八つ墓村・津山三十人殺し・殺傷事件史

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雑学の世界・補考

 
 
 
■津山三十人殺し
 

 
津山事件 1 (津山三十人殺し)
1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいう。
津山市など近隣地域では「加茂の三十人殺し」と呼ばれている(または死者の数に尾ひれがつき水増しされ「三十二人殺し」「三十三人殺し」また「三十六人殺し」とも呼ばれる事がある)。犯行が行われた2時間足らずの間に28名が即死し、5名が重軽傷を負った(そのうち12時間後までに2名が死亡)。なお、犯行後に犯人が自殺したため、被疑者死亡で不起訴となった。横溝正史が同じく大量殺人を扱った八つ墓村のモチーフにした事件とも言われる。
事件発生以前
幼少期からの生活
犯人の都井睦雄(とい むつお)は1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市)に生まれた。2歳で父を、3歳で母を、ともに肺結核で亡くしたため、祖母が後見人となり、その直後一家は加茂の中心部である塔中へ引っ越した。さらに、都井が6歳のときに一家(都井以外に祖母と姉。戸主は都井)は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越した。
都井家にはある程度の資産があり、畑作と併せて比較的楽に生活を送ることができた。祖母は自身の体調不良などを理由に、都井に家にいることを要求したため、都井の尋常高等小学校への就学は1年遅れた。就学後もたびたび欠席を余儀なくされたが成績は優秀だった。その後担任教師に「上の学校」への進学を勧められたが、祖母に反対されたために断念せざるを得なくなった。
都井は尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送っていた。病状はすぐに快方に向かい、実業補習学校に入学したが、姉が結婚した頃から徐々に学業を嫌い、家に引きこもるようになっていき、同年代の人間と関わることはなかった。一方で、自身が子供向けに作り直した小説を近所の子供達に読み聞かせて、彼らの人気を博した。さらに、近隣の女性達とこの地域での風習でもあった夜這いなどの形で関係を持つようになっていった。
1937年(昭和12年)、都井は徴兵検査を受け、結核を理由に丙種合格(入営不適、民兵としてのみ徴用可能。実質上の不合格)とされた。その頃から、都井はこれまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由に関係を拒絶されるようになった。そして、心無い風評に都井は不満を募らせていった。
凶器の入手
同年、狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入。翌1938年(昭和13年)にはそれを神戸で下取りに出し、猛獣用の12番口径5連発ブローニング猟銃を購入。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った(一説には、最初に猟銃を購入したのは、関係を求める際に相手の女性に拒ませないためで、村人を襲撃することを念頭においてのものではなかったとされている。また、徴兵されなかった都井に対して村人の迫害があり、護身のために銃を所持したとの見方もある)。都井はこの頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていた。
しかし、都井が祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられたために家宅捜索を受け、猟銃一式の他、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃免許も取り消された(この薬に関し、祖母から話を聞いた近所の寺井元一が後日都井に問いただしている。都井は自分が常用しているわかもとを祖母にも飲ませようとした、と寺井元一に語っているが、みそ汁に混入した薬が本当にわかもとだったのかは不明)
都井はこの一件により凶器類を全て失ったが、知人を通じて猟銃や弾薬を購入したり、刀剣愛好家から日本刀を譲り受け、再び凶器類を揃えた。
以前懇意にしていたが都井の元から去って他の村へ嫁いだ女性が村に里帰りしてきた1938年(昭和13年)5月21日の未明、犯行が行われた。
犯行当日
犯行準備
都井は事件の数日前から実姉を始め、数名に宛てた長文の遺書を書いていた。さらに自ら自転車で隣町の加茂町駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握しておくなど(当時、西加茂村駐在所の巡査は出征で欠員中だった)、犯行に向け周到な準備を進めていたことが後の捜査で判明している。自分の姉に対して遺した手紙は、「姉さん、早く病気を治して下さい。この世で強く生きて下さい」という内容である。
1938年(昭和13年)5月20日午後5時頃、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。
翌5月21日1時40分頃、都井は行動を開始する。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付けた。首からは自転車用のナショナルランプを提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った。
決行
都井は最初に、自宅で就寝中の祖母の首を斧で刎ねて即死させた。その後、近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。
被害者たちの証言によると、この一連の犯行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆に都井は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、(都井が恨みを持っている家から)嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲した(老婆は致命傷を負い、後に死亡した)。しかしある宅の老人は、返り血を浴びた都井に猟銃を突きつけられたが、逃げることもせず茫然と座っていたところ、「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されたという。またある宅でも、その家の主人が「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い残しその場を立ち去っている。
最終的に死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名の被害者が出た。死者のうち5名が16歳未満(最年少は5歳)である。計11軒の家が犯行に遭い、そのうち3軒が一家全員が殺害され、4軒の家は生存者が1名だけであった。犯行に遭った家の生存者たちは、激しい銃声と都井の怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどして助かった。また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れた。
自殺と遺書
約一時間半に及ぶ犯行後、都井は遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れた。家人は都井の異様な風体に驚いて動けない状態だったが、その家の子が以前から都井の話を聞きに来ていた縁から顔見知りであったため、その子に頼み鉛筆と紙を譲り受けた。都井は去り際にこの子へ「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけている。
その後、3.5km離れた仙の城と呼ばれていた荒坂峠の山頂にて、追加の遺書を書いた後、猟銃で自殺した。都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見された。猟銃で自らの心臓を撃ち抜いており、即死したとみられている。
遺書の内容は以下の通りである。
[ 愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。 思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。もはや夜明けも近づいた、死にましょう。 ]
都井は遺書の中で、この日に犯行を起こす決意をしたのは、以前都井と関係があったにもかかわらず他家に嫁いだ女性が、貝尾に里帰りしていたからとしている。しかし、この女性は実家に都井が踏み込んで来たときに逃げ出して助かり、逆に逃げ込んだ家の家人が射殺される場面もあった。
事件後
この事件は、ラジオや新聞などのマスコミが報道して、『少年倶楽部』もこの事件を特集した。
この事件が貝尾集落に与えた影響は大きく、前述のように、一家全滅したところもあれば一家の大部分を失ったところもあり、集落の大部分が農業で生計を立てているため、かなり生活が苦しくなったとされている。さらに、都井の親族であり、都井から襲撃を受けることのなかった一家が、企みを前々から知っていて隠していたのではないかと疑われ、村八分に近い扱いを受けたともいわれている。
また、当時の識者の間では、警察の取締りの不備を強く批判するものが多かったが、中には、1913年(大正2年)にドイツ帝国で起こった「ワグナー事件」との類似性を指摘し、都井の自殺を惜しんで「ぜひとも医学上の研究対象にすべきだった」との声もあった。
事件後、犯人の都井が警察による取り調べを受ける前に自殺し、さらに多くの被害者が亡くなったため、生存者による証言しか残っていない。しかし、生存者のほとんどが亡くなった被害者の誰かしらと親類関係がある状態で、すべての罪を都井にかぶせるようなものが多いという意見もある。さらに、都井が死亡した以上、例えば都井と関係があったと噂される女性でも本人が否定してしまえば確認する方法はなく、事実関係が不明な部分も多く残った。また、この事件の発生から70年以上が経った現在でも、現地でこの事件に言及することはタブー視されている。1975年(昭和50年)に刊行された『加茂町史』では、本事件について「都井睦雄事件も発生した」という記されるのみである。
近年
事件発生現場・関係先の現在
事件現場である貝尾集落は、周辺集落のなかでも一番山際にあたる部分にある。津山市から美作加茂を経由しアクセスすると、行重を通り抜けて南東の坂元集落へと至る。
その道をさらに車で登っていくと途中に小さく貝尾と書かれた青い看板がある。そこが貝尾集落の入り口となる。その看板の先で道路が二股に分かれており、右が貝尾集落の中心部へ、左にいくと貝尾の集会所へと至る。いずれの道も貝尾部落を抜けると同時に車の通行が不可能な山道へと変わる。先の二股を右へ行くと左に折れる細い道と交わる交差点があるが、そこが貝尾集落の中心地である(この交差点を左にいけば、貝尾の集会所へと続く)。この交差点を中心にした付近の家々で津山事件は発生した。
付近には、昔ながらの墓所が点在しており、多数の墓石の没年月日が“昭和十三年五月二十一日”と刻まれている。このことから津山事件による被害者の墓であることがわかる。
2015年春、倉見に廃屋となって残っていた都井の生家が取り壊されている。
貝尾の人口は事件当時23世帯111人であったが、2010年の平成22年国勢調査によると13世帯37人となっている。うち単身の世帯が4ある。直接被害者を出さなかった複数の世帯が事件後貝尾を離れているほか、過疎化が進行しており、廃墟となっている家屋もある。事件当時から貝尾に居住している人は既に一人もいないという。
70年後の証言
事件発生から70年後にあたる2008年(平成20年)、『週刊朝日』5月13日号にて津山事件関係者による証言記事(記者:小宮山明希)が掲載された。その記事内で匿名でのインタビューに応じた90代の老人によると、都井は村が停電になった時によく修理を頼まれていた。また、事件が発生したその日のうちに「昭和の鬼熊事件」と題した号外が出たと述べている。また、当時村に残っていたとされている夜這いの風習については否定した。
なお、この証言については司法省刑事局による「津山事件報告書」や都井の遺書(上掲)と食い違う部分がある。
2008年7月21日放送のテレビ朝日スーパーモーニング内のコーナー「時空ミステリー」で「八つ墓村70年目の真実」として事件の特集が組まれている。取材を受けた村民は、夜這いの風習が当時はあったと認め、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと証言した。
容疑者は当時幼なじみと婚約していたが、肺結核に感染した容疑者との結婚を周囲に反対され、二人は破局、女性は別の男性と結婚した。容疑者はそのことから犯行に及んだ可能性があり、肺結核に対する自身への悪口を言った村人を順に殺害したといわれている。しかし、容疑者は幼なじみの女性をわざと手にかけなかったと当時は噂された。その女性は事件後に貝尾を離れ他の集落に転居した。現在90歳を超えているが、被害者の1人であるにも関わらず周囲からは「被害を作った張本人」と看做され、70年経っても地域社会から孤立している。
また、『八つ墓村』の冒頭の殺人事件は本事件をモデルにしていても「八つ墓村」は虚構の村であるにも関わらず、実在すると思い込んだ観光客が「八つ墓村」は何処ですかと尋ねて現地の人を辟易させた。  
 
津山30人殺し事件 2

 

経緯
昭和13年5月21日午前2時頃、岡山県苫田郡西加茂村大字行重字貝尾部落(現在津山市加茂町行重)で肺患を苦に極度な神経衰弱に陥った同部落の都井睦雄(当時22歳)が、猟銃や日本刀で祖母を皮切りに部落民を次々に襲撃。結果、30人を殺害、3人に重軽傷を負わせて近くの山に逃走した。
同日午前11時30分頃、警察や消防、地元の青年団約1500人余りが大規模な山狩りを行っていたところ、同村青山の荒坂峠付近で猟銃で自殺している都井を発見。自宅から2通、自殺現場から1通の合計3通の遺書が発見された。
同村の全戸数は約380戸、人口約2000人で貝尾部落は全戸数22戸、人口111人。山奥の平和な農山の部落に突如惨劇が降ってきた。30人殺害は戦前、戦後を通じて他に類を見ない大量殺人事件として語り継がれている。
生い立ちと背景
都井は大正6年3月5日に同村大字倉見部落で出生。農業を営む温和な父親と母親、3つ歳上の姉の4人家族。裕福とは言えないまでも中農で不自由ない生活振りであった。
だが、大正7年都井が2歳の時に父親が肺結核で死亡。翌年の大正8年には母親が同じく肺結核で死亡。幼くして両親を失った都井は父親方の祖母いね(事件当時76歳)に姉と一緒に引き取られた。
都井が6歳の時、同村貝尾部落に移転。いねは自分の里であるこの地に永住をしようと大きな古い農家の家を購入した。都井はここから西加茂尋常小学校に入学した。都井の成績は抜群で学級長や総長になったが、体が生まれつき丈夫ではなく年の1/3は欠席する状態だった。
それも都井が成長するにしたがって、以前よりは丈夫になったが、祖母のいねは「睦雄は跡取だから」と溺愛。ちょっとした微熱でも学校を休ませる為、週に3日〜4日も欠席させることは珍しくなかった。このような状態であったから学友はあまりいなく、もっぱら家で姉とお手玉などして遊ぶ毎日だった。
都井は高等科に進級したが、成績はさらに向上。担任から中学、大学へ進学することを勧められ、都井は岡山の名門である県立岡山第一中学校を志望した。だが、祖母のいねは、都井が中学校に入学すれば寮生活となることを寂しがり反対した。結局、都井はいねの気持ちを汲んで中学進学を断念した。
尋常小学校高等科を卒業した都井は16歳になった。この頃から、肋膜を患い医者からは安静にしているようにと診断され家でゴロゴロしていた。一方、祖母のいねは毎日のように家に居る都井を嬉しく思っていた。
都井にとっての唯一の友人は姉であった。その姉が都井が18歳の時に嫁いでいった。唯一の相談相手であり友人であった姉が居なくなった寂しさを、読書や小説などを書いて気を紛らわす毎日であった。
昭和11年、都井20歳の時に徴兵検査を受けた。この時、結核で丙種合格となった。甲種、乙種は実質合格であるが丙種は事実上の不合格である。当時の時代背景は、立派な体躯を作ってお国のために兵役に就くことが男の本懐という時代であったから、都井のショックは大きかった。「やっぱり俺は肺結核だったのだ」と悲観と自暴自棄に陥っていった。
この頃、異性に対して異常に興味を持った。娼妓通いはもとより、同じ部落の同年代の娘や娘の母親に対して関係を迫った。この当時、どこの地方も娯楽といえば異性との関係以外になく都井も例外ではなかった。事件後の証言や遺書からも同部落の複数の女性と関係があった事実が判明した。
だが、以前から関係のあったA子が急に冷たくなり、「お国のためになれない肺病患者がゴロゴロしおって・・・」というような罵詈雑言を浴びた。都井は、A子のみならず、以前から関係していたB子、C子などが急に冷たくなったり、一言も告げずに嫁いでいったりしたことを恨んだ。「学校の級長、総長にまでなり、村の神童とまで言われた俺がなんでこのような侮辱を受けねばならないのだ」と激昂した。
犯行準備
都井は、祖母いねに内緒で田畑を担保にして「肺結核病院に入院する費用」と偽り地元の金融機関から金の融資を受けた。この金で、神戸の銃砲店に出向いて猛獣用の猟銃や知人を介して日本刀、匕首などを買い揃えた。これらの凶器は都井の部屋の屋根裏にある茶箱の中に隠した。
犯行当日
都井は、以前部落の人から駐在所に「都井が不穏な動きをしている。猟銃をもってウロウロしている」と密告され、警察から厳重注意を受けて猟銃を取り上げられたことがあった。都井自身も、「肺結核でいつ死ぬか分からない」という焦りから、俺を馬鹿にした連中を早く殺さねばならないと犯行準備を急いだ。
昭和13年5月20日の夜、都井は部落に送電されている電線を切断した。部落民は単なる停電と思い、いつもより早めに床に着いた。今まで事件などなかった部落民に戸締りをする習慣はない。部落は、まったくの無防備状態となった。
貝尾部落は暗闇の世界と化した。まさに日本凶悪犯罪で未曾有の惨劇の幕開けだった。
翌21日午前1時頃、都井はいよいよ犯行の準備に取り掛かった。自宅の屋根裏に入り茶箱から用意していた凶器や他の品物を取り出した。まず、黒色の詰襟制服に着替えて、足にはゲートルを巻いて地下足袋を履いた。
頭は手拭で作った鉢巻を巻いた。この鉢巻の両側(両耳の上部)には懐中電灯が入るように工作されており、暗闇から見ると「二つ目の化け物」に見えた。更に胸には自転車用ナショナルの角型ライトを紐で首にぶら下げ、横ぶれ防止に他の紐で胴体を結んだ。
凶器は日本刀と匕首を左腰に差込み革ベルトで締め付けた。手には猛獣用のブローニング自動9連発を持った。弾薬は背嚢を肩からぶら下げて携行した。午前2時頃、いよいよ犯行が決行された。
[ 1] 祖母いねを、殺すには忍びないが凶行の後に残しておくのは哀れだと、自宅にあった斧でいねの首を一刀両断して殺害した(1人殺害)。
[ 2] 都井宅の隣の岸田勝宅に侵入。妻のつきよの首を日本刀で刺し、さらに口の中に刃先を突き立てて殺害。長男(14歳)、次男(11歳)もメッタ刺しして殺害(3人殺害)。
[ 3] 2軒目、西川秀司宅に侵入。妻のとめを猟銃で射殺。猛獣用のダムダム弾だから胸に卵大の穴があいて内臓が飛び散った。さらに秀司、娘2人を射殺(4人殺害)。
[ 4] 3軒目、岸田高司宅に侵入。主で新婚の高司と妻の知恵を射殺。さらに農業の手伝いにきていた親戚の寺上猛雄も射殺。高司の母親のたまは、「頼むけん、こらえてつかあさい」と都井の足元にひれ伏したが、都井は「ばばやん、顔をあげなされ」とたまの顔をすくい上げた瞬間、猟銃をぶっ放した。幸い、たまは全治5ヶ月の重傷を負ったものの一命は取り留めた(3人殺害)。[このあたりで、山間に轟く銃声や泣き叫ぶ声が木霊して部落内では、何が起きているのか分からず恐怖のどん底に陥った]
[ 5] 4軒目、寺井政一宅に侵入。主の政一、長男と内妻、五女、六女を射殺。四女は隣に逃げ込んで助かった(5人殺害)。[寺井政一宅における殺害目的は情交のもつれで恨んでいた四女であった。隣に逃げ込んだ四女を都井は追いかけた]
[ 6] 5軒目は、寺井政一の四女が逃げ込んだ寺井茂吉宅。都井は、この家には恨みが無く計画には入っていなかった。たまたま政一の四女が逃げ込んだための悲劇だった。茂吉は床下に娘や政一の四女を匿ったが、茂吉の父親が射殺された(1人殺害)。
[ 7] 6軒目は、寺井好二宅に侵入。母親を射殺した(1人殺害)。
[ 8] 7軒目、寺井千吉宅に侵入。主の内妻と養蚕手伝いで泊り込んでいた2人の娘を射殺。この時、主の千吉(当時85歳)は死を覚悟したが、都井は銃口を向けながら「お前は俺の悪口を言わんかったから堪えてやるけんの。せやけんど、わしが死んだらまた悪口をいうことじゃろうな」と薄笑いして家をあとにした(3人殺害)。
[ 9] 8軒目、丹波卯一宅に侵入。卯一の妹と母親を射殺。(2人殺害)。[逃げ切った主の卯一は駐在所の巡査が出征して不在であることから隣町の加茂町駐在所に事件の第一報を報告した]
[10] 9軒目、池沢末男宅に侵入。末男の両親と妻、四男を射殺(4人殺害)。
[11] 10軒目、寺井倉一宅に侵入。都井は「倉一はいるか!」と急坂を登ってきた。倉一の妻は、何事が起きたのかと雨戸を開けて外を覗いている時だった。妻が「暗闇から二つ目が来るぞい」と恐怖で叫んだ途端、射殺された(1人殺害)。
[12] 11軒目、岡本和夫宅に侵入(岡本宅は貝尾部落の隣に接する坂元部落にある)。主の和夫と妻2人を射殺(2人殺害)。

これを最後に、都井は犯行現場から西北に約4キロ先の同村大字樽井字仙の荒坂峠付近に逃げ込み猟銃で自殺した。30人を殺害するのに[僅か2時間たらず]だった。この部落は山間部特有の起伏がきつい地形で、都井は猟銃や日本刀など20キロ以上の重装備で急坂を駆け登りながらの凶行であった。
遺書
遺書は3通あった。2通は自宅で発見された「遺書」と「姉上様」と書かれたもの。他1通は都井が自殺した現場から発見された。犯行の動機を知る手掛かりとして重要である。自殺現場から発見された遺書を掲載する。
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。もはや夜明けも近づいた、死にましょう。(犯行直後の興奮状態での遺書)
「八つ墓村」のモデルに
推理小説の重鎮、横溝正史は戦中岡山県に疎開していた。そこで、津山30人殺しの実話を聞き大きなショックを受けた。横溝は、いつかこの事件をモデルに小説を書き上げてみようと思ったと語っている。後年、戦国時代の祟りと津山30人殺しをリンクさせ「八つ墓村」を完成させた。発表と同時にベストセラーになり横溝の代表作となった。
 
津山30人殺し事件 3

 

八つ墓村のあらすじ
戦国時代、毛利元就との戦いに敗れた尼子義孝が率いる落ち武者8名が村に落ち延びてきました。落ち武者だったこともあり、村人たちは怖がっていたが、次第に打ち解けあうようになります。ここに毛利一族がやってきて落ち武者を差し出せば褒美を出すというので、村人たちは話し合い、褒美よりも落ち武者の財宝に眼がくらんで落ち武者殺しの計画を立てるのです。相手は落ち武者といえども戦闘に通じているので、ある夜、村人らは夏祭りを企画して落ち武者たちを呼び、酒に毒を盛って切りつけ落ち武者8名を殺すのですが、落ち武者の筆頭、尼子義孝が「末代まで呪ってやる」と言い残して果てます。この8名の首塚が八つ墓村の名前の由来という。
その後、落ち武者殺しの首謀格であった多治見が狂いだし、落ち武者殺しに加担した残りのものとその家族を殺し、自らの首を切り落として自殺したのです。この狂気に満ちた殺人劇の人数も8名だったことから「八つ墓村の祟り」と考えられるようになります。月日は流れ、今度は多治見の息子である要蔵が狂いだし、村人32名を殺戮して姿を消します。
多治見家は、莫大な遺産があり、跡取は32名殺しの要蔵の子供である多治見久弥と多治見春代という兄弟ですが、二人とも体が弱いので継げる見込みがないというのです。そこで、この二人の腹違いの兄弟であった寺田達也が相続人に呼ばれたことから話は遺産相続争いの殺人ミステリーへと変貌していきます。
都井睦雄
八つ墓村の32名殺しのモデルとなったのがこの津山30人殺しの犯人、都井睦雄(とい むつお)です。都井睦雄は、1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見で農家の長男として生まれ、2歳のときに父、3歳のときに母をともに肺結核で亡くしたため祖母が睦雄と姉を連れて加茂の中心部である塔中へ移り住み、睦雄が6歳のときに一家は祖母の生まれ故郷である貝尾集落に引っ越したのです。都井睦雄は、幼いころから身体が弱く、学校も欠席しがちでしたが成績は優秀で、小学校3年生からは級長を務めるほどの秀才だったようですが、病気がちだったせいもあり友達はほとんどおらず、心の内は祖母には打ち明けられず、唯一姉が母親代わりのようだったといいます。姉が隣町に嫁いでからは、孤独との戦いだったようです。都井睦雄は、一方で小説を子供向けに作り直し、近所の子供達に読み聞かせたり、村が停電になると睦雄が電柱に登って修理していたという優しい一面もあったといいます。家にこもりがちだった都井睦雄は、幼い頃からの肺の病気が悪化していくと医者にみてもらい肺の病であると告げられます。両親ともに肺結核でなくしている都井睦雄にとっては、どこか気がついていたのかもしれません。昭和11年5月18日、阿部定事件が新聞で報道されると都井睦雄は刺激をうけて友人に「阿部定みたいにえらいとこしちゃる」と言ったそうです。明けて昭和12年4月には、農地を担保に金400円(今の額で約200万円)を借り入れ、いくつもの高価な薬を買いあさり結核を治そうとしますが効果が現れません。貝尾村では、夜這いという淫らな風習があり、若い女性はもちろん人妻にさえも夜這いで心を紛らわすようになっていったのです。幼馴染の寺井ゆり子、西川良子もそのひとりです。しかし、都井睦雄が19歳になった時に徴兵検査を受けて「肺結核」と診断され、不合格になると軍人になる希望も途絶えます。この当時の希望といえば「男子たるものお国のために」という立派な軍人でしたから、この徴兵検査不合格は睦雄の心にとてつもない衝撃を与えたに違いありません。さらに「結核」という病気は、当時はペニシリンなどがなく、不治の病とされていた病気だったこともあり、村人たちは睦雄の家の前を通る時にはハンカチで口を押さえて足早に走り去るようになったり、夜這いで関係を持った女性にも関係を拒まれ罵られたり、果ては村で孤立状態にまでなると都井睦雄は自暴自棄に陥っていくのです。その一方で都井睦雄は、自分を拒否した女性に激しい憎悪をいだくようになり、特に自分と関係を持ちながらも別の男と結婚した寺井ゆり子と西川良子に激しい殺意を持つようになっていきました。
完全武装と周到な計画
昭和13年2月、都井睦雄は残りの農地を担保に入れて金600円を借り入れ、神戸で猟銃を買い、山中で射撃の練習をする日々が続きましたが、村人からおかしな目でみられるようになり、祖母が「睦雄に殺される」と警察に通報し、武器一式を没収されましたが、睦雄の素直さに免じて厳重注意だけで処罰されることはありませんでした。この後、都井睦雄は、すぐに猟銃と日本刀を買いそろえ、屋根裏部屋で猟銃を通常の弾丸5連発のものを猛獣用の弾丸9連発に改造し、準備を進めていた。都井睦雄は、周到に計画しており、襲撃予定の家を自転車で往復してルートを確認したり、当時電話のない村で夜道を警察まで走ると2時間はかかることを計算し、さらに「早くしないと病気のために弱るばかりだ」と睦雄の悪口を言っていた女性の名前をあげて「復習のために殺す」と犯行の3日前から計画書ともとらえられる遺書を書き、たまたま寺井ゆり子と西川良子が村に帰ってきている日を調べて犯行の日を選んでいます。昭和13年5月20日、午後7時頃、都井睦雄は、まず電線を切って貝尾村を停電させます。日ごろから停電になると電柱に登って修理していた睦雄にとって村中全23戸を停電にすることは容易でした。この当時の電気事情は悪く、停電することもしばしばあったため、村人たちはいつものように寝静まったといいます。深夜になると都井睦雄は、黒い詰襟の学生服を着用し、膝下には軍事訓練で使うゲートルを巻き、地下足袋を履き、頭には鉢巻しめてまるで鬼のように小型の懐中電灯を二本差し、首からは自転車用のナショナルランプ、腰には日本刀一振りと匕首(あいくち)と呼ばれる短刀二振り、手には猛獣用9連発に改造したブローニング猟銃をもって準備を終えました。その姿は、まさに都井睦雄が憧れた軍人そのものであり、まるで鬼のようにも見えたといいます。
津山事件 〜 三十人殺し 〜
津山事件は、「津山三十人殺し」や犯人の姓名を取って「都井睦雄事件」ともいい、近隣地域では「加茂の三十人殺し」と呼ばれていますが、当時の警察署が津山署だったため津山事件とされています。
自宅
昭和13年5月20日、貝尾村を停電させ、武装した都井睦雄は、まず自分の祖母から殺害します。寝ている祖母の前で手を合わせ、斧を振り下ろして祖母の首を切断、首は50センチほど飛んで転がり、睦雄は返り血を浴びました。後の遺書には、真っ先に祖母を手に掛けた理由は「後に残る不びんを考えてついああしたことをおこなった」と書いています。
1軒目
祖母を殺害して家を飛び出した都井は、隣の家へ入ります。当時の田舎のこと、鍵などかけておらず、夜這いで家の間取りを知っているので寝室まですぐにたどり着きました。都井睦雄は、夜這いで自分と関係を結びながらも村中に噂をまきちらし悪口を言った50歳の母親を憎んでいましたが、最初から猟銃を使うと騒ぎが拡大するので日本刀で首と胸を刺し、最後に口の中に刀を突き刺して殺しました。勢いあまって刃物の先は身体を突きぬけて畳まで達していたといいます。母親の二人の男の子も日本刀で殺害しました。
2軒目 〜西川家〜
次はその隣の西川家に向かいますが、夫婦2人、娘が2人の4人暮らしでしたが、都井睦雄はこのうち奥さんと長女の2人と関係があり、2人分憎んでいたというのです。都井睦雄は、この日に帰ってきていることを事前に調べておいた長女の良子を特に憎んでいました。まず、関係のあった奥さんの股間に猟銃を突きつけて、なんのためらいもなく引き金を引きました。猛獣用の弾に改造してあるブローニング猟銃ですから体が炸裂して内臓が飛び散って即死しました。この猟銃の音で別の部屋で寝ていた主人と娘が驚いて目を覚ましたところ、お構いなく次々と至近距離で発砲し、3人とも弾が貫通し、体には大きな穴があいて死亡していたといいます。
3軒目
都井睦雄が次に選んだのは、少し離れた所にある家で、夫婦2人、祖母、甥の4人家族です。都井睦雄は、家に入るやいなや夫婦を猟銃で射殺し、妊娠半年だった妻にも気をとめず腹に弾丸をぶち込み、甥も胸に弾丸を浴びせて殺害しました。祖母は必死に命乞いをしたが聞いてはもらえずに胸を撃ち抜かれましたが、この祖母だけは一命をとりとめることが出来ました。
4軒目 〜寺井家〜
都井睦雄が最も憎むこの家は、6人家族です。その中でも4女のゆり子と都井睦雄は幼馴染で結婚をかんがえるような関係であったにも関わらず、周囲の反対もあり、睦雄を捨てて別の男に嫁ぎました。弟の結婚式のためにこの日に帰ってきていることをもちろん事前に調べていた都井睦雄は、堂々と玄関から進入したが、出てきた主人をいきなり猟銃で射殺、逃げまどう長男夫婦たちも片っぱしから銃を乱射して殺害しました。しかし、肝心のゆり子は裏口からすばやく逃げて近くの家に逃げ込みました。それに気づいた都井睦雄は、すぐにゆり子の後を追い、襲撃する予定ではない家ではあったが、扉には鍵がかけられていたので「開けろ!」と睦雄が怒鳴ると、雨戸を開けて顔をのぞかせた祖父をめがけて射殺しました。次男は何とか逃げ出したが、肝心のゆり子は、家の方と全て閉め切って家にたてこもったので睦雄は銃を乱射したが、結局中に入れなかったため、諦めて次の家に向かいました。都井睦雄が最も憎んでいた寺井ゆり子を殺害することはできませんでした。このころになると響き渡る銃声や悲鳴から村中が騒然とし、逃げ延びたものは警察に走りました。
高台の家
都井睦雄は次に高台の家に向かいます。この家には母と息子の2人暮らしでしたが、都井睦雄と関係があった母親が睦雄とは違う別の男とくっついたので恨んでいました。この母親というのが、都井睦雄が一番憎むゆり子の結婚式の媒酌人だったことも気に入らなかったようです。親子ともども寝ているところを布団の上から撃たれて殺害されました。
6軒目
その後、都井睦雄は自宅の南側にある家を襲います。家族6人とお手伝いの女性が2人の計8人が住んでいましたが、お手伝いの女性2人は睦雄と関係があり、ふたりとも猟銃で2発ずつ撃って殺害しました。1人は脳が飛び散り、もう1人は腹から腸が飛び出ていたといいます。最後に立ち寄った隣村の家。この後、一時間半にもおよび犯行をおこなった都井睦雄は、隣の村の家に向かい、その家で紙と鉛筆を借り、そのまま山の中へと逃走しました。この家の子供は都井睦雄が小説を読み聞かせていた子供で、よく顔をみる知人でした。都井睦雄は、去り際にこの子供へ「うんと勉強して偉くなれよ」と言い残して去ったといいます。
都井睦雄の冷静な一面
津山事件の被害者たちの証言によると「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆に都井睦雄は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、恨んでいる家から嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲したとか、返り血を浴び異様な姿の都井睦雄に猟銃を突きつけられたが、逃げることもせず茫然と座っていたところ「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されたとか、「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井睦雄は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い残してその場を立ち去ったといわれています。最後に立ち寄った家で遺書を書くための紙と鉛筆を借りたときに、その家の子供が以前から睦雄の話を聞きに来ていた縁から顔見知りであったため、その子供に頼み鉛筆と紙を譲り受け「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけたといいます。都井睦雄は、この後、山中で遺書を残して自殺しました。
都井睦雄の遺書 〜津山事件報告書より〜
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。 思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
(犯行直後の興奮状態での遺書)
夜這いの風習
津山事件発生からちょうど70年後にあたる2008年に当時の事件の生き残りで90代になった只友登美男にインタビューをしましたが、当時村に残っていたとされている夜這いの風習については否定してはいますが、姉の良子の結婚相手である隣町の只友登美男は、良子が都井睦雄と関係があったと明かしています。都井睦雄が残した遺書にその名前が記載されいることからており、事件を決行することにした理由のひとつとして彼女の帰郷を挙げていることから、この証言については偏りがある可能性を否めません。この証言内容については明らかに誤った内容があり、証言も含めた記事内容は信憑性の薄いものであるといわれています。テレビ番組スーパーモーニングで津山事件の特集が組まれ、取材を受けた村民は、夜這いの風習が当時はあったと認め、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと証言しました。
寺井ゆり子
結局、都井睦雄は、肺結核と夜這いで自身の悪口を言った村人を順に殺害した結果となっていますが、幼馴染の寺井ゆり子は逃げ延びました。心無い幾人かの村人からは都井睦雄が寺井ゆり子を逃がしたなどと噂され、被害を作った張本人とみる者もいたようで、貝尾村では以後70年経った現在も孤立しているといいます。ゆり子は事件から半年余りたって嫁ぎ先で娘を出産しましたが、結婚から出産までの短さを考えると、あまりにも不自然なことなので、近所の老人たちは都井睦雄の子供ではないかと陰でささやく者もいたといいます。また、ゆり子の夫は元々結核持ちだったのが、戦争末期に出征してすぐに兵舎で死んだと知ってゆり子は「徴兵中に夫は結核に感染し、死亡した」と申請してかなりの金額の遺族年金を受給し続けたとも噂されることになります。都井睦雄を騙し、夫の死因を騙して生きてきてよくバチがあたらないねと噂するものもいたと古老は語っています。ゆり子は、都井睦雄と縁を切って同じ村の丹羽卯一と結婚しましたが、都井睦雄がここでも夜這いをかけるのでわずか二ヶ月で離婚しています。そのまた二ヵ月後にゆり子は、上賀茂村大字物見の上村岩男と再婚していて、今回の里帰りでの惨劇となったわけです。

津山事件は、わずか2時間足らずで28名が殺害し、5名が重軽傷(うち12時間以内に2名が死亡)の計30名を殺戮したという、犠牲者数だけで言えばオウム真理教事件の27名を上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件でした。しかも、事件は犯人都井睦雄の逮捕にはいたらず、現場から逃走し、自殺で幕を閉じたことでこの事件には不明な点が多く残ります。  
 
津山三十人殺し事件 4

 

この事件の犯人、都井睦雄は大正6年3月5日、岡山県に生まれた。家族は父、母、祖母、姉。しかし、都井が産まれて間もなく両親は死亡した。二人とも肺結核であった。それから二人の姉弟は祖母に育てられることになり、祖母の実家がある貝尾部落に引っ越した。都井の家は裕福な農家だったが、働き盛りの両親が死んでしまい、残されたのは老人と子供である。所有している田畑・森林を売ったり、祖母の育てる少しの作物、また小作料で、どうにか3人は暮らしたが、二人の子供の学費や、成長して後の睦雄の病気の治療代、彼の放蕩によって、家計は傾いていった。彼は元々、村の秀才として評判の児童であった。例えば小学校当時の成績表にて、教師からこのような評価を受けている。「従順にして教師の命をよく守り、級中の模範児童たり。故に学業も上位にして申し分なき、教室内においては他の児童の世話をなし良き児童。健康やや弱く、風邪をひき欠席する事多し。」
高校を卒業する頃、勉強のできる彼は教師に強く勧められて、中学へ進学し下宿したいと思い家族に話したが、いねは「睦雄が岡山さ行ってしまったら、おばやん一人になってしまうやないの。」と涙ながらに反対し、都井は祖母を置いていくことが出来ず、遠い学校であったため彼は進学を諦めた。しかし元来色が青白く病弱な彼に、実家の農業は向いているはずも無い。教師と相談したうえで、都井は専検をとって教師になろうと、家に閉じこもって勉強を始めた。ところが、若さゆえの希望に溢れた村の優等生は、これから無常にも堕落への道を転がり落ちていってしまうのである。
ある日都井は胸に痛みを覚え、それが何度も続くので病院に行って看てもらうことにした。医者の診断名は「肺尖カタル」。両親と同じ肺の病気にかかったことに、都井は戦慄した。「あまり激しい事はせずに、ゆっくり体を休めれば治る。たいしたことはない」医者の言葉通りに、都井は一時的に勉強を止めて体を休めたが、両親が彼と同じ肺の病で死んだ事が都井の病気に対する考えを悲観的にした。都井は病気が発覚して以来、人が代わったように厭世的になり、自暴自棄になった。また、これと同時期に、都井は友人の紹介で大阪の賎娼相手に筆下ろしているが、これから一年も経たぬうちに 彼は村中の女と関係することになる。
ここで、当時の山村の”夜這い”という因習について話しておかねばなるまい。娯楽の少ない山村のものたちの間では、男女の貞操観念というものは、実に希薄であった。なにも、村中のものと関係していたのは都井だけではなかったのである。「村のおんなは村のもの」として共有していたのである。例えばそれが人妻であったとしてもだ。亭主に浮気現場を見られても、お詫びの酒一升でカタが付いた。しかし、事件後村人達は村へのマスコミ批判を恐れて、「死人に口なし」ということで、まるで都井だけが特別に淫乱で、恥知らずで、異常な性欲の持ち主だったのだと言い張った。しかし現在では、どの識者にも村人の証言は信じられていない・・・。
都井は肌が白く、鋭い目に繊細そうな物腰、がっちりした体つきと、山村の肌の浅黒い農夫達にない魅力を持つ青年だったようで、どうも最初のうちは女たちは自分から都井にちょっかいをかけていたフシがある。
ところが次第に女達は都井を避けるようになった。彼女達からすると、病弱で職も持たずにぶらぶらしている都井と付き合うメリットは火遊び以外になかったのかもしれぬ。しかも都井はそれを肺病のせいだと思いこんで女達をしつこく追いかけ、しまいには猟銃で脅して「関係させえ」などと脅した物だから、彼は村で完全に孤立してしまった。同い年の村人とは剃りが会わず、ロクに友達が居なかった都井はもしかしたら女性に依存していたのかもしれないが、しかしそれ以上に彼を傷つけたのは、関係した女達が手のひらを返したように冷たくなったことであった。
ある女性は、共に病弱で親族が少ないから、「お互いに助け合っていこう」とまで約束した仲だったが、次第に彼を疎んじ心変わりした。都井が、いつも睨み合ってばかりいずに、少し笑顔で話しても良いがなと言ってやると、彼女は笑顔所か睨み付けて鼻で笑い、散々、都井の悪口を言う。とうとう腹に据えかねた都井が怒って「殺してやるぞ」と言い放つと、彼女はぴしゃりとこう言った。「殺せるもんなら殺してみろ、お前等如き肺病患者に殺される者がおらん」それは、彼にとってタブーだった。彼女はそのまま逃げかえり、都井は激しい感情の憤りに泣き、彼女を追えなかった。
またある女性は都井に「年頃だから虫がついたのかも知れぬ」と水を向け関係を結んだが、都井の評判が悪くなるといち早く拒絶し、自分だけ良い子になるために、都井の悪口ばかりを村人に言い触らした。
女達に裏切られ、都井はある決意をした。
「こいつら全員殺してやる」都井は、復讐の達成の為に、武器を買い集めて部屋に隠し、村で鍵をかけていない家を調べるなどして慎重に計画を練った。平和な山村ゆえにほとんどの家は就寝中でも平気で施錠していなかった。計画は前途洋洋に見えた。
しかし、あと少しと言う所で祖母にのませようとした毒薬が元で通報されてしまい、隠していた武器を全て取り上げられてしまう。それでも彼はめげなかった。今度はもっと巧妙に、大阪の友人や津山市の刀剣コレクターに頼みこみ、彼らの手を借りて武器を揃えた。昭和13年5月21日深夜、ついに未曾有の大惨劇の幕が開ける。
電気を絶たれ暗闇となった視界もおぼつかぬ夜の村で、彼はまず祖母を斧で手にかけた。「残してゆく祖母が不憫」であったのと、祖母を殺すことで自分の中で覚悟を決めたのだ。もう後は無い。「俺を鬼にしておくんなせえ」それからの都井に、もう迷いは無かった。彼は銃声で村人が早く起きぬように、最初は刀で女を血祭りに上げ、次に銃で沢山の村人の心臓を正確に砕いた。死体は凄惨極まりなく、ある者は腸が飛び出し、ある者は二銭硬貨大の穴が体に二つもあいていた。
ところで、都井がもっとも殺したかった女の一人は都井の異常を察して数日前に突然村を逃げ出していた。都井は悔しくて歯ぎしりしたが、「それだったら、身内を殺して彼女が死ぬまで苦しめてやる」と思い、彼女の親戚を狙って無残に殺した。こんな感じで、被害者は膨れ上がっていった。しかしそれでも計画通りというわけにいかなかった。口惜しい事に、もっとも殺したかった二人の男女は、殺す事が出来なかった。
彼は目的の家を全部襲撃した後、山を登って村一面を見渡せる風光明媚な荒坂峠を目指して逃げ込んだ。目的を果たし警察の手から逃れるために深い山中を一人走った青年の心には、その時何が映っていたのだろうか。彼は事件前に既に遺書を描いていたが、もう一枚書くことを決意した。そしてある老人の家に上がりこみ、「紙と鉛筆をくれ」と頼みこんだ。驚いた老人の反応に痺れを切らした彼は老人の孫から雑記帳と鉛筆を借り、そのまま森の奥深くへ消えていった。
一方、当時警察は「第二の鬼熊事件発生か!?」という不安と混乱で慌しかった。速報が入るたびに被害者の数は増えていく。地元との消防団と組んで現場の警察官達は必死に捜索を続けた。彼らが都井の自殺体を発見したのは朝も過ぎて十一時になってからであった。
都井は半立ちになって寝転がり、胸に猟銃を当て、足の指で引き金をひいて自殺していた。享年22才。
彼の犯行動機を、岡山地方裁判所・塩田末平検事は「青年特有の英雄主義(ヒロイズム)」と語った。当時「男性は強くあるべき」との観念が当たり前だった時代において、彼は肺病のせいで徴兵検査に不合格となり、コンプレックスを持って居たことは容易に想像できる。彼は自己の男性としての誇りを、一に徴兵検査で、二に女達によって深く傷つけられ、次第に社会に対して反抗心を強め、その妄想的な性格を強めていった。彼にとって、部落を根絶やしにすることが自身の存在証明であったのである。都井は阿部定の事件に並々ならぬ興味を抱き、友人に安部定事件の供述証書(地下本)の写しを依頼した。事件前に最後にその友人と会った時、都井は「肺病でどうせ死ぬなら、阿部定みたいなデカイことをやる」と言っていたことからも、彼の強烈な自己顕示欲が犯罪に結び付いた事がよく分かる。
しかし彼は不運な人生であった。「もし両親が生きていたなら・・・」「彼が中学校へ行って村を出ていたなら…」など、「もしもこうであったなら」という思いが残ることは非常に残念で仕方ない。村の秀才として村人の期待を一身に受けて育った少年は、前代未問のマス・マーダラーとして伝説となった。
この事件には妙な噂がある。事件当事、あまりの事件の残酷さに報道規制がひかれたというのだ。しかし実際はセンセーショナルに報道されていた。特筆すべきは二次創作の多さだ。書き手のイマジネーションを刺激する事件であったことは間違い無い。かの有名な「八つ墓村」横溝正史、「丑三つの村」西村望、「夜啼きの森」岩井志麻子、「龍臥亭事件 上下」島田荘司、映画だと「復讐鬼」若松孝二、マンガだと「負の暗示」山岸凉子がある。ノンフィクションでは、まず一番詳しいのは「津山三十人殺し」筑波昭、ここでは都井が書いた小説『雄図海王丸』の一部を読む事が出来る。彼には文才もあったようだ。そして、もう一冊は「ミステリーの系譜〜闇に駆ける猟銃」松本清張。ちなみに事件のあった貝尾部落は都市伝説「杉沢村」のモデルとなった。 
 
津山三十人殺し事件

 

津山三十人殺し事件で登場する人物については都井睦雄を除いてすべて仮名とした(阿部定事件、鬼熊事件は実名)。
岡山県津山市から北へ20キロ行ったところの中国山地の鳥取との県境に近いのどかな山村で、わが国犯罪史上、未曾有の大惨劇が起こった。
岡山県苫田(とまだ)郡西加茂村大字行重(ゆきしげ)の貝尾部落とその隣の坂本部落を舞台に、1人の青年がわずか1時間半の間に、村人30人を惨殺するという事件であった。
西加茂村は全戸数約380戸、人口約2000人、貝尾部落は全戸数23戸、人口111人、その隣の坂本部落は全戸数20戸、人口94人という小さな村であった。
この両部落の住民はその大部分が零細農で、山田の耕作や養蚕を主な産業とし、冬の間は雪に閉ざされ、男は長期の出稼ぎや山に入って炭焼きをする者が多い。村には老人と婦女子だけが残る。「夜這い」など性的に放縦な旧習が色濃く残る地域でもあった。
1938年(昭和13年)といえば、日中戦争の最中で、日本軍が徐州を占領した5月19日の直後にこの事件が起きている。
5月21日午前1時ごろ、岡山県苫田郡西加茂村大字行重字貝尾779番地に住む農業の都井睦雄(といむつお/22歳)は、中6畳の間のこたつに祖母と向かいあった位置で寝ていたが、祖母が目を覚まさないように気を配りながら、そっと起き足音を忍ばせて屋根裏部屋に上がった。ちなみに、都井の自宅は貝尾部落のほぼ真中に位置していた。都井は祖母と2人暮らしであった。
都井睦雄の年齢を「22歳」としているが、これは「数え年齢」で、現在使われている「満年齢」では都井の生年月日が1917年(大正6年)3月5日なので、事件のあった1938年(昭和13年)5月21日の時点で「21歳」ということになる。ちなみに「数え年齢」とは生まれた時点で「1歳」とし次の年の元日を迎えた時点で1年加えて「2歳」となる、というように、以後元日を迎えるごとに年齢が加算される計算法で、「数え年齢」と「満年齢」は常に1歳か2歳違いとなる。この「数え年齢」から「満年齢」に変わるのは1950年(昭和25年)以降。
都井は自分を邪魔者扱いする部落民を殺害しようと綿密な襲撃計画を立てていた。
特に、自分と肉体関係がありながら嫁いでいった2人の女性に対しては激しい敵意と殺意を抱いていた。都井はこの2人の女性が村に帰って来る日を調べて知り、あるいは小さな村だから、「誰が何をするとか、した」というのは、いやでも耳に入っていたのかもしれない・・・。都井はそのときを犯行の日と決めていた。そして、その日がやってきた。
前日の5月20日午後4時ごろ、自転車で襲撃予定の家への道を何度も往復して入念に下見している。午後5時ごろ、送電線の電柱に登って電線を切断し、部落全体を真っ黒闇にした。電灯会社に修理の依頼をしに行く村人はいなかった。
都井は親しい友人に、「どうせ肺病で死ぬんじゃから、阿部定以上のどえらいことをやってやる」と漏らしていた。
阿部定事件・・・2年前の1936年(昭和11年)5月18日、愛人を絞殺し局所を切り取るという前代見聞の猟奇事件。
屋根裏部屋に上がった都井は、黒詰め襟の学生服に、両足は軍事訓練に使うゲートルを固く巻いた。これは青年学校で軍事訓練用に買わされたもので、1、2度しか使用していない新品同様のものだった。そして、地下足袋に足を通した。鉢巻き状に巻きつけた頭の手拭いに2本の小型懐中電灯を取り付け、さらに、自転車用のナショナルランプをひもで首から胸に吊り下げ、さらに、別のひもで胴に固定し、暗闇の中で相手を照らし出すようにした。日本刀1振りと匕首(あいくち)2口を左腰にさしてひもでくくり、この上をさらに皮のベルトでしっかりと締めた。手には猛獣狩り用口径12番9連発に改造したブローニング猟銃を持ち、ポケットには実弾100発を入れ、弾薬、実弾100発を入れた雑嚢を左肩から右脇にかけた。まるで、2本の角が生えた阿修羅さながらである。
この地方では、夜間川漁をするとき懐中電灯1個を手拭いなどで頭上につける風習があった。また、都井が愛読した雑誌『少年倶楽部』(前年の12月号)には剣付き銃(懐中電灯もくくりつけられている)を構えた日本兵が中国人を突き殺そうとしている漫画が載っているので、これに着想を得たようにも思える。
5月21日午前0時ごろ、小雨が降ったがすぐに止み、ときどき雲の間から月が見えた。春とはいえ、うすら寒い夜だった。
 
犯行

 

[ 1人目] 午前1時40分ごろ、都井は屋根裏部屋から下り、中6畳の間に入ってこたつでぐっすりと寝入っている祖母のよね(76歳)の首を薪割り用の斧で切断した。首は鮮血とともに50センチほど飛んで転がった。
[ 2人目] 最初に襲ったのは、北隣にある岸本勝之宅だった。ここは5人家族だったが、勝之は呉海兵団に入団中でいなかった。田舎だから戸締りはしていなかった。何度かの夜這いで勝手を知り尽くしていた都井は、奥の6畳間に忍び込んだ。都井は未亡人である母親のつきよ(50歳)と肉体関係があったが、最近になって拒絶されるようになり、村中にそのことを言いふらされていたため、特に強い恨みを抱いていた。猟銃の使用は近所に聞こえると思い、日本刀をそっと抜いて、半裸で熟睡していたつきよの首、胸を突き刺した。刀の先は畳を突き抜けた。最後に口の中にも突き刺した。
[ 3・4人目 ] 続けて、母親の隣に寝ていた弟の吉男(14歳)とその弟の守(11歳)を日本刀でメッタ斬りにして惨殺。妹のみさ(19歳)は仕事のために、寺川千吉宅で寝泊まりしていて、このときは、難を逃れてはいるのだが、都井はみさが千吉宅に寝泊りしていたことを知っていた。
[ 5人目 ] 3軒目は西田秀司宅だった。ここには4人がいた。ここも鍵をかける習慣はなかった。都井は妻のとめ(43歳)と肉体関係が何度もあったが、とめは村中に「何度も挑まれたが断った」と言いふらしていた。都井は4畳間に寝ていたとめの腹部に猟銃を突きつけて発砲した。とめはこの猟銃のダムダム弾を受け内臓が飛び出して即死した。
[ 6・7・8人目 ] 隣の部屋では、3人がこたつに入って寝ていた。長女の大友良子(22歳)と主人の秀司(50歳)と妻の妹の岡庭千鶴子(22歳)であった。都井は良子とも肉体関係があったが、他家に嫁いだ。だが、風邪で寝込んでいたとめを見舞いに、良子と千鶴子が来ていた。都井はそのことを知っていた。都井は良子が帰って来て、村にいるこの日を虐殺の日に選んだ理由のうちのひとつにしていた。3人が銃声で飛び起きたところを猟銃で至近距離から射殺。3人とも体に大きな穴が開き即死した。
[ 9・10人目 ] 4軒目は岸本高司宅だった。ここは4人家族だった。ここも鍵をかける習慣はなかった。表戸から侵入した都井は、ひとつ布団に就寝していた主人の高司(22歳)と内妻の西田智恵(20歳)を猟銃で射殺。妊娠6ヶ月の妻は腹部に銃弾を受けて即死した。智恵は5番目に殺害された西田とめの次女である。
[ 11人目 ] そのあと、甥の寺中猛雄(18歳)が、飛びかかったが、都井は銃床で殴り倒し下顎を陥没させ、猟銃で胸を撃ち抜いた。
[ 重傷 ] 都井は、うずくまって震えていた母親のたま(当時70歳)の前に仁王立ちになり、落ち着いた声をゆっくりと押し出し、「お前んとこには、もともと恨みも持っとらんじゃったが、西田の娘を嫁にもろたから、殺さにゃいけんようになった」と言った。「頼むけん、こらえてつかあさい」たまは都井の足元にひれ伏して哀願した。「ばばやん、顔を上げなされ」と命じ、銃口で頭を押し上げて胸をめがけて発射した。たまはふっとんで転がったが、奇跡的に一命をとりとめた。たった1人生き残ったたまは「若い者が死んでわしが生き残るとは、神も仏もありゃせんがのう」と運命の皮肉を嘆いた。
[ 12人目 ] 5軒目は寺川政一宅だった。ここは6人家族だった。度重なる銃声で、寺川宅の家族は皆、起きていたが、戸締りをしていなかった。表玄関から侵入した都井は、「何事か」と言って出てきた主人の政一(60歳)の胸を猟銃でぶち抜いて射殺。
[ 13・14・15・16人目 ] 夢中で窓からおもてに飛出した長男の貞一(19歳)の背中を猟銃でぶち抜き射殺。、五女のとき(15歳)と六女のはな(12歳)が、廊下の雨戸を開けて外に出ようとしたところを猟銃で射殺。内妻の野木節子(22歳)を廊下の隅に追い詰め、立ちすくんだところを胸をめがけて猟銃で撃ちこみ死亡させた。寺川貞一と野木節子は6日前の5月15日に結婚式を挙げたばかりだった。
[ 軽傷 ] 四女のゆり子(当時22歳)と都井は深い仲だったが、ゆり子は都井をふって他の男と結婚した。恨んだ都井が新婚の夜の寝室に夜這いをかけたため、ゆり子は離婚せざるを得なくなった。都井はよりを戻そうと図ったが、その後、ゆり子は他の村の男と再婚してしまった。3日前から、ゆり子は帰宅していた。それを知っていた都井がこの日を虐殺の日に選んだ理由のうちのひとつであった。ゆり子は、裏口から素早く脱出し、近くの寺川茂吉宅に逃げ込んだ。都井がもっとも恨んだ、ゆり子は軽傷を負っただけで済んでいる。寺川ゆり子は同年1月9日に同部落の丹下卯一と結婚したが、同年3月20日に離婚させられ、その後、同年5月5日に、他の村の男と再婚した。半月前のことだった。
[ 17人目 ] ゆり子が逃げたことに気づいた都井は、すぐ後を追った。6軒目の寺川茂吉(当時45歳)宅は元々、都井の襲撃の計画に入っていなかったが、悲劇の巻き添えとなってしまった。ここは5人家族だった。表戸を閉めた直後に、都井がやってきて「開けろ、開けぬと、撃ちめぐぞ」と怒鳴った。離れの隠居所にいた父親の孝四郎(86歳)が雨戸を開けると、都井は孝四郎めがけて猟銃を連射。胸に5、6センチの穴が2つでき即死した。
[ 軽傷 ] ゆり子と主人の茂吉と妻の伸子(当時41歳)と次男の進二(当時17歳)は、全部の戸を閉め切った。都井は銃を乱射したり、裏戸を激しく叩いた。茂吉はこのままでは全員殺されると判断し、次男の進二に寺川元一宅へ急を知らせ、助けを求めるように命じた。そこで、進二は横入り口から飛び出し、裏の竹薮へ走り込んだが、都井に見られてしまった。都井はすぐにあとを追いかけ、進二も追いかけられたことに気づいたので、竹の葉が密生している藪の中に身を伏せ、じっと息を殺したので、都井の目をくらますことができた。都井は「逃げると撃つぞ」と大声で叫びながら追いかけたが、発砲はしなかった。進二を見失っていたが、裏口の前にきて、さも進二を捕まえたような口ぶりで「こら、進二、白状せよ」「白状せぬと撃つぞ」と大声で2回怒鳴り立てた。妻の伸子は「あんた、進二が捕まったけん」と全身をわなわなと震わせ、泣きながら茂吉にとりすがった。ゆり子も「うちのためにとんだことになったですけん。すまんことです。堪えてつかあさい」と言って泣きじゃくった。茂吉は、こっそりと裏口の戸に近寄り、板戸の隙間から外の様子を覗った。戸のすぐそばには都井が立ちはだかっているが、進二がいないことが分かって安心した。だが、そのあと、都井は「どうしても開けんなら、斧を持ってきて打ち割るぞ」と怒鳴り散らして、銃床で裏戸を激しく叩いたあと、戸の外から家の中に向けて連続2発発砲した。このときの1発が、茂吉の娘の四女の由紀子(当時21歳)の大腿部に命中し、軽傷を負わせている。
ようやく、このころになって断続的に深夜の山間に響き渡る銃声、絶叫や悲鳴で、異常を知った村人が騒然と騒ぎ出した。
[ 18・19人目 ] 7軒目は高台にある寺川好二宅だった。ここは未亡人の母親のトヨ(45歳)と息子の好二(21歳)の2人で暮らしていた。やはり、ここも鍵をかける習慣がなかった。都井は金品によってトヨと情交を重ねていたが、別の男に走り、西田良子と寺川ゆり子の結婚の媒酌人を買って出たのを恨んでいた。都井がさんざん発砲したあとにもかかわらず、そのことに気づかずに熟睡していた2人を布団の上から銃口を押しつけて射殺した。
[ 20・21人目 ] 8軒目は都井の自宅の南隣の寺川千吉(当時85歳)宅であった。ここは、家族6人の他、養蚕手伝い2人の計8人が寝ていた。都井は寺川千吉宅には恨みはなかったが、かつて都井との情交を拒んだ丹下卯一宅の妹のつる代(21歳)と岸本勝之宅の妹のみさ(19歳)の2人が養蚕室で寝ていたところを、猟銃で各2発ずつ銃弾を浴びせた。1人は脳味噌が飛び散り、もう1人は腹部から腸が飛び出して即死した。
[ 22人目 ] もう1人、同じ部屋で寝ていた長男の朝市(当時64歳)の内妻の平地トラ(65歳)は「堪えてくれ、こらえてつかあさい」と懇願したが、都井は猟銃を2発発砲、腹部が貫通して即死した。
養蚕室を飛び出した都井は、母屋の縁側の雨戸を開けて押し入り、表6畳の間に踏み込むと、こたつに坐りこんでいた千吉を3つの照明が捕らえた。千吉は都井を見上げたが、格別の反応を示さず凝然と端座したままであった。都井は「年寄りでも結構撃つぞ。本家のじいさん(寺川孝四郎のこと)も殺(や)ったけんのう。どないしてやろか」と言いながら、銃口を千吉の首にあて、ちょっと考えてから「お前はわしの悪口は言わんじゃったから、堪えてやるけんの。せやけど、わしが死んだらまた悪口を言うことじゃろな」と言ってニヤリと笑った。
そのあと、都井は表6畳から奥納戸に踏み込んだ。ここでは、朝市が布団にもぐりこんでいた。朝市は都井と千吉のやりとりを聞いて、これは助かるかもしれないと思い、震えながらも寝たふりをした。都井は3つのひかりで朝市を照らすと、いきなり枕を蹴飛ばした。朝市はびっくりして起き上がろうとすると、その胸を銃口で押し戻し「若い者(勲夫婦)は逃げたな。動くと撃つぞ。おとなしくせえ」朝市は都井を見上げて両手を合わせ「決して動かんから助けてくれ」と必死で哀願した。都井が「それほどまでに命が惜しいんか」とからかうように言うと、朝市は手を合わせたまま何度も子供のように大きくうなずいた。「よし、助けてやるけん」と都井はそう言って千吉宅を出た。千吉の妻の寺川チヨ(当時80歳)は床下にもぐりこみ、孫の寺川勲(当時41歳)とその妻の寺川きい(当時38歳)は2階に隠れていた。
[ 23人目 ] 9軒目は丹下卯一(当時28歳)宅だった。ここは3人家族だったが、妹のつる代(21歳)は寺川千吉宅の養蚕室ですでに、射殺されていた。丹下宅にも別棟に養蚕室があり、たまたま、母親のイト(47歳)が、保温用の炉の火の具合を見ていたところに、都井が現れ「娘(つる代)はもう殺(や)った。今度はお前じゃ」と言って、猟銃で連射し、重傷を負わせた。嵯峨野病院に運ばれたが、6時間後に死亡した。卯一は、母屋で寝ていたが、母親の絶叫と銃声で目を覚まし、いち早く脱出して難を免れた。卯一は一時期、寺川ゆり子と結婚していたから、都井の標的の対象になっていたかもしれない。
卯一は西加茂の駐在所に行ったが、巡査が不在だったため、加茂町駐在所へ行き、息をはずませながら、事件の発生を知らせた。約3キロのあぜ道を走り、途中、自転車を借りて20分後に到着した。午前2時40分ころだった。
「駐在さん、大変だ、起きてくれ。人殺しだ」という卯一の叫び声に今田武雄巡査は寝床からはね起きた。窓には顔見知りの卯一が口をぱくぱくさせている。卯一の話しを聞く前に「都井が殺(や)ったか?」と今田巡査は怒鳴った。日ごろから都井の動静が気にかかっていたのである。今田巡査はすぐに、電話で津山署宿直の北村警部補に報告した。隣村の東加茂村巡査駐在所の米沢巡査にも連絡した。消防組の集合の手配も頼んだ。また、医者の手配、万一の場合には鉄道電話を借りることと、この異常事態の発生を報せるために町や村の半鐘を乱打することなどを妻に昂奮して命じ、卯一と共に貝尾部落に向かった。
[ 24人目 ] 10軒目は池山末男(当時37歳)宅だった。ここは8人家族だったが、伊勢神宮に修学旅行中だった長男の洋(当時15歳)を除いて他の7人はここの自宅にいた。都井がここを襲撃の対象に加えたのは、池山末男が寺川マツ子(当時35歳/池山勝市の五女、20歳のとき寺川弘と結婚)の兄だったからだった。都井はマツ子と関係があったが、都井が肺結核にかかったと知ると急に心変わりをした。末男は、裏の雨戸を開けておもてへ飛び出した。このとき、すでに、裏に回っていた都井が末男を見つけるなり乱射したが、末男は夢中で竹薮の中に駆けこんで難を免れた。都井は家の中に入りこむと、猟銃で妻の宮(34歳)の心臓をぶち抜いた。
寺川マツ子一家は危険を察知し、子ども4人を連れて夫と3日ほど前に京都に引越した。このとき5番目に殺害された西田とめを一緒に京都に逃げようと誘ったが、とめは「殺されるほど憎まれてはいない」と言ってその誘いを断っている。都井はマツ子一家が逃げたことを知っていた。
[ 25・26・27人目 ] さらに、四男の昭男(5歳)に発砲。昭男は肝臓や腸が飛び出して即死した。母親のツル(72歳)は、左肩を弾が貫通して死亡。父親の勝市(74歳)は、必死でおもてに逃げようとしたためか、都井はめちゃくちゃに発砲。勝市は胸を射抜かれた他、全身に6発の銃弾を浴び、肺を露出して死亡した。次男の彰(当時12歳)と三男の正三(当時9歳)は、都井が見逃したのか、かすり傷ひとつ負わずに助かっている。
[ 28人目 ] 11軒目は集落の高台にある村一番の財産家の寺川倉一(当時61歳)宅だった。ここは3人家族だった。倉一は金にものをいわせて、寺川マツ子、岡部みよなど、何人かの村の女と関係していた。都井が坂を登る途中、胸のナショナルランプが消えたが、坂を登り切ると、「倉一はいるかア」と怒鳴りながら、表門から走り込んだ。妻のはま(56歳)がローソクを手に雨戸を開け、何事が起こったのかと、おもてを見渡しているところだった。「2つ目が来るぞい」はまが倉一と長男の優(当時28歳)に振り向いて叫んだ瞬間、都井の猟銃が火を吹いた。はまはローソクを持った右手に弾を受けたが、痛みを堪えて急いで雨戸を閉め、駆け寄った倉一と2人で必死で都井の侵入を防いだ。都井は閉まっていた雨戸に向かって猟銃を5発乱射し、はまの右腕を射抜き、重傷を負わせた。それを見て、倉一は、雨戸を押さえるのを止め、2階へ駆け上がって窓を開けて「助けてくれえ、助けてくれえ、人殺しじゃ、誰か来てくれえ」と何度も絶叫した。高台のため、村人全員にこの声が届いたという。都井は倉一に向けても発砲したが、弾は1階の軒の屋根瓦を貫いただけだった。倉一はあわてて部屋の中に身を伏せた。都井は倉一を諦めここを離れた。はまは嵯峨野病院に運ばれたが、出血多量で、12時間後に死亡した。
[ 29・30人目 ] これまでは全て貝尾部落での出来事だったが、12軒目は貝尾部落の北西に位置する坂本部落の岡部和夫(51歳)宅だった。都井は約2キロの山腹のけもの道を駆け抜けて、ここにたどり着いている。ここは夫婦2人暮らしだった。妻のみよ(32歳)と都井は何回も関係したが、夫の和夫は、これを阻止しようとあれこれ腐心した。そして、最近では、みよまでが冷たくなっていた。岡部宅は都井の夜這いを警戒していながら、表戸に戸締りをしていなかった。あるいは、寺川倉一のために、みよが錠をはずしておいたのかもしれない。和夫は都井を撃退するために、ごく最近、空気銃を買っている。和夫はこのとき、それを持ち出して応戦しようとした。だが、都井は猟銃で7発撃って、妻もろとも射殺した。
こうして、約1時間半に渡る惨劇は終わった。
被害者は、死亡者30人(即死28人、重傷を負い、のちに死亡した者2人)、重傷者1人、軽傷者2人の計33人であった。

午前3時ごろ、岡部宅をあとにして、樽井部落の武田松治(当時66歳)宅に現れた都井は「今晩は、今晩は」と呼びながら、松治らが寝ている部屋に上がりこんだ。松治は都井の姿を見て強盗だと思ったという。都井は「おじいさん、ふるえなさんな、おじいさん、急ぐんじゃ、紙と鉛筆をもらいたい。警察の自動車がこの下まで、自分を追うて来ておる」と言った。松治は紙を探していると、都井は、その部屋に寝ていた松治の孫に「アッチャン、君とこはここじゃな。おじいさんでは間に合わぬ。鉛筆と雑記帖を出してくれ」と言った。孫が鉛筆と書きかけの雑記帖を出すと、都井は雑記帖の一部を破り取り、「なんぼ俺でも罪(とが)のない人は撃たぬ。心配しなさんな」アッチャンには「勉強してえらくなれよ」と言った。都井はそれから急いで出ていった。
孫は「あれが都井じゃ」と言った。そこで、松治は初めて、岡部みよと密通の噂があった都井という男であることを知った。
都井からアッチャンと呼ばれた篤男(あつお)は都井の「お話」を聞きに集まった子供たちの1人であった。
松治は都井が遺書を書くつもりで紙と鉛筆を要求したのだと察したが、小学5年の篤男にはその意味が解からなかった。
都井の自殺死体が発見されたのは、そこから山に3.5キロ入った仙の城山頂であった。
そばには、身につけていた懐中電灯、鉢巻き、日本刀1振り、匕首2口、自転車用ナショナルランプ、雑嚢が体からはずされ並べられていた。地下足袋も脱いできちんと揃えて置いてあった。
黒詰襟の学生服のボタンをはずし、ブローニング9連発猟銃を手に取ると、シャツの上から心臓部に銃口をあてた。両手で銃身をしっかりと握り、右足を伸ばして親指を引き金にかけた。銃声と同時に、その手から銃が1メートルほど吹っ飛び、都井はのけぞって倒れた。即死だった。
自殺現場には遺書があり、自宅でも2通の遺書が発見されている。死亡推定時刻は午前5時ごろだった。
 
遺書

 

自殺現場にあった遺書
愈々死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、ニ歳の時からの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事を行った、楽に死ねる様にと思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙が出るばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるして下さい、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから(たとい自分のうらみからとは言いながら)決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくさされば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係のあった寺川ゆり子が貝尾に来たから、又西田良子も来たからである、しかし寺川ゆり子は逃した、又寺川倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言う者はほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。
もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

「愈々」・・・「いよいよ」 / 自殺現場で遺書を書くことをいつ思いついたのだろうか。初めからそのつもりだったが、殺害することばかり考えていたため、うっかりして紙と鉛筆を持って行くのを忘れてしまったとも考えるられるが、この遺書を読むと、「殺すべき人を殺さず、殺さなくてもいい人を殺してしまった」と計画通りにいかなかったことを書いているところ以外は自宅にあった遺書と内容が重複していることから、あとで思いついたと考えるのが自然のようだ。計画通りに「殺すべき人だけを殺した」なら自殺現場で遺書は書かなかったかもしれない。
自宅にあった遺書 その1 (単に 「書置」と上書きしたもの)
自分が此の度死するに望み一筆書き置きます。ああ思えば小学生時代は真細目な児童として先生にも可愛がられた此の僕が現在の如き運命になろうとは、僕自身夢だに思わなかったことである。
卒業当時は若人の誰もが持つ楽しき未来の希望に胸おどらせながら社会に出立つした僕が先ず突きあたった障害は肋膜炎であった。医師は三ヶ月程にて病気全快と言ったが、はかばかしくなく二年程ぶらぶら養生したが、これが為強固なりし僕の意志にも少しゆるみが来たのであった。其の後一年程農事に労働するうち、昭和十年十九歳の春再発ときた。これがそもそも僕の運命に百八拾度の転換を来した原因だった。
此の度の病気は以前のよりはずっと重く肺結核であろう。痰はどんどん出る、血線はまじる、床につきながらとても再起は出来ぬかも知れんと考えた。こうしたことから自棄的気分も手伝いふとした事から西田とめの奴に大きな恥辱を受けたのだった。病気の為心の弱りしところにかような恥辱を受け心にとりかえしのつかぬ痛手を受けたのであった。それは僕も悪かった。だから僕はあやまった。両手をついて涙をだして。けれどかやつは僕を憎んだ。事々に僕につらくあたった。僕のあらゆる事について事実の無い事まで造りだしてののしった。
僕はそれが為世間の笑われ者になった。僕の信用と言うかはた徳と言うかとにかく人に敬せられていた点はことごとく消滅した。顔をよごされてしまった。僕はそれがため此の世に生きて行くべき希望を次第に失う様になった。病気はよくなくどちらかと言えば悪くなるくらいで、どうもはかばかしくなく昔から言う通りやはり不治の病ではないかと思う様になり、西田の奴はつめたい目をむけ、かげにて人をあうごとに悪口を言うため、それが耳に入るたびに心を痛め、日夜もんもんとすること一年、其の間絶望し死んでしまおうかと思った事も度々あった。
けれど年老いた祖母の事を思い先祖からの家の事を思う度に強く強くそして正しく生きて行かねばならぬと思いなおして居た。けれど病気は悪くなるばかりとても治らぬ様な気分になり世間の人の肺病者に対する嫌厭白眼視、とくに西田とめと言う女のつらくあたること、僕は遂にこの世に生くべき望み若人の持つすべての希望をすてた。そうして死んでしまおうと決心した時の悲しさは筆舌につくせない。僕は悲しんだ泣いた。幾日も幾日も、そうして悲しみのうちに芽生えて来たのはかやつ[ 西田とめ ]に対する呪いであった。これ程迄にかくまでに、僕を苦しめにくむべき奴にさげすむかの女にどうせ治らぬ此の身なら、いっそ身をすてて思いしらせてやろう。かやつは以前はつらかったのだが、今は何不自由なく活(くら)して居るからおごりたかぶり僕等如き病める弱きものまでにくみさげすむのだろう。にくめべにくめ、よし必ず復讎をしてかやつを此の社会から消してしまおうと思うようになった。その外に僕が死のうと考える様になった原因がある。寺川弘の妻マツ子である。彼の女と僕は以前関係したことがある(かの女は誰にでも関係すると言う様な女で僕が知っているだけでも十指をこす)。それがため病気になる以前は親しくして、僕も親族が少いからお互に助けあって行こうと言っていたが、病気に僕がなってからは心がわりしてつらくあたるばかりだ。はらがたってたまらなかったがじっとこらえた。あれほど深くしていた女でさえ、病気になったと言ったらすぐ心がわりがする。僕は人の心のつめたさをつくづく味わった。けれど之も病気になるが故にこの様なのだろう。病気さえ治ったら、あの女くらい見かえすぐらいになってやると思っていたが、病気は治るどころか悪くなるばかりに思えた。医師の診断も悪い。そうする中に一年たったある日マツ子がやってきた。僕は何時もにらみ合っていずに、少し笑顔で話してもよいがなと言ってやった。するとマツ子の奴は笑顔どころかにらみつけた上鼻笑いをし、さんざん僕の悪口を言った。故に自分もはらをたて、そう言うなら殺してやるぞとおどし気分で言った。ところがかやつは殺せるものなら殺して見ろ、お前等如き肺病患者に殺される者がおらんと言ってかえっていった。此の時の僕の怒り心中にえくりかえるとは此のことだろう。おのれと思って庭先に飛出したが、いかんせん弱っている僕は後が追えない。彼奴は逃げかえってしまった。僕は悲憤の涙にくれてしばし顔があがらなかった。そうして泣いたあげく、それ程迄に人をばかにするなら、ようし必ず殺してやろうと深く決心した。けれどその当時は僕は病床から少しもはなれることが出来ぬ位弱っていたから、きゃつが見くびったのも無理はなかった。一丁も歩けなかった僕だった。けれどもそれ以来とめの奴、マツ子の奴のしうちに深くうらみをいだき、その上病気の悪化なども手伝い全く自暴自棄になってしまった。その後は治ると言う考えをすててしまって養生した。それは養生したのは少しでも丈夫になってきゃつ等に復讎してやるためだった。それからは前とは考えをちがえて丈夫になる様につとめた、そうして神様に祈った、どうか身体を丈夫にして下さいましてきゃつ等を殺して下さい。きゃつらを殺しましたら其の場で命を神様にさしあげますと、全く復讎に生きる僕だった。ずいぶん無理をして起きもしまた歩きもした。ひたすらうらみにもえてどうきの高い心臓をおさえ、病気が出ていたむ胸をおさえて。ところが不思議に治るかんねんをすてたら、今迄の様な心配が無くなったせいか、少しも快方に向わなかったのが次第に良くなっていった。其の時のうれしさ、これなら西田のきゃつ等やマツ子の奴にも復讎出来ると思った。こういう考えが自分の心中にある故にか僕の動作に不審な点があったのか世間一般の人が疑惑の眼を持って見だした。親族の者も同様に時々祖母に注意するらしい。祖母が僕の動作に気をつける。僕はかくしにかくした。けれど一旦疑った世間の目はつめたい。俄に僕を憎み出した。それにつれて僕の感情も変ってとめの奴やマツ子ばかりでなく殺意を感じだしたのは多数の人にであった。しかしその間にも以前小学校時代先生皆の人に可愛がられて幸福に活して居た当時を思い起こしてなつかしい時もあった。そう言う時には小さい感情にとらわれず、人に対するにくしみをすてて真細目なりし以前の様な僕になろうかと考えた事もあった。ああからださえ丈夫であったらこんな心にもならぬにとたんそくしたこともあった。けれど世間の人はぎわくそしてにくみへと次第につのっていった。僕もそれを見またかんじる時、よい方にたちかえると言うような考えを棄却していった。
そうして心をいよいよきめると、殺人に必要(この頃が昭和十二年の始め頃だったのだろう)(此の頃にはからだは大分丈夫になってきていた)な道具を準備した。農工銀行より金を借用し鉄砲を買い猟銃免許を受けて火薬を買った。そうして銃が悪いので又金を個人借用して新品を神戸より買った。そうして刀を買い短刀を求めた。ようやくして大部分の品をととのえた。之までととのえるにも色々と苦心した。人に知られてはいけない、親族や祖母、姉等に知られてはいけない。そうして極力ひ密を守ったが、マツ子の奴はこれを感づき自分が殺されると思ったのか、子供をつれて津山の方に逃げてしまった。こうしたことが原因になったのか、世間の人も色々とうわさする様になったので、自分は評判は高くなって警察署に知られてはすべてが水のあわとなるから、なるべく早く決行すべきだと考えて居たやさき、ふとしたことから祖母のおそれるところとなり、姉は一宮の方に嫁(い)っとるので少しも知らなかったが、祖母が気附いたらしい。親族にはかったのだろう、一同の密告を受け其のすじの手入れをくらい、すべてのものをあげられてしまった。その時の僕の失意落たん実際何とも言えない。火薬は勿論のこと雷管一つも無いように、散弾の類まで全部とられてしまった。僕は泣いた。かほどまで苦心して準備をし今一歩で目的に向えるものをと。
けれども考えようではこの一度手入れを受けた事もよかったのかも知れん。その後は世間の人はどうか知らんが、祖母を始め親族の者は安心したようである。僕はまたすぐ活動をかいしした。加茂駐在所にて説論を受けてかえると、そのあくる朝すぐ北田勇一氏を訪れ、金四円の札にてマーヅ火薬一ヶ、雷管附ケース百ヶをば津山石田鉄砲店より買って来てもらった。銃も大阪に行き買った。刀は桑原加藤歯科より買い、短刀を神戸より買った。之までの準備はごくひみつにひみつを重ねてしたのだからおそらく誰も知るまい。之で愈々西田とめ其の他うらみかさなる奴等に復讎が出来るのだ。こんな愉快なことはない。どうせ命はすててかかるのだ。けれどマツ子の奴一家が逃げたのは実際残念だ。きゃつは僕が一度手入れをくうや家に一旦かえり、家具少々を持って一家全部京都か東京の方面に逃げていってしまった。きゃつらをほかいて死ぬるのは情けないけれどしかたがない。自分としては外に何も思い残すことはないが、くれぐれもマツ子の奴等を残すことは情けない。
けれど考えて見れば小さい人間の感情から一人でも殺人をすると言うことは非常時下の日本国家に対してはすまぬわけだ。また僕の二歳の時に死別した父母様に対しても先祖代々の家をつぶすとは甚だすまぬわけである。此の点めいどとやらへ行ったら深くおわびする考えである。またたった一人の姉さんに何も言わずにこのまま死するのも心残りの様ではあるがさとられてはいけぬから会わずに死のう。つまらぬ弟を持ったとあきらめてもらうよりしかたがない。ああ思えば不幸なる僕の生がいではあった。実際体なりと丈夫にあったらこんなことにもならなかったのに、もしも生まれかわれるものなればこんどは丈夫な丈夫なものに生れてきたい考えだ。ほんとうに病弱なのにはこりごりした。僕の家のこと姉のこと等を考えぬではないけれど、どうせこのまま活していたら肺病で自滅するより外はない。そうなると無念の涙を飲んだまま僕は死なねばならぬ。とめ等の奴は手をたたいてよろこぶべきだろう。そうなったら僕は浮ばれぬ。決して僕のうらみはそうなまやさしいものではないのである。
右が僕のざんげと言うかこうなった動機である。
五月十八日 記之
(早く決行せぬと身体の病気の為弱るばかりである)
僕が此の書物(かきもの)を残すのは自分が精神異常者ではなくて前持って覚悟の死であることを世の人に見てもらいたいためである。不治と思える病気を持っているものであるが近隣の圧迫冷酷に対しまたこの様に女とのいきさつもありして復讎のために死するのである。少しのことならいかにしいたげられてもこう心持ちを悪い方にかえぬけれど長年月の間ぎゃくたいされたこの僕の心はとても持ちかえることは出来ない。まして病気も治らぬのに、どうして真細目になれよう、またなったとてどうなるものか。
寺川マツ子の奴は金を取って関係しておきながらそれと感づき逃げてしまった。あいつらを生かして居いて僕だけ死ぬのは残念だがしかたがない。

「真細目」は「真面目」の誤りと思われる。 / この遺書を読むと、犯行の動機や綿密な計画を立てていたことが分かる。それと共に、自己顕示欲が強い反面、内向的で傷つきやすく、他人の言動や評価といったものに敏感に反応する神経質な面もあったようだ。ひとつ噂が立つと、30分もしないうちに村全体に広がってしまうような社会で、都井は必要以上に過敏に考え込み、さらに、「不治の病」と恐れられていた肺結核に悩まされ、次第に被害妄想・関係妄想が大きくなってしまったようだ。
自宅にあった遺書 その2 (「姉上様」と上書きしたもの)
非常時局下の国民としてあらゆる方面に老若男女を問わずそれぞれの希望をいだき溌溂と活動している中に僕は一人幻滅の悲哀をいだき淋しく此の世を去って行きます。
姉上様何事も少しも御話しせず死んで行く睦雄、何卒御許し下さい。自分も強く正しく生きて行かねばならぬとは考えては居ましたけれども不治と思われる結核を病み大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き遂に生きて行く希望を失ってしまいました。たった一人の姉さんにも生前は世話になるばかりで何一つ恩がえしもせずに死んで行く此の僕をどうか責めないで不幸なるものとして何卒御許し下さい。僕もよほど一人で何事もせずに死のうかと考えましたけれど取るに取れぬ恨みもあり周囲の者のあまりのしうちに遂に殺害を決意しました。病気になってからの僕の心は全く砂漠か敵地にいる様な感じでした。周囲の者は皆鬼の様なやつばかりでつらくあたるばかり病気は悪くなるばかり、僕は世の冷酷に自分の不幸な運命に毎日の様に泣いた。泣き悲しんで絶望の果僕は世の中を呪い病気を呪いそうして近隣の鬼の様な奴も。
僕は遂にかほどまでにつらくあたる近隣の者に身を捨てて少しではあるが財産をかけて復讎をしてやろうと思う様になった。それが発病後一年半もたっていた頃だろうか。それ以後の僕は全く復讎に生きとると言っても差支えない。そうしていろいろと人知れぬ苦心をして今日までに至ったのだ。目的の日が近づいたのだ、僕は復讎を断行します。けれど後に残る姉さんの事を思うとあれが人殺しのきょうだいと世間のつめたい目のむけられることを思うと、考えがにぶる様ですが、しかしここまで来てしまえばしかたがない、どうか姉さん御ゆるしの程を。
僕は自分がこの様な死方をしたら、祖母も長らえて居ますまいから、ふ愍ながら同じ運命につれてゆきます。道徳上からいえば是は大罪でしょう。それで死後は姉さん、先祖や父母様の仏様を祭って下さい。祖母の死体は倉見の祖父のそばに葬ってあげて下さい。僕も父母のそばにゆきたいけれど、なにしろこんなことを行うのですから姉さんの考えなさる様でよろしい。けれども僕は出来れば父母のそばにゆきたい。そうして冥土とやらへいったら父母のへりでくらします。それから少しの田や家はしかるべく処分して下さい。尚簡易保険がニつ、五十銭ずつ毎月はるやつがあるのですが、もらえる様でしたらもらって下さい。おねがいします。
ああ僕も死にたくはないけれど、家のことを思わぬではないけれど、このまま活していたらどうせ結核にやられるべきだろう。そうしたら、近隣の鬼の様な奴等は喜ぼうけれど僕はとてもうかばれぬ。どうしてもかなり丈夫で居る今の間に、恨みをはらすべきです。復讎々々すべきです。では取急ぎ右死するに望み一筆かきおきます。僕がこのような大事を行ったら、姉さんはおどろかれる事でしょう。すみませんがどうかおゆるし下さい。
こう言うことは日本国家の為、地下に居ます父母には甚だすまぬことではあるが、しかたありません。兄さんにもよろしく。
五月十八日 記之
おなじ死んでもこれが戦死、国家のための戦死だったらよいのですけれども、やはり事情はどうでも大罪人と言うことになるでしょう。
(どうか姉さんは病気を一日も早く治して強く強く此の世を生きて下さい、僕は地下にて姉さんの多幸なるべきを常に祈って居ます)

都井は、「姉(ねえ)さん」ではなく「姉(あね)さん」と呼んでいた。姉さんに対しては特別な思いを持っていたようだ。
 
本人歴

 

1917年(大正6年)3月5日、都井睦雄は岡山県苫田郡加茂村大字倉見に生まれた。
父親の真一郎(当時38歳)は農業を営むかたわら炭焼きを生業としていた。後備役の陸軍上等兵で、かなりの大酒豪だったが、柔和で円満な人物であり、性格や素行にまったく問題はなかった。日露戦争に従軍し、帰還後、見合い結婚した。
母親の昌代(当時22歳)は農家の娘で17歳で都井家に嫁いだ。短気で怒りっぽくきつい性格だが、まずは平均的な農家の主婦だった。
都井家は中流の農家で、父母の夫婦仲は良かった。父方の祖父も肺結核に冒され、62歳で亡くなっていたが、祖母のよね(当時55歳)と3つ違いの姉の美奈子(当時4歳)がいた。
1918年(大正7年)7月、それまで連日漸騰を重ねていた米価が一升50銭7厘を突破したため、全国各地で米騒動が起こった。
よねは「米が値上がりするんは、わしら百姓にとってはありがたいことじゃが、なんや物騒な世の中になったもんじゃけん。わしら百姓は殺されるんとちがうか。怖いのう」と怯えた。
12月1日、睦雄が2歳のとき、父親の真一郎が肺結核で死亡した。39歳だった。父親の死後、今度は母親が寝込んだ。
1919年(大正8年)4月29日、睦雄が3歳のとき、母親の昌代が父親と同じ肺結核で死亡した。24歳だった。
6月3日、天井知らずの米価は、ついに一升59銭に暴騰。このため、加茂村を含む加茂5郷の小学校長たちは、連署してそれぞれの役場へ、10割増棒の陳情書を提出した。
よねにとって、小学校長は聖人君子そのものであったから、この増棒要求は、彼女を米騒動以上に仰天させた。
「校長さまともあろうお方が、なんちゅうことをしんさるんじゃろうのう」
これが、のちになって、睦雄かわいさによる学校軽視に結びついていく。
1920年(大正9年)、息子夫婦が相次いで結核により死亡したことで、よねは2人の孫を連れて同郡同村小中原塔中(たっちゅう)に移転した。そこは1年契約の借家だったが、ここで3年暮らすことになった。
姉弟で遊ぶことが多かったから、睦雄は3つ違いの姉の美奈子に主導権を握られる。当然、女の子の遊びが多かった。
幼い姉弟は、昔ながらの童唄を歌いながら、まりつきやお手玉遊びに興じた。姉はお手玉が上手だった。3つ年下の睦雄はいつも奇跡でも見るように目を輝かせ「姉(あね)しゃんはうまいな、姉しゃんはうまいな」と言っていた。睦雄はおとなしい子供で、姉とも仲が良くあまり喧嘩したことがなかった。
1922年(大正11年)、よねは2人の孫を連れて、自分の里である同郡西加茂村大字行重字貝尾に引っ越した。祖母はこの地に永住するつもりで家を買った。屋敷、田畑合わせて500円は倉見の土地山林を処分して作った。この家は構えだけは大きく立派であった。よねにとっては生まれ故郷であり、知り合いも多く、気兼ねなく暮らせたが、美奈子や睦雄にとっては見知らぬ土地であったため、しばらくは2人っきりで遊ぶ日が続いた。
この家には忌まわしい過去があった。30人殺し事件の被害者の1人である平地トラの姑の寺川チヨ(30人殺し事件当時80歳)の語るところによれば、この家は元はチヨの住宅であったが、ここに居住していたとき(30人殺し事件の63年前)、チヨの先夫の寺川忠次郎が別部落の藤林徳蔵の妻のたえと徳蔵宅で密通し、その現場を徳蔵に見つかったことに対し、忠次郎が腹をたてて一旦、自宅に引き返して日本刀を持って徳蔵宅に乗り込み、たえを殺害して無理心中を図ろうとしたが、たえを斬ることができず、徳蔵を斬りつけた上、切腹自殺した事件があった。この忠次郎が21歳であったことや犯行の荒筋が30人殺し事件と似ていた。何かの因縁かもしれない。
1923年(大正12年)、睦雄は早生まれだから、当然、この年に小学校に上がらなければならなかったが、病弱を理由に1年延期した。
これは睦雄が学校に行きたがらないのに加えて、祖母がかたときも手元から離したがらなかったからで、役場の学事係が何度か説得に足を運んだが、その都度、よねは「あと1年待ってつかあさい」と言い、学事係の担当は根負けして就学延期を認めたという。
9月1日、関東大震災が発生。死者9万1802人、行方不明者4万2257人を出した。直接の影響はなかったが、朝鮮人の暴動に関する流言が全国に広まり、祖母は米騒動のときよりもおびえ、それまでほとんど戸締りもせず就寝していたのに、雨戸や窓に厳重に鍵をかけ、2、3日は着たままで寝た。その上、駐在巡査や郵便配達に、「うちは年寄りと子供でけですけん、気ぃつけてつかあさい」と真顔で頼み、失笑を買った。
睦雄は相変わらず外へは出ず、姉が学校から帰ってくるのを待って2人で遊んだ。
1924年(大正13年)4月、睦雄は西加茂尋常高等小学校に入学した。自宅からは4キロの道をゲタをはいて歩いて通った。就学前は学校に行きたくないといっていたが、いったん入学してみると、他の児童となんら変わるところなく通学した。役場の学事係も、担任教師も、これを見てほっと胸をなでおろした。
そればかりではなく、睦雄はきわめてすぐれた成績を取った。
10点評価で、修身「9」、国語「9」、算術「10」、図画「8」、唱歌「8」、体操「8」、操行「中」という好成績で、クラスで2番であった。
修身・・・今の「道徳」にあたる。操行・・・品行。
担任の伊藤かや子訓導は、<従順にして教師の命をよく守り、級中の模範児童たり。故に学業も上位にして申し分なき><教室内に於いては他の児童の世話をなしよき児童>と評価がいいが、<健康やや悪く、風邪を引き欠席すること多し。努めて出席なすよう訓戒す>としている。
訓導・・・小学校正教員の旧称。
事実、睦雄の1学年の出席日数は184日で、病気欠席が55日、事故欠席が22日、合計77日欠席している。これは、よねのさしがねによるもので、学籍簿には<祖母よねは一人の男孫の事とて、我儘に育てたるものの如し。僅かの風雨にも学校を欠席せしめたるの風あり>と記載されている。
初めのうち教師は、本当に病気と信じていたが、あまりにも度重なるので家庭訪問したところ、発熱して寝ているはずの睦夫が祖母とはしゃぎ回っているのを見て、初めて事情を知ったという。
だから、よねにとって長い夏休みは天国のようなものだった。よねは2学期が始まっても、睦雄を学校に行かせず、思い切って長期欠席させることにした。その理由は「腸が下った」というものだった。睦雄は3学期もほとんど欠席した。
睦雄は家に閉じこもっていたから、顔が蒼白く、小学校の友達から「青」というアダ名をつけられていた。
睦雄が入学してまもない頃、美奈子はひどく恥ずかしい思いをしたことがあった。彼女が下校途中、級友と連れ立って下校する睦雄と出会った。そのとき、睦雄は大声でこんな唄を合唱していた。
 一で いも屋のオッサンと
 二で 肉屋のオバサンが
 三で 酒を飲み酔うて
 四つ 夜中にとび起きて
 五つ いろうやらくじるやら
 六つ むげさく突っ込んで
 七つ 泣くやら笑うやら
 八つ やめたりまたしたり
 九つ 子供に見つけられ
 十で とうとう大評判
美奈子は真っ赤になって叱りつけた。睦雄は姉の前では2度とこの唄を口にすることはなかったという。
1925年(大正14年)、睦雄は2年生になった。修身の成績が「9」から「8」に、算術の成績が「10」から「9」に下がったが、他の科目は変わらず、また欠席も病欠が14日、事故欠が17日、計31日と激減した。このときの評価は<沈着にして学習態度良好なれども、隣人に誘われ私語多し>となっている。
ある日、睦雄はチャンバラごっこをして、左の目の上を突かれて、わずかに血をにじませて泣きながら帰ってきたとき、祖母は仰天してうろたえた。そして相手の子供の家に、血相を変えて怒鳴り込んだ。
「睦雄は都井家の大事なあととりじゃけん。もう少しでめくらになるとこやったやないけ。親がいないからいうて、ばかにしとるんじゃろ。2度とこんなまねしてみい。わしゃただでおかんがの」
普段は控え目なくらいのよねが、このときはまるで狂乱とでもいうような態度に、相手方はびっくりしてしまい、のちのちの語り草となった。
1926年(大正15年・昭和元年)、3年になると、さらに欠席は全部で25日と減った。成績の方は修身と体操が「8」から「9」に変わり、他は2年のときと同じだった。担任の二木文江は「性格素直に体格も良く、別に病弱とも思いませず。学業も良好にて、愛すべき児童であった様に覚えます」と、事件後、警察の照会に答えている。
睦雄は級長に選ばれた。この日、睦雄はわき目もふらず自宅へ向かった。「おばはん、わし級長になったんじゃ」睦雄はそう叫びながら、土間へ駆けこんだ。よねは睦雄が出して見せた任命書を持って飛出し、近所に触れて回った。姉の美奈子もわがことのように喜んだ。
翌日の昼に、よねは赤飯を炊き、近所に配りながらまた、ひとくさり、孫の頭の良さを触れ回った。
7月20日、鬼熊事件が起こった。のちに、30人殺し事件で都井が山中に逃亡したとき、官憲を「第2の鬼熊事件では」と恐れさせた事件である。
鬼熊事件 / 千葉県香取郡の荷馬車曳きを生業とする岩淵熊次郎(35歳)は、情婦である上州屋のおけいが他の男に心を寄せたのを怒り、復縁を迫ったが、断られると薪で撲殺した。さらに、男の家に放火し山の中に逃げ込んだ。そのため、熊次郎は「鬼熊」と呼ばれた。所轄警察署では消防団員の応援を得て山狩りを行ったが、見つからず、鬼熊は機会を見ては山を下り、同情を寄せる村人から飯を食わせてもらい、また山の中に逃げ込む。この間、鬼熊を捕まえようとした警官2人が殺された。日本中の各新聞は鬼熊事件を連日のように報じた。政治家や官僚の腐敗、警察の横暴ぶりに、辟易していた多くの人は、鬼熊の警官殺しに内心拍手を送った。この間、東京日日新聞記者が鬼熊と会見して、その会見記事を発表するなどのことがあって、事件はセンセーショナルになった。1万人余りの延べ人数による山狩りも虚しく、鬼熊は49日間、逃げ通した。だが、鬼熊は、9月30日未明、先祖の墓の前で、ストリキニーネを飲んだ上、カミソリで咽喉を切って自殺した・・・。( ストリキニーネ・・・主に殺鼠剤に使われている毒物。その他としては鳥やもぐらの駆除剤にも用いられる。摂取して1時間以内に、神経質になる、筋肉の硬直、痙攣発作、呼吸困難や呼吸麻痺がみられ、死に至る。)
鬼熊の妻子が自宅の庭先で泣いている写真が新聞に大きく載った。それを見て、睦雄がよねに、これはなんだと訊いた。よねは写真の説明文を読んで聞かせ、「おとうがいんでかわいそうじゃの」と言うと、睦雄は「おかあがいるけん、わしよりええがの」と言った。わきでこのやりとりを美奈子は聞いていたが、その通りだと思ったという。
睦雄はこの年の秋祭りの露店で、『少年倶楽部』の古本を5冊も買った。他の露店には煮スルメや天狗の面、コマなどのおもちゃがあり、美奈子は「睦雄は本ばかり買うて、余(よ)の物は要らんのか」と心配して言ったが、睦雄は「要らん」とキッパリと言った。
睦雄は『少年倶楽部』を隅から隅までボロボロになるまで読んだ。さらに、新刊の『少年倶楽部』を月ぎめで購読し始めるようになった。美奈子も一緒に『少女倶楽部』を購読したが、睦雄はさっさと『少年倶楽部』を読み終え、美奈子がまだ、半分も読んでいない『少女倶楽部』まで読んでしまっていた。『少年倶楽部』は小学5、6年生中心の雑誌であったが、そのまま大人の雑誌に載せてもおかしくないような程度のものもあったという。そういう雑誌を小学3年生の睦雄が興味を持って愛読したということは、やはり知能指数が高かったということだろう。のちに、『キング』や『講談倶楽部』も読むようになった。
この年の12月25日午前1時25分、天皇嘉仁(よしひと/47歳)崩御、裕仁(ひろひと)親王が践祚(せんそ)し、即日、「昭和」と改元されたが、午前1時25分までが「大正」、それ以降が「昭和」と1日の中に2つの元号があったことになり、昭和元年は6日と22時間35分しかなかったことになる。岡山県は30年来の大雪に見舞われ、奥地山間部では28日になっても改元を知らなかった村があった。
ちなみに1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇崩御。午後2時36分、小渕恵三官房長官により新元号を「平成」と発表し、翌8日から施行した。ということで、昭和64年は7日間しかなかったことになる。
1927年(昭和2年)、睦雄は4年生になって、理科が加わり「10」を取った。また、図画が「8」から「9」に上がった。しかし、再び、欠席が増え、病欠40日、事故欠7日、計47日も欠席した。だが、級長の任を解かれることはなかった。
担任の島川貞二訓導は<性格、朴直にして沈着なり。快活なる点はやや欠け、陰性なる点あり。剛毅にして意地もあり、一方的なる点もありたり。健康、頑健なる身体にあらず。頭痛持にて欠席多く、従って体操、運動等は好まず。学業成績、特に知能学科に於て秀で、記憶正確にして常に優等なりき。技能学科はややこれに次ぐ。操行、学校中に於ては真面目にして、服装容儀端正、言語明白、動作正確なれども敏ならず>と評価した。
1928年(昭和3年)、5年生になり、日本歴史と地理が増えたが、どちらも「9」を取った。理科は「10」から「9」に、図画と体操は「9」から「8」に落ちた。
<心性朴直にして飾気なく、極めて赤裸々にして、学習欲旺盛なり。言語明瞭容儀端正なり>と評価されるが、<頭痛持にて学校を欠席するを常とせり>とされた。病欠5日、事故欠56日、計61日欠席した。しかし、相変わらず級長の座にあった。
1929年(昭和4年)、6年生になり、<本年は頭痛も起こらず熱心に学習す>とあり、修身が「10」、図画と唱歌の「8」を除いて他は「9」であった。<一面理屈ぽくあるが、大体に於て良き児童なり>と評価された。美奈子はこの春、高等科(現在の中学に当たる)2年を卒業して、よねと共に、野良仕事をしていた。
1930年(昭和5年)、睦雄は小学校を卒業し、そのまま同校の高等科1年へ進んだ。成績は歴史が「10」で、読方、綴方、書方、地理、理科、図画、手工、農業が「9」、修身、算術、唱歌、体操が「8」だった。病気欠席は1日もなく、事故欠が32日であった。ここでも級長だった。担任の杉崎次郎訓導は<性温和、健康中位、学業優等、操行上、言葉少なく謹厳たる優等生なり>と評価している。
睦雄の1級下に浅井孝子という少女がいた。色白でほっそりしたおとなしい子だった。ある日の放課後、睦雄は下校して自宅に向かう孝子の手に提げた風呂敷包みの結び目に折りたたんだ画用紙を突っ込み、走り去った。
孝子がおそるおそる引っぱり出し、用心深く広げてみると、それは教科書ぐらいの大きさで、画面いっぱいにお下げ髪の少女の顔が描いてあった。鉛筆で丹念に濃淡をつけたもので、写真のように細密な絵だった。当時『少年倶楽部』で評判だった「敵中横断三百里」の椛島勝一(かばしまかついち)の挿絵のタッチを睦雄が苦心してまねて描いたものだった。その顔の横に「孝子さんの肖像」と書いてあり、一番下に小さく「ぼくは孝子さんが好きです」と書かれて、「都井睦雄」の署名があって、認印まで捺してあった。
孝子はその絵を見たとき、自分より睦雄の姉の美奈子に似ていると思ったが嬉しかった。孝子はその絵を自宅に持ち帰り机の引出しにしまったが、6歳の弟が引っぱり出し、いたずらしているのを母親が見つけ、孝子を叱りつけた上、担任の女性教師に届けたのである。
この教師は翌日、都井宅を訪ねて姉の美奈子に事情を話して、その絵を返した。叱責に来たわけではなかったが、今後を温かく見守ってほしい、という意味のことを告げて帰った。美奈子はそのことを睦雄にはひと言も話さなかった。その絵が自分に似ていることが、気になって、つい言いそびれてしまったようだ。
1931年(昭和6年)、高等科2年に進級した睦雄は、さらに成績が上がった。歴史、読方、地理、理科、農業が「10」、修身、綴方、書方、図画、手工が「9」で、算術、唱歌、体操が「8」だった。病欠2日、事故欠15日と欠席も減った。
高等科2年になると、級長の他、それよりも上の「総長」ができて選挙の結果で決められたが、選挙の結果、3人が同点となり、そのうちの1人が睦雄だったが、理由ははっきりしないが、睦雄は総長にはなれず、級長になった。だが、睦雄はこれについてはそれほど気にしていたようには見えなかったという。
3学期に入って間もないある日、睦雄は学校で担任教師に呼ばれ、「成績がいいから、このまま百姓になるのはもったいないな。それに家庭の方も、学資を出せない暮らしでもなさそうだ。どうだ、上の学校にみんか」と言われた。睦雄も当然、進学するつもりでいた。
睦雄は帰宅するなり、よねに岡山の県立一中に進学したいと申し入れた。そのためには睦雄が下宿生活をしなくてはならなくなり、いずれ、美奈子も嫁に行くことになって、よねは自分1人だけ残ることになるので強く反対した。その日の夕食は気まずい雰囲気になり、よねはろくに箸もつけず、早々に布団にもぐりこんでしまった。低くすすり泣く声が漏れてきた。
翌日、睦雄は担任教師に進学しないことを伝えた。
9月18日、満州事変勃発。
1932年(昭和7年)、睦雄は卒業式が終わって間もなく、高熱を出して寝込んだ。よねと美奈子の懸命の看病で、2、3日で熱は引けた。肋膜炎だった。しばらく、自宅静養すれば回復するだろうと嵯峨野病院の医師は診断した。寝ている必要はないが、農作業は厳禁と指示されたので、卒業後の3ヶ月はぶらぶらして過ごした。
肋膜炎・・・おもに結核菌による肋膜の炎症。
睦雄の顔色がよくなってきたので、医師に診てもらうと完治したという診断だった。美奈子はよねの反対を押し切って、睦雄を村の補習学校に入学させた。だが、睦雄は熱心な生徒ではなく出席した日数はほんの数えるくらいしかなかった。
補習学校・・・「農業ニ必須ナル知能ヲ授クルト同時ニ普通教育ノ補習(公民教育)ヲナス」ことを目的に、当時の全国の農村地区に村単位で設置された学校。
19になった姉の美奈子に縁談があったのは、この年の秋だった。よねの「わしゃ、お前の嫁さま姿を見るのを楽しみにしとるんじゃ。それに曾孫の顔も早く見たいでの」の言葉に、それまで乗る気がなかった美奈子が心を動かされ、とにかく見合いだけならということで、一応承諾する気になった。
すると、そこへ自分の部屋に閉じこもっていた睦雄がのっそりと顔を出して、露骨に見合いすることに反対した。
しばらくして、睦雄は美奈子が縁談を断ったと聞かされたとき、蒼白い頬にぱっと赤みがさしたのを美奈子ははっきりと覚えているという。
「うちは嫁になど行かん。ずっとこの家にいるがな」と言うと、睦雄は満面の喜色を浮かべて、うんうんと大きくうなずくのだった。
美奈子は続けた。「せやから睦夫もな、家にばかり閉じこもっとらんと、みんなとようつき合わんといけん。今のまんまじゃ、体に悪い。せっかく治った病気が、またぞろぶり返してしもうがな」
このあと、少しの間、睦夫は補習学校にも真面目に通い、青年会の集まりにも顔を出すようになった。この頃、睦雄は酒を覚えた。
1933年(昭和8年)、秋の終わりに再び、美奈子に縁談が持ち込まれた。相手は同じ郡内の高田村で、農業を営む木島家の長男の一郎だった。この前のことがあるので、美奈子は睦雄になるべく分からないように気を遣ったが、睦雄に知られてしまった。だが、睦夫は前とは違った反応を見せた。
「姉しゃんはきれいじゃけん、もっとええところに嫁に行けると思うがの」
「なに言うとるね。もっとええとこってどんなとこや」美奈子は笑いながら訊いた。
「大学出じゃ。東京とまではいけんとも、岡山の会社に勤める大学出の嫁さんになれるん思うがの」
一時は失業者の代表とされ、「大学は出たけれど」の流行語まで生んだ大学卒の青年が、満州事変によって軍需産業が活況を見せ、経済界全般に波及効果をもたらして、産業界から引く手あまたで、適齢期女性の憧れの的になっていた。
1934年(昭和9年)3月15日、21歳になった美奈子は木島家に嫁入りした。相手の一郎は25歳だった。
姉が嫁いでから、睦雄は再び孤独に陥った。補習学校はもちろん、青年会の集まりにも全く顔を出さなくなった。自宅の屋根裏を改造して一室をこしらえ、この狭い部屋に昼となく夜となく閉じこもって、日を送るようになった。
だが、子供に対しては別だった。睦雄は近所の子供を集めては、よくいろいろな物語を聞かせることを楽しみにし、子供たちもこれを楽しみにし、睦雄によくなついた。睦雄の語るストーリーは『少年倶楽部』『キング』『富士』『講談倶楽部』などで読んだ小説を子供向けに直したもので、睦雄の話術はなかなか巧みだったから、子供たちに人気を博した。
里帰りした美奈子は、祖母のよねから弟のことを聞かされて、いつものように優しくたしなめた。
「畑仕事もせんで毎日ごろごろしていけんやないの。おばやんはもう年なんやから、あんたが仕事をせないけんのよ」
「わし百姓は嫌いじゃ」
「百姓の総領が百姓を嫌ってどうするね」
「嫌いなものは嫌いじゃけえ、せんかたないけんの」
「ほな、なにになる気ね」
「小説家になるんや」睦夫はぼそりと言葉を吐き出した。
美奈子は笑わなかった。
「睦雄、あんたが百姓が嫌いでもかめへん。小説家になりたいいうのも、うちは止め立てせえへん。だけんどなあ、いまごろごろしとるのはいけんよ」
「わしはもともと百姓は好かんじゃった。じゃから上の学校に進んで、勉強して、官吏か会社勤めをしよう思ったんや。そやけどおばやんが岡山の学校へ行くのはいけんて、許してくれんかった。上の学校へ行っとればいまごろはもう卒業や。なんにでもなれたんや。みんなおばやんがいけんのや」
「睦雄、すまんけんのう。わしが悪かったでな。かんにんやで」
祖母はこう言って泣き出す。こうなると、もう話し合いどころではなくなった。睦雄はすべては祖母の責任だと言い、それを免罪符のようにして、毎日を屋根裏の自室に閉じこもって暮らす日が続いた。
小説家になると言ったことが本気なのかは分からないが、『雄図海王丸』という小説をせっせと書いて、友人に読ませていた。
1935年(昭和10年)、この年、青年学校令が施行され、補習学校は青年訓練所と合併して青年学校になった。普通科、本科、研究科の3コースがあり、普通科は男女ともに2年課程で、尋常小学校を卒業して高等小学校にも中学校にも進まない者が入学する。本科は普通科または高等小学校の卒業生が入学し、男子は5年、女子は3年課程である。研究科は本科の卒業生が入学して男女とも1年間勉強することになっている。教科内容は修身、公民、職業(農業)の他、男子には教練、女子には体操と家事裁縫科が加えられていた。
睦雄は本科5年に編入された。村役場から通知を受けると、制服を購入して真面目に開校式に出席したが、義務制でないと知ると、それっきり2度と登校しようとしなかった。青年学校の義務制実施は4年後の1939年(昭和14年)からだった。
青年学校の教師は小学校の教員が兼任していたから、睦雄が小学校時代とは人が変わったように怠惰で不真面目になったことが職員室で話題になった。この中に最近、転任してきた田中恭司教師がおり、何度か都井の自宅に出向き、やっとのことで、睦雄の本心を聞くことが出来た。そこで、睦雄に専検の受験を勧めた。
専検・・・専門学校入学資格検定試験制度で、これにパスすると中学校卒業の資格が与えられ専門学校はじめ中学卒業の資格を要するすべての上級学校、及び職業を受験することができるもので、学歴のない者に対して開かれた登竜門だった。合格率はヒトケタ台だが、全科目を一度に合格する必要がなく、一度、合格した科目は次からの試験では免除される。今の「大検制度」にあたる。
睦雄は田中が師範学校時代に使った参考書を借り、通信講義録をとって勉強を始めた。
ある日、睦雄は津山市内の本屋で参考書を買ったが、そこを出たとき、2年前に津山市内の映画館で知り合ったひとつ年上の山内に会った。睦雄にとっては唯一の友人だった。睦雄は山内に手に抱えている包みのことを訊かれて、専検を受け教師になると答えた。
「あの写真持っとるか」山内は2年前に睦雄に売りつけた裸体写真のことに話題を変えた。「うん、持っとる」と言うと、山内は「それで、オカイチョウはどないした」それほど大きい声ではなかったが、睦雄は通行人を気にして顔を伏せた。「あれから誰ぞとオカイチョウやったんか」恥ずかしがる睦夫を面白そうに見ながら山内は重ねて訊いた。「やっとらん、わしやったことないんじゃ」睦雄は顔をそらしてつぶやくような声で答えた。
2日後、山内は睦雄を伴って大阪の賎娼(せんしょう)街へ行った。山内はここで、使い走りや見張りなどをして生活をしていた。当然、賎娼たちの何人かと性的な関係もあった。
山内は睦雄を木賃宿「加賀八」に連れていき、そこの佳子の部屋へ案内した。佳子は山内に頼まれ、睦雄の筆おろしをする。
このあと、夏から秋にかけて2、3度、大阪を訪ね、山内の紹介で何人かの賎娼と関係した。
だが、10月ごろから微熱が出て疲れを覚えるようになった睦雄は、大阪に行かなくなり、嵯峨野病院へ行って診察してもらった結果、肺尖(はいせん)カタルと診断された。嵯峨野医師は、「しばらくは野良仕事は休んで、うまいものでも食って、適当に散歩でもしていれば治る」と言って1週間分の薬を出した。
1936年(昭和11年)、睦雄は20歳になった。この年に起きた二・二六事件にはさして興味を示さなかったが、5月18日の阿部定事件には大いに関心をそそられ、自宅でとっている新聞だけでは足りずに、自転車で加茂町の新聞店まで買いに行った。
それから間もなくして、睦雄は、部落内の人妻の寺川マツ子(当時33歳)に情交を迫った。これが成功すると、睦夫は自信をつけたのか、これ以降、睦雄は人が変わったように部落内の女性に積極的に攻撃を開始する。
西田秀司の長女の良子(当時20歳)、次女の智恵(当時18歳)、寺川政一の四女のゆり子(当時20歳)、寺川茂吉の四女の由紀子(当時19歳)、丹下卯一の妹のつる代(当時19歳)、岸本勝之の妹のみさ(当時17歳)など、部落内の若い女性は軒なみだった。しかし、いずれも不成功に終わり、この年は暮れる。
だが、小説『雄図海王丸』の執筆は続いた。
1937年(昭和12年)1月4日、睦雄は大阪の山内を訪ねた。このとき、山内は阿部定の自供調書を睦夫に見せた。
阿部定の自供調書・・・阿部定が予審廷(現行制度にはない)で、予審判事に対して供述した調書が外部に持ち出され、印刷されて非公然に売買されたもので、警察がその一部を押収して調書原本と照合したところ、内容が完全に同一であることが判明し、ますます値が上がったといういわくつきの地下出版本。一説によると、研究のために特に調書の筆録を許可された精神分析学者の高橋鉄が研究費欲しさにこれを小部数刷り高値で密売したものが、さらに暴力団筋によって拡大再生産されたのではないかと言われている。
山内はあるやくざ組織の兄貴分から1冊50円で売れと命じられて3冊預けられ、うち2冊をすでに売り、残り1冊も買い手が決まって金を持ってくるのを待っているところだった。
それは教科書ぐらいの大きさで92ページの薄い本だった。『少年倶楽部』や『キング』が50銭、単行本が1円から1円50銭だったから50円は高かった。睦雄はこれを買いたいと言ったが、買い手が決まっていたので、10円を払って書き写すことになった。さすがに全部を書き写すことはできなかったが、絞殺するシーンを書き写すことが出来て睦雄は満足げだったという。
睦雄は部落の若者たちと全く交際をしないから、夜遊びや夜這いの仲間に加わることもなかったが、2月ごろから夜間1人で外出することが多くなった。
それは他人の夜這いの実情を目撃し、部落の男女の性的人脈を確かめ、動かぬ証拠をつかみ、その上で彼独自の性的行動を起こそうと企図していた。
まず、睦雄は隣接する坂本部落の岡部和夫(当時50歳)の妻のみよ(当時31歳)に着手した。和夫は「半聾唖者で馬鹿に近いお人よし」のためかどうか分からないが、妻が何人も変わっている。みよは5人目の妻だった。みよは大柄で豊満な体をしており、20も年上の50男とどうして一緒になったのか誰しも首をかしげたという。
3月の初めのある日、和夫が泊まりがけで岡山に出かけて、みよが1人で留守をしていたことを知った睦雄が、夜になってみよを訪ねて行った。3日前に村一番の資産家の寺川倉一(当時60歳)と関係したことをネタに情交を迫った。みよは倉一から一度、金を借りたが、それと相殺ということで関係し、以来数回、情交を重ねていた。睦雄もみよとの情交をそれから何度も重ねた。
4月1日、睦雄は岡山県農工銀行津山支店で、畜牛購入のためと称して、借入金の申込みをした。個人で直接申込むのは珍しかったが、3反歩の全田地を抵当に、同月26日、400円の現金を受け取った。睦雄はこれを結核の治療費に充てるつもりでいた。
睦雄は嵯峨野病院に通院しながら、嵯峨野医師を信頼していなかった。睦雄は津山市の書店、古本屋で、結核に関する本を片っ端から買い集め、通信販売で購入した通俗療養指導書などにも手を出して次々と読破していった。そして、本に書かれてあることをいろいろ試してみた。屠牛場で分けてもらった牛の血を飲んで腹痛になったり、石油を飲んで猛烈な嘔吐と下痢をしたこともあった。ペニシリンやストマイの発見されない時代だったから結核に対する特効薬はないのだが、当時は新聞、雑誌の広告を使ってさまざまな新薬、特効薬を派手に宣伝していた。睦雄はこれらの薬を次々と買い漁った。だが、その全ての薬に裏切られた。
睦雄は結核療養所に入ることも考えたが、祖母が自宅に1人残されることになるので、中学進学を断念したときと同様に、祖母と姉に説得されて諦めている。睦雄は寺川マツ子、岡部みよとの関係を療養所入りで断ち切られることも考えたのだろうか、割にあっさりと2人の意見に従った。
これ以降の睦雄の生活ぶりは贅沢を極めた。栄養をつけるためにバターやミルク、さらにバナナなどの果物などを、金にまかせてどんどん買い込み、自分で食べるだけでなく、睦雄の話を聞きにくる子供にも惜しげもなく分け与えたという。寺川マツ子と岡部みよに対しては、それ以上の品物を会う度に与えていた。マツ子に反物1反と5円を贈っている。
睦雄は、相変わらず蒼白い顔だったが、身長166センチ、体重60キロあり、がっちりとした体格だったから、見た目は病人のようではなかった。
5月になって、徴兵適齢届の受付けが始まった。睦雄は意外にも初日に届け出を出している。受付け事務の担当者は西加茂村役場書記兵事係の西田昇だったが、睦雄は「西田さん、わしは肺病ですけん。よろしくおたのみ申しますがの」と切り出した。西田は二重の意味で驚いた。ひとつは、道路をへだてて都井宅の西隣に住んでいるが、このときまで睦雄が結核とは知らなかったことで、もうひとつは、結核患者などということは誰しも隠したがることであり、徴兵適齢届に病気を記入する者などいなかったからだ。
同月22日、津山市で行われた徴兵検査の結果、睦雄は丙種合格となった。甲種と乙種は本当の意味で合格だが、丙種は実質的な不合格である。
軍医から結核と宣告された瞬間、睦雄は泣き出しそうな顔で、「軍医どの、ほんまに結核ですけんの? もういっぺんよく診てつかあさい」
軍医は大声で怒鳴りつけた。「きさまは日本帝国陸軍の軍医を疑うのか。きさまが結核であることはまちがいない。しっかり療養せい。そんな体で帝国陸軍の兵隊がつとまるか」
睦雄はその場で涙をポロポロとこぼしながら泣いた。
当時、軍国主義の華やかな時代で、徴兵検査で甲種合格することが、男子の一家の誇りであり、名誉とされた。睦雄の肺結核による不合格は死にも等しかった。住民の結核への恐怖と偏見は根強いものがあった。睦雄が失意の底に落ち込んだのも無理はなかった。
父親や母親が肺結核で死んだことも知り、自分も死期が近いと思い込んでいた。
6月の初めの夕方、都井宅の西隣に住む西田秀司の妻のとめ(当時42歳)が近所から自宅に戻るとき、睦雄が頼みたいことがあるからと声をかけ、自宅にまねき入れた。そして、背後からとめを抱きすくめ、寺川倉一と関係したことをネタに情交を迫ったが、「誰がそんなことを話ししていたんじゃ。言うてみい」と凄まれ、睦雄は言葉に詰まり黙り込んでしまった。
「お前は肺病で徴兵をハネられたんやないか。それやったら1日も早く病気を治して、お国のためにご奉公するのが若いもんのつとめやないか。それもせえへんで、肺病やいうてのらくらしくさっているんくせして、女に手え出すちゅうのんはなんじゃい。それにうちは亭主持ちじゃぞい。人のかみさんに手え出すちゅうのんは、とんでもないこっちゃ。お前がそないに恥知らずとは知らんかった。こら強姦やからな。お前のおばはんに話しして、駐在所にも知らせにゃいけん。このままほっといたらなにやらかすか恐ろしけんの」
睦雄は狼狽し、どうしていいのか分からなぬ風だったが、突然、畳に正座して両手をついた。
「どうか堪忍してつかあさい。堪えてつかあさい。この通りですけん・・・・・・」睦雄は涙を流しながら、畳に額をこすりつけた。
とめは、このことを部落中に言いふらした。
・・・・・・ということだが、とめは初め自分から誘って関係し、その後何回か情交を重ねたが、睦雄の行状が目にあまり評判が悪くなると、いち早く関係を断ち切り、自分も挑まれたがはねつけたと弁明して回ったのが真相とされている。自宅にあった睦雄の「書置」と上書きした遺書に、とめに対する恨みが長々と綴られている。
7月7日、蘆溝橋事件勃発。
7月9日、睦雄は岸本勝之の母親のつきよ(当時49歳)を訪ねた。睦雄は十円札をつきよに突き出して「関係してくれ」と言ったが、つきよは「そんなことをするなら、この金を祖母さんのところへ持っていって話をするぞ」と言ったら帰っていったと、つきよは公言している。
だが、睦雄が放言したところによると、岸本宅は勝之が海軍志願兵として呉海兵隊に入団中であり、家族は未亡人の母親のつきよ、長女のみさ(当時18歳)、次男の吉男(当時13歳)、三男の守(当時10歳)の4人だった。睦夫はみさを狙って夜這いに入ろうとしたところ、母親のつきよに見つかってしまった。そこで、十円札を出して、これでみさとさせてくれと頼んだが拒否され、睦雄はそれならあんたでもいいと、つきよに迫ったが、それも断られ、そこで、「寺川倉一にさせとるくせになんじゃい」と言うと、早く帰ってくれと押し出そうとした。そこで、こんなになっていて納まりがつかんと自分のものを引っ張り出して見せると、つきよは土間にゴザを敷いて睦雄を受け入れ、終わると10円を受け取ったと言うのだ。そして、以来数回、情交を重ねたという。どうやら、こちらが真相らしい。
次に、睦雄が狙ったのは、寺川好ニの母親のトヨ(当時44歳)だった。トヨもやはり未亡人で、寺川倉一と不倫の関係にあり、これをネタにやすやすと関係を結ぶことができた。トヨにも代償として金品を与えている。しかし、トヨも他の女たちと同様に、睦雄に情交を迫られたが、その都度、追い返したと吹聴している。
7月の終わりごろ、睦雄は津山市の石田鉄砲店から2連装の猟銃を75円で購入した。10月27日、津山警察署で乙種猟銃免許を受けた。
このときの免許収得の理由を次のように説明している。
結核患者なので労働は禁じられているが、散歩などの軽い運動は療養上不可欠である。しかし、国家非常のときにぶらぶらするのは単に散歩するのも申し訳なくまた、体裁も悪いので、兎などの小動物をしとめて、自給自足の足しにするとともに毛皮を軍装品の原料として当局に献納したい。徴兵検査に不合格となったが健康を回復したあかつきには直ちに入隊する覚悟でおり、そのとき1人でも多く敵兵を倒せるように射撃の腕を練磨しておきたい。
この時点では、これらの女性に対し、憎悪は芽生えていたかもしれないが、殺意までには至らず、銃を購入した真の理由は、銃を所持することによって西田とめたちに無言の圧力をかけて、彼女たちのいいかげんな言いふらしを止めさせることや、金品でもその気になってくれない若い娘たちを銃で脅して自由にすることであっただろうと推測している。
遺書には銃を購入したことを周りの人に知られてはいけないというようなことが書かれているが、実際は、これ見よがしに銃を携帯して部落内を歩き回り、関係のある女たちやその夫や寺川倉一たちにまで見せていた。
だが、睦雄の狙いは裏目に出てしまった。銃をかついで歩き回る睦雄の姿は、肺病や好色乱倫以上の畏怖を女たちにもたらし、かえって女たちから疎まれる事態となった。
1938年(昭和13年)、ある日、睦雄は同村樽井部落の金貸し業の森岡六郎を訪ねた。お金を借りるためである。このときは、結核療養所に入るための費用にしたいということで、わざわざ療養所のパンフレットまで持参して森岡に見せ、入所費用を説明した。だが、その理由は嘘だった。
2月中旬、森岡は家屋敷などの抵当物件を詳細に調査した上で、600円を貸し付けた。
2月23日、睦雄は神戸市湊東区の高木銃砲店を訪れ、津山市の石田銃砲店で購入した猟銃を差出し、新品を購入したいと申し入れた。主人はこの中古猟銃に80円の値をつけた。睦雄が購入を希望した新品の12番口径5連発ブローニング猟銃は190円だったから追金110円を支払わなければならなかったが、持ち合わせがなく、代金引換小包で送ってもらうことにした。
28日、加茂町郵便局でこれを受け取った。そして、屋根裏の部屋にこもって、弾倉を改造して9連発式に作りかえ、さらに、火薬、薬莢を買い入れて、猛獣用実砲(ダムダム弾)を製造した。この時期から銃を持って部落を徘徊したり、銃を持って夜這いに行くのを止めているが、夜這いそのものは続けていた。
睦雄は改造猟銃をこっそり持ち出し、山に登って射撃の練習をするようになった。部落内にこのときの銃声が聞こえていたが、蘆溝橋事件が勃発してから、中等学校における軍事訓練は一段と強化し、近郊の山野に出かけて演習を行っていたから、銃声が連日ように聞こえても、誰も怪しまなかった。
同じころ、睦雄は岡部みよとの情交現場を夫の和夫に見つかってしまい、あわてて逃げた。和夫は怒って、みよを里に帰らせた。
後日、睦雄は2人の男を伴って岡部宅に詫びに行った。1人は猟銃に関して知り合った炭焼き兼猟師の北田勇一(当時30歳)で、もう1人は北田の知人で農業の高岩三郎(当時45歳)だった。
このとき、睦雄は酒だけでなく、大きな肉の包みを差出した。岡部は大いに喜び、みよに酒盛りの支度をさせ、その肉でスキ焼きをして、和やかに飲み、そして食べた。
睦雄はこの肉を3日がかりで自分が仕止めた兎だと言った。岡部はこれを聞いてさらに喜んで歌まで歌い出した。
だが、実はその肉は、睦雄が飼っていたコロという名の犬の肉だった。睦雄はその肉を食ったふりをしていただけだった。北田は睦雄に見せたいものがあるからと、自宅の裏庭に連れて来られ、その犬の死体を見せられて、これがさっき食べた犬だと言われ、思わずゲエゲエ吐いた。
睦雄はその後も岡部みよに夜這いをかけて和夫の怒りを買っている。
このときから、再び睦雄は以前と同様に大っぴらに銃を持って夜這いに出かけ、相手の女性が拒否したり、隠れたり、あるいは女の夫や母親が邪魔をすると「ぶち殺してやる」と放言するようになった。このときの銃は改造した銃とは別のもので、入手先や日時など不明である。
3月7日、睦雄の祖母のよねが「睦雄に味噌汁に毒を入れられた」と言って騒ぎを起こした。10日ほど前から、よねは「年寄りの健康にいいから」と睦雄に、ある薬を勧められていたが、その薬はひどい臭気がして服用することはなかったが、睦雄は1日置きくらいにその薬を勧めていて、よねはとても飲めたものではないと頑として断っていた。そして、この日、よねは睦雄が味噌汁の中にその薬を入れているところを見てしまったのである。
このことがあって、睦雄は警察の手入れをくらうこととなった。
睦雄の承諾を得て屋根裏部屋を家宅捜索したところ、日本刀1振り、短刀1口、猛獣用実包81発、散弾実包311発、雷管付薬莢111個、雷管126発、火薬50匁(約187.5グラム)、鉛弾50匁、猟銃3挺、さらに身体検査の結果、匕首1口を携帯していた。
睦雄はこれらを猟銃免許も含めて取り上げられてしまった。
このうちの猟銃1挺は135円で売却し、睦雄がその代金を受け取った。
このことがあってから、加茂町駐在所の今田武雄巡査は、6回ほど睦雄の情況調査に赴き、その都度、面接して熱心に説諭し、ぶらぶらして遊んでいてはいけないからと仕事の世話ももちかけていた。
睦雄がこれらの凶器を警察に取り上げられたことで、村人はホッとした。これで、睦雄はおとなしくなるだろうと村人は勝手に思い込んだ。だが、そうはならなかった。睦雄は密かに凶器の入手に励んだ。
3月13日、睦雄は猟銃に関して知り合った北田勇一に、猟銃免許鑑札を落としたから、代わりに買ってきてほしいと頼んだ。北田は津山市の石田銃砲店で、マーヅ火薬1ヶ、雷管付ケース100ヶを睦夫から預かった10円で購入した。計5円70銭だったが、北田はお釣りは手数料としてあげると言われたのでもらっておいた。
4月5日、睦雄は東加茂村大字桑原で歯科の出張診療所を開設している医師の加藤公三(51歳)を訪ねた。歯の治療のためだが、翌日の6日、再び治療してもらい、そのあと、刀剣愛好会の会長でもある加藤公三に、岡山の連隊にいる従兄に軍曹に昇進した祝いとして、軍刀を贈りたいからと嘘を言い、7、80円の値がするところを昇進祝いということで、30円にまけてもらって日本刀を購入した。
4月中旬、睦雄は大阪に出かけた。そして、大阪では一流ホテルに数えられる心斎橋ホテルに泊まった。睦雄は山内に電話し、部屋に呼んだ。そして、匕首を手に入れたいから探してくれと頼んだ。
このとき、睦雄は加茂町に加藤という歯医者がいて、刀剣愛好会の会長やっているが、日本刀はおおかた集めたので、今度は匕首を欲しがっているというようなことを言った。もちろん嘘である。山内はなんとか探してみると答えた。
山内は今日は女はどうすると訊くと、睦雄はいつもの賎娼ではなく、高級淫売が欲しい、そのためにホテルに泊まったと言った。
「高級淫売やったら住吉アパートがええ」と山内は言った。住吉アパートは阿部定が高級淫売をしていたころ、住んでいたところだった。山内は今でもその仲間がいるはずだと言った。
山内はやくざから匕首を5円で手に入れ、9円で睦雄に売るつもりでいたが、睦雄は10円札を出して1円は手数料だと言った。こうして、匕首1口を手に入れた。山内が睦雄に会ったのはこれが最後だった。事件のとき、匕首は2口あったが、もう1口の匕首は入手先や日時は不明。遺書には匕首2口とも神戸で買ったとあり、山内のことは伏せてある。
4月下旬から5月上旬にかけて、睦雄は大阪や神戸に行き、鉄砲店を回って、中古のブローニング12番口径5連発猟銃1挺を160円で購入した他、火薬類などを入手した。さらに、銃は前のように9連発に改造した。ほぼ、この時期に凶器は揃っていた。
5月15日の夕方、寺川マツ子(35歳)は、睦夫からただならぬ危険を察知し、「都井睦雄がえらいことをやるそうだから、このまま村にいては危ないから京都の方へでも一緒に逃げよう」と西田とめ(43歳)を誘ったが、とめは「殺されるほど憎まれているはずがない」と言って、マツ子の誘いを断っている。それから2、3日後、寺川マツ子一家は荷物をまとめ、部落から姿を消した。睦雄はそのことを知っていて、遺書にもそのことを書いている。おそらく、引越ししたその日に睦雄の知るところとなったのだろう。
マツ子の誘いを断った西田とめは5人目の犠牲者となってしまった。
5月18日、睦雄は2通の遺書をしたためた。この日と翌19日に渡って、ノートや本、メモや新聞の切抜きなどを自宅の庭で燃やしている睦雄の姿を近所の人が見ている。
5月20日、睦雄が自転車に乗って、山の中や畑の中の細い道を何回となく村役場の方へ往復しているのを、何人もの村人が目撃している。役場の隣には駐在所と消防組の詰所があるから、部落民が急を知らせる時間を計測したものと推測される。
午後5時ごろ、睦雄は同村字石山部落の変圧器付電柱に登って導線を切断、同様に貝尾の変圧器付電柱に登って切断した。これによって、貝尾部落だけが真っ暗闇になった。
寺川元一は都井宅へ電灯を借りに行った。睦雄はロウソクをかざしてのっそりと出てきた。寺川は電柱に登って調べてみるから、自転車のナショナルランプを貸してくれと頼んだ。睦雄は自転車からランプをはずして寺川に渡した。寺川はランプを持って自宅近くの電柱に登って調べてみたがさっぱり分からず、電柱から下りると、そこに睦雄がいたので、「睦雄、お前頭がええから直してくれぬか」睦雄はゆっくり、頭を横にふり、ものうそうに「わし慣れとらんから出来やせん」元一からランプを返してもらい、のっそりと自宅に戻ったという。
それから約8時間後の翌21日に惨劇が起きる。
この事件にはひとつの奇妙な伝説がつきまとっている。「日華事変の最中なのであまりにも残虐なこの事件は、公表されなかった」というものである。だが、実際は、ラジオを始め、全国のマスコミがこぞって派手に報じており日本中にセンセーションを巻き起こしている。
事件が起きてから、いつごろのことか不明だが、姉の美奈子が肺結核によって死んでいる。

