八つ墓村 津山三十人殺し

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雑学の世界・補考

津山三十人殺し 

津山事件 1 (津山三十人殺し)
1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいう。
津山市など近隣地域では「加茂の三十人殺し」と呼ばれている(または死者の数に尾ひれがつき水増しされ「三十二人殺し」「三十三人殺し」また「三十六人殺し」とも呼ばれる事がある)。犯行が行われた2時間足らずの間に28名が即死し、5名が重軽傷を負った(そのうち12時間後までに2名が死亡)。なお、犯行後に犯人が自殺したため、被疑者死亡で不起訴となった。横溝正史が同じく大量殺人を扱った八つ墓村のモチーフにした事件とも言われる。
事件発生以前
幼少期からの生活
犯人の都井睦雄(とい むつお)は1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市)に生まれた。2歳で父を、3歳で母を、ともに肺結核で亡くしたため、祖母が後見人となり、その直後一家は加茂の中心部である塔中へ引っ越した。さらに、都井が6歳のときに一家(都井以外に祖母と姉。戸主は都井)は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越した。
都井家にはある程度の資産があり、畑作と併せて比較的楽に生活を送ることができた。祖母は自身の体調不良などを理由に、都井に家にいることを要求したため、都井の尋常高等小学校への就学は1年遅れた。就学後もたびたび欠席を余儀なくされたが成績は優秀だった。その後担任教師に「上の学校」への進学を勧められたが、祖母に反対されたために断念せざるを得なくなった。
都井は尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送っていた。病状はすぐに快方に向かい、実業補習学校に入学したが、姉が結婚した頃から徐々に学業を嫌い、家に引きこもるようになっていき、同年代の人間と関わることはなかった。一方で、自身が子供向けに作り直した小説を近所の子供達に読み聞かせて、彼らの人気を博した。さらに、近隣の女性達とこの地域での風習でもあった夜這いなどの形で関係を持つようになっていった。
1937年(昭和12年)、都井は徴兵検査を受け、結核を理由に丙種合格(入営不適、民兵としてのみ徴用可能。実質上の不合格)とされた。その頃から、都井はこれまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由に関係を拒絶されるようになった。そして、心無い風評に都井は不満を募らせていった。
凶器の入手
同年、狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入。翌1938年(昭和13年)にはそれを神戸で下取りに出し、猛獣用の12番口径5連発ブローニング猟銃を購入。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った(一説には、最初に猟銃を購入したのは、関係を求める際に相手の女性に拒ませないためで、村人を襲撃することを念頭においてのものではなかったとされている。また、徴兵されなかった都井に対して村人の迫害があり、護身のために銃を所持したとの見方もある)。都井はこの頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていた。
しかし、都井が祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられたために家宅捜索を受け、猟銃一式の他、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃免許も取り消された(この薬に関し、祖母から話を聞いた近所の寺井元一が後日都井に問いただしている。都井は自分が常用しているわかもとを祖母にも飲ませようとした、と寺井元一に語っているが、みそ汁に混入した薬が本当にわかもとだったのかは不明)
都井はこの一件により凶器類を全て失ったが、知人を通じて猟銃や弾薬を購入したり、刀剣愛好家から日本刀を譲り受け、再び凶器類を揃えた。
以前懇意にしていたが都井の元から去って他の村へ嫁いだ女性が村に里帰りしてきた1938年(昭和13年)5月21日の未明、犯行が行われた。
犯行当日
犯行準備
都井は事件の数日前から実姉を始め、数名に宛てた長文の遺書を書いていた。さらに自ら自転車で隣町の加茂町駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握しておくなど(当時、西加茂村駐在所の巡査は出征で欠員中だった)、犯行に向け周到な準備を進めていたことが後の捜査で判明している。自分の姉に対して遺した手紙は、「姉さん、早く病気を治して下さい。この世で強く生きて下さい」という内容である。
1938年(昭和13年)5月20日午後5時頃、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。
翌5月21日1時40分頃、都井は行動を開始する。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付けた。首からは自転車用のナショナルランプを提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った。
決行
都井は最初に、自宅で就寝中の祖母の首を斧で刎ねて即死させた。その後、近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。
被害者たちの証言によると、この一連の犯行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆に都井は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、(都井が恨みを持っている家から)嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲した(老婆は致命傷を負い、後に死亡した)。しかしある宅の老人は、返り血を浴びた都井に猟銃を突きつけられたが、逃げることもせず茫然と座っていたところ、「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されたという。またある宅でも、その家の主人が「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い残しその場を立ち去っている。
最終的に死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名の被害者が出た。死者のうち5名が16歳未満(最年少は5歳)である。計11軒の家が犯行に遭い、そのうち3軒が一家全員が殺害され、4軒の家は生存者が1名だけであった。犯行に遭った家の生存者たちは、激しい銃声と都井の怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどして助かった。また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れた。
自殺と遺書
約一時間半に及ぶ犯行後、都井は遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れた。家人は都井の異様な風体に驚いて動けない状態だったが、その家の子が以前から都井の話を聞きに来ていた縁から顔見知りであったため、その子に頼み鉛筆と紙を譲り受けた。都井は去り際にこの子へ「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけている。
その後、3.5km離れた仙の城と呼ばれていた荒坂峠の山頂にて、追加の遺書を書いた後、猟銃で自殺した。都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見された。猟銃で自らの心臓を撃ち抜いており、即死したとみられている。
遺書の内容は以下の通りである。
[ 愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。 思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。もはや夜明けも近づいた、死にましょう。 ]
都井は遺書の中で、この日に犯行を起こす決意をしたのは、以前都井と関係があったにもかかわらず他家に嫁いだ女性が、貝尾に里帰りしていたからとしている。しかし、この女性は実家に都井が踏み込んで来たときに逃げ出して助かり、逆に逃げ込んだ家の家人が射殺される場面もあった。
事件後
この事件は、ラジオや新聞などのマスコミが報道して、『少年倶楽部』もこの事件を特集した。
この事件が貝尾集落に与えた影響は大きく、前述のように、一家全滅したところもあれば一家の大部分を失ったところもあり、集落の大部分が農業で生計を立てているため、かなり生活が苦しくなったとされている。さらに、都井の親族であり、都井から襲撃を受けることのなかった一家が、企みを前々から知っていて隠していたのではないかと疑われ、村八分に近い扱いを受けたともいわれている。
また、当時の識者の間では、警察の取締りの不備を強く批判するものが多かったが、中には、1913年(大正2年)にドイツ帝国で起こった「ワグナー事件」との類似性を指摘し、都井の自殺を惜しんで「ぜひとも医学上の研究対象にすべきだった」との声もあった。
事件後、犯人の都井が警察による取り調べを受ける前に自殺し、さらに多くの被害者が亡くなったため、生存者による証言しか残っていない。しかし、生存者のほとんどが亡くなった被害者の誰かしらと親類関係がある状態で、すべての罪を都井にかぶせるようなものが多いという意見もある。さらに、都井が死亡した以上、例えば都井と関係があったと噂される女性でも本人が否定してしまえば確認する方法はなく、事実関係が不明な部分も多く残った。また、この事件の発生から70年以上が経った現在でも、現地でこの事件に言及することはタブー視されている。1975年(昭和50年)に刊行された『加茂町史』では、本事件について「都井睦雄事件も発生した」という記されるのみである。
近年
事件発生現場・関係先の現在
事件現場である貝尾集落は、周辺集落のなかでも一番山際にあたる部分にある。津山市から美作加茂を経由しアクセスすると、行重を通り抜けて南東の坂元集落へと至る。
その道をさらに車で登っていくと途中に小さく貝尾と書かれた青い看板がある。そこが貝尾集落の入り口となる。その看板の先で道路が二股に分かれており、右が貝尾集落の中心部へ、左にいくと貝尾の集会所へと至る。いずれの道も貝尾部落を抜けると同時に車の通行が不可能な山道へと変わる。先の二股を右へ行くと左に折れる細い道と交わる交差点があるが、そこが貝尾集落の中心地である(この交差点を左にいけば、貝尾の集会所へと続く)。この交差点を中心にした付近の家々で津山事件は発生した。
付近には、昔ながらの墓所が点在しており、多数の墓石の没年月日が“昭和十三年五月二十一日”と刻まれている。このことから津山事件による被害者の墓であることがわかる。
2015年春、倉見に廃屋となって残っていた都井の生家が取り壊されている。
貝尾の人口は事件当時23世帯111人であったが、2010年の平成22年国勢調査によると13世帯37人となっている。うち単身の世帯が4ある。直接被害者を出さなかった複数の世帯が事件後貝尾を離れているほか、過疎化が進行しており、廃墟となっている家屋もある。事件当時から貝尾に居住している人は既に一人もいないという。
70年後の証言
事件発生から70年後にあたる2008年(平成20年)、『週刊朝日』5月13日号にて津山事件関係者による証言記事(記者:小宮山明希)が掲載された。その記事内で匿名でのインタビューに応じた90代の老人によると、都井は村が停電になった時によく修理を頼まれていた。また、事件が発生したその日のうちに「昭和の鬼熊事件」と題した号外が出たと述べている。また、当時村に残っていたとされている夜這いの風習については否定した。
なお、この証言については司法省刑事局による「津山事件報告書」や都井の遺書(上掲)と食い違う部分がある。
2008年7月21日放送のテレビ朝日スーパーモーニング内のコーナー「時空ミステリー」で「八つ墓村70年目の真実」として事件の特集が組まれている。取材を受けた村民は、夜這いの風習が当時はあったと認め、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと証言した。
容疑者は当時幼なじみと婚約していたが、肺結核に感染した容疑者との結婚を周囲に反対され、二人は破局、女性は別の男性と結婚した。容疑者はそのことから犯行に及んだ可能性があり、肺結核に対する自身への悪口を言った村人を順に殺害したといわれている。しかし、容疑者は幼なじみの女性をわざと手にかけなかったと当時は噂された。その女性は事件後に貝尾を離れ他の集落に転居した。現在90歳を超えているが、被害者の1人であるにも関わらず周囲からは「被害を作った張本人」と看做され、70年経っても地域社会から孤立している。
また、『八つ墓村』の冒頭の殺人事件は本事件をモデルにしていても「八つ墓村」は虚構の村であるにも関わらず、実在すると思い込んだ観光客が「八つ墓村」は何処ですかと尋ねて現地の人を辟易させた。  
 
津山30人殺し事件 2

 

経緯
昭和13年5月21日午前2時頃、岡山県苫田郡西加茂村大字行重字貝尾部落(現在津山市加茂町行重)で肺患を苦に極度な神経衰弱に陥った同部落の都井睦雄(当時22歳)が、猟銃や日本刀で祖母を皮切りに部落民を次々に襲撃。結果、30人を殺害、3人に重軽傷を負わせて近くの山に逃走した。
同日午前11時30分頃、警察や消防、地元の青年団約1500人余りが大規模な山狩りを行っていたところ、同村青山の荒坂峠付近で猟銃で自殺している都井を発見。自宅から2通、自殺現場から1通の合計3通の遺書が発見された。
同村の全戸数は約380戸、人口約2000人で貝尾部落は全戸数22戸、人口111人。山奥の平和な農山の部落に突如惨劇が降ってきた。30人殺害は戦前、戦後を通じて他に類を見ない大量殺人事件として語り継がれている。
生い立ちと背景
都井は大正6年3月5日に同村大字倉見部落で出生。農業を営む温和な父親と母親、3つ歳上の姉の4人家族。裕福とは言えないまでも中農で不自由ない生活振りであった。
だが、大正7年都井が2歳の時に父親が肺結核で死亡。翌年の大正8年には母親が同じく肺結核で死亡。幼くして両親を失った都井は父親方の祖母いね(事件当時76歳)に姉と一緒に引き取られた。
都井が6歳の時、同村貝尾部落に移転。いねは自分の里であるこの地に永住をしようと大きな古い農家の家を購入した。都井はここから西加茂尋常小学校に入学した。都井の成績は抜群で学級長や総長になったが、体が生まれつき丈夫ではなく年の1/3は欠席する状態だった。
それも都井が成長するにしたがって、以前よりは丈夫になったが、祖母のいねは「睦雄は跡取だから」と溺愛。ちょっとした微熱でも学校を休ませる為、週に3日〜4日も欠席させることは珍しくなかった。このような状態であったから学友はあまりいなく、もっぱら家で姉とお手玉などして遊ぶ毎日だった。
都井は高等科に進級したが、成績はさらに向上。担任から中学、大学へ進学することを勧められ、都井は岡山の名門である県立岡山第一中学校を志望した。だが、祖母のいねは、都井が中学校に入学すれば寮生活となることを寂しがり反対した。結局、都井はいねの気持ちを汲んで中学進学を断念した。
尋常小学校高等科を卒業した都井は16歳になった。この頃から、肋膜を患い医者からは安静にしているようにと診断され家でゴロゴロしていた。一方、祖母のいねは毎日のように家に居る都井を嬉しく思っていた。
都井にとっての唯一の友人は姉であった。その姉が都井が18歳の時に嫁いでいった。唯一の相談相手であり友人であった姉が居なくなった寂しさを、読書や小説などを書いて気を紛らわす毎日であった。
昭和11年、都井20歳の時に徴兵検査を受けた。この時、結核で丙種合格となった。甲種、乙種は実質合格であるが丙種は事実上の不合格である。当時の時代背景は、立派な体躯を作ってお国のために兵役に就くことが男の本懐という時代であったから、都井のショックは大きかった。「やっぱり俺は肺結核だったのだ」と悲観と自暴自棄に陥っていった。
この頃、異性に対して異常に興味を持った。娼妓通いはもとより、同じ部落の同年代の娘や娘の母親に対して関係を迫った。この当時、どこの地方も娯楽といえば異性との関係以外になく都井も例外ではなかった。事件後の証言や遺書からも同部落の複数の女性と関係があった事実が判明した。
だが、以前から関係のあったA子が急に冷たくなり、「お国のためになれない肺病患者がゴロゴロしおって・・・」というような罵詈雑言を浴びた。都井は、A子のみならず、以前から関係していたB子、C子などが急に冷たくなったり、一言も告げずに嫁いでいったりしたことを恨んだ。「学校の級長、総長にまでなり、村の神童とまで言われた俺がなんでこのような侮辱を受けねばならないのだ」と激昂した。
犯行準備
都井は、祖母いねに内緒で田畑を担保にして「肺結核病院に入院する費用」と偽り地元の金融機関から金の融資を受けた。この金で、神戸の銃砲店に出向いて猛獣用の猟銃や知人を介して日本刀、匕首などを買い揃えた。これらの凶器は都井の部屋の屋根裏にある茶箱の中に隠した。
犯行当日
都井は、以前部落の人から駐在所に「都井が不穏な動きをしている。猟銃をもってウロウロしている」と密告され、警察から厳重注意を受けて猟銃を取り上げられたことがあった。都井自身も、「肺結核でいつ死ぬか分からない」という焦りから、俺を馬鹿にした連中を早く殺さねばならないと犯行準備を急いだ。
昭和13年5月20日の夜、都井は部落に送電されている電線を切断した。部落民は単なる停電と思い、いつもより早めに床に着いた。今まで事件などなかった部落民に戸締りをする習慣はない。部落は、まったくの無防備状態となった。
貝尾部落は暗闇の世界と化した。まさに日本凶悪犯罪で未曾有の惨劇の幕開けだった。
翌21日午前1時頃、都井はいよいよ犯行の準備に取り掛かった。自宅の屋根裏に入り茶箱から用意していた凶器や他の品物を取り出した。まず、黒色の詰襟制服に着替えて、足にはゲートルを巻いて地下足袋を履いた。
頭は手拭で作った鉢巻を巻いた。この鉢巻の両側(両耳の上部)には懐中電灯が入るように工作されており、暗闇から見ると「二つ目の化け物」に見えた。更に胸には自転車用ナショナルの角型ライトを紐で首にぶら下げ、横ぶれ防止に他の紐で胴体を結んだ。
凶器は日本刀と匕首を左腰に差込み革ベルトで締め付けた。手には猛獣用のブローニング自動9連発を持った。弾薬は背嚢を肩からぶら下げて携行した。午前2時頃、いよいよ犯行が決行された。
[ 1] 祖母いねを、殺すには忍びないが凶行の後に残しておくのは哀れだと、自宅にあった斧でいねの首を一刀両断して殺害した(1人殺害)。
[ 2] 都井宅の隣の岸田勝宅に侵入。妻のつきよの首を日本刀で刺し、さらに口の中に刃先を突き立てて殺害。長男(14歳)、次男(11歳)もメッタ刺しして殺害(3人殺害)。
[ 3] 2軒目、西川秀司宅に侵入。妻のとめを猟銃で射殺。猛獣用のダムダム弾だから胸に卵大の穴があいて内臓が飛び散った。さらに秀司、娘2人を射殺(4人殺害)。
[ 4] 3軒目、岸田高司宅に侵入。主で新婚の高司と妻の知恵を射殺。さらに農業の手伝いにきていた親戚の寺上猛雄も射殺。高司の母親のたまは、「頼むけん、こらえてつかあさい」と都井の足元にひれ伏したが、都井は「ばばやん、顔をあげなされ」とたまの顔をすくい上げた瞬間、猟銃をぶっ放した。幸い、たまは全治5ヶ月の重傷を負ったものの一命は取り留めた(3人殺害)。[このあたりで、山間に轟く銃声や泣き叫ぶ声が木霊して部落内では、何が起きているのか分からず恐怖のどん底に陥った]
[ 5] 4軒目、寺井政一宅に侵入。主の政一、長男と内妻、五女、六女を射殺。四女は隣に逃げ込んで助かった(5人殺害)。[寺井政一宅における殺害目的は情交のもつれで恨んでいた四女であった。隣に逃げ込んだ四女を都井は追いかけた]
[ 6] 5軒目は、寺井政一の四女が逃げ込んだ寺井茂吉宅。都井は、この家には恨みが無く計画には入っていなかった。たまたま政一の四女が逃げ込んだための悲劇だった。茂吉は床下に娘や政一の四女を匿ったが、茂吉の父親が射殺された(1人殺害)。
[ 7] 6軒目は、寺井好二宅に侵入。母親を射殺した(1人殺害)。
[ 8] 7軒目、寺井千吉宅に侵入。主の内妻と養蚕手伝いで泊り込んでいた2人の娘を射殺。この時、主の千吉(当時85歳)は死を覚悟したが、都井は銃口を向けながら「お前は俺の悪口を言わんかったから堪えてやるけんの。せやけんど、わしが死んだらまた悪口をいうことじゃろうな」と薄笑いして家をあとにした(3人殺害)。
[ 9] 8軒目、丹波卯一宅に侵入。卯一の妹と母親を射殺。(2人殺害)。[逃げ切った主の卯一は駐在所の巡査が出征して不在であることから隣町の加茂町駐在所に事件の第一報を報告した]
[10] 9軒目、池沢末男宅に侵入。末男の両親と妻、四男を射殺(4人殺害)。
[11] 10軒目、寺井倉一宅に侵入。都井は「倉一はいるか!」と急坂を登ってきた。倉一の妻は、何事が起きたのかと雨戸を開けて外を覗いている時だった。妻が「暗闇から二つ目が来るぞい」と恐怖で叫んだ途端、射殺された(1人殺害)。
[12] 11軒目、岡本和夫宅に侵入(岡本宅は貝尾部落の隣に接する坂元部落にある)。主の和夫と妻2人を射殺(2人殺害)。

これを最後に、都井は犯行現場から西北に約4キロ先の同村大字樽井字仙の荒坂峠付近に逃げ込み猟銃で自殺した。30人を殺害するのに[僅か2時間たらず]だった。この部落は山間部特有の起伏がきつい地形で、都井は猟銃や日本刀など20キロ以上の重装備で急坂を駆け登りながらの凶行であった。
遺書
遺書は3通あった。2通は自宅で発見された「遺書」と「姉上様」と書かれたもの。他1通は都井が自殺した現場から発見された。犯行の動機を知る手掛かりとして重要である。自殺現場から発見された遺書を掲載する。
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。もはや夜明けも近づいた、死にましょう。(犯行直後の興奮状態での遺書)
「八つ墓村」のモデルに
推理小説の重鎮、横溝正史は戦中岡山県に疎開していた。そこで、津山30人殺しの実話を聞き大きなショックを受けた。横溝は、いつかこの事件をモデルに小説を書き上げてみようと思ったと語っている。後年、戦国時代の祟りと津山30人殺しをリンクさせ「八つ墓村」を完成させた。発表と同時にベストセラーになり横溝の代表作となった。

津山30人殺し事件 3

 

八つ墓村のあらすじ
戦国時代、毛利元就との戦いに敗れた尼子義孝が率いる落ち武者8名が村に落ち延びてきました。落ち武者だったこともあり、村人たちは怖がっていたが、次第に打ち解けあうようになります。ここに毛利一族がやってきて落ち武者を差し出せば褒美を出すというので、村人たちは話し合い、褒美よりも落ち武者の財宝に眼がくらんで落ち武者殺しの計画を立てるのです。相手は落ち武者といえども戦闘に通じているので、ある夜、村人らは夏祭りを企画して落ち武者たちを呼び、酒に毒を盛って切りつけ落ち武者8名を殺すのですが、落ち武者の筆頭、尼子義孝が「末代まで呪ってやる」と言い残して果てます。この8名の首塚が八つ墓村の名前の由来という。
その後、落ち武者殺しの首謀格であった多治見が狂いだし、落ち武者殺しに加担した残りのものとその家族を殺し、自らの首を切り落として自殺したのです。この狂気に満ちた殺人劇の人数も8名だったことから「八つ墓村の祟り」と考えられるようになります。月日は流れ、今度は多治見の息子である要蔵が狂いだし、村人32名を殺戮して姿を消します。
多治見家は、莫大な遺産があり、跡取は32名殺しの要蔵の子供である多治見久弥と多治見春代という兄弟ですが、二人とも体が弱いので継げる見込みがないというのです。そこで、この二人の腹違いの兄弟であった寺田達也が相続人に呼ばれたことから話は遺産相続争いの殺人ミステリーへと変貌していきます。
都井睦雄
八つ墓村の32名殺しのモデルとなったのがこの津山30人殺しの犯人、都井睦雄(とい むつお)です。都井睦雄は、1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見で農家の長男として生まれ、2歳のときに父、3歳のときに母をともに肺結核で亡くしたため祖母が睦雄と姉を連れて加茂の中心部である塔中へ移り住み、睦雄が6歳のときに一家は祖母の生まれ故郷である貝尾集落に引っ越したのです。都井睦雄は、幼いころから身体が弱く、学校も欠席しがちでしたが成績は優秀で、小学校3年生からは級長を務めるほどの秀才だったようですが、病気がちだったせいもあり友達はほとんどおらず、心の内は祖母には打ち明けられず、唯一姉が母親代わりのようだったといいます。姉が隣町に嫁いでからは、孤独との戦いだったようです。都井睦雄は、一方で小説を子供向けに作り直し、近所の子供達に読み聞かせたり、村が停電になると睦雄が電柱に登って修理していたという優しい一面もあったといいます。家にこもりがちだった都井睦雄は、幼い頃からの肺の病気が悪化していくと医者にみてもらい肺の病であると告げられます。両親ともに肺結核でなくしている都井睦雄にとっては、どこか気がついていたのかもしれません。昭和11年5月18日、阿部定事件が新聞で報道されると都井睦雄は刺激をうけて友人に「阿部定みたいにえらいとこしちゃる」と言ったそうです。明けて昭和12年4月には、農地を担保に金400円(今の額で約200万円)を借り入れ、いくつもの高価な薬を買いあさり結核を治そうとしますが効果が現れません。貝尾村では、夜這いという淫らな風習があり、若い女性はもちろん人妻にさえも夜這いで心を紛らわすようになっていったのです。幼馴染の寺井ゆり子、西川良子もそのひとりです。しかし、都井睦雄が19歳になった時に徴兵検査を受けて「肺結核」と診断され、不合格になると軍人になる希望も途絶えます。この当時の希望といえば「男子たるものお国のために」という立派な軍人でしたから、この徴兵検査不合格は睦雄の心にとてつもない衝撃を与えたに違いありません。さらに「結核」という病気は、当時はペニシリンなどがなく、不治の病とされていた病気だったこともあり、村人たちは睦雄の家の前を通る時にはハンカチで口を押さえて足早に走り去るようになったり、夜這いで関係を持った女性にも関係を拒まれ罵られたり、果ては村で孤立状態にまでなると都井睦雄は自暴自棄に陥っていくのです。その一方で都井睦雄は、自分を拒否した女性に激しい憎悪をいだくようになり、特に自分と関係を持ちながらも別の男と結婚した寺井ゆり子と西川良子に激しい殺意を持つようになっていきました。
完全武装と周到な計画
昭和13年2月、都井睦雄は残りの農地を担保に入れて金600円を借り入れ、神戸で猟銃を買い、山中で射撃の練習をする日々が続きましたが、村人からおかしな目でみられるようになり、祖母が「睦雄に殺される」と警察に通報し、武器一式を没収されましたが、睦雄の素直さに免じて厳重注意だけで処罰されることはありませんでした。この後、都井睦雄は、すぐに猟銃と日本刀を買いそろえ、屋根裏部屋で猟銃を通常の弾丸5連発のものを猛獣用の弾丸9連発に改造し、準備を進めていた。都井睦雄は、周到に計画しており、襲撃予定の家を自転車で往復してルートを確認したり、当時電話のない村で夜道を警察まで走ると2時間はかかることを計算し、さらに「早くしないと病気のために弱るばかりだ」と睦雄の悪口を言っていた女性の名前をあげて「復習のために殺す」と犯行の3日前から計画書ともとらえられる遺書を書き、たまたま寺井ゆり子と西川良子が村に帰ってきている日を調べて犯行の日を選んでいます。昭和13年5月20日、午後7時頃、都井睦雄は、まず電線を切って貝尾村を停電させます。日ごろから停電になると電柱に登って修理していた睦雄にとって村中全23戸を停電にすることは容易でした。この当時の電気事情は悪く、停電することもしばしばあったため、村人たちはいつものように寝静まったといいます。深夜になると都井睦雄は、黒い詰襟の学生服を着用し、膝下には軍事訓練で使うゲートルを巻き、地下足袋を履き、頭には鉢巻しめてまるで鬼のように小型の懐中電灯を二本差し、首からは自転車用のナショナルランプ、腰には日本刀一振りと匕首(あいくち)と呼ばれる短刀二振り、手には猛獣用9連発に改造したブローニング猟銃をもって準備を終えました。その姿は、まさに都井睦雄が憧れた軍人そのものであり、まるで鬼のようにも見えたといいます。
津山事件 〜 三十人殺し 〜
津山事件は、「津山三十人殺し」や犯人の姓名を取って「都井睦雄事件」ともいい、近隣地域では「加茂の三十人殺し」と呼ばれていますが、当時の警察署が津山署だったため津山事件とされています。
自宅
昭和13年5月20日、貝尾村を停電させ、武装した都井睦雄は、まず自分の祖母から殺害します。寝ている祖母の前で手を合わせ、斧を振り下ろして祖母の首を切断、首は50センチほど飛んで転がり、睦雄は返り血を浴びました。後の遺書には、真っ先に祖母を手に掛けた理由は「後に残る不びんを考えてついああしたことをおこなった」と書いています。
1軒目
祖母を殺害して家を飛び出した都井は、隣の家へ入ります。当時の田舎のこと、鍵などかけておらず、夜這いで家の間取りを知っているので寝室まですぐにたどり着きました。都井睦雄は、夜這いで自分と関係を結びながらも村中に噂をまきちらし悪口を言った50歳の母親を憎んでいましたが、最初から猟銃を使うと騒ぎが拡大するので日本刀で首と胸を刺し、最後に口の中に刀を突き刺して殺しました。勢いあまって刃物の先は身体を突きぬけて畳まで達していたといいます。母親の二人の男の子も日本刀で殺害しました。
2軒目 〜西川家〜
次はその隣の西川家に向かいますが、夫婦2人、娘が2人の4人暮らしでしたが、都井睦雄はこのうち奥さんと長女の2人と関係があり、2人分憎んでいたというのです。都井睦雄は、この日に帰ってきていることを事前に調べておいた長女の良子を特に憎んでいました。まず、関係のあった奥さんの股間に猟銃を突きつけて、なんのためらいもなく引き金を引きました。猛獣用の弾に改造してあるブローニング猟銃ですから体が炸裂して内臓が飛び散って即死しました。この猟銃の音で別の部屋で寝ていた主人と娘が驚いて目を覚ましたところ、お構いなく次々と至近距離で発砲し、3人とも弾が貫通し、体には大きな穴があいて死亡していたといいます。
3軒目
都井睦雄が次に選んだのは、少し離れた所にある家で、夫婦2人、祖母、甥の4人家族です。都井睦雄は、家に入るやいなや夫婦を猟銃で射殺し、妊娠半年だった妻にも気をとめず腹に弾丸をぶち込み、甥も胸に弾丸を浴びせて殺害しました。祖母は必死に命乞いをしたが聞いてはもらえずに胸を撃ち抜かれましたが、この祖母だけは一命をとりとめることが出来ました。
4軒目 〜寺井家〜
都井睦雄が最も憎むこの家は、6人家族です。その中でも4女のゆり子と都井睦雄は幼馴染で結婚をかんがえるような関係であったにも関わらず、周囲の反対もあり、睦雄を捨てて別の男に嫁ぎました。弟の結婚式のためにこの日に帰ってきていることをもちろん事前に調べていた都井睦雄は、堂々と玄関から進入したが、出てきた主人をいきなり猟銃で射殺、逃げまどう長男夫婦たちも片っぱしから銃を乱射して殺害しました。しかし、肝心のゆり子は裏口からすばやく逃げて近くの家に逃げ込みました。それに気づいた都井睦雄は、すぐにゆり子の後を追い、襲撃する予定ではない家ではあったが、扉には鍵がかけられていたので「開けろ!」と睦雄が怒鳴ると、雨戸を開けて顔をのぞかせた祖父をめがけて射殺しました。次男は何とか逃げ出したが、肝心のゆり子は、家の方と全て閉め切って家にたてこもったので睦雄は銃を乱射したが、結局中に入れなかったため、諦めて次の家に向かいました。都井睦雄が最も憎んでいた寺井ゆり子を殺害することはできませんでした。このころになると響き渡る銃声や悲鳴から村中が騒然とし、逃げ延びたものは警察に走りました。
高台の家
都井睦雄は次に高台の家に向かいます。この家には母と息子の2人暮らしでしたが、都井睦雄と関係があった母親が睦雄とは違う別の男とくっついたので恨んでいました。この母親というのが、都井睦雄が一番憎むゆり子の結婚式の媒酌人だったことも気に入らなかったようです。親子ともども寝ているところを布団の上から撃たれて殺害されました。
6軒目
その後、都井睦雄は自宅の南側にある家を襲います。家族6人とお手伝いの女性が2人の計8人が住んでいましたが、お手伝いの女性2人は睦雄と関係があり、ふたりとも猟銃で2発ずつ撃って殺害しました。1人は脳が飛び散り、もう1人は腹から腸が飛び出ていたといいます。最後に立ち寄った隣村の家。この後、一時間半にもおよび犯行をおこなった都井睦雄は、隣の村の家に向かい、その家で紙と鉛筆を借り、そのまま山の中へと逃走しました。この家の子供は都井睦雄が小説を読み聞かせていた子供で、よく顔をみる知人でした。都井睦雄は、去り際にこの子供へ「うんと勉強して偉くなれよ」と言い残して去ったといいます。
都井睦雄の冷静な一面
津山事件の被害者たちの証言によると「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆に都井睦雄は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、恨んでいる家から嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲したとか、返り血を浴び異様な姿の都井睦雄に猟銃を突きつけられたが、逃げることもせず茫然と座っていたところ「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されたとか、「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井睦雄は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い残してその場を立ち去ったといわれています。最後に立ち寄った家で遺書を書くための紙と鉛筆を借りたときに、その家の子供が以前から睦雄の話を聞きに来ていた縁から顔見知りであったため、その子供に頼み鉛筆と紙を譲り受け「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけたといいます。都井睦雄は、この後、山中で遺書を残して自殺しました。
都井睦雄の遺書 〜津山事件報告書より〜
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。 思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
(犯行直後の興奮状態での遺書)
夜這いの風習
津山事件発生からちょうど70年後にあたる2008年に当時の事件の生き残りで90代になった只友登美男にインタビューをしましたが、当時村に残っていたとされている夜這いの風習については否定してはいますが、姉の良子の結婚相手である隣町の只友登美男は、良子が都井睦雄と関係があったと明かしています。都井睦雄が残した遺書にその名前が記載されいることからており、事件を決行することにした理由のひとつとして彼女の帰郷を挙げていることから、この証言については偏りがある可能性を否めません。この証言内容については明らかに誤った内容があり、証言も含めた記事内容は信憑性の薄いものであるといわれています。テレビ番組スーパーモーニングで津山事件の特集が組まれ、取材を受けた村民は、夜這いの風習が当時はあったと認め、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと証言しました。
寺井ゆり子
結局、都井睦雄は、肺結核と夜這いで自身の悪口を言った村人を順に殺害した結果となっていますが、幼馴染の寺井ゆり子は逃げ延びました。心無い幾人かの村人からは都井睦雄が寺井ゆり子を逃がしたなどと噂され、被害を作った張本人とみる者もいたようで、貝尾村では以後70年経った現在も孤立しているといいます。ゆり子は事件から半年余りたって嫁ぎ先で娘を出産しましたが、結婚から出産までの短さを考えると、あまりにも不自然なことなので、近所の老人たちは都井睦雄の子供ではないかと陰でささやく者もいたといいます。また、ゆり子の夫は元々結核持ちだったのが、戦争末期に出征してすぐに兵舎で死んだと知ってゆり子は「徴兵中に夫は結核に感染し、死亡した」と申請してかなりの金額の遺族年金を受給し続けたとも噂されることになります。都井睦雄を騙し、夫の死因を騙して生きてきてよくバチがあたらないねと噂するものもいたと古老は語っています。ゆり子は、都井睦雄と縁を切って同じ村の丹羽卯一と結婚しましたが、都井睦雄がここでも夜這いをかけるのでわずか二ヶ月で離婚しています。そのまた二ヵ月後にゆり子は、上賀茂村大字物見の上村岩男と再婚していて、今回の里帰りでの惨劇となったわけです。

津山事件は、わずか2時間足らずで28名が殺害し、5名が重軽傷(うち12時間以内に2名が死亡)の計30名を殺戮したという、犠牲者数だけで言えばオウム真理教事件の27名を上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件でした。しかも、事件は犯人都井睦雄の逮捕にはいたらず、現場から逃走し、自殺で幕を閉じたことでこの事件には不明な点が多く残ります。  
 
津山三十人殺し事件 4

 

この事件の犯人、都井睦雄は大正6年3月5日、岡山県に生まれた。家族は父、母、祖母、姉。しかし、都井が産まれて間もなく両親は死亡した。二人とも肺結核であった。それから二人の姉弟は祖母に育てられることになり、祖母の実家がある貝尾部落に引っ越した。都井の家は裕福な農家だったが、働き盛りの両親が死んでしまい、残されたのは老人と子供である。所有している田畑・森林を売ったり、祖母の育てる少しの作物、また小作料で、どうにか3人は暮らしたが、二人の子供の学費や、成長して後の睦雄の病気の治療代、彼の放蕩によって、家計は傾いていった。彼は元々、村の秀才として評判の児童であった。例えば小学校当時の成績表にて、教師からこのような評価を受けている。「従順にして教師の命をよく守り、級中の模範児童たり。故に学業も上位にして申し分なき、教室内においては他の児童の世話をなし良き児童。健康やや弱く、風邪をひき欠席する事多し。」
高校を卒業する頃、勉強のできる彼は教師に強く勧められて、中学へ進学し下宿したいと思い家族に話したが、いねは「睦雄が岡山さ行ってしまったら、おばやん一人になってしまうやないの。」と涙ながらに反対し、都井は祖母を置いていくことが出来ず、遠い学校であったため彼は進学を諦めた。しかし元来色が青白く病弱な彼に、実家の農業は向いているはずも無い。教師と相談したうえで、都井は専検をとって教師になろうと、家に閉じこもって勉強を始めた。ところが、若さゆえの希望に溢れた村の優等生は、これから無常にも堕落への道を転がり落ちていってしまうのである。
ある日都井は胸に痛みを覚え、それが何度も続くので病院に行って看てもらうことにした。医者の診断名は「肺尖カタル」。両親と同じ肺の病気にかかったことに、都井は戦慄した。「あまり激しい事はせずに、ゆっくり体を休めれば治る。たいしたことはない」医者の言葉通りに、都井は一時的に勉強を止めて体を休めたが、両親が彼と同じ肺の病で死んだ事が都井の病気に対する考えを悲観的にした。都井は病気が発覚して以来、人が代わったように厭世的になり、自暴自棄になった。また、これと同時期に、都井は友人の紹介で大阪の賎娼相手に筆下ろしているが、これから一年も経たぬうちに 彼は村中の女と関係することになる。
ここで、当時の山村の”夜這い”という因習について話しておかねばなるまい。娯楽の少ない山村のものたちの間では、男女の貞操観念というものは、実に希薄であった。なにも、村中のものと関係していたのは都井だけではなかったのである。「村のおんなは村のもの」として共有していたのである。例えばそれが人妻であったとしてもだ。亭主に浮気現場を見られても、お詫びの酒一升でカタが付いた。しかし、事件後村人達は村へのマスコミ批判を恐れて、「死人に口なし」ということで、まるで都井だけが特別に淫乱で、恥知らずで、異常な性欲の持ち主だったのだと言い張った。しかし現在では、どの識者にも村人の証言は信じられていない・・・。
都井は肌が白く、鋭い目に繊細そうな物腰、がっちりした体つきと、山村の肌の浅黒い農夫達にない魅力を持つ青年だったようで、どうも最初のうちは女たちは自分から都井にちょっかいをかけていたフシがある。
ところが次第に女達は都井を避けるようになった。彼女達からすると、病弱で職も持たずにぶらぶらしている都井と付き合うメリットは火遊び以外になかったのかもしれぬ。しかも都井はそれを肺病のせいだと思いこんで女達をしつこく追いかけ、しまいには猟銃で脅して「関係させえ」などと脅した物だから、彼は村で完全に孤立してしまった。同い年の村人とは剃りが会わず、ロクに友達が居なかった都井はもしかしたら女性に依存していたのかもしれないが、しかしそれ以上に彼を傷つけたのは、関係した女達が手のひらを返したように冷たくなったことであった。
ある女性は、共に病弱で親族が少ないから、「お互いに助け合っていこう」とまで約束した仲だったが、次第に彼を疎んじ心変わりした。都井が、いつも睨み合ってばかりいずに、少し笑顔で話しても良いがなと言ってやると、彼女は笑顔所か睨み付けて鼻で笑い、散々、都井の悪口を言う。とうとう腹に据えかねた都井が怒って「殺してやるぞ」と言い放つと、彼女はぴしゃりとこう言った。「殺せるもんなら殺してみろ、お前等如き肺病患者に殺される者がおらん」それは、彼にとってタブーだった。彼女はそのまま逃げかえり、都井は激しい感情の憤りに泣き、彼女を追えなかった。
またある女性は都井に「年頃だから虫がついたのかも知れぬ」と水を向け関係を結んだが、都井の評判が悪くなるといち早く拒絶し、自分だけ良い子になるために、都井の悪口ばかりを村人に言い触らした。
女達に裏切られ、都井はある決意をした。
「こいつら全員殺してやる」都井は、復讐の達成の為に、武器を買い集めて部屋に隠し、村で鍵をかけていない家を調べるなどして慎重に計画を練った。平和な山村ゆえにほとんどの家は就寝中でも平気で施錠していなかった。計画は前途洋洋に見えた。
しかし、あと少しと言う所で祖母にのませようとした毒薬が元で通報されてしまい、隠していた武器を全て取り上げられてしまう。それでも彼はめげなかった。今度はもっと巧妙に、大阪の友人や津山市の刀剣コレクターに頼みこみ、彼らの手を借りて武器を揃えた。昭和13年5月21日深夜、ついに未曾有の大惨劇の幕が開ける。
電気を絶たれ暗闇となった視界もおぼつかぬ夜の村で、彼はまず祖母を斧で手にかけた。「残してゆく祖母が不憫」であったのと、祖母を殺すことで自分の中で覚悟を決めたのだ。もう後は無い。「俺を鬼にしておくんなせえ」それからの都井に、もう迷いは無かった。彼は銃声で村人が早く起きぬように、最初は刀で女を血祭りに上げ、次に銃で沢山の村人の心臓を正確に砕いた。死体は凄惨極まりなく、ある者は腸が飛び出し、ある者は二銭硬貨大の穴が体に二つもあいていた。
ところで、都井がもっとも殺したかった女の一人は都井の異常を察して数日前に突然村を逃げ出していた。都井は悔しくて歯ぎしりしたが、「それだったら、身内を殺して彼女が死ぬまで苦しめてやる」と思い、彼女の親戚を狙って無残に殺した。こんな感じで、被害者は膨れ上がっていった。しかしそれでも計画通りというわけにいかなかった。口惜しい事に、もっとも殺したかった二人の男女は、殺す事が出来なかった。
彼は目的の家を全部襲撃した後、山を登って村一面を見渡せる風光明媚な荒坂峠を目指して逃げ込んだ。目的を果たし警察の手から逃れるために深い山中を一人走った青年の心には、その時何が映っていたのだろうか。彼は事件前に既に遺書を描いていたが、もう一枚書くことを決意した。そしてある老人の家に上がりこみ、「紙と鉛筆をくれ」と頼みこんだ。驚いた老人の反応に痺れを切らした彼は老人の孫から雑記帳と鉛筆を借り、そのまま森の奥深くへ消えていった。
一方、当時警察は「第二の鬼熊事件発生か!?」という不安と混乱で慌しかった。速報が入るたびに被害者の数は増えていく。地元との消防団と組んで現場の警察官達は必死に捜索を続けた。彼らが都井の自殺体を発見したのは朝も過ぎて十一時になってからであった。
都井は半立ちになって寝転がり、胸に猟銃を当て、足の指で引き金をひいて自殺していた。享年22才。
彼の犯行動機を、岡山地方裁判所・塩田末平検事は「青年特有の英雄主義(ヒロイズム)」と語った。当時「男性は強くあるべき」との観念が当たり前だった時代において、彼は肺病のせいで徴兵検査に不合格となり、コンプレックスを持って居たことは容易に想像できる。彼は自己の男性としての誇りを、一に徴兵検査で、二に女達によって深く傷つけられ、次第に社会に対して反抗心を強め、その妄想的な性格を強めていった。彼にとって、部落を根絶やしにすることが自身の存在証明であったのである。都井は阿部定の事件に並々ならぬ興味を抱き、友人に安部定事件の供述証書(地下本)の写しを依頼した。事件前に最後にその友人と会った時、都井は「肺病でどうせ死ぬなら、阿部定みたいなデカイことをやる」と言っていたことからも、彼の強烈な自己顕示欲が犯罪に結び付いた事がよく分かる。
しかし彼は不運な人生であった。「もし両親が生きていたなら・・・」「彼が中学校へ行って村を出ていたなら…」など、「もしもこうであったなら」という思いが残ることは非常に残念で仕方ない。村の秀才として村人の期待を一身に受けて育った少年は、前代未問のマス・マーダラーとして伝説となった。
この事件には妙な噂がある。事件当事、あまりの事件の残酷さに報道規制がひかれたというのだ。しかし実際はセンセーショナルに報道されていた。特筆すべきは二次創作の多さだ。書き手のイマジネーションを刺激する事件であったことは間違い無い。かの有名な「八つ墓村」横溝正史、「丑三つの村」西村望、「夜啼きの森」岩井志麻子、「龍臥亭事件 上下」島田荘司、映画だと「復讐鬼」若松孝二、マンガだと「負の暗示」山岸凉子がある。ノンフィクションでは、まず一番詳しいのは「津山三十人殺し」筑波昭、ここでは都井が書いた小説『雄図海王丸』の一部を読む事が出来る。彼には文才もあったようだ。そして、もう一冊は「ミステリーの系譜〜闇に駆ける猟銃」松本清張。ちなみに事件のあった貝尾部落は都市伝説「杉沢村」のモデルとなった。 
 
津山三十人殺し事件 5

 

津山三十人殺し事件で登場する人物については都井睦雄を除いてすべて仮名とした(阿部定事件、鬼熊事件は実名)。
岡山県津山市から北へ20キロ行ったところの中国山地の鳥取との県境に近いのどかな山村で、わが国犯罪史上、未曾有の大惨劇が起こった。
岡山県苫田(とまだ)郡西加茂村大字行重(ゆきしげ)の貝尾部落とその隣の坂本部落を舞台に、1人の青年がわずか1時間半の間に、村人30人を惨殺するという事件であった。
西加茂村は全戸数約380戸、人口約2000人、貝尾部落は全戸数23戸、人口111人、その隣の坂本部落は全戸数20戸、人口94人という小さな村であった。
この両部落の住民はその大部分が零細農で、山田の耕作や養蚕を主な産業とし、冬の間は雪に閉ざされ、男は長期の出稼ぎや山に入って炭焼きをする者が多い。村には老人と婦女子だけが残る。「夜這い」など性的に放縦な旧習が色濃く残る地域でもあった。
1938年(昭和13年)といえば、日中戦争の最中で、日本軍が徐州を占領した5月19日の直後にこの事件が起きている。
5月21日午前1時ごろ、岡山県苫田郡西加茂村大字行重字貝尾779番地に住む農業の都井睦雄(といむつお/22歳)は、中6畳の間のこたつに祖母と向かいあった位置で寝ていたが、祖母が目を覚まさないように気を配りながら、そっと起き足音を忍ばせて屋根裏部屋に上がった。ちなみに、都井の自宅は貝尾部落のほぼ真中に位置していた。都井は祖母と2人暮らしであった。
都井睦雄の年齢を「22歳」としているが、これは「数え年齢」で、現在使われている「満年齢」では都井の生年月日が1917年(大正6年)3月5日なので、事件のあった1938年(昭和13年)5月21日の時点で「21歳」ということになる。ちなみに「数え年齢」とは生まれた時点で「1歳」とし次の年の元日を迎えた時点で1年加えて「2歳」となる、というように、以後元日を迎えるごとに年齢が加算される計算法で、「数え年齢」と「満年齢」は常に1歳か2歳違いとなる。この「数え年齢」から「満年齢」に変わるのは1950年(昭和25年)以降。
都井は自分を邪魔者扱いする部落民を殺害しようと綿密な襲撃計画を立てていた。
特に、自分と肉体関係がありながら嫁いでいった2人の女性に対しては激しい敵意と殺意を抱いていた。都井はこの2人の女性が村に帰って来る日を調べて知り、あるいは小さな村だから、「誰が何をするとか、した」というのは、いやでも耳に入っていたのかもしれない・・・。都井はそのときを犯行の日と決めていた。そして、その日がやってきた。
前日の5月20日午後4時ごろ、自転車で襲撃予定の家への道を何度も往復して入念に下見している。午後5時ごろ、送電線の電柱に登って電線を切断し、部落全体を真っ黒闇にした。電灯会社に修理の依頼をしに行く村人はいなかった。
都井は親しい友人に、「どうせ肺病で死ぬんじゃから、阿部定以上のどえらいことをやってやる」と漏らしていた。
阿部定事件・・・2年前の1936年(昭和11年)5月18日、愛人を絞殺し局所を切り取るという前代見聞の猟奇事件。
屋根裏部屋に上がった都井は、黒詰め襟の学生服に、両足は軍事訓練に使うゲートルを固く巻いた。これは青年学校で軍事訓練用に買わされたもので、1、2度しか使用していない新品同様のものだった。そして、地下足袋に足を通した。鉢巻き状に巻きつけた頭の手拭いに2本の小型懐中電灯を取り付け、さらに、自転車用のナショナルランプをひもで首から胸に吊り下げ、さらに、別のひもで胴に固定し、暗闇の中で相手を照らし出すようにした。日本刀1振りと匕首(あいくち)2口を左腰にさしてひもでくくり、この上をさらに皮のベルトでしっかりと締めた。手には猛獣狩り用口径12番9連発に改造したブローニング猟銃を持ち、ポケットには実弾100発を入れ、弾薬、実弾100発を入れた雑嚢を左肩から右脇にかけた。まるで、2本の角が生えた阿修羅さながらである。
この地方では、夜間川漁をするとき懐中電灯1個を手拭いなどで頭上につける風習があった。また、都井が愛読した雑誌『少年倶楽部』(前年の12月号)には剣付き銃(懐中電灯もくくりつけられている)を構えた日本兵が中国人を突き殺そうとしている漫画が載っているので、これに着想を得たようにも思える。
5月21日午前0時ごろ、小雨が降ったがすぐに止み、ときどき雲の間から月が見えた。春とはいえ、うすら寒い夜だった。
犯行

 

[ 1人目] 午前1時40分ごろ、都井は屋根裏部屋から下り、中6畳の間に入ってこたつでぐっすりと寝入っている祖母のよね(76歳)の首を薪割り用の斧で切断した。首は鮮血とともに50センチほど飛んで転がった。
[ 2人目] 最初に襲ったのは、北隣にある岸本勝之宅だった。ここは5人家族だったが、勝之は呉海兵団に入団中でいなかった。田舎だから戸締りはしていなかった。何度かの夜這いで勝手を知り尽くしていた都井は、奥の6畳間に忍び込んだ。都井は未亡人である母親のつきよ(50歳)と肉体関係があったが、最近になって拒絶されるようになり、村中にそのことを言いふらされていたため、特に強い恨みを抱いていた。猟銃の使用は近所に聞こえると思い、日本刀をそっと抜いて、半裸で熟睡していたつきよの首、胸を突き刺した。刀の先は畳を突き抜けた。最後に口の中にも突き刺した。
[ 3・4人目 ] 続けて、母親の隣に寝ていた弟の吉男(14歳)とその弟の守(11歳)を日本刀でメッタ斬りにして惨殺。妹のみさ(19歳)は仕事のために、寺川千吉宅で寝泊まりしていて、このときは、難を逃れてはいるのだが、都井はみさが千吉宅に寝泊りしていたことを知っていた。
[ 5人目 ] 3軒目は西田秀司宅だった。ここには4人がいた。ここも鍵をかける習慣はなかった。都井は妻のとめ(43歳)と肉体関係が何度もあったが、とめは村中に「何度も挑まれたが断った」と言いふらしていた。都井は4畳間に寝ていたとめの腹部に猟銃を突きつけて発砲した。とめはこの猟銃のダムダム弾を受け内臓が飛び出して即死した。
[ 6・7・8人目 ] 隣の部屋では、3人がこたつに入って寝ていた。長女の大友良子(22歳)と主人の秀司(50歳)と妻の妹の岡庭千鶴子(22歳)であった。都井は良子とも肉体関係があったが、他家に嫁いだ。だが、風邪で寝込んでいたとめを見舞いに、良子と千鶴子が来ていた。都井はそのことを知っていた。都井は良子が帰って来て、村にいるこの日を虐殺の日に選んだ理由のうちのひとつにしていた。3人が銃声で飛び起きたところを猟銃で至近距離から射殺。3人とも体に大きな穴が開き即死した。
[ 9・10人目 ] 4軒目は岸本高司宅だった。ここは4人家族だった。ここも鍵をかける習慣はなかった。表戸から侵入した都井は、ひとつ布団に就寝していた主人の高司(22歳)と内妻の西田智恵(20歳)を猟銃で射殺。妊娠6ヶ月の妻は腹部に銃弾を受けて即死した。智恵は5番目に殺害された西田とめの次女である。
[ 11人目 ] そのあと、甥の寺中猛雄(18歳)が、飛びかかったが、都井は銃床で殴り倒し下顎を陥没させ、猟銃で胸を撃ち抜いた。
[ 重傷 ] 都井は、うずくまって震えていた母親のたま(当時70歳)の前に仁王立ちになり、落ち着いた声をゆっくりと押し出し、「お前んとこには、もともと恨みも持っとらんじゃったが、西田の娘を嫁にもろたから、殺さにゃいけんようになった」と言った。「頼むけん、こらえてつかあさい」たまは都井の足元にひれ伏して哀願した。「ばばやん、顔を上げなされ」と命じ、銃口で頭を押し上げて胸をめがけて発射した。たまはふっとんで転がったが、奇跡的に一命をとりとめた。たった1人生き残ったたまは「若い者が死んでわしが生き残るとは、神も仏もありゃせんがのう」と運命の皮肉を嘆いた。
[ 12人目 ] 5軒目は寺川政一宅だった。ここは6人家族だった。度重なる銃声で、寺川宅の家族は皆、起きていたが、戸締りをしていなかった。表玄関から侵入した都井は、「何事か」と言って出てきた主人の政一(60歳)の胸を猟銃でぶち抜いて射殺。
[ 13・14・15・16人目 ] 夢中で窓からおもてに飛出した長男の貞一(19歳)の背中を猟銃でぶち抜き射殺。、五女のとき(15歳)と六女のはな(12歳)が、廊下の雨戸を開けて外に出ようとしたところを猟銃で射殺。内妻の野木節子(22歳)を廊下の隅に追い詰め、立ちすくんだところを胸をめがけて猟銃で撃ちこみ死亡させた。寺川貞一と野木節子は6日前の5月15日に結婚式を挙げたばかりだった。
[ 軽傷 ] 四女のゆり子(当時22歳)と都井は深い仲だったが、ゆり子は都井をふって他の男と結婚した。恨んだ都井が新婚の夜の寝室に夜這いをかけたため、ゆり子は離婚せざるを得なくなった。都井はよりを戻そうと図ったが、その後、ゆり子は他の村の男と再婚してしまった。3日前から、ゆり子は帰宅していた。それを知っていた都井がこの日を虐殺の日に選んだ理由のうちのひとつであった。ゆり子は、裏口から素早く脱出し、近くの寺川茂吉宅に逃げ込んだ。都井がもっとも恨んだ、ゆり子は軽傷を負っただけで済んでいる。寺川ゆり子は同年1月9日に同部落の丹下卯一と結婚したが、同年3月20日に離婚させられ、その後、同年5月5日に、他の村の男と再婚した。半月前のことだった。
[ 17人目 ] ゆり子が逃げたことに気づいた都井は、すぐ後を追った。6軒目の寺川茂吉(当時45歳)宅は元々、都井の襲撃の計画に入っていなかったが、悲劇の巻き添えとなってしまった。ここは5人家族だった。表戸を閉めた直後に、都井がやってきて「開けろ、開けぬと、撃ちめぐぞ」と怒鳴った。離れの隠居所にいた父親の孝四郎(86歳)が雨戸を開けると、都井は孝四郎めがけて猟銃を連射。胸に5、6センチの穴が2つでき即死した。
[ 軽傷 ] ゆり子と主人の茂吉と妻の伸子(当時41歳)と次男の進二(当時17歳)は、全部の戸を閉め切った。都井は銃を乱射したり、裏戸を激しく叩いた。茂吉はこのままでは全員殺されると判断し、次男の進二に寺川元一宅へ急を知らせ、助けを求めるように命じた。そこで、進二は横入り口から飛び出し、裏の竹薮へ走り込んだが、都井に見られてしまった。都井はすぐにあとを追いかけ、進二も追いかけられたことに気づいたので、竹の葉が密生している藪の中に身を伏せ、じっと息を殺したので、都井の目をくらますことができた。都井は「逃げると撃つぞ」と大声で叫びながら追いかけたが、発砲はしなかった。進二を見失っていたが、裏口の前にきて、さも進二を捕まえたような口ぶりで「こら、進二、白状せよ」「白状せぬと撃つぞ」と大声で2回怒鳴り立てた。妻の伸子は「あんた、進二が捕まったけん」と全身をわなわなと震わせ、泣きながら茂吉にとりすがった。ゆり子も「うちのためにとんだことになったですけん。すまんことです。堪えてつかあさい」と言って泣きじゃくった。茂吉は、こっそりと裏口の戸に近寄り、板戸の隙間から外の様子を覗った。戸のすぐそばには都井が立ちはだかっているが、進二がいないことが分かって安心した。だが、そのあと、都井は「どうしても開けんなら、斧を持ってきて打ち割るぞ」と怒鳴り散らして、銃床で裏戸を激しく叩いたあと、戸の外から家の中に向けて連続2発発砲した。このときの1発が、茂吉の娘の四女の由紀子(当時21歳)の大腿部に命中し、軽傷を負わせている。
ようやく、このころになって断続的に深夜の山間に響き渡る銃声、絶叫や悲鳴で、異常を知った村人が騒然と騒ぎ出した。
[ 18・19人目 ] 7軒目は高台にある寺川好二宅だった。ここは未亡人の母親のトヨ(45歳)と息子の好二(21歳)の2人で暮らしていた。やはり、ここも鍵をかける習慣がなかった。都井は金品によってトヨと情交を重ねていたが、別の男に走り、西田良子と寺川ゆり子の結婚の媒酌人を買って出たのを恨んでいた。都井がさんざん発砲したあとにもかかわらず、そのことに気づかずに熟睡していた2人を布団の上から銃口を押しつけて射殺した。
[ 20・21人目 ] 8軒目は都井の自宅の南隣の寺川千吉(当時85歳)宅であった。ここは、家族6人の他、養蚕手伝い2人の計8人が寝ていた。都井は寺川千吉宅には恨みはなかったが、かつて都井との情交を拒んだ丹下卯一宅の妹のつる代(21歳)と岸本勝之宅の妹のみさ(19歳)の2人が養蚕室で寝ていたところを、猟銃で各2発ずつ銃弾を浴びせた。1人は脳味噌が飛び散り、もう1人は腹部から腸が飛び出して即死した。
[ 22人目 ] もう1人、同じ部屋で寝ていた長男の朝市(当時64歳)の内妻の平地トラ(65歳)は「堪えてくれ、こらえてつかあさい」と懇願したが、都井は猟銃を2発発砲、腹部が貫通して即死した。
養蚕室を飛び出した都井は、母屋の縁側の雨戸を開けて押し入り、表6畳の間に踏み込むと、こたつに坐りこんでいた千吉を3つの照明が捕らえた。千吉は都井を見上げたが、格別の反応を示さず凝然と端座したままであった。都井は「年寄りでも結構撃つぞ。本家のじいさん(寺川孝四郎のこと)も殺(や)ったけんのう。どないしてやろか」と言いながら、銃口を千吉の首にあて、ちょっと考えてから「お前はわしの悪口は言わんじゃったから、堪えてやるけんの。せやけど、わしが死んだらまた悪口を言うことじゃろな」と言ってニヤリと笑った。
そのあと、都井は表6畳から奥納戸に踏み込んだ。ここでは、朝市が布団にもぐりこんでいた。朝市は都井と千吉のやりとりを聞いて、これは助かるかもしれないと思い、震えながらも寝たふりをした。都井は3つのひかりで朝市を照らすと、いきなり枕を蹴飛ばした。朝市はびっくりして起き上がろうとすると、その胸を銃口で押し戻し「若い者(勲夫婦)は逃げたな。動くと撃つぞ。おとなしくせえ」朝市は都井を見上げて両手を合わせ「決して動かんから助けてくれ」と必死で哀願した。都井が「それほどまでに命が惜しいんか」とからかうように言うと、朝市は手を合わせたまま何度も子供のように大きくうなずいた。「よし、助けてやるけん」と都井はそう言って千吉宅を出た。千吉の妻の寺川チヨ(当時80歳)は床下にもぐりこみ、孫の寺川勲(当時41歳)とその妻の寺川きい(当時38歳)は2階に隠れていた。
[ 23人目 ] 9軒目は丹下卯一(当時28歳)宅だった。ここは3人家族だったが、妹のつる代(21歳)は寺川千吉宅の養蚕室ですでに、射殺されていた。丹下宅にも別棟に養蚕室があり、たまたま、母親のイト(47歳)が、保温用の炉の火の具合を見ていたところに、都井が現れ「娘(つる代)はもう殺(や)った。今度はお前じゃ」と言って、猟銃で連射し、重傷を負わせた。嵯峨野病院に運ばれたが、6時間後に死亡した。卯一は、母屋で寝ていたが、母親の絶叫と銃声で目を覚まし、いち早く脱出して難を免れた。卯一は一時期、寺川ゆり子と結婚していたから、都井の標的の対象になっていたかもしれない。
卯一は西加茂の駐在所に行ったが、巡査が不在だったため、加茂町駐在所へ行き、息をはずませながら、事件の発生を知らせた。約3キロのあぜ道を走り、途中、自転車を借りて20分後に到着した。午前2時40分ころだった。
「駐在さん、大変だ、起きてくれ。人殺しだ」という卯一の叫び声に今田武雄巡査は寝床からはね起きた。窓には顔見知りの卯一が口をぱくぱくさせている。卯一の話しを聞く前に「都井が殺(や)ったか?」と今田巡査は怒鳴った。日ごろから都井の動静が気にかかっていたのである。今田巡査はすぐに、電話で津山署宿直の北村警部補に報告した。隣村の東加茂村巡査駐在所の米沢巡査にも連絡した。消防組の集合の手配も頼んだ。また、医者の手配、万一の場合には鉄道電話を借りることと、この異常事態の発生を報せるために町や村の半鐘を乱打することなどを妻に昂奮して命じ、卯一と共に貝尾部落に向かった。
[ 24人目 ] 10軒目は池山末男(当時37歳)宅だった。ここは8人家族だったが、伊勢神宮に修学旅行中だった長男の洋(当時15歳)を除いて他の7人はここの自宅にいた。都井がここを襲撃の対象に加えたのは、池山末男が寺川マツ子(当時35歳/池山勝市の五女、20歳のとき寺川弘と結婚)の兄だったからだった。都井はマツ子と関係があったが、都井が肺結核にかかったと知ると急に心変わりをした。末男は、裏の雨戸を開けておもてへ飛び出した。このとき、すでに、裏に回っていた都井が末男を見つけるなり乱射したが、末男は夢中で竹薮の中に駆けこんで難を免れた。都井は家の中に入りこむと、猟銃で妻の宮(34歳)の心臓をぶち抜いた。
寺川マツ子一家は危険を察知し、子ども4人を連れて夫と3日ほど前に京都に引越した。このとき5番目に殺害された西田とめを一緒に京都に逃げようと誘ったが、とめは「殺されるほど憎まれてはいない」と言ってその誘いを断っている。都井はマツ子一家が逃げたことを知っていた。
[ 25・26・27人目 ] さらに、四男の昭男(5歳)に発砲。昭男は肝臓や腸が飛び出して即死した。母親のツル(72歳)は、左肩を弾が貫通して死亡。父親の勝市(74歳)は、必死でおもてに逃げようとしたためか、都井はめちゃくちゃに発砲。勝市は胸を射抜かれた他、全身に6発の銃弾を浴び、肺を露出して死亡した。次男の彰(当時12歳)と三男の正三(当時9歳)は、都井が見逃したのか、かすり傷ひとつ負わずに助かっている。
[ 28人目 ] 11軒目は集落の高台にある村一番の財産家の寺川倉一(当時61歳)宅だった。ここは3人家族だった。倉一は金にものをいわせて、寺川マツ子、岡部みよなど、何人かの村の女と関係していた。都井が坂を登る途中、胸のナショナルランプが消えたが、坂を登り切ると、「倉一はいるかア」と怒鳴りながら、表門から走り込んだ。妻のはま(56歳)がローソクを手に雨戸を開け、何事が起こったのかと、おもてを見渡しているところだった。「2つ目が来るぞい」はまが倉一と長男の優(当時28歳)に振り向いて叫んだ瞬間、都井の猟銃が火を吹いた。はまはローソクを持った右手に弾を受けたが、痛みを堪えて急いで雨戸を閉め、駆け寄った倉一と2人で必死で都井の侵入を防いだ。都井は閉まっていた雨戸に向かって猟銃を5発乱射し、はまの右腕を射抜き、重傷を負わせた。それを見て、倉一は、雨戸を押さえるのを止め、2階へ駆け上がって窓を開けて「助けてくれえ、助けてくれえ、人殺しじゃ、誰か来てくれえ」と何度も絶叫した。高台のため、村人全員にこの声が届いたという。都井は倉一に向けても発砲したが、弾は1階の軒の屋根瓦を貫いただけだった。倉一はあわてて部屋の中に身を伏せた。都井は倉一を諦めここを離れた。はまは嵯峨野病院に運ばれたが、出血多量で、12時間後に死亡した。
[ 29・30人目 ] これまでは全て貝尾部落での出来事だったが、12軒目は貝尾部落の北西に位置する坂本部落の岡部和夫(51歳)宅だった。都井は約2キロの山腹のけもの道を駆け抜けて、ここにたどり着いている。ここは夫婦2人暮らしだった。妻のみよ(32歳)と都井は何回も関係したが、夫の和夫は、これを阻止しようとあれこれ腐心した。そして、最近では、みよまでが冷たくなっていた。岡部宅は都井の夜這いを警戒していながら、表戸に戸締りをしていなかった。あるいは、寺川倉一のために、みよが錠をはずしておいたのかもしれない。和夫は都井を撃退するために、ごく最近、空気銃を買っている。和夫はこのとき、それを持ち出して応戦しようとした。だが、都井は猟銃で7発撃って、妻もろとも射殺した。
こうして、約1時間半に渡る惨劇は終わった。
被害者は、死亡者30人(即死28人、重傷を負い、のちに死亡した者2人)、重傷者1人、軽傷者2人の計33人であった。

