは現代でも食用されている野草である。また、小島弘義・浜口哲一(1977)の報告によると、平塚市北部、伊勢原丘陵から東西に半島状に延びた丘陵の中ほどに位置する、出土した土器の形式から縄文時代中期と決定された“上の入遺跡”から、クルミとともに30個ほどの炭化した球根が発見されている。この球根の縦断・横断切片を顕微鏡で観察し、比較研究をした結果、ユリ科やネギ科ではなくヒガンバナ科だと判定された。しかしその形と大きさから、ヒガンバナではなくキツネノカミソリだろうと報告されている。発掘された状況は、あたかも保存食としてコモで包まれていたかのように、一塊の球根の周囲にはワラ状の炭化物があった。状況証拠ではあるが、主食ではないにしても当時はキツネノカミソリが食料であったことが強く示唆されている。
実は、興味深いことにキツネノカミソリを食べる風習は最近まで焼畑農耕で知られる宮崎県椎葉村に残っていた。宮崎県教育委員会の斉藤正美(1995)は伝統的な焼畑農耕を続けていた椎葉クニ子から聞き取った話を『おばあさんの植物図鑑』として刊行したが、それによると椎葉村ではキツネノカミソリをオオシと呼び、土佐山村中切の人たちがヒガンバナからデンプンを集めたとほぼ同様の方法でデンプンを採り、おにぎりに結んで焼いて食べたという。椎葉村ではキツネノカミソリはさほど多くないので、山で見つけると掘り採ってきて家の近くに仮植えをして、5月の末に葉が枯れてから太った球根を掘り起こして利用していた。これはまさに中尾佐助の言うところの半栽培段階である。
キツネノカミソリが縄文時代に食べられていたのなら、それより大型で繁殖率のよいヒガンバナが渡来すれば、これを住居の近く、いわゆる家庭菜園に植えて利用したに違いない。
いずれ日にか、どこかの遺跡からヒガンバナの炭化球根が発掘されれば、この植物と日本人の出合いの時期がかなりの確かさで特定できるであろう。
一方、山口隆俊はヒガンバナの渡来の時期が半栽培段階よりずっと後の時代、中尾の区分でいう水稲栽培段階に入ったときだと想定した。山口(1959)は『自然科学と博物館』に「彼岸花日本渡来記」と題する小論を発表し、稲作を日本にもたらした人々がイネとともに救荒食としてヒガンバナを携えてきたのだと主張した。ヒガンバナの群生地は米作地帯、それも古い時代に開けた地方を中心に分布していることが論拠である。また、近畿、中国、九州と南西部に行くほど分布密度が高く、大繁殖地も多いことも稲作伝播の歴史を反映しているとみている。愛知県下の豊川流域と渥美半島でのヒガンバナの分布状態を詳しく調査した愛知大学の有薗正一郎(1998)も稲作とともに渡来したと結論している。
古代から農民が救荒作物としてヒガンバナを積極的に水田地帯の土手や畦に植えていたという記録は見当たらないが、そのような言い伝えはあったようだ。明治末年の頃、徳島県三好郡山城谷の開墾されたばかりの他の畦に、としのころ80歳ばかりのご婦人がヒガンバナをせっせと植え込んでいるのを見て、何のために植えているのかを尋ねると、先祖代々の習慣だと答えたという伝聞を山口隆俊が紹介している。このご婦人は植える目的については何も話さなかったようだが、この地では飢饉に際しては餅に搗いて食べていたことはすでに書いたとおりである。これは私の経験だが、30年ほど前のこと、千葉県木更津市清川の水田地帯でヒガンバナを採集していたとき、農作業をしていた方が、「ヒガンバナを植えてあるのは土手や畦が崩れるのを防ぐためだ」と教えてくれた。食料としての認識はまったくないようだった。1700年頃から鹿児島でサツマイモの試作が始まり、間もなく各地で栽培されるようになる。それとともに救荒植物としてのヒガンバナの用途は忘れられていったとも考えられる。
水稲耕作が日本にもたらされた経路や時代はまだ確定してはいないようだが、最近の研究によれば、まず熱帯ジャポニカ系のイネが琉球列島経由で九州から西日本に入り、次いで今日主流の温帯ジャポニカ系のイネのRM1-a系統が揚子江下流域から東シナ海を渡って九州に、そしてMR1-b系統が朝鮮半島から九州に伝来したようだ。熱帯ジャポニカは約3500年前から、温帯ジャポニカは約2500年前頃から栽培され始めたと推定されている。弥生時代には水田耕作もされていたものの、元来は焼畑稲作に向いている熱帯ジャポニカは平安時代以降になると次第に姿を消してゆく。
ヒガンバナの故郷は揚子江流域と考えられることはすで書いたが、この地では6000〜8000年も前から温帯ジャポニカが栽培されている。これに対し、現在熱帯ジャポニカが栽培されている地域にはヒガンバナは分布していない。その日本への推定伝来経路にもヒガンバナは残されていない。沖縄のヒガンバナは後で触れるように、比較的近年になって九州から持ち込まれたものと考えられる。したがって、山口隆俊が主張したように、稲作にともなってヒガンバナが渡来したのならば、それは約2500年前頃ということになる。
一方、前川文夫は日本への導入の目的は救荒食用としながらも、副次的はイモやタケなどの生きている植物を海を越えて運搬する際の梱包用に使ったのではないかと考えている。これは、和歌山や三重など紀州の各地ではミカンの出荷のとき、ヒガンバナの葉が適度な粘り気あり柔らかで湿気をよく保つことから梱包に使っていたという話にヒントを得た説である。牧野富太郎の『大日本植物誌』にも「理科大学助手、松田定久曰く、駿河に在りてはその生葉を利用す。其法秋冬の際箱中蜜柑の間に之を入れ以て果実の乾燥を防ぎ兼て其蜀接を避くと」と記している。これはわが国独自の発送のようにも思えるが、中国から受け入れた知識かもしれない。梱包材として使ったとなると、漂着説のところで紹介した伊豆沖の無人島の鳥島にヒガンバナが咲いていたのは、ひょっとすると紀州や伊豆から江戸に向かう蜜柑舟が難破して、その積荷の中に詰められたヒガンバナが運良く島に流れ着いたのかもしれない。可能性はあるだろう。 
ヒガンバナ渡来説再考 (2)

 

古典に探る
自然分布にせよ人為分布にせよ、これまでに提唱された説によれば、ヒガンバナは有史前から日本に渡ってきており、しかも食料の一つとして私たちの祖先は出合っていたことになる。ところが現代の私たちにはこの植物を目にしても、食べ物というイメージはまったく思い浮かばない。その一般的な呼び名にしても、彼岸花であったり曼珠沙華であったり、死人花であったり、毒花であったりと、死や仏教や毒性に関連するものがほとんどである。
では古代の人々、とくに記紀・万葉の時代の人々は何と呼んでいたのだろう。
深紅で人目を奪わずにはおかない花を咲かせ、しかも大切な救荒食糧でもあるということになれば、上古の人々もさぞやこの植物に注目し、書き記したに違いない。そう推測するのは理にかなったことではないだろうか。そこでさまざまな上代の古典に当たってみたところ思いがけない結果となった。まるでヒガンバナなど存在しないかのように、どの古典にもそれと特定できる植物名が登場していない。これほど目立つ花を咲かせ、今日ですら1000を越す里呼び名が知られ、しかも近年まで食糧として利用されていたにもかかわらずである。
『古事記』と『日本書紀』とに名が挙がっている植物は松田修の『植物世相史』によると100種ほどもあるのだが、ヒガンバナにあたるものはみえない。むろんこの約100種類の中にはイネ、ムギ、ヒエ、アワ、ダイズなどの穀物や株、ウリ、ダイコン、ショウガなどの野菜の名はあり、食用されていたセリ、ヤマノイモ、ノビル、ユリ、クリ、ムクノキなどの野生植物も登場している。私にとって大変驚きだったのは、約166種もの植物とその花が詠われている『万葉集』にさえ、ヒガンバナはとりあげられていなかったことである。そして、『竹取物語』に始まり、『今昔物語』、『平家物語』、『伊勢物語』、『源氏物語』にも現れない。作者の美意識から推して、何となくあってもよさそうだと思っていた『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』にも登場しない。1190年頃の作とされる『平治物語』には「曼珠沙華」という言葉が出てくるが、これは併記されている「曼陀羅華」ともに仏教上の用語として使われており、実在のヒガンバナを指しているとは思えない。 今日「曼陀羅華」と呼ばれている植物はチョウセンアサガオで、これは江戸時代に日本へ渡来したものである。
仏典の曼珠沙華なるものは、大明三蔵法経の巻き19にある法華文句の四華の一つとして挙げられるもので、“柔らかく赤花”の意味があるそうだが、それは梵語のマンジューチャカ、つまり仏の浄土に生える木のことである。南方熊楠は、グベルナチスの『植物譚原』を引き、この木は水陸に産する一切の花々を具えて咲き、宝玉に飾られ諸仏がその木の下に座禅すると記している。マンジューチャカはベンガル地方でマンジッツと呼ぶアカネ科の染料植物だというが、定かではない。
また、西行法師の歌集『聞書集』にも「曼珠沙華、栴檀香風」と題した和歌があるが、この曼珠沙華は香る春風の中で梢に咲く花で、ヒガンバナではない。平安時代、900年代の初頭に深江輔仁が著した日本最初の本草書『本草和名』にもヒガンバナはと考えられる植物はない。もっとも、この書物は唐初の顕慶2年(659)に蘇敬らにより編纂された『新修本草』にとりあげられているものに和名を当てたもので、単に原典にヒガンバナの漢名の“石蒜”が載っていなかったことを反映しているだけであろう。
有史前から日本に存在し、救荒植物として利用されていたのが事実ならば、これほどに目立つ花がなぜ奈良、平安から鎌倉時代にかけて著された数多くの古典に登場しないのだろう。この時代の人々、ことに文字とかかわりを持てた貴族階級にとっては救荒植物など無縁の存在だったのか、それとも彼らの美意識にそぐわない花だったのだろうか。ヒガンバナは本当に上代の日本に存在していたのだろうか。まだ中国大陸から渡来していなかったのではないかと疑いたくなる。 
古典への最初の登場は、私の知る限りでは足利時代である。しかも食糧とはかかわりのない、とうじ庶民をも含めて多くの人がその名を聞いたことのあるに違いない、仏典の中の異境の植物の名を借りての登場であった。舞台は『続群書類従』に収録されている、文安元年(1444)に没した禅宗の高僧心田が遺した「曼殊沙花を奉じて定林和上に寄す」と始まる詩藁である。この漢詩はある年の秋、老師に従って西阜に滞在している僧侶にこの花を添えて送ったものだが、“曼殊沙はインドの原産だが、花々は次々に咲き紅に茂って光り輝く”とか“曼殊は世に稀で珍しく、他に類を見ないあでやかさ”という意味の詩句があり、実際にヒガンバナを見た上での作詞のように思える。心田にとっては珍しくも貴重な花だったのだろう。同時代の、やはり僧侶が著した『木蛇詩』にも「人の曼珠沙華を恵まれしを謝す」と題する詩がある。もしも当時曼珠沙華がすでに路傍や田の畦に生えるありふれた植物であったなら、これを恵まれて感謝するというのは解せない。ヒガンバナではないのだろうか。しかしこの詩は“西方に美しい花があると伝え聞いていたが、白髪頭の自分には天竺はあまりにも遠くあきらめていた。ところが、思いがけなくも紅の雲のような曼珠沙華に接することができようとは”と喜んでいる。「紅の雲」とは花の盛りのヒガンバナの群落をいい得て妙ではなかろうか。この僧侶にとってもヒガンバナは珍しかったのである。
このほか室町時代の典籍としては、明文年間(1469〜87)以前に成立したといわれる国語辞典『節葉集』や天文16年(1547)のものとされる『運歩色葉集』に曼珠沙華が収録されている。享徳2年(1453)に将軍となった足利義政は茶会を好んだことでよく知られるが、この頃から茶室に花を立てることが盛んになる。『山科家礼記』には延徳3年(1491)の8月24日(新暦では10月上旬)に禁裏の御学問所で曼珠沙華を立花したことが記録されている。
華道の流派、池坊もこの時代に生まれたが、その定法式の中に胴作にする花としてボタン、シャクナゲ、タケ、ヒノキとともに曼珠沙華が挙げられている。『池坊専応口伝』(1543)にも華材の一つとして曼珠沙華があるが、めでたいときに飾ってはいけない花の部類には入ってはいない。当時には未だ死人花、地獄花などと忌み嫌う風習がなかったのではなかろうか。ところが江戸時代になると、例えば天和年間(1681〜83)に著された『立花正道集』には祝儀に活けてはいけないものとしてオニユリ、ボケとともにヒガンバナを挙げている。明治時代の『花道池坊指南』も生花に使ってはいけないものとしている。このような転換が何をきっかけに起こったのか知りたいところである。
徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた慶長8年(1603)、日本イエズス会が長崎で刊行した『日葡辞書 VOCABVLARIO DA LINGOA DE IAPOM』にも「Manjuxaqe (曼珠沙華)−秋に咲くある種の赤い花」としてヒガンバナがとりあげられている。この辞書を著したのはポルトガルの宣教師たちだが、
赤い花なら/曼珠沙華/オランダ屋敷に/雨が降る  ・・・・・・
という歌詞のような風景がすでに見られたのだろうか。
一方、ヒガンバナの漢名である“石蒜”が初めて登場するのは、宋代の嘉祐(1062)に蘇頌により出版された『図経本草』である。平安時代末期にはこの書はすでに渡来していたらしく、高野山の兼意が著した『香要抄』などにその一部が引用されているが、この時代から鎌倉時代にかけて、石蒜すなわちヒガンバナ(曼珠沙華)と認識していた形跡はない。曼珠沙華という名は中国でも韓国でも仏典以外にはまったく使われていないから、これをヒガンバナに当てたのは、沙羅双樹をナツツバキと考えたと同様の日本人独自の発想である。
わが国の書物に石蒜が現れるのは明の李時珍が1590年頃著した『本草綱目』が伝来した後のようだ。この名著を長崎で最初に入手した日本人は林羅山だったと伝えられる(西岡為人、1977)。江戸時代が始まったばかりの慶長12年(1607)のことである【木村陽二郎(1974)によれば、羅山が落手したのはもう少し前のことで、徳川家康に献上したのがこの年だという】。慶長17年、林羅山はこの『本草綱目』にある諸物の漢名に対して和名を付した『多識編』を著すが、石蒜はとりあげていない。“石蒜”こそヒガンバナのことだと最初に気づいたのが誰かは特定できないが、おそらく中村タ斎や貝原益軒など江戸時代初頭の儒学者と思われる。貝原好古は益軒の甥だが、彼が元禄元年(1688)に著した『倭爾雅』の第七巻草木の章に石蒜の和名として現在もヒガンバナの里呼び名として知られるシビトバナとステゴバナを挙げている。これは文政6年(1823)に来日したシーボルトをして日本のアリストテレスといわしめた、伯父の益軒から得た知識だろう。『大和本草』はこの益軒が宝永6年(1709)に上梓したわが国の代表的な本草書だが、その石蒜の項に「老鴉蒜也シビトバナト云四月或八九月赤花サク下品ナリ此時葉ハナクテ花サク故ニ筑紫ニテステ子ノ花ト云本草山草下ニアリ」と解説されている。老鴉蒜は『救荒本草』にある石蒜の別名である。四月、つまり新暦の5月に咲くというのは解せないが、思い違いであろう。ステゴバナは益軒の生まれ故郷の九州筑紫地方の里呼び名である。
益軒にとっては、しかし、曼珠沙華は石蒜(ヒガンバナ)ではなかった。『大和本草』では石蒜の項に続いて“金燈草”別名“鉄色箭”があり、これにナツズイセンの和名をあて、石蒜の類ではあるがこれが俗にいう曼珠沙華であると記しています。“金燈”は唐の『西陽雑俎』にあり、「葉と花は会うことがなく、無義草とも呼び、世俗では人家に植えることを嫌う」という意味のことが書かれている。
この頃、中国は清の時代だが、その康煕27年(1688)に陳昊子が著した『秘伝花鏡』にも“金燈”がある。そこには「秋に葉のない滑々の茎が一本地面から抜き出て先端で5本の花の小枝に分かれ、深紅の花弁の色はあたかも金燈の炎のようである。黄、淡紅、紫碧、白など多くの色があり、白色のものを銀燈という。葉は花の後に出る」などの記述があり、ヒガンバナ属のものをまとめて“金燈花”と呼んでいたことがわかる。
また、益軒たちがよりどころとした『本草綱目』の石蒜の記載もヒガンバナの特徴と完全に一致するわけではない。例えば、石蒜の葉は初春に出て7月に枯れるとある。ヒガンバナの葉は中国においても秋に出て初夏には枯れてしまう。当時の本草家はこの違いを軽く見て無視したか、あるいは渡来した中国人に直接聞いて実態を確かめたかしたのであろう。ナツズイセンに当てた鉄色箭についても、その花弁は黄白色だと綱目にはある。
このような混乱は時代が下るとともに整理され、現代の種レベルの分類群へと収束してゆく。
元禄3年(1690)に来日して2年と1ヶ月長崎に滞在し、この間二度の江戸参府の旅を経験したケンペルは帰国後の1712年に『廻国奇観』を出版したが、その第5分冊を『日本植物誌』に当てている。その872ページに石蒜があり、「シビトバナの名で広くし知られ、ある場所では、球根を食べると毒があるのでドクシミラと呼ぶ。コルニチのいう赤花日本水仙である」と書かれている。シミラはクイシミラ、つまり食べられるシミラのことで、九州に広く分布するツルボの里呼び名である。なおこの著作の漢名と和名の対照のほとんどは中村タ斎が寛文8年(1668)に著した『訓蒙図彙』に拠ったものである。
『大和本草』より少し前、元禄8年(1695)に出版された伊藤伊兵衛の『花壇地錦抄』には石蒜の名は見えず、“曼朱沙花”を「花色朱のごとく花の時分葉ハなし此花何成ゆへにや世俗うるさき名をつけて花壇などにハ大方うへず」と解説している。しかし24年後の同じ著者による『広益地錦抄』では金燈草にはナツズイセンを当て、石蒜には「色極朱紅しべ長ク多く出ル俗に曼珠沙花といふ」と記している。また、それぞれの出葉期と開花期の違いも明確にしている。ケンペルが日本での見聞を故郷でまとめていたころ、大阪では漢方医の寺島良安が日本で最初の絵入り百科事典を執筆していた。これが正徳3年(1713)に刊行された105巻の大冊、『和漢三才図会』である。この書でも李時珍の『本草綱目』にある石蒜がヒガンバナの漢名だと考えている。
良安は石蒜のほか、烏蒜、老鴉蒜、水麻、蒜頭草、一枝箭などの漢名を列記しているが、これらは『本草綱目』の引用である。和名としては曼珠沙華のほか死人花と彼岸花を挙げている。この辞典の特色は単なる漢籍の引用にとどまらず、墳墓の周辺に多いので死人花、秋分のころ花盛りとなるので彼岸花、などと和名の由来を解説したり、わが国での用途や分布などにも触れていることである。ヒガンバナの用途としては、薬用のほか壁土にぬりこめればネズミ避けになること、絵の具にすりおろした球根を混ぜて漆器に絵を描くと剥げないことがあげられている。また切り取った花茎を、基部のほうから2〜3cmの間隔で、表皮が断ち切られないように左右に折り分け、これを輪に繋いだものを念珠にみたてて首にかける子供の遊びも紹介している。同じころ書かれた新井白石の『退私録』には球根と銀杏を一緒に潰して、その汁を染み込ませた紙を栞にすると、書籍が紙魚に食われないとある。
寺島良安のこの百科事典の刊行を境に、江戸中期以降には“石蒜=マンジュシャゲ=ヒガンバナ=シビトバナ”説が定着していく。江戸も末期になると民俗学的な知識も蓄積され、天保15年(1844)出版の『重訂本草綱目啓蒙』には48もの里呼び名が収録されている。
本草を離れて、文芸の分野でヒガンバナが登場する江戸時代の作品となると、寡聞にして多くは語れないが、さらに少なくなる。知られているものは何れも中期以降のもので、例えば森川許六の「弁柄の毒々しさよ曼珠沙華」、安永年間(1772〜81)に書かれた与謝蕪村の遺稿集にある「曼珠沙華蘭にたぐひて狐啼く」などである。また、江戸後期の儒学者で備後福山藩医だった伊沢蘭軒の『秋行』と題した絶句に「荒徑雨過滑緑苔/花紅石蒜幾茎開」とある。雨上がりに苔の緑が美しい古びた寺の参道に数本のヒガンバナが紅鮮やかに咲いていたのだろう。
明治時代以降になれば、枚挙にいとまないほどの作品が現れることはすでに述べたとおりである。
美術工芸の分野にヒガンバナがとりあげられるのはいつのころからであろう。むろん万全を期すのはほど遠いのだが、機会あるごとに各地の美術館や博物館の花鳥画などの収蔵品を覘き、またいろいろな画集などにもあたってみたが、初期の本蔵書の稚拙な絵は別として、いまだに江戸中期より古い絵画の中にヒガンバナを見出しえないでいる。
四季の草花は平安大和絵以来の日本人好みの画題だが、平安・鎌倉時代までに描かれた仏画や絵巻物、南北朝時代に盛んになった宋・元花鳥画の影響の色濃い屏風絵、室町時代の雪舟や狩野派による重厚な四季山水図屏風にもヒガンバナとおぼしきものはない。秋草にまぎれて描かれているかもしれないと期待した、桃山の艶やかな障壁画の中にも探し出すことができなかった。戦乱で灰燼に帰したものも少なくなかっただろうが、安土桃山時代によく描かれた天井絵で現存するものにもヒガンバナを見ることはできない。例えば西本願寺白書院狭屋の間の天井にはケイトウ、コデマリ、ヨメナ、ハナウツギ、アサガオ、カンゾウ、ウメ、ムクゲ、キク、ツバキ、シデコブシ、ヤマユリ、テッセン、ハギ、アヤメ、キブネギク、フジ、レンゲショウマなどがあり、ことにキレンゲショウマのような日本固有の珍しいものも描かれているのには驚かされたが、ここにもヒガンバナはなかった。大崎八幡神社の石の間でも、延暦寺根本中堂の天井でもヒガンバナを見ることはできなかった。硯箱、筆入れ、文机などの調度を飾る蒔絵や陶磁器の絵柄にもヒガンバナは使われていない。能衣装を彩る染織の草花のなかにも見られない。
すでに述べたように、江戸時代の人々はヒガンバナという植物をよく知っていた。しかしこの時代に多くの花鳥画を遺した絵師たちもこの花を描いていない。中期に活躍した丸山応挙とその一派、江戸琳派の祖の尾形光琳、琳派を大成させ華麗な画風で知られる酒井抱一や鈴木其一、彼らの作品にヒガンバナが登場することはついになかった。京都の冷泉家に伝わる“花貝合わせ”は丸山応挙その人かその門人の手になるものとされるが、そこには360種類の草花が描かれている。ミズバショウ、クマガイソウ、アマドコロ、ウマノアシガタ、クサノオウ、スハマソウ、アケビ、タマガワホトトギスなど、それまで絵画の対象になったことないような野生の草木が少なくない。しかしヒガンバナの姿はここにもない。
さすがに江戸時代も後期、それも幕末ともなれば、ヨーロッパの近代植物学の知識を吸収した本草家たち、例えばシーボルトの『日本植物誌』の原画を数多く担当した川原慶賀や、最近になってやっと日の目を見るに至った『本草図説』を著した高木春山などが、正確で美しく彩色されたヒガンバナを描いている。明治時代以降には増原咲次郎のように好んでこの花を描く画家が現れる。個人的には、赤く燃えるヒガンバナの原を背景に白馬と3人の乙女を描いた折井虫光の『六道原』や月食の薄闇に咲くヒガンバナとその上を舞う白い蛾を描きとめた梅川三省の『幻花』が好きだ。前者は諏訪美術館、後者は金沢県立美術館に収蔵されていた。また、奈良県立万葉文化館で出合った、宵闇の春日山の麓に篝火のように咲き満ちるヒガンバナを描いた吉澤照子の『いちし』も忘れがたい。
江戸時代の花鳥画や調度品の装飾にヒガンバナが使われていないのは『和漢三才図会』などの死を連想させる記述が原因で中期以降はタブー視されて描かれなかったのであろうが、立花に使われることもあった室町時代から江戸時代初頭においても描かれることがなかったのはなぜであろう。『続群書類従』の記述を信じれば、渡来してから間がなく、めったには目にできない珍しい花だったからだとも考えられるが、不思議である。
イチシと ヒガンバナ
鎌倉時代以前の古典にはヒガンバナがまったく登場しないと書いてきたが、実は意図的に触れないできたことが一つある。それは、万葉集に詠われているイチシ(壹師)と呼ばれる植物とヒガンバナとの関係である。この植物が詠まれているのは巻11にある次の一首である。
   路邊壹師花灼然人皆知我恋嬬
   路の邊のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は
賀茂真淵が柿本人麿の作と推定したこの歌の“壹師”をヒガンバナとする説があるのである。しかし、イチシの正体については古くから諸説があり、必ずしもヒガンバナと特定されているわけではない。松田修(1980)は『古典植物辞典』で6説を紹介し、その当否を論じている。タデ科の大黄(ダイオウ)とする説は天和3年(1683)から元禄3年(1690)に亘って契沖により著された『万葉代匠記』にみられる。平安時代の『本草和名』が大黄の和名をオホシとしているが、契沖は「此花白くして茎一尺も立ちのびいちじるしくみゆる物なれば」と記し、大黄が万葉集の壹師の短歌の歌意に矛盾しないとみた。つまり“イチ+シ”と“オホ+シ”は同一物というのである。これに対し、ダイオウは渡来の薬草で路傍にありふれた植物とは考えられず、詠われたイチシとは別物とすべきというのが大方の万葉植物研究家の意見だが、契沖もそのあたりの反論は予想していてか、「路邊とは人皆知と云はむ料なり」と付記している。イチシをタデ科のギシギシと見立てたのは『本草綱目啓蒙』の小野蘭山などで、これも『和名本草』の羊蹄(シ、シノネ)のシとイチシのシが同一だと考えた説である。大方の国語辞典はこの説をとっているが、この植物の淡い白緑色の花は、仮に道端にあったとしてもさほど目立つものではない。前川文夫(1952)もシに注目するが、シをス(酢)の転訛とみて、シュウ酸カルシウムなどを含む酸味のある植物の総称と考えた。したがってイチシは”イチ+シ”という合成語で、イチは接頭語の“イ”+“チ(血)”であり、イチシは血のような赤い色をしたシ、つまり若芽が赤い色素に富んでいてよく目立つイタドリのことだと主張している。
しかしイタドリの花もギシギシのそれと同様に周りの雑草の緑に紛れてしまうような地味な花である。この点に関して前川は「イチシの花とは真の花というよりも恐らく果実の時であろう。イタドリのあの盛んな実のつき方をみれば花とみまがうであろう」と記している。私見ではあるが、前川の理論であればイタドリに限らず、同じタデ科で花茎が赤味がかり、緑白色の花穂を風に揺らすスイバでもイチシの候補になりそうである。クヌギないしはイチイガシ(檪)説は、江戸後期の国語学者の春登が作かと伝えられる『万葉集名物考』にある。この書では「市柴、五柴、壹師の花、ともに皆同じく、いちひしばの略なり」としており、その注に「壹師の花は椎の花の如く、梢に穂をなして春の末、夏の初めに咲くものなり、色は白くして黄ばめり、花は細かにして分明ならず、遠く望めばいちじろし」とある。しかし人間の感覚には個人差があるとはいえ、ブナ科の風媒の穂状花は視覚的にはさほど目立つものではない。5月のさわやかな風に運ばれてくる特徴的な香りに初めてその存在を知る、そんな花ではないだろうか。
幕末から明治大正にかけて活躍した本草家の山本章夫(1926)は『万葉古今動植物正名』にクサイチゴ説を記している。イチシはイチシコ、すなわちイチゴのことであり、クサイチゴはイチゴ類のなかでもとりわけて大きな白い花つけるとともに、路傍の雑草の中にあってよく目立つからだと説く。小清水卓二(1942)は『万葉植物』の中でこの説に賛同している。同様の発想はすでに新井白石(1719)の『東雅』にあり、この書では「覆盆子 イチコ」の項に「万葉集の歌にイチシといひし即此也」と断じている。ただし白石のイチコはキイチゴのことと考えられる。
エゴノキ説を唱えたのは日本博物学史の研究で名高い白井光太郎である。大正4年(1915)、佐々木信綱主催の竹伯会が発行する短歌雑誌『心の花』に「万葉集中に見えたる二種の植物名に就きて」を発表し、イチシはエゴノキだと主張した。その理由は次の三つである。
1 純白の花が鈴生りに咲く様は人目をひきつける。
2 伊豆諸島に残るエゴノキの里呼び名にはイヅサとイッチャがあり、イチシはこの転訛の一つとみなせる。
3 エゴノキの材は和傘の轆轤に使われ、果実は潰してその汁を洗剤や魚毒として利用するなど、日常生活と密着していた。
これらをよりどころに白井は「予は前記の理由により、草に非ずして一種の木なりと考へ、其木は邦俗エゴノキ一名チシャノキ(漢名齋墩果)を充つるなるべしとはいうなり」と論じている。
以上の諸説はイチシの花の色を白と、それもよく目立つ白花と想定したものである。ところが牧野富太郎(1952)は意表をついて深紅の花を咲かせる植物ではないかと考えた。それが『混々録』に発表されたヒガンバナ説である。牧野は歌中の“灼然”を“いちしろく(著しく白く)”とは読まず、“いちじろく目覚めるばかりに著しく”と読み、道の辺に燃え立つヒガンバナがこの歌意にふさわしいと考えた。『アララギ』の第40巻9号には「彼岸花の漢名は石蒜で、これはイシシとよめる。イチシはイシシの訛ったものか、(中略)ただヒガンバナにイチシの名がみつからないのが残念で、この方言が残っているとすれば、これはまさしくヒガンバナである」とも書いている。
この牧野説を真っ先に支持したのは、先に紹介した、ヒガンバナの里呼び名を精力的に収集していた山口隆俊(1965)だった。山口が支持した理由は大きく分けて二つあった。その一つは残存している里呼び名である。山口県から採集されていたイチジバナ、和歌山県のイッポンバナ、イッポラカッポラ、イッポンカッポンが『本草綱目』にもあるヒガンバナの漢名の一つの“壹枝箭”に由来するとみたのである。壹枝箭は一本の花茎の先端に小花を群れ咲かせる形態を表したものだろう。そして箭が省略された“壹枝”は転訛するまでもなく“イチシ”そのものというわけである。さらに三重県にある“一志”という地名を吉田東吾の『大日本地名辞典』で調べると、これが貞観4年(867)頃まであった宮家の家名“壹枝”に由来し、『古事記』の記述などから“壹枝”の歌の作者と推定された柿本人麿がこの宮家の一族だったことがわかるというのが第2の理由である。山口隆俊が訪れたとき、一志の里にもヒガンバナが咲き乱れていたという。しかし、残念ながら山口は一志地方でイチシの里呼び名を拾うことはできなかった。
かつてはエゴノキ説を支持していた松田修も『日本植物方言集』を編纂する過程での調査によって、山口県熊毛地方でイチシバナ、九州でもイチジバナ、イッシセンを採集し、ヒガンバナ説に転向している(松田、1968)。
本当に“壹枝”は真っ赤に燃え立つヒガンバナということでよいのだろうか。サンケイ新聞(1981)に連載した『花の文化誌』やNHKサラリーマンライフ(1985)の『花の博物誌』などに書いたように、かつて私はイチシ=ヒガンバナ説を疑問視し、エゴノキないしはヤマボウシの可能性を示唆した。また、細見末雄(1992)も『古典の植物を探る』でヒガンバナ説を否定している。
確かに、疑問を差し挟む余地があるのである。まずはやはり“灼然”を何と読むかということである。“いちしろく”で目立つ白い色を指しているのか、“いちじろく”で色は特定せず、とにかく目立つことのみを意味しているのかということである。『万葉集』に採録されている歌のうちで“灼然”を用字しているものはイチシの歌のほかにもある。「窺狙ふ跡見山雪の灼然恋ひば妹が名人知らむかも」「青山を横切る雲の灼然われと咲まして人に知らゆな」「天霧らし雪も降らぬか灼然この斎柴に降らまくを見む」などである。いずれも白いものの代表ともいえる雪と雲にかけて用字されているから“いちしろく”と読まれている。純白の雪や雲のようによく目立つということである。ならば、道の辺の“壹枝”の花も白色とみるのが自然であろう。“いちしろく”という言葉は集中20首ほどに見られるが、“灼然”の他は“伊知白久、市白久、市白、市白兼”と白が使われている。17巻ー3935番では“伊知之路久”が用字されているが、これも白波にかかっている。川村幸次郎著『万葉人の美意識』や伊原昭著『万葉の色相』が指摘するように、白という色は、当時の日本人にとって重いい意味を持っていたようだ。
一方、集中でイチシが登場する短歌は2480番の1首のみだが、奈良時代の宝亀3年(772)に藤原浜成によって編まれた歌論書の『歌経標式』の中に「道のべの伊知旨の原の白妙のいちしろしくも吾恋ひめやも」が、鎌倉時代の建長年間(1250頃)の藤原光俊の私選和歌集『現存和歌六帖』に「立つ民の衣手白し道の辺のいちしの花の色にまがえて」がある。これらの短歌を素直に読めば、イチシは赤い花を咲かせるヒガンバナなどではなく、よく目立つ白い花を咲かせる植物だということになる。だがそれが、草であったか木であったかとなると、今のところ決め手はない。人里近くの路傍にあって、遠くからでも目立つ白い花を咲かせる植物という点ではエゴノキ説が的を射ているようにも思える。しかし、このような条件を満たすものとしてはミズキ科のヤマボウシ(ヤマッカ)を挙げることもできる。この樹木の里呼び名を調べると、近畿地方から北陸にかけてイツキ、イチギ、野尻・妙高方面でイッキ、イッキノキ、上越地方でイチキ、イッチキと呼ばれていることがわかる。イツキとイチシ相互に容易に転訛しうることは明らかで、イチシがヤマボウシである可能性については細見(1992)も同様の見解を披瀝している。
石蒜がイシシと読まれ、これがイチシに転訛したものだろうという牧野説や壹枝箭がイッシセンと和訓され、イチシセンを経てイチシになったという松田説には無理がある。中国で石蒜の名が初出する『図経本草』は1063年に編まれたものとされていて、これが早々と日本に渡来したとしても平安時代の末以降であろう。また壹枝箭の名を石蒜の別名として最初に載せた『本草綱目』は、すでに述べたように室町時代の終わりから江戸の初頭に日本人の手に落ちたものである。奈良時代の万葉人がこれらの漢名を知っていたとは思えない。仮に知ったとしてもイシシなどと読み代えず、江戸時代の本草家がしたように、以前からある日本での呼び名を当てれば済んだはずである。平安時代の『本草和名』ではまさにそのように、さまざまな新来の漢名に和名を振っている。繰り返しになるが、『本草和名』には石蒜もイチシも見られない。
ヒガンバナは縄文時代の半栽培段階、ないしは弥生時代に大陸から澱粉源として持ち込まれ、次第に分布を広げて現在に至ったものではなく、ずっと遅れて鎌倉・室町の頃に渡来したものだろうか。典籍の上からではそのようにも見える。そこで、細見(1992)は「南宋へ留学した僧か、その地から渡来した禅僧かが救荒食の材料か薬用としてもたらしたのではないか」と考えている。しかし、典籍に載っていないから存在しなかったと断定することはできない。『万葉集』に詠われていない植物でも、有史前から日本に土着していた植物は少なくない。存在していてもその時代の人々が認識していなかった、あるいは知ってはいても彼らの美意識にそぐわなかった、または何らかの禁忌があって書き記すことをはばかった、このような植物はその時代の典籍に残らないであろう。ヒガンバナはそんな植物であったのかも知れないのである。
何か他に渡来の時期を知る手がかりは残っていないだろうか。里呼び名は手がかりにならないだろうか。言葉は遺伝子(DNA)と似ていて、時の流れとともに変化するが、DNAの塩基配列を調べることで生物の進化(変化)の跡をたどることができるように、言葉の変遷とその伝播の過程もかなり詳しく追うことができるからである。 
ヒガンバナ渡来説再考 (3)

 

