百人一首

百人一首
1 天智天皇2 持統天皇3 柿本人麻呂4 山部赤人5 猿丸大夫6 中納言家持7 阿倍仲麻呂8 喜撰法師9 小野小町10 蝉丸
11 参議篁12 僧正遍昭13 陽成院14 河原左大臣15 光孝天皇16 中納言行平17 在原業平朝臣18 藤原敏行朝臣19 伊勢20 元良親王
21 素性法師22 文屋康秀23 大江千里24 菅家25 三条右大臣26 貞信公27 中納言兼輔28 源宗于朝臣29 凡河内躬恒30 壬生忠岑
31 坂上是則32 春道列樹33 紀友則34 藤原興風35 紀貫之36 清原深養父37 文屋朝康38 右近39 参議等40 平兼盛
41 壬生忠見42 清原元輔43 権中納言敦忠44 中納言朝忠45 謙徳公46 曽禰好忠47 恵慶法師48源重之49 大中臣能宣朝臣50 藤原義孝
51 藤原実方朝臣52 藤原道信朝臣53 右大将道綱母54 儀同三司母55 大納言公任56 和泉式部57 紫式部58 大弐三位59 赤染衛門60 小式部内侍
61 伊勢大輔62 清少納言63 左京大夫道雅64 権中納言定頼65 相模66 大僧正行尊67 周防内侍68 三条院69 能因法師70 良暹法師
71 大納言経信72 祐子内親王家紀伊73 権中納言匡房74 源俊頼朝臣75 藤原基俊76 法性寺入道前関白太政大臣77 崇徳院78 源兼昌79 左京大夫顕輔80 待賢門院堀河
81 後徳大寺左大臣82 道因法師83 皇太后宮大夫俊成84 藤原清輔朝臣85 俊恵法師86 西行法師87 寂蓮法師88 皇嘉門院別当89 式子内親王90 殷富門院大輔
91 後京極摂政前太政大臣92 二条院讃岐93 鎌倉右大臣94 参議雅経95 前大僧正慈円96 入道前太政大臣97 権中納言定家98 従二位家隆99 後鳥羽院100 順徳院
「百人一首」歌集以外の用途「百人一首」を用いた遊び・異種百人一首
歌よみに與ふる書藤原忠平物語日本人と梅「桜 」考音無川栗駒山佐野の舟橋鹽竈神社和歌評定の時代
 

雑学の世界・補考   

百人一首

(ひゃくにん いっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。
小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。
室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。
小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。
定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。   
『百人一首』の歌
百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。
小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。
歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。
100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。
万葉の歌人 / 『万葉集』の時代はまだおおらかで、身分の差にこだわらずに天皇、貴族、防人、農民などあらゆる階層の者の歌が収められている。自分の心を偽らずに詠むところが特徴。有名な歌人は、大伴家持、山部赤人、柿本人麻呂など。
六歌仙の時代 / この時代になると、比喩や縁語、掛詞などの技巧をこらした繊細で、優美な歌が多く作られた。選者の紀貫之が「六歌仙」と呼んだ、在原業平や小野小町などが代表的な歌人である。
女流歌人の全盛 / 平安時代の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎える。文学の世界では、女性の活躍が目ざましく清少納言が『枕草子』、紫式部が『源氏物語』を書いた。『百人一首』にはそのほかにも、和泉式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔といった宮廷の才女の歌が載っている。
隠者と武士の登場 / 貴族中心の平安時代から、武士が支配する鎌倉時代へとうつる激動の世情の中で、仏教を心の支えにする者が増えた。『百人一首』もそうした時代を反映し、西行や寂蓮などの隠者も登場する。藤原定家自身も撰者となった『新古今和歌集』の歌が中心で、色彩豊かな絵画的な歌が多く、微妙な感情を象徴的に表現している。 
『百人一首』は秀歌撰ではない
タイトルを御覧になって、首をかしげる人も少なくないでしょう。そして直ちに、「百人一首は秀歌撰に決まっている。それも大歌人・藤原定家が編纂した最高の秀歌撰だ。なんてとんちんかんなことを言っているんだ。」とお叱りを受けそうです。ですが、はたしてそう言い切れるでしょうか。百人一首は本当に秀歌撰の定義にあてはまるのでしょうか。
私が今さらこんなことを問題にするのは、百人一首を安易に秀歌撰としてまつりあげてしまった結果、知名度が高い割に研究が停滞・遅延してしまっているからです。せっかくの百人一首の面白さが、秀歌撰という安易な定義によって、かえって見えなくなってしまっているのではないでしょうか。そこであえて挑戦的なタイトルを設定してみた次第です。
1度秀歌撰という枠をはずして、あらためて百人一首を見直してみると、いわゆる秀歌撰とは異なる点が多々あることに気付きます。例えば百人一首はほぼ年代順に配列されていますが、従来の秀歌撰はすべて歌合形式になっており、左右の組み合わせが重視されています。藤原公任(きんとう)撰の『三十六人撰』(いわゆる「三十六歌仙」)では、1番左に柿本人麿、2番右に紀貫之という好取組になっています。さらに後鳥羽院撰の『時代不同歌合』は1番左に人麿・2番右に源経信(つねのぶ)になっていますが、これは新旧歌人の歌合(対)を意図してのことでしょう。
もっと奇妙なことがあります。本来、秀歌撰の1番は人麿が定位置でした。それは『古今集』において人麿を「歌聖」と認定していることに起因します。それにもかかわらず、百人一首では人麿を3番にずらし、巻頭に天智・持統という親子天皇を据えているのですから、これだけでも単なる秀歌撰とは大きく異なっていることになります。しかも百人一首では、巻末にも後鳥羽・順徳という親子天皇を配しており、巻頭と巻末が親子天皇でシンメトリーになっているのです。
そもそも秀歌撰の代表・嚆矢(こうし)たる『三十六人撰』に、天皇の歌は一首も撰ばれていません。『時代不同歌合』に至って、5人の天皇が撰入されています。それは撰者である後鳥羽院自身を歌人として撰入させるための方便でしょうし、また意図的に天皇歌人の存在を強調するためと思われます。それでも『時代不同歌合』では、巻頭・巻末に天皇が配されることはありませんでした。百人一首に至って、天皇が5人から8人に増加したのみならず、親子天皇をもって巻頭・巻末を飾っているのですから、それこそ一般的な秀歌撰の編纂意識とは大きく異なっているわけです。
歌人ならざる天皇の歌を無理に撰ぶために、もう1つの作為も行われています。従来の秀歌撰は一歌人三首が原則でした。それに対して百人一首は一人一首となっています。つまり歌が一首しかなくても、撰ぶことができるのです。持統天皇・阿倍仲麿・喜撰法師・陽成院のように、この方針で拾われた歌人も少なくありません。気付いていない人も多いようですが、百人一首はこういった特殊な編纂方針のもとに成立しているのです。これでもまだ百人一首を秀歌撰であると言い張ることができますか。 
 

 

六歌仙
「六歌仙(ろっかせん)」とは、古今和歌集の仮名序において紀貫之が挙げた六人の歌人のことで、そこには「近き世にその名聞こえたる人」として紹介されています。
僧正遍昭 (そうじょうへんじょう・816-890年・歌番号12)
在原業平 (ありひらのなりひら・825-880年・歌番号17)
文屋康秀 (ぶんやのやすひで・生没年不明・歌番号22)
喜撰法師 (きせんほうし・生没年不明・歌番号8)
小野小町 (おののこまち・生没年不明・歌番号9)
大伴黒主 (おおとものくろぬし・生没年不明) ( *歌番号は百人一首の歌番号です)
の六人ですが、紀貫之自身はこの六人を「六歌仙」とは呼んでいません。「歌仙」とは、もともと仮名序で柿本人麻呂と山部赤人の二人に限って使われていて、「六歌仙」という名称は後世になってからの名称です。
紀貫之はこれら六人の歌人を選んだ理由として、身分の高い公卿を除いて、当時においてすでに歌人として名が知られている人たちを選んだとしています。ですから、六歌仙の中には女性や僧侶も含まれていますが、歌人としても様々で、各人の歌風に共通性などがある訳でもありません。また、身分の高い人たちを対象にしなかったことについては、「官位高き人をば、容易きようなれば入れず」として、敢えて評価をしなかったようです。
ところで、六歌仙についての仮名序における紀貫之の評価は、決して芳しいものでないのですが、これは柿本人麻呂と山部赤人の歌仙を念頭に置いたもので、この二人には遠く及ばないとしているようです。しかし、これら六歌仙以外の人たちの評価は更に厳しく、「歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし」として、全く取り上げようともしていないので、逆説的な言い方ですが、六歌仙について評価をしていると言えます。
参考に、下に「古今和歌集・仮名序」において六歌仙について書かれている部分を紹介しておきますが、いずれにしても、これら六歌仙と呼ばれる人たちの和歌は素晴らしく、百人一首などによっても、身近に親しまれているのではないでしょうか。
「古今和歌集・仮名序」
ここに、古のことをも、歌の心をも知れる人、僅かにひとりふたり也き。然あれど、これかれ、得たる所、得ぬ所、互いになんある。彼の御時よりこの方、年は百年あまり、世は十継になんなりにける。古の事をも歌をも、知れる人よむ人、多からず。今この事を言うに、官位高き人をば、容易きようなれば入れず。
その他に、近き世にその名聞こえたる人は、すなわち、僧正遍照は、歌のさまは得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色無くて臭い残れるがごとし。
文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。
宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし。
小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず。言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。
大伴黒主は、そのさまいやし。言わば、薪負える山人の、花のかげに休めるがごとし。
この他の人々、その名聞こゆる、野辺に生うる葛の、這ひ広ごり、林に繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし。  
三十六歌仙
「三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)」は、平安時代中期の公卿・藤原公任(ふじわらのきんとう・966〜1041年)が著した「三十六人撰(さんじゅうろくにんせん)」に紹介されている、優れた三十六人の和歌の名人を指しています。藤原公任自身も優れた歌人で、百人一首の中でも歌番号55「大納言公任(だいなごんきんとう)」として紹介されています。関白太政大臣・藤原頼忠の長男で、和歌のほか、漢詩や管弦などにも優れていました。
さて、三十六歌仙の元になった「三十六人撰」ですが、これは、同じ公任が著した「三十人撰」を改めて編集しなおしたものです。この「三十人撰」は公任が既に著していた「前十五番歌合」を発展させたもので、これを具平親王に贈りましたが、具平親王はこれに手を加えられ、公任に贈り返したと言われています。そして、公任は再度これを増補して「三十六人撰」を完成したと伝えられています。
以下にそこで紹介されている三十六人を紹介しておきますが、百人一首の中にも紹介されている歌人も多く、いずれも素晴らしい和歌を残しています。
三十六歌仙
柿本人麻呂 (歌番号3) / 山部赤人 (歌番号4) / 大伴家持 (歌番号6) / 猿丸大夫 (歌番号5)
僧正遍昭 (歌番号12) / 在原業平 (歌番号17) / 大中臣頼基 / 坂上是則 (歌番号31)
源重之 (歌番号48) / 藤原朝忠 (歌番号44) / 藤原敦忠 / 藤原元真
小野小町 (歌番号9) / 藤原兼輔 / 紀貫之 (歌番号35) / 凡河内躬恒 (歌番号29)
紀友則 (歌番号33) / 壬生忠岑 (歌番号30 / 源信明 / 斎宮女御
藤原清正 / 藤原高光 / 小大君 / 中務
伊勢 (歌番号19) / 藤原興風 (歌番号34) / 藤原敏行 (歌番号18) / 源公忠
源宗于 (歌番号28) / 素性法師 (歌番号21) / 藤原仲文 / 清原元輔 (歌番号42)
大中臣能宣 (歌番号49) / 源順 / 壬生忠見 (歌番号41) / 平兼盛 (歌番号40)  
やまとうた / 定家
 
1.天智天皇 (てんじてんのう)  

 

秋(あき)の田(た)の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は 露(つゆ)にぬれつつ  
秋の田の傍にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてゆくばかりだ。 / 刈り取られた稲の見張り小屋で、ただひとりで夜を明かしていると、葺いてある屋根の苫の編み目が粗いので、私の着物はぐっしょりと夜露で濡れ続けていることよ。 / 秋の田んぼのそばにある小屋は、田んぼの番をするために仮に建てられたものだから、苫(屋根の編み目のこと)が荒くて、すきまだらけ。わたしの衣の袖が、夜露にぬれてしまっているよ。 / 秋の田の側につくった仮小屋に泊まってみると、屋根をふいた苫の目があらいので、その隙間から忍びこむ冷たい夜露が、私の着物の袖をすっかりと濡らしてしまっているなぁ。
○ かりほ / 仮庵。収穫のために建てた仮小屋。「刈り穂」との掛詞とする説もある。
○ 苫をあらみ / 「AをBみ」で原因・理由を表す。「AがBなので」の意。Aは名詞、Bは形容詞の語幹。「苫の目が粗いので」の意。
○ わが衣手 / 「が」は、所有格の格助詞「〜の」の意。「衣手」は、袖。
○ ぬれつつ / 「つつ」は、反復・継続を表す接続助詞。
※ 実際の作者は、天智天皇ではないというのが定説。万葉集の詠み人知らずの歌が変遷して御製となったもの。天智天皇と農民の姿を重ね合わせることで、庶民の痛み・苦しみを理解する天皇像を描き出している。大化の改新以降の社会の基盤を構築した偉大な天皇である天智天皇の御製が、百人一首の第一首とされた。  
先代旧事本紀・日本書紀・古事記・物部氏
1
天智天皇(てんちてんのう / てんじてんのう、推古天皇34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。
大化の改新と即位
舒明天皇の第2皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図った。百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)斉明天皇が崩御した。
その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制したが、天智天皇2年7月20日(663年8月28日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、同6年3月19日(667年4月17日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、翌同7年1月3日(668年2月20日)、漸く即位した。同年2月23日(668年4月10日)には、同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、同9年11月16日(671年1月2日)に第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、同10年10月17日(671年11月23日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。
なお、斉明天皇崩御(661年)後に即日中大兄皇子は称制して暦が分かりにくくなっているが、日本書紀では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、崩御翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。
白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。
また、皇太子時代の斉明天皇6年(660年)と天智天皇10年(671年)に漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせたことは著名で、後者の日付(4月25日)をグレゴリオ暦に直した6月10日は時の記念日として知られる。
崩御とその後
671年9月、天智天皇は病気に倒れた。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。12月3日、天智天皇は近江大津宮で崩御した。
天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となる。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。
称徳天皇崩御後に、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、以降は天智系統が続く。
大海人皇子から額田王を奪ったという話も有名だが、事実ではないという説もあり真偽ははっきりしない。 
2
中大兄皇子(天智天皇)は、乙巳の変にて蘇我氏を滅ぼし、大化の改新といわれる政治改革を行いました。
661年に斉明天皇は崩御されますが、中大兄皇子(天智天皇)は即位することなく皇太子のまま政務に励みます。
663年には、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)にて、友好国の百済を救うため唐・新羅の連合軍と争うことになりますが、日本は大敗してしまいます(白村江の戦い)。その後、日本は唐からの攻撃を警戒し、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置き唐からの侵攻に備えました。また、水城(みずぎ)といって、筑紫に大きな堤を築いて水を蓄えたりしています。(しかし、結局、唐からの攻撃はなかった)
667年には、外国からの襲来に備えて、歴代の天皇が都を構えた大和の地から近江の大津宮に移しました。この大津宮にて中大兄皇子は正式に即位し天智天皇となりました(668年)。
実に20年以上も皇太子のまま政務を行っていた中大兄皇子ですが、なぜ即位するのをそれほど先延ばしにしたかについては、色々な説がありますが、そのひとつに暗殺を恐れていたという説があります。乙巳の変にて蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子には敵が多くいたのは間違いないでしょう。天皇を頂点とする政治改革を進めていた中大兄皇子にとって、自身が天皇となり暗殺された場合、その政治改革が後退してしまうと考えたという訳です。
また、天智天皇は即位した668年に「近江令」を完成させ671年から施行されます。これは、後に「大宝律令」の基礎となる法典です。
669年に、乙巳の変にて共に蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足が56歳でなくなります。天智天皇(中大兄皇子)は、亡き鎌足に「大織冠(だいしきのこうぶり)」という大臣の位を授けます。この大織冠は、最高の冠位であると共に古代、この位を授かったのは鎌足が唯一でありました。また、天智天皇は、鎌足に「藤原」の姓を授け、そのご藤原氏は長きに渡り繁栄していくことになります。
そして、671年、天智天皇46歳の時、亡くなるのですが、天智天皇は、亡くなる前に弟の大海人皇子を皇太子としていましたが、その後、自身の子である大友皇子も太政大臣という最高の官に任命します。いったんは、大海人皇子は、大友皇子に皇位を譲る素振りをみせるのですが・・・。
その後、この2人は皇位をめぐり内乱となっていくのです。(壬申の乱) 
3
阿倍比羅夫の朝鮮出兵によって、結果的に旧来の倭国は滅び、日本国が登場する契機となる。そして、それは「東北の鬼」の誕生につながっていく。
663年、倭国は百済復興のため大軍を派遣したが、白村江の海戦で新羅と唐の連合軍に壊滅的な惨敗をきした。
664年5月、唐軍の総責任者である百済鎮将の劉仁願が使者を派遣してきた。
  12月、劉仁願の使者が戻っていった。
665年9月、唐国が朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高らを派遣してきた。
  12月、唐の使節が大和王朝の送使らを伴って戻っていった。
667年、中大兄皇子は九州北部から瀬戸内海にかけて国防施設を配置したが、ついに飛鳥を離れ、近江大津(滋賀県大津市)の近江宮へ遷都した。琵琶湖の東岸から鈴鹿に出れば伊勢湾、湖東から敦賀に出れば日本海、当時の大津は陸海路の要衝の地で、連合軍が迫った場合に備えた遷都である。
  11月 9日、唐軍の劉仁願が熊津都督府の熊山県令の法聰等を派遣してきた。
  11月13日、戻っていった。
668年、中大兄皇子が天智天皇となり、同母弟の大海人皇子を皇太弟に任じた。
この年の9月、高句麗が唐によって滅ぼされた。
669年、遣唐使として小錦中河内直鯨らが大唐に派遣された。
671年、天智天皇は、大友皇子を太政大臣にして後継者とする意思を示した。
天智天皇は亡命百済人らに免税などの優遇をして、東国の開拓を委ねた。陸奥国から朝廷に黄金を献上する「百済王敬福」は、このとき陸奥国に入植した百済王族の一員である。
  11月、大唐の郭務悰が軍線47隻、2,000名を率いて大宰府に寄港した。
  12月、天智天皇が死去、大友皇子(弘文天皇)が跡を受け継いだ。
672年3月、阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇崩御を郭務悰に告げた。郭務悰らは、みな喪服を着て、三度哀の礼を奉じ、東に向って首を垂れた。
  5月、郭務悰らが戻っていった。
  6月、粛清の危機を感じた大海人皇子は、吉野から伊賀、鈴鹿関(三重県亀山市)を経由して美濃に逃れ、不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)で叛旗を掲げ、東国の豪族に挙兵を求めた。壬申の乱の勃発である。
瀬田橋(滋賀県大津市唐橋町) の戦いで朝廷軍が大敗、弘文天皇が自決した。
673年、大海人皇子は『天武天皇』として即位する。
676年、新羅が朝鮮半島を統一。倭国の半島への介入の道が閉ざされる。
690年、白村江で捕虜となった倭人たちが唐から帰還。
天武王朝は、彼らの情報に刺激を受け、律令制を布いた中央集権国家の構築を目指し、亡命百済高官らの知識を活用して律令制の成立に着手した。
701年、大宝律令が制定。国号を日本と定める。天皇制もこの時期と思われる。
この激動の40年が、井の中の蛙になっていた倭国を、新たな日本国を誕生させるための「生みの苦しみ」の期間だったともいえるが、白村江での敗戦以降の大唐の動きはなんだろう。
天智天皇の死去の直前に多勢で寄港し、まるで「壬申の乱」の勃発を未然に察知していたかのような帰還。
『唐会要』倭国・日本国伝 / 日本国の国号は、則天武后(624〜705年)の時代に改号したという。日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの国名が優雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国は(倭国とは無関係ではと)疑う。
このように唐王朝も従来の倭国と日本国の関係に疑問を感じており、『倭の五王』の時代の倭国と、新生日本国は関連性がなかったことをうかがわせる。
なにはともあれ、唐の先進的な統治制度に習った律令国家とするためにも、王朝の歴史を記録した『正史』の編纂が必須とされた。
ただし、天武天皇は正統な天皇であり、天武朝廷につながる代々のヤマト王朝が信奉した神の系譜につながる神々だけが日本国の正統な神であること。これを明記することが『天皇家の正史』の絶対的要件だった。
その根拠は、天武天皇が皇位簒奪者ではないことを説明するのに『日本書紀』は最大のページ数を費やしており、大海人皇子は皇太弟(こうたいてい)に任じられたとするのも『日本書紀』の創作だとされる。
ちなみに、皇位継承者とされた子女は「皇太子」、弟の場合は「皇太弟」という。大友皇子を正規の天皇「弘文天皇」であると認めたのは明治以降のことである。
『日本書紀』 /
天武天皇の十年(682年)条 / 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子ら12人に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。大島・子首が自ら筆をとって記した。
持統天皇の五年(691年)条 / 大三輪、上毛野、膳部、紀、大伴、石上、雀部、藤原、石川、巨勢、春日、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、安曇の18氏に命じて、先祖からの事績を記した『墓記』を奉らせた。 
このように『記紀』の編纂に先立って、「帝紀」や墓記(氏族史)に類する歴史書を作成させているが、ほとんどが現存しない。
後世、多くの氏族が秘匿していた残存記録を元に系譜を復元したようだが、上古の系譜が不鮮明な家系が多いのは、提出された纂記を焼却したことが原因だと推察される。『続日本紀』には次のような一文がある。
『続日本紀』元明天皇 /
慶雲四年(707年)7月条 / 山沢に亡命して、軍器を挟蔵して、百日首せずんば、罪に復すること初の如くす。
和銅元年(708年)正月条 / 山沢に亡命して、禁書を挟蔵して、百日首せずんば、罪に復すること初の如くす。
軍器とは軍隊に要する器物のことだが、慶雲四年の軍器は禁書の誤写とされる。
禁書を秘匿し、天皇家の命令を拒否して王朝の支配地域外に逃亡した者は、百日以内に自首しなければ、本来の罰を科すぞと言っている。半年後にも同文の勅詔が出されていることから、百日以内に自首する者がいなかったのだろう。
禁書とは、天皇家に禁じられた本のことで、天皇家の大義名分に相反する書籍、すなわち「諸家の帝紀や本紀」や上記の『日本書紀』に記された『墓記』である。
このことから、天武と持統の夫婦が命じて提出させた歴史書の内容は、彼らには不都合な記述があったものと推察できる。
 
2.持統天皇 (じとうてんのう)  

 

春過(はるす)ぎて 夏来(なつき)にけらし 白妙(しろたへ)の
衣干(ころもほ)すてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)  
春が過ぎて夏が来たらしい。夏に純白の衣を干すという天の香具山なのだから。 / いつの間にか春が過ぎて夏が来たらしい。どうりで、夏になると白い衣を干すと言い伝えのある天の香具山の麓に、目にも鮮やかな真っ白な衣が干してあるのが見えるよ。 / もう春が過ぎて、夏が来たようね。夏になると白い衣服を乾すと聞いている天の香具山に白い衣服が干してあるわ。 / もう春は過ぎ去り、いつのまにか夏が来てしまったようですね。香具山には、あんなにたくさんのまっ白な着物が干されているのですから。
○ 春 / 陰暦の春、すなわち、一・二・三月。
○ 夏 / 陰暦の夏、すなわち、四・五・六月。
○ けらし / 「けるらし」がつづまった形。「ける(過去の助動詞)+らし(推定の助動詞)」で「〜してしまったらしい」の意。
○ 白妙の / 「衣」にかかる枕詞。その他、「雪・雲」など白いものにかかり、「真っ白・純白」の意味を表す。「白妙」は、楮類の樹皮の繊維で織った純白の布。
○ 衣ほすてふ / 「てふ」は、「といふ」がつづまった形。直前には会話文・心内文などがあり、伝聞を表す。
○ 天の香具山 / 耳成山、畝傍山とともに大和三山の一。持統天皇の御世に都があった藤原京の中心から見て東南に位置する。万葉集には大和三山を男女の三角関係に見立てた歌があり、持統天皇の歌の背景には、額田王をめぐって争った天智天皇(持統天皇の父)とその弟、天武天皇(持統天皇の夫)の関係が連想される。 
昔の女性
先代旧事本紀・日本書紀・古事記・物部氏
1
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。
壬申の乱の前まで
父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。父母を同じくする姉に大田皇女がいた。
大化5年(649年)、誣告により祖父の蘇我石川麻呂が中大兄皇子に攻められ自殺した。石川麻呂の娘で中大兄皇子の妻だった造媛(みやつこひめ)は父の死を嘆き、やがて病死した。『日本書紀』の持統天皇即位前紀には、遠智娘は美濃津子娘(みのつこのいらつめ)ともいうとあり、美濃は当時三野とも書いたので、三野の「みの」が「みや」に誤られて造媛と書かれる可能性があった。美濃津子娘と造媛が同一人物なら、鸕野讃良は幼くして母を失ったことになる。
斉明天皇3年(657年)、13才のときに、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。斉明天皇7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。天智天皇元年(662年)に筑紫の娜大津で鸕野讃良皇女は草壁皇子を産み、翌年に大田皇女が大津皇子を産んだ。天智天皇6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、鸕野讃良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。
壬申の乱
天智天皇10年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠棲したとき、草壁皇子を連れて従った。『日本書紀』などに明記はないが、大海人皇子の妻のうち、吉野まで従ったのは鸕野讃良皇女だけではなかったかとされる。
大海人皇子は翌年に決起して壬申の乱を起こした。皇女は我が子草壁皇子、母を異にする大海人の子忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃に向けた脱出の強行軍を行った。疲労のため大海人一行と別れて桑名にとどまったが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったことが知られる。
壬申の乱のときに土地の豪族尾張大隅が天皇に私宅を提供したことが『続日本紀』によって知られる。この天皇は天武天皇とされることが多いが、持統天皇にあてる説もある。
天武天皇の皇后
大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、鸕野讃良皇女が皇后に立てられた。
『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した。
679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。6人は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子である。天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。続いて皇后も皇子らを抱擁した。
皇后は病を得たため、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。
681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編纂を始め、当時19才の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかった。皇后の強い要望があったと推測される。
685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。
大津皇子の謀反
大津皇子は草壁皇子より1歳年下で、母の身分は草壁皇子と同じであった。立ち居振る舞いと言葉遣いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と『日本書紀』は大津皇子を描くが、草壁皇子に対しては何の賛辞も記さない。草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない。2人の母は姉妹であって、大津皇子は早くに母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていた。草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画したが、皇太子としての草壁皇子の地位は定まっていた。
しかし、天武天皇の死の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺した。川島皇子の密告という。具体的にどのような計画があったかは史書に記されない。皇位継承を実力で争うことはこの時代までよくあった。そこで、大津皇子に皇位を求める動きか、何か不穏な言動があり、それを察知した持統天皇が即座につぶしたのではないかと解する者がいる。謀反の計画はなく、草壁皇子のライバルに対して持統天皇が先制攻撃をかけたのではないかと考える者も多い。いずれにせよ、速やかな反応に持統天皇の意志を見る点は共通している。
持統天皇の称制と即位
天武天皇は、2年3ヶ月にわたり、皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼を経て葬られた。このとき皇太子が官人を率いるという形が見られ、草壁皇子を皇位継承者として印象付ける意図があったともされる。これに対して、「草壁皇子の立太子」そのものが、後に皇子の子である軽皇子(文武天皇)への皇位継承を正当化する為に作為されたもので、実際の持統天皇の構想は草壁皇子に葬礼を主宰させることで初めて後継者であることが明らかにされたとする説もある。
ところが、689年4月に草壁皇子が病気により他界したため、皇位継承の計画を変更しなければならなくなった。鸕野讃良は草壁皇子の子(つまり鸕野讃良の孫にあたる)軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7才)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から鸕野讃良は自ら天皇に即位することにした。
その即位の前年に、前代から編纂事業が続いていた飛鳥浄御原令を制定、施行した。
持統天皇の即位の儀式の概略は、天武天皇の葬礼とともに、『日本書紀』にかなり具体的に記されている。ただし以前の儀式が詳しく記されていないので正確なところは不明だが、盾、矛を立てた例は前にもあり、天つ神の寿詞を読み上げるというのは初見である。また前代にみられた群臣の協議・推戴はなかった。全体に古式を踏襲したものとみなす見解もあるが、新しい形式の登場に天皇の権威の上昇を見る学者が多い。
即位の後、天皇は大規模な人事交代を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった。
持統天皇の治世
天武天皇の政策の継承
持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である。
新しい京の建設は天武天皇の念願であり、既に着手されていたとも、持統天皇が開始したとも言われる。未着手とする説では、その理由が民の労役負担を避けるためだったと説かれるので、後述の伊勢行幸ともども、天武の治世と微妙に異なる志向がある。
また、官人層に武備・武芸を奨励して、天武天皇の政策を忠実に引き継いだ。墓記を提出させたのは、天武天皇の歴史編纂事業を引き継ぐものであった。
民政においては、戸籍を作成した。庚寅の造籍という。687年7月には、685年より前の負債の利息を免除した。奴婢(ぬひ)身分の整とんを試み、百姓・奴婢に指定の色の衣服を着るよう命じた。
こうした律令国家建設・整備政策と同時に持統天皇が腐心したのは、天武の権威を自らに移し借りることであったようである。天武天皇がカリスマ的権威を一身に体現し、個々の皇族・臣下の懐柔や支持を必要としなかったのとは異なっている。
持統天皇は、柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせた。人麻呂は官位こそ低かったものの、持統天皇から個人的庇護を受けたらしく、彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として天皇とその力を讃える歌を作り続け、その後は地方官僚に転じた。
天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸である。夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われる。他に伊勢に一度、紀伊に一度の行幸を記録する。『万葉集』の記述から近江に一度の行幸も推定できる。伊勢行幸では、農事の妨げになるという中納言三輪高市麻呂のかん言を押し切った。この行幸には続く藤原京の造営に地方豪族層を協力させる意図が指摘される。
持統天皇は、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。
外交政策
外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。日本書紀の持統4年(690年)の項に以下の主旨の記述がある持統天皇は、筑後国上陽東S(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して、「百済救援の役でその方は唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時その方は富杼らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上してほしい』といった。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、その方はひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。自分は、その方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して、土地などの褒美を与えた。
新羅に対しては対等の関係を認めず、向こうから朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで関係を結んだようである。日本からは新羅に学問僧など留学生が派遣された。
文武天皇への譲位
持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる。
その高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去した。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった。この一連の流れを持統天皇による一種のクーデターとみなす説もある。
持統天皇は8月1日に15才の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。
譲位後の持統上皇
譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執った。文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる。しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる。
持統天皇は大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行った。翌年には三河まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった。
崩御
大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御した。1年間のもがりの後、火葬されて天武天皇の墓に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった。
陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。夫、天武天皇との夫婦合葬墓である。持統天皇の遺骨は銀の骨つぼに収められていた。しかし、1235年(文暦2年)に盗掘に遭った際に骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄されたという。
藤原定家の『明月記』に盗掘の顛末が記されている。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子が書かれている。 
2
人物像 (日本書紀)
女帝持統の役割と野心
持統天皇は、7世紀から8世紀の日本古代に特徴的な女性天皇(女帝)の一人である。他の女帝についてしばしば政権担当者が別に想定されるのと異なり、持統天皇の治世の政策は持統天皇が推進した政策と理解される。持統天皇が飾り物でない実質的な、有能な統治者であったことは、諸学者の一致するところである。『日本書紀』には天武天皇を補佐して天下を定め、様々に政治について助言したとあり、『続日本紀』には文武天皇と並んで座って政務をとったとあるので、持統の政治関与は在位期間に限られていない。持統天皇は天武天皇とともに「大君は神にしませば」と歌われており、天皇権力強化路線の最高到達点とも目される。
政治家としての持統天皇の役割・動機は、天武天皇から我が子の草壁皇子・孫の軽皇子に皇位を伝えることであったとするのが通説である。持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣ぐことを望み、夫に働きかけて草壁を皇太子に就け、夫の死後に草壁のライバルであった大津皇子を排除した。天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだったが、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自らが即位したと解する。
近年では、女帝一般が飾り物ではなく、君主として実質的な権力を振るったと考える傾向もあり、鸕野讃良皇女自身が初めから皇位に向けた政治的野心を持っていたとする説が出てきた。天武天皇が自らを漢の高祖になぞらえたらしいことから、持統天皇は自らをその妻で夫の死後政治の実権を握った呂太后になぞらえたのではないかと推測する学者もいる。
持統天皇による謀略説
持統天皇の積極的性格と有能さを前提として、彼女による様々な謀略が説かれている。
壬申の乱では鸕野讃良皇女が大海人皇子に協力したとするのが通説だが、彼女こそが乱の首謀者であるという説がある。
大津皇子の謀反については、持統天皇の攻撃的意図を見ない人の方が少ない。大津皇子の無実を説くか、そうでなくともわずかな言葉をとらえて謀反に仕立て上げられたと考える学者が多い。
関連して『万葉集』の歌にまつわる対大津監視スパイ説がある。万葉学者の吉永登は、石川郎女と寝たことを津守通に占いで看破されて大津皇子が詠んだ歌について、津守は占いではなく密偵によって知ったのではないかという。直木孝次郎がこれを支持して持統の指示によるのではないかと推測している。
さらに、持統天皇が高市皇子を暗殺して軽皇子を立太子させたと主張する説まである。 
3
子孫
持統女帝の子は早世した草壁皇子ただ1人のみであったが、女帝の孫の系統は天武系の嫡流として奈良時代における文化・政治の担い手となった。しかしながら玄孫の孝謙・称徳天皇のあとは系譜が途絶え、天武天皇系から天智天皇系の光仁天皇に移ってしまい、持統天皇系列の終末を迎えることになる。
光仁天皇の皇后として、持統系称徳天皇の妹である井上内親王が立てられ、その子の他戸親王(持統天皇の来孫)が天智・天武皇統融合の象徴として立太子された。しかしながら皇太子他戸親王は、謀反の罪に問われて庶人に落とされ、母子共々早々に亡くなった。また、他戸親王の姉酒人内親王は桓武天皇の妃となり朝原内親王(平城天皇の妃)を産んだが、朝原内親王は子を成していない。
臣籍降下した中では、吉備内親王を通じて承和11年(844年)に昆孫の峯緒王が高階真人姓を賜り高階氏の祖となった。しかし、子の高階茂範(持統天皇の仍孫)は養子に家督を継がせたため、彼を最後に女帝持統天皇の系統は断絶している。但し、皇族の身分をはく奪された来孫の氷上川継、曾孫の説のある高円広成・高円広世など、歴史からは姿を消したものの、彼らを通じて現在でも持統女帝の血をひく子孫がいると思われる。  
4
壬申の乱を制した天武天皇が聖徳太子以来築きあげられて来た日本国家の基礎工事に最後の仕上げをしてから亡くなった後、皇后であった讃良(さらら)皇女は、自分の子供の草壁皇子に皇位を継がせる為、ライバルの大津皇子を殺します。 
しかし、肝心の草壁皇子が病死してしまったため、その草壁皇子と自分の妹の阿陪皇女との間の子供軽皇子に望みを託し、彼が成人するまでの間自らが即位して持統天皇となり、政務を執るのです。 
持統天皇の父は天智天皇、母は乙巳の変の功労者の一人蘇我石川麻呂の娘遠智娘(おちのいらつめ)です。物心つくかどうかの頃、石川麻呂が父の天智天皇に殺されます。更に叔父の大海人皇子に嫁いだとはいえまだ少女時代の多感な時期に、今度は壬申の乱が起こり、幼な妻はけなげに夫の吉野行き、山越えの進軍と行動を共にします。そして目の前にさらされる兄・大友皇子の首。否応なく血で血を洗う争いに巻き込まれたさらら姫はその後も激しい潮流の中での生涯を送ることになりました。 
大和朝廷がそれまでの「倭」という国号をやめて「日本」という国号を名乗るようになったのは天武天皇の時からであるとされます。天武はまた伊勢神宮の祭祀を非常に重要視し、また初めて風水に基づく本格的な都を作ろうとしました。しかしその計画は自らの死によって中断してしまいました。持統天皇はその遺志を引き継ぎ、4年かがりで初めての固定的な都・藤原京を作ったのです。それまで都は天皇が変る度に移されるのが常でした。豪族たちはそれぞれ自分の本拠地に住んでいて、天皇が作った宮へ通勤してきていた訳ですが、ここに大規模な都が作られ、そこに官吏とその家族が住めるようになったことで、政府というものの質がこれ以降変っていくことになります。 
さて、そうこうしている内にやっと孫の軽皇子が15歳になります。うまい具合に自分の孫の最大のライバルと思われた太政大臣高市皇子がなくなりました。天皇は群臣たちに皇太子を誰にするか諮ります。天皇としては当然軽皇子をその位に付けたいのですが、天武天皇と大江皇女との間の子供弓削皇子を推す声もあり、議論は紛糾します。この議論に終止符を打ったのは、大友皇子と十市皇女との間の遺児・葛野王でした。彼は「皇位は基本的に子・孫へと受け継ぐべきもので、兄弟で受け継げば、それぞれの子供の間に皇位をめぐる争いが必ず生じる」と言い、彼の一言で軽皇子が皇太子と決定します。 
持統天皇は軽皇子に譲位、文武天皇が誕生し、持統は史上初の太上天皇として引続き実質の政務を執り続けます。この間、都の造成に引き続く大事業、法令の編纂が行なわれ、まずは天皇支配をうたった浄御原令に続き、日本で初めての法体系大宝律令が完成、大化以来とだえていた年号もこの「大宝」によって再開されます。 
持統上皇はその年、文武と藤原不比等の娘宮子媛との間に首皇子が生まれたのを見届けて、生涯を閉じるのです。 
持統天皇というと、自分の子供・そして孫を皇位につけるために「次々と」皇位継承権のある皇子を血祭にあげていった恐怖政治家、という印象を持っている人がけっこうあるのですが、彼女が実際に殺したのは大津皇子一人で、この時も死を賜わったのは彼一人で、妃の山辺皇女(天智天皇の娘)が後を追って死んでしまった他は、側近の行心という僧が飛騨に流されたくらいでできるだけ余計な血を流さないようにしています。 
また高市皇子に対しては最後まで手を出さず、自分が先に死ぬか高市皇子が先に死ぬか賭けをしていたような感じです。大海人皇子の吉野行きと壬申の乱にずっと付き従っていたのなどを見ても彼女の我慢強い性格を表わしています。 
彼女は古代の多くの女帝の中でも、もっとも強力な指導力を発揮した女帝であったと思われます。藤原不比等はまだ若く、頼れる補佐官としては高市皇子くらいでしたし、彼女がやるしかない状況でした。その中で都作りと法令編纂というどちらも日本で初めての大事業を実行したのは大きく評価されるべきでしょう。 
持統天皇の遺体は夫天武天皇の陵に合葬されました。
 
3.柿本人麻呂 (かきのもとのひとまろ)  

 

あしびきの 山鳥(やまどり)の尾(を)の しだり尾(を)の
ながながし夜(よ)を ひとりかも寝(ね)む  
山鳥の尾の垂れ下がった尾が長々と伸びているように、秋の長々しい夜を一人で寝ることになるのだろうか。 / 垂れ下がった山鳥の尾羽のような長い長いこの秋の夜を、離ればなれで寝るという山鳥の夫婦のように、私もたった一人で寂しく寝ることになるのかなあ。 / 山鳥の長く垂れ下がっている尾のように長い長い夜を愛するひとと離ればなれになって、ひとり寂しく寝るのだろうなぁ。 / 夜になると、雄と雌が離れて寝るという山鳥だが、その山鳥の長く垂れ下がった尾のように、こんなにも長い長い夜を、私もまた、(あなたと離れて)ひとり寂しく寝るのだろうか。
○ あしびきの / 「山」にかかる枕詞。万葉集では「あしひきの」で、「ひ」は清音。中世以降に濁音化し「び」となる。
○ 山鳥 / キジ科の鳥で尾羽が長い。雄と雌が夜になると谷を隔てて別々に寝るとされることから、独り寝を象徴する語として用いられることがある。
○ しだり尾の / 「しだり(ラ行四段の動詞“しだる”の連用形)+尾」で、「長く垂れ下がった尾」の意味。「の」は、比喩を表す格助詞。初句からこの三句までが序詞で、次の「ながながし」を強調。
○ ながながし夜 / 「ながながし」は、形容詞の終止形を名詞化することで、「夜」と合わせて複合語となる。終止形を連体形の代わりに用いたとする説もある。
○ ひとりかも寝む / 「か」と「む」は、係り結び。「か」は、疑問の係助詞。「も」は、強意の係助詞。「む」は、推量の助動詞の連体形。  
先代旧事本紀・日本書紀・古事記・物部氏
1
柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ、斉明天皇6年(660年)頃 - 養老4年(720年)頃)は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
出自・系譜
柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。また、同文献では人麻呂の子に柿本蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。
経歴
彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。
賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。
『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。
歌風
彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。
人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。この天皇即神の表現については、『記紀』の歌謡などにもわずかながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多く、この歌人こそが第一人者である。また人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という律令国家制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であるといえる。
恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていたが(たとえば斎藤茂吉)、近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。ただし、人麻呂の恋歌的表現は共寝をはじめ非常に性的な表現が少なくなく、窪田空穂が人麻呂は夫婦生活というものを重視した人であるとの旨を述べている(『万葉集評釈』)のは、歌の内容が事実・虚構であることの有無を別にして、人麻呂の表現のありかたをとらえたものである。
次の歌は枕詞、序詞を巧みに駆使しており、百人一首にも載せられている。ただし、これに類似する歌は『万葉集』巻11・2802の異伝歌であり、人麻呂作との明証はない。『拾遺和歌集』にもとられているので、平安以降の人麻呂の多くの歌がそうであるように、人麻呂に擬せられた歌であろう。
万葉仮名 / 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿
平仮名 / あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
訳 / 夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝るのだろう。
また、『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に248首が入集している。
代表歌
天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ
東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し
近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。今昔秀歌百撰で柿本人麻呂は6番で、「あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が獄に雲立ち渡る」。 
2
官位
各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。
江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱え、以降現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
1.五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名は正史に見られない。
2.死去に関して律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっているが、『万葉集』の人麻呂の死去に関する歌の詞書には「死」と記されている。
終焉の地
その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。 その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し日立金属安来工場の敷地内にあるとされ、正確な位置は不明になっている。
また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作の中で反論の的になっている。
人麻呂にまつわる異説・俗説
その通説に梅原猛は『水底の歌−柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。
『続日本紀』元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。しかし当時、藤原馬養(のち宇合に改名)・高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。このため、井沢元彦は『逆説の日本史』(2)で、「サル」から「人」麻呂に昇格したと述べている。しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。柿本猨については、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことは明らかでない。 
3
『旧天孫本紀』 / 物部木蓮子大連 (イタビノオオムラジ)。ニギハヤヒ(饒速日命)十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘の全姫。仁賢天皇の代に大連となり、石上神宮を奉斎し、御大君の祖の娘の里媛を妻にして、二児を生んだ。
『姓氏録』では、依羅連は百済人の素彌志夜麻美(ソミシヤマミ)の君の後裔とあり、大阪府松原市天美は依羅連が居住した依羅郷で、現在も依羅宿禰を祭神とする田坐神社、酒屋神社、阿麻美許曽神社がある。『新撰姓氏録』では、日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人の素彌志夜麻美乃君より出ずる、また饒速日命十二世の孫の懐大連の後とある。万葉歌人の柿本人麻呂の妻は依羅娘子(ヨサミノオトメ)といい、『万葉集』に短歌3首を載せているが、依羅娘子もやはり百済系渡来氏族の出である。
『大依羅神社』由緒 / 依羅氏は、丹比郡依羅郷に繁栄した百済系渡来氏族で、後に住吉区庭井に移住したことから大依羅郷と称された。依羅吾彦が祖先の建豊波豆羅別命(系譜では崇神天皇の兄弟)を祀るため、大依羅神社を建てたが、別名は『毘沙門の宮』、崇神天皇62年、ここに農業灌漑用の依羅(依網)池を造った。
ここでは崇神天皇の兄弟を依羅連の祖先だとしているが、物部氏の系譜では一族諸氏に「物部依羅連」の名があり、物部氏の系譜につながっている。物部氏が扶余系であるなら、なぜ依羅連は百済系だとなっているだろう。
中華王朝の史書には、「百済とは扶余の別種で、仇台(キュウダイ)という者がおり、帯方郡において国を始めた。その尉仇台を始祖とする」とある。
『三国史記』百済本紀は「温祚(おんそ=高句麗の始祖の庶子)が百済を建国した」とするが、それでは百済の王姓が「扶余」であることの説明がつかない。
百済では、支配階級は扶余語を使い、庶民は馬韓語を使うというように、言語や風習が二重構造の社会だと記録されており、王族の姓は、後に漢風に一字姓の余に改姓するが、代々が扶余を名乗っていることからも、扶余族が馬韓を統一したことものと思われる。扶余王の依羅は、倭国では百済王族だと名乗ったのだろう。
『晋書』馬韓伝 / 太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を入朝させ、方物を貢献した。同七年(286年)、八年(287年)、十年(289年)、また頻繁に到った。太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上した。
これが中国史籍での馬韓に関する最後の記述で、この後は百済が登場する。そして、東夷校尉の何龕に献上したとの記述があるが、扶余王の依羅が扶余国の再興を嘆願した相手が、この東夷校尉の何龕であることから、おそらくこの段階ですでに馬韓は扶余の分国になっていたものと考えられる。
『通典』百済条 / 晋の時代(265年−316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。今の柳城(龍城)と北平の間である。晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。
上記は、朝鮮古代史の研究者を悩ませる記述だが、扶余が一時的に滅亡するのが285年、その前後の期間に渤海を渡って遼寧省の西部を占領支配していたとすれば、百済が二国あったことになる。
『日本書紀』は、朝鮮半島の百済を「百済」、遼西の百済を「呉」と区別している。
この「呉」を中国江南の三国時代の「呉」と錯覚している人も多いが、倭の五王の時代に、現在の上海まで簡単に渡航できる船も航海技術もない。従って、呉服は中国伝来ではなく、遼西百済からの伝来である。
ちなみに、『梁書』百済伝には「百済では全土が王族に分封され、その領地を檐魯(タンロ)という」とある。これは国内に止まらず、異国にも檐魯を有している。
中国の広西壯族自治区に百済郷があり、ここの住民は大百済(テバクジェ)と韓国語で呼んでおり、済州島の古名も耽羅(タンロ)国で、常に百済の支配下にあった。
また、大阪府の南端には百済の大門王が統治したという淡輪(タンノワ)があり、田村(たむら)や外村(とむら)などの姓は「檐魯」の住民だったことの名残とされる。
このことから、坂上「田村」麻呂も、百済系だったことになる。
 
4.山部赤人 (やまべのあかひと)  

 

田子(たご)の浦(うら)に うち出(い)でて見(み)れば 白妙(しろたへ)の
富士(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ  
田子の浦に出てみると、まっ白な富士の高嶺に今も雪は降り続いていることだ。 / 田子の浦の海岸に出て、はるか向こうを仰いで見ると、神々しいばかりの真っ白な富士山の頂に、今もしきりに雪は降り続いているよ。 / 田子の浦(現在の静岡県の海浜)に出てみて、はるか遠くを眺めてみると、富士の高い高い峰に、それは真っ白な雪が降りつもっているなぁ。 / 田子の浦の海岸に出てみると、雪をかぶったまっ白な富士の山が見事に見えるが、その高い峰には、今もしきりに雪がふり続けている。(あぁ、なんと素晴らしい景色なのだろう)
○ 田子の浦に / 六音で字余り。「田子の浦」は、駿河(現在の静岡県)の海岸。
○ うち出でてみれば / 八音で字余り。「うち」は、語調を整える接頭語で、広々とした場所に出る場合などに用いられる。「みれば」は、「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。この場合は、そのうちの偶然条件「〜と」で、「みると」の意。
○ 白妙の / 「富士」にかかる枕詞。本来は、「雪」にかかる語であるが、「白妙の富士の高嶺に雪は…」とすることで、富士に雪が降って真っ白になるさまを強調する効果をもたらしている。
○ 降りつつ / 「つつ」は、反復・継続の接続助詞。実際に田子の浦から富士の降雪状況を遠望することは不可能であるが、今まさに雪が降り続いている様子を「つつ」を用いて想像させることによって、富士の白さ、美しさを際立たせている。 
1
山部赤人(やまべ の あかひと、生年不詳 - 天平8年(736年)?)は、奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。姓は宿禰。大山上・山部足島の子とし、子に磐麻呂がいたとする系図がある。官位は外従六位下・上総少目。後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある。
その経歴は定かではないが、『続日本紀』などの史書に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。神亀・天平の両時代にのみ和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。『万葉集』には長歌13首・短歌37首が、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に49首が入首している。自然の美しさや清さを詠んだ叙景歌で知られ、その表現が周到な計算にもとづいているとの指摘もある。
柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。紀貫之も『古今和歌集』の仮名序において、「人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と、赤人を人麻呂より上に評価している。この人麻呂との対は、『万葉集』の大伴家持の漢文に、「山柿の門」(山部の「山」と柿本の「柿」)とあるのを初見とする。
平安時代中期(『拾遺和歌集』頃とされる)には名声の高まりに合わせて、私家集の『赤人集』(三十六人集のひとつ)も編まれているが、これは万葉集の巻11の歌などを集めたもので、『人麻呂集』や『家持集』とおなじく万葉の赤人の作はほとんど含んでいない。『後撰和歌集』まではあまり採られることのなかった人麻呂ら万葉歌人の作品が、『拾遺和歌集』になって急増するので、関連が考えられている。
滋賀県東近江市下麻生町には山部赤人を祀る山部神社と山部赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺がある。なお、赤人の墓と伝わる五輪塔が奈良県宇陀市の額井岳の麓に存在する。

万葉集 / 山部宿禰赤人、不尽(ふじ)の山を望(み)る歌一首 并せて短歌
天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き 駿河(するが)なる 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 (はら) 降(ふ)り放(さ)け見れば 渡る日の 影(かげ)も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継(つ)ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は
反歌
田子(たこ)の浦ゆ打ち出(いで)て見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける 
2
山部赤人は、柿本人麻呂とともに万葉を代表する大歌人である。大伴家持に「山柿の門」という言葉があるが、これは人麻呂、赤人を以て万葉を象徴させた言葉だとされる。古今集の序にも、「人麻呂は赤人が上にたたむこと固く、赤人は人麻呂が下にたたむことかたくなむありける」と、赤人は人麻呂と並んで高く評価されている。とくにその叙景歌は、後の時代の人々に大きな影響を与え続けてきた。
山部赤人は、柿本人麻呂より一世代後、平城京時代の初期、元正女帝から聖武天皇の時代にかけて活躍した。叙景歌を中心に旅の歌などを多く残しているが、本領は人麻呂に次ぐ宮廷歌人だったことにある。万葉集には、元正天皇の行幸に従って詠んだ歌や、聖武天皇の詔に答えて作った歌が幾つも載せられている。
続日本紀などにその名が見られないことから、人麻呂同様下級の官人だったのだろう。だが、その歌風は人麻呂の遺風を伝え、時に荘厳な趣に満ちていた。それ故に、宮廷歌人として、天皇によって認められたのではないか。
家持が「山柿の門」といって、この両者を並べたのは、宮廷儀礼歌の伝統の中で、この両者の持った重みに配慮したからではないかとも思われる。
万葉集巻六雑歌の部に、山部宿禰赤人がよめる歌二首が載せられている。その最初の一首について、北山茂夫は養老七年(723)における元正女帝の吉野行幸の際の歌ではないかと推論している。歌は吉野の宮を懐かしんで詠っており、女帝の思いを代弁しているかとも思える。おそらく、宮廷歌人として、赤人も女帝の行幸に従っていたのであろう。
―山部宿禰赤人がよめる歌二首、また短歌
やすみしし 我ご大王の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠り 川並の 清き河内そ 春へは 花咲き撓(をを)り 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益々に この川の 絶ゆること無く 百敷の 大宮人は 常に通はむ(923)
反歌二首
み吉野の象山の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒く鳥の声かも
ぬば玉の夜の更けぬれば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く
かつて持統女帝の吉野行幸に従って人麻呂が詠んだ歌を髣髴とさせる。人麻呂の歌にあった神話的な荘厳さはないが、叙景のなかに、吉野の宮への懐旧の思いが満ち溢れている。特に、二首目の短歌は優れた叙景歌として、後の世の人々に影響を与えた。
万葉集巻三には、飛鳥の神岳に登った時の歌が載せらている。この歌は、先の歌にあった吉野行幸に際して、平城京をたって飛鳥にとどまった折詠われたのでないか。飛鳥は、天武、持統両天皇の故宮である。
―神岳に登りて山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
三諸(みもろ)の 神名備山に 五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 栂(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ 明日香の 旧き都は 山高み 川透白(とほしろ)し 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清(さや)けし 朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒ぐ 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ 古思へば(324)
反歌
明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
この歌に至っては、人麻呂のような神話的な雰囲気は見られず、自然を歌うことによって、人びとの懐旧の情に訴えている。人麻呂の時代にはまだ生きていた天皇の神性が、赤人の時代には弱まっていたのかもしれない。
万葉集巻六には、聖武天皇の紀伊国行幸が歌われている。続日本紀によれば、この年即位したばかりの聖武天皇は、遊覧を兼ねて紀伊国に遊び、仮宮をたてさせて、そこに十四日もの間滞在した。
―神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸せる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
やすみしし 我ご大王の 外津宮(とつみや)と 仕へ奉(まつ)れる 雑賀野(さひかぬ)ゆ 背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山(917)
反歌二首
沖つ島荒磯の玉藻潮干満ちてい隠(かく)ろひなば思ほえむかも
若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る
仮宮のある雑賀野から、海中に浮かぶ島を臨む光景を歌ったものである。天皇の国見を寿ぐ気持が素直に現れている。雄大な風景を詠うことによって、国土の豊かさと、天皇の偉大さを強調することが、この歌の眼目だと思われる。同時に、二首目に見られるような生き生きとした叙景が、歌に新たな命を吹き込んでいる。
同じく、万葉集巻六に、聖武天皇の吉野行幸に際して、天皇の詔を受けて詠んだという歌が載せられている。
―八年丙子夏六月、芳野の離宮に幸せる時、山部宿禰赤人が詔を応(うけたまは)りてよめる歌一首、また短歌
やすみしし 我が大王の 見(め)したまふ 吉野の宮は 山高み 雲そ棚引く 川速み 瀬の音(と)そ清き 神さびて 見れば貴く よろしなへ 見れば清(さや)けし この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ 百敷の 大宮所 止む時もあらめ(1005)
反歌一首
神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川を吉(よ)み
この歌は、赤人の作品の中で、製作年次(736年)のわかる最後のものである。赤人は先に、元正天皇に従って吉野に赴いた際にも儀礼歌を作っていた。 
3
山部赤人にも、柿本人麻呂同様旅を歌った長歌がある。おそらく、人麻呂と同じく官人としての立場で、地方の国衙に赴任する途中の歌と思われる。それも、上級の役人としてではなく、中級以下の役職だったのだろう。赤人は、儀礼歌の作者として宮廷の内外に知られていたから、旅にして作った歌も、それらの人々に喜ばれたに違いない。
儀礼歌と異なり、自由な発想の歌であるから、そこには、赤人の個性がいっそう強く表れている。すでに、儀礼歌においても、赤人は人麻呂の神話的なイメージを捨てて、叙景に新しい境地を開いていた。旅の歌には、その叙景的なイメージが美しく盛られている。
まず、万葉集巻六から、辛荷の島を過ぐる時の歌をあげよう。辛荷の島は、兵庫県室津の沖合に浮かぶ三つの小島からなる。赤人は、大和をたって、難波津から瀬戸内海を西へ向かっていたと思われる。
―辛荷(からに)の島を過ぐる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
あぢさはふ 妹が目離(か)れて 敷細(しきたへ)の 枕も巻かず 桜皮(かには)巻き 作れる舟に 真楫(かぢ)貫き 吾が榜ぎ来れば 淡路の 野島も過ぎ 印南嬬(いなみつま) 辛荷の島の 島の際(ま)ゆ 我家を見れば 青山の そことも見えず  白雲も 千重になり来ぬ 榜ぎ廻(たむ)る 浦のことごと 行き隠る 島の崎々 隈も置かず 思ひそ吾が来る 旅の日長み(942)
反歌三首
玉藻刈る辛荷の島に島回(み)する鵜にしもあれや家思はざらむ(943)
島隠り吾が榜ぎ来れば羨(とも)しかも大和へ上る真熊野の船(944)
風吹けば波か立たむと伺候(さもらひ)に都太(つた)の細江に浦隠り居り(945)
桜皮とは、字の通り桜の皮を巻いた粗末な船のことだろう。そんな船をこぎつつ、辛荷の島までやってくると、そこからは妹が住む大和はもう見えない。周囲には、浦々と島の崎々が見えるのみだ。そんな折に、鵜を見ると、自分も鵜になって家のほうに泳いでいきたい気分になる。ざっとこんなところが、この歌に寄せた赤人の思いだったろうか。
自然や生き物に仮託しつつ、自らの思いを述べる、赤人の態度が良く現れた歌であるといえよう。
上の歌に続いて、敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時の歌が載せられている。敏馬の浦もやはり瀬戸内海沿いの浦である。
―敏馬の浦を過ぐる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
御食(みけ)向ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松(ふかみる)摘み 浦廻には 名告藻(なのりそ)苅り 深海松の 見まく欲しけど 名告藻の 己が名惜しみ 間使も 遣らずて吾は 生けるともなし(946)
反歌一首
須磨の海人の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ(947)
この歌も、自然の叙景に事寄せて、妻に寄せる夫の思いを詠み込んだものである。間使とは、男女の間を取り持つ使いのこと。それをやらずてとは、妻に対して、別れの挨拶を尽くせなかった悔いの気持だろうか。この時代、妻問婚が結婚の普通の形態であった。だから、赤人は別居していた妻と、十分別れをおしむ機会がなかったのかもしれない。
最後に、万葉集巻三から、伊予の温泉に至ったときの歌をあげよう。温泉とは道後温泉をさす。古くから名湯として知られ、今でも多くの人びとを集めている。赤人は、四国の国衙に赴任して後、この名高い温泉を訪ねたのだろう。
かつて、舒明天皇がこの地に遊び、また、斉明女帝は百済へ出兵すべく西へ向かう途中、伊予の熟田津に立寄った。赤人は、そうした歴史的な事実を踏まえてこの一篇を作っている。全体の調子が、儀礼歌を思い起こさせる。
―山部宿禰赤人が伊豫温泉(いよのゆ)に至(ゆ)きてよめる歌一首、また短歌
皇神祖(すめろき)の 神の命の 敷き座(ま)す 国のことごと 湯はしも 多(さは)にあれども 島山の 宣しき国と 凝々(こご)しかも 伊豫の高嶺の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思はしし み湯の上の 木群を見れば 臣木(おみのき)も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ 行幸処(いでましところ)(322)
反歌
ももしきの大宮人の熟田津(にきたづ)に船乗りしけむ年の知らなく(323)
道後温泉は、今では松山の市街地の一角にあるが、赤人の時代には山に囲まれた湯だったのだろう。赤人は、その温泉を囲む山の上から湯煙が立ち込める木群を眺め下ろして、遠き世の行幸を思い出した。 
4
山部赤人には、富士の高嶺を詠んだ歌がある。特に短歌のほうは、赤人の代表作の一つとして、今でも口ずさまれている。おおらかで、のびのびとした詠い方が、人びとを魅了する。万葉集の歌の中でも、もっとも優れたものの一つだろう。
この歌を、山部赤人が何時の頃に作ったかはわかっていない。赤人には、下総の真間の手古奈を読んだ歌があるから、東国に赴任したことがあったのだろう。この歌は、その東国への赴任の旅の途中に歌ったのかもしれない。
この時代、富士山は活火山であった。山頂からは常に白煙が立ち上り、天空に聳ゆるその威容は都の人々にも聞こえていただろうと思われる。それなのに、この山を直接に歌った歌は、東歌を含めて数少ない。赤人の歌は、その意味でも貴重なものである。
万葉集巻三雑歌の部から、この歌を取り出して、鑑賞してみよう。
―山部宿禰赤人が不盡山を望てよめる歌一首、また短歌
天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠(かく)ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は(317)
反歌
田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける(318)
「天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き」という歌い出しは、人麻呂の儀礼歌のように荘重に聞こえる。赤人は、この名高い山を最もよい角度から見るために田子の浦に立ったのだろう。そこからは、富士の山容が周囲の自然を圧倒して見えたに違いない。大和にあっては決して見られないこの威容を、赤人は人麻呂振りに神格化して歌わずにはいられなかった。
「渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず」とあるのは、山頂から噴出する煙が、日や月の光をも隠してしまうほどすさまじかった様子を詠ったものだ。「白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける」とあるからして、恐らく晩秋か初冬の一日だったのであろう。そんな富士の頂に雪が降っている。そのさまが、富士の威容をいよいよ神さびたものにしている。
赤人は感動のあまり、「語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ」と絶叫する。最小限の言葉の装飾を以て、眼前の威容を最大限に表現しえているのではないだろうか。 
5
山部赤人は、儀礼歌を中心にして多くの長歌を書いた。それらの歌は、人麻呂の儀礼的長歌と比べると、荘重さというよりは、叙景の中に人間的な感情を詠みこんだものが多かった。そして、この叙景という点では、赤人の本領は短歌において、いっそう良く発揮された。赤人は、人麻呂の時代と家持の時代を橋渡しする過渡期の歌人として、短歌を豊かな表現手段に高めた人だったといえる。
山部赤人の叙景歌は、長歌に付された反歌の中に優れたものが多い。それらは、先稿において言及したところであるから、ここでは、独立の短歌を取り上げたい。
まず、万葉集巻八から、一首を取り出してみよう。
―山部宿禰赤人が歌一首
百済野の萩の古枝に春待つと来居し鴬鳴きにけむかも(1431)
これは、鶯の鳴き声にことよせて、春の訪れを詠んだ歌である。かように、赤人の叙景歌は、自然や動物を生き生きと描きながら、そこに作者の思いを込めるというものが多い。
万葉集巻十七以後は、大伴家持が越中在任期間中に書き溜めた歌記録であるが、その中にも、赤人の歌が収められている。
―山部宿禰赤人が春鴬を詠める歌一首
足引の山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声(3915)
右ハ年月所処、詳審カニスルコトヲ得ズ。但聞キシ時ノ随ニ茲ニ記載ス。
追記には、年月所処をつまびらかにせずとあるが、赤人の歌として伝わっていたものを、自分の歌日記に書きとめたのであろう。赤人の歌は、流行歌のように人々に迎えられ、口ずさまれていたのかもしれない。
野づかさとは、小高い丘を指す。その丘の上を鳴きつつ飛んでいく鶯に、赤人は春の到来を喜んだ。素直な気持がそのまま伝わってくるような、優れた歌である。
万葉集巻三には、柿本人麻呂の旅の歌と並んで、山部赤人の歌六首が納められている。いづれも、旅の途中に自然を詠んだ叙景歌と思われる。
―山部宿禰赤人が歌六首
繩の浦ゆ背向(そがひ)に見ゆる沖つ島榜ぎ廻(た)む舟は釣しすらしも(357)
武庫の浦を榜ぎ廻む小舟粟島を背向に見つつ羨(とも)しき小舟(358)
阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこのごろ大和し思ほゆ(359)
潮干なば玉藻苅り籠め家の妹(も)が浜苞(はまつと)乞はば何を示さむ(360)
秋風の寒き朝開(あさけ)を狭野(さぬ)の岡越ゆらむ君に衣貸さましを(361)
みさご居る磯廻に生ふる名乗藻(なのりそ)の名は告らしてよ親は知るとも(362)
(357)と(358)については、アララギ派の歌人中村憲吉が丁寧な解説を加えながら、絶賛している。「釣しすらしも」と詠いつつ、そこに人間の営みを見ることが、歌を単なる叙景に終らせず、味わい深い暖かなものにしている。また、武庫の浦の歌も、粟島を背向に見つつ行きかう舟々のイメージが、作品に人間的な温かみを加えているという。
「秋風の」の歌については、古来異なった解釈があわせ行われてきた。これを素直に赤人の歌と解すれば、「君に」とあるのは赤人の友人をさすということになり、赤人がその友人に衣を勧める歌だと解することになる。
一方で、赤人が旅の途中に仮初に知り合った女から贈られた歌だとする説もある。この場合、「君に」とは、女から男に呼びかける言葉だというのである。 
6
山部赤人には、恋の歌もいくつかある。それらの歌が、誰にあてて書かれたものかはわからないが、中には相聞のやりとりの歌も混じっていて、色めかしい雰囲気の歌ばかりである。赤人は、叙景の中に人間のぬくもりを詠みこむことに長けていたと同時に、人間の心のときめきを表現することにもぬきんでていた。
まず、万葉集巻八から、赤人の恋の歌四首を取り上げてみよう。
―山部宿禰赤人が歌四首
春の野にすみれ摘みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にける(1424)
あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも(1425)
我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば(1426)
明日よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪は降りつつ(1427)
「春の野に」の歌は、赤人の恋の歌として、あまりにも有名な作品である。それ故、様々な解釈もなされてきた。中には、これは春の気分に浮かれるあまり、野原で寝てしまったことよと、春を強調するに過ぎないとする、うがった見方もある。
アララギ派の歌人山本憲吉は、これは恋愛の心を詠ったもので、一夜寝たのも無論女の家であると断定している。筆者にもそのように思われる。一首を素直に詠めば、誰しもそう思うであろう。また、そう読むことによって、この歌の趣も深まると思うのである。その女が誰かはわからぬが、そんなことを抜きにして、色めいたあでやかな歌だといえよう。
「あしひきの」の歌も、山桜が日ごと咲きひろがる様子に、春の訪れの喜びを感じ、そこに自然と女を思う気持ちが湧き出ている。春とは、不思議な季節なのだ。
「我が背子に」の歌は、赤人が友人に宛てて贈ったのだという説が有力である。だが、歌の趣旨からして、これは女が赤人にあてた歌ではないかという説もある。背子という言葉は、通常、女が男に向かっていう言葉だからだ。この歌の次にある「明日よりは」の歌は、女の呼びかけに答えて赤人が詠ったのであろうとも解釈される。
あなたとともに、春の気配がいっぱいに広がる野原に出かけていって、一緒に春菜を摘もうと思っていたのに、昨日も今日も雪が降り続いて、なかなかその思いがかなわない。赤人のこの残念な思いは、素敵なデートを何かの事情で邪魔された現代人にも通じるところがある。
同じく、万葉集巻八は、赤人の次の歌を載せている。
―山部宿禰赤人が歌一首
恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり(1471)
これは、藤が咲いたのをみて、女の面影を思い出した歌である。あなたの形見に植えた藤が今咲いたよ、と詠っているのである。その女は今、どうしているのだろう。それは、歌からはわからない。だが、藤の花に寄せて、恋心を詠うところは、いかのも赤人らしい。
この歌などは、万葉の世界を超えて、古今集の歌いぶりにもつながる歌だといえる。
赤人は、恋を詠った長歌も残している。万葉集巻三にある、次の歌がそうだ。
―山部宿禰赤人が春日野に登りてよめる歌一首、また短歌
春日(はるひ)を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 容鳥(かほとり)の 間なく屡(しば)鳴く 雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 立ちて居て 思ひぞ吾がする 逢はぬ子故に(372)
反歌
高座の三笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも(373)
内容からみて、これは片恋の歌である。赤人は、いつ、誰に対して片恋をしたのだろうか。儀礼歌や旅の途中の叙景歌では、おおらかにのびのびと詠った赤人も、片恋を詠うときには、このように、臆病なほどの繊細さを発揮する。
「昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと」とは、人麻呂の修辞法を思い出させる。赤人が自らの感情をもてあまして、照れ隠しに使った言葉のようにも受け取れる。しかして、会うことができないあなたのために、わたしの心はこんなにも恋焦がれていますと結ぶ。しおらしい限りというべきではないか。この恋が、果たして実ったのかどうか、それは永遠の謎として残されている。 
7
万葉集巻三に、山部赤人が葛飾の真間の手古奈伝説に感興を覚えて詠んだ歌がある。手古奈はうら若い乙女であったが、自分を求めて二人の男が争うのを見て、罪の深さを感じたか、自ら命をたったという伝説である。赤人は、鄙の地にかかる悲しい話が伝わっているのに接して、哀れみの情を覚え、歌にしたものと思える。
―勝鹿の真間の娘子が墓を過れる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
古に ありけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯解き交へて 臥屋建て 妻問しけむ 勝鹿の 真間の手兒名が 奥津城を こことは聞けど 真木の葉や 茂みたるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我は 忘らえなくに(431)
反歌
我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ(432)
勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ(433)
勝鹿は葛飾とも書く。もと下総の一部分で、いまは千葉、埼玉、東京の三県にまたがっているが、この伝説は千葉県市川地方を舞台にしていた。現在でも、市川弘法寺の隣に手古奈を祀った霊堂が立っている。
古にありけむ人が臥屋をたてて妻問したというから、手古奈は誰かの思い人だったのだろう。歌には触れられていないが、この臥屋に別の男が通うようになったのかもしれない。
妻問とあるとおり、この時代は、男が女のもとに通うのが結婚のあり方だったから、夫の不在の折には、他の男が愛を求めて通うことがあっても、不思議ではなかった。だが、手古奈は、そんな自分に罪の深さを感じた。彼女は、罪を償おうとして自らの命を絶った。そこに、赤人は感動したのだろう。反歌には、手古奈の墓を見ての感動がいっそう強く歌われている。
手古奈の伝説は、広くいきわたっていたらしく、万葉集巻十四の東歌にも、それに触れた作品がある。
葛飾の真間の手兒名をまことかも我に寄すとふ真間の手兒名を(3384)
葛飾の真間の手兒名がありしかば真間の磯辺(おすひ)に波もとどろに(3385)
足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(3387)
東歌らしい無骨さの限りで、何らのロマンをも感じさせないが、伝説中の美女を思いやる気分は伝わってくる。
手古奈を詠った歌としては、もう一つ、高橋虫麻呂の作品が万葉集に載せられている。
―勝鹿の真間娘子を詠める歌一首、また短歌
鶏が鳴く 東の国に 古に ありけることと 今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿の 真間の手兒名が 麻衣(あさきぬ)に 青衿(あをえり)着け 直(ひた)さ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 履をだに はかず歩けど 錦綾の 中に包める 斎(いは)ひ子も 妹にしかめや 望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 水門入りに 舟榜ぐごとく 行きかがひ 人の言ふ時 幾許も 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く湊の 奥城に 妹が臥(こ)やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも(1807)
反歌
勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手兒名し思ほゆ(1808)
「鶏が鳴く」は関東の枕詞、都に先立って夜が明けることから、そういわれた。この歌には、手古奈の面影が、赤人の歌以上に詳細に語られている。「麻衣に 青衿着け 直さ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 履をだに はかず歩けど 錦綾の 中に包める 斎ひ子も 妹にしかめや」とは、貧しい農民の女ながら、その美しさは着飾った富める女も及ばないと、手兒名のういういしさを強調している。
その手兒名が、「望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば」、どんな男も心を動かされたに違いない。「夏虫の 火に入るがごと」、彼女の魅力に引き寄せられた。
「行きかがひ人の言ふ時」とは、複数の男が、入れ替わり手古奈に言い寄るさまを詠んだのだろう。
ところが、手古奈は「何すとか身をたな知りて」命を絶った。自分の身の浅ましさをはかなんだのでもあろうか。
虫麻呂は手古奈の墓を見て、その薄幸に同情し、「奥城に 妹が臥やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも」と思いつつ、この歌を詠んだのである。 
 
5.猿丸大夫 (さるまるだゆう)  

 

奥山(おくやま)に 紅葉踏(もみじふ)み分(わ)け 鳴(な)く鹿(しか)の
声聞(こゑき)く時(とき)ぞ 秋(あき)は悲(かな)しき  
奥山で紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞く時こそ、秋の悲しさを感じるものだ。 / 遠く人里離れた奥山で、一面散り積もった紅葉の枯れ葉を踏み分けながら、恋の相手を求めて鳴く雄鹿の声を聞くときこそ、秋の悲しさはひとしお身にしみて感じられるものだ。 / 人里離れた山の奥深くで、散って敷きつめられたような紅葉を踏みながら鳴いている鹿の声を聞いたときこそ、秋がひときわもの寂しく感じられるものだなぁ。 / 奥深い山の中で、(一面に散りしいた)紅葉をふみわけて鳴いている鹿の声を聞くときは、この秋の寂しさが、いっそう悲しく感じられることだ。
○ 奥山 / 人里離れた山。深山ともいう。人里に近い山を意味する外山・端山の対義語。
○ 紅葉踏みわけ / 主語は鹿。人とする説もある。
○ 鳴く鹿の / 秋に雄鹿が雌鹿に求愛して鳴く。
○ 声きく時ぞ秋は悲しき / 「ぞ」と「悲しき」は、係り結び。「ぞ」は強意の係助詞。「悲しき」は、形容詞の連体形。
1
猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう)とは、三十六歌仙の一人。生没年不明。「猿丸」は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者の称。
元明天皇の時代、または元慶年間頃の人物ともいわれ、実在を疑う向きもある。しかし『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には六歌仙のひとりである大友黒主について、「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(つぎて)なり」と述べていることから、すくなくとも『古今和歌集』が撰ばれた頃には、それ以前の時代の人物として知られていたものと見られる。
「猿丸大夫」という名について六国史等の公的史料に登場しないことから、本名ではないとする考えが古くからある。さらにその出自についても、山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、天武天皇の子弓削皇子とする説や道鏡説、また民間伝承では二荒山神社の神職小野氏の祖である「小野猿丸」とする説など諸説ある。
猿丸大夫に関する伝説は日本各地にあり、芦屋市には猿丸大夫の子孫と称する者がおり、堺にも子孫と称する者がいたという。長野県の戸隠には猿丸村というところがあって、猿丸大夫はその村に住んでいたとも、またその村の出身とも伝わっていたとの事である。しかしこれらの伝説伝承が、『古今和歌集』や三十六歌仙の猿丸大夫に結びつくかどうかは不明である。
なお哲学者の梅原猛は、著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物であるとの仮説を示しているが、これにも有力な根拠は無い。
和歌と歌集
『小倉百人一首』には猿丸大夫の作として、以下の和歌が採られている。
おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき
ただしこの歌は、『古今和歌集』では作者は「よみ人しらず」となっている。菅原道真の撰と伝わる『新撰万葉集』にも「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」の表記で採られているが、これも作者名はない。また三十六歌仙の歌集『三十六人集』には、猿丸大夫の歌集であるという『猿丸集』なるものがあるが、残されているいくつかの系統の伝本を見ても、その内容は全て後人の手による雑纂古歌集であり、『猿丸集』にある歌が猿丸大夫が詠んだものであるかは疑わしいとされる。なお「おくやまに」の歌は『猿丸集』にも入っているが語句に異同があり、
あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき
となっている(御所本三十六人集に拠る)。
「猿丸大夫」の読み方
鴨長明の『方丈記』には、長明が俗世を捨ててののち近畿内の名所を尋ねるくだりで以下のような記述がある。
「…若(もし)ハ又、アハヅノハラヲワケツヽ、セミウタノヲキナガアトヲトブラヒ、タナカミ河ヲワタリテ、サルマロマウチギミガハカヲタヅヌ…」
このなかの「サルマロマウチギミ」というのは、猿丸大夫のことである。「サルマロ」は「猿丸」、「マウチギミ」は「大夫」に当たる。これは『方丈記』だけではなく、陽明文庫蔵の『古今和歌集序注』にも、この猿丸大夫の「大夫」の字の脇に「マウチキミ」という振り仮名が付けられており、ほかにも猿丸大夫を「サルマロマウチキミ」と読む文献がある。
『方丈記』が書かれた頃には、「大夫」は五位の官人の通称となっていたが、それ以前にさかのぼれば五位より上の高位の官人のことを称した。「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり」ということは、猿丸大夫は『古今和歌集』以前に遡るかなり古い時代の人物ということになる。ゆえに中世では猿丸大夫は五位ではなく、もっと位の高い人物のように見る向きがあり、「サルマロマウチギミ」と呼ばれたと見られる。「マウチギミ」とは天皇のそば近く仕える者、すなわち大臣や側近という意味である。
江戸時代にもなると、「猿丸大夫」は「さるまるだゆう」と読まれている。「大夫」はその漢字音に従えば「たいふ」とよむのが本来ではあるが、後世「太夫」とも表記され、また「たゆう」とも読むようになっていた。『国書総目録』および『日本古典文学大辞典』(岩波書店)においては、「猿丸大夫」(猿丸太夫)は「さるまるだゆう」という読み仮名が付けられている。
日光山にまつわる伝説
『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷のことだといわれる)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧めにより、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話がある。これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという。下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とすると伝わる。また宇都宮明神(下野国河内郡二荒山神社)はかつて猿丸社とも呼ばれ奥州に二荒信仰を浸透させたといわれている。『二荒山神伝』にも、『日光山縁起』と同様の伝承が記されている。『二荒山神伝』は江戸時代初期の儒学者林道春が、日光二荒山神社の歴史について漢文で記したものである。
柿本人麻呂との関連
謎の多いこの二人について、哲学者の梅原猛が『水底の歌-柿本人麻呂論』において同一人物との論を発表して以来、少なからず同調する者もいる。
梅原説は、過去に日本で神と崇められた者に尋常な死をとげたものはいないという柳田國男の主張に着目し、人麻呂が和歌の神・水難の神として祀られたことから、持統天皇や藤原不比等から政治的に粛清されたものとし、人麻呂が『古今和歌集』の真名序では「柿本大夫」と記されている点も取り上げ、猿丸大夫が三十六歌仙の一人と言われながら猿丸大夫作と断定出来る歌が一つもないことから(「おくやまに」の和歌も猿丸大夫作ではないとする説も多い)、彼を死に至らしめた権力側をはばかり彼の名を猿丸大夫と別名で呼んだ説である。
しかしながらこの説が主張するように、政治的な粛清に人麻呂があったのなら、当然ある程度の官位(正史に残る五位以上の位階)を人麻呂が有していたと考えるのが必然であるが、正史に人麻呂の記述が無い点を指摘し、無理があると考える識者の数が圧倒的に多い。 
2
猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう、生没年不明)は、三十六歌仙の一人。猿丸は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者や伊勢神宮の神職のうち五位の御禰宜、神社の御師、芸能をもって神事に奉仕する者の称である。
元明天皇の時代、または元慶年間頃の人物とも言われ、実在した人物かどうかすら疑う向きもある。 さらに、その出自についても、その名が『六国史』をはじめとする公的史料に登場しないことから、これは本名ではなかろうとする考えが古くからあり、山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、天武天皇の子弓削皇子とする説や道鏡説、二荒山神社の神職小野氏の祖である「猿丸」説など諸説ある、謎の人物である。哲学者の梅原猛は、著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物であるとの仮説を示しているが、これにも有力な根拠は無い。 猿が古来より日枝(比叡)の神使であること、さらに、当初は京に住し、後に秦氏により京を追われ近江国比叡山北東麓に勢力範囲を移し、その子孫が金属採掘による富を求めて東国に広まり、二荒山神社の神職をも輩している小野氏と、二荒信仰を東国に広めたとも云われる猿丸の東国に纏わる史料が多いことから、猿丸大夫とは山王信仰や二荒信仰を東国各地に広めた日枝や二荒の神職を総称した架空の人物とする見方もある。 何れにせよ、『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には六歌仙のひとりである大友黒主について、「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり」とあることから、すくなくとも『古今和歌集』が撰ばれた時代までに、それ以前の古い時代の歌人として、あるいは架空の人物であったとしても一人の歌人として認知されていたことが分かる。
作品
奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷(おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき)
花札の「もみじに鹿」の取り合わせは、この歌による。ただし『古今和歌集』ではこの歌は「よみ人しらず」となっている。また三十六歌仙の歌集『三十六人集』の中には猿丸大夫の歌集であるという『猿丸集』なるものがあるが、残されているいくつかの系統の伝本を見ても、その内容は全て後人の手による雑纂古歌集であり、その中の歌が猿丸大夫が詠んだものであるかは疑わしいとされる。なお「おくやまに」の歌は『猿丸集』にも入っているが語句に異同があり、「あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき」となっている(御所本三十六人集に拠る)。
出自
『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷のことだといわれる)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島神(使い番は鹿)の言葉により、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話があり(これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという)、『二荒山神伝』にもこの戦いについて記されている。これにより下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とするという。また宇都宮明神(下野国河内郡二荒山神社)はかつて猿丸社とも呼ばれ奥州に二荒信仰を浸透させたといわれている。 歴史書『六国史』に拠ると、二荒神は承和3年(836年)に従五位上の神階で貞観11年(869年)までに正二位へと進階したが、赤城神の方は二荒神が従二位の階位にあった貞観9年(867年)にようやく従五位上、元慶4年(880年)の時点でも従四位上で二荒神と比べれば遥かに低位である。赤城神は11世紀に正一位を授かり二荒神と同列に序されるが、少なくとも平安時代末期までは二荒神の勢力が赤城神に勝っていたと考えられ、古今和歌集が成立する905年(延喜5年)までにこの説話の元となる出来事が実際にあり、『六国史』にはその名が見えない「猿丸大夫」という謎の人物像が定着し、紀貫之が古今和歌集にその名を載せたと推察するのは容易である。 また、歴史書『類聚国史』に拠ると、小野氏は弘仁年間に巫女であった猿女君の養田を奪って自分の娘に仮冒させたとあり、ここにも小野氏と猿、神事を司る者の関係が見て取れる。
猿丸大夫に関する伝説は日本各地にあり、芦屋市には猿丸大夫の子孫と称する者がおり、堺にも子孫と称する者がいたという。また長野県の戸隠には猿丸村というところがあって、猿丸大夫はその村に住んでいたとも、またその村の出身とも伝わっていたとの事である。しかしこれらの伝説伝承が、『古今和歌集』や三十六歌仙の猿丸大夫に結びつくかどうかは不明である。 
3
猿丸神社
瘤(こぶ)取りの神「猿丸さん」
「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき」の歌で 有名な猿丸大夫(さるまるだゆう)は古来、歌道の神として崇められ、その徳を慕う多くの文人墨客がこの地を訪ねています。また、近世に入ってからは、瘤・出来物や身体の腫物の病気を癒す霊験が あるとして、"こぶ取りの神"更には"癌封じの神"と篤く信仰されるようになりました。  今日では、南山城地方を中心に遠方よりも広く篤く信仰を集め、 家内安全・無病息災・病気平癒、交通安全、厄除け、また学業・ 受験の守護神として、親しみを込めて"猿丸さん"の呼称で信仰されて、毎月13日の月次祭には多くの人々の参詣で賑わいます。
御祭神 猿丸大夫(さるまるだゆう)
出生来歴については不詳ですが、『古今和歌集』の「真名序」にその名がみえ、奈良時代末期から平安時代初期にかけての歌人とされ、天武天皇の皇子・弓削皇子、柿本人麻呂の世をしのぶ名、その他諸説があります。 平安時代中期には、藤原公任によって三十六歌仙の一人に数えられ、その後は藤原定家の『小倉百人一首』にも撰ばれて広く世に知られるようになりました。
御由緒
平安時代の末期、山城国綴喜郡"曾束荘"(現在の滋賀県大津市大石曽束町)に猿丸大夫の墓があったとされ、山の境界争論により、江戸時代初期にほぼ現在地に近い場所に遷し祀ったものと思われ、その霊廟に神社を創建したのが始まりです。 鎌倉時代前期の歌人・鴨長明は『無名抄』に、「田上のしもの曽束といふ所に、猿丸大夫の墓があり、庄のさかひにて、そこの券に書きのせたれば、みな知るところなり」と書き留めています。 神社に伝わる絵馬(正保2年=1645)には、禅定寺地区の氏子中が社殿を建立したとあります。
その頃、当社を参拝した伏見・深草住の日蓮宗高僧・元政上人は、「有猿丸祠。此亦大夫遊處之地。而村民奉祀也」『扶桑隠逸伝』と書き残しています。 
4
猿丸大夫は古代の歌人ですが、その実体には謎が多いと言われます。というか、実際に存在したという根拠がほとんどないんですね。藤原公任撰による三十六歌仙 の一人で、『小倉百人一首』に採られているのは、「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」ですよね。ま、意味は解説するまでもないでしょう。ただ、この歌は『古今和歌集』では「詠み人知らず」となっています。また、『猿丸集』という個人歌集もあるのですが、採録された歌はほぼ別人のものであろうとされる、かなり怪しい代物です。ですから、猿丸大夫の正体というより、実在の人物かどうかが争点であるといえます。
さて、猿丸大夫の実在が疑われる最大の要因は、彼の記録が『六国史』などの公的資料に登場しないからです。「太夫」というのは五位以上の官人という意味なので、位階を持っているなら記されてしかるべきです。ならばこれは変名であろう、という考えは当然出てきます。何らかの理由で改名した、あるいは正史にその名を記すことができない理由がある。しかし、後者のほうはどうなんでしょう。日本の正史は基本的に、かなりの極悪人でもその名前は出てきます。例えば、歴史上初めて現役天皇を弑逆した蘇我馬子なんかもそうですよね。
この別人説でおそらく一番有名なのは、哲学者の梅原猛氏の著作である『水底の歌』に出てくる「柿本猨(さる)」説です。これは3人の人物が重なっていて、猿丸太夫=柿本猨=柿本人麻呂 となります。柿本人麻呂は歌聖とも称される人物で、実在であったことは間違いないと思いますが、正史には記録がないので、身分は低かったろうと考えられます。草壁皇子の舎人説を賀茂真淵が唱えており、これが定説に近いでしょう。柿本猨のほうは『日本書紀』にその名が出てきていて、実在の人物です。梅原氏の論は、柿本人麻呂が何かの罪を得て、無理やり猨(さる)に改名させられ、石見国で水死刑にされた、というものです。
ちなみに、人麻呂も三十六歌仙の一人で、猿丸太夫とはダブって入っていることになります。あと、10世紀成立の古今和歌集の序文にも2人とも登場していて、紀貫之のかな書きの序文には、柿本人麻呂「正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける」この人麻呂が正三位という高い位にされているのも謎な部分なのですが、これは余談。漢文の序文には「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり」ということで、人麻呂は7〜8世紀の人なのですが、後世にはそれぞれ別人と見られていたのではないかと思います。
確かに罰としての改名の例はあります。道鏡と宇佐神宮神託事件に関連して、「和気清麻呂」が「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に、姉の「広虫」が「狭虫」に、称徳天皇の命によって改名され、流罪になっていますね。「人」→「猿」という連想はたいへん面白いですが、反論として、猿などの動物の名は当時は特に不自然ではないというものがあります。時代は違いますが、前に出てきた蘇我馬子もそうですし、清麿の姉も広虫(ひろむし)です。広いが狭いにされてしまいましたが、虫の部分はそのままですね。梅原説のその他の部分も、綱渡り的な危うい論で組み立てられていて、定説となるのは難しそうですが、一部支持している史学者もいます。
これも余談ですが、もし人麻呂が刑死したのなら、命じたのは時代的に藤原不比等かもしれません。藤原不比等にも「羊太夫」という別人説があります。不比等→人ではない→羊 というわけです。「多胡碑」という古い碑文に、羊太夫が不比等から領地をもらった、という記載があり、伝承では、羊太夫は反乱を起こして誅殺されたことになっています。羊太夫はペルシャ人という話もあり、このあたりのことも調べるとなかなか興味深いですよ。
この他の猿丸太夫別人説としては、弓削皇子説、弓削道鏡説などもあります。弓と猿は関連があるみたいで、小野猿丸という弓の名手がいたようです。そこからきているようですが、まずありえないと思われます。
さてさて、梅原氏は論拠として、柳田国男の、「過去に日本で神と崇められた者に尋常な死をとげたものはいない」という説に着目して『水底の歌』に着手したということです。これは一般論としはそのとおりで、御霊である菅原道真、崇徳上皇など多くの例を上げることができますよね。しかし一方で柳田国男は、猿丸大夫とは「全国を巡って神事を行い、その際に歌を詠んだ集団についた名前ではないか」という説も出しています。ですから別々の複数人が詠んだ歌の作者として猿丸太夫の名が出ているのだろう、ということで、これはあってもおかしくない感じがしますね。 
 
6.中納言家持 (ちゅうなごんやかもち)  

 

鵲(かささぎ)の 渡(わた)せる橋(はし)に 置(お)く霜(しも)の
白(しろ)きを見(み)れば 夜(よ)ぞ更(ふ)けにける  
かささぎが連なって渡したという橋、つまり、宮中の階段におりる霜が白いのをみると、もう夜もふけてしまったのだなあ。 / かささぎが翼を並べて架けたといわれる天の川の橋。それにたとえられる宮中の橋に真っ白な霜が降りて、その白の深さを見るにつけても、夜もいっそう更けてきたことよ。 / 七夕の夜に天の川に橋を掛けるというカササギ。そのカササギが天界のような宮殿に掛けた橋に霜が降りているなぁ。その白さにを見ると、夜がずいぶんと更けたなぁと思う。 / かささぎが渡したという天上の橋のように見える宮中の階段であるが、その上に降りた真っ白い霜を見ると、夜も随分と更けたのだなあ。
○ かささぎの渡せる橋 / カラス科の鳥。中国の伝説では、七夕の夜に翼を広げて連なることで天の川に橋をかけ、織女を牽牛のもとへ渡すとされた。この歌では、橋は階(はし)を意味し、宮中の御階(みはし)を、かささぎが渡した天の川の橋に見立てている。
○ おく霜の / 「おく」は、おりる。霜がおりるさまを表す。「の」は、主格の格助詞。
○ 白きをみれば / 「白き」は、形容詞連体形の準体法。「白いの・白い光景」の意。
○ 夜ぞふけにける / 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「ぞ」は強意の係助詞。「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「ける」は、過去(詠嘆)の助動詞。 
奈良平安の日本
1
大伴家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 - 延暦4年8月28日(785年10月5日)は奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。
父・旅人が大宰帥として大宰府に赴任する際には、母・丹比郎女、弟・書持とともに任地に従っている。後に母を亡くし、西下してきた叔母の大伴坂上郎女に育てられた。天平2年(730年)旅人とともに帰京。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙せられる。天平18年(746年)3月に宮内少輔、6月に越中守に任ぜられ、天平勝宝3年(751年)まで赴任。この間に223首の歌を詠んだ。
少納言に任ぜられ帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、『万葉集』の防人歌収集につながっている。天平宝字2年(758年)に因幡守。翌天平宝字3年(759年)1月に因幡国国府で『万葉集』の最後の歌を詠む。
天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱には参加しなかったものの、藤原良継(宿奈麻呂)・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺計画を立案したとされる。暗殺計画は未遂に終わり、天平宝字7年(763年)に4人は逮捕されるが、藤原良継一人が責任を負ったことから、家持は罪に問われなかったものの、翌天平宝字8年(764年)に薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。天平宝字8年(764年)9月、藤原仲麻呂の乱で藤原仲麻呂が死去。
神護景雲1年(767年)大宰少弐に転じる。神護景雲4年(770年)称徳天皇が没すると左中弁兼中務大輔と要職に就き、同年正五位下に昇叙。光仁朝では式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の守を歴任する一方で、宝亀2年(772年)従四位下、宝亀8年(777年)従四位上、宝亀9年(778年)正四位下と順調に昇進、宝亀11年(780年)参議に任ぜられ公卿に列し、翌宝亀12年(781年)には従三位に叙せられた。
桓武朝に入ると、天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われて一時的に解官され都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。同年4月には罪を赦され参議に復し、翌延暦2年(783年)に中納言に昇進するが、延暦4年(785年)兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没したという説と遙任の官として在京していたという説がある。したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがある。
没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国に配流となった。延暦25年(806年)に罪を赦され従三位に復された。
歌人
長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七〜二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。勅撰歌人として、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に60首が採られている。太平洋戦争中に玉砕を報せる大本営発表の前奏曲として流れた「海ゆかば」(作曲:信時潔)の作詞者でもある。 
2
海行かば
『海行かば』(うみゆかば)とは、日本の軍歌ないし歌曲の一である。詞は、『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。この詞には、明治13年(1880年)に当時の宮内省伶人だった東儀季芳も作曲しており、軍艦行進曲の中間部に今も聞くことができる。
当時の大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲。信時潔がNHKの嘱託を受けて1937年(昭和12年)に作曲した。信時の自筆譜では「海ゆかば」である。出征兵士を送る歌として愛好された(やがて、若い学徒までが出征するにおよび、信時は苦しむこととなる)。放送は1937年(昭和12年)10月13日から10月16日の国民精神総動員強調週間に「新しい種目として」行われたとの記録がある。本来は、国民の戦闘意欲高揚を意図して制定された曲だった。本曲への国民一般の印象を決定したのは、大東亜戦争(太平洋戦争)期、ラジオ放送の戦果発表(大本営発表)が玉砕を伝える際に、必ず冒頭曲として流されたことである(ただし真珠湾攻撃成功を伝える際は勝戦でも流された)。ちなみに、勝戦を発表する場合は、「敵は幾万」、陸軍分列行進曲「抜刀隊」、行進曲『軍艦』などが用いられた。曲そのものは賛美歌風で、「高貴」ないし「崇高」と形容して良い旋律である。それゆえ、敗戦までの間、「第二国歌」「準国歌」扱いされ、盛んに愛唱されたが、戦後は事実上の封印状態が続いた(関連作品参照)。創立以来1958年まで桜美林学園は旋律を校歌に採用していた。
   海行(うみゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
   山やま行ゆかば 草生(くさむ)す屍(かばね)
   大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死(し)なめ
   かへりみはせじ (長閑(のど)には死(し)なじ)
歌詞は2種類ある。「かえりみはせじ」は、前述のとおり「賀陸奥国出金詔書歌」による。一方、「長閑には死なじ」となっているのは、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)による。大伴家持が詔勅の語句を改変したと考える人もいるが、大伴家の「言立て(家訓)」を、詔勅に取り入れた際に、語句を改変したと考える説が有力ともいわれる。万葉学者の中西進は、大伴家が伝えた言挙げの歌詞の終句に「かへりみはせじ」「長閑には死なじ」の二つがあり、かけあって唱えたものではないか、と推測している。
[原歌]
陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る みつき宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 武士の 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み 
[現代語訳] 葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された 天照大神からの神様たる天皇の祖先が 代々日の神の後継ぎとして 治めて来られた 御代御代、隅々まで支配なされる 四方の国々においては 山も川も大きく豊かであるので 貢ぎ物の宝は 数えきれず言い尽くすこともできない そうではあるが 今上天皇(大王)が、人びとに呼びかけになられ、善いご事業(大仏の建立)を始められ、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され 御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に 黄金があると奏上があったので 御心のお曇りもお晴れになり 天地の神々もこぞって良しとされ 皇祖神の御霊もお助け下さり 遠い神代にあったと同じことを 朕の御代にも顕して下さったのであるから 我が治国は栄えるであろうと 神の御心のままに思し召されて 多くの臣下の者らは付き従わせるがままに また老人も女子供もそれぞれの願いが満ち足りるように 物をお恵みになられ 位をお上げになったので これはまた何とも尊いことであると拝し いよいよ益々晴れやかな思いに満たされる 我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」と誓って、ますらおの汚れないその名を、遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、そのような祖先の末裔であるぞ。大伴と佐伯の氏は、祖先の立てた誓い、子孫は祖先の名を絶やさず、大君にお仕えするものである と言い継いできた 誓言を持つ職掌の氏族であるぞ 梓弓を手に掲げ持ち、剣太刀を腰に佩いて、朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ 大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊くありがたい 
3
大伴家持の生涯と万葉集
大伴氏の跡取り二上山の家持像
大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、生まれ年は養老(ようろう)2年(718)といわれています。母は旅人の正妻ではなかったのですが、大伴氏の家督(かとく=相続すべき家の跡目)を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)のもとで育てられました。けれどもその郎女とは11歳の時に、また父の旅人とは14歳の時に死別しました。家持は大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、しっかりと学んでいました。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に『万葉集』編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得することができたようです。またその歌をたどっていくと、のびのびとした青春時代をすごしていたようです。
越中に国守として赴任
越中国庁址(雪の勝興寺) 天平10年(738)に、はじめて内舎人(うどねり=律令制で、中務(なかつかさ)省に属する官。名家の子弟を選び、天皇の雑役や警衛に当たる。平安時代には低い家柄から出た。)として朝廷に出仕しました。その後、従五位下(じゅごいげ)に叙(じょ)せられ、家持29歳の年の天平18年3月、宮内少輔(しょうふ=律令制の省の次官)となります。同年6月には、越中守に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、越中国に在任しました。着任の翌月にはたった一人の弟書持(ふみもち)と死別するなどの悲運にあいますが、家持は国守としての任を全うしたようです。この頃は、通常の任務のほかに、東大寺の寺田占定などのこともありましたが、この任も果たしています。家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります。
帰京後、政権の嵐の中で
家持は越中守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位に昇進しますが、帰京後の昇進はきわめて遅れ、正五位下に進むまで21年もかかっています。しかもその官職は都と地方との間をめまぐるしくゆききしており、大伴氏の氏上としては恵まれていなかったことがうかがわれます。橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、さらに藤原氏の大伴氏に対する圧迫を受け続けていたのでしょう。家持は一族を存続するため、ひたすら抗争の圏外に身を置こうとしますが、そのため同族の信を失うこともあったようで、一族の長として奮起しなくてはならぬという責務と、あきらめとの間を迷い続けていたことを、『万葉集』に残した歌(4465・4468など)からうかがうことができます。
因幡国守、そして多賀城へ因幡国庁址
天平宝字3年(759)正月1日、因幡の国庁における新年の宴の歌を最後に『万葉集』は閉じられています。この歌のあと家持の歌は残されていません。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどうかもわかりません。家持は晩年の天応元年(781)にようやく従三位の位につきました。また、中納言・春宮大夫などの重要な役職につき、さらに陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍を兼ねます。家持がこの任のために多賀城に赴任したか、遙任の官として在京していたかについては両説があり、したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがあります。
家持の没後
延暦4年(785)68歳で没しました。埋葬も済んでいない死後20日余り後、藤原種継暗殺事件に首謀者として関与していたことが発覚し、除名され、領地没収のうえ、実子の永主は隠岐に流されます。家持が無罪として旧の官位に復されたのは延暦25年(806大同元年)でした。
家持と万葉集、越中時代
家持の生涯で最大の業績は『万葉集』の編纂に加わり、全20巻のうち巻17〜巻19に自身の歌日記を残したことでしょう。家持の歌は『万葉集』の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位です。しかも家持の『万葉集』で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首です。その関係で越中は、畿内に万葉故地となり、さらに越中万葉歌330首と越中国の歌4首、能登国の歌3首は、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっています。
異境の地で深まる歌境
越中守在任中の家持は、都から離れて住む寂しさはあったことでしょうが、官人として、また歌人としては、生涯で最も意欲的でかつ充実した期間だったと考えられています。そして越中の5年間は政治的緊張関係からも離れていたためか、歌人としての家持の表現力が大きく飛躍した上に、歌風にも著しい変化が生まれ、歌人として新しい境地を開いたようです。
越中の風土
国守の居館は二上山(ふたがみやま)を背にし、射水川(いみずがわ)に臨む高台にあり、奈呉海(なごのうみ)・三島野(みしまの)・石瀬野(いわせの)をへだてて立山連峰を望むことができます。また、北西には渋谿(しぶたに)の崎や布勢(ふせ)の水海など変化に富んだ遊覧の地があります。家持はこの越中の四季折々の風物に触発されて、独自の歌風を育んで行きました。『万葉集』と王朝和歌との過渡期に位置する歌人として高く評価される大伴家持の歌風は、越中国在任中に生まれたのです。  
4
大伴宿禰家持 (おおとものすくねやかもち) 718(養老2)?〜785(延暦4)
大伴宿禰旅人 (665(天智4)〜731(天平3))の長男。母は不詳(丹比氏の郎女か)。同母弟に書持、同母妹に留女之女郎がいる。正妻は坂上大嬢。子に永主と女子の存在が知られる。
727(神亀4)年冬か翌年春頃、父旅人は大宰帥として筑紫へ下向し、家持もこれに同行したと思われる。730(天平2)年6月、父は重態に陥り、聖武天皇の命により大伴稲公と大伴古麻呂が遺言の聞き役として派遣されたが、間もなく旅人は平癒し、二人の駅使が帰京する際催された悲別の宴には、大伴百代らと共に「卿の男」家持も参席した。同年末、旅人は大納言を拝命して帰京の途に就き、家持も同じ頃平城京佐保の自宅に戻ったと思われる。父は翌年7月死去し、家持は14歳にして佐保大伴家を背負って立つこととなった。
732(天平4)年頃から坂上大嬢や笠女郎と相聞を交わす。736(天平8)年9月には「大伴家持の秋の歌四首」を作る。これが制作年の明らかな最初の歌である。
739(天平11)年頃、蔭位により正六位下に初叙されたと思われる。この年6月、亡妾を悲傷する歌があり、これ以前に側室を失ったらしい。同年8月、竹田庄に坂上郎女・大嬢母娘を訪ねる。間もなく大嬢を正妻に迎えた。
740(天平12)年までに内舎人に任じられ、同年10月末に奈良を出発した関東行幸に従駕。11月、伊勢・美濃両国の行宮で歌を詠む。11.14、鈴鹿郡赤坂頓宮では供奉者への叙位が行われており、おそらくこの時正六位上に昇叙されたか。同年末の恭仁京遷都に伴い、単身新京に移住する。
741(天平13)年4月、奈良にいる弟書持と霍公鳥(ほととぎす)の歌を贈答する。この年か翌742(天平14)年の10.17、橘奈良麻呂主催の宴に参席し、歌を詠む(注1)。743(天平15)年7.26、聖武天皇は紫香楽離宮への行幸に出発するが、家持は留守官橘諸兄らと共に恭仁京に留まり、8月には「秋の歌三首」、「鹿鳴歌二首」・恭仁京賛歌を詠んでいる。同年秋か冬、安積親王が左少弁藤原八束の家で催した宴に参席し、歌を詠む。この時も内舎人とあるが、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁に留まっていることから、当時は親王専属の内舎人になっていたかと推測される。
744(天平16)年1.11、安積親王の宮があった活道岡で市原王と宴し、歌を詠む。ところが同年閏1月の難波宮行幸の途上、主君と恃んだ安積親王は急死し、これを悼んで2月から3月にかけ、悲痛な挽歌を作る。この時も内舎人とある。この後、平城旧京に帰宅を命じられたらしく、4月初めには奈良の旧宅で歌を詠んでいる。
745(天平17)年1.7、正六位上より従五位下に昇叙される。746(天平18)年1月、元正上皇の御在所での肆宴に参席し、応詔歌を作る。同年3.10、宮内少輔に任じられるが、わずか3か月後の6.21には越中守に遷任され、7月、越中へ向け旅立つ。8.7、国守館で宴が催され、掾大伴池主・大目秦忌寸八千嶋らが参席。同年9月、弟書持の死を知り、哀傷歌を詠む。この年以降、天平宝字2年1月の巻末歌に至るまで、万葉集は家持の歌日記の体裁をとる。
747(天平19)年2月から3月にかけて病臥し、これをきっかけとして大伴池主とさかんに歌を贈答するようになる。病が癒えると「二上山の賦」、「布勢水海に遊覧の賦」、「立山の賦」など意欲的な長歌を制作する。5月頃、税帳使として入京するが、この間に池主は越前掾に遷任され、久米広縄が新任の掾として来越した。
748(天平20)年春、出挙のため越中国内を巡行し、各地で歌を詠む。この頃から、異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌がしばしば見られるようになる。同年3月、諸兄より使者として田辺福麻呂が派遣され、歓待の宴を催す。4.21、元正上皇が崩御すると、翌年春まで作歌は途絶える。
749(天平21)年3.15、越前掾池主より贈られた歌に報贈する。同年4.1、聖武天皇は東大寺に行幸し、盧舎那仏像に黄金産出を報告したが、この際、大伴・佐伯氏の言立て「海行かば…」を引用して両氏を「内の兵(いくさ)」と称賛し、家持は多くの同族と共に従五位上に昇叙される。5月、東大寺占墾地使として僧平栄が越中を訪れる。この頃から創作は再び活発化し、「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」など多くの力作を矢継ぎ早に作る。
同年7.2、聖武天皇は譲位して皇太子阿倍内親王が即位する(孝謙天皇)。この頃家持は大帳使として再び帰京し、10月頃まで滞在。越中に戻る際には妻の大嬢を伴ったらしく、翌750(天平勝宝2)年2月の「砺波郡多治比部北里の家にして作る歌」からは、国守館に妻を残してきたことが窺える。同年3月初めには「春苑桃李の歌」など、越中時代のピークをなす秀歌を次々に生み出す。5月、聟の南右大臣(豊成)家の藤原二郎(継縄)の母の死の報せを受け、挽歌を作る。
751(天平勝宝3)年7.17、少納言に遷任され、足掛け6年にわたった越中生活に別れを告げる。8.5、京へ旅立ち、旅中、橘卿(諸兄)を言祝ぐ歌を作る。帰京後の10月、左大弁紀飯麻呂の家での宴に臨席。以後、翌年秋まで1年足らず作歌を欠く。
752(天平勝宝4)年4.9、東大寺大仏開眼供養会が催される。同年秋、応詔の為の儲作歌を作る。11.8、諸兄邸で聖武上皇を招き豊楽が催され、これに右大弁八束らと共に参席、歌を詠むが、奏上されず。11.25、新嘗会の際の肆宴で応詔歌を詠む。11.27、林王宅で但馬按察使橘奈良麻呂を餞する歌を詠む。
753(天平勝宝5)年2.19、諸兄家の宴で柳条を見る歌を詠む。2月下旬、「興に依りて作る歌」、雲雀の歌を詠む。以上三作は後世「春愁三首」と称され、家持の代表作として名歌の誉れ高い。同年5月、藤原仲麻呂邸で故上皇(元正)の「山人」の歌を伝え聞く。同年8月、左京少進大伴池主・左中弁中臣清麻呂と共に高円山に遊び、歌を詠む。
754(天平勝宝6)年 1.4、自宅に大伴氏族を招いて宴を催す。3.25、諸兄が山田御母(山田史女島)の宅で主催した宴に参席、歌を作るが、詠み出す前に諸兄は宴をやめて辞去してしまったという。以後、家持が諸兄主催の宴に参席した確かな記録は無い。4.5、少納言より兵部少輔に転任する。
755(天平勝宝7)年2月、防人閲兵のため難波に赴き、防人の歌を蒐集する。また自ら「防人の悲別の心を痛む歌」・「防人の悲別の情を陳ぶる歌」などを作る。帰京後の5月、自宅に大原今城を招いて宴を開く。この頃から今城との親交が深まる。同月、橘諸兄が子息奈良麻呂の宅で催した宴の歌に追作する。8月、「内南安殿」での肆宴に参席、歌を詠むが奏上されず。この年の冬、諸兄は側近によって上皇誹謗と謀反の意図を密告され、翌756(天平勝宝8)年2月、致仕に追い込まれる。家持は同年3月聖武上皇の堀江行幸に従駕するが、同年5.2、上皇は崩御し、遺詔により道祖王が立太子する。翌6月、淡海三船の讒言により出雲守大伴古慈悲が解任された事件に際し、病をおして「族を喩す歌」を作り、氏族に対し自重と名誉の保守を呼びかけた。11.8、讃岐守安宿王らの宴で山背王が詠んだ歌に対し追和する。11.23、式部少丞池主の宅の宴に兵部大丞大原今城と臨席する。
757(天平勝宝9)年1月、前左大臣橘諸兄が薨去(74歳)。4月、道祖王に代り大炊王が立太子する。6.16、兵部大輔に昇進。6.23、大監物三形王の宅での宴に臨席、「昔の人」を思う歌を詠む。7月、橘奈良麻呂らの謀反が発覚し、大伴・佐伯氏の多くが連座するが、家持は何ら咎めを受けた形跡がない。この頃、「物色変化を悲しむ歌」などを詠む。12.18には再び三形王宅の宴に列席、歌を詠む。この時右中弁とある。12.23、大原今城宅の宴でも作歌。
758(天平宝字2)年1.3、玉箒を賜う肆宴で応詔歌を作るが、大蔵の政により奏上を得ず。2月、式部大輔中臣清麻呂宅の宴に今城・市原王・甘南備伊香らと共に臨席、歌を詠み合う。同年6.16、右中弁より因幡守に遷任される。7月、大原今城が自宅で餞の宴を催し、家持は別れの歌を詠む。8.1、大炊王が即位(淳仁天皇)。
759(天平宝字3)年1.1、「因幡国庁に国郡司等に饗を賜う宴の歌」を詠む。これが万葉集の巻末歌であり、また万葉集中、制作年の明記された最後の歌である。
760(天平宝字4)年から762(天平宝字6)年頃の初春、家持が因幡より帰京中、藤原仲麻呂の子久須麻呂が、家持の娘を息子に娶らせたい意向を伝えたらしく、家持と子供たちの結婚をめぐって歌を贈答している。家持の返歌は娘の成長を待ってほしいとの内容である。
762(天平宝字6)年1.9、信部(中務)大輔に遷任され、間もなく因幡より帰京する。9.30、御史大夫石川年足が薨じ、佐伯今毛人と共に弔問に派遣される。763(天平宝字7)年3月か4月頃、藤原宿奈麻呂(のちの良継)・佐伯今毛人・石上宅嗣らと共に恵美押勝暗殺計画に連座するが、宿奈麻呂一人罪を問われ、家持ほかは現職を解される。
764(天平宝字8)年1.21、薩摩守に任じられる。前年の暗殺未遂事件による左遷と思われる。同年9月、仲麻呂は孝謙上皇に対し謀反を起こし、近江で斬殺される。10月、藤原宿奈麻呂は正四位上大宰帥に、石上宅嗣は正五位上常陸守に昇進し、押勝暗殺計画による除名・左降者の復権が見られるが、家持は叙位から漏れている。10.9、上皇は再祚し(称徳天皇)、以後道鏡を重用した。
765(天平神護1)年2.5、大宰少弐紀広純が薩摩守に左遷され、これに伴い家持は薩摩守を解任されたと思われる。二年後の神護景雲元年まで任官記事なく、この間の家持の消息は知る由もない。
767(神護景雲1)年8.29、大宰少弐に任命される。
770(神護景雲4)年6.16、民部少輔に遷任される。同年8.4、称徳天皇が崩御し、道鏡は失脚。志貴皇子の子白壁王が皇太子に就く。9.16、家持は左中弁兼中務大輔に転任。
同年10.1、白壁王が即位し(光仁天皇)、同日家持は正五位下に昇叙される。天平21年以来、実に21年ぶりの叙位であった。以後は聖武朝以来の旧臣として重んぜられ、急速に昇進を重ねることになる。11.25、大嘗祭での奉仕により、さらに従四位下へ2階級特進。
772(宝亀3)年2月、左中弁兼式部員外大輔に転任する。774(宝亀5)年3.5、相模守に遷任され、半年後の9.4、さらに左京大夫兼上総守に遷る。
775(宝亀6)年11.27、衛門督に転任され、宮廷守護の要職に就いたが、翌776(宝亀7)年3.6、衛門督を解かれ、伊勢守に遷任された。
777(宝亀8)年1.7、従四位上に昇叙される。778(宝亀9)年1.16、さらに正四位下に昇る。779(宝亀10)年2.1、参議に任じられ、議政官の一員に名を連ねる。2.9、参議に右大弁を兼ねる。
781(天応1)年2.17、能登内親王が薨去し、家持と刑部卿石川豊人等が派遣され、葬儀を司る。同年4.3、光仁天皇は風病と老齢を理由に退位し、山部親王が践祚(桓武天皇)。4.4、天皇の同母弟早良親王が立太子。4.14、家持は右京大夫に春宮大夫を兼ねる。4.15、正四位上に昇進。5.7、右京大夫から左大弁に転任(春宮大夫は留任)。この後、母の喪により官職を解任されるが、8.8、左大弁兼春宮大夫に復任する(注2)。11.15、大嘗祭後の宴で従三位に昇叙される。この叙位も大嘗祭での奉仕(佐伯氏と共に門を開ける)によるものと思われる。12.23、光仁上皇が崩御し、家持は吉備泉らと共に山作司(山陵を造作する官司)に任じられる。
782(天応2)年閏1月、氷上川継の謀反が発覚し、家持は右衛士督坂上苅田麻呂らと共に連座の罪で現任を解かれる。続紀薨伝によれば、この時家持は免官のうえ京外へ移されたというが、わずか四か月後の5月には春宮大夫復任の記事が見える。6.17、春宮大夫に陸奥按察使鎮守将軍を兼ねる。続紀薨伝には「以本官出、為陸奥按察使」とあり、陸奥に赴任したことは明らかである。程なく多賀城へ向かうか。
783(延暦2)年7.19、陸奥駐在中、中納言に任じられる(春宮大夫留任)。784(延暦3)年1.17、持節征東将軍を兼ねる。785(延暦4)年4.7、鎮守将軍家持が東北防衛について建言する。8.28、死す。死去の際の肩書を続紀は中納言従三位とする。『公卿補任』には「陸奥に在り」と記され、持節征東将軍として陸奥で死去したか。ところが、埋葬も済んでいない死後20日余り後、大伴継人らの藤原種継暗殺事件に主謀者として家持が関与していたことが発覚し、生前に遡って除名処分を受ける。子の永主らも連座して隠岐への流罪に処せられ、家持の遺骨は家族の手によって隠岐に運ばれたと思われる。
806(延暦25・大同1)年3.17、病床にあった桓武天皇は種継暗殺事件の連座者を本位に復す詔を発し、家持は従三位に復位される(『日本後紀』)。これに伴い家持の遺族も帰京を許された。家持は万葉集に473首(479首と数える説もある)の長短歌を残す。これは万葉集全体の1割以上にあたる。ことに末四巻は家持による歌日記とも言える体裁をなしている。万葉後期の代表的歌人であるばかりでなく、後世隆盛をみる王朝和歌の基礎を築いた歌人としても評価が高い。古くから万葉集の撰者・編纂者に擬せられ、1159(平治1)年頃までに成立した藤原清輔の『袋草子』には、すでに万葉集について「撰者あるいは橘大臣と称し、あるいは家持と称す」とある。また江戸時代前期の国学者契沖は『萬葉集代匠記』で万葉集家持私撰説を初めて明確に主張した。
なお914(延喜14)年の三善清行「意見十二箇条」には家持の没官田についての記載があり、越前加賀郡100余町・山城久世郡30余町・河内茨田渋川両郡55町を有したという。
(注1)万葉集の歌の排列から、この宴を738(天平10)年のものと見る説も多いが、恭仁京から平城旧京に参集して開かれた宴であると見られ、天平13年か14年とみる契沖などの説に従う。
(注2)喪葬令によれば実母の服喪は一年、養父母は五ヶ月、嫡母・継母一ヶ月。家持が左大弁に任じられたのはこの年5月なので、服喪による謹慎は三ヶ月以内。従って生母・養父母の死ではないとする説もあるが、服喪期間が短縮される例は多かったとみられるので、断定は出来まい。 
5
大伴家持と藤原久須麻呂
万葉集の巻の四の末尾に、ここ数年常に気にかかっている歌群がある。この国最古の歌集である万葉集を、おそらくは今我々が見る姿に近いものへと仕立て上げた歌人大伴家持と、平城の御代の中期から末期にかけて権勢を誇った恵美押勝こと、藤原仲麻呂の子、藤原久須麻呂との間に交わされた次の7首である。
大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首
春の雨は いやしき降るに 梅の花 いまだ咲かなく いと若みかも
夢のごと 思ほゆるかも はしきやし 君が使の 数多(マネ)く通へば
うら若み 花咲きかたき 梅を植ゑて 人の言繁み 思ひぞ我がする
又家持贈藤原朝臣久須麻呂歌二首
心ぐく 思ほゆるかも 春霞 たなびく時に 言の通へば 
春風の 音にし出なば ありさりて 今ならずとも 君がまにまに
藤原朝臣久須麻呂来報歌二首
奥山の 岩蔭に生ふる 菅の根の ねもころ我れも 相思はざれや
春雨を 待つとにしあらし 我がやどの 若木の梅も いまだふふめり
まず、最初の「大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首」についてである。太字表記にした「報贈」とは何らかの働きかけに対して「報(コタ)へ贈」ることを言う。
天平17年あるいは18年(746)の春ごろに交わされたと推定されるこれらの歌の第1首に「梅の花 いまだ咲かなく いと若みかも 」とあるのは当時11、12歳であっただろうと推定される大伴家持の娘。それにしきりに降りかかる「春雨」とは藤原久須麻呂の求婚をさす。まだ自分の娘は若すぎると、父家持は丁重に断りを入れているのだ。続いて2首目においてしかしながら、その求婚に対しては充分に感謝している旨を述べ、その上で3首目において、幼い愛娘への、おそらくは突然に思えるような求婚に戸惑う親の心が歌い、理解を願っている。
しかし、久須麻呂からは、重ねて求婚の意思表示があったのだろう。家持は再び2首を久須麻呂に贈る。「又家持贈藤原朝臣久須麻呂歌二首」である。1首目はこうやって度々久須麻呂より求婚の使いに対して娘はまだ幼いからと断り続けなければならないつらさを歌い、2首目、しかるべき時期にしかるべきお言葉(歌)をいただければきっと意に添えるであろう旨を久須麻呂に告げている。
そして、その父親、家持の思いに応えられぬ久須麻呂ではなかったようだ。「藤原朝臣久須麻呂来報歌二首」がそれだ。「来報(コタ)」ふとは必ずしも実際に久須麻呂が家持の元に訪れたことを意味することとは思えないが、全くその可能性がなかったとは言い切れない。1首目、「菅の根の」はその根の長さから末長き変わらぬ心を示す。即ち家持が、もし待っていただけるのなら・・・と歌いかけてきたことに対しての返答である。そして、2首目、「春雨を 待つとにしあらし 」と歌い、しかるべき時期が来るのを待つとの意思表示がなされる。
かくして大伴宗家家・藤原南家(ただし久須麻呂の父仲麻呂は南家次男)との婚約は成立した。その後、この婚儀が滞りなく相成ったかどうかは推測の域を出ない。巻の十九の4214の「挽歌」と題された歌の左注に「右大伴宿祢家持弔聟南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也」とある、「藤原二郎」を一部でとなえられているように久須麻呂と考えるのならば、上記の歌群においてなされた婚約は履行されたものとみることはできるが、「藤原二郎」を久須麻呂と考えることには異論もあり、確かなこととは言えない。
ただ、両家の婚姻んが成立したかどうかは別のこととして、この時代の娘を持つ父親とその娘を求める男との微妙なやり取りを垣間見せてくれるこの歌群は、その歌の良し悪しをこえてまことに興味深い。
・・・が、この歌群について私が抱いている興味はそこにあるのではない。ならば、私の関心の中心がどこにあるのか・・・
万葉集中を見渡すに、男から女への誘いかけは直接当人にあることが普通である。しかるに冒頭の題詞に「報贈」とることは、今回の求婚がそのような通例には則らなかったことを意味する。「報」とは自分に対してなされた働きかけに対して応ずることを意味し、そのことを重視するならば、ここは女の父親である大伴家持に対して藤原久須麻呂の働きかけがなされたと考えざるを得ない。
久須麻呂の求愛の対象である家持の娘がまだ幼すぎたからそうなったのだと考えればそれまでであるが、だとすれば、そのような幼すぎる家持の娘を久須麻呂はなぜ自らの求婚の対象として選んだのか。そこに藤原氏(仲麻呂)側に政略的な思いがあっただろうことは容易に想像できよう。この時期、仲麻呂は息子久須麻呂を通じて大伴家持と積極的に関係を作ろうとしていたと考えるべきであろう。以下、両者の関係について説明しておこう。
当時、政界のトップに君臨していたのは橘諸兄(モロエ)であった。天平9年(737)天然痘の流行によって藤原四兄弟をはじめとした多くの実力者が世を去り、そのことを契機に大納言に昇進したこの皇親政治家は同10年(737)正三位右大臣に昇進し国政の実権を掌握する。その後。同15年(743))従一位左大臣まで上り詰める。そして、この橘諸兄こそが当の大伴家持の庇護者であった。家持は当代随一の権力者の派閥の構成員であったのだ。一方、藤原仲麻呂は天平9年の天然痘の流行により世を去った藤原武智麻呂の次男。叔母に当たる光明皇后の信任を得、天平13年(741)民部卿着任以降急速に力を伸ばし、橘諸兄の地位を脅かしつつあった。家持にとって、いわば対立する派閥の長であったと言うことが出来る。
大伴家持は最終的には従三位中納言まで昇進するが、それまでの道のりは平坦なものではなかった。天平17年(745)従五位下を賜り昇進の途についた家持は、越中国守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位上を賜るが、その後次の位である正五位下に進むまでに21年の歳月を要した。しかもその間その官職は地方と中央をめまぐるしく行き来しており、大伴宗家の長としてはあまりにも恵まれない21年であった。その要因として考えられるのが仲麻呂との関係にあったと言うのが通説である。
上述のごとく仲麻呂は光明皇后を後ろ盾に力を増し、当時最高位にあった橘諸兄と鋭く対立していた。天平勝宝元年(749)には光明皇后のもとに設けられた紫微中台長官と、中衛大将の地位に就いた仲麻呂は政治と軍事の大権を掌握し、左大臣橘諸兄を圧倒し、事実上の最高権力者となる。となれば、彼が次に行うのは対立する勢力の駆逐である。諸兄側の人間である家持がその影響を受けないはずがない。かなりの振幅を持ちながらも家持の昇進のペースが急速にその早さを増してくるのが、天平宝字8年(764)以降になっているのもその証左といえようか。
この間にこの二人の間にあった事件を以下に二つ紹介しておこう。
天平宝字元年(757)橘奈良麻呂の乱。
橘諸兄の子奈良麻呂が仲麻呂の専横に反発して、その排除を目指したものであるが、密告により関係者全員が逮捕される。この乱には家持は荷担することは無かったと言われるが、同族の佐伯・大伴のものが処罰されている。家持の最良の歌友大伴池主もこの欄に加わったとみられ、この後その消息が分からなくなった。この事件の取り調べは熾烈を極めたという。家持にもその嫌疑がかからなかったわけはない。家持がその翌年に因幡の国に左遷されたのは、その余波と考えられている。
天平宝字7年(763)藤原仲麻呂暗殺計画発覚。未遂に終わり家持も逮捕される。首謀者であった藤原良継が罪を一人で被り、罪には問われなかったが翌年薩摩の国守として左遷させられた。
以上、大伴家持と藤原仲麻呂の関係を見てきたが、そこには対立の構図しか見えてこないが・・・そのような状況を踏まえたうえで、この久須麻呂の求婚の意味を考えればどうなるのか・・・
以下想像の幅を広げすぎるようになるかもしれないが、ひとつの可能性を示してみたいと思う。。
上にこの求婚が政略的な意図のもとに行われたものだと述べた。当時久須麻呂の父仲麻呂は参議(議政官)、政界では充分に勢力ある存在であった。しかし上には橘諸兄がいる。皇族出身の諸兄と官僚社会の実現を目指す自分とではあまりに政治的立場が違いすぎる。自らが権力を握り、その理想を実現するためには諸兄を上回る力を手に入れるしかない。そのための方策の一つとして・・・諸兄陣営の官人一人一人を自分の側に組み入れてしまうことがある。これは自らの陣営を増やすだけではなく、相手の陣営を減少させる意味合いも持っている。
そしてその対象として家持はもってこいの人物であった。家持はこの年やっと従五位下を賜ったばかりの少壮政治家ではあったが、なんといっても名門豪族大伴家の長だ。新進貴族である藤原氏としては家持が自分の側にいるといないとでは、その権威にかなりの違いが生じてくる。しかも、大伴家は軍事を以て朝廷につかえてきた家柄である。壬申の大乱も大伴家の活躍がなければその勝敗が変わって来たであろう。家持の父旅人もその軍人としての力量を充分に発揮して隼人の反乱を無事鎮めた・・・・そのような家筋と婚姻関係を結ぶことはそれだけで心強い事であっただろう。
ならば家持はこの求婚をいかに受け止めたのか・・・
夢のごと 思ほゆるかも はしきやし 君が使の 数多(マネ)く通へば(787)
と、この歌群の2首目に歌った心に偽りはなかったであろうと思う。たとえ対立する派閥の長の子どもからとはいえ、わざわざこうやって誘いかけてくれるということは、それだけ自分が評価されているということを示す。自分が諸兄陣営の人間であるとしてもそれは喜ばしい事には違いない。無碍にこの誘いを断るには少々気が引ける。そんな思いがこの歌群最初の3首「大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首」からは読み取れる。
かといって、己が敬愛するのは左大臣橘諸兄・・・狭間にあった家持の思いは必ずや揺らいだに違いない。
おそらくは更に繰り返されたに違いない久須麻呂からの働きかけに家持は政治家として、そして何よりも父親として畳みかけるようにその真意をただす。久須麻呂からの返事は実に誠意に溢れた2首であった。歌としてそれを評価するのであればそう高く評価できるものではない。けれどもその2首は家持の投げかけに誠実に答えたものであった。政治家として、父親として、家持は満足したに違いない。
ただ残念ながらこの婚儀が無事調ったものであるかどうか・・・資料はその結果を示してくれてはいない。ただいくつかの事実がひょっとしたら家持の娘が藤原の家に嫁いだであろうことを髣髴とさせる・・・そんな事実がある。
一つは前回の記事に示した巻の十九の4214の「挽歌」と題された歌の左注の「右大伴宿祢家持弔聟南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也」の「聟」の文字。ここにある「藤原二郎」が一部で言われているように久須麻呂のことであるならば、間違いなくこれらの歌群でのやり取りの結果この婚儀が成立したことを意味する。けれどもこの「藤原二郎」が誰であるかは異説もあって確証とは言い難い。
後は・・・少々遠回しな証左となるが、上に述べた「橘奈良麻呂の乱」「仲麻呂暗殺計画」の二つの事件である。いずれの事件の際にも、その直後家持は因幡・薩摩と遠国に左遷されている。しかしながら、事の重大さから見ればそれはあまりにも軽い対応であったように思われる。いずれも事件もが仲麻呂自身を除こうとした事件だ。橘奈良麻呂の乱にはかかわっていなかったとはされているが、その企ては当然家持に回ってきていたはずだ。敵に回せば厄介な大伴の家の長である。これ幸いと罪をかぶせなきものにすることも可能であったはずだ。暗殺計画に至ってはそのメンバーであったのだから、いくら藤原良継が一身にその罪を背負おうとしても仲麻呂側の追及のしようによっては家持をも罪に問うことは可能であったと思う。
そこに・・・私はこれらの歌群の持つ重要性を感じているのである。
すなわち、天平17年或いは18年春、件の歌のやりとりを通じ、大伴宗家と藤原南家との婚約は成立した。それから数年の後のしかるべき頃、娘は藤原の家に嫁ぐことになる。両家は久須麻呂と家持の娘という二人の若者によって結ばれることになる。この関係が上記の二つの事件において家持に対する処置が甘くなる要因になったのではないか・・・
公において対立する派閥の構成員である家持を仲麻呂は冷遇はする。しかしながら家持は我が子である久須麻呂の義理の父にも当たる。その義理の父が罪人としてとらえられ処罰されると言うことはすなわち、その義理の息子(仲麻呂にとっては実子)久須麻呂の履歴に傷をつけることでもある。振り下ろした刃が自らに向いてしまうのだ。しかしながら事件にかかわったとも考えられる家持をそのまま野放しにするわけにも行かない。ここは体よく地方の国守として都から追い払ってしまうに限る・・・というのがことの実相ではあるまいか。国守の地位を保証するのであるからそれは罪を罰したことにはならない。
家持がその娘と久須麻呂との婚儀に踏み切ったのはおそらくは久須麻呂からの誠意あふれる2首があったからに間違いはない。立場上武人でもあり政治家でもある家持は、しかしより文学の人であった。その善し悪しはともかくとして歌を通じその真心が示されれば、彼にこの婚姻を否む理由はない。仮に背後に自らの、或いは一族の保身を思っての思慮があったにしても家持の心中にあったのは久須麻呂から示された誠意が主なものだったであろう。
若き日のほんの7首の歌のやりとりが家持を、そして大伴の家を守ったのである。家持は「歌の力」を再認識せざるを得なかった・・・ 
6
晩年の大伴家持
その後の公人家持
天平宝字てんぴようほうじ六年(七六二)正月、大伴家持おおとものやかもちは因幡守いなばのかみから信部大輔しんぶたゆうとなって帰京した。在任期間三年半というのは短いほうである。信部省は中務なかつかさ省の別名で、他の七省より格が上であり、その大輔(首席次官)となって、家持は少し面目を施す思いがしたのでなかろうか。しかも、その長官(卿きよう)は、家持より三歳年長で、これまで彼に好意的であった藤原真楯ふじわらのまたて(八束やつか)である。だが、真楯は四年後に、正三位大納言だいなごん兼式部卿で薨こうじた。時に五十二歳、その死は朝廷の内外から惜しまれた。
真楯は北家の出だが、その従兄で南家出身の藤原仲麻呂なかまろは、常々、真楯の徳望篤あついことを嫉ねたんでいた。反対勢力を次々に却しりぞけ、権謀術数にたけた仲麻呂も、後ろ盾と頼む光明皇太后の崩御を境に失速し、謀反を起したが、近江おうみ国高島郡勝野かつのにおいて敗死した。彼が担ぎ出した淳仁天皇(舎人親王とねりのみこの子、大炊おおいの王おおきみ)も配所の淡路あわじで怪死する。あたかも、七年前に家持が「咲く花はうつろふ時あり」(四四八四)と詠よんだのが的中したような結果となったわけである。しかし、奈良朝末期の政界がそれで浄化したのではない。入れ代りに台頭した怪僧道鏡どうきようが法王となって実権を握った。その道鏡も、宝亀ほうき元年(七七〇)に彼を支えた称徳天皇(孝謙)が崩ずると失脚し、故志貴親王しきのみこの子、白壁王しらかべのおおきみが推されて皇位に即つく。光仁天皇がそれで、これまで天武天皇の系統が占めていた皇位が天智天皇の子孫の手に戻ったことになる。
その間、家持はさまざまの官職を歴任するが、位階は黄金出現の年、天平勝宝しようほう元年(七四九)従五位上に進んだきり、二十一年間据え置かれていた。真楯またてがこの一階を二年半で通過したのに比べて、大変なスローペースである。その原因は、必ずしも仲麻呂なかまろらの、橘たちばな・大伴おおとも氏を中心とする一派に対する抑圧とばかりも考えられない。とにかくその宝亀ほうき元年(七七〇)にやっと正五位下となり、翌二年に従四位下に叙せられて、遅過ぎた春が家持やかもちの上に訪れたのである。
天応てんおう元年(七八一)四月、光仁天皇は皇太子山部親王やまべのみこに譲位、桓武かんむ天皇の代となり、早良親王さわらのみこが皇太子に立てられる。家持は右京大夫だいぶ兼東宮大夫正四位上となり、その年の冬十一月従三位に進んだ。三年後の延暦えんりやく三年(七八四)十一月、長岡京に遷都する。家持が薨こうじたのはその翌四年八月二十八日で、時に中納言ちゆうなごん従三位兼東宮大夫、陸奥按察使むつあぜち鎮守府将軍でもあった。年六十八歳。死後二十余日、その屍しかばねが葬られないうちに、藤原ふじわらの種継たねつぐ暗殺事件が起り、その主謀者大伴継人・竹良らに連なるという縁で除名された。皇太子(東宮)側の人でもあり、不利な立場であった。ただし、翌年復位する。
万葉集の欠落あれこれ
家持が天平宝字てんぴようほうじ三年(七五九)に万葉集最後の歌を詠よんで以後、延暦四年まで二十六年間に歌を作らなかったとは考えられない。ただ、百人一首にも入れられている、
かささぎのわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更ふけにける
は、『家持集』という家持と無縁な歌集の中にあるが、家持の実作とは認められない。しかし、それと関係なく、万葉集の自作歌ないし周辺の人々の歌を、折に触れて、直したり、また削ったりしたのでないかと思われる。
即ち、十代の若書きの自作を、後年に至って、未熟と反省して削ったとおぼしい証拠がある。たとえば、巻第四・相聞そうもん・五八一の題詞。原文で示せば、
大伴坂上家之大娘報二贈大伴宿祢家持一歌四首(大おほ伴ともの坂上家さかのうへのいへの大嬢だいぢやうが大伴宿禰家持おほとものすくねやかもちに報こたへ贈おくる歌四首)
とあって、その中に「報贈」と見えることから推して、この前に家持からの贈歌何首かがあったと考えられる。それを後年、稚拙と認めて削ったに違いない。時には、後に家持と結婚する坂上大嬢の歌を、当人の要求によってか、削除することもある。大嬢の母、坂さか上郎のうえのいら女つめが跡見とみの荘園から奈良の留守宅の娘に贈った歌(七二三・七二四)のあとに、
右歌、報二賜大嬢進歌一也(右の歌は、大嬢が進たてまつる歌に報こたへ賜ふ)
とあるのがそれである。同じようなことが、六二七の前の佐伯さえきの赤麻呂あかまろ、七六九の前の紀女郎きのいらつめ、七八六の前の藤原久須麻呂ふじわらのくすまろの歌についても言えよう。これらは皆、家持周辺の人と考えられ、削らないと不名誉だとか、あまりに個人的な関係が表面化するとかの考慮から、関係者であり、編纂へんさん者でもある家持の裁量で除いたと考えられる。
以上挙げたところは、巻第十六以前の諸巻における削除であり、あるいは越中えつちゆう滞在中などの宝字三年以前の手入れと考えることもできよう。しかし、巻第十七以降の四巻の上に同じようなことがあれば、宝字三年より後の削除の可能性が高かろう。ただ、この四巻中の件数は二つで、共に書写段階に至って誤脱したとも考えられないところがある。その一つは巻第十八・四一三一の左注の、
右歌之返報歌者、脱漏不レ得二探求一也(右の歌の返報歌は、脱漏だつろうし探り求むること得ず)
である。これは、もと越中国掾じようで、その後、越前えちぜん国掾に遷うつった大伴池主いけぬしが書いた、訴状紛いの戯文と戯歌(四一二八〜四一三一)に対する、家持からの返信が散逸して見つからない、という断り書である。対池主に限らないが、家持の元に届いた書翰しよかんや歌が残るのは当然として、家持から出した書状類は、控えを取っていたのか、あるいはあとで返却してもらったものか、他のはほとんどすべて残っている。残っていないのは、これと巻第五の八六四の前の、大伴旅人たびとが都の吉田よしだの宜よろしに梅花歌三十二首と「松浦まつら川がはに遊ぶ序」とを贈るのに添えた書翰しよかんである。その実作者は山上やまのうえ憶良のおくらかもしれないが、それはこの際、問う所でない。その中身を宜よろしの返信の中から一部復原すると、
……辺城へんじやうに羈旅きりよし、古旧こきうを懐おもひて志を傷いたましめ、年矢ねんし停とどまらず、平生へいぜいを憶おもひて涙なみたを落とす……
というような泣き言を吐露してあったのだ、ということが分る。それから類推して、家持やかもちも池主いけぬしの悪ふざけに対して、多少感情的なことを言い贈り、後に気がとがめて、散逸したと見せかけた可能性が大きいのでないか。その削除の時期を特定できないが、橘たちばな奈良麻呂のならまろの変の主謀者の一人として逮捕された池主が、多分、刑死したと思われる、それ以後かと想像される。
もう一つの「散逸」は、家持が越中えつちゆう守のかみを辞して上道する時に、下僚を代表して次官の内蔵くらの縄麻呂なわまろが詠よんだ「盞さかづきを捧ささぐる歌」(四二五一題詞)である。家持の失念でない、と言い切れないが、あるいは、掾じようの久米広縄くめのひろつななどに比べて多少、歌に不堪ふかんであったとも考えられる縄麻呂の歌の拙劣さをカバーしての工作ではないか。
後日推敲して差し替え
削除のほかに、差し替えたと思われるものが、古写本の上に残ることがある。これも家持関係に限られるようである。即ち、家持から池主に贈られた書翰類に限って見られ、池主から家持への返信には絶えてその事がない。巻第十七の(A)三九六二・(B)三九六九・(C)三九七六の各歌の前文がそれであるが、今はその最後の(C)だけ取り上げよう。右図に示したものは紀州本(部分)で、次にそれの書き下し文を示す。上に示した記号(X)・(Y)・(Z)は大体の段落を示す。
(X)昨暮ざくもの来使は、幸むがしくも晩春遊覧の詩を垂れたまひ、今朝の累信るいしんは、辱かたじけなくも相招望野さうせうばうやの歌を貺たまふ。一たび玉藻ぎよくさうを看みるに、稍やくやく鬱結うつけつを写のぞき、二たび秀句しうくを吟うたふに、已すでに愁緒しうしよを蠲のぞきつ。この眺翫てうぐわんに非あらずは、孰たれか能よく心を暢のべむ。但惟ただし下僕われ、稟性彫ひんせいゑり難く、闇神瑩あんしんみがくこと靡なし。翰かんを握とり毫がうを腐くたし、研げんに対むかひて渇かわくことを忘れ、終日目流もくるして、これを綴るに能あたはず。所謂いはゆる文章は天骨にして、これを習ふに得ず。
(Y)豈あに字を探り韻を勒しるさむに、雅篇がへんに叶和けふわするに堪あへめや。抑鄙里はたひりの少児せうにに聞くに、古人は言げんに酬むくいずといふことなしといへり。聊いささかに拙詠せつえいを裁つくり、敬つつしみて解咲かいせうに擬あてはからくのみ。
(Z)如今いまし言を賦ふし韻を勒し、この雅作がさくの篇に同どうず。豈あに石を将もちて瓊たまに間まじへ、声こゑに唱へ走わが曲しらべに遊ぶに殊ならめや。抑はた小児の濫みだりなる謡うたの譬ごとし。敬みて葉端えふたんに写し、式もちて乱に擬りて曰いはく、
これを書いたのは天平てんぴよう十九年(七四七)三月五日だが、その二日前にも家持は(B)を池主に書き贈っている。この(Z)部は、大部分の仙覚せんがく本(寛元かんげん本・文永ぶんえい本とも)が小字二行割書きにしており、広瀬本も不徹底ながらそれに近い書式になっている。ところが、元暦校本にはこの(Z)部がない。(Z)部は(Y)部の別案、と言うより初案であり、池主へ贈ったのは(X)+(Z)の形であったろう。それが(X)+(Y)+(Z)と並ぶ本は(Z)の消し忘れである。しかも、注目すべきことに、(Z)の中にある「石を将ちて瓊に間へ」の句は、二日前の(B)の終り近くにも見える。恐らく編纂へんさん段階で捨てるに忍びず、そちらに移したのである。推敲すいこうした揚句の差し替えであろう。
歌詞の差し替えも少ないながらある。その一つは、巻第十九の初めのほう、天平勝宝しようほう二年(七五〇)三月三日、家持の館やかたで飲宴いんえんした時の彼の作、ここは第五句だけ原文で示せば、次の如くである。
漢人からひとも筏いかだ浮べて遊ぶといふ今日けふそ我わが背子せこ花はな縵かづら世余せよ(四一五三)
広瀬本と仙覚寛元本とにはかくあり、元暦げんりやく校本も「余」であるらしい。しかし、類聚古集るいじゆこしゆうと底本など文永本系の諸本には「世奈」とあり、旧全集本はそれを採った。しかし、家持やかもちが下僚に呼び掛けた歌には「いざ打うち行ゆかな」(三九五四)とも「馬しまし止とめ」(四二〇六)ともあり、ナを用いた勧誘も、命令表現そのものもあるが、対象たる「我が背子」の語があれば、「せよ」のほうがふさわしかろう。もっとも、これには「奈」と「余」とが字形の上で相近く、誤写の可能性がなくもない。
それに比べると、巻第二十の長歌「防人さきもりが悲別ひべつの情こころを陳のぶる歌」(四四〇八)の中の三分の一辺り、
……ちちの実みの 父ちちの命みことは たくづのの 白しらひげの上うへゆ 涙なみだ垂たり 嘆きのたばく 鹿子かこじもの ただひとりして 朝戸出あさとでの かなしき我あが子 あらたまの 年の緒を長く 相見あひみずは 恋こひしくあるべし 今日けふだにも 言こと問どひせむと 惜をしみつつ 可奈之備麻世婆かなしびませば 若草の 妻つまも子どもも……
この「可奈之備麻世婆」の部分にもう一つの異文がある。このマセバと同じなのは、底本などの仙覚文永せんがくぶんえい本の系統と広瀬本および多少不確実な点はあるが元暦げんりやく校本である。ところが、神宮文庫本などの寛元かんげん本とその末流に属する寛永かんえい版本などには「可奈之備伊麻世」とあり、類聚古集るいじゆこしゆうもその側に付くと思われる。このイマセはいわゆる已然形で言い放つ法で、上代語に珍しくない語法だが、それは概して原因・理由を表す。家持も「帰り来きて しはぶれ告つぐれ」(四〇一一)、「金くがねありと 申まうしたまへれ」(四〇九四)その他、三九六九・四一一一・四一二一などに用い、いずれも理由格を表している。家持はこのやや古風な確定条件の使用を好んでいたのでないかと思われる。しかし、右の場合は理由格では続かず、並立する複数の事柄の同時進行であり、イマセでは不適当だ、と家持は後に気づいたのでないか。その気づき・修整の時期の割出しは困難だが、あるいは天平宝字てんぴようほうじ三年(七五九)より後れるのではなかろうか。
家持がその晩年というべき時期にこのような手直しをしたのでないかと推測するわけは、原本が単一でなく、少しずつだが変化し、そのつど派生した結果、今日の多様な異文が生れた、と考えるからである。 
 