小説家の横溝正史は戦時中の1945年(昭和20年)4月から1948年(昭和23年)8月まで岡山県吉備郡岡田村に疎開していたが、そのときに津山三十人殺し事件のことを聞かされた。それが小説『八つ墓村』の誕生となったようである。小説の中では、過去にこんな事件があったという程度の扱いでしかないのだが・・・。他に岡山を舞台にした作品に『獄門島』や『悪魔の手毬唄』などがある。 
 
フジ特番が触れなかった津山事件の真相! 2015

 

殺された女性の夫が「夜這い」原因説について語った
12月12日夜、フジテレビで放送された『報道スクープSP 激動!世紀の大事件III〜未解決事件の「謎」と目撃者の「新証言」〜』にて「津山30人殺し」が取り上げられ大きな話題となっている。
「津山30人殺し」とは、ご存知の通り、横溝正史『八つ墓村』(角川書店)のモデルにもなった村民30人大量殺人事件のことである。
この事件は、映画・ドラマなどにも幾度となく取り上げられ、最近でも2004年に稲垣吾郎主演でドラマ化されるなど、1938年の事件発生から何十年と時を経た今も人々の心を捉え続けている。しかし、なぜ、この「津山30人殺し」事件は日本人の関心をこれほどまでに集め続けているのか?
1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県西加茂村貝尾集落(現・津山市)にてその事件は起きた。犯人は同集落に住む当時21歳の都井睦雄。睦雄はあらかじめ用意していた散弾銃やブローニング猟銃、そして斧や日本刀などで同居していた祖母を筆頭に村民たちを次々と殺害、その後自らも命を絶つ。犯行は計画的で事前に送電線を切り、集落を孤立させるなど用意周到なものであった。
まるでスプラッター映画のような凄惨な事件の衝撃もさることながら、なによりも、その犯行動機が大衆の興味をそそった。睦雄が残した遺書には、結核のため兵役検査に丙種合格(入営不適格)で差別されていたこと、そして、集落の複数の女性と性的関係があったことが書かれていた。そんなことから、当時の報道や小説では、この集落に「夜這い」の風習があり、集落内で性的関係が入り乱れていた、その痴情のもつれから事件が起きたかのような記述も散見される。
その意味では、今回大きな話題を読んだフジテレビの番組『世紀の大事件』は、食い足りなかったようだ。というのも、番組では肝心の夜這いや集落内の性的関係にまったく触れられなかったからだ。
実際、放送が終了すると、ツイッターには〈夜這いの話が出てこない〉〈夜這い関係言及されてない〉といったつぶやきがかなりの数、見受けられた。
しかし、津山30人殺しは本当に「夜這い」の風習が原因だったのだろうか。一番最近の取材では、少しちがった様相が浮かび上がっている。
それは「週刊朝日」(朝日新聞出版)2008年5月23日号に掲載された「津山30人殺し『八つ墓村』事件70年目の新証言」という記事だ。ここでは事件の遺族が当時のことについて、これまで明かされてこなかった事実を語っている。
長い年月が経ったことで、関係者のほとんどは死亡し、地元住民も未だ事件について口を閉ざす者が多い中、事件で妻と義母、義父を殺されたという90代の男性Aさんが犯行現場の状況を証言した。そこに描かれているのは身の毛もよだつような大量殺戮であった。
「事件のあった時、ワシは数えで22歳。昔は成人式が済んで、21歳で徴兵検査を受けて、嫁をもらったんじゃ」
Aさんは隣町の住民だが、妻の実家は貝尾集落の睦雄の家の道を挟んだ向い側にあった。そして、妻は、睦雄が遺書に自分との性的関係があったと書いた女性だった。
睦雄の遺書には「今日、僕と以前関係のあったB(注=原文では実名)が貝尾に来たからである、又C(同)も来たからである」という記述があったが、このCさんが妻、Bさんも妻の友人だった。
また、睦雄の遺書にはAさんの妻の母親、つまり義母も登場する。遺書にはAさんの義母から「大きな侮辱を受けた」という記述があり、Aさんの義母にも性行為を迫ったが、それを断られて逆恨みしたと見られている。
つまり、「週刊朝日」に告白したAさんは犯行動機に深く関わっていた複数の女性の縁者だったのだ。
睦雄の遺書にあったように、事件前日、Aさんの妻=Cさんは友人のBさんといっしょに実家に里帰りしている。Aさんも誘われたが「たいぎなくて(しんどくて)」行く気にならなかったことで一命を取り留めることになる。
自宅に残っていたAさんは夜中の4時頃、友人から「奥さんの実家も襲われとるみたいや」と知らされ無我夢中で隣集落へ向かった。集落全体が血なまぐさかったという。
「女房の実家に入ると、その日ちょうど、女房の伯母が遊びに来とったようで、いちばん奥にワシの女房と2人並んで寝とった。2人も、両方の胸打たれて大きな穴が開いとったわ(略)反対側の右側に義父が寝とって、オヤジは起き上がったところを撃たれたんじゃろうな。座ったように横になっとった。義母は外へ逃れようと思ったんじゃろう。縁のほうへ這って出たようで、敷居をまたいで倒れて、はらわたがダラーと出ておった」
4人がいた8畳間は血の海でもあった。現場を直接見てしまったAさんのあまりに赤裸々な証言だ。
さらにAさんは多くの殺戮現場を目の当たりにしていく。妻の妹の嫁ぎ先でも惨状が広がっていた。
「妹は腹が大きかったんじゃが、婿と一緒に殺されとった。そしたら、(一緒に撃たれた)虫の息のおばあさんがワシの顔を見てニヤーッと笑ったんじゃ。その顔が今でも忘れられん」
こうして1時間半ほどの時間に、集落の半分に当たる11軒が襲われ30人もの人々が惨殺された。襲われて生き残ったのはわずか3人だ。
そして、証言は犯行の動機について語られる。ここでAさんは動機のひとつと言われている自分の妻との性的関係、集落の「夜這い」について、こんな否定証言をするのである。
「(小説には)睦やんがワシの女房を手込めにしとったことも書いてある。(妻が)嫁に行く前に相当遊んでいるように書いてあるが、女房が遊んだか遊んでないかは、ワシでなきゃわからん。それに村じゅうで関係していたように言われとるが、そんなことできるのか?」
しかし一方で、妻といっしょに里帰りした友人、Bさんについては、睦雄が恋焦がれていたことを認めている。
「(Bさんが)嫁に行く時に、陸やんが茅を積み上げて通せんぼしたそうじゃ。それくらい思いがあったんじゃ。後で聞いたら、『おまえを残しちゃいけんのや!』言うて、床の下に隠れた娘(Bさん)めがけてバンバン撃ち込んだらしい」
だが、Bさんは奇跡的に、銃弾が喉をかすめる軽症ですんだ。Aさんは事件から10日ほどたった頃、Bさんと顔を合わせたが、Bさんから「私が殺したんじゃ、こらえてください、こらえてください」と泣きながら抱きつかれたと語っている。
この記事を読む限り、犯行の原因は「夜這い」というよりはむしろ「失恋」と考えたほうがいいだろう。遺書にしても、睦雄はこれらの女性と実際に性的関係があったわけでなく、一方的な妄想だったとの見方も根強い。
津山事件はそのショッキングな事件ゆえに、さまざまな噂、物語を生みだした。どこまでが事実で、どこからが都市伝説なのか。次はぜひ、もう一歩踏み込んだ津山事件のレポートを期待したい。
寺井ゆり子さんのその後
只友登美男さんの妻で、実家が睦雄の実家の近所だっという良子という女性。
その場所は睦雄が襲った3軒目の場所として知られているようですが、睦雄は一家4人を殺害しました。
その時に良子さんを一緒に実家に帰ろうと誘ったのが寺井ゆり子さんだそうです。
ゆり子さんもまた良子さんと同郷で弟の結婚式のために帰るということでした。
睦雄は村でも評判の美人だったゆり子さんを本命としながらも良子さんと関係をもっており、2人が里帰りしたことが事件の引き金になったのではと思われます。
一方的なストーカー行為だったのかもしれないというのが大体の意見です。
寺井ゆり子さんはその後どうされたのでしょうか
ゆり子さんは睦雄を振って「丹羽卯一」といいう男性と結婚しましたが睦雄は夜這いをかけたため、離婚しました。
しかし、2ヶ月後には「上村岩男」と再婚されたそうです。
そして事件が起きます。
ゆり子さんは途中で転んで「寺井茂吉」という人の家へ逃げ込みます。
この家は睦雄の襲撃計画に入っていませんでしたが、ゆり子さんを匿ったために襲撃の対象となります。
そこでゆり子さんは床下に隠れて難を逃れました。
「登美男」さんの証言によると
睦雄は「おまえを残しちゃいけんのや!」と言って、床下に隠れた「ゆり子」めがけて銃を撃ちこみ喉元に擦過傷を負わせたようです。
撃ちどころが違えば即死だったようですが、ゆり子さんは難を逃れることができました。
その言わば運の良いゆり子さんは2010年の時点では90歳を超えてまだ存命中ということです。
ただゆり子さんの家族も5人殺害され天涯孤独の身で過ごされているわけですから心痛は計り知れないでしょう。
睦雄の一方的なストーカー行為が原因ならなおさらです。
ただ彼女が良子を誘わなかったら事件が起こっていなかったのではないか、さらに言えば怪我を負って逃げ込まなければ犠牲者を増やすことはなかったのではないかという見方もでき、それが事実ならゆり子さんは自責の念にも駆られながら生きていたのかもしれません。
事件直前に結婚した上村岩男との間には子供もできたそうです。
ゆり子が良子を実家に誘った時「登美男」さんは行く気持ちがせずそのまま、残ったと言います。
その登美男さんが結果津山事件の貴重な証言者となったのですから人生何があるかわからないものです。 
 
70年目の新証言

 

高齢で記憶もあやふやでしょうが津山事件のエピソードは何年も知人には同じ内容を歌の歌詞のように語り続けてきたに違いなく、事実5割、本人脚色2割、記憶忘れ3割??=5割、話半分と私は勝手に考えて拝読いたしました。しかしながらまぎれもない津山事件被害現場を見た方の貴重な話しであることには間違いございません。

1日5本程度しか運行されないJR因美線・津山行きの電車に、鳥取県智頭町の智頭駅から乗り込み、岡山との県境を越える。たどり着いたのは、事件が起きた現場の隣町だ。辺りは山深く、駅の周りで目につくのは、たばこ屋ぐらいしかない。
「お疲れ様です。どこから来なさった?」
バスを待っていた初老の女性に声をかけられた。
「あの~、東京から70年前の事件の取材で......」
記者が説明をしかけた途端、女性の顔からは笑みが消え、こう言って黙ってしまった。
「......その話は聞かんほうがええ」
やはり口が重いようだ。無理もない。これほど身の毛がよだつような殺人事件は、例がないのだから。

そんな折、事件を知る男性がいると聞いて、訪ねてみた。隣町に住む90代の男性Aさんである。
「ワシは女房が殺されたんじゃ」
事件を目の当たりにした数少ない遺族だった。
「すごい事件じゃった。その日に新聞の号外が出て、大きい字で『昭和の鬼熊事件』(大正時代の連続殺人事件)と書かれていたんじゃ。それから、取材や小説を書くんじゃって、いろいろ来たけど、ワシは取り合っとらん。今も事件の遺族に会っても、事件の話は絶対にせん。当時の話をする人はおらんよ」
初めはそう話したAさんだが、感慨深げに、「あれからもう、70年もたつのか......」と漏らし、「その時の状況を見とる人は、ほとんどおらん。もうみんな死んでしもうたから、迷惑もかけんじゃろ」と、重い口を開き始めた。

「事件のあった時、ワシは数えで22歳。昔は成人式が済んで、21歳で徴兵検査を受けて、嫁をもらったんじゃ。それで、ワシも22歳の時に(事件のあった)隣の地区から嫁をもろうた。実はその嫁の実家が、睦やん(都井睦雄)の近所じゃったわけじゃ。昔は『婿入り』言うて、嫁をもらった近所にあいさつ回りをするんじゃが、その時に睦やんの家に行ったら、一緒に住んどるおばあさんが、『うちにもあんたと同じ年くらいの若いもんがいるから、こちらへ来なさった時に、遊びに来てくださいな』って言うたわ。そこで紹介されたのが睦やん。モノを言わず頭を下げよった」
Aさんが結婚して3カ月ほどたった5月20日、Aさんの妻の友人で、同郷の女性Bさんが声をかけたという。
「弟が結婚したから、祝いを兼ねて里帰りする言うて、誘ってくれてな。女房は行こうか行くまいかだいぶ悩んどったけど、結局行ったんじゃ」
実に凶行の前日のことである。しかも、Aさん自身も誘われたという。
「里へ行く前に女房は、『飯を炊いて待ってるけえ、夜、(あんたが)仕事から帰ってきて一緒に飯を食べよう』って言っとったんじゃ。でもな、どうにもたいぎくて(しんどくて)、行く気にならんかった」
間一髪で難を逃れたというわけだ。
都井の残した3通の遺書のうち、自殺現場にあった遺書には、〈今日決行を思いついたのは、僕と以前関係のあったB(注=原文では実名)が貝尾に来たからである、又C(同=Aさんの妻)も来たからである〉と、確かに2人が里帰りしたことが直接の犯行動機になったことが記されている。

ところで、当時の報道や事件後の小説などでは、都井は村の複数の女性に夜這いをかけ、性的関係を持ったことが記され、そのことが事件の背景にあったとされているが、Aさんはこう否定する。
「小説にはこういう女はここへ嫁いだとか、ワシの名前も出とる。睦やんがワシの女房を手込めにしとったとも書いてある。(妻が)嫁に行く前に相当遊んでるように書いてあるが、女房が遊んだか遊んでないかは、ワシでなきゃわからん。それに村じゅうで関係していたように言われとるが、そんなことできるか?」
犯行前日の5月20日午後5時頃、都井は用意周到に村の電線を切っている。
「睦やんは器用な男でな、普段から電気が切れたら、直してくれとったそうじゃ。その日も、『電気がこんで~』って、みんなが睦やんを訪ねたくらいじゃ。でも、睦やんはその日、『これはわからんけえ、今日は間に合わん。明日、僕が町の電気屋へ行って直すけえ』って言いよったらしい」
その後、都井は自宅の裏手のお堂で、村の若者ら6、7人とともに宴会に参加していたという。宴会が終了したのは深夜0時頃。
惨劇はその約1時間後に起きた──。都井はまず、黒い詰め襟の学生服に身を包み、軍用ゲートルを巻き地下足袋をはいた。頭に巻いた鉢巻きに小型の懐中電灯を角のように両側に差し、首に自転車用のライトを下げた。凶器となったのは、腰に差した日本刀と匕首(あいくち)。そして、以前から用意しておいた9連発の猟銃を手に持った。実は都井は以前にも銃を所持し、犯行の2カ月前に警察に押収されている。
「駐在所の巡査が『この者は末恐ろしいけん。処分しな』と言ったそうじゃ。でも、署長が、『この者はそれだけの野心はない』と判断したんじゃと。でも、睦やんはその後も神戸で猟銃を買っとった。『狩りに行く』言うて、山の中の大きい木に人間の絵を描いて、毎日、的撃ちしよったらしいわ。集落の者はみんな知っとったんじゃ」

最初の被害者となったのは、都井と2人で暮らしていた祖母だった。日付が変わった5月21日午前1時40分頃、都井は寝ていた祖母の首を斧で打ちはねて、銃で乱射した。
「昔はな、消防団が各集落にあったんじゃ。ワシも消防団員じゃった。その日の夜中の3時頃、警報が鳴ったんじゃ。『どこが火事や?』と思って集まったら、消防団のお偉いさんが、『貝尾で強盗が入った。人が殺されたらしい。犯人がわからんけえ、いま寄っても危険じゃけ、夜が明けてから応援を頼む。今のところは引き揚げて各家に待機しとってくれ』と言われた。ほんで、家に帰ったんじゃが、4時頃に集落へ行ったという友達が来て、『奥さんの実家も襲われとるみたいやで』と知らせてくれたんじゃ。それから無我夢中で集落へ向かい、着いた時は、朝5時頃じゃった」
Aさんが集落へ着いた時、現場にはすでに警察の非常線が張られていた。
「絶対入れませんで」と警官に言われ、「女房が来て殺されとろうかいう時に入れんもクソもあるか。確認だけさせえ」と食い下がったAさんに根負けしたのか、「ほんなら、確認だけしたらすぐ出てくれ。犯人がどこにおるのかわからんのじゃけえ」と警官が道を開けたという。そして、Aさんはたった一人で現場の集落へ足を踏み入れた。
「集落全体が血なまぐさくてな、誰もおらんかったわ」
Aさんの妻の実家は、都井宅と道路を挟んで向かい合っていた。妻の実家に向かう途中、Aさんが高台にある都井の家を見上げると、家の障子4枚が真っ赤に染まっていたという。
「女房の実家に入ると、その日ちょうど、女房の伯母が遊びに来とったようで、いちばん奥にワシの女房と2人並んで寝とった。2人とも、両方の胸撃たれて大きな穴が開いとったわ......これはもう死んどると、覚悟を決めた。反対側の右側に義父が寝とって、オヤジは起き上がったところを撃たれたんじゃろうな。座ったように横になっとった。義母は外へ逃げようと思ったんじゃろう、縁のほうへ這って出たようで、敷居をまたいで倒れて、はらわたがダラーッと出ておった」
都井の遺書にはAさんの義母も実名で登場し、〈奴に大きな侮辱を受けた〉と記されている。都井は肺結核のため事実上、徴兵検査を不合格になった。その頃、Aさんの義母に性行為を迫ったが断られ、その際、病気のことを侮辱され、恨みを抱いていたようだ。
「4人がおった8畳間は、片足も入れる余裕がないほど血の海じゃった。ふと犯人が押し入れに隠れとったら......と、一瞬思ったんじゃ、そしたら髪の毛が一本立ちに逆立った。毛が逆立ついうのは本当じゃな」

次にAさんは、妻の妹が嫁いだ家へと向かった。この家のおばあさんは重傷ながら生き残り、数少ない目撃者となったが、事件の2、3年後に亡くなった。
「妹は腹が大きかったんじゃが、婿といっしょに殺されとった。そしたら、虫の息のおばあさんがワシの顔見てニヤ?ッと笑ったんじゃ。その顔が今でも忘れられん。真っ白い顔で半分逝っとるような顔やった。『親戚をみんな呼んですぐ来るけえ、元気を出しとってそれまで待っとって』ってばあさんに言うて、女房を誘った娘(Bさん)の家をのぞきに行ったんじゃ。ちりちりバラバラに殺されとったなか、その娘は生き残ったんじゃ。後から聞いたら、隣の家に逃げ込んで床の下に入りこんどったんやと」
Bさんは都井がいちばん気にかけていた娘だった。同じ集落の男性と結婚したが、都井が夜這いをかけようと、嫁ぎ先にまで侵入したことが原因で離婚した。しかし、数カ月後に別集落へ嫁いだ。
「(Bさんが)嫁に行く時に、睦やんが茅を積み上げて通せんぼしたそうじゃ。それくらい思いがあったんじゃろう。後で聞いたら、『おまえを残しちゃいけんのや!』言うて、床の下に隠れた娘(Bさん)めがけて、バンバン撃ち込んだらしい」
弾は幸運にも、喉をかすめただけで、Bさんは軽傷だった。都井は悔しかったのか、遺書で〈実際あれを生かしたのは情けない〉と綴っている。
結局、都井は約1時間半の間に、22軒あった貝尾集落のうち11軒、隣の集落1軒の計12軒を襲撃。33人を殺傷した。その後、集落から約3・5キロ離れた山へ登り遺書を書いた後、猟銃で胸を撃って命を絶った。
「山で睦やんが自殺しとることがわかると、みんな村へ帰ってもええいうことになった。それでな、睦やんのおばあさんはどうなっとるんじゃろ思うて、みんなで行ってみたんじゃ。そうしたら、おばあさんの首が転がって、体から1mほど離れとった。その血しぶきで障子がほんに真っ赤じゃった。その脇に、よう研いである血で染まった斧が転がっとった」
都井は幼い頃、両親を肺結核で亡くし、姉とともに祖母に育てられた。その姉は嫁ぎ、都井は祖母の愛情を一身に受けた。過保護だという指摘もあったそうだが、都井がなぜ最も近い肉親をそこまで惨殺できたのか、いまだに謎である。
「事件後に睦やんの姉や警察の署長が香典を持って回ってきたけど、誰も受け取らんかった。事件から10日ほどたった頃、(Bさんと)初めて顔を合わせたんじゃ。そしたら、ワシに抱きついて『私が殺したんじゃ、こらえてください。こらえてください』と、泣きつかれた。『私はこれだけで済んだんじゃ』と、喉の傷を見せよったわ。もう少しずれてたら即死やで。運の強い言うたら、そういうことじゃ」
犯人の都井に対してはもちろんだが、Bさんにも複雑な思いはないのか。
「そういうことはない。人を恨む人は人間のクズじゃ。人は信用せないけん。でもな、ワシも人間じゃ。当時は、犯人がそこにいたら一寸刻みにしたらええ思った。それが人間の心情じゃろう」
町の外れに都井と祖母の墓がある。立派な都井家の墓に紛れ、草むらに人間の頭よりひと回りほど小さい石が二つ、寄り添うように並んでいた。地元住民によると、「せめて墓だけは」という声も上がったそうだが、あまりに残忍な事件だけにそのような形にとどまったという。
都井の墓を目の前にしたAさんは、「70年かけて初めて来ましたわい」と、複雑そうな顔で笑った。 
 
八つ墓村

 

横溝正史の長編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一つ。本作を原作とした映画が3本、テレビドラマが6作品、漫画が5作品、舞台が1作品ある(2014年3月現在)。9度の映像化は横溝作品の中で最多である(次いで『犬神家の一族』が映画3本、ドラマ5本)。1977年の映画化の際、キャッチコピーとしてテレビCMなどで頻繁に流された「祟りじゃ〜っ! 八つ墓の祟りじゃ〜っ!」という登場人物のセリフは流行語にもなった。
『本陣殺人事件』(1946年)、『獄門島』(1947年)、『夜歩く』(1948年)に続く「金田一耕助シリーズ」長編第4作。
小説『八つ墓村』は、1949年3月から1950年3月までの1年間、雑誌『新青年』で連載、同誌休刊を経て、1950年11月から1951年1月まで雑誌『宝石』で『八つ墓村 続編』として連載された。
作者は、戦時下に疎開した両親の出身地である岡山県での風土体験を元に、同県を舞台にしたいくつかの作品を発表している。本作は『獄門島』や『本陣殺人事件』と並び称される「岡山もの」の代表作である。
作者は、農村を舞台にして、そこで起こるいろいろな葛藤を織り込みながらできるだけ多くの殺人が起きる作品を書きたいと思っていたところ、坂口安吾の『不連続殺人事件』を読み、同作がアガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』の複数化であること、そしてこの方法なら一貫した動機で多数の殺人が容易にできることに気がつき、急いで本作の構想を練り始めた。そこで『獄門島』の風物を教示してもらった加藤一(ひとし)氏に作品の舞台に適当な村として伯備線の新見駅の近くの村を教えてもらったところ、そこに鍾乳洞があると聞き、以前に外国作品の『鍾乳洞殺人事件』を読んだことがあることから俄然興味が盛り上がった。作品の書き出しに当たって、衝撃的な過去の事件「村人32人殺し」である昭和13年に岡山県で実際に起こった津山事件(加茂の30人殺し)が初めて脳裏に閃いた。本格探偵小説の骨格は崩したくはなかったが、当時の『新青年』は純粋の探偵雑誌というよりも大衆娯楽雑誌の傾向が強かったことから、スケールの大きな伝奇小説を書いてみようと思い立ち、それには津山事件はかっこうの書き出しになると気がついた。ただし、作品の舞台はわざと津山事件のあった村よりはるか遠くに外しておいた。
物語は、冒頭部分を作者が自述、それ以降を主人公の回想手記の形式で進行する。山村の因習や祟りなどの要素を含んだスタイルは、後世のミステリー作品に多大な影響を与えた。村の名前は実在した近隣の地名、真庭郡八束村(現在の真庭市蒜山)が元である。
物語
前作『夜歩く』の一人語りと同様に、冒頭の過去談を除いては、主人公・寺田辰弥の一人語りの形式をとる。物語は全て彼の口から語られ、彼の体験の順に並ぶ。そのため、金田一による捜査や推理、それに説明は時系列上は遅れて出るところが多い。
あらすじ
戦国時代(永禄9年=1566年)のとある小村に、尼子氏の家臣だった8人の落武者たちが財宝とともに逃げ延びてくる。最初は歓迎していた村人たちだったが、やがて毛利氏による捜索が厳しくなるにつれ災いの種になることを恐れ、また財宝と褒賞に目がくらみ、武者たちを皆殺しにしてしまう。武者大将は死に際に「この村を呪ってやる! 末代までも祟ってやる!」と呪詛の言葉を残す。その後、村では奇妙な出来事が相次ぎ、祟りを恐れた村人たちは野ざらしになっていた武者たちの遺体を手厚く葬るとともに、村の守り神とした。これが「八つ墓明神」となり、いつの頃からか村は「八つ墓村」と呼ばれるようになった。
大正時代、村の旧家「田治見家」の当主・要蔵が発狂し、村人32人を惨殺するという事件が起こる。要蔵は、落武者たちを皆殺しにした際の首謀者・田治見庄左衛門の子孫でもあった。
そして20数年後の昭和24年、またもやこの村で謎の連続殺人事件が発生することとなる。物語は、神戸に住む寺田辰弥の身辺をかぎ回る不審人物の出現から始まる。彼は母1人子1人で、戦争から戻ってくると天涯孤独の身となっていた。そして復員後2年近く過ぎたある日、彼の行方をラジオで捜していた老人と、弁護士の仲介で面会する。ところが、2人きりになったとたん、老人は血を吐いて死ぬ。
登場人物
○ 金田一耕助 / 私立探偵。鬼首村で起きた事件の解決後、弟の死に疑念を抱いた西屋の主人の依頼を受けて八つ墓村にやって来た。
○ 寺田辰弥 / 「私」こと本編の主人公で語り部。事件後、金田一の勧めで事件の手記を著す。後述の大量虐殺事件を起こした田治見要蔵の息子とされ、村人や田治見家の奉公人からは、到着当初から密かな敵意を向けられている。戸籍上は大正12年生まれだが、実際には大正11年生まれで、事件当時数えで27(28)歳。色白だが、乳児の頃に要蔵に加えられた暴行のため、全身に、裸になるのをはばかられるような火傷のあとがあり、人定の決め手の一つとなった。実は要蔵の息子ではなく、母・井川鶴子と秘密の恋人だった小学校教師・亀井陽一との間に生を受けた。母亡き後、義父・寺田虎造と、再婚した義母はよくしてくれたが、彼女の実子である弟妹が生まれたことから距離が出来てしまい、虎造とも意見の衝突があって家を飛び出した。その後神戸の友人のところに転がり込んでいたところで召集され、復員すると義父母らの所在はわからなくなっており、天涯孤独の身となる。田治見家の跡取りとして八つ墓村に呼び戻され、事件に巻き込まれる。事件周辺の女性に好意を寄せられる。
○ 磯川常次郎 / 岡山県警警部。
○ 田治見家 / 落武者たちの殺害の首謀者である田治見庄左衛門の子孫。東屋と呼ばれる村の分限者(金持ち、資産家)。資産は昭和24年(1949年)当時の金額で1億2000万円以上にも達する。
○ 田治見小梅・田治見小竹 / 一卵性の双子の老姉妹。要蔵の伯母(辰弥の大伯母)で、両親を失った要蔵を育てた。田治見家の財産を狙う親族に嫌悪感を持ち、子供がなく頼りない久弥・春代らへの失望を隠さず、辰弥が跡取りとして家督を継ぐことを心より願っている。
○ 田治見要蔵 / 田治見家先代。自分の思い通りにならないものを権威で捻じ伏せる、身勝手で独善的な暴君の如き性格。26年前、妻子がありながら井川鶴子に欲情して付きまとい、彼女からの反発と拒絶に逆恨みし、その報復として彼女を拉致して暴行し、無理矢理に妾にした。辰弥の父親が亀井陽一という噂を聞いて、鶴子と辰弥に暴行。鶴子母子が家出して10日余り後、発狂して猟銃と日本刀で武装して32人を虐殺し、山の中へと姿を消した。後に鍾乳洞の「猿の腰掛」で虐殺された落武者の甲冑を纏い、屍蝋化した遺体で発見された。前途を悲観した小梅・小竹姉妹に毒殺されたとされる。
○ 田治見おきさ / 要蔵の妻。26年前の事件で、要蔵に斬り殺された。
○ 田治見久弥 / 要蔵の長男で、田治見家当代。事件当時数えで41歳。肺病(肺結核が肺壊疽まで進行しているとされる)を患っており自分の寿命が短いことを悟り、辰弥に田治見家の跡取りとなることを心より願い、病床の中で辰弥を探し出し家を託す。辰弥が父・要蔵の血を引いていないということを承知の上で彼を跡継ぎに選んだ。辰弥を引見中に毒殺されたことが、村人の彼に対する疑いを深めることになる。
○ 田治見春代 / 要蔵の長女。35、6歳の、少し髪の縮れた色の小白い女性。1度は嫁いだが、心臓が弱く子供が産めない体となったため離縁され、実家に戻って小梅と小竹の身の回りの世話をしている。辰弥の気持ちを察しており、辰弥に出生の秘密をしばらく隠していた。辰弥が腹違いの実弟ではないことを知っており、初対面から異性として密かに好意を寄せ、辰弥に近づく女性にあからさまな嫉妬を示したりしている。鍾乳洞で刺殺された際、犯人の左の小指を噛み切り、それが原因で死に至らしめた。愛する辰弥に最期を看取られた。
○ 久野恒実 / 村の診療所の医者で、田治見家の親戚筋。しかし医師としての腕は心もとなく(久弥に処方した薬は「いまどき、どこの田舎医者でもこんな調合はしない」と評された)、診療所の薬品管理も杜撰である。子だくさん。腕が確かで丁寧な診療をする疎開医師の新居医師に患者を奪われつつある。趣味は推理小説を読むこと。疑われずに新居医師を殺害する方法を妄想し、日記に書き付けていたことが犯人に利用され、後に失踪、毒殺された。
○ 里村慎太郎 / 要蔵の甥。母の実家を継ぐべく里村姓を名乗った要蔵の弟・修二の息子。典子の兄。元軍人(階級は少佐)。太り肉(じし)の色の白い大男で、頭を丸刈りにして無精髭がもじゃもじゃしており、かなり爺むさい感じがある。戦後は没落し、村に戻って失意の生活を送っている。美也子とは戦中からつきあいがあり、ひそかに好意を寄せていた。戦況が不利なことを悟り、美也子に資産を宝石等に代えるよう助言したりしていた。殺人現場で美也子を見かけ、苦悩する。事件解決後、最終的に辰弥から田治見家の家督を譲られた。また、女性に対して懐疑的になったことで生涯結婚はしないと決め、妹夫婦の2人目の男児を跡継ぎにすることにした。
○ 里村典子 / 慎太郎の妹。26年前の事件のさなかに8か月で生まれた。実年齢よりかなり幼く見え、精神的にも幼い印象。天真爛漫な性格。額の広い頰のこけた女で、不美人の印象があったが、辰弥に一途な好意を寄せ、傍目にもどんどん美しくなっていく。鍾乳洞で辰弥と結ばれ、彼の子を宿す。
○ お島 / 田治見家に仕えている女中。
○ 野村荘吉 / 西屋と呼ばれる村の分限者。美也子の亡き夫・達雄の兄。太平洋戦争の3年目に脳溢血で亡くなったとされる弟の死に疑念を抱き、美也子に毒殺されたに違いないと考え復讐に燃えていた。
○ 森美也子 / 荘吉の義妹で、未亡人。30歳をいくらか出ている。肌の白くてきめの細かい美人。面長で古風な顔立ちだが、古臭い感じはなく都会的な女性。姐御肌、もしくはそのように振舞っていると辰弥からは見られており、同じ都会人であり、村での数少ない味方として辰弥から好意を寄せられていた。一方で、春代や典子からは素直でない複雑な性格を看破されている。一連の殺人事件の真犯人で、慎太郎に好意を寄せており、没落した彼が金持ちになれば自分に求婚するであろうと考え、彼に田治見家を相続させるため凶行に手を染めた。春代に噛み切られた小指の傷から感染症に罹り、1週間ほど苦痛にのた打ち回った挙げ句に壮絶な最期を遂げた。
○ 諏訪 / 神戸の弁護士。野村家縁者。色白のでっぷりと太った、いかにも人柄の良さそうな人物。美也子にひそかな好意を寄せていたとされる。
○ 新居修平 / 疎開医者。40代半ばくらい。大阪からの疎開者だが、歯切れの良い江戸弁を話す。確かな技術と円満な人柄で、村人の信頼を得ている。その一方で、患者を奪われたと思い込んでいる久野には恨まれている。
○ 井川丑松 / 鶴子の父で辰弥の祖父。胡麻塩頭を丸坊主にした、渋紙色の顔色をしている。孫の辰弥との面談中に毒殺される。
○ 井川浅枝 / 鶴子の母で辰弥の祖母に当たる。
○ 寺田鶴子 / 辰弥の母。旧姓は「井川(いかわ)」。19歳当時郵便局で事務員をしていたが、自分につきまとっていた田治見要蔵にきっぱりと拒否を示したことで、彼の逆恨みによる報復によって拉致され無理矢理、妾にされた。亀井陽一との噂で要蔵に暴行を加えられ、元からの狂態もあって「いつか殺される」と悟って辰弥と神戸に避難。その後、15歳年上の寺田虎造と結婚。辰弥が7歳の頃死去。要蔵にされた仕打ちのトラウマに終生苦しんでいた。
○ 井川兼吉 / 丑松の甥。鶴子が監禁された後に丑松の養子となった。
○ 亀井陽一 / 小学校の訓導(教諭)で、鶴子の恋人。要蔵による拉致以前から鶴子と結ばれており、拉致後も密かに会っていた。辰弥の実の父親。26年前の事件の時は隣村の和尚の元に碁を打ちに行って無事であった。事件後、遠くの小学校に転勤する。
○ 長英 / 隣村の村境にある真言宗麻呂尾寺の住職で英泉の師匠。久弥に個人的に帰依されていた。80歳を超えた老齢で中風にかかり、伏せっている。八つ墓村の住人ではないが村に檀家が多く、村民の信望も篤い。
○ 英泉 / 長英の弟子で、長英にかわって麻呂尾寺のことを取り仕切っている。50代くらい。度の強い眼鏡をかけている、白髪交じりの厳しい顔の男。戦争中は満州の寺で苦行僧となっていたが、終戦後に引き揚げて麻呂尾寺に入った。辰弥の実の父・亀井陽一と同一人物。辰弥の来村を知り、変装して周辺に性情を聞いて回る等していた。洪禅が毒殺された際、辰弥が田治見家を横領するために凶行を重ねており、出生の真実を知る自分が邪魔で殺害しようとしていると思い込んで騒ぎを起こした。一方で抜け穴から密かに田治見家離れに忍び込み、成長した辰弥の寝姿を見て落涙したこともある。事件解決後に師によって息子と引き合わされ親子の名乗りをあげ和解する。神戸の新居で一緒に暮らして欲しいと辰弥に請われるが、殺人事件の犠牲者の冥福を祈ると固辞した。
○ 洪禅 / 田治見家代々の菩提寺蓮光寺(禅宗)の住職。30代くらいで、痩せて度の強い眼鏡をかけており、書生のような風貌。久弥の葬儀の席上、毒殺された。
○ 妙蓮 / 通称「濃茶の尼」。50歳過ぎで、兎口の唇がまくれあがり大きな黄色い乱杭歯がのぞいている。迷信深く八つ墓明神の祟りを恐れている。手当たり次第他人のものを盗む癖があるため、村人たちからは疎まれている。夫と子供を26年前の事件で殺され、出家する。辰弥に対して激しい敵対心を持つ。
○ 梅幸 / 慶勝院の尼。妙蓮とは対照的なきちんとした尼で、村人の人望もある。田治見家関係者以外で辰弥の本当の父親のことを知る唯一の人物。それを辰弥に告げようとした直前に毒殺される。
○ 片岡吉蔵 / 西屋の博労。年ごろ50歳前後の、顔も体もゴツゴツといかつい男。26年前の事件では新妻を殺された。それゆえに要蔵の身内である辰弥に憎しみを抱き、事件が進むに連れて次第に暴走していく。辰弥を追って鍾乳洞に乱入し、落盤により死亡。
横溝正史「八つ墓村」 評
実写化と原作は違う
まず最初に言いたいのは、「八つ墓村」という作品を映画やドラマでしか見たことが無い人には、これから書く話はあまりピンとこないだろうということ。まず原作を読んでもらいたい。
僕は八つ墓村が映像化されたものを2作品しか知らないのであまり大きなことを言えないんですけど、その2作品ともに原作におけるヒロインである知恵遅れ気味の親戚「典ちゃん」は出てきませんでしたし、なぜか主人公に好意を持つ体の弱い義理の姉も出てきませんでした。
そもそも、「八つ墓村」に限らず、小説の映像化というのは否応無く一定の「リアル」感覚が付されてしまうように思います。
ライトノベルとは、ある「お約束」のようなものの上に成り立った、現実とは若干位相のズレた世界です。この絶妙なズレを映像化する技術が出てきたのは、我々の身体にマンガ・ゲーム的感覚が染み込んだ、ごく最近になってからではないでしょうか。
「デスノート」が40年前に映画化されていたら。「暗殺教室」が40年前に映画化されていたら。その作品はどんな風だったでしょう。恐らく、近年行われた実写化以上に人の「死」というものがクローズアップされ、それはよりホラー・スプラッタ的ないわゆる「怪奇」と名が付くような作品として世に出たのではないでしょうか。それこそが「八つ墓村」のたどった道なのです。
つまり、マンガ・ゲーム的感覚が人々の中に存在しなかった時代に映像化された「八つ墓村」は、当時まだそんな言葉は無いが「ライトノベル的」要素が削り取られ、私たちの世界と地続きの世界の話として描かれてしまった。
そして、そもそも「八つ墓村」ひいては横溝正史は角川による金田一耕助シリーズの映画化によってメジャーになった作品・作家です。この先、「八つ墓村」の作品イメージがラノベ方向に覆る可能性は低いと思われます。
だからこそ「八つ墓村」を映像でしか見たことの無い人は、ぜひ原作を読んでみて欲しいのです。
実はハーレムもの
「八つ墓村」といえば、おどろおどろしい、血塗られたストーリー展開のイメージでしょう。でも、「八つ墓村」って実は一種のハーレムものの特徴を備えているのです。
そもそも「八つ墓村」の物語は、主人公の寺田辰弥の元に美しい女性が現れて、彼がとある田舎の名家の跡取りだと知らされることから始まります。
この美人でバツイチの女性は美也子というのですが、彼女は田舎に似合わぬモダンな女性で、知らない土地、それも暮らしたことのない田舎に赴く主人公は物語の序盤、村で唯一都会的な感性を持つ社交的な美也子に淡い好意を寄せるんですね。そんな主人公に対して美也子も優しく相手をする。この「八つ墓村」をハーレムものと見た場合、この美也子が一人目のヒロインです。
二人目のヒロインは主人公の姉の春代です。この春代という女性は大人になってから突然現れた弟に会った瞬間からなぜか恋をしています。
ハーレムものの特徴に主人公がモテる理由が特に無いというのがありますが、この春代はまさにその典型で、特に理由無くなぜか最初から最後まで主人公のことを愛しています。おまけに体が弱くて病気がち。兄弟の間の恋は許されないという意識から表だって主人公にべたべたしたりはしないんですが、折に触れて顔を赤らめるし、嫉妬で柄にもなく美也子の悪口を言っちゃったりします。まるでマンガのキャラみたいです。
三人目のヒロインは「典ちゃん」こと親戚の典子。この子も主人公が八つ墓村に着いてから出会う女性で、主人公のことを「お兄さま」と呼んで慕います。繰り返しますが「お兄さま」でですよ。この子が物語の後半、主人公と行動を共にする、「八つ墓村」のメインヒロインです。
この典子は出自が特殊で、八つ墓村の連続殺人事件の発端である27年前の多治見要蔵による村人32人殺しの直後に早産で産まれていいます。その影響で年齢は27歳と、主人公の辰弥とほぼ同じなのですが、外見は18、19歳ほどにしか見えず、言動もまるで10代の無垢な少女のようなのです。
この典子も、特に大した理由もなく主人公のことが好きになり、それも天真爛漫な典子は「お兄さまのこと好きよ」などと本人に対して好意を隠そうともしません。
だいたい、実年齢・外見・言動にギャップを持たせてそこに一種のインモラルな魅力を演出するのは、近年のマンガやアニメの常套手段です。いわゆる「ロリババア」キャラなどはその典型と言えるでしょう。「八つ墓村」は1949年にすでにそれをやってのけているのです。
推理小説かと思いきや宝探しもの
八つ墓村といえば連続殺人事件を金田一耕助が解決する推理小説というイメージが強いですが、「鍾乳洞の奥に隠された落ち武者の財宝」が物語の大きな要素のひとつとして存在します。
その鍾乳洞の入り口のひとつは主人公が住む多治見家に隠されており、主人公は夜な夜な鍾乳洞を探検します。物語の途中からは典子も一緒です。
しかも、その鍾乳洞には場所によって名前が付いているんですけど、その名前がまた、何とも中二臭い。
曰く、「竜の顎(あぎと)」「木霊の辻」「鬼火の淵」「狐の穴」
ますますラノベっぽいです。
都合のよいラスト
そして、この物語の最後は、主人公がその鍾乳洞の奥の財宝を手に入れ、かわいい典ちゃんとも結ばれてハッピーエンド!なのです。
ライトノベルは読む側の願望を主人公に投影してして快楽を与える傾向が強いジャンルです
主人公が特に理由もなくモテるハーレムもの。主人公が特に理由もなくめちゃくちゃ能力が高い「俺tueeee!」系。最近はその派生として主人公が異世界に転生して、現実世界のありきたりな知識や技術を駆使してその世界で無双する異世界ものにも人気があるみたいです。
八つ墓村も、そうなのです。典子かわいい付き合いたい。鍾乳洞冒険したい。財宝欲しい。小説を読みながら読者が望むことを、主人公は叶えていきます。
ライトノベルが好きな人は是非是非、横溝正史の八つ墓村を読んでもらいたいです。
時間は三倍くらいかかるかもしれませんが、おもしろいですよ。 
 
八つ墓村 (あらすじ)

 

白黒映像で、大量の殺戮シーン。「たたりじゃ、八つ墓のたたりじゃ〜」(二十六年前の惨劇)
…昭和二十四年、神戸。
ヨツワ石鹸に勤務する若い男性・寺田辰弥のところを、ある日諏訪探偵事務所の者が訪れます。
辰弥の父・虎造は神戸の時に爆災に遭って死にました。母・鶴子が死ぬときに「虎造は実父ではない」と知らされました。
辰弥に探偵事務所の者は、「裸になってくれ。間違いなければ余人にはないものがあるはず」と言い、辰弥は背中を見せます。
そこには肩から肩甲骨にかけて、縦一本の長い傷跡がありました。これは実は辰弥が乳児の頃に実父・要蔵から虐待を受けた傷跡です。
それを見た探偵事務所の人物は、辰弥を諏訪探偵事務所に連れて行きました。
そこには初老の男・井川丑松と若い女性・森美也子がおり、辰弥は意外なことを聞かされます。
実は辰弥は、岡山県と鳥取県の県境に位置する八つ墓村にある、400年もの歴史がある資産家・田治見要蔵の息子だというのです。丑松は鶴子の父で、辰弥にとっては祖父に当たりました。
「逢いたかったぞ」と辰弥に近づいた丑松は、血を吐いて絶命しました。
その場にいた辰弥と森美也子らは丑松殺害の嫌疑をかけられますが、すぐに晴れます。丑松の持病の薬のカプセル錠に毒が紛れており、服用は探偵事務所に来る2時間前だったからです。
美也子と丑松は、辰弥に八つ墓村に帰って来てもらいたくて、探偵事務所に辰弥の行方を探させていました。辰弥は八つ墓村に行くと美也子に約束します。
ところが下宿に戻ると、辰弥宛に住所記載のない手紙が届いていました。
『八つ墓村に帰って来てはならぬ。おまえが帰って来ても、ろくなことは起こらぬぞ。おお、血、血だ。弐拾六年前の大惨事がくりかえされ、八つ墓村が血の海と化すであろう』
手紙の文面が気になりながらも、辰弥は美也子と共にSLで岡山に行きます。
…岡山県、八つ墓村。
田治見家は400年前から代々村の長を務める、村では由緒ある名家です。
25代目当主・田治見要蔵は26年前に亡くなり、今は母屋に長男・久弥がいて26代目の当主を継いでいますが、肺病を患っており寝たきりです。
長男・久弥は自分がそう長くないことを察して、次男の辰弥に当主を継いでもらいたくて探させたのでした。
館にはほかに、
・田治見小竹&小梅…実質的に田治見家を仕切っている2人の大伯母。一卵性双生児で瓜二つ。行かず後家(独身を貫いていること)。
・春代…久弥の妹で、辰弥にとっては腹違いの姉にあたる。一度結婚したが、戻ってきた(離婚)。
・里村慎太郎…要蔵の弟・修二の息子(要蔵の甥)。修二は母方を継ぐために里村の養子に。
・里村典子…慎太郎の妹(要蔵の姪)。
ほかに、村唯一の医者で要蔵の下の弟にあたる九野医師、住職の洪禅和尚に引き合わされました。
一族を仕切っている大伯母・小竹と小梅の言うことが、館では絶対的です。
小竹と小梅は辰弥を快く迎え、辰弥が生まれた場所である離れに住むよう言います。春代が部屋まで案内しました。
離れの庭に、ぼろぎれを着た老女が現れます。老女は「濃茶の尼」と呼ばれています。濃茶の尼は辰弥に「帰れ。18人の死人が出る。わしを殺すのか、この人殺し」と言いました。
その頃、神戸の弁護士に依頼されて(諏訪探偵事務所と同じ)、名探偵の金田一耕助も八つ墓村に乗り込んでいます。金田一は村に一軒しかない宿に宿泊しますが、そこは郵便局も兼ねていました。
翌日、長男・久弥が血を吐いて倒れます。毒殺です。事件を聞いて、金田一は早速田治見家を訪問しました。
現場では等々力警部が久野医師に聞き込みをし、毒は久弥が服用する薬に仕込まれていたと知ります。現場には八つ墓村明神の護符が残されていました。
金田一と辰弥は八つ墓村明神を見たいと言い出しますが、明神といっても数十年前から社がありません。また外部から来た2人は「鍾乳洞に入ってはならない」と美也子に言われます。この地域は石灰岩でできたカルスト台地でした。
八つ墓村明神を案内された金田一と辰弥は、この土地の古い歴史を聞きました。
この村は今から400年ほど前の戦国時代に、毛利元就と戦って敗れた豪族・尼子義久の一族の8人が、この村に落ちのびてきました。村人は8人を匿い、炭焼きなどを教えて仲良く暮らします。
ところが毛利方の詮議が厳しくなり、落武者を匿うと命を取る、殺せば莫大な恩賞を授けるというおふれが回ってきました。困った村人たちは相談し、金にも目がくらみ、8人を騙し打ちにして殺します。
村人たちに殺された落武者たちは「恨んでやる。末代までたたってやる」と言いながら死にました。
その後、村で奇怪な出来事が起きます。裏切りの首謀者・田治見庄左衛門が発狂して村人7人を惨殺し、最後に自分の首を刎ねて死ぬ事件が起きました。
村人たちは「尼子のたたり」と思い、ただ埋めていただけの落武者の遺体を掘り返し、墓を作って崇め奉った…とのことでした。
濃茶の尼について質問した辰弥は「主人と子を一度に亡くして尼になった。少々、気がおかしくなっている」と聞かされます。
久弥の葬儀の日、濃茶の尼がやってきて美也子を呼び、美也子は金を渡して帰しました。初七日のことで濃茶の尼が難癖をつけたので、金を握らせたとのことでした。
夜、辰弥は小竹&小梅が納屋に入るのを見て不思議に思い、あとをつけます。納屋の中には着物がはみ出た行李(こうり 衣装ケース)があり、それを開くと中に階段がありました。
階段をおりると地下へ続いており、鍾乳洞に繋がっています。その奥に装束姿の落武者が飾られてあり、辰弥は驚きました。風の吹く方へ出ると、濃茶の尼の庵(家)の近くへ出ます。
そこで辰弥は、慎太郎が立ち去るのを目撃しました。濃茶の尼の庵を覗きこむと、口から血を出して倒れている尼を発見します。
現場には三日月の形の草刈り鎌が残されていました。誰か見たかと等々力警部に質問された辰弥は、見ていないと答えます。
金田一は辰弥が法的手続きを済ませているか、美也子に確認します。
もらった手紙に書かれていた通り、自分が村へ来たことで殺人が起きたと感じた辰弥は、帰り支度をします。金田一と春代の訪問を受けた辰弥は警告状の話をし、それを見せました。
警告状を見た金田一は「書いた人物は相当知能の高い者で、左手で書いた」と言います。辰弥は奇怪なものを見たと言って金田一と春代を納屋の抜け穴に案内し、落武者のところへ行きました。
落武者が人形ではなくミイラ…死蝋(しろう 腐らずに死体がろう状態になったもの)で、まだ新しいものだと言った金田一は、落武者の三日月マークの兜を見て400年前の落武者のたたりと関係があるのかと言います。
春代は「たぶんこの死体は父・要蔵のものだ」と言った後、この村で二十六年前に起きたできごとを話しました。
二十六年前、春代の父であり25代目の当主・要蔵は、ある日突然、妻であり春代の母を切って外へ飛び出します。兄・慎太郎が13歳、春代が7歳の時です。
頭に2本の懐中電灯を角のように立て、胸に1本の懐中電灯をぶらさげた要蔵は、無差別に通行人を襲ったり村人の結婚式の宴や夕食の席を襲ったりして、32人の村人を殺しました。
要蔵は警察に追われて病に倒れ、それを大伯母たちが匿ったのだろうと、春代は言います。要蔵はそのまま鍾乳洞で病死し、死蝋化したものと思われます。
この事件の少し前、要蔵は辰弥の母・鶴子に懸想(恋い慕う)して拉致すると、土蔵に監禁しました。要蔵は周囲の説得も聞き入れないので、やむなく一族は鶴子を離れに住まわせ、生まれたのが辰弥です。
そしてある日突然、要蔵は赤ん坊の辰弥の背中に火箸を押しつけました。
母・鶴子は身の危険を感じて辰弥を連れて逃げ、鶴子がいないことを知った要蔵が怒り狂って村人を襲ったのでした…。
辰弥は壮絶な過去が村にあったと知り、ショックを受けます。
離れに行った金田一は、部屋の屏風の中に葉書大の写真が入っていることに気づきました。そこには男女の写真があり、裏面には「亀井陽一 二十七歳、井川鶴子 二十歳、大正十一年、正月、写す」と書かれていました。
金田一は辰弥の出生について調べるべく、村を出て岡山市相生町へ行きます。写真を撮影した千波時計店を訪ねた金田一は、亀井宛の手紙を手に入れました。
金田一不在の間にも、村には事件が起きていました。九野医師が行方不明になり、等々力警部は犯人が九野だと思いこみます。
大伯母・小梅が鍾乳洞の落武者の兜で前頭部を打ち、死んでいました。さらに鍾乳洞の中には死後二日経過した九野医師の死体も見つかります。
九野医師にはにぎりめしが差し入れられており、にぎりめしに毒が入っていました。
犯人は目的を達成するまで九野が怪しいと思わせたくて、鍾乳洞に匿っていただろうと目されます。
辰弥が来たことで殺人が起きたことを怖がった村人たちは、辰弥を出せと騒ぎ出しました。
岡山市相生町から戻ってきた金田一は「要蔵は猫いらず入りの弁当で、小竹と小梅に殺されたのだろう」と推理し、濃茶の尼の庵にあった掛け軸を見て、犯人に気づきます。
小竹が土蔵で物置を落とされて死亡し、それを発見した春代も首を絞められて殺されました。
辰弥に新聞記事の切り抜きを貼り付けた文字で「犯人について重大なことを教える。よろい武者の下にこい。人に知らせると八つ墓村の惨劇がひろがるだろう」と書かれた手紙が届きます。
金田一は推理を披歴します。犯人は美也子でした。
最初に届いた警告状は、染色に使うアオバナという草木染めで書かれており、切手が貼付されていないことから下宿へ直接届けられたものと推察されます。美也子は丑松と一緒に神戸に出向いていましたから、下宿へ投函が可能です。
美也子の目的は「田治見家の遺産相続人を減らすこと」で、脅して辰弥に遺産相続を放棄させるのも目的でした。美也子は要蔵の甥・慎太郎とひそかに惹かれあっており(深い仲ではない)、慎太郎に財産を相続させようと考えたのです。
濃茶の尼を殺したのは、九野医師の家から薬を盗むところを目撃され、脅されていたからです。慎太郎が濃茶の尼を殺害日に訪れたのは、濃茶の尼に呼ばれていたからです。慎太郎は濃茶の尼の死体を見て、美也子も狙われると早合点していました。
2人の大伯母は遺産相続決定権を持っているので殺し、春代に殺害現場を見られたので殺しました。山の所有権を慎太郎の手に入れさせ、慎太郎の願いの石灰岩の工場を建てさせたかったのです。
辰弥は、鶴子が要蔵に囲われる前に恋仲だった亀井との子でした。それを知った要蔵が怒り狂って、火箸を辰弥に当てたのだと、金田一は美也子に言いました。
すべてがあかるみになったと知った美也子は、隙を見て毒を呑んで自殺しました。事件は解決します。
慎太郎と妹・典子は遺産相続を放棄して、大阪へ行きました。辰弥も神戸に戻りました。 
 

 

 
 
 
 
■鬼熊事件

 

 
鬼熊事件 1
1926年(大正15年)に千葉県香取郡久賀村(現多古町)で発生した殺人事件。
1926年8月20日、荷馬車引きの岩淵熊次郎が、親しかった小間物屋の女性・けいが他の情夫と交際していたことを知り殺害。その後、けいと情夫の仲を取り持っていた知人の菅松の家を放火、けいと交際していた情夫とけいの働いていた小間物屋の店主も殺害し、駆けつけた警官に重傷を負わせ山中に逃亡した。岩淵は「鬼熊」と呼ばれ、警察官、消防団、青年団など計5万人を動員し山狩りを行った。しかし、過去に岩淵に世話になり事情を知っていた村人たちは、岩淵をかくまったり嘘の情報を流すなど捜査を長引かせた。また、身軽で山中に詳しかった岩淵に隙をつかれ捜査員が怪我を負わされ、さらに9月12日には巡回中の警察官が殺害されている。当時のマスコミが事件を大々的に報道した結果、「鬼熊」の名は全国に広まり、『鬼熊狂恋の歌』という曲が作られるほど人気を博した。
9月30日、岩淵は先祖代々の墓所に逃げ込み、恨みはすべて晴らしたとして、取材に来ていた新聞記者や知人の前で村人の用意した毒入りの最中を食べ、剃刀でのどを切って絶命した。なお、岩淵は死亡の2日前である1926年9月28日の時点ですでに自殺を決意していたらしいが、28日は酒を飲んでるうちに眠ってしまい、翌29日に首吊りや頚動脈を切るなどしたが、元々体を鍛えていたことから死に切れなかったと言う。
事件後、岩淵を匿ったり自殺に立ち会った村人や新聞記者が裁判にかけられるが、自殺幇助となった記者や知人はいずれも執行猶予つきの温情判決が下され、村人たちも無罪とされた。
背景
犯人の岩淵熊次郎(いわぶちくまじろう、1892年 - 1926年9月30日)は久賀村で荷馬車引きとして生計を立て、妻と5人の子供と暮らしていた。岩淵は仲間に酒などを奢ったり、高齢者や非力な村人の仕事を手伝ったりなどしていたため、村人の間では信頼されていた。一方で女癖が悪いことでも有名であり、以前から女性関係でトラブルになっていた。
岩淵がけいと知り合った際も周囲の反対を聞かずに親しくし、けいに好意を持っていた別な男に諦めさせようとしていたが、岩淵の知人がその男を情夫として仲を進展させようと、岩淵を恐喝罪や過去の女性トラブルなどによる被害届けを出し、警察に告訴した。その後、3ヵ月後に執行猶予付きの判決が下り釈放された岩淵がけいに会いに行った際、事態を知ったことで激怒し犯行に及んだ。
前述の通り、岩淵は村人の間では信頼されていたが、逆に殺害されたけいや小間物屋の店主は、色仕掛けで商売を行うなど村人の間ではあまり好かれていなかったため、村人たちは岩淵に同情し食事を与えたり警察に嘘の情報を流したりしていた。また、事件の影響で村に報道関係者などが多数訪れたことから、商店や宿屋などを経営している村人からは感謝されていたという。
事件当時、新聞などのメディアでは、岩淵が自分を裏切った者に対する復讐として事件を起こしたとして同情的な記事を掲載していた。さらに、当時の警察官は一般人などに威張り散らした言動が多く、反感を買うことも多かったことから、警察官を殺傷したことも全国的な人気を得る一因となった。加えて逃亡の末に自殺したことも潔い最期として賞賛されたという。
 
鬼熊事件 2

 

1926年(大正15年)8月18日、千葉県香取郡久賀村(現・多古町)で、荷馬車引き・岩淵熊次郎(39歳)が4人を殺傷して、山中に逃げ込んだ。熊次郎は「鬼熊」と報じられたが、村の人々は彼を捕らえさせまいと匿い続けた。しかし、熊次郎は逃走から40日後の9月30日に自殺した。
岩淵熊次郎
千葉県香取郡久賀村(現・多古町)に、馬車引き・岩淵熊次郎(39歳)という男がいた。実直な性格の働き者で、仲間に気前良く酒をおごることもあり、村内では「熊さん、熊さん」と呼ばれ親しまれていた。
熊次郎が35歳の時、上野国から来て小料理屋「上州屋」をやっていたK子さん(事件当時27歳)という女に惚れ、深い仲になった。(ちなみに当時K子さんには子どもがいたし、熊次郎の方にも妻と5人の子どもがいた)
村の人々は「実直な熊次郎が、あばずれ女に騙されている」と噂し合っており、案の定、K子さんにはSさん(当時25歳)という情夫が出来た。
K子さんに冷たくされても、未練を残す熊次郎は彼女の家を訪れた。しかし、やがて口論となり、逆上した熊次郎は刃物で彼女を脅かし、村の駐在所のM巡査に逮捕された。
1926年(大正15年)8月18日、千葉地裁八日市場裁判所で懲役3ヶ月、執行猶予3年の判決を受け、その日に釈放された。
一晩の狂気
釈放された翌日の8月19日夜9時頃、熊次郎はK子さんの店を訪ねた。詫びるつもりで、しばらくは酒を飲み交わしていたが、タイミング悪くそこへSさんがやってきた。熊次郎はSさんに殴りかかった。Sさんが逃げると、K子にも殴る蹴るの暴行を加え、薪で頭を殴り殺害した。さらにそこへ顔を出した老婆に対しても、敵だと思いこみ、薪で殴り負傷させている。
「上州屋」を出た熊次郎はSさんを追いかけ、彼の家に向かったが不在だった。
続いて同村高須原の農業・Tさん(当時42歳)の家に乱入して、石油を撒いて火をつけた。Tさんは以前にK子さんとのことで仲裁者となってもらった人物である。しかし、一方で彼はK子さんに「女房子持ちの熊次郎なんかやめて、独り者のSにしろ」とおせっかいを焼いていたことを耳にしていたのだった。燃え盛るTさん方にすぐに消防団が駆けつけたが、「一家焼き殺すんだ。消すんじゃねえ」と彼らにも鍬で殴りかかり、負傷させた。Sさん方は全焼。Tさん一家は避難していて無事だった。
今度は以前に自分を逮捕したM巡査への恨みがこみ上げてきた。まっすぐ駐在所に向かうが、巡査は不在だったので、置いてあったサーベルを盗んで、電灯と電話線をぶった斬った。
次の恨みは以前にK子さんとは別の女性をエサに熊次郎から金をとっていた茶屋経営・Iさん(49歳)である。応対してきたところをサーベルで斬りつけ、駐在所の方に助けを求めにいくところにとどめめをさした。
返り血を浴びた熊次郎が我が家に戻ると、通報を受けて張り込みをしていた多古署のY刑事がやって来た。Y刑事は拳銃が不調だったため、下駄で応戦しようとしたが、サーベルで切りつけられ重傷、熊次郎は山中に逃亡した。
熊次郎はこのようにして、一晩で2件の殺人、1件の放火、4件の傷害を犯した。ひとつのきっかけで”キレて”、それまで溜まっていた他の恨みを、まとめて晴らした事件だった。
逃げる鬼熊、匿う人々
9月に入っても熊次郎は逃げ続けていた。新聞は連日、「鬼熊事件」を報じ、小さな村の事件は全国的に知られるようになった。
村人達は普段から農民相手に色仕掛けで儲けをするK子やIに反感を持っていた。威張り散らしていた警官も同様だ。熊次郎が警官を切りつけたと聞いて、心の中で拍手を贈っていた者もいたようだ。こうした理由から村人達は熊次郎に食料を与え続け、警官には嘘の情報を流して、捜査を妨害していたのである。
しかし、警察の包囲網は迫る。青年団や在郷軍人会など1万人を動員して山狩りを行ない、また民間人でも力づくで鬼熊を捕まえてやろうとする人や、「鬼熊説法僧侶団」なる団体までもがこの村に集まってきた。
9月25日、熊次郎は消防団長・山倉長次郎らと会い、久高村消防団小頭・多田幾太郎と兄・清次郎に会わせてもらった。やがてそこに東京日日新聞佐原町通信員・坂本斎一もやって来た。坂本記者はスクープを狙い、多田に30円から50円でネタを知らせてくれと依頼していたのである。彼は自首を勧めたが熊次郎は、次のように語ったという。「すまねえ、すまねえ、堪忍しておくんなせえ。わしは村の衆にも、ここから大声であやまって死にてえだが、怒鳴ったくれえでは2、30人の衆にしか聞こえねえだから記者さまよ、わしのこの気持ちと無念を字に書いて何百万という人に伝えてくだせえ」
28日夜、熊次郎、頸部を切ったが死ねず、首を吊ろうとしたがこれも未遂に終わった。結局、清次郎ががストリキニーネを最中に入れて渡し、熊次郎は30日未明に村内にある先祖代々の墓前でそれを食べ、午前11時20分に絶命した。1ヶ月以上にわたって国内を騒がせた兇悪事件の意外な結末だった。
1927年(昭和2年)2月4日、千葉地裁八日市場支部・矢部桂輪裁判長は自殺幇助は無罪として犯人隠匿罪のみを問い、多田に懲役6ヶ月執行猶予2年、山倉に懲役3ヶ月執行猶予2年、坂本に懲役4ヶ月執行猶予2年をして、熊次郎を匿ったとされる他の被告は無罪とした。
 
村人たちが逃亡を手助けした殺人犯・岩淵熊次郎 3

 

一晩で2人を殺害し、4人を負傷させた上に放火も1件行い、山の中へ逃亡した男がいた。しかし村の住民たちは逮捕に非協力的で、逆にこの男を匿(かくま)い、逃亡を手助けしていた。
岩淵熊次郎という男
大正時代、千葉県の香取郡 久賀村(現・多古 <たこ> 町)に、岩淵熊次郎(いわぶち くまじろう)という男がいた。
少年時代、学校が嫌いだった熊次郎は学校も4年ほどで行かなくなってしまい、手紙も書けないまま成長して12歳の時から、ある大きな農家に雇われて働くこととなった。
その農家に作男(さくおとこ)として15年勤めた後、そこを辞めて今度は荷馬車引きへと仕事を変えた。荷馬車引きとは、現代で言う運送業のようなもので、久賀村の材木を町へと運び、その帰りには町で仕入れた肥料を村まで運ぶという仕事である。
熊次郎は、性格も行動も、ほとんどの村人たちから好感を持たれているような男であり、困っている人を見ると放っておけないような性格だった。高齢者の仕事や病人を抱(かか)えてのいる男の仕事などは積極的に手伝ってやり、いつも弱い者の味方をしてやった。
馬車引き仲間にもよく酒をおごってやったり、同業者で新人が入ると何日のその男の面倒を見てやったりなどの親分肌で、熊次郎は、いつの間にか馬車引き仲間の中では顔役になっていた。
身体は頑丈で力も強く、米俵2表を担(かつ)げるくらいだった。酒も2升飲むなど豪快な男であり、村の人たちは「熊さん、熊さん」と親しみを込めて呼んでいた。
しかし女にだらしないのが欠点であり、妻と5人の子供がありながら、惚(ほ)れた女に贈り物をしたり、身体の関係を持ったりなどと、不倫の方も結構盛んに行っていた。
「おはな」に惚(ほ)れる
34歳となった熊次郎はある日、「吉野屋」という旅館に勤める「おはな(28)」という女性と知り合った。ただ、「おはな」は独身ではない。柳橋信一という夫がいる。
彼女の身の上話を聞いてみると、自分は借金のカタにここに売られてきたのだという。そして旅館の方から、金の前借りもしているらしい。
おはなと知り合った時には同情という感情しかなかった熊次郎だっが、おはなとたびたび合っているうちに本気でおはなに惚れてしまい、おはなの借金を代わりに払ってやることに決めた。
自分の商売道具でもある馬を売り払って50円を作り、「この金で借金を返せ。」と、その金をおはなに与えた。そしておはなを説得して家から出させ、熊次郎の知人である「土屋夫妻」に頼んで、この土屋夫妻の家でおはなを預かってもらうことにした。
しかし熊次郎の頼みを聞いて一旦はおはなを預かった土屋夫妻であったが、それから毎日毎晩、熊次郎がおはなに合いに来る。あまりにも熊次郎がしつこく会いに来るので、土屋夫妻もだんだんと腹が立ってきて、ついには熊次郎とケンカになってしまった。
ケンカ別れした土屋夫妻の家から再びおはなを引き取った熊次郎は、今度は別の知人である「岩井長松」に頼み込んだ。岩井長松は茶屋を経営している男で、熊次郎が頼み込むと何とか承諾してくれて、おはなを引き取ってくれることとなった。
熊次郎は今度は、岩井長松の家を訪問するようになった。しかし岩井長松は前の土屋夫妻とは違い、熊次郎をいつも門前払いにして、全くおはなに合わせてくれない。
そして会えないまま1週間が経った時、おはなは自分から岩井長松の家を出て、夫である柳橋信一の元へと帰って行ってしまった。
借金を払ってやり、面倒をみてやって旅館とも引き離してやったにも関わらず、結局「おはな」は、熊次郎ではなく、夫の方を選んだということである。もちろんそれは当たり前の展開なのかも知れないが、熊次郎にとって、この「おはな」の行動は、大変なショックであった。
そして後に判明したことであるが、おはなを引き取ってくれた土屋夫妻も岩井長松も、おはなの夫である柳橋信一に頼まれて、おはなを夫・柳橋信一の元へ戻すために協力していたのだという。
更に、おはなには旅館に対して、別に借金などはなかったという話も耳に入ってきた。自分がおはなに渡した50円はだまし取られたようなものだった。
借金があると嘘を言い、渡した50円をそのまま持ち逃げした「おはな」、引き取った「おはな」を預かってくれと頼んだにも関わらず、裏では「おはな」を夫の元へと帰そうと画策していた「土屋夫妻」と「岩井長松」。
結局全員に裏切られたわけであり、全てを知った熊次郎は激怒し、全員に深い恨みを持つこととなった。この時の一件で、岩井長松は、後に熊次郎に殺害されることになる。
別の女・おけいに惚れる
おはなのことはショックで相当な恨みが残ったが、気の多い熊次郎はまたもや別の女に惚れた。小料理屋である「上州屋」に勤める「おけい(23)」である。熊次郎は積極的に言い寄り、たちまちのうちに身体の関係まで行って愛人関係になった。
この女といい関係を続けていくためには、やはり贈り物は絶対必要である。しかし贈り物をしようにも自分にはそれほどの金はない。自分の財産である馬は、おはなの時に売ってしまった。
金を得るためにあれこれ考えたあげくに考えついたのが、「おはな」の時に売ってしまったその馬が、まるでまだあるかのような口ぶりで誰かに売買交渉し、代金を先にもらうという詐欺であった。
その詐欺に引っかかった男がいた。熊次郎はありもしない馬を売る約束をし、代金の80円を先に受け取って、この男から金をだまし取った。もちろん、そんなことはすぐにバレるのであるが、熊次郎は受け取った馬の代金80円の半分をすぐに「おけい」に渡してやった。
その他、米を与えたり反物(たんもの)を買ってきてやったりと、熱心におけいに贈り物をした。以前、おはなに裏切られた反動からか、熊次郎はおけいにのめり込み、夢中になっていった。
だがこのおけいは、村ではあまり評判のいい女ではなかった。
「色じかけでお客を引っ張る。」「何人もの男と関係があるんじゃないか?」「熊さんは、あの女にだまされている。」などと、村の人たちはよく噂をしていた。
実際、噂の通り、おけいには「菅沢 寅松(25)」という彼氏がいた。(以下・寅松)
おけいは熊次郎からの贈り物は受け取るし、身体の関係もあったが、心は彼氏である寅松に傾いていた。熊次郎のことは、現代で言う「貢(みつ)ぐ君」のようにしか思っていなかったようだ。
もちろん、熊次郎はおけいに彼氏がいるなどということは、全く知らなかった。
おけいにも裏切られる
大正15年6月25日、熊次郎が一杯飲んで、おけいの家を訪ね、部屋の外から興味本位で中の様子をちょっとうかがってみると、おけいの部屋からあえぎ声が聞こえてくる。妙に思って聞き耳を立て、そっと中を覗くと、おけいは別の男(寅松)と布団の中で抱き合っている最中だった。
その光景を見た瞬間、熊次郎は激怒した。戸を蹴破り、中へと怒鳴り込んだ。
「このアマーっ!」と、おけいと寅松に近寄る。
びっくりした寅松は、布団から飛び起き、走って台所裏から逃げ出した。熊次郎はおけいの髪を掴(つか)んで引きずり回し、怒りにまかせて殴って殴りまくった。
おはなに続いておけいまでもが自分を裏切ったことに対してどうしようもない怒りが沸いてきた。
殴られながらも、おけいは必死に逃げ出し、村の駐在所へと駆け込んだ。警察へ通報されたわけだが、この時は逮捕まではされなかった。熊次郎は駐在所の向後巡査から厳重注意を受けた。
これ以降、熊次郎は、「寅松を殺してやる。」と、村の人たちに公然と言うようになった。
寅松の父親が心配して向後巡査に相談を持ちかけ、熊次郎と寅松の仲裁に入ったが、熊次郎の怒りはおさまらない。また、寅松の父親と向後巡査は、おけいに対しても、熊次郎と別れるように助言していた。別れるように勧めただけではなく、
「熊次郎には妻も子供もいる。熊次郎はやめて、ワシの息子の寅松と一緒になってくれんか。」と、寅松を選ぶようにも助言している。
寅松の父親と向後巡査のこれらの言動は、どういう経緯か分からないが、後に熊次郎の耳に入り、熊次郎はこの2人に対しても激しい憎しみを感じるようになっていった。
惚れた女2人は両方とも自分を裏切った。そしてそれぞれの女の周りにいる人間たちも自分の邪魔をする。熊次郎は怒りがどんどんと溜まっていった。
熊次郎、逮捕される
7月7日、午前10時、畑仕事をしていたおけいの前に突然熊次郎が現れた。おけいを強引に上州屋まで引っ張っていった後、ほとんど監禁状態にして、16時ごろまで寅松との関係を激しく問い正した。
しかし、おけいはすでに熊次郎に愛情を感じなくなっており、その冷(さ)めた態度に頭に来た熊次郎は、突然包丁を持ち出し「殺してやる!」とおけいにつきつけた。
それを見ていたおけいの祖父は、びっくりして駐在所に助けを求めに走った。おけいが逃げまわっている間に何とか向後巡査が駆けつけ、熊次郎は脅迫罪で逮捕された。熊次郎は多古警察署へと連行された。
これ以降、3か月ほど警察署に拘留(こうりゅう)されることとなった。これまでの一連の脅迫、暴行、それに馬の代金をだまし取った詐欺などで、裁判では懲役3か月を言い渡された。
ただし、執行猶予3年がついていたので、懲役に行かされることはなく、判決後はすぐに釈放された。
怒りが爆発・おけいを殺害
大正15年(1926年)8月16日、熊次郎は、自分が以前勤めていた農家の主人の家を訪ねた。自分が警察署に拘留されている間、この農家の主人が釈放のためにあれこれと手をまわしてくれていたという話を人から聞いたからである。この人のおかげで3か月程度で済んだと言える。
熊次郎は、釈放されるとすぐに、この農家の主人にお礼を言おうと思って、家を訪問した。農家の主人も喜んで熊次郎を家に招き入れ、釈放祝いとして、一緒に祝い酒を飲んだ。
つかの間の楽しいひとときを過ごした後、熊次郎はこの家をあとにし、今度はおけいの家へと向かった。
「おけいにひどいことをしてしまった。謝りたい。」
警察に拘留されている間にすっかり冷静になった熊次郎は、そう考えながらおけいの家に向かった。
熊次郎の突然の訪問に、最初、おけいはびっくりして、あの時の恐怖が頭をよぎったが、熊次郎は意外なほどに穏やかでにこやかだった。何より、何度も頭を下げるその態度におけいもほっと一安心した。
久しぶりに家に上げて、酒を出してもてなした。熊次郎も大分酒がまわってきたようだ。穏やかな雰囲気の中、おけいと2人きりで楽しく飲んでいたのだが、そこへ突然、あの、憎い「おけいの彼氏である寅松」が、おけいを訪ねて家の中へと入ってきた。
熊次郎とばったり出会ってしまった。最悪のタイミングだった。
おけいと寅松に恐怖と緊張が走る。熊次郎が、かつて殺してやると公言していた寅松が、今、自分の目の前にいる。
しかし熊次郎はあくまで冷静だった。寅松に対し、一緒に飲もうと誘った。寅松の方にしても、断ると熊次郎の怒りを買うことになるかも知れないと思い、一緒に飲むことにした。
しかし3人で飲んでいたのもわずかな時間だった。おけいと寅松の会話から、いまだに2人の関係が続いていることがはっきり分かった。自分が拘留されている間に、ますます深い仲になったようだ。
更に寅松は、今日はおけいの部屋に泊まって夜を2人で過ごすつもりだったことも察することが出来た。
どの会話がカンに触ったのかは分からないが、ある瞬間、突然熊次郎がキレた。
「このアマーっ!!」
いきなり怒りが頂点に達した。これまで我慢していたものが一気に吹き飛んだようだった。普通に飲んでいたと思っていた熊次郎が突然激怒したのだ。おけいも寅松もびっくりした。
あっと思う間もなく、熊次郎はおけいに襲いかかり、髪をワシ掴(づか)みにすると部屋の外へと引きずり出した。土間にあった薪(まき = 火を燃やす時に燃料にするための木材)を掴(つか)むと、それを思いっ切りおけいの頭に叩きつけた。
おけいの悲鳴が上がる。怒りが爆発した熊次郎は一発では止まらない。おけいの頭を全力でメッタ打ちにした。その勢いは、おけいの髪がそがれ、頭蓋骨が見えるほどだったという。
悲鳴を聞いて駆けつけてきた、おけいの祖母がびっくりして、必死に熊次郎の手にしがみついて、止めようとするが、熊次郎は手を振りほどき、逆に祖母の頭にも強烈な一撃を加えた。祖母はそのまま気を失って倒れた。
おけいはここで死亡した。
恐怖した寅松は、家の裏口から逃げ出し、走って50メートルほど先の農家に逃げ込み、助けを求めた。熊次郎もおけいの殺害後、寅松を追ったが見失ってしまった。寅松の家に行ってみたが、家には帰って来ていなかった。
仕方がないので、寅松は後まわしにした。感情が爆発した熊次郎は、この後から、憎い奴らを次々と襲っていく。
岩井長松を殺害
次に熊次郎は、寅松の父親の家へと走った。寅松の父親は、自分とおけいとの仲を裂こうとした人物であり、「熊次郎と別れて、息子の寅松と一緒になってくれ。」などとおけいに言っていた人物である。
家に着いた熊次郎は、この家の周りに石油をまいて、すぐに火をつけた。一気に凄い炎があがった。
突然の火災に村の鐘が打ち鳴らされ、消防団が駆けつけた。「一家焼き殺してやるんじゃ!邪魔するんじゃねえ!」
と、熊次郎は消防団に怒鳴り、逆らった村人たちの背中を鍬(クワ)で殴りつけ、彼らも負傷させた。
間もなく家は全焼した。寅松の父親一家は何とか避難出来、幸いにも火災による死者は出なかった。
殺すことは出来なかったが、寅松の父親への復讐を終えた熊次郎は、今度は駐在所の向後巡査を狙った。この巡査もまた、寅松の父親と共謀して自分とおけいの仲を裂こうとした人物であり、以前、自分を逮捕した人物でもある。
駐在所へ走って来たが、あいにく向後巡査は不在で、駐在所には誰もいなかった。熊次郎は壁にかかっていたサーベルを盗むと、今度は岩井長松が経営している茶屋へと走った。
次のターゲットと決めた岩井長松には、「おはな」の時の恨みがある。おはなを預かってもらった時、おはなの夫と共謀して、おはなを夫の元へと送り返した人物だ。
茶屋について声をかけると、岩井長松が応対に出てきたので、熊次郎はいきなりサーベルで胸を突き刺した。悲鳴を上げて逃げようとするところを追いかけていって更に突き刺して、完全に殺害した。
おけいに次いで、これで2人目の殺人である。
サーベルを持って、いったん自宅に戻って来た熊次郎は妻に対し、これから寅松と向後巡査、おはなを殺しに行くと叫んだ。
そこへいきなり山越巡査が現れた。通報を受けて、熊次郎の自宅を見張っていたのだ。完全に頭に血が昇っている熊次郎は、逮捕しようとした山越巡査に対してもサーベルで切りつけ、瀕死の重傷を負わせた。
警察の手が迫っていることを実感した熊次郎は、自宅を飛び出した後、このまま山へと逃げ込んだ。
この一晩での被害者は、殺害された者が2人、負傷者が4人、放火された家が一軒となった。おけいと寅松に会ったことが引き金となり、それ以外に恨みのあった者に対しても一気に怒りが爆発したような事件だった。
逃亡した上に、まだ殺人を行おうとしているという情報はすぐに多古警察分署にも伝えられ、警察官以外に消防署の隊員まで動員されて、考えられる逃走経路には全て見張りが配置された。
9月12日、いったん山から降りて来た熊次郎は、ばったりと巡回中の警官に会い、この時も格闘の末にサーベルによって殺害している。
最終的に熊次郎が殺害した者は5人となり、そのうちの2人は警官だった。
山の中で長期間の逃亡生活に入る
この後、熊次郎は完全に姿を消した。連日、大量の警官を動員して捜索を行ったが手がかりはほとんど得られない。
熊次郎は事件の後、42日間に渡って、山の中で警察から逃げ続けた。事件終了までに動員された警官は、延べ3万6千人と言われている。これ以外にも消防や青年団が2万人捜索に加わっている。
しかし夏とはいえ、毎日野宿で、食べる物もないはずなのに、これだけの長期間に渡って山の中で逃げ続けることが出来たというのも妙なことである。
普通であればすぐに衰弱して、警察の包囲網に引っかかりそうなものであるが、熊次郎は逃げ続けることが出来た。これだけの期間、逃亡が可能だったのは、村の人たちが協力して熊次郎をかくまっていたからである。
熊次郎は村人たちから好かれていた。
逆に殺されたおけいや長松は「色仕掛けでお客を引っ張る」などと言われ、村の中でも嫌われ者の方であった。
それに加え、この時代、警官たちは庶民に対してかなり威張り散らしたり高圧的な態度をとったりしていた者が多く、庶民の大半が警察に反感を持っていた時代でもあった。
「嫌いな奴らを殺してくれた上に、警官まで殺してくれるとは、熊さんもやってくれる。」
こういった意識が多くの村人の中にあったらしい。
熊次郎に世話になった人、事件に対して「よくやってくれた」と思っていた村人たちが、熊次郎のために縁側に食べ物を置いておいたり、こっそりと泊めてやったり、食事を提供したりした。村ぐるみで熊次郎の逃亡を助けていたのである。
更に、警察に嘘の情報を流して捜査を混乱させたりもした。
マスコミの報道
なかなか捕まらない熊次郎の事件に対し、新聞社も大々的に連日事件を報道した。熊次郎は事件の残虐性からマスコミが「鬼熊」と名付け、鬼熊事件と呼ばれた。
「鬼熊狂恋の歌」という曲が作られるほど日本中が注目し、逃げまわっている間、過熱な報道が紙面を賑(にぎ)わせた。
毎日押し寄せる大量の報道陣のおかげで、村で商売をしている人たちや旅館はずいぶんと儲けさせてもらった。こういった面でも熊次郎は感謝されたようである。
そして多くのマスコミが取材をしていく一環で、意外なことが分かってきた。
熊次郎のことを村人たちに聞いても悪く言う人はほとんどいない。病人のいる家庭や弱い者を積極的に助け、馬車引きの新人が入れば面倒をみてやり、受けた自分の仕事は雨でも雪でもきちんと遂行(すいこう)し、仕事に対しても非常に真面目であるという。
だんだんとその人柄が分かるに連れて、マスコミたちも熊次郎の表記を「鬼熊」から「熊さん」へと変更していった。殺人犯に「さん」をつけるのは異例のことである。
逃亡を続ける熊次郎であったが、山の中で一ヶ月以上を過ごした時、だんだんと自殺を考えるようになってきた。
9月25日、熊次郎は、村の者にセッティングしてもらって村の消防団の団長と自分の兄、そして東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者と会った。
この場に新聞記者が現れたのは、この記者が前々から村の者に、「謝礼を払うので、熊次郎のことで有力な情報があったら教えて下さい。」と頼んでいたからである。謝礼は当時としては高額な50円が支払われた。
皆で熊次郎に、警察に出頭するように勧めたが、熊次郎は、「すまねえ、勘弁しておくんなせえ。」と拒否し、自殺する意思のあることを伝えた。
「ここから村の衆に大声で謝って死にてえだが、怒鳴ったくれえでは2〜30人の衆にしか聞こえねえ。」
「だから記者様よ、わしの気持ちと無念を字に書いて何百万人という人に伝えて下せえ。」
熊次郎は記者のインタビューでこういった発言をしている。
自殺を手助けした村人たち
大正15年9月28日、熊次郎は自殺を完全に決意するが、この日は酒を飲んでいるうちに眠ってしまい、翌日の29日、首を吊ったり首の動脈を切るなどしたが、この日も死に切れなかった。
翌日の30日、熊次郎の兄や村人たちは、熊次郎から頼まれていた毒入り(ストリキニーネ入り)のモナカを熊次郎に手渡した。
熊次郎は、村人や新聞記者の立ち合いのもと、先祖代々の墓の前でそれを食べ、カミソリで再び首の動脈を切り、午前11時20分ごろようやく死ぬことが出来た。ただ、首の傷の方はそれほどの傷でもなかったらしく、直接の死因は毒物の方であった。
一ヶ月以上に渡って日本中が注目していた熊次郎の事件は自殺という形で終了することとなった。
後に、自殺する意思があることを知っておきながら、毒入りの食べ物を渡した村人たちや、警察にも知らせずに取材を行った新聞記者は、自殺幇助(ほうじょ = 自殺の手助けをする)として裁判にかけられた。
また、熊次郎を匿(かくま)っていた村人たちも裁判にかけられることとなった。
昭和2年(1927年)2月7日、千葉地裁 八日市場支部で行われた裁判では、毒入りのモナカを渡したことが殺人になるか、自殺幇助(ほうじょ)になるかということで、かなりの議論が交わされたが、自殺幇助という判決となった。
ただ、自殺幇助については無罪とされ、犯人隠匿(いんとく)罪のみが問題視された。
言い渡された判決は、村人の中の3人に懲役3ヶ月から6ヶ月が宣告されたが、いずれも執行猶予つきの判決であった。また、熊次郎をかくまった村人たちは無罪となった。  
 
鬼熊、恋の復讐劇 4

 

(上)裏切った情婦を殺し山中に逃走…大捜査網をかいくぐり警官らを次々殺害
大正15年8月の暑い盛りのこと。現在の成田空港に近い千葉県香取郡久賀村(現・多古町)で、一人の粗暴だが純情な男が恋心をもてあそばれ、相手の女らを殺して山中にこもり、恋敵らにも復讐(ふくしゅう)しようと命を狙い続けた。いちずな男が警察をてこずらせて立ち回る痛快な様子が、新聞で連日報じられ、犯人の「鬼熊」は一躍、人気ヒーローになった。
情婦に二股かけられ
事件の主人公は、後に鬼熊と呼ばれる荷馬車引きの岩淵熊次郎(35)。熊には、妻と5人の子がいたが、加えて吉沢けい(27)という女とも肉体関係を続けていた。
さかのぼること2カ月の6月25日夜、熊は、けいが祖父の経営する居酒屋の蚊帳で、同じ村の菅沢寅松(25)と一緒にいるところに出くわして逆上。けいの髪と寅松の腕をつかんで引きずり回すなどし、傷害・脅迫罪で告訴の上7月8日に収監。千葉県八日市場町(現・匝瑳市)の八日市場裁判所(地裁支部)で懲役3月・執行猶予3年の判決を言い渡され、17日に出獄したばかりだった。
20日は、寄りを戻してほしいとプライドを捨ててけいに懇願したが、冷め果てた態度で首を振るけいにかっとなり薪で撲殺、止めるけいの祖母、はな(69)にも重傷を負わせた。さらに、近所の菅沢種雄(42)方に立ち寄ってマッチで放火して全焼させる。種雄は、けいに寅松とも仲良くするようけしかけた男で、裁判でも熊に著しく不利な証言をしており、熊はその恨みを晴らしたというわけだ。
種雄の家が全焼したのを見届けると、駐在所に忍び込んで恨みのある向後巡査を殺害しようとしたがそれは果たせず剣を盗み出し、けいが奉公する物販販売業、岩井長松(49)方に押し入って同人をも殺害した。
警察は非常線を張り、消防組とともに捜索。消防組員が熊を発見し捕らえようとしたがシャベルで腹部を突き刺して重傷を負わせて逃走、さらに多古署の山越刑事も逮捕しようとしたが凶器を振るって左肩から腕にかけて重傷を負わせ山林深くに逃げ込んだ。
熊の怒りの理由
熊次郎がここまで逆上したのには、それなりの理由がある。熊次郎が恋情を寄せていた「けい」は、祖父母の啓十郎(70)、はな、けいの私生児、正(5)の4人暮らし。けいは多情な女と後ろ指をさされていたが、祖父母や息子を養うためにしかたない面もあったと同情される。果たして、けいは、二股をかけ、うち25歳の若い寅松の方を選んだ。寅松は親戚に貴族院議員の菅沢重雄を持つ、豪農である。けいの奉公先の主人、岩井長松が独身の寅松と縁を結ぶようにしむけた。
実は熊次郎は、第2の情婦「はな」にも裏切られている。妻がありながら2人の情婦を抱えるとは、なんとも精力旺盛なと思えるが、この時代、妻の不貞は許されないが、夫は公然と妾を持てた。さらに、警察官も一般庶民を相手に威張り散らす、いやな存在だった。今の価値観で、2人も妾を作り、警察官まで殺してと、熊を非難するなかれ。熊の立ち回りの善悪を判断するには、約90年も前の大正末期の空気を踏まえる必要がある。
高橋はな(27)は、久賀村にある料理店の酌婦で、山武郡大総村(現・横芝光町)の掛け茶屋の柳橋信一(41)がその情夫であった。はなは、信一が身請けの金を用意できなかったため、熊を利用。熊が詐欺まで働いて金80円を工面し、おはなを身請けすると、久賀村四角山の旅人宿の土屋忠治(41)に預けた。しかしある日、忠治方ではなと信一とがあいびきしていることに感づき、今度は岩井長松に託する。ところが、長松までもが、熊の信頼を裏切っておはなを信一の家にかくまった。これがそもそもの熊の失恋劇の始まりなのだ。
熊は、長松の家からはなが消えてからというもの、まるでキツネが憑(つ)いたかのようになり、はなを探し回る。3カ月もたつと恋やつれで荷馬車引き仲間でも熊に同情しないものはいなくなり、皆がはなの行方をひそかに追った。そんなある日、荷馬車引き仲間がついに本大須賀村(現・成田市)の料理屋「宮本」で発見。駆けつけた恋に盲目の熊は、またもや、はなに丸め込まれる。ここから出るにはカネが要る−。
恋に狂った哀れな男
金策を練った揚げ句、今度は他人の馬を300円で売る約束をして100円の手付金を詐取。ところが「宮本」は150円が必要だと言い張る。そのうち馬を勝手に売る交渉をしていたこともばれて、混乱の中、再びはなが逃げた。狂乱せんばかりの熊に、どうにか兄清次郎がはなのことを思い切らせたが、その失恋の痛手から、こんどは旧知のおけいに夢中になってしまった。
長松を信用しきっていた熊は、けいも長松の旅館に預けた。しかし、長松は、またしても熊を裏切り、けいと寅松との仲をとりもったというわけだ。
熊については、荷馬車引き仲間だけでなく、村民の評判も決して悪くない。
久賀村近辺はよそで食いはぐれた者どもが、荒れてはいるが農業をやる土地を求めて集まってくる場所。熊には、こうした者たちにも男気をみせるところがあった。最初の脅迫事件でも、元の主人であり、前県会議員の五木田太郎吉が奔走し、軽めの判決を導いた。
山中にいた熊
殺人事件後、しばらく山中に姿をくらましてしていた熊だが、25日午後9時ごろ、久賀村の寅松の家に忍び寄った。しかし、警戒中の人々が気付き騒ぎ立てたため、目的を果たさず逃走。すでに高飛びしたかと思っていた捜査本部も26日には、各消防組に連絡して大捜索を繰り広げた。それにしても、1千人を超える大警戒の中で、復讐を敢行しようとするのは、度胸が座っているのか、無鉄砲なのか、怖い物知らずである。
9月3日になり、熊が再び人里に現れた。まず多田幸次郎方の裏手に現れたのを長女たま(15)が発見、連絡を受けた警戒部隊が付近を捜索したところ、熊の足跡を発見。伝っていくと農家、佐藤平内(25)の留守宅で消えており、畳の上に上がって食事をした痕跡が残っていた。熊が狙っている土屋忠治や菅沢寅松の家からそれぞれ10町(約1キロ)ほどであるため、この辺りに隠れられる家を求めていたのだろう。同じ日、そこから20町離れた多古町五辻の伊藤幸吉方にも現れ、娘のはる(21)に幸吉はいるかと尋ねたが、繭を売りに行ったと聞くとそのまま立ち去った。
張り込み中の巡査を鎌で斬殺
11日、熊はとうとう3人目をあやめてしまう。夜8時ごろ、久賀村大門にある元主人の五木田太郎吉方に現れたが、張り込み中の多古署内飯笹駐在所の河野(=日の下に立)太郎巡査と鉢合わせ。格闘となり、熊は持っていた草刈り鎌で河野巡査を切り倒して逃走した。捜査本部はすぐに100人以上の巡査を急行させて捜索を始めたが見つからず、背中に重傷を負った河野巡査は間もなく死亡した。
熊につけ狙われ、住むところもなく何日か沼の上に船を浮かべて過ごしていた山武郡大網町の柳橋信一の内縁の妻、土屋はな(25)は、沼の上も不安となり、11日には行方をくらました。
山中に潜伏拠点を発見
27日には、総勢約400人の大捜索が行われた。二本松にある捜査本部では、鈴木刑事課長、長田警部、斎藤警部補、宇津木多古署長らが指揮し、前夜から熊次郎の潜伏拠点とみられている周囲1里(約4キロ)の狢窪(むじなくぼ)山中を二手から入り、ピストルや棍棒(こんぼう)などを持った警官約100人と、消防組約300人が、夜明けを待って乗り込んだ。その結果、密林中に熊次郎が住んでいたと思われる古筵(むしろ)1枚があり、その横にトウモロコシの焼いた物と、生でカビの生えた7本、さらに脱ぎ捨てたわら草履1足が発見されたが、肝心の熊次郎は姿を現さなかった。
筵やトウモロコシなどは翌日、21日に小倉寅吉方から盗んだものと分かった。ただ、そこにあったみのがさについては心当たりはなく、再び、熊次郎とゆかりのある家を一斉に家宅捜査したが徒労に帰した。これがまた、村民に警察に対する不信を抱かせることになっている。
幾度となく包囲をかいくぐる熊。食糧を求めた家で熊は「9月1日の大山狩りでは、二本松から大門に通じる里道から約1町ほど行った畑中にある三間四方の塚に隠れて出し抜いた」と打ち明けたそうだ。また、河野巡査を殺した後の8月13日夜、県道から約2町を隔てた山中の道路側に身を潜め、通りかかった老婆に捜索隊の去就と行動を尋ねてすぐに姿をくらましたことも分かった。
25日には、栗源町の理髪店に頭髪をぼうぼうと生やし、ひげがもじゃもじゃの男がひょっこりと姿を現し、「おい、頼むぞ」と悠々と腰を下ろして3カ月ぶりに刈り込み、すべすべになった顔をなでながらも金は払わず、立ち去った。どこでもらったのか、縞(しま)の入った袷(あわせ)を着流し、もじり外套を着ていたという。その大胆な行動を知った捜査本部は27日、恥を忍んで、その理髪店主の取り調べを行った。
熊に翻弄され続ける警察。27日朝は、近所の有志が獰猛(どうもう)な猟犬2頭を寄付してきたため、警察伝令用として山狩りに使用することになったが、熊の尻尾はつかめるのか。 

 

(中)“国民的英雄”捕縛に手を焼く警察…「あの地形では…」
ほかの男と親密な仲になった情婦ら2人を殺し、千葉の山中に隠れて神出鬼没、警察官も殺した岩淵熊次郎(35)。熊には、まだまだ数人は恨みを晴らしたい人物が娑婆にいる。捜査本部も犯人をおびき寄せるため、これらの標的に現地にとどまらせ、周辺を監視する作戦を続けた。熊と警察との攻防は日本中に報道され、警察トップの内務省警保局長も苦々しい思いを隠さない。
鬼熊、熊公、岩熊…
殺人事件が起きた大正15年8月20日以降、失恋による恨みを晴らそうと、警察の包囲網をかいくぐって出没する様子が連日報道され、今や日本一の人気者となった殺人犯。鬼熊、熊公、岩熊、熊次郎とさまざまなニックネームで呼ばれ、話のネタとなった。
9月21日に開かれた、全国警察の総元締めである内務省警保局(現在の警察庁)の松村義一局長と記者団との会見でも話題となった。
記者 熊は日本一の人気者になりましたね。お湯屋でも床屋でも熊公の噂で持ちきりですよ。銀座で熊公伝を売っているが羽が生えて飛んでいますよ。
松村局長 へえ、そんなに売れるのですか。
記者 それから子供が熊公ごっこをはじめたそうですよ。
松村局長 そりゃ君、新聞があまり書き立てるせいだよ。
記者 あなたは、この前もいつかそんなことを言われたが、熊公を有名にしたのは仰々しい警官隊の勇敢な活動のおかげですよ。
松村局長 だが警官隊の山狩りは前後1回だけですよ。それも300名だけさ。
記者 とにかく熊公の有名(なの)は警官隊の無力(のため)ということですよ。
松村局長 捕まらぬのははなはだ遺憾ではあるが、あの地形ではね…
記者 決死隊を募ったそうですね。まるで旅順の閉塞隊(日露戦争の際にロシア太平洋艦隊の妨害を図った決死隊)もどきですね。
松村局長 決死隊じゃないさ。あれは熊の出そうなところに配置するためにやったのさ。
記者 まあ戦争状態ですね。どうでしょう日本の一地方で、今、安寧秩序が乱れているのですが、内務省では何か積極的に出る必要はないものですか。
松村局長 安寧秩序は少しも乱されていない。熊は誰もに危害を加えはしない。危害の恐れのある2、3人に対しては十分保護を加えている。
記者 ですが、あの地方の住民はひどく不安らしいですが…
松村局長 そんなことはない。みなそれぞれ落ち着いて仕事をやっている。
記者 不安が少しもないとおっしゃるのですか。警察費7万円も使って騒いでいるのじゃないですか。
松村局長 いや、あれは嘘だよ。3万円くらいのものさ。千葉で費用がなくて限外課税(一定期間を超えて、日銀が銀行券を限度外以上に発行すること)をやるって。10万や20万の金でそんなバカなことがあるものか。
記者 講談もどきで、各地から竹刀担いだ応援隊が出かけるほどの騒ぎになっているのに内務省では別に積極的の考えはないのですな。
松村局長 地方警察に一任してある。それで十分だ。もちろん犯人の捕まらぬのは遺憾千万で、警察の威信にも関するが努力ばかりでは捕まらぬ。時の運ということがある。内務省は人を派して極力督励している。
記者 督励のためにあなたが出かける気がありませんか。
松村局長 僕が出かけるほどのことか。(2、3分の沈黙の後、尊大な態度でこう吐き捨てた)君、考えてみたら分かるだろう。
自首勧告への動きも
警察が標的を使っておびき寄せて捕まえようと試みる中、熊次郎と関係の深い地元有志らは、妻子の生活の安定と教育を親戚(しんせき)の間でみてやれば、熊も安心して縛に付くだろうと警察とも話し合い、熊が安全に確保されるよう、釣り出しにかかり始めた。
菅沢貴族院議員、鈴木県会議員、米本久賀郵便局長、五木田太郎吉前県会議員らが、秘密裏に熊を自首させる方策を協議し、多古署の鈴木県刑事課長と会談を持った。さらに、それら有志の通告によるのか、熊の兄、岩淵清次郎が羽織袴姿で人目を避けながら多古署に出頭。鈴木刑事課長、宇津木署長と面会し、「実弟が世間を騒がしたことは兄としてはまことに申し訳ない。万一、熊が自宅に帰った際はすぐに取り押さえて警官に引き渡しますから」と、それまでと打って変わった殊勝な態度を示したという。
びくびくする標的たち
命を狙われているのは、熊の情婦けいを寝取った菅沢寅松(25)、もう1人の情婦の高橋はな(27)、はなを熊から預かったもののはなが本当に好きだった男とあいびきするのを許した旅人宿業、土屋忠治(41)。さらには、熊が傷害・脅迫罪に問われた際に関わった向後巡査である。
そのうちの1人、土屋忠治は、早く捕まってくれと気が気でない。熊の出現情報を元に、捜査隊本部は繰り返し山狩りをするが発見できない。それでも、時々、土屋の家の近くに出現するため、忠治は極度の恐怖にかられ、家の周囲に丸太のくいを打ち、これに針金を張り巡らされて厳重な防御を行った。
熊の逃走を村ぐるみで手助けしていることも、警察をいらだたせている理由の一つだ。ある朝、熊狩り中の捜索人が、熊の恋敵である寅松を保護している菅沢茂平方付近の念仏坂脇にある高さ1メートルの崖下で、雑草に隠れて1台の自転車が捨てられているのを発見。見ると荷台には、1升余りのつきたての餅が小豆色の木綿風呂敷に包んであり、自転車は車体番号が削られ泥が塗られていた。これが熊次郎に与えようとしたものであれば、熊が食物をあさりにあまり現れない理由も説明がつく。
焦る警察、しぶとい熊、恐れる標的…周辺の住民の緊張も限界に達している。 

 

(下)突然の警察方針転換、標的失った熊は毒とカミソリで…
情婦やその奉公先の主人を殺し、岩淵熊次郎(35)が山中に逃亡してから41日が過ぎた大正15年9月29日。一向に事態が開ける気配をみせないため、警察は方針を大きく転換した。それまでは、熊の恋敵である菅沢寅松(25)や、熊をおとしめた土屋忠治(41)を村内に住まわせ続けることで、山中からおびき出して捕まえる作戦だった。それが功を奏さないとみると、一転、2人を遠くに移転させる。報復という目的をなくした熊がおとなしく逮捕されに出てくるのではないかという見立てである。あわせて警察の動員も一挙に3分の1に減らした。
寅松も忠治もようやく村外へ
寅松は29日朝、棒縞の袷に白の股引を履いて鳥打帽をかぶり、報道の写真班に顔を撮影されないよう、茶色のレインコート地の青年団の外套を頭からすっぽり被って、2人の刑事に守られながら自宅を出発。林から林へと人目を避けて歩き、午前10時半に成田鉄道多古線(現在は廃線)の飯笹駅に現れ、成田行き列車で成田まで行って千葉へと向かった。土屋忠治も、他県へ逃げた。
警察は二本松の山狩り捜査隊本部も引き払い、多古署の捜査本部にわずか10数人の警察官を残し、ひとまず捜査を打ち切った。血を求める熊は野放しとし、11月上旬の木枯らしが吹くころに捜査隊を繰り出して逮捕することになった。
40日余りの間に、7万円という多額の捜査費、延べ人員は警察官4000人、消防組・在郷軍人ら3万人以上という大がかりな活動もその効なく、熊に翻弄されて万策尽きた。
鈴木刑事課長は29日午後5時に記者会見し、悲痛な面持ちで「どうも世間を騒がした上、熊に散々ひどい目に遭わされた」と前置き。熊次郎の捜査を打ち切るに当たり、「熊逮捕については尽くすだけ尽くし、万策尽きてしまった。無能呼ばわりされてもしかたない。野村警察部長と協議し、内務省警保局に行って打ち合わせた結果だ」。
「ここも安全とはいえません」
熊に付け狙われている菅沢寅松は、40日間も家に引き籠もり、すっかり精神にも異常を呈している。印旛郡公津(こうづ)村(現・成田市)で飲食店を営んでいる伯父、村山藤助が引き取った。
親戚巡りをしたいと言ったものの、警察に引き留められていた土屋忠治もいよいよ、東京方面に旅立った。東京方面には親戚が5カ所ほどある。
熊についてはいろいろな風説が伝えられているが、19日に現れて以来、確とした足取り情報はない。40数日の山ごもりですっかり野宿にも慣れ、トウモロコシなどを食べているので飢えるようなことはない。これからサツマイモや栗なども手に入るだろうし、人家に食を求めなくても飢えをしのぎやすくなる。10月末の取り入れが住むまでは持久戦で臨み、時機をみることにした。
公津村に菅沢寅松を29日夜に訪ねると、顔面蒼白で始終おびえながら、「ああまで執念深く熊次郎に狙われては命が縮まります。こことても安全な場所とは言われません。先日、熊が現れて飯と着物を買っていった印旛郡遠山村(現・成田市)駒ケ頭から山続きで2里ほどしかなく、いつ襲ってくるか分からないので、近所の旦那様に何分ともお願いしている次第です」とおどおどしていた。
突然の幕切れ
しかし、事態は29日深夜に急転した。30日午前4時ごろ、千葉県久賀村出沼の兄清次郎宅から2町(約200メートル)余り離れた山林にある先祖の墓地で、巡回していた消防組員が、カミソリで咽喉部3カ所を掻っきり、苦悶中の熊を発見。直ちに消防組が招集され、、熊の恩人の五木田太郎吉や兄の清次郎らも集まり、苦しむ熊に水をやるなどした。
警察は、午前7時に血まみれの熊を逮捕、清次郎宅に護送して、多古町から出張してきた3人の医師が手当を実施。傷は長さ10センチ半、深さ5センチにも達するほか5カ所にわたって傷があったが頸動脈は外れており、最初は生命には別条ないという診断だったが、40日以上の山林生活で極度に衰弱しており、逮捕されるや否やぐったり気が緩み、眠るように30日午前11時25分、絶命した。
集まった人たちの話では、熊次郎は、警戒が緩んだのを知ってかしらずか、張り込みの消防や密行の警察官の目をかすめて出沼の自宅に帰り、布団を敷いて毒をのんだが死にきれず、苦しみながらも先祖代々の墓地へ行き、もっていた日本カミソリで咽喉を切った。前日に食べた不消化の飯粒を吐き、着物は垢がべっとりとついた白いジャケット、木綿の棒縞単衣、カーキー色のズボンを履いていた。周囲は鮮血に染められ、逃亡後の艱難辛苦に頬はこけ、目はくぼみ、髪はぼうぼうと生えてものすごい形相だった。
五木田氏は、熊のそばにたたずみ、「清次郎が自殺したと知らせてきたので駆けつけました。熊が私の顔を見ると苦悶しながら水、水と訴えるので、水を運んで来て与えると、手を合わせて拝みながらうまそうに飲み、『旦那すまない』と元気に2度繰り返したかと思うと、首をがっくりと垂れて虫の息となった」と語った。
ふびんな熊の妻子
熊次郎の妻よね(37)と潤蔵(13)以下5人の子供は、夫の凶行後約6週間、五木田清方にて静かに暮らしていた。潤蔵は熊の兄、清次郎の家で農業の手伝いをしながら小学校に通い、よねは、五木田の養蚕の手伝いをしている。熊の自殺後、久賀村の自宅に戻った妻よねを訪ねるとまず5人の子供に取り囲まれた。よねは、事件以来、夫の身の上を案じて面やつれした寂しい姿で洗いざらしの木綿着の袖を涙で濡らしながら、「熊さんが逃げてから遅かれ早かれ、こうした日の来ることは覚悟しておりながらも朝になると烏の鳴き声が悪くはないか、夜になるとまた人を斬りはしまいかと案じない日はなかった。ふだん子供をかわいがっていましたので、さぞ顔が見たいだろう、無事でいてくれるようにと神様に祈って毎日案じておりました。今日、これから早速、子供を連れて駆けつけ死に目に会わしてやりたいと思いますが、世間様の手前、それすら迷っております」と泣き伏し、5人の子供も母にすがって泣いた。今後は、近くで駄菓子類を扱う小さな店を開いて子供たちを育てていく予定だという。
一目置かれた「佐原の親分」
2人の女に情火を燃やして大惨劇を演じた熊次郎。大勢の子供に取り巻かれ、いいお父さんであるべき、熊を家庭からあらぬ女へ誘惑したのは、生来止められない酒と、どこまでも惑溺していく一本気、ケンカ好きで単純ではあるが頼まれれば後へ引かぬ侠客肌だった。「佐原の親分」という気持ちが多分に自分の中にあっただろうし、そこが醜男な彼に情女ができるわけでもあった。5尺5分(約153センチ)しかなかったが、草相撲の大関だったこともあり、10年前には青年団のマラソン選手として健脚を誇った。久賀村密林へ最初のクワを入れたのは熊次郎だとも言われ、出沼の熊と言えば子供にもしられているほど。残忍であるが単純で侠気があり、いわゆる善にも強いが悪にも強い以上な性格の持ち主。こういうところが、鬼熊は憎めない人気者と世間が噂する所以であろう。
警保局長もようやく安堵
内務省の松村義一・警保局長(警察庁長官に相当)は「捜査隊を縮小して熊の恋敵を逃がした策が当たったとも言えないことはないだろうが、ま、自殺をはかったのでは自慢の出来る義理じゃない。しかし、熊が捕まらないよりは、自殺でも捕まった方がいい」とホッとした表情で語る。「今朝の情報では熊は多少の痙攣を起こしているが、別に毒を飲んで中毒した症状がない。命はとりとめるらしいとの報告があった。熊が40余日も捕まらなかったことは警察の失態とは思わない。土地の状況と、熊に同情があったらしいこと、恐怖から熊をかばったことが原因らしいし、並びに今後、熊の自白によって調査しないと批評はできないが、警察はできるだけの努力をしたことは認めなければならない。昨日も野村警察部長が来て泣かんばかりに残念がって申し訳ないと訴えていたが、別に警察部長には失態がない。努力をしても運ということがあるから今後責任者を出すことは絶対にないと思う」と悪びれず語った。
複雑な心境の寅松
千葉県印旛郡公津村に潜伏していた、熊の恋敵の寅松に、熊自殺の報せを伝えると、寅松は裏二階から飛ぶように駆け下り、叔父とともに「本当ですか。何だか夢のようです」と満面の喜び。「全く40日余りも執念深い獰猛な熊次郎につけ狙われていたので、すっかり病人になってしまいました。これではいけないと、昨29日午後2時半、多古線飯笹駅で2人の警官に守られて、成田で下車し、午後4時に当家へやっかいになった訳です。皆様のおかげです」とうれし泣きに泣いた。
熊が凶行をした日のことについては、「おけいが熊次郎に撲殺される時、そこから1町(約100メートル)ほど離れた電工散宿所に逃げ込んで小さくなっていた。殴られてうめくおけいの声は手に取るように聞こえてきて、生きた心地はありませんでした。そうするとやがて警鐘が鳴り出し、火事だ火事だという騒ぎです。もうそのときはどうなることかと思って…」後は声にならなかった。
けいの祖父、吉沢啓十郎の家を訪ねると、啓十郎はけいの息子の正吉(6)をすでに千葉県銚子町の「山川興行部」という興行会社に預けており、残る荷物を送るために出かけたところだった。祖母のとみは、熊にやられた左手に包帯をしてけいの位牌の前に座り、「毎日もう捕まるかと思っていた。なんという惨めなことかわからない」と暗い顔をしていた。おけいの実父の多田仲次郎は、熊の死を聞き、現場に駆けつけて娘の敵もとうとう死んだと狂喜して走り回った。
死の真相
30日正午、熊次郎の自殺現場を目撃した出沼消防組員、多田幾四郎、鈴木一郎、日下部三次麿の3人が多古署へ呼ばれ、取り調べを受けた。3人は、4日ほど前から熊の隠れ場所に食糧を持ち運んでいたという容疑がかけられた。さらに、ある有力者が裏で関与しているとの情報もある。
また、熊の旧主人で前県議の五木田太郎、兄の清次郎、妻よねの3人が熊に毒薬を与え、匿ったとして30日正午から多古署で取り調べを受け、一時同署に留置することになった。
一部には熊にさんざん愚弄されて世間から非難された腹いせとも言われているながらも、捜査本部は、さらに2人を参考人として呼び出したほか、さらに多数の召喚を計画する。
なお、40日余りの間に警察官、報道陣、自転車屋、自動車屋、さらには「日本一の人気者」を一目見ようとする野次馬が押し寄せ、寒村の商店では物が飛ぶように売れ、一説では捜査本部が置かれた二本松では3万円(現在の3000万〜6000万円に相当)の金が落ちたとされている。その銀座のような賑わいも熊の自殺とともに元の寒村へと戻った。
熊の応援者たちに有罪判決
10月2日の午後になって、熊の兄、清次郎は、熊に9月29日夜に饅頭に毒物を入れて渡したことを自白した。毒は、村内に住む姉婿、脇佐次郎(39)が印旛郡富里村(現・富里市)の薬種商から求めたという。さらに熊がどこか室内に泊まっていた証拠が出てきたことから、数人が取り調べられていたが、4日になって、久賀村消防第7部長の山倉長次郎(37)、田口米四郎(37)、鈴木一郎(31)の3人が犯人隠匿罪として、脇佐次郎、実父の福松(52)の2人が自殺幇助罪で千葉地裁八日市場支所検事局に送られた。翌(昭和2)年2月、千葉地裁八日市場支部で、鬼熊の隠匿ならびに自殺幇助事件の判決があり、4人に執行猶予付き判決、2人に無罪が言い渡された。 
 
 
鬼熊事件 5

 

時代の変わり目には奇妙な大事件がしばしばおきるという。大正から昭和にかけ、有名な鬼熊事件が発生した。どんなものだったかを報告させていただきます。
関東大震災からのち、世情は混沌とした。震災の復興景気で好況だった政財界も急速に弱体化し、昭和初期の金融恐慌の兆しが見え出した。政界でも憲政会、政友会の二大政党間で政争が繰り返され、汚職が相つぎ、共産党の創立など左翼も活発だった。都市・農漁村で争議が続発、政府の弾圧も強化され、威張っている軍人、官僚、警察関係者に対し庶民の反感が高まっていた。新聞にも暗いニュースが目立った。
そんなおり千葉県内の寒村で起きた殺人、傷害、放火事件が世間の注目を集めた。事件発生直後は小さな記事だったが、犯人が山中にのがれ警察の網の目を巧みに避けて逃亡を続けていることが明らかになるにつれ、読者の興味は高まり、日本中がこの話題に飲み込まれていった。
容疑者は、岩淵熊次郎(35:いわふち・くまじろう)という荷馬車引き。千葉県香取郡久賀村の小作農の次男として生まれたが極貧家庭で、小学校も欠席しがち、三年で学業をやめ、手紙も書けなかった。十歳で村の豪農五木田太郎吉の作男として雇われる。大正も末期だったが、千葉県の片田舎の寒村では生活は依然として貧しく、村民の大半は掘っ立て小屋同然の家で辛うじて飢えをしのいでいた。熊五郎は25歳のとき馬車引きになった。二歳年上の女を妻とし、五人の子の父になっていた。邪心のない男で優しく村人に好感をいだかれていた。背は低かったが筋力が強く米俵二表をかついだ。仕事熱心で約束は必ず守り、親切で優しかった。「争いの仲裁」などをしながら旧主の五木田太郎吉(憲政会系)の選挙運動を手伝ったりしていた。
熊五郎は女にだらしがなかった。村の居酒屋の孫娘“おけい”という酌婦と馴染みになった。“おけい”は二十三歳、年上の女房しか知らなかった熊五郎は、若い女体に夢中になった。毎月に米を届けたりして相当貢いだ。関係は四年ほど続いたが、熊次郎は、もう一人の女に手を出した。これは、柳橋信一という男の妻おけんで、夫婦喧嘩の末に家出し、「吉野家」という旅館の女中となった二十八歳の女だった。おはなという名で同旅館に勤めているとき熊次郎と知り合った。
おはなは、旅館に前借金があると熊次郎をあざむき、これを信じた熊次郎は、商売道具の馬を売り払い、五十円をおはなにあたえた。熊次郎は、彼女を旅人宿経営の土屋忠治方に預けたが、夜毎に訪れる熊次郎を忠治夫妻は不快がった。これに立腹した熊次郎は、忠治夫妻と仲たがいし、“おはな”をさらに村の荒物商・岩井長松方に移させた。
ところが“おはな”は、岩井長松方に七日間いただけで、夫の柳橋信一のもとに帰ってしまった。失望した熊次郎は、やがて“おはな”は、前借金でしばられていた事実はなく、預け先の土屋忠治、岩井長松が、柳橋信一と通じて、“おはな”を柳橋真一のもとに送り返したことを知り、おはな、信一、忠治、長松にたいし深い恨みをいだいた。
さて熊次郎は、馬を売り払ってしまっていたのに、知人の男にまだ馬があるように装い、売る約束をして代金八十円を詐取した。そして“おはな”に裏切られたウップンをいやすため、専ら「上州屋酌婦“おけい”」に愛情を注いだ。
当然ながら、「おけい」は熊次郎をうとんじるようになり、彼から金品を受け取りながらも、その年の三月ごろから密かに村の若い農夫、菅沢寅松と夜を共にするようになっていた。熊次郎はそのことを知らず、詐取した馬の代金の半ばを「おけい」に与えたりしたが、やがて寅松の存在に気づいた。6月25日夜、おけいの家を訪れた熊次郎は、抱き合っている「と寅松」の姿を見た。激怒した熊次郎は雨戸を破って室内に入ると寅松の腕をつかんだが、寅松は逃げ切った。熊次郎は、戸外に走り出ようとした「おけい」の髪をつかみ、殴り続けた。かれは「おはな」につづき「おけい」にもそむかれたことが腹立たしかった。すきを見て、“おけい”は村の駐在所へ走った。それを知った熊次郎は、自ら駐在所に出頭、向後国松巡査からきびしく説諭された。
その後も寅松とおけいの仲は続いていた。熊次郎の憤りはさらにつのり、寅松を殺すと公言するようになった。村の菅沢種雄が争いの仲裁に入ったが、種雄は向後巡査と相談し、“おけい”に熊次郎との仲を清算するよう勧めたため、熊次郎は、種雄と向後巡査へも恨みをいだいた。
熊次郎は孤立した。おはな、おけいの二人の女に分不相応の贈り物をしながら両者からあざむかれ、しかも女を取り巻く者たちから冷たい扱いを受ける。多情ではあったが純情な熊次郎は、周囲の者から愚弄されていると強く意識した。
7月7日、午前10時頃、おけいが麦畑で野良仕事をしていると、熊次郎が姿を現す。そして“おけい”を上州屋へ引きずるように連れ戻すと、午後四時ごろまで寅松との関係を執拗に責めたてた。おけいの心は冷え切って、激昂した熊次郎は包丁を突きつけて殺すと威嚇した。これを見たおけいの祖父啓十郎が駐在所に走った。
向後巡査がすぐに駆けつけ、熊次郎を脅迫罪の現行犯として逮捕、多古警察署に連行、また取調べで売馬代金の詐欺を犯していたことも発覚、八日市場裁判所検事局に送られた。
送検を知った村の有力者で、熊次郎の旧主だった元県議、「五木太郎吉」が熊次郎のために奔走した。努力が実ったのか、八月十八日熊次郎は、同裁判所で懲役三ヶ月、執行猶予三年の刑を受け釈放された。四十日間の勾留生活に落ち着きを取り戻した熊次郎は、翌日夜には五木田のもとを訪れ、礼を述べ、五木田も熊次郎を諭して祝い酒を振舞った。
五木田の家を出た熊次郎は、「おけい」に詫び、願うことなら復縁したいと思いおけいの家に足を向けた。熊次郎は穏やかな表情で「おけい」に暴力を振るったことを詫び、「おけい」も熊次郎の態度に安堵し、酒肴を出しもてなした。酔いの増した熊次郎は泊まっていきたいと懇願したが、「おけい」はかたくなに断った。そのとき、寅松が姿を現した。熊次郎は、二人の仲がさらに深まり、おけいがその夜も寅松と共にすごそうとしていたと知る。しばらく三人で呑んでいたが、おけいの顔には寅松に対する濃艶な思慕が滲み出ていた。
熊次郎の血が逆流した。かれの口から怒声が吹き出た。鬱憤していたものが一時にあふれ、目を怒らせて立ち上がると、もはや自分の感情を抑えることができなかった。熊次郎はおけいの髪をつかむと戸外に引きずり出し、土間にあった薪をおけいの頭にたたきつけた。悲鳴をあげて倒れたおけいの頭部に、薪は幾度も打ちおろされ髪の中から頭蓋骨がのぞくまでになった。凄まじい光景に身を震わせた寅松は、裏戸から外に逃げ、五十メートル離れた農家に逃げ込んだ。その間におけいの祖母が必死になって熊次郎の腕にしがみついたが、彼は祖母の頭部をも薪で強打し昏倒させた。熊次郎は寅松の家まで行ったが、留守だと知ると、「おけい」と自分の仲を引き裂いた菅沢種雄の家へ走って火を放った。
突然の炎に半鐘が鳴り、村の消防組員が駆けつけた。が、熊次郎は消火活動を制止し、これにさからった菅沢栄助の背中を農具の鋤でたたき負傷させた。種雄の家が燃え落ちるのを見届けた熊次郎は、自分を検挙した向後巡査の襲おうとしたが不在であった。彼は壁にかかっていたサーベルを奪い、荒物商岩井長松のもとに行った。
長松を外におびき出すと胸をサーベルで刺し殺害した。血に染まったサーベルを手にし、家に戻り地下足袋に履き替えると、実兄・岩淵清次郎の家に向かった。その折、妻よねに、自分を冷遇した向後巡査、土屋忠治、裏切った“おはな”、恋敵・菅沢寅末を殺すつもりだと口走った。
村は騒然となった。熊次郎がこの時点で二名を惨殺、三名を負傷させたうえ菅沢種雄方に放火し、さらにサーベルを手に殺人を犯そうとしているとの報せは、多古警察分署に伝えられ、同分署では署員十二名を非常召集し、消防員多数も動員して非常線を張った。新聞記者たちが狭い田舎町に押し寄せ、取材合戦を繰り広げた。
不思議なことがおきた。熊次郎の情報がまったく途切れたのだ。九月十二日には巡回中の警察官を殺害するなど、結果として五名を殺害、四名に傷害を負わせ、一件の放火に対し、動員された警察官などは延べ三万六千人と記録にある。
結局熊次郎は逮捕されることはなかった。実に四十二日間逃げとおし、自殺した。この自殺の時に村人が手引きして、東京日日新聞(現・毎日新聞)社記者らと熊次郎の直接インタビューを設定していた。五十円という当時としては高額な謝礼が支払われた。自殺する意志を知りながら、これを特種として警察には伝えず、体力が強すぎてなかなか死ねなかった熊次郎がやっと死亡するころ、東京日日新聞社から号外が出た。読者は競ってこの記事を読み東京日日新聞の購読部数は急増した。
この話には大正時代の農村の哀切がよく理解できると、作家の吉村氏が述べている。村民は政治的に憲政会と政友会二つに分かれ対立していても、それぞれに熊次郎を哀れと感じ、泊めてやったり食事させたりしていた。つまり村ごと犯人隠匿をしていた。
昭和二年(1927年)千葉地方裁判所八日市場支部は、熊次郎実兄の岩淵清次郎、義兄脇佐治郎、久賀村消防組第七部長倉長次郎、同小頭多田幾四郎、同消防組員鈴木一郎、東京日日新聞社通信部員坂本斉一らが、犯人隠匿および自殺幇助の判決をいいわたされた。しかし、殺人か自殺幇助かに焦点が絞られて裁判所では激しい議論が起こったが、判事は自殺幇助の判定を下した。それは、被告たちの熊次郎に対する愛情が認められたためで、検事側も控訴することはしなかった。
墓の前で自殺したと言うがどこか変で、実際は村人が墓の前へ遺体を運んだらしい。またカミソリで頸部を切ったというがそれほどの傷ではなく毒殺説が強かった。すべてどこかが奇妙な事件だった。岩淵熊次郎の殺人、傷害、放火事件は、坂本斉一、馬場秀夫を特種記者として新聞史に刻みつけた。 
 
 
岩淵熊治郎

 

夕焼け空のように情怨の血で彩られたいわゆる鬼熊事件!その発端はおよそ三ヶ月前に遡る。即ち情婦おけいと寅松に絡む三角関係、また第二の情婦坂田沼の土屋はなにからむ無理な金策からの傷害、脅迫、詐欺の偶発数罪で千葉県八日市場のロウゴクへ叩き込まれたのである。そして三ヶ月後に、世間を騒がした残酷な「鬼熊事件」が幕を開けた。
自分より二つ年上のおよねを妻に持つ彼、岩渕熊治郎(35)は妻より十才も若く、しかも豊艶なおけいの肉体に陶酔し、命がけの惚れ方でおけいの虜になった。毎月おけい一家へ飯米をやり、くるしい懐から小遣い銭を やり、佐原や多古の街からの帰りには流行の反物を買って帰った。ところが 事件が起きた8月19日、義侠心に富み、村人から「熊さん」と慕われていた荷馬車引きの熊治郎はこの夜、世話をしてきた女性2人に裏切られたうえ、このことで周囲の男たちに欺かれていたことを知った。逆上した熊次郎は、その経緯をもらした愛人「おけい」を薪で殴り殺し、彼女に熊次郎と別れるよう勧めた長老の家に放火、とめようとした数人を鍬で殴り倒した。熊次郎は別れ話に絡んでいた巡査にも報復しようと駐在所を襲撃、サーベルを奪うと、別の愛人の身請け話で自分をだました男の家を襲い、サーベルで殺害。さらに、この男とぐるになっていた男の家に向かう途中、出会った追っ手の刑事に重傷を負わせ、山中に逃げ込んだ……。
数千人を動員して山狩りを繰り返し、懸命に熊次郎を追う警察。その包囲網をくぐり抜け、「恋敵」や恨みの対象を狙って神出鬼没の熊次郎。その追跡劇は、実に42日間に及んだ。それが連日、「実況中継」のように新聞報道され、張り込みの巡査が「返り討ち」にあう惨劇もあって、日本中が注目する大事件に発展していった。ところが発生から10日余、警官、消防団員など数千人による連日の山狩りにもかかわらず、いっこうに犯人は捕まらないのだ。
当時の新聞記事によると、「岩淵熊次郎は日頃義侠心に富んだ男なので土地の青年等が予(かね)て多古警察署の処置に不満を懐いてゐた矢先とて熊次郎に食事と睡眠時間を与へて内々匿まってゐる」とある。地元では義侠心に富む一途な男として評判だった「熊」は人々に同情されたのだ。当時は村には村の掟があり、村人たちは殺された被害者よりも、愛人に裏切られた熊治郎のほうに同情した。だから、国家側の警察と村側の消防団員との間にはヒビワレがあり、消防団員の中には熊治郎を助けて後から懲役を受けた者たちもいた。国は国、村は村の世界があるという、地域的な考え方。まだ、村の中では国家権力に村の団結が勝る時代だった。鬼熊が村人達から保護されていたことを告げる記極端な記事には、「匿われた家で西瓜を枕に高いびき」なんて記事もあった。その同情は、しだいに記者にも伝染。最初は「殺人鬼熊次郎」略して「鬼熊」だった見出しが、後には「熊公」「熊」となり、やがて「熊さん」という表記さえ登場。鬼熊を平和な時代の英雄とするひともあり、それゆえ事件は熊治郎の死後すぐに映画化された。当時街を流していた演歌師は鬼熊が山へ逃げ込んでいる内に長文の歌を作り歌本として売った。
   ああ執念の呪わしや
   恋には妻も子も捨ててやむ由もなき復讐の
   名も恐ろしや鬼熊と
   うわさも久し一ヶ月
   空を駆けるか地に伏すか
   出沼の里の空暗く
   人の心のさわがしや
この事件の間に、もと愛人の「おはな」が精神を病んで病院に運ばれる。相変わらず熊治郎は捕まらず。どうやら彼のマラソン仕込みの駿足も警察をまくのに一足買っていた様である。
ところが事件は42日目で突然の結末を迎える。熊治郎は新聞記者のインタビューに答えて首を切り自殺しようとしたが死にきれず、30日未明、兄弟から手渡された毒物「ストリキーネ」を先祖の墓前で飲んで自殺。 
熊次郎の死を知った妻は錯乱状態になったり、被害者「おけい」の祖父母が熊次郎を弔い、「お前も不幸な男だったなア」と遺骸に手を合わせたり、とにかく被害者より加害者のほうに同情が強い、特異な事件であった。今も昔も、被害者の遺族が加害者の墓を見舞うなんて事件は、他に聞いたことがない。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
■山口連続殺人放火事件

 

 
山口連続殺人放火事件 1 / 保見光成
2013年7月21〜22日にかけて山口県周南市で起きた連続放火殺人事件の犯人。8世帯12人しかいない小さな集落で近隣住人5人を殺害し、2軒に放火した。事件後付近の山中に逃走したが、7月26日に逮捕された。2015年7月に一審で死刑判決。

保見光成は後に事件を起こす山口県周南市金峰郷(みたけごう)地区で、竹細工職人の父親の下、5人兄弟の末っ子として生まれた。中学を卒業後は上京して神奈川県で左官などをして働いていた。1994年頃に帰郷して、以後は実家に暮らしていた。
両親が亡くなってから、保見は近隣住民と飼い犬や草刈り作業などをめぐってトラブルを起こすようになる。一方で、高齢者ばかりの集落では若手の保見は周囲を手助けしたりもしており、感謝されてもいた。トラブルの全ての原因が、必ずしも保見にあったわけではないようだ。2003年頃には酒の席の口論がきっかけで、後に被害者となる男性に切りつけられたりもしている。
しかし、8世帯12人しかいない小さな集落の中で保見は徐々に孤立していった。2011年には近隣警察署に「集落の中で孤立している」「近所の人に悪口を言われ、困っている」などと相談をしている。保見は自宅の窓に『つけびして煙り喜ぶ田舎者 かつを』と書かれた張り紙も貼っている(事件直後は犯行声明とも思われていた)が、その意味は『集落の人達(田舎者)が自分の悪い噂を流して(つけびして)楽しんでいる』というものだった。事件の10日ほど前には知人に「もう金峰を出ようかと思う」と打ち明けてもいた。
2013年7月21日の夕方から午後9時頃までの間に、保見は近隣の住宅2軒に相次いで侵入、70歳代の住人計3人を撲殺した後、家に放火した。直後、近隣住民の通報により消防や警察が現地に到着、犯行が発覚する。警察の警戒の中、保見は翌22日の朝方にかけてまた別の住宅2軒に侵入、80歳代の住人計2人を撲殺した。22日正午には遺体が発見され、警察は前日から行方の分からなかった保見の捜索を本格化。残った住民は近隣施設に避難した。同月26日、保見は地区公民館から約1km離れた山道で発見され、逮捕された。 
 