午前3時ごろ、岡部宅をあとにして、樽井部落の武田松治(当時66歳)宅に現れた都井は「今晩は、今晩は」と呼びながら、松治らが寝ている部屋に上がりこんだ。松治は都井の姿を見て強盗だと思ったという。都井は「おじいさん、ふるえなさんな、おじいさん、急ぐんじゃ、紙と鉛筆をもらいたい。警察の自動車がこの下まで、自分を追うて来ておる」と言った。松治は紙を探していると、都井は、その部屋に寝ていた松治の孫に「アッチャン、君とこはここじゃな。おじいさんでは間に合わぬ。鉛筆と雑記帖を出してくれ」と言った。孫が鉛筆と書きかけの雑記帖を出すと、都井は雑記帖の一部を破り取り、「なんぼ俺でも罪(とが)のない人は撃たぬ。心配しなさんな」アッチャンには「勉強してえらくなれよ」と言った。都井はそれから急いで出ていった。
孫は「あれが都井じゃ」と言った。そこで、松治は初めて、岡部みよと密通の噂があった都井という男であることを知った。
都井からアッチャンと呼ばれた篤男(あつお)は都井の「お話」を聞きに集まった子供たちの1人であった。
松治は都井が遺書を書くつもりで紙と鉛筆を要求したのだと察したが、小学5年の篤男にはその意味が解からなかった。
都井の自殺死体が発見されたのは、そこから山に3.5キロ入った仙の城山頂であった。
そばには、身につけていた懐中電灯、鉢巻き、日本刀1振り、匕首2口、自転車用ナショナルランプ、雑嚢が体からはずされ並べられていた。地下足袋も脱いできちんと揃えて置いてあった。
黒詰襟の学生服のボタンをはずし、ブローニング9連発猟銃を手に取ると、シャツの上から心臓部に銃口をあてた。両手で銃身をしっかりと握り、右足を伸ばして親指を引き金にかけた。銃声と同時に、その手から銃が1メートルほど吹っ飛び、都井はのけぞって倒れた。即死だった。
自殺現場には遺書があり、自宅でも2通の遺書が発見されている。死亡推定時刻は午前5時ごろだった。
遺書

 

自殺現場にあった遺書
愈々死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、ニ歳の時からの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事を行った、楽に死ねる様にと思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙が出るばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるして下さい、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから(たとい自分のうらみからとは言いながら)決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくさされば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係のあった寺川ゆり子が貝尾に来たから、又西田良子も来たからである、しかし寺川ゆり子は逃した、又寺川倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言う者はほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。
もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

「愈々」・・・「いよいよ」 / 自殺現場で遺書を書くことをいつ思いついたのだろうか。初めからそのつもりだったが、殺害することばかり考えていたため、うっかりして紙と鉛筆を持って行くのを忘れてしまったとも考えるられるが、この遺書を読むと、「殺すべき人を殺さず、殺さなくてもいい人を殺してしまった」と計画通りにいかなかったことを書いているところ以外は自宅にあった遺書と内容が重複していることから、あとで思いついたと考えるのが自然のようだ。計画通りに「殺すべき人だけを殺した」なら自殺現場で遺書は書かなかったかもしれない。
自宅にあった遺書 その1 (単に 「書置」と上書きしたもの)
自分が此の度死するに望み一筆書き置きます。ああ思えば小学生時代は真細目な児童として先生にも可愛がられた此の僕が現在の如き運命になろうとは、僕自身夢だに思わなかったことである。
卒業当時は若人の誰もが持つ楽しき未来の希望に胸おどらせながら社会に出立つした僕が先ず突きあたった障害は肋膜炎であった。医師は三ヶ月程にて病気全快と言ったが、はかばかしくなく二年程ぶらぶら養生したが、これが為強固なりし僕の意志にも少しゆるみが来たのであった。其の後一年程農事に労働するうち、昭和十年十九歳の春再発ときた。これがそもそも僕の運命に百八拾度の転換を来した原因だった。
此の度の病気は以前のよりはずっと重く肺結核であろう。痰はどんどん出る、血線はまじる、床につきながらとても再起は出来ぬかも知れんと考えた。こうしたことから自棄的気分も手伝いふとした事から西田とめの奴に大きな恥辱を受けたのだった。病気の為心の弱りしところにかような恥辱を受け心にとりかえしのつかぬ痛手を受けたのであった。それは僕も悪かった。だから僕はあやまった。両手をついて涙をだして。けれどかやつは僕を憎んだ。事々に僕につらくあたった。僕のあらゆる事について事実の無い事まで造りだしてののしった。
僕はそれが為世間の笑われ者になった。僕の信用と言うかはた徳と言うかとにかく人に敬せられていた点はことごとく消滅した。顔をよごされてしまった。僕はそれがため此の世に生きて行くべき希望を次第に失う様になった。病気はよくなくどちらかと言えば悪くなるくらいで、どうもはかばかしくなく昔から言う通りやはり不治の病ではないかと思う様になり、西田の奴はつめたい目をむけ、かげにて人をあうごとに悪口を言うため、それが耳に入るたびに心を痛め、日夜もんもんとすること一年、其の間絶望し死んでしまおうかと思った事も度々あった。
けれど年老いた祖母の事を思い先祖からの家の事を思う度に強く強くそして正しく生きて行かねばならぬと思いなおして居た。けれど病気は悪くなるばかりとても治らぬ様な気分になり世間の人の肺病者に対する嫌厭白眼視、とくに西田とめと言う女のつらくあたること、僕は遂にこの世に生くべき望み若人の持つすべての希望をすてた。そうして死んでしまおうと決心した時の悲しさは筆舌につくせない。僕は悲しんだ泣いた。幾日も幾日も、そうして悲しみのうちに芽生えて来たのはかやつ[ 西田とめ ]に対する呪いであった。これ程迄にかくまでに、僕を苦しめにくむべき奴にさげすむかの女にどうせ治らぬ此の身なら、いっそ身をすてて思いしらせてやろう。かやつは以前はつらかったのだが、今は何不自由なく活(くら)して居るからおごりたかぶり僕等如き病める弱きものまでにくみさげすむのだろう。にくめべにくめ、よし必ず復讎をしてかやつを此の社会から消してしまおうと思うようになった。その外に僕が死のうと考える様になった原因がある。寺川弘の妻マツ子である。彼の女と僕は以前関係したことがある(かの女は誰にでも関係すると言う様な女で僕が知っているだけでも十指をこす)。それがため病気になる以前は親しくして、僕も親族が少いからお互に助けあって行こうと言っていたが、病気に僕がなってからは心がわりしてつらくあたるばかりだ。はらがたってたまらなかったがじっとこらえた。あれほど深くしていた女でさえ、病気になったと言ったらすぐ心がわりがする。僕は人の心のつめたさをつくづく味わった。けれど之も病気になるが故にこの様なのだろう。病気さえ治ったら、あの女くらい見かえすぐらいになってやると思っていたが、病気は治るどころか悪くなるばかりに思えた。医師の診断も悪い。そうする中に一年たったある日マツ子がやってきた。僕は何時もにらみ合っていずに、少し笑顔で話してもよいがなと言ってやった。するとマツ子の奴は笑顔どころかにらみつけた上鼻笑いをし、さんざん僕の悪口を言った。故に自分もはらをたて、そう言うなら殺してやるぞとおどし気分で言った。ところがかやつは殺せるものなら殺して見ろ、お前等如き肺病患者に殺される者がおらんと言ってかえっていった。此の時の僕の怒り心中にえくりかえるとは此のことだろう。おのれと思って庭先に飛出したが、いかんせん弱っている僕は後が追えない。彼奴は逃げかえってしまった。僕は悲憤の涙にくれてしばし顔があがらなかった。そうして泣いたあげく、それ程迄に人をばかにするなら、ようし必ず殺してやろうと深く決心した。けれどその当時は僕は病床から少しもはなれることが出来ぬ位弱っていたから、きゃつが見くびったのも無理はなかった。一丁も歩けなかった僕だった。けれどもそれ以来とめの奴、マツ子の奴のしうちに深くうらみをいだき、その上病気の悪化なども手伝い全く自暴自棄になってしまった。その後は治ると言う考えをすててしまって養生した。それは養生したのは少しでも丈夫になってきゃつ等に復讎してやるためだった。それからは前とは考えをちがえて丈夫になる様につとめた、そうして神様に祈った、どうか身体を丈夫にして下さいましてきゃつ等を殺して下さい。きゃつらを殺しましたら其の場で命を神様にさしあげますと、全く復讎に生きる僕だった。ずいぶん無理をして起きもしまた歩きもした。ひたすらうらみにもえてどうきの高い心臓をおさえ、病気が出ていたむ胸をおさえて。ところが不思議に治るかんねんをすてたら、今迄の様な心配が無くなったせいか、少しも快方に向わなかったのが次第に良くなっていった。其の時のうれしさ、これなら西田のきゃつ等やマツ子の奴にも復讎出来ると思った。こういう考えが自分の心中にある故にか僕の動作に不審な点があったのか世間一般の人が疑惑の眼を持って見だした。親族の者も同様に時々祖母に注意するらしい。祖母が僕の動作に気をつける。僕はかくしにかくした。けれど一旦疑った世間の目はつめたい。俄に僕を憎み出した。それにつれて僕の感情も変ってとめの奴やマツ子ばかりでなく殺意を感じだしたのは多数の人にであった。しかしその間にも以前小学校時代先生皆の人に可愛がられて幸福に活して居た当時を思い起こしてなつかしい時もあった。そう言う時には小さい感情にとらわれず、人に対するにくしみをすてて真細目なりし以前の様な僕になろうかと考えた事もあった。ああからださえ丈夫であったらこんな心にもならぬにとたんそくしたこともあった。けれど世間の人はぎわくそしてにくみへと次第につのっていった。僕もそれを見またかんじる時、よい方にたちかえると言うような考えを棄却していった。
そうして心をいよいよきめると、殺人に必要(この頃が昭和十二年の始め頃だったのだろう)(此の頃にはからだは大分丈夫になってきていた)な道具を準備した。農工銀行より金を借用し鉄砲を買い猟銃免許を受けて火薬を買った。そうして銃が悪いので又金を個人借用して新品を神戸より買った。そうして刀を買い短刀を求めた。ようやくして大部分の品をととのえた。之までととのえるにも色々と苦心した。人に知られてはいけない、親族や祖母、姉等に知られてはいけない。そうして極力ひ密を守ったが、マツ子の奴はこれを感づき自分が殺されると思ったのか、子供をつれて津山の方に逃げてしまった。こうしたことが原因になったのか、世間の人も色々とうわさする様になったので、自分は評判は高くなって警察署に知られてはすべてが水のあわとなるから、なるべく早く決行すべきだと考えて居たやさき、ふとしたことから祖母のおそれるところとなり、姉は一宮の方に嫁(い)っとるので少しも知らなかったが、祖母が気附いたらしい。親族にはかったのだろう、一同の密告を受け其のすじの手入れをくらい、すべてのものをあげられてしまった。その時の僕の失意落たん実際何とも言えない。火薬は勿論のこと雷管一つも無いように、散弾の類まで全部とられてしまった。僕は泣いた。かほどまで苦心して準備をし今一歩で目的に向えるものをと。
けれども考えようではこの一度手入れを受けた事もよかったのかも知れん。その後は世間の人はどうか知らんが、祖母を始め親族の者は安心したようである。僕はまたすぐ活動をかいしした。加茂駐在所にて説論を受けてかえると、そのあくる朝すぐ北田勇一氏を訪れ、金四円の札にてマーヅ火薬一ヶ、雷管附ケース百ヶをば津山石田鉄砲店より買って来てもらった。銃も大阪に行き買った。刀は桑原加藤歯科より買い、短刀を神戸より買った。之までの準備はごくひみつにひみつを重ねてしたのだからおそらく誰も知るまい。之で愈々西田とめ其の他うらみかさなる奴等に復讎が出来るのだ。こんな愉快なことはない。どうせ命はすててかかるのだ。けれどマツ子の奴一家が逃げたのは実際残念だ。きゃつは僕が一度手入れをくうや家に一旦かえり、家具少々を持って一家全部京都か東京の方面に逃げていってしまった。きゃつらをほかいて死ぬるのは情けないけれどしかたがない。自分としては外に何も思い残すことはないが、くれぐれもマツ子の奴等を残すことは情けない。
けれど考えて見れば小さい人間の感情から一人でも殺人をすると言うことは非常時下の日本国家に対してはすまぬわけだ。また僕の二歳の時に死別した父母様に対しても先祖代々の家をつぶすとは甚だすまぬわけである。此の点めいどとやらへ行ったら深くおわびする考えである。またたった一人の姉さんに何も言わずにこのまま死するのも心残りの様ではあるがさとられてはいけぬから会わずに死のう。つまらぬ弟を持ったとあきらめてもらうよりしかたがない。ああ思えば不幸なる僕の生がいではあった。実際体なりと丈夫にあったらこんなことにもならなかったのに、もしも生まれかわれるものなればこんどは丈夫な丈夫なものに生れてきたい考えだ。ほんとうに病弱なのにはこりごりした。僕の家のこと姉のこと等を考えぬではないけれど、どうせこのまま活していたら肺病で自滅するより外はない。そうなると無念の涙を飲んだまま僕は死なねばならぬ。とめ等の奴は手をたたいてよろこぶべきだろう。そうなったら僕は浮ばれぬ。決して僕のうらみはそうなまやさしいものではないのである。
右が僕のざんげと言うかこうなった動機である。
五月十八日 記之
(早く決行せぬと身体の病気の為弱るばかりである)
僕が此の書物(かきもの)を残すのは自分が精神異常者ではなくて前持って覚悟の死であることを世の人に見てもらいたいためである。不治と思える病気を持っているものであるが近隣の圧迫冷酷に対しまたこの様に女とのいきさつもありして復讎のために死するのである。少しのことならいかにしいたげられてもこう心持ちを悪い方にかえぬけれど長年月の間ぎゃくたいされたこの僕の心はとても持ちかえることは出来ない。まして病気も治らぬのに、どうして真細目になれよう、またなったとてどうなるものか。
寺川マツ子の奴は金を取って関係しておきながらそれと感づき逃げてしまった。あいつらを生かして居いて僕だけ死ぬのは残念だがしかたがない。

「真細目」は「真面目」の誤りと思われる。 / この遺書を読むと、犯行の動機や綿密な計画を立てていたことが分かる。それと共に、自己顕示欲が強い反面、内向的で傷つきやすく、他人の言動や評価といったものに敏感に反応する神経質な面もあったようだ。ひとつ噂が立つと、30分もしないうちに村全体に広がってしまうような社会で、都井は必要以上に過敏に考え込み、さらに、「不治の病」と恐れられていた肺結核に悩まされ、次第に被害妄想・関係妄想が大きくなってしまったようだ。
自宅にあった遺書 その2 (「姉上様」と上書きしたもの)
非常時局下の国民としてあらゆる方面に老若男女を問わずそれぞれの希望をいだき溌溂と活動している中に僕は一人幻滅の悲哀をいだき淋しく此の世を去って行きます。
姉上様何事も少しも御話しせず死んで行く睦雄、何卒御許し下さい。自分も強く正しく生きて行かねばならぬとは考えては居ましたけれども不治と思われる結核を病み大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き遂に生きて行く希望を失ってしまいました。たった一人の姉さんにも生前は世話になるばかりで何一つ恩がえしもせずに死んで行く此の僕をどうか責めないで不幸なるものとして何卒御許し下さい。僕もよほど一人で何事もせずに死のうかと考えましたけれど取るに取れぬ恨みもあり周囲の者のあまりのしうちに遂に殺害を決意しました。病気になってからの僕の心は全く砂漠か敵地にいる様な感じでした。周囲の者は皆鬼の様なやつばかりでつらくあたるばかり病気は悪くなるばかり、僕は世の冷酷に自分の不幸な運命に毎日の様に泣いた。泣き悲しんで絶望の果僕は世の中を呪い病気を呪いそうして近隣の鬼の様な奴も。
僕は遂にかほどまでにつらくあたる近隣の者に身を捨てて少しではあるが財産をかけて復讎をしてやろうと思う様になった。それが発病後一年半もたっていた頃だろうか。それ以後の僕は全く復讎に生きとると言っても差支えない。そうしていろいろと人知れぬ苦心をして今日までに至ったのだ。目的の日が近づいたのだ、僕は復讎を断行します。けれど後に残る姉さんの事を思うとあれが人殺しのきょうだいと世間のつめたい目のむけられることを思うと、考えがにぶる様ですが、しかしここまで来てしまえばしかたがない、どうか姉さん御ゆるしの程を。
僕は自分がこの様な死方をしたら、祖母も長らえて居ますまいから、ふ愍ながら同じ運命につれてゆきます。道徳上からいえば是は大罪でしょう。それで死後は姉さん、先祖や父母様の仏様を祭って下さい。祖母の死体は倉見の祖父のそばに葬ってあげて下さい。僕も父母のそばにゆきたいけれど、なにしろこんなことを行うのですから姉さんの考えなさる様でよろしい。けれども僕は出来れば父母のそばにゆきたい。そうして冥土とやらへいったら父母のへりでくらします。それから少しの田や家はしかるべく処分して下さい。尚簡易保険がニつ、五十銭ずつ毎月はるやつがあるのですが、もらえる様でしたらもらって下さい。おねがいします。
ああ僕も死にたくはないけれど、家のことを思わぬではないけれど、このまま活していたらどうせ結核にやられるべきだろう。そうしたら、近隣の鬼の様な奴等は喜ぼうけれど僕はとてもうかばれぬ。どうしてもかなり丈夫で居る今の間に、恨みをはらすべきです。復讎々々すべきです。では取急ぎ右死するに望み一筆かきおきます。僕がこのような大事を行ったら、姉さんはおどろかれる事でしょう。すみませんがどうかおゆるし下さい。
こう言うことは日本国家の為、地下に居ます父母には甚だすまぬことではあるが、しかたありません。兄さんにもよろしく。
五月十八日 記之
おなじ死んでもこれが戦死、国家のための戦死だったらよいのですけれども、やはり事情はどうでも大罪人と言うことになるでしょう。
(どうか姉さんは病気を一日も早く治して強く強く此の世を生きて下さい、僕は地下にて姉さんの多幸なるべきを常に祈って居ます)

都井は、「姉(ねえ)さん」ではなく「姉(あね)さん」と呼んでいた。姉さんに対しては特別な思いを持っていたようだ。
本人歴

 

1917年(大正6年)3月5日、都井睦雄は岡山県苫田郡加茂村大字倉見に生まれた。
父親の真一郎(当時38歳)は農業を営むかたわら炭焼きを生業としていた。後備役の陸軍上等兵で、かなりの大酒豪だったが、柔和で円満な人物であり、性格や素行にまったく問題はなかった。日露戦争に従軍し、帰還後、見合い結婚した。
母親の昌代(当時22歳)は農家の娘で17歳で都井家に嫁いだ。短気で怒りっぽくきつい性格だが、まずは平均的な農家の主婦だった。
都井家は中流の農家で、父母の夫婦仲は良かった。父方の祖父も肺結核に冒され、62歳で亡くなっていたが、祖母のよね(当時55歳)と3つ違いの姉の美奈子(当時4歳)がいた。
1918年(大正7年)7月、それまで連日漸騰を重ねていた米価が一升50銭7厘を突破したため、全国各地で米騒動が起こった。
よねは「米が値上がりするんは、わしら百姓にとってはありがたいことじゃが、なんや物騒な世の中になったもんじゃけん。わしら百姓は殺されるんとちがうか。怖いのう」と怯えた。
12月1日、睦雄が2歳のとき、父親の真一郎が肺結核で死亡した。39歳だった。父親の死後、今度は母親が寝込んだ。
1919年(大正8年)4月29日、睦雄が3歳のとき、母親の昌代が父親と同じ肺結核で死亡した。24歳だった。
6月3日、天井知らずの米価は、ついに一升59銭に暴騰。このため、加茂村を含む加茂5郷の小学校長たちは、連署してそれぞれの役場へ、10割増棒の陳情書を提出した。
よねにとって、小学校長は聖人君子そのものであったから、この増棒要求は、彼女を米騒動以上に仰天させた。
「校長さまともあろうお方が、なんちゅうことをしんさるんじゃろうのう」
これが、のちになって、睦雄かわいさによる学校軽視に結びついていく。
1920年(大正9年)、息子夫婦が相次いで結核により死亡したことで、よねは2人の孫を連れて同郡同村小中原塔中(たっちゅう)に移転した。そこは1年契約の借家だったが、ここで3年暮らすことになった。
姉弟で遊ぶことが多かったから、睦雄は3つ違いの姉の美奈子に主導権を握られる。当然、女の子の遊びが多かった。
幼い姉弟は、昔ながらの童唄を歌いながら、まりつきやお手玉遊びに興じた。姉はお手玉が上手だった。3つ年下の睦雄はいつも奇跡でも見るように目を輝かせ「姉(あね)しゃんはうまいな、姉しゃんはうまいな」と言っていた。睦雄はおとなしい子供で、姉とも仲が良くあまり喧嘩したことがなかった。
1922年(大正11年)、よねは2人の孫を連れて、自分の里である同郡西加茂村大字行重字貝尾に引っ越した。祖母はこの地に永住するつもりで家を買った。屋敷、田畑合わせて500円は倉見の土地山林を処分して作った。この家は構えだけは大きく立派であった。よねにとっては生まれ故郷であり、知り合いも多く、気兼ねなく暮らせたが、美奈子や睦雄にとっては見知らぬ土地であったため、しばらくは2人っきりで遊ぶ日が続いた。
この家には忌まわしい過去があった。30人殺し事件の被害者の1人である平地トラの姑の寺川チヨ(30人殺し事件当時80歳)の語るところによれば、この家は元はチヨの住宅であったが、ここに居住していたとき(30人殺し事件の63年前)、チヨの先夫の寺川忠次郎が別部落の藤林徳蔵の妻のたえと徳蔵宅で密通し、その現場を徳蔵に見つかったことに対し、忠次郎が腹をたてて一旦、自宅に引き返して日本刀を持って徳蔵宅に乗り込み、たえを殺害して無理心中を図ろうとしたが、たえを斬ることができず、徳蔵を斬りつけた上、切腹自殺した事件があった。この忠次郎が21歳であったことや犯行の荒筋が30人殺し事件と似ていた。何かの因縁かもしれない。
1923年(大正12年)、睦雄は早生まれだから、当然、この年に小学校に上がらなければならなかったが、病弱を理由に1年延期した。
これは睦雄が学校に行きたがらないのに加えて、祖母がかたときも手元から離したがらなかったからで、役場の学事係が何度か説得に足を運んだが、その都度、よねは「あと1年待ってつかあさい」と言い、学事係の担当は根負けして就学延期を認めたという。
9月1日、関東大震災が発生。死者9万1802人、行方不明者4万2257人を出した。直接の影響はなかったが、朝鮮人の暴動に関する流言が全国に広まり、祖母は米騒動のときよりもおびえ、それまでほとんど戸締りもせず就寝していたのに、雨戸や窓に厳重に鍵をかけ、2、3日は着たままで寝た。その上、駐在巡査や郵便配達に、「うちは年寄りと子供でけですけん、気ぃつけてつかあさい」と真顔で頼み、失笑を買った。
睦雄は相変わらず外へは出ず、姉が学校から帰ってくるのを待って2人で遊んだ。
1924年(大正13年)4月、睦雄は西加茂尋常高等小学校に入学した。自宅からは4キロの道をゲタをはいて歩いて通った。就学前は学校に行きたくないといっていたが、いったん入学してみると、他の児童となんら変わるところなく通学した。役場の学事係も、担任教師も、これを見てほっと胸をなでおろした。
そればかりではなく、睦雄はきわめてすぐれた成績を取った。
10点評価で、修身「9」、国語「9」、算術「10」、図画「8」、唱歌「8」、体操「8」、操行「中」という好成績で、クラスで2番であった。
修身・・・今の「道徳」にあたる。操行・・・品行。
担任の伊藤かや子訓導は、<従順にして教師の命をよく守り、級中の模範児童たり。故に学業も上位にして申し分なき><教室内に於いては他の児童の世話をなしよき児童>と評価がいいが、<健康やや悪く、風邪を引き欠席すること多し。努めて出席なすよう訓戒す>としている。
訓導・・・小学校正教員の旧称。
事実、睦雄の1学年の出席日数は184日で、病気欠席が55日、事故欠席が22日、合計77日欠席している。これは、よねのさしがねによるもので、学籍簿には<祖母よねは一人の男孫の事とて、我儘に育てたるものの如し。僅かの風雨にも学校を欠席せしめたるの風あり>と記載されている。
初めのうち教師は、本当に病気と信じていたが、あまりにも度重なるので家庭訪問したところ、発熱して寝ているはずの睦夫が祖母とはしゃぎ回っているのを見て、初めて事情を知ったという。
だから、よねにとって長い夏休みは天国のようなものだった。よねは2学期が始まっても、睦雄を学校に行かせず、思い切って長期欠席させることにした。その理由は「腸が下った」というものだった。睦雄は3学期もほとんど欠席した。
睦雄は家に閉じこもっていたから、顔が蒼白く、小学校の友達から「青」というアダ名をつけられていた。
睦雄が入学してまもない頃、美奈子はひどく恥ずかしい思いをしたことがあった。彼女が下校途中、級友と連れ立って下校する睦雄と出会った。そのとき、睦雄は大声でこんな唄を合唱していた。
 一で いも屋のオッサンと
 二で 肉屋のオバサンが
 三で 酒を飲み酔うて
 四つ 夜中にとび起きて
 五つ いろうやらくじるやら
 六つ むげさく突っ込んで
 七つ 泣くやら笑うやら
 八つ やめたりまたしたり
 九つ 子供に見つけられ
 十で とうとう大評判
美奈子は真っ赤になって叱りつけた。睦雄は姉の前では2度とこの唄を口にすることはなかったという。
1925年(大正14年)、睦雄は2年生になった。修身の成績が「9」から「8」に、算術の成績が「10」から「9」に下がったが、他の科目は変わらず、また欠席も病欠が14日、事故欠が17日、計31日と激減した。このときの評価は<沈着にして学習態度良好なれども、隣人に誘われ私語多し>となっている。
ある日、睦雄はチャンバラごっこをして、左の目の上を突かれて、わずかに血をにじませて泣きながら帰ってきたとき、祖母は仰天してうろたえた。そして相手の子供の家に、血相を変えて怒鳴り込んだ。
「睦雄は都井家の大事なあととりじゃけん。もう少しでめくらになるとこやったやないけ。親がいないからいうて、ばかにしとるんじゃろ。2度とこんなまねしてみい。わしゃただでおかんがの」
普段は控え目なくらいのよねが、このときはまるで狂乱とでもいうような態度に、相手方はびっくりしてしまい、のちのちの語り草となった。
1926年(大正15年・昭和元年)、3年になると、さらに欠席は全部で25日と減った。成績の方は修身と体操が「8」から「9」に変わり、他は2年のときと同じだった。担任の二木文江は「性格素直に体格も良く、別に病弱とも思いませず。学業も良好にて、愛すべき児童であった様に覚えます」と、事件後、警察の照会に答えている。
睦雄は級長に選ばれた。この日、睦雄はわき目もふらず自宅へ向かった。「おばはん、わし級長になったんじゃ」睦雄はそう叫びながら、土間へ駆けこんだ。よねは睦雄が出して見せた任命書を持って飛出し、近所に触れて回った。姉の美奈子もわがことのように喜んだ。
翌日の昼に、よねは赤飯を炊き、近所に配りながらまた、ひとくさり、孫の頭の良さを触れ回った。
7月20日、鬼熊事件が起こった。のちに、30人殺し事件で都井が山中に逃亡したとき、官憲を「第2の鬼熊事件では」と恐れさせた事件である。
鬼熊事件 / 千葉県香取郡の荷馬車曳きを生業とする岩淵熊次郎(35歳)は、情婦である上州屋のおけいが他の男に心を寄せたのを怒り、復縁を迫ったが、断られると薪で撲殺した。さらに、男の家に放火し山の中に逃げ込んだ。そのため、熊次郎は「鬼熊」と呼ばれた。所轄警察署では消防団員の応援を得て山狩りを行ったが、見つからず、鬼熊は機会を見ては山を下り、同情を寄せる村人から飯を食わせてもらい、また山の中に逃げ込む。この間、鬼熊を捕まえようとした警官2人が殺された。日本中の各新聞は鬼熊事件を連日のように報じた。政治家や官僚の腐敗、警察の横暴ぶりに、辟易していた多くの人は、鬼熊の警官殺しに内心拍手を送った。この間、東京日日新聞記者が鬼熊と会見して、その会見記事を発表するなどのことがあって、事件はセンセーショナルになった。1万人余りの延べ人数による山狩りも虚しく、鬼熊は49日間、逃げ通した。だが、鬼熊は、9月30日未明、先祖の墓の前で、ストリキニーネを飲んだ上、カミソリで咽喉を切って自殺した・・・。( ストリキニーネ・・・主に殺鼠剤に使われている毒物。その他としては鳥やもぐらの駆除剤にも用いられる。摂取して1時間以内に、神経質になる、筋肉の硬直、痙攣発作、呼吸困難や呼吸麻痺がみられ、死に至る。)
鬼熊の妻子が自宅の庭先で泣いている写真が新聞に大きく載った。それを見て、睦雄がよねに、これはなんだと訊いた。よねは写真の説明文を読んで聞かせ、「おとうがいんでかわいそうじゃの」と言うと、睦雄は「おかあがいるけん、わしよりええがの」と言った。わきでこのやりとりを美奈子は聞いていたが、その通りだと思ったという。
睦雄はこの年の秋祭りの露店で、『少年倶楽部』の古本を5冊も買った。他の露店には煮スルメや天狗の面、コマなどのおもちゃがあり、美奈子は「睦雄は本ばかり買うて、余(よ)の物は要らんのか」と心配して言ったが、睦雄は「要らん」とキッパリと言った。
睦雄は『少年倶楽部』を隅から隅までボロボロになるまで読んだ。さらに、新刊の『少年倶楽部』を月ぎめで購読し始めるようになった。美奈子も一緒に『少女倶楽部』を購読したが、睦雄はさっさと『少年倶楽部』を読み終え、美奈子がまだ、半分も読んでいない『少女倶楽部』まで読んでしまっていた。『少年倶楽部』は小学5、6年生中心の雑誌であったが、そのまま大人の雑誌に載せてもおかしくないような程度のものもあったという。そういう雑誌を小学3年生の睦雄が興味を持って愛読したということは、やはり知能指数が高かったということだろう。のちに、『キング』や『講談倶楽部』も読むようになった。
この年の12月25日午前1時25分、天皇嘉仁(よしひと/47歳)崩御、裕仁(ひろひと)親王が践祚(せんそ)し、即日、「昭和」と改元されたが、午前1時25分までが「大正」、それ以降が「昭和」と1日の中に2つの元号があったことになり、昭和元年は6日と22時間35分しかなかったことになる。岡山県は30年来の大雪に見舞われ、奥地山間部では28日になっても改元を知らなかった村があった。
ちなみに1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇崩御。午後2時36分、小渕恵三官房長官により新元号を「平成」と発表し、翌8日から施行した。ということで、昭和64年は7日間しかなかったことになる。
1927年(昭和2年)、睦雄は4年生になって、理科が加わり「10」を取った。また、図画が「8」から「9」に上がった。しかし、再び、欠席が増え、病欠40日、事故欠7日、計47日も欠席した。だが、級長の任を解かれることはなかった。
担任の島川貞二訓導は<性格、朴直にして沈着なり。快活なる点はやや欠け、陰性なる点あり。剛毅にして意地もあり、一方的なる点もありたり。健康、頑健なる身体にあらず。頭痛持にて欠席多く、従って体操、運動等は好まず。学業成績、特に知能学科に於て秀で、記憶正確にして常に優等なりき。技能学科はややこれに次ぐ。操行、学校中に於ては真面目にして、服装容儀端正、言語明白、動作正確なれども敏ならず>と評価した。
1928年(昭和3年)、5年生になり、日本歴史と地理が増えたが、どちらも「9」を取った。理科は「10」から「9」に、図画と体操は「9」から「8」に落ちた。
<心性朴直にして飾気なく、極めて赤裸々にして、学習欲旺盛なり。言語明瞭容儀端正なり>と評価されるが、<頭痛持にて学校を欠席するを常とせり>とされた。病欠5日、事故欠56日、計61日欠席した。しかし、相変わらず級長の座にあった。
1929年(昭和4年)、6年生になり、<本年は頭痛も起こらず熱心に学習す>とあり、修身が「10」、図画と唱歌の「8」を除いて他は「9」であった。<一面理屈ぽくあるが、大体に於て良き児童なり>と評価された。美奈子はこの春、高等科(現在の中学に当たる)2年を卒業して、よねと共に、野良仕事をしていた。
1930年(昭和5年)、睦雄は小学校を卒業し、そのまま同校の高等科1年へ進んだ。成績は歴史が「10」で、読方、綴方、書方、地理、理科、図画、手工、農業が「9」、修身、算術、唱歌、体操が「8」だった。病気欠席は1日もなく、事故欠が32日であった。ここでも級長だった。担任の杉崎次郎訓導は<性温和、健康中位、学業優等、操行上、言葉少なく謹厳たる優等生なり>と評価している。
睦雄の1級下に浅井孝子という少女がいた。色白でほっそりしたおとなしい子だった。ある日の放課後、睦雄は下校して自宅に向かう孝子の手に提げた風呂敷包みの結び目に折りたたんだ画用紙を突っ込み、走り去った。
孝子がおそるおそる引っぱり出し、用心深く広げてみると、それは教科書ぐらいの大きさで、画面いっぱいにお下げ髪の少女の顔が描いてあった。鉛筆で丹念に濃淡をつけたもので、写真のように細密な絵だった。当時『少年倶楽部』で評判だった「敵中横断三百里」の椛島勝一(かばしまかついち)の挿絵のタッチを睦雄が苦心してまねて描いたものだった。その顔の横に「孝子さんの肖像」と書いてあり、一番下に小さく「ぼくは孝子さんが好きです」と書かれて、「都井睦雄」の署名があって、認印まで捺してあった。
孝子はその絵を見たとき、自分より睦雄の姉の美奈子に似ていると思ったが嬉しかった。孝子はその絵を自宅に持ち帰り机の引出しにしまったが、6歳の弟が引っぱり出し、いたずらしているのを母親が見つけ、孝子を叱りつけた上、担任の女性教師に届けたのである。
この教師は翌日、都井宅を訪ねて姉の美奈子に事情を話して、その絵を返した。叱責に来たわけではなかったが、今後を温かく見守ってほしい、という意味のことを告げて帰った。美奈子はそのことを睦雄にはひと言も話さなかった。その絵が自分に似ていることが、気になって、つい言いそびれてしまったようだ。
1931年(昭和6年)、高等科2年に進級した睦雄は、さらに成績が上がった。歴史、読方、地理、理科、農業が「10」、修身、綴方、書方、図画、手工が「9」で、算術、唱歌、体操が「8」だった。病欠2日、事故欠15日と欠席も減った。
高等科2年になると、級長の他、それよりも上の「総長」ができて選挙の結果で決められたが、選挙の結果、3人が同点となり、そのうちの1人が睦雄だったが、理由ははっきりしないが、睦雄は総長にはなれず、級長になった。だが、睦雄はこれについてはそれほど気にしていたようには見えなかったという。
3学期に入って間もないある日、睦雄は学校で担任教師に呼ばれ、「成績がいいから、このまま百姓になるのはもったいないな。それに家庭の方も、学資を出せない暮らしでもなさそうだ。どうだ、上の学校にみんか」と言われた。睦雄も当然、進学するつもりでいた。
睦雄は帰宅するなり、よねに岡山の県立一中に進学したいと申し入れた。そのためには睦雄が下宿生活をしなくてはならなくなり、いずれ、美奈子も嫁に行くことになって、よねは自分1人だけ残ることになるので強く反対した。その日の夕食は気まずい雰囲気になり、よねはろくに箸もつけず、早々に布団にもぐりこんでしまった。低くすすり泣く声が漏れてきた。
翌日、睦雄は担任教師に進学しないことを伝えた。
9月18日、満州事変勃発。
1932年(昭和7年)、睦雄は卒業式が終わって間もなく、高熱を出して寝込んだ。よねと美奈子の懸命の看病で、2、3日で熱は引けた。肋膜炎だった。しばらく、自宅静養すれば回復するだろうと嵯峨野病院の医師は診断した。寝ている必要はないが、農作業は厳禁と指示されたので、卒業後の3ヶ月はぶらぶらして過ごした。
肋膜炎・・・おもに結核菌による肋膜の炎症。
睦雄の顔色がよくなってきたので、医師に診てもらうと完治したという診断だった。美奈子はよねの反対を押し切って、睦雄を村の補習学校に入学させた。だが、睦雄は熱心な生徒ではなく出席した日数はほんの数えるくらいしかなかった。
補習学校・・・「農業ニ必須ナル知能ヲ授クルト同時ニ普通教育ノ補習(公民教育)ヲナス」ことを目的に、当時の全国の農村地区に村単位で設置された学校。
19になった姉の美奈子に縁談があったのは、この年の秋だった。よねの「わしゃ、お前の嫁さま姿を見るのを楽しみにしとるんじゃ。それに曾孫の顔も早く見たいでの」の言葉に、それまで乗る気がなかった美奈子が心を動かされ、とにかく見合いだけならということで、一応承諾する気になった。
すると、そこへ自分の部屋に閉じこもっていた睦雄がのっそりと顔を出して、露骨に見合いすることに反対した。
しばらくして、睦雄は美奈子が縁談を断ったと聞かされたとき、蒼白い頬にぱっと赤みがさしたのを美奈子ははっきりと覚えているという。
「うちは嫁になど行かん。ずっとこの家にいるがな」と言うと、睦雄は満面の喜色を浮かべて、うんうんと大きくうなずくのだった。
美奈子は続けた。「せやから睦夫もな、家にばかり閉じこもっとらんと、みんなとようつき合わんといけん。今のまんまじゃ、体に悪い。せっかく治った病気が、またぞろぶり返してしもうがな」
このあと、少しの間、睦夫は補習学校にも真面目に通い、青年会の集まりにも顔を出すようになった。この頃、睦雄は酒を覚えた。
1933年(昭和8年)、秋の終わりに再び、美奈子に縁談が持ち込まれた。相手は同じ郡内の高田村で、農業を営む木島家の長男の一郎だった。この前のことがあるので、美奈子は睦雄になるべく分からないように気を遣ったが、睦雄に知られてしまった。だが、睦夫は前とは違った反応を見せた。
「姉しゃんはきれいじゃけん、もっとええところに嫁に行けると思うがの」
「なに言うとるね。もっとええとこってどんなとこや」美奈子は笑いながら訊いた。
「大学出じゃ。東京とまではいけんとも、岡山の会社に勤める大学出の嫁さんになれるん思うがの」
一時は失業者の代表とされ、「大学は出たけれど」の流行語まで生んだ大学卒の青年が、満州事変によって軍需産業が活況を見せ、経済界全般に波及効果をもたらして、産業界から引く手あまたで、適齢期女性の憧れの的になっていた。
1934年(昭和9年)3月15日、21歳になった美奈子は木島家に嫁入りした。相手の一郎は25歳だった。
姉が嫁いでから、睦雄は再び孤独に陥った。補習学校はもちろん、青年会の集まりにも全く顔を出さなくなった。自宅の屋根裏を改造して一室をこしらえ、この狭い部屋に昼となく夜となく閉じこもって、日を送るようになった。
だが、子供に対しては別だった。睦雄は近所の子供を集めては、よくいろいろな物語を聞かせることを楽しみにし、子供たちもこれを楽しみにし、睦雄によくなついた。睦雄の語るストーリーは『少年倶楽部』『キング』『富士』『講談倶楽部』などで読んだ小説を子供向けに直したもので、睦雄の話術はなかなか巧みだったから、子供たちに人気を博した。
里帰りした美奈子は、祖母のよねから弟のことを聞かされて、いつものように優しくたしなめた。
「畑仕事もせんで毎日ごろごろしていけんやないの。おばやんはもう年なんやから、あんたが仕事をせないけんのよ」
「わし百姓は嫌いじゃ」
「百姓の総領が百姓を嫌ってどうするね」
「嫌いなものは嫌いじゃけえ、せんかたないけんの」
「ほな、なにになる気ね」
「小説家になるんや」睦夫はぼそりと言葉を吐き出した。
美奈子は笑わなかった。
「睦雄、あんたが百姓が嫌いでもかめへん。小説家になりたいいうのも、うちは止め立てせえへん。だけんどなあ、いまごろごろしとるのはいけんよ」
「わしはもともと百姓は好かんじゃった。じゃから上の学校に進んで、勉強して、官吏か会社勤めをしよう思ったんや。そやけどおばやんが岡山の学校へ行くのはいけんて、許してくれんかった。上の学校へ行っとればいまごろはもう卒業や。なんにでもなれたんや。みんなおばやんがいけんのや」
「睦雄、すまんけんのう。わしが悪かったでな。かんにんやで」
祖母はこう言って泣き出す。こうなると、もう話し合いどころではなくなった。睦雄はすべては祖母の責任だと言い、それを免罪符のようにして、毎日を屋根裏の自室に閉じこもって暮らす日が続いた。
小説家になると言ったことが本気なのかは分からないが、『雄図海王丸』という小説をせっせと書いて、友人に読ませていた。
1935年(昭和10年)、この年、青年学校令が施行され、補習学校は青年訓練所と合併して青年学校になった。普通科、本科、研究科の3コースがあり、普通科は男女ともに2年課程で、尋常小学校を卒業して高等小学校にも中学校にも進まない者が入学する。本科は普通科または高等小学校の卒業生が入学し、男子は5年、女子は3年課程である。研究科は本科の卒業生が入学して男女とも1年間勉強することになっている。教科内容は修身、公民、職業(農業)の他、男子には教練、女子には体操と家事裁縫科が加えられていた。
睦雄は本科5年に編入された。村役場から通知を受けると、制服を購入して真面目に開校式に出席したが、義務制でないと知ると、それっきり2度と登校しようとしなかった。青年学校の義務制実施は4年後の1939年(昭和14年)からだった。
青年学校の教師は小学校の教員が兼任していたから、睦雄が小学校時代とは人が変わったように怠惰で不真面目になったことが職員室で話題になった。この中に最近、転任してきた田中恭司教師がおり、何度か都井の自宅に出向き、やっとのことで、睦雄の本心を聞くことが出来た。そこで、睦雄に専検の受験を勧めた。
専検・・・専門学校入学資格検定試験制度で、これにパスすると中学校卒業の資格が与えられ専門学校はじめ中学卒業の資格を要するすべての上級学校、及び職業を受験することができるもので、学歴のない者に対して開かれた登竜門だった。合格率はヒトケタ台だが、全科目を一度に合格する必要がなく、一度、合格した科目は次からの試験では免除される。今の「大検制度」にあたる。
睦雄は田中が師範学校時代に使った参考書を借り、通信講義録をとって勉強を始めた。
ある日、睦雄は津山市内の本屋で参考書を買ったが、そこを出たとき、2年前に津山市内の映画館で知り合ったひとつ年上の山内に会った。睦雄にとっては唯一の友人だった。睦雄は山内に手に抱えている包みのことを訊かれて、専検を受け教師になると答えた。
「あの写真持っとるか」山内は2年前に睦雄に売りつけた裸体写真のことに話題を変えた。「うん、持っとる」と言うと、山内は「それで、オカイチョウはどないした」それほど大きい声ではなかったが、睦雄は通行人を気にして顔を伏せた。「あれから誰ぞとオカイチョウやったんか」恥ずかしがる睦夫を面白そうに見ながら山内は重ねて訊いた。「やっとらん、わしやったことないんじゃ」睦雄は顔をそらしてつぶやくような声で答えた。
2日後、山内は睦雄を伴って大阪の賎娼(せんしょう)街へ行った。山内はここで、使い走りや見張りなどをして生活をしていた。当然、賎娼たちの何人かと性的な関係もあった。
山内は睦雄を木賃宿「加賀八」に連れていき、そこの佳子の部屋へ案内した。佳子は山内に頼まれ、睦雄の筆おろしをする。
このあと、夏から秋にかけて2、3度、大阪を訪ね、山内の紹介で何人かの賎娼と関係した。
だが、10月ごろから微熱が出て疲れを覚えるようになった睦雄は、大阪に行かなくなり、嵯峨野病院へ行って診察してもらった結果、肺尖(はいせん)カタルと診断された。嵯峨野医師は、「しばらくは野良仕事は休んで、うまいものでも食って、適当に散歩でもしていれば治る」と言って1週間分の薬を出した。
1936年(昭和11年)、睦雄は20歳になった。この年に起きた二・二六事件にはさして興味を示さなかったが、5月18日の阿部定事件には大いに関心をそそられ、自宅でとっている新聞だけでは足りずに、自転車で加茂町の新聞店まで買いに行った。
それから間もなくして、睦雄は、部落内の人妻の寺川マツ子(当時33歳)に情交を迫った。これが成功すると、睦夫は自信をつけたのか、これ以降、睦雄は人が変わったように部落内の女性に積極的に攻撃を開始する。
西田秀司の長女の良子(当時20歳)、次女の智恵(当時18歳)、寺川政一の四女のゆり子(当時20歳)、寺川茂吉の四女の由紀子(当時19歳)、丹下卯一の妹のつる代(当時19歳)、岸本勝之の妹のみさ(当時17歳)など、部落内の若い女性は軒なみだった。しかし、いずれも不成功に終わり、この年は暮れる。
だが、小説『雄図海王丸』の執筆は続いた。
1937年(昭和12年)1月4日、睦雄は大阪の山内を訪ねた。このとき、山内は阿部定の自供調書を睦夫に見せた。
阿部定の自供調書・・・阿部定が予審廷(現行制度にはない)で、予審判事に対して供述した調書が外部に持ち出され、印刷されて非公然に売買されたもので、警察がその一部を押収して調書原本と照合したところ、内容が完全に同一であることが判明し、ますます値が上がったといういわくつきの地下出版本。一説によると、研究のために特に調書の筆録を許可された精神分析学者の高橋鉄が研究費欲しさにこれを小部数刷り高値で密売したものが、さらに暴力団筋によって拡大再生産されたのではないかと言われている。
山内はあるやくざ組織の兄貴分から1冊50円で売れと命じられて3冊預けられ、うち2冊をすでに売り、残り1冊も買い手が決まって金を持ってくるのを待っているところだった。
それは教科書ぐらいの大きさで92ページの薄い本だった。『少年倶楽部』や『キング』が50銭、単行本が1円から1円50銭だったから50円は高かった。睦雄はこれを買いたいと言ったが、買い手が決まっていたので、10円を払って書き写すことになった。さすがに全部を書き写すことはできなかったが、絞殺するシーンを書き写すことが出来て睦雄は満足げだったという。
睦雄は部落の若者たちと全く交際をしないから、夜遊びや夜這いの仲間に加わることもなかったが、2月ごろから夜間1人で外出することが多くなった。
それは他人の夜這いの実情を目撃し、部落の男女の性的人脈を確かめ、動かぬ証拠をつかみ、その上で彼独自の性的行動を起こそうと企図していた。
まず、睦雄は隣接する坂本部落の岡部和夫(当時50歳)の妻のみよ(当時31歳)に着手した。和夫は「半聾唖者で馬鹿に近いお人よし」のためかどうか分からないが、妻が何人も変わっている。みよは5人目の妻だった。みよは大柄で豊満な体をしており、20も年上の50男とどうして一緒になったのか誰しも首をかしげたという。
3月の初めのある日、和夫が泊まりがけで岡山に出かけて、みよが1人で留守をしていたことを知った睦雄が、夜になってみよを訪ねて行った。3日前に村一番の資産家の寺川倉一(当時60歳)と関係したことをネタに情交を迫った。みよは倉一から一度、金を借りたが、それと相殺ということで関係し、以来数回、情交を重ねていた。睦雄もみよとの情交をそれから何度も重ねた。
4月1日、睦雄は岡山県農工銀行津山支店で、畜牛購入のためと称して、借入金の申込みをした。個人で直接申込むのは珍しかったが、3反歩の全田地を抵当に、同月26日、400円の現金を受け取った。睦雄はこれを結核の治療費に充てるつもりでいた。
睦雄は嵯峨野病院に通院しながら、嵯峨野医師を信頼していなかった。睦雄は津山市の書店、古本屋で、結核に関する本を片っ端から買い集め、通信販売で購入した通俗療養指導書などにも手を出して次々と読破していった。そして、本に書かれてあることをいろいろ試してみた。屠牛場で分けてもらった牛の血を飲んで腹痛になったり、石油を飲んで猛烈な嘔吐と下痢をしたこともあった。ペニシリンやストマイの発見されない時代だったから結核に対する特効薬はないのだが、当時は新聞、雑誌の広告を使ってさまざまな新薬、特効薬を派手に宣伝していた。睦雄はこれらの薬を次々と買い漁った。だが、その全ての薬に裏切られた。
睦雄は結核療養所に入ることも考えたが、祖母が自宅に1人残されることになるので、中学進学を断念したときと同様に、祖母と姉に説得されて諦めている。睦雄は寺川マツ子、岡部みよとの関係を療養所入りで断ち切られることも考えたのだろうか、割にあっさりと2人の意見に従った。
これ以降の睦雄の生活ぶりは贅沢を極めた。栄養をつけるためにバターやミルク、さらにバナナなどの果物などを、金にまかせてどんどん買い込み、自分で食べるだけでなく、睦雄の話を聞きにくる子供にも惜しげもなく分け与えたという。寺川マツ子と岡部みよに対しては、それ以上の品物を会う度に与えていた。マツ子に反物1反と5円を贈っている。
睦雄は、相変わらず蒼白い顔だったが、身長166センチ、体重60キロあり、がっちりとした体格だったから、見た目は病人のようではなかった。
5月になって、徴兵適齢届の受付けが始まった。睦雄は意外にも初日に届け出を出している。受付け事務の担当者は西加茂村役場書記兵事係の西田昇だったが、睦雄は「西田さん、わしは肺病ですけん。よろしくおたのみ申しますがの」と切り出した。西田は二重の意味で驚いた。ひとつは、道路をへだてて都井宅の西隣に住んでいるが、このときまで睦雄が結核とは知らなかったことで、もうひとつは、結核患者などということは誰しも隠したがることであり、徴兵適齢届に病気を記入する者などいなかったからだ。
同月22日、津山市で行われた徴兵検査の結果、睦雄は丙種合格となった。甲種と乙種は本当の意味で合格だが、丙種は実質的な不合格である。
軍医から結核と宣告された瞬間、睦雄は泣き出しそうな顔で、「軍医どの、ほんまに結核ですけんの? もういっぺんよく診てつかあさい」
軍医は大声で怒鳴りつけた。「きさまは日本帝国陸軍の軍医を疑うのか。きさまが結核であることはまちがいない。しっかり療養せい。そんな体で帝国陸軍の兵隊がつとまるか」
睦雄はその場で涙をポロポロとこぼしながら泣いた。
当時、軍国主義の華やかな時代で、徴兵検査で甲種合格することが、男子の一家の誇りであり、名誉とされた。睦雄の肺結核による不合格は死にも等しかった。住民の結核への恐怖と偏見は根強いものがあった。睦雄が失意の底に落ち込んだのも無理はなかった。
父親や母親が肺結核で死んだことも知り、自分も死期が近いと思い込んでいた。
6月の初めの夕方、都井宅の西隣に住む西田秀司の妻のとめ(当時42歳)が近所から自宅に戻るとき、睦雄が頼みたいことがあるからと声をかけ、自宅にまねき入れた。そして、背後からとめを抱きすくめ、寺川倉一と関係したことをネタに情交を迫ったが、「誰がそんなことを話ししていたんじゃ。言うてみい」と凄まれ、睦雄は言葉に詰まり黙り込んでしまった。
「お前は肺病で徴兵をハネられたんやないか。それやったら1日も早く病気を治して、お国のためにご奉公するのが若いもんのつとめやないか。それもせえへんで、肺病やいうてのらくらしくさっているんくせして、女に手え出すちゅうのんはなんじゃい。それにうちは亭主持ちじゃぞい。人のかみさんに手え出すちゅうのんは、とんでもないこっちゃ。お前がそないに恥知らずとは知らんかった。こら強姦やからな。お前のおばはんに話しして、駐在所にも知らせにゃいけん。このままほっといたらなにやらかすか恐ろしけんの」
睦雄は狼狽し、どうしていいのか分からなぬ風だったが、突然、畳に正座して両手をついた。
「どうか堪忍してつかあさい。堪えてつかあさい。この通りですけん・・・・・・」睦雄は涙を流しながら、畳に額をこすりつけた。
とめは、このことを部落中に言いふらした。
・・・・・・ということだが、とめは初め自分から誘って関係し、その後何回か情交を重ねたが、睦雄の行状が目にあまり評判が悪くなると、いち早く関係を断ち切り、自分も挑まれたがはねつけたと弁明して回ったのが真相とされている。自宅にあった睦雄の「書置」と上書きした遺書に、とめに対する恨みが長々と綴られている。
7月7日、蘆溝橋事件勃発。
7月9日、睦雄は岸本勝之の母親のつきよ(当時49歳)を訪ねた。睦雄は十円札をつきよに突き出して「関係してくれ」と言ったが、つきよは「そんなことをするなら、この金を祖母さんのところへ持っていって話をするぞ」と言ったら帰っていったと、つきよは公言している。
だが、睦雄が放言したところによると、岸本宅は勝之が海軍志願兵として呉海兵隊に入団中であり、家族は未亡人の母親のつきよ、長女のみさ(当時18歳)、次男の吉男(当時13歳)、三男の守(当時10歳)の4人だった。睦夫はみさを狙って夜這いに入ろうとしたところ、母親のつきよに見つかってしまった。そこで、十円札を出して、これでみさとさせてくれと頼んだが拒否され、睦雄はそれならあんたでもいいと、つきよに迫ったが、それも断られ、そこで、「寺川倉一にさせとるくせになんじゃい」と言うと、早く帰ってくれと押し出そうとした。そこで、こんなになっていて納まりがつかんと自分のものを引っ張り出して見せると、つきよは土間にゴザを敷いて睦雄を受け入れ、終わると10円を受け取ったと言うのだ。そして、以来数回、情交を重ねたという。どうやら、こちらが真相らしい。
次に、睦雄が狙ったのは、寺川好ニの母親のトヨ(当時44歳)だった。トヨもやはり未亡人で、寺川倉一と不倫の関係にあり、これをネタにやすやすと関係を結ぶことができた。トヨにも代償として金品を与えている。しかし、トヨも他の女たちと同様に、睦雄に情交を迫られたが、その都度、追い返したと吹聴している。
7月の終わりごろ、睦雄は津山市の石田鉄砲店から2連装の猟銃を75円で購入した。10月27日、津山警察署で乙種猟銃免許を受けた。
このときの免許収得の理由を次のように説明している。
結核患者なので労働は禁じられているが、散歩などの軽い運動は療養上不可欠である。しかし、国家非常のときにぶらぶらするのは単に散歩するのも申し訳なくまた、体裁も悪いので、兎などの小動物をしとめて、自給自足の足しにするとともに毛皮を軍装品の原料として当局に献納したい。徴兵検査に不合格となったが健康を回復したあかつきには直ちに入隊する覚悟でおり、そのとき1人でも多く敵兵を倒せるように射撃の腕を練磨しておきたい。
この時点では、これらの女性に対し、憎悪は芽生えていたかもしれないが、殺意までには至らず、銃を購入した真の理由は、銃を所持することによって西田とめたちに無言の圧力をかけて、彼女たちのいいかげんな言いふらしを止めさせることや、金品でもその気になってくれない若い娘たちを銃で脅して自由にすることであっただろうと推測している。
遺書には銃を購入したことを周りの人に知られてはいけないというようなことが書かれているが、実際は、これ見よがしに銃を携帯して部落内を歩き回り、関係のある女たちやその夫や寺川倉一たちにまで見せていた。
だが、睦雄の狙いは裏目に出てしまった。銃をかついで歩き回る睦雄の姿は、肺病や好色乱倫以上の畏怖を女たちにもたらし、かえって女たちから疎まれる事態となった。
1938年(昭和13年)、ある日、睦雄は同村樽井部落の金貸し業の森岡六郎を訪ねた。お金を借りるためである。このときは、結核療養所に入るための費用にしたいということで、わざわざ療養所のパンフレットまで持参して森岡に見せ、入所費用を説明した。だが、その理由は嘘だった。
2月中旬、森岡は家屋敷などの抵当物件を詳細に調査した上で、600円を貸し付けた。
2月23日、睦雄は神戸市湊東区の高木銃砲店を訪れ、津山市の石田銃砲店で購入した猟銃を差出し、新品を購入したいと申し入れた。主人はこの中古猟銃に80円の値をつけた。睦雄が購入を希望した新品の12番口径5連発ブローニング猟銃は190円だったから追金110円を支払わなければならなかったが、持ち合わせがなく、代金引換小包で送ってもらうことにした。
28日、加茂町郵便局でこれを受け取った。そして、屋根裏の部屋にこもって、弾倉を改造して9連発式に作りかえ、さらに、火薬、薬莢を買い入れて、猛獣用実砲(ダムダム弾)を製造した。この時期から銃を持って部落を徘徊したり、銃を持って夜這いに行くのを止めているが、夜這いそのものは続けていた。
睦雄は改造猟銃をこっそり持ち出し、山に登って射撃の練習をするようになった。部落内にこのときの銃声が聞こえていたが、蘆溝橋事件が勃発してから、中等学校における軍事訓練は一段と強化し、近郊の山野に出かけて演習を行っていたから、銃声が連日ように聞こえても、誰も怪しまなかった。
同じころ、睦雄は岡部みよとの情交現場を夫の和夫に見つかってしまい、あわてて逃げた。和夫は怒って、みよを里に帰らせた。
後日、睦雄は2人の男を伴って岡部宅に詫びに行った。1人は猟銃に関して知り合った炭焼き兼猟師の北田勇一(当時30歳)で、もう1人は北田の知人で農業の高岩三郎(当時45歳)だった。
このとき、睦雄は酒だけでなく、大きな肉の包みを差出した。岡部は大いに喜び、みよに酒盛りの支度をさせ、その肉でスキ焼きをして、和やかに飲み、そして食べた。
睦雄はこの肉を3日がかりで自分が仕止めた兎だと言った。岡部はこれを聞いてさらに喜んで歌まで歌い出した。
だが、実はその肉は、睦雄が飼っていたコロという名の犬の肉だった。睦雄はその肉を食ったふりをしていただけだった。北田は睦雄に見せたいものがあるからと、自宅の裏庭に連れて来られ、その犬の死体を見せられて、これがさっき食べた犬だと言われ、思わずゲエゲエ吐いた。
睦雄はその後も岡部みよに夜這いをかけて和夫の怒りを買っている。
このときから、再び睦雄は以前と同様に大っぴらに銃を持って夜這いに出かけ、相手の女性が拒否したり、隠れたり、あるいは女の夫や母親が邪魔をすると「ぶち殺してやる」と放言するようになった。このときの銃は改造した銃とは別のもので、入手先や日時など不明である。
3月7日、睦雄の祖母のよねが「睦雄に味噌汁に毒を入れられた」と言って騒ぎを起こした。10日ほど前から、よねは「年寄りの健康にいいから」と睦雄に、ある薬を勧められていたが、その薬はひどい臭気がして服用することはなかったが、睦雄は1日置きくらいにその薬を勧めていて、よねはとても飲めたものではないと頑として断っていた。そして、この日、よねは睦雄が味噌汁の中にその薬を入れているところを見てしまったのである。
このことがあって、睦雄は警察の手入れをくらうこととなった。
睦雄の承諾を得て屋根裏部屋を家宅捜索したところ、日本刀1振り、短刀1口、猛獣用実包81発、散弾実包311発、雷管付薬莢111個、雷管126発、火薬50匁(約187.5グラム)、鉛弾50匁、猟銃3挺、さらに身体検査の結果、匕首1口を携帯していた。
睦雄はこれらを猟銃免許も含めて取り上げられてしまった。
このうちの猟銃1挺は135円で売却し、睦雄がその代金を受け取った。
このことがあってから、加茂町駐在所の今田武雄巡査は、6回ほど睦雄の情況調査に赴き、その都度、面接して熱心に説諭し、ぶらぶらして遊んでいてはいけないからと仕事の世話ももちかけていた。
睦雄がこれらの凶器を警察に取り上げられたことで、村人はホッとした。これで、睦雄はおとなしくなるだろうと村人は勝手に思い込んだ。だが、そうはならなかった。睦雄は密かに凶器の入手に励んだ。
3月13日、睦雄は猟銃に関して知り合った北田勇一に、猟銃免許鑑札を落としたから、代わりに買ってきてほしいと頼んだ。北田は津山市の石田銃砲店で、マーヅ火薬1ヶ、雷管付ケース100ヶを睦夫から預かった10円で購入した。計5円70銭だったが、北田はお釣りは手数料としてあげると言われたのでもらっておいた。
4月5日、睦雄は東加茂村大字桑原で歯科の出張診療所を開設している医師の加藤公三(51歳)を訪ねた。歯の治療のためだが、翌日の6日、再び治療してもらい、そのあと、刀剣愛好会の会長でもある加藤公三に、岡山の連隊にいる従兄に軍曹に昇進した祝いとして、軍刀を贈りたいからと嘘を言い、7、80円の値がするところを昇進祝いということで、30円にまけてもらって日本刀を購入した。
4月中旬、睦雄は大阪に出かけた。そして、大阪では一流ホテルに数えられる心斎橋ホテルに泊まった。睦雄は山内に電話し、部屋に呼んだ。そして、匕首を手に入れたいから探してくれと頼んだ。
このとき、睦雄は加茂町に加藤という歯医者がいて、刀剣愛好会の会長やっているが、日本刀はおおかた集めたので、今度は匕首を欲しがっているというようなことを言った。もちろん嘘である。山内はなんとか探してみると答えた。
山内は今日は女はどうすると訊くと、睦雄はいつもの賎娼ではなく、高級淫売が欲しい、そのためにホテルに泊まったと言った。
「高級淫売やったら住吉アパートがええ」と山内は言った。住吉アパートは阿部定が高級淫売をしていたころ、住んでいたところだった。山内は今でもその仲間がいるはずだと言った。
山内はやくざから匕首を5円で手に入れ、9円で睦雄に売るつもりでいたが、睦雄は10円札を出して1円は手数料だと言った。こうして、匕首1口を手に入れた。山内が睦雄に会ったのはこれが最後だった。事件のとき、匕首は2口あったが、もう1口の匕首は入手先や日時は不明。遺書には匕首2口とも神戸で買ったとあり、山内のことは伏せてある。
4月下旬から5月上旬にかけて、睦雄は大阪や神戸に行き、鉄砲店を回って、中古のブローニング12番口径5連発猟銃1挺を160円で購入した他、火薬類などを入手した。さらに、銃は前のように9連発に改造した。ほぼ、この時期に凶器は揃っていた。
5月15日の夕方、寺川マツ子(35歳)は、睦夫からただならぬ危険を察知し、「都井睦雄がえらいことをやるそうだから、このまま村にいては危ないから京都の方へでも一緒に逃げよう」と西田とめ(43歳)を誘ったが、とめは「殺されるほど憎まれているはずがない」と言って、マツ子の誘いを断っている。それから2、3日後、寺川マツ子一家は荷物をまとめ、部落から姿を消した。睦雄はそのことを知っていて、遺書にもそのことを書いている。おそらく、引越ししたその日に睦雄の知るところとなったのだろう。
マツ子の誘いを断った西田とめは5人目の犠牲者となってしまった。
5月18日、睦雄は2通の遺書をしたためた。この日と翌19日に渡って、ノートや本、メモや新聞の切抜きなどを自宅の庭で燃やしている睦雄の姿を近所の人が見ている。
5月20日、睦雄が自転車に乗って、山の中や畑の中の細い道を何回となく村役場の方へ往復しているのを、何人もの村人が目撃している。役場の隣には駐在所と消防組の詰所があるから、部落民が急を知らせる時間を計測したものと推測される。
午後5時ごろ、睦雄は同村字石山部落の変圧器付電柱に登って導線を切断、同様に貝尾の変圧器付電柱に登って切断した。これによって、貝尾部落だけが真っ暗闇になった。
寺川元一は都井宅へ電灯を借りに行った。睦雄はロウソクをかざしてのっそりと出てきた。寺川は電柱に登って調べてみるから、自転車のナショナルランプを貸してくれと頼んだ。睦雄は自転車からランプをはずして寺川に渡した。寺川はランプを持って自宅近くの電柱に登って調べてみたがさっぱり分からず、電柱から下りると、そこに睦雄がいたので、「睦雄、お前頭がええから直してくれぬか」睦雄はゆっくり、頭を横にふり、ものうそうに「わし慣れとらんから出来やせん」元一からランプを返してもらい、のっそりと自宅に戻ったという。
それから約8時間後の翌21日に惨劇が起きる。
この事件にはひとつの奇妙な伝説がつきまとっている。「日華事変の最中なのであまりにも残虐なこの事件は、公表されなかった」というものである。だが、実際は、ラジオを始め、全国のマスコミがこぞって派手に報じており日本中にセンセーションを巻き起こしている。
事件が起きてから、いつごろのことか不明だが、姉の美奈子が肺結核によって死んでいる。