7.阿倍仲麻呂 (あべのなかまろ)  

 

天(あま)の原(はら) ふりさけ見(み)れば 春日(かすが)なる
三笠(みかさ)の山(やま)に 出(い)でし月(つき)かも  
長安の天空をふり仰いで眺めると、今見ている月は、むかし奈良の春日にある三笠山に出ていた月と同じ月なのだなあ。 / 大空を仰いで見ると、こうこうと月が照り輝いている。かつて奈良の春日にある三笠山の上に昇っていたあの月が、今ここに同じように出ているのだなあ。 / はるか大空を見上げてみると、月がとても美しいなぁ。あの月は、故郷の奈良の春日にある三笠山にかかっている月と同じなんだろうなぁ。 / 大空を振り仰いで眺めると、美しい月が出ているが、あの月はきっと故郷である春日の三笠の山に出た月と同じ月だろう。(ああ、本当に恋しいことだなあ)
○ 天の原 / 天空。「原」は、大きく広がるさまを表す。
○ ふりさけ見れば / 「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。この場合は、そのうちの偶然条件「〜と」で、「遠くを眺めると」の意。
○ 春日なる / 「春日」は、現在の奈良市、春日神社の一帯。「なる」は、断定の助動詞「なり」の連体形で、この場合は存在を表し、「〜にある」の意。
○ 三笠の山 / 春日神社近辺の山。
○ 出でし月かも / 「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。この歌は、帰国直前に詠まれたもので、「し」は、日本での実体験を回想していることを示し、抑えきれない望郷の念を表している。(注)過去の助動詞「けり」は、間接的に知った過去の出来事を伝聞的に回想する場合に用いられる。「かも」は、詠嘆の終助詞。 
奈良平安の日本
古代文化交流史
日中関係史
1
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、文武天皇2年〈698年〉 - 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生。中国名は仲満のち晁衡/朝衡(ちょうこう)。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。弟に阿倍帯麻呂がいる。唐で科挙に合格し唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。
文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備や玄ムがいた。
唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕える。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。
天平5年(733年)多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。この時帰国した真備と玄ムは第1船に乗っており助かっている。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができた。天平5年(734年)には儀王友に昇進した。
天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。
しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めなかった。
仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。
なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と賞されている。また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている。
和歌及び漢詩
『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』(月岡芳年『月百姿』)
歌人として『古今和歌集』『玉葉和歌集』『続拾遺和歌集』にそれぞれ1首ずつ入首したとされるが、『続拾遺和歌集』の1首は『万葉集』に採られている阿部虫麻呂の作品を誤って仲麻呂の歌として採録したもの。
仲麻呂の作品としては、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が百人一首にも選ばれている。この歌を詠んだ経緯については、天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説だが、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え、今で言う福岡県の春日市より眺めた御笠山(宝満山)から昇る月を思い浮かべ詠んだとする説も存在する。
現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻まれている。
伝説
『江談抄』『吉備大臣入唐絵巻』『安倍仲麿入唐記』などによれば阿倍船守の次男として生まれ、好根という兄と日本において生まれた満月丸という子がいたという。
藤原不比等の推薦により元正天皇の勅命を受けて、唐の玄宗から『金烏玉兎集』を借り受けて持ち帰るために遣唐使に命じられた。唐に着いた仲麻呂は、その才能により玄宗に重用されることになる。このことにより、焦りをおぼえた唐の重臣である楊国忠と安禄山により酔わされた上で高楼に幽閉される。仲麻呂は恨みをいだいて断食し、34歳で憤死する。しかし、その後も鬼と化して『金烏玉兎集』を求めた。
仲麻呂が玄宗に重用されて朝衡という唐名を名乗り唐において昇進を重ねていたことから、日本では天皇の勅命を捨てたという噂が流れ、逆臣であるとして所領が没収された。代わりに吉備真備が遣唐使として派遣され、『金烏玉兎集』を持ち帰る勅命を受けた。その後、鬼と化した仲麻呂は唐に来た吉備真備を助け、難解な「野馬台の詩」の解読や囲碁の勝負など何度も助力し、『金烏玉兎集』を持ち帰ることに成功させている。また、仲麻呂の子である満月丸が後の安倍晴明の先祖にあたるとされる。 
2
消えた仲麻呂
平城京跡に復原された大極殿(だいごくでん)をご覧になりましたか。先に復原されていた朱雀門(すざくもん)だけでも驚きましたが、大極殿は高さ27メートル、幅44メートルというスケール。1300年も前にこれだけの建築技術があったのかと圧倒される思いがします。
その一方で、復原された遣唐使船を見ると長さ30メートル、幅は10メートルに満たない木造船。600人近い人数が四隻の船に分乗して東シナ海の荒波を越えていったそうですから、こんなに小さかったのかと驚きます。
先ごろ放映されたNHKドラマ「大仏開眼(だいぶつかいげん)」は日本に戻る遣唐使船が嵐にもまれるシーンから始まりました。乗船していたのはドラマの主人公 吉備真備(きびのまきび)と僧玄ぼう(げんぼう)。ふたりを乗せた遣唐使船は種子島に漂着し、無事帰国を果たします。天平7年(735年)のことでした。
このとき四隻のうち三隻は難破。当時の船旅は文字どおり命がけでした。真備はこのあと天平勝宝3年(751年)に遣唐副使として再び入唐(にっとう)し鑑真(がんじん)をともなって帰国しますが、そのときも船は屋久島にまで流されています。
この年の遣唐使船にも一隻だけ帰ってこない船がありました。それに乗っていたのが今回の主役 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ=安倍仲麿)。かれはどこに行ってしまったのでしょう。
仲麻呂は留学生だった
仲麻呂が遣唐留学生として真備らとともに入唐したのは平城遷都から間もない養老元年(717年)のこ。仲麻呂はまだ19歳でした。
その後19年を経て真備と玄ぼうは帰国しますが、仲麻呂は唐にとどまりました。皇帝が仲麻呂の才能を愛して手放さなかったからだといわれます。楊貴妃(ようきひ)でおなじみの、あの玄宗(げんそう)皇帝です。
仲麻呂は官僚試験に合格して玄宗に仕え、李白(りはく)や王維(おうい)などの文人とも交流がありました。仲麻呂が30年以上滞在した唐から日本に戻ることになったとき、帰国を惜しんだ王維たちが送別の宴(うたげ)をひらきました。その際に詠まれたと伝えられるのが百人一首のこの歌。
天の原ふりさけみれば 春日なる三笠の山にいでし月かも (七 安倍仲麿)
空を仰ぎ見ると月が出ているが あれはかつて春日の三笠山に出ていた月なのだなあ
この歌を載せた『古今集』にも唐の人々が送別会をひらいたときに詠んだと記してあり、平安時代にはよく知られた歌だったようです。ちなみに奈良市の姉妹都市である西安には阿倍仲麻呂記念碑があり、この歌が刻まれています。(1979年建立)
生きていた仲麻呂
仲麻呂は遭難したと考えられ、友人だった李白はその死を悼む詩をつくりました。その中で李白は「明月帰らず 碧海に沈む」と仲麻呂を月にたとえています。
しかし仲麻呂の乗った船ははるか南方の安南(ヴェトナム)に漂着していました。船は壊れ、乗員は現地の住民に襲撃されて、生き残ったのはほんの10名ほど。幸運なことに仲麻呂はそのうちのひとりでした。
帰国をあきらめて唐の都にもどった仲麻呂は再び宮廷の要職に就いて活躍し、宝亀元年(770年)に亡くなっています。なんと54年間を異国で過ごしたことになります。
平安初期の『続日本紀(しょくにほんぎ)』には「わが国の学生で唐で名を上げたものは ただ大臣および朝衡の二人のみ」と記されています。大臣というのは吉備真備、朝衡(ちょうこう)は仲麻呂が唐で使っていた名前です。
仲麻呂と吉備真備は奈良時代のスーパーヒーローとして平安朝の人々の間では有名人でした。しかし平安末期になると、不思議な伝説が流布します。
仲麻呂伝説の誕生
「大遣唐使展」に合わせて、ボストン美術館から『吉備大臣入唐絵巻(きびのおとどにっとうえまき)』が里帰り中です。絵巻の主役はもちろん吉備真備ですが、真備のそばに貴族の衣裳を着けた赤鬼が描かれています。この赤鬼こそ阿倍仲麻呂その人。どうして鬼になってしまったのでしょうか。
伝説によれば仲麻呂の才能を妬む唐の大臣たちによって酒に酔わされ、高楼(たかどの)に幽閉されて、怒りのあまり死んで鬼になったというのです。
絵巻では鬼になった仲麻呂が窮地に追い込まれた真備を助けることになっています。物語としては面白く、絵もたいへん巧みです。国宝級といってもいいでしょう。
とはいえ、実際は真備が再度入唐したとき仲麻呂は存命中だったわけで、ずいぶん大胆な脚色をしたものです。
当時、唐といえば世界の先端を行く大国。日本にとっては憧れの国でした。その唐で妬まれるほどの才能を発揮した日本のエリートということで、仲麻呂と真備は伝説化しやすい人物だったと考えられます。 
3
阿倍仲麻呂とベトナム
「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌は、阿倍仲麻呂が詠んだ望郷の歌として知られているが、この歌は、中国の地で詠まれた歌だ(古今和歌集・巻第9羇旅歌に「唐土んて月を見てよみける」としておさめられている)。在唐36年の阿倍仲麻呂は、753年の冬、第10次遣唐使団の帰国に際し、中国側の使節として同行がようやく許され、唐の都・長安から揚州に下り、船出をする長江南岸の黄泗浦(江蘇省鹿苑)でこの歌を詠んだと伝えられる。しかしながら、阿倍仲麻呂は故郷三笠の山にかかる月を見ることはできなかった。帰国途上の乗船した遣唐使船が遭難してしまうのだ。
阿倍仲麻呂は、文武天皇2年(698年)中務大輔・阿部船守の長男として大和の国に生まれ、幼少より秀才の誉れ高く、若干19歳で第8次遣唐使団(一行総勢557人。下道真備や僧玄ムらが同乗。南まわり航路)の一員として開元5年(717年)長安に到着する。入唐後、太学(文武官5品以上の子弟の最高級の教育機関)で学び、日本人でありながら超難関の科挙の進士科の試験にも合格を果たしてしまう。そして唐の高等官として、725年洛陽の司経局の校書(典籍を扱う役職。正9品下)への任官から、728年長安で左拾遺(従8品上)、731年左補闕(従7品上)、さらには秘書監、従三品、国立図書館長とより高い地位にと昇進していく。
日本人でありながら超難関の科挙に合格し、皇帝・玄宗(唐の6代目皇帝。685年〜762年、在位712年〜756年)の厚い信任を得ながら大帝国での高い地位に引き上げられるというのは、個人としての能力と魅力が計り知れないものであったことだろう。国や組織の威を借りるわけでもなくこうして個人として大国・唐に認められ異国で活躍した小国(当時)の日本人がいたということは素晴らしいし、また個人の才能で異国人でも抜擢する当時の唐の懐の広さや長安の国際都市ぶりも注目に値する。
こうして異国で玄宗皇帝の信任も得て出世を重ねていった阿倍仲麻呂も、56歳の高齢になり、ようやく上述の如く、「中国側の使節」という形での一時帰国とはいえ、祖国・日本に戻れることになったわけだ。しかしながら、無情にもこの船団は、阿児奈波島(沖縄本島)に到着後、北の奄美に向う途中で暴風雨に遭遇。阿倍仲麻呂が大使の藤原清河らとともに乗った第1船だけは遠く南に押し流され、驩州(現在のベトナム北部・ヴィン附近)に漂着する。
ベトナムに漂着した阿倍仲麻呂たち一行は、土地の盗賊に襲われたりして、170余人が死んだといわれる。しかしながら阿部仲麻呂と藤原清河は奇跡的に生き抜いて、755年6月、長安にたどり着く。阿部仲麻呂たちは、既になくなったと伝えられていたため(交友のあった唐の詩人・李白(701年〜762年)は遭難の知らせを聞いて「晁卿(仲麻呂の中国での名前)の行を哭す」という七言絶句を作っている)、この長安への帰還は、人びとを驚かせた。
玄宗の死後、左散騎常侍(皇帝直属の諌官で従3品)に昇進。更には、日本への帰途途中、流され苦難を味わったベトナム方面の最高長官として鎮南都護、安南節度使(正3品)に任じられる。最後は潞州大都督(従2品相当)にまでなった。日本でも死後、正2品を贈位している。阿倍仲麻呂は遂に日本に帰国することなく、長安で没した(享年72)。
尚、753年阿倍仲麻呂の乗った船団(計4船)の第2船には、鑑真(687年〜763年が乗っており、この時6度目にして待望の渡日を果たしている。また阿倍仲麻呂と苦難をともにした藤原清河(藤原房前の4男)の生涯も波乱に満ちている。752年第10次遣唐大使として入唐。玄宗に「日本はまことに有義礼儀君子の国である」と感じ入りさせ、また753年正月の朝賀の儀式で新羅と席次を争ったことでも有名だが、753年阿倍仲麻呂とともに上述の不幸に遭遇し、ベトナムまで漂流するが、苦難の末、755年長安にたどり着く。日本はこの藤原清河を迎える為だけの特別な遣唐使を759年派遣する。ところが唐ではちょうど安史の乱(755年〜763年、安禄山・史思明らの乱)の最中で危険なため、唐朝は藤原清河の帰国を許さなかった。日本は藤原清河を在唐大使のまま任官し、一方唐朝でも天子の文庫長、秘書監に昇進した。776年日本出発の遣唐使に託して藤原清河の帰朝を命じたが、778年彼の娘のみが来日し、藤原清河の唐での客死が確認された。 
4
名からして誤解がありがちだが小野妹子はれっきとした男性である。7世紀初めに遣隋使として中国に派遣、「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を提出し、煬帝(ようだい)を不快にさせたという。
それから百年余りが過ぎ、平城京に遷都したばかりのころ、数え16歳(19歳説もある)で遣唐留学生に任命されたのが阿倍仲麻呂。翌年の遣唐使に従って唐に渡り、太学(たいがく)(古代中国の官僚養成学校)に学んだ。中国文化が身になじんだのか、刻苦勉励のかぎりを尽くし、数年後にはなんと最難関の科挙にも合格したのだ。現地でも千人に一人しか及第しないほどの苛酷な試験だから、異邦人としてはすさまじい秀才だった。
隋より前の中国は貴族の門閥がはびこり、特権を世襲化していた。その弊害を認めた隋朝は、個人の才能に即して官吏を登用する科挙の制度を定め、それは清代まで1300年間も実施された。時代によって重視される資質が異なるが、唐では文才を重んじる傾向があった。唐代でもなお貴族社会の嗜好(しこう)に合うものが高く評価されたからだろう。
記録上、仲麻呂が最初に任官されたのは校書とよばれる書記官であった。書物の管理や高官の文筆を補佐する役目であり、知的で格式高いので希望者も多かったらしい。このころ唐人の友人の一人は、唐名で朝衡(ちょうこう)とよばれた仲麻呂をたたえる詩を詠んでいる(上野誠『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』角川学芸出版)。
「万国の使者たちは、わが唐の天子おわします朝廷に馳(は)せ参じて集まって来るけれど、その中でも、東隅の日本からの道は一番遠い。
おまえさん朝衡の凛々(りり)しさといったら、それは比べるものがないほどだ。そして、君は、今、気高きわが朝の皇太子さまにもお仕えしている。
さらには、蓬山の裏すなわち朝廷にも出入りできる身分となって、花の都・洛陽の伊水の河畔をそぞろに歩いている。
かの後漢の伯鸞(はくらん)が、父が死んだ後、さびしさにも貧しさにも負けることなく太学に学んだように、君も太学で学んでいたね。でも、夜ともなれば故郷・日本のことを一途に思っていたっけ」
美貌の青年が異郷の大国でかくべつに出世しながら、なお望郷の念をおさえがたくしている姿がよく浮かび上がってくる。いつのころ詠まれたかは定かでないが、仲麻呂作として伝わる名高い一首は彼の内心を映し出している。
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」(古今和歌集)
その後も唐朝の官吏として昇進し、博学多識と抜きんでた才知によって人望を集めたらしい。
官吏としての能力も文人としての才能も秀でた仲麻呂であるから、当時の名だたる文人名士からも目をかけられる。李白、王維などの著名な詩人たちも放っておかず、親密な交際を結んだという。
16年目の33歳のとき入唐した遣唐使とともに帰国を願い出たが、許されなかった。それほど仲麻呂は人材として見込まれていたのであろう。その後、仲麻呂51歳の年に入唐した遣唐使とともに帰国することを上奏してやっと許可された。このとき日本から招待を受けていた鑑真とともに蘇州から帰国の途についたが、不運にも仲麻呂が乗った船は暴風に見舞われ、安南(ベトナム)に漂着してしまう。やっとのことで長安に戻った仲麻呂だが、またふたたび高官に任じられる宿命にあった。
西域のソグド人をはじめ、唐代に任官して活躍した異民族出身者は少なくない。それだけ唐朝は国際色豊かな世界帝国であった。だが、日本人としてここまで朝廷のなかに入り込み、広く深い人脈をもった人物は仲麻呂よりほかに思いあたらない。
平城京が10万人にも満たなかったころ、唐の長安はすでに100万人の住民がいた。遣唐使の使節団が、いかに国家の存亡にかかわる使命を背負って旅立っていたか。
仲麻呂とともに唐へ渡った吉備真備(きびのまきび)も17年の留学の後に帰国し、日本の指導者教育の中核を担った。だが、仲麻呂には日本で公人として使命を果たす機会はなかった。
地球の裏側まで十数時間もあれば往来できる現代、むしろ仲麻呂の「三笠の山」にこめられた思いは望郷の念ばかりではあるまいという気がする。 
5
阿倍仲麻呂が仰ぎ見た月
幕末から明治にかけて活躍し、最後の浮世絵師と呼ばれた月岡芳年(つきおかよしとし、1839 - 1892)が、晩年に描いた連作『月百姿』の中の一枚に、阿倍仲麻呂の詠んだ和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出(いで)し月かも」が似合う絵がある。万葉学者で奈良大学文学部教授でもある上野誠(うえのまこと)氏によれば、この歌は百人一首にも取り上げられたため、国歌「君が代」に次いで日本で最も良く知られている和歌だそうだ。
この和歌は、奈良時代の阿倍仲麻呂の作にも関わらず、『万葉集』には記載されておらず、『古今和歌集』の巻九の406番に載っている。歌の意味は、註釈の必要もないほど明快で、
・広々とした大空をふり仰いで遠くを見ると、月が上っている。あの月はかって春日の御蓋(みかさ)の山に出ていた月だよなぁ
といった内容だ。ところが、この歌にはさまざまな疑問があることを最近知った。
たまたま手にした一冊の本が、市立図書館から借りだした上野誠氏の角川選書『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』だった。さすがに今をときめく万葉学者の著作だけあって、従来の仲麻呂伝とはひと味違っていた。仲麻呂が遣唐留学生であるにも関わらず科挙に合格し、律令官僚として唐王朝で出世していった背景を見事にあぶり出している。その中に「天の原ふりさけ見れば」と題する一章があり、この和歌に関するさまざまな疑問を解説してある。
「天の原」歌は、阿倍仲麻呂が天空に上った満月を見上げて詠んだとされている。しかし、上野氏は、この歌には次の2つの疑問があるという。即ち
(A) この歌を詠んだ時、作者が何処にいて、どこから見ている月か明示されていない
(B) 作者がかって三笠の山に上る月を見たと云っているが、それが何時のことだったか明示されていない
つまり、この歌にはWhenとWhereを示す要素が欠けていて、読者はこの歌に示された情景を思い描くことができない、と指摘されている。
(B)については、仲麻呂が遣唐留学生に選ばれる前に平城京の何処かに住んでいた時に眺めた月で、何か特別な思い出につながる月だったのであろう。あるいは遣唐使船に乗り込む前に、最後に訪れた恋人と春日野あたりで惜別の情を交わしながら眺めた月かもしれない。
阿倍仲麻呂の生年に関しては、2つの説があるそうだ。史料となる『古今和歌集目録』に矛盾した記載があるためである。、阿倍仲麻呂は、一方で「霊亀2年(716)に16歳で遣唐留学生となった」とあり、別の箇所では「唐の大暦5年(770)に73歳で没した」と記載されている。前の記述を信用すれば、大宝元年(701)の生まれとなり、後の記述を信用すれば、文武天皇2年(698)の生まれとなる。養老の遣唐使と称される第8次遣唐使が出発したのは養老元年(717)3月だから、仲麻呂は17歳、または20歳で唐に渡ったことになる。将来を約束した女性が一人や二人いてもおかしくない。
しかし、上野氏が指摘された(A)の疑問については、何故このような疑問をもたれるのかよく理解できなかった。と言うのは、『古今和歌集』にはこの歌の前に「唐土にて月を見てよみける」と詞書きが付いている。さらに、この歌の後に「明州という所の海辺でかの国の人々が送別会を開いてくれたとき、月があでやかにさし上がったのを眺めて詠んだ」と左注まで付いている。こうした詞書きや左注によって、阿倍仲麻呂が帰国の際、明州の港でゆかりの人々が送別の宴を催してくれたとき、海原から上る月を仰ぎ見てこの歌を詠んだというのが通説になっているのではなかったか?
しかし、上野氏はこの歌の詞書きや左注に疑問を挟まれる。先ず、『古今和歌集』は、平安中期に醍醐天皇の勅命で、紀貫之(きのつらゆき)らが中心になって延喜5年(905年)ころ編纂された歌集だが、その時点で参考にした元資料には、詞書きなどついていなかったのでは・・・と推測される。なにしろ、仲麻呂が玄宗皇帝の許しを得て、藤原清河を大使とする第10次遣唐使の帰国船に便乗して帰国の途についたのは、唐の天宝12載(753年)11月で、およそ150年も前のことである。しかも仲麻呂が乗船した船は途中で難破して帰国できず、再び長安に戻り最後は唐土で客死している。そのため、当時流布されていた仲麻呂伝承に基づいて、紀貫之はこの詞書きを記したのであろう、と云われる。
さらに、左注についても、専門家の間では後人のものとされているそうだ。時代が降って、10世紀の末以降に藤原公任(ふじわらのきんとう、966 - 1041) あたりが、語りの際に挿入した註釈を付け加えたと考えられている。その結果、仲麻呂が仰ぎ見た月は、唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月、つまり海辺の月と理解されるようになった。月岡芳年もそうしたイメージで『月百姿』の一枚を描いている。
『古今和歌集』に「この歌は、中国の明州で詠まれた」との左注があることから、阿倍仲麻呂が帰国の途についたのは明州、すなわち現在の浙江省の寧波市と信じられてきた。しかし、上野氏も指摘されている通り、藤原公任の理解には大きな間違いがあった。4隻からなる第10次遣唐使船が帰国のために待機していた港は、明州ではなく、蘇州の黄泗浦(こうしほ)だった。1,000年以上の歳月を経て明州とする説の誤りに気付き、現在は長江下流の黄泗浦に特定されている。
ここで、第10次遣唐使たちの帰国の足取りを、少し詳しく追ってみよう。
○ 一行が長安を出発して帰国の途に着いたのは、天宝12載(753年)6月中のことである。
○ その年の10月15日までには、一行は揚州に到着している。10月15日、大使の清河、副使の大伴古麻呂、副使の吉備真備、そして安倍仲麻呂は、揚州の延光寺に滞在中の鑑真のもとを訪れている。そして、すでに五回も渡海に失敗している鑑真に、自分たちとともに遣唐使船に乗船することを勧めている。鑑真は喜んでその申し出を受けたという。
○ 10月19日、鑑真は弟子の僧14名、在家の技術者ら都合24名を急ぎ集めて、揚州から蘇州に向かった。出発地が蘇州の黄泗浦だったためである。
○ 10月23日になって事件が起きた。大使・副使らが会議を招集し、鑑真の下船を要請する決定を下した。理由は、鑑真の乗船が官憲に知られた場合、遣唐使に嫌疑がかかる恐れがあるからである。
○ 11月10日、副使の大伴古麻呂は、自分の指揮する第2船にこっそり鑑真らをかくまってしまった。
○ 11月13日、鑑真に来日を要請した普照(ふしょう)が遅れて蘇州に到着した。唐から優れた伝戒の師を招くために、天平5年(733)の第9次遣唐使船で普照と一緒に唐土に渡った留学僧栄叡(ようえい)は、すでに亡くなっていた。
○ 11月15日 遣唐使は蘇州より出発する。ところが1羽の雉が第1船の前を横切ったのを不吉として、出帆を一日延ばして11月16日とした。その事が、仲麻呂の運命を大きく変えることになる。
すなわち、4隻の遣唐使船は翌日の11月16日に出港したが、大使や仲麻呂が乗った第1船は途中で暴風に遭い11月21日に沖縄に漂着する。12月6日に沖縄を出発したが、まもなく座礁し、漂流して現在の北ベトナム北部ヴインまで流された。乗組員180名の大半は現地で殺され、清河・仲麻呂ら10数名のみが755年6月頃長安に戻る。仲麻呂は、期せずしてまた玄宗に仕えることになった。
仲麻呂たちが船出していった黄泗浦は、かつて常熟(じょうじゅく)県に属していたが 、行政区改定で現在は常熟市に隣接する新興港灣都市の張家港(ちょうかこう)に属し ている。その張家港市の長江からかなり離れた内陸部の東渡苑景区に東渡苑東渡寺(鑑真記念館)がある。
この和歌の左注では、遣唐使船が出港する前に明州で帰国送別宴が催されたと想定している。しかし、明州は誤りで、送別宴が催されたとすれば、出発を一日延期した11月15日の夜で、場所は黄泗浦の楼閣だったであろう。その席上で、仲麻呂が振り返って見上げた月は、海上ではなく長江に浮かぶ満月だったはずだ。
上野氏は言及されていないが、筆者はこの帰国送別宴は設けられなかったのではないかと考えている。国禁を侵して何回も渡海を試みた鑑真一行の計画を阻止すべく、多くの官憲が港湾に配されていたはずである。その鑑真一行を副使の大伴古麻呂は第2船に匿った。当然、遣唐使たちの間には緊張感が漂っていたであろう。唐の関係者が送別の宴を用意してくれていたとしても、受ける気にはならなかったのではないか。
それに、遣唐使たちの公式の送別宴は、当時の外務省にあたる長安城内の鴻臚寺(こうろじ)ですでに済ませている。仲麻呂個人の送別宴も、長安を出発する前に何度も知人たちによって催されたはずである。当時は、高級官僚の旅立ちにあたって送別宴が催されるのが常だった。
阿倍仲麻呂の唐仕官経歴表を下に示す。彼は科挙の試験に合格して唐王朝に32年間も文人派官僚として仕えた。その出世の糸口になったのは、もと京兆尹(けいちょういん、長安の長官)だった崔日知(さいじつち)という人物が、玄宗皇帝に仲麻呂を推薦し、門下省に属する左補闕(さほけつ)という官職を得たことにあるとされている。左補闕の仕事は多岐にわたるが、基本的に皇帝に近侍して皇帝の移動に付き従う供奉(ぐぶ)や皇帝の政治の行き過ぎを諫める諷諫(ふうかん)などで、皇帝の側近として玄宗皇帝に寵愛されたようだ。
そのため、第9次遣唐使が733年に来たときは、一緒に帰国する願いを出しても許されなかった。第10次遣唐使の来朝で、752年にやっと玄宗皇帝から帰国の許可が下りた。この年、仲麻呂は宮中の蔵書を管理する役所の長官である秘書監(今日の国立国会図書館の館長相当)を拝命していた。その秘書官が、文人官僚として32年間も仕えた唐王朝を辞して帰国するのだ。多くの知人や友人たちが、彼の出発前に邸宅に仲麻呂を招いて連日連夜にわたって送別の宴を催してくれたであろう。だが、彼らが遠路はるばる黄泗浦までやって来て、また最後の別れを惜しんでくれたとは考えにくい。
この種の送別の宴では、送る側と送られる側の間で漢詩をやりとりするのが当時の習慣だった。仲麻呂は玄宗皇帝の宮廷内において広い人脈を築きあげ、詩のやりとりを通じて交際していた文人が多かった(李白(りはく)、王維(おうい)、儲光義(ちょうこうぎ)、趙(馬+華)(ちょうか)、包佶(ほうきつ)、劉長卿(りゅうちょうけい)など)。そのため、日中の史料の中にも、7編の漢詩が残されている。その中に、王維(おうい)の「秘書晃監の日本国へ還るを送る」と題する五言排律がある。
送祕書晁監還日本國 (秘書晁監の日本国に還るを送る)
積水不可極   (積水 極む可からず)
安知滄海東   (安んぞ 滄海の東を知らんや)
九州何處遠   (九州 何れの處か遠き)
萬里若乘空   (万里 空に乗ずるが若し)
向國惟看日   (国に向かって惟(た)だ日を看(み))
歸帆但信風   (帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ)
鰲身映天K   (鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く)
魚眼射波紅   (眼は波を射て紅なり)
ク樹扶桑外   (ク樹は扶桑の外)
主人孤島中   (主人は孤島の中)
別離方異域   (別離 方(まさ)に域を異にす)
音信若爲通   (音信 若爲(いかん)ぞ 通ぜんや)
【現代語訳】 ひろびろとした海はきわめようもない。東の海のさらなる東、君の故国のあたりのことなど、どうしてわかろうか。中国の外の九大州のうちでどここがいちばん遠いのだろう。君の故国へ万里はるかな旅路は、空中を飛んでいくように心ぼそいものだ。故国へ向かってただ太陽を目印として見るばかり。帰途につく船は、ただ風にまかせて進むのみ。途中、波間に大海亀の甲羅が大空を背景に黒々と見え、大魚の眼の光りは波頭を射るように輝いて紅に光る。君の古郷の木々は扶桑の国のかなたにしげり、その古郷の家のあるじである君は孤島の中に住むことになる。これからお別れしてしまえば、まさしく別々の世界の住人となるのだ。便りもどうして通わせることができようか。
王維 (699- 7599)は、唐王朝最盛期の高級官僚で、時代を代表する詩人だった。同時代の詩人李白が”詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から”詩仏”と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。開元7年(719年)に進士に及第し、その俊才ぶりによって名声を得た。ほぼ同じ頃進士に及第した仲麻呂とは、生涯の友人だったようだ。その王維が送別の宴で仲麻呂への思いあふれる詩を詠んだ。実はこの詩には105句、545字からなる長大で難解な”序”がついている。上野氏はその著書のなかで、その詩序の注解を試みておられる。
仲麻呂の送別宴で互いにやりとりされたのは、当然のことながら漢詩であって和歌ではない。仲麻呂はこのとき「銜命還国作」(命を衝(うけたま)りて国に還る作)と題する漢詩を返している。はるか後代の史料に「天の原 ふりさけみれば」の和歌は仲麻呂が作ったとあるからと言って、それがそのまま歴史的事実であるとは限らない。
そのため、仲麻呂が唐で詠んだ漢詩を誰かが「天の原」の和歌に翻訳したのだろうとする説が存在する。イギリス人の中国文学者だったアーサー・ウェイリーが唱えた説だそうだが、賛同者は多い。それとは別に、もともとあった作者不明の和歌を仲麻呂の作として仮託したとする説や、伝承上の仲麻呂が歌ったというように語り伝えられたとする説もある。 
6
国際結婚
上記の王維の詩序には、次のような一文が含まれている。
”名は、太学に成り、官は客卿に到りたり。必ず斉の姜(きょう)のみならむやと、高国に帰娶(めと)らざりき”
上野氏は、この箇所を「(仲麻呂は)太学に学び、外国からやってきた客臣という立場にありながら、卿まで登り詰めた。(結婚というものは)斉の姜氏のような力のある貴族と縁組みするのがよいとはかぎらないと、唐において貴族の娘と結婚しなかった。それは、高い志があるからであろう。また、仲麻呂は、日本に早く帰って、力のある貴族の娘と結婚して、出世しようともしなかった。それも仲麻呂の矜恃によるものだ」と現代語訳しておられる。そして、王維は仲麻呂が独身であったと推察していた、とコメントしておられる。
果たして、阿倍野仲麻呂は唐土において独身で過ごしたのであろうか。筆者にはどうしてもそうは思えない。遣隋留学生にしろ遣唐留学生にしろ、彼らが唐土に派遣された時はまだ20歳前後の青年であり、長い外国生活を余儀なくされた者が多い。中には、在唐生活20年、30年という者もいる。むしろ現地の女性と結婚して、家族を持って生活していたと考えるべきであろう。ただ、正史は留学生のプライベートな側面までは記録していない。
阿倍仲麻呂の周りには、唐土に渡り現地の女性と結婚した人物が何人かいたことが分かっている。例えば、仲麻呂の従者として同行した羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)は唐の女性と結婚して、翼(つばさ)と翔(かける)という2人の男子をもうけている。唐の法律は、外国の男性が唐の女性と結婚することを認めていたが、結婚しても女性を国外へ連れ出すことは固く禁じていた。そのため、734年に第9次遣唐使が長安に到着したとき、吉麻呂は仲麻呂の許可を得て、翼と翔だけを連れて17年ぶりに帰国した。長男の翼は719年の生まれとされている。ということは、吉麻呂が長安に着いてまもなく唐の女性と知り合って結婚したことになる。帰国したとき、長男の翼はすでに16歳に達していた。
大宝2年(702)の第7次遣唐使に従って唐に渡った弁正(べんしょう)という秦氏出身の学問僧がいる。彼は唐の女性を愛し、還俗して結婚し、朝慶と朝元という2人の男子をもうけた。弁正は養老元年(717)の第8次遣唐使に同行して入唐してきた阿倍仲麻呂の才能を愛し、親身になって世話をしたという。在唐すでに15年、望郷の念もひとしおだったが、異国の妻を迎えて帰国をきっぱりとあきらめた弁正は、遣唐使が帰国するとき、次男の朝元を単身乗船させて日本に渡らせている。日本に渡った朝元は父の俗姓を継いで秦忌寸朝元(はたのいみき・ちょうげん)を名乗り朝廷に仕えた。 それから16年後の733年、第9次遣唐使が派遣されるとき、朝元は判官として随行し、生まれ故郷に渡っている。
在唐53年にわたる阿倍仲麻呂に、唐土で愛した女性がいなかったはずはない。仲麻呂が唐の女性を娶ったという記録はないが、妻子の存在を裏付ける不思議な一文が『続日本紀』に記載されている。仲麻呂が大暦5年(770)に唐で客死して9年後の宝亀10年(779)5月26日に、「わが朝廷が、唐使に託して仲麻呂の遺家族の妻子らに葬礼費用として、東絁一百疋、・白綿三百屯を送った」というのである。その年に来朝した唐使孫興進から仲麻呂の遺家族が貧しくて葬礼を欠くことがあると聞いたことによる処置らしい。
そうであるならば、仲麻呂は長安で唐の女性と結婚し家族を持っていたことになる。17歳または20歳で海を渡り、その一生を唐土で過ごした仲麻呂に、愛する異国の妻子がいたのは当然であろう。だが、それ以上のことは何も伝わっていない。 
7
遣唐使は西暦630年から西暦894年までの264年間に渡って20回、日本から唐に送られた派遣使節団である。こうした定期的な交流は、政治的な意味合いと同時に、唐からの文化吸収を行うという点でも大きく貢献したとされている。遣唐使には国の使者としての大使だけでなく、留学生も含まれ、多くの優秀な人材が海外で学び、新しい文化や知識を日本にもたらした。今後、何回かに渡りそうした留学生にスポットを当てるとともに、留学の意義についても 考察してみたい。初回は、阿倍仲麻呂を取り上げる。
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は20歳で第八次遣唐使の留学生として入唐、その後、超難関の科挙(官吏試験)に合格、唐朝の諸官を歴任した。当時の皇帝である玄宗にも一目置かれ、唐の大臣職という重責も担った人物である。
阿倍仲麻呂の優秀さは、長安で学んでいた時から顕著であった。当時、長安には大学高等機関に相当する「国子学」「太学」「四門学」の3校があり、阿倍仲麻呂は「太学」に入学する。「太学」のカリキュラムである九経(易経・書経・詩経・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝)を終了し、科挙(官吏登用試験)の受験資格を得ることが出来た。高等文官試験は、進士と明経という2つの科挙試験があったが、阿倍仲麻呂は最も難しいとされた進士科を受験し見事に合格している。
この科挙の競争率は熾烈を極めており、阿倍仲麻呂の合格した最難関の進士科は、最盛期には約3000倍に達することもあった。明経科が受験者二千人で合格率10〜20%であったのに対し、進士科は受験者千人で合格者が1〜2%しかいなかったという事からも、進士科がいかに超難関であったかが分かるだろう。「明経科は30歳でも年寄り、進士科は50歳でも若い方」と言われていた程、進士科は非常に難しい試験で何度挑戦しても合格できなかった者が多かった。受験者の大部分は一生をかけても合格できず、経済的な理由などにより受験を断念する者も沢山いたようである。そのため進士科の合格者は格別に尊重されていた。
進士科合格者は唐代では毎年、30名ほどであったとされているので、留学生で合格した、阿倍仲麻呂はスバ抜けて優秀であった訳である。しかも、阿倍仲麻呂は721年に科挙の後に左春坊司経局校書という役職についているので、24、25歳ぐらいで合格したと考えられる。
それから32年の年月が過ぎ、753年、阿倍仲麻呂は皇室の蔵書を管理し運営する長官職である「秘書監」という大臣位職に任命されることになる。これは現代では、いわゆる国立図書館長という地位がニュアンス的に近いよう思われる。
玄宗皇帝の阿倍仲麻呂への信任は厚く、第12回の遣唐使が唐を訪問した際には、日本の使者を、阿倍仲麻呂が、高官や貴族でさえ入室を許されない皇室文庫や、神聖な三教殿への案内するよう任された。こうした日本からの使者に対する異例の厚遇も、阿倍仲麻呂の働きと、玄宗の彼に対する信頼からもたらされたのである。阿倍仲麻呂が日本への帰国を願っても、玄宗皇帝が許可しなかったのは、信任の厚さがゆえに、阿倍仲麻呂を長安に留めておきたかったからに他ならない。こうして最終的に阿倍仲麻呂は、宰相クラスの高位高官にまで登りつめるのである。
官僚としての立場について述べてきたが、阿倍仲麻呂は単に役人として仕えた人物だったのではない。李白、杜甫、王維といった詩仙たちとの交友も知られている。彼は単に学問に秀でていただけでなく、文化的な才能においても認められていた人物だったのである。しかも、それは中国きっての綺羅星のような一流詩人たちからであり、その才能は推して知るべしである。
阿倍仲麻呂が35年ぶりに 日本への帰国を許可された際には、王維をはじめとする詩人仲間が酒宴をもうけ、彼に詩を送った。当時は詩酒の宴席で、作詩したものに序文をつけて編集し、 旅立つ友に贈るのが習わしであった。王維は546文字からなる序文をしたため、日本に帰国する阿倍仲麻呂ために以下のような詩を詠んだのである。王維と 阿倍仲麻呂の親交の深さの証として、以下の詩を引用したい。(晁とは阿倍仲麻呂の中国名)
送祕書晁監還日本國  秘書晁監の日本国に還るを送る
積水不可極   積水 極む可からず
安知滄海東   安んぞ 滄海の東を知らんや
九州何處遠   九州 何れの處か遠き
萬里若乘空   万里 空に乗ずるが若し
向國惟看日   国に向かって惟(た)だ日を看(み)
歸帆但信風   帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ
鰲身映天K   鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く
魚眼射波紅   魚眼は波を射て紅なり
ク樹扶桑外   ク樹は扶桑の外
主人孤島中   主人は孤島の中
別離方異域   別離 方(まさ)に域を異にす
音信若爲通   音信 若爲(いかん)ぞ 通ぜんや
現代語訳 / 大海原の水はどこまで続くのか、見極めようが無い。その東の果てがどうなっているのか、どうして知れるだろう。わが国の外にあるという九つの世界のうち、最も遠い世界、それが君の故郷、日本だ。万里もの道のりは、さながら空を旅してるようなものだろう。ただ太陽の運行と風向きに任せて進んでいくほかはないだろう。伝説にある大海亀は黒々と天にその姿を映し、巨大魚の目の光は真っ赤で、波を貫いくことだろう。君の故郷日本は、太陽の昇る所に生えているという神木(扶桑)のはるか外にあり、その孤島こそが、君の故郷なのだ。私たちは、まったく離れた世界に別たれてしまうのだ。もう連絡の取りようも無いのだろうか。
ちなみに、この酒宴の席で、阿倍仲麻呂は望郷の念をこめて、有名なあの歌を日本語で詠んだとされている。
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも (古今集)
35年の間、唐に生き、日本で生きた20年間を遥かに超えた阿倍仲麻呂は、故郷に対する思いを歌で見事に表現している。三笠の山とは、春日神社の奥に広がる御蓋(みかさ)山をさすであろうと解されている。遠い異郷にあって月を見て故郷をしのぶと同時に、日本に帰国して見る月への期待も感じていたのかもしれない。また中国語でなく、日本語でこの歌を詠んだのは、祖国の言葉でなければ表現できないニュアンスがあり、それが阿倍仲麻呂をして、日本語で歌を詠ませたのだろうとも推測される。
私には、子供のころから英国に住んでいて、今は英国の大学で研究職についている友人がいる。彼女には弟がおり、その弟も英国に住んでいるので二人の通常の会話は英語で行うそうなのだが、祖母の事とか、日本のことを話すときには微妙なニュアンスがあるのか、どうしても日本語で話すと言っていた。阿倍仲麻呂が故郷を想い詠んだその心には、そのような思いがあったのではないだろうか。
753年、第12回目の遣唐使の帰国に合わせ、阿倍仲麻呂はついに帰国のチャンスを得た。しかし、その航海の途中に嵐に会い難破。唐南方の驩州(現在のベトナム北部)に漂着することになる。そこでさらに土人に襲われて船員の多くが殺害される。しかし、阿倍仲麻呂は何とか免がれ、再び長安にたどり着いたのである。
難破の知らせが届き、阿倍仲麻呂は死亡したと思われていた。彼の死亡の誤報は、友人の李白の耳にも入るところとなり、友人の死を悼んだ李白は、阿倍仲麻呂のために以下のような阿倍仲麻呂を悼む詩を詠んでいる。(晁衡とは阿倍仲麻呂の中国名)
哭晁卿衡        晁卿衡を哭す
日本晁卿辞帝都   日本の晁卿 帝都を辞す
征帆一片繞蓬壷   征帆 一片 蓬壷を繞る
明月不帰沈碧海   明月帰らず 碧海に沈む
白雲愁色満蒼梧   白雲 愁色 蒼梧に満つ
現代語訳 / 日本の友人、晁衡は帝都長安を出発した。小さな舟に乗り込み、日本へ向かったのだ。しかし晁衡は、明月のように高潔なあの晁衡は、青々とした海の底に沈んでしまった!愁いをたたえた白い雲が、蒼梧山に立ち込めている。
詩仙の李白が、阿倍仲麻呂の死を嘆き、詩を詠んでいる。その交友関係、親交の広さは凄いものがある。例えは良くないが、アメリカでオバマ大統領の補佐官をしながら、レディ・ガガとも親友というような立場に、阿倍仲麻呂はいたのではないだろうか。
その後、阿倍仲麻呂は長安に戻ったが、結局、再び日本に帰国することは出来ず、73歳でその生涯を閉じた。
我々の中に息づく阿倍仲麻呂の魂
阿倍仲麻呂は優秀な官僚であり、それだけでなく一流の文化人であった。そしてグローバルに活躍する、マルチリンガルな人でもあった。近年、海外志向が重要視されているが、我々日本人には先駆者がおり、そうした人物がどのように海外の文化に適応し、そこで受け入れらていたのかを振り返ってみると、現代における我々のグローバル化への立ち位置も見えてくるのではないだろうか。
最後に、中国にある記念碑に刻まれた、阿倍仲麻呂の詠んだ、あの名句を翻訳した五言絶句を引用したい。
翹首望東天   首を翹げて東天を望めば
神馳奈良邊   神(こころ)は馳す 奈良の辺
三笠山頂上   三笠山頂の上
思又皎月圓   思ふ 又た皎月の円(まどか)なるを
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
思わず口から出たのであろう大和の言葉。そのニュアンスは日本語でなければ表現しえなかったものだったに違いない。そして海外を知ることは、より自分の内面、ルーツに向き合うこと、つまり日本を知ることでもあると私は思う。それは阿倍仲麻呂が、なぜあの唐の詩人たちとの酒宴であるのに、日本語で句を残したかという事に答えがあるようにも思えてならない。彼の肉体は結局日本に帰ってこれなかったが、彼の残した詩(魂)が代わりに、海を越えて、千数百年経ってもなお、日本人的な心として我々の内に息づいている。そして、その我々は、今も阿倍仲麻呂と同じ月を見ているのである。 
8
阿倍仲麻呂の国際結婚について

阿倍仲麻呂の波乱万丈な生涯については、杉本直治郎氏の『阿倍仲麻呂伝研究』をはじめ、諸先学によってほぼ研究し尽くされており、今後はあらたな資料発見がないかぎり、さらなる研究を続行しにくい感がなしともしない。
「歴史家の行き詰まったところから、文学者がスタートを切る」と言われるが、現実も学界における仲麻呂研究が下火になりつつあるのとは対照的に、仲麻呂を主人公に仕立てた小説がつぎつぎと世に問われ、大きく話題を呼んでいる。
考えてみれば、十七歳の若さで唐へわたり、「天下の難関」と目される科挙試験を突破して栄達の頂点に達し、望郷の思いを抱きながら異国に骨を埋めた仲麻呂には、八世紀の日本人として体験しがたいロマンスがあり、また興味をそそる多くのなぞが残されている。したがって作家の想像力を発揮するには、恰好な題材であると言ってよかろう。
ところが、仲麻呂の未知な経歴、わけても文献記載の少ない在唐経歴について、文学創作の空間となる以外、研究者はただ嘆くばかりではいられず、想像のかわりにしばしば疑問を発する。
たとえば、青春時代のすべてを長安で過ごした仲麻呂が、恋の花を咲かせたことも異国の女性と結婚したことも記録に残っていなかったのに対し、高木博氏は困惑を感じてやまず、「その生涯をほとんど唐土で過ごした仲麻呂は、唐での女性がいなかったとするほうが、むしろふしぎであろう」(1) と述懐する。
ここで思い出されるのは、『続日本紀』にみられるつぎの記事である。仲麻呂が望郷の念をむなしく客死してから九年目、すなわち宝亀十年(七七九)五月二十六日の出来事として
「前学生阿倍朝臣仲麻呂、在唐而亡。家口偏乏、葬礼有闕。勅賜東絁一百疋・白綿三百屯。(前学生の阿倍朝臣仲麻呂、唐に在って亡せたり。家口偏に乏しくして、葬礼儀闕くることあり。勅して、東絁一百疋・白綿三百屯を賜う。) 」
とみえるのは、仲麻呂が世帯を持っていたことを明らかにしている。
家族(原文は家口)とは遺族のことであろう。杉本直治郎氏は「おそらく仲麻呂の死後、唐土の遺族少く葬礼も欠く始末を宝亀十年五月に見える来朝の唐使孫興進らに聞き、その帰国のさいに東?百疋等を托したのであろう」と述べ、仲麻呂に唐の妻子があったろうことを示唆している(2)。
仲麻呂に唐人の妻子がいたということは、仲麻呂が少なくとも一回は結婚した事実を意味することになるが、『続日本紀』の記事だけを推論の根拠としては、はなはだ論拠不足のきらいがあり、それを断言するにはためらいが感じられる。
人口百万を超す長安には十万人以上の異民族が移り住んでおり、国際結婚が盛んに行なわれ、唐王朝もそれを公式に認可していることを考えれば、筆者も高木博氏と同じように、若くして進士に合格し、エリート官吏として出世しつづけた仲麻呂が、異国にあって五十数年間も独身生活を送らなければならなかった理由はどこにもなかったと思わざるをえない。(3)
『続日本紀』の記事は明言さえしていないものの、「結婚しなかった」ことよりは「結婚した」ということに有利であることは確かである。しかし問題はそれ以外の裏づけがあるかどうかである。
本稿は唐人から仲麻呂(唐名は朝衡または晁衡)へ送られた漢詩に、仲麻呂が唐女と結婚した事実を示唆する史料が二点あったと主張し、それらをもとにして結婚時期および結婚相手を推論してみたものである。

多治比県守を押使とする第九次の遣唐使は、和銅三年(七一0)都を藤原から平城(奈良)へ遷してから初めての遣唐使節団であるだけに、朝野から寄せられた期待がことのほか大きかった。四隻の大きな船には五五七名が乗り分けており、人数からいえば空前の大規模な使節団であった。
養老元年(七一七)三月、押使以下は難波津から出帆して、入唐の途についた。いつ唐に到着したかは定かでないが、長安へ入京したのは開元五年(七一七)十月一日のことで、玄宗による「開元の治」と呼ばれる盛唐文化がその頂点に達しようとするころである。
ここで注目すべきは、この一行には『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国に播げる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と激賞され、秀才の名をほしいままにした吉備真備(のちに右大臣となる)と阿倍仲麻呂(のちに朝衡と改名)とが留学生として加わっていたことである。
当時わずか十九歳(4) の若き仲麻呂は王維の詩に「名を太学に成し、官は客卿に至る」と歌われているように、太学に進み、のちに科挙に及第してエリートコースを歩み出したのである。仲麻呂の太学への進学は儲光羲の詩『洛中にて朝校書衡に貽る』に「伯鸞(仲麻呂の喩え)は太学に遊び」と歌われ、楊憶の『談苑』にも「太学より出でて科挙に合格し」たとあって疑われない。
唐の最高の教育機関は国子監と呼ばれ、国子学・太学・四門学・律学・書学・算学という六つのカレッジがこれに属している。それぞれの学校には、家柄に応じて入学資格が設けられている。つまり国子学は三品より上の官吏の子孫、太学は五品以上、四門学は七品以下というふうになっている。このように太学への進学資格は五品以上の文武官吏の子弟と定められており、仲麻呂は日本人としては唯一の例でもあるから、なにか特別な事情があったのではないと推測される。
村上哲見氏は「どういう経緯があったかはわかっていないが、仲麻呂が右の六学のうちの太学で学ぶことになったのは複数の証があって、ほぼ間違いのない事実である」と認め、入学を許されたのは唐朝の「格別の優遇」として、
「もっともこれには、基本的には唐の政府が外国からの使者や留学生を歓迎し、優遇したということがある。中国の伝統的認識では、天子は天下(世界)に唯一の支配者であり、決して周辺の国々と対等に接することはない。しかし外国からの使者や留学生が訪れることは、天子の徳が海外に及んでいる証拠として大いに歓迎した。(中略)留学生や留学僧を優遇したのも、そうした思想にもとづくのである。 」
と唐側の事情を考慮しつつ、最後には「具体的なことは不明であるが、考えられることとしては抜群の学識を認められたということしかない」と結んでいる(5) 。
ところが、有力者の推薦による破格な出世がかなり流行った唐の風習であってみれば、推薦者として玄宗の寵愛を受けていた弁正がくっきり浮かびあがってくる。この点に目をつけた高木博氏は「仲麻呂が日本の一留学生の身でありながら唐の国立大学に入学し、進士に及第し、唐朝の官吏になるといった異例の道をふむにいたったのは、弁正の勧めとその援助に負うところが大であった」と推定している(6) 。
もう一つ可能性として考えられるのは、藤原仲実の『古今和歌集目録』に仲麻呂を「中務大輔正五位上船守の男」と記しているから、日本での位階をそのまま認められたら、仲麻呂は太学入学の資格を有することになる。
仲麻呂が唐の最高学府に入って学ぶことになった経緯については、さまざまな可能性が考えられようが、あるいは名門出を誇る家柄、大先輩の弁正による熱心な斡旋、唐人にヒケを取らぬ仲麻呂自身の才学、それらの要素がすべてミックスしてこそ、仲麻呂をしてもっとも輝かしい留学生活への第一歩を踏み出させたのであろう。

仲麻呂が第九次の遣唐使に加わって、養老元年(七一七)に入唐したことは、すでに前節でふれた。吉備真備とならんで「名を唐国に播げる」英才の聞こえ高き仲麻呂は、『古今和歌集目録』に引かれた『国史』によれば、
「本名は仲麿といい、唐朝より朝氏の姓を賜わり、名は衡、字は仲満という。性は聡敏にして、読書を好む。霊亀二年(七一六)、留学生に選ばれる。ときに年は十有六なり。」
とある。『古今和歌集目録』にしばしば引用される『国史』は「六国史」のことをさすが、ここにみえるのは『日本後紀』の現在では散逸して伝わらない延暦二十二年(八0三)三月六日条からの転載だったといわれる(7) 。
中国へわたって名前を現地風に変えることはおそらく遣隋使の小野妹子(改名して蘇因高と名のる)に始まったと思われるが、遣唐使時代になると、かなり一般化しているようである。東野治之氏のつくった唐名一覧表(8) には、こうした実例が多くあげられている。ただし、仲麻呂の唐名を「仲満」とするのは間違いで、正しくは「衡」とすべきである。
また、東野治之氏はふれていないが、遣唐使のなかでは名だけでなく、姓を改めるケースもある。たとえば、七三三年に出発した第十次の遣唐大使をつとめた多治比広成は姓を丹?に変えていた。ところで、仲麻呂のように、姓と名をともに改めたのは特殊なケースであるらしく、『旧唐書・日本伝』にまで記載されている。
「その偏使朝臣仲満、中国の風を慕い、よって留まって帰らない。姓名を改めて朝衡となす。仕えて左補闕・儀王友を歴する。」
ここの「偏使」とは副使のことを指すのが普通だが、押使や執節使をその上にいただく場合は、大使を意味することもある。そのとき、仲麻呂はわずか二十歳未満の少年で、また留学生の身分であったので、たぶん一時は大使の候補にあがったものの、すぐに下ろされた阿倍安麻呂と混同されてしまったのであろう。
「朝」という姓は唐から与えられたのか、それとも仲麻呂自身がそう改めたのか、ことの詳細は定かでないが、それは由緒のある姓氏である。唐の元和七年(八一二)、朝廷の命令を受けて、林宝が歴代の姓氏を詳らかに網羅して『元和姓纂』という書物を作りあげた。その巻五のなかには、「朝臣」という日本人の姓もただ一例だけ記録されている。
「朝臣 日本国使臣の朝臣真人は、長安中に司膳卿同正に拝される。朝臣大父は率更令同正に拝される。朝臣は姓である。」
朝臣真人はすなわち粟田真人のことで、かれのひきいた第八次の遣唐使は唐の長安二年(七0二)東シナ海をわたって楚州に漂着していた。朝臣大父つまり巨勢祖父はそのとき副使の任にあった。これによって、朝臣を日本人の姓としては、唐の人々にひろく知られていることがわかる。
仲麻呂は『古今和歌集目録』に「安倍朝臣仲麿」とあるように、入唐してからは唐人になじみ深い「朝臣」を名のっていたようで、いつしかその一字をとって姓にしたと推察される。
こうして、留学生の仲麻呂は、弁正らの力強い応援をえて、日本人としてただ一人、高級官吏を養成する太学に進み、のちにきびしい進士の試験にも合格し、朝衡(または晁衡)を名のって唐朝に仕えることになった。かれの客卿としての略歴を、入宋僧の成尋がたまたま見かけた楊億という宋の文人の語った見聞を書きとどめた『楊文公談苑』(略して『談苑』ともいう)は、つぎのように書き記している。
「開元中に、朝衡という者がいる。太学から出て科挙に合格し、仕えて補闕に至る。国に帰らんことを求め、検校秘書監を授け、放ち還らせる。王維および当時の名流は、みな詩序を作って送別する。のちに帰国を果たさず、歴官して右常侍・安南都督に至る。」
朝衡の官歴は文人出世の初任官として人気の高い皇太子(瑛王)側近の図書管理係り、つまり左春坊司経局の校書という肩書きをふり出しに、登竜門の最短コースともいうべき皇帝の諫官(皇帝の得失を率直に諫める側近)である左補闕となり、さらに儀王友・衛尉少卿・秘書監・衛尉卿・左散騎常侍などを歴て、安南節度使にいたり、帰らぬ人となってからは、?州大都督を贈られている。
ここで、朝衡の歴任した官職を年代順にならべて示すと、つぎのようになる(9) 。
阿倍仲麻呂任官表
官 名 / 位 階 / 時 間
左春坊司経局校書 / 正九品下 / 七二一〜七二七年
左拾遺 / 従八品上 / 七二七〜七三一年
左補闕 / 従七品上 / 七三一年
儀王友 / 従五品上 / 七三四〜七五一年
衛尉少卿 / 従四品上 / 七五二〜七五三年
秘書監・衛尉卿 / 従三品 / 七五三年
左散騎常侍 / 従三品 / 七六0〜七六一年
鎮南都護・安南都護 / 正三品 / 七六0〜七六一年
安南節度使 / 正三品 / 七六六年
潞州大都督 / 従二品 / 七七0年以後
唐朝より官職を授けられた遣唐使人はそのほかにも数人かあげられるが、しかし粟田真人に司膳卿、巨勢祖父に率更令、大伴古麻呂に光禄卿、吉備真備に秘書などといった授官はいわゆる実務を伴わない名誉職にすぎず、唐の客卿として実質的に任官した日本人は、ともに異国に骨を埋めた阿倍仲麻呂と藤原清河の二人のみであろう。
藤原清河は帰国の望みをなくすと、唐の女性を妻にめとり、晩年ちかく「喜娘」という女子をもうけているが、藤原清河より遥か唐人になりきった阿倍仲麻呂はどんなロマンスを演じてみせたのか、かれの交友関係をふくめて次節であとづけてみたい。

東シナ海をわたってきた一介の留学生が最高学府の太学を堂々と卒業し、さらに天下の難関と目される科挙の試験を突破して官吏コースに乗り出したことは、まさに長安の文人貴族らをびっくり仰天させたのであろう。朝衡こと仲麻呂はその誠実な人格とすぐれた才能から、周りの人々に慕われ、当代一流の詩人たちと親交を結ぶことができた。
唐人から仲麻呂に贈られた詩のなかで、時期的にもっとも早いと思われるのは、儲光羲の『洛中にて朝校書衡に貽る』一首である。
万国朝天中 万国は天中に朝ぎ   東隅道最長 東隅の道最も長し
朝生美無度 朝生の美度る無く    高駕仕春坊 高駕は春坊に仕う
出入蓬山裏 蓬山の裏を出入り    逍遙伊水傍 伊水の傍を逍遙す
伯鸞遊太学 伯鸞は太学に遊び   中夜一相望 中夜は一に相望む
落日懸高殿 落日は高殿に懸り    秋風入洞房 秋風は洞房に入る
屡言相去遠 屡言う相去る遠く    不覚生朝光 覚わず朝光を生ず
詩題および「高駕(朝衡のこと)は春坊に仕う」とある一句によって知られるように、左春坊司経局校書(七二一〜七二七)在任中の仲麻呂に贈った詩である。また儲光羲が進士にあがったのは開元十四年(七二六)のことだから、この作品の時期はほぼ二年間に限定される。かりに七二七年だとすれば、仲麻呂はちょうど二十七歳前後である。ここで、「落日は高殿に懸り、秋風は洞房に入る」という二句はまさしく注目に値する。
洞房とは奥の居間または女性の閨を意味することもあるが、「洞房花燭の夜」という成語にイメージされるように、とくに新婚の部屋を指していう。ましてや、落日は一刻千金の宵をほのめかすが、立派な新居のあちこちに祝いの赤い灯籠がぶら下がっている情景まで連想させる。若くして出世した仲麻呂のロマンスはこの詩に詠み込まれているではないか。
進士の及第はあらゆる意味で、将来の栄達をかたく約束される。祝宴パーティの盛り上がり様子を、高木博氏はつぎのようなタッチで描いている。
「この日、長安の都の郊外にある曲江の池のほとりに設けられた祝賀場には、天子みずから大臣百官を従えて出御し、宮廷から派遣された教坊の多数の楽人や妓女たちの花やかな舞楽の中に、華麗な祝宴はいつ果てるともなくくりひろげられて行く。進士たちにとっては、まことにわが生涯の最良の日であったろう。」(10)
「春風に意を得て馬蹄疾し、一日に長安の花を見尽す」(孟郊『登科後』)と歌われるように、新しい進士らの酔歩の果ては、いつもと変わりなく長安の花町へ運んでいく。王仁裕の著わした『開元天宝遺事』によれば、妓女らが長安の平康坊にむらがり、年ごとに受かった進士がここを尋ねてくるので、「時の人はこの坊を風流の薮沢となす」とある。
「五十少進士」(『唐?言』)ということわざがある。つまり五十歳で進士の栄冠に輝くのは、まだ若いほうだという意味である。二十歳前後の若さで一躍して黄榜(進士合格者を発表する朝廷のふれ)にわが名を垂れる幸運児は、紳士淑女の注目の的となる。
仲麻呂は太学での苦学をみごとに実らせ、こうした幸運児の一人になっているのだ。ましてや儲光羲の詩に「美無度」と称えられる美貌の持ち主で、多くの美女から羨ましい視線を浴びせられたにちがいない。そして、開放的な唐の社会風習にふかく身を浸した仲麻呂は、いつしか恋を初体験したのであろう。
さわやかな秋風がこよなく吹く良宵に、高貴な友人たちにめでたく祝福されながら、仲麻呂がわが愛する長安の花嫁を擁して赤い灯籠にかざられた「洞房」へ姿を消していったと、洛陽にいた友人の儲光羲は想像を逞しくつつ、祝賀の詩を贈ってくれたと思われる。

仲麻呂をめぐる唐人の酬唱詩のうち、唐の詩壇における名声をほしいままにする王維の作品はあらゆる意味で筆頭にあげるべきである。その『秘書晁監の日本国に還るを送る』は、『唐詩選』のなかにも採録され、人口に膾炙する名作である。仲麻呂が秘書監となったのは天宝十二載(七五三)で、その六月にようやく帰国を許されて第十二次の遣唐大使をつとめた藤原清河とともに帰途についたのである。長安を発つ前に、親交を結んだ友人たちに『命を銜んで国に還るの作』と題する留別の詩を残している。
銜命将辞国   命を銜み将に国を辞せん
非才忝侍臣   非才ながら侍臣を忝くす
天中恋明主   天中にて明主を恋しがり
海外憶慈親   海外にあれば慈親を憶う
伏奏違金闕   伏奏して金闕をたち違り
?驂去玉津    ?驂は玉津を去らんとす
蓬莱郷路遠   蓬莱まで郷路はいと遠く
若木故園鄰   若木とは故園の隣りなり
西望懐恩日   西を望んで恩をしのぶ日
東帰感議辰   東へ帰って義に感ずる辰
平生一宝剣   平生ただ一振りの宝の剣
留贈結交人   交を結びし人に留め贈る
しかし、すでに秘書監に衛尉卿を兼ねるという従三品の高い地位にあった客卿に、辞職還郷というようなことを認めずにはいかず、したがってここに「銜命」とあるのは唐の使者として日本使を送り返すというふうに理解される。この詩は唐代の文学に花ひらく漢詩をあまねく網羅した『全唐詩』のなかにも収録されているから、仲麻呂の詩人としてのすぐれた技量をこれで推して知るべし。
さて、ふたたび王維の送別詩に戻るが、それには五百字を超える長い序文がついている。「名を太学に成し、官は客卿に至る」につづく「必斉之姜、不帰娶於高国」とある注目すべき一文について、高木博氏は「必ズシモ斉ノ姜ノミナランヤト。帰リテ高国ニ娶ラズ」と読み下だし、「仲麻呂は、唐土に在る間ついに唐の女性を娶ることがなかったのであろうか」と文意を理解し、さらに「十九歳の若き留学生であった仲麻呂は、いつか五十五歳になっていた。その間、仲麻呂が唐の女性と親しく結ばれたという話を聞かない」とも述べている(11)。
高木博氏は「落日は高殿に懸り、秋風は洞房に入る」とある儲光羲の詩に気がつかなかったため、在唐三十数年の長きにおよんだ仲麻呂がずっと独身のままであったと思い込み、王維の詩序をうっかり誤読している。
「必斉之姜、不帰娶於高国」の一文には、二つの故事が含まれている。まず「必斉之姜」について考えてみよう。『詩経』の陳風・衡門に「あにその妻を取るに、必ず斉の姜ならんや」とあり、漢の鄭玄はこれに「なぜ大国の女でなければ、妻としないのか。貞順の女性ならば、妻にすべきだ」といった意味の注記をつけ加えている。固有名詞としての斉姜は、春秋時代のころ斉桓公の令嬢で、のちに晋献公の夫人となり、美しくて賢い高貴な女性である。後世では大国の皇族出身の美女のシンボルとされた(12)。
つぎに、「不帰娶於高国」について考察してみる。高国は高木博氏の考えたように一語として上国つまり大唐の意味に解するのではなく、高と国は春秋時代の斉国に重きをなした高氏と国氏の併称で、二語として理解すべきである。宋代の『北夢瑣言』(孫光憲撰)に「必ず高と国を娶り、婚を王と謝に求む」とあり、春秋豪族の高氏と国氏、六朝名門の王氏と謝氏の令嬢は長らく若き貴公子らの憧れる理想的な花嫁であったことがうかがわれる。
このようにみてくると、「必斉之姜、不帰娶於高国」の一文は「(妻は)必ずや斉の姜にして、帰って高と国に於いて娶らず」と訓むべきであろう。ここで、斉姜と高国とが対比的に用いられているが、斉姜とは皇族すじの姫、高国とは豪族出の娘ということになる。王維の詩序の文脈または仲麻呂の境遇に即して考えれば、斉の姜は宗主国なる唐の女、高・国は臣服する日本の女にそれぞれ譬えられていると読みとれる。
つまり、高木博氏の解釈とは正反対になるが、王維はこの序文で、帰国して日本の女性をめとらず、あえて異国にとどまって唐の女性を妻にした唐風かぶれの仲麻呂を褒め称えているのである。
さらに推論を許すならば、「斉姜」とは皇女のことで、唐王朝は周辺民族との政略結婚のため、李氏一族の女性を異域へ嫁いだり、また文武大臣への褒美にも李氏の女性を賜わった例がある。玄宗皇帝との関係、唐王朝における地位、王維の詩に用いられる「斉姜」の表現などを考えあわせれば、仲麻呂が妻に迎えたのは唐王朝の国姓を名乗る李氏の女性だった可能性を排除しがたいであろう。
話は飛び飛びになるが、天宝十二載(七五三)唐の送使の身分をもって藤原清河と同船して夢にも思いつづける故国へと向かったが、沖縄にたどりつきながら逆風にあって安南(ベトナム)にまで吹きつけられてしまった。藤原清河とともに長安に戻ってきたのは天宝十四載(七五五)のことである。のちに仲麻呂が鎮南都護・安南節度使などを授けられたのは、こうした九死の辛苦をなめつくした漂流の経歴と無関係ではあるまい。
高木博氏はこの安南漂着から命からがらと長安へ戻ってから、仲麻呂は帰郷の念をあきらめ、愛する唐の女性と契りを結んだと論じているが(11)、王維の詩序によれば、帰国を許された時点ですでに唐の女と結ばれているし、さらに儲光羲の詩にしたがえば、その時期は開元十四年(七二六)ごろにさかのぼれる。
注釈
(1)高木博著『万葉の遣唐使船−−遣唐使とその混血児たち−−』(教育出版センター1984年5月版)174頁。
(2)杉本直治郎著『阿倍仲麻呂伝研究−−朝衡伝考−−』(育芳社1940年12月版)参照。また新日本古典文学大系16『続日本紀(五)』(岩波書店1998年2月版、546頁)の補注35−五九には「『家口』を直木訳注は『日本に残っている仲麻呂の家族であろう』とする。しかし、仲麻呂が日本を出発したのは十九歳、また、生きているとすればこの年八十二歳の高齢となっているので、日本には甥姪等の傍系親族しかる遺っていない可能性が高い。本条での遺族への賜物が唐使の帰国の直前であるのは、杉本直治郎『阿倍仲麻呂伝研究』が指摘したように、この賜物は唐に遺された家族へのもので、それを唐送客使に託したものであることを示すか」と述べられている。
(3)長安在住の外国人数は拙著『唐から見た遣唐使−−混血児たちの大唐帝国−−』(講談社1998年3月版)6頁を参照。唐王朝の国際結婚政策は、貞観二年(六二八)六月十六日の徳宗勅に「諸蕃の使人、娶り得たる所の漢の婦女を妾と為す者は、並びに蕃に還らしむるを得ず」(『唐会要』卷100)と示されている。
(4)『古今和歌集目録』に「霊亀二年(七一六)、入唐留学生に選ばれる。時に年は十有六」とある。
(5)村上哲見著『漢詩と日本人』(講談社1994年12月版)72〜3頁。
(6)高木博前掲書、76頁。
(7)長野正「藤原清河伝について−−その生没年をめぐる疑問の解明−−」(和歌森太郎先生還暦記念論文集編集委員会編『古代・中世の社会と民俗文化』所収、弘文堂1976年1月版)。
(8)東野治之編『遣唐使船−−東アジアのなかで−−』(歴史を読みなおす4、朝日新聞社1994年1月版)71頁。
(9)杉本直治郎前掲書よび村上哲見前掲書(76頁)を参照。
(10)高木博著前掲書、74頁。
(11)高木博前掲書、173頁。
(12)諸橋轍次博士の『大漢和辞典』(大修館書店)では、斉姜を斉桓公の宗女、晋文公の夫人としている。楊知秋氏の『歴代中日友誼詩選』(書目文献出版社1986年9月版)もほぼ同説を唱えている。それらは間違いである。晋献公は斉国の公主(斉姜)をめとったが、のちに驪戎を征伐したとき、二人の美女(驪姫)をつれ戻し、日夜となく寵愛をしたあげく、国を傾けてしまった。それより先に文公の公子重耳は驪姫の迫害を恐れて亡命し、斉桓公の宗女(傍系の娘)を妻に迎え、のちに帰国して晋文公となった。つまり、固有名詞としての斉姜は晋献公の夫人となった斉桓公の直系の娘であるとみるべし。  
9
阿倍仲麻呂帰朝伝説のゆくえ   『新唐書』『今昔物語集』『土左日記』へ 
1 はじめに
阿倍仲麻呂は、今日でも『百人一首』に載る名歌で名高い。
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも (7 番歌)
これはもともと、最古の勅撰和歌集である『古今和歌集』(905)の巻9・羇旅に収載された和歌である(406 番歌)。『古今集』の詞書には「もろこしにて月を見てよみける」とあり、和歌を記した後、長文の左注として、次のように作歌事情が伝えられる。
この歌は、昔、仲麻呂をもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたの年をへて、え帰りまうで来ざりけるを、この国よりまた使ひまかり至りけるに、たぐひてまうできなむとて、いでたちけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人むまのはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろくさしいでたりけるを見てよめる、となむ語り伝ふる(旺文社文庫)。
仲麻呂は、留学生として中国に派遣された。長い間帰国しなかったのだが、日本からの遣唐使が来たついでに、一緒に帰国しようと、ようやく思い立って出立し、送別の宴を、明州の海辺で行った。夜になって、月が美しく姿を見せたのを見て詠んだのがこの「天の原」の和歌だと、『古今集』の左注は説明している。
『古今集』撰者の一人である紀貫之は、『土左日記』の中で、自らの航海になぞらえてこの和歌の異伝を引き、次のように仲麻呂をしのんでいる。
(正月)二十日の夜の月いでにけり。山の端もなくて、海のなかよりぞいでくる。かうやうなるを見てや、昔、あべのなかまろといひける人は、もろこしに渡りて、帰り来けるときに、船に乗るべきところにて、かの国人、むまのはなむけし、別れ惜しみて、かしこのからうた作りなどしける。飽かずやありけむ、二十日の夜の月いづるまでぞありける。その月は海よりぞいでける。これをみてぞ、なかまろのぬし、「わが国にかかる歌をなむ、神代より神も詠んたび、いまは、上中下の人も、かうやうに別れ惜しみ、よろこびもあり、かなしびもあるときには詠む」とて、詠めりけるうた、あをうなばらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかもとぞよめりける。かの国人、聞き知るまじくおもほえたれども、ことの心を、男文字に、さまを書きいだして、ここのことば伝へたる人にいひ知らせければ、心をや聞きえたりけむ、いと思ひのほかになんめでける。もろこしとこの国とは、こと異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。
土佐から京都へ向かう船の中は、海原の真ん中である。山もなく、月は海の中から昇る。都人には新鮮な情景だろう。『土左日記』は、二十日の夜の月だと書いている。夜遅くに出て有明に残る、下弦の月が昇るまで、宴会は感興尽きることがなかった。それまでは、漢詩などをやり取りしていたが、望郷の思いが募り、日本には、和歌という、伝統的な独自形式の韻文がある。神代の神々から、悲しいとき、嬉しいとき、思いあまるときは歌を詠むのだと説明して、ついに和歌を披露した。初句を「青海原」としたのは、日記の状況に合わせた、紀貫之の機転であろう。和歌の意味がわからない人々に対し、仲麻呂が漢文に書き直して、通事を通して伝えると、唐土の人々もいたく感心したと言い伝える。人の心はいずこも同じ。そう貫之は閉じている。
『土左日記』では、「船に乗るべきところ」とあるだけで、地名は特定されていない。『古今集』が「明州」(寧波)とするのは間違いで、本当は蘇州が正しいという有力な説もある。この和歌の作歌事情については、諸説紛々である1。
関連して、古来議論の対象となっているのは、この和歌がどのようにして日本に伝わったのか、ということである。以下にも述べるように、史実では、仲麻呂がこの時乗った船は難破してベトナムにたどり着き、彼は、その後もついに帰国することが叶わなかった。作歌事情と相俟って、この歌を、誰がいつ、どのように日本に伝えたのか。今日に至るまで、いくつもの推測が提出されている。ところが、その説明の一つに、仲麻呂は一度日本に帰国して、自らこの歌を伝えたのだとする記録が、古くよりある。いかにも荒唐無稽な説話・妄説として処理されがちな伝承であるが、そこには、確実な文献学的根拠が存する。本稿では、この阿倍仲麻呂帰朝伝説のゆくえを追跡して、その伝承に潜む、中世日本文学史上の一隅を剔抉したいと考えている。 
2 阿部仲麻呂とベトナム――帰国する平群広成、帰国できない仲麻呂
まずは、阿倍仲麻呂の伝記について、先行研究2 を参照して略述しておこう。仲麻呂(701〔698〕〜 770)は、養老元年(717)、遣唐使に随行して、吉備真備(693〜 775)や玄ムらとともに唐に留学した。太学から科挙に登第して、玄宗時代に任官・重用される。数十年を経て、天平勝宝5 年(753)、藤原清河、鑑真らとともにようやく帰国の途に就いたが、清河と仲麻呂の乗った第一船は、ベトナム・安南の地に流されてしまう。言い知れぬ苦労の末に長安に戻った仲麻呂は、その後、安南節度使も歴任した。同じようにベトナムに漂着した、同時代の遣唐使・平群広成(?〜 753)とともに、仲麻呂は、日越交流史の巻首を飾る、最重要人物である。
平群広成は、天平5 年(733)、多治比広成を大使とする遣唐使として入唐する。翌年、第三船で帰国の途に就くが、難破して、崑崙国に流された。天平7 年、やっとのことで崑崙から唐へ戻る。阿倍仲麻呂が玄宗に進言したこともあって、天平11 年、苦難の末、渤海経由で無事に帰国を果たしている。同じ時の遣唐使で、第二船に乗っていた副使中臣名代も、やはり「南海」に流された。広州に戻った後、玄宗の勅書を得て、天平8 年に帰国している。その時、後に東大寺大仏の開眼供養の導師を勤めることになるインド僧菩提僊那とともに、その弟子で林邑(チャンパー)の僧・仏哲が来朝した3 のも、ベトナムとの関係で注意される。
対照的に仲麻呂は、遂に日本には帰れずに、長安で没する。
12 世紀初頭に成立した『江談抄』巻3・1 には、阿倍仲麻呂をめぐって、吉備真備を主人公とする著名な説話が伝わっている。それによると、仲麻呂は、唐土で楼上に幽閉されて餓死した。後に、吉備真備が同様に楼上に籠められた時、仲麻呂は鬼となって現れて言談し、真備の危機を救ったという。同巻3・3 には、関連の言談も載っており、「天の原」の和歌も引かれている。この説話を絵画化したのが『吉備大臣入唐絵巻』(ボストン美術館蔵)である。
奇妙きてれつなこの伝説は、真備が読解を課せられたという『野馬台詩』注釈書にまつわる言説とも関わって、長く命脈を保つ。江戸時代成立の『阿倍仲麿入唐記』という作品では、仲麻呂と真備の伝説に、秘伝書『簠簋内伝金烏玉兎集』の伝来を絡め、独自のグローバルな時空観に支えられた小説へと転じている。いずれにせよそれは、仲麻呂の中国の地での死が、絶対の前提となる説話である。
吉備真備は、仲麻呂とともに留学生として入唐し、天平5 年に帰国する。それから20 年ほどが経った天平勝宝4 年に、遣唐使の副使となって、再入唐している。伝説は、この事実を受ける。その時の大使が清河であった。この遣唐使の帰国時に、仲麻呂が一緒に乗った清河の船は難破して、ベトナムにたどり着いた。かたや真備は、ふたたび無事に帰国する。『江談抄』の伝説は、この対照的な因縁を昇華した物語なのである。 
3 阿倍仲麻呂帰国伝説の発生(1)――『今昔物語集』の場合
ところが、『江談抄』と期を接して、12 世紀半ばに成立した『今昔物語集』では、その時仲麻呂はベトナムには行かず、日本に還って、自ら「天の原」の和歌をめぐる成立事情を語った、と明言する。仲麻呂自身の話がもとになって、人々は、この歌をめぐる逸話を語り伝えることができたというのである。
今昔、安陪仲麿ト云人有ケリ。遣唐使トシテ物ヲ令習ムガ為ニ、彼国ニ渡ケリ。数ノ年ヲ経テ、否返リ不来リケルニ、亦此国ヨリ□□□□ト云フ人、遣唐使トシテ行タリケルガ、返リ来ケルニ伴ナヒテ返リナムトテ、明州ト云所ノ海ノ辺ニテ、彼ノ国ノ人餞シケルニ、夜ニ成テ月ノ極ク明カリケルヲ見テ、墓無キ事ニ付テモ、此ノ国ノ事思ヒ被出ツヽ、恋ク悲シク思ヒケレバ、此ノ国ノ方ヲ詠メテ、此ナム読ケル、
アマノハラフリサケミレバカスガナルミカサノ山ニイデシツキカモ
ト云テナム泣ケル。
此レハ、仲丸、此国ニ返テ語ケルヲ聞テ語リ伝ヘタルトヤ(『今昔物語集』巻24 「安陪仲麿、於唐読和歌語第四十四4」)。
下線を付した末尾の一行は、鎌倉初期以前成立の『古本説話集』や『世継物語』に載る同話には見えない。
いまはむかし、あべのなかまろが、もろこしにつかひにてわたりけるに、このくにのはかなきことにつけて思いでられて、こひしくかなしくおぼゆるに、月のえもいはずあかきに、この国の方をながめて思ひすめしてよめる、
   あまのはらふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも
となむよみてなきける(『古本説話集』45)。
今は昔、あべの仲麿をもろこしへ物ならはしにつかはしたりける。年をへてえ帰りまうでこざりけり。はかなき事につけても、此国の事恋しくぞおぼえける。めいしうといふ海づらにて月を見て、
   あまの原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも
となむよみて泣きける(『世継物語』)。
この二つの説話集が『今昔物語集』と共有する同話群は、おおむね同文性が高く、散佚「宇治大納言物語」という仮名説話集を共通母胎の出典とする可能性が高いと考えられている。だが、この仲麻呂説話に関しては、相互に微妙なズレがある。そして『古本』と『世継』の記述は、いずれも帰国の行為自体を記さない。帰国説は『今昔』のみの付加らしい。一方で、中世の『古今和歌集』注釈書では、仲麻呂は帰国して、出家した、という伝説まで生まれている5。
故国へ帰れないままに唐土で死んだ。とすれば、明州(実は蘇州)で詠んだという「あまのはらふりさけみれば」の歌は、どのようにして日本に伝えられたのか? 遣唐使一行の誰か、たとえば第三船に乗って帰った吉備真備が伝えたのか、帰国をあきらめてから誰かに託したのか。あるいはその歌が、実は渡唐以前の作であったのか。あるいはまた、仲麿が実際に作ったのではなく、仲麿伝説の中で成立していった歌なのであるか。決着のつけがたい見解が現にいくつも提示されている。『江談抄』三では、仲麿、漢家の楼上に幽閉されて餓死し、吉備真備が渡唐のとき、鬼の形に現れて真備を訪ね、この歌を詠むという。
中世における『古今集』注釈はきわめて説話的であるが、その説話的な了解のなかで、我々は仲麿の帰国を迎えることになる。日本へ帰ってこの歌を伝えたというのである。たとえば『弘安十年古今歌注』では、仲麿は帰国の後に出家し、多武峰に籠って法名を尊蓮と言ったとまで記す。『今昔』二二―四四は、かかる仲麿帰国説の最も早いものと言えるであろう(日本古典集成「説話的世界のひろがり」、1978 年)。
現代の研究書や注釈書では、『今昔』の付記する仲麻呂帰国説は、おおむね、編者の無知に由来する誤りで、説話の真実性を保持するための弁明として付記したものだと受けとられている。
仲麿は帰国せず、唐で没しているので、この記事は史実に反する。作者の無知に基づく誤記であろうが、同時に説話の真実性を強調するための結語でもある(日本古典文学全集頭注、1974 年)。
実際は中国で亡くなっているが、帰国して自ら語った体験談に設定。戻ってこそ物語が伝わるはずという論理。仲麿帰国伝承(中世古今注)がすでにあったか(新日本古典文学大系脚注、1994 年)。
仲麿は帰国せず、唐で没。この記事は史実に反する。編者がこういう和歌世界とは別の世界にあったことを物語るか。説話の真実性を強調するため、体験談の設定にした話末評語(新編日本古典文学全集頭注、2001 年)。
全集やそれを改編した新編全集は、「説話の真実性を強調」する類例として、巻20–11 の「此事ハ彼ノ僧ノ語伝ヲ聞継テ、語リ伝ヘタルトヤ」という表現を示している。新大系は、誤伝ながらも、中世の『古今集』注釈書のような日本側の伝承が、『今昔』以前に遡る可能性がなかったかと推量している。「中世古今注」にいち早く注目した、日本古典集成「説話的世界のひろがり」が、「『今昔』二二―四四は、かかる仲麿帰国説の最も早いものと言えるであろう」と指摘するのを承けてのことである。
『古今集』巻9 は、この仲麻呂の歌で始まっている。次歌は「隠岐国に流されける時に、船に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかはしける」という詞書を持つ、次の『百人一首』所収歌である。
   わたの原八十島かけてこぎいでぬと人には告げよ海人の釣舟
『今昔物語集』でも、仲麻呂説話の次話は、この歌を含む小野篁の説話で、遣唐使の派遣をめぐる対の文脈である。そしてその末尾は、「此レハ篁ガ返テ語ルヲ聞テ、語リ伝ヘタルトヤ」と終わっている。『今昔』の注釈書が、仲麻呂帰国説をもって、『今昔』側の仮構の営みとして解釈しようとするのは、そこに、こうした「二話一類様式6」の『今昔』の論理が観察されることと関係する7。
先にも少し触れたように、『今昔』と『世継物語』『古本説話集』との共通母胎として知られるのは、宇治大納言源隆国(1004 〜 77)が説話を蒐集した、散佚「宇治大納言物語」である。『今昔物語集』の成立は、12 世紀半ばと推測される。隆国没して百年近くが経ち、「宇治大納言物語」を承けつつも、『今昔』において初めて仲麻呂帰国説が付記されたことになる。その年月と営為には、どのような意味があるのだろうか。単なる横並びの伝承性の強調か。あるいは、新大系が示唆するように、『古今和歌集』の注釈が展開して日本側の伝説が醸成され、『今昔物語集』はそれを採択したのだろうか。  
4 阿倍仲麻呂帰国伝説の発生(2)――『旧唐書』から『新唐書』へ
そうではない、と思う。明確な文献学的徴証がある。そのポイントは、『旧唐書』と『新唐書』の東夷伝に記された、阿倍仲麻呂伝の解釈の推移である。あたかも隆国の晩年と期を重ねて、唐代の歴史について、正史の書き換えがあった。『旧唐書』(945 年成立)から『新唐書』(1060 年成立)への改編である。そして阿倍仲麻呂伝については、飛躍的な変化が、そこには刻されていたのである。
まず『旧唐書』東夷伝によって、その伝を示す。
開元の始、又た使を遣わして来朝す。[中略]其の偏使朝臣仲満、中国の風を慕い、因って留りて去らず。姓名を改めて朝衡と為し、仕えて左補闕・儀王友を経たり。衡、京師に留まること五十年、書籍を好み、放ちて郷に帰らしめしも、逗留して去らず。
天宝十二年、又た使を遣わして貢す。上元中、衡を擢んでて左散騎常侍・鎮南都護と為す。[下略8]
「慕中国之風、因留不去」(原文)と記されるように、当初から帰ろうとしなかった仲麻呂だが、50 年を経て、帰国を許される。だが、「放帰郷逗留不去」、ついに帰郷を果たさず、留まって帰国しなかったと、『旧唐書』には明記されている。そしてこの部分が、『新唐書』では大きく変わっているのである。
……其副使朝臣仲満、慕華不肯去。易姓名曰朝衡、歴左補闕・儀王友、多所該識。久乃還。聖武死、女孝明立、改元曰天平勝宝。天宝十二載、朝衡復入朝。上元中、擢左散騎常侍・安南都護。
下線を付したように当該部は、『新唐書』になると改稿されて、「久乃還」となっている。さらに天宝十二載(753)に、仲麻呂(朝衡)は、「復た入朝」したと書いてある。一旦帰国して、再入国したと読むほかはない。
『旧唐書』には、「放帰郷逗留不去」といふから、これを文字通りに解すれば、朝衡は遂に帰国しなかつたことになる。『新唐書』では、「久乃還」とある故、これによれば、彼は勿論帰国したことになる。一は帰国しなかつたといひ、他は帰国したといふ。これが矛盾でなくて何であらうか(杉本直治カ『阿倍仲麻呂伝研究』)。
この「矛盾」が起こった理由については、杉本が、「解釈の仕様によつて、必ずしも﹃新唐書﹄が、﹃旧唐書﹄以外の史料に拠つたと考へなければならぬほどのものでもないやうである」と述べる通りである。直接的には、『旧唐書』で、「又遣使貢」と名前を出さずに記された、「次に見える天宝年間の使者を朝衡と解し」(杉本前掲書)、続く上元年中の仲麻呂の記事と短絡したために生じた『新唐書』の誤読だろう。しかしともあれ、正史として改定された『新唐書』自体の文意は明確である。仲麻呂の帰国説は、正史『新唐書』で変改された記述を根拠に据えた、正統の訛伝なのである。
ただし問題はそれでお仕舞いではない。ここには、唐代の歴史とそれを記した歴史書とその内容が、どのように伝播して受容されたのかという問題が残っている。宋代には「書禁」という制度があり、史書の輸出が禁じられていたからである。
宮崎市定の古典的論文によれば、宋代には「前代の歴史、唐書、五代史、新唐書、新五代史の編纂があり」、「日本などの諸国は、何れも斯かる新刊本を手に入れたいと熱望したのであるが、宋ではそれが遼に流入することを恐れて、遼以外の諸国に対しても同様に書籍の輸出を禁止していた9」。とはいえ、日本においても、唐の歴史への関心は高かった。宮崎が続けるように、「その新刊が日本に渡らなかったとすると日本人はいつも近代中国の歴史を知らぬことになる。仏教の教理や儒教の学説は、いつも日本では中国から最新の知識を得ているのに反し、中国の現状に対する研究は極めて不十分であった。中国が宋の時代に入っているのに日本では未だ唐代の歴史を知らず10」、などと手をこまねいていたわけではないだろう。宋代の禁書がどの程度の厳密性を保持していたかについても、個別の検証が必要である。
たとえば森克己は、「平安時代の貴族たち」の「宋朝の摺本」への「熱望」と、それに応える宋商たちの「贈物」活動を記している。また森は、「国外輸出は厳重に禁じられていた」『太平御覧』の流出を論じて、「宋朝が最も誇りとし、それだけにまた輸出防止に努めた太平御覧でさへこのように海外へ続々輸出されていたとすれば、太平御覧より巻数の遙かに少い史書の如きは一層容易に、また旺に輸入されたであろうことは想像するに難くない」と述べる。『太平御覧』の日本への到来は平清盛の時代であるが、同書は『旧唐書』を多く引き、阿倍仲麻呂の記事もそこに含まれている。さらに森は、藤原頼長の日記『台記』に見える「藤原頼長の閲読した史書」を拾い上げ、その中で「特に注意すべき点は五代史と新唐書である。五代史・新唐書は共に宋の欧陽脩が勅を奉じて嘉祐年中(後冷泉天皇時代)に編集したものである。この宋朝勅撰の正史が編集完成より八十余年後に禁書にもかかわらず宋商によってもたらされたことは、宋朝史書の国外流出の実情を示すものにほかならない。次に、頼長と同時代に相竝んで好学家・蔵書家として名高かった藤原通憲の通憲入道蔵書目録中より史書を拾い出して見ると11」、その中には「唐書目録」も見えていると指摘する。本稿にとって貴重な情報である12。
こうした時代状況に加えて、阿倍仲麻呂の在唐時期が、安禄山の乱(755 〜 757)と重なっていることも見逃せない13。安禄山の乱について、朝廷は深い関心を抱いており、情報も早く伝わっていた(『続日本紀』天平宝字2 年など)。一方で、阿倍仲麻呂と安禄山の同時代性と因果は、日本では長く記憶されて、特立されていく。近世の『阿倍仲麿入唐記』では、両者を直接絡ませて、虚像を膨らませた小説化がなされていた。
阿倍仲麻呂帰朝説を最初に記した『今昔物語集』には、玄宗と楊貴妃と安禄山の乱をめぐる説話も載っている(巻10「唐玄宗后楊貴妃依皇寵被殺語第七」)。その出典は『俊頼髄脳』という仮名書きの歌論書であるが、当該説話を分析した麻原美子は、そこに『旧唐書』や『新唐書』に由来する記述の接ぎ穂があると指摘する。概要部分のみを引用すると、『今昔』の説話には、「玄宗が貴妃に迷って国政が乱れ、反乱が生じたのも当然であれば、元凶の貴妃が殺されるのも政治道徳の上からはやむを得ないのだとする見方」が示されていること、そしてそこには、『旧唐書』九本紀などとの「間接的な何らかの関係が認められるのである」と述べている。麻原はまた、「﹃今昔﹄の説話からうかがえることは、平安末期になって﹁長恨歌﹂物語(説話)の上に﹁長恨歌﹂﹁長恨歌伝﹂以外の中国史書によって歴史的事実を新しく付加していこうという傾向が認められる」ことだという14。
『今昔』に影響したという『旧唐書』9・本紀9 の記述は、麻原自身が出典注記するように、「『新唐書』五、「本紀」五、『新唐書』七六「列伝」一の記事も」「同じ」である。さらに麻原は、やはり12 世紀後半に成立したと考えられている『唐物語』第18 話について、「『俊頼髄脳』の長恨歌説話を根幹として、すなわち「長恨歌」「長恨歌伝」を基軸に、平安末期の趨勢である『旧唐書』『新唐書』等の各種史書をつきあわせた方向線上に成立したのが、『唐物語』である」という。「しかし単なる長恨歌世界の物語化でないことは、『新唐書』(七六、「列伝」)の貴妃伝を参照し、楊貴妃が帝の弟の寧王の瑠璃の笛を吹きならした不遜僭上な振舞いによって帝から譴責処分に付された時、自らの髪を切って献じて罪を謝した話を付加し、『旧唐書』(「本紀」九、一三)によって、安禄山の変、楊国忠と貴妃が誅される経緯を記述していることであり、玄宗と貴妃の話を一つの歴史的事件として原因・経過・結果という因果関係で構想化して、長恨歌物語の決定版とした筆者の意気込みがうかがえる」と、麻原は、踏み込んだ評価を加えている。この人気のトピックについては、『旧唐書』と『新唐書』の読み合わせが行われていた可能性さえ示唆している。ちなみに私が調べた例でいえば、建保7 年(1219)の跋を持つ『続古事談』巻6–3 は、楊貴妃をめぐって、『長恨歌伝』を引用し、玄宗とのゆかりや安禄山との密通説などを伝える逸話摘記であるが、その冒頭には楊貴妃の尸解仙説を論じて「或唐書」を引く。これは記述内容から、『旧唐書』を指している15。
話を仲麻呂に戻そう。杉本直治郎は、『新唐書』が仲麻呂伝の記載に反映したとおぼしい小さな徴証を、次のように指摘している。
『扶桑略記』(巻六)元正天皇の霊亀二年八月の条には、「大伴山守為遣唐大使。多治比県守・安倍仲麿為副使。(下略)」とあつて、仲麻呂(即ち仲満)副使説を取つてゐる。これまさに『新唐書』の副使仲満説を支持するものであらねばならぬ(前掲『阿倍仲麻呂伝研究』)。
『旧唐書』には「偏使」とある。たった一字の違いだが、論じてここに至れば、重要な傍証というべきだろう。『扶桑略記』の最終記事は寛治8 年(1094)。それが同書成立の上限である。『新唐書』の仲麻呂伝はおそらく確実に浸透していた。そして阿部仲麻呂帰朝説は、『新唐書』による新しい知見なのであった。
しかし史実は異なっている。『続日本紀』以下の本邦の記録によって、そのこともまた厳然とした事実として認識されていたはずだ。日本の正史『続日本紀』には、「前学生阿倍朝臣仲麻呂在唐而亡」と記されている16。だがそこに書いてあるのは、仲麻呂が唐で死んだ、ということだけだ。安禄山と同時代の高官であった仲麻呂は、その乱の直前に帰国を試みて失敗した。李白は、彼が死んだと思い込んで哀悼の詩を作る。ところが仲麻呂は、その時、ベトナムに流されて生きていたではないか。一度は日本にもたどり着いていたって不思議じゃない。12 世紀以降の日本では、『新唐書』という中国の正史に由来する知識を根拠に、彼が実は真備のように、ひとたびは帰国していたのだ、という新説に思いを繋ぐ。その死は、二度目の入唐の時なのでは……。そして彼は、その一時の里帰りの時に、望郷の思いに溢れた哀しい和歌を本邦に伝えた。そんなロマンの訛伝の渦は、江戸時代の『百人一首』の注釈書の世界にも、根強い一説として、脈々と広がっている17。  
5 『 土左日記』の原本と「に」の孤例
最後に、仲麻呂帰朝説がもたらした影響の一例が、『土左日記』本文にも見出せることを指摘しておきたい18。その前提として、『百人一首』の注釈書には、『古今集』や『土左日記』の記述を踏まえて、仲麻呂帰朝説の傍証とすることがあるのを確認しておく。
御抄云。此仲麿、久しく在唐して、帰朝の時、利根無双の人にて、帰朝をせん事をおしみて殺さんとしたり。されども、奇瑞ありて帰朝せしなり云云。[中略]愚案、此説のごとくならば、仲麿、一度帰朝して、又入唐の後、唐にて卒する事あきらか也。『古今』『土佐日記』等にも帰朝せしよし侍り。或説云、聖武の朝に帰朝して、孝謙の天平勝宝五年、遣唐使にて入唐す云云。
一説栄雅云〈古今註〉、此集に書のせたるごとく、帰朝せんとしけるが、又思ひとまりて、つゐに漢土にて、唐の大暦五年に卒す。日本宝亀元年にあたる。年七十九(三イ)云云(『百人一首拾穂抄19』)。
『土左日記』通行本では、仲麻呂が和歌を詠む時の状況として、「もろこしに渡りて、帰り来けるときに」と書いている。一時帰朝説を念頭におけば、確かに誤解を招きやすい表現だ。『古今集』では「仲麻呂をもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたの年をへて、え帰りまうで来ざりけるを、この国よりまた使ひまかり至りけるにたぐひて、まうできなむとて、いでたちけるに」とある。比較すると『土左日記』では、表現の圧縮がなされている。せめて下線部が「帰り来むとするときに」などと表現されていれば、ずっと明瞭であっただろう。
そうした文脈の中で『土左日記』には、「もろこしに渡りて、帰り来にけるときに」と「に」を付加する伝本がある。「に」は、いわゆる完了の助動詞「ぬ」の連用形である。「にけり」という連語は文法上、「物事の完了し、それが存続することを詠嘆的に回想することを表わす20」。まさにこの本文形は、仲麻呂一時帰朝説と直結する表現なのである。
こうした本文は、どのように伝わっているのだろうか。実は、孤例で、為家本(青谿書屋本)のみに「かへりきにける」とあるのである。
少しだけ解説を加えておこう。昭和時代の『土左日記』の本文研究は、池田亀鑑『古典の批判的処置に関する研究』(岩波書店、1941 年21)によって確立した。同書は、紀貫之自筆本(蓮華王院本)を忠実に写したという藤原為家本を、江戸時代に忠実に写したという青谿書屋本をもとに、影印を用いて本文批評を試み、原本の復元を試みたのである。池田亀鑑の本文批評は次のようになされており、底本にはあったはずの「に」が消える理由がわかる。「青本」とあるのが、青谿書屋本を指す。
諸本はすべて「きける時」とある。為相本にも「に」がないのは、定家本その他による改修か、又は為家本の形の忠実な伝承か明かでない。もし、為家本の形を伝へるものとすれば、青本に「に」の字の存するのは、青本の書写者によつて犯された衍字かも知れない。いづれにせよ、貫之自筆本には「に」は存しなかつたと見るべきである22。
その後、所在不明になっていた嘉禎2 年(1236)書写の為家本そのものが、1984年に発見され、青山短期大学に収蔵された(現大阪青山歴史文学博物館蔵)。重文指定を経て、現在は国宝に指定されている(1999 年)。青山本の影印は出版されていないが、萩谷朴編『影印本 土左日記(新訂版)』(新典社、1989 年)の頭注で、その内容を確認することができ、為家本にも「に」があることがわかる23。それは、鎌倉時代の最重要本文であった。
しかし、池田亀鑑の最終的な結論は、おそらく正しい。「貫之自筆本には「に」は存しなかつたと見るべきである」。理由は、「に」を補読した本文では、「にけり」の文法的法則に従って、仲麻呂の帰国が「完了し、それが存続することを」表してしまうからである。紀貫之は945 年に歿している。彼は『旧唐書』さえ読むことができなかった。考えられるのは、『新唐書』の所伝を知りえた鎌倉時代の知識によってもたらされた、藤原定家・為家親子のいずれかによる誤伝24 である。それは一見、ささいな誤伝であるが、当時の人々が託した仲麻呂帰朝への思いが投影された、重い異文ではなかったか。
民間による対外交流が活発化したその時代に、帰国できずに美しい和歌を残したいにしえの仲麻呂のイメージは、より幻想の度合いを深めつつ、リアルで鮮明に投影される。本稿ではそんな歴史の風景を切り取ってみた。小さな宇宙ではあるが、たとえばこうした「に」の所在や痕跡にこそ、いかにも国文学的な世界がある。その学問的意義を、小さな声で誇らしげに語ってみたい。 

1  この和歌をめぐる諸説については、北住敏夫「阿倍仲麻呂﹁天の原――﹂の歌私考」(『文学語学』88 号、1980 年10 月)など参照。
2  杉本直治郎『阿部仲麻呂伝研究』(手沢補訂本、勉誠出版、2006 年、初出は1940 年)、同『東南アジア史研究1』(訂補再版、巌南堂書店、1968 年、初出は1956 年)、同「阿部仲麻呂は安南節度使として任地に赴いたか否か」(『古代学』13–1、古代学協会、1966 年)、増村宏『遣唐使の研究』(同朋舎出版、1988 年)他。
3  以上は、東野治之『岩波新書 遣唐使』参照。なおこの仏哲について『大安寺菩提伝来記』には「瞻波国僧〈此云林邑〉北天竺国仏哲」と書かれており、このチャンパーは北インドを指し、仏哲もインド僧と見なすべきだとする説がある(林於菟弥「林邑僧仏哲について」『結城教授頌寿記念 仏教思想史論集』大蔵出版、1964 年)。
4 次話は小野篁の隠岐配流をめぐる歌話で、いずれも遣唐使説話である。 
5  杉本直治カ『阿倍仲麻呂伝研究』は毘沙門堂本『古今集注』を挙例し、「帰朝ノ時ハ、桓武天皇ノ御宇也」と記すことを注意する。『日本古典集成 今昔物語集 二』付録の「説話的世界のひろがり」では、「﹃弘安十年古今歌注﹄では、仲麿は帰国の後に出家し、多武峰に籠って法名を尊蓮と言ったとまで記す」と指摘する。中世古今集注釈書の概観は、片桐洋一『中世古今集注釈書解題』1 〜 6(赤尾照文堂、1971 〜 1987 年)参照。
6  国東文麿『今昔物語集成立考 増補版』(早稲田大学出版部、1978 年)が提起した『今昔物語集』における説話配列の原理。
7  仲麻呂説話の前話は、紀貫之が土佐の守の任が終わる年に、幼い男子を亡くし、その悲しみを帰洛時に柱に書きつけた和歌の説話で、『土左日記』の仲麻呂譚引用と脈略が通じている。
8  以下、石原道博編訳『新訂旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝――中国正史日本伝(2)』 (岩波文庫、1986 年)の訓読と本文を参照した。
9  宮崎市定「書禁と禁書」(宮崎著、礪波護編『東西交渉史論』中公文庫、1998 年、初出1940 年)。
10 宮崎前掲論文。
11  森克己『日宋文化交流の諸問題』所収「日唐・日宋交通における史書の輸入」(刀江書院、1950 年、『増補日宋文化交流の諸問題 新編森克己著作集4』増補版、勉誠出版、2011 年)。
12  信西が、平治元年(1159)11 月15 日に描いたという「長恨歌絵」には「数家之唐書及唐暦、唐紀、楊妃内伝」が引かれていた(『玉葉』建久2 年〔1191〕11 月5 日条)ことも想起される。大江匡房の『江談抄』5–63(『水言抄』14)には「唐の高宗のときに通乾の年号有り。反音は不吉なり。よりて改む。この事、唐書に見ゆ」(新日本古典文学大系)とあるが、対応する記述は『旧唐書』『新唐書』ともに見えない。江談抄研究会編『古本系江談抄注解 補訂版』(武蔵野書院、1993 年)参照。
13 安史の乱と総括される、史思明、そしてその子史朝義の乱が終結するのは763 年。
14  麻原美子「我が国の﹁長恨歌﹂享受」(川口久雄編『古典の変容と新生』明治書院、1984 年)。
15  川端善明・荒木浩校注『新日本古典文学大系41 古事談 続古事談』当該脚注参照。また信西は「数家之唐書及唐暦、唐紀、楊妃内伝」を引いて「長恨歌絵」を書いている(本稿注12 参照)。
16 『 続日本紀』巻35、宝亀10 年(779)5月26 日条。
17  後掲する北村季吟『百人一首拾穂抄』参照。同書の記述は『阿倍仲麿入唐記』にも引かれている。
18  以下の記述については、拙稿「かへりきにける阿倍仲麻呂――『土左日記』異文と『新唐書』」(倉本一宏編『日記・古記録の世界』思文閣出版、2014 年3 月刊行予定)と題したコラムで別角度から論じており、参照を乞う。
19  引用は『百人一首注釈叢刊9 百人一首拾穂抄』(和泉書院、1995 年)。「御抄」は後水尾院の『百人一首抄』を指す。この一連についても『新唐書』が背景にある。前掲「かへりきにける阿倍仲麻呂――『土左日記』異文と『新唐書』」参照。
20 松村明編『日本文法大辞典』(明治書院、1971 年)。
21 現在はPDF ファイルが、ネット上で閲読できる。
22 『 古典の批判的処置に関する研究』第一部 土左日記原典の批判的研究・第四章 青谿書屋本の吟味と修正・第五節 獨自本文とその修正。
23  その後の研究状況については、伊井春樹「為家本﹃土左日記﹄について」(『中古文学』71、2003 年5 月)に詳しい。
24  為家本が写したのは紀貫之自筆本ではなく、貫之自筆本を模写した定家の本であるとの説がある。
【付記】本書に引用した古典本文は、明記した以外では、新日本古典文学大系(『続日本紀』『今昔物語集』)、講談社学術文庫(『古本説話集』)、続群書類従『世継物語』、新編国歌大観(和歌類)などに拠ったが、引用に際し、諸注釈や伝本を参照し、漢字を当てたり、句読点を施すなど、表記の変更を施している。 
 
8.喜撰法師 (きせんほうし)  

 

わが庵(いほ)は 都(みやこ)の辰巳(たつみ) しかぞ住(す)む
世(よ)をうぢ山(やま)と 人(ひと)はいふなり  
私の庵は都の東南にあり、このように心静かに暮らしている。それにもかかわらず、私が世を憂いて宇治山に引きこもったと世間の人は言っているようだ。 / 私の庵は都の東南にあり、辺りには鹿もいるほど寂しいが、これこの通り静かに暮らしている。それなのに人は私を世の中をつらいと思って宇治に遁れていると言っているそうだ。 / 私が住んでいるお坊さんの住む庵は、都である平安京のはるか離れた東南にあるものだから、おかげさまで心静かに住んでいるのですよ。なのに、皆さんは、私が人々とのお付き合いがわずらわしいと思って、そんなところに住んでいると言っているようですね。 / 私の草庵は都の東南にあって、そこで静かにくらしている。しかし世間の人たちは(私が世の中から隠れ)この宇治の山に住んでいるのだと噂しているようだ。
○ 都 / 平安京
○ たつみ / 東南。十二支の方位で辰と巳の中間。
○ しかぞすむ / 「しか」は、副詞で、「このように・そのように」の意。この場合は、「心静かに・のどかに」の意。「鹿」との掛詞とする説もある。「ぞ」と「すむ」は、係り結び。「ぞ」は、強意の係助詞。「すむ」は、動詞の連体形。
○ 世をうじ山と / 「う」は、「憂(し)」と「宇(治)」の掛詞。上を受けると「世を憂し」となり、下へ続くと「宇治山」となる。「憂し」は、「つらい」の意。「宇治」は、現在の京都府宇治市。「宇治山」は、「喜撰山」と呼ばれている。
○ 人はいふなり / 「人」は、世間の人。「は」は、区別を表す係助詞で、この場合は、自分と世間の人が異なる見解であることを示している。「いふ」は、四段活用であり、終止形と連体形が同形であるが、あとの「なり」が伝聞・推定の助動詞であることから、終止形であると判断する。(注)「なり」が断定の助動詞の場合は、連体形に接続する。 
言霊 (和歌の起源)
1
喜撰(きせん 生没年不詳、伝不詳)は、平安時代初期の真言宗の僧・歌人。六歌仙の1人。伝承では山城国乙訓郡の生まれとされ、出家後に醍醐山へと入り、後に宇治山に隠棲しやがて仙人に変じたといわれる。下に掲げる二首の歌のみが伝えられ、詳しい伝記などは不明。なお「喜撰」の名は、紀貫之の変名という説もある。また桓武天皇の末裔とも、橘諸兄の孫で、橘奈良麻呂の子ともいわれる[1]。「古今和歌集仮名序」には、「ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評されている。
歌学書『倭歌作式』(一名『喜撰式』)の作者とも伝えられるが、今日では平安後期の偽書(仮託書)と見られている。また、『無名抄』によれば、宇治市の御室戸の奥に喜撰の住みかの跡があり、歌人必見であるという。今も喜撰洞という小さな洞窟が山腹に残る。
現在に伝わる詠歌は以下の二首のみ。
わが庵は都の辰巳しかぞすむ世を宇治山と人はいふなり (小倉百人一首8番)(古今983)
木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも (玉葉和歌集400) 
2
伝不詳。宇治山に住んだ僧ということ以外、確かなことは判らない。いわゆる六歌仙の一人で、古今集仮名序には「ことばかすかにして、はじめ、をはり、たしかならず。いはば、秋の月を見るに、あかつきのくもにあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず」と評されている。『元亨釈書』には「窺仙」なる僧が宇治山に住んで密咒をなし、長生を求めて仙薬を服し、あるとき雲に乗って去って行った旨書かれている。また『孫姫式』には「基泉」の作が載るという(『古今和歌集目録』)が、いずれも喜撰と同一人物かどうか判らない。歌は古今集の一首以外たしかなものは伝わらない。歌学書『喜撰式』の著者と永く信じられていたが、今日この書は平安中期の偽書とみる説が有力視されている。 
3
成書としての百人一首は、宮廷を中心とした和歌の歴史を辿る形をとっています。当然百人の顔ぶれは皇族・廷臣・女官の三者でおおかた占められることになりますが、それ以外にも重要な歌人群が存在します。坊主めくりのゲームでは嫌がられる人たちです。
歌で名を揚げた僧侶――《歌僧》は和歌史において無視できない一つの大きな流れを成し、定家の生きた時代には西行・寂蓮といった大歌人が現れました。隠者を主要な担い手とする中世の文学がすでに始まっていたのです。喜撰法師は言わばその源流をなす歌人と言えましょう。
宇治山の僧、喜撰。伝不詳の人物で、古今集仮名序を書いた紀貫之も「よめる歌、多く聞こえねば、かれこれを通はして、よく知らず」と困った様子です。それでも六歌仙として取り上げたのは、当時喜撰が既に名立たる伝説的歌人だったからです。その名声ゆえか、平安時代最初の歌学書として重んじられた『倭歌作式』の作者に擬せられ、この書を別名『喜撰式』と称します。
喜撰の偶像化をさらに推し進めたのが宇治という土地柄です。
宇治は平安貴族たちの清遊の地であると共に、平等院に象徴される浄土経の聖地でもありました。しかも源氏物語宇治十帖の舞台となって、名所歌枕としての声価もうなぎのぼり。定家の時代、喜撰のネーム・バリューはいかばかり高まっていたことでしょう。
   宇治山の喜撰が跡などいふ所にて、人々歌よみける
   嵐吹く昔の庵いほの跡たえて月のみぞすむ宇治の山もと
寂蓮の家集より。宇治山の喜撰の庵跡を歌人たちが訪ね、皆で歌を詠んだというのです。喜撰が後世の歌人たちに慕われていたことを示す、ほんの一例です。因みに、喜撰山と呼ばれる山には今も喜撰の住んだ洞窟が残っているそうです。
確実な作歌は一首しか伝わりません。この喜撰法師や安倍仲麿のように、たった一首の歌によって和歌の歴史に名を刻んだ人のことを思うと、定家は百人一首の構想を立てた後で仲麿や喜撰を撰んだと言うよりも、彼らのような存在が定家に百人"一首"という構想を思い付かせたのでないか――そんなふうに思えてきます。

古今集の真名序は喜撰について「其詞華麗而、首尾停滞、如望秋月遇暁雲(其の詞華麗にして、首尾停滞、秋月を望みて暁雲に遇へるが如し)」と評しています。「其詞華麗」とは、修辞の巧みさと、華やかなばかりにリズミカルな調べを賞賛した語でしょう。
   わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり
「我が庵は、都の巽。しかぞ住む。」二句・三句切れが歯切れの良いリズムを生んでいます。さて「しかぞ住む」とはどう住むことかと読み進めれば、そのことは言わず、「世をうぢ山と人は言ふなり」と世人の噂に話題を転じて一首を閉じてしまう。このはぐらかされたような感じを、古今集序文の執筆者は「首尾停滞」とか「秋の月を見るに、曉の雲にあへるがごとし」とか言ったのでしょう。しかしこの飄々とした歌いぶりこそが、喜撰の歌の魅力なのです。
「世をうぢ山と人はいふ」と伝え聞いた事柄について、作者は肯定も否定もせず、世間(の噂)に対して超然たる態度を示しています。「しかぞ住む」とは要するに、そのように俗世に対して恬淡てんたんたる心持で生きている、ということでしょう(「すむ」は「澄む」でもあります)。つかみどころのない伝説的隠者に如何にもふさわしい歌ではありませんか。
しかし「世をうぢ(憂し)山」の句には自分自身に対する苦い皮肉が含まれるようにも聞こえ、単純なライト・ヴァースには終らない、一癖ある歌です。「老来、中風で手足の不自由を嘆くことのひどかった定家の姿が、そこに見えるような気がする」との指摘(安東次男『百首通見』)は鋭い。『百人秀歌』で小野小町(「…我が身世にふる…」)と合せていることを考えれば尚更です。いずれも厭世観の漂う歌ですが、小町の歌では老いた我が身を、喜撰の歌では遁世した我が身を、「他人ごとのように」(安東次男前掲書)眺めている歌という点で似通っています。
ところで定家は七十二歳になる天福元年(1233)冬に出家、法名「明静」を称しています。定家にとって「世を憂ぢ山」の歌はいにしえの名歌である以上に、つよい親近感をおぼえる一首だったのではないでしょうか。
なお、定家はこの歌を『五代簡要』『定家八代抄』『秀歌大躰』に採り、また「春日野やまもるみ山のしるしとて都の西も鹿ぞすみける」「わが庵は峯の笹原しかぞかる月にはなるな秋の夕露」などと本歌取りしています。

さて、最後に、この歌の配置について少し考察してみましょう。『百人秀歌』では第14番、小野小町の次に置かれている喜撰は、百人一首では第8番、仲麿の次に置かれています。この違いは何故生じたのでしょうか。
仲麿の次に喜撰を置いた理由について、たとえば『改観抄』の契沖は「宇治山をよめるをもて上の三笠山に類せられたるにや」と推察していますが、私の考えは全く異なります。百人一首の配列原理は次の二点にあると考えるからです。
1.和歌の歴史の流れを辿れるように、時代順に並べる。
2.和歌の多彩な変化を味わえるように、なるべく同季節・同趣向の歌は並べない。
但し、集中四十三首の多くを占める恋歌については、2の「同趣向の歌は並べない」が適用されず、同じ難波を用いた歌が続いたり(19番伊勢・20番元良親王)、同じ歌合に同じ題で出詠された歌が続いたり(40番平兼盛・41番壬生忠岑)しています(この理由については後述します)。
百人一首と『百人秀歌』の配列比較表を再び掲げてみましょう。今度は二十番目まで。
    百人一首           百人秀歌  
 1番  天智天皇   秋(露)    左に同じ   秋(露) 
 2番  持統天皇   夏(衣)      〃    夏(衣) 
 3番  柿本人麿   恋(鳥)      〃    恋(鳥) 
 4番  山辺赤人   冬(雪)      〃    冬(雪) 
 5番  猿丸大夫   秋(鹿)    中納言家持  冬(霜)
 6番  中納言家持  冬(霜)    安倍仲麿   旅(月)
 7番  安倍仲麿   旅(月)    参議篁    旅(舟) 
 8番  喜撰法師   雑(山)    猿丸大夫   秋(鹿) 
 9番  小野小町   春(花)    中納言行平  別(松)
10番  蝉丸     雑(関)    在原業平朝臣 秋(紅葉)
11番  参議篁    旅(舟)    藤原敏行朝臣 恋(波)
12番  僧正遍昭   雑(節会)   陽成院    恋(川)
13番  陽成院    恋(川)    小野小町   春(花)
14番  河原左大臣  恋(染)    喜撰法師   雑(山)
15番  光孝天皇   春(若菜)   僧正遍昭   雑(節会)
16番  中納言行平  別(松)    蝉丸     雑(関)
17番  在原業平朝臣 秋(紅葉)   河原左大臣  恋(染)
18番  藤原敏行朝臣 恋(波)    光孝天皇   春(若菜)
19番  伊勢     恋(葦)    左に同じ   恋(葦)
20番  元良親王   恋(澪標)    〃     恋(澪標)

ここでは仮に、『百人秀歌』が先に出来、それを改訂して今の百人一首が出来上がった、とする国文学界の有力説を基に考察を進めたいと思います。この説に今のところ不都合な点は見出せないからです。逆に、百人一首が先に出来たとか、両方が同時に出来たとかいった考え方には、両者の配列を比較する上で、合理性を見出せません。
さて番外編その一で書いたように、『百人秀歌』では赤人・家持と「白」を詠んだ冬歌が続いていたことを嫌って、百人一首の編者は時代不詳の人物である猿丸大夫を赤人・家持の間に割り込ませたと考えられます。『百人秀歌』ではさらに6番安倍仲麿・7番参議篁と旅歌が連続し、しかも仲麿(西暦698年生)と篁(802年生)では時代に百年以上の開きがあります。この二人を何とか引き離したい――百人一首の編者はそう考えて、さらに配置の転換を考えたでしょう。そこで再び時代不詳の人物が利用されます。伝説的歌人、喜撰法師・小野小町・蝉丸の三人をまとめて仲麿の後に移し、その次に篁を置いたのです。
猿丸大夫が前へ移ったために、篁の後には中納言行平(818年生)が来ますが、僧正遍昭(816年生)の方が行平より前の人なので、篁の次へ移します。遍昭の後には、行平が仕えた陽成院と光孝天皇、また行平とほぼ同世代であるが身分の高い河原左大臣を置き、行平・業平の兄弟は当然この順序のまま。業平の次に来るのは、業平の妹婿であった藤原敏行が適当ですから、この順番も『百人秀歌』を踏襲します。次に来る伊勢(870年代生)・元良親王(890年生)は時代順の原則に抵触しないので『百人秀歌』の位置のままに残されたのでしょう。
こう考えれば、少なくとも二十番までの百人一首と『百人秀歌』の配列の違いを説明できます。 
 
9.小野小町 (おののこまち)  

 

花(はな)の色(いろ)は 移(うつ)りにけりな いたづらに
わが身世(みよ)にふる ながめせしまに  
桜の花はむなしく色あせてしまった。長雨が降っていた間に。(私の容姿はむなしく衰えてしまった。日々の暮らしの中で、もの思いしていた間に。) / 桜の花の色がすっかり色あせてしまったと同じように、私の容姿もすっかり衰えてしまったなあ。桜に降る長雨を眺め、むなしく恋の思いにふけっている間に。 / 春も終わりかしら。桜の花の色が、長雨にあたって、ずいぶんと色あせてしまったのね。その桜の花の色と同じように、私の美しさもおとろえてしまったわ。恋愛の悩みなんかに思い悩んで、むだに長雨を眺めながら、ぼんやりと暮らしているうちに・・・。 / 花の色もすっかり色あせてしまいました。降る長雨をぼんやりと眺めいるうちに。(わたしの美しさも、その花の色のように、こんなにも褪せてしまいました)
○ 花の色は / 六音で字余り。「花」は、桜。「花の色」は、女性の容色のたとえ。
○ うつりにけりな / 「うつり」は、ラ行四段の動詞「うつる」の連用形で、「衰える・色あせる」の意。「な」は、詠嘆の終助詞。
○ いたづらに / 「むなしく・無駄に」の意。「ふる」にかかる。
○ ふる / 「経る」と「降る」の掛詞。上を受けると「世に経る」となり、下に続くと「降るながめ」となる。「経る」は、「時間が経過する・暮らす」の意。
○ ながめ / 「長雨」と「眺め」の掛詞。「降る」を受けると「降る長雨」となり、「経る」を受けると「経る眺め」となる。 
東国風土記
西国風土記
坂東の古代史
消え行く「東京」心のルーツ
1
小野小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。
系図集「尊卑分脈」によれば小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は「尊卑分脈」にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦21年(802年) - 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘、あるいは小野滝雄の娘とする説もある。
血縁者として「古今和歌集」には「小町姉(こまちがあね)」、「後撰和歌集」には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在が疑わしい。さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている。
また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる(ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。前述の小町姉が実在するという前提で、姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の”町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある。
生誕地に纏わる伝承
生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しておりその周辺とも考えられる。この他にも京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、熊本県熊本市北区植木町小野とする説、神奈川県厚木市小野とする説など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。東北地方に伝わるものはおそらく「古今和歌集」の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小町の祖父である小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという。
湯沢市には小野小町にちなんだ建造物「小町堂」があり、観光の拠点となっており、町おこしの一環として、毎年6月の第2日曜日に「小町まつり」を開催している。また、米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車愛称「こまち」は彼女の名前に由来するものである。
京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。後述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。それにちなんで、毎年「ミス小野小町コンテスト」が開かれている。
山形県米沢市小野川温泉は、小野小町が開湯した温泉と伝えられ、伝説が残っている。温泉街には、小町観音があり、美人の湯と称されている。
墓所
小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される。
○ 宮城県大崎市にも小野小町の墓があり、生地の秋田県雄勝郡横堀村に帰る途中、この地で病に倒れ亡くなったと伝えられている。
○ 福島県喜多方市高郷町には、小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野の小町の供養塔がある。
○ 栃木県栃木市岩舟町小野寺には、小野小町の墓などがある。
○ 茨城県土浦市と石岡市には、小野小町の墓があり、この地で亡くなったとの伝承がある。この2つの地は、筑波山の峠を挟んでかなり近いところにある。
○ 愛知県あま市新居屋に小町塚があり、背面には「小町東に下るとき此処で死せし」とあり、小野小町は東国へ下る途中、この地で亡くなったという伝説がある。
○ 京都府京丹後市大宮町五十河も小野小町終焉の地と言われ、小町の墓と伝えられる小町塚がある。
○ 京都市左京区静市市原町にある小町寺(補陀洛寺)には、小野小町老衰像と小町供養塔などがある。
○ 滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。
○ 和歌山県和歌山市湯屋谷にも小町の墓があり、熊野参詣の途中この地で亡くなったとの伝承がある。
○ 鳥取県伯耆町にも同種の言い伝えがあり、小町地区に墓がある。また隣接して小野地区も存在する。
○ 岡山県総社市清音黒田にも、小野小町の墓がある。この地の伝承としては、小町が「四方の峰流れ落ちくる五月雨の黒田の蛭祈りますらん」とよむと、当地の蛭は吸い付かなくなったという蛭封じの歌が伝えられている。
○ 山口県下関市豊浦町川棚中小野にも、小野小町の墓がある。
作品
歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉、柔軟艶麗である。「古今和歌集」序文において紀貫之は彼女の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。仁明天皇の治世の人物である在原業平や文屋康秀、良岑宗貞と和歌の贈答をしているため、実在性が高い、とする説もある。実際、これらの歌人との贈答歌は多く伝わっている。
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを 「古今集・序」
色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける 「古今集・序」
わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらば往なむとぞ思ふ 「古今集・序」
わが背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも 「古今集・序」
いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞきる
うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るがわびしさ
かぎりなき思ひのままに夜もこむ夢ぢをさへに人はとがめじ
夢ぢには足もやすめずかよへどもうつつにひとめ見しごとはあらず
うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
秋の夜も名のみなりけりあふといへば事ぞともなく明けぬるものを
人にあはむ月のなきには思ひおきて胸はしり火に心やけをり
今はとてわが身時雨にふりぬれば事のはさへにうつろひにけり
秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば — 「古今集」
ともすればあだなる風にさざ波のなびくてふごと我なびけとや
空をゆく月のひかりを雲間より見でや闇にて世ははてぬべき
宵々の夢のたましひ足たゆくありても待たむとぶらひにこよ — 「小町集」
次の歌からも美女であった事が窺える。これは、百人一首にも選ばれている。
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に — 「古今集」
著作
小町集
小野小町にちなむ作品
小野小町を題材とした作品を総称して「小町物」という。