山口 連続殺人・放火事件 2 諸報道 2013/7

 

顔には傷が…山口連続殺人・放火 容疑者を送検
山口県周南市の連続殺人・放火事件で、保見光成容疑者(63)の身柄が27日朝、山口地方検察庁に送られました。保見容疑者の顔には逃走中についた傷がありました。
26日午後8時前まで取り調べを受けた保見容疑者は27日朝、送検されました。終始、顔を隠すようにして車に乗り込みました。26日に現場近くの山中で見つかって逮捕された保見容疑者は、被害者の1人を殺害して家に火をつけた容疑で送検されました。保見容疑者は、5人全員の殺害を認める供述をしていて、26日に続いて弁護士に接見しました。
保見容疑者と接見した弁護士:「言葉は交わしていますが、中身、発言については今の段階ではお話しできません」
警察は27日も220人態勢で、保見容疑者が発見された場所を中心に凶器や遺留品の捜索などを続けています。
山口「八つ墓村」容疑者に衝撃証言 夜でもグラサン、マイカー偏愛…
山口県周南市金峰(みたけ)の集落で5人が殺害された連続殺人放火事件で、県警周南署捜査本部に殺人などの疑いで逮捕された同じ集落の無職、保見光成(ほみ・こうせい)容疑者(63)。同容疑者が二十数年前、川崎市でタイル工などをしていた当時の知人らが夕刊フジの取材に応じた。昼夜問わずにサングラスを掛け、マイカーに異常な愛情を注ぎ、思い通りにいかないとヘソを曲げる…。そんな男として知られていたという。
横溝正史の長編推理小説で映画にもなった「八つ墓村」。周囲を恐怖のどん底に陥れた猟奇事件は発生から6日目の26日、一気に解決へと向かった。
現場周辺の山中で捜査本部に身柄を確保され、逮捕された保見容疑者は、山本ミヤ子さん(79)に対する殺人と非現住建造物等放火容疑を認め、他の4人の殺害と2軒の放火についても「私がやりました」と認めているという。捜査本部では事件の背景に人間関係の軋轢があるとみて慎重に捜査している。
保見容疑者の自宅は、集落のほぼ中心に位置し、川沿いにへばりつくようにして建っている。
川崎市に住む男性(70)は事件発生後、テレビに映し出されたこの家に目がとまり、思わず声を上げた。
「写真で見たワタルの家だ」
保見容疑者がかつて「これ、オレが建てたんだよ」と言いながら、誇らしげに写真を見せてくれたことを覚えていたからだ。
保見容疑者は、中学卒業後の15歳で上京し、1994年の帰郷直前まで、川崎市で過ごしていた。男性は友人の紹介で同容疑者と知り合った。
当時、同容疑者は名前を光成ではなく中(わたる)と名乗っていたという。「自己紹介するとき、マージャン牌の『中』にひっかけて『どうもチュンです』なんて言ってた。見た目はいかついけど根はいいやつだった」と男性は振り返った。
JR南武線稲田堤駅から北西に約1キロメートル離れた住宅街にある2階建てアパートで1人暮らしをしていた同容疑者。付近の工務店でタイル工としてしばらく働き、独立開業した同僚の会社に合流する。当時、仕事上のパートナーとなった元同僚はこう話す。
「6〜7年付き合ったけど、女遊びも、無駄遣いもしなかった。金はかなりためてたみたい。仕事の腕も良かった」
行きつけの居酒屋で仕事仲間と酒を酌み交わすこともしばしば。周囲の信頼を得て都会暮らしになじんでいたようだが、こんな一面もあった。
「妙なこだわりがある男でね。昼夜問わずサングラスを掛けっぱなしにしていた。もともとはっきりモノを言うタイプだったけれど、酒が入ると理屈っぽくなる。そのせいか、酒の席でケンカになることがよくあった」(元同僚)
先の男性は、自家用車に並々ならぬ愛情を注ぐ保見容疑者の姿も覚えている。
「車には相当金をかけていた。改造した四輪駆動車に乗っていて、ホコリひとつないぐらいに磨き上げていた」。愛車には、携帯電話が普及していない当時にしては珍しく、車載電話を設置していた。
保見容疑者は、事件の舞台となった自宅を、裸のマネキンを使って自作したオブジェなどで飾っていたが、この装飾趣味は川崎時代からうかがえ、「自宅アパートにも複数の置物を配していた」と先の男性。
過疎化が進んだ集落で孤立を深めて暴発した保見容疑者だったが、過去には町おこしを提案したり、住民の手伝いをしていたことも。だが、最近では犬をめぐるトラブルや大音量でカラオケをして、近隣住民らとの衝突が絶えなかった。
先の男性は「親の介護のために帰郷するぐらいだから、悪いやつじゃない。こっちにいるときも、いじめられた仲間をかばったり、正義感のあるやつだった。ただ、思い通りにいかないとヘソを曲げることもあった」と語り、こう続ける。
「あいつが故郷に帰る前日に『明日田舎に帰るから今晩飲みませんか』と誘われたんだ。でも、どうしても都合が悪くて断った。そしたら次の日、『気をつけて帰れよ』って声を掛けたのに知らん顔しやがった。そういう所があるんだよな」
心に抱えた闇の解明はこれからだ。
【山口連続殺人放火事件】 事件は21日から22日にかけて起きた。21日午後9時ごろ2軒の民家から火災が発生。集落西寄りの貞森誠さん(71)と妻、喜代子さん(72)の自宅で2人の遺体を発見。約80メートル離れた山本ミヤ子さん(79)宅でもほぼ同時に出火し、山本さんの遺体が見つかった。
その山本さん宅の隣に、保見光成容疑者(63)の自宅があり、玄関脇の窓には「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」との不気味な貼り紙があった。
捜査中の22日正午ごろには、同じ地区の河村聡子さん(73)宅、石村文人さん(80)宅でそれぞれ河村さん、石村さんが遺体となって見つかった。司法解剖などで5人はいずれも鈍器で複数回殴られ、ほぼ即死。河村さんと石村さんは体にも複数の外傷や骨折があった。
<山口5人殺害>潜伏の山中 沢のせせらぎと羽虫の音だけ
山口県周南市の5人連続殺人・放火事件で、26日に殺人と非現住建造物等放火容疑で逮捕された保見光成(ほみこうせい)容疑者(63)は、事件のあった金峰(みたけ)地区郷集落近くの山中に潜伏していた。2棟の民家全焼からほぼ5日過ごしたとみられる環境はどうだったのか。険しく、うっそうとした森を歩いた。
発見した機動隊員も、今となっては地図上にポイントで落とせないと言うほどの山深さだ。26日午前9時5分ごろ、獣道にいた保見容疑者は裸足で、下着姿だったという。保見容疑者は観念したように座り込んだ。側頭部には打撲の跡があり、体には擦り傷が目立ったといい、逃亡生活の過酷さを感じさせた。
自宅や犠牲者宅のある郷集落周辺の山中。聞こえるのは沢のせせらぎと周囲を飛び回る羽虫の音だけだった。足元の枯れ枝を踏むと、大きく響いた。保見容疑者が確保されたのと、渓流を挟んだ対岸の山に入った。地図上では複雑な等高線が走り、車道からは傾斜のきつい山道が伸びる。
「かつて林業は、この界わいの主産業だったが、なり手がないため下草刈りさえできない状態が続いている」。地区に住む男性(84)の言葉が頭をかすめた。
車道から川を渡ってすぐ、壁のような急勾配が現れた。人の入らない山は荒れ、枝打ちしていない杉が道をふさぐ。沢伝いにかろうじて残る道を登ると、500メートルも歩かないうちに車道は見えなくなった。眼下に切れ込んだ沢が見える。もし、足を踏み外したらどうなるか。背筋が寒くなった。
食料や水はどうしていたのか。郷集落の70代の女性は「谷水が豊富なので問題ないが、山菜の時期ではないから、何も食べられなかったのではないか」とみる。朝方は真夏でも肌寒いほど。車道には街灯がなく、月が出ていても暗い山中は、歩けそうになかった。
身柄確保から一夜明けた27日朝、集落内で「ゆっくり眠れた」との声を聞いた。朝から続いた大規模な捜索はなくなり、前日までの張り詰めた雰囲気は和らいだ。県警は同日も約100人態勢で、身柄確保の現場周辺で遺留物や凶器を捜す。
父を懸命に介護、犬可愛がる一面も 山口・放火殺人事件
山口県周南市で起きた連続殺人・放火事件で26日、殺人などの疑いで逮捕された保見光成容疑者(63)。父を懸命に介護し、犬を可愛がる一面を知る人は、凶悪な容疑との落差に戸惑う。
「この犬は、父の生まれ変わりだと思った」
数年前、保見容疑者に捨て犬のゴールデンレトリバーを引き取ってもらった女性は、容疑者の言葉が忘れられない。関東での左官の仕事をやめ、地元に戻って介護していた父親を亡くしたばかり。心の支えを求めているようだったという。
両親の死後、トラブル続き孤立…山口連続殺人
自宅から約1キロの山中で、逃亡中の容疑者が確保された山口県周南市金峰(みたけ)の連続殺人・放火事件。
保見光成(ほみこうせい)容疑者(63)は26日に逮捕された後、遺体で見つかった5人の殺害を認めているという。県警は小さな集落で起きた凶悪事件の動機や逃亡中の足取りの解明に乗り出した。事件発覚から5日間、不安な日々を過ごした地元住民らは、安堵(あんど)する一方、やりきれない思いで逮捕の知らせを受け止めた。
保見容疑者は、中学卒業後に関東の工務店で働き、40歳代半ばの1994年に実家に戻った。
中学時代の同級生(63)によると、「高齢者相手に大工仕事や家の修理など『便利屋』のような仕事をしていた」という。
しかし、同居していた母親が2002年末に亡くなり、父親を数年前に亡くして一人になってからは、周囲とのトラブルが目立つようになった。回覧板を持ってきた住民には「ゴミだからいらない」と拒否。別の地域から移ってきた男性(70)は「自宅を訪ねても、気配はあるのに一向に出てこなかった」と話すなど、集落の住民と交流せず、孤立を深めた。
山口連続殺人、5人殺害認める 容疑の63歳男
山口県周南市金峰の連続殺人放火事件で、逮捕された無職保見光成容疑者(63)が「私がやりました」と、被害者5人全員の殺害を認める供述をしていることが分かった。周南署捜査本部が26日午後、会見して明らかにした。2軒の放火も認めており、捜査本部は、詳しい動機など、事件の全容解明を進める。捜査本部は同日午後、隣に住む無職山本ミヤ子さん(79)に対する殺人と非現住建造物等放火容疑で、保見容疑者を逮捕した。
山口・周南市連続殺人事件 男は発見時、靴をはかず下着姿 
山口・周南市の連続殺人放火事件は、発生から6日目に急展開を見せた。逮捕された63歳の男が潜んでいたのは、住民たちが避難していた公民館から1kmしか離れていない山の中だった。男は発見された際、下着姿で、靴も履いていなかった。
住民は、「よかった。これで一安心。ちょっと風でも吹けば、その人が来たかと思ってね」、「これでほっとしました。やっと普通の生活に戻れるのが、一番うれしい」となど話した。
近所の人たちからは、安堵(あんど)の声が上がった。
山口・周南市の集落で5人が殺害された事件は、発生から6日目の26日、大きく動いた。
午前9時すぎ、警察が山中で、重要参考人の男を発見した。
男が、隣に住んでいた山本 ミヤ子さん(79)に対する犯行を自供したことから、警察は、殺人と放火の疑いで保見光成容疑者(63)を逮捕した。
保見容疑者が発見されたのは、集落の人々が避難していた公民館から、1kmほど離れた山の中だった。
山口県警は会見で、「(保見容疑者は)最初は立っていて、そして疲れたように座り込んだと。(服装は)パンツ姿。上はTシャツ。靴も履いていない。『保見さんですか』と質問したところ、『そうです』と」と語った。
保見容疑者は、下着姿で、抵抗することなく身柄を確保されたという。
25日、付近の山中から、保見容疑者の衣類や携帯電話などが見つかったことから、警察は、保見容疑者が山中に隠れているとみて、集中的に捜索していたという。
逮捕後も、捜査員は、保見容疑者が潜んでいたとみられる山の中で、遺留品などの捜索を続けている。
保見容疑者は、山の中で、どのように潜んでいたのか、今のところ明らかにされていない。
保見容疑者は15年ほど前に、神奈川・川崎市から、実家のある周南市の集落に帰り、両親の面倒を見ていたということだが、両親の死後、近所の人たちとの間でトラブルが絶えなかったという。
住民は「田舎は、近所がうるさいですからね。そういうので、積もり積もったものが、噴き出したんだと思います。どうしてこうなったか、しっかり言ってほしい」と話した。
保見容疑者は、山本さんだけでなく、ほかの4人の殺害についても認めているという。
これまでの捜査で、保見容疑者の自宅からは、不平や不満をつづった貼り紙が見つかっているということで、警察は、動機についても調べを進めている。
【山口連続殺人】63歳の男を山中で発見、逮捕「死にきれなかった」
山口県周南市金峰の連続殺人放火事件で、周南署捜査本部は26日、殺人と非現住建造物等放火の疑いで保見光成容疑者(63)を逮捕した。保見容疑者は事件後に行方が分からなくなり、捜査本部が同日午前、現場近くの山中で発見し周南署に任意同行、事件への関与について取り調べていた。容疑を認めているという。事件発生から6日目。捜査関係者によると、発見された際に「死のうと思ったが、死にきれなかった」と話した。
男は殺害された5人のうちの1人の山本ミヤ子さん(79)宅の隣に住んでいた。同じ集落の周辺住民とトラブルを抱えていたとの情報があり、関連を調べる。逮捕状は山本さん宅の放火と殺人容疑で請求した。
捜査本部によると、男は、はだしに上下とも下着姿で、所持品はなかった。発見した捜査員に名前を聞かれて本人と認めた。擦り傷がある程度で、健康状態に問題はなく、自力で歩ける。
集落の63歳男逮捕=山中で確保、認める供述―5人殺害、殺人と放火容疑・山口県警
山口県周南市金峰の集落で5人が相次いで殺害された事件で、県警周南署捜査本部は26日、被害者1人に対する殺人と非現住建造物等放火容疑で、同じ集落の保見光成容疑者(63)を逮捕した。同容疑者は事件後、行方不明となっていたが、捜査本部は同日午前、付近の山中で身柄を確保。「はい、分かりました」と、認める供述をしているという。
捜査本部によると、保見容疑者は同日午前9時5分、集落の住民が避難している公民館の北約1キロの山道で見つかった。座っており、捜査員が名前を確認したところ、素直に認め、同行に応じたという。素足に下着姿で所持品はなく、負傷はしていなかった。
逮捕容疑は、被害者のうち、山本ミヤ子さん(79)を殺害し、自宅に放火した疑い。
“限界集落”での残虐事件「山口連続殺人」と「津山30人殺し」の3つの類似とは?
21日夜から22日にかけて、のどかな山里にある小さな集落が、一晩にして筆舌に尽くし難い惨劇の舞台となってしまった。
現場は市街地から車で45分ほど離れた山間部にある山口県周南市金峰(みたけ)。たった14人しかいない集落において、5人が遺体となって発見された。65歳以上が10人を占める限界集落で起きた事件、犯人とみられる男(63)はいまだ逃走中である。
周南署捜査本部がの発表によると、集落に住む貞森誠さん(71)、約60メートル離れた山本ミヤ子さん(79)方から相次ぎ出火し、焼け跡から3人の遺体が発見された。
さらに、同集落の河村聡子さん(73)と、近くの石村文人さん(80)が、それぞれ自宅で遺体で見つかった。そして、その後の司法解剖によって、頭部に鈍器で複数回殴られたような痕があり、骨折していたことが明らかに。半径300メートルの範囲内で起きた今回の事件に対し、県警は殺人事件として捜査を開始。ただ、いまだ状況証拠だけなのだろうか、警察の発表では依然として重要参考人扱いになっており、実名の発表はされていない。 
忘れ去られたような限界集落で起きた今回の事件。まるで、半世紀以上前に起きた世紀の大事件、津山30人殺しこと「津山事件」の再来のようだ。推理小説の重鎮、横溝正史が小説『八つ墓村』のモデルになったともいわれる「津山事件」と、今回の「山口連続殺人事件」にはいくつかの類似点があることに行き着いた。
現場の類似: 限界集落
「津山事件」は、1938年(昭和13年)5月21日午前1時ごろ、岡山県苫田(とまだ)郡西加茂村大字行重(ゆきしげ)の貝尾部落とその隣の坂本部落を舞台に、都井睦雄(といむつお・22歳)が、わずか1時間半の間に村人30人を惨殺した事件である。この人数はテロや複数犯による犯行をのぞけば、20世紀に入ってから全世界で5番目に多い数とされている。当時の記録によると、貝尾部落は全戸数23戸、人口111人、その隣の坂本部落は全戸数20戸、人口94人という小規模な集落であった。交通網が発達していなかった時代、都会から離れた山奥の集落という環境なだけに、ただでさえ閉塞的な社会の中で隔離されるように受ける差別、そして世の中が戦争へと突き進んで行く絶望的な状況、精神的限界集落ともいえよう。「限界集落」という言葉は、過疎化や山村部での問題にようやく光が当たり始めた1991年に大野晃長野大教授が名付けたのだが、集落の持つ閉塞性に関しては似ている所がある。
犯行動機の類似: 病による劣等感
○ 「津山事件」 / 都井は、当時不治の病と言われた「肺結核」に冒されており、それが理由で徴兵にも参加することができなかった。徴兵は英雄視されていたが、行かないとなると相当な差別を受ける時代であった。大正、昭和にかけてで、日本では長い間、死因として最も多かったのが結核であり、「亡国病」とまで言われた。結核に対する知識不足から、相当な差別的な扱いを受けていた都井は、日ごろから住民に並々ならぬ恨みを持っており、犯行に至った。また、結核が原因で交遊関係のあった女性に拒絶されたことも一因とされている。
○ 「山口連続殺人事件」 / 今回の山口連続殺人事件で最も疑わしいとされている犯人(仮にAとしよう)は、金峰地区出身で、10〜15年ほど前まで神奈川県川崎市で20年ほど左官職人として働いていたが、現在他界している両親と暮らすために戻って生活していたと村の住人は話している。その頃は近所付き合いもあったというが、両親の死後、段々と人を避けるようになり、集落の中でも孤立していった。自宅は、全焼した山本ミヤ子さん方の隣に位置し、男が山本さんに対し、大声で叫んだり、農作業の音に「うるさい」と暴言を吐いたりとトラブルが尽きず、他の住民も関わらないようにしていたという。そういった私怨が徐々に大きくなり、やがては集落全体に恨みを抱くようになったのでは? と大量殺人の典型例を出しながら語った。
また、「薬を飲んでいるから10人や20人殺しても罪にならん」などと話したことがあるといい、なんらかの病を患っていた可能性もある。
犯行の類似: 事前予告
○ 「津山事件」 / 都井は犯行に及ぶ1年も前から周到に準備をし、毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った。この頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金までしていたのである。
○ 「山口連続殺人事件」 / Aも、都井同様、犯行をほのめかす行動を起こしていた。2年程前より、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と筆で書いたような紙を窓ガラスの内側の障子に貼っていた。ともに犯行に及ぶ前から、犯行声明ともとれる行動を示していたのだ。
「自宅の窓ガラスに、『つけびして 煙り喜ぶ 田舎者』と毛筆で手書きした紙を貼っていた。…数年前に集落に戻り、犬と暮らしていたようです。事件前後から行方がわからなくなっており、県警が重要参考人として行方を追っています。殺された石村さんは生前、この男について、『家に閉じこもっていて変だ』と語っていたといいます。周辺住民とあまり付き合いがなく、近所同士でトラブルがあったという話もある。集落では浮いた存在だったようです」
その後の展開は?
都井は、犯行後山中にて自殺したが、その後の貝尾集落は崩壊への一途だった。今回の犯人の生死はわからないが、たった14人しかいなかった限界集落での犯行、この集落もまた消滅せざるを得ないのではなかろうか。先進国として飛躍していく日本。しかし、その裏側で起きている現状にも目を向けなくてはならない。そう、警鐘をならしているようにも思えるのだ。 
 
山口連続放火殺人事件 3

 

「連続放火殺人」の集落で見たものは… 山口・八つ墓村あれから起きたこと
山口県周南市の限界集落で起きた5人殺人事件には、いまだに多くの謎が残されている。事件が起きてから1ヵ月が過ぎたいま、あらためて真相を探ってみると、驚くべき事実が浮かび上がってきた。
そこに入ってはいけない
「保見の家の中を見たことはないだろ。居酒屋風になっとるんだ。サロンみたいになっていて、いつでもお客が来られるようにしていたんだよ。言ってみれば彼は泣いた赤鬼≠ネんだ。保見という心の弱い赤鬼が、人に認めてもらえない寂しさを爆発させ殺人を犯してしまったんだよ」(保見光成容疑者をよく知る知人)
7月21~22日にかけて山口県周南市で起きた5人連続殺人事件から1ヵ月が過ぎた。5人全員を木の棒で撲殺、うち山本ミヤ子さん、貞森誠さん・喜代子さん夫妻に至っては殺害後、住宅に放火までされるという凄惨な事件だった。
過疎が進む地方の集落で起きたこの事件は、多くの人々に横溝正史の小説『八つ墓村』を思い起こさせた。保見光成という得体の知れない男が起こした凶行の裏には、いまだ多くの謎が残されている。事件から1ヵ月が経ったいま、八つ墓村≠ヘどうなっているのか—。
事件が起きた集落はいまどうなっている?
事件が起こった周南市金峰地区郷集落は、全部で8世帯のみ。集落は道路を挟んで2つに分かれており、片方の地区には保見と山本ミヤ子さん、貞森さん夫妻が住んでいた3軒がある。ここは隣の集落・菅蔵につながる道路が通っているため、保見が逮捕された翌日から規制が解かれている。しかし、保見の自宅と、山本、貞森宅の前はいまだ立ち入り禁止のままなのだ。
道の反対側には残りの5家族が暮らしているが、事件から1ヵ月経った今でも規制は解かれていない。地区の真ん中を走る道路の端から端まで規制線で遮られていて、地域住民と警察関係者、親戚、知人しか中に入ることができない。
周南署の副署長によると、9月いっぱいは規制を続けるという。
事件をくぐり抜けた集落の住民はどうしている?
今回の事件では、郷集落の8世帯12人のうち5人が殺害された。そんな状況の中、集落の生き残りとなった人々は何を思い、どう暮らしているのか。集落の近隣に住む男性が言う。
「いまあの村に残っている人たちは、外に出る用事もないし、家の周辺で農作業や草刈りをしとるぐらいやな。彼らもこの事件をどう受け止めればいいのか、まだわからんのだと思う」
事件後も郷集落の住民と会っているという人物は、彼らの心境についてこう話した。
「事件から1ヵ月経って、少しずつ住民たちも落ち着いてきているよ。いつまでも怖がってばかりもいられないしね。事件のことも、特に話題にしたりしない。それでも、これから自分たちがどうしていくのか、どうやってこの地域を守っていくのか、みんな心配しているみたいだ」
遺骨は帰宅できず
犯人の家は今どうなっている?
保見の自宅は立ち入り禁止の規制が敷かれ、ガレージにビニールシートがかけられているため、中をうかがうことはできない。が、多くのメディアが取り上げたように、保見の家は集落の中で一風変わったムードを漂わせている。
敷地内には2棟が並んで立っており、片方は木造、もう一方はタイル張り。奇抜なのはタイル張りの方だ。保見は中学卒業後に上京し、神奈川県川崎市で左官の仕事をして暮らしていた。'94年に帰郷し、実家で両親の介護にあたる一方、左官の技術を生かし、集落の家の修繕を引き受けるなどしていたという。タイル張りの建物も自分で建てた。
玄関前にはオブジェや陶器の人形が置かれ、屋根からはCDが連なるような形でぶら下がっている。玄関横には上半身だけのマネキンが立っており、胸の部分には乳房をかたどるようにCDがつけられている。
とにかく人とは違う方法で自分を表現しようとする保見。この自宅も、そんな保見の自己主張が表れたものなのだろう。
被害者たちの葬儀は行われたのか?
5人もの住民が殺害された今回の事件。被害者たちの葬儀は行われたのだろうか。近隣に住む住民が言う。
「被害者たちの葬式はもう全部終わったよ。親族を集めた密葬みたいな感じでやったと聞いちょる。そのなかでも、石村文人さんの葬式が一番先に行われた。その後に山本ミヤ子さんがやって、貞森さん夫妻は一番最後にやった。実は、犯人が逮捕された頃までにはもうみんな終わらせたんや」
遺族たちはお盆をどう過ごしたのか?
前出の近隣住民は続ける。
「河村聡子さんと石村さんの遺族は、まだ警察の検分なんかで家に入れんから、お寺に骨を預けていると言っとったな。河村さんの旦那さんはいま自分の娘のところにおるんや。9月にならないと親族も自宅に入れないようだ。盆の前に石村さんと山本さんの親戚の家に寄ったけど、遺族の人たちは犯人に対しては何も言うとらんかったな」
いじめはあったのか?
保見と郷集落の住民との間には深い溝があり、軋轢が生まれていた。そのなかで注目を集めたのが、郷集落の住民が保見に嫌がらせをしていたといういじめ情報≠セ。
一部では、草刈りの際、保見の農機具が草と一緒に燃やされてしまったとか、飼っている犬が臭いと文句を言われ農薬をかけられたなどといったトラブルも報道されている。また保見は2011年に「集落の中で孤立している」「近所の人に悪口を言われて困っている」と周南署に相談した事実もある。そのため、保見が閉鎖的な集落で疎外され、いじめに対する不満が爆発したのではないかという同情論≠煖Nこった。
犯人が出していたサイン
では、実際にいじめの事実はあったのだろうか。郷集落で暮らす住民の一人が重い口を開いた。
「メディアは、よってたかって彼をいじめたと報道していますが、誰もいじめていませんよ。溶け込まなかった彼の弱さもありますし、被害妄想だと思う」
他にも、住民の側からは保見に対して「家の周囲に勝手に除草剤を撒かれた」「殺してやると怒鳴られた」などの訴えが出ている。先の住民が続ける。
「こういう小さな地区では和が大切なんです。それを彼に教えてくれる人がいなかったんだと思う。彼は両親が亡くなってから集落の人たちとの関係がおかしくなった。みんな、そこまで彼が切羽詰まっていたことがわからなかった」
保見としては、村八分にされた心境だったのだろうか。実際にいじめがあったのか、それとも妄想の産物だったのか。犯行動機に関わる重要な点であるだけに、早急な事実の解明が求められる。
「つけびして」の貼り紙の真意は?
今回の事件で、その不気味さの象徴として扱われてきたのが、保見の自宅窓に貼り付けられていた『つけびして 煙り喜ぶ 田舎者』と俳句もどきの一文が書き殴られた一枚の紙だ。
事件発生当初からこの貼り紙は様々な憶測を呼んだ。例えばつけび≠ニいう言葉が放火を連想させるため、貼り紙自体が保見の「犯行声明」だとする説。しかし一方では、集落の人たちが農作業後に燃やす田畑の煙が、保見の家の方向に流れ、迷惑をこうむっていることに対する「抗議」ではないかという解釈もされ、貼り紙の真意は謎に包まれたままだった。
逮捕後、保見はこの貼り紙について、担当弁護人に「つけびして≠ヘ、集落内で自分の悪い噂を流すこと。田舎者≠ヘ集落の人を指す。(紙を貼りだしたのは)周囲の人たちの反応を知りたかった。自分の中に抱え込んだ気持ちを知ってほしかった」と語った。
貼り紙は、村人たちに自分の寂しさに気づいて欲しいという、保見なりのサインだったというのだ。しかし、一般的に考えればこの貼り紙は住民にとっては不気味であり、真意を図りかねるものだったろう。人に何かを伝えたいのに、屈折した方法でその感情を表に出してしまう。このエピソードからも、保見の複雑で人に誤解を与えやすい性格が浮かび上がってくる。
犯人は今どこにいる?
事件発生から5日後の7月26日、自宅から約1kmの山中で身柄を拘束された保見。県警は同日、任意同行先の周南署で山本さんに対する殺人及び非現住建造物等放火容疑で逮捕し、翌日、山口地検に送検した。
その後、保見は周南署に戻り勾留されていたが、8月5日に地検は10日間の勾留延長を山口簡易裁判所に申請。続いて15日には貞森さん夫妻に対する殺人等の容疑で再逮捕。17日に送検された後、再び周南署に戻り、現在も取り調べが続いている。河村さん、石村さんの殺人容疑についても、近々逮捕、送検されるとみられる。
通常、刑事事件が起きた際には容疑者逮捕から最大で23日以内に起訴・不起訴が決定する。しかし本件で保見は複数の殺人を起こしており再逮捕が繰り返されるため、起訴が決定するのはまだ先となる。
犯人はいま何を語っているのか?
逮捕された直後の周南署副署長の話によると、保見は事情聴取に対して暴れるような様子もなく、大人しく捜査官の話を聞いていたという。ただ、自分が殺害した被害者たちとの関係などに言及できる状態ではなかったようだ。
逮捕から日が経つにつれ、「被害者や遺族に対して申し訳ない気持ちがある」と弁護人に話すなど、少しずつ事件についての思いを語り出している状況だ。しかし、遺族に対する謝罪の弁を述べた直後に「過去にいろんなことがあった」という言葉も漏らしたという。5名もの人間を殺しながら、被害者たちに対する恨み辛みはなくならないようだ。
また、保見は事件当日に大量の睡眠薬を摂取し、当時の記憶が曖昧だと語っているという。犯行当時の責任能力に関わるこの問題は、今後大きくクローズアップされる可能性がある。
愛犬とは永遠の別れ
弁護人はどんな人がついているのか?
事件の担当弁護人は、山田貴之弁護士と沖本浩弁護士の2名。両氏とも山口県弁護士会所属で、国選弁護人として選任された。山田弁護士は、山口地検と山口県警に対して、取り調べの全過程を録音、録画する全面可視化を申し入れ、また保見との接見を毎日行うなど、意欲的な弁護活動を行っている。
今後、保見の代弁者である両氏の役割は極めて重要となってくる。
犯人の親族はどうしている?
郷集落からおよそ10km離れた場所に住んでいた姉は、保見が逮捕された直後に事件の混乱を避け、身を隠した。現在でも姉の家には人が戻ってきた様子はなく、もぬけの殻のまま。事件が落ち着くまでは、家に戻ることはおそらくないだろう。
愛犬はどうなった?
保見は自宅でゴールデンレトリバーを飼っていた。オリーブという名前で雄の8歳(推定)。事件後家に置き去りにされていたが、事件発生から4日後、動物愛護団体によって保護された。ところが翌日、保見が身柄を拘束された1分後に急死してしまう。
ことの経緯が、愛護団体のブログに詳しく書かれている。それによると、愛護団体は事件発生後、市から相談を受け犬を預かることになった。市の職員が犬をケージに入れて運んできたが、同団体にはシェルターがないことや、飼い主が殺人事件の容疑者であるため犬の安全を考慮して、近県の団体に受け入れを依頼。動物病院で受診後、その団体に託した。
スタッフによると、食欲もあり落ち着いた様子だったというが、7月26日朝、状態が急変。動物病院へ緊急搬送されたがそのまま死亡した。死因は心臓発作だという。愛犬は、自分の主人と二度と会うことはできないことを悟っていたのだろうか—。
事件から1ヵ月が経った八つ墓村≠ノは、いまだに深い傷跡が残されている。住民の傷が癒える日はいつ訪れるのだろうか。 
 
山口連続放火殺人事件 4

 

保見光成がかわいそう…、裁判で死刑判決が出たが、事件の真相を追求!
保見光成がかわいそう…!?裁判で死刑判決を受けたのにどうしてだ…?保見光成がかわいそうと言われているが、それは一体なぜだ?
2013年7月、山口県周南市で山間の集落にて男女5人が殺害され、自宅を放火されるなどして、殺人と放火の罪の容疑で、保見光成(65)が逮捕されていた。そしてつい先方、山口地方裁判所にて保見光成被告に死刑判決が言い渡された。
これまで、保見光成被告はずっと「無実」を主張してきた模様。それは少し無理な気がするが…、
そこで、検察・弁護士双方は被告のことを「妄想性障害」だったとしたとして、責任能力が有るか無いかまたはどの程度か?これが争点となっていたようだ。
検察側は、「犯行は被告の元々の性格に基づく判断により実行されたもので、完全責任能力がある」このように判断を下し、有罪で死刑判決を要求。
弁護士側は、「被告には妄想の影響で判断する力がなく、責任能力はないに等しいか著しく低下していた」以上の判断で、無罪を要求。
裁判の結果は、ご覧の通りだ。保見光成被告は、死刑判決とみなされることとなった。
しかし、実はこの判決に意を唱える者も少なくない、というのが事実でもある。裁判での死刑判決に関して”かわいそう”という声が挙がっているのだ。
保見光成被告がかわいそうとはどういうことなの?
それは、保見被告が置かれていた環境がこのような批判を呼んでいるようだ。彼は、住んでいた地域から様々な仕打ちを受けていたのだという…。その仕打ちの内容というのが実に酷いものだった。
人物像も語られているが、それを考慮に入れたとしても周南の放火殺人事件を起こしたのは、地域からの仕打ちに他ならない…、と思えてならないのだ。
以降では、保見光成被告が受けてきた周南市でのかわいそうな仕打ちの内容、
今回の裁判は死刑判決で本当にいいのか?ということを記していく。
保見光成がこれまで受けてきたかわいそうな仕打ちとは一体…?周辺住民の反応も!
山口県周南市で起きた男女5人の殺害放火事件。その犯人として逮捕された保見光成被告だが、事件を起こしたきっかけその原因とはなんだったのだろうか?個人的な意見も混ぜて表記していこうと思う。
先ほども話していたが、保見光成が受けてきたかわいそうな仕打ちはこれだ。
○ 親の介護のため44歳で帰省、村人のあらゆる雑用をずっとさせられる
○ 一番若いからという理由で草刈を全部一人でやらされる
○ 自費で買った草刈り機を燃やされる
○ 近隣住民に物を取られる
○ 自宅を放火される
○ 集会で胸を刺される
○ 先祖の墓が倒される
○ 退職金を配るよう強要される
○ 村おこしを反対される
○ 農薬を撒かれる→愛犬一匹目死亡
○ 保見光成氏の逮捕直後、愛犬二匹目死亡
これが仕打ちというやつだ。もはや、かわいそうないじめにしか見えてこないのは私だけだろうか??
さらにさらに、周辺住民からは事件後にはこんな反応が。
”ちょっと鋭利なものが当たったくらい”
”機械を忘れて帰ったら次の日に草と一緒に焼いてしまった”
このような事実が判明していたら、事件として発覚していたのではないだろうか…。そもそも、このような会話がでているのに無視して事件だけで判断しているのは正しいのだろうか…?
今回の裁判の死刑判決だが、私自身はあまり良いと判断とは思えないのだ。
たしかに、どんな事情があったとはいえ、殺人・放火は重罪だ。しっかり服役して罪を償うのが筋だろう。しかし、死刑判決というのはどうなのだろうか、やりすぎなのではないか?
ニュースでも、保見光成被告が置かれていた環境というのには、一切触れてはいなかった。むしろ、そこを考慮した上、結論を出していくべきではないのだろうか?
保見光成の精神状態を考えたら、「妄想性障害」と言われても仕方がないように思える。
裁判で責任能力は保持されていたとして、死刑判決になったと思うのだが、保見光成の内情や心境というものもしっかり考慮してもらいたいものだ。
私自身では、せめて減刑…、くらいはしてもいいように感じるが。今後も、もしかしたら動きがあるかもしれない。
全てを晒し、真相を明らかにした上で公正になされた裁判の結果を見届けたいと思っている。 
 
山口連続放火殺人事件 5

 

弁護士の会見
8月26日、山田貴之弁護士および沖本浩弁護士の2人が、山口県周南市にある「徳山保健センター」で会見を開きました。以下、その会見での弁護人の発表内容です。
「少なくとも保見さん自身の認識では、自分について悪い噂が流されている、あるいは周りの人から監視されている、という意識を強く持っていました。」
「『事件の日のことはすっぽり抜け落ちてしまっていて、真っ暗なんだ』ということを言っております。」
「(殺害した順番に関しては)最初に貞森さんの家に行った、次に山本さん、次に石村さん、最後に河村さんの家だという風に言っております。」
逮捕後の保見容疑者の様子・供述・流れなど
・取り調べに素直に応じている。
・5人の被害者全ての殺人事件に対して「私がやりました」とおおむね認める。
・顔や足などに複数の擦り傷・切り傷があるが、健康状態に異常はない。
・7/26の昼食は完食、7/26の夕食と7/27の朝食もほぼ完食。
・7/26の就寝時間も、特異なところは見られていない。
・7/27夕方、山口地裁で勾留手続きが行なわれた。
・7/31、保見容疑者の弁護人が山口市で記者会見。保見容疑者は被害者と遺族に対して「申し訳ない気持ちがある」と話している。また、逃走の際には自宅から睡眠薬とロープを持って出て、山中で自殺を図ったという。
・8/5、山口地検が山口簡裁に10日間の勾留延長を申請し、認められた。
・事件の動機について「集落でトラブルがあった」「犬のふんの処理について注意された」「犬を殺すために田んぼに農薬をまかれた」などとする”被害者への不満”を供述。また、「被害者5人全員に恨みがあった」「5人を同じ木の棒で殴って殺した」「悪口を言われた」などと供述。
・保見容疑者は殺害した順番に関して「貞森誠さんと喜代子さん夫婦、山本ミヤ子さん、石村文人さん、河村聡子さんの順番で家に侵入し、殺害した」と供述。
・8/15、貞盛さん夫婦に対する殺人と現住建造物等放火の容疑で再逮捕。
・8/17、上記の容疑で山口地検へ送検。
・貞森さん夫婦と山本さん殺害については関与を認めているが、石村さんと河村さん殺害については、「弁護士と相談してから話します」と認否を保留している。
・9/5、石村文人さんと河村聡子さんへの殺人容疑で再逮捕。
・「なぜその日に事件が起きたのか全くわからない」などと、事件当日の記憶がほとんどなく、あいまいな供述が続いている。
・9/16、弁護人が精神鑑定を要請。近く裁判所に鑑定留置を請求する方針。
・9/17、鑑定留置を開始。
・12/20、鑑定留置が終わり、刑事責任を問えると判断される。
保見光成容疑者(63)を非現住建造物等放火罪・殺人罪で逮捕
山口県警は7月26日の13時35分、山本さんに対する非現住建造物等放火罪・殺人罪で保見光成(ほみ こうせい)容疑者(63)を逮捕しました。
保見光成容疑者は容疑を認めており、捜査員による事情聴取にも特に抵抗することなく応じているということです。
また貞森さん夫婦ら他4人の殺害に関してもおおむね認めているようで、今後、事件の実態が解明されるまで時間はかからないのではないかと思われます。
身柄確保時の状況
県警は7月25日の午後3時ころ、保見光成容疑者の自宅から約200m離れた河村さん宅の近くに、保見容疑者の物とみられる携帯電話・シャツ・ズボンが放置されているのを発見。付近を重点的に捜索していました。
そして7月26日午前9時5分ころ、郷集落から北に約1kmほどの山中に、保見容疑者が座っているところを発見。健康状態は比較的良好だということでした。
保見容疑者はシャツとパンツのみの下着姿で靴も履いていませんでしたが、擦り傷はあるものの目立った怪我はなく、自力で歩ける状態だったそうです。
捜査員の問いに対し、「本人です」や「死のうとしたが死にきれなかった」と言い、保見容疑者は自ら名字を名乗った上で、特に抵抗することなく任意同行に応じたといいます。凶器などは持っていませんでした。
捜査車両までは自力で歩いて山を下り、車両を乗り込む際には足の泥を落とし、一礼して乗り込んだといいます。
午前11時20分ころ、保見容疑者の身柄は周南署へ到着しました。
14:30ころの周南署による記者会見
記者「自供していると聞きましたが、事実は?」
県警「事実は認めています」
「動機は?」
「今後の捜査で、明らかにしていきます。」
「発見時の様子を詳しく教えていただけますか?」
「本日、170人態勢で探していました。そのうち1班が山道を捜索しておりましたところ、座っていた容疑者を発見。シャツとパンツ姿で、靴も履いておりませんでした。捜査員が”保見さんですか?”と質問したら”そうです”と。それで身柄を確保。周南署へ連行しました。」
「所持金は?」
「ありません。」
「凶器は?」
「ありません。」
「6日経ったんですが、どのような生活を?」
「全くわかりません。今後、本人から事実関係を聞きます。」
「他の4名の被害者に関してなんですが、供述は?」
「おおむね、認めています。」
「事件の証拠は?」
「それについては、お答えできません。」
「なぜですか?」
「今後、裁判で明らかにしていきますので。事実が固まったということで、ご了承ください。」
「他の4名に関しての事実も認めているんですよね?」
「おおむね、認めています。”他の人も私がやりました”と。詳しい内容については、まだ。」
「凶器はどうなもの?」
「凶器が何かも含め、今後、捜査ではっきりさせていきます。ただ、発見時には持っていませんでした。」
山口連続放火殺人事件の概要
7月21日夜、山口県周南市金峰(みたけ)で民家2軒が全焼し、1軒から2人の遺体、もう1軒から1人の遺体が見つかりました。
2軒のうち1軒には貞森誠さん(71)と妻の喜代子さん(72)が2人で住んでおり、もう1軒には山本ミヤ子さん(79)が1人で住んでいました。
山口県警 周南署は、発見された遺体はこの3人の可能性があるとみて司法解剖をしましたが、司法解剖の結果、身元は特定できなかったそうです。
3人からは、頭部を鈍器で殴られたような外傷が見つかっており、即死状態だったといいます。同署によると、頭部を殴られたことにより死亡し、その後に放火されたとのことです。
また7月22日には、近くにある別の民家2軒から新たに2人の遺体が見つかっています。
新たな2遺体は男性1人と女性1人で、同じ集落の別々の家から見つかりました。2人は、自治会長や班長といった肩書きがあったそうです。
同署によると、2人の遺体の頭部や顔などには、鈍器で何度も殴られたような外傷があり、頭の骨が折れていたといいます。
遺体はそれぞれの家に住んでいた、河村聡子さん(73)と石村文人さん(80)と確認されたということです。
山口県警は捜査本部を設置。3人の遺体が見つかった事件と2人の遺体の関連を調べるとともに、火災現場で遺体で見つかった山本さんの住宅の隣に住む63歳の男が、2つの住宅に火をつけた疑いがあるとして、殺人と放火の疑いで男の自宅を捜索しました。
男の家からは「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と、放火への関与をほのめかす内容が書かれた紙が見つかりました。(放火への関与を示すものではないとする意見も)
この紙は、室内から窓に貼られており、外から見える形(見せる形)となっていました。
県警は”同一犯による連続殺人事件”と断定、200人態勢で男の行方探していましたが、7月23日15時現在、人員を260人に増やし捜索を急いでいます。
7月25日には男の物とみられる携帯電話や衣服が山中から見つかっており、県警は翌26日朝から70人を集中投入し捜索したところ、山にいた男を発見。
身柄を確保し、男は特に抵抗することなく周南署へ任意同行されました。
そして7月26日の13時35分、県警は山本ミヤ子さんに対する非現住建造物等放火罪・殺人罪で保見光成容疑者(63)を逮捕しました。
山口連続放火殺人事件の主な流れ
・7月21日の午後9時前、貞森さんの自宅で火災が発生。近所の住民により119番通報。
・ほぼ同時刻(午後9時過ぎ)、約60m離れた山本さんの自宅も燃えていることが判明。
・同日午後10時ころ、山本さんと貞森さん夫婦とみられる遺体が焼け跡から見つかる。
・同日夜、警察が河村さんから聞き取り調査を行う。
・深夜〜7月22日未明、河村さんと石村さんが自宅で殺害される?
・翌日7月22日の午前、前日に聞き取り調査が行われた河村さんが自宅で亡くなっているのを、親族が発見。
・また、石村さんも自宅で亡くなっているのを警察が発見。
・2人の検死の結果、頭部に損傷があり、鈍器のようなもので複数回殴られていたと思われる。
・県警は殺人事件と断定し捜査本部を設置、山本さんの隣に住む63歳の男の自宅を捜索するとともに、重要参考人として行方を探している。
・7月23日午後1時、男の自宅を捜索。同日夕方、捜査員を260名から400名に増員。
・7月24日から捜索範囲を広げる。
・7月25日午後3時ころ、山中から男の物とみられる携帯電話・シャツ・ズボンを発見。
・7月26日、捜査員470名に増員。山中で男を発見。身柄確保。
・7月26日午後1時35分、保見光成容疑者を非現住建造物等放火罪・殺人罪で逮捕。
・7月27日午前9時20分ころ、保見容疑者を山口地検に送検。
住民への取材から分かった放火事件当日の様子
「火災になった当日の午前11時半ぐらい、(男が)たまたま居たから”暑いのう、こんにちは”と言ったら向こうも答えてくれた。その際、特に変わったところは無かった。」
「(山本さん宅が)メラメラ燃えていた。本当に怖かった。凄く燃えていた。」
「貞森さんの家が真っ赤っかになっとった。」
「消防本部も色んなところがあったけど、上(貞森さん宅)を誰も消しに入らない。」
「下の山本さん家が燃えるほうにホースが引っ張ってあるから、車が下から上によう上がらんかった。」
金峰地区とは
山口県周南市金峰地区はJR徳山駅から北東に約16kmの位置の山間部にあります。周囲は山に囲まれており、携帯電話の電波も入らないほどといいます。
金峰地区には小さな集落が複数あり、事件現場となった集落は郷(ごう)集落という名称の集落です。郷集落には寺や公民館があるほか、8世帯14人が暮らしていました。
過疎化が進み、ここ15年で人口が急激に減少。周辺には廃屋も目立ちます。バス停があるもののその本数は少なく、鉄道はもちろんありません。車が無いと生活が難しいような集落といいます。
住民14人中10人が65歳以上の高齢者で、いわゆる”限界集落”といわれるような場所です。
住民が非常に少ないこともあり、住民同士は非常に仲が良く”家族みたいなもの”、ゲートボールなどをして遊んだりしていたようです。
日本の昔ながらの原風景が残る、自然豊かで物静かな集落です。
張り紙の真意
つけびして、煙り喜ぶ、田舎者(かつを)
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者 (かつを)」と書かれた張り紙がされていました。
この張り紙は、2年〜3年約10年ほど前から張られていたそうです。
紙に書かれた言葉はどういう意味を表すのでしょうか?
放火をほのめかす説
まず、報道当初から各マスメディアが行なっていた報道によると、「放火をほのめかすもの」ということでした。
”つけびして”とは、”家に火をつけて”という意味。
”煙り喜ぶ”とは、”火をつけた家から煙が出ているのを見て喜ぶ”という意味。
”田舎者”とは、”自分自身”です。
心理学関係の専門家は、自分自身を”田舎者”と表現していることから、”男は劣等感を持っているのではないか”、ということも話していました。
確かに、放火事件が起きた直後にこの紙を見ると、大体の人は”放火をほのめかすもの”と思うでしょう。私もそう思っていました。
しかし男と付き合いのあった知人男性により、新たな証言が出て来ました。
住民に対するメッセージ
以下、容疑者と見られている男の、知人男性からの証言です。
「付け火っていうのは、この辺りの農業をする人は畑や田んぼの草を刈ると、後で燃やすという風習があるんです。すると煙が立ちますよね。それを見ながら、秋とか冬であれば寒くなるから、暖を取りながら談笑しながら燃やしている。男にとって煙がこっちにきておもしろくないな、そういうメッセージを送りたかったんじゃないかな。」
どうでしょう。
”つけびして”とは、”焚き火して”という意味。
”煙り喜ぶ”とは、”焚き火でのぼる煙を見ながら談笑している”という意味。
”田舎者”とは、”談笑している住民”です。
私はこれを聞いた時、”まさにこれだ”と思いました。
「自分に劣等感があり、自分を卑下して”田舎者”と書いている」と専門家が言っていましたが、何となくしっくりこないというか、私の中で引っかかる部分がありました。
が、知人男性からのこの証言は、まさにガッツリ当てはまりますよね。
男は、郷集落の住民から仲間はずれにされ嫌悪感のようなものを抱いていたでしょうし、さらに都会から郷集落(田舎)へ移り住んでいるので、住民を”田舎者”と表現することは理にかなっています。
真相は男しか知り得ないですが、私の個人的意見としては、上記の知人男性からの証言が最も当てはまっているかと思います。
さらに、ネット上では別の意見も見られました↓
ネット上での意見
”つけびして”とは、”悪い噂を流す”という意味。
”煙り喜ぶ”とは、”悪口で盛り上がったり、笑い者にする”という意味。
”田舎者”とは、”郷集落の住民”です。
確かに、これも考えられますね。
容疑者とみられる男とは
男の年齢は63歳、現場となった山口県周南市金峰地区・郷集落の出身でしたが、集落を出て神奈川県川崎市で仕事をして暮らしていました。
約19年ほど前から郷集落の実家へ戻り、両親とともに暮らしていたようですが、数年前までに両親は他界し1人暮らしとなっていたようです。
両親が他界してからは、周囲の住民との交流はほとんど無かったといいます。
自治会にも入らず住民が挨拶をしてもほとんど無視に近い状態、市の広報も回覧も受け取らず近所付き合いは一切なかった、と近隣住民が証言しています。
さらに、男が犬の散歩をしている際に犬が道路脇にフンをしたため、貞森さんが「フンを持っていけ」と注意すると、男は怒って「血が見たいのか!?」と言っていたという証言や、「薬を飲んでいるからあれしても(=殺人?)刑には服さん」と言っていたという証言もあります。
ただし男と交流のあったという知人による証言では、「優しい人だった」や「郷集落の住民と仲良くしたいと悩んでいた」というような証言もあり、男を非難する住民(郷集落の住民)と、男を擁護する住民(近くの集落の住民)とで証言に食い違いがみられています。
男は精神安定剤を服用していたということから、郷集落の住民による様々な嫌がらせ・村八分によるものか?(後述)という疑惑が浮上しています。
自宅の様子としては、玄関前に様々なオブジェが置かれ、2台の車を所有(ナンバーは共に「1001」)、防犯カメラが設置され、飼い犬を2匹飼っていました。
犯人とみられる男の生い立ち
・1949年、山口県周南市金峰地区で生まれる。
・1965年前後、学校を卒業し15歳で上京。神奈川県川崎市で左官職人として働く。
・1994年前後、両親の介護のため周南市金峰の郷集落に戻る。
・2000年代後半、母親が亡くなり父親と暮らしていたが、父親も死去、1人暮らしに。
・2011年元日、山口県周南署を訪ね「つらい立場にある 村で孤立している」と相談
集落の住民や男と付き合いのあった人からの話
「肩幅もありガッチリとした体型」
「つかみどころがない」
「罵声や暴言を浴びせられた。」
「回覧板を”ゴミになる”と拒絶された。」
「みんな仲良しの集落なのに1人だけ浮いた存在」
「自宅に防犯カメラを付け、時々、大声で叫ぶこともあった。」
「”近所の神社の掃除をしよう”と言っても”私はやらん”などと拒む。」
「地元の学校を卒業後、1人で神奈川県に左官職人として移り住んだ。」
「荒れた田にヤマザクラを植える取り組みが行なわれていたが参加することはなかった。」
「犬が寄ってきたから”わっ”と手を上げたら”犬をたたくのか。叩き殺す気か”と怒った。」
「山本さんとは、仲が良い方じゃなかったと思うよ。暴言も吐いてたね。”バカもの”とか”殺してやる”とか。」
「井戸端会議に割り込んできて、”俺は薬を飲んでいるのだから、10人や20人殺したって罪にならない”と脅された。」
「両親が亡くなって1人で生活するようになってからは、引きこもりがちになって、その辺りから理解し難い言動が目立ってきた。」
「365日誰とも会わないというか、声をかける人もいないし、こちらからも話をかけないから、ストレスもたまって飼い犬だけに話をしていた。」
「挨拶何もしませんからね。我々は頭下げますけど。知らん顔ですよ。挨拶しても知らん顔。お父さんが亡くなってから変になっていったんだと思う。(男は)変わっとる。何話聞いても返事しないわけですから。」
「川崎(神奈川県)の方でタイル職人をしていて、15年ぐらい前に帰ってきて、自分で家を建てたということでテレビに出たんですよ。」
「いい人だったんですよ。何年か前まではね。それが、だんだんゆがんできたんですよ。」
○ 男と付き合いのあった人
「いや、そんなこと(他の住民の証言のような)ないよ、優しい人だよ。」
「親思いで献身的に介護をしていて、優しい性格だった。」
「捨て犬を引き取ったりという側面も持っていた。」
「神奈川県から郷集落に戻った際、村おこしをしようと率先して働きかけたけど、周りは高齢者ばかりで理解が得られなかった。」
「明るい性格です。私たちとは和気あいあいとしていた。ちょっかい出す者には”おい、お前やめろや”と言って、結構優しい男だったんですよ。すごく優しい男だったんだがなぁ。」
○ 男と20年来の付き合いがある男性
「両親が生きてる時は隣近所との付き合いも上手くいってたんだと思う。ただ1人になってから、隣近所の人(郷集落の住民)とちょっと上手くいってないんだと聞いたことがある。」
「外(都会)に出ているとそういう(田舎での)付き合いがなかったんじゃないかと思う。どうやって仲良くしたらいいのか本人が迷っていたのではないか。」
「自分で人をもてなすためのカウンターバーを家の中に作って、”(住民の)みんなを接待したい”と言っていた。(作業を押し付けられていた件に関しては)若い分、少し年配の方より作業が多くなるということがあったかもしれませんね。」
○ 男に犬を引き渡した方
「”この犬の目は僕の父によく似ているから僕に飼わせてもらえないか”と話しに来られたんですよ。物静かな方で、とても真面目な方という印象を持ちましたね。悪い印象は全然なかったです。」
「”まるで親父のようだ(犬が)”と言い、父親の生まれ変わりのように可愛がっていた。」
「犬を引き渡した後、定期的に犬の元気な姿の写真を送ってきたりしてくれて、とても優しく、犬も大切に育ててくれているようだった。」
「ちょっと大柄で、とっちかというと言葉少ない感じ。とにかく礼儀正しい方。すごく優しい。」
○ 男の姉の話
「親の面倒をみるからと言って帰ってきた。父親の具合が一時悪かったが、弟が帰ってきてから具合が良くなって死ぬまで一緒にいた。(両親が)死んでから7〜8年になる。」
「おとなしい性格。やぁやぁ言ったりもせんし。怒りっぽかったところも、私らにはなかった。やぁやぁ言ってケンカするほど文句もとおりゃせんし。」
「(最後に弟と会ったのは)先月のはじめ。6月の3日とか4日とか。変わった様子は無かった。」
「気が小さいというか、口数は少ない性格。早く見つかればいい。」
○ 要注意点
男と付き合いのあった人とは?20年来の付き合いがある男性とは?結局、男は”孤立していた”と言っているが、8世帯14人の中には仲良くしている人もいたの?
こういった疑問が生まれるかと思いますが、7/24のマスコミによる取材から、”男と付き合いのあった仲の良い人は、郷集落とは別の集落で、郷集落から少し山を下りたところにある集落の住民”だということが分かっています。
つまり、郷集落の8世帯14人の中で、男は完全に孤立していた可能性が高いと思われます。
専門家による分析
少人数の人々の中で被害的な思い込みが重なって、それが強い憎しみへと発展していったのではないか。
殺害後に火を付けるという行為は、殴った上にさらに攻撃を加えるという、非常に強い攻撃性を見ることができる。
非常に強い恨み、それに伴うサディスティックな凶暴性を感じる。
火災で騒ぎが起こり始めた段階で第2・第3の犯行を行なうということ自体に「俺様の手並みを見ろ」とでも言いたげな自己愛的な興奮が見て取れ、スリルを楽しむ大胆なところがある。
○ 不審な張り紙や様々な置物に関して
「田舎者」と自分自身のことを卑下するような書き方がされている。
自分にレッテルを張ってわざわざ外に見えるように張り出し、外に向かっては非常に自分の強い姿勢を誇示しながらも、自分の中では強い劣等感を持っていたのではないか。
誇示するものをごちゃごちゃ自分の周りに積み重ねて、周りに対して威圧感を与える。
置いてあるものを見ると、自分自身のことを誇示したい、そういう心理状態が見て取れる。
津山事件の再来か?
津山事件(津山三十人殺しとも言われる)とは、1938年に、現在の岡山県津山市にあった全23戸の村の集落で発生した大量殺人事件です。犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいいます。
わずか2時間ほどで30人もの村民が死亡し、死者数がオウム真理教事件(死者27名)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件(さつりくじけん)です。
津山事件との共通点
都井睦雄は友人が皆無に等しく、自宅の屋根裏に部屋を作ってほとんど外出しなかったという、現代で言う「ひきこもり」でした。
人付き合いをほとんどせず、「周りの村民が自分のことを悪く言っている」というような被害妄想を募らせたことが、津山事件の犯行動機だったと見られています。
今回の連続放火・殺人事件の容疑者とみられている男も、集落の中でほとんど人付き合いをしていませんでした。
少人数で暮らす集落の中で、様々な被害妄想が膨らみ、それが段々と強い憎しみに発展していったのではないでしょうか。(本当に被害を受けていた可能性もあり)
犯行内容の大胆さからも、共通する人物像が連想されます。
男の犯行動機
まず初めに、これから記載する”男の犯行動機”は、私の独断と偏見によるものです。男を擁護するわけではありませんし、悲しみに打ちひしがれ今もなお不安な毎日を過ごしてらっしゃる郷集落住民の方を非難するわけでもありません。ただ、場合により、読んだ方を不快な気分にさせてしまう可能性がありますことを、はじめにお詫び申し上げます。
○ 男は村八分の被害にあっていた?
様々な報道を見て来ましたが、私はどうしても”集落の住民が故意に男を仲間はずれにしていた”としか思えません。
その根拠は以下の通りです。
・都会から急に戻り、良い家を建て、犬を飼い、オシャレな生活を始めた。→老人が反感?
・都会から戻った際、町おこしを積極的に働きかけたが認められず。→浮いた存在?
・集落で一番若いからと言う理由で草刈りを全部一人でやらされていた。
・草刈り機を住民に燃やされ、男は抗議。しかし軽くあしらわれる。
・住民が田んぼに農薬を撒いた際、風向きによって男性の家に農薬が大量にかかっていた。人間はほぼ無害でも、犬にとっては死亡する可能性も。→住民の故意による嫌がらせ?
・過去、郷集落の住民により鋭利な物で刺されている。
・男は精神安定剤を服用していた。→住民による嫌がらせで精神を病んだ?
・知人らの証言から、男は”住民と仲良くしたい”という悩みがあったとみられる。
・警察へ「悪口を言われており、自分は辛い立場にある。村の中で孤立している」と相談。
・取材に応じた郷集落の住民らの、男への非難証言は誇張表現をしているようにしか見えない。また、悪意が感じられる。
・男の自宅からは、郷集落住民に対する不平不満を綴った張り紙が複数見つかっている。
・犯人逮捕後、住民は「なんで生きて捕まえた」と言う。→証言されると困ることがある?
以上ですが、現時点で最も気になるのは、”郷集落の住民により鋭利な物で刺されている”という件です。
これは刑事事件にも発展しており、男は「被害者」でした。
またその際に男は一方的にやられただけで、暴行するなどやり返していません。そのことからも、近隣住民による”男の凶暴性”に関する証言も、信用性があまりありません。
住民が証言している内容ほど男が怒りっぽいのであれば、刺されておいて黙っているでしょうか。
また、男を非難するような内容を証言している住民には一定の特徴が見られ、”人づてに聞いた”、”◯◯さんが言っていた”、”◯◯さんから聞いた”など、人から聞いたとする内容が非常に多いのです。(自ら男の不自然な言動現場を目撃・体験したという証言もあります)
非常に狭いコミュニティですから、例えば1人の住民が男のことを悪く言えば、たった1人の証言だったとしても、それが嘘であれ真実であれ誇張されたものであれ、”事実”として拡散していったのではないでしょうか。
男の知人とされる方からの証言と、郷集落の住民の方の証言には、食い違いも見られます。
郷集落の住民たちは「自治会にも入らない。人付き合いしない」などと証言していますが、男も昔は自治会に入っていたそうです。
ただし、草刈などの雑用を全部一人でやらされていたというパシリ的扱いや、農機具が燃やされるなどの完全な嫌がらせ(もやは犯罪)をされたりといった過去も明らかになってきましたが、そんなことされたら誰でも自治会を抜けたくなると思いますし、人付き合いなんかしたくなくなりますよね。
また、”自治会を抜ける”という件に関しては、住民により追い出されたという情報もあります。(情報源は確かではありません)
私には、郷集落で70年も80年も暮らしてきた強烈な仲間意識のある集団のもとに、ヒョッと入ってきた男が差別を受け、イジメられ、結果的に村八分にあっていたとしか思えないのです。
○ 集落の住民
「ちょっと酒を飲んだ席のことですからね、ちょっと(鋭利な物が)当たったくらいじゃないですか?仲が悪いというのはどこでもありますよ。気が合う合わないというのは誰でもあるじゃないですか。だから…まぁ、些細なことでしょうね。」
→ちょっと酒を飲んだ席では、鋭利な物がちょっと当たってしまうことがあり、それで怪我を負わせられることがある?いくら田舎にはその田舎特有のルールがあったとしても、この言い分は無理やりすぎる気がしないでもないですね。
○ 保見容疑者の友人
「田んぼのあぜ道を刈るのに機械を使って、油代も全部保見さん持ちで出させて。本人があぜ(道)に機械を忘れて帰ったら、次の日に草と一緒に(住民が)焼いてしまった。後日、(住民は)”あれ、あなたの物だったの?”っていう感じで、いじめというか色んなことがあったみたいです。」
→草刈りを保見容疑者に押し付けておいて、「あれ、あなたの物だったの?」というのもちょっと・・・。また、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」の真意に関する予想も濃厚になってきました。
郷集落の住民たちによる村八分・嫌がらせ行為は、私個人の見解だけでなく、客観的に見ても濃厚な説になってきたように思います。
○ 金峰地区の住民(郷集落かは不明)
「(石村さんが保見さんに対して)”横着言うな”って物投げたか何かで(保見さんが)ケガしたというようなことを言っていた。そういうことやら何やら積み重なって”くそ自分ばっかし、後から帰ってきたけぇと思って”というのが頭の中にあったでしょうね。」「彼(保見容疑者)は集落に来た当時、“何か村おこしをしたい”と熱心に提案しとったんじゃが、“都会崩れが何言っとるんや”と多くの住民に反対されてしまってね。そこからちょっと疎まれるというか、“いじめ”みたいなことが起こり始めたんですわ…」「“都会から来たんじゃから、金も持っとろう。みんなのために草刈り機買って、草でも刈れ”言うてな。無理矢理やらせとった」
→石村さんの件は鋭利な物で刺された事件とは別と思われます。刑事事件にはなっていないと思われますが、この件もケガをしたそうなので立派な傷害事件です。パシリ的扱いの他、こういう暴行行為が日常的に行われていた可能性もありますね。またその他にも、保見容疑者へのイジメがどんどん明るみになってきました。
○ 保見容疑者の親族
「罪は罪であれですけど、とにかく、あらいざらい…ぶっちゃけてほしいですよね」
→”あらいざらい”とは?この親族は、保見容疑者が村八分にあっていたことを知っていたのかもしれませんね。ちょっと含みのあるコメントです。
○ 保見容疑者を知る人
「タイル屋さんだったんだけど、いいやつなんだ。神経質。仕事も相当うまかったらしい。」「6〜7年付き合ったけど、女遊びも、無駄遣いもしなかった。金はかなりためてたみたい。仕事の腕も良かった」「親の介護のために帰郷するぐらいだから、悪いやつじゃない。こっちにいるときも、いじめられた仲間をかばったり、正義感のあるやつだった。ただ、思い通りにいかないとヘソを曲げることもあった」「妙なこだわりがある男でね。昼夜問わずサングラスを掛けっぱなしにしていた。もともとはっきりモノを言うタイプだったけれど、酒が入ると理屈っぽくなる。そのせいか、酒の席でケンカになることがよくあった」
→神奈川県川崎市で付き合いのあった男性、また保見容疑者と同僚だったという男性などからの証言です。良い人だという意見がある一方、”酒が入ると理屈っぽくなる。そのせいか、酒の席でケンカになることがよくあった”という証言もありますね。
○ 部屋を貸していた大家
「今まで住んでいたアパートで喧嘩して大家さんに追い出されて、今晩泊まるところがないと言ってきた。何件も回ったんだけど、どこも断られた、と。」
→詳しく語られていないので何とも言えませんが、喧嘩っ早い部分が少なからずあったのかも?
鋭利な物で刺されたという件以外にも、新たな暴行行為が浮上しました。一方で、川崎市の方々の証言等から、現時点では保見容疑者にも何かしらの非があった可能性も全否定はできないですね。(村八分に関して)住民が悪い・保見容疑者が悪い、などというよりも、昔から郷集落全体に根付くもっと奥深い問題があるように思えてきました。ただ、少なくとも2度に渡りケガを負わされているということは、今後の捜査でもっともっと色んな暴行行為が判明してくるのではないか、と思っています。
○ 村八分による精神崩壊?
人間は、長期間にわたり1人になると狂います。また執拗な嫌がらせを受ければ、間違いなく精神は歪み、実際には受けていない被害も妄想として膨らみ、憎悪が膨れ上がり精神は崩壊します。
男の自宅からは、郷集落住民に対する不平不満を綴った張り紙も複数見つかっているということです。
男は、住民による仲間はずれにより、この何十年間の間で少しずつ少しずつ精神がむしばまれていったのではないでしょうか。
もちろん犯罪は正当化されませんし男が犯した罪はとてつもなく重大ですが、起こるべくして起きたと言える部分も少なからずあるのではないでしょうか。
私が思うに、男は逮捕されることにも死ぬことにも恐怖心は抱いていないと思います。
そのため、遠くに逃亡することは考えられず、山の中に潜伏しているか既に自殺しているかのどちらかだと思っています。洞窟などが怪しいのではないでしょうか。
もしも計画的犯行なのであれば、長い時間をかけて山の中に簡易地下シェルターなどの簡単な隠れ場所のようなものを作っている可能性もあるのでは?と個人的には考えています。
ここに書いた「男の動機」は私個人の素人による考えなので、1ミリたりとも当たっていないかもしれません。
真相は、男にしかわかりません。
郷集落で何があったのか?どういう環境だったのか? 警察には、その実態を解明してもらいたいと思っています。
そのためにも、また更なる被害者・死者を出さないためにも、男は自殺なんかせず、一刻も早く身柄が確保されることを願います。 
 
山口連続放火殺人事件 6

 

「心根優しい」親孝行な保見光成容疑者は、「鬼の住処」山口県周南市金峰の限界集落に帰郷すべきでなかった
「男児志を立てて郷関を出づ,学若し成る無くんば復た還らず,骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地,人間到る処青山有り」
これは、幕末の真宗の勤王僧「月性」(1817〜1858、周防国大島郡遠崎村=山口県大畠町=妙円寺住職)の詩である。
いまどき、志を立てて郷関を出て、立身出世を果たして、再び郷関に帰っても、知っている者は、ほとんどいない。大半が、郷関を出てしまっていたり、日本列島の山間漁村部は、「限界集落化」していたりしているので、折角、帰ってはみても、「浦島太郎」のようになってしまっているからである。
それどころか、高齢者ばかりの限界集落は、「鬼」か「山姥」ばかりの文字通り「鬼の住処」になっているところが、どうも少なくない。ジェネレーション・ギャップもあり、因習もこびりついており、本当ならば、そんな恐ろしいところに、「ユーターン」しない方が身の安全、身の幸せなのである。

国土交通省の2008年8月17日付け調査報告によると、全国775市町村に所属する6万2273集落のなかに、高齢者(65歳以上)が半数以上を占める集落は7878集落(12.7%)、機能維持が困難となっている集落は2917集落(4.7%)、10年以内に消滅の可能性のある集落は423集落、「いずれ消滅」する可能性のある集落は2220集落、合わせて2643集落という。
日本における限界集落とは、社会学者・高知大学人文学部の大野晃教授が1991年に最初に提唱した概念で、過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になっている集落をいう。中山間地域や離島を中心に、過疎化・高齢化の進行で急速に増えてきている。限界集落では、集落の自治、生活道路の管理、冠婚葬祭など共同体としての機能が急速に衰えてしまい、やがて消滅に向かうとされている。独居老人やその予備軍のみが残っている集落が多く病身者も少なくない。もはや「原野」に戻すしかないところだ。
こんなところに、40代の働き盛りの壮年が、突然、介護や看護が必要な高齢の両親の面倒を見るために帰郷してきたらどうなるか。
まず、高齢の両親は、周囲から「親孝行な息子を持ってよかったな」と羨望の眼差しで見られることであろう。介護や看護が必要な近所の高齢者は、介護福祉士や看護師に有料でサービスを受けることができても、決められた範囲以外のサービスは受けられない。家政婦の守備範囲である「家事」など細かいサービスについては、面倒を見てもらえないのである。あるいは、別途、「便利屋」を頼むしかない。いずれも有料であり、無料のボランティアを頼むわけにはいかない。
ところが、近所に「優しい心根」の親孝行な壮年が帰ってきた場合、近所の高齢者は、これ幸いに、その壮年の「優しい心根」につけ込んで、日常家事から集落の細々した雑用に至るまで、無料で便利に使い始めるようになる。それがやがて、「便利屋」のようになり、しかも、だれが無限に使ってもタダ働きとなって行く。その場合、その壮年は、一体、どういう気持ちになるか。嫌になった壮年は、両親が他界してからは、いつまでも「便利屋」であり続けることを拒否する。すると、近所からは「なぜやらないのか」と逆恨みされ、「退職金をみんなに配れ」と言われて、拒むと、やがて「村八分」にされてしまう。そして、ありとあらゆる嫌がらせを受け、その果てに、父親の目にそっくりと感じて引き取って、家族の一員として可愛がっていた「愛犬」のことを、近所から「臭い」「汚い」などの罵声を浴びせられて、「保健所に頼んで、処分しろ」と命令口調で言われる。そればかりではなく、神社一帯の芝刈をたった一人でやらされ、自費で購入した芝刈機を焼かれたり、農薬を散布されたり、いじめは、延々と続く。以前に刃物で胸を刺されたこともあり、身の危険を感じた壮年は、自宅にいくつもの監視カメラを設置したり、警察署に相談に行ったりしていた。

山口県周南市金峰の限界集落で起きた5人連続殺人放火事件の本質は、いじめ被害者が、「窮鼠猫を噛む」の如く加害者になったところにある。山口県警周南署捜査本部は7月26日、遺体で見つかった5人のうち1人への殺人と非現住建造物等放火の疑いで、無職、保見光成容疑者(63)を逮捕したのである。警察の相談業務が、機能していなかったことも、大事件を惹起した原因の一つであった。むかしのような駐在所が残っていれば、警察官に親切に相談に乗ってもらえたかもしれない。
それどころか、それどころか、保見光成容疑者が7月26日午前9時5分に近くの山中で身柄を確保されたわずか1分後の午前9時6分に、愛犬ゴールデンレトリバーが心臓発作で死んだという。犬や猫は、テレパシーで飼い主の心の動きを感知する。
この犬が保護された直後、診察した獣医が、「犬や猫の姿を見れば、どんな飼われ方をしていたかはすぐ分かる。ゴールデンレトリバーの毛もよく手入れされており、飼い主が、いかに可愛がっていたか、優しい人柄が窺われる」と話していた。保見光成容疑者は、犯行後、エサをたっぷり残して逃げたようであった。加害者と被害者の人間性の違いは、この「犬の死に姿」がよく証明している。 
 
山口連続放火殺人事件 7

 

村八分の妄想に陥った凶悪犯 ― 山口5人連続殺人・保見光成の"本当の孤独"
今年7月、山口地裁で行われた裁判員裁判で死刑判決を宣告された保見光成(65)。判決によると、保見は2013年7月21日の夜から翌22日の午前中にかけ、山口県周南市の山あいにある金峰(みたけ)の集落で、70〜80代の住人5人を次々に木の棒で頭などを殴って殺害。さらに被害者の住居2軒に放火し、全焼させた。実行したことだけを見ると、まぎれもない凶悪殺人犯である。
だが、そんな保見に対し、インターネット上では「かわいそう」と同情の声が湧き上がっている。保見が事件前、現場の集落で被害者ら住民たちから「嫌がらせ」を受けていたという情報が流布したためだ。結論から言うと、それはガセ情報だが、保見は別の意味で「かわいそう」と言える人物ではあるかもしれない――。
妄想だった「嫌がらせ被害」
山口地裁であった保見被告の裁判員裁判には多数の傍聴希望者が集まった
被告人質問が行われた7月3日の第6回公判。法廷に白い半そでシャツ、黒のスラックスという姿で現れた保見は細身のおとなしそうな男だった。逮捕当初は真っ黒だった頭髪は真っ白になり、短く刈りそろえられていた。第一印象を率直に記せば、「普通の田舎のおっさん」である。
そんな保見は逮捕当初、被害者の頭などを殴ったことを認めていたが、裁判では「脚を叩いただけ」と殺害や放火の容疑を否認。
被告人質問では、被害者らの脚を叩いた動機として、事件前に被害者ら集落の住民から受けた「嫌がらせ」の数々を切々と訴えた。しかし......。
「寝たきりの母がいる部屋に、隣のYさんが勝手に入ってきて、『ウンコくさい』と言われました」
「Yさんは、自分が運転する車の前に飛び出してきたこともあった」
「犬の飲み水に農薬を入れられ、自分が家でつくっていたカレーにも農薬を入れられました」
「Kさんは車をちょっと前進させたり、ちょっと後退したりということを繰り返し、自分を挑発してきました」
「車のタイヤのホイールのネジをゆるめられたこともあった」
このように保見が訴えた「嫌がらせ被害」はどれもいささか現実味を欠いていた。本人は話しながら感極まり、ハンドタオルで目頭を押さえる場面もあり、真実を話しているつもりなのは間違いない。しかし、集落の住民たちが保見に対し、そんな無益な嫌がらせをせねばならない必然性は何も見えてこなかった。
保見は起訴前と起訴後に各1回の精神鑑定を受け、2度目の鑑定では事件発生当時に妄想性障害に陥っていたと結論づけられている。判決はこの鑑定結果も踏まえ、集落の住民たちによる「嫌がらせ」は保見の妄想だったと認めたが、妥当な判断だ。インターネット上で巻き起こった保見への同情論は、まぎれもなく被害者や現場住民に対する「二次被害」だろう。
友達や女の話はほとんどなし
ただ、保見が法廷で語った半生には、正直、身につまされた。
保見は姉3人、兄1人がいる5人姉弟の末っ子として金峰地区に生まれた。小学校は1学年12〜13人の小規模で、同じ集落に同級生はいなかった。中学卒業後は2、3人の同級生と一緒に岩国市の会社に就職するが、派遣された現場で「寝る場所が汚かった」ことを理由に3カ月ほどで退職。そして東京で左官をしていた兄を頼って上京し、自分も左官になった。
その後、千葉や川崎で20年以上、左官として働いたが、どこの現場でも悪い評価はされなかったという。「自分は仕事が速いんです」。そう語る保見は少し誇らしげだった。経済的にも不自由していなかったようで、川崎在住時代はスナックによく飲みに行っていたという。
ただ、保見の話には、その時々で仲の良かった友達や交際していた女の話がほとんど出てこなかった。何か趣味があったという話もない。当時の保見は仕事以外では、スナックで店のママや常連客と多少会話を交わす以外にあまり他者との交流がなかったのではないかと想像させられた。
ひとりで両親を介護していたが......
そして保見は40代になり、「子どもの頃に見ていた金峰の景色が忘れられなかった」と故郷の金峰にUターン。高齢者ばかりの過疎地だが、「バリアフリー関係の仕事をすればいいと思っていた」という。具体的には、家の中に手すりをつけたり、段差をなくしたりする仕事を考えていたようだが、その見通しは甘く、仕事には恵まれなかったようだった。
一方、金峰に帰った当初は元気だった両親は次第に老い、保見がひとりで両親の介護をすることに。保見が50代になった頃、最初に母が、ほどなく父も亡くなった。そして保見は地域の人々から次第に孤立していったという。
「ご両親がいなくなり、寂しくなかったですか?」
弁護人がそう質問すると、保見は「犬がいたから」とだけ言った。保見は当時、チェリーという白い大きな犬を飼っており、事件の頃もポパイとオリーブという別の2匹の犬を飼っていた。犬がいたからひとりでも寂しくなかったというのは、保見の本心ではあるのだろう。しかし正直、「犬しかいなかったのか......」と思わずにはいられなかった。
症状は悪化中
「保見さんは孤独感を募らせ、妄想性障害に陥りました。犯行時は集落でいやがらせを受けているような妄想を抱いていて、心身耗弱か心神喪失の状態でした」
弁護人たちは保見の主張に合わせ、保見は殺害や放火の犯人ではないと主張していたが、それと同時に保見は犯行時に責任能力がなかったとも主張していた。要するに弁護人も本心では保見のことを犯人だと思っていたということだ。しかし被告人席の保見は顔色ひとつ変えず、「保見=犯人」という前提で繰り広げられる弁護人たちの主張を平然と聞いていた。
「保見さんは、拘置所では治療を受けられているわけではないので、妄想性障害の症状は悪化しています」
最終弁論が行われた公判後、保見の弁護団は報道陣にそう明かしたが、保見の病状が深刻だというのは素人目にも明らかだった。
取材は一切拒否
筆者は保見に直接話を聞いてみたく、裁判中に二度、収容先の山口刑務所を訪ねた。しかし、二度とも面会を拒否された。山口刑務所の関係者によると、「取材の人はいっぱい来ているけど、全部断っているみたいだよ」とのこと。無実を訴えるなら、マスコミを通じて自分の主張を世に伝える手もあるはずだが、保見は事件後も他者に心を閉ざし続けているらしい。
〈つけびして 煙り喜ぶ 田舎者〉
事件発生当初に注目を集めた自宅窓の張り紙については、「『火の無い所に煙は立たない』の逆の意味です」「集落の人がこの張り紙を見て、話しかけてきたら、逆に誰が嫌がらせをしているのか聞き出そうと思っていた」と語っていた保見光成。現在は死刑判決を不服として広島高裁に控訴中だが、病状がさらに悪化し、控訴審では第一審とまったく違うことを言い出しても何の不思議もない。 
 
山口連続放火殺人事件 8

 

「火はつけていない。私は無実」 2015/6/25
山口5人殺害事件で保見被告が起訴内容を全面否認
山口県周南市金峰の集落で平成25年7月、男女5人が殺害された事件で、殺人と非現住建造物等放火の罪に問われた無職、保見光成被告(65)の裁判員裁判の初公判が25日、山口地裁(大寄淳裁判長)で開かれた。
保見被告は「火は付けていません。頭をたたいてもいません。私は無実です」と、起訴内容を全面的に否認した。
弁護側は殺害や放火が保見被告によるものとする起訴内容を否認し、仮に犯人だった場合でも犯行時は心神喪失か心神耗弱の状態だったとして責任能力を争う方針。2度にわたって実施された精神鑑定では妄想性障害があったとの結果も出ている。
検察側は被告が逮捕当初に殺害や放火への関与を認め、責任能力も問えると判断、25年12月に起訴していた。7月28日に判決が言い渡される。
起訴状などによると、13年7月21日夜、近所の貞森誠さん=当時(71)=夫妻や自宅の隣に住む女性を、木の棒で頭などを多数回殴るなどして殺害して家に放火。さらに、22日朝までの間に集落内の男女2人を殺害したとしている。
保見被告は自宅に「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」の貼り紙をし、事件後に行方が分からなくなっていたが、6日後に近くの山中で発見された。当初は、5人の殺害と2軒の放火を認める供述をしていた。 
周南金峰連続殺人事件 控訴審 初公判で即日結審 2016/7/25
3年前の7月、周南市で、男女5人が殺害された事件の裁判の1審で、「死刑判決」を受けた保見光成被告の控訴審の初公判が25日、広島高等裁判所で開かれた。弁護側が被告の無罪を立証する為、新たな証拠採用や精神鑑定を求めたのに対し、裁判所はすべて認めず、控訴審は初公判で即日結審した。この事件は、3年前の7月、周南市金峰の集落で男女5人が殺害され、民家2棟が放火されたもので、保見光成被告66歳が殺人と放火の罪に問われている。山口地裁で開かれた一審で被告側は無罪を主張したが、地裁は検察の求刑通り、死刑を言い渡し、被告側が控訴していた。25日の初公判で、弁護側は「一審が裁判員裁判であった為、証拠を絞り込みすぎている。控訴審では十分な審理がされるべき」と主張、医師の意見書や医療記録などの新たな証拠採用を求めたが、裁判長は「必要性がない」としてこれを却下した。弁護側は、さらに新たな精神鑑定や被告の脳の器質的障害について調べることを請求したが、裁判長はこれを棄却、判決の期日を9月13日に指定し、控訴審は初公判で結審した。弁護側が、被告の無罪立証のため、用意した証拠がすべて採用されず、初公判で即日結審したことで、被告にとっては、一審同様、厳しい判決が予想される。  
周南市の5人殺害放火 被告は控訴審で無罪主張 2016/7/26
3年前に山口県周南市で男女5人が殺害されて住宅2軒が放火された事件の控訴審が開かれ、被告の男は1審に続いて無罪を主張しましたが、裁判所は「審理は尽くされている」として即日結審しました。
殺人と放火の罪に問われている周南市金峰の無職・保見光成被告(66)は、同じ集落に住む高齢の男女5人を木の棒などで殴って殺害し、住宅2軒に放火したとして、去年、1審で死刑判決を受けました。25日の控訴審で、弁護側は「裁判員裁判で審理された1審は証拠を絞り込みすぎていて不十分」として50点余りの証拠採用を求めました。しかし、広島高裁は「必要性がない」として弁護側の証拠請求を却下し、即日結審しました。次回公判は9月13日に開かれ、判決が言い渡されます。 
 
山口連続殺人放火事件

 

2013年(平成25年)7月21日に山口県周南市金峰(旧:都濃郡鹿野町)の集落にて発生した連続殺人事件。加害者宅の近隣に住む高齢者5人が殺害された殺人・放火事件である。
2013年7月21日午後9時ごろ、周南市金峰郷地区の住民から「近所の家が燃えている」と周南市消防本部に通報があった。約50メートル離れた農業の女性A宅と無職男性A宅の2軒が燃えており、消火活動にあたったが、2軒とも全焼した。女性宅から1人、無職男性宅から2人の遺体が見つかり、それぞれ住民の女性Aと男性A、その妻である女性Bと確認された。
捜査
周南警察署が放火の可能性もあるとみて捜査を開始したところ、翌7月22日日中、近隣住民の男性が1人の遺体を発見した。さらに捜査員が別の住宅で1人の遺体を発見した。遺体はいずれも外傷があり、遺体が発見された住宅に住む女性Cと男性Bだった。被害者は5人とも鈍器のようなもので殴打されたことによる頭蓋骨骨折や脳挫傷が死因だった。山口県警察は連続殺人放火事件と断定し、周南警察署内に捜査本部を設置した。
2人のうち、女性Cは火災発生直後から翌日午前1時過ぎまで近くの住民の家に避難し、県警も火災の約2時間後に本人の無事を確認していたことから犯人は3人を殺害し放火した後も約5時間にわたり付近に潜伏したあと、2人の住宅に侵入して殺害した可能性があることが分かった。
焼失した女性A宅の隣家には、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と白い紙に毛筆のようなもので川柳が記された張り紙があり、県警は7月22日午後、殺人と非現住建造物等放火の疑いでこの家を家宅捜索するとともに、姿を消した当時63歳の住民の男Hを重要参考人として行方を捜索した。また事態の悪化を防ぐために、近隣住民5世帯9人に対して翌日朝まで現場近くの郷公民館に避難するよう呼びかけた。
その後、7月25日には事件現場付近の山中で、容疑者の携帯電話や衣類などが見つかり、翌7月26日朝から170人体勢で捜索を行った。
逮捕
火災発生から6日目の7月26日午前9時ごろ、Hが郷公民館から約1キロメートル離れた山道に、下着姿・裸足で座っているのを捜索中の県警機動隊員が見つけ、氏名を確認したところ本人と認めたため、任意同行を求め周南警察署で事情聴取を行ったあと、殺人・非現住建造物等放火の容疑で逮捕した。Hは5人の殺害を認め、県警は翌7月27日午前、身柄を山口地方検察庁に送った。担当弁護人は山口県弁護士会所属の国選弁護人、山田貴之と沖本浩の二人が当たっている。
裁判
第一審(山口地裁)
2015年(平成27年)、山口地方裁判所で行われた裁判員裁判において、Hは供述を一転させて「4人の足と腰は殴ったが頭は殴っておらず、火もつけていない」と殺人・放火を否認して無罪を主張し、一方の山口地方検察庁は「社会を震撼させた重大かつ凶悪な事件」として死刑を求刑した。山口地方検察庁はHが妄想性パーソナリティ障害であることを認めたものの責任能力はあったとし、弁護側は心神喪失もしくは心神耗弱の状態であると主張していた。
2015年(平成27年)7月28日、山口地裁(大寄淳裁判長)は「Hの罪責は重大。極刑は免れることは出来ない」として、求刑通りの死刑判決を言い渡した。弁護側は判決を不服として広島高等裁判所へ即日控訴した。
控訴審(広島高裁)
広島高等裁判所での控訴審初公判(多和田隆史裁判長)は2016年(平成28年)7月25日に開かれた。初公判を前に弁護団は、広島市内の広島弁護士会館で会見し、改めて無罪主張する方針を示した。さらに「誰も目撃者がいない事件。本人と現場を結び付ける客観的証拠がどれだけあるかが大事だ」として、広島高裁に52に上る証拠(一審で凶器と認定された木の棒や現場に残された足跡と一致する靴、被害者の血液やDNAが付着した可能性があるHの衣服の鑑定、Hの親族の証人尋問など)を請求する考えを明かした。
責任能力を判断する上で争点となる妄想性パーソナリティ障害については、「H本来の人格に基づくもの」と結論付けた一審判決に対し、かつて東京にいたHが金峰に戻った際に障害の影響で人格が変わったことを親族の証言で明らかにしたいという考えを明かした。また、弁護団が一審後に依頼し「妄想性パーソナリティ障害の影響が著しい」とした精神科医の私的鑑定の意見書を証拠として請求したが、検察側が不同意としたこと、また「その精神科医を証人申請することになるが、裁判所が却下すれば再鑑定の申請をせざるを得ない」ということも明らかにした。
広島高等検察庁は控訴棄却を求め、一方の弁護側は「仮にHが犯人であった場合でも、心神喪失か心神耗弱が認められるべきだ」と一審同様無罪を主張し、即日結審した(弁護側は「事件当時の被告の完全責任能力は認められない」と主張し、新たな精神鑑定を請求したが認められなかった。また、前述の52の証拠を請求したがこれも「いずれも必要性がない」と却下された)。
2016年(平成28年)9月13日の判決公判で広島高裁は、一審判決で「被害者がHの噂をしたり、挑発したりなどの嫌がらせをししていると思い込む妄想性障害が報復という動機の形成に影響したが、報復を選択したのは元来の人格に基づく」と、Hの責任能力を認定した判断について「不合理な点はない」とした。Hの人格については「やられた場合は暴力的な方法でやり返す傾向がある」とした一審での精神鑑定医の評価を妥当と判断した。「暴力的な面があったことを裏付ける証拠はなく、責任能力を認めたのは誤り」とした弁護側の主張を退けた。その上で殺人、放火はHの犯行と断定、「妄想性パーソナリティ障害の影響を考慮しても被害者の数が5人に上り、結果は極めて重大。報復感情を満たすため5人の命を奪ったのは身勝手というほかなく、死刑が不当とはいえない」として一審判決を支持し、控訴を棄却した。
裁判長が「控訴棄却」の主文を読み上げたとき、Hは身動きせず前を向いて聞き入っており、「控訴棄却」の主文を聴いても動揺は見せず、言い渡し後には弁護士を見て軽くうなずいてから退廷した。傍聴した被害者遺族たちは、控訴審でも無罪を主張して謝罪もなく法廷を立ち去るHを無表情に見つめ、閉廷後に弁護士を通じて「上告せず刑に服してほしい」とするコメントを発表した。
Hの弁護人は翌9月14日、判決を不服として最高裁判所に上告した。
上告審・最高裁第一小法廷
最高裁判所第一小法廷(山口厚裁判長)は2019年(平成31年)3月29日までに上告審口頭弁論公判開廷期日を2019年(令和元年)6月17日に指定して関係者に通知した。 被告人Hは最高裁上告中の2018年10月1日時点で広島拘置所に収監されている。
本人による証言
介護による帰郷
郷地区出身であるHは、農林業を営む両親の次男として産まれ、中学卒業後上京し土建業に従事、30代のころからタイル職人として神奈川県川崎市で暮らしていたが、「自分の生まれたところで死にたい」と1994年に44歳で帰郷し、実家で両親の介護にあたった。川崎在住時は左官として働いており、帰郷した際には左官の技術を生かして自宅を建築し、地元のテレビ番組や新聞にも取り上げられるなどし、近隣の家の修繕などもしていたが、本人の難しい性格も災いして、両親と死別した後、地区住民とのトラブルが相次ぐようになった。
地区住民との対立
40代の頃、Hは地区の「村おこし」を提案したが、地区住民はそれに反対し、あつれきを深めた。回覧板を受け取ることもなく、自治会活動にもほとんど参加していなかった。また自宅にマネキン人形や実際は作動しない監視カメラを設置したこともあった。またHは2011年1月ごろ、「集落の中で孤立している」「近所の人に悪口を言われ、困っている」として、周南署に相談していたことがわかった。近隣住民はHがそこまで追い詰められているとは思っていなかったという。精神安定剤の服用を始め、薬を飲んでいるから人を殺しても罪にならないなどの発言もしていたという。
農薬散布のトラブル
Hは農薬の散布を巡っても、近所の住民とトラブルを引き起こしていた。家の裏で、勝手に農薬や除草剤をまいたという。被害に遭った女性Cの夫は周囲に不安を漏らしていた。
草刈り作業のトラブル
Hは地区のあぜの草刈り作業にあたって、地域で一番若いという理由から、機械や燃料の費用などをすべて1人で負担させられた上に、地区住民がHの機械を草と一緒に燃やし、さらに機械を焼失させたことについての謝罪もないなどの仕打ちを受けていると、知人に漏らしていた。その話によると、Hの抗議に対して、燃やした住民は「あれ? あんたのもんだったの?」と笑っていたという。
飼い犬をめぐるトラブル
Hが飼い始めた犬(ラブラドール・レトリバー2匹)に対し、地区住民が「臭い」と苦情を言ってトラブルになり、住民に「血を見るぞ」「殺してやる」と大声を上げたこともあったという。
その他証言
「寝たきりの母がいる部屋に、隣のYさんが勝手に入ってきて、『ウンコくさい』と言われました」「Yさんは、自分が運転する車の前に飛び出してきたこともあった」「犬の飲み水に農薬を入れられ、自分が家でつくっていたカレーにも農薬を入れられました」「Kさんは車をちょっと前進させたり、ちょっと後退したりということを繰り返し、自分を挑発してきました」「車のタイヤのホイールのネジをゆるめられたこともあった」
その他
○山口県出身で作家の城繁幸も「濃密な人間関係の中にいやでも引きずり出されたものと思われる。ひょっとすると、そういう関係で何らかのトラブルがあったのかもしれない」「無縁社会のリスクが孤独死だとすれば、“有縁社会”のリスクは、こうした人間関係のトラブルと言える」と語っている。
○7月24日には、周辺住民の心のケアと健康管理のため、現地に保健師が派遣された。
○事件当時、金峰の郷地区は8世帯12人が住む限界集落だった。
○「つけびして」の川柳の貼り紙について、「つけびして≠ヘ、集落内で自分の悪い噂を流すこと。田舎者≠ヘ集落の人を指す。(紙を貼りだしたのは)周囲の人たちの反応を知りたかった。自分の中に抱え込んだ気持ちを知ってほしかった」と弁護士に語ったという。
○2016年10月20日号の週刊新潮によると、警察が発見した凶器とされる木の棒は、Hの主張によるとリュックの中にあったはずだが、裁判では小川の中で発見されたとされている。また、木の棒からは血液付着の痕跡を示すルミノール反応の判定をしていない。犯人のものとされる靴や足跡は、Hのものではないと証言されている。 
 
山口連続放火殺人事件 2013/12/27

 

8月26日、山田貴之弁護士および沖本浩弁護士の2人が、山口県周南市にある「徳山保健センター」で会見を開きました。以下、その会見での弁護人の発表内容です。
「少なくとも保見さん自身の認識では、自分について悪い噂が流されている、あるいは周りの人から監視されている、という意識を強く持っていました。」
「『事件の日のことはすっぽり抜け落ちてしまっていて、真っ暗なんだ』ということを言っております。」
「(殺害した順番に関しては)最初に貞森さんの家に行った、次に山本さん、次に石村さん、最後に河村さんの家だという風に言っております。」
逮捕後の保見容疑者の様子・供述・流れなど
・取り調べに素直に応じている。
・5人の被害者全ての殺人事件に対して「私がやりました」とおおむね認める。
・顔や足などに複数の擦り傷・切り傷があるが、健康状態に異常はない。
・7/26の昼食は完食、7/26の夕食と7/27の朝食もほぼ完食。
・7/26の就寝時間も、特異なところは見られていない。
・7/27夕方、山口地裁で勾留手続きが行なわれた。
・7/31、保見容疑者の弁護人が山口市で記者会見。保見容疑者は被害者と遺族に対して「申し訳ない気持ちがある」と話している。また、逃走の際には自宅から睡眠薬とロープを持って出て、山中で自殺を図ったという。
・8/5、山口地検が山口簡裁に10日間の勾留延長を申請し、認められた。
・事件の動機について「集落でトラブルがあった」「犬のふんの処理について注意された」「犬を殺すために田んぼに農薬をまかれた」などとする”被害者への不満”を供述。また、「被害者5人全員に恨みがあった」「5人を同じ木の棒で殴って殺した」「悪口を言われた」などと供述。
・保見容疑者は殺害した順番に関して「貞森誠さんと喜代子さん夫婦、山本ミヤ子さん、石村文人さん、河村聡子さんの順番で家に侵入し、殺害した」と供述。
・8/15、貞盛さん夫婦に対する殺人と現住建造物等放火の容疑で再逮捕。
・8/17、上記の容疑で山口地検へ送検。
・貞森さん夫婦と山本さん殺害については関与を認めているが、石村さんと河村さん殺害については、「弁護士と相談してから話します」と認否を保留している。
・9/5、石村文人さんと河村聡子さんへの殺人容疑で再逮捕。
・「なぜその日に事件が起きたのか全くわからない」などと、事件当日の記憶がほとんどなく、あいまいな供述が続いている。
・9/16、弁護人が精神鑑定を要請。近く裁判所に鑑定留置を請求する方針。
・9/17、鑑定留置を開始。
・12/20、鑑定留置が終わり、刑事責任を問えると判断される。
男を逮捕
保見光成容疑者(63)を非現住建造物等放火罪・殺人罪で逮捕
山口県警は7月26日の13時35分、山本さんに対する非現住建造物等放火罪・殺人罪で保見光成(ほみ こうせい)容疑者(63)を逮捕しました。13:42頃の速報です。
保見光成容疑者は容疑を認めており、捜査員による事情聴取にも特に抵抗することなく応じているということです。
また貞森さん夫婦ら他4人の殺害に関してもおおむね認めているようで、今後、事件の実態が解明されるまで時間はかからないのではないかと思われます。
身柄確保時の状況
県警は7月25日の午後3時ころ、保見光成容疑者の自宅から約200m離れた河村さん宅の近くに、保見容疑者の物とみられる携帯電話・シャツ・ズボンが放置されているのを発見。付近を重点的に捜索していました。
そして7月26日午前9時5分ころ、郷集落から北に約1kmほどの山中に、保見容疑者が座っているところを発見。健康状態は比較的良好だということでした。
保見容疑者はシャツとパンツのみの下着姿で靴も履いていませんでしたが、擦り傷はあるものの目立った怪我はなく、自力で歩ける状態だったそうです。
捜査員の問いに対し、「本人です」や「死のうとしたが死にきれなかった」と言い、保見容疑者は自ら名字を名乗った上で、特に抵抗することなく任意同行に応じたといいます。凶器などは持っていませんでした。
捜査車両までは自力で歩いて山を下り、車両を乗り込む際には足の泥を落とし、一礼して乗り込んだといいます。
午前11時20分ころ、保見容疑者の身柄は周南署へ到着しました。
14:30ころの周南署による記者会見
Q 記者「自供していると聞きましたが、事実は?」
A 県警「事実は認めています」
Q 「動機は?」
A 「今後の捜査で、明らかにしていきます。」
Q 「発見時の様子を詳しく教えていただけますか?」
A 「本日、170人態勢で探していました。そのうち1班が山道を捜索しておりましたところ、座っていた容疑者を発見。シャツとパンツ姿で、靴も履いておりませんでした。捜査員が”保見さんですか?”と質問したら”そうです”と。それで身柄を確保。周南署へ連行しました。」
Q 「所持金は?」
A 「ありません。」
Q 「凶器は?」
A 「ありません。」
Q 「6日経ったんですが、どのような生活を?」
A 「全くわかりません。今後、本人から事実関係を聞きます。」
Q 「他の4名の被害者に関してなんですが、供述は?」
A 「おおむね、認めています。」
Q 「事件の証拠は?」
A 「それについては、お答えできません。」
Q 「なぜですか?」
A「今後、裁判で明らかにしていきますので。事実が固まったということで、ご了承ください。」
Q 「他の4名に関しての事実も認めているんですよね?」
A 「おおむね、認めています。”他の人も私がやりました”と。詳しい内容については、まだ。」
Q 「凶器はどうなもの?」
A 「凶器が何かも含め、今後、捜査ではっきりさせていきます。ただ、発見時には持っていませんでした。」
山口連続放火殺人事件の概要
7月21日夜、山口県周南市金峰(みたけ)で民家2軒が全焼し、1軒から2人の遺体、もう1軒から1人の遺体が見つかりました。
2軒のうち1軒には貞森誠さん(71)と妻の喜代子さん(72)が2人で住んでおり、もう1軒には山本ミヤ子さん(79)が1人で住んでいました。
山口県警 周南署は、発見された遺体はこの3人の可能性があるとみて司法解剖をしましたが、司法解剖の結果、身元は特定できなかったそうです。
3人からは、頭部を鈍器で殴られたような外傷が見つかっており、即死状態だったといいます。同署によると、頭部を殴られたことにより死亡し、その後に放火されたとのことです。
また7月22日には、近くにある別の民家2軒から新たに2人の遺体が見つかっています。
新たな2遺体は男性1人と女性1人で、同じ集落の別々の家から見つかりました。2人は、自治会長や班長といった肩書きがあったそうです。
同署によると、2人の遺体の頭部や顔などには、鈍器で何度も殴られたような外傷があり、頭の骨が折れていたといいます。
遺体はそれぞれの家に住んでいた、河村聡子さん(73)と石村文人さん(80)と確認されたということです。
山口県警は捜査本部を設置。3人の遺体が見つかった事件と2人の遺体の関連を調べるとともに、火災現場で遺体で見つかった山本さんの住宅の隣に住む63歳の男が、2つの住宅に火をつけた疑いがあるとして、殺人と放火の疑いで男の自宅を捜索しました。
男の家からは「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と、放火への関与をほのめかす内容が書かれた紙が見つかりました。(放火への関与を示すものではないとする意見も)
この紙は、室内から窓に貼られており、外から見える形(見せる形)となっていました。
県警は”同一犯による連続殺人事件”と断定、200人態勢で男の行方探していましたが、7月23日15時現在、人員を260人に増やし捜索を急いでいます。 ※7/23人員をさらに400名へ増員 / ※7/26人員をさらに470名へ増員
7月25日には男の物とみられる携帯電話や衣服が山中から見つかっており、県警は翌26日朝から70人を集中投入し捜索したところ、山にいた男を発見。
身柄を確保し、男は特に抵抗することなく周南署へ任意同行されました。
そして7月26日の13時35分、県警は山本ミヤ子さんに対する非現住建造物等放火罪・殺人罪で保見光成容疑者(63)を逮捕しました。
山口連続放火殺人事件の主な流れ
・7月21日の午後9時前、貞森さんの自宅で火災が発生。近所の住民により119番通報。
・ほぼ同時刻(午後9時過ぎ)、約60m離れた山本さんの自宅も燃えていることが判明。
・同日午後10時ころ、山本さんと貞森さん夫婦とみられる遺体が焼け跡から見つかる。
・同日夜、警察が河村さんから聞き取り調査を行う。
・深夜〜7月22日未明、河村さんと石村さんが自宅で殺害される?
・翌日7月22日の午前、前日に聞き取り調査が行われた河村さんが自宅で亡くなっているのを、親族が発見。
・また、石村さんも自宅で亡くなっているのを警察が発見。
・2人の検死の結果、頭部に損傷があり、鈍器のようなもので複数回殴られていたと思われる。
・県警は殺人事件と断定し捜査本部を設置、山本さんの隣に住む63歳の男の自宅を捜索するとともに、重要参考人として行方を探している。
・7月23日午後1時、男の自宅を捜索。同日夕方、捜査員を260名から400名に増員。
・7月24日から捜索範囲を広げる。
・7月25日午後3時ころ、山中から男の物とみられる携帯電話・シャツ・ズボンを発見。
・7月26日、捜査員470名に増員。山中で男を発見。身柄確保。
・7月26日午後1時35分、保見光成容疑者を非現住建造物等放火罪・殺人罪で逮捕。
・7月27日午前9時20分ころ、保見容疑者を山口地検に送検。
住民への取材から分かった放火事件当日の様子
「火災になった当日の午前11時半ぐらい、(男が)たまたま居たから”暑いのう、こんにちは”と言ったら向こうも答えてくれた。その際、特に変わったところは無かった。」
「(山本さん宅が)メラメラ燃えていた。本当に怖かった。凄く燃えていた。」
「貞森さんの家が真っ赤っかになっとった。」
「消防本部も色んなところがあったけど、上(貞森さん宅)を誰も消しに入らない。」
「下の山本さん家が燃えるほうにホースが引っ張ってあるから、車が下から上によう上がらんかった。」
金峰地区とは
山口県周南市金峰地区はJR徳山駅から北東に約16kmの位置の山間部にあります。周囲は山に囲まれており、携帯電話の電波も入らないほどといいます。
金峰地区には小さな集落が複数あり、事件現場となった集落は郷(ごう)集落という名称の集落です。郷集落には寺や公民館があるほか、8世帯14人が暮らしていました。
過疎化が進み、ここ15年で人口が急激に減少。周辺には廃屋も目立ちます。バス停があるもののその本数は少なく、鉄道はもちろんありません。車が無いと生活が難しいような集落といいます。
住民14人中10人が65歳以上の高齢者で、いわゆる”限界集落”といわれるような場所です。
住民が非常に少ないこともあり、住民同士は非常に仲が良く”家族みたいなもの”、ゲートボールなどをして遊んだりしていたようです。
日本の昔ながらの原風景が残る、自然豊かで物静かな集落です。
張り紙の真意
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者 (かつを)」と書かれた張り紙がされていました。この張り紙は、2年〜3年約10年ほど前から張られていたそうです。紙に書かれた言葉はどういう意味を表すのでしょうか?
放火をほのめかす説
まず、報道当初から各マスメディアが行なっていた報道によると、「放火をほのめかすもの」ということでした。
”つけびして”とは、”家に火をつけて”という意味。
”煙り喜ぶ”とは、”火をつけた家から煙が出ているのを見て喜ぶ”という意味。
”田舎者”とは、”自分自身”です。
心理学関係の専門家は、自分自身を”田舎者”と表現していることから、”男は劣等感を持っているのではないか”、ということも話していました。
確かに、放火事件が起きた直後にこの紙を見ると、大体の人は”放火をほのめかすもの”と思うでしょう。私もそう思っていました。
しかし男と付き合いのあった知人男性により、新たな証言が出て来ました。
住民に対するメッセージ
以下、容疑者と見られている男の、知人男性からの証言です。
「付け火っていうのは、この辺りの農業をする人は畑や田んぼの草を刈ると、後で燃やすという風習があるんです。すると煙が立ちますよね。それを見ながら、秋とか冬であれば寒くなるから、暖を取りながら談笑しながら燃やしている。男にとって煙がこっちにきておもしろくないな、そういうメッセージを送りたかったんじゃないかな。」
どうでしょう。
”つけびして”とは、”焚き火して”という意味。
”煙り喜ぶ”とは、”焚き火でのぼる煙を見ながら談笑している”という意味。
”田舎者”とは、”談笑している住民”です。
私はこれを聞いた時、”まさにこれだ”と思いました。
「自分に劣等感があり、自分を卑下して”田舎者”と書いている」と専門家が言っていましたが、何となくしっくりこないというか、私の中で引っかかる部分がありました。
が、知人男性からのこの証言は、まさにガッツリ当てはまりますよね。
男は、郷集落の住民から仲間はずれにされ嫌悪感のようなものを抱いていたでしょうし、さらに都会から郷集落(田舎)へ移り住んでいるので、住民を”田舎者”と表現することは理にかなっています。
真相は男しか知り得ないですが、私の個人的意見としては、上記の知人男性からの証言が最も当てはまっているかと思います。
さらに、ネット上では別の意見も見られました↓
ネット上での意見
”つけびして”とは、”悪い噂を流す”という意味。
”煙り喜ぶ”とは、”悪口で盛り上がったり、笑い者にする”という意味。
”田舎者”とは、”郷集落の住民”です。
確かに、これも考えられますね。
容疑者とみられる男とは
男の年齢は63歳、現場となった山口県周南市金峰地区・郷集落の出身でしたが、集落を出て神奈川県川崎市で仕事をして暮らしていました。
約19年ほど前から郷集落の実家へ戻り、両親とともに暮らしていたようですが、数年前までに両親は他界し1人暮らしとなっていたようです。
両親が他界してからは、周囲の住民との交流はほとんど無かったといいます。
自治会にも入らず住民が挨拶をしてもほとんど無視に近い状態、市の広報も回覧も受け取らず近所付き合いは一切なかった、と近隣住民が証言しています。
さらに、男が犬の散歩をしている際に犬が道路脇にフンをしたため、貞森さんが「フンを持っていけ」と注意すると、男は怒って「血が見たいのか!?」と言っていたという証言や、「薬を飲んでいるからあれしても(=殺人?)刑には服さん」と言っていたという証言もあります。
ただし男と交流のあったという知人による証言では、「優しい人だった」や「郷集落の住民と仲良くしたいと悩んでいた」というような証言もあり、男を非難する住民(郷集落の住民)と、男を擁護する住民(近くの集落の住民)とで証言に食い違いがみられています。
男は精神安定剤を服用していたということから、郷集落の住民による様々な嫌がらせ・村八分によるものか?(後述)という疑惑が浮上しています。
自宅の様子としては、玄関前に様々なオブジェが置かれ、2台の車を所有(ナンバーは共に「1001」)、防犯カメラが設置され、飼い犬を2匹飼っていました。
犯人とみられる男の生い立ち
・1949年、山口県周南市金峰地区で生まれる。
・1965年前後、学校を卒業し15歳で上京。神奈川県川崎市で左官職人として働く。
・1994年前後、両親の介護のため周南市金峰の郷集落に戻る。
・2000年代後半、母親が亡くなり父親と暮らしていたが、父親も死去、1人暮らしに。
・2011年元日、山口県周南署を訪ね「つらい立場にある 村で孤立している」と相談
集落の住民や男と付き合いのあった人からの話
「肩幅もありガッチリとした体型」
「つかみどころがない」
「罵声や暴言を浴びせられた。」
「回覧板を”ゴミになる”と拒絶された。」
「みんな仲良しの集落なのに1人だけ浮いた存在」
「自宅に防犯カメラを付け、時々、大声で叫ぶこともあった。」
「”近所の神社の掃除をしよう”と言っても”私はやらん”などと拒む。」
「地元の学校を卒業後、1人で神奈川県に左官職人として移り住んだ。」
「荒れた田にヤマザクラを植える取り組みが行なわれていたが参加することはなかった。」
「犬が寄ってきたから”わっ”と手を上げたら”犬をたたくのか。叩き殺す気か”と怒った。」
「山本さんとは、仲が良い方じゃなかったと思うよ。暴言も吐いてたね。”バカもの”とか”殺してやる”とか。」
「井戸端会議に割り込んできて、”俺は薬を飲んでいるのだから、10人や20人殺したって罪にならない”と脅された。」
「両親が亡くなって1人で生活するようになってからは、引きこもりがちになって、その辺りから理解し難い言動が目立ってきた。」
「365日誰とも会わないというか、声をかける人もいないし、こちらからも話をかけないから、ストレスもたまって飼い犬だけに話をしていた。」
「挨拶何もしませんからね。我々は頭下げますけど。知らん顔ですよ。挨拶しても知らん顔。お父さんが亡くなってから変になっていったんだと思う。(男は)変わっとる。何話聞いても返事しないわけですから。」
「川崎(神奈川県)の方でタイル職人をしていて、15年ぐらい前に帰ってきて、自分で家を建てたということでテレビに出たんですよ。」
「いい人だったんですよ。何年か前まではね。それが、だんだんゆがんできたんですよ。」
男と付き合いのあった人
「いや、そんなこと(他の住民の証言のような)ないよ、優しい人だよ。」
「親思いで献身的に介護をしていて、優しい性格だった。」
「捨て犬を引き取ったりという側面も持っていた。」
「神奈川県から郷集落に戻った際、村おこしをしようと率先して働きかけたけど、周りは高齢者ばかりで理解が得られなかった。」
「明るい性格です。私たちとは和気あいあいとしていた。ちょっかい出す者には”おい、お前やめろや”と言って、結構優しい男だったんですよ。すごく優しい男だったんだがなぁ。」
男と20年来の付き合いがある男性
「両親が生きてる時は隣近所との付き合いも上手くいってたんだと思う。ただ1人になってから、隣近所の人(郷集落の住民)とちょっと上手くいってないんだと聞いたことがある。」
「外(都会)に出ているとそういう(田舎での)付き合いがなかったんじゃないかと思う。どうやって仲良くしたらいいのか本人が迷っていたのではないか。」
「自分で人をもてなすためのカウンターバーを家の中に作って、”(住民の)みんなを接待したい”と言っていた。(作業を押し付けられていた件に関しては)若い分、少し年配の方より作業が多くなるということがあったかもしれませんね。」
男に犬を引き渡した方
「”この犬の目は僕の父によく似ているから僕に飼わせてもらえないか”と話しに来られたんですよ。物静かな方で、とても真面目な方という印象を持ちましたね。悪い印象は全然なかったです。」
「”まるで親父のようだ(犬が)”と言い、父親の生まれ変わりのように可愛がっていた。」
「犬を引き渡した後、定期的に犬の元気な姿の写真を送ってきたりしてくれて、とても優しく、犬も大切に育ててくれているようだった。」
「ちょっと大柄で、とっちかというと言葉少ない感じ。とにかく礼儀正しい方。すごく優しい。」
男の姉の話
「親の面倒をみるからと言って帰ってきた。父親の具合が一時悪かったが、弟が帰ってきてから具合が良くなって死ぬまで一緒にいた。(両親が)死んでから7〜8年になる。」
「おとなしい性格。やぁやぁ言ったりもせんし。怒りっぽかったところも、私らにはなかった。やぁやぁ言ってケンカするほど文句もとおりゃせんし。」
「(最後に弟と会ったのは)先月のはじめ。6月の3日とか4日とか。変わった様子は無かった。」
「気が小さいというか、口数は少ない性格。早く見つかればいい。」

男と付き合いのあった人とは? 20年来の付き合いがある男性とは? 結局、男は”孤立していた”と言っているが、8世帯14人の中には仲良くしている人もいたの?こういった疑問が生まれるかと思いますが、7/24のマスコミによる取材から、”男と付き合いのあった仲の良い人は、郷集落とは別の集落で、郷集落から少し山を下りたところにある集落の住民”だということが分かっています。つまり、郷集落の8世帯14人の中で、男は完全に孤立していた可能性が高いと思われます。
専門家による分析
少人数の人々の中で被害的な思い込みが重なって、それが強い憎しみへと発展していったのではないか。
殺害後に火を付けるという行為は、殴った上にさらに攻撃を加えるという、非常に強い攻撃性を見ることができる。
非常に強い恨み、それに伴うサディスティックな凶暴性を感じる。
火災で騒ぎが起こり始めた段階で第2・第3の犯行を行なうということ自体に「俺様の手並みを見ろ」とでも言いたげな自己愛的な興奮が見て取れ、スリルを楽しむ大胆なところがある。
不審な張り紙や様々な置物に関して
「田舎者」と自分自身のことを卑下するような書き方がされている。
自分にレッテルを張ってわざわざ外に見えるように張り出し、外に向かっては非常に自分の強い姿勢を誇示しながらも、自分の中では強い劣等感を持っていたのではないか。
誇示するものをごちゃごちゃ自分の周りに積み重ねて、周りに対して威圧感を与える。
置いてあるものを見ると、自分自身のことを誇示したい、そういう心理状態が見て取れる。
津山事件の再来か?
津山事件(津山三十人殺しとも言われる)とは、1938年に、現在の岡山県津山市にあった全23戸の村の集落で発生した大量殺人事件です。犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいいます。
わずか2時間ほどで30人もの村民が死亡し、死者数がオウム真理教事件(死者27名)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件(さつりくじけん)です。
津山事件との共通点
都井睦雄は友人が皆無に等しく、自宅の屋根裏に部屋を作ってほとんど外出しなかったという、現代で言う「ひきこもり」でした。
人付き合いをほとんどせず、「周りの村民が自分のことを悪く言っている」というような被害妄想を募らせたことが、津山事件の犯行動機だったと見られています。
今回の連続放火・殺人事件の容疑者とみられている男も、集落の中でほとんど人付き合いをしていませんでした。
少人数で暮らす集落の中で、様々な被害妄想が膨らみ、それが段々と強い憎しみに発展していったのではないでしょうか。(本当に被害を受けていた可能性もあり)
犯行内容の大胆さからも、共通する人物像が連想されます。
男の犯行動機
まず初めに、これから記載する”男の犯行動機”は、私の独断と偏見によるものです。
男を擁護するわけではありませんし、悲しみに打ちひしがれ今もなお不安な毎日を過ごしてらっしゃる郷集落住民の方を非難するわけでもありません。
ただ、場合により、読んだ方を不快な気分にさせてしまう可能性がありますことを、はじめにお詫び申し上げます。
男は村八分の被害にあっていた?
様々な報道を見て来ましたが、私はどうしても”集落の住民が故意に男を仲間はずれにしていた”としか思えません。その根拠は以下の通りです。
・都会から急に戻り、良い家を建て、犬を飼い、オシャレな生活を始めた。→老人が反感?
・都会から戻った際、町おこしを積極的に働きかけたが認められず。→浮いた存在?
・集落で一番若いからと言う理由で草刈りを全部一人でやらされていた。(草刈り機購入費用・燃料費は全部容疑者負担。報酬も無し)→郷集落のパシリ?
・草刈り機を住民に燃やされ、男は抗議。しかし軽くあしらわれる。
・住民が田んぼに農薬を撒いた際、風向きによって男性の家に農薬が大量にかかっていた。人間はほぼ無害でも、犬にとっては死亡する可能性も。→住民の故意による嫌がらせ?
・過去、郷集落の住民により鋭利な物で刺されている。
・男は精神安定剤を服用していた。→住民による嫌がらせで精神を病んだ?
・知人らの証言から、男は”住民と仲良くしたい”という悩みがあったとみられる。
・警察へ「悪口を言われており、自分は辛い立場にある。村の中で孤立している」と相談。
・取材に応じた郷集落の住民らの、男への非難証言は誇張表現をしているようにしか見えない。また、悪意が感じられる。
・男の自宅からは、郷集落住民に対する不平不満を綴った張り紙が複数見つかっている。
・犯人逮捕後、住民は「なんで生きて捕まえた」と言う。→証言されると困ることがある?
以上ですが、現時点(7/25)で最も気になるのは、”郷集落の住民により鋭利な物で刺されている”という件です。
これは刑事事件にも発展しており、男は「被害者」でした。
またその際に男は一方的にやられただけで、暴行するなどやり返していません。そのことからも、近隣住民による”男の凶暴性”に関する証言も、信用性があまりありません。
住民が証言している内容ほど男が怒りっぽいのであれば、刺されておいて黙っているでしょうか。
また、男を非難するような内容を証言している住民には一定の特徴が見られ、”人づてに聞いた”、”◯◯さんが言っていた”、”◯◯さんから聞いた”など、人から聞いたとする内容が非常に多いのです。(自ら男の不自然な言動現場を目撃・体験したという証言もあります)
非常に狭いコミュニティですから、例えば1人の住民が男のことを悪く言えば、たった1人の証言だったとしても、それが嘘であれ真実であれ誇張されたものであれ、”事実”として拡散していったのではないでしょうか。
男の知人とされる方からの証言と、郷集落の住民の方の証言には、食い違いも見られます。
郷集落の住民たちは「自治会にも入らない。人付き合いしない」などと証言していますが、男も昔は自治会に入っていたそうです。
ただし、草刈などの雑用を全部一人でやらされていたというパシリ的扱いや、農機具が燃やされるなどの完全な嫌がらせ(もやは犯罪)をされたりといった過去も明らかになってきましたが、そんなことされたら誰でも自治会を抜けたくなると思いますし、人付き合いなんかしたくなくなりますよね。
また、”自治会を抜ける”という件に関しては、住民により追い出されたという情報もあります。(情報源は確かではありません)
私には、郷集落で70年も80年も暮らしてきた強烈な仲間意識のある集団のもとに、ヒョッと入ってきた男が差別を受け、イジメられ、結果的に村八分にあっていたとしか思えないのです。
追記情報
集落の住民
「ちょっと酒を飲んだ席のことですからね、ちょっと(鋭利な物が)当たったくらいじゃないですか?仲が悪いというのはどこでもありますよ。気が合う合わないというのは誰でもあるじゃないですか。だから…まぁ、些細なことでしょうね。」 →ちょっと酒を飲んだ席では、鋭利な物がちょっと当たってしまうことがあり、それで怪我を負わせられることがある?いくら田舎にはその田舎特有のルールがあったとしても、この言い分は無理やりすぎる気がしないでもないですね。
保見容疑者の友人
「田んぼのあぜ道を刈るのに機械を使って、油代も全部保見さん持ちで出させて。本人があぜ(道)に機械を忘れて帰ったら、次の日に草と一緒に(住民が)焼いてしまった。後日、(住民は)”あれ、あなたの物だったの?”っていう感じで、いじめというか色んなことがあったみたいです。」 →草刈りを保見容疑者に押し付けておいて、「あれ、あなたの物だったの?」というのもちょっと・・・。また、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」の真意に関する予想も濃厚になってきました。郷集落の住民たちによる村八分・嫌がらせ行為は、私個人の見解だけでなく、客観的に見ても濃厚な説になってきたように思います。
金峰地区の住民(郷集落かは不明)
「(石村さんが保見さんに対して)”横着言うな”って物投げたか何かで(保見さんが)ケガしたというようなことを言っていた。そういうことやら何やら積み重なって”くそ自分ばっかし、後から帰ってきたけぇと思って”というのが頭の中にあったでしょうね。」「彼(保見容疑者)は集落に来た当時、“何か村おこしをしたい”と熱心に提案しとったんじゃが、“都会崩れが何言っとるんや”と多くの住民に反対されてしまってね。そこからちょっと疎まれるというか、“いじめ”みたいなことが起こり始めたんですわ…」「“都会から来たんじゃから、金も持っとろう。みんなのために草刈り機買って、草でも刈れ”言うてな。無理矢理やらせとった」 →石村さんの件は鋭利な物で刺された事件とは別と思われます。刑事事件にはなっていないと思われますが、この件もケガをしたそうなので立派な傷害事件です。パシリ的扱いの他、こういう暴行行為が日常的に行われていた可能性もありますね。またその他にも、保見容疑者へのイジメがどんどん明るみになってきました。
保見容疑者の親族
「罪は罪であれですけど、とにかく、あらいざらい…ぶっちゃけてほしいですよね」 →”あらいざらい”とは?この親族は、保見容疑者が村八分にあっていたことを知っていたのかもしれませんね。ちょっと含みのあるコメントです。
保見容疑者を知る人【神奈川県川崎市】
「タイル屋さんだったんだけど、いいやつなんだ。神経質。仕事も相当うまかったらしい。」「6〜7年付き合ったけど、女遊びも、無駄遣いもしなかった。金はかなりためてたみたい。仕事の腕も良かった」「親の介護のために帰郷するぐらいだから、悪いやつじゃない。こっちにいるときも、いじめられた仲間をかばったり、正義感のあるやつだった。ただ、思い通りにいかないとヘソを曲げることもあった」「妙なこだわりがある男でね。昼夜問わずサングラスを掛けっぱなしにしていた。もともとはっきりモノを言うタイプだったけれど、酒が入ると理屈っぽくなる。そのせいか、酒の席でケンカになることがよくあった」 →神奈川県川崎市で付き合いのあった男性、また保見容疑者と同僚だったという男性などからの証言です。良い人だという意見がある一方、”酒が入ると理屈っぽくなる。そのせいか、酒の席でケンカになることがよくあった”という証言もありますね。
部屋を貸していた大家【神奈川県川崎市】
「今まで住んでいたアパートで喧嘩して大家さんに追い出されて、今晩泊まるところがないと言ってきた。何件も回ったんだけど、どこも断られた、と。」 →詳しく語られていないので何とも言えませんが、喧嘩っ早い部分が少なからずあったのかも?
鋭利な物で刺されたという件以外にも、新たな暴行行為が浮上しました。一方で、川崎市の方々の証言等から、現時点では保見容疑者にも何かしらの非があった可能性も全否定はできないですね。(村八分に関して)住民が悪い・保見容疑者が悪い、などというよりも、昔から郷集落全体に根付くもっと奥深い問題があるように思えてきました。ただ、少なくとも2度に渡りケガを負わされているということは、今後の捜査でもっともっと色んな暴行行為が判明してくるのではないか、と思っています。
村八分による精神崩壊?
人間は、長期間にわたり1人になると狂います。また執拗な嫌がらせを受ければ、間違いなく精神は歪み、実際には受けていない被害も妄想として膨らみ、憎悪が膨れ上がり精神は崩壊します。
男の自宅からは、郷集落住民に対する不平不満を綴った張り紙も複数見つかっているということです。
男は、住民による仲間はずれにより、この何十年間の間で少しずつ少しずつ精神がむしばまれていったのではないでしょうか。
もちろん犯罪は正当化されませんし男が犯した罪はとてつもなく重大ですが、起こるべくして起きたと言える部分も少なからずあるのではないでしょうか。
私が思うに、男は逮捕されることにも死ぬことにも恐怖心は抱いていないと思います。
そのため、遠くに逃亡することは考えられず、山の中に潜伏しているか既に自殺しているかのどちらかだと思っています。洞窟などが怪しいのではないでしょうか。
もしも計画的犯行なのであれば、長い時間をかけて山の中に簡易地下シェルターなどの簡単な隠れ場所のようなものを作っている可能性もあるのでは?と個人的には考えています。
ここに書いた「男の動機」は私個人の素人による考えなので、1ミリたりとも当たっていないかもしれません。真相は、男にしかわかりません。
郷集落で何があったのか?どういう環境だったのか?警察には、その実態を解明してもらいたいと思っています。そのためにも、また更なる被害者・死者を出さないためにも、男は自殺なんかせず、一刻も早く身柄が確保されることを願います。
その他、取材や捜査による情報
・自宅玄関にはサンダルが脱ぎ捨てられていた
・家に車が2台残されており、男は徒歩で移動しているとみられる。
・集落にある公民館を避難所として、住民が一時的に避難している。
・「やっぱり自宅が落ち着く」という方は、自宅に帰宅。住民の家の周りも、警察により警護されている。
・男は2年前の元旦(2011年1月1日)に、山口県警 周南署の生活安全課を訪れ、「悪口を言われており、自分は辛い立場にある。村の中で孤立している」などと相談。その日、相談したことで「すっきりしました」と話し、帰った。
・山の周りには検問を張り、空港や駅などの公共交通機関にも捜査員を派遣している。
・もしもの事態に備えて警察官が24時間態勢で避難所や住民の自宅を警護。
・男は、自身で所有する携帯電話を持ち出している可能性が高い。
・男が飼っていた犬は、市の職員により保護され、動物愛護団体へ引き渡された。犬の健康状態は良好。
・7月26日午前9時6分、保見容疑者が飼っていた犬が心臓発作で死亡。 (保見容疑者身柄確保後の1分後)
・保見容疑者逮捕後、県警は220人態勢で山中の遺留品を捜索中
・保見容疑者を名乗る人物から、7/23(火)に市役所へ「税金を滞納しているから払いたい」となど電話があった。職員が住所や生年月日を訪ねたところ、正確に答えたという。
・7月29日速報。山中から凶器とみられる木の棒を発見。近くで錠剤が入っていたと思われる空袋も発見。 
 
保見光成

 