何か他に渡来の時期を知る手がかりは残っていないだろうか。里呼び名は手がかりにならないだろうか。言葉は遺伝子(DNA)と似ていて、時の流れとともに変化するが、DNAの塩基配列を調べることで生物の進化(変化)の跡をたどることができるように、言葉の変遷とその伝播の過程もかなり詳しく追うことができるからである。
里呼び名が示唆すること
ヒガンバナの里呼び名は、越谷吾山が安永4年(1775)に著した『物類称呼』に18種、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(弘化元年、1844)にはすでに47種類も挙げられているが、その後の山口隆俊をはじめとする多くに人々の精力的な収集により、現在では1000余の呼称が記録されている。例えば、松江幸雄著『日本のひがんばな』の巻末には1090の呼び名が地域別にまとめられている。もっとも、これらの呼び名のうちには、ジャンボンバナとジャンボバナ、ボンボンササキとボンボンササギ、エンコーバナとエンコバナなどのように長音の有無やわずかに音韻変化したものも別称として数えられている。とはいえ、これほど多くの名で呼ばれる植物は他にない。なぜこれほど多くの里呼び名が生まれたのだろう。
人々に注目され始めてから今に至るまでの時間が長かったからという解釈も可能だろう。たとえば、ヒガンバナに次いで多い540余の里呼び名が知られているイタドリは、『日本書紀』の反正天皇紀ではタチ(多遅)、『本草和名』ではイタトリ(以多止利)と呼ばれている。古代から山菜として利用されていた植物である。典籍に現れるのは室町時代以降だが、ヒガンバナも民間では古代から注目されていたと考えてよいのだろうか。一方、新しく渡来し、急速に各地へと伝播したものだから、あちこちで勝手に名を付けたのだ、という解釈もありうるだろう。たとえば、天正4年(1576)に長崎に渡来した南京芋(ジャガタライモ)は400年たらずのうちに約270もの里呼び名をもつようになった。植物の里呼び名の起源とその変遷についていくつもの論稿を残した柳田国男は、「此花にはまだタンポポやスモウトリバナのやうに、確定した名称が近頃までなかったから、いろいろな名が付け易かったのである」と『鍋墨と黛と入墨』のなかに記している。柳田は渡来の時期については名言を避けているが、山口隆俊の“弥生時代渡来説”を高くかっていたようだ。
また、この膨大な里呼び名を整理分類して比較すれば、そこから渡来の時期あるいは伝播についての情報が得られるかもしれない。先ずは、それぞれの意味を調べることから始める。まったく意味不明な呼び名もあるが、大部分はいくつかのグループに分類できることがわかる。その主なものを以下に列挙する。
1 毒性、疾病などにかかわる呼び名
例: イットキゴロシ、オヤゴロシ、ドククサ、ドクユリ、ドクホージ、シタマガリ、テクサレ、ミミクサリ、ボデバナ、カッタイバナ、カブレバナ、ドクスミラ、シビレ、ドクモメラ、ドクイビラ
2 仏教、死、葬儀などにかかわる呼び名(これが最も多い)
例: シビトバナ、シビトクサ、ユーレイバナ、ソーシキバナ、ソーレングサ、ケサカケ、ハカバナ、ジゴクバナ、オボンバナ、ヒガンバナ、ホトケバナ、マンジュシャゲ、テラバナ、ジャンボンバナ、ジゴクモメラ
3 形態や生態を表した呼び名
例: ノタイマツ、イカリバナ、ハタガシラバナ、ネコクルマ、イチジバナ、イッシセン、ケナシイモ、カメユリ、アカバナ、カジバナ、ワスレグサ、ハミズハナミズ、ハッカケバナ、ハヌケグサ
4 子供の遊びから生まれた呼び名
例: オチョーチンボンボラコ、オリカケバナ、ジュズバナ、スベリグサ、シュートンバナ
以上の4グループの呼び名のほかには、イヌ、ウマ、ウシ、キツネ、ネコ、ヘビなど動物の名を冠したものが多く、自然現象のアメ(雨)、カミナリ(雷)を冠したものやドバイ、ドベノキ、ホドズラなど意味あるいは語源のつかめないものもある。これらの呼び名のなかに渡来の時期あるいは伝播の過程を反映しているものがあるのだろうか。注目に値するのは、おもに近畿地方以西に分布する「スミラ系」と「モメラ系」の呼び名である。この2系列に入ると思われるものを以下に列記する。
「スミラ系」
ドクスミラ、トクズミラ、ドクズミタ、ドクズミレ、トウズミラ、スビラ、スビラノハナ、シミラ、ドクシミラ、エベラ、エビラ、イビラ、ドクイビラ、イビラボウズ、トーイビラ、トービラ、ホウジビラ、ゴンセエスブラ、グスクビラ、シビナ、シビレ、シブラ、シブライ、シブル、シブレバナ、シレイ、シレイノハナ、シイレン、 シロエ、シロイ、シルイ、シロイモチ、シル、シレ、シリエ、シイレクサ、シロリ、スガナ、オオスガナ、 カメカグラ
「モメラ系」
ノメラ、モメラ、モメラノハナ、ドクモメラ、ウシモメラ、オオモメラ、ジゴクモメラ、ニュウドウモメラ
脈絡のない呼び名の寄せ集めのように見える。しかし、語源幹を“ミラ”として、田井伸之(1978)の音韻変化論の理論を当てはめると、これらが一連のものであることが明らかとなる。スミラは鹿児島県と熊本県で現在も使われているユリ科の球根植物ツルボの里呼び名である(江戸時代、肥前ではカタクリもこの名で呼んだ記録がある)。そうとう古い時代からの呼び名らしく、1603年に長崎で編まれた『日葡辞書』には「Sumire、その根はにんにくに似ていて食用にされる」と書かれている。余談だが『万葉集』巻8に収録されている山部赤人の「春の野にすみれ採るみにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜寝にける」の“須美礼”は、可憐な花を咲かせるスミレ科のスミレではなく、ツルボだったというのはいかがだろう。スミレの花を摘む赤人は雅な貴公子の風情だが、酒の肴(?)にツルボを掘るおっさんの赤人も捨てたものではないような気がする。冗談はさておき、“須美礼=ツルボ説を私はまじめに考えている。
一方、ドクシミラという呼び名は1690年に長崎を訪れたケンペルが著した『廻国奇観』に、ツルボの里呼び名のクイシミラ(食用のシミラの意)と並べて採録されている。かくて、共通する語幹の一つとして“ミラ”が浮かんでくる。この“ミラ”という言葉は、実は記紀万葉の時代からネギ科のニラあるいは球根と細長い葉をもつ植物の総称として使われていたのである。天平宝治8年(764)に記された正倉院文書の一つに「七文毛彌良七巴」の文字があるが、この毛彌良(モミラ)のミラが韮(ニラ)であることは900年頃編纂された『新撰字鏡』に解説されている。
したがて、太安万侶が和銅5年(712)に撰上した『古事記』の中の歌謡「みつみつし久米の子等が、粟生には、賀美良ひともと、其ねがもと、其根芽つなぎて、撃ちてし止まむ」の賀美良(カミラ)の“カ”は香、“ミラ”は韮、つまり匂いの強いニラのことと考えられる。しかし『本草和名』には韮の和名は古美良(コミラ)とあり、これは小韮を意味するのだろうか。『万葉集』の巻14(3334番)に登場する久君美良(ククミラ)は茎韮と解されている。
現代の植物学でニラといえば東アジアを原産地とするネギ科の Allium tuberosum という特定の種をさすが、上代ではどうだったのだろう。コミラ、カミラ、ククミラはそれぞれが別の種を指しているのだろうか。そうかも知れないが、これらの呼称は接頭語の母音が音韻変化しただけで、同一種と考えることもできる。つまり、日本語では単語の中のaと0、aとuはしばしば入れ替わる。接頭語のkoはkaに、kaはkuに変化できる。むろん逆方向の変化も起こる。ククミラ(kukumira)のkukuは重複した接頭語のkako(香小)あるいはkoka(小香)が転訛したと見ることも可能であろう。
『本草和名』にはネギ類が5種類記載されていて、韮(jiu; 古美良)の他は、現在はラッキョウに当てている薤(xie; かい)の和名が於保美良(オホミラ)、ネギと思われる葱(cong; そう)の和名を岐(キ)、ニンニクとされる葫(hu; こ)が於保比留(オホヒル)、ノビルを当てる蒜(suan; さん)を古比留(コヒル)として区別している。しかし、平安時代末期に編まれた漢和字書『類聚名義抄』では葱の和名にキ・ナキ・ニラ・ヒル・ツキ、韮にコミラ・タタミラ・ニラ・ウスシ、薤にミラ・ニラ・ヒル・ナメミラ、蒜にはヒル・オホヒル・ヒラテを当てている。したがって、昔は現代と違って、分類は大雑把で、地下部が球状に肥大し、柔らかで細長い葉を生じる植物を総称としてミラ・ニラ・ヒルなどと呼んでいたと思われる。ツルボもヒガンバナも明らかにこの範疇に入る。そこで、これらを語幹とし接頭語をつけてそれぞれの種を特定したのであろう。
では、ツルボはなぜスミラあるいはシミラと呼ばれたのだろう。”ミラ”についてはすでに考察したとうりだが、接頭語のスまたはシにはどんな意味があるのだろう。酸味のあるものに“ス”を冠することはしばしば見られるが、ツルボには酸味はない。酸味がないばかりか甘くも苦くもなくほとんど無味に近い。スは素うどんの素と同じ意味かもしれない。ネギ類のミラに特有の臭気や辛さもないさっぱりとしたミラ、つまりスミラということではないだろうか。あるいは、親球根の基部にたくさんの子(シ)球根ができるミラということでシミラと呼ぶのかもしれない。どちらが正しいにせよ si と su の母音は容易に転訛が可能である。
スミラあるいはシミラがいつから使われていたかは不明だが、『日葡辞書』のスミレと『万葉集』の須美礼が同じだと仮定すると、奈良時代にはツルボをスミレと呼んでいたことになる。スミラやシミラがスミレに転訛するのは容易である。 sumira → sumire のように母音aがeに変るだけである。現代植物学の目で見れば、ツルボとヒガンバナは生殖器官の花ばかりか栄養器官の葉の形態も、その違いは混同しようもないが、竹薮のような日当たりのよくない環境ではヒガンバナの葉はツルボのそれに似てくる。大陸が近いがゆえにヒガンバナが最初に渡来したと考えられる九州地方の古代の人たちはヒガンバナをツルボの類と認知したに違いない。ただし、無毒か有毒かの違いははっきりと認識していて、ヒガンバナを有毒のスミラ(シミラ)、つまりドクスミラ(ドクシミラ)と名づけたのであろう。その後、どのような特徴を持つかを示すさまざまな名詞が付加されるとともに、接頭語(シ)と語幹(ミラ)の双方で母音の交代、単音の脱落、音節の転移、音節の脱落などが各地で起こり、現在知られる“スミラ系”の里呼び名が生まれたと考えることができる。
いくつか例を挙げてみよう。
長崎県にはドクスミタ doku-sumita という呼び名が記録されているが、これは doku-sumira が sumida を経て sumita に転訛したものである。大分県のイビラ ibira は simira の s が脱落するとともに、馬酔木のアシミがアシビになるように子音の m が b に置き換わったものである。福岡県にはエベラ ebera という里呼び名があるが、これは「後ろ見たし -mitasi」の mi が me となり「後ろめたし」となったようにイビラ ibira の二つの母音 i が e に換わったものである。宮崎県のエビラは頭の母音 i 一つのイビラから変化で導かれる。やはり長崎で採録されたドクジラメはスミラのサ行音ス su がザ行音ジ zi に、ミ mi が me に転訛し、これに引かれてメとラの音節が転移したものととれる。地中海地方の魔除けの草として知られるマヨラナ(Majorana)を日本人がしばしばマヨナラと書き間違えるのと同じ現象である。
九州では長崎県対馬でのみ知られる呼び名にシイレとシレイがあるが、四国・中国地方ではシイレ・シレイの他に、これらの転訛と思われるシリエ・シルイ・シロイ・シロエがあちこちで採録されている。シレイはシミラ simira の m が脱落し、a が e に交代してシイレ siire となり、i と re が転移してシレイ sirei となったのであろう。この後は、sirei の e が o 交代し siroi 、o が u に交代してシルイ、 sirui のu が o、 i が e に交代してシロエ、シロエの o が i と交代すればシリエ sirie となる。
柳田国男も『野草雑記』の「草の名と子供」のなかで、シレイとシレイグサをそれぞれ死霊、死霊草の意味にとる宮地美彦の説に反論して、「阿波でも吉野川の上流ではシロイ、壱岐の島にもまたシロエの名があり、対馬でもこの草の葉をオシロイグサというを見れば、シレイは元の音とも言えない。名の起こりはむしろスミラ(つるぼ、綿棗児)と関係がありそうである」と記している。対馬でシレイを採録した鈴木棠三は『対馬の神道』に、対馬では地神を祭った島大国魂神社があちこちにあり、その地名をシレイといい立ち入り禁止の聖域となっているので、ヒガンバナをシレイと呼ぶのはこの植物をタブー視することと重なるのではないかと示唆している。前川文夫はシロエに注目し、その語源はシログワイだろうと推論している。古代から食用していたカヤツリグサ科のクログワイの黒い球根に比べると、ヒガンバナの球根は晒して食べるために褐色の外側の鱗片を剥くと真っ白なので、これをシログワイと呼び、これが短縮してシロエとなったと考えている。だが、シログワイという呼称が存在していた証拠はない。また前川は傍証としてヒガンバナの里呼び名にシログ・シロギがあることを挙げている。シロギは静岡県で採録されているが、同県にあるスミラ系列のシロリ(シロリの母音音節に子音の r が添加されて sirori となった)との関係はよくわからない。
大阪、兵庫にはシビラ・シビレ・シブラ・シブル・シブレという呼び名が知られている。これらの呼び名は橘正一の『方言読本』によると、ヒガンバナに含有されるアルカロイドのリコリンなどによって起こる“しびれ”を意味するとのことだが、シミラからの音韻変化の産物と見るほうが自然であろう。ネムノキ(合歓木)がネブノキに変るように simira のmがbと入れ替わり sibina (シビナは島根県で知られたヒガンバナの里呼び名)となり、ウナカミ(海上)がウラカミ(浦上)になるようにnがrに代わることでシビラ sibira となる。残りのものは第2、第3音節の母音の交代のけっかである。
紀伊半島と愛知県から報告されているスガナ・オオスガナ・カメカグラという奇妙な里呼び名もミラを語幹にしたものではないだろうか。ミラの転訛したブラ(bura)のバ行子音bがガ行子音gと交代してgura となり、カミラの接頭語のカが加わればカグラとなる。カメカグラのカメは瓶のことで、球根の形を表わしたものとも考えられる。一方、“すぶるぼし=統ぶる星”が“すばるぼし”に転訛したように、gura のア行母音 u が a に、ラ行子音 r が ナ行子音 n に交代すればガナとなり、これにスミラの接頭語のスが結びついてスガナになることができる。
山口県から鳥取県にかけて分布するモメラ系列の呼び名もミラを語幹にしたものと考えられるが、スミラ系列とは接頭語を異にする。正倉院文書にあった毛彌良(モミラ)のモがこの系列の接頭語の原型ではないだろうか。山口県下ではヒガンバナだけでなくツルボもノビルもモメラと呼ぶ地域がある。昔はこの3種を同類とみなしていた証だろう。また、ノミラというという呼び名も知られているからノニラ(野韮)が最も古い名で、尾張にあったムラクノという古い地名がムラクモに転訛したと同じく、nonira が monira となり、monira のnがmと交代しモミラ、さらに momira の i が e に代わってモメラという里呼び名が生まれたのだろう。
今までに述べてきたミラを語幹とする里呼び名の変遷を整理すると、以下のようなヒガンバナの伝播の経路が浮かび上がってくる。
いつのころか時代を特定することはできないが、第一段階として、すでにツルボのことをスミラないしはシミラと呼んでいた九州に大陸からヒガンバナが移入されたのであろう。ヒガンバナは球根と葉の形態がミラ類のうちのスミラ(ツルボ)に良く似ているためスミラの一種とみなされ、同じ名で呼ばれるようになったと思われる。区別したい場合は有毒成分を含むことを表わすドク(毒)や大陸起源であることを示すトウ(トー:唐)を付したのだろう。でんぷんを多量に含むので救荒植物としての価値が買われ、徐々に分散し各地へ伝播したのである。この過程で音韻の変化、音節の転移や脱落が起こり、それぞれの地域に新しい里呼び名が生まれたのである。沖縄に運ばれたものはグスクビラ(グスクは城)、ガラシビーヒル(ガラシは烏)、ボゥジビラァ(ボゥジは坊主)などの名にミラの名残をとどめている。ちなみに、沖縄ではヒガンバナの葉や花を不眠症の解消のために油で炒めたり豚肉と一緒に煮込んで食べることがあると山口隆俊が報告している。四国に渡ったものはシミラに由来するシイレ音節転換して、シレイ、シロイ、シロエ、シルエなどに転訛している。瀬戸内海を挟んだ対岸の岡山にもシレイが知られている。島根ではシロエとシビナが記録されている。モメラ系列の呼び名は山口県と隣の島根県に集中している。スミラのスとは異なるモを接頭語にしたミラである。九州から伝播した際、接頭語のスが捨てられたのはなぜだろう。この地域ではツルボのことをすでにモメラと呼んでいたため、九州の人々がスミラを使ったのと同じ理由でモメラを充てたと思われる。中国地方ではノビルのこともモメラと呼ぶ。正倉院文書もモミラに遡るのではないだろうか。
対馬海峡を挟んで隣接する韓国南部にもわずかだがヒガンバナが分布していて(近年は全北道の公園などでは大量に植栽されているが)、saumunamというスミナそっくりの方言があることを中井猛之進が記録している。兵庫と大阪方面へ分散したものは、岡山のシビナから転訛していったと考えられるシブラ、シビラ、シブル、シビレなどの呼び名となった。中部地方以東では、シミラ系列の呼び名は希薄となり、静岡でシイレとシリエ、神奈川でシイレ、シイレン、シイレノハナが採録されているにとどまる。群馬県では100以上の呼び名が記録されていますが、スミラ系列は皆無である。
このようにスミラ系の里呼び名に的を絞ると、九州から北上して分布を広げるヒガンバナの姿がおぼろげですが浮かんでくる。このヒガンバナは救荒食糧として伝播したと考えてよいだろう。言い換えれば、スミラ・モメラ系以外の名で呼ばれるヒガンバナの大部分は食糧としての認識をともなわずに分散したものではないだろうか。先に分類した毒や死や仏教などにかかわる1〜4のグループに入るものである。この中には、全国的に分布するドクバナやシビトバナのような名もあるが、多くは特定の地域に限られている。標準和名のヒガンバナとマンジュシャゲはさまざまに語尾を変えて広範囲に分散している。児童の遊びの中での思いつきで付けられたものもある。これらスミラ・モメラ系列の以外の呼び名の伝播の後をたどることは今のところできそうもないが、これほど多くの名で呼ばれたということは、我々の祖先がこの植物に並々ならぬ関心を寄せていたことの証であろう。
だが、すでに述べたように、室町時代より前の典籍にはヒガンバナのそれと特定できる呼び名は登場していない。そこで、想像をたくましくして、次のような渡来と伝播のシナリオを書いてみた。いかがだろう。
1) 奈良時代ないしは平安時代、救荒植物として九州に渡来した。
2) ミラ(ニラ)類のツルボの一種とみなしスミラ(スミレ、シミラ)と呼んだ。有毒性を強調するときはドクを頭に付けた。
3) スミラという名は『日葡辞書』に載るまで文献に残らなかったが、救荒植物として栽培し、四国、中国、近畿地方へと伝播して言った。このルートに沿ってさまざまなスミラ系の里呼び名が生まれた。この間、食糧にならない赤い花は注目されなかった。球根を太らせるために花茎が伸び始めると開花する前に切り落としていたかもしれない。また、大切な非常食ゆえ、意図的にタブーとし、表舞台には立たせなかったのかもしれない。
4) 室町時代、僧侶がヒガンバナの深紅の花を仏典に登場する曼珠沙華とみなし、積極的に寺院や墓地に移植して増やし、この花が庶民の目に留まるようになった。その結果、墓地に咲くヒガンバナが、当時布教のために盛んに描かれていた地獄草紙の地獄の炎を連想させ、僧侶の意図から離れてこの花を不吉なものと考えるようになったのかもしれない。
5) 江戸時代、飢饉は繰り返されたものの、農耕技術の発達や新田の開発により、救荒植物としての価値は次第に忘れられ、限られた地域の古老たちの記憶にとどまるにすぎなくなった。この過程で、不吉なものに対する恐れや好奇心から爆発的に里呼び名が増えていったのであろう。
以上が古典と里呼び名から探ったヒガンバナの渡来・伝播考である。 
 

 

エピローグ 
大声で叫び交わしながら激しく揉みあって改札口をなだれる人波に飲み込まれ、よろめきながら上海駅構内に入り、やっとの思いで第3ゲートにたどり着く。杭州行急行便の発着するプラットホームへの入り口である。ベルが鳴り、ゴトンと列車が動き、なにげなく腕の時計を見ると、定刻の3分前だった。
市街地を抜ければ、広大な揚子江下流域の沃土には見渡すかぎり畑や水田が開かれ、小舟が行き交う水路には風眼蓮(ホテイアオイ)や水浮蓮(ボタンウキクサ)が浮かび、四角形の池には驚くほどによく育った空心菜(ミズアサガオ)や菱(ヒシ)が重なり合うようにして茂っている。水辺近くには大きな赤い実を結んだ楮樹(カジノキ)も植えられていた。乗客が飲食する甘味料の香りにひかれるのか、ひた走る列車の窓を風圧に逆らってミツバチが出たり入ったりしていた。上海を発って4時間30分、押し出されるようにして降り立った杭州の環状東路に面した駅前広場も、人また人の波であった。
1987年9月4日、故郷に咲くヒガンバナとその仲間たちに出合う旅の始まりであった。
いくつ物美しい交配種を作出されている杭州植物園の育種家の林巾箴女史と面識を得たのもこのときのことである。その後の8度にわたる中国訪問を通してヒガンバナ属の実態がかなりはっきりとしてきた。それは予想をはるかに上まわるほど複雑なものであった。
中国と日本の研究者が同一種とみなしてきたいくつかの分類群が別物であることも判明した。シロバナヒガンバナ(Lycoris albiflora)はその一例である。やや赤みが差すこともあるが、純白に近い花を咲かせるこの植物は1924年、奄美大島産と思われる個体をもとに小泉源三が新種として記載し、後にショウキランとヒガンバナの自然雑種と判明したものである。これが中国にも分布することになっていて、乳白石蒜と呼ばれていた。『中国植物誌第16巻第1分冊(1985)』には江蘇省の山野に自生するとある。しかし、葉が伸展するのは春だとあり、日本産の秋出葉性と異なる。また、江蘇省にヒガンバナはあるもののショウキランが分布するという報告もない。そこで原産地に赴き、乳白石蒜なるものを採集し、外部形態と核型を観察した。その結果、乳白石蒜はシロバナヒガンバナとは似て非なるものであった。親の一方はヒガンバナだが片方はショウキランではなく江蘇省に広く分布している中国石蒜(Lycoris chinensis)と考えられた。
取り違え事件は近代植物分類学の黎明期にもあった。ガーンゼーリリー(Guernsey Lily)とヒガンバナの混同である。これにはかの“熊野の森の巨人”南方熊楠がかかわっている。フランスのサン・マロ湾の沖合いにイギリス領チャンネル諸島がるが、ガンゼーリリーとはこの諸島の一つのガーンゼー島(古名はサルニエ島)に生えるユリという意味である。これがこの島にどんな方法でいつ伝来したのかは口伝えがるのみで確かな記録はないようだが、モリソン(1680〜1699)の『プランタルム・ヒストリア・ウニヴェルサリス・オクソニエンシス=オックスフォード植物誌』の説が一般に流布しているものである。それは、日本から帰国の途にあったオランダ船がこの島の沖で難破し、その積荷の球根が流れ着き野生化したものがガーンゼーリリーだというものである。一説には、それは1634年、江戸幕府が鎖国令を敷く1年前の出来事だったという。また、難破船からこの球根をもちだした島民が、食糧と勘違いして煮炊きしたところ、あまりにもひどい味だったために残ったものを野原に捨てておいたところ、見たこともない美しい花が咲いて人々を驚かせたという言い伝えもある。
日本で最初にヒガンバナに出合った西欧人が誰でいつのことだったかは知るよしもないが、室町時代も末の天文18年(1549)の8月に鹿児島に上陸し、約2年間を平戸や山口など各地をキリスト教布教のために巡ったフランシスコ・ザビエルの一行であった可能性もある。このおよそ50年後、日本イエズス会が編んで長崎で刊行した、日本語をポルトガル語に訳した辞書には「Manjuxaqe(マンジュシャケ)−秋に咲くある種の赤い花」とあり、宣教師たちがヒガンバナを知っていたことがわかる。
混乱の発端は、この100年ほど後の元禄3年(1690)に長崎を訪れ、2年と1ヶ月を日本で過ごしたエンゲルベルト・ケンペルが故郷の北ドイツのレムゴーで1712年に出版した『廻国奇観』であった。彼は420種もの植物を採集し、それをこの書で解説しているが、ここにケンペルは「ヒガンバナはコルヌチのいうところのナルキスス・ヤポニクス・フロレ・ルチロ(赤花日本水仙)である」と記した。
一方、ダグラス(1725)は、ヤコブ・コルヌチ(ジャック・コルヌ)が1635年に北米大西洋岸とチャンネル諸島などを記載した本の中で、“赤花日本水仙”と名づけた植物はガーンゼーリリーであるとして、島の古名に因みリリウム・サルニエンセと命名し、原産地は日本だとした。リンネは『植物の種』の1753年版においてこれをアマリリス・サルニエンシスと改名している。リンネの弟子で1784年に大冊『日本植物誌』を著したチュンベリーも長崎で採集したヒガンバナにアマリリス・サルニエンシスを当てている。
金銭的に困窮したこともあり、19世紀も余すところ数ヶ月というところで英国留学を打ち切り帰国した南方熊楠は、数年後ふとした機会に読んだガーンゼーリリーの日本由来説に興味をひかれ、くだんの調子で執拗に調べ始める。その結果、モリソンやダグラスの日本原産説をよしとして「ガーンゼー百合の本種は石蒜たること疑いを容れず」と書くに至る。「・・本種は・・・」とわざわざ書いたのは、彼がロンドンに滞在していたときに街角の花屋の店頭に見たガーンゼーリリーは、よく似てはいるもののヒガンバナとは異なる植物だったからである。ヒガンバナは一度はガーンゼー島に野生化したものの、北緯45度30分に位置する島の風土に合わず、間もなく絶え、代わってよく似ている別の種が栽培されるようになったと考えたのである。2月の平均気温6℃はともかく、真夏8月の平均気温が16℃、年間平均降雨量914mmはヒガンバナの生育、ことに花芽形成には向いていないといえるだろう。また、大正4年の『日本及日本人』の元旦号に発表された『石蒜の話』を読むと、この結論に至る背景には、“東洋のものはすばらしい、西洋にまけるものか”という熊楠の気負いがあったように思える。
ところが、その後の再検討により、コルヌチの赤花日本水仙はその原典の付図からみて、ヒガンバナではなく南アフリカはケープ地方原産のネリネ・サルニエンシスということになった(Gray 1938; Muntschick 1983)。途中で入れ代わったのではなく、最初からアフリカ産の植物だったわけである。ケンペルもチュンベリーも同定を誤ったことになる。当時の専門家でも間違えるほど両者は似ていたということでもある。しかし、似ているのは見掛けだけで、わかれて以来数千万年にも亘るかも知れない長い期間を地球の南と北で独自に進化してきた両種はいまや核型も遺伝子でもはっきりと異なる存在となっている。ちなみに、リンネのアマリリス・サルニエンシスをネリネ・サルニエンシスと改名したのはヒガンバナ属を独立させたヘルベルトである。
なぜこのような混同が起こったのか。日本からの帰路にあるオランダ船だから積荷は日本のものに違いないと思い込んだガーンゼー島の住民のあの口伝がそもそもの原因だったのだろう。当時のアジアとヨーロッパを結ぶ航路は必ずアフリカ南端の喜望峰を経由したから、難破した船が積んでいた球根は日本からのヒガンバナではなくケープ地方で集めたネリネのものだったのである。熊楠はロンドンでヒガンバナと出合うことはできなかったが、21世紀の日本に住む私たちは、植物園やフラワーショップに足を運びさえすれば、南アフリカうに生まれたネリネの仲間に出合うことができるのである。
最後に、私にとって忘れ難いヒガンバナとの出合いを紹介させていただく。
その出合いは、ヒガンバナの染色体にとりつかれて間もない1976年の夏のことであった。場所は京都大学理学部植物学教室の静まりかえった標本庫の片隅。古びた木製の机の上で広げた一枚の台紙に張られた、色褪せ縮れた寂しげな一株のヒガンバナと出合ったのである。その標本は文部省学術研究会議が昭和20年9月に設けた原子爆弾災害調査研究特別委員会の生物科学会調査団に加わった京都大学教授北村四郎が長崎西山地区の爆心地付近で採集した株の一つであった。
昭和20年8月9日午前11時2分。松山町170番地上空500m。“でぶっちょ”のプルトニウムが臨界点に達し、閃光と熱線を発して炸裂。
調査団が長崎に入ったのはこの2ヶ月後のことである。秋が訪れた原子野で調査団が採集した数少ない植物の一つがこのヒガンバナであった。調査団の一人、前川文夫は「まるで春先のショウジョウバカマのような花をつけた数センチメートルしか丈のないずんぐりした花茎が所々に顔を出しているのをみつけた。花はほとんど開かず、しかも短くてヒガンバナ特有のあの赤さも、豪華な花弁のそり返り方もまったくみられず、みすぼらしい花つきである」と『ヒガンバナの執念』に記している。
原子爆弾の放射能による種の突然変異の実例になるとの期待から、かなりの数の球根が東京と京都の実験圃場に移植された。しかし、次の年の秋が来ても1本の花茎も立たず、葉も伸びることなく、すべては死に絶えた。20年の8月、地中にあってすでに完成していた花芽はかろうじて生き残り、いじけながらも花開いたのだが、次の年の葉や花の原基細胞は放射線に射抜かれて命を継ぐことができなかったのである。
身震いし、鳥肌立ち、心の沈む出合いであった。
その日から30年後に金毘羅山の麓、浦上天主堂に近い江平町の路傍で採ったヒガンバナの中に、染色体異常をもった株があった。染色体数は2n=32と正常個体より1本少なく、2本の染色体が融合していた。この染色体突然変異がどんな原因でいつ起こったのかはわからないが、被爆の厄災を生きのびたヒガンバナの子孫ではあるのだろう。
<追い書き>
ヒガンバナに魅入られて夢中になっていた頃の私の思いのたけを、だれかれかまわず話してみたい衝動に駆られてというきらいが多分にある『ヒガンバナの民俗・文化誌』ゆえ、思い入れが過ぎていささか度を越した記述があるに違いない。そんな私の未熟さはご苦笑の上にてお許しただければ幸いである。不十分な調査や読みの浅さが原因の誤りのあることを恐れる。言語道断ともとれる飛躍があるかもしれない。読者のご叱正とご教示を待つ。作文上の都合もあって、文中に挙げさせていただいた方々の敬称は省略させていただいた。この場を借りて非礼を詫び、お許しを乞う次第である。 
 
 
北原白秋

 

童謡
曼珠沙華(ひがんばな) 
GONSHAN.(ゴンシャン)GONSHAN. 何処へゆく
赤い御墓の曼珠沙華(ひがんばな)、
曼珠沙華、
けふも手折りに来たわいな。
   GONSHAN. GONSHAN. 何本か。
   地には七本、血のやうに、
   血のやうに、
   ちやうど、あの児の年の数(かず)。
GONSHAN. GONSHAN.気をつけな。
ひとつ摘んでも、日は真昼、
日は真昼、
ひとつあとからまたひらく。
   GONSHAN. GONSHAN. 何故(なし)泣くろ。
   何時(いつ)まで取っても、曼珠沙華、
   曼珠沙華、
   恐(こは)しや赤しや、まだ七つ。

童謡の中にすごく恐いのや残酷なことを歌いこんだ奴 がありますね。「この子の七つのお祝いに」とか、「かごめかごめ」とか「赤い靴」とか 歌詞が不気味で、なんかスゴイ謎がありそうでサスペンス劇場のネタ になりがちなやつです。そういう、「恐い童謡」テイストを出した詩です。
この女性(GONSHAN)は子供を喪ったようです。 私は最初、中絶したのだと思っていました。7年前に中絶をして、 それ以来墓参りに来てる、と。
女性はそれを悲しい痛ましいことに思いながら、隠したい無かったことに したい気持ちもある。しかし、どんなにごまかしても事実は覆い隠せない…
…最初はこう解釈したのですが、「7歳の時子供が死んだ」という解釈も 成り立つなぁ。「死んだ時のまま歳をとらない」なんて言い方が ありますが、その不気味さを出してると考えればゾクッ来るな、と。
しかしそれだとGONSHANがどこか後ろめたいような、隠したがっている説明が つかない。7歳の時死んだにせよ、何か女性の側に過失というか倫理的に まずい所があったのか?
童謡や昔話で「七」は何か象徴的な、特殊な意味のある 数のようです。七歳、七年目がキーになってる話は多い気がします。
(注) GONSHAN…九州柳川の方言で良家の娘さん。
からたちの花
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
   からたちのとげはいたいよ。
   青い青い針のとげだよ。
からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。
   からたちのそばで泣いたよ。
   みんなみんなやさしかったよ。
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。

北原白秋の母校福岡県柳川の矢留尋常小学校(やどみじんじょうしょうがっこう)の通学路「鬼童小路」(おんどこうじ)には、からたちが畑の垣根として植え並べてありました。その原風景から生まれた詩です。
大正13年(1924)、雑誌「赤い鳥」7月号発表。 童謡集「子供の森」(1925年・アルス)収録。その後童謡集「月と胡桃」(1929・梓書房)に再録。
白秋は子供のころ「鬼童小路」で見たからたちの生垣に格別の思い入れがあり、白秋の生涯を通じてつきまとう重要なイメージとなりました。
小田原の水之尾でもからたちの花に感激しています。
昭和16(1941)死の前年に一家四人で柳川に帰郷した時もからたちの美しさに心惹かれ生垣のある道を軽やかに歩いたということです(「白秋全集月報」)。
昭和17年(1942)白秋の開催する多摩短歌会の大会が柳川で開かれたとき、東京で死の床に伏していた白秋から「鬼童小路を通れ」と電報が届いたといいます。
山田耕筰が大正14年(1925)作曲し雑誌「女性」5月号に発表します。テノール歌手藤原義江の歌で大ヒットしました。
面白いことに白秋と同じく作曲者の山田耕筰もからたちの花には強い思い入れがありました。
10歳で父を失った山田耕筰は田村直臣牧師が東京・巣鴨に経営する自営館という夜学校併設の印刷工場で働きはじめました。ひどい労働環境だったようです。空腹に耐えかねて からたちのすっぱい実をかじり、職工に蹴られて逃げ出しからたちの垣根の中でくやし涙を流したのです。
少年山田耕筰の心にしみこんだ、からたちの苦い思い出が「からたちの花」のメロディーとなって開花したのでしょう。
「からたちの、白い花、青い棘、そしてあのまろい金の実、それは 自営館生活における私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが 白秋によって詩化され、あの歌となったのだ」(「自伝 若き日の狂詩曲」)。
詩人と作曲家それぞれがからたちの花に思い入れを持ち、ひとつの作品と なって結実したなんて、なんかスゴイですね。
上笙一郎はこの詩の叙情性を生んでいる終助詞の「よ」に注目しました。
「『からたちの花』は、『よ』という終助詞を、詩語にまで高めた最初の作品といってよい」(「童謡のふるさと』)。
「みんなみんなやさしかったよ」は誤ってからたちの垣根につっこんでしまいワーッと泣いたのを友達が痛かったね大丈夫?と気遣ってる感じでしょうか。とてもやさしい詩です。
福岡県西鉄柳川駅改修工事の一環として昭和55年、旧駅舎内に「からたちの花詩碑」が建てられました。
白壁を背景に「からたちの花」全文が刻まれ、前には池が、周囲には白秋の愛したからたちや柳、楠などが植えられています。
東京西多摩霊園の山田耕筰銅像横の常夜灯には「からたちの花」の詩と楽譜が刻まれています。巣鴨教会内にも碑があります。
からたちは「枸橘」「枳殻」「枳」などと書きミカン科の落葉低木。そのとげは実際触ってみるとわかりますが、ツンツンして太く、バラのとげなんかよりよっぽど痛いです。 泥棒よけとして生垣に使われます。
城ヶ島の雨
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
   雨は真珠か 夜明けの霧か
   それともわたしの 忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟
   ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる
   唄は船頭さんの 心意気
雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

大正2年、芸術座音楽会のため舟唄として作詞、梁田貞(やなだただし)の作曲で同年10月30日発表。白秋の作詞にはじめて作曲された作品です。
「利休鼠」は緑がかった灰色。実際に千利休がこの色を好んだ ということでなく、利休が説いたワビサビの精神を想像させるとか、 緑がお茶を連想させるとか、色々説があるようです。
「通り矢」は本土側の城ヶ島と向かい合った場所の地名です。 頼朝がここで通し矢をしたことが由来ともいいます。 「はな」は、「鼻の先」、すぐそばを…の意。
この「通り矢」、現在ではバスの終点になっています。 近くの案内板には「通り矢」の名前の由来と白秋の和歌をしるしてあります。
「通り矢と城ヶ島辺に降る雨の間の入海舟わかれゆく」
「しみじみと海に雨ふり零の雨利休ねずみとなりにけるかな」
この作品を創った頃の白秋は、大変な苦難の中にいました。
明治45年、白秋は隣の家で虐待されていた人妻松下俊子への同情から恋愛関係になり、夫から姦通罪で訴えられ、市谷の未決監に身柄を拘束されます。
上田敏により『思ひ出』を絶賛され一躍文壇の寵児となった白秋でしたが、この事件により世間の厳しい非難を浴び名声はガタ落ちとなりました。
弟の鉄雄がいろいろと手をまわしてようやく釈放になりますが、白秋はトコトン落ち込み、フラッと木更津に行って自殺を考えたりしました。
また、実家の破産ということがありました。海産物問屋として栄えていた実家が火事がもとで倒産し、家族が白秋を頼って上京してきていましたのです。これも大変なことでした。
まあ、結局松下俊子は元の夫と別れて白秋と結婚するのですが、それで三浦三崎で二人の新生活が始まり、その家のすぐそばに城ヶ島があり、毎日見ていたということです。
そういう背景を踏まえて「城ヶ島の雨」を味わってみると、白秋自身の心の遍歴、みたいなものが感じらるのです。
失意からの復活というか、魂の再生というか、どんより暗い雰囲気で始まって、じょじょに光がさしてきて、船頭さんの歌で癒されて、ようやく希望が見えるという…(朗読もそのへんを気をつけました)
もう一度詩人としてやり直したい、という白秋の強い願いが込められてる気がします。
城ヶ島は三浦半島の南端。本土から城ヶ島大橋(有料)がかかっています。
城ヶ島遊ヶ崎には北原白秋の石碑が立っています。高さ3メートルの大きな碑です。昭和16年には企画されており白秋文学碑の第一号となるはずでしたが、戦時中城ヶ島が要塞地帯に指定されていたため文学碑どころではありませんでした。
碑文は白秋自筆による書き出し部分です。
安寿と厨子王
人買舟にさらわれた
安寿厨子王、姉弟。
山椒太夫はおそろしい。
姉と弟は買われます。
   父さまこいし、筑紫潟、
   母さまこいし、佐渡ケ島。
   山椒太夫がいふことに、
   汐汲み、柴刈り、日に三荷。
安寿は浜へ、汐汲みに、
柄杓手にもち、肩に桶。
厨子王山へ柴刈りに、
手には刈鎌、背に籠。
   姉の汐汲みはかどらぬ。
   柄杓は波にさらわれる。
   弟柴刈りかわいそう、
   柴は刈れずに指を切る。
父さまいし、筑紫潟、
母さまこいし、佐渡ケ島。
夜は夜とて浪の音、
山椒太夫の眼が光る。

森鴎外「山椒大夫」で有名な「安寿と厨子王」です。あらすじ↓
安寿、厨子王の姉弟と母は流罪になった父、岩城判官正氏を訪ねて越後直江津へ行くが、人買いに捕まってしまう。
母は佐渡へ流される。安寿と厨子王は丹後由良湊の長者、山椒大夫に売り飛ばされ、そこでヒドイ労働を強いられる。安寿は厨子王を逃がした後、入水する。
厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により守られて京へ逃げ延び、帝から父の赦し状を下される。出世して国守となり山椒大夫に復讐し、盲目となった母と佐渡で再会する…
陰惨な話です。もともとの説教節は二人に加えられるイジメの描写をかなりねちこく語ったようです。子供の頃みたアニメの「小公女セーラ」を思い出しました。胃が痛くなる作品でした。もとは高貴だったものが落ちぶれてヒドイ目にあう構造は「安寿厨子王」とも通じます。
北原白秋のこの詩は、物語性をバッサリ捨てて、安寿、厨子王の可哀想っぷりに焦点をあてています。
夜の海岸でザザーと浪の音を聞きながら、山椒太夫に怯えつつ、遠い浜辺で母さま父さまもこの波の音を聞いているのかしらと涙目な二人。その、可哀想な、侘しい感じで朗読しました。
さすらひの唄
行こか、戻ろか、北極光(オーロラ)の下を
露西亜(ロシア)は北国 はてしらず
西は夕燒 東は夜明け
鐘が鳴ります 中空(なかぞら)に
   泣くにや明るし、急げば暗し
   遠い燈も チラチラと。
   とまれ幌馬車、やすめよ黒馬(あお)よ
   明日の旅路が、ないぢやなし
燃ゆる思を、荒野(あれの)にさらし
馬は氷の上を踏む
人はつめたし、わが身はいとし
街の酒場は、まだ遠し
   わたしや水草、風ふくまゝに
   ながれながれて、はてしらず
   昼は旅して、夜は夜で踊り
   末はいづくで果てるやら

トルストイの「贖罪」を戯曲化した「生ける屍」の中で、ジプシーのマーシャが歌う劇中歌として作詞されました。住まいが定まらず、常に旅を続けているジプシーの哀愁を歌っています。
この「生ける屍」という戯曲は、妻とどうしても離婚しないといけないと思い込んでいるノイローゼっぽい男がジプシーの部落に飛び込んで、そこで純真な少女マーシャと知り合いになる…
この歌に関係した部分はそんな感じです。
松井須磨子がマーシャを演じ、歌も歌いました。
中山晋平作曲。大正六年。
他に、「生ける屍」の劇中歌として、「憎いあん畜生」「こんど生まれたら」があります。
実に旅の愁いがにじんでいる詩です。
実に旅の愁いがにじんでいる詩です。島崎藤村「千曲川旅情の歌」や、松尾芭蕉『奥の細道』の冒頭部分、「舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす」にも通じるものを感じます。
笹薮、小藪、小藪のなかで、
ちゅうちゅうぱたぱた、雀の機織。
彼方(あちら)でとんとん、
此方(こちら)でとんとん、
やれやれ、いそがし、日がかげる。
ちゅうちゅうぱたぱた、ちゅうぱたり。
   雀、雀、雀の子らは、
   ちゅうちゅうぱたぱた、その梭(おさ)ひろい。
   上へ行ったり、
   下へ行ったり、
   やれやれ、いそがし、日がつまる。
   ちゅうちゅうぱたぱた、ちゅうぱたり。
青縞、茶縞、茶縞のおべべ、
ちゅうちゅうぱたぱた、何反織れたか。
朝から一反、
昼から一反、
やれやれいそがし、日が暮れる。
ちゅうちゅうぱたぱた、ちゅうぱたり。

昔話の「舌切り雀」に基づく童謡です。童謡集「とんぼの眼玉」収録。弘田龍太郎、成田為三の曲があります。
「舌切り雀」の物語は一切語らず、おじいさんが持ち帰った「小さいつづら」の中に入れるお土産用の反物を織ってる雀たちの姿をほのぼのと描きます。
「物臭太郎」「安寿と厨子王」などと同じく、昔話全体を描くのでなく、一部を取り出して膨らませる手法です。
もうちょっと雀の可愛さが出ればよかったと思います。
たんぽぽ
沼の田べりのたんぽぽは、
たんぽぽは、
咲けば、ざぶりと、
波が來る。
   たんぽぽ、たんぽぽ、
   波が来る。
沼の田べりのたんぽぽよ、
たんぽぽよ、
咲けば、子供が、舟で來る。
   たんぽぽ、たんぽぽ。
   舟で来る。

子供が舟で「あ、たんぽぽだ」とこぎよせて、その浪がたんぽぽにざぶっとかかる、それだけの話ですが、ほのぼのと古き良き日本の情景が浮かびます。
「思ひ出」の中にも同じく「たんぽぽ」という詩がありますが、こちらは白秋が19歳の頃、自殺した友人中島鎮夫(中島白雨)のことを歌った、悲痛な詩です。  
 
 
邪宗門

 

邪宗門扉銘
ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、ここ過ぎて神経のにがき魔酔に。
邪宗門秘曲
われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、
南蛮の浅留縞を、はた、阿刺吉、珍タの酒を
   見目青きドミニカびとは陀羅尼誦し夢にも語る、
   禁制の宗門神を、あるいはまた、血に染む聖磔、
   芥子粒を林檎のごとく見すといふの欺罔の器、
   派羅葦僧の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。
屋はまた石もて造り、大理石の白き血潮は、
ぎやまんの壺に盛られて夜となれば火点るといふ。
かの美しき越歴機の夢は天鵝絨の薫にまじり、
珍らなる月の世界の鳥獣映像すと聞けり。
   あるは聞く、化粧の料は毒草の花よりしぼり、
   腐れたる石の油に画くてふ麻利耶の像よ、
   はた、羅甸、波爾杜瓦爾らの横つづり青なる仮名は、
   美しき、さいへ悲しき歓喜の音にかも満つる
いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、
百年を刹那に縮め、血の磔脊に死すとも
惜しくからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、
善主麿、今日を折に身も霊も薫りこがるる。

明治40年、北原白秋は与謝野寛、吉井勇、木下杢太郎、平野万里と五人で、長崎・平戸など九州各地を旅行します(「五足の靴」の旅)。
その時見た南蛮文化の強烈な印象が、二年後の明治42年、処女詩集『邪宗門』の自費出版という形で開花するのです。
「邪宗門秘曲」は白秋の処女詩集『邪宗門』の主題となる作品で、官能的・耽美的な世界を描き出しています。
自分たちが新しい時代の詩を書くのだ、ウォー!という意気込みを、キリスト教徒に託して歌っている感じでしょうか。
信仰のためならはりつけになっても構わないキリスト教徒、それくらいの意気込みで、我々も詩作に打ち込むのだと。
言葉が難解でハッキリ言ってあまり意味がわからないのですが、この韻律の美しさ、カッコよさはゾクゾクするものがあります。
白秋は出版されたばかりの「邪宗門」を石川啄木に届けます。啄木は数日後、感想を送ってきました。
「邪宗門には全く新しい二つの特徴がある。その一つは『邪宗門』という言葉の有する連想といったようなもので、もう一つはこの詩集に溢れている新しい感覚と情緒だ。そして前者は詩人白秋を解するにもっとも必要な特色で、後者は今後の新しい詩の基礎となるべきものだ」
やや高音で超然とした感じで朗読しました。メチャクチャ気持ちよかったです。「色あかきびいどろ」を「びろおど」と言い違えてました。そのうち修正します…。
WHISKY
夕暮のものあかき空、
その空に百舌鳥啼きしきる。
Whiskyの罎の列
冷ややかに拭く少女、
見よ、あかき夕暮の空、
その空に百舌鳥啼きしきる。

北原白秋の詩の中でもかなり雰囲気がよく、大好きです。なにより 酒にあいます。触覚・視覚・聴覚を フルに使い、秋の夕暮れの情緒を出しています。そこはかとないエロさも感じます。
これを録音した時はワクワクして自分の声をヘッドホンで聴きながら ウイスキーを飲みました。
夕暮れの空に百舌が鳴きしきる、その冷え冷えとした情緒の中、 ズラッと並んだウイスキーのビンを拭いている少女の姿を 空想しているのです。まさにメイドさんのヒラヒラひるがえるメイド服の後ろ姿も浮かんでくるのです。
「冷ややかに」は、夕暮れの冷ややかさとウイスキーのビンの冷たさを 懸けているようです。
天鵝絨のにほひ
やはらかに腐れつつゆく暗(やみ)の室(むろ)。
その片隅の薄あかり、背(そびら)にうけて
天鵝絨の赤きふるらみうちかづき、
にほふともなく在るとなく、蹲(うづく)み居れば。
   暮れてゆく夏の思と、日向葵(ひぐるま)の
   凋(しお)れの甘き香もぞする。……ああ見まもれど
   おもむろに悩みまじろふ色の陰影(かげ)
   それともわかね……熱病の闇のおののき……
Hachisch(ハシツシユ)か、酢か、アブサンか、くるほしく
溺れしあとの日の疲労(つかれ)……もつれちらぼふ
Wagnerの恋慕の楽の音のゆらぎ
耳かたぶけてうち透かし、在りは在れども。
   それらみな素足のもとのくらがりに
   爛壊(らんえ)の光放つとき、そのかなしみの
   腐れたる曲の緑を如何にせむ。
   君を思ふとのたまひしゆめの言葉も。
わかき日の赤きなやみに織りいでし
にほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに嗅ぐとなけれど、
ものやはに暮れもなぬれば、わがこころ
天鵝絨深くひきかつぎ、今日も涙す。

暗い部屋(物置部屋?)の片隅にあった赤いビロードの布から広がったイメージです。
ビロード布を頭からすっぽりかぶって、いろいろなイメージが駆け巡るのです。
布をかぶるくらいだから、おそらく少年時代のことでしょう。
ビロード(veludo)はポルトガル語。ベルベット(velvet)という言い方のほうが知られているでしょうか。 光沢があり、上品な手触りでカーテンなどに用いられます。
北原白秋にとって幼年時代を想起する重要なイメージのようです。 何度も詩に登場します。「邪宗門秘曲」「函」「思ひ出・序詩」。
空に真っ赤な
そらに真赤な雲のいろ。
玻璃に真赤な酒のいろ。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真っ赤な雲の色。

白秋が仲間と結成した「パンの会」で、会合のたびに歌われたものです。陽気なお祭り騒ぎの感じが、伝わってきます。
北原白秋は1908年(明治41)杢太郎、勇、秀雄、画家の石井柏亭、森田恒友らと「パンの会」を起します。23歳の時です。
「パン」はギリシア神話の牧神。ネーミングからして自分たちが次世代の芸術の担い手になるぜ的若い意気込みが溢れています。
パンの会のメンバーは隅田川岸の西洋料理店に集まっては酒を呑み文学談義に花を咲かせました。 狂乱と喧騒の時代です。
後に高村光太郎、小山内薫、谷崎潤一郎も加わりお祭り騒ぎはいよいよ賑やかさを 増します。
「空に真っ赤な」はそのパンの会の会合で毎回歌われていたものです。 いかにも酒好きそうな、ワッとした感じです。
北原白秋は酒造屋の息子らしく大変な酒好きでした。「断章」「酒の黴」など 酒飲みならではの詩をのこしています。
「必殺仕事人V 激闘編」オープニングで芥川隆行大先生がこの「空に真っ赤な」をもじった文言を語っておられました。
謀反
ひと日、わが精舎の庭に、
晩秋の静かなる落日のなかに、
あはれ、また、薄黄なる噴水の吐息のなかに、 
いとほのにヴィオロンの、その弦の、 
その夢の、哀愁の、いとほのにうれひ泣く。 
   蝋の火と懺悔のくゆり
   ほのぼのと、廊いづる白き衣は
   夕暮に言もなき修道女の長き一列。
   さあれ、いま、ヴィオロンの、くるしみの、
   刺すがごと火の酒の、その弦のいたみ泣く。
またあれば落日の色に、
夢燃ゆる噴水の吐息のなかに、
さらになほ歌もなき白鳥の愁のもとに、
いと強き硝薬の、黒き火の、
地の底の導火燬き、ヴィオロンぞ狂ひ泣く。
   跳リ来る車両の響、
   毒の弾丸、地の烟、閃く刃、
   あはれ、驚破、火とならむ、噴水も、精舎も、空も。
   紅の、戦慄の、その極の
   瞬間の、叫喚燬き、ヴィオロンぞ、盲ひたる。

北原白秋の詩の中でも難解な部類だと思います。そして病的です。 「この道」「落葉松」のようなサワヤカな 詩と同じ作者とは思えません。
夕暮れの修道院の庭の風景からイメージを広げていきます。
主要なモチーフである「盲ひたるヴィオロン」は、行方も定まらず フラフラと乱れるヴァイオリンの旋律のことです。これは 「心の中に起こる情念」を暗示しているようです。
第一連は状況設定です。「精舎」は寺院。ここでは修道院のことですが、 「わが」と言っているので自分の心理状態の暗示でしょう。 その修道院の庭(心)に噴水があり夕暮れの光がキラキラ反射している、その情緒はまるで哀愁を帯びた ヴァイオリンの旋律のようだ、と。
実際にヴァイオリンの音が聞こえるとかヴァイオリン弾きの オッサンが座っているということでなく、連想です。イメージを膨らませているのです。
第二連で修道院の回廊を修道女たちがしずしずと歩いています。静かな穏やかな、 平安に充ちた感じです。「さあれ(しかし)」そんな平安の中にも 「火の酒のような」激しい情念が燃え上がっているのです。
第三連。ちょっと時間経過があります。「またあれば(そうしていると)」夕暮れの穏やかさの中にも 激しい情念がふつふつと沸きあがってきます。
「夢燃ゆる噴水の吐息」は噴水の水が夕陽で真っ赤に染まった情緒です。 第一連の「薄黄なる噴水の吐息」と色彩が変わっています。時間が経過しています。
「歌もなき白鳥の愁」歌うこともできない白鳥の鬱屈した憂いのことです。 この二つは夕暮れの哀愁をあらわすのでしょう。
第四連でいよいよ心の中の情念が爆発します。「謀反」の勃発です。 そして謀反が終わったあとは焼け野原になり、 盲人の歩みのように頼りないフラフラとしたヴァイオリンの旋律が響くのです。 悔恨の情を暗示しているのでしょうか?
ほのかにひとつ
罌粟ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
   やはらかな麦生のなかに、
    軟風のゆらゆるそのに。
薄き日の暮るとしもなく、
月しろの顫ふゆめぢを、
   縺(もつ)れ入るピアノの吐息
   ゆふぐれになぞも泣かるる。
さあれ、またほのかに生れゆく
色あかきなやみのほめき。
   やはらかき麦生の靄(もや)に、
   軟風のゆらゆる胸に、
罌粟ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……