小野小町を題材にした七つの謡曲、「草紙洗小町」「通小町」「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒都婆小町」「雨乞小町」「清水小町」の「七小町」がある。これらは和歌の名手として小野小町を讃えたり深草少将の百夜通いを題材にしたものと、年老いて乞食となった小野小町に題材にしたものに大別される。後者は能作者らによって徐々に形作られていった「衰老落魄説話」として中世社会に幅広く流布した。
歌舞伎
○ 「積恋雪関扉」(つもるこい ゆきの せきのと) 通称「関の扉」、歌舞伎舞踊(常磐津)、天明4年 (1784) 江戸桐座初演
○ 「去程恋重荷」(さるほどに こいのおもに) 通称「恋の重荷」、歌舞伎舞踊(常磐津)、文政2年 (1819) 江戸中村座初演
○ 「六歌仙容彩」(ろっかせん すがたの いろどり) 通称「六歌仙」、歌舞伎舞踊(義太夫・長唄・清元)、天保2年 (1831) 江戸中村座初演
○ 「和歌徳雨乞小町」(わかの とく あまごい こまち) 通称「雨乞小町」、歌舞伎狂言、明治29年 (1896) 東京明治座初演
御伽草子
「小町草紙」
美術
鎌倉時代に描かれた、野晒しにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、蛆虫がわき、腐敗して風化する様を描いた九相詩絵巻は別名を「小野小町九相図」と呼ばれる。モデルとしては他に檀林皇后も知られ、両人とも「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」の歌の作者とされた。
裁縫用具
○ 裁縫に使う「待ち針」の語源は小野小町にちなむという俗説もある。言い寄ってくる多くの男に小野小町がなびくことがなかったため、穴(膣)のない女と噂されたという伝説に基づき、穴のない針のことを「小町針」と呼んだことから来ているというものである。
○ 横溝正史の推理小説「悪魔の手毬唄」に登場する手毬唄では、「穴がない女性」という意味で「小町」の語が用いられている。  
2 
世界三大美女の一人として有名で、ある地域や集団の中での一番の美人を指す「○○小町」の語源ともなっている。その語感から、なにか町娘のような感じがするが、れっきとした平安王朝の貴族の娘だった。しかしながら、あまりにも氏素性などの記録が残っていないところから(生没不明)、さほど身分が高かったわけではなく、おそらく「菜目(うぬめ)、天皇の側で食事などの給仕役」として宮仕えをしていたのではないかといわれている。初の勅撰(国選)和歌集「古今和歌集」で六名の名歌人「六歌仙」として、ただ一人選ばれ女性で、他に百人一首などに多くの名歌を残している。京都以外にも、小野小町の生地や没地としての小町塚が多数あり、その事も小野小町の謎となっている。 
筆舌しがたい美人で、歌の才でも卓抜した才能の持ち主だったが、恋多き女で、数々の男性を翻弄し浮き名を流したとされている。しかし、実は小町が残した数々の名歌以外の事ははっきりと分かっておらず、後世までその美しさが全国に伝わるというのも不思議な話しである。勝手な推測で小町像を探ると、「女性でただ一人六歌仙に選ばれた小町は、すごい美人だろう」という想像で「日本一の美女」としての評判が全国にたち、それにあやかって多くの小町塚が全国に作られたか。若い頃の小町は、短袖の着物に短かめのロングヘアーという軽快な服装で(十二単に超ロングヘアーという装束は平安中期になってから現れたとの説がある)テキパキと宮中の仕事をこなし、女一人でつらい宮中勤務にじっと耐え、晩年は生地の陸奥(秋田、ここが小町の生地だったとの説もある)に帰り、静かに暮らしたという姿も浮かび上がってくる。小町の有名な歌、「花の色は移りにけりないたずらに我身世にふるながめせしまに」 (無為に人生を過ごしている間に、すっかり自分は女のさかりを過ぎてしまった)は、女性としての美しさが失われていく悲しさを歌ったものとは限らず、人生の峠をこせば誰でも感じる寂しさを歌ったもの。「いろみへでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(花の移ろう姿以上に人の心は変わっていくものよ)は、自分が絶世の美女として伝説化されていくのを困惑している様子という解釈では小野小町を少し美化しすぎか、奔放な小町像をあまりにも地味なものにしてしまったものか。
逸話として小町が老後になってからのものが多く、その多くは、「若い時には美しい事を良いことに、数多くの男性を手玉に取り袖にもしたが、老いてその美しさが失われてからは、乞食にまで落ちぶれて、果ては路傍で野垂れ死に、ドクロとなってまでも歌を詠んでいた」などのヒドイものが多い。これらの逸話は、「いくら美しくとも生あるものは、やげて朽ちて醜くなる」「奢り高ぶる人は、やがて人々に見向きされなくり、寂しい人生を送る」などの、仏教思想の教えとして、後の世に作られたものである。絶世の美女と評判になってしまった小町にとっては迷惑な話しかもしれない。 たしかに、それほど小町は美しく、多くの男性を翻弄したのか、あるいは、何か悟りを開いているように見える小町が、男性を相手にせず恨みを買っていたのかもしれない。 
有名な逸話。宮中勤務を退いた後も美しさの衰えなかった小町に、連日連夜、色々な男達が言い寄っていた。その中で深草少将だけは小町の目にかない、「百夜通えば、そなたと付合おう」と少将に伝えた。それを聞いた深草少将は、毎夜恋文を届けに深草の地(現伏見区)から洛北の小野荘まで通いはじめる。無事に九十九夜を通いつめましたが、最後の百夜目に雪の中を小野荘に向かう途中で深草少将は凍死してしまう。嘆き悲しんだ小町は、今までの恋文を燃やし、その灰で地蔵を作り深草少将を弔ったという。 
3  
紀貫之は、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、仮名でその序文(「古今和歌集仮名序」)を執筆した。その中で「近き世にその名きこえたる人」として「六歌仙」を選んでいる。  
紀貫之が選んだ6人の歌人は、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主であるが、紀貫之はこの6人全員について短いコメントを書き残している。  
たとえば五人目の小野小町についてはこう書いている。  
「小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。」  
(古代の衣通姫の系統である。情趣がある姿だが、強くない。たとえて言うとしたら、美しい女性が悩んでいる姿に似ている。強くないのは女の歌であるからだろう。)  
「衣通姫(そとおりひめ)」とは、記紀で絶世の美女と伝承される人物で、その美しさが衣を通して光り輝いたと言われている。この紀貫之の文章を普通に読むと、誰でも小野小町が美人であったと連想してしまうだろう。  
また「百人一首」には、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」(古今集)が選ばれている。  
この歌で、小町は自分の容姿を花にたとえて、歳とともに衰えてしまったことを言っているのだが、裏を返すと、若いころは自分でも美しいと思っていたということになる。  
昔から「小野小町」といえば「美人」の代名詞のようになっていたようだが、紀貫之の文章や小町の歌などの影響が大きいのだろう。  
しかしながら、小野小町の肖像画や彫像はすべて後世に造られたものであり、本当に美人であったかどうかは確認のしようがない。  
実在したことは間違いないのだろうが、小町の生年も没年も明らかでなく、どこで生まれどこで死んだかすらわかってはいない。  
たとえ有名な人物であっても、生没年が良くわからないことはこの時代では珍しくない。  
紀貫之も没年は天慶8年(945)説が有力だが、生年については貞観8年(866)、貞観10年(868)、貞観13年(871)、貞観16年(874)と諸説ある。紫式部も生年について6つの説があり没年についても6つの説があり定説はない。清少納言も同様である。  
南北朝期から室町時代の初期に、洞院公定(とういん きんさだ)によって編纂された「尊卑分脈」(別名「諸家大系図」)という書物に、小野小町は小野篁(おののたかむら)の息子である出羽郡司・小野良真の娘と記されているそうだ。  
小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫であり、歌人としても有名な人物で、「百人一首」に選ばれた「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」が有名である。  
小野小町は有名な歌人の血筋に繋がっているのかと何の抵抗もなく納得してしまいそうな話だが、よくよく考えると年齢に矛盾がある。  
小野篁は延暦21年(802)に生まれ仁寿2年(853)に没したことが分かっているので、先程の小野小町の推定生没年と比較すると、年齢差はわずかに23歳しかなく、小野小町が小野篁の孫娘であるという「尊卑分脈」の記録を信用していいのだろうか。  
また紀貫之の「古今和歌集仮名序」の小町に関する記述は、小町が美人であることを確信していないと書けないような気がするのだが、古今集を完成させたのは延喜5年(905)には小町は没しておりまた小野小町は紀貫之よりも41〜49歳も年上になるのだが、この年齢差にも少々違和感がある。  
となると小野小町が小野篁の孫娘だとする「尊卑分脈」の記述が正しいのか、小野小町の生没年の推定値が正しいのか、紀貫之の生没年の推定値が正しいのか、わけがわからなくなってくる。  
出生地を調べるとこれも諸説ある。  
秋田県湯沢市小野、福井県越前市、福島県小野町など生誕伝説のある地域は全国に点在しているらしい。  
小町の墓所も全国に点在している。  
宮城県大崎市、福島県喜多方市、栃木県下都賀郡岩船町、茨城県土浦市、茨城県石岡市、京都府京丹後市大宮町、滋賀県大津市、鳥取県伯耆町、岡山県総社市、山口県下関市豊浦町などがあるそうだ。  
若い頃の小町は、誰もがうらやむ美しさで多くの男を虜にしたのかもしれないが、彼女のその後はとことん落ちぶれて、悲惨な伝承がかなり多いようだ。  
小町を脚色した文芸や脚本では落ちぶれた小町を描いたものが多く、室町時代には観阿弥・世阿弥が書いた「卒塔婆小町」など、さまざまな作品があるようだ。  
夫も子も家もなく、晩年になると生活に困窮して乞食となって道端を彷徨った話や、ススキ原の中で声がしたので立ち寄ってみると目からススキが生えた小町の髑髏があったなど、およそ若い時の姿とはかけ離れたような話がいろいろある。  
滋賀県大津市の月心寺には「小町百歳像」という像があるらしいが、ネットで画像を探すと、ここまで醜く小町を彫るかと驚いてしまった。薄暗いお堂の中では、妖気がこもって怖ろしく感じることだろう。  
京都市左京区の安楽寺という浄土宗の寺院には「小野小町九相図」(三幅)という掛け軸があり、老いた小町が死んで野良犬に食い荒らされて白骨となるまでの九つの姿を描いた絵巻がある。  
晩年の小町に関する悲惨な話は何れも信憑性に乏しいものだとは思うが、こんな話や像や掛軸がなぜ作られたのかと考えこんでしまう。単純に小野小町の美貌と才能を妬んだからというのではなさそうだ。  
若い時にいくら周囲からチヤホヤされて浮き名を流した女性でも、やがて老醜を蔑まれ惨めな人生を迎える時が来る。このことは男性も同様で、いくらお金をつぎ込んでも「老い」を避けることは不可能だ。つまるところいつの時代も、老いても多くの人から愛される人間になることを目指すしかないと思うのだ。  
今のような年金制度はなかったが、昔の時代は、近所付き合いを大切にし家族を大切し老人を敬うことで、惨めな老後を迎える人は今よりもはるかに少なかったように思う。逆に近所づきあいをせず家族もなければ、今よりもずっと悲惨な老後が待っていた時代でもあった。  
そこで、孤高では老後を生きていくことができないということを伝えるために、若かりしときは伝説の美人であり才女であった「小町」の老いさらばえた姿を絵や物語に登場させることになったのだと思う。「小町」の伝承が全国にやたら多いのは、史実と物語とが時代と共に渾然としてきて、その見極めができなくなってしまったからなのだろう。
4
小野小町ほど、有名でありながら、謎に包まれている女性はいないだろう。歴史に全く興味のない人でも、百人一首に載っている彼女の歌と名前くらいは知っている。彼女は、美人の代名詞のように例えられ、楊貴妃、クレオパトラとともに、世界の三大美人とも呼ばれているぐらいである。
しかし、実際のところ、彼女が平安時代前期(9世紀の中頃)の女流歌人であり、六歌仙、36歌仙の一人に選ばれているということがわかっているぐらいで、その出生も、生い立ちも正確なことは、何一つわかっていないのが事実なのである。
また、彼女の名前も不明である。小町は、彼女の名前などではない。では、小町とは何なのか。それは、役職や官位などをあらわす記号のようなものなのである。
平安時代、女性は実名では呼ばれず、父や夫の役職名で呼ばれることが多かった。例えば、小野小町よりは、150年ほど後に宮仕えをした枕草子の作者、清少納言は、父の清原元輔が少納言であったため、清と少納言の二字を取って、清少納言と呼ばれるようになったのである。源氏物語の作者、紫式部の場合も、父は藤原為時という文人で、役職は式部だったことから、清少納言の場合と同じく、藤式部と呼ばれていたようだ。ところが、その後、彼女が、源氏物語を書き出し、その中で「紫の上」を書いたあたりから、いつの間にか、紫式部と呼ばれるようになったらしい。
そういう意味で、小野小町も、小野氏の娘であったと考えられている。小野氏は遣隋使で有名な小野妹子(おののいもこ)を祖先とする中級の貴族だった。京都、山科の隨心院(ずいしんいん)の近くには、小野の里と呼ばれる場所があり、小野一族のゆかりの地が今でも残っている。
彼女が、小町と呼ばれていたということは、要するに、天皇の後宮である更衣だった可能性が高いと考えられている。天皇の妻は、皇后・中宮・妃・女御・更衣という順に位があったが、女御までは殿舎が与えられたが、後宮の中でも、一番身分の低い更衣は、常寧殿(じょうねいでん)という建物の中を屏風や几帳などで、簡単に仕切って、その区画を与えられていたに過ぎなかった。長方形に仕切られた部屋のことを町(まち)と言っていたので、それが、小町と呼ばれるようになったゆえんであろう。
続日本後記には、平安前期の承和9年(842年)、仁明(にんみょう)天皇の後宮で、正六位上に任じられた小野吉子(きちこ)という女性が記録されているが、小野吉子は、更衣の位であったことから、彼女こそが、小野小町だったと考える説もある。あるいは、彼女には、姉がいたらしいから、吉子の妹だと言う意味で小町と呼ばれたとも考えられる。恐らく、小野小町は、この吉子本人か、もしくはその妹だったと考えてほぼ間違いないように思う。
しかし、わかるのもそれくらいで、全く彼女ほど、実像のわからぬ人物も珍しいと言えるのではないだろうか。伝説が一人歩きをして、実像を越えた典型的な人物なのである。 では、どうして、そのような伝説、とりわけ、小野小町が、絶世の美女だったという伝説が、確定的な証拠もないのに後世に付け加えられることになったのだろうか?
全国各地に伝わる小町伝説
彼女には、全国各地に絶世の美女であったという小町美人伝説やそれにまつわる数々の逸話がたくさん残されている。
一説には、彼女は、 出羽の国(秋田、山形の間)に生まれたという。たいそう美しい娘だった彼女は、13歳にして京へのぼり、都の風習や教養を身につけ、その後20年間、宮中に出仕した。彼女は、また非常な美人で、その才女ぶりは、あまたの女官中並ぶものがないといわれ、それゆえ、数多くの男性から求婚されたが、彼女は応じることなく、かたくなに拒み続けたというのだ。宮仕えをやめてからは、世を避け、ひっそりと香を焚きながら92歳で天寿を全うしたと言うのである。
また別な説では、小野小町は、若い頃の絶頂期の栄華に比して、その晩年はあまりにも不幸であったかのように描かれている。多くの男性の誘いを断り続けるうちに、次々と親兄弟に先立たれて、権力の後ろ立てを失って一人になってしまった彼女は、急速に没落してゆく。そして、あれだけ美しかった容貌も、見る影もなくやつれ果ててしまうのである。誰にも見向きもされなくなった彼女は、仕方なく、猟師の妻となるが、それも、夫や子供に先立たれてしまい、最後には、乞食となって地方を徘徊するというのである。とんでもなく壮絶な話だが、こういったストーリーが作られたのは、5百年ほど経った後世になってからでいずれも真実ではない。
では、小町の美しさや彼女の性格を物語る有名な逸話の一つ、深草少将の百夜通いの話はどうであろうか?
彼女は、多くの男性から求婚されたが、なかでも、とりわけ熱心だったのが小町の美しさに魂を奪われた深草少将(ふかくさのしょうしょう)だった。彼は、小町に執拗に愛を強要するが、途方に暮れた小町は、仕方なく、百夜、私のもとに通い詰め、満願となった時、晴れて契りをむすびましょうと約束したのである。
少将の屋敷から、小町の屋敷までは、やや傾斜気味の登り道が約6キロほどあり、歩けば1時間半くらいはかかる距離だが、毎夜通うとなれば、かなりの忍耐を必要とする。しかも、4位の少将は、昼間は多忙の身でもあった。だが、小町の心を得たい一心で、少将は、恋文を持って、この地道で辛い百夜通いを開始した。くる日もくる日も、雨の日も嵐の夜も黙々と通い詰め、睡眠不足に悩まされながらも、99日までがんばった少将であったが、最後の晩、ついに、過労と大雪のため力尽き、途中で凍死してしまうのであった。
京都の山科には、今も、深草少将が小町のもとへ百夜通いしたという通い道が残っている。あと少しで念願が達成出来たはずの気の毒な限りの少将だが、しかし、この深草少将は実在の人物ではない。つまり、後世の人が、小町の美人伝説を強調するあまり、勝手につくりあげた逸話に過ぎないのである。
小町の生きた時代
ところで、小野小町が生きた平安時代初期はどういう時代であったのだろう? 
桓武天皇が794年に平安京に都をかまえて、平安時代が到来するが、この頃はまだ奈良時代の面影を色濃く受け継いでいた。つまり、中国、唐の影響が色濃く見られていた時代で、王朝絵巻に登場する貴族や十二単を着て長い髪に扇をかざして、牛車に乗った女御というイメージになるのはまだ百年以上も先の話である。つまり、平安初期(9世紀の中頃)の宮廷女性の服装は高松塚古墳の壁画に見られるような天女のような恰好をしていたのである。
ヘアスタイルにしても、髪上げをして、髪の毛を頭の上で束ねて結髪をするという感じであった。眉は我眉(がび)と言って我の触覚のような形をした眉を引いていた。化粧にしても、ほお紅と口紅をつけていたぐらいで、顔全体にお白いを塗りたくる習慣などはなかったと思われる。衣裳は、裳(も)と呼ばれる色とりどりの縦じま入りのスカートを履き、カラフルな絹の上衣を着て、その上から細い紐で結んでいたようだ。手には長い柄のついた団扇のようなものや如意(にょい、ワラビ形をした30センチほどの用具)を持っていたのである。
この、言わば、天平スタイルと呼ばれる服装が、当時のトップモードであり、当時の人々の羨望の的であった。
この頃の貴族が、いかに当時の先進国、唐の文化に強いあこがれを抱き、意識していたか伺い知れるところである。
百人一首のかるたなどで描かれる小野小町は、十二単を着て長い髪の姿の美人画で知られているが、これは鎌倉時代(13世紀)に描かれた佐竹本36歌仙の絵姿による影響によるもので、実際の小野小町は天女のような服装で宮仕えをしていたと思われている。
食生活にしても、中国文化の影響を受けて、動物や魚の肉を焼いたり蒸したり油で加工したりして様々の調理方法が誕生した。調味料は塩、酢、油の他、バターや牛乳なども使われていたようだ。
病的な平安中期の美人像
思えば、この当時の貴族はまだ健康的な生活を送っていた。ところが、150年ほど経った平安の中期頃になると、中国文化の影響を脱して、日本的な特色が多く見られるようになる。しかし、それは、皮肉にも非健康的で非衛生的な方向としか言いようのないものであった。食生活は豪華だが塩辛い干し物中心になり新鮮な野菜などは取らない。それに加えて、日がな一日、部屋に閉じこもって体を動かすこともない。こうして、運動不足も加わり極めて不健康で病的なものになってゆくのだ。
貴族の顔色は、いつも病的に青白く、それを意識してかどうか知らないが、男女ともにコテコテにお白いを塗りたくるようになる。そのお白いにしても、鉛成分が含まれており肌にいいはずがなかった。しかも、乾燥するとすぐに剥げ落ちる品質の悪い代物であった。もし、面白いものなどを見て笑おうものなら、たちまち、ボロボロとお白いが剥げ落ちるので、特に、女性の場合は常に無表情でいることを強要された。そのため、手には絶えず檜扇(ひおうぎ)というものを持ち、笑い出しそうになったり、急に表情が崩れそうになると即座にそれで顔を隠したのである。当然のことながら、檜扇はなくてはならぬアイテムとなった。
着るものにしても、十二単(じゅうにひとえ)と言ったたいそう豪奢で凝ったつくりのものになっていくのだが、十数枚も重ね着をするわけで、暑さ十数センチにもなり、夏でなくともむせかえったわけで、体臭が臭わなかったはずはない。その臭いをごまかすためか、香がいつも炊き込まれていたらしい。
このように、美意識の基準は大きく変わり、特に、女性の場合は、髪が長くて艶があることがまず挙げられるようになる。髪の長さは平均で3メートル以上はあったと思われているが、髪を洗う習慣はなく、沐浴(もくよく)時においてぐらいであった。しかし、その沐浴にしても、5か月に一度ぐらいしかなかった。
眉にしても、自毛のまゆ毛はすべて引っこ抜き、本来、眉のある位置よりも上に棒眉と言った形状の眉を描くようになる。目と眉毛の位置がかなり離れるために、遠目にもコントラストがついて分りやすくなるが、近くから見ると、幻想的で異様な感じに見えたに違いない。しかし、それが美人の条件で、眉と目が離れていればいるほど美しいとされるのである。また、女性は10才頃になると、お歯黒と言って歯を黒く染めたが、これは白い歯は目立ち過ぎて気味が悪いというおかしな美意識によるものであった。
こうして、平安時代の美人である条件は、中期になると、ただの容姿のみが美しいというのではなく、それ以外の要素の方が外面の美しさよりも、むしろ高い比重を持つようになっていくのである。
小町を絶世の美女にしたもの
そういう意味からか、小町の美人伝説を生み出したのは、この頃の歌人、紀貫之の彼女に対する評価が第一の原因だと考えられる。
紀貫之は、平安中期を代表する歌人で、小町を絶賛して六歌仙の一人に選び、また20首近い彼女の歌を自ら編纂した古今和歌集に納めたのであった。
六歌仙を選んだのは紀貫之自身によるものだが、その中で、彼は、小野小町の歌を評して衣通姫(そとおりひめ)と感じが似ていると感想を述べているくだりがある。    
小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。(紀貫之)
衣通姫とは、日本書紀や古事記で登場する古代美人で、「和歌三神」の一人に数えられているほどの和歌の名手であったと言われている。また、あまりに美しい女性であったため、その美しさが衣を通してあらわれたほどの絶世の美女でもあったらしい。紀貫之は、小町の歌をか弱くも美しい女心を歌った点で衣通姫の歌と同じような感じがすると感想を述べただけであった。つまり、小町の歌を評しただけで、小町が美女であったなどとは一言も言っていないのである。だいたい、貫之は小町よりは80年も後の時代の人間で小町とは会うことすらなかったのだ。
要するに、この文章が誤解されて、歌の作者であった小町本人が衣通姫と似ていると解釈されていったと思われるのである。
こうして、小町美人伝説は急速に広まっていくことになる。そして、長い年月を重ねる間に、尾ひれも付け加えられて小野小町は、絶世の美女であり、深草少将が、彼女に拒絶され続けても、百夜の間、欠かさず小町の屋敷を訪ねたと言う物語まで創作されるに到ったのである。言わば、紀貫之の書評こそが、後世の伝説を生み出す原因となっていると思われるのだ。実際のところ、小町が絶世の美人だったという確実な証拠は何一つない。
小町は権力争いの犠牲者だった
また、六歌仙に選ばれた人たちは、その内情を見ると、左遷され失脚している立場の人ばかりである。
当時、文徳(もんとく)天皇が治世にあたっていたが、天皇には、長男の惟喬(これたか)親王と次男の惟仁(これひと)親王がいた。単純に考えれば、長男の惟喬親王が天皇になる予定だったが、惟喬親王の母方が、紀氏(きのし)だったのに対し、次男の惟仁親王の母方は、藤原氏だった。
当時、藤原氏は、大変な勢力を持っており、そのために、圧力がかかり、次男の惟仁親王が、次期の天皇の候補となったのである。
それと同時に、惟喬親王側にいた貴族らは、次々と地方に飛ばされ、失脚の憂き目にあったのである。六歌仙の一人、文屋康秀(ぶんやのやすひで)も、三河の三等官として左遷されている。同時期、小野小町も失脚したと見えて、お互い慰め合うような和歌を交わしている事実でもこのことがわかる。
わびぬれば 身を浮く草の 根を絶えて さそう水あれば いなむとぞ思う
( 根無し草のように、フワフワと目的もなく生き甲斐のない日々を過ごしておりますので、お誘い下さればともに行きたい心境です )
一方、政権争いに破れた惟喬親王の方はというと、政治の表舞台から姿を消さねばならず、泣く泣く滋賀県の山奥に隠棲せねばならなかった。彼が隠棲した地は、小野氏のゆかりの地であった。そこには小野篁(たかむら)神社というものが今でもある。小野篁は小町の父か、祖父だと言われている人である。つまり、これを見ても、小町は、惟喬親王サイドにいたわけで、彼女が政治の駆け引きによる影響をもろに受け、その結果として失脚していったと考えられるのである。つまりは、彼女は政権闘争の犠牲者でもあったのである。
そして、紀貫之自身も、紀家の人間であることから、六歌仙を選ぶにあたり、半世紀ほど前に、辛酸をなめさせられて政治の表舞台から消されていった同胞に対する憐憫の情も加わっていることは否めない。言わば、同情票のようなものであると考えられるのである。
その後、失脚してパッとしなくなってからも、小町は、後宮としてかつて仕えた仁明天皇を裏切らまいと律儀に男たちの誘いを断り続けたのではないだろうか? そうした、彼女の頑な態度に業を煮やした男たちのやっかみが、鼻持ちならないイヤな女のイメージを作り上げ、彼女の落ちぶれた半生をさらに壮絶なまでに輪をかけて惨めな様に変えていったと推測出来るのである。
虚像の価値はいかほどのもの?
大阪城落城のヒロイン、千姫が、妖艶で淫奔な悪女であったかのような伝説が生まれたのも、彼女が当時住んでいた江戸城の一角、吉田御殿の井戸から、わけのわからない人骨が多数発見されたことに端を発している。千姫は、欲求不満のあまり、夜な夜な男を求めては、弄び、飽きては殺し飽きては殺し、その亡がらを井戸に投げ込んで次々と男漁りを続けたというのである。しかし、事実は出土した人骨は、かなり古いもので、彼女とは全く関係がなかった。淫乱な悪女というイメージは、後世の人が勝手に想像してでっち上げたものだったのである。つまり、彼女は、とんでもない濡れ衣を着せられたことになる。
逆に、小野小町の場合は、権力闘争の犠牲となり、人生の後半は、ツキにも見放され恵まれない状態で寂しく一生を終わっていったかもしれないが、後世の人から絶世の美女の代名詞のような評価を得たのだから、きっと天国でほくそ笑んでいるにちがいない。
それは、貧困の中で死んでいった名もない画家の作品が、その後、何世紀も経ってから途方もない価値がついたようなものとよく似ているような気がするのだ。
いつの世にも、スキャンダラスな噂や刺激的な伝説は、人々の食指を動かす存在である。人々によって、つくられた虚像は、いずれ一人歩きしていくが、一方、人々の方も、いつしか本物と思い込み執拗に追い続けていくことになる。  
5
小野小町 〜絶世の美女の真実
エジプトの“クレオパトラ”、中国の“楊貴妃”、日本の“小野小町”。この3人と言えば、ご存知の通り、世界三大美人と呼ばれ、美人の代名詞のように喩えられる女性たちです。今回はその世界三大美人のひとり、京都にゆかりのある「小野小町(おののこまち)」の話をしましょう。
謎多き女性
絶世の美女と謳われた小野小町は、9世紀中頃、平安時代前期に生きた女流歌人です。歴史に興味のない人でも、百人一首などで名前ぐらいは知っているほどの有名な人物ですが、そのわりには彼女が歌人であり、六歌仙のひとりだったということ以外、その出生も生い立ちも、何一つわかっていないという、ミステリアスな女性なのです。
小町は名前ではなかった!?
日本全国に、小野小町が絶世の美女であったという伝説や、それにまつわる逸話が数々、残されていますが、彼女の出生の地や終焉の地だと言われる場所は全国各地に20箇所以上もあり、どこで、どのように生きた女性なのかは今でも謎のままです。そして、彼女の名前も不明なのです。「エッ、名前が不明って、“小町”じゃないの?」と思われるかもしれませんが、小町は名前ではないのです。小町とは役職や官位などを表す記号のようなものなのです。
小野小町の正体
平安時代では、女性は実名で呼ばれず、父や夫の役職名で呼ばれることがよくあったそうです。例えば、枕草子の作者として有名な“清少納言”は、父の清原元輔が少納言であったことから、“清”と“少納言”を合わせて、“清少納言”と呼ばれました。また、源氏物語の作者、紫式部も父の藤原為時が式部という役職に就いていたことから、清少納言と同じように、最初は藤式部と呼ばれていました。紫式部と呼ばれるようになったのは、源氏物語で「紫の上」を書いた頃からとされています。と言うことは、「紫の上」を書かなければ、源氏物語の作者は“藤式部”として、世に残ったかもしれませんね。あっ、ちょっと話が逸れそうになりそうなので、もとに戻します。
そういう習慣から、小野小町は、遣隋使で有名な小野妹子の血筋にあたる中級貴族、小野氏の娘であった可能性があると言われています。そして、小町と呼ばれたのは、彼女が天皇の更衣だったからということです。天皇の妻には皇后、中宮、妃、女御、更衣という順に位があり、一番下の位の更衣は、殿舎、つまり住居は与えられず、建物の中を屏風や几帳を仕切って作られた簡素な部屋で生活をしていました。その部屋を“町(まち)”と言われていたことから、小町と呼ばれるようになったのではないかと言われているのです。
また、別の説としてあるのが、仁明(にんみょう)天皇の更衣に、“小野吉子(おのの きちこ)”という女性がいたことが、「続日本後記」に記されていますが、この吉子こそが、小野小町だったのではという説です。
結局の所、小野小町については説ばかりで、はっきりとした実像は何もわからないに等しい人物なのです。小野小町ほど、有名でありながら、これほど謎に包まれた女性は歴史上、他にいないのではないでしょうか。
悲しき物語も作られた逸話だった
小野小町の美しさを物語るものとして、深草少将の「百夜通(ももよがよい)」という有名な逸話があります。
その美しさから、彼女は多くの男性から求婚されますが、その中でも、とりわけ熱心だったのが深草少将(ふかくさしょうしょう)でした。彼の夜な夜なの執拗なアタックに辟易していた小町は仕方なく、「私の所に100日、通い続けられれば、結婚しましょう」と約束するのです。それを信じた深草少将は、雨の夜も雪の夜も、睡眠不足の中、せっせと恋しい小町のもとに通い続けたのでした。
少将が暮らす深草から、小町が住む山科の小野の里までは一里半(約6キロ)ほどでしたが、毎晩、通うとなると、かなりの忍耐と体力が必要だったことでしょう。でも、そこは恋する者は強きかなということで、彼は必死に99日、通ったのです。約束の日数まであと1日。ところが、最後の夜、深草少将はついに過労と大雪のために力尽き、途中で倒れて、そのまま凍死してしまったのでした。
時は変われど、女性を慕う男性の想いは今も変わらぬもの。男として、深草少将の気持ちはよくわかるだけに、悲しい話です。ところで、この深草少将は実在していないと言われています。恐らく、この「百夜通」は、小町の美人伝説を強調するために、勝手に後世の人が作り上げた逸話なのでしょうね。
絶世の美女、小野小町を生み出した人物
このように、小野小町は数々のエピソードのもとに、絶世の美女として語り続けられて来ましたが、実は小町の美人伝説を最初に生み出したとされる人物がいたのです。その人物とは、“紀貫之(きのつらゆき)”。
紀貫之は平安中期を代表する歌人で「古今和歌集」の選者のひとりとして知られた人物です。小野小町の死後、半世紀ほど経った頃、彼は六歌仙のひとりに小町を選びますが、その時、彼は小町の歌を次のように評したのでした。
「小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」
“衣通姫(そとおりひめ)”とは、日本書紀や古事記に登場する伝説の絶世の美女のことですが、貫之は小町の歌を衣通姫の如く、か弱きも美しい女心を歌った歌だと評したところ、後にその文章が誤解されて、小町本人が絶世の美女とされた衣通姫に似ているという意味に解釈されたことが、小野小町は絶世の美女と言われる由縁になったとされています。つまり、紀貫之の書評が “小野小町絶世の美人伝説” を生み出したということになるわけですね。
多くの貴公子たちからの求愛になびかなかった小野小町の生涯は果たして、幸せなものだったかどうかはわかりませんが、後生の人から絶世の美女とされたことには、きっと、今も草葉の陰でニコッと微笑んで満足していることでしょう。 
6
小町と短歌
小野小町は、大同4年(809年)出羽国福富の荘桐の木田(秋田県の最南端雄勝町小野字桐木田)で生まれました。たいそう美しい娘で、幼い頃より歌や踊りはもとより、琴、書道なんでも上手にできるようになり13歳の頃都にのぼり、小町は都の風習や教養を身につけました。その後、宮中に任へ、容姿の美しさや才能の優れていることなど、多くの女官中並ぶ者がないといわれ、時の帝からも寵愛を受けました。しかし、小町は36歳にして故郷恋しさのあまり宮中を退き、生地小町の里に帰りました。そして小町は庵を造って閑居し、歌にあけ歌に暮らしました。
小町と深草少将
小町が突然京から姿を消したので、どうしたことかと心を痛めていたのは深草少将でした。風の便りに小町が出羽の国に居ると聞いて、少将は小町に逢いたさのあまり、その筋へお願いし郡代職として、はるばる小町の生地小野の地へ東下りをしました。小町の里にたどりついた深草少将は、平城長鮮沢にある長鮮寺(天台宗)に住み、御返事橋のたもとの梨の木の姥を雇って、小町との逢瀬を夢に描いて恋文を送りました。この恋文を見た小町は、次の一句をもって返事にしたのです。
   忘れずの 元の情の千尋なる 深き思ひを 海にたとへむ
この返歌をもらった少将は、小躍りして喜び、早速面会を求め、小町を訪れました。ところが小町は少将と会おうともせず柴折戸を閉じたまま侍女を使い、「あなたがお送り下された文のように、私を心から慕って下されるなら、西側の堀の向こうの高土手に、わたしが幼い頃、都にたつ時植えていった芍薬があります。それが不在中に残り少なくなって悲しんでいるのです。だから、あの高土手に毎日一株ずつ芍薬を植えて、百株にしていただけませんか?約束どおり百株になりましたら、あなたの御心にそいましょう」と、伝えさせました。
小町と芍薬
少将は、この返事を聞いて、百日とは待ち遠しいことではあるが小町を慕うあまり、梨の木の姥にいいつけて野山から芍薬を掘り取らせて、植え続けることにしました。そしてあけてもくれても毎日一株ずつ植えては帰って行くのです。
小町は、こうした少将の後姿を
   かすみたつ 野をなつかしみ 春駒の 荒れても君が 見え渡るかな
と、口ずさみ見送っていました、この頃小町は疱瘡を患っていたのです。
   面影の かわらで年の つもれかし たとひ命に かぎりありとも
と、嘆き憂いていた時ですから、少将が百日も通う頃には、疱瘡も治ることだろうと、密かに磯前(いそざき)神社(現桑ケ崎)にある寺田山薬師寺如来の社に日参し、寺の傍にある清水で顔を洗って一日も早く治るようにと祈っていました。
こんなこととは露知らず、深草少将は一日もかかすことなく、99本の芍薬を植えつづけました。 
そして、いよいよ百日目の夜を迎えました。この夜は、秋雨が降り続いたあとで、森子川にかかった柴で編んだ橋はしとどぬれていました。しかし少将はこんなことに驚かず「今日でいよいよ百本」小町と晴れて会える日が来たのだと、今までの長い辛苦の思いも消え去り、歓喜の胸がにたぎりました。
少将は、従者が「今宵はお止しになっては」との諫言もきかず、「百夜通いの誓いを果たさずば」と、99日夜も通い慣れた路であるとて、百本目の芍薬をもって小町へ通いました。
しかし、降りしきる雨の中この願いは届かず、少将は不幸にも橋ごと流されみまかってしまいました。
小町は、これを聞いて、日夜なげいていましたが、これではならじと月夜に船を漕ぎ出し、少将の遺骸を森子山(現在の二つ森)に葬り、供養の地蔵菩薩を作り、岩屋堂の麓にあった向野寺に安置して、芍薬には99首の歌を詠じ、名を法実経の花といいました。
   実植して 九十九本(つくもつくも)の あなうらに 法実(のりみ)歌のみ たへな芍薬
そして少将の假の宿であった平城の長鮮寺には、坂碑を建てねんごろに回向しました。その後小町は岩屋堂に住み、世を避け香をたきながら自像をきざみ92歳で
   いつとなく かへさはやなん かりの身の いつつのいろも かはりゆくなり
と、辞世を残して亡くなりました。 
7
小野小町変貌  ー説話から能へー 
1 はじめに
平安時代前期の宮廷女流歌人で、六歌仙の一人として「古今和歌集」「仮名序」に名を連ねる小野小町の生涯は、多くの謎と伝説に彩られている。そもそも、実在の小町像が不鮮明なうえに、平安中期〜末期に成立した空海作と伝える「玉造小町子壮衰書」の老女と小野小町が同一人物とみなされ、「落槐の小町像」が広く流布した。そこにさらに伝説が加わり、それらを総合して中世には「若い頃は絶世の美女で多くの男性に言い寄られたが、拒絶や翻弄を繰り返したあげく、年老いてからは顧みる人もなくなり、乞食となって諸国を放浪した末に孤独のうちに亡くなった。その骸骨は野ざらしとなっていたが、ある人が見つけて供養した」という一代記風の輪郭が形作られていったのである。
伝説上の小町は、定まる男もついの住み家も財産も無く、あてどない人生を浮遊する老婆である。何も持たないが、「過去」だけはたっぷり持っている。能は、ごく早い段階において、この伝説的小町を主人公とする〈卒都婆小町〉と〈通小町〉を制作し、その後の成立と推定される〈関寺小町〉・〈鶏鵡小町〉・〈草紙洗小町〉(この作品のみ若い歌人小町が主人公)の計五番の能が現在まで演じ続けられている。非上演曲を含めれば作品数はもっと増え、内容も多彩である。同一人物がこれほど多くの作品に登場するのは希であり、小町を取り上げたことは能の作品史にとって大きな意味を持ったと思われるが、同時に、それ以降の小町像にも少なからぬ影響を及ぼした。なかでも、小町と四位の少将(深草少将)の結びつきを決定づけた点は特筆に値する。能があらたに付加した小町伝説と言ってよかろう。
本稿は、「過去の時間を背負った老女小町」の舞台化に焦点を当て、小町像の時代的変貌を追うことを目指す論考の一部である。全体としては、〈卒都婆小町〉・〈通小町〉・〈関寺小町〉の三曲に関して、それぞれ小町説話との関わりを確認し、その摂取方法と能が新たに付け加えた要素、および劇としての特色をまとめ、さらに、能以降の展開I三島由紀夫作「近代能楽集」.「卒塔婆小町」と太田省吾作「小町風伝」をとりあげ、近現代演劇における小町像の新たな広がりと、能の現代化について述べる予定であるが、その最初に当たる本稿では、〈卒都婆小町〉と〈通小町〉について考察することとした。 
2 小町説話の概要
小町説話の実態と形成については、片桐洋一氏「小野小町造跡」や細川涼一氏「女の中世l小野小町巴その他」所収「小野小町説話の展開」をはじめ多くの論考がある。ひとくちに小町説話といっても、広汎にわたるうえ、細部における変容が著しいこともあって、伝承経路や影響関係を解明するのは困難を極める。そこで、ここでは、能以前に成立していた典型的小町像を確認することから出発したい。直接的典拠というわけではないが、能の小町像と密接に関係する説話として、建長六年(1254)成立、橘成季編纂の説話集「古今著聞集」巻五・和歌第六に記す「小野小町が壮衰の事」を以下に引用する。(新潮古典集成本による)
小野小町がわかくて色を好みし時、もてなしありざまたぐひなかりけり。「壮衰記」といふものには、三皇五帝の妃も、漢王・周公の妻もいまだこのおごりをなさずと書きたり。かかれば、衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍をととのへ、身には蘭霧を薫じ、口には和歌を詠じて、よろづの男をぱいやしくのみ思ひくたし、女御・后に心をかけたりしほどに、十七にて母をうしなひ、十九にて父におくれ、一一十一にて兄にわかれ、一一十三にて弟を先立てしかば、単孤無頼のひとり人になりて、たのむかたなかりき。いみじかりつるさかえ日ごとにおとろへ、花やかなりし貌としどしにすたれつつ、心をかけたるたぐひも疎くのみなりしかば、家は破れて月ばかりむなしくすみ、庭はあれて蓬のみいたづらにしげし。かくまでなりにければ、文屋康秀が三河の橡にて下りけるに誘はれて、
侘びぬれば身をうきくさのねをたえてさそふ水あらぱいなんとぞ思ふ
とよみて、次第におちぶれ行くほどに、はては野山にぞさそらひける。人間の有様、これにて知るべし。
鎌倉期における小町説話の典型といってよいだろう。要点をかいつまんで述べると、「玉造小町子壮衰書」の内容を小野小町の生涯とみなして同書を引用しながら栄華と零落を記述すること、「古今和歌集」938番の小野小町の歌を、「かくまでなりにければ」(こんなひどい状態になってしまったので)という文脈で説話中に組み込んでいること、そして傍線部のように、小町零落の要因を「わかくて色を好み」・「よろづの男をぱいやしくのみ思ひくたし」(すべての男性をとるに足らないと見下し)たためとしていることの三点が重要と思われる。第三点は実は、原典の「玉造小町子壮衰書」の記述と微妙に食い違っている。同書では、並みの男との婚姻を許さなかったのは両親と兄弟であって小町自身ではない。小野小町と玉造小町を同一人物とみなす過程で、このような解釈が生まれたのであろうか。「古今著聞集」が依拠したとみられる「十訓抄」第二では「可レ離二驍慢一事」と題することからもうかがえるように、小町零落と放浪は「若さと美貌に箸り、多くの男性を拒絶したため」という、因果応報の文脈で捉えられているのである。
似たような語られ方は、「平家物語」巻九「小宰相身投」で、平通盛と小宰相局のなれそめを語るエピソードの中にも見える。三年間も通盛の文に返事をしない小宰相を、上西門院は「あまりに人の心づよきもなかノーあたとなる物を」と諭し、次のように小野小町を引き合いに出す。
中比、小野小町とて、みめかたち世にすぐれ、なきけのみちありがたかりしかば、見る人、聞くもの、肝たましゐをいたましめずといふ事なし。されども心づよき名をやとりたりけん、はてには人の思ひのつもりとて、風をふせくたよりもなく、雨をもらさぬわざもなし。やどにくもらぬ月ほしを、涙にうかべ、野べのわかな、沢のねぜりをつみてこそ、つゆの命をば過ぐしけれ。(「覚一本」による)
ここでは、若い女性に対する啓蒙、ないしは警告として小町説話が利用されており、人々に与えた影響の大きさがうかがわれる。まさに、片桐洋一氏のいう「衰老落魂」と「美人驍慢」の結合であり、「古今著聞集」で指摘した三点のポイントは、ほぼ同じ位相のもとに、能〈卒都婆小町〉に流れ込んでいく。 
3 説話から能〈卒都婆小町〉へ
〈卒都婆小町〉は観阿弥原作・世阿弥改作、〈通小町〉は唱導師の原作に観阿弥と世阿弥が手を入れたと世阿弥伝書に一口う。古作を改訂した多層的性格を有する両曲は、成立年代が近接するばかりでなく、「百夜通い」モチーフを共有することもあって、世阿弥改作以前の古態を推測しつつ相互関係を考察する研究がこれまで積み重ねられてきた。以下では、必要な場合を除いて改作問題には深入りせず、現存の(おそらく)世阿弥による決定稿を対象とし、両曲の関係についても小町説話の摂取という観点から考えてみたい。
はじめに〈卒都婆小町〉のストーリー展開を番号を付して示しておこう。
1 高野山出身の僧(ワキ・ワキッレ)が都へ上る道筋に、一人の老婆(シテ)がやってきて、朽ちた卒都婆に腰掛ける。
2 僧が、卒都婆は仏体そのものであるから退けと答めると、老婆は理路整然と反論しはじめ、完膚無きまでに僧を論破する(「卒都婆問答」)。
3 老婆は小野小町の成れる果てであった。かつての美貌に引き替えた現在の零落ぶりに僧は驚きを隠せない。
4 突然小町の様子が変わる。昔、小町に深く思いを寄せた深草少将の死霊が取り想いたのである。九十九夜通い詰めたものの思いを遂げることなく急死した「百夜通い」の有様を、少将の霊は小町の体を通して僧に見せる。
5 狂いさめた小町は、仏法に帰依して悟りの道に入ることを願う。
右は概ね「玉造小町子壮一技書」(A)、「弘法大師小町教化説話」(B)、「深草の四位少将百夜通」(C)の先行説話をもとに構成されている。Aは、1のシテ登場段と3の老女の描写などに本文を引用するので直接関係が明らかだが、それだけでなく、「僧が街路で遭遇した老婆の半生を聞く」という同書の構想を、そのまま一曲の枠組みとして応用したものであろう。最終場面の5を「これにつけても後の世を、願ふぞまことなりける。沙を塔と重ねて、黄金の膚こまやかに、花を仏に手向けつつ、悟りの道に入らうよ」(〔キリ〕)と結ぶ点は「玉造小町子壮衰書」末尾で老女が、「如かじ、仏道に帰して、死後の徳を播ざむと欲ふには。・・・仰ぎ願くは諸仏、必ず孤身を導きたまへ」(栃尾武校注、岩波文庫所収本文の書き下し文による)と仏道帰依を願う内容と響き合う。また、シテが登場して最初に発する言葉「身は浮草を誘ふ水、身は浮草を誘ふ水、なきこそ悲しかりけれ」(〔次第〕)は、「古今著聞集」で確認したように、「小町零落の歌」をアレンジしたもので、「いまはもう、浮き草のようなわたしを誘ってくれる水さえないのが悲しい」と、さらなる零落を嘆いていることになる。
叙述の関係上、先にCについて述べよう。「百夜通い」説話(百夜通えば逢おうと言われた男が、女の元に通うが、百夜目に行けなくなる)は、男女の人物を特定しない形で、藤原清輔の「奥義抄」をはじめとする歌学書に散見し、これを題材に詠んだ歌も少なくない。ただし、この男女を四位の少将と小町に特定する文献は能以前に存在が知られておらず、唱導師による原作〈通小町〉においてはじめて導入したかと推測されている。小町の恋の相手には、在原業平・文屋康秀・大江惟章等が比定されることはあっても、どちらかというと漠然としており、特定の物語も形成されていなかったらしいから、小町の驍慢、男性拒否を示すエピソードとして「百夜通い」は恰好の物語であったと思われる。時代的にはやや下るが、御伽草子「和泉式部」に、「小野小町は、若盛りの姿よきによりて、人に恋ひられて、その怨念のとけざれば、無量の轡によりて、その因果のがれず、つひに小町、四位の少将思ひ離れず…・」(小学館「日本古典文学全書」所収本文による)と記すことも参考になる。〈通小町〉でも〈卒都婆小町〉でも、結果的に少将を死に至らしめたために、小町は恨みを買い、崇られる。4の本文を見よう。「小町といふ人は、あまりに色が深うて、あなたの玉章こなたの文・・・虚言なりとも、一度の返事もなうて、今百年になるが報うて・・・」、「小町に心をかけし人は多き中にも、ことに思ひ深草の四位の少将の、恨みの数のめぐり来て・・・」とあるように、あらゆる男性を拒否した報いとして百歳になったいま、四位の少将の恨みが襲ってくるのである。話が具体的になっただけで、文脈としては先述した「古今著聞集」や「平家物語」と同一と考えてよかろう。以上検討したように、A・Cに関しては、従来の小町説話や小町像に寄り添った摂取とアレンジがなされていることがわかる。
それに対してBの場合は、説話からの飛躍が注目される。これは、比較的近年報告された小町関係説話で、Aから派生したバリエーションと称すべき内容を持っている。鎌倉未〜南北朝期成立、九州大学図書館蔵「古今和歌集序秘注」所収の説話や、智積院蔵「日本記」所収の説話などが紹介されているが、ともに、古卒都婆に腰掛けた老女小町を弘法大師が教化する点、能の「極楽の内ならばこそ悪しからめ、そとは何かは、くるしかるべき」に類する戯れ歌(語句は小異)を小町が詠む点、「卒都婆問答」と極めて関係が深い。小林健二氏は、同説話で「大師が小町に戒を授ける」ことに注意を促し、能〈卒都婆小町〉の説話的背景に、天台僧が関与したと推測されるこの種の「小町教化認」が存在したことを指摘したうえで、「しかし、能の作者の構想は、この説話に支配されることはなかった。説話の世界では、大師が小町を教化することに眼目があったのであるが、〈卒都婆小町》では、教化する側であるはずの高僧が逆に論破され、その上で小町が「極楽の内」の戯歌を詠む、というところに義理能としての対話劇の面白さが見い出せるのであり、そこに作者としての観阿弥の面目があったのである」と結論づけている。
「弘法大師小町教化説話」は「卒都婆問答」に骨子を提供したと推測されるが、「宗論」に類する機知あふれる言葉の応酬や、教化されるはずの小町が逆に僧をやりこめてしまう着想は、能作者の創案なのだろう。そして、この箇所は、従来の小町伝説から遊離するだけでなく、「因果応報に苦しむ小町が仏道を願う」〈卒都婆小町〉全体の構想からみても異質である。実は、ここは観阿弥作のままではなく、世阿弥による改訂が施されているらしい。改訂の規模については、部分的な語句の増補とする立場から、「卒都婆問答」全体を世阿弥改訂と見る立場まで幅広く、決め手を欠くが、異質な理由は改訂が関係している可能性もあろう。
仮に「卒都婆問答」が説話の如く弘法大師の小町教化で終わっていたとすれば、〈卒都婆小町〉の魅力は半減するだろう。無知な乞食と見えた老婆が、教学にとらわれない本物の知恵を体現していたという逆転、外見と内面のギャップがこの段のポイントである。この場の小町は、落ちぶれてはいても頭の回転が早く、機知に富み、気骨と尊厳を失わない魅力的な女として、能の女性像の中でも異彩を放っている。これまでの小町説話には描かれることのなかった小町像であり、にもかかわらず、いかにも小町にふさわしいと納得させられてしまう。そのような小町が一転してあさましい物乞いに走ったかと思うと、愚き物に乗っ取られて狂いだし、内面と外面が引き裂かれた人格をさらす。愚き物は、巫女の託宣をはじめ、現実世界でしばしば目にするところであり、能は初期のころからこれを芸能化して演じていた。世阿弥は「女物狂などに、あるひは修羅闘靜・鬼神などの遍く事、これ、何(より)も悪き事也。愚物の本意をせんとて、女姿にて怒りぬれば、見所似合はず」(「風姿花伝」・「物学条々」)と否定的だが、愚く側と懸かれる側の落差が大きいほど刺激的なのは事実であって、外見は老婆なのに声音や行動が男性という〈卒都婆小町〉の様相は、まさに「面白づくの芸能」(同書)として迎えられたのではないだろうか。
以上をまとめると、〈卒都婆小町〉は、実在の歌人小町から遊離して中世に広く流布した美人驍慢・衰老落魂説話の基本をカバーする集大成的な内容を備えていることが知られ、小町伝説の本格的舞台化としての意義を持つ。一方、「卒都婆問答」に見たような独自の小町像を付加し、ひとつの像を結んだかと思うと、次には不意打ちのように異なる相貌を見せる、多層的人間として小町を造型している。あたかも、|人の人間の中には、その人の経験したすべてがたたみ込まれており、時を得ればそれらが姿をあらわすとでもいうかのように、「過去の時間」を内包した老女小町ならではの劇を作り上げることに成功している。 
4 〈卒都婆小町〉と〈通小町〉
〈卒都婆小町〉と〈通小町〉は、ちょうど連作のような関係にある。すなわち、百歳の生きている小町が少将の死霊に愚き崇られて仏道を願うところで終了した前者を受けて、後者は、死後地獄に堕ちた小町と、なおも票り続ける少将とが登場する。二人は罪障熾悔として「百夜通い」を語ることを通じて、ともに成仏を果たす。いわば、〈卒都婆小町〉の続編が〈通小町〉に相当しているのであって、このように考えると「百夜通い」モチーフを共有する意味が理解しやすい。
〈通小町〉と関わるもうひとつの小町説話が「あなめ説話」である。放浪の果て、孤独のうちに死んだ小町の閥膜の目から薄が生えて歌を詠じたところ、ある人物が見つけて供養したというのがその概略で、「和歌童蒙抄」・「袋草子」・「江次第」などの歌学書に記すが、場所、人物名、歌の語句、歌か短連歌唱詠か、夢中に小町があらわれるか、など細部においてはまちまちである。また、鰯艘には二一口及しないものもあるし、「あなめ説話」自体を伴わない小町説話も少なくない。〈通小町〉の直接的典拠は確定できないが、田口和夫氏が指摘するように、応永末年以降の成立とされる「三国伝記」巻十二第六話「小野小町盛衰事」と共通面が多いと思われるので、要点をかいつまんで記しておく。
イ、弘法大師は小町の終焉の地を尋ね求め、花薄の穂が招く野原で歌を詠む。
ロ、「秋風ノ吹二付テモアナメアナメ小野トハ云ハジ薄キ生タリ」と歌を詠じる声を探したところ、「白ク曝ダル燭櫻ノ眼ノ穴ヨリ薄生ひ賞テ有ケルガ詠ジ」ていた。
ハ、大師は、白骨を高野山に収めて、小町を弔った。
二、小町は、「天生ノ得閉果】(天上界に生まれる果報を得た)。能との直接関係は不明ながら、ここでは、憎の供養を受けた小町が仏果を得ている点に注目される。
あらためて〈通小町〉の概略を述べよう。
所は、京都八瀬の山里、夏安居の僧の元へ毎日木の実・爪木を運んで供養する姥がいる。僧が名を尋ねると、「己とは言はじ、薄生ひたる市原野辺に住む姥ぞ、跡弔ひ給へ」と言って、かき消すように消える(中入)。僧は、市原野で小野小町が「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とはいはじ薄生ひけり」と詠んだ古事を思い出し、市原野へ出向いて小町の霊を弔う。すると、小町の後ろから怨霊姿の四位の少将が出現し、戒を授かろうとする小町を引き留め、続いて「百夜通い」の物まねを語りみせ、成仏へ至る。
「亡霊の歌に導かれて、僧が小町終焉の場を訪れ、供養する」という全体の構想が「あなめ説話」に依拠しているのは明らかであろう。単純化すれば、「あなめ説話」と「百夜通い」の取り合わせである。
ところで、〈通小町〉の主人公は四位の少将であり、「煩悩の犬となって、打たるると離れじ」と、仏法の救いを拒絶してまで女に恋着する男の迷妄を生々しく描き出すのが主眼である。それに対する小町は「男を拒絶する女」として造型されており、それは死後まで持ちこされている。「人の心は白雲の、われは曇らじ心の月、出でてお僧に弔はれん」(少将の心がどうだかは知らない。わたしの心は満月のように澄んでいる。さあ、出て行ってお僧の弔いを受けよう)と、少将を振り切ろうとし、「百夜通い」の段では「もとよりわれは白雲の、かかる迷ひのありけるとは」(少将にこれほどの迷いがあろうとは、わたしは思いもよらなかった)と冷淡な心を隠さない。恋愛の当事者である男女二人の霊が妄執の過去を再現する〈船橋〉・〈錦木〉などと比較すると、男の執心の激しさにおいても、女の冷たさにおいても、〈通小町〉に匹敵する作品はみあたらないだろう。唱導師原作の面影が反映した結果ではあろうが、小町説話で育まれた「拒絶する小町」像が影響を与え、個性的な女人を生み出すことになったと推測する。
しかし、これほどの執心を示しながら、成仏はやや唐突に訪れる。
雪の夜も雨の夜も九十九夜まで通い詰めた末、ついに逢う日が訪れた時、少将は、ふと仏が戒めた「飲酒戒」を保とうと思う。その「一念の悟り」により、「多くの罪を減して、小野の小町も少将も、ともに仏道成りにけり」と結ばれるのである。少将が百夜目に死んだことが述べられないことに加えて、あまりに成仏があっけないために、ここに何らかの省略か改訂が施されているのではないかとの意見がある。筆者も、長らくそう考えていたが、このままで解釈は可能だと思い至った。二人は、生前の一回きりの百夜通いを、「霊になった今、憎の前で、もう一度」行っている。演じているうち、少将の心にふと生じた「飲酒戒を保とう」との気持ちが、仏道への機縁となったということだろう。生前の百夜通いでは死んでしまった少将ではあるが、死後における百夜通いの中で、ようやく成仏を果たすのである。ほんのささいな善行が悟りを導くというパターンは仏教説話の常套でもあって、むしろ広大無辺な仏の慈悲をあかすものである。唱導原作の〈通小町〉にふさわしい結末とみるべきではないだろうか。「あなめ説話」の中では、数少なく、またさほど明確には描かれてこなかった「小町の成仏」をテーマに据え、小町を地獄から救済したところに、〈通小町〉の新しざがあると思う。
古作能〈卒都婆小町〉・〈通小町〉における小町説話の摂取方法と、能があらたに付け加えた小町像について述べた。二つの作品は、大筋においては従来の小町説話を大幅に逸脱するものではなく、説話全体の枠組みに説話を応用し、「男を拒絶する小町」を肉付けして、劇的演技を導き出している。引用する小町作の和歌が各々|首しかなく、そのいずれもが小町零落讃の中で用いられていることにも、説話との密着度がうかがわれる。〈卒都婆小町〉と〈通小町〉は前編・後編の如く響き合って「小町説話の舞台化」を果たしたのである。 
 
10.蝉丸 (せみまる)  

 

これやこの 行(い)くも帰(かへ)るも別(わか)れては
知(し)るも知(し)らぬも 逢坂(あふさか)の関(せき)  
これが例の、都から離れて行く人も都へ帰る人も、知っている人も知らない人も、出逢いと別れをくり返す逢坂の関なのです。 / これが都(京都)から東へ下っていく人も、都へ帰ってくる人も、顔見知りの人もそうでない人も逢っては別れ、別れては逢うというこの名の通りの逢坂の関なのだなあ。 / これはまぁまぁ、京の都からはるか東国へ行く人も、東国から都へ帰ってくる人も、ここで別れては出会い、知り合いの人も、まったくお互いを知らない人も、会っては別れていることだ。その名前のとおり「あふさか」(会う坂=逢坂)の関だなぁ。 / これがあの有名な、(東国へ)下って行く人も都へ帰る人も、ここで別れてはまたここで会い、知っている人も知らない人も、またここで出会うという逢坂の関なのだなあ。
○ これやこの / 「これ」と「こ」は、いずれも近称の指示代名詞。「や」は、詠嘆の間投助詞。「これやこの」で、「これが例の・噂に聞く」の意。逢坂の関にかかる。
○ 行くも帰るも / 「行く」と「帰る」は、いずれも動詞の連体形で準体法。下に「人」を補って訳す。「行く」は「東国へ行く」、「帰る」は「都へ帰る」の意。「も」は、並列の係助詞。
○ 別れては / 「は」は、強意の係助詞。「ては」で、動作の反復を表す。「別れ(る)」と「逢(ふ)」がくり返されることを示す。
○ 知るも知らぬも / 「知る」は、動詞の連体形、「知らぬ」は、動詞の未然形+打消の助動詞の連体形で、いずれも準体法。下に「人」を補って訳す。
○ 逢坂の関 / 「あふ」は、「逢ふ」と「逢(坂)」の掛詞。上を受けて「知るも知らぬも逢ふ」という動詞になり、下に続いて「逢坂の関」という地名になる。「逢坂の関」は、山城(京都府)と近江(滋賀県)の境にあった関所で、不破(美濃)・鈴鹿(伊勢)とともに三関の一つとされたが、当時の都人にとっては、京と東国とを隔てる身近な難所であり、特別な関所であった。現在、その付近に名神高速道路の「蝉丸トンネル」がある。  
口説きの系譜
1
蝉丸(せみまる、生没年不詳)は、平安時代前期の歌人、音楽家。古くは「せみまろ」とも読む。
『小倉百人一首』にその歌が収録されていることで知られているが、その人物像は不詳。宇多天皇の皇子敦実親王の雑色、醍醐天皇の第四皇子などと諸伝があり、後に皇室の御物となった琵琶の名器・無名を愛用していたと伝えられる。また、仁明天皇の時代の人という説もある。生没年は不詳であるが、旧暦5月24日およびグレゴリオ暦の6月24日(月遅れ)が「蝉丸忌」とされている。
逢坂の関に庵をむすび、往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌を詠んだという(百人一首では“行くも帰るも分かれては”となっている)。このため、逢坂の関では関の明神として祭られる。和歌は上記のものが『後撰和歌集』に収録されている他、『新古今和歌集』『続古今和歌集』の3首を含め勅撰和歌集に計4首が採録されている。
○ 管弦の名人であった源博雅が逢坂の関に住む蝉丸が琵琶の名人であることを聞き、蝉丸の演奏を何としても聴きたいと思い、逢坂に3年間通いつづけ、遂に8月15日夜に琵琶の秘曲『流泉』『啄木』を伝授されたという(『今昔物語集』巻第24 第23話)。他にも蝉丸に関する様々な伝承は『今昔物語集』や『平家物語』などにも登場している。
○ 能に『蝉丸』(4番目物の狂女物)という曲がある。逆髪という姉が逢坂の関まで尋ねてきて、2人の障害をもった身をなぐさめあい、悲しい別れの結末になる。この出典は明らかでない。
延喜帝(醍醐天皇:885年〜930年)の第四皇子、蝉丸の宮は、生まれつき盲目でした。あるとき廷臣の清貫(きよつら)は、蝉丸を逢坂山に捨てよ、という勅命のもと、蝉丸を逢坂山に連れて行きます。嘆く清貫に、蝉丸は後世を思う帝の叡慮だと諭します。清貫は、その場で蝉丸の髪を剃って出家の身とし、蓑、笠、杖を渡し、別れます。蝉丸は、琵琶を胸に抱いて涙のうちに伏し転ぶのでした。蝉丸の様子を見にきた博雅の三位は、あまりに痛々しいことから、雨露をしのげるように藁屋をしつらえて、蝉丸を招じ入れます。一方、延喜帝の第三の御子、逆髪は、皇女に生まれながら、逆さまに生い立つ髪を持ち、狂人となって、辺地をさ迷う身となっていました。都を出て逢坂山に着いた逆髪は、藁屋よりもれ聞こえる琵琶の音を耳に止め、弟の蝉丸がいるのに気づき、声をかけます。ふたりは互いに手と手を取り、わびしい境遇を語り合うのでした。しかし、いつまでもそうしてはいられず、逆髪は暇を告げ、ふたりは涙ながらに、お互いを思いやりながら、別れます。
○ 近松門左衛門作の人形浄瑠璃にも『蝉丸』がある。蝉丸は女人の怨念で盲目となるが、最後に開眼する。 
2
今昔物語の蝉丸伝説(巻第二十四の第二十三話)
―源博雅朝臣、会坂(あふさか)の盲(めしひ)の許に行く語―
今は昔、源博雅朝臣という人がいた。醍醐天皇の皇子、兵部卿の親王と呼ばれた克明(かつあきら)親王の子である。よろずのことに優れた人であったが、なかでも管弦の道を極めていた。琵琶はいとも優美に弾き、笛の音は艶にして得も言われなかった。この人は村上天皇の御代の殿上人であった。
その頃、逢坂の関にひとりの盲人が庵を作って住んでいた。名を蝉丸といった。宇多法皇の皇子、敦実親王の雑色であったが、親王は管弦の道に秀で、琵琶をよく弾いていた。それを常に聞くうち、蝉丸も琵琶の上手になったのである。
さて、博雅は音楽の道を非常に好んだので、この逢坂の関の盲(めしい)が琵琶の名手だと聞いて、なんとかその弾奏を聞きたいものだと思った。しかし盲の庵は異様なありさまであったので、人を遣って内々に蝉丸に伝えさせたことに
「何ゆえにこのような思いもかけぬ所に住んでいるのか。京に来て住めばよい」
と。盲はこれを聞き、答えるかわりに歌を詠んで言うことには、
  世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋もはてし無ければ
使いは帰って事情を語った。博雅はこれを聞くと、居ても立ってもいられぬ思いに駆られ、心の内で思ったことには、
「私は管弦の道に心をかける余り、何としてもこの盲(めしい)に会おうと深く心に願ったが、あの者の命もいつまでもつかわからない。私とて命は明日も知れない。琵琶には流泉・啄木という曲があるが、世に絶えてしまった秘曲である。ただあの盲のみが知っている。如何にしても聴いてやろう」
そう心に決めて、夜、逢坂の関に行ったのであるが、蝉丸がその曲を弾くことはなかった。博雅はその後三年間、夜な夜な庵のほとりへ行っては、今か今かと立ち聞きしたが、一向に弾く様子が無い。
三年目の八月十五日、月はおぼろに霞み、風が少し強く吹く夜、博雅は「ああ、今宵は興も乗ろうか。逢坂の盲、今夜こそ流泉・啄木を弾くだろう」と思い、出かけて行って立ち聞きすると、盲は琵琶をかき鳴らし、感興ありげな様子である。
博雅が期待を篭めて耳をすませるうち、蝉丸はひとり憂さを晴らすように、
  逢坂の関の嵐のはげしきに強ひてぞゐたる夜を過ごすとて
そう詠じると、琵琶をかき鳴らした。博雅はこれを聞き、涙を流し、感激すること限りなかった。
盲(めしい)が独り呟いて言うことに、「ああ、興のある夜だことよ。私以外に数奇者が世におらぬものか。今宵芸道を心得た人が訪ねて来たら、物語しようものを」。
博雅はこれを聞き、声に出して
「王城にある博雅という者が、ここにおるぞ」
と言った。
「そのように申されるのはどなたでいらっしゃる」
「私はしかじかの者。管弦の道を好む余り、この三年間、庵のほとりに通っていたが、幸い今夜そなたに会うことができた」
盲はこれを聞いて喜んだ。博雅も喜色を浮かべ、庵の内へ入ると、うちとけて物語などしあった。
「流泉・啄木の奏法を聞きたい」と博雅が言うと、
「亡き親王はこのようにお弾きになったものでした」
と盲は言って、件の奏法を博雅に伝えた。博雅は琵琶を携えて来なかったために、ただ口伝によってこれを習ったのである。
博雅は大いに満足し、暁に帰って行った。
 
この話を思うに、諸々の道はこのようにひたすら好むべきものである。今の世はそうでない。だからこの末代、諸道に達者が少ないのである。まことに哀れなことである。蝉丸は賤しい者ではあるが、長年親王の弾く琵琶を聴き、このように道を極めた上手になったのであるが、盲目となったので、逢坂にいたのである。この時以後、盲者が琵琶を弾くことが世に始まったと語り伝えているのである。 
3
逢坂の関 ー蝉丸神社を訪ねてー
   これやこのゆくも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関  蝉丸
百人一首のこの読み札には、眼を閉じた頭巾の僧が坐っている絵が描いてあったと記憶している。僧が琵琶を抱えていたかどうかは思い出せない。扇子を持っていたような気もする。
蝉丸(せみまる、あるいはせみまろ、とも)は逢坂に庵を結んで住んでいたという伝説の歌人で、盲目であったが琵琶の名手であったという。逢坂には古くから関があり、畿内と畿外の境界の関であった。逢坂山はほとんど都の外れの地、蝉丸はそこで世捨て人のように生きていたのだろうか。蝉丸とは本名とも思えないが、音曲の神として逢坂の三つの神社に祀られている。
今昔物語、謡曲、浄瑠璃などに蝉丸が登場しており、貴人に仕えた雑色(下人)、また盲目ゆえに幼少時に棄てられた皇子、盲目の琵琶法師、など蝉丸に関しては、時代によって身分の異なるさまざまな伝承がある。その人物像については定かではないが、いずれも盲目で琵琶の名手であったという点では共通している。
新古今集にも蝉丸の歌が二首載っているが、そちらの歌はあまり知られていなくて、蝉丸といえば、これやこの、の逢坂の歌が有名である。百人一首に入ったことにより、世に知られ、その名も後世に残ったのであろう。
繰り返しこの歌を呟いていると、何やら呪文のような響きが感じられる。反復、対句によるものだろう。「も」が四回使われているのは多すぎるような気がするが、一度聞いたらこのリズムが心のどこかに残ってしまうような面白い感覚があって、妙に印象が強い。
逢坂の関とはどのような所なのだろう。また、神となって社に祀られている蝉丸とはいったいどういう人物なのだろう。
地図で見ると、蝉丸の名を冠した神社は分社、上社、下社とそう遠くない場所に並んでいる。逢坂は万葉集にも詠まれた歌枕の地、今日は蝉丸ゆかりの地を歩いてみることにする。
逢坂の関は滋賀県大津市にある。逢坂山は畿内と畿外の境界に位置している。山城と近江の境といえばわかりやすいだろうか。逢坂には古くから関が設けられていた。さらに古い重要な関としては愛発(あらち)関(越前)があり、こちらは藤原仲麻呂の乱の折にも登場するが、(愛発関を塞いで、越前に逃れようとした藤原仲麻呂の退路を絶った)平安前期になって愛発の関が閉じられると、代わりに逢坂の関が使われるようになり、不破の関(美濃)、鈴鹿の関(伊勢)と並んで三関と呼ばれるようになった。
枕草子にも、関は、逢坂、須磨の関、鈴鹿の関、とその名が挙がっている。きっと賑わいも趣のある所だったのであろう。
乗降客もまばらな京阪京津線大谷駅に降り立った。見回すとそこには静かな集落が開けている。山間部であるが、ほとんど山道を歩くこともなく、目の前にもう神社のものらしい石段が見えていて、それが蝉丸神社分社であった。小さな村の鎮守社という感じを受ける。
境内の碑には、前述の蝉丸の歌が刻まれていた。蝉丸神社はここ以外に上社、下社の二箇所あり、ここが一番新しく十七世紀に建てられていて、上社、下社は十世紀の建立であるという。それぞれ蝉丸、猿田彦、豊玉姫を祭神としている。
蝉丸は音曲芸道の神として、また猿田彦、豊玉姫(玉依姫と同様、神に仕えた女性の名か)は、峠や道の神、境界を守る性格を持つ神として祀られているようだ。分社は蝉丸が主祭神で二神が合祀され、上社、下社は逆に猿田彦、豊玉姫が主祭神で、蝉丸が後で合祀されたのだそうだ。
三つの神社はほぼ道沿いに並んでいて、そう離れてはいない。なぜ近接して蝉丸神社が三社もあるのかと素朴な疑問も湧いてくる。上社と下社は、逢坂の関趾を越えた坂の向こう側にあってここからは見えない。
分社はひっそりとした雰囲気で、人の気配もなく、静まっていた。建立年でいえばここが一番新しい。あるいは蝉丸の庵跡なのでそのことに因んで集落の人々が社を建てたのかとも思ったが、神社の由来には、それに関しては何も書かれてはいなかった。
小さなお社であるが、神楽殿が設けてあるのはさすがだと思った。ここで琵琶の演奏や能が奉納されたのだろう。
今昔物語 巻第二十四 「源博雅(ひろまさ)の朝臣、逢坂の盲(めしい)の許(もと)に行きたる語(こと)」を少し見てみよう。
…今は昔、源博雅朝臣という人有けり。延喜の御子の兵部卿の親王と申す人の子なり。管弦の道になむ極めたりける。琵琶をも微妙に弾きけり…。
この時に、会坂(おうさか)の関に一人の盲(めしい)庵を造りて住みけり。名をば蝉丸とぞ云ける。此れは敦実(あつみ)と申しける式部卿の宮の雑色(ぞうしき)にてなむ有ける。
其の宮は、宇多法皇の御子にて、管弦の道に極まりける人なり。年来琵琶を弾き給ひけるを常に聞きて、蝉丸琵琶をなむ微妙に弾く…。
蝉丸は敦実親王という皇子に仕えた人、それも雑役を務める下人であったが、琵琶の名手であった皇子の弾く曲を耳で聞いて、習い覚えたというのだ。やがて目を患った雑色は都を離れる。博雅は会坂に住む盲人が琵琶の上手と聞き、京に呼び寄せようと思って使いをやるが、盲人は断りの歌を返してくる。
   世の中はとてもかくても過ごしてむ宮も藁屋もはてしなければ
(世の中はどのように過ごしても同じこと、宮殿も藁屋も所詮は仮の住まいですから)
博雅はそれを聞いて、ぜひ盲人に会いたいと思うようになる。
…琵琶に流泉、啄木という曲あり。此れは世に絶えぬべき事なり。ただ此の盲のみこそ此れを知りたるなれ。構えて此れが弾くを聞かむ。…
仕えていた皇子が亡くなり、琵琶の流泉、啄木の秘曲を知るものは、雑色の盲人だけになった。博雅はぜひ秘曲を聞きたいと願って、夜な夜な会坂に通っていき、庵の近くで耳を澄ますが、蝉丸はその曲を弾くことがなく、むなしく三年の月日が過ぎていった。そして中秋名月の夜がきて、盲人は琵琶を取って弾き始め、独り言をいう。
…哀れ、興ある夜かな。今夜心得たらむ人の来かし。物語せむ。
それを聞いた博雅は名乗り出て、ずっと庵に通っていたことを明かす。
…盲此れを聞きて喜ぶ。博雅も喜び乍(ながら)、庵の内に入りて互いに物語などして、博雅、「流泉、啄木の手を聞かむ」といふ。盲、「故宮はかくなむ弾き給ひし」と件の手を博雅に伝えしめてける。博雅、琵琶を不具(ぐせざ)りければ、ただ口伝を以て此れを習ひ、返す返す喜びけり。暁に返りにけり。
…蝉丸賤(いや)しき者なりといえども、年来宮の弾き給ひける琵琶を聞き、かく極めたる上手にて有けるなり。其れが盲に成にければ、会坂には居たるなりけり。其れより後、盲の琵琶は世に始まるなりとなむ語り伝えたるとや。(今昔物語)
蝉丸は身分が低かったが、親王の琵琶を聞いて習い覚え、琵琶の名手となり、目を患ったのちは逢坂に移り住んだ。博雅は噂を聞いて三年も逢坂に通って機会を待ち、ようやく蝉丸から念願の秘曲を習ったというのである。その熱意や、身分にかかわらず、名手に教えを請おうとした態度が、音曲の道に励もうとする人のいわば美談めいたものとして紹介されている。
「月少し上ぐもりて、風少し打ち吹たる夜…」名月の晩に、静かな空気を震わせて最初の琵琶の音色が響き渡り、博雅は思わず「これを聞きて、涙を流して哀れと思ふ」のである。
蝉丸の質素な住まいが、この辺りに建っていたのだと勝手に想像してみる。庵といってもおそらくは一間で、簡素な室内で、屋根も藁でかろうじて雨露を防ぐような粗末な拵えであったのだろう。けれども月の美しい夜に、琵琶を弾くにはいかにもふさわしいような静けさに満ち、深い樹木に囲まれた庵には白い月の光が差し込んでいたという気がする。
境内にたたずんで見回すと、辺りには人影もなく、神楽殿を風がゆるく吹き抜けていくばかりであった。
境内の一隅には、旧街道の「車石」の一部が今も保存されていた。近寄って眺めると、これは切り石を掘り窪めて溝を作り、荷車が通りやすいようにした装置で、大津から京の都まで敷かれていたという。雨が降れば道はぬかるむ。こういう工夫があれば助かったに違いない。窪んだ形のレールが通っていたといえばよいのだろうか。それは江戸時代のものと説明されていた。すり減ったその敷石の一部や轍の跡をしばらく見ていた。
往時は人馬の往来で活気があり、茶店も何軒かあって大道芸人なども立ち、峠は賑わいをみせていたことだろう。なんといってもここはかつての東海道なのである。
分社を出て、峠を目指して歩いていく。今はほとんど人通りもない道であった。進んでいくとほどなく国道一号線との合流点に出る。国道に近づくなり様相は一変した。
国道にはびゅんびゅんと車が行きかっている。峠は切通しになっていて、両側の山はかなり切り崩されており、昔の面影もすっかりなくなってしまったのだろうが、とにかく交通量と通り抜ける車のスピード、その騒音の激しさに圧倒されてしまった。絶え間ない騒音に気持ちが落ち着かない。
現代の逢坂の峠は、ちょっと道路の向こう側に走って渡るのも恐ろしい場所に変貌しており、絶えず左右に気をつけていないと交通事故に遭いそうな所であった。ここはゆっくりと古を偲び何かを思うという場ではないようである。
見ると峠には、逢坂常夜燈と彫られた古風な石灯籠が目立つところにちゃんとあった。それは江戸時代のものであった。
そして峠の頂上部の辺りには、「逢坂山関址」の石碑が建っていた。近づいて碑を眺めていると、すぐ背後を大型トラックが掠めていく。風圧を感じぞっとした。本当の関の位置は確かでなく、ここにあったのではないらしいが、峠の上なので象徴的に碑を設置したのであろうか。何かしらここは長居をしたくない不安と身の危険を感じる場所であった。
峠や四辻、集落の境界、国と国との境、そういうさまざまな人が行きかうところは、人や物だけでなく、古来厄災や目に見えない魔ものも侵入しやすい場所と考えられ、怖いところであったという。村の入り口に塞ノ神や地蔵が祀られたりするのもそのためである。今逢坂の峠の上に立ってみて感じる恐怖は、単にトラックにはねられるという心配だけでなく、古人が境界や峠に感じていた潜在的な、目に見えない魔への恐怖も加わっているのかもしれないと思う。
次に逢坂の関を詠んだ歌として、知られているものを二、三挙げておこう。
はじめの歌は、罪人として流された人が詠んだ歌である。三首目はあまりにも有名であろう。
   我妹子(わぎもこ)に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし 中臣宅守(万葉集巻十五)
   逢坂をうちいでてみれば近江の海白木綿(ゆふ)花に波立ちわたる (万葉集巻十三)
   世をこめて鶏の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ 清少納言(百人一首)
峠を越え、ゆっくりと大津側へと降り始める。歩道が設けられておらず、かなり急坂であった。あいにく曇り日で琵琶湖は遠望できず、行く手には密集した大津市内の町並みが折り重なって見えているのみであった。道は左手に大きく回り込み、その間にも次々と猛スピードの車が背後から近づいてきて、そのたびにはっと緊張させられる。
やがて左手の山側に蝉丸神社上社の灯籠が見えてきた。しばらくこの国道から離れられると思いほっとする。
神社の石段を登っていくと、そこには思いがけず静謐な空間が開けていた。鳥居があり、それをくぐるとさらに石段が山に続いている。さっきの分社にもあったが、ここにも古い神楽殿があり、さらに石段がのびている。奥まで上り詰めるとやっと小さな古びたお堂にたどり着いた。山の斜面を利用する形で参道が造られたお社であった。
お堂はほとんど手入れもされておらず、細工も剥落して色あせその一部は風雨に傷んで崩れかけたところもあるが、私はこういう古い雰囲気を持つ建物が好きである。
しばらく座って落ち葉の積もった石段を眺めていた。羽虫が顔の周りを飛び交い、蜂の唸りも遠く近く聞こえ、点々と落ちた椿の花が石段に散ったまま干からびて枯れている。少し山に入り込んだせいで車の騒音が遠のき、道を隔てた向こう側には緩やかな山の緑が広がり、それを見ていると、気持ちが和んできた。
蝉丸が、皇子として生まれたが、盲目であるため逢坂に遺棄されたという伝承があることを前述したが、(能の「蝉丸」では棄てられた盲目の皇子と放浪する逆髪の姉が登場する)調べてみると、その伝承に近い皇子は実在の人であった。
第54代仁明(にんみょう)天皇の第4皇子に、人康(さねやす)親王という人がいる。同母兄の時康(ときやす)親王は後に光孝天皇となっており、人康親王も高位についていたが、目を患ったため、出家して山科に隠棲し、山科宮人康親王と呼ばれたという。
伊勢物語 第七十八段にも「山科の禅師の皇子」として登場し、在原業平とも親交があったように作中では描かれている。
実際皇族の人たちが珍しい庭石を人康親王に贈って庭園に置き、親王の心を慰めたようである。親王が手で石に触れ、水をせきいれて流れる音を楽しめるようにしたのだろうか。また親王は琵琶の名手であったと伝えられている。
親王は琵琶を盲人たちに教え、蝉丸はその弟子の一人であったともいわれているそうだ。人康親王の死後、その徳を偲んで親王は琵琶法師の祖神として祀られるようになったというのである。山科の邸宅跡には親王の碑があり、そこには蝉丸の名も刻まれているという。
幼少時に、盲目ゆえに父の帝の命で逢坂に棄てられた薄幸の皇子、という蝉丸伝承とは少々異なっているが、蝉丸の伝承の一つに、琵琶の上手な山科の人康親王の姿が重ねられているのかもしれないと思う。山科は逢坂とそう遠く隔たってはおらず、逢坂の西に当る。
蝉丸神社上社を出て、再び国道に降りる。坂を下っていくと、ちょっと道がわかりにくくなり、迷いそうになったが、下社を見つけることができた。
神社のすぐ目の前を京阪電車の線路が横切っており(遮断機はない)、お参りは線路を踏み越えて入るのである。こういう神社は珍しいのではないかと思う。ぼうっとしているとがらがらと音を立てて電車が不意に現れ横切っていった。至近距離であった。逢坂の峠の上も車が恐かったけれど、ここもぼんやり者にとっては危ない場所であった。
他の二社にあった石段がここにはなくて、そのまま境内に入ってみると、なんとも古く美しい神社である。線路際の石灯籠には関清水大明神とあった。
   逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒    紀貫之
と刻まれた歌碑があり(これは行事を詠んだ歌という)、もう一つの歌碑には、
   これやこの行くもかえるも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関  蝉丸
とあった。百人一首では別れても、であるが、ここの碑では別れつつ、になっていた。こちらのほうが元の歌なのであろう。
やはりここにも神楽殿があった。三社を巡ったが、ここが一番立派な舞台を持っている。境内も他にくらべれば広い。今は全体にくすんだ色になっているが、かつては多くの見物人が見守る中、この舞台上でゆかりの能が演じられ、琵琶の秘曲も奉納されたのであろうとその様子を思い浮かべてみる。
普通蝉丸神社といえばこの下社のことを指すのだそうだ。この神社は室町時代から江戸時代にかけて、音曲芸道に関する免状を発行していたという。一種の興行権で、その免状と関の明神の縁起由来を記した巻物を手に入れた人々は、全国を流浪して芸を見せ、説教節を語ったという。
神社は町中に位置しているためか適度に人の賑わいも温もりも感じられ、近接する町の雰囲気とうまく溶け合っている。親しみやすい感じであった。
奥にある本殿へと向かう。そこは回廊でぐるりと巡るようになっていて、合格祈願やピアノ、ギター上達などを願う現代の子供たちのたくさんの絵馬が掛かっていた。
ここで少し能「蝉丸」の世界をみてみよう。
…延喜帝の第四皇子、蝉丸の宮は生まれながらの盲目であった。父の帝は清貴(きよつら)に命じ皇子を逢坂山に棄てさせる。哀れみながら清貴は皇子を剃髪して僧形にし、服を着せ替え、蓑と笠と杖を与える。皇子は盲目の身は前世の報いであり、この世で善根を積むことで良い来世が得られるという父帝の気持ちをくんで、誰も恨むことはしないという。宮殿は藁屋に、衣服は蓑に、そして従者も都へと帰ってしまい、残った供は杖一本となった。一人になると寂しさに耐えかねて、蝉丸は琵琶を抱えて泣き悲しむのだった。
…皇子は後にただひとり、御身に添ふものとては、琵琶を抱きて杖を持ち。臥しまろびてぞ泣き給ふ。臥しまろびてぞ泣き給ふ。
一方延喜帝の第三皇女、逆髪の宮は生まれながら髪が逆さまに生えており、櫛でとかしても髪は下りず、そのためか物狂いとなって都を離れ、人々に嘲笑されながら各地をさまよって歩く。
…今や引くらむ望月の、駒の歩みも近づくか、水も走り井の影見れば、われながらあさましや、髪はおどろを戴き、黛(まゆずみ)も乱れ黒みてげに逆髪の影うつる、水を鏡と夕波のうつつなのわが姿や。
逆髪は逢坂山までやってきて、ふと琵琶の音色に引き寄せられ、盲目の弟を見つける。二人はつかの間の再会を喜び、互いに身の不運を嘆き合うが、いつまでも留まることはできず、やがて姉はどこへともなく去っていき、弟は一人それを見送る。 (能 「蝉丸」)
悲しい内容である。どこにも救いがなくて、盲目の弟と逆髪の姉という組み合わせも絶望的であるし、悲惨である。この場合の逆髪の姉というのはいったい何を表しているのか、さまざまにいわれるところであるが、一つの説を紹介すると、逆髪(さかがみ)とは坂に祀られる神、坂の神の意であるというのである。逢坂山の神ということであろうか。あるいは坂神に仕える巫女とも考えられ、その髪が逆立つとは神がかり状態の形容だというのである。
琵琶は神降ろしの際に用いられた、いわゆる古代の小型の琴に類する聖なる楽器、そうなると蝉丸も逆髪も神に仕えた古代の人たちの面影を強く引きずっており(古来、体になんらかの障害を持つ人は、その異形、畸形のしるしゆえに、神に選ばれたものとして神に仕えることもあった)この「蝉丸」は逢坂山にいます神、その神に仕えた神人に捧げられた曲という側面も考えられる。
もし彼ら姉弟が神人であったという見方をとれば、ふつう浮かばれない怨念の霊を僧が供養して成仏させてしずまる、という能の多くの筋書きから外れているこの「蝉丸」の不可解な結末の謎も解けてくるのだろうか。
神に仕えた巫女やかんなぎが、僧の読経によって慰霊されるという筋も、この場合不自然であるだろう。いったん神とかかわった者の宿命として、彼らはその役を自ら降りることなく受け入れ、永遠に自分の神とともに生きるしかないとも考えられるのではないだろうか。蝉丸は日々琵琶をかなでて神を呼びおろし、逆髪は神つきによる錯乱を続けて生きるよりほかなく、仮に神から逃れようとどこをさまよい続けても、神に呪縛され、神に魅入られた者の定めは避けようもないということになる。
松本徹著「夢幻往来」異界への道(人文書院)には、蝉丸に関して興味深い記述があるので最後に少し引用してみよう。氏は逆髪の正体をこう見ておられる。
…しかしいまは、逆髪の素性を洗ひ出すつもりはない。おどろおどろしく天に向かって生えのぼる髪は、決してこの世に入れられることのない運命を背負ったものの象徴であるとともに、その運命を生きなければならぬ者の発する、天へのすさまじい抗議の叫びが形象化されたものと、見ておけばよかろう。すなはち逆髪は棄てられた蝉丸の悲嘆を一段と烈しく突きつめた姿なのである。悲嘆が純粋化され、人間のかたちをとって狂い歩いているのだ。 「蝉丸 ゆくもかえるも」の章より
蝉丸についてのあれこれを、本殿にたたずんで考えていた。人物像はやはり謎のままであるが、その歌だけが明瞭な存在感を持ち、聞いたこともないのに、風に乗って流れる幻の琵琶の調べとともに、心のどこかに記憶されていった。今日巡った三社のうち、印象深かったのは、上社であった。たとえ寂れていても、崩れかけていても、峠の山の神の住まいにふさわしい風格と雰囲気が感じられた。下社は上社に対する里宮としての親しみやすさがあるし、分社は、集落の人々に大切にされている鎮守の趣が漂っていて、それがよかった。実際に歩いてみて、逢坂の関がすっかり現代に呑みこまれてしまっているのがわかって少々残念ではあったが、旧跡を歩いて何かを感じてみる、その土地の持つ遠い記憶と触れ合い、昔日を思ってみる、そういう体験ができた一日であった。  
4
蝉丸
都から遠く離れた逢坂山。この地に捨てられた盲目の皇子と、放浪の旅に出る狂乱の皇女。やがては別れねばならない人間の運命を描いた、貴種たちの悲劇。
延喜帝の御代、盲目の身と生まれた皇子・蝉丸(ツレ)は逢坂山に捨てられることとなった。供をする廷臣の清貫(ワキ)は蝉丸を出家させて蓑・笠・杖を与えると、泣く泣く彼を残して帰る。その後、博雅の三位(間狂言)の世話で蝉丸は庵に住むこととなる。その頃、皇女・逆髪(シテ)は狂乱のあまり京を彷徨い出て逢坂へとやって来た。そこで逆髪は弟・蝉丸との思わぬ再会を喜ぶが、やがては別れゆくのが人間の運命。旅立つ逆髪と留まる蝉丸とは、今生の別れを惜しむのであった。
○ 1 ワキ・ワキツレに伴われて、ツレが登場します。
時は平安時代。聖帝と謳われていた延喜帝(えんぎてい)の周辺にも、ある深い悲しみが立ちこめていた。この日、生まれつき盲目であった第四皇子・蝉丸の宮(ツレ)が、父帝の命によって御所を出され、遠く逢坂山に捨てられるのであった。
迷いの雲も立ち上る、都の境の逢坂山。お供の廷臣・清貫(ワキ)は、名残惜しさに涙しつつ、蝉丸をこの山へと連れてきた。
○ 2 ツレはワキと言葉を交わし、運命を受け入れる覚悟を語ります。
逢坂山に着いた清貫は、帝のこのような処置を悔しがり、蝉丸に同情の言葉をかけるが、蝉丸は、もともと自分が盲目となったのは前世からの因縁であると言い、山野に捨てられるのも、この世で前世からの罪を全て清算させようという親の慈悲ゆえだとたしなめる。
○ 3 ツレは剃髪して姿を変え(〔物著(ものぎ)〕)、ワキはツレを残して去ってゆきます。
その時、清貫は勅命として、蝉丸を出家させる。僧となった蝉丸は、これから生きてゆくために必要な蓑・笠を身にまとい、杖を渡される。先程までの皇子の姿とは打って変わっての、乞食同然の蝉丸の姿は、あまりにいたわしいものであった…。
しとしとと降る雨の中、清貫たちは尽きぬ涙を押さえつつ、蝉丸を残して去って行く。ひとり残された蝉丸は、地に伏して泣き叫ぶばかりであった…。
○ 4 間狂言が登場し、ツレの世話をします。
蝉丸が捨てられたと聞いて、都から博雅の三位(間狂言)がやって来た。彼は琵琶の名手である蝉丸から芸を伝えられたい一心で、蝉丸の居所をしつらえ、身のまわりの世話をする。そうして、必要があれば声をかけてくれと言うと、博雅の三位は帰っていった。
○ 5 シテが登場し、〔カケリ〕で狂乱の態を見せます。
一方都では、やはり帝の第三皇女・逆髪の宮(シテ)が何の因果か狂乱し、御所を飛び出して放浪していた。髪は乱れて逆立ち、都の童にまで笑われる有り様であった。
──ああ、これも全てはこの世の真理の姿! 地中の種は高い梢に花を咲かせ、天高い月の影は水底に宿る。本来この世には順もなければ逆もない。皇族から庶民に下るのも、髪が天に向かって逆立つのも、全ては真理の姿なのだ…!
○ 6 シテはわが身の醜さを恥じつつ、逢坂山まで彷徨い出ます(〔道行(みちゆき)〕)。
都を彷徨い出た逆髪は、足に任せて歩いて行く。花の都とは一変して、秋の虫の鳴く野を渡り、都の境である逢坂までやって来るが、関のほとりに涌く清水にわが身を映すと、それは余りに浅ましい姿。茨の髪はぼさぼさに、眉も黒ずんで、わが身の何と醜いことよ…。
○ 7 シテはツレの住むあばら屋を訪ね、二人は再会を喜びます。
村雨の降る、物寂しい夜。逢坂山の庵の中では、蝉丸が琵琶を弾いて心を慰めている。そこへ通りかかった逆髪は、粗末な庵に似合わぬ琵琶の音に不審を抱き、その主が弟・蝉丸だと気づく。駆け寄る姉、応える弟。二人は手に手を取り交わし、思わぬ再会に咽び泣く。
○ 8 シテとツレは今の境遇を嘆きあいます(〔クセ〕)。
──世は末世に及ぶとも、日月は地に堕ちぬもの。それなのにどうして、私達は皇子の身分を放たれ、人臣にすら交わらず、賤しい流浪の身となっているのか。昨日までは玉の御殿に住んでいた身が、今日はまた藁と竹の粗末な庵。木々を伝う猿の声の他には何も聞こえぬこの藁屋に、破れた屋根から月は漏る。しかし盲目の身には月は見えず、藁の屋根には雨音も聞こえぬ。心を慰めるものもない、そんな日々を過ごすばかり…。
○ 9 シテはツレに旅立ちを告げ、二人は今生の別れをして、この能が終わります。
いつまでも名残は尽きぬもの。しかし放浪という運命を背負った逆髪には、いつまでも留まることはできなかった。別れを惜しむ蝉丸、後ろ髪を引かれつつも去りゆく逆髪。
やがて声も届かぬ程に離れてしまった。「またいつか、いつでも来て下さい」という声が、かすかに残るばかりであった…。 
5
関蝉丸神社・御由緒
関蝉丸(せきせみまる)神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ〈髪の毛のこと〉)の祖神ともいわれている。その人物像は不詳であるが、醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色などとも伝えられ、琵琶の名器・無明を愛用していたといわれている。生没年も不詳ながら、旧暦の五月二十四日は「蝉丸忌」とされている。また、下社の祭神・豊玉姫命は、福を招き出世を約束する女神で、縁結び・安産・子孫繁栄の神として敬われている。なお、海神の娘である豊玉姫命は水霊信仰とも深く関係している。
社記によると、当社の創祀は、嵯峨天皇の弘仁十三年(八二二)と伝えられている。小野岑守が旅人の守護神である猿田彦命を山上の上社に、豊玉姫命を麓の下社にお祀りしたのが始まりとされている。鎮座する逢坂山は京都と滋賀の境に当り、琵琶湖と京都・畿内を結ぶ交通の要所として栄えていた。この立地から、国境神・坂神・手向神(道祖神)、さらに逢坂の関の守護神としても崇敬されていた。また、京の都に悪病が流行らないように疫神祭が斎行されていたという。貞観十七年(八七六)には従五位下の神階が授けられ、六国史に記載がある国史見在社である。
平安時代中期になると、琵琶の名手で、後撰集の歌人でもある蝉丸が鎮座地の逢坂山に住むようになり、没後に上・下両社へ合祀された。合祀は天慶九年(九四六)とも平安時代末ともいわれている。その後、蝉丸伝承は時代と共に全国各地へ広まり、天禄二年(九七一)に綸旨が下賜されると、歌舞音曲の神として信仰されるようになり、次第に音曲を始めとする諸芸に関係する人々の信仰が厚くなった。
江戸時代には諸国の説教者(雑芸人)を統轄し、免許を受ける人々が全国的規模で増加した。昭和五年(一九三〇)には郷社に列格した。
蝉丸に関する様々な伝承は『平家物語』などの文献に登場する。和歌・管弦の名手であった鴨長明の『無名抄』にも当社に関する記述が見られる。また、『今昔物語』巻第二四第二三話には管弦の名人であった源博雅が、逢坂の関に蝉丸という琵琶の名手が住むとの噂を聞き、当時蝉丸だけが伝えていた「流泉」「啄木」という秘曲の伝授を乞うため逢坂山に通い、三年の月日が流れた八月十五日、ようやく秘曲を聞くことができたという逸話は有名である。
蝉丸といえば、『小倉百人一首』のカルタに描かれる坊主姿が有名である。逢坂の庵より往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも 逢坂の関」という和歌を詠んだ(百人一首では 「行くも帰るも分かれては」 となっている)。蝉丸の和歌は、上記のものが『後撰和歌集』に収録されているほか、『新古今和歌集』『続古今和歌集』に収録されている三首を含め、計四首が勅撰和歌集に採録されている。
能の『蝉丸』(四番目物の狂女物)という曲や近松門左衛門作の人形浄瑠璃の『蝉丸』も有名である。
蝉丸神社は市内に3社あり、逢坂(おうさか)一丁目の国道1号沿いに上社(かみしゃ)、国道161号沿いに下社(しもしゃ)(関蝉丸神社)、大谷町に分社(蝉丸神社)が立っています。  
6
蝉丸の墓 / 福井県丹生郡越前町陶の谷
「これやこのゆくもかえるも別れては、知るも知らぬも逢坂の関」の一首で有名な蝉丸の話が伝わっています。諸国を流浪の果て、越前に来て陶の谷にたどり着いた蝉丸は、一軒の農家に滞在中に病気になりこの地に果ててしまいました。蝉丸の遺言どおりこの地域に建てた墓です。  
7
小町・蝉丸・光孝天皇
あちこちから、花便りが届く季節になりました。
花と言えば、
   花の色はうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに
という小野小町の歌を思い出します。『百人一首』の中でも、最もよく知られた歌のひとつではないでしょうか。「六歌仙」の一人にも数えられる小町ですが、その生涯は幾重もの謎のベールに包まれ、小町の生誕や終焉の地と称される場所は全国各地にみられます。京都山科にある小野随心院もその旧跡と伝えられ、天明7(1787)年の『拾遺都名所図会』の境内図には、小町の艶顔を装ったという「小町化粧水」や、小町のもとに百夜通いをした深草少将が植えたという「栢大木」などが描かれています。絶世の美女として、あるいはまた高慢冷酷な女性として、栄耀を誇った小町の姿を彷彿させますが、小町にはもうひとつ、あまりにも哀れな末路をたどったいう物語が残されています。
謡曲『関寺小町』もそのひとつです。七夕の夜、稚児を伴って山陰の庵に住む老女のもとに歌物語を聞きに行った関寺の僧は、言葉の端々からこの老女が小野小町の零落した姿であること知ります。小町は自らの歌を引いて、過ぎ去った昔の栄華を語り、今のみじめな我が身を嘆きます。この『関寺小町』の舞台になった関寺の寺名は、山城と近江を結ぶ逢坂関に隣接していたことから付けられたと伝えられています。
逢坂関と言えば、『百人一首』には、有名な蝉丸の歌があります。
   これやこの行くも帰るもわかれては知るも知らぬも逢坂関
蝉丸も小町と同様に謎の歌人で、宇多天皇の皇子敦実親王に仕えた雑色とも、また、醍醐天皇の第四皇子とも言われ、逢坂山に庵を結んで隠棲生活を送ったと伝えられています。鴨長明は『無名抄』に「逢坂の関の明神と申すは昔の蝉丸なり、彼の藁屋の跡を失はずして、そこに神となりてすみ給ふなるべし」と記していますが、現在、逢坂峠の付近には蝉丸の名を持つ神社が三社あります。そのひとつ関蝉丸神社下社は関清水大明神蝉丸宮とも呼ばれ、社伝によれば、逢坂山の手向けの神、いわゆる道祖神として祀られ、後に「延喜第四子蝉丸之霊並姉宮逆髪之霊」も合祀されたことがうかがえます。この関清水大明神蝉丸宮は、蝉丸が琵琶法師の祖とも言われることから音曲諸芸道の祖神としての信仰を集め、江戸時代には、説教者などに免状が出されていました。
音曲諸芸道の祖神と言えば、座頭の職能団体であった当道座が祖神としたのが「雨夜尊」でした。
「雨夜尊」をめぐっては、いくつかの伝承が残されていますが、その代表的なものに光孝天皇の皇子とする説があります。『百人一首』の中で、これも有名な
   君がため春の野に出て若菜つむ我が衣手に雪はふりつつ
の歌を詠んだのが光孝天皇です。仁明天皇の第三皇子だった時康親王は、陽成天皇の後を受け、五十五歳で位につきました。ところで、この光孝天皇の次弟、すなわち仁明天皇の第四皇子人康親王を「雨夜尊」とする説も、近世中期以降の当道座に伝えられています。人康親王は山科宮とも呼ばれ、親王山荘跡などがある山科は、人康親王ゆかりの地でもあったのです。
小野小町はこの宮の死を悼み、
   けさよりはかなしの宮の山風やまた逢坂もあらしとおもへば
という歌を詠んだと伝えられています。四宮と言えば、蝉丸も第四皇子でした。
山科そして逢坂山を舞台に語られた様々な伝説は、いつしか不思議な力に引き寄せられるかのように紡ぎ合わされ、私たちの前に何とも興味深い世界を残してくれたようです。花便りに誘われて、そんな伝説の世界の扉を開けてみたいと思う今日この頃です。 
 
11.参議篁 (さんぎたかむら)  

 

わたの原(はら) 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出(い)でぬと
人(ひと)には告(つ)げよ 海人(あま)の釣船(つりぶね)  
大海原のたくさんの島々を目指して漕ぎ出してしまったと都にいる人に伝えてくれ。漁師の釣舟よ。 / 海原はるかに多くの島々を目指して私を乗せた舟は漕ぎ出していったと、都(京都)にいる私の親しい人に告げておくれ。そこにいる漁師の釣り舟よ。 / はるかにひろびろとした大海原に、ぽつんぽつんと無数に浮かぶ島を目指して、漕ぎ出して行ったのだと、どうか都にいる愛しいあの人につたえてください、釣り船に乗った漁師さん。 / (篁は)はるか大海原を多くの島々目指して漕ぎ出して行ったと、都にいる親しい人に告げてくれないか、そこの釣舟の漁夫よ。
○ わたの原 / 大海原。「原」は、大きく広がるさまを表す。
○ 八十島かけて / 「八十」は、「多数」の意。「かけ」は、動詞「かく」の連用形で、「目指す」の意。
○ 漕ぎ出でぬと / 六音で字余り。「ぬ」は、完了の助動詞で、「〜てしまった」の意。「と」は、引用の格助詞。
○ 人 / 「京なる人」すなわち「都にいる人」を表す。この場合は、京に残してきた肉親や知人を含む身近な人々。
○ 告げよ / 動詞「告ぐ」の命令形で、依頼・懇願を表し、「釣舟」にかかる。
○ 海人の釣舟 / 「海人」は、「漁師」の意。「釣舟」は、「告げよ」の対象で、擬人化されている。この歌は、篁が隠岐に流された時に詠んだもので、高官であった作者が、漁師の釣舟(身分は低くとも自由にどこへでも行ける漁師)に懇願しなければならない苦悩を表している。 
六道の辻
1
小野篁(おののたかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、平安時代前期の公卿・文人。 参議・小野岑守の長男。官位は従三位・参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。小倉百人一首では参議篁(さんぎたかむら)。
弘仁6年(815年)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくした。しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、弘仁13年(822年)文章生試に及第した。
天長元年(824年)巡察弾正に任ぜられた後、弾正少忠・大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下・大宰少弐に叙任される。この間の天長7年(830年)に父・岑守が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌がひどく衰えてしまうほどであったという。天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画して、その序文を執筆している。
承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられる。承和2年(835年)従五位上、承和3年(836年)正五位下と俄に昇叙されたのち、承和3年と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。承和5年(838年)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法がまかり通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)。のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった。そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという。
承和7年(840年)罪を赦されて平安京に帰り、翌承和8年(841年)には文才に優れていることを理由として特別に本位(正五位下)に復され、刑部少輔に任ぜられる。承和9年(842年)承和の変により道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねた。その後は、承和12年(845年)従四位下・蔵人頭、承和13年(846年)権左中弁次いで左中弁と要職を歴任する。権左中弁の官職にあった承和13年(846年)に当時審議中であった善ト訴訟事件において、告発された弁官らは私曲を犯していなくても、本来は弁官の権限外の裁判を行った以上、公務ではなく私罪である、との右少弁・伴善男の主張に同意し、告発された弁官らを弾劾する流れを作った。しかし、後年篁はこの時の判断は誤りであったとして、悔いたという。承和14年(847年)参議に任ぜられて公卿に列す。のち、議政官として、弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・勘解由使長官などを兼帯し、嘉祥2年(849年)に従四位上に叙せられるが、同年5月に病気により官職を辞す。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。仁寿2年(852年)一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、まもなく再び病を得て参朝が困難となった。天皇は篁を深く憐れみ、何度も使者を遣わせて病気の原因を調べさせ、治療の足しとするために金銭や食料を与えたという。同年12月には在宅のまま従三位に叙せられるが、間もなく薨去。享年51。最終官位は参議左大弁従三位。
京都市北区紫野西御所田町の島津製作所紫野工場の一角に、紫式部のものと隣接した墓所がある。

『令義解』の編纂にも深く関与するなど明法道に明るく、政務能力に優れていた。また、漢詩文では白居易と対比されるなど、平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。また和歌にも秀で、『古今和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に14首が入集している。家集として『野相公集』(5巻)があり、鎌倉時代までは伝わったというが、現在は散逸。
書においても当時天下無双で、草隷の巧みさは王羲之父子に匹敵するとされ、後世に書を習うものは皆手本としたという。
非常な母親孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったという。危篤の際に子息らに対して、もし自分が死んでも決して他人に知らせずにすぐに葬儀を行うように、と命じたとされる。
身長六尺二寸(約188p)の巨漢でもあった。
代表歌
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(『百人一首』11番)
泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるがに(『古今和歌集』)
逸話と伝説
○ 篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都嵯峨の福生寺(生の六道、明治期に廃寺、出口)と京都東山の六道珍皇寺(死の六道、入口)にあったとされ、また六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
○ 京都市北区にある篁のものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓があるが、これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部 を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである。
○ 『今昔物語集』「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」によると、病死して閻魔庁に引据えられた藤原良相が篁の執成しに よって蘇生したという逸話が見える。
○ 『宇治拾遺物語』などには、嵯峨天皇のころ、「無悪善」という落書きを「悪(さが(嵯峨のこと))無くば、善けん」(「悪なからば善か らん」とも読める。いずれにせよ、「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意。)と読み、これが読めたのは篁自身が書いたからに違いないと立腹した嵯峨天皇は「『子』を十二個書いたものを読め」というなぞなぞを出したが、見事に「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いてみせ事なきを得た、という逸話も見える。
○ まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白居易の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。
○ 白居易は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。
○ また篁を主人公とした物語として、異母妹との悲恋を描いた『篁物語』があるが、完全なフィクションである。
○ 陸奥守在任中の承和9年(842年)に竹駒神社を創建している。また、六道珍皇寺を創建したとの説もある。 
2
小野篁 延暦二十一〜仁寿二(802〜852)
参議岑守の長子。弘仁初年、陸奥守となった父と共に任国に下る。のち帰京したが、弓馬を好み学業に励まず、これを聞いた嵯峨天皇が好学の父と比較して嘆いたため、篁は恥じて以後学問に精進したという。弘仁十三年(822)、二十一歳の時文章生の試験に及第し、その後東宮学士などを経て、承和元年(834)正月、三十三歳で遣唐副使に任命される。この時従五位下弾正少弼兼美作介。翌承和二年に出帆したが、難破して渡唐に失敗し、同三年にも出航して果たさず。同五年、三度目の航海に際し、大使藤原常嗣の遣唐使船が損傷したため篁の乗る第二船と交換されることとなり、これに抗議して、病身などを理由に進発を拒絶した。しかも大宰府で嵯峨上皇を諷する詩を作ったため、上皇の怒りに触れて官位を奪われ、隠岐に流された。二年後、その文才を惜しまれて帰京を許され、諸官を経て、承和十四年、参議に就任。仁寿二年(852)、従三位に至ったが、同年十二月二十二日、薨去。五十一歳。京都市北区紫野西御所田町に墓所がある。
六歌仙時代の直前に位置する重要な歌人。古今集の六首を始め、勅撰入集は計十二首。異母妹との交渉を中心とした歌物語風の『篁物語』(『小野篁集』とも)があるが、後人の創作である(作者・成立時期未詳)。漢詩文にすぐれ、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』などに作を残す。『野相公集』五巻があり、鎌倉時代まで伝存したというが、その後散佚した。勅撰和歌集入集は古今集の六首、新古今集の二首、続古今集の二首、玉葉集の二首、新千載集の一首、計十二首。
梅の花に雪のふれるをよめる
花の色は雪にまじりて見えずとも香をだににほへ人の知るべく(古今335)
(白梅よ、花の色は雪にまざって見えないとしても、せめて香だけでも匂わせよ、人がそれと気づけるように。)
忍びてかたらひける女の、親聞きていさめ侍りければ
数ならばかからましやは世の中にいと悲しきはしづの苧環をだまき(新古1425)
([詞書]或る女とひそかに情を通じたが、その親が聞きつけて逢うことを禁じたので。[歌]人並の身分であったなら、こんなことになっただろうか。世の中でこれ以上なく悲しいのは、わが身のいやしさだ。)
妹のをかしきを見て書きつけて侍りける
中にゆく吉野の川はあせななむ妹背いもせの山を越えてみるべく(玉葉1277)
(中を流れる吉野の川は涸れてしまってほしい。両岸の兄山と妹山を隔てなく見たいので。)
いもうとの身まかりにける時よみける
泣く涙雨とふらなむ渡り川水まさりなばかへりくるがに(古今829)
(私の泣いて流す涙が雨のように降ったらよい。あの世へと渡る川の水が増さって、妹が引き返してくるように。)
諒闇らうあんの年、池のほとりの花を見てよめる
水のおもにしづく花の色さやかにも君がみかげの思ほゆるかな(古今845)
(水面に映っている花の色のように、冴え冴えと主君の御面影が偲ばれることよ。)
隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける
わたの原八十島やそしまかけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟(古今407)
(大海原を、数知れぬ島々の方へ向けて、遥か隠岐の島まで漕ぎ出して行ったと、都の人には告げてくれ、海人の釣舟よ。)
隠岐の国に流されて侍りける時によめる
思ひきや鄙ひなのわかれにおとろへて海人のなはたきいさりせむとは(古今961)
(思っただろうか。田舎の地に遠く隔てられ、落ちぶれて、海人の縄を手繰って漁をしようとは。)
題しらず
しかりとて背かれなくに事しあればまづ嘆かれぬあな憂う世の中(古今936)
(だからと言ってこの世に背を向けることもできないのに。なにか事が起こると、まずはともあれ歎いてしまうことだ、ああ辛い世の中よ。) 
3
六道珍皇寺・縁起
京都では、「六道さん」の名で親しまれ、お盆の精霊迎え(しょうりょうむかえ)に参詣する寺として世に名高い当寺は、山号を大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。
当寺の開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊僧都(きょうしゅんそうず)で、平安前期の延暦年間(782年〜805年)の開創である。当寺は、古くは愛宕寺(おたぎでら)とも呼ばれた。しかし当寺の建立には、諸説があり空海説(「叡山記録」ほか)や小野篁説(伊呂波字類抄・今昔物語集)をはじめ、一説には宝皇寺(ほうこうじ)の後身説もある。宝皇寺とは、東山阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)(鳥辺山)山麓一帯に住んでいた鳥部氏が建立した寺で鳥部寺とも呼ばれていたが、今はその遺址(いし)も明らかでない。
またさらには、承和3年(836年)の平安前期に当地の豪族であった山代淡海(やましろのおおえ)等が国家鎮護の道場として建立した(「東寺百合文書」)など、当寺の起源には多くの説がある。この珍皇寺はもと真言宗で、平安・鎌倉期には東寺を本寺として多くの寺領と伽藍を有していたが、中世の兵乱にまきこまれ荒廃することとなり、南北朝期の貞治3年(1364年)建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)により再興・改宗され、現在に至っている。本堂には薬師三尊像(京仏師中西祥雲作)が安置されているほか、境内には閻魔堂(篁堂)(えんまどう:たかむらどう)、地蔵堂、鐘楼等がある。また重要文化財の永久保存のために収蔵庫(薬師堂)には重文の本尊薬師如来坐像(平安時代)が安置されている。
冥界への入口
「六道」とは、仏教の教義でいう地獄道(じごく)・餓鬼道(がき)・畜生道(ちくしょう)・修羅(阿修羅)道(しゅら)・人道(人間)・天道の六種の冥界をいい、人は因果応報(いんがおうほう)により、死後はこの六道を輪廻転生(りんねてんせい)する(生死を繰返しながら流転する)という。 この六道の分岐点で、いわゆるこの世とあの世の境(さかい)(接点)の辻が、古来より当寺の境内あたりであるといわれ、冥界への入口とも信じられてきた。このような伝説が生じたのは、当寺が平安京の東の墓所であった鳥辺野に至る道筋にあたり、この地で「野辺の送り(のべのおくり)」をされたことより、ここがいわば「人の世の無常とはかなさを感じる場所」であったことと、小野篁が夜毎(よごと)冥府通いのため、当寺の本堂裏庭にある井戸をその入口に使っていたことによるものであろう。この「六道の辻」の名称は、古くは「古事談」にもみえることよりこの地が中世以来より「冥土への通路」として世に知られていたことがうかがえる。
小野篁とは
小野篁(802年〜852年)は参議小野岑守の子。嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、不羈な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともある。
閻魔王宮の役人
また、なぜか閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。かかる伝説は、大江匡房の口述を筆録した「江談抄」や「今昔物語」「元亨釈書」等にもみえることより平安末期頃には篁が、閻魔庁における第二の冥官であったとする伝説がすでに語りつたえられていたことがうかがえる。こうした篁の冥官説は、室町時代にはほぼ定着した。今なお、本堂背後の庭内には、篁が冥土へ通うのに使ったという井戸があり、近年旧境内地より冥土から帰るのに使った「黄泉がえりの井戸」が発見された。そばには篁の念持仏を祀った竹林大明神の小祠がある。 
4
地獄往来、小野篁
閻魔様は、ヤマ(Yama)、イマ(Iama)のはずなんですが、 中国「聊斎志異」中の「閻羅(えんら)」というお話の中では、 莱蕪(らいぶ)の李中之(りちゅうし)というこの世の人となっています。李中之は秀才で性格は剛直な男でした。 なぜか何日かに一回死に、三、四日すると生き返り、普通の人と同じく暮らすという 変わった男でした。同じ県にやはり何日かに一回死に、また生き返る男がいました。 その男が言うには、「李中之は閻羅で、冥府では私もその部下なんだ。」と話しました。 昨日、李中之は冥府で何をしていた?と尋ねると、 「曹操を取り調べて、二十回鞭打った。」と答えたという事です。 「閻羅」 聊斎志異より 
日本にも似たようなお話がにあります。
小野篁(おののたかむら)は一日に二刻ずつ冥府に行き、閻魔庁第二の冥官になったと、 今昔物語、江談抄、宇治拾遺物語等に伝えられています。
小野篁(おののたかむら 802〜852 延暦二年〜仁寿二年)は、 野相公(やそうしょう)、野宰相(やさいしょう)とも称され、 六歌仙前に位置する平安時代の重要な漢詩人・歌人で、 「文徳実録」篁卒伝には「当時文章天下無双」と、 また「三代実録」には「詩家ノ宗匠」とたたえられています。
篁には「野相公集」五巻が存在したと言われていますが現存していません。 その作は「経国集」に二首、「扶桑集」に四首、「本朝文粋」に四首、 「和漢朗詠集」に十一首、「今鏡」に一首、「河海抄(かかいしょう)」に一首が 残されています。 (「新古今集」以下のものは後人の作とされる「篁日記」からのもので、 本人の作とは考えられてないようです。 また、異母妹との恋愛談・大臣の娘への求婚談からなる「篁物語」は虚構と されています。)
篁は多情多感な博識の英才でそれを自認し、 直情径行、世俗に妥協せぬ反骨の士であり、"野狂" の異名を持っていました。藤原常嗣の専横に抗議し、嵯峨上皇の怒りに触れ、隠岐の国に流された事でも有名です。
その才能・反骨ゆえ、世間では恐れるものも多かったのか、 閻魔庁第二の冥官、という伝説が生まれたようです。
「小野篁、情に依りて西三条の大臣を助くる語」
昔、小野篁と言う人がありました。篁は学生の頃、罪を犯してしまい罰せられる事になりましたが、 その時、藤原良相(よしみ)という方が、 宰相として、篁をかばい、難を逃れる事が出来ました。篁はその事を知り、良相に大変感謝しました。何年か後、篁は宰相に、良相も大臣になりました。 しかし良相は重病となり、しばらくたって亡くなってしまいました。 良相は閻魔王の使につかまり、閻魔王宮に連れていかれました。 そして、罪を定められる時、冥官の中に小野篁を見つけました。良相はこれはいったいどうしたことだろうか?と思っていると、 篁は閻魔王に「この方は、心の正直な人で、人の為になる方です。 今度の罪は私に免じて許してもらえないでしょうか」と言いました。閻魔王は 「それは難しい事だが、篁がそう言うなら許してやろう。」と答えました。篁が良相を捕らえた者に「すぐに現世に連れ帰りなさい。」と言うと、 良相は、目覚め、元のように自分の部屋にいたのでした。その後、良相は病も癒え内裏に上がりました。 そして篁に会うと、閻魔庁での出来事を尋ねました。篁は、 「以前私の弁護をしていただいたお礼をしただけですよ。 ただしこの事は誰にも言わないでくださいね。」と答えました。良相はこれを聞いて 「篁は只の人ではない、閻魔王宮の臣だ。」と知り、いよいよ恐れ、 「人のために正しくあらねばならん。」と、いろんな人に説いてまわりました。 しばらくするとこの事は自然に世間の知る所となり、 「篁は閻魔王宮の臣として冥府に通っている人だ。」と、 皆、恐ろしがったという事です。 今昔物語 「小野篁、情に依りて西三条の大臣を助くる語」
このお話はかなり有名なもので、小野篁といえば地獄の冥官という事になっています。 篁は六道珍皇寺の境内にある井戸から地獄に入り、冥府の仕事を終えると、 嵯峨の清涼寺横、薬師寺境内の井戸(生の六道)からこの世に戻ったと伝えられています。
あまり知られていない話に矢田寺の沙門満慶の物語があります。
大和国金剛山寺に沙門満慶というものがありました。
小野篁は満慶が戒行ある事を敬っていました。 篁は常人には計り知れない不思議な人で、 その身は朝廷にありながら冥府に神遊するとされていました。
冥府の閻魔王は菩薩戒を受けたいと願いましたが冥府には戒師がありませんでした。 篁は「自分の師であり友であるものに戒律精純な者がおります。」と閻魔王に話すと、 「すぐここに連れてきて欲しい。」と篁に頼みました。 篁はすぐ寺に詣でると満慶に事情を話しました。 満慶は篁と冥府に入ると、閻魔王に菩薩戒を授けました。 閻魔王は満慶に漆の篋(はこ)を送りました。 満慶は帰ってこれを開くと米がいっぱいに入っており、 使っても使ってもお米が減る事はありませんでした。
そのため満慶は満米と呼ばれるようになったと伝えられています。
金剛山寺は地蔵菩薩発祥の地ともされています。
もともとは十一面観音を本尊としていましたが、満米上人の時より、 地蔵菩薩をまつったとされています。 地蔵信仰の中心ともいわれ、境内には閻魔様もまつられてあるそうです。
地獄を行き来するものは、生きながら地獄の冥官をする特殊な例を除けば、 死んだ者を連れに来る地獄からの使い、という事になります。 中国ではこの使いを「鬼卒」と呼んでいるようです。
「布客」
長清で反物を売る商売をしている男がいました。泰安で商いをしている時、良く当たる星占いの易者がいるというので 占ってもらう事にしました。 しかしその易者は男の顔を見るなり、 「なぜ南に旅をしてきたのか? すぐに家に帰りなさい!」と怒鳴りました。 慌てた呉服商は易者の言う通り北の方の我が家に向かいました。その途中呉服商は小使いのような短い着物を着た男に出会いました。呉服商はその短い着物の人と、あれこれ話ながら旅をしました。 そして道々食べ物を買い分けあいながら食べ、また食事を共にしました。その男は それをひどくありがたがったのです。 呉服商が 「あんたはいったい何をしているのかい?」と尋ねると、その男は 「捕まえる者がおるんで、長清に行く所でさぁ。」 と答えました。 呉服商は笑って聞き返しました。 「いったい誰を捕まえにいくんだい?」 男は何人かの名前が書いてある書きつけを呉服商に見せました。 その書きつけには何人かの名前が書いてあり、 一番最初に呉服商の名前が書いてありました。 「俺は生きている者じゃねぇ、高里山、山東四司の手先でさぁ。 あんたの寿命はもう尽きたってことですよ。」 呉服商は驚いて、地面に頭をこすりつけてその男に命乞いをしました。 「それは出来ない事でさぁ。 ただ、書き付けにはたくさんの名前が書いてあるで、 みんなひっつかまえるには、まだ何日もかかりますぜ。 あんたは早く自分の家に帰って、後の始末をつけなせぇ。 それが今までのつき合いに報いられる事だと思ってくだせぇ。」 男はそう言って呉服商を起こし、また歩きはじめました。二人が黄河のはたまで来ると橋が流され、行き来が出来ず多くの人が困っていました。 すると男は呉服商に、 「あんたはもうすぐ死んで、その時にはお金は一文も持っていけねぇ。 すぐに橋を建てて、旅の人の役に立ってやりなせぇ。 お金はずいぶんかかるだろうが、あんたのためになるかもしれねぇ。」 と、言いました。呉服商はその通りだと思い、家に帰ると妻子に話して、死に仕度をすると、 日を限って大勢の人夫を雇い、橋をつくらせました。 橋はしばらく後に完成し、呉服商は覚悟を決めて死ぬのを待ちました。 しかしあの男は現れませんでした。呉服商はおかしな事があるものだと思っていた所、 あの男がひょっこり現れました。「俺はあんたが架けた橋の事をうぶすな様にお知らせした。 たぶん、うぶすな様から冥司に連絡が行ってあんたの寿命が延びたんだろう。 あの書き付けからあんたの名前が消えちまった。」呉服商はその男といつものように食事を共にし、酒を飲みました。 翌朝男は消え、以来二度と出会う事はありませんでした。 聊斎志異より 「布客」
鬼卒は人の中を動き回るためか、一般的な鬼のイメージ、角や牙は無いようです。 地獄で亡者を罰している鬼を "獄卒(八万獄卒)" "羅刹(阿蒡羅刹)" と呼ぶのですが、 鬼卒と同じものかどうかもわかりません。ただこの鬼卒、人手が足りないのか、人間が代役を勤める事もあったようです。 生きながら冥府の手先を勤める者を、走無常(そうむじょう)、活無常(かつむじょう)、 勾司(こうし)、勾死人(こうしにん)とさまざまな呼んでいます。 李中之のように突然死んだかと思うと冥府の仕事をした後、また生き返るそうです。何回も死んだり生き返ったりされたら、まわりのものが困ると思うんですが、 みなさんはどう思われますか?
補記
○ 篁は先祖に小野妹子、孫に小野小町・小野道風を持ちます。滋賀県滋賀市志賀町には小野一族を祭る小野神社があり、 境内には小野篁神社、小野道風神社と小野一族ゆかりの人物が祭られています。 ちなみに小野神社の祭神、米餅搗大使主命(たかねつきおおおみのみこと)は、 応神天皇の頃、日本で始めて餅つきをしたとされ、菓子作りの神様とされています。
○ 「布客」"客"は旅をする、という意味。布を扱い旅をしている者、という意と思われます。 
5
小野小町の祖父・小野篁
平安時代の初期、嵯峨天皇の頃の有名人で、人で小野篁(おののたかむら:802〜852)が居ます。遣隋使を務めた小野妹子の子孫です。
この人は三筆の一人小野道風、そして美人の代名詞、小野の小町の祖父に当たる人で、学者として高名だった参議岑守(みねもり)の息子の文人貴族です。21歳の時に文章生の試験に及第し、東宮学士(皇太子の先生)、巡察弾正、弾正少忠、大内記、蔵人、式部少丞、大宰少弐などを経て、837年に遣唐副使に任命されるが839年隠岐に配流。ただし、僅か1年半で許され召し返される。官暦は陸奥守、信濃守、近江守、巡察弾正、弾正少忠、刑部大輔、蔵人頭、左中弁などを歴任し、847年参議に昇進、弾正大弼を兼ね、852年に左大弁、同年病没。
古今和歌集の6首を始め、勅撰入集は計12首。 『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』などに作を残し、漢詩の分野では「日本の白楽天」と呼ばれたほどの逸材だったとか。
裁判官だったことはありますが、武官だったことはありません。ところがこの小野篁は815年、13歳の頃に父岑守が陸奥の守として奥州に赴任するのに同行し、そのときおぼえた狩や弓馬に熱中して学問にあまり関心を示さず、嵯峨天皇に「学者として高名だった岑守の息子なのに」と嘆かせたとか。
その後はちゃんと学者、文人として有名になりましたが。これも貴族は「武」も備えていたひとつの例ですね。武蔵七党の猪俣党などの武士は小野篁の子孫を称しているそうです。信じはしませんが。
「今昔物語」には人でありながら冥府(死後の世界)に自由に行き来出来るばかりか、閻魔大王の次官として裁判を手伝っていた。藤原良相(よしみ:右大臣)が死にかけたとき、小野篁のとりなしで閻魔大王に許されて生き返ったと言う話が載っています。(小野篁、情によりて西三條の大臣を助けたる語)
「群書類従」の「小野系図」にも、篁の事を「閻魔第三の冥官」と記されているとか。 
6
小野篁と紫式部
小野篁(おののたかむら)は平安時代初期の歌人であり、また役人、学者とも云える人物。書家の小野道風の祖父に当たり、また小野小町との関係でも祖父になるとも云われます。
篁の話は”六道珍皇寺界隈”でも少し触れていますが、俗称を野相公、野宰相、野狂と呼ばれ、数奇な伝説が幾つも残ります。日中は内裏に務めるいわば公務員、夜になると冥界に行って閻魔大王に仕えたと云います。篁は亡者が閻魔大王の前に引き出され罪科を言い渡される折に、その亡者の生前の行いから閻魔大王に助言をしたと伝わり、中には娑婆(しゃば)に戻され生き返ったと云う話が今昔物語には伝わります。
一方の紫式部は云わずとも知れた”源氏物語”の作者。紫式部とは云うものの、この名は正しいものではなく、いわば呼び名。実名は藤原香子だと云う説があったりしますが、よく判らないのが正しい表現でしょうか。この頃の女性は誰々の娘とかの記述しか残っていなかったりします。藤原為時の娘と云うことは確からしく、当時、宮廷の後宮に仕えた女官は、その血筋の役目から女房名が決まりました。為時は式部省の役人だったので、藤式部と呼ばれていたけれど、紫の上を主人公とする”源氏物語”の作者であったことから、いつしか紫式部と呼ばれるようになったと云います。
紫式部の父、為時は役人として名を馳せたと云うよりは文人、詩人としての名の方が通りが良かったようで、そんな環境の中で式部の文才も磨かれたようです。そんな式部の結婚は遅く三十近くになってからだと伝わります。今の時代では珍しくもない年齢かも知れませんが、当時は十五歳まで、早ければ十二、三歳で結婚をする時代、かなりの晩婚だったようです。それも父親と年齢が変わらずほどの藤原宣孝と云う人物と結婚しています。この当たりはかなり異例なこと。この辺の境遇と云うのか、生き方が源氏物語に反映しているのではないかと思ってしまいます。宣孝と過ごす期間は短く、三年ほどで宣孝は流行病で亡くなります。その後、身の上のはけ口を求めるかのように源氏物語は書かれることになります。
当時の結婚の形は”通い婚”と云うもの。世間に広まる何処そこの才女は美形、品が良いなどの噂や評判を信じ、詩歌を送り女性が返歌を送るところからお付き合いが始まります。そして段取りが進めば夜に男が女性の家へ通い、女性がそれを認めて三日三晩続くことで結婚が成立します。最終的な決定権は女性側にあるけれど、男性の結婚の相手は一人とは定まっていなかった、いわば一夫多妻だったと云うし、生まれた子供は女性側、母方で育てられます。現代の感覚からすれば、おかしな社会ですが、それが平安貴族の普通の形態。この当たりを理解して源氏物語を読まないと情景が判らなくなります。源氏物語はフィクションだと云われますが、登場人物は架空であっても、その文面には当時の男女間の恋愛のありかた、宮廷、貴族社会の内面が色濃く表現されています。
さて、小野篁と紫式部の関係ですが、意味合い的な関わりと云うよりは物理的な関わりとでも云うのでしょうか、何故か小野篁の墓の隣に紫式部の墓があるのです。仲良く並んで建っています。冥界の番人である小野篁、方や平安王朝文学、物語文学の傑作と云われる源氏物語の作者。摩訶不思議な光景です。そのよりどころは室町時代に四辻善成が顕したと云われる「河海抄」(かかいしょう)と云う文献によります。それには”式部の墓は雲林院白毫院の南、小野篁墓の西にあり”との記述があり、これが根拠になっています。確かに式部は源氏物語で雲林院は主人公の光源氏が参籠した所として登場させてはいるけれど、墓の真偽には疑問もあるようです。
源氏物語には光源氏の寵愛を受ける夕顔が物の怪に取り殺されたり、光源氏の愛人である六条御息所が正妻の葵上を取り殺すなど小野篁の領域である怨霊にまつわるであろう話もあるにはあり、関わりらしきものも見え隠れしますが、一説に、小野篁と紫式部の墓が建ち並ぶのは紫式部が狂言綺語(きょうげんきご)、ふしだらな物語を描いた大罪人で、閻魔大王の前に引き出された紫式部を篁が取りなしたとの伝説によるものと云うのがあります。
多分、これは武士が台頭してくる平安末期から鎌倉時代にかけてのものでしょう。時代が変われば、価値観、規範意識も変わります。平安時代の普通も武士の時代ではそぐわなくなったのでしょう。余談ですが、雲林院は応仁の乱で荒廃し、天正年間に千本閻魔堂に移され、今の千本閻魔堂に残る十重石塔は紫式部の供養塔と伝わります。篁と式部、この二人の墓所は堀川北大路交差点から南へ少し下がって島津製作所の傍らにあります。 
7
「小野篁広才のこと」 宇治拾遺物語
今は昔、小野篁といふ人おはしけり。
嵯峨帝の御時に、内裏にふだをたてたりけるに、無悪善と書きたりけり。
帝、篁に、「よめ」と仰せられたりければ、「読みは読み候ひなん。されど恐れにて候へば、え申さぶらはじ」と奏しければ、「ただ申せ」と、たびたび仰られければ、「さがなくてよからんと申して候ふぞ。されば君を呪ひ參らせて候ふなり」と申しければ、「おのれ放ちては、誰か書かん」と仰られければ、「さればこそ、申し候はじとは申して候ひつれ」と申すに、帝、「さて、何も書きたらん物は、よみてんや」と、仰せられければ、「何にても、読み候ひなん」と申ければ、片仮名の子文字を十二書かせて、給ひて、「読め」と仰せられければ、「ねこの子のこねこ、ししの子のこじし」と読みたりければ、帝ほほゑませ給ひて、事なくてやみにけり。 
8
京都の都市民俗と伝承世界
( 民俗行事における小野篁伝承の役割とその展開について ) 
研究目的
本研究は京都の境界地域に付された都市の精神性について、小野篁の冥界往来伝承を中心に考察を加えるものである。8世紀に成立した古代都市である京都は、その歴史的性格から人為的な都市構造の中に都市民の様々な精神的風土を見て取ることができる。洛中に墓を作らせず、死や穢れを京の「外」に追い出してきた京都の町は、その境目となる境界に両者の混沌とした世界を持っている。そこには死や境界と関わる様々な説話や伝承が伝えられ、その土地の持つ特殊な性格を体現しているのである。
小野篁の冥界往来伝承は中世期に成立し、京都を中心に時代に応じて様々に変化しながら現在まで伝えられている。この伝承は「この世」と「あの世」を往来するという話の展開から、京都の周縁地域において「境界」や、「死」と関わる民俗の中で語られており、このことから京都の複雑な境界構造やその都市性とも関わりを持つことが推察される。こうした京都における伝承と伝承地、都市民俗の関係について、通時的時間軸でその変遷を捉えることが本研究の最終目的であるが、今回の調査報告ではその中の現在の京都における小野篁の伝承の展開について報告する。
調査報告
この世とあの世の境を越える越境の異能者としての小野篁の伝承は例外なく都市の境界地に伝えられている。現在の京都における小野篁に関わる伝承は、大きく分けて
 1 葬送地と関わる伝承
 2 六地蔵めぐりに関わる伝承
の2つがあり、8月に行われる盂蘭盆会や地蔵盆などの行事と結びついている。これらの事例について以下に報告する。 
1−1 六道珍皇寺と六道まいり
六道珍皇寺は鴨川の東岸、中世共同墓地として知られる鳥辺野葬送地の北端にあたる六波羅地域にある。珍皇寺は11世紀にはその存在が認められており、小野篁は12世紀に成立した『伊呂波字類抄』、『今昔物語集』において珍皇寺を開いたとされている開基伝承者の一人である1)。寺伝では小野篁は境内の井戸より地獄へ往還したとされており、これを由緒として、珍皇寺では毎年8月7日〜10日にかけて「六道まいり」と呼ばれる精霊迎えの行事が行われている。
精霊迎えは盂蘭盆会に際して先祖の霊をこの世に迎える行事であり、珍皇寺には早朝から夜中にかけて京中から毎年約10万人の人々が宗派を問わず訪れる。行事の内容は、まず門前で高野槙を買い求め、本堂で卒塔婆に先祖の名を記してもらい、向かえ鐘を撞く。そして境内の地蔵菩薩像の前で卒塔婆を水回向して先祖の霊を槙の葉に宿し、各家に持ち帰るというものである。境内の篁堂と呼ばれる堂宇には室町時代の作である閻魔大王像と江戸時代初期の作である小野篁像(約180cm)が安置されており、また境内ではかつて熊野比丘尼が絵解きに使用したとされる「熊野勧進十界図」という絵図も展示される。この六道まいりについては16世紀の地誌類にはすでに現在と同様に行われていたことが記されており、また桃山時代に製作された「珍皇寺参詣曼荼羅」にも地獄と関わる置物が境内に多数置かれる様子や迎え鐘を撞く人物、篁の井戸などが描かれていることから、現在の伝承や民俗がこれらの時代にまで遡るものであることが明らかとなっている。ただし珍皇寺では平安時代中期頃にはすでに施餓鬼供養が行われていたことが知られている2)。
六波羅の南に展開していたとされる鳥辺野葬送地は、9世紀には葬送の記録が見られる。その後中世共同墓地として展開し、近世も火屋(火葬場)が置かれるなど、京都の代表的な葬送地として知られる場所である。珍皇寺の門前、また珍皇寺から100m ほど西にある西福寺の門前は「六道の辻」と呼ばれている。六波羅は洛中よりの葬列が鳥辺野へ向かう入り口にあたる野辺送りの場であり、珍皇寺を“地獄の入り口” とする伝承は、この地の葬送地の入り口としての性格と関わるものであると考えられている。洛中から見て川を隔てた周縁地域であった六波羅は、現在に到るまで京都における「葬送」や「死」と関わる場所として都市の中に機能している。珍皇寺の小野篁の伝承はこうした六波羅の土地の性格を体現的に示すものであろう3)。 
1−2 千本ゑんま堂とお精霊迎え
千本ゑんま堂(引接寺)は京都の北部、平安京の朱雀大路にあたる千本通りの北端である千本地域にある。14世紀頃に成立したとされる千本ゑんま堂は、現在の寺伝では小野篁を開基、定覚上人を中興の祖とし、本堂には本尊として鎌倉時代の作である丈六の閻魔王像を安置している4)。この寺でも六道まいりと同様に精霊迎えの行事である「お精霊迎え」が8月7日〜15日にかけて行われており、寺伝ではその作法は“小野篁によって伝えられた” ものとされている5)。また本堂脇の別の堂には地蔵菩薩像、定覚上人像と共に、約100cm の小野篁像が安置されている。
千本ゑんま堂の小野篁の伝承は、古くは17世紀に刊行された地誌類に寺の創建者や閻魔王像の建立者を篁とする記述が見られる。しかしこの伝承は18世紀の地誌には見られなくなり、閻魔王像を本尊とする性格に付された一時的なものと考えられる。現在の伝承は井阪康二氏の研究にもあるように近代以降に当寺が衰退し復興する過程で成立したものと考えられ6)、現在境内に安置されている篁像も管見の限りこの時代の作と思われる7)。
しかし、ゑんま堂の所在地は、12世紀の後期より共同墓地として成立した蓮台野の入り口に当たる。蓮台野は船岡山の西から紙屋川に至る一帯を言うが、この辺りは平安京の右京の衰退による都市機能の東遷によって、平安時代中期頃に都の周縁となった場所である。ゑんま堂は蓮台野の入り口で珍皇寺と同様に野辺送りの場であり、すぐ北の上品蓮台寺と共に京中の葬送に関わる場所であったと考えられている。
千本ゑんま堂の篁伝承は近世以降の新しいものでありながら、珍皇寺と同様にかつての葬送地の入り口において語られ、現在共に精霊迎えの場として京都の都市民俗に組み込まれている。またゑんま堂では3年前より12月23日に篁忌として餅つきを行っているが、その由来としては近江の小野地域にある小野篁神社の祭神が日本で最初に餅をついたとされる米餅搗大使主命(たかねつきおおおみのみこと)であることを取り上げている。これは篁伝承の新しい伝播であり、篁伝承の歴史的な展開やその伝播について考える上でも注目すべき事例であろう。 
1−3 福生寺と生の六道
また小野篁の伝承は京都の西にある嵯峨の地にも伝えられている。嵯峨の清涼寺境内にある薬師寺は、江戸時代に篁が地獄より帰る出口とされた福生寺が明治に廃寺となって後に統合された寺院である。福生寺は珍皇寺が地獄への入り口として「死の六道」と称されたことに対して、「生の六道」と呼ばれたことが18世紀末の『拾遺都名所図絵』等に見られるが、薬師寺には福生寺旧蔵で伝篁作の生六道地蔵菩薩像やこの地蔵の来歴を記した『生六道地蔵菩薩縁起』、約50pの小野篁像を安置している。戦後福生寺のものと思われる七つの井戸が清涼寺の東、化野に至る旧街道に沿って発見されている8)。
珍皇寺に対応したこの福生寺の伝承は近世以降に珍皇寺の伝承を元に作られたものと考えられているが9)、福生寺一帯は、14世紀成立の『徒然草』にも鳥辺野と並んで記されている中世共同墓地である化野の東端にあたり、先の珍皇寺やゑんま堂と同様にかつての葬送地の入り口にあたる。現在薬師寺では8月24日の地蔵盆に檀家による精霊送りの行事が行われるが、これは薬師寺住職の安藤靖高氏によれば檀家と共に福生寺より引き継がれた行事とされており、先の両地と共に地域の葬送や先祖供養の行事に関わるものとして考察する必要がある。また、『生六道地蔵菩薩縁起』はその話が後述する六地蔵めぐりと同様に、篁が地獄で生身の地蔵に出会うという共通のモチーフを持つことや、本調査において先の井戸が発見された場所の前を通る旧街道から化野に至る辻の一角で珍皇寺門前付近と同様に「六道の辻」と呼ばれていたという聞き取りがあったことも10)、この地の篁伝承の成立や伝播を考える上で注目すべき点であると思われる。 
2 六地蔵めぐりの小野篁伝承
六地蔵めぐりは8月22日、23日に行われ、伏見(大善寺)・山科(徳林庵)・鞍馬口(上善寺)・常盤(源光寺)・桂(地蔵寺)・鳥羽(浄善寺)の六ヶ所に祀られている地蔵を巡って紙幡(五色の紙の札)を集め、「厄病退散」「福徳招来」を願う行事である。参加者は現在は中高年層が多く見られ、個人の車の他、新聞社や旅行会社によるツアー11)や、市バス、観光タクシーなどによって巡られている。
六ヶ所の地蔵堂の中で中心的役割を担い、行事の創始とも深い関わりを持つのが「伏見六地蔵」の大善寺である。この寺院には文末に寛文五年(1665)の成立と記される『山城州六地蔵菩薩縁起』が伝わっている。その内容を要約すると、“六地蔵めぐりの地蔵菩薩像は、篁が満慶上人と共に地獄に赴き、そこで出会った生身の地蔵の姿をこの世に帰って後に六体の像に写したものである。元は大善寺に六体ともあったが後白河院の御世に京中六ヶ所の街道の入り口に移された。” というものである。また近世の多くの地誌類では、“篁の作った六体の地蔵は平清盛の命で西光法師によって各地に六角堂を作って配置された。” とされており、現在の行事の由来の中でもそのように伝えられている。また大善寺の地蔵菩薩像の脇には約100cmの小野篁像が安置されている。
『山城州六地蔵菩薩縁起』は中世に最も流布した地蔵説話の一つである『矢田地蔵縁起』と内容的に重なる部分が多い。『矢田地蔵縁起』は鎌倉時代にはその成立が確認されているもので、『六地蔵菩薩縁起』は近世に『矢田地蔵縁起』を元に製作されたと考えられる。しかしここで像を作ったのが『矢田地蔵縁起』における“満慶上人” ではなく“小野篁” とされていることには、有名な地蔵菩薩縁起の引用という以外にも何らかの要因があるように思われる。またこの六地蔵めぐりについては、中世後期成立の『源平盛衰記』には六地蔵めぐりと同様の行事を指すと思われる「廻り地蔵」を“西光法師” が作ったという記述があり、また黒川道祐が17世紀に記した地誌である『雍州府志』、『石山行程』には西光の主人である“信西入道” が六地蔵を作ったとする説が載る。この西光法師は現在の六地蔵の伝承では地蔵を京内各地に配した人物とされており、またその名の載らない『六地蔵菩薩縁起』でも地蔵の移転は後白河院世紀とされている。このことから後白河院世紀にこの行事に関わる何らかの動向があったか、また伝承として時代を設定される何らかの理由があることが推察される。西光法師は承安三年(1173)三月十日に浄妙寺領内(大善寺も含む)で堂供養を行った記録12)があり、信西も『平治物語』では小野篁と同じ冥官であるとされていることから、現在の小野篁伝承に到る伝承の推移という点において今後考察が必要である。 
今後の研究の展開と課題
先の1に挙げた小野篁伝承の伝承地は、どれも葬送地の入り口という特徴を持っている。その中でその成立や歴史において最も古いものが六道珍皇寺であり、千本ゑんま堂や福生寺の篁伝承は近世や近代に珍皇寺の伝承を受けて作り出された伝承であると考えられる。しかし個々の伝承はただ珍皇寺の伝承の伝播というだけでは済まない独自性も持っている。林屋辰三郎氏は京都では東と北の文化圏が相互に対応関係を持つものであり、両所に農耕神である八坂神社と北野天満宮があるように、死を司る六道珍皇寺と千本ゑんま堂があり、人々の生活と関わっているとしている13)。福生寺があった嵯峨も都から離れた場所で独自の文化圏を持っており、そうした地域ごとの生と死のシステムがそれぞれの生活圏の中の境界地に意識されたということもこうした伝承が各所に見られる理由として考えられる。
また上記のような小単位の生活圏を持ちつつも、京都は都市としての千年以上の歴史を持つ。京中の六ヶ所の境界地をめぐる2の六地蔵めぐりはそうした京都という一つの都市空間においての境界伝承と考えられることができるだろう。また小野篁の属する小野氏の根拠地が近江の小野の地にあり、そこには先に挙げた小野篁神社や小野道風神社等、小野氏と関わる旧跡が数多く存在する。柳田国男氏はこの地の小野氏が、宮廷祭祀を司る猿女氏との関わりから祭祀や芸能と関係の深い氏族的性格を持っていたことを指摘しており14)、このことは篁伝承の起源とも関わるものとして考慮する必要があるだろう。こうした時代を通して様々に展開する京都の小野篁の伝承の変遷や都市民俗における伝承の役割などについて今後考察していきたいと思う。 

1)珍皇寺の開基伝承者にはその他に山代淡海、慶俊僧都、弘法大師等が挙げられている。
2) 1022年〜1108年に成立の『東山往来』(『続群書類従』巻三五九〕に施餓鬼供養についての問答が見られる。
3)西福寺では六道まいりの期間中当寺に所蔵されている「熊野勧進十界図」や「壇林皇后九相図」、「那智参詣曼荼羅」といった地獄や死、社寺巡礼などと関わる絵図が多数展示される。またその南にあり、空也上人に由来する六波羅蜜寺でも精霊迎えの万灯会が行われる。西福寺の門前には、昔話の「子育て幽霊」の話型のいわれを持つ「幽霊子育飴」も売られる。また子育て幽霊譚については近世の仮名草紙である『奇異雑談集』に蓮台野を舞台とした話が載る。
4)定覚上人は当寺の銅鐘銘文ではゑんま堂の開基とされている。現在の伝承では篁が最初に作った堂と閻魔王像が応仁の乱で消滅し、後に定覚が再興したとしている。(ただし応仁の乱は定覚の時代よりも後の出来事。)
5)また16日には大文字の送り火前に精霊送りとして各家の盂蘭盆の供物が収められる。
6)井阪康二「嵯峨野の生の六道と千本閻魔堂のショウライ迎え」『民俗の歴史的世界』17号(1994年)
7) 1895刊の『京華要誌』(京都市編)に小野篁像の記録が見られる。
8)発見された井戸は現在消滅している。福生寺の小野篁伝承や井戸については、前薬師寺住職安藤藤良全氏の「生の六道と小野篁公」(雑誌『知恩』1978年8月号 所収)に詳しい。また『拾遺都名所図絵』には福生寺は「清涼寺の戌亥」にあるとされ、所在地については考察が必要であると思われる。
9)井坂氏前掲論文による。
10)薬師寺住職、安藤靖高氏の談。
11)本調査では主に地元の高齢者が多く参加する京都新聞主催のバスツアーへ参加し調査を行った。このツアーへの参加者は両日で540人以上(一日あたりマイクロバス6台)であった。
12)平安末期の九条兼実の日記である『玉葉』と、13世紀成立の歴史書である『百錬抄』の承安三年(1173)三月十日条に見える。
13)『町衆──京都における「市民」形成史』林屋辰三郎著 中央公論社(1964年)
14)柳田国男「妹の力」『定本柳田国男集』巻11 柳田国男著 筑摩書房(1982年)  
 
12.僧正遍昭 (そうじょうへんじょう)  

 