山口連続殺人放火事件
山口連続殺人放火事件とは、2013年7月21日に山口県周南市金峰(みたけ。旧鹿野町)で発生した、近隣に住む71歳から80歳までの高齢者5人が殺害された連続殺人・放火事件。犯人が村人からの傷害事件の被害者であったことなどが事件後にわかり、村八分が原因かと騒がれた。
保見光成は後に事件を起こす山口県周南市金峰郷(みたけごう)地区で、竹細工職人の父親の下、5人兄弟の末っ子として生まれた。中学を卒業後は上京して神奈川県で左官などをして働いていた。1994年頃に帰郷して、以後は実家に暮らしていた。
両親が亡くなってから、保見は近隣住民と飼い犬や草刈り作業などをめぐってトラブルを起こすようになる。一方で、高齢者ばかりの集落では若手の保見は周囲を手助けしたりもしており、感謝されてもいた。トラブルの全ての原因が、必ずしも保見にあったわけではないようだ。2003年頃には酒の席の口論がきっかけで、後に被害者となる男性に切りつけられたりもしている。
しかし、8世帯12人しかいない小さな集落の中で保見は徐々に孤立していった。2011年には近隣警察署に「集落の中で孤立している」「近所の人に悪口を言われ、困っている」などと相談をしている。保見は自宅の窓に『つけびして煙り喜ぶ田舎者 かつを』と書かれた張り紙も貼っている(事件直後は犯行声明とも思われていた)が、その意味は『集落の人達(田舎者)が自分の悪い噂を流して(つけびして)楽しんでいる』というものだった。事件の10日ほど前には知人に「もう金峰を出ようかと思う」と打ち明けてもいた。
2013年7月21日の夕方から午後9時頃までの間に、保見は近隣の住宅2軒に相次いで侵入、70歳代の住人計3人を撲殺した後、家に放火した。直後、近隣住民の通報により消防や警察が現地に到着、犯行が発覚する。警察の警戒の中、保見は翌22日の朝方にかけてまた別の住宅2軒に侵入、80歳代の住人計2人を撲殺した。22日正午には遺体が発見され、警察は前日から行方の分からなかった保見の捜索を本格化。残った住民は近隣施設に避難した。同月26日、保見は地区公民館から約1km離れた山道で発見され、逮捕された。
事件の背景
「介護による帰郷」
郷地区出身である男は、農林業を営む両親の次男として産まれ、中学卒業後上京し土建業に従事、30代のころからタイル職人として神奈川県川崎市で暮らしていたが、「自分の生まれたところで死にたい」と1994年に44歳で帰郷し、実家で両親の介護にあたった。川崎在住時は左官として働いており、帰郷した際には左官の技術を生かして自宅を建築し、地元のテレビ番組や新聞にも取り上げられるなどし、近隣の家の修繕などもしていたが、本人の難しい性格も災いして、両親と死別した後、地区住民とのトラブルが相次ぐようになった。
「村八分の境遇」
40代の頃、男は地区の「村おこし」を提案したが、地区住民はそれに反対し、あつれきを深めた。回覧板を受け取ることもなく、自治会活動にもほとんど参加していなかった。また自宅にマネキン人形や実際は作動しない監視カメラを設置したこともあった。また男は2011年1月ごろ、「集落の中で孤立している」「近所の人に悪口を言われ、困っている」として、周南署に相談していたことがわかった。近隣住民は男がそこまで追い詰められているとは思っていなかったという。精神安定剤の服用を始め、薬を飲んでいるから人を殺しても罪にならないなどの発言もしていたという。
「農薬散布のトラブル」
農薬の散布を巡っても、近所の住民とトラブルを引き起こしていた。家の裏で、勝手に農薬や除草剤をまかれたという。被害に遭った73歳女性の夫は周囲に不安を漏らしていた。
「草刈り作業のトラブル」
男は地区のあぜの草刈り作業にあたって、地域で一番若いという理由から、機械や燃料の費用などをすべて1人で負担させられた上に、地区住民が男の機械を草と一緒に燃やし、さらに機械を焼失させたことについての謝罪もないなどの仕打ちを受けていると、知人に漏らしていた。男が抗議すると、燃やした住民は「あれ? あんたのもんだったの?」と笑っていたという。
「飼い犬をめぐるトラブル」
男が飼い始めた犬(ラブラドール2匹)に対し、地区住民が「臭い」と苦情を言ってトラブルになり、住民に「血を見るぞ」「殺してやる」と大声を上げたこともあったという。
保見容疑者が自宅で飼っていた犬が、26日午前9時6分に死んだ。保見容疑者が山中で身柄を確保された時間の1分後だった。25日、警察、周南市を通じて市内の動物愛護団体が保護。別の団体に預けられ、新たな飼い主を探すことになっていた。
「過去の事件」
2件の傷害事件と、1件の火災が過去に発生している。傷害については、今回の被害者が、男に危害を加えている。2003年ごろの傷害事件。酒の席での口論がきっかけで、男が刺傷した。この時、加害者は傷害容疑で逮捕されて罰金刑を受けた。事件以降、2人が険悪な関係になったという。もう1件の傷害事件は、時期が不明だが、男が物を投げられてケガを負っている。刑事事件には、なっていない。火災は、2003年6月9日に発生。女性C(今回の事件の被害者)の家の倉庫に積まれていた薪が燃えてぼやが起こった。今回の事件との因果関係は不明。
事件をくぐり抜けた集落の住民はどうしている?
今回の事件では、郷集落の8世帯12人のうち5人が殺害された。そんな状況の中、集落の生き残りとなった人々は何を思い、どう暮らしているのか。集落の近隣に住む男性が言う。
「いまあの村に残っている人たちは、外に出る用事もないし、家の周辺で農作業や草刈りをしとるぐらいやな。彼らもこの事件をどう受け止めればいいのか、まだわからんのだと思う」
事件後も郷集落の住民と会っているという人物は、彼らの心境についてこう話した。
「事件から1ヵ月経って、少しずつ住民たちも落ち着いてきているよ。いつまでも怖がってばかりもいられないしね。事件のことも、特に話題にしたりしない。それでも、これから自分たちがどうしていくのか、どうやってこの地域を守っていくのか、みんな心配しているみたいだ」
死刑を求刑
山口県周南市の5人殺害・放火事件(2013年)で、殺人罪などに問われた保見光成(ほみ・こうせい)被告(65)に対し、山口地検は2015年7月10日、山口地裁(大寄淳=おおより・じゅん=裁判長)であった裁判員裁判で死刑を求刑した。
保見被告は無罪を主張しているが、検察側は立証は十分であると反論したうえで「社会を震撼(しんかん)させた重大で凶悪な事案。
手口も極めて残忍かつ凄惨(せいさん)」と指摘した。判決は2015年7月28日。
死刑判決
殺人と非現住建造物等放火の罪に問われた無職保見光成被告(65)の裁判員裁判の判決が2015年7月28日、山口地裁であり、大寄淳裁判長は求刑通り死刑を言い渡した。 
 
山口連続放火殺人事件の因縁を追う 2018/7/23

 

「2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。」
第23回参議院選挙投票日の2013年7月21日。前月からの猛暑が続く山口県周南市・須金(すがね)・金峰(みたけ)地区の郷(ごう)には、この日も朝から強い日差しが降り注いでいた。そよ風すら吹いていないのはいつものことだ。8世帯12人が暮らす小さな山村は、周南市街地から16キロほどしか離れていないが、半数以上が高齢者のいわゆる限界集落になる。隣の菅蔵(すげぞう)集落の田村勝志さん(仮名)は、集会場『金峰 杣(そま)の里交流館』で投票を済ませた。その帰りに声をかけて来たのは、義理の妹に当たる山本ミヤ子さん(79歳=当時・以下同)だった。彼女の夫は田村さんの弟にあたるが、先立たれ、一人暮らしをしていた。
「ちょっとコーヒーでも飲んで帰らんね」
縁側で一緒にアイスコーヒーを飲んでいると、隣の家からいきなり大音量でカラオケが流れ、そこに住む男の歌声が聞こえてきた。隣では最近、朝10時と夕方5時に、カラオケが始まるのだ。周辺に気を使って窓を閉めることもせず、窓を開け放ち、歌を集落中に響かせる。いつものことなので、驚くでもなく、田村さんは男が歌う昔の流行歌を聴きながら、コーヒーを飲み干して、山本さんと別れた。帰りの道沿いにある、貞森誠さんと妻の喜代子さんが住んでいる一軒家を通り過ぎた。誠さんは71歳、集落の中では中堅の年齢だが、数年前から癌を患い、1歳年上の喜代子さんが自宅で誠さんの看病をしている。さきほどの男の歌声は、この家の前を通るときも聞こえていた。山本さんはこのあと、同じ集落の石村文人さん(80)とラウンドゴルフに出かけた。いつもの日曜日。夜から始まる惨劇を、集落のものは誰も想像すらしていなかっただろう。
ただひとり、カラオケの男≠除いては。
長閑な村の様相が一変したのはその日の20時59分。
「貞森さんの家が、真っ赤っかになっとる!」
さきほどの夫婦が住む家から煌々と火が上がるのを目撃した近所の住民は、慌てて119番通報をした。ところが電話を切って外に出ると、もう一つ別の家が燃えていることに気がついた。
「山本さんの家も、メラメラ燃えとる」
別の住民が21時5分ごろ、石村文人さんに電話をかけた。だが応答はなかった。集落では二軒の家の消火活動が行われ、22時14分、ようやく鎮火した。貞森さんの家からは誠さんと喜代子さんの遺体が、山本さんの家からはミヤ子さんの遺体が発見される。誠さんの遺体は足がもげていた。消防団が焼け跡をかき分け、片足を探した。この2軒が燃えたことに、村人たちは皆「何かおかしい」と感じていた。ふたつの家は70メートルほど離れていて、間に燃えるものもないからだ。
「なんでこんなことに」「放火じゃなかろうか」
集まった村人たちは口々にそう言い合った。とはいえ、翌日から現場検証が行われる。火災の原因もじきに分かるだろう。投票場だった『金峰杣の里交流館』の、はす向かいに住んでいた吉本茜さん(仮名)から連絡を受けた河村聡子さん(73)は、吉本さんの家で一緒に消防団にお茶や水を出すなどの世話に追われていた。夫の二次男さんは、友人たちと愛媛に旅行へ行っていた。
「貞森さんの家族に連絡せにゃならんね」
吉本さんと聡子さんは、そんな話をした。
県警の緊急配備が解かれたのち、消防団が引き上げ、片付けが終わったのが1時半。日付はすでに変わっていた。それから家に帰り、風呂に入って寝る支度を整えてから、一階の居間で二次男さんに宛てて火事のことをノートに書き置きした。大変な1日を終え、聡子さんは二階の寝室に向かった。だがその聡子さんも昼前に、遺体で発見される。遠方に住む娘が自宅を訪ね、二階に血まみれで倒れている聡子さんを見つけたのだった。夜から連絡がつかなかった石村さんも、その数分後、自宅を訪れた県警に遺体で発見される。すぐに、村の入り口に黄色いテープの規制線が貼られた。現場検証が始まる。
「2軒の火災による3人の死亡」が、「5人の連続放火殺人」に姿を変えた瞬間だった。
県警はこの時点で、昨晩から自宅におらず、連絡もつかないカラオケの男≠重要参考人と睨み、その自宅を捜索。男の行方を追った。二台の車はガレージにある。遠くには行っていないだろう。5人は全員、撲殺されていた。遺体に共通していたのは頭部の陥没骨折、そして足の殴打痕。加えて『口の中に何かを突っ込まれた』形跡があったことだ。貞森さん夫妻と山本さん、3人の遺体は黒く焼け焦げ、確認のために山本さんの遺体を警察から見せられた息子は、どっちが頭なのか足なのか分からなかったほどだという。のちに司法解剖が行われ、頭蓋骨の陥没骨折や、顔に皮下出血が認められ、頭部や顔を鈍器のようなもので激しく殴られて殺害されたことがわかった。石村さんの遺体にも同じく、後頭部や膝の裏を激しく殴打された痕が見られた。口の中にも損傷があり、何か棒のようなものを突っ込まれた形跡があった。聡子さんも同様だ。首の後ろを激しく殴られたことが致命傷とみられている。その口の中は血まみれで、前歯が折れていた。
「家で寝ちょったら殺されるかもしれん」 
連続殺人であることを悟った村人たちは怖がった。県警は、さらなる犠牲者が出ることを防ぐため、村人たちを投票場だった『金峰杣の里交流館』に避難させる。そこで寝泊りを始めた村人たちにとっては、参院選の投票結果など、最早どうでもよいことになっていた。集会場の外では投入された県警の捜査員約400名が村中を周り、男の行方を探し続けている。村の入り口に張られた規制線の外には、おびただしい数のテレビ中継車が並び、上空には報道ヘリが飛び交っていた。一度に5人が殺害されるという大事件が発生した村には、地元だけでなく東京からも多くの記者が詰めかけたが、そんな彼らが何よりも注目したのは、カラオケの男≠フ家のガラス窓に貼られた不気味な『貼り紙』だった。
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」
「山口県周南市金峰(みたけ)で21日夜、全焼した民家2軒から3人の遺体が見つかり、翌22日に別の民家2軒から新たに2人の遺体が見つかった事件で、火災現場で見つかった3人はいずれも頭部に外傷があり、ほぼ出火と同じ時刻ごろまでに死亡していたことが、司法解剖の結果わかった。県警は、3人が殺された後、放火されたとみている。県警は22日、5人が殺害された連続殺人・放火事件と断定し、周南署に捜査本部を設けた。県警は同じ集落に住む男が何らかの事情を知っているとみて、自宅を殺人と非現住建造物等放火の疑いで捜索した。男は行方がわからなくなっている。全焼した山本さん宅の隣の民家には「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と、放火をほのめかすような貼り紙があった。(2013年7月23日 朝日新聞朝刊)」
「14人が暮らす集落で5人の遺体が次々と見つかった。携帯電話も通じない、山口県周南市の山間部で起きた事件。「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」。全焼した民家の隣に住む男は所在不明で、自宅には放火をほのめかす貼り紙も残る。「家族のよう」と言われる山里で、何が起きたのだろうか。(2013年7月23日 四国新聞朝刊)」
「警察は山本さんの住宅の隣に住む男が、2つの住宅に火をつけた疑いがあるとして、殺人と放火の疑いで男の自宅を捜索しました。その際に室内から外に見える形で窓に貼り紙があり、紙には「つけびして煙り喜ぶ田舎者」と書かれていました。男は、現在、行方が分からなくなっていて、警察は貼り紙の内容が放火への関与を示すものとみて、男の行方を捜査するとともに、一連の事件との関連について調べています。(2013年7月22日 NHKニュース)」
村の3分の1以上が殺害され、姿を消した男の家には不気味な貼り紙。「平成の八つ墓村」などとネットでも騒がれ始めた。まさか自分の村がこんな言われようをするとは、村人たちは前日まで誰も考えたことすらなかっただろう。事件発生から4日が経った7月25日。警察は山中で男の携帯電話や、男性用のズボン、そしてシャツを発見。さらにその翌日朝、発見現場付近を捜索していた機動隊員が林道沿いで男を見つけた。Tシャツとパンツの下着姿で、靴も履いていない。
「ホミさんですか?」
近づきながら機動隊員が声を掛けると、男はその場にしゃがみ込み言った。
「そうです」
抵抗することもなく県警の任意同行に応じ、逮捕されたそのカラオケの男≠ヘ、郷集落の住民の一人、保見光成(ほみ こうせい)(当時63歳)という。その後、県警は山中で、側面に「ホミ」と彫られたICレコーダーを発見した。息を切らしたような雑音の中、こんな言葉が録音されていた。
「ポパイ、ポパイ、幸せになってね、ポパイ。いい人間ばっかし思ったらダメよ……。オリーブ、幸せにね、ごめんね、ごめんね、ごめんね。噂話ばっかし、噂話ばっかし。田舎には娯楽はないんだ、田舎には娯楽はないんだ。ただ悪口しかない。お父さん、お母さん、ごめん。お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、ごめんね。……さん、ごめんなさい……。これから死にます。犬のことは、大きな犬はオリーブです」
保見光成の家のガラス窓にあった、この貼り紙。
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」
県警が保見を捜索している段階から、これはカラオケの男≠ノよる犯行予告なのではないか、と騒がれていた。「放火をほのめかす貼り紙」「不審なメッセージ」などと、テレビや新聞は何度も取り上げた。だが、それは決意表明でもなければ犯行予告でもなかったのである。
金峰行きの経緯
そのことを知ったのは、事件から3年半が経った2017年1月。取材のために金峰地区を訪れたときだ。私は東京で週刊誌の記者として稼働しながら、主に殺人事件の公判を取材するフリーライターとして活動していた。取材に出向くひと月前、ある月刊誌の編集者が『山口連続殺人事件』について改めて取材して記事を書いてみないかと声をかけてくれたのだった。すでに保見は5件の殺人と2件の現住建造物等放火で起訴、山口地方裁判所での一審公判も、広島高等裁判所での控訴審も判決が言い渡されており、事件は最高裁に係属していた。このときも、今もである。逮捕当初こそ「殺害して、その後、火をつけた。私がやりました」と犯行を認めていた保見は、2015年6月25日、山口地方裁判所で開かれた裁判員裁判の初公判でこれを翻し「火はつけていません。頭をたたいてもいません。私は無実です」と無罪を主張した。大量殺人を犯したとされる被疑者は、精神的な問題がないかを起訴前に鑑定し、問題がない、つまり事件当時に完全責任能力を有していたと判断されたのちに起訴されるという流れが出来ていた。この鑑定を起訴前鑑定という。さらに起訴後の公判前整理手続という非公開の手続きにおいて、争点が責任能力であるとなれば、改めて精神鑑定が行われることになる。これを本鑑定と呼ぶ。
保見に対しては一審が開かれる前に、この2つの鑑定が行われた。起訴前鑑定では事件当時の保見は「完全責任能力」があると判断されたが、起訴後に本鑑定が行われ『妄想性障害』と判断されていた。これをもって、一審公判で弁護側は責任能力について「心神喪失」もしくは「心神耗弱」を主張した。それに加えて保見は放火も殺人も、自分がやったのではない、と、犯人であること自体を否認したのである。だが同年7月28日の判決公判で山口地裁は保見に「死刑」を言い渡した。『妄想性障害』は認めたが、完全責任能力は有していたという判断だった。また放火も殺人も、犯人は保見以外に考えられないと認定された。
妄想性障害をめぐる責任能力については、山口地裁は判決で次のように述べている。
「鑑定人によると、被告は両親が他界した2004年ごろから、近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった。こうした妄想を長く持ち続けており当時、妄想性障害だったと診断できる。『自分が正しい』と発想しやすい性格傾向と、周囲から孤立した環境が大きく関係し、妄想を持つようになった。この鑑定は合理的であり、これを基に責任能力を検討すると、被告が当時、自己の行為が犯罪であるという認識を十分有していたことは明らか。凶器となる棒を携えて各被害者宅を訪れ、殺害後に自殺しようと山中に入っており、善悪を認識する能力も、その認識に基づいて行動する能力も欠如したり、著しく減退したりしていない。被告は当時、完全責任能力を有していた」
保見はこれを不服として即日控訴。2016年7月25日、広島高等裁判所で控訴審の第一回公判が開かれたが、弁護側の請求証拠はすべて却下されて即日結審し、同年9月13日、控訴棄却。その翌日、保見側は上告した。判決では本鑑定の結果に基づき「近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった」と認定されているが、これには疑問があった。事件発生当初から、保見は集落の村人たちから村八分≠ノされていたのではないかという疑惑があったからだ。
金峰の郷集落で生まれ育った保見は中学卒業後に上京し、長らく関東で働いていたが、90年代にUターンしてきた。しかし村人たちの輪に溶け込めず「草刈機を燃やされる」「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたのだと『女性セブン』(小学館)2013年8月15日号は報じていた。また被害者のひとりである貞森誠さんが、かつて保見を刺したことがあるという、気がかりな情報もあった。「みんな仲良しなのに、1人だけ浮いた存在」。保見の逮捕直後、新聞のインタビューに近隣住民がこうも語っていた。
保見はICレコーダーに「周りから意地悪ばかりされた」と吹き込んでいたが、これは妄想などではなく、本当なのではないか――。そのようなことを思っていたが、この時の目的は少し違っていた。私に声をかけてきてくれた月刊誌の編集者は、金峰地区における夜這い風習≠ノついて取材をしてきてほしい、と頼んできたのだ。彼は私にある記事を手渡した。それは『週刊新潮』2016年10月20日号(新潮社)に掲載されていた山口連続殺人事件にまつわるものだった。あるジャーナリストが、広島拘置所に収監されている保見に面会取材を行い、逮捕当時に大きく報じられていた「村八分」の発端となる『ある事件』について話を聞いたというのだ。読めば、金峰地区には夜這い≠フ風習があり、戦中に一人だけ徴兵を免れた村人が、女たちを強姦してまわっていたという。そして、この村人が保見の母親を犯そうとしたとき、それを止めて追い払った人物が、保見光成と二十歳近く年の離れた実兄なのだ、と。
「これを、ちょっと行って来て、確かめてもらえる?」 とその編集者は言う。
私は保見の公判を傍聴に行きたいと一審の当時思っていたが子供が産まれたばかりだったため、長期間家を空けることができず、諦めたという経緯があった。編集者とはその話も過去にしていた。おそらくそれを覚えていて、話を振ってくれたのだろう。二つ返事で引き受けた。とはいいながらも、取材を終えてその結果を世に出せば、世に出ている記事の検証取材であるから、ややこしいことになる、という予感は最初からあった。しかも取材の目的が「金峰に夜這いの風習があったかどうか、確かめる」というもの。行くとは決めたものの、多忙な夫に子供を預け、遠路はるばる山口県周南市の山奥まで出向き、夜這いについて村人に話を聞いて回る……。
「夜這いの取材かぁ……」
ノートパソコンを開いて取材前の情報収集をしながら、年末の夜中にリビングでひとり思わず呟いてしまった。この21世紀に夜這いの取材。ちゃんと話が取れるのかと不安になる。だが引き受けたからにはやらねばならない。それに件の記事には、保見へのいじめ≠ヘ存在し、その発端が戦中の強姦未遂事件≠ナあると記されているのだから、それを確かめることは、一応いじめ≠ノ絡む取材ではある。西に向かう新幹線の中で私は腹を決めた。
民俗学者らの文献や、伝承ものの書籍には、夜這いについての記述はいくつもある。宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)に収録されている「土佐源氏」は現在の高知県檮原町で乞食小屋に住む元ばくろうの老人≠ゥら聞き取った昔話で構成されているが、この老人の父親は、母の夜這いの相手≠セった。同じく同書収録の「世間師」では、宮本の故郷である周防大島でふたりの老人から聞き取りを行っている。このうちひとりは長州征伐のあった1865年に14歳だったという男性だが「戸締りが厳重になったため、娘のところへ夜這いに行けなくなってしまった」とある。同じく民俗学者の赤松啓介は『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(ちくま学芸文庫)で実際に様々な村へ足を運び、時に村のコミュニティに入り込んで、夜這いについて聞き取りを重ねている。また、ともに夫の転勤で徳山に来たという向谷喜久江・島利栄子によって記された『よばいのあったころ 証言・周防の性風俗』(マツノ書店)では、山口における夜這い文化について、老人たちに聞き取りを行なっているが、ここには「山間部の部落には、若衆宿が、昭和の初めごろまであった」とある。若衆宿とはその集落で一定の年齢に達した男子たちが集まる場所で、規律や生活上のルールに加え性的な事柄も伝えられていた一種の教育施設だ。こうした文献に照らせば、金峰地区にかつて夜這い文化があったとしても全く不思議ではない。だが戦中まで、となるとどうか。 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
■相模原殺傷事件

 

 
相模原殺傷事件 報道
2016/7/26
植松容疑者、通報直後にツイートか 「世界が平和に…」  1230
26日未明に相模原市の障害者施設で起きた殺人事件。植松聖容疑者のものとみられる「聖」名のツイッターアカウントのトップページの背景には「マリファナは危険ではない」と書かれた画像がある。植松容疑者が津久井やまゆり園を退職した2月19日には「会社は自主退職、このまま逮捕されるかも……」との投稿が残されていた。
2015年1月20日付の投稿では、背中に入れ墨が入った写真を載せて、「会社にバレました。笑顔で乗りきろうと思います。25歳もがんばるぞ!!」と書いていた。ドイツ・ミュンヘンで銃乱射事件があった今年7月23日には「ドイツで銃乱射。玩具なら楽しいのに」と投稿している。
最後の書き込みは、110番通報の直後とみられる26日午前2時50分。「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」と記載。赤いネクタイに白いワイシャツ、黒いスーツ姿で、口を半開きにし、少し固い笑みを浮かべて正面を向いた自撮り写真を掲載している。 
相模原の障害者施設襲撃 刃物で刺され19人死亡 26歳元職員を逮捕  1401
二十六日午前二時四十五分ごろ、相模原市緑区にある知的障害者らが入る障害者施設「津久井やまゆり園」の職員から「ナイフを持った男が施設に来て暴れている」と一一〇番があった。男は刃物で入所者を次々と刺すなどし、相模原市消防局によると、十九〜七十歳の男女十九人が死亡、二十三人が重傷を負ったほか三人が軽傷を負ったという。負傷者は神奈川県と都内の病院に搬送された。
神奈川県警によると午前三時すぎ、津久井署に施設の元職員を名乗る男が「私がやった」と出頭。県警は殺人未遂と建造物侵入の疑いで、自称無職植松聖(さとし)容疑者(26)=相模原市緑区=を逮捕した。捜査本部を設置して殺人容疑でも調べる。
県警によると、植松容疑者は出頭した際、血の付いたナイフや包丁計三本が入ったかばんを持っていたという。調べに、「ナイフで刺したことは間違いない」などと容疑を認め、「障害者がいなくなればいいと思った」という趣旨の供述をしているという。負傷者が搬送された北里大学病院によると、首に集中的に切り傷があったといい、県警は強い殺意があったとみて詳しい動機を調べる。
住居棟は東と西の二棟に分かれており、西棟の一、二階、東棟の一階で亡くなった人が確認された。東棟東側の一階の窓ガラスが割れており、近くにハンマーが落ちていた。県警は植松容疑者がハンマーで窓を破って建物に侵入したとみている。また、施設で結束バンドも見つかっており、植松容疑者に縛られた職員がいたという情報もある。
県によると、植松容疑者は施設の元職員で、勤務時の態度や退職理由、施設内でのトラブルなどは「調査中」としている。また、県警によると、事件前日の午前、相模原市内のマクドナルドに、植松容疑者の車が放置されており、昼になって津久井署に引き取りにいっていた。
相模原市消防局によると、死亡した十九人は男性が九人、女性が十人。同消防局が出動を要請した同市の北里大病院など三病院の医師四人が現場で死亡を確認した。このほか二十六人が重軽傷を負い、六つの病院に搬送した。このうち職員二人も軽傷を負っているという。
施設はJR相模湖駅から東に約二キロの山あいの住宅地にある。 
逮捕の男 精神科に措置入院で大麻「陽性」  1547
神奈川県相模原市の障害者福祉施設で入居者らが刺され19人が死亡、25人が重軽傷を負った事件で、逮捕された植松聖容疑者(26)が、今年2月に「障害者を抹殺する」などと書いた手紙を持って衆議院議長公邸を訪れたあと、措置入院させられ、その際、大麻の陽性反応が出ていたことが分かった。
捜査関係者によると、植松容疑者は、今年2月15日に衆議院議長公邸を訪れ、「障害者総勢470人を抹殺することができる」などと書き、「津久井やまゆり園」を名指しして職員の少ない夜に決行するという内容の手紙を渡したという。
警視庁麹町署は、その日のうちに、神奈川県警津久井署に情報提供したという。
相模原市によると、その後、2月19日に神奈川県警から市に対し、「他人を傷つける恐れがある」と連絡があり、市は、植松容疑者を病院の精神科に措置入院させた。
捜査関係者によると、入院した際に尿検査をしたところ、大麻の陽性反応が出たという。
措置入院中は、薬物治療やカウンセリングなどをし、入院先の医師が「他人を傷つける恐れがなくなった」と診断したことから、3月2日に退院したという。 
逮捕の男 ことし2月に措置入院 12日後に退院  1627
相模原市によりますと、植松容疑者はことし2月18日、勤務中に「津久井やまゆり園」の職員に対して「重度の障害者は生きていてもしかたない。安楽死させたほうがいい」などと話したことから、施設は、障害者を殺す意向があると判断し、19日に警察に通報しました。
警察は、植松容疑者が2月14日に衆議院議長の公邸で手紙を渡そうとしていたことなどを踏まえ、「他人を傷つけるおそれがある」と判断し、市に連絡しました。これを受けて市は、指定された医師1人が入院の必要があると診断したため、緊急の措置入院の対応をとったということです。20日には入院先の病院で植松容疑者の尿から大麻の陽性反応が出たということで、22日に別の2人の医師が再度診断したところ、「大麻精神病」や「妄想性障害」などと診断され、入院を継続させたということです。そして市は、入院から12日後の3月2日に、植松容疑者に症状がなくなったことや、容疑者本人から反省のことばが聞かれたことなどから、医師が「他人を傷つけるおそれがなくなった」と診断して退院させたということで、病院が市に提出した資料には「退院後は家族と同居する」と書かれていたということです。市によりますと、退院してからは警察をはじめ、家族や近所の人などからの相談や苦情はなかったということです。相模原市精神保健福祉課は「退院の判断をした時点では症状が改善していたことや本人の話を参考にして、最善の判断をしたと思っている。しかし結果が重大なので、厚生労働省とも相談しながら今後の対応を検討していきたい」と話しています。
措置入院とは、自分や他人を傷つける危険性がある人をその本人の意思にかかわらず強制的に入院させるもので、診断するのは法律で指定された2人の精神保健指定医です。退院するには、精神保健指定医が定期的に診断し症状が収まったと判定したうえで、病院が自治体に対して「措置入院者の症状消退届」を提出することが必要です。入院期間には定めはなく、この症状消退届をもとに都道府県知事、もしくは政令指定都市の市長が退院できると判断すれば退院となります。
運輸関係の仕事など経て施設の職員に
近所の人などによりますと植松聖容疑者は、現場の「津久井やまゆり園」から東に500メートルほど離れた一戸建ての住宅にひとりで暮らしていたということです。神奈川県によりますと、大学卒業後は運輸関係の仕事などをしてましたが、平成24年12月から「津久井やまゆり園」で非常勤職員として勤務を始め、平成25年4月から常勤職員になったということです。そしてことし2月19日に退職したということです。
去年 駅前でけんかし書類送検
逮捕された植松聖容疑者は、去年6月に東京・八王子市のJR八王子駅前の路上で男性とけんかをして相手にけがをさせたとして、傷害の疑いで書類送検されていたことが警視庁への取材で分かりました。警視庁によりますと、書類送検されたのは去年12月で、植松容疑者は酒に酔っていた男性と取っ組み合いのけんかになり、男性が軽いけがをしたということです。
近所の人「容疑者の自宅にきのうパトカーが来た」
植松容疑者の自宅の近所に住む73歳の男性によりますと、25日の正午ごろ、容疑者の自宅にパトカー1台が来て警察官が容疑者を捜していたということですが、自宅にはいなかったということです。男性は「とても明るい青年でよくあいさつもしてくれた。友達も多く一人暮らしの家に遊びに来ていた。施設では暴力沙汰を起こすなどしてやめさせられたと聞いた。事件のことを聞いて驚いている」と話していました。
植松容疑者の自宅の近所に住む74歳の女性は「あいさつもよくするし、明るい若者という印象だった。ただ、施設で利用者に暴力を振るってやめさせられたと施設の知り合いから聞いた」と話していました。また、女性は11年前まで30年近くにわたって事件が起きた津久井やまゆり園で勤めていたということで「利用者はよく知っていて子どものように思うくらい親しい人もいるので、こんな悲惨な事件が起きてショックです」と話していました。
植松容疑者の自宅の近所に住む44歳の女性は「ふだん顔を合わせることは少ないが、おととし植松容疑者の車と接触事故を起こしたことがあります。狭い道で対向車線に来たので、こちらが停車して通過するのを待っていたら、ものすごいスピードで走ってきてぶつかった。事故後の対応も面倒くさそうで態度はよくなかった。近くでこんな事件が起きて本当に驚いています」と話していました。
5年前に小学校で教育実習
5年前に相模原市内の小学校に通っていた際に、植松容疑者が1週間教育実習で学校に来たという中学3年生の女子生徒は「明るい先生という印象で、みんなで楽しく会話していた。鬼ごっこなどをして外で遊んでもらった思い出もあります。まさかこんな事件を起こすような人とは思えず、ショックを受けています」と話していました。植松聖容疑者が教育実習を行っていたとみられる小学校の40代の女性教諭は「教育実習では子どもたちと遊んだりと穏やかな様子でした。子どもたちへの指導の方法についてアドバイスすると、『分かりました』と答え次の授業に生かすなど明るく元気な印象でした」と話していました。
高校時代からの友人「様子がおかしいと感じていた」
植松聖容疑者の地元で高校時代から友人という男性は、「彼は高校の時は、誰とでも仲よくなれる明るい性格でした。『小学校の先生を目指して大学に進学する』と言っていましたが、大学入学後は服装や髪型が派手になったり、いつの頃からかは分からないが入れ墨を入れたりして変わったなと感じていました。最近もたまに顔を合わせていましたが、ことしに入ってから一人でずっと深夜のコンビニにいるのを見かけ、少し様子がおかしいと感じていたので、つきあうのをやめていました。事件のことを聞き、驚いています」と話していました。 
措置入院、退院して間もなく凶行 池田小事件の教訓生かされず  2313
障害者施設に侵入した男が19人を殺害した悲惨な事件。男は以前から奇行が目立ち、相模原市が決定した措置入院から退院して間もない凶行に、海外にも衝撃が広がった。行政と医療、司法の連携は取れていたのか。児童8人が犠牲となった大阪教育大付属池田小児童殺傷事件の教訓は生かされなかった。
相模原市緑区で26日、障害者施設「津久井やまゆり園」の入居者ら40人以上が死傷した事件で、逮捕された元職員、植松聖容疑者(26)は、精神保健福祉法に基づき3月2日まで措置入院していた。
「自傷他害の恐れがある」人を医師の判断で入院させる措置入院制度だが、退院後に殺人などの凶悪な事件を引き起こしたケースは今回が初めてではない。元慶応大法学部教授(医事刑法)の加藤久雄弁護士は「15年前の池田小事件のころから変わっていない」と嘆く。
大阪教育大付属池田小学校(大阪府)に包丁を持った男が押し入ったのは平成13年6月8日朝。子供らに次々と切りつけて、児童8人を殺害、10人以上の重軽傷者を出した。
男はこの犯行の2年前に傷害容疑で逮捕。「精神安定剤依存症」の診断で措置入院となっていたが、男は約1カ月で退院し、直後に池田小事件を起こしていた。
今回の事件で逮捕された植松容疑者も、衆院議長公邸に手紙を届けた後、3月まで相模原市から措置入院の決定を受け13日間入院していた。事件は退院からわずか4カ月余りでの犯行だった。
加藤弁護士は「欧米のように、司法の判断に基づいて処遇するシステムを構築し、行政だけでなく司法も社会の安全を保障する責任を負うべきだ」と指摘する。日本では措置入院患者の退院後の行動について、行政や指定医が責任を負うわけではないためだ。
一方、精神障害者の家族会「全国精神保健福祉会連合会」の小幡恭弘事務局長は「精神疾患そのものの偏見が解消されていない。措置入院させておけば解決するかといえば違う。地域の支えが重要だ」と訴える。
池田小事件の後、重大事件を起こしながら心神喪失などを理由に刑罰を科されなかった精神障害者の処遇を定めた「心神喪失者医療観察法」が成立するなど、精神疾患と犯罪との関係が注目されるようになった。
ドイツでは責任能力を問えない触法精神障害者でも裁判官が判決を宣告し、生涯保護観察が付けられるという。人権に深くかかわる困難な問題だが、加藤弁護士はこう強調した。
「この問題を解決しないと、今回やこれまでの事件のように、また弱い立場の人にしわ寄せがいってしまう」 
 
2016/7/27 

 

容疑者の大島理森衆院議長宛て手紙  0030
あまりに論外で理不尽だが、この手紙の内容は、記録されなければならないだろう。
相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の19人死亡するなどした事件で、殺人未遂容疑などで逮捕された植松聖容疑者(26)が、大島理森衆院議長に渡そうとしていた手紙の内容は、安倍首相の進める愛国心や右翼思想が、時に、過激な宗教と同様の現象を引き起こし、テロや暴力的に暴発する可能性を示している、と思う。
植松容疑者の行った今回の大量殺傷事件は、単なる殺人事件というようりも、その動機だけ見れば、ローンウルフテロの色彩が濃厚であり、だからこそ大量殺りく事件が敢行されたともいえる。
世界を見れば、昨今のISやISに触発されて引き起こされたテロ事件や、EUや米国の、右翼思想に触発されたテロ事件との親和性すら感じさせる。
愛国心や右翼思想の行き着く先は、米国大統領候補のトランプの思想を見るまでもなく、そもそも排外主義や排除の論理と結びつきやすく、その過熱化は危険である。
現にナチス政権は、このような過程でこそ、成立し得た。
安倍首相や、愛国心や右翼思想を論じる人たちは、真に日本を愛するなら、その思想の行き着く先が、テロや暴力容認の危険思想にも通ずる危険性があることを十分に自戒すべきである。
そうでないと、今のままリミッターなく、愛国心や右翼思想が語られると、論者や識者がたとえ暴力容認ということではなくても、欧米にみられるように、第2、第3の今回のような「テロ」が誘発される可能性がある。

衆議院議長大島理森様
この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。
私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。
今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。
世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。
私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。
衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。
   文責 植松 聖
作戦内容
職員の少ない夜勤に決行致します。
重複障害者が多く在籍している2つの園を標的とします。
見守り職員は結束バンドで見動き、外部との連絡をとれなくします。
職員は絶体に傷つけず、速やかに作戦を実行します。
2つの園260名を抹殺した後は自首します。
作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。
逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。
新しい名前(伊黒崇)本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。
美容整形による一般社会への擬態。
金銭的支援5億円。
これらを確約して頂ければと考えております。
ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。
日本国と世界平和の為に、何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します。
想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。
   植松 聖   かながわ共同会職員  
元職員、2月に犯行予告 相模原の施設で障害者19人刺殺  0703
相模原市緑区にある知的障害者らが入る施設「津久井やまゆり園」で十九人が殺害された事件で、殺人未遂などの疑いで逮捕された元施設職員の植松聖(さとし)容疑者(26)=相模原市緑区=が今年二月、犯行を予告する手紙を衆院議長公邸に持参していたことが、関係者の話で分かった。殺人事件としては犠牲者の数で戦後最悪とみられる。
県警によると、十九人はいずれも刃物で刺されたり、切られたりして死亡したとみられる。他に職員二人を含む二十六人が重軽傷を負った。調べに「意思の疎通ができない人たちをナイフで刺したことに間違いない」などと容疑を認め、「障害者がいなくなればいいと思った」という趣旨の供述をしているという。県警は捜査本部を設置、二十七日には殺人容疑に切り替えて送検する方針。
植松容疑者は出頭した際、血の付いたナイフと包丁計三本が入ったかばんを持っていた。負傷者が搬送された北里大学病院によると、首に集中的に切り傷があったといい、県警は動機を調べる。
県によると、植松容疑者は施設に二〇一二年十二月に非常勤として採用され、一三年四月から常勤職員として働いていた。今年二月、衆院議長公邸に手紙を届け、警視庁を通じて県警に通報された。施設側と面談し、退職した。相模原市は措置入院を決定。入院先の医療機関の検査で大麻の陽性反応が出た。その後、措置入院の必要が無くなったとの診断があり退院した。
入所者がいた居住棟は東西二棟があり、東棟東側の一階の窓ガラスが割れ、近くにハンマーが落ちており、県警は植松容疑者がハンマーで窓を破って建物に侵入したとみている。また、施設から結束バンドも見つかっており、植松容疑者に縛られた職員もいた。
神奈川県警が発表した死者十九人は、女性の十〜三十代が各一人、四十代が二人、五十代が一人、六十代が三人、七十代が一人。男性は四十代が四人、五十代が一人、六十代が四人。県警は、今回の事件で死亡した人に障害があり、遺族が望まないとして氏名を公表していない。 
笑みを浮かべ…植松容疑者送検 19人殺害  1044
神奈川県相模原市の障害者福祉施設で19人が殺害された事件で、逮捕された元職員の男が、止めに入った少なくとも2人の職員を結束バンドで縛った上で周囲の物に縛り付け、その場から動けない状態にしていたことがわかった。
逮捕されたこの施設の元職員・植松聖容疑者(26)は殺人などの疑いで27日朝、検察庁に身柄を送られた。植松容疑者は車に乗って警察署を出る際、報道陣のカメラに向かって笑みを浮かべていた。植松容疑者はこれまでの警察の調べに対し、「障害者はいなくなればいいと思う」などと供述しているという。
この事件では、相模原市の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の入所者19人が死亡、26人が重軽傷を負った。その後の捜査関係者への取材で、植松容疑者は事件当時、入所者らを次々と刃物で切りつける一方で、止めに入った職員を少なくとも2人、結束バンドで縛った上で周囲の物にも縛り付け、その場から動けない状態にしていたことがわかった。施設の周辺や出頭した際に植松容疑者が乗っていた車の中からは、複数の結束バンドが見つかっている。警察は施設の重度障害者を狙った計画的犯行とみて動機を詳しく調べている。
また、胸を刃物で刺され、病院で治療が続けられている入所者の男性の両親が27日午前、取材に応じた。
重傷の被害者の父「面会は全然意識ないから。人工呼吸でやっているから」
重傷の被害者の母「ほっとしたいけど、まだ意識が戻らないから。元職員だったということに対しても怒りを覚えますけどね」
警察は27日、遺体の司法解剖を行い死因の特定を進めるとともに、植松容疑者の自宅を家宅捜索して事件に至る経緯などを詳しく調べることにしている。 
「逮捕されるかも…」容疑者、2月にツイート  1607
相模原市緑区の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者が殺傷された事件で、逮捕された植松聖容疑者(26)のものとみられるアカウントのツイッターには、事件に至る心境をうかがわせる書き込みがあった。今年2月には「逮捕されるかも…」などと何らかの事件を起こすことを示唆するような記述も。出頭する直前にも自撮り写真を添付して書き込んでいた。
ツイッターの書き込みは2014年12月14日に始まる。このころはパーティーやカラオケ、結婚式など友人たちとの交流を楽しむ内容が多かった。
自分の背中に入れた般若やひょっとこなどの入れ墨の写真も載せて、「会社にバレました。笑顔で乗りきろうと思います」とコメント。併せて「偏見を持つことは愚かなこと。自分で作った世界観しか見えなくなる」(15年6月9日)という記述もあった。継続的な書き込みは「心技体の充実。これを目標に生きよう」とコメントした15年10月30日で、いったん途切れた。
再開されたのは約3カ月後。今年2月13日に「正しいかどうかは分からないが、行動あるのみ」と書き込み、2月19日には「会社は自主退職、このまま逮捕されるかも…」と記述した。
植松容疑者はこの日、障害者の大量殺人を予告する手紙を衆院議長公邸に持ち込んだことが原因で、やまゆり園を退職していた。
小学校の教員を目指した時期もあり、「人の役に立つ仕事がしたい」と周囲に語っていた植松容疑者だが、いつしか差別的な考えを増幅させたのか、7月ごろから「じいさん、ばあさんしかいません。日本の老後」「電車でデブ発見」などと記述した。
7月23日には、ドイツ南部ミュンヘンで起きた銃乱射事件で「同時刻にドイツで銃乱射。玩具なら楽しいのに」という反応を見せた。
「世界が平和になりますように。beautifulJapan!!!!!!」。出頭する前の書き込みには、赤いネクタイに黒いスーツ姿で口元に笑みを浮かべた自撮り写真を添付していた。
植松容疑者は今年2月に相模原市の判断で措置入院した際、尿検査で大麻が検出された。ツイッターの背景には「マリファナは危険ではない」と自身の主張を示すような画像を掲載していた。  
「障害者いなくなればいい」で不安に思った皆さんへ  1746
神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に刃物を持った男が侵入して、入所者19人が刺殺された事件を受けて、知的障害者と家族で作る「全国手をつなぐ育成会連合会」は公式サイトで7月27日、障害者に向けて緊急声明を出した。
この声明は、殺人未遂容疑などで逮捕された植松聖容疑者が「障害者なんていなくなればいい」という趣旨の供述をしたという報道を受けて、書かれた。
こうした容疑者の言動を知って不安になった障害者に向けて「私たち家族は全力でみなさんのことを守ります。ですから、安心して、堂々と生きてください」と訴えている。声明全文は以下の通り。

津久井やまゆり園の事件について(障害のあるみなさんへ)
7月26日に、神奈川県にある「津久井やまゆり園」という施設で、障害のある人たち19人が殺される事件が起きました。容疑者として逮捕されたのは、施設で働いていた男性でした。亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、そのご家族にはお悔やみ申し上げます。また、けがをされた方々が一日でも早く回復されることを願っています。
容疑者は、自分で助けを呼べない人たちを次々におそい、傷つけ、命をうばいました。とても残酷で、決して許せません。亡くなった人たちのことを思うと、とても悲しく、悔しい思いです。
容疑者は「障害者はいなくなればいい」と話していたそうです。みなさんの中には、そのことで不安に感じる人もたくさんいると思います。そんなときは、身近な人に不安な気持ちを話しましょう。みなさんの家族や友達、仕事の仲間、支援者は、きっと話を聞いてくれます。そして、いつもと同じように毎日を過ごしましょう。不安だからといって、生活のしかたを変える必要はありません。
障害のある人もない人も、私たちは一人ひとりが大切な存在です。障害があるからといって誰かに傷つけられたりすることは、あってはなりません。もし誰かが「障害者はいなくなればいい」なんて言っても、私たち家族は全力でみなさんのことを守ります。ですから、安心して、堂々と生きてください。
平成28年7月27日   全国手をつなぐ育成会連合会   会長 久保厚子 
措置入院の在り方見直しへ 厚労省、相模原の殺傷事件を受け  2210
相模原の障害者施設殺傷事件を受け、厚生労働省は27日、精神疾患により自分や他人を傷つける恐れがある人を強制的に入院させる「措置入院」の制度や運用について、見直しを検討する方針を固めた。
事件で逮捕された植松聖容疑者(26)は、今年2月に入院手続きを取られた後、3月に解除されていた。厚労省は植松容疑者の入院後、関係機関の情報共有や連携が十分だったか検証した上で、有識者検討会などをつくることも視野に入れている。
塩崎恭久厚労相は27日、事件現場を視察後、措置入院を巡る対応について「警察、自治体、施設の連携が適切だったか、検証しなければいけない」と指摘した。 
運営法人理事長、会見し謝罪 施設、2月以降に警戒を強化  2315
相模原市の障害者施設殺傷事件で、施設を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」の米山勝彦理事長らが27日、事件後初めて記者会見し「国民の福祉に対する信頼を揺るがせたことを深くおわびする」と謝罪するとともに、元施設職員植松聖容疑者(26)が周囲に障害者殺害をほのめかした2月以降、警戒を強めた経緯を明らかにした。
植松容疑者は2月18日、施設職員に「重度障害者は安楽死させた方がいい」などと発言。その後、措置入院となり、3月2日に退院した。
米山理事長らによると、同日に「津久井やまゆり園」の近くで職員が植松容疑者の車を目撃。近くにいることが分かったという。 
 
2016/7/28

 

重複障害者の居場所尋ねる 容疑者「不幸減らすため」供述  0200
相模原市の知的障害者施設で19人が刺殺され26人が負傷した事件で、元施設職員植松聖容疑者(26)=殺人などの容疑で送検=が、結束バンドで縛った職員に、複数の障害がある重複障害者の居場所を尋ねていたことが27日、捜査関係者への取材で分かった。植松容疑者は「重複障害者が生きていくのは不幸だ。不幸を減らすためにやった」とも供述。神奈川県警津久井署捜査本部は、障害の重い入所者を計画的に狙ったとみている。
捜査本部は同日、植松容疑者宅を家宅捜索し、2月に衆院議長宛てに持参した手紙の下書きのようなものが見つかった。事件が起きた「津久井やまゆり園」を現場検証した。 
彫り師に弟子入り、薬物の影…「サト君がバグった」 何が転落へと導いたのか  0605
気さくな好青年は突如、破滅への道をひた走り始めた。
相模原市緑区の障害者施設で入居者19人が刺殺された事件。友人たちは植松聖(さとし)容疑者(26)=殺人容疑で送検=が大学の途中から性格が一変したと異口同音に話す。一時は入れ墨の彫師に入門。今年に入ってからは「障害者を皆殺しにしたい」と友人に“告白”するなど異常性を強めていた。何が転落へと導いたのか。
大学時代から派手に
「まじめというのが第一印象だった。アニメの登場人物のまねをして周囲を和ませたこともあった」
植松容疑者の小中学校の同級生はこう振り返る。
植松容疑者の父親は図工の教師で、母親は漫画家だった。相模原市内の小中学校を卒業後、東京都八王子市内の私立高校に進学。性格が突然変質したのは、帝京大学に在籍していた学生時代だったという。
知人らによると、この頃から身なりが派手になり、入れ墨を入れた。大学3〜4年生のころ、最初の入れ墨を彫った男性彫師は「就職を控えているから目立たないように」と注文されたことをよく覚えている。
その後、入れ墨はどんどん増えていき、教育学部に所属する一方で彫師にも弟子入りしていた。
彫師の夢は、ほどなくして挫折。教育実習も経て教職免許を取得したが、最終的には平成24年12月に事件現場となった障害者施設「津久井やまゆり園」に就職した。
タロットカード提示
就職後は薬物の影がちらつくようになっていた。植松容疑者が通っていたクラブ関係者は「2〜3年前から植松容疑者らの間で危険ドラッグがはやっていた」と声を潜める。別の知人は「絵に描いたような麻薬中毒者」と断言。「大麻以外にも手を出していただろう」と話す。
措置入院が始まった今年2月ごろから、同級生や後輩の間では、植松容疑者の異常性が話題になっていた。
後輩に突然、「障害者をどう思うか」と尋ねたかと思えば、タロットカードを見せて「これが将来の横浜だ」と熱を込める。「売られたけんかは買うんだ」と熱弁し始めたこともあったという。
「サト君(植松容疑者)がバグった」と友人はささやき合った。「バグった」とは「異常」を意味する隠語だ。
「やってしまったか」
今年に入り、植松容疑者は親しかった30代の別の男性彫師に「障害者を皆殺しにしたい」と相談していた。男性彫師は「もっと違うことを考えろ」と叱ったが、説得もむなしく仲たがいしたという。
事件当日から3日ほど前の深夜には、コンビニ駐車場の車内で、植松容疑者が一心不乱に携帯電話を操作する様子が目撃されていた。
車内は真っ暗で、不気味な様子に知人らは声を掛けられなかったという。
事件のニュースを聞いたある同級生はこう話した。「多くの同級生らの感想は『やっぱりやってしまったか』だった。どこで道を外れていったのか、僕たちにも分からない」 
相模原殺傷 園側は苦渋の対応 防犯カメラ16台設置も常時監視はできず  朝刊
「津久井やまゆり園」で入所者十九人が刺殺され二十六人が重軽傷を負った事件で、施設の運営団体が二十七日記者会見し、植松容疑者が措置入院から退院して以降、防犯カメラ十六台を設置するなど、警戒態勢を強化した経緯を明らかにした。警察と連携しながらもカメラは常時監視体制でなく、発生当時、警備員は仮眠中で事件に気付かなかった。幹部らは苦渋の表情を見せた。
運営する社会福祉法人「かながわ共同会」によると、植松容疑者は二月、職員に「重度障害者は安楽死させたほうがいい」などと発言し措置入院。三月二日に退院した。この日、施設近くで植松容疑者が車に乗っているのを職員が目撃したため、園の固定電話と携帯電話から一一〇番通報すると自動的に植松容疑者に関わるトラブルと分かるよう通報システムに登録した。職員らには「夜勤時に訪ねてきても中に入れず一一〇番を」と通達が出ていたという。
四月下旬には施設建物の外に十台、建物内のエレベーターホールなどに六台の防犯カメラを設置。しかし二十四時間の監視体制ではなかった。
六月四日に実施した園の行楽行事では植松容疑者を警戒するため職員を巡回させた。入倉かおる園長(59)は「彼が現役のころ担当していた行事なので来るのではと不安だった。同僚職員に本人から遊びにいきたいと連絡があったら諭(さと)そうと話していた」。しかし来訪の連絡はなかったという。
植松容疑者が二月、衆院議長公邸に持参した犯行を予告する手紙には、同園など二つの障害者施設名が書かれ「職員の少ない夜勤に決行致します」と明記していた。
会見では県警から「自分の希望が通らないと危害を加える」という程度の説明しか受けていなかったと説明。赤川美紀常務理事は「利用者に危害を加えるという、迫ってくるような危機感には至っていなかった」と声を落とした。 
相模原殺傷事件 凶行はなぜ防げなかったか  1108
これほど残忍な殺人事件を知らない。たった一人の凶悪犯によって、神奈川県相模原市の知的障害者施設の入所者19人が刺殺された。負傷者も26人に上る。残念だったのは犯罪予告めいた手紙があり、容疑者の犯行の可能性は関係者の多くが知っていたことだ。その凶行をなぜ防げなかったのか、検証していく必要がある。
犯行は入所者が寝静まり、職員が夜勤体制に入った深夜に実行された。植松聖容疑者(26)は施設の元職員であり、警備も熟知していた。結束バンドで夜勤職員を身動きできなくすると、重度の障害で助けを呼べないような入所者を狙い、首の動脈を切り続けた。刃物を5本用意し、大量殺人を周到な準備で実行した。
この事件が異質なのは「障害者を抹殺する」という犯行予告とも読める手紙を、容疑者自身が今年2月、衆院議長公邸に持参したことだ。大量殺人の狙いがこの施設であり、深夜に決行するという手口も書かれている。
議長側は警察に手紙を渡している。この内容通りに実行するなど、信じられなかったとはいえ、凶行が起きないように警戒を続けることはできなかったのか。
植松容疑者に対しては、手紙を出した後も「障害者は生きていても仕方がない」という言動を続けていたことから、措置入院という行政手続きがとられている。
しかし、病院側は血液や尿から大麻の陽性反応が出たとして、「大麻精神病」「妄想性障害」と診断した。その症状が和らいだとして13日で退院させた。中途半端な対応に終わっていた。
大麻取締法は「中毒者」でなければ、県や県警への通報義務はないという。しかし、大量殺人の予告の手紙や、植松容疑者が勤務中にも障害者に暴力を振るっていたことを考えれば、しゃくし定規のような対応ではなく、関係機関が協議し、慎重に判断すべきではなかったのか。
植松容疑者は、両親が数年前に自宅を出ており、1人暮らしだった。彼の“妄想”を改善できる環境などではなかっただろう。措置入院は自らを傷つけたり、他人に害を与える危険性がなくなるまで、無期限に継続できる。早期の退院で、犯罪を防ぐ決定的な機会が失われていた。
県警も手紙を受け取っており、植松容疑者の危険性は十分に把握していたはず。病院任せにせず、容疑者と正面から向き合うべきではなかったのではないか。
植松容疑者は障害者差別について「自分は間違っていない」と話していたという。自らが裁きの神であるかのような妄想だ。議長宛ての手紙では、障害者を侮蔑し、「私の目標は障害者が安楽死できる世界」と訴えている。命を貴ぶ人としての感情はまるでない。
独り善がりの“正義”による理不尽な犯行という点では、児童8人の命を奪った2001年の大阪の池田小学校の殺人事件の被告=死刑執行=を思い出す。
容疑者の言動は弱者に対し、不寛容な社会の風潮を反映しているようにも見える。かつて誰にでも笑顔を見せ、教師を目指していたという好青年はなぜここまで変わり果てたのか。このような事件を繰り返さないためにも、容疑者が犯行に至った心の闇を解明する必要がある。 
遺族へ謝罪も強い偏見  1400
神奈川県相模原市緑区千木良の障害者施設「県立津久井やまゆり園」で19人が殺害された事件で逮捕された元施設職員の容疑者(26)が、「突然のお別れをさせるようになってしまって遺族の方には心から謝罪したい」と話していたことが27日、分かった。一方で「障害者はいらない」という趣旨の発言をし、被害者への謝罪はしていない。同容疑者は衆院議長宛ての手紙に「私の目標は保護者の同意を得て(障害者が)安楽死できる世界」などと書いており、障害者に対する強い偏見があらためて浮かび上がった。
捜査本部によると、同容疑者は26日夜、取り調べの中で突然、遺族への謝罪の言葉を口にしたという。
捜査本部は27日、新たに施設内から血痕の付いた包丁2本を発見。同容疑者は出頭時に血痕が付着した刃物3本を所持しており、少なくとも5本の刃物を使って入所者を次々と刺したとみられる。
また、殺害された19人の男女全員の首や胸などに複数の刺し傷があったことも明らかになった。
司法解剖は、同日までに12人が終了。このうち10人は首を刺されたり、切られたりしたことによる失血死と出血性ショックで、残る2人は腹と背中を刺されたことが致命傷となった。傷は数センチと深く、県警は明確な殺意があったとみている。
また、同容疑者が大麻使用に関する尿検査を拒否していることも判明。尿鑑定は薬物の種類別に任意で実施され、同容疑者は覚醒剤と麻薬の鑑定は応じた。覚醒剤は陰性、麻薬は鑑定中という。
一方、県警は110番通報の時間を当初午前2時45分と発表したが、同38分に訂正した。事件に気付いた男性職員が、非番の男性職員に無料通信アプリ「LINE(ライン)」で「すぐ来て、やばい」と送信。受け取った職員が電話をすると「大変なことが起きている」と告げられたため、通報したという。
捜査本部は27日、施設に侵入して入所者の女性(19)を刺殺したとして、殺人容疑に切り替えて同容疑者を送検。同容疑者宅を捜索するとともに、施設の現場検証を行った。
記者の「匿名発表に異論」は傲慢? 「19人刺殺」犠牲者めぐり論議  1852
神奈川県相模原市の事件で惨殺された障害者19人の名前を県警が非公表としたことについて、「事件の重みを伝えられなくなる」と新聞記者らからツイッターで疑問や批判が出て論議になっている。
「遺族から強い要望があった」として、神奈川県警が被害者を匿名で発表したことから、各メディアでは、実名など被害者の詳しいことは報じられていない。
「取材して事件の重みを伝えられなくなる」
新聞各紙では、性別と年齢だけを一覧表にして列挙する程度だ。遺族への取材も難しいのか、その様子なども紙面でほとんど触れられないままになっている。
こうした状況について、各メディアの記者らからは、様々な意見が出始めた。
朝日新聞のある女性記者は、2016年7月27日のツイートで、県警が被害者の名前を伏せたことに対し、こう批判的に書き込んだ。
「匿名発表だと、被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようという記者の試みが難しくなります」
一方、共同通信の男性記者はツイッターで、被害者の名前を報じるべきかについて「深い議論が必要」だとしながらも、「『この人たちを見てはいけない、見ないようにすべきだ』とのメッセージになってしまうことを憂慮する」と意見を述べた。
映像ジャーナリストの綿井健陽さんも、同様な「異常さ」を感じるとし、「ひとりひとりの死がない」と大量殺りくの恐ろしさを説いた詩人の故・石原吉郎さんの言葉をツイッターで紹介した。そのうえで、「相模原の事件で殺害された人たちの名前の公表について、いろいろ考えています」と複雑な心境を漏らしている。
しかし、ネット上では、報道被害に対するマスコミ不信の声が大きい。
「マスコミってどうしてこんなに傲慢なんだ?」
前出の朝日記者のツイートは、次々に非難が寄せられ炎上状態になっている。
「マスコミってどうしてこんなに傲慢なんだ?」
「他人の不幸で飯を食いたいだけなのを正当化するなよ」
「遺族の方々に追い打ちをかける行為はやめてください」
朝日の記者も気にしたのか、その後「補足」として、「被害者・遺族の意向を顧みないでいいとか、匿名では事件が軽くなると言うつもりはありません」とし、報道被害を生まないよう気を付けているとツイートで説明した。
そもそも、仮に警察など当局が実名発表する場合でも、実名報道にするか匿名報道にするかはマスコミ各社の判断になるが、ネット上では「実名発表=実名報道」と受けとめる向きも多いようだ。
一方、亡くなられた被害者の性別と年齢だけを列挙するような報道については、ネット上でも、「異様すぎる」との声も上がっている。
「男性(66)と男性(66)の区別がつかない」「何人亡くなっててもタダの数字にしか感じない」といった指摘だ。
また、「これじゃ障害を持ってない人が被害者の場合、名前を出されるのと比べて差別されてる」「こういう報じ方をすると 容疑者のやったことは どんどん正当化されるわけだが...」との疑問も出ている。 
「すぐ来て、やばい」LINEで緊急事態伝達 軽度の入居者が緊縛の職員救出  2205
事件をめぐっては県警津久井署捜査本部の捜査が進むにつれ、発生当時の施設内の詳細な動きが明らかになってきた。
障害の程度が軽い入居者が、緊縛されていた職員の結束バンドをはさみで切断して救出。この職員が無料通信アプリ「LINE(ライン)」を使って外部に救出を求めていた。入居者に話しかけ、反応を確認し重度の障害者から次々と刺していった植松聖容疑者。わずか約45分間の凶行で、施設内は大混乱に陥っていた。
15分で10人を殺害か
捜査関係者や施設関係者によると、裏口から施設敷地内に入った植松容疑者は26日午前2時ごろ、東棟の東側窓を破って侵入した。
夜勤の職員8人のうち5人を結束バンドで拘束。夜勤の女性職員から園のほぼ全ての扉を開けられる鍵を奪い、抵抗できないような複数の障害がある重複障害者の居場所も聞き出した。
施設内には居室が集まった「ホーム」が8つあり、植松容疑者が最初に入ったのは「はな」と名付けられたホーム。部屋にいた19歳の女性など、隣の「にじ」ホームと合わせて女性10人を次々と殺害した。
「はな」と「にじ」の間にあるエレベーターホールの防犯カメラに植松容疑者の姿が撮影されていたのは2時14分。「時間と動きから類推すると、侵入から15分ほどで10人を殺害したことになる」(捜査関係者)
その後、植松容疑者は園内の1、2階を移動して3つのホームで男性9人を殺害し、正面玄関に向かった。仮眠を取っていた男性警備員は2時47分ごろ、玄関の扉に何かが当たる音を聞いた。施設関係者は「植松容疑者が開くと思ってぶつかったのか、開かなくて蹴るなどしたのかもしれない」と推測する。
直後、植松容疑者は玄関脇のドアから外に出た。施設にいた時間はわずか約45分だった。植松容疑者はその後、3時すぎに約7キロ離れた県警津久井署に車で出頭した。
捜査関係者によると、最初の通報につながった連絡は、「すぐ来て、やばい」という夜勤職員から非番職員へのLINEメッセージだった。
メッセージを受け取った非番職員が折り返しに電話をかけると、夜勤職員は小声で「大変なことが起きている」とだけ答えた。非番の男性が2時38分、園で何かが起こっていると110番通報した。
捜査関係者によると、夜勤職員は植松容疑者に結束バンドで拘束されていたが、襲撃を逃れた比較的障害の軽い入居者が夜勤職員の結束バンドをはさみで切断して救出していた。この機転がなければ、けが人らの救助が遅れ被害がさらに拡大した可能性もあった。
通報を受けて3時過ぎ、園に駆けつけた消防隊員らの目の前には、凄惨(せいさん)な状況が広がっていた。地元消防によると、隊員が廊下に連なる引き戸を開けるたびに血のにおいやうめき声、血で染まった人の姿が続いた。
隊員が「大丈夫ですか!」と一人一人声をかけたが、半分以上は返答がなく、悲鳴を上げて廊下を行き来する入居者もいた。
津久井消防署の山崎浩さん(55)は「自分が消防隊員じゃなかったら腰を抜かしていた」と振り返った。 
相模原殺傷事件 関連機関の情報共有へ 知事「措置入院」で改善策模索  
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で多数の入所者らが殺傷された事件で、黒岩祐治知事は27日の定例記者会見で、関係機関の情報共有について「徹底的に検証し、再発防止策を講じる」と話した。殺人未遂容疑で逮捕された植松聖容疑者(26)が措置入院から退院後、相模原市と同園、県、県警などの間で情報が共有されていなかったことなどを踏まえ、改善策を模索する。 (原昌志)
黒岩知事は「(容疑者が)措置入院解除で退院したが、その情報が共有されていなかった。相模原市も政令市だから、県に伝えるルールはないが、こういうことが起きたことを踏まえて検証し改善しなくてはならない」と説明。「結果から見ると、措置解除は早すぎたとか思ってしまうが、人権問題にかかわる。極めて慎重に考えなくてはならない。専門家も含めながらあるべき姿を模索したい」と話した。
情報共有によって予防につながった可能性については「今思えば何とか防げたのではという気持ちはあるが、ある種、確信を持った犯罪。絶対に防げたという自信はない。ただ、今後の再発防止の中では、情報共有をやることで少しでも減らす可能性に向け取り組みたい」と語った。
県はこの日、県内の障害者入所施設などに対し、施錠や警察との連携など安全管理の徹底を求める通知を出した。 
相模原19人刺殺事件の植松容疑者、地元で「危険ドラッグ愛用」の証言… 
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が刺殺され、26人が重軽傷を負った事件。殺人の容疑などで送検された元施設職員、植松聖(さとし)容疑者(26)の人物像に注目が集まっている。平成以降最悪となった大量殺人に向かわせたものは何か。常軌を逸した凶行の遠因として違法薬物の常用が疑われている。事件を起こす前に大麻使用が発覚していたほか、「危険ドラッグを愛用していた」(知人)との証言も出ているのだ。
報道陣のカメラに向かって挑発的な視線を投げ、不気味な笑顔を浮かべる−。27日、留置先の神奈川県警津久井署から送検された際の植松容疑者は、反省の色が全く感じられなかった。
事件前に動画配信サイトに投稿した動画では、「最近、世界がやばい。第3次世界大戦が始まっている」と意味不明の持論を展開するなどその異様さが際立っている。
教職を目指していたが挫折し、いくつかの職をへて、やまゆり園に勤務したが、2月に自主退職。生活の荒廃ぶりは一段と加速していく。その背景の1つとして指摘されているのが違法薬物への傾倒だ。
2月には「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」と犯行予告ともいえる内容の手紙を衆院議長公邸に持参した。その中に気になる記述がある。
「医療大麻の導入」を主張し、「精神薬を服用する人は確実に頭がマイナス思考になり、人生に絶望しております。(中略)大麻の力は必要不可決だと考えます」(原文ママ)と綴っているのだ。
その後、措置入院になった際の尿検査で大麻の陽性反応も出た。
ただ、薬物犯罪に詳しい捜査関係者は、「大麻を摂取すると酒に酔ったような酩酊(めいてい)感に襲われる。植松容疑者のような攻撃性を伴う錯乱状態にはなりにくい」とも語る。
植松容疑者を知る地元関係者はこう話す。
「あいつはダンス音楽が好きで、相模原や八王子(東京)周辺で開かれるクラブイベントや野外ライブにしょっちゅう顔を出していた。そこで決まって危険ドラッグをキメていた。重度のジャンキーとして地元の知り合いの間では有名で、今回の事件が起きたときも『クスリの影響でおかしくなったんじゃないか』と噂し合ったほど」
自身のツイッターには、海外の有名DJのイベントに訪れた際の写真とともに、《ダンソンッ!ニーブラ!!砂浜の疲労感…》と人気漫才のネタに似せた妙な内容の投稿もしていた。
植松容疑者は逮捕後、覚醒剤と麻薬の尿検査には応じたものの、大麻の尿検査は拒否し、強制採尿された。不可解すぎる行動の解明が待たれる。 
相模原事件が世界に与えた衝撃
“あの日本で!?”“宗教とは関係ない”“世界に一体何が…”
19人が死亡、26人が重軽傷を負った神奈川県相模原市の知的障害者施設襲撃事件は、海外メディアでも大きく報じられている。アメリカやイギリス、ドイツで銃撃事件が相次ぎ、バングラデシュ、サウジアラビア、フランスでは大規模なイスラムテロが続いたタイミングでの事件とあって、なおさら高い関心を呼んでいるようだ。各メディアの電子版の記事にはいずれも大量の読者コメントがついている。その中から米ワシントン・ポスト紙(WP)、英大衆紙デイリー・メール、アラブ圏の衛星放送局アルジャジーラの記事から、反応をピックアップした。
銃がなくても決して安全とは言えない
WPは、「日本は非常に凶悪犯罪の少ない国だ。昨年は1億2700万の人口のうち、銃で死亡したのはヤクザ関係の1人だけだ」と、安全神話がある日本で起きた最悪レベルの大量殺人事件に驚きを隠せない。同紙は事件の詳細を伝えるメインの記事と共に「なぜ、日本で大量殺人事件が非常に稀なのか」と題した事件に絡めたレポートも掲載している。そちらでは、「この事件を非常に特異なものにしているのは、それが起きた国だ。日本は、他の近代社会と違い、他国を襲った大量殺人からはほぼ逃れてきた」と書く。
同記事は「アメリカの読者にとって特に関心が高いのは日本には銃がほとんどないことだろう」と、特に銃規制の厳しさを治安の良さと結びつけている。しかし、この一文に対しては、コメント欄では批判が多い。読者の一人は「アメリカの白人の銃による死の80%は自殺だ。日本の自殺率は我が国よりもずっと高く、日本人は銃以外の方法で自殺を試みている」とコメント。別の読者も「日本の文化はアメリカとは全然違う。この種の比較は無意味だ」と反論している。また、メイン記事の方には、「善良な人々には銃規制は必要ない。なぜなら善良な人々は犯罪を犯そうとしないからだ」と、やはり日本の銃規制の厳しさを肯定的に捉える論調に疑問符を投げかける意見が寄せられている。
デイリー・メールには、香港の読者から「とても悲しい。そして、とても非日本的だ」という、安全なはずの日本で起きた事件に驚くコメントが寄せられている。これに対しては、英国の読者が「それは違う。日本発のニュースを読んでみろ。日本ではナイフによる殺人が頻繁に起きている」と反論している。同紙は、今回の事件について、「最も犯罪率が低い国の一つである日本に衝撃を与えたようだ」と書く一方、2001年の大阪教育大学附属池田小学校事件、2008年の秋葉原事件、昨年の淡路島事件、今年の地下アイドル襲撃事件など、最近の日本で起きたナイフによる大量殺人・襲撃事件を列挙している。
「宗教と凶行は無関係」
相模原市の現場からレポートしたアルジャジーラの記者は、事件が非常に衝撃的である理由に、「被害の甚大さと残虐性、背景にある屈折した理屈、そして、やろうとしていたことを詳細に公開していたにもかかわらず、実行できたという事実」を挙げた。そしてやはり、平和なはずの日本で起きた惨事に日本人自身も驚いていると、「どこか外国で起きた事件だと思った」という日本人のツイートを紹介している。
アルジャジーラのコメント欄には、イスラム過激派テロとの比較を念頭に、「イスラム」というキーワードが目立つ。「アラーの名の下に」と前置きするコメント主は、「反イスラムの人々は、この種の襲撃事件は宗教とは全く関係がないという事実に直面しているだろう。神を信じているかどうかにかかわらず、誤った人間は、無実の人に間違ったことをする。(宗教を否定する)中国の共産主義ではそれが多く起きている」と、事件をイスラムテロと結びつける見方を牽制する。
また、アルジャジーラのコメントの中には、日本が戦後、事実上アメリカの“占領下”にあるという認識も目立つ。事件をダシにして、「サイコパス的なアメリカンスタイルの凶行だ。民主主義の輸出に失敗したサイコパス(アメリカ)は今、暴力と狂気の輸出に成功した」といった反米感情をあらわにするコメントが散見される。一方、デイリー・メールには、イスラムテロを含む無差別襲撃事件の頻発を憂い、世界を覆う不穏な空気に不安を訴えるコメントが目立つ。その一人は、「我々が住むこの世界に何が起きているのか?悪魔がはびこっている!この事件を起こした悪魔は人間ではない!」と書いている。
偏見に基づく殺人は最近の傾向か、歴史は繰り返しているのか
事件の詳しい動機は不明だが、「犯人は重度の障害者は全員消えるべきだと語っていた」(アルジャジーラ)など、背景に植松聖容疑者の知的障害者への強い偏見があると、海外メディアも伝えている。WPには、半ばこの偏見に同意するように「実際、彼らを気にかける者などいない。だから、(入所者たちは)この施設に隔離されていた」というコメントも書き込まれている。しかし、これに対しては、入所者と周辺住民の間にはスポーツイベントや祭りを通じて多くの接点があったという報道を引き合いに、反論が寄せられている。
デイリー・メールには、イスラムテロをはじめとする偏った思想を持つ若者が増えていることを嘆くコメントが目立つ。「アニー」という女性名のコメント主は、「若い世代は、アダルト・オンリーであるはずの暴力的なテレビゲームの影響を受けながら、暴力の中で育っている」と、ゲーム内に見られる女性への扱いを含め「全てが不健康だ」と書く。他にもゲームの悪影響を語るコメントがいくつかある。
別のコメント主は、「我々はいまだに違いや宗教を理由に人を殺している。テクノロジーの発展と共に人間の思考も発展すると思いがちだが、そうではない。我々はいまだに非常に中世的な考えを持ちながら、武器だけが発展している」と人類の未熟さを語る。このように、今回の事件を最近の傾向の中で捉える意見が多い中で、ナチス・ドイツの人種差別主義や障害者の迫害を引き合いに、歴史が繰り返されているだけだというコメントも見られる。いずれにしても、平和なはずの日本で起きた残虐な事件は、世界中の人々に衝撃を与え、近代史に暗い影を落としたことだけは間違いなさそうだ。 
逮捕されてこの笑顔…相模原殺人。海外メディアまでもが大きく報道する理由
「世界が平和になりますように」
犯行時刻前後の26日午前3時頃、このようにツイートしていた男。「津久井やまゆり園で障害者を抹殺します」と犯行予告をし、措置入院で大麻陽性反応が出ていた彼の犯行を阻止することはできなかったのか…。
事件は今月26日未明に起きました。神奈川県相模原市緑区千木良にある障がい者施設「津久井やまゆり園」に、刃物を持った男が乱入。眠っている入所者をナイフで襲い、19人が死亡、26人が負傷。亡くなった方々は19〜70歳の男女といい、負傷者のうち20人は重傷と伝えられています。
被害者のほとんどが首を切られていたということから、強い殺意が感じられる今回の事件。
現場が重度障がい者施設であり、死傷者が40人を超える大量殺人であることから日本だけでなく、海外でも大きく取り上げられ関心が集まっています。
世界中では戦争、ISISによるテロや銃乱射、人種差別による紛争など目立った事件が相次ぐ中、日本でも大量殺人が起きたことに世界で衝撃か走っているようです。
英mirrorでは、過去に起きた池田小学校殺人事件や秋葉原の無差別殺人などの事件をも取り上げながら「銃社会でない日本でこのような大量殺人が起こるのは極めて異例の事態」だとし、英BBCでも秋葉原や地下鉄サリン事件に触れながらも「過去数十年で最悪の事件」だと報じました。
『戦後最悪の殺人事件』
米ニューヨークタイムズでは、2011年の人口10万人当たりの殺人件数は日本は0.3件、アメリカは10倍以上の4.7件と「日本はアメリカに比べて極めて殺人事件の件数が少ない」と国連の統計を挙げ、「第二次大戦以降、日本では最悪の大量殺人」だと報じています。独DPA通信は「容疑者が障がい者の安楽死を図った」と報じ、各海外メディアがこぞって日本で起きた今回の事件の異様さを取り上げています。
日本は安全な国!!
ISISが絡んだりテロのような国際的な犯罪ではない今回の事件がなぜ海外の注目を集めたのか。それは“日本が世界で最も安全な国のひとつ(ロイター通信、他)”だからなんですね。海外では日本は治安がいいことで知られているが故、今回の大量殺人には驚きを隠せないということです。
安全安全と言われてきたここ日本でも、近年(特に最近)は狂気的な事件が多いように感じます。銃乱射やテロが起きる海外と比較すれば治安は良いのかもしれません。しかし残忍な事件が目立つ昨今、安全だとは言い難くなってきたように思い残念でなりません。
容疑者が犯行前に診断された病の多いこと!
今年2月、この男は通報され緊急措置検査を受けていたんです。その際、精神保健指定医が「そう病」と診断。指定医は「自傷他害の恐れがある」と判断し、市は緊急措置入院させていました。
そしてはじめに述べたように、入院中の尿検査で大麻の陽性反応が確認されたのですが、それだけではなかったんです。後日別の精神保健指定医2人が診察したところ、1人の指定医は「大麻精神病」「非社会性パーソナリティー障害」、もう1人は「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」と診断したそう。そんな男が颯爽と世に繰り出され、今回の事件…
こうなる前に阻止出来なかったのか、疑問が残ります。
容疑者に反省の色なし
犯行予告の手紙に「計画実行後は自首します」とあったように、彼は犯行後自身で出頭したようですが…この顔。笑顔で連行される様子に反省のいろは見られません。むしろ計画を実行でき満足気に見えます。
薬物のせいなのか、精神病のせいなのか…犯行後の薄気味悪いこの笑顔には鳥肌が立ちます。精神鑑定や不起訴になってはならない。然るべき罰を科せられることを願い、このような狂気的な事件が今後起きることのないよう強く祈るばかりです。
今回犠牲になられた方々に、心から深くお悔やみ申し上げます。 
 
2016/7/29

 

注目「措置入院」 退院後の事件、何が課題か  0241
これまでも「患者の人権配慮」と「加害行為防止」両面から
相模原市の障害者施設殺傷事件を受け、安倍晋三首相が28日、早急な検討課題として「措置入院後のフォローアップ」を挙げ、そのあり方に焦点が当たっている。植松聖(さとし)容疑者(26)の退院後約半年で事件が起きたためだ。退院後も公権力が関与を続けることには人権上の問題も指摘される中、安心と人権のバランスが求められる。
措置入院は、精神保健福祉法に基づき、精神障害のある人が自分や他の人を傷つけたりする恐れのある場合に、本人や家族の同意なしに行政が強制的に入院させる制度だ。退院後まで公権力による強制に近い状態が続くことには人権上の配慮から異論もある。
しかし、措置入院時の植松容疑者の尿検査で大麻の薬物反応を示したものの、措置を解除。退院後も市外の両親と同居するとしていたこともあり、直接面談をするといったフォローがなかったことが課題として指摘されている。
退院後のフォローについて、東京都で精神保健福祉行政に長く携わった仮屋暢聡・まいんずたわーメンタルクリニック院長は「行政部門ですべてフォローするのは人的にも財源的にも現実的ではない」と話し、「訪問看護など地域の精神医療と連携してフォローを進めるのはどうか」と提案する。
再発防止が強く求められる一方、性急な見直しに対する懸念の声もある。東京アドヴォカシー法律事務所の池原毅和弁護士は「犯行の原因などが明確でない段階で制度見直しに突き進むのは拙速だ」と警鐘を鳴らす。
植松容疑者からは、措置入院時に大麻の陽性反応が出ていたほか、事件後も自宅からは違法薬物の可能性がある植物片も見つかっている。池原氏は「精神障害ではなく、薬物の影響が強い犯行の可能性がある。その場合、措置入院のあり方を見直すよりも薬物対策や更生プログラムを検討する方が重要だ」と指摘する。
大阪教育大付属池田小学校(大阪府池田市)の乱入殺傷事件(2001年)を受け、05年施行の心神喪失者等医療観察法で、重大事件を起こした精神疾患による心神喪失者について、裁判官と精神保健指定医の合議で入院医療を行う制度ができた。しかし、この事件を起こした元死刑囚は心神喪失状態でなかったことが後に判明している。池原氏は「極めて特殊なケースだけを基に観念的な想定で制度見直しを行うと道筋を誤りかねない。基本的な客観データを集めて、本質的な議論をすべきだ」と訴える。
精神医療のあり方は患者の人権への配慮と加害行為防止の両面から見直されてきた。駐日米大使が精神疾患のある少年に襲われた「ライシャワー事件」(1964年)を受けた精神衛生法(現精神保健福祉法)改正で、通常2人の精神保健指定医の診断が必要なのに対し、指定医1人で済む緊急措置入院を新設。自傷他害の恐れがなくなった場合は「退院させなければならない」とする解除規定もできた。
結果的にこれが裏目に出た格好だが、人権との兼ね合いもある。ある厚生労働省幹部は「『患者を縛り付けるな』というのは簡単だが、再発防止に向け現実的に何ができるかが重要だ」と話す。
措置入院を受けた患者数は約7万6000人いた71年をピークに減り続けている。地域で支援する施設の充実により、措置入院も抑制的に行われるようになったためという。04年には厚労省が入院医療中心から地域生活中心へと転換する方針を示している。 
植松容疑者 クスリ密売持ちかけていた  0700
入れ墨だけじゃなかった!! 神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が刺殺され26人が負傷した戦後最も凄惨な殺りく事件で、殺人などの疑いで27日に送検された元同施設職員・植松聖容疑者(26)の衝撃事実が判明した。同容疑者と親しい知人を本紙がキャッチ。その証言によると、2月に施設を“クビ”になった後「クスリの密売人になろうとしていた」というのだ。
植松容疑者は2月、障害者殺害を予告する衆院議長あての手紙を持参し、職場の施設内でも「障害者は抹殺するべき」などと危険思想を人目もはばからず口にし、施設を事実上の“クビ”になっていた。その後の県警津久井署の聴取にも「障害者を殺害する」などと態度を変えなかったため精神科に措置入院した際、大麻の陽性反応が検出されていた。
親しい知人は「大学を卒業したあたりから付き合う人間の種類がガラッと変わってきた。両親が家を出て実家で一人暮らしを始めたのもこのころで、暴力団関係者とコンビニ前でたむろしているのをよく見かけた。しばらくして体中に入れ墨を入れたり、いかにもクスリをやってるような女といるのを見た。売人からも『聖(さとし)が大麻やタマシャリ(向精神薬)やっているよ』と聞いた」と語る。
植松容疑者は私立大教育学部を卒業。その1年前には教員を目指して母校の小学校で教育実習をやっていたというのに、裏社会の住人と堂々とつるむようになるとは極端すぎる変化だ。
だが知人は「もともと支配欲が人一倍あった。教師を目指していたのも人の上に立ちたい欲求だろう。教師になれなくて、暴力団のようなタテ組織で上に上がれば30〜40人をアゴで使って、借金漬けにしたイイ女を抱けるのを見たら“のし上がりたい”っていう思いが高まったはず」と指摘する。
両親から解放され、就職して多少の金が自由になったところで、生まれ持った支配欲は、普通の生活では満たされなかった。そこで裏社会に近づき、暴力団の周辺者としてアウトローの世界の空気を肌で感じることで、成り上がることを夢見ていたのだろうか。
今回の事件を起こすような兆候も、以前からあったという。
「施設で働きだしたころ、飲んでいる時に『障害者は殺しちゃった方がいいよね』とドキッとする言い方をした。『死んでしまった方が楽だよね』という言い方ならまだ分かる。今も『被害者の親族には申し訳ない』と話しているように、根本的に障害者をモノ扱いする考えを持っていたのだろう。それが大麻などでキマって肥大した可能性はある」
知人は、植松容疑者が2月に施設をやめて措置入院をした後の5月に会ったという。
この時の植松容疑者の様子は「全く働く気がなさそうで『クスリが手に入るんで売れませんかね?』と持ち掛けてきた」という。なんと、クスリを密売しようとこの知人に働きかけてきたというのだ。
「事件を起こしたのにはいろんな要因があると思うが、一つにはカネの問題もあったと思いますよ。施設を退職して失業保険(3〜5月分)が6月に支給されて最後だから、7月は金も底をついていたんじゃないか」
事件では、結束バンドで縛った職員に、複数の障害がある重複障害者の居場所を尋ねていたことが判明している。植松容疑者は「重複障害者が生きていくのは不幸だ。不幸を減らすためにやった」とも供述。津久井署捜査本部は、障害の重い入所者を計画的に狙ったとみている。
現実社会で“敗北感”を味わった同容疑者。今回、重複障害者に狙いを定めた卑劣で残忍な殺りくは、植松容疑者が命を選別することで、神のごとき万能感を味わおうとしたのかもしれない。 
オカルトに傾倒「ヒトラーの思想が降りてきた」  0701
相模原市の知的障がい者施設で19人が刺殺された事件で、殺人容疑などで送検された植松聖容疑者(26)が「昔見た同級生が重い障がい者で幸せに思えず、見ると嫌な気持ちになった。不幸だから障がい者の面倒を見ようと思い施設で働いた」と供述していることが28日、捜査関係者への取材で分かった。一方で「今は抹殺することが救う方法」と供述。神奈川県警津久井署捜査本部は、極めて独善的な考えに傾いた経緯を調べている。
司法解剖の結果、犠牲者19人のうち17人の死因が首を刺されたことによる失血死だった。強固な殺意で執ように攻撃したとみられる。
植松容疑者が犯行に及んだ背景には、オカルトに傾倒し、身勝手な選民思想を先鋭化させた可能性がある。2月19日に措置入院した際、事前に聞き取り調査した同市精神保健福祉課によると、あるカードゲームに心酔していたとみられ、「カードには全世界のことが予言されている」などと説明。「自分はフリーメイソンの信者だ」「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」とも話していた。植松容疑者が話したカードはオカルト愛好者の間で世界中の陰謀事件を予言しているとの噂がある。フリーメイソンは、世界規模の親睦団体。多くの人には活動の詳細を知られていない。
ナチスドイツは、精神障がい者や知的障がい者を「生きるに値しない生命」と呼び、20万人以上虐殺。植松容疑者は「思想」の詳細は話さなかったが、この虐殺をまねた可能性もある。精神保健福祉課の調べに「世界には8億人の障がい者がいる。その人たちにお金を使っているが、他に充てるべき」と話していた。
今年2月、衆院議長に書いた手紙には「UFOを2回見た」。目と鼻を美容整形したことを「進化の先にある大きい瞳、小さい顔、宇宙人が代表するイメージ」と書いていた。
措置入院では、大麻の陽性反応が出ており、その後「大麻精神病」「妄想性障がい」などと診断された。薬物の使用で思想が過激化したとみる識者もいる。日本犯罪学会の影山任佐理事長は「性格的なゆがみで生じた危険な考えが、薬物で増強され妄想的になったのではないか」と推測した。 
「自分は間違っておらず納得できない」  1216
神奈川県相模原市の障害者福祉施設で19人が殺害された事件で、容疑者の男が措置入院中、「周囲に抹殺の考えを話しても理解を示されなかった。自分は間違っておらず納得できない」と話していたことがわかった。
29日朝、事件で大けがをした入所者の男性の母親が容疑者の男への怒りを語った。
重傷の森真吾さん(51)の母・森悦子さん(79)「もう本当に許せないですよね。51歳ですけども、私たちにすれば赤ちゃんと一緒なんですね。どんな気持ちであんな…何が起こったかわからないわけでしょう。もちろん無抵抗ですしね。それを思うと本当に悔しいやらかわいそうやら」
一方、逮捕された植松聖容疑者(26)は今年2月、精神科に措置入院していたが、捜査関係者によると、「周囲に抹殺の考えを話しても理解を示されなかった。しかしながら自分の考えは間違っていない。重複障害者は人の形をしている物であり人間ではない。自分の考えを認めない周囲はきれいごとを言っているので納得できない」と話していたという。
また、植松容疑者は措置入院中の尿検査で大麻の陽性反応が出ていたが、逮捕後の捜索で、自宅からは微量の大麻が見つかっている。警察は薬物使用の犯行への影響についても調べることにしている。 
容疑者「ヒトラーの思想が降りてきた」  1614
緊急措置入院中、病院のスタッフに話す
相模原市の障害者施設殺傷事件で、植松聖容疑者(26)が緊急措置入院中、病院のスタッフに「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話していたことが、相模原市への取材で分かった。ナチス・ドイツは障害者を「価値なき生命」と決めつけ、「国家的安楽死」と称して大量に殺害したことで知られる。
市は2月19日、植松容疑者の措置入院の是非を判断するために神奈川県警津久井署で面談。植松容疑者は「世界に8億人の障害者がいて、その人たちに金が使われている。それをほかに充てるべきだ」などと話した。時折、いら立つような様子もみせながら淡々と述べたという。市によると、ナチス・ドイツを肯定する言葉は20日にあり、これが措置入院の決め手の一つとなった。
植松容疑者は22日、専門医によって「大麻精神病」「妄想性障害」と診断された。入院中の検査で大麻の使用を示す結果が出たことも明らかになっている。その後の3月2日に専門医の診察に対して「入院前の自分はおかしかった」と反省し、大麻による症状が消えたなどと判断されたため、市は措置入院の解除を決定したという。 
重複障害者を「不幸だ」と決め付けてはならない 
神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、19人の方が刺殺される事件が発生しました。
植松聖容疑者は、「重複障害者が生きていくのは不幸だ。不幸を減らすためにやった」と供述しており、「声をかけて返事がない人を狙った」など、その計画性の高さが浮き彫りになりました。
今回の事件で、「重複障害者」という言葉を初めて耳にされた方もいらっしゃったかもしれません。私がこの言葉を始めて知ったのは、山本おさむ氏が描かれた漫画「どんぐりの家」という漫画でした。
聴覚障害に加え、知的障害・肢体不自由・精神障害などを併せ持つ「ろう重複障害者」の子ども達と、それを支える人たちの事実に基づく物語です。
耳が聞こえず、言葉という概念さえ理解できない子どもに、笑顔で勉強を教える先生。食卓ではご飯を、リビングでは玩具を撒き散らすわが子を理解しようとするお父さん・お母さん。懸命に生きようとする子どたちと、それを全力で支える大人たち。やがて、将来を憂う人たちの想いは、2億円の募金活動へ発展し、生活労働施設『ふれあいの里・どんぐり』の建設へと繋がっていくー。
幾度と読み返し、嗚咽を漏らした漫画です。
以前、筋ジストロフィーの子ども達のボランティアに携わった際、「どんぐりの家」に描かれている出来事と、全く同じ経験をした事があります。
子ども達は、歩く事も出来ず車椅子に座ったまま。それでも、同じ姿勢を保って座り続ける事は、彼らにとって大変な労力を擁します。喋る事もなくて表情も乏く、傍目から見れば、何が楽しいの?  何が嬉しいの? と、感じる人がいるかもしれません。
しかし、半日も接していると、ふと、ある事に気がつきます。
トイレなどの所要で席を外すと、「目」で自分の事を追ってくれるのです。出て行った扉の方を見つめ、帰りを待ってくれている。戻ってくると、嬉しそうな目で、じっ・・・と見つめてくれるその目は、言葉は喋れなくても、 「おかえりなさい」と伝えてくれていました。
声に出せなくても、体が動かせなくても、どんな人間にも、「想い」は必ず存在します。
「手伝ってくれてありがとう」
「今日のご飯、美味しかったよ」
「天気がいいから お散歩 気持ちいいね」
コミュニケーションが取れないと決め付けるのではなく、その「想い」を掬い取ってあげる事が、何より大切なのだと強く感じました。
その場では、何かにつけ手を触れ合わせるようにし、帰り際の最後の握手は、少しだけ強く「ギュッ」と握ってあげるのが決まりでした。
当然、握り返す力などありません・・・。
それでも、自分が握った反発で、少しだけ握り返してくれたように感じ、「また来るからね」と約束をしていたのです。別れを惜しむ表情で見送ってくれる彼らと、その保護者の皆さんの姿を、僕は「不幸」などと感じる事はありませんでした。
事件から数日後、複数の団体がメッセージを公表。「全国手をつなぐ育成会連合会」は「安心して、堂々と生きてください」と伝えました。
これは、わざわざ伝える事のない「当たり前の言葉」かも知れません。しかし、現在も尚、「当たり前の日常」が 脆くも崩され、大きな不安を抱えている方が沢山いらっしゃるのです。
不測の事態だからこそ、「大丈夫だよ」と声をかけ、不安な「想い」を掬い取ってあげてください。「生きていていいんだよ」、「生きてくれてありがとう」と、当たり前の言葉を、沢山、沢山、伝えてあげて下さい。
懸命に生きる命を、「不幸だ」と決め付け、奪う権利は誰にもありません。
最後になりましたが、お亡くなりになられた方々のご冥福と、お怪我を負われた皆様、ご家族・関係者の皆様の快癒を、心よりお祈り申し上げます。 
相模原・障害者施設殺傷事件 「塀を越えてくる悪意」とどう向き合うべきか? 
「夜は門が施錠され、飛び越えないかぎりは中に入れないはず。建物だって施錠されているのに……」。入居者家族会の副代表はそう語り、凄惨な現場を背にして絶句した。
平成に入ってから死者数では最悪の無差別殺人の現場となってしまった社会福祉法人かながわ共同会「津久井やまゆり園」(相模原市緑区)。県の指定管理者が運営を受託し、4月末時点で149人の知的障害者(10〜70代)らが長期入居中だった。
2つの居住棟には夜間も1棟あたり2人の職員が配置されていたが、園内すべての鍵を開けられるマスターキーを持つ職員はいなかったという。
しかし、同業者として全国紙の取材に応じ、同園職員の気持ちを代弁したかのような次の談話がなんともやりきれない。
「ハンマーでガラスを割れば入ってこられる。悪意を持った人が侵入して殺傷する事件が起きるなんて考えていなかった。有効な防犯対策は今すぐ思いつかない」(朝日新聞7月27日付朝刊)
相模原市消防局が「刃物を持った男が暴れている!」との通報を受けたのが26日午前2時56分。6分後に現場到着した消防・救急の6人(及び警察官2人)は、複数犯の可能性を警戒し、防刃ベストや防火服を装備して暗い施設内に入ったという。
警察官らの到着と入れ替わるように、植松聖容疑者(26)が津久井署に単身出頭したのが午前3時ごろ。容疑者は、今年2月に衆院議長宛に持参した手紙や、かつての同僚職員に対し、「重度障害者の大量殺人はいつでも実行できる」と示唆していた。
とはいえ、実際に〈悪意〉が暴走すれば、施設の周囲に建てられた塀も、施錠も、職員数も、そして後手の通報さえもが空しく映る。
高齢者や障害者の施設がまた狙われる?
老人ホームなどの介護施設を狙った犯罪は、過去にも例がある。2005年、中国人窃盗団が関東・東北地方の老人ホームを狙った計120件の窃盗事件の被害総額は5億4000万円(読売新聞:2005年9月21日付)。
また2006年、日本人や在日韓国人らも属する巨大窃盗団による23都道府県下の老人ホームや病院などを狙った犯行例では同6億7500万円(計730件)という膨大な被害実態が明らかにされた(毎日新聞:2006年9月28日付)。
厚生労働省によれば、障害者の入居サービスを提供している施設は全国で2617。政府が「脱施設(=地域ぐるみの在宅利用の充実)」を掲げるなか、これらの施設も減少傾向にあるとはいうものの、13万1565人の利用がある(2016年3月時点)。
役人の机上論は〈地域開放〉を奨励し、従来の入居者家族や見舞客、出入り業者などに加えて不特定多数の人間が入りやすい環境作りを目指す施設も最近は少なくない。事件が起きた津久井たまゆり園も積極的な地域交流ぶりが好評で、入居者たちも地元で歓迎されていたという。
しかし、その開放性が、〈特異な悪意〉の持ち主を呼び込み、犯罪現場になってしまったのも哀しい現実だろう。今回の凄惨な事件のように、施設内の事情にも精通しているOB職員が抱いた悪意の前には打つ手もないが、防犯は人員を増やせば解決できるものでもない。
ましてや重労働・低賃金・将来性ゼロと三拍子揃って、〈高離職率の象徴〉でもある介護職。施設内での窃盗案件や認知症の入居者からの不条理な暴言や暴力、移乗作業による慢性腰痛や昼夜を問わないトラブルなど、「外敵」以前に迎えうつ対象に疲弊している職員が大勢だろう。
「美しい国」の救世主は「マイルドヤンキー」?
半年やれば後輩ができ、1年続けば先輩が減り、2年で中堅、3年持てば「現場の要」といわれる介護業界。その人材不足の活路を〈マイルドヤンキー待望論〉として説いた厚労省社会・援護局の福祉人材確保対策室長(当時)への違和感は、当サイトでもかつて掲載した。
介護職は仕事の内容の負担が重い割りに、いまだ低賃金だ。平均給与は約22万円と、全業種平均に比べ10万円以上も低いといわれている。離職者も多く、平均勤続年数は全業種平均の半分の6年にとどまる。 
「負け組の温床」と揶揄されて、まともな教育時間も組めないままに、次々と人が入れ替わってゆく介護業界。不特性多数の外来者や人材応募者の受け皿として、危険なリスクをどう回避すべきなのか。問題は山積する一方だが、人材は一向に根付かない。
植松聖容疑者を知る近所の人々は、「挨拶もよくする」「とても明るい青年」と異口同音に語り、地元や仲間を大切にする一面も多く聞かれる。
そんな青年が、「教職免許を取るために児童養護施設でボランティアをしていた」と入職を希望してきたら、介護現場では前向きに採用するだろう。多少の問題があっても、立派な人材に育てようと努めているのが介護現場の実情だ。 
今回の事件を受けて政府は28日、関係閣僚会議を首相官邸で開いた。安倍晋三首相は「再発防止に全力を」と述べ、塩崎恭久厚生労働相や河野太郎国家公安委員長らに対し、施設の安全確保強化や「措置入院」の運用見直しを早急に検討するよう指示した。
出頭直前、植松容疑者がSNS上に綴ったコトバは「世界が平和になりますように。beautiful Japan!」だった。かつて自著の新書タイトルで『新しい国へ〜美しい国へ』と謳った安倍首相は、介護・福祉の課題が複雑に絡み合うこの問題と、どう戦うつもりなのだろうか? 
相模原の事件で問われることは何か
神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で7月26日未明、入所者19人が刃物で殺害され、26人が重軽傷を負いました。逮捕された容疑者は、この施設に以前勤めていた26歳の男性で、「障害者なんていなくなればいいと思った」という趣旨の供述をしているということです。理不尽な理由で、就寝中に次々と襲われた被害者の恐怖と苦痛を思うと、やりきれません。
今の段階で強調しておきたいことが2点あります。
第1に、容疑者は措置入院になっていた時期がありますが、本当に何らかの精神障害があったかどうかは、まだよくわかりません。したがって、精神障害による犯行と決めつけたり、事件を予防できなかった原因を精神科医療システムに求めたりするのは、時期尚早だということです。
第2に、はっきりしているのは、重度の障害者は死なせるのが本人と社会のためだという、ゆがんだ確信を容疑者が抱いていたことです。容疑者個人の特異性で片づけるのではなく、私たちの社会の中に存在する差別の思想と向き合い、しっかり闘っていくことが重要だと思います。
精神科医療にゆだねてよかったのか
報道によると、容疑者は今年2月14日と15日、東京・永田町の衆院議長公邸を訪れ、「障害者総勢470名を抹殺することができます」「職員の少ない夜勤に決行致します」などと書いた手紙を預けました。内容を見た警視庁麹町署が神奈川県警津久井署に対応を依頼。同署から連絡を受けた施設が面談した時も「障害者はいなくなったほうがいい。間違っていない」と言ったため、職員としてふさわしくないとして2月19日に自主退職させました。
同じ日、津久井署が事情聴取したところ、「重度障害者の大量殺人は日本国の指示があれば、いつでも実行する」などと話したことから、同署は通報を相模原市に行い、それを受けて市は、指定医の診断を経て、精神保健福祉法に基づいて県内の病院に緊急措置入院させました。22日には指定医2人が診察を行い、正式の措置入院になりました。しかし3月2日、措置入院の要件に該当する症状がなくなったとして措置は解除され、退院していました。
精神保健福祉法による措置入院は、精神障害によって自分を傷つけたり他人に危害を加えたりするおそれがある場合、知事または政令指定市長の行政権限によって行われる強制入院制度です。精神保健指定医の資格を持つ医師2人の診断に基づいて行われます。より急を要する場合に指定医1人の診断で72時間を限度に行えるのが緊急措置入院です。
かなり具体的な犯行の示唆があったのに、なぜ防げなかったのか。出口の段階である措置解除の妥当性やその後のケアに目が向きがちですが、その前に、本当に措置入院の対象だったのか、大量殺人を公言している人物を精神科医療にゆだねるのが妥当かという点を、検討する必要があると思います。
医師の診断が正しいかどうかはわからない
2月19日に緊急措置入院になった時の血液・尿の検査では、大麻の陽性反応が出ていました。措置入院に切り替えた段階の指定医2人はそれぞれ「大麻精神病、非社会性パーソナリティー障害」「妄想性障害、薬物性精神病性障害」と診断したということです。
とはいえ、その診断が正しいかどうかは、まだわかりません。精神症状が本当にあったのかも検証が必要です。同じ患者でも精神科医によって診断が異なることはよくあります。また精神科には多種多様な診断名があり、つけようと思えば、たいていの人に診断名をつけることができます。他害のおそれが明らかでも、精神障害でなければ措置入院の対象にならないのですが、大量殺人をすると言っている人間を放置できないという理由で、診断名をつけて強制入院させるというケースも考えられます。
重度障害者はいないほうがよいという考えは、差別思想であって、それ自体が妄想とは言えません。妄想とは、現実とかけ離れた確信を抱くことです。たとえばヘイトスピーチをする連中が「○○人をぶっ殺せ」と叫んだからといって、精神障害による妄想ではありません。
もしパーソナリティー障害や妄想性障害なら、簡単な治療法はなく、わずか12日間ほどで状態が大幅に改善するとは考えにくいものです。もし大麻や薬物の影響があったなら、依存症のことが多く、定期的な通院か回復支援施設の利用といったフォローなしで退院させるのは理解しにくいことです。
なお、大麻取締法では単純使用には罰則がなく、病院が警察へ通報する義務もありません。そもそも違法薬物を使っていた患者を知った医療機関がいちいち警察に通報していたら、患者から本当の話を聞けず、依存症の治療ができなくなります。
池田小事件の報道の教訓
なぜ、精神科の診断はあてにならないと強調するのか。2001年6月に児童8人が殺害された大阪教育大付属池田小学校事件の教訓があるからです。
池田小事件の犯人は、精神病の診断で過去に何回も入院し、傷害事件を起こしたあと精神障害を理由に不起訴になって措置入院していた時期もありました。それを受けて精神障害による犯行という印象を与える初期報道が行われたのですが、人物像や行動を調べていくと様相が変わり、やがて本人が病気を装い、周囲の関係者がだまされていたことがわかってきました。裁判では、証人出廷したすべての医師と鑑定人が精神病を否定し、過去の病名についても「保険請求のための診断名」「前の医師がそういう病名をつけていたから」といった証言がありました。結局、極端な人格ではあるが精神病ではないとして完全な刑事責任能力を認めた1審判決が確定し、死刑が執行されました。
報道する側として、この事件は苦い経験でした。事件の核心部分について初期報道で誤ったイメージが広がり、精神障害者が危険視されるという2次被害も起きたのです。精神科医の診断も、警察・検察の刑事責任能力に関する判断も、うのみにはできない。たとえ入通院歴、診断名といった「事実」があっても、それが「真実」とは限らない。そのことを痛感したのです。
警察に手だてはなかったのか
相模原の事件で、もうひとつ検証が必要なのは、警察の対応です。2月に大量殺人を予告する手紙を届け、警察官にもその意図を話したのに、精神科医療に頼る以外、刑事司法として何の方策もなかったのかという点です。
考えられる罪名のひとつは業務妨害。ネット上の爆破予告などでも適用されています。容疑者に業務妨害の目的があったかは微妙ですが、大量殺害の発言を受けて施設が防犯カメラ設置などの対策を取ったのだから、成立する可能性はあるでしょう。脅迫罪は、相手または親族の生命、身体、自由、名誉、財産に対する害悪を相手に告知することが要件で、衆院議長、施設、警察に告げても脅迫罪の成立はむずかしいかもしれません。そして殺人予備罪。殺人目的で凶器を準備していた場合などに適用できます。
警察は、まさか本当にやると思わなかったのか、それとも犯罪の構成要件の関係でむずかしいと判断したのか。たとえ逮捕できなくても、取り調べと家宅捜索ぐらいできなかったのでしょうか。一定の歯止めになるし、結果論ですが、捜索すれば刃物や大麻が見つかったかもしれません。
大量殺人やテロの計画を公言する人物がいても、もし刑事司法が何もできないとすれば、それでいいのか心配になります。精神障害と関係なく、何らかの政治的・宗教的・社会的信念を抱いた人間が大事件を起こすことは十分ありえます。社会防衛のために閉じ込めることは、精神科医療の本来の役割ではないし、思想は治療できません。対策を考えるとすれば、明白な殺害予告に対処できない刑事法制の不備のカバーではないでしょうか。
意思疎通できないことはあるのか
容疑者は、12年12月から津久井やまゆり園に非常勤で勤務。13年4月から常勤職員になりました。当初から障害者を見下すような行為があり、今年2月に入ると、職場で障害者の尊厳を否定する暴言を吐くようになったといいます。社会福祉の事業費が抑えられる中、障害者施設の職員は、仕事が大変なわりに賃金が安く、人手不足になりがちで、適格と確信できない人でも雇わざるを得ない状況があるようです。もともと福祉の仕事に向かないタイプだったのかもしれないし、仕事を続ける中でやりがいや楽しさを見いだせなかったのかもしれません。
障害者施設の入所者には、生活の介助に手のかかる人が多く、いろいろ困った行動を繰り返す人もいます。容疑者は「意思の疎通のできない人を刺した」と供述したようですが、重度の重複障害者で言葉のやりとりができない人でも、感情や快・不快の気分はあるものです。言語以外を含めたコミュニケーションの工夫から、仕事の喜びも生まれるはずですが、それには人を大切にする態度と、ある程度の専門知識、努力、経験が必要です。教育、研修、指導がどうだったかも気になります。
それにしても、重度障害者は安楽死させようという極端な考えに、どうして凝り固まったのか。過去の無差別殺傷事件は何らかの生きづらさを抱えた人物の衝動的な犯行が多かったのと異なり、今回は計画的な確信犯で、主観的には正義感から実行したようです。衆院議長への手紙では、殺害計画を実行すれば国が喜んでくれると考えていたフシもあります。仕事上の不満やストレスだけでなく、何らかの影響を受けたものがあったのか、解明が求められます。
すべての人に生きる権利がある
障害者の尊厳や存在を否定する考えは、けっして容疑者独自のものではなく、昔からあります。
20世紀前半には、遺伝学の見地から不良な子孫の出生を防ごうという「優生思想」が世界各国で幅をきかせました。極端な形で実行したのがナチスドイツで、ユダヤ人の収容・虐殺に先行して、精神障害者、知的障害者、神経疾患の患者などを安楽死させる「T4作戦」を秘密裏に進めました。犠牲者は30万人と推計されています。価値なき生命は、死なせたほうが本人にも幸せだと考えたのです。
日本では、殺害までいかなかったようですが、1948年に優生保護法が制定され、96年まで存続していました。精神障害者や知的障害者らに約1万6500件の強制不妊手術が行われ、中絶の強制もありました。ハンセン病患者らにも事実上の強制不妊手術が行われました。
障害者を社会の対等な構成員とする現代の考え方は、自然にあったわけではありません。障害者の人権、生活保障、社会参加を求める運動が長年にわたって続けられ、行政や政治の理解も広がる中で、ようやく確立してきたものです。日本は14年1月に障害者権利条約を批准し、それを反映させる障害者差別解消法が今年4月に施行されたばかりです。法制度にも社会にも、まだまだ不備があります。
重度の知的障害者の生活の場は、かつて大規模施設への入所が多かったのが、2000年代以降、グループホームを含めた地域への移行が進められてきました。しかし津久井やまゆり園は7月1日時点で入所149人という大規模施設。共生社会の実現が道半ばであることの表れとも言えます。
障害者、高齢者、病者、貧困者をはじめ、社会的に弱い人々を社会のお荷物と見る傾向は、今でも世の中の一部に存在します。社会保障の財政負担に関連して、そういう風潮はむしろ強まっているようにも感じます。ネット上では、障害者を蔑視する書き込みが以前から珍しくありません。今回の事件で容疑者の供述や手紙の内容が報道され、結果として差別思想が広く流布されたことも、類似の犯罪につながらないか、心配です。
すべての人に個性と尊厳、よりよく生きる権利がある。価値なき生命など存在しない。そのことを政府、自治体など公的機関、報道機関、そして良識ある個人と団体が、確信を持って積極的に発言していくことが、とても重要だと思います。 
 
2016/7/30

 

ヒトラー的「優生学」思想から発生した相模原殺傷事件 0740
目的のためには手段を選ばなかった平成の殺人鬼
どのような経緯があったのか定かではないものの、障害者を抹殺することを正義と考えるに至った精神異常者が、大胆不敵にも、その狂気の妄想を実際に演じてのけるという前代未聞の殺傷事件が発生した。深夜の静寂を破り、「○○○に刃物」という言葉そのままに、何の罪もない数十人の人々に刃物で襲いかかり、19名もの命を奪った残虐行為は、如何なる事情があろうとも「鬼畜の所業」と言わざるを得ない。
犯人は、「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。」という目的を語っておきながら、その目的を達成する手段が“保護者の同意を無視した刃物による殺人”では筋が通らず、完全に狂っているとしか言い様がない。
介護を要する重度の痴呆症の親を抱えた人などが、たまに介護疲れで殺人を犯すということがある。そういった社会問題を減少させるという意味で、「安楽死制度というものも場合によっては必要だ」と訴えるならともかく、「障害者を抹殺することが革命」とは恐れ入る。
しかし、こんな手紙を手渡された衆議院議長や、手紙に名前が書かれていた安倍総理にとっては迷惑この上ない話だろうと思う。まさか、こんな手紙の内容を真に受けるような人はいないと思うが、もし本気にするような人がいれば安倍総理が気の毒なので、擁護する側に立って少しだけ意見を書いておきたいと思う。
この犯人は、自民党や安倍総理を独裁的な団体および指導者だと勝手に妄想しているという意味では、自民党をナチス、安倍総理をヒトラーなどと言って口撃しているような人々と同じような妄想気質が観て取れる。しかしながら、「反安倍」の人々とこの犯人の大きく違うところは、その妄想の根底に「優生学」思想というものが有ったことだろう。
ヒトラー思想に同調した平成の殺人鬼
ナチスが「優生学」を研究していたことは有名な話で、多くの障害者を計画的に抹殺したことも周知の通りだが、このナチスの安楽死計画は「T4作戦」と呼ばれた。
今回の相模原事件の犯人は、事件を起こす少し前に「ヒトラーの思想が降りてきた」と語っていたそうだが、自らがヒトラー的な思想に被れていたからこその出来事だったとも言える。「優生学」というものを初めて提唱したのはチャールズ・ダーウィンの従兄弟(いとこ)にあたるフランシス・ゴルトンという遺伝学者だが、ゴルトンはダーウィンの仮説『種の起源』に強く影響を受けた人物であり、人間の才能は遺伝によって決まると固く信じていた。
遺伝子というものが未だ解明されていない時代に生きたゴルトンは、遺伝、つまり血縁を操ることで社会は良くなる(進歩する)という考えを持つに至った。遺伝子を改良するのではなく、遺伝そのものが対象となったため、必然的に人種による優劣意識が生まれることになった。この考えは、人間の良し悪しは生まれながらに決まっているという差別主義に他ならないが、その唯物(社会科学)的妄想を現実のものとして実行したのがヒトラーだった。
ヒトラーは右の社会主義者と言われるが、その本質は選民思想に被れた全体主義者(ファシスト)だった。人間の精神性を無視し“社会”を中心に物事を考えるようになるという意味では、極右も極左も行き着く先は同じく社会主義者である。社会主義者の最たる特徴は、人間をモノとしてしか見れなくなるというもので、だからこそ、障害者を単なる欠陥品としてしか見れなくなる。
思想ではなく妄想で動いた平成の殺人鬼
衆議院議長に宛てたとされる手紙の文体からは、なにやら「革命臭」がすることから、この事件の犯人を「思想犯」という括りでプロファイリングされている向きもあるが、この手紙の内容に目を通した限りでは、思想犯というよりも、ただの妄想狂だろうと思う。薬物の影響もあるのか自身の妄想が躁的に膨張し、何者かに操られるかの如く正気を失い、犯行(凶行)に及んだと考えるのが一般的な解釈だろうと思う。
そもそも、単なる思想犯が、何の躊躇もなく無抵抗の人間を19人も殺せるわけがない。明らかに犯人の行動は狂気の沙汰であり、まともな精神状態でなかったことは明らかだ。間違った思想(優生思想)に被れていたことは推察できるが、その思想が暴走するに足る外的(内的)刺激が無ければ、このような凶行に及ぶまではいかないと思う。
その刺激が薬物であったのどうかは不明だが、1つ確かなことは、事件の動機は安倍総理とは何の関係もないということ。安倍政治を《独裁政治》と勝手に思い込んだ人間が自らの歪んだ革命思想(妄想)を実践し勝手に殺人を犯したに過ぎない。仮に、現代日本の保守的回帰を右翼的回帰と曲解したことによる犯行だったとしても、事件を起こした責任は犯人にある。 
相模原障害者施設殺傷事件での海外の反応はまとめ、欧米メディアも大きく報道
米ケリー国務長官
アメリカのケリー国務長官は26日午後、訪問先のラオスで開いた記者会見で「オバマ大統領と国民に代わり、恐ろしい事件で愛する人を殺害されたご家族に最も深いお見舞いを申し上げる」「事件で愛する人を失った人たちに心からお悔やみを申し上げる。つらいときを過ごしている人たちのことを思い祈りをささげたい」その上でケリー国務長官は、「(事件は)一種のテロだ」と非難。「われわれの思いは日本の人たちとともにある」と述べた。
プーチン大統領
ロシアのプーチン大統領が同日、安倍晋三首相宛てに哀悼の意を表明するメッセージを送った。タス通信などが報じた。露プーチン大統領は、障害者に対して行われた犯行に「衝撃を受けている」とコメントを寄せた。「無防備な障害者に対する犯罪は、その残忍さと冷徹さで衝撃を与えた」としたうえで、遺族に哀悼の意を示すとともに、けがをした人の早期の回復を願うとしています。「か弱い障がい者に対し行われた犯行のその残酷さとシニズムに衝撃を受けている」と弔電に記されています。今回の事件は、ロシアのメディアでも大きく取り上げられ、国営テレビは、事件現場からのリポートをまじえて、「第2次世界大戦後、最悪の殺人事件となり、日本では安全対策が強化された」と伝えています。
ローマ法王フランシスコ
フランシスコ・ローマ法王は26日、事件で人命が失われたことに「悲嘆」を表明。「困難な時における癒やし」を祈り、日本における和解と平和を祈願した。
ホワイトハウス
プライス報道官は25日、声明で「相模原で起きた憎むべき攻撃で亡くなった人たちの家族らに、米国は最も深い哀悼の意を表する」とした。
CNNは「第二次大戦以降の日本で最悪の大量殺人」と報道
米大手放送局CNNは今回の事件を「第二次大戦以降の日本で最悪の大量殺人」と報道。現場で救助に当たる救急隊員の映像などを使い、「第二次大戦以降の日本で最悪の大量殺人」と報道。英BBC放送(同)は東京・秋葉原で平成20年に7人が死亡した無差別殺傷事件などにも触れながら、「日本では過去数十年で最悪の事件」と報じた。メディアは植松聖容疑者(26)が障害者を殺害するとつづった手紙にも強い関心を示した。
独DPA通信
独DPA通信は植松容疑者が「障害者の安楽死」を図ったと報じ、AP通信は「憎悪が若者を(犯行に)駆り立てたようだ」と伝えた。
ワシントン・ポスト「銃を使わずとも大量殺人が起こり得る」
ワシントンポスト紙は、国際ニュースのトップで記事を掲載。日本で大量殺人が珍しい理由を分析しつつ、今回の事件を「銃がなくとも大量殺人が起こり得る事例」として取り上げている。日本では大量殺人が珍しい理由を分析した記事を掲載。殺人発生件数自体が少ないことや銃所持が厳しく規制されていることを紹介し、一方で「相模原の事件は、銃を使わなくても大量殺人が起こり得ることを示した」と指摘した。
BBC放送は「世界で最も平和な国に衝撃を与えた」と驚きをもって報じた
英国営放送BBCでは、2008年に起こった秋葉原での無差別殺傷事件にも触れ、今回の事件を「日本で発生した大量刺殺では最悪の被害」と紹介。「銃規制が非常に厳しい日本では、大量殺人事件は異例の事件」とした上で、「世界で最も平和な国の1つである日本に衝撃を与えた」と、驚きをもって報じた。
英フィナンシャル・タイムズ紙は、今回の事件が起こった社会背景について論評している
英紙フィナンシャル・タイムズは、今回の事件が起こった背景ついて「日本の高齢化社会」「介護士の不足、待遇の悪さ」などをあげて紹介している。「賃金が安く、訓練を受けた介護士や看護師が不足していることが、虐待の増加要因と指摘されている」日本では高齢者の増加により介護施設の負担が高まり、多くの介護要員が必要になる一方、低賃金で熟練した介護者が不足し、高齢者への虐待が問題になっている点を事件の背景に挙げた。
中東衛星テレビ局アルジャジーラ
カタールドーハにある衛星テレビ局でアラビア語と英語のニュースを24時間放送している同局。今回の事件に関して、番組にてジャーナリストの話しとして「日本でこれだけの規模の暴力が起きのは極めて稀」と驚きを隠せないようです。
ロイター通信
「大量殺害は世界でありふれている」が、「日本では極めて珍しい」と指摘。一方、米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は国連の統計を引用し、2011年の人口10万人当たりの殺人発生件数は0.3件だが、「米国はその10倍以上の4.7件だ」と紹介した。

ここまで大きく海外メディアが取り上げ、各国の首脳がコメントを表明することもそうありません。それほど日本のみならず、世界各国に衝撃を与えた事件ということがわかります。また世界各国でも様々な事件が起こっていることから、今回の事件もISが絡んだものと思っている一部の人もいるようです。 
 
2016/7/31

 

ハンマー前日に購入 鉢合わせの職員殴られる 0700
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が刺殺され26人が重軽傷を負った事件で、殺人容疑で送検された元施設職員の男(26)が「結束バンドとハンマーは(事件の)前日にホームセンターで買った」と供述していることが30日、捜査関係者への取材で分かった。また鍵を奪われた女性職員は、施設内で男と鉢合わせになり殴られていたことも判明。捜査本部は供述の裏付けを進めるとともに、事件当時の詳しい状況を調べている。
捜査関係者によると、元施設職員の男は事件前日の25日、相模原市内や都内の複数のホームセンターを回って結束バンドなどを購入したという。周到に準備を進めていたとみられる一方、2月には施設を襲撃し障害者を殺害する計画を記した「作戦内容」とする手紙を衆院議長公邸に持参しており、捜査本部は計画を実行に移そうと決意した経緯などを慎重に調べている。
また、男が犯行に使ったとみられる刃物5本のうち、包丁2本が東棟と西棟のそれぞれ1階通路で見つかったことも判明。いずれも血液が付着していた。ハンマーは侵入した現場近くで見つかったほか、出頭時に持っていたかばんの中にも、血の付いた包丁とナイフ計3本と結束バンド、手袋とともに別の1本が入っていた。
男の事件前日の足取りを巡っては、午前中に同市緑区のファストフード店駐車場で、鍵が付いたままの車をスペースからはみ出して止めていたことが明らかになっている。通報を受けた津久井署は署に移動したが、「特異な言動は認められなかった」(県警)として同日昼ごろ訪れた男に引き渡していた。
関係者によると、男は26日午前2時ごろ、東棟1階の居室の窓をハンマーで割って侵入、この部屋の女性入居者(19)を刃物で襲った。当時、同フロアでは女性職員が夜勤業務に当たっており、この職員が支援員室から出たところ男と遭遇、後頭部を殴られて鍵を奪われた。
支援員室では、各居室に設置されている集音マイクの音声を聞き取れる仕組みになっている。女性職員はマイクを通じて物音を聞くなど、何らかの異変を察知して室外に出た可能性もあるという。
捜査本部は30日も同施設を現場検証するなど、事件の解明を進めている。 
障がい者の「抹殺」すら計画していた北朝鮮 0900
相模原市緑区の障碍(がい)者施設で起きた大量殺人事件。容疑者は、取り調べで「ヒトラーの思想が降りてきた」などと述べ、重度の障碍者だけを選んで襲うなど、動機と優生思想との関連を疑わせる。
優生思想とは「劣等な子孫が生み出され、社会、国家、民族に悪影響を及ぼすことを未然に抑制しよう」とする考え方だ。ナチス・ドイツはそれを人種政策に取り入れ、ユダヤ人、ポーランド人、ロマ、同性愛者、障碍者を強制収容し、虐殺した。
「全員処刑」を目指す
とんでもない結果をもたらしてようやくその危険性に気づいた世界は、優生思想を遠ざけるようになった。
かつての日本でも「国民優生法」「優生保護法」に基づき、多くのハンセン病患者に対して「断種手術」を行っていた。断種手術とは、男性の輸精管を切断して生殖能力をなくすものだ。スウェーデンでも身体障碍者に対して断種手術が行われていたが、日本でもスウェーデンでも、国が過ちを認め、補償を行った。
しかし北朝鮮にはいまだに、優生思想に基づく、障碍者への差別的政策が残っていると見られている。
アメリカの保守系ニュースサイト「ワシントン・フリー・ビーコン」によると、北朝鮮当局は当初、障碍者の中でもとく小人症患者を文字通り「根絶やし」にすることを目指していたとの情報がある。
これが実行されていたら確実に国際社会にバレるだろうが、その一方、断種手術や強制隔離は確かに行われているようだ。これについては、強制隔離により一家離散を強いられた脱北者らの証言もある。
もはや言い逃れのできない、歴史的な事実なのだ。
そして、北朝鮮は2000年代に入ってようやく、障碍者の人権に対する配慮を装い始めた。
北朝鮮は2003年6月に障碍者保護法を制定したのに続き、2013年7月には国連障碍者権利条約に署名した(未批准)。障碍者のスポーツ選手をパラリンピックに参加させたり、障碍者の音楽舞踊公演をヨーロッパで行ったりしている。最近完成した平壌順安空港の新ターミナルや科学技術殿堂にも、障碍者用の施設が作られた。
それで、北朝鮮の障碍者の置かれた状況はどのくらい改善したのだろうか。何ら障碍を持たない人々でも人権侵害に苦しんでいるあの国の実情を考えれば、ほとんど期待することはできない。
しかし、北朝鮮当局の障碍者への配慮が、たとえ批判回避のためのポーズに過ぎないものであっても、かの国の障碍者たちが想像を絶する苦難から解放されるまでの道のりが1ミリでも縮まるのなら、それに越したことはないとすら思える。  
職員拘束に失敗、通報恐れ逃走 相模原殺傷、容疑者供述 1129
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が死亡した事件で、殺人などの容疑で送検された元職員の植松聖(さとし)容疑者(26)が、入所者を襲うのをやめた理由について、「職員が部屋に閉じこもったので、通報されると思った」と供述していることが捜査関係者への取材でわかった。神奈川県警は、この職員の行動がなければ、さらに被害が拡大した可能性があったとみている。
園の東西の居住棟は、男女別などで「ホーム」と呼ばれる八つのエリアに分かれている。捜査関係者によると、植松容疑者は各ホームに入るたび、1人ずつ配置されている職員を結束バンドを使って拘束。当直勤務だった8人の職員のうち、5人の指や腕を縛り付けていた。こうして警察に通報されないようにしたうえで、職員に入所者の障害の程度を尋ね、特に障害が重い人を狙って襲うことを繰り返したという。
しかし、西側の居住棟2階のホームでは、職員が部屋に逃げ込んで閉じこもったため、植松容疑者は拘束を断念。園を出て近くにとめていた車に乗り、津久井署に出頭した。
植松容疑者は今年2月、大島理森衆院議長に宛てた手紙に「作戦内容」として、「職員は結束バンドで身動き、外部との連絡をとれなくします」「抹殺した後は自首します」などと書いていた。植松容疑者はこうした計画にこだわり、園内で逮捕される前に逃走したとみられる。 
相模原殺傷 事件直後にコンビニ立ち寄りか 1236
神奈川県相模原市の障害者施設45人殺傷事件で、逮捕された男が事件直後に、現場近くのコンビニエンスストアに立ち寄っていた可能性が高いことがわかった。
逮捕された、「津久井やまゆり園」の元職員・植松聖容疑者(26)は、施設に侵入して重度の障害者を刃物で襲い、19人を殺害した。
捜査関係者への取材で、植松容疑者は26日午前2時47分に施設を出て逃走したあと、同日午前3時過ぎに出頭しているが、その間にコンビニに立ち寄っていた可能性が高いことが新たにわかった。警察は防犯カメラを解析してコンビニでの行動を確認するなど、裏付けを進めている。
一方、犠牲となった女性(19)の通夜が、30日、神奈川県内で営まれた。女性の母親は今の心境について「かわいい娘を失い、ただ悲しく、事実を受け入れられない状態です」などとコメントした。 
神奈川県警が被害者の氏名を公表せず、事実確認に“壁” 1310
 障害者団体は疑問視「逆に障害者差別では」
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入居者19人が刺殺された事件をめぐり、神奈川県警は障害者への配慮などを理由に被害者の実名公表を拒んだ。
戦後最大級の犠牲者を出した殺人事件にも関わらず、「誰が亡くなったのか」という事実確認に障壁を設け、被害者の足跡や遺族の思いなどを世に伝える機会を奪った形だ。障害者団体は「逆に障害者への差別になっていないか」と批判、メディアの専門家も対応に疑問符を付けている。
被害者を記号化
県警は26日の事件発生以降、被害者名を「A子さん19歳」「S男さん43歳」などと記号化して公表している。非公表の理由は「(現場が)障害者施設で障害者という条件のため。遺族による強い希望もあり、そのような判断をした」という。
しかし、この対応には疑問の声が上がる。「幼いときに一緒の施設で過ごした人が被害に遭った可能性があるが、名前が出ていないので分からない」。自身も障害者で、27日に東京都立川市から事件現場を訪れた山田洋子さん(45)は困惑した様子で話した。
神奈川県内で障害者支援を手がける10団体は29日、県に障害者に対する偏見の払拭を求める申入書を提出。その中で「一般的に公表される被害者の氏名が、この事件に関して公表されないことは大きな疑問を持たざるを得ない」と訴えた。扱いを分けることが、「(結果的に)差別となっている」という主張だ。
立命館大学生存学研究センターの長瀬修特別招聘(しょうへい)教授(障害学)は「名前を公表せず、19人の人間を記号化してしまうことは、『障害者は人間ではない』という植松聖(さとし)容疑者の思想に重なる部分があるのではないか」と警鐘を鳴らす。
さらに、「重要なのは被害者一人一人がどう生きてきたかを知って、社会が悲しみや怒りを共有することだ」と指摘する。
産経新聞は29日付で、けがを負った被害者の家族を取材し、実名で報じている。
危うい「情報選別」
被害者を「非公表」とするケースは、このところ後を絶たない。昨年9月、茨城県常総市で鬼怒川が決壊した水害で、市は「個人情報保護の観点から」氏名を伏せた上で「22人と連絡が取れない」と公表。5日後に「全員と連絡が取れた」としたが、その間、自衛隊や消防による救助作業が継続された。氏名が公表されていれば、「住民らの連携により素早い確認ができた」と指摘された。
バングラデシュの首都ダッカで1日、日本人7人を含む20人が殺害された事件でも政府は当初、実名公表を控えた。その一方、報道機関の独自取材で判明した名前もあり、志を持って活動した犠牲者の姿などが世間に伝えられた。
立教大学の服部孝章名誉教授(メディア法)は「実名の開示は、どんな人物だったのか、どんなことが起こったのかを検証するのに必要だ」と強調。「メディアが実名を報道するかどうかは、警察ではなくメディアが責任を持って判断することだ。当局による恣意(しい)的な情報選別は、都合の悪い情報の隠蔽(いんぺい)にもつながりかねない。『遺族感情』などを理由に、安易に匿名にすることは許されない」と批判している。 
「強い人間に憧れが」 相模原45人殺傷容疑者を知人が語る
神奈川・相模原市で起きた45人殺傷事件。日刊ゲンダイは、事前に複数のナイフや、ハンマーを用意するなどして次々と入所者を襲った植松聖容疑者(26)を幼少期から知る人物で、事件後、神奈川県警から8時間に及ぶ事情聴取を受けたという男性Aさんを直撃した。
Aさんによると、植松容疑者は子どもの頃、猫がいじめられているのを見ると、必死になって止める優しい少年だった。
「サトシの父親は小学校の先生で、まじめな人。道徳に厳しく、命の大切さを説いていました」
地元の小中学校から東京・八王子の私立高の調理科に進学したものの、同級生を殴るなどのトラブルを起こし、相模原市の高校の福祉科に転校した。
「親から『大学は行け』と言われ、彼は教員である父親の影響で帝京大の教育学部に進学しました。ところが、当時はやったクラブに出入りするようになり、悪い仲間とも付き合うようになりました。サトシは“強い人間”に憧れがあって、自分を強くみせようとして入れ墨やクスリなどに手を出すようになった。特に悪くなったのは大学卒業後です。半グレ集団とつるむようになり、まともな友人はどんどん離れていきました」(Aさん)
「支配者になりたい」
そんな植松容疑者を持て余した両親は4年前に引っ越し、植松は一人暮らしになった。そして、2012年12月から犯行現場となった「津久井やまゆり園」で働くようになるのだが、不自然な言動が見られ始めたのもこの頃だ。
「大麻やタマシャリ(向精神薬)で徐々に言動がおかしくなったとのウワサが出ていました」(知人男性)
結局、植松容疑者は今年2月、施設関係者に「障害者を殺害したい」などと暴言を吐いて措置入院に。その際、「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話したという。
Aさんが続ける。
「そもそも最初は政治に興味はなかったらしく、大学卒業後から右翼系の団体と付き合い始め、その影響でヒトラーに興味を持つようになったようです。サトシは『支配者になりたい』とも言っていました。クスリの影響もあって、自分がヒトラーのようになれば人を救えると本気で思い込んだのかもしれません。送検時に車の中で見せた笑顔はいつもと変わらない笑顔でゾッとしました」
植松容疑者は取り調べに素直に応じているというが、現場の警察官は動機が理解できず、困っているらしい。
闇は深い。  
 
相模原障害者施設殺傷事件

 