若き日の孤独な胸の内に次第に沸いてくる甘い想いです。それを麦畑に咲くヒナゲシに託して 歌っています。
罌粟ひらく / 罌粟はヒナゲシの花。心に沸き起こる甘い想いのたとえであることが 後にあきらかにされます。
やはらかな麦生のなかに / 「麦生」は麦畑のことです。それが「やわらかい」ということは、まだ 麦がしげっていない、穂が出たばかりの「若い」状態なのでしょう。 青春です。後に「園」=「心」のたとえであることが示されます。
軟風のゆらゆる / 柔らかな風がゆらゆら吹いている
薄き日の暮るとしもなく / 夕暮れの薄い光が暮れるでもなく暮れないでもなく、
縺(もつ)れ入るピアノの吐息 / 心の状態をあらわしています。旋律の乱れたピアノの音のように、 そんなふうに心が揺さぶられた。
ゆふぐれになぞも泣かるる / 夕暮れにどうして泣けてくるんだろう
さあれ、 / 「そうはいっても」
またほのかに生れゆく 色あかきなやみのほめき / ここで初めてヒナゲシの花が「悩みのほめき」のたとえであることが 示されます。「ほめき」は「火照り」の意。
軟風のゆらゆる胸に / 第二連では「軟風のゆらゆる園に」だったのが「胸に」に言い換えられています。 ここに至り麦畑が胸(心)のたとえだったことが明らかにされます。「靄(もや)に」を言い間違えてしまいました。後日やり直します。
噴水の印象
噴水(ふきあげ)のゆるきしたたり。−−
霧しぶく苑の奥、夕日の光、
水盤の黄なるさざめき、
なべて、いま
ものあまき嗟嘆(なげかひ)の色。
   噴水の病めるしたたり。−−
   いづこにか病児啼き、ゆめはしたたる。
   そこここに接吻(くちつけ)の音。
   空は、はた、
   暮れかかる夏のわななき。
噴水の甘きしたたり。−−
そがもとに痍(きず)つける女神(ぢょじん)の瞳。
はた、赤き眩暈(くるめき)の中(うち)、
冷み入る
銀の節、雲のとどろき。
   噴水の暮るるしたたり。−−
   くわとぞ蒸す日のおびえ、晩夏のさけび、
   濡れ黄ばむ憂鬱症(ヒステリイ)のゆめ
   青む、あな
   しとしとと夢はしたたる。

「噴水」は北原白秋の詩の詩に何度も登場するイメージです(「謀反」など)。 夕暮れ時、キラキラと輝きながら水をしたたらせる官能的な噴水の姿が 詩人の心を捉えたのでしょうか。
この「噴水の印象」は実景とイメージがたくみに交じり合い、幻想的な 雰囲気を作り出しています。
第一連は状況設定です。公園の奥にある噴水、そのゆるやかな水のしたたり、 水盤(水がたまっている部分)のさざなみに夕日が反射する 甘ったるい嘆きに満ちた雰囲気。
第二連では、その噴水の実景にイメージが混じってきます。 弱々しくしたたる噴水に病的なものを感じているのです(「病めるしたたり」)。
そこから病気の子がどこかで泣いている姿、声を連想します。
噴水の水しぶきは夢のように幻想的で、その水音を「接吻の音」と 聞きます。
晩夏の空に何か落ち着かない動揺を感じています(「暮れかかる夏のわななき」)。
第三連ではやや時間が経過しているようです。「赤き眩暈」と言っているように、 夕日が真っ赤になってきたのです。これは高揚感、性的な渇望を表しているようです。
噴水の水盤のところに女神像が彫刻されているか、あるいは 水のきらめきの中に女神の幻想を見たようです。「傷つける女神」「赤き眩暈」は破瓜の血を連想させます。
「銀の節」は噴水の水音を美しい音楽のように聞いたのでしょう。しかし そんな中にも雲はとどろいて、嵐の予感?がするのです。
この「雲のとどろき」も第二連の「夏のわななき」と同様、性的な渇望をあらわしているのでしょう。
第四連ではついにその溜まりに溜まった渇望が爆発します。「晩夏のさけび」… さけびとはまた激しい言葉です。
「濡れ黄ばむ憂鬱症のゆめ」…ああ、なんかもう逝くとこまで逝ってグッタリした感じ。 そして日が落ちて景色が真っ青になり「青む、」 噴水の水は夢のようにしたたり続けるのです。
入日の壁
黄に潤(しめ)る港の入日、
切支丹邪宗の寺の入り口の
暗めるほとり、色古りし煉瓦(れんが)の壁に射かへせば、
静かに起こる日の祈祷(いのり)、
『ハレルヤ』と、奥にはにほふ讃頌(さんしょう)の幽けき夢路。
   あかあかと精舎の入日。−−
   ややあれば大風琴(オルガン)の音の吐息。
   たゆらに嘆き、白蝋の盲ひゆく涙。
   壁のなかには埋もれて
   眩暈(めくるめ)き、素肌に立てるわかうどが赤き幻。
ただ赤き精舎の壁に、
妄念は熔くるばかりおびえつつ
全身落つる日を浴びて真夏の海をうち睨む。
『聖マリア、イエスの御母。』
一斉に礼拝(おろがみ)終る老若の消え入るさけび。
   はた、白む入日の色に
   しづしづと白衣(はくえ)の人らうちつれて
   湿潤(しめり)も暗き戸口より浮かびいでつつ、
   眩しげに数珠ふりかざし急げども、
   など知らむ、素肌に汗し熔けゆく苦悩の思。
暮れのこる邪宗の御寺
いつしかに薄らに青くひらめけば
ほのかに薫る沈の香、波羅葦増(ハライソ)のゆめ。
さしもまた埋れて顫ふ妄念の
血に染みし踵のあたり、蟋蟀(きりぎりす)啼きもすずろぐ。

長崎か平戸のカトリック教会のようです。教会の異国情緒に強く惹かれながら、信仰そのものには 反感を抱いている感じです。「妄念」という言葉など。
硝子切るひと
君は切る、
色あかき硝子の板を。
   落日(いりひ)さす暮春の窓に、
   いそがしく撰びいでつつ。
君は切る、
金剛の石のわかさに。
   アブサンのごときひとすぢ
   つと引きつ、切りつ、忘れつ。
君は切る、
色あかき硝子の板を。
   君は切る、君は切る。

ガラス工場の光景でしょうか。黙々とガラスを切ってるガンコな職人の横顔が浮かんできました。
アブサンはニガヨモギなどから作った強烈に強い酒。とても気持ちよくなれます。実際に呑んだことのある方なら、砥石でガラスを切ってる、そのキィーンという鋭い切り込みをアブサンと例えてるのは、よくわかると思います。

かかる窓ありとも知らず、昨日まで過ぎし河岸。
今日は見よ。
色赤き花に日の照り、かなしくも依依児(ええてる)匂ふ。
あはれまた病めるPianoも…

いつも散歩している河岸でふと見上げた病院の窓。そこから生まれた想像です。
病弱な少女が奏でる弱々しいピアノの音…。やっぱり白秋先生はエロくて好きです。
どこまでが実景でどこからが妄想かわかりませんが、こうして ストーリーを作りながら歩くと散歩は楽しいものです。 
 
 
歳時記

 

曼珠沙華 
地続きに赤子が泣いて曼珠沙華
手ぶらにて歩いてゐたり曼珠沙華
曼珠沙華今朝咲きぬ今日何をせむ
曼珠沙華にあやされ幼な仏かな
曼珠沙華折るに抵抗なきあはれ
いのち燃やし過ぎたる果の曼珠沙華
飛鳥仏に雷禍の記憶曼珠沙華
曼珠沙華空青ければ戦かな
曼珠沙華印をとり消す術もなし
歩くこと死ぬまで大事曼珠沙華
むささび翔ぶ秋は曼珠沙華の森
見はじめの一本がよし曼珠沙華
柱郎につかまれてゐて曼珠沙華
曼珠沙華庭の二本の尽くるまで
黄泉の国きつと夕映え曼珠沙華
流刑の地に存念の赤曼珠沙華
最後尾下車の旅めく曼珠沙華
なんとなく小声で話す曼珠沙華
曼珠沙華骨の髄から透けてくる
曼珠沙華男根担ぎ来て祀る
曼珠沙華すでに野になき雨のいろ
汐と日の滲むに任せ曼珠沙華
曼珠沙華揺らぎて一夫一婦制
目合(まぐわい)に着る染衣(しめごろも)曼珠沙華
華やかな疲れの中の曼珠沙華
雨あしの燃えて過ぎゆく曼珠沙華
えちぜんのこめかみの寺曼珠沙華
青空に声かけて咲く曼珠沙華
水に水ぶつかり勢ふ曼珠沙華
曼珠沙華片言でびら配りをり
荒廃といふ村だけの曼珠沙華
齢なみに動けることや曼珠沙華
墓地までの道しるべなり曼珠沙華
曼珠沙華添ひたる馬頭観世音
曼珠沙華筆なす先に緋色あり
地蔵には真白前垂曼珠沙華
群衆で見るには惜しき曼珠沙華
立杭の窯あと曼珠沙華世界
曼珠沙華群生のよし孤立よし
叢生の掟に挙り曼珠沙華
太陽に赤光放ち曼珠沙華
山影の赤の落ちつき曼珠沙華
乱舞して峠の風の曼珠沙華
曼珠沙華ばかり見て他何も見ず
大琵琶に突き出し岬の曼珠沙華
自己主張秘めて蕾の曼珠沙華
唐突に恋の告白曼珠沙華
抱ふほど巴の塚の曼珠沙華
碑の裏に木洩れ日止まる曼珠沙華
曼珠沙華終りなきみちひたすらに
巌流も武蔵もよしや曼珠沙華
曼珠沙華現地講座は一列に
青空の切り込み深き曼珠沙華
掌の中にしをれてしまふ曼珠沙華
煩悩にへだたりて白曼珠沙華
梅林の奥にきそへる曼珠沙華
杢太郎詩碑へ飛火す曼珠沙華
飛天女の足裏白花曼珠沙華
夜は黒きドレスが似合ふ曼珠沙華
黒々とうしろ立山曼珠沙華
空港へ一本道や曼珠沙華
かたまつて野仏曼珠沙華集め
石仏を沈めつくせり曼珠沙華
島畑の石積む畦や曼珠沙華
曼珠沙華の火攻の中の仏隆寺
曼珠沙華四十七士に直立す
曼珠沙華空に欠伸のあるような
カルメンが睫毛を伏せた曼珠沙華
茶柱の傾むくはやさ曼珠沙華
曼珠沙華屋敷境を競り合へり
不揃ひに出し曼珠沙華丈揃ふ
七曲りガードレールの曼珠沙華
曼珠沙華群れゐて蕊の触れ合はず
ぽきぽきとくやしさを折る曼珠沙華
首洗池に映れる曼珠沙華
曼珠沙華あたり硝煙くさきかな
まだ恋の隠れてさうな曼珠沙華
曼珠沙華西も東も平らなり
川幅の狭めて迅し曼珠沙華
曼珠沙華あんたはやはりきつね貌
いささかに絡み癖あり曼珠沙華
曼珠沙華あまた見てきて異邦人
百万の丈を揃へて曼珠沙華
足元は見せじと群れて曼珠沙華
墳墓の地燃えてゐるなり曼珠沙華
人間の道はここまで曼珠沙華
空っぽの二両連結曼珠沙華
天地に茎残りけり曼珠沙華
北叟笑む根や深深と曼珠沙華
墓地への道やゝ曼珠沙華殖えて来て
落柿舎へ畦渡れぬよ曼珠沙華
音持たぬ雨の明るさ曼珠沙華
夕日恋ひ夕日に痛む曼珠沙華
伊勢路たどれば相生の曼珠沙華
くれなゐの冠かむりいただき曼珠沙華
渾天を支へて曼珠沙華の紅こう
あら草の陰に燃ゆなる曼珠沙華
 

 

思ひ出が思ひ出さそふ曼珠沙華
曼珠沙華目盛の剥げし水位計
蓄へし赤どっと吐き曼珠沙華
診断は呆けにあらず曼珠沙華
曼珠沙華何も起らぬ庭の隅
いつだって行けば会える気曼珠沙華
寺焼けて里に炎え立つ曼珠沙華
山祇の雨の鎮むる曼珠沙華
曼珠沙華棚田の風に煽られつ
曼珠沙華触れみしよりの微熱かな
大利根を一舟のぼる曼珠沙華
忌に集ふはらから白き曼珠沙華
遣唐使出でゆきし海曼珠沙華
武者の墓余呉湖に残り曼珠沙華
一族の果てし矢倉の曼珠沙華
いつも咲く所に咲きて曼珠沙華
すがれゆく闇あり白の曼珠沙華
磴毎に厄除け銭や曼珠沙華
見下せばあらためて燃え曼珠沙華
爪立つるまでもなく折れ曼珠沙華
堀割は船路の名残り曼珠沙華
女の神へベったりと赤曼珠沙華
足許の途方に暮れし曼珠沙華
曼珠沙華憶ひ半ばに呼ばれけり
わがための色かも知れず曼珠沙華
曼珠沙華凶事必ず出し抜けに
曼珠沙華火の見櫓の下にかな
触れ合ひて蘂はじき合ふ曼珠沙華
褒められてまた貶されて曼珠沙華
色褪せし曼珠沙華にもある命
満ち足りし潮騒の白曼珠沙華
曼珠沙華君俗ならず聖ならず
曼珠沙華見てより空の遠くなる
曼珠沙華無念無想になりきれず
曼珠沙華空へつづくを径といふ
車椅子とめしほとりの曼珠沙華
曼珠沙華活けて外つ国人迎ふ
千枚田の火の海となる曼珠沙華
曼珠沙華蕊を反らして反骨めく
曼珠沙華腰の重たき祖母となり
曼珠沙華日暮れて石の阿弥陀仏
何時からが晩年なるや曼珠沙華
蛙とんで水濁らざり曼珠沙華
職人の弁当寡黙曼珠沙華
山麓声なくて初曼珠沙華
曼珠沙華天より射込まれしごとく
踏み込んで血がせめぎあふ曼珠沙華
曼珠沙華天のかぎりを青充たす
一抹の澄気が通る曼珠沙華
どこまでも遠き赤置く曼珠沙華
つなぐ赤ふり返る赤曼珠沙華
父恋ひの瞼ふたぎぬ曼珠沙華
曼珠沙華旅路彩りはじめけり
曼珠沙華よりそひ立ちて触るるなし
水勢の打ち消し合ひて曼珠沙華
曼珠沙華闇彫琢のかたちかな
曼珠沙華別れあるから人を恋ふ
曼珠沙華音の一切地よりする
曼珠沙華二・三本の燃え尽きし
夢に会ふ人とは会へず曼珠沙華
墓地への道やや曼珠沙華殖えて来て
遠山は晴たまはりて曼珠沙華
田の畦の踏むところなし曼珠沙華
目にしみる花なり朝の曼珠沙華
曼珠沙華なぎ倒されて埒もなき
触るること許さず立てり曼珠沙華
曼珠沙華老尼の会釈受けて過ぐ
吟行は行きは怖いよ曼珠沙華
若やげる二人の行方曼珠沙華
寄り合ひて血筋の絡む曼珠沙華
曼珠沙華目の燃えさうで目をつむる
農小屋に火付けせむかの曼珠沙華
六叉路のタクシー溜り曼珠沙華
戦争になるかそちこち曼珠沙華
草茂る家ごとに咲く曼珠沙華
曼珠沙華瞳おおきなフィリピーナ
曼珠沙華叶姉妹はシトモラス
札所から札所へ綴り曼珠沙華
瞑目の亀石曼珠沙華の座に
咲き残る赤のさみしや曼珠沙華
解脱して白となりしか曼珠沙華
知り尽す朱なれどこの曼珠沙華
天仰ぐとき心眼に曼珠沙華
段畑の果ては断崖曼珠沙華
葷酒山門に入るを許さず曼珠沙華
曼珠沙華まつすぐに来て死ににけり
約束のやうにたちまち曼珠沙華
曼珠沙華遊びはじめの蕊なりし
鉛筆の芯の弾けし曼珠沙華
幼ナ日の同じところの曼珠沙華
曼珠沙華明智門への発火点
曼珠沙華そこに咲くよと尾花風
曼珠沙華の炎へ蝶が死にに来る
曼珠沙華に疲れま青な海に来る
曼珠沙華熊野古道を染めにけり
遠き日のときめき呼ぶや曼珠沙華
曼珠沙華炎をさめし夜の雨
潔きまでに刈られし曼珠沙華
あそこにも此処にも咲けり曼珠沙華
曼珠沙華四國高野の参道に
 

 

曼珠沙華炎の点々と過ぎし日よ
曼珠沙華残り咲きをり杖頼り
洗ひ晒しの空へ差し出す曼珠沙華
サロメ舞ふ激しさにあり曼珠沙華
雨空や径を覆へり曼珠沙華
菩提寺へ抜ける畦みち曼珠沙華
野地蔵や曼珠沙華咲くひとところ
夕映えつ土手行く人ら曼珠沙華
曼珠沙華褪する此岸の理に
曼珠沙華感性の蕊ぴんと張り
曼珠沙華只一本といふ不思議
曼珠沙華つくづく高所恐怖症
曼珠沙華悲恋の巫女の化身かな
いちはやく曼珠沙華の花の列
このあたり風出できたり曼珠沙華
曼珠沙華稲に南方渡来説
燃え尽きて紙縒のごとし曼珠沙華
曼珠沙華十三塔を数へけり
足もとのみんなあやふき曼珠沙華
女の神の山の裾濃の曼珠沙華
情念のごとく噴き上げ曼珠沙華
曼珠沙華消えし野の畦広きとも
此の坂をゆけば祇王寺曼珠沙華
飛鳥野の土着の赤か曼珠沙華
お使ひの子の風となる曼珠沙華
火の川となる曼珠沙華映りゐて
今死なば炎の中ならむ曼珠沙華
曼珠沙華群れて木曽路はまだ暮れず
噂聞く次は吾が身か曼珠沙華
曼珠沙華あるくところに出て咲くよ
曼珠沙華咫尺に拝す無縁墓
咲ききつて人拒みゐる曼珠沙華
曼珠沙華人目を忍ぶこともなし
一行の詩も得ず褪せる曼珠沙華
地の果に戦つづけり曼珠沙華
小流れにもつれる小径曼珠沙華
土手あれば畷のあれば曼珠沙華
曼珠沙華一直線のこゑをあぐ
月に兎相模に白き曼珠沙華
平面図側面図白き曼珠沙華
正室の萩側室の曼珠沙華
鬨あげて村いつぱいの曼珠沙華
片頬に同じ日のある曼珠沙華
曼珠沙華純子の声の名残とも
窯出しの壺の火だすき曼珠沙華
向うから見ればあつちや曼珠沙華
秀野忌は曼珠沙華忌とまうすべき
高麗川に沿ひ咲きのぼる曼珠沙華
曼珠沙華十四五本のふたならび
うかつにも消せぬひと言曼珠沙華
曼珠沙華明日香の花と思ひけり
曼珠沙華曽て蘇我氏の血を浴びし
鬼の石謎の立石曼珠沙華
曼珠沙華暮色はいつも水辺より
起こしてもあらかたは伏す曼珠沙華
川幅に川の流れて曼珠沙華
曼珠沙華ひしめきて音なかりけり
連なりて修那羅峠の曼珠沙華
この村の色のはじめの曼珠沙華
奥多摩は魔女棲むところ曼珠沙華
倒れたる曼珠沙華なほ蘂を張る
曼珠沙華紅きは紅きまま朽ちて
曼珠沙華峡の水音峡の音
バスでゆく鎌倉街道曼珠沙華
立札に子供の標語曼珠沙華
曼珠沙華枯れては女テロリスト
曼珠沙華百万本の地は熱し
曼珠沙華来るな来るなと人を呼ぶ
錯乱の姫のかんざし曼珠沙華
曼珠沙華木の下陰になほ赤し
巾着田沿ふ瀬の清し曼珠沙華
五平餅焼ける匂ひや曼珠沙華
野のはての大地炎えたつ曼珠沙華
曼珠沙華華やぎ咲くが寂しかり
牛を積む貨車の過ぎゆく曼珠沙華
かたまりて燃えてすさまじ曼珠沙華
諦めて忘れゐたりし曼珠沙華
血流は十万粁や曼珠沙華
大和路は寺の甍と曼珠沙華
ぽつぽつと地熱の赤さ曼珠沙華
曼珠沙華咲いて供物に酢の匂ひ
曼珠沙華見てゐる口の渇きけり
曼珠沙華マグマを秘めし地の螺髪
葬送といへど陽気に曼珠沙華
曼珠沙華一瞬台詞詰りけり
せせらぎの鯉のかたまる曼珠沙華
曼珠沙華真白に伊勢の麻績氏の地
曼珠沙華隠し持ちたる刃かな
陽を吸うて色失へり曼珠沙華
曼珠沙華燃え尽きわたし生きてゐる
曼珠沙華葉のあをあをと冬立てり
舫ひ船傾く土手の曼珠沙華
無縁墓あまた見し日の曼珠沙華
火事花と教えし母の曼珠沙華
曼珠沙華男の匂がするという
寝ちがうてをりすぐ横の曼珠沙華
曼珠沙華一揆の村に飛火せり
御仏に白き蘂吐く曼珠沙華
炎え尽くるとも直立の曼珠沙華
 

 

曼珠沙華赤すぎる空青すぎる
曼珠沙華燃ゆる真中に堂暗し
曼珠沙華消ゆるときまで蕊伸ばす
風波の光を前に曼珠沙華
山からの風に飛び火の曼珠沙華
片眼づつ異なる視力曼珠沙華
ぼたぼたと雲つどひ来る曼珠沙華
遠見こそよけれ皇居の曼珠沙華
単線の踏切鳴りて曼珠沙華
直筆の晶子の歌や曼珠沙華
尼寺の山門の布施曼珠沙華
押し寄せる波一線や曼珠沙華
神苑に巫女の緋袴曼珠沙華
路線図の英語ハングル曼珠沙華
日かげればひとかたまりに曼珠沙華
黙々と咲いて秩父の曼珠沙華
墓に寄り墓を離れて曼珠沙華
山影の遠きは翳かすみ曼珠沙華
群るるなか我に摘まれし曼珠沙華
曼珠沙華同じ高さに日当れる
島人の嫌うて刎ねし曼珠沙華
天も地も異常気象や曼珠沙華
化身めく白一色の曼珠沙華
彼の人が歩いて来さう曼珠沙華
青空や茎生々と曼珠沙華
畦道に吹かれ通しの曼珠沙華
実をなさぬゆえのくれなゐ曼珠沙華
鴨渡りきて地より湧く曼珠沙華
燃ゆる歓び滅ぶあはれや曼珠沙華
曼珠沙華軟弱ならぬ詩を継がな
忘られて白曼珠沙華雨を呼ぶ
ひと住まぬ風の岬の曼珠沙華
現世に残したきもの曼珠沙華
畦道に火の手上がりぬ曼珠沙華
一声でさけてしまひぬ曼珠沙華
曼珠沙華火勢を誰も止められず
その中に白一点の曼珠沙華
夕映の野川の澄めり曼珠沙華
子等の舞ふ獅子軽やかや曼珠沙華
曼珠沙華手折れば夕日くづほれむ
平家読み終へしも燃ゆる曼珠沙華
平群にもなほ奥あつて曼珠沙華
曼珠沙華すつかり開き気が済めり
祈りなく人生きられじ曼珠沙華
華やかに而して寂し曼珠沙華
曼珠沙華燃ゆる想ひの遠き日よ
夢殿の昏れ曼珠沙華の昏れ
ユダのごと約束の地の曼珠沙華
黄昏に取り残されし曼珠沙華
石積んで遊びし跡や曼珠沙華
曼珠沙華山盧にふえてをりしかな
参道の奥に白花曼珠沙華
結界へ人ごゑの湧く曼珠沙華
灰すこし捨てられてあり曼珠沙華
消息を知る人のなし曼珠沙華
曼珠沙華土塀の崩れ続きをり
地酒売る印半纏曼珠沙華
立山のけふはかくれて曼珠沙華
曼珠沙華ほとりの草の揺れやまず
群れ咲きの茎の翠も曼珠沙華
曼珠沙華見て来し髪を洗ひけり
昃ると丈の詰まりし曼珠沙華
曼珠沙華女帝におはす藁葬墓
茎青きままに枯れゆく曼珠沙華
殉教もころびも我が祖曼珠沙華
曼珠沙華野の篝火となりしばし
ふるさとの記憶まだらに曼珠沙華
曼珠沙華ひとつは母のために折る
夜の色一際ふかき曼珠沙華
奥津城の静けさあつめ曼珠沙華
赤米を囲み明口香の曼珠沙華
組分けの相談決まらぬ曼珠沙華
曼珠沙華この世の外へ誘ひたり
鬼の霍乱坂下の曼珠沙華
曼珠沙華咲きていつもと違ふ路地
曼珠沙華咲いて人なつかしき里
曼珠沙華庭に仏界ある如く
山間に白亜の学舎曼珠沙華
曼珠沙華色褪せながら崩れざる
曼珠沙華花魁は皆細身にて
曼珠沙華ふるさとへ道太くあり
胎内のくらさ曼珠沙華の暗さ
茎のぼる水あをあをと曼珠沙華
宝石は涙のかたち曼珠沙華
鬱癒えて燃ゆるもの欲し曼珠沙華
闘ふときめし瞳や曼珠沙華
ぬつと出て忘れゐしもの曼珠沙華
銀行の独身寮の曼珠沙華
雨雲のまだまだ詰まる曼珠沙華
雨脚の蒼くなりたる曼珠沙華
野仏に程良き供花曼珠沙華
土葬墓地曼珠沙華咲く一面に
道路鏡ごとにふえゆく曼珠沙華
曼珠沙華天まで続く畦の径
黒潮の奔流見たり曼珠沙華
火星接近曼珠沙華萎えにけり
曼珠沙華群がり咲いて無人駅
曼珠沙華どこかさびしき一途の朱
白曼珠沙華残し暮れゆく巾着田
曼珠沙華首の回りがたよりなく
 

 

地より立つ生き物墓地の曼珠沙華
二九六号線の曼珠沙華
曼珠沙華行軍中の兵のやう
彼の世では何色に咲く曼珠沙華
ぼんと咲きぼんぼんと咲き曼珠沙華
篠山の山家の猿に曼珠沙華
篠山のデカルトカント曼珠沙華
半年は寝て過ごしけり曼珠沙華
羅針盤狂ひだしたり曼珠沙華
雨あがる盛りを過ぎて曼珠沙華
たたなはる有為の山垣曼珠沙華
曼珠沙華月夜囁きあふならむ
曼珠沙華脳の血管活きてをり
曼珠沙華手足冷たくなりにけり
土手にありて一糸まとはぬ曼珠沙華
愛しさの一途なりけり曼珠沙華
むかひ風川のさざ波曼珠沙華
山頭火句碑のしろばな曼珠沙華
母のはかゆきてかへりぬ曼珠沙華
木曽殿の墓標に震ふ曼珠沙華
咲き終へて草に紛るる曼珠沙華
弥陀堂の三方囲み曼珠沙華
四手白く樟の巨木や曼珠沙華
朝日子に蘂解きゆく曼珠沙華
長寿得し吾に曼珠沙華赤々と
曼珠沙華そこから先は予約せず
重からむ土葬の子規に曼珠沙華
独り居の老婆の軒の曼珠沙華
墓守もわれも老いけり曼珠沙華
野球スト子規にも告げむ曼珠沙華
叢はづれVの字型に曼珠沙華
夕闇に蕊解く白き曼珠沙華
戻るにはもう遅すぎる曼珠沙華
鶏が猫を追ひかけ曼珠沙華
曼珠沙華うかつに生きて来たるかな
兵あまた送りし径や曼珠沙華
曼珠沙華大きく咲きて観賞花
日は西へ朱を飛ばしあふ曼珠沙華
背伸びしても見へぬ天国曼珠沙華
掌中に珠あるごとく曼珠沙華
曼珠沙華まだ現役の足の過ぐ
百千の焔を立てて曼珠沙華
曼珠沙華燃えて高麗郷高ぐもり
曼珠沙華桜田門に火群立つ
曼珠沙華この世の渦に遠くあり
解きほぐす風のリリアン曼珠沙華
鬱々と紅こがし曼珠沙華
曼珠沙華声なき声のあふるるや
竹林の幹にぶつかり曼珠沙華
曼珠沙華煙消えゆく生駒山
メトロノーム止まり曼珠沙華まつ赤
谺なき畦に佇ちをり曼珠沙華
曼珠沙華墓まで持ちて行く秘密
曼珠沙華山の畑を雲走る
曼珠沙華映る流れの暗さかな
水中で燃ゆる花影曼珠沙華
水音のみ伝はる空気曼珠沙華
城あとの夕暮はやし曼珠沙華
讃岐富士裾ゑ曼珠沙華ロードゆく
曼珠沙華吾子の書棚に「三国志」
結界の中へも飛火曼珠沙華
心中の比翼の塚や曼珠沙華
蕊上げて天日讃美曼珠沙華
曼珠沙華水禍の芥まとひ咲く
曼珠沙華暮れてまだまだ杣去なぬ
哀しみの平家の赤の曼珠沙華
落日に並びて燃ゆる曼珠沙華
曼珠沙華日高の里に雨止まず
曼珠沙華千代田区千代田半蔵門
曼珠沙華益子の里の七曲り
曼珠沙華雨をのこして晴れにけり
剣道の袋触れゆく曼珠沙華
丘あれば野川のあれば曼珠沙華
曼珠沙華歌垣山へ燃えうつる
手折らずに触れずに離れ曼珠沙華
野仏のあたり妖しげ曼珠沙華
曼珠沙華飛火の如く吾が庭にも
たかがキスされどキス曼珠沙華百本
白い曼珠沙華私高いわヨ
若くないもう若くない曼珠沙華
バランスの崩れて白い曼珠沙華
曼珠沙華赤いドレスに少しあき
曼珠沙華一輪咲きて庭広し
新しき道出来てをり曼珠沙華
あばれ川あばれついでの曼珠沙華
鳥羽行の土手を真紅に曼珠沙華
曼珠沙華死語となりたる姦通罪
医学部の被爆遺構よ曼珠沙華
曼珠沙華狭き通路に群れ咲きぬ
曼珠沙華樹間の闇を埋めつくす
石門の残る路地裏曼珠沙華
黒と朱のロンド揚羽と曼珠沙華
剪るならば根元から切れ曼珠沙華
禅寺の裏より火の手曼珠沙華
翳りても濡れても炎ゆる曼珠沙華
群れなしてゐても寂しき曼珠沙華
耐震をはかられてゐる曼珠沙華
折り溜むる音なつかしや曼珠沙華
声あげて畦に揃ひし曼珠沙華
曼珠沙華土堤の一劃独占す
 

 

まなうらに曼珠沙華慂き弥陀の前
気だるさや朱の勝ち過ぎる曼珠沙華
古墳への標や白き曼珠沙華
曼珠沙華堰かれて水のあを臭し
ゆるやかな川の岸染め曼珠沙華
何時見ても笑顔の遺影曼珠沙華
曼珠沙華木陰の中で自己主張
故郷は遠くなりけり曼珠沙華
組紐の指を絡めし曼珠沙華
曼珠沙華泥土のながれ干たるまま
曼珠沙華の葉のふさふさと畦ぬくし
はうろくの中の地獄や曼珠沙華
段々の畦に帯なす曼珠沙華
吾も燃えし遠き日憶ふ曼珠沙華
蕾てふ嬰抱く炎かな曼珠沙華
曼珠沙華散つてかぼそき燠のこす
魁て今朝一本の曼珠沙華
畦十字なれば十字に曼珠沙華
曼珠沙華足の踏み場のなかりける
曼珠沙華川藻の匂ひただよひぬ
曼珠沙華一気に雨となりにけり
曼珠沙華吾を忘れし母を恋ふ
近寄りて曼珠沙華とは隙だらけ
曼珠沙華土葬の子規を煽れるや
一心に燃えて香らぬ曼珠沙華
曼珠沙華消えたる道のくつろげり
寂しさに寄り添うて燃ゆ曼珠沙華
曼珠沙華燃ゆ女子大の白き塔
曼珠沙華さいごは箸と塵取で
曼珠沙華蘇我一族の血の色に
泣き笑ふ野仏の数曼珠沙華
かがやける白曼珠沙華ケアハウス
増やしとうないに胸には曼珠沙華
燃え尽きて雨に崩るる曼珠沙華
寄せ墓に染み入る雨や曼珠沙華
曼珠沙華へ執拗に付く黒揚羽
夕陽浴び蕊ちかちかと曼珠沙華
曼珠沙華小暗き所へはぐれ咲き
曼珠沙華列なして誰を迎へむと
天心にばかりに向ひ曼珠沙華
月が赤い息をひそめて曼珠沙華
それぞれの致死量曼珠沙華の列
曼珠沙華鼠の穴のありにけり
一本が心許無き曼珠沙華
曼珠沙華咲きて湖北の空暗し
深沈と宇陀の血原の曼珠沙華
愛想よき御用聞来る曼珠沙華
いつさいは今生のこと曼珠沙華
曼珠沙華快速列車に昏れにけり
曼珠沙華さびしきまでに空の碧
曼珠沙華風の生まれる川映り
ずぶ濡れの曼珠沙華には叫びあり
火の山のマグマ噴くかに曼珠沙華
その中に一花の白き曼珠沙華
鬱の杖一ト振り倒す曼珠沙華
一叢の曼珠沙華炎ゆ墓の隅
曼珠沙華手入とどきし竹林に
曼珠沙華平群は坂の多き町
群がつて燃ゆる火となる曼珠沙華
護摩焚のなき日日を燃ゆ曼珠沙華
曼珠沙華静まり返る過疎の村
曼珠沙華百万本とや巾着田
曼珠沙華群生めぐる散策路
堤防に刈り倒されし曼珠沙華
曼珠沙華数本は踏み倒されて
大丈夫と笑うてをりぬ曼珠沙華
畦道をまつすぐにする曼珠沙華
燃え残るわが胸中の曼珠沙華
怠りの日々省みる白曼珠沙華
曼珠沙華川の蛇行を燃やすなり
一瞬の炎の裂け目曼珠沙華
中世のここが入口曼珠沙華
北野坂異人館の曼珠沙華
木の間より光を受けし曼珠沙華
家鴨らの酔うて候曼珠沙華
曼珠沙華畦道いつも湿りゐて
曼珠沙華咲かせ火田民の裔
曼珠沙華の薙き倒さるる刻知らず
一本はひよんなところに曼珠沙華
雑草の中に咲きたる曼珠沙華
夕星やくつきり白き曼珠沙華
驕り咲きてふ一茎の曼珠沙華
曼珠沙華胸に秘めたる郷土愛
古きよき時代をいまに曼珠沙華
祖の偉業讃へてやまず曼珠沙華
なほ天へ天へと棚田曼珠沙華
曼珠沙華むかし無税の村と言ふ
赤が好き毒ある曼珠沙華なれど
曼珠沙華堂の暗さを解き放つ
見据ゑてもまなこ閉ぢても曼珠沙華
壺に活けて昔は忌みし曼珠沙華
曼珠沙華ひとりの幅の橋わたり
茫々と海風の闇曼珠沙華
曼珠沙華葉はひっそりと冬はじめ
遡り行けば記紀の野曼珠沙華
嘘入れてカバンが重し曼珠沙華
曼珠沙華激しく枯れてをりゐたり
曼珠沙華一輪残る石舞台
曼珠沙華牧舍も牛も野に低き
絹糸を干すや照りあふ曼珠沙華
大露にくづをれ沈む曼珠沙華
夕燒に目つむればわれ曼珠沙華
忌日とは巡りくるもの曼珠沙華
曼珠沙華終る吹き消されたやうに
 

 

曼珠沙華追悼集の初校刷(ゲラ)とどく
群れゐてもなびくを嫌ふ曼珠沙華
無常迅速曼珠沙華あふれしめ
曼珠沙華撒きちらしある猪の里
曼珠沙華に囲まれてゐる土踏まず
曼珠沙華匂ひ立つこと怺へをり
曼珠沙華墓の前にて折られあり
叢なすも一本立つも曼珠沙華
曼珠沙華円かに天を仰ぎをり
血塗られて東晋滅びぬ曼珠沙華
要介護の人住む二軒曼珠沙華
くれなゐは子規居士のいろ曼珠沙華
西国や歩くリズムに曼珠沙華
桜田門へだて燃ゆるや曼珠沙華
野路をゆくかぎり塔見え曼珠沙華
曼珠沙華一花にゆるびなき気迫
曼珠沙華の群落に酔ひ渓下る
曼珠沙華捨て身の色と思ひけり
奈良に見てけふは伊勢路に曼珠沙華
一本の火の畦となる曼珠沙華
さみしくて固まり咲きの曼珠沙華
曼珠沙華むかしの辻を恋しがり
くゆるなく一気火となる曼珠沙華
曼珠沙華薬効といふ毒信じ
咲くまではさみどり一途曼珠沙華
曼珠沙華愛好家増え白きもあり
もののけとひとこと交し曼珠沙華
曼珠沙華の蕾わが唇の乾き
ちちははの未知のしじなる曼珠沙華
忌日きて手折るもならぬ曼珠沙華
東山へ一本道の曼珠沙華
路地口の鉢に一本曼珠沙華
返り見て寄り来るごとし曼珠沙華
百才の葬送に咲く曼珠沙華
師の句碑に絨毯のごと曼珠沙華
休み田の畦にも咲けり曼珠沙華
わが娘より母若きまま曼珠沙華
曼珠沙華と言へば飛鳥に一決す
仏徳を讃ふる花や曼珠沙華
曼珠沙華標に訪へる杣の家
目覚めたるごとく現れ出で曼珠沙華
鐘を鋳したたらの跡に曼珠沙華
時合せ上手な曼珠沙華の花
東歌の手児を伝ふる曼珠沙華
ぞつくりと出て蒼白に曼珠沙華
咲き初めて蕾の多し曼珠沙華
古民家の陰に咲き初む曼珠沙華
曼珠沙華木立にひそと咲き残る
ひとり居にかぎる甜酒曼珠沙華
よく実れよと稲を励ます曼珠沙華
この世なる汗ほのぼのと曼珠沙華
曼珠沙華一途な丈のみな揃ふ
かたまりて滴つてゐる曼珠沙華
色褪せて気楽になりし曼珠沙華
曼珠沙華空の窪みに人住めり
十二妃の墓所を彩る曼珠沙華
駐在の忌や村中に曼珠沙華
またたきを怺へて雨の曼珠沙華
花と葉の色壺違へ曼珠沙華
地の神の怒りあらはな曼珠沙華
水音のかすかな蛇行曼珠沙華
回想のいつか微睡む曼珠沙華
身の内のジキルとハイド曼珠沙華
香の移る合図の発火曼珠沙華
石仏へ添ふ四五本の曼珠沙華
大蛇伝説綴りて窪の曼珠沙華
束ね持つたいまつの如曼珠沙華
畦道の轍に倒れ曼珠沙華
目の中を駈け抜けて行く曼珠沙華
道問うて歩む浦町曼珠沙華
まつすぐに降りそそぐ雨曼珠沙華
おそろしき色に暮れゆく曼珠沙華
日あたりて睫を上げし曼珠沙華
隠し田のなべていびつや曼珠沙華
曼珠沙華忌明けの人のそばに咲く
山古志に棚田戻りぬ曼珠沙華
お使ひのとなり村まで曼珠沙華
大川のふくらむところ曼珠沙華
曼珠沙華消えて墓域の寧らぎぬ
真直ぐの捨身の紅を曼珠沙華
粧ふは身構へること曼珠沙華
介護師と嫗の会話曼珠沙華
地に噴きしマグマの色か曼珠沙華
曼珠沙華われも踏みつゝ砲を据ゆ
曼珠沙華遠見の畦が領巾めきぬ
淋しくて畦にかたまる曼珠沙華
一塊の赤一塊の曼珠沙華
曼珠沙華いきなり燃えて仏去る
すべき事あまた数へて曼珠沙華
何はとも今を大事に曼珠沙華
曼珠沙華の鬨の中なる腓なり
張る蘂に日当りてこそ曼珠沙華
蘇我の血の噴ける飛鳥か曼珠沙華
曼珠沙華野ねずみの穴ありにけり
凡常の或る日突然曼珠沙華
ぽつりと碑蛭ヶ小島の曼珠沙華
禅院の広き庭なり曼珠沙華
曼珠沙華よゝゝゝゝゝとちゞみけり
戰争がうすく目をあけ曼珠沙華
後戻り出来ぬ畦道曼珠沙華
 

 

國思ふ滾る血の色曼珠沙華 明日香路を巡る吟行曼珠沙華
偏つらなる塚や曼珠沙華
ゆらゆらと燃え立ちてをり曼珠沙華
天上の誓子もほうと曼珠沙華
雨上り待つてゐたかに曼珠沙華
畦道のところどころに曼珠沙華
四方八方眺めるやうに曼珠沙華
畦道に一挺の鍬曼珠沙華
晴天や衣まとはぬ曼珠沙華
線刻の地蔵菩薩や曼珠沙華
どこまでも棚田を燃やす曼珠沙華
忽然と一本立ちの曼珠沙華
残照に白曼珠沙華異端児か
この世にも姥捨山あり曼珠沙華
曼珠沙華を火事花といふ媼かな
金花粉の蘂籠なせり曼珠沙華
写メールにて受けぬ大和の曼珠沙華
曼珠沙華平城京の畦一直線
木洩れ日の下に黙解く曼珠沙華
曼珠沙華八百屋お七は炎の中に
三門に入る曼珠沙華曼珠沙華
明暗は身ぬちにひそむ曼珠沙華
そののちは置き去りにされ曼珠沙華
血管のほそし細しと曼珠沙華
版ずれのごとく日が差す曼珠沙華
曼珠沙華もう大厄になれぬ齢
真つ直ぐに地熱を吐けり曼珠沙華
洗礼を受けしか白き曼珠沙華
爆音に寂たり基地の曼珠沙華
過去形の母はヒロイン曼珠沙華
癒えてなほ心意気揚ぐ曼珠沙華
さまざまの情念秘めし曼珠沙華
屋敷林深し曼珠沙華濃かり
つんつんと花弁からまり曼珠沙華
古刹への道の辺つづる曼珠沙華
来る人の無き墓白き曼珠沙華
曼珠沙華野生ながらに紅極む
曼珠沙華髄まで杭が朱に染まる
つき抜けし空の群青曼珠沙華
曼珠沙華峡田の奥まで紅の畦
いつしかに捨田にふえし曼珠沙華
舫綱つなぐ杭根の曼珠沙華
曼珠沙華地蔵囲みて守るかに
曼珠沙華けむりは西へ吾も西へ
日本海見下してをる曼珠沙華
夕空に繋がつてゐし曼珠沙華
曼珠沙華見晴らす畦の袈裟もやう
蛇行せし川岸灯す曼珠沙華
地の底の声携へて曼珠沙華
遠嶺まで続く棒道曼珠沙華
けふよりは棚田の主役曼珠沙華
鍾乳洞出てまつすぐに曼珠沙華
ほんたうは日差しが嫌ひ曼珠沙華
水音に逆らはずゆく曼珠沙華
くるひなき蘂の曲線曼珠沙華
天界の棚田彩る曼珠沙華
明か明かと赤々とあれ曼珠沙華
おほかたは仮の世のこと曼珠沙華
白河の関へ一里や曼珠沙華
巾着田より溢れ出でたる曼珠沙華
曼珠沙華道いつぱいの登校児
曼珠沙華くれなゐの声放ちけり
倒木を覆ひ尽くして曼珠沙華
死刑流刑徒刑拷問曼珠沙華
卵卵を取ってちょーだい曼珠沙華
曼珠沙華鼻溝ばっかに目がいっちゃう
曼珠沙華子どもの顔が似てへんねん
岩群に咲く曼珠沙華岩に染む
曼珠沙華水禍の堤あるかぎり
身の内のどこか人忌む曼珠沙華
群なして己をみせぬ曼珠沙華
わめく如黙するが如曼珠沙華
美山にはみやまの風や曼珠沙華
最期には糸となりけり曼珠沙華
UFOの通る道曼珠沙華一列
曼珠沙華大地マグマを噴き出せる
曼珠沙華土管の果の異次元に
夢殿の昏れ曼珠沙華の昏れ
曼珠沙華彼岸に色を移しゆく
わが庭のわが道中に曼珠沙華
庭先に忽と日差の曼珠沙華
無駄のなき一週過ぎぬ曼珠沙華
曼珠沙華林立組体操くづる
曼珠沙華乱れてこころざわめけり
茎ばかりつつ立つ曼珠沙華の夜明け
目瞑れば父見ゆ白き曼珠沙華
いちめんのほろびのはじめ曼珠沙華
兜太大人秩父は桑と曼珠沙華
大宙へどつと倒れし曼珠沙華
水の音聴きつつ目覚む曼珠沙華
神鏡と魔鏡に映る曼珠沙華
傾くと見て曼珠沙華みな傾く
曼珠沙華標のごとく花のこす
曼珠沙華思ひを蘂に散らしけり
雨あとの空の紺青曼珠沙華
目的のなき旅にあり曼珠沙華
鬼ごつこの鬼がつまづく曼珠沙華
草庵をとり囲みたる曼珠沙華
曼珠沙華後生車の逆回し
 

 