天(あま)つ風(かぜ) 雲(くも)の通(かよ)ひ路(じ) 吹(ふ)き閉(と)ぢよ
乙女(をとめ)の姿(すがた) しばしとどめむ  
天の風よ。雲間の通り道を閉ざしてくれ。天女の舞い姿をしばらくとどめておきたいのだ。 / 大空を吹く風よ、雲の中の通路を閉じておくれ。天に戻っていきそうな、この美しい天女たちをとどめて、今しばらくその舞を見ていたいと思うから。 / 空を吹く風よ。天女が還るという雲の道を吹き閉ざしておくれ。天女のように美しい舞姫の姿をもう少しこの地上に留めておきたいのだよ。 / 空吹く風よ、雲の中にあるという(天に通じる)道を吹いて閉じてくれないか。(天に帰っていく)乙女たちの姿を、しばらくここに引き留めておきたいから。
○ 天つ風 / 「つ」は、「の」と同じ働きをする連体修飾格の古い格助詞。現在は、「まつげ・おとつい」などに痕跡を残す。「天つ風」で、「天の風よ」という呼びかけを表す。擬人法。
○ 雲の通ひ路 / 雲の切れ目。天上と地上を結ぶ雲間の通路。天女が往来する際に用いると考えられていた。
○ 吹き閉ぢよ / 「閉ぢよ」は、動詞の命令形。天女が天上に帰ることを妨げるために、天の風に依頼している。
○ をとめの姿 / 「をとめ」は、「天女」の意。この歌は、遍照が在俗の時、五節の舞姫を見て詠んだものであり、舞姫を天女に見立てている。五節の舞は、大嘗祭や新嘗祭などの際に宮中で行われた舞。
○ しばしとどめむ / 「む」は、意志の助動詞で、希望を表す「〜たい」の意。「しばしとどめむ」で、「しばらくの間、天女を地上にとどめたい」の意を表す。実際には、五節の舞姫が舞う姿を見続けていたという気持ちを表している。 
僧侶
1
遍昭(へんじょう、弘仁7年(816年) - 寛平2年1月19日(890年2月12日))は、平安時代前期の僧・歌人。俗名は良岑 宗貞(よしみね の むねさだ)。大納言・良岑安世の八男。官位は従五位上・左近衛少将。花山僧正とも号す。六歌仙および三十六歌仙の一人。
仁明天皇の蔵人から、承和12年(845年)従五位下・左兵衛佐、承和13年(846年)左近衛少将兼備前介を経て、嘉祥2年(849年)蔵人頭に任ぜられる。嘉祥3年(850年)正月に従五位上に昇叙されるが、同年3月に寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家する。最終官位は左近衛少将従五位上。
円仁・円珍に師事。花山の元慶寺を建立し、貞観11年(869年)紫野の雲林院の別当を兼ねた。仁和元年(885年)に僧正となり、花山僧正と呼ばれるようになる。『日本三代実録』によれば、この年の12月18日に宮中仁寿殿において、光孝天皇主催による遍昭の70歳の賀が行われていることから、光孝天皇との和歌における師弟関係が推定されている。 京都市山科区北花山中道町に墓がある。
歌風
遍昭は『古今和歌集』仮名序において、紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として名を挙げた六歌仙の一人である。貫之による遍昭の評は以下の通りである。
僧正遍昭は、歌のさまは得たれどもまことすくなし。 (現代語訳:僧正遍昭は、歌の風体や趣向はよろしいが、真情にとぼしい。)
遍昭の歌風は出家前と出家後で変化しており、出家後は紀貫之が評したように物事を知的にとらえ客観的に描き出す歌を多く作ったが、出家前には情感あふれる歌も詠んでいる。特に『百人一首』にもとられている「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ」には遍昭の真情が現れているといえよう。 『古今和歌集』(16首)以下の勅撰和歌集に35首入集。家集に『遍照集』があるが、三代集から遍昭作の歌をひいて編集したもので、遍昭の独自性はない。          
○ すゑの露 もとのしづくや 世の中の おくれ先だつ ためしなるらん
○ 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ    
説話
桓武天皇の孫という高貴な生まれであるにもかかわらず、出家して天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇ったこと、また、歌僧の先駆の一人であることなど、遍昭は説話の主人公として恰好の性格を備えた人物であった。在俗時代の色好みの逸話や、出家に際しその意志を妻にも告げなかった話は『大和物語』をはじめ、『今昔物語集』『宝物集』『十訓抄』などに見え、霊験あらたかな僧であった話も『今昔物語集』『続本朝往生伝』に記されている。江戸時代に製作された歌舞伎舞踊『積恋雪関扉』では良岑宗貞の名で登場。 
2
元慶寺
元慶寺(がんぎょうじ。現在は「がんけいじ」)は京都市山科区北花山河原町13に位置(外部リンク)する天台宗寺院です。山号は華頂山。遍照(816〜90)が陽成天皇降誕に際して貞観10年(868)に建立し、元慶元年(877)に定額寺となりました。かつては街道の北の山に位置していました。応仁の乱で衰退しましたが、天明3年(1783)に再興。現在の建物の多くは寛政元年(1789)の再建になります。西国三十三箇所番外札所としても知られています。
僧正遍照
元慶寺は遍照(816〜90)によって創建された。遍照は歌僧として知られており、とくに六歌仙、ないしは三十六歌仙に数えられる大歌人である。その一方で僧侶としての活動はほとんど知られておらず、遍照のイメージは歌僧としてのみ定着している。そこで元慶寺について述べる前に、ここでは遍照の僧侶としての活動をみてみよう。
遍照は良峰安世の8男であり(通行本『慈覚大師伝』)、すなわち桓武天皇の孫にあたる。官吏として朝廷に出仕し、承和12年(845)正月7日に従五位下(『続日本後紀』巻15、承和12年正月甲寅条)、同年正月11日に左兵衛佐となり(『続日本後紀』巻15、承和12年正月戊午条)、承和13年(846)正月13日には備前介・左近衛少将を兼任した(『続日本後紀』巻16、承和13年正月乙卯条)。嘉祥2年(849)4月28日には渤海使に対する慰労の勅使となって鴻臚館に赴き(『続日本後紀』巻19、嘉祥2年4月辛亥条)。嘉祥3年(850)正月7日には従五位上に叙された(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年正月丙戌条)。
順調に官歴を重ねていったかのようにみえるが、宗貞は仁明天皇の寵臣であったため、仁明天皇の崩御とともに官途は終わる。嘉祥3年(850)3月22日に仁明天皇葬送のための諸司の一人に任じられたが(『日本文徳天皇実録』巻1、嘉祥3年3月庚子条)、わずか6日後の28日、突如として出家して僧となった。仁明天皇が崩御したため悲しみ慕うあまり僧になってしまったのである。時の人々はこれを憐れんだという(『日本文徳天皇実録』巻1、嘉祥3年3月丙午条)。このように一旦良峰宗貞は記録から消えるが、僧遍照として歴史舞台を歩み続ける。
遍照が出家した地は比叡山であったらしい(『古今和歌集』巻第16、哀傷哥、第847番歌、詞書)。藤原良房(804〜72)は彼を天台座主円仁(794〜864)に託した。貞観5年(863)円仁は遍照に始めて真言大法を教え、金剛界壇を授けた。円仁は両部大法をすべて授けるつもりであったが、円仁の病は進行してしまい、貞観6年(864)正月13日に弟子たちを招集し、弟子の安慧(794〜68)より授けるように遺言した(通行本『慈覚大師伝』)。安慧は貞観7年(865)夏、遍照に三部大法を授けた(通行本『慈覚大師伝』)。
貞観11年(869)2月26日に遍照は勅によって法眼和尚位を授けられているが(『日本三代実録』巻16、貞観11年2月26日甲寅条)、これは前年末に貞明親王(陽成天皇)の降誕に際して寺院(後の元慶寺)を建立したこと(『類聚三代格』巻第2、元慶元年12月9日官符)の賞であったようである。また後に元慶寺の別院となる雲林院を貞観11年(869)2月16日に常康親王(?〜869)より委嘱されている(『日本三代実録』巻46、元慶8年9月10日丁卯条)。貞観15年(873)には延暦寺惣持院潅頂堂において三部大潅頂を円珍(814〜91)より授けられており(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)、同年4月23日に阿闍梨位を授けられている(「太政官牒」園城寺文書47-3)。遍照に円珍を紹介したのも藤原良房であった(「授遍照阿闍梨位奏状」園城寺文書47-2)。
遍照は陽成天皇を即位以前より護持していたため、陽成天皇即位後は一躍重用されることになる。元慶3年(879)10月23日に突如として権僧正に任じられた(『日本三代実録』巻36、元慶3年10月23日己卯条)。遍照も閏10月15日に辞表を奏上するものの、慰撫された(『日本三代実録』巻36、元慶3年閏10月15日辛丑条)。こうして突如僧綱の次席(首席の僧正は宗叡)となった遍照であったが、もと官人であった経歴を生かして、僧侶の綱紀粛正に尽力することになる。とくに元慶6年(882)の「遍照起請七条」は国家仏教における問題点と解決点を指摘した点で大いに注目すべきである。
第一条は僧綱に任用される者が諸寺の別当を兼任する場合、4年を期限とすることであり、式の条文では四年の期限を設けながら、例外規定があったため、僧綱の者はあくまで期限を守るべきこととした(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。
第二・三条は逸しており不明である。
第四条は授戒したと詐称して偽造した戒牒を持つ者がいるため、式部省・玄蕃寮が現場にて本籍・姓名を記し、捺印した戒牒を作成し、偽造した戒牒を持つ者は違勅の罪に問うとしたものである(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。
第五条は諸寺の別当が任期後に交替する際、解由(任交替の事務引継・監査)は僧綱に提出されるが、別当の任命は実際には僧綱が関知することが少ないため、任期がいつ終わったのか僧綱では把握できず、そのため解由の詳細を知ることすらできなくなっていた。そこで別当の任符(任命状)が官から発給される前に、式部省・玄蕃寮・僧綱に提出し、任命日から逆算して任期終了を把握して解由を処理することとした(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。
第六条は放生会について、現行の放生会の前に、放生すべき生き物を国司が検断するために集めており、検断までの数日間に生き物の大半が死ぬことから、無意味な放生会はかえって殺生をしているのと変わらないとし、実効性のある方法をとり、それを年末に記録して言上すべきとした(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。
第七条は川に毒木の毒を流して魚を捕ることを禁止したものである(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。ただしこの魚毒漁は近代まで実施されていた。
元慶8年(884)にこれまで護持してきた陽成天皇が事実上の廃位となったが、かわって即位した光孝天皇は遍照とは出家以前より深い親交があったため(『日本三代実録』巻49、仁和2年3月14日癸巳条)、前代にも増して重用されるようになる。光孝天皇が親王であった時、遍照の母の家に宿泊した際に遍照が歌を詠んでいる(『古今和歌集』巻第4、秋哥上、第248番歌)。
  さとはあれて人はふりにしやどなれや 庭もまがきも秋ののらなる
仁和元年(885)2月13日、遍照は権僧正職の辞表を提出したが(『日本三代実録』巻47、仁和元年2月13日己亥条)、3月4日に光孝天皇より「朕の懐(おもい)を傷つくことなかれ」と慰撫された(『日本三代実録』巻47、仁和元年3月4日己未条)。同年10月22日には僧正に任じられた(『日本三代実録』巻48、仁和元年10月22日癸酉条)。
仁和元年(885)12月18日に遍照の70歳を賀して光孝天皇より仁寿殿にて宴を賜っており、太政大臣藤原基経(836〜91)、左大臣源融(822〜95)、右大臣源多(831〜88)も同席して徹夜で語り合ったという(『日本三代実録』巻47、仁和元年12月18日戊辰条)。この時光孝天皇は以下の歌を詠んでいる(『古今和歌集』巻第7、賀歌、第347番歌)。
  かくしつつとにもかくにもながらへて 君がやちよにあふよしも哉
なお仁和元年(885)に増命(843〜927)が光孝天皇によって内供奉十禅師に補任されたが、太政大臣藤原基経と遍照が共に「天下の僧や耆宿は林のようにいるのに、どうして下臈の僧をみだりに抜擢なさるのですか」と奏上すると、光孝天皇は「これは凡流ではない。朕はその徳行を熟知しているだけだ」と答えている(『日本高僧伝要文抄』第1、静観僧正伝)。仁和2年(886)3月14日には遍照に食邑100戸を賜っており(『日本三代実録』巻49、仁和2年3月14日癸巳条)、遍照は辞退したが、勅によって許されなかった(『日本三代実録』巻49、仁和2年6月14日壬戌条)。仁和3年(887)には延暦寺の僧最円(825〜?)が長年遍照のもとにあり、両部大法を受学していることから、遍照の奏請によって、同年7月27日に真言伝法阿闍梨位を授けられている(『日本三代実録』巻50、仁和3年7月27日戊戌条)。
寛平2年(890)正月19日、遍照は示寂した。75歳(『日本紀略』寛平2年正月19日条)。翌日、勅使派遣が決定されており、円仁が示寂した時に勅使を派遣した故事に倣ったものであった(『扶桑略記』第22、寛平2年正月20日丁未条所引、宇多天皇宸記逸文)。21日には少納言令扶が元慶寺に派遣され、遍照の遺室に綿300屯、調布150端が寄進され、諷誦を修させた(『扶桑略記』第22、寛平2年正月21日戊申条所引、宇多天皇宸記逸文)。
元慶寺の創建
元慶寺の正確な創建年についてはわかっていない。ただし、遍照の上奏文によると、中宮(藤原高子)が懐妊し、陽成天皇が降誕しようとする時に、遍照が発願して創建したといい、その後建物は次第に建造され、仏像も新たに造立したという(『類聚三代格』巻第2、元慶元年12月9日官符)。陽成天皇の降誕は貞観10年(868)12月16日のことであるから、およそ貞観10年(868)頃に創建されたことが知られる。当初の寺名は「華山寺」といったらしく、貞観18年(876)4月23日には前陸奥守安倍貞行(生没年不明)が法華経一部を書写し、華山寺にて僧を屈請して法華経を講じさせている(『菅家文草』巻第11、願文上、為前陸奥守安大夫於華山寺講法華経願文)。建立地は現在の元慶寺の地とは若干異なり、街道の北の山に位置しており、ここの地名を「寺ノ内」といったという(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。現在の元慶寺の西側200mほどの地点に「寺内町」という地名があり、ここが該当するかとみられる。
遍照は朝廷に対して、元慶寺に大悲胎蔵業1人・金剛頂業1人・摩訶止観業1人のあわせて3人の年分度者を置くことを求め、さらにその試験日は毎年12月上旬とし、天台宗の年分度者に準じて、勅使を請い、通五以上の者を及第とし、陽成天皇の降誕日に剃髪・得度させることとした。さらに延暦寺戒壇院にて大乗戒を授戒し、授戒後は元慶寺に戻り、五大菩薩の前で、止観業の者は仁王般若経を読経させ、真言業の者は大日経・金剛頂経を読ませている。また定額寺とすることを求めている。遍照の要請は元慶元年(877)12月9日に許可された(『類聚三代格』巻第2、元慶元年12月9日官符)。
元慶2年(878)2月7日には勅によって元慶寺の別当・三綱を設置している。三綱は元慶寺側が推薦して、官に申請して任じるものとし、任期は6年であった。任期後の解由(任交替の事務引継・監査)は寺の事により、官に申請して行うこととし、省寮(式部省・玄蕃寮)および僧綱は関知しないものとした(『日本三代実録』巻33、元慶2年2月7日癸酉条)。別当はともかくとして、寺院はそれまで寺務をつかさどる三綱が掌握することが一般的であり、三綱は僧綱によって統轄されていたため、寺院支配は事実上僧綱の手に握られていたが、真雅(801〜79)が貞観寺にて座主・三綱を僧綱の支配より脱することを奏請して以来、僧綱が座主・別当・三綱を支配することができない「僧綱不摂領」が行われるようになる。元慶寺もまた「僧綱不摂領」の寺院となったのである。
元慶3年(879)5月8日には元慶寺の鐘を鋳造している(『菅家文草』巻第7、銘、元慶寺鐘銘一首)。山城国乙訓郡(長岡京市)の公田5町(約5ha)を元慶寺の田とし、残り4段316歩(約5000平方メートル)を石作寺に返していたが、石作寺の残田の代用としてか、元慶3年(879)閏10月5日に勅によって宇治郡の官田4段316歩を元慶寺に施入している(『日本三代実録』巻36、元慶3年閏10月5日辛卯条)。
元慶8年(884)9月10日には雲林院が元慶寺の別院となっており(『日本三代実録』巻46、元慶8年9月10日丁卯条)、同年9月19日には遍照の奏請によって、惟首(826〜93)・安然(841〜915)に伝法阿闍梨位を授けた上で、元慶寺の真言業年分度者の教授としている(『類聚三代格』巻第2、元慶8年9月19日官符)。安然は天台密教における大成者の一人であり、元慶9年(885)正月28日に元慶寺にて『諸阿闍梨真言密教部類総録(八家秘録)』を著述している(『諸阿闍梨真言密教部類総録』識語)。また最円も元慶8年(884)7月1日より9月19日にかけて『蘇悉地羯羅経略疏』を書写している(『蘇悉地羯羅経略疏』巻1・3・4・5・6、奥書)。
元慶寺の階業
仁和元年(885)3月21日に遍照は奏上して、諸国講読師の欠に対して、元慶寺の僧を任用することを求め、裁可されている(『類聚三代格』巻第3、仁和元年3月21日官符)。諸国講読師は国分寺・部内諸寺を検察し、国分寺僧を沙汰し、僧を教導すると定められており、僧綱とともに国家仏教の中枢を担っていた。それまで元慶寺は「僧綱不摂領」の寺院であり、僧綱の支配を拒んでいたが、遍照自身が権僧正に任じられており、僧綱と元慶寺の関係に再考するところがあったらしい。元慶寺では年分度者を獲得していたが、これらの僧は遍照が権僧正の地位にいるのにもかかわらず、国家仏教の中枢とは無関係のところにあり続けた。
そこで遍照が元慶寺の年分度者が僧綱位への道を開くべく考えたのが、諸国講読師への任用であった。諸国講読師に任ぜられることは、僧綱位への近道であったが、その任用には講師五階(試業・複・維摩立義・夏講・供講)と読師三階(試業・複・維摩立義)の「階業」を経なければならなかった。このうち元慶寺では複試と夏講を行うこととし、維摩立義については延暦寺大講堂で行われる法華会を代用とした。これらを修了した者は伝灯満位に叙することとしている(『類聚三代格』巻第3、仁和元年3月21日官符)。貞観7年(865)4月15日には伝灯満位以上の僧を諸国講読師に擬補することが定められているから(『類聚三代格』巻第3、貞観7年4月15日官符)、これらの課試をへた者は諸国講読師に任用への道が開けたのである。ただし諸国講読師には定員があり、しかも僧綱任用分は諸寺に割り振られていたから、遍照は講師・読師の任期中(6年)に欠分が出た場合、最初の一人を元慶寺分から任用するよう願い出ており、これによって諸寺との軋轢を避けている(『類聚三代格』巻第3、仁和元年3月21日官符)。
また仁和元年(885)5月23日にも遍照は奏請しており、45歳以上の心行が定まった者を選んで講読師に補任する規定を利用して、元慶寺の三綱や住して久しい僧らに階業をへてから、諸国講読師への任用の道を開いている。ただしこれらの階業を受ける前に延暦寺戒壇院にて菩薩戒を受けさせることが条件であった(『類聚三代格』巻第3、仁和元年5月23日官符)。同年9月4日には遍照の申請により、近江国高島郡(滋賀県高島市)の荒廃田153町3段(152ha)を元慶寺に施入している(『日本三代実録』巻48、仁和元年9月4日乙丑条)。元慶寺は、元慶寺別院雲林院で行われている安居講を、諸寺の例に準じて元慶寺の夏講と同じく階業の一つとするよう奏請しており、仁和2年(886)8月9日に裁可されている(『類聚三代格』巻第3、仁和2年8月9日官符)。
また仁和3年(887)8月5日には元慶寺の僧一人を、毎年、興福寺維摩会の聴衆に請ずることが勅によって恒例となった(『日本三代実録』巻50、仁和3年8月5日丙午条)。興福寺維摩会は三会(宮中御斎会・興福寺維摩会・薬師寺最勝会)の一つであり、聴衆は問者(質疑を発しその義を課試する者)を兼任するが、本来、問者は三会の講師を歴任した已講(いこう)がなるものであり、聴衆は已講と同様の権威を有していたが、已講が貞観元年(859)10月4日より僧綱に任用されることとなったため、貞観3年(861)に安祥寺より維摩・最勝両会の聴衆・立義が出るようになって以来(『類聚三代格』巻第2、貞観3年4月13日官符)、各寺より聴衆・立義の申請が相継いだため、貞観18年( 876)に聴衆から選ばれていた立義者を聴衆から分離させ、新たに聴衆を諸寺の智者・名僧から選ぶこととしており(『類聚三代格』巻第3、貞観18年9月23日官符)、元慶寺の僧が維摩会の聴衆に請じられることになったのはその一環であった。後に平安時代中期には元慶寺僧より3人が内供奉十禅寺に任じられる慣例ができた(『新儀式』第5、臨時下、任僧綱事、付法務僧綱内供奉十禅師延暦寺座主阿闍梨僧位記)。
元慶寺ではこれまで毘盧遮那・金剛頂両業、止観業の年分度者はそれぞれ元慶元年(877)に規定されていた経典を読んでいたが、寛平元年(889)より法華経・金光明経・浄土三部経を読ませている(『類聚三代格』巻第3、寛平4年7月25日官符)。寛平元年(889)7月14日には宇多天皇が亡き光孝天皇のために盂蘭盆80具を元慶寺・御願寺(後の仁和寺)・西塔院に贈っている(『扶桑略記』 第22、寛平元年7月14日甲辰条)。
遍照は寛平2年(890)正月19日に示寂しているが、生前より延暦寺・海印寺・安祥寺・金剛峰寺のような籠山の制を志向しており、仁和2年(886)より法花三昧・阿弥陀三昧を修させている。さらに「花山元慶寺式」を記して元慶寺の制度を規定している。この「花山元慶寺式」は一部のみ伝わっているだけであるが、それによると6人の僧によって十二時(一昼夜)交替して法花三昧・阿弥陀三昧を修し、僧は寺より出ることは許されなかった。その後寛平4年(892)7月25日に年分度者は6年間の籠山を科されることになった(『類聚三代格』巻第3、寛平4年7月25日官符)。
元慶寺のその後
延喜2年(902)9月29日に元慶寺の舞童10余人を禁庭に召喚して、醍醐天皇がその舞を御覧しているが(『日本紀略』延喜2年9月29日壬申条)、これは元慶寺会の試楽(祭礼などに行われる舞楽の予行演習を天覧すること)であったらしい(『新儀式』第4、臨時上、行幸神泉苑観競馬事)。
元慶寺座主に就任した人物に玄鑑(861〜926)がいる。玄鑑は高階茂範の長男で、清和天皇の侍臣であったが(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、前紀)、元慶3年(879)5月8日に清和天皇が宗叡を戒師として落飾入道した際、ともに出家した(『扶桑略記』第20、元慶3年5月8日丁酉条)。師主は清和法皇であったが、遍照・良勇(855〜922)の弟子となり(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、前紀)、元慶4年(880)に受戒、延喜2年(902)7月11日に玄昭(844〜915)より潅頂を受け、玄昭の奏請により元慶寺阿闍梨となった(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、前紀、青蓮院本)。
延喜19年(919)11月18日に玄鑑が元慶寺にて修善を行っている(『貞信公記』延喜19年11月18日条)。同年12月18日夜には宮中に玄鑑を屈請して加持を行っており、布100端を賜っている(『貞信公記』延喜19年12月18日条)。延喜20年(920)6月5日には元慶寺にて金剛頂経を千巻の読経が行われている(『貞信公記』延喜20年6月5日条)。延喜20年(920)8月21日、右大臣藤原忠平(880〜949)は元慶寺入寺僧の解文を左中弁に付している(『貞信公記』延喜20年8月21日条)。
玄鑑は延長元年(923)7月22日に天台座主となり(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、延長元年7月22日条)、延長3年(925)4月29日には四七日(28日間)の誦経を元慶寺にて修しており、また法華三昧も行われている際に、別に中宮御修法を玄鑑が行っていることから(『貞信公記』延長3年4月29日条)、この時元慶寺座主職から離任していたらしい。
延長3年(925)7月17日には天台座主玄鑑が慶賀の門徒を元慶寺別当に任ずる官牒を出すよう左大臣藤原忠平に求めている(『貞信公記』延長3年7月17日条)。10月2日には除病のため元慶寺・清水寺・広隆寺にて諷誦が行われるよう申文があり(『貞信公記』延長3年10月2日条)、同年10月20日には元慶寺にて読経が行われている(『貞信公記』延長3年10月20日条)。
玄鑑は延長4年(926)2月11日に66歳で示寂した(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、延長4年2月11日条)。
天慶元年(938)7月3日に地震が続いたため、諸寺諸社に仁王経一万部を読経させる宣旨が下されているが、この時元慶寺も10口(人)が招集されている(『本朝世紀』天慶元年7月3日戊申条)。天暦3年(949)9月に元慶寺は焼失しており(『扶桑略記』第25、天暦3年9月同月条)。天暦11年(957)3月8日にも僧房・雑舎あわせて7宇が焼失している(『九暦』天暦11年3月8日条)。かつては惟首・最円・安然が元慶寺阿闍梨に任じられていたが、彼らの後は補されることなく、藤原忠平が法性寺を建立に際して元慶寺の例に倣って阿闍梨を置いたから、安和元年(968)に天台座主良源(912〜85)は奏上して、暹賀(914〜98)が元慶寺阿闍梨に補任された(『慈恵大僧正拾遺伝』)。元慶寺阿闍梨は宣旨によって補任されるものであったらしく、長和5年(1016)5月16日には元慶寺の明暹が阿闍梨に補任されている(『御堂関白記』長和5年5月16日条)。
元慶寺には座主に変わってか、あるいは併設してかは不明であるが、別当職が設置されていた。院源は元慶寺別当に推薦されていたが、辞退したため、元慶寺側は実誓(?〜1027)を推挙した。ところが一条天皇は近くに仕えており、しかも良源の門弟であった源賢(977〜1020)を長和元年(1012)10月16日に元慶寺別当に任じている(『御堂関白記』長和元年10月16日条)。
元慶寺料として山城国の正税1,000束が経常されていたが(『延喜式』巻26、主税上、諸国出挙正税公廨雑稲、山城国正税)、その後比叡山妙香院の影響下にあったらしい。康平6年(1063)5月20日の「妙香院荘園目録」によると、元慶寺領として寺の付近に25石と牛2頭と薮地があり、さらに近江国聖興寺の年貢、四郡保の年貢12石、東坂本小坂田の年貢7石9斗、越前国方上の御封米20余石があったという(『門葉記』巻140、雑決一、妙香院庄園、妙香院庄園目録)。また保元3年(1158)の段階で小野郷船岡里の地13坪8段と14坪300歩が勧修寺との間で論田となっていた(「山城国勧修寺領田畠検注帳案」勧修寺文書19〈平安遺文2922〉)。また元慶寺の観中院の灯油料として4斗5升、観中院の五大尊料として7斗2升が山城国正税より支給されていた(『延喜式』巻26、主税上、華山寺観中院灯油并観中院五大尊料)。
花山法皇は永観2年(984)に位についたが、寛和2年(986)6月22日、在位2年で突如退位・出家して花山寺(元慶寺)に入った。その時若干19歳であった。寵愛した弘徽殿の女御を失い、悲嘆のあまり出家したともいうが(『栄花物語』巻第2、花山たづぬる中納言)、藤原兼家(929〜90)・道兼(965〜99)父子の策謀のため、道兼とともに出家するはずが、花山法皇一人のみ出家するはめに陥ってしまった説話は『大鏡』によって人口に膾炙している(『大鏡』1、六十五代花山院)。
遍照の旧房が元慶寺付近に位置していたが、これは後に慈徳寺となり、元慶寺と隣接することになる。長和2年(1013)12月22日には藤原道長(966〜1027)によって元慶寺と慈徳寺の寺地が定められている(『御堂関白記』長和2年12月22日条)。
後に石作寺に籠った聖金(947〜1012)はもとは元慶寺の僧であった(『拾遺往生伝』巻下、阿闍梨聖金伝)。治暦3年(1067)11月に長宴(1016〜81)が元慶寺別当に任じられている(『阿娑縛抄』第195、明匠等略伝、中、日本上、長宴僧都伝)。また平安時代後期の規定ではあるが、宮中における仏教法会のひとつである季御読経において、元慶寺の僧が一人屈請されることとなっていた(『江家次第』巻第5、2月、季御読経事)。
承暦4年(1080)8月14日に元慶寺は栄爵と実検使についての申請を行っている(『水左記』承暦4年8月14日条)。その後官使が元慶寺の仏像・堂舎の修理・損色の注文(リスト)を報告している(『水左記』承暦4年10月26日条)。さらに元慶寺は山城国司伊通の燈□稲(燈分稲カ)について訴えているが、関白藤原師実(1042〜1101)は「申すところ拠ることなし」として斥けている(『水左記』承暦4年10月30日条)。
寿永2年(1183)11月19日、円恵法親王(1152〜84)は法住寺合戦において、木曽義仲の軍勢に元慶寺付近で殺害されている(『玉葉』寿永2年11月22日条)。元久3年(1206)正月に慈円(1155〜1225)は良快(1185〜1243)に元慶寺座主職を譲っており、これを代々相承することとしている(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。これによって中世の間、元慶寺は青蓮院(妙香院)に領掌されることになる。
建武4年(1337)4月の段階でも妙香院領分として掌握されており(『門葉記』巻140、雑決一、妙香院庄園、妙香院門跡領并別相伝目録)、延文2年(1357)10月に地震のため占卜が行われているが、その際に兵軍の兆しがあるとして、元慶寺律師を阿闍梨として、伴僧8人とともに比叡山にて修法が実施されている(『四天王記』奥書〈『昭和現存天台書籍綜合目録』下〉)。応永19年(1412)7月18日には青蓮院門跡領元慶寺の奉行として越中法橋が義円准后(後の将軍足利義教)によって任じられており、三分の一は奉行得分となっている(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。
これ以降、江戸時代中期に再建されるまでの元慶寺についてはほとんどわかっておらず、応仁の乱で衰亡したらしいという他は不明である。衰退はかなりのものであったらしく、加藤清正(1562〜1611)は本圀寺勧持院でしばしば茶会を行っていたが、遍照の塔の中央を削り取って石灯としてしまい、夜会(夜話の茶会)の時に点灯していたという(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。江戸時代前期には真言宗の寺院となっており(『雍州府志』)、小堂があるだけの寺院であった。これを再興したのが妙厳である。
妙厳は尭恭入道親王(1717〜65)の遺志によって元慶寺を再興を志し、官に申請して安永8年(1779)に新たに堂宇の造立を開始した(『天台霞標』4篇巻之2、華山遍照僧正、勅願所華頂山元慶寺再興碑記)。天明3年(1783)9月21日には再建がなり、入仏供養が行われることとなり(『妙法院日次記』天明3年9月15日条)、同27日まで挑燈寄進が行われた(『妙法院日次記』天明3年9月21日条)。23日には妙法院門跡が元慶寺にて入仏供養が行っている(『妙法院日次記』天明3年9月23日条)。
このように再建された元慶寺はさらなる再興が目指されたが、妙厳は示寂してしまう。その跡を継いだのが門弟の亮雄恵宅である。亮雄は40近い著作を持つ台密・儀軌に精通した学僧であり、天明2年(1782)12月25日には尭忠より伝法潅頂を受けており、師の妙厳の命によって妙法院境内に浄妙庵を建立するほか(『妙法院日次記』天明3年5月8日条)、妙法院門跡にたびたび謁見するなど極めて妙法院門跡に近い人物であった。妙法院門跡真仁入道親王(1768〜1805)は朝廷に奏上して元慶寺を勅願道場とした(『天台霞標』4篇巻之2、華山遍照僧正、勅願所華頂山元慶寺再興碑記)。
元慶寺の建物には鐘楼門・本堂(薬師堂)・五大堂・庫裏などがあり、うち本堂・庫裏は寛政元年(1789)に、鐘楼門・五大堂は寛政4年(1792)に完成したものであ(『京都府寺誌稿70』)。亮雄が学僧であったことから元慶寺は台密の一大地となり、寛政3年(1791)6月12日に覚千が師事した場所は元慶寺薬師堂であった(『自在金剛集』序)。 
3
遍昭と密教 

歌人としての遍昭の名は、古今集をはじめ、平安時代の歌集に、絢燗たる歌風を伝えており、世に知られたところである。しかし、古今集序で紀貫之が、「僧正遍昭は、うたのさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなをみて、いたづらに心をうこかすがごとし」と評し、さらに、近代短歌の面からも、かならずしも高い評価が与えられているわけではないようである。
「日本歴史」二一九号(昭和四+ 一年八月)に、目崎徳衛氏が、「僧侶および歌人としての遍照」と題する論文を発表されており、そこで目崎氏は、「かくて遍照は、文学史・佛教史の双方においてある意味の盲点になつているように思われる」として、遍照と佛教、遍照と和歌の二項を立てて、標記の研究を発表しておられる。目崎氏のいわれるように、当面の問題である、遍昭の佛教史上の位置づけについては、たしかに、同氏の論文のほかには真正面から取り組んだものは皆無に近い状態である。
本論では、この遍昭の佛教史上の、天台教団史上の、さらに天台密教-台密-史上の位置を究明し、先に考えた台密の大成者、五大院安然の密教をさぐる、ひとつの手がかりを見出そうとするものである。 

遍昭は、弘仁八年(八一七)中納言良零安世の子として生まれ、宗貞と名のつた。嘉祥二年(八四九)には蔵人頭にまで進み、ときの仁明天皇の特に篤い寵愛を一身にうけていたが、天皇の崩御に遭つて出家するところとなつた。父である良琴安世は、傳教大師最澄畢世の念願であつた、比叡山の大乗戒壇建立に、大きな外護を与えたそのひとである。宗貞は、その由縁の比叡山に登り、遍昭と名をあらためて、まず、斉衡二年(八五五)に慈覚大師円仁に就いて受戒し、貞観六年( 八六四)に円仁の死に遇い、安慧、智証大師円珍等に師事した。元慶元年(八七七)華山元慶寺を定額寺に加えしめ、三人の年分度者を奏請し、同三年には権僧正として僧綱に列なつた。とくに、元慶寺座主として、同寺の運営に敏腕を振い、僧官として制式等を奏したり、縦横の活躍がはじまる。仁和元年(八八五)、僧正に任ぜられ、翌年には封戸百戸を賜わり、螢車すら許された。そして、寛平二年(八九〇)正月十九日示寂することになる。
寛平入道親王真寂撰の慈覚大師伝には、円仁入滅に際して遺誠するその冒頭に、
遍照所求両部大法之道、我既不得自授之。翼、従付法阿闇梨安慧、稟学之。
と記している。はたして伝文が、遺誠そのままを伝えているかどうかははつきりしていないが、天台教団にとつての恩人の子息に、ひとかたならぬ処遇をしていたことがうかがわれるのである。
慈覚大師伝ではさらに、門弟を列ねるなかに、
遍昭者、大納言良峯朝臣安世第八子、左近衛少将従五位上宗貞也。天姿温雅、風堕都閑。承和之代、尤被寵幸。天皇崩後、落飾為僧、時世高之。太政大臣美濃公、付属大師。貞観五年冬、於大師辺、始学真言大法。金剛界壇供了、欲授真言之間、遇大師之傾逝。貞観六年正月十三日別遺書云、円仁錐非其人、誓在伝燈。袋我遍照大徳、幸有稟学之望。円仁不勝随喜之誠。随求得、悉欲奉伝之。而命既促心事相違、歎息之至、筆墨何究。伏願遍照大徳、照之、随付法弟子安慧大徳辺、稟学両部大法、助伝我道、勿令墜失。是深所望也。因之、七年夏於安慧阿闇梨、受学三部大法。所謂、仁和之代、華山僧正也。
と、ふたたび誌すのである。
すなわち、遍昭が円仁について真言法を習いはじめたのは、貞観五年の冬のことであつたとすることができ、まつたく間もなく円仁の入滅がおとずれたわけで、円仁からの実際の受法は、当然なしえなかつたことであろう。 

遍昭の受法遍歴の経緯を語るものとして、もつとも早いものは、安然の撰にかかる胎蔵界対受記であろう。しかも、安然がいわゆる遍昭の面授の弟子であり、その誌すところは、まつさきに参看されるべきである。
胎蔵界対受記巻一のはじめに、
此大和上(権僧正大和上-遍昭)、元従慈覚大師受之。草創未畢大師遷化、因依夢告、則従安慧和上、受得首尾。未及授位、和上帰寂。後従円珍和上、受灌頂位。
とある。
ここに、三つの問題点をとり出すことができる。
一つは、円仁に師事した遍昭が、その遷化に遇い、「夢告」によつて安慧に従くことになつたということである。上掲慈覚大師伝も、阿娑縛抄伝法灌頂日記上も、円仁の遺言によるとするが、「夢告」とは、安然の理由あつての書きかえであるかもしれない。
二つには、遍昭は安慧から「首尾」を受得したが、職位はいまだ授からぬままに、安慧の入滅を迎えたということである。
慈覚大師伝での、「七年夏於安慧阿闇梨、受学三蔀大法」がそれである。阿娑縛抄伝法灌頂日記上には
遍昭授安然台金印信云、遍昭縁慈覚大師遺教、就安慧阿闇梨辺、稟学此胎蔵、蘇悉地大喩伽巳詑。
と記す。この阿娑縛抄の文意には、胎・蘇とのみ列ねて金剛界を欠くが、傍証を他に求めることはできないが、所引の印信が「遍昭授安然台金印信」であるならば、「金」あるいは「金剛」の字が欠落して引かれたにすぎないとみられる。
すなわち、要するに、阿闇梨職位の公験こそ得なかつたが、遍昭は、安慧より三部大法を相伝していたということになる。安然の手になる胎蔵界対受記でも、金剛界対受記でも、蘇悉地対受記でも、遍昭がつねに「慧和上説」を比較して出しているてとは、この一事を証明するものであろう。 

第三の問題は、遍昭が円珍に随つて法を受けたという一件である。
三善清行撰の天台宗延暦寺座主円珍伝には、
(貞観)十五年依官符、以三部大法、伝僧正法印大和尚位遍照阿闇梨。乃於延暦寺総持院灌頂道揚、授三部大灌頂、及伝悉曇丼諸尊別儀等。
と記され、阿娑縛抄の明匠等略伝、伝法灌頂日記上にも同趣旨の記載がある。とくに伝法灌頂日記には、
貞観十五年九月八日、台灌頂、得仏舗購。同九日、金灌頂、得仏大日。
という記事までがみられるのである。
しかし、敬光の智証大師年譜には、
(貞観)十五年癸巳……九月九日、於総持院付三種悉地法、於遍昭師七伝自無畏至可謂授霜得。
とあつて、貞観十五年九月九日の円珍からの受法を、三種悉地法であつたとするのである。現在、いくつかの系統で附華山僧上印信なるものが伝えられているが、その内容は、
比叡山延暦寺
大毘盧遮那如来曼茶羅所
上品悉地阿鍍艦吟欠
中品悉地阿尾羅咋欠
というもので、下品悉地以後は虫損によつて欠いている。この印信は、後半を失つて授受の次第等も明確ではないが、まさしく、かの最澄が唐越州の順暁阿闊梨から相伝した、三種悉地灌頂の印信に全同である。
ここに、貞観十五年九月九日の時点に、一説には三部大法、他説には三種悉地法を、遍昭が円珍から受けたと、両説が行われていることが知られるのである。古来かならずしも、この両説を勘案しての決着は得られていない。
胎蔵界対受記巻五の、第二百四十一大真言王印の下に、遍昭の説を掲げて、いわゆる金剛字句真言なるものを出すが、その真言にちなんで、
珍和上説、大師伝広智、広智伝徳円、徳円伝円珍、珍珍伝権僧正大和上。大和上常疑此法有無。安然近得尊勝破地獄法中、有此等三種悉地真言。亦稽同順教阿闊梨説。
と記している。すなわち、時日を定めることはできないにしても、三種悉地法を円珍が遍昭に授けたということは、みとめなければならない。
大日本佛教全書智証大師全集所収、余芳編年雑集のなかに、
貞観十三年九月九日付、勅下伝法規矩牒
貞観十五年正月十五日付、請阿闇梨位授遍照之欺状
貞観十五年二月十四日付、請授真言阿閣梨位僧事
貞観十五年四月二十三日付、応授阿遮梨位遍照官牒
と、一連四通の文書が収められている。その内容をみていくと、以下のごとくである。
貞観十三年九月九日付文書は、いわゆる「貞観官符」と称されるもので、延暦寺の真言業修学の人をして、阿閣梨職位に推挙する手続を定めたもの。
貞観十五年正月十五日付文書は、円珍が遍昭伝持の密教を考査して、その器をみとめ、一山綱位のものが連署してこれを証し、寺衙に対し進めた、阿闇梨位伝授資格認定書ともいうべきもの。
貞観十五年二月十四日付文書は、遍昭に阿闇梨位を与えるよう請求するもの。
貞観十五年四月二十三日付文書は、先の二月十四日付文書にこたえて、太政官より阿閣梨位を授けるとした官符である。
とにかく、ここで、遍昭に対しては、貞観十五年四月二十三日の時点で、公式に阿闇梨位が認められていることに留意しなければならない。
これらのうちで、貞観十五年正月十五日付の、欺状によると、
□□□□ □□□ □□□遂忽値鶴林、□□□遺嘱。就故阿闇梨□□□□□ □胎蔵金剛界蘇悉地等三部大法了。垂授師位、又□□□。爾後於円珍処、聴習三部大教王経。略窺器量、可堪伝教。須准官牒旨、諸阿闇梨同屈一処、覆審試□方進止之。而為省煩、始従去年十一月十一日、至十三日、円珍□覆試。先所習一匝已畢。抑与円珍所受大同小異、伍随分指授之。又悉曇字母等、井以匪解。愛年近六春、心行已熟、志期大覚、修持堅固。羨先達諸阿闇梨、幸□許可、同批状末、応授阿闇梨位、状准例、聴聞奏。謹牒
とあり、遍昭が、安慧より三部大法を学び、円珍から「三部大教王経」を習つて、貞観十三年九月九日付貞観官符の趣旨にそつて、阿闇梨位資格試験をすべきところ、便宜上円珍が、貞観十四年十一月十一日から二十三日にかけて、考査を行い、その所伝の円珍の所受と大同小異であることをみとめ、問題のあるところだけを指導し、悉曇字母等も授けたというのである。さらに貞観十五年二月十四日付請状では
就円珍辺、聴釆大砒盧遮那、金剛頂、蘇悉地、三本経文、兼再受先於故阿闇梨安慧所、稟胎蔵金剛界蘇悉地等三部大法、更通大日如来三種悉地法了。悉曇字母、書読匪癬。
と誌され、これにこたえた四月二十三日付官符は、そのまま請状の文を引いている。
これらを比較すると、遍昭は、
(一) 安慧からは、胎・金・蘇三部の大法を受けた。
(二)円珍からは、大日経、金剛頂経、蘇悉地経の経文を授けられた。
(三)そして、円珍は、安慧より伝えた三部大法を考査した。という諸点で共通している。
胎蔵界対受記巻一に、
円珍和上准式、複授前来所学。使大和上自読真言、及作印相。則珍和上一一断之。然慈覚大師於法全義真全雅元偏元政海雲宗叡宝月八阿闇梨広学奥義、故所伝中多有異説。今珍和上唯受法全和上、故有単説、自無異説。是以複検我大和上所学之日、多随省略、動言不用、又印信中云大同小異也。
とあるのは、前掲貞観十五年正月十五日付欺状にいう、前年の十,一月に行われた、円珍による考査のありさまを示すものにちがいない。
このようにみてくると、前に徴した天台宗延暦寺座主円珍伝のいう貞観十五年の灌頂というものが、その実体に不明なところが多く、さらに阿娑縛抄伝法灌頂日記上の、九月八日に胎蔵界、翌九日に金剛界を受けたとする記述や、同じくそこにいう。
延暦寺座主内供奉法眼和尚位円珍阿閣梨、ととと依去貞観十五年四月廿三日、勅牒旨、同年九月九日於延暦寺惣持院鎮国灌頂道場、以此法伝授遍昭。
という記事は、貞観十五年正月十五日の段階で、すべての考査を終了して、円珍の責任において阿閣梨位の資格を認定し、二月十四日に、阿閣梨位を請い、その四月二十三日付官符で阿闇梨位を認めたことと、ともすると矛盾することになりかねない。
貞観十五年九月九日に、遍昭が円珍から灌頂を受け、しかも、そこで阿闇梨職位を与えられたとする第一資料は、まつたく見出せない。たゞ、阿娑縛抄のいう同日の伝法が、「延暦寺総持院鎮国灌頂道場」で行われたとする記事からは、かの最澄が順暁から与えられた印信に出る、順暁の呼称中の「泰嶽霊巌寺鎮国道場」の語を想起するのである。先掲の附華山僧上印信と勘えあわすときに、胎蔵界対受記巻五にいう、三種悉地法を遍昭は円珍から受けたという記載の裏づけをもつて、敬光が智証大師年譜においていみじくも記すように、この貞観十五年九月九日の伝法は、その実質的内容は三種悉地法であり、遍昭は円珍から内容的に三部大法を通じて受法したものではなく、安慧より受けたところを点検され、多少の異同のみを指摘されたのが実際であつたといえよう。かつまた、この九月九日の灌頂が、いわゆる阿闇梨職位を授与する場として設営されたともみられうるが、断言する材料はない。
遍昭の密教の要素をもとめて、以上概観したわけであるが、先の機会に論じたように、この遍昭の密教の性格こそ実に台密の大成者である五大院安然のそれを規定していくところとなつたのである。  
 
13.陽成院 (ようぜいいん)  

 

筑波嶺(つくばね)の 峰(みね)より落(お)つる 男女川(みなのがは)
恋(こひ)ぞ積(つ)もりて 淵(ふち)となりぬる  
筑波山の峰から落ちる男女川の水かさが増えるように、私の恋心も積もりに積もって淵のように深くなってしまった。 / 筑波山の峰から流れ落ちる男女川は、流れ行くとともに水量が増して淵(深み)となるように、私の恋心も、時とともに思いは深まり、今は淵のように深い恋になってしまった。 / 茨城県にある筑波山の峰から流れ落ちる川には、「みな」(タニシのような小さい貝類のこと)が住むような泥が積もって深い淵(水が深くて澱んでいるところ)ができているでしょう。わたしのあなたを恋しく思う気持ちも、積もり積もって深い深い淵をつくってしまいましたよ。 / 筑波山の峯から流れてくるみなの川も、(最初は小さなせせらぎほどだが)やがては深い淵をつくるように、私の恋もしだいに積もり、今では淵のように深いものとなってしまった。
○ 筑波嶺 / 「筑波嶺」は、常陸(茨城県)の筑波山。男体山と女体山からなる。古代には、歌垣の地として有名。歌垣とは、春と秋に男女が集まって歌舞飲食する祭。自由な恋愛が許され、求婚の場としての役割もあった。
○ 男女川 / 男体山と女体山を源流とする川。ここまでが序詞。
○ 恋ぞつもりて淵となりぬる / 「ぞ」と「ぬる」は、係り結び。「ぞ」は、強意の係助詞。「恋ぞつもりて」で、「恋心がつもりにつもって」の意。この場合は、歌を贈った相手である釣殿の皇女、すなわち、後に后となる綏子内親王(光孝天皇の皇女)に対する恋心を表している。「淵」は、水がよどみ、深くなった場所。恋心が深くたまっていることを淵にたとえている。 
1
陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日(869年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:貞観18年11月29日(876年12月18日) - 元慶8年2月4日(884年3月4日))。諱は貞明(さだあきら)。
藤原基経との確執
生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876年)11月に9歳で父清和天皇から譲位される。父帝に続く幼年天皇の登場であり、母藤原高子の兄藤原基経が摂政に就いた。在位の初めは、父上皇・母皇太后および摂政基経が協力して政務を見たが、元慶4年(880年)に清和が崩じてからは基経との関係が悪化したらしく、元慶7年(883年)8月より基経は出仕を拒否するようになる。
基経は清和に娘2人を入内させていたが、さらに陽成の元服に際して娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、皇太后高子が拒否したためではないかというのが、近年の説である。
これに対し、清和の譲位の詔は基経の摂政を陽成の親政開始までとしており、元慶6年(882年)の天皇元服を機に、基経が摂政を一旦辞することは不自然ではなく、関係悪化の証拠にはならないという反論もあるが、元慶4年(880年)12月の清和が臨終に際して基経を太政大臣に任じたときも、基経は単なる慣例的儀礼的行為以上に5回もの上表を繰り返したうえ、摂政でありながら翌年2月まで私邸に引きこもって一切政務を執らず、政局を混乱させている。
一連の確執の本質は摂政基経と国母である高子の兄妹間の不仲と権力争いであり、在原文子(清和の更衣)の重用を含めた高子の基経を軽視する諸行動が、基経をして外戚関係を放棄をしてまでも高子・陽成母子を排除させるに至ったとの見方もある。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和自身である。高子が清和との間に貞明親王(陽成)・貞保親王・敦子内親王を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わずあまたの女性を入内させ多くの皇子を儲けていたことから、基経も母方の出自が高くない娘頼子を入内させ、さらに同じく出自の低い佳珠子を入内させて外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。
宮中殺人事件と退位
基経の出仕拒否からしばらく後の元慶7年11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きる。事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれ事故であれ、陽成自身が起こしたか少なくとも何らかの関与はあったというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、陽成は基経から迫られ、翌年2月に退位した(ただし、表面的には病気による自発的退位である)。
幼少の陽成にはそれまでも奇矯な振る舞いが見られたこともあり、暴君だったという説もあるが、退位時の年齢が17歳(満15歳)であり、殴殺事件については疑問点も多く、高子・陽成母子を排除して自身の意向に沿う光孝天皇を擁立した基経の罪を抹消するための作為だともいわれる。
皇統の移動
陽成には母后高子所生の同母弟貞保親王もあり、また基経の外孫である異母弟貞辰親王(女御佳珠子の所生)もあったが、基経・高子兄妹間の確執とそれぞれの憚り(同母弟を押し退けての外孫の擁立、我が子の不祥事)がある状況ではいずれとも決しがたかったのか、あるいは幼年天皇を2代続けた上の事件発生という点も考慮されたか、棚上げ的に長老格の皇族へ皇位継承が打診された。まず陽成の曽祖父仁明天皇の従弟でかつて皇太子を廃された恒貞親王(出家して恒寂)に白羽の矢が立ったが拒絶される。仁明の異母弟である左大臣源融は自薦したものの、源姓を賜って今は臣下であると反対を受ける。けっきょく仁明の皇子(陽成の祖父文徳天皇の異母弟)時康親王(光孝天皇)が55歳で即位することとなった。
光孝は自身の皇位を混乱回避のための一代限りのものと心得、すべての皇子女を臣籍降下させて子孫に皇位を伝えない意向を表明し、陽成の近親者に皇位が戻る可能性を残した。ところが、即位から3年後の仁和3年(887年)、病に陥った光孝は、8月25日に子の源定省を皇籍に復帰させると翌日には立太子させ、そして即日崩御した。こうして定省親王(宇多天皇)が践祚したが、皇籍復帰から皇位継承に至る一気呵成の動きは、はたして重篤であったろう光孝の意志を反映したものか疑問もあるところで、これには天皇に近侍していた尚侍藤原淑子(基経の異母妹)の力が大きく働いており、同母兄も複数ある宇多が皇位を継いだのは藤原淑子の猶子であったためと言われる。
この異例の皇位継承により、皇統は光孝―宇多―醍醐の系統に移り、嫡流であった文徳―清和―陽成の系統に再び戻ることはなかった。後に陽成は、宇多について「今の天皇はかつて私の臣下だったではないか」と言った(宇多は陽成朝において侍従であった)という逸話が『大鏡』に載る。
陽成の退位後も光孝系の歴代からの警戒感は強く、『日本三代実録』や『新国史』の編纂は陽成に対して自己の皇統の正当性を主張するための史書作成であったとする説がある。
退位後に幾度か歌合を催すなど、歌才があったようだが、自身の歌として伝わるのは『後撰和歌集』に入撰し、のちに『小倉百人一首』にも採録された下記一首のみである。この歌は妃の一人で宇多の妹である釣殿宮綏子内親王にあてた歌である。
 「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」 (百人一首では「淵となりぬる」)
少年時に退位して長命を保ったため、上皇歴65年は歴代1位で、2位の冷泉上皇の42年を大きく引き離す。宇多の次代の醍醐天皇よりも長生きし、さらに続く朱雀天皇・村上天皇と光孝の系統による皇位継承も見届けた。 
2
筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
陽成院のお歌です。「後撰集」恋の部に収められている歌で詞書には、釣殿のみこにつかはしける、とあります。釣殿院と言うのは光考天皇の御殿の名です。後に 皇女の一人、綏子内親王にお譲りになられたので、この内親王のことを釣殿のみこ、と申し上げます。ですから、この歌は綏子内親王に差し上げた歌、と言うことになりますね。それを言ってしまっては当時の貴族はすべて親戚、と言うことになってしまいますが、綏子内親王は陽成院の父・清和天皇の従姉妹に当たります。あるいは陽成院にとっては年上の女性であったやもしれません。
万葉集の昔から歌に詠まれている筑波嶺。春秋には男も女も集まって、神を言祝ぎ歌いあう、そんな山をあなた、知っていますか。山頂は男体山と女体山に分かれているなんて、暗示的ですね。その高い山から滔々と落ちる川、その名もみなの川。男女川、と書くんですって。山の頂から、落ちる水の流れのその速さ、ほとばしる滾り。あなた、見えませんか。わかりませんか。あれは私の心そのもの。流れも恋も、積もり積もってついには、ほら。淵に、なってしまった。
技巧的ですが、中々わかりやすい歌ではないでしょうか。こう言ってはなんですが、あまり院、と言うお立場の方が詠んだ歌らしくはありませんね。どちらかと言えばもっと長閑で牧歌的な歌と言う印象を受けます。このような歌を詠まれたお方なのに、陽成院と言う方は大変に悲劇的な人生を送られました。父・清和天皇の在位中のことです。大極殿が火事に見まわれるという事件がありました。たくさんの建物を焼き尽くし、その火は数日を経てようやく消火した、と言います。そしてその年、更なる事件が清和天皇に苦悩をもたらします。飢饉の到来でした。これによって天皇は帝位を去り、御位を日嗣の皇子にお譲りになる決心をされました。このとき皇太子はわずかに十歳たらず。御母の兄、藤原基経が幼い天皇を補佐して政を取ることになりました。これが陽成天皇です。陽成天皇は非常に馬を愛されたとのことです。それはかまわないのですが、多少、と言うにはいささか過ぎるほどに偏愛されたのでした。馬の飼育の上手な者が寵愛を得、そして宮中で大きな顔をするに至って、関白基経公は奸臣どもを退け追い払いました。それがおそらく、良くなかったのでしょう。陽成天皇は御脳を病まれました。物狂わしい振る舞いが多くなられ、残虐ななさりようも多々あった、と言うことです。これではいけない、と関白は御譲位のことを考え始めます。とするといつの世でも我こそは、と思い出す者がいるということですね。親王たちは早くから言ってみれば猟官運動を始めました。結局、老親王であった方の一人が温厚篤実だということで御位につくことになります。それも騙されるようにして。くらべ馬など、そう言って御幸にだされた天皇はそのまま陽成院という御殿に幽閉され、太政天皇の尊号こそ奉られましたが、事実上は帝位を追われたのでした。残酷なことをしたのですから、無理からぬこととは言え、もう少しやりようもあったろうに、と思わずにはいられません。そして帝位についたのが光考天皇です。なにか、因縁めいたものを感じますね。ご退位されたとき、陽成院はまだ十七歳。それを考えると、物狂わしい振る舞い、と言うのも関白に大きな顔をされるのが堪らなかった、そんな若さではないかとも思えるのです。そして綏子内親王はその陽成院の后となったお方です。きっと院はこの歌を贈られたときにはこんな将来を予想だにしていなかったに違いないでしょう。私はきっと年上の女性ではないかな、と思うのですが、はっきりしたことはわかりません。少年の日に仄かな恋心を抱いた女性。おずおずと、若い歌を贈った人。その人がついには自分の后になります。けれど彼女の父は自分を帝位から追った人物でもあるのです。あるいは初恋の人でもあったかもしれません。その恋は叶ったはずなのに、苦いものになってしまったかもしれません。そう考えると、いたたまれないような気持ちになるのです。当時は藤原氏の全盛期ですから歴史と言うものも藤原氏に都合のいいように書かれていますね。ですから私は陽成院のお振る舞い、と言うものもどこまで真実か判らない、そんなことまで思ってしまうのです。政治の渦中の放り込まれてしまった若い皇子。出生ゆえに避けて通ることもできず、逃げることもできず。そんな皇子がした、ただひとつの真実の恋であったのかもしれない。そんなことを思います。
3
陽成院とその一宮・元良親王の悲劇
876年、病身で政治に倦んだ父・清和の譲りを受けて貞明親王は陽成天皇として9歳で即位し、母・高子とその兄・基経の庇護の下に成長する。 政界の兄・基経と内廷を支配する妹・高子は連携どころか対立を深めた。 兄は学問好きの実直な性格、妹は自由奔放な人柄である。高子は当代きっての花形・在原業平を蔵人頭に抜擢する。業平は和歌は作るが才学は無く、基経に評価されるはずもない。陽成の乱行に業を煮やした基経は陽成を廃位し、皇族の長老・時康親王を立てて光孝天皇として即位させた。基経と光孝天皇は母同士が姉妹であり古くからの友人であり、その温厚で優雅な人柄は正史に「性、風流多し」と記されたほどである。基経は光孝を立てることにより群臣の総意を纏めることができ、存分に権力を振るうことが出来たが、光孝帝は死に臨んで第7皇子の源定省を次期皇位に就けることを望み、また基経の妹で尚侍・淑子(定省を養子にしていた)の政治力にも押されて承認せざるを得なかった。思いもよらず、王位についた光孝帝と宇多帝は、後に陽成上皇に罵声を浴びせられている。陽成上皇にしてみれば、格が違うというところだろう。先に触れたように陽成上皇の母・高子は奔放な性格だった。そして高子が建立した東光寺の僧・善祐と高子は密通しており、高子55歳の時に表沙汰にされている。極めて老いらくの恋であるが・・・。このとき丁度、宇多天皇が我が系統を確保するために醍醐天皇に譲位する直前であるから、陽成上皇に罵倒された仕返しともいえる政治的な策略の感がある。896年高子の密通は暴露され廃位が決まると、僧・善祐は流され、高子は910年に69歳の生涯を閉じた。 
一方の宇多上皇も腹心の菅原道真の追放によって政治から切り離されたため、高子との対立は自然と解消し、太平の世が続くことになる。宇多上皇が同母妹の釣殿の皇女・綏子内親王を陽成院に婚嫁せしめたのも政情安定を考えたためか。 「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」と陽成院が詠んだ百人一首にもある相手が宇多上皇の妹・綏子内親王である。 陽成院は父・清和や嵯峨のように子沢山ではない。当時としては少ない9人である。因みに文化人嵯峨天皇には50人余りの子女がいるし、陽成院の父・清和は後宮において30人ばかりの女性を相手にしている。 陽成院はひょっとしたら純情な思いで恋をしたのかもしれない。そして綏子内親王との間には元良親王が生まれたが、隔世遺伝のためか元良親王は極めて色好みであり、彼の死後間もなく成立した大和物語に見ることが出来る。数ある恋のなかでもひとかたならぬ恋は、京極のみやす所との恋、つまり藤原褒子といって左大臣・藤原時平の娘との熱愛である。 実は藤原褒子は醍醐天皇の女御として入内することになっていたが、その美貌に一目ぼれした宇多法皇が有無を言わさず我が物にして、六条京極の河原院に置いて寵愛したという。 当時、宇多法皇と褒子の父・藤原時平とは菅原道真の左遷をめぐって対立していたので、褒子の入内は両者の和解のための政略結婚とも考えられるが、なにしろ3人の子をもうけているから寵愛を受けたのには間違いない。
六条河原院で宇多法皇と褒子が月夜の晩に仲むつまじく愛を交わしていた時、河原左大臣(源融)の亡霊が現れて宇多の腰にしがみつき、褒子は失神したという。 源融はもともと河原院の持ち主であったが、孫姫・源貞子を宇多の更衣として入内させている。そして寵愛を受けさせたかったこともあり、ここ河原院を献上したのであるが、宇多は源貞子をあまり寵愛しなかったために、亡霊として現れたという史実が残っている。 この話は、源氏物語の「夕顔」の巻きの素材として使われた話と考えられている。
元良親王は、この藤原褒子と密通したのである。陽成院が敗退しなければ、一宮・元良親王は皇位についていたはずであるから、宇多上皇に対する挑戦とも思える密通である。
○ わびぬればいまはた同じ難波なる身を尽くしてもあはんとぞ思ふ
元良親王が藤原褒子に逢う為に、身の破滅を覚悟で送った詩である。
元良親王のその後であるが、史実には彼の身の破滅は伝えられていない。藤原褒子は亡き宇多上皇を慕って次のような詩を詠んでいる事からも、元良親王の褒子に対する思いが叶えられずに、ある意味で悲劇の人になれなかったことは一層心に染入る感じがするのである。
○ すみぞめの濃きも薄きも見る時はかさねてものぞかなしかるける 
4
陽成院の虚像と実像
陽成院は、歴代の中でも有数のアブナイ天皇とされています。しかしそれは虚像で、ひっそりと愛妻を守った心優しい男だったのではないかと思います。何より「馬」が好きで、時に和歌会を開いたりすることもあるけれど、忘れられた、もと天皇としてなんと六十余年を京の片隅に暮らしたのでした。
陽成院は歌人としての実績はゼロに近いのですが、説話の世界では大活躍?します。
週刊誌の見出し風にすると
暴虐の不良少年天皇の素顔
・・ついに犯した宮中殺人事件・・京都市内を暴走し、他人の家占拠して乱行・・その母にしてその子アリ ・・実の父はあの人か ・・呪いの魔法と集まる妖怪変化
そして、これに純愛事件がからみます。浦島太郎の弟なんかも出てきてもうタイヘンなんです(宇治拾遺物語)。だからこそ、定家は蓮生の障子の歌人に撰び入れたのでしょう。
陽成院 (享年八十二)
○ 筑波峰のみねよりおつる男女川恋ぞつもりて淵となりける
(釈文) 神世より男女が歌垣のために集う筑波山には、その名も男女川という川があるのだと聞いた。それは、男女二つの峰から流れ出し、合流して里に落ちてゆくのだと言う。オレは、父や母の浅ましい姿を見て、恋などというものは決してするものではないと思って来た。オレは恋などをしない男だと決めていたのだ。それなのにオマエを好きになってしまった。オレの気持ちは、細い流れがいつのまにか太い流れになって、ついには深い淵となるように、今は青色に沈む淵のようになってしまっている。その淵には、オレの切ない恋心が満々と湛えられているのだ。
(作者と歌) 陽成院の歌は、実にこの「筑波嶺の」一首しか残っていない。一首しか勅撰集に採られなかったというのではなく、諸歌集にも、この歌以外の歌がまったく見えないのである。その一方で、陽成院は史書や説話集にはいろいろとエピソードを残している。そしてその中で語られる陽成院の人間性は、極めて悪い。歴代天皇の中でもベスト、ではなくワースト3に入るものと思われる(ワースト1は、おそらく武烈天皇)。
とはいえ、陽成院にはみずから歌合を企画したという記録もあり、歌才のある人であったとおぼしい。後述するように、長く京の片隅に逼塞していた陽成院には、主宰する歌壇はもとより、共に歌を詠むような知友も乏しかったのだろうから、その和歌が残されることもなかったのだろう。これも後で触れる、綏子のような陽成院を慕う者があって、院の死後にその歌稿をまとめればよかったのかもしれないが、残念なことに綏子の方が先に他界してしまった。 一方、陽成院の母の高子はすぐれた歌人で、たとえば『古今和歌集』の春歌に次のような歌を残している。
二条の后の春のはじめの御うた
○ 雪の内に春はきにけり鶯のこほれる涙今やとくらむ 
高子は後に皇太后の名を剥奪された不名誉な人なので、勅撰集に相応しくないと思われていたために、撰歌された歌の数が少なくなったのかも知れない。陽成院も帝位を剥奪された人で、そのためにかろうじて一首のみが残されたのかも知れない。高子も、その子陽成院も、勅撰和歌集にとって、どちらもしかるべからざる貴人なのである。さて、そんな陽成院がなぜこの障子の色紙に登場するのかと言うことが問題になる。陽成院はもとより和歌堪能ではない。だから、ここに撰ばれた理由は、その説話的な生に対する興味からであろう。つまり、苦界を生きた陽成院の悲嘆と苦しみに対する供養の念の存在にあることは間違いない。そう考えて陽成院の生を眺め直すと、そこには深い同情を抱かざるを得ないものがある。それは母である高子についても同様である。
仁明天皇の皇統はその子道康親王へ継承された。文徳天皇である。このとき、皇太子になることができなかった悲劇の第一皇子が、陽成院の歌の直前の歌の敏行の母の甥であり、業平らと親しかった惟喬親王である。この文徳天皇は、第四皇子惟仁親王に譲位して清和天皇が即位する。清和天皇は、右大臣良房の女である明子中宮の子である。この清和天皇の皇子であったが、やはり皇太子になれなかった痛恨の人が三首前の在原行平の孫の貞数親王である。貞数親王に打ち勝ったのは、時の権力者良房の姪の高子のなした皇子で、この貞明親王が第五十七代陽成天皇になる。この母の高子が、二首前の業平と深い経緯を抱えていた。
しかしながら続く第五十八代は陽成天皇の子には受け継がれず、系図を仁明天皇まで遡り、その子である光孝天皇が継ぐことになった。この皇統が宇多、醍醐天皇に至ることになる。この間には、仁明天皇の皇太子であった淳和天皇の子恒貞親王が廃された承和の変などもあった。つまりこの前後は、藤原良房、基経らのいわゆる〈外戚政治〉が本格化してゆく時期であり、かなりなまぐさい政争のあった時期なのである。文徳天皇の病死については、暗殺の噂さえあったほどである。陽成天皇は、権力の藤原氏・摂関家への集中の過程で、藤原氏の希望を担って即位したのであったが、その叔父たる基経によって廃位されることになった人である。良房のあとを継いだ養子の基経と、その妹の高子には軋轢があったらしく、まだ十代になりたての陽成天皇を中にしたせめぎあいがあったらしい。そうした中で業平が蔵人頭になるなどしたが、業平も一年足らずのうちに没してしまう。次第に孤立していった高子、陽成母子であったが、元慶八年(八八四)になって、遂に退位を余儀なくされた。後継は、基経と良好な関係を結んだ光孝天皇で、その即位のいきさつについてはいろいろと説話がある。
さて、陽成天皇はまだ十七歳の少年にすぎなく、病弱でもなかったのであるし、さしたる退位の理由もなかった。陽成天皇をなんとか退位に追い込みたい基経らは、虚実取り混ぜて、陽成天皇の悪行を世に喧伝したらしい。情報戦を展開したわけで、そのバッシングの嵐の中で陽成院は退位に追い込まれ、時をおいて母も皇太后を廃されることになる。
伝えられている少年天皇陽成の悪逆ぶりは枚挙にいとまが無い。藤原定家と同世代の慈円の歴史書『愚管抄』の巻第三は、「コノ陽成院、九歳ニテ位ニツキテ八年十六マデノアヒダ、昔ノ武烈天皇ノゴトクナノメナラズアサマシクテオハシマシ」と伝える。かつて武烈天皇は、人の生爪を剥いだ上で山芋を掘らせたとか、人の頭髪を抜いて木に登らせ、その木を切り倒して殺したり、弓で射落としたりして楽しんだとか、人を樋に入れてウォータースライダーのように池に流し、それを矛で刺し殺すのを楽しみとしたとか、胎児がどんなか見てみようと思って妊婦の腹を割いたとか、すさまじい悪逆ぶりが語られる。陽成天皇にも、人を木に登らせて落とし、「撃殺」して楽しんでいたという話がある。また蛙を集めて蛇に呑ませたり、猿と犬を闘わせてその様を見て楽しんだとも伝える。なかでも、乳母である紀全子の子である源益という男と宮中で相撲を取って、その男を「格殺」つまり殴り殺したという記事を『日本三代実録』が伝えている。つまり暴行殺人である。また、陽成天皇は生涯、馬を愛好し、身辺に置いて愛していたが、天皇に在位していた時も宮中にひそかに厩を作っていたとか、その馬に乗って暴走し、諸人を苦しめたという話もある。武烈天皇と同様に、女子に対する暴行の説話もある。
とはいえ、それらがすべて本当であったかは分からない。武烈天皇の場合も陽成天皇の場合も、その皇統がそこで断絶し、幾代か遡って傍系だった天皇が即位するのであり、こうした場合、その皇統のどん詰まりに位置する天皇は暴虐無類の人と記録されることになる。おそらく陽成天皇の殺人や婦女暴行、京都市中の暴走なども、事実無根か、そうではないにしても、本来取るに足りない出来事で、それが誇張されて伝えられたのだろう。陽成天皇は京中を馬で暴走して、女子を誘拐して何某の山荘に連れ込んで、そこで仲間とたむろしたのだという。なんだか平成の尾崎豊の歌のようであるが、九歳つまり満八歳の小学三年生の歳のときに帝位について、儀式や行事にあけくれ、行きたいところにも行けない生活に飽いた満十五六の少年が、たまに家出をして暴走するなど、それが天皇という身分でさえなければ、めずらしいこととも思えない。「殺人」も、機嫌良く相撲を取って気晴らしをしていたら、たまたま打ち所が悪かったという程度の事故にすぎなかったのかも知れない。蛙の話も、それが昭和の子供だったら誰にも覚えがあるようなモノだろう。暴走の話も、十五歳の少年だったらありふれた話でしかない。所詮は反抗期の少年の乱暴と、狂気と暴虐の説話の間には距離がありすぎる。
しかし、陽成天皇および母高子の追い落としを画策していた基経にとっては、天皇のこうした行為は充分な理由となることであった。陽成天皇は退位を余儀なくされることになったのである。その後、退位した院は陽成院および冷泉院に住居し、退位した後の生活は六十五年に及んだ。あいかわらず馬を身近にしていたようである。この年月の長さは特筆に値するであろう。陽成院は母親である高子といっしょに住んでいたわけでもないようだが、行き来はあったようだ。その高子は、複数の僧と醜聞があったということが喧伝され、先に触れたように、ついには皇太后の名と身分を剥奪されてしまう。妊娠の噂さえあったのだという。これも、そういうような指弾されるべき事実があったのか不明で、高子を陥れるために捏造された風聞だったのかも知れない。
なお、在位中の陽成天皇には不思議な話が伝えられている。滝口道則なる者が、東国の某郡司から「術」すなわち魔法を修得して帰った。それを聞いた陽成天皇が、その道則を召してその術を習ったというのである。院は、術を遣って几帳の上に賀茂の祭りの行列を出現させなどしたという。これは『宇治拾遺物語』の説話である。これが真実であるとすれば、天皇のなす事として、奇怪なことと言うべきであろう。また、退位後の陽成院が住んだ邸宅では、不思議な事件があったと伝えられている。その陽成院は妖異の起こる場所であるとされていたらしく、浦島太郎の弟と名乗る老人の姿の妖怪が出たというのである。おなじく『宇治拾遺物語』(一五八)の話である。陽成院の住むあたりにはなにか普通ではない妖気のようなものが漂っていると時の人は思っていたらしい。この陽成院の妻は何人かいるが、父のような乱倫はなかったようである。副臥といわれる教育係兼愛妾がおり、数人の妻があるが、それはごく普通の程度でしかない。ただし、妻たちは紀氏などの出が多いようで、母高子が藤原の妻を拒否していたのかも知れない。
そうした中で、綏子内親王の存在はやはり注意される。綏子内親王は光孝天皇の娘である。角田文衛は、綏子が陽成院に配された理由について、それを無理矢理譲位させられた陽成院に対する宇多天皇の罪滅ぼし、あるいは融和政策によるものと考えている(『王朝の映像 平安時代史の研究』)。宇多天皇は基経の薨じた後、自邸に新奇な釣殿を設けてそこに綏子を住まわせて陽成院の興味を引き、その建物を餌にして綏子と陽成院を見合いさせ、綏子を陽成院に配することを計画したのだという。それは突飛な想像かも知れないが、確かに陽成院のような立場の者と、〈政敵〉の皇女が結ばれるのは、よほどの訳があるように思われる。あるいは歌物語にできるような恋のドラマが現実にあったのかもしれない。というより、『古今和歌集』に収載された歌は、素直に読めば、そのように受け取られる歌である。
釣殿のみこにつかはしける  陽成院御製
○ 筑波嶺の峰よりおつる男女の河恋ぞつもりて淵となりける 
この「恋」のころ、陽成院は退位して十年ほどで、息子の元良親王が七〜八歳。基経もすでに没して数年を経ていたと思われる。つまり若く激しい恋の季節は過ぎていて、宿敵基経も既に無いという時期である。そうした中で、陽成院は綏子を得ようとして、恋文を贈ったということになろう。
その経歴から考えて、陽成院は恋に対してシニカルになっていておかしくない。父も母も乱倫の人で、時間をかけて深く男女関係を育むことが不得手な人のようである。それを反面教師にした陽成院は、心が通う女人を避けていて当然であったかもしれない。女人などは所詮いっときの相手にすぎないと思っていたのかも知れない。それなのに、綏子に対しては少年のように恋をし、その感情を、恋する相手に真っ直ぐに伝えたのである。その頃、陽成院は二十代半ばであったと推定され、さすがに反抗期からは卒業していただろう。大人になっていたからこそ、陽成院は自らの心を捉える「恋心」に当惑した。そして、父を捉えたもの、母を捉えたもの、つまり恋なるものについて認識を新たにし、それこそが、なべて人の心に兆し、誰も打ち消すことのできないものであることを、はじめて知った。本稿はそんな風に考えたい。
陽成院と綏子は、冷泉院にあっておだやかに暮らしたらしい。子供こそ出来なかったが、綏子には陽成院の賀算(区切りのよい年の誕生日の祝い)を主宰したりしている。残念ながら、陽成院より先に没した。陽成院は、自らが退位を強制された人であり、それがために子息を帝位に就かせることができなかったひとである。また、少年期を閉塞的な宮殿で過ごし、それに息苦しさを感じていたらしい人である。退位を強制されたあとには京都の片隅に捨て置かれて、六十五年もひっそりと過ごした人でもある。また、父母の乱れた男女関係を反面教師とした人で、素直に女性を愛せない人でもあったにも関わらず、綏子を前にその恋心を押さえることが出来なかった人であった。シニカルに徹することのできなかったわけで、複雑な側面を持つ男であるように思える。
定家は、高子の人生も陽成院の「暴虐説話」もよく知っていたに違いない。蓮生の障子のために、定家はそんな複雑な人生を生きた陽成院を撰び、その真率な恋歌を撰んだのである。 
 
14.河原左大臣 (かわらのさだいじん)  

 

陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに
乱(みだ)れそめにし われならなくに  
陸奥のしのぶずりの模様のように心が乱れはじめたのは誰のせいか。私のせいではないのに。 / 陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心は忍ぶ恋のために乱れています。このように乱れはじめたのは誰のせいでしょうか。私ではなくて皆あなたのせいなのですよ。 / 陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ/現在の福島県信夫郡)で作られるという「しのぶもじ摺り」という乱れ染めの布の文様のように、わたしの心も乱れてしまったのです。だれのせいなのでしょうね。わたしはだれにも心を乱されたくはなかったのに。 / 奥州のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心も(恋のために)乱れていますが、いったい誰のためにこのように思い乱れているのでしょう。 (きっとあなたの所為に違いありません)
○ 陸奥 / 白河関以北の地。現在の福島・宮城・岩手・青森の4県にほぼ相当する地域。
○ しのぶもぢずり / 「(捩摺)もぢずり」は、陸奥の信夫(しのぶ)地域で産した乱れ模様に染めた布。信夫摺り(しのぶずり)ともいう。ここまでが序詞で、「乱れそめにし」にかかる。
○ 誰ゆゑに / 誰のせいで。「誰ゆゑに」の後に続くはずの疑問・反語の係助詞(終助詞とする説もある)が省略されている。その部分を補って、「誰のせいか」と訳す。
○ 乱れそめにし / 「そめ」は、「染め」と「初め」の掛詞。「乱れ」と「染め」は、「もぢずり」の縁語。「し」は、過去の助動詞の連体形。本来あるはずの疑問・反語の係助詞と係り結びとなるため、終止形ではなく連体形となっている。
○ われならなくに / 「な」は、上代(奈良時代以前)に用いられた打消の助動詞。「く」は、その接尾語。「に」は、詠嘆の意味を含む逆接の接続助詞。終助詞とする説もある。「われならなくに」で、「私のせいではないのに」の意。「あなたのせいだ」という内容の表現が省略されている。(注)「私なら泣くのに」ではない。  
東国風土記
1
源融(みなもと の とおる)は、嵯峨天皇の十二男。侍従、右衛門督、大納言などを歴任。極位極官は従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた。死後正一位を追贈されている。
嵯峨源氏融流初代。紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。
六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。
貞観14年(872年)に左大臣にまで昇ったが、同18年(876年)に下位である右大臣・藤原基経が陽成天皇の摂政に任じられたため、上表を出して自宅に引籠もった(『三代実録』及び『中右記』)。光孝天皇即位後の元慶8年(884年)、政務に復帰。
なお、陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後に即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わるが、当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。
また融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見える。
現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。
源融流嵯峨源氏
嵯峨源氏において子孫を長く伝えたのは源融の流れを汲み、地方に下り武家となった融流嵯峨源氏である。
その代表が摂津(大阪)の渡辺氏であり、祖の源綱は源融の孫の源仕の孫に当たり、母方の摂津国渡辺に住み、渡辺氏は大内守護(天皇警護)の滝口武者の一族に、また瀬戸内の水軍の棟梁氏族となる。
渡辺綱の子あるいは孫の渡辺久は肥前国松浦郡の宇野御厨の荘官となり松浦久と名のり、松浦郡の地頭の松浦氏は、肥前国の水軍松浦党の棟梁氏族となる。
筑後(福岡県柳川)の蒲池氏も源融の子孫であり、源融の孫の源是茂(源仕の弟)の孫の源貞清の孫の源満末が肥前国神埼郡の鳥羽院領神埼庄の荘官として下り、次子(あるいは孫)の源久直が筑後国三潴郡の地頭として三潴郡蒲池に住み蒲池久直と名のる。なお、歌手の松田聖子は、蒲池氏の末裔であるため、その意味では源融の子孫であると言える。
蒲池氏の末裔でもある西国郡代の窪田鎮勝(蒲池鎮克)の子で二千石の旗本の窪田鎮章が、幕将として幕末の鳥羽・伏見の戦いで討ち死にした際、大坂の太融寺で葬儀が行われた。この太融寺もまた、源融ゆかりの寺である。
また尾張(愛知県西部)大介職にあった中島宣長も源融13代目の子孫とされており、承久の乱に朝廷方として参加し、乱後の領地交渉の模様が吾妻鏡に記されている。なお宣長の孫の中島城主中島蔵人の子滅宗によって妙興寺等数寺が創建された。 
2
源融  弘仁一三〜寛平七(822-895) 号:河原左大臣
嵯峨天皇の皇子。母は大原全子。子に大納言昇ほか。子孫に安法法師がいる。臣籍に下って侍従・右衛門督などを歴任、貞観十四年(872)、五十一歳で左大臣にのぼった。元慶八年(884)、陽成天皇譲位の際には、新帝擁立をめぐって藤原基経と争い、自らを皇位継承候補に擬した(『大鏡』)。仁和三年(887)、従一位。寛平七年(895)八月二十五日、薨去。七十四歳。贈正一位。河原院と呼ばれた邸宅は庭園に海水を運び入れて陸奥の名所塩釜を模すなど、その暮らしぶりは豪奢を極めたという。また宇治に有した別荘は、その後変遷を経て現在の平等院となる。古今集・後撰集に各二首の歌を残す。
貞観御時、弓のわざつかうまつりけるに
けふ桜しづくに我が身いざ濡れむ香ごめにさそふ風の来ぬまに(後撰56)
(今日、桜よ、雫に我が身はさあ濡れよう。香もろとも誘い去ってゆく風が来ないうちに。)
題しらず
陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに(古今724)
(陸奥の「しのぶもぢ摺り」の乱れ模様のように、私の忍ぶ心は誰のせいで乱れようというのか。あなた以外に誰がいよう。ほかの誰のためにも、心を乱そうなどと思わぬ私なのに。)
五節の朝(あした)に、簪(かんざし)の玉の落ちたりけるを見て、誰がならむととぶらひてよめる
ぬしやたれ問へどしら玉いはなくにさらばなべてやあはれと思はむ(古今873)
(この真珠の持ち主は誰か。尋ねても相手は白玉だから、「しら」ぬふりをして、(誰も自分のものだとは)言わない。それなら私は舞姫を皆いとしいと思うことにしようよ。)
家に行平朝臣まうで来たりけるに、月のおもしろかりけるに、酒などたうべて、まかりたたむとしけるほどに
照る月をまさ木のつなによりかけてあかず別るる人をつながむ(後撰1081)
(輝く月を「まさ木の綱」に縒って懸けて、心残りのまま別れて行く人を繋ぎ止めよう。) 
3
源融と塩釜の浦
源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇の皇子で、仁明天皇の異母弟にあたる。「三代実録」の貞観6年(864年)3月8日の条に「正三位行中納言源朝臣融加陸奥出羽按察使」とあり、融は、陸奥出羽按察使の任にあったが、「続日本後紀」等の文献により、直接任国に行くことを免除された「遥任」であったことが知られる。しかし、これによらず、かつての多賀城の周辺に、源融にまつわる神社や古跡が散見されるのは、どのような背景からだろうか。
むかし、東北地方は西国の人々にとって「道の奥」すなわち未知の国であり、少々恐れを抱きながらも憬れの地であり、こころ惹かれる土地であった。その一端をうかがわせるエピソードが、鴨長明の「無名抄」に書かれている。これによれば、歌人として知られた橘為仲が陸奥守の任を終えて京へ戻るときに、宮城野の萩を12個の長櫃(ながびつ)に収めて持ち帰ったところ、大勢の人がその土産を見るため、二条の大路に集まっていたという。
五月五日かつみを葺く事  (中略)此為仲、任果てて上りける時、宮城野の萩を掘りとりて長櫃十二合に入れて持ち上りければ、人あまねくききて、京へ入ける日は、二条の大路にこれを見物にして人多く集まりて、車などもあまたたちたりけるとぞ。(無名抄)
しかし、源融にとって、陸奥への思いは深く、こうした土産や土産話では充分に満足できなかったと見えて、加茂川にほどちかい六条辺り(六条河原)の自邸の庭に、わざわざ海水を運ばせて塩釜の浦の景色をこしらえ、藻塩を焼く風雅を楽しんだ。源融は、こうした振舞いから河原左大臣と呼ばれるようになり、「庭に作った塩釜」の話は、宇治拾遺物語や伊勢物語にも取り上げられ、広く知られるところとなった。
今は昔、河原院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩釜の形を作りて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのおかしき事を尽して、住み給ひける。大臣失せて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門、たびたび行幸ありけり。 (宇治拾遺物語 巻第十二 十五 河原院融公の霊住む事)
むかし、左のおほいまうちぎみ(大臣)いまそかりけり。賀茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。かんなづきのつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王(みこ)たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒のみし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐおきな(在原業平)、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ
わたしは塩釜にいつ来ていたのだろう。朝なぎの中、釣りに出ている船はこちらに寄ってきてほしい。
となむよみけるは、陸奥の国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国の中に、塩竈という所に似たる所なかりけり。さればなむ、かのおきな、さらにここをめでて、塩釜にいつか来にけむとよめりける。 (伊勢物語 第八十一段)
このように、源融が自邸に塩釜の浦を築き上げ、さらには、上の通りに「おもしろきをほむる歌」を詠む趣向の最後に、在原業平が「塩釜にいつか来にけむ」の歌を詠んで、模擬の塩釜を実景と見まごうばかりと過大に評価した。
「塩釜にいつか来にけむ」の歌は、「続後拾遺和歌集」や家集「在原業平集(在中将集)」にも見られる。
河原の左大臣の家にまかりて侍りけるに、塩がまといふ所のさまをつくれりけるを見てよめる
塩がまにいつか来にけむ朝なぎにつりする舟はここによらなむ 業平朝臣
(続後拾遺和歌集) 
ひたりのおほいまうちきみ、かも河のほとりに家をおもしろくつくりて、神な月のつこもり菊の花さかりなるころ、みこたちおはしまさせて、ひゝと日、酒のみ遊びしたまふ、この殿のおもしろきよし人々よみけるに
しほかまにいつか来にけむ朝なきにつりする舟はここによらなむ
(在原業平集)
こうなると、かの塩釜が京でも見られるとのうわさが広まり、橘為仲の萩の話のように風流人が興味津々で融の庭に集まってくる。紀貫之もそうした中の一人と見えて、次の歌が古今和歌集に採録されている。
河原左大臣の身罷免りて後、かの家にまかりてありけるに、塩釜という所のさまをつくれりけるを見てよめる、
君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな
河原左大臣がお亡くなりになり、塩を焼く煙も絶えてしまった「塩釜」は、ほんとうにうら寂しく見えてしまうものだ。
(古今和歌集 巻十六)
こうして、源融は、時の流れとともに「実際に陸奥に赴いた経験があり、塩釜の風雅を語れる」人間として伝播し、その結果、陸奥各地に融にまつわるさまざまな伝説が生まれることとなり、遂には、「融公 (中略) 塩浦の勝を愛慕し、其美を当時に繁揚す。塩浦第一の知己と謂つべし。此地に祠して祭る」(鹽勝松譜)として、源融を祭る神社まで存するに至った、と思われるのである。
本村浮島高平囲に大臣宮(おとどのみや)の旧跡がある。大臣宮は第五十二代嵯峨天皇第十二の皇子源融を祭ったものだと言い伝えられている。明治四十一年までは石のお宮があったが、今は浮島神社に合祀されて大なる礎石だけが残っている。(中略) 塩釜町赤坂を下りて西町に入る右上に塩釜公園あり、俗に融ヶ岡とも称し、此処より融が塩釜の景を眺望したところだといっている。 
4
伊勢物語と源融
伊勢物語も穢き藤原氏糾弾の書
○ 伊勢物語は何のために書かれたか
在原業平が主人公とされる伊勢物語の第一段には、源融が作った百人一首に出てくる以下の有名な歌がある。
みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにし我ならなくに
この歌は、中納言源融が按察使として陸奥国に出向いていた際(864年頃か)に、 信夫文知摺石(しのぶもぢ摺石)を訪ねて信夫の里にやってきた時の虎女との悲恋に始まる。源融は村長の家に泊まり、美しく、気立てのやさしい娘・虎女を見初めてしまった。 源融の逗留は一ヶ月余りにもおよび、いつしか二人は愛し合うようになっていた。しかし、融のもとへ都に帰るように綴られた文が届き、幸せな日々に区切りを置くことになる。 別れを悲しむ虎女に融は再会を約束し、都に旅立った。残された虎女は、融恋しさのあまり、信夫文知摺石を麦草で磨き、 ついに融の面影を鏡のようにこの石に映し出すことができた。が、このとき既に虎女は精魂尽き果てており、融との再会を果たすことなく、 ついに身をやつし、果てたと言う。源融は二度と虎女と会うことはなかったが、虎女との恋を歌ったのが上記の歌である。このように伊勢物語は、穢き藤原氏の京都では見られない別天地が、 東国にはあることを示したのである。そして、そのパラダイスの頂点に源融がいた。
○ 穢き藤原基軽に阻止された源融の即位
源融は、嵯峨天皇の皇子だから天皇になれる資格があったが、 穢き藤原基軽によって阻止されたのである。源融は、「後胤なれど姓賜ひてただ人に仕えて、位につきたる例やある」と 穢き藤原基軽によってイチャモンを付られたのである。源氏姓を名乗っていた源融には即位の権利がないと、穢き藤原基軽は不合理なイチャモンを付けたのである。結局、藤原総の娘の澤子と結婚していた仁明天皇の第三子の時康親王(830-887)が55歳で光孝天皇になった。 光孝天皇は、穢き藤原基軽を関白にした。しかし、3年後には穢き藤原基軽は、光孝天皇の第二子で源氏姓を名乗っていた源氏定省を 宇多天皇として887年に即位をさせたのである。宇多天皇は、穢き藤原基軽の猶子(養子と似ているが姓は変わらない)だった。宇多上皇の滞在中に源融の亡霊が現れたという伝説が「今昔物語」や「江談抄」等に出ているから、 まあ、藤原基軽は、相当穢い手を使って源融を倒したと見られる。
○ 穢き藤原基軽への恨みを歌とみやびで返した源融
今の時代から見れば、勝者の穢き藤原基軽なんて何をした人間なのか分からないので、 「穢ねえロクでもないヤツ」としか記憶されない(名前すら知られない)が、 源融は伊勢物語のパトロンであるとともに、源氏物語の光源氏のモデルとなった。源氏物語の源氏とは源融の物語と言う意味であるらしい。敗者の源融の方が、日本の文化に大きく貢献して歴史に名を残した訳で、 勝者の藤原基軽の方は「穢ねえヤツ」としか記憶されのは、歴史の皮肉と言うしかない。左大臣だった源融は、太政大臣だった藤原基軽との衝突を避けて、 876年頃より自宅に引籠もったと言うが、この時期に源融は、 現在の渉成園に「塩釜」を模した「六条河原院」を造ったようだ。源融は、伊勢物語のパトロンであるとともに詩歌や庭園で代表される 平安時代の日本文化の基礎を築いた。結果的に政敵の穢き藤原基軽への恨みを歌とみやびで返した訳だ。当時は歌や日記などが言論だったから、源融は言論界を握り巧妙な方法で、 百済人出身の藤原氏を揶揄し、その正当性を否定したのだろう。勿論、百済人出身の藤原氏に日本文化の創造などできる訳はなかったが、 テロ手法と言う卑劣な方法で日本の政治を独占されてしまった。日本人そのものである天皇家がアンチ藤原氏になるのも当然だった。 藤原氏に対抗すべく天皇家が頼ったのは、何時の時代でも東国だった。
日本式庭園を発明した源融
○ 源融が作った「塩釜」という日本式庭園
864年に、中納言源融は陸奥出羽按察使(東北地方を監督する役職)を兼務することになった。しかし、当時は遙任と言って、実際には赴任しなかったとようだ。塩釜の風光明媚な御殿山(塩釜女子高あたり)周辺に、貴族の屋敷が集まっており、 源融邸もその近くの俗に「融ヶ岡」と呼ばれる塩釜高校のあたりにあったと言う。そして、源融は千賀ノ浦(塩釜湾)の風景をこよなく愛し、都へ帰ってからも、 塩釜の景色が忘れられず、「塩釜」を模した「六条河原院」を造った。源融が「塩釜」という庭園を築くまでは中国式の庭園が主流であったが、 「塩釜」という日本の風景をモデルにしたことから、これが日本庭園のルーツとも考えられている。
○ 藤原氏と明治政府の類似性
このような源融の功績は、穢き藤原氏によって抹殺されている。 藤原氏は唯我独尊で、藤原一族でないと功績どころかその存在さえも認めないのだ。藤原氏は、日本古来の伝統や神や貴族の存在をことごとく抹殺し、 新たに新興宗教のような得体の知れない伝統や神を捏造した。この辺は、江戸時代の文化を否定した明治政府とよく似ている。 藤原氏も明治政府も自分達の権力維持のためだけに天皇を徹底的に利用した。藤原氏はテロリスト集団であり、天皇家や蘇我氏などの名家の反藤原勢力をテロで暗殺した。 そして、自分自身は何の文化も残さず、日本書紀のような自分に都合のよい歴史書を作って、 自分の正当性を捏造した。藤原氏と同様に明治政府も薩長のテロリスト集団から構成され、それまでの日本文化を破壊した上に、 何の新たな文化も創造できず、狂信的な軍隊を作って1945年についに日本を破滅させた。藤原氏も明治政府も天皇を利用する好戦的なテロリスト集団であった点と、 その結果として文化の創造が全くできなかった点がそっくりである。 
5
源融の河原院と下寺町  
源融河原院址
前回紹介した扇塚のところから、少し迂回して五条河原町の交差点を渡ります。そこから、高瀬川まで五条通を東に戻ります。五条通から側道にはいって、高瀬川に架る小さな橋を渡りますと、木屋町通で、すぐに、二股になった榎が見えます。この榎は、榎大明神の神木として祀られており、写真でわかるように堂々とした大樹で、注連縄が張ってあります。平成十二年には、京都市の「区民の誇りの木」に選ばれています。
この榎の根元に、「此付近源融河原院址」(木屋町通五条下ル)の石碑があります。
河原左大臣こと源融 〔八二二年〜八九五年〕は、嵯峨天皇の第十二子。融流嵯峨源氏の祖。政治よりも風流を好んだと伝えられ、嵯峨にも別邸「栖霞観」を造営しました。これは、現在の嵯峨釈迦堂〔清涼寺〕で、源融の墓所でもあります。宇治に造営した別邸は、のちに平等院になって、現在に至っています。
源融は陸奥出羽の按察使(あぜち)として、多賀城に赴任したと伝えられています(実際には、遙任の形かもしれませんが)。その道中の途中、信夫(福島県)の文字摺石を見て詠んだとつたえられる歌が、古今和歌集に載っています。
かはらの左大臣
みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへに
みだれむと思ふ我ならなくに
古今和歌集巻第十四・恋歌四・七二四
文字摺りは、捩ぢ摺り(よじれた文様)のことで、文字摺石の文様を染めたと伝えられる布。「みだれむと思ふ」をすこしだけ変えたかたち「みだれそめにし」として、小倉百人一首にも採られているのは、ご存じのとおりです。
源融の河原院とは、どんなところか。伝承によれば、塩竃(日本三景の一つ、宮城県の松島)にみたてた庭園をつくり、日ごと難波から海水を運ばせて藻塩を焼き、みやびを尽くしたといわれています。『都名所図会』巻之二では、「河原院の旧跡」の項があり、
五条橋通万里 小路の東八町四方にあり。鴨川は此殿舎(でんしや)の庭中(ていちう)を流(ながるゝ)と見えたり。此所は、融左大臣の別荘にして、台閣水石風流をつくし、遊蕩の美を擅にし、山を築ては草木繁茂し四時に花絶えず、池を鑿ては水を湛へ、魚鳥は波に戯れ、陸奥の松島をうつし、難波津より日毎に潮を汲せ、管弦は仙台に調、文籍は月殿に翫び給ふ。大臣薨じ給へて後、寛平法皇此勝地に遊覧し、東六条院と号す。
その後、源融第三子の仁康上人のもとで、丈六の釈迦仏を安置し、六条院という寺院になったと記載されています。
河原院は、北は五条通(平安京の六条坊門小路)、南は六条通(六条大路)、西は柳馬場通(万里小路)、東は寺町通(東京極大路)で囲まれた広大な敷地を占めていました。この榎と石碑の位置は、寺町通の延長線よりすこし東側にありますので、敷地外になりますが、目をつぶっておきましょう。借景ということもありえますから。 
大鏡にでてくる源融
ところが、源融は、風流だけの人ではないのです。なにしろ、藤原氏の専横が始まる時代に、左大臣まで昇った人です。『大鏡』上之巻の「太政大臣基経伝」には、陽成天皇が退位したとき(八八四年)に、「源融が自分も皇位継承の権利があると主張した話」が載っています。このとき、「臣下に下ったものが天皇になった例はない」と藤原基経〔八三六〜八九一〕が主張し、結局は光孝天皇が五五歳で即位しました。該当の箇所を引用しましょう。
陽成院 おりさせ給ふべき陣の定めに、さふらはせ給ふ。融のおとゞ、やんごとなくて、位につかせ給はん御心ふかくて、「いかゞは近き皇胤をたづねば、融らも侍るは」といひ出でたまへるを、この大臣こそ、「皇胤なれど、姓を給はりてたゞ人にてつかへて、位につきたるためしやある」と申し出でたまへれ。さもある事なれば、この大臣の定めによりて、小松の帝は位につかせたまへるなり。 『大鏡』上之巻・太政大臣基経伝
実際には藤原基経が陽成天皇を廃位に追い込み、光孝天皇〔小松の帝〕を擁立したというのが歴史的な事実です。光孝天皇の在位は、八八四年〜八八七年の四年です。次の宇多天皇は、光孝天皇の皇子ですが、皮肉なことに、光孝天皇の臨終のときには、源定省として臣下に下っていました。藤原基経は、光孝天皇の崩御間際に源定省を皇太子に戻したうえで、後継の天皇とするという荒業をやってのけました。このやり方と同じく、陽成天皇を廃するときに、源融を皇太子に戻した上で天皇としてもよかったわけです。藤原基経にとっては、要するに傀儡としての天皇を擁立するのが目的で、理屈は時に応じてどうにもなるということです。これは想像ですが、源融は藤原基経の専横に嫌気がさして、風流の道に逃れ、河原院の造営に心血を注いだのではないでしょうか。
宇多天皇は、藤原基経の支持によって天皇となりますが、ときを経ずして、宇多天皇と藤原基経の関係が険悪となります。この確執が、次の醍醐天皇の時代に、菅原道真(宇多上皇のブレイン)と藤原時平(基経の長子)との政争につながってゆきます。 
伊勢物語と河原院
河原院が有名であったのは、いろいろな古典籍に記載されていることでも推察されます。『伊勢物語』の第八一段には、次のようにでてきます。
むかし、左の大臣いまそがりけり。賀茂河のほとりに、六條わたりに、家をいとおもしろくつくりて住み給ひけり。十月のつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、(中略)この殿のおもしろきをほむるうたよむ。そこにありけるかたゐおきな、いたじきのしたにはひありきて、人にみなよませはててよめる。
鹽竃 にいつか來にけむ朝なぎに
釣する舟はこゝに寄らなむ
となむよみけるは。(中略)さればなむ、かの翁さらにこゝをめでて、鹽竃にいつか來にけむとよめりける。 『伊勢物語』
この歌は、『在中将集』という在原業平〔八二五〜八八〇〕の家集にもともと載っていたものが、伊勢物語第八一段に脚色されたと推測されます。さらには、ずっとのち、鎌倉時代最末期の一三二六年に、『続後拾遺和歌集』が撰進されますが、この集にも、「河原の左大臣の家にまかりて侍りけるに、塩がまといふ所のさまをつくれりけるを見てよめる」という詞書とともに、在原業平の歌(巻第十五・雑上・九七五)として収録されています。 
宇治拾遺物語と河原院
『都名所図会』「河原院の旧跡」の引用文中にある寛平法皇とは、宇多上皇〔八六七〜九三一、天皇在位八八七〜八九七〕のこと。源融の時代からは、一世代あとです。本シリーズ第2回、第4回にでてきた菅原道真〔八四五〜九〇三〕はそのブレインでした。古今集を編纂した紀貫之〔八七二? 〜九四五〕は、源融の時代からおよそ二世代あとの人ですので、紀貫之の在世中には、河原邸は残っていたと考えられます。古今和歌集に載っている貫之の歌は、おそらく宇多上皇に献上される前の様子を詠ったものと考えられます。
河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、しほがまといふ所のさまをつくれりけるをみてよめる   つらゆき
君まさで煙たえにし塩がまの
浦さびしくも見えわたる哉
古今和歌集巻第十六・哀傷歌・八五二
『宇治拾遺物語」巻第十二・十五(第一五一話)「河原の院に融公の霊住む事」と題して、河原院が宇多上皇に献上されたあとのことが記されています。
今は昔、河原の院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩竃の形を作りて、潮を汲み寄せて鹽を焼かせなど、さまざまのをかしき事を盡して、住み給ひける。大臣うせて後、宇多院には奉りたるなり。
宇多上皇が住んでいると、融の幽霊がでてきて、「自分の家であるから住んでいるのに、あなたが住み始めたから狭くなってしまった」と恨みごとをいいます。宇多上皇が、「故大臣の子孫から献上されたので住んでいる。押し入って奪ったのならともかく、礼知らずにも怨むのは筋違いだ」と高らかにおっしゃると、幽霊は掻き消すようにいなくなりました。「さすがは、宇多上皇。普通の人ならば、融の幽霊に対して、このように、堂々ということはできない」と世人は噂したというあらすじです。同じ話が、『今昔物語』巻二七・二にも、「川原院融左大臣霊宇陀院見給語」として出ています。 
河原院の荒廃と歌枕「塩竃」
源融の河原院は、宇多上皇の東六条院となったあと荒廃しましたが、そのあと、六条院という寺になりました。源融の子孫の安法法師(生没年不詳)が住んで、応和二年〔九六二年〕に「庚申河原院歌合」を主催するなど、当時の歌人たちのサロンとなっていたと伝えられています。親交のあった恵慶法師 (生没年不詳。平安時代中期)の河原院での歌。
河原院にて、あれたるやどに秋来といふ心を人々よみ侍りけるに   恵慶法師
やへむぐらしげれるやどのさびしきに
人こそみえね秋はきにけり
拾遺和歌集巻第三・秋・一四〇
この歌は、百人一首にも採られています。実をいいますと、百人一首を通じて知っていただけでしたので、この歌が河原院の跡で詠われたとは知りませんでした。河原院で歌われたと知れば、この歌の情趣はこれまでとは異なったものに感じます。
安法法師にも、家集が残っていて、その中に河原院をしのんで詠った歌が載っています。この歌は、上で引用した紀貫之の歌を踏まえています。
この河原院に、むかし、陸奥の国の塩釜の浦、浮島・籬(まがき)の島、うつしつくられたりければ、大臣かくれたまひて後、躬恒・貫之など来つゝよめりければ、それがいとかぎりなければ人のよまぬを心みにとて、しのびによめる
年ふりて海人ぞなれたる塩竃の
浦の煙はまだぞのこれる
『安法法師集』『平安私家集』
平兼盛が河原院を訪れるといっていたのに、訪れないまま、天元二年〔九七七年〕に駿河守として下向してしまったので、多少の皮肉をこめて安法法師が詠んだ歌。贈る機会を逸してそのままになっていたという詞書が添えられています。
駿河守兼盛の君、あふ所ごとに、「院の塩釜まいりてよまん」といひけるを、来で下りにければ、ふみつくりくわへてよめりける、やらずなりにけり。
塩釜の浦はかひなし富士の嶺の
うつさましかばきてはみてまし
『安法法師集』
平兼盛〔? 〜九九一〕は、三十六歌仙の一人。百人一首の「しのぶれど」の歌で有名です。注では、「あふ所ごとに」は「あふ折ごとに」の誤りとしています。多分、会うたびに安法法師が、自分の主宰する河原院のサロンを訪ねるように頼んだのでしょう。詞書からうかがえるのは、兼盛の生返事。兼盛が訪ねて歌を詠んだとなると、サロンの評判もぐっと上がったのに。安法法師の算段も捕らぬ狸の皮算用になってしまいましたね。
能の『融』では、六条河原院の跡にたどりついた旅僧の前に、前シテの汐汲みの翁があらわれて、かっての酒宴のさまを慕い、秋の月に照らされた京の名所について語るうちに、汐曇りにかき紛れて消えてゆきます。後シテの融大臣の霊があらわれて、塩竃の浦に心をよせ、籬が島の松陰の名月に小舟を浮かべたさまをしのび、「あら面白の遊楽や」と秋の月をめでつつ舞ったあと、月の影が傾くとともに月の都に帰ってゆきます。
源融河原院の伝承を契機として、「塩竃」は、歌枕として数多くの和歌に詠まれるようになります。さらに、白川の関をこえた「みちのく」は、王侯貴族のあこがれの的となり、西行法師をへて松尾芭蕉の「おくのほそ道」につながります。 
源氏物語の六条院
源融自身は、風雅の人として、紫式部「源氏物語」の光源氏のモデルとする説があります。また、その河原院は、光源氏が造営した六条院のモデルであるといわれています。『源氏物語』第二一「少女」の巻に、その敷地は四町とあります。
大殿、静かなる御住ひを、「同じくは広く見どころありて、ここかしこにおぼつかなき山里人などをも、集へ住ませむ」の御心にて、六条京極のわたりに、中宮の御ふるき宮のほとりを、四町を占めて造らせ給ふ。
ここは、もともと秋好中宮(梅壷の女御)の母、六条御息所の邸宅のあったところ。光源氏の六条院は、北は六条坊門小路(今の五条通)、南は六条大路、西は万里小路(今の柳馬場通)、東は東京極大路(今の寺町通)で囲まれた敷地であったと考えられ、ちょうど源融の河原院の敷地に相当します。その四町を四つに分け、東南の町を春とし紫の上を、東北の町を夏とし花散里を、西南の町を秋とし秋好中宮を、西北の町を冬とし明石の上をそれぞれ住まわせるという壮大な設計です。 
五条大橋
現在の五条通は、平安京の六条坊門小路です。豊臣秀吉が、方広寺の大仏への参道とするために、五条橋を六条坊門小路に架け替えたことから、五条橋通と呼ばれるようになりました。現在では、「橋」を省略して単に五条通と呼んでいます。『都名所図会』巻之二には、東北方面からみた五条橋(一七八〇年頃)の鳥瞰図が載っていますので、引用しましょう。
この鳥瞰図の下隅には、鴨川と高瀬川が平行して、右から左へ流れています。五条橋通と直角に交わっている通りは寺町通(京極通)です。五条橋の西詰の南側には、新善光寺御影堂が大きく描かれています。時宗に属し、豊臣秀吉の京都改造の際にここに移転。御影堂扇で有名であったことは、第8回の最後で紹介しました。
この鳥瞰図を仔細にみると、松豊八幡宮(門出八幡、首途八幡)が描かれています。首途八幡の西に描かれた新善光寺御影堂の本堂の北に「鏡の池」が、南に方丈を隔てて塩竃井」が、描かれています。鳥瞰図の左下隅に籬の森の札が書いてあり、柵で囲んだ、それらしい木立が描かれています。上で引用した『都名所図会』「河原院の旧跡」の記載のうしろに、割注として、
五条橋の南、鴨川高瀬川の間に森あり、これを籬の森といふ。河原院の遺跡なり
と記されていますから、「此付近源融河原院址」の碑の側にある榎は、籬の森の名残かもしれません。
新善光寺御影堂は、太平洋戦争中に五条通拡幅のため、滋賀県長浜市に移転しました。拡幅まえの五条通は、現在の五条通の北側歩道部分の幅程度であったといいますから、御影堂の境内のほとんどが削りとられたことになります。その名残は、五条通南側の地名に「御影堂町」として残るだけになっています。
確認のために、現在の地図を見ると、河原町五条の交差点の東南側は、三方を道路(五条通、河原町通、斜めの道)に挟まれた三角地(御影堂町)になっています。この三角地の部分と、今は五条通の車道・南側歩道になっている部分とをあわせた区域(全部ではないかも知れません)が、御影堂の境内であったということになります。
三角地の南、斜めの道は、実は、京都電気鉄道(木屋町線)の路面電車が走っていた跡地です。この電車は明治二八年〔一八九五年〕から昭和二年〔一九二七年〕まで、京都駅を始点にして、現在の河原町通からこの斜めの道を通って、木屋町通を二条まで北上していました。そういえば、五条寺町の交差点(今では五条通を渡れなくなっています)の東北側歩道上に、この斜めの道の延長の痕跡(北に向かうと、左側は店舗、右側は小さな三角緑地帯)が残っていて、木屋町に達するようになっています。なにげないところに曰くがあるものですね。いままでは、「なぜこんな風になっているのだろう」という疑問さえもわかなかったのですが。 
五条新地
高瀬川に架る榎橋を渡って、「此付近源融河原院址」碑の対岸へ。高瀬川の東岸沿いに延びる通りから分かれて、南に延びる通りは、西木屋町通。この通りに、町名看板「西木屋町通五條下ル平居町」 があります。
このあたりは、豊臣秀吉の京都大改造のときに築かれた御土居の外側に沿った地域で、宝暦年間〔一七五一〜一七六四〕に「五条新地」として開発されたところです。「五条橋下」の遊所として、北野上七軒から茶屋株を分派して遊里としたといわれています(『京都市の地名』)。これより南にも、すでに、六条新地、七条新地と呼ばれる遊郭ができていました。のちに、「五条楽園」と呼ばれるようになり、大いに繁栄しました。現在でも、看板や建物などに、その面影が残っています。写真は、木造三階建の五条楽園歌舞練場(西高瀬川筋五条下ル平居町)。
歌舞練場から、東方向(正確には東南方向)に進む道が六軒通。高瀬川に架る橋を渡ってさらに進むと、町名看板「六軒通木屋町東入岩瀧町」があります。ここは、三叉路(Y字路)になっていて、西南かどの建物にはってあります。
同じ建物の東側側面、三ノ宮町通に面したところには、町名看板「三ノ宮町通六軒下ル岩瀧町」があります。六軒通は、ここで少し曲がりますが、さらに東に進むと町名看板「六軒通木屋町東入早尾町」にゆき当たります。町名看板 は、基準の場所が同じで、町名が違うだけです。
町名看板がある五条楽園界隈の写真を載せておきましょう。これまでに出てきた平居町、岩滝町、早尾町は、源融の河原院の一部にあたります。さらには鴨川沿いの都市町、波止土濃町、八ツ柳町など、高瀬川沿いの聖真子町、梅湊町なども源融の河原院の敷地の一部です。
上方落語の『三十石夢の通い路』(桂米朝全集第四巻)に、五条新地(橋下)のことが出てまいります。小話に仕立ててあって、面白い。すこしだけ変えて、上品な艶笑話として紹介しましょう。
三条大橋、四条大橋、五条大橋が集まって、自慢話をしております。三条大橋は、「先斗町があるから、色気のある女が通る」と自慢します。四条大橋は、「東に祇園・宮川町、西に先斗町で、両手に花や。色気のある女が、仰山通る」と強気にまくしたてます。五条大橋は、「橋下があるし、三条大橋と同じくらい別嬪が通る」と、負けずと対抗しますが、やや弱気。一同「やっぱり、景気のよいのは、四条大橋や」となったところで、「でもな」と、四条大橋。「なんぼ、女が通っても、肝腎の擬宝珠がない。三条と五条がうらやましい。」
そういえば、三条大橋と五条大橋には擬宝珠があるが、四条大橋には擬宝珠がありませんね。擬宝珠があるのは、三条大橋は東海道の基点、五条大橋は伏見街道と渋谷街道の基点であったためです。これに対して、四条大橋は、八坂神社への参道。ここにも、京都の歴史が顔をのぞかしています。 
高瀬川の船廻し場跡
木屋町通の一つ東、南北の通りは、三ノ宮町通といいます。この通りを南下し、上の口通にでて、高瀬川を渡ると、ひと・まち交流館京都(西木屋町通上の口上ル梅湊町)があります。ここは、元の菊浜小学校の跡地。その裏手の高瀬川沿いに、船廻し場跡の記念碑があります。当時はこのあたりの川幅は九メートルほどあり、岸が砂浜となった船廻し場であったとのこと。「菊浜」の名称は、もともとの所在地の「菊屋町」と「浜」の地名から合成したもの。ひと・まち交流館京都の北側、菊浜グランドとして「菊浜」の名前が残っています。
高瀬川は、角倉了以・素庵父子が慶長十六年〔一六一一年〕から同十九年〔一六一四年〕まで四年をかけて開鑿した運河です。方広寺(大仏殿)を造営するための資材運搬が鴨川の水運によって行われたことにヒントを得て、安定した資材供給のために計画したもの。北は二条から、伏見を経て、南は宇治川まで。このあたりは、豊臣秀吉が築いた御土居の外側を開鑿しています。大正九年〔一九二〇年〕に廃止されるまで、原材料・生活物資の京都移入、京都の物産の搬出に貢献しました。
引用した『都名所図会』の五条橋図の中で面白いのは、「籬の森」と記載された場所に、高瀬舟の舟曳きの様子が描かれていることです。一方、上流の五条橋の北側には、高瀬舟を船頭が一人で操作して、高瀬川を下っている様子が描かれています。当時の高瀬川の水運の様子がうかがえます。
さらに調べてみると、『拾遺名所図会』にも、「高瀬川」の挿絵が載っており、高瀬舟の船曳きの様子が詳しく描かれております。引用した挿絵をみると、高瀬舟が連結されて、一艘ごとに三、四名の曳き手で曳いたことがうかがえます。また、曳き手が通行するため、高瀬川に架る橋が一段高いところにつくられています。そのため階段で登り降りするようになっていて、車馬の通行はできない構造になっています。 
下寺町の寺々、等善寺と竹林院
豊臣秀吉の京都改造のときに、御土居が築かれました。御土居の遺構は、このあたりに今は残っていませんが、高瀬川が御土居の西側に沿って開鑿されたことを考えると、御土居の大体の位置がわかります。京都改造のときに、築かれた御土居の内側、ちょうど六条河原院の故地のに、たくさんの寺が移築されました。現在でも、五条通、六条通、高倉通、河原町通に囲まれた地域に、その多くが残っています。この地域は、古くは下寺町と呼ばれ、現在の町名「本塩竃町」に、源融の河原院の名残が残っています。先ほどのひと・まち交流館京都の南側の通りは、上の口通。ここから河原町通に出て、東側の歩道を北上しますと、浄土宗等善寺(河原町通五条下ル平居町)があります。上述の五条楽園歌舞練場の北側にあたります。面している通りは違いますが、同じ平居町。等善寺は、上で引用した『都名所図会』巻之二五条橋の鳥瞰図にも「等善寺・橘行平の塚」として載っており、寛平五年〔八九三年〕橘行平の建立と伝えられます。
等善寺の北側、同じ平居町の町内で、河原町通に面したところには、浄土宗竹林院(河原町通五条下ル平居町)があります。『都名所図会』巻之二には、「鬼頭天皇」の項があり、「本覚寺の東南、竹林院の堂内にあり」と説明したあと、割注でその由来を紹介しています。
正安二年の春、後伏見院北山に御幸ありし時、北面葛原兵部重清供奉し、朝霧といふ官女を見初、連理の交をなす。父これを制して、又八重姫を娶に、朝霧ふかく嫉、水食を断て死す。重清これを菩提の種とし、出家を遂、紀伊国二鬼嶋へ赴き、庵を結び、苦楽坊と號し、行ひすまして居たりける。然るに疫病をうけて苦悩す。時に朝霧が亡魂鬼女と現じ、苦楽坊の頭を撫れば、忽平癒す。功つもりて共に成佛し、末代其證として頭をのこし、鬼頭天皇と號しける。
鬼頭天皇が現在も祭られているかどうかは、調査不足でわかりません。気になる逸話ですので引用しましたが、出典など不明です。もう少し調査をしたいと思います。 
金光寺と市比売神社
五条河原町の交差点から、今度は、河原町通の東側の歩道を南下しましょう。六条通を西に入りますと、北側の民家に、町名看板「六條通河原町西入本塩竃町」が貼ってあります。ちょうどその向かい、南側の民家にも、同じ町名も看板「六條通河原町西入本塩竃町」があります。
町名看板の隣には、市比売神社(市賣比神社、六条通河原町西入本塩竃町)の鳥居が、社務所兼集合住宅の一階部分にはめ込まれています。さらに、その西隣には、金光寺があります。市比売神社の創建は金光寺より古いようですが、中世以降、金光寺の鎮守となっていました。今は、金光寺から独立しています。
『都名所図会』巻之二には、「市中山金光寺」の項があり、
時宗にして、本尊阿弥陀佛は定朝の作、開基は空也上人なり。初は、堀川七条の北にあり。今の本願寺境内なり。むかし此地賣人の市場たるにより、市屋道場ともいふ。
と紹介しています。「市中山金光寺」の項の中に副項目として「市比賣社」があり、「當寺にあり、此邊の産沙とす。祭りは五月十三日」と説明しています。
「堀川七条の北」とは、西本願寺の南、今の興正寺のある地域で、平安京の東市の位置にあたります。『京都市の地名』では、『山州名跡志』を引いて、次のように説明しています。
空也上人承平年中〔九三一〜九三八〕に、上人、市姫の神勅を得て開きし所なり。薬師仏を以って本尊と為す。今の薬師是なり。
もともとは天台宗であったが、一遍上人が京都に布教に来た時に、金光寺の住職であった作阿上人が一遍上人に帰依したことにより、時宗の一派(市屋派)の本山になったと伝えています。弘安七年〔一二八四年〕、一遍上人の三度目の入洛のとき、空也上人が念仏を広めたことにちなんで、金光寺に大がかりな踊り屋を立てて、踊り念仏をおこなったことが、『一遍聖絵』などの記載からわかります。中世には、市姫金光寺として七条堀川の地で庶民の信仰を集めていましたが、豊臣秀吉の京都改造の際、本願寺の移転に伴い、天正十九年〔一五九一年〕に、市姫神社(市比売神社)とともに、現在の下寺町に移りました。江戸時代は、六条道場あるいは市屋道場と呼ばれていました。前に引用した五条橋の図の中にも、市屋道場として描かれています。天明の大火、どんどん焼で類焼。
市比売神社(市姫神社)は、平安京の東西の官設市場の守護神として、延暦十四年〔七九五年〕に創建されたと伝えられています。祭神は、多紀里毘売命、市寸嶋比売命、多岐都比売命、下光比売命、神大市比売命で、最初は三座(ちなみに、最初の三柱の神様は、宗像大社の祭神と共通です)。二柱はあとから追加されたようです。市屋道場の金光寺縁起の中には、「延暦十四年〔七九五年〕、宗像大神を東市屋に勧請し市姫大明神と号した」とあるそうです(『京都市の地名』)。鎌倉時代以降は、金光寺とともに移動して今日に至っています。
東市の守護神ということから、商売繁盛の神として崇敬されるようになりました。商売繁盛のご利益に関しては、丹波口にある京都中央卸売市場の開設に際して、分社した市姫神社が下京区花屋町通新千本西入ル朱雀分木町にあります。平安京の「東市・西市」と現在の京都の「京都中央卸売市場」、どちらも、生活用品流通の要です。
また、祭神がすべて女神であることから、「女人厄除」の神様としても有名になりました。良縁・子授け・安産の御利益もあるそうです。市比売神社は、平安時代を通じて、皇室、公家の崇敬が篤く、「五十日顆之餅」神事がおこなわれ、「市之餅」と名づけた産餅が授与されたと伝えられています。ちなみに、「五十日之祝儀」(あるいは「百日之祝儀」)とは、生後五十日(あるいは百日)の赤子の口に、餅を含ませ、成長を祝う儀式です。今も残る「お食べ初め」の原型の行事で、市比売神社はその発祥の地だといわれています。
『源氏物語』柏木の巻に、「五十日の祝」がでてきますので紹介しましょう。光源氏の妻、女三宮が柏木と通じて設けた若君(薫)。生まれた直後に、女三宮は出家します。その若君の五十日の祝。
御五十日に餅参らせたまはむとて、容貌異なる御さまを、人々「いかに」など聞こえやすらへど、院渡らせたまひて、「何か、女にものしたまはばこそ、同じ筋にて、いまいましくもあらめ」とて、南面に小さき御座などよそひて、参らせたまふ。
「容貌異なる御さま」とは、女三宮が髪を切って尼となった様子。「小さき御座」は、五十日の祝の品々を盛った高杯 を並べた場所。
紫式部の伯父の藤原為頼〔九三九?〜九九八〕の家集『為頼朝臣集』には、市姫神社の五十日の祝を詠んだ歌があります(『京都市の地名』)。
今の左大弁の御子の五十日におほわりごの蓋に市姫のかたちなどかけるところに   為頼朝臣
市姫の神の忌垣のいかなれや
商物に千代を積むらむ
『為頼朝臣集』
「破籠」とは、檜の薄い板で作った弁当箱状の容器で、中に仕切りがあり、被せ蓋がついています。楕円形の曲物 、四角い弁当型のものなどがあります。たとえば、ちょっと豪華な昼食に食べる松華堂弁当の容器がそれです。それにしても、「蓋に市姫のかたち」とは、どんなかわいい絵が描いてあったのでしょうか? 祝いの和歌には、「五十日」にちなんで、「いか」の語をできるだけ多く詠み込むことがおこなわれました。この歌でも、「忌垣」(古くは、濁点を表記しませんので、「いかき」)と「いかなれや」の「いか」が詠み込まれています。
『康平記』〔平定家、康平元年〜五年の日記〕の康平五年〔一〇六二年〕十一月二日の条に、五十日の祝が出てきますので、引用しましょう。
   (略)
この日記の主、平定家は、摂政関白藤原頼通〔九九〇〜一〇七四〕(道長の長子、宇治平等院造営)の家司 。文中の「若宮」は、この当時内大臣(のちに関白)であった藤原師実 〔一〇四二〜一一〇一〕(頼通の子)の子(師通〔一〇六二〜一〇九九〕)。平安時代には、月の前半は東市、後半は西市が開かれる慣例になっていたといいます。引用文は月の初めですから、東市が開いていたことになります。この文章からわかることは、東市に、藤原師実の家司の民部卿親任と知家事 の右衛門府生成任が出かけていって、予約していた餅を買ったこと。その値段は、絹一疋 と米一石で、結構高いですね。多分、お祝いの品で、特別注文だったのでしょう。夜になって、宴会のあと、亥剋(亥の刻、今の午後九時〜十一時)に五十日の祝がおこなわれたことがわかります。
引用文中の市刀禰はというのが、よくわかりません。ただ、平安時代の官職として、坊長の下に、保刀禰というのが置かれていたといいます。この類推で、東市にもそれに相当する下級役人があり、これを、市刀禰と呼んだと考えても、まんざら荒唐無稽ではありますまい。あるいは、「刀禰」が神職の下で働く者を差すこともありますので、市姫神社の下役であった可能性もあります。
市比売神社の裏手に、ご神水「天之真名井」があります。社伝によれば、清和天皇から後鳥羽天皇まで二七代にわたって、御降誕ごとに御産湯の中にこの水を加えるのが慣わしであったといいます(『改訂京都風俗志』)。これは、平安時代のことですから、市比売神社が七条堀川の地に鎮座した時代のこと。時代はずっと下って、江戸時代初期、『都名所図会』巻之二、「市中山金光寺」の項の中に、上に引用した箇所に続いて、「天眞井」は、「本堂の西にあり。洛陽の名水なり」と記しています。前に引用した五条橋の図の中には、「市屋道場・天真名井」が一つの名札に並んで書いてあり、「市姫大明神」は別の名札になっています。江戸時代以前の神仏習合の状態を示していて、天真名井がどちらに属していたのかをはっきり示すという意図はなかったのでしょう。
写真の「天之真名井」の井桁の上に奉納してあるのは、願いごとを書いた「姫みくじ」。天之真名井は、ポンプアップして、常時水が流れるようになっているようです。そのほかにも、神水のお持ち帰り用に、蛇口が用意してありました。 
延寿寺
市比売神社のある通り(六条通)を戻り、もう一度河原町通にでて、南に少し歩くと、延寿寺の門が開いています。二層になった山門が特徴で、その前に「勅願所金佛殿延壽寺」の門標が建っています。この寺の名前は、本シリーズ第2回に、町名看板にあった「上金仏町」や「卜味金仏町」の由来で、でてきました。後白河上皇の六条殿に建てられた長講堂が、一時衰退したときに、その三尊(金仏)を受け継いで、延寿寺と号したといいますが、時期は不明です。もとの寺域は、油小路、東中筋通、五条通、六条通で囲まれた地域(中金仏町、卜味金仏町、天使突抜三町目、天使突抜四町目を一部分ずつ含む)。天正十九年〔一五九一年〕に豊臣秀吉の京都改造の際に、現在の地に移転。そのあとも、何回か火災にあったが、本尊の金仏は無事に伝えられたといいます。しかし、どんどん焼(元治の兵火)のときに、伝来の金仏が溶解。その後木造で再建。現在の建物は、明治十五年〔一八八二年〕に再建。 
福田寺
延寿寺の南側の道は、現在、六条通と呼ばれています。ところが、仁丹町名看板でわかるように、市比売神社の前の通りが、もともとの六条通です。延寿寺の南側の道(新六条通)が河原町通へ突き当たる丁字路の西南かどに、町名看板「河原町通上ノ口上ル本塩竃町」があります。この位置だと「河原町通六条下ル本塩竃町」と表示されるはずです。これは、この町名看板を設置した時点(一九二九以前)には、新六条通がなかったことを反映しています。実は、新六条通は、少なくとも、昭和六年〔一九三一年〕の地形図(国土地理院)には、存在しません。おそらくは、この新道も、太平洋戦争のときに、強制疎開によって造られたと推測されますが、さらに調査が必要です。
(新)六条通に沿って、時宗福田寺の北塀。門は、六条通に交差する南北の通り(名称不詳)にあり、西面しています。福田寺の名は、すでに、木製の町名看板「高倉通松原下ル西入福田寺町」のところで出てきました。寺伝によれば、文永九年〔一二七二年〕鎌倉幕府将軍宗尊親王が京都に戻ってのち、剃髪して堯空と名乗り、東山区渋谷の地に創建したといわれています。初めは、天台宗。のちに、弘安五年〔一二八二年〕時宗に改め、汁谷(渋谷)道場と称しました。豊国神社造営にともなって、慶長三年〔一五九八年〕に、福田寺町(高倉通松原下ル)に移転し、しばらくして、現在の下寺町へ再移転したと伝えられています(『京都市の地名』)。現在、福田寺町の北には、長香寺(慶長十四年造営)がありますので、この造営が、福田寺の再移転に関係している可能性があります。天明の大火、どんどん焼(元治の兵火)のときに焼失。現在の建物は、そのあとの再建。 
長講堂と後白河法皇
(新)六条通を西へ、万年寺(門は富小路通に西面)を過ぎると、六条富小路の交差点にでます。右折して、富小路通を北上しますと、右手に、後白河法皇ゆかりの寺、長講堂があります。門標には、「元六條御所長講堂」とあります。
後白河法皇〔一一二七〜一一九二。天皇在位一一五五〜一一五八。崩御するまで院政をおこなう〕は、保元の乱(一一五六年)、平治の乱(一一五九年)を生き抜き、安元三年〔一一七七年〕の鹿ケ谷の陰謀で、院政をとめられ鳥羽殿に幽閉されるも、治承四年に〔一一八〇〕に以仁王が平氏追討の失敗のあと復活し、平氏と源氏のあいだを巧みに泳いで天寿を全うした強運の持ち主。生涯に、熊野御幸は三四回(第一回は一一六〇年)。今様に入れあげた結果は、『梁塵秘抄』として今に残っています。その中から、一首引用しましょう。
仏も昔は人なりき、我等も終には仏なり、三身仏性具せる身と、知らざりけるこそあわれなれ
後白河法皇が最後の御所としたのが、六条殿で、寿永三年〔一一八四年〕頃に始まったといわれています。場所は、左京六条二坊十三町(北は楊梅小路、南は六条大路、東は西洞院大路、西は油小路で囲まれた部分)。六条殿内の持仏堂として開基されたのが、長講堂で、正式には「法華長講彌陀三昧堂」といいます。六条殿は、文治四年〔一一八八年〕焼失。その年に源頼朝によって再建。このとき、長講堂も再建され、「法華長講彌陀三昧堂」の勅額を掲げました。再建後、建久元年〔一一九〇年〕に、頼朝は、再建なった六条殿で、後白河法皇に拝謁しています。後白河法皇が、この六条殿で崩御したのが、一一九二年。この年に、鎌倉幕府が開かれているのは、日本史の学習で「一一九二つくる」の語呂合わせで覚えさせられました。要するに、後白河法皇は、源頼朝が征夷大将軍になるのを死ぬまで拒み通したということです。後白河法皇の死後、長講堂領と呼ばれる九十箇所ちかい荘園は、持明院統の経済的基盤となりました。長講堂自体は、火災に何度もかかり移転を重ねましたが、豊臣秀吉の京都改造の際に、現在の地に移転しています。
長講堂の本尊は、丈六の阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)。三尊とも重要文化財。後白河法皇御真影(非公開)があり、これをもとに江戸時代に彫刻した後白河法皇御尊像(重要文化財)があります。後白河法皇自筆の「過去現在牒」が残っていて、平清盛、源義朝、源義行(義経)などが記されています。源義経を義行と書くのは、藤原(九条)良経〔一一六九〜一二〇六〕との混同を避けるため。 
後白河法皇の「過去現在牒」と義王・義女
後白河法皇の「過去現在牒」は、『平家物語』にもでてきます。それは、白拍子、義王・義女の話。「義王・義女」は、「妓王・妓女」とも「祇王・祇女」とも書きます。「義王・義女の話」は、
『平家物語』の冒頭の「奢れるものも久しからず、唯春の世の夢の如し。猛きものも遂には滅びぬ、偏に風の前塵におなじ。」という名文句を際立たせるための伏線です。奢れるもの、猛きものの代表として、平清盛の行状が描かれています。
平清盛の寵愛を、新参の仏御前に奪われた義王は、妹の義女と母のとぢのもとで出家します。出家の直接の原因は、清盛と仏御前の前で、今様の舞を強要されたこと。『平家物語』〔百二十句本(京都本)、第六句「義王出家」の直前〕を日本文学電子図書館から引用しましょう。
落つる涙をおさへて、今様一つうたひける。
月もかたぶき夜もふけて、心のおくを尋ぬれば、仏も昔は凡夫なり、われらも遂には仏なり、いづれも仏性具せる身を、へだつるのみこそ、悲しけれ
と、泣く泣く二三返うたひたりければ、その座に並みゐ給へる一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍にいたるまで、皆感涙をぞ流されける。入道もおもしろげにて、「時にとりては神妙に申したり。この後は、召さずともつねに参りて、今様をもうたひ、舞などをも舞うて、仏をなぐさめよ」とぞ宣ひける。義王かへりごとに及ばず、涙をおさへて出でにけり。「親の命をそむかじと、つらき道におもむき、ふたたび憂き目を見つるくちをしさよ」
この今様の趣旨は、上述の『梁塵秘抄』のものと、ほぼ同じ。ただし、「知らざりけるこそあわれなれ」を「へだつるのみこそ、悲しけれ」と変えているところに、「仏御前と実力は変わらないのに、なぜ義王だけを遠ざけるのか」という気持ちがこめられています。清盛入道の「舞などをも舞うて、仏をなぐさめよ」は、義王の気持ちを逆なでする言葉。もちろん、その中の「仏」は、「仏御前」のこと。義王は、返答にも窮して、悔しさにうち震えます。この仕打ちをわが身に重ねて、無常を感じた仏御前も、三人のもとに来て尼となります。四人ともども、仏道にはげみ、往生の本懐をとげます。同書、第六句の後半「四人後白河法皇の過去帳にある事」では、次のように記します。
四人一所にこもりゐて、朝夕仏の前に花香をそなへ、余念もなくねがひければ、遅速こそ有りけめども、四人の尼ども皆往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。されば、後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、「義王、義女、仏、とぢが尊霊」と四人一所に入れられけり。哀なりし事共なり。 
後白河法皇と大原御幸
『平家物語』が出てきたついでに、終盤〔第百十九句〕、後白河法皇の「大原御幸」について触れましょう。平氏の滅亡後、大原の里に隠棲した建礼門院(平清盛の娘、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母)のもとを、文治二年〔一一八六年〕に、後白河法皇が訪ねます。この御幸は、時期的にみて、六条殿から出発したと考えられます。「大原御幸」は、『平家物語』の主題である「諸行無常」をしめくくる場面。後白河法皇にうながされて、建礼門院は、生きながらに体験した六道を述べます。天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道になぞらえて、来し方を述べたあと、地獄道の阿鼻叫喚とともに海に沈んだ一門の最後を語ります。
(前略)さて年月を送る程に、過ぎにし春の暮に、先帝をはじめ奉り、一門ともに門司赤間の波の底に沈みしかば、残りとどまる人どもの喚き叫ぶ声、叫喚大叫喚の地獄の底に落ちたらんも、是に過ぎじとぞ聞こえし。
建礼門院は意に反して捕らえられ、京都に送られる途中に、平家一門が竜宮城でお経を唱えている夢を見たと語ります。
さても又武士共に捕はれて上り候ひし時、播磨国明石浦とかやに着きたりし夜、夢幻とも分かたず、(中略)「是はいづくぞ」と申ししかば、二位の尼、「是は竜宮城」と答へ申せし程に、「あな目出たや、是程ゆゆしき所に苦しみは候はじ」と申せば、二位の尼、「此の様は、竜畜経に見えて候ふぞ。それをよく見給ひて、後世とぶらひ給へ」と申すと思ひて、夢はさめ候ひぬ。是をもつてこそ六道を見たりと申し候へ。わが身は命惜しからねば、朝夕是を嘆く事もなし。いかならん世にも、忘れがたきは安徳天皇の御面影、
二位尼は、平清盛の正妻、時子のこと。建礼門院徳子の母、安徳天皇の祖母。「竜畜経」というのは、架空の経文。竜宮城にいても、まだ畜生道にあるとの意味でしょうか。 
蓮光寺
長講堂の山門の北、富小路通の東側に畳屋(小林畳店)があります。わたしが通りかかったときに、ちょうど外国人観光客の団体が畳について、案内人から説明を受けていました。聞き耳をたてていましたら、畳のことは、tatami-mat と英訳しておりました。外国人の観光も、有名どころを見るという形態から、普段の京都を見るという形態に変わっているのか? それにしても、この下寺町は、日本人観光客でさえ滅多に訪れない界隈なので、おもわず写真を撮ってしまいました。あとから見ると、どうということもない情景ですが、記念に載せておきます。
畳屋の北側に山門が見えますが、これは、負別山蓮光寺(富小路通六条上ル本塩竃町。この六条は、新六条通)。寺伝によれば、明応元年〔一四九二年〕に真盛上人が新町高辻に草庵「萱堂」を結んだことにはじまり、当初は天台宗。天正十九年〔一五九一年〕豊臣秀吉の京都改造の際に現在地に移り、浄土宗に改めたといいます。二世順誉蓮光上人のときに蓮光寺と改称。洛陽四八願寺中の第三十五番。建物は、天明の大火、どんどん焼(元治の兵火)で焼失。明治二三年〔一八九六年〕に再建。そのあと、昭和五八年〔一九八三年〕に改修。
本尊は、阿弥陀如来。一名、負別如来といいます。『都名所図会』巻之二には、「負別阿弥陀佛」の項目があり、来迎堂の南蓮光寺 にあり。この本尊は、嘉禎年中に東國の僧都に登りて、佛工安阿弥に阿弥陀佛の像を願ふ。
像成就し、帰らんとする時、安阿弥、此尊像希代なりとて、甚をしみ、今一度拝せんと、跡を慕ふて趨る。山科郷にて追つき、此旨を語るに、かの僧則笈を開けば、尊像分身して二體となる。二人とも奇異の思ひをなし二尊を東西に負ふて別る。其地を今山科の負別といふ。安阿弥が負帰し尊像當寺本尊なり。
さて、東国に持ち帰った一体はいかに? 仙台市泉区福岡の阿弥陀堂に同様の伝承があり、「笈分如来」と称して、宮城県指定有形文化財となっています。文中安阿弥とは、快慶のこと。ただし、嘉禎年中は一二三五〜一二三八で、快慶は嘉禄三年〔一二二七年〕には故人であったとの記録があります。この安阿弥は、快慶の様式(安阿弥様)を継いだだれかということにしておきましょう。
上掲の五条大橋の鳥瞰図に、蓮光寺と同じ名札に並んで「首斬地蔵」と書いてあり、『都名所図会』巻之二の本文では「馬止地蔵」として説明しています。
石仏なり。此尊像土中に埋れ有りし時、平清盛駒に乗じて通りしに、馬途に止て進まず。不思議をなして掘らしむるに、此石像出現せり。夫より六條河原の斬罪の場にありしといふ。
馬が止まった話は、保元三年〔一一五八年〕のことと伝えられています。約二メートル七〇の巨像で、現在は、「駒止地蔵尊」と呼んでいるようです。引用文の記載では、別名の「首斬地蔵」の名は、六条河原の刑場にあったためだととれますが、別に、「盗賊に襲われた信者を守り、身代わりになった」という伝承もあります。駒止地蔵は、京洛(洛陽)四八願所地蔵尊の第四五番にあたります。
この寺には、大阪夏の陣で活躍し敗れた、長宗我部盛親の墓があります。この人物の生涯は、波乱万丈。墓があるのは、一時寺子屋の師匠をしていて、蓮光寺の住職と親交があった縁といいます。 
太子堂白毫寺
旧六条通との丁字路を過ぎてすぐ、富小路通に東面して、白毫寺(富小路通五条下ル本塩竃町)があります。通称は、太子堂。宗旨は律宗。本尊は聖徳太子自作と伝えられる聖徳太子立像(南無仏という)。開基は、忍性律師。もとは、知恩院近く(粟田口)にあったが、慶長八年〔一六〇三年〕、知恩院の再建拡大のときにここに移したと伝えています。天明の大火、安政の大火、どんどん焼のときに類焼。現在の建物は、そののちの建立。 
上徳寺—世継地蔵
白毫寺の北、同じく富小路通に東面して、浄土宗上徳寺(富小路通五条下ル本塩竃町)があります。慶長八年〔一六〇三年〕に、徳川家康の帰依を得て、伝誉一阿が創建、開基は家康の側室・阿茶局(上徳院)。本尊阿弥陀如来は、安阿弥快慶作の伝承があり、滋賀県の鞭崎八幡宮から、家康が移したと伝えられています。天明の大火、どんどん焼で類焼。現在の本堂は、明治時代に、永観堂祖師堂を移築したもの。
境内のお堂にある地蔵尊(二メートル余りの石像)が、子授け、安産のご利益で信仰を集めており、世継地蔵とも呼ばれます。お堂に奉納された額には、いずれも、次のご詠歌が記されています。
世續地蔵尊大菩薩御詠哥 
ありがたやめぐみふかきを千代かけて
いゑの世つぎをまもるみほとけ
上掲の五条橋の鳥瞰図(『都名所図会』)には、上徳寺の鎮守として、「塩竃明神」が示されています。本文には、「鹽竃社は、上徳寺の鎮守なり。祭る所融左大臣にして」との記載がありますが、今はないようです。上徳寺の所在地は源融の河原院の伝承にもとづき、本塩竃町。しかも、山号は「塩竃山」。ご住職の苗字も「塩竃」です。さらに、塩竃明神があれば、「いうことなしの揃い踏み」なのですが。 
極楽寺
白毫寺の斜向かい、富小路通に西面して、浄土宗極楽寺(富小路通五条下ル本塩竃町)があります。『京都市の地名』によると、もともとは、天文十二年〔一五四三年〕に、一蓮社笈誉が四条坊門東洞院(今の一蓮社町)で創建。一五九〇年〔天正十八年〕に豊臣秀吉の命により、現在の地に移りました。天明の大火、どんどん焼で類焼。現在の建物は、そのあとの建立。境内の地蔵尊は、極楽寺地蔵と呼ばれ、摂津国住吉の井鼻から移転したと伝えています。京洛(洛陽)四八願所地蔵尊の第四六番、手引地蔵(安産地蔵)とも呼ばれます。 
新善光寺
極楽寺から北に進むと、富小路通に東側、路地を入ったところが広くなっていて、西面して新善光寺(富小路通五条下ル本塩竃町)の山門が開いています。宗派は、浄土宗。来迎堂新善光寺と呼ばれ、今回の五条大橋のところで説明した御影堂新善光寺とは別です。なお、今熊野にも新善光寺がありますが、また別の機会に紹介しましょう。
『都名所図会』の「来迎堂新善光寺」の項を引用しましょう。耳慣れない仏教用語が出てきますので、この機会に勉強です。
来迎堂新善光寺は、本覚寺の南にあり。本尊阿弥陀仏は信濃國善光寺と同一體なり。本田善助如来の示現を蒙りて、百済国へ渡り齊明王の閻浮檀金七斤を賜つて帰朝し如来を鑄とて爐壇を構ければ其光中より分身の尊像現れ給へり。是當寺の本尊なり。
閻浮樹がでてきたところで、ちょっと寄り道。『阿毘達磨倶舎論』〔世親、ヴァスバンドゥ、五世紀ごろ〕の「世間品」の中に記述されている仏教世界観では、中心に須弥山があり、その東西南北にある四つの島のうち、南にある島を閻浮堤(別名、贍部洲。モデルはインドの地)といいます(定方晟『須弥山と極楽』〔講談社現代新書三三〇、講談社、一九七九〕)。この島が人間が住んでいるところ。閻浮堤には、中央から北に黒山、その北に雪山、さらにその北に香酔山があります。その南麓、つまり雪山と香酔山のあいだに無熱悩池という大きな池があり、このほとりに閻浮樹(贍部、ジャンブー、果実は甘くて美味という)の大木が大森林をなしているといわれています。この島の地下には、八大地獄(等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、無限(阿鼻)地獄)があるといいます。
閻浮檀金とは、閻浮樹の森を流れる川底から採れる砂金。きわめて良質・高貴な金の比喩。本田善助は、信州善光寺を創建した本田善光の子。この伝承は、信州の善光寺の縁起を踏まえたものです。とくに、「炉の光の中から阿弥陀如来が現れた」という伝承は、共通しています。応仁の乱後は各地を転々。天正十九年〔一五九一年〕に、豊臣秀吉の京都改造のときに現在の地へ。 
本覚寺
新善光寺の北に、本覚寺(富小路通五条下ル本塩竃町)があります。浄土宗。鎌倉時代〔一二二二年〕に、将軍源実朝の後室・坊門信子(法名本覚)が、西八条の偏照心院内にて創建。そののち、梅小路堀川に移転。応仁の乱のあと一時衰退したが、文亀三年〔一五〇三年〕に、高辻烏丸(現在の釘隠町・山王町のあたり)に方一町の寺地を得て、玉翁上人によって浄土宗寺院として中興(これらの町名は本シリーズ第9回にでています)。一五九一年〔天正十九年〕に豊臣秀吉の命により、現在の地に移りました。天明の大火、どんどん焼で類焼。現在の建物は、慶応三年〔一八六六年〕の建立。本尊の阿弥陀仏(一名、如法仏)は安阿弥の作と伝えられています。江戸中期の版元、八文字屋自笑の墓があります。源融座像と塩竃神社の扁額が残されています。
『都名所図会』巻二には、「本覚寺」の往時の鳥瞰図が載っています。引用した図でわかるようには、本堂のほか弁天堂と地蔵堂が描かれています。寛文年間〔一六六一〜一六七三〕に定められたという京洛(洛陽)四八願所地蔵尊の第四八番「泥付地蔵」が本覚寺にあったといいますので、このお堂がそうかもしれません。
本塩竃町(下寺町)付近は、古くは、豊臣秀吉の京都改造のときに御土居を建設したことと西側が六条三筋町(第6回参照)の開設で道筋が変わったことが原因で、道筋がわかりにくい。さらに、明治時代以降も、河原町通や(新)六条通が付け加わるなど、かなり変貌しています。このため、東西の通りが真っ直ぐにつながっていないなど変則的で、町名看板の記載内容に戸惑うことがあります。街路の変遷を、古地図によって考証することも面白そうですが、今後の課題として残しておきましょう。 
 
15.光孝天皇 (こうこうてんのう)  

 