2016年(平成28年)7月26日未明、神奈川県相模原市緑区千木良476番地にある、神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に、元施設職員の男A(犯行当時26歳)が侵入し、所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件である。殺害人数19人は、第二次世界大戦(太平洋戦争)後の日本で発生した殺人事件としてはもっとも多く、戦後最悪の大量殺人事件として、日本社会に衝撃を与えた。
事件発生
2016年7月26日午前2時38分、相模原市緑区千木良の知的障害者施設「神奈川県立 津久井やまゆり園」から神奈川県警察・相模原市消防局にそれぞれ、「刃物を持った男が暴れている」との通報があった。事件に気づいた施設の当直職員が、非番の男性職員にLINEを使って「すぐ来て。やばい」と連絡を取り、連絡を受けた男性職員が電話で確認の上警察に通報した。現場に駆け付けた医師が19人の死亡を確認し、重傷の20人を含む負傷者26人が6か所の医療機関に搬送された。
死亡したのは、いずれも同施設の入所者の男性9人(年齢はいずれも当時41歳 - 67歳)、女性10人(同19歳 - 70歳)である。死因は19歳女性が腹部を刺されたことによる脾動脈損傷に基づく腹腔内出血、40歳女性が背中から両肺を刺されたことによる血気胸、残り17人が失血死とされ、遺体の多くは居室のベッドの上で見つかっていたことから、Aが寝ていた入所者の上半身を次々と刺したとみられる。また、負傷したのは施設職員男女各1人を含む男性21人、女性5人で、うち13人は重傷を負った。入所者24人の負傷内容は全治約9日 - 約6か月間の胸への切り傷や両手の甲への打撲などとされる。被害者の名前について、神奈川県警は同26日、「施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」として、公表しない方針を明らかにしている。これについて「日本では、全ての命はその存在だけで価値があるという考え方が当たり前ではなく、優生思想が根強いため」と説明する被害者家族、本人が生きた証として名を公表する遺族、匿名であるため安否が分からず自分なら公表してほしいとする入所者の友人、根底に障害者差別があるとするなど様々な意見がある。
午前3時過ぎ、現場所轄の津久井警察署に、加害者の男A(犯行当時26歳、元施設職員)が、「私がやりました」と出頭し、午前4時半前、死亡した19歳の女性入所者に対する殺人未遂・建造物侵入の各容疑で、緊急逮捕された。
Aは、正門付近の警備員室を避け、裏口から敷地内に侵入し、午前2時頃、ハンマーで入居者東居住棟1階の窓ガラスを割り、そこから施設内に侵入したとみられる。起訴状によればAは、意思疎通のできない障害者を多数殺害する目的で、通用口の門扉を開けて敷地内に侵入し、結束バンドを使って職員らを拘束し、一部を結束バンドで縛り、その目の前で入居者の殺傷に及んでいたが、直接刃物で切りつけられた職員はいなかった。Aは、職員らを拘束した上で、所持した包丁・ナイフを使用し、犯行に及んだとされ、また凶器として、自宅から持ち込んだ柳刃包丁5本などを持っており、切れ味が鈍るなどする度に取り換えながら使用していた。事件後に施設内で刃物2本が発見され、Aは別の刃物3本を持って津久井署へ出頭した。Aは侵入時にスポーツバッグを所持しており、刃物やハンマー、職員を縛った結束バンドなどをバッグに収納し、行動しやすくしていたとみられる。Aは犯行時、鉢合わせした職員らに「障害者を殺しに来た。邪魔をするな」などと脅しており、入居者に声をかけつつ返事がない入居者らを狙って次々と刺していった。前述のように、Aが裏口から施設に侵入したことから、Aは施設の構造・防犯態勢を熟知していたとみられる。取り調べに対し、Aは「ナイフで刺したことは間違いない」などと容疑を認めた上で、「障害者なんていなくなってしまえ」と確信犯である持論を供述もした。
同警察署の捜査本部は翌27日、殺人未遂の容疑を殺人に切り替えて、Aを横浜地方検察庁に送検した。
事件で負傷して意識不明となった4人が入院していた病院は、翌27日の記者会見で、4人全員の意識が回復したと発表した。そのうち、20代の男性は首を深く刺されたため、全血液量の3分の2を失い、搬送直後には脈をとれないほどの危険な状態だった。この男性は、意識を取り戻して人工呼吸器を外されると、看護師に何度も「助けて」と繰り返し、容疑者としてAが逮捕されたことを知ると「生き返った」と答えた。
入所者のうち、被害を免れた比較的軽度の入所者が、Aが殺傷前に職員に縛り付けた結束バンドを、はさみで切断し、職員を解放していたことが判明し、捜査本部はこの行為が被害を抑えた可能性もあるとみている。
Aはさらに多数の入居者を襲う計画だったが、西棟2階を担当していた職員が、異変を察知して部屋に閉じこもり、そのまま出てこなかったことから、この職員が警察に通報するのを恐れ、襲撃を中断し、施設から逃走した。
神奈川県立津久井やまゆり園
事件のあった「津久井やまゆり園」は、神奈川県が1964年(昭和39年)から設置し、2005年(平成17年)度から指定管理者制を導入し、社会福祉法人「かながわ共同会」が運営している知的障害者施設である。相模湖駅から東に2kmほど離れた、山に囲まれた相模川に面する住宅地に立地している。
入所定員は事件当時、長期入所者150人、短期入所者10人の計160人だった。敷地の面積は3万890平方メートルの敷地内に2階建ての居住棟や管理棟、グラウンドや作業スペースなどがあり、7月1日時点で職員数は164人、同日時点で入所していた19歳から75歳の長期入所者149人(男性92人、女性57人)全員が障害支援区分6段階のうち重い方の4から6に該当する重度の知的障害者(食事や入浴、排泄などの介助が必要)だった。
1992年(平成4年)12月より、開所当時の施設・設備が老朽化したことを受けて、建て替え工事を実施した。1994年(平成6年)6月、第1期工事(居住棟・厨房機械棟)が完成し、続いて既存棟の解体と、居住棟・作業訓練室やボランティア室などを備えた管理棟などを建設する、第2期工事が同年7月から行われ、1996年(平成8年)4月に完成したことで、再整備工事が完了し全面開所した。
園では、夜間も職員を1棟あたり少なくとも2人配置し、園の正門・居住棟の入り口は、それぞれ施錠されている上、建物内に入ったとしても、各ホームに自由に行き来することはできず、すべての鍵を開けられるマスターキーを持っている職員もいないという。また、園には警備員が常駐しているが、午後9時半以降は正門近くの管理棟で仮眠してもよいことになっており、当直の警備員は侵入に気づかなかったという。
捜査
逮捕後の取り調べに対し被疑者Aは「ナイフで刺したことは間違いない」と容疑を認めた上で「施設を辞めさせられて恨んでいた」とも話した。
捜査本部は7月27日の捜査で、新たに血痕の付いた包丁2本を発見した。また、殺害された19人全員に、胸や首に複数の刺し傷があった。27日までに12人の司法解剖が終了し、10人は負傷による失血死と失血性ショック、2人は腹と背中を刺されたことが致命傷となった。傷の深さから、Aには明確な殺意があったものとみられる。
取り調べの中で、Aは犯行時、職員から奪った鍵で居住区画を仕切る扉を解錠して移動しながら、入居者の実名を叫んでいたことも新たに判明し、犠牲者には名前を呼ばれた入居者も含まれていたという。神奈川県警は、Aが特定の人物を標的にした疑いがあるとみている。
神奈川県警は8月15日、園内の東側居住棟1階で、刃物で切りつけたり、突き刺したりして、26歳から70歳の女性9人を殺害したとして、殺人容疑でAを再逮捕した。同日、横浜地検は当初の逮捕容疑である、19歳の女性に対する殺人容疑については処分保留とした。県警は8月17日午前、Aを横浜地方検察庁に送検した。
神奈川県警は9月5日、園西棟の1階と2階で、41歳から67歳の男性9人を、刃物で切りつけて殺害したとして、殺人容疑でAを再逮捕した。逮捕は3回目で、これまでの逮捕容疑について横浜地検はいずれも処分保留とした。これで、東棟1階の女性10人と合わせ、死亡した19人全員について、殺人容疑で立件され、Aはいずれも容疑を認めた。鑑定留置の期間は翌2017年1月23日までの約4か月間を予定していたが、後に延長された。Aは襲撃の途中に施設の職員室にあるパソコンで勤務表を調べ、自分より体格がよい職員がいないことを確認していたことが判明しており、捜査関係者は「殺害計画に沿って合理的に行動しており、心神喪失状態ではなかった」とみている。
捜査本部は2016年12月19日、それまでに立件した殺人容疑に加えて「入所者24人に重軽傷を負わせた殺人未遂容疑」で被疑者Aを横浜地検に追送検し、一連のAによる殺傷行為についてすべて立件した。また、県警はその負傷者のうち2人について家族の了解が得られたとして実名を公表した。
津久井署捜査本部は2017年(平成29年)1月13日、被疑者Aを「施設女性職員2人への逮捕・監禁致傷容疑」「施設職員の男性3人への逮捕・監禁容疑」で横浜地検へ追送検した。
2017年1月17日、横浜地検は横浜地方裁判所へ「鑑定留置期間を2017年2月20日まで延長する」ことを請求し認められ。2月20日に鑑定留置が終了し、Aの身柄は午後3時過ぎに立川拘置所から捜査本部が置かれていた津久井警察署に移送された。これまでの精神鑑定でAは「自己愛性パーソナリティ障害」など複合的なパーソナリティ障害があったことが判明したが、「動機の了解可能性」「犯行の計画性」「行為の違法性の認識」「精神障害による免責の可能性」「犯行の人格異質性」「犯行の一貫性・合目的性」「犯行後の自己防衛行動」の面から犯行時には「完全な刑事責任能力を問える状態」であったため、横浜地検は勾留期限の2017年2月24日までにAを起訴する方針を決めた。
そして横浜地検は2017年2月24日に被疑者Aを以下6つの罪状で横浜地方裁判所に起訴し、事件発生から約7か月に及んだ一連の捜査が終結した。
・殺人罪 - 死亡した入所者男女19人を刃物で刺して殺害した
・殺人未遂罪 - 負傷した入所者男女24人を刃物で刺して重軽傷を負わせた
・逮捕・監禁罪 - 職員3人を逮捕・監禁した
・逮捕・監禁致傷罪 - 別の職員3人を逮捕・監禁して怪我を負わせた
・建造物侵入罪・銃刀法違反
刑事裁判
本事件は横浜地方裁判所にて裁判員裁判で審理されるが、被害の大きさ・証拠量の膨大さから公判前整理手続が長期化し、2017年2月の起訴から初公判期日まで3年近くを要することとなった。
被告人Aは殺傷行為を認めているため、今後開かれる刑事裁判の公判では「刑事責任能力の有無・程度」が最大の争点になる見通しで、検察側の死刑求刑が確実視される一方、弁護人側は「被告人Aは犯行当時に責任能力を問えない心神喪失状態だった」として無罪を主張する可能性がある。
横浜地検は刑事裁判の公判において横浜地裁へ「起訴状を朗読する際などに被害者の実名を呼ばず匿名で審理すること」を求めるよう検討し、2017年6月になって「氏名・住所などを伏せるよう申し出ていた被害者」を匿名にして公判を開く方針を決定して被害者側に通知した。法廷でも被害者名が明かされない可能性が出たことについて、被害者の家族・障害者団体など、関係者の意見は、「遺族や家族の要望を重視するのは当然」という肯定的なものや、「障害者であることを理由に特別扱いするなら差別だ」という否定的なものなどに分かれている。
今後の刑事裁判で被告人Aに死刑判決が言い渡されて確定した場合、殺害人数19人は連合赤軍事件・坂口弘(17人への殺人罪で起訴。確定判決の認定は16人への殺人罪・1人への傷害致死罪)および大阪個室ビデオ店放火事件の死刑囚(16人への殺人罪)を超え、麻原彰晃らオウム真理教事件の死刑囚を除くと日本における死刑囚としては戦後最悪の数字となる。また日本国内の大量殺人事件としては1938年に岡山県で30人が殺害された津山事件以来の被害であり、第二次世界大戦後では最悪である。
横浜市内の精神鑑定経験が豊富な医師によると、一般的に「自己愛性パーソナリティ障害」は、衝動の抑制が効かなかったり理性的な判断が難しくなる場合はあるものの、刑事責任能力を左右する精神病とは区別されるという。精神病というよりかは「性格の大きな歪み」に分類され、自分の意見が通らないと「周囲がいけない」「法律がおかしい」と自己中心的な思考に陥りがちになる。その上で、Aの「かなり冷静に一貫した行動や言動」や、事件後の逃走を「自分の行動が犯罪だと認識している」点を指摘し、Aの日常生活には問題がなかったことから「自己責任能力の否定材料が乏しく、起訴はまっとうな判断である」と評した。
神奈川県知事の黒岩祐治は「裁判を通じて、この事件の全容が明らかになることを望む」と表明したほか、相模原市長の加山俊夫も「原因が究明され偏見や差別のない共生社会の実現につながってほしい」とコメントを出した。
第一審・横浜地裁(裁判員裁判)
公判前整理手続
2017年9月28日、横浜地裁(青沼潔裁判長)で第1回公判前整理手続が開かれた。協議は非公開で実施され、検察・弁護側双方が主張内容を記載した書面をそれぞれ提出し、争点について意見を交わした一方、被告人Aは欠席した。その後、検察側・弁護人双方との間で計3回の打ち合わせが行われ、検察側から合計631点の証拠請求がなされた一方、弁護人からは予定する主張内容を記載した書面が提出された。
横浜地裁(青沼潔裁判長)は2018年1月23日までに弁護人側の請求を受けて「被告人Aに対し再度の精神鑑定を実施する」ことを決めた。
2018年9月4日、共同通信は被告人Aの精神鑑定結果について「捜査段階とは別の精神科医による再度の精神鑑定は2018年8月に終了し、1回目と同様に(刑事責任能力に問題がない)『パーソナリティー障害』との診断結果が出た」と報道した。
横浜地裁(青沼潔裁判長)は2019年4月22日付決定で本事件の初公判期日を「2020年(令和2年)1月8日11時開廷」と指定して同月24日に公表した。今後は第2回公判以降の公判予定に関しても横浜地裁・横浜地検・弁護人の三者協議により決定され2020年3月末までに判決が言い渡される見込みで、公判は横浜地裁第二刑事部合議係(青沼潔裁判長)で審理・開廷される。
加害者
生い立ち
加害者・被告人Aは1990年(平成2年)1月20日に東京都日野市の多摩平団地(現:多摩平の森)で生まれた。Aは一人っ子(長男)で父親は東京都内の小学校に図工教師として勤務しつつ自治会活動に積極的に参加しており、母親は漫画家だった
1991年(平成3年)1月、当時1歳だったAは両親とともに、多摩平団地から現場となった「津久井やまゆり園」からわずか500mほどの距離の津久井郡相模湖町大字千木良(現在の相模原市緑区千木良)にある自宅に移住した。中学時代は熱心なバスケットボール部員で勉強もできる方だった。
Aは相模湖町立千木良小学校(現:相模原市立千木良小学校)・相模湖町立北相中学校(現:相模原市立北相中学校)を卒業後、東京都八王子市内の私立高校に進学し、高校卒業後の2008年(平成20年)4月には帝京大学文学部教育学科初等教育学専攻(現:教育学部初等教育学科)へ入学した。
Aは子供のころ、いじめられている猫をかばうなど優しい少年だったものの、高校入学後には同級生を殴って転校したほか、帝京大学在籍時(3年生 - 4年生ごろ)には刺青を入れていた>。このころ、Aは「強い人間」に憧れ、ナイトクラブに通い、2010年(平成22年)ごろからは大麻などを吸引し始めるなど薬物に手を出すようになり、卒業後は半グレ集団・右翼関係者とも交友を持つようになっていた。
Aは、2011年(平成23年)5月末から約1カ月間、母校の相模原市立千木良小学校で、教員免許を取得するために教育実習を行った。2012年(平成24年)3月、Aは帝京大学を卒業した。
事件の4 - 5年ほど前には夜中にA宅から母親とみられる女性の泣き叫ぶ声が聞こえ、その約半年後、Aとの同居に耐えかねた両親はAを1人残して東京都八王子市のマンションに引っ越した>。Aは大学卒業後、自動販売機の設置業者、運送会社、デリヘルの運転手など職を転々とし、相模原市内のクラブにも頻繁に出入りしていた。転居の理由について近隣住民らは「Aの母親が野良猫に餌を与えて近隣とトラブルになったから」という説や「A君が入れ墨を入れたことに両親が怒ったから」という話があったという。Aは大麻を吸っていても「効かない」と言いつつ、さらに危険ドラッグを吸うこともあったほか、後述の措置入院後も、大麻・危険ドラッグを使用していたという。
やまゆり園採用後
Aは帝京大学卒業後の2012年12月1日付で「津久井やまゆり園」に非常勤職員として採用され、翌2013年4月1日から常勤職員として採用されると後述のように退職した2016年2月まで勤務していた。
Aは2012年8月、施設を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」の就職説明会に参加し、「明るく意欲があり、伸びしろがある」という判断で採用されたが、採用後の勤務態度には「施設入居者への暴行・暴言」などの問題があったため何度も指導・面接を受けていたほか刺青を入れる・業務外の問題行動も散見された。Aは2015年6月ごろから尊敬していた彫り師に弟子入りして本格的に彫り師修業を始めていたが、同年末ごろに「障害者を皆殺しにすべきだ」と発言するなどの異常な言動が見られたことから彫り師から「ドラッグを使用している可能性が濃厚だ」と判断され破門された。
Aは2016年2月中旬ごろに衆議院議長公邸を訪れて衆議院議長の大島理森に宛てた『犯行予告』とされる内容の手紙を職員に手渡した。
・「津久井やまゆり園」と同県厚木市内の障害者施設の2施設を標的として名指しした。実際に被告人Aは「津久井やまゆり園を襲撃した後で厚木市の障害者施設も襲撃するつもりだったが、やまゆり園で拘束しようとした職員に逃げられて失敗したため『警察に通報される』と思った上に『やまゆり園だけでも結構な人数の殺傷行為ができた』と考えたためため断念した」と述べている。
・具体的な手口として「職員の少ない夜勤に決行する。職員には致命傷を負わせず結束バンドで拘束して身動きや外部との連絡を取れなくする。2つの園260名を抹殺した後は自首する」などの内容が記されていた。
・そして「『逮捕後は心神喪失で無罪として2年以内に釈放して5億円の金銭を支援し自由な人生を送らせる。新しい名前として“伊黒崇”を与え整形手術をさせる』などの条件を国から確約してほしい。日本と世界平和のためにいつでも作戦を実行するつもりだ」という要求もあった。
またAは2016年2月に安倍晋三首相宛の手紙を自由民主党本部にも持参していた。
事件を受けて7月26日、衆議院事務総長・向大野新治が記者会見し、手紙を受け取った経緯などを説明した。それによると、Aは2月14日午後3時25分ごろに議長公邸を訪れ、書簡を渡したいと申し出たが受け入れられず、土下座をするなどしたため、警備の警察官が職務質問したところ、そのまま立ち去った。その後、男性は翌日午前10時20分ごろに再訪し、正門前に座り込むなどしたため、衆議院側で対応を協議して午後0時半ごろに手紙を受け取ると、ようやくその場を立ち去った。手紙に犯罪を予告するような内容があったため、衆議院の事務局が警察に通報し、手紙を提出。向大野は「すぐに大島議長の指示をあおいで警察に連絡しており、適切な対応だったと考えている」と述べた。この手紙について、警視庁は同15日中に津久井署に情報を提供した。
Aは2016年2月17日、LINEで同級生らに「重度の障害者たちを生かすために莫大な費用がかかっている」などと自説を展開するメッセージを一斉送信し、その後直接電話を掛けた同級生には犯行への加担を要求したり、反論した友人に「お前から殺してやる」と脅したばかりか激怒した友人から「ふざけるな」と殴られても考えを改めなかった。
さらにAは2016年2月18日の勤務中に同僚職員に「重度の障害者は安楽死させるべきだ」という趣旨の発言をして施設側から「ナチス・ドイツの考えと同じだ」と批判されたが、その主張を変えなかったことから、翌19日に同施設が警察に通報し、これに対応した津久井署は「Aが他人を傷つけるおそれがある」と判断して相模原市長精神保健福祉法23条に基づき通報を行った。同市は、措置診察を行うことを決め、1人の精神保健指定医が「入院の必要がある」と診断したため、精神保健福祉法に基づいて北里大学東病院へ緊急措置入院を決定した。Aは同日、勤めていた同施設を「自己都合」により退職した。さらに、翌20日には尿から大麻の陽性反応が見られ、22日に別の2人の精神保健指定医の診察を受けたところ、指定医の1人は「大麻精神病」「非社会性パーソナリティー障害」、もう1人は「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」と診断。市は同日、Aを正式な措置入院とした。指定医は「症状の改善が優先」などとして警察には通報せず、市は3月2日、医師が「他人に危害を加える恐れがなくなった」と診断したため、Aを退院させた。
Aは2016年2月ごろに「ニュー・ジャパン・オーダー(新日本秩序)」と題して「障害者殺害」「医療大麻の解禁」「暴力団を日本の軍隊として採用」などの計画を記した文章を書き記していたほか同級生に対し「革命」という言葉を繰り返し使っていた。
なおAは「イルミナティ」と呼ばれるカードゲームの愛好者で「『1001』は聖なる数字だ」という考えから本来は2016年10月1日に施設襲撃を計画していたが、事件前日の2016年7月25日未明に相模原市内で知人男性2人と会った際にうち1人から「自分が狙われている」と感じたため実行前倒しを決断した。
・『日本経済新聞』の報道によれば「事件前日に『暴力団関係者と親交があるとされる知人』から『お前は暴力団組員に追われている』と告げられたことが心理的な圧力になり、襲撃を翌日に前倒しするとともに襲撃できなくなることを危惧して(後述の件で)津久井署に出頭し自動車の鍵を受け取った後、周辺のホームセンターで結束バンドを購入したり自宅から包丁を持ち出したりして犯行を準備した」。
・『朝日新聞』の報道によれば「自分は大麻の合法化を訴えているので大麻を資金源にしている暴力団から狙われている。殺される前になるべく早く事件を決行しなければ」という思い込みから実行前倒しを決意した。
Aは知人2人と別れた後、バスなどで京王線の駅に向かい、始発電車で新宿駅に向かった。同日午前、新宿の漫画喫茶で仮眠を取り、昼ごろに相模原市内のファストフード店に車を放置したとして母親を通じ津久井署から呼び出しを受け電車で相模原市に戻った。Aは車を引き取った後、自宅から包丁などを持ち出し、東京都内のホームセンターでハンマーや結束バンドなどを購入して犯行の準備をした。その後Aは車で再び都内へ向かい、新宿のホテルの一室を借りて室内で頭髪を金色に染めた。午後9時ごろにAは好意を寄せていた知人女性と待ち合わせて高級焼肉店で食事し、その際に女性に障害者襲撃計画を話した。食事後、Aは都内のホテルに滞在してから相模原市に戻り、翌26日午前1時ごろにホテルを出て車で「津久井やまゆり園」に向かい、2時ごろに園内に侵入して凶行に及んだ。
Aは犯行後、津久井署へ出頭する直前の午前2時50分にTwitterに「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」という内容のツイートを、自撮り写真を添付してTwitterに投稿していた。Twitterは2014年11月に開始したが、投稿は意味不明なものや幼稚なものが多く、Twitterアカウントのプロフィールページのヘッダー画像には「マリファナは危険ではない」と書かれた画像が使用されていた。Aは車で出頭する途中、コンビニエンスストアに立ち寄ってトイレを利用し、そこで手や腕に付着した血を洗った後、千円札で菓子パンを購入していた。コンビニの防犯カメラの画像などから、犯行時と出頭時は同じズボンとシャツを着用しており、服には血も付いていたという。
Aは逮捕後の26日夜、取り調べの中で「突然のお別れをさせるようになってしまって遺族の方には心から謝罪したい」と遺族への謝罪の言葉を口にしたが、一方で被害者への謝罪は行っておらず、障害者に対する強い偏見を表す形となった。Aは麻薬と覚醒剤の尿検査には応じたが、大麻使用の尿検査を拒否したため、強制採尿した結果、大麻の陽性反応が出た。
神奈川県警が27日にA宅を家宅捜索した結果、微量の植物片が見つかり、分析により大麻であることが確認された。
さらにAは、障害者を「税金の無駄」と揶揄する一方で、自らは事件前、3月24日から31日の8日間にかけて生活保護を受給し、それを遊興費として浪費していた、数百万円の借金があったという報道もなされている。Aは3月24日に福祉事務所の窓口を訪れ「親族の援助もなく、1人で暮らしている」「預貯金が底をついてしまった。働いていないので生活できない」と訴え、これを受けて相模原市はこの時点でAに収入がないことなどを確認し、生活保護費用を4月3日に給付した。給付分は3月24日から31日までの日割り分と4月分だったが、4月下旬に雇用保険が支払われたことを確認したため4月分は返還されたという。
逮捕後、取り調べでAは「今の日本の法律では、人を殺したら刑罰を受けなければならないのは分かっている」と供述する一方で、「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言もしている。また、「事件を起こした自分に社会が賛同するはずだった」という趣旨の供述もしている。
捜査関係者によると、Aは「障害者の安楽死を国が認めてくれないので、自分がやるしかないと思った」と供述した。こうした偏見に至った背景について、中学時代に障害を持つ同級生と関わったことや、園で働いた経験などを挙げ「障害があって家族や周囲も不幸だと思った。事件を起こしたのは不幸を減らすため。同じように考える人もいるはずだが、自分のようには実行できない」とした。その上で「殺害した自分は救世主だ」「(犯行は)日本のため」などと供述している。
被告人Aはその後も2019年4月現在に至るまで重複障害者に対する差別的な言動を一貫して繰り返している。
・2017年2月27日に拘留先・津久井署で『中日新聞』記者と接見した際に「遺族を悲しみと怒りで傷つけたことをお詫びしたい」と述べた一方で自らが殺傷した被害者そのものに対する言葉は述べなかった。
・横浜拘置支所収監中の2017年7月20日までに手紙を通じて時事通信社・『東京新聞』(中日新聞社)の複数回の取材に対しても「命を無条件で救うことが人の幸せを増やすとは考えられない」と重度・重複障害者殺害を正当化する考えを示している。その上で「自分はおおまかに『お金と時間』こそが幸せだ、と考えている。重度・重複障害者を育てることは莫大なお金・時間を失うことにつながる」と主張した上で。殺害を思い立ったきっかけとして「アメリカ合衆国大統領就任前のドナルド・トランプが演説で『世界には不幸な人たちがたくさんいる』と述べたのを聞いたことに感銘した。過激派組織ISILの活動もきっかけの1つだ」と述べた。
・2018年1月には横浜拘置支所で時事通信社記者との接見取材に応じた際に「自分は責任能力はある」と述べた上で、「刑事裁判で死刑判決を受ける可能性が高い」と指摘されると、「自分が殺したのは人間ではないから殺害行為の正当性を主張するつもりで個人的には『懲役20年程度の量刑が妥当だ』と考えている。死刑判決を受けたら『バカ言うな』と言ってやる」と述べた。その上で改めて犯行を正当化する旨を述べたが、記者から「刃物で刺す行為は安楽死ではない」と指摘されると「申し訳ない。他に(殺害)方法が思いつかなかった」と初めて被害者に対する謝罪の言葉を述べた。
・2019年4月には横浜拘置支所で接見した『神奈川新聞』記者に対し「死刑になるのは嫌だ」と述べた。
社会への影響
措置入院制度の見直し議論と断念
・精神保健及び精神障害者福祉に関する法律による措置入院のあり方について、解除の判断や解除後の支援体制、警察・関係団体との連携などが十分でなかったとの指摘が出ていることから、日本国政府は再発防止に向けて措置入院の制度や運用が適切であったか再検証し、必要な対策を検討することを厚生労働大臣塩崎恭久が指示した。
・精神保健指定医資格の不正取得事件が複数発覚しているが、その中の1人は犯人Aの措置入院に関わっていることが判明し、医道審議会で指定医取り消し処分を受けた。
・2016年9月14日に公表された厚生労働省の中間報告において、Aを措置入院させた北里大学東病院と相模原市が、本来は退院後に必要なケアや復帰プログラムなどを検討しないまま、退院させていたことが明らかとなった。また、措置入院させた北里大学東病院内には、薬物使用に詳しい専門の医師がおらず、外部に意見を求めることもなかったため、以後の薬物依存を防ぐ手立てが何一つなされていなかったことも指摘された。さらに、他の精神障害の可能性や心理状態の変化、生活環境の調査や心理検査が行われなかったことも問題とされた。措置入院解除の時に必要な届け出に2点の不備があり、また病院とAの両親との間で理解に食い違いがあり「同居を前提とした」措置入院解除であったにもかかわらず、Aは実際には一人暮らしとなった。届書に空白欄があったにもかかわらず、相模原市がその空白欄を追及しなかったため、精神保健福祉法で定められている「精神障害者の支援」の対象とならなかった点について、報告書は「相模原市の対応は不十分であった」と結論づけた。
・2016年12月8日、厚生労働省の有識者検討会は最終報告書を発表し、措置入院後に「退院後支援計画」を義務づけることを表明した。
・2017年2月14日、障害者団体が保安処分や「患者の監視強化につながる」として反対する中、厚生労働省が相模原障害者施設殺傷事件を受け「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律改正案」が第193回国会に提出された。 参議院厚生労働委員会で審議されるも、改正の要旨に掲げた『相模原市の障害者支援施設の事件では、犯罪予告通り実施され、多くの被害者を出す惨事となった。二度と同様の事件が発生しないよう以下のポイントを留意して法整備を行う』など数カ所を、2017年(平成29年)4月13日の参議院厚生労働委員会で削除する異例の事態が発生、措置入院退院後に警察も関与する「退院後支援計画」などを巡って議論が紛糾、参議院で改正案が成立するも、衆議院で審議入りもされないまま会期内に成立せず、継続審議ののち、9月28日に第194回国会の冒頭で、衆議院解散により廃案となった。
・2018年(平成30年)、第196回国会で第193回国会で廃案となった精神保健福祉法改正案の国会提出を、3月9日に断念することを固めた。障害者団体や野党の反対が根強く、働き方改革関連法案の審議にも影響しかねず、後任の加藤勝信厚生労働大臣も慎重姿勢のままであり、次回以降も同じ内容の法案を厚生労働省は提出しない考え。
・2019年(平成31年)の第198回国会で、廃案になった精神保健福祉法改正案の提出を、第25回参議院議員通常選挙の実施により、国会の会期延長が難しい日程を理由に、1月21日に改正案の提出を断念することが、共同通信社の取材で分かった。
「やまゆり園」のその後
施設の建て替え
・2016年9月13日、神奈川県知事の黒岩祐治は、施設を管理していた社会福祉法人「かながわ共同会」の要望を受け、施設をすべて建て替えることを表明した(犯行現場となった居室などが使用できなくなったため、一時は30人以上が体育館で過ごすなどの状態に置かれていた。その後、県内の他施設に移ったり自宅に帰ったりして、9月12日現在で約60人が園で生活している)。11月16日には地元の公民館で県の説明会が開かれ、「60億円から80億円で翌2017年度から4年間かけて施設を全面的に建て替える。その間入所者は横浜市内の県立施設へ仮居住などするために全員が施設を離れる」などの説明が県からなされ、住民からは「絶対忘れてはいけない事件。亡くなった方の名前も入れた、誰でも慰霊できる碑を造るべきだ」「基本構想の作成に障害者も加えるべきだ」「防災拠点にもしてほしい」などの意見が出た。仮移転先は横浜市港南区にある知的障害児施設「ひばりが丘学園」で、2017年3月に閉鎖し入所者が県内の新しい施設に移るこの施設を再利用する(移動は4月以降を想定し、園に残る約60人と別の施設に移った約30人も一緒に「ひばりが丘学園」に移る方向で調整している)。
・2017年4月5日から21日にかけて、事件後も「津久井やまゆり園」で生活していた入所者約60人が「ひばりが丘学園」に転居し、「津久井やまゆり園芹が谷園舎」への仮移転が行われた。「やまゆり園」は今月限りで閉鎖され、4年後の2021年の完成を目指して建て替え工事が行われる予定であるが、同じ場所で建て替えられるかどうかは不透明な状況だという。
・2017年4月27日に横浜市中区で5人の委員と県の担当者が出席した「津久井やまゆり園の再建の在り方を検討する部会」の会合が開かれ、意見の集約に向けた議論が行われた。委員からは「複数の小さな施設に入所者を分散することが望ましい」という趣旨の意見が相次ぎ、部会として「入所者を地域生活に移行させるためには、これまでと同様の大規模な施設は前提としない」とする提言を、県に6月に提出する方針が決まった一方、神奈川県の担当者は「小規模な施設を複数つくることは、土地の確保の面から難しい」と述べた。
批判
・神奈川県内の障害者団体や有識者らが、障害者総合支援法(2005年成立)が障害者の地域社会での生活の支援を謳っていることを理由に、「大規模収容施設は、時代の逆行以外の何物でもない」と反発している。
被害者職員らの労働災害認定
・2017年2月、事件当日に施設で当直勤務し、事件を目の当たりにした女性職員3人が心的外傷後ストレス障害(PTSD)により一時期出勤できなくなったとして、相模原労働基準監督署から労働災害の認定を受け、他2人も労災を申請した。その後、5人全員が4月14日までに労災を認定された。2月3日に記者会見した園長によると、事件による退職者や休職者はいないものの、職員の一部は事件の影響で制限勤務を続けているという。
差別
共同通信社が事件から1年となるのを機に全国の知的障害者の家族を対象にしたアンケートでは、回答した304家族の68%が「事件後、障害者を取り巻く環境悪化を感じた経験がある」と答えた。また、同社が具体的な経験を複数回答で尋ねた結果、「インターネット等匿名の世界での中傷」が31%、「利用している施設・職員への不安」(Aが津久井やまゆり園の元職員だったことから)が28%、「精神障害者への偏見」(Aに措置入院歴があることから)が23%、「差別を恐れ障害のことを口にしづらくなった」が4%、「本人や家族が直接、差別的な言動を受けた」が2%だった。アンケート結果について、識者からは「生きる価値は障害者も健常者も変わらないことを社会は理解すべきだ」との声が出ている。
反応
日本国内
政府など
・内閣総理大臣・安倍晋三は事件に対し「心からご冥福とお見舞いを申し上げる。真相解明に政府も全力を挙げたい」と述べた。また、官房長官の菅義偉は「関係省庁と協力して再発防止策の検討を早急に行いたい」と記者会見上で述べた。
・神奈川県知事の黒岩祐治は、7月26日午前10時から神奈川県庁で保健福祉局幹部とともに記者会見し、「被害に遭われた方やご家族におかれては、あまりに突然のことでお慰めの言葉もない。県も指導・監督する立場として心からおわび申し上げる。今後被害者支援をできる限り行うと同時に警察の捜査に全面的に協力し、再発防止に全力を尽くす」と謝罪した。
・神奈川県議会は2016年9月8日、「県立津久井やまゆり園で発生した事件の再発防止と共生社会の実現を目指す決議」を全会一致で可決した。同年10月14日、神奈川県は「ともに生きる社会かながわ憲章」を制定した。
・相模原市長の加山俊夫は「犯行の動機などその背景は明らかでありませんが、このような悲惨な事件が本市で起きましたことは心痛に耐えません。障害を抱え、体が不自由な方々を標的にした、許されざる行為に対し、強い憤りを感じております」と事件を非難し、その上で犠牲者へのお悔やみと負傷者へのお見舞いのコメントを寄せた。
・自民党の元参院副議長・山東昭子は、犯罪予告やほのめかした人物、再犯の恐れのある性犯罪者などに対して、GPSを埋め込むようなことも含めた議論をすべきとの考えを示した。
メディア
・『沖縄タイムス』の2016年7月27日の社説では、Aの事件前の言動と行政の対応に言及した上で、“今回の事件は障がい者を標的にした犯罪「ヘイトクライム」である。”と述べている。 このほか、『中日新聞』、『西日本新聞』、『中国新聞』、『毎日新聞』、『東京新聞』、『産経新聞』、日本文化チャンネル桜の記事に、本件犯行について“ヘイトクライム”という語を用いる例が見られた。
・『中国新聞』の2016年7月27日の社説では、犯行を強く非難した上で、“本人の生い立ちや人間関係はもとより事件に潜む社会的な病巣はないのか”と問いかけ、また障害者施設を含めた福祉施設の防犯対策を検討する必要があると指摘している。
・『中日新聞』は2016年7月27日の社説で、Aの事件前の言動に言及した上で、批判の矛先が行政や病院、警察に安易に向けられることについて、「そうした批判は、ともすると地域で暮らす精神障害者への差別や偏見を助長しかねない」と懸念を示した。
・『毎日新聞』は2016年7月27日の社説で、犯行の動機について「軽々に判断すべきではない」と述べ、また事件のあった施設の防犯体制に言及して「障害者施設の運営上の課題を十分に点検すべきだ」と指摘した。
・『毎日新聞』は2016年7月28日、『東京新聞』は2016年7月30日、肉体的生命を奪う「生物学的殺人」と同時に、人間の尊厳や生存の意味そのものを、優生思想によって抹殺する「実存的殺人」という「殺人の二重性」があるとの福島智の指摘を、それぞれ掲載した]。
・『西日本新聞』は2016年7月29日の朝刊オピニオンで「ナチス・ドイツはユダヤ人の大虐殺だけでなく、「T4計画」と呼ばれる非人道的な計画も実行した…」という題で、ナチスが7万人の障害者をユダヤ人と同じようにガス室で殺害した例をあげ、「ヘイトスピーチが横行する社会に、亡霊を呼び寄せる黒い感情が満ちてはいまいか」と警鐘を鳴らした。
・リテラは本事件について、「障がい者大量殺害、相模原事件の容疑者はネトウヨ? 安倍首相、百田尚樹、橋下徹、ケント・ギルバートらをフォロー」と題した記事で、Aがツイッターでフォローしていたのは、いわゆる「ネトウヨが好みそうな極右政治家、文化人がずらりと並んでいる」と報じた。これに対し、『産経新聞』オピニオンiRONNA編集部の白岩賢太編集長は、「Aの一方的な偏見と、国内外で広がりをみせる愛国思想や保守主義を同等に論じるメディアや識者がいる」と発言、「犯人の誇大妄想と右翼思想を無理やり関連づけ」たとして「強い嫌悪感を覚える」と批判した。
・『産経新聞』論説委員鹿島孝一は、今回の事件を受けて、人権派から「予防拘禁だ」「権力が乱用する恐れがある」として反対している「保安処分」を制度化するしかないのではないかと主張している。
・『日本文化チャンネル桜』社長水島総は、Aと在日特権を許さない市民の会などの団体の思想の共通点を取り上げ、「日本人の発想ではない」と批判している。
その他
・知的障害者と家族で作る「全国手をつなぐ育成会連合会」をはじめ、多くの障害者団体が、Aが書いた障害者を侮蔑する内容の文言に対し、緊急の声明や障害者に向けた文章を発表した。
・弁護士の師岡康子は、共同通信のインタビューに答え、Aが障害者を同じ人間として認めず、強い偏見や差別意識をもっていたとし、「特定の集団や個人を標的とする、罪「ヘイトクライム」といえる」とし障害者差別解消法が2016年4月に施行されたことを指摘して、「日本でもヘイトクライムを決して許さない取り組みが必要だ」との意見を述べた。
・作家の石原慎太郎は「この間の、障害者を十九人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味で分かるんですよ」とAの行為に理解を示した。
・川崎市中原区にある障害者施設の施設長は、「障害者を排除するという被告の極端な考え方は、施設で働いていたからこそエスカレートしたのではないか」と問題を提起した。職員が障害者を主従関係で扱っているようになれば、「他の施設でも起きないとは限らない」という。事件の背景には「社会に潜在する障害者への差別意識」があり、もともと社会からの風当たりが強い障害者施設で、さらに職員による障害者の管理が厳しくなれば、「みんな障害者を邪魔に思っているんだ。差別して何が悪いんだ」という虐待の温床になりかねないと、障害者施設のあり方を問題視している。
・事件後、神奈川県警には「いつAに面会できますか?」という問い合わせが相次ぎ、その中には「労いの言葉をかけたい」「応援してるので、差し入れしたい」などの内容もあった。また、Twitterなどのインターネット上でもAの残虐な犯行を賞賛・支持したり、Aを英雄視するコメントが相次いだ。
・津久井やまゆり園の元職員で、専修大学講師(社会思想史)の西角純志は拘置所にいる被告Aと面会を続けている。西角はやまゆり園の職員として2001〜2005年の間、亡くなった19人のうち7人の生活支援を担当していた。津久井やまゆり園の事件の背景には、被告自身の優生思想やヘイトクライム(憎悪犯罪)があるなどと言われているが、西角は面会を通して、被告Aが優生思想もヘイトクライムという言葉も、ナチスが障害者らを大量殺害した「T4作戦」も知らなかったことがわかり、事件後の報道や差し入れられた本などで知識をつけ、結果的にそれを自ら犯した殺人を正当化するのに利用しているのだと感じたと述べている。
国際社会の反応
・アメリカのホワイトハウスは「障害者施設で事件が起きたことに強い嫌悪感を感じる」という主旨の声明を発表している。
・アメリカ国務長官のジョン・ケリーは「テロリズムの一種」と批難し、「つらい時を過ごす人達を想って祈りを捧げたい」と弔意を表した。
・ロシア大統領のウラジーミル・プーチンは「無防備な障害者に対する犯罪は、その残忍さと冷徹さで衝撃を与えた」と弔電を出している。
・ローマ教皇フランシスコは事件で人命が失われたことに「悲嘆」を表明し、「困難な時における癒し」を祈願した。
派生した事件・犯罪
事件発生後、これに関連・便乗した事件が発生した。
・2016年7月29日、横浜市の障害者就労支援施設を破壊するとの予告メールを送った無職の男が神奈川県警に威力業務妨害容疑で逮捕された。
・同年10月13日、水戸市の介護施設でこの事件を想起させる脅迫文がばらまかれた。茨城県警察は威力業務妨害の疑いで捜査を開始した。
・同年11月10日、津山市の障害者支援施設へ脅迫電話がかけられた。翌日、岡山県の無職の男が威力業務妨害容疑で岡山県警察に逮捕された。 
 
大量殺人鬼・植松聖容疑者の全貌

 

津久井やまゆり園から26日午前2時45分ごろ、刃物を持った男が侵入し暴れていると110番通報があった。計45人が刺され、男性9人と女性10人が死亡、男女20人が重傷、6人が軽傷を負うなどして病院へ搬送された。日本経済新聞によると、死亡した19人は18〜70歳。
植松容疑者は午前3時ごろ、神奈川県警津久井署に車で出頭。所持していたかばんの中からは複数のナイフや包丁が見つかり、一部には血が付いていたという。また、血の付いた毛布も車の中から見つかった。
植松容疑者は「ナイフで刺したことに間違いない」(同紙)と話し、容疑を認めている。出頭時には「やつをやった」と話していたという。

学生生活は比較的良好
植松聖容疑者のFacebookでは、帝京大の友人が大勢おり、大学生活や友人らとの関係性は比較的良好であることが伺えました。
近隣住民や知人の証言
「子供が大好きな人。うちの子供ともよく遊んでもらっていた。事件の前日にもうちの子供が(植松容疑者に)会ったみたいだけど、普通に『久しぶり〜』みたいな感じで、変わった様子はなかったみたい。明るい好青年だった。逮捕されたと聞いてとても驚いている」
「事件を起こすような子じゃない」
「最近、髪を金髪にしたりして、急に見た目が変わった。あんなに明るい好青年だったのにどうしちゃったんだろうって」
「とても明るく、挨拶もしっかりしてくれていた。友達も多いようで、家には頻繁に友達が遊びに来ていた」
「高校で同級生でしたが、誰とでも仲良くなれるような明るい性格でした。小学校の先生を目指して大学に進学しました」
「楽観的なやつ。事件については信じられない。本当に明るいやつで、全然人に危害を加えるようなタイプの人間じゃない」
20代に入り刺青を入れるなど変化の兆し
20代前半のいつからか不良仲間とみられる交友関係を持つようになり、上半身に大きな和彫りの刺青を入れているほか、下半身にも刺青を入れており、髪を金髪に染めるなど、見た目がどんどん派手になっていったということです。
小学校教員になれず挫折
小学校の教員を目指していた植松聖容疑者でしたが、刺青が原因でその道には進むことができず、大学卒業後は民間企業の運送業など職を転々としていたとみられています。
そして2012年12月から神奈川県相模原市緑区千木良の障害者施設「津久井やまゆり園」で働き始めました。
家族が自宅から出ていき1人暮らしに
植松聖容疑者は両親と暮らしていたということですが、3年〜4年ほど前に両親が自宅から出て行ったことから、現在は1人暮らしをしていたということです。
なぜ両親が出たのかはわかっていませんが、出て行く前に大きな叫び声のような声が聞こえていたという証言があることから、家族間で何らかのトラブルがあったものとみられています。
兄弟などに関する情報は発表されていません。自宅は相模原市緑区で、事件現場からほど近い場所にあります。
衆議院議長公邸に手紙を投函
今年2月に植松聖容疑者は、衆議院議長公邸に行って「障害者が安楽死できる世界を」とする題名で、障害者の抹殺計画・殺害の見返り・自身のプロフィールなどが記載された手紙を渡すなど、行動に異変がみられはじめました。
さらに2月18日には、職場の同僚に「重度障害者を殺す」などと話したことから、施設側は2月19日に神奈川県警津久井署に通報したといいます。
大麻の陽性反応
その後、警察官との面談後に病院での診察を受けたということですが、医師は躁病と診断し、「他害の恐れがある」として、精神保健福祉法に基づき植松聖容疑者を措置入院としました。大麻の陽性反応もあったということです。
※大麻は法律で「所持」が禁止されていますが、覚せい剤など他の薬物とは違い「使用」が禁止されていないため、陽性反応が出ても逮捕されません。
精神病院へ措置入院
これにより植松聖容疑者は病院へ入院することとなりましたが、わずか2週間後の3月2日には退院し、それから無職の生活を送っていたとみられています。
なお津久井やまゆり園に関しては、2016年2月19日付けで、「自己都合」という理由での退職(事実上のクビ)となっています。2012年12月1日から約3年3ヶ月ほど働いていたことになります。
犯行決行
県警によると、植松容疑者は同施設の近くに住んでおり、同日午前3時すぎ、車に乗って1人で出頭した。所持品のかばんに血の付いた包丁とナイフが計3本入っていた。乗っていたとみられる車の助手席には、血の付いたタオルなどが散乱していた。
被害に遭ったのは、施設内の東西に2棟ある居住棟のうち、東側の1階と、西側の1、2階の部屋にいた入所者や職員ら。結束バンドで縛られた職員もいた。東側1階にある部屋の窓ガラスが割れ、近くにハンマーが落ちており、県警は侵入経路とみて確認を進めている。
2人の職員を施設内の手すりなどに縛り付け、襲撃を続けたという。
死亡したのは男性9人、女性10人。他に男女20人が重傷、6人が軽傷を負うなどし、周辺の病院へ搬送された。搬送先の病院によると、重傷者の多くは首などに深い刺し傷があり、意識不明の重体の人もいる。
出頭、勝ち誇った笑み
最後の書き込みは、110番通報の直後とみられる26日午前2時50分。「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」と記載。赤いネクタイに白いワイシャツ、黒いスーツ姿で、口を半開きにし、少し固い笑みを浮かべて正面を向いた自撮り写真を掲載している。
捜査本部によると、植松容疑者は「突然のお別れをさせるようになってしまい、遺族の方には心から謝罪したいと思います」と供述している。
植松容疑者が書いた手紙(1枚目)
衆議院議長大島理森様(1枚目)
この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。
私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。
障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。
フリーメイソンからなる●●●●が作られた●●●●を勉強させて頂きました。戦争で未来ある人間が殺されるのはとても悲しく、多くの憎しみを生みますが、障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。
今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。
世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。
私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。
衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。
内容に一貫性がなく支離滅裂な内容(2枚目)
私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想で今回の作戦を、提案を上げる訳ではありません。全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。
今までの人生設計では、大学で取得した小学校教諭免許と現在勤務している障害者施設での経験を生かし、特別支援学校の教員を目指していました。それまでは運送業で働きながら●●●●が叔父である立派な先生の元で3年間修行させて頂きました。
9月車で事故に遭い目に後遺障害が残り、300万円程頂ける予定です。そのお金で●●●●の株を購入する予定でした。●●●●はフリーメイソンだと考え(●●●●にも記載)今後も更なる発展を信じております。
外見はとても大切なことに気づき、容姿に自信が無い為、美容整形を行います。進化の先にある大きい瞳、小さい顔、宇宙人が代表するイメージ
それらを実現しております。私はUFOを2回見たことがあります。未来人なのかも知れません。
本当は後2つお願いがございます。今回の話とは別件ですが、耳を傾けて頂ければ幸いです。何卒宜しくお願い致します。
医療大麻の導入
精神薬を服用する人は確実に頭がマイナス思考になり、人生に絶望しております。心を壊す毒に頼らずに、地球の奇跡が生んだ大麻の力は必要不可欠だと考えます。何卒宜しくお願い致します。私は信頼できる仲間とカジノの建設、過すことを目的として歩いています。
日本には既に多くの賭事が存在しています。パチンコは人生を蝕みます。街を歩けば違法な賭事も数多くあります。裏の事情が有り、脅されているのかも知れません。それらは皆様の熱意で決行することができます。恐い人達には国が新しいシノギの模索、提供することで協調できればと考えました。日本軍の設立。刺青を認め、簡単な筆記試験にする。
出過ぎた発言をしてしまし、本当に申し訳ありません。今回の革命で日本国が生まれ変わればと考えております。
手紙には植松聖容疑者の名前や住所などの連絡先も記載(3枚目)
作戦内容
職員の少ない夜勤に決行致します。重複障害者が多く在籍している2つの園【津久井やまゆり、●●●●)を標的とします。見守り職員は結束バンドで身動き、外部との連絡をとれなくします。職員は絶対に傷つけず、速やかに作戦を実行します。2つの園260名を抹殺した後は自首します。
作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。新しい名前(●●●●)、本籍、運転免許証等の生活に必要な書類、美容整形による一般社会への擬態。金銭的支援5億円。これらを確約して頂ければと考えております。
ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。日本国と世界平和の為に何卒よろしくお願い致します。想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。
植松聖(うえまつ さとし)
獄中においても全く変わらぬ主張を繰り返している
「正しいことは、誰かがやらなければならないんです。たとえ僕が死刑になったとしても、何かが伝われば有意義だと思っています」
「事件を起こしたことは、今でも間違っていなかったと思います。意思疎通のとれない人間は“心失者”です。心失者は人の幸せを奪い、不幸をばら撒く存在です」
整形、容姿に対するコンプレックスを吐露
「画家の先生。私は非常に不細工な顔をしているので、実際に見えたものよりも、少しでも盛ってきれいに描いてもらえませんか。私は容姿が悪いので、ただでさえ上から目線だと言われ誤解されやすいんです」
「これでも相当整形していじったんです。お願いですから少しでも盛って描いて欲しいんです」
獄中では漫画を描き続けている
(2018年7月)植松聖被告の手記をまとめた本「開けられたパンドラの箱」が出版される。 
 
相模原障害者施設殺傷事件 “オウム真理教との共通点”

 

相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件から2年が経った。殺人などの罪で起訴された元職員の植松聖被告(28)は、「重度の障害者は安楽死させた方がいい」という独善的な主張を持ち、凶行に及んだ。逮捕後もこの持論は何も変わっていない。
そのなかで今月、植松被告の手記やマンガなどをまとめた『開けられたパンドラの箱』が創出版より発売された。手記については同社の月刊誌「創」にすでに掲載されていたが、一冊の本となって出版されたことに批判の声も上がっている。
なぜ、差別主義者で大量殺人犯の手記を本にまとめたのか。篠田博之編集長(66)にその理由を聞いた。

──殺人犯の手記といえば2016年4月、神戸連続児童殺傷事件の犯人が「元少年A」の名前で出版した『絶歌』(太田出版)があります。本がベストセラーになったことで「出版の自由」をめぐって大きな議論になりました。
まず前提として、「元少年A」の『絶歌』はある種の作品として書かれたもので、被害者感情への配慮といったことはほとんどなされていない本です。それに対して『開けられたパンドラの箱』は事件を解明するという報道のスタンスに立った本で、植松被告の発言はその素材のひとつなのです。ただ、彼の発言や主張がまとまった形で世に出るのは初めてなので、いろいろな議論を巻き起こしているわけですね。
ただ誤解している人もいるのですが、植松被告の発言や手記は3部構成の第1部だけで、しかも彼の主張をそのまま掲載しているのではなく批判的に検証しています。また、本では植松被告の主張に対して、事件の被害者家族や障害者家族などの批判や、精神科医による分析なども掲載しており、事件を多角的に検証したものなんです。
私自身も20回ほど植松被告と面会していますので、そこで本人に聞いた事件の経過も掲載しました。あの事件の詳細はほとんど明らかになっていませんでしたから、その取材で初めてわかったこともたくさんありました。
──批判が起きることは覚悟していたのでしょうか。
もちろん、批判があるだろうことは予想していました。それでも出版しなければと考えたのは、この事件は日本社会に深刻な問題を投げかけたのに、この1年ほど、マスコミがほとんど報道もしなくなり、急速に風化しているという現状に危機感があったからです。
一方で、障害者やその関係者はいまだに恐怖を抱えているのですが、その恐怖は、真相が解明されていないからだと思います。障害者施設の職員だった人間が、なぜあのような考え方に至ってしまったのか、そもそも植松被告自身が精神的な病いにおかされての犯行なのか。精神鑑定も既に2回行われていますが、事件の骨格に関わる部分がほとんど明らかになっておらず、それゆえ恐怖はいつまでも続いているのです。一般の人たちの無関心と当事者たちの恐怖という、このいびつな現実を突破するのはメディアの役割と責任だと思っています。
植松被告の手紙や手記を掲載したのは「創」の昨年9月号からです。意外に思われるかもしれませんが、障害者やその関係者から大きな関心が寄せられ、真相解明を求める声が予想以上に多かった。障害者や家族、あるいは施設で働く人にとって、この事件の衝撃と恐怖がいかに大きかったかということです。
植松被告の裁判はこれから開かれますが、死刑になる可能性が高いと言われています。彼は重度の障害者だけでなく、死刑囚についても「いつまでも執行しないのは間違いだ」と主張しているので、彼に対する裁きはそう遠くないうちになされる可能性があります。ただ問題はそれで終わらず、大事なのは事件やその背景を解明することです。植松被告を罰しただけでは事件の再発防止にはなりません。犯罪というのは社会に対するある種の警告ですから、それにこの社会がどうやったら対抗できるのかが問われているのです。
──篠田編集長はこれまで宮崎勤元死刑囚など、多くの死刑囚と面会をしています。植松被告の印象は。
植松被告の犯罪は、印象としてはオウム事件に似ています。犯罪を犯した当事者の意識は、主観的には社会改造なんですね。ですから彼はいまだに自分の考えに異様なまでに固執しています。
2016年2月に彼は総理大臣に自分の主張を訴えようとして手紙を持っていくのですが、警備が厳しいので3日間通った末に衆議院議長公邸に手紙を渡します。手紙の内容は殺害予告だったのですが、彼がそんなふうに思いつめていくのがそう以前からでなく、2月初め頃からなんですね。そんなふうに短期間におかしくなっていったプロセスや、いまだにその考えに固執している異様さを見ると、何らかの精神的疾患によるという疑いも捨てきれません。
気になるのは、彼が2016年2月にそうなっていくひとつのきっかけは、テレビでトランプ大統領候補とイスラム国のニュースを見たことなんですね。つまり混迷している世界状況を、暴力的に片づけていくという発想に、彼は傾いていくのです。今回の本に収録した植松被告の30ページにも及ぶマンガ(資料参照)があるのですが、それは人類社会に絶望して暴力的に破壊するというストーリーです。これを彼は獄中で約半年かけて描いていったのです。
暴力的な破壊は結局、社会的弱者を攻撃の対象にすることになるのですが、日本だけではなく世界で蔓延している排除の思想が明らかに植松被告に投影されていると思います。だからこの事件は恐ろしいのです。被告本人を極刑にしただけで解決するような問題ではありません。
──事件は、日本社会にどんな問題提起をしたのでしょうか。
たとえば、植松被告は事件の約半年前に犯行を予告し、ほぼその通りに決行しています。この犯罪をどこかの段階で防ぐことができなかったのか。彼は措置入院によって精神病院に送られるのですが、精神科医はもちろん治療が目的なので、症状がおさまれば退院させるわけです。でも彼の手記を読むとわかりますが、彼は措置入院中に事件の決行を決意し、早く退院するためにおとなしく振舞っていたのです。しかも退院後は決行までの間は生活保護を受けて食いつないでいくとか、犯行へ向けて準備を進めていくのです。
それに対して退院後は何のフォローもなされていません。行政側は対応しようとしていたのですが、最初、植松被告は、八王子の親のもとへ戻ると言いながら実際は相模原に戻っていた。八王子と相模原の行政側の連携ができていなかったために何もできずに事件を防げなかったのです。
そもそも彼のようなケースに対して、精神病院に犯罪予防的な機能を負わせること自体、無理があるわけで、こういう事件に対抗するシステム自体ができていないのですね。なぜそれが難しいかと言えば、それは監視社会の強化ということと結びついているからです。「ケア」というのは、される側からみれば「監視」なのです。
そういう難しい問題をたくさん抱えている事件だけに、現時点では何の有効な対策も講じられていません。この1年間、事件の報道がほとんどなされなかったのも、そういう難しい問題に多くのマスコミがたじろいだためだと思っています。
──日本には、まだ障害者差別の考え方が根強いのでしょうか。
19人の犠牲者がいまだに匿名のままであることが象徴的ですね。誰もが総論としては「障害者を助けたい」と言うのですが、現実にはあまり関わりたくないと思っている。この事件への無関心が広がっているのはそのためでしょう。
その一方で、ヘイトスピーチに象徴される、ある種の排外主義が日本で急速に拡散しつつあります。植松被告の考えがそれとどこかでつながっているのは明らかだと思います。
この事件は、日本社会の中にあった「パンドラの箱」を開けてしまった。障害者差別の問題を含め、これまで曖昧にされてきた多くの問題をこの事件は表にさらしました。だから、この社会は、もっとこの事件にきちんと向き合わないといけないと考えています。今回の出版は、そのきっかけになってくれればという思いから行ったものです。 
 

 

 
 
 
 
■大口病院事件

 

 
大口病院事件報道
大口病院事件の犯人は誰?
 看護師やツイッター通報者の介護福祉士が気になる
横浜市神奈川区の大口病院にて、点滴に界面活性剤が混入された異物混入事件について、犯人は一体、誰なのでしょうか。
点滴に混入された界面活性剤の成分は、病院内で使われている消毒液と同じことがわかっており、異物は注射器を使って接続部から混入させた疑いが高いため、犯人は、大口病院の内情に詳しく医療の知識がある人間ではとのことで、病院内の看護師ではないかと噂されています。
また、9月20日に起こった事件発生以前から、大口病院で続発していたトラブルについてツイッターやメールで告発・通報していた介護福祉士のFUSHICHOU(ツイッターのアカウント名)の存在が明らかとなりました。
未だ謎の多き大口病院の4階で起こった異物混入事件について、犯人が誰であるのかに迫りたいと思います。
大口病院の異物混入事件の犯人は誰?
横浜市神奈川区の大口病院で起こった点滴への異物混入事件について、警察は、何者かが、八巻信雄さんと西川惣蔵さん2人の点滴に界面活性剤を点滴のゴム栓部分から注入した可能性が高いとして捜査を進めています。
大口病院では点滴は通常、当日の朝から翌朝の分までが各フロアに運ばれるのですが、八巻信雄さんの事件があった9月19日は3連休最終日のため、17日の土曜日の朝に、9月17日、18日、19日の3日分が準備され、ナースステーションで保管されていたそうです。
この3日間の間に、4階のナースステーションで保管されている点滴に、何者かが界面活性剤の成分が入った消毒液が混入されたということになりますが、西川惣蔵さんの点滴が最後に交換されたのは18日の午前中だったことから、点滴への異物混入は、17日午前から18日午前の間に行われた可能性が高いことがわかってきました。
警察によると、4階で保管されていた未開封の消毒液の1つがへこんでいて、中の液体が抜かれたようなあとがあることがあったとのこと。
そして、4階のナースステーションには事件後、未使用の点滴が約50個残されていたそうですが、その内の10袋前後の点滴のゴム栓には、穴が空いているものがみつかっています。
穴が開けられたそれらの点滴には、いずれもどの患者に投与する予定であるかが書かれてあり、八巻信雄さんと西川惣蔵さん以外の入院患者の名前が記されていた点滴袋も含まれていたそうです。
大口病院の4階には自分で食事を取れない等、症状が重い患者が多いそうで、警察はこうした重症患者ばかりが狙われた可能性もあるとみて調べていると言います。
最初に事件発覚となった八巻信雄さんだけでなく、西川惣蔵さんを始め不特定多数を狙って異物を混入させた可能性が出て来たことで、犯人は病院対する恨みを持った人物であるかもしれないとの可能性が高くなってきました。
犯人が誰であるのか、どういう人間であるのかを考えていくと、注射器を使って混入させるという素人では想像がつかない方法であることから、医療の知識がある人間、そして、保管されていた消毒液や、点滴が保管されていたナースステーションに出入りが出来ることを考えると、大口病院の内情に詳しい人間ということになるかと思います。
一番、可能性が高いと怪しまれているのはやはり大口病院の看護師になってしまうかと思います。
大口病院の高橋洋一院長は、「内部の関係者ということも否定はできない」とコメントしています。
数々の取材や報道を受け、大口病院の職員はストレスを抱えている状態だと言います。
一日も早く、犯人が判明することが望まれます。 
大口病院の看護師トラブル!犯人を特定も逮捕出来ない理由とは 10/4
神奈川県横浜市にある大口病院で、4階に入院していた患者二人が9月23日から27日にかけて中毒死した事件。原因は何者かが未使用の点滴に界面活性剤を混入したと見られており、現在もまだ犯人特定・逮捕に至っていません。しかも今年の7月1日から9月20日までの間に、48人もの患者さんが4階で死亡しており、他にも同様の手口で犠牲になった方がいる可能性が高いのです。今回は複数の週刊誌を読んだ内容から見られる、看護師間のトラブルと、犯人を特定しても逮捕に至るには難しいとされる原因を探ってみたいと思います。「4階は呪われている」と噂された大口病院に一体何が起こっていたのでしょうか。お時間あればお付き合いください。
元大口病院のパート看護師が動機について語る
10月4日発売のFLASH誌で、大口病院にパート看護師として働いたことのある40代女性が今回の事件についての以下のような証言をしていました。
「病院に恨みのある職員の犯行で、看護師だと思います。(中略)薬剤師でも犯行は可能ですね。亡くなった二人の患者さんは、栄養剤と電解質輸液剤の点滴をしていた。栄養剤は、使用直前に薬剤師が調合することになっていて、そのときに何かを混入しようと思えばできる。電解質輸液剤は1階の薬剤保管庫に常時保管されているので、事前に消毒薬を注入できる。いつ誰に点滴されるかわからない”点滴ロシアンルーレット”です」
さらに、その女性が言うには、事件を知った時は”ついに起きたか…”と思ったそうです。もともと大口病院には不満を持っている働き手が多いという印象があったようで、実際にパワハラが蔓延しており、常に看護師不足の状態でハローワークにいつも求人募集をかけていたそうです。採血のような初歩的な技術さえもままならない未熟な看護師さんもいたり、ストレスからメンタルを壊したり、他の病院をクビになった看護師さんもいたようです。
そして9月29日発売の週刊新潮には、点滴パックが納品されてから実際に患者さんに点滴されるまでの流れが掲載されていました。。点滴は納品されたら一旦、薬剤部で保管するそうです。そこで薬剤師が袋に患者の氏名と使用日が書かれたラベルを貼って、各階のナースステーションに運ばれます。その後、看護師達が部屋ごとや点滴する時間ごとに仕分けするそうですが、ナースステーションが狭いため、外の待合所的なスペースでその作業を行うようです。そして、夜の分は夜勤担当の看護師が使うまでナースステーション内で無施錠の状態で保管されます。
以上から見ると、厳重に管理されているとは言えませんし、やろうと思えば薬剤師だって看護師だって可能だということが分かります。捜査関係者も内部の人間の犯行を疑っているそうです。
大口病院4階で起きた3件の看護師トラブルと告発者の男性
では一体誰が犯人なのか…。今回の事件をややこしくしているのが、4階で起きた看護師間のトラブルとそれを告発した男性の存在です。最近起きた3件のトラブルとその男性について以下に整理しました。
【2016年4月】 4階のナースステーションにあった看護師のエプロンが切り裂かれていた。
【2016年6月】 医師の机から患者のカルテが数枚抜き取られ、その一部が看護部長の机で発見された
【2016年8月】 看護師のペットボトルに異臭がし、上部に注射針程度の穴が開いていた
この3件のトラブルについてですが、4月にあったエプロンを切り裂かれた看護師の夫が、8月にツイッターでつぶやいていたのです。

住所:神奈川県横浜市神奈川区大口通130にある大口病院、4階病棟にて漂白剤らしき物が混入される事件発生、看護師スタッフが漂白剤らしき物を混入された飲み物を飲んで唇がただれなどの被害を受けました。2016年8月12日 19:24
なお、同病院、同病棟では今年、看護師スタッフのエプロン切り裂き事件、カルテ紛失事件が発生しております。2016年8月12日 19:26
各テレビ局、各新聞社の取材に対応仕切れないのでツイートします。私はエプロン切り裂き事件から今回の事件まで発展してしまう事を予測していましただから7月に秘守義務より通報義務優先で横浜市に通報しました。2016年9月24日 01:14

しかし、この夫の奥さん(看護師)と、8月のペットボトル事件の被害者の女性看護師とはまた別人なのだそうです。同じであればもう少し犯人が絞られそうな気がするのですが、複数の看護師が狙われているのでややこしくなっています。しかもペットボトルの被害者の看護師は、病院内で”変わってる”と評判の女性らしく、”自作自演なんじゃないの?”と噂されるほどの人物だそうです。彼女は8月に神奈川署に相談したそうで、ペットボトル事件の他に”病院の上層部に差別された”と言っていたそうです。その看護師は年齢が20〜30代と見られ、9月末で退職したようです。
犯人を特定しても逮捕は難しい理由とは
ネットや週刊誌の情報を見ると、警察はある程度犯人は特定出来ていそうな感じはあるのですが、それを裏付ける証拠が無いようなのです。事実、院内には防犯カメラが設置されておらず、犯行時にゴム手袋をすれば指紋も残りません。なのでいくら犯人と思われる人物を取り調べしても、その本人が否定すればそれ以上追求する術がないのが現状のようです。
さらに、大口病院のような終末期患者を抱えるようないわゆる”老人病院”では、国による医療費抑制政策の為に、保険点数が低く抑えれられているそうなのです。その結果、病院側は予算を削る他無く、管理も杜撰になって行きます。よって、このような管理が行き届いていない現場での内部犯行は、物証が乏しくなってしまい、結果的に立証は難しくなるのです。そして、不気味なことに事件発覚以降、4階ではまだ誰も亡くなっていないのです…。この事は一体何を意味しているのでしょうか…。
この話題の裏側を考える
今回の大口病院の事件は、おそらくほぼ犯人は特定出来ていると思われるのですが、やはり証拠がないのだと思います。なので正確には”特定”ではないのでしょうけど、もしかするとこのまま犯人は逮捕されないのかもしれません。過去にも、このような医療施設や老人ホームで発生した殺人事件がありましたが、逮捕まで時間がかかったり、裁判が難航したりしているケースがあります。
2014年末に川崎市の老人ホームで起きた連続転落死事件では、容疑者が逮捕されたのは1年以上経った2016年2月でした。取り調べでは介護の仕事に対する不満やストレスを話していたそうですが、その後黙秘に転じ、公判は始まっているのですが、物証も少なく難航が予想されてるようです。
1999年から2000年に仙台市で起きた筋弛緩剤を点滴に混入し殺害した事件では、8年後の2008年にようやく無期懲役が確定しました。しかし、最後まで無罪を主張していた被告は、確定後も再審申請を行っています。
今回の大口病院の事件も同じような軌跡をたどるような気がしてなりません。私の父もそろそろ80歳になります。今回の事件は決して対岸の火事ではありません…。 
連続殺人「大口病院」元看護師が「事件の動機」を独占告白 10/5
9月23日から27日にかけて、入院患者2人の中毒死が相次いで発覚した横浜市の大口病院。混乱はいまも続く。
「大口病院は、ほかで見放された終末期の患者が、比較的安く入院できる病院です。近所の人が大口病院に入院すると、『ああ、あの人ももうだめか』と誰もが思っていた。病院前の道路は“霊柩車通り”と呼ばれ、亡くなる入院患者は常に多かった」
病院の近所に住む男性はそう語る。事件が発覚した4階では、7月1日から9月20日までに48人が死亡しており、ほかにも犠牲者がいる可能性は高い。未使用の点滴用の輸液に、消毒薬を混入させる犯行方法から、病院内部の人間に疑いの目が向けられている。
「亡くなられた患者さんには本当にお気の毒ですが、事件を知ったときは、ついに起きたか、と思いました。ここは、不満を持っている働き手がとにかく多かったので」
こう語るのは、同院にパート看護師として勤務した経験がある現役看護師、安藤宏子さん(40代、仮名)だ。
「もともと大口病院は、今のような終末期の病院ではなく、小児科、産科、泌尿器科が評判の総合病院でした。しかし1984年、大口駅の反対側に系列の大口東総合病院が出来て、終末医療とリハビリ中心の病院に転換。『大口病院は勤務環境が悪い。できれば東病院で働きたい』と、不満をもつ看護師が多かったのです。
外来担当は看護師が20〜30人、(今回事件が起きた)病棟担当はもう少し多かったけど、そのほとんどが准看護師でした。私もパートで、時給は1700円と、相場より安かった。
パワハラも蔓延し、看護師不足が常態化していた。常にハローワークに求人をかけている状態でした。採血など初歩的なスキルさえ未熟な看護師もおり、ストレスで精神を病んだり、ほかの病院を解雇された看護師もいました」
同院に通院したことのある近隣住民はこう言う。
「外来は待ち時間が少なく『穴場』だと評判でしたが、看護師の態度は、がさつで丁寧ではなかった」
患者が亡くなった4階のナースステーションには、使用前の点滴50本が箱に入れて置かれていた。そのなかの10本の電解質輸液剤に、保護シールの上から、ゴム栓に注射針で刺したような穴が開いていた。捜査関係者が語る。
「院内に防犯カメラがないため、犯行証明ができないでいる。ゴム手袋をしていれば指紋も残らない。そのため、病院関係者を取り調べても、本人が否定すれば、それ以上追及できないでいるのです」
事件発覚後、病院4階では患者は亡くなっていない。48人のうち、いったい何人が「殺人点滴」の毒牙にかけられたのだろうか。 
大口病院事件の犯人の特定の最新情報!目星はついているのか?
横浜市の大口病院において三か月で50人もの入院患者が次々と亡くなった。その後死亡した患者の点滴に、界面活性剤が混入されていたことが判明し、連続殺人事件の可能性が出てきたことで大きな問題となっている。そして事件が発生してから十日が経っても、未だに進展はみられない。
現場で状況を見守るマスコミの関係者の間では、すでに犯人の目星はついていると思われていることから、容疑者として疑われているのは大口病院に勤める看護師の二人だということまでが特定できたそうだ。しかし調べてみるところ、大口病院の内部状況は続々と判明されていき、通常の病院とは異なった勤務が見られる。現在の最新情報や犯人の逮捕が遅れている理由をまとめてみた。
捜査線上に浮上した二人の容疑者
大口病院中毒死事件の犯人は病院に勤める看護師であることは、警察がすでに目星をつけているという情報があった。現在の捜査線上には、二人の人物が浮上しているそうだ。
最初に容疑者として浮上したのは看護師Xだ。看護師Xは一部の病院関係者に「変わり者」と言われているという。極度の心配性であり、潔癖症で他人が使用したボールペンなどに触れないくせにして、身内でも親しい仲でもない患者の飲み残したものを口にするということがあった。
それ以外にも寝たきりの患者に関して暴言を放つこともあり、注意を受けてもこういった行為はやめずに続けていたたとのことだった。さらにに看護師Xはとんでもないいじめの加害者である。同僚のエプロンを引き裂いたり、飲み物に漂白剤を入れたりして、非常に悪質な人間だということが推測される。
しかし、病院の方は看護師Xがトラブルメーカーだったことを認めたが、今回の事件とはまったく関係ないと断定しているという。次に浮上した容疑者は看護師Xのいじめに遭ったことがある看護師Yだ。いじめで溜めたストレスを発散するため、その鬱憤を患者にぶつけたのではないかと疑われた。
看護師Xとはどのような関係なのか分からないが、すでに看護師Xと別々に呼び出され、事情聴取が行われたという。しかし、その事情聴取の結果、看護師Yは犯人である可能性が極めて低いと考えられ、捜査は難航しているとのことだ。
犯人逮捕が遅い理由
事件発生してから10日が経ち、容疑者も絞りやすい状況の中、未だに犯人を逮捕する事ができない理由とは何なのだろうか。
先ず1つ目は病院内の防犯体制に不備な点があることだ。防犯カメラは入口の1ケ所しか設置しておらず、犯人が点滴に触れようと思えば簡単に触れられてしまう。そのため、防犯カメラの映像によって決定的な証拠が見つからないのだ。
2つ目は、病院の管理体制に関係する。とある男性によると、家族のお見舞いに病院を訪ねた時、四階のナースステーションに点滴袋が、そのまま置かれているのを見たと証言し、大口病院の管理体制のずさんさが指摘されたことがあるという。また、院内感染予防として、ゴム手袋を着用する義務が付けられており、重要な証拠となる指紋の採取することができないと判断される。
そして大口病院について、ある病院関係者によると、他の病院で問題を起こした職員が移動してくる病院だったという。まさに問題の塊である。事件のことに対して、呪われていると捉える職員が多く、いじめ行為を当たり前のように考えているそうだ。
病院というのは命に携わる施設であり、できるだけ多くの命を救うために存在しているはずだ。しかし、大病院では慢性的な人員不足に陥ることもあり、とりあえず資格があれば採用するということもある。現場のモラルが低下しだすと、止まらなくなる。
医療現場の労働環境。この問題を治さないことには、根本解決に至らないのではないか。 
横浜点滴殺人「内部犯行説」で浮上した「終末病棟」の闇現場
神奈川県横浜市の大口病院で起こった点滴殺人。現場付近の飲食店店主は、「マスコミのカメラが店の前まで占拠するもんだから、客足が遠のいていますよ」と音を上げているが、何せ人の出入りが少ない病院内での密室犯行。戦慄の犯人像はしぼられつつあるようだ。
終末期医療が専門の4階ナースステーションに保管されていた点滴袋に何者かが注射器を使って、界面活性剤を混入。9月18日、20日と80代の入院患者2人が立て続けに中毒死した。
9月27日、高橋洋一院長は報道陣を前に、沈痛な表情で声をしぼり出した。
「犯人が腹立たしい。皆目見当がつかないが、内部の可能性も否定できない」
捜査関係者が語る。
「当初、怨恨の線で被害者の人間関係を洗ったが、それらしき情報は上がってこなかった。点滴袋に界面活性剤が混入されたのは17日以降と見られている。つまり事件当日、犯人は現場に居合わせていなかったかもしれない。ターゲットも無作為。そうなると無差別殺人とも言える鬼畜の所業だ。ナースステーションに出入りできる人物となると、やはり内部犯行を疑う声は強い」
福岡徳洲会病院センター長の長嶺隆二医師は言う。
「たとえ毒性がなくても、点滴薬以外の異物が血管に入れば、2、3分で死亡します。そんなことは、医療従事者であれば誰でも知っています。状況から考えて、注射や点滴の扱いに慣れた医療従事者による犯行の可能性は高い」
また、大口病院では7月から9月20日にかけて、前述した2人以外に46人の入院患者が死亡。8月には1日に5人が亡くなっていたことがわかっている。この「大量死」について、高橋院長はこのように発言した。
「やや多いという感じを受けたので、カルテを見たが、院内感染はないし、重症者が送られてくるのが増えたので、そのせいかなというところで終わっている」
しかし、前出・長嶺医師は疑問を抱く。
「室内での転倒や熱中症で病院に搬送され、死亡するというケースはあるが、わずか数カ月の間に46人が死亡しているのは、異常事態だと言わざるをえない」
注目すべきは、寝たきりの高齢者が患者の大半を占める「終末病棟」で不審死が発生した点だ。大口病院関係者が重い口を開く。
「患者に大した治療を行っていたわけでありません。病院は病床の回転率を上げていかなければ、診療報酬が稼げない。不謹慎かもしれないが、どんどん死んでもらったほうが、新しい患者を受け入れられるので、病院経営にとっては好都合という考え方もできる」
事件の“下地”はできていたというのだろうか。
別の捜査関係者が言う。
「2人の点滴殺人と46人の大量死とのつながりも視野に入れて捜査が進められている」
事件は「無差別大量殺人」として拡大する様相を帯びてきた。その予兆は以前からあったと前出・病院関係者は言う。
「病院は利益優先で、そのしわ寄せは現場に向いていた。最近は看護師の離職率が高く、人手不足で仕事量が増えていた。こうした中、4月には看護師のエプロンが切り裂かれ、さらに患者のカルテが紛失。ペットボトルへの異物混入など、トラブルが続いていた。そして今回の事件ですよ‥‥」
この病院関係者は、1カ月ほど前に、4階ナースステーションで、一人の看護師が疲れた表情を浮かべ、このような不満を漏らしているのを耳にしたという。
「点滴や注射を打っても、よくなるわけでもない」
前出・長嶺医師は、疲弊する終末期医療の闇現場に警鐘を鳴らす。
「我々が激務に耐えられるのは、患者さんの笑顔があるから。しかし、終末期医療では患者さんがよくなる見込みがありません。希望が見いだせないのです。そのため、たくさんの医療従事者が心を病み、ストレスを抱えている。医療界全体で取り組んでいかなければ、同様の事件はまたどこかで起こりうるでしょう」
はたして「すぐ近くに潜んでいた」とされる犯人の正体とは──。近隣に住む60代の女性は、その影におびえるばかりだ。
「週に1回、整形外科外来に通って、膝に注射を打ってもらっていたけど怖くて、今は通院をやめている」
一刻も早い解決が待たれる。 
横浜「大口病院殺人事件」の深い闇
「前代未聞の“大量殺人”なのかもしれません」 事件記者がこう慨嘆するのは、神奈川県横浜市にある大口病院で起きた「点滴連続中毒死事件」のこと。全国紙社会部記者が言う。
「9月20日の明け方、同病院に入院していた八巻信雄さん(88)の心拍数が低下しているのを看護師が発見。午前4時55分、死亡が確認されました。当初は自然死かと思われましたが、八巻さんの点滴に異物が混入された痕跡を看護師が見つけ、警察に通報。捜査の結果、死因は点滴に“界面活性剤”が混入したことによる中毒死で、意図的な殺人であるとの疑いが出てきたんです」
その後の調べで、同月18日に亡くなった西川惣蔵さん(88)も同様に“界面活性剤”による中毒死と判明。2人はともに、終末医療を専門とする“4階”に入院しており、同一犯の可能性が浮上したのだ。そればかりでない。
「今年の7月以降、4階では48人が死亡。終末医療といっても、あまりに不自然な怪死が続くため、関係者の間では“呪われた4階”と呼ばれていました」 同院では、それ以外も、「今年4月、何者かによって、看護師のエプロンが切り裂かれる事件が発覚。続く6月には、医師の机からカルテの抜き取りが発生。そして8月には、看護師が口にしようとしたペットボトルに異物が混入され、騒動となっています」
八巻さんの死去後、警察は106人と大がかりなチームを組んで、捜査を開始したが、発覚後、連続死や不審な事件がストップ。
犯人探しは難航。「今回の事件と類似性が指摘されているのが、2000年に20人が亡くなった、仙台の“筋弛緩剤点滴事件”。ただ、今回と異なるのは、事件発覚後も犯行が続いていたことです。仙台の事件では、守大助准看護師(現受刑者)が筋弛緩剤の空アンプルを捨てに廃棄小屋へ行った際、私服警官に呼び止められ、あっけなく逮捕されています」
最近は、介護施設での“突き落とし”や虐待、病院や施設での事件が相次ぐが、「今年7月に発生した相模原障害者施設殺傷事件では、被疑者は“障害者の安楽死を国が認めてくれないので、自分がやるしかないと思った”と語っているんです。大口病院の犯人も、この発言に感化された可能性も指摘されています」
今はただ、一刻も早い事件の真相究明と、被害者の冥福を祈りたい。 
大口病院事件犯人逮捕はまだ?テレビ報道されない理由・憶測まとめ
横浜市の大口病院で起きた患者の中毒死事件から一週間以上経ち、まだ犯人が逮捕されないことに不安を感じている方も多いことかと思います。
非常に関心の高いニュースだと思われるのですが、昨日辺りからテレビ報道されなくなってきた(減ってきた)その理由が、犯人逮捕が近いからなのか、捜査が難航しているからなのか気になるところです。 もちろん、最悪なのが証拠不十分などで立件に待てが掛かっている状態ですが、今回はそこで色々と憶測されることや噂について整理・まとめてみたいと思います。
大口病院事件犯人逮捕はまだ?
神奈川県横浜市の大口病院で起きた点滴異物混入中毒死事件ですが、事件が発覚して一週間が経った現在も、いまだ犯人逮捕に至っていません。
『神奈川県警は何をやってるんだ!』
『さすがに犯人の特定ぐらい済んでるだろう?』
『もたもたしてると証拠隠滅されても知らんぞ!』
ネット上では様々な憶測が飛び交い、横浜市の大口病院では苦情の電話がかかってきて職員に罵倒を浴びせるなんて輩も出てきているそうです。 犯人逮捕が待たれる中で、誰かが意図的に殺人行為を行なったことは明らかなだけに、不満を募らせる気持ちはわからなくもありません。 しかし、犯人が特定されていない限り、病院職員に罵倒を浴びせるなどという行為はろくなもんじゃないことは言うまでもないことで…。
さて、前回記事では、犯人特定している可能性と犯人逮捕が遅い理由を書きましたが、それにしても遅すぎやしないかということで、なぜここまで犯人逮捕に時間がかかってしまうのか、もう少し踏み込んでみていきましょう。
現在、明らかになっていることは、点滴への異物混入の方法と異物混入がなされた時間帯です。 もちろん、犯人が特定・逮捕されるまではあくまでも可能性の問題になるのですが、ここだけ見てもかなりその対象は絞られるのではないかと考えられます。
中毒死で亡くなった八巻さんと西川さんに使われたという点滴は、9月17日午前中に4階ナースステーションに搬入されたとのこと。 そして、西川さんの点滴を交換したのが18日午前10時頃ということなので、この約24時間以内に、何者かが点滴袋に異物を混入させたとして捜査が進んでいるようです。 
そして、八巻さんが死亡した20日、4階には30代女性看護師2人と17人の入院患者がいたそうですが、八巻さんの点滴を交換したのが前日19日の午後10時頃とのこと。 ただ、これらの情報は私たちに開示される前にわかっていて、現場の勤務体制なども考えた上で犯人特定の目星は付いていそうなものですが、まだ逮捕に至っていないのは決定的な物的証拠がないからなのでしょうか?
その理由は次のように考えられます。
いま挙げたような状況証拠だけでの立件は、裁判になったときに劣勢に回る可能性があるので、神奈川県警も慎重にならざるを得ません。 仮に、犯人が大量殺人を行うことを是とする思想犯だった場合、非常にやっかいな展開になること可能性が考えられるからです。
警察は、無差別殺人の線でも捜査を行っていることから、状況証拠だけではなく、できるだけ物的証拠を掴んでおきたいのは言うまでもないことなのかもしれません
大口病院事件最新情報まとめ
ここでは大口(おおぐち)病院事件での最新情報をまとめてみましょう。(2016年9月29日現在)
まず大口病院の4階では、7月から9月20日の間に48人の入院患者が亡くなったということ。 さらに、未使用の点滴袋約50個の内、約10個の点滴袋に注射器で開けたような穴が発見されています。
そして、点滴に混入されていた異物(界面活性剤)は、製品名ヂアミトールという消毒液だったことが判明しており、混入させる量により中毒症状が出る時間を、犯人がコントロールしていた可能性があるとのこと。
まとめると、犯行の手口や使用された製品などが明らかになり、医療に詳しい人間が行なった可能性が高いというところまではわりとはっきりしているようです。 しかし、今回、八巻さんの点滴による中毒死が公になっていなければ、さらに被害が拡大していたことは間違いなさそうです。
さらに、大口病院の病床数は85床であることも明らかになっています。
4階は比較的重症の高齢者が多かったそうですが、たった85床(一般42床、療養43床)のベッド数で約2ヶ月半の間にその半分以上が病死というのは、なんとも解せない話ではないでしょうか? 7月以降に約50人(48人)もの入院患者がハイペースで亡くなっていて、事件発覚後は通常の入院病棟の様相(事件以後死亡者ゼロ)に戻っていることを考えると、それまでの患者の死亡原因に疑問を抱かなかった医師や病院に、一般人である私たちはある種の怪しさを感じずにはいられません。
うーん、単純に『おかしい』と思わなかったのでしょうか?
ただ、今回のように、偽装の意図が見え隠れした中毒死が発覚すれば、それ以前に病死と診断していたところに疑惑が浮上してきても不思議ではなですからね。 犯人がいまだ逮捕されていないところをみても、7月以降に亡くなられた患者の遺族としては、やはり納得がいかない話のように感じます。
大口病院事件がテレビで報道されない理由
さて、大口病院事件に大きな進展が見られないためか、テレビで報道される時間があっさりしたものになってきました。 ちょうど、豊洲市場問題で話題の小池都知事が所信表明したり、他にも日ハム優勝など、様々なニュースが世間を賑わせていることも理由としてあるのでしょうが、このテレビで報道されない(少ない)ことをどう捉えるか?
それは単純に、捜査が水面下で進展しているため、マスコミへの情報開示が小出しになってきているからなのか、本当に難航しているのでマスコミへの情報開示ができないのかが考えられます。
水面下で捜査が進展している分には何も問題がないのですが、それならここまで時間がかからないはず…。 であるならば、やはり証拠不十分で捜査が難航している可能性もあります。
大口病院には防犯カメラが出入り口に一台しかなく、しかも録画記録もないとのこと。 昔と違い、院内感染を防ぐために医療時には薄いゴム手袋を使用しているので、指紋も採りにくいのかもしれません。 無差別に点滴に異物を混入したのであれば、やはり犯人の特定は難しいとも考えられるので、あと一歩のところで踏み込めない状況に陥っている可能性があります。
このような状況では、やはり捜査は慎重に行わなければならず、そういった意味でテレビでこの事件の報道が少なくなってきているのかもしれません。 ただ、やはり水面下で捜査が進展していると信じたいことは言うまでもないことですが…。
大口病院事件犯人逮捕の憶測まとめ
横浜市の大口病院事件の犯人は一体誰なのか?
犯人逮捕への憶測は誰もが抱いていることだと思いますが、現在、どのような憶測がネット上で噂として回っているのか少しまとめたいと思います。
【看護師】 看護師は一番犯人として憶測が出回っていますが、これはやはり犯行が看護師の業務上で行われることが理由として挙がります。そして、4階ナースステーションで4月から起きているトラブルの数々から、病院内の陰湿な現場の雰囲気が見て取れるので、同僚への嫌がらせや弱者(患者)への憂さ晴らしが原因ではないかと考えられるというのが理由としてあります。
【医師】 医師も、医療を行う点で注射器を扱うと見られています。 しかしながら、点滴などは基本的に看護師が行うことや、医師という命を救う立場であったり、医師免許取得者というステイタスを天秤にかけたときに、わざわざこのような跡が残るような事件を起こすのは考えにくいのではないでしょうか。ただ、死亡診断に疑問が残ることを思えば、医師が犯人である可能性は否めないのかもしれません。
【看護助手(介護士)】 寝たきりの高齢者が多く入院していたとのことで、看護助手(介護士)ではないかという声もあります。 ただ、看護助手が純粋な介護士の場合、注射器を取り扱うことがないので可能性としては低いと見られています。そして、介護士といえば、ツイッター上で大口病院の事件を予測していた『FUSHICHOU』という人物が介護福祉士らしいので、よく介護士(介護福祉士)が怪しいという声がネット上でよく見られます。 『FUSHICHOU』という言葉が『ふしちょう』⇒『ふ死ちょう』⇒『婦死長』という感じで、実は婦長がキーマンではないかとアナグラム的な解釈がされていますが、これはただの偶然だと考えたいですね。 ただ、このツイッターの主が、わざわざ全角大文字アルファベットで『FUSHICHOU』という名前を使っているのは、個人的に気味悪く感じましたが…。
【大口病院全体】 こちらは、前回記事でも詳しく書きましたが、暗黙の了解で江戸時代の姥捨て山のようなことがあったのではないかということです。 本当ならかなりショッキングな話(真実なら大量殺人事件)ですし、そもそもその線についての立件・立証は相当難しいとされているのですが、今年7月に起きた相模原事件や安楽死法案についての議論を考えた時に、実際に組織ぐるみでこのようなことがあってもおかしくないということでしょう。大口病院が大元である特定医療法人財団『慈啓会』の理事長が、生命保険会社『神医社』の代表取締役副社長であることに違和感を感じる人も少なくないようです。
【外部の人間】 専門家によると、院内関係者が点滴に異物混入をする場合、筋弛緩剤などを使うことが考えられるそうですが、異物が消毒剤だとすると、病院に出入りする人なら誰でも注入できる可能性があるそうです。見舞いにきていた遺族の証言によると、ナースステーションの机の上に点滴を無造作に置いてあったこともあったそうで、外部の人間が異物を混入させたという可能性も少なからずあるとのこと。
これはあくまでも、点滴に異物を混入させられる可能性のある人間の場合ですが、犯行の理由や動機によってはこれらの予想をはるかに越えたものになることも考えられます。 それに、人種差別や排他的思想を持つ人間が犯人だった場合、どんな立場であっても犯行に及ぶ可能性は高いでしょう。
大口病院の高橋洋一院長の説明によると、8月以降の患者の死亡者数が増えた理由は、入院医療に関する制度の改定で『在宅復帰率』が求められるようになり、重病患者が大口病院にどんどん送られるようになってきたからではないかということ。 要するに、国は患者を自宅に帰すことを進めたが、家に帰せないような重病患者は大口病院に回されるようになったということですね。 その中には、酸素マスクをするような患者もいたので、病院内での死亡患者が増える結果につながったのではないかと説明してました。
うーん、わからなくもないですが、考え方によってはこのような国の制度は、仮に犯人が思想犯だった場合、大きな動機になり得るのかもしれません。
もちろん、院内でのナース服切り裂きや、飲料物に漂白剤が混ぜられて唇がただれたなどのトラブル(対象者は両方共同じ看護師)から、陰湿なイジメが事件の原因として関係してくることも考えられますが、深読みすると、それも何らかのパフォーマンス(狂言)であったりするのかなとも思うところもあります。 例えば、漂白剤が混ぜられた飲料水を飲み、気管支粘膜の炎症ではなく、なぜ唇のただれが前に出てくるのかなど…。
一般的な犯行には理由や原因がありますし、決して呪いや死神が連れ去りにきたなんて原因はありません。 一体、誰にどんな利益がある犯行なのかわかりませんが、早く犯人の特定や逮捕へと進み、大口病院で起きた事件の真相を明らかになることを願います。 
死亡50人を不審に思わない大口病院 院長の評判と終末期医療の現状
日々人の死に接するのは医師の定めである。ましてや終末期医療の現場ともなれば、「慣れ」もあるだろう。それでも、3カ月で50人もの患者が亡くなっているのを不審と思わなかったのだろうか。点滴殺人事件が起きた「大口病院」の院長は、異常を感知しなかったというのだが……。
被害者の八巻信雄さん(88)が亡くなる前、大口病院ではエプロンが切り裂かれたり、カルテの紛失が起きたりしていたことはご存じのとおり。また、8月にも飲み物に漂白剤が混入されたという告発メールが横浜市の医療安全課に届けられていた。ところが、高橋洋一院長は職員に事情を聞いただけで済ませていたという。
社会部記者が言う。
「その理由を院長にぶつけると、“内部の出来事だったため、県警に相談せず院内で処理するつもりだった”と言う。危機感の無さは驚くばかりですが、犯行のあった4階では1日に3人もの患者が亡くなったこともあって“4階は呪われている”と看護師たちが怖がっていたほど。院長自身、7月以降の3カ月間で50人もの患者が亡くなっていることも認めているのです」
警察に届け出るなどの対策を取るべきでは、と聞かれた高橋院長が会見で漏らした言葉がこれである。
「いつ亡くなってもおかしくない重篤な患者がたくさん入院して来るから(人が亡くなっても仕方がない)と考えていました。異変は感じなかった」
死が日常の職場とはいえ預かる「命」の重さはこんな程度なのだろうか。それでも、高橋院長の評判は決して悪いものではない。
院長を知る関係者が言う。
「高橋先生は介護やリハビリの専門家です。慈恵医大を出て神奈川の聖マリアンナ医科大では助教授を務め、06年に鎌倉のリハビリ病院の院長に招かれている。大口病院に移ってきたのは数年前ですが、高橋先生クラスなら年収で2200万〜2500万円ぐらいは払っているはず」
院長を知る近所の住人も、
「高橋さんは、ご近所の“かかりつけ医師”みたいな感じでね。具合が悪いと言うと“それだったら○○科で診てもらったほうがいいよ”と丁寧に相談に乗ってくれる気さくな人です」
だが、今回の事件からは終末期医療が置かれている現状が透けて見えると明かすのは、医療関係者だ。
「事件当時、大口病院には52人の入院患者がいましたが、多くが寝た切りや要介護の老人。患者の家族にとっても、75歳以上なら『後期高齢者医療制度』が使えるため、1カ月10万円ほどの費用で面倒を見てもらえる。一方、病院にすれば高額な医療機器を買うなどのコストがかからないから“儲け”のために寝た切り老人ばかりを引き受けるところも少なくないのです」
介護・医療ジャーナリストの長岡美代氏も言うのだ。
「2010年に埼玉県春日部の特養ホームでも職員が入居者に暴行を加え、3人が死亡、1人が重傷を負う事件が起きています。しかし、事が明るみに出る前に火葬された人がいて真相解明が難しくなった。“高齢者だから亡くなっても仕方ない”というホーム側の認識の甘さもありました」
大口病院でも火葬されてしまっているケースが大半である。事件の全容解明にたどり着くのは容易ではない。 
横浜「大口病院」、事件発覚以降に死亡患者が激減 捜査は難航 12/8
〈癌病棟はすなわち第13病棟だった。(中略)自分の入院申込書に「第13病棟」と書かれたときは、胸のなかで何かが崩れ落ちるような気がした〉。旧ソ連のノーベル賞作家、ソルジェニーツィンは『ガン病棟』で、入院患者の絶望をこう表現した。翻って現下、横浜市の「殺人病院」4階に入院を強要されれば、およそ生きた心地はしまい。そこでは7月以降の3カ月で48人もの患者が亡くなっていたのだ。逆に事件発覚以降は激減。慄然とすべき犯意の存在は明白だが、捜査は難航しているという。
大口病院の「呪われた4階」。ここで入院患者の八巻信雄さん(88)の容態が急変し、死亡が確認されたのは、9月20日午前4時55分のことだった。
その際、八巻さんの点滴袋が泡立っていたことから、病院は警察に通報。司法解剖の結果、体内から消毒液「ヂアミトール」に含まれる界面活性剤が検出された。死因は中毒死である。
神奈川県警は100人態勢の特別捜査本部を設置。ほどなく、八巻さんの死の2日前の夜に急死した西川惣藏さん(88)も同じ中毒死であることが判明したのだ。県警幹部が明かす。
「4階のナースステーションには未使用の点滴袋が約50個残されていました。それを調べると、10個ほどの点滴袋でゴム栓部分に封をする保護フィルムに細い針で刺した穴が見つかった。犯人は注射針で点滴に消毒液を注入したのでしょう」
捜査線上に浮上した看護師
さらに衝撃の事実が浮かび上がった。
「被害者の2人ばかりか、4階では直近3カ月間で2日に1人以上のペースで患者が亡くなっていたのです。そもそも4階は自力では食事すら摂れない高齢の重症患者を受け容れる終末期病棟ですが、それでも異様でしょう。多い日には1日に5人も死亡していました」
とは、県警担当の記者。
「ところが、事件が発覚し、警察が捜査に入ってからの10日間ほどは、一転して1人も患者は亡くならなかったのです。その後は死亡者が出ていますが、明らかにその数は激減している。明確な殺意に基づき、不特定多数の患者を狙う事件だった可能性が濃厚です」
現に2人の被害者以外の名前が記された点滴袋にも穴が開けられていた。亡くなった他の46名の中にも犠牲者がいたと考える方が自然だろう。では、誰が悪魔の所業に手を染めたのか。
「犯行の態様から看護師の関与以外は考えにくい」と先の県警幹部。
「点滴が4階に搬入された17日から20日未明にかけ、夜勤を担当した者。かつ普段から素行に問題のある人物などを抽出していった結果、1人の看護師が捜査線上に浮上しました」
実は県警は11月上旬までに、この看護師に対し、逮捕状を取って、事情聴取に踏み切る構えを見せていた。
「しかし検察が待ったをかけました。4階には防犯カメラもなく、消毒液混入の直接的な物証が何もない。検察にしてみれば、“現状では本人が否認を続けたら、起訴できない”という判断なのです」(別の記者)
目下、警察は状況証拠を積み重ねるべく、証拠物の鑑定を続けているという。
「被害者の体内から検出された消毒液の成分と未使用の点滴袋の消毒液、さらには病院内で使用されていた消毒液の成分が全く同一の組成なのか、何度も慎重に同じ鑑定検査を重ねているといいます」(同)
嘲う「白衣の殺人者」を裁きにかけられるか否か。 
点滴殺人の物証乏しく 大口病院、発生3カ月
横浜市神奈川区の大口病院で入院患者2人が死亡した点滴連続殺人事件は23日、未解決のまま特別捜査本部設置から3カ月を迎える。捜査関係者によると、容疑者を絞り込むための決定的な物証が依然として乏しく、地道な捜査が続いている。一方、事件前に病院に関する情報提供が寄せられていた横浜市は対応を検証するため、第三者委員会の協議を11月末から開始。来年3月までに結果をまとめる。
同病院では、9月18日に男性患者=当時(88)=が、同20日に男性患者=同(88)=が中毒死し、遺体からは殺菌作用が強い界面活性剤を検出。2人が入院していた4階のナースステーションには界面剤を含む消毒液「ヂアミトール」があった。
特捜本部は、使用済みの注射器や点滴袋など大量の医療廃棄物を押収して鑑定を進めるとともに、院内事情に詳しい人物が投与前の点滴に注射器で消毒液を混入させた疑いがあるとみている。特捜本部によると、これまでに延べ4375人の捜査員を投入。看護師ら病院関係者延べ1071人から事情を聴いたという。
一方、市には7〜8月に、「看護師のエプロンが切り裂かれた」「看護師が異物入りの飲み物を飲んだ」といったメール3件、電話1件が寄せられた。だが、市が事実確認したのは定期立ち入り検査をした9月2日だった。発覚後にも電話は3回あった。
第三者委の委員らからは「なぜ警察に連絡しなかったのか」といった質問が挙がった。市は「院内の犯罪行為なら病院が通報すると思っていた。受け身だったのは事実」と説明。今後事件や医療事故の恐れがある情報であれば、速やかに医務監や課長ら幹部が対応を検討するなどの対策強化を考えているという。 
大口病院48人“不審死” 女性捜査員が久保木容疑者を落とした瞬間 2018/7/15
事件発覚から1年と10カ月──。横浜市の旧大口病院(現在は横浜はじめ病院)の入院患者ら48人が相次いで中毒死した事件で、逮捕されたのは、やはり疑惑の元女性看護師(31)だった。国内の犯罪史上、最悪の“毒殺”事件の突破口を開いたのは、ある女性捜査員の執念だった。
神奈川県警に殺人容疑で逮捕されたのは、旧大口病院に当時、勤務していた元看護師(現在は無職)の久保木愛弓容疑者(31)だ。7月9日には横浜地検に送検された。
「やっていません」と2016年9月の事件発覚以降、これまで容疑を頑なに否認し続けていた久保木容疑者の事情聴取は、一貫して捜査一課の女性捜査員が担当していたという。
徐々に信頼関係を築いていき、久保木容疑者の言動に変化が見えてきたのは、今年春ごろだった。
「死にたい」と女性捜査員に打ち明けるようになったという。
「自殺されないよう、行動確認を徹底しつつ聴取を重ね、6月下旬に『私がやりました』と本人が認めた。今回ほど、取り調べの基本の大切さを痛感した捜査はなかった」(捜査関係者)
16年夏から旧大口病院を舞台に相次いでいた48人の不審死というパンドラの箱が開いた瞬間だった。
事件が発覚したのは16年9月20日、同院に入院していた八巻信雄さん(当時88歳)が謎の死を遂げたため、同院が県警に通報。県警が司法解剖した結果、体内から医療機器の消毒や医療者の手指の消毒などに用いられている殺菌消毒剤の「ヂアミトール(ベンザルコニウム塩化物液)」と同じ界面活性剤が検出された。
また、その2日前に死亡した西川惣蔵さん(当時88歳)の体内からも同じ成分が検出された。
ヂアミトールは4階のナースステーションに常備されており、県警は空の容器を押収した。
久保木容疑者は、西川さんの点滴にヂアミトールを混入し、中毒死させた殺人容疑で逮捕された。
捜査関係者の話によると、同容疑者は、八巻さんへの毒物混入も認めており、「入院患者20人ぐらいに対し、犯行を行った」と供述。11日には同時期に死亡した70代女性に対しても関与をほのめかしている。消毒液は点滴の袋や管に入れるなど、投与法を使い分けて、自分の勤務以外の時間に死亡するよう図っていた疑いも。県警は12日午前から、久保木容疑者の自宅を4時間にわたって捜索。パソコンなど十数点を押収した。
「20人以上の殺人が裏付けられれば、国内の犯罪史上もっとも多い毒殺事件となる」(同前)
ここまで捜査が長引いた理由について、捜査関係者はこう明かす。
「発生直後から重要参考人としてマークし、早々に事情聴取を始めていたが、決定的な証拠がなく、身柄を取れなかった。鑑定で久保木容疑者の看護服のポケットからヂアミトールの成分が検出されたのが、16年の暮れ。ただこれもシフトに入っている人間だから決定的ではなかった」
同院で48人の不審死が続いたのは、同年7月1日から2カ月半の間――。
「逮捕の1週間前ぐらいに、そろそろだと話が入ってきました……。でも、犯人が捕まっても、もやもやは晴れません」
こう話すのは、横浜市内で暮らす女性Aさん(50代)だ。Aさんの父親(90代)は16年8月末に旧大口病院の4階の病棟で亡くなった。48人のうちの一人だった。
入院時には「年内は頑張るよ」と話していた父親。手足が固まらないようにリハビリの予定も入れていた。だが、入院して1カ月あまり、容体が急変した。
8月下旬のある日。いつもどおり見舞いを終えて自宅に戻ったAさんの携帯が鳴った。通知された番号は、病院のものだった。
「慌てて病院に戻ると、父はもう亡くなっていました。不整脈が出て、呼吸が弱くなって止まったと、主治医から説明を受けました」
父親の死因について、Aさんが異物混入の疑惑を払しょくできない理由の一つが、主治医の言葉だった。
「『私もびっくりしました』と言うんです。当時は医師が驚くほどの急変だったのだろうと納得しましたが、今思うと、何かあったのではないか、と」
さらにAさんが驚いたのは、父親と再会した場所だった。そこは4階にある「個室」だった。本来は入院患者が使う場所が、霊安室代わりに使われていたのだ。Aさんによると、実はこの日、父親を含めて3人が死亡していた。
「安置する場所がなかったのか、次の患者さんを受け入れるために、ベッドを空けなければならなかったのかわかりません。ですが、違和感は覚えました」
個室の問題だけではない。病棟の照明が落とされ、やけに暗かったこと、デイルームに点滴のバッグが無造作に置かれていたことなど、振り返ると、首をかしげることばかりだった。
「実は、母を別の病院の療養病棟で看取っているのですが、そことは明らかに環境が違いました」
当時、4階で勤務していた久保木容疑者については、Aさんは「覚えていない」と話す。だが、「看護師さんは総じて優しかった」という。一方で「疲弊している印象だった」。
Aさんは父親の死に今も疑問を持ち続けている。父親の死後、1年半以上過ぎても、まだ納骨ができないままだ。
実は、父親を旧大口病院に入院させると決めたのは、Aさんだった。自身、長年の父親の看病で体調を崩していたこともあって、親を看病することに限界を感じた。日に日に体力が落ちていく父親の姿を見て、担当していたケアマネジャーと相談し、同院の4階にあった療養病棟(医療療養病床)に入院してもらった。
療養病棟とは、救急車で運ばれて治療を受けたものの、一人暮らしなど何らかの事情で自宅に帰れない患者や、進行性の病気などで回復の見込みが低い患者などをみるところだ。
終末期医療に詳しい医療法人社団つくし会新田クリニック理事長の新田國夫医師はこう話す。
「痰の吸引や胃ろう、点滴など医療依存度の高い患者さんは、看護師が1人、2人しかいない特養には入りにくい。そういう患者さんの受け皿になっているのが、療養病棟です」
厚生労働省の資料によると、入院患者の平均年齢は81歳。半数程度が日常生活に支障がある症状を抱えていて、意思疎通などが困難だ。その4割がそのまま病院で最期を迎える。
「在宅医療が推し進められていますが、自宅での介護が難しい場合もある。そのため、療養病床は現状のまま存在しているというわけです」(新田医師)
Aさんは言う。
「横浜は、重い病気を持っていて、具合の悪い高齢者を受け入れる療養病床の空きが本当にない。いくつか病院をあたったもののすべて断られ、ようやく見つかったのが旧大口病院でした」
そして病院から「安全、安楽に過ごせるよう、援助いたします」と言葉をもらったとき、Aさんは心から安心したという。
「ここなら任せられる。父を最後までみることができると思いました」
だが、そのAさんの願いはかなわなかった。
「療養病床というのは、よくならない患者さんをみるところ。看護は精神的にたいへんなのかもしれません。久保木容疑者が当時、どんな精神状態にあったかわかりませんが、個人的な感情で人の命を奪う権利は誰にもないはずです」
こう憤りを隠さないAさんは、容疑者に対しては「とにかく真実を話してほしい」と訴える。
「報道では『家族への説明が面倒』と話しているようですが、それは理由の一つであって、直接的な動機とは到底思えません。関与した(と話している)20人が誰なのかということについても話してほしい」
だが、立件には大きな壁が立ちはだかる。
「ほかの被害者について立件するのは、極めて困難。血液など遺体の証拠が残る2人以外は、すでに火葬されているので証拠がない。久保木容疑者の供述に基づいて状況証拠を集めて、裏付け補強するという煮え切らない捜査が続く」(前出の捜査関係者)
抵抗できない高齢者を次々と殺めた久保木容疑者は今後、何を語るのか、注目される。  
大口病院の点滴殺人事件の深い闇 2018/7/18
医療制度が生む寝たきり老人
横浜市の大口病院で起きた連続中毒死事件は、殺人容疑で逮捕した1人の看護師にすべてを押し付け、終わりにしてはならないと思います。2年前の事件発生当時、2か月で48人の患者が亡くなっているとの情報が飛び交いました。当然、不自然に思うべき院長は、何を感じ、何をしようとしたのか、その責任はどうなるのかですね。
終末期医療、死期が迫った患者を大勢、引き受けていた病院の一つが大口病院で、家族も必死になって受け入れ先を探し、入院させていたという記事もありました。この病院は最期を看取るための受け皿でもあり、次々に多くの寝たきり老人が送りこまれ、「もう面倒を見切れない」と、それが消毒液による殺害を招いたという解釈もありえないではありません。
そうなると、手を下した看護師の容疑追及、院長の認識の程度、死を待つばかりの老人患者を受け入れることで病院経営が成り立っている終末期医療制度というように、考えるべき問題はどんどん拡大していきます。最終的には、財政再建のために、社会保障制度の見直しが必要であり、老人医療の改革も不可欠となります。事件の背後にある闇は深いのです。
社会、医療、経済部の共同取材を
新聞報道を読む限り、横浜支局が主に取材、執筆しているようですね。本来なら、社会部、経済部なども共同で取材にあたり、殺人事件として終わらせず、老人医療、社会保障のあり方と関係づけ、掘り下げた情報を提供して欲しいところです。新聞が中核的メディアとして生き残るために、何をすべきかも試されていると、思います。
始めは、恨みや悩みを持った院内関係者による事件で、よくある話の1つと思っていました。それが犯人1人にとどまらず、院長の病院経営に対する認識、病院が多くの寝たきり老人を抱えていた理由、寝たきり老人を大勢、生み出す老人医療制度の矛盾など、事件をめぐる闇は深いのです。
新聞は地元の支局が主に、取材に当っているようですね。それも「消毒液の原液混入か」、「無色無臭のジアミトールか」、「容疑者宅を捜索」など、容疑者(31歳)の周辺の取材にとどまっています。そうではなく、社会部、医療情報部、経済部などが共同でチームを作り、取材すべきです。新聞が生き残るためには、殺人事件から医療制度全体へと、視点を広げて行かねばなりません。
かりに2か月で48人もの死者という数字が正しいなら、遺族からクレームがきていないはずありません。院長は当時、死者の多さについて、「医療法の改定で重篤な患者が多く、入院することと関係があるのかあるのかなあ。数が多いという印象を持った」と、発言したそうです。業界では「終末期患者は脱力状態で文句をいわないので、扱いやすい」という本音もささやかれる始末です。
社会保障の意義に疑問
それにしても、のんびりしていますね。「数が多いと、思った」というなら、原因を追及すべきだし、病院の手に負えないというのなら、警察とも協力すべきでした。遺族はどうしていたのでしょうか。死期が迫っているところを病院が引き取ってくれ、これで区切りがついたと、ほっとしたのでしょうか。医療の必要性に疑問が生じ、解釈に苦しむ事件です。
日本の巨額の財政赤字は増える一方で、大きな原因は社会保障費の増大、その1つが医療費の膨張、それも高齢者医療費の急増です。2025年には団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になり、医療費がさらに膨張します。その矛盾の一端が、寝たきり老人を大量に生み出す制度の矛盾です。この問題には、日本では議論を避けたがる延命治療の抑制、尊厳死や安楽死が絡んできます。
しばしば指摘されるのが、日本には寝たきり老人があまりにも多く、ある統計では2025年に230万人にもなるのに対し、特に欧州では、日本のような寝たきり老人をあまり見かけないということです。高齢になり、自分の口から食べられなくなったら、日本のように胃ろうや点滴による延命はしない。「多くの高齢患者は寝たきりになる前に死んでいく」とか。
今回のような事件をきっかけに、背後にある多様な問題を掘り下げてみるべきです。日本の医療制度が抱えている壮大な矛盾を解明し、改革に乗り出すべきです。「財政は危機だ」と騒いではみるものの、政治、行政は、本当に必要な議論から目を背けているのです。 
実像と乖離した「久保木愛弓容疑者像」 大口病院点滴殺人 2018/7/31
横浜市の大口病院(現・横浜はじめ病院)で、入院患者2人が薬物を投与されて殺害された連続点滴中毒死事件で、神奈川県警に逮捕された久保木愛弓(あゆみ)容疑者(31)は、数度にわたり本紙記者の取材に応じていた。記者に無実を切実に訴えた様子は、インターネット上などで指摘されている人物像と乖離(かいり)している。久保木容疑者の行動の背景には何があるのか。容疑者をめぐる謎はなお多い。
事件発覚から1年がたった昨年9月中旬。大口病院をめぐる報道は小康状態となり、一時期、横浜市鶴見区のアパートを囲んでいた報道陣もすでに消えていた時期だ。蒸し暑い夕方、久保木容疑者は財布のようなものを手に、白い半袖のシャツに黒地のズボンという軽装で自宅の玄関を出た。
久保木容疑者は記者の質問に、長く立ち止まって応えるなど、誠実な様子を見せた。言葉遣いは丁寧で、話す内容も筋が通っていた。ただ、声には覇気がなく、弱々しかった。
「精神的につらいです。薬を飲んでいるんですが、なかなか良くならなくて…」。久保木容疑者はそう言い残し、家と反対の方角に消えていった。
翌日午前11時ごろ、玄関のドアに備え付けられているポストに、連絡がほしいと書いた手紙を入れると、約10分後、番号非通知で着信があった。直接会って話をしたいと伝えると「今日は会えません」と拒否。食い下がると「玄関のドアにU字ロックをかけた上でなら会ってもいい」という。
ドアの20センチほどの隙間から、上下黒のスエットのような服装の久保木容疑者が見えた。玄関内の照明はつけられず、薄暗いままだった。部屋の中からは芳香剤のようなにおいに混じり、人の生活のにおいのようなものが漂ってきた。
「私じゃないのに、疑われてとても悲しい」。久保木容疑者は犯人と疑われていることについて、こう話した。目は涙で潤んでいた。その印象は殺人の容疑者とはかけ離れ、ありふれた30歳前後の女性だった。
記者が食事に誘うと、「いまはおなかがいっぱいです」と拒否。距離を詰めようと、「今度カラオケ行きませんか」と冗談めかしてみると、「私、歌うのが苦手なんで…」と話しつつ、表情を緩めていた。
顔色が変わったのは、元看護部長との関係を尋ねたときだ。元看護部長の名前を挙げると、久保木容疑者は「え…」と発し、息をのんだのが分かった。
病院内での人間関係やトラブルの有無を尋ねると、「看護部長は看護師たちをランク付けして、気に入った子とそうでない子の扱いが極端だった。そういうのってよくないですよね」と不平を口にした。
久保木容疑者がどう「ランク付け」されていたのか尋ねると、「私は普通でした。特に悪い扱いを受けたわけでもなく、良かったわけでもない」と話した。
2人殺害発覚の直前、大口病院では、看護師の服が何者かに引き裂かれたり、飲料に漂白剤のようなものが混入され、知らずに飲んだ看護師の口がただれたりするという“事件”が起きている。真相はいまも闇に包まれたままだ。
久保木容疑者は「そういったことがあったときに、病院や警察がすぐに動いていれば、その後の事件(殺人)も起こらなかったのではないか」と話したが、その真意は分からない。
12月上旬の平日午後7時半すぎに呼び鈴を鳴らすと、応答があった。しかし「なにも話すことはありません」とだけ話し、通話が切れた。再び呼び鈴を鳴らすと、「元気です。仕事は見つかっていません」。再び通話が切れた。以前よりも、報道に対する警戒感を強めているようだった。
県警は報道各社が久保木容疑者を追い詰めることにより、自殺されることを強く懸念していたという。
ただ、久保木容疑者は、疑いの目が向けられていることを自覚し、度重なる報道各社の訪問や警察からの任意聴取を受けながらも、逮捕までの約2年近く、同じ部屋に住み続けていた。
一方、捜査関係者によると、久保木容疑者は逮捕後も、報道各社の記事などを見ては悲嘆や動揺する様子を見せているという。
「史上最多の殺人」「サイコパス」「殺害に快楽を覚えていたのだろう」「これは殺人鬼の顔だ」…インターネット上では、久保木容疑者の記事や顔写真が転載され、不特定多数の人が思い思いに「久保木像」を作りあげている。
しかし、それらの指摘は果たして、久保木愛弓という人物をどこまで的確に示せているのか。裁判ではどんな事実が明らかになるのか。注目が集まっている。 
久保木被告“自供”も立件されなかった遺族の無念 2018/12/24
横浜市の大口病院(現・横浜はじめ病院)で2016年9月に起きた連続点滴中毒死事件では、同年の約2カ月半の間に入院患者48人が相次いで死亡。このうち3人に対する殺人罪などで12月7日に起訴された同病院の元看護師、久保木愛弓(あゆみ)容疑者が神奈川県警の調べに対し、被害者の実名を供述したにもかかわらず、物証がないため、起訴に至らなかったケースもあった。
その1人、92歳男性の遺族は県警から捜査断念の知らせを受けたという。50代の長女が、本誌に複雑な心境を語った。
肺の病気を患っていた男性が大口病院の4階で急死したのは、2016年8月末。それ以来、長女はずっとその死に疑念を抱いていた。
そんななか、2018年9月末、県警から連絡が入ったという。
「『実は、久保木容疑者があなたのお父さんの名前を出している』『名前を挙げたのは(48人のうちの)何人かで、父も限られた中の一人』だと聞きました。これで、これまでの“もやもや”が晴れるかもしれないと思いました」
だが、その期待は裏切られる。
2カ月後の11月28日。県警から連絡が入り署を訪ねた長女に、刑事は「すべて調べつくしたが、物証がなかったので今回は立件できない。捜査本部もなくなります」と伝えたという。
県警の説明によると、今回立件できた被害者は、何かしら証拠が残っていた。だが、それ以前に死亡した患者に関しては、荼毘に付されているため立件は難しい、とのことだった。
「『亡くなる直前の髪の毛でも残っていたら、何か出てきたかもしれない』と言われました。悔しいですよ。なんで?という気持ちでいっぱいです。もちろん、立件できたからといって気持ちが晴れるとは思いません。ですが、本人がやっていると話しているのに物証がないということだけで立件できない。限りなく黒に近い白なのに、なんでこういう結果になっちゃったのと……」
警察の捜査については「日数が経ってしまったので、仕方ない」という思いはある。一方で、時間が経つほど怒りが沸いてくるのは、病院の対応だ。
寝たきりで話すことができない患者と、黙々と体位を変え、点滴を変え、痰を吸引する看護師。そこは物音ひとつしない世界だった。さらに、長女は、久保木ではないが、突然怒ったり、大声を上げたりする看護師を見かけたこともあったという。
「最期を安らかに過ごすための病院なのに、まったく違っていました。もっと環境が良ければ、久保木容疑者のような看護師は生まれなかったのではないでしょうか。彼女を擁護するつもりはまったくありませんが、彼女が目指していたのは、こういう看護じゃなかったのだと思っています」
長女は「久保木容疑者には謝ってほしい」という。同時に、なぜ父親をあの病院に入れてしまったのか。別の選択肢はなかったのか。その後悔も消えない。だが、何より強いのは「病院に謝ってほしい」という気持ちだ。
12月24日現在まで病院関係者からの謝罪はない。テレビでみた謝罪会見のみ。
「終末期医療を受けられる病棟は、これからも必要な存在であることはわかるんです。でも、看板を掛け変えれば済むという問題ではないですよね。そういう責任の取り方でいいの?と思います」  
 
大口病院連続点滴中毒死事件

 

神奈川県横浜市神奈川区の大口病院(当時。現・横浜はじめ病院)で2016年(平成28年)9月に発覚し、2018年(平成30年)7月、同病院で当時勤務していた看護師が逮捕された連続殺人事件。事件の名称について、神奈川県警察は「大口病院"入院患者殺人事件"」、神奈川新聞は「大口病院"点滴連続殺人事件"」としている。被害者として立件された死亡者2人のほか、同時期に死亡していた別の2人の入院患者の遺体からもヂアミトールが検出された。事件前の7〜9月の82日間で48人の患者が死亡し、その後の約70日間の間は死亡者がゼロということから、4人以上の被害人数が疑われたが、発覚以前の死亡者は医師の診断により“自然死”扱いで火葬されていたため、既に証拠は失われていた。
事件の発覚
事件は2016年9月、最初に判明した被害者の容体が急変した際、看護師が投与中の点滴袋をベッドに落とし、袋内の輸液が急激に泡立ったことから偶然にヂアミトールの点滴混入が発覚した。さらに調べると2日前に同じ部屋で死亡した別の患者の遺体からも同成分が検出された。ナースステーションに残されていた未使用の点滴袋約50個を調べると、10個ほどの点滴袋でゴム栓部分に封をする保護フィルムに細い針で刺した穴が見つかった。そして、同じフロアで亡くなった患者の数が、事件発覚までのおよそ3か月の間に48人に上ることが明らかになった。点滴に混入させる手口から病院内部の者による殺人事件の犯行が疑われたが、捜査は難航した。
捜査
犯行に使われたヂアミトールは、業務上使われるものだった為、院内各所に置かれており、犯人を特定することは困難を極めた。警察は院内にあるものの鑑定を実施。当時担当していた看護師全員の看護服を調べたところ、容疑者の服からのみ、ポケット付近からヂアミトールの成分が検出された。他にも、容疑者が事件発覚直後の夜勤中、投与する予定のない製剤を手に院内を歩き回る姿が県警の設置した防犯カメラに映っていたことや、被害者の病室に1人で入っていくのを同僚が目撃していて、そのおよそ5分後に容体が急変し死亡していた、といった状況証拠から絞り込んでいった。
被疑者の逮捕
2018年6月末、警察は状況証拠を踏まえ被疑者の看護師に任意の事情聴取を開始。被疑者の看護師は消毒液(ヂアミトール)を注入したことを認めたうえで、「入院患者20人ぐらいにやった」との趣旨の話をした。7月7日、神奈川県警は女を殺人容疑で逮捕した。また同月28日には、2016年9月に死亡した入院患者の点滴に消毒液を混入し殺害したとして、殺人容疑で再逮捕した。
被疑者
被疑者は、事件後、様々なテレビ局や新聞社によるインタビューや取材に応じ、逮捕前にもテレビ局に「何故、こんなひどいことをしたのか、自分の家族が同じことをされたらどう思うのか。絶対許せません」と、直筆の手紙を送るなどして自らの関与を否定する発言をしていた。
自供内容と動機
「点滴にヂアミトールを入れた」事に関し「間違いありません」と容疑を認めた上で、「入院患者20人ぐらいにやった」と供述。犯行の動機については「自分の勤務時に患者に死なれると、家族への説明が面倒だった」という趣旨を供述した。さらに「患者が亡くなったときに同僚から自分の落ち度を指摘されたことがあり、それ以来、勤務時間外に死亡させることを考えるようになった」、「勤務を交代する看護師との引き継ぎの時間帯に混入させていた」、「混入を繰り返すうちに感覚がマヒしていった」とも話している。
供述では「(事件の)2か月くらい前から点滴に消毒液を入れた」と話しており、その時期同病院に勤務していた看護師は「(亡くなったのは)最初は1日1人。それが3人になり、5人になり、9月になったらもっとひどくなって(1日に)8人とか。4階はおかしいな、という話があった」と証言している。
事件前、現場病棟では「看護師の筆箱に、10本以上の注射針が刺され、針山のような状態になっていた」ことや「白衣が切り裂かれる」「カルテが紛失する」「ペットボトル飲料を飲んだ看護師スタッフの唇がただれる」などの看護師同士の壮絶ないじめトラブルが報告されており、以前より「『あのクリニックの先生は嫌いだから』『あの患者の家族は嫌いだから』患者を受け入れない」といったことまで言う「『女帝』と呼ばれる60代パワハラ看護師の存在」や「人事査定でえこひいきがあったり、自分だけ忙しい仕事を回されたりしているといった不平不満があり、看護師同士で言い争いになったこともあった」という。被疑者自身も、逮捕前に「看護部長は看護師たちをランク付けして、気に入った子とそうでない子の扱いが極端だった。そういうのってよくないですよね」と述べている。
病院では、そういった人間関係のトラブルや虐めが原因で複数の看護師が辞職しており、「看護師同士の世代間の対立が原因で、大口病院では患者のケアまでもが疎かになっていた」といい、「見舞いに行った家族の前で看護師が患者さんを怒鳴りつけ、その家族が『本当にひどい。ビデオに撮って告発すればよかった』と激怒していた」こともあったという。事件の被害者遺族も「女性看護師が別の看護師を怒鳴りつけたり、点滴袋が公共スペースに散見されたりするなど『今考えればおかしいところもあったかもしれない』」と指摘している。
精神科医の片田珠美は「担当患者が以前死亡した際に同僚らから自分のミスの可能性を指摘されたとも説明しているので、もともと同僚や上司などに対して怒りを覚えていた可能性がある」と指摘し、(「白衣切り裂き」や「カルテの紛失」「ペットボトル異物混入」も同一犯によるものだとすると)他の看護師に対する怒りをこのような形で表現したのではと推測する。その怒りの矛先を患者に向け変えて(精神分析では「置き換え」)、患者の点滴に無差別に消毒液を入れる事によって「別の看護師の勤務時間中に患者が死亡するように仕向けたわけで、復讐願望を満たそうとしたともいえる」としている。
裁判
横浜地検は2018年12月7日、患者3人の殺人罪と5人分の点滴液に消毒液を混入した殺人予備罪で看護師を起訴した。4人目に対する殺人罪については、別の患者を殺害しようと消毒液を混ぜた点滴が結果的にこの患者に投与された可能性があるとして、不起訴処分とした。
横浜市の対応
横浜市には事件前、「看護師のエプロンが切り裂かれた」、「看護師の飲み物に異物が混入された」など、この病院内のトラブルに関する情報が複数寄せられていたが、市は病院に詳細な内容を確認しなかった。市が設置した第三者検証委員会は「患者の安全に関わる内容もあったのに、後手に回った」と、市の対応を批判した。
病院の対応
病院側にも、複数の看護師のエプロンが切り裂かれているのが見つかったり、6月にはカルテの一部が抜き取れられ、8月には看護師のペットボトルに異物が混入されていたにも関わらず、院長は「院内の出来事で、まして看護師の中の出来事だったので院内で何とか処理すべきだと思った」としながら、有効な手立てをとれず病院から警察に相談するという事もしなかったため、「病院が対処していれば事件はなかったかもしれない」などの批判の声が病院関係者からも寄せられた。
法的・制度上の課題
事件後に市が設置した第三者検証委員会による報告書「横浜市の医療安全業務に関する検証報告書(大口病院に関する対応について)」の中で、医療法上、病院から市への報告義務も、市から病院への検査・指導権限も無いという問題が指摘された。医療法を根拠に市と病院の関係がある以上、医療法の範囲を超えた「制度の狭間」となるところに問題が発生したとき、市はどこまで対応できるのかという課題があり、今後、法的、制度上の課題に対しては、国に改善に向けた要望を行うことも考えられる、としている。  
 
 
大口病院事件 2018/7/11

 