その蕾美しや愛しや曼珠沙華
天上の空気つめたし曼珠沙華
天地に根を張り枯るる曼珠沙華
曼珠沙華行儀よくして嫌はれて
金蠅のながくとどまる曼珠沙華
土手道の小さき踏切曼珠沙華
吉野忌の風の炎えたつ曼珠沙華
曼珠沙華白ばかりなるいくさ跡
札所から札所へ三里曼珠沙華
近づけば歓喜あらはに曼珠沙華
燎原の緋かとも高麗の曼珠沙華
振り向けばいつも母をり曼珠沙華
曼珠沙華見むと在来線選ぶ
まぼろしに夫の声聞き曼珠沙華
海峡を越えて飛び火や曼珠沙華
飛鳥路に古代のロマン曼珠沙華
曼珠沙華吾にも少し悪女の血
まぼろしに亡夫の声聞き曼珠沙華
曼珠沙華意外と蘂の律儀なり
曼珠沙華手に遊ばせて峠径
烈風に今日のはじまる曼珠沙華
息災や川の堤の曼珠沙華
賢治歌碑に離れてひとつ曼珠沙華
好き嫌ひ問はれてをりし曼珠沙華
情念の噴き出づるかや曼珠沙華
つづくてふことのよろしき曼珠沙華
無眼耳鼻舌身意曼珠沙華
曼珠沙華撞木を打ちし妬心かな
顱頂より光りの波や曼珠沙華
燃え渡りなを淋しきや曼珠沙華
曼珠沙華脈の音する水の音
煩悩の色はと問へば曼珠沙華
曼珠沙華より暮れはじむ淀河畔
火の色しか持たぬ一途や曼珠沙華
畦に添ひ水音にそひ曼珠沙華
曼珠沙華潮引くごとく終りけり
曼珠沙華島の子の声よく通り
太陽の老いたるかたち曼珠沙華
曼珠沙華さみしきときは寄り添うて
一隅に姿くつきり曼珠沙華
廻施橋まはるたび増ゆ曼珠沙華
曼珠沙華触れたる茎の冷たかり
白といふ色を持ちたる曼珠沙華
百選の棚田を焦す曼珠沙華
休耕田蘂広げたる曼珠沙華
曼珠沙華要看護者の庭に満つ
夜は色を手放してゐる曼珠沙華
一線を越えて咲きたる曼珠沙華
曼珠沙華棚田を蹴つて昇天す
蹄鉄の火花とび散る曼珠沙華
曼珠沙華消えたるあとの虚空かな
産土へ赤き帯曳く曼珠沙華
曼珠沙華聲に憶えのありにけり
曼珠沙華にも河原好きお城好き
北へ火の走りしあとの曼珠沙華
曼珠沙華息をひそめし魚の影
ひたぶるに燃えつき果てよ曼珠沙華
曼珠沙華終は奔放なりしかな
疎水へと崩るるやうに曼珠沙華
放心にあらず曼珠沙華の蘂
碑に城跡とのみ曼珠沙華
残り火となりて倒るる曼珠沙華
下顎の欠けし狼犬曼珠沙華
父の忌に染め上がりたる曼珠沙華
艶やかな朱をとびとびの曼珠沙華
南吉の喀血無念曼珠沙華
花蕊に雨をためゐる曼珠沙華
曼珠沙華茎のみ残る畦となり
日暮れても一途に赤き曼珠沙華
土の色みな吸ひ上げて曼珠沙華
今年また咲いて消えたる曼珠沙華
幼子に母の手にある曼珠沙華
千枚の棚田を写す曼珠沙華
曼珠沙華どこかに黒を秘めながら
しろがねの雨の来れり曼珠沙華
師の遣句やどこか憂ひの曼珠沙華
有難し鏡のなかに曼珠沙華
曼珠沙華飛鳥美人のごと褪せて
曼珠沙華都心の色でありにけり
曼珠沙華重たき色でありにけり
大和路のときあやまたず曼珠沙華
畦道を標の如く曼珠沙華
紅さして汝も世に出づ曼珠沙華
天上へまつげを反らし曼珠沙華
山城の裾を取り巻き曼珠沙華
曼珠沙華夫の一世の色ならむ
遅れ咲く曼珠沙華あゝみづみづし
抱くやうに閉づやうにあり曼珠沙華
黒革の手帳の行方曼珠沙華
曼珠沙華雨あがりても支へ合ふ
生真面目に群れてこの花曼珠沙華
太陽を抱かんと蕊曼珠沙華
街路樹の影のけだるさ曼珠沙華
曼珠沙華ふつと思ふは千田百里
描くなら墨こそよけれ曼珠沙華
曼珠沙華茎びつしりと鉾をなす
気づかるるまでのどきどき曼珠沙華
群れ生ひておのおの自立曼珠沙華
大地よりストロー伸びて曼珠沙華
曼珠沙華枯れてしまへば寺の門
 

 

庭に出て亡き夫恋へり曼珠沙華
曼珠沙華まだ夏帽子手離さず
言の葉の届かぬ黄泉へ曼珠沙華
東京に古墳いくつも曼珠沙華
竹林の奥深きかな曼珠沙華
煩悩に怯まぬ炎曼珠沙華
曼珠沙華三児のパパの誕生日
まほろばの嵯峨野巡りや曼珠沙華
曼珠沙華静寂の中の虚子の句碑
陸軍の火薬庫の跡曼珠沙華
志と恋はひとすぢ曼珠沙華
一面のそれぞれの距離曼珠沙華
寄り添ひし今朝の幸せ曼珠沙華
日盛りの銀糸紡ぎて曼珠沙華
曼珠沙華浮世の色に染まりける
そこばくの地霊の宴曼珠沙華
曼珠沙華百万本を抱き蛇行
磨かれて土偶の乳房曼珠沙華
曼珠沙華暮光に朱けを委ねけり
曼珠沙華小径のさきのをんな塚
夕闇に紛れ込む赤曼珠沙華
正一位稲荷や曼珠沙華盛ん
曼珠沙華十日も咲けば咲き飽きし
曼珠沙華小町の墓へつづきをり
札所より札所へ畦の曼珠沙華
曼珠沙華おもひは地平までの舞ひ
青ければ舞ひ上がりたき曼珠沙華
無事の白別れの赤か曼珠沙華
曼珠沙華百万本も交らず
左岸来てこれより右岸曼珠沙華
曼珠沙華胸のときめきいまもなほ
曼珠沙華母の歩幅の小ささに
山里の道失せてをり曼珠沙華
わづかなる畑のほとりや曼珠沙華
故里と母恋ふ花よ曼珠沙華
人呑みし川と思へず曼珠沙華
観音の足もと覆ふ曼珠沙華
群れゐても一花は孤高曼珠沙華
母のがり曼珠沙華咲く行き難し
夜に入りて水音高き曼珠沙華
曼珠沙華一世をかけし仇討も
寡婦といふ十字架重し曼珠沙華
休み田の荒れしをよそに曼珠沙華
単線の下り待つ駅曼珠沙華
月光にもらひし種火曼珠沙華
畷炎上曼珠沙華の夜にゐる
絵に描いてさみしき花よ曼珠沙華
弁天の朱塗の祠曼珠沙華
荒れつくしたる廃校の曼珠沙華
病院の裏みち風の曼珠沙華
明日へ背を正す日暮れの曼珠沙華
曼珠沙華女が狂う村芝居
遠くみてこころ近づく曼珠沙華
曼珠沙華咲くや去来の寺の前
吾が情熱かく燃えよかし曼珠沙華
奥志摩の空の青さよ曼珠沙華
通船の名残の堀や曼珠沙華
天と地をつなぐ階段曼珠沙華
ごんぎつね遊びし土手の曼珠沙華
曼珠沙華卍ともゑの根を抜けて
赤き色とばして曼珠沙華となる
曼珠沙華生生流転語る赤
まのあたりする神奈備の曼珠沙華
遠祖の地割はあらぬ曼珠沙華
愛情の日をまなうらに曼珠沙華
曼珠沙華咲くかの丘へ試歩の杖
用水に架かる土橋曼珠沙華
七曲り十三曲り曼珠沙華
曼珠沙華烈士といふは自害して
曼珠沙華入日の方へ傾ぎけり
畦道の暮色を焦がし曼珠沙華
田の隅に抜きんでて白曼珠沙華
曼珠沙華父の消息知りたるか
曼珠沙華白きは闇を塗り替へて
曼珠沙華連隊畦を攻略す
曼珠沙華影を妖しく燃えたたせ
忽と現れ忽と消えたる曼珠沙華
飛鳥路となりし証や曼珠沙華
日韓のワールドカツプ曼珠沙華
潮騒をくろきひかりと曼珠沙華
燃えてゐる茎のさみどり曼珠沙華
燃え尽くるときを知るかに曼珠沙華
曼珠沙華医の友句の友続き逝く
江戸・小江戸川もてつなぐ曼珠沙華
曼珠沙華心臓なぜに片胸だけ
咲き充ちて供華にはならぬ曼珠沙華
見下ろせばライバル咲きの曼珠沙華
曼珠沙華猛毒とふが屹立す
曼珠沙華の一興蕊の跳ねっぷり
赤の妖艶白の清楚や曼珠沙華
曼珠沙華赤も哀しき色のうち
曼珠沙華夜は目線を外らす猫
雨の中燃えつづけをり曼珠沙華
曼珠沙華潜る人なき四足門
踏み入らば浮力が曼珠沙華の畦
火の性はいのち短し曼珠沙華
曼珠沙華さびしき赤を重ね合ふ
曼珠沙華油に振りし凝固剤
咲く前の一糸纏はぬ曼珠沙華
マラソンのトップ集団曼珠沙華
 

 

曼珠沙華ころびたる咎せざる科
蹌踉と曼珠沙華の国にゐる
葉は花に次元の異ふ曼珠沙華
曼珠沙華たどり太子に辿りつく
南溟に渦巻く供花や曼珠沙華
集まればつましき話曼珠沙華
曼珠沙華毒よと子等に触れさせず
老僧の嘆く世相や曼珠沙華
明日香野の棚田を区切る曼珠沙華
観音へ一本の道曼珠沙華
恋心飛び火したるか曼珠沙華
空澄めば紅くつきりと曼珠沙華
老い母の記憶ほろほろ曼珠沙華
りんりんと絹糸つむぐ曼珠沙華
曼珠沙華師を恋ふ野火の連綿と
曼珠沙華史蹟を伝ふ一里塚
曼珠沙華終へて小花の咲き添ふる
曼珠沙華原の小池を灯しをり
静寂の寺苑に燃ゆる曼珠沙華
槙垣にひそと顔出す曼珠沙華
雨降るとけふの著りの曼珠沙華
黄泉よりの刺客団とも曼珠沙華
帯文に代へ曼珠沙華・曼珠沙華
夜は夜の道あり白き曼珠沙華
裸婦像や天をあざむく曼珠沙華
大原女の畑には居らず曼珠沙華
芦の湖の底の暗くて曼珠沙華
見る程に眼の乾き曼珠沙華
無縁なる遊女の塚や曼珠沙華
姫祀る散るほかはなき曼珠沙華
一と叢はつぼみばかりや曼珠沙華
曼珠沙華語りかけそな石仏
曼珠沙華白がしるべの父祖の墓
呟きを聞かれてしまふ曼珠沙華
曼珠沙華とびとびに白曼珠沙華
白蝶の止まることなき曼珠沙華
苦戦して迷路出口へ曼珠沙華
執念を燃やし赤あか曼珠沙華
曼珠沙華思ひの丈の蕊の反り
曼珠沙華飛行機雲は袈裟懸けに
天草の棚田天まで曼珠沙華
巻尺のまつすぐ伸びて曼珠沙華
曼珠沙華畑彩り名残り紅
納骨へ向かふ親子か曼珠沙華
娘等の長き睫や曼珠沙華
見栄えせし一本立ちの曼珠沙華
禅寺の一茎づつの曼珠沙華
曼珠沙華ふと来て止まる黒揚羽
素十忌や流れにかげの曼珠沙華
母恋し天までとどけ曼珠沙華
今年から休田かこむ曼珠沙華
目つむればかの日の曼珠沙華燃ゆる
狂ふほど人恋うてをり曼珠沙華
七輪を飛び出す火の粉曼珠沙華
冥土には謝りにゆく曼珠沙華
殉教もころびも我が祖曼珠沙華
曼珠沙華天与の風に色付きし
一列に鬨の声あぐ曼珠沙華
妬き抛りブーケ鉄路の曼珠沙華
曼珠沙華手折る真顔でありにけり
さつきまで子供のをりし曼珠沙華
婦人誌に女人ふくよか曼珠沙華
大奥跡見つめなほして曼珠沙華
幸せにすると言つたのに曼珠沙華
古戦址にあまたの兵火曼珠沙華
湖ひかる岸群生の曼珠沙華
すくと立つああ曼珠沙華今年また
日かげりて色の落ち着く曼珠沙華
その辺り時萎えゐたり曼珠沙華
曼珠沙華武蔵決闘の碑を囲む
曼珠沙華善人まして悪人をや
墓に押す墓地の白花曼珠沙華
金輪際色を尽して曼珠沙華
地の花火彼岸にとゞけ曼珠沙華
情念のごとく噴きあげ曼珠沙華
曼珠沙華むかしを語る異人墓地
湖へ向く地蔵百体曼珠沙華
匠なる組紐に似て曼珠沙華
情念のごとく噴きあげ曼珠沙華
ここからは女人結界曼珠沙華
曼珠沙華むかしを語る異人墓地
見はるかす棚田を区切る曼珠沙華
曼珠沙華傾ぎて小さき入鹿塚
篁に昼の影置く曼珠沙華
曼珠沙華触れてしまはぬ距離にをり
ほんたうの空の蒼さや曼珠沙華
先づ一本立ちそれからの曼珠沙華
何ひとつ変らぬ畦の曼珠沙華
曼珠沙華むらがりすぎて雲ふやす
夕日濃き棚田の裾や曼珠沙華
活けられて曼珠沙華の赤らしからず
曼珠沙華千畳敷といふ河原
白壁の影まで燃ゆる曼珠沙華
蒼天を風が一掃曼珠沙華
母の里畦変はらずに曼珠沙華
山の日に方眼咲きの曼珠沙華
どきりとす事の減りたり曼珠沙華
石仏の満身ほてる曼珠沙華
撮さるるそこが正面曼珠沙華
安全と言はるる不安曼珠沙華
 

 

曼珠沙華反りひげ張つて風に立つ
捨つるほど雅号を持てど曼珠沙華
蜿蜒と烈日原野曼珠沙華
曼珠沙華ご先祖さまの喝喝と
転生は小鳥を思ふ曼珠沙華
曼珠沙華しづまりかへる脳波かな
風に揺るる魂あまた曼珠沙華
夢なれど鹹湖に泛ぶ曼珠沙華
天仰ぐのみの淋しさ曼珠沙華
曼珠沙華は創世の火のごとく
南中の火星夜の曼珠沙華
行く雲にのりてゆきたし曼珠沙華
一本の曼珠沙華より仏道
水にほふからくれなゐの曼珠沙華
曼珠沙華水の涸れたる水車小屋
笹刈りし跡に叢立ち曼珠沙華
錆びてなほ放恣の蘂の曼珠沙華
卓上に欣一の白曼珠沙華
一村を呑みこんでゐる曼珠沙華
曼珠沙華棚田の畦を燃え立たす
曼珠沙華京に女の車引き
この時代産まれて生きて曼珠沙華
束にしてあと幾ばくの曼珠沙華
師碑ありてふるさとめく地曼珠沙華
曼珠沙華炎といふ字さながらに
死は生に優るみちのり曼珠沙華
執念を燃やし赤あか曼珠沙華
忽然とあらはれて消ゆ曼珠沙華
残像のあざやかなりし曼珠沙華
能勢の子に空の果てなし曼珠沙華
曼珠沙華三角巾の子がひとり
曼珠沙華糸玉紅くもつれゐし
どの空も青極まれり曼珠沙華
畦道に板の鳥居や曼珠沙華
突つ立てるままに灯を消す曼珠沙華
曼珠沙華白に咲きゐて炎立つ
曼珠沙華茎に微塵も歪みなし
燃えつくる速さよ畦の曼珠沙華
曼珠沙華刈られゐたるも曼珠沙華
曼珠沙華行つてはならぬ道のあり
朱の群れに一本白し曼珠沙華
紅奪ひ尽し廃寺の曼珠沙華
死ぬなんて言つてくれるな曼珠沙華
曼珠沙華いつもうしろに母がゐて
曼珠沙華飛鳥の田畦誰も行かず
忌心に叶ふ赤さや曼珠沙華
曼珠沙華咲いて土竜を通せんぼ
蝉塚のここにも咲ける曼珠沙華
海を見て目を休めをり曼珠沙華
帰化人の血潮とみたり曼珠沙華
朱は彼岸白は此岸や曼珠沙華
曼珠沙華離れて白き曼珠沙華
かたまれば分相応の曼珠沙華
一叢は思はぬところ曼珠沙華
曼珠沙華の中を流るる安来節
たぶらかすためらはす風曼珠沙華
つり竿で長刀払ひ曼珠沙華
曼珠沙華棚田の畦を区切りをり
曼珠沙華ざんばら髪となりて散る
曼珠沙華見てゐて狂ふかも知れず
橋づくしの堀川めぐり曼珠沙華
曼珠沙華一つ離れて曼珠沙華
存念の一誌ありけり曼珠沙華
野仏の丈に添ひ咲く曼珠沙華
夕映のひかり裸身の曼珠沙華
曼珠沙華地の夕焼けに謝すごとし
かむなびの一燭となり曼珠沙華
発すれば鋼の音か曼珠沙華
城内に火のとび飛びの曼珠沙華
ひつそりと咲いて黄色の曼珠沙華
夕闇に色を無くしけり曼珠沙華
唐突に庭隅に生ふ曼珠沙華
色褪せて命の果つる曼珠沙華
古希といふ世に古びけり曼珠沙華
曼珠沙華彼岸此岸を赤く染め
首塚やあすかの畦の曼珠沙華
居留地の名残や紅き曼珠沙華
胸にまだ人恋ふ力曼珠沙華
曼珠沙華同窓会はいつも今
村起しめくいつせいの曼珠沙華
誰に捧ぐ曼珠沙華てふブーケ咲き
どよめきは青空にあり曼珠沙華
いくとせの恙身を抱く曼珠沙華
活断層添ひかも曼珠沙華綴り
水吸つておのれ浄めて曼珠沙華
胴上げのやうに響もす曼珠沙華
曼珠沙華日輪も蘂張りにけり
曼珠沙華その哄笑の声もたず
自らの色に溺るる曼珠沙華
燃え尽きて立ち往生の曼珠沙華
こもれびの丘曼珠沙華曼珠沙華
かつて碧わが寺訪へり曼珠沙華
区役所の玄関に咲き曼珠沙華
ライダーのブーツの触れし曼珠沙華
濁流の岸辺に群る々曼珠沙華
曼珠沙華棒立ちのまま枯れてをり
雨粒のはじめはまばら曼珠沙華
輪廓の美しき棚田や曼珠沙華
むかふへの炬火になるらん曼珠沙華
一本にセシウム潜む曼珠沙華
根の国ゆ噴き出す曼珠沙華なるぞ
曼珠沙華同じ帽子の山ガール
組まれゆく稲架の向かうに曼珠沙華
宮城の土手は息のむ曼珠沙華
見霽かす明日香の棚田曼珠沙華
かたまりて空を抱へる曼珠沙華
曼珠沙華本堂裏の錠の錆
老いてなほ燃ゆるものあり曼珠沙華
雨止んでちんぽこほどの曼珠沙華
曼珠沙華気になる齢となりにけり
夕暮の風の道すじ曼珠沙華
畦にゐて畦を見てをり曼珠沙華
久方の雨に濡れゐる曼珠沙華
畦道を人の近づく曼珠沙華
しばらくの黙曼珠沙華冬青葉
田の神に刈り残しある曼珠沙華
咲くまでは小筆のやうな曼珠沙華
竜安寺垣をはみだす曼珠沙華
火の山の神の吐きたる曼珠沙華
UFOの通る道曼珠沙華一列
誰も誰もか対岸の曼珠沙華
曼珠沙華つぼみにばかり蜆蝶
緋の色もゆふべは淋し曼珠沙華
誘惑の触手めきたる曼珠沙華
曼珠沙華あつちへ連れて行かれさう
 

 

曼珠沙華あつちへ連れて行かれさう
曼珠沙華畦ごとに燃え一揆の地
豪雨去り日差をつかむ曼珠沙華
天気晴朗千代田区千代田曼珠沙華
尼寺の日向に咲ける曼珠沙華
この色に香のなき安堵曼珠沙華
燃えざれば白は淋しや曼珠沙華
睦むともなくかたまれる曼珠沙華
曼珠沙華咲かせて茎は貧血に
曼珠沙華蕊の尖まで佳人てふ
殉教の色に出でたる曼珠沙華
橋立は遥かや白花曼珠沙華
川風のやはらかき日や曼珠沙華
曼珠沙華二河白道の火の河に
曼珠沙華ここらあたりが野鍛冶跡
百万本咲けど香らぬ曼珠沙華
飛火する噂の火種曼珠沙華
天空へ棚田のぼれる曼珠沙華
孤高とは白曼珠沙華かもしれず
村落の西方に群れ曼珠沙華
悪縁はなんの艶やか曼珠沙華
ふるさとの畦を色どる曼珠沙華
異邦人のごとし黄色の曼珠沙華
道祖神赤を強めし曼珠沙華
廃村に火を放ちたる曼珠沙華
屋号もて呼び合ふ父郷曼珠沙華
ごんの里赤疎ましや曼珠沙華
物知りの祖母の声する曼珠沙華
舗装路の継目いとはぬ曼珠沙華
菩提寺へ一本道や曼珠沙華
北条氏常磐亭跡曼珠沙華
曼珠沙華ブラックホールに吸ひ込まる
曼珠沙華咲ききはまりて白き花
曼珠沙華出会ひはいつもサプライズ
城山へ手向け夕日の曼珠沙華
神々の欲望白き曼珠沙華
身の丈を朱に染め雨の曼珠沙華
だしぬけに変はる話題や曼珠沙華
戦前を真似る曼珠沙華のあか
茎の先発火寸前曼珠沙華
茎一本花一つ上げ曼珠沙華
つややかに蕊反らしけり曼珠沙華
血塗られし古代史の闇曼珠沙華
秩父歌舞伎観に行く道の曼珠沙華
曼珠沙華発火点まで達しゐし
過疎の村一途に燃ゆる曼珠沙華
突つ立つることに飽ききし曼珠沙華
とび跳ねて心を開く曼珠沙華
弔ひのわての名代曼珠沙華
鈍行の大和の空や曼珠沙華
志士い行きし長崎街道曼珠沙華
花は葉を葉は花知らぬ曼珠沙華
しなやかに退る夕風曼珠沙華
曼珠沙華の列の曲れば川曲る
曼珠沙華今日の悲しみ燃やすよう
曼珠沙華咲き草臥れて凭れ合ふ
曼珠沙華山の暮色の風動く
觝(つきしろ)ふ雨の峰々曼珠沙華
きのふより赫を確かに曼珠沙華
群なして渦まく鯉や曼珠沙華
棚田百枚百枚区切り曼珠沙華
弧を描く棚田の畦や曼珠沙華
地の怒り蕊に伝へて曼珠沙華
朝刊の人生案内曼珠沙華
追憶をひもどく目路に曼珠沙華
香りなきことの不思議や曼珠沙華
箱根路は山中に咲き曼珠沙華
武家屋敷土塀の脇に曼珠沙華
風掴みゐし揺れやうや曼珠沙華
曼珠沙華胸中に秘む熾火かな
あくまでも真つ赤と言へて曼珠沙華
晩景といへばさうとも曼珠沙華
煩悩の色めらめらと曼珠沙華
曼珠沙華ぽつんと残る分校舎
空掴むことが咲くこと曼珠沙華
纏ひしは夕日のみなり曼珠沙華
爆撃の業火のむかし曼珠沙華
柱のみ残して鎮火曼珠沙華
火の神は頑固に在はす曼珠沙華
太古にもありし色なり曼珠沙華
終止符を打ちたる恋路曼珠沙華
穴太積の苔生す小径曼珠沙華
むらさきの雨の浦上曼珠沙華
周到な死などなかりし曼珠沙華
山あひに無言なりけり曼珠沙華
曼珠沙華伊賀も甲賀もなかりけり
曼珠沙華目をのぞかれて落着かず
石ひとつ世を遠くする曼珠沙華
懸命に咲いて狂気の曼珠沙華
落ち口の近くに曼珠沙華すこし
水の面につんと波紋や曼珠沙華
溝川へ傾ぐ金網曼珠沙華
曼珠沙華つぶさに映る明日香川
花終わり修羅場跡めく曼珠沙華
海に向く狸地蔵や曼珠沙華
追憶の余白を埋める曼珠沙華
闇市の在りたる辺り曼珠沙華
曼珠沙華今を盛りと天上花
澎湃と土手埋め尽す曼珠沙華
蘂の影寝墓に著し曼珠沙華
菩提寺の鐘青く錆び曼珠沙華
曼珠沙華彼岸参りの墓の道
曼珠沙華離れ難きは此岸かな
曼珠沙華狂ひなく咲き時逝かす
薬石に縁なき卒寿曼珠沙華
曼珠沙華水口下に水たまり
にんげんの眼に満の曼珠沙華
川風に光りと翳り曼珠沙華
思ひごとふとこゑに出づ曼珠沙華
近道は坂多きこと曼珠沙華
音止んで赤曼珠沙華白曼珠沙華
曼珠沙華畦火となりてゐたりけり
曼珠沙華さらなる先も曼珠沙華
首塚に蕊をひろげて曼珠沙華
曼珠沙華もて縁どれる千枚田
曼珠沙華緋に観音の鐘絶えず
曼珠沙華空の青さを際だたせ
曼珠沙華谷は日暮れてもう見えぬ
一画は白曼珠沙華羅漢堂
追伸のやうにはなれて曼珠沙華
血より濃く色を尽くせり曼珠沙華
両岸に赤く固まる曼珠沙華
川岸に群れなしてをり曼珠沙華
曼珠沙華街道看板畦に沿ひ
曼珠沙華死は我儘の終ひかも
いま朝日射す先駈けの曼珠沙華
主なき庭焦さむと曼珠沙華
骨拾ふことの幸せ曼珠沙華馨
曼珠沙華若冲の墓燃えてをる
曼珠沙華まで畦道を横歩き
叢咲きて衣まとはぬ曼珠沙華
早起きの庭に一際曼珠沙華
曼珠沙華かつて一揆のありし村
曼珠沙華中越地震拾年目
束ねられ炎先めらめら曼珠沙華
藤村の生家に傲る曼珠沙華
曼珠沙華色褪せ父の百日忌
曼珠沙華一輪に人集まれる
骨拾ふことの幸せ曼珠沙華
曼珠沙華蝦夷入鹿を虜にす
西洋の神は何色曼珠沙華
もじやもじやのところありけり曼珠沙華
曼珠沙華空へ炎の風車
曼珠沙華いつもの道に立つてゐる
廃屋の殺気立ちたる曼珠沙華
もの言はぬ現し世にあり曼珠沙華
曼珠沙華御陵の堀を朱に染めて
曼珠沙華芯の尖まで佳人てふ
天帝の一瞥に消え曼珠沙華
神々に捧ぐ焔の曼珠沙華
曼珠沙華わが満身に罪の傷
戦力外選手の眉に曼珠沙華
 
 
死人花

 

死人花何の匂もなかりけり
忘られし盆茣蓙古び死人花
天国に言葉あるやと死人花
生き生きと少女の描く死人花
明日香路に血の色撒きて死人花
死人花と疎みし祖母の懐しき
畦焼いて幽霊花を咲かせます
カーブして幽霊花の多き街
風情なき人の名づけし死人花
死人花なんぞでするな町興し
 
 
彼岸花

 

さりながら恋には無縁彼岸花
デジャ・ヴユして彼岸花に立眩み
花火師が村中を馳せ彼岸花
旅の視野捉へはじめし彼岸花
彼岸花宿命なればそれでよし
彼岸花悲しい想い出ばかりなり
燃え失せて茎のみ立ちし彼岸花
甥病めばそのことばかり彼岸花
一つ家へ辿る道あり彼岸花
荷造りの壼縄で巻く彼岸花
彼岸花もう八束師はどのあたり
解体の仮設住宅彼岸花
獅子舞の練り上りゆく彼岸花
彼岸花一夜伸び立つ河原土手
彼岸花村に百歳ふえにけり
日蓮像彼岸花指し吾を指す
天川へ各駅停車彼岸花
彼岸花踏切の名に坊主町
彼岸花先祖の香りただよひて
彼岸花ぽつんと民族博物館
山の辺は彼岸花咲く畔も道
どこからも彼岸花見え水の音
彼岸花焚口くらき登り窯
遊蕩の詮なきを言ひ彼岸花
彼岸花雨に燃えつきさうにあり
老い猫は何処で果てしや彼岸花
幼子のくるくる回る彼岸花
彼岸花にょきにょき生える宙ぶらり
近く見ることなかりけり彼岸花
すり抜ける回転ドアと彼岸花
吹く風に小豆煮る香や彼岸花
悩みなど捨てよと咲けり彼岸花
蘂に付く露鳴りわたる彼岸花
石佛を積みし城垣彼岸花
川隔て土手に対峙し彼岸花
暁 あかとき の夢短かきに彼岸花
彼岸花四五日ほどの栄華かな
霧ごめの田を分ちをり彼岸花
兵の墓の供華なり彼岸花
風もらふ生れたばかりの彼岸花
菜園にバージンロード彼岸花
どの畦みちも彼岸花彼岸花
彼岸花日の神に朱を欺かず
彼岸花残り火ほどとなりにけり
山の子のひとり遊びや彼岸花
巾着田見下ろす丘の彼岸花
群れ咲くも数輪もよき彼岸花
彼岸花母が弟呼んでゐる
まほろばに赤の彩り彼岸花
「秋七草」へ一つ足したき彼岸花
子遍路の足かるがると彼岸花
老の矜持たもつは難し彼岸花
彼岸花其角の墓へ色添へる
江の電の義経づくし彼岸花
鐘楼へ土手燃え上る彼岸花
畦ゆくは火渡りに似て彼岸花
彼岸花今年は咲かず祭来る
彼岸花つぼみ揃へて彼岸待つ
彼岸花静かに咲いて消えゆきし
彼岸花刈り残されてありにけり
煩悩の髪乱しをり彼岸花
この色は天使の怒り彼岸花
彼岸花赤しどこへも踏み込めず
亡き魂かほうと眞白き彼岸花
勾玉は弥生ファッション彼岸花
暮れ残る明日香棚田の彼岸花
蒼天や百万本の彼岸花
首塚にはじまり彼岸花の径
疑へばだんだん赤く彼岸花
頓服は三錠までと彼岸花
燃え残る彼岸花あり雨の中
彼岸花をはりし茎を洗ふ雨
ちらほらと彼岸花咲き不整脈
小流れに沿ひほつほつと彼岸花
紅を離れて白き彼岸花
死に急ぎ死に遅れして彼岸花
惜命に似たる旅路の彼岸花
母の忌やまだ出揃はぬ彼岸花
彼岸花ほつほつテロの世を憂ふ
雲水の早足の音彼岸花
天地の暴れし跡の彼岸花
彼岸花活けられをるも落ち着かず
彼岸花かくも真つ赤ぞ友生きよ
彼岸花火山の見ゆる父母の墓
彼岸花ぽきぽき折った首飾
畦道を一揆の走る彼岸花
彼岸花単線鉄路西へ西へ
紐編みし指を定印彼岸花
天上に父母再会の彼岸花
ひと群れの彼岸花なりさびしけれ
雑草の花を従へ彼岸花
この道はいまも変らず彼岸花
緋のむれに白妙ひとつ彼岸花
奈良に入る夕日の畦の彼岸花
子等の声かたまり行くや彼岸花
彼岸花故郷に父母の亡き侘し
下校児の列ばらばらに彼岸花
彼岸花赤の一徹咲きゐたる
崩れゆくシラスに縋る彼岸花
彼岸花紅の最も澄めるとき
 

 

一斉といふは恐ろし彼岸花
姉の忌に白を揃へて彼岸花
彼岸花あかりと言はむ古墳みち
彼岸花消えたる茎のならびけり
夜は湖に白をつくして彼岸花
彼岸花子規の心に触れもして
墓隣り住居も隣り彼岸花
彼岸花棚田は四角三角に
夢と一字白彼岸花添ふ墓に
彼岸花雨の日の池いろどれり
菩提寺に白きが咲けり彼岸花
屈葬の甕を囲める彼岸花
畦道の兎にも角にも彼岸花
草の中に茫々と生ふ彼岸花
固まつて地蔵に咲ける彼岸花
彼岸花飛び火のごとし祭来る
足早に月日過ぎゆく彼岸花
彼岸花かぞへなほしてバスを待つ
彼岸花相聞歌碑に燃えをりぬ
夕暮れの村を巡れる彼岸花
托鉢の経文テープや彼岸花
彼岸花わが守護神の不動尊
子規庵の狭庭に燃ゆる彼岸花
石仏を支へて径の彼岸花
彼岸花祖父の墓へとつづく道
牛啼くをまじまじと見し彼岸花
彼岸花真昼さみしと群れ咲くや
彼岸花の白咲く家に人見えず
太古には末子相続彼岸花
自愛や切ながき捷毛の彼岸花
彼岸花未婚の女ふえてをり
猫遊ぶ白彼岸花庭に咲き
彼岸花一夜明くれば咲きそろふ
畦道をくれない染むる彼岸花
彼岸花故郷そこに見えて来し
人だかりして先駆けの彼岸花
確と咲く畦道細道彼岸花
彼岸花地獄極楽天無限
彼岸花雨に鬱々咲きゐたり
佐保堤長くる草抜く彼岸花
彼岸花萎えて五衰を呈しけり
離りゆく足音ばかり彼岸花
彼岸花王墓古墳の道の辺に
山墓の日暮れを燃やす彼岸花
彼岸花の一本に逢ふ水辺かな
信濃路の曼珠沙華また彼岸花
彼岸花村に特急停まりけり
彼岸花かたまり咲くはおそろしき
阿修羅仏にまみえし余韻彼岸花
刈田野に赤き道なす彼岸花
彼岸花棚田ふちどる明日香村
欄干の朱色より濃き彼岸花
種つけず茎直立の彼岸花
彼岸花今年も母の忌を知らす
蕊立てり思ひを宙へ彼岸花
神苑に彼岸花咲く朝の雨
墓地までの道は一筋彼岸花
マンション快速列車彼岸花
山の畑囲みて咲けり彼岸花
街道の木戸柵跡の彼岸花
坊守の白さ培ふ彼岸花
眠るかに逝きしと聞けり彼岸花
肩書はしやばに置いとけ彼岸花
奈良坂を登りつめれば彼岸花
代官山の一隅炎ゆる彼岸花
咲くまへの熱気地に秘め彼岸花
彼岸花故郷捨てしひと昔
み仏の在すかに白彼岸花
朱の帯の階段続く彼岸花
直列の均衡保ち彼岸花
束の間を華やかに咲き彼岸花
彼岸花峡田の畦を飾りをり
坂道に海の跡あり彼岸花
彼岸花粋なつもりの象牙色
疎開地に九年の月日彼岸花
川沿の十手彩れり彼岸花
母の忌や寺苑に彼岸花盛り
見下せば下陰ながら彼岸花
決壊の土手に群れ咲く彼岸花
彼岸花折り取りし手を洗ひけり
天空の棚田ふちどる彼岸花
彼岸花忘れ上手を忘れけり
丸き背気にせぬ農夫彼岸花
川岸の蛇籠より生ひ彼岸花
旅人となりゆく朝彼岸花
擋網(たも)を手に腹這ふ木橋彼岸花
郷愁の風吹き抜けり彼岸花
彼岸花も墓も大小等間隔
彼岸花見に長袖を持ち歩く
妻よあの日も雨また雨の彼岸花
彼岸花流れる日々の溝跨ぐ
彼岸花雲の切れ間のありにけり
咲きのこる彼岸花あり女井戸
彼岸花外輪山へ雲の飛ぶ
浪音が消し去る過去や彼岸花
彼岸花刈る落ち口のひとところ
彼岸花今年遅しと僧の言ふ
彼岸花四時一憂の身を去らず
やうやくに彼岸花咲き秋となる
彼岸花倭建の薙ぎし火か
休耕田の真中に咲きし彼岸花
雨上り里山に現れ彼岸花
木木芽吹き葉を横たへし彼岸花
彼岸花少し薄れて風白く
 

 

加茂堤翁も踏みし彼岸花
細き上に赤逞しき彼岸花
ひつそりと白く咲き出て彼岸花
参道に火の束を生み彼岸花
原子野の忘れな草や彼岸花
彼岸花石組あらき岡城址
一願を込めて突く鐘彼岸花
人声に裏へ廻れば彼岸花
日輪の及ぶ限りの彼岸花
昏れがての風を手放す彼岸花
彼岸花土にもどれぬ放射能
一群れが一花のごとし彼岸花
彼岸花果てし棚田の静寂かな
遠くから児のこゑのする彼岸花
農家へと誘ふ道の彼岸花
花よりも茎の冷たき彼岸花
彼岸花故里そこに見えてきし
天運を拾ひし我が身彼岸花
里山の「葉見ず」「花見ず」彼岸花
秋篠へ続く佐保路や彼岸花
畦道の色彩一変彼岸花
畦道に赤い帯引く彼岸花
さざれ石古刹のすみの彼岸花
彼岸花捨田一枚増えにけり
火の国の墓地に叢がる彼岸花
彼岸花棚田の空の澄みわたり
忽然と湧くかに畦の彼岸花
彼岸花酔ふほど話弾みけり
かたまりて炎のごとき彼岸花
地境の風からすうり彼岸花
蒲生野や城趾に野辺に彼岸花
彼岸花を残す草刈事業団
約束の如くに咲けり彼岸花
風あつめ捨て田の畦の彼岸花
夕映えの棚田ふちどり彼岸花
彼岸花群れて咲かざる城の杜
彼岸花群れて咲かざる森の奥
泣けるだけ泣いてしまった彼岸花
彼岸花見えかくれして友の行く
はじけ咲き枯れて葉を待つ彼岸花
咲き揃ひ仏むかへる彼岸花
咲く前は赤の縦線彼岸花
彼岸花遠流の島の行在所
彼岸花先づは仏をお出迎へ
彼岸花彼岸忘れず咲き揃ひ
彼岸花仏待つごと天仰ぎ
母逝きて虚しさ埋むる彼岸花
薬師寺へ歴史の道や彼岸花
刈取られ火屑の嵩の彼岸花
鑑真廟へ破れ築地や彼岸花
鳥声の谷戸や捨て田の彼岸花
登廊木立隠りの彼岸花
夕陽さす棚田の畦の彼岸花
禅寺へ至る小径や彼岸花
彼岸花咲けば戦死の父偲ぶ
彼岸花色を極めて棚田畦
黄泉人の挿頭(かざし)なるべし彼岸花
妻籠へと導くさまに彼岸花
落城の武将の塚や彼岸花
半袖に風知る季節彼岸花
咲く刻をしかと心得彼岸花
彼岸花連帯責任負ふつもり
故に咲くか特攻の地の彼岸花
彼岸花あくまで天日こぼさじと
ドアの無い黄泉平坂彼岸花
引き返す道など見えず彼岸花
お彼岸を知らせてくれる彼岸花
湖心より届くさざ波彼岸花
偕老老の平穏無事に彼岸花
句帳手の一団去りぬ彼岸花
軒下を通る江ノ電彼岸花
波立たす十石舟や彼岸花
たましひの帰る日燦と彼岸花
首塚の周り点々彼岸花
 
 
捨子花

 

捨子花顔仰向くるあはれなり
 
 
狐花

 

狐花すっくと伸び来夏おわる
わたくしのすべてみせます狐花
幽霊はなべて女や狐花
異星より着地せしかな狐花
忽然と庭に咲きたり狐花
狐花白きも咲きぬ稲荷みち
黄昏るる川に沿ふ径狐花
恋しくば尋ぬるあては狐花
咲きつなぎ山へ誘ふ狐花
 
 
葉見ず花見ず

 

葉見ず花見ず
「彼岸花」は、秋の彼岸の頃に咲くことからその名が付けられました。
インドでは"赤い花"を意味するマンジュシャゲ(曼珠沙華)と呼ばれ、日本でもこの名前が広く知られています。
「彼岸花」は気温が18℃から20℃になると、いっせいに咲き始めるため、昔から秋の種まきの目安にもなってきたということです。
とても生命力が強い花で、道端や川の土手などに、花火のように開いた赤い花がたくさん見られる風景は見事です。
その強さの秘密は、「彼岸花」の別名「葉見ず花見ず」に隠されています。
大輪の花を咲かせている「彼岸花」を見ると葉がないことに気づくことでしょう。
植物は葉の光合成によって栄養を作り出しますが、葉のない「彼岸花」はどうしているのでしょうか。その地中を掘るとスイセンに似た球根が出てきます。栄養はこの球根に貯蔵され、花や茎に与えられているのです。
そして花が枯れた後、球根からは今度は葉がスクスクと出てきて生い茂ります。
季節は秋から冬に移り、まわりの植物が枯れても「彼岸花」の葉は緑いっぱいに茂り、冬の陽だまりの中でせっせと光合成を行って、球根に栄養を貯めこんでいるのです。
やがて季節が春になり、周囲の植物たちが芽吹く頃、今度は葉が枯れて、球根は春から夏にかけて休眠状態となります。そして秋の彼岸の頃、何もなかった場所に数日にして茎を出して花を咲かせるというわけです。
このように、まわりの植物たちと季節の時間差によって競い合うことのない独自のスタイルを持つ「彼岸花」に驚かされます。
1日に10cmも伸びるといわれる「彼岸花」の下には、栄養を貯めこんだ球根があることを思い出してください。そして、寒くなった頃、同じ場所に茂る葉があるとしたら、それが花と一緒に見られることのない「彼岸花」の葉ということになりますね。 
狐の剃刀
葉の形が、剃刀に似ていることから、山の中で「狐」が使う「剃刀」、との連想でこの名前になった。ちなみに「狐」と名のつく草花は、本来のものに比べて見劣りがする、という意味をもつ。
和名:夏水仙の別名、科名:ヒガンバナ科。

お彼岸はまだ先のこの季節、ヒガンバナで有名な埼玉・高麗の巾着田を歩いて見つけた花。彼岸花科でもその時期には咲かず、ヒガンバナとは反対に開花前に葉が出て枯れ、花だけが咲いている。それが同じ場所に咲いていると云うことはまさにヒガンバナとは補完関係にある花なのだ。 毒性があるのは彼岸花と同じ。カミソリは花弁からでなく、春の芽吹いた葉の形からとのこと。それではキツネは? 下草の少ない雑木林に、突然茎を伸ばしてパット咲くオレンジ色の花が樹間に見え隠れして咲く様を見ると、美しくも妖しい雰囲気だ。まさしくキツネの舞台だと感じるのは考えすぎだろうか。この環境なら妖精のような節黒仙翁が咲いていても良いのに・・・と探してみたが見つからなかった。因みに花言葉は「妖艶・ようえん」である。 
雷乃収声 (かみなりすなわちこえをおさむ)
秋分の初候は、雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)です。次候は、蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)です。雷乃収声の前候は、玄鳥去(つばめさる)でした。気づくことは、これらはすべて春の候と対になっていることです。春は、蟄虫啓戸(かくれたるむしとをひらく)、雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)、玄鳥至(つばめいたる)の順になっていて、四季の巡りの微妙が、この七十二候に映し出されています。
さて、雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)ですが、読んで字の如く、雷が鳴り響かなくなる季節をいいます。秋分の日を告げるのが「雷乃収声」だというのは、とてもドラマチックな話だと思いませんか。
夏の間、夕立とともに鳴り響いた雷鳴は、この頃になると鳴りを潜めます。遠雷です。遠雷は夏の終わりを告げる雷です。
余談になりますが、立松和平に『遠雷』という小説があります。この小説は、野間新人文藝賞を受賞しており、根岸吉太郎監督によって映画化されています。バブル経済前夜の1980年代、都市化の波が押し寄せた宇都宮郊外を舞台にして、悩ましい青春物語が繰り広げられます。この映画はDVDにもなっており、主演は永島敏行と石田えりです。この映画では、最後のシーンに、雨がないのに「遠雷」が響きます。
舞台となった宇都宮は、「雷の銀座通り」とされ、「雷都」(らいと)と呼ばれています。宇都宮には、この名前がつけられた「雷都(ライト)ビール」という名の地ビールや、「雷都物語」という名前のお菓子もあります。
秋の雷鳴は、夏のそれと比べると寂しい音色です。
雷鳴は放電現象が発生したときに生じる音ですが、雷が地面に落下した衝撃音ではなく、放電の際に放たれる熱量により、雷周辺の空気が急速に膨張したときに生じる衝撃音です。秋になると、放電の熱量が小さくなり、したがって雷鳴の音量も小さくなるのです。
「雷」「かみなり」は季語としては夏を表しますが、「稲妻」は秋の季語です。
古語や方言などではいかずち、ごろつき、かんなり、らいさまなどとも呼ばれています。稲妻は、雷の光で、稲光(いなびかり)ともいいます。落雷した田では、稲が良く育ったため稲穂は雷に感光して実るとされ、そこから稲の「妻」と呼ばれるようになります。
古今集に、
「秋の田の穂の上を照らす稲妻の光のまにもわれや忘るる」 よみ人知らず
という歌がありますが、電光が稲を実らせることを歌っています。
秋の雷鳴は寂しいものですが、闇夜に走る稲妻は美しく、澄んだ秋の空気を裂いて夜空を明るくします。それはまるで花火のようで、ここに紹介した「稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ」という句は、そんな稲妻に魅せられた句です。
音もなく、遠くに稲妻の閃光が走る、それを眺めていると飽きることはないけれど、そろそろ寝る時間なのでは、という句です。中村汀女の句です。
汀女の有名な句に
「外にも出よ 触るるばかりに 春の月」
がありますが、秋の稲妻と似ています。汀女の句は、みなこのような句で、家庭的な日常茶飯を、その細やかな感情を、淡々と詠んだ俳人として知られます。現代女性に俳句を広げた功労者とされています。 
地獄花 / 母娘救った黒い粒
夏にコバルトブルーの花を咲かせる、草津市特産のアオバナ。夏空に映える鮮やかな色彩が草津の風物詩となっているが、地元のお年寄りには「地獄花」とも呼ばれる。その由来を伝える昔話が、同市木川(きのかわ)町に残っている。
その昔、草津川(現在は廃川)の近くの木川村に、病気の母を抱えて貧しく暮らすきよという娘がいた。ある日、夢の中に観音様が現れ「草津川の土手の一本松へ行きなさい。一日分の米を授けましょう」と告げた。行ってみると米がびっしり入った箱があった。しばらくは一日分の米を持ち帰っていたが、ある日、きよの心に欲が兆し、一度に数日分を持って帰った。翌日、箱には米ではなく黒い粒が入っていた。許しを請うきよに、また観音様からお告げがあった。「黒い粒はアオバナの種。青い花を摘み取って紙に染みこませなさい。京の友禅問屋に売れるでしょう」という。
畑に種をまき、夏に花を摘み取り、花の汁を染みこませた紙を京まで持って行くと、下絵の顔料として思わぬ値段で売れた。
ただ、毎朝のように咲く花を早朝から収穫し、炎天下で花の汁を和紙に染みこませて乾燥させる作業は重労働。きよは「地獄花ではなかろうか」とも思ったが、なんとか生計が立つようになり、母の病も治った。そのうちに近所の人も栽培を始めて草津一帯の特産物になった、と伝わる。
ほかに「天明年間(一七八一−八八年)に木川郷の老人が伝えた」(草津風土記)との逸話もあり、江戸期に貴重な現金収入の手段として、本格的な栽培が始まったとみられる。
木川町の実家がアオバナを栽培していた岸本浪枝さん(79)=同市南山田町=も、家族からこの話を聞いていたといい、「ほんまに地獄花でした」と、当時を振り返る。子どものころから、夏になると毎朝六時から摘み取りを始め、青い花が白くなるまで絞る作業を行っていたそうだ。
アオバナは現在でも、休耕田対策として市内の計約一ヘクタールで栽培されている。市農林水産課の井上薫さん(48)は「アオバナを利用した食品づくりなどで産業振興につなげたい」と話す。「地獄花」が農家を助ける日が再び来るのかもしれない。