君(きみ)がため 春(はる)の野(の)に出(い)でて 若菜摘(わかなつ)む
わが衣手(ころもで)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ  
あなたのために春の野に出かけて若菜をつんでいる私の衣の袖に、次々と雪が降りかかってくる。 / あなたに差し上げるために、春の野原に出て若菜を摘んでいる。その私の着物の袖に雪がしきりに降りかかっている。 / あなたに差し上げようと、春の野に出て若菜を摘んでいるわたしの袖に、雪がしきりに降り続けていますよ。 / あなたのために春の野に出て若菜を摘んでいましたが、春だというのにちらちらと雪が降ってきて、私の着物の袖にも雪が降りかかっています。 (それでも、あなたのことを思いながら、こうして若菜を摘んでいるのです)
○ 君がため / 「君」は、若菜を贈った相手。万葉時代の「君」は、天皇・主君・敬意の対象となる男性などをさすことが一般的であったが、平安時代には、女性にも用いられるようになった。この場合の相手は、不明。女性と解するのが通説。「が」は、連体修飾格の格助詞。「君がため」で「君のため」の意。
○ 春の野に出でて若菜つむ / 八音で字余り。「若菜」は、春の七草。正月に食べると、邪気をはらうことができるとされた。
○ わが衣手に雪は降りつつ / 天智天皇の「わが衣手は露にぬれつつ」と類似の表現。天智天皇の歌は、作者不明の歌が変遷して御製となったものであるが、この歌は、光孝天皇が皇子であった時の作品で、正真正銘の御製。降りつづく冷たい「雪」を、「君がため」「春の野」「若菜」という温かな表現が解かすかのような、やさしく穏やかな印象の作品になっている。天智天皇の御製が、理想的な君主像を象徴している一方で、光孝天皇の御製からは、温厚な人柄をうかがい知ることができる。 
1
光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。
幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受ける。16歳で父仁明天皇の御前で元服して親王となり、四品に叙せられる。以後、中務卿、式部卿、相撲司別当、大宰帥、常陸太守、上野太守と、親王が就任する慣例となっている官職のほぼすべてを歴任し、53歳のときに一品に叙せられ親王の筆頭となった。
陽成天皇が藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位。『徒然草』には即位後も不遇だったころを忘れないように、かつて自分が炊事をして、黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしておいた、という話があり、『古事談』にも似たような逸話がある。基経を関白にとして、前代に引き続いて政務を委任した。即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を伝えない意向を表明していたが、次代の天皇の候補者が確定しないうちに病を得たため、仁和3年8月25日に子息・源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌8月26日に立太子させた。同日に天皇は58歳で崩御(死亡)し、定省親王が践祚した(宇多天皇)。
宮中行事の再興に務めるとともに諸芸に優れた文化人でもあったとされる。和歌・和琴などに秀でたともされ、桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させた。また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か即位後相撲を奨励している。晩年は、政治改革を志向するとともに、親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに勅願寺創建を計画するも、いずれも実現を見ぬままに終わり、跡を継いだ宇多天皇の「寛平の治」及び仁和寺創建に継承されることになる。
『日本三代実録』に「天皇少く(わかく)して聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と評されている。
2
光孝天皇 こうこうてんのう 天長七〜仁和三(830-887) 諱:時康
淳和天皇代、皇太子正良親王の子として生れる(第三皇子)。母は贈太政大臣藤原総継女、藤原沢子。
幼少より聡明で読書や音楽を好み、太皇太后橘嘉智子の寵愛を受けた。天長十年(833)、四歳のとき父が即位(仁明天皇)。承和十三年(846)、四品。同十五年、常陸太守。嘉祥三年(850)、中務卿。仁寿三年(853)、三品。貞観六年(864)、上野太守。同八年、大宰帥。同十二年、二品。同十八年、式部卿。元慶一年(877)、辞職を請うたが許されず、同六年、一品に至る。同八年(884)二月、陽成天皇の譲位を受けて践祚。この時五十五歳。太政大臣藤原基経を実質的な関白に任じ、「万政を頒行」するよう命じた。即位三年後の仁和三年八月、重病に臥し、基経に命じて第七子源定省(宇多天皇)を親王に復し、立太子させた。その翌日の八月二十六日、崩御。在位期間こそ短かったが、文事を好み古風を復活し、宇多・醍醐朝の和歌復興の基をなしたとも言われている。遍昭と親交があった。「仁和の帝」「小松の帝」とも呼ばれた。
春 / 仁和のみかど、みこにおましましける時に、人に若菜たまひける御うた
君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ(古今21)
(あなたに捧げようと、春の野に出て若菜を摘む私の袖に、雪はしきりと降っている。)
みこにおはしましける時の御うた
山桜たちのみかくす春霞いつしかはれて見るよしもがな(新勅撰73)
(立ちこめて山桜を隠してばかりいる春の霞よ、いつか晴れて花を眺めたいものだ。)
恋 / 題しらず
涙のみうき出づる海人あまの釣竿のながき夜すがら恋ひつつぞぬる(新古1356)
(涙ばかりが浮かび出る、漁師の釣竿のように長い夜もすがら、あの人を恋しがりながら寝ているのだ。)
恋 / 題しらず
逢はずしてふる頃ほひのあまたあれば遥けき空にながめをぞする(新古1413)
(逢わずに過ごす、雨の降る日が長く続くので、遥かな空を眺めて物思いに耽っているのだ。)
恋 / 題しらず
月のうちの桂の枝を思ふとや涙のしぐれふる心地する(新勅撰952)
(月の中に生える桂の枝――そのように手の届かない人を思うので、涙が時雨のように降る、悲しい心持がするのだろうか。)
恋 / 久しくまゐらざりける人に
久しくもなりにけるかな秋萩のふるえの花も散りすぐるまで(玉葉1652)
(あなたに逢わずに長い時が経ったものだ。秋萩の古枝に残っていた花もすっかり散ってしまうまで。)
恋 / ひさしうまゐらぬ人に
君がせぬ我が手枕は草なれや涙のつゆの夜な夜なぞおく(新古1349)
(あなたが手枕にしてくれない私の袖は、草だろうか。まさかそんなはずはないのに、涙の露が夜ごとに置くのだ。)
恋 / 人にたまはせける
秋なれば萩の野もせにおく露のひるまにさへも恋しきやなぞ(風雅1283)
(秋なので、萩の咲く野原いちめんに置く露――その露が乾く間のような僅かな間でさえも――そして夜ばかりか昼間でさえも――あなたが恋しいのは何故だろう。)
人にたまはせける
涙川ながるるみをのうきことは人の淵瀬をしらぬなりけり(続後撰896)
(涙川の流れる水脈ではないが、涙ばかり流している我が身が辛いのは、淵のように深くなったり瀬のように浅くなったりする、誰かさんの心が解らないからなのだ。)
雑 / 仁和の御時、僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御歌
かくしつつとにもかくにも永らへて君が八千代にあふよしもがな(古今347)
(このようにしながら、ともかくも生き永らえて、あなたの永遠の長寿に逢うことがあってほしいものだ。) 
3
国風の成立について ー光孝天皇とその時代ー  
平安時代の文化史や文学史を考える時、実際間超としての個々の文化現象や文学作品類の分析はさておき、この時代の様相を多面的に説明でさそうないくつかの柱の設定について、このごろ私は考えをめぐらしている。かつて阿部秋生民が、散文文学の成立の間超を平安文学の成立の中心に据えて見通しておられたが(「平安文学の成立」解釈と鑑賞・二八巻一号)、そのようなものの他に、たとえばやや細分化された項目として、平安文学を育てた風土の自然・人文にわたるより克明な分析、仮名文字使用の問題、またいわゆる国風の文化の成立といった種寮の柱なども考えられよう.この稿は、上記のうちの国風の文化の成立について、その現象面での出発点としての時期を漠然と宇多・醍醐帝のころとする従来の説明をもう少しさかのぼらせ、遣唐使廃止前十年ほどの光孝朝仁和年間のころに考えてみようという試論である。やまと歌に限定してもう少し正確にいいなおすならば、和歌文学大辞典で光孝天皇の説明についてしるす「和歌を好み、国風復興の端緒を開いた。」という部分、また「光孝朝はわずか四年にみたない短期間であった。しかも光孝天皇は即位の五十五歳から仁和三年八月二十六日崩御五十八歳まで、いわば老年であった。しかしながらこの四年間は、和歌史的には注目すべき時期と云い得よう。」(橋本不美男氏「王朝和歌史の研究」一四三貢)という説明を少し具体的に考えてみることである。
ところで、国風の文化の発生の時点をある一定の時期として捕えることは、実際のところ不可能に近いであろう。ある時点を境に前後の文化の様相がすっかりかわってしまうというようなことは、ほとんど想像することもむずかしく思われる。「寛平延毒になると、この唐風文化を基調としながらも国風的なものが次第に起ってきたのである。」(日本文学史中古二四貢・昭和三〇年五月版)「和歌は、歌合と犀風歌とを温床にして、字多天皇の時期に宮廷文学化の歩みを強く踏み出したといえる。」(藤岡忠実氏「古今集前後」講座日本文学3 中古篇1・六九貢)といった説明が通行のものとして定説のように見なされているのは当然であろう。
この、国風ということばはどのような意味内容を持っているのであろうか。たとえは広辞苑二版は、1その国特有の風習。国の風俗。くにぶり。1国の風俗をあらわした詩歌・俗謡。もと、中国で詩経の部立に用いた。わが国では、平安時代、駿河歌・甲斐歌などの風俗歌。3転じて和歌。とし、大漢和辞典では㊀国のならわし。国家の風俗。国俗。㊁詩経の詩の一体。六義の一、諸国の民謡の称。㊂地方の人民の詠んだ詩歌。くにぶり。ひなぶり。詩経の国風にもとづく。㊃わが国の和歌。とする。大漢和辞典の㊁意では集伝を引いて、「国者諸侯所封之域、而風者民俗歌謡之詩也。」と注する。諸国の風俗をあらわすもののたぐいが、韻文に集中し、やがて日本で勅撰の形をとるに到る道筋は、非常に長い起伏があると 思われ、たとえば国風という概念の早い出発点である詩経の十五国風といわれる短篇の叙情詩は、「おおく歌垣などの機会にきわめて即興的に作られたらしく、たまたま目にふれた景物をとりあげ、これとわが胸の愚いとを、いたって無造作にむすびつけてある。」(倉石武四郎氏「中国文学史」13ー14貢)とのことであるが、この点、国風すなわち民族の歌とかならずしも直線を引けぬところがあって、更にいわば政教主義的とでもいった色彩の強い、わが国での勅撰集などの理解との間には、差がすくなからず存在するようである。
この国風という概念をめぐって小沢正夫氏は、資料類のくわしい分析から「九世紀の初めごろに日本で用いられた『国風』とか『風俗』とかいう語には、いわゆる国家意識というものが少しもなかったといって差支えない。」(「古今集の世界」〓ハ貢)と説明された。こういった時期のあとにいわゆる国風暗黒時代といった風潮をむかえ、やがて勅撰集の季節に入ってくる形になるわけであり、九世紀の初めごろから古今集成立までの約一世紀の間、その概念は土俗の匂いと、それが宮廷社会にすくいとられるケースとのあいまにゆれていたということになるのだろう。その間に漢詩文は、日本の土壌に文化というもの、また、ことばをもってものを考えあらわすすべをはっきり植えつけていったといってよい。
次に、国風ということばが和歌の意に集中的に用いられてくる経緯を、もう少しはっさけつかめないものであろうか。これもまた論証しかねる種類の開腹に属するのだろうが、延喜式に見える次の記述にやはり注意しておく必要があるだろう.すなわち、巻第十1の太政官関係の諸事の説明の内、大嘗会の次第で、吉野国楢は古風を奏し、 「悠紀国司引二歌人.奏二国風)。」また静部は古詞を奏すると整理されている個所がある(新訂増補国史大系延着式中篇・三三四貢)O国槽と語部と磨それぞれ古風なり古詞なりを奏上することは、他にもたとえば押紙七にも出ているが、延着式で国風の文字は卒読の限りではこの部分にあらわれる数例のみかと思う。ここにあらわれる国風は、その時の悠紀に卜定された国が、その国の地名などを織りこみ、いわばてぶりを奏上することを意味していようが、古民俗の残存を持つ古風・古詞に対して、はっきり意識された目的を持っていであり、しかも歌人と称するいわば専門職をそこにあてていることを注意しておきたいのであるーー ちなみに現今吉野の国棟村で行われている国様舞には、歌翁と称する者が定まった歌詞を述べるらしいーー。ここにいう歌人という名称は、養老令における雅楽寮の制度の内の三十人の専門歌人を当然考えさせるわけであるが、この点、古今集の巻二十に見るこの程の「おほんべ」の歌の作者としてほ、ただ一首ではあるが醍醐天皇の時の「近江のや鏡の山を」に大伴黒主をあげていることを重視すべきでーー袋草紙上巻大嘗会歌次第に、和歌作者を「光孝天皇御時大伴黒主也」とすることは誤りであるーー、彼は近江国の豪族出身であったといわれ、その出自でありながら、いわば都のてぶり風のものへの橋わたし的にこの種の歌を奏上しているところに目を向けねはならず、たとえば小沢正夫氏が、「この時以後、大嘗祭の風俗歌を都の歌人が作るようになった。」(日本古典文学全集古今和歌集・四〇二貢脚注)とされた説明に耳を傾けるべきであると 思う。また、久米常民氏が、右の雅楽寮の歌人の内に人麻呂を置き、ここを母体に宮廷歌人的なものとして育っていった彼の像を追われた論考(「古代歌謡・伝承と創造」国語と国文学四九巻一〇号)ち参勘するぺく、土俗のものから都雅のものへ、高次の専門性の付与と和歌の性格自体の変化等の開腹を解明する鍵となってくるであろう。
では、その国風の醇乎たるものとしての和歌のはじまりをいったいどのあたりに見こんでおくべきだろうか。古今集の仮名序に従うと、まずは「ならの御時よりぞひろまりにける。かの御代や歌の心をしろしめしたりけむoJということである。これは例歌としてあがっている「龍田川紅葉乱れて流るめり」の歌からおすと平城天皇と、その時代とを指すのであるらしいが、とにもかくにもまず天皇中心の経国之大業ふうの見方が提示されていることを注目すべきであろう。ちなみに右の歌はその見立ての技巧など、平城朝の歌とは考えられそうにもなく、左往の形では「この歌はある人、奈良の帝の御歌なりとなむ申す」としたが、読人しらずの形でのせている古今集秋下の行き方を味あうべきであろう。この歌のことについてはあとでまたふれる時がある。
その後、「古のことをも、歌の心をも知れる人、わづかに一人二人なりき。」という時代がくる。貫之は前の引用文でもわかるように、「歌の心」をこの際特に重視しているようであり、その物さしにあてはまらない歌がかならずしもないわけではなかったのだろう。嘉祥二年、四十の翼を興福寺でとりおこなった仁明天皇に賛した興福寺大法師たちのおそろしく長い歌は、たとえそれが帝王の賛歌であろうと、続日本紀が「斯道己堕、今至僧中腰存古語」としるしたように、なにか歌に使えそうなことばを羅列した感があり、貫之流の考えにはまさにかなわぬものであった。また、同時代には小野笠のような切れ者もいるが、古今集真名序の方にしるすように、他才をもって聞え、この道をもちてあらわれずといった類である。
さてその次に来るのがあの六歌仙の時代である。実はそのころになると、「このほかの人々、その名聞ゆる、野辺に生ふる葛のはひひろごり、林に繁き木の葉のごとくに多かれど」ということになる。たいへんな隆盛期をむかえたものではある。仮名序の叙述をうのみにするのもいかがと思うが、文徳天皇から光孝天皇にかけてのころ、どうやら国風はいっせいに芽ぶいてきたかのようである。
もう少し場面を限定してみよう。貫之は六歌仙論をはじめる前に、「官位高さ人をはたやすさやうなれば入れず」と書きつけた∪なまじ文徳天皇だ陽成天皇だとなれば、やがて顕賞の意を最大限に述べたてようとする醍醐天皇の影がうすくなるばかりではないか。「ならのみかど」から帝王はあがらず、批評しやすい歌仙たちをあやつって、当代になだれこんできた形である。
ところが、そう見ないでむしろ和歌史の実態をいみじくも見通していた人もいたOたとえば傾徳院がその1人である。禁秘抄十七諸芸能事のくだりに、院は次のように書きつける。「和歌自光孝天皇未絶、稚為椅語、我国習俗也、好色之道、幽玄之儀、不可棄密事歎、」(関根正直「禁秘抄釈義」による)ことは、和歌が狂言椅諦観を通してみてもなお、我国風俗であることの認識も貴重だが、ここには持統紀に大津皇子を称して、「詩賦之興自大津始也」とする書きざまを想い起こさせるものがあり、また古今集中それほどの質量を持たぬ光孝天皇を特記するあたり、いとも政治的というか帝王特記の意識があり、このことこそは、仮名序の書きざまで、「古の代々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、さぷらふ人々を召して、事につけつつ歌を奉らしめたまふ。あるは花をそふとてたよりなき所にまどひ、あるは月を 思ふとてしるぺなき闇にたどれる心々を見たまひて、賢し愚かなりとしろしめしけむ」(傍点稿者)という、たとえそういうことが日本ではなかったかと思われるにしろ、政教主義の正統な継承であった。それから約一世紀あと、吉田兼好は徒然草に次のように書きつける。「詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすといヘビも、今の世にはこれをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり」(二三段)政教主義はついに形骸化したと、この中世屈指の文化人は見抜いていた。
ところでしばらく「禁秘抄釈義」に注する関根正直の説明を聞こう。  
 和歌は、我が国風の辞なれば、神代より創まりて人皇の代に至り、神武天皇を始め奉り、歴代の天皇后妃、皆よく歌よませ給ひしこと、紀記万葉集を見ても知るべし。豈光孝天皇より、後のみを申すぺしや。然るに、此の御抄にしも、かく記させ給ひて、光孝天皇以前には、さる御さだの聞こえぬやうなるは、いかなる御故にか、窺ひ知り奉るべきやうなけれど、試に都考を述べん。此の御代の頃には日本紀進講の旧儀も、絶えて行はせられず。又万葉集は、高閣に束ねられて、披き見る人も少かりけん。(此の前、村上天皇の御時に、源順等五人に命じて、万葉の歌に訓点せしめられ、つぎて、基俊匡房等の学匠、私に訓点さしたることも聞こゆれど、拾く行はれつとは見えず。当代の後、亀山院の頃に、僧仙覚つとめて万葉の歌に点さして、遂に万葉得業と称せられたり。さればそれよりぞ、万葉集の歌は、世に詞せらるる様にもなりけんかし。)さればさしも賢明におはせし天皇なれども、歌におきては、古今集以後のもののみをぞ詞み給ひけらし、そもそも奈良時代を過ぎては漢詩漢文のみ流行して、和歌は誰れよみ出づるものなく、貫之朝臣が古今集撰進の頃までは、其の序にあげたる六人ばかりよりは、歌らしさもの云ひ出でたるもなかりしにか。まして帝の御上にては、光孝天皇の御歌の、春の部に一首出でたる外に、(仁和の帝、親王におは七ましける時に、人に若菜たまひける御歌tとて『君が為春の野に出でゝ若葉つむ我が衣手に雪はふりつ〜』とある是なり)前の帝の御製とては載せられず。是れより後、後撰拾遺等にこそ、後の帝の御製かずかず出でたれは、此の御抄には、勅撰の歌集に就かせ給ひて、尤も古き古今の中なる、仁和の帝をしも、とり出でたまひたるならし。げにも奈良朝に盛なりし歌は、平安京の始めにほとほと廃れたりしを、光孝天皇の頃より、又再興して、古今えらばれし後は、御世JIJJ絶えず尚はせ給ひて、つぎつぎ勅撰の御さたもありければ、斯く記させ給へるも、いひもてゆけば、柳か違ふ所ましまさずなむあるべき。」
周到な注意のうかがわれる説明と思うが、わずかに祖述を加えると、「此の御代の頃には日本紀進講の旧儀も、絶えて行はせられず。」とあるのは、それにともなういわゆる竜宴歌の存在をもとにしているはずであるが、「日本紀貴宴和歌」で、延善六年三統理平の奏上した序によると、「此紀元慶、貴簡以来二十余年、借席不詳、時人窺歎師説将堕。」(古典保存会複製本を翻印された、伊牟田経久氏私家版・昭和四三年によるo)という状態であった。まあ二十余年、厳密にいえば、元慶二年講、岡五年畢、同六年宴。ついで延毒四年講、同六年宴ということになるのだから、講説開始時をいえば二六年の間があるということになろう。これを絶えて云々と見うるかどうかは見方にもよろうが、仁和・寛平・昌泰と見えないことは事実である。なお、元慶六年の黄宴歌は「日本紀寛宴和歌」なる書物には二首しか見えぬが、釈日本紀・三代実録・西宮記などに三十首以上の整然とした内容であったことをしるしている(同上書こころおぼえ・四貢)。
次に、「まして帝の御上にては、光孝天皇の御歌の、春の部に一首出でたる外に前の帝の御製とては載せられず」ということについてだが、二十1代集才子伝には、光孝天皇以前に古今集に歌がのる帝王として、天智天皇の一首が恋四にあり、平城天皇が春下・秋上・秋下にそれぞれ一首ずつある旨をしるしている。まず、天智天皇の一首は恋四-七〇二の「梓弓ひさのつづら末つひにわが思ふ人に言のしげけむ」で左注に「この歌は、ある人、天の帝の近江の采女に賜ひけるとなむ申す。」とある天の帝を、近江にむすびつけて天智天皇と考えたものらしい。今日、この天の帝は結局普通名詞で天皇の意に解すぺく考えられていて、これはとなたとも知れない帝と見るべきだという。古今六帖五には「ならのみかど」と作者名をあげ、「古今を正しとすべし。」(古今和歌六帖標注本による)とする。そうなれば、天智天皇御製としては、後撰集秋中に入る、「秋の田のかりほのいほのとまをあらみ」を勅撰入集初見とするーべきであろう。もちろんこれとても天智天皇のものであるまいということはかなり論じられているようである。ところでこの後撰集に見える作者名表記も、同じ御製ながら、天福本・貞応二年本・堀河本・二荒山本等は天智天皇とするが、中院本・伝月樵筆本・慶長本・鳥丸切はあめのみかどである。この点は従来の分類でのいわゆる定家本・非定家本の二系統入りまじっている感があり、この面からの整理はむりのようであるが、そのなかでも伝月樵筆本、すなわち定家本諸本中初期の段階の形を持つといわれる本には(郡か軸i古典叢書刊行会本)、「あめのみかとの御製」として、その下に小書きして「天智天皇」としるしており、上述の古今集での作者名を普通名詞とむげに否定もしかねる一つの材料を提供しているのである。
平城天皇の歌とされるものは次の三首である。春下九〇「故里となりにしならの都にも色はかはらず花は咲きけり」詞書は、古今集の帝王をあげる時の例で、「奈良帝の御歌」とする。次に秋上二二二「萩のつゆ玉にぬかむととれば消ぬよし見む人は枝ながら見よ」読人知らず・窺知らずの形で、左注に「ある人のいはくこの歌は奈良帝の御歌なりと」とする。もう一首、秋下二八三はこれも題知らず・読人知らずの歌、「龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば鈴なかや絶えなむ」左注に、「この歌は、ある人、奈良帝の御歌なりとなむ申す」という。秋上の万は、古今六帖六に「奈良のみかど」小書きして「桓武帝皇子」と明記するが、語句に多少の異同を見せて家持集にも入る。また秋下の方は、柿本集冬の部のはじめに、「天皇立田川のわたりに行幸有けるに卿供にまゐりて紅葉お寸しろかりけるに天皇御製立田川紅葉乱れて流るめり・・・・・・とありけるに立田川もみちはながる神なびの・・・」(群書類従本による)と人麻呂とつらねて歌ったかのようにあらわれる。万葉集総索引によると集中立田山・龍田山をよんだ敵はあるが、立田川はないようであり、その点でこの歌の時期はどうもうたがわしいが、この奈良の帝と人麻呂との組みあわせは実はかなりポピュラーなものであったらしくたとえば大和物語に、前段の「昔、ならの帝につかうまつる采女ありけり。」以下の一文を受けて、この「同じ帝、立田川の紅葉いとおもしろきを御覧じける日、人麻呂、立田川紅葉は流る神なびのみむろの山にしぐれ降るらし帝立田川紅葉乱れて流るめり渡らば鍋中や絶えなむとぞあそばしたりける。」とも出てくる。この「ならの帝」を、文武・聖武・平城の三天皇にそれぞれ擬する考えがあり、後代の勅撰集と奈良御門御集との比勘などからは、聖武天皇も有力であるが、すくなくとも人麻呂と時代的に相ならぷ帝王としては、文武天皇あたりまでさかのぼらねはならず、結局、くわしいことは不明とせざるをえまい。ただこのようなあいまいな事情が、実はほかならぬ古今集の便名序自体にあることで、先にも引いたように和歌の歴史を説いて、「古よりかく伝はるうちにも、ならの御時よりぞひろまりにける。かの御代や歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麻呂なむ歌の聖なりける。」・とあって、しかも例歌に、ならの帝の御歌としては例の「龍田川紅葉乱れて」を人麻呂の「梅の花それとも見えず」「ほのぼのと明石の浦の」また赤人の歌とならべてしまっているのである。人麻呂の右引の二首は、古今集中には、いずれも左往に、ある人のいはくの形であらわれるものであり、この和歌史構成の時点と、実際の編纂作業との間に溝があるように 思われるし、何よりも平城天皇としたはあいの時代認識は勅撰という肩書きにそむく感さえあるのだが、ともかくこのいわゆる「ならの御門」なる人物は、古今時代の段階ですでに捕えにくい過去の人物として考えられていたことは疑いなさそうである。ただし、どう一しても天皇にトツプバッターを願わねは、この序が成り立諦たなかったことこそは注目しておかねばならないことがらなのであろう。どうもたいへんめんどうな手続きであったが、二十一代集才子伝に見る、光孝天皇以前の二人の天皇はどうもはっきりした資格を持たないということになるのである。すくなくとも禁秘抄の断定は生きてきそうな感じである。
光孝朝をかような区切りと考える見方が他にないわけでもない。たとえば袋草紙上巻大嘗会歌次第に、天武天皇の白鳳二年十一月にはじまったこの儀式に歌がついてくるのは承和のころからだという指摘の後、和歌の作者について、先に引用したように「光孝天皇御時大伴黒主也」と明記するのも、実際問題として誤りと考えられるにしろ、その資料の一つであろうし、八雲御抄に見える、御製書様のことで、「古今光孝己上書右」と特記するのも、古今集をはじめから読んでいけば詞書の書きざまとしてまさしくかようなのであるが、 一つのしるしにはなるだろう。更に、歌学大系に納めるところの、水無瀬の玉藻なる書物には、「仁和の御時僧正遍昭に勅したまふ。此時は久に君も臣もみなもろこしの歌をのみもてあそびて、吾風俗はなきが如くに成れり。倭歌興行して其風俗の絶えざらんことをはかるぺしとて、本尊を定めおはするに、七つになる乙女にぬさ持たせ、帝御ことを弾じ給ひて神おろしおはせしに・・・」という何やら大けさなエピソードをもしるしている。三代実録貞観六年二月二日には、仁明天皇の勅によって時康親王は、高橋文室麻呂から鼓琴を伝授されたといぅ伝えもあり、また古今集賀の歌などから察するところ、この光孝天皇・遍昭両者の関係はなみなみでなかったらしいが、「倭歌興行して其風俗の絶えざらんことをはかるぺし」とは、やはりまったくのめくらめっぽうのことばではなく、光孝天皇のあたりで一つの国風始発点を見ている考えなのだと思われる。
実際問題として、平安朝第一代桓武天皇自身も、類衆国史や南京逮饗に六首の饗宴歌を持っており、陽成天皇にしてもかの有名な「つくばねの」のような歌のよみ手とされている。治世わずか三年の天皇に、その親王時代を時に強調されはするものの、特に集中して和歌の中興開山めいた仕儀が語られるのはなぜなのであろうか。いわば外部的なせんさくはひとまずおき、わたくしともはしばらく光孝天皇の作と伝えられる和歌自体の分析を通して、内部からその事情を探ってみる必要がある。
光孝天皇作とされる和歌は実際はごくわずかなものである。勅撰作者部寮には、古今春上一首、賀一首。新古今恋五に三首、以下新勅撰から風雅までに九首、計一四首をあげる。新古今以下は結局一二首であるが、うち春の歌二首を除きすべて恋の歌であり、かなり朗著な傾向を示すといってよい。これこそは古今集仮名序にいう「色好みの家に埋れ木の」状態であった和歌が、帝王の世界に密接しっつ、和歌の本質にむすびついていた新著なあらわれでもあった。  
1 仁和のみかどみこにおはしましける時、人に若菜たまひける御歌
君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ (古今・春上)
2 仁和の御時、僧正遠隔に七十賀たまひけるときの御歌
かくしつつとにもかくにも長らへて君が八千代に逢ふ由もがな (古今・賀)
3 久しくまゐらぬ人に
君がせぬわが手枕はくさなれや涙の露の夜な夜なぞおく (新古今・恋五)
4 題しらず
涙のみ浮出づるあまの釣竿の長さ夜すがら恋ひつつぞぬる (新古今・恋五)
5 題知らず
逢ずしてふる頃はひの数多あれば造けき空にながめをぞする (新古今・恋五)
6 みこに坐しましける時の卸歌
山桜立ちのみかくす春がすみいつしか晴れて見るよしもがな (新勅撰・春下)
7 題知らず
月のうちの桂の枝をおもふとや涙の時雨ふるここちする (新勅撰・恋五)
8 題知らず
山河のはやくも今は愚へども流れてうきは契りなりけり (新勅撰・恋五)
9 人にたまはせける
跡たえて恋しき時はつれづれと面影にこそはなれざりけれ (続後撰・恋三)
10 人に給はせける
涙川流るるみをのうきことは人の淵源を知らぬなりけり (読後撰・恋四)
11 更衣元善さとより参りける日
梅の花ちりぬるまでに見えざりし人くと今朝は鴬ぞなく (続古今・春上)
12 久しく参らざりける人に
久しくもなりにけるかな秋萩の古枝の花も散り過ぐるまで (玉葉・恋四)
13 近江更衣に給はせける
あさか山朝ゐる雲の風をいたみたゆたふ心我は持たらじ (続後拾遺・恋一)
14 人に給はせける
秋なれば萩の野もせに置く露のひるまにさへも恋しきゃなぞ (風雅・恋四)
仁和御集(桂宮本叢書第二〇巻・代々御集による)との異同を略記すれば、次のようである。なお、いわゆる奈良御集と称するものもほぼ同様でみる。御集は1七首をのせるが二部の語句・詞書の異同を不問にすると、そのうち一三首は右記の勅撰集にの.るものに重複する。2の古今集賀の歌だけがない。残りの四首は、風雅集14の歌の詞書「あかつきおきたる下の曹司にたまひけるに秋なれば・・・」を受けるように「おなじ人にたまはせたるちはやふる神のみかはのつり人にあらぬわれさへぬれまさるかな」が一首。新古今集に延善御歌としてのる「夏草はしけりにけれとはとときすなとわかやとに三戸もせぬ」がここにのり、さらに、新古今3の歌について女性からの返歌が一首。「又こと更衣にたまはせける」の詞書で「よそにのみまつははかなさすみの江にゆきてさへこそ見まくはしけれ」とつこう四首である。このさいこの「よそにのみ」の歌は、仁和御集に指示はないが、後撰集恋二にある延喜御製である。また、2の古今集賀の歌は、御所本遍昭集によれば、詞書を「仁和御時、八十賀たまふに」として遍昭自身の歌であり、存疑の形になる。仁和御集にあがらぬゆえんであろう。もっとも西宮記巻十二賀事には「有御製」というから、光孝天皇自身の歌もあったのだろう。総じて平明な歌いぶりであり、まことに和歌文学大辞典に説くように「女性への贈歌が多い。」ところで右で光孝天皇の現存すべての和歌だというわけではない。他にもたとえば梁垂秘抄帝王のところに見える「散りぬれどまたくる春は咲きにけり千歳の後は君をたのまむ」といったものをひろえは、まだあがってこよう。それにしても私は、よりによって右の帝王の部の和歌に、例の王仁の作という「難波津に咲くやこの花」とならんで、わずかな治政の光孝天皇の歌を見出すことに興を覚える。
ところで、右の光孝天皇御製と考えられるものについて顕著な傾向を1つ見出すことができる.それは、古今に二首登録されたあと、新古今まで勅撰集に一首も見あたらぬことである。そういえば、和漢朗詠集の若菜の部分も、和歌では、人麻呂・赤人そして貫之の「ゆきてみぬ人もしのべと春の野にかたみにつめる若菜なりけり」の三首で、例の有名な「君がため」はとられていない。和漢朗詠集には他に、早春超の兼盛の歌「みわたせば比良の高ねに雪消えて若菜つむぺく野はなりにけり」と若葉をよみこむものもある。定家十体で寮様に入れられたすぐれた歌であったのにこのありさまである。これはどうも島津忠夫氏が指摘されたように、新古今のころ、特に定家による再評価が考えられるかと 思う(角川文庫本百人一首・四一貢)。ちなみに島津氏の同上書は、鋭い指摘を随所に持ち後学を資する書物であるが、その伝記を書いた数行の内に、「風流の才に富み、和歌興隆の基をなしたともいえる。」とされる。これは三代実録や二十一代集才子伝にひく 「性多風流」を受けての発言であろう。
右に列挙した和歌の内で目立つものは、その知名度からして、古今集春上の若菜の歌であろうことはまず十日の視るところであろう。詞書によれば、みこの時の歌であるというが、今ここに表題にそうような形で、この歌についての目のつけどころを考えてみたい。前引島津氏が同じところで引用された、目崎徳衛氏の「僧侶および歌人としての遍昭」(日本歴史・二一九号)は、この歌を引いて古今集中層指の名作とし、「かつて松田武夫博士は、古今集の賀歌が光孝天皇を一つの焦点として編纂されていることを指摘し、その理由を光孝が当代醍醐天皇の直系の祖なる点に求められたが、わたしはそれのみならず和歌興隆の祖としての敬仰も含まれていたのではないかと憩像するo」といわれた。屈指の名作かどうかの判断は人によってちがうだろうが、この歌の「窄止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛購、親愛九族」(三代実録)といわれる人柄を秘めたやさしいのどやかな調べを愛する人はたしかに多かろうと思う。孫にあたる敦慶親王が、「ふるさとと荒れにし宿の草の葉も君がためとぞまづほ摘みつる」とよめたのも、原歌のポピユラリティをものがたろう0なお、この敦慶親王の歌が、所収の大和物語で「故式部卿の宮二条の御息所にたえ給て、またの年のむ月の七日の日、若菜たてまつりたまうけるに」といった恋の情の世界でとり扱われていることに、注意をしておく必要があろう。
ところで大和物語にはもう一首、あげるに価する歌があって、それは良今の宗貞の少将つまり在俗時の遍昭にまつわるエピソードの内に出てくるものであった。「良今の宗貞の少将、物へ行くみちに」の一段で、某年正月十日のほどに、五条わたりで雨やどりの際たまたま見そめた女性の親に、庭の菜を饗応された時、つけて出された歌という。「君がため衣の裾をぬらしつつ春の野にいでてつめる若菜ぞ」遍昭の作ではないが、彼と光孝天皇との関係は目崎氏の検討にく わしく、このあたり、あたかも競作のようなありさまである。
ところでこの光孝天皇の歌成立の背景には、いわゆる本歌と考えられているものが数首あり、古今余材抄に引く、万葉集1八三九「君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消の水に裳の裾ぬれぬ」はその1つであり、赤人の「春たたは若菜つまんと模野にさのふも今日も雪は降りつつ(一四二七)」もその一つである。どうも独創の部分は意外にすくないといわざるをえず、このこと自体がすでに古今的といえぬこともない。だいたい、貫之集の詞書を一見しても、やたらに屏風歌として若菜をよむケースが多い時代をすぐひかえているわけである。この野に出て、若菜をつむことは、年中行事としておこなわれるようになったのが延善年間としても、かなり古くからの春の邪気を払う行事であったらしい。そしてこれには、子日の行事の一つである「供若菜」と正月七日に七草を供する「供若菜」の二種の別があるという(山中裕氏「平安朝の年中行事」二一七貢)。後者は荊楚歳事記にいう、「正月七日為入日一、以二七種菜一為レ嚢」(元文二年刊本)と、中田伝来の行事であったことを不している。更にそれは、もちろん倭六県の甘菜・辛菜の調進をもとにするいとも政治的な匂いを背景の一つにはするだろうが、また別に、春の訪れを人に知らせる慶祝と祈頑の意をあらわしていたのでもあろう。そして、特に和歌の世界の素材となると、まったくそれらとは関係なさそうな、たとえば、「河上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ」(万葉集・二八三八)のように女性というもののイメジと密接する場にあらわれるもののようである。万葉集総索引にあたって確認してみるならば、右引の二八三八の歌のみ、表記「若菜」そして他は「春菜」を書いて「わかな」とよませているが、「春山の咲きのををりに春菜つむ妹が白紐見らくしよしも」(一四二一)「難波ぺに人の行ければ後れゐて春菜つむ児を見るがかなしさ」一四四二)「国栖らが春菜つむらむ司馬の野のしばしば君を 思ふこのころ」(一九一九)「・・・少女らが春菜つますと紅の赤裳の裾の春雨ににはひひづちて・・・」(三九六九)とすべて女性を点出しており、また、前に引いた赤人の「春たたは」(一四二七)の歌についても、春の雑歌として彼の歌四首が、 一四二四から一四二七までまとめて登載され、うち一四二五・一四二六が確実に女性に関わる世界であり、他の一四二四「春の野にすみれつみにと」も女性をなつかしんだとする説もあることとて、濃厚に女性的なるものを志向していて、 一四二七を一連のものとしてそれにならうとすると、万葉集の若菜の歌すべては、女性的なるもののイメジを持つといい切ってよいことになる。「この岡に菜つますこ」(一)や「朝菜つみてむ」(九五七)の寮も同様であろうOつまりは女性の仕事だというわけである。もっともこういった類のもの、すべて女性のなしたことではなく、「あかねさす昼はH賜ひてぬばたまの夜のいとまにつめる芹子これ」(四四五五)という、芹子のつとにそえて女に贈った橘諸兄の歌もある。もっともその女性は、「大夫と愚へるものを大刀鳳さてかにはの田居に芹子そつみける」(四四五六)とことわっているところを見ると、やはりこの種のわざは女性のものであったのだろう。光孝天皇の作である、この若菜の歌も、まずは帝王の女性にもまがうがごとき優にやさしきおもんぽかりとでもいうところか。ちなみに、この「若菜」なる語は、中国のふつうの詩文に典例を見ないようである。鳳文韻府の索引を検してもこの語なく、大漢和辞典も、欝をあげるもののわずかに例を西宮記正月下の記述にとるのみである。どだい大漢和辞典、薯の項の第一八意にもしるすように、若の字自体が、説文の説くところ「菜をえらぴとる」ことではあるが、これがあの和漢朗詠集若菜のところに、中国側の文句を見ない理由であって、つまりは、「中国物より歌へ」(小島憲之氏・国語と国文学・四二巻五号)という系譜に、ことば自体としてはのってこないものなのであった。
それならばなに故にこの歌をとりたてていう価値があるのか。このことについては、管見の及ぶ限り、左記の説明がきわめて秀れたものと思われる。 
 これは「春菜」の赤人歌の系列にあり、古今集の読人の名ある「つつ」止め歌の努頭に位置するが、作者はいまやいわば「棲めし野」に出でたみずからを、さらには雪のふる自然のなかにそれとは対立する人間としてのみずからを、明らかに対象的に見ている。そのよくな形をとりえたところに、まさしく 「こころ」があらわれている。「わがころもでに・・・」という表現もそこから出てくるのである。万葉集ではこのような「わが」については、その主我的立場にもかかわらず、いな、その立場のゆえに、わずかに「誰そ彼れと我れをな間ひそ九月の露に沾れ乍君待つ吾れを」(巻十ー二二四〇ー人麻呂歌集)というところまでしかいうことができなかった。そこでは、主我は対象化されて見られているが、主の「こころ」は依然として意志ー意欲性に任し、情緒の立場には転じえていない。」(森重敏氏「古代和歌における「つつ」の展相」国語国文二二六巻一二号)
森重民は、ことばの成立を、意欲の知性による情緒化であるとされ、「つ、つ」ということばの展相をまことにみごとに追求しておられるのだが、この短い引用に示されたところは、きわめて示唆に富むもので、実際問題としてここにいう現象こそは、平安和歌の始発をこの天皇に見こまねはならないと断ずる、最も大切なことがらなのであると思う。
このようないわば内部の面からの検討に加えて、松臼武夫氏の分析にすでに明、七かである、古今集裂の歌の構造において(「古今集の構造に関する研究」三三八貢以下)、光孝天皇と基経とを中心にする一つの基幹が、字多・醍醐という古今集の成立に事実上もっとも中核的なところにいた帝王たちに直接するのだという意識を定着しえたのも、すぐれて政治の季節的な和歌の風景としてとらえておかねばならないのであろう。六国史末尾を飾る王朝は、そのまま国風の祖となったのである。
実は、他にも少しこの時代、特に仁和年間という短い時期にあらわれた諸現象に目をむけたはあい、時代を画するものの多いことに我々はおどろかされる。それらを、当面国風の世界に限っていうならば、現存最古の歌合である在民部卿家歌合と最古の弊風歌ー拾遺集雑秋の平貞文の歌ーの存在。また、後撰集雑一の巻頭、仁和二年十二月十四日芹川野狩猟行幸時の行平歌に見える桓武期以来の狩猟行幸の復活。孟冬旬に、前代とことなり和琴が奏せられ和歌が作られるようになったこと(橋本不美男氏「王朝和歌史の研究」一四一貢)。更にひろげて、仁和四年巨勢金岡が御所東庇障子に画いた弘仁以後の鴻儒之堪詩者の像の画業。身軽な日本風の衣服である狩衣の、文献上の登場が仁和二年であること(図説日本文化史大系・平安時代上・三六六貢。また、右引後撰集行平歌参照)など、そうとうな数にのぼる。もう少し政治の奥深い面を探ってみるならば、仁和二年正月二日、仁寿殿でおこなわれた時平の元服式ーこの時光孝天皇はみずから加冠したIと、同じー正月十六日の除目で讃岐守に配された道真の心情を説き、「光孝天皇の即位に伴って、陽成天皇の時代とは異なった風潮がきざした。一方に摂政基経があり、他方に橘広相の進出がかなり目立って来た、というのが仁和年間の政治権力の底流をなしていた。道真が式部少輔兼文章博士加賀権守を解かれて、讃岐守に任命されたのは、この時期に当っている。この任命の背後にはこのような一般状勢の変化が作用しているかも知れないが、それよりも文人同志の反目の方がより大きな力を以てはたらいていたのではないか。」という、日本人物史大系一所収論文「菅原道真の前半生」の要旨を更に徹底された、弥永貞三氏の論考も一つの時代の区切りを鋭く示されて示唆を与えられたものであった(「仁和二年の内宴」日本古代史論集下巻・五〇五貢以下)。
同じ仁和二年正月七日、従七位石上並松は、突然の善びに従五位下を賜わった。三代実録に明記されるところ。時に親友ふるのいまみちは、 1首の歌をもってその栄進を祝う。「いそのかみのなんまつが、宮つかえもせで、いそのかみといふ所にこもり侍りけるをtにはかにかうぶりたまはりければ、よろこぴぃひっかはすとて、よみてつかはしける。日の光やぶしわかねはいそのかみふりにし里に花も咲きけり」(古今集雑上)帝王の恵みは厚く、日の光はあまねきところなきありさまである。実は、その光孝天皇自身が、ほとんどかような1時は埋れ木のようなありさまで帝位についた人であった。阿衝の紛議の種はすでに芽を出しかかっており、藤原氏の門閥政治とそのことは微妙にからみあいつつ、国風の世界を規制していくことになる。そしてこの時、すでに文草道的文芸観、卑官の身ながら「やまと歌しれる人」(貫之集一〇詞書)という自負の持ち主たちは、滑々と流れ行く和敬の貴族化に身を没して、そのそえものとなってしまうだろうことを約束させられたのだといってもよろしかろう。げてみたものである。充分な推考の時間がなく、たいへん荒い見取り図といったさまであるが、今、故先生から受けたさまざまの御恩を想い起し、整んで御霊前に捧げまつる。 
 
16.中納言行平 (ちゅうなごんゆきひら)  

 

立(た)ち別(わか)れ いなばの山(やま)の 峰(みね)に生(お)ふる
まつとし聞(き)かば 今帰(いまかへ)り来(こ)む  
あなたと別れて因幡へ赴任して行っても、稲葉山の峰に生えている松ではないが、待っていると聞いたならば、すぐに帰ってこよう。 / あなたとお別れして、因幡の国へ行きますが、その地にあるいなばの山の峰に生える松のようにあなたが待っていると聞いたなら、今すぐにでも帰って来ましょう。 / いま、あなたと別れて因幡国(現在の鳥取県)へ行っても、稲葉山(鳥取県にある山)の峰に生えている松の木の名前のように、あなたがわたしを「待つ」と言ってくださるのを聞いたなら、すぐに帰って来ましょう。 / あなたと別れて(因幡の国へ)行くけれども、稲葉の山の峰に生えている松のように、あなたが待っていると聞いたなら、すぐにも都に帰ってまいりましょう。
○ たち別れ / 「たち」は、接頭語。
○ いなば / 「往なば」と「因幡(稲葉・稲羽)」の掛詞。「往なば」は、「動詞ナ変の未然形+接続助詞“ば”」で順接の仮定条件。「(仮に)行くとしても〜」の意。「いなばの山」は、「因幡の山」で、「稲葉(稲羽)山」の意。鳥取市東部にある。
○ まつとし聞かば / 「まつ」は、「松」と「待つ」の掛詞。上を受けて「峰に生ふる松」、下に続いて「待つとし聞かば」となる。「し」は、強意の副助詞。「聞かば」は、「動詞四段の未然形+接続助詞“ば”」で順接の仮定条件。「(仮に)聞いたならば〜」の意。
○ 今帰り来む / 「今」は、「ただちに・すぐに」の意。「む」は、意志の助動詞。「〜よう」の意。 
1
在原行平(ありわら の ゆきひら、弘仁9年(818年) - 寛平5年7月19日(893年9月6日))は、平安時代前期の歌人・公卿。平城天皇の第一皇子である弾正尹・阿保親王の次男(または三男)。在原業平の兄。官位は正三位・中納言。在中納言・在民部卿とも呼ばれた。小倉百人一首では中納言行平。
天長3年(826年)父・阿保親王の奏請により兄弟とともに在原朝臣姓を賜与され、臣籍降下する。
承和の変後急死した阿保親王の子息のうち、また当時の藤原氏以外の官吏としては、比較的順調な昇進ぶりを示し、特に民政に才を発揮した。承和7年(840年)仁明天皇の蔵人に任じられ、翌承和8年(841年)従五位下・侍従に叙任される。承和13年(846年)従五位上・左少将に叙任され、以降は主に武官と地方官を務める。
文徳朝の斉衡2年(855年)正月の除目により従四位下に叙せられると同時に因幡国守に任ぜられる。小倉百人一首に取られた和歌は、このときの任国への下向に際してのものである。のち2年余りで帰京する。古今和歌集によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴、須磨琴を製作したと伝えられている。なお、謡曲の『松風』は百人一首の行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている。
清和朝では左京大夫・大蔵大輔・左兵衛督を経て、貞観12年(870年)参議に補任し公卿に列す。貞観14年(872年)には蔵人頭に任ぜられるが、参議が蔵人頭を兼帯した例は非常に珍しい。貞観15年(873年)従三位・大宰権帥。
元慶5年(881年)在原氏の学問所として大学別曹奨学院を創設した。これは朱雀大路東・三条大路の北一町を占め、住居を与えて大学寮を目指す子弟を教育したもので、当時は藤原氏の勧学院と並んで著名であった。なお、行平の死後、醍醐天皇のときに奨学院は大学寮の南曹とされた。元慶6年(882年)正三位・中納言に至るが、仁和3年(887年)70歳の時、中納言・民部卿・陸奥出羽按察使を致仕して引退する。

勅撰歌人として『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に合計11首入集。また、民部卿行平歌合(在民部卿家歌合)を880年代中頃に主催したが、これは現存する最古の歌合である。
立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む — 『百人一首』第16番
この歌は現代において、いなくなった飼猫の帰還を願う猫返しのまじないとしても、伝えられ親しまれている。
2
在原行平 ありわらのゆきひら 弘仁九〜寛平五(818-893) 号:在納言
平城天皇の孫。阿保親王の第二子。母は一説に伊都内親王。業平の兄。むすめの文子は清和天皇の更衣となり貞数親王を生む。九歳のとき臣籍に下り、在原氏を賜る。仁明天皇の承和七年(840)、蔵人に補せられる。侍従・右兵衛佐・右近少将などを経て、文徳天皇代の斉衡二年(855)正月七日、従四位下に昇叙される。同十五日、因幡守を拝命し、間もなく任国に赴任する。因幡で二年ほどを過ごして帰京。斉衡四年、兵部大輔。以後中務大輔・左馬頭・播磨守などを経て、清和天皇の貞観二年(860)、内匠頭。さらに左京大夫・信濃守・大蔵大輔・左兵衛督などを歴任し、同十二年正月、参議。同十四年八月、蔵人頭に補せられる。同十五年、従三位に昇り、大宰権帥を拝して筑紫に赴く。陽成天皇の元慶元年(877)、治部卿を兼ねる。同六年、中納言に昇進。光孝天皇の元慶八年三月、民部卿を兼ねる。九年二月、按察使を兼ねる。仁和三年(887)四月、七十歳にして致仕。最終官位は正三位。民政に手腕を発揮した有能な官吏であり、また関白藤原基経としばしば対立した硬骨の政治家であった。元慶八年(884)〜仁和三年(887)頃、自邸で歌合「民部卿行平歌合」(在民部卿家歌合)を主催。これは現存最古の歌合である。歌壇の中心的存在として活躍し、また一門の学問所として奨学院を創設した。歌からは左大臣源融との交流も窺える。
春 / 題しらず
春のきる霞の衣ぬきをうすみ山風にこそみだるべらなれ(古今23)
(春が着る霞の衣は、緯糸(ぬきいと)が薄いので、山を吹く風に乱れるものらしい。)
恋 / 題しらず
恋しきに消えかへりつつ朝露の今朝はおきゐむ心ちこそせね(後撰720)
(恋しさに消え入るような思いがして、朝露が置くように、今朝は起きて座っている気持ちにもなれない。)
離別 / 題しらず
立ちわかれいなばの山の峰におふるまつとし聞かば今かへりこむ(古今365)
(お別れして、因幡いなばの国へと去いなば、任地の稲羽いなば山の峰に生えている松ではないが、私の帰りを待ち遠しく思ってくれるだろうか。故郷くにからの便りでそうと聞いたなら、すぐ帰って来よう。)
羇旅 / 津の国のすまといふ所に侍りける時、よみ侍りける
旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風(続古今868)
(旅人は袂を冷ややかに感じるようになった。関を自由に吹き越えてゆく須磨の浦の風よ。)
羇旅 / 題しらず
いくたびかおなじ寝覚めになれぬらむ苫屋にかかる須磨の浦波(玉葉1222)
(幾度同じような寝覚めを経験して、それに慣れてしまったのだろうか。苫屋にかかる須磨の浦波よ。)
雑 / 田むらの御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける
わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ(古今962)
(たまたまでも私のことを尋ねる人がいましたら、須磨の浦で藻塩にかける潮水を垂らしながら――涙に濡れて侘びしく暮らしていると答えて下さい。)
雑 / 布引の滝にてよめる
こきちらす滝の白玉ひろひおきて世の憂き時の涙にぞかる(古今922)
(しごき散らす滝の白玉を拾っておいて、人生の辛い時の涙に借りるのだ。)
雑 / 布引の滝見にまかりて
我が世をば今日か明日かと待つかひのなみだの滝といづれ高けむ(新古1651)
(私が時めく世を、今日か明日かと待望しているけれども、待つ甲斐もなく、涙を滝のように流している――布引の滝とどちらの方が高いだろうか。)
雑 / 家に行平朝臣まうで来たりけるに、月のおもしろかりけるに、酒などたうべて、まかりたたむとしけるほどに  河原左大臣
照る月をまさきの綱によりかけてあかず別るる人をつながむ
(まさきの葛(かずら)を綱に撚(よ)って月に繋いで、帰ろうとする人を引き留めよう。)
返し
限りなき思ひの綱のなくはこそまさきの葛かづらよりもなやまめ(後撰1082)
(「まさきのかづら」は限りなく長いそうですが、そんなふうに限りのない思いがあなたにあるでしょうか。もし無いのであれば、綱に撚るのは大変でしょうなあ。)
雑 / 仁和のみかど、嵯峨の御時の例にて、芹河に行幸したまひける日
嵯峨の山みゆきたえにし芹河の千世のふるみち跡はありけり(後撰1075)
(嵯峨天皇以来、行幸が絶えてしまっていた芹川ですが、遥かな代の古道は跡が残っていました。)
雑 / おなじ日、鷹飼ひにて、狩衣かりぎぬのたもとに鶴の形かたを縫ひて、書きつけたりける
翁おきなさび人なとがめそ狩衣かりごろもけふばかりとぞ鶴たづも鳴くなる(後撰1076)
行幸の又の日なむ致仕の表たてまつりける。
(老いて狩衣など着た出で立ちを、皆さん咎めないでほしい。こんな姿でお供するのも、今日が最後の狩だと、この鶴も鳴いている。) 
3
能「松風」 / 在原行平と海女の恋
松風は、熊野松風に米の飯といわれるように、古来能としても謡曲としても人気の高かった曲だ。在原行平の歌をベースに、行平の恋の相手であった海女松風村雨の切ない思い出語りを、源氏物語須磨の巻の雰囲気を借りてしみじみと演出したものだ。また終わり近くでは、松風が狂乱状態で舞うなど、構成に変化があって、観客は飽きることがない。
もともとは田楽の名手亀阿弥がつくった汐汲という曲を、観阿弥が改作して松風村雨と名づけ、さらに世阿弥が手を加えて現行の曲にしあげた。三人の名手の手を経ているだけに完成度が高いわけである。
行平は伊勢物語の作者在原業平の兄である。その歌の中から
  わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつゝわぶと答へよ
  立ち別れいなばの山の峰に生ふる待つとし聞かばいま帰り来ん
の二首を選んでこの劇の筋の柱としている。
「わくらはに」の歌からは、行平が須磨にわび住まいしていたことが連想されるが、そこから須磨の海女との恋の話が生まれたのだろう。この二人の女性が実在して、行平との間に本当にそんな恋があったのか、そんなことを問題にするのは野暮というものだ。
「立ち別れ」の歌からは、行平が海女と別れて去らねばならなかった無念さが連想される。そこから行平の帰りをひたすらに待ちわびる海女たちの切ない思いが構想されたのだろう。
この曲はあくまでも海女たちの切ない恋心がテーマだ。行平本人は出てこない。幽霊となってもなお、行平との再会を夢見る海女たちがでてきて、諸国一見の僧とのやり取りを経て、昔を懐かしみつつ、やがて狂乱する。狂乱の中で松風は、松の立ち姿が行平の姿に重なってみえるのだ。
前半と後半とではだいぶ雰囲気が異なるが、構成上は一場ものになっている。ただ途中で物着が入り、そこで松風が海女の姿から狩衣に変わる演出がある。複式夢幻能への過渡的な形態と位置づけることができよう。
ここで紹介するのは、喜多流の能で、シテは友枝昭世、ワキは宝生閑が演じていた。両者とも人間国宝である。まず舞台正面に松の作り物が据えられ、諸国一見の僧が登場する。

須磨の浦にやってきた僧は、浜辺の松に供養に徴があるのを不思議に思い、そのいわれを土地のものにたずねる。間狂言が出てきて、この松は行平に愛された二人の海女松風村雨を祀ったものだから、是非念仏を手向けなさいと答える。
ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我いまだ西国を見ず候ふ程に。此度思ひ立ち西国行脚と志して候。あら嬉しや急ぎ候ふ程に。これははや津の国須磨の浦とかや申し候。又これなる磯辺を見れば。様ありげなる松の候。いかさま謂のなき事は候ふまじ。このあたりの人に尋ねばやと思ひ候。
ワキ「さては此松は。いにしへ松風村雨とて。二人の海人の旧跡かや。痛はしや其身は土中に埋もれぬれども。名は残る世のしるしとて。変らぬ色の松一木。緑の秋を残す事のあはれさよ。
詞「かやうに経念仏してとぶらひ候へば。実に秋の日のならひとてほどなう暮れて候。あの山本の里まで程遠く候ふほどに。これなる海人の塩屋に立ち寄り。一夜を明かさばやと思ひ候。
ここでツレの村雨とシテの松風が海女の姿で出てくる。また舞台には汐汲車の作り物が据えられる。
シテツレ二人真ノ一声「汐汲車。わづかなる。うき世にめぐる。はかなさよ。ツレ二ノ句「波こゝもとや須磨のうら。
二人「月さへぬらす。袂かな。
シテサシ「心づくしの秋風に。海はすこし遠けれども。かの行平の中納言。
二人「関吹き越ゆるとながめたまふ。浦曲の波の夜々は。実に音近き海人の家。里離れなる通路の月より外は友もなし。
シテ「実にや浮世の業ながら。殊につたなき海人小舟の。
二人「わたりかねたる夢の世に。住むとや云はんうたかたの。汐汲車よるべなき。身は蜑人の。袖ともに。思を乾さぬ。心かな。
地下歌「かくばかり経がたく見ゆる世の中に。うらやましくも。澄む月の出汐をいざや。汲まうよ出汐をいざや汲まうよ。
上歌「かげはづかしき我が姿。かげはづかしき我が姿。忍車を引く汐の跡に残れる。溜水いつまで澄みは果つべき。野中の草の露ならば。日影に消えも失すべきにこれは磯辺に寄藻かく。海人の捨草いたづらに朽ち増りゆく。袂かな朽ちまさりゆく袂かな。
シテサシ「おもしろや馴れても須磨のゆふま暮。海人の呼声幽にて。
二人「沖にちひさきいさり舟の。影幽なる月の顔。雁の姿や友千鳥。野分汐風いづれも実に。かゝる所の秋なりけり。あら心すごの夜すがらやな。
松風は汐汲車の紐をとって肩にかけると、車を引っ張りながら舞台を一巡する。前半部分の見せ場だ。汐を汲む動作をすることによって、自分たちが海女であったことを観客に強調しているわけである。
シテ「いざ/\汐を汲まんとて。汀に満干の汐衣の。
ツレ「袖を結んで肩に掛け。
シテ「汐汲むためとは思へども。
ツレ「よしそれとても。
シテ「女車。
地「寄せては帰るかたをなみ。寄せては帰るかたをなみ。芦辺の。田鶴こそは立ちさわげ四方の嵐も。音添へて夜寒なにと過さん。更け行く月こそさやかなれ。汲むは影なれや。焼く塩煙心せよ。さのみなど海士人の憂き秋のみを過さん。松島や小島の海人の月にだに影を汲むこそ心あれ影を汲むこそ心あれ。
ロンギ地「運ぶは遠き陸奥のその名や千賀の塩竈。
シテ「賎が塩木を運びしは阿漕が浦に引く汐。
地「その伊勢の。海の二見の浦二度世にも出でばや。
シテ「松の村立かすむ日に汐路や。遠く鳴海潟。
地「それは鳴海潟こゝは鳴尾の松蔭に。月こそさはれ芦の屋。
シテ「灘の汐汲む憂き身ぞと人にや。誰も黄楊の櫛。
地「さしくる汐を汲み分けて。見れば月こそ桶にあれ。
シテ「これにも月の入りたるや。
地「うれしやこれも月あり。
シテ「月は一つ。
地「影は二つ満つ汐の夜の車に月を載せて。憂しともおもはぬ汐路かなや。
これが終わり、二人が塩屋の中に入ると、外で待ち構えていた僧侶が一夜の宿を所望する。
ワキ詞「塩屋の主の帰りて候。宿を借らばやと思ひ候。いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。
ツレ詞「誰にて渡り候ふぞ
ワキ「これは諸国一見の僧にて候。一夜の宿を御貸し候へ。
ツレ「暫く御待ち候へ。主にその由申し候ふべし。いかに申し候。旅人の御入り候ふが。一夜の御宿と仰せ候。
シテ詞「余りに見苦しき塩屋にて候ふ程に。御宿は叶ふまじきと申し候へ。
ツレ「主に其由申して候へば。塩屋の内見苦しく候ふ程に。御宿は叶ふまじき由仰せ候。
ワキ「いや/\見苦しきは苦しからず候。出家の事にて候へば。平に一夜を明かさせて賜はり候へと重ねて御申し候へ。
ツレ「いや叶ひ候ふまじ。
シテ「暫く。月の夜影に見奉れば世を捨人。よし/\かゝる海人の家。松の木柱に竹の垣。夜寒さこそと思へども。芦火にあたりて御泊りあれと申し候へ。
ツレ詞「此方へ御入り候へ。
ワキ「あらうれしやさらばかう参らうずるにて候。
シテ詞「始より御宿参らせたく候ひつれども。余りに見苦しく候ふ程に。さて否と申して候。
塩屋の中へ導き入れられた僧は、二人の様子が浮世離れしているのを怪訝に思い、身分を明かすように迫る。
ワキ「御志有難う候。出家と申し旅といひ。泊りはつべき身ならねば。何くを宿と定むべき。其上此須磨の浦に心あらん人は。わざともわびてこそ住むべけれ。わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に。
詞「藻塩たれつゝわぶと答へよと。行平も詠じ給ひしとなり。又あの磯辺に一木の松の候ふを。人に尋ねて候へば。松風村雨二人の海士の旧跡とかや申し候ふ程に。逆縁ながら弔ひてこそ通り候ひつれ。あら不思議や。松風村雨の事を申して候へば。二人ともに御愁傷候。これは何と申したる事にて候ふぞ。
シテツレ二人「実にや思内にあれば。色外にあらはれさぶらふぞや。わくらはに問ふ人あらばの御物語。余りになつかしう候ひて。なほ執心の閻浮の涙。ふたゝび袖をぬらしさぶらふ。
ワキ詞「なほ執心の閻浮の涙とは。今は此世に亡き人の詞なり。又わくらはの歌もなつかしいなどと承り候。かたがた不審に候へば。二人ともに名を御名告り候へ。
僧に身分を訪ねられた二人は、松風村雨という海女の幽霊であることを告白する。しかして生前行平がここにやってきて愛されたこと、その行平が三年の後に都に帰りやがて死んだこと、自分たちは行平が忘れられず、こうして幽霊となって思い出の地を徘徊しているのだということを語る。
二人「恥かしや申さんとすればわくらはに。言問ふ人もなき跡の。世にしほじみてこりずまの。恨めしかりける心かな。
クドキ「此上は何をかさのみつゝむべき。これは過ぎつる夕暮に。あの松蔭の苔の下。亡き跡とはれ参らせつる。松風村雨二人の女の幽霊これまで来りたり。さても行平三年が程。御つれづれの御船あそび。月に心は須磨の浦夜汐を運ぶ
海人乙女に。おとゞひ選ばれ参らせつゝ。をりにふれたる名なれやとて。松風村雨召されしより。月にも馴るゝ須磨の海人の。
シテ「塩焼衣。色替へて。
二人「縑(カトリ)の衣の。空焼なり。
シテ「かくて三年も過ぎ行けば。行平都にのぼりたまひ。
ツレ「幾程なくて世を早う。去り給ひぬと聞きしより。
シテ「あら恋しやさるにても。又いつの世の音信を。
地「松風も村雨も。袖のみぬれてよしなやな。身にも及ばぬ恋をさへ。須磨の余りに。罪深し跡弔ひてたび給へ。
地歌「恋草の露も思も乱れつゝ。露も思も乱れつゝ。心狂気に馴衣の。巳の日の。祓や木綿四手の。神の助も波の上。あはれに消えし。憂き身なり。
クセ「あはれ古を。思ひ出づればなつかしや。行平の中納言三年はこゝに須磨の浦。都へ上り給ひしが。此程の形見とて。御立烏帽子狩衣を。残し置き給へども。これを見る度に。弥益の思草葉末に結ぶ露の間も。忘らればこそあぢきなや。形見こそ今はあだなれこれなくは。忘るゝ隙もありなんと。よみしも理やなほ思こそ深けれ。
ここで後見人から紫の狩衣を受け取った松風は、死に別れしたからには今はよそもないと、狩衣に怒りの思いをぶつける。
シテ「宵々に。脱ぎて我が寝る狩衣。
地「かけてぞ頼む同じ世に。住むかひあらばこそ忘形見もよしなしと。捨てゝも置かれず取れば面影に立ち増り。起臥わかで枕より。後より恋の責め来れば。せんかた涙に伏し沈む事ぞ悲しき。
ここで物着が入り、松風は狩衣姿になる。そこからが後半部分だ。
シテ「三瀬河絶えぬ。涙の憂き瀬にも。乱るゝ恋の。淵はありけり。あらうれしやあれに行平の御立ちあるが。松風と召されさむらふぞやいで参らう。
ツレ「あさましやその御心故にこそ。執心の罪にも沈み給へ。娑婆にての妄執をなほ。忘れ給はぬぞや。あれは松にてこそ候へ。行平は御入りもさむらはぬものを。
シテ「うたての人の言事や。あの松こそは行平よ。たとひ暫しは別るゝとも。まつとし聞かば帰りこんと。連ね給ひし言の葉はいかに。
ツレ「実になう忘れてさむらふぞや。たとひ暫しは別るゝとも。待たば来んとの言の葉を。
シテ「こなたは忘れず松風の立ち帰りこん御音信。
ツレ「終にも聞かば村雨の。袖しばしこそぬるゝとも。
シテ「まつに変らで帰りこば。
ツレ「あら頼もしの。
シテ「御歌や。
地「立ち別れ。
中ノ舞はかけりを思わせるように、なかなか動きに飛んでいる。舞はだんだん動きをましてクライマックスへと高まっていく。 
シテワカ「いなばの山の峰に生ふる。松とし聞かば。今帰り来ん。それはいなばの遠山松。
地「これはなつかし君こゝに。須磨の浦曲の松の行平。立ち帰りこば我も木蔭に。いざ立ち寄りて。磯馴松の。なつかしや。
破ノ舞はクライマックスにふさわしい動きの激しい舞である。そして舞い終わると二人はそのまま舞台を去っていく。あとには呆然とした僧だけが残されるのだ。
キリ地「松に吹き来る風も狂じて。須磨の高波はげしき夜すがら。妄執の夢に見ゆるなり。我が跡弔ひてたび給へ。暇申して。帰る波の音の。須磨の浦かけて吹くや後の山おろし。関路の鳥も声々に夢も跡なく夜も明けて村雨と聞きしも今朝見れば松風ばかりや残るらん松風ばかりや残るらん。  
4
在原行平
汐汲の姉妹が形見に残された衣を手に、去っていった高貴の恋人在原行平(ありわらのゆきひら)を偲ぶという、能の名曲『松風』にも取り上げられた"松風村雨伝説"は神戸市須磨区に伝わる話です。
多井畑(たいはた)という土地の村長(むらおさ)の娘、"もしほ" "こふじ"の二人が、塩を作るために海岸へ汐汲に通っていたところ、須磨に配流されていた在原行平がふたりを見初め、"松風" "村雨"という名を与え身近に召しました。しかし行平は都に戻ることになり、磯馴松(そなれまつ=潮風に曝されるため背が低くなっている種類の松)に自分の狩衣、烏帽子をかけて、二人には何もいわずに去っていきました...。
この地区には残された松風・村雨が行平を思って建てたという観音堂があり、また伝説を思わせる"行平" "松風" "村雨" "衣掛(きぬがけ)" "磯馴(いそなれ)※"などといった地名が今でも残っています。
在原行平は阿保親王(あぼしんのう)の第二子で、"昔おとこありけり"の『伊勢物語』、あるいは六歌仙の一人としてで有名な在原業平(ありわらのなりひら)の兄に当たる人物です。浮名を流していた弟とは違い、中央の要職や地方の国守などを歴任し、最後には太宰権師(だざいごんのそち=九州地域の兵を統率する司令官代理。事実上の司令官)となっています。かなり有能な官僚だったようです。
須磨へ下ったことは『古今和歌集・雑歌』に
<田むらの御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける>
(文徳天皇の御世、事情があって摂津の国、須磨というところに引きこもっていたときに、宮中に仕えている人におくった)
とあって、源氏物語にも引用されている和歌が載せられていることから推察できます。
<わくらばにとふ人あらばすまの浦に もしほたれつつわぶとこたへよ>
(もし誰か私がどうしているかと聞く人がいたら、須磨の浦で藻塩から滴る塩水のような涙を流しながら悲しんでいるよ、と答えてください) (み)
※磯馴と書いて、植物の種類を言うときは"そなれ"と読みますが、この地名の場合"いそなれ"と読むそうです。 
5
在原行平の離別歌をめぐつて −離任時説の再検討ー
『古今集』巻第八「離別歌」の巻頭に次の一首が据えられている。
題しらず 在原行平朝臣
立ち別れいなばの山の峯におふるまつとし聞かばいまかへりこむ(三六五)
この歌については、『古今集』の注釈書はもとより、しばしば汗牛充棟と形容される『百人一首』の注釈晝解説書においてもさまざまな言及がなされているが、大きく意見が分れているのは、これが因幡国ヘの赴任時に京で詠まれたのであるか、因幡国からの離任時に因幡国において詠まれたのであるかという、詠作事情にかかわる問題である。現代では赴任時とするのがほぼ定説だが、はたしてそれで問題はないのであろうか。本稿ではこの問題について、検討を加えたい。 

あらためて基本的なことがらを整理しておくことにしよう。この歌が「立ち別れいなばの山」と歌われ、「去なば」に地名「いなば(の山)」が掛けられているからには、これは「いなば」という士地にかかわる離別歌であるにちがいない。在原行平(八一八〜八九三)は斉衡二年(八五五正月十五日に因幡守に任命されている(『文徳実録』同日条)。行平と「いなば」との縁は、これ以外には伝わらないから、この歌が行平の任因幡守にかかわる歌であろうことはおそらく間違いのないところである。「離別歌」の巻の他の多くの歌と同様、送別の宴(「うまのはなむけ」)において、その日の主人公行平によって詠まれた挨拶の一首である可能性が高いであろう。
ところが「題しらず」であるため、それ以上の事実が明白ではない。因幡国ヘの赴任にあたって都謀まれたのか(以下これを「赴任時説」と称する)、因幡守を離任し、帰京するにあたって、新任国司あるいは地元の人々によって催された送別の宴など謀まれたのか(以下これを「離任時説」と称する)、古来両襲存在する。古注においては雜任時襲主流であったが、国学以後は赴任時説が主流となり、現代では赴任時説が定説化していると言ってもいいのではなかろうか。
雜任時説を採る『百人一首』古注をいくつかあげておこう。享禄三年(一五三0)の奥書がある常光院流の注釈『経厚抄』に「此歌は行平卿因幡の国の任の時哉よめりけんと有。任果て上らんとせし時、我この国をいなばと云秀句なり。下句の心、我を又待人あらば再任もすべしと云心を、今かへりこんと云也。今とは亦と云心なり」とあるのは離任時説の代表的なものの一つであるといえよう。
次に宗祇流の集大成である『幽斎抄』を引こう。「彼卿因幡守なりしが、任はててみやこへのぼりけるにて思ふ人によみてつかはすとも云り。又誰にてもつかはすともいへり。歌の心は、待人もあらじと云落着なり」とあるのが『幽斎抄』の雜任時雫ある。「待人もあらじと云落着なり」は、『{示祇抄』の「待人だにあらばやがて帰こんといふ心なり。あらじと思ふ心をいへるよし也」の継承であるが、『拾郡』所引師説(貞徳説)はこれを敷衍して、「凡受領は一任四ケ年づ、にて、国守かはり侍れば、其国の治めよき人は、一国の人も国守の帰るをしたふ事也。又国をあしくおさむ人は、民国守のかはるをよろこぶなリ。(中略)今行平も国民したひてまつとだにあらば満足なるべけれども、さもあるまじきと卑下の心を下に持て此うたを見るべし」と云っている。宗祇流の特徴は、「(待人は)あらじと思ふ心をいへるよし也」という誘みに由来するものなのである。
ちなみに、右に引いた貞徳説は容易に、『士佐日記』の「八木のやすのりといふ人あり。この人、国にかならずしも言ひ使ふものにもあらざなり。これぞ、たたはしきやうにて、むまのはなむけしたる。{寸がらにやあらむ、国人の、心のつねとして、今はとて見えざなるを、心あるものは恥ぢずになむ来ける」(十二月二十三日条)といった記述を連想させる。『士佐日記』によって国司離任時における「国人」たちの動向について学習した貞徳の蕩蓄が、当歌についての宗祇流の解釈とうまく"付けられたのが『拾穂抄』所引師説であると言うことができるのではないか。貞徳の『士佐日記』ヘの関心は、のちに弟子たちによる注釈書として結実することとなる。 

前節では、代表的な古注釈に見られる離任時説を紹介したのであるが、近世に入って赴任時襲、国学者たちによって強く打ち出されてくる。ただし、国学以前にも赴任時説は存在したのであって、冷泉家流の古注釈とされている『米沢抄』などにもそれが見られるが、ここでは戸田茂睡の『百人一首雑談』をあげておこう。茂睡は先ず離任時説を説くのであるが、続けて「又説に、此歌は行平因幡の受領に成て下るとて都にて読し歌也。さなければ今かへりこむの詞聞えずと云。題しらずとある歌なれば、いかやうにも聞人の÷ろにまかすべし」と述ベている。赴任時説をも紹介した上で、いずれかに決定することを避けて、読者の判断にゆだねているのである。この、いずれかに決定する根拠がないという判断はなかなかのもので、事実を詮索する立場からすれば、このあたりが穏当な見方と言っていいのではないかと思う。
さて、国学のさきがけをなした下河辺長流の『三奥抄』は、当歌注を「これはたびだつときにのぞみて相わかる、妻によみて与ヘける歌也」と書き出していて、まさに赴任時説を高らかに主張しているかのようである。ところが、その後いささかの考証の末に、「彼卿因幡の任はて、後都ヘ上る時にかの国におもふ人ありて読てあたへけるうたともいへり。さも有ベし」と述ベていて、雛任時説に大きく傾いているのである。契沖は『改観抄』で、行平の任因幡守の史実を『文徳実録』によって実証しているのは、定家の勘物に拠っていた従来の注釈からは大きな前進だが、続けて「此時相わかる、妻によみてあたへけるなるべし」と、師の『三奥抄』とほぼ同文をつらねている。しかも以下、離任時説ヘの言及はなく、赴任時説を前提として読んで矛盾のない記述がなされているので、契沖は赴任時説を採っていたと判断される。『古今余材抄』では明白に「思ふ人を置て因幡の任に下らぱといふ心を立わかれいなばの山とつづけたり」と述ベている。しかし契沖にしても、離任時説を明白に木艮疋して師説に異を唱えようとまでの意欲はうかがえず、ひよつとすると、どちらであっても大した問題ではないというのが本心だったのかもしれない。
赴任時説を主張し、離任時説を明確に否定したのは賀茂真淵の『うひまなび』である。真淵は次のように述ベている。
因幡国の守に任て、思ふ人などに別て京をたつ時、さのみななげきそ、いたく吾を待恋とし聞ば、今、いくほどもなく立かへり来て相見えんぞと、其人を型よめるなり。(中略)或説に、此歌は行平朝臣任の年みちて帰る時、国人の別れをしむに、われを待と聞ぱまた来らんてふ意ぞといへるはひがごとなり。古今集の別の部に入て、さることわりもなくて今かへり来らんといふからは、打まかせて京をわかる、時の歌にこそあれ、後世の好事は頻にふかき÷ろをそへむとて、ひがごといふなり。
「或説に」として離任時説を紹介し、それを明白に否定しているの発目される。その述ベるところはやや不明瞭であるが、『古今集』の離別の部に収められており、特に説明もなく「今かへりこむ」とあるからには、京を忠に考えて、京を離れる時の歌と解するのが素直な解釈であるということらしい。どうやら決定的な論拠といったものはなく、都人にとって「帰る」といえば地方ヘ下向することではありえず、都ヘ帰ることにきまっているという常禦肌にとどまっているように思われる。行平が雛任にあたって地元の人々の前で、因幡国をわが故郷であるかのように「今かへりこむ」と詠んだとすると、りツプサービスとはわかっていても、人々は大いに喜んだであろうが、そのようなことはどこにも書かれていないのであるから、真淵に言わすれば、それは後世の好事家の勝手な想像にすぎないと、一蹴される結果となるのであろう。
香川景樹は『百首意見』において、大菅白圭の『小倉百首批釈』と真淵の『うひまなび』から離任時説批判を引用して「実にしかり」と賛同した上で、次のように述ベている。一部送り仮名を補った。
こは、近世いぬるといふは帰る事にのみいひなれたれば、さる方したしくおぼゆるより、ふとしか思ひなせるもの也。もといぬるは其所を去るをいふがもとにて、いにしへさそふ水あらぱいなんとぞおもふ出ていなばかぎりなるべきなどよみて、いぬるは往といはんにひとしきこと論なし。又、まつとしきかばとは、もとより待ぬべき人にいふ也。任限みちて帰洛する人を打まかせて国人の再び今やと待っべきならず。今かへりこんといふも、つひにはかへりくべき身の待遠からんを、いとせめてなぐさむる調にて、再び逢ふまじくかけはなれん別れに、しかはいふべからぬ事也。わざと設け出てよみなす格とひとつに見てまどふべからず。
右引用文の前半部は、離任時説が生じた原因についての考察で、近世「いぬる」という一言葉は帰るという意味で使い慣れているから、それが先入観となって、京ヘ帰るの意と思い込んでしまったのだと主張しているようである。帰宅するの意で「いぬ」「いぬる」という口語は、現代でも関西地方を忠とする一部地域に生きており、辞書には室町期以後の用例が挙げられている。景樹が「近世」といっているのも、室町期以後をさしているのであろうし、その時代に離任時説を説く多くの古注が作られたことは事実である。しかし、古注の授受にたずさわったほどの知識人達が、古語「いぬ」の意味を当代の倫「いぬ」の意味と取り違えたとは考えがたいのではないか。たとえば、先に引用した『経厚抄』に「任果て上らんとせし時、我この国をいなばと云秀句なり」とあるが、これは動詞「いぬ」を正しく「去る」の意に解しているのであって、もし「帰る」と解していたのであるなら、「我この国をいなば」ではなく「我京ヘいなば」となければならないであろう。また、『古今集』注釈書をも一つぁげておくならば、『耕雲聞宝昌に「立別いなばとつづきたる、妙なり。去らばと云義也」とあって、「去る」の羣解していることは明白である。
引用文の後半部は、「まつとしきかば」あるいは「今かへりこん」という歌句について、これらは切実な思いで作者の帰京を待っている人ヘの文言であって、再び会うはずもない「国人」に対してこのように言うはずはないという常識雫、真淵説の敷衍にすぎない。再び会うはずのない「国人」であればこそ、惜別の稽をこのよう詠みなしたのではないかといった理解は、景樹によれば「わざと設け出てよみなす格とひとつに見」た誤りということになるらしい。「わざと設け出てよみなす格」とは、虚構性の強い歌をいうのであろうが、思いのたけを表現するのに虚構をかまえることは『古今集』の歌にいくらもあることで、なぜ行平のこの歌が例外なのか、理解に苦しむところである。そもそも赴任時説によって解釈するとしても、地方官として赴任した官人が、京の人が「待つ」といぇばすぐに帰京するなどとは、現実にはありえない虚構にほかならない。
現在流布している『古今集』あるいは『百人一首』の注釈晝解説書のたぐいのほとんどが(ひよつとすると全てが)、当歌を赴任時説によって解釈している。確かに赴任時説は、『うひまなび』や『百首異見』に説かれているように、無難な、常識的な解釈であって、問題はないようにも思われよう。しかし、これまで見てきたように、常墜畑を別にすれば、赴任時説を肯定する確たる根拠といったものはないのであり、逆に、航任時説を否定し去るに足る決定的な根拠もないのである。次節以下、二つの視点から、離任時説を再検討してみたいと思う。 

まずはこの一首の表現効果といった観点から、雜任時説を再検討してみたい。行平が因幡守を離任することとなり、後任者との引継ぎも終え、いよいよ帰京ヘの旅立ちが近づいたころ、地元の有力者(『士佐日記』の表現に倣い、以下「国人」と称する)が送別の宴を催すことは、当然のなりゆきとしてありえたであろう。その席上、行平が「立ちわかれ1」の一首を詠じたとすると、それは国人に対する、懇切な挨拶となっているとは言えないだろうか。
「まつとしきかば今かへりこむ」とは、真淵以下が力説する通り、行平の帰京を待っ親しい人物(たとえば妻、親、友人など)に向かって発せられるのにふさわしい一言葉である。これを通常の会話と同等のレベルでの言葉と考えるならば、まさにその通りであろう。しかし、送別の宴における主賓の挨拶の歌としてこの一首を見れば、これは国人ヘの惜別の情をあらわす言葉として、きわめて効果的であるとは言えないだろうか。行平が再び因幡国に下向し、国人と再会するなどということはおそらくありえないからこそ、この言葉が作者の真情の表現として機能するというのが、『古今集』歌の論理ではなかろうか。
同様の例を、同じ「離別歌」の巻から拾っておこう。
源実が筑紫ヘ湯浴みむとてまかりけるに、山崎にて別れ惜しみける所にてよめる
   しろめ
命だに心にかなふものならばなにか別れのかなしからまし(三八七)
山崎より神奈備の森まで送りに人々まかりて、帰りがてにして、別れ惜しみけるによめる
   源実
人やりの道ならなくにおほかたは行きうしといひていざ帰りなむ(三八八)
今はこれより帰りねと、実が言ひけるをりによみける
   藤原兼茂
したはれて来にし心の身にしあれば帰るさまには道もしられず(三八九)
源実が九州の温泉ヘ下向するにあたって、山崎で知友が別れを惜しみなごりが尽きずに神奈備の森(現在の大阪府高槻市東北部)まで見送った際の離別歌群である。三八八番歌において実は、「強制されて行く旅ではないのだから、行くのがいやになったと一言って、さあ帰ろう」と歌っているのだが、ここから京ヘ引き返したわけではないようだ。「い、ざ帰りなむ」とは、都に後ろ髪を引かれる思いの表現であって、遠くまで見送ってくれた人々に対する、実の親愛の情の発露となっていよう。一方、兼茂は「帰るさまには道もしられず」(どう帰ればいいのか、道もわかりません)と歌っているのであるが、これも実ヘの愛着の思いの表現であって、実際に都の家にたどりつけないと思い込んでいるわけではない。「いざ帰りなむ」とか「道もしられず」とか、正岡子規に言わせれば「嘘の趣向なり」(『五たび歌よみに与ふる書』)ということになるのかもしれないが、このような虚構性こそが作者の思いのたけの表現であることは、現代の『古今集』研究において広く認知されている見方にほかならないであろう。行平の離別歌の「まつとしきかば今、かへりこむ」についても、同様のことが言えないだろうか。これは都でなごりを惜しむ人ヘの言葉としても、もちろん効果的な表現である。しかし、任地を離れるにあたっての国人ヘの挨拶としても、何ら違和感はないと思うのであるが、いかがなものであろうか。
さらにもう一点、表現効果の観点から「因幡の山の峰に生ふる松」という歌句をとりあげておきたい。景樹は『百首異見』において「甜山は和名抄に因幡国法美郡稲羽とある所の山にて今も松のみ多し。其の下ゆく流れを稲羽川といふ。やがて此の山陰はそのかみの国府にしあれば、もとより都にも聞こえなれたるに、いはんや其の{寸となりて行人はい七、委しくき、しるべきわたり也。其の郷をば今も国府村とよべり」と述ベている。因幡山(稲羽山)と国府との位置関係についての右の記述は正確であるようで、近年の諸注釈書の夕夕くにも継承されているのであるが、この事実は雜任時説にとって、まことに都合のよい事実であると言わざるをえない。
新任国司主催の行平送別の宴は、『士佐日記』十二月二十五日条の記述「{寸の館より呼びに文もてきたなり」から類推すると、国司館で開催された可能性が高いであろう。そこには郡司たちをはじめ、タタくの国人も出席していたと推測される。館からは因幡山を目にすることができたにちがいない。国人たちによる送別の宴が催されたとすると、これも『士佐日記』の記述を参考にするならば、行平が国司館から門出をして滞在中の家に、国人たちが酒や料理を持参して行われたのではなかろうか。それはおそらく国府からほど遠からぬ場所で、因幡山を望見することもできたであろう。そのような場で行平の雛別歌が詠まれたとすると、行平はまさに「因幡の山の峰に生ふる松」を指差しつつこの歌を朗詠するというパフォーマンスを演じることができたはずだし、参会者たちは日ごろ見慣れた[因幡の山の峰に生ふる松」を目にしながらこの離別歌を耳にしたわけである。その表現効果たるや絶大なものと言ってもよいのではなかろうか。
一方、この歌が都からの赴任時に詠まれたとするとどうであろうか。行平はこれから国守として赴任する因幡国についての予備知識を仕入れているであろうから、国府の近くに因幡山と称する山があることを知ってこの歌を詠じることは可能であるが、都で行平を見送る立場の親族知友がそのような知識をもっていたかどうか、はなはだ疑問である。「因幡の山」という歌語についての都の人々の理解は、因幡国にある山という漠然とした理解にとどまら、ざるをえないであろう。もちろんそれでも何ら問題はないし、現地啓なけれぱならない理由はないのであるが、離別にあたっての挨拶としては、因幡山が見える宴席で、新任国守あるいは国人たちを前にし工詠まれるというのが、この一首の表現効果が最も発揮される状況であることに疑いはないように思うのである。
以上、表現効果という観点からこの一首について考えてきたのであるが、その結果、雜任時説こそが、一首の詠作事情と歌意とを強く結びつけて解釈することができる有力な所説であるということは、少なくとも明らかにしえたのではないだろうか。しかしこれまでの考察によって、今ではかえりみられない雜任時説が復活する可能性が生じたとしても、いずれの説が妥当なのかを判断できる確実な根拠は示しえていない。次節では表現効果とは異なった観点から、この問題に踏み込んでみたいと思う。 

この歌が収められている『古今集』巻第八「離別歌」は、大きく分けて二っの部分から成っている。前半部、すなわち詣の行平歌(三六五番歌)から三九一番歌までの二七首は、人が遠国ヘ旅立っにあたっての、送る人、送られる人、それぞれの立場からの離別歌である。後半部は三九二番歌から巻末の四0五番歌までの一四首で、都やその周辺(畿内)を往来する道俗の社交生活の中から生まれた離別歌であると判断できよう。その中の四00番歌からの四首は「題しらず」「よみ人しらず」であって、詠作事情が知れないが、いずれもこのように理解しておいて矛盾はないようである。
さて、前半の二七首を見ると、その多くは遠国ヘ旅立っ人を見送る立場での航別歌であり、旅立っ本人の歌であることが明らかなのは、三六五、三六七、三七六、三八八番の四首にすぎない。その中の三七六番歌は、寵が常陸ヘ下る際に藤原公利に送った歌、三八八番歌(第三節で引用した)は、源実が「湯浴み」という私用で九州ヘ下った時の歌である。三六七番歌「かぎりなき雲居のよそに別るとも人を心におくらさむやは」は、動詞「おくらす」(置いてゅくの豆によって旅立つ人の歌であると推測されるが、「題知らず」「よみ人知らず」であって詠作事情が知られない。このような次第で、官人が公用で都と地方とを往来する際、旅立つ本人によって詠まれたことが明らかな離別歌は、巻頭の行平歌ただ一首なのである。
一方、公用で遠国ヘ旅立っ人に贈られた離別歌であることが響に明記されている歌は五首存在し会一六八、三六九、三八五、三八六、Ξ九0)、また公用での旅と明記されてはいなくても、そのように推測できる歌も少なくない。送別の宴(マつまのはなむけ」)においては、送る者送られる者、双方から離別歌がやりとりされたであろうのに、公用で都から任地ヘ、あるいは任地から都ヘ旅立つ本人によって詠まれたことが明らかなのは行平歌のみというのは、注目に値する事実と言ってよいだろう。しかもそれが巻八「離別歌」の巻頭に据えられているのであるから、そこには撰者による何らかの意図を想定することができるのではないだろうか。
和歌をたしなむ貴族が都と地方を往来する機会はと言えば、その多くが公用を帯びての旅であろうから、そのような折に詠まれた離別歌が、この巻の前半部(歌数では「離別歌」の巻全体の約三分の二にあたる)の基調をなしているのは、当時の実情を反映したものと一言えよう。しかしながら右に見たように、公務によって旅立つ官人による航別歌であることが判明するのが行平の作ただ一首であるのは、明らか無図的な選択の結果であり、それを巻頭に据えたのは、一言うまでもなく読者の注意を喚起するためにほかならない。後世の史家によって「当代屈指の民政家」「良吏の中でも屈指の大物」と評されている在原行平は、『古今集』成立当時においてはなおさらのこと、良吏としての赫々たる名声は忘れられてはいなかったであろうが、まさにその行平が、地方官として任地ヘ往来した際の離別歌が巻第八「離別歌」の巻頭に掲げられたのは、この歌集が勅撰集という公器であることの明白な指標にほかなるまい。良吏によって地方行政が円滑に運営されることは聖代の理想であり、「離別歌」巻嬰おいて在原行平の名のもとに、その実現が称揚され、祈念されているのではないだろうか。
このように考えるならば、行平歌の解釈は赴任時説ではなく、離任時説によるのが妥当であろう。国守として赴任する官人が、「まつとし聞かばいまかへりこむ」(あなたが一「待つ」とおっしゃれば、すぐに帰ってまいりましよう)と詠ずるのは、王朝和歌の習いとしては、社交的な虚構であるとも、思いのたけの表出であるとも、いかようにも理解が可能であるが、こと公の立場から見れば、都人の「待つ」のご言で地方官としての公務を放棄して帰京するなど、もつてのほかの仕儀である。剛直の良吏在原行平による「離別歌」巻頭の一首としては、ありえない解釈といっていいのではなかろうか。
一方、これを離任時説によって解釈するならば、右に述ベた勅撰集の理念によく合致する。すぐれた実績を残して前国守が帰京するにあたっては、国人はその雜任を惜しみ、再任を願うのが道理である。送別の宴において行平が、そのような国人たちを前にして、「まつとし聞かばいまかへりこむ」七詠ずるのは、惜別の挨拶としてまことにふさわしい酢別歌であるということができよう。国人が「待つ」と一言ったからといって行平が京から因幡ヘ下向するなどということがありえないのはわかりきつた話であり、まさに虚構にほかならないのだが、これこそがその時における行平の思いであり、国人の願いでもあった、というのが、「離別歌」巻頭のこの一首がになうべき解釈であろう。
当歌は「題しらず」であり、したがって赴任時、離任時のいずれの啓あったのか、事実としては不明と言わざるをえない。しかし『古今集』巻第八「離別歌」の巻頭の一首としては、離任時説によって解釈するのが至当ではなかろうかというのが本稿の需である。また、『新古今集』の編纂にかかわり、『新勅撰集』のただ一人の撰者であった藤原定家は、勅撰集の政治性を身にしみて理解していたにちがいないから、定家がこの一首を離任時説によって解釈していた可能性は、かなり高いと言ってもいいのではないだろうか。中世の諸注において離任時深有力である理由は、どうやらそのあたりにもありそうである。 
 
17.在原業平朝臣 (ありわらのなりひらあそん)  

 

ちはやぶる 神代(かみよ)も聞(き)かず 竜田川(たつたがは)
からくれなゐに 水(みず)くくるとは  
神代にすら聞いたことがない。竜田川が紅葉によって水を真っ赤に染め上げているとは。 / 遠い昔、数々の不思議なことが起こっていたという神代でさえも聞いたことがありません。川面一面に紅葉が散り浮いて流れ、この竜田川の水を真紅色の絞り染めにするとは。 / 不思議なことが多い、神様がこの世界を治めておられた時代にも、聞いたことがありませんよ。紅葉の名所の竜田川が、紅葉を散らして鮮やかな紅色に、水を「くくり染め」にしているとは。 / (川面に紅葉が流れていますが)神代の時代にさえこんなことは聞いたことがありません。竜田川一面に紅葉が散りしいて、流れる水を鮮やかな紅の色に染めあげるなどということは。
○ ちはやぶる / 「神」にかかる枕詞。
○ 神代も聞かず / 「神代」は、神々の時代。不思議なことが多々起きたとされる。「ず」は、打消の助動詞の終止形。「神々の時代にも聞いたことがことがないような不思議な出来事が起こった」と二句切れの倒置法で強調し、それが何であるかを期待させている。
○ 竜田川 / 歌枕。生駒山を源流とする奈良県の川。紅葉の名所。
○ からくれなゐに / 「唐(から)・呉(くれ)の藍」。「唐」は、唐伝来という意もあるが、単なる美称としても用いられる。「呉の藍」は、鮮やかな紅色。「に」は、変化の結果を表す格助詞。
○ 水くくるとは / 主語は、「竜田川」で、擬人法。「くくる」は、くくり染め(しぼり染め)にすること。この場合は、水を真っ赤に染め上げること。「竜田川が水を真っ赤に染めた」という見立て。「くくる」は、「水にくぐる」の意という説もある。「とは」は、意味上「聞かず」に続く(倒置法)。 
1
在原業平(ありわら の なりひら)は、平安時代初期の貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原朝臣姓を名乗る。
仁明朝では左近衛将監に蔵人を兼ねて天皇の身近に仕え、仁明朝末の嘉祥2年(849年)無位から従五位下に直叙される。文徳天皇の代になると全く昇進が止まり、官職に就いた記録もなく不遇な時期を過ごした。
清和天皇のもとで再び昇進し、貞観4年(862年)従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、貞観11年(869年)正五位下、貞観15年(873年)には従四位下に昇叙される。
陽成朝でも順調に昇進し、元慶元年(877年)従四位上、元慶3年(879年)には蔵人頭に叙任された。また、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉るなどしている。元慶4年(880年)5月28日卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
『日本三代実録』の卒伝に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞とされる。この後に「略無才学、善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろう。
歌人として『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している。子の棟梁・滋春、棟梁の子・元方はみな歌人として知られる。兄・行平ともども鷹狩の名手であったと伝えられる。
早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。なお『伊勢物語』成立以降、恬子内親王との間には密通によって高階師尚が生まれたという説が派生し、以後高階氏は業平の子孫ではないかと噂された。
紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。しかし一方で、藤原基経の四十の賀で和歌を献じた。また長男・棟梁の娘は祖父譲りの美貌で基経の兄・藤原国経の妻となったのち、基経の嫡男時平の妻になるなど、とくに子孫は藤原氏との交流も浅からずある。
また業平自身も晩年には蔵人頭という要職にも就き、薬子の変により廃太子させられた叔父の高岳親王など他の平城系の皇族や、あるいは当時の藤原氏以外の貴族と比較した場合、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と、実状には相違点がある。
短歌
勅撰和歌集に80首以上入撰した、六歌仙・三十六歌仙の一人ではあるが、自撰の私家集は存在しない。現在伝わる『業平集』と呼ばれるものは、『後撰和歌集』成立以降に業平作とされる短歌を集めたものとされている。業平の歌が採首された歌集で業平が生きた時代に最も近いのは『古今和歌集』である。また『伊勢物語』は業平の歌を多く使った歌物語であり、業平像にも大きく影響してきた。以下の歌の中にも伊勢物語の中でも重要な段で登場するものも多い。しかしさほど成立時期に隔たりはないと思われる『古今和歌集』と『伊勢物語』の双方に採首された歌のなかには、背景を説明する詞書の内容がそれぞれで違っているものや、歌自体が微妙に変わっているものがある。『伊勢物語』より成立も早く勅撰和歌集である『古今和歌集』が正しいのか、あるいは時代が下るにつれて『伊勢物語』の内容が書写の段階で書き換えられてしまったのか、現時点では不明である。ちなみに勅撰の『古今和歌集』においてさえ、業平の和歌は他の歌人に比べて詞書が異様に長いものが多く、その扱いは不自然で作為的である。
代表歌
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは — 『古今和歌集』『小倉百人一首』
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし — 『古今和歌集』
忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは — 『古今和歌集』
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ — 『古今和歌集』
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと — 『古今和歌集』
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして —『古今和歌集』
ゆかりの地
○ 奈良県奈良市 / 奈良市法蓮町にある不退寺は、仁明天皇の勅願を受け在原業平が開基した。寺伝によれば不退寺は、元は祖父・平城天皇が薬子の変のあと剃髪したのち隠棲した「萱の御所」であったと言われる。平城天皇の皇子・阿保親王やその息子である業平もこの地に住んでいたと言われている。
○ 奈良県天理市、斑鳩町、大阪府八尾市 / 天理市櫟本町の在原神社は業平生誕の地とされ、『伊勢物語』の23段「筒井筒」のゆかりの地でもある。境内には筒井筒で業平(と同一視される男)が幼少期に妻と遊んだとされる井戸があり、在原神社の西には業平が高安の地に住む女性のもとへかよった際に通ったとされる業平道(横大路、竜田道)が伸びている。ただしこの高安が何処を指すかについては、奈良県生駒郡斑鳩町高安と大阪府八尾市高安の2説がある。また、龍田から河内国高安郡への道筋については、大県郡(大阪府柏原市)を経由したとする説と、平群町の十三峠を越えたとする説がある。俊徳街道・十三街道も参照。
○ 愛知県知立市八橋 / 伊勢物語に登場する地名。現在の知立市八橋町。無量寿寺から10分ほど離れた落田中の一本松でかきつばたの歌を詠んだと伝えられている。在原寺は在原業平の骨を分け寛平年間に築いたと伝わる在原塚を守るため建立された。後の鎌倉末期頃に供養塔も建立された。
○ 業平橋(東京都墨田区、埼玉県春日部市、兵庫県芦屋市、斑鳩町)、言問橋 / 墨田区と春日部に業平橋という橋が架かっている。墨田区の橋については業平橋 (墨田区)を参照。墨田区には言問橋という橋があるが、これも前述の伊勢物語9段が由来で、業平の詠んだ歌に「いざこと問はむ」という言葉が入っている事にちなむ。芦屋市の芦屋川の業平橋、斑鳩町の富雄川の業平橋もある。浅草通りにある業平橋に隣接する東武鉄道の駅はかつて「業平橋駅」(現とうきょうスカイツリー駅)と呼ばれていた。
○ 京都府京都市 / 京都市西京区にある十輪寺は在原業平が晩年住んだといわれる寺で、業平寺とも言われる。
○ 滋賀県高島市 / 高島市マキノ町在原には、在原業平が晩年に隠遁したという伝説があり、業平の墓と伝えられる塔がある。 
2
在原業平 ありわらのなりひら 天長二〜元慶四(825-880) 通称:在五中将
平城天皇の孫。阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女伊都内親王。兄に仲平・行平・守平などがいる。紀有常女(惟喬親王の従妹)を妻とする。子の棟梁・滋春、孫の元方も勅撰集に歌を収める歌人である。妻の妹を娶った藤原敏行と親交があった。阿保親王が左遷先の大宰府から帰京した翌年の天長二年(835)に生れる。同三年(826)、兄たちは臣籍に下り、在原姓を賜わる。仁明天皇の承和八年(841)、右近衛将監となる。同十二年、左近衛将監。同十四年(847)頃、蔵人となる。嘉祥二年(849)、従五位下に叙される。しかし仁明天皇が崩じ、文徳天皇代になると昇進は停まり、以後十三年間にわたり叙位に与らなかった。清和天皇の貞観四年(862)、ようやく従五位上に進み、以後、左兵衛権佐・左兵衛佐・右馬頭・右近衛権中将などを経て、元慶三年(879)頃、蔵人頭の重職に就任する(背後には二条后藤原高子(たかいこ)の引き立てがあったと推測される)が、翌年五月二十八日、卒去した。五十六歳。最終官位は従四位上。文徳天皇の皇子惟喬親王に仕える。同親王や、高子のサロンで詠んだ歌がある。また貞観十七年(875)、藤原基経の四十賀に歌を奉った。『三代実録』には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とある。『伊勢物語』の主人公は業平その人であると古くから信じられた。ことに高子や伊勢斎宮との恋を描く段、東下りの段などは名高い。家集『在原業平集』(『在中将集』)があり、これは古今集・後撰集・伊勢物語・大和物語から業平関係の歌を抜き出して編集したものと考えられている(成立は西暦11世紀初め頃か)。六歌仙・三十六歌仙。古今集の三十首を始め勅撰入集は八十六首。
春 / なぎさの院にて桜を見てよめる
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今53)
(この世の中に全く桜というものが無かったならば、春を過ごす心はのどかであったろうよ。)
さくらの花のさかりに、ひさしくとはざりける人のきたりける時によみける   よみ人しらず
あだなりと名にこそ立てれ桜花年に稀なる人も待ちけり
(桜の花は散りやすく不実だと評判こそ立っていますが、一年でも稀にしか来ない人を、散らずに待っていました。)
返し
今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや(古今63)
(たしかに、私が待たせたおかげで、桜は今日まで散らずに永らえてくれましたね。もし今日私が訪ねて来なかったら、明日あたりはもう怺えきれず、雪となって降ってしまったでしょう。もっとも、雪でないから消えはしませんが、だとしても、散ってしまったのを人は花と見るでしょうか。)
題しらず
花にあかぬ嘆きはいつもせしかども今日のこよひに似る時はなし(新古105)
(桜の花を眺めれば、いくら見ても見飽きず、長い溜息をつく――そんな経験は春ごとにして来たけれども、今宵ほどその嘆息を深くした時はない。)
弥生の晦つごもりの日、雨のふりけるに、藤の花を折りて人につかはしける
ぬれつつぞしひて折りつる年の内に春はいくかもあらじと思へば(古今133)
(雨に、そして涙に濡れながら、敢えて花を折ってしまいました。今年の春も、もう幾日も残っていまいと思いましたので。)
題しらず
惜しめども春のかぎりの今日の日の夕暮にさへなりにけるかな(定家八代抄)
(惜しんでも時を留めることは出来ず、春の最後の今日という一日の、夕暮にさえなってしまったのだなあ。)
秋 / 題しらず
ゆく蛍雲のうへまでいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ(後撰252)
(飛んでゆく蛍よ、雲の上まで行ってしまうのなら、「もう秋風が吹いている、早くおいで」と、雁に告げておくれ。)
人の前栽せんざいに、菊にむすびつけてうゑける歌
植ゑし植ゑば秋なき時や咲かざらむ花こそ散らめ根さへ枯れめや(古今268)
(こうしてしっかり植えておけば、秋のない年などないのですから、咲くに決まっています。咲けば花は散りますが、根までも枯れることはないでしょう。)
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる
ちはやぶる神世もきかず龍田河唐紅に水くくるとは(古今294)
(神々の霊威で不可思議なことがいくらも起こった大昔にも、こんなことがあったとは聞いていない。龍田川の水を美しい紅色に括り染めするとは。)
旅 / あづまの方へ友とする人ひとりふたり誘いざなひていきけり。三河の国、八橋やつはしといふ所にいたれりけるに、その河のほとりに杜若かきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふ五いつ文字を句の頭かしらにすゑて旅の心をよまむとてよめる
唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ(古今410)
(衣を長く着ていると褄(つま)が熟(な)れてしまうが――そんなふうに馴れ親しんで来た妻が都にいるので、遥々とやって来たこの旅をしみじみと哀れに思うことである。)
駿河の国宇津の山に逢へる人につけて、京につかはしける
駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり(新古904)
(駿河にある宇津の山のあたりでは、現実にも、夢の中でも、恋しいあなたには逢えないのですね。)
さ月の晦つごもりに、ふじの山の雪しろくふれるを見て、よみ侍りける
時しらぬ山は富士の嶺いつとてかかのこまだらに雪の降るらむ(新古1616)
(季節を弁えない山は富士の嶺だ。今をいつと思ってか、鹿の子斑に雪が降り積もっているのだろう。)
武蔵の国と下総しもつふさの国との中にあるすみだ河のほとりにいたりて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし河のほとりにおりゐて、思ひやれば、かぎりなく遠くもきにけるかなと思ひわびてながめをるに、渡し守「はや舟にのれ、日くれぬ」といひければ、舟にのりてわたらむとするに、みな人ものわびしくて、京におもふ人なくしもあらず、さるをりに白き鳥の嘴はしと脚とあかき、河のほとりにあそびけり。京には見えぬ鳥なりければ、みな人見しらず。渡し守に「これはなに鳥ぞ」ととひければ、「これなむみやこどり」といひけるをききてよめる
名にし負はばいざ言こと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと(古今411)
(「都」というその名を持つのに相応しければ、さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋しく思う人は無事でいるかどうかと。)
あづまの方にまかりけるに、浅間のたけに煙のたつを見てよめる
信濃なる浅間の嶽たけに立つけぶりをちこち人びとの見やはとがめぬ(新古903)
(信濃にある浅間の山に立ちのぼる噴煙――こんなに煙を噴き上げて、遠近の人が見とがめないのだろうか。)
あづまへまかりけるに、すぎぬる方恋しくおぼえけるほどに、河をわたりけるに波のたちけるを見て
いとどしくすぎゆく方の恋しきにうらやましくも帰る波かな(後撰1352)
(ただでさえ過ぎて来た都の方向は恋しいのに、羨ましいことに寄せては帰って行く波であるなあ。)
惟喬これたかの親王みこの供に狩にまかりける時に、あまの河といふ所の河のほとりにおりゐて酒などのみけるついでに、親王みこのいひけらく、「狩して天の河原にいたるといふ心をよみて盃さかづきはさせ」といひければよめる
狩り暮らし七夕つめに宿からむ天の川原に我は来にけり(古今418)
(狩するうちに日が暮れてしまった。今宵は、七夕つめ(織姫)に宿を借りよう。我らは天の川の河原に来てしまったのだから。)
恋 / 女につかはしける
春日野かすがのの若紫の摺すり衣ごろもしのぶのみだれ限りしられず(新古994)
(春日野の若紫で色を摺り付けた摺衣の「しのぶもぢずり」模様ではありませんが、春日の里で垣間見たたおやかな貴女たちを恋い忍ぶ心の乱れは、限りを知りません。)
右近の馬場むまばのひをりの日むかひにたてたりける車のしたすだれより女の顔のほのかに見えければ、よむでつかはしける
見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめくらさむ(古今476)
(全然見えないわけではないが、よく見えたのでもない人――あの人が恋しくてならないので、わけが分からずに今日はぼんやり物思いに耽って過ごすだろう。)
やよひのついたちより、しのびに人にものら言ひてのちに、雨のそほふりけるに、よみてつかはしける
起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめくらしつ(古今616)
(起きるわけでもなく、寝るわけでもなく、夜を明かしては、長雨を春という季節のものとして眺めて過ごしてしまいました。)
題しらず
きみにより思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ(続古今944)
(あなたのおかげで知るようになりました。世の中の人はこれを恋と言うのでしょうか。)
人のもとにしばしばまかりけれど、あひがたく侍りければ、物にかきつけ侍りける
暮れぬとて寝てゆくべくもあらなくにたどるたどるもかへるまされり(後撰628)
(日が暮れたからと言って、寝てゆくことができるわけではないのに…。薄暗い道を辿り辿り帰った方がましです。)
女のもとにまかりてもの申しけるほどに、鳥のなきければよみ侍りける
いかでかは鳥の鳴くらむ人しれず思ふ心はまだ夜ぶかきに(続後撰820)
(まだ夜深い時刻のはずなのに、どうして鶏が鳴くのでしょう。人知れずあなたを思う心は、まだ深く秘められたままなのに。私の思いが伝わらないうちに、夜が明けてしまうなんて。)
題しらず
秋の野に笹わけし朝の袖よりも逢はでこし夜ぞひちまさりける(古今622)
(秋の野に笹を分けて帰った後朝(きぬぎぬ)の袖よりも、逢わずに帰って来た夜の方が、いっそうしとどに濡れたのでしたよ。)
題しらず
思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ(新古1151)
(あなたを慕う気持には、人目を憚る気遣いが負けてしまった。逢うことと引き換えにするのなら、どうなろうと構うものか。)
人にあひてあしたによみてつかはしける
寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな(古今644)
(昨夜寝て見た夢がはかなく途切れてしまったので、続きを見ようとまどろんだけれども、ますます不確かになってゆくことだ)
業平の朝臣の伊勢の国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいとみそかにあひて、又のあしたに、人やるすべなくて、思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたりける   よみ人しらず
君や来こし我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか
(あなたが逢いに来られたのか、私が逢いに行ったのか、覚えていません。夢だったのか現実だったのか、寝ていたのか醒めていたのか。)
返し
かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人さだめよ(古今646)
(真っ暗になる心の闇に迷ってしまったのです。夢か現実かは、世間の人が定めればよい。)
陸奥みちのくににまかりて女につかはしける
しのぶ山しのびてかよふ道もがな人のこころのおくも見るべく(新勅撰942)
(信夫山――私たちの忍び合う恋にも、忍んで通う道があってほしい。恋しい人の心の奧も見えるだろうから。)
業平の朝臣の家に侍りける女のもとによみてつかはしける  敏行の朝臣
つれづれのながめにまさる涙川袖のみぬれて逢ふよしもなし
(長雨で川が増水するように、物思いに恋心はまさり涙があふれてなりません。その涙の川に袖が濡れるばかりで、お逢いするすべもありません。)
かの女にかはりて返しによめる
あさみこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かばたのまむ(古今618)
(浅いから袖が濡れる程度なのでしょう。涙川に身体ごと流されるとおっしゃるのなら、あなたを信じて契りましょう。)
藤原敏行の朝臣の、業平の朝臣の家なりける女をあひしりて文ふみつかはせりけることばに、「今まうでく、雨のふりけるをなむ見わづらひ侍る」といへりけるをききて、かの女にかはりてよめりける
かずかずに思ひ思はずとひがたみ身をしる雨はふりぞまされる(古今705)
(あれこれと、思って下さっているのかいないのか、お尋ねするのもしづらいので、悩んでおりましたところへ、『雨のため出渋っている』とのお言葉。雨が、所詮我が身などその程度かと思い知らせてくれたわけですね。今や、雨ならぬ涙がいっそう激しく我が身に降り注いでおります。)
ある女の、業平の朝臣を、ところさだめず歩ありきすと思ひて、よみてつかはしける   よみ人しらず
おほぬさのひく手あまたになりぬれば思へどえこそたのまざりけれ
(大幣のように、あなたにはお誘いが多いから、私はお慕いしているけれど、信頼しきることはできません。)
返し
おほぬさと名にこそたてれ流れてもつひによるせはありてふものを(古今707)
(そんな評判が立ったところで、大幣なら、流れてもいずれ浅瀬に乗り上げると言うでしょう。最後にはあなたのところへ寄り付くことになるものを。)
業平の朝臣、紀有常がむすめにすみけるを、うらむることありて、しばしのあひだ昼はきて夕さりはかへりのみしければ、よみてつかはしける
あま雲のよそにも人のなりゆくかさすがにめには見ゆるものから
(天雲のように遠く離れて行ってしまうのですね。そのくせ、妻である私の目には見えるというのに。)
返し
ゆきかへり空にのみしてふる事はわがゐる山の風はやみなり(古今785)
(行ったり来たりする天雲が、空にばかりいて、一向に山に留まらないのは、風が激しすぎるからです。私も奥さんがきつすぎるので家に留まることができず、いつも上の空で去って行くのですよ。)
東ひむがしの五条わたりに人をしりおきてまかりかよひけり。しのびなる所なりければ、門かどよりしもえ入らで、垣のくづれよりかよひけるを、たびかさなりければ、主あるじききつけて、かの道に夜ごとに人をふせてまもらすれば、行いきけれどえ逢はでのみ帰りて、よみてやりける
人しれぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななむ(古今632)
(人知れずあなたの家を往き来していた道は、通せんぼされてしまった。あの関の番人たち、宵ごとに居眠りしてしまってほしい。)
五条の后きさいの宮の西の対にすみける人に、本意ほいにはあらで物言ひわたりけるを、む月の十日とをかあまりになむ、ほかへかくれにける。あり所はききけれど、え物もいはで、又の年の春、梅の花さかりに、月のおもしろかりける夜、去年こぞを恋ひて、かの西の対にいきて、月のかたぶくまであばらなる板敷いたじきにふせりてよめる
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして(古今747)
(自分ひとりは昔ながらの自分であって、こうして眺めている月や春の景色が昔のままでないことなど、あり得ようか。昔と同じ晴れ晴れとした月の光であり、梅の咲き誇る春景色であるはずなのに、これほど違って見えるということは、もう自分の境遇がすっかり昔とは違ってしまったということなのだ。)
絶えて久しうなりて
今までに忘れぬ人は世にもあらじおのがさまざま年のへぬれば(業平集)
(今の今まで、忘れずにいる人など、まさかいないでしょう。お互いそれぞれの人生を、長の年月過ごしてきたのですから。)
雑 / 堀川の大臣おほいまうちぎみの四十賀よそぢのが、九条の家にてしける時によめる
桜花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに(古今349)
(桜の花よ、散り乱れてあたりを霞ませよ。『老い』が通って来ると聞く道が、花に紛れて見分けのつかなくなるように。)
題しらず
おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの(古今879)
(大体のところ、月なども賞美したりはしまい。何となれば、この月というものこそが、積もり積もって人の老いとなるものなのだから。)
業平の朝臣の母の親王みこ、長岡にすみ侍りける時に、業平、宮づかへすとて、時々もえまかりとぶらはず侍りければ、十二月しはすばかりに母の親王のもとより、とみの事とて文ふみをもてまうできたり。あけて見れば、詞ことばはなくてありける歌
老いぬればさらぬ別れもありといへばいよいよ見まくほしき君かな
(私はもう老いてしまったので、避けられない別れも遠からずあるというわけですから、そう思えばますます会いたいと思うあなたですことよ。)
返し
世の中にさらぬ別れのなくもがな千世もとなげく人の子のため(古今901)
(この世に、避けられない別れなどなければよいのに。千年も長生きしてほしいと悲しむ、人の子のために。)
妻めのおとうとをもて侍りける人に、袍うへのきぬをおくるとて、よみてやりける
紫の色こき時はめもはるに野なる草木ぞわかれざりける(古今868)
(妻の妹とあなたが深く結ばれ、私とも深く縁を結んだ以上は、目も遥か、野辺に萌え出た春の草木のように、区別なくあなたも大切に思う。)
二条の后のまだ東宮の御息所みやすんどころと申しける時に、大原野にまうでたまひける日、よめる
大原や小塩をしほの山もけふこそは神世の事も思ひいづらめ(古今871)
(大原の小塩の山も、お后様が参詣なさったた今日という日こそは、神代の昔のことを思い出すことでしょう。)
布引の滝の本にて人々あつまりて歌よみける時によめる
ぬきみだる人こそあるらし白玉の間なくも散るか袖のせばきに(古今923)
(真珠をつないだ糸を解いて、ばらばらにまき散らす人がいるらしい。白い珠が次々と飛び散ってくるよ。袖で受け止めようにも、貧しい私の袖は狭いのに。)
題しらず
はるる夜の星か川辺の蛍かも我がすむかたに海人のたく火か(新古1591)
(あれは晴れた夜の星なのか。川辺の蛍なのか。それとも私の住む芦屋の里で海人(あま)が焼く火なのか。)
惟喬の親王の狩しける供にまかりて、やどりにかへりて、夜ひと夜、酒をのみ物がたりをしけるに、十一日の月もかくれなむとしける折に、親王ゑひて、うちへいりなむとしければ、よみ侍りける
あかなくにまだきも月のかくるるか山の端にげていれずもあらなむ(古今884)
(まだ心ゆくまで楽しんでおりませんのに、早くも月は隠れてしまうのですか。山の端よ、逃げて月を入れないでほしい。)
紀利貞きのとしさだが阿波の介にまかりける時に、餞別むまのはなむけせむとて、今日といひおくれりける時に、ここかしこにまかり歩ありきて、夜ふくるまで見えざりければ、つかはしける
今ぞしる苦しき物と人待たむ里をばかれずとふべかりけり(古今969)
(今よく分かりました。待たされることは苦しいものだと。人が待っている里には、絶えず訪れるべきでした。)
惟喬の親王のもとにまかりかよひけるを、頭かしらおろして小野といふ所に侍りけるに、正月にとぶらはむとてまかりたりけるに、比叡ひえの山のふもとなりければ、雪いとふかかりけり。しひてかの室むろにまかりいたりて、拝みけるに、つれづれとしていと物悲しくて、かへりまうできて、よみておくりける
忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは(古今970)
(ふとこの現実を忘れては、これはやはり夢ではないかと思うのです。まさか思いもしませんでした、かくも深い雪を踏み分けて、殿下にお目にかかろうとは。)
深草の里にすみ侍りて、京へまうでくとて、そこなりける人に詠みて贈りける
年を経て住みこし里を出でて去いなばいとど深草野とやなりなむ(古今971)
(何年もずっと住んで来た里を去ったなら、ますます草が深く茂り、深草の里は草深い野となるだろうか。)
おもふ所ありて、前太政大臣によせて侍りける
たのまれぬ憂き世の中を歎きつつ日かげにおふる身を如何いかにせむ(後撰1125)
(期待できない憂き世を歎きながら、日の当たらない場所に生えた草のような我が身をどうすればいいのだろう。)
世の中を思ひうじて侍りけるころ
すみわびぬ今は限りと山里につま木こるべき宿もとめてむ(後撰1083)
(この世に住むのは厭になってしまった。もうこれが限界と、山里に木の枝を折って集める隠棲の宿を求めることとしよう。)
身のうれへ侍りける時、津の国にまかりて、すみはじめ侍りけるに
難波津を今日こそみつの浦ごとにこれやこの世をうみわたる舟(後撰1244)
(難波の港を今日見たことだ。その御津の浦ごとに渡る舟――これこそが、この世を倦み渡る私なのだ。)
題しらず
思ふこと言はでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ(新勅撰1124)
(思ったことは言わないで、そのまま口を閉ざしてしまった方がよい。自分と同じ心の人などいないのだから。)
題しらず
白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消けなましものを(新古851)
(草の上の露を、あれは真珠か、何なのかとあの人が問うた時、あれは露ですと答えて、まさにその露のように私も消えてしまえばよかったのに。)
病してよわくなりにける時、よめる
つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日けふとは思はざりしを(古今861)
(いつか最後に通る道とは以前から聞いていたけれど、まさか昨日今日その道を通ろうとは思いもしなかったのに。) 
3
伊勢物語に見る在原業平
在原業平はその自叙伝ともいうべき「伊勢物語」の面白さから、近世に近い人と思っていらっしゃる方もおられるようですが、生まれは825(天長2)年ですから平安時代初期の人物です。
出自をたどれば平安京を開いた桓武天皇の曾孫(孫:系図参照)であり、平城天皇の孫というたいへん高貴な血筋ということが分かります。菅原道真らが編纂した「日本三代実録」には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とあります。美男子であり好き勝手な行動をとる人物で、漢詩・漢文の教養がないけれど、和歌の才能はあったことが窺われます。
偉大な桓武天皇の血筋でありながら宮廷社会では出世が遅かったのは、放縦不拘で略無才覚だったからかも知れません。
しかしこれは父の平城天皇による問題行動が大きく影響していたのかも知れません。平城天皇は桓武天皇の後を引き継いだ天皇ではありましたが、体も弱く、情緒不安で3年で弟の嵯峨天皇に譲位して、自らは上皇となりました。
ところが勝手に平安京を去り平城京に戻って、ここで政治を行い出したのでした。これには上皇の愛人である藤原薬子の影響が大でした。嵯峨天皇がこんなことを許す訳がありません。兵を差し向け戦い(平城太上天皇の変または薬子の変)となったのですが、上皇側は簡単に負けてしまいます。
上皇は出家、薬子は自殺、息子である阿保親王は大宰府に流されています。そんな事情があって業平は異母兄弟の行平らとともに臣籍降下して在原氏を名乗ることになりました。
本題に入る前に系図に出てくる人物について整理しておきましょう。恒貞親王は仁明天皇の皇太子でしたが、嵯峨天皇の信頼も厚く権力者の藤原良房により廃太子されました。藤原良房はこれに代えて藤原順子(のぶこ)の産んだ道康親王を立太子させ、道康親王はやがて文徳天皇となりました。
文徳天皇は紀静子の産んだ第一皇子・惟喬(これたか)親王を皇太子としたかったのですが、ここでも良房の力により良房の娘である明子(あきらけいこ)の産んだ第四皇子・惟仁(これひと)親王を立太子させました。そして文徳天皇の急死(藤原氏による暗殺?)により惟仁親王は9歳で即位して清和天皇となったのです。
業平は惟喬親王の母方の姪婿ということもあり親しく付き合っていたのでした。伊勢物語には、そんな2人の交流が随所に描かれています。
清和天皇の后となったのは藤原高子(たかいこ)。彼女は藤原順子の五条邸にいて、清和天皇即位にともなう大嘗祭において、五節舞姫を務め、清和天皇17歳の時、25歳で入内し女御となって貞明親王(後の陽成天皇)を産みました。伊勢物語には入内する以前、業平と恋愛関係があったとされています。
川柳に「色事の寸暇があると歌を詠み」というのがあるらしいですね。これは業平のプレイボーイぶりを茶化したものでしょう。
数多くの女性と浮名を立てたのは事実としても、鎌倉時代の伊勢物語の注釈書である「和歌知顕集」には関係した女性はな大げさに3,733人と書かれています。だからこのような川柳も生まれてくるのでしょう。蛇足ながら数で言えば西鶴の「好色一代男」の世之介は3,742人でこちらが日本記録です。
その業平の恋はいつごろ始まったのでしょうか。それには伊勢物語の第22段に以下の話があります。
昔、田舎まわりの行商をしていた人の子どもたち二人は、筒井筒(丸い井戸の竹垣)の周りで遊んでいました。二人は成長するにつれて互いに顔を合わせるのが恥ずかしく感じるようになり疎遠となってしまいました。 二人とも相手を忘れられず、女は親の持ってくる縁談も断って独身のままでいました。 その女のもとに、男から歌が届きました。二人は歌を取り交わして契りを結びます。
筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに
(井戸の縁の高さにも足りなかった自分の背丈が伸びて縁をこしたようですよ、貴女を見ない間に)
くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき
(貴方と比べていたおかっぱの髪ももう肩まで伸びましたよ、貴方以外の誰が私の髪を上げて成人のしるしとできるでしょうか)
などと詠み合って、とうとうかねての望みどおり、夫婦となりました。
これが業平のことでしたらウブで純情な人柄で浮気などしないように見えるのですが、この時代は一夫多妻制で通い婚の形態でしたので、男が夜な夜な他の女性のところに出かけるということは珍しいことではありませんでした。業平も同じでしょう。この話の女とは紀有常の娘というのが定説です。
業平が現在まで名を残している理由は関係した女性の数の多さだけではなく、摂関政治で権力を意のままにしようとする藤原氏にひと泡ふかす業平の自由奔放な所業と歌の巧さでしょう。業平は五節の舞姫に選ばれた高子を見そめます。摂政である良房の姪で、将来清和天皇に入内させようと、良房が大切にしていた姫でした。第6段の話は以下の通りです。
むかし男ありけり(男はもちろん業平)、到底結婚することの出来ない身分の女(高子)と長年にわたって愛し合っていましたが、ようやくその女を盗み出して暗い夜を逃げてきてきました。芥川(大阪府高槻市)というところまで落ちのびていったところ、草むらで夜露を指差して「あのキラキラ光っているものはなんですか」と尋ねました。業平は彼女を背負っていくうちに夜がふけてきました。雷も激しく鳴り、雨も土砂降りになってきましたので、鬼がいるとも知らないで粗末な蔵に入りました。女を奥の方に入れて、男は弓の矢筒を背に負って、戸口に立って女を守っていました。早く夜が明けてほしいなと思いながらじっと立っていたところ、鬼が女を一口で食ってしまいました。女は「キャー」と叫んだのですが、雷のすごい音に男は聞くことがでませんでした。次第に夜が明けていくので、振り返って見ると、連れてきた女がいない。地団駄を踏んで泣いたけれども甲斐もなかった。
白玉か なにぞと人の 問ひしとき つゆとこたへて 消へなましものを
(彼女をここへ連れてくるときに葉の上のきらきら光るものはなんですかと聞かれたが、そのとき「あれは露だ」と答えて、露が消えるように自分も消えてしまえばよかったのに)
これは、二条の后(高子)が従姉である明子(あきらけいこ)にお仕えするような形でその屋敷に同居していた頃の話。高子がたいへん美人であったので業平が口説いて肩に背負って逃げ出しました。兄の基経や国経の二人がまだ官位は下の方でしたが内裏に参内しようとしたときに、高子が大声で泣く声をききつけて、なんだろうと見ると自分たちの妹でした。これは大変だというので、すぐに屋敷連れ戻りました。それをこのように鬼といったのだそうだ。
現実的には10代後半の女性を背負って約25km離れた芥川まで逃げるというのは不可能な事だと思いますが・・・。
業平の年表を見ていると官位について興味ある事実が浮かび上がってきます。八四九年に従五位下に昇叙しましたが、翌年、文徳天皇が即位すると全く昇進が止まります。またこの時期、兄の行平の歌が古今和歌集に残っています。
わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ
その詞書に「田むらの御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける」と記されています。つまり文徳天皇の御世、事情があって摂津の国、須磨というところに蟄居を余儀なくされた云々と書かれているのです。
皇族の血筋の兄弟をこのように扱えるのは文徳天皇だけしかいないのではないでしょうか。とすれば天皇はこの兄弟と何か確執があったと推測が成り立ちます。伊勢物語第六十五段「在原なりける男」に概略以下のことが記されています。帝がお心におかけになって、お召しになる女で、染殿の后のいとこである女。まだ若かった男と互いに知り合う仲で、親しくしていたのだった。男は年少ということで、女官の部屋に出入りすることを許されていた。この部屋には、人が見ているのも平気で男が上がりこんで座っていたから、この女はつらい思いで実家に帰ってしまった。それで男は、これはかえって好都合だと思って、女のもとに通ったので、みんなはそれを聞いて笑った。帝は、容貌が美しくいらっしゃって、仏の名を心に深く込めてお唱えになるのを聞いて、女はひどく泣いた。「こんな立派な帝にお仕えしないで、前世からの因縁が悪く悲しいことです。この男の情にひかれて」と言って泣いたのでした。ここでの男とは業平、帝とは清和天皇、女とは藤原高子(たかいこ)です。ただ高子については話の展開からは業平よりも年上でなければならず順子か明子と考えるべきです。
文徳天皇にとっては自分の母親か女御と関係を結ぶ業平は最も嫌な人物だったでしょう。天皇はこの事実を知ってからは立場上、事を公にできず、苦々しい思いを抱いていた筈です。そのために業平の出世を止め、兄の行平を須磨に左遷したのだと筆者は理解しています。
それ故、文徳朝から清和朝に代わると業平の官位は上がり始めました。業平は人の犯してはならない禁断の女性とも関係を結んでいます。第六十九段に伊勢斎宮恬子(やすこ)内親王との話が書かれています。斎宮とは天皇の妹か娘に限るという高貴なうえに潔斎して清楚で処女でなければなりません。物語の概略は以下のようです。むかし男(業平)がいた。宮中の宴会用の野鳥を狩るため伊勢へ勅使として派遣された。斎宮は母親の静子から手紙で「この人は特別だから普通の勅使よりも大切にしなさい」と聞かされていた。斎宮はその意を受けて男を丁重にもてなしした。朝から男を狩に出発させて、夕方には自分の宮殿で饗応した。二日目の夜、男は思い切って「今晩会いましょう」と声をかけたのだった。男に声をかけられた斎宮は人目があるので会うわけにはいかない。男は勅使一行のリーダなので宿舎は斎宮の住まいの近くにあった。人が寝静まったあと斎宮は男のところへ忍んで行った。男も寝られずにいると窓の外に朧月がさしていて、斎宮が召使の少女を先に立たせてやってきた。男は斎宮を寝室に入れて午前2時ごろまで一緒に過し、やがて斎宮は何も言わず自分のところへ帰っていった。男はそれが悲しくて寝られなかった。朝方になって男は「恬子内親王はどうしているだろうか」と思っているところに斎宮の方から手紙がきた。
君や来し われはゆきけむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか
(夕べは貴方が私のとこへ来てくれたのでしょうか、それとも私が貴方のところへ行ったのでしょうか、あれは夢かうつつであったのかよくわかりません)これを見て男はたいへん泣いて
かきくらす 心のやみに まどひきに 夢うつつとは 今宵さだめよ
(心が迷いに迷って夢うつつだったかは今晩お会いして決めましょう)と詠んで狩に出発した。
ところが宵になって伊勢守が男をもてなすということで一晩中宴会を催した。そのために男は斎宮に会うこともできなかった。夜もしらじら明け染めた頃、斎宮方から男のもとへ盃が差し出された。見れば、上の句のみの歌が書き添えてあった。
かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば
(渡っても濡れもしない浅い川のようなご縁でした)
男は、続きを松明の燃え残りの炭で書き付け足した。
また逢坂の 関は越えなん
(いつか必ずやお逢いできましょう)
その朝、男は尾張国へ旅立って行った。伊勢物語り自体がドキュメンタリーを装ったフィクションですから実際にどのようなことがあったのかは読者が想像するだけです。
前半部分で、業平が愛する藤原高子を連れ出し、芥川まで逃げましたが失敗に終わった話を紹介しました。この事件は藤原氏にとっては大変な出来事だったのです。
藤原氏の権力獲得方法は天皇のもとに娘を入内させて、生まれた親王を天皇に即位させることによって、岳父及び外祖父の地位を維持するというものです。
良房は権力を承継するために何としてでも血縁の女性を入内させる必要があります。良房は文徳天皇が没すると十五歳の惟喬親王を退けて、僅か九歳の惟仁親王を即位させました。清和天皇です。
政治の実権は外祖父の良房の手にありましたが、次世代までも権力を維持するためには藤原氏一門の女性に清和天皇の親王を産まさなければなりません。そこで白羽の矢を立てたのが十七歳の高子だったのです。業平はその深窓の令嬢を盗み出したのですから、藤原氏にとっては許しがたい人物に違いありません。
業平は藤原氏に完全に目をつけられ、都には住み辛くなりました。第九段「東下り」はそんな業平が「身を益なきものに思ひなして、東の方に住むべき国求めむとして、惑ひ行きけり」という話です。しかし旅に出れば都のことを思いだし、妻のことを思い出しては涙を流すのでした。
唐衣 着つつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
「東下り」は紀行文でもあり、感嘆した富士の話などもありますが、
名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。やはり最後は都が恋しくてなりません。
東国の路を歩いた末に業平が悟ったのは、生きて行くには都に戻るしかないということでした。帰京後は勤務態度も改まり、藤原氏と争うこともなく、順調に官位も上がり始めました。かくして高子も入内して陽成天皇を産みました。これで二人の私的な関係は終わりを迎えるはずなのです。
第七十六段「小塩の山」では、藤原氏の氏神である大原野神社に参拝する高子に業平も同行した様子を書き残しています。
昔、二条の后(高子)がまだ陽成天皇の母といわれていた時、藤原氏の氏神に御参拝になる折に、近衛府に仕えていた業平翁が、お供の人たちが褒美を戴くついでに、二条の后の御車から(褒美を)給わって、詠んで差し上げた歌。
大原や 小塩の山も けふこそは 神世のことも 思出づらめ
(大原の小塩の山も、今日の参詣に当たっては、先祖の神が、神代の昔のことも、思い出していることでしょう)と言って、翁は心の中で、心にも愛しいと思っただろうか、どのように思っただろうか、それは分からない。
この段の歌は表面上二条の后の行啓を祝賀する歌のように見えますが、その裏には高子を偲ぶ深い思いが込められているのです。この時から数年後、業平は大原野神社から南2kmにある十輪寺に隠棲して、難波津から海水を運んできて、高子を想いつつ塩竈を楽しんだということです。
十輪寺では5月28日の業平の命日は業平忌が営まれ、全国の業平ファンの方がお参りに来られます。本堂の裏山には小さな宝篋院塔の小さな墓があります。誰が言い出したのか恋愛成就のご利益があるとされ、女性の参詣者が多いとか。業平もこんな状況になっているとは思いも寄らなかったことでしょう。 
4
『伊勢物語』23段
平安の貴公子・業平を主人公とする『伊勢物語』(平安初期成立/作者不詳)は、業平の女性遍歴を主題とし、男女の夜の絡みの描写はありませんが、”ロマンス小説”です。物語125段・和歌209首からなり、実在の人物と合致するところもありますので、少しは事実を含んでいると思っていました。しかし、和歌から物語を創作したフィクションとする方が正しいように思われます。その和歌もすべて業平が詠ったものかわかりません。 
『伊勢物語』の本筋は省略して、斑鳩の業平道が語られる元になった天理市櫟本より八尾市高安へ通ったとされる23段「筒井筒」の物語を読んでみます。ここでは、男は業平として、二人の女性を天理女と八尾女とします。本妻の有常女は京都に居るのですから、天理女は正妻でなく、この段の文と歌から天理女は業平の幼馴染とみられます。したがって、何人目かの天理女の元から八尾女の所へ通ったことになります。  
それでは、『伊勢物語』23段を読んでみましょう。
昔、田舎暮らしだった子どものころ、ふたりは井戸のそばで遊んだ間柄であった。大きくなって相手を意識して遊ばなくなったが、男は妻にしたいと思っていた。男の歌、「筒ゐづつ井筒にかけし麿(まろ)がたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに」 (歌意)丸井戸の井桁の高さに足らなかった背丈が越える高さになった。あなたと会わないうちに。女の返歌、「くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき」 (歌意)長さくらべしていたわたしの振り分け髪も肩から下がるほどになりました。あなたのために髪を上げましょう。こうして結ばれたのですから天理女は幼馴染であり、業平にとって初恋の女性と想像します。  
つづきに、年が過ぎ、天理女は親を亡くし生活のよりどころをなくしていました。業平は相変わらずこの女の元から業平は八尾女の所へ通っていました。しかし、天理女は咎(とが)めることもなく気持ちよく送りだしていました。業平は、これは女に別の男がいるので気持ちよく送りだすのかもと思い、前栽に隠れてみていると、女は物思いにふけ、「風吹けば沖つしらなみ竜田山夜はにや君がひとり越ゆらん」 (歌意)風が吹いて木々がざわめき盗賊がでるという竜田山をあなたは独りで越えているのでしょう。 業平は、心配をする女の姿をいとしく思い、八尾女通いをやめた。さらに、23段はつづきます。また、心が騒ぎ久々に高安の八尾女を訪ねてみると、奥ゆかしかった女が(下女もいなくなり)自らお椀に飯を盛って食べているのを見て嫌気がさしてまったく行かなくなった。八尾女の歌、「君があたり見つつを居らむ生駒山雲なかくしそ雨は降るとも」 (歌意)あなたが住んでいる辺りを見つづけて待っています。雲が隠しても雨が降っても生駒山の向こうにいるあなたをみています。八尾は生駒山の西にあり、業平の居る天理は生駒山の東に位置し、生駒山がふたりを分けている状況がよく表現されています。そして、「君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞふる」 (歌意)あなたが来ることを信じて毎夜待っていました。もう当てにしまいと思っても、やはりあなたを恋つづけます。業平は、ついに八尾の里へ行くことなく、八尾女との縁を断ってしまいました。

『伊勢物語』は、年齢順に並んでいませんが、他の文や構成から23段は業平の若かりし30歳の頃の物語とみられています。なお、話は前後しますが、21・22段に京都の正妻と女の元から戻った業平との仲むつまじい歌のやり取りがあります。以後、天理女のことは出てきませんので、これきり別れたのかもしれません。何人目かの女人の天理女の元から八尾女の所へ通ったことになることから、この段は業平のことでなく挿話とする研究者もいます。しかし、総体的に違和感はなく、むしろ業平らしい物語に感じます。『伊勢物語』は、平安期の貴族から江戸期の庶民まで、大ベストセラーだったと思われ、この話を基に各地に数多い業平伝説を誕生させ業平道がつくられました。また、『源氏物語』と同様に多くの筆者が長年かけて物語を付け加えていき、現在の『伊勢物語』の姿になったと思われます。なお、二条の后・藤原高子とのロマンス、伊勢斎宮・恬子(やすこ)内親王との密通には興味があります。早く読んでみたい衝動にかられます。
『伊勢物語』の題名の由来  
『伊勢物語』題名の由来は諸説あります。 1伊勢斎宮との密通が物語のハイライトだから。 2女流歌人伊勢が物語に仕立てたということから。 3「伊勢や日向」ということわざから。この三つが取り沙汰されています。 
1 伊勢斎宮(さいぐう)とは、伊勢神宮に奉仕する皇女のこと。その恬子(やすこ)内親王は精進潔斎の身ですから男と交わることなど許されるわけのない皇女が密通したことは大不祥事です。 
2 伊勢は平安前期を代表する歌人で900年前後に活躍しました。伊勢は宇多天皇の更衣温子に仕え、温子の邸宅で『古今集』編纂後の業平の備忘録を見る機会があったとみられます。200首を越える和歌が載っています。和歌に精通した者でなければ編纂できないと思われることから、伊勢著作説が有力とされています。
3 「伊勢(いせ)や日向(ひゅうが)」ということわざは、話のつじつまが合わないこと、事の前後がはっきりしないこと、見当外れのこと、とりとめもないこと、などをいう。物語の構成が、年齢別に並んでいるわけでもなく、前後がちぐはぐになっているところがあるので、頷けるところもあります。 次項にあります。
民話「伊勢や日向」  
日向国(宮崎県)民話集に、「伊勢や日向の物語」と題する民話があります。 
推古天皇の辞世、日向の国に暮らす男が長患いの末41歳で死んだ。一方、伊勢の国でも同じ年の男が、同日同時刻に事故で不慮の死をとげた。二人は同時に閻魔庁の門をくぐることになった。日向の方は、寿命が尽きて死んだのだが、伊勢の方はまだ寿命が残っていることから、返してやろうということなった。しかし、伊勢の方の死体は火葬されてしまっているので、日向の男の屍に生き返らすことにした。知らせを聞いた伊勢の女は日向に行ったが、蘇生した男を夫と思えず、日向の女は夫と思った。一方、蘇生した男は、伊勢の女を妻と思い、日向の女は妻と思えなかった。(民話集要約)  
このようにちくはぐなこと、話のつじつまの合わないことを鎌倉期にすでに「伊勢や日向」と表現していたようです。   (注)『伊勢物語知顕抄』(1200年頃著作・作者不明)にあります。  
業平の東下り 
『伊勢物語』の"東下り"(あずまくだり)では関東地方の各地での女遍歴が面白おかしく描かれています。
東京に業平橋があり、今話題の東京スカイツリーのすぐそばのようです。業平橋の名は近くにあった業平天神(関東大震災のあと葛飾区へ移転)にちなむと伝え、地元では地名に愛着を持っているといいます。『江戸名所図会』によると、在原業平は好色がたたり左遷され、東国をさすらっているうちに、この地で舟から落ちて亡くなり、里人が哀れみ塚を築いて業平の霊を祀ったといいます。業平の死は、125段「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふ今日とは思はざりしを」 (歌意)死出の道を行くことは以前から聞いていましたが、その門出がこんな早く来るとは思っていなかったのに。  
『三代実録』は、業平の死は880(元慶4)年56歳と伝えています。場所は書かれていませんが、この時の官職からして京都だったことは疑いありません。
5
伊勢物語
伊勢物語(いせものがたり)は、平安時代初期に成立した歌物語。「在五が物語」「在五中将物語」「在五中将の日記」とも呼ばれる。全125段からなり、ある男の元服から死にいたるまでを歌と歌に添えた物語によって描く。歌人在原業平の和歌を多く採録し、主人公を業平の異名で呼んだりしている(第63段)ところから、主人公には業平の面影がある。ただし作中に業平の実名は出ず、また業平に伝記的に帰せられない和歌や挿話も多い。中には業平没後の史実に取材した話もあるため、作品の最終的な成立もそれ以降ということになる。書名の文献上の初見は源氏物語(絵合の巻)。
作者、成立共に未詳。物語の成立当時から古典教養の中心であり、各章段が一話をなし分量も手ごろで、都人に大変親しまれたと考えられている。『源氏物語』には『伊勢物語』を「古い」とする記述が見られ、注目されるが、一体作中のどの時点からどの位古いとするのかは説が分かれており、なお決着を見ていない。作者については当時から多く意見があった。伊勢物語の作者論は、作品そのものの成立論と不即不離の関係にある。古く古今和歌集と後撰和歌集の成立時期の前・間・後のいずれの時期で成立したか説が分かれていた。
作者について
藤原清輔の歌学書袋草子や古今集注の著者顕昭さらに藤原定家の流布本奥書に業平であろうと記述があり、さらに朱雀院の蔵書塗籠本にも同様の記述があったとある。また伊勢物語という題名から作者を延喜歌壇の紅一点の伊勢であるからとの説もあり、二条家の所蔵流布本の奥書に伊勢の補筆という記述がある。しかし明らかに『古今和歌集』との関係が強い章段も見られ、近年ではそのような業平の伝説や、『業平集』とは一線を画す必要があると考えられている。現在は概ね片桐洋一の唱えた「段階的成長」説が主流である。元来業平の歌集や家に伝わっていた話が、後人の補足などによって段階的に現在の125段に成長していったという仮説である。ただし増補があったとするには、現行の125段本以外の本がほぼ確認できないという弱みがある。最終的に秩序だって整理されたとするならば、その整理者をいわゆる作者とすべきではないか、という指摘も見られる。近代以前の作品の有り方は、和歌にせよ散文にせよそれ以前の作品を踏まえるのが前提であると考えられ、現代的な著作物の観念から見た作者とは分けて考える必要がある。そのような場合も含めて、個人の作者として近年名前が挙げられる事が多いのは、紀貫之らであるが、作者論は現在も流動的な状況にある。
内容構成
数行程度(長くて数十行、短くて2〜3行)の短章段の連鎖からなる。主人公の男が己の思いを詠み上げた独詠歌や、他者と詠み交わした贈答歌が各段の中核をなす。在原業平(825-880)の和歌を多く含み、業平の近親や知己も登場するけれども、主人公が業平と呼ばれることはなく(各章段は「昔、男…」と始まることが多い)、王統の貴公子であった業平とは関わらないような田舎人を主人公とする話(23段いわゆる「筒井筒」など)も含まれている。よって、主人公を業平と断言することははばかられ、業平の面影があるとか、業平らしき男、と言われる。また、章段の冒頭表現にちなんで、「昔男」と呼ぶことも、古くから行われてきた。各話の内容は男女の恋愛を中心に、親子愛、主従愛、友情、社交生活など多岐にわたるが、主人公だけでなく、彼と関わる登場人物も匿名の「女」や「人」であることが多いため、単に業平の物語であるばかりでなく、普遍的な人間関係の諸相を描き出した物語となりえている。複数の段が続き物の話を構成している場合もあれば、1段ごとに独立した話となっている場合もある。後者の場合でも、近接する章段同士が語句を共有したり内容的に同類であったりで、ゆるやかに結合している。現存の伝本では、元服直後を描く冒頭と、死を予感した和歌を詠む末尾との間に、二条后との悲恋や、東国へ流離する「東下り(あずまくだり)」、伊勢の斎宮との交渉や惟喬親王との主従愛を描く挿話が置かれ、後半には老人となった男が登場するという、ゆるやかな一代記的構成をとっている。一代記というフレームに、愛情のまことをちりばめた小話が列をなしてる様を櫛にたとえて櫛歯式構成という学者もいる。作中紀氏との関わりの多い人物が多く登場する事で知られる。在原業平は紀有常(実名で登場)の娘を妻としているし、その有常の父紀名虎の娘が惟喬親王を産んでいる。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されている。何らかの意図で藤原氏との政争に敗れても、優美であったという紀氏の有り様を美しく描いているとも考えられる。なお、斎宮との交渉を描く章段を冒頭に置く本もかつては存在したらしいが、藤原定家はそのような本を改ざんされた本と非難しており、伝本も確認できない。
書名の由来
古来諸説あるが、現在は、第69段の伊勢国を舞台としたエピソード(在原業平と想定される男が、伊勢斎宮と密通してしまう話)に由来するという説が最も有力視されている。その場合、この章段がこの作品の白眉であるからとする理解と、本来はこの章段が冒頭にあったからとする理解とがある。前者は、二条后や東下りなど他の有名章段ではなくこの章段が選ばれた必然性がいまひとつ説明できないし、後者は、そのような形態の本はむしろ書名に合わせるために後世の人間によって再編されたものではないかとの批判もあることから、最終的な決着はついていない。また、業平による伊勢斎宮との密通が、当時の貴族社会へ非常に重大な衝撃を与え(当時、伊勢斎宮と性関係を結ぶこと自体が完全な禁忌であった)、この事件の暗示として「伊勢物語」の名称が採られたとする説も提出されているが、虚構の物語を史実に還元するものであるとして強く批判されている。さらに、作者が女流歌人の伊勢にちなんだとする説、「妹背(いもせ)物語」の意味だとする説もある。また、源氏物語(総角の巻)には、『在五が物語』(在五は、在原氏の第五子である業平を指す)という書名が見られ、『伊勢物語』の(ややくだけた)別称だったと考えられている。
後世への影響
「いろごのみ」の理想形を書いたものとして、『源氏物語』など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えた。やや遅れて成立した歌物語、『大和物語』(950年頃成立)にも、共通した話題がみられる他、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』にも『伊勢物語』から採録されたと考えられる和歌が見られる。中世以降おびただしい数の注釈書が書かれ、それぞれ独自の伊勢物語理解を展開し、それが能『井筒』などの典拠となった。近世以降は、『仁勢物語』(にせものがたり)をはじめとする多くのパロディ作品の元となり、現代でも『江勢物語』(えせものがたり、清水義範著)といった模倣が生まれている。 
 
18.藤原敏行朝臣 (ふじわらのとしゆきあそん)  

 

住(すみ)の江(ゑ)の 岸(きし)に寄(よ)る波(なみ) よるさへや
夢(ゆめ)の通(かよ)ひ路(じ) 人目(ひとめ)よくらむ  
住の江の岸には昼夜を問わず波が打ち寄せてくる。夜に見る夢の中でさえ、あなたが私のところに通ってくれないのは、人目を避けているからだろうか。 / 住吉の海岸に打ち寄せる波の、そのよるという言葉ではありませんが、昼はもちろん、夜までもどうして私は夢の中の恋の通い道で人目を避けるのでしょう。 / 1.すみの江(現在の大阪市住吉区の海辺)の岸にうち寄る波の「よる」ということばのように、どうしてわたしは、夜の夢のなかまでも、恋するあなたの家へ通う路で、人目を避けるのでしょう。2.すみの江(現在の大阪市住吉区の海辺)の岸にうち寄る波の「よる」ということばのように、どうしてあなたは、夜の夢のなかまでも、人目を避けようとするのでしょう。 / 住の江の岸に打ち寄せる波のように (いつもあなたに会いたいのだが)、 どうして夜の夢の中でさえ、あなたは人目をはばかって会ってはくれないのだろう。
○ 住の江 / 歌枕。大阪市住吉区の海岸一帯。
○ 岸による波 / ここまでが序詞。次の「よる」にかかる。
○ よるさへや / 「よる」は、「寄る」と「夜」の掛詞。上を受けて「波寄る」となり、下に続いて「夜さへ」となる。「さへ」は、添加の副助詞。「昼はもちろん、夜までも」の意。「や」は、疑問の係助詞。結びは、「らむ」。
○ 夢の通ひ路 / 「通ひ路」は、男が女のもとに通って行く道。夢の中にさえ現れないことを表している。このことから、作者は男であるが、女の立場で詠んだ歌と解する。
○ 人めよくらむ / 「人め」は、「人目」で「他人の目」の意。「よく」は、「避く」で「避ける」の意。「らむ」は、「や」の結びで、現在推量の助動詞の連体形。 
1
藤原敏行(ふじわらのとしゆき、生年不詳 - 延喜7年(907年)または延喜元年(901年))は、平安時代前期の歌人・書家・貴族。藤原南家、藤原巨勢麻呂の後裔。陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の子。官位は従四位上・右兵衛督。三十六歌仙の一人。
貞観8年(866年)少内記。大内記・蔵人を経て、貞観15年(873年)従五位下に叙爵し、中務少輔に任ぜられる。のち、清和朝では大宰少弐・図書頭、陽成朝では因幡守・右兵衛佐を歴任し、元慶6年(882年)従五位上に叙せられた。仁和2年(886年)右近衛少将。
宇多朝では、寛平6年(894年)右近衛権中将、寛平7年(895年)蔵人頭と要職を歴任し、寛平8年(896年) 正月に従四位下に叙せられるが、同年4月病気により蔵人頭を辞任した。
寛平9年(897年)7月に醍醐天皇の即位に伴って、春宮亮を務めた功労として従四位上に叙せられ、同年9月に右兵衛督に任ぜられた。
書跡
小野道風が古今最高の能書家として空海とともに名を挙げたが、現存する書跡は、署名のある次のものだけである。
神護寺鐘銘
この銘は、禅林寺の真紹の発願によるものであるが、鋳型が出来上がる前に真紹が歿したので、和気彝範が遺志を継ぎ、貞観17年(875年)8月23日、志我部海継を雇い鋳成したことが序文に示されている。全文32行で、字数は245字である。謹厳な楷書で陽鋳(ようちゅう、浮き彫り)されている。隷書をよくした小野篁および紀夏井の流れを汲んだ勁健な書法である。なお、この銘文の序は橘広相、銘は菅原是善、書は敏行と、当時の三名家がそれぞれ成したので、古来「三絶の鐘」と呼ばれている。この神護寺の梵鐘は国宝。
逸話
『宇治拾遺物語』によれば、敏行は多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りも書いたが、魚を食うなど、不浄の身のまま書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという。他にも亡くなった直後に生き返り自らのお経を書いて、ふたたび絶命したという伝説もある。
代表歌
勅撰歌人として、『古今和歌集』(18首)以下の勅撰和歌集に28首が入集。家集に『敏行集』がある。
すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ(『古今和歌集』『小倉百人一首』18)
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(『古今和歌集』秋歌上169)
白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢに染むらん
2
藤原敏行 ふじわらのとしゆき 生年未詳〜延喜元(?-901)
陸奥出羽按察使であった南家富士麿の長男。母は紀名虎の娘。紀有常の娘(在原業平室の姉妹)を妻とする。子には歌人で参議に到った伊衡などがいる。貞観八年(866)、少内記。地方官や右近少将を経て、寛平七年(895)、蔵人頭。同九年、従四位上右兵衛督。『古今集和歌目録』に「延喜七年卒。家伝云、昌泰四年卒」とある(昌泰四年は昌泰三年=延喜元年の誤りか)。三十六歌仙の一人。能書家としても名高い。古今集に十九首、後撰集に四首採られ、勅撰集入集は計二十九首。三十六人集の一巻として家集『敏行集』が伝存する。一世代前の六歌仙歌人たちにくらべ、技巧性を増しながら繊細流麗、かつ清新な感覚がある。和歌史的には、まさに業平から貫之への橋渡しをしたような歌人である。
春 / 正月一日、二条の后の宮にて、しろき大袿おほうちきをたまはりて
ふる雪のみのしろ衣うちきつつ春きにけりとおどろかれぬる(後撰1)
(降る雪のように真っ白い蓑代衣を着ておりますと、暖くて、おや私のもとにも春が来たのだなあと気づきました。)
寛平御時、桜の花の宴ありけるに、雨の降り侍りければ
春雨の花の枝より流れこばなほこそ濡れめ香もやうつると(後撰110)
(春雨が桜の枝から流れ落ちて来たら、もっと濡れよう。花の香が移るかもしれないから。)
藤花の宴せさせたまひける時よみける
藤の花かぜ吹かぬよはむらさきの雲たちさらぬところとぞ見る(秋風集)
(藤の花は、風が吹かない夜には、紫色の瑞雲がいつまでも立ち去らない所と見えるよ。)
秋 / 秋立つ日、よめる
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今169)
(秋が来たと目にははっきりと見えないけれども、風の音にはっと気づいた。)
是貞のみこの家の歌合のうた
秋の夜のあくるもしらずなく虫はわがごと物やかなしかるらむ(古今197)
(秋の長夜が明けるのも知らずに哭き続ける虫――私のように何か悲しくて堪らないのだろう。)
是貞のみこの家の歌合によめる
秋萩の花咲きにけり高砂のをのへの鹿は今やなくらむ(古今218)
(秋萩の花が咲いた。山の尾根の鹿は今頃妻恋しさに啼いているだろうか。)
是貞のみこの家の歌合のうた
秋の野にやどりはすべしをみなへし名をむつましみ旅ならなくに(古今228)
(宿るなら秋の野に野宿しよう。「をみなへし」という名を慕わしく思って――。私は旅をしている身ではないけれども。)
是貞のみこの家の歌合によめる
なに人かきてぬぎかけし藤袴くる秋ごとに野べをにほはす(古今239)
(どんな人がやって来て、着ていたのを脱いで掛けたのか。藤袴は、秋が来るたび野辺を美しく彩り、良い香りを漂わせるよ。)
是貞のみこの家の歌合によめる
白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢにそむらん(古今257)
(白露の色は一色なのに、どうして秋の木の葉を多彩な色に染めるのだろう。)
寛平御時、菊の花をよませたまうける
久方の雲のうへにて見る菊はあまつ星とぞあやまたれける(古今269)
(雲上界で拝見する菊は、天の星かと間違えてしまいました。)
是貞のみこの家の歌合の歌
わが来つる方もしられずくらぶ山木々の木の葉の散るとまがふに(古今295)
(歩いて来た方角も判らない。ただでさえ「くら」い「くらぶ山」は、木の葉が散り乱れて見分けがつかずに。)
物名 / うぐひす
心から花のしづくにそぼちつつうくひずとのみ鳥のなくらむ(古今422)
(自分の心から花の雫に濡れながら、「憂(う)く干(ひ)ず」――翼が乾かなくて辛いとばかり、この鳥は鳴くのだろうよ。)
ほととぎす
くべきほどときすぎぬれや待ちわびてなくなる声の人をとよむる(古今423)
(「やって来るはずの時はもう過ぎたのだろうか。今年は聞き逃してしまったのか」と、人々が待ちあぐねた挙句、ようやく鳴く声が聞こえた。その声が人々を喜ばせ、歓声をあげさせる。)
恋 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた(二首)
恋ひわびてうちぬる中に行きかよふ夢のただぢはうつつならなむ(古今558)
(恋に悩んで悶々と過ごすうち、ふっと落ちた眠りの中で、あの人に逢えた。夢の中で往き来する道は、まっすぐあの人のもとに通じているのだ。現実もそうであったらいいのに。)
すみの江の岸による波よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ(古今559)
(住の江の岸に寄る波は、昼も夜もしきりとやって来るのに、あなたは来てくれない。暗い夜でさえ、夢の通い路で、人目を避けるのだろうか。)
業平の朝臣の家に侍りける女のもとによみてつかはしける
つれづれのながめにまさる涙川袖のみぬれて逢ふよしもなし(古今617)
(何も手につかず物思いに耽っていると、長雨に増水する川のように涙の川も水嵩が増してくる。私は袖を濡らすばかりで、あなたに逢うすべもない。)
寛平御時きさいの宮の歌合のうた
あけぬとてかへる道にはこきたれて雨も涙もふりそぼちつつ(古今639)
(夜が明けたからと帰って行く道には、雨も涙も、はげしくしたたって、衣をびっしょり濡らして降り続けています。)
女につかはしける
わが恋のかずをかぞへば天の原くもりふたがりふる雨のごと(後撰795)
(あなたに対する私の恋を数に置き換えれば、空いちめん掻き曇り降る雨のようなもので、とても数えられるものではない。)
雑 / 寛平御時に、うへのさぶらひに侍りけるをのこども、甕をもたせて、后の宮の御方に大御酒みきの下ろしと聞えに奉りたりけるを、蔵人くらうどども笑ひて、甕を御前おまへにもていでて、ともかくも言はずなりにければ、使の帰り来て、さなむありつると言ひければ、蔵人の中に贈りける
玉だれの子亀やいづらこよろぎの磯の波わけおきにいでにけり(古今874)
(題詞:宇多天皇の御時、清涼殿の殿上の間に侍っていた侍臣たちが、酒を入れる甕を使に持たせ、皇后宮(班子女王)の御所へ大御酒のお下がりを下さいとお願いしに差し上げた。ところが女蔵人(下臈の女房)たちは笑ってその甕を皇后の御前に持っていったものの、その後は何とも音沙汰がない。仕方無しに使は帰って来て、「こういう事情でございました」と言ったので、女蔵人のところへ贈った。歌:子亀はどこにいるのでしょう。こよろぎの磯の波を分けて沖に出てしまったのでしたか。)
おなじ御時、うへのさぶらひにて、をのこどもに大御酒たまひて、大御遊びありけるついでにつかうまつれる
老いぬとてなどかわが身をせめぎけむ老いずは今日に逢はましものか(古今903)
(年を取ってしまったと、なぜ我が身を責めたりしたのだろう。老いるまで生きなかったら、今日のような良き日には出逢えなかっただろう。) 
3
伊勢物語絵巻百七段 / 涙河
むかし、あてなるをとこありけり。そのをとこのもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど若ければ、文もをさをさしからず、ことばもいひ知らず、いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案をかきて、かかせてやりけり。めでまどひにけり。さてをとこのよめる。
  つれづれのながめにまさる涙河袖のみひぢてあふよしもなし
返し、例のをとこ、女にかはりて、
  あさみこそ袖はひづらめ涙河身さへながると聞かば頼まむ
といへりければ、をとこいといたうめでて、今まで巻きて、文箱に入れてありとなむいふなる。をとこ、文おこせたり。得てのちのことなりけり。雨のふりぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨はふらじ、といへりければ、例のをとこ、女にかはりてよみてやらす。
  かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる
とよみてやれりければ、蓑も傘も取りあへで、しとどに濡れて惑ひ来にけり。
(文の現代語訳)
昔、ある高貴な男があった。その男のところにいたある女に、内記であった藤原の敏行という人が言い寄っていた。だが女はまだ若いので、手紙もろくに書けず、言葉の使い方も知らず、いわんや歌を読むことなどできなかったので、女の主人が、下書きを書いて、女に書かせて送らせてやった。敏行はそれを読んでたいそう感心した。そこで敏行は次のような歌を読んで贈ったのだった。
  やるせない思いにもまさって深い涙の川ですが、濡れるのは袖ばかりで、川を渡ってあなたと会うことができません
これに対して、主人の男が女に代って、
  浅いから袖が濡れないのでしょう、あなたの身が流れる程川が深いと聞いたならば、あなたを頼りにいたしましょう
と読んでやったので、敏行はいたく感心して、その文を巻物にして、文箱に保存しているということだ。さて、その敏行が女にまた文を送った。女と結ばれた後のことだったという。それは、雨が降っているのでどうしようか迷っています、私の身に幸運があれば、この雨が降ることはないでしょう、という内容だった。すると女の主人が、女にかわって、次のような歌を読んで返したのだった。
あれやこれやとあなたが私を思ってくれるのか、それとも思ってくれないのか、聞くわけにもいかず、私の心のうちを知っている雨は、このように降るばかりなのでしょう
そこで敏行は、蓑も傘もとりあえず、ずぶ濡れになりながら、大慌てで駆けつけてきたということである。
(文の解説)
○ あてなる:気品がある、高貴な、○ 内記:中司省に所属する役人、○ 藤原敏行:古今集にも出てくる歌人、○ よばひけり:言い寄った、求婚した、○ をさをさしからず:しっかりとしていない、○ めでまどひにけり:どうしてよいかわからないほど感心した、○ つれづれの:みたされない思い、やるせない:○ 袖のみひぢて:袖ばかり濡れて、○ あさみこそ:浅いので、○ 雨のふりぬべきになむ:雨が降りそうなので、○ 見わづらひはべる:判断に迷う、○ かずかずに:あれやこれやと、○ 問ひがたみ:問うわけにいかないので、○ 身をしる雨:身の程を知っている雨、○ しとどに:ぐっしょりと、
(絵の解説)
主人(業平)が、女にかわって文を書いているところを描く。
(付記)
藤原敏行は、藤原不比等の末孫である。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」などの歌が古今集に載っており、三十六歌仙の一人にも数えられている。その男と、業平のところにいたというある女との間の愛のやり取りを歌ったのがこの段の趣旨だ。業平は、他の段では、翁とか歌を知らずとか、マイナーなイメージに描かれることが多いのだが、この段では、身分も高貴で、歌にも熟達した人物として、理想化されて描かれている。  
 