小説家の横溝正史は戦時中の1945年(昭和20年)4月から1948年(昭和23年)8月まで岡山県吉備郡岡田村に疎開していたが、そのときに津山三十人殺し事件のことを聞かされた。それが小説『八つ墓村』の誕生となったようである。小説の中では、過去にこんな事件があったという程度の扱いでしかないのだが・・・。他に岡山を舞台にした作品に『獄門島』や『悪魔の手毬唄』などがある。 
 
フジ特番が触れなかった津山事件の真相! 2015

 

殺された女性の夫が「夜這い」原因説について語った
12月12日夜、フジテレビで放送された『報道スクープSP 激動!世紀の大事件III〜未解決事件の「謎」と目撃者の「新証言」〜』にて「津山30人殺し」が取り上げられ大きな話題となっている。
「津山30人殺し」とは、ご存知の通り、横溝正史『八つ墓村』(角川書店)のモデルにもなった村民30人大量殺人事件のことである。
この事件は、映画・ドラマなどにも幾度となく取り上げられ、最近でも2004年に稲垣吾郎主演でドラマ化されるなど、1938年の事件発生から何十年と時を経た今も人々の心を捉え続けている。しかし、なぜ、この「津山30人殺し」事件は日本人の関心をこれほどまでに集め続けているのか?
1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県西加茂村貝尾集落(現・津山市)にてその事件は起きた。犯人は同集落に住む当時21歳の都井睦雄。睦雄はあらかじめ用意していた散弾銃やブローニング猟銃、そして斧や日本刀などで同居していた祖母を筆頭に村民たちを次々と殺害、その後自らも命を絶つ。犯行は計画的で事前に送電線を切り、集落を孤立させるなど用意周到なものであった。
まるでスプラッター映画のような凄惨な事件の衝撃もさることながら、なによりも、その犯行動機が大衆の興味をそそった。睦雄が残した遺書には、結核のため兵役検査に丙種合格(入営不適格)で差別されていたこと、そして、集落の複数の女性と性的関係があったことが書かれていた。そんなことから、当時の報道や小説では、この集落に「夜這い」の風習があり、集落内で性的関係が入り乱れていた、その痴情のもつれから事件が起きたかのような記述も散見される。
その意味では、今回大きな話題を読んだフジテレビの番組『世紀の大事件』は、食い足りなかったようだ。というのも、番組では肝心の夜這いや集落内の性的関係にまったく触れられなかったからだ。
実際、放送が終了すると、ツイッターには〈夜這いの話が出てこない〉〈夜這い関係言及されてない〉といったつぶやきがかなりの数、見受けられた。
しかし、津山30人殺しは本当に「夜這い」の風習が原因だったのだろうか。一番最近の取材では、少しちがった様相が浮かび上がっている。
それは「週刊朝日」(朝日新聞出版)2008年5月23日号に掲載された「津山30人殺し『八つ墓村』事件70年目の新証言」という記事だ。ここでは事件の遺族が当時のことについて、これまで明かされてこなかった事実を語っている。
長い年月が経ったことで、関係者のほとんどは死亡し、地元住民も未だ事件について口を閉ざす者が多い中、事件で妻と義母、義父を殺されたという90代の男性Aさんが犯行現場の状況を証言した。そこに描かれているのは身の毛もよだつような大量殺戮であった。
「事件のあった時、ワシは数えで22歳。昔は成人式が済んで、21歳で徴兵検査を受けて、嫁をもらったんじゃ」
Aさんは隣町の住民だが、妻の実家は貝尾集落の睦雄の家の道を挟んだ向い側にあった。そして、妻は、睦雄が遺書に自分との性的関係があったと書いた女性だった。
睦雄の遺書には「今日、僕と以前関係のあったB(注=原文では実名)が貝尾に来たからである、又C(同)も来たからである」という記述があったが、このCさんが妻、Bさんも妻の友人だった。
また、睦雄の遺書にはAさんの妻の母親、つまり義母も登場する。遺書にはAさんの義母から「大きな侮辱を受けた」という記述があり、Aさんの義母にも性行為を迫ったが、それを断られて逆恨みしたと見られている。
つまり、「週刊朝日」に告白したAさんは犯行動機に深く関わっていた複数の女性の縁者だったのだ。
睦雄の遺書にあったように、事件前日、Aさんの妻=Cさんは友人のBさんといっしょに実家に里帰りしている。Aさんも誘われたが「たいぎなくて(しんどくて)」行く気にならなかったことで一命を取り留めることになる。
自宅に残っていたAさんは夜中の4時頃、友人から「奥さんの実家も襲われとるみたいや」と知らされ無我夢中で隣集落へ向かった。集落全体が血なまぐさかったという。
「女房の実家に入ると、その日ちょうど、女房の伯母が遊びに来とったようで、いちばん奥にワシの女房と2人並んで寝とった。2人も、両方の胸打たれて大きな穴が開いとったわ(略)反対側の右側に義父が寝とって、オヤジは起き上がったところを撃たれたんじゃろうな。座ったように横になっとった。義母は外へ逃れようと思ったんじゃろう。縁のほうへ這って出たようで、敷居をまたいで倒れて、はらわたがダラーと出ておった」
4人がいた8畳間は血の海でもあった。現場を直接見てしまったAさんのあまりに赤裸々な証言だ。
さらにAさんは多くの殺戮現場を目の当たりにしていく。妻の妹の嫁ぎ先でも惨状が広がっていた。
「妹は腹が大きかったんじゃが、婿と一緒に殺されとった。そしたら、(一緒に撃たれた)虫の息のおばあさんがワシの顔を見てニヤーッと笑ったんじゃ。その顔が今でも忘れられん」
こうして1時間半ほどの時間に、集落の半分に当たる11軒が襲われ30人もの人々が惨殺された。襲われて生き残ったのはわずか3人だ。
そして、証言は犯行の動機について語られる。ここでAさんは動機のひとつと言われている自分の妻との性的関係、集落の「夜這い」について、こんな否定証言をするのである。
「(小説には)睦やんがワシの女房を手込めにしとったことも書いてある。(妻が)嫁に行く前に相当遊んでいるように書いてあるが、女房が遊んだか遊んでないかは、ワシでなきゃわからん。それに村じゅうで関係していたように言われとるが、そんなことできるのか?」
しかし一方で、妻といっしょに里帰りした友人、Bさんについては、睦雄が恋焦がれていたことを認めている。
「(Bさんが)嫁に行く時に、陸やんが茅を積み上げて通せんぼしたそうじゃ。それくらい思いがあったんじゃ。後で聞いたら、『おまえを残しちゃいけんのや!』言うて、床の下に隠れた娘(Bさん)めがけてバンバン撃ち込んだらしい」
だが、Bさんは奇跡的に、銃弾が喉をかすめる軽症ですんだ。Aさんは事件から10日ほどたった頃、Bさんと顔を合わせたが、Bさんから「私が殺したんじゃ、こらえてください、こらえてください」と泣きながら抱きつかれたと語っている。
この記事を読む限り、犯行の原因は「夜這い」というよりはむしろ「失恋」と考えたほうがいいだろう。遺書にしても、睦雄はこれらの女性と実際に性的関係があったわけでなく、一方的な妄想だったとの見方も根強い。
津山事件はそのショッキングな事件ゆえに、さまざまな噂、物語を生みだした。どこまでが事実で、どこからが都市伝説なのか。次はぜひ、もう一歩踏み込んだ津山事件のレポートを期待したい。
寺井ゆり子さんのその後
只友登美男さんの妻で、実家が睦雄の実家の近所だっという良子という女性。
その場所は睦雄が襲った3軒目の場所として知られているようですが、睦雄は一家4人を殺害しました。
その時に良子さんを一緒に実家に帰ろうと誘ったのが寺井ゆり子さんだそうです。
ゆり子さんもまた良子さんと同郷で弟の結婚式のために帰るということでした。
睦雄は村でも評判の美人だったゆり子さんを本命としながらも良子さんと関係をもっており、2人が里帰りしたことが事件の引き金になったのではと思われます。
一方的なストーカー行為だったのかもしれないというのが大体の意見です。
寺井ゆり子さんはその後どうされたのでしょうか
ゆり子さんは睦雄を振って「丹羽卯一」といいう男性と結婚しましたが睦雄は夜這いをかけたため、離婚しました。
しかし、2ヶ月後には「上村岩男」と再婚されたそうです。
そして事件が起きます。
ゆり子さんは途中で転んで「寺井茂吉」という人の家へ逃げ込みます。
この家は睦雄の襲撃計画に入っていませんでしたが、ゆり子さんを匿ったために襲撃の対象となります。
そこでゆり子さんは床下に隠れて難を逃れました。
「登美男」さんの証言によると
睦雄は「おまえを残しちゃいけんのや!」と言って、床下に隠れた「ゆり子」めがけて銃を撃ちこみ喉元に擦過傷を負わせたようです。
撃ちどころが違えば即死だったようですが、ゆり子さんは難を逃れることができました。
その言わば運の良いゆり子さんは2010年の時点では90歳を超えてまだ存命中ということです。
ただゆり子さんの家族も5人殺害され天涯孤独の身で過ごされているわけですから心痛は計り知れないでしょう。
睦雄の一方的なストーカー行為が原因ならなおさらです。
ただ彼女が良子を誘わなかったら事件が起こっていなかったのではないか、さらに言えば怪我を負って逃げ込まなければ犠牲者を増やすことはなかったのではないかという見方もでき、それが事実ならゆり子さんは自責の念にも駆られながら生きていたのかもしれません。
事件直前に結婚した上村岩男との間には子供もできたそうです。
ゆり子が良子を実家に誘った時「登美男」さんは行く気持ちがせずそのまま、残ったと言います。
その登美男さんが結果津山事件の貴重な証言者となったのですから人生何があるかわからないものです。 
 
70年目の新証言

 

高齢で記憶もあやふやでしょうが津山事件のエピソードは何年も知人には同じ内容を歌の歌詞のように語り続けてきたに違いなく、事実5割、本人脚色2割、記憶忘れ3割??=5割、話半分と私は勝手に考えて拝読いたしました。しかしながらまぎれもない津山事件被害現場を見た方の貴重な話しであることには間違いございません。

1日5本程度しか運行されないJR因美線・津山行きの電車に、鳥取県智頭町の智頭駅から乗り込み、岡山との県境を越える。たどり着いたのは、事件が起きた現場の隣町だ。辺りは山深く、駅の周りで目につくのは、たばこ屋ぐらいしかない。
「お疲れ様です。どこから来なさった?」
バスを待っていた初老の女性に声をかけられた。
「あの~、東京から70年前の事件の取材で......」
記者が説明をしかけた途端、女性の顔からは笑みが消え、こう言って黙ってしまった。
「......その話は聞かんほうがええ」
やはり口が重いようだ。無理もない。これほど身の毛がよだつような殺人事件は、例がないのだから。

そんな折、事件を知る男性がいると聞いて、訪ねてみた。隣町に住む90代の男性Aさんである。
「ワシは女房が殺されたんじゃ」
事件を目の当たりにした数少ない遺族だった。
「すごい事件じゃった。その日に新聞の号外が出て、大きい字で『昭和の鬼熊事件』(大正時代の連続殺人事件)と書かれていたんじゃ。それから、取材や小説を書くんじゃって、いろいろ来たけど、ワシは取り合っとらん。今も事件の遺族に会っても、事件の話は絶対にせん。当時の話をする人はおらんよ」
初めはそう話したAさんだが、感慨深げに、「あれからもう、70年もたつのか......」と漏らし、「その時の状況を見とる人は、ほとんどおらん。もうみんな死んでしもうたから、迷惑もかけんじゃろ」と、重い口を開き始めた。

「事件のあった時、ワシは数えで22歳。昔は成人式が済んで、21歳で徴兵検査を受けて、嫁をもらったんじゃ。それで、ワシも22歳の時に(事件のあった)隣の地区から嫁をもろうた。実はその嫁の実家が、睦やん(都井睦雄)の近所じゃったわけじゃ。昔は『婿入り』言うて、嫁をもらった近所にあいさつ回りをするんじゃが、その時に睦やんの家に行ったら、一緒に住んどるおばあさんが、『うちにもあんたと同じ年くらいの若いもんがいるから、こちらへ来なさった時に、遊びに来てくださいな』って言うたわ。そこで紹介されたのが睦やん。モノを言わず頭を下げよった」
Aさんが結婚して3カ月ほどたった5月20日、Aさんの妻の友人で、同郷の女性Bさんが声をかけたという。
「弟が結婚したから、祝いを兼ねて里帰りする言うて、誘ってくれてな。女房は行こうか行くまいかだいぶ悩んどったけど、結局行ったんじゃ」
実に凶行の前日のことである。しかも、Aさん自身も誘われたという。
「里へ行く前に女房は、『飯を炊いて待ってるけえ、夜、(あんたが)仕事から帰ってきて一緒に飯を食べよう』って言っとったんじゃ。でもな、どうにもたいぎくて(しんどくて)、行く気にならんかった」
間一髪で難を逃れたというわけだ。
都井の残した3通の遺書のうち、自殺現場にあった遺書には、〈今日決行を思いついたのは、僕と以前関係のあったB(注=原文では実名)が貝尾に来たからである、又C(同=Aさんの妻)も来たからである〉と、確かに2人が里帰りしたことが直接の犯行動機になったことが記されている。

ところで、当時の報道や事件後の小説などでは、都井は村の複数の女性に夜這いをかけ、性的関係を持ったことが記され、そのことが事件の背景にあったとされているが、Aさんはこう否定する。
「小説にはこういう女はここへ嫁いだとか、ワシの名前も出とる。睦やんがワシの女房を手込めにしとったとも書いてある。(妻が)嫁に行く前に相当遊んでるように書いてあるが、女房が遊んだか遊んでないかは、ワシでなきゃわからん。それに村じゅうで関係していたように言われとるが、そんなことできるか?」
犯行前日の5月20日午後5時頃、都井は用意周到に村の電線を切っている。
「睦やんは器用な男でな、普段から電気が切れたら、直してくれとったそうじゃ。その日も、『電気がこんで~』って、みんなが睦やんを訪ねたくらいじゃ。でも、睦やんはその日、『これはわからんけえ、今日は間に合わん。明日、僕が町の電気屋へ行って直すけえ』って言いよったらしい」
その後、都井は自宅の裏手のお堂で、村の若者ら6、7人とともに宴会に参加していたという。宴会が終了したのは深夜0時頃。
惨劇はその約1時間後に起きた──。都井はまず、黒い詰め襟の学生服に身を包み、軍用ゲートルを巻き地下足袋をはいた。頭に巻いた鉢巻きに小型の懐中電灯を角のように両側に差し、首に自転車用のライトを下げた。凶器となったのは、腰に差した日本刀と匕首(あいくち)。そして、以前から用意しておいた9連発の猟銃を手に持った。実は都井は以前にも銃を所持し、犯行の2カ月前に警察に押収されている。
「駐在所の巡査が『この者は末恐ろしいけん。処分しな』と言ったそうじゃ。でも、署長が、『この者はそれだけの野心はない』と判断したんじゃと。でも、睦やんはその後も神戸で猟銃を買っとった。『狩りに行く』言うて、山の中の大きい木に人間の絵を描いて、毎日、的撃ちしよったらしいわ。集落の者はみんな知っとったんじゃ」

最初の被害者となったのは、都井と2人で暮らしていた祖母だった。日付が変わった5月21日午前1時40分頃、都井は寝ていた祖母の首を斧で打ちはねて、銃で乱射した。
「昔はな、消防団が各集落にあったんじゃ。ワシも消防団員じゃった。その日の夜中の3時頃、警報が鳴ったんじゃ。『どこが火事や?』と思って集まったら、消防団のお偉いさんが、『貝尾で強盗が入った。人が殺されたらしい。犯人がわからんけえ、いま寄っても危険じゃけ、夜が明けてから応援を頼む。今のところは引き揚げて各家に待機しとってくれ』と言われた。ほんで、家に帰ったんじゃが、4時頃に集落へ行ったという友達が来て、『奥さんの実家も襲われとるみたいやで』と知らせてくれたんじゃ。それから無我夢中で集落へ向かい、着いた時は、朝5時頃じゃった」
Aさんが集落へ着いた時、現場にはすでに警察の非常線が張られていた。
「絶対入れませんで」と警官に言われ、「女房が来て殺されとろうかいう時に入れんもクソもあるか。確認だけさせえ」と食い下がったAさんに根負けしたのか、「ほんなら、確認だけしたらすぐ出てくれ。犯人がどこにおるのかわからんのじゃけえ」と警官が道を開けたという。そして、Aさんはたった一人で現場の集落へ足を踏み入れた。
「集落全体が血なまぐさくてな、誰もおらんかったわ」
Aさんの妻の実家は、都井宅と道路を挟んで向かい合っていた。妻の実家に向かう途中、Aさんが高台にある都井の家を見上げると、家の障子4枚が真っ赤に染まっていたという。
「女房の実家に入ると、その日ちょうど、女房の伯母が遊びに来とったようで、いちばん奥にワシの女房と2人並んで寝とった。2人とも、両方の胸撃たれて大きな穴が開いとったわ......これはもう死んどると、覚悟を決めた。反対側の右側に義父が寝とって、オヤジは起き上がったところを撃たれたんじゃろうな。座ったように横になっとった。義母は外へ逃げようと思ったんじゃろう、縁のほうへ這って出たようで、敷居をまたいで倒れて、はらわたがダラーッと出ておった」
都井の遺書にはAさんの義母も実名で登場し、〈奴に大きな侮辱を受けた〉と記されている。都井は肺結核のため事実上、徴兵検査を不合格になった。その頃、Aさんの義母に性行為を迫ったが断られ、その際、病気のことを侮辱され、恨みを抱いていたようだ。
「4人がおった8畳間は、片足も入れる余裕がないほど血の海じゃった。ふと犯人が押し入れに隠れとったら......と、一瞬思ったんじゃ、そしたら髪の毛が一本立ちに逆立った。毛が逆立ついうのは本当じゃな」

次にAさんは、妻の妹が嫁いだ家へと向かった。この家のおばあさんは重傷ながら生き残り、数少ない目撃者となったが、事件の2、3年後に亡くなった。
「妹は腹が大きかったんじゃが、婿といっしょに殺されとった。そしたら、虫の息のおばあさんがワシの顔見てニヤ?ッと笑ったんじゃ。その顔が今でも忘れられん。真っ白い顔で半分逝っとるような顔やった。『親戚をみんな呼んですぐ来るけえ、元気を出しとってそれまで待っとって』ってばあさんに言うて、女房を誘った娘(Bさん)の家をのぞきに行ったんじゃ。ちりちりバラバラに殺されとったなか、その娘は生き残ったんじゃ。後から聞いたら、隣の家に逃げ込んで床の下に入りこんどったんやと」
Bさんは都井がいちばん気にかけていた娘だった。同じ集落の男性と結婚したが、都井が夜這いをかけようと、嫁ぎ先にまで侵入したことが原因で離婚した。しかし、数カ月後に別集落へ嫁いだ。
「(Bさんが)嫁に行く時に、睦やんが茅を積み上げて通せんぼしたそうじゃ。それくらい思いがあったんじゃろう。後で聞いたら、『おまえを残しちゃいけんのや!』言うて、床の下に隠れた娘(Bさん)めがけて、バンバン撃ち込んだらしい」
弾は幸運にも、喉をかすめただけで、Bさんは軽傷だった。都井は悔しかったのか、遺書で〈実際あれを生かしたのは情けない〉と綴っている。
結局、都井は約1時間半の間に、22軒あった貝尾集落のうち11軒、隣の集落1軒の計12軒を襲撃。33人を殺傷した。その後、集落から約3・5キロ離れた山へ登り遺書を書いた後、猟銃で胸を撃って命を絶った。
「山で睦やんが自殺しとることがわかると、みんな村へ帰ってもええいうことになった。それでな、睦やんのおばあさんはどうなっとるんじゃろ思うて、みんなで行ってみたんじゃ。そうしたら、おばあさんの首が転がって、体から1mほど離れとった。その血しぶきで障子がほんに真っ赤じゃった。その脇に、よう研いである血で染まった斧が転がっとった」
都井は幼い頃、両親を肺結核で亡くし、姉とともに祖母に育てられた。その姉は嫁ぎ、都井は祖母の愛情を一身に受けた。過保護だという指摘もあったそうだが、都井がなぜ最も近い肉親をそこまで惨殺できたのか、いまだに謎である。
「事件後に睦やんの姉や警察の署長が香典を持って回ってきたけど、誰も受け取らんかった。事件から10日ほどたった頃、(Bさんと)初めて顔を合わせたんじゃ。そしたら、ワシに抱きついて『私が殺したんじゃ、こらえてください。こらえてください』と、泣きつかれた。『私はこれだけで済んだんじゃ』と、喉の傷を見せよったわ。もう少しずれてたら即死やで。運の強い言うたら、そういうことじゃ」
犯人の都井に対してはもちろんだが、Bさんにも複雑な思いはないのか。
「そういうことはない。人を恨む人は人間のクズじゃ。人は信用せないけん。でもな、ワシも人間じゃ。当時は、犯人がそこにいたら一寸刻みにしたらええ思った。それが人間の心情じゃろう」
町の外れに都井と祖母の墓がある。立派な都井家の墓に紛れ、草むらに人間の頭よりひと回りほど小さい石が二つ、寄り添うように並んでいた。地元住民によると、「せめて墓だけは」という声も上がったそうだが、あまりに残忍な事件だけにそのような形にとどまったという。
都井の墓を目の前にしたAさんは、「70年かけて初めて来ましたわい」と、複雑そうな顔で笑った。 
 
八つ墓村

 

横溝正史の長編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一つ。本作を原作とした映画が3本、テレビドラマが6作品、漫画が5作品、舞台が1作品ある(2014年3月現在)。9度の映像化は横溝作品の中で最多である(次いで『犬神家の一族』が映画3本、ドラマ5本)。1977年の映画化の際、キャッチコピーとしてテレビCMなどで頻繁に流された「祟りじゃ〜っ! 八つ墓の祟りじゃ〜っ!」という登場人物のセリフは流行語にもなった。
『本陣殺人事件』(1946年)、『獄門島』(1947年)、『夜歩く』(1948年)に続く「金田一耕助シリーズ」長編第4作。
小説『八つ墓村』は、1949年3月から1950年3月までの1年間、雑誌『新青年』で連載、同誌休刊を経て、1950年11月から1951年1月まで雑誌『宝石』で『八つ墓村 続編』として連載された。
作者は、戦時下に疎開した両親の出身地である岡山県での風土体験を元に、同県を舞台にしたいくつかの作品を発表している。本作は『獄門島』や『本陣殺人事件』と並び称される「岡山もの」の代表作である。
作者は、農村を舞台にして、そこで起こるいろいろな葛藤を織り込みながらできるだけ多くの殺人が起きる作品を書きたいと思っていたところ、坂口安吾の『不連続殺人事件』を読み、同作がアガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』の複数化であること、そしてこの方法なら一貫した動機で多数の殺人が容易にできることに気がつき、急いで本作の構想を練り始めた。そこで『獄門島』の風物を教示してもらった加藤一(ひとし)氏に作品の舞台に適当な村として伯備線の新見駅の近くの村を教えてもらったところ、そこに鍾乳洞があると聞き、以前に外国作品の『鍾乳洞殺人事件』を読んだことがあることから俄然興味が盛り上がった。作品の書き出しに当たって、衝撃的な過去の事件「村人32人殺し」である昭和13年に岡山県で実際に起こった津山事件(加茂の30人殺し)が初めて脳裏に閃いた。本格探偵小説の骨格は崩したくはなかったが、当時の『新青年』は純粋の探偵雑誌というよりも大衆娯楽雑誌の傾向が強かったことから、スケールの大きな伝奇小説を書いてみようと思い立ち、それには津山事件はかっこうの書き出しになると気がついた。ただし、作品の舞台はわざと津山事件のあった村よりはるか遠くに外しておいた。
物語は、冒頭部分を作者が自述、それ以降を主人公の回想手記の形式で進行する。山村の因習や祟りなどの要素を含んだスタイルは、後世のミステリー作品に多大な影響を与えた。村の名前は実在した近隣の地名、真庭郡八束村(現在の真庭市蒜山)が元である。
物語
前作『夜歩く』の一人語りと同様に、冒頭の過去談を除いては、主人公・寺田辰弥の一人語りの形式をとる。物語は全て彼の口から語られ、彼の体験の順に並ぶ。そのため、金田一による捜査や推理、それに説明は時系列上は遅れて出るところが多い。
あらすじ
戦国時代(永禄9年=1566年)のとある小村に、尼子氏の家臣だった8人の落武者たちが財宝とともに逃げ延びてくる。最初は歓迎していた村人たちだったが、やがて毛利氏による捜索が厳しくなるにつれ災いの種になることを恐れ、また財宝と褒賞に目がくらみ、武者たちを皆殺しにしてしまう。武者大将は死に際に「この村を呪ってやる! 末代までも祟ってやる!」と呪詛の言葉を残す。その後、村では奇妙な出来事が相次ぎ、祟りを恐れた村人たちは野ざらしになっていた武者たちの遺体を手厚く葬るとともに、村の守り神とした。これが「八つ墓明神」となり、いつの頃からか村は「八つ墓村」と呼ばれるようになった。
大正時代、村の旧家「田治見家」の当主・要蔵が発狂し、村人32人を惨殺するという事件が起こる。要蔵は、落武者たちを皆殺しにした際の首謀者・田治見庄左衛門の子孫でもあった。
そして20数年後の昭和24年、またもやこの村で謎の連続殺人事件が発生することとなる。物語は、神戸に住む寺田辰弥の身辺をかぎ回る不審人物の出現から始まる。彼は母1人子1人で、戦争から戻ってくると天涯孤独の身となっていた。そして復員後2年近く過ぎたある日、彼の行方をラジオで捜していた老人と、弁護士の仲介で面会する。ところが、2人きりになったとたん、老人は血を吐いて死ぬ。
登場人物
○ 金田一耕助 / 私立探偵。鬼首村で起きた事件の解決後、弟の死に疑念を抱いた西屋の主人の依頼を受けて八つ墓村にやって来た。
○ 寺田辰弥 / 「私」こと本編の主人公で語り部。事件後、金田一の勧めで事件の手記を著す。後述の大量虐殺事件を起こした田治見要蔵の息子とされ、村人や田治見家の奉公人からは、到着当初から密かな敵意を向けられている。戸籍上は大正12年生まれだが、実際には大正11年生まれで、事件当時数えで27(28)歳。色白だが、乳児の頃に要蔵に加えられた暴行のため、全身に、裸になるのをはばかられるような火傷のあとがあり、人定の決め手の一つとなった。実は要蔵の息子ではなく、母・井川鶴子と秘密の恋人だった小学校教師・亀井陽一との間に生を受けた。母亡き後、義父・寺田虎造と、再婚した義母はよくしてくれたが、彼女の実子である弟妹が生まれたことから距離が出来てしまい、虎造とも意見の衝突があって家を飛び出した。その後神戸の友人のところに転がり込んでいたところで召集され、復員すると義父母らの所在はわからなくなっており、天涯孤独の身となる。田治見家の跡取りとして八つ墓村に呼び戻され、事件に巻き込まれる。事件周辺の女性に好意を寄せられる。
○ 磯川常次郎 / 岡山県警警部。
○ 田治見家 / 落武者たちの殺害の首謀者である田治見庄左衛門の子孫。東屋と呼ばれる村の分限者(金持ち、資産家)。資産は昭和24年(1949年)当時の金額で1億2000万円以上にも達する。
○ 田治見小梅・田治見小竹 / 一卵性の双子の老姉妹。要蔵の伯母(辰弥の大伯母)で、両親を失った要蔵を育てた。田治見家の財産を狙う親族に嫌悪感を持ち、子供がなく頼りない久弥・春代らへの失望を隠さず、辰弥が跡取りとして家督を継ぐことを心より願っている。
○ 田治見要蔵 / 田治見家先代。自分の思い通りにならないものを権威で捻じ伏せる、身勝手で独善的な暴君の如き性格。26年前、妻子がありながら井川鶴子に欲情して付きまとい、彼女からの反発と拒絶に逆恨みし、その報復として彼女を拉致して暴行し、無理矢理に妾にした。辰弥の父親が亀井陽一という噂を聞いて、鶴子と辰弥に暴行。鶴子母子が家出して10日余り後、発狂して猟銃と日本刀で武装して32人を虐殺し、山の中へと姿を消した。後に鍾乳洞の「猿の腰掛」で虐殺された落武者の甲冑を纏い、屍蝋化した遺体で発見された。前途を悲観した小梅・小竹姉妹に毒殺されたとされる。
○ 田治見おきさ / 要蔵の妻。26年前の事件で、要蔵に斬り殺された。
○ 田治見久弥 / 要蔵の長男で、田治見家当代。事件当時数えで41歳。肺病(肺結核が肺壊疽まで進行しているとされる)を患っており自分の寿命が短いことを悟り、辰弥に田治見家の跡取りとなることを心より願い、病床の中で辰弥を探し出し家を託す。辰弥が父・要蔵の血を引いていないということを承知の上で彼を跡継ぎに選んだ。辰弥を引見中に毒殺されたことが、村人の彼に対する疑いを深めることになる。
○ 田治見春代 / 要蔵の長女。35、6歳の、少し髪の縮れた色の小白い女性。1度は嫁いだが、心臓が弱く子供が産めない体となったため離縁され、実家に戻って小梅と小竹の身の回りの世話をしている。辰弥の気持ちを察しており、辰弥に出生の秘密をしばらく隠していた。辰弥が腹違いの実弟ではないことを知っており、初対面から異性として密かに好意を寄せ、辰弥に近づく女性にあからさまな嫉妬を示したりしている。鍾乳洞で刺殺された際、犯人の左の小指を噛み切り、それが原因で死に至らしめた。愛する辰弥に最期を看取られた。
○ 久野恒実 / 村の診療所の医者で、田治見家の親戚筋。しかし医師としての腕は心もとなく(久弥に処方した薬は「いまどき、どこの田舎医者でもこんな調合はしない」と評された)、診療所の薬品管理も杜撰である。子だくさん。腕が確かで丁寧な診療をする疎開医師の新居医師に患者を奪われつつある。趣味は推理小説を読むこと。疑われずに新居医師を殺害する方法を妄想し、日記に書き付けていたことが犯人に利用され、後に失踪、毒殺された。
○ 里村慎太郎 / 要蔵の甥。母の実家を継ぐべく里村姓を名乗った要蔵の弟・修二の息子。典子の兄。元軍人(階級は少佐)。太り肉(じし)の色の白い大男で、頭を丸刈りにして無精髭がもじゃもじゃしており、かなり爺むさい感じがある。戦後は没落し、村に戻って失意の生活を送っている。美也子とは戦中からつきあいがあり、ひそかに好意を寄せていた。戦況が不利なことを悟り、美也子に資産を宝石等に代えるよう助言したりしていた。殺人現場で美也子を見かけ、苦悩する。事件解決後、最終的に辰弥から田治見家の家督を譲られた。また、女性に対して懐疑的になったことで生涯結婚はしないと決め、妹夫婦の2人目の男児を跡継ぎにすることにした。
○ 里村典子 / 慎太郎の妹。26年前の事件のさなかに8か月で生まれた。実年齢よりかなり幼く見え、精神的にも幼い印象。天真爛漫な性格。額の広い頰のこけた女で、不美人の印象があったが、辰弥に一途な好意を寄せ、傍目にもどんどん美しくなっていく。鍾乳洞で辰弥と結ばれ、彼の子を宿す。
○ お島 / 田治見家に仕えている女中。
○ 野村荘吉 / 西屋と呼ばれる村の分限者。美也子の亡き夫・達雄の兄。太平洋戦争の3年目に脳溢血で亡くなったとされる弟の死に疑念を抱き、美也子に毒殺されたに違いないと考え復讐に燃えていた。
○ 森美也子 / 荘吉の義妹で、未亡人。30歳をいくらか出ている。肌の白くてきめの細かい美人。面長で古風な顔立ちだが、古臭い感じはなく都会的な女性。姐御肌、もしくはそのように振舞っていると辰弥からは見られており、同じ都会人であり、村での数少ない味方として辰弥から好意を寄せられていた。一方で、春代や典子からは素直でない複雑な性格を看破されている。一連の殺人事件の真犯人で、慎太郎に好意を寄せており、没落した彼が金持ちになれば自分に求婚するであろうと考え、彼に田治見家を相続させるため凶行に手を染めた。春代に噛み切られた小指の傷から感染症に罹り、1週間ほど苦痛にのた打ち回った挙げ句に壮絶な最期を遂げた。
○ 諏訪 / 神戸の弁護士。野村家縁者。色白のでっぷりと太った、いかにも人柄の良さそうな人物。美也子にひそかな好意を寄せていたとされる。
○ 新居修平 / 疎開医者。40代半ばくらい。大阪からの疎開者だが、歯切れの良い江戸弁を話す。確かな技術と円満な人柄で、村人の信頼を得ている。その一方で、患者を奪われたと思い込んでいる久野には恨まれている。
○ 井川丑松 / 鶴子の父で辰弥の祖父。胡麻塩頭を丸坊主にした、渋紙色の顔色をしている。孫の辰弥との面談中に毒殺される。
○ 井川浅枝 / 鶴子の母で辰弥の祖母に当たる。
○ 寺田鶴子 / 辰弥の母。旧姓は「井川(いかわ)」。19歳当時郵便局で事務員をしていたが、自分につきまとっていた田治見要蔵にきっぱりと拒否を示したことで、彼の逆恨みによる報復によって拉致され無理矢理、妾にされた。亀井陽一との噂で要蔵に暴行を加えられ、元からの狂態もあって「いつか殺される」と悟って辰弥と神戸に避難。その後、15歳年上の寺田虎造と結婚。辰弥が7歳の頃死去。要蔵にされた仕打ちのトラウマに終生苦しんでいた。
○ 井川兼吉 / 丑松の甥。鶴子が監禁された後に丑松の養子となった。
○ 亀井陽一 / 小学校の訓導(教諭)で、鶴子の恋人。要蔵による拉致以前から鶴子と結ばれており、拉致後も密かに会っていた。辰弥の実の父親。26年前の事件の時は隣村の和尚の元に碁を打ちに行って無事であった。事件後、遠くの小学校に転勤する。
○ 長英 / 隣村の村境にある真言宗麻呂尾寺の住職で英泉の師匠。久弥に個人的に帰依されていた。80歳を超えた老齢で中風にかかり、伏せっている。八つ墓村の住人ではないが村に檀家が多く、村民の信望も篤い。
○ 英泉 / 長英の弟子で、長英にかわって麻呂尾寺のことを取り仕切っている。50代くらい。度の強い眼鏡をかけている、白髪交じりの厳しい顔の男。戦争中は満州の寺で苦行僧となっていたが、終戦後に引き揚げて麻呂尾寺に入った。辰弥の実の父・亀井陽一と同一人物。辰弥の来村を知り、変装して周辺に性情を聞いて回る等していた。洪禅が毒殺された際、辰弥が田治見家を横領するために凶行を重ねており、出生の真実を知る自分が邪魔で殺害しようとしていると思い込んで騒ぎを起こした。一方で抜け穴から密かに田治見家離れに忍び込み、成長した辰弥の寝姿を見て落涙したこともある。事件解決後に師によって息子と引き合わされ親子の名乗りをあげ和解する。神戸の新居で一緒に暮らして欲しいと辰弥に請われるが、殺人事件の犠牲者の冥福を祈ると固辞した。
○ 洪禅 / 田治見家代々の菩提寺蓮光寺(禅宗)の住職。30代くらいで、痩せて度の強い眼鏡をかけており、書生のような風貌。久弥の葬儀の席上、毒殺された。
○ 妙蓮 / 通称「濃茶の尼」。50歳過ぎで、兎口の唇がまくれあがり大きな黄色い乱杭歯がのぞいている。迷信深く八つ墓明神の祟りを恐れている。手当たり次第他人のものを盗む癖があるため、村人たちからは疎まれている。夫と子供を26年前の事件で殺され、出家する。辰弥に対して激しい敵対心を持つ。
○ 梅幸 / 慶勝院の尼。妙蓮とは対照的なきちんとした尼で、村人の人望もある。田治見家関係者以外で辰弥の本当の父親のことを知る唯一の人物。それを辰弥に告げようとした直前に毒殺される。
○ 片岡吉蔵 / 西屋の博労。年ごろ50歳前後の、顔も体もゴツゴツといかつい男。26年前の事件では新妻を殺された。それゆえに要蔵の身内である辰弥に憎しみを抱き、事件が進むに連れて次第に暴走していく。辰弥を追って鍾乳洞に乱入し、落盤により死亡。
横溝正史「八つ墓村」 評
実写化と原作は違う
まず最初に言いたいのは、「八つ墓村」という作品を映画やドラマでしか見たことが無い人には、これから書く話はあまりピンとこないだろうということ。まず原作を読んでもらいたい。
僕は八つ墓村が映像化されたものを2作品しか知らないのであまり大きなことを言えないんですけど、その2作品ともに原作におけるヒロインである知恵遅れ気味の親戚「典ちゃん」は出てきませんでしたし、なぜか主人公に好意を持つ体の弱い義理の姉も出てきませんでした。
そもそも、「八つ墓村」に限らず、小説の映像化というのは否応無く一定の「リアル」感覚が付されてしまうように思います。
ライトノベルとは、ある「お約束」のようなものの上に成り立った、現実とは若干位相のズレた世界です。この絶妙なズレを映像化する技術が出てきたのは、我々の身体にマンガ・ゲーム的感覚が染み込んだ、ごく最近になってからではないでしょうか。
「デスノート」が40年前に映画化されていたら。「暗殺教室」が40年前に映画化されていたら。その作品はどんな風だったでしょう。恐らく、近年行われた実写化以上に人の「死」というものがクローズアップされ、それはよりホラー・スプラッタ的ないわゆる「怪奇」と名が付くような作品として世に出たのではないでしょうか。それこそが「八つ墓村」のたどった道なのです。
つまり、マンガ・ゲーム的感覚が人々の中に存在しなかった時代に映像化された「八つ墓村」は、当時まだそんな言葉は無いが「ライトノベル的」要素が削り取られ、私たちの世界と地続きの世界の話として描かれてしまった。
そして、そもそも「八つ墓村」ひいては横溝正史は角川による金田一耕助シリーズの映画化によってメジャーになった作品・作家です。この先、「八つ墓村」の作品イメージがラノベ方向に覆る可能性は低いと思われます。
だからこそ「八つ墓村」を映像でしか見たことの無い人は、ぜひ原作を読んでみて欲しいのです。
実はハーレムもの
「八つ墓村」といえば、おどろおどろしい、血塗られたストーリー展開のイメージでしょう。でも、「八つ墓村」って実は一種のハーレムものの特徴を備えているのです。
そもそも「八つ墓村」の物語は、主人公の寺田辰弥の元に美しい女性が現れて、彼がとある田舎の名家の跡取りだと知らされることから始まります。
この美人でバツイチの女性は美也子というのですが、彼女は田舎に似合わぬモダンな女性で、知らない土地、それも暮らしたことのない田舎に赴く主人公は物語の序盤、村で唯一都会的な感性を持つ社交的な美也子に淡い好意を寄せるんですね。そんな主人公に対して美也子も優しく相手をする。この「八つ墓村」をハーレムものと見た場合、この美也子が一人目のヒロインです。
二人目のヒロインは主人公の姉の春代です。この春代という女性は大人になってから突然現れた弟に会った瞬間からなぜか恋をしています。
ハーレムものの特徴に主人公がモテる理由が特に無いというのがありますが、この春代はまさにその典型で、特に理由無くなぜか最初から最後まで主人公のことを愛しています。おまけに体が弱くて病気がち。兄弟の間の恋は許されないという意識から表だって主人公にべたべたしたりはしないんですが、折に触れて顔を赤らめるし、嫉妬で柄にもなく美也子の悪口を言っちゃったりします。まるでマンガのキャラみたいです。
三人目のヒロインは「典ちゃん」こと親戚の典子。この子も主人公が八つ墓村に着いてから出会う女性で、主人公のことを「お兄さま」と呼んで慕います。繰り返しますが「お兄さま」でですよ。この子が物語の後半、主人公と行動を共にする、「八つ墓村」のメインヒロインです。
この典子は出自が特殊で、八つ墓村の連続殺人事件の発端である27年前の多治見要蔵による村人32人殺しの直後に早産で産まれていいます。その影響で年齢は27歳と、主人公の辰弥とほぼ同じなのですが、外見は18、19歳ほどにしか見えず、言動もまるで10代の無垢な少女のようなのです。
この典子も、特に大した理由もなく主人公のことが好きになり、それも天真爛漫な典子は「お兄さまのこと好きよ」などと本人に対して好意を隠そうともしません。
だいたい、実年齢・外見・言動にギャップを持たせてそこに一種のインモラルな魅力を演出するのは、近年のマンガやアニメの常套手段です。いわゆる「ロリババア」キャラなどはその典型と言えるでしょう。「八つ墓村」は1949年にすでにそれをやってのけているのです。
推理小説かと思いきや宝探しもの
八つ墓村といえば連続殺人事件を金田一耕助が解決する推理小説というイメージが強いですが、「鍾乳洞の奥に隠された落ち武者の財宝」が物語の大きな要素のひとつとして存在します。
その鍾乳洞の入り口のひとつは主人公が住む多治見家に隠されており、主人公は夜な夜な鍾乳洞を探検します。物語の途中からは典子も一緒です。
しかも、その鍾乳洞には場所によって名前が付いているんですけど、その名前がまた、何とも中二臭い。
曰く、「竜の顎(あぎと)」「木霊の辻」「鬼火の淵」「狐の穴」
ますますラノベっぽいです。
都合のよいラスト
そして、この物語の最後は、主人公がその鍾乳洞の奥の財宝を手に入れ、かわいい典ちゃんとも結ばれてハッピーエンド!なのです。
ライトノベルは読む側の願望を主人公に投影してして快楽を与える傾向が強いジャンルです
主人公が特に理由もなくモテるハーレムもの。主人公が特に理由もなくめちゃくちゃ能力が高い「俺tueeee!」系。最近はその派生として主人公が異世界に転生して、現実世界のありきたりな知識や技術を駆使してその世界で無双する異世界ものにも人気があるみたいです。
八つ墓村も、そうなのです。典子かわいい付き合いたい。鍾乳洞冒険したい。財宝欲しい。小説を読みながら読者が望むことを、主人公は叶えていきます。
ライトノベルが好きな人は是非是非、横溝正史の八つ墓村を読んでもらいたいです。
時間は三倍くらいかかるかもしれませんが、おもしろいですよ。 
 
八つ墓村 (あらすじ)

 

白黒映像で、大量の殺戮シーン。「たたりじゃ、八つ墓のたたりじゃ〜」(二十六年前の惨劇)
…昭和二十四年、神戸。
ヨツワ石鹸に勤務する若い男性・寺田辰弥のところを、ある日諏訪探偵事務所の者が訪れます。
辰弥の父・虎造は神戸の時に爆災に遭って死にました。母・鶴子が死ぬときに「虎造は実父ではない」と知らされました。
辰弥に探偵事務所の者は、「裸になってくれ。間違いなければ余人にはないものがあるはず」と言い、辰弥は背中を見せます。
そこには肩から肩甲骨にかけて、縦一本の長い傷跡がありました。これは実は辰弥が乳児の頃に実父・要蔵から虐待を受けた傷跡です。
それを見た探偵事務所の人物は、辰弥を諏訪探偵事務所に連れて行きました。
そこには初老の男・井川丑松と若い女性・森美也子がおり、辰弥は意外なことを聞かされます。
実は辰弥は、岡山県と鳥取県の県境に位置する八つ墓村にある、400年もの歴史がある資産家・田治見要蔵の息子だというのです。丑松は鶴子の父で、辰弥にとっては祖父に当たりました。
「逢いたかったぞ」と辰弥に近づいた丑松は、血を吐いて絶命しました。
その場にいた辰弥と森美也子らは丑松殺害の嫌疑をかけられますが、すぐに晴れます。丑松の持病の薬のカプセル錠に毒が紛れており、服用は探偵事務所に来る2時間前だったからです。
美也子と丑松は、辰弥に八つ墓村に帰って来てもらいたくて、探偵事務所に辰弥の行方を探させていました。辰弥は八つ墓村に行くと美也子に約束します。
ところが下宿に戻ると、辰弥宛に住所記載のない手紙が届いていました。
『八つ墓村に帰って来てはならぬ。おまえが帰って来ても、ろくなことは起こらぬぞ。おお、血、血だ。弐拾六年前の大惨事がくりかえされ、八つ墓村が血の海と化すであろう』
手紙の文面が気になりながらも、辰弥は美也子と共にSLで岡山に行きます。
…岡山県、八つ墓村。
田治見家は400年前から代々村の長を務める、村では由緒ある名家です。
25代目当主・田治見要蔵は26年前に亡くなり、今は母屋に長男・久弥がいて26代目の当主を継いでいますが、肺病を患っており寝たきりです。
長男・久弥は自分がそう長くないことを察して、次男の辰弥に当主を継いでもらいたくて探させたのでした。
館にはほかに、
・田治見小竹&小梅…実質的に田治見家を仕切っている2人の大伯母。一卵性双生児で瓜二つ。行かず後家(独身を貫いていること)。
・春代…久弥の妹で、辰弥にとっては腹違いの姉にあたる。一度結婚したが、戻ってきた(離婚)。
・里村慎太郎…要蔵の弟・修二の息子(要蔵の甥)。修二は母方を継ぐために里村の養子に。
・里村典子…慎太郎の妹(要蔵の姪)。
ほかに、村唯一の医者で要蔵の下の弟にあたる九野医師、住職の洪禅和尚に引き合わされました。
一族を仕切っている大伯母・小竹と小梅の言うことが、館では絶対的です。
小竹と小梅は辰弥を快く迎え、辰弥が生まれた場所である離れに住むよう言います。春代が部屋まで案内しました。
離れの庭に、ぼろぎれを着た老女が現れます。老女は「濃茶の尼」と呼ばれています。濃茶の尼は辰弥に「帰れ。18人の死人が出る。わしを殺すのか、この人殺し」と言いました。
その頃、神戸の弁護士に依頼されて(諏訪探偵事務所と同じ)、名探偵の金田一耕助も八つ墓村に乗り込んでいます。金田一は村に一軒しかない宿に宿泊しますが、そこは郵便局も兼ねていました。
翌日、長男・久弥が血を吐いて倒れます。毒殺です。事件を聞いて、金田一は早速田治見家を訪問しました。
現場では等々力警部が久野医師に聞き込みをし、毒は久弥が服用する薬に仕込まれていたと知ります。現場には八つ墓村明神の護符が残されていました。
金田一と辰弥は八つ墓村明神を見たいと言い出しますが、明神といっても数十年前から社がありません。また外部から来た2人は「鍾乳洞に入ってはならない」と美也子に言われます。この地域は石灰岩でできたカルスト台地でした。
八つ墓村明神を案内された金田一と辰弥は、この土地の古い歴史を聞きました。
この村は今から400年ほど前の戦国時代に、毛利元就と戦って敗れた豪族・尼子義久の一族の8人が、この村に落ちのびてきました。村人は8人を匿い、炭焼きなどを教えて仲良く暮らします。
ところが毛利方の詮議が厳しくなり、落武者を匿うと命を取る、殺せば莫大な恩賞を授けるというおふれが回ってきました。困った村人たちは相談し、金にも目がくらみ、8人を騙し打ちにして殺します。
村人たちに殺された落武者たちは「恨んでやる。末代までたたってやる」と言いながら死にました。
その後、村で奇怪な出来事が起きます。裏切りの首謀者・田治見庄左衛門が発狂して村人7人を惨殺し、最後に自分の首を刎ねて死ぬ事件が起きました。
村人たちは「尼子のたたり」と思い、ただ埋めていただけの落武者の遺体を掘り返し、墓を作って崇め奉った…とのことでした。
濃茶の尼について質問した辰弥は「主人と子を一度に亡くして尼になった。少々、気がおかしくなっている」と聞かされます。
久弥の葬儀の日、濃茶の尼がやってきて美也子を呼び、美也子は金を渡して帰しました。初七日のことで濃茶の尼が難癖をつけたので、金を握らせたとのことでした。
夜、辰弥は小竹&小梅が納屋に入るのを見て不思議に思い、あとをつけます。納屋の中には着物がはみ出た行李(こうり 衣装ケース)があり、それを開くと中に階段がありました。
階段をおりると地下へ続いており、鍾乳洞に繋がっています。その奥に装束姿の落武者が飾られてあり、辰弥は驚きました。風の吹く方へ出ると、濃茶の尼の庵(家)の近くへ出ます。
そこで辰弥は、慎太郎が立ち去るのを目撃しました。濃茶の尼の庵を覗きこむと、口から血を出して倒れている尼を発見します。
現場には三日月の形の草刈り鎌が残されていました。誰か見たかと等々力警部に質問された辰弥は、見ていないと答えます。
金田一は辰弥が法的手続きを済ませているか、美也子に確認します。
もらった手紙に書かれていた通り、自分が村へ来たことで殺人が起きたと感じた辰弥は、帰り支度をします。金田一と春代の訪問を受けた辰弥は警告状の話をし、それを見せました。
警告状を見た金田一は「書いた人物は相当知能の高い者で、左手で書いた」と言います。辰弥は奇怪なものを見たと言って金田一と春代を納屋の抜け穴に案内し、落武者のところへ行きました。
落武者が人形ではなくミイラ…死蝋(しろう 腐らずに死体がろう状態になったもの)で、まだ新しいものだと言った金田一は、落武者の三日月マークの兜を見て400年前の落武者のたたりと関係があるのかと言います。
春代は「たぶんこの死体は父・要蔵のものだ」と言った後、この村で二十六年前に起きたできごとを話しました。
二十六年前、春代の父であり25代目の当主・要蔵は、ある日突然、妻であり春代の母を切って外へ飛び出します。兄・慎太郎が13歳、春代が7歳の時です。
頭に2本の懐中電灯を角のように立て、胸に1本の懐中電灯をぶらさげた要蔵は、無差別に通行人を襲ったり村人の結婚式の宴や夕食の席を襲ったりして、32人の村人を殺しました。
要蔵は警察に追われて病に倒れ、それを大伯母たちが匿ったのだろうと、春代は言います。要蔵はそのまま鍾乳洞で病死し、死蝋化したものと思われます。
この事件の少し前、要蔵は辰弥の母・鶴子に懸想(恋い慕う)して拉致すると、土蔵に監禁しました。要蔵は周囲の説得も聞き入れないので、やむなく一族は鶴子を離れに住まわせ、生まれたのが辰弥です。
そしてある日突然、要蔵は赤ん坊の辰弥の背中に火箸を押しつけました。
母・鶴子は身の危険を感じて辰弥を連れて逃げ、鶴子がいないことを知った要蔵が怒り狂って村人を襲ったのでした…。
辰弥は壮絶な過去が村にあったと知り、ショックを受けます。
離れに行った金田一は、部屋の屏風の中に葉書大の写真が入っていることに気づきました。そこには男女の写真があり、裏面には「亀井陽一 二十七歳、井川鶴子 二十歳、大正十一年、正月、写す」と書かれていました。
金田一は辰弥の出生について調べるべく、村を出て岡山市相生町へ行きます。写真を撮影した千波時計店を訪ねた金田一は、亀井宛の手紙を手に入れました。
金田一不在の間にも、村には事件が起きていました。九野医師が行方不明になり、等々力警部は犯人が九野だと思いこみます。
大伯母・小梅が鍾乳洞の落武者の兜で前頭部を打ち、死んでいました。さらに鍾乳洞の中には死後二日経過した九野医師の死体も見つかります。
九野医師にはにぎりめしが差し入れられており、にぎりめしに毒が入っていました。
犯人は目的を達成するまで九野が怪しいと思わせたくて、鍾乳洞に匿っていただろうと目されます。
辰弥が来たことで殺人が起きたことを怖がった村人たちは、辰弥を出せと騒ぎ出しました。
岡山市相生町から戻ってきた金田一は「要蔵は猫いらず入りの弁当で、小竹と小梅に殺されたのだろう」と推理し、濃茶の尼の庵にあった掛け軸を見て、犯人に気づきます。
小竹が土蔵で物置を落とされて死亡し、それを発見した春代も首を絞められて殺されました。
辰弥に新聞記事の切り抜きを貼り付けた文字で「犯人について重大なことを教える。よろい武者の下にこい。人に知らせると八つ墓村の惨劇がひろがるだろう」と書かれた手紙が届きます。
金田一は推理を披歴します。犯人は美也子でした。
最初に届いた警告状は、染色に使うアオバナという草木染めで書かれており、切手が貼付されていないことから下宿へ直接届けられたものと推察されます。美也子は丑松と一緒に神戸に出向いていましたから、下宿へ投函が可能です。
美也子の目的は「田治見家の遺産相続人を減らすこと」で、脅して辰弥に遺産相続を放棄させるのも目的でした。美也子は要蔵の甥・慎太郎とひそかに惹かれあっており(深い仲ではない)、慎太郎に財産を相続させようと考えたのです。
濃茶の尼を殺したのは、九野医師の家から薬を盗むところを目撃され、脅されていたからです。慎太郎が濃茶の尼を殺害日に訪れたのは、濃茶の尼に呼ばれていたからです。慎太郎は濃茶の尼の死体を見て、美也子も狙われると早合点していました。
2人の大伯母は遺産相続決定権を持っているので殺し、春代に殺害現場を見られたので殺しました。山の所有権を慎太郎の手に入れさせ、慎太郎の願いの石灰岩の工場を建てさせたかったのです。
辰弥は、鶴子が要蔵に囲われる前に恋仲だった亀井との子でした。それを知った要蔵が怒り狂って、火箸を辰弥に当てたのだと、金田一は美也子に言いました。
すべてがあかるみになったと知った美也子は、隙を見て毒を呑んで自殺しました。事件は解決します。
慎太郎と妹・典子は遺産相続を放棄して、大阪へ行きました。辰弥も神戸に戻りました。 
 