アオバナはツユクサの変種で6月下旬から8月に花を咲かせる。水に流れやすい性質のため江戸期から、友禅染の下絵の染料として使われてきた。1981年には草津市の花に指定されており、上笠地域や道の駅草津(同市下物町)などで栽培されている。農家や市は「草津あおばな会」を結成してPRを続けており、アオバナを原料に使った緑茶や酒、クッキーなどの特産物も増えている。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
■彼岸 此岸 お彼岸
 
彼岸

 

雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶ。俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。
語源
サンスクリットのpāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来する。Pāramitāをpāram(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え(三途川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする。ただし、「波羅蜜」の解釈については異説が有力である。
由来
彼岸会法要は日本独自のものであり、現在では彼岸の仏事は浄土思想に結びつけて説明される場合が多くみられる。
浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられている(西方浄土ともいう)。
春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。
もとはシルクロードを経て伝わった、生を終えた後の世界を願う考え方に基づいている。心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われることを願ったもの(念仏)と理解されているようだ。
しかし後述のように、天皇の詔として始められた行事であったが、いつの時代も人として、生を終えた後の世界への関心の高いことは同じであり、いつの間にか生を終えていった祖先を供養する行事として定着するに至った。
彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言える。日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教の頃からつきものなのである。仏教語の彼岸は後から結びついたものであるという説(五来重による)もある。
歴史
806年(大同元年)、日本で初めて彼岸会が行われた。このとき崇道天皇(早良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』に記述されている。
風習
供物
日本で彼岸に供え物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだ10cm弱の菓子として作られるのが一般的である。これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来すると言われる。
彼岸抄
日蓮の『彼岸抄』によれば、彼岸の期間は善行・悪行共に過大な果報を生ずる特別な期間であるから、悪事を止め、善事に精進するよう勧めている。
「梵王・釈王・閻魔王の三人の計(はからい)として三巻の帖帳あり。 善悪無記に各一帖也。 是の帖を勘定の為に欲色二界の中間、中陽院と云う所に冥衆集まり、各々の帳を談合し、八度これを校し三度これを覆す。治定再治して印判を押し、善悪を定判し決断する時節也。 若しこの時衆生有って一善を修すれば、仮令(たと)え衆罪の札に著く可きも善根の日記に著くるなり。 悪業を作れば善の筆を留めて悪の札に定む。 是(ここ)に知んぬ、善悪決定の時節なり。二季の時正、此の時に小善は大善となる也。小悪を作ればまた大悪となる者也。善悪二の道を定むといえども、一善なれども能く菩提の彼岸に到たる故に彼岸と號する也。 若人年々月々の罪業の札をけして善の札に改め、決定して菩提を得んと欲する者、此の七日の内に一善の小行を修せば、必ず仏果菩提を得べし。余の時節に日月を運び、功労を尽くすよりは彼岸一日の小善は能く大菩提に至る也。 誰の人か、此の時節を知って小善をも修せざらん。彼の極熱の日に藍を曝し、極寒の水に錦を洗うに色変ぜざるが如く、又蜀川に錦を洗うに其の色を倍し、楚山に玉えを練るに光をはくが如し。此の日時に善根を修すれば永く改転無く能く増益せん。」『彼岸抄』
時節
気候
日本の気候を表す慣用句に「暑さ寒さも彼岸まで」があり、残寒・残暑は彼岸のころまで続き、彼岸をすぎるとやわらぐという。
季語
俳諧では「彼岸」は春の彼岸を意味し、「彼岸」「彼岸前」「彼岸過」「中日」は春の季語である。これに対し、秋の彼岸は「秋彼岸」「秋の彼岸」という。 
此岸(しがん)
仏教において彼岸に対比される世界をいい、私たちが住んでいる現世のこと。
仏教の民間信仰の教えの一部では、仏の世界は大きな川を隔てた向こう側にあるとされ、彼岸と呼ばれる。それに対し、人間の住む世界を此岸と呼び区別している。死後には彼岸へいけると考えられ、彼岸では、煩悩に煩わされることなく永遠に平穏無事に暮らせると考えられている。それに対し現世である此岸は生きた人間であるゆえの煩悩に苦しめられ、あくせく暮らすとされる。彼岸と此岸の距離は、暦により変化すると考えられ毎年、3月20日の「お彼岸」は彼岸と此岸がもっとその距離が縮まると考えられる。 
他界
人が死亡した時、その魂が行くとされる場所。あるいは、亡くなった祖先が住まうとされる場所。地域によって山上他界、海上他界と呼ばれるほか、地中他界という考え方もある。これらの他界の種類によって、当然葬儀の制度「葬制」に特徴が表れている(海上他界での水葬、地中他界のなごりの土葬など)。
人は死んだら他の世界に行くという思想は多くの民族に見られる。黄泉、極楽浄土、天国(あるいは地獄)、死者の国など、その呼び方は地域や宗教によって多くの種類がある。ヨーロッパの神話、伝説でも冥界、冥府、黄泉の国という考え方は古くからあり、ギリシア神話でもゼウスとその兄弟たちが巨人族との戦いで勝利した後、その支配する世界は、天上界、海、冥府と3分され、冥府はハーデースが支配することになった。これは、地下の世界と考えられている。北欧神話でも、ヴァルハラとして登場する。これは戦場で名誉ある死を遂げたものが招かれる場所である。これらに共通しているのは、場所を具体的な「国」として認識している点で、自分の属する「国」と死者が属される「国」に境界線をはっきりと引いている。このような類似性を説明するものとして、ユング心理学で人類は深層心理で集合的無意識を共有しており、共通した元型として表出されているとする説がある。
なお、現代の日本語では、人が亡くなった事を丁寧に言う表現として、他界へ行ったという意味で「他界(する)」という。
山上他界
日本の昔の信仰では、亡くなった人の魂は山の上の遥か彼方に行ってしまうと信じられており(羽衣伝説の中で、天女の衣を富士山の上で焼いたという一節がある)、葬儀の際の野辺送りは山送りとも呼ばれた。
山上他界をよく表しているのが神仏習合の結果としての修験道で、これは他界あるいは死の世界で修行を積み、現世に帰還できれば常人の持てない力を身に付けられるという信仰による。これは仏教で生きながら仏(原義は「悟りを得た者」)になる即身成仏の観念とも通じるものがあった。
亡くなった祖霊の住処である山を囲って霊域(山中他界と言う)として、そこを霊の祀り所として禁忌の場所とした。(恐山などの霊場信仰)
一説には、仏教において寺院の名に「○○山△△寺」と山号を付ける理由は、そこに由来しているとされている。
海上他界
九州や南方の島々、或いは瀬戸内地方では、人は亡くなったら海の彼方に行ってしまうと信じられており、こちらは海上他界、海上他界説という。常世の思想、ニライカナイや竜宮伝説は、この海洋信仰の延長線上にあるとも言われている。
平安時代末期から室町時代末期の間、紀伊で主に行われた普陀洛渡海は、この海上他界信仰を基にしている。
地中他界
その他に地中他界、地の下はるかに死者の霊魂の眠る国があるという考え方がある。「根の国」、「黄泉」と言われる。日本神話では、イザナギとイザナミの例があるし、ヨーロッパではオルペウス物語やヴェルギリウス作の『アエネーイス』第6巻にその例がある。『アエネーイス』では、地下界として出てくる。
巨獣内他界
かなり特殊な例といえるが、アフリカのズール族に伝えられるもので、内容は、2人の子が象に飲み込まれ、母親も後を追って、胃の中に達すると、森や河、数多くの高原が見えてきた。一方では数多くの岩があり、その間に村が点在していて人々が生活していた。そして、そこには子供達もいた。
他界への旅立ち
他界へ旅立つ際には、境界としてステュクス川などの川またはその川に架かる橋や門といった象徴が世界中でよく用いられる。
死者の魂を他界へと運ぶとされるものとして、馬や鳥、船といったものがある。馬は、ケルト神話の死の女神エポナなどが有名であり、ヨーロッパで信仰が衰えた後も、ケルピーといった命を奪う妖精伝承の形で残っていると考えられる。鳥は、葬儀に鳥葬といった形式があり、また霊魂の表象として広く用いられる。船は、上述のような境界となる川を渡すものである他、船葬としてヴァイキングなどの風習が知られている。副葬品としての船も各地で見られるものである。
昔話研究者として知られるウラジーミル・プロップは、多くの昔話において上記の三つが主人公の移動手段として典型的であり、他界への旅との関連性を指摘している。
別例として、アフリカのズール族の場合、男がヤマアラシの後をつけて一昼夜旅をしたところで一つの村にたどりつき、そこで見た光景は、釜炊く火の煙、人々が忙しく動き回り、犬は鳴き、子供達は騒がしくわめき、山・崖・河のたたずまいも地上の世界と少しも変わらなかったが、「近づいてよく見たいところだが、捕まったら命がない」と思い、大急ぎで駆け戻ってみると、地上では自分の葬儀が行われていたという話が伝えられている。
他界へ行く生者の物語
旅立つ先は主に死後の世界であるが、文学では生者が他界へと行って戻って来るという神話、説話が見られる。日本でいえば、イザナギがイザナミを連れ帰るために、黄泉の国へ行って帰ってくる『古事記』の話が有名である。
アイヌにも同様の口承文学はみられ、沙流郡平取町のアイヌ・カレピアが伝えた話として、ある酋長夫婦が和人の国へ交易へ出かけた帰りに遭遇したこととして、つたいづたいで海岸に泊まりながら移動し、ある崖山の浜に舟を置き、一休みしていると、大津波が寄せて来た。妻の手をとり、崖を上って避難する中、洞窟があり、逃げ込むとその奥は明るく(洞窟の外は夜)綺麗な村があった。村人に話すと、ここが死者の国であり、ここの食物を口にすると人間界に帰れないことを説明された。また死者の国だが、クマもシカもいるため、狩りで食べていける上、生前使っていた道具ももっていけるといわれた。そのため、何も食べず、急いで帰るようにと死者の忠告を受け、あそこは悪魔が住んでいる浜辺で、津波も悪魔が見せた幻であるから、舟も無事であると説明を受ける。帰りの途中、見知った老人と見知らぬ老人とすれ違うが、2人ともこちらの姿は見えない様子だった。夫婦はそのまま舟で生まれた村に帰った。
また、この文学的な描写は、20世紀のファンタジー文学の名作『指輪物語』、『ナルニア国物語』に見られる。現実での例は滅多になく、その少数が臨死体験などに見られる。その際、前述のような象徴を見聞きする体験を伴い、死後の世界の証明だと主張されることもあるが科学的検証の裏付けはない。 
 
 
彼岸 2

 

春分の日(3月20日頃)と秋分の日(9月23日頃)を中日〔ちゅうにち〕として前後3日間の7日間のことを「彼岸」といいます。そして初日を「彼岸の入り」といい、最終日を「彼岸の明け」と呼んでいます。地方によって若干の違いはありますが、先祖を供養し、ぼた餅やおはぎ、お団子や海苔巻き、いなり寿司などを仏壇に供えます。
日本固有の信仰
彼岸という言葉は仏教用語からできたもので、梵語〔ぼんご〕「波羅密多〔はらみた〕」の訳だと言われています。正しくは到彼岸〔とうひがん〕、つまり生死を繰り返す迷いの世界(生死輪廻〔しょうじりんね〕)である此岸(この世)を離れて苦しみの無い安楽(涅槃常楽〔ねはんじょうらく〕)な彼岸に至るという意味です。その内容にも仏教の影響が多く見られますが、他の仏教国には無い日本固有の信仰です。
不安の中から生まれた思想
ある説によると、彼岸の起源は平安時代までさかのぼるようです。
この頃、政権を争う戦いが長く続き、その不安から人々の間で"1052年に仏の教えが消滅してしまう"という「末法思想」が広まり、社会現象になり始めました。信者達は、現世で報われないのなら、せめて死んでから極楽浄土へいけるようにとすがるようになりました。初めは浄土宗の人たちだけの信仰だったようですが、あまりにも戦乱が長く続いたため一般の人にまで広がりました。
仏教の教えには、何でもほどほどが良いという「中道」という考え方があります。その考えと合致して出来たのが「彼岸」だといわれています。春分と秋分の日は昼夜の長さが同じになります。また、暑くも寒くもないほどほどの季節であり、 太陽が真西に沈む時期なので西方極楽浄土におられる阿弥陀仏を礼拝するのにふさわしいという考えから、次第に人々の生活に浄土をしのぶ日、またあの世にいる祖先をしのぶ日として定着していったようです。
牡丹餅とお萩
お彼岸に良く見られる「ぼたもち」と「おはぎ」は、餅米とアンコで作られた同じ食べ物です。しかし食べる時期が異なる為、それぞれの季節の花を意識して名前が変えられています。春の彼岸にお供えする場合は「牡丹餅」と書き、一般的にはこしあんを使用します。一方、秋にお供えする場合は萩〔はぎ〕の花を意識して「お萩」と呼ばれ、あんは粒あんを使用します。
また、あずきは古くから邪気を払う効果がある食べ物として食べられており、それが先祖の供養と結びついたと言われています。 
 
 
「此岸(しがん)」と「彼岸(ひがん)」 3

 

此岸(しがん)とは
此岸は私たちの住んでいる世界の事で、欲や煩悩にまみれた世界です。さまざまな苦悩に堪(たえ)え忍ばねばならないこの世界を、サンスクリット語では「サハー」といい、「忍土」という意味です。これを中国語では「娑婆」と書き、世間の事を俗に「しゃば」というのは、ここから来ています 。
彼岸(ひがん)とは
釈迦が「彼岸に渡れ」と説いたように、彼岸は人々が欲や煩悩から解放された世界です。彼岸はサンスクリット語で「パーラム」、渡る事は「イター」といい、これをつなぐと「パーラミター」となります。どこか聞き覚えにある言葉です。これは有名な「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の一節「波羅蜜多(はらみつた」の事です。大乗仏教の基本経典で、まさしく「彼岸へ渡る」事を説いたものです。
釈迦が説いた教えは「どうしたら幸せになれるか」という事がテーマになっています。
此岸と彼岸の間には、仮に大きな川があると想像して下さい。自分がいる方を「此岸」、向こう岸を「彼岸」とします。仏教では、私たちが住む「此岸」を凡夫の世界(煩悩にあふれた世界)、「彼岸」は仏の世界(煩悩の火が消えた、涅槃の世界)と考えます。
釈迦は、「人は此岸では真の幸せになれなから、彼岸に渡れ」といい大きな川を渡る方法を説きました。そこで問題になるのは渡る方法です。小乗仏教の教えた方法は、川を渡れるのはごくかぎられた人々です。しかし、これは釈迦の望んだ教えではないとして、すべての人が渡れるように方法を説いた大乗仏教が誕生しました。
釈迦は最初に川を渡る専門家たちに「出家せよ」と説きました。なぜなら、川を泳ぐ為には、身ひとつでなければ泳げないからです。服を着たまま、あるいは財産など持って行けるわけがない。また、自分1人でも泳ぎきれるかどうかわからない。だから、妻子も捨てて、「裸になりなさい」と教えたのです。やがて、出家した者が渡りきった後には、必ずすべての人々が渡れる橋がかかる。釈迦はのちに人々を導く役目を出家僧たちに託しました。
此岸にいながら彼岸に渡る六つの方法
小乗仏教では出家して修行を積む事が彼岸へ渡る方法と考えました。しかし、こうした修行は普通に暮らす人々には無理です。いつまで経っても不幸のままです。
では、大乗仏教では、どうすれば良いと考えたのでしょう。大乗仏教の根本的な教えを説いた経典に「般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみつたしんぎょう)」があります(「般若心経」の事)。「般若」とは智慧(ちえ)、「波羅蜜多」とは彼岸に渡るという意味です。つまり、「般若波羅蜜多心経」は「智慧で彼岸に渡る」方法を中心に説いた経典といえます。という事は、「わざわざ彼岸に渡らなくとも良い」、此岸にいながら、彼岸の智慧を身に付ければよいのだと教えています。
小乗仏教のように出家して、厳しい修行を積んで彼岸に渡らなくとも、在家(ざいけ)の普通の人々でも実践できる方法を「般若波羅蜜多心経」は教えています。
どうしたら彼岸の智慧を身に付けられるか?
大乗仏教では、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」の実践がすすめられます。
この六波羅蜜はすべて実践できる、実践すべき教えです。実践することにより、般若(単なる智慧でなく、どこまでも深まっていく智慧)が身に付きます。ひいては、此岸にいながらにして彼岸に渡ることになります
1.布施波羅蜜(ふせ) 布施をすること
2.持戒波羅蜜(じかい) 戒律を持って生きること
3.忍辱波羅蜜(にんにく) 堪え忍ぶこと
4.精進波羅蜜(しょうじん) 努力すること
5.禅定波羅蜜(ぜんじょう) 座禅すること
6.智慧波羅蜜(ちえ) 前五つの波羅蜜の実践によって得られる智慧のことです。
六つの波羅蜜(はらみつ)が何であるかはわかったものの、実際には何をどうすればよいのか? 
此岸にいながら彼岸に渡る六つの方法
布施波羅蜜(ふせ)
布施といえば、誰かにものをあげること、というのが普通の考えますが、仏教の考え方では、・・・
例えば、物乞いがいてお金を恵んであげようとする。このとき「少ないとケチと思われるかなぁ」あるいは「金持ちだと思われたいから、少し奮発するか」などと考えてはいけません。物乞いがいるから、お金をあげる、それともさっさと無視する、どちらかでよいのです。これが真の布施です。あれやこれやと考えたら、それは布施でもなんでもありません。
本当の布施とはこだわりをなくしてすべきです。
持戒波羅蜜(じかい)
持戒とは戒律を持って暮らす事です。仏教では在家の人が守るべき五戒があります。
1.殺生(せっしょう)をしてはならない
2.盗みをしてはならない
3.淫らな愛欲の行為をしてはならない
4.他人を欺いたり,嘘をいってはならない
5.深酒をしてはならない
ずいぶんと難しい事をおっしゃると思うでしょうが、例えば、嘘をつくと、それをごまかす為に、また嘘をつきます。はじめから嘘などつかなければ、その後に嘘をつく必要はないはずです。本当の持戒はただ守るだけのものではありません。戒律を持つことは、戒律がまた私たちを守ってもくれます。
忍辱波羅蜜(にんにく)
忍辱とは耐え忍ぶことである。こういうと怒りたいときに怒らず、文句もいわずグッと我慢することだと思う人が多いでしょう。殊に日本人は、こういうことが美徳だとさえ感じています。しかし、本当の忍辱とはこのことではありません。
私たちは「人さまに迷惑をかけてはいけない」と常々いっている。しかし人はどこかしらで、必ず他人に迷惑をかけて生きているものである。それを自覚せよと、仏教は教えている。自覚すれぱ「すみません」と詫びる心が芽生えてくる。この心があれば、他人の迷惑も許すことができる。
忍辱とは他人の迷惑を許すことである。
精進波羅蜜(しょうじん)
精進とは「ゆったりとした生き方」です
ある剣客のところに一人の剣客Aが入門を請いに来ました。「先生、私が本気で修行をすればどれくらいで奥義を得られるでしゅか?」と聞きました。「まあ、5年くらいだろう」と答えました。「それでは寝食を忘れて修行すれば?」と聞くと、「それなら10年くらいだろう」「では、死ぬ気で修行すれば!?」すると「一生かかっても無理だな」と答えました。これを聞いた剣客Aはとうとう怒りだしました。しかし、剣客家はなぜだかわかるまでは、入門を赦さないと言いました。
実は、剣客Aは本当の精進を知らなかったのです。血のにじむような精進は精進ではなく、単に執着、執念である、と言う事に気づいていません。仏教ではこれを捨てよ、と教えているからです。
本当の精進、本当の努力とは、当たり前の事を当たり前にし、ゆっくりと着実に努力する事です。
釈迦は必死で苦行を重ねた結果、「中道(ちゅどう)」に気づかれました。人間らしいゆっくりとした生き方がこれです
禅定波羅蜜(ぜんじょう)
禅定といっても、いわゆる座禅をすることではありません。もちろん座禅をしても良いのですが、ここでいうのは禅的な生き方の事です。つまり、仕事をする時は仕事に、ごはんを食べる時はひたすらごはんを食べる。掃除をする時は掃除に、遊ぶ時は遊びに専念する事です。
日常のすべての立ち居振る舞いを、座禅と同じように、集中して、そのものになりきってせよ、という事です。
「○○しながら○○をする」をやめる事です。
智慧波羅蜜(ちえ)
この世の知恵ではなく、彼岸の智慧で生きる
本当の布施、本当の持戒、本当の忍野、本当の精進、本当の禅定、これらを実践するには、これまで私たちが常識だと信じてやってきたことを、もう一度別の方向から、別の視点で見直すことが必要だといえます。
常識や世間体にがんじがらめになった生活を、もっと風通しのよい生活にする。これが本当の智慧である。  
 
 
お彼岸 / 極楽浄土への道 4

 

お浄土へ思いをよせ、ご先祖から伝えられた「命」の尊さをかみしめましょう。
お彼岸がやってきます。仏道実践週間ともいわれるこのお彼岸を好機に、お念仏生活へ一歩を歩みだしましょう。
お彼岸を迎えるにあたって
「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、お彼岸は春夏秋冬の四季にめぐまれた日本独特の仏教行事です。
私たちはこの仏教行事をとおして季節の移ろいをも感じとっています。お彼岸につきものの春の”ぼたもち(牡丹餅)”、秋の”おはぎ(御萩)”などもその表れといえるでしょう。
しかし、この彼岸は季節を表す言葉ではありません。
私たちは日ごろ、「あの世、この世」という言葉を使います。「この世」はもちろん私たちの生きている現実世界であり、「此岸(しがん) 」です。
此岸は煩悩渦巻く「四苦八苦」の世界です。限りある苦悩の世界をいとい離れて求められるのが、「あの世」すなわち「彼岸」なのです。
彼岸は限りない命と智慧に満ちあふれた世界です。阿弥陀さまの浄土、西方極楽浄土こそが、私たちの願い求めゆくべき彼岸なのです。
彼岸という仏教行事をとおして私たちは、今を生きるこの私の命がご先祖から永々と伝えられて来た「命のバトン」を受けて生きているという事実を再確認し、彼岸にいらっしゃるご先祖をしのぶとともに、この私も命おえる時には彼岸での「倶会一処(くえいっしょ) 」を願い求め、「四苦八苦」の世界に埋没することなく精進してまいりますという心を堅固にすることが大切なのです。
彼岸への一筋の道
ここで、中国の高僧善導大師が説かれた「二河白道(にがびゃくどう) 」のお話をご紹介しましょう。彼岸と此岸との対応が明確にあらわされています。
一人の旅人が、東から西への旅路を歩いています。突然前方に河があらわれました。立ち止まって後を振り返ると、盗賊や猛獣・毒蛇が襲いかかってきます。
旅人は河の間に小さく細い白道を見つけました。しかし白道の左の方には猛火が燃えさかり、右手は急流が押し寄せてきます。進むも死、戻るも死と、全くの絶望状態です。旅人は躊躇していました。すると、迷っている旅人の耳に、東の岸から声が聞こえて来ました。
「決心してその白道を歩みなさい。死ぬようなことはありません。そこにとどまっていたら死ぬでしょう」と、そしてさらに進もうとする西の岸からも、それに呼応するように「心から信じてすぐこちらに来なさい。私があなたを守ってあげよう。水の河、火の河を恐れることはありません」という声が響いてきました。
その声に励まされて前進する旅人ですが、背後から盗賊や猛獣・毒蛇の声が。「早く引き返しなさい、その道は通れない、行けば死ぬだけだ。我々はあなたを殺したりはしない、引き返しなさい」
旅人はその誘惑に乗ることなく白道を進み、ついに向こうの岸に到達することが出来たのです。
賢明な読者の皆さんはお気付きのことと思います。東岸は娑婆、西岸はお浄土です。盗賊や猛獣・毒蛇は私たちの心に住む煩悩を、火の河は怒りの心、水の河は貪りの心を意味しています。白道は彼岸に到ろうとする清浄な心、東岸の声の主はお釈迦さま、西岸からのそれは阿弥陀さまの呼び声なのです。
お彼岸の由来
さて、私たちが春秋に迎えるお彼岸は、それぞれ春分、秋分の日を中日としての一週間をいい、日本独特の行事です。そしてこのような形態で行われるようになったのは聖徳太子の時代からといわれています。平安時代初期から朝廷で行われ、江戸時代に年中行事化されたという歴史があります。
さらにその根拠を尋ねてみますと、前述の二河白道を説かれた善導大師の著書『観経疏(かんぎょうしょ) 』の「日想観」が源となっています。
善導大師は春分、秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈むところから、その陽の沈みゆく西方の彼方にある極楽浄土に思いを凝らすのに適していると説かれました。
お彼岸はこの日想観を行って極楽浄土を慕うことを起源とした仏事なのです。
皆さんも、是非このお彼岸には実践してみてください。ビルの谷間に沈みゆく太陽であろうとも、その彼方には極楽浄土があるのです。
お念仏で彼岸へ渡ろう
私たちが求め慕う彼岸、極楽浄土にはどうすれば到達することができるのでしょう。
煩悩の水火渦巻く私たちにとっての「白道」とは何でしょうか。
阿弥陀さまは、私たちのように自らの力で煩悩を断ち切れない凡夫に救いの手をさしのべる本願を選びとってくださっています。お念仏のみ教えこそが、私たちにとっての「白道」なのです。
お念仏の生活を日々送ることが、彼岸への道を歩むことなのです。
私たちには煩悩の荒波を鎮めたり、猛火を消し止めて彼岸へ到達することはできません。阿弥陀さまの本願の船に乗って彼の岸へ渡らせていただくのが唯一の道なのです。
お念仏の心構え
私たちの彼岸へのよりどころであるお念仏、どのような心でお称えすればよいのでしょう。究極には法然上人のお言葉「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」につきるのですが、お念仏を称える心のありかたとして説かれている「三心」についてふれてみましょう。
その第一は「至誠心(しじょうしん) 」です。「至というは真なり、誠というは実なり」というように真実の心、内面にも外面にも嘘偽りがなくありのままの飾ることのない心を「至誠心」といいます。次に「深心(じんしん)」が挙げられています。「深心とは、すなわちふかく信ずるこころなり」なのです。何を深く信じるのかということですが、二つあります。信機、信法です。
「はじめにはわが身の程を信じ、のちに仏の願を信ずるなり」のお言葉があります。
信機はまさに「身の程」を知るということです。「なすべきことをなさず、すべきでないことをしてしまう自己に気付く」ということでしょう。
そんな私をも、阿弥陀さまはお救いくださるのだ、お念仏を称えて、阿弥陀さまの本願力に乗じて必ず往生するぞ、と信ずる心を信法というのです。
三番目は「回向発願心(えこうほつがんしん) 」です。これは、私たちが前世から今に至るまでなしてきた、あるいはこれからなす全ての善い行いの功徳を振り向けて極楽往生、彼岸への到達を願う心をいいます。
このように三心を述べてみるとそれぞれ別個のもののように思われますが、「極楽往生を願う心に嘘偽りがなく、心底往生をしたいと思うのであれば、三心は自然にそなわってくる」と法然上人はおっしゃっています。
このお彼岸を好機として、彼岸への思いを深め、そこへの歩みを踏み出したいものです。
 
 
お彼岸 5

 

一.彼岸の意味  
「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように彼岸になると季節の移り変わりをはっきりと感じる。ことに春の彼岸をむかえると草木の新芽が陽光に輝いて、世の中が明るくなってきたようで心身が一新させられる。このような自然の美しい変化のときに彼岸の行事が行われることは、先人の智慧から生じた尊いならわしであろう。日頃は生活に追われて先祖のことを忘れていても彼岸を迎えると、亡き祖先や知人のことが偲ばれてお墓にお詣りをしたいという気持ちが自然に起こってくる。
彼岸は春分(秋分)を中心としてその前後三日を加えて計七日間を彼岸と言っている。彼岸は梵語ではパ−ラミタ−と言い、波羅蜜の漢字をあてており、到彼岸と訳している。一般にはお彼岸と略されて親しまれている。
インドの龍樹(一五〇〜二五〇頃)というすぐれた学僧は大智度論第十二の中に「生死をもって此岸となし、涅槃を彼岸となす」と述べて現実の生と死に苦悩する此岸を脱却して涅槃というべき悟りの世界へ到達することを強調している。また金剛経には「生死をもって此岸となし、煩悩を中流となし涅槃を彼岸となす。仏の智慧を舟の楫(かじ)となして、よく生死の岸を離れ、煩悩の流れをわたり涅槃の岸に登る」と説かれている。これらの教義を背景として、彼岸を求める風潮が、大衆の先祖を思う気持ちと合して彼岸の行事が起こってきたように思われる。
二.彼岸の起源
日本ではこの彼岸会について、「日本後記」の中に次の如くのべている。「大同元年(八〇六)三月辛巳に、崇道天皇光仁天皇の子早良(さわら)親王のために諸国国分寺の僧をして春秋二仲月別七日、金剛般若経を読ましむ」とある。大同元年は五月十八日改元しているから延暦二十五年となる。早良親王は光仁天皇の子、桓武天皇の弟である。七八五年崇道天皇と追号されている。延暦二十三年は伝教大師、弘法大師が唐の国へ留学している。二十四年最澄は帰国し天台法華宗を弘めた。今から約千二百年位以前の時代である。しかしお彼岸の行事はこれより前から行われたと思われるが、文献上ではこの日本後記の説を始めとしている。
三.彼岸の実現
この此岸から彼岸に到るのに六つの方法があるといわれ、これを六波羅蜜という。(昭和六十三年秋彼岸号を参照)
1.布施=ほどこしをすること。この施しに財施、法施、無畏施、がある。金品を施し、人につくすのが財施であり、精神的に悩む人に教え、忠告を与えて励ます法施、心の不安、恐れを除く無畏施などがある。
2.持戒=戒律をまもること。いろいろの戒があるが基本的には五戒である。(1)生きものを殺さない。(2)ぬすみをしない。(3)よこしまな異性関係を結ばない。(4)うそをつかない。(5)酒におぼれない。この五戒は仏教徒のいましめを示す。昔も今も人間行動の根源がはらむ負(ふ)の傾向は変わらないようである。
3.忍辱=たえしのぶこと。苦難に対して忍ぶことは人間をきたえるためにも大切なことである。最近は物が豊かになり生活が便利になるにつれて、たえしのぶということがうすれてきたことは残念に思う。
4.精進=努力すること。精進というと精進料理を思い出すが、本来の意味は一心に励むことである。今日日本は経済的に豊かとなり、もっと休みを多くすべきであるといわれる。休日をとることはそれなりの意味があるが、精進の心がなくなったら身を亡ぼしてしまう。
5.禅定=心を静かにおちつかせる。今日の社会変動の激しさは昔とちがってめまぐるしい。情報の急流の中をおぼれず、自己を適正に処していくことはむつかしい。したがって心の散乱はどうしょうもない。こういう時に心をおちつかせ静かに己れをみつめたい。
6.智慧=仏さまの智を体得しよう。われわれは情報過多におぼれて、ともすれば本末顛倒の行動に落ち入りやすい。いろいろの知識を照らして生かすのが智慧であり、この智慧を磨きたい。
四.生きがいのある人生
日蓮大聖人の「新池御書」に
「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて夜明けなば栖つくらんと鳴くといえども日出でぬれば、朝日のあたたかなるに眠り忘れて又栖をつくらずして一生虚しく鳴くことをいう。一切衆生も又復是くの如し。」
と述べられている。天竺(インド)の雪山という山に寒苦鳥という鳥がいた。メス鳥は夜になると「寒くて寒くて死にそうだ」と泣きながら言い、オス鳥は「夜が明けたら巣を造ろう」と鳴いていた。そして夜が明けて陽光に照らせれると、「前夜は泣きあかして眠れなかった。今のうちに寝なければ死んでしまう。」と思って眠ってしまう。夕方寒くなって眼がさめ、暗くなると一晩中寒さのために泣きあかす。明日こそは巣を造ろうと思いながらも陽が照りだすとその暖かさについウトウトとして寝こんでしまう。
われわれもこの寒苦鳥のように、一生をむなしく送っていないだろうか。お彼岸という大切な縁を生かして、この世に生を受けた悦びを感謝し、法華経の御恩に報いるよう努めたい。法華経では彼岸(理想の境地)ははるか彼方にあるのではなく、現実の一歩一歩進む過程の中にあると説かれる。一歩ずつ理想像を描きつつ、生の充実を味わい、信仰の光を点じたい。 
 
 
春分・秋分の日

 

春分の日
太陽の中心が春分点(天球上の赤道を太陽が南から北へ横切る瞬間の交点)に達し、全地球上の昼と夜の長さがほぼ等しくなる。
この日を境にして夏至まで昼間が徐々に長くなり、夜が短くなっていく。日本で昼夜がほとんど等しくなるのは、春分より3日前である。
昭和23年に「国民の祝日に関する法律」により、春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」と制定された。
旧暦2月の中気で、お彼岸の中日でもある。真西に日が沈むこの日、真西に沈む太陽は極楽の東門に入ると伝えられていることから、この日の太陽を拝むと、浄上の東門を拝むことになり、極楽浄土は十万億土を隔てたところにあるといわれ、この極楽が最も近くなる日が彼岸の中日と考えられている。この日に故人の霊を供養すると、迷わず極楽浄土に成仏できるといわれており、死者の冥福を祈り、仏供養、おはぎ(ぼたもち)、草餅、五目ずし、稲荷ずしなどを作ってお墓参りをする。
「暑さ寒さも彼岸まで」という言うように寒さも峠を越して温和な気候になる。
秋分の日
二十四節気の一つ。
太陽が秋分点に達した時で、旧暦8月酉の月の中気です。この日を秋の彼岸の中日と称し、祖先を供養し、墓参りなどが行われます。
彼岸は、春分・秋分の日の前後7日間を称し、到彼岸(波羅密多という梵語の漢訳)からきています。 春分と同じく夜と昼の長さが等しく、これより徐々に昼が短く、夜が長くなっていきます。日本で昼夜がほとんど等しくなるのは秋分から3日後になります。 また、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように暑さも峠を越し、過ごし易い気候になります。
彼岸
春分、秋分の日をはさむ前後七日間を彼岸と言いう。 初日は彼岸の入り、中心の日は中日、最後の日を彼岸明けといって、合わせてこの七日間は、各寺院、家庭で彼岸会の法要が行なわれる。「春分の日」は「自然をたたえ生物をいつくしむため」に、また「秋分の日」は「祖先を尊び、亡くなった人をしのぶため」に、国で祝日に定めているように、彼岸は、あの世(彼岸)の死者の安らかな成仏を願うという意味にあてられている。
仏教では、生死の苦しみに迷う現世を此岸と言い、悟った捏磐(ねはん)の境地を彼岸と言う。この彼岸が、なぜ春分、秋分の日と結びついたかというと、浄土三味経に八王日(立春春分、立夏夏至、立秋秋分、立冬冬至に善行を修すべし)の思想があり、また春分と秋分が、昼夜等分で長短のない中道の時で、仏道もまた中道を尊ぶところから、この時に仏事を行なうという考え方が生まれたと言われている。
彼岸の習俗としては、寺参りや墓参りをして亡き人を供養し、家庭では仏壇を清めて精進料理やぼたもちを供え、親類知人に配るなどが一般的である。しかし地方によっては特殊な習慣を残しているところもあり、兵庫県の一部では、落日を拝むと吉として、彼岸中日に、午前は「目迎え」といって東に、午後は「目送り」といって西へ向かって山野を歩くならわしがあり、熊本の阿蘇山麓では「彼岸ごもり」といって、春秋に登山する風習がある。これなどは、自然と一体感を持とうとする仏教が、はっきりとした影響をとどめている例といえるだろう。また岩手県の一部では、死人の思うことを巫女の口を借りていわせる「口寄せ」などの例もある。
彼岸の食べ物
彼岸に、仏前にささげる料理は精進料理です。仏教では殺生禁断の思想があって、生き物を殺したあとの肉は食べてはいけないことになっていることから、野菜、乾物類を中心とする献立を立て、だしも、しいたけなどの精進だしを使う。これは秋の彼岸、法事、孟蘭盆合のときも同様である。客寄せをしたときもこの原則は変わないが、あまり淡泊にすぎないようこくのある味つけを工夫しましょう。季節の旬の野菜をじょうずにとり合わせ、ごま、ゆば、ひりようずなどの植物性蛋白のものを多く使う。
そのほか、なじみの深いものに、ぼたもちがある。春はぼたもち、秋はおはぎといって、名を区別するのはその季節の花の名前をかけたものと思われるが、もともとは神仏に供えた、ただのもちであった。これが携帯食として重宝がられ、塩あずきあん、砂糖あずきあんを中にくるんだり、表にまぶしたりして食されてきた。最初は農家の間食用のそまつなものだったのが、しだいに形も小さく、味つけも上品になって、今日に至っている。死出の旅をしている亡き人の「持ち飯」の意味もあるのかもしれない。
いなりずしも精神料理の一つで、あぶら揚げをしょうゆと砂糖で煮つけて、これにごはんを詰める。生ぐさいものは使わないから、ご飯に具をまぜるにしても、にんじん、いんげん、しいたけなどの野菜類に限る。
彼岸の墓参り
家庭では仏壇を掃除し、新しい水と花を供え、僧侶に来ていただいて読経をする。伝次郎家では、墓の掃除を彼岸の入りまでに済ませておくのですが、ふだんは忙しくてなかなか墓所に行けない方も、この機会にぜひ参りたいものです。
一般には、墓参りをしたなら、まず墓石を掃除し、手桶の水をかけ、たわしでこすり、墓所内の雑草や古い卒塔婆はその場で燃やすか、管理所に始末を頼みます。新しい卒塔婆を立てたら、線香を束のまま火をつけて供え、故人と緑の深い順番に、さらに手桶の水を墓石にまんべんなくかけます。 死んだ人とは無縁とばかりに墓所を荒れほうだい、または管理所にまかせっばなしというのでは、生きている人間の、せわしない雑な生活感覚をあらわしているようで好ましいものではありません。
集合式の納骨堂におさめてある場合も、お参りができますから、線香、花などをあげて読経し、また管理所へのお礼も忘れないようにします。また墓所、寺、管理所などに名刺受けがあるときはこれを確認し、家に持ち帰ってお礼の手紙を出した方が良いでしょう。 
 
 
お彼岸 6

 

意外と知らない”お彼岸”の意味・由来
「お彼岸」は春分の日、秋分の日を中心として、その前後三日、計七日間をいいます。
この期間、お寺では法要が行われ家庭ではお墓参り等をします
太陽が真東から上がって真西に沈むことから、西方極楽浄土の信仰と結びついた日本独自の仏教行事
彼岸という言葉は、サンスクリット語の「パーラミター」の漢訳「到彼岸」の略
元々仏教の用語で、「煩悩に満ちた現世である此岸(しがん)を離れて修行を積むことで煩悩を脱して、悟りの境地に達した世界(彼の岸)に到達する」という意味をもちます
お彼岸とお盆の違い
お盆は先祖を此岸に迎える。先祖供養がメイン
七月十三日が盆の入りで「迎え火」。十五日が「盆」。十六日が「送り火」です。 また「お盆」はもともと旧暦の七月十五日であったことから、新暦にあてはめて八月十五日を「お盆」 とする地方も多い
日本では仏教が伝来する前から、神道的に御先祖様を信仰していました。「お盆」にあてはまる神事もあったようです。仏教が伝来し仏教の「盂蘭盆(うらぼん)」と習合したのが、現在の「お盆」の概念になったそうです。「盂蘭盆(うらぼん)」というのは、釈迦の弟子目蓮(もくれん)が釈迦の教えに従って、 七月十五日に亡くなった母親の供養を行ったところ、餓鬼道に落ちて苦しんでいた母親を救う事ができたという仏教の故事からきています。 「盆」というのは供養に用いた「盆」からこの呼び名がきています
お彼岸はこちらから彼岸に近づく。先祖供養より修行がメイン
「お彼岸」は、仏の教えで身を極め、彼岸に近づく儀式
「彼岸」とは仏教用語で「向こう岸」という意味です。いわゆる極楽浄土をさします。 ちなみに「彼岸」の対語は「此岸(しがん)」といって、「こちらの岸」という意味です。そう、いわゆる娑婆の事です。何故春分秋分の日を中心に「お彼岸」とされるかというと、多くの仏教では極楽浄土は西方十万億土の彼方にあると考えられています。 従って太陽が真西に沈むこの日は極楽浄土の方角がはっきりわかるので、「お彼岸」の期間には法要が盛んに営まれる
実は花の名前だった!?”ぼたもち”と”おはぎ”の意味
日本で彼岸に供え物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだ10cm弱の菓子として作られるのが一般的
「牡丹」の花は、大きな花ですから「牡丹餅」は大きめに、「萩」は小さな花なので「お萩」は小ぶりに作られるようになりました。
食べる時期が異なる為、それぞれの季節の花を意識して名前が変えられています。
春彼岸では、牡丹の花にみたてて「ぼた(牡丹)餅」といい、こしあんで包むのが一般的です。秋彼岸では、小豆餡の色を萩の花の色にみたてて「おはぎ(萩)」と呼び粒あんで包みます
あずきは古くから邪気を払う効果がある食べ物として食べられており、それが先祖の供養と結びついたと言われています
お彼岸にはなぜお墓参りをするの?
仏教では、生死の海を渡って到達する悟りの世界を彼岸といい、その反対側の私たちがいる迷いや煩悩に満ちた世界を此岸(しがん)といいます。
彼岸は西に、此岸は東にあるとされており、太陽が真東から昇って真西に沈む秋分と春分は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなると考え、先祖供養をするようになりました
大人なら知っていたい!お墓参りのやり方
お墓はいつお参りしてもいいのですが、一般的にはお盆やお彼岸、命日のほか、法要のときや年の暮れ、お正月などがお墓参りのけじめの時期といえる
お彼岸に仏事をちゃんとすると仏の功徳があるといわれているそう
墓地に着いたら、まず手を洗い清めます。それから手桶に水をくみ、お墓に向かいます。お墓についたら、合掌礼拝してから掃除を始めましょう。お墓は祖先の住み家ですから、いつもきれいにしておくのが、供養の第一の心がけです
墓石を洗い、雑草をぬくなどしてお墓のまわりをきれいにし、お花やお線香をお供えします。その後、ご先祖さまに生まれてきたことを感謝し、最近の出来事などをたくさんお話しする
掃除用品として、ほうき、たわし、雑巾、バケツ、ごみ袋など、お墓専用のものを用意しましょう
【お掃除】 お墓参りに行ったらまず、お墓の清掃をしましょう。雑草が生えていたり、ゴミが散らばっていたりしては仏様に申し訳がありません。
 墓石は水をかけて洗い流します。
 水鉢や花立、香立てはゴミがつまりやすので丁寧に洗います。
 墓石の彫刻部分は、歯ブラシで細かい汚れを落とします。
 洗い流したら、タオル等で水気を拭きとります。
お供え用に→お花・菓子・果物・飲み物・それらを置く半紙など。お参りするために→数珠・線香・ろうそく・マッチ
【お供え】
 お菓子や果物は直接置かず、二つ折りした半紙の上に置きます。
 水鉢にきれいな水を入れます。
 花立てに供花の長さを整え、お供えします。
お参りがすめば、お供えの食べ物はその場でみんなでいただくか、必ず持ち帰ります
【お墓参りのマナーや作法(仏教の場合) 】
 1.墓地に入る前に、ご本堂の前で一礼
 2.手を洗い浄めます。
 3.手桶に水を汲み、墓地に向かいます。
 4.自分の家のお墓の前についたらまずは一礼します
 5.お墓と、お墓の周りの掃除をします。
 6.お墓の掃除が終わったら、 花立てに水を入れお花を飾ります。
  次にお供え物をお供えします。この時、お供え物は半紙の上に置くといいでしょう
 7.ローソクに火を灯しそこから、線香に火をつけましょう。
 8.柄杓で、墓石にお水をかけます
 9.墓石よりも体を低くするのが礼儀なのでしゃがんで 合掌して冥福を祈ります。
線香の火は口で吹き消すのではなく、手であおいで消します。人間の口はとかく悪業を積みやすく、けがれやすいものなので、仏に供える火を消すには向かないからです。
線香は燃やしきるように。
インドでは「死後は香を食べる」と信じられていました。線香や抹香は、水とともに亡き人への食べ物として大切な供物なのです
仏教の教えでは、死後の世界の1つに「餓鬼道」があり、福徳を失った生類が落とされる世界とされているようです。なかなか水が飲めない餓鬼が、唯一お墓にかけたお水だけが飲めます。その餓鬼をあわれんで、お水を与えようと言うところから墓石に水をかける習慣の始まりだそう  
 
 
お彼岸の意味と仏教 7

 