19.伊勢 (いせ)  

 

難波潟(なにはがた) 短(みじか)き蘆(あし)の ふしの間(ま)も
逢(あ)はでこの世(よ)を 過(す)ぐしてよとや  
難波潟に生えている芦の短い節の間のような、ほんの短い時間も逢わないまま、一生を終えてしまえとあなたは言うのでしょうか。 / 難波潟に生い育つあの葦の節と節の短い間のように、そんな短い間でさえ、あなたとお逢いしないで、このままこの世を過ごせとおっしゃるのですか。とてもできません。 / 難波潟(現在の大阪湾)に生える葦の、短い節と節の間のような短い間でさえも、あなたに会わないで、どうやってこの世を過ごせとおっしゃるのでしょうか。 / 難波潟の入り江に茂っている芦の、短い節と節の間のような短い時間でさえお会いしたいのに、それも叶わず、この世を過していけとおっしゃるのでしょうか。
○ 難波潟 / 現在の大阪市の海岸。「潟」は、干潮時に砂地が現れる遠浅の海岸。
○ みじかき芦の / ここまでが序詞。「芦」は、イネ科の植物。節の間が短い。
○ ふしの間も / 「ふしの間」は、上を受けた「節と節との短い間」と下へ続く「わずかな時間」の掛詞。それぞれ、空間と時間の短さをを表す。
○ 逢はでこの世を / 「逢ふ」は、男女関係を結ぶこと。また、その目的で会うこと。「で」は、打消の接続助詞で活用語の未然形に接続。「〜ないで」の意。「世」は、「世の中」に加えて「男女の仲」の意もある。また、芦の節と節の間を意味する「節(よ)」とあわせて、「芦・世・節」で縁語となっている。
○ 過ぐしてよとや / 「てよ」は、完了の助動詞「つ」の命令形。「と」は、引用の格助詞。「や」は、疑問の係助詞。下に、「言う」が省略されている。 
1
伊勢 (いせ、872年(貞観14年)頃 - 938年(天慶元年)頃)は平安時代の日本の女性歌人。三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。藤原北家真夏流、伊勢守藤原継蔭の娘。伊勢の御(いせのご)、伊勢の御息所とも呼ばれた。
はじめ宇多天皇の中宮温子に女房として仕え、藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受けその皇子を生んだが早世した。その後は宇多天皇の皇子敦慶親王と結婚して中務を生む。宇多天皇の没後、摂津国嶋上郡古曽部の地に庵を結んで隠棲した。
情熱的な恋歌で知られ、『古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に176首が入集し、『古今和歌集』・『後撰和歌集』(65首)・『拾遺和歌集』(25首)では女流歌人として最も多く採録されている。また、小倉百人一首にも歌が採られている。家集に『伊勢集』がある。
小倉百人一首 / 難波潟 みじかき芦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや
今昔秀歌百撰 / あひにあひて 物思ふころの わが袖に やどる月さへ ぬるる顔なる 
2
伊勢は平安中期の女流歌人です。宇多天皇の后であった、温子に仕えた女房です。父、藤原継蔭が伊勢守であったため、伊勢とよばれました。早くから歌の才能を発揮し、勅撰和歌集「古今和歌集」には小野小町の18首をしのぐ22首が選ばれています。優美な歌風で古今集時代屈指の歌人です。
後に宇多天皇の皇子を産み、桂の宮で養育しますが幼くして亡くなります。その後、宇多天皇の皇子である、敦慶親王との間に娘を設けました。それが女流歌人として有名な中務です。家集に「伊勢集」があり、後の紫式部の源氏物語はこの家集に依るところが多いのではないかと言われています。
晩年、古曽部に移り住んだといわれ、その旧居跡は、「伊勢寺」として今に伝えられています。伊勢寺には伊勢のものと伝えられる、硯、銅鏡が収められています。
古曽部で詠んだと言われている歌
○ 見る人もなき山里のさくら花 ほかのちりなんのちぞさかまし (伊勢集) 
3
伊勢 生没年未詳
伊勢の御、伊勢の御息所みやすどころとも称される。藤原北家、内麻呂の裔。伊勢守従五位上藤原継蔭の娘。歌人の中務の母。生年は貞観十六年(874)、同十四年(872)説などがある。没年は天慶元年(938)以後。若くして宇多天皇の后藤原温子に仕える。父の任国から、伊勢の通称で呼ばれた。この頃、温子の弟仲平と恋に落ちたが、やがてこの恋は破綻し、一度は父のいる大和に帰る。再び温子のもとに出仕した後、仲平の兄時平や平貞文らの求愛を受けたようであるが、やがて宇多天皇の寵を得、皇子を産む(『古今和歌集目録』には更衣となったとある)。しかしその皇子は五歳(八歳とする本もある)で夭折。宇多天皇の出家後、同天皇の皇子、敦慶(あつよし)親王と結ばれ、中務を産む。延喜七年(907)、永く仕えた温子が崩御。哀悼の長歌をなす。天慶元年(938)十一月、醍醐天皇の皇女勤子内親王が薨じ、こののち詠んだ哀傷歌があり、この頃までの生存が確認できる。歌人としては、寛平五年(893)の后宮歌合に出詠したのを初め、若い頃から歌合や屏風歌など晴の舞台で活躍した。古今集二十三首、後撰集七十二首、拾遺集二十五首入集は、いずれも女性歌人として集中最多。勅撰入集歌は計百八十五首に及ぶ。家集『伊勢集』がある。特に冒頭部分は自伝性の濃い物語風の叙述がみえ、『和泉式部日記』など後の女流日記文学の先駆的作品として注目されている。三十六歌仙の一人。
春 / 帰雁をよめる
春霞たつを見すててゆく雁かりは花なき里に住みやならへる(古今31)
(春霞が立つのを見捨ててゆく雁は、花の無い里に住み慣れているのだろうか。)
水のほとりに梅の花咲けりけるをよめる (二首)
春ごとに流るる川を花と見て折られぬ水に袖や濡れなむ(古今43)
(春になる毎に、流れる川に映った影を花と見誤って、折ることのできない水に袖が濡れるのだろうか。)
年を経て花の鏡となる水はちりかかるをや曇ると言ふらむ(古今44)
(永年のあいだ、花を映す鏡となっている水は、普通の鏡とは違って塵がかかるのを曇るというのでなく、花が散りかかるのを曇ると言うのだろうか。)
春の心を
青柳の糸よりはへて織るはたをいづれの山の鶯か着る(後撰58)
(青柳の糸をねじり合わせて延ばして織った布を、どこの山の鶯が着るのだろうか。)
寛平御時后宮の歌合歌
水のおもにあやおりみだる春雨や山のみどりをなべて染むらん(新古65)
(水面に綾を乱すように織る春雨が、山の緑をすべて染め上げるのだろうか。)
斎院の屏風に山道ゆく人ある所
散り散らず聞かまほしきをふるさとの花見て帰る人も逢はなむ(拾遺49)
(散ったか、散っていないか、尋ねたいのだが。古里の花見から帰る人にでも、出逢えないものだろうか。)
やよひにうるふ月ありける年よみける
さくら花春くははれる年だにも人の心に飽かれやはせぬ(古今61)
(桜の花は、ひと月余分に春が多い年でさえ、人の心に満足されずに散ってしまうのか。飽きるまで咲いていておくれ。)
題しらず
山桜ちりてみ雪にまがひなばいづれか花と春に問はなむ(新古107)
(山桜が雪と見分けがたく舞い散るのであれば、どれが花かは春に問いましょう。)
亭子院歌合の時よめる
見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむのちぞ咲かまし(古今68)
(見る人もない山里の桜花よ、おまえ以外の花がすっかり散ってしまったあとに咲けばよいのに。)
夏 / 女の物見にいでたりけるに、こと車かたはらに来たりけるに、物など言ひかはして、後につかはしける
時鳥ほととぎすはつかなるねを聞きそめてあらぬもそれとおぼめかれつつ(後撰189)
(ほととぎすのかすかな鳴き声を初めて聞いて、それからというもの、何を聞いてもほととぎすの声かと聞き違えられて、いったいどうしたのかと思っています。)
(題欠)
宵のまに身を投げはつる夏虫は燃えてや人に逢ふと聞きけむ(伊勢集)
(夜の間に火中へ身を投げて命果てた夏虫は、身を燃やすことで恋しい人に逢えると聞いたのだろうか。)
秋 / 法皇、伊勢が家の女郎花を召しければ、たてまつるを聞きて   枇杷左大臣
女郎花折りけむ枝のふしごとに過ぎにし君を思ひいでやせし
(折り取った女郎花の枝の節ごとに――折節折節、去って行かれた法皇様のことを思い出したでしょうか。)
返し
をみなへし折りも折らずもいにしへをさらにかくべきものならなくに(後撰350)
(折るも折らないも、女郎花は昔のことを思い出させる花では全くありませんのに。)
(題欠)
萩の月ひとへに飽かぬものなれば涙をこめてやどしてぞみる(伊勢集)
(萩の花に照る月影は、ひたすらに見ても飽きないものなので、目に涙を籠めておいて、その中に宿していつまでも眺めるのだ。)
前栽に鈴虫をはなち侍りて
いづこにも草の枕をすず虫はここを旅とも思はざらなむ(拾遺179)
(どこにあっても草を枕とする鈴虫だが、放ちやったこの庭を旅の宿とは思わないでほしい。どうか我が宿と思って、ここに居着いてほしいものだ。)
恋 / 題しらず
忘れなむ世にもこしぢの帰かへる山いつはた人に逢はむとすらむ(新古858)
(忘れてしまおう。まさかあの人は来るまい――遠い越路の帰山・五幡山から、いつまた帰って私に逢おうというのか。)
題しらず
わが恋はありその海の風をいたみしきりによする浪のまもなし(新古1064)
(私の恋心といったら、休む暇もない。有磯海(ありそうみ)に吹く風が激しいために、頻りに寄せる大波に絶え間がないように。)
思ふことありけるに
身の憂きをいはばはしたになりぬべし思へば胸のくだけのみする(伊勢集)
(我が身のつらさを口に出したいけれど、言えば中途半端になってしまうにちがいない。かと言って心の中で思っていれば、胸が砕けるばかりなのだ。)
題しらず
知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名の空にたつらむ(古今676)
(恋の秘密は枕が知るというので、枕さえしないで寝たのに。枕に積もる塵が目に立つというが、どうして塵ならぬ噂が根拠もなしに立つのだろう。)
しのびて知りたりける人を、やうやう言ひののしりければ、冠かうぶりの箱に玉を入れたりければ、それに、女の結いひつけたりける
たきつせと名のながるれば玉の緒のあひ見しほどを比べつるかな(伊勢集)
(噂が激流となって流れましたので、玉の緒のように短い逢瀬と、程度の差を比べてしまいました。)
題しらず
夢にだに見ゆとは見えじ朝な朝なわがおもかげに恥づる身なれば(古今681)
(夢でさえ逢ったとは見られたくない。毎朝、鏡に映った自分の面ざしに恥じ入る身であるから。)
心のうちに思ふことやありけむ
見し夢の思ひ出でらるる宵ごとに言はぬを知るは涙なりけり(後撰825)
(恋しい人に逢った夢が思い出される宵ごとに、涙がこぼれてしまう。誰にも告げていない秘めた思いを知るのは、涙であったのだ。)
題しらず
わたつみとあれにし床を今更にはらはば袖やあわとうきなむ(古今733)
(恋人に去られ、海の如くに濡れ荒れた寝床を、今更払おうとしたところで、私の袖は泡のように涙の海に浮き漂うだけだろう。)
題しらず
ふるさとにあらぬものから我がために人の心のあれて見ゆらむ(古今741)
(人の心は、荒れて行く古里でもないのに、どうして私にとっては、疎遠になってゆくように見えるのだろうか。)
題しらず
あひにあひて物思ふころのわが袖にやどる月さへぬるる顔なる(古今756)
(よくもまあ合いにも合って――物思いに耽っている時分の私の袖では、宿っている月さえ濡れた顔をしていることよ。)
まかる所知らせず侍りける頃、又あひ知りて侍りける男のもとより、「日頃たづねわびて、失せにたるとなむ思ひつる」と言へりければ
思ひ川たえずながるる水のあわのうたかた人に逢はで消えめや(後撰515)
(思い川の絶えず流れる水――そこに浮かぶ泡のようにはかなく、あなたと逢わずして消えるなどということがあるでしょうか。)
すまぬ家にまで来て紅葉に書きて言ひつかはしける   枇杷左大臣
人すまず荒れたる宿を来て見れば今ぞ木の葉は錦おりける
((通いが途絶えていた女の家にやって来て、紅葉に歌を書いて贈った。)人も住まずに荒れた家に来てみましたら、今まさに木の葉が錦を織ったように美しく紅葉していたことです。)
返し
涙さへ時雨にそひてふるさとは紅葉の色もこさまさりけり(後撰459)
(時雨が降るのに伴って、涙さえしきりと落ちる古里は、血の涙に染まって紅葉の色もいっそう濃くなったことです。)
仲平の朝臣あひしりて侍りけるを、離かれがたになりにければ、父が大和の守に侍りけるもとへまかるとて、よみてつかはしける
みわの山いかに待ち見む年ふともたづぬる人もあらじと思へば(古今780)
(三輪山で、どのように待って、あなたに逢えるというのだろうか。たとえ何年経とうとも、訪ねてくれる人などあるまいと思うので。)
女につかはしける      贈太政大臣
ひたすらに厭ひはてぬる物ならば吉野の山にゆくへ知られじ
(貴女が私をひたすら最後まで厭い続けるのなら、私は世を厭い、吉野の山に籠って行方をくらましてしまおう。)
返し
我が宿とたのむ吉野に君し入らば同じかざしをさしこそはせめ(後撰809)
(私の住み処も吉野をあてにしていましたので、あなたが隠れ住むのでしたら、名高い吉野の桜の枝で仲良く同じ挿頭をさして山人になりましょう。)
にごり江のすまむことこそ難からめいかでほのかに影をだに見む
(濁り江だから、澄むことは難しいのでしょう。なんとか水面に映ったあなたの影だけでも、ほのかに見たい。)
返し
すむことのかたかるべきに濁り江のこひぢに影のぬれぬべらなり(伊勢集)
(おっしゃるように、すむことは難しいのでしょう。それで、泥水に映った私の影は濡れている様子です。)
人の返り事せざりければ、かへでを折りて、時雨のする日
ことのはのうつろふだにもあるものをいとど時雨のふりまさるらむ(伊勢集)
(ただでさえ楓の葉がうつろうのに、さらに時雨が激しさを増して降るのだろうか。)
人に忘られたりと聞く女のもとにつかはしける   よみ人しらず
世の中はいかにやいかに風のおとをきくにも今は物やかなしき
(どうお過ごしですか。お二人の仲は、いかがなりましたこと。吹きつのる風の音を聞くにつけても、今は物悲しいのでは。)
返し
世の中はいさともいさや風のおとは秋に秋そふ心地こそすれ(後撰1293)
(二人の仲は、さあ、どうでしょうか。風の音は秋に秋が添う心地がしますけれど。)
題しらず (二首)
みくまのの浦よりをちに漕ぐ舟の我をばよそにへだてつるかな(新古1048)
(熊野の浦を遠く離れて漕いでゆく舟のように、あの人は私を他人として隔ててしまったのだ。)
難波潟なにはがたみじかき蘆あしのふしのまも逢はでこの世をすぐしてよとや(新古1049)
(難波潟――その水辺に生える短い蘆の節の間のような、ほんのわずかの間さえ、あなたと逢わずに、この世をむなしく終えてしまえとおっしゃるのですか。)
(題欠)
沖つ藻をとらでややまむほのぼのと舟出しことは何によりてぞ(伊勢集)
(沖の海藻を取らずにやめたりしようか。ほのぼのと明ける頃、船出したのは何ゆえだったのか。)
(題欠)
空蝉の羽はにおく露の木こがくれてしのびしのびに濡るる袖かな(伊勢集)
(蝉の羽におく露が木の間に隠れて人に見えないように、自分も人に隠れて忍び忍びに涙に袖を濡らすことよ。)
物いみじうおもひはべりしころ
わびはつる時さへ物のかなしきはいづこをしのぶ涙なるらむ(伊勢集)
(くよくよと悩んで疲れ切ってしまった時でさえ、何となく心が悲しいのは、どの人を偲んで流す涙ゆえなのだろうか。)
物思ひけるころ、ものへまかりけるみちに野火のもえけるをみてよめる
冬がれの野べとわが身をおもひせばもえても春を待たましものを(古今791)
(我が身を冬枯れの野辺と思うことができるなら、このように恋の苦しさに焼かれながらも、新しい草が育つ春を待とうものを。)
題しらず
人知れず絶えなましかば侘びつつも無き名ぞとだに言はましものを(古今810)
(世間の人に知られることのないままこの恋が終わったのだったら、歎きつつも、事実無根の噂だったとだけでも言おうものを。すでに知られてしまった仲なのだから、そんな言い訳もむなしい。恋人を失った上に、世間の噂の種にまでなってしまうとは…。)
題しらず(三首)
年月の行くらむ方もおもほえず秋のはつかに人の見ゆれば(拾遺906)
(歳月はいつの間に移ってゆくのだろう――その感覚も失っている。秋の果てようかという頃、ほんの僅かにあの人に逢ったので。)
思ひきやあひ見ぬほどの年月をかぞふばかりにならむものとは(拾遺907)
(思いもしなかった。逢わなくなってどれ程経ったか、その年月を数えるほどになろうとは。)
遥かなる程にもかよふ心かなさりとて人の知らぬものゆゑ(拾遺908)
(遥かな距離まで通う私の心であるよ。とは言え、あの人は知りもしないのだけれど。)
題しらず
思ひいづや美濃のを山のひとつ松ちぎりしことはいつも忘れず(新古1408)
(あなたも思い出すでしょうか。美濃の御山の一つ松――その枝を結んで誓い合ったことは、片時も忘れずにいます。)
哀傷 / 大和に侍りける母みまかりてのち、かの国へまかるとて
ひとりゆくことこそ憂けれふるさとの奈良のならびて見し人もなみ(後撰1403)
(一人で行くことが辛いのです。昔住んでいた奈良――その古京を二人並んで見物した人も今はいないので。)
題しらず
ほどもなく誰もおくれぬ世なれども留まるは行くをかなしとぞ見る(後撰1419)
(遅かれ早かれやがては誰も死んでゆくこの世だけれども、留まる者は逝く者を悲しいと見るのである。)
一つがひ侍りける鶴のひとつがなくなりにければ、とまれるがいたく鳴き侍りければ、雨の降り侍りけるに
なく声にそひて涙はのぼらねど雲のうへより雨とふるらむ(後撰1423)
([詞書] つがいで飼っていた鶴の片方が死んでしまって、生き残った方がひどく鳴くので、雨が降っていたのに寄せて [歌] 涙は、鳴き声に添って空へのぼってゆくわけでもないのに、雲の上から雨となって降るのだろうか。)
産みたてまつりたりける御子の亡くなりて、又の年時鳥を聞きて
しでの山こえてきつらむ時鳥ほととぎすこひしき人のうへかたらなむ(拾遺1307)
(死出の山を越えてやって来たのだろうか。ほととぎすよ、恋しい我が子の身の上を語ってほしい。)
七条の后うせたまひにけるのちによみける
沖つ浪 荒れのみまさる 宮の内は 年へて住みし 伊勢のあまも 舟流したる 心地して 寄らむかたなく かなしきに 涙の色の くれなゐは 我らがなかの 時雨にて 秋のもみぢと 人々は おのがちりぢり わかれなば たのむかげなく なりはてて とまるものとは 花すすき 君なき庭に むれたちて 空をまねかば 初雁の なき渡りつつ よそにこそ見め(古今1006)
(沖の浪が荒いように、荒れてゆくばかりの宮殿の内では、長年住んだ伊勢の海女とも言うべき賤しい私も、舟を流して失ったような心地がして、寄る辺もなく悲しくて――涙の色の紅は、私たちの間に降る時雨のようで、雨に色を増す秋のもみじ葉のように、人々は散り散りに別れてしまったなら、寄りすがる木陰がないように、頼りとする人もなくなってしまって、ここに留まるものと言えば、花薄ばかりが、あるじのいない庭に、群がり立っていて、空を招くように揺れると、空には初雁が鳴いて渡りながら何処かよそへと去ってゆく――そのように私も、これからはよそながら御殿を拝見するのでしょう。)
みかどの御国忌に
花すすき呼子鳥にもあらねども昔恋しきねをぞなきぬる(伊勢集)
(呼子鳥ではないけれども、昔を恋しさに声あげて泣いているのです。)
雑 / 五条内侍のかみの賀、民部卿清貫し侍りける時、屏風に
大空に群れたるたづのさしながら思ふ心のありげなるかな(拾遺284)
(大空に群らがっている無心の鶴も、一つの方向を指しながら飛んでゆく――さながら彼らにも長寿を祝う心があるかのようだ。)
からさき
浪の花おきからさきて散りくめり水の春とは風やなるらむ(古今459)
(浪の花は沖から咲いて散って来るようだ。水の上の春とは、風がそうなるのだろうか。)
龍門にまうでて、滝のもとにてよめる
たちぬはぬ衣きぬきし人もなきものをなに山姫の布さらすらむ(古今926)
(裁ちも縫いもしない衣を着た仙人もいないのに、なぜ山の女神は布をさらすのだろうか。)
賀茂に詣でて侍りける男の見侍りて、「今はな隠れそ、いとよく見てき」と言ひおこせて侍りければ
そらめをぞ君はみたらし川の水あさしやふかしそれは我かは(拾遺534)
(あなたは見間違いをなさったようです。御手洗川の水は浅いのか深いのか。あなたの見たとおっしゃるのは本当に私でしょうか。)
今は道に出でて、越部といふ所に宿りぬ。かの御寺のあはれなりしを思ひ出でて
みもはてず空に消えなでかぎりなく厭ふ憂き世に身のかへりくる(伊勢集)
と一人ごちて、袖もしぼるばかりに泣きぬらしけり。
(趣ある寺を見尽くしもせず、この身を捨て果てもせず、仙人のように空に消え去りもしないで、限りなく厭うこの現世に我が身は帰って来てしまった。)
桂に侍りける時に、七条の中宮のとはせたまへりける御返り事にたてまつれりける
久方の中におひたる里なれば光をのみぞたのむべらなる(古今968)
(月の中に桂が生えているという伝説に因む桂の里ですので、皇后様に喩えられる月の光の御恵みばかりを頼りにするようでございます。)
長恨歌の屏風を、亭子院のみかど描かせたまひて、その所々詠ませたまひける、みかどの御になして(二首)
もみぢ葉に色みえわかずちる物はもの思ふ秋の涙なりけり(伊勢集)
(紅葉した葉と色が区別できずに散るものは、物思いに耽る私の秋の涙であったよ。)
かくばかりおつる涙のつつまれば雲のたよりに見せましものを(伊勢集)
(このほどまで流れ落ちる涙が包めるものなら、雲の上への便りに贈って見せるだろうに。)
亭子のみかどおりゐたまうける秋、弘徽殿の壁に書きつけ侍りける
別るれどあひも惜しまぬももしきを見ざらむことやなにか悲しき(後撰1322)
(別れても、一緒に惜しんでくれる者などいない宮中ですから、見ることができなくなっても悲しくなどありません。)
歌召しけるときに、たてまつるとて、よみて奥に書きつけてたてまつりける
山川の音にのみ聞くももしきを身をはやながら見るよしもがな(古今1000)
(今やお噂に聞くばかりの大宮を、我が身を昔ながらに戻して拝見するすべがほしいものです。)
題しらず
もろともにありし昔を思ひ出でて花見るごとにねこそ泣かるれ(続古今1524)
(ご一緒しておりました昔を思い出して、桜の花を眺めるたびに声をあげて泣いてしまうのです。)
題しらず
難波なるながらの橋もつくるなり今は我が身をなににたとへむ(古今1051)
(難波にある長柄の橋も新造すると聞く。今となっては、古びた我が身を何に喩えようか。)  
 
20.元良親王 (もとよししんのう)  

 

わびぬれば 今(いま)はたおなじ 難波(なにわ)なる
みをつくしても 逢(あ)はむとぞ思(おも)ふ  
思いどおりにいかなくなってしまったのだから、今となっては同じことだ。難波にある航行の目印、澪標(みおつくし)ではないが、身を尽くしても逢おうと思う。 / うわさが立ち、逢うこともままならない今は、もはや身を捨てたのも同じこと。それならばいっそ難波潟の「みをつくし」ではありませんが、この身を捨ててもあなたにお逢いしたい。 / 逢うこともできないで、このように思いわずらっているいまは、もう身を捨てたのと同じことです。いっそのこと、難波潟(現在の大阪湾)にみえる航路を示す杭である「澪標(みおつくし)」の名のように、身を尽くしてでもあなたに逢いたいと思うのです。 / あなたにお逢いできなくて) このように思いわびて暮らしていると、今はもう身を捨てたのと同じことです。いっそのこと、あの難波のみおつくしのように、この身を捨ててもお会いしたいと思っています。
○ わびぬれば / 「わび」は、上二段の動詞「わぶ」の連用形で、「思いどおりにいかない」の意。後撰集の詞書によると、元良親王と京極の御息所(藤原時平の娘、褒子。宇多天皇の寵愛を受けた妃)との不倫が発覚し、追いつめられた状況。「ぬれば」は「完了の助動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。「〜たのだから」の意。
○ 今はた同じ / 「今」は、不倫が発覚して噂が広まった現在。「はた」は、副詞で、「また」の意。「同じ」は、形容詞の終止形で、二句切れ。
○ 難波なる / 「難波」は、現在の大阪市一帯。「なる」は、存在の助動詞「なり」の連体形で、「〜にある」の意。
○ みをつくしても / 「みをつくし」は、「澪標」と「身を尽くし」の掛詞。上を受けて「難波なる澪標」で「難波にある澪標」の意、下へ続いて「身を尽くしても」で、「身を滅ぼしてでも」の意となる。
○ 逢はむとぞ思ふ / 「ぞ」と「思ふ」は係り結び。「逢ふ」は、この場合、「恋愛関係を貫き通す」という意。「む」は、意志の助動詞。「ぞ」は強意の係助詞。「思ふ」は、動詞の連体形で「ぞ」の結び。  
1
元良親王もとよししんのう、890年(寛平2年) - 943年9月3日(天慶6年7月26日))は、平安時代中期の皇族、歌人。三品兵部卿にまで昇った。陽成天皇の第2皇子で、父帝の譲位後に生まれた。母は藤原遠長の娘。同母弟に元平親王。異母兄は源清蔭。妻室には、神祇伯藤原邦隆女・修子内親王(醍醐天皇皇女)・誨子内親王(宇多天皇皇女)らがいる。子に佐材王・佐時王・佐頼王・佐兼王・源佐芸・源佐平・源佐親らがいた。延喜3年(903年)及び延喜7年に、当年巡給により年給を賜る。延長7年(929年)10月、彼の四十の算賀に際して妻の修子内親王は紀貫之に屏風歌を作らせた。承平6年(936年)3月、右大臣藤原仲平らともに醍醐寺に塔の心柱を施入した。天慶6年7月26日に薨去。色好みの風流人として知られ大和物語や今昔物語集に逸話が残るが、とくに宇多院の妃藤原褒子との恋愛が知られる。後撰和歌集に20首入集した他、『元良親王集』という歌集も後世になって作られている。 
2
元良親王 もとよししんのう 寛平二〜天慶六(890-943)
陽成院の第一皇子。母は主殿頭藤原遠長の娘。父帝の譲位七年後に生れる。醍醐天皇の皇女修子内親王、宇多天皇の皇女誨子内親王、神祇伯藤原邦隆の娘を娶る。子には従四位上中務大輔佐時王、従四位下宮内卿源佐藝などがいる。薨去した時、三品兵部卿。『尊卑分脈』には「五十四歳頓死」とある。『大和物語』に「故兵部卿の宮」として風流好色の逸話を残す。『今昔物語』巻第二十四には、「極(いみじ)き好色にてありければ、世にある女の美麗なりと聞こゆるは、会ひたるにも未だ会はざるにも、常に文を遣るを以て業としける」とある。ことに宇多法皇の寵妃であった藤原褒子との熱愛は世に喧伝された。後撰集に初出し、代々の勅撰集に計二十首入集(重出含む)。歌物語風の『元良親王集』がある(撰者・成立年不詳)。
題しらず
朝まだきおきてぞ見つる梅の花夜のまの風のうしろめたさに(拾遺29)
(朝早く起きて梅の花を見たことだ。夜の間の風に散ったのではないかと心配で。)
女につかはしける
あま雲のはるばるみえし峰よりもたかくぞ君を思ひ初そめてし(続千載1031)
(天上の雲のように遥か遠く望んだ峰よりも、いっそう高く、まだ見ぬうちから、遥々と憧れてあなたを思い始めたことです。)
あひしりて侍りける人のもとに、返り事見むとてつかはしける
来くや来くやと待つ夕暮と今はとてかへる朝あしたといづれまされり(後撰510)
(来るか来るかと待つ夕暮と、今はもうと言って帰る朝と、どちらの方が辛さはまさるでしょうか。)
題しらず
大空に標しめゆふよりもはかなきはつれなき人を恋ふるなりけり(続古今1061)
(大空にしるしの縄を張ろうとするのより虚しいことは、無情な人を恋することであったよ。)
忍びてかよひける女身まかりて四十九日のわざし侍りけるに、しろかねにて花こをつくりてこがねを入れて誦経にせられけるに
君をまたうつつに見めや逢ふことのかたみにもらぬ水はありとも(新千載2238)
(あなたと再び現実に逢えるでしょうか。逢うことは難い――たとえ竹の籠から漏らない水があろうとも、逢うことはできないでしょう。)
京極の御息所を、まだ亭子の院におはしける時、懸想し給ひて、九月九日に聞こえ給ける
世にあればありと言ふことをきくの花なほすきぬべき心地こそすれ(元良親王集)
(世にある限りは、長寿をかなえてくれると聞く菊の花をやはり飲まずにはいられない気持がしますよ。――私も出家せずにいるので、あなたがまだ亭子院におられると聞けば、やはり恋い慕わずにはいられない気持ですよ。)
事いできてのちに、京極御息所につかはしける
わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ(後撰960)
(もうやりきれない――こうなった以上、どうなろうと同じこと。難波の澪標(みおつくし)ではないが、我が命が尽きようと、あなたに逢って思いを遂げようと決心しているよ。)
兼茂かねもち宰相のむすめに
あまたには今も昔もくらぶれどひと花筐そこぞ恋しき(元良親王集)
(今の女も、昔の女も、たくさんの女とあなたを較べるけれど、花筐のように可愛いのはそなた一人だけだ。)
元良親王、兼茂朝臣のむすめに住み侍りけるを、法皇の召して、かの院にさぶらひければ、え逢ふことも侍らざりければ、あくる年の春、花の枝にさして、かの曹司に挿し置かせける
花の色は昔ながらに見し人の心のみこそうつろひにけれ(後撰102)
(花のような美しさは昔のままに見えた人であるが、その心だけは移ろってしまったのだなあ。)
しのびて通ひ侍りける女のもとより、狩装束送りて侍りけるに、摺れる狩衣侍りけるに
逢ふことは遠山ずりの狩衣きてはかひなき音をのみぞなく(後撰679)
(あなたとの逢瀬は「遠山ずり」ではないが遠い山を隔てたように困難で、ここへ来ても逢えずに甲斐もなく泣いてばかりいます。) 
3
『元良親王集』について / その物語性を中心として
要旨
本論では物語的家集と分類される『元良親王集』を取り上げ、その物語性を主に二つの観点から考察した。一つは歌のつながりによる歌群構成から見られる物語性である。歌の配列による連続性や関連性は歌群として捉えられ、各歌群における話の展開や心情の表出が物語化を進めている点を明らかにした。もう一つは『伊勢物語』からの影響と見られる「色好み」や「禁忌の女」のモチーフが担っている同集の物語性である。それにより歌群の内容は深化され、物語としての様相をさらに帯びることになる。特に冒頭の詞書で「色好み」と示されていることは元良親王の人物像をあらわし、同集を統一する概念となっている。加えて、『元良親王集』と他分野の作品を比較することで、同集の物語性の特徴を考察した。歌物語では散文と歌の関連によって物語を構成しているが、同集では歌群という形がとられることで物語化を成し遂げている。また、同集の構成は『後撰集』『拾遺集』の共通歌との比較においても特徴的であり、『元良親王集』の物語性は歌のつながりによる歌群、それに伴う物語的モチーフに依拠していることが明確になった。  
一.はじめに
十世紀から十一世紀に成立した私家集には物語的家集と分類されるものがある。それらを物語的とする要素として、詞書が三人称で書かれている点があげられる。三人称が用いられることにより、詞書あるいは歌に客観的な視点が付加されて、物語的な構成を成り立たせている。
代表的な物語的家集として『伊勢集』『本院侍従集』『一条摂政御集』などがあげられるが、その一つとして『元良親王集』に注目してみたい。『元良親王集』の冒頭歌は以下のようになっている。
陽成院の一宮もとよしのみこ、いみじきいろこのみにおはしましければ、よにある女のよしときこゆるには、あふにも、あはぬにも、文やり歌よみつつやりたまふ、げんの命婦のもとよりかへり給ひて
くやくやとまつゆふぐれといまはとてかへるあしたといつれまされり
冒頭の長い詞書により元良親王の人物像が示される。「いみじきいろこのみにおはしましければ」と述べられることで、「色好み」としての親王の人物像が設定され、それを受けて同集は続いていく。元良親王と様々な女性との贈答歌、また大納言の北の方や京極御息所との禁忌の恋は元良親王の色好みを端的にあらわしていると言えるだろう。そこでは人物像が統一性を持ち、同集の物語化の傾向が見られる。同時に「色好み」は歌物語、特に『伊勢物語』の主題の一つであり、同集が歌物語からの影響を受けて構成されていることが示唆され、その「色好み」というモチーフが集全体を貫いて一つの物語を作り上げていると考えることができる。
関根慶子氏は同集について、長い詞書が少なく歌ばかりが数首続いている歌群もあるため物語性を完全には認められないとしながら、「冒頭の色好みの親王の歌を集めて語ろうとする意図的なものの及ぶ範囲として、恋関係の統一からみて、終りまでを、不完全な歌物語化として一応みることもできよう」と述べている。
関根氏の指摘にあるように『元良親王集』には、元良親王の恋歌を集めた恋物語という統一性があり、『伊勢物語』や『大和物語』の恋物語の章段を意識した構造になっている。それは収められている歌のいくつかが歌群として構成されていることと深く関係し、歌群という単位で物語的な展開を示すことに依拠している。
物語的家集の特徴としてはじめに三人称を用いた詞書について触れたが、本論ではそれに加えて、『元良親王集』の構成を歌群を中心に考察し、その物語性を把握することを目的とする。また、考察においては歌集の物語化と関連があると見られる「色好み」などのモチーフについても重要視するとともに、歌物語や勅撰集との比較を通して同集の物語化の特徴を考えてみたい。  
二.物語化の構造
『元良親王集』は物語的家集とする分類に含まれており、歌を中心として物語が形成される『伊勢物語』『大和物語』等の歌物語とは異なるジャソルの作品として捉えられている。
同集と歌物語を隔てる要素としては、まず同集の詞書と歌物語の散文の異なる性格があげられる。端的に違いが見られるのはその長短であるが、同集でも比較的長文化の傾向が見られる詞書を持つ歌がいくつか採られている。
『元良親王集』三四番歌
このきたのかた、うせ給ひにければ、御四十九日のわさにしろかねを花ごにつくり、こがねをいれて御ず経にせられけるにそへ給ひける
きみを又うつつにみめやあふ事のかたみにもらぬみつはありとも
『元良親王集』六七番歌
きたのかた、みやにむしことてさぶらひける、めしければ、かむしにおきたまてけるを、をとこみや、こまのの院におはしましけるに、むしこがたてまつりける
かずならぬ身はただにだにおもほえでいかにせよとかながめらるらむ
『元良親王集』 一〇九番歌
のぼるの大納言のみむすめにすみたまけるを、ひさしにおまししきておほとのこもりてのち、ひさしうおはしまさで、かのはしにしかれたりしものはさながらありや、とりやたてたまし、とのたまければ、女
しきかへすありしながらに草まくらちりのみぞゐるはらふひとなみ
以上にあげた歌の詞書では長文化が見られるものの、場面設定や状況説明など与えられる情報量は最小限に留められている。そのため、同集の物語化をその詞書が担っているとは考えにくい。そこには別の物語化の要素が必要とされる。
そこで、本論では同集の物語化が詞書のみではなく、歌本体あるいは数首で構成される歌群に依拠していると想定して論を進めていく。短い詞書と歌のつながり、あるいは歌にあらわされたそれぞれの心情が物語を形成している。同集では散文に頼らず、歌の連関における歌群の構造により物語化が行われているのである。 
三.『元良親王集』の歌群について
『元良親王集』の構造については木船重昭氏、山口博氏等により同集を大きく四つの群に区分して把握する論が提出されている。群による区分によって歌集を把握することは、同集の物語性や成立を把握する上で重要な観点となっている。本節ではこの区分を参考としながら、同集を数首からなる歌群とした観点から考察していく。中でも、物語性が強くあらわれており、同集の中軸をなすと考えられる歌群を中心として同集の構造を見ていきたい。
同集は長い詞書を持つ冒頭歌より始まるが、冒頭の長い詞書は同集全体に係るものと考えてよいだろう。山口氏は冒頭歌の詞書について「単に歌の集積を目的とした歌集には必要以上の詞書である」とし、編者の物語化の意識を見ている。元良親王の人格が設定されることは、歌集に統一性を与え、物語化を進める要素となっている。
冒頭の詞書に続き、「げんの命婦のもとよりかへり給ひて」を起点として同集は展開される。
『元良親王集』冒頭歌から四番歌
(詞書前略)げんの命婦のもとよりかへり給ひて
くやくやとまつゆふぐれといまはとてかえるあしたといつれまされりといでたまへば、ひかへて、女
いまはとてわかるるよりもたかさごのまつはまさりてくるしてふなりいとをかしとおぼして、人人にこの返しせよとのたまへば
ゆふぐれはたのむこころになぐさめつかへるあしたぞわびしかるべき又かくも
いまはとてわかるるよりもゆふぐれはおぼつかなくてまちこそはせめこれをなんをかしとのたまひける。
冒頭歌から四番歌の歌群では「げんの命婦」を相手として歌の贈答がなされている。歌によって状況説明が行われ詠者の心情が描かれていることは、物語としての趣向を持ちながら、歌集として歌に重点がおかれていることを示している。また、四番歌に続いて「これをなんをかしとのたまひける」というように後書風の散文で歌群がまとめられていることは『伊勢物語』をはじめとした歌物語の形式に類似している点で注目される。
一二番歌から二七番歌にかけての「いはやきみ」との贈答歌群では、計一二首の歌のやりとりが見られる。当該歌群では、歌と詞書により物語化が行われている。
『元良親王集』一二番歌
びはの左大臣殿に、いはやきみとてわらはにてさぶらひけるを、をとこありともしり給はで御文つかはしければ
おほぞらにしめゆふよりもはかなきはつれなきひとをたのむなりけり
冒頭では「をとこありともしり給はで」という特殊な状況が説明される。以下贈答歌が続くが、一八番歌の後に続く詞書は物語化という意味で注目される。
『元良親王集』 一九番、二〇番歌
かくてこの女こと人にあひて宮のうらみたまければ
よしのがはよしおもへかしたきつせのはやくいひせばかからましやは宮ことわりとて
あきかぜに吹かれてなびくをぎの葉のそよそよさこそいふべかりけれ
女が「こと人」と結婚することが詞書によって示され、親王から送られた恨みを寄せた歌に対して女の返しがなされている。ここでは詞書による物語的な展開を見ることができる。同歌群は二七歌で締めくくられる。
『元良親王集』二七番歌
宮の御ぶくにおはしけるに
すみぞめのふかきこころのわれならばあはれと思ふらんひとやなからむ
同歌群は一九番歌の詞書によって物語化が行なわれるが、詞書が短いため補足するように心情表現をあらわす歌がよまれる形となっている。それは、例えば『伊勢物語』二一段に見られるような歌による心情の表出、物語の展開と類似しており、歌物語の段構成の形式を漂わせていると言えるだろう。
三三番、三四番歌は「おひねの大納言のきたのかた」との歌の贈答が描かれている。
『元良親王集』三三番、三四番歌
その宮の御をば、おひねの大納言きたのかたにておはしけるを、いとしのびてかよひ給ひけり、きたのかた
あるるうみにせかるるあまはたちいでなんけふはなみまにありぬべきかな
このきたのかた、うせ給ひにければ、御四十九日のわざにしろかねを花ごにつくり、こがねをいれて御ず経にせられけるにそへ給ひける
きみを又うつつにみめやあふ事のかたみにもらぬみつはありとも
三三番歌では禁忌性を意識させる大納言の北の方との恋愛が語られるが、続く三四番歌の詞書に「きたのかた、うせ給ひにければ」とあることでその死が示され、親王が彼女を悼む歌をよむ。大納言の北の方は二首に登場するのみであるが、禁忌性や女の死といった物語的なモチーフが用いられ、深い内容の歌群となっている。
三五番歌では「京極のみやす所」が登場する。同集に散在して配列されている「京極御息所」に関する歌群は「禁忌の女」のモチーフを示している。
『元良親王集』三五番、三六番歌
京極のみやす所を、まだ亭子院におはしけるとき、けさうしたまひて、九月九日にきこえたまける
よにあればありといふことをきくのはななほすぎぬべき心地こそすれゆめのごとあひたまてのち、みかどにつつみ給ふとてえあひ給はぬを、みやにさぶらひけるきよかぜがよみける
ふもとさへあつくそありけるふじの山みねにおもひのもゆる時には
「禁忌の女」のモチーフは『伊勢物語』における「二条后物語」「斎宮物語」を踏襲していると見られ、「ゆめのごとあひたまて」は『伊勢物語』六九段の表現とも類似している。「禁忌の女」のモチーフは同集でも重要視されており、「京極御息所」との贈答はこれ以降にも分散した形で置かれている。
『元良親王集』六四番、六五番、六六番歌
おなじおほん中にまだしくおはしけるとき、この宮におはしはじめて又の日、京極のみやす所のおもとにたてまつりたまひける
いとどしくぬれこそまされからころもあふさかのせきみちまどひして
宮す所の御返し
まことにやぬれけりやとくからころもここにきたらばとひてしほらむさきさぎかよはせ給ひける御文とても、いまかへしたてまつれた
まふとて、宮す所
やればをしやらねばひとにみえぬべしなくなくもなほかへすまされり
『元良親王集』一二〇番歌
こといできてのち、宮す所に
わびぬればいまはたおなじなにはなるみをつくしてもあはんとそ思ふ
『元良親王集』一五三番歌
京ごくの宮す所
ふく風にあへてこそちれむめのはなあるににほへるわが身となみそ
『元良親王集』一六六番歌
京極御やす所
思ふてふことよにあさくなりぬなりわれうくばかりふかき事せじ
以上八首が京極御息所関連歌である。六四番歌は、修子内親王に通い始めた翌日に御息所に手紙を差し上げるという大胆な行為による歌の贈答がなされており、「色好み」「禁忌の女」といった歌集の物語性を示すモチーフが重なり合ってあらわれている。藤城憲児氏が当該箇所について「高貴な内親王を妃とした翌日、これまた高貴な御息所を求めて恋情を訴えるところ、好色者元良親王の面目を表す」と述べるように、同歌群では親王の「色好み」の人格が描かれており、そのモチーフを受けて物語化が進行していることも注意される。
一二〇番歌の詞書「こといできてのち」とあるのは、二人の仲が露見してしまったことを指すとされるが、その内容は『伊勢物語』六五段で男が「思ふにはしのぶることそまけにけるあふにしかへばさもあらばあれ」とよむのを連想させる。『伊勢物語』との類似は同集そして元良親王が「禁忌の女」「色好み」のモチーフを受け継いでいることを想起させ、それらが活かされることにより同歌集は物語化を推進する。
また、同歌集の最後半の一首となる一六六番歌も注目される。その歌には「ふかき事せじ」とあるように諦めのような心情があらわれている。木船氏は一六六番歌が含まれる第四部について「なにか人生の秋を思わせる元良親王を間接に偲ばせる」とするが、同歌にも寂々とした心情表現からその一端が垣間見られる。それは同歌集が元良親王を主人公として、弱いながらも時間的な意識を持っていることを示すと考えられる。
六〇番から六三番歌、六九番から七一番歌は修子内親王に関連した歌群である。
『元良親王集』六〇番、六一番歌
かくさだめなくあくがれたまけれど、いとこころありてをかしうおはするみやときき給ひて、大夫の宮す所の御はらの女は、宮にあはせたてまつりてあしたに、をとこ宮
ほどもなくかへるあしたのからころもこころまどひにいかできつらん
返し
ときのまにかへりゆくらんからころもこころふかくやいろのぞまぬと
「かくさだめなくあくがれたまけれど」により、親王の女性遍歴そして「色好み」な姿が提示される。
「大夫の宮す所の御はらの女」は修子内親王を指すと考えられ、六〇番歌の詞書により親王と内親王の結婚が示されているが、この二首では早くも二人の仲が順風でないことが明らかになる。親王が六〇番歌で「こころまどひにいかできつらん」と結婚に不満を述べ、内親王がそれを六一番歌で嘆くという歌の応酬がなされている。
『元良親王集』六三番歌
かくてすみたてまつりたまけれど、ほかあるきをしたまければ、つらげなるけしきにおはしけれど、みしらぬやうにいで給ひければ、女宮
ねにたかくなきそしぬべきうつせみのわが身からなるうきよと思へばとのたまひければ、あはれあはれとてとどまり給ひにけり。
「ほかあるきをしたまければ」とあり親王の「色好み」な様がここにも描かれている。しかし、親王が他の女性のもとに通い続けることを恨み内親王が六三番歌をよむことで、その歌を親王は「あはれあはれと」思って他の女性のところに行かずに留まったとする内容となっている。
女の歌により男の愛情をとどめる話は『伊勢物語』二一二段、『大和物語』一五八段に見られるが、それは「歌徳説話」の話型に依拠していると見られる。同歌もその話型を踏襲しており歌物語からの影響を捉えることができる。
六九番から七一番歌は内親王の亮去を悼む親王の歌を中心に歌群が構成されている。
『元良親王集』六九番から七一番歌
をんな宮うせ給ひにければ、をとこみや
きしにこそよよをぱへしかいつみがはことしたもとをひたしつるかな
又のとしの十月に、これひらの中将まゐりたるおほんみきのついでに神無月しぐれはなにぞいにしへを思ひいつればかわくまもなし

いにしへをおもひにあへぬからころもぬるるほどなくかわきこそすれ
七〇番歌でこれひらの中将が「たもとをひたしつるかな」と悲しみの涙をよんだのに対し、「いにしへを思ひいつればかわくまもなし」とする返歌は「内親王を思い起こすことによる深い愛情で涙は乾いてしまう」との歌意をあらわし、同歌群では親王の内親王への切実な愛情が示されている。六〇番から六三番歌では浮気な/色好みな人格として親王は描かれていたのだが、六九番から七一番歌の歌群ではその誠実な人格が強調されている。
女を追悼する話は、『伊勢物語』四五段にも見られ、自分に思いをかけた女を悼んで歌をよむ男の姿には誠実さが読みとられる。元良親王は『伊勢物語』の色好み像を踏襲していると想定されるが、その影響は女性を追悼する誠実な姿にも見ることができる。
複数の歌群に登場する女性として京極御息所を取り上げたが、山の井の君に関する歌群も分散されて歌が配置されている。
『元良親王集』八八番、八九番歌
山の井のきみにすみたまて、ひさしくありてみやにまゐりて、よふけてまかりてければ、くらくはいかがとのたまければ、女
くらしともたどられざりきいにしへを思ひいでてしかへりこしかばおくりの人につけてきこえたりけり
かへりくる袖もぬるるをたまさかにあぶくまがはのみつにやあるらん
夜になり、帰って行った山の井の君に対して、親王が「くらくはいかが」と声をかけたことに対して彼女がよんだ二首が載せられている。
『元良親王集』一一五番、 一一六番歌
山の井のきみのいへのまへをおはすとて、かへでのもみちのいとこきをいれたまへりければ
おもひいででとふにはあらじあきはつるいろのかぎりをみするなりけり
又、ほどへてとひたまはずとうらみて
山の井にすむとわが名はたちしかどとふひとかげもみえずもあるかな
離れがちな親王の訪れを山の井の君が恨んだ歌である。
山の井の君は同集の最後半部一六一番歌に再び登場する。
『元良親王集』 一六一番歌
たへはて給ひぬとみて、山の井の君
山の井のたえはてぬともみゆるかなあさきをだにも思ふところに
一一五番、二六番歌では途切れがちな訪問が恨まれ、一六一番歌では詞書に「たえはて給ひぬ」とあることで事態の進展が見られ、同歌には親王の訪れが絶えてしまったことを悟った山の井の君の心情がよみ込まれている。
注意したいのは歌群を通じて山の井の君がよんだ歌のみが載せられており、山の井の君と親王の歌の贈答という形は示されていない点である。同歌集には親王が関係を持った女の歌が多く収集されているが、同歌群のように親王の歌が一首もないことは特異である。そこには同集の物語性の一端が垣間見られるのではないだろうか。
同集では元良親王の歌を載せることだけではなく、親王を含めた人間関係と歌を描くことを目的としている。そのため、人間関係や親王のエピソードを示すことに重点が置かれた山の井の君歌群においては、親王の歌が一首も載せられないという特異な状況が生まれたと考えられる。同歌群の特異な構成は、同集が親王の歌を集めた歌集というよりも、親王周辺の物語性を意識して構成された歌集であるという一面をあらわしている。
三七番歌からは関院の姫君たちとの恋歌の贈答が描かれている。
『元良親王集』三七番から四二番歌
かん院の大君にもののたまて、又つとめて
からにしきたちてこしちのかへる山かへるがへるも物うかりしか
みや、うらみたまければ、女
よの中のうきもつらきもとりすへてしらするきみや人をうらむる
ほどなくかれたまければ、女
しら雪にあらぬわが身もあふ事をまつはのうらにけふはへぬべし
みやの御返し
まつ山のまつとしきけばとしふともいうかはらじとわれもたのまむ
又、女
きみによりこころづくしのわかたつのはかなきねをもなきわたるかな
うぐひすといかでかなかぬふりたててはなごころなるきみをこふとて
かくうらみきこえけれど、はてはては返事もしたまはさりけり
当該歌群では、親王と大君の逢瀬から「はてはて返事もしたまはさりけり」と親王の訪れがなくなるまでが描かれている。詞書が短文であるため状況描写は詳細ではないが、贈答歌による心情の描写が歌群を構成している。
次に中の君との贈答歌群が続く。
『元良親王集』四三番から五〇番歌
またおなじかむ院の中のきみをけさうし給ひけるに、女
あま雲をかりそめにとぶとりならばおほそら事といかがみざらむ
あひたまひてのち、宮
おもふともこふともきみはしたひものゆふてもたゆくとけむとをしれ
をんなのきこえけることども
おもひをばゆふてもたゆくよけなましいつれか恋のしるしなりける
したひものゆふぐれごとにながむらんこころのうちをみるよしもがな
むらどりのむれてのみこそありときけひとりふるすになにかわぶらむ
うきふしのひとよもみえぱわれぞまつつゆよりさきにきへはかへらん
やどりゐるとぐらあまたにきこゆればいつれをわきてふるすとかいふ
おなじえにおひいつるやどもなきものをなににかとりのねをばなくべき
歌群の冒頭に説明的な短い詞書があり、「あひたまひてのち」に続いて親王のよんだ一首の後は、中の君の歌が六首続いている。同歌群では詞書による叙述は少なく、中の君の歌の連続を中心に構成されている。四七番歌「むらどりのむれてのみこそありときけ」、四九番歌「やどりゐるとぐらあまたにきこゆれば」とあるのは、中の君が親王の「色好み」のうわさを恨む表現であり、「色好み」のモチーフを確認できる。
続いての歌群は関院の三君との贈答歌で構成される。
『元良親王集』五一番から五九番歌
又関院の三君にいなりにまであひ給ひて、宮はしり給はらぬを、
女はしりてまゐりてかへりて、きこえける
ぬばたまの山にまじりてみし人のおぼつかながらわすれぬるかな
などきこえてあひにけり、さて、宮
むもれぎのしたになげくとなとりがはこひしきせにはあらはれぬべし
をんな
わがかたにながれてかゆくみつぐきのよるせあまたにきこゆればうし
ながれてもたのむこころのぞはなくにいつをほどにかかげのぞふべき
こがくれのした草なればみねのうへのひかりもつひにたのまれなくに
つきもせぬ事のはななりとみながらもたのむといふはうれしかりけり
風吹けば身をこすなみのたちかへりうきよの中をうらみつるかな
むばたまのよるのみ人をみるときはゆめにおとらぬここちこそすれ
なみだがはながれてきしをくづしてはこひやるかたもあらじとそおもふ
同歌群にも先行する大君、中の君との歌群と類似した形が見られる。すなわち、歌群が前半の親王の二首と、三首目以降の女君の歌によって構成される形であり、歌群の中心は女君の歌にあるという点で類似する。
五五番歌「よるせあまたにきこゆればうし」五六番歌「つきもせぬ事のはななりとみながらも」とあるように親王の「色好み」が非難の対象となっている。親王の「色好み」な態度は四三番から五〇番歌で中の君によって非難され、また大君も四二番歌で「はなごころなるきみ」と親王の態度を恨んでいる。関院の姫君の歌群においては、「色好み」な親王に対する非難を共通して見ることができる。
以上のように、三七番歌から五九番歌の歌群では関院の三姉妹との恋愛が描かれている。五九番歌から続く六〇番歌の詞書冒頭には「かくさだめなくあくがれたまけれど」とあるが、これは親王の関院の姫君たちとの恋愛を端的にあらわしており、加えて同歌群ではそれぞれの姫君と恋仲になるという親王の「色好み」がモチーフとして強調されている。歌集冒頭に「いみじきいろこのみにおはしましければ」とあることから、岡部由文氏は同集について「元良親王の好色ぶりを形象化することを主眼に編集されている」と論じているが、その一例として関院の姫君たちとの恋愛には冒頭に示された歌集全体に底流している「色好み」としての親王の姿が色濃く反映されている。
以上のように『元良親王集』は「げんの命婦」「いはや君」「大納言の北の方」「京極御息所」「修子内親王」「山の井の君」「関院の姫君たち」などの幾人かの女性との贈答歌による歌群を軸として構成されている。各歌群では登場する女との逢瀬や別れが展開を見せながら描かれている。それぞれの歌群は単独でも成立しているが、「色好み」としての親王の人格や、「禁忌の女」のモチーフが度々あらわれることで歌集は物語的な連関をもって形成されている。
また、「京極御息所」「山の井の君」に関する歌群が分散して歌集内に配置されている構造は、『伊勢物語』における「二条后物語」などの方法を連想させ、同歌集が全体を通して親王を主人公とした一貫した物語性をもっていることを示している。 
四.歌物語との比較
『元良親王集』と『伊勢物語』『大和物語』はその作品形態はもちろん、作品の構造や内容においても関連が見られる。例えば、『伊勢物語』からは短小段同士のつながりによる構成や「色好み」「禁忌の女」などのモチーフにおいて影響が考えられ、『大和物語』については成立過程や題材などで関連性が指摘されている。本節では『伊勢物語』『大和物語』と比較対照を行ないながら『元良親王集』の物語性を考えてみたい。
(一)『伊勢物語』との比較
歌物語は歌と散文の関連による物語化が見られるが、一見すると物語性が希薄に受け取られかねない短小段ー『伊勢物語』や『大和物語』に見られる、短い散文と一首あるいは二首で構成されている段1の場合においても同様の構造がとられている。『伊勢物語』の例をあげてみたい。
『伊勢物語』三五段
むかし、心にもあらで絶えたる人のもとに、
玉の緒をあわ緒によりて結べれば絶えてののちもあはむとそ思ふ
『伊勢物語』三六段
むかし、「忘れるなめり」と、問ひ言しける女のもとに、
谷せばみ峰まではへる玉かづら絶えむと人にわが思はなくに
上記二段の歌は各々『万葉集』七六三番歌、三五〇七番歌と類歌の関係にある。
『万葉集』七六二番、七六三番歌
紀女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌二首
神さぶと否にはあらずはたやはたかくして後にさぶしけむかも
玉の緒を沫緒に嵯りて結べらばありて後にも逢はさらめやも
『万葉集』三五〇七番歌
谷狭み峰に延ひたる玉葛絶えむの心我が思はなくに
『万葉集』では散文による状況説明はほとんどなされていないが、『伊勢物語』三五段、三六段では短いながらも散文によって歌がよまれた経緯が説明されている。そして、歌によって心情があらわされることで『伊勢物語』は物語性を持つのである。ここには散文と和歌が関わりあった歌物語の形態が見られ、短小段における散文の意義があらわれている。
次に『元良親王集』の歌群構成について考えてみたい。同集では詞書あるいは歌群が形成されることにより物語化が進められている。
『元良親王集』四五番から五〇番歌
をんなのきこえけることども
おもひをばゆふてもたゆくとけなましいつれか恋のしるしなりける
したひものゆふぐれごとにながむらんこころのうちをみるよしもがな
むらどりのむれてのみこそありときけひとりふるすになにかわぶらむ
うきふしのひとよもみえばわれぞまつつゆよりさきにきえはかへらん
やどりゐるとぐらあまたにきこゆればいつれをわきてふるすとかいふ
おなじえにおひいつるやどもなきものをなににかとりのねをばなくべき
四五番歌から五〇番歌は四三番歌から続く歌群の一部であるが、詞書もなく歌が載せられているのみであり、『伊勢物語』に見られたような散文と歌が一体となった物語化は見られない。しかし、四七番「ひとりふるすになにかわぶらむ」四八番「われぞまつつゆよりさきにきえはかへらん」五〇番「おなじえにおひいつるやどもなきものを」とあるように、恋をするわが身の「はかなさ」の心情をよんだ歌が続いていることで、統一性をもった歌群として物語性を読み取ることができる。ここでは歌による心情表現が歌群として構成されることで物語性があらわれている。
次に『元良親王集』に見られる一首が独立している歌を取り上げる。木船重昭氏は同集の構成について「贈答歌にのみ頼るものではない。一首一歌連の構成も意外と多い」としているが。それらの歌がどのように物語化されているかを考えてみたい。その指標として『伊勢物語』は参考となる。
先ほども述べたように『伊勢物語』には短小段とされる段が少なくない。短小段は単独での物語性は薄いが、他段と関連することで物語としての機能を拡大する。
『伊勢物語』=段
むかし、男、あづまへゆきけるに、友だちどもに、道よりいひおこせける。
忘るなよほどは雲居になりぬとも空ゆく月のめぐりあふまで
『伊勢物語』五四段
むかし、男、つれなかりける女にいひやりける。
ゆきやらぬ夢路を頼むたもとには天つ空なる露や置くらむ
『伊勢物語』五五段
むかし、男、思ひかけたる女の、え得まじうなりての世に、
思はずはありもすらめど言の葉のをりふしごとに頼まるるかな
それぞれの段は散文部分が短く、示す内容も抽象化されて物語性は希薄であるが、他段と関連付けられることで物語性が見出せる。一一段はその配置により、七段から一五段の「東下り・東国物語」の一部として認識される。五四段と五五段は「得ることの難しい女」に対して恋心を寄せるというモチーフで共通しており、そのモチーフが物語に散在していることで物語全体を通した解釈が可能となる。このように『伊勢物語』では短い散文で構成された段であっても、段の配置やその内容、モチーフにより物語に組み込まれることが少なくない。
『伊勢物語』における短小段の物語性を考慮しながら、『元良親王集』の一首一歌連を見てみたい。
『元良親王集』九五番から九八番歌
かものまつりのひ、かつらのみやの御くるまにたてまつりたまひける
しらねどもかつらわたりときくからにかものまつりのあふひとにせん
又もののたまふ女どもへ、てらにまであひたまて、みつろのしるりへにたちたまていとよくみたまてつかはしける
よの中にうれしきものはとりべ山かくるる人をみつるなりけり
わすれ給ひにける女、きよみつにまうであひたてまつりて、みやはしらぬかほにていで給ふにきこえける
わたつみにありとそききしきよみつにすめるみつにもうきめありけり
しがにかりし給ふときのやどに、ある女まうであひて、はしらにかいつけける
かりにくるやどとはみれどかまししのおほけなくこそすままほしけれ
おなじところにて、つねにみ給ふ女に、しのだけのふししげきをつつみてたまける
しのだけのふしはあまたにみゆれどもよよにうとくもなりまさるかな
おなじひとに、みや
いかにしてくりそめてけるいとなればつねによれどもあふよしのなき
九五番歌から九八番歌において、親王の相手はそれぞれ異なる女性であり、各歌は一首一歌連の構造をもっている。各歌は単独でも機能しているが、前後の段とつながりを持つことで意味を拡大する。九五番歌と九六番歌は同じ日時「かものまつりのひ」が設定されており、九七番歌は「きよみずにまうで」とあることで九六番歌の「てらにまであひたまて」と関連している。九九番歌と一〇〇番歌は同一の女で歌群を形成するが九九番歌の詞書に「おなじところにて」とあるため、九八番歌も巻き込む歌群が浮き上がってくる。
以上のように九五番歌から九八番歌は一首一歌連の構造となっているが、それぞれの詞書と歌が前後の歌と連関し合い、物語性を持つようになる。それは『伊勢物語』が短小段同士のつながりによって物語化を進めた構造と類似している。歌同士が関連し合うことで、同集の物語性は一首一歌連という構成の中でも発揮されていると言えるだろう。
また、『元良親王集』では「三.『元良親王集』の歌群について」で考察したように、京極御息所関連歌群の「禁忌の女」、関院の姫君関連歌群などの「色好み」のモチーフが見られた。それらは『伊勢物語』の主要モチーフでもあることから同集の『伊勢物語』からの影響、またそのモチーフが同集の物語化に貢献しているものと考えられる。
(二)『大和物語』との比較
ここでは『大和物語』と『元良親王集』の共通歌を考察することで、二つの作品について考えていきたい。
『元良親王集』一〇七番、一〇八番歌は『大和物語』=二九段歌と一致する。
『元良親王集』一〇七番、一〇八番歌
そ行殿の中納言君にほどなくかれたまひにければ、をんな
ひとをとくあくたがはてふつのくにのなにはたがはぬものにざりける
かくてものもくはでなくなくこひきこへてまつに、雪のふりかかりたりけるにつけてきこえける
こぬひとをまつのえだにふる雪のきえこそかへれあかぬおもひに
『大和物語』一三九段
先帝の御時に、承香殿の御息所の御曹司に、中納言の君といふ人さぶらひけり。それを、故兵部卿の宮、わか男にて、一宮と聞えて、色好みたまひけるころ、承香殿はいとちかきほどになむありける。らうあり、をかしき人々ありと、聞きたまうて、ものなどのたまひかはしけり。さりけるころほひ、この中納言の君に、しのびて寝たまひそめてけり。ときどきおはしましてのち、この宮、をさをさとひたまはざりけり。さるころ、女のもとよりよみて奉りける。
人をとくあくた川てふ津の国のなにはたがはぬ君にぞありけるかくて物も食はで、泣く泣く病になりて恋ひたてまつりける。かの承香殿の前の松に雪の降かかりけるを折りて、かくなむ聞えたてまつりける。
来ぬ人をまつの葉にふる白雪の消えこそかへれあはぬ思ひにとてなむ、「ゆめこの雪おとすな」と、使ひにいひてなむ、奉りける。
二つの作品を比較すると、『大和物語』では物語の設定となる時、場所、人が明確に提示されているのに対し、『元良親王集』では中納言君との関係について最小限の記述がなされているのみである。
『大和物語』は各段が独立しているため、=二九段のように散文での設定の提示が必要となる。歌はその設定を背景とすることで中納言の君の心情をあらわすが、散文の物語性に寄り添う形で歌がおかれていると言える。一方、『元良親王集』の二首では詞書は最小限の設定を提示するのみであり、中納言君の歌を中心とした構成がなされている。また、「ゆめこの雪おとすな」以降は『元良親王集』には見られないことも、『大和物語』の散文による物語性を示していると言えるだろう。
続く一〇九番から一一二番歌は「のぼるの大納言のみむすめ」との贈答歌で構成されており、『大和物語』一四〇段と類似が見られる。
『元良親王集』 一〇九番から一一二番歌
のぼるの大納言のみむすめにすみたまけるを、ひさしにおまししきておほとのこもりてのち、ひさしうおはしまさで、かのはしにしかれたりしものはさながらありや、とりやたてたまてしと、のたまければ、女
しきかへすありしながらに草まくらちりのみぞゐるはらふひとなみ
ときこへたりければ、宮
くさまくらちりはらひにはから衣たもとゆたかにたつをまてかし
又、をんな
からころもたつをまつまのほどこそはわがしきたへのちりもつもらめ
かくておはしてのち、うちへ返しになむどのたまへれば、女
みかりするくりこま山のしかよりもひとりぬる身ぞわびしかりける
『大和物語』 一四〇段
故兵部卿の宮、昇の大納言のむすめにすみたまうけるを、例のおまし所にはあらで、廟におまししきて、おほとのこもりなどして、かへりたまうて、いと久しうおはしまささりけり。かくて、のたまへりける。「かの廟にしかれたりし物は、さながらありや。とりたてやしたまひてし」と、のたまへりければ、御返りごとに、
しきかへずありしながらに草枕ちりのみぞゐるはらふ人なみ
とありければ、御返しに、
草枕ちりはらひにからころもたもとゆたかに裁つを待てかし
とあれば、また、
からころも裁つを待つまのほどこそはわがしきたえのちりもつもらめ
となむありければ、おはしまして、また「宇治へ狩しになむいく」とのたまひける御返しに、
み狩する栗駒山の鹿よりもひとり寝る身ぞわびしかりける
のぼるの大納言のみむすめ関連歌群は『大和物語』一四〇段と対応し、簡略化はあるものの詞書と散文の内容もほぼ共通している。一=一番歌の詞書では話の展開が見られ、同集の物語的要素が強く見られる歌群が構成されている。
当該歌群が女の歌を中心に構成されている点に注意したい。同集は元良親王の歌を中心に編まれているが、親王の周辺状況や人間関係を描写する物語性が付加されることで、相手の女からの歌が中心とされる場合もある。特に当該歌群では物語的な文脈で歌がよまれるため、物語の中心となる女の歌で構成された形がとられている。
一三〇番、一三一番歌も女の歌で構成されており、また『大和物語』八段の歌と類似している。
『元良親王集』一三〇番、一三一番歌
げんの命婦にかたふたがりければとのたまへりければ、女
あふことのかたはさのみはふたがらむひとよめぐりのきみとみつれば
ときこえたりければ、さしておはしたりけり、又、ひさしくおはせで、さがの院にかりしにとてなどのたまへりければ、女
おほさはのいけのみつくきたえぬともさがのつらさをなにかうらみむ
『大和物語』八段
監の命婦のもとに、中務の宮おはしまし通ひけるを、「方のふたがれば、今宵はえなむまうでぬ」とのたまへりければ、その御返りごとに、
あふことの方はさのみぞふたがらむひと夜めぐりの君となれれば
とありければ、方ふたがりけれど、おはしましてなむおほとのこもりにける。かくてまた、久しく音もしたまはさりけるに、「嵯峨院に狩すとてなむ、久しう消息なども物せざりける。いかにおぼつかなく思ひつらむ」などのたまへりける御返しに、
大沢の池の水くき絶えぬともなにか恨みむさがのつらさは
御返し、これにやおとりけむ、人忘れにけり。
親王の相手が、『元良親王集』では「げんの命婦」、『大和物語』では「中務の宮」とされている点に違いは見られるが、歌と散文/詞書が示す内容は類似している。
『元良親王集』 一三〇番、一三一番歌は、詞書にある「かたふたがりければ」「さがの院にかりし」といった親王の行動が物語的な展開を進めているが、歌をよむ主体はげんの命婦である。詞書の主体と歌のよみ手が異なっており、元良親王の行動に対するげんの命婦の歌という形がとられていることは注意される。ここでは女が歌をよみながらも、話の内容を進めているのは親王の行動であり、同集が親王を中心に展開されていることを示している。
一四二番歌は『大和物語』一三七段の歌と共通しているが、一四二番歌の詞書と一三七段の散文部分には大きな違いが見られる。
『元良親王集』 一四二番歌
しがの山こえのみちに、いもはらといふ所もたまへりけり、そこにごがくれつつ人みたまけるをしりて、としこがかいつけける
かりにのみくるきみまつとふりでつつなくしが山はあきぞかなしき
『大和物語』一三七段
志賀の山越の道に、いはえといふ所に、故兵部卿の宮、家をいとおかしうつくりたまうて、ときどきおはしましけり。いとしのびておはしまして、志賀にまうつる女どもを見たまふ時もありけり。おほかたもいとおもしろう、家もいとをかしうなむありける。としこ、志賀にまうでけるついでに、この家に来て、めぐりつつ見て、あはれがりめでなどして、書きつけたりける。
かりにのみ来る君待つとふりいでつつ鳴くしが山は秋ぞ悲しき
となむ書きつけていにける。
一三七段では散文により詳細な状況説明がなされている。としこの「あはれがりめでなどし」とする心情や、親王を待つ女の悲しい心情もあらわれている。 一方、『本良親王集』一四二番歌では簡素化された詞書がおかれているのみである。内容としてはほぼ一致しているが、『大和物語』では物語的なふくらみが見られる。
『元良親王集』と『大和物語』の比較では、歌物語の散文による詳細な状況描写と物語的家集の簡略化された詞書との性格の違いが明らかになった。散文による説明の不足は『元良親王集』の物語性が『大和物語』と比べると希薄化している一因となっている。しかし、一方で同集は別の形で物語化を進めている。それは、歌群としてのまとまり、私家集という形をとりながら親王の歌だけでなく周辺状況や人間関係を描写する物語性が付加されている点である。同集は歌物語とは異なるアプローチによって物語化を行なっているのである。 
五.勅撰集との関連
『後撰集』『拾遺集』の両勅撰集には『元良親王集』との共通歌、また詞書から元良親王に関わると判断される歌がいくつか収められている。ここではそれらの元良親王関連歌について物語性の観点から中心に考察する。
(一)『後撰集』との関連
はじめに『後撰集』の元良親王集関連歌をいくつか見てみたい。
『後撰集』五一〇番、五一一番歌
あひ知りて侍ける人のもとに、「返事見む」とてつかはしける
来や来やと待つ夕暮と今はとて帰る朝といつれまされり 元良の親王
返し
夕暮は松にもかΣる白露のをくる朝や消え果つらむ 藤原かつみ
五一〇番歌は『元良親王集』冒頭歌と一致する。『元良親王集』ではげんの命婦との贈答歌となっており、続く三首で歌群が構成されているが、藤原かつみのよんだとされる五一一番歌は見られない。
次に『後撰集』五二二番歌と『元良親王集』一五七番歌を取り上げる。
『後撰集』五二二番歌
いつしかとわが松山に今はとて越ゆなる浪に濡るる袖哉
『元良親王集』一五七番歌
もののたまふ女、こと人もののたまふときこしめして、宮
いつしかとわがまつ山のいまはとてこゆなるなみにぬるる袖かな
『後撰集』には詞書がないが、直前の五一二番歌「わがごとくあひ思ふ人のなき時は深き心もかひなかりけり」により、別に思う人がいる相手に対して恨みを述べた歌であると解釈される。『元良親王集』では一五七番歌から新たな歌群が始まるため、詞書による状況説明がなされていると考えられる。
『後撰集』九六〇番歌
事出て来てのちに京極御息所につかはしける 元良の親王
わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしても逢はんとそ思
『元良親王集』一二〇番歌
こといできてのち、宮す所に
わびぬればいまはたおなじなにはなるみをつくしてもあはんとそ思ふ
詞書はほぼ一致している。両歌とも詞書は最小限に留められているが、「事出て来てのちに」により禁忌性をともなう京極御息所との恋事が明示される。そして、歌により「禁忌の女」のモチーフと親王の情熱が浮上し、同歌のもつ物語性が強調されることになる。
『後撰集』 一四三番歌
たまさかにかよへる文を乞ひ返しければ、その文に具してつかはしける   元良の親王
やれば惜しやらねば人に見えぬべし泣く泣くも猶返すまされり
『元良親王集』六六番歌
さきざきかよはせ給ひける御文とても、いまはかへしたてまつれたまふとて、宮す所
やればをしやらねばひとにみえぬべしなくなくもなほかへすまされり
歌は共通しているが、『後撰集』では元良親王が、『元良親王集』では御息所がよんだ歌とされている。『元良親王集』六四番から六六番歌では御息所との恋事による歌群を形成しており、「ひとにみえぬべし」と御息所が思い悩むことで「禁忌の女」としてのイメージが強調され、その女に挑む親王の情熱を映し出すことになる。そのような物語性を引き出すために『元良親王集』では御息所がよんだ歌とされたものと考えられる。
『後撰集』一二一一番歌
つきもせずうき事の葉の多かるを早く嵐の風も吹かなん
『元良親王集』 一六四番歌
いとあだにおはすとききて、女
つきもせずうき事のはのおほかるをはやくあらしのかぜもふかなむ
『後撰集』一二一一番歌には詞書もよみ人も記されていないが、『元良親王集』では一六二番歌からの歌群となっており「うこ」とされる女性との贈答になっている。同歌では浮気心を恨む女に対して親王がそれをなだめている構図があらわれ、歌群としての物語性が見られる。このように『元良親王集』で歌群を形成している歌が『後撰集』に単独で採られている例も見られる。以下を見てみたい。
『元良親王集』一二一番から一二四番歌
かねもとのむすめ、兵部のもとにいまこむとのたまて、おはせざりける又の日のつとめて、女
ひとしれずまつにねられぬありあけの月にさへこそねられさりけれ
あしぶちといふむまにのりたまへりけるころ、女のもとにひさしくおこせざりけるころ、女
ありながらこぬをもいはじあしぶちのこまのこゑこそうれしかりけれ
これにおどろきてをんなのもとのおはしたるに、あけぬ、とくときこえければ、かへりたまて、宮
あまのとをあけぬあけぬといひなしてそらなきしつるとりのこゑかな
返し
あまのとをあくとも我はいはさりきよにふかかりしとりのねにあかで
一二三番歌は『後撰集』六二一番歌と共通している。
『後撰集』六二一番歌
女につかはしける   よみ人しらず
天の戸を明けぬ明けぬと言ひなして空鳴きしつる鳥の声哉
『後撰集』六二一番歌では抽象的な詞書がおかれているのみであるが、『元良親王集』 一二四番歌は歌群が構成されていることで、贈答歌としての意味が鮮明になり物語化が進められている。そこには『元良親王集』の歌群による物語性が見られ、『後撰集』と比較して物語化の意識が強いことが確認できる。
(二)『拾遺集』との関連
次に『拾遺集』の元良親王関連歌についていくつか見てみたい。
『拾遺集』九一八番歌
元良の親王、小馬の命婦に物言ひ侍ける時、女の言ひ遣はしける
数ならぬ身はただにだに思ほえでいかにせよとかながめらるらん
『元良親王集』六七番歌
きたのかた、みやにむしことてさぶらひける、めしければ、かむしにおきたまてけるを、をとこみや、こまのの院におはしましけるに、むしこがたてまつりける
かずならぬ身はただにだにおもほえていかにせよとかながめらるらむ
『元良親王集』の物語化が見られる歌である。詞書で「きたのかた」にとがめられた「むしこ」が、「こまのの院」にいる親王に歌を送ったと状況が説明されており、「むしこ」の切迫した心情が伝わってくる。『拾遺集』にも説明的な詞書がおかれているが、『元良親王集』では「北の方」「むしこ」「親王」の三老を登場させ、さらに物語化を進めている。
『拾遺集』一二六九番歌
元良の親王、久しくまからざりける女のもとに、紅葉をおこせて侍ければ
思出でて訪ふにはあらず秋はつる色の限を見するなりけり
『元良親王集』一一五番歌
山の井のきみのいへのまへをおはすとて、かへでのもみちのいとこきをいれたまへりければ
おもひいでてとふにはあらじあきはつるいろのかぎりをみするなりけり
二つの歌は『後撰集』四三九番歌ともほぼ一致する。
忘れにける男の紅葉を折りて送りて侍りければ
思出でて問にはあらじ秋果つる色の限を見するなるらん
注意したいのは『元良親王集』一一五番歌のみが、女から送られている点である。同歌の詞書で指示される山の井の君は歌集内で八八番、八九番、一一六番、=七番、↓六一番歌にも登場しており歌群として捉えられるが、その歌群は山の井の君からよまれた歌のみで構成されている。一一五番歌は歌集における山の井の君関連歌群を通した論理に従っており、そこには『元良親王集』の統一性を見ることができる。 
六.おわりに
本論では物語的家集である『元良親王集』について、どのように物語性が形成されているのかを中心に考察してきた。歌物語との比較がなされることが多い物語的家集であるが、その物語化は歌物語の影響を受けながら、また異なる側面からも行なわれている。
物語的家集の性格の一つとして歌群による物語化があげられる。『元良親王集』では、歌は単独で配されているだけでなく、物語的な歌群として歌同士が結びつけられていることが少なくない。それらの歌群は、親王の相手となる女性との贈答歌によって構成されており、詞書による状況設定や歌によって詠者の心情描写を行ないながら、物語的な展開を示すことになる。また、京極御息所や山の井の君の歌群は歌集内で分散されて配置されているが、それは歌物語と類似した形態であり、同集の物語性につながるものと考えられる。
また、歌群が物語性に関わるモチーフを用いていることも重要な要素である。歌物語−特に『伊勢物語』−ではその物語性を示すモチーフが見られたが、『元良親王集』でも軸となる歌群はモチーフによって構成されている。京極御息所、大納言の北の方には「禁忌の女」のモチーフが見られ、関院の姫君たちとの恋愛には冒頭にも提示された「色好み」というモチーフが強くあらわれている。それらが歌群に取り込まれることにより、同集は全体を統一した物語性をもつことになる。
歌物語との比較によっても同集の物語的性格を見ることができる。歌物語が散文と歌の関連によって物語として構成されているのに対して、物語的家集では別の面から物語化が進められている。家集では詞書/散文による物語性は弱いが、歌群としての構成、歌のつながりによる物語化が行われているのである。
同様に『元良親王集』と『後撰集』『拾遺集』の関連歌を見た場合にも、『元良親王集』の物語的家集としての物語性を見出すことができた。『元良親王集』と両勅撰集との同一歌をいくつか取り上げたが、それらを比較することで歌群や歌のつながりによる『元良親王集』の物語性がより明らかになった。
以上の考察により物語的家集である『元良親王集』の物語性を見ることができた。『元良親王集』は私家集でありながら、歌群の構成や物語的モチーフを採用することで、物語性を創出することを可能とした。それは元良親王の歌やエピソードが物語的要素を持っていたことに加えて、構成の段階で物語への志向性があらわれたことに依るものが大きいと考えられる。 
 
21.素性法師 (そせいほうし)  

 

今来(いまこ)むと 言(い)ひしばかりに 長月(ながつき)の
有明(ありあけ)の月(つき)を 待(ま)ち出(い)でつるかな  
あなたがすぐに来ると言ったばかりに秋の夜長を待っていたら、有明の月が出てしまった。 / 「今すぐ行くよ」とあなたがおっしゃるので、秋の夜長を今か今かと待つうちに、まあなんてこと、とうとう九月の明け方の月が出るまで、待つことになってしまったことですよ。 / いますぐに行きますよ、と、あなたがおっしゃったのを信じて待っていたら、9月の夜明けに昇る有明の月を待つことになってしまいましたよ。 / 「今すぐに行きましょう」とあなたがおっしゃったので、(その言葉を信じて) 九月の長い夜を待っていましたが、とうとう有明の月が出る頃を迎えてしまいました。
○ 今来むと / 「今」は、今すぐの意。「む」は、意志の助動詞。「来む」で、「来よう」の意。これにより、作者は男性であるが、女性の立場で詠んだ歌とわかる。「と」は、引用の格助詞。
○ 言ひしばかりに / 主語は、恋人の男性。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「ばかり」は、限定の副助詞。
○ 長月 / 陰暦の九月。晩秋で夜が長い。
○ 有明の月 / 「有明」は、陰暦で、16日以後月末にかけて、月が欠けるとともに月の入りが遅くなり、空に月が残ったまま夜が明けること。「有明の月」は、その状態で出ている月。
○ 待ち出でつるかな / 八音で字余り。「待ち」の主語は、自分(女性)。「出で」の主語は、月。「つる」は、完了の助動詞。「待ち出でつる」で、「(あなたを)待っていたら(月が)出てしまった」の意。「かな」は、詠嘆の終助詞。 
1
素性(そせい、生年不詳 - 延喜10年(910年)?)は、平安時代前期から中期にかけての歌人・僧侶。桓武天皇の曾孫。遍照(良岑宗貞)の子。俗名は諸説あるが、一説に良岑玄利(よしみねのはるとし)。 三十六歌仙の一人。素性は遍照が在俗の際の子供で、兄の由性と共に出家させられたようである。素性は父の遍照と共に宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍した。はじめ宮廷に出仕し、殿上人に進んだが、早くに出家した。仁明天皇の皇子常康親王が出家して雲林院を御所とした際、遍照・素性親子は出入りを許可されていた。親王薨去後は、遍照が雲林院の管理を任され、遍照入寂後も素性は雲林院に住まい、同院は和歌・漢詩の会の催しの場として知られた。後に、大和の良因院に移った。宇多天皇の歌合にしばしば招かれ歌を詠んでいる。古今和歌集(36首)以下の勅撰和歌集に61首が入集し、定家の小倉百人一首にも採られる。家集に『素性集』(他撰)がある。 
2
素性 承和十一頃〜延喜十頃(844?-910?)
遍昭の子。兄に少僧都由性(841-914)がいる(但し由性を素性の別名とする説もある)。俗名は諸説あるが、「尊卑分脈」によれば良岑玄利(よしみねのはるとし)。左近将監に任官し、清和天皇の時に殿上人となったが、若くして出家し、石上の良因院に住んだ。昌泰元年(898)、大和国御幸に際し石上に立ち寄った宇多上皇に召され、供奉して諸所で和歌を奉る。醍醐天皇からも寵遇を受けたようで、延喜九年(909)、御前に召されて屏風歌を書くなどしている。常康親王・藤原高子などとの交流も窺われ、また死去の際には紀貫之・凡河内躬恒が追慕の歌を詠むなど、生前から歌人としての名声の高かったことが窺われる。三十六歌仙の一人。古今集では三十六首入集し、歌数第四位。勅撰入集は計六十三首。家集『素性集』は後世の他撰。
春 / 延喜の御時、月次の御屏風に
あらたまの年たちかへるあしたより待たるるものは鶯のこゑ(拾遺5)
(年が最初に戻る正月の朝から、心待ちにされるものと言えば、鶯の声である。)
雪の木にふりかかれるをよめる
春たてば花とや見らむ白雪のかかれる枝にうぐひすぞなく(古今6)
(もう立春になったので、花であると見ているのだろうか。白雪が降りかかった枝に、鶯が鳴いていることよ。)
題しらず
よそにのみあはれとぞ見し梅の花あかぬ色香は折りてなりけり(古今37)
(遠くからばかり趣深く眺めていた梅の花――しかし、いくら賞美してもしきれない色と香は、枝を折り、まじまじと見て初めて分かるものだったよ。)
題しらず
梅の花折ればこぼれぬ我が袖ににほひ香うつせ家づとにせむ(後撰28)
(梅の花は、折り取とうとすれば、こわれて散ってしまう。だから私の袖に匂いを移してくれ。その香を家へのみやげにするから。)
寛平御時きさいの宮の歌合のうた
散ると見てあるべきものを梅の花うたてにほひの袖にとまれる(古今47)
(どうせいつかは散るものだと思って、達観している方がよいのに。困ったことに匂いが袖に留まっているよ。)
山の桜をみてよめる
見てのみや人にかたらむさくら花てごとに折りて家づとにせむ(古今55)
(眺めているだけで、その美しさを人に語り得ようか。この桜花を、さあ皆、各自の手で折り取って、都の家族へのおみやげにしよう。)
花山にて、道俗、酒らたうべける折に
山守は言はば言はなむ高砂のをのへの桜折りてかざさむ(後撰50)
(山の番人は文句があるなら言うがよい。峰の桜を今日は折り取って挿頭(かざ)そう。)
花ざかりに京をみやりてよめる
見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける(古今56)
(都をはるかに見渡せば、柳の翠と、桜の白と、交ぜ込んで、さながら春の錦であった。)
桜の花の散り侍りけるを見てよみける
花ちらす風のやどりはたれかしる我にをしへよ行きてうらみむ(古今76)
(花を散らす風の泊る宿はどこか、誰か知っているか。私に教えてくれ。そこへ行って怨み言を言おう。)
寛平御時きさいの宮の歌合のうた
花の木も今はほりうゑじ春たてばうつろふ色に人ならひけり(古今92)
(花の咲く木も、もう今は山から掘って来て庭に植えたりはしまい。春になったので、花ははかなく散ってしまい、それに倣って人の心も移ろうのであったよ。)
雲林院のみこのもとに、花見に、北山のほとりにまかれりける時によめる
いざ今日は春の山べにまじりなむ暮れなばなげの花のかげかは(古今95)
(さあ今日は春の山辺に分け入ろう。日が暮れても、宿るのに恰好な花の蔭がなさそうだろうか、たくさんあるではないか。)
春の歌とてよめる
いつまでか野辺に心のあくがれむ花しちらずは千世もへぬべし(古今96)
(桜の咲く野辺に、いつまで私の心は憧れ続けることだろうか。花が散らなかったなら、千年もそのまま経過してしまうにちがいない。)
鶯の鳴くをよめる
木こづたへばおのが羽風にちる花をたれにおほせてここらなくらむ(古今109)
(鶯は枝を伝って飛び移るので、自分の羽風で花が散るというのに、いったいそれを誰のせいにしてしきりと鳴いているのだろうか。)
春の歌とてよめる
思ふどち春の山べにうちむれてそことも言はぬ旅寝してしか(古今126)
(気の知れた仲間同士、春の山に連れ立って行って、どこの花の蔭ともかまわず野宿してみたいものだ。)
春の歌とて
春ふかくなりゆく草のあさみどり野原の雨はふりにけらしも(新後拾遺639)
(春は深まり、色を増してゆく草の浅緑――野原を濡らす雨はたびたび降ったようであるなあ。)
夏 / 題しらず
をしめどもとまらぬ春もあるものを言はぬにきたる夏衣かな(新古176)
(いくら惜しんでも止まらずに去ってしまう春もあるのに、呼びもしない夏がやって来て夏衣を着ることだ。)
時鳥ほととぎすのはじめて鳴きけるをききて
ほととぎす初声きけばあぢきなくぬしさだまらぬ恋せらるはた(古今143)
(ほととぎすの初声を聞くと、どうしようもなく、誰に惹かれるのかも判然としない、人恋しい気持が起こるよ、やはり。)
奈良の石上寺いそのかみでらにて郭公の鳴くをよめる
いそのかみふるき宮この郭公こゑばかりこそ昔なりけれ(古今144)
(石上の布留、その「ふる」い皇居の地に鳴く時鳥よ、あたりの様子はかつてと変わってしまったが、その声だけは昔のままであることよ。)
秋 / 題しらず
こよひ来む人には逢はじ七夕のひさしきほどに待ちもこそすれ(古今181)
(七夕の今夜、わが家を訪れる人には会うまい。織女が牽牛を待つように、再び会えるまで長い間待つことにになってしまうから。)
藤袴をよめる
ぬししらぬ香こそにほへれ秋の野にたがぬぎかけし藤袴ぞも(古今241)
(持ち主は知らないけれども、すばらしい香が匂うことよ。秋の野に誰が脱いで掛けた藤袴なのか。)
寛平御時きさいの宮の歌合のうた
我のみやあはれと思はむきりぎりす鳴く夕かげのやまとなでしこ(古今244)
(私だけがあわれと思うだろうか。こおろぎの鳴く夕べの光の中に咲いている大和撫子の花よ。)
仙宮に菊をわけて人のいたれるかたをよめる
ぬれてほす山ぢの菊の露のまにいつか千とせを我は経にけむ(古今273)
(菊の露に濡れては乾かしつつ行く山道――その「露の間」ではないが、いったいいつの間に千年を私は過ごしてしまったのだろうか。)
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢ流れたるかたを画けりけるを題にてよめる
もみぢ葉のながれてとまる湊には紅深き浪やたつらむ(古今293)
(川に散り落ちたもみじ葉が流れて行き着く湊には、深い紅色の波が立つだろうか。)
北山に僧正遍昭とたけ狩りにまかれりけるによめる
もみぢ葉は袖にこきいれてもていでなむ秋は限りと見む人のため(古今309)
(もみじの葉は袖にしごき入れて山から持って出よう。秋はもう終りと思っている人のために。)
鏡山を越ゆとて
かがみやま山かきくもりしぐるれど紅葉あかくぞ秋は見えける(後撰393)
(鏡山では山をかき曇らせて時雨が降るけれども、秋は紅葉が赤々と美しく見えるよ。)
題しらず
もみぢ葉に道はむもれてあともなしいづくよりかは秋のゆくらむ(続後撰456)
(山道はもみじの葉に埋め尽され、痕跡もとどめない。いったいどこを通って秋は去ってゆくのだろうか。)
亭子院の奈良におはしましたりける時、龍田山にて
雨ふらば紅葉のかげにやどりつつ龍田の山に今日は暮らさむ(続古今898)
(雨が降ったら、紅葉した木の蔭に雨宿りしながら、今日は立田山に日を暮らそう。)
賀 / 本康もとやすのみこの七十ななそぢの賀のうしろの屏風によみてかきける (二首)
いにしへにありきあらずは知らねども千とせのためし君にはじめむ(古今353)
(過去にあったかどうかは知りませんけれども、千年の長寿の例をあなたで最初にしましょう。)
ふして思ひおきて数かぞふる万代は神ぞしるらむ我が君のため(古今354)
(寝ても覚めても、ひたすら祈り数える万年の長寿は、我が君のためを思って、神がご考慮下さるでしょう。)
良岑のつねなりが四十(よそぢ)の賀に、むすめにかはりてよみ侍りける
よろづ世をまつにぞ君をいはひつる千とせのかげにすまむと思へば(古今356)
(万年にもわたる長寿を期待し、松にことよせて父君の将来を言祝(ことほ)ぎます。私も千年の生命の恩恵を受けてその蔭に生きようと思いますので。)
内侍のかみの、右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた
春日野に若菜つみつつよろづ世をいはふ心は神ぞしるらむ(古今357)
(春日野に若菜を摘んでは、万年にも及ぶ長寿をお祈りする心は、神もご照覧下さるでしょう。)
恋 / 題しらず
おとにのみきくの白露よるはおきてひるは思ひにあへずけぬべし(古今470)
(あの人を噂にばかり聞いて、菊の白露が夜は置き昼は光に耐えられず消えてしまうように、私も夜は起きてばかりいて昼は恋しい思いに死んでしまいそうです。)
恋の歌とて
みぬ人を心ひとつにたづぬればまだ知らねども恋しかりけり(続古今948)
(逢ったことのない人なのだが、自分の胸一つに尋ね求めてみれば、まだ知らないけれども恋しいのだったよ。)
題しらず
秋風の身にさむければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに(古今555)
(秋風が身に沁みて寒いので、つれない人ではあるが、こうして頼みにするのです。暮れてゆく夜ごと夜ごとに。)
題しらず
はかなくて夢にも人を見つる夜はあしたの床ぞおきうかりける(古今575)
(あっけない有様で夢に恋人を見た夜は、名残惜しくて、朝の寝床から起きるのが辛いのだ。)
題しらず
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな(古今691)
(あの人がすぐ来ようと言ったばかりに、私はこの長月の長夜を待ち続け、とうとう有明の月に出遭ってしまった。)
題しらず
秋風に山の木の葉のうつろへば人のこころもいかがとぞ思ふ(古今714)
(秋風が吹いて山の木の葉は散ってしまうのだから、人の心も「飽き」風が吹けばどうなってしまうのかと心配だことよ。)
題しらず
そこひなき淵やはさわぐ山河のあさき瀬にこそあだ浪はたて(古今722)
(底知れず深く湛えた水は、音を立てますか。山あいの川の浅瀬にこそ、いたずらに騒がしい波が立つのです。)
題しらず
思ふともかれなむ人をいかがせむあかず散りぬる花とこそ見め(古今799)
(いくら恋しく思っても、離れてゆく人をどうしよう。花が枯れるのを止められないように、仕様がないことだ。見飽きないまま散ってしまう花だと思って諦めようよ。)
題しらず
うちたのむ君が心のつらからば野にも山にもゆきかくれなむ(玉葉1330)
(頼みとするあなたの心が冷淡であったなら、私は野にでも山にでも行って姿をくらましてしまいましょう。)
題しらず
しきたへの枕をだにもかさばこそ夢のたましひ下にかよはめ(万代集)
(せめてあなたの枕だけでも貸してくれたなら、私の魂は夢の中を逢いに行って、ひそかにあなたのもとへ通うだろう。)
題しらず
いかりおろす舟の綱手は細くともいのちのかぎり絶えじとぞ思ふ(続後拾遺852)
(錨を下ろした舟を曳く綱は細くても切れない。そのように、あなたとの仲は細々と繋がっているだけだけれども、命ある限り絶えるまいと思うことだ。)
題しらず
恋しさに思ひみだれてねぬる夜のふかき夢ぢをうつつともがな(新千載1154)
(恋しさに思い乱れて寝た夜更け、あの人と深く契り合う夢を見た――この夢を現実としたいものだ。)
題しらず
忘れなむ後しのべとぞ空蝉のむなしきからを袖にとどむる(素性集)
(忘れてしまった後も、私のことを慕ってくれと思って、蝉の抜け殻をあなたの袖に残してゆきます。)
寛平御時、御屏風に歌かかせたまひける時、よみてかきける
わすれ草なにをか種と思ひしはつれなき人のこころなりけり(古今802)
(恋を忘れるという忘れ草は、何を種として生えるのかと思ったら、冷淡な人の心でしたよ。)
雑 / 延喜御時、御むまをつかはして、はやくまゐるべきよしおほせつかはしたりければ、すなはちまゐりて、おほせごとうけたまはれる人につかはしける
望月のこまよりおそく出でつればたどるたどるぞ山は越えつる(後撰1144)
(十五夜の月が木の間から出たのが遅く、また私の乗る馬の出発も遅れましたので、暗い夜道を辿り辿りしながら山を越えて参りました。)
朱雀院の奈良におはしましたりける時に、たむけ山にてよみける
たむけにはつづりの袖もきるべきに紅葉に飽ける神やかへさむ(古今421)
(手向(たむけ)には私の粗末な僧衣を切り取って捧げるべきでしょうが、周囲の美しい紅葉に飽いたこちらの神は、そんなものお返しになるでしょうか。)
宮の滝と言ふ所に、法皇おはしましたりけるに、おほせごとありて
秋山にまどふ心を宮滝のたきの白しらあわにけちやはててむ(後撰1367)
(出家の身でありながら秋山の美しさに惑う私の心を、この宮滝の奔湍の白い泡に消し尽してしまいたいものです。)
前太政大臣さきのおほきおほいまうちぎみを、白川のあたりに送りける夜よめる
血の涙おちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ(古今830)
(血の涙が落ちて逆巻く。白川とはもはや呼べず、この名はあなたが生きておられた時までの名でしたことよ。)
題しらず
いづくにか世をばいとはむ心こそ野にも山にもまどふべらなれ(古今947)
(いったいどこで遁世の暮らしを送ろうか。身体は一所に定住したところで、心の方は野にいても山にいても惑うに決まっているのだから。) 
3
平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であると言う。近代以来の短歌や国文学の和歌解釈に慣れてしまった人々には理解困難な歌論だろう。江戸の国学も近代の国文学もこれを無視して、新たなに和歌を解く方法を創り上げた。「序詞」「掛詞」「縁語」の修辞法で表現されてあったと言うのであるが、平安時代の文脈から見れば、奇妙な捉え方である。こちらの方を無視して一切触れないで、百人一首の和歌の奥義を紐解く。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (二十一) 素性法師
いまこむといひしばかりに長月の ありあけの月を待ちいでつるかな
(今にも来るだろうと言ったばかりに、長月の・秋の夜長を、有明の月まで待って、逢引の宿を・出てきたことがあったなあ……井間、絶頂が・来そうなの、と言ったばかりに、長つきの、明け方の尽きを待ち、井間より・出てきたことがあったなあ)
「いま…今…今にも…すぐ…井間…おんな」「こむ…来るつもり…来るでしょう…来そうだ」「といひしばかりに…(女が)言ってきたばかりに…(井間が)言ったと感じただけのことで」「長月…九月…晩秋…夜長…長突き」「月…月人壮士(万葉集の歌詞・月の別名は、ささらえをとこ)…月の言の心は男…突き…尽き」「ありあけの月…明け方空に残る月…残月…明け方まで残ったおとこ」「いでつる…出でた…退出した…出家した…引きあげた…逃れ出た…ものが出た」「つる…つ…完了していることを表す…(過去にそのようなことがあったが)今に引きずっていない事を表す」「かな…(だった)なあ…(だった)ことよ…感動・詠嘆の意を表す」
歌の清げな姿(気高き姿)は、恋人に待ちぼうけを喰らわされた情況。心におかしきところ(言の戯れに顕れる趣旨)は、合う坂の山ばの頂上が、いまに来るからと言われ、明け方まであい努めたが、終に退出したさま。
この歌は、古今和歌集 恋歌四にある。題しらず。恋歌ではあるが失恋の歌のようである。「いま」「こむ」「つき」「いでつる」は、清少納言のいうように「聞き耳異なる言葉」と捉えることができる。「こむ」の来るものは、人とは限らない、女の感情の山ばのことかもしれない、そのように聞く耳を持って、この歌を聞けば、「心におかしきところ」が顕われる。また、このような経験と体験が「いでつる(出家)」の因になったかもしれぬと聞けば、歌の「深い心」も見えて来るだろう。この文脈で言葉の孕んでいた意味のすべてを聞く耳を持てば、和歌も枕草子の言動も「いとをかし」と共感することができるだろう。
平安時代の歌論と言語観は、およそ次のようなことである。
○ 紀貫之は『古今集仮名序』の結びに「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。和歌の「恋しくなる程のおかしさ」を享受するには「表現様式」を知り「言の心」を心得る必要が有る。「歌の様」は藤原公任が捉えている。
○ 公任は『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」と優れた歌の定義を述べた。歌には品の上中下はあっても、必ず一首の中に「心」「姿」「心におかしきところ」の三つの意味があるということになる。これが和歌の表現様式である。
○ 清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって(意味が)異なるもの、それが我々の用いる言葉である。言葉は戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。
○ 藤原俊成は古来風躰抄に「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はる」という。歌の言葉は戯れて、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌に公任の言う三つの意味を詠むことは可能である。「言の心」と「言の戯れ」を心得れば顕れる「深き旨」は、煩悩の表出であり歌に詠めば即ち菩提(悟りの境地)であるという。それは、公任のいう「心におかしきところ」に相当するだろう。
○ 藤原定家は、当然、上のような歌論と言語観を踏まえた上の歌論となるだろう。それに基ずいて、「百人一首」を撰んだのである。
定家以降、歌の奥義は歌の家の秘伝となり、一子相伝の口伝となって、何代か後には埋もれ木となり、秘伝は朽ち果て、奥義は見えなくなった。同時に上のような歌論と言語観が理解不能となった。そして、国文学は、秘伝も平安時代の歌論も言語観も無視して、和歌の解釈を行い現代に至るのである。 
4
『古今和歌集』 恋部における素性歌 
はじめに
素性は『古今和歌集』に三六首の和歌が収載され、撰者である紀貫之、凡河内躬恒、紀友則に次いで四番目に多く、撰者の一人である壬生忠岑と並んでいる。つまり、素性は撰者を除くと入集歌数第一位の歌人となる。『古今和歌集』における素性の歌は多くの部立に幅広く収載されており、素性が『古今和歌集』の撰者たちから高く評価されていたこと、『古今和歌集』成立時に素性が卓越した歌人として活躍していたことを表している。三六首が入集された素性の歌のうち、僧という立場でありながら恋歌一から恋歌五までの恋部には計九首の歌が採られている。本論では素性のどのような歌が『古今和歌集』恋部に収載されたのか、その表現の傾向を明らかにする。 
一 屛風歌作者としての素性
寛平御時御屛風に歌かかせ給ひける時、詠みて書きける
忘草なにをか種と思ひしはつれなき人の心なりけり (恋歌五・八〇二・素性法師)
恋部に収載される素性の歌のうち、詞書がある歌は右に挙げた一首のみである。詞書からこの歌が宇多天皇の時代に詠まれた屛風歌であることがわかる。『古今和歌集』恋部において、屛風歌であることが明記されているのは当該歌のみであり、八〇二番は歌恋の情趣を詠んだ屛風歌として撰者たちに評価されたものと考えられる。
素性の屛風歌は、『古今和歌集』に右の歌を含めて四首収載されている。素性の屛風歌で詠歌時期の早い歌として、次の『古今和歌集』二九三番歌を挙げることができる。
二条の后の東宮の御息所と申しける時に、御屛風に竜田川に紅葉流れたるかたをかけりけるを題にてよめる
もみぢ葉の流れてとまるみなとには紅深き波やたつらむ (古今集・秋下・二九三・素性)
ちはやぶる神世も聞かずたつた河から紅に水くくるとは (古今集・秋下・二九四・業平朝臣)
右に挙げた二首は屛風に描かれた「竜田川に紅葉流れたるかた」の絵に関わって詠まれている。詞書の「二条の后」とは藤原高子を指し、これらの歌が、高子が「東宮の御息所」と呼ばれた時代に詠まれたことがわかる。高子が「東宮の御息所」であった時期について、高子が東宮の母の御息所であった時と解するのが通説である。それに従って考えると、高子の子である貞明親王は、貞観十年(八六八)に生まれ、翌年には立太子、翌年の十一月に受禅して元慶元年(八七七)に豊楽殿において即位している。従って、藤原高子が東宮の御息所と呼ばれたのは貞観十一年(八六九)から貞観十八年(八七六)の七年間で、右の二首の詠歌時期もこの間ということになる。
高子が貞明親王を出産する際に建立された元慶寺は、素性の父である遍照が御持僧であり、素性が早い時期にこの歌を詠む機会を得たのは、そのような縁が背景となっていた可能性も考えられる。そのような縁があったにせよ、『古今和歌集』二九三・二九四番歌を通して、素性が貞観年間には既に藤原高子に召されて六歌仙の一人に数えられる業平と並んで屛風歌を詠んでいたことは明らかである。
また、素性は屛風歌を詠むだけでなく、書き手としても優れていたことが知られている。八〇二番の詞書きに「御屛風に歌かかせ給ひける時」とあるが、この他にも、『古今和歌集』三五三番歌の詞書には「元康の皇子の七十の賀のうしろの屛風に詠みて書きける」、三五七番歌の詞書には「尚侍の、右大将藤原朝臣の四十の賀しける時に、四季の絵かけるうしろの屛風に書きたりけるとき」とあり、素性が歌を詠むだけでなく、書き手として活躍していたことがわかる。また、醍醐天皇によって詠まれた『続後撰和歌集』一一三七番歌の詞書には「法師をめして御屛風歌書かせられけるに、まかりいでける時、御前にめしておほみきたまひけるついでに、御さかづきたまはすとて」とあり、素性が屛風歌を詠み書きする腕前は醍醐天皇に召されるほどのものであったことが窺える。
これらのことから、素性は屛風歌が盛んに詠まれるようになる醍醐朝以前からいくつもの屛風歌を詠み、書き手としても活躍していたことがわかる。素性は、『古今和歌集』撰集のころには六十代に差し掛かっていたと推測される。貫之などの『古今和歌集』撰者にとって素性は年齢的にも歌人としての経験も先輩にあたる。『貫之集』には素性の死に際して詠んだ貫之と躬恒の哀傷歌が残されており、素性は先輩歌人として撰者たちに影響を与える存在であったと考えられる。素性は『古今和歌集』編纂当時、既に屛風歌作者として高く評価されており、恋部に収載される唯一の屛風歌として八〇二番歌が入集されるに至ったと考えられる。 
二 女の立場で詠んだ歌
音にのみ菊の白露夜はおきて昼は思ひにあへずけぬべし (恋歌一・四七〇・素性法師)
秋風の身に寒ければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに (恋歌二・五五五・素性法師)
はかなくて夢にも人を見つる夜は朝のとこぞ起きうかりける (恋歌二・五七五・素性法師)
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな (恋歌四・六九一・素性法師)
秋風に山の木の葉のうつろへば人の心もいかがとぞ思ふ (恋歌四・七一四・素性法師)
底ひなき淵やはさわぐ山河の浅き瀬にこそあだなみはたて (恋歌四・七二二・素性法師)
思ふともかれなむ人をいかがせむあかず散りぬる花とこそ見め (恋歌五・七九九・素性法師)
秋の田のいねてふこともかけなくに何を憂しとか人のかるらむ (恋歌五・八〇三・素性法師)
右に挙げた八首は恋部に収載される題知らずの素性の歌である。先に挙げた屛風歌、八〇二番歌以外の八首には詞書がなく、詠歌状況を特定することができない。この八首の和歌を見てみると、『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌には女の立場で詠まれた歌が多いことがわかる。五五五番歌は秋風が身にしみて寒いので、夜になるごとにつれない男の訪れを期待してしまうことだ、という趣旨の歌であり、秋風の冷たいことを契機としてつれない男の訪れをあてにしてしまう、待つ女性の嘆きを詠んでいる。
また、後に『百人一首』にも採られた六一九番歌は、男が今すぐに来ると言ったばかりに長月の有明の月が出るまで男の訪れを待ってしまった、と詠んでいる。この歌の解釈については、顕昭の『顕注密勘』に「長月の在明の月とは、なが月の夜のながきに在明の月のいづるまで人を待とよめり。大方万葉にも、ながつきの在明の月とつけたる歌あまたあり」という女が一夜男の訪れを待ったとする注がある一方、定家は「大略同じ。今こむといひしひとを月来待つ程に秋もくれ月さへ在明になりぬとぞ、よみ侍りけん。こよひばかりはなほ心づくしならずや」として女が何か月も待ったという月来説を提唱し、以来一夜説と月来説の両説が対立している。しかし、この歌もまた男の訪れを待つ女の立場で詠まれた歌の一首といえる。
七九九番歌は、あの人のことを思っていても、離れていこうとする人をどうすることができようか。満足しないうちに散ってしまう花だと思って見よう、と詠み、「離れなむ人」を惜しんでいる。ここでいう「離れなむ人」は男を指すのか、女を指すのか。『古今和歌集』の恋歌において用いられる「離る」の用例を見てみると、小野小町の「みるめなきわが身をうらと知らねばやかれなで海人の足たゆく来る」(古今集・恋歌三・六二三)では「離れ」と「刈れ」
の掛詞として用い、男が絶えることなく通ってくることを表していることがわかる。また、業平の「今ぞ知る苦しきものと人待たむ里をば離れずとふべかりけり」(古今集・雑歌下・九六九)では自分のことを待っていてくれる女の里に絶えることなく通うべきであった、と詠んでおり、「離る」はいずれも男が女の元に通わなくなる、という意味で用いられているといえよう。よって、素性の七九九番歌は、自分のもとに通ってくる男の足が遠のこうとしていることに気づき、その男を満足する前に散ってしまう花だと思おうとする、女の立場で詠まれたものだと見なすことができる。よって、「秋の田の稲」という風景から掛詞を駆使し、飽きたので去ってしまえなどということを言っていないのに、何をいやだと思ってあの人は離れてしまったのだろう、と詠む八〇三番の歌にも同様のことが言え、やはり女の立場で詠まれた歌だということがわかる。
以上のことから、『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌全九首のうち、四首が女の立場で詠まれた歌であるといえる。なぜ素性はこのような表現方法をとったのだろうか。まず一つ考えられるのは、先にも述べた屛風歌の作者としての技術である。女の立場で詠まれた歌は虚構の恋歌である。屛風歌は屛風に描かれた絵図に歌を書き添えるが、画中の人物の立場に立って歌を詠むことがその常套手段であった。よって、詠歌状況のわからないこれらの歌も、屛風に描かれた女性の立場に立って詠まれた歌である可能性があるだろう。また、そうではないとしても、屛風歌作者として画中の人物の立場で歌を詠むことを通して、女の立場で歌を詠むことに長けていた可能性も考えられる。
また、男性でありながら女の立場で和歌を詠むことについて、素性の父からの影響を考える必要がある。父・遍照は六歌仙の一人であり、『古今和歌集』恋部に二首の歌が収載されている。注目すべきは、そのいずれの歌も女の立場で詠まれていることにある。
我が宿は道もなきまで荒れにけりつれなき人を待つとせしまに (古今集・恋歌五・七七〇・僧正遍照)
今来むと言ひて別れし朝より思ひくらしの音をのみぞなく (古今集・恋歌五・七七一・僧正遍照)
七七〇番歌はつれない人の訪れを待っている間に私の家は道が見えなくなるほどに荒れてしまった、と詠み、七一番歌はすぐに来ると言って別れた朝から、私は毎日あなたを思いながら日を暮らし、蜩のように声をあげて泣いている、と詠んでおり、どちらも男の訪れを待つ女の立場で詠まれた歌であることがわかる。さらに、七七一番歌は「今来むと」という初句が素性の六九一番歌「今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな」と初句を同じくし、素性の六九一番歌、遍照の七七一番歌は共に、今すぐに来ると男に言われたために、来ない男の訪れを待ち続ける女の立場で詠まれた歌であることが確認できる。遍照の歌と素性の歌が同じ場で詠まれたのか、あるいは前後関係があるものなのかは知ることができない。しかしながら、このように女の立場で男の訪れを待つ女の嘆きを親子で複数詠んでおり、それが『古今和歌集』恋部に収載されていることは注目すべき点である。
男が女の立場で歌を詠む、ということを考えた時、『古今和歌集』に収載される次の贈答歌が思い起こされる。
業平朝臣の家にはべりける女のもとに、よみてつかはしける           
つれづれのながめにまさる涙川袖のみ濡れてあふよしもなし (古今集・恋歌三・六一七・敏行朝臣)
かの女に代はりて返しによめる  
浅みこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かばたのまむ (古今集・恋歌三・六一八・業平朝臣)
右に挙げた贈答歌の答歌は、業平が女の歌を代作したものである。『古今和歌集』成立当時、男性が女性が詠む歌を代作することは珍しくなかった。しかしながら、素性や遍照が女の立場で詠んだ歌は、いずれも女の立場で男の訪れを待ち嘆く独詠歌であり、代作で詠まれたとは考えがたい。
男が女の立場で、男の訪れを待ち嘆く歌を詠むという遍照と素性の共通点には、閨怨詩の影響が考えられる。閨怨詩とは、『玉台新詠』に多く収載されており、男性詩人が孤閨の女性の立場になって、帰らぬ夫を嘆くというものである。日本では、早くは『凌雲集』に一首見え、『文華秀麗集』には隆盛を迎え「艶情」の詩群が成立している。井実充史氏は閨艶詩について「男性が女性の内面を思いやって描いた、いわば想像の産物である」と説明しており、素性や遍照の女性仮託の歌に通じる詩であることが考えられる。
中野方子氏は、漢籍や仏典に見られる表現の「型」を照射することで、和歌で用いられている歌語誕生の過程を明確化された。その中で、閨怨詩における類型素材の一つとして「孤閨寒風」の影響を指摘し、その例として『古今和歌集』から素性の歌を含む次の三首を挙げている。
秋風の身に寒ければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに (恋歌二・五五五・素性)
来ぬ人を待つ夕暮の秋風はいかに吹けばかわびしかるらむ (恋歌五・七七七・よみ人しらず)
吹きまよふ野風を寒み秋はぎのうつりも行くか人の心の (恋歌五・七八一・雲林院のみこ)
中野氏は、「昭陽辞恩寵 長信独離居 団扇含愁詠 秋風怨有余」(嵯峨天皇「婕、怨」『文華秀麗集』五八)などの例を挙げて「秋風」が「秋閨怨」の素材であることを指摘し、「恋人を待ちわびる女性の立場に立って詠む『古今集』の恋歌に見られる「風」は、帰らぬ夫を待つ妻を歌う閨怨詩の類型素材の影響を受けて作られた可能性が高い」と論じている。
このことを踏まえてもう一度『古今和歌集』恋部に収載される素性歌を見てみると、次に挙げる七一四番歌もまた「秋閨怨」の素材である「秋風」を詠んだものとして考えることができるのではないだろうか。
秋風に山の木の葉のうつろへば人の心もいかがとぞ思ふ (恋歌四・七一四・素性法師)
この歌は秋風に「飽き」の掛詞を活かし、秋風が吹いて山の木の葉が色を変えると、飽き風によってあの人の心もどうだろうか、心変わりしてしまうのではないかと思う、不安な思いを詠んだ歌である。『古今和歌集』恋部には「初雁のなきこそわたれ世の中の人の心の秋しうければ」(古今集・恋五・八〇四・紀貫之)などのように秋に「飽き」の意を掛けて恋人が自分に飽きてしまうことを嘆いた歌が多く見られる。歌を詠んだだけでは、これが男女どちらの立場で詠まれたかを確定できる決定的な表現は見当たらない。しかしながら、秋風が契機となって恋の嘆きを詠むという点では五五五番と共通しており、この「秋風」を「閨怨詩」の素材に由来する表現と考えた場合、七一四番歌もまた、男の訪れを待つ女が、秋風によって相手の心変わりを予感し、不安に思う女の立場で詠んだものと考えられるのではないだろうか。 
また、中野氏は「月」もまた閨怨詩の素材として認められると指摘する。閨怨詩の影響下にある可能性のある歌として次の素性の歌を挙げるが、本格的な閨怨の「月」は、勅撰集においてはもう少し時代が下ってから登場するとしている。
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな (恋歌四・六九一・素性法師)
この歌も、先に確認したように待つ女の立場になって詠まれた歌である。中野氏の指摘に付け加えると、この歌に詠まれる「有明の月」は明け方の月を意味するが、『文華秀麗集』には「日暮深宮裡 重門閉不開 秋風驚桂殿 暁月照蘭台」(「長門怨」『文華秀麗集』嵯峨天皇)や「昭陽辞恩寵 長信独離居 団扇含愁詠 秋風怨有余」(嵯峨天皇「婕、怨」『文華秀麗集』五八)などに見られる「暁月」に通じる素材であると考えられるだろう。夜を通して男の訪れを待つ女が明け方の月を見る、ということも、閨怨詩に由来する表現方法の一つであると考えられる。
さらに、中野氏は遍照の七七〇番歌についても「秋閨怨」の「廃屋の風景」の影響を指摘されている。
我が宿は道もなきまで荒れにけりつれなき人を待つとせしまに (古今集・恋歌五・七七〇)
来ない人の訪れを待つうちに道がなくなるまでに草が生い茂る、というこの歌は、「昔邪生戸牖 庭内成林」(「情詩五首」『玉台新詠』巻二)のように、荒廃した女の家と草の繁茂は夫のいなくなった家を表すものであると指摘された。先に挙げた秋風や、荒廃した女の家は、素性や遍照の歌に限らず多く詠まれており、閨怨詩に由来すると考えられるこれらの表現は、和歌の表現として定着していたものと考えられる。しかし、男性である遍照や素性が女の立場で男の訪れを待ち嘆く歌を詠む、ということは、それ自体が閨怨詩の形式にならったものであると考えられ、遍照と素性に共通する一つのテーマであったと考えられる。
では、遍照と素性はどのような場でこのような歌を詠んだのだろうか。片桐洋一氏は『古今和歌集全評釈』で、素性と遍照が女の立場に立って歌を詠んでいることに触れて「素性や遍照が虚構の歌を作り、心を許し合った人々が集まった場で、披講されたものだろう」と述べており、仲間内での芝居がかった歌であるとしている。若き日の素性は常康親王と遍照を中心として雲林院で行われていた文学活動に参加していたと考えられ、ここでの作歌活動が素性の和歌の基盤となっていたことが想定できる。常康親王は、父である仁明天皇が承和十一年(八四四)に崩御し、嘉祥三年(八五〇)に文徳天皇が即位すると、翌年の仁寿元年(八五一)に出家し、雲林院に住んで詩作にふけった。常康親王と遍照はともに仁明天皇の死を契機に出家し、貞観十一年に常康親王が没するまでの間、遍照と深く関わっていた人物だと考えられる。遍照・素性親子が常康親王と交流を持っていたことは『古今和歌集』に収載される次の二首からも窺える。
雲林院のみこのもとに、花見に、北山の辺にまかれりける時によめる     
いざ今日は春の山辺にまじりなんくれなばなげの花の影かは (古今集・春歌下・九五・素性)
雲林院のみこの舎利会に山にのぼりてかへりけるに、桜の花のもとにてよめる      
山風に桜吹き巻き乱れなむ花のまぎれに君とまるべく (古今集・離別歌・三九四・僧正遍照)
蔵中スミ氏は雲林院での文学活動について、雲林院で詠まれた漢詩が複数残ることから、漢詩が盛んに詠まれる時代には漢詩文製作の場であったと考えられるとしている。しかし、遍照や素性の漢詩は一首も残っておらず、雲林院での作詩活動に遍照・素性親子が参加していたという確証は得られない。しかし、素性がこのような場に身を置いて和歌を詠んでいたとするならば、漢詩の教養を身に着ける機会は十分にあったと想定できよう。さらに、注目されるのは中野氏が「秋風」が「秋閨怨」の素材であり、『古今和歌集』の恋歌に影響を与えていたとして例に挙げられた「吹きまよふ野風を寒み秋はぎのうつりも行くか人の心の」(恋歌五・七八一・雲林院のみこ)の作者、雲林院のみことは、この常康親王なのである。『古今和歌集』恋部において、男性でありながら女の立場で恋の歌を詠み、そこに閨怨詩の影響を見ることのできる歌を詠んだ素性・遍照・常康親王はみな雲林院での文学活動の中心メンバーであった。
素性が雲林院で文芸を学んだのはまだ若いころと想定される。『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌には女の立場で詠まれた歌が多く詠まれており、それが父である遍照と共通するものであること、それらが閨怨詩の影響下にあることを確認し、さらにそれが雲林院での文学活動を通して身に着けた歌の詠み方である可能性について指摘した。『古今和歌集』恋部に収載される九首中四首、閨怨詩の影響を認めて七一四番歌を女の立場で詠んだ歌と認めるのならば五首の歌が女の立場で詠まれた歌であり、こうした素性の歌が撰者から高い評価を得ていたことが明らかになる。 
三 新古の融合
素性法師
音にのみきくの白露夜はおきて昼は思ひにあへず消ぬべし (古今集・恋歌一・四七〇)
右に挙げた四七〇番歌は掛詞や縁語といった修辞を駆使した、『古今和歌集』の特徴的な修辞を盛り込んでおり、『古今和歌集』中でもひと際複雑に修辞が用いられた歌である。まず、「きく」に「菊」と「聞く」、「おき」に「露が置く」と「起きる」、「思ひ」の「ひ」には露を消してしまう「日」、「消ぬ」には「(露が)消える」と「(私が)死ぬ」の意が掛けられている。さらに、この歌は二句目までが序詞で、主想となる第三句以下の中に序詞の一部の縁語もあるという複雑な構造で成り立っている。「噂にだけ聞いて、夜は眠れず起きていて、昼は恋の思いに堪え切れず死んでしまいそうだ」という人事の文脈と、「菊の上に白露が、夜は置いて昼は消えてしまいそうだ」という自然を詠む文脈の二重構造で、自然を詠む文脈が比喩として人事の文脈に作用している。さらに、菊は『万葉集』では詠まれなかった素材であり、和歌の素材として新しかったことが知られる。このように、素性の四七〇番歌は『古今和歌集』の歌風として特徴的な修辞を多用し、菊という新たな素材を用いた、この時代の新しい歌の詠み方を実践していることがわかる。恋部に収載される素性の歌の中でこの他にも掛詞や縁語を多用した歌が見られる。「秋の田のいねてふこともかけなくに何を憂しとか人のかるらむ」(恋歌五・八〇三・素性法師)は、「秋」と「飽き」、「稲」と「往ね」、「架く」と「掛く」、「離る」と「刈る」が掛詞として用いられており、素性は修辞を多用して自然と人事の文脈の二重構造を詠む、新しい表現方法を実践し、長けていたと言えるだろう。
しかし、その一方で、四七〇番歌の表現には『万葉集』に収載される歌と通じる表現が用いられている。田中常正氏は著書『万葉集より古今集へ』において、『古今和歌集』歌人の恋歌の表現を『万葉集』の先行歌を明らかにするという視点で分析され、その中で、素性の四七〇番歌は『万葉集』の複数の歌の表現を組み合わせて構成された歌であると指摘して次の歌を挙げている。
奥山の岩に苔むしかしこくも問ひたまふかも思ひあへなくに (『万葉集』・巻六・九六二)
梅の花散らすあらしの音にのみ聞きし我妹を見らくし良しも (『万葉集』・巻八・一六六〇)
秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは (『万葉集』・巻一〇・二二五四)
夕置きて朝は消ぬる白露の消ぬべき恋も我はするかも (『万葉集』・巻一二・三〇三九)
『万葉集』二二五四番歌は、恋い焦がれていないで秋萩の上に置いた白露のように消えてしまえばよかった、と詠んでおり、植物の上に置いた白露が消えるはかなさをわが身になぞらえて恋の嘆きを詠む点で素性の四七〇番歌に通じる表現であるといえよう。また、二二五四番歌の「夕置きて朝は消ぬる白露」というのも素性の四七〇番歌「きくの白露夜はおきて昼は思ひにあへず消ぬべし」に通じる表現であることが確認できる。
田中氏の挙げられた右の四首には確かにそれぞれ素性の四七〇番歌に通じる表現が用いられており、特に二二五四番歌や三〇三九番歌は素性の四七〇番と密接な関係にあると考えられる。四七〇番歌が『万葉集』九六二番の「思ひあへなくに」や一六六〇番の「音にのみ聞きし我妹」といった表現を直接的に用いているかは疑わしいが、四七〇番歌の表現がこれらの表現を念頭に詠まれたものであるのは確かであろう。四七〇番歌は、『万葉集』の表現を用いつつ、新たな素材である菊や、新たな修辞である掛詞や縁語を駆使して古い歌と新しい歌を融合させた歌であるといえるだろう。
また、素性が女の立場で詠んだ歌として先述した六九一番歌もまた、『万葉集』収載歌と通じる表現を用いている。
今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな (古今集・恋歌四・六九一)
この歌の、「長月の有明の月」という表現は『万葉集』の次の二首に用いられている。
白露を玉になしたる長月の有明の月を見れど飽かかぬも (万葉集・巻一〇・二二二九)
九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば我恋ひめやば (万葉集・巻一〇・二三〇〇)
右に挙げた二二二九番歌は、白露を玉のように輝かせる九月の在明の月について詠んでおり、二三〇〇番歌は「長月の在明の月夜」までが第三句目の「あり」を起こす序となっている。このように、「長月の在明の月」という表現は『万葉集』に既に見られる表現であるといえる。また、次に挙げる『万葉集』二六七一番歌は、「今夜の有明の月」と少差はあるものの、やはり素性六九一番歌に通じる表現であるといえよう。
ところで、先にも述べた通り素性の「有明の月」には閨怨詩の素材としての「暁月」の影響を指摘することができる。男の訪れを待つ女が明け方の月を見る、という表現は次に挙げる『万葉集』歌にもいうことができる。
今夜の有明の月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし (万葉集・巻一〇・二六七一)
この歌は、『万葉集』二三〇〇番歌と同様に初めの二句が三句目の「あり」を起こす序として用いられているが、「君をおきては待つ人もなし」とあるように男の訪れを待つ女を詠んだ歌であることがわかる。これらのことから、素性の『古今和歌集』六九一番歌は、「長月の在明の月」という表現は『万葉集』以来の表現を受け継いで用いられたものであり、閨怨詩の素材としての「暁月」に通じる有明の月を用いて男の訪れを待つ歌の詠み方も『万葉集』に既に見いだすことができることが明らかになった。
『古今和歌集』恋部に限定せず、素性の詠歌を見渡すと、この他にも『万葉集』に収載される歌を踏まえて詠んだと考えられるものが複数確認できる。しかし、『万葉集』と『古今和歌集』には約一五〇年の隔たりがあり、その間には漢詩が文芸の中心となる時代を挟むこととなる。はたして、『万葉集』は『古今和歌集』の時代の歌人たちに享受されていたといえるのだろうか。川口常孝氏は、「伝説・伝誦歌謡の範囲が、古今集歌人の対古代の知識であり、古今集歌人は『万葉集』を読みこなすことが困難だった」として、『古今和歌集』歌人の『万葉集』の直接的な享受を否定的に論じられた。しかし、研究が進む中でこの認識は大きく異なってきており、北住敏夫氏は「『万葉集』と『古今和歌集』の歌風は著しく異質的なものと考えられがちであるが、『万葉集』の歌が伝誦されていく過程で変化した類歌と、その他に『万葉集』の歌に倣って作られた歌も確認できる」として、『古今和歌集』には伝誦による『万葉集』の類歌の他に、『万葉集』の影響を受けて作られた歌があることを指摘し、田中常正氏は「『万葉集』は『古今集』歌人にとって絶対のものであり、教本であった」として、『万葉集』の歌を中古的な言葉で絵取ることが、古今集歌人の歌構成の全てであったと強く主張している。『万葉集』がどのような状態で、どのくらい享受されていたのかを断定することはできないが、これまで見てきた素性の歌や、貫之などの古今集歌人たちに伝承されていたということは彼らの和歌を見る限り明らかであろう。 
おわりに
ここまで、『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌について、その表現の傾向について考察してきた。素性は年齢的にも歌人としての経験も撰者たちよりも上回っていた。恋部に唯一の屛風歌として収載されるのも、屛風歌の作者としての素性を撰者たちが評価していたと考えられる。『古今和歌集』恋部で目を引く女の立場で恋歌を詠んだ歌は閨怨詩の影響下に詠まれたものだと考えられるが、このような歌が恋部に収載されるのは素性だけでなく、若き日に素性が参加していた雲林院の文学グループの主要人物である常康親王と父・遍照に共通して言えることであった。また、素性の恋歌の中には、新たな修辞である掛詞や縁語を積極的に用いる一方で『万葉集』以来の表現を用いるという、古い歌と新しい歌を融合させた歌が存在する。最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編纂されるにあたり、和歌の文芸的意義が見直されようとする中、古い歌の表現を継承しつつ、新たな歌の詠み方を試みようとした素性の挑戦と言ってよいだろう。
以上のことから、『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌が、一般的な恋歌の褻の要素から一線を画したものであることがわかる。『古今和歌集』恋部に収載される素性の歌は晴の場で詠まれる屛風歌や虚構であることが明らかな歌、表現の面で新たな試みを実践した歌が収載されている。これらのことが『古今和歌集』撰者によって高く評価され、撰集されるに至ったのだと考えられる。 
 
22.文屋康秀 (ふんやのやすひで)  

 

吹(ふ)くからに 秋(あき)の草木(くさき)の しをるれば
むべ山風(やまかぜ)を 嵐(あらし)といふらむ  
吹くとすぐに秋の草木がしおれるので、なるほど山風を嵐というのだろう。 / 山風が荒々しく吹きおろすと、たちまち秋の草木がしおれてしまう。なるほど荒々しいからそれで「あらし」、また山から吹く風なので文字通り「嵐」というのだろうか。 / 風が吹くやいなや、秋の草木がしおれてしまうなぁ。だから、なるほど。草木をあらす山から吹く風を「嵐」というんだなぁ。 / 山風が吹きおろしてくると、たちまち秋の草や木が萎れてしまうので、きっと山風のことを「嵐(荒らし)」いうのだろう。
○ 吹くからに / 「からに」は、接続助詞で、「〜とすぐに」の意。
○ 秋の草木の / 前の「の」は、連体修飾格の格助詞で、「(秋)の」の意。後ろの「の」は、主格の格助詞で、「(草木)が」の意。
○ しをるれば / 「しをる」は、「枝折る」で、草木が枯れてぐったりするさま。「しをるれば」は、「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。「しおれるので」の意。
○ むべ / 呼応の副詞で「なるほど…」の意。「らむ」にかかる。
○ 山風を嵐といふらむ / 「山+風=嵐」。「嵐」は、「荒らし」との掛詞。「らむ」は、原因推量で、「(〜ので、…)のだろう」の意。 
1
文屋康秀(ふんやのやすひで、生年不詳 - 仁和元年(885年)?)は、平安時代前期の歌人。文琳とも。縫殿助・文屋宗于または大舎人頭・文屋真文の子。子に文屋朝康がいる。官位は正六位上・縫殿助。六歌仙および中古三十六歌仙の一人。
官人としては元慶元年(877年)山城大掾、元慶3年(880年)縫殿助に任官したことが伝わる程度で卑官に終始した。『古今和歌集』仮名序では、「詞はたくみにて、そのさま身におはず、いはば商人のよき衣着たらんがごとし」と評される。勅撰和歌集には『古今和歌集』4首と『後撰和歌集』1首が入集するが、『古今集』の2首は子の朝康の作ともいわれる。小野小町と親密だったといい、三河国に赴任する際に小野小町を誘ったという。それに対し小町は「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」(=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います)と歌を詠んで返事をしたという。のちに『古今著聞集』や『十訓抄』といった説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになった。
代表作
吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ
春の日の光にあたる我なれど 頭の雪となるぞわびしき
2
文屋康秀 ふんやのやすひで 生没年未詳 号:文琳
縫殿助宗于の息子。子の朝康も著名歌人。古今集真名序では「文琳」と称される。なお文屋氏は長皇子の末裔で、康秀は大納言文屋大市の玄孫にあたる(古代豪族系図集覧)。西暦九世紀後半、官人としての事蹟がみられる。『中古三十六歌仙伝』によれば、貞観二年(860)、中判事。元慶元年(877)、山城大掾。元慶三年(879)、縫殿助。仁寿元年(851)、仁明天皇の一周忌に歌を詠む(古今集)。また古今集の別の歌からは二条の后(藤原高子)のもとに出入りしていたことがわかる。また、三河掾として下向する際、小野小町を誘ったことが知られる。寛平五年(893)九月以前開催とされる是貞親王家歌合の作者に名を列ねる。六歌仙の一人で、古今集仮名序では「ことばは巧みにて、そのさま身におはず。いはば、商人(あきびと)のよき衣きたらんがごとし」と紀貫之に批判された。勅撰入集は古今五首、後撰一首の計六首。「吹くからに…」の歌は小倉百人一首に採られている。『新時代不同歌合』歌仙。
二条の后の春宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへに召して、おほせごとあるあひだに、日は照りながら雪のかしらに降りかかりけるを詠ませ給ひける
春の日のひかりにあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき(古今8)
(晴がましい春の日の光にあたる私ですが、頭髪が雪を被ったように白くなっているのが遣りきれない気持です。)
是貞のみこの家の歌合のうた(二首)
吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしと言ふらむ(古今249)
(吹いたはしから秋の草木が萎れてしまうので、なるほど山から吹き下ろす風を「あらし」と言うのだろう。)
草も木も色かはれどもわたつうみの浪の花にぞ秋なかりける(古今250)
(秋になると野の草も木も色が変わるけれども、海の波の花は、花と言っても秋に色の変わることはないのであるよ。)
二条の后、春宮の御息所と申しける時に、めどに削り花させりけるを詠ませ給ひける
花の木にあらざらめども咲きにけり古りにしこのみなる時もがな(古今445)
(花をつける木ではないでしょうに、花が咲いたことです。古くなってしまった木の実ならぬ我が身も、いつか実のなる時があってほしいものです。)
深草のみかどの御国忌の日よめる
草ふかき霞の谷に影かくしてる日の暮れし今日にやはあらぬ(古今846)
(草が深く繁り霞の立ちこめる谷にお姿をお隠しになり、輝く太陽が没するように大君が崩ぜられた今日この日ではございませんか。)
時に遇はずして、身を恨みて籠り侍りけるとき
白雲の来やどる峰の小松原枝しげけれや日のひかり見ぬ(後撰1245)
(雲が流れてきて宿る峰の小松原は、枝がたくさん繁っているからだろうか、日の光を見ることがない。) 
3
清元「文屋」の詞章
○ 烏帽子〔えぼし〕きた鷹の羽おとしきょろきょろと 小鳥めがけてひとのしに その人柄も康秀が 裳裾〔もすそ〕にじゃれる猫の恋
この部分は置浄瑠璃〔おきじょうるり〕、略して置〔おき〕とも言います。導入部の状況説明で、舞台上の動きがないので、カットされることも多いそうです。文屋康秀を鷹、小野小町を小鳥にたとえ、高嶺の花を狙っている全体の状況を説明しています。「人柄も康秀」というのは、「安っぽい」という掛詞〔かけことば〕です。
○ 届かぬながら狙い来て 行くをやらじと コレ待った 仇〔あだ〕憎らしいなんじゃいな 御清所〔おきよどころ〕の暗まぎれ 晩にやいのと耳に口 むべ山風〔やまかぜ〕の嵐ほど どっと身にしむ嬉しさも 秋の草木かしおしおと 一人寝よとは男づら 鮑〔あわび〕の貝の片便〔かただよ〕り 情けないではあるまいか
康秀と官女の出〔で=登場〕の部分です。百人一首にも出ている文屋康秀の和歌「吹くからに 秋の草木の しをるれば/むべ山風を 嵐といふらむ」を踏まえています。この部分は、官女が康秀に文句を言っている詩章になっています。「今晩会おうな」と言って期待させておきながら、私を放って、どこに行くつもりよ!という内容です。(御清所とは台所のこと。台所で康秀が官女に「今晩会おう」と耳打ちしたのが昼間、今は夜、という設定ですね。)
○ 寄るを突き退け コリャどうじゃ 鼻の障子〔しょうじ〕へたまさかに ねぶかの香るあだつきは 時候〔じこう〕違いの河豚汁〔ふぐじる〕で 一人ばかりか盛り替えを 強いつけられぬ御馳走〔ごちそう〕は そもそも御辞儀〔おじぎ〕は仕らぬ
ここから康秀が1人で詞章に即して踊ります。「想う人には想われず、想わぬ人から想われて」「好きじゃない人であっても、言い寄ってくるなら拒みはしないよ」という内容です。(何じゃそりゃ…。)
○ これを思えば少将〔しょうしょう〕が 九十九夜〔くじゅうくよ〕くよ思いつめ 傘をかたげて丸木橋〔まろきばし〕ゃ おっと危ねえ すでの事 鼻緒〔はなお〕は切れて片足は ちんがちがちがオオ冷〔つめ〕た その通い路〔じ〕も君ゆえに 衣〔ころも〕は泥に暁〔あかつき〕の すごすご帰る憂き思い ならぬながらも我が恋は 末摘花〔すえつむはな〕の名代〔みょうだい〕を 突きつけられて恥かしい
康秀が、深草少将〔ふかくさのしょうしょう〕の百夜通〔ももよがよ〕いを再現してみせます。「百夜通い」というのは、深草少将が小野小町に恋を打ち明けたところ、百夜通って来たらOKと言われて、九十九夜まで通ったものの、あと一夜のところで死んでしまった…という有名な伝説。「ならぬながらも」以降は再び康秀の心理描写です。末摘花〔すえつむはな〕は、『源氏物語』の登場人物で、あんまり美しくない女。やっぱり「想う人には想われず、想わぬ人から想われて」という内容ですね…。
○ 地下〔じげ〕の女子〔おなご〕の口癖に 田町〔たまち〕は昔〔むかし〕今戸橋〔いまどばし〕 法印〔ほういん〕さんのお守りも 寝かして猪牙〔ちょき〕に柏餅〔かしわもち〕 夢を流して隅田川 男除〔おとこよ〕けならそっちから 逢えばいつもの口車〔くちぐるま〕 乗せる手〔て〕ごとはお断り 逃げんとするを恋知らず 引き留〔と〕むるのを振り払い イヤイヤイヤ
ここは吉原の描写だそうです。文屋康秀に吉原の風俗を踊らせてしまったのが江戸の洒落です。法印というのは、占い師みたいなものでしょうか。占い師には流行りすたりがありまして、「昔は田町の法印さんが良かったけれど、今はなんと言っても今戸橋の法印さんよね!」ということでしょう(たぶん)。その流行りの法印さんがくれるお守りがありまして、当然、恋のお守りなんです。遊女が客の男にプレゼントします。「あなただけが好きなの」というしるしのお守り(男除け)なんですけども、もらった男はあんまり信じていないのです。「どうせ口だけなんだろ」って感じです。「猪牙〔ちょき〕」というのは、小型の、スピードが出る船のことです。当時は電車もバスもタクシーもありませんから、吉原まで普通は歩いていくわけですが、涼しく楽に行く(帰る)方法が2つありまして、駕籠〔かご〕か猪牙。人力車はもっとあとの時代のものです(よほど道が整備されていないと乗れませんから)。吉原からの朝帰り、猪牙に乗ると、1枚の布団を2つに折って、はさまって寝るものだったそうで(狭いから)、そのさまが柏餅みたい、っていう描写です。昨夜の夢は川に流してきれいサッパリ。
○ 逢う恋 待つ恋 忍ぶ恋 駕籠はシテこい 萌黄〔もえぎ〕の蚊帳〔かや〕呼んでこい
ここから「恋づくし」になります。「萌黄の蚊帳呼んでこい」っていうのは、昔は食べ物から日用品まで、いろいろなものを家の近くまで売りに来てくれまして、今で言う「いしや〜きいも〜」とか「たけや〜さおだけ〜」みたなのが、他にもたくさんあったんです。「呼び売り」と言います。それで、「もえぎのかや〜」っていう売り声が、特徴のある節がついていて、みんな知ってたんだそうです。「呼び売り」だから「呼んでこい」ってことだと思います。
○ ぎっちり詰ったやに煙管〔ぎせる〕 えくぼの息の浮くばかり これじゃゆかぬと康秀が富士や浅間の煙はおろか 衛士〔えじ〕の焚〔た〕く火は沢辺〔さわべ〕の蛍 焼くや藻塩〔もしお〕で身を焦がす そうじゃえ
ここが康秀の踊りの眼目〔がんもく〕、1番いいところです。官女との「恋づくし」で返事に詰まって、詰まる→やにが詰まった煙管→煙管と言えば煙→富士山と浅間山の煙比べ→煙と言えば炎→衛士の焚く火→点いたり消えたり→蛍→身を焦がす→藻塩…というように、火に関する縁語〔えんご〕で詞章がつながっていきます。ここで事前にぜひ知っておかなければいけない和歌を見ておきましょう。
「御垣守〔みかきもり〕 衛士〔えじ〕のたく火の 夜はもえ/昼はきえつつ 物をこそ思へ」衛士とは宮中の門を守る兵士のこと。衛士の焚く火(宮中の門の火)が夜は燃えて、昼は消えるのと同じように、私の恋ごころは夜になると燃え、昼は魂が消え入るばかりなのです、というような意味。「物をこそ思へ」というのは係り結びです。歌舞伎俳優は係り結びを自由に使えなくてはならない職業ですね。
「来ぬ人を 松帆〔まつほ〕の浦の 夕凪〔ゆうなぎ〕に/焼くや藻塩〔もしお〕の 身もこがれつつ」藻塩とは、塩をとるために焼く海草のこと。まるで焼かれる藻塩みたいに私は恋に焦がれています、というような意味。ちなみに先代勘三郎の前名「もしほ」っていうのは、この「藻塩」からきてるのだと思います(?)。
これは和歌ではありませんが、
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす」都々逸かな…。
康秀が蛍を捕まえようとする振りがあるのですが、捕まえようとしているのが蝶々ではなく蛍であることを表現するのが難しいのだそうです。蛍であることをどうやって表すかと言うと、蛍というのは、飛びながら光ったり消えたりするものなので、光っている時だけ目で追う、それで蛍だって分かるんだそうです。その、蛍の「光ったり消えたり」というのが、衛士の焚く火の「夜はもえ昼はきえ」っていうのと同じ。「一部分が同じである」っていうところを蝶番〔ちょうつがい〕にして、全然違うフレーズにポーンと飛んで行ってしまう、そういう詩のテクニックが使われています。日本の音曲には長唄、清元、常磐津、義太夫など様々なジャンルがありますが、長唄、清元なんていうのはわりとストーリー性が薄い。絵にも具象的なのと抽象的なのがあるように、音楽にも抽象的でシュールな詞章があるわけです。連想で、どんどん次の場面へ展開していっちゃうんですね。
○ 合縁奇縁〔あいえんきえん〕は味なもの 片時〔かたとき〕忘るる暇〔ひま〕もなく 一切〔いっせつ〕からだもやる気になったわいな そうかいな 花に嵐の色〔いろ〕の邪魔 寄るをこなたへ遣戸口〔やりどぐち〕 中殿〔なかどの〕さしてぞ走り行く
「人の縁というものは分からないものだから、俺にも小町を落とせる可能性がないわけじゃない、体がやる気になってきた!」「ああ、そうですか」というような意味。「据え膳なら遠慮せずいただきます」なんて言っていながら、やっぱり小町目指して駆けて行ってしまう康秀なのでした。(中殿には小町がいるはずなのです。) 
4
文屋康秀の憂鬱
春の日の光にあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき
『古今集』(巻一春上)に、次の詞書きを付けて載せる文屋康秀の歌である。
二条后の、東宮の御息所ときこえける時、正月三日、御前に召しておほせごとある間に、日は照りながら、雪のかしらに降りかかりけるを、よませ給ひける
歌の意味は、春の日差しに当たって温かさを感じるように、御息所の恩恵に浴している私ではありますが、折からの春の雪が頭に降りかかって、白くなっているように白髪を頂くようになってしまいました。頭に降りかかった雪の白さと、徒に年を重ねるだけで、栄達も思うに任せない境遇を歎き、一段の恩寵を願ったものである。
ここで、二条后と呼ばれている人は、藤原高子のことであり、「東宮の御息所」 は、「東宮の母」の意味で使われている。藤原高子は、父は長良(冬継の長子)、母は藤原総継の女乙春であり、基経は同腹の兄である。承和九年(八四二)に誕生、延喜十年(九十〇)に時年六十九歳にて没。貞観八年(八六六)に清和天皇の女御になり、同十年に後に陽成天皇となる皇子(貞明親王)を生む。因みに両者の年齢差は八歳であり、親王生誕の時は、天皇十六歳、高子二十四歳である。貞明親王が東宮に立ったのは、貞観十一年(八六九)であり、御年一歳、同十八年(八七六)、清和天皇の譲位に伴って、九歳で践祚。伯父にあたる藤原基経が摂政となった。しかし、元慶八年(八八四)に退位。在位八年間。
さて、先の歌の詞書にある「東宮の御息所ときこえける時」は、貞明親王の東宮であった期間、貞観十一年から同十八年の間のこととなろう。
この歌の作者文屋康秀は、『古今集』の序に言う、六歌仙のひとりであり、貫之は、
文屋康秀は、ことばたくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人のよき衣着たらんむがごとし。
と評し、「吹くからに〜」と「草深き〜」の二首を例歌として挙げている。二首共に『古今集』所収のものであるが、「吹くからに」の歌は、文屋朝康の歌としてあげられている。(巻五秋上)。
康秀の事蹟については不明の点が多いが、知られているところでは、貞観二年に、刑部中判事、同十九年に、山城大掾に任じられている。小野小町の、
わびぬれば身も浮き草の根もたへて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ
は、文屋康秀に「県見にはえ出で立たじや」と誘われた時の返歌である。(『古今集』巻十八雑下)。その時康秀は参河の據であった。『後撰集』にも、卑官にいることを歎いた歌がある。
時にあはずして身を恨みて籠りける時
しら雲のきやどる峰のこ松ばら枝しげけれや日のひかり見ぬ
いづれにしても、望みのような官職につくことはなかった。
康秀の逸話は、他にも引用されている。後深草院の女房、弁内侍の書いた『弁内侍日記』の寛元五年一月二十三日の条に、
廿三日、御拝の御供に、大納言殿、中納言内侍殿など参りて、二間の簀子のもとに立ち出で給へるに、余寒の風もなほ冴えたる呉竹に、日は照りながら雪の降りかかりたるを、中納言内侍殿「文屋康秀がいとひけんこそ、思ひよそへらるれ。さすがさほどの年にあらじや」など聞こゆれば、弁内侍、
誰が身にかわきていとはむ春の日の光にあたる花の白雪
余寒の折呉竹に、雪の降りかかっている様子を見て、康秀の歌を想起したのである。その歌を、康秀は年をとってそうかもしれないが、我々は若いし、院の傍に居り、その光にあたっているのだから、有り難く名誉なことである。と、賀の歌に読み替えたものである。又、謡曲『小塩』にも、大原山に花見に行く人の前に、老人(業平の霊)が現れて、
年ふれば齢は老ひぬしかあれど、花をし見れば物思ひもなしと詠みしも、
身の上に、今白雪をいただくまで、光にあたる春の日の、長閑き御代の時なれや。
と詠う。これも先の康秀の歌を意識したもである。
文屋康秀と同種の歎きは、当時の受領階層の人々に共通するものであった。『枕草子』の「除目に司得ぬ人」の個所はよく知られている。十善の位と言われた天皇でさえ、本鑑賞でも触れたように、思うに任せぬものであった。中下の貴族に至っては尚更であろう。官職の高下が出自に由来するところが、大であったので、無力感一入と思われる。一方、白河院や藤原道長のように、万機を専一にした人もいる。当時の常識で言えば、全ては「宿世の縁」の為さしめるところであろう。 
 