 

 
鬼熊事件

 

鬼熊事件 1
1926年(大正15年)に千葉県香取郡久賀村(現多古町)で発生した殺人事件。
1926年8月20日、荷馬車引きの岩淵熊次郎が、親しかった小間物屋の女性・けいが他の情夫と交際していたことを知り殺害。その後、けいと情夫の仲を取り持っていた知人の菅松の家を放火、けいと交際していた情夫とけいの働いていた小間物屋の店主も殺害し、駆けつけた警官に重傷を負わせ山中に逃亡した。岩淵は「鬼熊」と呼ばれ、警察官、消防団、青年団など計5万人を動員し山狩りを行った。しかし、過去に岩淵に世話になり事情を知っていた村人たちは、岩淵をかくまったり嘘の情報を流すなど捜査を長引かせた。また、身軽で山中に詳しかった岩淵に隙をつかれ捜査員が怪我を負わされ、さらに9月12日には巡回中の警察官が殺害されている。当時のマスコミが事件を大々的に報道した結果、「鬼熊」の名は全国に広まり、『鬼熊狂恋の歌』という曲が作られるほど人気を博した。
9月30日、岩淵は先祖代々の墓所に逃げ込み、恨みはすべて晴らしたとして、取材に来ていた新聞記者や知人の前で村人の用意した毒入りの最中を食べ、剃刀でのどを切って絶命した。なお、岩淵は死亡の2日前である1926年9月28日の時点ですでに自殺を決意していたらしいが、28日は酒を飲んでるうちに眠ってしまい、翌29日に首吊りや頚動脈を切るなどしたが、元々体を鍛えていたことから死に切れなかったと言う。
事件後、岩淵を匿ったり自殺に立ち会った村人や新聞記者が裁判にかけられるが、自殺幇助となった記者や知人はいずれも執行猶予つきの温情判決が下され、村人たちも無罪とされた。
背景
犯人の岩淵熊次郎(いわぶちくまじろう、1892年 - 1926年9月30日)は久賀村で荷馬車引きとして生計を立て、妻と5人の子供と暮らしていた。岩淵は仲間に酒などを奢ったり、高齢者や非力な村人の仕事を手伝ったりなどしていたため、村人の間では信頼されていた。一方で女癖が悪いことでも有名であり、以前から女性関係でトラブルになっていた。
岩淵がけいと知り合った際も周囲の反対を聞かずに親しくし、けいに好意を持っていた別な男に諦めさせようとしていたが、岩淵の知人がその男を情夫として仲を進展させようと、岩淵を恐喝罪や過去の女性トラブルなどによる被害届けを出し、警察に告訴した。その後、3ヵ月後に執行猶予付きの判決が下り釈放された岩淵がけいに会いに行った際、事態を知ったことで激怒し犯行に及んだ。
前述の通り、岩淵は村人の間では信頼されていたが、逆に殺害されたけいや小間物屋の店主は、色仕掛けで商売を行うなど村人の間ではあまり好かれていなかったため、村人たちは岩淵に同情し食事を与えたり警察に嘘の情報を流したりしていた。また、事件の影響で村に報道関係者などが多数訪れたことから、商店や宿屋などを経営している村人からは感謝されていたという。
事件当時、新聞などのメディアでは、岩淵が自分を裏切った者に対する復讐として事件を起こしたとして同情的な記事を掲載していた。さらに、当時の警察官は一般人などに威張り散らした言動が多く、反感を買うことも多かったことから、警察官を殺傷したことも全国的な人気を得る一因となった。加えて逃亡の末に自殺したことも潔い最期として賞賛されたという。
 
鬼熊事件 2

 

1926年(大正15年)8月18日、千葉県香取郡久賀村(現・多古町)で、荷馬車引き・岩淵熊次郎(39歳)が4人を殺傷して、山中に逃げ込んだ。熊次郎は「鬼熊」と報じられたが、村の人々は彼を捕らえさせまいと匿い続けた。しかし、熊次郎は逃走から40日後の9月30日に自殺した。
岩淵熊次郎
千葉県香取郡久賀村(現・多古町)に、馬車引き・岩淵熊次郎(39歳)という男がいた。実直な性格の働き者で、仲間に気前良く酒をおごることもあり、村内では「熊さん、熊さん」と呼ばれ親しまれていた。
熊次郎が35歳の時、上野国から来て小料理屋「上州屋」をやっていたK子さん(事件当時27歳)という女に惚れ、深い仲になった。(ちなみに当時K子さんには子どもがいたし、熊次郎の方にも妻と5人の子どもがいた)
村の人々は「実直な熊次郎が、あばずれ女に騙されている」と噂し合っており、案の定、K子さんにはSさん(当時25歳)という情夫が出来た。
K子さんに冷たくされても、未練を残す熊次郎は彼女の家を訪れた。しかし、やがて口論となり、逆上した熊次郎は刃物で彼女を脅かし、村の駐在所のM巡査に逮捕された。
1926年(大正15年)8月18日、千葉地裁八日市場裁判所で懲役3ヶ月、執行猶予3年の判決を受け、その日に釈放された。
一晩の狂気
釈放された翌日の8月19日夜9時頃、熊次郎はK子さんの店を訪ねた。詫びるつもりで、しばらくは酒を飲み交わしていたが、タイミング悪くそこへSさんがやってきた。熊次郎はSさんに殴りかかった。Sさんが逃げると、K子にも殴る蹴るの暴行を加え、薪で頭を殴り殺害した。さらにそこへ顔を出した老婆に対しても、敵だと思いこみ、薪で殴り負傷させている。
「上州屋」を出た熊次郎はSさんを追いかけ、彼の家に向かったが不在だった。
続いて同村高須原の農業・Tさん(当時42歳)の家に乱入して、石油を撒いて火をつけた。Tさんは以前にK子さんとのことで仲裁者となってもらった人物である。しかし、一方で彼はK子さんに「女房子持ちの熊次郎なんかやめて、独り者のSにしろ」とおせっかいを焼いていたことを耳にしていたのだった。燃え盛るTさん方にすぐに消防団が駆けつけたが、「一家焼き殺すんだ。消すんじゃねえ」と彼らにも鍬で殴りかかり、負傷させた。Sさん方は全焼。Tさん一家は避難していて無事だった。
今度は以前に自分を逮捕したM巡査への恨みがこみ上げてきた。まっすぐ駐在所に向かうが、巡査は不在だったので、置いてあったサーベルを盗んで、電灯と電話線をぶった斬った。
次の恨みは以前にK子さんとは別の女性をエサに熊次郎から金をとっていた茶屋経営・Iさん(49歳)である。応対してきたところをサーベルで斬りつけ、駐在所の方に助けを求めにいくところにとどめめをさした。
返り血を浴びた熊次郎が我が家に戻ると、通報を受けて張り込みをしていた多古署のY刑事がやって来た。Y刑事は拳銃が不調だったため、下駄で応戦しようとしたが、サーベルで切りつけられ重傷、熊次郎は山中に逃亡した。
熊次郎はこのようにして、一晩で2件の殺人、1件の放火、4件の傷害を犯した。ひとつのきっかけで”キレて”、それまで溜まっていた他の恨みを、まとめて晴らした事件だった。
逃げる鬼熊、匿う人々
9月に入っても熊次郎は逃げ続けていた。新聞は連日、「鬼熊事件」を報じ、小さな村の事件は全国的に知られるようになった。
村人達は普段から農民相手に色仕掛けで儲けをするK子やIに反感を持っていた。威張り散らしていた警官も同様だ。熊次郎が警官を切りつけたと聞いて、心の中で拍手を贈っていた者もいたようだ。こうした理由から村人達は熊次郎に食料を与え続け、警官には嘘の情報を流して、捜査を妨害していたのである。
しかし、警察の包囲網は迫る。青年団や在郷軍人会など1万人を動員して山狩りを行ない、また民間人でも力づくで鬼熊を捕まえてやろうとする人や、「鬼熊説法僧侶団」なる団体までもがこの村に集まってきた。
9月25日、熊次郎は消防団長・山倉長次郎らと会い、久高村消防団小頭・多田幾太郎と兄・清次郎に会わせてもらった。やがてそこに東京日日新聞佐原町通信員・坂本斎一もやって来た。坂本記者はスクープを狙い、多田に30円から50円でネタを知らせてくれと依頼していたのである。彼は自首を勧めたが熊次郎は、次のように語ったという。「すまねえ、すまねえ、堪忍しておくんなせえ。わしは村の衆にも、ここから大声であやまって死にてえだが、怒鳴ったくれえでは2、30人の衆にしか聞こえねえだから記者さまよ、わしのこの気持ちと無念を字に書いて何百万という人に伝えてくだせえ」
28日夜、熊次郎、頸部を切ったが死ねず、首を吊ろうとしたがこれも未遂に終わった。結局、清次郎ががストリキニーネを最中に入れて渡し、熊次郎は30日未明に村内にある先祖代々の墓前でそれを食べ、午前11時20分に絶命した。1ヶ月以上にわたって国内を騒がせた兇悪事件の意外な結末だった。
1927年(昭和2年)2月4日、千葉地裁八日市場支部・矢部桂輪裁判長は自殺幇助は無罪として犯人隠匿罪のみを問い、多田に懲役6ヶ月執行猶予2年、山倉に懲役3ヶ月執行猶予2年、坂本に懲役4ヶ月執行猶予2年をして、熊次郎を匿ったとされる他の被告は無罪とした。
  
村人たちが逃亡を手助けした殺人犯・岩淵熊次郎 3

 

一晩で2人を殺害し、4人を負傷させた上に放火も1件行い、山の中へ逃亡した男がいた。しかし村の住民たちは逮捕に非協力的で、逆にこの男を匿(かくま)い、逃亡を手助けしていた。
岩淵熊次郎という男
大正時代、千葉県の香取郡 久賀村(現・多古 <たこ> 町)に、岩淵熊次郎(いわぶち くまじろう)という男がいた。
少年時代、学校が嫌いだった熊次郎は学校も4年ほどで行かなくなってしまい、手紙も書けないまま成長して12歳の時から、ある大きな農家に雇われて働くこととなった。
その農家に作男(さくおとこ)として15年勤めた後、そこを辞めて今度は荷馬車引きへと仕事を変えた。荷馬車引きとは、現代で言う運送業のようなもので、久賀村の材木を町へと運び、その帰りには町で仕入れた肥料を村まで運ぶという仕事である。
熊次郎は、性格も行動も、ほとんどの村人たちから好感を持たれているような男であり、困っている人を見ると放っておけないような性格だった。高齢者の仕事や病人を抱(かか)えてのいる男の仕事などは積極的に手伝ってやり、いつも弱い者の味方をしてやった。
馬車引き仲間にもよく酒をおごってやったり、同業者で新人が入ると何日のその男の面倒を見てやったりなどの親分肌で、熊次郎は、いつの間にか馬車引き仲間の中では顔役になっていた。
身体は頑丈で力も強く、米俵2表を担(かつ)げるくらいだった。酒も2升飲むなど豪快な男であり、村の人たちは「熊さん、熊さん」と親しみを込めて呼んでいた。
しかし女にだらしないのが欠点であり、妻と5人の子供がありながら、惚(ほ)れた女に贈り物をしたり、身体の関係を持ったりなどと、不倫の方も結構盛んに行っていた。
「おはな」に惚(ほ)れる
34歳となった熊次郎はある日、「吉野屋」という旅館に勤める「おはな(28)」という女性と知り合った。ただ、「おはな」は独身ではない。柳橋信一という夫がいる。
彼女の身の上話を聞いてみると、自分は借金のカタにここに売られてきたのだという。そして旅館の方から、金の前借りもしているらしい。
おはなと知り合った時には同情という感情しかなかった熊次郎だっが、おはなとたびたび合っているうちに本気でおはなに惚れてしまい、おはなの借金を代わりに払ってやることに決めた。
自分の商売道具でもある馬を売り払って50円を作り、「この金で借金を返せ。」と、その金をおはなに与えた。そしておはなを説得して家から出させ、熊次郎の知人である「土屋夫妻」に頼んで、この土屋夫妻の家でおはなを預かってもらうことにした。
しかし熊次郎の頼みを聞いて一旦はおはなを預かった土屋夫妻であったが、それから毎日毎晩、熊次郎がおはなに合いに来る。あまりにも熊次郎がしつこく会いに来るので、土屋夫妻もだんだんと腹が立ってきて、ついには熊次郎とケンカになってしまった。
ケンカ別れした土屋夫妻の家から再びおはなを引き取った熊次郎は、今度は別の知人である「岩井長松」に頼み込んだ。岩井長松は茶屋を経営している男で、熊次郎が頼み込むと何とか承諾してくれて、おはなを引き取ってくれることとなった。
熊次郎は今度は、岩井長松の家を訪問するようになった。しかし岩井長松は前の土屋夫妻とは違い、熊次郎をいつも門前払いにして、全くおはなに合わせてくれない。
そして会えないまま1週間が経った時、おはなは自分から岩井長松の家を出て、夫である柳橋信一の元へと帰って行ってしまった。
借金を払ってやり、面倒をみてやって旅館とも引き離してやったにも関わらず、結局「おはな」は、熊次郎ではなく、夫の方を選んだということである。もちろんそれは当たり前の展開なのかも知れないが、熊次郎にとって、この「おはな」の行動は、大変なショックであった。
そして後に判明したことであるが、おはなを引き取ってくれた土屋夫妻も岩井長松も、おはなの夫である柳橋信一に頼まれて、おはなを夫・柳橋信一の元へ戻すために協力していたのだという。
更に、おはなには旅館に対して、別に借金などはなかったという話も耳に入ってきた。自分がおはなに渡した50円はだまし取られたようなものだった。
借金があると嘘を言い、渡した50円をそのまま持ち逃げした「おはな」、引き取った「おはな」を預かってくれと頼んだにも関わらず、裏では「おはな」を夫の元へと帰そうと画策していた「土屋夫妻」と「岩井長松」。
結局全員に裏切られたわけであり、全てを知った熊次郎は激怒し、全員に深い恨みを持つこととなった。この時の一件で、岩井長松は、後に熊次郎に殺害されることになる。
別の女・おけいに惚れる
おはなのことはショックで相当な恨みが残ったが、気の多い熊次郎はまたもや別の女に惚れた。小料理屋である「上州屋」に勤める「おけい(23)」である。熊次郎は積極的に言い寄り、たちまちのうちに身体の関係まで行って愛人関係になった。
この女といい関係を続けていくためには、やはり贈り物は絶対必要である。しかし贈り物をしようにも自分にはそれほどの金はない。自分の財産である馬は、おはなの時に売ってしまった。
金を得るためにあれこれ考えたあげくに考えついたのが、「おはな」の時に売ってしまったその馬が、まるでまだあるかのような口ぶりで誰かに売買交渉し、代金を先にもらうという詐欺であった。
その詐欺に引っかかった男がいた。熊次郎はありもしない馬を売る約束をし、代金の80円を先に受け取って、この男から金をだまし取った。もちろん、そんなことはすぐにバレるのであるが、熊次郎は受け取った馬の代金80円の半分をすぐに「おけい」に渡してやった。
その他、米を与えたり反物(たんもの)を買ってきてやったりと、熱心におけいに贈り物をした。以前、おはなに裏切られた反動からか、熊次郎はおけいにのめり込み、夢中になっていった。
だがこのおけいは、村ではあまり評判のいい女ではなかった。
「色じかけでお客を引っ張る。」「何人もの男と関係があるんじゃないか?」「熊さんは、あの女にだまされている。」などと、村の人たちはよく噂をしていた。
実際、噂の通り、おけいには「菅沢 寅松(25)」という彼氏がいた。(以下・寅松)
おけいは熊次郎からの贈り物は受け取るし、身体の関係もあったが、心は彼氏である寅松に傾いていた。熊次郎のことは、現代で言う「貢(みつ)ぐ君」のようにしか思っていなかったようだ。
もちろん、熊次郎はおけいに彼氏がいるなどということは、全く知らなかった。
おけいにも裏切られる
大正15年6月25日、熊次郎が一杯飲んで、おけいの家を訪ね、部屋の外から興味本位で中の様子をちょっとうかがってみると、おけいの部屋からあえぎ声が聞こえてくる。妙に思って聞き耳を立て、そっと中を覗くと、おけいは別の男(寅松)と布団の中で抱き合っている最中だった。
その光景を見た瞬間、熊次郎は激怒した。戸を蹴破り、中へと怒鳴り込んだ。
「このアマーっ!」と、おけいと寅松に近寄る。
びっくりした寅松は、布団から飛び起き、走って台所裏から逃げ出した。熊次郎はおけいの髪を掴(つか)んで引きずり回し、怒りにまかせて殴って殴りまくった。
おはなに続いておけいまでもが自分を裏切ったことに対してどうしようもない怒りが沸いてきた。
殴られながらも、おけいは必死に逃げ出し、村の駐在所へと駆け込んだ。警察へ通報されたわけだが、この時は逮捕まではされなかった。熊次郎は駐在所の向後巡査から厳重注意を受けた。
これ以降、熊次郎は、「寅松を殺してやる。」と、村の人たちに公然と言うようになった。
寅松の父親が心配して向後巡査に相談を持ちかけ、熊次郎と寅松の仲裁に入ったが、熊次郎の怒りはおさまらない。また、寅松の父親と向後巡査は、おけいに対しても、熊次郎と別れるように助言していた。別れるように勧めただけではなく、
「熊次郎には妻も子供もいる。熊次郎はやめて、ワシの息子の寅松と一緒になってくれんか。」と、寅松を選ぶようにも助言している。
寅松の父親と向後巡査のこれらの言動は、どういう経緯か分からないが、後に熊次郎の耳に入り、熊次郎はこの2人に対しても激しい憎しみを感じるようになっていった。
惚れた女2人は両方とも自分を裏切った。そしてそれぞれの女の周りにいる人間たちも自分の邪魔をする。熊次郎は怒りがどんどんと溜まっていった。
熊次郎、逮捕される
7月7日、午前10時、畑仕事をしていたおけいの前に突然熊次郎が現れた。おけいを強引に上州屋まで引っ張っていった後、ほとんど監禁状態にして、16時ごろまで寅松との関係を激しく問い正した。
しかし、おけいはすでに熊次郎に愛情を感じなくなっており、その冷(さ)めた態度に頭に来た熊次郎は、突然包丁を持ち出し「殺してやる!」とおけいにつきつけた。
それを見ていたおけいの祖父は、びっくりして駐在所に助けを求めに走った。おけいが逃げまわっている間に何とか向後巡査が駆けつけ、熊次郎は脅迫罪で逮捕された。熊次郎は多古警察署へと連行された。
これ以降、3か月ほど警察署に拘留(こうりゅう)されることとなった。これまでの一連の脅迫、暴行、それに馬の代金をだまし取った詐欺などで、裁判では懲役3か月を言い渡された。
ただし、執行猶予3年がついていたので、懲役に行かされることはなく、判決後はすぐに釈放された。
怒りが爆発・おけいを殺害
大正15年(1926年)8月16日、熊次郎は、自分が以前勤めていた農家の主人の家を訪ねた。自分が警察署に拘留されている間、この農家の主人が釈放のためにあれこれと手をまわしてくれていたという話を人から聞いたからである。この人のおかげで3か月程度で済んだと言える。
熊次郎は、釈放されるとすぐに、この農家の主人にお礼を言おうと思って、家を訪問した。農家の主人も喜んで熊次郎を家に招き入れ、釈放祝いとして、一緒に祝い酒を飲んだ。
つかの間の楽しいひとときを過ごした後、熊次郎はこの家をあとにし、今度はおけいの家へと向かった。
「おけいにひどいことをしてしまった。謝りたい。」
警察に拘留されている間にすっかり冷静になった熊次郎は、そう考えながらおけいの家に向かった。
熊次郎の突然の訪問に、最初、おけいはびっくりして、あの時の恐怖が頭をよぎったが、熊次郎は意外なほどに穏やかでにこやかだった。何より、何度も頭を下げるその態度におけいもほっと一安心した。
久しぶりに家に上げて、酒を出してもてなした。熊次郎も大分酒がまわってきたようだ。穏やかな雰囲気の中、おけいと2人きりで楽しく飲んでいたのだが、そこへ突然、あの、憎い「おけいの彼氏である寅松」が、おけいを訪ねて家の中へと入ってきた。
熊次郎とばったり出会ってしまった。最悪のタイミングだった。
おけいと寅松に恐怖と緊張が走る。熊次郎が、かつて殺してやると公言していた寅松が、今、自分の目の前にいる。
しかし熊次郎はあくまで冷静だった。寅松に対し、一緒に飲もうと誘った。寅松の方にしても、断ると熊次郎の怒りを買うことになるかも知れないと思い、一緒に飲むことにした。
しかし3人で飲んでいたのもわずかな時間だった。おけいと寅松の会話から、いまだに2人の関係が続いていることがはっきり分かった。自分が拘留されている間に、ますます深い仲になったようだ。
更に寅松は、今日はおけいの部屋に泊まって夜を2人で過ごすつもりだったことも察することが出来た。
どの会話がカンに触ったのかは分からないが、ある瞬間、突然熊次郎がキレた。
「このアマーっ!!」
いきなり怒りが頂点に達した。これまで我慢していたものが一気に吹き飛んだようだった。普通に飲んでいたと思っていた熊次郎が突然激怒したのだ。おけいも寅松もびっくりした。
あっと思う間もなく、熊次郎はおけいに襲いかかり、髪をワシ掴(づか)みにすると部屋の外へと引きずり出した。土間にあった薪(まき = 火を燃やす時に燃料にするための木材)を掴(つか)むと、それを思いっ切りおけいの頭に叩きつけた。
おけいの悲鳴が上がる。怒りが爆発した熊次郎は一発では止まらない。おけいの頭を全力でメッタ打ちにした。その勢いは、おけいの髪がそがれ、頭蓋骨が見えるほどだったという。
悲鳴を聞いて駆けつけてきた、おけいの祖母がびっくりして、必死に熊次郎の手にしがみついて、止めようとするが、熊次郎は手を振りほどき、逆に祖母の頭にも強烈な一撃を加えた。祖母はそのまま気を失って倒れた。
おけいはここで死亡した。
恐怖した寅松は、家の裏口から逃げ出し、走って50メートルほど先の農家に逃げ込み、助けを求めた。熊次郎もおけいの殺害後、寅松を追ったが見失ってしまった。寅松の家に行ってみたが、家には帰って来ていなかった。
仕方がないので、寅松は後まわしにした。感情が爆発した熊次郎は、この後から、憎い奴らを次々と襲っていく。
岩井長松を殺害
次に熊次郎は、寅松の父親の家へと走った。寅松の父親は、自分とおけいとの仲を裂こうとした人物であり、「熊次郎と別れて、息子の寅松と一緒になってくれ。」などとおけいに言っていた人物である。
家に着いた熊次郎は、この家の周りに石油をまいて、すぐに火をつけた。一気に凄い炎があがった。
突然の火災に村の鐘が打ち鳴らされ、消防団が駆けつけた。「一家焼き殺してやるんじゃ!邪魔するんじゃねえ!」
と、熊次郎は消防団に怒鳴り、逆らった村人たちの背中を鍬(クワ)で殴りつけ、彼らも負傷させた。
間もなく家は全焼した。寅松の父親一家は何とか避難出来、幸いにも火災による死者は出なかった。
殺すことは出来なかったが、寅松の父親への復讐を終えた熊次郎は、今度は駐在所の向後巡査を狙った。この巡査もまた、寅松の父親と共謀して自分とおけいの仲を裂こうとした人物であり、以前、自分を逮捕した人物でもある。
駐在所へ走って来たが、あいにく向後巡査は不在で、駐在所には誰もいなかった。熊次郎は壁にかかっていたサーベルを盗むと、今度は岩井長松が経営している茶屋へと走った。
次のターゲットと決めた岩井長松には、「おはな」の時の恨みがある。おはなを預かってもらった時、おはなの夫と共謀して、おはなを夫の元へと送り返した人物だ。
茶屋について声をかけると、岩井長松が応対に出てきたので、熊次郎はいきなりサーベルで胸を突き刺した。悲鳴を上げて逃げようとするところを追いかけていって更に突き刺して、完全に殺害した。
おけいに次いで、これで2人目の殺人である。
サーベルを持って、いったん自宅に戻って来た熊次郎は妻に対し、これから寅松と向後巡査、おはなを殺しに行くと叫んだ。
そこへいきなり山越巡査が現れた。通報を受けて、熊次郎の自宅を見張っていたのだ。完全に頭に血が昇っている熊次郎は、逮捕しようとした山越巡査に対してもサーベルで切りつけ、瀕死の重傷を負わせた。
警察の手が迫っていることを実感した熊次郎は、自宅を飛び出した後、このまま山へと逃げ込んだ。
この一晩での被害者は、殺害された者が2人、負傷者が4人、放火された家が一軒となった。おけいと寅松に会ったことが引き金となり、それ以外に恨みのあった者に対しても一気に怒りが爆発したような事件だった。
逃亡した上に、まだ殺人を行おうとしているという情報はすぐに多古警察分署にも伝えられ、警察官以外に消防署の隊員まで動員されて、考えられる逃走経路には全て見張りが配置された。
9月12日、いったん山から降りて来た熊次郎は、ばったりと巡回中の警官に会い、この時も格闘の末にサーベルによって殺害している。
最終的に熊次郎が殺害した者は5人となり、そのうちの2人は警官だった。
山の中で長期間の逃亡生活に入る
この後、熊次郎は完全に姿を消した。連日、大量の警官を動員して捜索を行ったが手がかりはほとんど得られない。
熊次郎は事件の後、42日間に渡って、山の中で警察から逃げ続けた。事件終了までに動員された警官は、延べ3万6千人と言われている。これ以外にも消防や青年団が2万人捜索に加わっている。
しかし夏とはいえ、毎日野宿で、食べる物もないはずなのに、これだけの長期間に渡って山の中で逃げ続けることが出来たというのも妙なことである。
普通であればすぐに衰弱して、警察の包囲網に引っかかりそうなものであるが、熊次郎は逃げ続けることが出来た。これだけの期間、逃亡が可能だったのは、村の人たちが協力して熊次郎をかくまっていたからである。
熊次郎は村人たちから好かれていた。
逆に殺されたおけいや長松は「色仕掛けでお客を引っ張る」などと言われ、村の中でも嫌われ者の方であった。
それに加え、この時代、警官たちは庶民に対してかなり威張り散らしたり高圧的な態度をとったりしていた者が多く、庶民の大半が警察に反感を持っていた時代でもあった。
「嫌いな奴らを殺してくれた上に、警官まで殺してくれるとは、熊さんもやってくれる。」
こういった意識が多くの村人の中にあったらしい。
熊次郎に世話になった人、事件に対して「よくやってくれた」と思っていた村人たちが、熊次郎のために縁側に食べ物を置いておいたり、こっそりと泊めてやったり、食事を提供したりした。村ぐるみで熊次郎の逃亡を助けていたのである。
更に、警察に嘘の情報を流して捜査を混乱させたりもした。
マスコミの報道
なかなか捕まらない熊次郎の事件に対し、新聞社も大々的に連日事件を報道した。熊次郎は事件の残虐性からマスコミが「鬼熊」と名付け、鬼熊事件と呼ばれた。
「鬼熊狂恋の歌」という曲が作られるほど日本中が注目し、逃げまわっている間、過熱な報道が紙面を賑(にぎ)わせた。
毎日押し寄せる大量の報道陣のおかげで、村で商売をしている人たちや旅館はずいぶんと儲けさせてもらった。こういった面でも熊次郎は感謝されたようである。
そして多くのマスコミが取材をしていく一環で、意外なことが分かってきた。
熊次郎のことを村人たちに聞いても悪く言う人はほとんどいない。病人のいる家庭や弱い者を積極的に助け、馬車引きの新人が入れば面倒をみてやり、受けた自分の仕事は雨でも雪でもきちんと遂行(すいこう)し、仕事に対しても非常に真面目であるという。
だんだんとその人柄が分かるに連れて、マスコミたちも熊次郎の表記を「鬼熊」から「熊さん」へと変更していった。殺人犯に「さん」をつけるのは異例のことである。
逃亡を続ける熊次郎であったが、山の中で一ヶ月以上を過ごした時、だんだんと自殺を考えるようになってきた。
9月25日、熊次郎は、村の者にセッティングしてもらって村の消防団の団長と自分の兄、そして東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者と会った。
この場に新聞記者が現れたのは、この記者が前々から村の者に、「謝礼を払うので、熊次郎のことで有力な情報があったら教えて下さい。」と頼んでいたからである。謝礼は当時としては高額な50円が支払われた。
皆で熊次郎に、警察に出頭するように勧めたが、熊次郎は、「すまねえ、勘弁しておくんなせえ。」と拒否し、自殺する意思のあることを伝えた。
「ここから村の衆に大声で謝って死にてえだが、怒鳴ったくれえでは2〜30人の衆にしか聞こえねえ。」
「だから記者様よ、わしの気持ちと無念を字に書いて何百万人という人に伝えて下せえ。」
熊次郎は記者のインタビューでこういった発言をしている。
自殺を手助けした村人たち
大正15年9月28日、熊次郎は自殺を完全に決意するが、この日は酒を飲んでいるうちに眠ってしまい、翌日の29日、首を吊ったり首の動脈を切るなどしたが、この日も死に切れなかった。
翌日の30日、熊次郎の兄や村人たちは、熊次郎から頼まれていた毒入り(ストリキニーネ入り)のモナカを熊次郎に手渡した。
熊次郎は、村人や新聞記者の立ち合いのもと、先祖代々の墓の前でそれを食べ、カミソリで再び首の動脈を切り、午前11時20分ごろようやく死ぬことが出来た。ただ、首の傷の方はそれほどの傷でもなかったらしく、直接の死因は毒物の方であった。
一ヶ月以上に渡って日本中が注目していた熊次郎の事件は自殺という形で終了することとなった。
後に、自殺する意思があることを知っておきながら、毒入りの食べ物を渡した村人たちや、警察にも知らせずに取材を行った新聞記者は、自殺幇助(ほうじょ = 自殺の手助けをする)として裁判にかけられた。
また、熊次郎を匿(かくま)っていた村人たちも裁判にかけられることとなった。
昭和2年(1927年)2月7日、千葉地裁 八日市場支部で行われた裁判では、毒入りのモナカを渡したことが殺人になるか、自殺幇助(ほうじょ)になるかということで、かなりの議論が交わされたが、自殺幇助という判決となった。
ただ、自殺幇助については無罪とされ、犯人隠匿(いんとく)罪のみが問題視された。
言い渡された判決は、村人の中の3人に懲役3ヶ月から6ヶ月が宣告されたが、いずれも執行猶予つきの判決であった。また、熊次郎をかくまった村人たちは無罪となった。  
 
鬼熊、恋の復讐劇 4

 

(上)裏切った情婦を殺し山中に逃走…大捜査網をかいくぐり警官らを次々殺害
大正15年8月の暑い盛りのこと。現在の成田空港に近い千葉県香取郡久賀村(現・多古町)で、一人の粗暴だが純情な男が恋心をもてあそばれ、相手の女らを殺して山中にこもり、恋敵らにも復讐(ふくしゅう)しようと命を狙い続けた。いちずな男が警察をてこずらせて立ち回る痛快な様子が、新聞で連日報じられ、犯人の「鬼熊」は一躍、人気ヒーローになった。
情婦に二股かけられ
事件の主人公は、後に鬼熊と呼ばれる荷馬車引きの岩淵熊次郎(35)。熊には、妻と5人の子がいたが、加えて吉沢けい(27)という女とも肉体関係を続けていた。
さかのぼること2カ月の6月25日夜、熊は、けいが祖父の経営する居酒屋の蚊帳で、同じ村の菅沢寅松(25)と一緒にいるところに出くわして逆上。けいの髪と寅松の腕をつかんで引きずり回すなどし、傷害・脅迫罪で告訴の上7月8日に収監。千葉県八日市場町(現・匝瑳市)の八日市場裁判所(地裁支部)で懲役3月・執行猶予3年の判決を言い渡され、17日に出獄したばかりだった。
20日は、寄りを戻してほしいとプライドを捨ててけいに懇願したが、冷め果てた態度で首を振るけいにかっとなり薪で撲殺、止めるけいの祖母、はな(69)にも重傷を負わせた。さらに、近所の菅沢種雄(42)方に立ち寄ってマッチで放火して全焼させる。種雄は、けいに寅松とも仲良くするようけしかけた男で、裁判でも熊に著しく不利な証言をしており、熊はその恨みを晴らしたというわけだ。
種雄の家が全焼したのを見届けると、駐在所に忍び込んで恨みのある向後巡査を殺害しようとしたがそれは果たせず剣を盗み出し、けいが奉公する物販販売業、岩井長松(49)方に押し入って同人をも殺害した。
警察は非常線を張り、消防組とともに捜索。消防組員が熊を発見し捕らえようとしたがシャベルで腹部を突き刺して重傷を負わせて逃走、さらに多古署の山越刑事も逮捕しようとしたが凶器を振るって左肩から腕にかけて重傷を負わせ山林深くに逃げ込んだ。
熊の怒りの理由
熊次郎がここまで逆上したのには、それなりの理由がある。熊次郎が恋情を寄せていた「けい」は、祖父母の啓十郎(70)、はな、けいの私生児、正(5)の4人暮らし。けいは多情な女と後ろ指をさされていたが、祖父母や息子を養うためにしかたない面もあったと同情される。果たして、けいは、二股をかけ、うち25歳の若い寅松の方を選んだ。寅松は親戚に貴族院議員の菅沢重雄を持つ、豪農である。けいの奉公先の主人、岩井長松が独身の寅松と縁を結ぶようにしむけた。
実は熊次郎は、第2の情婦「はな」にも裏切られている。妻がありながら2人の情婦を抱えるとは、なんとも精力旺盛なと思えるが、この時代、妻の不貞は許されないが、夫は公然と妾を持てた。さらに、警察官も一般庶民を相手に威張り散らす、いやな存在だった。今の価値観で、2人も妾を作り、警察官まで殺してと、熊を非難するなかれ。熊の立ち回りの善悪を判断するには、約90年も前の大正末期の空気を踏まえる必要がある。
高橋はな(27)は、久賀村にある料理店の酌婦で、山武郡大総村(現・横芝光町)の掛け茶屋の柳橋信一(41)がその情夫であった。はなは、信一が身請けの金を用意できなかったため、熊を利用。熊が詐欺まで働いて金80円を工面し、おはなを身請けすると、久賀村四角山の旅人宿の土屋忠治(41)に預けた。しかしある日、忠治方ではなと信一とがあいびきしていることに感づき、今度は岩井長松に託する。ところが、長松までもが、熊の信頼を裏切っておはなを信一の家にかくまった。これがそもそもの熊の失恋劇の始まりなのだ。
熊は、長松の家からはなが消えてからというもの、まるでキツネが憑(つ)いたかのようになり、はなを探し回る。3カ月もたつと恋やつれで荷馬車引き仲間でも熊に同情しないものはいなくなり、皆がはなの行方をひそかに追った。そんなある日、荷馬車引き仲間がついに本大須賀村(現・成田市)の料理屋「宮本」で発見。駆けつけた恋に盲目の熊は、またもや、はなに丸め込まれる。ここから出るにはカネが要る−。
恋に狂った哀れな男
金策を練った揚げ句、今度は他人の馬を300円で売る約束をして100円の手付金を詐取。ところが「宮本」は150円が必要だと言い張る。そのうち馬を勝手に売る交渉をしていたこともばれて、混乱の中、再びはなが逃げた。狂乱せんばかりの熊に、どうにか兄清次郎がはなのことを思い切らせたが、その失恋の痛手から、こんどは旧知のおけいに夢中になってしまった。
長松を信用しきっていた熊は、けいも長松の旅館に預けた。しかし、長松は、またしても熊を裏切り、けいと寅松との仲をとりもったというわけだ。
熊については、荷馬車引き仲間だけでなく、村民の評判も決して悪くない。
久賀村近辺はよそで食いはぐれた者どもが、荒れてはいるが農業をやる土地を求めて集まってくる場所。熊には、こうした者たちにも男気をみせるところがあった。最初の脅迫事件でも、元の主人であり、前県会議員の五木田太郎吉が奔走し、軽めの判決を導いた。
山中にいた熊
殺人事件後、しばらく山中に姿をくらましてしていた熊だが、25日午後9時ごろ、久賀村の寅松の家に忍び寄った。しかし、警戒中の人々が気付き騒ぎ立てたため、目的を果たさず逃走。すでに高飛びしたかと思っていた捜査本部も26日には、各消防組に連絡して大捜索を繰り広げた。それにしても、1千人を超える大警戒の中で、復讐を敢行しようとするのは、度胸が座っているのか、無鉄砲なのか、怖い物知らずである。
9月3日になり、熊が再び人里に現れた。まず多田幸次郎方の裏手に現れたのを長女たま(15)が発見、連絡を受けた警戒部隊が付近を捜索したところ、熊の足跡を発見。伝っていくと農家、佐藤平内(25)の留守宅で消えており、畳の上に上がって食事をした痕跡が残っていた。熊が狙っている土屋忠治や菅沢寅松の家からそれぞれ10町(約1キロ)ほどであるため、この辺りに隠れられる家を求めていたのだろう。同じ日、そこから20町離れた多古町五辻の伊藤幸吉方にも現れ、娘のはる(21)に幸吉はいるかと尋ねたが、繭を売りに行ったと聞くとそのまま立ち去った。
張り込み中の巡査を鎌で斬殺
11日、熊はとうとう3人目をあやめてしまう。夜8時ごろ、久賀村大門にある元主人の五木田太郎吉方に現れたが、張り込み中の多古署内飯笹駐在所の河野(=日の下に立)太郎巡査と鉢合わせ。格闘となり、熊は持っていた草刈り鎌で河野巡査を切り倒して逃走した。捜査本部はすぐに100人以上の巡査を急行させて捜索を始めたが見つからず、背中に重傷を負った河野巡査は間もなく死亡した。
熊につけ狙われ、住むところもなく何日か沼の上に船を浮かべて過ごしていた山武郡大網町の柳橋信一の内縁の妻、土屋はな(25)は、沼の上も不安となり、11日には行方をくらました。
山中に潜伏拠点を発見
27日には、総勢約400人の大捜索が行われた。二本松にある捜査本部では、鈴木刑事課長、長田警部、斎藤警部補、宇津木多古署長らが指揮し、前夜から熊次郎の潜伏拠点とみられている周囲1里(約4キロ)の狢窪(むじなくぼ)山中を二手から入り、ピストルや棍棒(こんぼう)などを持った警官約100人と、消防組約300人が、夜明けを待って乗り込んだ。その結果、密林中に熊次郎が住んでいたと思われる古筵(むしろ)1枚があり、その横にトウモロコシの焼いた物と、生でカビの生えた7本、さらに脱ぎ捨てたわら草履1足が発見されたが、肝心の熊次郎は姿を現さなかった。
筵やトウモロコシなどは翌日、21日に小倉寅吉方から盗んだものと分かった。ただ、そこにあったみのがさについては心当たりはなく、再び、熊次郎とゆかりのある家を一斉に家宅捜査したが徒労に帰した。これがまた、村民に警察に対する不信を抱かせることになっている。
幾度となく包囲をかいくぐる熊。食糧を求めた家で熊は「9月1日の大山狩りでは、二本松から大門に通じる里道から約1町ほど行った畑中にある三間四方の塚に隠れて出し抜いた」と打ち明けたそうだ。また、河野巡査を殺した後の8月13日夜、県道から約2町を隔てた山中の道路側に身を潜め、通りかかった老婆に捜索隊の去就と行動を尋ねてすぐに姿をくらましたことも分かった。
25日には、栗源町の理髪店に頭髪をぼうぼうと生やし、ひげがもじゃもじゃの男がひょっこりと姿を現し、「おい、頼むぞ」と悠々と腰を下ろして3カ月ぶりに刈り込み、すべすべになった顔をなでながらも金は払わず、立ち去った。どこでもらったのか、縞(しま)の入った袷(あわせ)を着流し、もじり外套を着ていたという。その大胆な行動を知った捜査本部は27日、恥を忍んで、その理髪店主の取り調べを行った。
熊に翻弄され続ける警察。27日朝は、近所の有志が獰猛(どうもう)な猟犬2頭を寄付してきたため、警察伝令用として山狩りに使用することになったが、熊の尻尾はつかめるのか。 
 

 

(中)“国民的英雄”捕縛に手を焼く警察…「あの地形では…」
ほかの男と親密な仲になった情婦ら2人を殺し、千葉の山中に隠れて神出鬼没、警察官も殺した岩淵熊次郎(35)。熊には、まだまだ数人は恨みを晴らしたい人物が娑婆にいる。捜査本部も犯人をおびき寄せるため、これらの標的に現地にとどまらせ、周辺を監視する作戦を続けた。熊と警察との攻防は日本中に報道され、警察トップの内務省警保局長も苦々しい思いを隠さない。
鬼熊、熊公、岩熊…
殺人事件が起きた大正15年8月20日以降、失恋による恨みを晴らそうと、警察の包囲網をかいくぐって出没する様子が連日報道され、今や日本一の人気者となった殺人犯。鬼熊、熊公、岩熊、熊次郎とさまざまなニックネームで呼ばれ、話のネタとなった。
9月21日に開かれた、全国警察の総元締めである内務省警保局(現在の警察庁)の松村義一局長と記者団との会見でも話題となった。
記者 熊は日本一の人気者になりましたね。お湯屋でも床屋でも熊公の噂で持ちきりですよ。銀座で熊公伝を売っているが羽が生えて飛んでいますよ。
松村局長 へえ、そんなに売れるのですか。
記者 それから子供が熊公ごっこをはじめたそうですよ。
松村局長 そりゃ君、新聞があまり書き立てるせいだよ。
記者 あなたは、この前もいつかそんなことを言われたが、熊公を有名にしたのは仰々しい警官隊の勇敢な活動のおかげですよ。
松村局長 だが警官隊の山狩りは前後1回だけですよ。それも300名だけさ。
記者 とにかく熊公の有名(なの)は警官隊の無力(のため)ということですよ。
松村局長 捕まらぬのははなはだ遺憾ではあるが、あの地形ではね…
記者 決死隊を募ったそうですね。まるで旅順の閉塞隊(日露戦争の際にロシア太平洋艦隊の妨害を図った決死隊)もどきですね。
松村局長 決死隊じゃないさ。あれは熊の出そうなところに配置するためにやったのさ。
記者 まあ戦争状態ですね。どうでしょう日本の一地方で、今、安寧秩序が乱れているのですが、内務省では何か積極的に出る必要はないものですか。
松村局長 安寧秩序は少しも乱されていない。熊は誰もに危害を加えはしない。危害の恐れのある2、3人に対しては十分保護を加えている。
記者 ですが、あの地方の住民はひどく不安らしいですが…
松村局長 そんなことはない。みなそれぞれ落ち着いて仕事をやっている。
記者 不安が少しもないとおっしゃるのですか。警察費7万円も使って騒いでいるのじゃないですか。
松村局長 いや、あれは嘘だよ。3万円くらいのものさ。千葉で費用がなくて限外課税(一定期間を超えて、日銀が銀行券を限度外以上に発行すること)をやるって。10万や20万の金でそんなバカなことがあるものか。
記者 講談もどきで、各地から竹刀担いだ応援隊が出かけるほどの騒ぎになっているのに内務省では別に積極的の考えはないのですな。
松村局長 地方警察に一任してある。それで十分だ。もちろん犯人の捕まらぬのは遺憾千万で、警察の威信にも関するが努力ばかりでは捕まらぬ。時の運ということがある。内務省は人を派して極力督励している。
記者 督励のためにあなたが出かける気がありませんか。
松村局長 僕が出かけるほどのことか。(2、3分の沈黙の後、尊大な態度でこう吐き捨てた)君、考えてみたら分かるだろう。
自首勧告への動きも
警察が標的を使っておびき寄せて捕まえようと試みる中、熊次郎と関係の深い地元有志らは、妻子の生活の安定と教育を親戚(しんせき)の間でみてやれば、熊も安心して縛に付くだろうと警察とも話し合い、熊が安全に確保されるよう、釣り出しにかかり始めた。
菅沢貴族院議員、鈴木県会議員、米本久賀郵便局長、五木田太郎吉前県会議員らが、秘密裏に熊を自首させる方策を協議し、多古署の鈴木県刑事課長と会談を持った。さらに、それら有志の通告によるのか、熊の兄、岩淵清次郎が羽織袴姿で人目を避けながら多古署に出頭。鈴木刑事課長、宇津木署長と面会し、「実弟が世間を騒がしたことは兄としてはまことに申し訳ない。万一、熊が自宅に帰った際はすぐに取り押さえて警官に引き渡しますから」と、それまでと打って変わった殊勝な態度を示したという。
びくびくする標的たち
命を狙われているのは、熊の情婦けいを寝取った菅沢寅松(25)、もう1人の情婦の高橋はな(27)、はなを熊から預かったもののはなが本当に好きだった男とあいびきするのを許した旅人宿業、土屋忠治(41)。さらには、熊が傷害・脅迫罪に問われた際に関わった向後巡査である。
そのうちの1人、土屋忠治は、早く捕まってくれと気が気でない。熊の出現情報を元に、捜査隊本部は繰り返し山狩りをするが発見できない。それでも、時々、土屋の家の近くに出現するため、忠治は極度の恐怖にかられ、家の周囲に丸太のくいを打ち、これに針金を張り巡らされて厳重な防御を行った。
熊の逃走を村ぐるみで手助けしていることも、警察をいらだたせている理由の一つだ。ある朝、熊狩り中の捜索人が、熊の恋敵である寅松を保護している菅沢茂平方付近の念仏坂脇にある高さ1メートルの崖下で、雑草に隠れて1台の自転車が捨てられているのを発見。見ると荷台には、1升余りのつきたての餅が小豆色の木綿風呂敷に包んであり、自転車は車体番号が削られ泥が塗られていた。これが熊次郎に与えようとしたものであれば、熊が食物をあさりにあまり現れない理由も説明がつく。
焦る警察、しぶとい熊、恐れる標的…周辺の住民の緊張も限界に達している。 
 

 

(下)突然の警察方針転換、標的失った熊は毒とカミソリで…
情婦やその奉公先の主人を殺し、岩淵熊次郎(35)が山中に逃亡してから41日が過ぎた大正15年9月29日。一向に事態が開ける気配をみせないため、警察は方針を大きく転換した。それまでは、熊の恋敵である菅沢寅松(25)や、熊をおとしめた土屋忠治(41)を村内に住まわせ続けることで、山中からおびき出して捕まえる作戦だった。それが功を奏さないとみると、一転、2人を遠くに移転させる。報復という目的をなくした熊がおとなしく逮捕されに出てくるのではないかという見立てである。あわせて警察の動員も一挙に3分の1に減らした。
寅松も忠治もようやく村外へ
寅松は29日朝、棒縞の袷に白の股引を履いて鳥打帽をかぶり、報道の写真班に顔を撮影されないよう、茶色のレインコート地の青年団の外套を頭からすっぽり被って、2人の刑事に守られながら自宅を出発。林から林へと人目を避けて歩き、午前10時半に成田鉄道多古線(現在は廃線)の飯笹駅に現れ、成田行き列車で成田まで行って千葉へと向かった。土屋忠治も、他県へ逃げた。
警察は二本松の山狩り捜査隊本部も引き払い、多古署の捜査本部にわずか10数人の警察官を残し、ひとまず捜査を打ち切った。血を求める熊は野放しとし、11月上旬の木枯らしが吹くころに捜査隊を繰り出して逮捕することになった。
40日余りの間に、7万円という多額の捜査費、延べ人員は警察官4000人、消防組・在郷軍人ら3万人以上という大がかりな活動もその効なく、熊に翻弄されて万策尽きた。
鈴木刑事課長は29日午後5時に記者会見し、悲痛な面持ちで「どうも世間を騒がした上、熊に散々ひどい目に遭わされた」と前置き。熊次郎の捜査を打ち切るに当たり、「熊逮捕については尽くすだけ尽くし、万策尽きてしまった。無能呼ばわりされてもしかたない。野村警察部長と協議し、内務省警保局に行って打ち合わせた結果だ」。
「ここも安全とはいえません」
熊に付け狙われている菅沢寅松は、40日間も家に引き籠もり、すっかり精神にも異常を呈している。印旛郡公津(こうづ)村(現・成田市)で飲食店を営んでいる伯父、村山藤助が引き取った。
親戚巡りをしたいと言ったものの、警察に引き留められていた土屋忠治もいよいよ、東京方面に旅立った。東京方面には親戚が5カ所ほどある。
熊についてはいろいろな風説が伝えられているが、19日に現れて以来、確とした足取り情報はない。40数日の山ごもりですっかり野宿にも慣れ、トウモロコシなどを食べているので飢えるようなことはない。これからサツマイモや栗なども手に入るだろうし、人家に食を求めなくても飢えをしのぎやすくなる。10月末の取り入れが住むまでは持久戦で臨み、時機をみることにした。
公津村に菅沢寅松を29日夜に訪ねると、顔面蒼白で始終おびえながら、「ああまで執念深く熊次郎に狙われては命が縮まります。こことても安全な場所とは言われません。先日、熊が現れて飯と着物を買っていった印旛郡遠山村(現・成田市)駒ケ頭から山続きで2里ほどしかなく、いつ襲ってくるか分からないので、近所の旦那様に何分ともお願いしている次第です」とおどおどしていた。
突然の幕切れ
しかし、事態は29日深夜に急転した。30日午前4時ごろ、千葉県久賀村出沼の兄清次郎宅から2町(約200メートル)余り離れた山林にある先祖の墓地で、巡回していた消防組員が、カミソリで咽喉部3カ所を掻っきり、苦悶中の熊を発見。直ちに消防組が招集され、、熊の恩人の五木田太郎吉や兄の清次郎らも集まり、苦しむ熊に水をやるなどした。
警察は、午前7時に血まみれの熊を逮捕、清次郎宅に護送して、多古町から出張してきた3人の医師が手当を実施。傷は長さ10センチ半、深さ5センチにも達するほか5カ所にわたって傷があったが頸動脈は外れており、最初は生命には別条ないという診断だったが、40日以上の山林生活で極度に衰弱しており、逮捕されるや否やぐったり気が緩み、眠るように30日午前11時25分、絶命した。
集まった人たちの話では、熊次郎は、警戒が緩んだのを知ってかしらずか、張り込みの消防や密行の警察官の目をかすめて出沼の自宅に帰り、布団を敷いて毒をのんだが死にきれず、苦しみながらも先祖代々の墓地へ行き、もっていた日本カミソリで咽喉を切った。前日に食べた不消化の飯粒を吐き、着物は垢がべっとりとついた白いジャケット、木綿の棒縞単衣、カーキー色のズボンを履いていた。周囲は鮮血に染められ、逃亡後の艱難辛苦に頬はこけ、目はくぼみ、髪はぼうぼうと生えてものすごい形相だった。
五木田氏は、熊のそばにたたずみ、「清次郎が自殺したと知らせてきたので駆けつけました。熊が私の顔を見ると苦悶しながら水、水と訴えるので、水を運んで来て与えると、手を合わせて拝みながらうまそうに飲み、『旦那すまない』と元気に2度繰り返したかと思うと、首をがっくりと垂れて虫の息となった」と語った。
ふびんな熊の妻子
熊次郎の妻よね(37)と潤蔵(13)以下5人の子供は、夫の凶行後約6週間、五木田清方にて静かに暮らしていた。潤蔵は熊の兄、清次郎の家で農業の手伝いをしながら小学校に通い、よねは、五木田の養蚕の手伝いをしている。熊の自殺後、久賀村の自宅に戻った妻よねを訪ねるとまず5人の子供に取り囲まれた。よねは、事件以来、夫の身の上を案じて面やつれした寂しい姿で洗いざらしの木綿着の袖を涙で濡らしながら、「熊さんが逃げてから遅かれ早かれ、こうした日の来ることは覚悟しておりながらも朝になると烏の鳴き声が悪くはないか、夜になるとまた人を斬りはしまいかと案じない日はなかった。ふだん子供をかわいがっていましたので、さぞ顔が見たいだろう、無事でいてくれるようにと神様に祈って毎日案じておりました。今日、これから早速、子供を連れて駆けつけ死に目に会わしてやりたいと思いますが、世間様の手前、それすら迷っております」と泣き伏し、5人の子供も母にすがって泣いた。今後は、近くで駄菓子類を扱う小さな店を開いて子供たちを育てていく予定だという。
一目置かれた「佐原の親分」
2人の女に情火を燃やして大惨劇を演じた熊次郎。大勢の子供に取り巻かれ、いいお父さんであるべき、熊を家庭からあらぬ女へ誘惑したのは、生来止められない酒と、どこまでも惑溺していく一本気、ケンカ好きで単純ではあるが頼まれれば後へ引かぬ侠客肌だった。「佐原の親分」という気持ちが多分に自分の中にあっただろうし、そこが醜男な彼に情女ができるわけでもあった。5尺5分(約153センチ)しかなかったが、草相撲の大関だったこともあり、10年前には青年団のマラソン選手として健脚を誇った。久賀村密林へ最初のクワを入れたのは熊次郎だとも言われ、出沼の熊と言えば子供にもしられているほど。残忍であるが単純で侠気があり、いわゆる善にも強いが悪にも強い以上な性格の持ち主。こういうところが、鬼熊は憎めない人気者と世間が噂する所以であろう。
警保局長もようやく安堵
内務省の松村義一・警保局長(警察庁長官に相当)は「捜査隊を縮小して熊の恋敵を逃がした策が当たったとも言えないことはないだろうが、ま、自殺をはかったのでは自慢の出来る義理じゃない。しかし、熊が捕まらないよりは、自殺でも捕まった方がいい」とホッとした表情で語る。「今朝の情報では熊は多少の痙攣を起こしているが、別に毒を飲んで中毒した症状がない。命はとりとめるらしいとの報告があった。熊が40余日も捕まらなかったことは警察の失態とは思わない。土地の状況と、熊に同情があったらしいこと、恐怖から熊をかばったことが原因らしいし、並びに今後、熊の自白によって調査しないと批評はできないが、警察はできるだけの努力をしたことは認めなければならない。昨日も野村警察部長が来て泣かんばかりに残念がって申し訳ないと訴えていたが、別に警察部長には失態がない。努力をしても運ということがあるから今後責任者を出すことは絶対にないと思う」と悪びれず語った。
複雑な心境の寅松
千葉県印旛郡公津村に潜伏していた、熊の恋敵の寅松に、熊自殺の報せを伝えると、寅松は裏二階から飛ぶように駆け下り、叔父とともに「本当ですか。何だか夢のようです」と満面の喜び。「全く40日余りも執念深い獰猛な熊次郎につけ狙われていたので、すっかり病人になってしまいました。これではいけないと、昨29日午後2時半、多古線飯笹駅で2人の警官に守られて、成田で下車し、午後4時に当家へやっかいになった訳です。皆様のおかげです」とうれし泣きに泣いた。
熊が凶行をした日のことについては、「おけいが熊次郎に撲殺される時、そこから1町(約100メートル)ほど離れた電工散宿所に逃げ込んで小さくなっていた。殴られてうめくおけいの声は手に取るように聞こえてきて、生きた心地はありませんでした。そうするとやがて警鐘が鳴り出し、火事だ火事だという騒ぎです。もうそのときはどうなることかと思って…」後は声にならなかった。
けいの祖父、吉沢啓十郎の家を訪ねると、啓十郎はけいの息子の正吉(6)をすでに千葉県銚子町の「山川興行部」という興行会社に預けており、残る荷物を送るために出かけたところだった。祖母のとみは、熊にやられた左手に包帯をしてけいの位牌の前に座り、「毎日もう捕まるかと思っていた。なんという惨めなことかわからない」と暗い顔をしていた。おけいの実父の多田仲次郎は、熊の死を聞き、現場に駆けつけて娘の敵もとうとう死んだと狂喜して走り回った。
死の真相
30日正午、熊次郎の自殺現場を目撃した出沼消防組員、多田幾四郎、鈴木一郎、日下部三次麿の3人が多古署へ呼ばれ、取り調べを受けた。3人は、4日ほど前から熊の隠れ場所に食糧を持ち運んでいたという容疑がかけられた。さらに、ある有力者が裏で関与しているとの情報もある。
また、熊の旧主人で前県議の五木田太郎、兄の清次郎、妻よねの3人が熊に毒薬を与え、匿ったとして30日正午から多古署で取り調べを受け、一時同署に留置することになった。
一部には熊にさんざん愚弄されて世間から非難された腹いせとも言われているながらも、捜査本部は、さらに2人を参考人として呼び出したほか、さらに多数の召喚を計画する。
なお、40日余りの間に警察官、報道陣、自転車屋、自動車屋、さらには「日本一の人気者」を一目見ようとする野次馬が押し寄せ、寒村の商店では物が飛ぶように売れ、一説では捜査本部が置かれた二本松では3万円(現在の3000万〜6000万円に相当)の金が落ちたとされている。その銀座のような賑わいも熊の自殺とともに元の寒村へと戻った。
熊の応援者たちに有罪判決
10月2日の午後になって、熊の兄、清次郎は、熊に9月29日夜に饅頭に毒物を入れて渡したことを自白した。毒は、村内に住む姉婿、脇佐次郎(39)が印旛郡富里村(現・富里市)の薬種商から求めたという。さらに熊がどこか室内に泊まっていた証拠が出てきたことから、数人が取り調べられていたが、4日になって、久賀村消防第7部長の山倉長次郎(37)、田口米四郎(37)、鈴木一郎(31)の3人が犯人隠匿罪として、脇佐次郎、実父の福松(52)の2人が自殺幇助罪で千葉地裁八日市場支所検事局に送られた。翌(昭和2)年2月、千葉地裁八日市場支部で、鬼熊の隠匿ならびに自殺幇助事件の判決があり、4人に執行猶予付き判決、2人に無罪が言い渡された。 
 
鬼熊事件 5

 