筋弛緩剤点滴事件との類似性から今後の展開を探る
横浜市神奈川区で2016年、旧・大口病院(現・横浜はじめ病院)で患者が相次いで不審死した点滴中毒死事件で、神奈川県警は7月7日、殺人容疑で元看護師の女を逮捕した。疑惑が浮上し、殺人事件として特別捜査本部が設置されてから約1年10ヵ月。事件はようやく動き出したが、点滴による殺人事件と聞くと仙台市泉区の「北陵クリニック筋弛緩剤点滴事件」を思い出す方も多いのではないだろうか。類似点と相違点などから事件の背景、今後の捜査の展開を探る。
無差別大量殺人の疑い濃厚
神奈川県警特別捜査本部が殺人容疑で逮捕したのは久保木愛弓容疑者(31)。逮捕容疑は16年9月18日午後、大口病院に入院していた横浜市青葉区の西川惣蔵さん=当時(88)=の点滴に消毒液「ヂアミトール」を混入し、中毒死させた疑いが持たれている。
久保木容疑者は「間違いない。申し訳ないことをした」と容疑を認め、他にも約20人の点滴にヂアミトールを混入したことをほのめかしているという。
西川さんが死亡した2日後には、同じ部屋に入院していた横浜市港北区の八巻信雄さん=当時(88)=も死亡。他にも、病死とされていた高齢男女2人の体内からヂアミトールの成分が検出された。大口病院は、内科や整形外科、リハビリ科などが専門だったが、入院患者は寝たきりや介護が困難な高齢者の他、末期がんなどの終末期(ターミナルケア)の緩和治療で「病院というより、ほとんどホスピスに近い」(関係者)。患者の自然死にまぎれ、犯行に及んだとみられる。事件との関連は不明だが、16年7月から9月までに入院患者48人が死亡していた。
久保木容疑者と患者はいずれも「看護師」と「患者」という接点以外に、個人的な関係はないとされる。久保木容疑者は「死んで償う。死刑にしてほしい」とも供述。神奈川県警特別捜査本部は「時間をかけここまでこぎつけた。他にも事件性がある死亡案件がある」として、全容解明に意欲を示した。
綿密な下積み捜査を重ね、関係先の家宅捜索などに着手。収集した証拠などの分析から起訴に向けた本格捜査はこれからだ。現時点で久保木容疑者がすべてに関与したとは断定できないが「自分の勤務時間中に入院患者が亡くなると、遺族へ説明するのが面倒だった」と供述するなど、無差別大量殺人である可能性が濃厚となってきた。
守受刑者、弁護士の接見で一転否認
一方、2001年1月に発覚した仙台の北陵クリニック筋弛緩剤点滴事件を振り返ってみよう。
宮城県警に逮捕された守大助受刑者は1件の殺人罪と4件の殺人未遂罪に問われたが、7月に仙台地裁で開かれた初公判以降、一貫して無罪を主張。直前の6月には『僕はやっていない!仙台筋弛緩剤点滴混入事件 守大助勾留日記』(明石書店)を出版するなど、冤罪(えんざい)を訴えていた。最高裁は08年2月、上告を棄却した。千葉刑務所に収監された後も無実を訴えて再審請求し、仙台高裁に棄却されたため、現在も最高裁に特別抗告中だ。
意外に知られていないが、守受刑者は逮捕前の任意聴取で容疑を認めていた。当初、逮捕容疑以外にも「誰でもよかった」「他の患者にも筋弛緩剤を投与した」などと述べ、動機についても「クリニックでの待遇に不満があった」と具体的に供述。日頃から賃金面やクリニックの経営方針について、家族に不満を漏らしていたとされる。
風向きが変わったのは逮捕から4日後。「とにかく無罪を主張する」(宮城県警元幹部=事件当時)という阿部泰雄弁護士と接見してからだ。元幹部が「ミスター無罪」「あのお方」などと揶揄(やゆ)して呼んでいた阿部弁護士は、証拠の不備を突く名手で、仙台地裁では同時期、阿部弁護士が担当した事件で無罪判決が相次いでいた。
守受刑者は阿部弁護士と接見した1月9日午後以降、一転して否認に転じる。阿部弁護士は接見から数日後、記者団に「守君に『やっていないならやっていないと言いなさい』と告げたところ、彼は『先生、僕、やっていないんです。やってないって言っていいんですね』とすっきりした顔になった」という趣旨の説明をしていた。前述の「僕はやっていない!」は阿部弁護士との共著だ。
前述の元宮城県警幹部は当時「供述は具体的かつ整合性はあったが、死刑の可能性さえある事件。やってしまったことを後悔しつつも、怖くなって一か八かに賭けたのだろう。現職の警察官である父親や家族、同棲し結婚の約束もしていた恋人などへのさまざまな思いがあったのではないか」と推測していた。
常道になった「状況証拠の積み重ね」
両事件の共通点は「点滴」「医療従事者」「無差別大量殺人(未遂)」ということだ。加えて、仙台の筋弛緩剤点滴事件以降、今では一般的になった「状況証拠の積み重ね」という捜査手法で立件にこぎつけた点だろう。
北陵クリニックの事件で、宮城県警は「消去法」で容疑者を絞り込んでいった。まず外部から侵入した第三者が混入した可能性を潰す。内部犯行と特定し、(1)患者の容体が急変した時間帯に勤務していた職員、(2)患者と接触があった職員、(3)筋弛緩剤を手にできる職員――などの条件で検討した。
絞り込んだ結果、1人の男性准看護師が浮上した。守受刑者が最初に逮捕されたのは2000年10月、急性虫垂炎の疑いで入院した小学校6年生の女児=当時(11)=の点滴に、筋弛緩剤を混入した事件だ。それ以前にも守受刑者が勤務中に患者の容体が急変することが多く、記録が残っているだけで20人前後が不審な容体急変となり、計10人が死亡していた。
疑いを抱いたクリニックが宮城県警に相談し、県警が守受刑者の動向に注意するようアドバイス。万が一、患者が不審な急変をしたら、検体を採るよう指示していた。
しかし、事件の発覚は最悪だった。事件は防げず、意識不明になった女児の血液や点滴溶液からは、筋弛緩剤の成分が検出された。女児はそのまま植物状態になり、29歳となった今も眠りから醒める気配はないという。
大口病院の事件では、仙台の事件と同様、当初から内部犯行が疑われていた。
「何かおかしい」――。院内では久保木容疑者の逮捕容疑となった事件の半年前から、ナースステーションで看護師のエプロンが切り裂かれ、飲料のペットボトルに漂白剤が混入されたり、患者のカルテがなくなるなど、“異変”が相次いでいた。
「ちょっと多いんじゃないか」――。ホスピスのような病院とはいえ、この時期は死者が多く、いつもより霊柩車の出入りが頻繁だったとの証言もある。
神奈川県警特別捜査本部は公判維持をにらみ、「犯人しか知りえない事実」に関わる詳細を明らかにしていない。
しかし、逮捕容疑のほか、今後、立件するとみられる余罪について、久保木容疑者が勤務終了直前の引き継ぎ時間帯であることや、自然死を装うため長期入院患者をターゲットにしていた疑いがあるとみている。
いずれも、患者の容体が急変した時間帯に勤務していた医療従事者を絞り込み、何らかの作為ができた可能性がある人物を特定した結果だった。
短絡的な犯行、不可解
大口病院の事件では、証拠(検体)が残っているのは逮捕容疑となった西川さんを含め、4人分だけ。北陵クリニックの事件も「20人が不審な容体急変、10人が死亡」とされたが、結局、立件されたのは証拠が残っていた89歳女性への殺人罪と4件の殺人未遂罪だった。前述の宮城県警元幹部は「正直、悔しい。やれるだけのことはやったが、証拠がなく立件できなかった方々には心からおわびし、手を合わせている」と話していた。
捜査当局の「供述が最高の証拠」とされたのは、“大昔”のことだ。
その当局の思想が冤罪を生む背景にもなってきた。供述があっても、証拠がなければ有罪になる時代ではない。大口病院の事件も「立件できるのは4件だけかもしれない」との憶測が広がる。それでも「殺人罪4件なら死刑」なのは間違いない。
ただ、神奈川県警特別捜査本部の懸念は「仙台の事件のように、ややこしい方(弁護士)が出てこないかだ」という。
いずれの事件も、発覚すれば厳罰は免れない。共通するのは動機が安易で、両事件を手掛けた捜査幹部の「不可解。あんな理由で、あんな大それたことをするか?」という疑問だ。そんな疑問を抱くのは捜査幹部だけではなく、一般市民、弁護士、判事も同様である。
大口病院の事件では、供述に基づいた証拠が裏付けられれば、立件はスムーズだろう。しかし、容疑を認めている久保木容疑者が弁護士のアドバイスで否認に転ずれば、綿密な立証が求められるのは言うまでもない。否認に転じる可能性は「厳罰(死刑の可能性を含め)は必至」だからだ。
守受刑者が逮捕された直後、当番弁護士として接見したのは、大手弁護士事務所で修業する身の「軒先弁護士」だった。手に負えないと感じた軒弁は所長に相談。阿部弁護士に白羽の矢が立ったという経緯がある。
久保木容疑者が厳罰を恐れ、否認に転じることになれば、捜査も若干の軌道修正は免れないだろう。
性善説、薬物のずさんな管理
両事件の決定的な共通点がある。
いずれも凶器とされた「筋弛緩剤」「消毒液」は病院関係者であれば誰でも手にできるなど管理はずさんで、防犯カメラも未設置だったことだ。悪意があれば、いつでも誰でも犯行に及ぶことができる環境にあった。
北陵クリニックの院長(当時)は守受刑者の逮捕直後、記者会見で筋弛緩剤の保管場所に鍵はなく、管理者もいなかったと説明。「管理の甘さを反省している」と謝罪した。大口病院の関係者も「医療従事者は相互の信頼関係に基づいている。『内部の悪意』を防ぐのは無理だ」と肩を落とす。公判で守受刑者の弁護側が主張した「(守受刑者以外の)第三者が犯人である可能性がある」という指摘も、根拠は「誰でも、いつでも」犯行に及ぶことができるという点だった。
守受刑者には今も「冤罪説」があり、久保木容疑者も「容疑」の段階でしかない。
ただ間違いなく言えるのは、被害者とされた患者から死に至る薬物が検出された事実、西口さんらが死亡した事実、そして当時11歳だった大島綾子さん(29)の人生・夢の全てが絶たれたという事実だ。
北陵クリニックの事件で、仙台地裁の裁判長は判決理由でこう指摘した。
「本件は医療機関内で、医療行為を装い敢行された極めて特異な犯罪であり、医療従事者に対する信頼を揺るがし、医療行為への不安感を醸成させた悪影響も看過しがたい」
最高裁で守受刑者の無期懲役が確定した後、大島さんの両親が起こした損害賠償請求訴訟を担当していた弁護士のコメントが忘れられない。
「家族にとっては何の区切りにもならない。呼び掛けても返事のない娘さんを見ているお母さん、お父さんがどれだけつらいか」
北陵クリニックの事件を巡っては争いがある以上、何が真実かは当事者しか分からない。大口病院の事件も同様で、西川さんらの冥福を祈りつつ、事件の真相解明を待ちたい。 
 
「白衣の死神」があぶり出す終末期医療の現実 2018/7/17

 

事件を終末期医療を考えるきっかけにすべきとの声も
横浜市神奈川区の旧・大口病院で2016年9月に起きた入院患者の連続中毒死事件が、1年10カ月を経てようやく動いた。
神奈川県警は7月7日、事件当時、同病院に看護師として勤務していた久保木愛弓容疑者(31歳)を殺人容疑で逮捕。当初から「内部犯行」が疑われ久保木容疑者は捜査線上に上がっていたが、マスコミの取材に容疑を全面否認していた。
白衣の天使ならぬ白衣の死神≠ェ手を染めた大胆で非道な犯行は、本人の供述通り「20人以上にやった」のであれば、戦後最多の毒殺事件となる。
一方で、「事件を通じて、高齢者の終末期医療を考え直すべきではないか」と問題提起する声も広がっている。
まずは事件を振り返ろう。現場となったのは、JR横浜線「大口駅」近くにある特定医療法人財団慈啓会大口病院(当時)だ。一般病床の他に約40床の療養病床を持っており、終末期の患者が4階の病棟に多く入院していた。
異常な事態を病院は調査せずに放置
この4階の病棟で起きた不審死が最初に発覚したのは16年9月20日のことだ。同日午前5時前に4階に入院していた八巻信雄さん(当時88歳)が亡くなったのだが、八巻さんの点滴袋が泡立っていることに看護師の一人が気付いたのだ。異物混入の恐れがあると判断した病院が警察に通報、司法解剖で八巻さんの体内から消毒液である「ヂアミトール」の成分が検出された。
県警はその後、同じ4階に入院し、八巻さんの2日前に亡くなった西川惣蔵さん(当時88歳)の体内からも同じ成分が検出されたと発表。事件は一気に連続殺人事件の様相を帯びたのである。
大手紙の県警担当記者が解説する。「病院の4階では16年4月頃から、看護師のエプロンが切り裂かれたり、カルテが紛失したりといったトラブルが相次いでいた。8月には飲み物に漂白剤が混入される事件があったと、横浜市に告発のメールも届きました。ところが院長も市も大ごととは考えず、結局、患者が死亡するに至ってしまった」。
病院によると、西川さんや八巻さんが入院していた4階では、約3カ月で約50人もの患者が亡くなっていた。1日に6〜7人が亡くなることもあったといい、終末期の患者が中心とはいえ、あまりにも異常な数だ。ところが、この「異常」についても、病院は調査をせず放置していた。
異物混入事件として捜査を始めた県警の捜査線上に浮かんだのが、久保木容疑者だ。「ナースステーションは外部から入れない場所ではないが、一度ならず何度も外部の人間が異物を混入するのは不可能。4階を担当していた看護師の数は限られ、久保木容疑者が勤務した後に患者が大量に亡くなることが多かったため、県警は始めから彼女をマークしていた」(担当記者)という。
しかし、捜査は難航した。というのも、「状況から久保木容疑者の疑いが強いとされたが、決定的な証拠はなく、本人も否認した」(同)ためだ。防犯カメラもなく、犯行を目撃した人もいない。久保木容疑者の看護服からは犯行に使われた消毒液の成分が検出されたが、看護師なら消毒液や点滴に触れることは日常業務のうちだ。点滴の袋などから検出された指紋についても同様で、決め手を欠いた。
一方、事件直後に大口病院を辞めた久保木容疑者は、看護師以外の仕事も含めて職を転々、引きこもりがちの生活を送っていた。直近は、自宅から離れた神奈川県内の物流倉庫に勤めていたという。
県警は粘り強く捜査を続けるとともに、久保木容疑者の任意の事情聴取も継続。今年7月に行った事情聴取で初めて犯行を認める供述をしたため、7月7日に西川さんに対する殺人容疑で逮捕。同月28日には、八巻さんに対する殺人容疑でも再逮捕したというわけだ。
「私が殺害した」「他の入院患者にも消毒液を入れた」「16年7月ごろから、20人くらいにやった」「死んで償いたい。死刑になりたい」——。
逮捕されてからの久保木容疑者は素直に犯行を認め、反省の言葉も口にしているという。「20人」を立証するのは難しいが、同時期に死亡した他の2人の患者からも消毒液の成分が検出されており、県警がどこまで真相に迫れるか注目される。
「家族への説明をしたくなかった」
同僚が「おとなしく、目立たない看護師だった」と証言する久保木容疑者を、このような大胆な犯行に駆り立てた動機はなんだったのか。
捜査関係者によると、久保木容疑者は亡くなった患者の家族に状況を説明する同僚が家族に問い詰められている姿を見て、「家族への説明をしたくない」と思ったのだという。
事実、八巻さんが死亡した前日、夜勤だった久保木容疑者は朝、八巻さんの点滴を交換して勤務を終えていた。八巻さんの容態が悪化したのは翌日未明。そのまま亡くなった八巻さんを見送ったのは、久保木容疑者とは違う看護師だった。
消毒液が入った点滴袋を自らセットするだけではなく、次に使う予定の点滴袋の中に消毒液入りのものを紛れ込ませるなどの方法もとっていたとみられる。
ただ、「家族への説明をしたくなかった」との供述には疑問も残る。
終末期の患者といっても状態は様々で、数日以内に亡くなるとは思えない患者も多い。病院関係者によると、今回亡くなった患者の状態はバラバラだったという。徐々に体の状態が悪化していく中で異物を混入されたなら、死を覚悟していた家族への説明は比較的容易だ。だが、元気だったのに状態が急変した場合、家族への説明は難しくなる。
「状態が悪化した患者だけを狙ったなら分かるが、そうでない患者にもやっていたとなると、供述の信憑性は薄れる。殺人の動機としては弱いのではないか」と全国紙記者も首をひねる。
容疑者の心理は本人にしか、場合によっては本人にも分からない。一部週刊誌によると、久保木容疑者は大口病院に就職する際の採用面接で「人の死に対して不安がある」と語ったという。医療職に就いてから抱いたものなのか、それ以前からのものなのかは分からないが、それなら彼女はなぜ看護師を志し、看護師の仕事を続けたのだろうか。
久保木容疑者は神奈川県秦野市の県立高校を卒業した後、横浜市内の看護学校に進学し、看護師になった。高校は福祉教育に力を入れており、高齢者施設の見学なども行っていたという。
久保木容疑者を知る人物は「高校時代の経験から、看護の仕事に興味を持ったのではないか」と推察する。いくつかの病院で勤務した後、15年5月に大口病院に採用され4階の病棟の担当となったが、事件はその約1年後に起きた。
大学病院に勤める久保木容疑者と同年代の看護師は「20〜30代で療養病床のナースと聞くと、やる気がない人なのかなと思ってしまう」と明かす。
多くの看護師が真剣に終末期の患者の看護をしていることは間違いないが、療養病床の患者は一般的に、高い医療技術を必要とする場面が少なく、症状の変化も緩やかだ。「看取りや自分なりの終末期看護などのテーマを持つ人はいいが、そうでない人で看護師としてバリバリ働こうという人は少ないのではないか」というのが、多くの看護師の持つ療養病床のイメージらしい。
療養病棟の現状と患者家族の事情
終末期医療に看護師としてどう向き合うべきか。久保木容疑者がそんな命題に正面から向き合っていたなら、今回の犯行は起きなかっただろうか。
動機が何にせよ、人の命を奪う行為を決して認めてはならないのは当然だ。だが、「とんでもない看護師がとんでもない事件を起こした」と人ごとのように受け取るだけでいいのか。
ツイッターなどのSNSでは、事件を終末期医療を考えるきっかけにすべきではないかとする多くの投稿がなされた。中でも大きな注目を浴びた投稿は、「療養病棟に勤める看護師」と名乗る人物のものだ。
「私も一歩間違えば大口病院で事件を起こしたナースと同じだったかもしれない」とのつぶやきで始まる一連の投稿では、療養病床の患者の多くは「生かし続けられている人」であり、「生き地獄」「苦痛に顔を歪めながら延命されている」「栄養剤に繋がれて強制的に命を延ばされている」などと表現されている。
殺人罪に問われるのも、患者の家族から「ばーさんの年金なくなったらどうしてくれる」と責められるのも怖くて看護を続けているとの本音も打ち明けている。
「医療費の9割は国の負担で、本人の負担は月5万円程度。療養病棟に入院させておけば年金でおつりが来る。病院も家族も儲かるシステム」「年金支給日である15日を超えて生かしておいてくれと言われた」といった生々しいつぶやきには「年金で家族が遊んでいるというイメージを持たれて困る」との苦言も呈された。
一方で、見舞いにも来ずに電話連絡だけで済ませる家族も多いこと、回復の見込みがないのに高い医療が続けられ、患者本人が苦しむことへの憤りには、多くの賛同の声が寄せられた。
事件の後、大口病院は一時閉鎖され、17年12月に「横浜はじめ病院」と名称が変わって診療が再開された。名前は変わっても診療内容は変わっておらず、現在も療養病床を設置して終末期の高齢者医療を担っている。
「従業員が客を連続で殺害したとなれば、普通ならその店はなくなっておかしくない。でも、大口病院が事件で閉鎖された時、多くの患者は行き場をなくして困り果てた。たとえ事件が起きた病院であろうと、療養病棟へのニーズは高いのです」(医療担当記者)
国は医療や介護を家庭や地域へ移行させようとしており、療養病床は縮小される方向だ。しかし、事件は図らずも療養病床への需要の高さを露呈してしまった。望んだ最期が迎えられず無念の死を迎えた被害者のためにも、社会全体が望ましい終末期医療について議論を深める必要がある。
 
大口病院事件 久保木愛弓の犯行動機 2019/1/30

 

久保木愛弓とは
久保木愛弓(くぼきあゆみ)をご存知ですか。この人物はある病院で起きた事件の犯人として逮捕されることとなります。久保木愛弓は事件当時看護師として病院に勤務していたのですが、その病院で世間を騒然とさせた事件を起こしてしまいました。この事件は周囲に大きな影響をもたらした事件でもあります。
また、久保木愛弓が起こした事件の内容はサイコパスと言われるほど残虐なもので、その動機や久保木愛弓自身の生い立ちにも注目が集まります。久保木愛弓が起こした事件とは一体どんな事件だったのでしょうか。
大口病院の元看護師
久保木愛弓は大口病院と呼ばれる病院で勤務していた看護師です。事件当時は31歳だったため、まだこれから看護師として活躍できる年齢でもあります。看護師になるためには国家資格を得ていなければいけません。また、国家資格を得るためには看護学校に進学している必要もあります。
久保木愛弓がなぜ看護師になろうと考えたのかは不明ですが、看護師は比較的収入が多い職業ですので、収入の多い職業に就くことで家を早く出たかった可能性が高いです。
連続不審死の犯人
久保木愛弓が勤務していた大口病院では、相次いで連続不審死事件が起こりました。大口病院では事件が発覚する前から50名以上も患者が不審死を遂げており、病院側の医療ミスではないかとの見解が持たれることとなります。しかし、大口病院では医療ミスをしたとの報告はなく、不審死について疑惑が深まります。
この連続殺人事件の犯人は警察の調べにより、久保木愛弓が起こした事件だと発覚することとなりました。
戦後最大の殺人犯
久保木愛弓の犯行はあまりにも残虐だったため、戦後最大の殺人犯と言われることもありました。戦後最大の殺人犯と言われる原因の1つに被害者の数があげられます。余罪を調査中の時点でも20人の殺人に関与しているなどの証言をしていました。そのことから、久保木愛弓をサイコパスだという人も多くいました。
久保木愛弓の生い立ち
多くの被害者を出した大口病院事件ですが、犯人である久保木愛弓のがどのような人生で、どのような生い立ちを歩んできたのか疑問の声があります。久保木愛弓の生い立ちについて詳しいことは未だ分かっておらず、まだ謎に包まれている部分も多く残ります。
しかし、久保木愛弓の生い立ちについてわかっていることもありますので、わかっている部分の現在までの生い立ちをご紹介します。
4人家族の長女として生まれる
久保木愛弓は4人家族の長女として生まれたそうです。しかし、久保木愛弓の兄弟に関しての情報はありません。ただ、両親とも兄弟とも関係があまりよくなかったと言われており、一般的な幸せな家族とは少し離れた関係性だったと言えるでしょう。
高校時代は地味で大人しかった
高校生時代の同級生は久保木愛弓のことを「地味」や「おとなしかった」と話しています。中には、「いることさえ知らなかった」と発言している高校生時代の同級生もいたほどです。そのため、久保木愛弓は高校生の頃から自分を周りに知ってもらう行為が苦手だったと考えることができます。
後にご紹介しますが、周囲から注目されなかった人は大人になってから注目されたい欲求が強くなることがあります。地味な高校生活を送った久保木愛弓はその欲求があったのかもしれません。
高校卒業後は看護学校に進学
家族と関係がうまくいっていなかった久保木愛弓は、高校卒業後に看護学校に進学することとなります。高校生の頃から家族と不仲だったため、早くお金を手にして自立したいと考えていた可能性があります。看護師は一般的に稼げる職業だと言われているため、自立するには申し分ありません。
また、高校から看護学校に進むことができれば最短で看護師になれるため、久保木愛弓は高校卒業後すぐに看護学校に進学したのかもしれません。
事件の1年前に大口病院に転職
久保木愛弓は事件を起こす1年ほど前に大口病院に転職してきました。その後、相次いで大口病院では死者が出てしまいます。大口病院では末期患者を扱っていたため、死者が出てしまうこと自体に不信感はなかったそうです。しかし、あることがきっかけで久保木愛弓が殺人の容疑者に浮上することとなります。それについては後にご紹介していきます。
以前病院に勤めていたのかなどは不明ですが、看護学校を卒業した後は看護師として勤務していた可能性が高いです。そこではどんな印象のある人物だったのかは明かされていません。
大口病院事件の発生から逮捕までの経緯
戦後最大の殺人犯とまで言われた久保木愛弓ですが、その概要とは一体どのようなものだったのでしょうか。末期患者を扱っている病院だからと言って、看護師が患者を殺めてしまうことはあってはなりません。また、大口病院事件では事件が発覚するまでに大勢の患者が亡くなっています。
病院側が調査してもなかなか犯人にたどり着けなかったことから、それほど久保木愛弓の犯行は巧妙だったことが分かります。では、大口病院事件の発生から逮捕までの経緯を考察していきましょう。
点滴を受けた男性が中毒死
大口病院で点滴をしていた男性が、相次いで中毒死したことが判明しました。事件が発生したのは2016年9月18日が始まりで、その2日後の20日にも男性が点滴を受けて中毒死しています。この事件が起こったことにより、大口病院の職員が点滴を確認したところ泡立っている点滴を発見します。
そして、通報した後に検死すると界面活性剤によって中毒死したことが判明します。界面活性剤は消毒液に入っている成分だったそうです。
久保木愛弓は事件直後に退職
大口病院事件の犯人である久保木愛弓は、2016年11月ごろに大口病院を退職しています。また、退職した後は大口病院の同僚たちと接点を持つことがなかったため、事件発覚を恐れていた可能性も高いのではないでしょうか。事件が発生したのは2016年9月ですので急な退職ということになり、警察も怪しいと感じていた可能性があります。
また、久保木愛弓が退職するまでの間には不審な事件が多く起こっており、それも久保木愛弓が退職してからは起こらなくなったそうです。
捜査線上に久保木愛弓の関与が浮上
事件が発生してからあまりにも被害者が多かったため、警察は急いで捜査を始めます。するとその捜査線上に久保木愛弓が関与していることが浮上し始めます。捜査線上に久保木愛弓が浮上したのは2017年9月ごろで、久保木愛弓が大口病院を退職してから1年ほど経った頃でした。
そのため、多くの報道陣からインタビューされることもあったそうです。その際に久保木愛弓はどのような受け答えをしていたのでしょうか。
インタビューでは無実を訴えていた
報道陣からインタビューを受けていた久保木愛弓は、無実を主張していました。そのことから、久保木愛弓は本当に大口病院事件に関係していないのではないかと考える人が多くいました。しかし、結果として久保木愛弓は多くの人を殺害していたことが発覚します。
普通の神経では多くの人を死なせておいて無実を主張できない、と世間からは批判と共に、事件当時は精神的に何か異常をきたしているのではないかとの疑問も持たれていたそうです。
久保木愛弓容疑者を殺人容疑で逮捕
久保木愛弓容疑者をあることがきっかけで殺人の罪で逮捕することとなります。その決め手となったのはワンショット注入だといわれており、久保木愛弓は殺害の際に手口を使い分けていたといいます。先ほど記載した殺害方法では、界面活性剤を点滴に注入していたことが分かっています。
しかし、死亡したもう1人の男性の点滴からは界面活性剤が検出されませんでした。そのことから、久保木愛弓容疑者は界面活性剤をワンショット注入させたのではないかと疑われ、捜査の結果はその通りとなりました。
久保木愛弓がサイコパスな犯行に至った動機
久保木愛弓容疑者が起こした事件は最終的に50人以上もの被害者がいたと言われています。それについて、「サイコパスだ」「戦後最大の殺人犯」との声が上がっていますが、それ以外にも久保木愛弓が事件を起こすきっかけとなった動機があまりにもサイコパスだと話題になっています。
では、戦後最大とまで言われている犯人の久保木愛弓は、どのような動機で犯行に及んでいたのでしょうか。
動機1 看護師仲間からのいじめ
久保木愛弓容疑者は大口病院に勤めていた際、看護師仲間からいじめを受けていたそうです。高校生時代から暗い印象を持たれていたため、看護師になってからもその印象は拭えなかったのでしょう。また、看護師仲間からいじめを受けていた久保木愛弓は密かに復讐をしていたようです。
看護師仲間の制服を切り裂いたり、ペットボトルに異物を混入させた疑いがもたれています。しかし、これに対して久保木愛弓は容疑を否認しているとのことです。
動機2 家庭環境
犯行動機について家庭環境が上げられます。過去に起こった殺人事件の犯人の多くは、家庭環境が主な動機となっていることがあったため、久保木愛弓容疑者も同じ動機なのではないかと言われていました。事件当時はすでに独り立ちしていたためその可能性は低いと考えられます。
ただ、両親や兄弟とは不仲だったといわれているため、その環境が久保木愛弓容疑者にストレスを与えていたのかもしれません。また、「患者は心配してくれる人がいいね」との趣旨の言葉も残しています。
動機3 職務怠慢
久保木愛弓容疑者がサイコパスだと言われる動機には、職務怠慢があります。久保木愛弓容疑者は動機を聞かれたことに対して、「自分が勤務しているときに患者に死なれると困る」との発言を残しています。その理由として、遺族に対して死亡した経緯などを話すことが面倒だからだそうです。
看護師としてあるまじき発言に対し、久保木愛弓容疑者には批判が殺到します。
動機4 代理ミュンヒハウゼン症候群
久保木愛弓容疑者には、代理ミュンヒハウゼン症候群があったのではないかとの疑惑があります。代理ミュンヒハウゼン症候群とは、周囲の人の関心を自分に向けさせるために殺傷してしまう病気を意味しています。幼い頃から目立たない存在だった久保木愛弓容疑者には、この病気が当てはまる可能性は十分にあります。
代理ミュンヒハウゼン症候群が認められれば、犯人である久保木愛弓容疑者の責任能力が問われなくなってしまう可能性も出てきます。
大口病院事件のその後
大口病院で多くの患者を死なせるという事件を起こしてしまった久保木愛弓容疑者ですが、事件のその後はどうなってしまったのでしょうか。大口病院事件では犯人が久保木愛弓容疑者であることがすでに判明しています。そのため、これ以上被害者が増えることはありません。
ただ、この大口病院事件では影響を大きく受けた人もいます。それでは、大口病院事件のその後についてご紹介します。
事件のあった大口病院は改名
大口病院事件後は大口病院が名前を改名しています。やはり、かなり大きな事件だったため世間からのバッシングもひどく、改名せざるを得なくなってしまったと考えられます。旧大口病院は現在「横浜はじめ病院」に改名したと発表されているようです。
旧大口病院では大きな事件が起こったほかに、点滴を誰でも触れるような場所に置いているなどの管理に対する批判が寄せられています。管理体制が悪いからこそ、久保木愛弓容疑者が事件を起こさなくても、別の看護師が事件を起こしていた可能性は否定できません。
久保木愛弓の余罪についても現在捜査中
大口病院事件で犯人として逮捕された久保木愛弓容疑者ですが、その余罪については現在も捜査中とのことです。事件発生からもうすでに時間が経っているにもかかわらず、余罪が明らかになっていません。そのことから、久保木愛弓容疑者が関わっていた殺人はかなり多いのではないかと推測できます。
久保木愛弓容疑者の発言では20人以上に関係しているとの発言が取れているため、それを調べるだけでもかなり時間がかかってしまいそうです。
責任能力ありで久保木愛弓を起訴
逮捕された久保木愛弓容疑者は、代理ミュンヒハウゼン症候群の疑いがもたれていました。そのため、事件において責任能力がないと判断されるのではないかとの声もありましたが、最終的に責任能力ありで久保木愛弓容疑者を起訴することとなります。しかし、久保木愛弓容疑者が関わっていた罪を明らかにするのは難しいかもしれません。
今は久保木愛弓容疑者が起訴されたことで、どのような判決が下されることになるのか注目です。
久保木愛弓は身勝手な犯行動機で大量殺人をくり返していた
看護師という職業は夜勤もあり、ストレスも溜まる職業のため精神的に参っていたことでしょう。それを久保木愛弓容疑者は殺人を犯すことで発散していたのかもしれません。しかし、動機の中には明らかに自分勝手とも言えるような犯行動機もあったため、久保木愛弓容疑者に同情する人は少ないと言えるのではないでしょうか。
現在犯人である久保木愛弓容疑者は起訴されたところです。そのため、まだ判決は明らかになっていません。今後どのように事件の結末が展開されていくのか注目が集まります。  
 
 
 
 
■通り魔殺傷事件

 

 
 
 川崎登戸殺傷事件  
 
川崎登戸殺傷事件・報道
 2019/5/28

 

川崎・登戸殺傷 児童ら18人襲われ小6女児と男性死亡 確保の男も死亡 5/28
28日午前7時45分ごろ、川崎市多摩区登戸(のぼりと)新町の路上でスクールバスを待っていた小学生らに男が近づき、刃物で次々と刺した。小学生16人と近くにいた成人2人の計18人が襲われ、小学6年生の女児と別の小学生の保護者とみられる30代男性の計2人が死亡。40代女性1人、小学生女児2人の計3人が重傷を負った。110番で駆けつけた神奈川県警の警察官が、刺したとみられる男を確保。男は自分の首を刺しており、搬送先の病院で死亡が確認された。現場の状況から通り魔事件の可能性があり、県警は殺人の疑いで捜査している。
県警によると、警察官が現場東側の植え込みの横で体から血を流して倒れている男を発見。近くに血が付着するなどした包丁2本が落ちており、県警は事件に関与したとみている。川崎市麻生区に住む51歳の男とみられ、他にも2本の包丁を所持していた。県警が身元や動機の解明を急いでいる。
現場は小田急線登戸駅の近くで、県警によると同駅から北西に約1・5キロにある私立「カリタス小学校」(川崎市多摩区中野島)のスクールバスを待っていた小学生らが襲われたとみられる。小学生らを迎えに来たバスの運転手は「両手に包丁を持った男が西からバスに向かってきて、いきなり並んでいる子どもを刺した」と話しており、運転手が男に「何をしている」と言うと、男はその場で自分の首を切ったという。
バス停の西側にあるコンビニエンスストア周辺に血痕があり、死亡した30代男性と重傷の40代女性はこの辺りで襲われた可能性がある。
川崎市消防局によると、負傷者らは聖マリアンナ医科大病院や川崎市立多摩病院、新百合ケ丘総合病院、日本医科大武蔵小杉病院に搬送されて治療を受けた。死亡した女児と30代男性が搬送された武蔵小杉病院によると、2人とも首を深く切られていた。
目撃情報によると、現場付近の歩道には少なくとも約50メートルにわたって複数の被害者が倒れていた。バス停の近くに止まっていたスクールバスのそばに小学生とみられる女児が倒れ、その西側に大人2人が倒れていた。心臓マッサージを受けている被害者もおり、腹部周辺に血がにじんでいたという。
神奈川県私学振興課によると、カリタス小学校(内藤貞子校長)は、学校法人カリタス学園が1963年に設立した。カトリック教育を重視し、系列の幼稚園や中学校、高校がある。昨年度の児童数は647人(男子63人、女子584人)。小田急線・JR線の登戸駅から学園まで、スクールバスを運行している。 
登戸の川崎殺傷事件の犯人・岩崎隆一容疑者 5/28
2019年5月28日(火曜日)午前7時40分ごろ発生した、神奈川県川崎市の登戸第一公園付近で発生した、無差別ともいえる通り魔刺傷事件に対して、多くの人たちが怒りをあらわにしている。
・カリタス小学校専用スクールバスを狙う
犯人である岩崎隆一(51歳 / 川崎市麻生区在住)は、登戸第一公園付近のンビニエンスストア前で複数の大人を包丁で刺し、そのままカリタス小学校専用スクールバスに駆け寄り、バスに乗ろうとしていた小学生たちを次々と刺していった。
・犯人が現れて次々と小学生らを刺す
この日は、教員が登戸駅(JRと小田急の乗換駅)から小学1年生らを引き連れて、登戸第一公園付近のバス停まで移動。そこで同行の小学6年生らと合流し、一緒にスクールバスで登校する予定だった。そこに、岩崎隆一容疑者が現れて次々と小学生らを刺していったのである。
・小学6年生の女児が刺されて死亡
小学生16人含む18人が岩崎隆一容疑者に刺されている。小学6年生の女児が刺されて死亡しており、最悪の展開となったこの事件。特に重症なのは4人で、頭、胸、脇などが執拗に刺されており、危険な状態にあるという。
・死亡したのは子供1人と大人2人
また、岩崎隆一容疑者に刺された39歳の男性も搬送先の病院で死亡したが、犯人の男もみずから自分の首などを刺して心肺停止となり、その後、搬送先の病院で10時38分に岩崎隆一容疑者の死亡が確認された。つまり、現時点で死亡したのは子供1人、大人2人が死亡したことになる。
・多くの人たちが怒りと悲しみ
また、捜査関係者やマスコミの報道によると、刺された小学生はすべて女子だったことが判明している。子供の被害者はすべて女子だったのである。多くの人たちが怒りと悲しみに包まれているが、岩崎隆一容疑者がどうしてこのような残酷な犯行に及んだのか、捜査が進められている。

2019年5月28日(火曜日)に神奈川県川崎市の登戸第一公園付近で発生した、無差別な通り魔刺傷事件の詳細が判明し、その残虐な行為が物議を醸している。登校中の子供たちがなぜ襲われたこの事件に対し、多くの人たちが怒りに震えている。
・乗客の子供たちは全員小学生
事件は2019年5月28日(火曜日)午前7時46分頃に発生した。神奈川県川崎市の登戸第一公園付近にあるカリタス学園専用のバス停に、カリタス小学校専用のスクールバスが停車。このスクールバスは小学生のみを乗せる便で、乗客の子供たちは全員小学生とみられる。
・スクールバスに駆け寄る岩崎隆一容疑者
娘がそのバスに乗っていたという男性の証言によれば、そのスクールバスに子供たちが乗車していたところ、包丁を持った男が現れたという。その男は岩崎隆一容疑者(51歳)。スクールバスの運転手によると、包丁を持った岩崎隆一容疑者がスクールバスに近寄ってくるのが見えたという。実は、スクールバスを襲う前に付近のコンビニエンスストア付近で大人を刺していた。通り魔と化した岩崎隆一容疑者は、次々と子供たちを刺し、大人も刺されるなど最悪の事態となったのである。
・岩崎隆一容疑者は自分を切って自殺を図る
小学生や大人たちを次々と包丁で刺したのち、岩崎隆一容疑者は自分の首や肩付近をみずから切り刻み、心肺停止となって路上で発見された。警察は犯人を確保したものの、重症とのことで病院に搬送された。
・小学6年生の女児が心肺停止
岩崎隆一容疑者と刺された小学生が搬送された聖マリアンナ医科大学病院によると、小学6年生の女児が心肺停止だったものの死亡。どうして未来ある子供が殺されなくてはならなかったのか、多くの人たちが怒りに震えている。
・スクールバスを狙って襲った可能性
岩崎隆一容疑者の男はスクールバスめがけて駆け寄ってきたとのことで、無差別ではあるものの、スクールバスを狙って襲った可能性があるとされている。この事件で、小学生16人含む18人が刺されている。うち、1人の小学生が死亡し、岩崎隆一容疑者と刺された男性の2人も死亡している。
・犯人は51歳の男性
岩崎隆一容疑者も心肺停止だったが死亡が確認された。岩崎隆一容疑者は51歳の男性で、黒の半そでシャツとジーパンというファッションで、頭を刈り上げた髪型だったという。警察が所持品が入ったバッグのようなものを発見しており、刃が長めの柳葉包丁のような刃物を2本持っていたことも判明している。

川崎殺傷事件が日本中を悲しみで包んでいる。突如として2019年5月28日(火曜日)午前7時40分頃に発生したこの事件は、現時点で3人が死亡確認されており、うち1人は自殺をした殺傷事件の犯人であり、通り魔をした岩崎隆一容疑者(51歳)だ。計19人が通り魔によって刺されている。
・小学生たちを次々と刺した
岩崎隆一容疑者は神奈川県川崎市の麻生区に住んでいる男性とされており、事件当日、包丁を持ってコンビニ付近で人を刺したのち、カリタス小学校専用のスクールバスに駆け寄り、バスに乗ろうとしている乗っている)小学生たちを次々と刺していった。
・死亡した小学6年生の栗林華子ちゃん
スクールバスには小学1年生と小学6年生の女児たちが乗っており、岩崎隆一容疑者はその子供たちを包丁で切ったり、刺したり、複数の傷を負わせていった。死亡した小学6年生の栗林華子ちゃん(11歳)は頭、胸、首、脇など複数個所を切ったり刺したりされ心肺停止状態になったのち、搬送先の病院で死亡した。
・岩崎隆一容疑者の所持品を警察が調査
岩崎隆一容疑者は計19人を刺したのち、自分の首を刺して心肺停止状態になり、その後死亡した。つまり自殺したことになる。そんな通り魔の所持品を調べたところ、保険証などの身分証から神奈川県川崎市麻生区に住む男性と判明した。
・予備として包丁を複数持っていた可能性
さらに驚くことに、岩崎隆一容疑者の所持品には複数の包丁があり、岩崎隆一容疑者が犯行に使用した包丁を合わせると合計4本の包丁が所持品から発見されている。包丁が折れるなどのトラブルを回避するため、予備として包丁を複数持っていた可能性がある。
・大人には子供たちの命を守る義務がある
この川崎殺傷事件では、小学生の保護者である小山智史さん(39歳)も刺されて死亡している。事故と事件、その双方で幼い子供たちが死亡する出来事が連発している昨今。「なぜ」という言葉しか出ないのが現状だ。大人たちには、子供たちの命を守る義務がある。何らかの解決策があればよいのだが。
包丁4本所持、計画的か=小学生ら19人刺される−2人死亡 5/28
28日午前7時40分ごろ、川崎市多摩区登戸新町の小田急線登戸駅周辺で、スクールバスを待っていた私立カリタス小学校=同区=の児童ら19人が男に次々と刺され、小学6年の栗林華子さん(11)=東京都多摩市桜ケ丘=と別の児童の父親で外務省職員の小山智史さん(39)=世田谷区=が死亡した。
男は川崎市に住む51歳とみられ、現場で自分の首を刺し、搬送先の病院で死亡が確認された。当時、包丁4本を所持しており、神奈川県警捜査1課は計画的に児童らの殺傷に及んだとみて、殺人容疑で動機などの解明を進める。
同課によると、他に刺されたのは、同小の女子児童15人、男子児童1人と40代女性。女性は重傷で、川崎市内の病院で治療を受けている。
死亡した2人が搬送された日本医科大武蔵小杉病院(川崎市)によると、栗林さんは首の辺りを切られ、小山さんも首や鎖骨、背中を計4カ所刺されていた。他の児童も顔や肩など上半身に傷が集中していた。
男は両手に柳刃包丁を持ち、小山さんの背中を刺した後、バス停前に並んでいた児童に切り付けた。運転手が「何やってんだ」と言うと、自分の首付近を刺したという。所持品のリュックの中から別に包丁2本も見つかった。
目撃者によると、男は身長約170センチの丸刈りで、黒のTシャツとジーンズを着用。児童らを襲う直前、「ぶっ殺してやる」と叫んでいたとの情報もある。
運営法人によると、カリタス小学校(内藤貞子校長)は1963年設立。小学校は男女共学で児童数は昨年5月時点で647人。スクールバスは登戸駅から学校まで運行しているという。
現場は小田急線やJR南武線が乗り入れる登戸駅の近くの住宅街。  
川崎登戸殺傷事件「犯人の名前」出ずの謎 5/28
28日朝に発生した、川崎市多摩区登戸新町の小田急線登戸駅周辺で小学生16人を含む18人が刺され、女児1人と39歳男性が死亡した事件。すでに犯人の男は自ら命を絶っている。
今なお多くの情報が錯綜している状況だが、列島の早朝に飛び込んだ信じがたいニュースに驚きと憤りの声が後を絶たない。
男は「ぶっ殺してやる」と叫びながら犯行に及び、最終的に自分の首を刺して死亡。犯行動機など事件の真実が明らかになるのが難しい状況となってしまった印象だ。
テレビやインターネットでもこの事件に関する報道がほとんどという状況だが、事件発生から6時間ほどが経過した今になっても「犯人の名前」は明らかになっていない。
「すでに犯人の男が『51歳』であることは明らかになっていますが、名前がまだ出ていません。犯人死亡ということで調べるのに時間がかかるのかもしれませんが、年齢がわかるということは何某かの『身分証明』があったという可能性は高く、名前はすでに把握されている可能性は低くありません。
それでも名前が出てこないのは、警察の影響なのかマスコミの配慮なのか......国籍や出自、職業など、いずれにせよ、犯人がどういった理由でここまで名前が伏せられているのかは気になります」(記者)
ここまできて名前が伏せられているのは、やはり不自然といえる。すぐに名前が出せない「理由」があるのだろうか。
先日は池袋の自動車暴走事故において、加害者が旧通産省工業技術院の飯塚幸三・元院長である点が数日もの間伏せられていたため「上級国民は扱いが違う」「逮捕されないのか」と批判が起きた。
人物の「背景」によっては名前を一時的に伏せる行為をマスコミは行うのは確かなようだ。今回の事件の犯人、果たしてどのような人間なのか。世間の注目が集まっている。 
川崎19人殺傷事件、ドライブレコーダーに犯行の一部始終 5/30
川崎市の路上で小学生ら19人が包丁を持った男に襲われ、2人が殺害された事件で、スクールバスのドライブレコーダーに男が走りながら手当たり次第に刺す犯行の様子が写っていたことがわかりました。
この事件は28日午前、川崎市多摩区の路上で、スクールバスを待っていた小学生ら19人が包丁を持った男に次々と襲われ、小学6年生の栗林華子さん(11)と外務省の職員の小山智史さん(39)が死亡し、3人が重傷を負ったものです。
岩崎隆一容疑者(51)は、現場で自らの首を刺し、死亡していますが、捜査関係者への取材で、バスのドライブレコーダーに、岩崎容疑者が小走りで、小学生らを包丁で手当たり次第に刺す犯行の様子が写っていたことがわかりました。岩崎容疑者の部屋の押し入れからは包丁4本の空き箱が見つかっていて、事前に購入していた可能性があるということです。
「やっぱり落ち着きがなくて、からかわれやすい感じの子。そんな大それたこと、できるような子とは思えなかった」(岩崎容疑者の中学時代の担任)
警察によりますと、岩崎容疑者はおよそ4キロ離れた自宅から電車を使って現場に直行したとみられていて、児童などが多く集まる場所を事前に把握し計画的に事件を起こした可能性があるということです。
亡くなった栗林華子さんの両親は、「人生で最も大切な、最愛の娘を突然奪われ、今は全く気持ちの整理がつかない状態です」とコメントしています。
また、亡くなった外務省職員の小山智史さん(39)は、上皇さまが在位中に4回ミャンマー語の通訳を務めていて、ご夫妻は30日、外務省を通じて小山さんの妻に弔意を伝えられたということです。 
YouTuberが川崎登戸殺傷事件をネタに動画を配信 5/31
 「巻き込まれた人は運が悪かった」と嘲笑
今月28日、川崎市・登戸駅周辺で大量殺傷事件が発生し二人の方が亡くなったが、その同日中にYouTuberの「しんやっちょ」と「金バエ」が現場から動画を生配信していたことが、物議を醸している。
「しんやっちょ」は自身のYouTubeチャンネル「しんやっちゅーぶ」に「川崎で小学生や大人が刺された襲撃事件 確保の男は刺した包丁で自害」というタイトルの動画をアップ。サムネイルは「金バエ」が「しんやっちょ」を刺すふりをしているものであった。
サムネイルだけでも不謹慎極まりないが、動画での「しんやっちょ」と「金バエ」の会話はさらに酷いものだった。
「金バエ」は<(犯人は)子どもを襲ってる時点で強くない。本来ならね、幸せそうなカップルを殺すと思うの><要するに、肉体も弱いし社会的地位もない。精神的にも弱い>と犯人像を分析。なお、「金バエ」は犯罪心理学者などではない。
これに対し「しんやっちょ」は<大人のね、20代、30代では負けるかも知れんから。老害か子どもしか狙ってない><巻き込まれた人は運が悪かった>と笑いながら返した。
その後、二人は事件現場から動画の生配信を始める。視聴者から炎上を心配する声が上がると、<言うても、マスコミだからって被害者にとっては関係ないからね。フリージャーナリストかメディアかの違いだから。怒られる筋合いはないからね。一緒だよ。俺たちは生放送で配信する>と発言。フリージャーナリストのつもりなのだろうか。また、彼らは偶然通りかかった子どもに対して<ここで何あったか知ってる? 怖かった?>などと質問していた。
事件被害者や遺族、関係者の尊厳を踏みにじるようなこの動画に対して、5月31日現在、4538件のBADが付いており、597件あるコメントのほとんどが、事件をネタにして笑う二人を批判するものだ。
多数のBADやコメントをうけ、「しんやっちょ」は29日に自身のTwitterを更新し反省の弁を述べた。
<低評価多く悪い意味で また拡散されてるなぁ…… いつもの配信の癖でニヤニヤ笑いながら 話してしまったこと後悔 真面目に取り扱えば良かった 笑いを入れる必要なかったよね 亡くなられた方がいたり 被害者がいる案件は慎重に 取り扱わないと不謹慎になる ごめんなさい>
けれども、同日に「しんやっちょ」が「日刊ふわっちマガジン」というYouTubeチャンネルにアップした2本の動画「動画検証 しんやっちょ!! 川崎事件の不謹慎騒動に関して語る!!」「本音 しんやっちょ!!川崎事件配信での炎上の本音を語る!!」をみると、やはり事件を軽くみていることは明らか。
動画は28日に投稿した動画と視聴者からのコメントを見ながら「しんやっちょ」が喋るというだけの内容で、<バズりたいバズりたいという気持ちが強くて、自分を正当化してしまっているところはある><悪気はない>と釈明。しかし、視聴者からの<遺族はずっと悲しい>というコメントに<遺族はずっと悲しいってひとりしか死んでないから>と返答するなど、命を軽んじているとしか思えない。正確には犠牲者は2人だが、人が亡くなっている以上、人数の問題ではないだろう。
また、<インターネット配信ならふざけるよ。真面目にやってもつまらないじゃん><エンターテイナーなんだから>とも発言しているが、人の命が失われた事件も彼は“エンタメ”と捉えているのだろうか。「しんやっちょ」は今月23日に新宿で発生した女がホストクラブに勤める男性を刺殺しようとした事件や、26日に元KARAのク・ハラが自殺未遂をはかった件についても、独自の考察を広げる内容の動画をアップしている。
一方、「金バエ」も同じく同日「日刊ふわっちマガジン」に「謝罪動画 金バエ!!今日はしんやっちょと謝罪動画を撮影します・・・・・」というタイトルの動画をあげているが、<動画を消す必要もないし、謝罪する必要もない><あんなのYouTuberという存在を叩きたいだけ>と、動画に問題はなかったと主張している。
事件を“エンタメ”として消費するような価値観が蔓延していることは確かだ。たとえば、新宿の殺人未遂事件は事件直後と見られる画像がネット上に流出し、「エモい」「犯人がかわいい」などという感想とともに瞬く間に拡散された。
25日に愛知県名古屋市・栄の繁華街で、元暴力団組員の男が長い刃物とバールを手に男性を襲撃、殺害するという事件が発生したが、その一部始終を撮影した動画もネットで拡散。一時は「殺人動画」というワードがTwitterのトレンド入りしており、どれだけの人が興味本位で動画を探したのかがわかる。
人の命が関わった事件は、フィクションでもエンタメでもない。そこには必ず、被害者と遺族の悲しみがあるということを忘れてはいけない。 
「過去の大量殺人」の雑誌押収 児童ら殺傷事件 男の自宅から 5/31
川崎市でスクールバスを待っていた小学生らが次々と包丁で刺され19人が死傷した事件で、自殺した容疑者の男の自宅から、過去に海外で起きた大量殺人に関する事例などを集めた雑誌2冊が見つかっていたことが捜査関係者への取材で分かりました。2冊とも発行されたのは10年以上前ということですが、古書店などで購入した可能性もあるため、警察は入手の時期など詳しい経緯を調べています。
この事件では、いずれも都内に住む小学6年生の栗林華子さん(11)と外務省職員の小山智史さん(39)が死亡し、17人が重軽傷を負いました。
警察は、事件のあと自殺した岩崎隆一容疑者(51)の自宅を29日、殺人の疑いで捜索し、数十点を押収しましたが、その中に、過去に海外で起きた大量殺人に関する事例などを集めた雑誌2冊があったことが捜査関係者への取材で分かりました。
2冊は同じシリーズの雑誌で、猟奇的な事件についても扱っているということです。
いずれも10年以上前に発行されたとみられますが、古書店などで購入した可能性もあるということです。
警察は、これらの雑誌を参考にして事件を起こした疑いもあるとみて、入手した時期など詳しい経緯を調べています。 
川崎20人殺傷、包丁2本を都内の量販店で購入か 6/1
神奈川県川崎市で小学生ら20人が男に襲われた事件で、男が持っていた包丁4本のうち、2本と同型のものが今年2月に都内の量販店で購入されていたことがわかりました。
この事件は先月28日、川崎市でスクールバスを待っていた小学生ら20人が襲われ、小学6年生の栗林華子さん(11)と外務省の職員の小山智史さん(39)が殺害されたものです。その後の捜査関係者への取材で、岩崎隆一容疑者(51)が持っていた包丁4本のうち、2本と同型のものが今年2月に東京・町田市の量販店で購入されていたことが新たにわかりました。押収された空き箱には量販店のシールが貼られていたということで、警察は、岩崎容疑者がこの量販店で購入していたかどうか慎重に調べています。
「平日は来れなかったものですから、いたたまれない気持ちできょうは(来ました)」(現場に訪れた人)
現場には、事件から最初の週末となる1日も多くの人が献花に訪れています。 
「容疑者はトラブルメーカー」 児童ら20人殺傷 6/1
神奈川県川崎市で小学生ら20人が男に襲われた事件で、職業訓練校時代の同級生が男について、「とにかく人ともめてトラブルメーカーだった」と当時の印象を語りました。
この事件は先月28日、川崎市でスクールバスを待っていた小学生ら20人が襲われ、小学6年生の栗林華子さん(11)と外務省職員の小山智史さん(39)が殺害されたものです。自らの首を刺して死亡した岩崎隆一容疑者(51)の職業訓練校時代の同級生が、JNNの取材に応えました。
「51歳、岩崎隆一と(報道で)出たときに、あれと。あの岩崎じゃないかと思いました。人と意見が合わないと、まったく譲らない。それに対して否定をするというか。同調したり協調性はまったくない感じ。とにかく人ともめる、トラブルが絶えないという感じです」(職業訓練校時代の同級生)
また、岩崎容疑者が持っていた包丁4本のうち2本と同じ型のものが、今年2月に東京・町田市の量販店で購入されていたことが新たにわかりました。押収された空き箱には量販店のシールが貼られていたということで、警察は、岩崎容疑者がこの店で購入したかどうか慎重に調べています。 
襲撃4日前に現場下見か、川崎20人殺傷事件 6/3
川崎市多摩区でスクールバスを待っていた私立カリタス小の児童ら20人が殺傷された事件で、自殺した岩崎隆一容疑者(51)=同市麻生区=とみられる男が、事件4日前の朝に現場付近や駅の防犯カメラに映っていたことが3日、捜査関係者への取材で分かった。神奈川県警は下見した可能性があるとみて、捜査を進めている。
岩崎容疑者が2月に東京都町田市の量販店で購入したとみられる包丁2本が、現場で見つかった4本のうち襲撃に使われた刃渡り約30センチの包丁だったことも判明。一連の経緯から県警は事件は計画的だったとみている。
捜査関係者によると、5月24日朝、自宅最寄りの小田急線読売ランド前駅と3駅先の登戸駅、現場近くの防犯カメラに、岩崎容疑者に似た男の姿が捉えられていた。事件当日と同じ短髪で、リュックサックは持っていなかった。
カリタス小は5月25日が運動会で、26日と27日は日曜日と振り替え休日。24日は事件直近の通常の登校日で、朝は通学時間帯に当たるためスクールバスを待つ多くの児童がいたとみられる。
事件は5月28日午前7時40分ごろ発生。県警によると、岩崎容疑者は午前7時半前に読売ランド前駅で電車に乗り、同35分ごろに登戸駅で下車。JR南武線の線路沿いを歩き、現場そばのコンビニ駐車場で包丁を取り出し、児童らを襲撃した直後に自殺を図った。
事件では20人が被害に遭い、保護者の外務省職員の小山智史さん(39)とカリタス小6年の栗林華子さん(11)が死亡し、保護者の女性(45)と女児2人が重傷を負った。 
事件4日前に“男”の姿、下見か 6/3
川崎市で小学生ら20人が男に襲われた事件で、容疑者とみられる男の姿が事件の4日前の朝、現場近くや駅の防犯カメラなどに写っていたことが新たにわかりました。
この事件は先月28日、川崎市の登戸駅前でスクールバスを待っていた小学生ら20人が襲われ、小学6年生の栗林華子さん(11)と外務省の職員の小山智史さん(39)が殺害されたものです。現場では、岩崎隆一容疑者(51)が自殺しました。
その後の捜査関係者への取材で、事件の4日前、犯行時間と同じ時間帯に、自宅の最寄り駅の読売ランド前駅と登戸駅、さらに現場周辺の防犯カメラに岩崎容疑者とみられる男の姿が写っていたことが新たにわかりました。警察は、岩崎容疑者が現場を下見し、計画的に犯行に及んだ可能性があるとみています。
「結構みんなに『岩ちゃん、岩ちゃん』と呼ばれてました。外でも飲みに行ったりとか、カラオケとかも行きました」(20代の岩崎容疑者とみられる人物の知人)
こう話すのは、岩崎容疑者とみられる人物と神奈川県内でアルバイト先が一緒だったという男性です。ともに20代でよく飲みに行ったり、カラオケに行っていたりして遊んでいたといいます。しかし・・・
「普段おとなしいんですけど、急に気性が荒くなるときはあるなって。向こう(岩崎容疑者の後輩)がちょっと冗談を言ったんですけど、それにキレたみたいで、蹴りを入れたりしているのは見たことがあります」(20代の岩崎容疑者とみられる人物の知人)
当時、おじとおばと同居していると話していたといいますが、両親についてはこんなことも・・・
「『おじ・おばに育てられている』って聞いていたので、『両親には捨てられた』と。『(両親に)会いたいと思わない?』と言ったときに、『会ったらもう殴ってやります』みたいなことは言っていました。『どうせ自分はいらない存在なんだろう』って言ったときに、おじさんが『誰がそんなことを言った』と言ったと、けんかになっていたことはあったみたい」(20代の岩崎容疑者とみられる人物の知人)
警察は、岩崎容疑者が犯行に至ったいきさつを詳しく調べています。 
長男刺殺の元官僚「川崎の事件が・・・」 6/3
1日、東京・練馬区で農水省の元エリート官僚が、同居する44歳の長男を殺害したとして逮捕されました。逮捕された男は先週、川崎市で小学生らが襲われた事件を念頭に、「長男が子どもに危害を加えるのが危険だと考えた」と供述していることがわかりました。長男は引きこもりがちだったということです。 
 
川崎登戸殺傷事件
 2019/5/28

 

川崎登戸殺傷事件
2019年(令和元年)5月28日に神奈川県川崎市多摩区登戸で発生した通り魔殺傷事件。結果として被害者のうち2人が死亡し、18人が負傷した。犯行の直後、加害者は自らの首を刺し、搬送先の病院で死亡が確認された。
事件発生
2019年5月28日7時45分頃、川崎市の登戸駅付近の路上で、私立カリタス小学校のスクールバスを待っていた小学生の児童や保護者らが近づいてきた男性に相次いで刺された。終始無言のまま待機列の背後から駆け足で襲撃しており、人間の不意を突く方法で奇襲したと見られる。
最初の襲撃はファミリーマート付近で始まり、加害者は保護者の男性(後に死亡を確認)を背後から刺した。その後、約50メートルを無言で走って移動しながら保護者の女性と児童17人(後に死亡を確認された女児1人を含む)を立て続けに襲撃した。加害者はスクールバスの運転手から「何をやっているんだ」と叫ばれた後、さらに数十メートル移動して自剄に及んだ。襲撃開始から加害者が自ら首を切るまで十数秒程度だった。
事件発生時、付近の公園に居合わせた男性が、非常に興奮して刃物を振り回しながら「ぶっ殺してやる」と叫んでいる加害者を目撃している。加害者はバスを待つ小学生の列に近づいて叫んだ後、小学生らを襲撃していったという。事件後、近くに住む男性は付近が最初の現場となったファミリーマートの店先で全身血まみれで仰向けに倒れているスーツ姿の男性を目撃した。また、スクールバスのバス停付近では頸部からの流血がみられる制服姿の女児が踞り、他の7、8人の児童は呆然としたり、しゃがみ込んでいた。
救急活動
川崎市消防局は28日午前7時44分、事件について警察から連絡を受け、7時54分に多摩消防署の指揮隊が着き、7時56分に初の「大規模救急出動」(10人以上の負傷者に対応する出動)の指令をした。この指令によって、28台の消防車両が出動した。被害者が多数のため現場には川崎市や横浜市などから16の救急隊が出動して対応し、災害派遣医療チーム「DMAT」がトリアージを行った。トリアージには聖マリアンナ医科大学病院と日本医科大学武蔵小杉病院のDMATも加わり、大人と子供の計2人が黒、4人が赤の判定となった。
聖マリアンナ医科大学病院に加害者と被害者2人、日本医科大学武蔵小杉病院に被害者4人、川崎市立多摩病院と新百合ヶ丘総合病院に被害者各5人が搬送されたが、このうち日本医科大学武蔵小杉病院に搬送された小学6年生の女児と39歳の外務省の男性職員の死亡が確認された(死者は28日時点。加害者を含まず)。他にも、16人の女児と保護者の女性が上半身を集中して切りつけられるなどして女児2人と女性が重傷を負った。負傷者のうち、11人が入院した。
被害者
前述の通り本件で死亡した男性は外務省の職員であり、ミャンマー大使館での勤務経験があったほか、ミャンマーのテイン・セイン大統領を招いた宮中茶会等において、上皇夫妻のミャンマー語通訳を4回務めたことがあった。事件後、河野太郎外相は彼について「ミャンマー語のスペシャリストで、大変優秀な若手だった。本当に残念なことで、ご冥福をお祈り申し上げるとともに、ご家族にお悔やみを申し上げたい」とコメントしたほか、岸田文雄前外相も「外相時代に支えていただいた。痛恨の極みで、心からお悔やみを申し上げる」と述べた。さらに上皇夫妻も29日に河相周夫上皇侍従長を通じて、秋葉剛男外務事務次官に対し、外務省職員の妻への弔意を伝えたことが30日に宮内庁から発表された。
加害者
事件発生前後の行動
目撃者によると、加害者は黒のTシャツに黒のジーンズのような服装をしており、スキンヘッドでがっちりとした体形だったという。犯行の直後に自らも刃物で刺し、警察に確保された時点で既に意識不明の状態で搬送先の病院で死亡が確認された。両手に柳刃包丁を持ち襲った他に、リュックからは別の包丁2本も見つかった。目撃証言によると、加害者は当日7時頃に自宅を出て近隣住民に「おはようございます」と挨拶した後、登戸駅まで電車で向かい、そのまま事件現場へ歩いて向かい突然犯行に及んだとみられる。
経歴
事件発生後、数日に渡る神奈川県警多摩署捜査本部の捜査により、加害者の犯行時の年齢は51歳であることが分かっている。自宅捜索の結果として、自宅では伯父夫婦と同居していたが、トイレや食事のルールを作り顔を合わせないようにしており、長らく引きこもりを続けていたことが分かっている。また、自室にはスマートフォンやパソコンなどの電子通信機器は所持しておらず、インターネットに接続する環境自体がないことも判明し、外部との通信をしていなかったと推定されている。交友関係も未だ確認されていない。更に、10年以上にわたり医療機関を受診した形跡もないことが確認されている。猟奇殺人や大量殺人を掲載した、10年以上前の雑誌が2冊自宅から押収されており、犯行計画時の参考にしたと推定されている。他にノートも押収されているが、正の文字で埋め尽くされていたり、単なる言葉の羅列のような意味不明な内容しか書かれておらず、事件の動機や計画や自殺願望などの犯行の動機に繋がるような文章は全く確認されていない。
犯行時51歳という年齢から、加害者は就職氷河期を経験したロスト・ジェネレーションに属しており、8050問題の典型例にも当てはまる。
事件後の対応
・事件を受けて内閣総理大臣安倍晋三は28日に小中学生の登下校時の安全確保について国・自治体で連携し早急な対策を講じるよう指示した。また、29日に関係閣僚会議を開く予定である事を談話した。5月29日以降、事件の起きた多摩区内の各小中学校はじめ、各地で登下校時の見回りが強化された。
・神奈川県知事の黒岩祐治は事件当日の定例記者会見の冒頭でこの事件に触れ、被害者に哀悼の意を表するとともに、「事件の詳細については、まだ不明な部分もありますが、県では、全私立学校に対し、通学路の安全確保など注意喚起の通知を出しました。また、県教育委員会では、川崎市教育委員会と連携し、目撃した児童・生徒がいた場合は、心のケアなど必要な支援を行うとともに、通学時の安全確保について、本日改めて、県立学校及び県内の市町村教育委員会に注意喚起を行いました。さらに、今回の事件の被害者とご家族に対しまして、県の「かながわ犯罪被害者サポートステーション」で、お気持ちに寄り添いながら、必要な支援を行ってまいります。」とコメントした。
・川崎市は事件現場の近隣の小学校にスクールカウンセラーを派遣するなどの、児童の精神不安対策を開始した。
・カリタス小学校は31日まで休校、系列のカリタス女子中学校・高等学校も29日まで休校になった。また同校は、6月に予定していた岩手県への修学旅行を中止すると発表した。本事件の捜査は継続されるが、容疑者死亡により不起訴処分になる見通しである。
事件の反響
献花
事件後、事件現場近くでは家族連れなどにより献花や祈りが毎日途切れること無く行われている。現場に献花台は置かれていないため、花束や食品などの供え物が歩道に山積みになっており、過度に集積されると交通の妨げとなるため、カリタス小学校の同窓生や近所住民がボランティアとして現場に出向き、定期的に片付けている。カリタス小学校は、寄せられた花や菓子などは当面、学校の敷地に保管すると発表している。また、今後はカリタス小学校に献花台を設置する予定である。
アメリカ大統領によるコメント
事件発生時はアメリカ大統領ドナルド・トランプが来日中で、同大統領は海上自衛隊横須賀基地に停泊していた護衛艦かがの艦上で『私とファーストレディーは東京近郊でけさ起きた事件について、被害に遭われた方々に祈りをささげます』『すべての米国民は日本国民と共にあり、被害者と家族に哀悼の意を表する』と述べた。
報道
日本国外のマスメディアであるCNN、BBC、中国中央テレビ、AFP、Reutersなどが速報で事件を伝えたほか、英米の高級紙であるニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ガーディアンもこの事件について詳細に報道している。
拡大自殺の非難を巡る論争
当初、本事件で起きた拡大自殺について、「死ぬなら一人で死ね」という意見がSNSやマスメディアで相次いだ。しかし、孤立して社会を敵視する人物を非難すれば、更に追い詰めて殺傷の連鎖が起きる可能性があることから反論が行われ、「被害者側」と「加害者側」が対立する形で、各界を巻き込んだ論争に発展した。 
川崎登戸の殺傷事件 犯人の生い立ち・歪んだ性格 5/29
2019年5月28日朝、川崎市の登戸駅付近で恐ろしい殺傷事件が起こりました。小学生17人と大人の男女2人の合わせて19人が男に次々と包丁で刺されたり切りつけられたのです。犯人の男は、岩崎隆一容疑者(51歳)と公開されました。岩崎容疑者は、次々と人を刺し、最後は自らの首を刺して自害しました。とてもまともな神経ではありえません。岩崎容疑者の生い立ちや性格について、そして、犯行動機について調査しました。
川崎登戸の殺傷事件 犯人の生い立ちや歪んだ性格
川崎登戸の殺傷事件で19人の死傷者
2019年5月28日朝、川崎市の登戸駅付近で恐ろしい殺傷事件が起こりました。男が19人もの人々を無差別に切りつけました。
「28日午前7時45分ごろ、川崎市多摩区登戸新町の公園近くの路上で「複数人が刺された」と警察に通報がありました。警察によりますと、小学生17人と大人の男女2人の合わせて19人が男に次々と包丁で刺されたり切りつけられたりして、このうち東京 多摩市に住む小学6年生の栗林華子さん(11)と東京 世田谷区に住む外務省職員、小山智史さん(39)の2人が死亡しました。」
犯人の男はどうかしている!いったい何故こんなことが?
犯人は岩崎隆一容疑者と公開される
名前:岩崎隆一
年齢:51歳
住所:神奈川県川崎市
職業:不詳
警察は現場付近にいた岩崎隆一容疑者の身柄を確保しましたが、岩崎容疑者もみずから首を刺していて、取り抑えたときは既に血の海だったようです。
事件直前の岩崎隆一容疑者は何食わぬ顔で挨拶していた
岩崎の自宅付近では、事件を起こす直前の姿が目撃されていたようです。近隣住民が次のように証言しています。
「朝7時頃、ゴミ捨てに出たときに向こうから挨拶されました。黒のジーンズに黒のポロシャツ、黒のリュックと全身黒ずくめの服装で、駅の方向に走りながら、何食わぬ顔で『おはようございます!』と声を掛けてきたので、こちらも挨拶をしました。表情は普通に見えました。会ったのはこれが2回目です」
ほかにも気になる証言があります。岩崎容疑者は以前から周辺住民とトラブルを起こしていたというのです。
生い立ちを調べていくと歪んだ性格が浮かび上がってきました。
岩崎隆一容疑者の生い立ちや歪んだ性格がヤバイ
岩崎容疑者は、神奈川県川崎市の在住です。周辺住民の証言によると、ここには30年以上前から住んでおり、伯父・伯母と3人で暮らしていたようです。
「30年以上前から住んでいる」
「子どものころボール遊びをしていた印象しかなく、信じられない」
「驍ソゃんは会社員だった伯父さんと専業主婦の伯母さんと一緒に暮らしていました。一時は仕事もしていましたが、最近は夜に出歩くなど、何をしているか分からない状態でした」
幼いころに親類に引き取られ、現在は3人暮らし。幼い頃から両親とは暮らしていなかったようです。複雑な家庭環境だったのでしょう。
近所付き合いは少なく、岩崎容疑者が住んでいるのを知らない住民もいたようです。
中学時代の同級生の話によると、岩崎容疑者は、
「子どものころ、怒りやすい性格だった」
「そのため校内で頻繁に暴れて教師から指導を受けていた」
「同級生からもからかわれていた」
複雑な家庭環境で育ち、怒りやすく、頻繁に暴れていたが、その行為は周りを震え上がらせるというより、むしろ失笑を誘い、結果からかわれてしまうような行為だったようです。
そのような生い立ちから、徐々に性格も歪んでいったようです。
「近寄りがたい(タイプ)。彼(岩崎容疑者)に鉛筆で手を刺されて、まだ芯が残ってる友達もいます」(岩崎容疑者の中学の同級生)
鉛筆で手を刺すという、やや奇怪な行動も垣間見えます。
最近では、周辺住民とトラブルを起こすこともありました。周辺住民の証言に気になるものがあります。
「前回会ったのは去年の今頃の時期です。私の家の庭に生えている木が目に入ると、朝6時頃に文句を言いにきた。すごい剣幕で、夫と30分くらい口論していました。その後、近所の方にどういう人なのか聞いたら、『変わっているから距離を置いている』などと話していたので、私たちも関わらないようにしていた」
大人になっても、相変わらず、怒りやすい性格で、周辺住民からも孤立していたようです。
川崎登戸の殺傷事件 岩崎隆一の犯行動機に驚かない?
岩崎隆一容疑者の犯行動機は拡大自殺?
岩崎容疑者は、合わせて19人を次々と包丁で刺し、自らも首を刺して自害しました。
TV番組「スッキリ」で、現場を目撃した人に直接インタビューしていましたが、証言を要約すると次のような内容です。
「犯人はどういった表情でしたか?まぁいいや、捕まってもいいのかな、どうでもいいやといった表情だった」
ネット上では、岩崎容疑者は「無敵の人」だったのではないか、とも言われています。
「無敵の人とは?ネットスラングのひとつで、欲望のままに野蛮な行動を起こす社会的信用のない人、人間関係も社会的地位もなく、失うものが何のないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人を指す。要約すると、「失いうものが何もない人間」のこと。」 
これって、拡大自殺?という声も上がっています。
拡大自殺とは、自殺志願者が誰かを道連れに無理心中を図ることであり、不特定多数の人々を巻き込むと、今回の事件のように無差別大量殺人になってしまいます。
容疑者は、複雑な家庭環境で育ち、おそらく心を開ける友人もいなかったでしょう。
周辺住民ともコミュニケーションがうまくとれておらず、自分の殻に閉じこもり自暴自棄になった可能性もありそうです。
犯行に驚かないという同級生の証言
殺傷事件の報道によると、岩崎容疑者は
「「ぶっ殺してやる」と叫び声をあげてから犯行に及んだ」
とのこと。中学時代の同級生は
「この事件に関わっていたとしても驚かない」
と話しており、いつ事件が起こってもおかしくなかったと感じられるほど歪んだ性格をしていたと考えられます。
容疑者は既に死亡しており、どこまで動機など事件の真相に迫れるのか気がかりです。 
川崎殺傷事件から私たちは何を考えるべきなのか 6/2
5月28日朝に川崎市の登戸駅近くで起きた殺傷事件の現場に行ってきた。事件から4日たっているが、現場にはたくさんの花や飲み物などが手向けられ、手を合わせる人が次々とやってくる。小さな子どもたちを狙ってやったと思われる犯行の凄惨さに多くの市民が衝撃を受けた。
容疑者が現場で自殺したことで詳しい真相は明らかにならない恐れが強い。理不尽に子どもを殺され、しかもなぜそうしたかの容疑者の動機もわからないまま事件が幕引きになってしまうことに不安や憤りを感じる人は多い。
事件現場を訪れる人が絶えないのは、社会の側のやりきれない思いの現われだと思う。
この20年ほど同様の事件が目につく
抵抗する力の弱い子どもたちに刃が向けられたという点では2001年の付属池田小事件のイメージと重なる。社会から疎外され追い詰められてもう死んでしまおうと思った時に、自分が閉塞に追い込まれた社会に復讐して死んでやろうと考える。でも社会への復讐といっても、結局は抵抗できない子どもたちという弱いものに刃が向けられるという構図だ。
同様の事件は、この20〜30年、目につくが、この1〜2年内にも2018年の新幹線殺人事件、今年元旦の原宿事件がある。
新幹線殺害事件も今回の事件によく似ているし、原宿事件は一歩間違えるとガソリンを使った大量殺人事件になるところだった。
さらにさかのぼれば2008年の土浦無差別殺傷事件や秋葉原事件も同様だ。この20年ほど、こうした事件が目につくのは、社会が閉塞感に覆われていることと無縁ではない。どんなに頑張っても明るい未来など訪れることはないという絶望感と閉塞感から死んでしまおうと考える人間が、死ぬにあたって社会へのある種の復讐という形態をとって事件を起こす。
死んでしまおうと決意すると、怖いものはなく、どんな非道なことでもできてしまう。そういう人をネット社会で「無敵の人」と呼ぶ。この言葉が話題になったのは2012〜13年の「黒子のバスケ」脅迫事件だった。私はこの事件に深く関わったが、逮捕された渡邊博史元被告は裁判の冒頭意見陳述でこう述べた。今回の事件を考えるうえで参考になると思われるので引用しよう。
こういう類型の事件は増えていくという警告
《動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。》
《自分は人生の行き詰まりがいよいよ明確化した年齢になって、自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。》
《そもそもまともに就職したことがなく、逮捕前の仕事も日雇い派遣でした。自分には失くして惜しい社会的地位がありません。また、家族もいません。父親は既に他界しています。母親は自営業をしていましたが、自分の事件のせいで店を畳まざるを得なくなりました。それについて申し訳ないという気持ちは全くありません。むしろ素晴らしい復讐を果たせたと思い満足しています。自分と母親との関係はこのようなものです。他の親族とも疎遠で全くつき合いはありません。もちろん友人は全くいません。》
《そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。》
渡邊元被告はこう警告を発してもいた。
《いわゆる「負け組」に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません。》
残念ながらその警告は、現実のものとなっている気がしてならない。
なおここで引用した冒頭意見陳述を含め、事件の全貌については、犯人の渡邊元被告が『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』(創出版)という本にまとめている。
'''死ぬことを覚悟した人間が生きていくための理由とは''
私は土浦事件の金川真大死刑囚(既に執行)にも何度も接見したし、社会に絶望して死んでしまいたいという思いが動機と重なったという点で似ている2004年の奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)とも深く関わった。
死ぬ覚悟で裁判に臨んでいた彼らに対しては、死刑判決というのは刑罰になってさえいなかった。小林死刑囚は死刑判決が出た時に法廷でガッツポーズをしたし、金川死刑囚は事件後、民主党への政権交代が起きた時、死刑執行が遠のくのではないかと恐怖したという。
そうした犯罪者と何人も接してきて、いったいこういう犯罪に対してこの社会はどう対応すべきなのか、対応するすべはあるのだろうか、と考えてきた。「黒子のバスケ」事件の渡邊君は、幸いなことに他人を殺害したりはしなかったが、それはたぶん彼のパーソナリティによるものだったろうと思う。
そして、人を殺さなかったために、彼とはその後もつきあいを続けることができている。さらに、死ぬ覚悟をして社会に復讐しようとした人が、いったいその後どんなふうにして生きていく理由を見出すのかを考えるうえでも、いろいろなヒントを与えられた。
ひとつだけ紹介しておこう。彼が刑務所に服役している間に何度か接見に行った。そしてある時、驚いたことがあった。面会はなるべく平日を避けてほしいと言ってきたのでその理由を訊いたところ、彼は作業所の班長になっており、部下の服役者に指示を出す立場になっていた。だからなるべく作業時間中には作業所を離れたくないと言うのだった。
刑務所というのはある種のヒエラルキーによって成り立っているのだが、世間の人から見れば、班長といっても誇れるような立場とは思えないに違いない。でも彼はもしかするとそのささやかな境遇を得て、人生で初めて、自己肯定感を得られたのかもしれない。世間から見ればごくささいなことであったとしても、小さい頃から家庭でも学校でも否定され続けてきた彼にとって、それは貴重な体験だったのかもしれない。
なんだ、そんなことかと思う人もいるかもしれない。でも恐らく、前述した絶望して無差別殺傷に走る人には、そのささいな体験さえなかったのではないかという気がするのだ。渡邊君も、小さい頃から親に愛されたという思いがなく、学校でもいじめられた。それは奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚も同じだ。
そして我々が考えるべきは、今のこの社会は、そういうささやかな自己肯定感さえ得られないような人を大量に生み出すような状況に陥っていないのか、ということだと思う。
もちろん、「いや、それは本人の責任だ」という反論もあると思う。実際、小林死刑囚の裁判では、小さい頃母親に死なれ、父親の暴力にさらされてきた彼に同情の余地はあるとしながらも、でも同じ家庭で育った弟はりっぱな社会人になっているではないか、と裁判長が言っていた。それはその通りだと思う。裁判で、もう彼には更生可能性も少なく、死刑に処するしかないと宣告された時に、私も反論する言葉が見つからなかった。
ただ少なくとも、この20〜30年ほど、そういう犯罪が目につくという状況を考えて、この社会は、そして我々はどうすべきなのだろうかと考えるくらいのことはしてもよいのではないだろうか。今回の岩崎隆一容疑者がいったいどんなふうにして凄惨な犯行に手を染めることになったのか解明し、そういう人物を生み出さないためにこの社会がどうすべきなのか考えることだ。それを抜きにして監視カメラをいくら増やしても、それは対症療法でしかない。
犯罪はある意味で社会に対する警告だ。不条理な凶悪犯罪が増えているとしたら、それは社会が病んでいることのシグナルかもしれない。
今回の事件の容疑者が自殺してしまったことで、犯行動機や成育環境など、こういう事件が二度と起きないようにするために考えるきっかけが失われてしまったことは残念でならない。
ただ不十分ながらもできることはあるし、できる限りのことはやらなくてはいけない。ジャーナリズムにも重たい課題が背負わされていることを自覚しないといけないと思う。 
川崎20人殺傷事件、「伯母の手紙」が引き金 6/3
私立カリタス小学校の児童ら20人が刺され、小6年の栗林華子さん(11)と外務省職員の小山智史さん(39)の命を奪った「川崎20人殺傷事件」。岩崎隆一容疑者(51)は、スクールバスに乗るために並んだ児童や保護者の後方から接近し、次々と凶刃をふるった。1人目の犠牲者を刺してから、自殺するまで1分にも満たない、息をもつかせぬ犯行だった。
「この事件で、“ひきこもり”が、さらに世間の目から冷たく見られてしまいます。僕らのやっていることも厳しい状況になるかもしれません」と感想を漏らすのは、40代・50代ひきこもり家庭支援組織「市民の会 エスポワール京都」を主宰する山田孝明氏だ。
「池田小学校事件(2001年)や秋葉原無差別殺傷事件(08年)の犯人はまだ若く、社会とも接点があった。ところが、今回の事件の岩崎容疑者は50歳を超えているし、10年以上ひきこもっていたということですから、普通はあんな事件を起こすようなエネルギーがあるとは思えない。何かよほどのことがあって、絶望的な心境に追いつめられたとしか考えられませんね」(同)
山田氏が、ひきこもりの若者を支援するようになったのは1994年。京都市でひきこもりの若者たちに安心できる居場所を与えるために「ライフアート」を設立した。その後、ひきこもりの子を持つ家族の会「オレンジの会」を京都、大阪、神戸、名古屋と次々に立ち上げ、2017年4月、「市民の会 エスポワール京都」を設立。これまで500名ものひきこもりの当事者や家族を支援してきた。今年の3月には、『親の「死体」と生きる若者たち』を刊行している。
岩崎容疑者は、小学校低学年の時に両親が離婚し、父親の兄にあたる伯父夫婦に引き取られる。中学は不登校となり、専門学校に通い、職を持った時期もあったが、ここ10年以上はひきこもっていた。伯父、伯母は80代で、親と親戚の違いこそあれ、いわゆる80代の親が50代の子の面倒をみる「8050(はちまるごーまる)問題」に該当する。
事件後、警察が岩崎容疑者の伯父、伯母に犯行時の岩崎容疑者の写真を見せて身元を確認しようとしたところ、伯父、伯母は口をそろえて「知らない」と言及している。事件の前日スキンヘッドにしたため、印象が違ったとはいえ、自分の甥の顔がわからなかったとは、俄かには信じられないが、
「8050問題では、これまでの経験から言って、もはや手遅れの場合が少なくなりません。50歳になるまでひきこもった人は、もう症状が固まってしまって、会話をすることさえも難しいのです。80代の親は自分を苦しめる子に対して恨みを抱いているし、子の方は自分がこうなったのは親のせいと思っています。だから親子は一緒に暮らしていても口も利かないで疎遠になっているのです」(同)
岩崎容疑者は、事件を起こすまで、同居していた伯父や伯母と顔を合わせることもほとんどなかったという。風呂やトイレもルールを決めて、顔を合わせないようにしていたという。
報道によれば、高齢となった伯父夫婦は、訪問看護の必要から市に、隆一容疑者と接触がないので看護師を自宅に入れても大丈夫かと17年以降十数回にわたって相談していた。そして今年の1月、市の担当者の勧めで、伯母がひきこもりを心配する内容の手紙を岩崎容疑者の部屋の前に置いたところ、岩崎容疑者は口頭で伯母に、「自分は洗濯もするし食事も作れるから閉じこもっているわけではなくちゃんと生活している。ひきこもりとはなんだ」と答えたという。
「市の担当者が勧めた、ひきこもった人に手紙を渡すのはマニュアルのひとつとなっていますが、これはまずかった。ひきこもりと言われて、自分のことを全否定するメッセージと伝わってしまいますよ。本人には、ひきこもりと言うべきではありません。ひきこもりと言われたことをきっかけに暴力的になるケースが少なくありません。ずっと接触がなかったわけですから、まず、“おはよう”とか声を掛けて、“美味しいものを作ったから、一緒に食べよう”などと誘ってみるしかありません。少しでも人間関係を築いてから、問題の解決に乗り出すべきでした。自分の存在が否定され、これまでの生活が続けられないと絶望し、死を覚悟したのかもしれません」(同)
実際、岩崎容疑者は、手紙をもらった翌2月に、町田市の量販店で2本の包丁を購入したとみられている。では、カリタス学園の生徒を狙ったのは何故か?
「本来なら、凶器は伯父、伯母へ向けられてもおかしくありませんが、彼は屈折したところがある。彼の部屋には過去の大量殺人が掲載された雑誌があったそうですが、絶望して死ぬことを想像した。夢想の中で、大量殺人を犯すこともあります。幼い児童を殺傷したのは、伯父夫婦をどん底に陥れようとしたのではないか」(同)
内閣府は今年3月に、40〜64歳のひきこもりの数が推計61万3000人に達していると発表した。1980〜90年代に若者だった“ひきこもり”が、30年後の現在、中高年になってしまった形だが、早急に対応策をとるべきだろう。 
川崎・登戸殺傷事件はいずれまた繰り返される 6/3
2019年5月28日、神奈川県川崎市の登戸駅付近で、スクールバスに乗る列に並んでいた小学生や保護者等が刃物を持った男に切り付けられ、容疑者を含む3人が死亡、16人が怪我を負ったという大変痛ましい事件が発生しました。
時代が平成になって以降、日本では以下のような残忍な無差別殺人事件が続発しており、令和になってもその歴史にまた一つ大きな事件が追加されてしまったことになります。
1994年 松本サリン事件 死者8人、負傷者約600人
1995年 地下鉄サリン事件 死者13人、負傷者約6300人
1999年 池袋通り魔殺人事件 死者2人、負傷者6人
1999年 下関通り魔殺人事件 死者5人、負傷者10人
2001年 附属池田小事件 死者8人、負傷者15人
2008年 秋葉原無差別殺傷事件 死者7人、負傷者10人
2016年 相模原障害者施設殺傷事件 死者19人、負傷者26人
2019年 登戸事件 死者3人、負傷者17人
また、2019年は4月19日に東京・池袋で車が暴走し、母子2人が死亡、10人が負傷する交通死亡事故が発生し、さらには5月8日に滋賀県大津市で散歩途中の保育園児の列に車が突っ込み、園児2人が死亡、14人が負傷する交通死亡事故が発生しました。このように今年に入ってから子供が命を落とす事故が相次いでいた矢先に、また子供が犠牲者になる事件が起きたのです。
過去から教訓を学べず悪夢はまた繰り返す
これらの事件や事故は連日TVのワイドショー等でも報道され、インターネット上でもやり場のない怒りと悲しみの声が噴出しています。「被害に遭ったのが自分の子供だったら」と考えてしまう人もいるようですが、私個人としては、怒りや悲しみに溢れる世間やマスコミの様子に対して、どこか「冷めた目」で見てしまう自分がいます。
というのも、前述のように、悲惨な連続殺人事件や交通死亡事故は、これまで散々起こってきました。それなのに、過去の事件や事故から教訓を学ぶことがほとんどなく、結局また痛ましい事件や事故が幾度も繰り返されてしまっているからです。
殺人事件や交通死亡事故だけではありません。2018年に大きな社会問題になった児童虐待死に加えて、イジメ自殺も、ブラック企業による過労死も、DV殺人も、ストーカー殺人も、世間やマスコミで盛り上がるのは事件が明るみに出たほんのわずかな間だけで、現在でも同様の事件や事故で命を落とす人が絶えません。残念ながらおそらくいずれ繰り返されてしまうことでしょう。
そこには、多くの国民やマスコミが一時的に怒ったり悲しんだりするものの、結局は悲劇を“消費”しておしまいにするという背景があると思います。
5月1日の令和改元で世間やマスコミがお祭り騒ぎをしていたように、今回の登戸の事件も、次の「お祭り」が到来すれば、人々の記憶からすぐ消え失せていくに違いありません。まさに「一喜一憂」という言葉がぴったりで、国を挙げて効果的な政策を行い、常にアップデートしようという議論につながっていかないのです。
つまり、「失敗」から何も学べていないのです。世間もマスコミも政府も、ビジネスの世界では基本中の基本である「PDCA」(※Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)の 4段階を繰り返すことによって、業務を継続的に改善する手法)を回せていないのです。このように全体を俯瞰していると、単発の事件や事故以上に、明らかな課題をいつまでも解決出来ない「社会の無能な体質」のほうに私は絶望感を覚えます。 
 
岩崎隆一

 

 
岩崎容疑者に起きた犯行“4カ月前の異変”とは? 6/3
川崎市多摩区で起きた19人の死傷者を出した事件は、岩崎隆一容疑者が自殺したことで多くの謎が残ったままだ。犯行に至った経緯とは何だったのか。
「普段から通学途中の子どもたちのしゃべり声は聞こえていましたが、尋常じゃない声に家を飛び出しました」
5月28日、川崎市多摩区の路上で登校中の児童らが襲われ、19人が死傷した事件。現場近くに住む20代のアルバイト男性の目に飛び込んできたのは、小学生と、ワイシャツを着た社会人風の男性が血を流して倒れている光景。亡くなった小学6年の栗林華子さん(11)と、同校に通う子どもの見送りにきていた外務省職員の小山智史さん(39)だった。
事故にしては様子がおかしい。一度自宅に帰り鍵を閉め、再び路上に戻ったのは午前8時前。市バスの停留所の前に、黒のTシャツに黒いズボンをはいた坊主頭の男が、首から大量の血を流して倒れていた。身長は170センチ程度。がっしりした体形に見えた。それが、岩崎隆一容疑者(51)だった。
現場は、JRと小田急の登戸駅から西に約250メートルの住宅街。襲われたのは、同区内にあるカリタス小学校のスクールバスが止まるバス停に並んでいた児童らの列だった。
同じく現場に遭遇した男子大学生は、こう振り返った。
「犯人の男は血の海のなか。小学生の女の子が『お母さん』などと叫んでいた。壮絶でした」
同小を運営するカリタス学園は事件当日、緊急の保護者会を実施。系列の幼稚園から高校までの保護者1200人が集まった。保護者会を終え、高校に娘を通わせる父親が心情をこう絞り出した。
「小学生への無差別殺人事件と言えば、『池田小事件』を思い出します。ただ、犯人の宅間守(元死刑囚で2004年に執行。当時40)は事件後の裁判などで犯行に至る理由が明らかになりましたが、岩崎容疑者は自殺した。これでは、圧倒的な不条理だけが残ってしまう」
池田小事件が起きたのは01年。宅間元死刑囚が出刃包丁を持ち、大阪教育大付属池田小学校に侵入。8人の児童が死亡したほか、教諭2人を含む15人も重軽傷を負った。
「エリート校の子どもをたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」
宅間元死刑囚は事件後、そう動機を語った。事件は、離職や離婚を繰り返す思い通りにならない自身の人生の対極にあるエリート層への、身勝手な「怨恨」とも見られた。
では、スクールバス乗り場でカリタス小の児童と保護者が被害を受けた今回の事件はどうだったのか。
カリタス学園は1960年に創設されたキリスト教系の私立学校で、幼稚園、小学校、女子中高を運営する。同学園の関係者はこう話す。
「ほかの私立小学校と比べて特に高いほうではありませんが、小学校の初年度は入学金も入れて100万円以上はかかります。小学1年生から英語とフランス語を教える外国語教育や、カトリック教育が特徴的です」
犯行は行きずりだったのか、最初からカリタス小の児童を狙ったものだったのか。事件後の捜査により、計画的犯行だった可能性が高まっている。
岩崎容疑者の自宅は、登戸駅から小田急線で3駅の「読売ランド前」駅から徒歩15分ほど。岩崎容疑者は事件当日、自宅からまっすぐ駅に向かい、電車に乗り、登戸駅で降りた後、どこにも立ち寄らず事件現場に直行した。そして、犯行はわずか十数秒の間に行われた。
現場に立つと身震いがする。カリタス学園のスクールバス乗り場前の歩道は、身長170センチの記者が大股で歩いて6歩程度で渡れる狭さだ。バス停の向かいに住む79歳の無職の男性はこう話す。
「子どもたちはいつも引率の教師の指示に従って、整列して待っています。バスを待つ間、本を読んでいる子が多かった」
事件当時、バス停には60人を超える児童が並んでいた。事件が起きたのは、バスが到着した直後。朝のラッシュ時で駅に向かう人も多く、狭い場所に固まっていたのは間違いない。列の先頭で児童をスクールバスに乗せていた倭文覚(しとりさとる)教頭は当時の状況をこう話している。
「目の前に犯人が両手に長い包丁らしきものを持って、無言で児童に刃物を振りながら、スクールバスの乗り場のほうに走っていく姿を確認した」
整然と並んだ児童たちを、次々に手にかけた岩崎容疑者。許しがたい凶行に駆り立てたものは何だったのか。岩崎容疑者の自宅近くに住む80代の女性は、事件を受け、約40年前の記憶を思い出した。
「岩崎容疑者が小学生時代だったと記憶していますが、近所の飼い犬がうるさいと血相を変えて怒鳴りこみに来て、町で話題になったことがありました」
最近では約1年前に「庭の木がフェンスを突き抜けて当たった」と隣家に怒鳴りこむトラブルも起こしている。
複雑な家庭で育った。複数の住民によれば、岩崎容疑者は約40年前、両親の離婚をきっかけに、父方の兄である伯父宅に預けられた。それが現在の自宅だ。現在は伯父、伯母と3人暮らしだが、移り住んだ当時は伯父の子、つまりいとこ2人も家にいた。先の80代の女性は続ける。
「りゅうちゃんと呼ばれ、3人で遊ぶ姿を見たことがある」
一方、この家族をめぐるこんな話も出てきている。
「いとこの1人がカリタス学園に通っていたらしい」
家族関係がうまくいかず、その恨みを引きずっていたのか。今ではもう本人に確かめる術もなくなってしまった。
岩崎容疑者は長期間働いていなかったという。一緒に住む伯父、伯母とも会話がなく、2人がいる時間帯は台所や風呂にも姿を見せないなど、いわゆる「引きこもり」に近い状態だったとみられる。そんな岩崎容疑者の身辺に最近、ある異変が起きていた。
川崎市は29日、岩崎容疑者の伯父、伯母ら親族から計14回にわたり相談を受けていたことを明らかにした。伯父らは昨年6月から訪問介護のサービスを受け始めたが、サービス開始前、自宅に介護サービスが入ったときに岩崎容疑者がどんな反応をするかを心配して市に相談したという。
市によると、伯父らの不安をよそに、岩崎容疑者が訪問介護のスタッフらとトラブルを起こすことはなかったという。
「(岩崎容疑者に)手紙を書いて、コミュニケーションを試みたらどうですか」
今年1月、伯父と伯母は市精神保健福祉センターのそんな勧めで、岩崎容疑者の部屋の前に手紙を置いた。すると数日後、岩崎容疑者はこう言い放ったという。
「洗濯、買い物など自分のことはちゃんとやっている。自分で好んでこの生活をしているので、引きこもりのような状態ではない」
岩崎容疑者はその4カ月後、4本の包丁を持って家を飛び出した。自宅から最寄りの読売ランド前駅までは、傾斜のきつい下り坂が続く。あの朝、岩崎容疑者はどんな思いでこの坂道を下っていったのだろうか。 
 
岩崎隆一の生い立ち 6/4

 

川崎市多摩区登戸の路上でカリタス小学校のスクールバスを待っていた児童ら19人が岩崎隆一容疑者(いわさき りゅういち)に襲撃されるという痛ましい事件が起きました。
この記事では、川崎19人殺傷事件の犯人である岩崎隆一の生い立ちや親など家族、叔父・叔母夫婦やいとこの兄・姉との関係、小学校・中学時代や人物像、現在の顔写真やFacebook、そしてカリタス小学校の児童を襲った犯行動機などを総まとめしました。
岩崎隆一が起こした「川崎19人死傷・殺人事件」の概要
2019年5月28日午前、川崎市多摩区の路上で、私立カリタス小学校のスクールバスを待っていた児童ら19人が包丁を持った男に次々と襲われ、小学6年生の栗林華子さん(11)と外務省の職員の小山智史さん(39)が死亡し、3人が重傷を負うという痛ましい事件が起こりました。
犯人の岩崎隆一容疑者(51)は、現場で自らの首を刺し、死亡しています。バスのドライブレコーダーには、岩崎容疑者が小走りで、小学生らを包丁で手当たり次第に刺す犯行の様子が写っていたといいます。
亡くなった栗林華子さんの両親は「人生で最も大切な、最愛の娘を突然奪われ、今は全く気持ちの整理がつかない状態です」とコメント。
また、亡くなった外務省職員の小山智史さんは、上皇さまが在位中に4回ミャンマー語の通訳を務めているなどの仕事をしていたエリートでした。
岩崎隆一の生い立ちや家族 1 / 両親は幼い頃に離婚・おじ夫婦に引き取られる
岩崎隆一容疑者は川崎市にある実家の両親のもとに生まれましたが、岩崎隆一が小学生に上がる前に父親と母親は離婚しているようです。
「自宅が川崎市にある岩崎隆一容疑者。知人によると、岩崎容疑者の両親は離婚していて、叔父と叔母に引き取られたという。そこにはいとこにあたる兄と姉がいて、現在は80代になる叔父と叔母と3人で暮らしていた。」
岩崎隆一の実父と実母に関して、名前や職業などの情報は一切ないので不明となっています。
岩崎隆一は両親の離婚後に、川崎市麻生区多摩美に自宅がある叔父と叔母に引き取られました。
岩崎隆一の生い立ちや家族 2 / おじ夫婦には2人の子供がいた・いとこはカリタス小学校出身
岩崎隆一は引き取られた叔父・叔母夫婦には、岩崎隆一より年上の男女の子供がいました。
岩崎隆一のいとこにあたるは男女の子供(兄と姉)はカリタス小学校に通っていたようです。
「おじ夫婦には、岩崎容疑者より年上の男女の子供がおり、子供の頃は3人がきょうだいのように暮らしたとみられる。別の近隣住民はスポニチ本紙の取材に「いとこ2人はカリタス小に通っていたと聞いた」と証言。一方、岩崎容疑者は地元の公立小を卒業。子供時代の複雑な家庭環境を背景に、岩崎容疑者が一方的で理不尽な恨みを抱き、カリタス小の児童らを襲った可能性が出てきた。」
一方の岩崎隆一は地元の小学校と中学校を卒業しており、いとことは違う扱いを受けていたようです。
現在、いとこ2人は家を出ているので、先述のように岩崎隆一は川崎市麻生区に自宅があるおじ夫婦と3人で暮らしていました。
岩崎隆一は伯父の援助で生活していたとみられ、日常、伯父らと顔を合わせず、会話は一切なかったといいます。唯一の接点は、作ってもらった食事を冷蔵庫から出し、置いてある小遣いを受け取る時だけだったそうです。
岩崎隆一の生い立ちや家族 3 / おじ夫婦の親族が岩崎のことを川崎市に相談
岩崎隆一は10年以上も部屋に引きこもる生活を送っていたようで、おじ夫婦の別の親族が川崎市に2017年11月頃から相談していたようです。
相談内容ですが、岩崎隆一が家の中に閉じこもりがちで、おじおばとも会話がほとんどなかったことから、介護サービスで第三者が自宅に入ることによる影響を心配していたといいます。
「川崎市は親族から岩崎容疑者について何度も相談を受けていたと明かした。知人によると、岩崎容疑者の両親は離婚していて、叔父と叔母に引き取られたという。そこにはいとこにあたる兄と姉がいて、現在は80代になる叔父と叔母と3人で暮らしていた。おととし11月に親族より電話で相談を受けて以降、面会8回、電話連絡を6回行ったという。ただし、岩崎容疑者本人との接触は一度もなかった。」
「市が相談を受けた内容は、訪問介護の導入に関するものだった。川崎市麻生区の自宅で岩崎容疑者と同居していた、いずれも80代の伯父と伯母は高齢となり、介護を必要としていた。この親族は、岩崎容疑者が「引きこもり傾向」のため、伯父や伯母を訪問介護をするスタッフが家に入ってきても大丈夫なのかも気になり、相談したという。」
伯父と伯母は岩崎隆一のことを「あまり刺激したくない」と考えていたようで、川崎市が親族と面談や電話などでやりとりをしていました。
岩崎隆一のことに関する相談は計14回に及んだそうです。岩崎隆一の伯母が岩崎の部屋の前に手紙を置いたところ、岩崎は「自分のことはちゃんとやっている。食事や洗濯を自分でやっているのに、引きこもりとはなんだ」と話したといいます。
「別の親族が高齢の2人を心配し、2017年以降、市に相談。岩崎容疑者は2人とほとんど会話がなく、就業もせずにあまり外出もしないため、介護サービスを利用して外部の人が家に入った時の反応を別の親族が心配していたという。相談は今年1月まで計14回に及び、市の勧めで伯母が同月、岩崎容疑者の部屋の前に手紙を置いたところ、岩崎容疑者は伯母に対し、「自分のことはちゃんとやっている。引きこもりとはなんだ」と話したという。」
「自分のことはちゃんとやっている。食事や洗濯を自分でやっているのに、引きこもりとはなんだ」という岩崎隆一の言葉に対して、親族は気持ちが聞けて良かったと思ったそうです。
「親族は本人の気持ちが聞けて良かったと思っていたようです。本人なりに考えて今の生活を選び、関わりを断っていると考え、『しばらく様子を見るつもり』との連絡がありました」 そのため、市もその意向を尊重し、様子を見る判断をしたという。
その後、親族は川崎市に『しばらく様子を見るつもり』と連絡をしていました。
岩崎隆一の学生時代(小学校・中学・高校)や人物像について
岩崎隆一の出身小学校・中学・高校とは
岩崎隆一は川崎市麻生区にある公立の小学校と中学校に通っていました。
そのあたりの公立小学校・公立中学校となると「川崎市立西生田小学校」「川崎市立西生田中学校」なので、このあたりの学校に通っていた可能性が高そうです。しかし断定はできません。
岩崎隆一が高校に通っていたかどうかは情報がなく不明となっています。同級生の証言でも、「岩崎隆一の中学卒業のた後の進路は知らない」となっていて、高校に進学したのか進学したものの退学したのか一切不明です。
「友人は、高校以降は岩崎容疑者がどこにいったのかは知らないといい、ほとんどかかわらないようにしたという。」
岩崎隆一の小学校卒業アルバム…将来の夢「生まれかわるとしたら大金持ち」
岩崎隆一が通っていた小学校の卒業アルバムには、小学校時代の思い出や将来の夢などが書かれていした。
「あなたの将来」というページでは、「生まれかわるとしたら」という欄に『大金持ち』、そして「将来なりたいもの」の欄には『動物園の飼育係』と書いています。
また、小学5年生の時の林間学校の思い出については『同級生に石をぶつけて、五年になって最初におこられた』と振り返っています。
そして「6年間の反省・思い出」というページには、自分の似顔絵とともに『とおりかかった人にわるぐちをいってにげたりしました。四年生のころはしっぱいをした人のことをわらったりしました』などと小学校生活での反省点を記していましたことが明らかになっています
岩崎隆一の学生時代の同級生の証言
岩崎隆一の学生時代ですが、同級生からの証言によると「普段はおとなしいが切れると豹変する奴」であったそうです。
「岩崎容疑者と小中学校で同級生だった男性によると、昔から一見、おとなしいが、何か気に入らないことがあると、暴れる、まわりのもの、ごみ箱とかいす、机をけって先生を困らせていた。気に入らないことというのもささいなことで、「靴をそろえて」と言われて大暴れしたり、豹変(ひょうへん)したりしていた。」
他の人の証言からも岩崎隆一の学生時代は影が薄くておとなしい感じだったが、その一方で凶暴性があり問題児であったことがうかがえます。
「岩崎容疑者が通った同じ川崎市立の小学校を卒業した近所の主婦によると「騒ぎを起こしてよく先生に呼ばれていた。凶暴性があるというか、危ない感じはあった」。同じ中学校を卒業した別の近隣住民によると、「中学時代は目立たなかった。それからもずっと影が薄かったのか、この地域では、何1つうわさが立たなかった」と明かした。」
岩崎隆一は引きこもり生活を送っていた
岩崎隆一は定職について仕事をしていた時期もあったようです。岩崎隆一を見た近隣の住人の証言からは「おとなしそう・暗い雰囲気」と学生時代の評判とほぼ同じでした。ただ、岩崎隆一と深く関わったわけではないので、その凶暴性には気づいていなかったようですね。
「岩崎容疑者は同市麻生区の民家で数十年前から伯父夫婦と共に暮らし、定職にも就いていた。近隣では「りゅうちゃん」と呼ばれており、同容疑者を昔から知る住民は「最後に会った時は髪を短くしていた。絶対、容疑者なんですか」と驚いた様子だった。」
「朝方帰宅することもあり、会社員の男性(20)は「時折、コンビニで早朝に買い物をして家に戻って来るのを見掛けた。あまり元気ではなく、暗い雰囲気の人だった」と振り返った」
しかし、先述のようにここ10年以上は部屋に引きこもりがちの生活であったようです。
「同容疑者について、「長期間働いておらず、引きこもり傾向にあった」と話したという。」
岩崎隆一の現在の顔写真やFacebookについて〜部屋にはゲーム機や殺人雑誌
岩崎隆一の現在の顔写真やFacebook
岩崎隆一は中学時代の顔写真は公開されているものの、現在の顔写真は一切出てきていません。またTwitterやFacebookなどのSNSもやっていなかったようです。
岩崎隆一は長い間、引きこもり生活を送っていたので、最近の写真などは全く撮られていなかったみたいです。
また、PCや携帯電話すら持っていなかったと報道されているので、SNSをやることもできなかったのでしょうね。
「神奈川県警のこれまでの捜査では、交友関係もほとんどうかがえず、パソコン、携帯電話も所持していた形跡がないという。捜査幹部は「人間関係がこれだけ希薄な人物は珍しい」といぶかる。」
岩崎隆一の部屋にゲームや殺人雑誌
しかし、岩崎隆一の部屋には新聞やテレビとゲーム機などがあったと報道されています。岩崎隆一の自宅にゲーム機があったとメディアが報じたことについて、オタクと犯罪を結び付けていると一部で批判がありました。
「警察は29日、岩崎隆一容疑者(51)の自宅に捜索に入ったが、部屋は整然と整理されていて、テレビのほか、ポータブルのゲーム機やテレビにつないで遊ぶゲーム機などもあったことが新たにわかった。 」
「岩崎容疑者の部屋からゲーム機が見つかったとマスコミが嬉々として報じているが、岩崎隆一容疑者の部屋は整然としていてスマホもネット環境もなく、テレビと据え置き機のゲームしか見つからなかったらしい。これはテレビが悪影響を及ぼした可能性が大ですねぇ・・・」
さらに岩崎隆一の部屋から過去の大量殺人に関する事例などを集めた雑誌2冊が見つかったようです。雑誌を参考に事件を起こした可能性もありそうですね。
「自殺した容疑者の男の自宅から過去の大量殺人に関する事例などを集めた雑誌2冊が見つかっていたことが捜査関係者への取材で新たにわかりました。警察は、これらの雑誌を参考に事件を起こした疑いもあるとみて調べることにしています。 」
岩崎隆一は在日韓国人という噂について〜日本国籍の可能性が高い?
岩崎隆一が在日韓国人という噂がネットで流れていますが、結論から言うとデマである可能性が高いです。
岩崎隆一に在日韓国人説が浮上したきっかけは「逮捕後すぐに名前が出なかったこと」「犯行の凶暴性」のようですが、これまでの情報を見ると、日本国籍の日本人である可能性が高いでしょう。
「偏屈卑屈で頭の悪い無知無学なネトウヨどもが、極悪鬼畜の犯人岩崎隆一を在日韓国人(または知的障碍)だと決めつけ、愚鈍で低俗なアフィカスとユーチューバーが川崎市事件をネタにしてアクセスを稼ぎ、ネット民どもはネタにして騒ぎあい、嫌な時代だ」
「集団事大主義の学盲ネット民が、川崎市事件、岩崎隆一についての憶測、デマなんか(知的障碍、在日韓国人)を流しているが、少ない情報を信じ込んだり被害者や関係者を意味なく冒涜するようなことがあってはならない。事件が起これば在日にしたがる愚鈍で低俗で無知無学なネトウヨにはうんざりだが。」
岩崎隆一がカリタス小学校の児童を襲撃した動機とは
岩崎隆一の襲撃被害にあった児童が通っていたのは私立の名門校・カリタス小学校でした。
「被害に遭った児童たちが通っていたのが私立の名門校、カリタス小学校だった。都内から通う子も少なくない、カトリックの“お受験校”で、幼稚園から高校まであります。登校には原則として市営バスかスクールバスを使うことになっています。・・・」
岩崎隆一が自殺してしまった以上、岩崎隆一の犯行動機は闇に包まれた状態となっています。
しかしながら、これまでの情報から岩崎隆一の生い立ちや家庭環境がカリタス小学校の児童を襲撃した動機になっていることはほぼ間違いないと思われます。
・ 岩崎隆一はおじ夫婦からカリタス小学校出身のいとこ2人と違う扱いを受けていた
・ 岩崎隆一の親族が川崎市に岩崎のことを相談したが、この親族がいとこ自身かいとこも絡んでいた可能性は高い
・ 親族の相談により岩崎隆一は自分の将来を悲観するようになった
・ いとこに対して恨みがあり、出身校であるカリタス小学校をターゲットに選んだ
岩崎隆一はおとなしい性格なので、自分よりも明らかに弱い児童たちをターゲットに選んだとみられています。
岩崎容疑者の中学の同級生もこう話す。
「ニュースで岩崎が犯人だと聞いて、アイツならこういうこともやりかねないと思いました。アイツはああいう子どもや弱い人を狙うんですよ。一見はおとなしいが、些細なことでイライラして、機嫌が悪くなる。しかし、強そうな人や生徒には絶対、手を出さない。ずる賢い。逆に強そうな生徒がいると、反対方向に歩き、逃げて行った時もあった。アイツならではの卑怯な犯行ですよ」
また、岩崎隆一の犯行への用意周到性などからも恨みをもって犯行に及んだことは明らかです。
「事件の最大の関心事は、なぜカリタス小の生徒を狙ったのか、だ。行き当たりばったりの通り魔的な犯行ではなく、同容疑者は新品の刺身包丁2本を握り締め、リュックサックの中にはさらに2本のスペア包丁を用意していた。亡くなった小学6年栗林華子さんと外務省職員・小山智史さんへの刺し傷はいずれも深く、強い殺意が感じられる。」
「自殺した容疑者の近隣住民が、容疑者のいとこ2人がカリタス小に通っていたと証言。いとこ2人と同居していた容疑者は公立小を卒業しており、幼い頃の複雑な家庭環境を背景に、一方的で理不尽な恨みを抱いてカリタス小の児童を狙った可能性が出てきた。」
岩崎隆一について総まとめすると・・・
・ 岩崎隆一は幼い頃に両親が離婚しており、その後は川崎市麻生区多摩美に自宅がある叔父・叔母夫婦に引き取られた。
・ 岩崎隆一が引き取られた叔父夫婦には2人の子供がいて、いとこにあたる兄と姉はカリタス小学校出身だった。
・ 岩崎隆一は川崎市麻生区にある公立の小学校と中学校出身。学生時代は「普段はおとなしいが切れると豹変する奴」と評判だった。
・ 岩崎隆一は10年以上も引きこもり生活を送っており、現在の顔写真は公開されておらず、Facebookも公開されていない。
・ 岩崎隆一は親族やいとこに恨みをもち、いとこの出身校であるカリタス小学校の児童を襲撃した可能性が高い。
岩崎隆一について総まとめしてきました。
岩崎隆一がカリタス小学校の児童を襲撃した動機は自身の生い立ちにあった可能性が高いでしょう。池田小事件・宅間守に似ているとの分析もありましたが、岩崎隆一はすでに自殺をしています。 
 
屈折し周囲に溶け込めず=岩崎容疑者の同級生が証言 6/4

 

川崎市多摩区で児童ら20人が殺傷された事件で、自殺した職業不詳岩崎隆一容疑者(51)と小、中学校で同級生だった会社員の男性(51)が3日、取材に応じ、当時の岩崎容疑者について「変に屈折していた。人と同調することができず、トラブルメーカーだった」と証言した。
男性によると、岩崎容疑者は勉強はあまり得意でなかったが、足が速く、小6の時はリレーの選手に選ばれたこともあった。しかし、女子児童に唾を掛けたり、かみついたりして、嫌がる様子を楽しむような面があった。小学校の卒業文集では、「けんかチャンピオン」として名前が挙がっていた。
小6の時、マット運動の際に岩崎容疑者が脚を出して邪魔をしてきたので、男性が怒って殴ると、「慰謝料をよこせ」と激高し、先生にたしなめられたことも。中3の時には、「飛び降りて死ぬ」と言って校舎をつなぐ渡り廊下の塀にぶら下がり、先生に怒られていたという。
一方、幼い頃に両親が離婚して伯父夫婦と暮らしていたという複雑な境遇をうかがわせていた。髪形はいつも丸刈りで、つぎはぎのある服や丈の短い制服姿が印象に残っている。
岩崎容疑者が伯父といとこと一緒に理髪店に来た際には、伯父が「この子は丸刈りで」と言って、同容疑者はバリカンで刈られていたのに対し、いとこは普通にカットされていたという。
この男性は3日に事件現場を訪れ、岩崎容疑者と亡くなった小学6年栗林華子さん(11)、外務省職員小山智史さん(39)のために献花。「岩崎の周りに誰か話し相手がいれば変わっていたと思う。学校でも家でも孤独だったのだろう」と悔やんだ。  
 
岩崎隆一容疑者に「雀荘」勤務の過去 6/5
5月28日、川崎市で登校中の児童や保護者20人を殺傷し、自ら命を絶った岩崎隆一容疑者(51)。長期間にわたる「ひきこもり」生活に焦点が集まっているが、「週刊文春」の取材によって岩崎容疑者がかつてマージャン店で勤務していた事実が明らかになった。
1985年3月に職業訓練校を卒業後、しばらくして岩崎容疑者は町田市内の「J」(現在は閉店)という雀荘に出入りするようになる。そして1年が過ぎた18歳の頃、メンバー(従業員)として働き始める。主な仕事はドリンクの注文や灰皿の交換などの接客、そして客の人数あわせで卓に入って麻雀を打つ「本走」の2つだった。
「J」の元オーナーが当時を振り返る。
「彼は麻雀が物凄く強かった。責任感も人一倍あったので、夜中から朝10時までの夜番の主任を任せていました。メンバーは自分のカネで現金打ちをするから、給料が20万円でも負けが続けばアウト(店への借金)を作ってしまうものですが、彼はいつも7、8万のカネをポケットに入れて、それだけで賄っていた。麻雀をやる人間は、ゲームの時に財布を出すと舐められるから財布を持たない。事件後の報道で、彼のポケットに現金で10万円が入っていたと聞いて『彼らしいな』と思いました」 
 
「一人で死ねばいい」 論争 

 