お彼岸と言えば、彼岸花が沢山咲いた風景やお墓参り、おはぎ・ぼたもちを連想する人も、いらっしゃるのではないかと存じます。漫画やアニメーション作品がお好きなら、「地獄少女」という作品にて「もろく憐れな彼岸花」という冒頭のフレーズを連想されるかもしれません。流石は地獄少女、彼岸花の別名は「地獄花」で、良く似合っていらっしゃる、と思うのは私だけですかね。
私は、このお堂(ブログ)の住職としての名前が「此岸真観」という事で、此岸彼岸という言葉を連想致します。お彼岸は、現在は各寺院で「彼岸会(ひがんえ)」という事で仏事をされたり、お墓参りに来られる檀家さんと関わる時期であります。
お彼岸とは何か。お彼岸の意味
「お彼岸には墓参りを」など、現在は特に意識せずに使われている感もあるこの「お彼岸」という言葉ですが、元々は仏教語・仏教用語として伝わっております。
お彼岸の「彼岸」は、梵語で「パーラミター(波羅蜜)」の意訳という説があり、お彼岸の時期が中日を真ん中として前後3日を合わせた7日間である時期の話とも関わりがあります。「パーラミター(波羅蜜)」とは、「般若波羅蜜」「布施波羅蜜」など、「六波羅蜜」という言葉で知っている人もいらっしゃるかと存じ上げます。
お彼岸の時期についての仏教ゆかりの話は、別の機会に譲ります。
お彼岸は、正式には「到彼岸」と言いまして、「彼岸に到達する」という意味です。彼岸とは「向こう岸、彼(か)の岸、悟りの世界、すなわち浄土」という事で、浄土に到達するという意味のある言葉であり、浄土仏教とも関わりの深さを感じる言葉であります。お彼岸とは、現在はお墓参りの時期という見方が日本ではされていますが、由来・ルーツや語源を辿ると、その意味は「此岸から彼岸に到る」という事だったのです。
日本のお彼岸の由来
お彼岸の意味は、淡泊と言いますか、割とあっさりとした説明は、上記の通りです。お彼岸・彼岸の意味はこれでわかりましたが、では、由来や始まりはどうなのか。
現在の、春分の日と秋分の日を中日として、その前後に3日を加えた7日間・1週間の彼岸会が催されたのは、806年まで遡ります。806年からですから、お彼岸・彼岸会という仏事は1200年以上続いており、2016年の時点では、秋のお彼岸・彼岸会は1210年も続けられているということですね。
伝わっている歴史は、この時期に各地国分寺にて「金剛般若経」を転読したというのが、お彼岸・彼岸会の始まりとされております。彼岸=浄土という考え方ですと、「観無量寿経」や「仏説阿弥陀経」あたりを、読み上げるのではないか、と私は思うたりします。しかし、806年当時は善導大師や師匠である道綽大師が中国で浄土思想・浄土教を伝えていらっしゃり、浄土仏教自体はあったけれども、仏教のメインストリームではありませんでした。浄土宗や真宗・浄土真宗は鎌倉真武教に分類されて、もっと後の時代ですから、800年代に法然上人がいらっしゃったならば、国分寺で読まれた御経は違っていたかも知れませんね。
そうして806年に始まったと言われる彼岸会は、江戸時代には年中行事となり、現在のお彼岸に通じていきます。
ちなみに、この彼岸会は仏教が伝わっている国は数有れど、お彼岸・彼岸会は日本独特のエトス(行為様式・風習)であり、中国でもインドではされない、とのことです。
お彼岸の意味と由来を学んだところで、二河白道の話
お彼岸について、その意味と由来を仏教の歴史と共に紐解いたところで、浄土教・浄土仏教や浄土にまつわる話を致しましょう。これは、浄土宗のお坊さん、また真宗大谷派の僧侶からも聞いた話で、興味深い絵も見せて頂き、学ぶご縁を頂いた話です。
お彼岸とは「此岸から彼岸へ」という到彼岸の話をしましたが、此岸から彼岸への渡る道筋や、その過程を描いた絵が御座います。
その絵は、二河白道(にがびゃくどう)と呼ばれており、浄土宗の高祖であられる善導大師が伝えられた話で御座います。浄土宗は、宗祖は法然上人であり、高祖が善導大師なのですよ。
高祖善導大師が伝えて下さる「二河白道」は、此岸からお彼岸へ到達する旅人の姿が描かれております。この「二河白道」という絵には、我々凡夫である人間の姿が、まさに此岸から彼岸へ渡ろうとする旅人の姿で描かれております。これ、描かれている此岸と彼岸の位置関係が実に見事であり、東側に此岸、西側に西方極楽浄土と言われるように彼岸が描かれています。
此岸には悪鬼や妖怪などが迫っていて、左側は炎、右側が大洪水とも思える勢いの水の河が描かれており、それぞれが「誘惑」「瞋恚(怒り)」「貪欲(貪り)」などの煩悩を表しています。そして、東側の此岸では、釈尊・ブッダが「行け」と声を掛けて下さり、西側のお彼岸では、阿弥陀仏が「来い」と呼びかけて下さっている、という構図です。
お彼岸の時期・季節には、このお彼岸に渡ろうとする旅人が描かれる「二河白道」を、私は思い出すようになりました。
水木しげるさんの「二河白道」
ここで一つ、「二河白道」に関するお話しをば。
上でお話し致しました「二河白道」の絵ですが、実は東京都内にある浄土真宗本願寺派の寺院、覚證寺(かくしょうじ)に、水木しげるさんゆかりのお寺が御座います。ここには、水木しげるさんが生前描かれた「二河白道」の絵が御座いまして、私も浄土真宗のお坊さんに、その絵を東本願寺の御法話の時に見せて貰った事があります。私が見せて貰った絵は新聞の切り抜きでしたけれども、水木しげるさんが描かれた「二河白道」の実物は、覚證寺に安置されているとの事です。覚證寺では、秋季彼岸会を行われており、秋のお彼岸の時期にはご住職の御法話も聴聞させて頂く事が出来ます。
流石は水木しげるさんが描かれたというだけあって、ゆかりのキャラクターが描かれていますよ。此岸からお彼岸へ渡ろうとしているのは誰なのか、なぜそのキャラクターなのか等、問答してみるのも風流であり、乙なものかと存じます。
お彼岸の時期には、意味を改めて色々と考え己を省みる
お彼岸の時期は、墓参りの時期という印象がある現代であり、確かにお彼岸に墓参りをする事も、日本に根付いた彼岸会のエトス(行為様式・風習)であると、私は頂いております。それはそれで大事にしたいエトスですが、先祖供養と同時に、エトスの始まりや由来、その意味などを考える時期としてもみては如何でしょうか。こうして先祖供養としてのエトス(行為様式・風習)が連綿と受け継がれている事柄は、大切にしたいものであると、私は思うております。
先祖供養は、ご先祖様への畏怖や敬意を形にする行為様式であり、墓参りをしたり彼岸会という仏事に関わる事で、行為からパトス(精神性)に繋がるものです。そこから、ご先祖様から繋がっているご縁を、縁起に思いをはせて、そのご縁を大切にしていくパトスにも繋がるきっかけにはなるのではないでしょうか。
お彼岸の意味を座学として学び、そこからお彼岸を意味ある事柄に繋げていく。
今回、お彼岸の意味を仏教の歴史と共に、文字として、ロゴス(文字・言葉)として学ばれたならば、墓参りというエトス(行為様式・風習)からパトス(精神性・情緒)まで繋がって欲しい、と思う今日この頃で御座います。
お彼岸の時期には、意味やエトス(行為様式・習慣)を知っておくことで、趣や味わい方をより深められるのではないか、そのように思う次第で御座います。  
 
 
仏教行事

 

秋のお彼岸
またお彼岸になりました。皆様それぞれお墓参りされるかたも多いと存じます。戦後の昭和23年に施行された「国民の祝日に関する法律」を見ますと、春分の日は「自然をたたえ生物をいつくしむ」とあり、秋分の日は「先祖をうやまいなくなった人々をしのぶ」とあります。こんな説明は、恐らく戦後の混乱期に無理に春秋のお彼岸を区別して定義づけたのでしょうが、そんな区別はもともと無いのでして、私たちは、お盆と、そして春と秋のお彼岸に先祖のかたがたの供養をおこない、お墓参りをする習慣を永く続けているのです。日本人は昔から先祖を大切に祭る習慣の篤い民族で、これは世界にほこるべき美しい風習であります。
インドの古語であるサンスクリット語のパーラミーターは、最高のところに到達するという意味で、中国でこれを「彼岸に到る」と訳し、こちらの岸(此岸)からあちらがわの理想の岸(彼岸、つまりほとけの世界)にわたろうと呼びかけるのです。この仏教の目標が日本ではご先祖さまのお墓参りと融合して春と秋のお彼岸になったのでしょう。
では、春分の日と秋分の日をお中日と定めたのはなぜでしょう。なにごとにも中道を尊ぶ仏教だからという意見もあります。あるいは西方に極楽浄土があるとする考えから、一年のうちで昼と夜の長さが同じという春分と秋分の日は、太陽が真東から昇って真西に沈むから、その両方の入り日を拝めば仏さまの世界を拝むことができるという発想もありましょう。
わが国のお彼岸の起源は、『日本後紀』の大同元年(西暦806年)春秋2回、国分寺の僧侶たちに金剛般若経を読誦させたという記事が最初と思われますが、その後は平安朝の物語に彼岸会の行事が記されていますからその頃はすでにさかんにおこなわれたのでしょう。しかし、インドにも中国にもお彼岸に皆では墓参りをするという風習はないのでして、まさに日本人の独特の行事だといえます。日本人のほとんどの人々(九割)がお墓参りをするのですから、まことに驚くべき数で、まさにお盆やお彼岸は国民的な行事だといえます。
この頃のテレビを見て感じるのですが、人間は、宗教というものをもう一度よく考え直す必要があると思います。なにか不思議な奇妙なことが起こるとみんな宗教のことだと思うのは間違いです。あやしげな程度の低い教祖に引きずられてとんでもない落とし穴に落ちてしまいます。キリスト教のいう奇蹟なども、私にはとても信じられない話です。私たちは不思議なことを無理に信じることはやめて、現実を率直に受けとめ、正しく、かたよらずに観察して、精一杯に努力し、あとはご先祖さまや仏さまにお任せするのがよいと思います。
私たち日本人があたりまえのように続けているお彼岸やお盆のお墓参りこそ、最も健康的な、最も人間的なものだと思いますし、本当の心のやすらぎになると考えております。
こうしたまじめな生活を続けていくと、本当の意味で深い、広い仏さまのお心につながっていくのだと思います。不思議な思いからではなくかたよらないこだわらない思いから入って行けるのが仏教の特色なのです。
最後に『法句経』を引用して結びといたします。
「数多き人々のうち彼岸に達するはまこと数少し、あまたの人々は此の岸の上に、右に左にさまようなり」
「善く説かれた法を聞きて、身はその法にしたがう、かかる人こそ超えがたき死のさかいを超え、彼の岸に到らん」
涅槃会
2月15日はねはんえといって仏教の開祖、お 釈迦 しゃか さまの御命日です。紀元前550年、いまから2500年前のことです。おしゃか様はインドのシャカ族の王となるべきかたでしたが、政治や身分をすててより深く人生の真実を 探求 たんきゅう する 志 こころざし を立て、29才で 出家 しゅっけ されました。6年の 苦行 くぎょう ののちにその苦行もすてて、35才で御自身の進むべき道を確認されました。これを「おさとり」とか「 成道 じょうどう 」と申します。 覚 さと れる人(ブッダ)となったおしゃか様はその後45年の長きにわたってインド各地をまわられ、人々に生きる方向を示され、80才の2月15日に 入滅 にゅうめつ されました。お釈迦さまのことを人々は心から敬うやまって 釈尊 しゃくそん とお呼びします。
釈尊は生涯を通じて真実なるものを探求され人々の心を 迷信 めいしん から 解放 かいほう され、自由と平等を主張され、神話の神などではなくて、 練 ね りあげられた、よりよく 整 ととの えられたい人格を光として、 敬虔 けいけん にしかも力づよく生きることを 教 おし えられました。
釈尊 しゃくそん の最後のおことばはこうです。「 弟子 でし たちよ、すべてはうつろっている、おこたることなく努力しなさい」と。そして釈尊の80年のご 生涯 しょうがい こそまさに 精進 しょうじん 努力そのものであったのです。仏教の主張である 寛容 かんよう 、 慈悲 じひ 、 自由 じゆう 、 敬虔 けいけん な 祈 いの りという旗じるしは、2500年後の現在まで広く深く、世界の人々に 生 い きつづけているのです。なおこの日に各寺院の本堂に掛けられる 掛 か け 軸 じく は「 涅槃図 ねはんず 」といって、釈尊の 御臨終 ごりんじゅう の場面を画いたもので、『 大般涅槃経 だいはつねはんぎょう 』という経典に 依 よ っています。弟子たちや動物たちまでも、この人類の指導者の死を悲しんでいます。一番外側にいる神々たちは、インドのさまざまな宗教の神々で、そういう信仰を持つ人々も皆が悲しんでいることを図示しているのです。仏教にはめずらしいこのドラマティックな情景は、芸術家たちの心を刺戟して、昔から時代を代表する画家たちが 競 きそ ってねはん図を画き、現在まで立派な作品が沢山残っております。
約300年前、江戸中期の作品です。
お盆を迎えて
父の墓に母額ずきぬ音もなし
今年もまたお盆が 巡 めぐ ってまいりました。家の御先祖さまがた、なつかしい祖父母や、親しかったいまは 亡 な き家族の方々、そのほか、かつてお世話になった人々を 憶 おも いながら、感謝の気持ちを持って、 敬虔 けいけん な心でお盆をお迎えいたしましょう。特に過去の戦争で 生命 いのち をすててまで国のためにはたらいて下さった多くの 精霊 しょうりょう に、年に一度、感謝しご冥福を祈るのもお盆にふさわしいことと存じます。
お盆と申しましても、その内容は、その他の法要と同じで、 廻向 えこう ということが中心です。廻向とは、 施 ほどこ しをしたり、お 塔婆 とうば を建てたり 菩提寺 ぼだいじ に維持の協力をしたりという善行をおこなってその果報として自分の身にかえってくるのであろう、良い結果を、自分のものにせずに、すべて亡き人々に向けて、その冥福のために用だてて下さいという心です。まさに廻向とは、絶対 無私 むし の気持であり、人間でなければ持てない高度なこころなのであります。年に一度のお盆を気持よく過されることが、ご家庭の幸せにつながっていると確信しております。
お盆の根拠は、『仏説 盂蘭盆 うらぼん 経』などが古くから伝えられていますが、わが国でも、仏教が入るとすぐにお盆の法要がはじめられたようです。『日本書記』の後半の部分に次のような記事が見られます。推古 ( すいこ天皇の14年(西暦606年)「この 歳 とし より 寺 てら ごとに、4月8日、7月15日に 設斎 おがみ せしめき」と。これは摂政であった聖徳太子が出されたものと思われますが、花まつりと並んでお盆の法要が、いまから1400年も前からおこなわれていたのであります。お盆が、私たち日本に住む人々の血肉になっていて、まことに意義深いものだと御承知頂きたいと思います。
花まつり
4月8日はお釈迦さまのお誕生日です。今から約2500年前(西暦紀元前550年)ヒマラヤのふもと、インドのシャカ族の王族としてお生まれになりましたが、人生の真実の意義を求めて身分も政治も捨て、6年間の苦行の後に、その苦行の生活をも捨てて、35歳でご自身の進むべき道をはっきり確認されました。これを「さとり」とか「 成道 じょうどう 」と申します。その内容は次のようです。<人間は信じられないものを無理に信じたり、迷信などにまどわされたりしないで、できるだけよく考えて本当に納得できるものだけを求めて生きていこう。心をひらいてより高いものを求めよう>というのです。
当時のインドの社会は因襲的で閉鎖的な考えが強く、人々の心は神話の神々に支配されていました。したがって、お釈迦さまの考えは、人々の心に真の自由と平和をよびもどすルネッサンス運動であったといえるのです。
現在まで伝わっている誕生についての物語は、後世の伝記作者たちが 敬虔 けいけん な、かつ、たくましい想像力によって制作したものですが、その一つがこのはなしです。<お釈迦さまは生まれるとすぐに四方に向かって七歩づつ歩かれ右手で天を、左手で地を指しながら大音声で「 天上天下唯我独尊 てんじょうてんげゆいがどくそん 」と宣言された>というのです。これは全く大胆かつ自由きわまりない発想といわねばなりません。生まれたばかりの赤子を歩かせたうえ、天地を指して「われこそはこの世で最も 尊 とうと いものである」と名乗らせるのですから。それにもかかわらず長い長い年月、この物語ができてから2000年以上もの間、人々がお釈迦さまの誕生を想うときに必ず頭を 横切 よぎ ったのがこの物語であったのです。「われこそは」とは「人間こそは」の意味で人を信じ人を愛し、人々の心を解放するために80年のご生涯をささげられたお釈迦さまの 面目 めんもく が 躍如 やくじょ としています。つまりこの物語はお釈迦さまのご生涯をみごとに象徴している、と私は受けとめております。
 
 
お彼岸法話

 

お彼岸
仏教語としての「彼岸」は、煩悩の流れを超えた彼方の岸の涅槃の地、つまり悟りの境地を表す。しかし、「お」という接頭語が付いた「お彼岸」となると、春分、秋分の日を真ん中にしたそれぞれ七日間を指す。この期間に人々はお墓参りをしたり寺院での彼岸会(ひがんえ)にお参りしたり、『サザエさん』ではご先祖サマが出てきてお供え物をつまみ食いするカツオを叱ったりする。このように、「お彼岸」という習俗が仏教や故人と関係することに関しては国民的合意が成り立っているようである。しかし、なぜ春分や秋分の日の前後が「お彼岸」とされるのかについては、案外、はっきりしない。
「お彼岸」は、インドや中国、朝鮮半島には見られない日本独自のものらしい。おそらく、夕日や夕焼けに対する日本土着の独特の感性と西方浄土の阿弥陀仏への信仰が重なって、このような習俗が形成されたのであろう。つまり、春分・秋分の前後の真西に沈む夕日に西方浄土の方角を確認するとともに、その浄土で阿弥陀仏に迎え入れられた故人を偲ぶと観念されるようになったのである。また、沈む夕日に自分自身のいのちの終わりをも重ね合わせ、いつしか阿弥陀さまや先に逝かれた親しい人々に「ご苦労さまでした」と迎えられる日を想うのである。
六世紀の中国の僧・曇鸞(どんらん)は、皇帝から「なぜ阿弥陀仏の浄土は西方にあるか」と訊かれて「分からない」と答えたと伝えられる。仏教の教理からは導き出せないということであろう。それに対して、日本では西方に日が沈むように自分たちのいのちも沈み、そこで阿弥陀仏に迎え入れられると考えられたのだろう。そして、穏やかな夕焼けのように沈んでいきたいと願われたのであろう。
しかし、そう願いながら夕日を眺める私たちはどこにいるのだろう。いのちの終わりを眺める視点は、ある意味では今の時を生きるいのちを超えている。「お彼岸」の夕日に我がいのちの終わりを想うとき、私たちは時の中に在りつつ、時を生きる限られたいのちを超えている。インド語由来の「阿弥陀」には「無量寿」という漢訳がある。沈む夕日を眺める私たちは、その「無量寿」の場所にたたずんでいるのかもしれない。
彼岸
世間一般ではお彼岸ひがんであろうと、お盆であろうと、単なるお墓参りの意味でしか受け取られていません。「お彼岸」が意味するところを問わないと言いますか、お墓参りをすることと教えの問題がつながってこないのです。つまり、自らの救いの問題が見えなくなっています。
しかし本堂で彼岸会の法要に参列し、法話に耳を傾けたいと思う気持ちが起こるのはどうしてでしょうか。大切な方の死がそこに足を向けさせてくださったという方もいらっしゃるでしょう。そこに座るということはお一人お一人がどこかに救いを求めているからではないでしょうか。「彼岸」という言葉が私たちに何を投げかけているのか、いっしょに教えに聞いていきましょう。
「彼岸」というのは仏のさとりの世界をいいます。これに対して、私たちの世界を「此岸しがん」といいます。これはこれでまちがいないのですが、どうも実体的にとらえようとして、どこかに彼岸という世界が存在しているように感じてしまいます。もう少しくだいてみますと、「彼岸」とは、さとり・真実・浄土、いくらでも表現できますが、要するに如来(仏)の眼まなこの世界です。「此岸」とは迷い・虚偽きょぎ・穢土えど、つまり私たちの日頃の眼の世界です。
ですから「彼岸」というのは、如来の眼で自分の人生を見直してみようという仏教行事をいうのです。さらに、「此岸」の眼では本当に生きたことにはならない、けっして救われないということに気づかせていただく行事といっていいでしょう。仏教というと堅苦しいですが、一度かぎりの有限ないのちをどう生きることが、本当に生きたことになるのかを明らかにしているのです。
仏とは真実に立って生きる人ですから、その教えが仏教に他なりません。仏になる方向性をいただくのが彼岸ということでしょう。
春彼岸
皆様御元気でご参詣なによりでございます。
「暑さ寒さも彼岸まで」という諺があります。御承知の通り彼岸は一年に春と秋二回巡って参ります。春分の日と秋分の日それぞれ前後三日間、あわせて一週間がお彼岸という行事でございます。この、二度の中日は太陽が真東から真西に沈みます。太陽の沈む方向に極楽浄土があるということから、日本ではこの日に浄土を想い亡き方を偲ぶ日になったともいわれております。太陽が沈むその先にある西国浄土に思いをはせた私たちの祖先は、太陽の恵みを受け、自然の流れの中で生活をし、その中には人間の力の及ばないものに対する畏敬の念が多く培われておりました。またこの日は、昼と夜が全く同じこの不可思議な現象と事象に感謝と報恩の念を尽し、神仏に敬意を払って参りました。八百万(やおよろず)の神と言われるほどに多くの神仏を礼拝し、たとえ一本の木や小石までにも願いをかけ、祈りを込めることができる感情の豊さ。四季折々めぐり来る風土で農耕し生活してきた社会に由来しているともいわれ国としても、この日を祭日として定め、祖先に感謝し自然をたたえ、生物を慈しむ日だとしています。民族学において、お彼岸は太陽を拝し、感謝と願をかけ、この期間目に見えないご先祖さまに思い致して報恩感謝の誠を尽くすという意味から墓参りであったり、寺詣りであったり、仏前にお参りするというのがお彼岸の慣わしとなっています。このお彼岸会という祀りごとは日本独特の文化なのです。
仏教の始まりは約二千五百年前インドで興り、中国を経て日本に伝来したといわれています。しかし、インド、中国ではお彼岸にお寺参りやお墓参りの習慣はないのです。この習慣は日本独自の行事なのです。
その起源は聖徳太子さまのころといわれておりますから千四百年にも亘る年中行事となっているのです。仏教が日本に伝わりましたのは六世紀半ばといわれいますそのころはじめて仏教を深く理解し人々に信仰心を厚くなされたのが有名な聖徳太子さまです。聖徳太子は生き方の指針、十七条憲法を制定し、その第一条に論語の中から「和をもって貴し」と示し、国家の役人として政務にあたる上での心がまえを説くとともに、第二条では仏教より「篤く三宝を敬へ」として、仏法を信じ敬うべきことを強調しております。これが日本國憲法の始まりです。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、善光寺に太子像をお祀りしておりますが「どこにあるかご存知の方、ハイッ!」「そうです。仰せの通りこの釈迦殿の一階の正面右側に安置してあります。」師父は、聖徳太子さまは日本で最初に仏教を深く理解し広めたお方、そのご恩に報いる為にお祀りし毎日感謝のまことを捧げ尽くしておりました。私もそれを受け継ぎ毎日読経供養させていただいております。
さて、このお彼岸に実践しなければならない六つの徳目がございます。それを六波羅蜜といいます。この徳目は、皆さまが、実践可能なものでなければなりません。古代インドのサンスクッリトでは、パーラミターと発音し、日本では「波羅蜜多」この意味は、到彼岸であり、彼岸に到るとなります。おや、これは「摩訶般若波羅蜜多心経」ではないかとお気付きと思います。そうなんです、この心経は「彼岸に行こう」という教えなのです。この六度が実践項目であり、仏教徒の目標なのです。いかがでしょうか。
一つには、「布施」です。皆さまもこの言葉はよく耳にされると思います。布施とは、施すことなのです。一般的には、在家の皆さんがお坊さんに財物を施すことだと考えますが、これは財施といい、布施の一部です。お坊さん相手ではなく、他人にやさしさ、いたわり笑顔やことば、手を供えるのも立派な布施なのです。大事なのは、相手に恵んでやるという気持ちは布施ではありません。布施とは、させていただく心なのです。思いやりであり心遣いなのです。今盛んにくにの公共広告機構より「思いやり、心遣い。」いずれも目には見えないが、行動すれば見えると、盛んに放映されています。まさしくこれが布施なのです。
二つ目は「持戒」です。戒めを持つと書きます。この徳目は、戒めを守るということです。人としてのルールを守ることが大事。しかし、戒を完全に守ることは過酷で不可能です。大事なことは、破ったときの懺悔と反省の気持ちの在り方です。日本の仏教では、僧侶に求められる菩薩戒という十六の戒めがございます。上座部仏教のタイでは二百二十七の戒めがございます。それはもう、非常に厳しく立つも坐るも、食べるも、眠るも、大変なことです。
三つには「忍辱」です。この言葉は食べるニンニクではありませんよ。忍ぶ辱めると書きます。寛容な心を持ち、いかなる境遇にも耐え忍ぶことです。お釈迦様は、人生は苦であるとお示しになられました。四苦八苦という語源はここのところからと言われています。ことに「生きる」世界を娑婆といい忍土ともいって生きるにとても辛いところであり他人から受ける迷惑をジーッと我慢して、耐えて忍びつつ生きる。そして他人を責めず赦しながら、これが忍辱だと申されているのです。とても難しい境遇であり、徳目なのです。心するだけで大変なんです。だから、おかれている立場立場で精一杯勤めていくのです。師父は私に、よく「人生は我慢だ」と言っておりました。子供のころよく師父に叱られ、その都度泣いておりました。すると時折、師父は私に向い「人生はなんだ?」と言います。わけのわからないままに私は、泣きながら「人生は我慢です。」と答える「では泣くな」といわれるのです。時として逆に、「博志我慢しなくてもいいんだよ」とも云う。要は心の持ち方を教えているように今は思います。人に我慢を強いるのは、難しくありません。強いる側に余程な思いやりがないと届くものではありません。やりたいことをやるな、やりたくないことをやれという。当時の私にすれば、あべこべ、ちぐはぐ、全くいじめとしか思えない。しかし、これが欲望を抑制する心を養ったように思います。心の持ち方で、地獄にもなり、極楽にもなる。娑婆で生きることは、とても大変なことでございます。
四つには「精進」です。精らかに進むと書きます。この言葉は皆さまもよく耳にしますよね。怠ることなく一生懸命努力することです。何のために努力するのか、大事なことは目的地ではないのです。一歩一歩あゆんでいるその歩み。毎日毎日の生活こそが大事なのです。おろそかにしない努力。これが、精進だと思うのです。通説では、一心に仏道や仏事を修めることだといわれます。また肉食しないことも、精進のひとつ。
五つには「禅定」です。禅を定めると書きます。この語は、心を穏やかにして真理を見極めることです。心を穏やかにするというは、意外と難しい。仏道でいう,禅定とは、精神を統一することをいい、迷いを断ち感情を鎮め、真実の仏道を求めこだわりや、とらわれから解放されることをいうのですが、簡単に参らぬが常です。あれこれと心が動きすぎるのです。油断しますと、自分のことばかり考えてしまいます。周囲を慮る心に欠けてしまうのです。私の日課は二つあります。坐禅と写経を毎日勤めることです。坐禅は時間が許す限り、朝晩勤めることにしています。心掛けていることは、一つに「調身」。身を整えることです。背筋を伸ばし右にも左にも片寄らずまっすぐに坐ること。二つには、「調息」。呼吸を整えることです。一つ一つの呼吸を丁寧にお腹を意識して深くゆっくりと行うことを心掛けています。三つには「調心」。自ずと姿勢と呼吸を整えれば自然と心も整って参ります。これがまさに禅定なのです。坐を移し日常行務に追われますと、すぐ心が乱れて参ります。残念です。そしてもうひとつは「写経」です。文字通り経典を写すことです。善光寺でも毎月「般若心経」の「写経会」を行っています。字数は二百七十六文字でございますので、一時間はかかってしまいます。日々、私の写経は「延命十句観音経」を謹んでおります。これは、わずか四十六文字です。だいたい十五分前後で尽くすことができます。私は、僧侶です。もしも私の日々に坐禅を怠るようなことになれば、私は、禅僧ではなくなります。これは、禅僧として生きる私の基本であり使命だと信念し、院代と共に少なくとも禅定という徳目の実践に精進しています。ここのところ、師父も厳しく申しておりました。
六つには「智慧」です。この徳目は、物事を正しく判断し、処理する心の働き。ものの道理を知る賢明さ。それらを培うことです。これは前の五つを実践することにより自然と身についていくものだと教えて頂きました。今こうしてお話させていただくのも智慧の一部です。智慧は「般若」ともいい、サンスクリットでは、パンニャー、いわゆる「般若心経」のことだと教えています。いかにも善悪の業や因果の道理を説いてくれます。従って仏教は智慧の宗教だといわれる由来はここにあり事実を事実として、正しく観る目を養ってくれるのです。
仏教の魅力もここにあるのかもしれません。私も日々悩み苦しんでおります。研鑽が足りないのだと思っています。人はなぜ生れて来たのか、どのように生きていかねばならないのか、真実の幸福とはいったいなんなのか。根本の問題に足踏みしているのが現状です。智慧が乏しく足りないのです。この一週間一日ひとつの徳目に傾注し、合わせて六波羅蜜、皆さまと共にこの徳目にとりくみ、智慧を高めて参りたいものです。どうぞよいお彼岸をお過ごしになられますように。
ご清聴誠にありがとうございました。
お彼岸には何をしますか
「暑さ寒さも彼岸まで」の「お彼岸の中日」が9月23日の秋分の日です。「彼岸」とは季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す仏教用語です。私たちの住む現実の世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていくことが本来の意味であります。
『阿弥陀経』というお経に、
「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名けて極楽といふ」
とあり、阿弥陀さまの極楽浄土(彼岸)を西の方角で表すようになりました。春秋の彼岸の中日は太陽が真西に沈んでいきます。先人の方々は、この日真西へ沈む夕日に極楽浄土を重ね合わせ、彼岸の日と呼ぶようになったようです。この中日から前後三日をいれた七日間をお彼岸という仏教週間となるのです。
この七日間は六道を超える七日間とも言われています。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の事です。自分の思う通りにならないからといって腹を立て、奪い合い殺し合って地獄に行き、自分の気にいったものが手に入ると「まだ欲しい、欲しい」「まだ足らん」で餓鬼道の世界に行き、「今が楽しければそれでいい。人の事なんて知るものか」と畜生の世界へ行ったと思えば、時には親子ともいがみ合って修羅に行く。他人の身になったかと思うと、いつの間にか自分が可愛い、自分が正義だと思い込むのが人間の世界。自分の思い通りにいって有頂天になっているのが、いずれまた落ちていく天上界。
『歎異抄』の 第十三条に
「人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである」
とあります。縁あればどのような世界にでも行ってしまう私たち凡夫は、六道を超えて「彼岸」に行くどころか、今このとき「此岸」で六道をぐるぐる回りながら、苦しみ悩む人生を送っているのです。
親鸞聖人は『教行信証 行巻』に
「わたしたちは現に迷いの凡夫であって、罪のさわりが深く迷いの世界をさまよい続けている。その苦しみはいい尽くしがたい。今、善知識に遇って、阿弥陀仏の本願に誓われたお名号を聞くことができた。」と述べられています。
親鸞聖人は縁あればいかなる世界にでも行ってしまう私が、その苦しみ悩む中に様々な方の縁によって、阿弥陀さまの願いを聞くことができたと慶ばれています。阿弥陀さまは、「此岸」で苦悩の人生を歩む私たち凡夫に、休むことなく願いをかけ続けています。『阿弥陀経』には、「その土(極楽浄土)に仏まします、阿弥陀と号す。今現にましまして法を説きたまふ。」
阿弥陀さまは、どこか遠い所で説法されているわけではなく、いまここで現に悩み苦しむ私たちに法を説いておられます。「苦悩の人々よ、我にまかせよ、必ず摂りて必ず救う」という阿弥陀さまの願いは「なもあみだぶつ」の喚び声となって、いまここに届いているのです。
私たちも、阿弥陀さまと、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」に先に生まれて仏さまとなられたご先祖様のおはたらきによって、合わぬ両手がいつしか合わさり合掌の姿となり、口を開けば愚痴しか出なかったこの口から「なもあみだぶつ」のお念仏がこぼれでてくださるようになりました。お念仏申す身となった私たちも阿弥陀さまのお浄土「彼岸」、娑婆世界の苦悩から解き放たれた悟りの国に生まれさせていただけるのです。
このお彼岸の七日間は、間違いない目的地「彼岸・お浄土」をいただき、ご縁ある方の導きに感謝すると同時に、悩み迷い続きである今ここに生きている私にはたらき続けて下さる、阿弥陀さまのお話を聞かせていただくご縁とさせていただきましょう。
彼岸によせて
「暑さ寒さも彼岸まで」 と言われますが、今年も春のお彼岸を迎える季節になりました。
お彼岸は、春と秋の二季あり、春は春分の日、秋は秋分の日をはさんで、夫々前後一週間の間を「お彼岸」と言います。
「彼岸」は仏教用語で「悟りの世界・安楽の世界」のことを言います。一方、私たちの住んでいる世界は彼岸に対してこちらの岸ですから「此岸」と言います。これは「迷いの世界・苦しみの世界」です。
この彼岸と此岸の間には、煩悩の波が荒れ狂う果てしない海が横たわっています。
その煩悩の波を乗り越えて、悟りの世界である彼岸に渡ろうというのが仏教の教えです。
特に、春秋のこの時期は一年中で最も過ごしやすい時ですから、この季節に彼岸に渡る仏道修行にいそしみましょうということから「お彼岸」というものが設けられました。
今風に言えば、お彼岸はさしずめ「仏教週間」と言えるでしょう。
ところで、お釈迦さまはなぜ私たちに「彼岸に渡りなさい」と勧められたのでしょうか。そこには大事なことが二つあると思います。
まずその一つは、彼岸という悟りの世界を知ることによって、私たちの世界が迷いの世界だと知ることが出来るということです。
もし、彼岸を知ることがなかったら、私たちは自分が迷っているなどとは到底思いません。それどころか「私は正しい」と思っています。人間世界に争いごとが絶えないのは、この「私は正しい」という自己中心の見方しか出来ない心にあるのです。
お釈迦さまは「迷っていながら迷っていることに気づかない。それが迷いだ」とおっしゃっていますが、まさにその通りです。
彼岸は、そんな私たちの迷いの心をありのままに映し出す鏡になるのです。その鏡に映し出されることによって、愚かな我が身が知らされるのです。知れば「愚かな私でした」と素直に頭が下がります。ここが大事なのです。
ひとたび頭が下がれば、あらゆるものがこの私を導き育ててくれるものだということに気付きます。順境も逆境も、敵も見方も、何もかもです。つまり私にとって、この世の中に無駄なものは何一つないということがわかるのです。まさに「我以外皆我諸仏」だったのです。
このように、私たちは彼岸を知ることによって、自らの愚かさに頭が下がり、頭が下がることによって、迷いの中にいながら迷いを越えていくという人生が開かれていくのです。
そうして、今一つ大事なことは何かと言いますと、それは「彼岸を目指す」ことによって、私の「いのち」の目的地がはっきりと定まるということです。
よく人生は旅にたとえられますが、人生が旅であるならば当然目的地がはっきり決まっていなければなりません。
例えば、旅行者に「どちらへ行かれるのですか?」と尋ねて「いやー、どこに行くのか分かりません」という人はまずいないと思います。もし、そんな人がいれば、それは旅ではなく放浪というものです。放浪はいつどこで泊まる宿があるのやら、いつどこで食事にありつけるのやらと不安と心配で、おちおち旅も続けられないと思います。
目的地が定まって、初めて安心して旅が続けられるのです。
「彼岸を目指す」とはまさに私の「いのち」の旅の目的地が定まるということです。しかも、目的地が定まったというだけではありません。彼岸には阿弥陀さまが待っていてくださるのです。それは、死んだら終いと思っていたこの人生が、「永遠のいのち」を頂く人生に転じられていくのです。そのことをはっきりと確信できた時、本当に安心してこの人生を歩んでいくことが出来るようになるのです。
お釈迦さまは「彼岸に渡れ」と私たちに勧められました。それは、「彼岸を知り、彼岸に生き、彼岸を目指す」という人生の如何に大切なことであるかを、私たちに教えて下さっているのです。
「彼岸を知る」ことによって、何事も決して無駄にしないという智慧ある人生が開かれ、また、「彼岸を目指す」ことによって、我がいのちの目的地の定まった安らかな人生が開かれます。
今年のお彼岸は、このようなことに思いをいたし、実りある「仏教週間」にしていきたいと思っています。
彼岸と此岸〜二河白道の喩え〜
今月は秋のお彼岸を迎えます。彼岸とは極楽浄土のことで、それに対して私たちの生きている世界を此岸(しがん)といいます。この此岸から彼岸へ渡る道、お浄土へ生まれる道を、善導大師という中国のお坊さんが、『観経疏』というお経の中に、「二河白道(にがびゃくどう)」という喩えで書かれています。今回の法話で、少し皆さんにご紹介します。
ある旅人が西に向かって進んで行くと、何もない荒野で火と水の河に出会います。南側に火の河。東側に水の河。河の幅は百歩ほどで、さほど大きな河ではないテキスト ボックス: けれども、底がありません。ただ橋のように一筋の白い道(白道)はあるのですが、その道は人一人渡れるほどの細い道で、火と水が両方から押し寄せてきています。後ろ側からは賊の群れや、悪獣が自分を殺そうと迫ってきています。
前に進んでも、後ろに下がっても、そのまま止まっていても死を免れない状況の中で、白い道を渡ろうとすると、東から「その道を進め」という声。西から「すぐに来てください。あなたをずっと守りつづけますよ」という声がするのです。その声に従い、その道を渡ると、難をのがれ善き友と遇うことができた。という喩え話です。
皆さんならこの絶体絶命のピンチにどうしますか。実はこの旅人は私たち自身の姿を現されています。彼岸と此岸を分かつ火と水の河とは私たちの苦しみの原因となる欲望や、思い通りにならない時の怒りの心を指しています。だから底がないのです。その悪の心が彼岸(お浄土)へ向かう道を閉ざしているのです。
地位や名誉や財産に振り回されている、盗賊のような私の心も此岸で渦巻いています。しかし、そんな私たちにお釈迦様は此岸から、「信じて進め」と励ましてくださり、彼岸からは阿弥陀如来様が「私にまかせて、信じてきなさい」と呼びかけてくださっているのです。そして、その目の前にある白道こそが、南無阿弥陀仏のお念仏なのです。阿弥陀如来様のお救いにおまかせをする道なのです。
つまり、私たちはじっとしていても必ず人間の命を終えていかなければなりません。そして、欲望や怒りの心を無くすことができない私たちは、その河を渡ってお浄土へ行くことはできないことをあらわされ、ただ阿弥陀如来の救いにおまかせをする道(白道)しかないとお示しくださっているのです。
浄土真宗のお彼岸とは先祖供養のためでは決してありません。亡き方が残してくださったご縁の中で、悟りの世界へ渡るための自らの行いを省みる期間なのです。そして、私のいのち終わる時は、お浄土へ生まれるのだという、大きな安心の中で精一杯生き抜くことができる人生に目覚め、お浄土へ向かう人生を亡き方が仏となって、私たちに薦めていてくださることを、あらためて気付かせていただく期間なのです。これからのお彼岸のご法要やお墓参りの時にも、どうぞ思い出してくださいね。 
彼の岸に咲く花
秋彼岸。田んぼの畦や川の土手が所々燃え上がるように真っ赤に染まります。彼岸の頃に咲くから彼岸花(別名:曼珠沙華)というのだとか……。
つきぬけて 天上の紺 曼珠沙華  山口誓子
秋の突き抜けるような青空の下、彼岸花がすっくと立つその姿は美しく、力強く、凛々しく感じられます。
その姿に惹かれてか、子供の頃、学校からの帰り道に私もよくその花を手折って帰ったものです。あちらで1本、こちらで2本、仕舞には両手に持ちきれないほどの彼岸花を手に家に帰り着くと、決まって怒られました。「そんなにたくさんカエンソウ(火炎草)なんか採ってきて!家が火事になるよ!」。
彼岸花は大変多くの別名を持つ花ですが(一説には1000以上)、その多くは負のイメージが強いものだとか・・・。死人花、地獄花、幽霊花、葬式花、墓花、剃刀花、狐花などなど、日本人はあの赤い花に怪しさと不気味さを感じてきたのです。根から花まで『リンコン』と呼ばれる毒を含んでいることもあるでしょう。彼岸花というのも「これを食べたら彼岸(死)しかない」というからだという説もあるのだとか?
ところで、その別名の一つにハナシグサ(葉無草)というのがあるそうです。花の咲く時期に葉を見ることがないからだそうです。
秋雨が降り、やがて彼岸という時期になると田んぼの畦には蕾をつけた彼岸花があっという間にスクスクと伸び立ち並びます。そして、あの燃えるように真っ赤な花を咲かせるのです。その栄養はもちろん地下の球根に蓄えられていたもの。けれどその栄養はいつ蓄えられたのでしょう?
答えは花の枯れてしまった後にありました。球根から今度は緑の葉がスクスクと伸びてくるのです。彼岸花は冬の弱い日差しの中、せっせと光合成をして春を迎えます。そして周囲の植物たちが芽を出し、日差しを求めて争うように伸びる頃になると、彼岸花はその場所を譲るように葉を枯らすのです。
自未得度先渡他(じみとくどせんどた)
自分が救われるより前に、まず他の人々が救われるようにするという菩薩行をあらわす言葉です。夏の燦燦と降りそそぐ日差しを周囲の植物たちに譲り、自分は弱い冬の日差しで満足している彼岸花。その姿は自分よりも先にまず他のものをという菩薩行を見るようで、何だかこころが安らぎます。彼岸とは安らぎ(悟り)の世界。そんな安らぎを与えてくれる彼岸花は、まさに彼の岸に咲く花。もっとも、彼岸花は露ほどもそんなことを思ってはいないでしょうが・・・。
普段、此岸(迷いの世界)に住む私たちですが、此岸にも彼の岸の花が咲くのです。此岸こそ彼岸、一年に一度、燃えるような赤い花がそれを教えてくれるのです。 
彼岸と悲願
毎年、春と秋の2回『おひがん』がやってきます。『春分の日』と『秋分の日』を中日とする、春と秋のそれぞれ1週間を『お彼岸(ひがん)』と呼びます。日本人にとって大変重要な仏教の行事であり、多くの人がこの期間に、お墓を掃除し、そしてそれにお参りする事でしょう。
ところで、仏教がインド生まれなのに、『お彼岸(ひがん)』は日本生まれの行事です(もちろん『彼岸』という言葉自体はインド生まれですが、春と秋の1週間…という『お彼岸(ひがん)』はインドにはありません。
私達は『暑さ寒さも彼岸まで』という言葉を気軽によく使いますが、この言葉は単に季節を言い表す言葉では無く大変重要な意味を持っていると感じます。
その点を紹介させてもらいたいと思います。
仏教(釈迦の教え)を別の言い方で『中道(ちゅうどう)』といいます。仏教の修行は、肉体を滅ぼしてしまうような難行苦行にも、快楽を徹底して追及するような快楽主義にも、どちらにもかたよってはならない。そのどちらにも片寄らない『中道(ちゅうどう)』こそが仏道修行の有り方である、というわけです。
つまり暑さにも寒さにも片寄らない日本の春と秋は『中道(ちゅうどう)』にあい通じるところがあると、昔の日本人が思いついて『おひがん』をこしらえたのではないでしょうか。インドには雨季と乾季は有っても、日本のような四季はありませんから、『春と秋の1週間』などとは思いつきようが無かったのです。
『中道(ちゅうどう)』はギターや琵琶のような弦楽器によくたとえられます。つまり、弦をあまりゆるく張りすぎると、ベロンベロンというような奇妙な音が出てしまうし、あまり強く張りすぎるとすぐに切れてしまう…、どちらにも片寄らず適当な強さで張ってこそ綺麗な音が出るのだ、といわれるのです。
『彼岸』は何とかして悩み苦しみに満ちたこちらの岸(此岸(しがん)といいます)から、悩み苦しみの無いむこうの岸へ渡りたい、という強い憧れを表した言葉です。その、わたるための様々な方法を示しているのが仏教(釈迦の教え)であると考える事ができます。(『彼岸』については当HP内の仏教講座第13回『六度』をご覧下さい)
ところで彼岸は、『悲願』と同じ言い方だなあ、と以前から思っていました。『彼岸』に渡りたいというのは、仏教徒にとってどうしても達成させたい願い、つまり『悲願』に違いないなどと思っていましたら新聞にこんな俳句が載っていました。十数年前『赤報隊』と名乗る一団によって、まだ若かった新聞記者であった息子さんを殺された母親が作った俳句です。
彼岸来て 悲願続けて また彼岸
彼女の悲願は息子を殺した『赤報隊』が特定され裁判にかけられて、罪を償う事です。しかしその悲願は達成されないまま、事件は時効になってしまいました。
 
 
歳時記

 