時代の変わり目には奇妙な大事件がしばしばおきるという。大正から昭和にかけ、有名な鬼熊事件が発生した。どんなものだったかを報告させていただきます。
関東大震災からのち、世情は混沌とした。震災の復興景気で好況だった政財界も急速に弱体化し、昭和初期の金融恐慌の兆しが見え出した。政界でも憲政会、政友会の二大政党間で政争が繰り返され、汚職が相つぎ、共産党の創立など左翼も活発だった。都市・農漁村で争議が続発、政府の弾圧も強化され、威張っている軍人、官僚、警察関係者に対し庶民の反感が高まっていた。新聞にも暗いニュースが目立った。
そんなおり千葉県内の寒村で起きた殺人、傷害、放火事件が世間の注目を集めた。事件発生直後は小さな記事だったが、犯人が山中にのがれ警察の網の目を巧みに避けて逃亡を続けていることが明らかになるにつれ、読者の興味は高まり、日本中がこの話題に飲み込まれていった。
容疑者は、岩淵熊次郎(35:いわふち・くまじろう)という荷馬車引き。千葉県香取郡久賀村の小作農の次男として生まれたが極貧家庭で、小学校も欠席しがち、三年で学業をやめ、手紙も書けなかった。十歳で村の豪農五木田太郎吉の作男として雇われる。大正も末期だったが、千葉県の片田舎の寒村では生活は依然として貧しく、村民の大半は掘っ立て小屋同然の家で辛うじて飢えをしのいでいた。熊五郎は25歳のとき馬車引きになった。二歳年上の女を妻とし、五人の子の父になっていた。邪心のない男で優しく村人に好感をいだかれていた。背は低かったが筋力が強く米俵二表をかついだ。仕事熱心で約束は必ず守り、親切で優しかった。「争いの仲裁」などをしながら旧主の五木田太郎吉(憲政会系)の選挙運動を手伝ったりしていた。
熊五郎は女にだらしがなかった。村の居酒屋の孫娘“おけい”という酌婦と馴染みになった。“おけい”は二十三歳、年上の女房しか知らなかった熊五郎は、若い女体に夢中になった。毎月に米を届けたりして相当貢いだ。関係は四年ほど続いたが、熊次郎は、もう一人の女に手を出した。これは、柳橋信一という男の妻おけんで、夫婦喧嘩の末に家出し、「吉野家」という旅館の女中となった二十八歳の女だった。おはなという名で同旅館に勤めているとき熊次郎と知り合った。
おはなは、旅館に前借金があると熊次郎をあざむき、これを信じた熊次郎は、商売道具の馬を売り払い、五十円をおはなにあたえた。熊次郎は、彼女を旅人宿経営の土屋忠治方に預けたが、夜毎に訪れる熊次郎を忠治夫妻は不快がった。これに立腹した熊次郎は、忠治夫妻と仲たがいし、“おはな”をさらに村の荒物商・岩井長松方に移させた。
ところが“おはな”は、岩井長松方に七日間いただけで、夫の柳橋信一のもとに帰ってしまった。失望した熊次郎は、やがて“おはな”は、前借金でしばられていた事実はなく、預け先の土屋忠治、岩井長松が、柳橋信一と通じて、“おはな”を柳橋真一のもとに送り返したことを知り、おはな、信一、忠治、長松にたいし深い恨みをいだいた。
さて熊次郎は、馬を売り払ってしまっていたのに、知人の男にまだ馬があるように装い、売る約束をして代金八十円を詐取した。そして“おはな”に裏切られたウップンをいやすため、専ら「上州屋酌婦“おけい”」に愛情を注いだ。
当然ながら、「おけい」は熊次郎をうとんじるようになり、彼から金品を受け取りながらも、その年の三月ごろから密かに村の若い農夫、菅沢寅松と夜を共にするようになっていた。熊次郎はそのことを知らず、詐取した馬の代金の半ばを「おけい」に与えたりしたが、やがて寅松の存在に気づいた。6月25日夜、おけいの家を訪れた熊次郎は、抱き合っている「と寅松」の姿を見た。激怒した熊次郎は雨戸を破って室内に入ると寅松の腕をつかんだが、寅松は逃げ切った。熊次郎は、戸外に走り出ようとした「おけい」の髪をつかみ、殴り続けた。かれは「おはな」につづき「おけい」にもそむかれたことが腹立たしかった。すきを見て、“おけい”は村の駐在所へ走った。それを知った熊次郎は、自ら駐在所に出頭、向後国松巡査からきびしく説諭された。
その後も寅松とおけいの仲は続いていた。熊次郎の憤りはさらにつのり、寅松を殺すと公言するようになった。村の菅沢種雄が争いの仲裁に入ったが、種雄は向後巡査と相談し、“おけい”に熊次郎との仲を清算するよう勧めたため、熊次郎は、種雄と向後巡査へも恨みをいだいた。
熊次郎は孤立した。おはな、おけいの二人の女に分不相応の贈り物をしながら両者からあざむかれ、しかも女を取り巻く者たちから冷たい扱いを受ける。多情ではあったが純情な熊次郎は、周囲の者から愚弄されていると強く意識した。
7月7日、午前10時頃、おけいが麦畑で野良仕事をしていると、熊次郎が姿を現す。そして“おけい”を上州屋へ引きずるように連れ戻すと、午後四時ごろまで寅松との関係を執拗に責めたてた。おけいの心は冷え切って、激昂した熊次郎は包丁を突きつけて殺すと威嚇した。これを見たおけいの祖父啓十郎が駐在所に走った。
向後巡査がすぐに駆けつけ、熊次郎を脅迫罪の現行犯として逮捕、多古警察署に連行、また取調べで売馬代金の詐欺を犯していたことも発覚、八日市場裁判所検事局に送られた。
送検を知った村の有力者で、熊次郎の旧主だった元県議、「五木太郎吉」が熊次郎のために奔走した。努力が実ったのか、八月十八日熊次郎は、同裁判所で懲役三ヶ月、執行猶予三年の刑を受け釈放された。四十日間の勾留生活に落ち着きを取り戻した熊次郎は、翌日夜には五木田のもとを訪れ、礼を述べ、五木田も熊次郎を諭して祝い酒を振舞った。
五木田の家を出た熊次郎は、「おけい」に詫び、願うことなら復縁したいと思いおけいの家に足を向けた。熊次郎は穏やかな表情で「おけい」に暴力を振るったことを詫び、「おけい」も熊次郎の態度に安堵し、酒肴を出しもてなした。酔いの増した熊次郎は泊まっていきたいと懇願したが、「おけい」はかたくなに断った。そのとき、寅松が姿を現した。熊次郎は、二人の仲がさらに深まり、おけいがその夜も寅松と共にすごそうとしていたと知る。しばらく三人で呑んでいたが、おけいの顔には寅松に対する濃艶な思慕が滲み出ていた。
熊次郎の血が逆流した。かれの口から怒声が吹き出た。鬱憤していたものが一時にあふれ、目を怒らせて立ち上がると、もはや自分の感情を抑えることができなかった。熊次郎はおけいの髪をつかむと戸外に引きずり出し、土間にあった薪をおけいの頭にたたきつけた。悲鳴をあげて倒れたおけいの頭部に、薪は幾度も打ちおろされ髪の中から頭蓋骨がのぞくまでになった。凄まじい光景に身を震わせた寅松は、裏戸から外に逃げ、五十メートル離れた農家に逃げ込んだ。その間におけいの祖母が必死になって熊次郎の腕にしがみついたが、彼は祖母の頭部をも薪で強打し昏倒させた。熊次郎は寅松の家まで行ったが、留守だと知ると、「おけい」と自分の仲を引き裂いた菅沢種雄の家へ走って火を放った。
突然の炎に半鐘が鳴り、村の消防組員が駆けつけた。が、熊次郎は消火活動を制止し、これにさからった菅沢栄助の背中を農具の鋤でたたき負傷させた。種雄の家が燃え落ちるのを見届けた熊次郎は、自分を検挙した向後巡査の襲おうとしたが不在であった。彼は壁にかかっていたサーベルを奪い、荒物商岩井長松のもとに行った。
長松を外におびき出すと胸をサーベルで刺し殺害した。血に染まったサーベルを手にし、家に戻り地下足袋に履き替えると、実兄・岩淵清次郎の家に向かった。その折、妻よねに、自分を冷遇した向後巡査、土屋忠治、裏切った“おはな”、恋敵・菅沢寅末を殺すつもりだと口走った。
村は騒然となった。熊次郎がこの時点で二名を惨殺、三名を負傷させたうえ菅沢種雄方に放火し、さらにサーベルを手に殺人を犯そうとしているとの報せは、多古警察分署に伝えられ、同分署では署員十二名を非常召集し、消防員多数も動員して非常線を張った。新聞記者たちが狭い田舎町に押し寄せ、取材合戦を繰り広げた。
不思議なことがおきた。熊次郎の情報がまったく途切れたのだ。九月十二日には巡回中の警察官を殺害するなど、結果として五名を殺害、四名に傷害を負わせ、一件の放火に対し、動員された警察官などは延べ三万六千人と記録にある。
結局熊次郎は逮捕されることはなかった。実に四十二日間逃げとおし、自殺した。この自殺の時に村人が手引きして、東京日日新聞(現・毎日新聞)社記者らと熊次郎の直接インタビューを設定していた。五十円という当時としては高額な謝礼が支払われた。自殺する意志を知りながら、これを特種として警察には伝えず、体力が強すぎてなかなか死ねなかった熊次郎がやっと死亡するころ、東京日日新聞社から号外が出た。読者は競ってこの記事を読み東京日日新聞の購読部数は急増した。
この話には大正時代の農村の哀切がよく理解できると、作家の吉村氏が述べている。村民は政治的に憲政会と政友会二つに分かれ対立していても、それぞれに熊次郎を哀れと感じ、泊めてやったり食事させたりしていた。つまり村ごと犯人隠匿をしていた。
昭和二年(1927年)千葉地方裁判所八日市場支部は、熊次郎実兄の岩淵清次郎、義兄脇佐治郎、久賀村消防組第七部長倉長次郎、同小頭多田幾四郎、同消防組員鈴木一郎、東京日日新聞社通信部員坂本斉一らが、犯人隠匿および自殺幇助の判決をいいわたされた。しかし、殺人か自殺幇助かに焦点が絞られて裁判所では激しい議論が起こったが、判事は自殺幇助の判定を下した。それは、被告たちの熊次郎に対する愛情が認められたためで、検事側も控訴することはしなかった。
墓の前で自殺したと言うがどこか変で、実際は村人が墓の前へ遺体を運んだらしい。またカミソリで頸部を切ったというがそれほどの傷ではなく毒殺説が強かった。すべてどこかが奇妙な事件だった。岩淵熊次郎の殺人、傷害、放火事件は、坂本斉一、馬場秀夫を特種記者として新聞史に刻みつけた。 
 
岩淵熊治郎

 

夕焼け空のように情怨の血で彩られたいわゆる鬼熊事件!その発端はおよそ三ヶ月前に遡る。即ち情婦おけいと寅松に絡む三角関係、また第二の情婦坂田沼の土屋はなにからむ無理な金策からの傷害、脅迫、詐欺の偶発数罪で千葉県八日市場のロウゴクへ叩き込まれたのである。そして三ヶ月後に、世間を騒がした残酷な「鬼熊事件」が幕を開けた。
自分より二つ年上のおよねを妻に持つ彼、岩渕熊治郎(35)は妻より十才も若く、しかも豊艶なおけいの肉体に陶酔し、命がけの惚れ方でおけいの虜になった。毎月おけい一家へ飯米をやり、くるしい懐から小遣い銭を やり、佐原や多古の街からの帰りには流行の反物を買って帰った。ところが 事件が起きた8月19日、義侠心に富み、村人から「熊さん」と慕われていた荷馬車引きの熊治郎はこの夜、世話をしてきた女性2人に裏切られたうえ、このことで周囲の男たちに欺かれていたことを知った。逆上した熊次郎は、その経緯をもらした愛人「おけい」を薪で殴り殺し、彼女に熊次郎と別れるよう勧めた長老の家に放火、とめようとした数人を鍬で殴り倒した。熊次郎は別れ話に絡んでいた巡査にも報復しようと駐在所を襲撃、サーベルを奪うと、別の愛人の身請け話で自分をだました男の家を襲い、サーベルで殺害。さらに、この男とぐるになっていた男の家に向かう途中、出会った追っ手の刑事に重傷を負わせ、山中に逃げ込んだ……。
数千人を動員して山狩りを繰り返し、懸命に熊次郎を追う警察。その包囲網をくぐり抜け、「恋敵」や恨みの対象を狙って神出鬼没の熊次郎。その追跡劇は、実に42日間に及んだ。それが連日、「実況中継」のように新聞報道され、張り込みの巡査が「返り討ち」にあう惨劇もあって、日本中が注目する大事件に発展していった。ところが発生から10日余、警官、消防団員など数千人による連日の山狩りにもかかわらず、いっこうに犯人は捕まらないのだ。
当時の新聞記事によると、「岩淵熊次郎は日頃義侠心に富んだ男なので土地の青年等が予(かね)て多古警察署の処置に不満を懐いてゐた矢先とて熊次郎に食事と睡眠時間を与へて内々匿まってゐる」とある。地元では義侠心に富む一途な男として評判だった「熊」は人々に同情されたのだ。当時は村には村の掟があり、村人たちは殺された被害者よりも、愛人に裏切られた熊治郎のほうに同情した。だから、国家側の警察と村側の消防団員との間にはヒビワレがあり、消防団員の中には熊治郎を助けて後から懲役を受けた者たちもいた。国は国、村は村の世界があるという、地域的な考え方。まだ、村の中では国家権力に村の団結が勝る時代だった。鬼熊が村人達から保護されていたことを告げる記極端な記事には、「匿われた家で西瓜を枕に高いびき」なんて記事もあった。その同情は、しだいに記者にも伝染。最初は「殺人鬼熊次郎」略して「鬼熊」だった見出しが、後には「熊公」「熊」となり、やがて「熊さん」という表記さえ登場。鬼熊を平和な時代の英雄とするひともあり、それゆえ事件は熊治郎の死後すぐに映画化された。当時街を流していた演歌師は鬼熊が山へ逃げ込んでいる内に長文の歌を作り歌本として売った。
   ああ執念の呪わしや
   恋には妻も子も捨ててやむ由もなき復讐の
   名も恐ろしや鬼熊と
   うわさも久し一ヶ月
   空を駆けるか地に伏すか
   出沼の里の空暗く
   人の心のさわがしや
この事件の間に、もと愛人の「おはな」が精神を病んで病院に運ばれる。相変わらず熊治郎は捕まらず。どうやら彼のマラソン仕込みの駿足も警察をまくのに一足買っていた様である。
ところが事件は42日目で突然の結末を迎える。熊治郎は新聞記者のインタビューに答えて首を切り自殺しようとしたが死にきれず、30日未明、兄弟から手渡された毒物「ストリキーネ」を先祖の墓前で飲んで自殺。 
熊次郎の死を知った妻は錯乱状態になったり、被害者「おけい」の祖父母が熊次郎を弔い、「お前も不幸な男だったなア」と遺骸に手を合わせたり、とにかく被害者より加害者のほうに同情が強い、特異な事件であった。今も昔も、被害者の遺族が加害者の墓を見舞うなんて事件は、他に聞いたことがない。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
山口連続殺人放火事件

 

山口連続殺人放火事件 1 / 保見光成
2013年7月21〜22日にかけて山口県周南市で起きた連続放火殺人事件の犯人。8世帯12人しかいない小さな集落で近隣住人5人を殺害し、2軒に放火した。事件後付近の山中に逃走したが、7月26日に逮捕された。2015年7月に一審で死刑判決。

保見光成は後に事件を起こす山口県周南市金峰郷(みたけごう)地区で、竹細工職人の父親の下、5人兄弟の末っ子として生まれた。中学を卒業後は上京して神奈川県で左官などをして働いていた。1994年頃に帰郷して、以後は実家に暮らしていた。
両親が亡くなってから、保見は近隣住民と飼い犬や草刈り作業などをめぐってトラブルを起こすようになる。一方で、高齢者ばかりの集落では若手の保見は周囲を手助けしたりもしており、感謝されてもいた。トラブルの全ての原因が、必ずしも保見にあったわけではないようだ。2003年頃には酒の席の口論がきっかけで、後に被害者となる男性に切りつけられたりもしている。
しかし、8世帯12人しかいない小さな集落の中で保見は徐々に孤立していった。2011年には近隣警察署に「集落の中で孤立している」「近所の人に悪口を言われ、困っている」などと相談をしている。保見は自宅の窓に『つけびして煙り喜ぶ田舎者 かつを』と書かれた張り紙も貼っている(事件直後は犯行声明とも思われていた)が、その意味は『集落の人達(田舎者)が自分の悪い噂を流して(つけびして)楽しんでいる』というものだった。事件の10日ほど前には知人に「もう金峰を出ようかと思う」と打ち明けてもいた。
2013年7月21日の夕方から午後9時頃までの間に、保見は近隣の住宅2軒に相次いで侵入、70歳代の住人計3人を撲殺した後、家に放火した。直後、近隣住民の通報により消防や警察が現地に到着、犯行が発覚する。警察の警戒の中、保見は翌22日の朝方にかけてまた別の住宅2軒に侵入、80歳代の住人計2人を撲殺した。22日正午には遺体が発見され、警察は前日から行方の分からなかった保見の捜索を本格化。残った住民は近隣施設に避難した。同月26日、保見は地区公民館から約1km離れた山道で発見され、逮捕された。 
 
山口 連続殺人・放火事件 2 諸報道 2013/7

 

顔には傷が…山口連続殺人・放火 容疑者を送検
山口県周南市の連続殺人・放火事件で、保見光成容疑者(63)の身柄が27日朝、山口地方検察庁に送られました。保見容疑者の顔には逃走中についた傷がありました。
26日午後8時前まで取り調べを受けた保見容疑者は27日朝、送検されました。終始、顔を隠すようにして車に乗り込みました。26日に現場近くの山中で見つかって逮捕された保見容疑者は、被害者の1人を殺害して家に火をつけた容疑で送検されました。保見容疑者は、5人全員の殺害を認める供述をしていて、26日に続いて弁護士に接見しました。
保見容疑者と接見した弁護士:「言葉は交わしていますが、中身、発言については今の段階ではお話しできません」
警察は27日も220人態勢で、保見容疑者が発見された場所を中心に凶器や遺留品の捜索などを続けています。
山口「八つ墓村」容疑者に衝撃証言 夜でもグラサン、マイカー偏愛…
山口県周南市金峰(みたけ)の集落で5人が殺害された連続殺人放火事件で、県警周南署捜査本部に殺人などの疑いで逮捕された同じ集落の無職、保見光成(ほみ・こうせい)容疑者(63)。同容疑者が二十数年前、川崎市でタイル工などをしていた当時の知人らが夕刊フジの取材に応じた。昼夜問わずにサングラスを掛け、マイカーに異常な愛情を注ぎ、思い通りにいかないとヘソを曲げる…。そんな男として知られていたという。
横溝正史の長編推理小説で映画にもなった「八つ墓村」。周囲を恐怖のどん底に陥れた猟奇事件は発生から6日目の26日、一気に解決へと向かった。
現場周辺の山中で捜査本部に身柄を確保され、逮捕された保見容疑者は、山本ミヤ子さん(79)に対する殺人と非現住建造物等放火容疑を認め、他の4人の殺害と2軒の放火についても「私がやりました」と認めているという。捜査本部では事件の背景に人間関係の軋轢があるとみて慎重に捜査している。
保見容疑者の自宅は、集落のほぼ中心に位置し、川沿いにへばりつくようにして建っている。
川崎市に住む男性(70)は事件発生後、テレビに映し出されたこの家に目がとまり、思わず声を上げた。
「写真で見たワタルの家だ」
保見容疑者がかつて「これ、オレが建てたんだよ」と言いながら、誇らしげに写真を見せてくれたことを覚えていたからだ。
保見容疑者は、中学卒業後の15歳で上京し、1994年の帰郷直前まで、川崎市で過ごしていた。男性は友人の紹介で同容疑者と知り合った。
当時、同容疑者は名前を光成ではなく中(わたる)と名乗っていたという。「自己紹介するとき、マージャン牌の『中』にひっかけて『どうもチュンです』なんて言ってた。見た目はいかついけど根はいいやつだった」と男性は振り返った。
JR南武線稲田堤駅から北西に約1キロメートル離れた住宅街にある2階建てアパートで1人暮らしをしていた同容疑者。付近の工務店でタイル工としてしばらく働き、独立開業した同僚の会社に合流する。当時、仕事上のパートナーとなった元同僚はこう話す。
「6〜7年付き合ったけど、女遊びも、無駄遣いもしなかった。金はかなりためてたみたい。仕事の腕も良かった」
行きつけの居酒屋で仕事仲間と酒を酌み交わすこともしばしば。周囲の信頼を得て都会暮らしになじんでいたようだが、こんな一面もあった。
「妙なこだわりがある男でね。昼夜問わずサングラスを掛けっぱなしにしていた。もともとはっきりモノを言うタイプだったけれど、酒が入ると理屈っぽくなる。そのせいか、酒の席でケンカになることがよくあった」(元同僚)
先の男性は、自家用車に並々ならぬ愛情を注ぐ保見容疑者の姿も覚えている。
「車には相当金をかけていた。改造した四輪駆動車に乗っていて、ホコリひとつないぐらいに磨き上げていた」。愛車には、携帯電話が普及していない当時にしては珍しく、車載電話を設置していた。
保見容疑者は、事件の舞台となった自宅を、裸のマネキンを使って自作したオブジェなどで飾っていたが、この装飾趣味は川崎時代からうかがえ、「自宅アパートにも複数の置物を配していた」と先の男性。
過疎化が進んだ集落で孤立を深めて暴発した保見容疑者だったが、過去には町おこしを提案したり、住民の手伝いをしていたことも。だが、最近では犬をめぐるトラブルや大音量でカラオケをして、近隣住民らとの衝突が絶えなかった。
先の男性は「親の介護のために帰郷するぐらいだから、悪いやつじゃない。こっちにいるときも、いじめられた仲間をかばったり、正義感のあるやつだった。ただ、思い通りにいかないとヘソを曲げることもあった」と語り、こう続ける。
「あいつが故郷に帰る前日に『明日田舎に帰るから今晩飲みませんか』と誘われたんだ。でも、どうしても都合が悪くて断った。そしたら次の日、『気をつけて帰れよ』って声を掛けたのに知らん顔しやがった。そういう所があるんだよな」
心に抱えた闇の解明はこれからだ。
【山口連続殺人放火事件】 事件は21日から22日にかけて起きた。21日午後9時ごろ2軒の民家から火災が発生。集落西寄りの貞森誠さん(71)と妻、喜代子さん(72)の自宅で2人の遺体を発見。約80メートル離れた山本ミヤ子さん(79)宅でもほぼ同時に出火し、山本さんの遺体が見つかった。
その山本さん宅の隣に、保見光成容疑者(63)の自宅があり、玄関脇の窓には「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」との不気味な貼り紙があった。
捜査中の22日正午ごろには、同じ地区の河村聡子さん(73)宅、石村文人さん(80)宅でそれぞれ河村さん、石村さんが遺体となって見つかった。司法解剖などで5人はいずれも鈍器で複数回殴られ、ほぼ即死。河村さんと石村さんは体にも複数の外傷や骨折があった。
<山口5人殺害>潜伏の山中 沢のせせらぎと羽虫の音だけ
山口県周南市の5人連続殺人・放火事件で、26日に殺人と非現住建造物等放火容疑で逮捕された保見光成(ほみこうせい)容疑者(63)は、事件のあった金峰(みたけ)地区郷集落近くの山中に潜伏していた。2棟の民家全焼からほぼ5日過ごしたとみられる環境はどうだったのか。険しく、うっそうとした森を歩いた。
発見した機動隊員も、今となっては地図上にポイントで落とせないと言うほどの山深さだ。26日午前9時5分ごろ、獣道にいた保見容疑者は裸足で、下着姿だったという。保見容疑者は観念したように座り込んだ。側頭部には打撲の跡があり、体には擦り傷が目立ったといい、逃亡生活の過酷さを感じさせた。
自宅や犠牲者宅のある郷集落周辺の山中。聞こえるのは沢のせせらぎと周囲を飛び回る羽虫の音だけだった。足元の枯れ枝を踏むと、大きく響いた。保見容疑者が確保されたのと、渓流を挟んだ対岸の山に入った。地図上では複雑な等高線が走り、車道からは傾斜のきつい山道が伸びる。
「かつて林業は、この界わいの主産業だったが、なり手がないため下草刈りさえできない状態が続いている」。地区に住む男性(84)の言葉が頭をかすめた。
車道から川を渡ってすぐ、壁のような急勾配が現れた。人の入らない山は荒れ、枝打ちしていない杉が道をふさぐ。沢伝いにかろうじて残る道を登ると、500メートルも歩かないうちに車道は見えなくなった。眼下に切れ込んだ沢が見える。もし、足を踏み外したらどうなるか。背筋が寒くなった。
食料や水はどうしていたのか。郷集落の70代の女性は「谷水が豊富なので問題ないが、山菜の時期ではないから、何も食べられなかったのではないか」とみる。朝方は真夏でも肌寒いほど。車道には街灯がなく、月が出ていても暗い山中は、歩けそうになかった。
身柄確保から一夜明けた27日朝、集落内で「ゆっくり眠れた」との声を聞いた。朝から続いた大規模な捜索はなくなり、前日までの張り詰めた雰囲気は和らいだ。県警は同日も約100人態勢で、身柄確保の現場周辺で遺留物や凶器を捜す。
父を懸命に介護、犬可愛がる一面も 山口・放火殺人事件
山口県周南市で起きた連続殺人・放火事件で26日、殺人などの疑いで逮捕された保見光成容疑者(63)。父を懸命に介護し、犬を可愛がる一面を知る人は、凶悪な容疑との落差に戸惑う。
「この犬は、父の生まれ変わりだと思った」
数年前、保見容疑者に捨て犬のゴールデンレトリバーを引き取ってもらった女性は、容疑者の言葉が忘れられない。関東での左官の仕事をやめ、地元に戻って介護していた父親を亡くしたばかり。心の支えを求めているようだったという。
両親の死後、トラブル続き孤立…山口連続殺人
自宅から約1キロの山中で、逃亡中の容疑者が確保された山口県周南市金峰(みたけ)の連続殺人・放火事件。
保見光成(ほみこうせい)容疑者(63)は26日に逮捕された後、遺体で見つかった5人の殺害を認めているという。県警は小さな集落で起きた凶悪事件の動機や逃亡中の足取りの解明に乗り出した。事件発覚から5日間、不安な日々を過ごした地元住民らは、安堵(あんど)する一方、やりきれない思いで逮捕の知らせを受け止めた。
保見容疑者は、中学卒業後に関東の工務店で働き、40歳代半ばの1994年に実家に戻った。
中学時代の同級生(63)によると、「高齢者相手に大工仕事や家の修理など『便利屋』のような仕事をしていた」という。
しかし、同居していた母親が2002年末に亡くなり、父親を数年前に亡くして一人になってからは、周囲とのトラブルが目立つようになった。回覧板を持ってきた住民には「ゴミだからいらない」と拒否。別の地域から移ってきた男性(70)は「自宅を訪ねても、気配はあるのに一向に出てこなかった」と話すなど、集落の住民と交流せず、孤立を深めた。
山口連続殺人、5人殺害認める 容疑の63歳男
山口県周南市金峰の連続殺人放火事件で、逮捕された無職保見光成容疑者(63)が「私がやりました」と、被害者5人全員の殺害を認める供述をしていることが分かった。周南署捜査本部が26日午後、会見して明らかにした。2軒の放火も認めており、捜査本部は、詳しい動機など、事件の全容解明を進める。捜査本部は同日午後、隣に住む無職山本ミヤ子さん(79)に対する殺人と非現住建造物等放火容疑で、保見容疑者を逮捕した。
山口・周南市連続殺人事件 男は発見時、靴をはかず下着姿 
山口・周南市の連続殺人放火事件は、発生から6日目に急展開を見せた。逮捕された63歳の男が潜んでいたのは、住民たちが避難していた公民館から1kmしか離れていない山の中だった。男は発見された際、下着姿で、靴も履いていなかった。
住民は、「よかった。これで一安心。ちょっと風でも吹けば、その人が来たかと思ってね」、「これでほっとしました。やっと普通の生活に戻れるのが、一番うれしい」となど話した。
近所の人たちからは、安堵(あんど)の声が上がった。
山口・周南市の集落で5人が殺害された事件は、発生から6日目の26日、大きく動いた。
午前9時すぎ、警察が山中で、重要参考人の男を発見した。
男が、隣に住んでいた山本 ミヤ子さん(79)に対する犯行を自供したことから、警察は、殺人と放火の疑いで保見光成容疑者(63)を逮捕した。
保見容疑者が発見されたのは、集落の人々が避難していた公民館から、1kmほど離れた山の中だった。
山口県警は会見で、「(保見容疑者は)最初は立っていて、そして疲れたように座り込んだと。(服装は)パンツ姿。上はTシャツ。靴も履いていない。『保見さんですか』と質問したところ、『そうです』と」と語った。
保見容疑者は、下着姿で、抵抗することなく身柄を確保されたという。
25日、付近の山中から、保見容疑者の衣類や携帯電話などが見つかったことから、警察は、保見容疑者が山中に隠れているとみて、集中的に捜索していたという。
逮捕後も、捜査員は、保見容疑者が潜んでいたとみられる山の中で、遺留品などの捜索を続けている。
保見容疑者は、山の中で、どのように潜んでいたのか、今のところ明らかにされていない。
保見容疑者は15年ほど前に、神奈川・川崎市から、実家のある周南市の集落に帰り、両親の面倒を見ていたということだが、両親の死後、近所の人たちとの間でトラブルが絶えなかったという。
住民は「田舎は、近所がうるさいですからね。そういうので、積もり積もったものが、噴き出したんだと思います。どうしてこうなったか、しっかり言ってほしい」と話した。
保見容疑者は、山本さんだけでなく、ほかの4人の殺害についても認めているという。
これまでの捜査で、保見容疑者の自宅からは、不平や不満をつづった貼り紙が見つかっているということで、警察は、動機についても調べを進めている。
【山口連続殺人】63歳の男を山中で発見、逮捕「死にきれなかった」
山口県周南市金峰の連続殺人放火事件で、周南署捜査本部は26日、殺人と非現住建造物等放火の疑いで保見光成容疑者(63)を逮捕した。保見容疑者は事件後に行方が分からなくなり、捜査本部が同日午前、現場近くの山中で発見し周南署に任意同行、事件への関与について取り調べていた。容疑を認めているという。事件発生から6日目。捜査関係者によると、発見された際に「死のうと思ったが、死にきれなかった」と話した。
男は殺害された5人のうちの1人の山本ミヤ子さん(79)宅の隣に住んでいた。同じ集落の周辺住民とトラブルを抱えていたとの情報があり、関連を調べる。逮捕状は山本さん宅の放火と殺人容疑で請求した。
捜査本部によると、男は、はだしに上下とも下着姿で、所持品はなかった。発見した捜査員に名前を聞かれて本人と認めた。擦り傷がある程度で、健康状態に問題はなく、自力で歩ける。
集落の63歳男逮捕=山中で確保、認める供述―5人殺害、殺人と放火容疑・山口県警
山口県周南市金峰の集落で5人が相次いで殺害された事件で、県警周南署捜査本部は26日、被害者1人に対する殺人と非現住建造物等放火容疑で、同じ集落の保見光成容疑者(63)を逮捕した。同容疑者は事件後、行方不明となっていたが、捜査本部は同日午前、付近の山中で身柄を確保。「はい、分かりました」と、認める供述をしているという。
捜査本部によると、保見容疑者は同日午前9時5分、集落の住民が避難している公民館の北約1キロの山道で見つかった。座っており、捜査員が名前を確認したところ、素直に認め、同行に応じたという。素足に下着姿で所持品はなく、負傷はしていなかった。
逮捕容疑は、被害者のうち、山本ミヤ子さん(79)を殺害し、自宅に放火した疑い。
“限界集落”での残虐事件「山口連続殺人」と「津山30人殺し」の3つの類似とは?
21日夜から22日にかけて、のどかな山里にある小さな集落が、一晩にして筆舌に尽くし難い惨劇の舞台となってしまった。
現場は市街地から車で45分ほど離れた山間部にある山口県周南市金峰(みたけ)。たった14人しかいない集落において、5人が遺体となって発見された。65歳以上が10人を占める限界集落で起きた事件、犯人とみられる男(63)はいまだ逃走中である。
周南署捜査本部がの発表によると、集落に住む貞森誠さん(71)、約60メートル離れた山本ミヤ子さん(79)方から相次ぎ出火し、焼け跡から3人の遺体が発見された。
さらに、同集落の河村聡子さん(73)と、近くの石村文人さん(80)が、それぞれ自宅で遺体で見つかった。そして、その後の司法解剖によって、頭部に鈍器で複数回殴られたような痕があり、骨折していたことが明らかに。半径300メートルの範囲内で起きた今回の事件に対し、県警は殺人事件として捜査を開始。ただ、いまだ状況証拠だけなのだろうか、警察の発表では依然として重要参考人扱いになっており、実名の発表はされていない。 
忘れ去られたような限界集落で起きた今回の事件。まるで、半世紀以上前に起きた世紀の大事件、津山30人殺しこと「津山事件」の再来のようだ。推理小説の重鎮、横溝正史が小説『八つ墓村』のモデルになったともいわれる「津山事件」と、今回の「山口連続殺人事件」にはいくつかの類似点があることに行き着いた。
現場の類似: 限界集落
「津山事件」は、1938年(昭和13年)5月21日午前1時ごろ、岡山県苫田(とまだ)郡西加茂村大字行重(ゆきしげ)の貝尾部落とその隣の坂本部落を舞台に、都井睦雄(といむつお・22歳)が、わずか1時間半の間に村人30人を惨殺した事件である。この人数はテロや複数犯による犯行をのぞけば、20世紀に入ってから全世界で5番目に多い数とされている。当時の記録によると、貝尾部落は全戸数23戸、人口111人、その隣の坂本部落は全戸数20戸、人口94人という小規模な集落であった。交通網が発達していなかった時代、都会から離れた山奥の集落という環境なだけに、ただでさえ閉塞的な社会の中で隔離されるように受ける差別、そして世の中が戦争へと突き進んで行く絶望的な状況、精神的限界集落ともいえよう。「限界集落」という言葉は、過疎化や山村部での問題にようやく光が当たり始めた1991年に大野晃長野大教授が名付けたのだが、集落の持つ閉塞性に関しては似ている所がある。
犯行動機の類似: 病による劣等感
○ 「津山事件」 / 都井は、当時不治の病と言われた「肺結核」に冒されており、それが理由で徴兵にも参加することができなかった。徴兵は英雄視されていたが、行かないとなると相当な差別を受ける時代であった。大正、昭和にかけてで、日本では長い間、死因として最も多かったのが結核であり、「亡国病」とまで言われた。結核に対する知識不足から、相当な差別的な扱いを受けていた都井は、日ごろから住民に並々ならぬ恨みを持っており、犯行に至った。また、結核が原因で交遊関係のあった女性に拒絶されたことも一因とされている。
○ 「山口連続殺人事件」 / 今回の山口連続殺人事件で最も疑わしいとされている犯人(仮にAとしよう)は、金峰地区出身で、10〜15年ほど前まで神奈川県川崎市で20年ほど左官職人として働いていたが、現在他界している両親と暮らすために戻って生活していたと村の住人は話している。その頃は近所付き合いもあったというが、両親の死後、段々と人を避けるようになり、集落の中でも孤立していった。自宅は、全焼した山本ミヤ子さん方の隣に位置し、男が山本さんに対し、大声で叫んだり、農作業の音に「うるさい」と暴言を吐いたりとトラブルが尽きず、他の住民も関わらないようにしていたという。そういった私怨が徐々に大きくなり、やがては集落全体に恨みを抱くようになったのでは? と大量殺人の典型例を出しながら語った。
また、「薬を飲んでいるから10人や20人殺しても罪にならん」などと話したことがあるといい、なんらかの病を患っていた可能性もある。
犯行の類似: 事前予告
○ 「津山事件」 / 都井は犯行に及ぶ1年も前から周到に準備をし、毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った。この頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金までしていたのである。
○ 「山口連続殺人事件」 / Aも、都井同様、犯行をほのめかす行動を起こしていた。2年程前より、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と筆で書いたような紙を窓ガラスの内側の障子に貼っていた。ともに犯行に及ぶ前から、犯行声明ともとれる行動を示していたのだ。
「自宅の窓ガラスに、『つけびして 煙り喜ぶ 田舎者』と毛筆で手書きした紙を貼っていた。…数年前に集落に戻り、犬と暮らしていたようです。事件前後から行方がわからなくなっており、県警が重要参考人として行方を追っています。殺された石村さんは生前、この男について、『家に閉じこもっていて変だ』と語っていたといいます。周辺住民とあまり付き合いがなく、近所同士でトラブルがあったという話もある。集落では浮いた存在だったようです」
その後の展開は?
都井は、犯行後山中にて自殺したが、その後の貝尾集落は崩壊への一途だった。今回の犯人の生死はわからないが、たった14人しかいなかった限界集落での犯行、この集落もまた消滅せざるを得ないのではなかろうか。先進国として飛躍していく日本。しかし、その裏側で起きている現状にも目を向けなくてはならない。そう、警鐘をならしているようにも思えるのだ。 
 
山口連続放火殺人事件 3

 

「連続放火殺人」の集落で見たものは… 山口・八つ墓村あれから起きたこと
山口県周南市の限界集落で起きた5人殺人事件には、いまだに多くの謎が残されている。事件が起きてから1ヵ月が過ぎたいま、あらためて真相を探ってみると、驚くべき事実が浮かび上がってきた。
そこに入ってはいけない
「保見の家の中を見たことはないだろ。居酒屋風になっとるんだ。サロンみたいになっていて、いつでもお客が来られるようにしていたんだよ。言ってみれば彼は泣いた赤鬼≠ネんだ。保見という心の弱い赤鬼が、人に認めてもらえない寂しさを爆発させ殺人を犯してしまったんだよ」(保見光成容疑者をよく知る知人)
7月21~22日にかけて山口県周南市で起きた5人連続殺人事件から1ヵ月が過ぎた。5人全員を木の棒で撲殺、うち山本ミヤ子さん、貞森誠さん・喜代子さん夫妻に至っては殺害後、住宅に放火までされるという凄惨な事件だった。
過疎が進む地方の集落で起きたこの事件は、多くの人々に横溝正史の小説『八つ墓村』を思い起こさせた。保見光成という得体の知れない男が起こした凶行の裏には、いまだ多くの謎が残されている。事件から1ヵ月が経ったいま、八つ墓村≠ヘどうなっているのか—。
事件が起きた集落はいまどうなっている?
事件が起こった周南市金峰地区郷集落は、全部で8世帯のみ。集落は道路を挟んで2つに分かれており、片方の地区には保見と山本ミヤ子さん、貞森さん夫妻が住んでいた3軒がある。ここは隣の集落・菅蔵につながる道路が通っているため、保見が逮捕された翌日から規制が解かれている。しかし、保見の自宅と、山本、貞森宅の前はいまだ立ち入り禁止のままなのだ。
道の反対側には残りの5家族が暮らしているが、事件から1ヵ月経った今でも規制は解かれていない。地区の真ん中を走る道路の端から端まで規制線で遮られていて、地域住民と警察関係者、親戚、知人しか中に入ることができない。
周南署の副署長によると、9月いっぱいは規制を続けるという。
事件をくぐり抜けた集落の住民はどうしている?
今回の事件では、郷集落の8世帯12人のうち5人が殺害された。そんな状況の中、集落の生き残りとなった人々は何を思い、どう暮らしているのか。集落の近隣に住む男性が言う。
「いまあの村に残っている人たちは、外に出る用事もないし、家の周辺で農作業や草刈りをしとるぐらいやな。彼らもこの事件をどう受け止めればいいのか、まだわからんのだと思う」
事件後も郷集落の住民と会っているという人物は、彼らの心境についてこう話した。
「事件から1ヵ月経って、少しずつ住民たちも落ち着いてきているよ。いつまでも怖がってばかりもいられないしね。事件のことも、特に話題にしたりしない。それでも、これから自分たちがどうしていくのか、どうやってこの地域を守っていくのか、みんな心配しているみたいだ」
遺骨は帰宅できず
犯人の家は今どうなっている?
保見の自宅は立ち入り禁止の規制が敷かれ、ガレージにビニールシートがかけられているため、中をうかがうことはできない。が、多くのメディアが取り上げたように、保見の家は集落の中で一風変わったムードを漂わせている。
敷地内には2棟が並んで立っており、片方は木造、もう一方はタイル張り。奇抜なのはタイル張りの方だ。保見は中学卒業後に上京し、神奈川県川崎市で左官の仕事をして暮らしていた。'94年に帰郷し、実家で両親の介護にあたる一方、左官の技術を生かし、集落の家の修繕を引き受けるなどしていたという。タイル張りの建物も自分で建てた。
玄関前にはオブジェや陶器の人形が置かれ、屋根からはCDが連なるような形でぶら下がっている。玄関横には上半身だけのマネキンが立っており、胸の部分には乳房をかたどるようにCDがつけられている。
とにかく人とは違う方法で自分を表現しようとする保見。この自宅も、そんな保見の自己主張が表れたものなのだろう。
被害者たちの葬儀は行われたのか?
5人もの住民が殺害された今回の事件。被害者たちの葬儀は行われたのだろうか。近隣に住む住民が言う。
「被害者たちの葬式はもう全部終わったよ。親族を集めた密葬みたいな感じでやったと聞いちょる。そのなかでも、石村文人さんの葬式が一番先に行われた。その後に山本ミヤ子さんがやって、貞森さん夫妻は一番最後にやった。実は、犯人が逮捕された頃までにはもうみんな終わらせたんや」
遺族たちはお盆をどう過ごしたのか?
前出の近隣住民は続ける。
「河村聡子さんと石村さんの遺族は、まだ警察の検分なんかで家に入れんから、お寺に骨を預けていると言っとったな。河村さんの旦那さんはいま自分の娘のところにおるんや。9月にならないと親族も自宅に入れないようだ。盆の前に石村さんと山本さんの親戚の家に寄ったけど、遺族の人たちは犯人に対しては何も言うとらんかったな」
いじめはあったのか?
保見と郷集落の住民との間には深い溝があり、軋轢が生まれていた。そのなかで注目を集めたのが、郷集落の住民が保見に嫌がらせをしていたといういじめ情報≠セ。
一部では、草刈りの際、保見の農機具が草と一緒に燃やされてしまったとか、飼っている犬が臭いと文句を言われ農薬をかけられたなどといったトラブルも報道されている。また保見は2011年に「集落の中で孤立している」「近所の人に悪口を言われて困っている」と周南署に相談した事実もある。そのため、保見が閉鎖的な集落で疎外され、いじめに対する不満が爆発したのではないかという同情論≠煖Nこった。
犯人が出していたサイン
では、実際にいじめの事実はあったのだろうか。郷集落で暮らす住民の一人が重い口を開いた。
「メディアは、よってたかって彼をいじめたと報道していますが、誰もいじめていませんよ。溶け込まなかった彼の弱さもありますし、被害妄想だと思う」
他にも、住民の側からは保見に対して「家の周囲に勝手に除草剤を撒かれた」「殺してやると怒鳴られた」などの訴えが出ている。先の住民が続ける。
「こういう小さな地区では和が大切なんです。それを彼に教えてくれる人がいなかったんだと思う。彼は両親が亡くなってから集落の人たちとの関係がおかしくなった。みんな、そこまで彼が切羽詰まっていたことがわからなかった」
保見としては、村八分にされた心境だったのだろうか。実際にいじめがあったのか、それとも妄想の産物だったのか。犯行動機に関わる重要な点であるだけに、早急な事実の解明が求められる。
「つけびして」の貼り紙の真意は?
今回の事件で、その不気味さの象徴として扱われてきたのが、保見の自宅窓に貼り付けられていた『つけびして 煙り喜ぶ 田舎者』と俳句もどきの一文が書き殴られた一枚の紙だ。
事件発生当初からこの貼り紙は様々な憶測を呼んだ。例えばつけび≠ニいう言葉が放火を連想させるため、貼り紙自体が保見の「犯行声明」だとする説。しかし一方では、集落の人たちが農作業後に燃やす田畑の煙が、保見の家の方向に流れ、迷惑をこうむっていることに対する「抗議」ではないかという解釈もされ、貼り紙の真意は謎に包まれたままだった。
逮捕後、保見はこの貼り紙について、担当弁護人に「つけびして≠ヘ、集落内で自分の悪い噂を流すこと。田舎者≠ヘ集落の人を指す。(紙を貼りだしたのは)周囲の人たちの反応を知りたかった。自分の中に抱え込んだ気持ちを知ってほしかった」と語った。
貼り紙は、村人たちに自分の寂しさに気づいて欲しいという、保見なりのサインだったというのだ。しかし、一般的に考えればこの貼り紙は住民にとっては不気味であり、真意を図りかねるものだったろう。人に何かを伝えたいのに、屈折した方法でその感情を表に出してしまう。このエピソードからも、保見の複雑で人に誤解を与えやすい性格が浮かび上がってくる。
犯人は今どこにいる?
事件発生から5日後の7月26日、自宅から約1kmの山中で身柄を拘束された保見。県警は同日、任意同行先の周南署で山本さんに対する殺人及び非現住建造物等放火容疑で逮捕し、翌日、山口地検に送検した。
その後、保見は周南署に戻り勾留されていたが、8月5日に地検は10日間の勾留延長を山口簡易裁判所に申請。続いて15日には貞森さん夫妻に対する殺人等の容疑で再逮捕。17日に送検された後、再び周南署に戻り、現在も取り調べが続いている。河村さん、石村さんの殺人容疑についても、近々逮捕、送検されるとみられる。
通常、刑事事件が起きた際には容疑者逮捕から最大で23日以内に起訴・不起訴が決定する。しかし本件で保見は複数の殺人を起こしており再逮捕が繰り返されるため、起訴が決定するのはまだ先となる。
犯人はいま何を語っているのか?
逮捕された直後の周南署副署長の話によると、保見は事情聴取に対して暴れるような様子もなく、大人しく捜査官の話を聞いていたという。ただ、自分が殺害した被害者たちとの関係などに言及できる状態ではなかったようだ。
逮捕から日が経つにつれ、「被害者や遺族に対して申し訳ない気持ちがある」と弁護人に話すなど、少しずつ事件についての思いを語り出している状況だ。しかし、遺族に対する謝罪の弁を述べた直後に「過去にいろんなことがあった」という言葉も漏らしたという。5名もの人間を殺しながら、被害者たちに対する恨み辛みはなくならないようだ。
また、保見は事件当日に大量の睡眠薬を摂取し、当時の記憶が曖昧だと語っているという。犯行当時の責任能力に関わるこの問題は、今後大きくクローズアップされる可能性がある。
愛犬とは永遠の別れ
弁護人はどんな人がついているのか?
事件の担当弁護人は、山田貴之弁護士と沖本浩弁護士の2名。両氏とも山口県弁護士会所属で、国選弁護人として選任された。山田弁護士は、山口地検と山口県警に対して、取り調べの全過程を録音、録画する全面可視化を申し入れ、また保見との接見を毎日行うなど、意欲的な弁護活動を行っている。
今後、保見の代弁者である両氏の役割は極めて重要となってくる。
犯人の親族はどうしている?
郷集落からおよそ10km離れた場所に住んでいた姉は、保見が逮捕された直後に事件の混乱を避け、身を隠した。現在でも姉の家には人が戻ってきた様子はなく、もぬけの殻のまま。事件が落ち着くまでは、家に戻ることはおそらくないだろう。
愛犬はどうなった?
保見は自宅でゴールデンレトリバーを飼っていた。オリーブという名前で雄の8歳(推定)。事件後家に置き去りにされていたが、事件発生から4日後、動物愛護団体によって保護された。ところが翌日、保見が身柄を拘束された1分後に急死してしまう。
ことの経緯が、愛護団体のブログに詳しく書かれている。それによると、愛護団体は事件発生後、市から相談を受け犬を預かることになった。市の職員が犬をケージに入れて運んできたが、同団体にはシェルターがないことや、飼い主が殺人事件の容疑者であるため犬の安全を考慮して、近県の団体に受け入れを依頼。動物病院で受診後、その団体に託した。
スタッフによると、食欲もあり落ち着いた様子だったというが、7月26日朝、状態が急変。動物病院へ緊急搬送されたがそのまま死亡した。死因は心臓発作だという。愛犬は、自分の主人と二度と会うことはできないことを悟っていたのだろうか—。
事件から1ヵ月が経った八つ墓村≠ノは、いまだに深い傷跡が残されている。住民の傷が癒える日はいつ訪れるのだろうか。 
 
山口連続放火殺人事件 4

 

保見光成がかわいそう…、裁判で死刑判決が出たが、事件の真相を追求!
保見光成がかわいそう…!?裁判で死刑判決を受けたのにどうしてだ…?保見光成がかわいそうと言われているが、それは一体なぜだ?
2013年7月、山口県周南市で山間の集落にて男女5人が殺害され、自宅を放火されるなどして、殺人と放火の罪の容疑で、保見光成(65)が逮捕されていた。そしてつい先方、山口地方裁判所にて保見光成被告に死刑判決が言い渡された。
これまで、保見光成被告はずっと「無実」を主張してきた模様。それは少し無理な気がするが…、
そこで、検察・弁護士双方は被告のことを「妄想性障害」だったとしたとして、責任能力が有るか無いかまたはどの程度か?これが争点となっていたようだ。
検察側は、「犯行は被告の元々の性格に基づく判断により実行されたもので、完全責任能力がある」このように判断を下し、有罪で死刑判決を要求。
弁護士側は、「被告には妄想の影響で判断する力がなく、責任能力はないに等しいか著しく低下していた」以上の判断で、無罪を要求。
裁判の結果は、ご覧の通りだ。保見光成被告は、死刑判決とみなされることとなった。
しかし、実はこの判決に意を唱える者も少なくない、というのが事実でもある。裁判での死刑判決に関して”かわいそう”という声が挙がっているのだ。
保見光成被告がかわいそうとはどういうことなの?
それは、保見被告が置かれていた環境がこのような批判を呼んでいるようだ。彼は、住んでいた地域から様々な仕打ちを受けていたのだという…。その仕打ちの内容というのが実に酷いものだった。
人物像も語られているが、それを考慮に入れたとしても周南の放火殺人事件を起こしたのは、地域からの仕打ちに他ならない…、と思えてならないのだ。
以降では、保見光成被告が受けてきた周南市でのかわいそうな仕打ちの内容、
今回の裁判は死刑判決で本当にいいのか?ということを記していく。
保見光成がこれまで受けてきたかわいそうな仕打ちとは一体…?周辺住民の反応も!
山口県周南市で起きた男女5人の殺害放火事件。その犯人として逮捕された保見光成被告だが、事件を起こしたきっかけその原因とはなんだったのだろうか?個人的な意見も混ぜて表記していこうと思う。
先ほども話していたが、保見光成が受けてきたかわいそうな仕打ちはこれだ。
○ 親の介護のため44歳で帰省、村人のあらゆる雑用をずっとさせられる
○ 一番若いからという理由で草刈を全部一人でやらされる
○ 自費で買った草刈り機を燃やされる
○ 近隣住民に物を取られる
○ 自宅を放火される
○ 集会で胸を刺される
○ 先祖の墓が倒される
○ 退職金を配るよう強要される
○ 村おこしを反対される
○ 農薬を撒かれる→愛犬一匹目死亡
○ 保見光成氏の逮捕直後、愛犬二匹目死亡
これが仕打ちというやつだ。もはや、かわいそうないじめにしか見えてこないのは私だけだろうか??
さらにさらに、周辺住民からは事件後にはこんな反応が。
”ちょっと鋭利なものが当たったくらい”
”機械を忘れて帰ったら次の日に草と一緒に焼いてしまった”
このような事実が判明していたら、事件として発覚していたのではないだろうか…。そもそも、このような会話がでているのに無視して事件だけで判断しているのは正しいのだろうか…?
今回の裁判の死刑判決だが、私自身はあまり良いと判断とは思えないのだ。
たしかに、どんな事情があったとはいえ、殺人・放火は重罪だ。しっかり服役して罪を償うのが筋だろう。しかし、死刑判決というのはどうなのだろうか、やりすぎなのではないか?
ニュースでも、保見光成被告が置かれていた環境というのには、一切触れてはいなかった。むしろ、そこを考慮した上、結論を出していくべきではないのだろうか?
保見光成の精神状態を考えたら、「妄想性障害」と言われても仕方がないように思える。
裁判で責任能力は保持されていたとして、死刑判決になったと思うのだが、保見光成の内情や心境というものもしっかり考慮してもらいたいものだ。
私自身では、せめて減刑…、くらいはしてもいいように感じるが。今後も、もしかしたら動きがあるかもしれない。
全てを晒し、真相を明らかにした上で公正になされた裁判の結果を見届けたいと思っている。 
 
山口連続放火殺人事件 5

 