川崎19人殺傷、”一人で死ね”論は正しいのか? 5/31
川崎市で起きた19人殺傷事件。29日に行われた家宅捜索で押収された私物の中にはスマホやパソコンはなく、長きにわたりひきこもりがちだった岩崎容疑者の姿も次第に明らかになってきている。
他方、無関係な子どもや保護者を狙った理不尽さや、犯行直後に岩崎隆一容疑者が自殺していることから、多くの人が怒りを覚え、「他人を巻き込むな」「死にたいなら1人で死ね」といった声がネット上に書き込まれている。臨床心理学が専門の明星大学の藤井靖准教授も、"1人で死ねよ"という発言が、他者を巻き込んでの「拡大自殺」を助長する懸念を示しているが、容疑者に対する厳しい意見は絶えない。
そんな風潮に対し、Yahoo!ニュース個人に執筆した記事で「人間は原則として、自分が大事にされていなければ、他者を大事に思いやることはできない」「メッセージを受け取った犯人と同様の思いを持つ人物は、これらの言葉から何を受け取るだろうか。凶行が繰り返されないように、他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意を頂きたい」などと警鐘を鳴らしたのが、NPO法人「ほっとプラス」の藤田孝典代表理事だ。
藤田氏の記事はYahoo! Japanのトップページにも掲載されて論争を巻き起こし、教育評論家の尾木直樹氏が「"1人で自殺してくれ"的な発言で、加害者同様の孤立状態の人を絶望に追い込み、同様の事件の連鎖を生む可能性が高くなる」と賛意を示した一方、文筆家の古谷経衝氏は「社会的に孤独なことが理由で無差別大量に人を殺傷するまでに至るモンスター的人間に対して、私はあらゆるケアは無意味であると考える」と反論。
さらに「きれいごと、社会のせいにするな!」「今回被害にあわれた人達を悔やむ気持ちないのかね。今言うことじゃないだろ」「自分の大切な人が殺されてもそんなこと言えるのだろうか?」といった批判的な意見も数多く投稿されている。
記事を執筆した動機について、30日放送のAbemaTV『AbemaPrime』に出演した藤田氏は「攻撃的な言葉がネット上に氾濫することには以前から違和感があり、何かできないかと思っていた。今回の事件は非常に重く深刻で、絶対に許されないことだということも重々承知しているが、彼にシンパシーを感じていたり、今も死にたいと思っていたりするような方にとっては様々なメッセージが含まれてしまう。
一方的な感情だ、そんなふうに曲解すべきではない、という方もいらっしゃるが、心が弱っている方の中には、自分に投げかけられていると思う方もいる。様々なことを考え、情報発信はどんどんしていただけたらと思うが、あまりにも攻撃的な言葉は控えていただきたいし、配慮のある言葉を選んでほしい」と話す。
フリーアナウンサーの柴田阿弥は「仮に被害者が自分の家族だったとしたら、やっぱり同じような感情を抱いたと思う。事件とは関係ない人がそう思うこともあると思う。ただ、それをネットに書き込む必要はあるのか」とコメント。
ジャーナリストの佐々木俊尚氏は「藤田さんのおっしゃる"1人で死ねよと言わないで欲しい"というのには賛同だが、同様の事件を引き起こしそうな"予備軍"がいるという前提で語るのは間違いだと思う。世の中には苦難を抱えている人がいっぱいいるが、全員が事件を起こすわけではないし、秋葉原連続殺傷事件の後にも"また同じようなことが起こると"言われてきたが、実際には起きていない。手を差し伸べるべき状況にある人たちに対して"あなたたちは別に犯罪予備軍ではない""あんな犯行をしたヤツと一緒にするつもりはない"というメッセージを送ることが大事だと思う」と話す。
慶應義塾大学の若新雄純特任准教授は「事件を起こした目的が自殺だったら"人を巻き込むな"という理屈が通ると思う。しかし容疑者にとって、死ぬことは手段だったと思う。真相は明らかにはできないが、自分が死ぬということも折り込み済みの、罪のない人を巻き込んだ凶行だと思う」との見方を示した上で、「ひきこもり経験のある人によく聞くのは、誰かと揉めているとか借金があって行き詰まっているとか、何かの壁にぶつかっている苦しさというよりは、ご飯も食べられるし、雨もしのげる環境にいるのに、自分が生きている意味や存在そのものが薄れていく感覚に悩んでいるということ。
社会のシステムで簡単に取り除けない問題として、そういう人たちがわずかだが存在している。事件の原因は推測の粋を出ないと思うが、対策を考えるとすれば、精神的に1人になってしまわないよう、いかに保障していくかがテーマだし、難しいところだと思う。そういう流れの中で、"いや、1人で勝手にやってよ"と言うのは暴論だったと思う」と指摘した。
テレビ朝日社会部記者時代には神奈川県警キャップも務めた杉原啓太・番組プロデューサーは「藤田氏の意見には賛同する部分があるが、一人一人がどういう意味で"1人で死ね"と言っているのか分からない。怒りからこういう言葉を発しているのなら、これを契機に原因を考えていく原動力になると思う。ただ、例えば容疑者をモンスターであるかのように形容して、自分たちとは全く違う人間だったとしてしまえば、次の事件の抑止になるかどうか分からない。一旦立ち止まって、この事件について考えていかなければいけない」と話していた。 
なぜ過熱?川崎殺傷「一人で死ねばいい」論争の是非 6/2
川崎市で小学生らが刺されて2人が死亡し、18人が重軽傷を負った事件から4日が経過した1日。現場である川崎市登戸を訪れた。
訪れていた人にお話を伺った。
女性:「子どもも同じくらいの年齢なのと同じようにバス使って通学しているので、言葉にならないですね」
元カリタス学園のスクールバスの運転手だったという男性も。
男性:「(Q.この辺りも運転されていたんですか?)そう、小学校と幼稚園もスクールバスが止まるから。32年間、やってたんだよ。(父兄の方が)すごい礼儀正しいですよ。必ずここで見てるんですよ。自分の子どもがバスに乗ったら帰る。ずっと見てますから。思い出いっぱいあるけど、こんなことになるとは思わなかったですね」
現場では深い悲しみが続くなか、今週、テレビ・新聞・ネット上ではある議論が巻き起こっている。
「死にたければ一人で死ねばいい」、今週はこの言葉に対する是非論で持ち切りだったが、そもそも一体なぜこの議論が白熱の論議や炎上の材料となったのか。Abema的は今回、この「現象」を考えてみたい。ことの発端は事件が起きた先月28日。TBSの昼の情報番組での落語家・立川志らくさん(55)の発言だった。
落語家・立川志らくさん:「死にたいなら1人で死んでくれよ!ということですよ。何で子どもの弱い、そういうところに飛び込んでくるんだ!信じられない!」
ネットでも…。「他人を巻き込むな!」「子どもの命を何だと思ってるの?」。しかし、志らくさんが発言した約2時間後、この声に異論を唱えるネット記事が。「『死にたいなら一人で死ぬべき』という非難は控えてほしい」、発信者は生活困窮者の支援をするNPO法人の代表理事・藤田孝典さん。藤田氏は、こういった発言がネット上に流れることにより“犯罪者予備軍”の人たちを刺激するかもしれないと指摘。ここから論議が広がっていく。安藤優子キャスター(60)は藤田氏の記事を受けて。
安藤優子キャスター:「社会すべてを敵に回して死んでいくわけですよね。だったら、自分1人で自分の命を絶てば済むことじゃないですか」
さらに、宮根誠司キャスター(56)は…。
宮根誠司キャスター:「自分一人で自殺したらいいんじゃないか…と思うんですけど。何でこんな幼い子どもを含めて何の罪もない人を巻き込むのか」
翌29日はタレントの高橋ジョージさん(60)がツイッターで…。
高橋ジョージさん:「いったい、何人の命を奪おうとしたのでしょう?『勝手に一人で死ねば』の前には『人を巻き込むくらいなら』が入るのです。非難されて当然です」
さらに30日、梅沢富美男さん(68)は…。
梅沢富美男さん:「これから被害に遭った人たちはどうやって、何を頼りに生きていけばいいんだ?だから、一人で死ねって言ってるんだ!当然のことだろ!そういうことをいちいちネットで話題にすること自体、おかしいわ!被害者の気持ちになってみろ!」
と、怒りをあらわにした。しかし一方で、藤田氏の意見をフォローする人たちも。コラムニストの小田嶋隆さん(62)はツイッターで。
コラムニスト・小田嶋隆さん:「注意を促した人(藤田氏)は、殺人犯を擁護したのではない。不安定な感情をかかえた人々への呪いの言葉になることを憂慮したから、彼はそれを言ったのだ。どうしてこの程度のことが読み取れないのだろうか」
教育評論家の尾木直樹さん(72)もブログで。
教育評論家・尾木直樹さん:「間違っても『どうせ自殺が目的なら、他人を巻き込まないで1人で自殺してくれ』的な発言は止めること。加害者同様の孤立状態の人を絶望に追い込み同様の事件の連鎖を生む可能性が高くなるからです」
今、結論が見えない「一人で死ねよ論争」に様々な意見が飛び交っている。Abema的では、この論争に火を付けた藤田氏を直撃。
NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典さん:「僕も“一人で死ぬべき”に近いような“道連れにするなよ”とは感じていますので、深刻な事件だったので怒り合う気持ちは分かるんですけども、被害者の方や遺族の方が強い言葉で犯行を非難したり犯人を責めるのは当然しかるべき、あっていいと思います。ただ、問題は私たち(第三者)がどういう立場で一人で死ぬべきだと出すか。ネットの影響力が大きくなっているなかで、とんでもないことをする人、価値がない人だから死ぬべきだと連呼されると、犯人以外の人に届いてしまって悪影響を及ぼすのではないかということで、ちょっと待ってくれよ!ということで記事に至った。自分がインターネット上で発する言葉がどのような影響を与えるのだろうか。一度、つぶやく前に考えて頂きたい。公共の場で流布する言葉ではない」
では、この議論にいきなり取り沙汰されることになった人たちは、この論争をどう見ているのか。
東京・新宿区にある「あけぼのばし自立研修センター」は社会に居場所がないと感じている、いわゆる「引きこもり」の人たちが社会復帰を目指すための支援をしている。
引きこもりの自立支援をする齊藤直毅さん:「(Q.事件絡みでマスコミから取材がかなりきているかと思いますけども、それについては?)論点がずれているんじゃないかなと思います。引きこもりの人に一人で死んでしまえは間違っています。完全に。意味が分からない。一人で悩んで一人で自己完結して一人で死んでくれ、それは暴論だと思います。コメンテーターの方のご意見もそれも一つの意見だと思います。ただ、大きな大皿で一くくりにはしてほしくないなと。それは間違いなく思います。色んな要因が重なって今回の事件が起きただけで、そのごく一部の側面だと思う。引きこもりというキーワードは。100、200ある側面のただ一つだけを切り取って、引きこもりというキーワードだけが一人歩きしていくのはすごく嫌だな。我々も言葉としてちゃんと表現したい」  
「死ぬなら一人で」論争をめぐって 中川淳一郎と会って考えたこと 6/2
学期中はそれなりにバタバタしており。ネットでの炎上事件などにも気づかないことが多く。登戸の事件のあと、「一人で死ね」論などが盛り上がっており。藤田孝典・中川淳一郎論争が起きていた。全部は追えていない。
イベントなどで挨拶したり、ネットでやりとりする他はあまり会っていないことに気づき。彼が亡くなった婚約者のことをツイートしていたりしたこともあり。金曜日の昼に電話。土曜の夕方に会う。ちょうど彼は嶋浩一郎さんと打ち合わせ中だった。
正月に、音喜多駿さん(維新で出馬、なの?地方で首長→国政というビジョンを聞いていたので、だとしたら色々がっかりなんだけど)と3人で新年会した際も、中川とは論争になったが…。中川と私は信じられないくらいに考えが逆である。彼はコテコテの自己責任論者、新自由主義者であり、私はそもそもの社会のシステムを問い直す派だ。これは、自分の立場や、出自とも、20代後半に出会ったトヨタ生産方式とも実は関係があるのだが、話すと長くなるのでここでは割愛する(勘のいい人ならわかると思う)。
この日も、藤田論か、中川論かというと、前者だよという話をした。ただ、あたかも藤田論に反論する奴は偽善者という空気も間違いで。まずは、悲しい事件を直視すること。人の命に貴賤はない。加害者のプロフィールがどのようなものであれ、被害者がどのような人であれ、そして、仮に正当防衛としての殺人だったとしても、人が人を殺すということの重みに変わりはないということを認識したい。
秋葉原の事件のときは犯人が派遣社員であり、相模原の事件のときは差別的な視点の人であり、今回はひきこもり男性だった。正規と非正規の格差の是正、なぜ差別が生まれるか、なぜひきこもり男性が生まれるかと、どう対策するか、そもそもひきこもることは悪なのかなど、論点は尽きない。この事件も、ひきこもりに対するレッテル貼りにならないかという点も見逃してはならない。
よく「誰でもよかった」という話があるが、実際は弱い人が道連れにされている点も直視したい。このあたりはデータを見たわけではないので、あくまで推測であるが。
加害者が誰であっても、いかに報われない人生を送っていたとしても、罪は罪である。中長期で社会をよくする視点は大事だが、個別の事件は、事件である。
今回の事件は究極的な状況である。事件は起きてしまったし、加害者は死んでしまった。犯行の動機などは証明できない。
事件が起こった学校に勤務している友人がいるし、友人のお子さんも通っているし。OGも多数知っている。何人かと連絡がとる機会があったが、彼ら彼女たちの胸中もまた複雑だった。
中川は、昨日の「東京新聞」で極めて優れた論考を寄稿している。簡単にまとめると、犯人の部屋に◎◎があった→だからこの人は凶悪だと推測するような安易な報道をやめろということだ。アニメやゲームが人を凶暴にするというが、『進撃の巨人』や『ジョジョの奇妙な冒険』がヒットしようとも、それを参考にして殺人や暴行をする人はあまりお目にかかったことがないし、出現率も低いことは明々白々だ。
『北斗の拳』を読んだあと、秘孔をつくのが流行ったが、内臓が爆発し「ヒデブ」「アベシ」と叫んで死んだ人を見たことはない。やや話は横道にそれたが、ネットでの炎上キャラと違い、昨日の中川の論考は実に的確であり、安易な報道に警鐘を乱打していた。
さらに、中川は大事な人が亡くなった当事者である。彼もツイッターで書いているが、彼は12年前に婚約者を亡くしている。自殺だった。しかも、夏の暑い日に死後、数日経った遺体を彼が発見するという辛い状況を経験している。彼女はその頃。鬱だった。
あれは亡くなる5年前くらいだったか。その彼女を中川に紹介したのは、他ならぬ私で。勘の悪い私はしばらく付き合っていることに気づかず。二人が付き合っていると聞いて涙し、彼女が死んで、もちろん泣いた。やや感情的に(としか見えないが)中川が藤田氏や周りの人に絡んだのは、そういう背景もあることをご理解頂きたい。
例によって、左も右もわからない時代なのに、左右の対立に矮小化され。議論にはならなくなる。別にこの手のことは、ツイッターのやり取りでどちらが勝った、賛同を得たという話で終わらせてはならず。ましてや、◎◎さんの言うことが正しいという同調圧力にも注意で。世の中には、許しがたい、解決し難い問題がある。それに人として向き合うことが大切である。
一方、こういう事件が起こると、ドサクサにまぎれて規制を強化しようとする権力者もおり。全世界的にテクノロジーなどを駆使して事件を未然に防ぐことが議論されている。企業でも、やめそうな社員をAIで診断し未然に防ぐ取り組みなどが行われており。ただ、これらが悪用されるリスクはどこまでも議論しなくてはならない。
というわけで、この日の訪問でも、嶋浩一郎さんを前に「俺たち2人、考えが、まるで合わないですよね」と確認し合った。私たちは、価値観も行動特性もまるで違う。でも、嶋さんに「君たち二人は、いいね」と言われて胸がいっぱいになった。 
「一人で死ねよ」に滲む社会の病理、ITにできることはあるのか 6/2
また子どもが犠牲になる痛ましい事件が起きた。
5月28日に川崎で起きた殺傷事件だ。背後からいきなり無言で切りつけられれば、大人でも逃げることすら難しいだろう。永年、ITの今を伝える仕事を続けてきた身として、このような悲劇が起きると、技術で防ぐことはできなかったかと考える。昨今、怪しい動きをする人物を監視カメラで発見することは、かなりの精度でできるようになってきた。
しかし、時間の猶予なく犯行に及んだとすれば、発見できても手を打つ余裕がない。徹底的な監視体制を敷き無数の警護ロボットを盾として配置しなければ、子どもたちを守ることは難しかっただろう。今の技術水準では限界がある。直接的な手立てが無理でも、間接的なことなら、ITにも何かできるかもしれない。
犯人は19人を殺傷した後、自殺してしまった。他人を巻き添えにした「拡大自殺」とも言われている。他人を、しかも子どもを殺すなんて、どう考えても許されない。事件の事を知り、私は思わず言ってしまった。「死ぬなら一人で死ねよ」と。多くの人が「せめて一人で」と感じたことだろう。しかし、『川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい』とする藤田孝典氏の文章を読んで考えさせられた。
自分が発した「死ぬなら一人で」のホンネは何だろう。そこで見つけたのは「おまえが自殺したって別に構わないけどな」という、突き放した氷よりも冷たい考えだった。これでいいのか。もちろん、「苦しければ自殺する自由もある」という考え方は理解はできる。しかし、ここでも原因の「苦しさ」については、やっぱり他人事だ。このあたりに、もやもやとした社会の病理のようなものを感じた。
警察庁によれば、2016年の自殺者数は2万1900人。また、厚労省が17年にまとめた、人口10万人あたりの自殺死亡率の国際比較では、日本はワースト6位だった。1位がリトアニア、次いで韓国、スリナム、スロベニア、ハンガリー、そして日本の順。この10年で数こそだいぶ減ってきたが、日本は依然として自殺者がきわめて多い国だ。それでいて、自殺の本当の理由は分からないし、社会として対策を立てるのも難しい。
こんな環境で、もし今回のような「拡大自殺」が増えてしまえば……。自殺者は潜在的な社会のリスクと捉える必要もあるだろう。死なずに済む社会を目指すことを含め、自殺者を減らす努力は続けなければならない。
事件があった翌日の5月29日、たまたまポケモンの事業説明会があった。彼らが生み出したスマホゲーム「ポケモンGO」は、世界のアクティブユーザーが1億人を超えるという大ヒットを記録した。外に出かけ、歩けば歩くほど多くのポケモンやイベントに出会えゲームが進む、とてもユニークな世界観。健康維持のため、高齢者が早朝の散歩がてらにポケモンGOで遊ぶという、これまでのゲームの枠を飛び越えた状況をも生み出した。
ポケモンの新たなチャレンジは睡眠をモチーフに新たなゲームを作ることだという。その名も「ポケモンSleep」。詳しい仕様はまだ分からないが、夜はしっかり寝て、昼は元気に活動する、ということを促すゲームになりそうだ。ポケモンの面白さは、現実とゲームの世界を融合させながら、より豊かな生活を目指していることだ。よく歩き、
よく眠ることで、生活のリズムが整い健康を手にすれば毎日に彩りが加わる、そんなゲームに仕上がればとても面白い。OECD(経済協力開発機構)の調査「Gender Data Portal 2019」では、主要33カ国中、最も睡眠時間が短いのが日本だった。自殺者の多さと短い睡眠時間。もしかすると何らかの関係があるのかもしれない。とすれば、ゲームが人の命を救うことにつながる。ITの力で人を救うというのは案外こんなことなのだろう。 
「論点がズレている」“一人で死ぬべき”のマスコミ取材に関係者憤り 6/3
先月28日に川崎市で起きた20人殺傷事件。凶行に及んだ直後に自ら命を絶った岩崎隆一容疑者(51)の行動を受けて「死にたければ一人で死ねばいい」の是非論が、連日のように各メディアで報じられた。
事の発端は事件当日のTBSのワイドショー「ひるおび!」に出演した落語家・立川志らく氏の「死にたいなら一人で死んでくれよ! ということですよ。なんで子どもの弱い そういうところに飛び込んでくるんだ! 信じられない!」という発言だった。立川志らく氏の発言を受け、ネット上でも即座に「他人を巻き込むな!」「子どもの命を何だと思ってるの?」などの反応が相次いだ。
しかし、立川志らく氏の発言からおよそ2時間後、この論調に異を唱えるネット記事がYahoo!ニュースに掲載された。そのタイトルは「川崎殺傷事件『死にたいなら一人で死ぬべき』という非難は控えてほしい」。記事を書いたのは藤田孝典氏。藤田氏はNPOほっとプラス代表理事として生活困窮者の支援を行う傍ら、聖学院大学人間福祉学部客員准教授などを務めている。藤田氏が寄稿に至った経緯には「こういった発言を公の場ですることで、“犯罪者予備軍”の感情を刺激する可能性があるので控えるべき」という思いがあった。
しかし、これをきっかけに「一人で死ねよ」論争は過熱の一途をたどった。
28日、フジテレビの安藤優子キャスターは藤田氏の記事を受けて「社会すべてを敵に回して死んでいくわけですよね。だったら自分一人で自分の命を絶てば済むことじゃないですか」と発言。宮根誠司キャスターも「自分一人で自殺したらいいんじゃないか、と思うんですけど。なんでこんな幼い子どもを含めて何の罪もない人を巻き込むのか」などと続いた。さらに30日には俳優の梅沢富美男氏も「これから被害に遭った人たちはどうやって、何を頼りに生きていけばいいんだ? だから一人で死ねって言ってるんだ! 当然のことだろ! そういうことをいちいちネットで話題にすること自体おかしい。被害者の気持ちになってみろ!」と怒りを露わにしている。
その一方、藤田氏の意見に賛同する人たちも増えている。
コラムニストの小田嶋隆氏は自身のツイッターで「注意を促した人(藤田氏)は殺人犯を擁護したのではない。(中略)不安定な感情をかかえた人々への呪いの言葉になることを憂慮したから彼はそれを言ったのだ。どうしてこの程度のことが読み取れないのだろうか」と声を上げれば、教育評論家の尾木直樹氏は自身のブログで「間違っても【どうせ自殺が目的なら他人を巻き込まないで一人で自殺してくれ】的な発言は止めること。加害者同様の孤立状態の人を絶望に追い込み、同様の事件の連鎖を生む可能性が高くなるからです」とその理由を説明している。
2日にAbemaTVで放送された『Abema的ニュースショー』では、この議論のきっかけとなった藤田氏を取材。すると藤田氏は「僕も“一人で死ぬべき”に近いような“道づれにするなよ”とは感じている」と今回の是非論に一定の理解を示したうえで、次のように心境を述べた。
「深刻な事件だったので、怒り合う気持ちはわかる。被害者の方や遺族の方が強い言葉で犯行を非難したり、犯人を責めたりするのはあっていいと思うが、問題は私たち第三者が、どのような立場で『一人で死ぬべき』だと発言するか。ネットの影響力が大きくなっている中で、とんでもないことをする人、価値が無い人だから死ぬべきだと連呼されると、犯人以外の人に届いてしまって、社会に悪影響を及ぼすのではないか。『ちょっと待ってくれよ』という一心で記事を書くに至った。まずは自分がインターネット上で発する言葉がどのような影響を与えるのかについて、ネットでつぶやく前に、是非一度考えてほしい。(一人で死ぬべきという言葉は)公共の場で流布するような言葉ではない」
「一人で死ぬべき」論が急拡大したネット社会に潜む問題
今回の議論に巻き込まれる形となった人たちもいる。東京都・新宿区で引きこもりの自立支援をする「あけぼのばし自立研修センター」の金子周平さんは、一連の騒動に関するマスコミの取材に対して「論点がズレている」と指摘。「引きこもりの人に一人で死んでしまえは完全に間違っている。逆に意味が分からない」と憤りを隠せない様子だ。金子氏はさらに「一人で悩んで 一人で自己完結して 一人で死んでくれというのは暴論。コメンテーターの意見もひとつの意見だと思うが、大きな大皿で一括りにしては欲しくない。色々な問題が重なって今回の事件が起きた。そしてそれは、(社会が抱える問題の)ごく一部の側面に過ぎない」と訴えた。
ではなぜ、このタイミングで「一人で死ねよ論争」が展開されたのか――。
「20人の方を巻き込み、自死した。これは社会通念上でみれば普通の感覚だ」と話したのはネット時事問題に詳しい文筆家の古谷経衡氏。古谷氏は藤田氏が寄稿した原稿に関して「研究や体験などによって例証するなど、より具体的なものが好ましかった。こういった話や類似する言葉を受けて自殺しそうな人が自殺に至ったという話を聞いたことは無い」と注文を付け加えた。
一方、ネット用語の「無敵の人」を例に挙げて持論を展開したのは、編集者の箕輪厚介氏。箕輪氏は「(自らが)死んでもいいから人を殺すという人は刑罰によって抑えられないからテロリストと同じ無敵の人。社会がこういった人たちを増やしていけば、川崎殺傷事件のような事件は無くならない。一人で死ねというのは一般感情としてはあるが、世の中(社会)としてはそれを言ったらおしまい。これから格差が広がっていく中で、『お前はクズだから死んでしまえ』というのは、無敵の人を増やすことに他ならない」と話し、今回「一人で死ぬべき」という論調が大勢を占めた社会の空気感に警鐘を鳴らした。
同じくネット社会の異常な過熱ぶりに対して意見を述べたのは、東大大学院卒で元日経新聞記者の作家である鈴木涼美氏。鈴木氏は「今のネット社会の燃え上がり方は昔では考えられない。本当に誰だか分からない大衆という者が、“一人で死ね”に対して『そうだ、そうだ、そうだ』となるのが昔の町場のレベルではない。色々なことが突然片方に寄ってしまう社会の現状を、藤田さんはおそらく懸念されていたのだろう」と語った。
さらに鈴木氏は「ネットの“そうだ”を誘発するような陳腐な意見を言う必要は無い。また、一人で死ねと強い言葉で言っている人たちも、今追い詰められている人たちに言っているのではなく、犯人に言っている。しかし、犯人の耳にその言葉は届かない。新聞や本は誰に何を伝えたいかを考えたうえで、言うべきことと、言わざるべきことを判断する。実際には、知っているけど、言わない方が良いだろうと考える時間の方が多い。誰に対して言葉を吐いているのか、その言葉がどこに届いて、どういう影響を与えるのかに対して、今のSNSはあまりにも無責任すぎる」と続け、「一人で死ぬべき」が過熱したネット社会に一石を投じた。
なお32年間、今回事件に巻き込まれたカリタス学園のスクールバス運転手を務めていた男性は取材に対して、「(父兄の方が)すごい礼儀正しかった。必ずバス停で見送っておられ、自分の子どもがバスに乗ったら帰る。思い出はいっぱいあるけど、まさかこんなことになるとは思わなかった」と当時を振り返り、複雑な胸中を明かしている。 
川崎殺傷事件 いまだに「一人で死ねばいい」論争が続く背景  6/3
6月2日の夜に放送されたMrサンデーで、川崎殺傷事件の余波として
「一人で死ねばいい論争」について、NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典さんと、古谷ツネヒラさんを招き、司会の宮根氏を囲んで、論議の延長が放送されてました。
犯人が、最後に命を絶ってしまい、その動機も犯人の周辺情報や写真などの外的情報すら乏しいため、果たして犯人が、自殺の場所を見つけるために自分より弱い立場を襲ったというのも、あくまで仮設の域を出ません。
にもかかわらず、こうしてこの議論がいまだに語られる背景には、選挙と同様に、論点や争点を1つに絞ったほうが、メディアは取り上げやすい、視聴者は井戸端会議をするときにしても話やすいという明確なメリットがあるからです。
まだ2001年の6月に起こった、宅間守による池田小事件の影響があらわれていると思われます。
ただ、意外と「死刑になりたいから」「死に場所を探して」事件を起こすケースって少ないのではないでしょうか?
よく比較される、秋葉原通り魔事件でも、女性関係の希薄さや、非正規で雇用され続ける加藤被告の身辺状況に、同じように「一人で死ねばいい」という意見も出る一方で、社会的マイノリティに何か救いはないかと、不特定多数で集まって、議論するという機会が生まれてました。
被害者の遺族でさえも、「このような人を出さないようにするためには、どうすればいいか」とお応えになっている姿をニュースで見ました。
しかし、後に世に出た加藤自らが、語った事件の動機については、ネットの掲示板のなりすましで、自分のアイデンティティが確立されなかったことによるいら立ちが、主たる要因と語っています。
今回の犯人岩崎も、犯行前に事前に場所とターゲットを下見していたことや、包丁を複数所持していたことから、愉快的犯行、自殺よりも他殺を主とした目的という可能性が高く、精神的な疾患や、テロに酔っている側面があったことは推察されます。
彼が最終的に自殺したことで、第三者であってもやり場のない怒り、義憤が生まれ、そのような受け皿に結果としてなったのが 「一人で死にたいなら勝手に死んでくれ」 という主張だったのでしょう。
これに反論すると、一部では即座に 「なら、被害者に面と向かっていえるのか?」 というのもまさにテンプレ。ただ、秋葉原事件のケースであったように、すべての被害者が、そのような怒りに駆られているのかという断定も性急な話ではないでしょうか。
引きこもり、社会から孤立している人への影響ですが、現代では、誰しもがパソコンやスマホで、ネット情報を収集しやすく、他人の価値観に振れやすくなっています。
僕も、ニートの時期がありましたが、働いている時期よりもはるかにまとめサイトやSNSで人の価値観にふれる期間が長かったです。
もし、このような報道で傷心するなら、気にはなるでしょうが、ネットやSNSの言論から一時的に離れて風化するのを待つしかないですね。
この議論は、答えがないですから賛成派も反対派も弾圧できないでしょう。感情が高まっているだけに、早急な沈下も望めないでしょうし。
いま求められるのは、加害者の闇やゲームやTVを所有しているのかどうかというどうでもいい共通点探しではなく、被害者遺族や重症によって、PTSDを患った関係者へのケアであるべきでしょう。
そこから将来的に、コストがかかっても民間の警備会社に委託するか、バス内に防犯グッズを整備するか、自宅の前に向かうようなシステムを作るべきかを考えなければならないでしょう。
それでもまだ、マスコミがこの「一人で死ねばいい」という、考えようによっては事件の本質やその後のケアも無視した内容を延長して報道するということは、やはり少数の事件当事者や、関係者ではなく、大多数の第三者のためにニュースは存在しているんだなと痛感させられる瞬間でもありました。 
「死ぬなら一人で」論争続報 危うく通り魔になりかけた当事者が激白 6/3
川崎の19人殺傷事件では、テレビ番組やSNSで多くの人が「死ぬなら一人で」と発言しているが、5月31日(2019年)のモーニングショーで「感情論でコメントするな」「絶望を増幅させる」と反論したことが大反響を呼んでいる。
番組に寄せられた意見は「『死ぬなら一人で」と言ってもよい』が48%、「言うべきではない」が33%と、「死ぬなら一人で」の肯定派がやや上回っている。
スタジオには3年半前に過眠症で職を失ったことがきっかけで通り魔になりかけたという中村カズノリさんと、彼を救ったカウンセラーの味沢道明さんが登場、当時の状況を語った。
仕事のストレスなどから過眠症になり、目が覚めたら夕方だったこともあるという中村さんは、治療を行っても改善が見られず、最終的に退職することになった。その時人事担当者から「思いつめて自殺なんてしないでね」と言われたが、それに対し中村さんは「自殺するくらいなら殺しますから」と答えた。そして、殺害対象として思い描いたのは、朝出勤する普通の人だったという。
追い詰められた中村さんを救ったのが、カウンセラーの味沢道明さんの「おめでとう。よく殺さなかったね。すごい」という一声だった。
味沢さん「退職することは、出口を見つけることにつながるので『おめでとう』になる。自分の価値観と違うものは否定したくなるが、否定すると追い詰めることになる」
番組ではNPO理事の藤田孝典さんの「『死ぬなら一人で』を控えてほしい」や、橋下徹元大阪市長の「死ぬなら一人でと教育すべき」といった発言も紹介された。
山口真由(米ニューヨーク州弁護士、元財務官僚)「岩崎容疑者一人に向けられた言葉が独り歩きして、踏みとどまっている人を押してしまう」
味沢さん「社会全体が暴力的になっていて、自分の正義と違うものを激しく排除する。どうやって生きるかを教育しなければ。一人で死ねというのは無責任」
中村さん「追い詰められた当事者には、正論こそしんどい」
玉川徹(テレビ朝日解説委員)「コメンテーターは自己演出してしゃべっている。感情にコメントが引きずられたらダメ。そして、なぜ『死ぬなら』という前提をつけるのか。自分も他人も死なないほうがいい。なぜそう語れないのか」
味沢さん「感情論ではなく、事件がどう起こっているのか幅広く冷静に検討しなければいけない。追い詰められた人がいざという時に相談できる相手がいることが大事だが、男性の相談窓口が少ない。男性は弱音をはいてはいけないという風潮があるが、まずそこから」 
「一人で死ねばいい」論争の不毛さと不条理な社会 6/4
今回は「個人と社会」について考えてみる。
川崎市多摩区の路上で登校中の児童や保護者らが刃物を持った男に襲われ、2人の大切な命が不条理に奪われた事件で、犯人に対するコメントが物議をかもしている。
「死ぬなら一人で死ねばいい」「死ぬのに人を巻き込むな」といった言葉が、テレビのコメンテーターから、あるいはSNS上で、飛び交ったことに対し、「次の凶行を生まないために、こういった言説をネット上で流布しないでほしい。こういった事件の背後には『社会に対する恨み』を募らせている人がいる場合が多いので、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし何かしらできることはあるというメッセージが必要」と、貧困などの問題に関わるNPO法人の代表の男性が投稿したのだ。
男性の呼びかけに賛同する人がいた一方で、ネット上では「遺族の気持ちを考えろ!」と激しい批判と反発があふれる事態となった。詳しくはテレビのワイドショーでも取り上げられたり、多くの識者たちがコメントを発信したりしているのでご存じの方も多いと思う。
個人的には私は全く関係ない子供や大人たちを残酷な目に遭わせた犯人に激しく憤っており、今、この時点で「次の凶行を生まないためのメッセージ」を出す気持ちにはなれない。これは他のメディアでもコメントしている通りである。
亡くなった方、傷つけられた方、その家族の方たちの心情をおもんぱかると、とてもじゃないけど、「次の……」とは思えない。この議論がセンセーショナルに取り上げられることで、苦しむ被害者の関係者もいるのではないか。そう思えてならないのである。
ただ、以前、私が刑務所を訪問したときに抱いた「気持ち」や、刑務官の人たちから聞いた言葉。さらには「人は環境で変わる」という自分が大切にしている信条から、「無差別殺人」を理解不可能なものとして捉えるのではなく、犯罪に駆り立てる社会背景を紐解き、社会空間に不可避な不条理を理解しようとすることは極めて重要だと考えている。
その場合に「どんなデータ」を用いるか、そのデータを「いかに読み解くか」が極めて重要になる。ステレオタイプ的に「無差別殺人を起こす人=孤独」だの、「仕事もせず引きこもり傾向にある=社会への恨みを募らせている」だのと直接的に捉えるのはいささか危険だし、そうあってはならない。
そもそも犯行が生まれる背景や犯人の心情を分析するのは、どんな叡智が集結したところで完全には無理。人の心は極めて複雑で、多面的なのだ。
例えば、2008年に起きた「秋葉原通り魔事件」では、白昼の繁華街で起きたことから、誰もが「自分がそこに居合わせた可能性」に震え、日本中が恐怖に包まれた一方で、世間やマスコミの関心は、単に男の「派遣社員」という立場に集まり、負け組、社会的孤立、学歴、容姿への自己評価にスポットを当て、男は「誰かに認められたい」という欲望が満たされずに犯行に至ったのではないか、という議論を展開した。
リーマン・ショックで派遣切りが社会問題化していたことも重なり、「氷河期世代のテロ」と呼ぶ識者もいた。
社会構造と事件の関係性が分析された永山事件
社会学的には、秋葉原通り魔事件は1968年の「永山則夫連続射殺事件」と重ねて論じられてきた経緯がある。
永山事件は、犯行当時19歳だった永山則夫が(1990年に死刑確定、97年に少年死刑囚として死刑執行)が、アメリカ海軍横須賀基地に侵入し拳銃を盗み、東京プリンスホテルで警備員を殺害したことを発端に、逃亡しながら京都、函館、名古屋で3人を拳銃で射殺した連続殺人事件だ。
永山は高度成長期に地方から「安価な労働力」として上京した金の卵の一人で、幼少期は極貧状況で育ち、中学もろくに通えていなかった。永山と似たように「地方から夢」を抱き、不安定な労働環境に投げ込まれた少年たちが多くいたことで、犯人への社会的関心は極めて高かった。
一方、永山自身は刑務所で独学で字を覚え、71年に手記『無知の涙』を出版する。
その内容に共鳴したのが、社会学者で東京大学名誉教授の見田宗介先生。子供時代貧しかった見田先生は、学生時代に周りからあからさまに差別された経験があった。
そこで手記に書かれている内容と事件当時の統計データから、若者たちを取り巻く社会構造や社会と個人の関係性を分析し、「人を出自などで差別する都市のまなざし」を描いた『まなざしの地獄』(1973年)と題された論文を雑誌「展望」に投稿したのである(2008年に書籍化)。
この論文は大量殺人を社会的に描いた極めて良質な指南書として、時代を経て読み継がれ、秋葉原事件のときに広く引用された。
その理由が、どちらの事件の犯人も、その時代の「働かせ方」の象徴的存在だったからに他ならない。
永山は「金の卵」、加藤は「契約社員」。それらは時代を象徴する新しい存在でありながら、極めて不安定で、その属性は「身分格差」のように扱われた。そこで見田先生の『まなざしの地獄』を引用することで、秋葉原連続殺人を生んだ社会的文脈の「共通点と差異」を見いだそうとしたのである。
が、これらの社会的分析は、結果的に犯罪の社会的分析の難しさを露呈させることになる。
当事者たちが有識者の論考を否定
奇しくもどちらの事件も、当事者自身が書籍を出版し、社会学者たちによる「自分が犯行に至る心情」の分析や論考を否定。
永山は『反―寺山修司論』の中で、見田先生をはじめとする識者の自分に対する「理解の間違い」を論じ、秋葉原通り魔事件の加藤智大も著書の中で、「有識者に騙されるな」と専門家たちの自分に関する分析や論考を全面的に否定したのだ。
「それって、人からあれこれ言われるから反骨的に批判したんじゃないのか?」
ふむ。そういう考え方もあるかもしれない。
だが、私は犯罪者の心理を社会との関係から捉えることに関して見田先生が、「平均値としてではなく、一つの極限値において代表して体現している」と指摘した通り、犯罪者の心理を「社会の窓」から分析する作業の意義は、社会への警告だと考えている。
つまり、それは『まなざしの地獄』というタイトルが示すように、社会構造の中で無意識に社会に生まれる「私たちのまなざし」への警告だと、私は理解しているのだ。
こういった前提を踏まえ、紹介したい研究がある。タイトルは「無差別殺傷事犯に関する研究」。法務省が2013年に公表した論考である。
この研究では、2000年〜10年までの間に判決が確定した無差別殺傷事件で、刑事施設に入所した52人の属性、犯行内容、動機、犯行の背景などの実態を調査し、無差別殺傷事犯の実態を明らかにしている。目的は繰り返される無差別殺傷事件の効果的な防止策と、適正な処遇を図るための基礎的資料の提供だ。
本研究では無差別殺傷事件を、「分かりにくい動機に基づき、それまでに殺意を抱くような対立・敵対関係が全くなかった被害者に対して、殺意をもって危害を加えた事件」と定義し、刑事事件記録、刑事施設の記録、保護観察所の記録などに基づき分析した結果、次のようなことが浮かび上がった。
【犯人の基本属性および生活状況】
・多くは男性であり、年齢層は一般殺人と比べると低く、高齢者は少ない
・就労経験があっても長続きせず、犯行時には無職や非正規雇用等の不安定な就労状況にある者がほとんど
・収入は少なく、住所不定だったり、社会福祉施設に居住するなど安定した住居がない者が多い
【人間関係】
・年齢層が低い者は親と同居している者が多いが、 それ以外は単身で生活し、配偶者等と円満な家庭生活を送っている者は少ない
・犯行時に異性の交際相手がいる者はほとんどいない
・犯行時に友人がいなかったり、交友関係が希薄、 険悪である者が多数
・学校や職場に在籍していた時点から、友人関係を築くことができなかった者が多い
【犯行に至るまでの状況】
・犯行前に自殺を図った経験がある者が4割超と多く、引きこもりも2割
・犯行を相当前から決意していた者は少ないものの、犯行時にいきなり思い立ったものではなく、その前から犯行を決意した計画的犯行が多い
・犯行時にいらいらなどの精神的な不調、不安定な状態にあった者が多い。
・犯行前に、医師等に犯行に関する内的衝動を相談していた者も一定の割合いた
・過去の無差別殺傷事件を明確に模倣して犯行を行った者は少なく、マスコミ報道によるアピー ルを明確に意図していた者も少なかった
また、無差別殺傷事犯者の約半数に前科があり、特徴的な点として放火の前科を有する者の比率が一般殺人に比べて高い。他方、犯行時に不良集団に所属している者は少なかった。被害者については、女性、子供、高齢者などの弱者を攻撃対象として選定する場合が多いことも明かされている。
さらに、犯人のインタビューなどを通じ、
・誰からも相手にされないという対人的孤立感
・誰にも必要とされていないという対人的疎外感
・失職したことを契機とする将来への不安
・生活に行き詰まり、生きる気力を失った絶望感
・努力しても何も報われないという諦め
・職場でのいじめやストレスへの怒り
・守るもの、失うもの、居場所が何もないという孤独感や虚無感
・自分だけがみじめな思いをしてきたのに周りがぬくぬくと生きているという怒り
・失職や交際相手との復縁がかなわず何事も自分の思惑通りに行かないという憤り
といった不満や閉塞感などが共通して認められた、とまとめている。
……さて、いかがだろうか。
これらは法務省も「サンプルが限られている」として調査の限界を示している通り、あくまでも過去に無差別殺人を犯した52人を分析したものでしかない。
それでも結果からは、「働いて賃金を得る」ということ、「人と共に生活する」ということ、「安定した住居がある」という、「基本的な生活経験の欠損」が人の心にネガティブな影響を及ぼすと読み解くことが十分に可能だ。
さらに、「人間関係の希薄さ」がある一定のパターンとして認められていることは、特筆すべき事項である。
社会的動物である私たちは他者と協働することで、生き残ってきた。私たちのカラダの奥底には他者とつながらないと安心が得られないことが刻まれているといっても過言ではない。
それは、自分が生き残るためには他者から「コイツと力を合わせたい!」とみなされる必要があるという性質を生み、そのためヒトは「他者にどう評価されるか?」を気にするようになった。
その「他者からのまなざし」が、孤立感や疎外感、諦め、怒り、虚無感をかき立てるのだ。
孤独担当大臣のポストを置いたイギリス
繰り返すが、「他者のまなざし」は「私のまなざし」である。
不条理な事件を一つでも減らすために私たちができることがあるとすれば、その「まなざし」を自覚し、戒めること。感情が極限状態になればなるほど、人は言葉よりまなざしに反応する。
2018年1月にイギリスで、孤独担当大臣という日本ではあまり聞きなれない大臣ポストが設置され、孤独の問題に対して本格的に取り組むことが政府により表明された。
イギリスでは、約900万人の成人が孤独に苦しんでいると推定され、子を持つ親の24%が常に孤独を感じ、10代の子供の62.2%、75歳以上の3人に1人が、「時々孤独を感じる」とされている。
孤独問題の本質は、それが「声にならない声」だということ。実際イギリスで行われた調査では、孤独を感じている人の3分の2が「孤独と感じている」ことを公にしたことはなかった。また、本人が孤独を自覚できていないケースも散在した。
そもそも孤独(loneliness)とは、あくまでも主観的な感情のことであって、外部から観察可能な孤立(isolation)とは区別されている。
そこでイギリスが現在徹底して行っているのが、さまざまな観点から孤独の問題を「指標化」する作業だ。
具体的には「孤独を直接的に測る尺度」(例:あなたはどのくらいの頻度で孤独を感じますか?)と「間接的に測る尺度」(例:私には自分の問題を相談できる人がいる。とても信頼できる人が大勢いる)が検討されていて、これをもとに今後介入研究を行い、具体的な政策課題を進めることになる。
孤独の指標化は「自分が孤独である」ことを認識することにも多いに役立つはずだ。
私は孤独へのアプローチは不条理な殺人事件などを減らすためにも極めて重要な取り組みだと考えている。
イギリスで孤独問題が悪化しているのは、社会福祉のサービスが削減され、母子家庭への支援の削減や、児童や若者が集う「ユースセンター」の閉鎖によるとの指摘がある。それを踏まえて「生活基盤の不十分さという問題を解決せずに孤独問題を解決できると思っているのだろうか」と批判する識者は多い。
孤独を個人の問題ではなく、社会問題として向き合う
実際、その通りなのだとは思う。
だが、「孤独」という個人の問題にされがちな問題を、社会問題として向き合う取り組みは、日本も学ぶべきではないか。
BBCのニュースサイトでは「Lonliness」というコーナーを設け、孤独に悩む人や孤独にさせないための「私たちができること」を動画などで紹介。
昨年、1月には次のような具体的なアプローチも公表されている。日本語サイト
孤独な高齢者に対しては、「話しかける」「代わりに買い物に行く、郵便物を出すなどの実用的な支援を行う」「慈善組織のボランティアになる」「総菜を分け合う」。
孤独な若年層に対しては、「こちらから会う機会を作る」「孤独について話せる場所を地元で探すのを手伝う」「聞き役に回り、先入観を持たない。忙しそうに見える人が孤独感を味わっていることもあると意識して接する」といった対応を勧めている。
日常的の中のちょっとした「私」の言動の積み重ねが、社会が生む犯罪を減らすことに役立つのではないか。それが「当事者ではない」私たちにできる唯一のことのように思う。 
「一人で死ねよ論争」に思うこと 6/5
「一人で死ねよ論争」って何のことかおわかりになると思います。川崎殺傷事件のことで、多くの子どもたちを十数秒で切りかかり、子供が一人死亡、大人も一人死亡、犯人は自分の首を刺し、その場で自殺した事件。
「道連れにするな」「被害者の気持ち、親の気持ちを考えろ」「勝手に一人で死ね」
こういう考え方が世の中では多く、犯人を擁護したわけでもないのに「一人で死ねという非難を控えて欲しい」と言った人が攻撃され大炎上。
「どう思う?」とヨメさんに聞いてみた。当然、答えは「一人で死ねば良い」という当たり前で、ある意味「健全な反応」で安心?しました。
健全で常識的で「他人に迷惑をかけてはならない」と育ちそれを信じて生きた人は、そう考えるはず。
でも私は違うことを考えるんですよ。
世の中、健全でもなく精神的に問題を抱えていたり、それは単なる思い込みかもしれないけれど、うつ状態だったり、孤独に耐えられず苦しんでいるひともいるじゃないですか。攻撃的になったり、他人や社会を罵ることもある。そしてとんでもない行動に移す人もいる。
こういう人たちが「何をしようと許せ」というんじゃないんですよ。罪は罪で、犯してはならない罪があって、犯人を許す必要もない。
でもねぇ、健全で常識的でそれを強要する社会が「孤独に耐えられない人たちを追い込む」ってことがあるし、それに耐えられない、行き場のない気持ちが私にはよくわかるんですよ。私もそういう時期が長く続いたから。
かつて秋葉原で無差別大量殺人(通り魔)が起きたときにも、犯人像が明らかになったときにも同じことを感じました。
また自殺するにも、一人では死ねずに「仲間を募って一緒に死ぬ」ということがあちこちで起きているじゃないですか。あれも根底に流れるものは同じだと思うんです。
「一人で死ね」と言われるまでもなく、本人はそうしようと長年、悩みに悩んで、やっぱり一人では死ねない、仲間が欲しい、そして道連れが欲しいと病的なことまで考えるようになる人も出てくる。でも大多数はそう思っても実行はしないのが当たり前。
何度も書きますが、そういう人たちを擁護する気はまったくないんですよ。
でも世の中の「一人で勝手に死ね」というそういう風潮そのものが、彼らを追い込んでいるのは間違いがないと思っています。
村八分ってのはどこにでもある。でもそれをする人たちは「当たり前」だと思っている。誰でも危ないやつ、ややこしいやつには近寄らないで生きていたいし、自分が所属する団体、グループにそういう「危険分子」がいれば排除しようとするのは当たり前だと思う。でも「排除された人」がどうなるかは気にしないのね。「関係ないね」「勝手に生きれば良い」となる。
前にも書いたことがありますが、マレーシア関連のSNS上で、ある女性が「あの人は嘘つきだ。騙された」ということでやり玉に上がった。そして実際に何があったのか詳しく調べることもなく、「騙された」と言う人の言い分だけが取り上げられ、SNS参加者の多くがその相手の女性を攻撃しだしたんですよ。「とんでもないやつだ。除名しろ」と。
私にしてみれば、それは「リンチ」「裁判なしの死刑判決」で、そういうことをするべきじゃないし、少なくとも「何があったのか」は調べる必要があるじゃないですか。片方だけの言い分を聞いただけじゃなにもわかりませんから。それをSNSに書いたら、なんと私も攻撃対象になったんですよ。その時は、「こいつら、どうしようもない馬鹿だ」と正直思いました。
でも海外に出て楽しくロングステイを楽しみたい人たちにすると、「小さな不安も排除したい」という気持ちがあるのは私にもよくわかる。だから日本国内ならなんてことがないことでも、海外だと「村八分の傾向」は強くなる。皆さん、ガードが固くなるのね。結局、その女性は除名に決定。
私はその女性と会ったこともなかったのですが、気になって電話番号を教えてもらい、話を聞こう、慰めようと思って電話をしたんですよ。
すると、その女性は泣きながら「死にたい・・」と言っていた。
何があろうと、いい大人が、いい大人に「死にたい」と言わせるまでのことをするか?
マレーシアの日本人ムラ社会は狂っていると思いました。(この事件の真相は、「かなり長くマレーシアに住み、マレーシア的なものの考え方をするその女性」と、日本から来たばかりで「そういうマレーシアに詳しい人達は何も知らない自分を助けてくれるはずだ」と勝手に信じていた依存心が強く、自立心が欠如している女性とのすれ違いだと思った)
海外で、日本人が狭い日本人社会から排除されるって、「死刑宣告」と同じなのがわかっているんですかね。気の合う仲間だけで固まって「私達は助け合って海外生活を送っています」なんてのは大嘘でしょ。「同胞の落ちこぼれは絶対に出さない。助ける」というのが海外で住む人たちのお約束だと私は思うのだけれど(ゴールドコーストではそれが普通だった)、それがマレーシアに無いのは「ロングステイで気軽に遊びにきているから」だと私は想像しています。人生を楽しむ為に来ているのだから、ややこしいことに関係したくないのは理解できる。
結局ですね、話は元に戻りますが、これと同じようなことがどこでも普通に起きているんですね。
「ちょっと変わっている」というだけで排斥される。変人だと言われる。私がそれでした。(笑)
でも本当にもっと変わっている人っているし、病気の人もいて、本来は手を差し伸べる必要があるのに、「あいつは無視しろ」「距離を置け」ってなるのが世の中の常。でもそれはそれで良い部分もあって、「皆と協調する大事さを理解する」のは「村八分になる恐怖から生まれる」のかもしれない。ま、日本はそういうプレッシャーを掛けるのが上手い社会で、「出る杭は打たれる」し「障害者も軽視される」社会。そういう面倒くさい日本が嫌で海外に出る人も多いけれど、海外には日本以上に強烈な【日本人ムラ社会】が待っているのが普通。だから海外に出ても日本人とは一切付き合わないという人もかなり多い。私は違うけれど。(笑)
こういう社会で「一人で生きる」のは簡単じゃないんですね。まず「自分がきっとおかしいのだ。悪いのだ」と思って「社会や環境に合わそうと努力する」のが普通じゃないでしょうか。変人扱いされればそれを治す、病気があるならそれを治す、障害があるなら、障害があっても生きていける術を探す。
でもそれも断念するしかないと思う時もあるんですね。そしてそれの先には「自分はこの世にいないほうが良い」という結論が待っている。
でも死にたいと思っても死ぬのって簡単じゃなくて、でも死にたいという思いが長く続くと病的なことも考えるようになるのね。仲間が欲しい、そして自分に関係なくても道連れが欲しいとまで考えるようになる。孤独を乗り越えられない場合、関係のない道連れでさえも「自分の仲間」と思ってしまう病的で恐ろしい事が起きる。当然、そう心では思ってもそれを実行する人は極々少数派で、多くは自分を責めて暗黒の世界に埋没して行くんでしょう。
だからなんなんだよって思うでしょう。当然、そういう人たちを擁護するべきではないし、勝手に一人で死ねばいいじゃないかと思うのもわかる。
でもね、私には絶対にこれは間違いがないと思うことが一つあるんですよ。
この広い世界に、たった一人、たった一人だけでも「自分のことを真剣に考えてくれる人がいる」のがわかれば、「孤独の恐怖」からは逃れられるのね。
「勝手に死ね」「あいつに近寄るな」「排除しろ」という声がどんなに大きく、それが大多数だとしても、「わかり合える友が一人でもいれば」それだけで孤独から開放される。死のうと思う気持ちから開放され、生きようと思う意思が生まれる。これは間違いがないと私は確信があるんですよ。
でもそのたった一人の理解者もいない場合は、奈落の底まで気持ちは落ち込んでいくし、善悪なんてこともどうでもよくなって、まさに地獄に向かってまっしぐら。
もし海の孤島に自分ひとり取り残されても、自分には「待っていてくれる人」がいると確信できれば希望を捨てずに生きていける。ところが大都会の真ん中で、周りにいる多くの人たちを見た時に、「ここには自分を理解してくれる人は一人もいない」ことに気がついたときにはとんでもなく耐えられない孤独と恐怖を感じるはず。
孤独とは一人の時に感じることではなくて、大勢の中で感じること。そして、もし体の具合が悪くて倒れれば、助けてくれる人もいるだろうけれど、孤独で辛くて気が狂いそうでもそれは誰にもわからない。気が付かない。気にもとめない。「孤独で気が狂いそうです。助けてください」なんてことを言えば、人は驚いて逃げていくだけ。そんなことはわかりきっているから何も言わないのが普通で、どんどん自分の中に沈んでいく。そして「(まともな)自分を演じながら生きる」ようになる。
そんな経験は誰しもあるさ、という人も多いでしょう。そして自分は努力して立ち直ったと。自殺だの、道連れだの、そんなことを考えるのではなくて、そういう自分から立ち直ってまともになる努力が大切なんだよと。
そんな教科書みたいなことは誰だってわかっているのね。でも立ち直れない人、立ち直っても一生その波が何度も来て悩む人、って世の中にはとんでもない数の人たちがいるんじゃないですかね。ある意味、そういう人たちは「自殺」「道連れを連れて自殺」の予備軍かもしれない。
こういう人たちに取っては「ば〜〜か、勝手に死ね!」という言葉こそが、救いのない絶望に追い込む。うつ病の人に「頑張れ!」は禁句なのと同じ。
ああいう大事件を起こす前に、病的になるまえに、どうやったら彼らを孤独や疎外感、自信喪失から救うことが出来るのか。
それを社会が、家族が、友人知人が考えるべきことだと私は思うんですよ。病いは「身体」だけじゃなくて「精神」にも起きるのに、精神的な病いは放置、無視、排除する社会っておかしくないですかね。
ところが今の社会は「無視しろ」「排除しろ」でしょ。これじゃ、追い詰められた人は「世の中に仕返しをしてやろう」と考えるようになってもおかしくないと私は思う。しつこい様だけれど、だからといって犯した罪は罪で、許されるわけもないのは当たり前のこと。
これって私は「イジメの構造」と似たようなものがあると思うんですよ。世間一般は「被害者だけ」は気になって心を寄せる。でも「いじめっ子」をどうするべきかは真剣に考えない。とにかく「排除する」、「罰を与えるだけ」っておかしくないか?これって「おかしなやつは村八分にすれば良い」のと同じ考え方でしょ。「臭いものには蓋をする」ことで解決なんかするわけがないのに、その方向にまっしぐらな今の日本を私は強く感じています。
日本ほど「本音と建前」が別れている国って私は他に知らないのだけれど、「建前だけ繕う社会」の行く末ってとんでもない社会になると思う。日本の政界や経済界、学会もその傾向が非常に強いと思っています。「おもてなし」も良くてそれを絶賛する外国人も多いけれど、他国の人たちは「日本人のおもてなし(や笑顔)の裏にあるもの」には気がついていないんだろうなと思ったり。
「他人に迷惑をかけるな」というのは日本の伝統、文化だと思うけれど、それは「表の話」であって、「他人を助ける」のも同じ日本の伝統、文化のはず。でも最近は「他人に迷惑をかけるな」という表面的なことばかりが重視され、もっと大事なことが軽視されていると感じています。
ちなみに我が家は「他人に迷惑をかけるな」と子どもたちを育てませんでした。多分、一度も言ったことがないはず。でも「人は迷惑を掛け合い、助け合って生きるものだ。迷惑をかける事を恐れるな。そして迷惑を掛けられても助けろ」と育てました。変わってるでしょ?でもこれって親子関係、夫婦関係、友人関係もそうで、それが真理だし、日本人が昔から持つ「美徳」だと思っている私。(笑)
そもそも「他人に迷惑がかかるか、かからないか」という判断基準って随分、安っぽいなぁと思うんですよ。「迷惑がかからなければ何でもOK」ってことになる。
私が昔から好きな言葉に「お天道様はお見通し」と言う言葉があります。神を信じるとか信じない、どの宗教?どの宗派?とか、神はいるのかいないのかなんてことはどうでもよくて、ただただ、良いことも悪いことも「お天道様はお見通し」なんだと。そして私はお天道様と仲良くしたいし、いつもお天道さまの笑顔を見ていたいと思うだけ。
今風の「人権」だの「個人情報」がどうだのと激しく拘る人、論理性が何よりも重要だと考える人(うちの息子がそれ 笑)には理解不能でしょ?
こんなことを考え、平気でブログに書くダボってのも随分、変わっていて危ないやつだと思う? ま、そう思うのが普通。私は慣れています。(笑)
あ、そうそう。もし今、思いつめている方がいらっしゃったら「死んだつもりになる」ってのをお薦めしたいなぁ。自分の悩みって「強い欲望と恐怖」に囚われているから起きるのであって、それを一度断ち切ってみるのも一つの手。自分が自分であるのはその「欲望や願望があるから」「本能に根ざしている」みたいな気がするけれど、それは大いなる勘違いだと思うんですよ。思い込みと言うべきか。
でもその根源の「欲望・願望と恐怖」を断ち切ることってやろうと思えば出来るし、時間がかかるかもしれないけれど「死んだつもりで自分を放り出すこと」で可能なはず。「自分」と「自分の思い」を切り離すことは絶対に出来る。死ぬことを考えるくらいなら、まず自分の思いだけ殺すことを考えても良いと思う。
それが出来た時に、「なんで自分は悩んでいたんだ?」みたいにすっきりして、青い空が美しく、そよぐ風が気持ちよく、野に咲く花の美しさが見えてくるはず。
そしてですね、自分がそれまで悩みに悩みぬいた生き方ってのが「自分の武器になる」ってことなんですよ。ここが重要。あの頃の苦悩に比べたら、世の中で起きていることなんか、全部、楽勝、オママゴトに見えてくるはず。
世の中の大多数の人が「一人で死ねよ」と言うとしても、私は言いたい。絶対に死ぬな!!!と。
死にたくなったらマレーシアまでおいで〜。まずは一緒に酒でも飲もうぜ〜。遠慮は無用。  
「一人で死ね」論争の過熱、”悪者探し”が連鎖する空気が辛い 6/6
登戸児童殺傷事件のショックが消えない中、その4日後となる6月1日には元農林水産事務次官の熊沢英昭容疑者が長男を殺害するという事件も起きてしまいました。
子どもの安全をいかに守るか、また中高年の引きこもりといった社会問題が取り沙汰される中、一連のニュースについてコメントした芸能人や問題提起をした人に対して次から次へと批判が起こる事態が続いています。
スクールバスを待っていた罪もない子どもたちや保護者を、51歳の男が襲った登戸児童殺害事件。その残酷さから多くの人が被害者や遺族に対して哀悼の意を示しています。また、やりきれない怒りから、自殺した犯人に対して「自殺するくらいなら一人で死んでほしい」という声も殺到しました。
この声に対し、次の凶行を生まないためにという思いを込めて、NPOほっとプラス代表理事の藤田孝典さんが異を唱えたことから「一人で死ねよ」論争が過激化。今なお、藤田さんに対する批判も多く見受けられます。
一方で、同事件を扱ったワイドショー「ひるおび」(TBS)で立川志らくさんが「どうやって子どもを守ったらいい。死にたいなら他人を巻き込まずに1人で死んでくれよ」と、「ワイドナショー」(フジテレビ)では松本人志さんが犯人に対して「人間が生まれてくる中で何万個に1個出てくる不良品。そういう人同士でやり合ってほしい」とそれぞれコメント。
すると、ネット上には「日本の自殺者は1日55人。あなたの望み通り、今日も明日も他人を巻き込まずに1人で自殺する人はいますよ!」「そんなことを言うあなたこそが不良品」と、それぞれに対する厳しい批判の声が上がりました。
このように事件から1週間以上を経てもなお、事件や犯人に対する著名人の意見も、その著名人に対する批判も、とかく激しく攻撃的な言葉が飛び交い続けています。
テレビで著名人が不適切な発言をした場合、その影響力の大きさを考慮して待ったをかけることは大切なことではあります。また、登戸の事件については「引きこもり=悪」と一方的に決めつけるかのようなメディアの報じ方についても、多くの人が「マスゴミ!」というネットスラングを用いて異を唱えています。
「それは間違っているのではないか」「こうすべきだろう」という意見が飛び交うのは、社会全体が解決策を模索し、前を進もうとしている証拠だと言えるでしょう。
しかし一方で、自殺したことで犯人は生き続けて罪を償うことができず、今後同じような事件が起きないように解明したい動機を知るすべも閉ざされてしまいました。そのためか、被害者や遺族だけでなく、多くの人が怒りや悔しさや悲しさを悶々と抱え続ける結果に。
次から次へと批判の矛先が変化していく今の流れは、事件に対するやりきれない思いをぶつける標的を、社会全体で探しているようにも思えます。そして、この犯人以外の“悪者探し”が延々と続く空気に、精神的に消耗してしまうのは筆者だけではないでしょう。
登戸の事件に関連したさまざまな問題は、突き詰めて考えれば考えるほど「殺傷事件を起こすような人を生み出さない社会にしていかなければいけない」「この世界には死ぬべき人などいない」といった漠然とした理想論やきれいごとしか言えなくなる無力さを感じてしまうのも事実です。
あまりに辛く悲しい事件のために皆が考えなくてはいけないことが多いものの、答えや解決策が出ないことも多すぎる。こうした社会全体でもがき苦しんでいる閉塞感もまた、批判できる“悪者”を見つけて何かを納得したい大衆心理を引き起こす要因なのかもしれません。
批判の矛先が次から次へと変わり、攻撃的な声が飛び交う時こそ、それは悲劇を生まないためにできることや社会をよくしていくための前向きな議論なのか、やり切れない怒りをぶつけるための“悪者探し”なのかを、立ち止まって考えるタイミングを持つことも大切なのではないかと思います。 
「死ぬなら一人で死ね」論争に思うこと
川崎殺傷事件で亡くなられたお二人に、心から哀悼の意を表するとともに、心身に傷を負われた方々の回復をお祈りします。また、何よりも被害者の方々を第一に考えた行動がなされ、メディア報道などによる被害の拡大が起こらないことを願います。
ご存じの方もいらっしゃるかもしれない。川崎市で20人もの人々が殺傷された「川崎殺傷事件」を受け、ネット上で飛び交い、論争を巻き起こしている言葉がある。それは、
「死ぬなら一人で死ね」
この言葉について、論争の発端となったのはこの記事。そしてタイトルにある『「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい』という言葉だ。この藤田孝典氏の記事を受け、「死ぬなら一人で死ね」という言葉を使うことの是非について、賛否両論入り混じった論争が展開されている。
「迷惑をかけるなと言うことは当然だろう」「社会は手を差し伸べるという姿勢が見えないと、人は絶望する」…等々。
賛と否のいずれについても、様々な立場からの意見が飛び交っていて、着地点など見えそうもない。それだけ、この事件のインパクトが大きく、この言葉から感じるものが多いということなのだろう。
「死ぬなら一人で死ね」は圧倒的に正しいけれど
1.「死ぬなら一人で死ね」。
自殺したいなら、他人を巻き込まないでください。そもそも人を殺さないでください。
全くその通りで、同意する。この言葉は圧倒的に正しい。とてもとても、当たり前のことを言っている。
この言葉を怒りの意思表示として使うぶんには、私は、そんなに問題だと思わない。事件の犯人に対しては、当然に、向けられる言葉であると思う。
しかし私は、この言葉を誰にでも向けることはあってほしくない、と思っている。なぜ私がそう考えるか、ここに少し書きたい。
2.いま、「死ぬなら一人で死ね」を”私へのメッセージ”として受け取る人がいると考えてほしい。その受取人にとって、このメッセージは結局「死ね」と同じではないだろうか?
「死ね」にくっついている、「死ぬなら一人で」は、圧倒的に正しい。しかし圧倒的に正しいとは、「当たり前」と全く同じ意味だ。当たり前を言われたところで、感じるものがないとしても当然だ。
しかし「死ね」は、最低の全否定の言葉だ。前置きをくっつけて「死にたいなら、死ね」にしても、この「死ね」がある以上、自分への全否定に変わりはない。「生きろ」とは一言も言っていないし、「結論『死ね』」でしかない。
したがって、「死ぬなら一人で」と「死ね」をくっつけても、メッセージとしては「死ね」にしかならないのだ。黒色に他の色を混ぜても、黒が勝つのと同じように。
この「死ぬなら一人で死ね」という言葉。圧倒的に正しいが、受け取ってしまう人には「死ね」というメッセージになる言葉。
だからこそ、受け取ってしまう人が居ない場所で言ってほしいと思う。
否定され、自己否定が始まり、無力感に陥る。そして人は、本当に無力になる。
1.何だか、ちょっと言葉狩りっぽくなってしまったかな、とも思う。また、この論争には非常に多くの人が参加しているため、そこに足を踏み入れるのは怖くもある。
しかし私のひきこもり経験を思い返すと、どうしても口を挟みたくなる。
2.かつて私が深刻なひきこもり状態にあったとき、リアルの人間から認められることはほとんどなかった。当然、ネット空間につながりを求めることになった。
そしてネットには、ひきこもりやニートや無職を叩く言葉が乱舞していた。彼らが認められることなど皆無。それどころか「普通」と扱われることも皆無。
私個人について言うと、いくつかの場所で認められることがあった。ゲーム配信を観に来た外国人のコメントを簡単な日本語に訳して、日本人と外国人のコミュニケーションを助けた時には、お褒めの言葉をいただいた。数学も同様で、問題が分からない人に解答解説を返し、感謝されたこともあった。
今にして思うと、結構「いいこと」をしていたと思う。
それでも、自分はいただいたお褒めに値するかという疑いを捨てられない。「お褒め」を1回受けても、「ひきこもりを叩く言葉」が数百回降り注げば、自己肯定感はゼロに戻ってしまう。いとも簡単に。
そんなことが続いて、「自分は働かざる者で、食うべからずな者だ」という認識を6年持ち続けることになってしまった。感覚ではなく、認識という確固たるものを持ってしまっていた。今にして思えば病的だと思う。
3.「否定に晒され続ければ、いつかは本当に無力になる」。ひきこもり経験から得た、私の悲しい確信。※心理学の側面から考えたい人は、「学習性無力感」という言葉を調べてほしい。
この「死ぬなら一人で死ね」は完全な否定で、人に無力感を味わわせる言葉。相手に投げ続ければ、本当に相手を無力にする。だからこそ、人に向かって投げてほしくはない。人に向かって投げないのなら良いのだが…。
次章では、その「人に向かって投げない」が困難な状況になっていることを、お話ししたい。とても残念なことだが。
「死ぬなら一人で死ね」は、川崎殺傷事件を超えてしまった
1.正しさ&感情 VS メッセージ性&意味。
「死ぬなら一人で死ね」論争は、このような対立構造になっていると感じる。私はひきこもった経験上、右の立場に立ちたいという気持ちが強い。
しかしそれに関係なく、この場に置いておきたいことがある。
「『死ぬなら一人で死ね』は、ネット上のあちこちで見られる言葉になった」「『死ぬなら一人で死ね』は、事件の犯人だけに使われる言葉ではなくなった」
これは肯定派や否定派のせいではなく、論争がこの状況を作ったということだろう。
多くの人が使うから、見たくなくても見てしまう言葉になった。論が広がり・深まることで、殺傷事件の犯人だけに使われる言葉ではなくなった。
2.twitter、SNS、ブログ、匿名掲示板。そこでは「死ぬなら一人で死ね」への賛否だけでなく、意見、論考、そして単なる罵詈雑言、も見られる。
もはや、「死ぬなら一人で死ね」はただの言葉ではない。賛否や是非を超えて、時にはグサっと刺さる言葉になった。メッセージ性を持った。
もし死を考えるほど悩む人がいたなら、彼がこの言葉を見るたび、彼は「死ね」を突き付けられる。そんな状況になっている。
冒頭の記事を書いた藤田孝典氏は、記事内でこう述べている。
「社会全体でこれ以上、凶行が繰り返されないように、他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい。」※『川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい』より引用。2019年6月2日閲覧。
私はこれに、「無力感を感じている多くの人達が、さらに無力感の上塗りをする事態に陥らないように、他者への(以下略)」も付け加えたい。
3.ひきこもり当事者・経験者を含む、生きづらさを抱える人たち。彼らの大多数は、間違いなく、凶行に走るような存在ではない。
悩み苦しむ者も、控えめに言って、少なくないだろう。いま死を意識している者もいることだろう。
しかし、事件を超えて拡散した「死ぬなら一人で死ね」に彼らが傷つく事態は、もう起こっているだろうと思う。残念なことに。そして、今のような勢いでこの言葉が飛び交う間は、そんな事態があちこちで起こるのだろう。
それが避けられないのなら。せめて「死ぬなら一人で死ね」を発する者が、凶行に走ることのない者たちにこの言葉を向けないことを、祈りたい。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
 

 

 原宿竹下通り殺傷事件   
 
原宿竹下通り無差別殺傷事件
 2019/1/1
 
原宿竹下通り暴走男、無差別大量殺人を計画か… 1/4
元日の未明、東京・原宿の竹下通りで車が暴走し、8人が重軽傷を負った事件で、逮捕された21歳の日下部和博容疑者は、取り調べに対して「殺そうと思い、通行人をはねた」と容疑を認めている。また、竹下通りを140メートル暴走していた間、「アクセルを踏み続けた」とも供述している。
さらに、車の後部座席から灯油およそ20リットルが入ったポリタンクと高圧洗浄機が見つかったうえ、日下部容疑者の体からは灯油の臭いがしたという。おまけに、現場前の店舗に灯油がまかれており、日下部容疑者は「灯油で車ごと燃やそうと思った」と供述している。
一連の報道から、日下部容疑者は無差別大量殺人をもくろんでいた可能性が高い。しかも、自分の体にも灯油をまいた形跡があるので、赤の他人を巻き添えにして「拡大自殺」を図ろうとしたとも考えられる。
怖いのは、衝動的な犯行とは考えにくいことである。というのも、日下部容疑者は12月28日ごろレンタカーを借りており、31日昼ごろには上京していたらしく、「明治神宮に入ろうとしたが、規制がかかって入れなかったので、近くで待機していた」と話しているからだ。そのうえ、「上野でも事件を起こそうと思った」と供述しているので、多数の人々の殺害をねらった計画的な犯行の可能性が高い。
日下部容疑者のように無差別大量殺人をもくろむ人の胸中には、しばしば強い絶望感と復讐願望が潜んでいる。絶望感が芽生えるのは、長年欲求不満を抱いており、社会的にも心理的にも孤立しているからだ。
欲求不満の原因として私が注目するのは、日下部容疑者が高校に進学したときにトラブルがあって引きこもるようになり、その後家庭内暴力が始まって、警察が家に来たことである。両親との折り合いが悪く、祖母宅に預けられたとも報じられている。親子の軋轢から家庭内で孤立し、祖母の家で生活するようになったという点では、昨年6月に走行中の東海道新幹線内で殺傷事件を起こした小島一朗容疑者と共通している。もしかしたら、あの事件に触発されて、今回の犯行を思いついたのかもしれない。 困ったことに、欲求不満が強いほど、その原因を他人や環境に求める他責的傾向も強くなる。平たくいえば、「自分の人生がうまくいかないのは、他の誰かのせい。環境が悪いせい」などと考えやすいわけで、秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大死刑囚の「親のせい」「社会が悪い」という供述が典型である。
もちろん、誰でも社会の中で他人と関わり合いながら生きているのだから、不本意な人生を送らざるをえない原因の何割かは他人や環境にあるだろう。しかし、すべてを他人や環境のせいにできるわけではない。原因の何割かは自分自身にもあるはずだが、他責的な人は、それを認められない。自分の能力や努力が足りないとか、協調性や忍耐力が欠けているということを受け入れられないからだ。このような傾向は、自己愛に比例して強くなる。
当然激しい怒りを抱く。そこに、「破滅的な喪失」と本人が受け止めるような出来事が起きると、強い復讐願望が芽生える。「破滅的な喪失」とは、本人が「もうダメだ。自分の人生はもう終わりだ」と絶望するような出来事である。
加藤死刑囚にとって「破滅的な喪失」となったと考えられるのは、職場で「おれのツナギがないぞ」と怒って途中退社したことだ。この出来事については、彼自身が「事件の引き金だった」と供述している。ただ、その数日前に契約解除の通告を受けていたことが伏線としてある。このように、失敗や失業、別離や離婚などの喪失体験を「破滅的な喪失」と受け止めることが多い。
「破滅的な喪失」が引き金となって、無差別大量殺人に走るわけだが、見逃せないのは、その後押しをするのが自殺願望ということだ。この自殺願望は、「破滅的な喪失」によって一層強まった絶望感から生まれる。
それでは、自殺したいのなら、なぜ1人でおとなしく死なないのか? これは強い復讐願望による。復讐願望が強いと、「1人でおとなしく死んだら敗北者。誰でもいいから巻き添えにして最後に打ち上げ花火を上げたい」という心理が働くからである。
日下部容疑者も、復讐願望が強いからこそ、無差別大量殺人をもくろんだのだろうが、その胸中には強い怒りと欲求不満が潜んでいたはずだ。したがって、何に対して怒りと欲求不満を抱いていたのか、他責的傾向はどの程度強かったのか、どのような出来事を「破滅的な喪失」と受け止めたのか、本当は誰に対して復讐したかったのか、などについて今後の取り調べで明らかにすべきである。 
原宿暴走の男「明治神宮狙った」浮かぶ計画性、強い殺意か 1/4
東京・原宿の竹下通りで軽乗用車が暴走し、歩行者の男性8人がはねられ重軽傷を負った事件で、警視庁に殺人未遂容疑で逮捕された職業不詳、日下部(くさかべ)和博容疑者(21)の車に積まれていた高圧洗浄機に着火装置が取り付けられていたことが4日、捜査関係者への取材で分かった。捜査1課は灯油に着火させて噴霧し、不特定多数の殺傷を狙ったとみて捜査。いずれも事件数日前に購入したと説明しており、計画性と殺意が浮かぶが、計画が早期に破綻するなど犯行のずさんさも垣間見える。
捜査関係者によると、着火装置は高圧洗浄機の液体を噴霧するノズルの先端部分に、布製とみられる銀色のテープで何重にもまかれた状態で固定されていた。
日下部容疑者は「明治神宮の人混みを狙った。高圧洗浄機で灯油をまき、火をつけようとした」などと供述。高圧洗浄機などに関しては事件数日前の昨年12月下旬ごろ、大阪府内の店舗やインターネットの通信販売サイトなどで調達したと説明しているといい、同課が裏付けを進めている。
日下部容疑者は12月28日、当時生活していた大阪府寝屋川市にあるレンタカー店で軽乗用車を予約。30日に借りて31日早朝に大阪を出発した。同日昼過ぎには渋谷付近で高速を降り、明治神宮に向かったが、交通規制で接近を断念。明治神宮周辺を走行するなどしながら犯行の機会をうかがっていたとされる。
その間、車の中で高圧洗浄機に灯油を入れようとしたが失敗し、「うまくいかず灯油をかぶってしまった」と供述。噴霧、着火する当初の計画から、車を暴走させる手口に変更したとみられ、実行場所に選ばれたのが明治神宮から近い竹下通りだった。
日下部容疑者の車は1月1日午前0時過ぎ、明治通りを右折して竹下通りに進入。4カ所で歩行者計8人を後ろからはねており、衝撃で数メートル飛ばされた人もいた。日下部容疑者は「アクセルを踏み続けた」と供述し、現場にブレーキ痕は残っていないため、捜査1課はかなりの速度が出ていたとみて解析を進めている。
過去に都内の外国語専門学校に通学した時期があり、東京に土地勘があったという日下部容疑者。「人の多い東京と大阪が標的だった」と話し、強い殺意を持って大量・無差別の犯行を計画していたとみられるが、詳しい背景や経緯は明らかになっていない。
日下部容疑者は当初、「オウムの死刑に抗議する」などと説明。供述などから、学生時代から死刑制度に反感を持つようになったとみられる一方、オウム真理教など特定団体との関係は確認されていない。同課はパソコンを押収するなどして解析を進め、詳しい動機を調べている。 
原宿竹下通り無差別殺傷計画 1/17
原宿竹下通り暴走「元旦テロリスト」に化けたイカレ男の履歴書
年が明けてわずか10分後に原宿の竹下通りで次々と人をはねた男は、「火炎放射器」を使っての無差別殺傷計画を立てていた――。事件を起こす前から、その奇行を心配する声が周囲で上がっていた日下部和博容疑者(21)。イカレ男の凶行は、なぜ未然に防げなかったのか。
「テロ事案発生!」。慌ただしいやり取りが警察無線で交わされたのは、年が明けてすぐのことである。概要を把握した警察庁幹部が抱いた感想はこうだ。
“やられた”――。
「平成最後の年越しを祝うカウントダウンイベントが行われた渋谷駅周辺には厳重な警備体制が敷かれていましたが、毎年、初詣客でごった返す明治神宮周辺は例年通りの体制。その近くの原宿・竹下通りに車で突っ込んだということで、警察当局は当初、“ローンウルフ型の一人テロリストに警備体制のスキを突かれた”と、かなり緊迫した雰囲気に包まれていました」(捜査関係者)
事件後、警視庁公安部の幹部が相次いで原宿署を訪れたことからも、いかに当局が事態を深刻に捉えていたかが分かる。しかし、そうした雰囲気は時間が経つにつれて薄れていったという。理由は単純明快。犯人の日下部和博容疑者が取り調べの場で意味不明の供述をするなど、“おかしな奴”だということが徐々に明らかになってきたからだ。
日下部容疑者が運転するレンタカーが明治通りを右折して竹下通りに侵入したのは年が明けたばかりの1日午前0時10分頃。車は歩行者の男性8人を背後から次々とはね、通り沿いのビルに衝突して停止。車を降りた日下部容疑者は通行人を殴った上で逃走したが、その約20分後、身柄を確保された。はねられた8人のうち、19歳の大学生は左硬膜下血腫で意識不明の重体。他に4人が頭部骨折などの重傷を負った。
身柄確保の際、日下部容疑者の体からは灯油の臭いがしたという。さらに、
「車の後部座席には灯油20リットルが入ったポリタンクと、ケルヒャー製の高圧洗浄機がありました」と、社会部デスク。
「洗浄機のノズルの先端には点火用の器具が粘着テープで取り付けられており、日下部は“火炎放射器にして人を燃やそうとした”と供述しています。しかし、事件前の31日午後11時頃、明治神宮近くの路上に停めた車内で洗浄機で灯油を吸い上げて噴射しようとしたが、うまくいかず、自分の体にかかってしまった。で、車で突っ込むという方法に変更したのです」
「火炎放射器」で初詣客を次々と焼く。それが実行に移されていたらどうなっていたのか。考えると戦慄せざるを得ないのだ。一方、
「なぜ無差別殺傷事件を計画したのかという動機はまだ分かっていません。本人は“死刑制度に反対するためにやった”などと話しているものの、その場の思い付きで喋っているような感じで信用できない。いずれにせよ、思想的な背景はないと見られています」(同)
家から爆発音
ちなみに今回の事件は直接的な被害者だけではなく、“間接被害”も招いている。
「事件の翌日、原宿署交通課の警部補が署内で拳銃自殺したことはすでに報道されていますが、この警部補はまさに事件当夜、竹下通りの明治通り側の交通規制を担当しており、日下部の車が侵入するのを見ていたと思われるのです」
警視庁関係者はそう語る。
「ただ、本人がそのこと自体に悩んでいた様子はない。自殺の直接の要因は、事件前からずっと続いていた上司のパワハラ。今回の事件についても“なんで見逃したのか”と叱責されたようで、それが最終的な引き金になったと見られます」
凶行に及んだ日下部容疑者は大阪府枚方市出身。ここ1年ほどは寝屋川市で祖母と2人暮らしだった。その家の近所の住人が記憶しているのは、彼の奇行の数々だ。
「家の中で昼夜問わず、ワーッとかカーッとかいう奇声を発していました。人をわざと驚かせるような声で、それも突然発せられるのです。あと、これは日中が多かったですが、いきなり、パーンって爆発音が1発だけ聞こえてくる。それが爆竹かなにかの音だったのか、よく分かりませんが」
寝屋川市の家の近隣住人はそう振り返る。
小学生にマシンガン
枚方市にある実家の近所の住人によると、
「昨年の夏頃のことです。主人と2人で犬の散歩をしている時、あの家の塀の前で犬がおしっこをしてしまったので、水をかけて流してその場をあとにしたのですが、“おいおい!”という大きな声が聞こえてきたのです」
大声の主は、日下部容疑者であった。
「自分の家の前に着いたあたりだったのですが、あの子は自転車でやってきた。何と言っていたのかは忘れてしまいましたが、映画で見たことのあるヤクザみたいな感じで、すごい怒り方をしていました。それで主人とケンカになりそうになったので、私が止めに入って事を収めました」(同)
時に、近所の子供までもが日下部容疑者のターゲットになっていたという。
先の社会部デスクの話。
「枚方の家の前は小学校の通学路になっており、ある時、小学生たちが日下部に窓からマシンガンのようなものを向けられたことがあった。当然、みんな走って逃げたといいます。このことが学校でも問題になり、教師が日下部の家を訪問したそうです」
なにゆえ彼は奇行に走るようになったのか。大きな転機になったと思しき出来事が二つある。一つは父親の死。もう一つは、進学における挫折である。 
元旦に男が原宿で無差別殺傷を狙った事件の気になるその後 1/31
いささか気になるのは、平成最後の元旦のカウントダウン直後に原宿に車で突っ込んで無差別殺傷事件を起こそうとした男と事件の成り行きだ。その後、あまり報道がなされないので忘れてしまった人もいるかもしれないが、この事件は一歩間違えると大惨事になっていた可能性が極めて高い。初詣客でごった返す明治神宮で灯油に火をつけて噴霧しようとして失敗し、原宿竹下通りに車で突っ込むという凄惨な事件だった。
平成時代は宮崎勤死刑囚(既に執行)の連続幼女殺害事件で幕開け、そしてこの無差別殺傷事件で幕を閉じる。これは極めて象徴的なのだが、気になるのは原宿の事件の今後の展開だ。
なぜ報道が縮小しているかといえば、逮捕された男性は1月16日から鑑定留置となった。そこで精神鑑定が行われるのだが、なんらかの精神的疾患の疑いがあるので、刑事責任能力なしで、不起訴となる恐れがある。事件直後は実名顔写真報道だったが、責任能力なしとなると、報道そのものがパタッとなくなってしまう。現時点で既に報道がなされなくなりつつあるのは、そのことへの配慮が働き始めているからだろう。
なぜ報道されなくなるかというと、精神的疾患と犯罪を連関させて報道されると、その病気に対する偏見を助長し、差別を増幅する恐れがあるからだ。この判断は間違っていないし、そういう配慮は必要だと思う。ただ以前から疑問を感じるのは、報道そのものがなくなり、事件が封印されてしまうという今のあり方だ。本当にそれでよいのだろうかと思う。仮に何らかの精神的疾患が原因だったとしても、事件に時代や社会が映し出されている可能性はあるし、差別を増幅しないように工夫して報道することだってできると思うのだ。むしろ封印してしまうことの方が、ある意味で差別意識の裏返しであるような気もしないではない。
この間、この容疑者の報道を比較的詳細に行ったのは『週刊新潮』1月17日号だ。見出しが「放置したから『元旦テロリスト』に化けたイカレ男の履歴書」だ。「放置したから」という表現にも見られるように、同誌は、こういう人物を人権的配慮ゆえに放置しておいてよいのかというキャンペーンを、この種の事件ではいつも展開する。そういう人権派叩きの角度からの報道だけなされ、人権尊重派と目される媒体がいっさい黙ってしまうという、この構図は全く不幸なことだと言わなければならない。
昨年11月頃から、私は「平成を振り返る」ふうの幾つかのマスコミの企画の取材を受けた。私が12年間、密に関わった連続幼女殺害事件についての取材も幾つかあったため、久々にこの事件についても考える機会があった。
あの事件は単に昭和から平成の変わり目に起きたというだけでなく、いろいろな意味で時代を反映していたと思う。そもそも1989年2月に宮崎元死刑囚が殺害した女児の遺骨を被害者宅に届けたことで「劇場犯罪」として大きな注目を受けることになったのだが、宮崎自身はどうしてそんな危険を冒したのかについて精神鑑定で聞かれ、昭和天皇のニュースをテレビで見て、女児にも葬式をさせてやりたいと思ったと述べている。事件の展開と天皇の代替わりは結構大きく結びついていたのだ。
平成の犯罪の特徴は、動機がよくわからず、精神鑑定が大きな意味を持つ凶悪事件が目につくようになったことだ。これは偶然ではなく、社会や価値観が複雑化したことを反映して犯罪が複雑になった現われだと思う。 
昭和というのは日本人全体がある種共通した社会的価値観を持っていた時代だった。努力すれば豊かになると言われたし、多くの国民が目標を持てた時代だった。ところが、平成に入ってから、バブル崩壊を経て、社会の基本的価値観が単一ないし単純ではなくなった。社会全体が豊かになるのでなく貧富の格差が増大した。それまで正義の味方と思われていた警察官や弁護士が犯罪に関わることが目につくようになった。
社会の価値観が昭和時代のようにシンプルでなくなり、社会全体に閉塞感や屈折が広がっていく。そうした時代には当然、犯罪も複雑にならざるをえない。社会に不条理が広がれば、社会を写す鏡である犯罪も不条理な要素を強めるというわけだ。その意味で、平成時代が宮崎事件で始まり、原宿事件で幕を閉じるのは象徴的な気がするのだ。
私が今関わっている相模原障害者殺傷事件など、平成の末期を象徴する極めて深刻な事件だと思う。社会の価値規範の変化や差別といったひずみが、この事件には大きな影を落としている。
平成時代を象徴するオウム事件にしても、「少年A」による神戸児童殺傷事件にしても、秋葉原無差別殺傷事件にしても、そう簡単に解明などできず、これまでの警察や司法の仕組みだけでは対応が難しいという印象は否めない。秋葉原無差別殺傷事件にしても、加藤智大死刑囚の刑が確定してケリがついたことになってはいるが、では果たしてあの事件を起こした動機がきちんと解明されたかというと、そんなことは全くない。
個人的動機が社会全体への復讐という形に結び付くのもそれらの犯罪の特徴で、池田小事件の宅間守死刑囚(既に執行)など、閉塞状況で自身が追いつめられたことへの反発が、明らかに社会への憎悪となり、社会に復讐して死んでやろうという意思が感じられる。
これも私が深く関わった「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人が言っていたが、自分が死んでしまおうと覚悟すれば「無敵の人」となり、最期に無差別殺傷事件を起こして死んでやろうという思考に結び付く。渡邊元被告は、その予備軍が社会にたくさんいる現実に目を向けるべきだと法廷で語ったのだった。
昨年6月、新幹線で起きた無差別殺傷事件の時にも、私はそういう話を書いて、これも時代を反映した事件だと指摘した。
考えてみれば最も怖ろしいのは、こうした事件がまだ1年も経っていないのに社会から忘れられていることだ。事件当初のみマスコミは大々的に報道するが、あっという間に忘れ去り、事件が風化していく。事件や出来事の消費のペースが限りなく早くなっているのだ。結果的に社会の側に何の対応もなされず、予防のための措置も講じられない。大事件の場合はその後、1年目と2年目といった節目にのみ報道するのだが、こういう節目報道もセレモニー化している感が否めない。
そうした事件報道のあり方と、精神鑑定の結果が出たとたんにパタッと報道そのものをやめてしまうという対応は明らかに通底している。
正月の原宿事件の展開を見ていると、またこの事件も封印されてしまうのかと何となく憂鬱な気分にならざるをえないのだ。 
 
原宿竹下通り殺傷事件・報道

 

原宿暴走犯、21歳の素顔は高校で引きこもり、家庭内暴力だった 2019/1/3
初詣でごった返す東京・原宿の竹下通りで1月1日未明、男性8人を軽乗用車で次々とはねるなどの殺人未遂容疑で逮捕された日下部(くさかべ)和博容疑者(21・住所、職業不詳)を警視庁は2日、送検した。
警視庁によると、はねられた8人のうち、東京都練馬区の男子大学生(19)が意識不明の重体、4人は重傷、3人が軽傷を負った。日下部容疑者の車は一方通行を100メートル以上逆走し、ビルに衝突。車に灯油を積んでいたという。
日下部容疑者は人を轢いたことに対し、「殺そうと思い、はね飛ばした。死刑制度に対する報復でやった」「車ごと燃やそうと思った」と供述している。
警視庁などによると、日下部容疑者が乗っていた軽乗用車はレンタカーで、事件前の2018年12月28日に大阪府内で予約されていたという。日下部容疑者は事件前日の同31日に東京都内に入り、現場周辺で待機して犯行の機会をうかがうなど計画的な犯行だったという。
日下部容疑者とは、どのような人物なのか?
東京に来る直前まで、大阪府寝屋川市に居住していたとされる。
「一度、首都圏の大学に進学するのと言って、大阪を離れたが、また戻ってきていた。実家は枚方市だが、両親と折り合いが悪くて、祖母の家に住んでいると聞いた。年末に家の前に車が止まっていた。事件を起こした車種と似ていたいと思います」(日下部容疑者の知人)
日下部容疑者の同級生はこう証言する。
「目立つタイプではなかった。けど、運動が好きでサッカーとか、マラソンでは成績がよかったです。サッカーでは、よく点を入れていた。休み時間でもよくボールを蹴っていた。性格はおとなしく、穏やかで、自分から話しかけたりするような奴じゃなかった。中学では、サッカーやっていたという話は聞かなかった。勉強はすごくできるタイプではなかったが、それなりにできたはず。ただ、高校に進学した時に、トラブルがあって引きこもるようになってしまったと聞いた。親に手を上げたりするので、警察が家にきたりして大変だったそうだ。それもあって、祖母宅に預けられるようになったそうです」
祖母宅の近所の住民はこう話す。
「日下部容疑者がこっちにやってきたのは、1年も経っていない。昨年夏頃からベランダで『ワー』とか『コラ』と吠えるように叫んでいた。ベランダからロケット花火や爆竹を鳴らして、意味不明なことを叫んでいた。普段は静かで挨拶もするのですが、スイッチが入るとどうにもできないようで、祖母らが困った様子で頭を下げていた」
動機について「死刑制度に対する報復」と供述した日下部容疑者。思想的な背景について前出の同級生はこう話す。
「ニュースを聞いてビックリした。オウム信者だ、テロとか言われているが、そんな政治的な思想があるようなヤツじゃない。宗教にのめり込んだなんて聞いたこともない」
捜査関係者はこう話す。
「オウム信者と言われているが、確認は取れていない。繰り返し言ってるのは、死刑制度廃止しろ、死刑反対のためにテロをしたなど理屈にならないことを言ってるそうだ。大学の法学部に行きたかったようだが、挫折して引きこもっていたらしい」
“元旦テロ”の本当の目的は何だったのか……。 
元旦の原宿暴走犯 火炎放射で大量殺人を計画 2019/1/5
1月1日、東京・原宿の繁華街に自動車で突っ込み、8人に重軽傷のケガを負わせ、殺人未遂容疑で逮捕された日下部和博容疑者(21)。犯行を、さらに拡大させようとしていたことがわかった。
現場近くで逮捕された時、日下部容疑者は「体が油臭くて、ぬめっている感じだった」(捜査関係者)
調べると、車には灯油や高圧洗浄機が搭載されていた。住まいのある大阪で、灯油や高圧洗浄機は購入していたとみられる。
「高圧洗浄機の先端には、粘着テープで着火装置を巻き付けていた。初詣で人出の多い場所で、灯油を高圧洗浄機で噴霧して、火を放とうとしたという趣旨の供述を繰り返している」(捜査関係者)
まさに、オウム真理教の大量殺人を思わせるような計画だった。原宿で計画が成功すれば、年始に人出が多い上野や大阪でも再度、実行するつもりだったとも供述しているという。
「ニュースを見ていると、計画性があって、さすがアイツだなと思った」
というのは、日下部容疑者の小学校、中学校の同級生だ。大阪で高校卒業後、千葉県に住み、新宿区高田馬場にある専門学校で外国語を学んでいた。だが、昨年から大阪に戻って、大学に通っていたそうだ。日下部容疑者を学校で教えたことがある関係者はこう話す。
「小学校時代は、クラスでもトップクラスの成績。下級生のころはほとんど満点でした。スポーツもできて、何でもできるような子でしたね。クラスメイトにも、勉強を教えるような優しい子だった。中学でも、そう成績が落ちることなかったはず。それに、勉強以外のこと、社会情勢だとか、政治にも詳しく、博学多才な感じ。ただ、中学生、高校生となり、だんだんオタク的な趣味になり、あまり外に出なくなったと聞いている」
先の同級生はこう話す。
「アイツなら、灯油を噴射するとか考えつく。それくらい、頭の回転はいい。けど、アイツが弱いのは自分より詳しい人とかに言い負かされたりすると機嫌が悪くなる。中学生の時も、高校生に『それは違う』とか言われて、ブチ切れて、突然、掴みかかろうとした。小学校の時も、違う意見をいう人に『何言うねん』と急に蹴りを入れようとしたこともあった。死刑制度が許せないと供述していると報じられていますが、そういう理屈っぽいのがアイツらしい。今回の犯行も、ブチ切れてしまったんだろうが、まさかここまでやると思わなかった。信じられない」 
竹下通り暴走男、転機は“父の死”と“進学の挫折”? 2019/1/17
年明け早々に原宿・竹下通りで起きた“暴走テロ”事件。8人に重軽傷を負わせた日下部和博容疑者(21)については、かねてから奇行が目撃されていた。ここ1年ほど祖父と2人暮らしをしていた大阪府寝屋川市の家の近隣住人は、昼夜問わず奇声が聞こえてきたと証言。枚方市の実家では、近所の子供に“マシンガンのようなもの”を向ける騒ぎを起こしていた。奇行に走るようになった背景には、父親の死と進学の挫折という、転機になったと思しき出来事があるのだ。
日下部容疑者は寝屋川市の隣にある枚方市の公立小、中学校を経て府立高校に進んだ。
「彼は子供の頃は地元のサッカークラブに入っていて、大人しくて物静かなタイプでしたが、変な子だという印象はない。昔はあんなに太っていなかったし、僕が知っていた頃の彼は、今回のような事件を起こすような奴ではなかった」 と、知人は語る。
「大学受験に失敗して、東京にある予備校のような学校に進んだと聞いています。そこは大学への3年次編入を目指す学校だったのですが、彼はうまく編入できずにその学校を辞め、こっちに戻ってきてお祖母ちゃんの家で暮らすようになったそうです」
不動産会社を経営していた父親が死亡したのは5年前のこと。
「精神を患った上で亡くなったようで、彼がおかしくなった原因もそこにあるのかもしれない」(別の知人)
父親の死からほどなくすると、日下部容疑者が育った枚方市の自宅に母親のパートナーと思しき男性が出入りするのが目撃されるようになった。東京での進学を諦めた彼がそちらではなく、寝屋川の祖母の家で暮らしていた背景には、そうした事情があったのだろう。
祖母の家で周囲にトラブルをまき散らしながら生活していた日下部容疑者が運転免許を取得したのは、昨年12月上旬。12月28日に大阪府内のレンタカー店で軽乗用車を予約。31日朝に寝屋川を出発して東名高速に乗り、昼過ぎには明治神宮付近に到着していた。
車で人ごみの中に突入し、無差別に人を傷つける――。同様の事件で人々が真っ先に頭に浮かべるのは、2008年に起こった、加藤智大による「秋葉原無差別殺傷事件」であろう。
「平成に入った頃から、個が重んじられる時代になり、それに伴って“自分はもっと幸せになれるはずだ”と鬱憤をため込み、ネットをその発散の場とする人が増えた。加藤智大の事件は、そうした欲求不満を抱える人たちに“こんなやり方があったのか!”と衝撃を与えるものでした」(評論家の唐沢俊一氏)
実際、自らの境遇や人生に不満を抱く犯人が公共の場で無差別に人を殺傷する事件は最近、毎年のように起こっている。昨年6月、東海道新幹線の車内で複数の乗客が無職の男にナタで襲われ、1人が命を落とした事件は記憶に新しい。
「個を大事にする教育が進むと、ある面では、他者への理解力が育たないままになってしまう。また、おかしな行動をとる人間がいても、“個人の自由”の範囲内ならば周囲は手を出すことが出来ない。こうした問題に向き合うには、まず自由や人権の意味を今一度考え直す必要がある」(同)
精神科医の片田珠美氏は、
「今回の容疑者は統合失調症を発病していた可能性があります。統合失調症は、幻覚や妄想などの病的体験が出現して、興奮した時には攻撃的になることもある。また、被害妄想があると、自分がやられるという恐怖や不安が非常に強く、自分を守るためにやり返さなければならないという論理が働いて自分の行動を正当化するのです」
そう分析するが、精神障害者の移送サービスを手掛けるトキワ精神保健事務所の押川剛氏も、
「今回の日下部容疑者については、明らかに何かしらの治療が必要であると感じます。その症状は、患者を強制的に入院させる措置入院が必要なレベルに達していたかもしれません」
とした上で、こう語る。
「明らかにおかしな行動をとる人間が周囲にいた場合、近隣住民はまず警察に通報すべきです。大切なのは、そうした異常行動を録画したりして証拠を揃え、警察に提示すること。そうすれば警察がその家を訪問し、保健所に繋ぐなど、対応をしてくれるはずです。一人でやるのが怖いなら、近隣のまとまった人数で団結して訴えると良いでしょう」
もっとも、集団でやるにしても逆恨みなどが怖くて行動に移せない場合が多いに違いない。
押川氏はこう訴える。
「多様化した社会の中で、おかしな行動をとる人間の人権も重んじられるようになり、精神科医療に繋ぎにくくなってしまっています。しかし、当事者の権利と同様に、被害者にも人権があることを忘れてはいけない。今は本人の同意が得られなければ医療に繋げなかったりするケースが多いですが、近年、こうした事件が増えていることからも、地域の保健所レベルでの対応に任されている現状を変え、政府が精神福祉医療の指針を示していくべきです」
自分や家族が今回のような事件に巻き込まれることは絶対にない――そう言い切れない社会に我々は生きている。 
7人はねた容疑で追送検 竹下通り暴走の男 2019/3/6
東京・原宿の竹下通りで元日未明、軽乗用車が暴走して歩行者8人をはねた事件で、警視庁捜査1課は6日、男性7人に対する殺人未遂容疑で、鑑定留置中の大阪府寝屋川市の大学生、日下部和博容疑者(21)を追送検した。
逮捕当初は「死刑制度に対する報復だった」などと容疑を認めていたが、その後の調べでは黙秘していた。
日下部容疑者は、7人と一緒にはねられ意識不明の重体となった東京都練馬区の男子大学生(19)に対する殺人未遂容疑で逮捕されていた。刑事責任能力を調べるため、1月15日から鑑定留置されている。
追送検容疑は1月1日午前0時10分ごろ、渋谷区神宮前の竹下通りでレンタカーを運転し、通行人の19〜51歳の男性ら7人を次々とはねて殺害しようとしたとしている。7人は頭や腰などに重軽傷を負った。 
 
日下部和博

 

日下部和博 a
日下部和博のプロフィール
名前:日下部和博 (くさかべ かずひろ)
本名:不明
生年月日:1997年
年齢:21歳
出身地:大阪府枚方市
住所:大阪府寝屋川市
職業:朝日新聞配達員?
日下部和博容疑者は小学校時代はサッカーチームに所属し、物静かでおとなしい少年だったといいます。情報によると大阪府枚方市に実家があり数年前から祖母のいる大阪府寝屋川市で生活していたとのこと。日下部容疑者は東京の大学に進学して約1年間で戻り部屋に引きこもっていたと近隣住民は証言しており、中退したのでしょうか。犯行動機について「オウムの死刑執行に対する報復」だと供述していた事から信者ではないかと話題になっています。ちなみに大阪にもアレフの施設があるそうですが本当に信者なのかは不明です。職業については「朝日新聞配達員」と報じているメディアもあるようです。この事実を大手メディアが報じないという事は口裏合わせの可能性?
国籍や本名が報じられない理由とは一体?
メディアでは自称・日下部和博容疑者と報じられていることからネット上では国籍や本名について注目が集まっています。警察は情報を掴んでいるがあえて公開しない理由があるのではないかと一部では憶測が流れており、その理由とは何なのか。どうやら本名や本人情報を公開出来ない理由があり公開するのは不味いと判断したのではないかと言われているようです。公開するのが不味い理由として日下部容疑者がオウムやアレフの関係者の可能性が濃厚だと推測されています。ただの推測に過ぎませんが年末年始を狙って事件を起こしたことが不自然ですし組織的な犯罪の可能性もゼロではなさそうですよね。卒アル画像に校章が写っているのに未だに特定されていないのも不自然です。
2chに犯行予告していた?
日下部容疑者が2chに犯行予告していたのではないかという説があるようです。こちらは2chのニュース速報(VIP)版に書き込まれていたそうで「詳しくは言えないけど一応」という書き込みも不気味です。本当に日下部容疑者の書き込みかは不明ですが上野でも事件を起こそうとしていたようですし計画性があったなら、渋谷だけではなくもっと明確に書くと思うのですが。
日下部和博 b
日下部和博のプロフィール
名前:日下部和博 (くさかべ かずひろ)
本名:不明
生年月日:1997年
年齢:21歳
出身地:大阪府枚方市
住所:大阪府寝屋川市
職業:朝日新聞配達員
職業が朝日新聞配達員と報じられない理由は?
日下部和博容疑者は無職と報じられていますがネットニュースでは「朝日新聞配達員」と報じられているのです。しかし大手メディアではなぜか「無職」と報じられている事から口裏合わせをしているのではないかと言われているんだとか。名前も自称のようですし、職業を公開したり公開しないメディアが存在している時点で何か怪しいですよね。
出身高校や大学はどこ?
メディアが日下部和博容疑者の卒アル写真を次々と公開した事から出身高校や大学について注目が集まっています。卒アル写真には校章が写っているためすぐに特定されると思っていましたがTwitter上では特定の声は上がっていないようです。さらに大学については首都圏の大学に進学したものの1年で中退しているとの事ですが大学も未だに特定されていません。高校や大学についても情報が入り次第追記させていただきます。
追記! 出身中学について東香里中学校との情報が。東香里中学校には水泳部が存在しているようなので可能性は高そうですね。
韓国人説の真相は?
日下部容疑者の名前が「自称」となっている事からネット上では韓国人説が囁かれていますが真相はどうなのか。情報によるとテレ朝系のニュース番組で日下部容疑者の映像と共に「李」という名前が表示されたものの直ぐに「日下部」に切り替わったそうです。公開されている名前は自称ですし、テレビ局がそう報じていたとなるとそういう事なのかもしれませんね。  
 
日下部和博 2

 

日下部和博が原宿竹下通りを暴走で逮捕!
日下部和博は2019年1月1日の0時10分頃に原宿駅前の一方通行の道路を軽自動車で逆走して、8人を相次いではねたとして逮捕されています。
はねられた被害者のうち、男子大学生は現状意識不明の重体となっており、日下部和博は殺人未遂の疑いがもたれています。
その後、その犯行の一部始終を目撃していた方の顔を殴ったことも明らかになっています。
日下部和博は大阪から東京まで軽自動車で来ており、後部座席には灯油が入ったポリタンクがつまれていたと報道されており、世間の方々の意見では、「これは大きなテロを起こそうとしたんじゃないか?」とまで言われています。
後部座席に置いてあった灯油のポリタンクは結局のところ、犯行に使われなかったため、それだけが不幸中の幸いかもしれない。
しかも乗っていた軽自動車はレンタカーだったことも判明しており、今回の竹下通りでの犯行はかなり計画的なものだったのでしょう。
事件当初、犯行現場には多くの人だかりができており、たくさんの警察の方がいました。
日下部和博が犯行に使った軽自動車は非常に悲惨な状態になっており、被害者の方が重症を負っていることがこの画像で判断できます。
犯行に使った車種は、ダイハツの人気車種であるムーブです。前方部分は完全に大破してしまっていますね。
今回の犯行に対し、日下部和博は容疑を否認するわけではなく、「殺そうと思って通行人を車ではね飛ばした。死刑に対する報復だった」と容疑を潔く認めています。
ほかにも、「大阪から来た。アクセルを踏み続けた」とも発言しています。
日下部和博はアレフやオウム信者だったのか!?
日下部和博は警察に逮捕されてから、以下の発言をしています。
「大阪から来て車を暴走させた。オウムの死刑に対する報復でやった」
昨年2018年のビッグニュースといえば、カルト宗教であったオウム真理教の幹部であり死刑囚であった人たちが相次いで死刑執行となったことが記憶に新しい。
今回逮捕された日下部和博は、原宿での暴走行為を「オウムの死刑に対する報復でやった」と話しているので、日下部和博自身がオウム真理教と何かしら縁があったのではないかといわれています。
ただ、逮捕された日下部和博は逮捕時に21歳と報道されていたため非常に若く、オウム真理教が精力的に活動していた時代を知らないはず。
だから、個人的には日下部和博はオウム真理教とはあまり深く関わっていなかったのではないかと思います。
たしかにオウム真理教は現在、アレフという宗教団体に名前を変えて活動しているといわれていますが、個人的には日下部和博単独の犯行によるものではないかと推測しています。
これも個人的な推測になりますが、昨年の2018年にオウム真理教の死刑囚が相次いで死刑執行となり、メディアにてオウム真理教が起こしたこれまでの悪事が報道され、日下部和博自身も何かしらそれに影響されてしまいこのような犯行を起こしたのではないかと思いますね。
日下部和博の顔画像や国籍や出身について!
日下部和博の顔画像については、現状まだ公開されていないので、公開され次第画像を公開させていただきます。
日下部和博は今回、大阪から軽自動車を使い、東京の原宿通りに来ていたことを明かしているため、今のところ大阪府出身とみていいでしょう。それに、日下部和博が犯行に使った車にはしっかりと大阪ナンバーのナンバープレートが装着されていました。
報道を見た視聴者の間では、日下部和博の国籍が気になっている方も多いようですが、明らかに日本人名である日下部和博という名前から、国籍も日本とみていいのではないでしょうか?
21歳となれば、今流行のFacebookやツイッターなどといったSNSをやっていることが多いですが、日下部和博はそれらのSNSをやっていないため、国籍や出身地の情報がないのが非常に残念。ただ、報道を見る限りでは日本国籍の大阪府出身というのが有力でしょう。
まとめ
日下部和博はオウム真理教の死刑囚のことを非常に尊敬していたと発言しており、その死刑囚が死刑執行になったことで、今回の犯行に至ったようです。
オウムの方々を尊敬するのは勝手ですが、他人を傷つけるような行為をしてしまうのは許せません。
日下部和博には今回犯した罪をしっかりと償ってもらいたいですよね。
この記事執筆現在は日下部和博の住所や職業などはまだ公開されていませんが、今後日下部和博の素顔が徐々に明らかになっていくはず!  
 
日下部和博 3

 

日下部和博(くさかべかずひろ)容疑者プロフィール
名前:日下部和博(くさかべかずひろ)
年齢:21歳
住所:大阪府寝屋川市(祖母宅)
実家は大阪府枚方市
実家の両親は寝屋川市隣の枚方市。
数年前から実家を出て、祖母と2人暮らし。
職業:無職(東京の学校に通っていた時期もあった。祖母は近所の人に大学と言っていた)
出身や住所については、大阪ナンバーのレンタカーを借りて大阪近辺・関西から来たと供述しています。
奇声を上げる発達障害「トゥレット症候群」
大阪府寝屋川市で祖母と2人暮らしだった、21歳の日下部和博容疑者。近所の人の証言です。
「突然、ウワーッと声を上げていた」
「叫び声というか発生するような奇声らしき声が聞こえた」
「爆竹をならした」
自閉症スペクトラム障害やアスペルガー症候群、学習障害などの発達障害の認知度が高くなってきていますが、奇声を上げる特徴がある発達障害は「トゥレット症候群」です。
100人に1人の割合で発症する発達障害で、「チック症」といえば聞いたことがあると思います。「ハイ」「ハッ」のような言葉をしゃっくりのように声に出す子供です。
大人になる成長過程で治ることもありますが、大きな声を授業中に突然上げたり、言ってはいけないような言葉を発する、つばをはくなど周りを不快にするため、不登校になるケースも少なくない発達障害です。
電車に飛び込もうと考えたり、自分の頭を何かに血が出るまで打ちつけることもある、発達障害のトゥレット症候群。
トゥレット症候群発症原因は親の愛情不足か?
不幸にも生まれもってしまうこともありますが、10歳前後で突然発症することもあります。
原因が特定されているわけではないですが、親との関係性に原因があるのではないかとも言われています。
親の仕事が忙しく放っておかれた。父親と母親の関係が悪かった。暴力を親から受けた・・仕事がらチック症の子供を見てきましたが、親と子供の関係に問題がある家庭が多かったと記憶しています。
発症してしまうと、親に対しても暴言を吐きまくることも多いトゥレット症候群。
日下部和博容疑者が親と同居できなくなって祖母の家に預けられていた事情の原因として、このトゥレット症候群の可能性があるのかもしれません。
発達障害より精神病「統合失調症」の可能性が高いのか?
日下部和博容疑者の同級生などは、「おとなしい性格だった」と証言しています。トゥレット症候群であれば、その印象が残るはずですが、同級生で「チック症状があった」という声などは今のところありません。
トゥレット症候群でなかったとすると、精神病の統合失調症だった可能性があるのかもしれません。
統合失調症はトゥレット症候群に似た症状もある精神病ですが、幻覚を見たり、攻撃的になったり、一度発症すると程度の違いはあれ、完治することはないと言われています。
病院に通い薬を飲み続けないといけないこともあり、高熱などの副作用も多く、まともに学校に通ったり仕事をするのは難しい病気です。
中高生時代から太った原因は精神病薬の副作用か?
日下部和博容疑者の顔画像が報道されています。
原宿署から送検される日下部和博容疑者の映像は中高時代の卒業アルバムと比べるとかなり太っています。
21歳でここまで短期間に太ることを不思議に思っている人もおおいと思います。実は、統合失調症の症状を緩和させる薬の副作用で「太る」場合があります。
日下部和博容疑者が太ってしまった原因に統合失調症のクスリの副作用の可能性があるのではないでしょうか。
犯行詳細
日時:2019年1月1日午前0時すぎ
場所:東京都渋谷区の原宿竹下通り。一方通行を逆走。
JR原宿駅前の竹下通りを大阪で借りた軽自動車で暴走し、男性8人をはねた。はねられた男性のうち、東京練馬に住む18歳の大学生男性が意識不明の重体。
日下部和博容疑者は暴走後、車から降りて代々木公園まで逃走。警察官が身柄を確保し現行犯逮捕された。
正月を迎えたばかりの明治神宮への参拝客で賑わう竹下通り通りで起こした、まさにテロ事件。
犯行動機は?
犯行場所は、明治通りから入った竹下通り。
最新のファッションブランドショップや飲食店が立ち並ぶ若者の最先端の街と知られる渋谷原宿を選び、一方通行の道路を逆走する新年早々の暴走は悪質極まりありません。
大阪でレンタカーを借りた日下部和博容疑者ですが、借りた車も料金が最も車種の軽自動車でした。
犯行後一度逃走を図ってはいますが、「わざとやった」「テロを起こした」と供述するなど、新年早々の人通りの多いところで「目立つためにやった」日下部和博がまともな人間だとは思えません。
新年を迎え、お祝いムードの東京渋谷の中心で起こした犯行は、世の中や現状の自分への不満がたまり感情を爆発させた可能性が高そうですが、ヤンキーというより、危険な思想を持っていた障害者なのでしょうか。
イスラム教徒のテロに興味を持ち、1人で実行に移そうと準備していた事実は、本当に恐怖。
オウム真理教信者の日下部容疑者
オウム真理教の実行犯死刑囚の死刑執行への報復だという供述もしている日下部和博容疑者。麻原彰晃ら教団幹部を信仰していたということなのでしょうか。
また、21歳の日下部容疑者がオウム真理教を信仰していたとはどういうことなのか?地下鉄サリン事件が起き、麻原彰晃死刑囚らが逮捕されたのは1995年です。日下部容疑者は生まれていません。
日下部和博が生まれ育った環境に竹下通り暴走事故を起こした背景。
オウム真理教信者なのでしょうか。死刑執行への報復と供述している、日下部和博容疑者。完全に単独犯での犯行ではなく、オウム真理教と支援などがあるのでしょうか。
21歳の日下部容疑者はオウム真理教事件をリアルタイムでは知りません。
地下鉄サリン事件が起き、麻原彰晃死刑囚らが逮捕されたのは1995年です。日下部容疑者がオウム真理教を信仰していたとすれば、きっかけは何だったのか。
実家のあった大阪府枚方市にいる両親の影響なのか、それともオウム真理教の影響を受けていたから、実家で家族仲が悪くなり実家を出ていたのか?
東京の大学に進学後やめて寝屋川市の祖母宅に住んでいてた日下部和博容疑者はオウム信者と連絡を取り合っていたのでしょうか?
渋谷の中心地をずらした悪質な犯行
新年の渋谷駅周辺はこの状態。12万人もの人がセンター街中心にあつまり、新年のカウントダウン、平成最後の年の始まりを祝っていました。
多くの警察車両や小型カメラを帽子に内蔵した警察官も出動して警視庁あげての警戒の中、ハロウィーンの軽トラック横転騒動のような騒動もなく平和な新年を迎えたわけです。
日下部和博容疑者は、その渋谷駅に警察の注意が集中していることをいいことに、原宿で事件を起こした可能性が高そうですよね。
渋谷駅のすぐとなり原宿竹下通りで起きた、新年早々の暴走犯罪は、日下部和博容疑者が周到に計画し準備したうえで実行したということでしょうか。
灯油も発見される!
大阪ナンバーのレンタカーからみつかった20リットルの灯油。つまり、車を燃やすテロも計画していたのか。
車から逃走する際に近くにいる人になぐりかかるなど、1人でも多くの人に危害を加えようとしていた犯行はまさに「テロ」
明治神宮に入るつもりだった、上野でも事件を起こすつもりだった日下部和博容疑者。
まさに、オウム真理教事件を思い出させる恐怖の事件です。
日下部和博容疑者の顔画像!
日下部容疑者の顔写真は、学生時代の卒業アルバムの写真が公開されています。
小学校時代はサッカーをしていた日下部和博容疑者。
近所の人や同級生は、「大人しい性格」と口をそろえています。
サッカーをしていた少年時代の日下部和博容疑者の顔とはだいぶ印象が違います。
大学を辞め、オウムに傾倒していっていた若者なのでしょうか。
日下部和博容疑者のテロ時系列
12月28日:大阪で軽自動車を借りる
12月31日:レンタカーの軽自動車後部座席に、20リットルの灯油と高圧洗浄機を乗せて上京。
12月31日夕方ごろ:明治神宮近くに到着。明治神宮で車を暴走させ、灯油に火をつけるテロを計画していたが、警備が厳重なため計画を変更
1月1日:竹下通りを暴走。100メートル以上ブレーキを踏まずに車を走らせ、合計8名をはねる。→車を降りて逃走。近くにいた男性を殴り倒す。
代々木公園まで逃げるも、警察官に職務質問された。その場で現行犯逮捕。
灯油をまき車ごと火をつける計画だった日下部和博容疑者。なぜできなかったのか・・。日下部容疑者に殴られた男性のおかげで最悪の事態を免れたのではないのでしょうか?
もし、この勇気ある男性がいなかったら、竹下通りは火の海になっていたかもしれません。
日下部和博の生い立ちや家族
大阪で借りた軽自動車に灯油や高圧洗浄機を乗せて東京までやってきていた日下部和博容疑者。新年早々の明治神宮を標的にしていたことも分かりました。
大阪寝屋川市の祖母の家に住んでいた日下部和博容疑者。東京の大学に進学した日下部和博容疑者は、大阪寝屋川の祖母宅へ帰ってきていました。
枚方市の実家を離れて寝屋川の祖母の家に住むことになった理由がなんだったのか。
自宅で両親と済まずに祖母の家に住んでいた・・2018年東海道新幹線内でとりかえしのつかない事件を起こした小島一朗容疑者との共通点でもあります。  
 
 
 

 

 新幹線殺人事件   
 
新幹線殺人事件
 2018/6/9
 
東海道新幹線のぞみ殺人事件 6/10
2018年6月9日21:50ごろ、JR新横浜駅とJR小田原駅の区間、高速移動中の東海道新幹線のぞみ265号で殺人事件が発生した件で、猟奇的ともいえる犯人の詳細が判明した。
・東海道新幹線に警察官が乗り込み
この事件は、土曜日夜の平和な東海道新幹線のぞみ265号で発生した。突如として出現した殺人鬼が斧を振りまわし、女性2人を斧で攻撃して負傷させ、さらに30代男性に心肺停止の重傷(のちに死亡)を負わせたのである。その後、JR小田原駅に緊急停車した東海道新幹線に警察官が乗り込み、殺人鬼が逮捕された。
・斧で攻撃した際の返り血
逮捕された殺人鬼は、愛知県岡崎市蓑川町に住む、自称・小島一朗(22歳)。かなり大人数の警察官に取り押さえられ、手錠をかけられて新幹線から連行された。メガネをかけており、茶色いズボンを着用。斧で攻撃した際の返り血なのか、大量の血痕がズボンに付着していた。
・12号車を徹底的に捜査
また、殺人鬼は警察官に連行される最中もまったく動揺する様子は見せず、かなり余裕ある態度で警察に連れて行かれたとされている。この東海道新幹線のぞみ殺人未遂事件が発生したのは12号車さとれており、警察はその車両周辺を徹底的に捜査するようだ。
・車内で逃げ惑う女性
あまりにも衝撃的で猟奇的な事件に驚き、「助けて!!」「怖い!!」などと叫びながら車内で逃げ惑う女性たちの姿があったという。まさにパニックトレインと化した東海道新幹線にだが、負傷した乗客の回復を心から祈りたい。

凶悪すぎる事件の詳細が明らかになってきた。2018年6月9日21:50ごろ、JR新横浜駅とJR小田原駅の区間、移動中の東海道新幹線のぞみ(265号)で殺人事件が発生した件で、猟奇的ともいえる犯人の詳細がわかった。
・次々と乗客を襲って殺害
東海道新幹線のぞみ265号の12号車で発生したこの事件は、突然現れた殺人鬼が斧を振り回し、次々と乗客を襲っていくという信じられない状況下で発生した。殺人鬼は斧で女性2人に襲いかかり負傷させ、1人の30代男性を心肺停止状態にし、殺害した。
・犯人が斧で「馬乗りメッタ刺し」
そのときのようすを目撃した乗客によれば、殺人鬼は男性に馬乗りになり、メッタ刺しにしていたという。ナイフではなく斧で襲っていたことから、刺すというよりは振り下ろすように猛攻撃をくわえたと推測できる。また、男性がグッタリしても刺し続けていたという。
・乗客がパニック状態
心配停止となった男性は病院に搬送されたが、その後、死亡が確認された。負傷した女性2人に関しては、男性ほど重傷を負わなかったようだが、複数の乗客が「助けて!」「怖い!」とパニック状態になり、他の車両に逃げ込むという状況になっていたという。
・まさに猟奇的といえる事件
犯人の詳細が少しずつ判明してきており、年齢が20〜30代と判明。メガネをかけており、茶色のズボンには凄まじい量の返り血が付着していたという。また、連行される殺人鬼は動揺することなく、余裕の姿だったとのこと。まさに猟奇的といえる事件だろう。 
新幹線殺傷事件現場の様子、2人は無言で揉み合い続けた 6/14
逃げ惑う乗客の中心にいて、2人は無言で揉み合い続けていたという。「やめろ」とも「助けて」とも叫ぶわけではなく、185cmという長身の白いワイシャツ姿の男性が、「なた」を振るう小島一朗容疑者(22才)を後ろから羽交い締めにしていた。一言も発せずに歯を食いしばり、凶器を持つ犯人の手を、力の限りに押さえていた。
ところが、揺れる車内で男性はバランスを崩して倒れてしまう。その隙に小島容疑者は他の乗客を襲おうと動き出した。すると、男性は再び立ち上がって犯人に向かって突進した──。
それが、別の車両に逃げる乗客が見た、男性の最後の雄姿だった。男性の名前は、梅田耕太郎さん(享年38)。6月9日夜、横浜での出張を終えて、「のぞみ265号」に乗り、妻の待つ兵庫県尼崎市のマンションへと帰る途中の惨劇だった。事件が起きた12号車の乗客が震える声で振り返る。
「新横浜駅を出発して数分後、犯人は隣に座っていた20代の女性に『なた』で襲いかかりました。女性が逃げると、反対側に座っていた別の20代女性に斬りかかった。その瞬間、2つ後ろの座席の梅田さんが犯人に飛びかかったんです。梅田さんがいなければ女性は助からなかった。
凶器の『なた』は、錆びついていたのか真っ茶色。その時は“棒きれ”のようなもので叩いていたのかと思っていました。梅田さんも刃物だとわからないままに、とっさに助けに入ったんじゃないでしょうか」
梅田さんが容疑者を押さえ込んでいたので、12号車の乗客は他の車両に逃げることができた。時速250kmで走る新幹線車内という密室。パニックが起き、ぶつかったり、荷物に躓いたりして転倒した乗客も多数いた。犯人が後ろから襲いかかれば、もっと犠牲者がでていてもおかしくなかった。
騒動を知った車掌が12号車に駆けつけたとき、小島容疑者は梅田さんの上に馬乗りになり、すでに意識のない梅田さんの体に何度もなたを振り下ろしていた。傷跡は数十か所に及んだという。軽傷を負った女性はこうコメントを発表した。
「すぐに助けていただいたのに亡くなられた被害者の方には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。私を助けてくださった方々にお礼を申し上げるとともに、亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます」
梅田さんの一瞬の勇気が、多くの乗客の命を救った。 
新幹線殺傷事件「殺人鬼」小島一朗容疑者の成長記録 6/15
「彼が中学3年の夏休み頃、新学期のために水筒が欲しいと言ってきたことがあったんです。妻が中古の水筒を用意したんですが、『なんで中古なんだ!』と激昂された。寝室に金づちと包丁まで持って入ってきました。これはいかんと警察を呼び、大騒ぎになった。あの時、彼には言葉では通じないと痛感しました。それがキッカケで、彼は家を出た。僕としても、一朗くんと暮らすのは限界でした」
そう語るのは、6月9日に発生した新幹線3人殺傷事件の犯人・小島一朗容疑者(22)の実父だ。
東海道新幹線「のぞみ265号」にナタを隠し持って乗り込み、居合わせた乗客を無差別に切り刻む。彼が犯した突然の凶行に、車内は血の海と化した――。
これほどの残酷な事件を起こした小島は、いったいどのように成長してきたのだろうか。小島は’95年、一宮市(愛知)に生まれ、幼少期から両親と歪(いびつ)な関係を築いてきた。中学ではいじめが原因で不登校となり、進路を巡って父と没交渉に。冒頭の”水筒事件”を起こしてからは自立支援施設で暮らし、高校卒業後に機械メンテナンス会社に就職するも、長続きせず。’16年10月からは祖母と伯父の家に引き取られていた。
「一朗は仕事を辞めた後、アルバイトでトラックの配達員をしたこともありましたが、1週間で『こんなのやっとられるか』と投げ出してしまった。両親との関係が修復不可能になってウチで預かることになる時、私は『実の親が面倒を見るべきだ』と反対したんです。その後に祖母が一朗と養子縁組をした時も、こんな状況じゃ将来、トラブルになると不安でした」(小島の伯父)
祖母・伯父の家に暮らし始めてから4ヵ月後、小島は岡崎市内の心療内科で自閉症の診断を受け入院。2ヵ月後には退院したが、その後は部屋にひきこもり、ネットに耽(ふけ))る生活を送るようになる。
「なんとか社会復帰をしてもらおうと就労支援施設に就職させましたが、一朗は『こんな簡単なことは、俺のやるべきことじゃない』と1ヵ月も経たずに辞めてしまって。祖母や私にも横柄な態度を取るようになり、日に日に行動が目に余るようになったんです。そんな中、去年の12月に突然『俺は旅に出る』と言って家を飛び出してしまった。それから何度か携帯で連絡は取れたものの、どこで何をしているか、まったくわからなくなっていました」(前出・伯父)
この事件では、犯行の残虐さとともに、新幹線での”無差別テロ”がいとも容易に行われうることが明らかになってしまった。もし目の前でナタ男が暴れだしたら、なす術はない。しかし、犯人は以前からさまざまな”シグナル”を発していた。それをキャッチしていれば、未然に防げる悲劇だったのだ。 
「次はどいつだ!」新幹線殺傷事件は25年前にもあった! 6/16
今月9日、東海道新幹線「のぞみ265号」で刃物で突然乗客に切りつけ、男性1人を殺害、女性2人に重傷を負わせた小島容疑者「CBCニュース(YouTube)」より引用
「9号車で殺人事件が起こり、犯人が車内をうろついています。前後の車両に避難してください」
走行中の車内にそんなアナウンスが流れたのは、25年前。今、新幹線という密室での通り魔殺人が世間を震撼させているが、それは今回が初めてではない。
平成5年8月23日夜、博多発東京行きの東海道・山陽新幹線「のぞみ24号」9号車(グリーン車)では、男女4人が缶ビールを片手に談笑していた。大阪への日帰り出張の帰途に就いていた食品卸売り会社「国分」の社員たちだった。
静岡県の掛川駅を通過した、午後8時20分過ぎ。
「考え事をしたいので静かにしてくれませんか」
声をかけてきた若い男、中村克生(27歳・当時)の口ぶりは丁寧なものだった。
会話は特にうるさいものではなかったという、同乗していた客の証言もあるが、社員たちは男に言われるままに会話を止めたのだが……。
「やかましい!」
中村は叫びながら刃渡り30センチのサバイバルナイフを取りだし、「国分」埼玉支店長の松野定哲さん(40歳・当時)の左胸に突き刺した。
「次はどいつだ!」
返り血を浴びた姿で中村は、車内を逃げ惑う客を追う。9号車にいた客は前後の車両に逃れた。アナウンスによって危機を知った他の車両の乗客は、一部は押し合うように狭いトイレに入り身を隠した。それ以外の多くの乗客は、なすすべもなく恐怖に震えるばかりだった。
午後8時41分、列車は新富士駅に緊急停車した。ホームに警官の姿を見ると、中村はサバイバルナイフを手にしたまま、なんとか逃走しようと10号車、11号車へと移っていく。11号車の東京側出入り口から飛び出して、追ってきた警官に取り押さえられた。この時、中村は警官に1人の背を切りつけ、全治1カ月の重傷を負わせている。
奈良市出身の中村は、地元の高校を卒業後、実業家の父の紹介で不動産会社に勤めた後、大阪でファッションモデルをした。180センチの身長で、当時の報道写真のキャプションには「マイケル・ジャクソンにも似た風貌」とある。ポケベルで呼んでもなかなか返答がないという気ままな性格で、モデル業は長くは続かなかった。
事件当時は、父親が経営する商事会社を手伝い、奈良市内の自宅の3階で暮らし、シルバーメタルのポルシェを乗り回していた。
職探しで東京に行くために新幹線に乗った、と本人は供述。所持していたバッグからは大麻約5.5グラム、覚醒剤約1.2グラムが見つかり、尿検査で覚醒剤反応が出た。公判で中村は、犯行時に頭の中で「敵を取ってくれ」という子どもの声が響いたと語った。
犠牲となってしまった松野定哲さんは、40歳で支店長という働き盛り。小学1年生の長男と、幼稚園に通う長女を持つ、一家の大黒柱であった。葬儀は社葬として執り行われ、社長を初め2000人以上が参列した。支店長である松野さんは経営側であり労働組合員ではないが、組合は弔慰金を出すという異例の対応をした。
大宮労働基準監督署は、業務の帰途に被った松野さんの被害を労災だと認めなかった。「松野さんの業務が犯罪を誘発する原因にはならない」として、業務と災害の因果関係を認めなかったのだ。これが平成6年7月のことである。
これに納得できなかった妻の恵子さんが、不服申し立てをした。平成7年8月、「松野さんらは事件当時、仕事の検討会を新幹線内で行っていたが、これは車内で行う必要があった」「松野さんに何の落ち度もなく、加害者を何ら刺激していない」として、埼玉労災補償保険審査官は労災として認める決定を下した。
平成7年7月27日、静岡地裁沼津支部で東原清彦裁判長は、中村克生に懲役15年の判決を言い渡した。覚醒剤中毒であった中村には2度に渡って精神鑑定が行われ、責任能力の有無を巡って、「心神耗弱の程度は軽い」とする検察側と、「心神喪失の状態にあった」と無罪を主張する弁護側が対立していた。
このような犯罪を防止する手立てはないのか、当時も議論になった。上下約290本が5〜6分間隔で運行されている新幹線で、乗客の手荷物チェックは不可能だという、JR東海の見解が当時の報道で紹介されている。 
容疑者の追いつめられた末の犯行にあの事件を思い出した 6/16
6月9日に起きた新幹線殺人事件は日本中に衝撃を与えた。新幹線の安全性といった問題に焦点が当たっているが、私としてはこれまで関わってきた幾つかの事件との類似性が気になった。
それは最初に小島一朗容疑者の供述として報じられた「むしゃくしゃしてやった」「誰でもよかった」というステレオタイプなフレーズに象徴されている。通り魔的な殺人事件では必ずこのフレーズが出てくるのだが、これはそれぞれの事件の犯人が同じことを語っているというより、調書を書き取る警察官が、よく理解できない容疑者の話をパターン化されたフレーズに押し込めてしまうためだろう。
あるいは最初に報道された、容疑者が発達障害だったという言葉も、これは母親が語ったコメントからとられたものだが、実態はよくわからないまま病名が独り歩きし始めている感がある。
引きこもり、不登校、親との確執、家出、自殺願望、そしてそれが他者ないし社会への攻撃に向かう。母親は「自殺することはあってもまさか他殺するなんて思いも及びませんでした」と語っているが、自殺を覚悟した人間が他殺に向かう事件はこれまで何度もあった。引きこもりの末に他人を殺害して死のうと考えたという土浦事件の金川真大元死刑囚(既に執行)の犯行もその文脈だった。
今回の事件で特徴的だったのは、事件直後から父親と祖母が積極的にマスコミの取材に応じたことだ。『週刊文春』6月21日号で父親は、なぜマスコミの取材に応じているのかと問われ、こう答えている。
「取材を受けることが僕の贖罪です。親の責任として受けた」
父親が語った息子との関係は、彼が実の子を「一朗君」と他人のように語ったことが、家族が崩壊していたことを象徴していた。ただ、それを語ることが親としての社会的責任と語る父親には、敬意を表すべきだと思う。私が12年間もつきあった埼玉連続幼女殺害事件の宮崎勤元死刑囚の父親は投身自殺を遂げたし、今面会を続けている相模原障害者殺傷事件の植松聖被告の親はいっさい取材に応じていない。親が社会から激しく責任を問われ、死ぬしかないような状況に追い込まれるのが、日本での凄惨な事件の多くのケースだ。今回の事件でも『週刊文春』の記事によると、母親は知人に「私は生きていていいですか」と漏らしているという。
そういう日本社会の現状で、今回の事件の父親と祖母があれだけ取材に応じているのは、ある意味で異例なことだし、事件の解明のためには大きな意味があることだと思う。父親の語り口や息子を他人のように語ることに当初、批判も起きたようだが、その父親の語り方そのものも、この事件を考える重要なカギだと思う。
私が今回の事件で思い起こしたのは2012年から13年にかけて起きた「黒子のバスケ」脅迫事件だ。殺人にこそ向かわなかったが、自分自身と自分が置かれた状況に絶望して死のうと思い、その際に他者に一太刀浴びせて死のうと、社会的成功者のシンボルである人気マンガ家への脅迫という犯罪を執拗に行った。もちろん今回のとは別の事件だから相違点はたくさんあるが、「黒バス脅迫事件」の渡邊博史受刑者の冒頭意見陳述を読み返してみると、今回の事件を考えるヒントがつまっているように思える。
当時、この冒頭意見陳述は、死を覚悟すれば何でもやれると思い立った「無敵の人」が今後増えていくという社会への警告として大きな反響を呼んだ。
その犯人が逮捕前から私宛に手紙を送ってきたことが縁で、私は彼の裁判での陳述を、公判ごとにHPにアップし、事件の持っている社会的意味を提起していった。その全貌と犯行の詳細は『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』(渡邊博史著/創出版刊)という本にまとめられているからご覧いただきたい。ここではその冒頭意見陳述の主要な部分を紹介しておこう。
「何かに復讐を遂げて自分の人世を終わらせたい」という動機
《動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。》
《自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。しかし自分の主観ではそれは違うのです。以前、刑務所での服役を体験した元政治家の獄中体験記を読みました。その中に身体障害者の受刑者仲間から「俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ」と言われたという記述があります。自分には身体障害者の苦悩は想像もつきません。しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。自分は犯行の最中に何度も「燃え尽きるまでやろう」と自分に向かって言って、自分を鼓舞していました。その罰によって30代半ばという年齢になるまで何事にも燃え尽きることさえ許されなかったという意識でした。人生で初めて燃えるほどに頑張れたのが一連の事件だったのです。自分は人生の行き詰まりがいよいよ明確化した年齢になって、自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。
自分が初めて自殺を考え始めてから今年がちょうど30年目に当たります。小学校に入学して間もなく自殺することを考えました。原因は学校でのいじめです。自分はピカピカの1年生ではなくボロボロの1年生でした。この経緯についてここで申し上げても詮ないので、詳細については省略します。自分を罰し続けた何かとは、この時にいじめっ子とまともに対応してくれなかった両親や担任教師によって自分の心にはめられた枷のようなものではないかと、今さらながら分析しています。自分は昨年の12月15日に逮捕されて、生まれて初めて手錠をされました。しかし全くショックはありませんでした。自分と致しましては、「いじめっ子と両親によってはめられていた見えない手錠が具現化しただけだ」という印象でした。自分は犯行の最終目標を「黒子のバスケ」の単行本とその他の関連商品全ての販売中止とアニメの放映の中止と関連イベントの中止と定めていました。ただし永久に脅迫を続けることもできませんから、それを一瞬でも達成できたら、犯行終結宣言を出して、事件を終わらせようと思っていました。「黒子のバスケ」が自分の人生の駄目さを自分に突きつけて来る存在でしたので、それに自分が満足出来るダメージを与えることで自分を罰する「何か」に一矢報いたかのような気分になりたかったのです。それを心の糧に残りの人生を無惨に底辺で生きて行くなり、自殺して無惨な人生を終わらせるなりしようと思っていました。ですから自分はとても切実な動機で事件を起こしているのです。いじめられっ子である自分が、いじめっ子の「黒子のバスケ」の暴力から必死になって逃れようとしていたというのが、自分の主観的な意識です。》
「覚悟して事件を起こしたから反省はないが責任はとりたい」
《これだけの覚悟をして事件を起こしたのですから、反省はありません。反省するくらいでしたら、初めからやりません。また謝罪も致しません。もし謝罪するのでしたら、それこそ尾てい骨の奥から罪悪感がとめどもなくあふれ出て来て、全身から力が抜け、目の前が真っ暗になって、前後不覚に陥るような状態にならなければ、謝罪しても意味がないと考えます。残念ながら、自分は逮捕されてからそういう心理状態に一瞬たりともなったことがありません。自分はサイコパスと呼ばれるタイプの人間なのかもしれません。あと自分の犯罪の力が足りず「黒子のバスケ」というコンテンツに大してダメージを与えられなかったと自分は思っているからです。ただ責任は取りたいと思っているのです。反省・謝罪と責任は違います。》
《自分としては、犯罪によって一生をかけても払いきれない損害を生じさせたら、それはもう首を吊るしかないと考えております。実刑判決を受けて刑務所での服役を終えて出所して、できるだけ人に迷惑をかけない方法で自殺します。また自分の死が広く伝わるような手段も取ります。やはり「犯人が死んだ」という事実は、自分が起こした犯罪によって迷惑を被った方々に対して一定の溜飲を下げさせる効果はあるでしょうし、何より再犯がないと安心して頂けると思うのです。自分にはこのようにして「感情の手当」を行うしか責任を取ることができません。ただ同時に、自分の命の価値など絶無であって、自分の死も大して意味がないことも充分に理解しております。自殺についてですが、自分は自己中心的な動機でも自殺したいのです。自分の連行に使用される捕縄を見るたびに首を吊りたくなります。この瞬間でも自殺させて頂けるのでしたら、大喜びで首を吊ります。動機も男として最もカッコ悪い種類の動機ですし、それが露見してしまったので、もう恥ずかしくて生きていたくないのです。それに自分は「負けました」と言って自分の人生の負けの確定を宣言したのです。つまり自分の人生は終わったのです。それなのにまだ生き永らえていることに我慢がならないのです。留置所と拘置所と刑務所は自殺が禁止された空間です。自分は下されるであろう実刑判決の量刑の長さを「自殺権を剥奪され、自殺をお預けにされる期間」と理解します。》
「失うものが何もないから罪を犯すことに抵抗もない」
《いわゆる「負け組」に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません。》
《そもそもまともに就職したことがなく、逮捕前の仕事も日雇い派遣でした。自分には失くして惜しい社会的地位がありません。また、家族もいません。父親は既に他界しています。母親は自営業をしていましたが、自分の事件のせいで店を畳まざるを得なくなりました。それについて申し訳ないという気持ちは全くありません。むしろ素晴らしい復讐を果たせたと思い満足しています。自分と母親との関係はこのようなものです。他の親族とも疎遠で全くつき合いはありません。もちろん友人は全くいません。》
《そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。》
今回の新幹線殺人事件の容疑者が、どんどん追い詰められ、犯行に向かうプロセスを報道で見ながら、こういう事件を防ぐために、この社会は何をすべきなのだろうか、と考えざるをえない。捜査の進展とともに事件がきちんと解明されていくことをぜひ願いたいと思う。  
両親・祖母・伯父への徹底取材で見えた「小島一朗」ができるまで 6/20
「お前、将来どうしたいんだ、やりたいことはないのか、と聞くと“俺は死ぬんだ”“生きる価値はない”と言うんです」
そう語るのは、新幹線のぞみ通り魔殺傷事件を起こした無職・小島一朗容疑者(22)と同居していた伯父(容疑者の母親の兄=57)だ。一朗容疑者は、養子縁組した祖母(82)の家(愛知県岡崎市)で、伯父夫婦も含め4人で暮らしていた。
「“人を殺して刑務所に行く”とも言っていた。“働かなくても生きていけるところ、それが刑務所だ”と。私が、お前、生きたいんじゃん、死にたいんじゃないだろうと言ったら黙ってしまってね」(伯父)
まさに嫌なことから逃げるための言い訳ばかり。
「ホームレスになりたい」
言い訳番長ともいえる自分に甘い逃げの発言だが、祖母は、「死にたい、絶望だとかよく言っとった」と証言。母親も事件後に出した声明文に、《自殺をほのめかしていました》と記している。生きることに投げやりで絶望した容疑者を、周囲は誰も救えなかったのか。
事件は、6月9日午後9時45分ごろ、東海道新幹線東京発新大阪行き「のぞみ265号」の12号車で起きた。
13号車で事件に遭遇した落語家、桂ぽんぽ娘(38)は、先週開催した落語会『第2回ちよりん・ぽんぽ娘二人会』の冒頭で、「突然、12号車からキャーという悲鳴」「逃げてきた人が連結部分でドミノ倒し」「通路が血まみれ」などと生々しい様子を明かした。
小島容疑者は突如、ナタと果物ナイフで、隣に座っていた女性2人に襲いかかった。騒ぎに気づいた梅田耕太郎さん(38)が助けに入ったが、切りつけられ命を落とした。
「誰でもいいから殺そうと思った」と供述しているという小島容疑者が、職場や自宅から姿を消したのは昨年12月21日のことだった。
昨年11月から、岡崎市内の就労支援施設で働いていたのだが……。
「12月20日に、仕事を辞めたい、ホームレスになりたいと言い出しました。(辞める)意志は固いようで、じゃあ明日話そうと。それきり来なくなりました」(同施設職員)
祖母には「仕事を続けられない自分が恥ずかしい。旅に出ます」と告げ、“4度目となる最後の家出”を決行する。
警察の取り調べでは、事件直前まで長野県でホームレス生活を送っていたという。そして身内の前から姿を消した半年後に、凶行に及んだ。
言い訳グセがついた中学時代
事件について実父(52)は、
「許されない、取り返しのつかないことをしてしまい本当に申し訳なく思っています」
そう謝罪を口にする。親子関係は、非常に悪かった。
「言うことを聞かず、子どものころは手をあげることもありました。中学になり、成績の悪い教科について、もっと頑張らないといけない、と話すと“〇〇君のほうが悪い”と返す。何度話しても平行線で、最終的には“僕はドベじゃないんだ”と泣き出す。中学では剣道部で、2年のときに1級に昇級したんですが、検定の後に“やめていい?”と言うんです。3年までやるのが部活だと言いましたが、遅刻するようになり、部活の先生から電話がかかってきていましたが、最終的には“練習の日を誰も教えてくれない”と行かなくなった。中3になると“授業がわからない、友達がいない”と学校に行かなくなった」(実父)
自身の非を認めない言い訳癖はこのころからだった。親子関係、友人関係も希薄になる中、卒業式も欠席した。
「妻が自立支援施設で働いていましたから、中2ごろから連れて行っていた。卒業後は家を出て、自立支援施設に住むことになりました」(実父)
定時制高校に進学し、卒業後は職業訓練校に進んだ。
同施設の代表は、
「高校と訓練学校の計4年間住んでいました。トラブルは一切なく、お母さんも働いていますから、一生懸命フォローしていましたよ。高校の成績はオール5で、4年のところを3年で卒業しました」
事件後、母親は憔悴し、
「“私は生きていてもいいのでしょうか”と。お姉ちゃんは、“一朗はここにいたときがいちばん幸せだった”と言っていました」(同代表)
祖母との生活を希望
2015年4月から小島容疑者は、機械のメンテナンスを行う会社に就職。同年8月に愛媛県へと配属された。
「仕事はできるほう。同期の人にも教えていましたから」
と同社社長。同年9月の法事では、充実の表情を見せていたという。実父が振り返る。
「給料で服を買いました、時計を買いましたとうれしそうに話をしていました。帰り際に、駅でお小遣いに5000円を渡しました。ありがとうと素直にもらってくれてうれしかったのを覚えています」
だが会社は11か月で退社。地元である愛知県一宮市へと戻ってきた。アパートを借りひとり暮らしを始めたが、貯金は半年で尽き、
「最後はガスも電気も止められていた」(実父)
そのころ、小島容疑者は父親に「僕は寝る場所があり、ご飯を食べられればいい」と漏らしていたという。とはいえ、それ以外のコミュニケーションを図ることはできず、
「当初は岡崎の祖母宅の近くのアパートを借りる予定でしたが、一朗はそれに納得できず1回目の家出をしてしまったのです。交渉窓口は祖母のみで、祖母と一緒に住むことが、一朗の希望でした」(実父)
祖母の家での同居生活は、'16年10月ごろから。伯父は、
「ひきこもりがちになってね。家出中、祖母に6000円の掛け時計を送ってきたことがあるんです。家出に使った自転車のチェーンが切れていたのに修理せず、 “おばあちゃんにプレゼントすると約束していたから”と。時計を買ったお金は祖母からもらったお金なのに、ですよ」
無関心で愛情がない両親
容疑者本人の考えはとにかく自分勝手で、アスペルガー症候群と診断されたためか、伯父にはこう打ち明けていた。
「“俺は障がい者なんだ。障がい者手帳を取得して就職するんだ”と言うんです。“俺には権利がある、障がい者枠で働くんだ”と。そんなこと、できるかどうかわからないのに。権利を主張するのに、義務を果たさない。5歳の子どもと同じです」
だが一家を知る関係者は、
「伯父も“出て行け”など乱暴な言葉を使っていたと聞いている。感受性の強い子だったようで、うまくいかないたび家出を繰り返していました」
昨年9月頭、精神科に入院中の小島容疑者から親元に手紙が届いたことがある。
「助けてください、といった内容です。だから私たちは養子縁組に踏み切った。一朗が逃げずに堂々と生活できるようにするにはそれしかなかった。一朗も喜んでいた」(実父)
だが、話し合いの輪からはずされた伯父は激怒した。
「私が知らない間に、母(一朗の祖母)と養子縁組をされていました。母が死んだら、一朗はどうする。俺は絶対に面倒はみないと言ったんです。妹(容疑者の母)も父親も無関心で、愛情がないんです」
と伯父は小島容疑者の両親の育て方に疑問を投げかける。
母親は、週刊女性の取材にメールで「私がどんなに一朗を思って行動していたか私は恥ずかしくないです」「真相はいつかわかるので今は耐えるしかないです」などと返信。反論を控えた。
身勝手な犯行に、身内の言動はどう影響したのか。小島容疑者はどのような言い訳をするのか。公判を待ちたい。 
新幹線殺傷事件の被害者・梅田耕太郎さんの無念を思う 6/28
刺されても立ち向かった
「梅田君は、普段は大人しくて穏やかですが、困っている人を見ると、積極的に手を差し伸べてくれる人でした。今回の彼の行動も、考えるよりも先に身体が反応したのかもしれません」
東京大学大学院でともに学んだ友人は、そう語った。
6月9日夜、会社員・梅田耕太郎さん(享年38)が、搬送された小田原市内の病院で亡くなった。
司法解剖の結果、死因は失血死。身体には胸や肩をはじめ約60ヵ所の傷があった。致命傷となった首には約18cmの切り傷があり、なたで切られたとみられている。
一人の男性の命が犠牲となった、この凄惨な事件を振り返る――。
同日午後9時42分。東海道新幹線「のぞみ265号」は、ダイヤ通りに新横浜駅を出発した。
外資系の化学メーカーBASFジャパンに勤める梅田さんは、乗車すると最後列の通路側の席に腰を下ろした。横浜で2日間の社内研修を終えて、兵庫県尼崎市の自宅への帰途についたところだ。しかし、ひと息つく間もなく事件は起こる。
「逃げて逃げて!」
午後9時45分ごろ、車内に叫び声が響いた。
梅田さんの2列前に座っていた小島一朗容疑者(22歳)が、無言で立ちあがり、右側に座る女性をなたで切りつけたのだ。
突然の出来事に、車内は大パニック。恐怖に震えた乗客は、猛ダッシュで隣の車両へと急いだ。それを横目に、決死の行動で男に立ち向かったのが、梅田さんだった。
梅田さんは、加害者の背後から気づかれないように近づいた。身長180cm弱の彼は、小島を後ろから抑えて動きを制止。その隙に、女性は肩から血を流しながらも後方に逃げることができた。
その後、梅田さんは刃物を持った小島と激しくもみ合って転倒。すると、小島は迷うことなく、通路を挟んで左隣に座る女性に襲いかかった。
倒れていた梅田さんは、すぐに立ち上がり、男の凶行から女性を守るべく、再び止めに入った。
もう一人の女性を後方へ避難させた梅田さんに、小島は刃物で容赦なく襲いかかった。はじめは応戦していた梅田さんだったが、馬乗りになった小島に切りつけられていくうちに、途中で動かなくなってしまう。
午後10時ごろ、臨時停車した車両に警察官が駆け付けると、無表情の小島は抵抗する素振りも見せず、現行犯逮捕。通路の床一面は血の海で、事件の惨状を物語っていた。
自らの命をなげうって、見ず知らずの乗客2名を救った梅田さん。彼の勇気ある行動は、誰にでも真似できるものではない。38歳という若さで凶刃に倒れた梅田さんは、どんな人生を歩んできたのだろうか。
「彼らしいな」と
梅田さんは、神奈川県横浜市で育った。近隣住民によると、彼は地元では知られた人物だという。
「耕ちゃんは子供の頃から賢いことで有名。地元では『梅林小、始まって以来の秀才』と評判でした。しかも、頭が良いだけではありません。社交的で、キチンと挨拶のできる明るい子だったんです」(近隣住民)
小学校時代の梅田さんをよく知る男性も同様の意見だった。
「見知らぬ女性を守って犠牲になった、と聞いて『耕太郎君らしいな』と感じました。彼は子供の頃から正義感を持ち合わせていましたから。
たとえば、子供同士で仲間外れが起きると、『そういうのやめようよ』と注意できるタイプだったんです」
梅田さんは、梅林小学校を卒業すると、私立栄光学園に入学。元首相の細川護熙氏や、東京大学名誉教授で解剖学者の養老孟司氏らを輩出した神奈川県が誇る超名門中高一貫校だ。
「栄光学園の中でも、成績は優秀でした。しかも単なるガリ勉ではありません。スポーツも好きで、たしかバスケットボール部に入っていました。バンドも組んでいたと思います」(高校時代の同級生)
高校を卒業すると、東京大学工学部へ進学。勉強に励む一方で、テニスサークルの活動にも精力的に取り組んでいたという。
「経歴だけを見ればエリートそのもの。でも、頭が良いだけじゃないんです。それもご両親の教育のおかげでしょう。お父さんはマスコミで働いていた方。お母さんは専業主婦。どちらもしっかりした方です。
お姉さんも東大出身なのですが、子供の自慢をすることもなければ、偉ぶることもない。今回、乗客を助けたのも、たまたまできる行動ではありません。子供の頃からの教育あってのことだと思います。
それだけに『なぜ、あんないい子が』という思いがあります。残念でなりません」(前出の近隣住民)
梅田さんの父親は、日本経済新聞社の元取締役で東京本社広告局長まで務めた人物だった。
妻は帰りを待っていた
東京大学を卒業した梅田さんは、その後、東京大学大学院新領域創成科学研究科に進む。修士課程を経て、博士課程の特別研究員となった。
「特別研究員は、研究者としての将来を期待され、研究費をもらいながら学べる優秀な研究員のことです。梅田君はそれくらい優れた学生でした。『プラズマ核融合』の研究を進めていて、成果も挙げています」
そう語る当時の研究仲間は、彼の人柄について次のように語った。
「梅田君は非常に穏やかな性格で、人付き合いも積極的な学生。当時、研究室には経済的に貧しい留学生が多く、飲み会に参加する費用も持ち合わせていなかったほど。
そんな時、彼は留学生の参加費を安くしてあげて、懇親を深めようと働きかけをしてくれました。分けへだてなく留学生たちをみんな仲間に入れようとしていたことが印象深いです。
他の日本人学生は面倒くさがってやりませんが、梅田君は誰とでも交流を深めるような男でした」
母国で結婚式を挙げる時に、梅田さんを招待した研究室の留学生はこう話している。
「私は、日本語が上手く喋れない上に、日本の生活習慣が分かりませんでした。当時は自分の研究で精いっぱいで、みんなが忙しくしていたので、助けてくれる人は少なかったです。
だけど、梅田サンは、困っている時にいつも助けてくれました。母国で結婚式を挙げた時に、恩人である梅田サンを招待したのは当然のことでした」
学生時代から、こうしたエピソードに事欠かない梅田さん。大学院を卒業した後、京セラから、SABIC、そしてBASFジャパンへと職場を変えたが、その評判はまったく変わらない。
職場の元同僚はこう明かす。
「京セラでは、もともとの研究分野でもある太陽光パネルの開発をしていましたが、SABICではプラスチックを扱うということで、一から勉強していましたね。梅田君は頭が良くて、キャッチアップもすごく早いです。入社して2〜3ヵ月目には独自で動いていくような人でした。英語も流暢に話せましたし、彼が優秀だったのは間違いありません。これは他の同僚に聞いても同じように言っています。外資系にいる30代の中でも、特に活躍していたんじゃないでしょうか。また、正義感があって、仕事中も後輩に対する配慮ができる人。キャリアに関しても向上心がありました。『もっとレベルアップできる転職をしたい』と話していたこともあります。京セラから外資系のウチへ転職した理由は、年功序列で、若く有能な人が評価されづらい日系企業に多少の不満を感じていたからだとか。『若手が評価されにくい環境になっている』『後輩がなかなか評価されないんだよね』と、自分以外の人に対する配慮をしていました」
彼が所属していた社会人テニスサークルの仲間は、梅田さんについてこう語った。
「梅田さんは、上級者のクラスでプレーしていて、テニスはかなり上手でした。彼は立ち向かっていくようなプレースタイルで、逃げたりはしないタイプでしたね。お酒は好きで、サークルが終わってから一緒に飲みに行ったりしていました。男女問わず、誰にでも声をかけてくれて、紳士的な印象が強いです。テニスが上手いのに、それをひけらかすこともせず、いつも謙虚。東大出身だということも今回の報道で知りました。彼のプライベートについては聞いたことがありません。今思えば、仕事や私生活で忙しくしていたのかもしれないですね」
'14年頃、梅田さんは東京で仕事をしていたが、夫人は関西にいたという。事件当日も、夫人が待つ兵庫の家に戻る最中だった。
梅田さんの家庭について、別の元同僚は次のように答えた。
「遠距離婚、週末婚みたいな形だったと思います。『一緒に暮らしたいな』と、彼が話していたのも覚えています。それもあって、今の会社(大阪支社)に転職したんじゃないでしょうか。お子さんはいないみたいで、奥さんのお仕事も忙しいようでした。『奥さんには負けられない』と言っていましたね」
残された夫人の心痛は察するにあまりある。
母校の理念を体現
事件から翌々日の6月11日の午後に、本誌は梅田さんの実家を訪れた。瀟洒な一軒家は昼間から雨戸もカーテンも閉め切られており、それは家主の悲しみを象徴するかのようだった。
「ご両親の二人暮らしで、彼の母親は憔悴しきっていました。今は、上のお姉さんや親族の方が手伝いに来ているので、我々近所の人間はそっと見守っています」(別の近隣住民)
高校時代の友人は事件をこう振りかえった。
「栄光学園の教育理念は『Men for others(他者のための人間)』というのですが、梅田君はそれを体現していたと思います。見ず知らずの他人を助けるなんて、口では言えても実際にできる事じゃありません」
命を賭して乗客の命を守った、梅田耕太郎さんのご冥福を心よりお祈りしたい――。 
新幹線殺傷「無期懲役を狙った」 22歳男を起訴 11/19
東海道新幹線で6月、乗客の男女3人が殺傷された事件で、殺人と殺人未遂の疑いで送検された無職の小島一朗容疑者(22)が「自分で考えて生きるのが面倒くさかった。他人が決めたルール内で生きる方が楽だと思い、無期懲役を狙った」との趣旨の供述をしていることが19日、捜査関係者への取材で分かった。
また、新横浜−小田原駅間で犯行に及んだことについては「途中停車駅が少なく邪魔されずに目的を果たせると思った」と説明しているという。
横浜地検小田原支部は同日、殺人などの罪で起訴した。同支部は、刑事責任能力の有無や程度を判断するため、7月13日から4カ月間、鑑定留置を実施。精神鑑定の結果を踏まえ、刑事責任を問えると判断した。
起訴状などによると、小島被告は6月9日午後9時45分ごろ、新横浜−小田原間を走行中の東京発新大阪行きのぞみ265号(16両編成)の12号車内で、乗客の女性2人を鉈(なた)で切りつけたほか、止めに入った兵庫県尼崎市の会社員、梅田耕太郎さん=当時(38)=を殺害したなどとしている。
小島被告の起訴を受け、梅田さんの妻は代理人弁護士を通じて「突然家族を奪われた悲しみが癒えることはありません。このような悲しい事件が起きないよう願うのみです」とのコメントを出した。 
 