彼岸(ひがん)
彼岸は春と秋の2回ある。春分と秋分を中日(ちゅうにち)として、前後3日間が彼岸である。ただし、俳句で「彼岸」と言えば、春の彼岸を指す。秋分の方は「秋彼岸」と言って区別している。
仏教に波羅蜜という言葉がある。梵語のパーラミタを漢字に写したもので、生きるの死ぬのと煩悩に囚われる此岸(現実世界)から、理想の世界である涅槃(彼岸)に到達することを言う。古く中国ではインドから仏教思想を輸入したとき、波羅蜜を翻訳して「到彼岸」という文字を宛てた。
この到彼岸の思想が、日本に伝わり、凡愚が迷いを覚まし、罪障消滅を願って寺参りして法会(彼岸会)に参加したり、墓参りしたりする仏教行事が盛んに行われるようになった。さらに、日本古来の農業にまつわる行事とも結びついて、農村では豊作を祈願したりする独特の風習が生れた。ちょうど彼岸の頃は、苗代に籾をおろす種蒔きの時期を間近に控えた、農家にとって重要な時期である。春の彼岸の第一日を彼岸太郎と言い、その日天気が良いとその年は豊作だという吉凶判断のよすがともされた。また、地方によっては、彼岸の最中に村の丘に藁や薪を集めて燃やす風習もあったが、これなども古来からの豊作祈願が仏教の彼岸行事と結びついたものであろう。
しかし、そのような風習も今日では徐々に消えようとしている。彼岸の中日は春分の日で祭日であり、前後の土日と連休にでもなれば、ちょっとした旅行もできるとあって、最近では春の行楽のピークになっている。先祖の墓参りは都会地でも盛んだが、これも家族そろってのたまの外出という、半ばは行楽気分の行事になっている。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、この頃から春も本番である。桜の開花が噂され、桃も咲き、菜の花も彩りを添える。しかし、時として彼岸前後に急に冷え込むことがある。この頃の天候はあまり安定していないせいであろう。彼岸の名句として大概の歳時記に載っている正岡子規の「毎年よ彼岸の入に寒いのは」という句も、この気分を詠んだものである。これには前書きが付いていて、「母の詞自ら句となりて」とある。子規が「お彼岸だというのに寒いな」とでも言ったのだろう。そうしたら母親が「毎年よ、彼岸の入りに寒いのは」と言った。それがそのまま句になったというのである。まさに俳句作りの要諦を語っているようで愉快である。
彼岸の初日を入彼岸あるいは彼岸太郎、最後の日を彼岸ばらひと言う。彼岸会、彼岸参り、彼岸前、彼岸過、さらには彼岸団子など傍題も多い。
  虫どもの力付きたる彼岸かな   杉山杉風
  我村はぼたぼた雪のひがんかな   小林一茶
  毎年よ彼岸の入に寒いのは   正岡子規
  藁屋根の青空かぶる彼岸かな   久保田万太郎
  人界のともしび赤き彼岸かな   相馬遷子
  彼岸過ぐ枯葦がうすももいろに   松村蒼石
  お彼岸のきれいな顔の雀かな   勝又一透
  お彼岸の園に下ろさる車椅子   小林勲
  声高に灸のはなし入彼岸   土田桂子
墓参(はかまゐり)
お墓参りは季節に関係なく故人の命日に出かけたり、東京近辺では春秋の彼岸に行われることが多いが、全国的に見れば昔からの習いでお盆の行事とされているため、秋の季語になっている。お盆はこれまた大都市では新暦で7月13日からだが、俳句の場合はもちろん旧暦だから8月のこととなり、秋である。
昔は盂蘭盆会が近づくと一家総出で墓所を掃除し、墓石を洗い、いざお盆となると花や供物をそなえて先祖を祀った。今日でも東京、大阪などに出て働いている人や、田舎に実家を持つ人が、8月中旬の月遅れ盆に一斉に故郷に帰る帰省ラッシュが発生する。これも昔のお盆の墓参りの習慣を残していると言えば言えるが、どちらかと言えば子供たちとおじいちゃん、おばあちゃんとの交流をはかりながら、夏休みをとるという現世的目的が色濃いようである。
「墓参」と書いて「はかまゐり」「ぼさん」と両様に用いられるほか、「墓詣(はかもうで)」「墓掃除」「墓洗う」なども使われる。
墓参の句でいつも思い出すのは、高浜虚子が京都・落柿舎の去来の墓をお参りした時の句である。「凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり」というとんでもない字余り句で、落柿舎の庭の一角にこれを刻んだ堂々たる句碑が立っている。去来の墓はというと、ちょっと離れた薮陰にある。この句の通り、それはそれは小さい、高さ30センチばかりの可愛らしいもので、後人の句碑のこれでもかとばかりのばかでかさが滑稽に映る。それにしても「およそてんかにきょらいほどの」という13音もの上の句には度肝を抜かれる。虚子以外の人がこんな句を提出したらどうなることであろうか。「いいかげんにしろ」と言われるのがオチではなかろうか。
「墓参」は上記のように旧盆あるいは月遅れ盆の頃の季語とされているが、近ごろではお彼岸の墓参りの方が優勢なので、9月下旬の秋彼岸のころまでを含めた季語としても良いのではないか。歳時記の例句や俳句雑誌に載っている句を見ると、お彼岸頃の仲秋の景色や雰囲気を詠んだものがかなり見つかる。
「墓参」という季語の時間的広がりは徐々に大きくなっているようである。
  家は皆杖に白髪の墓参り   松尾芭蕉
  己にて絶ゆる血統や墓詣   宮部寸七翁
  かんばせを日に照されて墓詣   川端茅舎
  きやうだいの縁うすかりし墓参かな   久保田万太郎
  掃苔の三人の子の皆女   高野素十
  彫に指入れていねいに墓洗ふ   大橋櫻坡子
  墓参り遥々来しが永くゐず   山口波津女
  ひとり来てお盆の過ぎし墓を掃く   清崎敏郎
  ジーンズの相乗りでくる墓参り   石黒裕運
  この山の彩見えますか墓洗ふ   前岡茂子
曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
ヒガンバナ科の多年性草本植物で「彼岸花」が本名。秋の彼岸の頃、川の堤や土手、薮の中、寺の裏庭や墓地で真っ赤な花を咲かせる。土中から薄緑の茎を30センチほどにゅっと伸ばして、その先に長いしべの小花を輪状に並べて、赤い花火のように咲く。日陰でもよく育ち、墓地などにこれが群落し一斉に開花した光景は一種異様な雰囲気につつまれる。しかし、明るい草原にこれが群がり咲く光景ははなやかで、同じ曼珠沙華でも場所によってこうも違うのかと、何となく人間社会の運不運といったことに想いが飛躍していったりする。
曼珠沙華という名前は法華経に由来し、天上に咲く赤い花で、見る者の心を和らげるという。中国原産の球根(鱗茎)植物で大昔に日本に渡来したらしく、今では日本中至るところに自生している。白花の彼岸花もあり、清楚な感じである。
その名の由来からすれば、曼珠沙華はもてはやされていいはずなのだが、「死人花」「幽霊花」「捨子花」といった別名もある通り、人によっては忌み嫌う。死人花という呼び名は墓地によく見られることからの連想であろう。
彼岸花は咲き終わって茎も枯れ、誰もがすっかり忘れてしまった頃、地面から濃緑の葉がたくさん生えて、冬中青々としていると思ったら、春になるとそれも消えてしまう。そして秋に突如緑色の棒のようなものが現れて、いきなり真っ赤に咲き出す。実に不思議な草である。「花が葉々に別れる」から「捨子花」なのだというこじつけ話もある。
彼岸花は鱗茎にリコリンなどのアルカロイドを含み、有毒である。漢方や民間療法では石蒜(せきにん)と言い、すりおろして足の裏に貼る。強い利尿効果を発揮し、腹膜炎や浮腫、足のむくみなどに用いられた。
また、彼岸花の球根は澱粉をかなり含んでいる。植えっぱなしで増えていき、手入れも何もいらない。そこで昔の人たちは農作物の邪魔にならない場所、たとえば畦道や道端、河原の土手、あるいは墓地の空地などに植えた。毒のある草花だから普段は手も触れない。ほとんど話題にもしない。そして何年かに一度必ずやって来る飢饉の時になると、彼岸花の根を掘り出してすり潰し、水で何度も晒して毒を洗い流した後の澱粉を取り、飢えをしのいだのである。「毒」「飢饉」「墓地」と、どうもイメージが良くない。こんなところから彼岸花は長いこと不当な評価を受け続けて来た。
しかし近ごろはだいぶ評価が変わって来たようである。外国人、特に西洋人がこの花を非常に好み、堂々と花壇に植えるようになった。また南アフリカにもヒガンバナ科の美しい花がたくさんあり、それがヨーロッパやアメリカに移されて改良され、おびただしい園芸種が生まれた。黄花のルテア(キバナタマスダレ)でおなじみのステルンベルギアや、さまざまな花色が楽しめるネリネなどである。それが日本にも輸入されてもてはやされるようになった。
そういった輸入種の花をつくずく眺めているうちに、「なんだ曼珠沙華じゃないか」ということになって、昔からある彼岸花が見直されるようになったようである。近ごろ大都市周辺の町村では、休耕地などに彼岸花をわざわざ植えて大きな赤じゅうたんを演出し、秋の行楽客を呼び込む”村おこし”まで出て来た。
  つきぬけて天上の紺曼珠沙華   山口誓子
  われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華   杉田久女
  曼珠沙華南河内の明るさよ   日野草城
  四十路さながら雲多き午后曼珠沙華   中村草田男
  彼岸花咲く薮川のうす濁り   内藤吐天
  西国の畦曼珠沙華曼珠沙華   森澄雄
  対岸の火として眺む曼珠沙華   能村登四郎
  曼珠沙華散るや赤きに耐へかねて   野見山朱鳥
  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子   金子兜太
  皇居てふ不思議な島の曼珠沙華   和田知子
秋彼岸(あきひがん) 仲秋
子季語 後の彼岸、秋彼岸会
関連季語 彼岸、彼岸会、秋分
秋分の日(九月二十三日ごろ)を中日とし、前後三日を含めた七日間を指す。お墓参りをし、おはぎを作ってご先祖に供える。彼岸は春と秋の二回あり、秋の彼岸は後の彼岸ともいう。ただ彼岸という場合は春の彼岸を指す。
彼岸は、亡き先祖に感謝し、その霊をなぐさめ、自分も身をつつしみ極楽往生を願う日本特有の仏教行事である。『源氏物語』にその記述があり、平安時代にはすでに行われていたとされる。太陽信仰と深いかかわりがあり、真東から上がって真西に沈む太陽を拝んで、阿弥陀如来が治める極楽浄土に思いをはせたのが起源とされる。「日の願(ひのがん)」から「彼岸」となったという説もある。彼岸は春彼岸と秋彼岸とがあり、春彼岸は種まきの季節で、その年の豊穣を祈る気持ちがつよく、秋彼岸は収穫に感謝する気持ちがつい。
  風もなき秋の彼岸の綿帽子  鬼貫 「七車」
  きらきらと秋の彼岸の椿かな 木導 「韻塞」
  傘(からかさ)をかたげて秋の彼岸かな 青流 「住吉物語」
  火の中に栄螺ならべて秋彼岸 長谷川櫂 「果実」
彼岸(ひがん) 仲春
子季語 彼岸中日、彼岸太郎、入り彼岸、さき彼岸、初手彼岸、終ひ彼岸、彼岸ばらい、彼岸前、彼岸過、彼岸講、万灯日
関連季語 秋彼岸、春分
春分の日を中日として、その前後三日の計七日間を指す。このころになると、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように寒さも治まる。先祖の墓参りなどの行事がある。
  命婦よりぼた餅たばす彼岸哉 蕪村 「蕪村句集」
  毎年よ彼岸の入に寒いのは  正岡子規 「寒山落木」
  竹の芽も茜さしたる彼岸かな 芥川龍之介 「澄江堂句集」
  蝌蚪生れて未だ目覚めざる彼岸かな-- 松本たかし 「松本たかし句集」
春分 仲春
二十四節気のひとつ。太陽暦の三月二十一日の頃にあたり、太陽の中心が春分点を通過する。太陽は真東から昇り、真西に沈んで、昼と夜の長さがほぼ等しくなる。この日を境に昼の時間が次第に長くなっていく。春の彼岸の中日で、このころからいよいよ暖かくなってゆく。
  時正の日猟師の茶の子貰ひけり 嘯山 「葎亭句集」
紫陽花
  「思いきり 愛されたくて 駆けてゆく六月 サンダル あじさいの花」 俵万智
梅雨の晴れ間の空の下、サンダルが解放感を一気に広げている秀歌です。
我国原産のアジサイはユキノシタ科の落葉低木で海岸近くに自生するガクアジサイが原種といわれています。花は中心に小さく円く密集していて、花びらのように見えるのは咢(がく)。普通四枚のものが多いので四片(よひら)あるいは四片花(よひらばな)ともよばれ、茎は大きくなると固くなって木釘、楊枝に、花は解熱剤、葉は瘧(おこり)、痙攣(けいれん)の特効薬に使われている有用の植物です。
  「あぢさえの 下葉にすだく蛍をば よひらの数の 添ふかとぞみる」 藤原定家
(紫陽花の下葉に集まっている蛍は 四片(よひら)に咲く花に見まごうばかり)
「すだく」は集まるの意。夕闇の中でほのかな光を点滅させる蛍、その光に浮かぶ紫陽花の咢は一瞬蛍とみまがうよう。と幻想的な場面を詠った作者。「さすが定家、視覚的でしゃれている」とは栗田勇氏の評です。
「あじさい」の語源は「あじ」は集(あづ)で「ものが集まる」、「さ」は真(さ)で真実「い」は藍、「真に深い藍色の花」の意とされています。
漢字に「紫陽花」が当てられていますがこれは誤称。というのは、昔、中国の白楽天が白と藍が混じった名前の分からない珍しい花を「紫陽花」と名付けましたが、我国原産のアジサイとは別種の植物であったにもかかわらず、平安時代の歌人、源順(みなもとの したごう)が勘違いして表記したもの。訂正されないまま何と!1000年も誤りが続いており、もはや正すのは無理でしょう。なお、日本からもたらされたアジサイは中国で八仙花とよばれているそうです。
  「茜さす 昼はこちたし あじさゐの 花のよひらに 逢ひみてしがな」 穂積皇子
(昼はうっとうしく見える紫陽花も宵になると四片(よひら)の花びらが艶やかになります。そのような宵にあなたとお逢いしたいものです)
暮れゆく夕べの中でほのかに浮かぶ紫陽花。幽玄な中にも艶やかさを感じさせる恋歌。「宵」と「よひら」が掛けられています。
「こちたし」は「言葉痛し」、人の噂がかしましく、うっとうしい が原義。ここでは「ぱっとしない」というほどの意味です。
穂積皇子は天武天皇皇子、妻は大伴旅人の妹大伴坂上郎女。万葉ゆかりの作者なのにこの歌が万葉集に収録されていないとは不思議なことです。
万葉集での紫陽花はたった2首。目出度い花と色が変わるので心変わりする花です。
  「あぢさいの 八重咲くごとく 八つ代(よ)にを いませ 我が背子(せこ) 見つつ偲(しの)はむ」 橘諸兄(既出)
(あじさいがこの上もなく見事に美しく咲いているこの佳き日。あなた様にはこれからも末永くお元気でご繁栄されますようにお祈りしています。これからもあじさいを見る度にあなた様を想っておりますよ)
この歌は丹比国人真人 (たじひのくにひとのまひと) という官人の慶事を祝う宴席で作者がおどけて女性の立場で詠ったもの。「八重咲く」は花が密集している様子をいいます。
一方、目出度い象徴の「あじさい」は花の色が良く変わる事から「七色の花」「七変草(しちへんぐさ)」と呼ばれ「ころころと変わる信用できない人」の例えにも詠われました。
「言(こと)とはぬ 木すらあぢさい 諸弟(もろと)らが 練(ね)りの むらとに あざむかえけり」 大伴家持
(言葉を話さない木ですら アジサイのように色の変わる花がある。ましてや、使者の諸弟(もろと)めの口が達者なこと。ころころ変わる練達の言葉に、うまうま乗せられてしまったわい)
「諸弟」:使者を勤めた人の人名 「練りの むらと(群詞)」:「練りに練った言葉の数々」
この歌は大伴家持が婚約者の坂上大嬢におどけて贈ったもので今で言えば「うまうまと仲人口に乗せられてしまったよ」といったところでしょうか。
正岡子規はこの歌の影響を受けたのか次のように詠んでいます。
  「紫陽花や きのふの誠 けふの嘘」 正岡子規
紫陽花は文芸にふさわしくないと思われたのか、140種近くの植物を描写した枕草子、110種ほどの植物をちりばめた源氏物語に登場していません。変化する色は花という感覚に馴染まなかったのでしょうか。
  「さみだれの きのふ一日晴れしかば 今朝は色よき あじさいの花」 三ヶ島葭子(よしこ)
万葉集で縁起と忌みとに見たてられたアジサイ。花の変化を七変化と表現され、化け花、幽霊花の名も残ります。一方、縁起の良いものとして門守りや金がたまるものとしても尊ばれたのです。というのは、アジサイは湿気のあるところを好み、水気を吸うのでじめじめした環境を防ぎ、病を遠ざける厄除け。さらに、アジサイの「アジ」は集まるの古語「集(あ)ず」、サイは「財」とよみなして「金が集まる」という語呂合わせをしたのです。
  「紫陽花の 毬(まり)まだ青し 降りつづく」 松下古城 
幕末に来日したシーボルトは1823年「日本植物誌」を編み、各種のアジサイを欧州に送りました。その後、盛んに改良されて豪華な西洋アジサイになり、我国に里帰りし、今日に至っています。
余談ながら
シーボルトはアジサイ学名(種小名)に、自らが愛した長崎、丸山廓の遊女、其扇(そのおおぎ)、本名 楠本滝(タキ)の名を採り、「オタクサ」(お滝さんの意)と命名しました。牧野富太郎博士は「シーボルトはアジサイの和名を私に変更して我が閨(ねや)で目じりを下げた女郎のお滝の名をこれに用いて大いに花の神聖をけがした」と大変なご立腹です。
ともあれシーボルトの日本医学に与えた影響は極めて大きく長崎のシーボルト宅跡は史跡に指定され、また異人との悲恋を秘めたこの花をいとおしむ多くの人達の希望により、昭和43年(1968)、長崎市の花となりました。
またシーボルトと滝との間に生まれた娘は「いね」と名付けられ長じて美しく聡明な女性に成長し我国最初の女医になったのです。
うっとうしい梅雨の季節に明るく咲くアジサイ。すぐれた園芸改良の結果、近代の感性とマッチし、いまや全国いたるところで多くの人々を楽しませてくれています。
  「雨に剪(き)る 紫陽花の葉の 真青かな」 飯田蛇笏  
 
 
彼岸過迄 / 夏目漱石

 

彼岸過迄に就て
事実を読者の前に告白すると、去年の八月頃すでに自分の小説を紙上に連載すべきはずだったのである。ところが余り暑い盛りに大患後の身体(からだ)をぶっ通(とお)しに使うのはどんなものだろうという親切な心配をしてくれる人が出て来たので、それを好(い)い機会(しお)に、なお二箇月の暇を貪(むさぼ)ることにとりきめて貰ったのが原(もと)で、とうとうその二箇月が過去った十月にも筆を執(と)らず、十一十二もつい紙上へは杳(よう)たる有様で暮してしまった。自分の当然やるべき仕事が、こういう風に、崩(くず)れた波の崩れながら伝わって行くような具合で、ただだらしなく延びるのはけっして心持の好いものではない。
歳の改まる元旦から、いよいよ事始める緒口(いとぐち)を開くように事がきまった時は、長い間|抑(おさ)えられたものが伸びる時の楽(たのしみ)よりは、背中に背負(しょわ)された義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりも嬉(うれ)しかった。けれども長い間|抛(ほう)り出しておいたこの義務を、どうしたら例(いつも)よりも手際(てぎわ)よくやってのけられるだろうかと考えると、また新らしい苦痛を感ぜずにはいられない。
久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある。それに自分の健康状態やらその他の事情に対して寛容の精神に充(み)ちた取り扱い方をしてくれた社友の好意だの、また自分の書くものを毎日日課のようにして読んでくれる読者の好意だのに、酬(むく)いなくてはすまないという心持がだいぶつけ加わって来る。で、どうかして旨(うま)いものができるようにと念じている。けれどもただ念力だけでは作物(さくぶつ)のできばえを左右する訳にはどうしたって行きっこない、いくら佳(い)いものをと思っても、思うようになるかならないか自分にさえ予言のできかねるのが述作の常であるから、今度こそは長い間休んだ埋合(うめあわ)せをするつもりであると公言する勇気が出ない。そこに一種の苦痛が潜(ひそ)んでいるのである。
この作を公(おおやけ)にするにあたって、自分はただ以上の事だけを言っておきたい気がする。作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めていない。実をいうと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ浪漫派(ローマンは)の作家ではなおさらない。自分はこれらの主義を高く標榜(ひょうぼう)して路傍(ろぼう)の人の注意を惹(ひ)くほどに、自分の作物が固定した色に染つけられているという自信を持ち得ぬものである。またそんな自信を不必要とするものである。ただ自分は自分であるという信念を持っている。そうして自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、ないしネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである。
自分はまた自分の作物を新しい新しいと吹聴(ふいちょう)する事も好まない。今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。
自分はすべて文壇に濫用(らんよう)される空疎な流行語を藉(か)りて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気(げんき)があって自分以上を装(よそお)うようなものができたりして、読者にすまない結果を齎(もたら)すのを恐れるだけである。
東京大阪を通じて計算すると、吾(わが)朝日新聞の購読者は実に何十万という多数に上っている。その内で自分の作物(さくぶつ)を読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路(ろじ)も覗(のぞ)いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率(しんそつ)に呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公(おおやけ)にし得る自分を幸福と信じている。
「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空(むな)しい標題(みだし)である。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持(じ)していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日(こんにち)まで過ぎたのであるから、もし自分の手際(てぎわ)が許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。けれども小説は建築家の図面と違って、いくら下手でも活動と発展を含まない訳に行かないので、たとい自分が作るとは云いながら、自分の計画通りに進行しかねる場合がよく起って来るのは、普通の実世間において吾々の企(くわだ)てが意外の障害を受けて予期のごとくに纏(まと)まらないのと一般である。したがってこれはずっと書進んで見ないとちょっと分らない全く未来に属する問題かも知れない。けれどもよし旨(うま)く行かなくっても、離れるともつくとも片(かた)のつかない短篇が続くだけの事だろうとは予想できる。自分はそれでも差支(さしつか)えなかろうと思っている。  
 

 

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■諸説  
 
信仰と此岸の生 ― パスカルとモンテーニュの幸福観―

 

現世利益と信仰の関係については、一面的な見方を拒む多様な側面があることはたしかであるが、世界的な宗教において、両者は一般に、少なからず対立的なものとして捉えられる。このような特徴は、罪の贖いこそが真の救済であるとの考えをその中心的な教義の一部とするキリスト教においてとりわけ顕著である。罪や情欲(とりわけ肉体的なそれ)は、神の掟に反して物質的・地上的なものに向かうのであるが、現世的幸福はこれらと切り離しては考えにくい。
本論では、キリスト教において信仰と現世的幸福とはどのような関係にあるのか、両者は両立可能か、そうであればそれはどのような形で実現されうるのか、という問いについて、時代、地域、党派別の各論には立ち入らずに、モンテーニュとパスカルの思想を見ていくことによって考えることを目的とする。
前者はフランス16世紀の宗教的争乱のさなかに、信仰の名のもとに行われる残虐と卑劣を目にし、『エセー』において、人間の本来ありうべき姿を、ときには宗教そのものへの批判を含む根本的な思索によって探求した。後者は、同じくフランスで、カトリック宗教改革の直後、イエズス会主導による教会の近代化推進の動きに反発するかたちで発生したジャンセニスムにおいて中心的な働きを果たし、アウグスティヌス主義に基づいた厳格な教義的認識を背景に、『キリスト教護教論』を企図した(その草稿を含む遺稿集が『パンセ』である)。この二人の現世観は図らずも、キリスト教思想の両極に位置づけられるほど著しい対照をなしている。
モンテーニュは、「自然」なるものを道徳的な指針とみなし、それによって正当化される肉体の快楽を肯定することで、教義の臨界へと踏み込む。一方パスカルは、モンテーニュの思想と表現から多大な影響を受けつつも、邪欲や情念を徹底的に忌避することで、信仰を現世的幸福そのものと同一視した。結局のところいずれも、真の意味で信仰と此岸の生の両立には成功したとはいえない。この二人の思想をテクストに基づいて考察す
ることで、此岸と彼岸、幸福と救済との緊張と、その緩和の可能性について見ていくことにしたい。  
T.モンテーニュ 
1.現世と来世の非連続性
モンテーニュは、『エセー』において、折りにふれて自分が敬虔なカトリック教徒であることを表明している。「祈りについて」の章で、自分は「この教会の中で死ぬ、またその中で生まれた人間」なのであって、自分の書くことが「カトリックの使徒承伝の、ローマ教会の神聖な掟に反することがあってはいけない」と宣言しているし、宗教戦争に関する記述においては、つねにカトリック側を「われわれ」と表現している。信仰が説く死後の「不滅の栄光の状態」よりも、「不徳な快楽の対象」を重視する態度を「冒涜」と断じ、「好奇心」を「高慢」につながる悪であるとして戒める彼の態度も、教義への忠実さに発しているものとみなすことができる。彼にとって、現世的な快楽や欲望の成就のために神の助力を求めることは、端的に「間違い」である。モンテーニュにおいて、宗教と現世利益は、直接結びつけられるべきものではない。
このことは、彼の来世観からもうかがえる。「レーモン・スボンの弁護」の章によると、まず、霊魂不滅の当否、すなわち来世が存在するか否かは、自然や人間の理性によっては知ることのできない神秘であって、厚い信仰によってはじめて神から与えられる真理にほかならない。宗教の真理が人間にはうかがい知ることのできないものである以上、それを詮索し、ましてや「広間や台所でぺちゃくちゃ論議する」のは間違った態度である、と彼は言う。そもそも信仰は、「人間的な手段」によってではなく、「超常的な浸透」によってわれわれの中に入ってくるものである。にもかかわらず人間はたいてい、「信ずるとはどういうことかも見通せずに、信じていると自分自身に思わせている」。
また、人間にあって、「死と現世の匂いのしない能力は、ひとつとしてない」のであるから、死後の生が存在したとしても、それがいかなるものかは人間には不可知である。したがって、来世においても「世俗的な快楽や幸福をともなった地上的、現世的な生活」があると考えるのは、秩序の混同である。もしそうだとすれば、来世が無限なものではなくなってしまうからだ。ここでモンテーニュは、有限者たる人間と、無限の神との存在論的差異を想起している。このようにして彼は、現世と死後の生との間に、質的な不連続性を帰結するのである。
しかし、モンテーニュにおいて特徴的なのは、このことから、地上の生と死後の生の間の因果関係をも否定する点にある。彼は、次のように言う。
精神(ame)の力と行為が問題にされるのは、ほかならぬ現世の、われわれのもとにおいてでなければならない。それ以外の完全さなどは、精神にとってはすべてが空しく、無益である。精神の永遠不滅が報いられ、認め
られるのは現在の状態に対してでなければならないし、精神が責任をもつのは、人間の生の期間についてのみである。それなのに、精神からその手段と力を取り除き、武器を奪っておいて、精神がとらわれて監禁され、衰弱と病気にあえぎ、拘束と束縛を受けているときを狙って、永遠無限につづく判決と刑罰を下すのは不当であろう。また、ごく短い時間、おそらく一、二時間か、せいぜい一世紀くらいで、永遠からすれば一瞬にすらも相当
しないような短い時間に基づいて、精神の全存在を決定的に規定しようとするのは不当であろう。こんなに短い生涯の結果として永遠の報いを導き出すのは、とんでもない不公平であろう。
来世があるとして、そのあり方が地上の生の過ごし方によって決定されるとの考えは、彼には受け入れられない。それは、現世の短さと来世の無限の長さが不均衡(disproportion)であることによる。また彼は、そもそも人間の行為はすべて神の意のままにあるのだから、神が、自身がもたらした結果に報いるなどとは考えられない、とも述べている。モンテーニュがここで直接念頭に置いているのはプラトンの来世観であるが、ここで断
罪されているのは、知りえないことをまるで知っているように語る人間の理性一般であり、その意味で当然、プラトン流の因果論を漠然と信じながらも、来世における救済のためにさしたる努力を行うのではない多くの一般的なキリスト教徒も批判をまぬかれない。ここで問われているのは、信仰の強さとそれを示す実践の度合いである。
モンテーニュの批判を逃れるのは、キリスト教の教義に則って、孤独のうちに「来世における神の約束への確信を心の励みとしている人々」のみである。このような人々にとって、「来世における幸福な永遠の生命を得るという唯一の目的のためには、現世の幸福と快楽を捨てることはなんでもない」とモンテーニュは言う。彼自身は、現世と来世の間に質的にも因果論的にも連続性を認められないが、そのことを確信し、救済のために努力を怠らない人々には称賛を惜しまないのである。
だからといって、モンテーニュ自身は、このような人々に追随するわけではない。それどころか、彼らが避けようと努力する「肉体的な幸福」を、積極的に求めることを宣言している。普通の精神しかもたない自分は、彼ら「強くたくましい精神」をもつ人々のまねはできない、というわけだ。
モンテーニュの教義に対する姿勢は両義的である。一方で現世的欲望を断罪し、来世における永遠の幸福のために努力する誠実な信徒を称賛しながら、他方で自分自身は、現世と来世の質的・因果的な連続性を否定し、現世的快楽、とりわけ肉体的な欲望の追求を選択する。このような態度は、はたして信仰の枠組みのなかで正当化されるのだろうか。次に、肉体的な快楽についての彼の考えを見てみよう。 
2.地上的快楽の享受
『エセー』第3巻第5章「ウェルギリウスの詩句について」は、性愛称賛論として名高い。性的快楽を肯定する根拠としてモンテーニュが再三にわたって取り上げるのは、肉体と精神の和合という命題である。たとえば、彼は次のように言う。
われわれは、次のように言うことができないだろうか。「われわれがこの地上の牢獄にいる間は、われわれのなかには、純粋に肉体的なもの、純粋に精神的なものはなにもない。だから生きたままの人間を、[肉体と精神の
二つに]引き裂くのは正しくない。また、快楽の享受に対しても、少なくとも苦痛に対するのと同じ好意をもって当たるべきだというのが正しいように思われる」と。
肉体は精神(esprit)を損なってまでおのれの欲望に従ってはならぬと人が言うのは、きわめてもっともではあるが、それなら精神は肉体を損なってまでおのれの欲望に従ってはならぬということも正しくないわけがなかろう。
われわれは現世にいるかぎり、身体と精神(魂)という二つの実質の調和を尊重すべきなのであって、身体が健康なときに、精神の欲望を抑制し、身体を精神に従属させることが必要なのは当然であるが、身体の健康を損なうほどまでの禁欲も正しくない。したがって、老年に達した自分はむしろ、「精神(ame)をみだらな、若々しい考えに没頭させ、そこで休ませる」、と彼は言う。健康を維持するために、性的欲望を利用するのがよいというわけだ。
モンテーニュは、このような身体と精神との和合の命題を、キリスト教の教義によって正当化しうると考えているようだ。
キリスト教徒はこの結合については特別に教えられている。というのは彼らは、神の裁きがこの肉体と精神(ame)の連関とつながりとを祝し、肉体にも永遠の報いを可能にすることを知っているし、また、神が霊肉をそなえた一体としての人間の行動を見守り、人間が全体として、功績に応じてあるいは罰を受け、あるいは報いを受けるのを望んでいると知っているからである。
たしかに、モンテーニュが引用するアウグスティヌスの文章からも、キリスト教の思想のなかに、肉体の蔑視を戒める考えが認められる。だが、アウグスティヌスは、肉体への愛を神や精神に対する愛の下位に置き、肉体を「使用する」(utui)のはよいが、それを「享受する」(frui)ことは禁じているのであって、「感覚欲」とりわけ性欲は、きわめて危険な欲望であると警告している。モンテーニュはここで、明らかに正統な教義とその伝承の拡大解釈を行っている。
『エセー』最終章(第3巻第13章)の「経験について」でモンテーニュは、「健康の究極の成果は快楽である」と明言する。「なんなりと目前の、知っている快楽にしがみつこうではないか。私は断食の掟を守り続けたくはない」。欲望の節制が求められるとしても、それは彼にとって、のちにより大きな快楽を享受するためにすぎない。これは、別の箇所で彼が言うような「神から気前よく与えられた幸福を穏やかに享受する」態度からは、もはや大きく逸脱している。
モンテーニュは、地上的な快楽を進んで享受すると言うとき、しばしば宗教によって自らを正当化するが、その試みには無理がある。彼の道徳原理は、彼が奉じると言明するカトリシズムであるとは言い難い。モンテーニュの本意はどこにあるのか。彼の道徳観について簡単に見ておく必要がある。 
3.道徳的原理としての「自然」
モンテーニュは、自己を導く原理として、しばしば「自然」をもちだす。
自然はわれわれに歩くための脚を与えてくれたように、人生に処してゆくための知恵を与えてくれた。もっとも、それは哲学者が考え出したような巧妙な、頑丈な、大げさなものではなくて、分相応の、平易な、健康な知恵である。純朴に正しく生きることを、つまりは自然に生きることを幸いにも知っている人にとっては、哲学者の知恵が言うことを、立派に果たす知恵である。もっとも単純に自然に身を任せるのが、もっとも賢明な任せ方である。ああ、無知と無頓着とは、よくできた頭を休めるには何とやわらかく、快い、健康な枕であろう。
これは、学問や知識が、しばしば正しく生きることの妨げになることを指摘する一節である。ここで「自然」は、「哲学」と対置させられている。また、次の一節は、医術への依存を批判している。
病気には通路を開けてやらなければならない。私は、病気に好きなようにさせるから、私のところにはあまり長くとどまらないように思われる。また、しつこくて頑固なものと考えられている病気をも、病気自身の衰弱によって、医術の助けを借りずに、医術の規則に逆らって治してきた。少し自然のなすがままに任せておこうではないか。自然はわれわれよりも自分の仕事をよく知っている。
このような学問や理論に対する警戒と、自然への随順の思想は、彼にあって、死の受容の仕方に結びついている。
私は近所の百姓たちが、どんな態度と確信をもって最後の時を過ごしたらよいかなどと考え込むのを一度も見たことがない。自然は彼らに、死にかけたときでなければ死を考えるなと教えている。そしてそのときでも、彼らは、死そのものと長期にわたる死の予想とで二重に急き立てられているアリストテレスより、多くの恵みを受けている。
自然に任せて死を受け入れる態度は、正しいばかりか幸福でもある、という。初期の『エセー』において、モンテーニュは死の訪れに対して早くから準備をし、死の考えに慣れ、さらには死を軽視することを勧めたり、死の恐ろしさを「想像」によって快楽に転ずることがわれわれの幸福につながると論じたりしていた。今や彼は、「自然」を道徳原理にまで高めることによって、究極の瞬間を、いかなる準備もせずに受け入れることを提案するのである。のちに述べるように、まさにこの点によって、モンテーニュはパスカルと大きく袂を分かっている。
このような「自然」の捉え方は、おそらく正統なキリスト教の立場からすれば受容しがたいであろう。第一に、自然は被造物であり、造物主である神と精神をそなえた人間よりは存在論的に下位に置かれるのだし、第二に、自然を善なるものとする思想を、彼はギリシアの思想(とりわけアリストテレスの哲学)から得ている。
しかし、モンテーニュ自身は、「自然」と「神」とを区別していないように思われる。次の文章では、両者は明らかに同義で用いられている。
そこで私は、神がくださったままの人生を愛し耕すのである。[...]私は心から、感謝しながら、自然が私のために作ってくれたものを受け取り、そして自分がそうすることを、喜び、誇りとする。この偉大な全能の贈与者のたまものをこばみ、破壊し、歪曲するのは、恩を仇で返すことである。彼はすべての点で善であるから、彼の作ったものもすべて善である。
われわれはむなしい思い上がりから、自分の才能を、自然の恵みよりも自分の力のおかげだと考えたがる。そして生まれつきの才能を他の動物たちに気前よく譲って、後天的な才能で自分を尊くし、高貴にしようとする。私には実に愚かな考えとしか思えない。私なら、自分に特有な生まれつきの長所をも、修練によって得ようと思った長所と同じようにありがたがるところだ。われわれには神と自然に好まれること以上にすばらしい長所を獲得することはできないのである。
このことをもって、モンテーニュの信仰が異端的であったと断ずるのは早計である(現に、教皇庁の図書検閲官は、いくつかの重大ではない異議を付したものの、『エセー』に出版許可を与えている)し、そもそも、そのことの判断は本稿の目的ではない。重要なのは、カトリシズムを奉じるモンテーニュの信仰が、このような自然観と両立しえたという事実である。
モンテーニュは、肉体の適正な使用を推奨する際にも、「自然」を導き手としていた。
自然から与えられた肉体を正しく用いることは、われわれ自身にとって大事であるばかりでなく、神と他人への奉仕のためにも大事なことである。
私は踊るときには踊る。眠るときには眠る。いや、一人で美しい果樹園を散歩するときも、いくらかの時間はほかの出来事のことを考えるとしても、ほかの時間は、私の思索を散歩と、果樹園と、一人でいることの楽しさと、私自身のことに連れ戻す。自然は、われわれの必要のために命じた行為を、われわれにとって快適なものにするという原則を慈母のように守ってくれた。そしてわれわれを理性ばかりでなく、欲望によってもそこに誘ってくれる。この自然の原則を損なうのは不正である。
肉体的な欲望の発露、そのことによる快楽の享受という、宗教が戒める行為は、「神」と「自然」との同一視によって正当化される。モンテーニュは、地上的な幸福と信仰との間に、自然という媒介者を置くことで、現世の生から禁欲を排除した。そればかりではない。「無知と無頓着」を哲学や知恵よりも重要視する彼は、宗教的真理の探究を回避し、はては死の想念一般をも排除するようになる。来世の幸福を求める努力は、彼にとっては重要な意味をもたない。このような彼のきわめて現世志向的な幸福観は、もはや神ではない「自然」という道徳原理によって支えられているのである。 
U.パスカル 
1.「愛」と「邪欲」
パスカルにおいて、「神を愛すること」――彼はこれを単に「愛」(charite)という語で指示している――、そしてそれを妨げる「邪欲」(concupiscence)を逃れることは、「義務」すなわち掟である。人間にとっての幸福は、このこと以外にはないという。この掟の根拠は、原罪による人間の堕落の教義に求められる。パスカルの説明は、おおむね次のようである。
神は人間を罪のない完全な状態に創ったが、人間は、その思い上がりによって、神の支配から逃れた。その結果、人間の感覚は理性から独立して、理性を快楽の追求へと駆り立てた。人間は今や、獣と等しい地位にまで堕落した。かくて邪欲は人間の第二の本性となり、被造物の魅惑に苦しみ、必然的に罪を犯す悲惨な状態にある。
このような厳格な原罪観は、パスカルが終生加担したジャンセニスムの中心的な教義を構成していた。「ジャンセニスト」たち(ただし、これは論争相手によって付された呼び名であって、彼ら自身は「アウグスティヌスの弟子」と自称していた)は、カトリック宗教改革の主要な担い手であったイエズス会のなかから生まれたモリニスム――救済に際して人間の自由意志の働きを重視する説――に対抗して、原罪による人間の堕落、自由意志に対する恩寵の絶対的優位性に基づく復古的で悲観的な人間観を提示したのであった。
「愛」を妨げる「邪欲」は、狭義では、身体(肉体)を起源とする欲望、すなわち「感覚欲」(libido sentiendi)を指すが、パスカルにおいて、しばしばこれはもっと広義で用いられていて、福音者ヨハネが定式化し、アウグスティヌスによって明確に定義された「三つの邪欲」――「感覚欲」、「知識欲」(libido sciendi)、「支配欲」(libido dominandi)――のすべてを含んでいる。このような関係から、しばしばパスカルは、「邪欲」一般、すなわち地上的な欲望全体を、提喩的に「身体」(corps)あるいは「肉体」(chair)という語で表現する。このような連関は、人間が身体をもつ間、現世にいる間は、邪欲にとらわれ続けるという彼の思想を背景にしているように思われる。彼の現世に対する否定的な態度は明らかである。
こうして、パスカルにとって、地上にいる人間には真の幸福はない。にもかかわらず、彼らはそこに幸福を見つけようとする。パスカルに言わせれば、そうした行いはすべて「気晴らし」(divertissement)にすぎない。かりそめの気晴らしに身をやつして、真の幸福――すなわち神と、来世における永遠の至福――を求めようとしない人間は、不幸であるばかりか、不正である。彼は言う。
三種類の人々があるだけである。第一に、神を見いだして、これに仕えている人々、第二に、神を見いだしていないので、これを求めることに専心している人々。そして第三に、神を見いだしてもいず、求めもしないで生きている人々である。第一の人々は、理にかなっており幸福である。第三の人々は、愚かであり不幸である。中間の人々は、不幸であるが理にかなっている。
神を見つけていない者は、少なくとも求める努力をするのが正しい態度だという。パスカルは、そのような心構えのない仮想論敵の心情を、次のように描写している。
これが私の置かれた状態である。弱さと不確実に満ちている。このことから私は、次のように結論する。私は自分にどんなことが起こるかということなどに気を取られることなく、毎日を過ごしていくべきである。こうした疑いのなかに、もしかするとなんらかの手がかりが見つかるかもしれない。だが、そんな手間をかけたくもないし、探求の一歩を踏み出すこともごめんだ。そして、こんなことに思い悩んでいる連中を軽蔑してやり、私自身は、なんの心の準備もなく、恐怖もなしに、あの一大事に向かって行こう。そして、自分の未来の状態が永遠なのかどうかということは不確実なのだから、このままのんびりと死まで運ばれていくことにしよう。
現世の生活に満足を求め、死に対してはいかなる準備も行わないこの人物は、モンテーニュを思わせる。事実パスカルは、モンテーニュについて、「彼の死についての考え方は許すことができない。[...]彼は自分の本全体を通じて、穏やかに、やんわりと死ぬことしか考えていない」と述べている。パスカルは上のような人物の発言を受けて、相手に「宗教の敵」として強い非難を浴びせるのである。
こんな風に語る者を、だれが友だちとしてもちたいと考えるだろうか。だれがほかならぬこの者に、重大事をうち明けようと思うだろうか。心配事があったとき、だれがこの者に助けを求めるだろうか。[...]
実際、これほど理性を逸脱した連中が敵だというのは、宗教にとっては光栄なことだ(彼らの言うことに一理はあるとしても、これは真理というよりはむしろ絶望の材料になる)。彼らの反対など宗教にはまったく害にならないのであり、それどころか、かえって宗教の正しさを確立するのに役立つというものだ。
原罪に対する悲観的な認識、地上的快楽の忌避と強い彼岸的志向、これがパスカルをして、モンテーニュに反発させる主要な要素である。パスカルにおいて、現世にはいかにしても幸福は見いだせないのだろうか。見いだせるとすればそれはいかなる幸福か。この点を、彼の有名な「賭け」の思想によって検討しよう。 
2.「賭け」
2-1)「賭け」の条件
パスカルは、身体の死後の生、すなわち彼岸の生が存在するかしないかは――少なくとも形而上学的な論証によっては――判断できないものとしている。彼によれば、彼岸の生の存在は、神の存在が前提になる。その神の存在は、人間には決して知ることができない。
しかし彼は、このような状況にあっても、人間が神の存在と性質を知る手がかりがあることを示唆する。「信仰によってわれわれは神の存在を知り、栄光(gloire)によってその性質を知るであろう」。ここで「栄光」とは死後に与えられる恩恵であるから、現世にあって問題になるのは「信仰」であるし、それによって知られる可能性があるのは神の存否という一点に限られる。
「賭け」の議論は、以上を前提に導入される。「信仰」が「神の存在」に賭けることに喩えられ、それがいかに大きな利得をもたらす行為かが説かれるのだ。この議論は、信仰をためらう人物(A)と、その人物に神の存在に賭けることを勧める友人(B)との仮想的対話によって構成されている。B の主張から「賭け」の条件を抽出してみよう。
第一に、B はこの賭けを、コイン投げの賭博と同一視している。このとき、表(神の存在)、裏(神の不在)が出る確率は、両者とも12であるが、A に譲歩して、前者を選んだ場合に「無数の運のうちの一つが君のもの」(「勝つ運が一つであるのに対して負ける運が有限の数」)であるとも言う。
第二に、このゲームへの参加料(mise)は、「真と幸福」「君の理性と君の意志、すなわち君の知識と君の至福」であると説明される。これは別の言い方では、「一つの生命」である。つまり、現世における生涯全体であると理解される。
第三に、表と裏のそれぞれに賭けて、勝った場合の儲けはどうか。B によれば、表(「神在り」)が出た場合、勝者には「無限に幸福な無限の生命」が与えられるという。裏(「神なし」)が出た場合の勝者への配当については、明確に言及されていない。しかし、ここでの配当とは、賭けの結果(勝敗)が判明した時点、つまりは参加者の死の時点で約束される生命なのであるから、その結果が「神なし」であれば配当も当然ゼロである。また、表に賭けて裏が出た場合と、裏に賭けて表が出た場合の儲けは、双方ともに「無」[ゼロ]であることは明らかである。
以上を表で示せば、下のようになる。
ところで、B が提示するこのゲームの条件の第四に、表と裏のいずれにも賭けないという選択は許されない、という重要な項目がある。A は当初、「表を選ぶ者も、裏を選ぶ者も、誤りの程度は同じとしても、両者とも誤っていることに変わりはない。正しいのは賭けないことだ」と言う。生涯全体を賭するような危険なゲームを提案された際の、これが一般的で賢明な反応だろう。だが、これに対してB は、「だが賭けなければならない。それは随意のものではない」「君はもう船に乗り込んでしまっているのだ」という謎めいた断言をくり返すばかりである。
なぜいずれにも賭けないという選択が認められないかという問題については、すでに研究者によって有力な解釈がいくつか提示されている。なかでも、ここには『パンセ』のほかの断章にうかがえる事実認識、すなわち、人間はそもそもつねに未来の不確実な希望のために働いているのだという認識が反映しているとの解釈には、大きな説得力がある。たとえば、われわれはなにかの目標を設定するとき、ある期間、その達成の障害になる欲望を自覚的に制限したり、ときに辛い心身の鍛練を自らに課す。ところがその目標が達成できるかどうかは確実ではない。そうした努力が報われないという可能性に加えて、想定している未来が突然の死によって根こそぎ奪われる可能性もあるからだ。このようなとき、人は一定の時間と努力を差し出して、「賭け」を行っているのと同じであると言える、というわけだ。人間はこのように、不断に大小の賭けを行い続けている。「人が明日のため、そして不確実なことのために働くとき、人は理にかなって行動しているのである。」
もっとも、以上をもって、とくにこのゲーム――神の存否を当てるゲーム――への参加が強制されているということの直接の説明にはならないかもしれない。しかし、次のように考えればどうか。死後の生命が神によって与えられるか否かという、このゲームの結果は、現世での生涯のあり方全体に関わっている。この場合、「神あり」にも「神なし」にも賭けないという事態が存在するとして、その事態は結局、「神なし」に賭けているのと同じ事態を指示している。両者はいずれも、信仰が課すさまざまな精神的・身体的規律に従わずに、生涯をみずからの裁量のもとに送ることにほかならないからだ。現時点で神の存在・非在のいずれかに賭けているという自覚のない者も、これまでの人生の時間をすでに宗教と離反した生活に充ててしまっている。賭博への不参加と「神なし」への賭けとを区別するのは、その主体の意志のあり方のみである。B は、このゲームに際して「賭けるべきもの」は、「君の理性と君の意志」であると語っていた。彼はここで、神の存否という問題に立ち向かわない不信仰者に、そのような態度はまさに「神なし」に賭けるという、これまでの条件からすればきわめて不利な、そしてきわめて恐ろしい選択を行っているのと同じであることを知らしめようとしているのではないか。不信仰者は――いかに消極的な意味でのそれであっても――、好むと好まざるとにかかわらず、すでに「神なし」を選んでいる。ならばここで「理性と意志」をもってそのことの当否を判断せよ――B は対話者A に、このように迫っているのである。
さて、以上四つの条件を認める限りにおいて、「表」に賭ける以外の選択はありえない。なにもB が導入する利益の数学的計算(「期待値」の計算を思わせる)を考慮するまでもない。「神なし」に賭けた場合は勝っても負けても配当はゼロであるのに対して、「神あり」に賭けた場合は、勝てば無限の幸福が得られるのだし、たとえ負けたとしても、「神なし」の選択と同じ結果になる、というのだから。「表」に賭けるのと「裏」に賭けるのとでは、その有利さにおいて「無限」と「無」の懸隔がある。B の言う通り、「ぐずぐずしないで、すべてを出すべきだ」。 
2-2)「賭け」の議論の問題点
以上のような護教論者B の論理は、一見反論の余地がないように思える。B は自分の演説に勝ち誇ったようなそぶりを見せる。「これには証明力がある。もし人間がなんらかの真理をつかむことができるとすれば、これがまさにそれである」と。しかし、それにもかかわらず、このような説得が即座に効果をもたらすわけではないのは明らかである。なぜならまず、この議論には、すでに信仰という行為によってはじめて正当化される内容が含まれているからだ。言うまでもなくそれは、「神が存在していれば、無限の生命と幸福も存在する」という命題である。賭けの議論は、神を信じることのできない人を信仰に導くためのものであった。その人を相手に、その信仰を前提としてこそ受け入れられる内容をこのゲームの条件として認めさせることには無理がある。「神あり」に賭けるためにはすでに信仰をもっている必要があるし、逆に、信じられない者には賭けることができない。対話者A が次のように嘆くのももっともである。「ぼくの手は縛られ、口はふさがれている。賭けをしろと強制され、自由の身ではない。ぼくは放してもらえない。しかも、ぼくは信じられないようにできている。君はいったいどうしろというのだ。」
たしかに、このように困惑する対話者に対して、それならばまず「信じているかのようにすべてを行う」ことを勧めるというB の戦術は可能である。彼が言うように、すでに「持ち物すべてを賭けている人たち」に倣い、「聖水を受け、ミサを唱えてもらう」などの実践を取り入れることで、「おのずから信じるようにされるし、愚かにされる」ということもありうるだろう。しかし、このような信仰の自動化作用が有効だとすれば、なにも賭けを勧める必要もないはずではないか。どのようにであれ正しい信仰を得た者であれば、その者は当然「神あり」に賭けているのと同じことだからだ。少なくとも論理的な次元にとどまる限り、賭けの議論は破綻している。
だが、ここで問題にしたいのはそのことではない。賭けの議論には、上のような論点先取の誤謬以外にも、もうひとつ決定的な瑕疵が含まれている。ここで、「神が存在するならば、無限の生命と幸福が存在する」という上に挙げた命題を証明済みのものだと仮定し、B が提示する条件をすべて受け入れよう。それでもなおゲームの参加者は、表に賭けるか、裏に賭けるかを躊躇する余地がある。なぜなら、このゲームがこの世の生のすべての期間にわたって持続する以上、表に賭ける場合と裏に賭ける場合のそれぞれにおいて、死後に得られる幸福の量的比較(∞対0)だけではなく、現世で得られる幸福の質的比較をも行わない限りは、前者を選択する絶対的基準は提供できないからである。
このゲームに参加するためには、「一つの生命」すなわちみずからの生涯全体を差し出す必要があった。これを有限な数n と置きかえることによって、「神あり」を選んだ場合と「神なし」を選んだ場合の期待値には無限の懸隔が現れる。だが、ゲームの実態を考えると、このような置きかえは受容しがたい。すでに述べたことから明らかなように、「表」を期待して送る生涯と、「裏」を期待して送る生涯には、質的な差がある。前者は信仰が求めるおそらくは禁欲的な人生であり、後者はなにものにもとらわれる必要のないいわば自由な人生である。「神あり」に賭けるとは、自己本意の気ままな生涯に代えて、みずから教義の拘束を受けると決意することにほかならない。
そればかりではない。少なくともパスカルが奉じる教義によれば、「神あり」を選択した者が、みずからの生涯を正しく神にゆだねているつもりでも、そのような生活態度が当の神から見て正しいかどうかはつねに不可知なままであり続ける。実のところ、「神あり」に賭けたとしても、それが救済へとつながり、「無限に幸福な無限の生命」が得られるのかどうかはわからないのである。次の一節は、「賭けの断章」には含まれていないが、不信仰者A の心配であると解釈できるように思われる。
確率計算によれば十年ということだから、君がぼくに約束してくれるものは、確実な苦痛に加えて、[神に]喜ばれようと努力して失敗する自愛の十年間以外の何があるというのだ。
あと十年の生涯を賭けたつもりが、やはり自己愛を完全に捨て去ることができないばかりに、ゲームの配当がもたらされないかもしれないことを、この人物は恐れている。「神あり」に賭けるとは、このような危険を冒すことに合意するということでもある。
このように考えると、このゲームはもはやコイン投げとは同一視できない。それはむしろ、きわめて選抜が厳しい試験に似ている。合格すれば輝かしい未来が保証されてはいるが、そのためには多大な犠牲と長期にわたる努力が必要となる。はじめからそんな試験に挑まない選択もあるのと同様に、ゲームに参加しない、すなわち「神なし」に賭けることも、愚かな選択として切り捨てるわけにはいかない。 
2-3)「君はこの世にいる間にその賭けに勝つだろう」
護教論者B の目的は、相手にこのゲームに参加すること、すなわち「表」が出ることに賭けて生涯を送ることこそが正しい選択であると示すことであった。そのためには、そのことによってもたらされる(かもしれない)恩恵の大きさだけではなく、そのような生涯そのものが、「裏」に賭けて過ごす生涯と比べてより幸福であることを論証する必要もあったはずだ。
実は、「賭け」の断章の末尾には、B がそのように確信していることを示唆する一節がある。
ところで、こちらに賭けることによって、君にどんな不都合が生じるというのか。君は忠実で、正直で、謙虚で、感謝を知り、親切で、友情にあつく、まじめで、誠実な人間になるだろう。たしかに、君は有害な快楽や、栄誉や、逸楽とは縁がなくなるだろう。しかし、君はほかのものを得ることになるのではなかろうか。
言っておくが、君はこの世にいる間にその賭けに勝つだろう。そして、君がこの道で一歩を踏み出すごとに、儲けの確実さと賭けたものが無に等しいこととをあまりにもよく悟るあまり、ついには、君は確実であって無限なものに賭けたのであって、そのために君は何も手放しはしなかったのだということを知るだろう。
「正直」「謙虚」「親切」などの、前半で挙げられる美徳は、その内実が詳しく明らかにされないかぎり、世俗の美徳との区別ができない。「神あり」に賭ける生き方のみがこのような恩恵をもたらすとは言えないだろう。「有害な快楽や、栄誉や、逸楽」とは、パスカルが別の箇所で「邪欲」のもっとも典型的な具体例として挙げているものだと理解される。これらは、「精神の秩序」から無限の距離を、「愛の秩序」からはその無限倍の距離を、それぞれ隔てて下位にあるとされる「身体の秩序」に属する諸価値である。だが、「有害」という規定は、宗教の教義的認識に基づいてなされたものであることを考えれば、こうした欲望と「縁がなくなる」ことをよしとする見地は、そもそも「神なし」を選択しようとする者に共有されるとは限らない。いや、護教論者B 本人も認めているように、賭けることを拒む、あるいはためらう最大の原因こそまさにこれらの「情欲」なのである(「神の証拠を増すことによってではなく、君の情欲≪ passions ≫ を減らすことによって、自分を納得させるように努めたまえ」)。「栄誉や逸楽」を至上の価値と認め、自分には神があったとしても救われることができないと考える不信仰者は、まさにそれらを捨て去る生涯を拒むがゆえに「神なし」を選ぼうとするのではないか。B の言うように、情欲の放棄が宗教的実践の先取り(つまり「神あり」に賭けているかのようにふるまうこと)によって可能であるとしても、ここでも、ゲームの規則そのものからは「神あり」に賭けるという論理的帰結は導き出せない。
注目すべきは、後半の「君はこの世にいる間にその賭けに勝つだろう」≪ vous y gagnerez encette vie ≫ という発言である。なぜそのように言えるのだろうか。また、そうして得られる善はいかなるものなのだろうか。これについては、『パンセ』の次の一節に解決の手掛かりがあるように思われる。
この世に真の堅固な満足はなく、われわれのあらゆる楽しみは空しいものにすぎず、われわれの不幸は無限であり、そしてついに、われわれを一刻一刻脅かしている死が、わずかの歳月の後に、われわれを永遠に、あるいは無とされ、あるいは不幸となるという、恐ろしい必然のなかへ誤りなく置くのであるということは、そんなに気高い心を持たなくとも理解できるはずである。
これ以上現実であり、これ以上恐ろしいことはない。したい放題強がりをするがいい。これがこの世でもっとも美しい生涯を待っている結末である。このことについてよく考えてもらいたい。そして、この世においては来世を望むこと以外に幸福はなく、人はそれに近づくにしたがってのみ幸福であり、そしてその永遠について完全な確信を持っている人々にとってはもはやなんの不幸も存在しないのと同様に、それについていかなる光も持っていない人々にとってはなんの幸福も存在しないということが、はたして疑う余地のあることであるかどうかを言ってもらいたい。
この世の享楽はすべて、それ自体空しいものであると同時に、今この瞬間にも訪れる可能性のある死によって消え去ってしまうはかないものであるにすぎない。にもかかわらず、人間はそのような慎ましい楽しみに興じて日々を送っている。人間は自己の置かれた本来的に悲惨な状況を幸福であると取り違えている。人間はささいな喜びによって満足し、真の幸福とは何かという問題について探求を怠る、二重の意味で空しい存在である。――このような認識は、『パンセ』の「気晴らし」を主題にした諸断章に親しい。「人間というものは、どんなに悲しみで満ちていても、もし人が彼をなにか気を紛らわせることにうまく引き込みさえすれば、その間だけは幸福になれるものである」。ここでは、そこから一歩進んで、かりそめではない真の幸福が明確に名指される。それは、「来世を望むこと」≪ l’esperance d’une autrevie ≫ である。「来世」そのものではない。「この世」にあって来世の存在は、どのような手段によっても不可知である。パスカルはその上で、それに「近づく」ことが幸福であるというのだ。しかも、下に言われるように、この状態は、来世の存否についての「疑い」を排除するものではない。
この問題について疑いのなかにあるということは、たしかに大きな不幸である。しかし、この疑いのなかにいる場合に、少なくとも必ず果たさなければならない義務は、求めるということである。したがって、疑いながらも求めないという人は、全く不幸であると同時に全く不正である。
疑いの状態にありながらも来世の存在の可能性を探求すること、その可能性に賭けて、それが真実であった場合に備えて日々を送ること、これはまさに、護教論者B が提示するゲームに参加し、「神あり」に賭けるという事態を指示している。上で見たように、このゲームでは、コインが投げられて、それが落ちてくるまでの間、指をくわえて見ておくことは許されない。コインが「表」を示すことを祈り、そうであったときに無限の生命を与えられるに値するような努力を生涯怠らないこと。これが「神あり」に賭けるという実践の内実である。パスカルはそのような生を、すでに幸福であると考えている。
アリストテレスによれば、「幸福」とは「最高善」であり、「最高善」はなんらかの究極的な目的であった。「それ自身として追求に値するところのもの」は、「他のもののゆえに追求に値するごときもの」に比して、より究極的である。ここでパスカルは、究極の善たる来世における魂の生命を探求すること、すなわち目的に至る手段――しかもそれが必ずその目的をもたらす手段であるかどうかについてはなお疑いもはらんでいるような状態――そのものを善と認めていることになる。未だ幸福を得ていないもかかわらず、そのような状態を即自的に幸福であると捉える。このような倒錯がいかにして可能なのか。 
2-4)身体の救済論的位置づけ
実のところ、これは倒錯ではない。パスカルにおいて、此岸の生にあって呻吟しながら神を探求する状態は、それ自体が救済への必要な一契機である。彼は、「キリスト者」を「世俗の人々」と「至福者」の中間に位置づけている。
イエス・キリストによれば、畑のなかに宝を見つけた者は、喜びのあまり、それを買うためにすべての持ち物を売ってしまいます。世俗の人々はこのような喜びを決してもつことはないと、イエス・キリストご自身も言っておられます。世俗はこれを与えることも採り上げることもできないからです。至福者はいかなる悲しみもまじえずにこの喜びをもっています。世俗の人々はこの喜びをもつことなく、悲しみだけをもっています。そしてキリスト者は、この喜びをもちますが、そこには、他の快楽を追い求めたことによる悲しみと、たえずわれわれを駆り立てるこうした他の快楽に惹きつけられて、この喜びを失ってしまうのではないかという恐れが入り混じっているのです。
神を求める途上にある者、すなわちキリスト者は、至福への期待という喜びの一方で、これまでに没頭した邪欲や情念を悔やむことによる悲しみ、さらには今後もまだ他の悦楽に惑わされるという恐れをもつと言われる。キリスト者は罪と恩寵の両方が混合した状態にある。パスカルによれば、このような価値的な中間はすなわち、時間的な中間でもある。彼は病床で神に訴えかける。
私が、慰めのない状態で苦しみを感じることがありませんように。そうではなくて、私の苦しみとあなたによる慰めを一緒に感じることができますように。そうすればついに、まったく苦しみのない状態で、あなたによる慰めだけを感じることができるようになるのですから。[...]あなたは私を第一の段階から抜け出させて下さいました。私が第三の段階に至り着くことができるように、第二の段階を通らせてください。主よ、これこそが私があなたに求める恩寵です。
パスカルにとって、身体の病とは、魂の病、すなわち邪欲の象徴である。彼は自分の病気を、神が自分のうちにある邪な情念の存在を知らしめてくれる契機であると理解する。しかし、神によるこのような告知は同時に、自分がこの後邪欲を完全に放棄することによって救いに至る可能性があることの証拠にほかならない。苦しみと慰めの共存という「第二段階」においてこそ、神の存在を信じ、救いの恩寵を求めることができるのであり、その状態こそがキリスト者として正しいあり方なのである。
パスカルにおいて、まさにこのような中間の両義性こそが「信仰」を特徴づけている。「魂の不死」のみが生涯において探求すべき最大にして唯一の問題であると考える彼にとって、身体は早々に脱すべき邪欲と苦しみの起源でしかない。しかし、そのような不浄な肉体を伴う生涯も、救済への摂理的な過程においては不可欠なものとなる。ここで、不安や恐れの根源である身体の存在が、逆説的にキリスト者を正当な中間に位置づけている。
こうして此岸の生は、彼岸の存在への疑い、無限にして永遠の生命を与えられないかもしれないことへの恐れを伴うことによってのみ、その究極の目的へと到達する可能性を得る。救済への不安と絶えざる探求の祈りこそが、此岸と無限の幸福への正当な紐帯となるのだ。「神あり」に「賭ける」人生――文字通り、結果の確実さが不可知なまま自己が行うべき行為を選択する生涯だ――は、その意味において幸福であると価値づけられる。パスカルは記す。「恐れているならばなにも恐れることはない。だが、恐れていないならば恐れよ。」
「神あり」への賭けをこのように解釈することが許されるならば、すでに引用した護教論者Bの次の発言も理解できるように思われる。
ついには、君は確実であって無限なものに賭けたのであって、そのために君は何も手放しはしなかったのだということを知るだろう。
今や、ゲームへの参加者を幸福にしているのは、賭けに勝った場合に得られるかもしれない恩恵の大きさであるよりもむしろ、その恩恵に与る確実さの度合いである。「神あり」への賭けは、宗教が要請する実践を通じて、その選択こそが正しかったことをその者に確信させる効果をもたらすという。パスカルにとって、此岸における幸福は、彼岸の生命に向けられた信そのものにある。
神の認識なしには幸福はなく、神に近づくにつれて幸福になり、究極的な幸福は神を確実に知ることにあり、神から遠ざかるにつれて不幸になり、究極的な不幸は、反対のことの確実さであるということは疑う余地がない。
もっとも、それは信である以上、参加者個人によって感じ取られる主観的な確実さにとどまるだろう。その限りでやはり、賭けをめぐるこの議論だけで、不信仰者を必ず信仰へと導くことはできない。だが、パスカルは、賭けの結果を待つ間という宙づりの時間――すなわち現世の生涯――においてもまた、「神あり」に賭けるほうが、「神なし」を選ぶよりも幸福であるとの命題を提示している。そして、彼の他のテクストを参照することによって、その命題は――少なくとも彼の目には――証明済みのものであったと考えられるのである。このときはじめて、この賭博において「神なし」の選択は完全に排除される。「神あり」への賭けは、此岸においても彼岸においても幸福をもたらすのだから。パスカルの提案する賭けの正当さは、ひとえに此岸の幸福を信仰と関連づけることに発しているのである。
パスカルは、人間の理性の本質的な無力さに起因する宗教的真理の不可知性についてはモンテーニュに合意するが、その探求をあえて避ける態度は、彼にはとうてい認められるべきものではなかった。また、彼にとって、神を愛することと邪欲を避けることは、宗教最大の掟であるし、身体と精神(魂)の区別も、証明を要しない第一原理にほかならない。
「賭け」の導入は、霊魂の不死については不可知なままで、信仰することの正当性を説くことを目的として行われる。そして、現世と来世との連続性は、神が存在するという条件下では疑われることがない。この議論は、そのままの形では不信者に受け入れられることはないが、来世を希求する限りでの生活こそが現世における幸福を与えるとの結論によって、信仰と地上的幸福とを連続させるひとつの試みとなる。
しかし、パスカルは、現世的幸福に、「現世的幸福の否定」とのきわめて不自然な意味を新たに与えている。また、神の存在は、このような逆説的な定義を受け入れるかぎりにおいて確信されるにすぎない。彼にあっては、信仰が現世的幸福を棄却させるのではなく、現世的幸福の忌避が、信仰を生み出し、育んでいくことになる。 
 