弁護士の会見
8月26日、山田貴之弁護士および沖本浩弁護士の2人が、山口県周南市にある「徳山保健センター」で会見を開きました。以下、その会見での弁護人の発表内容です。
「少なくとも保見さん自身の認識では、自分について悪い噂が流されている、あるいは周りの人から監視されている、という意識を強く持っていました。」
「『事件の日のことはすっぽり抜け落ちてしまっていて、真っ暗なんだ』ということを言っております。」
「(殺害した順番に関しては)最初に貞森さんの家に行った、次に山本さん、次に石村さん、最後に河村さんの家だという風に言っております。」
逮捕後の保見容疑者の様子・供述・流れなど
・取り調べに素直に応じている。
・5人の被害者全ての殺人事件に対して「私がやりました」とおおむね認める。
・顔や足などに複数の擦り傷・切り傷があるが、健康状態に異常はない。
・7/26の昼食は完食、7/26の夕食と7/27の朝食もほぼ完食。
・7/26の就寝時間も、特異なところは見られていない。
・7/27夕方、山口地裁で勾留手続きが行なわれた。
・7/31、保見容疑者の弁護人が山口市で記者会見。保見容疑者は被害者と遺族に対して「申し訳ない気持ちがある」と話している。また、逃走の際には自宅から睡眠薬とロープを持って出て、山中で自殺を図ったという。
・8/5、山口地検が山口簡裁に10日間の勾留延長を申請し、認められた。
・事件の動機について「集落でトラブルがあった」「犬のふんの処理について注意された」「犬を殺すために田んぼに農薬をまかれた」などとする”被害者への不満”を供述。また、「被害者5人全員に恨みがあった」「5人を同じ木の棒で殴って殺した」「悪口を言われた」などと供述。
・保見容疑者は殺害した順番に関して「貞森誠さんと喜代子さん夫婦、山本ミヤ子さん、石村文人さん、河村聡子さんの順番で家に侵入し、殺害した」と供述。
・8/15、貞盛さん夫婦に対する殺人と現住建造物等放火の容疑で再逮捕。
・8/17、上記の容疑で山口地検へ送検。
・貞森さん夫婦と山本さん殺害については関与を認めているが、石村さんと河村さん殺害については、「弁護士と相談してから話します」と認否を保留している。
・9/5、石村文人さんと河村聡子さんへの殺人容疑で再逮捕。
・「なぜその日に事件が起きたのか全くわからない」などと、事件当日の記憶がほとんどなく、あいまいな供述が続いている。
・9/16、弁護人が精神鑑定を要請。近く裁判所に鑑定留置を請求する方針。
・9/17、鑑定留置を開始。
・12/20、鑑定留置が終わり、刑事責任を問えると判断される。
保見光成容疑者(63)を非現住建造物等放火罪・殺人罪で逮捕
山口県警は7月26日の13時35分、山本さんに対する非現住建造物等放火罪・殺人罪で保見光成(ほみ こうせい)容疑者(63)を逮捕しました。
保見光成容疑者は容疑を認めており、捜査員による事情聴取にも特に抵抗することなく応じているということです。
また貞森さん夫婦ら他4人の殺害に関してもおおむね認めているようで、今後、事件の実態が解明されるまで時間はかからないのではないかと思われます。
身柄確保時の状況
県警は7月25日の午後3時ころ、保見光成容疑者の自宅から約200m離れた河村さん宅の近くに、保見容疑者の物とみられる携帯電話・シャツ・ズボンが放置されているのを発見。付近を重点的に捜索していました。
そして7月26日午前9時5分ころ、郷集落から北に約1kmほどの山中に、保見容疑者が座っているところを発見。健康状態は比較的良好だということでした。
保見容疑者はシャツとパンツのみの下着姿で靴も履いていませんでしたが、擦り傷はあるものの目立った怪我はなく、自力で歩ける状態だったそうです。
捜査員の問いに対し、「本人です」や「死のうとしたが死にきれなかった」と言い、保見容疑者は自ら名字を名乗った上で、特に抵抗することなく任意同行に応じたといいます。凶器などは持っていませんでした。
捜査車両までは自力で歩いて山を下り、車両を乗り込む際には足の泥を落とし、一礼して乗り込んだといいます。
午前11時20分ころ、保見容疑者の身柄は周南署へ到着しました。
14:30ころの周南署による記者会見
記者「自供していると聞きましたが、事実は?」
県警「事実は認めています」
「動機は?」
「今後の捜査で、明らかにしていきます。」
「発見時の様子を詳しく教えていただけますか?」
「本日、170人態勢で探していました。そのうち1班が山道を捜索しておりましたところ、座っていた容疑者を発見。シャツとパンツ姿で、靴も履いておりませんでした。捜査員が”保見さんですか?”と質問したら”そうです”と。それで身柄を確保。周南署へ連行しました。」
「所持金は?」
「ありません。」
「凶器は?」
「ありません。」
「6日経ったんですが、どのような生活を?」
「全くわかりません。今後、本人から事実関係を聞きます。」
「他の4名の被害者に関してなんですが、供述は?」
「おおむね、認めています。」
「事件の証拠は?」
「それについては、お答えできません。」
「なぜですか?」
「今後、裁判で明らかにしていきますので。事実が固まったということで、ご了承ください。」
「他の4名に関しての事実も認めているんですよね?」
「おおむね、認めています。”他の人も私がやりました”と。詳しい内容については、まだ。」
「凶器はどうなもの?」
「凶器が何かも含め、今後、捜査ではっきりさせていきます。ただ、発見時には持っていませんでした。」
山口連続放火殺人事件の概要
7月21日夜、山口県周南市金峰(みたけ)で民家2軒が全焼し、1軒から2人の遺体、もう1軒から1人の遺体が見つかりました。
2軒のうち1軒には貞森誠さん(71)と妻の喜代子さん(72)が2人で住んでおり、もう1軒には山本ミヤ子さん(79)が1人で住んでいました。
山口県警 周南署は、発見された遺体はこの3人の可能性があるとみて司法解剖をしましたが、司法解剖の結果、身元は特定できなかったそうです。
3人からは、頭部を鈍器で殴られたような外傷が見つかっており、即死状態だったといいます。同署によると、頭部を殴られたことにより死亡し、その後に放火されたとのことです。
また7月22日には、近くにある別の民家2軒から新たに2人の遺体が見つかっています。
新たな2遺体は男性1人と女性1人で、同じ集落の別々の家から見つかりました。2人は、自治会長や班長といった肩書きがあったそうです。
同署によると、2人の遺体の頭部や顔などには、鈍器で何度も殴られたような外傷があり、頭の骨が折れていたといいます。
遺体はそれぞれの家に住んでいた、河村聡子さん(73)と石村文人さん(80)と確認されたということです。
山口県警は捜査本部を設置。3人の遺体が見つかった事件と2人の遺体の関連を調べるとともに、火災現場で遺体で見つかった山本さんの住宅の隣に住む63歳の男が、2つの住宅に火をつけた疑いがあるとして、殺人と放火の疑いで男の自宅を捜索しました。
男の家からは「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と、放火への関与をほのめかす内容が書かれた紙が見つかりました。(放火への関与を示すものではないとする意見も)
この紙は、室内から窓に貼られており、外から見える形(見せる形)となっていました。
県警は”同一犯による連続殺人事件”と断定、200人態勢で男の行方探していましたが、7月23日15時現在、人員を260人に増やし捜索を急いでいます。
7月25日には男の物とみられる携帯電話や衣服が山中から見つかっており、県警は翌26日朝から70人を集中投入し捜索したところ、山にいた男を発見。
身柄を確保し、男は特に抵抗することなく周南署へ任意同行されました。
そして7月26日の13時35分、県警は山本ミヤ子さんに対する非現住建造物等放火罪・殺人罪で保見光成容疑者(63)を逮捕しました。
山口連続放火殺人事件の主な流れ
・7月21日の午後9時前、貞森さんの自宅で火災が発生。近所の住民により119番通報。
・ほぼ同時刻(午後9時過ぎ)、約60m離れた山本さんの自宅も燃えていることが判明。
・同日午後10時ころ、山本さんと貞森さん夫婦とみられる遺体が焼け跡から見つかる。
・同日夜、警察が河村さんから聞き取り調査を行う。
・深夜〜7月22日未明、河村さんと石村さんが自宅で殺害される?
・翌日7月22日の午前、前日に聞き取り調査が行われた河村さんが自宅で亡くなっているのを、親族が発見。
・また、石村さんも自宅で亡くなっているのを警察が発見。
・2人の検死の結果、頭部に損傷があり、鈍器のようなもので複数回殴られていたと思われる。
・県警は殺人事件と断定し捜査本部を設置、山本さんの隣に住む63歳の男の自宅を捜索するとともに、重要参考人として行方を探している。
・7月23日午後1時、男の自宅を捜索。同日夕方、捜査員を260名から400名に増員。
・7月24日から捜索範囲を広げる。
・7月25日午後3時ころ、山中から男の物とみられる携帯電話・シャツ・ズボンを発見。
・7月26日、捜査員470名に増員。山中で男を発見。身柄確保。
・7月26日午後1時35分、保見光成容疑者を非現住建造物等放火罪・殺人罪で逮捕。
・7月27日午前9時20分ころ、保見容疑者を山口地検に送検。
住民への取材から分かった放火事件当日の様子
「火災になった当日の午前11時半ぐらい、(男が)たまたま居たから”暑いのう、こんにちは”と言ったら向こうも答えてくれた。その際、特に変わったところは無かった。」
「(山本さん宅が)メラメラ燃えていた。本当に怖かった。凄く燃えていた。」
「貞森さんの家が真っ赤っかになっとった。」
「消防本部も色んなところがあったけど、上(貞森さん宅)を誰も消しに入らない。」
「下の山本さん家が燃えるほうにホースが引っ張ってあるから、車が下から上によう上がらんかった。」
金峰地区とは
山口県周南市金峰地区はJR徳山駅から北東に約16kmの位置の山間部にあります。周囲は山に囲まれており、携帯電話の電波も入らないほどといいます。
金峰地区には小さな集落が複数あり、事件現場となった集落は郷(ごう)集落という名称の集落です。郷集落には寺や公民館があるほか、8世帯14人が暮らしていました。
過疎化が進み、ここ15年で人口が急激に減少。周辺には廃屋も目立ちます。バス停があるもののその本数は少なく、鉄道はもちろんありません。車が無いと生活が難しいような集落といいます。
住民14人中10人が65歳以上の高齢者で、いわゆる”限界集落”といわれるような場所です。
住民が非常に少ないこともあり、住民同士は非常に仲が良く”家族みたいなもの”、ゲートボールなどをして遊んだりしていたようです。
日本の昔ながらの原風景が残る、自然豊かで物静かな集落です。
張り紙の真意
つけびして、煙り喜ぶ、田舎者(かつを)
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者 (かつを)」と書かれた張り紙がされていました。
この張り紙は、2年〜3年約10年ほど前から張られていたそうです。
紙に書かれた言葉はどういう意味を表すのでしょうか?
放火をほのめかす説
まず、報道当初から各マスメディアが行なっていた報道によると、「放火をほのめかすもの」ということでした。
”つけびして”とは、”家に火をつけて”という意味。
”煙り喜ぶ”とは、”火をつけた家から煙が出ているのを見て喜ぶ”という意味。
”田舎者”とは、”自分自身”です。
心理学関係の専門家は、自分自身を”田舎者”と表現していることから、”男は劣等感を持っているのではないか”、ということも話していました。
確かに、放火事件が起きた直後にこの紙を見ると、大体の人は”放火をほのめかすもの”と思うでしょう。私もそう思っていました。
しかし男と付き合いのあった知人男性により、新たな証言が出て来ました。
住民に対するメッセージ
以下、容疑者と見られている男の、知人男性からの証言です。
「付け火っていうのは、この辺りの農業をする人は畑や田んぼの草を刈ると、後で燃やすという風習があるんです。すると煙が立ちますよね。それを見ながら、秋とか冬であれば寒くなるから、暖を取りながら談笑しながら燃やしている。男にとって煙がこっちにきておもしろくないな、そういうメッセージを送りたかったんじゃないかな。」
どうでしょう。
”つけびして”とは、”焚き火して”という意味。
”煙り喜ぶ”とは、”焚き火でのぼる煙を見ながら談笑している”という意味。
”田舎者”とは、”談笑している住民”です。
私はこれを聞いた時、”まさにこれだ”と思いました。
「自分に劣等感があり、自分を卑下して”田舎者”と書いている」と専門家が言っていましたが、何となくしっくりこないというか、私の中で引っかかる部分がありました。
が、知人男性からのこの証言は、まさにガッツリ当てはまりますよね。
男は、郷集落の住民から仲間はずれにされ嫌悪感のようなものを抱いていたでしょうし、さらに都会から郷集落(田舎)へ移り住んでいるので、住民を”田舎者”と表現することは理にかなっています。
真相は男しか知り得ないですが、私の個人的意見としては、上記の知人男性からの証言が最も当てはまっているかと思います。
さらに、ネット上では別の意見も見られました↓
ネット上での意見
”つけびして”とは、”悪い噂を流す”という意味。
”煙り喜ぶ”とは、”悪口で盛り上がったり、笑い者にする”という意味。
”田舎者”とは、”郷集落の住民”です。
確かに、これも考えられますね。
容疑者とみられる男とは
男の年齢は63歳、現場となった山口県周南市金峰地区・郷集落の出身でしたが、集落を出て神奈川県川崎市で仕事をして暮らしていました。
約19年ほど前から郷集落の実家へ戻り、両親とともに暮らしていたようですが、数年前までに両親は他界し1人暮らしとなっていたようです。
両親が他界してからは、周囲の住民との交流はほとんど無かったといいます。
自治会にも入らず住民が挨拶をしてもほとんど無視に近い状態、市の広報も回覧も受け取らず近所付き合いは一切なかった、と近隣住民が証言しています。
さらに、男が犬の散歩をしている際に犬が道路脇にフンをしたため、貞森さんが「フンを持っていけ」と注意すると、男は怒って「血が見たいのか!?」と言っていたという証言や、「薬を飲んでいるからあれしても(=殺人?)刑には服さん」と言っていたという証言もあります。
ただし男と交流のあったという知人による証言では、「優しい人だった」や「郷集落の住民と仲良くしたいと悩んでいた」というような証言もあり、男を非難する住民(郷集落の住民)と、男を擁護する住民(近くの集落の住民)とで証言に食い違いがみられています。
男は精神安定剤を服用していたということから、郷集落の住民による様々な嫌がらせ・村八分によるものか?(後述)という疑惑が浮上しています。
自宅の様子としては、玄関前に様々なオブジェが置かれ、2台の車を所有(ナンバーは共に「1001」)、防犯カメラが設置され、飼い犬を2匹飼っていました。
犯人とみられる男の生い立ち
・1949年、山口県周南市金峰地区で生まれる。
・1965年前後、学校を卒業し15歳で上京。神奈川県川崎市で左官職人として働く。
・1994年前後、両親の介護のため周南市金峰の郷集落に戻る。
・2000年代後半、母親が亡くなり父親と暮らしていたが、父親も死去、1人暮らしに。
・2011年元日、山口県周南署を訪ね「つらい立場にある 村で孤立している」と相談
集落の住民や男と付き合いのあった人からの話
「肩幅もありガッチリとした体型」
「つかみどころがない」
「罵声や暴言を浴びせられた。」
「回覧板を”ゴミになる”と拒絶された。」
「みんな仲良しの集落なのに1人だけ浮いた存在」
「自宅に防犯カメラを付け、時々、大声で叫ぶこともあった。」
「”近所の神社の掃除をしよう”と言っても”私はやらん”などと拒む。」
「地元の学校を卒業後、1人で神奈川県に左官職人として移り住んだ。」
「荒れた田にヤマザクラを植える取り組みが行なわれていたが参加することはなかった。」
「犬が寄ってきたから”わっ”と手を上げたら”犬をたたくのか。叩き殺す気か”と怒った。」
「山本さんとは、仲が良い方じゃなかったと思うよ。暴言も吐いてたね。”バカもの”とか”殺してやる”とか。」
「井戸端会議に割り込んできて、”俺は薬を飲んでいるのだから、10人や20人殺したって罪にならない”と脅された。」
「両親が亡くなって1人で生活するようになってからは、引きこもりがちになって、その辺りから理解し難い言動が目立ってきた。」
「365日誰とも会わないというか、声をかける人もいないし、こちらからも話をかけないから、ストレスもたまって飼い犬だけに話をしていた。」
「挨拶何もしませんからね。我々は頭下げますけど。知らん顔ですよ。挨拶しても知らん顔。お父さんが亡くなってから変になっていったんだと思う。(男は)変わっとる。何話聞いても返事しないわけですから。」
「川崎(神奈川県)の方でタイル職人をしていて、15年ぐらい前に帰ってきて、自分で家を建てたということでテレビに出たんですよ。」
「いい人だったんですよ。何年か前まではね。それが、だんだんゆがんできたんですよ。」
○ 男と付き合いのあった人
「いや、そんなこと(他の住民の証言のような)ないよ、優しい人だよ。」
「親思いで献身的に介護をしていて、優しい性格だった。」
「捨て犬を引き取ったりという側面も持っていた。」
「神奈川県から郷集落に戻った際、村おこしをしようと率先して働きかけたけど、周りは高齢者ばかりで理解が得られなかった。」
「明るい性格です。私たちとは和気あいあいとしていた。ちょっかい出す者には”おい、お前やめろや”と言って、結構優しい男だったんですよ。すごく優しい男だったんだがなぁ。」
○ 男と20年来の付き合いがある男性
「両親が生きてる時は隣近所との付き合いも上手くいってたんだと思う。ただ1人になってから、隣近所の人(郷集落の住民)とちょっと上手くいってないんだと聞いたことがある。」
「外(都会)に出ているとそういう(田舎での)付き合いがなかったんじゃないかと思う。どうやって仲良くしたらいいのか本人が迷っていたのではないか。」
「自分で人をもてなすためのカウンターバーを家の中に作って、”(住民の)みんなを接待したい”と言っていた。(作業を押し付けられていた件に関しては)若い分、少し年配の方より作業が多くなるということがあったかもしれませんね。」
○ 男に犬を引き渡した方
「”この犬の目は僕の父によく似ているから僕に飼わせてもらえないか”と話しに来られたんですよ。物静かな方で、とても真面目な方という印象を持ちましたね。悪い印象は全然なかったです。」
「”まるで親父のようだ(犬が)”と言い、父親の生まれ変わりのように可愛がっていた。」
「犬を引き渡した後、定期的に犬の元気な姿の写真を送ってきたりしてくれて、とても優しく、犬も大切に育ててくれているようだった。」
「ちょっと大柄で、とっちかというと言葉少ない感じ。とにかく礼儀正しい方。すごく優しい。」
○ 男の姉の話
「親の面倒をみるからと言って帰ってきた。父親の具合が一時悪かったが、弟が帰ってきてから具合が良くなって死ぬまで一緒にいた。(両親が)死んでから7〜8年になる。」
「おとなしい性格。やぁやぁ言ったりもせんし。怒りっぽかったところも、私らにはなかった。やぁやぁ言ってケンカするほど文句もとおりゃせんし。」
「(最後に弟と会ったのは)先月のはじめ。6月の3日とか4日とか。変わった様子は無かった。」
「気が小さいというか、口数は少ない性格。早く見つかればいい。」
○ 要注意点
男と付き合いのあった人とは?20年来の付き合いがある男性とは?結局、男は”孤立していた”と言っているが、8世帯14人の中には仲良くしている人もいたの?
こういった疑問が生まれるかと思いますが、7/24のマスコミによる取材から、”男と付き合いのあった仲の良い人は、郷集落とは別の集落で、郷集落から少し山を下りたところにある集落の住民”だということが分かっています。
つまり、郷集落の8世帯14人の中で、男は完全に孤立していた可能性が高いと思われます。
専門家による分析
少人数の人々の中で被害的な思い込みが重なって、それが強い憎しみへと発展していったのではないか。
殺害後に火を付けるという行為は、殴った上にさらに攻撃を加えるという、非常に強い攻撃性を見ることができる。
非常に強い恨み、それに伴うサディスティックな凶暴性を感じる。
火災で騒ぎが起こり始めた段階で第2・第3の犯行を行なうということ自体に「俺様の手並みを見ろ」とでも言いたげな自己愛的な興奮が見て取れ、スリルを楽しむ大胆なところがある。
○ 不審な張り紙や様々な置物に関して
「田舎者」と自分自身のことを卑下するような書き方がされている。
自分にレッテルを張ってわざわざ外に見えるように張り出し、外に向かっては非常に自分の強い姿勢を誇示しながらも、自分の中では強い劣等感を持っていたのではないか。
誇示するものをごちゃごちゃ自分の周りに積み重ねて、周りに対して威圧感を与える。
置いてあるものを見ると、自分自身のことを誇示したい、そういう心理状態が見て取れる。
津山事件の再来か?
津山事件(津山三十人殺しとも言われる)とは、1938年に、現在の岡山県津山市にあった全23戸の村の集落で発生した大量殺人事件です。犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいいます。
わずか2時間ほどで30人もの村民が死亡し、死者数がオウム真理教事件(死者27名)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件(さつりくじけん)です。
津山事件との共通点
都井睦雄は友人が皆無に等しく、自宅の屋根裏に部屋を作ってほとんど外出しなかったという、現代で言う「ひきこもり」でした。
人付き合いをほとんどせず、「周りの村民が自分のことを悪く言っている」というような被害妄想を募らせたことが、津山事件の犯行動機だったと見られています。
今回の連続放火・殺人事件の容疑者とみられている男も、集落の中でほとんど人付き合いをしていませんでした。
少人数で暮らす集落の中で、様々な被害妄想が膨らみ、それが段々と強い憎しみに発展していったのではないでしょうか。(本当に被害を受けていた可能性もあり)
犯行内容の大胆さからも、共通する人物像が連想されます。
男の犯行動機
まず初めに、これから記載する”男の犯行動機”は、私の独断と偏見によるものです。男を擁護するわけではありませんし、悲しみに打ちひしがれ今もなお不安な毎日を過ごしてらっしゃる郷集落住民の方を非難するわけでもありません。ただ、場合により、読んだ方を不快な気分にさせてしまう可能性がありますことを、はじめにお詫び申し上げます。
○ 男は村八分の被害にあっていた?
様々な報道を見て来ましたが、私はどうしても”集落の住民が故意に男を仲間はずれにしていた”としか思えません。
その根拠は以下の通りです。
・都会から急に戻り、良い家を建て、犬を飼い、オシャレな生活を始めた。→老人が反感?
・都会から戻った際、町おこしを積極的に働きかけたが認められず。→浮いた存在?
・集落で一番若いからと言う理由で草刈りを全部一人でやらされていた。
・草刈り機を住民に燃やされ、男は抗議。しかし軽くあしらわれる。
・住民が田んぼに農薬を撒いた際、風向きによって男性の家に農薬が大量にかかっていた。人間はほぼ無害でも、犬にとっては死亡する可能性も。→住民の故意による嫌がらせ?
・過去、郷集落の住民により鋭利な物で刺されている。
・男は精神安定剤を服用していた。→住民による嫌がらせで精神を病んだ?
・知人らの証言から、男は”住民と仲良くしたい”という悩みがあったとみられる。
・警察へ「悪口を言われており、自分は辛い立場にある。村の中で孤立している」と相談。
・取材に応じた郷集落の住民らの、男への非難証言は誇張表現をしているようにしか見えない。また、悪意が感じられる。
・男の自宅からは、郷集落住民に対する不平不満を綴った張り紙が複数見つかっている。
・犯人逮捕後、住民は「なんで生きて捕まえた」と言う。→証言されると困ることがある?
以上ですが、現時点で最も気になるのは、”郷集落の住民により鋭利な物で刺されている”という件です。
これは刑事事件にも発展しており、男は「被害者」でした。
またその際に男は一方的にやられただけで、暴行するなどやり返していません。そのことからも、近隣住民による”男の凶暴性”に関する証言も、信用性があまりありません。
住民が証言している内容ほど男が怒りっぽいのであれば、刺されておいて黙っているでしょうか。
また、男を非難するような内容を証言している住民には一定の特徴が見られ、”人づてに聞いた”、”◯◯さんが言っていた”、”◯◯さんから聞いた”など、人から聞いたとする内容が非常に多いのです。(自ら男の不自然な言動現場を目撃・体験したという証言もあります)
非常に狭いコミュニティですから、例えば1人の住民が男のことを悪く言えば、たった1人の証言だったとしても、それが嘘であれ真実であれ誇張されたものであれ、”事実”として拡散していったのではないでしょうか。
男の知人とされる方からの証言と、郷集落の住民の方の証言には、食い違いも見られます。
郷集落の住民たちは「自治会にも入らない。人付き合いしない」などと証言していますが、男も昔は自治会に入っていたそうです。
ただし、草刈などの雑用を全部一人でやらされていたというパシリ的扱いや、農機具が燃やされるなどの完全な嫌がらせ(もやは犯罪)をされたりといった過去も明らかになってきましたが、そんなことされたら誰でも自治会を抜けたくなると思いますし、人付き合いなんかしたくなくなりますよね。
また、”自治会を抜ける”という件に関しては、住民により追い出されたという情報もあります。(情報源は確かではありません)
私には、郷集落で70年も80年も暮らしてきた強烈な仲間意識のある集団のもとに、ヒョッと入ってきた男が差別を受け、イジメられ、結果的に村八分にあっていたとしか思えないのです。
○ 集落の住民
「ちょっと酒を飲んだ席のことですからね、ちょっと(鋭利な物が)当たったくらいじゃないですか?仲が悪いというのはどこでもありますよ。気が合う合わないというのは誰でもあるじゃないですか。だから…まぁ、些細なことでしょうね。」
→ちょっと酒を飲んだ席では、鋭利な物がちょっと当たってしまうことがあり、それで怪我を負わせられることがある?いくら田舎にはその田舎特有のルールがあったとしても、この言い分は無理やりすぎる気がしないでもないですね。
○ 保見容疑者の友人
「田んぼのあぜ道を刈るのに機械を使って、油代も全部保見さん持ちで出させて。本人があぜ(道)に機械を忘れて帰ったら、次の日に草と一緒に(住民が)焼いてしまった。後日、(住民は)”あれ、あなたの物だったの?”っていう感じで、いじめというか色んなことがあったみたいです。」
→草刈りを保見容疑者に押し付けておいて、「あれ、あなたの物だったの?」というのもちょっと・・・。また、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」の真意に関する予想も濃厚になってきました。
郷集落の住民たちによる村八分・嫌がらせ行為は、私個人の見解だけでなく、客観的に見ても濃厚な説になってきたように思います。
○ 金峰地区の住民(郷集落かは不明)
「(石村さんが保見さんに対して)”横着言うな”って物投げたか何かで(保見さんが)ケガしたというようなことを言っていた。そういうことやら何やら積み重なって”くそ自分ばっかし、後から帰ってきたけぇと思って”というのが頭の中にあったでしょうね。」「彼(保見容疑者)は集落に来た当時、“何か村おこしをしたい”と熱心に提案しとったんじゃが、“都会崩れが何言っとるんや”と多くの住民に反対されてしまってね。そこからちょっと疎まれるというか、“いじめ”みたいなことが起こり始めたんですわ…」「“都会から来たんじゃから、金も持っとろう。みんなのために草刈り機買って、草でも刈れ”言うてな。無理矢理やらせとった」
→石村さんの件は鋭利な物で刺された事件とは別と思われます。刑事事件にはなっていないと思われますが、この件もケガをしたそうなので立派な傷害事件です。パシリ的扱いの他、こういう暴行行為が日常的に行われていた可能性もありますね。またその他にも、保見容疑者へのイジメがどんどん明るみになってきました。
○ 保見容疑者の親族
「罪は罪であれですけど、とにかく、あらいざらい…ぶっちゃけてほしいですよね」
→”あらいざらい”とは?この親族は、保見容疑者が村八分にあっていたことを知っていたのかもしれませんね。ちょっと含みのあるコメントです。
○ 保見容疑者を知る人
「タイル屋さんだったんだけど、いいやつなんだ。神経質。仕事も相当うまかったらしい。」「6〜7年付き合ったけど、女遊びも、無駄遣いもしなかった。金はかなりためてたみたい。仕事の腕も良かった」「親の介護のために帰郷するぐらいだから、悪いやつじゃない。こっちにいるときも、いじめられた仲間をかばったり、正義感のあるやつだった。ただ、思い通りにいかないとヘソを曲げることもあった」「妙なこだわりがある男でね。昼夜問わずサングラスを掛けっぱなしにしていた。もともとはっきりモノを言うタイプだったけれど、酒が入ると理屈っぽくなる。そのせいか、酒の席でケンカになることがよくあった」
→神奈川県川崎市で付き合いのあった男性、また保見容疑者と同僚だったという男性などからの証言です。良い人だという意見がある一方、”酒が入ると理屈っぽくなる。そのせいか、酒の席でケンカになることがよくあった”という証言もありますね。
○ 部屋を貸していた大家
「今まで住んでいたアパートで喧嘩して大家さんに追い出されて、今晩泊まるところがないと言ってきた。何件も回ったんだけど、どこも断られた、と。」
→詳しく語られていないので何とも言えませんが、喧嘩っ早い部分が少なからずあったのかも?
鋭利な物で刺されたという件以外にも、新たな暴行行為が浮上しました。一方で、川崎市の方々の証言等から、現時点では保見容疑者にも何かしらの非があった可能性も全否定はできないですね。(村八分に関して)住民が悪い・保見容疑者が悪い、などというよりも、昔から郷集落全体に根付くもっと奥深い問題があるように思えてきました。ただ、少なくとも2度に渡りケガを負わされているということは、今後の捜査でもっともっと色んな暴行行為が判明してくるのではないか、と思っています。
○ 村八分による精神崩壊?
人間は、長期間にわたり1人になると狂います。また執拗な嫌がらせを受ければ、間違いなく精神は歪み、実際には受けていない被害も妄想として膨らみ、憎悪が膨れ上がり精神は崩壊します。
男の自宅からは、郷集落住民に対する不平不満を綴った張り紙も複数見つかっているということです。
男は、住民による仲間はずれにより、この何十年間の間で少しずつ少しずつ精神がむしばまれていったのではないでしょうか。
もちろん犯罪は正当化されませんし男が犯した罪はとてつもなく重大ですが、起こるべくして起きたと言える部分も少なからずあるのではないでしょうか。
私が思うに、男は逮捕されることにも死ぬことにも恐怖心は抱いていないと思います。
そのため、遠くに逃亡することは考えられず、山の中に潜伏しているか既に自殺しているかのどちらかだと思っています。洞窟などが怪しいのではないでしょうか。
もしも計画的犯行なのであれば、長い時間をかけて山の中に簡易地下シェルターなどの簡単な隠れ場所のようなものを作っている可能性もあるのでは?と個人的には考えています。
ここに書いた「男の動機」は私個人の素人による考えなので、1ミリたりとも当たっていないかもしれません。
真相は、男にしかわかりません。
郷集落で何があったのか?どういう環境だったのか? 警察には、その実態を解明してもらいたいと思っています。
そのためにも、また更なる被害者・死者を出さないためにも、男は自殺なんかせず、一刻も早く身柄が確保されることを願います。 
 
山口連続放火殺人事件 6

 

「心根優しい」親孝行な保見光成容疑者は、「鬼の住処」山口県周南市金峰の限界集落に帰郷すべきでなかった
「男児志を立てて郷関を出づ,学若し成る無くんば復た還らず,骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地,人間到る処青山有り」
これは、幕末の真宗の勤王僧「月性」(1817〜1858、周防国大島郡遠崎村=山口県大畠町=妙円寺住職)の詩である。
いまどき、志を立てて郷関を出て、立身出世を果たして、再び郷関に帰っても、知っている者は、ほとんどいない。大半が、郷関を出てしまっていたり、日本列島の山間漁村部は、「限界集落化」していたりしているので、折角、帰ってはみても、「浦島太郎」のようになってしまっているからである。
それどころか、高齢者ばかりの限界集落は、「鬼」か「山姥」ばかりの文字通り「鬼の住処」になっているところが、どうも少なくない。ジェネレーション・ギャップもあり、因習もこびりついており、本当ならば、そんな恐ろしいところに、「ユーターン」しない方が身の安全、身の幸せなのである。

国土交通省の2008年8月17日付け調査報告によると、全国775市町村に所属する6万2273集落のなかに、高齢者(65歳以上)が半数以上を占める集落は7878集落(12.7%)、機能維持が困難となっている集落は2917集落(4.7%)、10年以内に消滅の可能性のある集落は423集落、「いずれ消滅」する可能性のある集落は2220集落、合わせて2643集落という。
日本における限界集落とは、社会学者・高知大学人文学部の大野晃教授が1991年に最初に提唱した概念で、過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になっている集落をいう。中山間地域や離島を中心に、過疎化・高齢化の進行で急速に増えてきている。限界集落では、集落の自治、生活道路の管理、冠婚葬祭など共同体としての機能が急速に衰えてしまい、やがて消滅に向かうとされている。独居老人やその予備軍のみが残っている集落が多く病身者も少なくない。もはや「原野」に戻すしかないところだ。
こんなところに、40代の働き盛りの壮年が、突然、介護や看護が必要な高齢の両親の面倒を見るために帰郷してきたらどうなるか。
まず、高齢の両親は、周囲から「親孝行な息子を持ってよかったな」と羨望の眼差しで見られることであろう。介護や看護が必要な近所の高齢者は、介護福祉士や看護師に有料でサービスを受けることができても、決められた範囲以外のサービスは受けられない。家政婦の守備範囲である「家事」など細かいサービスについては、面倒を見てもらえないのである。あるいは、別途、「便利屋」を頼むしかない。いずれも有料であり、無料のボランティアを頼むわけにはいかない。
ところが、近所に「優しい心根」の親孝行な壮年が帰ってきた場合、近所の高齢者は、これ幸いに、その壮年の「優しい心根」につけ込んで、日常家事から集落の細々した雑用に至るまで、無料で便利に使い始めるようになる。それがやがて、「便利屋」のようになり、しかも、だれが無限に使ってもタダ働きとなって行く。その場合、その壮年は、一体、どういう気持ちになるか。嫌になった壮年は、両親が他界してからは、いつまでも「便利屋」であり続けることを拒否する。すると、近所からは「なぜやらないのか」と逆恨みされ、「退職金をみんなに配れ」と言われて、拒むと、やがて「村八分」にされてしまう。そして、ありとあらゆる嫌がらせを受け、その果てに、父親の目にそっくりと感じて引き取って、家族の一員として可愛がっていた「愛犬」のことを、近所から「臭い」「汚い」などの罵声を浴びせられて、「保健所に頼んで、処分しろ」と命令口調で言われる。そればかりではなく、神社一帯の芝刈をたった一人でやらされ、自費で購入した芝刈機を焼かれたり、農薬を散布されたり、いじめは、延々と続く。以前に刃物で胸を刺されたこともあり、身の危険を感じた壮年は、自宅にいくつもの監視カメラを設置したり、警察署に相談に行ったりしていた。

山口県周南市金峰の限界集落で起きた5人連続殺人放火事件の本質は、いじめ被害者が、「窮鼠猫を噛む」の如く加害者になったところにある。山口県警周南署捜査本部は7月26日、遺体で見つかった5人のうち1人への殺人と非現住建造物等放火の疑いで、無職、保見光成容疑者(63)を逮捕したのである。警察の相談業務が、機能していなかったことも、大事件を惹起した原因の一つであった。むかしのような駐在所が残っていれば、警察官に親切に相談に乗ってもらえたかもしれない。
それどころか、それどころか、保見光成容疑者が7月26日午前9時5分に近くの山中で身柄を確保されたわずか1分後の午前9時6分に、愛犬ゴールデンレトリバーが心臓発作で死んだという。犬や猫は、テレパシーで飼い主の心の動きを感知する。
この犬が保護された直後、診察した獣医が、「犬や猫の姿を見れば、どんな飼われ方をしていたかはすぐ分かる。ゴールデンレトリバーの毛もよく手入れされており、飼い主が、いかに可愛がっていたか、優しい人柄が窺われる」と話していた。保見光成容疑者は、犯行後、エサをたっぷり残して逃げたようであった。加害者と被害者の人間性の違いは、この「犬の死に姿」がよく証明している。 
 
山口連続放火殺人事件 7

 

村八分の妄想に陥った凶悪犯 ― 山口5人連続殺人・保見光成の"本当の孤独"
今年7月、山口地裁で行われた裁判員裁判で死刑判決を宣告された保見光成(65)。判決によると、保見は2013年7月21日の夜から翌22日の午前中にかけ、山口県周南市の山あいにある金峰(みたけ)の集落で、70〜80代の住人5人を次々に木の棒で頭などを殴って殺害。さらに被害者の住居2軒に放火し、全焼させた。実行したことだけを見ると、まぎれもない凶悪殺人犯である。
だが、そんな保見に対し、インターネット上では「かわいそう」と同情の声が湧き上がっている。保見が事件前、現場の集落で被害者ら住民たちから「嫌がらせ」を受けていたという情報が流布したためだ。結論から言うと、それはガセ情報だが、保見は別の意味で「かわいそう」と言える人物ではあるかもしれない――。
妄想だった「嫌がらせ被害」
山口地裁であった保見被告の裁判員裁判には多数の傍聴希望者が集まった
被告人質問が行われた7月3日の第6回公判。法廷に白い半そでシャツ、黒のスラックスという姿で現れた保見は細身のおとなしそうな男だった。逮捕当初は真っ黒だった頭髪は真っ白になり、短く刈りそろえられていた。第一印象を率直に記せば、「普通の田舎のおっさん」である。
そんな保見は逮捕当初、被害者の頭などを殴ったことを認めていたが、裁判では「脚を叩いただけ」と殺害や放火の容疑を否認。
被告人質問では、被害者らの脚を叩いた動機として、事件前に被害者ら集落の住民から受けた「嫌がらせ」の数々を切々と訴えた。しかし......。
「寝たきりの母がいる部屋に、隣のYさんが勝手に入ってきて、『ウンコくさい』と言われました」
「Yさんは、自分が運転する車の前に飛び出してきたこともあった」
「犬の飲み水に農薬を入れられ、自分が家でつくっていたカレーにも農薬を入れられました」
「Kさんは車をちょっと前進させたり、ちょっと後退したりということを繰り返し、自分を挑発してきました」
「車のタイヤのホイールのネジをゆるめられたこともあった」
このように保見が訴えた「嫌がらせ被害」はどれもいささか現実味を欠いていた。本人は話しながら感極まり、ハンドタオルで目頭を押さえる場面もあり、真実を話しているつもりなのは間違いない。しかし、集落の住民たちが保見に対し、そんな無益な嫌がらせをせねばならない必然性は何も見えてこなかった。
保見は起訴前と起訴後に各1回の精神鑑定を受け、2度目の鑑定では事件発生当時に妄想性障害に陥っていたと結論づけられている。判決はこの鑑定結果も踏まえ、集落の住民たちによる「嫌がらせ」は保見の妄想だったと認めたが、妥当な判断だ。インターネット上で巻き起こった保見への同情論は、まぎれもなく被害者や現場住民に対する「二次被害」だろう。
友達や女の話はほとんどなし
ただ、保見が法廷で語った半生には、正直、身につまされた。
保見は姉3人、兄1人がいる5人姉弟の末っ子として金峰地区に生まれた。小学校は1学年12〜13人の小規模で、同じ集落に同級生はいなかった。中学卒業後は2、3人の同級生と一緒に岩国市の会社に就職するが、派遣された現場で「寝る場所が汚かった」ことを理由に3カ月ほどで退職。そして東京で左官をしていた兄を頼って上京し、自分も左官になった。
その後、千葉や川崎で20年以上、左官として働いたが、どこの現場でも悪い評価はされなかったという。「自分は仕事が速いんです」。そう語る保見は少し誇らしげだった。経済的にも不自由していなかったようで、川崎在住時代はスナックによく飲みに行っていたという。
ただ、保見の話には、その時々で仲の良かった友達や交際していた女の話がほとんど出てこなかった。何か趣味があったという話もない。当時の保見は仕事以外では、スナックで店のママや常連客と多少会話を交わす以外にあまり他者との交流がなかったのではないかと想像させられた。
ひとりで両親を介護していたが......
そして保見は40代になり、「子どもの頃に見ていた金峰の景色が忘れられなかった」と故郷の金峰にUターン。高齢者ばかりの過疎地だが、「バリアフリー関係の仕事をすればいいと思っていた」という。具体的には、家の中に手すりをつけたり、段差をなくしたりする仕事を考えていたようだが、その見通しは甘く、仕事には恵まれなかったようだった。
一方、金峰に帰った当初は元気だった両親は次第に老い、保見がひとりで両親の介護をすることに。保見が50代になった頃、最初に母が、ほどなく父も亡くなった。そして保見は地域の人々から次第に孤立していったという。
「ご両親がいなくなり、寂しくなかったですか?」
弁護人がそう質問すると、保見は「犬がいたから」とだけ言った。保見は当時、チェリーという白い大きな犬を飼っており、事件の頃もポパイとオリーブという別の2匹の犬を飼っていた。犬がいたからひとりでも寂しくなかったというのは、保見の本心ではあるのだろう。しかし正直、「犬しかいなかったのか......」と思わずにはいられなかった。
症状は悪化中
「保見さんは孤独感を募らせ、妄想性障害に陥りました。犯行時は集落でいやがらせを受けているような妄想を抱いていて、心身耗弱か心神喪失の状態でした」
弁護人たちは保見の主張に合わせ、保見は殺害や放火の犯人ではないと主張していたが、それと同時に保見は犯行時に責任能力がなかったとも主張していた。要するに弁護人も本心では保見のことを犯人だと思っていたということだ。しかし被告人席の保見は顔色ひとつ変えず、「保見=犯人」という前提で繰り広げられる弁護人たちの主張を平然と聞いていた。
「保見さんは、拘置所では治療を受けられているわけではないので、妄想性障害の症状は悪化しています」
最終弁論が行われた公判後、保見の弁護団は報道陣にそう明かしたが、保見の病状が深刻だというのは素人目にも明らかだった。
取材は一切拒否
筆者は保見に直接話を聞いてみたく、裁判中に二度、収容先の山口刑務所を訪ねた。しかし、二度とも面会を拒否された。山口刑務所の関係者によると、「取材の人はいっぱい来ているけど、全部断っているみたいだよ」とのこと。無実を訴えるなら、マスコミを通じて自分の主張を世に伝える手もあるはずだが、保見は事件後も他者に心を閉ざし続けているらしい。
〈つけびして 煙り喜ぶ 田舎者〉
事件発生当初に注目を集めた自宅窓の張り紙については、「『火の無い所に煙は立たない』の逆の意味です」「集落の人がこの張り紙を見て、話しかけてきたら、逆に誰が嫌がらせをしているのか聞き出そうと思っていた」と語っていた保見光成。現在は死刑判決を不服として広島高裁に控訴中だが、病状がさらに悪化し、控訴審では第一審とまったく違うことを言い出しても何の不思議もない。 
 
山口連続放火殺人事件 8

 

「火はつけていない。私は無実」 2015/6/25
山口5人殺害事件で保見被告が起訴内容を全面否認
山口県周南市金峰の集落で平成25年7月、男女5人が殺害された事件で、殺人と非現住建造物等放火の罪に問われた無職、保見光成被告(65)の裁判員裁判の初公判が25日、山口地裁(大寄淳裁判長)で開かれた。
保見被告は「火は付けていません。頭をたたいてもいません。私は無実です」と、起訴内容を全面的に否認した。
弁護側は殺害や放火が保見被告によるものとする起訴内容を否認し、仮に犯人だった場合でも犯行時は心神喪失か心神耗弱の状態だったとして責任能力を争う方針。2度にわたって実施された精神鑑定では妄想性障害があったとの結果も出ている。
検察側は被告が逮捕当初に殺害や放火への関与を認め、責任能力も問えると判断、25年12月に起訴していた。7月28日に判決が言い渡される。
起訴状などによると、13年7月21日夜、近所の貞森誠さん=当時(71)=夫妻や自宅の隣に住む女性を、木の棒で頭などを多数回殴るなどして殺害して家に放火。さらに、22日朝までの間に集落内の男女2人を殺害したとしている。
保見被告は自宅に「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」の貼り紙をし、事件後に行方が分からなくなっていたが、6日後に近くの山中で発見された。当初は、5人の殺害と2軒の放火を認める供述をしていた。 
周南金峰連続殺人事件 控訴審 初公判で即日結審 2016/7/25
3年前の7月、周南市で、男女5人が殺害された事件の裁判の1審で、「死刑判決」を受けた保見光成被告の控訴審の初公判が25日、広島高等裁判所で開かれた。弁護側が被告の無罪を立証する為、新たな証拠採用や精神鑑定を求めたのに対し、裁判所はすべて認めず、控訴審は初公判で即日結審した。この事件は、3年前の7月、周南市金峰の集落で男女5人が殺害され、民家2棟が放火されたもので、保見光成被告66歳が殺人と放火の罪に問われている。山口地裁で開かれた一審で被告側は無罪を主張したが、地裁は検察の求刑通り、死刑を言い渡し、被告側が控訴していた。25日の初公判で、弁護側は「一審が裁判員裁判であった為、証拠を絞り込みすぎている。控訴審では十分な審理がされるべき」と主張、医師の意見書や医療記録などの新たな証拠採用を求めたが、裁判長は「必要性がない」としてこれを却下した。弁護側は、さらに新たな精神鑑定や被告の脳の器質的障害について調べることを請求したが、裁判長はこれを棄却、判決の期日を9月13日に指定し、控訴審は初公判で結審した。弁護側が、被告の無罪立証のため、用意した証拠がすべて採用されず、初公判で即日結審したことで、被告にとっては、一審同様、厳しい判決が予想される。  
周南市の5人殺害放火 被告は控訴審で無罪主張 2016/7/26
3年前に山口県周南市で男女5人が殺害されて住宅2軒が放火された事件の控訴審が開かれ、被告の男は1審に続いて無罪を主張しましたが、裁判所は「審理は尽くされている」として即日結審しました。
殺人と放火の罪に問われている周南市金峰の無職・保見光成被告(66)は、同じ集落に住む高齢の男女5人を木の棒などで殴って殺害し、住宅2軒に放火したとして、去年、1審で死刑判決を受けました。25日の控訴審で、弁護側は「裁判員裁判で審理された1審は証拠を絞り込みすぎていて不十分」として50点余りの証拠採用を求めました。しかし、広島高裁は「必要性がない」として弁護側の証拠請求を却下し、即日結審しました。次回公判は9月13日に開かれ、判決が言い渡されます。 
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
相模原殺傷事件

 

相模原殺傷事件 報道
2016/7/26
植松容疑者、通報直後にツイートか 「世界が平和に…」  1230
26日未明に相模原市の障害者施設で起きた殺人事件。植松聖容疑者のものとみられる「聖」名のツイッターアカウントのトップページの背景には「マリファナは危険ではない」と書かれた画像がある。植松容疑者が津久井やまゆり園を退職した2月19日には「会社は自主退職、このまま逮捕されるかも……」との投稿が残されていた。
2015年1月20日付の投稿では、背中に入れ墨が入った写真を載せて、「会社にバレました。笑顔で乗りきろうと思います。25歳もがんばるぞ!!」と書いていた。ドイツ・ミュンヘンで銃乱射事件があった今年7月23日には「ドイツで銃乱射。玩具なら楽しいのに」と投稿している。
最後の書き込みは、110番通報の直後とみられる26日午前2時50分。「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」と記載。赤いネクタイに白いワイシャツ、黒いスーツ姿で、口を半開きにし、少し固い笑みを浮かべて正面を向いた自撮り写真を掲載している。 
相模原の障害者施設襲撃 刃物で刺され19人死亡 26歳元職員を逮捕  1401
二十六日午前二時四十五分ごろ、相模原市緑区にある知的障害者らが入る障害者施設「津久井やまゆり園」の職員から「ナイフを持った男が施設に来て暴れている」と一一〇番があった。男は刃物で入所者を次々と刺すなどし、相模原市消防局によると、十九〜七十歳の男女十九人が死亡、二十三人が重傷を負ったほか三人が軽傷を負ったという。負傷者は神奈川県と都内の病院に搬送された。
神奈川県警によると午前三時すぎ、津久井署に施設の元職員を名乗る男が「私がやった」と出頭。県警は殺人未遂と建造物侵入の疑いで、自称無職植松聖(さとし)容疑者(26)=相模原市緑区=を逮捕した。捜査本部を設置して殺人容疑でも調べる。
県警によると、植松容疑者は出頭した際、血の付いたナイフや包丁計三本が入ったかばんを持っていたという。調べに、「ナイフで刺したことは間違いない」などと容疑を認め、「障害者がいなくなればいいと思った」という趣旨の供述をしているという。負傷者が搬送された北里大学病院によると、首に集中的に切り傷があったといい、県警は強い殺意があったとみて詳しい動機を調べる。
住居棟は東と西の二棟に分かれており、西棟の一、二階、東棟の一階で亡くなった人が確認された。東棟東側の一階の窓ガラスが割れており、近くにハンマーが落ちていた。県警は植松容疑者がハンマーで窓を破って建物に侵入したとみている。また、施設で結束バンドも見つかっており、植松容疑者に縛られた職員がいたという情報もある。
県によると、植松容疑者は施設の元職員で、勤務時の態度や退職理由、施設内でのトラブルなどは「調査中」としている。また、県警によると、事件前日の午前、相模原市内のマクドナルドに、植松容疑者の車が放置されており、昼になって津久井署に引き取りにいっていた。
相模原市消防局によると、死亡した十九人は男性が九人、女性が十人。同消防局が出動を要請した同市の北里大病院など三病院の医師四人が現場で死亡を確認した。このほか二十六人が重軽傷を負い、六つの病院に搬送した。このうち職員二人も軽傷を負っているという。
施設はJR相模湖駅から東に約二キロの山あいの住宅地にある。 
逮捕の男 精神科に措置入院で大麻「陽性」  1547
神奈川県相模原市の障害者福祉施設で入居者らが刺され19人が死亡、25人が重軽傷を負った事件で、逮捕された植松聖容疑者(26)が、今年2月に「障害者を抹殺する」などと書いた手紙を持って衆議院議長公邸を訪れたあと、措置入院させられ、その際、大麻の陽性反応が出ていたことが分かった。
捜査関係者によると、植松容疑者は、今年2月15日に衆議院議長公邸を訪れ、「障害者総勢470人を抹殺することができる」などと書き、「津久井やまゆり園」を名指しして職員の少ない夜に決行するという内容の手紙を渡したという。
警視庁麹町署は、その日のうちに、神奈川県警津久井署に情報提供したという。
相模原市によると、その後、2月19日に神奈川県警から市に対し、「他人を傷つける恐れがある」と連絡があり、市は、植松容疑者を病院の精神科に措置入院させた。
捜査関係者によると、入院した際に尿検査をしたところ、大麻の陽性反応が出たという。
措置入院中は、薬物治療やカウンセリングなどをし、入院先の医師が「他人を傷つける恐れがなくなった」と診断したことから、3月2日に退院したという。 
逮捕の男 ことし2月に措置入院 12日後に退院  1627
相模原市によりますと、植松容疑者はことし2月18日、勤務中に「津久井やまゆり園」の職員に対して「重度の障害者は生きていてもしかたない。安楽死させたほうがいい」などと話したことから、施設は、障害者を殺す意向があると判断し、19日に警察に通報しました。
警察は、植松容疑者が2月14日に衆議院議長の公邸で手紙を渡そうとしていたことなどを踏まえ、「他人を傷つけるおそれがある」と判断し、市に連絡しました。これを受けて市は、指定された医師1人が入院の必要があると診断したため、緊急の措置入院の対応をとったということです。20日には入院先の病院で植松容疑者の尿から大麻の陽性反応が出たということで、22日に別の2人の医師が再度診断したところ、「大麻精神病」や「妄想性障害」などと診断され、入院を継続させたということです。そして市は、入院から12日後の3月2日に、植松容疑者に症状がなくなったことや、容疑者本人から反省のことばが聞かれたことなどから、医師が「他人を傷つけるおそれがなくなった」と診断して退院させたということで、病院が市に提出した資料には「退院後は家族と同居する」と書かれていたということです。市によりますと、退院してからは警察をはじめ、家族や近所の人などからの相談や苦情はなかったということです。相模原市精神保健福祉課は「退院の判断をした時点では症状が改善していたことや本人の話を参考にして、最善の判断をしたと思っている。しかし結果が重大なので、厚生労働省とも相談しながら今後の対応を検討していきたい」と話しています。
措置入院とは、自分や他人を傷つける危険性がある人をその本人の意思にかかわらず強制的に入院させるもので、診断するのは法律で指定された2人の精神保健指定医です。退院するには、精神保健指定医が定期的に診断し症状が収まったと判定したうえで、病院が自治体に対して「措置入院者の症状消退届」を提出することが必要です。入院期間には定めはなく、この症状消退届をもとに都道府県知事、もしくは政令指定都市の市長が退院できると判断すれば退院となります。
運輸関係の仕事など経て施設の職員に
近所の人などによりますと植松聖容疑者は、現場の「津久井やまゆり園」から東に500メートルほど離れた一戸建ての住宅にひとりで暮らしていたということです。神奈川県によりますと、大学卒業後は運輸関係の仕事などをしてましたが、平成24年12月から「津久井やまゆり園」で非常勤職員として勤務を始め、平成25年4月から常勤職員になったということです。そしてことし2月19日に退職したということです。
去年 駅前でけんかし書類送検
逮捕された植松聖容疑者は、去年6月に東京・八王子市のJR八王子駅前の路上で男性とけんかをして相手にけがをさせたとして、傷害の疑いで書類送検されていたことが警視庁への取材で分かりました。警視庁によりますと、書類送検されたのは去年12月で、植松容疑者は酒に酔っていた男性と取っ組み合いのけんかになり、男性が軽いけがをしたということです。
近所の人「容疑者の自宅にきのうパトカーが来た」
植松容疑者の自宅の近所に住む73歳の男性によりますと、25日の正午ごろ、容疑者の自宅にパトカー1台が来て警察官が容疑者を捜していたということですが、自宅にはいなかったということです。男性は「とても明るい青年でよくあいさつもしてくれた。友達も多く一人暮らしの家に遊びに来ていた。施設では暴力沙汰を起こすなどしてやめさせられたと聞いた。事件のことを聞いて驚いている」と話していました。
植松容疑者の自宅の近所に住む74歳の女性は「あいさつもよくするし、明るい若者という印象だった。ただ、施設で利用者に暴力を振るってやめさせられたと施設の知り合いから聞いた」と話していました。また、女性は11年前まで30年近くにわたって事件が起きた津久井やまゆり園で勤めていたということで「利用者はよく知っていて子どものように思うくらい親しい人もいるので、こんな悲惨な事件が起きてショックです」と話していました。
植松容疑者の自宅の近所に住む44歳の女性は「ふだん顔を合わせることは少ないが、おととし植松容疑者の車と接触事故を起こしたことがあります。狭い道で対向車線に来たので、こちらが停車して通過するのを待っていたら、ものすごいスピードで走ってきてぶつかった。事故後の対応も面倒くさそうで態度はよくなかった。近くでこんな事件が起きて本当に驚いています」と話していました。
5年前に小学校で教育実習
5年前に相模原市内の小学校に通っていた際に、植松容疑者が1週間教育実習で学校に来たという中学3年生の女子生徒は「明るい先生という印象で、みんなで楽しく会話していた。鬼ごっこなどをして外で遊んでもらった思い出もあります。まさかこんな事件を起こすような人とは思えず、ショックを受けています」と話していました。植松聖容疑者が教育実習を行っていたとみられる小学校の40代の女性教諭は「教育実習では子どもたちと遊んだりと穏やかな様子でした。子どもたちへの指導の方法についてアドバイスすると、『分かりました』と答え次の授業に生かすなど明るく元気な印象でした」と話していました。
高校時代からの友人「様子がおかしいと感じていた」
植松聖容疑者の地元で高校時代から友人という男性は、「彼は高校の時は、誰とでも仲よくなれる明るい性格でした。『小学校の先生を目指して大学に進学する』と言っていましたが、大学入学後は服装や髪型が派手になったり、いつの頃からかは分からないが入れ墨を入れたりして変わったなと感じていました。最近もたまに顔を合わせていましたが、ことしに入ってから一人でずっと深夜のコンビニにいるのを見かけ、少し様子がおかしいと感じていたので、つきあうのをやめていました。事件のことを聞き、驚いています」と話していました。 
措置入院、退院して間もなく凶行 池田小事件の教訓生かされず  2313
障害者施設に侵入した男が19人を殺害した悲惨な事件。男は以前から奇行が目立ち、相模原市が決定した措置入院から退院して間もない凶行に、海外にも衝撃が広がった。行政と医療、司法の連携は取れていたのか。児童8人が犠牲となった大阪教育大付属池田小児童殺傷事件の教訓は生かされなかった。
相模原市緑区で26日、障害者施設「津久井やまゆり園」の入居者ら40人以上が死傷した事件で、逮捕された元職員、植松聖容疑者(26)は、精神保健福祉法に基づき3月2日まで措置入院していた。
「自傷他害の恐れがある」人を医師の判断で入院させる措置入院制度だが、退院後に殺人などの凶悪な事件を引き起こしたケースは今回が初めてではない。元慶応大法学部教授(医事刑法)の加藤久雄弁護士は「15年前の池田小事件のころから変わっていない」と嘆く。
大阪教育大付属池田小学校(大阪府)に包丁を持った男が押し入ったのは平成13年6月8日朝。子供らに次々と切りつけて、児童8人を殺害、10人以上の重軽傷者を出した。
男はこの犯行の2年前に傷害容疑で逮捕。「精神安定剤依存症」の診断で措置入院となっていたが、男は約1カ月で退院し、直後に池田小事件を起こしていた。
今回の事件で逮捕された植松容疑者も、衆院議長公邸に手紙を届けた後、3月まで相模原市から措置入院の決定を受け13日間入院していた。事件は退院からわずか4カ月余りでの犯行だった。
加藤弁護士は「欧米のように、司法の判断に基づいて処遇するシステムを構築し、行政だけでなく司法も社会の安全を保障する責任を負うべきだ」と指摘する。日本では措置入院患者の退院後の行動について、行政や指定医が責任を負うわけではないためだ。
一方、精神障害者の家族会「全国精神保健福祉会連合会」の小幡恭弘事務局長は「精神疾患そのものの偏見が解消されていない。措置入院させておけば解決するかといえば違う。地域の支えが重要だ」と訴える。
池田小事件の後、重大事件を起こしながら心神喪失などを理由に刑罰を科されなかった精神障害者の処遇を定めた「心神喪失者医療観察法」が成立するなど、精神疾患と犯罪との関係が注目されるようになった。
ドイツでは責任能力を問えない触法精神障害者でも裁判官が判決を宣告し、生涯保護観察が付けられるという。人権に深くかかわる困難な問題だが、加藤弁護士はこう強調した。
「この問題を解決しないと、今回やこれまでの事件のように、また弱い立場の人にしわ寄せがいってしまう」 
2016/7/27 

 

容疑者の大島理森衆院議長宛て手紙  0030
あまりに論外で理不尽だが、この手紙の内容は、記録されなければならないだろう。
相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の19人死亡するなどした事件で、殺人未遂容疑などで逮捕された植松聖容疑者(26)が、大島理森衆院議長に渡そうとしていた手紙の内容は、安倍首相の進める愛国心や右翼思想が、時に、過激な宗教と同様の現象を引き起こし、テロや暴力的に暴発する可能性を示している、と思う。
植松容疑者の行った今回の大量殺傷事件は、単なる殺人事件というようりも、その動機だけ見れば、ローンウルフテロの色彩が濃厚であり、だからこそ大量殺りく事件が敢行されたともいえる。
世界を見れば、昨今のISやISに触発されて引き起こされたテロ事件や、EUや米国の、右翼思想に触発されたテロ事件との親和性すら感じさせる。
愛国心や右翼思想の行き着く先は、米国大統領候補のトランプの思想を見るまでもなく、そもそも排外主義や排除の論理と結びつきやすく、その過熱化は危険である。
現にナチス政権は、このような過程でこそ、成立し得た。
安倍首相や、愛国心や右翼思想を論じる人たちは、真に日本を愛するなら、その思想の行き着く先が、テロや暴力容認の危険思想にも通ずる危険性があることを十分に自戒すべきである。
そうでないと、今のままリミッターなく、愛国心や右翼思想が語られると、論者や識者がたとえ暴力容認ということではなくても、欧米にみられるように、第2、第3の今回のような「テロ」が誘発される可能性がある。

衆議院議長大島理森様
この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。
私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。
今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。
世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。
私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。
衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。
   文責 植松 聖
作戦内容
職員の少ない夜勤に決行致します。
重複障害者が多く在籍している2つの園を標的とします。
見守り職員は結束バンドで見動き、外部との連絡をとれなくします。
職員は絶体に傷つけず、速やかに作戦を実行します。
2つの園260名を抹殺した後は自首します。
作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。
逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。
新しい名前(伊黒崇)本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。
美容整形による一般社会への擬態。
金銭的支援5億円。
これらを確約して頂ければと考えております。
ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。
日本国と世界平和の為に、何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します。
想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。
   植松 聖   かながわ共同会職員  
元職員、2月に犯行予告 相模原の施設で障害者19人刺殺  0703
相模原市緑区にある知的障害者らが入る施設「津久井やまゆり園」で十九人が殺害された事件で、殺人未遂などの疑いで逮捕された元施設職員の植松聖(さとし)容疑者(26)=相模原市緑区=が今年二月、犯行を予告する手紙を衆院議長公邸に持参していたことが、関係者の話で分かった。殺人事件としては犠牲者の数で戦後最悪とみられる。
県警によると、十九人はいずれも刃物で刺されたり、切られたりして死亡したとみられる。他に職員二人を含む二十六人が重軽傷を負った。調べに「意思の疎通ができない人たちをナイフで刺したことに間違いない」などと容疑を認め、「障害者がいなくなればいいと思った」という趣旨の供述をしているという。県警は捜査本部を設置、二十七日には殺人容疑に切り替えて送検する方針。
植松容疑者は出頭した際、血の付いたナイフと包丁計三本が入ったかばんを持っていた。負傷者が搬送された北里大学病院によると、首に集中的に切り傷があったといい、県警は動機を調べる。
県によると、植松容疑者は施設に二〇一二年十二月に非常勤として採用され、一三年四月から常勤職員として働いていた。今年二月、衆院議長公邸に手紙を届け、警視庁を通じて県警に通報された。施設側と面談し、退職した。相模原市は措置入院を決定。入院先の医療機関の検査で大麻の陽性反応が出た。その後、措置入院の必要が無くなったとの診断があり退院した。
入所者がいた居住棟は東西二棟があり、東棟東側の一階の窓ガラスが割れ、近くにハンマーが落ちており、県警は植松容疑者がハンマーで窓を破って建物に侵入したとみている。また、施設から結束バンドも見つかっており、植松容疑者に縛られた職員もいた。
神奈川県警が発表した死者十九人は、女性の十〜三十代が各一人、四十代が二人、五十代が一人、六十代が三人、七十代が一人。男性は四十代が四人、五十代が一人、六十代が四人。県警は、今回の事件で死亡した人に障害があり、遺族が望まないとして氏名を公表していない。 
笑みを浮かべ…植松容疑者送検 19人殺害  1044
神奈川県相模原市の障害者福祉施設で19人が殺害された事件で、逮捕された元職員の男が、止めに入った少なくとも2人の職員を結束バンドで縛った上で周囲の物に縛り付け、その場から動けない状態にしていたことがわかった。
逮捕されたこの施設の元職員・植松聖容疑者(26)は殺人などの疑いで27日朝、検察庁に身柄を送られた。植松容疑者は車に乗って警察署を出る際、報道陣のカメラに向かって笑みを浮かべていた。植松容疑者はこれまでの警察の調べに対し、「障害者はいなくなればいいと思う」などと供述しているという。
この事件では、相模原市の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の入所者19人が死亡、26人が重軽傷を負った。その後の捜査関係者への取材で、植松容疑者は事件当時、入所者らを次々と刃物で切りつける一方で、止めに入った職員を少なくとも2人、結束バンドで縛った上で周囲の物にも縛り付け、その場から動けない状態にしていたことがわかった。施設の周辺や出頭した際に植松容疑者が乗っていた車の中からは、複数の結束バンドが見つかっている。警察は施設の重度障害者を狙った計画的犯行とみて動機を詳しく調べている。
また、胸を刃物で刺され、病院で治療が続けられている入所者の男性の両親が27日午前、取材に応じた。
重傷の被害者の父「面会は全然意識ないから。人工呼吸でやっているから」
重傷の被害者の母「ほっとしたいけど、まだ意識が戻らないから。元職員だったということに対しても怒りを覚えますけどね」
警察は27日、遺体の司法解剖を行い死因の特定を進めるとともに、植松容疑者の自宅を家宅捜索して事件に至る経緯などを詳しく調べることにしている。 
「逮捕されるかも…」容疑者、2月にツイート  1607
相模原市緑区の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者が殺傷された事件で、逮捕された植松聖容疑者(26)のものとみられるアカウントのツイッターには、事件に至る心境をうかがわせる書き込みがあった。今年2月には「逮捕されるかも…」などと何らかの事件を起こすことを示唆するような記述も。出頭する直前にも自撮り写真を添付して書き込んでいた。
ツイッターの書き込みは2014年12月14日に始まる。このころはパーティーやカラオケ、結婚式など友人たちとの交流を楽しむ内容が多かった。
自分の背中に入れた般若やひょっとこなどの入れ墨の写真も載せて、「会社にバレました。笑顔で乗りきろうと思います」とコメント。併せて「偏見を持つことは愚かなこと。自分で作った世界観しか見えなくなる」(15年6月9日)という記述もあった。継続的な書き込みは「心技体の充実。これを目標に生きよう」とコメントした15年10月30日で、いったん途切れた。
再開されたのは約3カ月後。今年2月13日に「正しいかどうかは分からないが、行動あるのみ」と書き込み、2月19日には「会社は自主退職、このまま逮捕されるかも…」と記述した。
植松容疑者はこの日、障害者の大量殺人を予告する手紙を衆院議長公邸に持ち込んだことが原因で、やまゆり園を退職していた。
小学校の教員を目指した時期もあり、「人の役に立つ仕事がしたい」と周囲に語っていた植松容疑者だが、いつしか差別的な考えを増幅させたのか、7月ごろから「じいさん、ばあさんしかいません。日本の老後」「電車でデブ発見」などと記述した。
7月23日には、ドイツ南部ミュンヘンで起きた銃乱射事件で「同時刻にドイツで銃乱射。玩具なら楽しいのに」という反応を見せた。
「世界が平和になりますように。beautifulJapan!!!!!!」。出頭する前の書き込みには、赤いネクタイに黒いスーツ姿で口元に笑みを浮かべた自撮り写真を添付していた。
植松容疑者は今年2月に相模原市の判断で措置入院した際、尿検査で大麻が検出された。ツイッターの背景には「マリファナは危険ではない」と自身の主張を示すような画像を掲載していた。  
「障害者いなくなればいい」で不安に思った皆さんへ  1746
神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に刃物を持った男が侵入して、入所者19人が刺殺された事件を受けて、知的障害者と家族で作る「全国手をつなぐ育成会連合会」は公式サイトで7月27日、障害者に向けて緊急声明を出した。
この声明は、殺人未遂容疑などで逮捕された植松聖容疑者が「障害者なんていなくなればいい」という趣旨の供述をしたという報道を受けて、書かれた。
こうした容疑者の言動を知って不安になった障害者に向けて「私たち家族は全力でみなさんのことを守ります。ですから、安心して、堂々と生きてください」と訴えている。声明全文は以下の通り。

津久井やまゆり園の事件について(障害のあるみなさんへ)
7月26日に、神奈川県にある「津久井やまゆり園」という施設で、障害のある人たち19人が殺される事件が起きました。容疑者として逮捕されたのは、施設で働いていた男性でした。亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、そのご家族にはお悔やみ申し上げます。また、けがをされた方々が一日でも早く回復されることを願っています。
容疑者は、自分で助けを呼べない人たちを次々におそい、傷つけ、命をうばいました。とても残酷で、決して許せません。亡くなった人たちのことを思うと、とても悲しく、悔しい思いです。
容疑者は「障害者はいなくなればいい」と話していたそうです。みなさんの中には、そのことで不安に感じる人もたくさんいると思います。そんなときは、身近な人に不安な気持ちを話しましょう。みなさんの家族や友達、仕事の仲間、支援者は、きっと話を聞いてくれます。そして、いつもと同じように毎日を過ごしましょう。不安だからといって、生活のしかたを変える必要はありません。
障害のある人もない人も、私たちは一人ひとりが大切な存在です。障害があるからといって誰かに傷つけられたりすることは、あってはなりません。もし誰かが「障害者はいなくなればいい」なんて言っても、私たち家族は全力でみなさんのことを守ります。ですから、安心して、堂々と生きてください。
平成28年7月27日   全国手をつなぐ育成会連合会   会長 久保厚子 
措置入院の在り方見直しへ 厚労省、相模原の殺傷事件を受け  2210
相模原の障害者施設殺傷事件を受け、厚生労働省は27日、精神疾患により自分や他人を傷つける恐れがある人を強制的に入院させる「措置入院」の制度や運用について、見直しを検討する方針を固めた。
事件で逮捕された植松聖容疑者(26)は、今年2月に入院手続きを取られた後、3月に解除されていた。厚労省は植松容疑者の入院後、関係機関の情報共有や連携が十分だったか検証した上で、有識者検討会などをつくることも視野に入れている。
塩崎恭久厚労相は27日、事件現場を視察後、措置入院を巡る対応について「警察、自治体、施設の連携が適切だったか、検証しなければいけない」と指摘した。 
運営法人理事長、会見し謝罪 施設、2月以降に警戒を強化  2315
相模原市の障害者施設殺傷事件で、施設を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」の米山勝彦理事長らが27日、事件後初めて記者会見し「国民の福祉に対する信頼を揺るがせたことを深くおわびする」と謝罪するとともに、元施設職員植松聖容疑者(26)が周囲に障害者殺害をほのめかした2月以降、警戒を強めた経緯を明らかにした。
植松容疑者は2月18日、施設職員に「重度障害者は安楽死させた方がいい」などと発言。その後、措置入院となり、3月2日に退院した。
米山理事長らによると、同日に「津久井やまゆり園」の近くで職員が植松容疑者の車を目撃。近くにいることが分かったという。 
2016/7/28

 