新幹線殺人事件・報道

 

小島一朗容疑者の母親のコメント
(小島一朗容疑者の母親のコメントが他人事でひどい「発達障害だから」「養子に出したから」 2018/6/11)
このたびはご遺族の方、また被害にあわれた方々に大変なことをしてしまい、また関係の皆様に多大なご迷惑をおかけし、心から深くお詫(わ)び申し上げます。
今回このような事件を起こしたことは、予想もできず、まさに青天のへきれきで、自殺することはあってもまさか他殺するなんて思いも及びませんでした。初めて聞いたときはまさかと耳を疑い信じられませんでした。テレビの映像を見て本当にショックで、未(いま)だに精神状態が良くありません。このような形でコメントすることを、ご容赦ください。
一朗は小さい頃から発達障害があり大変育てにくい子でしたが、私なりに愛情をかけて育ててきました。
中学生の時、不登校になり、家庭内での生活が乱れ、将来を心配して定時制高校に入れること、また自立支援施設に入れることを本人に提案したら、素直に応じてくれ、高校の3年間と職業訓練校の1年は資格も取り、車の免許も取り、無事に就職もできました。 しかし、入社後は、仕事がうまくいかず落ち込んでしまい、1年足らずでやめてしまいました。
その後はかなりの自信喪失で自殺をほのめかすようになりました。昔から岡崎のおばあちゃんに懐いており、一緒に暮らしたいと本人も希望していたので、岡崎へ行かせました。私の提案で岡崎のおばあちゃんと養子縁組をし、居場所を確保しましたが、結局居づらくなったようで、何度か家出を繰り返しました。家出中も何度か電話で話す機会があり、その時も自殺をほのめかしていました。「無理やりにでも連れ戻していたら」と、いまは悔いが残ります。すぐにでも帰って来て欲しかったですが、また同じことを繰り返すのではと思い強く言えず、なんとか自力で帰ってくるように促していました。
今回このようなことになり、どちらかといえば正義感があり優しかった一朗が極悪非道な、一生かけても償えない罪を犯したことに未だに困惑しています。受け入れ難く、やり切れない思いでいっぱいです。事実を直視するのには、まだ時間がかかると思います。このようなことを申し上げていい立場にあるのかわかりませんが、しばらくの間、そっとしていただけるとありがたいです。  
新幹線殺傷事件「殺人鬼」小島一朗容疑者の成長記録 2018/6/15
「彼が中学3年の夏休み頃、新学期のために水筒が欲しいと言ってきたことがあったんです。妻が中古の水筒を用意したんですが、『なんで中古なんだ!』と激昂された。寝室に金づちと包丁まで持って入ってきました。これはいかんと警察を呼び、大騒ぎになった。あの時、彼には言葉では通じないと痛感しました。それがキッカケで、彼は家を出た。僕としても、一朗くんと暮らすのは限界でした」
そう語るのは、6月9日に発生した新幹線3人殺傷事件の犯人・小島一朗容疑者(22)の実父だ。
東海道新幹線「のぞみ265号」にナタを隠し持って乗り込み、居合わせた乗客を無差別に切り刻む。彼が犯した突然の凶行に、車内は血の海と化した――。
これほどの残酷な事件を起こした小島は、いったいどのように成長してきたのだろうか。小島は’95年、一宮市(愛知)に生まれ、幼少期から両親と歪(いびつ)な関係を築いてきた。中学ではいじめが原因で不登校となり、進路を巡って父と没交渉に。冒頭の”水筒事件”を起こしてからは自立支援施設で暮らし、高校卒業後に機械メンテナンス会社に就職するも、長続きせず。’16年10月からは祖母と伯父の家に引き取られていた。
「一朗は仕事を辞めた後、アルバイトでトラックの配達員をしたこともありましたが、1週間で『こんなのやっとられるか』と投げ出してしまった。両親との関係が修復不可能になってウチで預かることになる時、私は『実の親が面倒を見るべきだ』と反対したんです。その後に祖母が一朗と養子縁組をした時も、こんな状況じゃ将来、トラブルになると不安でした」(小島の伯父)
祖母・伯父の家に暮らし始めてから4ヵ月後、小島は岡崎市内の心療内科で自閉症の診断を受け入院。2ヵ月後には退院したが、その後は部屋にひきこもり、ネットに耽(ふけ))る生活を送るようになる。
「なんとか社会復帰をしてもらおうと就労支援施設に就職させましたが、一朗は『こんな簡単なことは、俺のやるべきことじゃない』と1ヵ月も経たずに辞めてしまって。祖母や私にも横柄な態度を取るようになり、日に日に行動が目に余るようになったんです。そんな中、去年の12月に突然『俺は旅に出る』と言って家を飛び出してしまった。それから何度か携帯で連絡は取れたものの、どこで何をしているか、まったくわからなくなっていました」(前出・伯父)
この事件では、犯行の残虐さとともに、新幹線での”無差別テロ”がいとも容易に行われうることが明らかになってしまった。もし目の前でナタ男が暴れだしたら、なす術はない。しかし、犯人は以前からさまざまな”シグナル”を発していた。それをキャッチしていれば、未然に防げる悲劇だったのだ。 
「何も考えずに済む刑務所入りたくて」新幹線殺傷容疑者 2018/6/29
神奈川県内を走行中の東海道新幹線で乗客3人が刃物で殺傷された事件で、男性に対する殺人容疑で送検された無職小島一朗容疑者(22)=愛知県岡崎市=が県警の調べに対し、「何も考えずに済む刑務所に入りたかった。無期懲役を狙った」と供述していることが、捜査関係者への取材でわかった。県警は29日にも、けがをした女性2人への殺人未遂容疑で小島容疑者を再逮捕する方針だ。
捜査1課などによると、小島容疑者は9日午後9時45分ごろ、「のぞみ265号」で両隣の席にいた26歳と27歳の女性の頭部などを刃物で切りつけ、殺害しようとした疑いが持たれている。その際、助けに入った会社員梅田耕太郎さん(当時38)=兵庫県尼崎市=を、首を切るなどして殺害したとされる。
捜査関係者などによると、小島容疑者は調べに対し、「世間では頭を使わないと生きていけない」などと事件を起こした理由を説明。「刑務所から出たらまたやってしまう」とも話しているという。
小島容疑者は中学生の頃に家族と不仲になって親元を離れ、2016年秋からは岡崎市内の祖母宅で生活。仕事にも就いたが、長続きしなかった。昨年末に家出した後は、長野県内で野宿などをして過ごしていたとみられている。
事件前日の今月8日には、同県岡谷市のホームセンターでなたを購入。翌9日朝には、同市の岡谷駅近くでなたを振る姿が目撃されていた。同駅で特急電車に乗って上京し、昼ごろから東京・新宿駅近くのインターネットカフェなどに滞在。午後8時ごろ東京駅で切符を買い、新幹線に乗車したという。 
「私たちが加害者みたい」新幹線殺傷の容疑者の供述に両親は 2018/8/14
東海道新幹線のぞみの車内で、1人が死亡、2人が軽傷を負った通り魔殺傷事件。
なたを手に乗客を切りつけた小島一朗容疑者(22)に対し、横浜地検小田原支部は7月13日、精神鑑定を行うための鑑定留置が決まったと発表した。4か月間かけ、刑事責任能力があるかを見極める。
「事件後には近隣との付き合いもなくなり、住んでいていいのか、外出してもいいのか、という気持ちが続いています。
隣の家のお子さんが手を振ってくれたり、お父さんもあいさつしてくれたりして、救われています。妻(一朗の母親)は事件のあった6月9日以前の日常に戻りたいとこぼすことがあります」
父親(52)が、自ら加害者家族の様子をそう伝える。
父親、母親、一朗容疑者と一緒に住んでいた祖母の3人で、接見に行ったことがある。
「6月14日と15日、小田原署に、一朗の写真が入ったアルバムを持って行きました。写真を見ながら、あのときはこうだったよね、あのときはああだったとか、いろいろ話をしようと思っていたんです」
と父親。ところが─。
「面会室の扉が開き、目が合った瞬間、一朗が拒否する感じで扉を閉めたんです。3人とも“私がいるから、私に会いたくないから扉を閉めたのかな”と思ったようです」
差し入れの下着や、現金3万円の受け取りも拒否した。
祖母(82)は孫の思いをこう受け止めている。
「あんなことをしちゃったから会わせる顔がなかったんだと、私は思っている。拒んだことが一朗の良心だったんじゃないかなと思う」
事件直前に一朗容疑者が旅に出た際には、年金を下ろせるキャッシュカードまで渡していた祖母は、7月10日に今度はひとりで接見に行ったが、またしても拒否。
「手紙を送ったんだけど、警察署から電話がかかってきてね。“受け取りを拒否して読まないので破棄していいか”って。保管できないんやろうね。手紙には、旅の中でつらいことがあったの? おばあちゃん気づいてあげられなくて、ごめんねと書きました」
父親のもとには、刑事から一朗の供述内容を確認する連絡が何度も来たという。
「虐待された、ごはんを食べさせてもらえなかった、鳥小屋に住まわされたなど、今までの恨みつらみを話しているようです。言い訳ばかりです。妻も供述内容を聞いて“母親を放棄したい”と呟いています」(父親)
事件後、父親は週刊女性記者とのメールのやりとりで
《一朗が署で言った内容の問い合わせに心が痛みます。私達夫婦が加害者みたいになります》(7月15日)
《警察からは一朗の恨み辛み憎しみを聞かされ、家族も正常な精神が乱れてしまいます》(7月30日)と吐露していた。
「亡くなった方の奥さんとお母さんのコメントが載った新聞を読みました。切り抜きを仏壇に置いて、毎日手を合わせています」
という父親。祖母は、
「私には一朗のことしかない。82歳だから、一朗が帰ってくるまで生きなくちゃ。人生100年だと思ってるよ」
鑑定留置決定以降、一朗容疑者の様子は家族にも届かない。被害者に本心から謝罪の言葉を口にする日は訪れるか。 
新幹線殺傷「無期懲役を狙った」 22歳男を起訴 2018/11/19
東海道新幹線で6月、乗客の男女3人が殺傷された事件で、殺人と殺人未遂の疑いで送検された無職の小島一朗容疑者(22)が「自分で考えて生きるのが面倒くさかった。他人が決めたルール内で生きる方が楽だと思い、無期懲役を狙った」との趣旨の供述をしていることが19日、捜査関係者への取材で分かった。
また、新横浜−小田原駅間で犯行に及んだことについては「途中停車駅が少なく邪魔されずに目的を果たせると思った」と説明しているという。
横浜地検小田原支部は同日、殺人などの罪で起訴した。同支部は、刑事責任能力の有無や程度を判断するため、7月13日から4カ月間、鑑定留置を実施。精神鑑定の結果を踏まえ、刑事責任を問えると判断した。
起訴状などによると、小島被告は6月9日午後9時45分ごろ、新横浜−小田原間を走行中の東京発新大阪行きのぞみ265号(16両編成)の12号車内で、乗客の女性2人を鉈(なた)で切りつけたほか、止めに入った兵庫県尼崎市の会社員、梅田耕太郎さん=当時(38)=を殺害したなどとしている。
小島被告の起訴を受け、梅田さんの妻は代理人弁護士を通じて「突然家族を奪われた悲しみが癒えることはありません。このような悲しい事件が起きないよう願うのみです」とのコメントを出した。  
祖母宅に身を寄せ、家出繰り返し 凶行までの軌跡をたどる 2018/11/26
東海道新幹線で6月、乗客の男女3人が殺傷された事件で今月、殺人罪などで起訴された小島一朗被告(22)。逮捕以降、小島被告は動機について「自分で考えて生きるのが面倒だった。刑務所に入りたくて無期懲役を狙った」などと説明。遺族や被害者に対しては「特段、申し訳ないとは思わない」と供述している。ある捜査関係者は「反省の色は全く見られない」と唇をかむ。約4カ月間に及ぶ鑑定留置を経て起訴に至ったことを受け、改めて事件を振り返る。
「自分がそう考えているんだから、仕方がないでしょう」。小島被告は取り調べの際、気だるそうにそう言い放ったという。
小島被告は6月9日深夜に神奈川県警に現行犯逮捕されて以降、取り調べに対して「刑務所に入りたかった。無期懲役を狙っていた」「誰でもいいから殺そうと思った」と身勝手な動機を語ってきた。捜査関係者によると、取調官らの「なぜ面倒だと思うのか」との問いかけに対しても明瞭な返答はなく、動機に関して問われ続けると、いらだつような態度を示すこともあったという。
ある捜査関係者は「まさに『無気力』という表現が似合う」と吐き捨てる。約40日間にわたる取り調べの節々で、小島被告はこううそぶいた。「自分で考えて生きるのが面倒だ」と。
小島被告の家族らによると、小島被告は中学2年ごろから学校を休みがちに。自室にこもり、テレビゲームなどに没頭するようになった。些細(ささい)なことでも激高するようになり、買ってきた水筒が「中古」との理由で両親に包丁や金づちを投げつけたこともあった。
高校入学を機に自立支援施設で暮らし始めた小島被告。施設では率先して家事を手伝い、職員の指導にも素直に応じたという。
施設から定時制の高校に通い、電気工事士など複数の資格を取得。職業訓練校を経て、平成27年に埼玉県の機械修理会社に就職したが、人間関係のトラブルなどが原因で1年を持たずに退社した。地元へ戻り、祖母宅に身を寄せた。
寝室でベッドを並べた祖母に小島被告はこんなことを話していたという。「僕はこの世に適応しない」。祖母宅に身を寄せて以降、小島被告は自殺をほのめかし、家出を繰り返すように。精神的な不調が原因で入院していた時期もあり、小島被告の当時の日記には「今日は入浴の日だ」などと入院生活の日常がつづられていた。
昨年12月、再度「自由になりたい」と言い残して家を飛び出した小島被告。祖母の口座からは毎月約10万円が引き出されており、生活費に充てていたというが、今年4月に残高が底をついた。小島被告がバッグに鉈(なた)をしのばせて新幹線に乗り込んだのは、それから約2カ月後のことだった。
小島被告に入院歴があるなど、刑事責任能力の有無が危惧された一方、捜査関係者によると、小島被告が「無期懲役を狙う」という目的で、事前に凶器を用意した上で新幹線に乗車し、「途中停車駅が少ない」との理由で新横浜駅を出てから犯行に及んだとの供述内容については「理解しにくい部分もあるが、彼なりの論理には破綻がない」(捜査関係者)。横浜地検小田原支部による鑑定留置でも「刑事責任能力に問題はない」との結論に至った。
小島被告に刺されて死亡した兵庫県尼崎市の会社員、梅田耕太郎さん=当時(38)=の妻は、起訴を受けて「突然家族を奪われた悲しみが癒えることはありません。このような悲しい事件が起きないよう願うのみです」とのコメントを出した。
一方で小島被告はこうも供述している。「出所したら、また事件を起こすと思う」。裁判員裁判として審理される予定の小島被告の公判。手続きには長期化が予想されている。 
小島一朗の家族のその後 2018/12/25
小島一朗容疑者 父親
事件当時52歳の父親。
愛知県一宮市で離れて暮らす小島容疑者の父親(52)は「言葉がない。これからの人生は事件を償うことに尽くしてほしい」 「一朗君とは今は家族ではない。中学生の頃からほとんど会話はなく、関係は断絶していた。(被害者には)申し訳ない」
まるで、事件を起こしたの子は、私とは関係ないと遠回しにいっているように思います。
小島容疑者は22歳で、成人しているのですべては自己責任なのでしょうがちょっと信じられません。
現在の情報はさすがに出回っていませんが、関係は断絶したと公言しているので今もそのままでしょう。
小島一郎容疑者 母親
「このたびはご遺族の方、また被害にあわれた方々に大変なことをしてしまい、また関係の皆様に多大なご迷惑をおかけし、心から深くお詫(わ)び申し上げます。 」
「一朗は小さい頃から発達障害があり大変育てにくい子でしたが、私なりに愛情をかけて育ててきました。」
「今回このようなことになり、どちらかといえば正義感があり優しかった一朗が極悪非道な、一生かけても償えない罪を犯したことに未だに困惑しています。受け入れ難く、やり切れない思いでいっぱいです。」
年齢は不明ですが、父親が52歳ということから40代くらいではないかと推測されます。
朝日新聞での母親のコメントです。自分の子供が。。。というショックがにじみでています。本当に自分の子がと信じられないのでしょう。母親にとっては、小さい時の記憶がのこっている可愛い息子なのでがないでしょうか?
小島一郎容疑者 姉
小島容疑者が両親とともに、中学まで一緒に暮らしていたというのが姉。しかし、姉に関する情報はみつけることができませんでした。自分の弟がこのような重大な犯罪を犯したなど、とてもショックですよね。。周りにも言えないのではないでしょうか?このままメディアには登場せずに今後も過ごしていくのではないでしょうか?
小島一郎容疑者 祖母・叔父
「祖母は「夢じゃないのかと思う。まさかあの子が…」と話した。伯父は「人に危害を加える印象はない」と振り返りつつ、「大変申し訳ありません。亡くなられた方もいて、お悔やみ申し上げます」と謝罪した。」
祖母は事件当時81歳。叔父は不明です。
孫。。。ただただかわいい孫です。
小島容疑者も、両親とトラブルがあったあと身をよせていたのがこの祖母です。しかしこの祖母の家からもたびたび家出をして、叔父・祖母につれもどされていたそうです。
このように心配してくれる家族がいるのになぜ東海道新幹線のぞみ265号殺人事件、殺傷事件を起こしてしまったのでしょうか。精神科に通っていたという情報もあり、また職もてんてんとして、人間関係にも問題があったようです。
しかしだからといって殺人事件など許されません。
被害者の方、その家族、そして加害者の小島一郎容疑者の家族。
悲劇しかありません。
それぞれの方の気持ちを考えるとやりきれない気持ちになります。 
 
小島一朗

 

 
新幹線殺人 両親・祖母・伯父から見えた「小島一朗」 2018/6/20
「お前、将来どうしたいんだ、やりたいことはないのか、と聞くと“俺は死ぬんだ”“生きる価値はない”と言うんです」
そう語るのは、新幹線のぞみ通り魔殺傷事件を起こした無職・小島一朗容疑者(22)と同居していた伯父(容疑者の母親の兄=57)だ。一朗容疑者は、養子縁組した祖母(82)の家(愛知県岡崎市)で、伯父夫婦も含め4人で暮らしていた。
「“人を殺して刑務所に行く”とも言っていた。“働かなくても生きていけるところ、それが刑務所だ”と。私が、お前、生きたいんじゃん、死にたいんじゃないだろうと言ったら黙ってしまってね」(伯父)
まさに嫌なことから逃げるための言い訳ばかり。
「ホームレスになりたい」
言い訳番長ともいえる自分に甘い逃げの発言だが、祖母は、「死にたい、絶望だとかよく言っとった」と証言。母親も事件後に出した声明文に、《自殺をほのめかしていました》と記している。生きることに投げやりで絶望した容疑者を、周囲は誰も救えなかったのか。
事件は、6月9日午後9時45分ごろ、東海道新幹線東京発新大阪行き「のぞみ265号」の12号車で起きた。
13号車で事件に遭遇した落語家、桂ぽんぽ娘(38)は、先週開催した落語会『第2回ちよりん・ぽんぽ娘二人会』の冒頭で、「突然、12号車からキャーという悲鳴」「逃げてきた人が連結部分でドミノ倒し」「通路が血まみれ」などと生々しい様子を明かした。
小島容疑者は突如、ナタと果物ナイフで、隣に座っていた女性2人に襲いかかった。騒ぎに気づいた梅田耕太郎さん(38)が助けに入ったが、切りつけられ命を落とした。
「誰でもいいから殺そうと思った」と供述しているという小島容疑者が、職場や自宅から姿を消したのは昨年12月21日のことだった。
昨年11月から、岡崎市内の就労支援施設で働いていたのだが……。
「12月20日に、仕事を辞めたい、ホームレスになりたいと言い出しました。(辞める)意志は固いようで、じゃあ明日話そうと。それきり来なくなりました」(同施設職員)
祖母には「仕事を続けられない自分が恥ずかしい。旅に出ます」と告げ、“4度目となる最後の家出”を決行する。
警察の取り調べでは、事件直前まで長野県でホームレス生活を送っていたという。そして身内の前から姿を消した半年後に、凶行に及んだ。
言い訳グセがついた中学時代
事件について実父(52)は、「許されない、取り返しのつかないことをしてしまい本当に申し訳なく思っています」 そう謝罪を口にする。親子関係は、非常に悪かった。
「言うことを聞かず、子どものころは手をあげることもありました。中学になり、成績の悪い教科について、もっと頑張らないといけない、と話すと“〇〇君のほうが悪い”と返す。何度話しても平行線で、最終的には“僕はドベじゃないんだ”と泣き出す。中学では剣道部で、2年のときに1級に昇級したんですが、検定の後に“やめていい?”と言うんです。3年までやるのが部活だと言いましたが、遅刻するようになり、部活の先生から電話がかかってきていましたが、最終的には“練習の日を誰も教えてくれない”と行かなくなった。中3になると“授業がわからない、友達がいない”と学校に行かなくなった」(実父)
自身の非を認めない言い訳癖はこのころからだった。親子関係、友人関係も希薄になる中、卒業式も欠席した。
「妻が自立支援施設で働いていましたから、中2ごろから連れて行っていた。卒業後は家を出て、自立支援施設に住むことになりました」(実父)
定時制高校に進学し、卒業後は職業訓練校に進んだ。
同施設の代表は、「高校と訓練学校の計4年間住んでいました。トラブルは一切なく、お母さんも働いていますから、一生懸命フォローしていましたよ。高校の成績はオール5で、4年のところを3年で卒業しました」
事件後、母親は憔悴し、「“私は生きていてもいいのでしょうか”と。お姉ちゃんは、“一朗はここにいたときがいちばん幸せだった”と言っていました」(同代表)
祖母との生活を希望
2015年4月から小島容疑者は、機械のメンテナンスを行う会社に就職。同年8月に愛媛県へと配属された。
「仕事はできるほう。同期の人にも教えていましたから」 と同社社長。同年9月の法事では、充実の表情を見せていたという。実父が振り返る。
「給料で服を買いました、時計を買いましたとうれしそうに話をしていました。帰り際に、駅でお小遣いに5000円を渡しました。ありがとうと素直にもらってくれてうれしかったのを覚えています」
だが会社は11か月で退社。地元である愛知県一宮市へと戻ってきた。アパートを借りひとり暮らしを始めたが、貯金は半年で尽き、「最後はガスも電気も止められていた」(実父)
そのころ、小島容疑者は父親に「僕は寝る場所があり、ご飯を食べられればいい」と漏らしていたという。とはいえ、それ以外のコミュニケーションを図ることはできず、「当初は岡崎の祖母宅の近くのアパートを借りる予定でしたが、一朗はそれに納得できず1回目の家出をしてしまったのです。交渉窓口は祖母のみで、祖母と一緒に住むことが、一朗の希望でした」(実父)
祖母の家での同居生活は、'16年10月ごろから。伯父は、「ひきこもりがちになってね。家出中、祖母に6000円の掛け時計を送ってきたことがあるんです。家出に使った自転車のチェーンが切れていたのに修理せず、 “おばあちゃんにプレゼントすると約束していたから”と。時計を買ったお金は祖母からもらったお金なのに、ですよ」
無関心で愛情がない両親
容疑者本人の考えはとにかく自分勝手で、アスペルガー症候群と診断されたためか、伯父にはこう打ち明けていた。
「“俺は障がい者なんだ。障がい者手帳を取得して就職するんだ”と言うんです。“俺には権利がある、障がい者枠で働くんだ”と。そんなこと、できるかどうかわからないのに。権利を主張するのに、義務を果たさない。5歳の子どもと同じです」
だが一家を知る関係者は、
「伯父も“出て行け”など乱暴な言葉を使っていたと聞いている。感受性の強い子だったようで、うまくいかないたび家出を繰り返していました」
昨年9月頭、精神科に入院中の小島容疑者から親元に手紙が届いたことがある。
「助けてください、といった内容です。だから私たちは養子縁組に踏み切った。一朗が逃げずに堂々と生活できるようにするにはそれしかなかった。一朗も喜んでいた」(実父)
だが、話し合いの輪からはずされた伯父は激怒した。
「私が知らない間に、母(一朗の祖母)と養子縁組をされていました。母が死んだら、一朗はどうする。俺は絶対に面倒はみないと言ったんです。妹(容疑者の母)も父親も無関心で、愛情がないんです」 と伯父は小島容疑者の両親の育て方に疑問を投げかける。
母親は、週刊女性の取材にメールで「私がどんなに一朗を思って行動していたか私は恥ずかしくないです」「真相はいつかわかるので今は耐えるしかないです」などと返信。反論を控えた。
身勝手な犯行に、身内の言動はどう影響したのか。小島容疑者はどのような言い訳をするのか。公判を待ちたい。 
 
小島一朗の親(父親・母親)が虐待 2018/12/24

 

東海道新幹線殺傷事件の概要
新横浜駅と小田原駅間を走行中の東海道新幹線のぞみ265号(東京発新大阪行き、N700a系16両編成)の中で、12号車に乗車していた自称22歳の無職の男が突然刃物を振り回し他の乗客3人を刺した。
神奈川県警に「人が刺された」との110番通報の後、新幹線は小田原駅で緊急停車し、刺された乗客3人が病院に搬送され、うち男性1人が死亡した
小島一朗容疑者5歳の時に育児放棄やネグレクトにあっていた?
現状この事件では小島一朗容疑者の異常性が多く報道されています。
「誰でも良かった」「無期懲役を狙ってやった」など普通には考えられないような発言をしていますね。
しかしその発言の影には親の育児放棄など幼い頃の愛情の欠如が噂されています。
実の父親へMr.サンデーがインタビューをしているものがあり、そちらを見ていただくとかなり他人事な様子が伺えます。
冷たすぎる父親のコメントとは?
なんと小島一朗容疑者は21歳の時に両親から戸籍除外を受けています。
小島一朗容疑者の父親へのインタビュー
記者:なぜ戸籍から外したのか?
実父:本人の意思で。(施設が)学校から近いというのもあっと思いますけど。うちには居たくなかったというか、出て行くつもりだったようで
記者:本人が家に居たくないと?
実父:はい
記者:何があったと考えらますか?
実父:本人から直接聞いてください。うちが追い出したわけでもないんですけど、本人が正しいというなら正しい道を選びなさいというのが当時の父としての言い方でありまして
みなさん、自分の親から戸籍除外を申し入れられたらどう思いますか?すごく悲しいですよね。これは虐待と言ってもいいのではないかと管理人は思ってしまいました。
2人しかいない自分の親に「明日から君は家族ではないからね。」と言われたらどれほどのショックなのでしょうか。
そして実の父親はこの戸籍除外は「本人の意思で」と発言していますが、本人の意思であっても、親であれば争うでしょうし、絶対に反対するはずです。しかしその後戸籍除外をして、おばあちゃんとおじいちゃんの養子に入っています。
小島一朗容疑者を擁護するわけではないですが、幼い頃からかなり酷い立場にあったのではないか?と思ってしまいますね。そして衝撃的な画像が出てきました。
育児放棄の事実!祖父が書いた身上書!
2016年ごろ(小島一朗容疑者20歳ごろ)から小島一朗容疑者の面倒を見ていた祖父は小島一朗容疑者を更正させようと、保健所の身上書と呼ばれる、その人物の経歴、家族関係、現在の状況などを記した書類を作成していました。
その身上書には下記のような記載がありました。
衝撃の記載なのですが、なんと5歳の頃に児童保育所から発達障害の疑いを指摘されていたにも関わらず、病院にも活かせず放置していたようです。
これは完全にネグレクトと言っていいのでは・・・と思ってしまいます。
5歳っていうとまだ全然、物心ついて間もない、一番愛情を欲する時だと思うのですが、この時に病院にも行かせることなく、放置するというのは、小島一朗容疑者の成長に大きな影響を与えたのではないでしょうか?
よく子供は小さくても色々な気持ちを感じていると言いますが、このような自分に親が興味を示していないような状況があると、自分自身は必要とされていないと感じてしまい、存在意義を疑ってしまう可能性が非常に高いですよね。
その結果として自ら自分自身の命を断つような行動を取ってしまう事もあるようです。
小島一朗容疑者は自ら命を断ちたいとしきりに祖母に言っていたようで、幼い頃のこのような状況が関係しているような気もします。
小島一朗容疑者の自己否定コメント
その状況は小島一朗容疑者の発言や行動から知ることができます。
小島容疑者の近年の発言
「自分は価値のない人間だ」「この世に未練はない」
また、祖母と同居してからは頻繁に家出を繰り返すようになり、家出の際はロープを持ち出して自ら命を断つことをほのめかすような事を言っていたようです。
これはダイレクトで事件に関係があるかどうかはわかりませんが、異常な発言の裏にはこのような過去があったのでは?と感じてしまいますね。
更に小島一朗容疑者の発言からかなり衝撃的なものがありましたので紹介いたします。
鳥小屋に住まわされた衝撃の虐待の過去
2018年6月ごろに父親、母親、祖母の3人で小島一朗容疑者が拘留されている小田原署へ接見に行ったようですが、小島一朗容疑者は面会を完全拒否していました。
小島一朗容疑者の面会拒絶の真相
小島一朗容疑者の面会拒絶に対して父親のコメントはこちらです。
「6月14日と15日、小田原署に、一朗の写真が入ったアルバムを持って行きました。写真を見ながら、あのときはこうだったよね、あのときはああだったとか、いろいろ話をしようと思っていたんです」
「面会室の扉が開き、目が合った瞬間、一朗が拒否する感じで扉を閉めたんです。3人とも“私がいるから、私に会いたくないから扉を閉めたのかな”と思ったようです」
両親、祖母が面会しているのですが、完全に拒絶して扉を閉めてしまったようです。
これは余程会いたくなかったのでしょうね。
普通なら「迷惑かけてごめん」となりそうな場面ですが、面会拒絶という事は、憎しみや恨みなどまだ色々な感情が小嶋一朗容疑者の中にあることが想像されますね。
もしも自責の気持ちがあれば、自分なら謝るなと思ったのですが、逆に他責の念があれば、面会してきた人間とは絶対に会わないと思います。
自分を虐げた、虐待した人間が今、刑務所の外で自由に暮らしている、更にその人間が今まで自分を散々無視し続けてきたのに、手のひらを返したように愛情を傾けようとしている。。。
想像なのですが、このような気持ちになっていたりすると思うんですよ。
なぜ今になって愛情を傾ける?これは自分の身を守るためにしている事じゃないのか?世間体を気にして面会に来たんじゃないのか?
など色々なマイナスの感情が沸き起こっているような気がします。
面会拒絶は鳥小屋虐待が影響!
そして小島一朗容疑者なのですが、自分の両親に対して下記のような過去を明かしています。
これは2018年の7月〜8月ごろに明かされた内容となります。
小島一朗容疑者の両親への発言 「虐待された、ごはんを食べさせてもらえなかった、鳥小屋に住まわされた」
鳥小屋!?これが本当であれば、相当な虐待ですね。
実際に小島一朗容疑者が発言している事なので、どこまでが本当かはわかりませんが、事実であれば大変な事ですよね。
本当に鳥小屋に住まわされていたとしたら、自分には価値がないのかと感じてしまうのも理解できてしまいます。
もう人間扱いされていないです。
しかもご飯なども食べさせてもらえなかったと供述もしています。
これらの供述を見ていると、とても普通の環境で育って来たとは思えず、両親の責任に関しても多少なりとも感じてしまいますね。
この小島一朗容疑者の発言を受けて父親は下記のように発言しています。
父親・母親と祖母の正反対のコメント
父親のコメント
「言い訳ばかりです。妻も供述内容を聞いて“母親を放棄したい”と呟いています」
「一朗が署で言った内容の問い合わせに心が痛みます。私達夫婦が加害者みたいになります」(7月15日)
「警察からは一朗の恨み辛み憎しみを聞かされ、家族も正常な精神が乱れてしまいます」(7月30日)
なんだか他人事なんですよね。小島一朗容疑者の祖母の発言を見ているとあまり対照的なので、おかしいなと思ってしまいます。
小島一朗容疑者の祖母の発言1
「あんなことをしちゃったから会わせる顔がなかったんだと、私は思っている。拒んだことが一朗の良心だったんじゃないかなと思う」
これは小島一朗容疑者を両親と祖母が訪問した時に小島一朗容疑者に面会拒否された時に祖母が言った言葉です。
小島一朗容疑者の祖母の発言2
「私には一朗のことしかない。82歳だから、一朗が帰ってくるまで生きなくちゃ。人生100年だと思ってるよ」
こちらは週刊女性の記者とのメールのやり取りのようです。
自分の子供がもし事件を起こした場合、反省して罪を償ってほしいと思う反面、このような祖母のような反応をする事が自然のような気がします。
もちろん被害者の方に申し訳ない気持ちを表明する必要があるが、自分のただ一人の家族を心配する気持ちがあってもいい気がする。
しかし父親や母親は「母親を放棄したい、一朗の恨み辛みで精神が乱れる」など一貫してその向こうにある、小島一朗容疑者の本当の気持やなぜそのような事を言っているのかという原因をわかろうとしていないように思います。
一方で祖母は小島一朗容疑者の本当の意図や気持ちを一生懸命探ろう、寄り添おうとしているように見えますね。
この違いが管理人に違和感を感じさせています。
正直どちらが正しいのかはわかりませんが、異常な行動を取り、事件を起こした小島一朗さんがいるのは事実なので、何らかの育て間違いなど、幼少期には普通ではない事があったのではないかと想像でします。
まとめ
事件の裏には幼少期の出来事が関連しているんじゃないか?と思わざるを得ない供述がかなりありますね。
真相はその本人や家族にしかわからない部分が多いですが、小島一朗容疑者にはしっかりと罪を償ってほしいですね。  
 
小島一朗 2019/1/16

 

12月25日(火)19:00よりTBS系で“戦後重大事件の新事実2018”が放送されます。まだ記憶に新しい新幹線無差別殺傷事件。犯人は小島一朗容疑者。被害者は二人の女性が重傷、そして自分の命と引き換えに、二人の女性の命とその他大勢の乗客の命をも守った一人の英雄…梅田耕太郎さん。未だこの最悪な事件を起こした小島一朗容疑者は反省の色はないようです。今回、何故こんな事件を起こしたのか、小島一朗容疑者の現在を調べました。そして家族である父親からは他人事のような言葉もありました。
戦後重大事件の新事実2018
なぜ犯行に及んだのか?犯人の足跡を公開!現場では一体何があったのか?
たった1人の決死の救出劇!乗客880人を守った英雄の素顔とは ?
別名 東海道新幹線小田原無差別殺傷事件
日時 2018年6月9日21時23分
場所 東京発新大阪駅行き のぞみ265号車内
死亡者 1名
負傷者 2名
土曜夜の惨劇は、車内に響き渡った「この野郎!」という怒声から始まった。
9日午後9時45分ごろ、東海道新幹線新横浜−小田原間を走行中の東京発新大阪行きのぞみ265号の12号車内で乗客の男女3人が刃物で襲われ、会社員の梅田耕太郎さん(38)=兵庫県尼崎市=が死亡。隣席の女性(26)と通路を挟んで座っていた女性(27)も頭部や左肩を切りつけられた。
車内の防犯カメラの映像を分析している県警などによると、新横浜駅からの発車数分後、小島容疑者は突然怒声を上げて立ち上がり、鉈(なた)で右隣席の女性を襲撃。後方席に座っていた梅田さんが小島容疑者の腕をつかんで止めようとしたが転倒。その間に通路を挟んで左隣の女性を襲ったという。
起き上がった梅田さんが再び止めようとしたが、小島容疑者は鉈を一振り。首を切られた梅田さんに、馬乗りになって鉈を振り下ろし続けた。緊急停止した小田原駅で警察官が殺人未遂容疑で小島容疑者を現行犯逮捕。逮捕直前、小島容疑者は梅田さんをまたぐような状態で固まっていたという。
梅田さんは胸の周辺数十カ所を切りつけられていた。傷同士が重なり合い、正確な数を算出するのが困難な状態だったといい、ある捜査関係者は「ここまでひどく切られた遺体は見たことがない」と絶句した。
小島一朗容疑者の生い立ち
名前 小島 一朗 (こじま いちろう)
年齢 22歳
職業 無職
在住 愛知県岡崎市蓑川町
出身 愛知県一宮市
学歴 定時制高校
1996年…
愛知県一宮市で生まれる。
中学2年生…
『授業についていけない』を理由に不登校になる。両親との折り合いもつかなくなった。両親と一緒に住んでいた一宮市を出て生活困窮者の支援施設で約5年も暮らした。そして職業訓練校に通う事になる。施設から定時制高校に3年間通い、名古屋市内で1年間職業訓練を受けた。しかし施設での問題行動などは無く、本来4年かかる所を3年で卒業するほど高校の成績は良かった。
2015年…
職業訓練を終え機械修理会社に就職。施設を出て埼玉県愛媛県で働いたものの人間関係を理由に退職した。
2016年春…
岡崎市で伯父と祖母(82)と同居することになった。2階の部屋に引きこもりパソコンでインターネットをする事が多かったようです。
2016年冬…
人間関係のトラブルをめぐって、離職(この期間に精神科に通いつめていた事もあった)
2017年4月…
離職によって両親ともトラブルになり、実家を出て祖母の家に泊まることになった。
2017年10月…
祖母の家の養子になった
2017年冬… 祖母
の家でも頻繁に家出を重ねるようになり、この時期から『旅に出る』と言い残して姿をくらませることが多くなった。
小島一朗容疑者の現在は?
そして気になるのは小島一朗容疑者の今現在です。
小島一朗容疑者は未だに反省の弁は無いです。
小島の一朗容疑者の犯行の理由は『社会に不満があり、人を殺す願望が昔からあった』と供述している一方で、新幹線で犯行に及んだ理由について『特にない』としている。
これはもしかしたら…新幹線で犯行を及ばなかったとしても、行きついた先で犯行に及んでいたかもしれないという事です。
本当に梅田耕太郎さんが自分の命と引き換えに全ての人の命を守ったという事でしょう。
独居房に収容された小島一朗容疑者はまるで修学旅行生のようだと関係者は語っているようです。
警察官にも笑みを浮かべ、反省しているようにはこれっぽっちも見えないと。
夕食出されたカレーライスを『いただきまーす』と声に出して平らげ、3食を5分〜10分で食べ終えているようです。
小島一朗容疑者は警察官に対し、『畳の上で寝るの久しぶりなんですよ』などとも話しているようです。
家族(父親)は他人事?
そんな中家族は…
父親と母親と祖母は小田原署の面会に行きましたが、即座にドアを閉め面会を拒否。
『誰にも会いたくない』と警察官に伝えたそうです。
差し入れの下着や現金3万円、送った手紙も受け取り拒否をされたようです。
父親は語ります。
「警察には『親子の縁を切られた』など、家族への恨みつらみを話しているとか……。なんでも人のせいにする性格は、昔からまったく変わっていません…一朗がどうしてあんな事件を起こしてしまったのか、ハッキリした理由がわかりません。『ボクは悪くない』と話しているそうです。一緒に被害者や遺族の方に謝ることができるようになるまで、私たち家族も前に進めません」
私にはこの家族にも責任があると思います。
そもそも育て方が悪かったとは思わないのかな?
姉と弟(小島一朗容疑者)の間に差別もあったようです。
だから中学生の時に折り合いが悪かった理由がそこにあるとは思わないのか?
凶悪な殺人鬼を生み出したのはこの家族だという事を認識しなければならない。
もちろん…
「むしゃくしゃしていた。死刑はイヤだが無期懲役ならいい」
みんなの反応は?
犠牲者・梅田耕太郎さんは幼いころからとても真面目で中学生高校生の頃には地元では有名な優秀な子だったそうです。しかも挨拶もしっかりできる、友人からも人気のある、誰からも愛されるような子だったそうです。それとは真逆な人生を送っていた…と言っても過言ではない小島一朗容疑者。
神様の悪戯なのか…やはり子供の頃からの生活環境は大人になってから大きな“差”が出るのでしょうか?いやそれはきっと責任を外的要因にしているだけで、本人の問題でしょう。しかしあまりにも理不尽で身勝手な小島一朗容疑者には一生理解の出来ない部分かもしれませんね…。
事件は6月9日。半年以上経ちました。梅田耕太郎さんのご家族はまだまだまるで昨日の事でしょう。
今改めてご冥福を心よりお祈り申し上げます。 
 
 
 

 

 秋葉原通り魔事件   
 
秋葉原通り魔事件
 2008/6/8
 
2008年(平成20年)6月8日に東京都千代田区外神田(秋葉原)で発生した通り魔殺傷事件。7人が死亡、10人が負傷(重軽傷)した。マスメディアや本件に言及した書籍においては秋葉原無差別殺傷事件と呼ばれることが多い。
事件概要
2008年6月8日12時30分過ぎ、東京都千代田区外神田四丁目の神田明神通りと中央通りが交わる交差点で、元自動車工場派遣社員の加藤 智大(かとう ともひろ、1982年9月28日 - 、犯行当時25歳)の運転する2トントラック(いすゞ・エルフ)が西側の神田明神下交差点方面から東に向かい、中央通りとの交差点に設置されていた赤信号を無視して突入、青信号を横断中の歩行者5人をはねとばした。
このトラックは、交差点を過ぎて対向車線で信号待ちをしていたタクシーと接触して停車。周囲にいた人々は最初は交通事故だと思っていたが、トラックを運転していた加藤は車を降り、道路に倒れこむ被害者の救護にかけつけた通行人・警察官ら17人を、所持していたダガーで立て続けに殺傷した。
さらに、加藤は奇声を上げながら周囲の通行人を次々に刺して逃走。事件発生後まもなくして近くの警視庁万世橋警察署秋葉原交番から駆けつけた警察官が加藤を追跡し距離を詰めたところ、防護服を斬り付けられるなど命の危険に晒されるも、警棒で加藤の側頭部を殴りつけるなどして応戦した。最後には拳銃の銃口を加藤に対して向け、武器を捨てるよう警告し、応じなければ拳銃を発砲することを通告した。それに応じダガーを捨てた加藤を非番でたまたま居合わせた蔵前警察署の警察官とともに取り押さえ、旧サトームセン本店(現・クラブセガ秋葉原新館)脇の路地で現行犯逮捕した。事件当日は日曜日で、中央通りは歩行者天国の区域となっていた。この日も多くの買い物客や観光客でごった返しているなかの凶行であり、事件直後に多くの人々が逃げ惑い、また、負傷者が横たわる周囲が血の海になるなど事件現場はさながら戦場の様相を呈しており、まさに白昼の惨劇であった。加藤はナイフは他にも5本所持していたことが明らかになった。なおこれらはおよそ5 - 10分ほどの間の出来事だった。
警視庁捜査一課・万世橋署は6月10日、加藤を東京地方検察庁に送検、同地検は7月7日、加藤の精神鑑定のため、東京地方裁判所に鑑定留置を請求し認められた。留置期限の10月6日までに、「刑事責任能力がある」という結論が出されている。
救急活動
これらの犯行に対する救命活動はおおむね迅速に遂行された。犯行現場にいた一般の通行人は、加藤がまだ拘束されていない段階から積極的に被害者たちに対する一次救命処置を開始し、また、携帯電話などを活用しての迅速な通報がなされた。
東京消防庁は12時36分に最初の119番通報を受信、通常の交通事故による救急事案として、救急隊1隊と救急隊支援のための消防隊1隊を出動させたが、さらに通報が相次いだことから、指揮隊1隊と救急隊4隊を応援隊として出動させた。12時43分には最初の救急隊(浅草消防署浅草橋出張所)が現場に到着した。現場到着部隊は、通常の態勢で対処できる状況ではないと判断し、現場到着とほぼ同時に、災害派遣医療チーム (DMAT) の出場を要請、東京消防庁は東京DMATに対して出動要請を行った。12時47分には消防の現場指揮本部から応援要請を受け、多数の傷病者に対応するための「救急特別第1出場」を発令、救急隊10隊や、東京DMATの支援のための消防隊(東京DMAT連携隊)などを追加出動させた。12時49分には、先に出動を指令された救急隊5隊が現場での活動を開始している。
東京消防庁がDMATチームに出動を要請してから12分後の12時55分、現場からもっとも近かった日本医科大学付属病院高度救命救急センターのDMATチームが現場に到着した。日本医大DMATチーム指揮官は、犯行規模の大きさからDMATチームをさらに2チーム追加投入するよう要請し、13時8分に東京医科大学病院のDMATチームが到着、これにより、殺人事件としては初のDMATチーム複数投入が実施されることとなった。最終的には、日本医大、東京医大に加え、白鬚橋病院と都立広尾病院の4チームが現場に展開している。13時過ぎにはDMATチームの現地指揮所が設置され、最初に現場に展開した日本医大チームが全体の指揮をとることで指揮系統が確立された。
これらのDMATチームが主導することで、救急活動はおおむね円滑に遂行されたと評価されている。一方で、DMATチームの出動に頼ったために、初動のトリアージに遅れが出た可能性も指摘されている。
被害者
17名がトラックではねられたり刺されたりするなどの被害を受け、そのうち7名が死亡した。通り魔事件としては過去30年で最悪の事件とみられている。被害者数は平成時代に起きた無差別殺傷事件としては、7年前の同じ日に発生した附属池田小事件に次ぐ惨劇になった。
加害者・加藤智大
加藤の経歴
1982年
9月28日 - 青森県五所川原市で出生。
1998年
4月 - 青森県立青森高等学校入学(母が卒業した学校であり母が進学を望んでいた)。
2001年
2月 - 青森県立青森高等学校卒業(学業に意欲を持てず成績は低迷し、母が望んでいた北海道大学への進学を断念)。
4月 - 中日本自動車短期大学自動車工学科入学。
2003年
3月 - 中日本自動車短期大学自動車工学科卒業(学業に意欲を持てず成績は低迷し、自動車整備士の資格を取得せず)。
4月 - 母から資金提供を受け、宮城県仙台市内にアパートを借りて一人暮らしを始めた。
7月 - 仙台市の警備会社に就職、警備事業部に配属され、警備現場の警備員に配属。雇用形態は準社員。月収は残業を含めて、多い月で25万円に達した。同じ職場で働いている人の中で仕事以外で交友する友人がいた。
2004年
1月 - 内勤に異動になり、警備業務の案件ごとに必要な人を配置する職種に配属。月収は固定給になり手取りで17万6000円。
4月 - 母から資金提供を受けて、自動車運転免許を取得、30万円の自動車を購入。自動車の改装のため消費者金融から借金。
2005年
2月 - 職場の人間関係の不満に対する抗議の表明として無断欠勤し、警備会社を退職。
4月 - 一般労働者派遣事業(登録型派遣)会社と契約し、埼玉県上尾市の自動車メーカーの工場に派遣。住居は派遣会社が提供する独身寮。月収は残業や休日出勤を含めて、多い月で27万円に達した。同じ職場で働いている人の中で仕事以外で交友する友人はできなかった。ネット上の掲示板への投稿に深入りするようになった。70万円の自動車を借金して購入。
2006年
4月 - 職場の人間関係の不満に対する抗議の表明として無断欠勤し、派遣会社を退職。
5月 - 一般労働者派遣事業(登録型派遣)会社と契約し、茨城県つくば市の住宅部品メーカーの工場に派遣。住居は派遣会社が提供する独身寮。同じ職場で働いている人の中で仕事以外で交友する友人はできなかった。ネット上の掲示板への投稿に深入りするようになった。
8月 - 職場の人間関係の不満に対する抗議の表明として無断欠勤し派遣会社を退職。青森や仙台時代の友人宛に、自殺するつもりであると携帯電話のメールで送信し、青森の母宛に電話した。メールを受信した友人たちは考え直すよう説得するメールを返信した。3年ぶりに両親宅に帰宅し母と面会した。母は子供時代の教育姿勢を謝罪した。
9月 - 母は次に仕事が決まるまでしばらく自宅で休養するように勧めた。父はこのまま自宅にいていいと勧めた。
秋 - 高校時代の友人たちとたびたび飲食し歓談した。母から資金提供を受けて大型自動車運転免許を取得。
2007年
1月 - 青森の運送会社に大型輸送車の運転士として就職。
3月 - 雇用形態が正社員に変更。同じ職場で働いている人の中で仕事以外で交友する友人がいた。高校時代の友人たちとの交友関係も継続していた。
7月 - 自宅を出て青森市内にアパートを借りて一人暮らしを始めた。
9月 - ネットの掲示板の投稿者と面会する2週間の旅行のための休暇を会社に対して申請するが、会社から却下されたことに対する抗議の表明として無断欠勤し、運送会社を退職。借金の返済をしないまま青森を去る。
9月〜10月 - 掲示板の投稿者と面会するための旅行を繰り返す。
10月 - 掲示板の投稿者宛に、自殺するつもりであるとメールを送信し、メールを受信した人たちは考え直すように説得した。駐車場に無断駐車した自動車内で寝泊まりしていて、警察官に職務質問され、自殺するつもりと供述し、警察官は考え直すように説得した。
11月 - 一般労働者派遣事業(登録型派遣)会社である日研総業と契約し、関東自動車工業の静岡県裾野市に所在する工場に派遣。住居は派遣会社が提供する独身寮。日勤と夜勤の交代制で、月収は残業や休日出勤が多い月は手取りで20万円(寮費を引いた金額)、残業や休日出勤が無い月は手取りで14万円。同じ職場で働いている人の中で仕事以外で交友する友人がいた。ネットの掲示板への投稿に深入りするようになった。
2008年
5月 - 派遣会社が6月末での派遣契約の解約と、希望者には他の派遣先を紹介すると通知したため、他の派遣先で就業することを選んだ。そのことについて特に不満はなかった。
5月〜6月 - 掲示板をなりすましに荒らされ、掲示板荒らしが去って孤独を感じ、掲示板に通り魔事件を起こすと投稿するようになった。
6月 - 更衣室で自分の作業服が見つからないことを理由に無断欠勤し、そのまま職場放棄。その後は、通り魔事件を起こすとの予告を掲示板に投稿を繰り返し、通り魔事件に使用する自動車やナイフを準備をして、6月8日の事件に至る。
犯行に使用されたトラックは犯行日前日に静岡県沼津市でレンタカーとして借りた車であった。当人はより大きな車両を借りたいと考えていたが、借りるにはクレジットカードが必要であり、当人は所持していなかったため犯行に使われたトラックになった。犯行に使用されたダガーなどのナイフ類6本は、犯行日2日前に福井県福井市のミリタリー輸入雑貨店で購入したものであった。トラックで人をはね飛ばすのは2005年(平成17年)4月に発生した仙台アーケード街トラック暴走事件(加藤は仙台市の事件現場の近くに住んでいたことがある)を、ナイフで人を襲うのは2008年(平成20年)3月に発生した土浦連続殺傷事件を参考にしたと供述している。加藤はそのトラックを自ら運転し、東名高速道路を経由して上京し、ネットの掲示板荒らしに対する抗議の表明手段として、通り魔殺人を行った。
加藤は拘置所において弁護士以外との面会を拒否し、手紙の受け取りを拒否し、マスコミの取材を拒否して自著以外ではコメントを発してこなかった。
神戸親和女子大学教授の片田珠美は、加藤の屈折した人格形成について母親の影響があったと意見している。
加藤は非喫煙者である。
事件のきっかけの一つである掲示板
さらに、加藤は心のよりどころとしていた携帯サイトの電子掲示板で千回を超える書き込みを行っていた。そこでは「不細工スレの主」という独自キャラを確立していたが、なりすましによる偽物が現れたために次第に孤立感を深めていった。加藤は、掲示板との関係について「依存と一言で片づけてるものではなく、全ての空白を掲示板で埋めてしまうような使い方をしていた」という。加藤は「掲示板の成りすましによる偽物に間接的に攻撃するために大事件を起こす」ことを決意し、「近年大きく報道されていた大事件として記憶していたのが無差別殺傷事件」として、次第に殺人を予告する書き込みを行うようになっていった。加藤は「大事件は大都市、大都市は東京、東京でよく知っているのは秋葉原」として襲撃場所は秋葉原に決まり、「日曜日なのは秋葉原の歩行者天国が思い浮かんだから」として日曜日に秋葉原の歩行者天国に襲撃することが決まっていく。
6月8日5時21分、「秋葉原で人を殺します」とのタイトルで、「車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら」との犯行予告を行った。その後、沼津市から犯行現場まで移動する間に約30回のメッセージを書き込んでいた。同日12時10分に犯行現場で最後の投稿をし、その20分後の12時30分に事件が発生した。
否定された犯罪要因
労働環境
加藤が派遣労働社員であったことから、若者の雇用環境が厳しくなっていることで将来に希望を失い、事件の動機になったとする見方も出た。また、この事件をもって若者の雇用環境悪化を問題視する意見が報道機関から多数出て、読者からの投稿でもそれに追随する意見が出された。だが、刑事裁判において、加藤は本件犯行の動機も原因も雇用形態が派遣であることとは無関係であると供述し、弁護人も検察官も裁判官も、その供述が事実であると認定した。加藤は短期大学卒業後の最初の就職から事件を起こす直前まで働いていた最後の就職先まで、全ての就職の雇用形態が登録型派遣労働社員だったわけではなく、青森県の運送会社では正社員として、宮城県の警備会社で準社員として、直接雇用されている(後に自己都合退職)。加藤は、短期間で転職を繰り返した理由は、上記のように職場や人間関係に対して不満があると、雇用主や同じ職場で働いている人と話し合いをせずに、不満への抗議の表明手段として、無断欠勤してそのまま職場放棄して退職するという、極端な考え方とその現象としての言動が原因であると、裁判で供述している。また加藤による自著『解+』においても否定している。
作業服の紛失
加藤は一貫して否定しており、加えて取り調べ段階において、供述の文言を書き換えて勝手に動機とした捜査機関による捏造行為があったことを述べている。
負け組
加藤が掲示板に「負け組は生まれながらにして負け組なのです まずそれに気付きましょう そして受け入れましょう」などと書き込んでいたこともあり、事件後加藤を負け組の英雄とし、「神」「教祖」「救世主」とまでみなす共感現象が起きた。これに対し、加藤は「本気で自分を「負け組」だと考える人のことは全く理解できません。また、自分の努力不足を棚に上げて「勝ち組」を逆恨みするその腐った根性は不快です。」と切って捨てている。
社会的孤立
社会学者の宮台真司は社会の側の包摂が足りないのが原因として「絆のある人間関係の中で生きられること」が必要などと主張したが、加藤は地元の青森や仙台を中心に趣味の合う仲の良い友人が幾人もおり、どの職場でも友人付き合いをし、心を開いて話をする店主がいる行きつけの酒場などもあった。また掲示板を介しても自らオフ会を提案し、全国を旅行して相手先に宿泊し心を通わせるなど、積極的人間関係の構築により友人が多数いた。事件当日も作業着事件で辞めた元職場の友人へ遊ぼうと呼びかけている。また、「若者が希望を持てる社会、などと言われたりしているようですが、意味不明です。何故そうやって社会のせいにするのか、全く理解できません。あくまでも、私の状況です。社会の環境ではありません。勝手に置き換えないでください。」と述べている。北海道大学准教授の中島岳志は「コミュニケーションが下手で、友達がいない若者はたくさんいる。加藤はうまくやっている方で、もしかしたら、私が教えている学生の方が友達がいないかもしれない。なのに、加藤は孤独だった。問題は友達がいないことではなくて、友達がいるにもかかわらず孤独だったこと」と主張している。
学歴
加藤は親への恨みから大学に進まなかったことを、不利益であったため後で考えれば損だったとは述べているものの、「事件とは無関係です」ときっぱり否定し、むしろそのような動機を盛る者達の学歴に対する劣等感を指摘している。
「盛られた動機」に対して
加藤は繰り返し捜査機関側が都合のいい供述調書を作ろうとさまざまな動機をでっち上げ、それを前提とした供述をさせようとしたことを挙げ、そのような「盛られた動機」を調べもせずに垂れ流す 「広報」と化した大手報道媒体を捜査機関とともに批判している。また「専門家の話もほとんど嘘」と指弾し、そこから出てくる対策に効果などないと結論づけている。
過去の自暴自棄
加藤は精神的に不安定になり、短大時代には対立していた学生がいる寮をエアガンで襲撃する計画を立てたり、仙台の警備会社では事務所に火をつけるかトラックで突っ込むかして襲撃する計画を立てたり、地元の青森で車で対向車線側のトラックに突っ込んで自殺するという計画を立てたりしていた。しかし、襲撃計画は、短大卒業寸前に退寮したり警備会社を無断欠勤したりすることで、実行する気は収まった。2006年8月末と2007年には自殺計画を練り、友人や家族に自殺予告のメールをした後で実行に着手しようとしたが、最終的には実行しなかった。
起訴および裁判
3ヶ月にわたる精神鑑定の結果、「完全な責任能力あり」との鑑定結果が出されたことから、東京地方検察庁は10月6日から被害者や遺族への通知を開始し、10月10日に加藤を殺人、殺人未遂、公務執行妨害、銃刀法違反での起訴に踏み切った。
10月31日には公判前整理手続に入ることが決定され、翌2009年(平成21年)6月22日には第1回公判前整理手続が行われ、弁護側は起訴事実を大筋で認めた。
第一審・東京地裁
2010年(平成22年)1月28日、東京地方裁判所にて、刑事裁判による第一審の初公判が開かれた。同日、加藤は事件発生後、初めて公の場に姿を現した。なお、この裁判は裁判員裁判制度施行前に起訴された事件で、裁判員裁判の対象外である。東京地方裁判所の裁判官のみで審理し、判決が出た。
・開廷直後、村山浩昭裁判長により、刑事訴訟法にのっとって人定質問がなされ、被告人の氏名、住所、生年月日、職業、住居、本籍地などを確認した。これは人違いを防止するためのものであり、どの刑事裁判でも、初公判時に必ず行われる。
・検察側の起訴状朗読のあと、検察側の冒頭陳述にて、当該事件の内容が詳細に述べられた。
・裁判長による黙秘権の説明のあと、罪状認否において、加藤は起訴事実を認めた。弁護人からは責任能力に疑問がある旨の冒頭陳述があった。
2011年(平成23年)1月25日、東京地方裁判所で行われた第28回公判の論告求刑で、検察は加藤に対して「犯罪史上まれに見る凶悪事件で人間性のかけらもない悪魔の所業。多数の模倣犯を生み悪影響は計り知れない。命をもって罪を償わせることが正義だ」と述べ、死刑を求刑した。
同年2月9日、東京地裁(村山浩昭裁判長)で第29回公判(最終弁論)が開かれ、弁護側は最終弁論で「死刑を科すべきではない。人を殺すこと自体が目的ではなかった」として、死刑回避を求めた。最終意見陳述で、加藤被告人は「今は事件を起こすべきではなかったと後悔し、反省しています。遺族と被害者の方には申し訳なく思っています」と意見陳述し、結審した。
同年3月24日、判決公判が開かれ、東京地裁(村山浩昭裁判長)は、加藤被告人に求刑通り死刑判決を言い渡した。判決理由では完全責任能力、比較的軽傷だった被害者への殺意、制服警察官に対する公務執行妨害罪について検察の主張通りに認定した。
直接的な動機としては掲示板荒らしに対する抗議の表明、根本的な原因としては不満に対して多様な観点から熟慮せず、話し合いで解決しようとせず、自分の意思を相手に分からせるために、直接的行動で相手の望まないことをしたり、相手との関係を遮断したり、暴力を行使する考え方、間接的な原因として母の養育方法が前記のような加藤の人格形成に影響を与えたと認定された。
控訴審・東京高裁
2012年(平成24年)6月、被告人・加藤の控訴により東京高等裁判所で控訴審第一回公判が開かれ、死刑回避を主張した。
2012年9月12日に判決公判が開かれ、東京高裁(飯田喜信裁判長)は「被告人・加藤は犯行当時、完全責任能力を有していた」として、第一審の死刑判決を支持し被告人・加藤の控訴を棄却する判決を言い渡した。加藤は控訴審に一度も出廷しないまま結審することとなった。
弁護人は同年9月25日付で「加藤被告人には精神障害の疑いがあり、死刑判決は不当である」と主張して最高裁判所へ上告した。
上告審・最高裁第一小法廷
2014年(平成26年)12月18日、最高裁判所第一小法廷(桜井龍子裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれた。弁護側は「被告は事件当時、心神喪失もしくは心神耗弱だった疑いがある。死刑判決は破棄されるべきだ」と主張、検察側は上告棄却を求めて結審。
2015年(平成27年)2月2日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第一小法廷(桜井龍子裁判長)は「動機に酌量の余地は見いだせず、死刑を認めざるを得ない」として、一・二審の死刑判決を支持して加藤被告人・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡した。
加藤は判決を不服として最高裁第一小法廷判決の訂正を申し立てたが、同月17日付で同小法廷の決定により棄却されたため、同日付で死刑が確定判決となった。  
 
秋葉原通り魔事件 加藤智大の生い立ち

 

秋葉原通り魔事件
秋葉原通り魔事件(あきはばらとおりまじけん)は、2008年(平成20年)6月8日に東京都千代田区外神田(秋葉原)で発生した通り魔事件である。7人が死亡、10人が負傷した。マスメディアや本件に言及した書籍においては「秋葉原無差別殺傷事件」として報じられることが多い。
2008年(平成20年)6月8日12時30分過ぎ、東京都千代田区外神田四丁目の神田明神通りと中央通りが交わる交差点で、元自動車工場派遣社員である加藤智大(かとう ともひろ、当時25歳)の運転する2トントラックが西側の神田明神下交差点方面から東に向かい、中央通りとの交差点に設置されていた赤信号を無視して突入、青信号を横断中の歩行者5人をはねとばした。
このトラックは交差点を過ぎて対向車線で信号待ちをしていたタクシーと接触して停車。周囲にいた人々は最初は交通事故だと思っていたが、トラックを運転していた加藤は車を降りた後、道路に倒れこむ被害者の救護にかけつけた通行人・警察官ら14人を、所持していた両刃のダガーで立て続けに殺傷した。
さらに、加藤は奇声を上げながら周囲の通行人を次々に刺して逃走。事件発生後まもなくして近くの万世橋警察署秋葉原交番から駆けつけた警察官が加藤を追跡し警棒で応戦、最後には拳銃の銃口を加藤に対して向け、ダガーを捨てるよう警告した。それに応じナイフを捨てた加藤を非番でたまたま居合わせた蔵前警察署の警察官とともに取り押さえ、旧サトームセン本店(現・クラブセガ秋葉原新館)脇の路地で現行犯逮捕にて身柄を拘束した。これらはおよそ5 - 10分間ほどの間の出来事だった。
事件当日は日曜日で中央通りは歩行者天国となっている区域だった。この日も多くの買い物客や観光客でごった返しているなかの凶行であり、事件直後に多くの人々が逃げ惑い、また、負傷者が横たわる周囲が血の海になるなど事件現場はさながら戦場の様相を呈しており、まさに白昼の惨劇であった。加藤はナイフは他にも5本所持していたことが明らかになった。
加藤智大の生い立ち
加藤智大被告の生い立ちを紐解くと、まず、あの母親の息子として生まれた事が第一の不幸だと思います。加藤智大被告の母は、県下一の進学校、青森県立青森高等学校卒の教育熱心な母親として有名であった。マスコミから伝わってくる様子は以下の通り。
幼少から厳しく育てられた。
冬の寒い日に(話は青森である)薄着で外に立たされているのを見た近所の人がいる。
小学生の頃から珠算やスイミングスクール、学習塾に通わされた。
友人の家に遊びに行くことも、友人を家に呼ぶことも禁止。
作文や絵画は親の検閲がはいる(先生ウケする様に親が指示命令)。
見ることが許されたテレビ番組は「ドラえもん」「まんが日本昔ばなし」
男女交際禁止
また、強烈な以下のエピソードがあります。
さらに、完ぺき主義の母親は、常に完璧なものを求めてきました。...母親の作文指導には「10秒ルール」なるものもあったという。兄弟が作文を書いている横で、母が「検閲」をしているとき、「この熟語を使った意図は?」などという質問が飛んでくる。答えられずにいると、母が、「10、9、8、7...」と声に出してカウントダウンを始める。0になると、ビンタが飛んでくるというわけである。この問題における正解は母の好みの答えを出すことであったが、そこで母が求めていたのもやはり「教師ウケ」であった。
加藤智大容疑者が中1の時である。
『食事の途中で母が突然アレに激高し、廊下に新聞を敷き始め、、その上にご飯や味噌汁などのその日の食事を全部ばらまいて、「そこで食べなさい!」と言い放ったんです。アレは泣きながら新聞紙の上に積まれた食事を食べていました』
父も黙っているばかりで助け船も出さず、弟も横目で見ながら食べ続けている......
この様な状況で育った加藤智大被告は小中学校は成績優秀スポーツ万能で、母の期待に応え県立青森高校に入学するのですが、優秀な生徒が集まる高校の中で加藤被告は埋没してしまい成績も低迷し、母に暴力を振ったり部屋の壁に穴を空け、教室の窓ガラスを素手で割ったりする様になります。ちなみに入学当時の志望は北海道大学工学部だった。
加藤被告は親(母親)の欲望を満たす為に長期に渡って欲求を抑圧する生活を続けていたものと思われます。表面上、小中学校時代は上手く行っていた彼の人生ですが、県下一の進学校青森高校に入学してから歯車が狂い始めた様です。
高校での成績は振るわず、3年に進級する時点で、短期大学への進学する事を希望していたと言う。あれ程、スパルタ教育を受けて入った青森高校から岐阜の短期大学へ。なにか釈然としません。
片田珠美教授の「無差別殺人の精神分析 」によると
成績が良くなかったとはいえ、県下一の進学校に在籍していた加藤にとって、より好みさえしなければ大学に進学する事も可能だっただろう。短大を選んだのは、子どもを学歴社会の勝者にするべく必死にやってきた母に対する反発のようなものがあったからではないか。それを裏づけるように、加藤が高校を卒業する際に生徒会誌に残したのは、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に登場する少女(綾波レイ)が、理不尽な戦いを強いる司令官に告げた決別のセリフである。
「ワタシはアナタの人形じゃない。赤い瞳の少女(三人目)」
明らかに母親に対して叛旗を翻しているのがわかります。
【6日】 犯行前々日の携帯サイトの書き込み
01:44 あ、住所不定無職になったのか/ますます絶望的だ
02:48 やりたいこと...殺人/夢...ワイドショー独占
02:54 工場で大暴れした/被害が人とか商品じゃなくてよかったね
02:55 それでも、人が足りないから来いと電話がくる/俺(おれ)が必要だから、じゃなくて、人が足りないから/誰が行くかよ
 同  誰でもできる簡単な仕事だよ
03:00 別の派遣でどっかの工場に行ったって、半年もすればまたこうなるのは明らか
03:07 仕事に行けっていうなら行ってやる/流れてくる商品全部破壊してやる
03:09 彼女がいれば、仕事を辞めることも、車を無くすことも、夜逃げすることも、携帯依存になることもなかった/希望がある奴(やつ)にはわかるまい
03:10 で、また俺は人のせいにしてると言われるのか
 同  いつも悪いのは全部俺
05:04 出勤時間になると目がさめてしまう/もう行かないんだから寝かせてくれ
06:41 とりあえず出発しよう
07:06 飛び込み自殺で東海道線がとまりました/何もかもが私の邪魔をします
08:10 三島まで出れた
08:15 こだまに乗れる/名古屋に1016着予定で、乗り換え5分でひかりに
09:46 こっちまで電車で来たのは、トヨタの期間工に応募して落ちたとき以来だ
10:35 米原で乗り換えだ
10:37 長良川超えた/堤防でいちゃついてるカップル、流されて死ねばいいのに
11:14 買い物/通販だと遅いから福井まででてきた
14:39 店員さん、いい人だった
14:42 人間と話すのって、いいね
17:59 三島ついた
20:30 うん/長旅だった
20:49 ナイフを5本買ってきました
【6日】 犯行前日の携帯サイトの書き込み
午前6時51分肝心なものを忘れるとこだた
8時3分お金をつくりに行く
7分最低6万円は欲しいな
9時23分離れたとこに行って立ってる そこまでして避けるのかよ
11時14分買取32000は舐めてるだろ
34分最低70000だ
41分定価より高く売れるソフトもあった さすが秋葉原
午後1時14分レンタカーに空きがなかった トラックじゃ仕方ないかも
43分電車に乗るのもこれが最後だ
50分できれば4tが良かったんだけど
3時35分大きい車を借りるにはクレジットカードが要るようです どうせ俺は社会的信用無しですよ
4時1分騙すのには慣れてる 悪いね、店員さん
8時34分もっと高揚するかと思ったら、意外に冷静な自分にびっくりしてる
53分中止はしない、したくない
【8日】 犯行当日の携帯サイトの書き込み
午前5時21分車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら
44分途中で捕まるのが一番しょぼいパターンかな
6時0分俺が騙されてるんじゃない 俺が騙してるのか
2分いい人を演じるのには慣れてる みんな簡単に騙される
3分大人には評判の良い子だった 大人には友達は、できないよね
4分ほんの数人、こんな俺に長いことつきあってくれてた奴らがいる
5分全員一斉送信でメールをくれる そのメンバーの中にまだ入っていることが、少し嬉しかった
10分使う予定の道路が封鎖中とか やっぱり、全てが俺の邪魔をする
31分時間だ 出かけよう
39分頭痛との闘いになりそうだ
7時12分一本早い電車に乗れてしまった
30分これは酷い雨 全部完璧に準備したのに
47分まあいいや 規模が小さくても、雨天決行
41分晴れればいいな
10時53分酷い渋滞 時間までに着くかしら
11時17分こっちは晴れてるね
45分秋葉原ついた 今日は歩行者天国の日だよね?
午後0時10分時間です
被害者
17名がトラックではねられたり刺されたりするなどの被害を受け、その内、7名(19歳から74歳までの男性6名、21歳の女性1名)が死亡した。通り魔事件としては過去30年で最悪の事件とみられている。被害者数は平成時代に起きた無差別殺傷事件としては7年前の同じ日に発生した大阪教育大学附属池田小学校の児童殺傷事件に次ぐ惨劇になった。
トラックではねられる(5人、死亡3人・負傷2人)
74歳無職男性左背中刺創・死亡
19歳男子学生腹部打撲・死亡
19歳男子学生全身打撲・死亡
20歳男子学生腰の痛み・軽傷
19歳男子学生擦過傷・軽傷
ナイフで刺される(12人、死亡4人・負傷8人)
21歳女子学生失血・死亡
47歳無職男性背部刺創・死亡
33歳調理人男性背部刺創・死亡
31歳男性会社員胸部貫通刺創・死亡
43歳男性会社員背部刺創・重傷
53歳男性会社員腰・重傷
24歳女性会社員肺・重傷
53歳男性警察官胸部刺創・重傷
27歳男性派遣社員背部刺創・軽傷
54歳男性タクシー運転手右胸刺創・重体
30歳女性大学職員腹部刺創・重傷
28歳男性フォークリフト技師右前腕切創・軽傷
秋葉原殺傷・加藤智大被告の供述要旨
秋葉原の無差別殺傷事件で27日、東京地裁であった加藤智大被告の被告人質問の供述要旨は次の通り。
 原因は三つ
被害者の方、ご遺族の方に申し訳なく思っている。裁判は償いの意味もあるし、犯人として最低限やること。なぜ事件を起こしたのか、真相を明らかにすべく、話せることをすべて話したい。
わたしが起こした事件と同じような事件が将来起こらないよう参考になることを話ができたらいい。事件の責任はすべてわたしにあると思う。
ネット掲示板を使っていた。掲示板でわたしに成り済ます偽者や、荒らし行為や嫌がらせをする人が現れ、事件を起こしたことを報道を通して知ってもらおうと思った。嫌がらせをやめてほしいと言いたかったことが伝わると思った。
現実は建前で、掲示板は本音。本音でものが言い合える関係が重要。掲示板は帰る場所。現実で本音でつきあえる人はいなかった。
事件の原因は三つ。まず、わたしのものの考え方。次が掲示板の嫌がらせ。最後が掲示板だけに依存していたわたしの生活の在り方。
 母親との関係
わたしは、何か伝えたいときに、言葉で伝えるのではなく、行動で示して周りに分かってもらおうとする。母親からの育てられ方が影響していたと思う。親を恨む気持ちはない。事件を起こすべきではなかったと思うし、後悔している。
わたしは食べるのが遅かったが、母親に新聞のチラシを床に敷き、その上に食べ物をひっくり返され、食べろと言われた。小学校中学年くらいのとき、何度も。屈辱的だった。
無理やり勉強させられていた。小学校低学年から「北海道大学工学部に行くように」と言われた。そのため青森高に行くのが当たり前という感じだったが、車関係の仕事をしたいと思っていた。現場に近い勉強がしたい、ペンより工具を持ちたいと。母親に話したことはない。
中学時代に母親を殴ったことがある。食事中に母親が怒り始めた。ほおをつねったり髪をつかんで頭を揺さぶられたりした。無視すると、ほうきで殴られ、反射的に手が出た。右手のグーで力いっぱい左のほおのあたりを殴った。汚い言葉でののしられた。悲しかった。
大学進学をやめ、自動車関係の短大に行くことにした。母親にはあきらめられていたと思う。挫折とは思っていない。勉強をしていないからついていけないのは当たり前。短大には失礼だが、無駄な2年。整備士の資格は取るつもりだったが、父親の口座に振り込まれた奨学金を父親が使ったので、アピールとして取ることをやめた。
 就職
短大卒業後、工事現場の警備員の仕事に就いた。現場は最初だけで、その後内勤になった。給料は多いときで25〜26万円。途中から固定給になった。給料は減ってもいいと思ったが、仕事の提案をしても所長に却下も採用もされず、手応えがないから辞めた。自分がいなくなれば、会社が困った状況になるという所長へのアピールだった。
ゲームの情報を得ようとして携帯電話で掲示板を見つけた。ネット上の友人ができ、仕事以外の時間はすべて掲示板にあてた。たわいもない雑談をしていた。
埼玉県の自動車工場で働いたが、休日は1人でゲームをしたり、秋葉原に行ったり。地理的に近かったのと、ゲームが好きだし、自分はオタク的要素を持っているので、オタクの聖地の秋葉原に興味がわいた。当時「電車男」の映画がはやり、オタクが市民権を得た。
仕事で部品の整理の仕方を正社員に提案したら「派遣は黙ってろ」と言われ辞めた。その後、茨城県の筑波で住宅メーカーの木材加工の派遣をした。人付き合いはほとんどなかった。3カ月ほど働いたが、自殺を考え始め、行かなくなった。
 トヨタ自動車の有力子会社関東自動車工業東富士工場の塗装工程で働く
2007年11月から日研総業の派遣社員としてトヨタ自動車の有力子会社関東自動車工業東富士工場(静岡県裾野市御宿1200)の塗装工程で働いていたが、折からのリーマンショックに端を発した世界同時不況で自動車業界は減産を余儀なくされており、5月29日に一旦6月末での契約解除の通知を受けている。派遣社員と言う彼の立場で「契約解除」は、職と同時に住む場所も失う事になる。彼自身が携帯サイトにこう綴っている。「あ、住所不定無職になったのか ますます絶望的だ」と。
 自殺を企図
孤独感が強かった時期だった。わたしが厳しい意見を言ったのがきっかけで掲示板上での友人関係がまずくなり、人が居なくなった。掲示板は帰る場所。かなりのめり込んでいた。
自殺を思いついた。車で対向車線のトラックに正面衝突しようと。平成18年8月31日、青森県弘前市のバイパスで、と決めた。到着し、路肩の縁石にぶつけて走行不能になった。母親は「よく帰ってきたね」「ごめんね」。幼少のころわたしにしたことを謝られてハグされた。
 掲示板
実家では母親と会話する努力を始めた。父親は仙台に単身赴任していて、週末には青森に帰ってきていた。大学に行かなかったこと、資格を取らなかったことなどもろもろの意味で、父親に「バカでごめんね」と言った。話のできる普通の家族にしたいと思った。単身赴任から帰った父親に「離婚する」と告げられた。もう一度家族のやり直しをしようというところで、悲しかった。
掲示板は高校のクラスのイメージで、話題は何でもあり。雑談とかネタ、オタクのような話とか。スレッドを次々とつくり、みんなを面白がらせようとした。
書き込まれている文字の内容をそっくりそのまま考えていると取られると困る。ネタはひと言で言うと冗談。うけると返信があり、とてもうれしかった。1人じゃないと感じた。掲示板はわたしにとっての居場所。家族同然。現実でも親しい人がいるが、掲示板上のほうがより親しく、重要に感じていた。
加藤智大が掲示板に残した言葉
・「死ぬ気になればなんでもできるだろ」 死ぬ気にならなくても何でもできちゃう人のセリフですね。
・顔が良くても性格が悪かったら長続きしない?その通りだよ。不細工は始まりすらしないんだよ。
・女性の方が平均寿命が長いのに男女比が同じくらいということは、若い世代は女性の方が少ないってこと。 少ない女性をイケメンが独占するんだから、俺ら不細工は余って当然。そういうことだね。
・考え方が変わったって顔は変わらない。
・プレゼントね、大事な友達にお礼がしたくて、でもお金が無くて、マフラーを編んでみたことがある。結局、来るなって言われて渡せなかったけど。一人でバカみたい。ほどいて捨てた。
・俺にとってたった一人の大事な友達でも、相手にとっては100番目のどうでもいい友達なんだろうね。その意識のズレは不幸な結末になるだけ。
・お前らは「そういう性格だから彼女ができない」って言うんだろ。逆だよ。彼女ができないからそういう性格になんの。
加藤智大からの手紙(謝罪文)
東京・秋葉原の無差別殺傷事件で殺人罪などに問われた元派遣社員、加藤智大被告(27)が、事件で重傷を負った東京都江東区の元タクシー運転手、湯浅洋さん(55)に謝罪の手紙を送っていたことが6日、分かった。「罪は万死に値する。当然死刑になると考えます。どうせ死刑だと開き直るのではなく、すべてを説明したい」などと書かれているという。
加藤智大謝罪の手紙
手紙はびんせん6枚で、湯浅さんは6日の午前中に出かけようとした際、ポストに投函されていることに気づいたという。「二度と同様の事件を起こさないことをせめてもの償いとしたい」などと書かれていた。
湯浅さんは加藤被告のトラックにはねられた人を救助している最中に、背中を刺されて重傷を負い、約1カ月半の入院生活を送った。その後、タクシー運転手に復職したが、体調不良を訴えて休職している。
以下、秋葉原事件の加藤被告の手紙要旨
このたびは本当に申し訳ございませんでした。被害を与えたことについて、言い訳できることは何もありません。おわびすることが皆さまの心情を害するのではないかと悩んでいるうちに1年が経過してしまいました。遅々として進まない裁判に皆さまの怒りも限界ではないかと考え、謝罪すべきだという結論に至りました。
謝罪する意思は本当に自分の感情なのか、ということをいろいろ考えましたが、反省している自分が存在していることは否めません。きれい事を並べた謝罪文のような形式だけの謝罪は皆さまへのぼうとくでしかなく、本心からの謝罪なのか、自問しながら書いています。
私には事件の記憶がほとんどありませんが、やったことに間違いはなく、罪から逃れるつもりはありません。私の非はすべて私の責任であり、その責めはすべて私が受けねばなりません。
私の非は、皆さまに通常ではあり得ない苦痛を与えたことです。人生を変化させたり、断ち切ったりしたことです。皆さまの人生を壊してしまい、取り返しのつかないことをしたと思っています。
家族や友人を理不尽に奪われる苦痛を想像すると、私の唯一の居場所だったネット掲示板で、「荒らし行為」でその存在を消された時に感じたような、我を忘れる怒りがそれに近いのではないかと思います。もちろん比べられるものではありませんが、申し訳ないという思いがより強くなります。
被害を受けてなお、私に同情を示してくれるような方を傷つけてしまったと思うと、情けなくて涙が出ます。一命はとりとめたものの、障害が残った方にはおわびしようがありません。
どんなに後悔し、謝罪しても被害が回復されるはずはなく、私の罪は万死に値するもので、当然死刑になると考えます。
ですが、どうせ死刑だと開き直るのではなく、すべてを説明することが皆さまと社会に対する責任であり、義務だと考えています。真実を明らかにし、対策してもらうことで似たような事件が二度と起こらないようにすることで償いたいと考えています。
いつ刑が執行されるか分かりません。死刑の苦しみと皆さまに与えた苦痛を比べると、つり合いませんが、皆さまから奪った命、人生、幸せの重さを感じながら刑を受けようと思っています。
このような形で、おわびを申し上げさせていただきたいと存じます。申し訳ありませんでした。
『秋葉原事件』加藤智大の弟が自殺。自殺1週間前に語っていた「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」
<「あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なんだと思い知りました。加害者の家族というのは、幸せになっちゃいけないんです。それが現実。僕は生きることを諦めようと決めました。死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。どう考えても浮かばない。何かありますか。あるなら教えてください」>
これは『週刊現代』の「独占スクープ!『秋葉原連続通り魔事件』そして犯人(加藤智大被告)の弟は自殺した」の中で、週刊現代記者の齋藤剛氏が明かしている加藤被告の実の弟・加藤優次(享年28・仮名)の言葉である。
この1週間後、優次は自ら命を断った。これを読みながら涙が止まらなかった。加藤被告の起こした犯罪のために、被害者の遺族の人たちは塗炭の苦しみを味わっている。だが、加害者の家族も苦しみ、離散し、弟は兄の犯した罪に懊悩し、ついには自裁してしまったのだ。
日本の犯罪史上まれに見る惨劇「秋葉原連続通り魔事件」が起きたのは2008年6月8日の日曜日。加藤智大は白昼の秋葉原の雑踏に2トントラックで突っ込み、さらにダガーナイフを使って7人もの命を奪った。
弟は兄が犯した事件によって職を失い、家を転々とするが、マスコミは彼のことを放っておいてはくれなかった。就いた職場にもマスコミが来るため、次々と職も変わらなければならなかった。そんな暮らしの中にも、希望がなかったわけではなかったという。事件から1年余りが過ぎた頃、筆者が彼のアパートを訪ねようとしたとき、たまたま女性と一緒に歩く姿を目撃したそうだ。優次は彼女に事件のことも話していたという。
<正体を打ち明けるのは勇気のいる作業でしたが、普段飲まない酒の力を借りて、自分のあれこれを話して聞かせました。一度喋り出したら、後は堰を切ったように言葉が流れてました。彼女の反応は『あなたはあなただから関係ない』というものでした>
ようやく心を開いて話ができる異性との出会いは、彼に夢を与えてくれたのだろう。しかし、優次の夢は叶うことはなかった。事情を知りつつ交際には反対しなかった女性の親が、結婚と聞いたとたんに猛反対したというのだ。二人の関係が危うくなり、彼女も悩んでイライラしていたのだろうか、彼女から決定的なひと言が口をついて出たという。
<一番こたえたのは『一家揃って異常なんだよ、あなたの家族は』と宣告されたことです。これは正直、きつかった。彼女のおかげで、一瞬でも事件の辛さを忘れることができました。閉ざされた自分の未来が明るく照らされたように思えました。しかしそれは一瞬であり、自分の孤独、孤立感を薄めるには至らなかった。結果論ですが、いまとなっては逆効果でした。持ち上げられてから落とされた感じです。もう他人と深く関わるのはやめようと、僕は半ば無意識のうちに決意してしまったのです。 (中略)僕は、社会との接触も極力避ける方針を打ち立てました>
「兄は自分をコピーだと言う。その原本は母親である。その法則に従うと、弟もまたコピーとなる」
優次は手記に繰り返しこう書いていたという。
そして、<突きつめれば、人を殺すか自殺するか、どっちかしかないと思うことがある>
そんな言葉を筆者に漏らすようになっていった。母親は事件後、精神的におかしくなり離婚してしまった。父親も職場にいられなくなり、実家へ帰りひっそりと暮らしている。 優次は加害家族も苦しんでいることを知ってほしいと、このように書いている。ここには心からの叫びが吐露されているので、少し長いが引用してみたい。
<被害者家族は言うまでもないが、加害者家族もまた苦しんでいます。でも、被害者家族の味わう苦しみに比べれば、加害者家族のそれは、遙かに軽く、取るに足りないものでしょう。(中略)ただそのうえで、当事者として言っておきたいことが一つだけあります。そもそも、「苦しみ」とは比較できるものなのでしょうか。被害者家族と加害者家族の苦しさはまったく違う種類のものであり、どっちのほうが苦しい、と比べることはできないと、僕は思うのです。だからこそ、僕は発信します。加害者家族の心情ももっと発信するべきだと思うからです。それによって攻撃されるのは覚悟の上です。犯罪者の家族でありながら、自分が攻撃される筋合いはない、というような考えは、絶対に間違っている。(中略)こういう行動が、将来的に何か有意義な結果につながってくれたら、最低限、僕が生きている意味があったと思うことができる>
彼は兄と面会したいと願い、50通を優に超える手紙を書いたという。だが1度として兄から返事が来たことはなかった。罪を犯した自分より早く逝ってしまった弟のことを知らされたとき、加藤智大被告は何を思ったのだろう。1度でも会ってやればよかった、そう思っただろうか。
起訴および裁判
3ヶ月にわたる精神鑑定の結果「完全な責任能力あり」との鑑定結果が出されたことから、東京地方検察庁は10月6日から被害者や遺族への通知を開始し、10月10日に殺人、殺人未遂、公務執行妨害、銃刀法違反での起訴に踏み切った。10月31日には公判前整理手続に入ることが決定され、翌2009年(平成21年)6月22日には第1回公判前整理手続が行なわれて、弁護側は起訴事実を大筋で認めた。
 第一審・東京地方裁判所
2011年(平成23年)1月25日、東京地方裁判所で行なわれた第28回公判の論告求刑で、検察は加藤に対して死刑を求刑し、同年3月24日に被告人に対して求刑通り死刑が言い渡された。
直接的な動機としては掲示板荒らしに対する抗議の表明、根本的な原因としては不満に対して多様な観点から熟慮せず、話し合いで解決しようとせず、自分の意思を相手に分からせるために、直接的行動で相手の望まないことをしたり、相手との関係を遮断したり、暴力を行使する考え方、間接的な原因として母の養育方法が前記のような加藤の人格形成に影響を与えたと認定された。
 第二審・東京高等裁判所
2012年(平成24年)6月、加藤の控訴により東京高等裁判所で第一回控訴審が開かれ、減刑を主張。2012年9月12日、東京高等裁判所(飯田喜信裁判長)は第一審の死刑判決を支持し、加藤の控訴を棄却した。同年9月25日、加藤には精神障害の疑いがあるとして、最高裁判所へ上告した。
加藤被告の死刑確定へ
<2015年2月2日>
最高裁第1小法廷(桜井龍子裁判長)は2日、被告側の上告を棄却した。死刑が確定する。
昨年12月18日に開かれた上告審弁論で弁護側は、加藤被告が利用していた携帯電話サイトの掲示板について、「被告の偽物が現れ、家族同様だった掲示板での人間関係が壊されたと思い強いストレスを受けた。事件当時は急性ストレス障害だった可能性がある」と指摘。「被告は事件当時、心神喪失もしくは心神耗弱だった疑いがある。完全責任能力を認めた1、2審判決は誤りだ」として極刑回避を求めた。
検察側は「完全な責任能力を認めた判決に誤りはない」と死刑維持を求めていた。  
 
加藤智大 2

 

加藤智大とは、2008年6月8日秋葉原のホコテンにトラックで突っ込んで7人を討滅した事件(一般的に「第二次加藤の乱」と呼ばれる)を起こした、2000年代を代表するシリアルキラーだ。殺戮後、ほぼ全ての人生行路がマスゴミにより暴かれ、皆が抱くワイドショー独占の夢を実現した。
殺戮場所を聞いて、一般大衆は「遂にオタどもを膺懲する勇者が現れた!」と歓喜した。しかし、それは間違いだった。加藤はむしろ、ネギまのファンサイトを開設する程のアキバの一員だったことが判明した。
すると大衆は、「何だそうだったのか、自分の居場所を凶行の現場にするとは恐ろしい奴らだな。派遣社員ってのもやっぱり怖い」と哀れんだ。加藤が自分を「非イケメン」と表象していたこと、僕は友達がいないとコンプレックスを抱いていたこと、ネット上で孤独に発信していたこと、何度も転職を繰り返していたことがそのイメージを補強した。
だが、その自画像は周囲の証言によって大きく覆された。「加藤は友達いない孤独な面白味もないどうしようもない犯罪者だった」ことにするのが張成沢より安全な模範的総括とされる中、そうでない加藤の一面を語る証言者たちは、皆本当の意味の友人であり、加藤が決して自分でいうようなぼっちでなかったことを証明している。
周囲の証言によってみえてくる加藤は、このような人物である。
幼少期
青森育ちの加藤は母親に厳しすぎる教育を受けて育った。そして、中学校まで文武両道の模範生を演じ、今日の学生用語でいうリア充生活を満喫しているようにみえた。加藤は母親を見習って、喧嘩を話し合いを持たず力でもって解決し、大きくなったら母と同じことをすると宣言しているようにみえた。
これは「児童虐待」を受けて育った生徒からみると、考えられない充実ライフだ。虐待を受ける生徒はおしなべて成績が悪く、先生から褒められる機会などまず与えられないのが当たり前であることを考慮すると、青森の運動不足ないじめられっ子たちはスポーツ万能の加藤がとんでもない勝ち組人生を送っているようにみえたことだろう。
加藤は県立青森高校に入学してから、成績を劇的に低下させる。しかし、成績降下が縁の切れ目と、友達がいなくなるぼっちライフに入ることはなかった。むしろ、中学以来の友人の家でゲーム脳の素質を見出され、その手の才能と交友関係を拡大することができた。この時、加藤は友人の家に泊めてもらえるほどの関係になっていたことから、友人が結構いる生活を送っていたことが伺える。
社会人生活
車ゲーが好きだった加藤は自動車業界の一角に入ることを夢み、岐阜県の中日本自動車短期大学に入学するも、自動車整備士の資格をとれずに退学する。人生オワタと思いきや、加藤は仙台に引っ越した友人の家に居候し、ネット用語でなく本物の警備員となり、準社員にまで昇格した。短大中退としては考えられない出来事であり、自身の証言とは異なり真の意味での友人関係があったことを伺える。「いきなりキレることがある」と恐れられてもいたが、その頃は「まあ、警備が仕事なんだから」とむしろ頼もしくみられていた。
その後、加藤は「なーんて、全部嘘っぱちだったんだけどさ〜」と言って職場放棄するように退職を繰り返す生活を送るようになるが、その度にしつこく新たな職を獲得してきた。ある時加藤は、社長なのに赤字で副業を余儀なくされた中年に対して、「貴方は社長という座にいるんだから、勝ち組だ」と説教した。中年は激怒し、「自分が加藤を叱って、唯一の相談相手になってやった」などと証言しているが、第三者からはどうみても加藤がしがない中年の相談を聞いてやっているようにみえたという。
加藤が自殺を図ったこともあった。周りは「お前はマスコミで自殺するような人間でない性格階級なんだ」と止めに入った。加藤はそんな人間だと周囲からみられていたのだ。
裾野の工場へ
知り合った女性を現実社会でアーンしようとしてフラれた加藤は自殺を図るも復活して、念願の自動車工場に勤務する。奈落まで堕ち切って子供の時からの夢を実現させるとは何という悪運の強さだろう。勤務地となった静岡県裾野市のトヨタ系関東自動車の工場は理系男子共同体の延長線上にあり、その手の文化を堂々と誇示できる恵まれた環境下にあった。模範社員とみなされた加藤は同僚をアキバの聖地に招待し、僕余裕なとても充実した生活を送っているようにみえた。
しかし、ある日その手のマークを付けた自分の作業着がないことを知り、傷心して無断帰宅する。しかし、模範とみられていた加藤はその場で即刻クビ、寮追い出しという派遣社員として当然の処分を喰らうことなく、「またキレた。まあものづくりに熱心な工場労働者だから許されるよくある個性表現だ。数日したら何事もなかったように戻ってくるだろう」と温かい眼差しでみられていた。
加藤は大規模な示威行為を計画した。どこにでもあるダガーナイフをわざわざ福井市まで買いに行ったのだ。その行為を実況して真面目に受け止める者が一人でもいれば、職場に復帰するつもりだったのだ。しかし、それに気付いた職場の同僚は一人もいなかった。加藤は人生初のリアルな非リア充感覚を味わい、復讐計画の実行を決意した。
ネット掲示板
加藤は一見、充実生活を送っているようにみえた。しかし、加藤はその裏でネット上で「モテない」人格を演出し、究極の交流と題してやりたい放題を展開した。しかし、これを知った現実世界の加藤を知る人間は、「ネット上のモテないし…はただの自作自演にすぎない」という仮説を補強した。
加藤は2ちゃんねるを大学みたいと嫌い、「特定少数」以外誰も気にしない携帯掲示板での活動を好んだ。モテない感情をネタにすると受けるはずのアンサイクロペディアは、異国の価値観が集う外国語大学みたいでもっと嫌っていたと言われている。携帯掲示板は2ちゃんねるより勝ち組向けの媒体だと、加藤は本能的に察知していたのだ。
加藤はリアル派だった。孤独者なら絶対発想しないことに、会社を無断退社してまで参加するコミュニティーのみんなに直に会いに行くべく全国旅行を決行したのだ。家に籠る非リア充の影など、加藤には無縁のようにみえた。
しかし、携帯掲示板にはイザという時の管理人がいなかった。自分のモテないキャラをパクる偽物が現れると、加藤は現実世界と同じように偽物の追放を訴えた。それは、「こんな世界でマジに人格権主張してどうするの?」という立場の管理人には手に余るものだった。本当のモテないキャラになることが、リアル世界の充実しているようにみえた加藤には我慢ならなかったのだ。
オタク文化
加藤はネギま先生の大ファンだった。その他好みとしたのは、表面上の充実顔からは想像しづらい内面重視系のアニメだった。内面重視ならアニメ以外のメディアを選んだ方が女にモテるだろと助言されたこともあったが、アニメは所詮娯楽であり、煩悶する少女たちの内面をいざとなったら肉体ごと踏み躙って俺の嫁にしてもよいという業界のお約束が加藤をその道にいざなった。
加藤はガンスリンガー・ガールというイタリア拳銃アニメのセリフを全部そらんじられるほどの重度オタだった上に、そのセリフをカラオケで暗唱しても「内面の表出」として気持ち悪がらずついてきてくれる友人にも恵まれており、最も健康なオタク同志と仲間からみられていた。
では、加藤はどうして秋葉原へ特攻していったのだろう?それは常識人として最後の瞬間ぐらいイケメンの勝ち組でいたい、生まれてから属してきた位階に属したいと思ったからに違いない。それは、事件を目撃した一般人の第一感が「オタク討伐の勇者現る!」という他所を襲撃していては決して巻き起こらない感覚だったことを思えば明白だ。
 
秋葉原連続通り魔事件 犯人の弟は自殺した 2014/4/24

 

「兄が母のコピーなら、僕はコピー2号。でも、僕は兄と同じことはしない」—。弟は悲痛な叫びを残して、みずから死を選んだ。大事件のあと、加害者家族を待っていたのは、拷問に近い日々だった。
生きる理由がない
「あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なんだと思い知りました。加害者の家族というのは、幸せになっちゃいけないんです。それが現実。僕は生きることをあきらめようと決めました。
死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。どう考えても浮かばない。何かありますか。あるなら教えてください」
そう語った青年は、その1週間後、みずから命を絶った。彼の名前は加藤優次(享年28・仮名)。日本の犯罪史上稀にみる惨劇となった、秋葉原連続通り魔事件の犯人・加藤智大(31歳)の実弟だった。
彼の問いかけに対し、どう答えればよかったのか、いまでも答えは見つからない。彼を止められなかったことは悔いが残る。だが、どうやって止めればいいのか、その時は正直、わからなかった。
'08年6月8日、日曜日。加藤智大は白昼の秋葉原の雑踏に2tトラックで突っ込み、さらにダガーナイフを使って、7名もの命を奪った。
殺人事件が起きた現場に添えられたたくさんの献花(Photo by gettyimages)
筆者は事件直後に優次に接触し、加藤が生まれ育った家庭の内実を明かしてもらった。それ以来、取材協力者と取材者の付き合いが始まり、その関係は6年近くに及んだ。
その彼から突然、大きな段ボール箱が届いたのは、今年1月31日のことだった。開封すると、優次が事件について振り返った、A4判250枚にも及ぶ分厚い手記が入っていた。
何百回も、ファイルをデリートしようとした。書くというより考えることが、嫌で嫌でしょうがない。
こんな書き出しで始まる手記には、「加害者の家族として生きる」ことの厳しさと苦痛が、切実な言葉で綴られていた。
優次は生前、「本を出版したい」と私に繰り返し言っていた。この手記を公開することは、優次の遺志にそむくものではないと私は考える。なぜなら彼はこうも記しているからだ。
それでも、弟が書き下ろしたこの文章を読んで、それが有効活用されるのであればまったくの無駄でもないだろう、と思う。現在親である人、これから親になる人が、何かを考えるきっかけになれば、と。それは5年前からずっと言い続け、考え続けていたことだ。
加害者の家族であるという事実が、優次の人生に与えた影響はどれほど大きかったのか。手記から引用していく。
まず職を失った。事件当日、ほとんど着の身着のままでアパートを抜け出したときの緊張感、不安と高揚は、いまはもう忘れかけていますが、職場を失うのがつらかったことはハッキリと覚えています。あの会社は社会との唯一の接点でした。青森で腐っていた自分を生き返らせてくれた大事な場所でした。
でも、やはり退職はどうしても避けられなかった。事件当日の深夜、退職届を書きました。僕がいなければ、(職場に)マスコミが来ても知らぬ存ぜぬを通せる。辞めたくはなかったけど、迷惑をかけずに済む方法がそれしかなかった。
事件から3ヵ月。報道が落ち着くと、優次はアパートを引き払い、当時住んでいた東京を離れてアルバイトを始めた。再び社会との接点を持った彼を待っていたのは、身元・素性がバレないかという不安だった。
この頃はまだ、自分の名前を検索すると、すぐヒットする状態にありました。弟は高校でイジメに遭っていた、と同級生という人物による書き込みもあった。事実ではないことも書かれていましたが、事実もありました。自分を知る人間が書き込んでいる。それは間違いないことでした。
もとより人付き合いは苦手でしたが、人と接することがさらに難しくなった。
「出身どこ」
「兄弟いるの」
何気ない会話が苦痛でした。積極的にコミュニケーションをとらない理由を説明もできず、「加藤は変わったヤツだ」と変な目で見られることになる。
僕はいくつかの職場を渡り歩きましたが、常に浮いた存在にならざるをえなかったのが実状です。
東京と埼玉を往復するかのように、優次は職と住居を転々とした。この時期、彼は私に、こう心情を明かしたことがある。
「引っ越して、住民登録を済ませると、1ヵ月も経たないうちにマスコミの人が来るんです。インターフォンが鳴り、ドアが乱暴に叩かれる。なんでわかるんだろう、と恐怖を覚えるとともに、やっぱり逃げられないんだな、とあきらめのような感情が湧きました」
幸せを求めちゃいけない
時間が経つにつれて取材は減っていったが、事件があった6月が近づくと、またたくさんの記者がやってくる。
あれからいくつもの職に就いたが、そのたびに考えたのが、
「もしも俺が加藤の弟だと知ったら、この人たちはどうするんだろう」
ということです。敵と味方と、二種類に分かれるのだろうか。味方が多くなりそうな職場もあったし、敵だらけになりそうなところもありました。
仕事はクソ真面目にやったけど、評価はどうでもよかった。「加藤の弟」という称号を手に入れたいま、そこらに転がっている不名誉など、無意味に等しいと思っていました。簡単に住所がバレてしまうように、マスコミが知ろうと思えば勤め先も知られてしまう。そうなったらまた、辞めて引っ越すだけです。
そんな暮らしの中にも、「希望」がなかったわけではない。事件から1年あまりが過ぎた頃だった。彼のアパートを訪ねようとしたときに、たまたま、女性と一緒に歩く姿を目撃したのだ。恋人だという。事件以来、優次が喜怒哀楽を見せることは、一切なかった。だが、「バレましたか」と言いながら女性に向ける表情は、若者らしい屈託のない笑顔だった。
優次は彼女に、事件のことも話していた。
正体を打ち明けるのは勇気のいる作業でしたが、普段飲まない酒の力を借りて、自分のあれこれを話して聞かせました。一度喋り出したら、あとは堰を切ったように言葉が流れ出ました。
彼女の反応は「あなたはあなただから関係ない」というものでした。自分が受け入れられたことに、心底ほっとしました。自分が許されるということは、とても、とても嬉しかった。
交際期間が1年を過ぎる頃、優次は彼女との結婚を望み、アルバイトから正社員になった。
「齋藤さん、家庭を持つってどんな感じですか」
と私に訊いてくることもあった。しかし結論から言うと、優次のこの「夢」はかなうことはなかった。事情を知りつつ交際には反対しなかった女性の親が、結婚と聞いた途端、猛反対をしたのだという。
当時、落胆を隠さずにこう語った彼の淋しげな顔が忘れられない。
「彼女の親が最初に僕の素性を知った時、返ってきたのはいわゆる『模範解答』でした。兄は兄。弟は弟。家族はむしろ被害者——いま思えば、模範解答すぎますよね。交際自体、本音では反対だったのかもしれません。本当は加藤家の人間とは関わりたくなかったのかもしれない。
加害者の家族は、日陰でひっそり暮らそうと思えば暮らせます。でも、人並みな幸せをつかむことはできない。それが僕の実感です。
彼女を家から引っこ抜いてでも一緒になろうと思った時期もありましたが、冷静になれば、結婚なんて現実的ではなかった……。それを一瞬でも望んだ僕が間違っていたんです。子供がどんな思いをするのか。凶悪犯の家族という肩書はどうやっても消せないんです。それを考えれば、求めちゃいけない幸せでした」
二人が同棲するアパートにも記者が訪れ、そのたびに彼女は動揺した。迫り来る取材、親の反対、将来への不安……それらは女性にとって大きなストレスとなり、やがて二人の関係にも綻びが生じる。
「あなたが犯人の弟だから……」
「禁句」とも言えるこの言葉が、彼女の口から出るようになった。優次は一切反論しなかったが、破局はもう時間の問題だった。
一番こたえたのは「一家揃って異常なんだよ、あなたの家族は」と宣告されたことです。これは正直、きつかった。彼女のおかげで、一瞬でも事件の辛さを忘れることができました。閉ざされた自分の未来が明るく照らされたように思えました。しかしそれは一瞬であり、自分の孤独、孤立感を薄めるには至らなかった。
結果論ですが、いまとなっては逆効果でした。持ち上げられてから落とされた感じです。もう他人と深く関わるのはやめようと、僕は半ば無意識のうちに決意してしまったのです。
この女性は優次にとって、最初で最後、唯一の恋人だった。その関係が破綻したとき、優次を激しい絶望が襲った。
僕は、社会との接触も極力避ける方針を打ち立てました。これも、いま思えば間違いでした。僕はいつのまにか、兄と同じ道を辿り始めていたのです。
優次は手記に、繰り返しこう書いている。
兄は自分をコピーだと言う。その原本は母親である。その法則に従うと、弟もまたコピーとなる。兄がコピー1号なら、自分は2号だ。
兄の犯罪を憎みつつ、自分の中にある「兄と同じ部分」に気づいた時、優次の中で何かが崩れた。
「突きつめれば、人を殺すか自殺するか、どっちかしかないと思うことがある」
そんな言葉を私に漏らすようになった。なぜ、兄の犯罪を見てなお、そんなふうに考えてしまうのか。それを知るためには、優次が「原本」と呼ぶ、母親の特殊な教育を含めた家庭環境を知る必要がある。
本当は両親を助けたかった
事件直後、加藤は「両親は他人だ」などと供述。テレビでは母親の虐待に関する近隣住民の証言が取り上げられた。そして事件から1週間後、優次は本誌で告白をした。それは次のような内容だった。
〈小学校時代から友人を家に呼ぶことは禁じられていた〉
〈テレビで見られるのは『ドラえもん』と『まんが日本昔ばなし』だけ〉
〈作文や読書感想文は母親が検閲して教師受けする内容を無理やり書かされた〉
〈兄は廊下の新聞紙にばらまいた食事を食べさせられていた〉
この告白は当時、大きな反響を呼んだ。母親からの影響を、加藤自身も著書『解』の中でこう分析している。
〈(母親は)自分が絶対的に正しいと考えている人でした。母親の価値観が全ての基準です。その基準を外れると母親から怒られるわけですが、それに対して説明することは許されませんでした。(中略)
私のやり方も同様です。誰かが私に対して、私の価値観で間違ったことをしてくると、私は怒りました〉
その考え方が、「自分の(ネット上の)掲示板を荒らした人々に、間違っていることを認識させて痛みを与える」という、通り魔事件の動機につながったのだという。
事件後、「犯罪者を育てた両親」として批判にさらされ続けた父と母が直面した現実は、ある意味、優次以上に厳しいものだった。
地元の信用金庫の要職にあった父親は、事件から数ヵ月後に、退職を余儀なくされる。自宅には脅迫や嫌がらせの電話が相次ぎ、電話回線を解約した。記者の訪問も後を絶たず、マスコミの姿に怯えながら身を潜めて暮らした。
一方、罪の意識にさいなまれた母親は、心のバランスを崩して精神科に入院。一時は誰も面会できないほどの状態だった。退院後は青森県内にある実家に身を寄せたが、孫の事件を知って体調を崩した自分の母が急死するという不幸にも見舞われた。
優次は母親の極端な教育方針を告白した時、心中には両親に対する複雑な感情があったことを、手記で明かしている。
事件直後、虐待の証言が飛び交い、『親のせいでこうなった』という風潮が印象づけられました。でも、親のせいなら、僕も事件を起こすはず。だけど僕はそんなことはしない。たしかに両親への恨みや憎しみはありましたが、親のせいではないということを証明したかった。
(週刊現代での告白は)反響はありました。だが、僕の思惑とはまったく違う方向へ事態は推移してしまいました。僕は両親を助けるどころか、逆に追い込んでしまったんです。
優次の死と、彼の遺した手記を報じるにあたって、私は4月上旬、改めて青森を訪れた。加藤兄弟を育んだ町は、季節はずれの雪で冷え込み、人の往来も少なかった。かつて家族4人が暮らした実家もまた、静まり返り、人の気配はまったく感じられない。
近隣住民が言う。
「ご主人が一人でひっそり暮らしています。朝早くに出て夜遅くに帰ってくる毎日で、事件以来、カーテンはずっと閉め切られたままで、夜も電気が点くことはありません。……そう、あれからずっと、加藤さんはロウソクの灯りで生活しているみたいなんです」
信用金庫の職を失い、地域とも縁を切った父親は、信じがたいことに、暗闇にロウソクを灯してこの家で暮らしているという。
「加害者の家族のくせに」
一方で、母親はもう、ここにはいない。事件と前後して離婚した母は、家を出て青森市内の質素なアパートで暮らしている。そちらも訪ねたが、やはり昼夜問わずカーテンを閉め切り、真っ暗な部屋にひきこもる生活をしていた。
夜10時。仕事から車で帰宅した父親に、訪問の趣旨を告げた。優次と取材を通して付き合ってきたこと、死の直前、優次に手記を託されたこと……。
長い沈黙のあと、父親は静かにこう言った。
「優次がみずから逝ったことは、どうにもできなかったことですから……。私が言えるのは、そっとしておいてほしい。それだけです。(週刊現代の取材に協力した)優次の思いはわかっています。ただ、私とは考え方が違います」
優次は事件後、一度だけ実家に帰り、父親と短いながらも面会している。そして、本誌に掲載するために家の中の写真を撮った。その時のことを、優次は手記にこう書いている。
親も、僕に何かを話せばそれが記事になることがわかっているから、とにかく言葉を濁すばかりでした。家の中でカメラのシャッターを押すたびに、心臓を抉られるような気持ちがしました。
「あぁ……こんな写真が載っだらば、母さんはまんだ具合を悪ぐしてまうんだべな……」
父親は誰ともなしに呟いていました。僕は返す言葉もありませんでした。
また手記の後半で、優次はこうも書いている。
僕は親を助けるどころか逆に追い込んだ。少なくとも結果的にはそうなった。母親も、長男だけでなく次男からも攻撃されていると思い込み、錯乱してぐちぐちと文句を言ったらしい。
僕は、親「に」どう思われるか、なんてまったく考えていない。気にするのは親「が」どう思われるか、という点だけだ。両親を擁護するために、僕は取材に協力したつもりだった。
一番記憶に残っているのが、あの(両親の)記者会見の直前にした父親との電話だ。
「おまえはなんも心配しなくてもいいがら」
と息子を落ち着かせようとする父に対し、僕は、
「心配しないわけねーべや!」
と叫んでわけもなく泣きわめいたのを覚えている。
事件を起こした長男は、拘置所で死刑を望み、自分の犯罪を冷静に分析する著書を執筆する。一方、互いに思う気持ちがありながらも、すれ違い続けた次男は、兄より先にみずから命を絶った。私はこれ以上、父親から言葉を引き出そうとは思えなかった。
「またマスコミが来てしまうのか……」
父親は非難めいた口調ではなく、そう呟くと玄関の向こうの暗闇に消えた。この日もやはり、電気が灯ることはなかった。
優次は、「加害者家族として生きること」について、こう書いている。
被害者家族は言うまでもないが、加害者家族もまた苦しんでいます。でも、被害者家族の味わう苦しみに比べれば、加害者家族のそれは、遥かに軽く、取るに足りないものでしょう。
「加害者の家族のくせに悲劇ぶるな」「加害者の家族には苦しむ資格すらない」これは一般市民の総意であり、僕も同意します。ただそのうえで、当事者として言っておきたいことが一つだけあります。
そもそも、「苦しみ」とは比較できるものなのでしょうか。被害者家族と加害者家族の苦しさはまったく違う種類のものであり、どっちのほうが苦しい、と比べることはできないと、僕は思うのです。
だからこそ、僕は発言します。加害者家族側の心情ももっと発信するべきだと思うからです。
それによって攻撃されるのは覚悟の上です。犯罪者の家族でありながら、自分が攻撃される筋合いはない、というような考えは、絶対に間違っている。
攻撃、結構なことじゃないか。どうやったって自分たちが良い方向にはもう修正されない。だから自分が悪評で埋め尽くされ、人間らしい扱いをされなくなっても、僕は構わない。
こういう行動が、将来的に何か有意義な結果につながってくれたら、最低限、僕が生きている意味があったと思うことができる。
兄に会いたかった
優次は、自身を「犯罪者家族」にした兄に、会うことを望んだ。事件以来、拘置所に手紙を送り続け、その数は50通をゆうに超えた。だが一度として返事が来たことはなかった。
兄に会うために拘置所を訪れる優次に、私は何度か付き添った。初めて出向いたときは、押し寄せる緊張で、彼は拘置所の前で嘔吐した。面会受付を済ませ、窓口で「加藤さん」と呼ばれると、面会が決まったわけでもないのに、身体の震えが止まらなくなった。
「自分は兄とは違う。直接会って、それを確認したいんです」
だが、優次は最後まで、兄に会えなかった。加藤は家族を拒否していた。面会どころか、差し入れすら拒否された。
実は死の少し前にも、優次は拘置所を訪ねている。
「今度こそ会えると思ったのに。一度でいいから会いたかった」
優次が私にそう明かしたのは、死の1週間前、2月上旬に会った時だった。私に会う前にも、自殺を図って失敗したのだという。選んだ手段は餓死だった。
「餓死って難しいですね。10日目に水を飲んでしまった。なぜ餓死か? いちばん苦しそうだから。やっぱり、加害者は苦しまなければいけない。楽に死んではいけないんです。
唯一心配なのは、母親です。事件発生時の母は病的に取り乱していて、思い出すといまだにザワザワします。その母親が僕の死を知ったらどうなるのか……」
こう言って力なく笑う優次の覚悟は、この時もう、完全に固まっていた。
事件が少しずつ風化していく一方で、被害者家族だけではなく、加害者家族の苦しみも続く。加害者とともに罪を背負わなければという思いと、「こんなはずじゃなかった」という思い。
その二つの狭間で揺れ続けた繊細な男は、苦悩の時間をみずから終わらせることを選んだ。目を背けてはならない、事件のもう一つの側面がここにある。
 
『秋葉原事件』加藤智大の弟 自殺 2014/4/11

 

「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」 自殺1週間前に語っていた
<「あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なんだと思い知りました。加害者の家族というのは、幸せになっちゃいけないんです。それが現実。僕は生きることを諦めようと決めました。 死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。どう考えても浮かばない。何かありますか。あるなら教えてください」>
これは『週刊現代』の「独占スクープ!『秋葉原連続通り魔事件』そして犯人(加藤智大被告)の弟は自殺した」の中で、週刊現代記者の齋藤剛氏が明かしている加藤被告の実の弟・加藤優次(享年28・仮名)の言葉である。
この1週間後、優次は自ら命を断った。これを読みながら涙が止まらなかった。加藤被告の起こした犯罪のために、被害者の遺族の人たちは塗炭の苦しみを味わっている。だが、加害者の家族も苦しみ、離散し、弟は兄の犯した罪に懊悩し、ついには自裁してしまったのだ。
日本の犯罪史上まれに見る惨劇「秋葉原連続通り魔事件」が起きたのは2008年6月8日の日曜日。加藤智大は白昼の秋葉原の雑踏に2トントラックで突っ込み、さらにダガーナイフを使って7人もの命を奪った。
弟は兄が犯した事件によって職を失い、家を転々とするが、マスコミは彼のことを放っておいてはくれなかった。就いた職場にもマスコミが来るため、次々と職も変わらなければならなかった。そんな暮らしの中にも、希望がなかったわけではなかったという。事件から1年余りが過ぎた頃、筆者が彼のアパートを訪ねようとしたとき、たまたま女性と一緒に歩く姿を目撃したそうだ。優次は彼女に事件のことも話していたという。
<正体を打ち明けるのは勇気のいる作業でしたが、普段飲まない酒の力を借りて、自分のあれこれを話して聞かせました。一度喋り出したら、後は堰を切ったように言葉が流れてました。彼女の反応は『あなたはあなただから関係ない』というものでした>
ようやく心を開いて話ができる異性との出会いは、彼に夢を与えてくれたのだろう。しかし、優次の夢は叶うことはなかった。事情を知りつつ交際には反対しなかった女性の親が、結婚と聞いたとたんに猛反対したというのだ。二人の関係が危うくなり、彼女も悩んでイライラしていたのだろうか、彼女から決定的なひと言が口をついて出たという。
<一番こたえたのは『一家揃って異常なんだよ、あなたの家族は』と宣告されたことです。これは正直、きつかった。彼女のおかげで、一瞬でも事件の辛さを忘れることができました。閉ざされた自分の未来が明るく照らされたように思えました。しかしそれは一瞬であり、自分の孤独、孤立感を薄めるには至らなかった。結果論ですが、いまとなっては逆効果でした。持ち上げられてから落とされた感じです。もう他人と深く関わるのはやめようと、僕は半ば無意識のうちに決意してしまったのです。 (中略)僕は、社会との接触も極力避ける方針を打ち立てました>
「加害者家族もまた苦しんでいます」面会求める弟、拒否し続けた兄…
優次は手記に繰り返しこう書いていたという。<兄は自分をコピーだと言う。その原本は母親である。その法則に従うと、弟もまたコピーとなる>
そして、<突きつめれば、人を殺すか自殺するか、どっちかしかないと思うことがある>
そんな言葉を筆者に漏らすようになっていった。母親は事件後、精神的におかしくなり離婚してしまった。父親も職場にいられなくなり、実家へ帰りひっそりと暮らしている。
優次は加害家族も苦しんでいることを知ってほしいと、このように書いている。ここには心からの叫びが吐露されているので、少し長いが引用してみたい。
<被害者家族は言うまでもないが、加害者家族もまた苦しんでいます。でも、被害者家族の味わう苦しみに比べれば、加害者家族のそれは、遙かに軽く、取るに足りないものでしょう。(中略) ただそのうえで、当事者として言っておきたいことが一つだけあります。そもそも、「苦しみ」とは比較できるものなのでしょうか。被害者家族と加害者家族の苦しさはまったく違う種類のものであり、どっちのほうが苦しい、と比べることはできないと、僕は思うのです。だからこそ、僕は発信します。加害者家族の心情ももっと発信するべきだと思うからです。それによって攻撃されるのは覚悟の上です。犯罪者の家族でありながら、自分が攻撃される筋合いはない、というような考えは、絶対に間違っている。(中略) こういう行動が、将来的に何か有意義な結果につながってくれたら、最低限、僕が生きている意味があったと思うことができる>
彼は兄と面会したいと願い、50通を優に超える手紙を書いたという。だが1度として兄から返事が来たことはなかった。罪を犯した自分より早く逝ってしまった弟のことを知らされたとき、加藤智大被告は何を思ったのだろう。1度でも会ってやればよかった、そう思っただろうか。
  
加藤智大の父「10年という節目の数字に意味ない」  2018/6/29

 

児童虐待など「親の資格」を問われるような事件が頻発する一方で、子供の罪に向き合い、極限の生活をしている親がいる。10年前に秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大死刑囚(35才)の父親(60才)である。
青森県青森市の閑静な住宅街の中で、事件発生以来引っ越すこともなく暮らしている加藤死刑囚の父。
「近所づきあいが一切なく、話すこともない」
「夜でも電気すらつけていない。本当に生きているのかと思うこともある」
「ろうそくを灯して生活しているらしい」
近隣住人がこう口を揃えるように、他者とかかわらずに生きることを選んだ父親は、地域内ではいまだ“異質の存在”として浮いていた。
「でも、そうやって社会から離れつつ、町内会費だけはちゃんと納めてくれるんです。せめてもの償いなのでしょうか…」(近隣住人)
加藤死刑囚の弟は2014年に自殺し、母親は事件後に入院した。事件を境に、文字通り崩壊した家族の人生。仕事から帰宅した父親に話を聞いた。
──事件から10年という節目を迎えました。
「とくにお話しすることはありません。誰にも、なにも、話さないように暮らしていますので」
──どのような思いで事件当日を迎えましたか?
「いや、なにも…」
──昨今、同じような連続殺傷事件も起きています。
「…」
うつむきながら沈黙する父親だが、次の質問を向けると、応対が変わった。
──10年経って、今でも事件を思い出すことはありますか?
「…10年って、みなさんはそうやって節目、節目、と言いたがりますよね。でもね、私にとって10年経った、などという数字はなんの意味もないんです。私だけでなく、被害者のかたがたも含めて」
──今年はとくにそういった報道が多かったですが?
「いえ、新聞やテレビなどの報道は、一切なにも見ないようにしています」
──息子さんとはお会いしていないのですか?
「会っていないです」
──それはなぜ?
「…」
──弁護団とも会っていないのですか?
「はい、会っていません」
そう話すと、頭を下げて自宅に戻っていった。呪いたくなるほど重い運命を背負いながら、それでも生きる親の姿がそこにあった。
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 

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