パスカルはモンテーニュの、現世志向的な考えに、なによりも強く反発した。死後の生の存否という最大の問題から目をそらし、「穏やかにやんわりと」生を終えることを至上の幸福とする態度を、反キリスト教的であると断じた。彼岸において永遠至福の生を得られるかもしれないのに、その問題について探求することを拒む者は、パスカルには「宗教の敵」としか映らなかったのである。彼にとって現世の幸福は、死後の至福を求め、待ち望むことにほかならない。神を信じ、宗教を実践する意義は、この一点に集約されるのであった。このとき、彼を幸福にしているのは無限定かつ不確定な未来における救済へと近づいているという意識である。今の一瞬は、つぎのよりよい一瞬のために存在する。過去は現在に、現在は未来へと供される。現在はそれ自体として、自律的な時間ではない。この瞬間の享楽は、未来の業罰へと通じる危険があるからだ。
モンテーニュが避けたのは、まさに現在を未来に従属させるこのような生き方である。
われわれはけっして自分のもとにいないで、つねに自分の向かうにいる。不安や欲望や希望は、われわれを未来に押しやり、将来のことに、しかもわれわれの死後のことに、心を煩わせて、われわれから現にあるものについての感覚や考慮を奪い去る。「未来を思い煩う心は不幸である」[セネカ]。
モンテーニュは、信仰に全てを捧げ、来世の至福を恃む人々について、それを彼らの「想像」(imagination)によるふるまいにすぎないと喝破していた。現世の功徳が来世において報われるとの考えは、ひとつの臆見にとどまるとの立場である。そのような人々――パスカルもこれに含まれるであろう――の態度が称賛に値するとしても、モンテーニュにとっては、それはあくまでも、いくつもある正しい現世の過ごし方のなかの一例にすぎないのであった。モンテーニュは、真理を生活の指針にすることはない。懐疑主義者として、そもそも単一普遍の真理が人間に認識できるとは考えていなかったからだ。このとき、彼を導く道徳は、「自然」と「享楽」となる。彼が自分の生き方を選び取ったのは、それが真理と照らして正しかったからではなく、快適であったからにほかならない。現世と来世の因果的な関係――モンテーニュはこれを真理であるとは考えていない――もまた、それが人々の生活を享楽へと誘うかぎりにおいてのみ、選ばれるに値する臆見となる。
この熱烈な信念と希望に常に真底から心を燃やすことのできる人は、孤独の中に、他のあらゆる生活を越えた逸楽的で甘美な生活(une vie voluptueuse et delicate)をうち立てるのである。
パスカルから見れば、来世のために現在の情欲を差しだそうとしないモンテーニュは、「神なし」に賭けていることになる。ところが当の本人は、自己の敬虔さを疑う理由はない。モンテーニュとしては、神を現世における人間のふるまいの判定者ではなく、造物主、あるいはそれによって創られた「自然」そのものとみなし、それに随順したまでなのだから。両者は、信仰者として此岸の生をどうとらえるかという問題について、両極端の、おそらく代表的な立場を提示している。
それにしても興味深いのは、パスカルがモンテーニュを、「許せない」と言いながらも、『エセー』1652年版をたえず参照し、その主題や表現の多くを自己の著作のなかで用いたことだ。彼は、「モンテーニュのなかで私が読みとるすべてのものを、彼のなかではなく、私自身のなかに見いだす」とまで告白する。対してモンテーニュがパスカルのような生き方を、称賛に値するとしながらも、自分は従わないと表明するとき、その老獪さは際立っている。神ありへの賭け以外の選択をすべて排除しようと躍起になったパスカルに迷いが見られ、複数の立場のそれぞれに正当さを見いだしたモンテーニュのほうに、むしろ落ち着きが認められるのである。一方の逡巡と、他方の安定は、そのままそれぞれの立場がもつ困難の度合いを示唆しているように思われる。 
 
 
死人花 

 

曼珠沙華。
地獄花、葬式花に幽霊花。
毒花と痺れ花。ついでに狐の松明と葉見ず花見ず。
――これが何かお分かりですか?
ええ、そうです。彼岸花の異名です。方言などを合わせると別名はこの他にも沢山あって、何でも千以上を数えるとか。
……申し訳ございません。気分を害してしまいましたか? 
お客さまはこのような「ど」が付く田舎に、それは見事な彼岸花の群生地があるという噂一つで飛んで来たようなお方ですもの。当然、ご存じでしたよね。差し出がましい真似をしてしまいました。何せ、私の民宿から花畑までは、大人の足でも一時間半はかかりますから。しかも、車も通れないような山道を越えなければなりません。その間ただひたすら無言で歩き続けるのもどうかと思っていたのです。私達は彼岸花を見に行っているのですから――私は道案内ですが――彼岸花の話でもして暇をつぶそうと。田舎の寂れた民宿の、久々の都会からのお客さまを退屈させてはいけませんから。
――え? 迷惑ではなかった? 
お客さまが急に黙り込んでしまったから、私はてっきり、知らないうちに気に障るようなことを言ってしまったのだと思っていたのですが。何だ。歩き疲れて足が痛かっただけなんですね。良かった。……あ、すみません。お客さまのお加減が悪いのに、「良かった」なんて。群生地にはあと三十分足らずで到着します。ご心配なさらずに。ここまで歩いてきたのですもの、今更引き返すのはもったいないですよ。民宿に帰って温かいお湯に浸かったら、疲れも吹き飛びます。美味しい夕食の準備もしています。このあたりの山菜を使った懐石です。しっかり食べてぐっすり眠れば、翌朝には足の疲れも消えているでしょう。それでも不安だとおっしゃるなら、湿布も用意しますよ。だから大丈夫です。
先ほどの話、続けてくれ? 確かに、黙々と歩き続けるのにも飽きてしまった? 
はい。分かりました。
この地では彼岸花は、死人花と呼ばれております。もちろん、数ある異名の内の一つです。土葬が主だった時代に死体を狙う害獣避けとして、毒がある彼岸花を墓地に植えることがありました。一説には、だからこのような異名があるのだと申されています。ですがこの地では、この呼称には独特の由来があるのですよ。この集落でひっそりと語り継がれた昔話を、今からお話しますね。険しい山道の慰みにでもなれば幸いです。語り終えるころには、群生地にも着いているでしょう。それまでのちょうどいい気晴らしになります。
むかしむかし――おとぎ話はいつも「むかしむかし」で始まります。そして続くのは「あるところに」ですが、この物語の舞台ははっきりしています。私達が目指す、彼岸花の群生地です。あそこは、遙か昔には小さな村があったのですよ――とても貧しい暮らしをしている女の子がいました。といっても、この地は冷害の影響でたびたび飢饉に見舞われる貧しい土地でした。そもそも土地が貧しいので、どうしても作物の収穫量は少なかったのです。少女の村の住人も、多少の差はあれどほとんどは、日々の糧にも苦労するような生活を送っていました。少女の家の貧困は、ずば抜けたものでした。なぜかと言いますと、彼女の一家は、とある理由で村八分――江戸時代の歴史の授業で教わった、家事と葬式以外の付き合いを断つというあれです――を課されていたからです。少女が過酷な貧困を強いられたのは、彼女の父の行動がきっかけでした。彼は、村の庄屋の理不尽な年貢の取り立てに異を唱えた結果、村八分を言い渡されてしまったのです。彼の抗議は正当なものでしたから、同村の人々はこの沙汰に内心同情していました。しかし村の有力者に逆らっては、生きていくことはできません。だから見て見ぬふりをしていたのです。
……お客さま、ご覧になってください。あちらにぼんやり、赤いものが見えるでしょう? あれが彼岸花の群生地です。遠目だと、まるで血の海のようですよね。
幼い時分から村の人々との付き合いを禁じられていた女の子ですが、数え年で十二までは何とか生き抜くことができました。父母と共に山に入って集めた木の実やキノコ。山菜。ごくまれに知らぬうちにこっそりと戸口に置かれている、村人からのおすそ分け。そういったもので、どうにか糊口をしのいでいたのです。
女の子が十二歳になった年に、何があったかって? それは今からご説明します。
彼女が十二になった年にあったもの。それは、未曽有の大飢饉です。何でも、江戸の最大飢饉と言われる飢饉に匹敵するものだったとか。原因はやはり冷害。災難に見舞われたのはこの地方だけでしたが、ずいぶんな餓死者を出したそうです。もちろん、少女の村も例外ではありませんでした。例年ならば、僅かばかりとはいえ黄金色の稲穂が頭を垂れる季節。常よりも涼しい夏が過ぎて秋が巡っても、年貢米が収穫できる見込みはない。年貢米どころか、他の作物も。
……どうしてかつて村だった場所が彼岸花に埋め尽くされているのかも、気になりますか。
それはいずれ明らかになりますから、ご心配なさらずに。
村人たちは困り果てましたが、その影響を最も受けたのは少女の一家でした。今まではほんの少しだけとはいえ期待できた、村人からの差し入れ。それもなくなってしまいました。おまけに、貴重な山の幸も、飢えた村人の手によって根こそぎ奪われてしまった。去年までは少女の一家のために、村人は山のものにはあまり手を付けないようにしていたのですが。その年は、体力のない老人や幼児から餓死していくような有様でした。そんな状況では、他人への思いやりなどどこかに消え去っていくのでしょうね。ですから仕方のないことだったのですよ。村人たちは、明日には死体に――もちろん、人間の、です。耕作用の牛馬や犬猫など、とうの昔に食い尽くしておりました――手を付けなければならないかもしれない、という困窮をぎりぎりで耐えしのいでいました。
――あ、ほら。彼岸花ですよ。ここまで来れば、だいぶはっきり分かりますよね。近くで見ると、とても綺麗なんです。お客さまも楽しみでしょう? 
……顔色が優れませんね。いかがなさいましたか? 
歩き疲れて足がくたくたになった? もう一歩も歩けそうにない?
でもあと少しですから、頑張りましょう。群生地に到着したら、見物がてら足を休めましょうね。
女の子は、極貧に喘ぎながら成長した割には、風邪一つひかない丈夫な子供でした。ですがそんな彼女も、飢饉でずいぶん追い込まれてしまい、骨と皮だけになってしまいました。お腹が減って、お腹が減って、いつも食べ物のことばかり考えてしまう。目を皿のようにして食べ物を探しても、どこにも何も残っていない。女の子は半ば惰性で、ふらふらと食べ物を求めてさまよいました。そしてある時、あぜ道に咲く紅――彼岸花を見つけました。そのとき、彼女は母親の言いつけを思い出したのです。「彼岸花の下には死体が埋まっているから、根本を掘ってはいけない」それからは無我夢中でした。赤い花の下には死体が、肉が、食糧が埋まっている。少女の脳内にあったのは、ただそれだけ。 
――いくら食べ物に困っていても、食人だけはしてはいけない。そんなことをするのは、畜生にも劣るやつだけだ。と、おっしゃいましたか? それは、飽食の時代の戯言ですよ。
人間は万物の霊長だなどと謳っても、所詮は動物。食わねば生きていけません。食が全ての基本なのです。
女の子は死肉のために、体中の力を振り絞りました。しかし指先が血だらけになるまで地面を掘り返しても、出てきたのは彼岸花の鱗茎のみ。少女は心底がっかりしましたが、鱗茎だって食物には違いありません。空腹だったことも手伝って、土まみれのそれを口に入れました――それが彼女の最後の食事になるとも知らずに。おそらく、彼岸花に毒があるなんていう事実は、少女の頭の中からは抜け落ちていたのでしょう。
……ええ。ご指摘の通り、彼岸花の鱗茎には毒がありますが、長時間水に晒せば抜けてしまいます。ですから戦時中は、救飢植物として重宝されていたそうです。毒を有するために年貢の対象とはされなかった彼岸花は、非常食として田畑のあぜ道で栽培されておりました。
彼岸花の鱗茎を咀嚼し嚥下した少女に、酷い吐き気と腹痛が襲いました。どれぐらいもだえ苦しんでいたでしょう。少女の霞む視界は、ふいに幾人かの下半身を捉えました。今日の食事を用意しようとあぜ道に訪れた村人のものでした。実は少女が見つけた鱗茎は、村人たちの最後の食糧だったのです。村八分にあっている少女一家には分け与えてはならない、と庄屋は宣告しておりましたが。もっとも、庄屋が忠告しなくとも、村人たちは少女たちにそれを分けることはなかったでしょうね。彼らは怒り狂っておりましたから――数少ない食料を横取りされたのですから、当然でしょうね――迸る激情のままに、少女に制裁を加えました。私刑リンチです。少女はその場から逃げ出したかったのですが、手足がしびれて動けません――それも彼岸花の毒の効果だったのでしょうね。そして、とうとう殴り殺されてしまいました。
困ったのは、少女を死なせてしまった村人たちです。
まだ幼い女の子を、あれ程痛めつける必要はあったのか? どうして私たちは少女一家にも鱗茎を与えなかったのだろう? そもそもどうして、庄屋の言いなりになって、彼女たちを追い詰めてしまったのか……。
どんな熱さも喉元すぎればなんとやら、ですね。罪悪感に打ちひしがれた村人たちは、手を取り合って彼女の墓を――墓石などという立派なものは用意できませんから、土饅頭のそっけないものです――作りました。少女の小さな躯が獣に食い荒らされないように、墓の周りに彼岸花も……。
――とうとう到着しましたよ! ここがお客さまが目指した彼岸花の群生地です。見事でしょう?
ほら、あそこの大きな石に腰かけて。ゆっくりご覧になってください。私はせっかくですから、このお話を最後までお話します。
まだ続きがあるのかって? ございますとも。
月日が巡って数年後。やがて彼女の墓の周囲からは、目を奪うような彼岸花が咲きました。そこらのものより、一層鮮やかな赤です。まさに、お客さまの眼前に広がっている彼岸花のような。かつての飢饉を、彼岸花以外の物によって生き延びた村人たちは、何やら不吉な予感がすると怯えました。
……やはり異変は起こりました。少女の村のみを襲った水害と、稲の病による凶作という形で。
かつての飢饉のときを上回る食糧不足により、村人は全滅してしまいました。住む者がいなくなった村は、少女の墓からあふれ出た彼岸花で埋め尽くされたのです。この群生地は、このような経緯で形成されたのですよ。少女の村の近隣の住人は、この彼岸花は少女の怨念と血肉を啜ったからこんなにも美しい、と恐れました。そしていつしか、この地では、彼岸花を死人花と呼ぶようになったのです。死人を養分にして咲き誇る花だと、ね。
――これは、誰もが知っている「桜の木の下には死体が埋まっている」というお話のヴァリアントではないかって? おっしゃる通りです。
そもそも、実は私は、このお話を信じていません。だって、大飢饉の真っ最中ですもの。埋葬されたなんて、あり得ない。女の子は僅かばかりの肉を割さかれるどころか、頭を割られて脳髄を啜られ、骨の髄まで貪られたに決まっています。第一、村人が全滅したのなら、誰がこの物語を語り継いだのでしょうか?
伝承は、美化あるいは歪曲されるものです。ありふれた悲劇の中で、語られるに相応しい美しさかとびぬけた悲惨さを持ち合わせた物語だけが生き残る。
「昔々の大飢饉の時、小さな女の子が空腹のあまりろくに毒抜きもせずに彼岸花を食べて死んでしまいました。村人たちは女の子の死体を食べて生き延びました」
掃いて捨てるほど転がっている、残酷ではあるが平凡な昔話です。面白くも、美しくもないでしょう?
彼岸花には毒があるから気を付けろなんて、誰でも分かっています。それこそ飢えて目がくらんだ子供以外はね。だからたいした教訓にもなりはしない。ですからこのお話は、おそらく嘘。もしくは史実を基にした作り話なのですよ。もしかしたら、この彼岸花に箔を付けるために、宣伝効果を上げようと数世代前の地元の誰かがこしらえたものかもしれませんね。この集落の取り柄は、戦前から彼岸花だけなのです。財源確保のための、多少の毒はありますが罪はない作り話なんですよ、きっと。
……私は、桜の可憐で微笑ましい薄紅などより、この妖艶な赤こそ血を吸ったのだと称賛されるに相応しいと思っているのですけれどね。
あら? お客さま、ずいぶん顔色が良くなりましたね。では民宿に戻りましょう。帰りは下りになっていますから、行きよりも楽なはずです。
……あ、少し待ってください。最後にもう一度、じっくりお花を目に焼き付けましょうよ。彼岸花の盛りはもうすぐ終わります。次の機会は一年後なんです。少し寂しいですよね。そう思うと、お客さまもこのまま立ち去るのが惜しくなったでしょう? せっかくだから、もう少し。
ほら、よく見てください。あの紅、やっぱりとても見事。まるで血を吸ったみたいですよね。 
 
狐花
 

 

どこまでも行けそうな夜だった。秋の満月が、光の蜜を地表に落とし、それらが木々の枝からまた垂れてきて、目の前の道に落ちてきていた。私の手綱を握る手にも、もういくつもの光が通り抜けていった。この美しい夜を、背の馬車の中のあの人も見ているのだろうか、と思った。そして、今、どのような心持でこの帰ることの無い旅路を想っているのだろうか。……それは詮無き思慮だった。私は、この方を無事に送り届けるためだけに、ここに居る。そう、強く思い返し、手綱を握る手に力をこめた。
いつからだったろうか。いつから、おかしくなってしまったのだろうか。思えば、旦那様がキリスト教に心を奪われたあの日が境目だったのかもしれない。熱心に聖書を読む旦那様を、お嬢様は冷めた目で見ておられた。屋敷の庭に呼ばれた宣教師の話の輪にも、お嬢様は加わらなかった。あの日のことはよく覚えている。得意げな顔で、旦那様が狐のような顔をしたイギリス人を連れてきたのだ。
「さあ、みんな! 集まるんだ!」
なんとも幸せそうな顔で、旦那様は家中の者を庭先に集めた。奥方やご兄弟はもちろんのこと、使用人まで全員集められた。集まらなかったのは、お嬢様と、お嬢様御付きの私だけだった。
遠く、テラスで楽しそうに笑っている皆を眺めながら、白樺の木の下で、お嬢様は一人その光景を眺めていた。
「ヤジロー。馬鹿らしいとは思わない? この間までは中国との戦争で儲けていたのに、掌返したように、愛と平和、だなんて」
「旦那様は、現地からの報告に心を痛めてましたから……。その償いの気持ちもあるのではないでしょうか?」
「馬鹿馬鹿しいわ。散々人殺しの武器を売り払って、財を成したくせに、今更そのことを後悔? 昨日の夜なんか、聖書を読みながら、新しい工場の話をしているのよ。心も懺悔も、分業化出来るのよ、あの人は」
そう捲くし立てて、押し黙ってしまった。こうなってしまったら、手は一つしかなかった。
「お嬢様、覚えていますか? 私を拾ってくださった日のことを」
「忘れるわけ、ないでしょ。その前口上も飽きたわね」
そう、棘を飛ばしつつも、目は幼い頃、初めて会った日のままだった。
舗装もされていないむき出しの道路の片隅で、手を泥だらけにしながら、猿のようにひっくり返ったり、飛び跳ねていた私を、お嬢様は本当に楽しそうに眺めてくださった。そして、芸の終わりに、こう声をかけてくださったのだ。
「お前、親は?」
「片親で、それも中国で死んだ」
「それなら、お父様を説得できる。私の遊び相手になりなさい」
その時のやり取りを私は一生忘れないだろう。
「それでは、お目にかかりましょう。ヤジローの猿芸をとくと、ご覧あれ」
一体、あの日から何度、お嬢様の為だけに飛び跳ねたか分からない。それでも飽きもせず、お嬢様は笑ってくれた。それで、私にとっては十分だった。いや、十分過ぎる生き方だった。お嬢様が、こうして機嫌が損ねたならば、その都度、道化になってみせよう。この先、お嬢様がどこかの家に嫁いでも、その子供にこうして芸を見せて差し上げよう。一生、死ぬまで、お嬢様にとっての猿で居よう。それで、お嬢様が笑ってくださるなら、私の人生は十分だ。十分すぎるほど、十分だ。そう思っていた。
「ヤジロー。馬車を止めて」
不意に、背のほうからお嬢様の声が飛んできた。思い出に浸っていた私は、なんとか馬をいなして馬車を止めた。直ぐに、飛び降りてドアを開ける。ゆっくりとした動作で、お嬢様が降りてくる。そのイギリスから取り寄せられたブラウスに、件の月の光が落ちて、淡く怪しい色を放つ。顔を見ることは出来なかった。手を貸しつつも、じっと下を向いていた。……本当に、美しくなられてしまった。自分の靴が目に入る。泥だらけだった。本当に、遠くに行ってしまわれた。そして、この先、さらに遠くに行ってしまうのだ。
「ヤジロー。控えの靴を出してくれる?」
「かしこまりました」
「少し、休憩しましょう。……今は何時かしら?」
「夜の二時を回ったところです」
「そう。……最後まで苦労をかけるわね。でも私のわがままでは無いのだから、許してね」
そう話している間にも、お嬢様は履き替えた乗馬用の靴でどんどん池を目指して歩いていく。辺りは白樺の木が立ち並んでいて、その向こうに池が見えた。その池だけが、月の明かりを反射して輝いていた。暗闇の中、その池だけが、地べたで輝いていたのだ。お嬢様は、まるで何かに追われるように、その池を目指した。距離にすれば、たいしたものではなかった。それでも、まるで、何かに追われるようにして、お嬢様は木立の中を進んだ。私は、なるべく歩きやすくなるように、草を均しながら先行した。私も、何かに追われているようだった。月は天頂を過ぎて、傾き始めている。
「……ヤジロー。華族というのは、どういう生き物なんでしょうね」
ふいに、お嬢様が零した。きっと禄でもない輩です。軽井沢の別荘に、明日の朝までに来い、なんて言う、そんな輩は、お嬢様を幸せに出来るはずもありません。
「きっと、素敵な方ですよ。お嬢様を余程お慕いしているのでしょう」
そう、踏み均した。
「……そう。そうかもね」
その後を、お嬢様が歩く。この夜が明ければ、お嬢様は華族の嫁となる。先方の気まぐれで、式が早まったのだ。没落した商人の家の娘にとっては、考えられない位の、好事だ。この機を逃せば、家は潰れるだろう。だから、考えても、詮無きことなのだ。例え、先方がどれほど不徳な人物であろうと、お嬢様は嫁ぐしか他無かった。そして、私はそれに供することは出来ない。「猿などいらん」と言われたのだ。従者の一人によって、この縁談が破談するなど、馬鹿げている。だから、お嬢様を送り届ける、この夜が、私にとって最後の奉公だった。
ロシアとの戦争が始まっても、旦那様は武器を売らなかった。それほどまでに、キリスト教は旦那様の心を蝕んでいたのだ。いや、それは道徳には即していたのかもしれない。ただ、世間はそれを許さなかった。ただでさえ、主たる商売を封じた状態で、ほかの商品にも不買運動が起こったのだ。ただ、このくそったれな出来事を美談として受け取る層も居たのだ。美しいことを、美しいと思うためには、そういう余裕がある層でなければならなかった。それが、今晩に繋がったのだ。道徳を貫いた、正義の商人を、華族が救う。後の歴史から見れば、美談に映るだろう。美談は、そこで人々の思考を停止させる。そして、この不幸な一夜の旅路は、お嬢様の心は、露に消えるのだ。
「ヤジロー。出会った日のことを覚えてる?」
たどり着いた池の辺で、お嬢様は呟いた。
「ええ。覚えておりますとも。一生、覚えておりますとも」
「そう。……ねえ、私が前口上を述べてあげたのよ。後は分かるわね?」
「はい。もちろんですとも」
白樺の木立が切れて、開けたその場所には、彼岸花が咲いていた。そこが、私の彼岸だった。賽の河原で、一世一代の猿芸を。土は湿っていた。手に泥がついて、重くなった。それでも、お嬢様の服が汚れないように計算して飛び回った。長い、長い御付きの日々で心得た特技だった。空と地面が何度も入れ替わる。輝く池の明かりに照らされて、お嬢様の顔が飛び込んでくる。ああ、芸をしている間なら、見ることが出来た。そうだ。この芸の間なら、お嬢様は笑顔だからだ。いつぶりだろうか。こんな風に、私の芸を楽しむお嬢様を見るのは。いつからだろうか。あんなに、屈託無く笑う、お嬢様が笑わなくなったのは。どうしてだろうか。どうして、私はもう、お嬢様の前で猿になれないのだろうか。詮無きことだ。こんな思慮は。しいて言うならば、時代なのだ。そして、私とお嬢様を出会わせてくれたのも、また時代なのだ。
最後の宙返りを決めて、そのまま、お嬢様の前に跪く。
「ヤジロー。一世一代の猿芸でございました。どうか、どうか。その目に焼き付けておいて下さいませ。こんな汚い芸ではございますが、どうか、もしよろしければ、戯れにでも、思い出して下さいませ。それこそが、私にとって、最高の褒美にございます」
じっと、お嬢様の乗馬靴を睨んでいた。顔を上げることが出来なかった。空は晴れているのに、目の前の地面には雨が降っていた。泥だらけの自分の手の上に、雨が降っていた。
「ヤジロー」
その泥だらけの手に、お嬢様の手が重なった。慌てて振りほどこうとしたが、それを気にも留めず、お嬢様は硬く、私の手を握った。そして、そのまま私を引き起こした。美しかった。池の明かりに照らされたお嬢様の顔は、その覚悟を決められた笑みは、三千世界のどのようなものよりも、一等美しかった。
「ヤジロー」
もう一度、お嬢様が私の名を呼んだ。
「はい。お嬢様」
涙を拭うこともせず、私はお嬢様の顔をじっと見つめた。
「今まで、ご苦労さまでした。あの日、あなたを迎えたことで、あなたが、付いていてくれたことで、どれほど救われたかは、分かりません。もう、芸の報酬に、おやつの菓子も、ビー玉もあげられないけれど。もう、何もあげられないけれど、どうか、これを最後の褒美に、受け取って下さい」
私の泥だらけの手に、一輪の彼岸花が咲いていた。その赤い狐花は、月の蜜を吸い、私の手の泥までを吸い取って、そのまま私の心の中に、深く、深く、落ちていった。
後の世に、この夜のことを知るものは誰も居ないだろう。道徳を重んじ、没落した商家を救った、華族の話を、額に入れて飾ることだろう。だが、それでも。どれだけ時代が、夜を重ねようとも。あの池の辺で、彼岸花は、揺れている。 
 

 

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