重複障害者の居場所尋ねる 容疑者「不幸減らすため」供述  0200
相模原市の知的障害者施設で19人が刺殺され26人が負傷した事件で、元施設職員植松聖容疑者(26)=殺人などの容疑で送検=が、結束バンドで縛った職員に、複数の障害がある重複障害者の居場所を尋ねていたことが27日、捜査関係者への取材で分かった。植松容疑者は「重複障害者が生きていくのは不幸だ。不幸を減らすためにやった」とも供述。神奈川県警津久井署捜査本部は、障害の重い入所者を計画的に狙ったとみている。
捜査本部は同日、植松容疑者宅を家宅捜索し、2月に衆院議長宛てに持参した手紙の下書きのようなものが見つかった。事件が起きた「津久井やまゆり園」を現場検証した。 
彫り師に弟子入り、薬物の影…「サト君がバグった」 何が転落へと導いたのか  0605
気さくな好青年は突如、破滅への道をひた走り始めた。
相模原市緑区の障害者施設で入居者19人が刺殺された事件。友人たちは植松聖(さとし)容疑者(26)=殺人容疑で送検=が大学の途中から性格が一変したと異口同音に話す。一時は入れ墨の彫師に入門。今年に入ってからは「障害者を皆殺しにしたい」と友人に“告白”するなど異常性を強めていた。何が転落へと導いたのか。
大学時代から派手に
「まじめというのが第一印象だった。アニメの登場人物のまねをして周囲を和ませたこともあった」
植松容疑者の小中学校の同級生はこう振り返る。
植松容疑者の父親は図工の教師で、母親は漫画家だった。相模原市内の小中学校を卒業後、東京都八王子市内の私立高校に進学。性格が突然変質したのは、帝京大学に在籍していた学生時代だったという。
知人らによると、この頃から身なりが派手になり、入れ墨を入れた。大学3〜4年生のころ、最初の入れ墨を彫った男性彫師は「就職を控えているから目立たないように」と注文されたことをよく覚えている。
その後、入れ墨はどんどん増えていき、教育学部に所属する一方で彫師にも弟子入りしていた。
彫師の夢は、ほどなくして挫折。教育実習も経て教職免許を取得したが、最終的には平成24年12月に事件現場となった障害者施設「津久井やまゆり園」に就職した。
タロットカード提示
就職後は薬物の影がちらつくようになっていた。植松容疑者が通っていたクラブ関係者は「2〜3年前から植松容疑者らの間で危険ドラッグがはやっていた」と声を潜める。別の知人は「絵に描いたような麻薬中毒者」と断言。「大麻以外にも手を出していただろう」と話す。
措置入院が始まった今年2月ごろから、同級生や後輩の間では、植松容疑者の異常性が話題になっていた。
後輩に突然、「障害者をどう思うか」と尋ねたかと思えば、タロットカードを見せて「これが将来の横浜だ」と熱を込める。「売られたけんかは買うんだ」と熱弁し始めたこともあったという。
「サト君(植松容疑者)がバグった」と友人はささやき合った。「バグった」とは「異常」を意味する隠語だ。
「やってしまったか」
今年に入り、植松容疑者は親しかった30代の別の男性彫師に「障害者を皆殺しにしたい」と相談していた。男性彫師は「もっと違うことを考えろ」と叱ったが、説得もむなしく仲たがいしたという。
事件当日から3日ほど前の深夜には、コンビニ駐車場の車内で、植松容疑者が一心不乱に携帯電話を操作する様子が目撃されていた。
車内は真っ暗で、不気味な様子に知人らは声を掛けられなかったという。
事件のニュースを聞いたある同級生はこう話した。「多くの同級生らの感想は『やっぱりやってしまったか』だった。どこで道を外れていったのか、僕たちにも分からない」 
相模原殺傷 園側は苦渋の対応 防犯カメラ16台設置も常時監視はできず  朝刊
「津久井やまゆり園」で入所者十九人が刺殺され二十六人が重軽傷を負った事件で、施設の運営団体が二十七日記者会見し、植松容疑者が措置入院から退院して以降、防犯カメラ十六台を設置するなど、警戒態勢を強化した経緯を明らかにした。警察と連携しながらもカメラは常時監視体制でなく、発生当時、警備員は仮眠中で事件に気付かなかった。幹部らは苦渋の表情を見せた。
運営する社会福祉法人「かながわ共同会」によると、植松容疑者は二月、職員に「重度障害者は安楽死させたほうがいい」などと発言し措置入院。三月二日に退院した。この日、施設近くで植松容疑者が車に乗っているのを職員が目撃したため、園の固定電話と携帯電話から一一〇番通報すると自動的に植松容疑者に関わるトラブルと分かるよう通報システムに登録した。職員らには「夜勤時に訪ねてきても中に入れず一一〇番を」と通達が出ていたという。
四月下旬には施設建物の外に十台、建物内のエレベーターホールなどに六台の防犯カメラを設置。しかし二十四時間の監視体制ではなかった。
六月四日に実施した園の行楽行事では植松容疑者を警戒するため職員を巡回させた。入倉かおる園長(59)は「彼が現役のころ担当していた行事なので来るのではと不安だった。同僚職員に本人から遊びにいきたいと連絡があったら諭(さと)そうと話していた」。しかし来訪の連絡はなかったという。
植松容疑者が二月、衆院議長公邸に持参した犯行を予告する手紙には、同園など二つの障害者施設名が書かれ「職員の少ない夜勤に決行致します」と明記していた。
会見では県警から「自分の希望が通らないと危害を加える」という程度の説明しか受けていなかったと説明。赤川美紀常務理事は「利用者に危害を加えるという、迫ってくるような危機感には至っていなかった」と声を落とした。 
相模原殺傷事件 凶行はなぜ防げなかったか  1108
これほど残忍な殺人事件を知らない。たった一人の凶悪犯によって、神奈川県相模原市の知的障害者施設の入所者19人が刺殺された。負傷者も26人に上る。残念だったのは犯罪予告めいた手紙があり、容疑者の犯行の可能性は関係者の多くが知っていたことだ。その凶行をなぜ防げなかったのか、検証していく必要がある。
犯行は入所者が寝静まり、職員が夜勤体制に入った深夜に実行された。植松聖容疑者(26)は施設の元職員であり、警備も熟知していた。結束バンドで夜勤職員を身動きできなくすると、重度の障害で助けを呼べないような入所者を狙い、首の動脈を切り続けた。刃物を5本用意し、大量殺人を周到な準備で実行した。
この事件が異質なのは「障害者を抹殺する」という犯行予告とも読める手紙を、容疑者自身が今年2月、衆院議長公邸に持参したことだ。大量殺人の狙いがこの施設であり、深夜に決行するという手口も書かれている。
議長側は警察に手紙を渡している。この内容通りに実行するなど、信じられなかったとはいえ、凶行が起きないように警戒を続けることはできなかったのか。
植松容疑者に対しては、手紙を出した後も「障害者は生きていても仕方がない」という言動を続けていたことから、措置入院という行政手続きがとられている。
しかし、病院側は血液や尿から大麻の陽性反応が出たとして、「大麻精神病」「妄想性障害」と診断した。その症状が和らいだとして13日で退院させた。中途半端な対応に終わっていた。
大麻取締法は「中毒者」でなければ、県や県警への通報義務はないという。しかし、大量殺人の予告の手紙や、植松容疑者が勤務中にも障害者に暴力を振るっていたことを考えれば、しゃくし定規のような対応ではなく、関係機関が協議し、慎重に判断すべきではなかったのか。
植松容疑者は、両親が数年前に自宅を出ており、1人暮らしだった。彼の“妄想”を改善できる環境などではなかっただろう。措置入院は自らを傷つけたり、他人に害を与える危険性がなくなるまで、無期限に継続できる。早期の退院で、犯罪を防ぐ決定的な機会が失われていた。
県警も手紙を受け取っており、植松容疑者の危険性は十分に把握していたはず。病院任せにせず、容疑者と正面から向き合うべきではなかったのではないか。
植松容疑者は障害者差別について「自分は間違っていない」と話していたという。自らが裁きの神であるかのような妄想だ。議長宛ての手紙では、障害者を侮蔑し、「私の目標は障害者が安楽死できる世界」と訴えている。命を貴ぶ人としての感情はまるでない。
独り善がりの“正義”による理不尽な犯行という点では、児童8人の命を奪った2001年の大阪の池田小学校の殺人事件の被告=死刑執行=を思い出す。
容疑者の言動は弱者に対し、不寛容な社会の風潮を反映しているようにも見える。かつて誰にでも笑顔を見せ、教師を目指していたという好青年はなぜここまで変わり果てたのか。このような事件を繰り返さないためにも、容疑者が犯行に至った心の闇を解明する必要がある。 
遺族へ謝罪も強い偏見  1400
神奈川県相模原市緑区千木良の障害者施設「県立津久井やまゆり園」で19人が殺害された事件で逮捕された元施設職員の容疑者(26)が、「突然のお別れをさせるようになってしまって遺族の方には心から謝罪したい」と話していたことが27日、分かった。一方で「障害者はいらない」という趣旨の発言をし、被害者への謝罪はしていない。同容疑者は衆院議長宛ての手紙に「私の目標は保護者の同意を得て(障害者が)安楽死できる世界」などと書いており、障害者に対する強い偏見があらためて浮かび上がった。
捜査本部によると、同容疑者は26日夜、取り調べの中で突然、遺族への謝罪の言葉を口にしたという。
捜査本部は27日、新たに施設内から血痕の付いた包丁2本を発見。同容疑者は出頭時に血痕が付着した刃物3本を所持しており、少なくとも5本の刃物を使って入所者を次々と刺したとみられる。
また、殺害された19人の男女全員の首や胸などに複数の刺し傷があったことも明らかになった。
司法解剖は、同日までに12人が終了。このうち10人は首を刺されたり、切られたりしたことによる失血死と出血性ショックで、残る2人は腹と背中を刺されたことが致命傷となった。傷は数センチと深く、県警は明確な殺意があったとみている。
また、同容疑者が大麻使用に関する尿検査を拒否していることも判明。尿鑑定は薬物の種類別に任意で実施され、同容疑者は覚醒剤と麻薬の鑑定は応じた。覚醒剤は陰性、麻薬は鑑定中という。
一方、県警は110番通報の時間を当初午前2時45分と発表したが、同38分に訂正した。事件に気付いた男性職員が、非番の男性職員に無料通信アプリ「LINE(ライン)」で「すぐ来て、やばい」と送信。受け取った職員が電話をすると「大変なことが起きている」と告げられたため、通報したという。
捜査本部は27日、施設に侵入して入所者の女性(19)を刺殺したとして、殺人容疑に切り替えて同容疑者を送検。同容疑者宅を捜索するとともに、施設の現場検証を行った。
記者の「匿名発表に異論」は傲慢? 「19人刺殺」犠牲者めぐり論議  1852
神奈川県相模原市の事件で惨殺された障害者19人の名前を県警が非公表としたことについて、「事件の重みを伝えられなくなる」と新聞記者らからツイッターで疑問や批判が出て論議になっている。
「遺族から強い要望があった」として、神奈川県警が被害者を匿名で発表したことから、各メディアでは、実名など被害者の詳しいことは報じられていない。
「取材して事件の重みを伝えられなくなる」
新聞各紙では、性別と年齢だけを一覧表にして列挙する程度だ。遺族への取材も難しいのか、その様子なども紙面でほとんど触れられないままになっている。
こうした状況について、各メディアの記者らからは、様々な意見が出始めた。
朝日新聞のある女性記者は、2016年7月27日のツイートで、県警が被害者の名前を伏せたことに対し、こう批判的に書き込んだ。
「匿名発表だと、被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようという記者の試みが難しくなります」
一方、共同通信の男性記者はツイッターで、被害者の名前を報じるべきかについて「深い議論が必要」だとしながらも、「『この人たちを見てはいけない、見ないようにすべきだ』とのメッセージになってしまうことを憂慮する」と意見を述べた。
映像ジャーナリストの綿井健陽さんも、同様な「異常さ」を感じるとし、「ひとりひとりの死がない」と大量殺りくの恐ろしさを説いた詩人の故・石原吉郎さんの言葉をツイッターで紹介した。そのうえで、「相模原の事件で殺害された人たちの名前の公表について、いろいろ考えています」と複雑な心境を漏らしている。
しかし、ネット上では、報道被害に対するマスコミ不信の声が大きい。
「マスコミってどうしてこんなに傲慢なんだ?」
前出の朝日記者のツイートは、次々に非難が寄せられ炎上状態になっている。
「マスコミってどうしてこんなに傲慢なんだ?」
「他人の不幸で飯を食いたいだけなのを正当化するなよ」
「遺族の方々に追い打ちをかける行為はやめてください」
朝日の記者も気にしたのか、その後「補足」として、「被害者・遺族の意向を顧みないでいいとか、匿名では事件が軽くなると言うつもりはありません」とし、報道被害を生まないよう気を付けているとツイートで説明した。
そもそも、仮に警察など当局が実名発表する場合でも、実名報道にするか匿名報道にするかはマスコミ各社の判断になるが、ネット上では「実名発表=実名報道」と受けとめる向きも多いようだ。
一方、亡くなられた被害者の性別と年齢だけを列挙するような報道については、ネット上でも、「異様すぎる」との声も上がっている。
「男性(66)と男性(66)の区別がつかない」「何人亡くなっててもタダの数字にしか感じない」といった指摘だ。
また、「これじゃ障害を持ってない人が被害者の場合、名前を出されるのと比べて差別されてる」「こういう報じ方をすると 容疑者のやったことは どんどん正当化されるわけだが...」との疑問も出ている。 
「すぐ来て、やばい」LINEで緊急事態伝達 軽度の入居者が緊縛の職員救出  2205
事件をめぐっては県警津久井署捜査本部の捜査が進むにつれ、発生当時の施設内の詳細な動きが明らかになってきた。
障害の程度が軽い入居者が、緊縛されていた職員の結束バンドをはさみで切断して救出。この職員が無料通信アプリ「LINE(ライン)」を使って外部に救出を求めていた。入居者に話しかけ、反応を確認し重度の障害者から次々と刺していった植松聖容疑者。わずか約45分間の凶行で、施設内は大混乱に陥っていた。
15分で10人を殺害か
捜査関係者や施設関係者によると、裏口から施設敷地内に入った植松容疑者は26日午前2時ごろ、東棟の東側窓を破って侵入した。
夜勤の職員8人のうち5人を結束バンドで拘束。夜勤の女性職員から園のほぼ全ての扉を開けられる鍵を奪い、抵抗できないような複数の障害がある重複障害者の居場所も聞き出した。
施設内には居室が集まった「ホーム」が8つあり、植松容疑者が最初に入ったのは「はな」と名付けられたホーム。部屋にいた19歳の女性など、隣の「にじ」ホームと合わせて女性10人を次々と殺害した。
「はな」と「にじ」の間にあるエレベーターホールの防犯カメラに植松容疑者の姿が撮影されていたのは2時14分。「時間と動きから類推すると、侵入から15分ほどで10人を殺害したことになる」(捜査関係者)
その後、植松容疑者は園内の1、2階を移動して3つのホームで男性9人を殺害し、正面玄関に向かった。仮眠を取っていた男性警備員は2時47分ごろ、玄関の扉に何かが当たる音を聞いた。施設関係者は「植松容疑者が開くと思ってぶつかったのか、開かなくて蹴るなどしたのかもしれない」と推測する。
直後、植松容疑者は玄関脇のドアから外に出た。施設にいた時間はわずか約45分だった。植松容疑者はその後、3時すぎに約7キロ離れた県警津久井署に車で出頭した。
捜査関係者によると、最初の通報につながった連絡は、「すぐ来て、やばい」という夜勤職員から非番職員へのLINEメッセージだった。
メッセージを受け取った非番職員が折り返しに電話をかけると、夜勤職員は小声で「大変なことが起きている」とだけ答えた。非番の男性が2時38分、園で何かが起こっていると110番通報した。
捜査関係者によると、夜勤職員は植松容疑者に結束バンドで拘束されていたが、襲撃を逃れた比較的障害の軽い入居者が夜勤職員の結束バンドをはさみで切断して救出していた。この機転がなければ、けが人らの救助が遅れ被害がさらに拡大した可能性もあった。
通報を受けて3時過ぎ、園に駆けつけた消防隊員らの目の前には、凄惨(せいさん)な状況が広がっていた。地元消防によると、隊員が廊下に連なる引き戸を開けるたびに血のにおいやうめき声、血で染まった人の姿が続いた。
隊員が「大丈夫ですか!」と一人一人声をかけたが、半分以上は返答がなく、悲鳴を上げて廊下を行き来する入居者もいた。
津久井消防署の山崎浩さん(55)は「自分が消防隊員じゃなかったら腰を抜かしていた」と振り返った。 
相模原殺傷事件 関連機関の情報共有へ 知事「措置入院」で改善策模索  
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で多数の入所者らが殺傷された事件で、黒岩祐治知事は27日の定例記者会見で、関係機関の情報共有について「徹底的に検証し、再発防止策を講じる」と話した。殺人未遂容疑で逮捕された植松聖容疑者(26)が措置入院から退院後、相模原市と同園、県、県警などの間で情報が共有されていなかったことなどを踏まえ、改善策を模索する。 (原昌志)
黒岩知事は「(容疑者が)措置入院解除で退院したが、その情報が共有されていなかった。相模原市も政令市だから、県に伝えるルールはないが、こういうことが起きたことを踏まえて検証し改善しなくてはならない」と説明。「結果から見ると、措置解除は早すぎたとか思ってしまうが、人権問題にかかわる。極めて慎重に考えなくてはならない。専門家も含めながらあるべき姿を模索したい」と話した。
情報共有によって予防につながった可能性については「今思えば何とか防げたのではという気持ちはあるが、ある種、確信を持った犯罪。絶対に防げたという自信はない。ただ、今後の再発防止の中では、情報共有をやることで少しでも減らす可能性に向け取り組みたい」と語った。
県はこの日、県内の障害者入所施設などに対し、施錠や警察との連携など安全管理の徹底を求める通知を出した。 
相模原19人刺殺事件の植松容疑者、地元で「危険ドラッグ愛用」の証言… 
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が刺殺され、26人が重軽傷を負った事件。殺人の容疑などで送検された元施設職員、植松聖(さとし)容疑者(26)の人物像に注目が集まっている。平成以降最悪となった大量殺人に向かわせたものは何か。常軌を逸した凶行の遠因として違法薬物の常用が疑われている。事件を起こす前に大麻使用が発覚していたほか、「危険ドラッグを愛用していた」(知人)との証言も出ているのだ。
報道陣のカメラに向かって挑発的な視線を投げ、不気味な笑顔を浮かべる−。27日、留置先の神奈川県警津久井署から送検された際の植松容疑者は、反省の色が全く感じられなかった。
事件前に動画配信サイトに投稿した動画では、「最近、世界がやばい。第3次世界大戦が始まっている」と意味不明の持論を展開するなどその異様さが際立っている。
教職を目指していたが挫折し、いくつかの職をへて、やまゆり園に勤務したが、2月に自主退職。生活の荒廃ぶりは一段と加速していく。その背景の1つとして指摘されているのが違法薬物への傾倒だ。
2月には「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」と犯行予告ともいえる内容の手紙を衆院議長公邸に持参した。その中に気になる記述がある。
「医療大麻の導入」を主張し、「精神薬を服用する人は確実に頭がマイナス思考になり、人生に絶望しております。(中略)大麻の力は必要不可決だと考えます」(原文ママ)と綴っているのだ。
その後、措置入院になった際の尿検査で大麻の陽性反応も出た。
ただ、薬物犯罪に詳しい捜査関係者は、「大麻を摂取すると酒に酔ったような酩酊(めいてい)感に襲われる。植松容疑者のような攻撃性を伴う錯乱状態にはなりにくい」とも語る。
植松容疑者を知る地元関係者はこう話す。
「あいつはダンス音楽が好きで、相模原や八王子(東京)周辺で開かれるクラブイベントや野外ライブにしょっちゅう顔を出していた。そこで決まって危険ドラッグをキメていた。重度のジャンキーとして地元の知り合いの間では有名で、今回の事件が起きたときも『クスリの影響でおかしくなったんじゃないか』と噂し合ったほど」
自身のツイッターには、海外の有名DJのイベントに訪れた際の写真とともに、《ダンソンッ!ニーブラ!!砂浜の疲労感…》と人気漫才のネタに似せた妙な内容の投稿もしていた。
植松容疑者は逮捕後、覚醒剤と麻薬の尿検査には応じたものの、大麻の尿検査は拒否し、強制採尿された。不可解すぎる行動の解明が待たれる。 
相模原事件が世界に与えた衝撃
“あの日本で!?”“宗教とは関係ない”“世界に一体何が…”
19人が死亡、26人が重軽傷を負った神奈川県相模原市の知的障害者施設襲撃事件は、海外メディアでも大きく報じられている。アメリカやイギリス、ドイツで銃撃事件が相次ぎ、バングラデシュ、サウジアラビア、フランスでは大規模なイスラムテロが続いたタイミングでの事件とあって、なおさら高い関心を呼んでいるようだ。各メディアの電子版の記事にはいずれも大量の読者コメントがついている。その中から米ワシントン・ポスト紙(WP)、英大衆紙デイリー・メール、アラブ圏の衛星放送局アルジャジーラの記事から、反応をピックアップした。
銃がなくても決して安全とは言えない
WPは、「日本は非常に凶悪犯罪の少ない国だ。昨年は1億2700万の人口のうち、銃で死亡したのはヤクザ関係の1人だけだ」と、安全神話がある日本で起きた最悪レベルの大量殺人事件に驚きを隠せない。同紙は事件の詳細を伝えるメインの記事と共に「なぜ、日本で大量殺人事件が非常に稀なのか」と題した事件に絡めたレポートも掲載している。そちらでは、「この事件を非常に特異なものにしているのは、それが起きた国だ。日本は、他の近代社会と違い、他国を襲った大量殺人からはほぼ逃れてきた」と書く。
同記事は「アメリカの読者にとって特に関心が高いのは日本には銃がほとんどないことだろう」と、特に銃規制の厳しさを治安の良さと結びつけている。しかし、この一文に対しては、コメント欄では批判が多い。読者の一人は「アメリカの白人の銃による死の80%は自殺だ。日本の自殺率は我が国よりもずっと高く、日本人は銃以外の方法で自殺を試みている」とコメント。別の読者も「日本の文化はアメリカとは全然違う。この種の比較は無意味だ」と反論している。また、メイン記事の方には、「善良な人々には銃規制は必要ない。なぜなら善良な人々は犯罪を犯そうとしないからだ」と、やはり日本の銃規制の厳しさを肯定的に捉える論調に疑問符を投げかける意見が寄せられている。
デイリー・メールには、香港の読者から「とても悲しい。そして、とても非日本的だ」という、安全なはずの日本で起きた事件に驚くコメントが寄せられている。これに対しては、英国の読者が「それは違う。日本発のニュースを読んでみろ。日本ではナイフによる殺人が頻繁に起きている」と反論している。同紙は、今回の事件について、「最も犯罪率が低い国の一つである日本に衝撃を与えたようだ」と書く一方、2001年の大阪教育大学附属池田小学校事件、2008年の秋葉原事件、昨年の淡路島事件、今年の地下アイドル襲撃事件など、最近の日本で起きたナイフによる大量殺人・襲撃事件を列挙している。
「宗教と凶行は無関係」
相模原市の現場からレポートしたアルジャジーラの記者は、事件が非常に衝撃的である理由に、「被害の甚大さと残虐性、背景にある屈折した理屈、そして、やろうとしていたことを詳細に公開していたにもかかわらず、実行できたという事実」を挙げた。そしてやはり、平和なはずの日本で起きた惨事に日本人自身も驚いていると、「どこか外国で起きた事件だと思った」という日本人のツイートを紹介している。
アルジャジーラのコメント欄には、イスラム過激派テロとの比較を念頭に、「イスラム」というキーワードが目立つ。「アラーの名の下に」と前置きするコメント主は、「反イスラムの人々は、この種の襲撃事件は宗教とは全く関係がないという事実に直面しているだろう。神を信じているかどうかにかかわらず、誤った人間は、無実の人に間違ったことをする。(宗教を否定する)中国の共産主義ではそれが多く起きている」と、事件をイスラムテロと結びつける見方を牽制する。
また、アルジャジーラのコメントの中には、日本が戦後、事実上アメリカの“占領下”にあるという認識も目立つ。事件をダシにして、「サイコパス的なアメリカンスタイルの凶行だ。民主主義の輸出に失敗したサイコパス(アメリカ)は今、暴力と狂気の輸出に成功した」といった反米感情をあらわにするコメントが散見される。一方、デイリー・メールには、イスラムテロを含む無差別襲撃事件の頻発を憂い、世界を覆う不穏な空気に不安を訴えるコメントが目立つ。その一人は、「我々が住むこの世界に何が起きているのか?悪魔がはびこっている!この事件を起こした悪魔は人間ではない!」と書いている。
偏見に基づく殺人は最近の傾向か、歴史は繰り返しているのか
事件の詳しい動機は不明だが、「犯人は重度の障害者は全員消えるべきだと語っていた」(アルジャジーラ)など、背景に植松聖容疑者の知的障害者への強い偏見があると、海外メディアも伝えている。WPには、半ばこの偏見に同意するように「実際、彼らを気にかける者などいない。だから、(入所者たちは)この施設に隔離されていた」というコメントも書き込まれている。しかし、これに対しては、入所者と周辺住民の間にはスポーツイベントや祭りを通じて多くの接点があったという報道を引き合いに、反論が寄せられている。
デイリー・メールには、イスラムテロをはじめとする偏った思想を持つ若者が増えていることを嘆くコメントが目立つ。「アニー」という女性名のコメント主は、「若い世代は、アダルト・オンリーであるはずの暴力的なテレビゲームの影響を受けながら、暴力の中で育っている」と、ゲーム内に見られる女性への扱いを含め「全てが不健康だ」と書く。他にもゲームの悪影響を語るコメントがいくつかある。
別のコメント主は、「我々はいまだに違いや宗教を理由に人を殺している。テクノロジーの発展と共に人間の思考も発展すると思いがちだが、そうではない。我々はいまだに非常に中世的な考えを持ちながら、武器だけが発展している」と人類の未熟さを語る。このように、今回の事件を最近の傾向の中で捉える意見が多い中で、ナチス・ドイツの人種差別主義や障害者の迫害を引き合いに、歴史が繰り返されているだけだというコメントも見られる。いずれにしても、平和なはずの日本で起きた残虐な事件は、世界中の人々に衝撃を与え、近代史に暗い影を落としたことだけは間違いなさそうだ。 
逮捕されてこの笑顔…相模原殺人。海外メディアまでもが大きく報道する理由
「世界が平和になりますように」
犯行時刻前後の26日午前3時頃、このようにツイートしていた男。「津久井やまゆり園で障害者を抹殺します」と犯行予告をし、措置入院で大麻陽性反応が出ていた彼の犯行を阻止することはできなかったのか…。
事件は今月26日未明に起きました。神奈川県相模原市緑区千木良にある障がい者施設「津久井やまゆり園」に、刃物を持った男が乱入。眠っている入所者をナイフで襲い、19人が死亡、26人が負傷。亡くなった方々は19〜70歳の男女といい、負傷者のうち20人は重傷と伝えられています。
被害者のほとんどが首を切られていたということから、強い殺意が感じられる今回の事件。
現場が重度障がい者施設であり、死傷者が40人を超える大量殺人であることから日本だけでなく、海外でも大きく取り上げられ関心が集まっています。
世界中では戦争、ISISによるテロや銃乱射、人種差別による紛争など目立った事件が相次ぐ中、日本でも大量殺人が起きたことに世界で衝撃か走っているようです。
英mirrorでは、過去に起きた池田小学校殺人事件や秋葉原の無差別殺人などの事件をも取り上げながら「銃社会でない日本でこのような大量殺人が起こるのは極めて異例の事態」だとし、英BBCでも秋葉原や地下鉄サリン事件に触れながらも「過去数十年で最悪の事件」だと報じました。
『戦後最悪の殺人事件』
米ニューヨークタイムズでは、2011年の人口10万人当たりの殺人件数は日本は0.3件、アメリカは10倍以上の4.7件と「日本はアメリカに比べて極めて殺人事件の件数が少ない」と国連の統計を挙げ、「第二次大戦以降、日本では最悪の大量殺人」だと報じています。独DPA通信は「容疑者が障がい者の安楽死を図った」と報じ、各海外メディアがこぞって日本で起きた今回の事件の異様さを取り上げています。
日本は安全な国!!
ISISが絡んだりテロのような国際的な犯罪ではない今回の事件がなぜ海外の注目を集めたのか。それは“日本が世界で最も安全な国のひとつ(ロイター通信、他)”だからなんですね。海外では日本は治安がいいことで知られているが故、今回の大量殺人には驚きを隠せないということです。
安全安全と言われてきたここ日本でも、近年(特に最近)は狂気的な事件が多いように感じます。銃乱射やテロが起きる海外と比較すれば治安は良いのかもしれません。しかし残忍な事件が目立つ昨今、安全だとは言い難くなってきたように思い残念でなりません。
容疑者が犯行前に診断された病の多いこと!
今年2月、この男は通報され緊急措置検査を受けていたんです。その際、精神保健指定医が「そう病」と診断。指定医は「自傷他害の恐れがある」と判断し、市は緊急措置入院させていました。
そしてはじめに述べたように、入院中の尿検査で大麻の陽性反応が確認されたのですが、それだけではなかったんです。後日別の精神保健指定医2人が診察したところ、1人の指定医は「大麻精神病」「非社会性パーソナリティー障害」、もう1人は「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」と診断したそう。そんな男が颯爽と世に繰り出され、今回の事件…
こうなる前に阻止出来なかったのか、疑問が残ります。
容疑者に反省の色なし
犯行予告の手紙に「計画実行後は自首します」とあったように、彼は犯行後自身で出頭したようですが…この顔。笑顔で連行される様子に反省のいろは見られません。むしろ計画を実行でき満足気に見えます。
薬物のせいなのか、精神病のせいなのか…犯行後の薄気味悪いこの笑顔には鳥肌が立ちます。精神鑑定や不起訴になってはならない。然るべき罰を科せられることを願い、このような狂気的な事件が今後起きることのないよう強く祈るばかりです。
今回犠牲になられた方々に、心から深くお悔やみ申し上げます。 
2016/7/29

 

注目「措置入院」 退院後の事件、何が課題か  0241
これまでも「患者の人権配慮」と「加害行為防止」両面から
相模原市の障害者施設殺傷事件を受け、安倍晋三首相が28日、早急な検討課題として「措置入院後のフォローアップ」を挙げ、そのあり方に焦点が当たっている。植松聖(さとし)容疑者(26)の退院後約半年で事件が起きたためだ。退院後も公権力が関与を続けることには人権上の問題も指摘される中、安心と人権のバランスが求められる。
措置入院は、精神保健福祉法に基づき、精神障害のある人が自分や他の人を傷つけたりする恐れのある場合に、本人や家族の同意なしに行政が強制的に入院させる制度だ。退院後まで公権力による強制に近い状態が続くことには人権上の配慮から異論もある。
しかし、措置入院時の植松容疑者の尿検査で大麻の薬物反応を示したものの、措置を解除。退院後も市外の両親と同居するとしていたこともあり、直接面談をするといったフォローがなかったことが課題として指摘されている。
退院後のフォローについて、東京都で精神保健福祉行政に長く携わった仮屋暢聡・まいんずたわーメンタルクリニック院長は「行政部門ですべてフォローするのは人的にも財源的にも現実的ではない」と話し、「訪問看護など地域の精神医療と連携してフォローを進めるのはどうか」と提案する。
再発防止が強く求められる一方、性急な見直しに対する懸念の声もある。東京アドヴォカシー法律事務所の池原毅和弁護士は「犯行の原因などが明確でない段階で制度見直しに突き進むのは拙速だ」と警鐘を鳴らす。
植松容疑者からは、措置入院時に大麻の陽性反応が出ていたほか、事件後も自宅からは違法薬物の可能性がある植物片も見つかっている。池原氏は「精神障害ではなく、薬物の影響が強い犯行の可能性がある。その場合、措置入院のあり方を見直すよりも薬物対策や更生プログラムを検討する方が重要だ」と指摘する。
大阪教育大付属池田小学校(大阪府池田市)の乱入殺傷事件(2001年)を受け、05年施行の心神喪失者等医療観察法で、重大事件を起こした精神疾患による心神喪失者について、裁判官と精神保健指定医の合議で入院医療を行う制度ができた。しかし、この事件を起こした元死刑囚は心神喪失状態でなかったことが後に判明している。池原氏は「極めて特殊なケースだけを基に観念的な想定で制度見直しを行うと道筋を誤りかねない。基本的な客観データを集めて、本質的な議論をすべきだ」と訴える。
精神医療のあり方は患者の人権への配慮と加害行為防止の両面から見直されてきた。駐日米大使が精神疾患のある少年に襲われた「ライシャワー事件」(1964年)を受けた精神衛生法(現精神保健福祉法)改正で、通常2人の精神保健指定医の診断が必要なのに対し、指定医1人で済む緊急措置入院を新設。自傷他害の恐れがなくなった場合は「退院させなければならない」とする解除規定もできた。
結果的にこれが裏目に出た格好だが、人権との兼ね合いもある。ある厚生労働省幹部は「『患者を縛り付けるな』というのは簡単だが、再発防止に向け現実的に何ができるかが重要だ」と話す。
措置入院を受けた患者数は約7万6000人いた71年をピークに減り続けている。地域で支援する施設の充実により、措置入院も抑制的に行われるようになったためという。04年には厚労省が入院医療中心から地域生活中心へと転換する方針を示している。 
植松容疑者 クスリ密売持ちかけていた  0700
入れ墨だけじゃなかった!! 神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が刺殺され26人が負傷した戦後最も凄惨な殺りく事件で、殺人などの疑いで27日に送検された元同施設職員・植松聖容疑者(26)の衝撃事実が判明した。同容疑者と親しい知人を本紙がキャッチ。その証言によると、2月に施設を“クビ”になった後「クスリの密売人になろうとしていた」というのだ。
植松容疑者は2月、障害者殺害を予告する衆院議長あての手紙を持参し、職場の施設内でも「障害者は抹殺するべき」などと危険思想を人目もはばからず口にし、施設を事実上の“クビ”になっていた。その後の県警津久井署の聴取にも「障害者を殺害する」などと態度を変えなかったため精神科に措置入院した際、大麻の陽性反応が検出されていた。
親しい知人は「大学を卒業したあたりから付き合う人間の種類がガラッと変わってきた。両親が家を出て実家で一人暮らしを始めたのもこのころで、暴力団関係者とコンビニ前でたむろしているのをよく見かけた。しばらくして体中に入れ墨を入れたり、いかにもクスリをやってるような女といるのを見た。売人からも『聖(さとし)が大麻やタマシャリ(向精神薬)やっているよ』と聞いた」と語る。
植松容疑者は私立大教育学部を卒業。その1年前には教員を目指して母校の小学校で教育実習をやっていたというのに、裏社会の住人と堂々とつるむようになるとは極端すぎる変化だ。
だが知人は「もともと支配欲が人一倍あった。教師を目指していたのも人の上に立ちたい欲求だろう。教師になれなくて、暴力団のようなタテ組織で上に上がれば30〜40人をアゴで使って、借金漬けにしたイイ女を抱けるのを見たら“のし上がりたい”っていう思いが高まったはず」と指摘する。
両親から解放され、就職して多少の金が自由になったところで、生まれ持った支配欲は、普通の生活では満たされなかった。そこで裏社会に近づき、暴力団の周辺者としてアウトローの世界の空気を肌で感じることで、成り上がることを夢見ていたのだろうか。
今回の事件を起こすような兆候も、以前からあったという。
「施設で働きだしたころ、飲んでいる時に『障害者は殺しちゃった方がいいよね』とドキッとする言い方をした。『死んでしまった方が楽だよね』という言い方ならまだ分かる。今も『被害者の親族には申し訳ない』と話しているように、根本的に障害者をモノ扱いする考えを持っていたのだろう。それが大麻などでキマって肥大した可能性はある」
知人は、植松容疑者が2月に施設をやめて措置入院をした後の5月に会ったという。
この時の植松容疑者の様子は「全く働く気がなさそうで『クスリが手に入るんで売れませんかね?』と持ち掛けてきた」という。なんと、クスリを密売しようとこの知人に働きかけてきたというのだ。
「事件を起こしたのにはいろんな要因があると思うが、一つにはカネの問題もあったと思いますよ。施設を退職して失業保険(3〜5月分)が6月に支給されて最後だから、7月は金も底をついていたんじゃないか」
事件では、結束バンドで縛った職員に、複数の障害がある重複障害者の居場所を尋ねていたことが判明している。植松容疑者は「重複障害者が生きていくのは不幸だ。不幸を減らすためにやった」とも供述。津久井署捜査本部は、障害の重い入所者を計画的に狙ったとみている。
現実社会で“敗北感”を味わった同容疑者。今回、重複障害者に狙いを定めた卑劣で残忍な殺りくは、植松容疑者が命を選別することで、神のごとき万能感を味わおうとしたのかもしれない。 
オカルトに傾倒「ヒトラーの思想が降りてきた」  0701
相模原市の知的障がい者施設で19人が刺殺された事件で、殺人容疑などで送検された植松聖容疑者(26)が「昔見た同級生が重い障がい者で幸せに思えず、見ると嫌な気持ちになった。不幸だから障がい者の面倒を見ようと思い施設で働いた」と供述していることが28日、捜査関係者への取材で分かった。一方で「今は抹殺することが救う方法」と供述。神奈川県警津久井署捜査本部は、極めて独善的な考えに傾いた経緯を調べている。
司法解剖の結果、犠牲者19人のうち17人の死因が首を刺されたことによる失血死だった。強固な殺意で執ように攻撃したとみられる。
植松容疑者が犯行に及んだ背景には、オカルトに傾倒し、身勝手な選民思想を先鋭化させた可能性がある。2月19日に措置入院した際、事前に聞き取り調査した同市精神保健福祉課によると、あるカードゲームに心酔していたとみられ、「カードには全世界のことが予言されている」などと説明。「自分はフリーメイソンの信者だ」「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」とも話していた。植松容疑者が話したカードはオカルト愛好者の間で世界中の陰謀事件を予言しているとの噂がある。フリーメイソンは、世界規模の親睦団体。多くの人には活動の詳細を知られていない。
ナチスドイツは、精神障がい者や知的障がい者を「生きるに値しない生命」と呼び、20万人以上虐殺。植松容疑者は「思想」の詳細は話さなかったが、この虐殺をまねた可能性もある。精神保健福祉課の調べに「世界には8億人の障がい者がいる。その人たちにお金を使っているが、他に充てるべき」と話していた。
今年2月、衆院議長に書いた手紙には「UFOを2回見た」。目と鼻を美容整形したことを「進化の先にある大きい瞳、小さい顔、宇宙人が代表するイメージ」と書いていた。
措置入院では、大麻の陽性反応が出ており、その後「大麻精神病」「妄想性障がい」などと診断された。薬物の使用で思想が過激化したとみる識者もいる。日本犯罪学会の影山任佐理事長は「性格的なゆがみで生じた危険な考えが、薬物で増強され妄想的になったのではないか」と推測した。 
「自分は間違っておらず納得できない」  1216
神奈川県相模原市の障害者福祉施設で19人が殺害された事件で、容疑者の男が措置入院中、「周囲に抹殺の考えを話しても理解を示されなかった。自分は間違っておらず納得できない」と話していたことがわかった。
29日朝、事件で大けがをした入所者の男性の母親が容疑者の男への怒りを語った。
重傷の森真吾さん(51)の母・森悦子さん(79)「もう本当に許せないですよね。51歳ですけども、私たちにすれば赤ちゃんと一緒なんですね。どんな気持ちであんな…何が起こったかわからないわけでしょう。もちろん無抵抗ですしね。それを思うと本当に悔しいやらかわいそうやら」
一方、逮捕された植松聖容疑者(26)は今年2月、精神科に措置入院していたが、捜査関係者によると、「周囲に抹殺の考えを話しても理解を示されなかった。しかしながら自分の考えは間違っていない。重複障害者は人の形をしている物であり人間ではない。自分の考えを認めない周囲はきれいごとを言っているので納得できない」と話していたという。
また、植松容疑者は措置入院中の尿検査で大麻の陽性反応が出ていたが、逮捕後の捜索で、自宅からは微量の大麻が見つかっている。警察は薬物使用の犯行への影響についても調べることにしている。 
容疑者「ヒトラーの思想が降りてきた」  1614
緊急措置入院中、病院のスタッフに話す
相模原市の障害者施設殺傷事件で、植松聖容疑者(26)が緊急措置入院中、病院のスタッフに「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話していたことが、相模原市への取材で分かった。ナチス・ドイツは障害者を「価値なき生命」と決めつけ、「国家的安楽死」と称して大量に殺害したことで知られる。
市は2月19日、植松容疑者の措置入院の是非を判断するために神奈川県警津久井署で面談。植松容疑者は「世界に8億人の障害者がいて、その人たちに金が使われている。それをほかに充てるべきだ」などと話した。時折、いら立つような様子もみせながら淡々と述べたという。市によると、ナチス・ドイツを肯定する言葉は20日にあり、これが措置入院の決め手の一つとなった。
植松容疑者は22日、専門医によって「大麻精神病」「妄想性障害」と診断された。入院中の検査で大麻の使用を示す結果が出たことも明らかになっている。その後の3月2日に専門医の診察に対して「入院前の自分はおかしかった」と反省し、大麻による症状が消えたなどと判断されたため、市は措置入院の解除を決定したという。 
重複障害者を「不幸だ」と決め付けてはならない 
神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、19人の方が刺殺される事件が発生しました。
植松聖容疑者は、「重複障害者が生きていくのは不幸だ。不幸を減らすためにやった」と供述しており、「声をかけて返事がない人を狙った」など、その計画性の高さが浮き彫りになりました。
今回の事件で、「重複障害者」という言葉を初めて耳にされた方もいらっしゃったかもしれません。私がこの言葉を始めて知ったのは、山本おさむ氏が描かれた漫画「どんぐりの家」という漫画でした。
聴覚障害に加え、知的障害・肢体不自由・精神障害などを併せ持つ「ろう重複障害者」の子ども達と、それを支える人たちの事実に基づく物語です。
耳が聞こえず、言葉という概念さえ理解できない子どもに、笑顔で勉強を教える先生。食卓ではご飯を、リビングでは玩具を撒き散らすわが子を理解しようとするお父さん・お母さん。懸命に生きようとする子どたちと、それを全力で支える大人たち。やがて、将来を憂う人たちの想いは、2億円の募金活動へ発展し、生活労働施設『ふれあいの里・どんぐり』の建設へと繋がっていくー。
幾度と読み返し、嗚咽を漏らした漫画です。
以前、筋ジストロフィーの子ども達のボランティアに携わった際、「どんぐりの家」に描かれている出来事と、全く同じ経験をした事があります。
子ども達は、歩く事も出来ず車椅子に座ったまま。それでも、同じ姿勢を保って座り続ける事は、彼らにとって大変な労力を擁します。喋る事もなくて表情も乏く、傍目から見れば、何が楽しいの?  何が嬉しいの? と、感じる人がいるかもしれません。
しかし、半日も接していると、ふと、ある事に気がつきます。
トイレなどの所要で席を外すと、「目」で自分の事を追ってくれるのです。出て行った扉の方を見つめ、帰りを待ってくれている。戻ってくると、嬉しそうな目で、じっ・・・と見つめてくれるその目は、言葉は喋れなくても、 「おかえりなさい」と伝えてくれていました。
声に出せなくても、体が動かせなくても、どんな人間にも、「想い」は必ず存在します。
「手伝ってくれてありがとう」
「今日のご飯、美味しかったよ」
「天気がいいから お散歩 気持ちいいね」
コミュニケーションが取れないと決め付けるのではなく、その「想い」を掬い取ってあげる事が、何より大切なのだと強く感じました。
その場では、何かにつけ手を触れ合わせるようにし、帰り際の最後の握手は、少しだけ強く「ギュッ」と握ってあげるのが決まりでした。
当然、握り返す力などありません・・・。
それでも、自分が握った反発で、少しだけ握り返してくれたように感じ、「また来るからね」と約束をしていたのです。別れを惜しむ表情で見送ってくれる彼らと、その保護者の皆さんの姿を、僕は「不幸」などと感じる事はありませんでした。
事件から数日後、複数の団体がメッセージを公表。「全国手をつなぐ育成会連合会」は「安心して、堂々と生きてください」と伝えました。
これは、わざわざ伝える事のない「当たり前の言葉」かも知れません。しかし、現在も尚、「当たり前の日常」が 脆くも崩され、大きな不安を抱えている方が沢山いらっしゃるのです。
不測の事態だからこそ、「大丈夫だよ」と声をかけ、不安な「想い」を掬い取ってあげてください。「生きていていいんだよ」、「生きてくれてありがとう」と、当たり前の言葉を、沢山、沢山、伝えてあげて下さい。
懸命に生きる命を、「不幸だ」と決め付け、奪う権利は誰にもありません。
最後になりましたが、お亡くなりになられた方々のご冥福と、お怪我を負われた皆様、ご家族・関係者の皆様の快癒を、心よりお祈り申し上げます。 
相模原・障害者施設殺傷事件 「塀を越えてくる悪意」とどう向き合うべきか? 
「夜は門が施錠され、飛び越えないかぎりは中に入れないはず。建物だって施錠されているのに……」。入居者家族会の副代表はそう語り、凄惨な現場を背にして絶句した。
平成に入ってから死者数では最悪の無差別殺人の現場となってしまった社会福祉法人かながわ共同会「津久井やまゆり園」(相模原市緑区)。県の指定管理者が運営を受託し、4月末時点で149人の知的障害者(10〜70代)らが長期入居中だった。
2つの居住棟には夜間も1棟あたり2人の職員が配置されていたが、園内すべての鍵を開けられるマスターキーを持つ職員はいなかったという。
しかし、同業者として全国紙の取材に応じ、同園職員の気持ちを代弁したかのような次の談話がなんともやりきれない。
「ハンマーでガラスを割れば入ってこられる。悪意を持った人が侵入して殺傷する事件が起きるなんて考えていなかった。有効な防犯対策は今すぐ思いつかない」(朝日新聞7月27日付朝刊)
相模原市消防局が「刃物を持った男が暴れている!」との通報を受けたのが26日午前2時56分。6分後に現場到着した消防・救急の6人(及び警察官2人)は、複数犯の可能性を警戒し、防刃ベストや防火服を装備して暗い施設内に入ったという。
警察官らの到着と入れ替わるように、植松聖容疑者(26)が津久井署に単身出頭したのが午前3時ごろ。容疑者は、今年2月に衆院議長宛に持参した手紙や、かつての同僚職員に対し、「重度障害者の大量殺人はいつでも実行できる」と示唆していた。
とはいえ、実際に〈悪意〉が暴走すれば、施設の周囲に建てられた塀も、施錠も、職員数も、そして後手の通報さえもが空しく映る。
高齢者や障害者の施設がまた狙われる?
老人ホームなどの介護施設を狙った犯罪は、過去にも例がある。2005年、中国人窃盗団が関東・東北地方の老人ホームを狙った計120件の窃盗事件の被害総額は5億4000万円(読売新聞:2005年9月21日付)。
また2006年、日本人や在日韓国人らも属する巨大窃盗団による23都道府県下の老人ホームや病院などを狙った犯行例では同6億7500万円(計730件)という膨大な被害実態が明らかにされた(毎日新聞:2006年9月28日付)。
厚生労働省によれば、障害者の入居サービスを提供している施設は全国で2617。政府が「脱施設(=地域ぐるみの在宅利用の充実)」を掲げるなか、これらの施設も減少傾向にあるとはいうものの、13万1565人の利用がある(2016年3月時点)。
役人の机上論は〈地域開放〉を奨励し、従来の入居者家族や見舞客、出入り業者などに加えて不特定多数の人間が入りやすい環境作りを目指す施設も最近は少なくない。事件が起きた津久井たまゆり園も積極的な地域交流ぶりが好評で、入居者たちも地元で歓迎されていたという。
しかし、その開放性が、〈特異な悪意〉の持ち主を呼び込み、犯罪現場になってしまったのも哀しい現実だろう。今回の凄惨な事件のように、施設内の事情にも精通しているOB職員が抱いた悪意の前には打つ手もないが、防犯は人員を増やせば解決できるものでもない。
ましてや重労働・低賃金・将来性ゼロと三拍子揃って、〈高離職率の象徴〉でもある介護職。施設内での窃盗案件や認知症の入居者からの不条理な暴言や暴力、移乗作業による慢性腰痛や昼夜を問わないトラブルなど、「外敵」以前に迎えうつ対象に疲弊している職員が大勢だろう。
「美しい国」の救世主は「マイルドヤンキー」?
半年やれば後輩ができ、1年続けば先輩が減り、2年で中堅、3年持てば「現場の要」といわれる介護業界。その人材不足の活路を〈マイルドヤンキー待望論〉として説いた厚労省社会・援護局の福祉人材確保対策室長(当時)への違和感は、当サイトでもかつて掲載した。
介護職は仕事の内容の負担が重い割りに、いまだ低賃金だ。平均給与は約22万円と、全業種平均に比べ10万円以上も低いといわれている。離職者も多く、平均勤続年数は全業種平均の半分の6年にとどまる。 
「負け組の温床」と揶揄されて、まともな教育時間も組めないままに、次々と人が入れ替わってゆく介護業界。不特性多数の外来者や人材応募者の受け皿として、危険なリスクをどう回避すべきなのか。問題は山積する一方だが、人材は一向に根付かない。
植松聖容疑者を知る近所の人々は、「挨拶もよくする」「とても明るい青年」と異口同音に語り、地元や仲間を大切にする一面も多く聞かれる。
そんな青年が、「教職免許を取るために児童養護施設でボランティアをしていた」と入職を希望してきたら、介護現場では前向きに採用するだろう。多少の問題があっても、立派な人材に育てようと努めているのが介護現場の実情だ。 
今回の事件を受けて政府は28日、関係閣僚会議を首相官邸で開いた。安倍晋三首相は「再発防止に全力を」と述べ、塩崎恭久厚生労働相や河野太郎国家公安委員長らに対し、施設の安全確保強化や「措置入院」の運用見直しを早急に検討するよう指示した。
出頭直前、植松容疑者がSNS上に綴ったコトバは「世界が平和になりますように。beautiful Japan!」だった。かつて自著の新書タイトルで『新しい国へ〜美しい国へ』と謳った安倍首相は、介護・福祉の課題が複雑に絡み合うこの問題と、どう戦うつもりなのだろうか? 
相模原の事件で問われることは何か
神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で7月26日未明、入所者19人が刃物で殺害され、26人が重軽傷を負いました。逮捕された容疑者は、この施設に以前勤めていた26歳の男性で、「障害者なんていなくなればいいと思った」という趣旨の供述をしているということです。理不尽な理由で、就寝中に次々と襲われた被害者の恐怖と苦痛を思うと、やりきれません。
今の段階で強調しておきたいことが2点あります。
第1に、容疑者は措置入院になっていた時期がありますが、本当に何らかの精神障害があったかどうかは、まだよくわかりません。したがって、精神障害による犯行と決めつけたり、事件を予防できなかった原因を精神科医療システムに求めたりするのは、時期尚早だということです。
第2に、はっきりしているのは、重度の障害者は死なせるのが本人と社会のためだという、ゆがんだ確信を容疑者が抱いていたことです。容疑者個人の特異性で片づけるのではなく、私たちの社会の中に存在する差別の思想と向き合い、しっかり闘っていくことが重要だと思います。
精神科医療にゆだねてよかったのか
報道によると、容疑者は今年2月14日と15日、東京・永田町の衆院議長公邸を訪れ、「障害者総勢470名を抹殺することができます」「職員の少ない夜勤に決行致します」などと書いた手紙を預けました。内容を見た警視庁麹町署が神奈川県警津久井署に対応を依頼。同署から連絡を受けた施設が面談した時も「障害者はいなくなったほうがいい。間違っていない」と言ったため、職員としてふさわしくないとして2月19日に自主退職させました。
同じ日、津久井署が事情聴取したところ、「重度障害者の大量殺人は日本国の指示があれば、いつでも実行する」などと話したことから、同署は通報を相模原市に行い、それを受けて市は、指定医の診断を経て、精神保健福祉法に基づいて県内の病院に緊急措置入院させました。22日には指定医2人が診察を行い、正式の措置入院になりました。しかし3月2日、措置入院の要件に該当する症状がなくなったとして措置は解除され、退院していました。
精神保健福祉法による措置入院は、精神障害によって自分を傷つけたり他人に危害を加えたりするおそれがある場合、知事または政令指定市長の行政権限によって行われる強制入院制度です。精神保健指定医の資格を持つ医師2人の診断に基づいて行われます。より急を要する場合に指定医1人の診断で72時間を限度に行えるのが緊急措置入院です。
かなり具体的な犯行の示唆があったのに、なぜ防げなかったのか。出口の段階である措置解除の妥当性やその後のケアに目が向きがちですが、その前に、本当に措置入院の対象だったのか、大量殺人を公言している人物を精神科医療にゆだねるのが妥当かという点を、検討する必要があると思います。
医師の診断が正しいかどうかはわからない
2月19日に緊急措置入院になった時の血液・尿の検査では、大麻の陽性反応が出ていました。措置入院に切り替えた段階の指定医2人はそれぞれ「大麻精神病、非社会性パーソナリティー障害」「妄想性障害、薬物性精神病性障害」と診断したということです。
とはいえ、その診断が正しいかどうかは、まだわかりません。精神症状が本当にあったのかも検証が必要です。同じ患者でも精神科医によって診断が異なることはよくあります。また精神科には多種多様な診断名があり、つけようと思えば、たいていの人に診断名をつけることができます。他害のおそれが明らかでも、精神障害でなければ措置入院の対象にならないのですが、大量殺人をすると言っている人間を放置できないという理由で、診断名をつけて強制入院させるというケースも考えられます。
重度障害者はいないほうがよいという考えは、差別思想であって、それ自体が妄想とは言えません。妄想とは、現実とかけ離れた確信を抱くことです。たとえばヘイトスピーチをする連中が「○○人をぶっ殺せ」と叫んだからといって、精神障害による妄想ではありません。
もしパーソナリティー障害や妄想性障害なら、簡単な治療法はなく、わずか12日間ほどで状態が大幅に改善するとは考えにくいものです。もし大麻や薬物の影響があったなら、依存症のことが多く、定期的な通院か回復支援施設の利用といったフォローなしで退院させるのは理解しにくいことです。
なお、大麻取締法では単純使用には罰則がなく、病院が警察へ通報する義務もありません。そもそも違法薬物を使っていた患者を知った医療機関がいちいち警察に通報していたら、患者から本当の話を聞けず、依存症の治療ができなくなります。
池田小事件の報道の教訓
なぜ、精神科の診断はあてにならないと強調するのか。2001年6月に児童8人が殺害された大阪教育大付属池田小学校事件の教訓があるからです。
池田小事件の犯人は、精神病の診断で過去に何回も入院し、傷害事件を起こしたあと精神障害を理由に不起訴になって措置入院していた時期もありました。それを受けて精神障害による犯行という印象を与える初期報道が行われたのですが、人物像や行動を調べていくと様相が変わり、やがて本人が病気を装い、周囲の関係者がだまされていたことがわかってきました。裁判では、証人出廷したすべての医師と鑑定人が精神病を否定し、過去の病名についても「保険請求のための診断名」「前の医師がそういう病名をつけていたから」といった証言がありました。結局、極端な人格ではあるが精神病ではないとして完全な刑事責任能力を認めた1審判決が確定し、死刑が執行されました。
報道する側として、この事件は苦い経験でした。事件の核心部分について初期報道で誤ったイメージが広がり、精神障害者が危険視されるという2次被害も起きたのです。精神科医の診断も、警察・検察の刑事責任能力に関する判断も、うのみにはできない。たとえ入通院歴、診断名といった「事実」があっても、それが「真実」とは限らない。そのことを痛感したのです。
警察に手だてはなかったのか
相模原の事件で、もうひとつ検証が必要なのは、警察の対応です。2月に大量殺人を予告する手紙を届け、警察官にもその意図を話したのに、精神科医療に頼る以外、刑事司法として何の方策もなかったのかという点です。
考えられる罪名のひとつは業務妨害。ネット上の爆破予告などでも適用されています。容疑者に業務妨害の目的があったかは微妙ですが、大量殺害の発言を受けて施設が防犯カメラ設置などの対策を取ったのだから、成立する可能性はあるでしょう。脅迫罪は、相手または親族の生命、身体、自由、名誉、財産に対する害悪を相手に告知することが要件で、衆院議長、施設、警察に告げても脅迫罪の成立はむずかしいかもしれません。そして殺人予備罪。殺人目的で凶器を準備していた場合などに適用できます。
警察は、まさか本当にやると思わなかったのか、それとも犯罪の構成要件の関係でむずかしいと判断したのか。たとえ逮捕できなくても、取り調べと家宅捜索ぐらいできなかったのでしょうか。一定の歯止めになるし、結果論ですが、捜索すれば刃物や大麻が見つかったかもしれません。
大量殺人やテロの計画を公言する人物がいても、もし刑事司法が何もできないとすれば、それでいいのか心配になります。精神障害と関係なく、何らかの政治的・宗教的・社会的信念を抱いた人間が大事件を起こすことは十分ありえます。社会防衛のために閉じ込めることは、精神科医療の本来の役割ではないし、思想は治療できません。対策を考えるとすれば、明白な殺害予告に対処できない刑事法制の不備のカバーではないでしょうか。
意思疎通できないことはあるのか
容疑者は、12年12月から津久井やまゆり園に非常勤で勤務。13年4月から常勤職員になりました。当初から障害者を見下すような行為があり、今年2月に入ると、職場で障害者の尊厳を否定する暴言を吐くようになったといいます。社会福祉の事業費が抑えられる中、障害者施設の職員は、仕事が大変なわりに賃金が安く、人手不足になりがちで、適格と確信できない人でも雇わざるを得ない状況があるようです。もともと福祉の仕事に向かないタイプだったのかもしれないし、仕事を続ける中でやりがいや楽しさを見いだせなかったのかもしれません。
障害者施設の入所者には、生活の介助に手のかかる人が多く、いろいろ困った行動を繰り返す人もいます。容疑者は「意思の疎通のできない人を刺した」と供述したようですが、重度の重複障害者で言葉のやりとりができない人でも、感情や快・不快の気分はあるものです。言語以外を含めたコミュニケーションの工夫から、仕事の喜びも生まれるはずですが、それには人を大切にする態度と、ある程度の専門知識、努力、経験が必要です。教育、研修、指導がどうだったかも気になります。
それにしても、重度障害者は安楽死させようという極端な考えに、どうして凝り固まったのか。過去の無差別殺傷事件は何らかの生きづらさを抱えた人物の衝動的な犯行が多かったのと異なり、今回は計画的な確信犯で、主観的には正義感から実行したようです。衆院議長への手紙では、殺害計画を実行すれば国が喜んでくれると考えていたフシもあります。仕事上の不満やストレスだけでなく、何らかの影響を受けたものがあったのか、解明が求められます。
すべての人に生きる権利がある
障害者の尊厳や存在を否定する考えは、けっして容疑者独自のものではなく、昔からあります。
20世紀前半には、遺伝学の見地から不良な子孫の出生を防ごうという「優生思想」が世界各国で幅をきかせました。極端な形で実行したのがナチスドイツで、ユダヤ人の収容・虐殺に先行して、精神障害者、知的障害者、神経疾患の患者などを安楽死させる「T4作戦」を秘密裏に進めました。犠牲者は30万人と推計されています。価値なき生命は、死なせたほうが本人にも幸せだと考えたのです。
日本では、殺害までいかなかったようですが、1948年に優生保護法が制定され、96年まで存続していました。精神障害者や知的障害者らに約1万6500件の強制不妊手術が行われ、中絶の強制もありました。ハンセン病患者らにも事実上の強制不妊手術が行われました。
障害者を社会の対等な構成員とする現代の考え方は、自然にあったわけではありません。障害者の人権、生活保障、社会参加を求める運動が長年にわたって続けられ、行政や政治の理解も広がる中で、ようやく確立してきたものです。日本は14年1月に障害者権利条約を批准し、それを反映させる障害者差別解消法が今年4月に施行されたばかりです。法制度にも社会にも、まだまだ不備があります。
重度の知的障害者の生活の場は、かつて大規模施設への入所が多かったのが、2000年代以降、グループホームを含めた地域への移行が進められてきました。しかし津久井やまゆり園は7月1日時点で入所149人という大規模施設。共生社会の実現が道半ばであることの表れとも言えます。
障害者、高齢者、病者、貧困者をはじめ、社会的に弱い人々を社会のお荷物と見る傾向は、今でも世の中の一部に存在します。社会保障の財政負担に関連して、そういう風潮はむしろ強まっているようにも感じます。ネット上では、障害者を蔑視する書き込みが以前から珍しくありません。今回の事件で容疑者の供述や手紙の内容が報道され、結果として差別思想が広く流布されたことも、類似の犯罪につながらないか、心配です。
すべての人に個性と尊厳、よりよく生きる権利がある。価値なき生命など存在しない。そのことを政府、自治体など公的機関、報道機関、そして良識ある個人と団体が、確信を持って積極的に発言していくことが、とても重要だと思います。 
2016/7/30

 