23.大江千里 (おおえのちさと)  

 

月見(つきみ)れば ちぢにものこそ 悲(かな)しけれ
わが身一(みひと)つの 秋(あき)にはあらねど  
月を見ると、いろいろと物事が悲しく感じられる。私ひとりの秋ではないのだが。 / 秋の月を見ていると様々なことが悲しく感じられます。私一人を悲しませるために秋が来るというのではないのですが。 / 月を見上げると、さまざまな物思いに心が乱されて、何とも物悲しく感じられるなぁ。なにもわたしひとりだけの秋ではないのだけれど。 / 秋の月を眺めてていると、様々と思い起こされ物悲しいことです。秋はわたしひとりだけにやって来たのではないのですが。
○ 月見れば / 「見れば」は、「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。「月を見ると」の意。
○ ちぢにものこそ悲しけれ / 「こそ」と「けれ」は、係り結び。「ちぢに」は、「千々に」で、「さまざまに」の意。後の「一」と対照。「もの」は、「物悲しい」の「物」で、この場合は、さまざまな物のこと。「こそ」は、強意の係助詞。「悲しけれ」は、形容詞の已然形で、「こそ」の結び。
○ わが身一つの / 私一人だけの。本来は、「一人」であるが、「千々」に対応させるため、「一つ」となっている。
○ 秋にはあらねど / 八音で字余り。「に」は、断定の助動詞。「は」は、強意の係助詞。「あら」は、ラ変動詞「あり」の未然形。「ね」は、打消の助動詞「ず」の已然形。「ど」は、逆接の確定条件を表す接続助詞で、「〜けれども」の意。 
1
大江千里(おおえのちさと、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族・歌人。参議・大江音人の子。一説では従四位下・大江玉淵の子。官位は正五位下・式部権大輔。中古三十六歌仙の一人。
大学寮で学び、清和朝にて菅原是善らと『貞観格式』の撰集に参画している。醍醐朝にて中務少丞・兵部少丞・兵部大丞などを務める。この他、家集『句題和歌』の詞書から伊予権守や式部権大輔を歴任していたことが知られる。宇多天皇の頃の歌合に参加、寛平9年(897年)宇多天皇の勅命により家集『句題和歌』(大江千里集)を撰集・献上している。『古今和歌集』の10首を始めとして、以降の勅撰和歌集に25首が入集している。歌は儒家風で『白氏文集』の詩句を和歌によって表現しようとしたところに特徴がある。一方で大学で学んだ儒者であるが、漢詩作品はほとんど残っていない。
代表歌
月見れば 千々に物こそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど (小倉百人一首 23番 『古今和歌集』秋上193)
2
大江千里 おおえのちさと  生没年未詳
備中守本主の孫(中古歌仙伝)。参議音人(おとんど)の子(少納言玉淵の子ともいう)。弟に千古がいる。大学学生の後、元慶七年(883)備中大掾に任ぜられる。延喜元年(901)、中務少丞。同二年(902)、兵部少丞。同三年(903)、同大丞。学才の誉れ高かったが、官人としては生涯を通じて不遇であった。家集によれば、或る事件に連座して籠居を命ぜられる非運もあったらしい。寛平期の代表的歌人の一人。寛平六年(894)、宇多天皇の勅により家集『句題和歌』(別称『大江千里集』)を献上した。これは『白氏文集』など漢詩の詩句を題とし、和歌に翻案した作を、漢詩集の部立に倣って編集したものである。是貞親王歌合・紀師匠曲水宴和歌・寛平御時后宮歌合などに出詠。古今集に十首採られたのを始め、勅撰入集歌は計二十五首。中古三十六歌仙の一人。
春 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた
鶯の谷よりいづる声なくは春来ることを誰たれか知らまし(古今14)
(鶯の谷から出て囀る声がなければ、春が来たことを誰が知ろうか。だから鶯よ、早く谷から出て来て、皆に春を知らせてくれ。)
落尽閑花不見人といへる心を
跡たえてしづけき宿に咲く花の散りはつるまで見る人ぞなき(続千載176)
(人の訪れが絶えて閑寂とした宿に咲く花――散り尽くしてしまうまで、見てくれる人もいないよ。)
文集、嘉陵春夜詩、不明不暗朧々月といへることを、よみ侍りける
照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜づきよにしく物ぞなき(新古55)
(くっきりと輝くこともなく、かと言ってすっかり雲に覆われてしまうわけでもない春の夜の朧月夜――これに匹敵する月夜なぞありはしない。)
夏 / 余花葉裏稀
ちりまがふ花は木の葉にかくされてまれににほへる色ぞともしき(句題和歌)
(散り乱れる桜の花は木の葉に隠されて、ほんのわずか目に映える色に心惹かれることだ。)
秋 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた
植ゑし時花まちどほにありし菊うつろふ秋にあはむとや見し(古今271)
(植えた時、いつになったら咲くかと待ち遠しく思った菊よ――あの時には、時がうつろい、花が色を変えてゆく秋に逢おうとまで思いはしなかったよ。)
是貞のみこの家の歌合によめる
月みれば千々に物こそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど(古今193)
(月を見ていると、あれやこれや、とめどなく物事が悲しく感じられることよ。これも秋だからだろうか。秋は誰にもやって来るもので、私一人にだけ訪れるわけではないのだけれど。――それでも自分一人ばかりが悲しいような気がしてならないのだ。)
題しらず
露わけし袂ほす間もなきものをなど秋風のまだき吹くらむ(後撰222)
(あなたの家から露を分けて帰って来て、濡れた袂を乾す暇もないというのに、早くも秋風――飽き風が吹くのでしょうか。)
暮秋の心を
山さむし秋も暮れぬとつぐるかも槙の葉ごとにおける朝霜(風雅1586)
(山は寒々としている。秋も暮れたと告げ知らせるのか、槙の葉はどれも朝霜が置いている。)
恋 / 題しらず
ねになきてひちにしかども春雨にぬれにし袖ととはばこたへむ(古今577)
(声あげて泣いて、びっしょり濡れたのだけれども、春雨に濡れたのだと、人に問われたら答えよう。)
題しらず
今朝はしもおきけん方も知らざりつ思ひいづるぞ消えてかなしき(古今643)
(今朝という今朝は起き出てきた方向も分からなかったよ。日が出ずるように、ゆうべの思い出は思い出すのに、それがはかなく消えて行くのが悲しいのだ。)
雑 / ものへまかり侍りけるに、母の例ならぬと聞きて、帰るとて
秋の日は山の端ちかし暮れぬ間に母に見えなむ歩めあが駒(句題和歌)
(秋の日は短いので、すぐ山の端に沈んでしまう。日が暮れてしまわないうちに母に会いたい。歩を進めよ、我が馬よ。)
寛平御時、歌たてまつりけるついでにたてまつりける
葦鶴あしたづのひとりおくれて鳴く声は雲のうへまで聞こえつがなむ(古今998)
(葦辺に住む鶴が独り取り残されて鳴く声は、雲の上にまで届かせたいものです。そのように、一人だけ昇進から遅れて泣く私の歌は、大君のお耳にまで達してほしいものです。) 
 
24.菅家 (かんけ)  

 

このたびは ぬさも取(と)りあへず 手向山(たむけやま)
紅葉(もみぢ)の錦(にしき) 神(かみ)のまにまに  
今度の旅は、御幣をささげることもできない。とりあえず、手向けに山の紅葉を錦に見立てて御幣の代わりにするので、神の御心のままにお受け取りください。 / このたびの旅は急なお出掛けのため、お供えの幣帛の用意もできていません。とりあえず、この手向山の美しい紅葉の錦を幣帛として神よ、御心のままにお受け取りください。 / 今回の旅では、神さまに捧げる幣(ぬさ)をご用意することができませんでした。この手向山(現在の京都府と奈良県の県境の山)の錦織のように美しい紅葉をどうぞ神さまの御心のままにお受けください。 / 今度の旅は急いで発ちましたので、捧げるぬさを用意することも出来ませんでした。しかし、この手向山の美しい紅葉をぬさとして捧げますので、どうかお心のままにお受け取りください。
○ このたびは / 「たび」は、「度」と「旅」の掛詞。
○ ぬさもとりあへず / 「ぬさ」は、「幣」で、布や紙で作った神への捧げ物。道中の安全を祈るため用いた。「とりあへず」は、「取りそろえる暇がない」の意。「(紅葉の美しさの前では、)持参した御幣など捧げ物にはならない」とする説もある。
○ 手向山 / 神に御幣を捧げる山。本来は、普通名詞。奈良県や福岡県には、固有名詞に転じた「手向山」がある。
○ 紅葉の錦 / 紅葉の美しさを錦に見立てた表現。紅葉の名所である竜田山の竜田姫は、秋の神であり裁縫の神であって、そのことが意識されている。
○ 神のまにまに / 「まにまに」は、副詞で、「〜するままに任せる」の意で、この場合は、「神の思うままに(お受け取りください)」の意。 
奈良平安の日本
平安鎌倉の物語に見る神仏
祟り・御霊
鬼と邪鬼
1
菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。
道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)18歳で文章生となる。貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。貞観12年(870年)方略試に中の上で合格し、規定により位階を三階を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうことから一階のみ昇叙され正六位上となった。玄蕃助・少内記を経て、貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877年)式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)従五位上。元慶4年(880年)父・菅原是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。仁和2年(886年)讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年)阿衡事件に際して、入京して藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。寛平2年(890年)任地より帰京した。
これまでは家格に応じた官職についていたが、宇多天皇の信任を受けて、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を振るっていた関白・藤原基経亡き後の藤原氏にまだ有力者がいなかったこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。
寛平3年(891年)蔵人頭に補任し、式部少輔と左中弁を兼務。翌年従四位下に叙せられ、寛平5年(893年)年には参議兼式部大輔(まもなく左大弁を兼務)に任ぜられ、公卿に列した。
寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により遣唐使は停止される。なお、延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。寛平7年(895年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言に叙任。またこの間、寛平8年(896年)長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とするなど、皇族との間で姻戚関係の強化も進めている。
宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する一方で道真とも親交があった右大臣の源能有ら大官が相次いで没した後、寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官のトップに並ぶ体制となる。7月に入ると宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。
醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。
昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。しかし、儒家としての家格を超えて大臣に登るという道真の破格の昇進に対して妬む廷臣も多く、翌昌泰3年(900年)には文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたとする説まで諸説ある。
左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。
家系
父は菅原是善、母は伴氏。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。祖父菅原清公と父はともに大学頭・文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している。正室は島田宣来子(島田忠臣の娘)。子は長男・高視や五男・淳茂をはじめ男女多数。子孫もまた学者の家として長く続き、特に高視の子孫は中央貴族として残り、高辻家・唐橋家をはじめ6家の堂上家(半家)を輩出した。高視の曾孫・道真五世の孫が孝標で、その娘菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たる。
事績・作品
著書には自らの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻(昌泰3年、900年)、大宰府での作品を集めた『菅家後集』(延喜3年、903年頃)、編著に『類聚国史』がある。日本紀略に寛平5年(893年)、宇多天皇に『新撰万葉集』2巻を奉ったとあり、現存する、宇多天皇の和歌とそれを漢詩に翻案したものを対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者と一般にはみなされるが、これを道真の編としない見方もある。私歌集として『菅家御集』などがあるが、後世の偽作を多く含むとも指摘される。『古今和歌集』に2首が採録されるほか、「北野の御歌」として採られているものを含めると35首が勅撰和歌集に入集する。六国史の一つ『日本三代実録』の編者でもあり、左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。左遷された事もあり編纂者から名は外されている。祖父の始めた家塾・菅家廊下を主宰し、人材を育成した。菅家廊下は門人を一門に限らず、その出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともある。菅家廊下の名は清公が書斎に続く細殿を門人の居室としてあてたことに由来する。
和歌
此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に(古今和歌集 羇旅歌。この歌は小倉百人一首にも含まれている)
海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ(新古今和歌集 雑歌下。大宰府へ左遷の途上備前国児島郡八浜で詠まれた歌で硯井天満宮が創建された。「海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」)
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった)
水ひきの白糸延へて織る機は旅の衣に裁ちや重ねん(後撰和歌集巻十九)〈今昔秀歌百撰23選者:松本徹〉
漢詩
駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋(駅長驚くことなかれ 時の変わり改まるを 一栄一落 これ春秋。大宰府へ左遷の途上に立ち寄った駅家の駅長の同情に対して答えたもの。)
去年今夜待清涼 秋思詩篇獨斷腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拜餘香(去年の今夜清涼に待し、秋思の詩篇独り斷腸。恩賜の御衣今此こに在り、捧持して毎日余香を拝す。九月十日 太宰府での詠。)
死後
菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
延喜23年4月20日(923年5月13日)、従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとし、その70年後の正暦4年(993年)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣(こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上にその子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟・忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる)。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。火雷神が祀られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。
江戸時代には昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなり、義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。現在でもこの作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。
近代以降は忠臣としての面が強調され、紙幣に肖像が採用された。配所にても天皇を恨みずひたすら謹慎の誠を尽くしたことは、広瀬武夫の漢詩「正気歌」に「或は菅公筑紫の月と為る」と詠まれ、また文部省唱歌にも歌われた。昭和3年(1928年)に講談社が発行した雑誌「キング」に、「恩賜の御衣今此に在り捧持して日毎余香を拝す」のパロディ「坊主のうんこ今此に在り捧持して日毎余香を拝す」が掲載されたところ、不敬であるとの批判が起こり、講談社や伊香保温泉滞在中の講談社社長野間清治の元に暴漢らが押し寄せるという事件も発生している。
薨去の地に関する伝承
鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川の菅原神社で菅原道真が死去したとされたとの伝承と共に、道真のものと伝わる墓がある。概要は、身の危険が迫り、筑前から船で水俣湾を経て鹿児島県薩摩川内市湯田町に上陸し、薩摩川内市城上町吉川を経て、同市東郷町の藤川神社で隠棲し薨去たとされる。その経路には、船繋石・御腰掛石などの史跡が残っている。また、吉川では菅原道真を奥座敷に納戸にかくまったことから、年中行事として村人が集まり女子は左右の袖を広げて男子を隠して奥座敷に潜ませる真似をする風習が残っている。
人物・逸話
出生
○ 道真の生誕地については諸説あり、各地に伝わる『天神縁起』によれば、菅生神社境内にある菅生池の菅の中より容顔美麗なる5・6歳の幼児が、忽然と化現し、光を放ちながら飛び去り、是善邸南庭に現れ「私には父母がいないのでそなたを父にしたい」と言ったのが道真だという。
○ 長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ伊勢神宮外宮神官の度会春彦を通じて豊受大御神に祈願して貰った。そうして生まれたのが道真だという。その縁で、春彦は白太夫として道真の守役となり生涯にわたり仕える事になったという。
○ 菅原天満宮によれば是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘をたいそう寵愛した。そして生まれたのが道真だという。
○ 滋賀県余呉町には、道真は菊石姫とともに天女から産まれ、天女が天に帰ってしまい、母恋しさに法華経のような泣き声で泣いていたところ、菅山寺の僧・尊元阿闍梨が引き取り養育し、後に菅原是善の養子となったという天女の羽衣伝説が残されている。
○ 江戸時代に書かれた『古朽木』によれば、道真は梅の種より生まれたという。
人物
○ 師であり義父である島田忠臣とは生涯に亘って交流があり、忠臣が死去した際に道真は「今後再びあのように詩人の実を備えた人物は現れまい」と嘆き悲しんだという。
○ 紀長谷雄とは旧知の仲で、試験を受ける際に道真に勉学を師事したとされる。また、道真は死の直前に大宰府での詩をまとめた「菅家後集」を長谷雄に贈ったという。
○ “平安朝きっての秀才”ということで今日では学問の神様だが、当時は普通の貴族であり、妾も沢山おり、遊女遊びもしている。とりわけ、在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承もある。
○ 天台宗の僧相応和尚とも親交があり、大宰府に向う際に淀川にて、自ら彫ったという小像と鏡一面を渡し、後のことを和尚に託したという。道真薨去後、和尚は小像・鏡を郷里の長浜市にある来生寺、その隣の北野社にそれぞれ祀ったという。
○ 子はおよそ23人に上り、長男高視が産まれる以前の、文章得業生の頃には既に子があったという。
○ 13世天台座主法性坊尊意に教学を師事したとされる。
○ 道真は政治の合間に和歌を吟詠しては、その草稿を「瑠璃壺」に納めていたという。左遷の時、その壺を携えて筑紫に下り、見るもの聞くものにつけて感じるままに和歌を詠み、百首を新たに壺に納め、道真が逝去後、壺は白太夫の手に渡ったという。
○ また、別の伝承では、道真が大宰府へ赴いたとき、宇佐のほとりで、龍女が現れ「瑠璃壺」を承ったという。
○ 藤原滋実と親交があり、滋実の逝去のさい、誄歌「哭奥州藤使君」を送っている。
○ また、藤原忠平は、兄藤原時平とは違い、道真と親交があったとされる。
平安京
○ 『菅家瑞応録』によれば、9歳で善光寺に参拝したおり、問答に才を顕し、10歳の時には、内裏での福引の御遊に集まった公卿たちに忠言したという。
○ 17歳で清水寺に参拝したさい、田口春音という捨子を拾い養育したという。春音は大宰府まで同行し、道真逝去後は出家し、道真の菩提を弔ったという。
○ 応天門の変では、伴大納言が犯人とされたが、道真は、伴善男の家来、大宅鷹取の仕業だと見抜いたという。
○ 元慶8年(884年)、道真が40歳の頃に叔母である覚寿尼のいる道明寺に4〜7月まで滞在した。その時、夏水井の水を汲み青白磁円硯で、五部の大乗経の書写をしていた。すると、二人の天童が現れ、浄水を汲んで注ぎ写経の業を守護し、白山権現、稲荷明神が現れ、筆の水を運び、天照大神、八幡神、春日大明神が現れ、大乗経を埋納する地を示したという。そこに埋納すると「もくげんじゅ」という不思議な木が生えてきたという。
讃岐
○ 仁和4年(888年)讃岐の国で大旱魃が起こり、讃岐守に就いていた道真がこれを憂い、城山で身を清め七日七晩祭文を読上げたところ、見事雨に恵まれたという。それを、民衆が喜び踊り狂ったものが滝宮の念仏踊の起源とされている。
○ 道真が讃岐守に就いていた頃、側に仕えていたお藤という女性と恋仲になり、愛妾にしたという。
○ また、極楽寺の明印法師という僧と親交を深めたとされ、極楽寺の由緒を話したり、道真から寄付をうけたり、詩文を贈答されたり、道真が一時帰京した際には、わざわざ京まで逢いにいったという。
○ おとぎ話『桃太郎』は、道真が讃岐守に就いていた時分に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げ、それを各地に伝えた、という伝説が女木島に伝わっている。
○ また、『竹取物語』の作者が道真ではないかという説もある。
○ 寛平2年(890年)の頃、與喜山で仕事をしていた樵夫の小屋に、何者かが「これを祀れ」と木像を投げこんだという。樵夫はその頃、長谷寺に道真が参詣に来ていたので、「木像は道真公の御作ではないか」と思い、大切に祀ったという。その像が與喜天満神社に現存する木造神像として伝えられている。
○ 寛平7年(895年)に法華経や金光明経を手写し伊香具神社へ納経したという。
○ 寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。
○ 昌泰元年(898年)10月17日、夢に祖父清公が現れ補陀落に行きたいと懇願されたので、道真は長谷寺で忌日法要したという。
左遷
○ 大宰府へ左遷の道中には、監視として左衛門少尉善友と朝臣益友、左右の兵衛の兵各一名がつけられた。また、官符に道真は“藤原吉野の例に倣い「員外帥」待遇にせよ”と明記され、道中の諸国では馬や食が給付されず、官吏の赴任としての待遇は与えられなかった。
○ 大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという伝説にちなんだ地名である。
○ 出水市壮の菅原神社に関する伝承として、ジョウス(城須)という老夫婦が道真に三杯の茶を振舞い、そのため道真が追手から逃れることができたという。
○ 道真は、信州の 松原湖に逃げて来たことがあったという。ここで家臣が連れていた鶏が鳴き出し、里人に発見されてしまった。この家臣の家では代々鶏を飼ってはいけないという。
○ 延喜元年(901年)、道真がとりわけ愛でてきた梅の木が一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという飛梅伝説がある。
○ 901年道真が筑後川で暗殺されそうになった際、「三千坊」という河童の大将が彼を救おうとして手を斬り落とされ落命した、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした三千坊の手を道真が斬り落とした、という伝承が福岡県の北野天満宮に、河童の手のミイラとともに残されている。
○ また、大宰府左遷のおり道真は兵主部という妖怪を助け、その返礼として「我々兵主部は道真の一族には害を与えない」という約束をかわした、という伝説も伝わっている。
○ 道真の側室は臨月であったが、道真との別れを惜しみ後を追ったという。しかし、途中で産気を催したため、人家に立ち寄ろうとしたものの、間に合わず輿中で大量に出血しながら産んだという。その時、道が真赤に染まった為、「赤大路」の地名由来となった。その後、近くの民家で介抱したものの、産後の経過が悪く亡くなったという。
○ また、道真の息子福部童子は、父の後を追って大宰府へ向かったが、山口で病気になり亡くなったという。
○ 道真の正室島田宣来子(または側室)が、岩手県下関市に落ち延びたという落人伝説がある。
大宰府
○ 大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。
○ 梅ヶ枝餅は道真が大宰府へ員外師として左遷され悄然としていた時に、老婆が道真に餅を供しその餅が道真の好物になった、或いは道真が左遷直後軟禁状態で食事もままならなかったおり、老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承が由来とされる。
○ その昔、葦の生い茂るある沼周辺で大鯰が顔を出して通行人の邪魔をしていた。道真は、これを太刀で頭、胴、尾と三つに斬り退治したという。その遺体がそれぞれ鯰石となり、後に雨を降らす雨乞いの石として地元の人々に大切にされたという。
○ 延喜2年(902年)正月7日に道真自ら悪魔祓いの神事をしたところ、無数の蜂が参拝者を次々と襲う事件がおきた。そのとき鷽鳥が飛来して蜂を食いつくし、人々の危難を救ったのが鷽替え神事の由来とされる。
○ 晩年、道真は無実を天に訴えるため、身の潔白を祭文に書き、七日七夜天拝山山頂の岩の上で爪立って、祭文を読上げ天に祈り続けた。すると、祭文は空高く舞上り、帝釈天を過ぎ梵天まで達し、天から『天満大自在天神』と書かれた尊号がとどいたという。 
2
菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯
「菅原道真」といえば「学問の神様」で有名だ。
菅原道真公をお祀りしている神社は全国にあり、「天満宮」あるいは「天神」と呼ばれて、京都の北野天満宮と大宰府天満宮が全国の天満宮の総本社とされている。下の画像は北野天満宮の本殿だ。
どれだけ「天満宮」が全国にあるかというと、1万社を超えるという説もあるようだが、別の記事では3,953社なのだそうだ。
「天満宮」では牛の像をよく見かけるのだが、これは「菅原道真公が丑年の生まれである」、「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの説があり、どこまでが真実なのかは今となっては良くわからないそうだ。しかし、なぜこれだけ多くの神社で菅原道真が祀られることになったのかについて興味を覚えたので、菅原道真について調べてみた。菅原道真は代々続く学者の家に生まれ、11歳にして詩を詠むなど幼少の頃からその才能を発揮し、30歳にして貴族の入口である従五位下に叙せられ、33歳では最高位の教授職である文章博士(もんじょうはかせ)に昇進している。しかしながら学者同士の対立もあり、道真のスピード出世を良く思わない者も少なくなかったようだ。後ろ盾ともいうべき父親を失ったのち、仁和2年(886)から道真は4年間地方官である讃岐守(今の香川県)に任命されて都を離れることになる。しかしその後に道真に転機が訪れる。

当時は藤原氏が政治の実権を掌握していたが、それを快く思わなかった宇多天皇<上画像>は律令政治に精通する道真に目をつけ、道真は天皇に請われて帰京し、寛平3年(891)に蔵人頭(くろうどのとう)に就任する。蔵人頭とは勅旨や上奏を伝達する役目を受け持つなど天皇の秘書的役割を果たす要職である。道真は、寛平5年(893)には参議に列せられ翌年には遣唐使の廃止を提言するなど、宇多天皇のもとで政治手腕を存分に発揮し、その後中納言、大納言と順調に出世していく。寛平9年(897)に醍醐天皇が即位し、父親の宇多天皇は上皇となった。関白・藤原基経の子の藤原時平が左大臣に就任し、道真は宇多上皇の意向で右大臣に抜擢された。事実上朝廷のNo.2への昇格であった。藤原時平は道真の出世を快く思っていなかったし、醍醐天皇も宇多上皇の影響力の排除を考えていた。宇多上皇は藤原氏の血を引いていなかったが、醍醐天皇の母親は傍流ではあるが藤原氏であったこともポイントである。醍醐天皇は昌泰4年(901)、時平の「道真が謀反を企てている」との讒言を聞き入れて、父の宇多上皇に相談もせず、菅原道真を太宰権帥(だざいごんのそち)として北九州に左遷してしまった。
道真は京都を去る時に
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
と詠んだ歌を残している。
菅原道真は北九州に左遷された二年後の延喜三年(903)に大宰府で死去し同地(現大宰府天満宮)で葬られたのだが、その後、京で異変が相次いで起こっている。まず、延喜9年(909)に道真の政敵であった藤原時平が39歳の若さで病死し、延喜13年(1573)には道真の後任の右大臣源光が死去。延喜23年(923)には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)が、次いで延長3年(925)その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が相次いで病死。極めつけは延長8年(930)朝議中の清涼殿が落雷を受け、道真の左遷に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出た清涼殿落雷事件が起こっている。この落雷がショックで醍醐天皇は病に倒れ、皇太子寛明親王(ゆたあきらしんのう:後の朱雀天皇)に譲位されて1週間後に崩御されてしまう。
道真の左遷に関係のある人々が死んだだけではなく、「扶桑略記」という書物には自然災害も京都で頻繁に起こっていることが書かれているそうだ。延喜10年(910)洪水、延喜11年(911)洪水で多くの町屋が破損、延喜12年(912)洛中で大火、延喜13年(913)は大風で多くの町屋が倒壊、延喜14年(914)洛中で大火、延喜15年(915)水疱瘡が大流行、延喜17年(917)渇水になる、延喜18年(918)洪水が起こる、延喜22年(922)咳病が大流行、と次から次にいやなことが起こる。
朝廷はこれらはすべて菅原道真の祟りだと考えたが、確かにこれほどいやなことが続くと、誰でも自然にそう信じてしまうのではないか。一度そう信じてしまうと、祟りがますます怖くなって、心身ともに衰弱してしまうことも理解できる話だ。上の図は国宝の「北野天神縁起絵巻」の一部で、清涼殿に雷が落ちた絵が描かれている。道真はずっと以前に死んだにもかかわらず、延喜23年(923)には道真を従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈られたのを初めとして、正暦4年(993)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣となり、火雷天神が祭られていた京都の北野には、道真の祟りを鎮めようと北野天満宮が建立されたという。
以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられ、道真を「天神様」として信仰する「天神信仰」が全国に広まっていったのだそうだ。今では災害の記憶が風化してしまい、今では天満宮は学問の神様から受験の神様として厚く信仰されている。 
3
菅原道真の左遷 
道真「出世」に見る嫉妬・政争・陰謀、平安貴族の“伏魔殿”
「学問の神様」「天神さん」として親しまれている平安時代前期の貴族、菅原道真。最難関の公務員登用試験に通ると優れた行政処理能力を見せて、天皇の側近としてのし上がる。その勢いは政治の中枢を握っていた摂関家・藤原氏と肩を並べるほどで、そうなると面白くないのは、当時の若き権力者、藤原時平。過去数十年にわたり数々の陰謀を凝らしてライバルを追い落としてきた藤原氏の魔の手が、今度は道真へと迫ってきた。
キャリア官僚と御曹司
菅原道真は国家官僚を養成する大学寮で漢文学や中国史を教える文章博士の家に生まれた。出生地は奈良とも京都ともいわれ、奈良市菅原町周辺や菅大臣神社(京都市下京区)、菅原院天満宮(同上京区)が候補地にあがっている。
幼い頃から詩歌などに才能をみせた道真は18歳で大学寮に入ると中国史や漢文学を専攻し、5年後には最高ランクの官吏登用試験が受けられる文章得業(もんじょうとくごう)生(2人)に選ばれ、26歳で3年に1人ほどしか合格しないといわれる最難関試験「方略試(ほうりゃくし)」を突破する。
このように天才の名をほしいままにした道真は、官僚に採用されるとトントン拍子で出世街道をひた走っていく。
官僚の仕事とともに、父と同様、家の職でもある文章博士を兼ねるも、仁和2(886)年、讃岐(香川県)の現在の知事に相当する讃岐守(かみ)に任じられると文章博士を辞職し、現地に赴任する。
ちょうどこの年、のちに壮絶な政争を繰り広げることになる藤原時平が10代半ばで元服し、正五位下を授けられている。
このとき40代前半の道真の官位は従五位上。かなり経験を積んだキャリア官僚だが、25歳ほど年下でつい最近、政界に出てきたばかりの御曹司より官位がひと階級低い。
それだけ、当時の藤原氏の扱いが破格だったということになるだろう。
阿衡(あこう)事件
道真が讃岐の国司に赴任中の仁和3(887)年、宮廷ではある事件が持ち上がる。
清和、陽成、光孝と3代の天皇のもとで実権をふるった時平の父・基経が宇多(うだ)天皇の即位に際し、関白に任命する辞令を受ける。この場合、一度は辞退するのが慣例だったため、基経は辞退したあとで天皇が再び辞令を出した。
ところが、その辞令の中に「阿衡の任をもって」というくだりがあり、それに基経が難癖(なんくせ)をつけてきたのだ。阿衡は中国にあった官職。日本では摂政や関白に相当するが、「阿衡には職務がない」とした基経は突然、仕事を放棄してしまった。
宇多天皇は阿衡の解釈をめぐって学者に研究を命じたものの、なかなか結論が出ないため、国政はいよいよ停滞。この結果、半年後に天皇側が非を認め、「阿衡」を引用した橘広相(たちばなのひろみ)を失脚させてしまう。
それでも収まりのつかない基経は広相の島流しを要求すると、ここで、「これ以上やると藤原氏のためにならない」と、讃岐の地から基経を諫めたのが道真だった。
実はこのとき、広相の娘・義子(よしこ)と天皇の間には皇子がいて、この皇子が天皇になり、橘氏が強大な権力を握ることを恐れた基経が仕組んだ陰謀ともいわれている。
以降、この処分を悔やんだ天皇は藤原氏の排除を考える。そしてとった手段というのが、道真を中央政界へ呼び戻すことだった。
相譲らず
仁和6(890)年、道真が中央政界に復帰すると、翌年にはこれまで国政を牛耳ってきた藤原基経が亡くなり、朝廷は一大転機を迎える。
代わり藤原氏の氏長者となった時平は20歳そこそこと若いため、宇多天皇は道真を天皇の秘書室長ともいうべき蔵人頭(くろうどのとう)に任命するなど積極的に登用する。
さらに、皇太子に藤原氏と血縁関係のない敦仁親王(のちの醍醐天皇)を据えると、道真の長女・衍子(えんし)を天皇付きの女官とし、寛平9(897)年には三女・寧子(ねいし)を天皇の皇子・斉世(ときよ)親王の妃とするなど藤原氏の排除に向けて天皇の策は着々と進む。
その年、宇多天皇は敦仁親王に譲位するが、天皇の藤原憎しの執念は衰えることなく、政治に精通した時平とともに学識豊かな道真の登用を提言している。
その後は2人とも相譲らず。時平が大納言となれば道真が権大納言。これは相撲の大関に対する張り出し大関のようなもので、時平が左大臣となれば道真は右大臣となり、ついに従二位で肩を並べてしまう。
このように時平と権力闘争する学者畑の道真を分不相応とみたのか。同世代の学者、三善清行(きよゆき)が書簡で道真に引退を勧める。
清行が官吏登用試験で当時の試験官、道真に落とされたことから2人の間に確執があったとされる。そのため道真は無視してしまうのだが、この直後、奇しくも清行の予感が当たってしまう。 
陰謀で大宰府に左遷され「非業の死」…宮中で相次ぐ不審死に道真の「怨霊」説浮上
政治の主導権をかけてキャリア官僚、菅原道真と摂関家の御曹司、藤原時平との戦いがし烈さを増す平安宮廷内でもうひとつの争いが表面化してきた。醍醐天皇と父・宇多(うだ)上皇との確執である。当初は上皇のなすがままだった天皇も上皇や道真の中央集権的なやり方に不満を持つ。そんな親子の心の隙間を政治巧者の時平が見逃すはずがない。ついに道真左遷計画は実行される。
中央集権と地方分権
今なら中学校に入学したばかりの年齢で皇位に就いた醍醐天皇である。政治的判断を求められてもそれは無理というもの。そこで父の上皇が後見人として発言力を持ち続けたことは間違いない。
阿衡(あこう)事件以来、大の“フジワラ嫌い”の上皇のお気に入りといえば、菅原道真である。事あるごとにお互い相談を持ちかけるほどの信頼ぶりで、藤原外しを狙って、2人は政治権力を天皇に集中させるための制度づくりを急いでいた。
だが、中央集権による行財政改革が進むと、地方役所で職を失う役人も数多く出る。学者肌の道真の政治手法は情に欠けていたともいわれ、多くの貴族らの反発を買った。
一方、道真の政敵、時平は政治家としては一流でも叔父の妻を略奪するなどの素行の悪さで周囲の人気も今ひとつだったが、この機に乗じて反対派の中で圧倒的な存在感をみせたことだろう。
常日頃から藤原氏との連携と政治の安定を望んだという天皇も父・上皇に反対したとされる。これは、病弱な天皇が時平の口車に乗ったとの説もあるが、天皇との確執が決定的となり、ますます孤立化することになった上皇と道真。
そんなとき、蔵人頭(くろうどのとう)の藤原菅根(すがね)から「上皇が斉世(ときよ)親王を皇太子に立てようとする噂がまことしやかに流れている」とした報告が時平に入る。親王は上皇の第3皇子で天皇の弟であり、道真の娘婿(むすめむこ)でもある。
大宰権帥に降格
斉世親王の立太子計画を報告した藤原菅根は藤原南家の出身。奈良時代に分かれた藤原四家のうち隆盛を築いていたのは時平の藤原北家。その勢いに押されて南家も衰退するが、菅根はのちに延喜式の編集に加わるなど学者として活路を見いだしていく。
当初は道真の覚えもめでたく昇進を果たしているのに加え、藤原氏同士の権力争いの中、本来なら時平とは一線を画してもよいのだろうが、ここは道真を完全に裏切り、時平との協調態勢に入っている。
理由については諸説あるが、ある庚申(こうしん)の日に催された宮中の宴席で、菅根は大勢の面前で道真に頬をたたかれたというハプニングがあり、これを根に持っての行動ともいわれている。
ここで、時平は同じ反対派の大納言、源光(みなもとのひかる)とともに醍醐天皇に「道真が皇室の後継問題で陰謀を企てている」と報告。これを信じた天皇は昌泰4(901)年1月25日、道真に大宰権帥(だざいごんのそち)への赴任を命じる。
九州ではナンバー2で九州全域の兵力を支配下に置いたといえば聞こえはいいが、従三位相当である。時平と肩を並べる従二位に昇進したばかりの道真からすればわずか18日後の降格であり、左遷である。
東風吹かば…
道真の左遷を聞いた宇多上皇は処分を取り消させるため醍醐天皇のいる内裏に赴くが、天皇は会おうとはせず、門前で阻止したのがあの藤原菅根だった。これで万事休す。
低い身分の家に生まれた道真が勢いに乗って暴走気味のところを、時平に足をすくわれたかたちだ。一瞬にして消えたわが世の春。
東風(こち)吹かば、匂いおこせよ梅の花、主無しとて、春を忘るな
「春になったら花を咲かせて、風に乗って香りを届けてほしい…」。大宰府に赴く直前、自宅・紅梅殿の梅を見て、もう都へは戻ってくることはないことを悟った心境を読んだこの句はあまりにも有名だ。
そして、これから2年後の延喜3(903)年2月25日、道真が失意のまま任地で亡くなると、現在の太宰府天満宮の建つ地に葬られたという。

事件後、道真の“陰謀”を時平とともに醍醐天皇に報告した大納言・源光は道真の後釜として右大臣に昇進していることから、時平との裏取引疑惑はぬぐえない。
そんな中、時平が延喜9年に39歳で病死すると、源光もその4年後、鷹狩りの最中に、塹壕(ざんごう)の泥沼に転落するも遺体はあがらなかったという。
道真追放の主犯2人の相次ぐ不審死。ここで沸き上がってきたのは道真の怨霊の伝説だった。ついに、道真の怨霊と平安貴族との目に見えない戦いが始まった。 
突然死・落雷・疫病、恐るべし道真の「祟り」で京は大混乱…「学問の神・天神さん」信仰は恐怖の裏返し
平安貴族の名門・藤原家との政争に敗れた菅原道真は九州・大宰府(だざいふ)に左遷されると、失意のうちに亡くなる。ここまでなら単なる悲劇だが、これから不可解な出来事が続発する。道真の左遷にかかわった人物の相次ぐ死、日照りによる作物の不作、流行病など次々と降りかかる天災に京の都は大混乱。ここに道真の祟(たた)りの仕業とする怨霊伝説へと発展していく。
相次ぐ変死事件
延喜3(903)年の道真の死後、政敵・藤原時平は妹の穏子(おんし)を醍醐(だいご)天皇の中宮とするために入内させて天皇との関係回復に努めたほか、政治への意欲をみせていた。
ところが、道真の死から3年後、「道真に不穏な動きがある」と当時、皇室の秘書室長ともいわれる蔵人頭(くろうどのとう)だった藤原菅根(すがね)とともに朝廷に報告し、道真の後任として右近衛大将に就任した藤原定国が謎の死を遂げる。
すると今度は、それから2年後の10月7日、菅根までもが雷に打たれて亡くなるという不気味な死が相次いだ。そして翌年の延喜9(909)年に起きた時平の突然死が追い打ちをかける。
このころ疫病が蔓延(まんえん)した都。天竺の妙薬も効きめなく病床に伏せていた時平のために天台宗の僧、浄蔵に加持祈祷をさせようとした文書博士、三善清行の前に道真は龍となって現れたといわれる。その怨念はいかばかりか。
これ以降、宮廷の中で道真の怨霊の噂がとりざたされると、時平の死から4年後、時平派で道真の後任として従二位に就いた源光(みなもとのひかる)もタカ狩りの最中、泥沼に落ちたまま行方不明になる事故が発生する。
次々と消えていく時平派の貴族ら。都では、さらに報復の度合いを増していく道真の見えない怨念に震えあがることになる。
悩ませる怨霊
道真が亡くなって間もない頃。度重なる雷などに不安を募らせる醍醐天皇の依頼で祈祷(きとう)を行うため、宮中に向かう延暦寺の法性坊尊意は突然、目の前であふれ出した鴨川の中から道真の霊を目撃する。
尊意と道真とは旧知の間柄で、尊意が数珠を手に持つと水がわかれ、そこから出てきた岩(登天石)の上に立っていたという。霊はすぐに消えたが、これが報復宣言ともいえ、以来、相次いだ不可解現象はついに皇室まで及んだ。
延喜23(923)年、醍醐天皇の皇太子、保明(やすあきら)親王が亡くなると、道真の怨霊を鎮めるため、道真の霊に左遷前就いていた右大臣に復帰させるとともに正二位を贈る。だが、これではもの足りなかったのか、続いて皇太子となった慶頼(よしより)王も2年後に死亡する。
そして極めつけが延長8(930)年6月26日に発生した清涼殿落雷事件。この日、清涼殿ではこの年起きた干魃(かんばつ)の対策会議を開いている最中だった。
昼過ぎ、墨を流したような真っ黒な雲に覆われた京で激しい雨とともに雷鳴がとどろき渡った。そして1時間半ほど過ぎたころ、一瞬の閃光(せんこう)と轟音(ごうおん)とともに清涼殿に雷が落ちたのだ。
火災とともに崩れ落ちる清涼殿。さらに雷は紫宸殿にも落ち、宮廷内は逃げ惑う公家、女官らで大混乱となったが、これで雷が胸に直撃した大納言・藤原清貫(きよつら)が即死するなど数人の死傷が報告されている。
また、このとき難を逃れた醍醐天皇も、事件のショックで3カ月後、ついに崩御してしまう。
実は雷の直撃で死亡した清貫は、時平の命で「見舞い」と称して大宰府の道真を訪ね、帰朝後、時平につぶさに動静を報告した時平派の人物だった。
恐るべし、道真の怨霊。
天神さん登場
時平の死後の藤原摂関家は、時平の弟ながら道真に左遷後も励ましの手紙を送るなど、道真と親交のあった藤原忠平は無事だったのに対し、承平6(936)年、道真の怨霊におびえきっていた時平の長男、保忠はものの怪(け)にとりつかれたように亡くなる。
そんな中、天慶5(942)年、右京七条二坊に住んでいた道真の乳母とされる多治比文子(たじひのあやこ)の枕元に道真が立ち、「北野の地にまつってくれれば報復の心も安らぐことでしょう」と告げて消えたという言い伝えが残る。
もともと北野の地に火雷天神(からいてんじん)が地主神としてまつられていたため、清涼殿の落雷以後、都人から“雷神”として恐れられた道真への信仰と結びつき、このような伝説を生んだとも思われる。
こうして、お告げから5年後の天暦元(947)年に北野の地に朝廷が社殿を造営し、道真をまつったのが北野天満宮の始まりとされる。
また道真が亡くなった大宰府の墓所の地には安楽寺天満宮(のちの太宰府天満宮)が建てられ、ようやく平静を取り戻した京の都だった。
その後も怨霊として恐れられた道真だが、200年ほどたつと慈悲の神に。さらに歌人、学者としての面がクローズアップされた江戸時代ごろから、学問の神として信仰されるようになったという。 
4
菅原道真と梅の花
菅原氏となってからこの一族からは学問にすぐれた人がつづいて出ました。
中でも有名なのは菅原道真です。道真は大変な努力をして広く学問をおさめ、学者として世の中の人々から高い尊敬をうけるようになりました。
当時の日本はすべての学問や技術を中国大陸から学んできましたが、これは630年から続けてきた遣唐使(けんとうし)つまり唐の国への留学生が学んで帰ってきた知識が中心でした。留学生の中には最澄(さいちょう)、空海(くうかい)円仁(えんにん)のような立派な僧や学者が多く、日本の分化発展に大きな役割を果たしたのです。
しかし当時は往復の航海でたびたび船が嵐で沈みましたし、この時代になると唐の国力も衰えましたので、道真は遣唐使をやめることを天皇に申し上げその通りとなりました。
道真はその後右大臣(うだいじん)という高い位に登りましたが、その人気をねたんだ左大臣(さだいじん)の藤原時平(ふじわらときひら)のたくらみで、とうとう901年に北九州の大宰府(だざいふ)の、今までより低い位の役人を命ぜられ都を去らなければならなくなりました。
九州へ向かって出発するときは、家の庭に梅の花が香り高く咲いていました。この梅に向かって読んだ道真の歌は有名です。
こち吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな
このうたの意味は、春になり東風(こち)が吹くようになったら、主人がいなくても春を忘れないで匂い床しく花を咲かせよ、というもので梅をこよなく愛した道真のやさしい心がこめられています。
この頃、道真には善智麿(ぜんちまろ)という名の赤ちゃんがありました。この子や奥様を都に残して遠い九州へ旅立っていったのです。
大宰府での生活はみじめで「かつて宮中(きゅうちゅう)で天皇からくださった衣服をおしいただいて当時をしのんでいます。」というような漢詩(かんし)を作ったりしたこともあります。気候風土が変わったためか体の調子をこわし、都の奥様から送られた薬もはかばかしく効かず、とうとう903年2月に59才でなくなってしまいました。
その後、都ではふしぎなことに雷が落ちて火災がしきりに起こったり、ほうそうという伝染病がはやったり、よくないことがつづいたので、人々は道真の霊がこのようなたたりをしているのではないかといっておそれました。
そして道真を天神(雷の神)としてこわがったので朝廷もすてておけず、923年には道真に対し右大臣に戻し、正二位(しょうにい)の位を贈って霊を慰(なぐさ)めました。
このようないきさつがあって、道真の菅原一族の人たちは、就職や出世も思うようではありませんでしたが、道真の名誉が回復されると、もともと秀才が多いこの一族からは次々に位の高い役人になる人が出てきました。
道真の三男の景行(かげつら)は常陸介(ひたちのすけ)という長官になって
茨城県に来ましたが、その時道真の遺骨を持ってきて真壁町(まかべまち)の羽鳥(はとり)というところに神社を建てておまつりしました。これが天満天神宮として日本で最初の神社です。
特にめだつのは、一族の中から上総国(かずさのくに)、下総国(しもうさのくに)、安房国(あわのくに)の長官になった人が9人にものぼることです。子の人たちはつぎつぎに都から下ってきては2年ほどで都へ戻るということをくりかえしていました。
これらの人の中には菅原孝標(たかすえ)があり、そのむすめは上総国にいる間に源氏物語を読んでは都を恋しがっていましたが、いよいよ都へ帰ることになってから都に着くまでの日記をつづりました。これが有名な更級日記(さらしなにっき)です。
道真は梅をこよなく愛した人でしたから、道真の子孫である長南家(ちょうなんけ)は梅を家紋としました。今でも梅鉢(うめばち)を家紋とする長南家が多いのはそのためです。そして梅は小枝であっても火にくべるなとか、核(かく)を割って食べてはいけないとか、いろいろ梅にちなんだしきたりやタブーがあることは、皆さんよくご存知でしょう。 
 
25.三条右大臣 (さんじょうのうだいじん)  

 

名(な)にし負(お)はば 逢坂山(あふさかやま)の さねかずら
人(ひと)に知(し)られで 来(く)るよしもがな  
逢坂山のさねかずらが逢って寝るという名を持っているのであれば、さねかずらが蔓を手繰れば来るように、誰にも知られずにあなたを手繰り寄せる方法がほしいものだなあ。 / 逢坂山のさねかずらが、あなたに逢って寝るという意味を暗示しているなら、そのさねかずらの蔓をくるくる手繰るように他人に知られず、あなたのもとへ来る方法がないものか。 / 「逢う」という言葉をその名に持っている逢坂山に生えているサネカズラよ。サネカズラの蔓(つる)を手繰るように、人に知られずに、あなたがわたしのところへ来る方法はないものかなぁ。 / 「逢う」という名の逢坂山、「さ寝」という名のさねかずらが、その名に違わぬのであれば、逢坂山のさねかずらを手繰り寄せるように、あなたのもとにいく方法を知りたいものです。
○ 名にしおはば / 「名におふ」は、「名に負ふ」で、「〜という名を持つ」の意。「し」は、強意の副助詞。「おはば」は、「動詞の未然形+接続助詞“ば”」で順接の仮定条件。「名にしおはば」で、「まさに〜という名を持っているならば」の意。
○ 逢坂山 / 歌枕。山城(京都府)と近江(滋賀県)の境にある山。「男女が共に寝る」という意の「逢ふ」との掛詞。
○ さねかづら / モクレン科の蔓草。「共寝(さね)」との掛詞。「逢ふ」の縁語。
○ 人にしられで / 「人」は、他人。「で」は、打消の接続助詞。「人に知られないで」の意。
○ くるよしもがな / 「くる」は、「来る」と「繰る」の掛詞。「繰る」は、「人を手繰り寄せる」で、「さねかづら」の縁語。「よし」は、「方法・手段」の意。「もがな」は、願望の終助詞で、「〜があればなあ」の意。  
1
藤原定方(ふじわらのさだかた、貞観15年(873年) - 承平2年8月4日(932年9月11日))は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。内大臣藤原高藤の次男。醍醐天皇の外叔父。官位は従二位・右大臣、贈従一位。三条右大臣と号す。
寛平4年(892年)に内舎人への任官をはじめに、寛平7年(895年)陸奥掾、翌年には従五位下尾張権守に叙任。寛平9年(897年)には甥の敦仁親王(醍醐天皇)の即位に伴い右近衛少将と累進を重ねた。
その後は相模権介などの地方官を歴任し、昌泰4年(901年)には従五位上左近衛少将に叙任された。その翌年の延喜2年(902年)には正五位下、延喜6年(906年)には従四位下・権右中将となった。
延喜9年(909年)には参議として公卿に列し、延喜10年(910年)備前守、従四位上に昇叙。延喜13年(913年)には従三位・中納言となり、同年4月には左衛門督を兼帯した。延喜20年(920年)大納言、翌延喜21年(921年)には正三位。延長2年(924年)右大臣、延長4年(926年)従二位に至り、承平2年(932年)に60歳で没。死後の8月10日従一位を追贈された。三条に邸宅があったことから三条右大臣と呼ばれた。

和歌・管絃をよくし、紀貫之・凡河内躬恒の後援者であった。『古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に13首入集。家集に『三条右大臣集』がある。
古今和歌集 / 秋ならで あふことかたき 女郎花 天の河原に おひぬものゆゑ
小倉百人一首 25番 / 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな(「後撰和歌集」恋三701) 
2
藤原定方 ふじわらのさだかた 貞観一五〜承平二(873-932) 通称:三条右大臣
藤原北家勧修寺流。内大臣(贈正一位太政大臣)高藤の二男。母は宮道弥益女、従三位引子。宇多天皇女御胤子と同腹。兼輔はいとこで娘婿。子の朝忠も著名な歌人。また娘の仁善子は醍醐天皇の女御となり三条御息所と称された(のち実頼の妻となる)。少将・左衛門督などを経て、延喜九年(909)、参議。同十三年、中納言。延長二年(924)、五十二歳で右大臣にのぼる。最終官位は従二位。追贈従一位。京三条に邸宅を構えたので三条右大臣と称された。兼輔とともに醍醐朝の和歌サロンのパトロン的存在。家集『三条右大臣集』がある。古今集初出。勅撰入集十七首。百人一首に歌を採られている。
朱雀院の女郎花をみなへし合あはせに詠みてたてまつりける
秋ならで逢ふことかたきをみなへし天の川原におひぬものゆゑ(古今231)
(秋でなくては逢うことが難しい女郎花よ。織女と牽牛が一年に一度だけ逢う天の川の河原に生えるものでもないのに。)
女につかはしける
名にしおはば逢坂あふさか山のさねかづら人にしられでくるよしもがな(後撰700)
(「逢ふ」「さ寝」を名に持つ「逢坂山のさねかづら」――その名にふさわしいのならば、蔓を手繰り寄せるように、どうにかして人知れずあなたの家に辿り着く手立てがあってほしいよ。)
延喜の御時、賀茂臨時祭の日、御前にて盃とりて
かくてのみやむべきものか千早ぶる賀茂の社のよろづ世を見む(後撰1131)
(これだけで終わってしまってよいものでしょうか。今後も勅使の派遣をお続けになり、賀茂の社がいつまでも続くのを見たく存じます。)
先帝おはしまさで、世の中思ひ嘆きてつかはしける
はかなくて世にふるよりは山科の宮の草木とならましものを(後撰1389)
(たよりなく、むなしい状態でこの世に永らえるよりは、山科の御陵の草木になってしまえばよかったものを。)
先帝おはしまさで、又の年の正月一日贈り侍りける
いたづらにけふやくれなむあたらしき春の始めは昔ながらに(後撰1396)
(なすこともなく虚しく今日という日は暮れてゆくのでしょうか。新しい年の春の始めは昔と変わらず巡って来たというのに。) 
3
藤原定方とその子孫
藤原定方 (873〜932)
父・藤原高藤(左大臣冬嗣の孫) 母・宮道列子(宮道弥益の女) 醍醐天皇の母、藤原胤子は彼の同母姉です。彼は醍醐天皇の側近・外戚として右大臣にまで出世し、三条に邸宅があったので「三条右大臣」と呼ばれました。それと同時に、藤原兼輔とともに紀貫之ら「古今集」の編者たちのパトロンのような人でもありました。兼輔や貫之を自分の邸宅に泊め、歌の贈答もしたことがあったようです。有能な政治家であると同時に、和歌や文化を愛する風流な面も持ち合わせていた貴族だったと思われます。
では、彼の子孫たちの話に移りますね。
彼は、藤原山蔭女ほか、多くの女性にたくさんの子供を産ませたようです。しかし、山蔭女の所生以外の子供たちについてはほとんど記録がなく、従ってあまりしっかりと調べることができませんでした。その中でも2人の娘については、1人は配偶者の素性と子供たち、もう1人も配偶者の素性がわかりましたので、まず紹介させていただきますね。
まず一人目です。
彼女は、定方と親しかった藤原兼輔(堤中納言)の妻となり、藤原雅正(紫式部の祖父)、藤原清正、藤原庶正、藤原桑子(醍醐天皇更衣)などの子女をもうけています。もう1人の女子は、上で挙げた兼輔と定方女の子の一人、藤原庶正の妻となっています。この結婚を仲介したのは多分、兼輔・定方女(庶正室の姉か?)夫婦だったのでしょうね。では次に、藤原山蔭女所生の子供たちと、その子孫たちについてまとめてみます。藤原山蔭は、奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫で、清和天皇の側近として中納言にまで昇進した人物です。そこで山蔭女は多分、定方の正室として遇されていたと考えられます。彼女は定方との間に、朝忠、朝成、朝頼、そして四人の女子をもうけました。ではこの7人の子女について1人1人見ていきますね。
藤原朝忠 (910〜966) 中納言
朝忠は歌人として知られ、三十六歌仙の1人にも選ばれています。和歌を詠むことが好きなのは父親譲りだったのでしょうか。また、笙や笛を演奏することも得意だったそうです。彼の子女としては、藤原理兼、藤原穆子、女子(源重信室)が知られています。このうち藤原穆子の血統が、平安時代の超有名人の家と結びついているので、少し書かせていただきますね。穆子は敦実親王(宇多天皇皇子)の子で、のちに左大臣に昇進する源雅信の妻となり、2人の女子をもうけました。
このうちの1人が、藤原道長の妻となる倫子です。倫子は道長との間に、頼通、教通、彰子(一条天皇中宮 後一条・後朱雀母)、妍子(三条天皇中宮)、威子(後一条天皇中宮)、嬉子(後朱雀天皇が東宮の時の妃 後冷泉母)の6人の子女をもうけました。すなわち、倫子が道長との間にもうけた6人の子供たちは、定方の玄孫ということになります。つまり穆子の血統は、道長の御堂関白家、さらに天皇家につながっていくのです。すごいですよね〜。一方、穆子のもう1人の娘は、道長の異母兄で「蜻蛉日記」の著者の息子さん、つまり藤原道綱の妻となっています。
藤原朝成 (917〜974) 中納言
朝成は、様々な逸話のある人物です。肥満大食で、やせるために医師が湯漬け、水漬けをすすめたが、量が多くて効果がなかったとか。多分、食べ過ぎから糖尿病になったか、太りすぎて心臓病になって亡くなったのではないかと、私は思います。
また、彼には、藤原伊尹と蔵人頭を争って破れたため、伊尹を恨み「伊尹の子孫は根絶やし滅ぼしてやる!」と執念を燃やしたという話でも知られています。かしこの話は年代的に合わないようです。
朝成と伊尹は同じ天慶四年(941)に昇殿を許され、同じ天暦九年(955)に蔵人頭になっています。その後、朝成の方が早く参議に任じられるなど、しばらくはどちらかというと朝成の方が昇進が早かったようです。しかし、次第に伊尹の方が昇進速度が速くなり、彼が摂政太政大臣に任じられた天禄二年(971)、朝成はまだ中納言でした。朝成は、七つも年下の伊尹に官位を追い越され、大変悔しい想いをしていたことが想像できます。
そして実際、伊尹の子供たちのほとんどが若死に、または出家をしてしまいます。これは、朝成の怨霊のしわざだと噂されたようです。さらに、伊尹の孫に当たる花山天皇が若くして出家をしてしまったのも、朝成の怨霊のしわざだと言われています。そのため、伊尹の子孫たちは朝成の邸跡には絶対に近づかなかったそうです。
こんな話が伝わるくらいですから、朝成と伊尹は実際、仲が悪かったのかもしれませんね。
そんな朝成の子供たちですが、藤原惟賢、藤原脩子、藤原宣孝室となった女子が知られています。このうち藤原宣孝(後述)と結婚した女子の子に、藤原隆佐がいます。藤原賢子(大弐三位)の異母兄に当たる方ということになりますね。
藤原朝頼 (生没年未詳) 左兵衞督
山蔭女所生の3人の男子のうち、朝頼が一番官位が低いのですが、実は「藤原氏勧修寺流」として後世まで家系が続くのは彼の子孫なのです。
朝頼の子に為輔がおり、為輔の子が惟孝、説孝、宣孝です。このうち、宣孝の妻の1人が紫式部で、2人の間に産まれたのが賢子(大弐三位)です。また、妻の1人には前述した藤原朝成女もいます。しかし、後世まで続くのは、宣孝が別の妻との間にもうけた隆光の血統です。この血統からは、白河天皇の側近として有名な藤原為房など、院政期に活躍した公卿が多く出ています。源平時代に日記「吉記」を著した藤原経房は、為房の曾孫に当たります。
女子(代明親王室) (生没年未詳)
醍醐天皇皇子代明親王との間に、重光、保光、延光(?)(以上3人の男子は臣籍に下って源姓を賜ります)、荘子女王(村上天皇女御)、厳子女王(藤原頼忠室)、恵子女王(藤原伊尹室)をもうけます。詳しくは当ブログ内の「代明親王の子孫たち」をご覧下さい。最初の方でも書きましたが、この記事のラストにリンクが貼ってあります。
藤原能子(仁善子) (?〜964)  醍醐天皇女御 三条御息所 衛門御息所
能子は、延喜十四年(914)に醍醐天皇に入内し、その後女御となったものの、いつの頃からか天皇の弟の敦慶親王と密通するようになります。それを感づいた天皇は能子をうとんじ、彼女を上御の局に呼びつけておきながら、待ちぼうけを食わせた…ということもしたようです。敦慶親王は延長八年(930)に薨じ、天皇もその年に崩御します。その後、能子のもとには、醍醐天皇の別の弟、敦実親王が通ってきていたようです。そして、敦実親王との仲が途絶えると、今度は藤原実頼(藤原忠平の子で、小野宮流藤原氏の祖)が通ってくるようになります。
「大和物語」には、能子は天皇の崩御後に実頼の妻となって頼忠を産んだ…と、記述されているようです。しかし、頼忠の生年は延長二年(924)で、醍醐天皇崩御の6年前なので、計算が合いません。能子が実頼の室になったのは間違いないようですが、頼忠の母に関しては「公卿補任」の記述の通り、藤原時平女と考えた方が自然のようです。
女子(藤原師尹室) (生没年未詳)
彼女は藤原忠平の子師尹(藤原実頼の弟で小一条流藤原氏の祖)と結婚し、定時、済時、芳子などをもうけます。このうち、定時の子が歌人として有名な藤原実方です。清少納言の恋人の1人としても知られた人物ですよね。済時は、源延光(代明親王の子)の女との間に通任、、(女成)子(三条天皇皇后)などをもうけました。芳子は村上天皇に入内して「宣耀殿女御」と呼ばれ、昌平親王と永平親王をもうけています。髪が長くて大変美しい女性だったので、村上天皇の寵愛をを最も強く受けたようです。「枕草子」に記載されている、「古今集」の歌を全部暗唱できたというエピソードでも有名です。
女子(藤原雅正室) (生没年未詳)
生没年は未詳ですが、かなり長寿だったと伝えられています。彼女は、雅正との間に為頼、為長、為時をもうけます。そして、為時の娘が紫式部です。
また、紫式部の弟(一説には兄とも)の惟規の子孫には、平清盛の盟友として有名な藤原邦綱(大納言典侍の父)がいます。
こうして定方の子孫をざっと見てみましたが、代明親王の子孫同様、色々な所とつながっていますし、有名人も多いです。しかも、藤原頼通以降の摂関家の人々と、後一条天皇以降の天皇は、すべて定方の子孫なのですよね。さらに、定方の子孫は勧修寺流や小一条流、世尊寺流の藤原氏、村上源氏につながっていることを考えると、院政期〜源平時代に活躍した方々の中には、定方の子孫は意外に多かったのではないでしょうか。 
4
「定方」」ファミリー / 文化的一大勢力
紫式部の父方の祖母は、藤原定方女と素性がわかっている。それで『尊卑分脈』を見ると、定方という人は子だくさん、しかも女子の多いのに驚かされる。『尊卑分脈』に掲載されている女子は14人、男子も合わせるといったい総勢何人の子持ちだったのだろう。
驚くのはそれだけではない。定方の娘たちの結婚相手がまたそれぞれに家柄のよい公達なのである。
一女は仁善子、醍醐天皇女御で後に藤原実頼の妻になった人である。
二女は代明親王の妻であった。親王との間には荘子女王がおり、荘子女王は具平親王の母である。為時は若いころ、具平親王家の家司だったようで、また和漢の詩文の才能に恵まれた親王は為頼や為時を文学を語る仲間とみなしていたらしい。代明親王の娘には頼忠に嫁して公任を生んだ人がいるので、具平親王、公任、為頼らは定方を祖とするファミリーの一員と言える。
三女は藤原兼輔の妻となり雅正を生んだ(紫式部の祖母は定方の十一女だったと推定されるから、雅正は叔母が妻であり、近親結婚をしたのである)。
また、定方の娘の中には藤原師尹室になった人もいる。師尹の男子には貞時、済時などがおり、家集などで知られるように、為頼たちは済時にも近しい存在であった。
為頼、為長、為時の3兄弟は、このように定方ファミリーの貴顕に仕えていた形跡がみられる。ところが皮肉なことに、実頼や師尹の子孫は当時羽振りの良かった師輔流の兼家などに押され、次第に権力の中枢から遠ざかっていく。為時が花山天皇朝で一花咲かせたのち、長い不遇時代を味わうことになったのも、もともと定方ファミリーに属していたからに他ならない。
けれども、政治の世界では非力であった彼らが、和歌や漢詩文の世界では当代一流の歌人・詩人たちを有するサロンを形成していたことは注目に値する。もともと定方も兼輔も歌人として著名な人であり、彼らの子孫が歌の道に秀でているのは当然である。
式部の祖母という人は、おそらく式部が越前に行く長徳2年ごろまでは生きていたらしい。為頼が祖母に代わって式部たちに餞別を贈っているからだが、それから考えると式部と同居していた可能性は低くなってしまうような気もする。ただ、この祖母が母を早くに喪った式部姉弟をかわいがっていたことはあり得るわけで、幼い式部に父定方のありし日のこと、自分が仕えた伊尹家や女房生活の様子、その文化の香りみちた暮らしぶりを語って聞かせたことだろう。式部のほうでも、優れた歌人を輩出している祖父母の家系に畏敬の念を抱いていたことだろう。
この祖母が長く生存していたという事実はまた、式部が具平親王家に宮仕えしたという説を裏付けることにもなるかもしれない。幼いころから聡明だった式部の才能を祖母が見抜いていて、自分も経験した宮仕えを勧めたとすれば……あるいはこの祖母も、式部の父為時と同様、『源氏物語』陰の制作者と言えるのではないだろうか。 
5
定方と兼輔
藤原兼輔は三十六歌仙の一人として、また紫式部の曽祖父として、広くその名を知られており、研究者によつては和歌史的(歌壇的) にも高い位置が与えられている。また、その人柄については、たとえば、目崎徳衛氏は『紀貫之』の}節(一○ 五頁)で、「延喜親政の有力メンバーだったけれども、彼は衰龍の袖に隠れて権力を振おうとする人柄ではなく、文学や宗教に強く引かれる脱俗的性格の持主であった」と述べられた。これは氏のみならず、現在の学界の平均的兼輔像であるといえる。
兼輔は元慶元年(八七七)、利基の六男として生まれた。北家冬嗣流であるが、祖父良門は内舎人で、父利基は従四位上右中将で終っており(尊卑分脈)、既に傍流であつた。利基の官歴を「三代実録」によつて辿れば次のとおりである。
貞観二年十一月十六日叙従五下(左衛門大尉)。同五年二月十日内匠頭。備前権介。同年三月珊日次待従。同年八正月十三日左衛門佐。同十一年叙従五上。元慶元年正月三日叙正五位下(右近少将兼行備前権介)。同三年十一月廿五日叙従四下(右近少将兼行備前権介)。仁和二年正月七日叙従四上(左馬頭)。同三年二月二日相模守(左馬頭如元)。

兼輔がともかくも中納言になりえたのは、醍醐天皇の伯父である定方の婿となつたことに依ると思われる。以下、定方と兼輔の関係について述べる。
利基の没した寛平九年の七月三日、宇多天皇は譲位して上皇となり、十三歳の醍醐天皇が即位した。天皇の母后は高藤の女胤子(寛平八年六月計日莞)であつたので、この勧修寺家は一時的ながらも繁栄を見ることになつた。
寛平五年四月二日敦仁親王(醍醐天皇)が皇太子に立つや、翌六年正月には高藤は三階を越えて従三位(非参議)を叙され、昌泰三年莞じた時には内大臣正三位(三位二年参議三年中納言三年大納言三年内大臣一年)となつており、雍後正一位太政大臣を追贈されたのである(公卿補任)。
その男定国(母同胤子)も順調に進んで昌泰二年二月廿四日参議、同年閏十二月五日権中納言従三位(三十三歳)、昌泰四年正月兼右大将、延喜二年正月廿六日大納言となったが、延喜六年七月二日莞じた。四十歳。
この同母兄の思いがけぬ早い死によって、定方は勧修寺家の長の位置に押し上げられることになり、延喜六年右権中将(三四歳。定国はこの歳には中納言) にすぎなかった官位も、九年四月九日参議、十三年正月廿八日中納言従三位(超六人)、同年四月十五日兼左衛門督、十九年九月十三日兼右大将、廿年正月廿日大納言、廿一年正月七日正三位、延長二年正月廿二日右大臣、四年正月七日従二位、八年十二月十七日転左大将、承平二年八月四日亮、同十一日贈従一位、六十歳。(公卿補任)と天皇の伯父にふさわしく昇進を重ねている。
定方の栄進は、その任大臣の宣命に「大納言正三位藤原定方朝臣波於朕天近親爾毛在、又可仕奉支次爾毛在爾依天奈牟右大臣官爾治賜久止勅不」(朝野群載十二)と記されているように、天皇の伯父であることに依っており、またその故に終始天皇の側近としてあったのである。政治的な面では忠平にその力は及ぶべくも無かったが、特に文化的な面では大いに活躍している。
叔父高藤家のこの思いがけぬ繁栄は兼輔にとつても期待を抱かせるに十分なものであったと思われる。然し、定国・定方と異って、直接の血縁に無い(五親等)ので、将来が約束されている訳ではなかった。二十一歳にして父を失った若い兼輔が社会的地位を求めようとする時、当時にあって、てっとり早くしかも確実な方法は権力者と姻戚関係を結ぷ事である。その意味で、従兄定方の婿となった事は中納言への道の第一歩であったといえる。良門の男は利基と高藤の二人だけであり、兼輔は定方より四歳年少であるだけであつたので、おそらく幼少の頃から親しんでいたと思われるが、醍醐天皇の東宮時代、共ハに殿上しているから(公卿補任尻附)、その頃、即ち兼輔二十一歳以前には交遊があつたことは確かである。折から高藤・定国父子が旭日の勢いで昇進している時でもあり、兼輔は定方に対しても、羨望と期待とを以て見ていたことであろう。とはいえ、兼輔は十代の若さでもあり、定方にしても後年ほどは恵まれていた訳でもなかったから、そのような立場の違いは認めつ ゝも、親しい交遊は有つたと思われる。
兼輔が定方の娘に通い始めたのは「大和物語」= 二五段によれば内蔵助の時である。
三條の右大臣のむすめ、堤の中納言にあひはしめたまひける間は、内蔵のすけにて内の殿上をなむしたまひける。女はあはむの心やなかりけむ、心もゆかずなむいますかりける。男も宮つかへしたまうければ、え常にもいませざりけるころ、女、
たきもののくゆる心はありしかどひとりはたえてねられざりけり
かへし、上ずなりければよかりけめど、えきかねば書かず。(日本古典文学大系)
内蔵助在官年次は、延喜三年二(正・歌仙伝)月廿六日から延喜十六年三月廿日内蔵権頭になるまでである。然し、延喜七年二月廿九日には兵衛佐、十三年正月廿一日には左少将となっている。内蔵助は六位相当官、兵衛佐は五位相当官。従って、延喜二年従五下、十(六・歌仙伝)年正月従五上であった兼輔が「内蔵助」の名で一般に呼ばれたのは、兵衛佐以前の延喜三年二(正)月廿六日以降七年二月廿九日以前の事であろ知。二七歳から三一歳の間のことである。
この時定方は、三一歳から三五歳である。やゝ不自然のようにも見えるが、定方の娘能子が更衣から女御になったのが延喜十三年十月のことである(紀略) から、入内したのはそれ以前である。従って、延喜十年前後には結婚可能の年令の娘があつたのである。
また、兼輔の娘桑子が章明親王を生んだのが延長二年である(紀略・一代要記)。章明親王が元服したのは天慶二年(九三九)八月十四日のことである。「吏部王記」(西宮記親王元服所引)に次の記事がある。
章明親王加元服、伍詣彼家、(中略)余召左少将・朝忠朝臣理髪了催二卿、加冠本家意在右大将、譲民部卿、々々々固辞右大将即加之了(下略)(増訂故実叢書、西宮記第二、三三三頁)
「御遊抄」三御元服(続群書類従)によれば、「彼家」とは「京極亭」であり、理髪の左少将は藤原朝忠(定方男)である。源氏で該当する朝忠はいないから、「西宮記」の書入は誤りである。右大将は中略とした部分に明記するように藤原実頼である。「御遊抄」では「右近衛大将藤原良世」とするが、良世は既に亮じており、「公卿補任」によっても右大将は実頼である。
問題は章明親王が定方女の孫即ち桑子が定方女の子であったかどうかという点にある。「吏部王記」によれば、本家の意は実頼に在ったという。本家が何故に実頼を望んだかといえば、定方女能子が天皇の崩御の後実頼に配されていた(尊卑分脈.大和物語) ので、その姻戚関係によって依頼しょうとしたのであろう。実頼が初め民部卿平伊望に譲ったのは、伊望は大納言で五九歳、実頼は中納言で四十歳であったからであろう。それを伊望が「固辞」したのは、本家と実頼との関係を知つていたからであろう。理髪を定方男朝忠が勤めたのも桑子が定方の孫であったことを想定させる。また、仮りに定方の孫でないとすれば入内も難しかつたのではないかとも思われる。
以上のことに依って桑子は定方の孫娘であると考えてよいであろう。であれば、入内した延喜廿三年(延長元年)前後には、少くとも十五・六歳であつたとして、その誕生は延喜七・入年以前である。従つて、兼輔が定方女に通い始めたのは、「大和物語」が言うように「内蔵のすけ」のころ、つまり延喜三年二月から七年二月の間のことと考えて大過ないであろう。
定方の娘に通い始めた兼輔は、前引の「大和物語」に伝える所によれば、当初は訪れない夜が多く、娘の方も「あはむの心」が無かつたらしく、心楽しまぬ有様であったという。「たきもの、」の歌には、心進まぬま ゝに兼輔を迎え始め、しかも男は訪れないという屈辱感が窺える。「新拾遺集」恋四(一二三二)では、詞書が「(上略)未だ下繭に待りければ、女は逢はむの心やなかりけむ(下略)」とある。全面的には信用し難いにせよ、贈太政大臣の孫で、将来を約束された定方の娘であってみれば、たかが従五位の内蔵助が通うようになったのは、何程かの失望ではあつたであろう。姉は醍醐天皇の後宮に入るのである。
定方の娘が後悔しつゝも、「たえてはひとりねられざりけり」と兼輔に詠み送らねばならなかったのは、兼輔には別に妻が居たからである。
めのみまかりて後、すみける所のかべに、かの待リける時書きつけて待りける手を見待りて   兼輔朝臣
寝ぬ夢に昔のかべを見てしよりうつゝに物ぞかなしかりける (後撰集哀傷一四○○)
妻が死んでしまつてからは昼の間も夢の中の如くに過ぎて来たが、夢であれば再び逢えるであろうかと、妻の部屋に来てみれば、あの時と同じように、妻はおらず、その歌だけが壁に書かれてあつた。今更にはっきりと、妻を亡った悲しみが胸を打つ。
「貫之集」二七九六九)に「兼輔の中将」のめが死んだとあるから、中将であった延喜十九年正月廿八日以降延喜廿一年五月冊日参議就任以前(但し中将は元のまま) である。また、貫之の詠は十二月晦日のことであるから延喜十九年正月廿八日以降延喜廿年十二月光日以前の事である。
これが定方女でないことは、次に示す「勧修寺家文書」(大日本仏教全書・寺誌叢書三)によつて知られる。即ち、承平二年九月廿二日、定方の七々日態が行なわれた。
本家認諦、調布三百端、五女 女御、左衛門督夫人、命婦、中務卿小君、藤原尹文妻、
当時の「左衛門督」は藤原恒佐であるが、定方の娘で恒佐の夫人となつた者は無く、恒佐の子に定方の娘を母とするものはいない(尊卑分脈)。従つて、「左衛門督」は「大日本史料」があてるように、当時右衛門督であった兼輔である。即ち、兼輔の室となった定方女はまだ生きていたのである。
定方の娘に通うようになつた時、兼輔は既に三十に近かつた。おそらく、死んだ妻は定方女より早く通つていたと思われる。(あるいは兼輔邸に迎えていたか)
長男雅正と四男庶正は共ハに定方女を妻としている(尊卑分脈)。仮りに、雅正庶正を定方女腹の男とすれば、母の実妹と結婚したことになる。敦慶親王と同母妹均子内親王が結婚した例もある(皇胤紹運録)が、不自然である。これを死んだ妻腹の男とすれば、定方女とは血縁ではなく、従つて万能性は大きい。また「後撰集」恋二(六七七) に
兼輔朝臣にあひはじめて常にしもあはざりける程に   清正母
ふり解けぬ君がゆきげの雫ゆゑ挟にとけぬこほりしにけり
という歌がある。「大和物語」= 二五段の記事と符合口するから、同一人物とすれば、その作者名を「清正母」(他本同じ)とするのは、雅正の母ではないこと、即ち雅正母は定方女ではないことを物語っているように見える。
固執はしないが、定方女が最初の妻ではなかつた可能性は大いにあると思われる。
女の恨むる事ありて親の許にまかり渡りて待りけるに、雪の深く降りて待りければ、あしたに女の迎ひに車遣はしける消息にくはへて遣はしける   兼輔朝臣
白雪のけさはつもれる思ひかなあはでふる夜のほどもへなくにかへし 読人しらず
白雪のつもる思ひもたのまれず春よりのちはあらじと思へば (後撰集恋六一○七一・一○七二)
どのような理由か、また定方の娘か別の女かも判然としないが、親の許に帰るのは異常な行為である。あるいは妻妾の確執ででもあつたのであろうか。いずれすぐに消えてしまうであろうから、今車を遣わして、思いは積るほど有るといってもあてにはできないという女の返歌を見れば、一時的な激情によって親の許へ帰ったとも思われない。死にあたっては前記の如き故き妻を偲ぶ歌を詠んでいるが、だからといつてそれを直ちに生前に及ぼすことはできない。(読人が判らないので、どちらがどうと判然とは分らないが。)
この二人以外にも、忍んで通つた相手は少なくなかつたらしいことが家集によつて知られるが、名の判明するのは次の「少将の内待」だけである。
忍びて通ひ待りける人、今帰りてなどたのめおきて、おほやけの使に伊勢国にまかり、帰りまできて久しうとはず待りければ   少将内待
人はかる心のくまはきたなくてきよきなぎさをいかですぎけむ かへし 兼輔朝臣
たがためにわれがいのちをながはまの浦にやどりをしつゝかはこし (後撰集恋五九四五・九四六)
伊勢に使したことは「大和物語」三六段にもみえて、斎宮の長命を寿ぐ歌を詠んでいる。あるいは同じ時のことであろうか。
「兼輔集」では詞書、「いせの斎宮にまいりてかへるころ、はやうしりたるをんなのもとより」とあり、左注として「このをんなは斎宮のないしといふ也」(西本願寺本)とする。歌詞の下二句「清きなぎさにいかでゆきけん」とする。詞書、歌詞からして、斎宮のないしとするのは不適当である。
この贈答でも、女の「帰つてからと約束しておきながら人をだますような汚がれた心でどうして伊勢の清浄な渚を通つたのでしようか」と、批難されており、その返歌は、「命を延ばす長浜に宿つて来たのは、あなたの為なのだ」と軽くいなしている。当時の男女の贈答歌は大旨このようなものだが、前述のことなどを考えあわせて、兼輔も特に「軽薄非情の浮気者ではなかつた」といつても、また「誠実」という訳でもなかつたらしい。
定方女のことから記述が横道に入つてしまつた。定方と兼輔の結びつきは、姻戚関係が加わることによつて一層固いものになった。兼輔は後盾と頼む所もあってか、よく定方に心を尽している。「兼輔集」によってその有様を見ておこう。
三条の右大臣どのゝまだわかくおはせしとき、かたのにかりしたまひし時、をひてまで、
きみがゆくかたのはるかにきゝしかどしたへばきぬるものにぞありける
いそぐことありてさいだちてかへるに、かのおと.ゞのみなせどのゝ花はなをもしろければ、それにつけておくる
さくらばなにほふをみつゝかへるにはしつこ・うなきものにぞありける
京にかへりたるに、かのおと.ゞの御返事
たちかへりはなをぞわれはうらみてし人のこゝろのゝどけからねば
定方は「少壮より遊猟を好」(原漢文)んで、晩年にはその報を恐れて写経をしようと考えた(勧修寺文書)ほどの人物である。右の家集のような場面は一再ならずあったことと思われる。「いそぐこと」があつたにもか ゝわらず、遠く交野まで「した」つて来るなど、その心遣いが窺がわれる。また、桜につけての贈答も業平の歌(古今集・伊勢物語)を念頭においてのことである。あるいは「伊勢物語」八二段に見える惟喬親王と業平の交遊を兼輔は考えていたのであろうか。(但し、「古今集」(五三) では「渚の院にて桜を見てよめる」とだけである。)
京ごくのいへのふちのが三月一日しけるに、三条の右大臣殿
かぎりなくなにおふゝちのはなゝればそこゐもしらずいろのふかさに
返事
いろふかくにほひしことはふちなみのたちもかへらず君とまれどか
年次は判然としない。この贈答には一層はっきりと婿・被庇護者としての姿勢がみてとれる。敦慶親王・醍醐天皇の莞崩に際しても故人を偲ぶ贈答が有る。
こうして兼輔は陰に陽に定方の庇護を受けることになる。 
 
26.貞信公 (ていしんこう)  

 

小倉山(をぐらやま) 峰(みね)のもみぢ葉(ば) 心(こころ)あらば
今(いま)ひとたびの みゆき待(ま)たなむ  
小倉山の紅葉よ。お前に心があるなら、いま一度の行幸があるまで散らずに待っていてほしい。 / 小倉山の峰の紅葉よ。ああ、あなたにもし心があるならば、もう一度天皇のお出まし(行幸)があるまで、どうか散らずにそのままで待っていてください。 / 紅葉の名所である小倉山(現在の京都市右京区嵯峨にある山)の峰の紅葉よ。もしおまえに心があるならば、もう一度あるはずの天皇のおでかけである行幸(みゆき/ぎょうこう)のときまで、どうかそのまま散らないで待っていておくれ。 / 小倉山の峰の美しい紅葉の葉よ、もしお前に哀れむ心があるならば、散るのを急がず、もう一度の行幸をお待ち申していてくれないか。
○ 小倉山 / 京都市右京区の山。大堰(おおい)川をはさんだ嵐山の対岸。トロッコ嵐山駅周辺。紅葉の名所。藤原定家が、この地で百人一首を撰定したことから、後に『小倉百人一首』と呼ばれるようになった。
○ 峰のもみじ葉 / 後の「心あらば」「待たなむ」の表現によって、「峰のもみじ葉」が擬人化されているとわかる。
○ 心あらば / 「心」は、人の心。「あらば」は、「動詞の未然形+接続助詞“ば”」で順接の仮定条件。「もしも心があるならば」の意。
○ 今ひとたびの / 『拾遺集』の詞書によると、宇多上皇が大堰川に御幸された際、その景色を子の醍醐天皇にもお見せしたいとおっしゃったことを受けて、天皇の義理の兄である藤原忠平(貞信公)がこの歌に託して奏上したということ。
○ みゆき待たなむ / 天皇の「みゆき」は「行幸」、上皇・法皇は「御幸」。この場合は、醍醐天皇の「みゆき」なので、「行幸」。「なむ」は、願望(他者に対するあつらえ)の終助詞。
1
藤原忠平(ふじわらのただひら、元慶4年(880年) - 天暦3年8月14日(949年9月9日))は、平安時代の公卿。藤原基経の四男。兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇のときに摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。
寛平年間(889年-898年)に正五位下に叙し、侍従に任じられ、備後権守を兼ねる。昌泰3年(900年)参議に任じられるが奏請して、叔父の清経と代わり、自らは右大弁となる。延喜8年に参議に還任(右大弁は元の如し)の後、春宮大夫、左兵衛督を兼ね、検非違使別当に補され、次いで従三位に叙し、権中納言に任じられ、蔵人別当に補され、右近衛大将を兼ねる。
宇多天皇の時代は寛平の治と呼ばれ、摂関を置かずに天皇が親政をし、長兄の時平と学者の菅原道真らが政治を主導した。寛平9年(897年)に宇多天皇が譲位して醍醐天皇が即位すると、時平は左大臣、道真は右大臣に並んで朝政を執ったが、やがて政争が起き道真は失脚する(昌泰の変)。
時平が政権を握り、諸改革に着手するが、延喜9年(909年)、時平は39歳で早世した。次兄の仲平を差し置いて、忠平が藤氏長者として嫡家を継ぐ。以後、醍醐天皇のもとで出世を重ね、大納言に転じ、左近衛大将を兼ねる。延喜14年(914年)右大臣を拝した。延長2年(924年)正二位に叙し、左大臣となる。延長5年(927年)、時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させた。農政などに関する忠平の政策は、兄時平の行った国政改革と合わせ「延喜の治」と呼ばれる。
延長8年(930年)9月22日に醍醐天皇は病が篤いため、朱雀天皇に譲位した。同時に、基経の没後は長く摂政関白が置かれなかったが新帝が幼少であるため摂政に任じられた。9月26日、朱雀天皇が醍醐上皇のいる麗景殿を訪ねた際、上皇は天皇を几帳の中に呼び入れ、五つの事を遺言した。その中で、「左大臣藤原忠平の訓を聞くこと」と話した(延喜御遺誡)。
承平2年(932年)従一位に叙せられる。承平6年(936年)太政大臣に昇り、天慶2年(939年)准三后となる。天慶4年(941年)朱雀天皇が元服したため摂政を辞すが、詔して引き続き万機を委ねられ、関白に任じられた。記録上、摂政が退いた後に引き続き関白に任命されたことが確認できる最初の例である。この間かつての家人、平将門と遠戚である藤原純友による承平天慶の乱が起きたが、いずれも最終的には鎮圧された。
天慶9年(946年)村上天皇が即位すると引き続き関白として朝政を執った。この頃には老齢して病がちになり、しばしば致仕(引退)を願うが、その都度慰留されている。天暦3年(949年)、病がいよいよ重くなり、死去した。享年70。正一位が追贈され、貞信公と諡された。
妻・源順子は宇多天皇の皇女で「菅原の君」と称されており、宇多天皇女御であった菅原道真女菅原衍子所生とも推定されている(実父母について異説あり)。このために、宇多天皇や道真と対立していた長兄・時平からは疎んじられていたという説がある。
逆に兄・時平や共に道真を陥れた源光が亡くなり、醍醐天皇が病気がちとなり、天皇の父である宇多法皇が再び国政に関与するようになると、忠平は法皇の相談役として急速な出世を遂げたと言う。実際に時平や源光の死により、早くも35歳にして臣下最高位となり、死去するまで35年間その地位を維持したが、当時としては長寿を全うした事で忠平とその子孫は時平に代わって嫡流となり、摂関職を江戸時代まで継承することとなった。そして、道真の名誉回復が早い時期に実現したのも「道真怨霊説」だけでなく、亡き時平と忠平との確執が背景にあったと言われている。
人物・逸話
○ 幼くして聡明で知られ、父の基経が極楽寺を建てたとき、忠平は「仏閣を建てるならばこの地しかありません」と一所を指さした。そこの地相はまさに絶勝の地だった。基経はこの時のことを心にとどめたという(『大鏡』)。
○ また、醍醐天皇の頃、相工(人相占い師)が宮中に召された。寛明太子(後の朱雀天皇)を見て「容貌美に過ぎたり」と判じた。時平を見て「知恵が多すぎる」と判じた。菅原道真を見て「才能が高すぎる」と判じ、皆全幅の者はなかった。ところが、下座にあった忠平を見て、相工はこれを指さして「神識才貌、全てが良い。長く朝廷に仕えて、栄貴を保つのはこの人であろう」と絶賛し、宇多法皇はかねてから忠平を好んでいたが、この話を聞いて、ますます重んじ、皇女(源順子)を降嫁せしめたという(『古事談』)。
○ 忠平はまた、寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったという(『栄花物語』)。朝儀、有職故実について記した日記『貞信公記』がある。 
2
藤原忠平 元慶四〜天暦三(880-949) 諡号:貞信公
太政大臣基経の四男。母は人康親王の娘。時平・仲平の弟。実頼・師輔・師氏・師尹らの父。一女は保明親王の室となる。寛平七年(895)、十六歳で正五位下に叙せられ、昇殿を許される。同八年、侍従となり、備後権守を兼ねる。昌泰三年(900)、参議。延喜九年(909)、長兄時平が薨じた後は、次兄仲平が存命であったにもかかわらず、氏の長者として嫡家を継いだ。以後急速に累進し、翌延喜十年(910)、中納言。同十四年、右大臣。延長二年(924)、左大臣。同五年、『延喜格式』を完成撰進させる。同八年、摂政を兼ねる。承平六年(936)、摂政太政大臣従一位。天慶四年(941)、関白太政大臣。天暦三年(949)八月十四日、薨。七十歳。詔により正一位を追贈され、信濃国を封ぜられる。謚は貞信公。小一条太政大臣と号す。藤原氏中興の祖の一人として、後世子孫により重んじられた。醍醐天皇の代、兄時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させる。日記『貞信公記』がある。『大鏡』は紫宸殿の辺で鬼を追い払ったとの逸話を載せ、豪胆ぶりがうかがわれる。後撰集初出。勅撰入集は十三首。
枇杷左大臣はじめて大臣になりて侍りけるよろこびにまかりて
折りて見るかひもあるかな梅の花ふたたび春に逢ふ心ちして(続後撰1030)
(折ってみる甲斐もあることよ、この梅の花は。再び春のめでたい時に遇う気持がして。)
亭子院、大井河に御幸ありて、「行幸もありぬべき所なり」とおほせ給ふに、「事の由奏せむ」と申して
をぐら山峰のもみぢ葉こころあらば今ひとたびのみゆき待たなむ(拾遺1128)
([詞書] 宇多上皇が大井川に行幸なされ、「ここは、天皇(醍醐)の行幸もあってしかるべき所だ」と仰せになったので、「では天皇に上皇のご意向を奏上致しましょう」と申し上げて [歌] 小倉山の紅葉よ、もしおまえに心があるなら、もう一度行幸があるまで散るのは待っていてほしいよ。)
今上、帥(そち)のみこときこえし時、太政大臣の家にわたりおはしまして、かへらせ給ふ御贈り物に御本たてまつるとて
君がため祝ふ心のふかければひじりの御代のあとならへとぞ(後撰1379)
(あなたのためにお祝い申し上げる心が深いので、聖代の手跡をお習いなさいと、この御本を差し上げます。)
兄の服(ぶく)にて、一条にまかりて
春の夜の夢のなかにも思ひきや君なき宿をゆきて見むとは(後撰1387)
(はなかく短いという春の夢の中でさえ、思っただろうか。あなたのいないこの邸に来てみようとは。) 
 
27.中納言兼輔 (ちゅうなごんかねすけ)  

 

みかの原(はら) わきて流(なが)るる 泉川(いずみがは)
いつ見(み)きとてか 恋(こひ)しかるらむ  
みかの原を分かつように湧き出て流れる泉川ではないが、いつ逢ったということで、こんなにも恋しいのだろう。 / みかの原を分けるようにわき出て流れるいづみ川ではないけれど、いつ見たためか、いつ逢ったのか、いや本当は逢ったこともないのに、どうしてこんなに恋しいのだろう。 / みかの原(現在の京都府相楽郡)に湧いて流れるいづみ川よ。その「いつ」という言葉ではないけれども、わたしはいったいあの方にいつお逢いして、こんなに恋しいと思うようになったのでしょう。お逢いしたこともないのに。 / みかの原を湧き出て流れる泉川よ、(その「いつ」という言葉ではないが) その人をいつ見たといっては、恋しく思ってしまう。本当は一度たりとも見たこともないのに。
○ みかの原 / 「瓶原」。歌枕。山城(京都府)の木津川市。奈良時代には恭仁京が置かれた。
○ わきて流るる / 「わき」は、「分き」と「湧き」の掛詞。「湧き」は、「泉」の縁語。
○ 泉川 / 現在の木津川。「いづみ」から「いつみ(何時見)」へと音を重ねて続く。ここまでが序詞。
○ いつ見きとてか / 「見」は、「逢う」の意。「き」は、過去の直接体験を表す助動詞。「か」は、疑問の係助詞。後の「らむ」と係り結び。この歌には、解釈の手がかりとなる人間関係が示されていない上、状況を説明する詞書もなく、男女関係がない状態で詠んだ歌なのか、かつての恋人について詠んだ歌なのか、空想上の物語を用いて言葉の技巧を凝らしただけなのかは不明。そのため、古来よりこの部分の解釈が分かれている。なお、兼輔の歌ではないという説もある。
○ 恋しかるらむ / 「らむ」は、原因推量の助動詞の連体形で、「か」の結び。 
1
藤原兼輔(ふじわらのかねすけ、元慶元年(877年) - 承平3年2月18日(933年3月21日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、右中将・藤原利基の六男。官位は従三位・中納言。また賀茂川堤に邸宅があったことから堤中納言とよばれた。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言兼輔。
醍醐天皇の外戚であったことから、その春宮時代より仕え、寛平9年(897年)に醍醐天皇が即位すると昇殿を許される。醍醐天皇に非蔵人として仕える傍ら、讃岐権掾・右衛門少尉を経て、延喜2年(902年)従五位下に叙せられる。延喜3年(903年)内蔵助に抜擢されたのち内蔵寮の次官次いで長官を務める傍ら、左兵衛佐・右衛門佐・左近衛少将といった武官や五位蔵人を兼任して引き続き天皇の側近として仕え、またこの間、延喜10年(910年)従五位上、延喜15年(915年)正五位下、延喜16年(916年)従四位下と順調に昇進する。延喜17年(917年)蔵人頭、延喜19年(819年)左近衛権中将を経て、延喜21年(921年)に参議として公卿に列した。延長5年(927年)従三位・権中納言に至る。承平3年(933年)2月18日薨去。享年57。最終官位は権中納言従三位行右衛門督。
人物
和歌・管弦に優れる。従兄弟で妻の父である三条右大臣・藤原定方とともに当時の歌壇の中心的な人物であり、紀貫之や凡河内躬恒など多くの歌人が邸宅に集まった。『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に56首が入集。家集に『兼輔集』がある。
みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ (『新古今和歌集』、小倉百人一首) 
2
藤原兼輔 元慶一〜承平三(877-933) 通称:堤中納言
右中将利基の子。三条右大臣定方は従兄。男子に雅正・清正があり、共に勅撰集入集歌人。紫式部は曾孫にあたる。醍醐天皇の寛平九年(897)七月昇殿を許され、同十年正月、讃岐権掾に任官。その後、左衛門少尉・内蔵助・右兵衛佐・左兵衛佐・左近少将・近江介・内蔵頭などを歴任し、延喜十七年(917)十一月、蔵人頭となる。同二十一年正月、参議に就任し、延長五年(927)正月、従三位権中納言。同八年、中納言兼右衛門督。承平三年二月十八日、薨。五十七歳。紀貫之・凡河内躬恒ら歌人と親しく交流し、醍醐朝の和歌隆盛期を支えた。鴨川堤に邸宅を構えたので、堤中納言と通称された。三十六歌仙の一人。家集『兼輔集』がある。古今集に四首、後撰集に二十四首。勅撰入集は計五十八首。
夏 / 夏の夜、深養父が琴ひくをききて
みじか夜のふけゆくままに高砂の峰の松風吹くかとぞ聞く(後撰167)
(短い夏の夜が更けてゆくにつれて、ますます趣深く響く琴の音を、あたかも高砂の峰の松に風が吹きつけ音を立てているのかと聞くことだ。)
秋 / おまへに菊奉るとて
けふ堀りて雲ゐにうつす菊の花天あめの星とやあすよりは見む(兼輔集)
(今日掘って内裏に移し植える菊の花は、明日からは天に輝く星と見ましょうか。)
恋 / 題しらず
みかの原わきてながるる泉河いつ見きとてか恋しかるらむ(新古996)
(三香の原を分けて流れる泉川――その「いつみ」ではないが、一体いつ見たというのでこれ程恋しいのだろうか。)
題しらず
よそにのみ聞かましものを音羽おとは川わたるとなしに身なれそめけむ(古今749)
(噂に聞くだけでおれば良かったものを。音羽川を渡るようにあの人との一線を越えるわけでもなく、どうして私は中途半端に馴染み始めてしまったのだろうか。)
女の、怨むることありて親のもとにまかり渡りて侍りけるに、雪の深く降りて侍りければ、朝(あした)に女の迎へに車つかはしける消息に加へてつかはしける
白雪の今朝はつもれる思ひかな逢はでふる夜のほどもへなくに(後撰1070)
(白雪のように今朝は積もっているあなたへの思いですよ。お逢いできずに過ごした夜はそれ程積み重なってはおりませんのに。)
哀傷 / 式部卿敦慶のみこ、かくれ侍りにける春よみ侍りける
咲きにほひ風待つほどの山ざくら人の世よりは久しかりけり(新勅撰1225)
(咲き誇り、風を待つまでの間の山桜よ――人の生のはかなさに較べれば、長続きするものであったよ。)
先帝おはしまさで、世の中思ひ嘆きてつかはしける  三条右大臣
はかなくて世にふるよりは山科の宮の草木とならましものを
(たよりなく、むなしい状態でこの世に永らえるよりは、山科の御陵の草木になってしまえばよかったものを。)
返し
山科の宮の草木と君ならば我はしづくにぬるばかりなり(後撰1397)
(あなたが山科御陵の草木となるのなら、私はその草の雫に濡れるばかりです。)
醍醐のみかどかくれたまひて後、やよひのつごもりに、三条右大臣につかはしける
桜ちる春の末には成りにけり雨間あままもしらぬながめせしまに(新古今759)
(桜の散る春の終りになったことです。止む暇もない春雨に、亡き帝を悼んでいる間に。)
妻(め)の身まかりてのち、住み侍りける所の壁に、かの侍りける時書きつけて侍りける手を見て
ねぬ夢に昔のかべを見つるよりうつつに物ぞかなしかりける(後撰1399)
(眠っていたのではないのに、夢のような幻として、亡き妻の筆跡の書かれた壁を見てからというもの、目覚めている間も、何となく悲しくてならないことだ。)
雑 / 大江千古が越へまかりけるむまのはなむけによめる
君がゆく越のしら山しらねども雪のまにまにあとはたづねむ(古今391)
(あなたの行かれる越の白山はその名の通り「知ら」ないけれども、雪に積もった足跡をたよりに尋ねて行きましょう。)
藤原治方遠江に成りてくだり侍りけるに、餞し侍らんとて待ち侍りけれど、まうでこざりければよみてつかはしける
こぬ人をまつ秋風のねざめには我さへあやな旅ごこちする(新拾遺744)
(帰って来ない人をあてどなく待つ夜な夜な――秋風の音を聞きながら寝覚した時などには、どうしたことか私までが旅心地になり、無性に頼りない気持になるのです。)
勅使にて、斎宮へまゐりてよみ侍りける
くれ竹の世々の宮こときくからに君は千年のうたがひもなし(新勅撰453)
(代々栄える多気(たけ)の御在所と伺いますからには、宮様の長寿は疑いもありません。)
藤原さねきが、蔵人より、かうぶり賜はりて、明日殿上まかり下りむとしける夜、酒たうべけるついでに
むばたまの今宵ばかりぞあけ衣あけなば人をよそにこそ見め(後撰1116)
(今宵ばかりは緋色の衣を着たあなたと御一緒できますが、夜が明ければ、私には遠い人として見ることになるでしょう。)
太政大臣の、左大将にて、相撲(すまひ)の還饗(かへりあるじ)し侍りける日、中将にてまかりて、こと終はりて、これかれまかりあかれけるに、やむごとなき人二三人ばかりとどめて、まらうど、あるじ、酒あまたたびの後、酔ひにのりて、こどもの上など申しけるついでに
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな(後撰1102)
(子を持つ親の心は闇というわけでもないのに、親たる者、子供のこととなると、道に迷ったかのように、どうすればよいか分からず混乱してしまうことですよ。)
亭子院、大内山におはしましける時、勅使にてまゐりて侍りけるに、ふもとより雲たちのぼりけるを見てよみ侍りける
白雲のここのへにたつ峰なればおほうち山といふにぞありける(新勅撰1265)
(白雲が次々に立ちのぼり、九重にまで取り巻く峰なので、「大内」山と言うのでありました。) 
 
28.源宗于朝臣 (みなもとのむねゆきあそん)  

 

山里(やまざと)は 冬(ふゆ)ぞ寂(さび)しさ まさりける
人目(ひとめ)も草(くさ)も かれぬと思(おも)へば  
山里は、冬に一段と寂しくなるものだなあ。人も来なくなり、草も枯れてしまうと思うので。 / 山中の里はいつの季節でも寂しいけれど、冬にはその寂しさがいっそう身にしみて感じられることだよ。人の行き来も途絶えてしまい、草も木もすっかり枯れ果ててしまうかと思うと。 / 山里は、ただでさえ寂しいところなのに、冬は、いっそう寂しさが強く感じられるなぁ。人の行き来も少なくなり、草も枯れ果ててしまったと思うと・・・。 / 山里はいつの季節でも寂しいが、冬はとりわけ寂しく感じられる。尋ねてくれる人も途絶え、慰めの草も枯れてしまうのだと思うと。
○ 山里は / 「は」は、区別を表す係助詞。都とは違うことを示す。
○ 冬ぞさびしさまさりける / 「冬」は、陰暦の十、十一、十二月。「ぞ」と「ける」は係り結び。「ぞ」は、強意の係助詞。山里は、どんな季節でも都よりさびしいが、中でも冬は格別にさびしさがまさることを示す。「ける」は、詠嘆の助動詞の連体形で、「ぞ」の結び。
○ 人目も草も / 「人目」は、人の気配や人の往来。「も」は並列の係助詞。「人目も草も」で、「生きとし生けるもの全て」を表す。
○ かれぬと思へば / 「かれ」は、「人目」を受けて「離れ」となり、「草」を受けて「枯れ」となる掛詞。「離れ」は、「人が来なくなる」の意。「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。(注)打消の助動詞「ず」の連体形ではない。「思へば」は、「動詞の已然形+“ば”」で、順接の確定条件。「思うので」の意。  
1
源宗于(みなもとのむねゆき、生年不詳 - 天慶2年11月23日(940年1月5日))は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。光孝天皇の孫。式部卿・是忠親王の子。官位は正四位下・右京大夫。三十六歌仙の一人。
寛平6年(894年)源朝臣姓を賜与されて臣籍降下し、従四位下に直叙される。寛平9年(897年)従四位上。
延喜5年(905年)兵部大輔、延喜8年(908年)右馬頭と醍醐朝前半は武官を歴任するが、延喜12年(912年)三河権守を兼ねると、相模守・信濃権守・伊勢権守と醍醐朝後半から朱雀朝初頭にかけて地方官を歴任する。
承平3年(933年)右京大夫に任ぜられて京官に復し、天慶2年(939年)正四位下に至る。天慶2年(940年)11月22日卒去。最終官位は正四位下行右京大夫。
寛平后宮歌合や是貞親王家歌合などの歌合に参加。紀貫之との贈答歌や伊勢に贈った歌などが伝わっており交流がうかがわれる。『古今和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に15首入集。家集に『宗于集』がある。『大和物語』に右京大夫として登場する。
山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も 枯れぬと思へば(『古今和歌集』冬315 / 小倉百人一首 28番)

『大和物語』には、宗于が自分の官位があがらないことを宇多天皇に嘆く話が載せられている。宇多天皇が紀伊の国から石のついた海松という海草を奉ったことを題として、人々が歌を詠んだとき、宗于は「沖つ風ふけゐの浦に立つ浪のなごりにさへやわれはしづまぬ(=沖から風が吹いて、吹井の浦に波が立ちますが、石のついた海松のようなわたくしは、その余波によってさえ波打ちぎわにもうち寄せられず、底に沈んだままでいるのでしょうか)」という歌を詠んで、自分の思いを伝えようとした。しかし、宇多天皇は「なんのことだろうか。この歌の意味が分からない」と側近の者にお話になっただけで効果はなかったという。
2
源宗于 生年未詳〜天慶二(?-939)
光孝天皇の孫。是忠親王の子(三十六歌仙伝)。ただし異本歌仙伝には「式部卿本康親王一男。仁明天皇孫歟」とある。「閑院大君」「閑院の御」などと呼ばれた娘のあったことが知られる(古今集で源昇に歌を贈っている「閑院」とは別人物だろうという)。寛平六年(894)臣籍に下って源姓を賜わる。丹波・摂津・参河・信濃・伊勢などの権守を勤め、正四位下右京大夫に至る。寛平御時后宮歌合や是貞親王家歌合などに出詠。紀貫之との贈答歌があり、親交が窺える。また『伊勢集』に伊勢に贈った歌がある。三十六歌仙の一人。小倉百人一首にも歌を採られている。家集『宗于集』がある。古今集の六首をはじめ、勅撰集には計十六首入集。また『大和物語』に右京大夫としてたびたび登場しており、身の不遇をかこつ挿話が多い。
春 / 寛平御時きさいの宮の歌合によめる
ときはなる松のみどりも春来れば今ひとしほの色まさりけり(古今24)
(常に不変の松の緑も、春が来たので、さらに一際色が濃くなるのだった。)
秋 / 題しらず
梓弓いるさの山は秋霧のあたるごとにや色まさるらむ(後撰379)
(梓弓を射る、と言う入佐の山の木々は、秋霧があたるたびに紅葉の色が濃くなってゆくだろう。)
是貞親王家歌合の歌
いつはとは時はわかねど秋の夜ぞ物思ふことの限りなりける(古今189)
(どの季節と限らず、いつでも物思いはするものだが、秋の夜こそは、この上なく深く物思いに沈むことだよ。)
冬 / 冬の歌とてよめる
山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば(古今315)
(山里は、冬にこそひときわ寂しさが増さって感じられるのだ。人の訪れも途絶え、草も枯れてしまうことを思うと。)
恋 / 題しらず
つれもなくなりゆく人の言の葉ぞ秋よりさきの紅葉なりける(古今788)
(つれなくなってゆくあの人の言葉は、葉というだけあって、紅葉さながら移り変わるものだったのだ。まだ秋が来るには早すぎるのに。)
からうじて逢ひ知りて侍りける人に、つつむことありて、逢ひがたく侍りければ
あづまぢの小夜さやの中山なかなかに逢ひ見てのちぞわびしかりける(後撰507)
(小夜の中山ではないが、苦労を越えてやっと逢えた人なのに、再び逢い難くなってしまい、かえって逢ってからの方がわびしさが増さることだ。)
題しらず
逢はずして今宵明けなば春の日の長くや人をつらしと思はむ(古今624) (逢えないままこの夜が明けたら、また春の永い一日が始まる――ちょうどその春の日のように長く、いつまでも、私は恋人を無情だと恨むだろう。)
命婦がもとにつかはしける
よそながら思ひしよりも夏の夜の見はてぬ夢ぞはかなかりける(新勅撰1378)
(逢わずに想っていた時よりも、夏の夜の見果てぬ夢(のような短い逢瀬)のほうが、儚かったのでした。)
兵部卿元良親王家歌合に
人恋ふる心は空になきものをいづくよりふる時雨なるらむ(続千載1540)
(人を恋する心は我が胸にあって空にあるのでないのに、どこから降ってくる時雨なのだろうか。)
雑 / 故右京の大夫宗于の君、なりいづべき程に我が身のえなりいでぬことを思うたまひける頃ほひ、亭子の帝に「紀の国より石つきたる海松(みる)をなむたてまつりける」を題にて、人々歌よみけるに、右京の大夫、
沖つ風ふけゐの浦に立つ浪の名残にさへや我はしづまむ(大和物語)
(沖つ風の吹く吹飯の浦に、波が立ち、退いてゆく――そのなごりの浅い水にさえ、私は沈んでしまうだろう。) 
 
29.凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね)  

 

心(こころ)あてに 折(お)らばや折(お)らむ 初霜(はつしも)の
置(お)きまどはせる 白菊(しらぎく)の花(はな)  
当てずっぽうで折るなら折ってみようか。初霜がおりて区別しにくくなっている白菊の花を。 / 当てずっぽうに折るのなら折ってみようか。初霜が一面に降りたために真っ白になって、どれが花やら霜やら見分けがつかなくなってしまっている白菊の花を。 / あてずっぽうに折ってみようかな。真っ白な初霜が一面に降りて、霜なのか白菊なのか、わからなくさせている白菊の花さん。 / 無造作に折ろうとすれば、果たして折れるだろうか。一面に降りた初霜の白さに、いずれが霜か白菊の花か見分けもつかないほどなのに。
○ 心あてに / 六音で字余り。「心あて」は、当てずっぽう・当て推量。「に」は、手段・方法の格助詞。「体言+格助詞“に”」で連用修飾格。「当てずっぽうで(〜する)」の意。
○ 折らばや折らむ / 「や」と「む」は、係り結び。「折らば」は、「動詞の未然形+接続助詞“ば”」で順接の仮定条件。「折るならば」の意。「や」は、疑問の係助詞。「む」は、意志の助動詞の連体形で「や」の結び。全体で、「もし折るならば、折ってみようか」の意。二句切れ。
○ 初霜の / 「初霜」は、その年の最初におりる霜。「の」は、主格の格助詞。
○ 置きまどはせる / 「まどはせ」は、動詞「まどはす」の命令形(已然形とする説もある)で、「まぎわらしくする」の意。「る」は、存続の助動詞「り」の連体形。(注)「る」は、動詞の活用語尾ではない。「置きまどはせる」で、白い初霜が白菊の花の上におりたため、初霜なのか白菊なのか区別しにくくなっていることを表す。 
1
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね、貞観元年(859年)? - 延長3年(925年)?)は、平安時代前期の歌人・官人。姓は宿禰。一説では淡路権掾・凡河内ェ利の子。官位は六位・和泉大掾。三十六歌仙の一人。
寛平6年(894年)甲斐権少目、延喜7年(907年)丹波権大目、延喜11年(911年)和泉権掾、延喜21年(921年)淡路権掾に任ぜられるなど、宇多朝から醍醐朝にかけて地方官を歴任。延長3年(925年)和泉国から帰京してまもなく没したという。歌人として、歌合や賀歌・屏風歌において活躍し、昌泰元年(898年)の「朱雀院女郎花合」に出詠して以降、延喜7年(907年)宇多法皇の大堰川行幸、延喜16年(916年)石山寺御幸、延喜21年(921年)春日社参詣などに供奉して和歌を詠進した。またこの間の延喜5年(905年)には、紀貫之・紀友則・壬生忠岑と共に『古今和歌集』の撰者に任じられている。三十六歌仙の一人に数えられ、『古今和歌集』(58首)以下の勅撰和歌集に194首入集するなど、宮廷歌人としての名声は高い。家集に『躬恒集』がある。
なお、広峯神社祠官家である広峯氏は躬恒の末裔を称した。

『大和物語』132段に、醍醐天皇に「なぜ月を弓張というのか」と問われ、即興で「照る月をゆみ張としもいふことは山の端さして入(射)ればなりけり(=照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)」と応じたという話がある。『無名抄』によると貫之・躬恒の優劣を問われた源俊頼は「躬恒をばなあなづらせ給ひそ(=躬恒をばかにしてはいけません)」と言ったという。
代表歌
心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花
てる月を 弓張とのみ いふことは 山の端さして いればなりけり
春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる
2
凡河内躬恒 生没年未詳
父祖等は不詳。凡河内(大河内)氏は河内地方の国造。寛平六年(894)二月、甲斐少目(または権少目)。その後、御厨子所に仕える。延喜七年(907)正月、丹波権大目。延喜十一年正月、和泉権掾。延喜二十一年正月、淡路掾(または権掾)。延長三年(925)、任国の和泉より帰京し、まもなく没したと推定される。歌人としては、昌泰元年(898)秋の亭子院女郎花合に出詠したのを始め、宇多法皇主催の歌合に多く詠進するなど活躍し、古今集の撰者にも任ぜられた。延喜七年九月、大井川行幸に参加。延喜十三年三月、亭子院歌合に参加。以後も多くの歌合に出詠し、また屏風歌などを請われて詠んでいる。古今集には紀貫之(九十九首)に次ぐ六十首を入集し、後世、貫之と併称された。貫之とは深い友情で結ばれていたことが知られる。三十六歌仙の一人。家集『躬恒集』がある。勅撰入集二百十四首。
春 / 雁かりの声を聞きて、越こしにまかりける人を思ひてよめる
春来れば雁かへるなり白雲の道ゆきぶりにことやつてまし(古今30)
(春が来たので、雁が帰って行くようだ。白雲の中の道を行くついでに、越の国の友に言伝(ことづて)をしたいものだが。)
月夜に梅の花を折りてと人のいひければ、折るとてよめる
月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞ知るべかりける(古今40)
(月の輝く夜には、月明かりが明るすぎて、はっきり見分けることも出来ません。梅の花は、香を探し訪ねてこそ、ありかを知ることができるものです。)
春の夜、梅の花をよめる
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる(古今41)
(春の夜の闇は美しい彩(あや)がなく、筋の通った考えがない。梅の花は、その色は確かに見えないけれども、香は隠れたりするものか。見せまいといくら隠したところで、ありかは知られてしまうのだ。)
題しらず
咲かざらむものとはなしに桜花おもかげにのみまだき見ゆらむ(拾遺1036)
(いつかは咲かないわけはないのに、桜の花があまり待ち遠しくて、面影にばかり、咲かないうちから見えるのだろう。)
桜の花の咲けりけるを見にまうで来たりける人に、よみておくりける
わが宿の花見がてらに来る人は散りなむのちぞ恋しかるべき(古今67)
(我が家の花を見るついでに私を訪ねる人は、散ってしまった後はもう来ないでしょうから、さぞかし恋しく思うでしょうねえ。)
延喜十五年二月十日、仰せ言によりて奉れる、和泉の大将四十の賀の屏風四帖、内よりはじめて、尚侍ないしのかみの殿にたまふ歌
山たかみ雲居にみゆる桜花こころのゆきてをらぬ日ぞなき(躬恒集)
(山が高いので空に咲いているかのように見える桜の花よ。心だけはそこまで行って手折らぬ日とてないのだぞ。)

我が心春の山べにあくがれてながながし日を今日も暮らしつ(亭子院歌合)
(私の心は桜の咲く春の山に誘われ、さまよい出てしまったまま、長い長い一日を今日も暮らしてしまった。)
題しらず
いもやすく寝られざりけり春の夜は花の散るのみ夢に見えつつ(新古106)
(ぐっすりとは寝られないものだなあ。春の夜は、花が散るのばかり繰り返し夢に見て。)
さくらのちるをよめる
雪とのみ降るだにあるを桜花いかに散れとか風の吹くらむ(古今86)
(ただもう雪が降るように散っているのに、このうえ桜の花がどういうふうに散れということで風が吹くのだろうか。)
うつろへる花をみてよめる
花見れば心さへにぞうつりける色には出でじ人もこそ知れ(古今104)
(散りゆく花を見ていると、心までもが移り気になってしまうよ。しかし顔色には出すまい。恋人に気づかれたら大変だ。)
鶯の花の木にてなくをよめる
しるしなき音ねをも鳴くかな鶯の今年のみ散る花ならなくに(古今110)
(何の効果もないのに鶯が声あげて啼くことだ。今年だけ散る花でもないのに。)
題しらず
なくとても花やはとまるはかなくも暮れゆく春のうぐひすの声(続後撰149)
(啼いたとて、花は散るのを止めてくれるだろうか。甲斐もなく暮れてゆく春の、鶯の声は――。)
題しらず
おきふして惜しむかひなくうつつにも夢にも花の散る夜なりけり(金葉初度本98)
(起きても寝ても惜しむ甲斐は一向になく、夢の中でさえ花が散る夜であったよ。)
花のちるをみてよめる
桜花ちりぬるときは見もはてでさめぬる夢の心地こそすれ(金葉初度本105)
(桜の花が散ってしまった時は、見終わらないうちに覚めてしまった夢のような気持がすることだ。)
家に藤の花さけりけるを、人のたちとまりて見けるをよめる
わが宿に咲ける藤波たちかへり過ぎがてにのみ人の見るらむ(古今120)
(私の屋敷に咲いた藤の花を、引き返して引き返ししては、通り過ぎにくそうに人が見ているようだ。)
やよひのつごもりの日、花つみよりかへりける女どもを見てよめる
とどむべき物とはなしにはかなくも散る花ごとにたぐふ心か(古今132)
(止められるものではないのに、はなかく散る花びらの一ひら一ひらに寄り添うように愛惜する我が心であるよ。)
やよひのつごもり
暮れてまた明日とだになき春の日を花の影にてけふは暮らさむ(後撰145)
(日が暮れてしまったら、もう春の日は明日さえないのだ。だから今日は思う存分、桜の花の陰で暮らそう。)
亭子院の歌合のはるのはてのうた
けふのみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花のかげかは(古今134)
(今日で春は終りと思わない時でさえ、この美しい花のかげから、たやすく立ち去るなどできようか。)
夏 / 題しらず
手もふれで惜しむかひなく藤の花そこにうつれば波ぞ折りける(拾遺87)
(手も触れずに散るのを惜しんだ甲斐もなく、藤の花は水に映ると、波が折ってしまった。)
貞文(さだふん)が家の歌合に
郭公をちかへりなけうなゐ子がうちたれ髪のさみだれの空(拾遺116)
(ほととぎすよ、繰り返し鳴け。幼な子の髫(うない)の垂れ髪が乱れているように降る五月雨の空に。)
郭公のなきけるをききてよめる
ほととぎす我とはなしに卯の花のうき世の中になきわたるらむ(古今164)
(ほととぎすは、私ではないのに、私と同じ様に、憂き世にあって啼き続けるのだろうか。)
隣より、とこなつの花を乞ひにおこせたりければ、をしみてこの歌をよみてつかはしける
塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹とわがぬるとこ夏の花(古今167)
(寝床と同じ様に、塵ひとつ置かないように思っているのですよ、咲いてからずっと。妻と私が一緒に寝る床――その「とこ」という名を持つ「とこなつ」の花を。それほど大切にしている花なのですから、どうぞお宅でも大事にして下さい。)
みな月のつごもりの日よめる
夏と秋と行きかふ空のかよひ路はかたへすずしき風や吹くらむ(古今168)
(去りゆく夏と訪れる秋が行き違う空の通り路では、片方にだけ涼しい風が吹いているのだろうか。)

我がせこが衣のすそを吹きかへしうらめづらしき秋の初風(躬恒集)
(私の夫の衣の裾を吹いて翻し、裾裏を見せる――その「心(うら)」ではないが、心惹かれる秋の初風よ。)
七日なぬかの日の夜よめる
たなばたにかしつる糸のうちはへて年の緒ながく恋ひやわたらむ(古今180)
(七月七日には機織(はたおり)の上達を願って織女星に糸をお供えするけれども、その糸のように長く延ばして、何年も何年も私はあの人を恋し続けるのだろうか。)
雁のなきけるをききてよめる
憂きことを思ひつらねて雁がねのなきこそわたれ秋の夜な夜な(古今213)
(雁どもが啼いている――私と同様、辛いことをいくつも思い並べて、鳴いて渡るのだ、秋の夜な夜な。)
昔あひしりて侍りける人の、秋の野にあひて、ものがたりしけるついでによめる
秋萩のふるえにさける花見れば本の心は忘れざりけり(古今219)
(秋萩の去年の古い枝に咲いた花を見ると、花ももとの心を忘れなかったのだなあ。)
内侍のかみの右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、四季の絵かけるうしろの屏風にかきたりける歌

住の江の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白波(古今360)
(住の江の松を秋風が吹くにつれて、その松風の声に唱和するかのような沖の白波よ。)
清涼殿の南のつまに、みかは水ながれいでたり、その前栽に松浦沙あり、延喜九年九月十三日に賀せしめたまふ、題に月にのりてささら水をもてあそぶ、詩歌こころにまかす
ももしきの大宮ながら八十島やそしまを見るここちする秋の夜の月(躬恒集)
(大宮にいながらにして、たくさんの島を見渡せるような心地がする、秋の夜の月よ。)
題しらず
秋の野をわけゆく露にうつりつつ我が衣手は花の香ぞする(新古335)
(秋の野を分けて行くと、露がふりかかり――その露に繰り返し匂いが移って、私の袖は花の香がすることだ。)
白菊の花をよめる
心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花(古今277)
(当て推量に、折れるものならば折ってみようか。草葉に置いた初霜が見分け難くしている白菊の花を。)
池のほとりにて、もみぢのちるをよめる
風吹けば落つるもみぢ葉水きよみ散らぬ影さへ底に見えつつ(古今304)
(風が吹くたびに落ちる紅葉――水が澄んでいるので、まだ散らずに残っている葉の姿までも底に映りながら。)
長月のつごもりの日よめる
道しらばたづねもゆかむもみぢ葉を幣ぬさとたむけて秋は去いにけり(古今313)
(どの道を通るのか知っていたら、追ってもゆこうものを。散り乱れる紅葉を幣として手向けながら、秋は去ってしまうよ。)
冬 / 雪のふれるをみてよめる
雪ふりて人もかよはぬ道なれやあとはかもなく思ひ消ゆらむ(古今329)
(雪が降り積もって、道は人も通わなくなったのだなあ。誰一人訪ねて来ず、このままでは寂しさに跡形もなく私の心は消えてしまうことだろう。)
恋 / 題しらず
初雁のはつかに声を聞きしよりなかぞらにのみ物を思ふかな(古今481)
(初雁の声を耳にするように、あの人の声をほのかに聞いてからというもの、うわの空で物思いをしてばかりいるよ。)
題しらず
雲ゐより遠山鳥のなきてゆく声ほのかなる恋もするかな(新古1415)
(空の高みを通って、遠くの山の山鳥が鳴いてゆく――その声をほのかに聞くように、遠くから僅かに声を聞くばかりの恋をすることだよ。)
題しらず
秋霧のはるる時なき心には立ちゐの空も思ほえなくに(古今580)
(秋霧のように鬱々とした思いが常に立ち込め、晴れることのない私の心は、立ったり座ったりするのも気づかないほど上の空であるよ。)
題しらず
ひとりして物を思へば秋の夜の稲葉のそよといふ人のなき(古今584)
(秋の夜、独りで物思いに耽っていると、風が稲葉をそよがせる音が心にしみて聞える――その「そよ」ではないが、そんな時、私の思いに共感して声をかけてくれる人がいないのが辛い。)
題しらず
夏虫をなにか言ひけむ心から我も思ひにもえぬべらなり(古今600)
(夏の虫のことを何でまたあげつらったのだろう。私もまた、自分の心から恋の思いに燃えてしまうだろうに。)
題しらず
君をのみ思ひ寝にねし夢なれば我が心から見つるなりけり(古今608)
(あなたのことばかり思いながら寝入って見た夢だから、私の心が原因で見た夢だったのだなあ。)
うつつにも夢にも人に夜し逢へば暮れゆくばかり嬉しきはなし(亭子院歌合)
(現実でも夢でも恋人とは夜に逢うので、日が暮れて行くことほど嬉しいことはない。)
題しらず
わが恋はゆくへも知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ(古今611)
(この恋は、行方もわからず、果ても知らない。いったいどこに辿り着くというのだろう。ただこれだけは言える、今はただ、あの人と逢うことが終着点と思うばかりなのだ。)
題しらず
長しとも思ひぞはてぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば(古今636)
(必ずしも長いとは思い決めないよ。昔から、逢う人によって決まる秋の夜の長さなのだから。)
題しらず
わがごとく我を思はむ人もがなさてもや憂きと世をこころみむ(古今750)
(私が相手を思うように私を思ってくれる人がいてほしい。それでも人と人の仲は厭わしいものかと試してみたい。)
おなじ所に宮仕へし侍りて常に見ならしける女につかはしける
伊勢の海に塩焼く海人の藤衣なるとはすれど逢はぬ君かな(後撰744)
(伊勢の海で塩を焼く海人の粗末な衣がくたくたに褻(な)れているように、見慣れてはいるけれど逢瀬は遂げていないあなたですよ。)
恋歌の中に
五月雨のたそかれ時の月かげのおぼろけにやはわれ人を待つ(玉葉1397)
(梅雨の頃の黄昏時の月の光がよくぼんやりしているように、ぼんやりと好い加減な気持で私があなたを待っているとでもお思いですか。)
雑 / 越の国へまかりける人によみてつかはしける
よそにのみ恋ひやわたらむしら山の雪見るべくもあらぬわが身は(古今383)
(遠くからずっと恋い慕ってばかりいるのでしょうか。白山の雪を見に行くすべもない私は。)
甲斐の国へまかりける時に、道にてよめる
夜をさむみ置く初霜をはらひつつ草の枕にあまたたび寝ぬ(古今416)
(夜はひどく冷え込み、草葉に初霜が置く――その霜を払いながら、草を枕に何度も目覚めてはまた寝たことだ。)
母がおもひにてよめる
神な月しぐれにぬるるもみぢ葉はただわび人のたもとなりけり(古今840)
(神無月の時雨に濡れる紅葉の色は、嘆き悲しむ私の血の涙に染まった袖の色そのままです。)
題しらず
見る人にいかにせよとか月影のまだ宵のまに高くなりゆく(玉葉2158)
(見る人にどうしろというのだろうか、まだ日暮れて間もないうちから、月がどんどん高くなってゆく。)
延喜御時、御厨子所にさぶらひけるころ、沈めるよしを歎きて、御覧ぜさせよとおぼしくて、ある蔵人に贈りて侍りける十二首がうち
いづことも春の光はわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる(後撰19)
(どこでも春の光は分け隔てなく射すはずですのに、この吉野山ではまだ雪が降っております。)
物思ひける時、いときなき子を見てよめる
今更になにおひいづらむ竹の子のうきふししげき世とは知らずや(古今957)
(不憫な我が子よ、今更どうして成長してゆくのか。竹の子の節ではないが、辛い折節の多い世とは知らないのか。)
友だちの久しうまうでこざりけるもとに、よみてつかはしける
水のおもにおふる五月の浮き草の憂きことあれやねをたえてこぬ(古今976)
(水面に生えている五月の浮草ではないが、憂きことがあるのだろうか、まるで浮草の根が切れたようにぷっつりとあなたの音信も絶えた。)
淡路のまつりごと人の任果てて上りまうで来ての頃、兼輔朝臣の粟田の家にて
ひきてうゑし人はむべこそ老いにけれ松のこだかくなりにけるかな(後撰1107)
(小松を引き抜いて植えた人が年老いたのも無理はありません。その松がこれほど高くなるまで育ったのですから。)
法皇西河におはしましたりける日、猿山の峡に叫ぶといふことを題にてよませ給うける
わびしらに猿ましらななきそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ(古今1067)
(物悲しげに哭くな、猿よ。おまえの棲む山に峡(かい)があるように、甲斐のある今日ではないか。) 
 
30.壬生忠岑 (みぶのただみね)  

 

有明(ありあけ)の つれなく見(み)えし 別(わか)れより
暁(あかつき)ばかり 憂(う)きものはなし  
有明の月がつれなく見えた。薄情に思えた別れの時から、夜明け前ほど憂鬱なものはない。 / 明け方の月が冷ややかに、そっけなく空に残っていたように、あなたが冷たく見えたあの別れ以来、夜明けほどつらく思えるものはありません。 / 夜明け前の有明の月が、明け方の空にそっけなく光っていたときの、あなたとの冷たくそっけない別れの日以来、夜明けの暁ほど、わたしにとって切なくて辛いものはありません。 / あなたと別れたあの時も、有明の月が残っていましたが、(別れの時のあなたはその有明の月のようにつれないものでしたが) あなたと別れてからというもの、今でも有明の月がかかる夜明けほどつらいものはありません。
○ 有明の / 「有明」は、陰暦で、16日以後月末にかけて、月が欠けるとともに月の入りが遅くなり、空に月が残ったまま夜が明けること。また、その月。「の」は、主格(連体修飾格という説もある)の格助詞。
○ つれなく見えし / 「つれなく」は、「冷淡だ・無情だ・平気だ」の意。何がつれないのかは、「女」「月」「両方」の三説がある。「し」は、体験回想を表す過去の助動詞「き」の連体形。
○ 別れより / この場合の「別れ」には、後朝(きぬぎぬ)の別れ、すなわち、共寝をして帰る朝の別れと女にふられて何もできなかった朝の別れの二説がある。「より」は、起点を表す格助詞。「〜の時から」の意。
○ あかつきばかり / 「あかつき(暁)」は、「明時(あかとき)」の転で、夜明け前の暗い状況。暁→曙(あけぼの)・東雲(しののめ)→朝ぼらけの順で明るくなる。「ばかり」は、程度の副助詞で、「〜ほど」の意。
○ 憂きものはなし / 「憂き」は、形容詞「憂し」の連体形で、「つらい・憂鬱だ」の意。  
1
壬生忠岑(みぶのただみね)は、平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。
甲斐国造家の壬生直の一族で、従五位下・壬生安綱の子、あるいはある木工允・壬生忠衡子の説があるが、『三十六人歌仙伝』では「先祖不見」とあり、『歌仙伝』の方が古体であることを考慮すれば、不明であるとするのが穏当とされる。子におなじく三十六歌仙の一人である壬生忠見がいる。
身分の低い下級武官であったが、歌人としては一流と賞されており、『古今和歌集』の撰者として抜擢された。官人としては、定外膳部、六位・摂津権大目に叙せられたことが『古今和歌集目録』にみえるが、『歌仙伝』『忠見集』などの記載によれば、これらの官職についたのは息子の忠見であったらしく、『目録』の記載は疑わしいとされる。確実なのは『古今和歌集』「仮名序」をはじめ、諸史料にみえる右衛門府生への任官だけである。また、『大和物語』によると藤原定国の随身であったという。
後世、藤原定家、藤原家隆から『古今和歌集』の和歌の中でも秀逸であると作風を評価されている。藤原公任の著した『和歌九品』では、上品上という最高位の例歌として忠岑の歌があげられている。『拾遺和歌集』の巻頭歌にも撰ばれ、通常は天皇や皇族の歌を置いて儀礼的意義を高める勅撰集の巻頭歌に忠岑の歌が撰ばれたのは、彼の評価がそれだけ高かったからと言える。また、歌学書として『和歌十種』を著したとされるが、近時は10世紀後半以降、『拾遺和歌集』成立の頃に忠岑に仮託されて作られたものとみる説が有力である。『古今和歌集』(34首)以下の勅撰和歌集に81首が入首。家集『忠岑集』を残している。
代表歌
春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みてけさは見ゆらむ (拾遺・巻頭歌)
風吹けば峰にわかるる白雲の絶えてつれなき君が心か (古今・恋二・601)
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし (古今・恋三・625)
春日野の雪間を分けて生き出てくる草のはつかに見えし君はも (古今和歌集巻十一、今昔秀歌百撰) 
2
壬生忠岑 生没年未詳
忠峯、忠峰などとも書く。父は散位安綱。子に忠見がいる。身分の低い武官の出身だったらしく、若い頃は六衛府の下官を歴任。左兵衛番長を経て、延喜初年頃、右衛門府生。その後、御厨子所預などを経て、摂津権大目。『古今和歌集目録』は最終官位を六位とするが、官歴からして位が高すぎると疑問視する説もある。また『大和物語』百二十五段には、藤原定国(醍醐天皇生母である胤子の弟で、大納言右大将に至る)の随身だったと見える。歌人としては、寛平年間から活躍が見え、是貞親王家歌合や、五年(893)の后宮歌合などに参加。延喜七年(907)、宇多法皇の大井川行幸に献歌。古今集撰者。家集『忠岑集』がある。また歌論書『和歌体十種』の序に忠岑の撰とあるが、偽作説が有力である。三十六歌仙の一人。勅撰入集計八十四首。
春 / 平貞文が家の歌合に詠み侍りける
春たつといふばかりにやみ吉野の山もかすみて今朝は見ゆらむ(拾遺1)
(春になったと、そう思うだけで、山深い吉野山もぼんやりと霞んでいかにも春めいて今朝は見えるのだろうか。)
春のはじめの歌
春来ぬと人はいへども鶯の鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ(古今11)
(春が来たと世間の人は言うけれども、鶯が鳴かないうちは、まだ春ではあるまいと私は思うよ。)
平貞文が家の歌合に
春はなほ我にてしりぬ花ざかり心のどけき人はあらじな(拾遺43)
(春という季節はやはりそうなのだと、我が身を顧みて知ったよ。花盛りの時に、心のどかでいる人などあるまいよなあ。)
夏 / 寛平御時きさいの宮の歌合の歌
暮るるかと見れば明けぬる夏の夜をあかずとやなく山郭公(古今157)
(日が暮れたかと見れば、たちまち明けてしまう夏の夜――その短さを不満だと鳴くのか、山ほととぎすよ。)
はやく住みける所にて時鳥の啼けるを聞きてよめる
むかしべや今も恋しき時鳥ふるさとにしも啼きて来つらむ(古今163)
(昔が今も恋しいのか、ほととぎすよ。それでおまえは馴染みの古里に啼きながらやって来たのだろう。)
題しらず
夢よりもはかなきものは夏の夜の暁がたの別れなりけり(後撰170)
(夢での逢瀬もはかないけれど、もっと果敢なく辛いもの――それは夏の短か夜が明けようとする頃の、恋人との別れであったよ。)
右大将定国四十の賀に内より屏風調てうじてたまひけるに
おほあらきの森の下草しげりあひて深くも夏のなりにけるかな(拾遺136)
(「老いぬれば」と歌われた大荒木の森の下草だが、今は盛んに茂り合って、草深くなっている。そのように、夏も深まったことだなあ。)
延喜御時、月次屏風に
夏はつる扇あふぎと秋の白露といづれかまづは置かむとすらむ(新古283)
(夏が終わって扇を置き捨てるのと、秋の白露が草葉の上に置くのと、どちらが先になるのだろうか。)
秋 / 是貞のみこの家の歌合によめる
久方の月の桂も秋はなほ紅葉すればやてりまさるらむ(古今194)
(月に生えている桂の木も、秋はやはり紅葉するので、このようにいっそう照り輝くのだろう。)
是貞のみこの家の歌合の歌
山里は秋こそことにわびしけれ鹿のなくねに目をさましつつ(古今214)
(山里は秋こそが取り分け侘びしいよ。鹿の鳴く声に毎朝目を覚まして。)
是貞のみこの家の歌合に
松のねに風のしらべをまかせては龍田姫こそ秋はひくらし(後撰265)
(松がたてる音に風の奏でる曲調を任せて、秋という季節には龍田姫が琴を弾くらしい。)
朱雀院の女郎花合によみてたてまつりける
人の見ることやくるしきをみなへし秋霧にのみたちかくるらむ(古今235)
(人に見られることが辛いのだろうか。女郎花は、秋の霧に隠れてばかりいる。)
是貞のみこの家の歌合によめる
秋の夜の露をば露とおきながら雁の涙や野べをそむらん(古今258)
(鮮やかに色づいた野辺の草木を見れば、秋の夜の露を露として置いているものの、そのためにこれ程紅くなったとは見えない。とすれば、空を渡る雁の涙が落ちて、紅く染めるのであろうか。)
是貞のみこの家の歌合の歌
山田もる秋のかりいほにおく露はいなおほせ鳥の涙なりけり(古今306)
(山裾の田を見張る秋の仮庵に置いている露は、稲負鳥(いなおほせどり)の涙であったよ。)
右大将定国の家の屏風に
千鳥鳴く佐保の川霧たちぬらし山の木の葉も色かはりゆく(拾遺186)
(千鳥の鳴く佐保川の川霧が立ちのぼったらしい。周囲の山々の木の葉も色が変わってゆく。)
冬 / 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 (二首)
み吉野の山の白雪ふみわけて入りにし人のおとづれもせぬ(古今327)
(積もった白雪を踏み分けて吉野の山深く入って行った人が、その後は便りも寄越さない。)
しら雪のふりてつもれる山里はすむ人さへや思ひきゆらむ(古今328)
(白雪が降り積もった山里は、心が沈んでゆくようで、住む人さえも思いの火が消えるのであろうか。)
恋 / 春日のまつりにまかれりける時に、物見にいでたりける女のもとに、家をたづねてつかはせりける
春日野の雪まをわけておひいでくる草のはつかに見えし君はも(古今478)
(春日野の雪の間を分けて芽生え、育ってくる草のように、ほんのちょっとだけ見えたあなたですことよ。)
寛平御時きさいの宮の歌合の歌
かきくらしふる白雪の下ぎえにきえて物思ふころにもあるかな(古今566)
(空をかき曇らせて降り、盛んに地面に積もる雪が、下の方から融けて消えてゆくように、心の底では消え入りそうな思いをしながら過ごしているこの頃であるよ。)
題しらず
秋風にかきなす琴の声にさへはかなく人の恋しかるらむ(古今586)
(秋風の吹く中、どこかでかき鳴らす琴の音が聞こえただけで、あの人が恋しくなるのだ。むなしいと分かっているのに、どうしてなのだろう。)
題しらず (二首)
風吹けば峯にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か(古今601)
(風が吹いた途端、峰から離れてゆく白雲のように、全く素っ気もないあなたの心であるよ。)
月かげにわが身をかふる物ならばつれなき人もあはれとや見む(古今602)
(誰しも月を賞美するから、月に我が身を変えることができるならば、無情なあの人もいとしいと思って私を見てくれるだろうか。)
題しらず
命にもまさりて惜しくあるものは見はてぬ夢のさむるなりけり(古今609)
(命にもまさって惜しいのは、すっかり見終わらないうちに夢が覚めてしまうことであったのだなあ。)
〔題欠〕
わが玉を君が心に入れかへて思ふとだににも知らせてしがな(忠岑集)
(私の魂をあなたの心に入れ替えて、恋しく思っていることだけでも知らせたい。)
〔題欠〕
日暮るれば山のは出づる夕づつの星とは見れどはるけきやなぞ(忠岑集)
(日が暮れると山の端から現れる宵の明星――その「ほし」ではないが、「欲し」とあなたを見るけれど、遥かに遠いのは何故か。)
題しらず
有明のつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし(古今625)
(有明の月が、夜の明けたのも知らぬげにしらじらと空に残っていた、あの別れ以来、暁ほど厭わしいものはなくなった。)
題しらず
思ふてふことをぞねたく古ふるしける君にのみこそ言ふべかりけれ(後撰741)
(「思う」という詞を、悔しいことに、使い古してしまいました。あなたにだけ言うべきでしたのに。)
題しらず
もろくともいざしら露に身をなして君があたりの草にきえなむ(新勅撰883)
(もろい命であろうと知ったものか。さあ白露にわが身をなして、あなたの近くの草の上で消えたいよ。)
哀傷 / あひしれりける人の身まかりにける時によめる
ぬるがうちに見るをのみやは夢といはむ儚き世をもうつつとはみず(古今835)
(寝ている間に見る物ばかりを夢と言おうか。いや、はかないこの世にしたところで、現実とは思えないのだ。)
あねの身まかりにける時によめる
瀬をせけば淵となりてもよどみけり別れをとむるしがらみぞなき(古今836)
(瀬の流れを塞き止めると、淵となって淀みができます。しかし、この永遠の別れを止める柵などありません。)
紀友則が身まかりにける時よめる
時しもあれ秋やは人のわかるべきあるを見るだに恋しきものを(古今839)
(時もあろうに、秋に人と別れるなんて、そんなことがあってよいものだろうか。生きている姿を見ているだけでも、恋しいものなのに。)
ちちがおもひにてよめる
ふぢ衣はつるる糸はわび人の涙の玉の緒とぞなりける(古今841)
(喪服のほつれた糸は、悲しみに心を乱す人の涙を貫きとめる緒となったことです。)
おもひに侍りける人をとぶらひにまかりてよめる
墨染の君がたもとは雲なれやたえず涙の雨とのみふる(古今843)
(薄墨色のあなたの袂は雲でしょうか。絶えず涙が雨のごとくに降っています。)
雑 / 題しらず
東路のさやの中山さやかにもみえぬ雲ゐに世をやつくさむ(新古907)
(東国への道中にある佐夜の中山――その頂のはっきりと見えない雲の中で一生を終えるのだろうか。)
題しらず
君が代にあふさか山の岩清水こがくれたりと思ひけるかな(古今1004)
(めでたい我が君の代に逢っているのに、逢坂山の岩清水が木隠れているように、卑しい身分のまま世間に埋もれている我が身と思うことです。) 
3
「一目ぼれ」の歌
平安時代の男性は、めったに女性の姿を見ることがなかったと言われています。では、そんな彼らが、何らかのきっかけで女性の姿を見て一目ぼれしたとしたら、いったどんな和歌を詠むのでしょうか? 最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を開いてみると
  春日野の雪間をわけておひいでくる草のはつかに見えし君はも
  山ざくら霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ
といった和歌を見つけることができます。最初の和歌は壬生忠岑、次の和歌は紀貫之の作です。これらは、「春日野の雪間をわけておひいでくる草のはつかに見えし」(春日野の雪の間をわけて伸び出してきた若草がちらりと見えた)「山ざくら霞の間よりほのかにも見てし」(山桜を霞の間からちらりと見た)というように、まずは自然の情景を述べるところから詠み始めています。そして、「はつかに見えし」「ほのかにも見てし」というところから一転して、「はつかに見えし君はも」(ちらりと見えたあなたであることよ)「ほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ」(ちらりと見たあなたのことが今も恋しい)と収めています。つまり、自然の映像を利用しながら、相手をちらっと見たことを表現しているわけです。すると、どうやら、歌のポイントは「ちらっと感」にあるということになりそうですね。一目ぼれの歌なのですから、いかに「ちらっと」あなたのことを見たのかを訴えているわけです。
似たような作り方をした歌は『万葉集』にも見つけることができます。「朝霧のおほに相見し人ゆゑに命死ぬべく恋ひ渡るかも」「夕月夜暁闇のおほほしく見し人ゆゑに恋ひ渡るかも」などがそれですが、これらでも「朝霧のおほに」「夕月夜暁闇のおほほしく」は、相手の姿をぼんやりとしか見られなかったことを自然の映像を利用して表現する機能を担っています。しかし、これらと比べてみると、忠岑や貫之の歌の更なる工夫が見えてきます。実は詞書によると、忠岑の歌は春日祭に出かけた時に姿を見た女性に、貫之の歌は花摘みをしていた女性に贈ったものだったのです。つまり、「春日野の雪間をわけておひいでくる草のはつかに見えし」「山ざくら霞の間よりほのかにも見てし」という自然の情景は、単に「ちらっと感」を表現するだけでなく、一目ぼれの現場を想像させる効果もあった、言い換えれば相手の女性をそれぞれ「(春日でちらっと見えた)草」「(霞の間からちらっと見た)山桜」にたとえてもいたということになります。
すると、こういうことになりそうです。忠岑や貫之は、万葉以来の歌の型を踏まえながら、その自然表現に更なる工夫をこらし、「ちらっと感」のみならず、一目ぼれした現場感をも表現しようとした、と。
実は在原業平は、これらの伝統を根底から覆すような「一目ぼれ」の和歌を詠んでいるのですが、その分析はみなさんにお任せすることにしましょう。 
 