ヒトラー的「優生学」思想から発生した相模原殺傷事件 0740
目的のためには手段を選ばなかった平成の殺人鬼
どのような経緯があったのか定かではないものの、障害者を抹殺することを正義と考えるに至った精神異常者が、大胆不敵にも、その狂気の妄想を実際に演じてのけるという前代未聞の殺傷事件が発生した。深夜の静寂を破り、「○○○に刃物」という言葉そのままに、何の罪もない数十人の人々に刃物で襲いかかり、19名もの命を奪った残虐行為は、如何なる事情があろうとも「鬼畜の所業」と言わざるを得ない。
犯人は、「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。」という目的を語っておきながら、その目的を達成する手段が“保護者の同意を無視した刃物による殺人”では筋が通らず、完全に狂っているとしか言い様がない。
介護を要する重度の痴呆症の親を抱えた人などが、たまに介護疲れで殺人を犯すということがある。そういった社会問題を減少させるという意味で、「安楽死制度というものも場合によっては必要だ」と訴えるならともかく、「障害者を抹殺することが革命」とは恐れ入る。
しかし、こんな手紙を手渡された衆議院議長や、手紙に名前が書かれていた安倍総理にとっては迷惑この上ない話だろうと思う。まさか、こんな手紙の内容を真に受けるような人はいないと思うが、もし本気にするような人がいれば安倍総理が気の毒なので、擁護する側に立って少しだけ意見を書いておきたいと思う。
この犯人は、自民党や安倍総理を独裁的な団体および指導者だと勝手に妄想しているという意味では、自民党をナチス、安倍総理をヒトラーなどと言って口撃しているような人々と同じような妄想気質が観て取れる。しかしながら、「反安倍」の人々とこの犯人の大きく違うところは、その妄想の根底に「優生学」思想というものが有ったことだろう。
ヒトラー思想に同調した平成の殺人鬼
ナチスが「優生学」を研究していたことは有名な話で、多くの障害者を計画的に抹殺したことも周知の通りだが、このナチスの安楽死計画は「T4作戦」と呼ばれた。
今回の相模原事件の犯人は、事件を起こす少し前に「ヒトラーの思想が降りてきた」と語っていたそうだが、自らがヒトラー的な思想に被れていたからこその出来事だったとも言える。「優生学」というものを初めて提唱したのはチャールズ・ダーウィンの従兄弟(いとこ)にあたるフランシス・ゴルトンという遺伝学者だが、ゴルトンはダーウィンの仮説『種の起源』に強く影響を受けた人物であり、人間の才能は遺伝によって決まると固く信じていた。
遺伝子というものが未だ解明されていない時代に生きたゴルトンは、遺伝、つまり血縁を操ることで社会は良くなる(進歩する)という考えを持つに至った。遺伝子を改良するのではなく、遺伝そのものが対象となったため、必然的に人種による優劣意識が生まれることになった。この考えは、人間の良し悪しは生まれながらに決まっているという差別主義に他ならないが、その唯物(社会科学)的妄想を現実のものとして実行したのがヒトラーだった。
ヒトラーは右の社会主義者と言われるが、その本質は選民思想に被れた全体主義者(ファシスト)だった。人間の精神性を無視し“社会”を中心に物事を考えるようになるという意味では、極右も極左も行き着く先は同じく社会主義者である。社会主義者の最たる特徴は、人間をモノとしてしか見れなくなるというもので、だからこそ、障害者を単なる欠陥品としてしか見れなくなる。
思想ではなく妄想で動いた平成の殺人鬼
衆議院議長に宛てたとされる手紙の文体からは、なにやら「革命臭」がすることから、この事件の犯人を「思想犯」という括りでプロファイリングされている向きもあるが、この手紙の内容に目を通した限りでは、思想犯というよりも、ただの妄想狂だろうと思う。薬物の影響もあるのか自身の妄想が躁的に膨張し、何者かに操られるかの如く正気を失い、犯行(凶行)に及んだと考えるのが一般的な解釈だろうと思う。
そもそも、単なる思想犯が、何の躊躇もなく無抵抗の人間を19人も殺せるわけがない。明らかに犯人の行動は狂気の沙汰であり、まともな精神状態でなかったことは明らかだ。間違った思想(優生思想)に被れていたことは推察できるが、その思想が暴走するに足る外的(内的)刺激が無ければ、このような凶行に及ぶまではいかないと思う。
その刺激が薬物であったのどうかは不明だが、1つ確かなことは、事件の動機は安倍総理とは何の関係もないということ。安倍政治を《独裁政治》と勝手に思い込んだ人間が自らの歪んだ革命思想(妄想)を実践し勝手に殺人を犯したに過ぎない。仮に、現代日本の保守的回帰を右翼的回帰と曲解したことによる犯行だったとしても、事件を起こした責任は犯人にある。 
相模原障害者施設殺傷事件での海外の反応はまとめ、欧米メディアも大きく報道
米ケリー国務長官
アメリカのケリー国務長官は26日午後、訪問先のラオスで開いた記者会見で「オバマ大統領と国民に代わり、恐ろしい事件で愛する人を殺害されたご家族に最も深いお見舞いを申し上げる」「事件で愛する人を失った人たちに心からお悔やみを申し上げる。つらいときを過ごしている人たちのことを思い祈りをささげたい」その上でケリー国務長官は、「(事件は)一種のテロだ」と非難。「われわれの思いは日本の人たちとともにある」と述べた。
プーチン大統領
ロシアのプーチン大統領が同日、安倍晋三首相宛てに哀悼の意を表明するメッセージを送った。タス通信などが報じた。露プーチン大統領は、障害者に対して行われた犯行に「衝撃を受けている」とコメントを寄せた。「無防備な障害者に対する犯罪は、その残忍さと冷徹さで衝撃を与えた」としたうえで、遺族に哀悼の意を示すとともに、けがをした人の早期の回復を願うとしています。「か弱い障がい者に対し行われた犯行のその残酷さとシニズムに衝撃を受けている」と弔電に記されています。今回の事件は、ロシアのメディアでも大きく取り上げられ、国営テレビは、事件現場からのリポートをまじえて、「第2次世界大戦後、最悪の殺人事件となり、日本では安全対策が強化された」と伝えています。
ローマ法王フランシスコ
フランシスコ・ローマ法王は26日、事件で人命が失われたことに「悲嘆」を表明。「困難な時における癒やし」を祈り、日本における和解と平和を祈願した。
ホワイトハウス
プライス報道官は25日、声明で「相模原で起きた憎むべき攻撃で亡くなった人たちの家族らに、米国は最も深い哀悼の意を表する」とした。
CNNは「第二次大戦以降の日本で最悪の大量殺人」と報道
米大手放送局CNNは今回の事件を「第二次大戦以降の日本で最悪の大量殺人」と報道。現場で救助に当たる救急隊員の映像などを使い、「第二次大戦以降の日本で最悪の大量殺人」と報道。英BBC放送(同)は東京・秋葉原で平成20年に7人が死亡した無差別殺傷事件などにも触れながら、「日本では過去数十年で最悪の事件」と報じた。メディアは植松聖容疑者(26)が障害者を殺害するとつづった手紙にも強い関心を示した。
独DPA通信
独DPA通信は植松容疑者が「障害者の安楽死」を図ったと報じ、AP通信は「憎悪が若者を(犯行に)駆り立てたようだ」と伝えた。
ワシントン・ポスト「銃を使わずとも大量殺人が起こり得る」
ワシントンポスト紙は、国際ニュースのトップで記事を掲載。日本で大量殺人が珍しい理由を分析しつつ、今回の事件を「銃がなくとも大量殺人が起こり得る事例」として取り上げている。日本では大量殺人が珍しい理由を分析した記事を掲載。殺人発生件数自体が少ないことや銃所持が厳しく規制されていることを紹介し、一方で「相模原の事件は、銃を使わなくても大量殺人が起こり得ることを示した」と指摘した。
BBC放送は「世界で最も平和な国に衝撃を与えた」と驚きをもって報じた
英国営放送BBCでは、2008年に起こった秋葉原での無差別殺傷事件にも触れ、今回の事件を「日本で発生した大量刺殺では最悪の被害」と紹介。「銃規制が非常に厳しい日本では、大量殺人事件は異例の事件」とした上で、「世界で最も平和な国の1つである日本に衝撃を与えた」と、驚きをもって報じた。
英フィナンシャル・タイムズ紙は、今回の事件が起こった社会背景について論評している
英紙フィナンシャル・タイムズは、今回の事件が起こった背景ついて「日本の高齢化社会」「介護士の不足、待遇の悪さ」などをあげて紹介している。「賃金が安く、訓練を受けた介護士や看護師が不足していることが、虐待の増加要因と指摘されている」日本では高齢者の増加により介護施設の負担が高まり、多くの介護要員が必要になる一方、低賃金で熟練した介護者が不足し、高齢者への虐待が問題になっている点を事件の背景に挙げた。
中東衛星テレビ局アルジャジーラ
カタールドーハにある衛星テレビ局でアラビア語と英語のニュースを24時間放送している同局。今回の事件に関して、番組にてジャーナリストの話しとして「日本でこれだけの規模の暴力が起きのは極めて稀」と驚きを隠せないようです。
ロイター通信
「大量殺害は世界でありふれている」が、「日本では極めて珍しい」と指摘。一方、米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は国連の統計を引用し、2011年の人口10万人当たりの殺人発生件数は0.3件だが、「米国はその10倍以上の4.7件だ」と紹介した。

ここまで大きく海外メディアが取り上げ、各国の首脳がコメントを表明することもそうありません。それほど日本のみならず、世界各国に衝撃を与えた事件ということがわかります。また世界各国でも様々な事件が起こっていることから、今回の事件もISが絡んだものと思っている一部の人もいるようです。 
2016/7/31

 

ハンマー前日に購入 鉢合わせの職員殴られる 0700
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が刺殺され26人が重軽傷を負った事件で、殺人容疑で送検された元施設職員の男(26)が「結束バンドとハンマーは(事件の)前日にホームセンターで買った」と供述していることが30日、捜査関係者への取材で分かった。また鍵を奪われた女性職員は、施設内で男と鉢合わせになり殴られていたことも判明。捜査本部は供述の裏付けを進めるとともに、事件当時の詳しい状況を調べている。
捜査関係者によると、元施設職員の男は事件前日の25日、相模原市内や都内の複数のホームセンターを回って結束バンドなどを購入したという。周到に準備を進めていたとみられる一方、2月には施設を襲撃し障害者を殺害する計画を記した「作戦内容」とする手紙を衆院議長公邸に持参しており、捜査本部は計画を実行に移そうと決意した経緯などを慎重に調べている。
また、男が犯行に使ったとみられる刃物5本のうち、包丁2本が東棟と西棟のそれぞれ1階通路で見つかったことも判明。いずれも血液が付着していた。ハンマーは侵入した現場近くで見つかったほか、出頭時に持っていたかばんの中にも、血の付いた包丁とナイフ計3本と結束バンド、手袋とともに別の1本が入っていた。
男の事件前日の足取りを巡っては、午前中に同市緑区のファストフード店駐車場で、鍵が付いたままの車をスペースからはみ出して止めていたことが明らかになっている。通報を受けた津久井署は署に移動したが、「特異な言動は認められなかった」(県警)として同日昼ごろ訪れた男に引き渡していた。
関係者によると、男は26日午前2時ごろ、東棟1階の居室の窓をハンマーで割って侵入、この部屋の女性入居者(19)を刃物で襲った。当時、同フロアでは女性職員が夜勤業務に当たっており、この職員が支援員室から出たところ男と遭遇、後頭部を殴られて鍵を奪われた。
支援員室では、各居室に設置されている集音マイクの音声を聞き取れる仕組みになっている。女性職員はマイクを通じて物音を聞くなど、何らかの異変を察知して室外に出た可能性もあるという。
捜査本部は30日も同施設を現場検証するなど、事件の解明を進めている。 
障がい者の「抹殺」すら計画していた北朝鮮 0900
相模原市緑区の障碍(がい)者施設で起きた大量殺人事件。容疑者は、取り調べで「ヒトラーの思想が降りてきた」などと述べ、重度の障碍者だけを選んで襲うなど、動機と優生思想との関連を疑わせる。
優生思想とは「劣等な子孫が生み出され、社会、国家、民族に悪影響を及ぼすことを未然に抑制しよう」とする考え方だ。ナチス・ドイツはそれを人種政策に取り入れ、ユダヤ人、ポーランド人、ロマ、同性愛者、障碍者を強制収容し、虐殺した。
「全員処刑」を目指す
とんでもない結果をもたらしてようやくその危険性に気づいた世界は、優生思想を遠ざけるようになった。
かつての日本でも「国民優生法」「優生保護法」に基づき、多くのハンセン病患者に対して「断種手術」を行っていた。断種手術とは、男性の輸精管を切断して生殖能力をなくすものだ。スウェーデンでも身体障碍者に対して断種手術が行われていたが、日本でもスウェーデンでも、国が過ちを認め、補償を行った。
しかし北朝鮮にはいまだに、優生思想に基づく、障碍者への差別的政策が残っていると見られている。
アメリカの保守系ニュースサイト「ワシントン・フリー・ビーコン」によると、北朝鮮当局は当初、障碍者の中でもとく小人症患者を文字通り「根絶やし」にすることを目指していたとの情報がある。
これが実行されていたら確実に国際社会にバレるだろうが、その一方、断種手術や強制隔離は確かに行われているようだ。これについては、強制隔離により一家離散を強いられた脱北者らの証言もある。
もはや言い逃れのできない、歴史的な事実なのだ。
そして、北朝鮮は2000年代に入ってようやく、障碍者の人権に対する配慮を装い始めた。
北朝鮮は2003年6月に障碍者保護法を制定したのに続き、2013年7月には国連障碍者権利条約に署名した(未批准)。障碍者のスポーツ選手をパラリンピックに参加させたり、障碍者の音楽舞踊公演をヨーロッパで行ったりしている。最近完成した平壌順安空港の新ターミナルや科学技術殿堂にも、障碍者用の施設が作られた。
それで、北朝鮮の障碍者の置かれた状況はどのくらい改善したのだろうか。何ら障碍を持たない人々でも人権侵害に苦しんでいるあの国の実情を考えれば、ほとんど期待することはできない。
しかし、北朝鮮当局の障碍者への配慮が、たとえ批判回避のためのポーズに過ぎないものであっても、かの国の障碍者たちが想像を絶する苦難から解放されるまでの道のりが1ミリでも縮まるのなら、それに越したことはないとすら思える。  
職員拘束に失敗、通報恐れ逃走 相模原殺傷、容疑者供述 1129
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が死亡した事件で、殺人などの容疑で送検された元職員の植松聖(さとし)容疑者(26)が、入所者を襲うのをやめた理由について、「職員が部屋に閉じこもったので、通報されると思った」と供述していることが捜査関係者への取材でわかった。神奈川県警は、この職員の行動がなければ、さらに被害が拡大した可能性があったとみている。
園の東西の居住棟は、男女別などで「ホーム」と呼ばれる八つのエリアに分かれている。捜査関係者によると、植松容疑者は各ホームに入るたび、1人ずつ配置されている職員を結束バンドを使って拘束。当直勤務だった8人の職員のうち、5人の指や腕を縛り付けていた。こうして警察に通報されないようにしたうえで、職員に入所者の障害の程度を尋ね、特に障害が重い人を狙って襲うことを繰り返したという。
しかし、西側の居住棟2階のホームでは、職員が部屋に逃げ込んで閉じこもったため、植松容疑者は拘束を断念。園を出て近くにとめていた車に乗り、津久井署に出頭した。
植松容疑者は今年2月、大島理森衆院議長に宛てた手紙に「作戦内容」として、「職員は結束バンドで身動き、外部との連絡をとれなくします」「抹殺した後は自首します」などと書いていた。植松容疑者はこうした計画にこだわり、園内で逮捕される前に逃走したとみられる。 
相模原殺傷 事件直後にコンビニ立ち寄りか 1236
神奈川県相模原市の障害者施設45人殺傷事件で、逮捕された男が事件直後に、現場近くのコンビニエンスストアに立ち寄っていた可能性が高いことがわかった。
逮捕された、「津久井やまゆり園」の元職員・植松聖容疑者(26)は、施設に侵入して重度の障害者を刃物で襲い、19人を殺害した。
捜査関係者への取材で、植松容疑者は26日午前2時47分に施設を出て逃走したあと、同日午前3時過ぎに出頭しているが、その間にコンビニに立ち寄っていた可能性が高いことが新たにわかった。警察は防犯カメラを解析してコンビニでの行動を確認するなど、裏付けを進めている。
一方、犠牲となった女性(19)の通夜が、30日、神奈川県内で営まれた。女性の母親は今の心境について「かわいい娘を失い、ただ悲しく、事実を受け入れられない状態です」などとコメントした。 
神奈川県警が被害者の氏名を公表せず、事実確認に“壁” 1310
 障害者団体は疑問視「逆に障害者差別では」
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入居者19人が刺殺された事件をめぐり、神奈川県警は障害者への配慮などを理由に被害者の実名公表を拒んだ。
戦後最大級の犠牲者を出した殺人事件にも関わらず、「誰が亡くなったのか」という事実確認に障壁を設け、被害者の足跡や遺族の思いなどを世に伝える機会を奪った形だ。障害者団体は「逆に障害者への差別になっていないか」と批判、メディアの専門家も対応に疑問符を付けている。
被害者を記号化
県警は26日の事件発生以降、被害者名を「A子さん19歳」「S男さん43歳」などと記号化して公表している。非公表の理由は「(現場が)障害者施設で障害者という条件のため。遺族による強い希望もあり、そのような判断をした」という。
しかし、この対応には疑問の声が上がる。「幼いときに一緒の施設で過ごした人が被害に遭った可能性があるが、名前が出ていないので分からない」。自身も障害者で、27日に東京都立川市から事件現場を訪れた山田洋子さん(45)は困惑した様子で話した。
神奈川県内で障害者支援を手がける10団体は29日、県に障害者に対する偏見の払拭を求める申入書を提出。その中で「一般的に公表される被害者の氏名が、この事件に関して公表されないことは大きな疑問を持たざるを得ない」と訴えた。扱いを分けることが、「(結果的に)差別となっている」という主張だ。
立命館大学生存学研究センターの長瀬修特別招聘(しょうへい)教授(障害学)は「名前を公表せず、19人の人間を記号化してしまうことは、『障害者は人間ではない』という植松聖(さとし)容疑者の思想に重なる部分があるのではないか」と警鐘を鳴らす。
さらに、「重要なのは被害者一人一人がどう生きてきたかを知って、社会が悲しみや怒りを共有することだ」と指摘する。
産経新聞は29日付で、けがを負った被害者の家族を取材し、実名で報じている。
危うい「情報選別」
被害者を「非公表」とするケースは、このところ後を絶たない。昨年9月、茨城県常総市で鬼怒川が決壊した水害で、市は「個人情報保護の観点から」氏名を伏せた上で「22人と連絡が取れない」と公表。5日後に「全員と連絡が取れた」としたが、その間、自衛隊や消防による救助作業が継続された。氏名が公表されていれば、「住民らの連携により素早い確認ができた」と指摘された。
バングラデシュの首都ダッカで1日、日本人7人を含む20人が殺害された事件でも政府は当初、実名公表を控えた。その一方、報道機関の独自取材で判明した名前もあり、志を持って活動した犠牲者の姿などが世間に伝えられた。
立教大学の服部孝章名誉教授(メディア法)は「実名の開示は、どんな人物だったのか、どんなことが起こったのかを検証するのに必要だ」と強調。「メディアが実名を報道するかどうかは、警察ではなくメディアが責任を持って判断することだ。当局による恣意(しい)的な情報選別は、都合の悪い情報の隠蔽(いんぺい)にもつながりかねない。『遺族感情』などを理由に、安易に匿名にすることは許されない」と批判している。 
「強い人間に憧れが」 相模原45人殺傷容疑者を知人が語る
神奈川・相模原市で起きた45人殺傷事件。日刊ゲンダイは、事前に複数のナイフや、ハンマーを用意するなどして次々と入所者を襲った植松聖容疑者(26)を幼少期から知る人物で、事件後、神奈川県警から8時間に及ぶ事情聴取を受けたという男性Aさんを直撃した。
Aさんによると、植松容疑者は子どもの頃、猫がいじめられているのを見ると、必死になって止める優しい少年だった。
「サトシの父親は小学校の先生で、まじめな人。道徳に厳しく、命の大切さを説いていました」
地元の小中学校から東京・八王子の私立高の調理科に進学したものの、同級生を殴るなどのトラブルを起こし、相模原市の高校の福祉科に転校した。
「親から『大学は行け』と言われ、彼は教員である父親の影響で帝京大の教育学部に進学しました。ところが、当時はやったクラブに出入りするようになり、悪い仲間とも付き合うようになりました。サトシは“強い人間”に憧れがあって、自分を強くみせようとして入れ墨やクスリなどに手を出すようになった。特に悪くなったのは大学卒業後です。半グレ集団とつるむようになり、まともな友人はどんどん離れていきました」(Aさん)
「支配者になりたい」
そんな植松容疑者を持て余した両親は4年前に引っ越し、植松は一人暮らしになった。そして、2012年12月から犯行現場となった「津久井やまゆり園」で働くようになるのだが、不自然な言動が見られ始めたのもこの頃だ。
「大麻やタマシャリ(向精神薬)で徐々に言動がおかしくなったとのウワサが出ていました」(知人男性)
結局、植松容疑者は今年2月、施設関係者に「障害者を殺害したい」などと暴言を吐いて措置入院に。その際、「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話したという。
Aさんが続ける。
「そもそも最初は政治に興味はなかったらしく、大学卒業後から右翼系の団体と付き合い始め、その影響でヒトラーに興味を持つようになったようです。サトシは『支配者になりたい』とも言っていました。クスリの影響もあって、自分がヒトラーのようになれば人を救えると本気で思い込んだのかもしれません。送検時に車の中で見せた笑顔はいつもと変わらない笑顔でゾッとしました」
植松容疑者は取り調べに素直に応じているというが、現場の警察官は動機が理解できず、困っているらしい。
闇は深い。  
 

 

 
大口病院事件

 

大口病院事件報道
大口病院事件の犯人は誰?
 看護師やツイッター通報者の介護福祉士が気になる
横浜市神奈川区の大口病院にて、点滴に界面活性剤が混入された異物混入事件について、犯人は一体、誰なのでしょうか。
点滴に混入された界面活性剤の成分は、病院内で使われている消毒液と同じことがわかっており、異物は注射器を使って接続部から混入させた疑いが高いため、犯人は、大口病院の内情に詳しく医療の知識がある人間ではとのことで、病院内の看護師ではないかと噂されています。
また、9月20日に起こった事件発生以前から、大口病院で続発していたトラブルについてツイッターやメールで告発・通報していた介護福祉士のFUSHICHOU(ツイッターのアカウント名)の存在が明らかとなりました。
未だ謎の多き大口病院の4階で起こった異物混入事件について、犯人が誰であるのかに迫りたいと思います。
大口病院の異物混入事件の犯人は誰?
横浜市神奈川区の大口病院で起こった点滴への異物混入事件について、警察は、何者かが、八巻信雄さんと西川惣蔵さん2人の点滴に界面活性剤を点滴のゴム栓部分から注入した可能性が高いとして捜査を進めています。
大口病院では点滴は通常、当日の朝から翌朝の分までが各フロアに運ばれるのですが、八巻信雄さんの事件があった9月19日は3連休最終日のため、17日の土曜日の朝に、9月17日、18日、19日の3日分が準備され、ナースステーションで保管されていたそうです。
この3日間の間に、4階のナースステーションで保管されている点滴に、何者かが界面活性剤の成分が入った消毒液が混入されたということになりますが、西川惣蔵さんの点滴が最後に交換されたのは18日の午前中だったことから、点滴への異物混入は、17日午前から18日午前の間に行われた可能性が高いことがわかってきました。
警察によると、4階で保管されていた未開封の消毒液の1つがへこんでいて、中の液体が抜かれたようなあとがあることがあったとのこと。
そして、4階のナースステーションには事件後、未使用の点滴が約50個残されていたそうですが、その内の10袋前後の点滴のゴム栓には、穴が空いているものがみつかっています。
穴が開けられたそれらの点滴には、いずれもどの患者に投与する予定であるかが書かれてあり、八巻信雄さんと西川惣蔵さん以外の入院患者の名前が記されていた点滴袋も含まれていたそうです。
大口病院の4階には自分で食事を取れない等、症状が重い患者が多いそうで、警察はこうした重症患者ばかりが狙われた可能性もあるとみて調べていると言います。
最初に事件発覚となった八巻信雄さんだけでなく、西川惣蔵さんを始め不特定多数を狙って異物を混入させた可能性が出て来たことで、犯人は病院対する恨みを持った人物であるかもしれないとの可能性が高くなってきました。
犯人が誰であるのか、どういう人間であるのかを考えていくと、注射器を使って混入させるという素人では想像がつかない方法であることから、医療の知識がある人間、そして、保管されていた消毒液や、点滴が保管されていたナースステーションに出入りが出来ることを考えると、大口病院の内情に詳しい人間ということになるかと思います。
一番、可能性が高いと怪しまれているのはやはり大口病院の看護師になってしまうかと思います。
大口病院の高橋洋一院長は、「内部の関係者ということも否定はできない」とコメントしています。
数々の取材や報道を受け、大口病院の職員はストレスを抱えている状態だと言います。
一日も早く、犯人が判明することが望まれます。 
大口病院の看護師トラブル!犯人を特定も逮捕出来ない理由とは 10/4
神奈川県横浜市にある大口病院で、4階に入院していた患者二人が9月23日から27日にかけて中毒死した事件。原因は何者かが未使用の点滴に界面活性剤を混入したと見られており、現在もまだ犯人特定・逮捕に至っていません。しかも今年の7月1日から9月20日までの間に、48人もの患者さんが4階で死亡しており、他にも同様の手口で犠牲になった方がいる可能性が高いのです。今回は複数の週刊誌を読んだ内容から見られる、看護師間のトラブルと、犯人を特定しても逮捕に至るには難しいとされる原因を探ってみたいと思います。「4階は呪われている」と噂された大口病院に一体何が起こっていたのでしょうか。お時間あればお付き合いください。
元大口病院のパート看護師が動機について語る
10月4日発売のFLASH誌で、大口病院にパート看護師として働いたことのある40代女性が今回の事件についての以下のような証言をしていました。
「病院に恨みのある職員の犯行で、看護師だと思います。(中略)薬剤師でも犯行は可能ですね。亡くなった二人の患者さんは、栄養剤と電解質輸液剤の点滴をしていた。栄養剤は、使用直前に薬剤師が調合することになっていて、そのときに何かを混入しようと思えばできる。電解質輸液剤は1階の薬剤保管庫に常時保管されているので、事前に消毒薬を注入できる。いつ誰に点滴されるかわからない”点滴ロシアンルーレット”です」
さらに、その女性が言うには、事件を知った時は”ついに起きたか…”と思ったそうです。もともと大口病院には不満を持っている働き手が多いという印象があったようで、実際にパワハラが蔓延しており、常に看護師不足の状態でハローワークにいつも求人募集をかけていたそうです。採血のような初歩的な技術さえもままならない未熟な看護師さんもいたり、ストレスからメンタルを壊したり、他の病院をクビになった看護師さんもいたようです。
そして9月29日発売の週刊新潮には、点滴パックが納品されてから実際に患者さんに点滴されるまでの流れが掲載されていました。。点滴は納品されたら一旦、薬剤部で保管するそうです。そこで薬剤師が袋に患者の氏名と使用日が書かれたラベルを貼って、各階のナースステーションに運ばれます。その後、看護師達が部屋ごとや点滴する時間ごとに仕分けするそうですが、ナースステーションが狭いため、外の待合所的なスペースでその作業を行うようです。そして、夜の分は夜勤担当の看護師が使うまでナースステーション内で無施錠の状態で保管されます。
以上から見ると、厳重に管理されているとは言えませんし、やろうと思えば薬剤師だって看護師だって可能だということが分かります。捜査関係者も内部の人間の犯行を疑っているそうです。
大口病院4階で起きた3件の看護師トラブルと告発者の男性
では一体誰が犯人なのか…。今回の事件をややこしくしているのが、4階で起きた看護師間のトラブルとそれを告発した男性の存在です。最近起きた3件のトラブルとその男性について以下に整理しました。
【2016年4月】 4階のナースステーションにあった看護師のエプロンが切り裂かれていた。
【2016年6月】 医師の机から患者のカルテが数枚抜き取られ、その一部が看護部長の机で発見された
【2016年8月】 看護師のペットボトルに異臭がし、上部に注射針程度の穴が開いていた
この3件のトラブルについてですが、4月にあったエプロンを切り裂かれた看護師の夫が、8月にツイッターでつぶやいていたのです。

住所:神奈川県横浜市神奈川区大口通130にある大口病院、4階病棟にて漂白剤らしき物が混入される事件発生、看護師スタッフが漂白剤らしき物を混入された飲み物を飲んで唇がただれなどの被害を受けました。2016年8月12日 19:24
なお、同病院、同病棟では今年、看護師スタッフのエプロン切り裂き事件、カルテ紛失事件が発生しております。2016年8月12日 19:26
各テレビ局、各新聞社の取材に対応仕切れないのでツイートします。私はエプロン切り裂き事件から今回の事件まで発展してしまう事を予測していましただから7月に秘守義務より通報義務優先で横浜市に通報しました。2016年9月24日 01:14

しかし、この夫の奥さん(看護師)と、8月のペットボトル事件の被害者の女性看護師とはまた別人なのだそうです。同じであればもう少し犯人が絞られそうな気がするのですが、複数の看護師が狙われているのでややこしくなっています。しかもペットボトルの被害者の看護師は、病院内で”変わってる”と評判の女性らしく、”自作自演なんじゃないの?”と噂されるほどの人物だそうです。彼女は8月に神奈川署に相談したそうで、ペットボトル事件の他に”病院の上層部に差別された”と言っていたそうです。その看護師は年齢が20〜30代と見られ、9月末で退職したようです。
犯人を特定しても逮捕は難しい理由とは
ネットや週刊誌の情報を見ると、警察はある程度犯人は特定出来ていそうな感じはあるのですが、それを裏付ける証拠が無いようなのです。事実、院内には防犯カメラが設置されておらず、犯行時にゴム手袋をすれば指紋も残りません。なのでいくら犯人と思われる人物を取り調べしても、その本人が否定すればそれ以上追求する術がないのが現状のようです。
さらに、大口病院のような終末期患者を抱えるようないわゆる”老人病院”では、国による医療費抑制政策の為に、保険点数が低く抑えれられているそうなのです。その結果、病院側は予算を削る他無く、管理も杜撰になって行きます。よって、このような管理が行き届いていない現場での内部犯行は、物証が乏しくなってしまい、結果的に立証は難しくなるのです。そして、不気味なことに事件発覚以降、4階ではまだ誰も亡くなっていないのです…。この事は一体何を意味しているのでしょうか…。
この話題の裏側を考える
今回の大口病院の事件は、おそらくほぼ犯人は特定出来ていると思われるのですが、やはり証拠がないのだと思います。なので正確には”特定”ではないのでしょうけど、もしかするとこのまま犯人は逮捕されないのかもしれません。過去にも、このような医療施設や老人ホームで発生した殺人事件がありましたが、逮捕まで時間がかかったり、裁判が難航したりしているケースがあります。
2014年末に川崎市の老人ホームで起きた連続転落死事件では、容疑者が逮捕されたのは1年以上経った2016年2月でした。取り調べでは介護の仕事に対する不満やストレスを話していたそうですが、その後黙秘に転じ、公判は始まっているのですが、物証も少なく難航が予想されてるようです。
1999年から2000年に仙台市で起きた筋弛緩剤を点滴に混入し殺害した事件では、8年後の2008年にようやく無期懲役が確定しました。しかし、最後まで無罪を主張していた被告は、確定後も再審申請を行っています。
今回の大口病院の事件も同じような軌跡をたどるような気がしてなりません。私の父もそろそろ80歳になります。今回の事件は決して対岸の火事ではありません…。 
連続殺人「大口病院」元看護師が「事件の動機」を独占告白 10/5
9月23日から27日にかけて、入院患者2人の中毒死が相次いで発覚した横浜市の大口病院。混乱はいまも続く。
「大口病院は、ほかで見放された終末期の患者が、比較的安く入院できる病院です。近所の人が大口病院に入院すると、『ああ、あの人ももうだめか』と誰もが思っていた。病院前の道路は“霊柩車通り”と呼ばれ、亡くなる入院患者は常に多かった」
病院の近所に住む男性はそう語る。事件が発覚した4階では、7月1日から9月20日までに48人が死亡しており、ほかにも犠牲者がいる可能性は高い。未使用の点滴用の輸液に、消毒薬を混入させる犯行方法から、病院内部の人間に疑いの目が向けられている。
「亡くなられた患者さんには本当にお気の毒ですが、事件を知ったときは、ついに起きたか、と思いました。ここは、不満を持っている働き手がとにかく多かったので」
こう語るのは、同院にパート看護師として勤務した経験がある現役看護師、安藤宏子さん(40代、仮名)だ。
「もともと大口病院は、今のような終末期の病院ではなく、小児科、産科、泌尿器科が評判の総合病院でした。しかし1984年、大口駅の反対側に系列の大口東総合病院が出来て、終末医療とリハビリ中心の病院に転換。『大口病院は勤務環境が悪い。できれば東病院で働きたい』と、不満をもつ看護師が多かったのです。
外来担当は看護師が20〜30人、(今回事件が起きた)病棟担当はもう少し多かったけど、そのほとんどが准看護師でした。私もパートで、時給は1700円と、相場より安かった。
パワハラも蔓延し、看護師不足が常態化していた。常にハローワークに求人をかけている状態でした。採血など初歩的なスキルさえ未熟な看護師もおり、ストレスで精神を病んだり、ほかの病院を解雇された看護師もいました」
同院に通院したことのある近隣住民はこう言う。
「外来は待ち時間が少なく『穴場』だと評判でしたが、看護師の態度は、がさつで丁寧ではなかった」
患者が亡くなった4階のナースステーションには、使用前の点滴50本が箱に入れて置かれていた。そのなかの10本の電解質輸液剤に、保護シールの上から、ゴム栓に注射針で刺したような穴が開いていた。捜査関係者が語る。
「院内に防犯カメラがないため、犯行証明ができないでいる。ゴム手袋をしていれば指紋も残らない。そのため、病院関係者を取り調べても、本人が否定すれば、それ以上追及できないでいるのです」
事件発覚後、病院4階では患者は亡くなっていない。48人のうち、いったい何人が「殺人点滴」の毒牙にかけられたのだろうか。 
大口病院事件の犯人の特定の最新情報!目星はついているのか?
横浜市の大口病院において三か月で50人もの入院患者が次々と亡くなった。その後死亡した患者の点滴に、界面活性剤が混入されていたことが判明し、連続殺人事件の可能性が出てきたことで大きな問題となっている。そして事件が発生してから十日が経っても、未だに進展はみられない。
現場で状況を見守るマスコミの関係者の間では、すでに犯人の目星はついていると思われていることから、容疑者として疑われているのは大口病院に勤める看護師の二人だということまでが特定できたそうだ。しかし調べてみるところ、大口病院の内部状況は続々と判明されていき、通常の病院とは異なった勤務が見られる。現在の最新情報や犯人の逮捕が遅れている理由をまとめてみた。
捜査線上に浮上した二人の容疑者
大口病院中毒死事件の犯人は病院に勤める看護師であることは、警察がすでに目星をつけているという情報があった。現在の捜査線上には、二人の人物が浮上しているそうだ。
最初に容疑者として浮上したのは看護師Xだ。看護師Xは一部の病院関係者に「変わり者」と言われているという。極度の心配性であり、潔癖症で他人が使用したボールペンなどに触れないくせにして、身内でも親しい仲でもない患者の飲み残したものを口にするということがあった。
それ以外にも寝たきりの患者に関して暴言を放つこともあり、注意を受けてもこういった行為はやめずに続けていたたとのことだった。さらにに看護師Xはとんでもないいじめの加害者である。同僚のエプロンを引き裂いたり、飲み物に漂白剤を入れたりして、非常に悪質な人間だということが推測される。
しかし、病院の方は看護師Xがトラブルメーカーだったことを認めたが、今回の事件とはまったく関係ないと断定しているという。次に浮上した容疑者は看護師Xのいじめに遭ったことがある看護師Yだ。いじめで溜めたストレスを発散するため、その鬱憤を患者にぶつけたのではないかと疑われた。
看護師Xとはどのような関係なのか分からないが、すでに看護師Xと別々に呼び出され、事情聴取が行われたという。しかし、その事情聴取の結果、看護師Yは犯人である可能性が極めて低いと考えられ、捜査は難航しているとのことだ。
犯人逮捕が遅い理由
事件発生してから10日が経ち、容疑者も絞りやすい状況の中、未だに犯人を逮捕する事ができない理由とは何なのだろうか。
先ず1つ目は病院内の防犯体制に不備な点があることだ。防犯カメラは入口の1ケ所しか設置しておらず、犯人が点滴に触れようと思えば簡単に触れられてしまう。そのため、防犯カメラの映像によって決定的な証拠が見つからないのだ。
2つ目は、病院の管理体制に関係する。とある男性によると、家族のお見舞いに病院を訪ねた時、四階のナースステーションに点滴袋が、そのまま置かれているのを見たと証言し、大口病院の管理体制のずさんさが指摘されたことがあるという。また、院内感染予防として、ゴム手袋を着用する義務が付けられており、重要な証拠となる指紋の採取することができないと判断される。
そして大口病院について、ある病院関係者によると、他の病院で問題を起こした職員が移動してくる病院だったという。まさに問題の塊である。事件のことに対して、呪われていると捉える職員が多く、いじめ行為を当たり前のように考えているそうだ。
病院というのは命に携わる施設であり、できるだけ多くの命を救うために存在しているはずだ。しかし、大病院では慢性的な人員不足に陥ることもあり、とりあえず資格があれば採用するということもある。現場のモラルが低下しだすと、止まらなくなる。
医療現場の労働環境。この問題を治さないことには、根本解決に至らないのではないか。 
横浜点滴殺人「内部犯行説」で浮上した「終末病棟」の闇現場
神奈川県横浜市の大口病院で起こった点滴殺人。現場付近の飲食店店主は、「マスコミのカメラが店の前まで占拠するもんだから、客足が遠のいていますよ」と音を上げているが、何せ人の出入りが少ない病院内での密室犯行。戦慄の犯人像はしぼられつつあるようだ。
終末期医療が専門の4階ナースステーションに保管されていた点滴袋に何者かが注射器を使って、界面活性剤を混入。9月18日、20日と80代の入院患者2人が立て続けに中毒死した。
9月27日、高橋洋一院長は報道陣を前に、沈痛な表情で声をしぼり出した。
「犯人が腹立たしい。皆目見当がつかないが、内部の可能性も否定できない」
捜査関係者が語る。
「当初、怨恨の線で被害者の人間関係を洗ったが、それらしき情報は上がってこなかった。点滴袋に界面活性剤が混入されたのは17日以降と見られている。つまり事件当日、犯人は現場に居合わせていなかったかもしれない。ターゲットも無作為。そうなると無差別殺人とも言える鬼畜の所業だ。ナースステーションに出入りできる人物となると、やはり内部犯行を疑う声は強い」
福岡徳洲会病院センター長の長嶺隆二医師は言う。
「たとえ毒性がなくても、点滴薬以外の異物が血管に入れば、2、3分で死亡します。そんなことは、医療従事者であれば誰でも知っています。状況から考えて、注射や点滴の扱いに慣れた医療従事者による犯行の可能性は高い」
また、大口病院では7月から9月20日にかけて、前述した2人以外に46人の入院患者が死亡。8月には1日に5人が亡くなっていたことがわかっている。この「大量死」について、高橋院長はこのように発言した。
「やや多いという感じを受けたので、カルテを見たが、院内感染はないし、重症者が送られてくるのが増えたので、そのせいかなというところで終わっている」
しかし、前出・長嶺医師は疑問を抱く。
「室内での転倒や熱中症で病院に搬送され、死亡するというケースはあるが、わずか数カ月の間に46人が死亡しているのは、異常事態だと言わざるをえない」
注目すべきは、寝たきりの高齢者が患者の大半を占める「終末病棟」で不審死が発生した点だ。大口病院関係者が重い口を開く。
「患者に大した治療を行っていたわけでありません。病院は病床の回転率を上げていかなければ、診療報酬が稼げない。不謹慎かもしれないが、どんどん死んでもらったほうが、新しい患者を受け入れられるので、病院経営にとっては好都合という考え方もできる」
事件の“下地”はできていたというのだろうか。
別の捜査関係者が言う。
「2人の点滴殺人と46人の大量死とのつながりも視野に入れて捜査が進められている」
事件は「無差別大量殺人」として拡大する様相を帯びてきた。その予兆は以前からあったと前出・病院関係者は言う。
「病院は利益優先で、そのしわ寄せは現場に向いていた。最近は看護師の離職率が高く、人手不足で仕事量が増えていた。こうした中、4月には看護師のエプロンが切り裂かれ、さらに患者のカルテが紛失。ペットボトルへの異物混入など、トラブルが続いていた。そして今回の事件ですよ‥‥」
この病院関係者は、1カ月ほど前に、4階ナースステーションで、一人の看護師が疲れた表情を浮かべ、このような不満を漏らしているのを耳にしたという。
「点滴や注射を打っても、よくなるわけでもない」
前出・長嶺医師は、疲弊する終末期医療の闇現場に警鐘を鳴らす。
「我々が激務に耐えられるのは、患者さんの笑顔があるから。しかし、終末期医療では患者さんがよくなる見込みがありません。希望が見いだせないのです。そのため、たくさんの医療従事者が心を病み、ストレスを抱えている。医療界全体で取り組んでいかなければ、同様の事件はまたどこかで起こりうるでしょう」
はたして「すぐ近くに潜んでいた」とされる犯人の正体とは──。近隣に住む60代の女性は、その影におびえるばかりだ。
「週に1回、整形外科外来に通って、膝に注射を打ってもらっていたけど怖くて、今は通院をやめている」
一刻も早い解決が待たれる。 
横浜「大口病院殺人事件」の深い闇
「前代未聞の“大量殺人”なのかもしれません」 事件記者がこう慨嘆するのは、神奈川県横浜市にある大口病院で起きた「点滴連続中毒死事件」のこと。全国紙社会部記者が言う。
「9月20日の明け方、同病院に入院していた八巻信雄さん(88)の心拍数が低下しているのを看護師が発見。午前4時55分、死亡が確認されました。当初は自然死かと思われましたが、八巻さんの点滴に異物が混入された痕跡を看護師が見つけ、警察に通報。捜査の結果、死因は点滴に“界面活性剤”が混入したことによる中毒死で、意図的な殺人であるとの疑いが出てきたんです」
その後の調べで、同月18日に亡くなった西川惣蔵さん(88)も同様に“界面活性剤”による中毒死と判明。2人はともに、終末医療を専門とする“4階”に入院しており、同一犯の可能性が浮上したのだ。そればかりでない。
「今年の7月以降、4階では48人が死亡。終末医療といっても、あまりに不自然な怪死が続くため、関係者の間では“呪われた4階”と呼ばれていました」 同院では、それ以外も、「今年4月、何者かによって、看護師のエプロンが切り裂かれる事件が発覚。続く6月には、医師の机からカルテの抜き取りが発生。そして8月には、看護師が口にしようとしたペットボトルに異物が混入され、騒動となっています」
八巻さんの死去後、警察は106人と大がかりなチームを組んで、捜査を開始したが、発覚後、連続死や不審な事件がストップ。
犯人探しは難航。「今回の事件と類似性が指摘されているのが、2000年に20人が亡くなった、仙台の“筋弛緩剤点滴事件”。ただ、今回と異なるのは、事件発覚後も犯行が続いていたことです。仙台の事件では、守大助准看護師(現受刑者)が筋弛緩剤の空アンプルを捨てに廃棄小屋へ行った際、私服警官に呼び止められ、あっけなく逮捕されています」
最近は、介護施設での“突き落とし”や虐待、病院や施設での事件が相次ぐが、「今年7月に発生した相模原障害者施設殺傷事件では、被疑者は“障害者の安楽死を国が認めてくれないので、自分がやるしかないと思った”と語っているんです。大口病院の犯人も、この発言に感化された可能性も指摘されています」
今はただ、一刻も早い事件の真相究明と、被害者の冥福を祈りたい。 
大口病院事件犯人逮捕はまだ?テレビ報道されない理由・憶測まとめ
横浜市の大口病院で起きた患者の中毒死事件から一週間以上経ち、まだ犯人が逮捕されないことに不安を感じている方も多いことかと思います。
非常に関心の高いニュースだと思われるのですが、昨日辺りからテレビ報道されなくなってきた(減ってきた)その理由が、犯人逮捕が近いからなのか、捜査が難航しているからなのか気になるところです。 もちろん、最悪なのが証拠不十分などで立件に待てが掛かっている状態ですが、今回はそこで色々と憶測されることや噂について整理・まとめてみたいと思います。
大口病院事件犯人逮捕はまだ?
神奈川県横浜市の大口病院で起きた点滴異物混入中毒死事件ですが、事件が発覚して一週間が経った現在も、いまだ犯人逮捕に至っていません。
『神奈川県警は何をやってるんだ!』
『さすがに犯人の特定ぐらい済んでるだろう?』
『もたもたしてると証拠隠滅されても知らんぞ!』
ネット上では様々な憶測が飛び交い、横浜市の大口病院では苦情の電話がかかってきて職員に罵倒を浴びせるなんて輩も出てきているそうです。 犯人逮捕が待たれる中で、誰かが意図的に殺人行為を行なったことは明らかなだけに、不満を募らせる気持ちはわからなくもありません。 しかし、犯人が特定されていない限り、病院職員に罵倒を浴びせるなどという行為はろくなもんじゃないことは言うまでもないことで…。
さて、前回記事では、犯人特定している可能性と犯人逮捕が遅い理由を書きましたが、それにしても遅すぎやしないかということで、なぜここまで犯人逮捕に時間がかかってしまうのか、もう少し踏み込んでみていきましょう。
現在、明らかになっていることは、点滴への異物混入の方法と異物混入がなされた時間帯です。 もちろん、犯人が特定・逮捕されるまではあくまでも可能性の問題になるのですが、ここだけ見てもかなりその対象は絞られるのではないかと考えられます。
中毒死で亡くなった八巻さんと西川さんに使われたという点滴は、9月17日午前中に4階ナースステーションに搬入されたとのこと。 そして、西川さんの点滴を交換したのが18日午前10時頃ということなので、この約24時間以内に、何者かが点滴袋に異物を混入させたとして捜査が進んでいるようです。 
そして、八巻さんが死亡した20日、4階には30代女性看護師2人と17人の入院患者がいたそうですが、八巻さんの点滴を交換したのが前日19日の午後10時頃とのこと。 ただ、これらの情報は私たちに開示される前にわかっていて、現場の勤務体制なども考えた上で犯人特定の目星は付いていそうなものですが、まだ逮捕に至っていないのは決定的な物的証拠がないからなのでしょうか?
その理由は次のように考えられます。
いま挙げたような状況証拠だけでの立件は、裁判になったときに劣勢に回る可能性があるので、神奈川県警も慎重にならざるを得ません。 仮に、犯人が大量殺人を行うことを是とする思想犯だった場合、非常にやっかいな展開になること可能性が考えられるからです。
警察は、無差別殺人の線でも捜査を行っていることから、状況証拠だけではなく、できるだけ物的証拠を掴んでおきたいのは言うまでもないことなのかもしれません
大口病院事件最新情報まとめ
ここでは大口(おおぐち)病院事件での最新情報をまとめてみましょう。(2016年9月29日現在)
まず大口病院の4階では、7月から9月20日の間に48人の入院患者が亡くなったということ。 さらに、未使用の点滴袋約50個の内、約10個の点滴袋に注射器で開けたような穴が発見されています。
そして、点滴に混入されていた異物(界面活性剤)は、製品名ヂアミトールという消毒液だったことが判明しており、混入させる量により中毒症状が出る時間を、犯人がコントロールしていた可能性があるとのこと。
まとめると、犯行の手口や使用された製品などが明らかになり、医療に詳しい人間が行なった可能性が高いというところまではわりとはっきりしているようです。 しかし、今回、八巻さんの点滴による中毒死が公になっていなければ、さらに被害が拡大していたことは間違いなさそうです。
さらに、大口病院の病床数は85床であることも明らかになっています。
4階は比較的重症の高齢者が多かったそうですが、たった85床(一般42床、療養43床)のベッド数で約2ヶ月半の間にその半分以上が病死というのは、なんとも解せない話ではないでしょうか? 7月以降に約50人(48人)もの入院患者がハイペースで亡くなっていて、事件発覚後は通常の入院病棟の様相(事件以後死亡者ゼロ)に戻っていることを考えると、それまでの患者の死亡原因に疑問を抱かなかった医師や病院に、一般人である私たちはある種の怪しさを感じずにはいられません。
うーん、単純に『おかしい』と思わなかったのでしょうか?
ただ、今回のように、偽装の意図が見え隠れした中毒死が発覚すれば、それ以前に病死と診断していたところに疑惑が浮上してきても不思議ではなですからね。 犯人がいまだ逮捕されていないところをみても、7月以降に亡くなられた患者の遺族としては、やはり納得がいかない話のように感じます。
大口病院事件がテレビで報道されない理由
さて、大口病院事件に大きな進展が見られないためか、テレビで報道される時間があっさりしたものになってきました。 ちょうど、豊洲市場問題で話題の小池都知事が所信表明したり、他にも日ハム優勝など、様々なニュースが世間を賑わせていることも理由としてあるのでしょうが、このテレビで報道されない(少ない)ことをどう捉えるか?
それは単純に、捜査が水面下で進展しているため、マスコミへの情報開示が小出しになってきているからなのか、本当に難航しているのでマスコミへの情報開示ができないのかが考えられます。
水面下で捜査が進展している分には何も問題がないのですが、それならここまで時間がかからないはず…。 であるならば、やはり証拠不十分で捜査が難航している可能性もあります。
大口病院には防犯カメラが出入り口に一台しかなく、しかも録画記録もないとのこと。 昔と違い、院内感染を防ぐために医療時には薄いゴム手袋を使用しているので、指紋も採りにくいのかもしれません。 無差別に点滴に異物を混入したのであれば、やはり犯人の特定は難しいとも考えられるので、あと一歩のところで踏み込めない状況に陥っている可能性があります。
このような状況では、やはり捜査は慎重に行わなければならず、そういった意味でテレビでこの事件の報道が少なくなってきているのかもしれません。 ただ、やはり水面下で捜査が進展していると信じたいことは言うまでもないことですが…。
大口病院事件犯人逮捕の憶測まとめ
横浜市の大口病院事件の犯人は一体誰なのか?
犯人逮捕への憶測は誰もが抱いていることだと思いますが、現在、どのような憶測がネット上で噂として回っているのか少しまとめたいと思います。
【看護師】 看護師は一番犯人として憶測が出回っていますが、これはやはり犯行が看護師の業務上で行われることが理由として挙がります。そして、4階ナースステーションで4月から起きているトラブルの数々から、病院内の陰湿な現場の雰囲気が見て取れるので、同僚への嫌がらせや弱者(患者)への憂さ晴らしが原因ではないかと考えられるというのが理由としてあります。
【医師】 医師も、医療を行う点で注射器を扱うと見られています。 しかしながら、点滴などは基本的に看護師が行うことや、医師という命を救う立場であったり、医師免許取得者というステイタスを天秤にかけたときに、わざわざこのような跡が残るような事件を起こすのは考えにくいのではないでしょうか。ただ、死亡診断に疑問が残ることを思えば、医師が犯人である可能性は否めないのかもしれません。
【看護助手(介護士)】 寝たきりの高齢者が多く入院していたとのことで、看護助手(介護士)ではないかという声もあります。 ただ、看護助手が純粋な介護士の場合、注射器を取り扱うことがないので可能性としては低いと見られています。そして、介護士といえば、ツイッター上で大口病院の事件を予測していた『FUSHICHOU』という人物が介護福祉士らしいので、よく介護士(介護福祉士)が怪しいという声がネット上でよく見られます。 『FUSHICHOU』という言葉が『ふしちょう』⇒『ふ死ちょう』⇒『婦死長』という感じで、実は婦長がキーマンではないかとアナグラム的な解釈がされていますが、これはただの偶然だと考えたいですね。 ただ、このツイッターの主が、わざわざ全角大文字アルファベットで『FUSHICHOU』という名前を使っているのは、個人的に気味悪く感じましたが…。
【大口病院全体】 こちらは、前回記事でも詳しく書きましたが、暗黙の了解で江戸時代の姥捨て山のようなことがあったのではないかということです。 本当ならかなりショッキングな話(真実なら大量殺人事件)ですし、そもそもその線についての立件・立証は相当難しいとされているのですが、今年7月に起きた相模原事件や安楽死法案についての議論を考えた時に、実際に組織ぐるみでこのようなことがあってもおかしくないということでしょう。大口病院が大元である特定医療法人財団『慈啓会』の理事長が、生命保険会社『神医社』の代表取締役副社長であることに違和感を感じる人も少なくないようです。
【外部の人間】 専門家によると、院内関係者が点滴に異物混入をする場合、筋弛緩剤などを使うことが考えられるそうですが、異物が消毒剤だとすると、病院に出入りする人なら誰でも注入できる可能性があるそうです。見舞いにきていた遺族の証言によると、ナースステーションの机の上に点滴を無造作に置いてあったこともあったそうで、外部の人間が異物を混入させたという可能性も少なからずあるとのこと。
これはあくまでも、点滴に異物を混入させられる可能性のある人間の場合ですが、犯行の理由や動機によってはこれらの予想をはるかに越えたものになることも考えられます。 それに、人種差別や排他的思想を持つ人間が犯人だった場合、どんな立場であっても犯行に及ぶ可能性は高いでしょう。
大口病院の高橋洋一院長の説明によると、8月以降の患者の死亡者数が増えた理由は、入院医療に関する制度の改定で『在宅復帰率』が求められるようになり、重病患者が大口病院にどんどん送られるようになってきたからではないかということ。 要するに、国は患者を自宅に帰すことを進めたが、家に帰せないような重病患者は大口病院に回されるようになったということですね。 その中には、酸素マスクをするような患者もいたので、病院内での死亡患者が増える結果につながったのではないかと説明してました。
うーん、わからなくもないですが、考え方によってはこのような国の制度は、仮に犯人が思想犯だった場合、大きな動機になり得るのかもしれません。
もちろん、院内でのナース服切り裂きや、飲料物に漂白剤が混ぜられて唇がただれたなどのトラブル(対象者は両方共同じ看護師)から、陰湿なイジメが事件の原因として関係してくることも考えられますが、深読みすると、それも何らかのパフォーマンス(狂言)であったりするのかなとも思うところもあります。 例えば、漂白剤が混ぜられた飲料水を飲み、気管支粘膜の炎症ではなく、なぜ唇のただれが前に出てくるのかなど…。
一般的な犯行には理由や原因がありますし、決して呪いや死神が連れ去りにきたなんて原因はありません。 一体、誰にどんな利益がある犯行なのかわかりませんが、早く犯人の特定や逮捕へと進み、大口病院で起きた事件の真相を明らかになることを願います。 
死亡50人を不審に思わない大口病院 院長の評判と終末期医療の現状
日々人の死に接するのは医師の定めである。ましてや終末期医療の現場ともなれば、「慣れ」もあるだろう。それでも、3カ月で50人もの患者が亡くなっているのを不審と思わなかったのだろうか。点滴殺人事件が起きた「大口病院」の院長は、異常を感知しなかったというのだが……。
被害者の八巻信雄さん(88)が亡くなる前、大口病院ではエプロンが切り裂かれたり、カルテの紛失が起きたりしていたことはご存じのとおり。また、8月にも飲み物に漂白剤が混入されたという告発メールが横浜市の医療安全課に届けられていた。ところが、高橋洋一院長は職員に事情を聞いただけで済ませていたという。
社会部記者が言う。
「その理由を院長にぶつけると、“内部の出来事だったため、県警に相談せず院内で処理するつもりだった”と言う。危機感の無さは驚くばかりですが、犯行のあった4階では1日に3人もの患者が亡くなったこともあって“4階は呪われている”と看護師たちが怖がっていたほど。院長自身、7月以降の3カ月間で50人もの患者が亡くなっていることも認めているのです」
警察に届け出るなどの対策を取るべきでは、と聞かれた高橋院長が会見で漏らした言葉がこれである。
「いつ亡くなってもおかしくない重篤な患者がたくさん入院して来るから(人が亡くなっても仕方がない)と考えていました。異変は感じなかった」
死が日常の職場とはいえ預かる「命」の重さはこんな程度なのだろうか。それでも、高橋院長の評判は決して悪いものではない。
院長を知る関係者が言う。
「高橋先生は介護やリハビリの専門家です。慈恵医大を出て神奈川の聖マリアンナ医科大では助教授を務め、06年に鎌倉のリハビリ病院の院長に招かれている。大口病院に移ってきたのは数年前ですが、高橋先生クラスなら年収で2200万〜2500万円ぐらいは払っているはず」
院長を知る近所の住人も、
「高橋さんは、ご近所の“かかりつけ医師”みたいな感じでね。具合が悪いと言うと“それだったら○○科で診てもらったほうがいいよ”と丁寧に相談に乗ってくれる気さくな人です」
だが、今回の事件からは終末期医療が置かれている現状が透けて見えると明かすのは、医療関係者だ。
「事件当時、大口病院には52人の入院患者がいましたが、多くが寝た切りや要介護の老人。患者の家族にとっても、75歳以上なら『後期高齢者医療制度』が使えるため、1カ月10万円ほどの費用で面倒を見てもらえる。一方、病院にすれば高額な医療機器を買うなどのコストがかからないから“儲け”のために寝た切り老人ばかりを引き受けるところも少なくないのです」
介護・医療ジャーナリストの長岡美代氏も言うのだ。
「2010年に埼玉県春日部の特養ホームでも職員が入居者に暴行を加え、3人が死亡、1人が重傷を負う事件が起きています。しかし、事が明るみに出る前に火葬された人がいて真相解明が難しくなった。“高齢者だから亡くなっても仕方ない”というホーム側の認識の甘さもありました」
大口病院でも火葬されてしまっているケースが大半である。事件の全容解明にたどり着くのは容易ではない。 
横浜「大口病院」、事件発覚以降に死亡患者が激減 捜査は難航 12/8
〈癌病棟はすなわち第13病棟だった。(中略)自分の入院申込書に「第13病棟」と書かれたときは、胸のなかで何かが崩れ落ちるような気がした〉。旧ソ連のノーベル賞作家、ソルジェニーツィンは『ガン病棟』で、入院患者の絶望をこう表現した。翻って現下、横浜市の「殺人病院」4階に入院を強要されれば、およそ生きた心地はしまい。そこでは7月以降の3カ月で48人もの患者が亡くなっていたのだ。逆に事件発覚以降は激減。慄然とすべき犯意の存在は明白だが、捜査は難航しているという。
大口病院の「呪われた4階」。ここで入院患者の八巻信雄さん(88)の容態が急変し、死亡が確認されたのは、9月20日午前4時55分のことだった。
その際、八巻さんの点滴袋が泡立っていたことから、病院は警察に通報。司法解剖の結果、体内から消毒液「ヂアミトール」に含まれる界面活性剤が検出された。死因は中毒死である。
神奈川県警は100人態勢の特別捜査本部を設置。ほどなく、八巻さんの死の2日前の夜に急死した西川惣藏さん(88)も同じ中毒死であることが判明したのだ。県警幹部が明かす。
「4階のナースステーションには未使用の点滴袋が約50個残されていました。それを調べると、10個ほどの点滴袋でゴム栓部分に封をする保護フィルムに細い針で刺した穴が見つかった。犯人は注射針で点滴に消毒液を注入したのでしょう」
捜査線上に浮上した看護師
さらに衝撃の事実が浮かび上がった。
「被害者の2人ばかりか、4階では直近3カ月間で2日に1人以上のペースで患者が亡くなっていたのです。そもそも4階は自力では食事すら摂れない高齢の重症患者を受け容れる終末期病棟ですが、それでも異様でしょう。多い日には1日に5人も死亡していました」
とは、県警担当の記者。
「ところが、事件が発覚し、警察が捜査に入ってからの10日間ほどは、一転して1人も患者は亡くならなかったのです。その後は死亡者が出ていますが、明らかにその数は激減している。明確な殺意に基づき、不特定多数の患者を狙う事件だった可能性が濃厚です」
現に2人の被害者以外の名前が記された点滴袋にも穴が開けられていた。亡くなった他の46名の中にも犠牲者がいたと考える方が自然だろう。では、誰が悪魔の所業に手を染めたのか。
「犯行の態様から看護師の関与以外は考えにくい」と先の県警幹部。
「点滴が4階に搬入された17日から20日未明にかけ、夜勤を担当した者。かつ普段から素行に問題のある人物などを抽出していった結果、1人の看護師が捜査線上に浮上しました」
実は県警は11月上旬までに、この看護師に対し、逮捕状を取って、事情聴取に踏み切る構えを見せていた。
「しかし検察が待ったをかけました。4階には防犯カメラもなく、消毒液混入の直接的な物証が何もない。検察にしてみれば、“現状では本人が否認を続けたら、起訴できない”という判断なのです」(別の記者)
目下、警察は状況証拠を積み重ねるべく、証拠物の鑑定を続けているという。
「被害者の体内から検出された消毒液の成分と未使用の点滴袋の消毒液、さらには病院内で使用されていた消毒液の成分が全く同一の組成なのか、何度も慎重に同じ鑑定検査を重ねているといいます」(同)
嘲う「白衣の殺人者」を裁きにかけられるか否か。 
点滴殺人の物証乏しく 大口病院、発生3カ月
横浜市神奈川区の大口病院で入院患者2人が死亡した点滴連続殺人事件は23日、未解決のまま特別捜査本部設置から3カ月を迎える。捜査関係者によると、容疑者を絞り込むための決定的な物証が依然として乏しく、地道な捜査が続いている。一方、事件前に病院に関する情報提供が寄せられていた横浜市は対応を検証するため、第三者委員会の協議を11月末から開始。来年3月までに結果をまとめる。
同病院では、9月18日に男性患者=当時(88)=が、同20日に男性患者=同(88)=が中毒死し、遺体からは殺菌作用が強い界面活性剤を検出。2人が入院していた4階のナースステーションには界面剤を含む消毒液「ヂアミトール」があった。
特捜本部は、使用済みの注射器や点滴袋など大量の医療廃棄物を押収して鑑定を進めるとともに、院内事情に詳しい人物が投与前の点滴に注射器で消毒液を混入させた疑いがあるとみている。特捜本部によると、これまでに延べ4375人の捜査員を投入。看護師ら病院関係者延べ1071人から事情を聴いたという。
一方、市には7〜8月に、「看護師のエプロンが切り裂かれた」「看護師が異物入りの飲み物を飲んだ」といったメール3件、電話1件が寄せられた。だが、市が事実確認したのは定期立ち入り検査をした9月2日だった。発覚後にも電話は3回あった。
第三者委の委員らからは「なぜ警察に連絡しなかったのか」といった質問が挙がった。市は「院内の犯罪行為なら病院が通報すると思っていた。受け身だったのは事実」と説明。今後事件や医療事故の恐れがある情報であれば、速やかに医務監や課長ら幹部が対応を検討するなどの対策強化を考えているという。 
 

 

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