31.坂上是則 (さかのうえのこれのり)  

 

朝(あさ)ぼらけ 有明(ありあけ)の月(つき)と 見(み)るまでに
吉野(よしの)の里(さと)に 降(ふ)れる白雪(しらゆき)  
夜がほのかに明けるころ、有明の月かと思うほどに、吉野の里に降っている白雪であることよ。 / ほのぼのと夜が明けるころ、明け方の月が照らしているのかと見間違えるほどに、吉野の里に白く降り積もっている雪であることよ。 / ほのぼのと夜が明けていくころ、外を眺めると、有明の月の光かと思うほどに、吉野の里(現在の奈良県南部)に真っ白な雪が降りつもっているなぁ。 / 夜が明ける頃あたりを見てみると、まるで有明の月が照らしているのかと思うほどに、吉野の里には白雪が降り積もっているではないか。
○ 朝ぼらけ / 夜が明けて、ほのぼのと明るくなる時分。暁(あかつき)→曙(あけぼの)・東雲(しののめ)→朝ぼらけの順で明るくなる。
○ 有明の月 / 「有明」は、陰暦で、16日以後月末にかけて、月が欠けるとともに月の入りが遅くなり、空に月が残ったまま夜が明けること。「有明の月」は、その状態で出ている月。
○ 見るまでに ―「見る」は、「思う」の意。実際に「有明の月」を見ているわけではない。「まで」は、程度を表す副助詞。「〜ほど・くらい」の意。雪の白さを「有明の月かと思うほど」という表現で強調している。
○ 吉野 ―大和(奈良県)の南部。山間部で雪が多い。
○ ふれる白雪 / 「ふれ」は、動詞「降(ふ)る」の命令形。「る」は、存続の助動詞「り」の連体形。「降っている」の意。(注)「降(ふ)れ+る」であり、「ふれる(降れる・触れる・振れる)」で一語の動詞ではない。  
1
坂上是則(さかのうえのこれのり、生年不詳 - 延長8年(930年))は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。右馬頭・坂上好蔭の子。子に望城がいる。官位は従五位下・加賀介。三十六歌仙の一人。
延喜8年(908年)大和権少掾次いで大和大掾に任ぜられる。延喜12年(912年)少監物に転ずると、中監物・少内記を経て、延喜21年(921年)大内記と醍醐朝中期は京官を歴任した。延長2年(924年)従五位下・加賀介に叙任され、再び地方官に転じている。延長8年(930年)卒去。
「寛平后宮歌合」や「大井川行幸和歌」など、宇多朝から醍醐朝にかけての和歌行事に度々進詠し、『古今和歌集』の撰者らに次ぐ歌人であった。『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に39首が入集。家集に『是則集』がある。また、蹴鞠に秀でていたらしく、延喜5年(905年)3月2日に宮中の仁寿殿において醍醐天皇の御前で蹴鞠が行われ、そのとき206回まで続けて蹴って一度も落とさなかったので、天皇はことのほか称賛して絹を与えたという。
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪(『古今和歌集』、小倉百人一首) 
2
坂上是則 生没年未詳
「坂上系図」(続群書類従)によれば征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫で、従四位上右馬頭好蔭の子。後撰集の撰者望城の父。延喜八年(908)、大和権少掾。のち大和権掾・少監物・中監物・少内記・大内記をへて、延長二年(924)正月、従五位下に叙せられ加賀介に任ぜられた。寛平五年(893)頃の后宮歌合をはじめ、延喜七年(907)の大井川行幸、同十三年の亭子院歌合など晴の舞台で活躍した。蹴鞠の名手でもあったという。三十六歌仙の一人。定家の百人一首にも歌を採られている。家集『是則集』がある。古今集初出。勅撰入集四十三首。
春 / 前栽に、竹の中に桜の咲きたるをみて
桜花けふよく見てむ呉竹のひとよのほどに散りもこそすれ(後撰54)
(竹叢の中に咲いている桜の花を今日よく見ておこう。竹の一節(ひとよ)ではないが、たった一夜のうちに散ってしまうこともあるから。)
亭子院の歌合に
花の色をうつしとどめよ鏡山春よりのちの影や見ゆると(拾遺73)
(その名のごとく、花の色を山腹に写して留めよ、鏡山。春が去ったのち、面影が見えるかと思うので。)
延喜十三年亭子院歌合歌
水底みなそこにしづめる花のかげ見れば春はふかくもなりにけるかな(続古今159)
(水底に沈んでいる花びらの姿を見れば、春という季節もすっかり深まったのだなあ。)
夏 / 女四のみこの家歌合に
山がつと人は言へどもほととぎすまつ初声は我のみぞ聞く(拾遺103)
(山人と言って都の人たちは卑しむけれども、皆が待望する時鳥の初音は真っ先に私が独り占めにして聞くことだ。)
秋 / 屏風の絵によみあはせてかきける
かりてほす山田の稲のこきたれてなきこそわたれ秋の憂ければ(古今932)
(刈って干した山田の稲をしごくと、籾がこぼれ落ちる――その「扱き垂れ」ではないが、雁がぽろぽろ涙を垂らしながら、ほら啼いて渡るよ、秋という季節は悲しいので。)
題しらず
うらがるる浅茅が原のかるかやのみだれて物を思ふ頃かな(新古345)
(葉先が枯れた浅茅の生える原――その萱が秋風に乱れるように、心乱れて物思いをするこの頃であるよ。)
題しらず
いく千里ちさとある道なれや秋ごとに雲ゐを旅と雁のなくらむ(新拾遺498)
(幾千里ある道なのだろうか。秋になるたび、空を旅路として雁が啼くことよ。)
秋の歌とてよめる
佐保山のははその色はうすけれど秋はふかくもなりにけるかな(古今267)
(佐保山の雑木林の葉がうっすらと色づいた――その色は薄いのだけれど、秋という季節はすっかり深まったことであるよ。)
龍田河のほとりにてよめる
もみぢ葉のながれざりせば龍田川水の秋をばたれかしらまし(古今302)
(紅葉した葉が流れないとしたら、龍田川の水にも秋という季節があることを誰が知ろうか。)
延喜の御時の菊合に
わぎもこがひもゆふぐれの菊なればあかずぞ花の色はみえける(続後拾遺385)
(夕暮の光に映える菊なので、見飽きることもないほど花の色は美しく見えるよ。)
冬 / 奈良の京にまかれりける時に、やどれりける所にてよめる
み吉野の山の白雪つもるらし古里さむくなりまさるなり(古今325)
(吉野の山では雪が積もっているに違いない。奈良の古京ではますます寒さが厳しくなってゆくのを感じる。)
大和の国にまかれりける時に、雪のふりけるをみてよめる
朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪(古今332)
(夜がほのぼのと明ける頃、有明の月の光かと見えるほど、吉野の里にしらじらと降り積もった白雪よ。)
恋 / 題しらず
わたの底かづきてしらむ君がため思ふ心のふかさくらべに(後撰745)
(海の底に潜って確かめよう。私があなたのことを思う心がどれほど深いか、その深さを海と比較しに。)
題しらず
わが恋にくらぶの山のさくら花まなくちるとも数はまさらじ(古今590)
(私の恋にくらぶの山の桜の花を較べれば、花が絶えず散ったところで、私があの人を恋しく思う回数には勝るまい。)
題しらず
をしかふす夏野の草の道をなみしげき恋路にまどふ頃かな(新古1069)
(牡鹿が臥す夏野は草が茂って道がないように、物思いの絶えない恋の道に惑うこの頃であるよ。)
題しらず
かつきえぬ涙が磯のあはびゆゑ海てふ海はかづきつくしつ(是則集)
(途切れることのない涙に濡れる片思いのために、海という海は潜り尽くしたと言えるほどだ。)
題しらず
恋しさの限りだにある世なりせば年へて物は思はざらまし(続古今1306)
(せめて恋しさに限りのあるこの世であったなら、これほど何年にもわたって思い悩むことはないだろうに。)
題しらず
逢ふことを長柄の橋のながらへて恋ひわたるまに年ぞへにける(古今826)
(逢うことがないまま、長柄の橋のように生き長らえて、恋し続けるうちに年を経てしまったよ。)
あひて後あひがたき女に
霧ふかき秋の野中の忘れ水たえまがちなる頃にもあるかな(新古1211)
(霧が深く立ちこめた秋の野を流れる忘れ水のように、あの人との仲が途絶えがちなこの頃であるよ。)
人のもとより帰りまで来てつかはしける
逢ひ見てはなぐさむやとぞ思ひしになごりしもこそ恋しかりけれ(後撰794)
(逢瀬を遂げれば、気持もなぐさむかと思ったのに、じっさい逢ってみたら、名残りこそが恋しくてならなかったよ。) 
 
32.春道列樹 (はるみちのつらき)  

 

山川(やまがは)に 風(かぜ)のかけたる しがらみは
流(なが)れもあへぬ 紅葉(もみぢ)なりけり  
山中を流れる川に風がかけたしがらみは、完全に流れきらずにいる紅葉だったのだなあ。 / 山あいを流れる川に風が作ったしがらみ(川の流れをせき止める柵)は、よく見ると流れることができないでたまっている紅葉の葉であったのだなあ。 / 山のなかを流れる川に、風が架けた、川を堰き止めるように造られたしがらみは、川面にたくさん散って流れかねている紅葉なのだなぁ。 / 山あいの谷川に、風が架け渡したなんとも美しい柵があったのだが、それは (吹き散らされたままに) 流れきれずにいる紅葉であったではないか。
○ 山川に / 「やまがは」で、山の中を流れる川。詞書に、「志賀の山ごえにてよめる」とあるので、この山川は、京都から大津へと抜ける山中の川。「に」は、場所を表す格助詞。
○ 風のかけたるしがらみは / 「の」は、主格の格助詞。その後に、「かけたるしがらみ」と続くので、「風」が擬人化されている。「たる」は、動詞の連用形に接続しているので、完了の助動詞「たり」の連体形。「しがらみ」は、「柵」で、川の中に杭を打ち、竹や柴を横向きに結び付けて、水の流れをせきとめるもの。
○ 流れもあへぬ / 「も」は、強意の係助詞。「あへ」は、「動詞+あへ」で、「完全に〜する」の意。多くは、打消の語をともない、「完全に〜しきらない・しきれない」となる。「ぬ」は、打消の助動詞の連体形。
○ 紅葉なりけり / 「紅葉」が、「しがらみ」に見立てられている。「なり」は、断定の助動詞。「けり」は詠嘆の助動詞で、今まで意識していなかったことに気づいた驚きや感動を表す。 
1
春道列樹(はるみちのつらき、生年未詳 - 延喜20年(920年))は、平安時代前期の官人・歌人。主税頭(一説に雅楽頭)・春道新名の子。官位は六位・壱岐守。
延喜10年(910年)に文章生となり、大宰大監を経て、延喜20年(920年)に壱岐守に任じられたが、赴任前に没したという。勅撰歌人として、和歌作品が『古今和歌集』に3首、『後撰和歌集』に2首入集している。小倉百人一首 32番 山川に風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり(『古今和歌集』秋下303)
2
春道列樹 生年未詳〜延喜二十(920)
主税頭新名の一男。春道氏は物部氏の末流(『三代実録』貞観六年五月十一日条)。延喜十年(910)、文章生に補せられる。大宰大典を経て、同二十年(920)、壱岐守となるが、赴任する以前に没した(『古今和歌集目録』)。古今集に三首、後撰集に二首入集。小倉百人一首にも歌を採られている。
志賀の山越えにてよめる
山川やまがはに風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり(古今303)
(山中の小川に風がかけたしがらみは、瀬に溜まって流れることもできない散り紅葉なのであったよ。)
年のはてによめる
昨日といひ今日と暮らしてあすか川流れてはやき月日なりけり(古今341)
(昨日と言い今日と言って日々を暮らし、明日はもう新年を迎える。飛鳥川の流れが速いように、あっと言う間に過ぎ去ってゆく月日であることよ。)
題しらず
梓弓ひけばもとすゑ我が方によるこそまされ恋の心は(古今610)
(梓弓を引けば、本と末が私の方に寄って来る――その「寄る」ではないが、夜になるとつのるよ、恋心は。) 
 
33.紀友則 (きのとものり)  

 

ひさかたの 光(ひかり)のどけき 春(はる)の日(ひ)に
静心(しづこころ)なく 花(はな)の散(ち)るらむ  
日の光がのどかに降りそそぐ春の日に、どうして落ち着いた心もなく、桜の花は散ってしまうのだろう。 / 日の光がこんなにものどかな春の日に、どうして桜の花だけが落ち着いた気持ちもなく、慌ただしく散ってしまうのだろうか。 / 陽の光の暖かでのどかな、こんな春の日に、桜の花は、どうして落ち着きもなく散り急いでるのだろう。 / こんなにも日の光が降りそそいでいるのどかな春の日であるのに、どうして落着いた心もなく、花は散っていくのだろうか。
○ ひさかたの / 「光」にかかる枕詞。ほかに、「天・日・月・空・雲・雨」など天空や気象に関するものにかかる。
○ 光のどけき / 「光」は、日の光。「のどけき」は、形容詞「のどけし」の連体形で、「のどかだ・穏やかだ」の意。「光のどけき」で、「春の日」を修飾する連体修飾格となり、「光がのどかな」の意、。
○ 静心なく / 「静心」は、静かな心・落ち着いた心。「花」を心のあるものとして擬人化している。「静心なく」で、「散るらむ」を修飾する連用修飾格となり、「落ち着いた心がなく」の意。「のどけき」と「静心なく」が対照されている。
○ 花の散るらむ / 「の」は、主格の格助詞。「らむ」は、原因推量の助動詞で、「落ち着いた心がない」原因を推量する。また、「花の散る」原因を「静心なく」とし、「落ち着いた心がないので、花は散るのだろう」とする説もある。
1
紀友則(きのとものり、承和12年(845年)? - 延喜7年(907年))は、平安時代前期の歌人・官人。宮内権少輔・紀有友(有朋)の子。官位は六位・大内記。三十六歌仙の一人。
40歳過ぎまで無官であったが、和歌には巧みで多くの歌合に出詠している。寛平9年(897年)に土佐掾、翌昌泰元年(898年)に少内記、延喜4年(904年)に大内記に任ぜられる。紀貫之(従兄弟にあたる)・壬生忠岑とともに『古今和歌集』の撰者となったが、完成を見ずに没した。『古今和歌集』巻16に友則の死を悼む貫之・忠岑の歌が収められている。『古今和歌集』の45首を始めとして、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に計64首入集している。歌集に『友則集』がある。

寛平年間に禁中で行われた歌合に参加した際、友則は左列にいて「初雁」という秋の題で和歌を競うことになった。そこで「春霞かすみて往にし雁がねは今ぞ鳴くなる秋霧の上に(=春霞にかすんで飛び去った雁が、今また鳴くのが聞こえる。秋霧の上に)」と詠んだ。右列の者たちは「春霞」という初句を聞いたときに季節が違うと思って笑ったが、第二句以下の展開を聞くに及んで、逆に面目なく感じ黙り込んでしまった。そして、これが友則の出世のきっかけになったという。なお、この歌は『古今和歌集』秋上では「題しらず よみ人しらず」とされている。
代表歌
「久方の ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ」(『古今和歌集』)
この歌は国語の教科書に広く採用されており、百人一首の中で最も有名な歌の一つである。
2
紀友則 生没年未詳
宮内少輔紀有朋の子。貫之の従兄。子に淡路守清正・房則がいる(尊卑分脈)。四十代半ばまで無官のまま過ごし(後撰集)、寛平九年(897)、ようやく土佐掾の官職を得る。翌年、少内記となり、延喜四年(904)には大内記に任官した。歌人としては、宇多天皇が親王であった頃、すなわち元慶八年(884)以前に近侍して歌を奉っている(『亭子院御集』)ので、この頃すでに歌才を認められていたらしい。寛平三年(891)秋以前の内裏菊合、同四年頃の是貞親王家歌合・寛平御時后宮歌合などに出詠。壬生忠岑と並ぶ寛平期の代表的歌人であった。延喜五年(905)二月二十一日、藤原定国の四十賀の屏風歌を詠んだのが、年月日の明らかな最終事蹟。おそらくこの年、古今集撰者に任命されたが、まもなく病を得て死去したらしい。享年は五十余歳か。紀貫之・壬生忠岑がその死を悼んだ哀傷歌が古今集に見える。古今集に四十七首収録(作者名不明記の一首を含む)。その数は貫之・躬恒に次ぐ第三位にあたる。勅撰入集は総計七十首。家集『友則集』がある。三十六歌仙の一人。小倉百人一首に歌を採られている。
春 / 初春の歌とて
水のおもにあや吹きみだる春風や池の氷を今日はとくらむ(後撰11)
(水面に吹き乱れて文様を描く春風よ、その紋(あや)を解くわけではあるまいが、暖かな初春の今日は、池に張った氷を解かしているのだろうか。)
寛平御時きさいの宮の歌合の歌
花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべにはやる(古今13)
(梅の花の香を、風の便りに添えて、鶯をいざなう案内として送る。)
梅の花を折りて人に贈りける
君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る(古今38)
(あなた以外の誰に見せよう。梅の花を――その色も香も、わかる人だけがわかるのだ。)
さくらの花のもとにて、年の老いぬる事をなげきてよめる
色も香もおなじ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりける(古今57)
(桜の花は、色も香も昔と同じに咲いているのだろうけれど、年を経て老いてゆく人は、以前とは変わってしまったのだ。)
寛平御時きさいの宮の歌合の歌
み吉野の山べに咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれける(古今60)
(吉野の山に咲いている桜の花は、雪かとばかり見間違いされてしまうのだった。)
桜の花の散るをよめる
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(古今84)
(日の光がやわらかにふりそそぐ今日――風もなく穏やかなこの春の日にあって、落ち着いた心なしに、どうして桜の花が散ってゆくのだろう。)
夏 / 音羽山をこえける時に、時鳥の鳴くを聞きてよめる
おとは山けさ越え来ればほととぎす梢はるかに今ぞ鳴くなる(古今142)
(音羽山を今朝越えて来ると、時鳥が遠くの梢から今しも鳴いている。)
寛平御時きさいの宮の歌合の歌 (二首)
五月雨に物思ひをれば時鳥ほととぎす夜ぶかく鳴きていづちゆくらむ(古今153)
(五月雨に物思いをしていると、時鳥が夜の深い時間に鳴いて――どこへ行くのだろうか。)
夜やくらき道やまどへるほととぎすわが宿をしも過ぎがてになく(古今154)
(夜の闇が暗いのか。道に迷ったのか。時鳥は、ちょうど我が家のあたりを通り過ぎにくそうに鳴いている。)
秋 / 寛平の御時なぬかのよ、うへにさぶらふをのこども歌たてまつれとおほせられける時に、人にかはりてよめる
天の川あさ瀬しら波たどりつつ渡りはてねば明けぞしにける(古今177)
(天の川の浅瀬がどこか知らずに、白波を辿りながら、渡り切れないのに、夜が明けてしまった。)
題しらず
声たてて泣きぞしぬべき秋霧に友まどはせる鹿にはあらねど(後撰372)
(声を立てて泣いてしまいそうだ。秋の霧に友の居場所を見失った鹿ではないけれど。)
是貞のみこの家の歌合の歌
秋風に初雁がねぞ聞こゆなる誰たが玉づさをかけて来つらむ(古今207)
(秋風の吹く中に、初雁の鳴き声が聞こえる。雁は誰の手紙をたずさえて来たのだろうか。)
大和の国にまかりける時、佐保山に霧のたてりけるをみてよめる
誰がための錦なればか秋霧の佐保の山べをたちかくすらむ(古今265)
(誰のために織った錦だからというので、秋霧は佐保の山を隠すのだろうか。)
是貞のみこの家の歌合の歌
露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋の久しかるべく(古今270)
(露をつけたまま折り取って頭髪に挿そう――菊の花を。年老いない秋がいつまでも続くようにと。)
冬 / 題しらず
夕されば佐保の川原の河霧に友まどはせる千鳥鳴くなり(拾遺238)
(夕方になると、佐保の川原に河霧が立ちこめ、友とはぐれてしまった千鳥が鳴いている。)
雪のふりけるをみてよめる
雪ふれば木ごとに花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきて折らまし(古今337)
(雪が降り積もったので、どの木にも花が咲いた。どれを本当の梅と区別して手折ろうか。)
離別 / 道に逢へりける人の車に物を言ひつきて、別れける所にてよめる
下の帯の道はかたがた別るとも行きめぐりても逢はむとぞ思ふ(古今405)
(下着の帯紐がそれぞれの方向に別れても一巡りしてまた出逢うように、あなたと今別の道を行ってもいつかきっとお逢いしようと思います。)
物名 / をがたまの木
みよしのの吉野の滝にうかびいづるあわをかたまのきゆと見つらむ(古今431)
(吉野川の急流に浮かび出ては消える泡を、玉が消えると見ているだろうか。)
をみなへし (二首)
白露を玉にぬくとやささがにの花にも葉にもいとをみなへし(古今437)
(白露を数珠つなぎにしようというので、蜘蛛は女郎花のどの花にもどの葉にも糸を架け渡したのだろうか。)
朝露をわけそほちつつ花見むと今ぞ野山をみなへしりぬる(古今438)
(朝露を分け行き、濡れそぼちながら、女郎花の花を見ようとして、今や野山という野山は皆通って知ってしまった。)
きちかうの花
秋ちかう野はなりにけり白露のおける草葉も色かはりゆく(古今440)
(野は秋も近くなったのだ。白露の置いた草葉も色が衰えてゆく。)
りうたむの花
わがやどの花ふみしだく鳥うたむ野はなければやここにしも来る(古今442)
(うちの庭の花を踏みにじる鳥を懲らしめてやろう。野には花がないからというので、ここにやって来るのだろうか。)
恋 / 寛平御時きさいの宮の歌合の歌 (五首)
宵の間もはかなく見ゆる夏虫にまどひまされる恋もするかな(古今561)
(短い夏の宵の間にも、はかなく見える蛾――それにもまして惑う、そんな恋を私はすることであるよ。)
夕されば蛍よりけに燃ゆれどもひかり見ねばや人のつれなき(古今562)
(夕方になると、私の思いは蛍よりひどく燃えるけれども、蛍と違って光は見えないので、恋人は冷淡な態度をとるのだろうか。)
笹の葉におく霜よりもひとりぬるわが衣手ぞさえまさりける(古今563)
(笹の葉に置く霜よりも、独り寝をしている私の袖の方が、ずっと冷たいのであった。)
わが宿の菊の垣根におく霜の消えかへりてぞ恋しかりける(古今564)
(我が家の菊の垣根に置く霜のように、消え入りそうなほどに恋しいのであった。)
川の瀬になびく玉藻のみがくれて人に知られぬ恋もするかな(古今565)
(川の瀬に靡く藻が水中に隠れて見えないように、人に知られない恋を私はしていることであるよ。)
題しらず (四首)
宵々にぬぎて我がぬる狩衣かけて思はぬ時のまもなし(古今593)
(毎晩、私が脱いで寝る狩衣――それを衣桁に掛けるように、あの人のことを心にかけて思わない時は、わずかもない。)
東路あづまぢのさやの中山なかなかに何しか人を思ひそめけむ(古今594)
(東海道にある小夜の中山ではないが、なまなかに、どうして人を恋し始めてしまったのであろう。)
しきたへの枕の下に海はあれど人をみるめはおひずぞありける(古今595)
(枕の下に涙の海はあるけれども、人を見る目という名の海松布(みるめ)は生えないのであった。)
年をへて消えぬ思ひはありながら夜の袂はなほこほりけり(古今596)
(長い年月を経ても消えない思いの火はあるものの、独り寝の夜の衣の袖はなお凍るのだった。)
題しらず
ことにいでて言はぬばかりぞ水無瀬川したにかよひて恋しきものを(古今607)
(言葉に出して言わないだけなのだ。一見、水がないように見える水無瀬川のように、心だけは思う人のもとへ通って恋しいのに。)
題しらず
命やは何ぞは露のあだものを逢ふにしかへば惜しからなくに(古今615)
(命なんて、何だというのだ。露のようにはかないものではないか。逢うことに換えるのなら、惜しくなどないのに。)
寛平御時きさいの宮の歌合の歌
紅くれなゐの色には出でじ隠れ沼ぬの下にかよひて恋ひは死ぬとも(古今661)
(紅の色のように目立たすまい。隠れ沼のようにひそかに思って、恋い死にしようとも。)
題しらず
下にのみ恋ふれば苦し玉の緒の絶えて乱れむ人なとがめそ(古今667)
(心の中でばかり恋していると苦しい。そのうち玉の緒が切れて乱れてしまうだろう。世の人よ、非難なさるな。)
寛平御時きさいの宮の歌合の歌
春霞たなびく山の桜花見れどもあかぬ君にもあるかな(古今684)
(春霞がたなびく山の桜の花はいくら見ても見飽きない――そのように、いくらあなたと逢瀬を重ねても、私の心は満ち足りることがない――それほど恋しいあなたであるよ。)
寛平御時きさいの宮の歌合の歌
蝉の声きけばかなしな夏衣うすくや人のならむと思へば(古今715)
(蝉の声を聞くと悲しいことよ。秋も近づき、今着ている夏衣ではないが、あの人の心も薄くなるだろうと思うので。)
題しらず
雲もなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみよをばへぬらむ(古今753)
(雲もなく穏やかな朝が私なのだろうか、それであの人から「厭われて」ばかりのまま幾年も過ぎたのだろう。(ずっと「いと晴れて」一夜を経た朝のように。))
題しらず
秋風は身を分けてしも吹かなくに人の心のそらになるらむ(古今787)
(秋風は雲や霧を分けて吹くけれども、人の身を分けて、心の中まで入り込むわけではあるまいに。秋になると、あの人の心の中に「飽き」風が吹いて、私への思いが空っぽになってしまうのは、どういうことだろう。)
題しらず
水のあわの消えでうき身といひながら流れて猶もたのまるるかな(古今792)
(水の泡のようにはかなく、しばし消えずに浮いて漂うような我が身とは言いながら、水の上を流れて――時が流れてのちはと、なおあの人の心に期待をかけてしまうのだ。)
女をはなれてよめる
雁かりの卵こを十とをづつ十はかさぬとも人の心はいかがたのまむ(古今六帖)
(たとえ雁の卵を百箇重ねることはできても、人の心はどうして信用できましょうか。)
題しらず
たちかへり思ひすつれどいそのかみ古りにし恋は忘れざりけり(続千載1538)
(何度も繰り返し思い切ろうとしたけれど、長い年月を経た恋は忘れられないのだった。)
哀傷 / 藤原敏行の朝臣の身まかりにける時に、よみてかの家につかはしける
寝ても見ゆ寝でも見えけりおほかたは空蝉の世ぞ夢にはありける(古今833)
(寝てもあの人を見ますが、寝なくても面影にあの人が見えるのです。だいたいのところ、寝ていようが起きていようが、現世こそが夢なんでしたよ。)
惟喬のみこの、父の侍りけむ時によめりけむ歌どもと乞ひければ、かきておくりける奥によみてかけりける
ことならば言の葉さへも消えななむ見れば涙のたぎまさりけり(古今854)
(どうせなら、父の遺したこの詠草も一緒に消えてほしい。見ると、ますます涙が滾り流れるのです。)
雑 / 紀友則まだ官たまはざりける時、事のついで侍りて、「年はいくら許りにかなりぬる」と問ひ侍りければ、「四十余なむなりぬる」と申しければ   贈太政大臣
今までになどかは花の咲かずして四十年よそとせあまり年ぎりはする
(今までどうして花が咲かずに四十年余りも実を結ばなかったのか。)
返し
はるばるの数は忘れずありながら花咲かぬ木をなにに植ゑけむ(後撰1078)
(毎年、春は忘れずにやって来るのに、私のような花の咲かない木をどうして植えたのでしょう。)
方たがへに人の家にまかれりける時に、あるじの衣を着せたりけるをあしたに返すとてよみける
蝉の羽はの夜の衣はうすけれど移り香こくもにほひぬるかな(古今876)
(蝉の羽のような夜着は薄いけれど、薫き染めた香の移り香は我が身に濃く匂っているのでした。)
筑紫に侍りける時に、まかりかよひつつ碁うちける人のもとに、京にかへりまうできてつかはしける
ふるさとは見しごともあらず斧の柄の朽ちし所ぞ恋しかりける(古今991)
(帰って来た故郷の京は、以前とは違ってしまいました。斧の柄が朽ちるまであなたと碁に耽った所――筑紫の方が恋しいのでした。)
題しらず
とりもあへぬ年は水にや流れそふ老いの心の浅くなりゆく(友則集)
(ちゃんとつかみ取ることもできぬまま、年は水といっしょに流れ去ってゆくのか。老いを重ねるごとに、私の心は深くなるどころか、浅くなってゆく。) 
3
友則の死
やはり友則は『平貞文家歌合』に出席できなかった。それどころか良い僧による加持祈祷もむなしく、回復する様子は少しも見られない。肝心の歌合は貞文と躬恒がそれぞれとっておきの和歌を事前に用意していたこともあり、二人の歌の優劣を周りの人々が判定し、楽しむ物となった。そうした歌合の趣旨もあり、貫之自身が病身の友則への思いが強かったこともあって、この場で貫之は二首しか歌を披露しなかった。貞文の私的な催しとはいえ、歌合にこれほど身が入らないなど、貫之には初めてのことであった。専門歌人が歌合に呼ばれておきながら、歌に身が入らない。本来ならあるまじきことだが、私的な集まりと言うこともあり、誰もが貫之の心情を察して同情の目を向けていた。もっとも今の貫之の心情では、批判があっても耳に入らなかっただろうが。
貫之自身も驚いていた。もともと父もなく兄弟もいなかった自分なので、母と多くの大人たちの世話になって自分は育ってきた。高経様、敏行様など、お目にかけていただいた方々のご逝去もすでに経験している。そして唯一の肉親である母さえも見送った。それは悲しく辛い別れであったが、歌合に身が入らぬほどの動揺はなかった。だが、友則殿の病状が思わしくないことへの不安は、歌の喜びを忘れるほどに大きかった。世間では「古今和歌集」の評判が高まるばかりで、同時に選者たちの評価もこれ以上ないほど賞賛されていた。特に歌集に多くの歌を載せ、あの見事なかな序を書いた貫之の評判は群を抜いていた。それにもかかわらず貫之自身は、これまで感じたことがないほどの不安の中にいた。
そして思い知った。貫之にとって友則がどれほど重要な存在であったかを。友則は同じ紀氏の身内であり、長く後ろ盾をしてくれた父親同然の人であった。さらに歌の世界へといざなってくれた恩人であり、歌人としての師でもあった。そして共に和歌の未来を憂い、希望を切り開く志を持った友であり、「古今和歌集」編纂と言う大業を成し遂げた仲間でもあった。貫之にとって友則と言う人は、すでに親や師を超えた存在であった。これほど人生に深くかかわった人はいなかった。その人を失うかもしれない不安は、どんな知人や母親を失う悲しみよりも大きかった。
夏の日差しの中、友則の病状は一進一退していた。貫之には今年の夏の暑さはいつにもまして苦しい気がした。その暑さが友則の体に瘴気となって襲い掛かっているようで、当たり前にやってくる季節が恨めしく、歌心を刺激するはずのほととぎすの声さえ疎ましかった。貫之は頻繁に友則を見舞った。そのたびにこの家のたたずまいを見ては懐かしく思った。今は離れて暮らしているが、内教坊育ちだった自分にとってこの家は、唯一帰ることのできる家だったのだと知った。だが、そんな貫之を友則は病床の身にありながら心配した。
「私の身を案じてばかりいてはいけない。時が来たのだ。人は若いままではいられない。以前に私も歌を詠んだではないか。
色も香も同じ昔に咲くらめど年ふる人ぞあらたまりける
(桜の花は色も香りも昔と同じに咲いているが、人は年を取り、変わってしまった)
変わらぬ『さくら』は『さくらめど』、人は変わり老いるのだ。この歌は貫之には劣るが、私は自分の詠んだ『物名』としては、なかなかの出来だと思っているが?」
「桜と老いの対比が心にしみますね。でも、今聞くには寂しすぎます」
「人は老いる。だから時は貴重であり、歌人は多くの歌を残すべきなのだ。こうしている間にも、時は流れてしまうのだ」
友則の残りの時の少なさに抵抗するように貫之は首を横に振る。
「だからこそ、おそばにいたいのですが」
「気弱な事を申すな。前にも言った。君はもう、人の庇護に頼るばかりではいけない。私から学ぶ段階は終えているのだ。歌も、人生も」
貫之は病の友則に甘えていることはわかっていたが、言わずにはいられなかった。
「私に親がなくとも、妻がいなくても、良い人生を送ってこられたのは友則殿がいたからです。あなたは私にとって、師であり、父であり、友であり、従うべき人なのです。私はあなたにどれほど甘えて生きてきたか」
すると、友則は心からおかしそうに笑った。
「……師? もう私は君の師などとは言えない。……君自身が、そしてこの世の中が君の師となるのだ。……父が庇護者の意味ならば、大丈夫だ。君のことは忠岑の御主人である泉大将(定国)様も見ておられる。妹の満子様もお認め下さっている。……同じ紀氏の長谷雄がいるし、淑望もいる。何より時の人……左大臣時平様がいる。友にも恵まれ……従うべき人は……兼輔様と言う主人がおられる。君は……大丈夫だ。たとえ、今挙げたすべてを失うことがあろうとも……君には歌がある」
「それはわかっています。ですが、情けないことに私は人としてとても未熟なのです。未熟すぎて、地位を問われぬ和歌の世界にしがみつき、妻を持たず、家族を作らず、誹そしられる心配のない遊女や、田舎の女に癒しを求めているのです」
もはや強がりをかなぐり捨てた貫之の言葉に、友則はとても優しい目をして答えた。
「仏の目から見れば……人は皆、未熟であろうよ。それでも情の在り方を心細く思うなら……友を助けてやるがよい。そして……内教坊の女孺殿に孝を尽くし、あの少女を大事にしてやりなさい。きっとそれが……君の救いになるだろう」
「自分の心の動揺さえも抑えられない私に、出来るのでしょうか?」
「情は自然と心に生まれるもの。君が一番よく知っている。……それに……私は君に本当に幸せにしてもらった。……我が子はかわいいながらも歌の才には恵まれなかった。こればかりは生まれ持っての宿命だから仕方がないが……君がいなければ私は子供たちに歌人の価値観を押し付けていたかもしれない。君がいたから……子らに余裕をもって接することができた……」
「幸せなのは私の方です。親子の情もよく知らない私に、こうまで言ってくださるとは」
貫之は感激してそう言ったが、友則はあっさりと返した。
「親子の情なら、私は君に教えたはず。君は……私にとって大事な長男なのだから」
友則の言葉に、貫之は今度こそ思い知った。やはりこの人は自分にとって、父親以上に父なのだと。そして、その大切な父を失うということを、自分は今教わっているのだと。
その秋、ついに友則は亡くなった。家族や選者たちの悲しみは当然深かったが、「古今和歌集」の評判が高まっていた時だけに、都人たちもいくつもの名歌を残した優秀な歌人を失ったことを惜しみ、悲しんだ。
貫之は古今和歌集の雑躰の巻部分の草稿を開いていた。そこには選者たちの長歌の一群があるが、そこにぽっかりと不自然な空白がある。帝の献上した歌集にはもちろん空白などないが、この草稿には願いを込めて空白を残していた。いずれ友則が病から回復したら、そこに長歌を寄せてもらうはずだった。たとえ献上した後でも、書き加えて帝に献上し直すつもりだった。
「……ついに、その空白は埋まらなかったな」
そう、躬恒が声をかけた。淑望と忠岑もそこにいた。必ずこの空白は埋められるものだと、これを書いていた時は皆で信じていた。貫之は黙ったまま草稿を閉じる。躬恒は友則の人柄を思い、嘆いた。
「友則殿は歌人としては有名でしたが、お人柄に華があったわけでなく、むしろ地味なくらいでした。名声が高まってもそれを利用した大っぴらな任官運動をすることもなく、和歌も政務も十分な実績を持ちながら無官の時期が長くて……」
淑望も寂しげにその死を惜しんだ。
「時平様の同情からようやく地方官の片隅に土佐掾の地位を得たが、彼はその後も歌以外では特別社交に励むことはありませんでしたね。実直さと和歌集編纂の利便性を考慮されて少内記に上がり、やがて大内記に出世しましたが、その仕事ぶりも帝の詔の作成や様々な記録作業を地道にこなし、自ら表舞台に立とうとすることはありませんでした。本当に地道で、謙虚で、信頼できる人でした」
淑望の言葉に躬恒も残念そうに、
「古今和歌集の評判のおかげで、今は和歌の地位もこれまでにないほど高まってきました。地味で穏健な性格とはいえ、きっとこれから出世できたはずなのです。若すぎました。もっと、長生きしていただきたかった……」と、悔しがる。
しかし親友の忠岑は、小さく首を横に振り、言葉少なに友則を悼んだ。
「体調不良で編纂作業の主任の仕事に支障があるとわかると、その立場をあっさりと若い貫之に受け渡した。そういう人だった」
忠岑の言葉に、貫之は何も言えずに涙をこぼした。それを見て躬恒が言葉をつづけた。
「だから名目上は友則殿を主任扱いして、序文に記す名前の筆頭にしました。我々は友則殿のそうした性格を知っていますから……敬意を表さずには、いられなかったのです」
優しく、暖かく、声高に持論を叫ばず、人の前に立たない。常に良い家庭人であり、良い友人であり、その人柄を感じさせる多くの秀歌を残した人は、多くの人に惜しまれながらこの世を去ってしまった。貫之に和歌世界の次の代を託して。
友則の弔いが済んで後、貫之は古今和歌集に友則を悼んだ歌を、哀傷歌の巻に追加する許可を求めた。許可は認められ、哀傷歌群と服喪の歌群の間に、貫之と忠岑の歌が書き加えられた。貫之の歌は、
紀友則が身まかりにける時よめる
明日知らぬ我が身と思へど暮れぬまの今日は人こそ悲しかりけれ
(明日、自分の命がどうなるかはわからないが、まだ日が暮れていない今日のうちは、亡くなった人のことを悲しく思うのだ)
続けて忠岑の歌。
時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを
(ほかに時もあるだろうに、秋に人との死に別れがあるとは。生きていても別れは恋しさを感じるというのに)
こうして皮肉にも、友則が心血を注いだ古今和歌集に、彼を悼む歌が載せられたのだった。 
 
34.藤原興風 (ふじわらのおきかぜ)  

 

誰(たれ)をかも 知(し)る人(ひと)にせむ 高砂(たかさご)の
松(まつ)も昔(むかし)の 友(とも)ならなくに  
いったい誰を知己にしようか。いくら高砂の松が長寿だからといっても、昔からの友ではないのだから。 / 年老いた私は、今もう誰を友にしたらよいのだろうか。相手にできそうなものといえば、長生きで知られている高砂の松ぐらいなものだが、その高砂の松でさえ、昔からの友ではないのに。 / いったい誰を心の友としようか・・・。古木と名高い高砂(現在の兵庫県高砂市)の松のほかに、年老いたものはいないのだけど、その高砂の松でさえ、昔なじみの友ではないのに。 / (友達は次々と亡くなってしまったが) これから誰を友とすればいいのだろう。馴染みあるこの高砂の松でさえ、昔からの友ではないのだから。
○ 誰をかも知る人にせむ / 「か」と「む」は係り結び。「か」は、疑問の係助詞。「も」は、強意の係助詞。「知る人」は、自分のことをわかってくれる人、すなわち、「親友・知己」の意。「む」は、意志の助動詞の連体形で、「か」の結び。「〜よう」の意。二句切れ。
○ 高砂 ―歌枕。現在の兵庫県高砂市。松の名所。
○ 松も昔の友ならなくに / 高砂の「松」は、長寿の象徴。「も」は、添加の係助詞。「昔の友」は、昔からの友人。「なら」は、断定の助動詞。「な」は、上代(奈良時代以前)に用いられた打消の助動詞。「く」は、その接尾語。「に」は、詠嘆の意味を含む順接の接続助詞。終助詞とする説もある。「ならなくに」で、「〜ではないのだから」の意。(注)「松も昔の友なら泣くのに」ではない。(参考)河原左大臣(源融)の歌にも「ならなくに」が用いられているが、こちらは、逆接の表現。藤原興風は、源融よりも後の人なので、「ならなくに」は、より古めかしい表現として用いられている。 
1
藤原興風(ふじわらのおきかぜ、生没年不詳)は、平安時代の歌人・官人。藤原京家、参議・藤原浜成の曾孫。相模掾・藤原道成の子。官位は正六位上・下総大掾。三十六歌仙の一人。
昌泰3年(900年)父と二代続けて相模掾に任ぜられる。治部少丞を挟んで、延喜4年(904年)上野権大掾、延喜14年(914年)上総権大掾と、主に地方官を歴任し、位階は正六位上に至る。官位は低かったが『古今和歌集』の時代における代表的な歌人で、「寛平后宮歌合」・「亭子院歌合」などの歌合への参加も多く見られる。『古今和歌集』(17首)以下の勅撰和歌集に38首が入集。家集に『興風集』がある。管弦にも秀でていたという。小倉百人一首 34番 誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに(『古今和歌集』雑上909)
2
藤原興風 生没年未詳
京家浜成の曾孫。正六位上相模掾道成の子。昌泰三年(900)、相模掾。延喜四年(904)、上野権大掾。延喜十四年(914)、下総権大丞。最終官位は正六位上(尊卑分脈)。寛平三年(891)、貞保親王(清和天皇皇子)の后宮(藤原高子)の五十賀の屏風歌を詠進。ほかに、寛平御時后宮歌合、昌泰元年(898)の亭子院女郎花合、延喜十三年(913)の亭子院歌合・内裏菊合などに出詠した。琴の師で、管弦に秀でたという。三十六歌仙の一人。百人一首に歌を採られている。家集『興風集』がある。古今集初出(十七首)。勅撰入集計四十二首。
春 / 寛平御時后宮きさいのみやの歌合の歌 (三首)
咲く花は千ぐさながらにあだなれど誰たれかは春を恨みはてたる(古今101)
(咲く花は多種多様で、そのどれもが散りやすくはなかいけれども、だからと言って誰が春を恨み切ることができようか。)
春霞色の千ぐさに見えつるはたなびく山の花のかげかも(古今102)
(山にたなびいている春霞の色が様々に見えるのは、その山に咲く花々の色が反映しているのかなあ。)
声たえず鳴けや鶯ひととせにふたたびとだに来べき春かは(古今131)
(声を途切れさせずに哭けよ、鶯。一年に二度でさえ来ることのある春だろうか。そんな筈はないのだから。)
秋 / 寛平御時后宮歌合
契ちぎりけむ心ぞつらきたなばたの年にひとたび逢ふは逢ふかは(古今178)
(織女と彦星が逢瀬を約束した心はさぞ辛かったろう。一年に一度だけ逢うことは、逢ううちに入るだろうか。)
寛平御時ふるき歌たてまつれとおほせられければ、龍田川もみぢば流るといふ歌をかきて、その同じ心をよめりける
深山みやまよりおちくる水の色見てぞ秋は限りと思ひ知りぬる(古今310)
(奥山から流れ落ちてくる水の色を見て、初めて秋はもう終りなのだと思い知った。)
題しらず
木の葉ちる浦に波たつ秋なればもみぢに花も咲きまがひけり(後撰418)
(木の葉の散る入江に波が立つ秋――それでこの季節には、波の花が紅葉と見まがうばかり色鮮やかに咲いているのだなあ。)
冬 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた
浦ちかくふりくる雪は白波の末の松山こすかとぞ見る(古今326)
(入江のあたりまで降り込んでくる雪は、白波が末の松山を越すかと見えるよ。)
恋 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた (三首)
きみ恋ふる涙のとこにみちぬればみをつくしとぞ我はなりぬる(古今567)
(あなたに恋い焦がれて流す涙が寝床に満ちて海のようになりましたので、我が身は常に波に濡れる澪標(みおつくし)となり、身を滅ぼすことになってしまいました。)
死ぬる命生きもやすると心みに玉の緒ばかり逢はむと言はなむ(古今568)
(あなたのつれなさに私は死んだも同然です。その命が生き返りでもするかと、ためしに僅かの間だけでも逢おうとおっしゃって下さい。)
わびぬればしひて忘れむと思へども夢といふものぞ人だのめなる(古今569)
(恋しさに弱り切ってしまったので、無理にも忘れようと思うのだけれども、夢に見るとまた当てにしてしまって、つくづく夢というものは人をむなしく期待させるものだ。)
親のまもりける人のむすめに、いとしのびに逢ひて物ら言ひけるあひだに、親のよぶと言ひければ、いそぎかへるとて、裳をなむぬぎ置きていりにける。そののち裳もをかへすとてよめる
逢ふまでのかたみとてこそとどめけめ涙にうかぶもくづなりけり(古今745)
(再び逢う時までの形見として裳を置いて行ったのでしょうが、私の激しい涙に濡れてぼろぼろになり、今や涙の海に浮かぶ藻屑でありますよ。)
題しらず
夢をだに思ふ心にまかせなむ見るは心のなぐさむものを(玉葉1513)
(せめて夢は心の思うままに任せてほしい。夢であっても恋人を見るのは気が慰むものなのだから。)
題しらず
逢ひ見てもかひなかりけりうば玉のはかなき夢におとるうつつは(新古1157)
(逢えたところで甲斐もなかったなあ。果敢ない夢にも劣る現実での逢瀬は。)
題しらず
恨みても泣きても言はむ方ぞなき鏡に見ゆる影ならずして(古今814)
(怨みごとも泣きごとも、誰に向かって言おうか。そんな相手はもうどこにもいないのだ、鏡に映った我が身のほかに。)
雑 / 題しらず
山川の菊の下水いかなればながれて人の老をせくらむ(新古717)
(菊の下を流れる谷川の水は、一体どういうわけで、流れて、人の老いを塞き止めるのだろうか。)
貞保親王さだやすのみこの、后の宮の五十の賀たてまつりける御屏風に、桜の花の散るしたに、人の花見たるかたかけるをよめる
いたづらにすぐす月日は思ほえで花見て暮らす春ぞすくなき(古今351)
(普段、むなしく過ごしている月日は何とも思えないのに、花を見て暮らす春の日だけは、少ないことが惜しまれてならないのだ。)
題しらず
誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに(古今909)
(知合いが次々と亡くなってゆく中、私は生き残ってしまい、このうえまあ誰を親しい友とすればよいだろう。長寿で名高い高砂の松も、昔からの友ではあり得ないのに。) 
3
末の松山への誤解
東北と言えば、歌枕「末の松山」があり、次の歌が有名です。
君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波もこえなむ(古今集、大歌所御歌、東歌陸奥歌)
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは(後拾遺集、恋四、清原元輔 百人一首)
百人一首の元輔歌への先入観から、これまで「末の松山」は、波が越えない所とされ、「あだし心」を持たない愛の誓いの喩えと説明されてきました。
ところが、2011年の東日本大震災の大津波で、名所「末の松山」を波が越えてしまったのです。源氏物語の末摘花巻には、次の風景描写があります。
橘の木のうづもれたる、御随身召して払はせたまふ。うらやみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるる雪も「名にたつ末の」と、見ゆるなどを……
この「名に立つ末の」は、次の歌を引いています。
わが袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし(後撰集、恋二、土佐)
この歌と先の有名な二首だけを知る読者は、なぜ雪の光景に末の松山が出てくるのかわかりません。源氏が末摘花に愛を誓う場面でもありません。ここは、次の歌を思い出さなければならないのです。
浦ちかく降りくる雪は白波の末の松山越すかとぞ見る(古今集、冬、藤原興風 寛平御時后宮歌合)
この歌では、海辺の浦近く降っている雪が末の松山を波が越すように見える、と詠んでいます。「浦近く降り来る雪」が、東歌で詠まれた「白波の末の松山越す」光景を思わせることから、あり得ないことが現実に起こったかと驚いています。源氏物語は、雪を白波に見立てた興風歌を受けて、波が山を越える時の波頭の光景を、松の木の跳ね上げた雪が弧を描いて落ちる様の見立てとしたのです。
2011年3月10日、私は京都アスニーの講座において、この光景の説明をしたのですが、その翌日の同時刻、テレビで、防波堤を軽々と越えて迫る大津波と白い雪の光景を見て、わが認識不足に愕然としました。当時まだ東北では、雪が断続的に降り、ときに吹雪いていました。人々は、浦近く降る白い雪を見ては、また大津波が来たかとハッとしたでしょう。国文学者が恋の誓いの喩えなどとのんきな説明をしてきたことで、現地の人々が安心していたのではないかと責任を感じて、パリから帰国したばかりの4月の講座で、この問題を緊急報告しました。ネットでも末の松山を波が超えたことが話題になり、興風の歌について、都の人だから「末の松山」をよく知らずに詠んだなどといった発言も見られました。そうではありません。興風は、相模、上野、下総の地方官を歴任していた人物です。歌を詠んだのも、寛平二年(890)の歌合においてです。この頃はまだ震災の影響が大きく、仁和三年(887)にも全国で大地震があったそうです。興風自身も、貞観11年(869)の大津波を経験していた可能性が高く、たとえ都にいたとしても馴染みのある土地の被害には心を痛めたでしょう。それゆえ歌合では、浦近く降る雪を見てハッと驚く思いを歌で表したのだと思うのです。
「末の松山」は、滅多に起きないが、あっては困るという意味の歌枕と訂正するべきです。結果論ではなく、歌の解釈を誤ったために人々が油断していたなら、国文学に携わる者の責任だと言えます。私たちがよく知る百人一首の歌とその本歌の東歌だけで判断するのではなく、本当の教養を持っていなければ、間違いは繰り返されます。平安時代には、元輔歌よりも、古今集の東歌と興風の歌の方が広く知られていたはずです。そもそも、この東歌が大歌所御歌として収められたことにも意味がありました。清和天皇の時代、貞観大津波のあった年から御霊会が盛んに行われ、それが祇園祭として現在にも伝わります。また、元輔歌の「袖をしぼる」というのは、ただ涙にぬれる誇張表現ではなかったのです。土佐の歌の「わが袖は」「波の越えぬ日はなし」という表現も、大津波が末の松山を越え、被害に遭った人々が全身濡れて、泣きながら袖を絞り合ったことを意識したものだったのだと思います。 
 
35.紀貫之 (きのつらゆき)  

 

人(ひと)はいさ 心(こころ)も知(し)らず ふるさとは
花(はな)ぞ昔(むかし)の 香(か)に匂(にほ)ひける  
あなたのおっしゃることは、さあ、本心なんでしょうか。私には分からないですね。なじみの土地では、昔と同じ花の香りが匂ってくるのものですよ。 / あなたは、さあ、心変わりしておられるかどうか分かりませんが、昔なじみのこの里では梅の花が昔と変わらずによい香りを漂わせて咲いていることだ。 / あなたは、さあね、昔のままの心なのでしょうか。わかりませんね。でも、昔なじみのこの里には、昔のままに梅の花の香りが匂っていますね。 / さて、あなたの心は昔のままであるかどうか分かりません。しかし馴染み深いこの里では、花は昔のままの香りで美しく咲きにおっているではありませんか。(あなたの心も昔のままですよね)
○ 人はいさ心も知らず / 『古今集』の詞書によると、長谷寺参詣の際に定宿にしていた家の主人が、貫之が疎遠であったことについて文句を言ったとある。このことから「人」は、その主人。「は」は、区別を表す係助詞。「いさ」は下に打消の語をともない、「さあ(〜ない)」の意を表す陳述の副詞。「心」は、本心。「も」は、強意の係助詞。「ず」は、打消の助動詞。「あなたは、さあ、本心かどうか、(私は)わからない」の意。二句切れ。
○ ふるさとは / 昔なじみの場所。「は」は、区別を表す係助詞。「人は」に対応する句。
○ 花ぞ昔の香ににほひける / 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「花」は、一般には桜であるが、この場合は、「香ににほひ」とあり、「梅」の意。「ぞ」は、強意の係助詞。「にほひ」は、「にほふ」の連用形で、嗅覚のかぐわしさのみならず、視覚の美しさも表す。「けり」は、詠嘆の助動詞「ける」の連体形で、「ぞ」の結び。今まで意識していなかった事実に気づいたことを表す。「花ぞ昔の香ににほひける」は、「梅の花は昔と同じ香りを匂わせているなあ」という意。これは、主人の心を「花の香」になぞらえ、「あなたが昔と同様に暖かく迎えてくれるのはお見通しですよ」ということを暗に示している。
※ 全く異なる解釈として、「花の香は今も昔も同じであるが、人の心変わりやすく、あなたの心も私の知ったことではない」という内容であるとする説もある。この歌は、主人の不満に対する即興の返答であり、親しさゆえの皮肉まじりの会話なのか、身も蓋もない険悪な反論なのかで見解が分かれている。  
1
紀貫之(きのつらゆき)は、平安時代前期の歌人・貴族。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。
幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人として『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌作品が入集しているのは歌人の中で最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」と称されたという。その遺址は現在の京都御所富小路広場に当たる。

その和歌の腕前は非常に尊重されていたらしく、天慶6年(943年)正月に大納言・藤原師輔が、正月用の魚袋を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するために、わざわざ貫之の家を訪れたという。貫之の詠んだ歌の力によって幸運がもたらされたという「歌徳説話」も数多く伝わっている。
作品
○ 古今和歌集:勅撰和歌集。紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒との共撰。
○ 古今仮名序
○ 新撰和歌:貫之単独撰の私撰集。
○ 新撰和歌序:真名序。
○ 大井川御幸和歌序:『古今著聞集』巻第十四遊覧廿二に載る。
○ 貫之集
○ 土佐日記
代表歌
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん(古今2)
霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける(古今9)
さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける(古今89)
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(百人一首35)
吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし(古今471) 
2
紀貫之 貞観十四?〜天慶八?(872-945)
生年については貞観十年・同十三年・同十六年など諸説ある。下野守本道の孫。望行(もちゆき)の子。母は内教坊の伎女か(目崎徳衛説)。童名は阿古久曽(あこくそ)と伝わる(紀氏系図)。子に後撰集の撰者時文がいる。紀有朋はおじ。友則は従兄。幼くして父を失う。若くして歌才をあらわし、寛平四年(892)以前の「寛平后宮歌合」、「是貞親王家歌合」に歌を採られる(いずれも机上の撰歌合であろうとするのが有力説)。昌泰元年(898)、「亭子院女郎花合」に出詠。ほかにも「宇多院歌合」(延喜五年以前か)など、宮廷歌壇で活躍し、また請われて多くの屏風歌を作った。延喜五年(905)、古今和歌集撰進の勅を奉ず。友則の没後は編者の中心として歌集編纂を主導したと思われる。延喜十三年(913)、宇多法皇の「亭子院歌合」、醍醐天皇の「内裏菊合」に出詠。官職は御書所預を経たのち、延喜六年(906)、越前権少掾。内膳典膳・少内記・大内記を経て、延喜十七年(917)、従五位下。同年、加賀介となり、翌年美濃介に移る。延長元年(923)、大監物となり、右京亮を経て、同八年(930)には土佐守に任ぜられる。この年、醍醐天皇の勅命により『新撰和歌』を編むが、同年九月、醍醐天皇は譲位直後に崩御。承平五年(935)、土佐より帰京。その後も藤原実頼・忠平など貴顕から機会ある毎に歌を請われるが、官職には恵まれず、不遇をかこった。やがて周防の国司に任ぜられたものか、天慶元年(938)には周防国にあり、自邸で歌合を催す。天慶三年(940)、玄蕃頭に任ぜられる。同六年、従五位上。同八年三月、木工権頭。同年十月以前に死去。七十四歳か。原本は自撰と推測される家集『貫之集』がある。三代集(古今・後撰・拾遺)すべて最多入集歌人。勅撰入集計四百七十五首。古今仮名序の作者。またその著『土佐日記』は、わが国最初の仮名文日記作品とされる。三十六歌仙の一人。
春 / 春たちける日よめる
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ(古今2)
(夏に袖が濡れて手に掬った水が、冬の間に氷ったのを、春になった今日の風が解かしているだろうか。)
雪のふりけるをよめる
霞たちこのめもはるの雪ふれば花なき里も花ぞ散りける(古今9)
(霞があらわれ、木の芽も芽ぐむ春――その春の雪が降るので、花のない里でも花が散るのだった。)
歌奉れとおほせられし時、よみて奉れる
春日野の若菜つみにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ(古今22)
(春日野の若菜を摘みにゆくのだろうか、真っ白な袖を目立つように打ち振って娘たちが歩いてゆく。)
歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる
わがせこが衣はるさめふるごとに野辺のみどりぞ色まさりける(古今25)
(我が夫の衣を洗って張るというその「はる」さめが降るたびに、野辺の緑は色が濃くなってゆくのだ。)
歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる
青柳の糸よりかくる春しもぞみだれて花のほころびにける(古今26)
(青々とした柳の葉が、糸を縒り合せるように絡まり合う春こそは、糸がほどけたように柳の花が開くのだった。)
初瀬にまうづるごとに宿りける人の家に久しく宿らで、程へて後に至れりければ、かの家のあるじ、かくさだかになむ宿りはあると、言ひいだして侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる
人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(古今42)
([詞書]初瀬の寺に参詣するたび宿を借りていた人の家に、長いこと宿らず、時を経て後に訪れたので、その家の主人が「このように確かにあなたの宿はあるのに」と中から言って来ましたので、そこに立っていた梅の花を折って詠んだ歌。[歌]住む人はさあどうか、心は変ってしまったか。それは知らないけれども、古里では、花が昔のままの香に匂っている。人の心はうつろいやすいとしても、花は以前と変らぬ様で私を迎え入れてくれるのだ。)
家にありける梅の花の散りけるをよめる
暮ると明くと目かれぬものを梅の花いつの人まにうつろひぬらむ(古今45)
(日が暮れれば眺め、夜が明ければ眺めして、目を離さずにいたのに、梅の花は、いつ人の見ていない間に散ってしまったのだろう。)
歌たてまつれとおほせられし時によみたてまつれる
桜花咲きにけらしもあしひきの山のかひより見ゆる白雲(古今59)
(桜の花が咲いたらしいなあ。山の峡を通して見える白雲、あれがそうなのだ。)
春の歌とてよめる
三輪山をしかも隠すか春がすみ人にしられぬ花や咲くらむ(古今94)
(三輪山をこんなふうに隠すものか。春霞よ。人に知られない花が咲いているのだろうか。)
題しらず
花の香にころもはふかくなりにけり木この下かげの風のまにまに(新古111)
(花の香に衣は深く染みとおってしまった。木の下陰を風が吹くままに。)
比叡(ひえ)にのぼりて、帰りまうで来てよめる
山たかみ見つつわが来こし桜花風は心にまかすべらなり(古今87)
(山が高いので、私はただ遠く眺めるのみで帰って来た桜の花――あの花を、風は思いのままに散らすに決まっているのだ。)
亭子院歌合に
桜ちる木この下風はさむからで空にしられぬ雪ぞふりける(拾遺64)
(桜が散る木の下を吹いてゆく風は寒くはなくて、天の与かり知らぬ雪が降っているのだ。)
志賀の山ごえに女のおほくあへりけるによみてつかはしける
あづさゆみ春の山べをこえくれば道もさりあへず花ぞ散りける(古今115)
(春の山を越えて来ると、よけきれないほど道いっぱいに花が散り敷いているのだった。)
寛平御時きさいの宮の歌合のうた
春の野に若菜つまむと来こしものを散りかふ花に道はまどひぬ(古今116)
(春の野に若菜を摘もうとやって来たのに、散り乱れる花に道は迷ってしまった。)
亭子院歌合歌
さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける(古今89)
(風が吹き、桜の花が散ってしまった――その風が去って行ったあとのなごりには、水のない空に波が立つのだった。)
山寺にまうでたりけるによめる
やどりして春の山べに寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける(古今117)
(宿を取って春の山に寝た夜は、夢の中でも花が散るのだった。)
題しらず
春なれば梅に桜をこきまぜて流すみなせの河の香ぞする(曲水宴)
(春の真っ盛りなので、梅の花に桜の花をまぜこぜにして流す水無瀬の川の香りがする。)
吉野川の辺に山吹の咲けりけるをよめる
吉野川岸のやまぶき吹く風にそこの影さへうつろひにけり(古今124)
(吉野川の岸の山吹は、吹きつける風によって、水底の影さえどこかへ行ってしまった。)
延喜御時、春宮御屏風に
風吹けば方もさだめず散る花をいづかたへゆく春とかは見む(拾遺76)
(風が吹くと、方向も定めず散る花――春はどこへ去ってゆくのか、花の行方によって確かめようとしても、知ることなどできようか。)
縁起御時月次御屏風に
花もみな散りぬる宿はゆく春のふる里とこそなりぬべらなれ(拾遺77)
(花も皆散ってしまった家は、去りゆく春があとにして行った故郷ということになってしまいそうだ。)
夏 / 寛平御時きさいの宮の歌合のうた
夏の夜のふすかとすれば時鳥ほととぎす鳴く一声に明くるしののめ(古今156)
(夏の夜は、寝るか寝ないかのうちに、たちまち時鳥が鳴き、その一声に明けてゆく、しののめの空よ。)
ほととぎすの鳴くを聞きてよめる
五月雨の空もとどろに時鳥ほととぎすなにを憂しとか夜ただ啼くらむ(古今160)
(さみだれの降る空もとどろくばかりに、時鳥は何が辛いというので夜ひたすら鳴くのだろうか。)
山にほととぎすの鳴きけるを聞きてよめる
ほととぎす人まつ山になくなれば我うちつけに恋ひまさりけり(古今162)
(ほととぎすが、人を待つ松山に鳴くので、私はにわかに恋しい思いが増さったのだった。)
延喜御時、月次御屏風に
五月山さつきやま木この下闇にともす火は鹿のたちどのしるべなりけり(拾遺127)
(五月の山、その木陰の暗闇にともす火は、鹿が立っている場所を知らせる導きなのであった。)
延喜御時御屏風に
夏山の影をしげみや玉ほこの道行き人も立ちどまるらむ(拾遺130)
(夏山の木陰はよく繁っているので、道を行く人も涼もうとして立ち止まるのだろうか。)
六月祓
みそぎする川の瀬見れば唐衣からころもひもゆふぐれに波ぞ立ちける(新古284)
(人々が夏越の祓えをしている川の浅瀬を見ると、美しい衣の紐を「結う」ではないが、夕暮になって、波が立っているのだった。)
秋 / 秋立つ日、うへのをのこども、賀茂の河原に川逍遥しける供にまかりてよめる
川風の涼しくもあるかうち寄する波とともにや秋は立つらむ(古今170)
(川風が涼しく吹いていることよ。その風に立って打ち寄せる波と共に、秋は立つのだろうか。)
延喜の御時、御屏風に
秋風に夜のふけゆけば天の川かは瀬に波の立ちゐこそ待て(拾遺143)
(秋風の吹くままに夜が更けてゆくので、天の川の川瀬に波が立つではないが、私は立ったり座ったりしながらあなたを待っているのです。)
七月八日のあした
朝戸あけてながめやすらむ織女たなばたはあかぬ別れの空を恋ひつつ(後撰249)
(朝戸を開けて、織女は眺めているのだろうか。昨夜、牽牛と満たされずに別れた空を慕いながら。)
題しらず
秋風に霧とびわけてくるかりの千世にかはらぬ声きこゆなり(後撰357)
(秋風の中、霧を分けて飛んで来る雁の、永遠に変わることのない声が聞こえる。)
朱雀院の女郎花合によみてたてまつりける
誰が秋にあらぬものゆゑ女郎花をみなへしなぞ色にいでてまだきうつろふ(古今232)
(秋は誰のものでもなく、すべてに訪れるというのに、女郎花よ、どうしておまえだけが目に見えて早くも衰えるのか。)
藤袴をよみて人につかはしける
やどりせし人のかたみか藤袴わすられがたき香ににほひつつ(古今240)
(我が家に宿った人の残した形見か、ふじばかまの花は、忘れ難い香に匂い続けて…。)
延喜の御時、御屏風に
逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒(拾遺170)
(逢坂の関の清らかな泉に影を映して、今頃牽いているのであろうか、望月の駒を。)
月に琴弾きたるを聞きて、女(二首)
弾く琴の音ねのうちつけに月影を秋の雪かとおどろかれつつ(貫之集)
(あなたが弾く琴の音に聴き入るうち、突然月影が秋の雪のように見えて驚かれて…。)
月影も雪かと見つつ弾く琴の消えて積めども知らずやあるらむ(貫之集)
(月の光も雪かと眺めながら、あなたが弾いている琴――あたかも雪が消えては積もり、消えては積もりするように、私の心に琴の音が積もってゆくけれども、あなたはそれを知らないのだろうか。)
石山にまうでける時、音羽山のもみぢをみてよめる
秋風の吹きにし日より音羽山峰のこずゑも色づきにけり(古今256)
(秋風が初めて吹いた日から、その音がしていた音羽山の峰の梢も、色づいたのだった。)
もる山のほとりにてよめる
白露も時雨もいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり(古今260)
(白露も時雨もひどく漏るという名の守(もる)山は、木立の下葉がすっかり色づいたのであった。)
神の社のあたりをまかりける時に、斎垣いがきのうちの紅葉を見てよめる
ちはやぶる神の斎垣にはふ葛くずも秋にはあへずうつろひにけり(古今262)
(神社の垣にまつわりつく葛も、秋には堪え切れずに紅葉してしまったのだ。)
屏風の絵に
つねよりも照りまさるかな山の端の紅葉をわけて出づる月影(拾遺439)
(いつもよりひときわ照り輝いていることよ。山の端の紅葉を分けて昇る月の光は。)
世の中のはかなきことを思ひける折に、菊の花を見てよみける
秋の菊にほふかぎりはかざしてむ花より先としらぬわが身を(古今276)
(秋の菊の花が咲き匂っている間はずっと挿頭(かざし)にしていよう。花が萎むのより先に死ぬかどうか、分からない我が身であるものを。)
北山にもみぢ折らむとてまかれりける時によめる
見る人もなくて散りぬる奧山の紅葉は夜の錦なりけり(古今297)
(見る人もないまま散ってしまう奥山の紅葉は、甲斐のない「夜の錦」なのであった。)
題しらず
うちむれていざわぎもこが鏡山こえて紅葉のちらむかげ見む(後撰405)
(皆で連れ立って、さあ、鏡山を越えて、紅葉の散るありさまを見よう。)
延喜御時、秋の歌召しありければ、奉りける
秋の月ひかりさやけみ紅葉ばのおつる影さへ見えわたるかな(後撰434)
(秋の月の光が鮮明なので、紅葉した葉の落ちる姿さえ隅々まで見えることよ。)
擣衣の心をよみ侍りける
唐衣うつ声きけば月きよみまだ寝ぬ人をそらに知るかな(新勅撰323)
(衣を打つ音を聞くと、月が美しく輝いているので、まだ寝ずにいる人がそれとなく知れるのであるよ。)
秋のはつる心を龍田川に思ひやりてよめる
年ごとにもみぢ葉ながす龍田川みなとや秋のとまりなるらむ(古今311)
(毎年、紅葉した葉を流す龍田川――その河口の水門が秋の果てなのだろうか。)
長月のつごもりの日、大井にてよめる
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ(古今312)
(小暗い小倉山に鳴く鹿の声――この声のうちに、秋は暮れるのだろうか。)
冬 / 時雨し侍りける日
かきくらし時雨しぐるる空をながめつつ思ひこそやれ神なびの森(拾遺217)
(空を暗くして時雨の降る空を眺めながら、今頃散ってはいないかと思い遣るのだ、神奈備の森を。)
題しらず
思ひかね妹がりゆけば冬の夜の川風さむみ千鳥なくなり(拾遺224)
(恋しい思いに耐えかねて愛しい人の家へ向かって行くと、冬の夜の川風があまり寒いので、千鳥が鳴いている。)
冬の歌とて
雪ふれば冬ごもりせる草も木も春にしられぬ花ぞ咲きける(古今323)
(雪が降ると、冬ごもりしている草も木も、春に気づかれない花が咲いているのだった。)
雪の木にふりかかれりけるをよめる
冬ごもり思ひかけぬを木の間より花とみるまで雪ぞふりける(古今331)
(冬籠りしていて、花など思いもかけなかったのに、木と木の間から、花かと思うほど雪が降っていた。)
尚侍ないしのかみの右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、四季の絵かけるうしろの屏風にかきたりける歌

白雪のふりしく時はみ吉野の山下風に花ぞちりける(古今363)
(白雪が降りしきる時は、吉野の山から吹き降ろす風に花が散るのだった。)
題しらず
ふる雪を空に幣ぬさとぞ手向けつる春のさかひに年の越ゆれば(新勅撰442)
(降る雪を、空に捧げ物として手向けたのだった。冬から春への境の節分に年が越えるので。)
賀 / 本康親王もとやすのみこの七十の賀のうしろの屏風によみてかきける
春くれば宿にまづ咲く梅の花きみが千年ちとせのかざしとぞみる(古今352)
(春が来ると、真っ先に家の庭に咲く梅の花、これをあなたの千年の長寿を約束する挿頭と見るのです。)
左大臣家のをのこ子おんな子、冠かうぶりし、裳着もぎ侍りけるに
大原や小塩をしほの山の小松原はやこだかかれ千代の蔭みむ(後撰1373)
(大原の小塩山の小松の群生よ。早く木高くなれ。千年にわたって栄え繁った木蔭を見よう。)
離別 / 陸奥国みちのくにへまかりける人によみてつかはしける
白雲の八重にかさなる遠をちにても思はむ人に心へだつな(古今380)
(白雲が幾重にも重なるほど遠くにあっても、あなたを思っている人に対して心を隔てないでおくれ。)
人を別れける時によみける
別れてふことは色にもあらなくに心にしみてわびしかるらむ(古今381)
(人と別れるということは、色でもないのに、どうして心に染みて侘しいのだろう。)
雷(かむなり)の壺に召したりける日、大御酒(おほみき)などたうべて、雨のいたく降りければ、夕さりまで侍りてまかりいでける折に、さかづきをとりて
秋萩の花をば雨にぬらせども君をばまして惜しとこそ思へ(古今397)
(秋萩が雨に濡れるのも惜しいけれど、あなた様とのお別れが更に惜しまれます。)
藤原惟岳これをかが武蔵の介にまかりける時に、おくりに逢坂を越ゆとてよみける
かつ越えてわかれもゆくか逢坂あふさかは人だのめなる名にこそありけれ(古今390)
(逢坂の関を一方では越えて、また同時に別れてゆくのでもあるよ。逢坂とは、人を期待ばかりさせる名であった。)
志賀の山越えにて、石井いしゐのもとにて物いひける人の別れける折によめる
むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな(古今404)
(掬い取る手のひらから落ちた雫に濁る、山清水――その閼伽(あか)とする清水ではないが、飽かずに人と別れてしまったことよ。)
羇旅 / 土佐よりまかりのぼりける舟の内にて見侍りけるに、山の端ならで、月の浪の中より出づるやうに見えければ、昔、安倍の仲麿が、唐にて「ふりさけみれば」といへることを思ひやりて
都にて山の端に見し月なれど海より出でて海にこそ入れ(後撰1355)
(都では山の端に出入りするのを見た月だけれども、海から出て海に入るのだった。)
土佐より任果てて上り侍りけるに、舟の内にて、月を見て
照る月のながるる見れば天の川いづる湊は海にぞありける(後撰1363)
(照る月が流れるのを見ると、天の川を出る河口は海なのであった。)
十七日、くもれる雲なくなりて、あかつき月夜いとおもしろければ、舟を出だして漕ぎゆく。このあひだに、雲の上も海の底も、おなじごとくになむありける。むべも昔の男は「棹は穿つ波の上の月を、船はおそふ海のうちの空を」とはいひけむ。聞きざれに聞けるなり。またある人のよめる歌、
みな底の月のうへよりこぐ舟の棹にさはるは桂なるらし
これを聞きて、ある人のまたよめる、
影みれば波の底なるひさかたの空こぎわたる我ぞわびしき(土佐日記)
(海に反映する月の光を見れば、私は波の底にある空を漕ぎ渡っているのだ――その私という存在の、なんと頼りなく、物悲しいことよ。)
恋 / 題しらず
吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし(古今471)
(吉野川の岩波を高く立ててゆく水が速く流れる――早くから、あの人を思い始めたことであったよ。)
題しらず
世の中はかくこそありけれ吹く風の目に見ぬ人も恋しかりけり(古今475)
(人の世とは、かくも不思議なものであったのだ。吹く風のように目に見えない人も恋しいのだった。)
人の花摘みしける所にまかりて、そこなりける人のもとに、のちによみてつかはしける
山ざくら霞のまよりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ(古今479)
(山桜が霞の間からほのかに見えるように、かすかに見たばかりの人が恋しくてならないのです。)
題しらず
逢ふことは雲ゐはるかになる神の音に聞きつつ恋ひ渡るかな(古今482)
(逢うことは、雲の上のように及び難いことで、雷鳴の音のように遠く噂を聞きながら恋し続けることであるよ。)
題しらず
秋風の稲葉もそよと吹くなへに穂にいでて人ぞ恋しかりける(玉葉1645)
(秋風が稲の葉をよそがせて吹くにつれて、穂が出てそれと人目につくように、私も表情にあらわしてしまう程にあの人が恋しいのであった。)

大空はくもらざりけり神かみな月時雨しぐれ心ちは我のみぞする(貫之集)
(時雨の降る季節だというのに、空は曇らないのだった。初冬十月、時雨の降りそうな心地がするのは私ばかりであるよ。)
寛平御時きさいの宮の歌合の歌
君恋ふる涙しなくは唐ころも胸のあたりは色もえなまし(古今572)
(あの人を恋して流す涙がなかったなら、私の衣服の胸のあたりは、恋の火の色が燃えていたでしょう。)
題しらず
世とともに流れてぞ行く涙川冬もこほらぬ水泡みなわなりけり(古今573)
(移りゆく世と共に流れて行く涙の川――それは、常に流れが激しいので冬も氷らない水の泡なのであった。)
題しらず
夢路にも露やおくらむ夜もすがらかよへる袖のひちてかわかぬ(古今574)
(夢の中で辿る道の草にも露は置くのだろうか。一夜をかけて往き来する私の袖は濡れて乾くことがない。)
題しらず
五月山こずゑをたかみ時鳥なくねそらなる恋もするかな(古今579)
(五月の山は梢が高いので、ほととぎすの鳴く声は空高く聞こえる――そのように私もうわの空の恋をすることであるよ。)
題しらず
真菰まこも刈る淀の沢みづ雨ふれば常よりことにまさる我が恋(古今587)
(真菰を刈る淀の沢水は、雨が降るのでいつもより水嵩が増す――そのように、雨が降る季節になると、あなたに逢えなくていつもより増さる私の恋心よ。)
大和に侍りける人につかはしける
越えぬ間はよしのの山の桜花人づてにのみ聞きわたるかな(古今588)
(山を越えて、吉野の桜を実際この目で見ないうちは、その美しさを人伝にばかり聞くのであるよ。)
弥生ばかりに、物のたうびける人のもとに、また人まかりつつ消息せうそこすと聞きて、よみてつかはしける
露ならぬ心を花におきそめて風吹くごとに物思ひぞつく(古今589)
(花に置いた露は風が吹けば果敢なく散ってしまいますが、露のように仮初でない私の心を、花のような美しい貴女に置き始めてからというもの、風が吹くような事件が起きるたびごとに、悩ましい思いに取り付かれるのです。)
題しらず
白玉と見えし涙も年ふればからくれなゐにうつろひにけり(古今599)
(初めは白玉と見えた私の涙も、年を経ると、紅の色に変わってしまったのだ。)
題しらず
津の国の難波の蘆のめもはるにしげき我が恋人知るらめや(古今604)
(津の国の難波の蘆が芽をふくらませ、目も遥かに繁っている――そのように私の恋もひっきりなしなのだが、人は知っていようか、いや知りはすまい。)
題しらず
手もふれで月日へにけるしら真弓おきふしよるはいこそ寝られね(古今605)
(手も触れずに、長い歳月を経た白真弓――弓を起こしたり臥したりすると言うが、私は起きたりまた横になったりして、夜はろくに眠れないのだ。)
題しらず
かけて思ふ人もなけれど夕されば面影たえぬ玉かづらかな(新古1219)
(心にかけて思う人もいないのだけれど、夕方になると、誰とはなしに女の美しい髪が絶え間なく面影に立つことよ。)
題しらず
しきしまや大和にはあらぬ唐衣ころもへずして逢ふよしもがな(古今697)
(日本のものではない唐衣――その「ころ」ではないが、頃すなわち日数を置かずに逢う手だてがほしいものだ。)
題しらず
色もなき心を人にそめしよりうつろはむとは思ほえなくに(古今729)
(色など無かった心を、人に染めてからというもの、色が褪せるように私の心が変わろうとは、思われもしないことよ。)
題しらず
いにしへになほ立ちかへる心かな恋しきことに物忘れせで(古今734)
(昔の思いにまた立ち戻る心であるよ。恋しいことについては、うっかり忘れるということをしないで。)
言ひかはしける女のもとより「なほざりに言ふにこそあめれ」と言へりければ
色ならば移るばかりも染めてまし思ふ心をえやは見せける(後撰631)
(私の思いが色であるならば、あなたの心に移るほどにも染めましょう。しかし色ではないのですから、どうして思う心を見せることができたでしょう。)
年久しく通はし侍りける人に遣はしける
玉の緒のたえてみじかき命もて年月ながき恋もするかな(後撰646)
(すぐに玉の緒が絶えてしまって、本当に短い人の命――そんなはかない命でもって、長い歳月に渡る恋をすることよ。)
題しらず
風吹けばとはに波こす磯なれやわが衣手のかわく時なき(新古1040)
(風が吹くと常に波が越える磯だとでもいうのか。私の衣の袖は乾く時がない。)
人のもとより帰りてつかはしける
暁のなからましかば白露のおきてわびしき別れせましや(後撰862)
(もし暁がなかったならば、白露が置く時に起きて辛い別れなどしたでしょうか。)
題しらず
百羽ももはがき羽かく鴫しぎも我がごとく朝あしたわびしき数はまさらじ(拾遺724)
(百度も羽を掻く鴫も、私ほど朝の辛いことの数は多くあるまい。)
題しらず
おほかたの我が身ひとつの憂きからになべての世をも恨みつるかな(拾遺953)
(おおよそのことは私一身の思うにまかせない憂鬱が原因であるのに、おしなべて世の中のせいにして恨んでしまうことよ。)
延喜十七年八月宣旨によりてよみ侍りける
来ぬ人を下に待ちつつ久方の月をあはれと言はぬ夜ぞなき(拾遺1195)
(訪れない人を心中に待ちながら、月をすばらしいと賞美しない夜とてない。)
哀傷 / 紀友則が身まかりにける時よめる
明日知らぬ我が身と思へど暮れぬまの今日は人こそかなしかりけれ(古今838)
(私自身、明日の命も分からない身だと思うけれども、日が暮れるまでに残された今日という日のわずかな間は、人のことが悲しいのであった。)
おもひに侍りける年の秋、山寺へまかりける道にてよめる
朝露のおくての山田かりそめにうき世の中を思ひぬるかな(古今842)
(朝露が置く、晩稲の山田を刈り始める季節――かりそめのものと、つらい世の中を思ったことであるよ。)
藤原高経(たかつね)朝臣の身まかりての又の年の夏、ほととぎすの鳴きけるを聞きてよめる
ほととぎす今朝鳴く声におどろけば君に別れし時にぞありける(古今849)
(時鳥が今朝鳴く声にはっと気がつけば、昨年あなたと死に別れたのと同じ時節なのだった。)
河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、塩釜といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる
君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな(古今852)
(あなたがいらっしゃらなくて、煙が絶えてしまった塩釜の浦――見渡せば、すっかりうら寂しく感じられることよ。)
思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれしをんな子の、もろともにかへらねば、いかがは悲しき。舟人もみな、子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきにたへずして、ひそかに心知れる人といへりける歌
生まれしもかへらぬものをわが宿に小松のあるを見るがかなしさ(土佐日記)
とぞいへる。なほ飽かずやあらむ、またかくなむ
見し人の松の千とせに見ましかば遠く悲しき別れせましや(土佐日記)
((京のこの家で昔過ごした日々について)思い出さぬこととてなく、懐かしく恋しがるうちに、この家で生まれた女の子が、一緒に帰らないので、いかに悲しいことか。舟人も皆、子供が寄り集まって騒ぐ。そうこうするうちに、さらに悲しいのに耐えられず、気の置けない人(妻)とひそかに言い交わした歌、(歌)この家で生まれた子も帰って来ないのに、庭に新しく生えた小松があるのを見るのは悲しいことよ。と詠んだ。なお満足できなかったのか、またこのように。(歌)死んだ子が松の木のようにいつまでもそばにいてくれたなら、遠くの土地で悲しい別れなどせずにすんだのに。)
雑 / 同じ御時、大井に行幸ありて、人々に歌よませさせ給ひけるに
大井川かはべの松にこととはむかかる行幸みゆきやありし昔を(拾遺455)
(大堰川の川辺の松に問うてみよう。このように盛大な行幸は昔もあったかと。)
越なりける人につかはしける
思ひやる越の白山しらねどもひと夜も夢にこえぬ夜ぞなき(古今980)
(遥かに思いやる越の白山――実際は知らないのだけれど、一夜として夢の中で越えない夜はありません。)
元良親王、承香殿の俊子に春秋いづれかまさると問ひ侍りければ、秋もをかしう侍りといひければ、面白き桜をこれはいかがと言ひて侍りければ
おほかたの秋に心はよせしかど花見る時はいづれともなし(拾遺510)
(大体のところは秋に心を寄せたけれども、桜の花を見る時は、どちらとも言えません。)
やよひのつごもりの日、久しうまうで来ぬよし言ひて侍る文の奧にかきつけ侍りける
またも来む時ぞと思へどたのまれぬわが身にしあればをしき春かな(後撰146)
つらゆき、かくておなじ年になむ身まかりにける
(また行こうと思っていた時なのですが、頼みにならない私の身体ですので、再び巡って来る季節とは言え、悔いの残る春ですことよ。)
世の中心細く、つねの心地もせざりければ、源の公忠の朝臣のもとにこの歌をやりける。このあひだに病おもくなりにけり
手にむすぶ水にやどれる月影のあるかなきかの世にこそありけれ(拾遺1322)
後に人の云ふを聞けば、この歌は返しせむと思へど、いそぎもせぬほどに失せにければ、驚きあはれがりてかの歌に返しよみて、愛宕にて誦経して、河原にてなむ焼かせける。
(手に掬った水に映っている月の光のように、あるのかないのか、定かでない、はかない生であったことよ。) 
3
紀貫之 (きのつらゆき、872年頃-945年頃)は平安時代初期の日本の歌人。『古今和歌集』の撰者の一人で仮名序作者。紀友則は従兄。
和歌
『古今和歌集』
むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ
春日野の若菜つみにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ
人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける
/ 詞書「初瀬にまうづるごとに、やどりける人の家に、久しく宿らで、程へて後にいたれりければ、かの家のあるじ、かくさだかになんやどりはあると、いひいだして侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる」。『小倉百人一首』にも収録。
三輪山をしかもかくすか春霞人にしられぬ花やさくらむ
桜花ちりぬる風のなごりには水なきそらに浪ぞたちける
夏の夜のふすかとすればほととぎすなくひとこゑにあくるしののめ
河風のすずしくもあるかうちよする浪とともにや秋は立つらむ
秋風のふきにし日よりおとは山峰のこずゑも色づきにけり
しらつゆも時雨もいたくもる山はしたばのこらず色づきにけり
/ もる山は近江国守山と「漏る」を懸けたもの。
見る人もなくてちりぬるおく山の紅葉は夜のにしきなりけり
年ごとにもみぢばながす龍田河みなとや秋のとまりなるらむ
雪ふれば冬ごもりせる草も木も春にしられぬ花ぞさきける
春くればやどにまづさく梅の花きみがちとせのかざしとぞみる
/ 詞書「もとやすのみこの七十の賀のうしろの屏風によみてかきける」。本康親王は仁明天皇の皇子。
しらくものやへにかさなる遠にてもおもはむ人に心へだつな
/ 詞書「みちのくにへまかりける人によみてつかはしける」。
わかれてふ事はいろにもあらなくに心にしみてわびしかるらむ
むすぶてのしづくににごる山の井のあかでも人にわかれぬるかな
/ 第四句「あか」は「飽か」と「閼伽」(仏への供え物、とくに水)を懸ける。本歌は藤原俊成『古来風躰抄』。に「歌の本體はたゞ此の歌なるべし」と評される。
吉野河いは浪みたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし
世の中はかくこそありけれ吹く風のめに見ぬ人もこひしかりけり
いにしへに猶立ちかへる心かなこひしきことに物忘れせで
あすしらぬわが身とおもへどくれぬまのけふは人こそかなしかりけれ
/ 詞書「紀友則が身まかりにける時よめる」。
君まさで煙たえにししほがまのうらさびしくも見え渡るかな
/ 詞書「河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、塩釜といふ所のさまをつくれりけるをみてよめる」。
『後撰和歌集』
宮こにて山のはに見し月なれど海よりいでて海にこそいれ
/ 『土佐日記』にも見える。
てる月のながるる見ればあまのがはいづるみなとは海にぞありける
/ 『土佐日記』にも見える。
『拾遺和歌集』
あふさかの関の清水に影見えて今やひくらむ望月のこま
思ひかねいもがりゆけば冬の夜の河風さむみちどりなくなり
おほかたのわが身ひとつのうきからになべての世をも恨みつるかな
桜ちる木の下風は寒からでそらにしられぬ雪ぞふりける
その他
白栲に雪の降れれば草も木も年と共にも新しきかな
朝露のおくての稲は稲妻を恋ふとぬれてやかはかざるらむ
山桜霞のまよりほのかにも見しばかりにや恋ひしかるらむ
真菰刈る淀の沢水雨降れば常よりことにまさるわが恋
大原や小塩の山の小松原はや木高かれ千代の影見む
君まさで煙絶へにし塩釜のうら淋しくも見えわたるかな
桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける
かき曇りあやめも知らぬ大空に蟻通しをば思ふべしやは
ひぐらしの声もいとなく聞ゆるは秋夕暮になればなりけり
あるものと忘れつつなほ亡き人をいづらと問ふぞ悲しかりける
影見れば波の底なる久方の空漕ぎわたるわれぞさびしき
ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな
千代経たる松にはあれどいにしへの声の寒さは変らざりけり
をぐら山みねたちならしなく鹿のへにけむ秋をしる人ぞなき
/ 小倉山を各句の頭においた折句
桜花咲きにけらしも足曳きの山の峡より見ゆる白雲
うば玉のわがくろかみやかはるらむ鏡の影にふれる白雪
/ 紙屋川を詠み込んだ物名もののな歌。鏡は川のほとりにある鏡石。
散文
『古今和歌集』 仮名序
やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことのはとぞ なれりける
世の中にある 人ことわざ しげきものなれば 心におもふことを 見るものきくものに つけていひいだせるなり
花になくうぐひす 水にすむかはづのこゑをきけば いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける
ちからをもいれずしてあめつちをうごかし めに見えぬ おに神をもあはれとおもはせ をとこをむなのなかをもやはらげ たけきものゝふの心をもなぐさむるはうたなり
このうた あめつちのひらけけはじまりけるときより いできにけり しかあれども 世につたはることは ひさかたのあめにしては したてるひめにはじまり あらかねのつちにては すさのをのみことよりぞおこりける ちはやぶる神世には うたのもじもさだまらず すなほにして 事の心わきがたかりけらし ひとの世となりて すさのをのみことよりぞおこりける
ちはやぶる神世には、うたのもじもさだまらず、すなほにして、事の心わきがたかりけらし
ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける
かくてぞ 花をめで とりをうらやみ かすみをあはれび つゆをかなしぶ心 ことばおほく さまざまになりにける。とほき所も いでたつあしもとよりはじまりて 年月をわたり たかき山も ふもとのちりひぢよりなりて あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに このうたも かくのごとくなるべし
なにはづのうたは みかどのおほむはじめなり
/ 「なにはづのうた」は「なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな」。仁徳天皇に帰せられる。
あさか山のことばは うぬめのたはぶれよりよみて このふたうたはうたのちははのやうにてぞ 手ならふ人の はじめにもしける
いにしへより かくつたはるうちにも ならの御時よりぞ ひろまりにける
/ 「ならの御時」は平城天皇。
かのおほむ世や うたの心をしろしめしたりけむ
かのおほむ時に おほきみつのくらゐかきのもとの人まろなむ うたのひじりなりける。
人まろはあかひとがかみにたたむことかたく あか人は人まろがしもにたたむことかたくなむありける
たとひ時うつり ことさり たのしび かなしびゆきかふとも このうたのもじあるをや
うたのさまをもしり ことの心をえたらむ人は おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも
『土佐日記』
をとこもすといふ日記といふ物をゝむなもしてみむとてするなり
/ 表記は定家本「土左日記」による。
おもひ出でぬことなく、おもひ恋しきがうちに、この家にて生まれしをんな子の、もろともにかへらねば、いかがは悲しき。舟人も、みな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきにたへずして、ひそかに心知れる人といへりける歌
むまれしもかへらぬものをわが宿に小松のあるをみるがかなしさ
とぞいへる。なほ飽かずやあらむ、またかくなむ
みし人の松のちとせにみましかばとほくかなしき別れせましや
/ 帰京して、任地でなくなった女子を悼む歌。 
4
土佐日記
承平4年(934)、貫之は土佐守としての4年の任期をおえて京に旅立つ。12月21日から翌2月16日までの舟旅で、ちょうど55日にわたる。貫之はこの55日間の出来事を(たった一行の記録という日も少なくないものの)、とりあえずは1日ずつすべてを記録にのこした。それが『土佐日記』である。いや、記録にのこしたのか、あとから書いたのかはわからない。当時は「具注暦」というものがあって、貴族や役人は漢文で日記日録をつける習慣をもっていた。貫之もそのような漢文日録をつけておいて、それをあとから仮名の文章になおしたのかもしれない。あるいは道中から和文備忘録を綴っていたのかもしれない。そういうことがいろいろはっきりしない『土佐日記』だが、なかでも問題は、なぜ貫之は日記を仮名の文章にしたのかということである。なにゆえに「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」という擬装を思いついたのか(実際には『土佐日記』は仮名のみの表記だが、ここではわかりやすくするために漢字仮名交じり文にする)。
女性の文章に仮託したため、もうひとつ、もうふたつの偽装にも徹することになった。冒頭から、「ある人、縣の四年五年果てて、例のことどもみなしをへて、解由などとりて、住む館よりいでて、舟にのるべきところにわたる」というふうに、自分のことを「ある人」とした。ある女が眺めている「ある人」の旅の道中というふうにした。挿入した歌も貫之がつくっていながら、別のある人の歌の引用に見せたりもしている。二重の擬態装。三重の仮託。漢字と仮名。男と女。それに加えて、日記と創作。地の文と歌の紹介。貫之は何をどのように考えてこんなことに走ったのか。そんなことは無自覚だったのか。仮に無自覚であったとしても、このことはその後の日本文芸に、日記であって物語であるような新たな文芸様式の試みを次々に創発させたのである。「千夜千冊」でとりあげた例でいえば、『和泉式部日記』など、まさに日記であって物語であった。あのような様式は、貫之がすべて創発したものだったのである。だとしたら貫之が無自覚であるはずがない。
貫之が『土佐日記』を綴ったのは、どうやら60歳すぎ、あるいは70歳に近いころで、最晩年のことだった。それまでに『古今和歌集』の編集責任者などの大役を担っていながら、貫之は老年になって遠い土佐守に任ぜられた。約5年間の任期。その帰途を日記に仕立てた。それまでも赴任や遥任はあった。しかし貫之は土佐の帰途だけを日記にした。そこには理由があるはずである。何の魂胆もなくて、いわばトランスヴェスタイトともいうべきスタイルをとってまでして、不思議な女装文章にしたとは考えにくい。ひそかに歴史にのこそうとしたのか、それとも『土佐日記』にはいくつもの象徴的な和歌が織りこまれているのだが、そのように和歌を織りこむ日記和文様式を通して、後世に何かを託す気があったのか、どうか。こうしたことをずっと考えてきたので、ここではそのことにふれてみたい。
貫之は紀望行の子で、紀友則とは従兄弟どうしにあたる。生年ははっきりしないが、おそらく貞観10年(868)か、その5年後までのあたりであろう。その貫之の名が最初に記録に見えるのは、寛平5年(894)前後の是貞親王の歌合や有名な「寛平御時后宮歌合」のときだから、だいたい30歳そこそこか、20代半ばのことだった。そうだとすると、このころは菅原道真の絶頂期で、道真が遣唐使の廃止を提案したときにあたる。このとき貫之は、若くして宮廷の歌合に招かれるほどの、かなり知られた歌人になっていたわけである。道真についてはここではふれないが、道真は親政を敷いた宇多天皇に抜擢されて、続く少年天皇・醍醐の右大臣をつとめた官吏で、漢詩の達人だった。それとともに、時代が漢詩主流文化から和歌主流文化に移行するのを支えた文人でもあった。その道真がかなり深く編集にかかわったとみられる『新撰万葉集』という興味尽きない和漢詩歌集があるのだが、これがやはり寛平5年あたりに成立していた。『新撰万葉集』は和歌と漢詩を並べたもので、しかも他には見られない独得の真仮名表記をとっていた。和歌と漢詩を並べるとはどういうことかというと、たとえば和歌に「奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきくときぞ秋はかなしき」とあれば、それに合わせて漢詩は「秋山寂々として葉零々たり、麋鹿の鳴く音数処に聆ゆ‥」というふうに、七言絶句にして併記した。それなりに実験に富んだ手法を駆使するものである。ところが、このように漢詩と和歌をやすやすと対同的に並べることができた才能の持ち主でもあった道真が、貫之が昇殿するようになった寛平5年前後を最後に、突然に左遷された。この道真の没落は菅家そのものの没落であり、紀家の貫之にとっても他人事ではなかった。紀家も大伴家も、のちの歴史が証したように、すでに藤原一族によって追い落としを迫られていたからだ。しかし、貫之は歌人としては宇多天皇に認められている。しかも和漢並立の才能を誇る時代は、道真とともに後退しつつある。貫之をめぐっては、まずはこういう「家の消長」と「歌人としての栄光」と「和漢の並立」という、そのひとつひとつだけでもかなり歴史的な意味をもった事情が互いに重なりあうような、そんな出発点があった。
こういう背景をもった貫之が、晩年に風変わりな諧謔と隠者の趣向を発芽させたような『土佐日記』を、女装型仮名文として書いてみせた事情の奥行を考えてみると、そこにはそれ以前から貫之が計画したか、ないしは計画したかった"あること"が浮かびあがってくる。その"あること"とは、貫之の「日本語計画」ともいうべきものである。はたして「日本語計画」などと言っていいかどうかはわからないけれど、まあ、それに近いおもいはあったであろう。そのおもいを溯っていくと、その発端は宇多天皇が好んだ屏風歌の制作や御書所預(みふみどころのあずかり)の仕事に従事していたあたりに胚胎し、『古今和歌集』の真名序と仮名序の併置となってはっきり浮上した。貫之が仮名序を書いたことは(真名序は紀淑望だとされているものの、当然、貫之のディレクションがあった)、日本文芸における倭語から和語への進捗をもたらしたのであるが、そんなことをおもいつけた意図を推理するには、そのころ貫之がどんな位置にいたかという日本語表現環境を知っておかなければならない。
急いでたどってみよう。まず惟喬親王サロンがあった。この和風文化の前駆体ともいうべきサロンに、伯父の紀有常や有常女を妻とした在原業平がいた。遍照・小町などを加えて、後の世に六歌仙時代といわれる。けれども有常も業平も、また惟喬親王も、ありあまる文才や詩魂がありながらも、もろもろの事情で失意の裡に王朝文化を飾りきれなかった。そうしたあとに宇多天皇が即位する。途中、阿衝の紛議などがあり、それまで自在に権力をふるっていた藤原基経の横暴に懲りた宇多天皇は、いよいよ関白をおかずに親(みず)から政務をとって、前代の摂関政治に代わる親政を敷く。これが寛平・延喜時代の開幕である。ここで菅原道真・紀長谷雄らの学者文人が登用され、宮廷行事のなかに「歌合」(うたあわせ)が採りこまれた。歌合の登場がまことに重要だ。歌合は「物合」(ものあわせ)に付随して始まったもので、前栽の花々や菊合わせや美しい小箱を合わせて優劣を競っていた宮中や院の遊びに、興をさらに募らせるべく和歌が添えられたのが最初であったとおもわれる。だからこの時期の歌合はまだまだ揺籃期というべきで、のちの歌論めいた真剣な評定評釈の水準には至らないのだが、そのかわり、むしろその場の雰囲気や趣向にあうこと、あわせることを当意即妙に見せるのがおもしろがられていた。宇多天皇もなかなかの文藻の持ち主だったので、この和歌の歌合は捨てたものじゃないということになり、それまで漢詩のずっと下にいた和歌の地位向上にも関心をもった。寛平5年以前の后宮(きさいのみや)歌合は実に百番二百首をこえる大規模な歌の宴となっている。この歌合の場に若き貫之が列席できていたということが、すべての魂胆のスタートだったにちがいない。
一方、さきほども書いたように、道真らは『新撰万葉集』を編んで漢詩に対する和歌の対同を遊び、ここからも和歌の向上がはかられた。こうして貴族たちが挙って和歌にしだいに関心を寄せていくことになってきたのであるが、もちろんその段階では、誰も「和文」を持ち出すまでには及んでいなかった。延喜元年(901)のこと、貫之は御書所預に選ばれて、禁中の図書を掌ることになった。これは宮廷の図書室長のような職掌についたということである。そして、このときあたりから貫之のライブラリアンとしての編集能力が、つまりはエディターシップの才能が開花した。それはまた歌合を重視しはじめた宇多宮廷サロンにとっても必要な才能だったはずである。誰もエディターシップをとろうとしないサロンなど、古今東西充実したためしがない。歌合は「場のサロン」であって、「和語のクラブ」であるべきだった。やがて宇多天皇は落飾して、帝位を13歳の醍醐に譲る。けれども宇多院が文化の帝王であることは変わらず、各地への遊幸にも熱心だったし、歌の宴も煽っていた。なかでも『万葉集』以来の勅選歌集を和歌でこそ編纂したかった。この『古今和歌集』の計画には若き醍醐帝にもすこぶる心惹かれるところがあったらしく、そこで編集委員に選ばれたのが紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠峯の気鋭の4人だった。編集室は「御書所」か「承香殿の東なるところ」、帝から期待された編集方針は「古質之語」に学ぼうとするところとなった。勅命が下ったのは延喜5年のことだった。
ここで貫之が持ち前のエディターシップを和歌の場を背景に、いよいよ「文」にも発揮する。『古今和歌集』の編纂はその絶好の機会を貫之に与えたのである。むろん『万葉集』以降の和歌秀歌の選抜もたいそう苦心の作業ではあったけれど、これは「詔して各家集ならびに古来の旧歌を献ぜしむ」という第一編集段階と、それらを選抜分類して部立(ぶだて)をつくる第二編集段階とに分業できたので、どちらかといえば協同的なスタッフワークができた。「夜の更くるまでとかう云ふ」ような喧々諤々の議論もあった。しかし、序文はどうか。これは貫之一人の才能に頼られた。ここで貫之は、かねておもうところのあった仮名による和文の序の執筆に走る。貫之は綴った。おそらく一気呵成であったろう。これが、「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」「世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり」で始まる、あの有名な仮名序となった。世阿弥『花伝書』や芭蕉『奥の細道』の冒頭に匹敵する画期の一文だが、むろん世阿弥や芭蕉がこの仮名序に倣った。
仮名序の内容はここでは措いておく。問題は貫之が満を持したかのように、仮名の文章を漢字の文章に対同させたことである。漢詩と和歌は比べられてきた。たえず対同されてきた。そういうことは道真もうまかった。しかし、漢文に対する和文の対比はまだ誰も試みたことがない。貫之は勅撰和歌集という絶好の機会を千載一遇として、一挙に書き連ねてみせたのだ。漢文の真名序は貫之の意向を配慮して、淑望が書いた。貫之の仮名序は真名序と対応していただけではない。部立とも対応した。いや、おそらくは部立を編集するうちに、はたと仮名序の必要に至ったのだとおもう。ぼくはいまなお感心するのだが、春・夏・秋・冬・恋・雑のあいだに賀・離別・羈旅・物名・哀傷を、なんとまあ巧みに挿しこんだものである。編集名人だ。さらに雑体と大歌所歌は張出番付のように扱った。そこに約一千首がもののみごとに配当された。きっと部立のマスタープログラムは貫之が、歌の選抜振り分けはみんなの協同作業であったろう。ともかくもこうして貫之は、前代未聞の「和文・仮名つかい」による大和歌(和歌)の収容を成就した。ぼくはこの計画実行こそが日本語の将来を変えたのだとおもっている(もう少し先のことでいえば、真言僧による日本語の研究と「いろは歌」や「五十音図」の確立も大きかったし、琵琶法師らによる『平家物語』の編集も大きかったが、なにより貫之の快挙こそが先頭を切ったのだ)。
こうして貫之の「日本語計画」は発進した。それは、中国的なるものに日本的なるものを対置するという方法を、「文」において初めて成功させた快挙であった。すでに漢風あるいは唐風の建築様式を大極殿朝堂院のモードにして、皇族貴族の住まう建物を檜皮葺(ひわだぶき)高床式の寝殿づくりの和風モードとしたり、漢詩に和歌を対同させることなら、先人たちがあれこれ試みてきたことだった。しかし、漢文に和文を対比すること、さらにその和文をそれ自体として自身の文体をもって自己進化させることなど、誰もトライはしていなかった。だいいち古今集以前の時代では、まだ仮名文字の感覚がどのように世に伝わるかが見当すらついていなかった。いってみれば貫之の幸運は、ちょうど万葉仮名から草仮名への移行期にぴったり立ち会えたということでもあったのである。このことは貫之がどのように「書」を書いていたかということに関係がある。われわれは伝貫之の書を『高野切』や『寸松庵色紙』で見ることができるのであるけれど、それらは「書」の書風の出来栄えとしてもさることながら、それは当時、いったいどのように仮名文字の連鎖によって日本人のあいだにコミュニケーションが成り立つのかという「日本の言の葉」の伝達実験でもあったというふうに見ることもできるほどの、大きな試みでもあったのである。このことは貫之を語るときにいつも忘れられすぎてきたことなので、いささか注意を促しておきたかった。分かち書き、散らし書きという書き方そのものが、日本語計画のいったんに入っていたというべきなのだ。
さて、貫之の『古今和歌集』のその後を追っているとキリがなくなるので、話をここで一気に結論に飛ばすことにするが、貫之は延喜10年には少内記、3年後には大内記、延喜17年には従五位下を授けられたのち、加賀介や美濃介に任ぜられた。いずれも遥任で、現地には行かなかった。こうしてしだいに官位が上がっていくなか、貫之が実際に何を考えていたかということは史料からは窺えない。しっかりは窺えないのだが、だいたい見当がつくのは、和歌サロンの中心をつねに占めつづけていたことである。おそらくは堤中納言藤原兼輔と藤原定方のサロンにいたことだろう。つまりは延喜・延長の20年あまり、貫之は時の和風文化の進捗を内側から観察できる最も心地よい場所にいたはずなのである。では、この間、貫之は何を感得したか。それがどのように『土佐日記』になったのか。いや、貫之はろくなことを考えもしなかったと、突き放したのは正岡子規だった。ただ凡庸な歌を詠んでいたにすぎないのではないかと突き放したのだ。与謝野鉄幹も似たようなもので、貫之は「ますらをぶり」を失っていったとみなした。子規と鉄幹が貫之と古今集をバカにしたことは、日本文芸史がながらく貫之の本位が奈辺にあるかを見失うことになった。いまはそのミスリードを詰ることはしないけれど、これは二人の早合点であり、その早合点をしたことが、またかえって明治の写生リアリズムの歯車を動かしたのでもあった。が、このことはそのくらいの話にしておこう。
多少とも貫之の心に迫ったのは藤原定家で、これは貫之の歌詠みに対する評釈にはすぎないけれど、「心たくみにたけ及びがたく、言葉つよく姿もおもしろきさまを好み」と見て、しかしながら「余情妖艶の躯をよまず」と注文をつけた。「たけ」とは崇高なさまをいう。文句ばかりがついたわけではない。香川景樹は貫之によって「大和歌の道」がふたたび「古に復る」ことになって、今に及んだのだという評価で、それがいわゆる桂園派となった。その桂園派の歌にいちゃもんをつけたのが子規だったのである。こうして約40年前になって、やっと目崎徳衛がそれまで誰も書いていなかった伝記『紀貫之』を書いて、貫之の和歌サロンにおける充実に光をあてた。もう少し突っ込んで、きっと貫之は歌宴にひそむ孤心ともいうべきを感得していたはずだというのが、大岡信が書いた話題の『うたげと孤心』の見方であった。乱暴に貫之をめぐる毀誉褒貶を紹介してみたが、それらが細かくはどうあれ、どちらかといえば貫之の胸中は察せられずに放置されてきたといったほうがいい。しかし、ぼくは貫之はひそかに計画を練っていたと考えたかったのである。
かくして貫之は都から遠く離れた土佐に行く。和歌には遠い遠国である。しかも4年にわたった任期となった。いよいよ都に帰ることになった貫之は、ここで最後の計画の着手をおもいつく。いろいろ考えてきたことである。それをひとつの計画に集約してみたい。まずは歌日記というものをつくってみたい。第1には、その衝動だった。第2には、和文で綴りたい。漢文日記を和文に変えて、そこに和歌を盛りこみたい。第3には、仮名で綴ってみたかった。すでに歌合日記というものが歌合にともなって記録されていたことがある。「亭子院歌合」などの記録が残っている。これが女手による仮名になっていた。貫之はそれを思い出していた。こうして船旅が始まり、その備忘録がのこり、これを構成しなおし、和歌を整え、虚構をおりまぜて日記のスタイルができあがったのである。仮名の歌日記とするには書き手が女である必要を感じたので、おそらくは都に帰ってきてからのことだったろう。あるいは船旅をするうちにそのような策を練っていたものか。貫之が『土佐日記』で試みたことは、たしかに擬装である。それも二重三重の擬装であった。しかしながら考えてみればわかることだとおもうが、日本人が日本文字をどのようにつくったかといえば、これは漢字を柔らかくくずして草仮名にしたり、漢字の一部を取って片仮名にしたわけである。"中国的なるもの"を意識して、初めて"日本的"なる檜皮葺き白木の建築様式に気がついたわけだった。唐絵があって初めて倭絵をつくれたわけなのだ。実は擬装は「日本」をつくりだすための、「日本」というのがおおげさならば「くにぶり」(国風)をつくりだすための、必要不可欠とはいわないが、きわめて有効な世界像装置だったのである。おそらく貫之はそこに気がついた。そして「言霊さきはふ国」に、いまだおこっていない和語和文和字の表象様式をつくりだしたいと考えたのである。『土佐日記』とは、そのための装置だった。ただし、決して重たい装置にはしなかった。メモリーを軽くし、エンジンを日記共用型にして、さらに読みやすいインターフェースのようなものを加えて、その後の誰もが真似しやすいものにした。貫之の計算である。これは、貫之の時代が女手の台頭や女房文化の台頭を予感させる時代になっていたことを、すでに貫之が正確に読んでいたことをあらわしてもいた。貫之は、そのあたりの出来具合がなかなかたいしたものだとおもうところなのであるが、自体を百年も三百年も制するアイディアに気がつきながら、それが世間に静かに定着していくべき初期条件がどうあればいいのか、そのことがよくよく考慮できる才能だったのだ。
こうして『土佐日記』は「男がすなる日記」の重要性を伝えつつも、それを「女がしてみむとてする」という場合の可能性を拓き、女が綴るのだから女文字である仮名でありえていいのではないかという試作性を促し、かつまた自分のことを「ある人」に託する創意創作の手法もまたありうることを暗示して、さらには諧謔や冗句を交えて、そのような大胆な試みがそれほど困難ではないことすらをも、告知したわけである。なんだか「千夜千冊」にしてはだらだら長いものになってしまったが、言いたかったことは、この一作によって「日本語計画」がみごとに実行に移され、その後の日本の表現世界の多くがこの一作をなぞることから始まったということだ。
終わりに一言。
残念ながら『土佐』の内容にまったくふれることができなくなってしまったが、この日記が仕込んだ世界像装置には、「影みれば波の底なる久方の空こぎわたるわれぞわびしき」の一首に象徴されるような、水中と空中を写しあわせた"鏡像装置"も、ひそかに作動していたということを申し添えておきたい。似たような鏡像装置として、次の数首もある。その前後を読みこんでいくことも、実は『土佐日記』を読みこむことのたのしみでもあった。貫之、ひょっとして日本のルイス・キャロルでもあったのか、どうか。
水底の月の上より漕ぐ舟の 棹にさはるは桂なるらし
ひさかたの月に生ひたる桂河 底なる影もかはらざりけり
ちはやぶる神の心を荒るる海に 鏡を入れてかつ見つるかな
桂河わが心にもかよはねど 同じふかさにながるべらなり 
5
紀貫之の足跡
一、 郷土誌としての「土佐日記」
紀貫之は土佐国司として延長八年(九三〇)来任、国府村の住民として四年間比江にいて、承平四年(九三四)十二月任満ちて京都に帰った。その残した足跡は大きく、国府の歴史を語るものは何人も、貫之がこの国府の地を天下に紹介してくれた第一人者たるを思う。国府といわず、土佐を世界に紹介したものはその名著『土佐日記』と長尾鶏に及ぶものなしというべきであろう。その頃讃岐国司として菅原道真が赴任したことありというが、そのことがよく聞えていないのに対し、土佐は紀貫之の『土佐日記』によって天下に知られることとなった。 
郷土史として 『土佐日記』は、その頃を伝えるまことにすぐれた歴史本である。国府から大津へ出て京都に帰る旅行記は、一千年を越えたその頃の土地や人間のありのままを描き出した類なき価値が含まれている。その途中の
(一)地理的な状況、今日の高知市が海底にあった大津などのありさまから浦戸、大湊などの港湾のこと、(二)別れを惜む人々の風俗人情、(三)宇多の松林などの自然の風光、(四)時化や海賊による航海の不安などの治安、(五)政治的、地方事情、(六)人々との関係、庶民の生活などが、文学的修辞のうちにありのままに綴られている。平安古代の姿をこの『土佐日記』に知り、近世政治の実態を後の『天正地検帳』に求め得るというほど、この二つの文献は地方史的価値があるものといえよう。
もとよりわが国文学史上における高い価値はいうまでもない。貫之が京からつれて来たわが子を亡くして、この地に葬ったことを、比江を立つ時、京の家へ帰りついた時、または途中折にふれ時にのぞみ切々の哀感を歌に托し、或は文中に訴えその傷心を綴っているなど心打たれるものがある。
二、風俗人情の美しさ
貫之は、十二月廿一日というおしつまった年の瀬のしかも午後八時頃比江の「住む館(たち)」を出発している。比江で足かけ五年を経、引継ぎなどおえ、解由状をもらって国司館を旅立ち誰彼にさわぎ見送られ、つぎの第二日、舟を待ちながらの送別宴に海辺で一日を過し、第三日日廿三日には八木康教という人物が登場する。この人は国司館に使われる人でもないのに、転出してもはや逢うこともなき貫之に丁重な送別の席を設けたというのである。 
八木とはいかなる人か、当時本山の豪族、国中一の国宝といわれた豊永豊楽寺造仏寄帳に八木姓が連なり、新改村・長久寺地蔵菩薩修復銘に檀那八木康綱とあり、本山の吾橋(あがはし)庄一円を支配した八木氏の繁栄が伝わっているが、こうしてはるばると情義を尽して出て来ている。さらに四日目廿四日には国分寺の住職が餞別に見えて、子供にいたるまでべろべろに酔いしれる。廿五日には官舎から貫之をよびに手紙が来て、再び比江まで行き一日一晩夜をあかす。廿六日も引つづき逗留して宴会があり、ものを贈られたり、また詩を吟じ、和歌を互に詠じ合う。その時あとの国司の島田公璧が「都出でて」の歌をつくり、前国司貫之が「白妙の波路を」の歌を詠じたということになっている。 
新旧国司を中心として歌のやりとりがあったりしている風景は、明治以後の知事などの姿に比べてもっと教養があり、もっと文化的でもっと人間的にも美しいもののように思われ、宴のありさま、人々の態度など風俗史、文化史の資料と見ても価値があろう。かくて廿七日にやっと「大津より浦戸をさしてこぎ出づ」とある。廿一日に「舟に乗るべき所へわたる」と書いてから、その間に比江の館に泊りがけで帰ったりして、なかなかに悠長な旅行ぶりであるが、『土陽淵岳志』に「或説ニ貫之ノ屋形ハ長岡郡大津ノ舟戸ナリト云、然レトモ何ノ証拠ナシ」とあり、『土佐州郡志』には大津城址について「天竺城相伝昔紀貫之所居也」などあるが、恐らく単なる立寄りの家があった程度ででもあろう。ところがいよいよ舟戸を出て、都へつれ帰るべき亡き子供のことを、今さらのように嘆き悲しんでいるうちに鹿児崎に着く。すると後任国司の兄弟やその他の人々が酒など、持って来て、別離のつらく悲しいことをいう。ここで歌にして思いを叙す。よい声で歌唄うなどするうち、船頭にうながされて、舟に乗って浦戸まで漕いで同夜は泊る、藤原言実、橘季衝などが、またここまで追うて来た。藤原といい、橘といい比江の国庁にいた京から来た役人か何かだろうか。廿八日は浦戸から大湊についたが、連日波が立って舟が出されぬ。ここで正月を迎え、また送別の宴がここでも続けられて幾日も滞在する。
やっと一月九日「つとめて大湊より奈半の泊を追はむとて漕ぎ出で」たがここまで藤原、橘の二人、長谷部行政らが、比江を出て以来その行先々にあとを追い来ったのが、ここが別れの終りとて見送りに来た。「この人々の深き心ざしはこの海にもおとらざるべし」 「漕ぎ離れ行くままに人も遠くなる。岸の人にいうことあるへし、舟にも思うことあれどかひなし」とて「思ひやる」歌がつくられている。 
まこと比江の館を出てから、また逢うことのできぬ人々の別離のさまは、貫之の亡児を思う親の愛情と相交錯して、しみじみと人の世の美しさを感ぜしめるものがある。 
貫之の出発は一千年ののちの観光土佐の宣伝をするのに、この『土佐日記』が持ち出されるほど、今に変らぬ土佐人の人情の濃やかさが見られる。その徹底した見送りぶり、別れを惜む人々の姿は「国分寺の住職が餞別にやって来て酒となった時、ありとあらゆる上の者も下の者も、子供達にいたるまでべろべろに酔っぱらって、文字一つさえ知らぬ者まで「足の方は十文字に踏んで千鳥足で遊ぶ」というこの文章の一節にも、八木という国司とは直接関係のない人までも、わざわざ出て来て十分に整った方法で、餞別をしたことにもよく表現されている。八木について「こういうことばその時の国司の人柄にもよるのであろうが、それにしても地方の人の普通の人情としては転任出発となると、今はもう用はないと考えてよりつかなくなるものであるのに心ある人はやってくる。これはものによりてほむるにもあらず」と、貫之はいかにもインテリらしい感想をもらしなれら、土佐人の真情に触れて嬉しさに感激しているのである。土佐人の掬すべき誠実さが、土佐を去るにあたり始めて、しみじみと貫之に感ぜられたのであろう。そして目に一丁字無き野人や少年たちまで酒に酔いしれて別離を惜しんでいる。その土佐人の酒の飲みぶりは、一千年の昔すでに貫之を驚ろかしているのである。        
三、大湊考証、慕われる足跡
この旅路で十日程も舟をとめた大湊が、現在のどこになるかについて後世史家の考証一致せず、時々学界に大波紋をまき起しており、『土佐日記』という名著を通していかに影響力を持ったか、貫之の足跡が慕われていたことも想像される。しかもこの大湊論はその後いつまでも、なお解決せず、昭和のこの頃にも時々新聞紙上に諸説が発表され、肯定や異論で賑っているのである。 
(一)藩政中桂井素庵は長岡郡十市村改田にあったとし、元禄の頃『望大港詩』を発表、享保中『土佐幽考』が十市説をとり、慶応の頃『土佐国群書類従』の吉村春峰は『大港考証』を著し峯寺の麓から西丸山までこの港があったとした。(二)谷泰山は香美郡前浜説を主張し、続いて野見嶺南が前浜説を実証して安永年間『大湊図考』を著したが、『土佐淵岳志』や『南路志』もこれに同調した。安政の頃『万葉集古義』の鹿持雅澄は『土佐日記地理弁』を著して同調、貫之当時は物部川の西方に物部川の分流があり、その川口が大湊に当るという主張である。物部川口説にも本流と分流との二説があった。(三)文化の頃武藤平通が『大港考』を著して香美郡夜須村であったとした。 
史書として比較的新しい 『高知県史要』は、第一説をとりながら、確証はないとしている。 
今の物部川川口の西方に後川が流れて、その川口が天然の港湾をなして水門(みなと)が立派にできていたので大湊といったとの伝承がある。文化十二年(一八一五)に大洪水があり、前浜の土砂が海に押出されたあとが窪地になって港が再現したといい、その後も出水の度に低地が湖となって、昔の大湊の姿を復原したといわれる。古代築港技術のない頃は、こうした天然の川口港を利用したと推定せられ、昭和年間になって改田工事などで港のあとが実証されたなどから、前浜説が再び有力になり定説化するにいたった。今は物部川の川形も改まり、伝説大湊の遺跡久保あたりは稲田が続き、石垣がつくられて畑地ができ、松林に包まれて園芸のビニール・ハウスがならんで、滄桑の変を物語るかの如くである。 
『土佐日記』 に出る宇多の松原についても、雅澄は赤岡北方の兎田村から来た名とし、『土佐幽考』は手結浦の東南宇土の松原のこととし、武藤平道は夜須の八千切から北方にかけてあった松原だとしているなど諸説がある。
そのほか貫之の舟出の場所については、大津から浦戸めざして漕ぎ出すとあり、途中鹿児の崎について、ここでまたお別れの酒盛りをして、その夜は浦戸に泊ったとあるが、この舟出の大津というのは今の舟戸あたり、菅公の哀史を語る白大夫神社のある岩崎山あたりが、港の舟つきであったかどうか、別離の感情に胸たかぶらせた平安朝時代の国司と、名残りを惜む土地の人々の姿が、今の地形風物ととりあわせていろいろに懐古せられるのである。 
貫之逝いて千年、室戸岬津呂には故人を慕う地元青年によって、昭和三年『紀貫之朝臣泊舟之処』の碑が港頭に建てられ、安芸郡羽根村では 『土佐日記』に「今しはねといふ所に来ぬ。はねといふ処は鳥の羽のやうにやある」とて「まことにて名に聞く所羽根ならば飛ぶが如くに京(みやこ)えもがな」と歌ったというのであるが、これにより羽根が広く知られるようになったというので、地元青年だちの「十兵衛会」が昭和三十四年海岸にこの歌碑を建立したなど、現代まで貫之の足跡は慕われている。        
四、『土佐日記』の文化史的な価値
『土佐日記』はもと『つらゆきがとさのにき』といわれたらしく、土佐の字は土左であったという。仮名交り文としてわが国始めての模範的なものであり、その頃人々は漢字のみで文を綴り、日記などもみな漢文を用いていた頃のことで、仮名文を書くということは実に大きな試みであり、そこに文学史上画期的な意義があった。これを書いた動機が、貫之の素養から来る単なる文学的興味とする(岸本由豆流の『土佐日記考誌』)や、土佐へ来て失った愛児に対する切々たる追慕の感情を述べたものとの見方(香川景樹の 『土佐日記創見』)また当時すでに第一級の歌人として声名の高かった身で、はるばる土佐の辺境に左遷された憤りをこの文に示したものとの見方、そして公儀をはばかって筆者をぼかしたのと、それらがあまり女々しいから冒頭にあるように「男もすといふ日記といふ物を女もして心みむとてするなり」と、女性に仮托して謙虚な表現形式をとったのだ(富士谷御杖の『土佐日記燈』)など、いろいろと観察が下されている。しかし漢文の日記にしても、それまでのものは単なる記録に止まったものが、これは風景自然の姿をありのままに描写し、人情の機微を巧みにつかみ、悲しみや悩みや憤りや、それに詩語、諷刺さえ交え、わが国の和文としての特色を十分に発揮し、縦横自在な筆を走らせておることは、文学的作品としてその当時から見て極めて高く評価されるべきものである。当時は少なからぬ刺戟を与えたにちがいない。 
その内容は日記風の紀行文で、今日の目で見ると何の変哲もないかに見えるが、当時にあっては実に驚異的な革新文字であり、新鮮で自由な技工や繊細な感覚もあり、にじみ出る落ち着いた思索や人格的人情さえも行間に溢れ出ている。さらに貫之がきっとよい政治を行い衆望を集めていたであろうことは、大津の送別会や大湊まで追っかけて来て、別れを惜む人々の姿をありのままに描いたところからも十分に受取られる。そのうちには国分寺の住職もいるし、比江国分地内に今住んでいる人々の祖先の人々もいたことであろう。その文章のうちに何ら特別のテーマは盛られていないに拘らず、この『土佐日記』一冊は日本文学をして革命的展開をなさしめた功績が認められるのである。貫之から六、七百年後の徳川幕府時代でも、漢字重用の余弊がつづき、いかに諸記録の解明を難解なものにしているか、それが日本の文化の発展にいかに大きな障害となったかを思えば、広い意味の文化史上、仮名文字がつくられたことや、万葉集や、明治時代以来一層平易になった口語文体とならんで大きな金字塔を立てたものと云えよう。今日ある国文学者は『土佐日記』による貫之の業績を讃えて「貫之はわが国文学を開拓した点で、今日までのどの作家たちもおよばない。実にコペルニクス的転回をなしとげた功績者である」といっている。この『土佐日記』を契機にして、平安朝文学はその花をみごとに咲かせ『源氏物語』のような不朽の作も出たが、貫之の先駆的な開拓なくば、あの絢爛たるものにはならなかったであろう。      五、紀貫之の生涯
紀貫之は蔵人望行の子として貞観年代に生る。和歌のほか書道にも優れていた。延喜五年(九〇五)御書所預りとなり、越前権少椽、内膳、典膳、少内記から大内記歴任、従五位下となる。紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑らと勅命によって古今和歌集を選び、貫之がその序を書いたがこれで大に有名になった。完成を見て天皇喜ばれて貫之の歌百首を加えるように指示されたという。加賀美濃介国司の次の役となり、大監物、右京亮、続いて土佐守になった。性温雅廉直、庶政をおさめ善政を行うて徳望あり、土佐在任中余暇を求めて『新撰和歌集』の仕上げをしたことは別項高知大学松村教授の記述にもある通りで、これも醍醐天皇の勅命によったもの。京都に帰って後玄蕃頭従五位上になり、さらに従四位下から木工権頭になったが、天慶八年(九四五)五月十八日六十歳で逝いた。
万葉集紗鈔、及家集の著は有名であり、後人三十六歌仙を選ぶに当って貫之が第一に推され、柿本人麿に配し和歌の祖宗または歌聖とされた。
その家系として伝えられるものは孝元天皇三代武内宿弥四代の孫紀角から出ており、一門歌道に緑深く名門であった。 
かくてこの孤独孤高を持した詩人貫之朝臣は、その徳を慕う人々によって大津市南滋賀に福王子神社として神に祀られ、その墳墓は洛東比叡山裳立(もたて)山に明治元年建立され、松籟のなかに「木工頭紀之貫朝臣之墳」の字とともに傾いたまま、寂しくしずかに然して国府の空をなつかしむ如くである。 
6
紀貫之に関する疑問
紀貫之が土佐日記に隠した秘密
「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」で始まる「土佐日記」は、平安時代の代表的歌人である紀貫之が書いたものです。高校の古典で必ず取り上げられますので、誰でもご存知でしょう。この作品は、貫之が女性のフリをした「女性仮託」(じょせいかたく)とされています。ただ、「なぜ女性のフリをしたのか」については、平安時代以来諸説あり、釈然としないまま1000年以上過ぎてしまった日記でもあります。冒頭文で「女です」と装っておきながら、中身を読めばすぐに書き手が男性であることがバレてしまいます。紀貫之ほどの大文学者が、バレバレの擬装をするのだろうか? という疑問がどうしてもついてまわるのです。実は、この疑問に対してかなり明確な答えとなる新説があります。そもそも「女のフリ」をしたものなどではない、天才ならではの「暗号」という解釈です。実にユニークで、しかも非常に説得力がありますのでご紹介します。
「女性のフリ」とされたのは200年後!?
紀貫之は、9世紀の後半に生まれ945年に亡くなったと言われています。土佐日記が書かれたのは935年ころで、当時60代半ばであったと推定されます。鎌倉時代までは本人自筆のものが残っていたそうですが散逸し、現在は藤原定家などの写本が残っているのみです。定家の写本は、貫之の自筆本を手本にして書き写したもので、貫之自身のものと筆跡を含めてそっくりと考えられる貴重なものです。定家は写本を作っただけでなく、日記についての解釈・解説も残しており、その中で、この書は貫之が女性仮託をしたものとしました。これが現代まで続き、定説となっています。ただ、藤原定家が生まれたのは貫之の200年も後のこと。仮名の使い方も既に大きく変わっており、定家自身も書き写すのにも解釈するのにもかなり苦労したと言われています。自筆本の書写とはいえ、本人と直接面識があるわけでもありません。不明な点を尋ねることも不可能です。必ずしも定家の解釈が正しいとは言い切れないのです。
なぜ、女のフリをしたのか? については色んな説があります
女性仮託の理由については諸説あります。当時は、男性は漢字で書くのが常識で、仮名(かな)は女性が使うものでした。仮名で書きたいが、男性が仮名を使うことははばかられるため女性のフリをした、というのが通説です。仮名を使った理由もいくつかあります。自由度の高い新しい表現方法にチャレンジするため、愛児を失った悲しみなどを表現するのに仮名の方が心情を強く表現できるため、などです。当時、和歌については男性も仮名を使っていました。歌人である貫之は仮名の可能性を十分に知っていたので、新しい表現を模索したという説には十分説得力があります。実際に、土佐日記以降は仮名文学が発展していますので、功績は大きかったと言えるでしょう。
女性のフリをしなければならないほどのことだったのか?
しかし、仮名を使うためには、どうしても女性のフリをしなければならなかったのでしょうか? この点については長年疑問視されているところです。土佐日記を読めばすぐに男性が書いたものだと分かります。本文に署名はないものの、発表された当時から「紀貫之が書いた」とされていたわけですので、擬装をする意味はなかったでしょう。
貫之ほどの大物がすることなのか?
紀貫之は、当時の日本最高の文学者です。最大の敬意を払われてきた歌人であり、古今和歌集などの歌集には最高数の和歌が残され、絶対的な権威を誇った人物。そんな文学界の大物が、果たして「女性のフリ」などというチープな小細工をしたでしょうか?現代で言えば、村上春樹さんが「上村はる子」とでもペンネームを名乗って、「2Q84」という小説を発表するようなものです。そんなことをするはずがない、と考えるのが普通ではないでしょうか?
平安時代には濁点はなかった!
「ず」や「が」につく濁点は平安時代にはありませんでした。近代でも法令などに濁点が使われるようになったのは、終戦後のことです。昔は「雨がしとしと」も「雨がジトジト」も、両方とも「しとしと」と表記されました。古文を解釈する時には、文意から判断して濁点を付さなければなりません。これが、土佐日記の冒頭文の解釈を大きく変えるカギとなるのです。
「男もすなる……」に濁点を付けると、女性仮託ではなくなる!?
土佐日記の冒頭の文章に、一部濁点を付してみるとこうなります。「男もずなる日記といふものを女もじてみむとてするなり」これに文節をわかりやすくするため、『』を付けてみるとこうなります。「『男もず』なる日記といふものを『女もじ』てみむとてするなり」「男もず」は「男文字」、「女もじ」は「女文字」と読め、「男もず」は漢字のこと、「女文字」は仮名のことと解釈できます。文章の意味は、「(普通は)漢字で書く日記というものを、仮名で書いてみようと思って始めます」となります。女性のフリなどしていない、単に「仮名文字宣言」的な意味になるのです。
紀貫之の暗号だった!?
紀貫之は文章の天才だった人です。和歌には一つの文を二つの意味に読ませる手法がありますが、それを日記の冒頭文にも試したとしてもおかしくありません。「女のフリをした」とも読めるし、「漢字ではなく仮名で書きます」とも読めるようなトリックを秘めたのではないでしょうか? 冒頭文は一種の暗号だったのです。こう解釈すると、「バカバカしいマネ」だったものが「みごとな魔術」に変わります。紀貫之が遊び心のある天才だったとも受け取れますし、その巧妙な暗号は藤原定家すらもワナに掛けるほど巧妙で、1000年もの間、見破られなかったとも解釈できます。その方がミステリアスで、より魅力的になるのではないでしょうか?
土佐日記に記された疑問点
このように、「土佐日記」冒頭の「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」は、確かに問題をはらんでいます。そんな土佐日記には、当然のことながら、他にも問題をはらんだ箇所があります。次に引くその箇所は、十日間風待ちした室津での最後の日(1月20日)の記録(池田弥三郎訳)です。
(正月)二十日。……さてきょうは、夜になって、二十日月が出てまいりました。月のでる山の外輪もなく、月は海の中から出て来るのでございました。
こういう光景を見てでございましょう。 昔、安倍仲麿といった人が、唐土に渡って、帰って来ようとした時に、船に乗るはずの処で、かの国の人が、送別の宴を催してくれて、別れを惜しみ、あちらの国の漢詩を作りなどいたしました。
なかなか心がみちたりませんので、その宴はうち続いて、とうとう、二十日の月が夜が更けて出てくるまで、別れを惜しんでおりました。
その時の月は、海からでてまいりました。
これをみて、仲麿は、「わたしの国では、こういう歌をば、神代の昔から神もおよみになり、
それ以来ひき続いて、今では上中下の身分の区別もなく、みなみなが、こういうように別れを惜しんだり、また、よろこびあったり、悲しみごとがあったりする時には、よむのです」と言って、その時よんだ歌というのは、
青海原。ふりさけみれば、春日なる三笠の山に 出でし月かも
――青海原を遠くはるかに見渡すというと、海上に月が浮んでいる。
  あの月は、故郷の春日の三笠の山から出て来た月なのだなあ。
という歌でございました。……
まず、問題になるのは、「二十日月が出てまいりました。月のでる山の外輪もなく、月は海の中から出て来るのでございました。」とあることです。月も、太陽のように、東から昇り西に沈むので、地図から分かる通り、室津では月が西に広がる海(土佐湾)に沈んでも、月が海の中から出て来ることはあり得ないのです。
次に問題になるのは、小倉百人一首で知られる、仲麿の歌、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」の初句「天の原」が「青海原」になっていることです。
この歌は、紀貫之が中心的撰者であった「古今集」の巻九の巻頭に、明州の海辺で行われた餞別会で詠んだ歌として載っていますが、初句は無論「青海原」ではなく、「天の原」です。明州は、浙江省寧波(ニンポー)の古名で、「寧」の簡易体は、「心」と横「目」が消えて、「ウ冠」と「丁」だけになっています。したがって、右上図によれば、明州の海辺は、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という歌が詠まれた場所にふさわしいようにように見えます。ところが、次の 地図によれば、東に舟山群島があるので、明州(浙江省寧波市)の海辺では、海から出る月は見られないことが分かります。
「唐大和上東征伝」が明かす事柄
このように、紀貫之という名が結びつく土佐日記と古今集の、安倍仲麻呂が関係する事柄に否定しようのない誤りがあることが、次の本によって証明されるようになっています。
「唐大和上東征伝」(世界大百科事典 第2版の解説)
淡海三船(おうみのみふね)(元開)の著。1巻。779年(宝亀10)の成立。《鑑真和尚東征伝》《鑑真過海大師東征伝》《過海大師東征伝》《東征伝》などの別称がある。鑑真に随伴して来日した思託の請により,三船が思託の著した《大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝》(略称《大和上伝》《大和尚伝》)や鑑真の行状を伝聞して完成したもの。前後6回,12年の歳月を費やして達成された波乱万丈の渡航の行歴が美しい筆致で記されているばかりでなく,8世紀中期の唐の諸州,都市の見聞記が収められている点で海外交渉史としてもその価値はきわめて高い。 〔参考〕 西野ゆるす全文口語訳「唐大和上東征伝」
この「東征伝」によると、安倍仲麻呂が便乗して帰国しようとした遣唐船は、天平勝宝5年(西暦753年)11月15日の夜半に、揚子江の河岸にある黄泗浦から発航したとあります。黄泗浦は、南通市の対岸にある張家港市にあった港なので、上掲の 地図から分かるように、古今集に餞別会が行われたとある明州(寧波市)は、土佐日記にいう「船に乗るはずの処」からは離れ過ぎています。
また、土佐日記には、「二十日の月が夜が更けて出てくるまで、別れを惜しんでおりました」とありますが、これでは、遣唐船が帰国の途に就く前月の10月20日に餞別会が行われたことになります。
歌学者で平安前期最高の歌人である紀貫之(870頃〜945頃)が、「唐大和上東征伝」を読んでなかったと考えることができなければ、土佐日記と古今集の明白な過ちは、紀貫之に関する疑問を膨らませるための意図的なものだということになります。
すると、土佐日記の「…歌をば、神代の昔から神もおよみになり」から、古今集仮名序に、「神世には、歌の文字も定まらず、…人の世と成りて、素戔嗚尊(すさのおのみこと)よりぞ、三十文字あまり一文字は、詠みける。素戔嗚尊は、天照大神の兄也」とあることが浮上します。
素戔嗚尊は天照大神の兄ではなく、弟ですが、天照大神が神なら、弟の素戔嗚尊も神のはずなので、「人の世と成りて、素戔嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字は、詠みける」とあるのはおかしいからです。
ところが、神話では、二人の父の 伊弉諾尊が「天照大神は、高天の原を治めよ」、「素戔嗚尊は、「青海原(滄海之原)を治めよ」と命じています。
この「高天の原」と「青海原(滄海之原)」から、土佐日記では仲麿の歌の初句「天の原」が「青海原」になっていることを想起すれば、
「唐大和上東征伝」から分かる遣唐船の発航日=15日と比較すればおかしい20日と、黄泗浦から離れすぎている明州に秘められた狙いがあることが分かります。
なぜなら、9世紀に編集された『極玄集』という詩集に、李白と肩を並べる詩人王維が、唐の都の長安での送別の宴で仲麻呂(秘書晁監)に贈った、
「秘書晁監の日本国に還るを送る」と題する詩が載っており、その一節に「安知滄海東(青海原の東のことをどうして知ることができようか)」とあるからです。
土佐日記のおかしさは、720年に成立したという日本書紀の見出しに、養老6年(722年)生まれの淡海三船が撰したという漢風諡号が使われている謎を解く鍵にもなっているのです。 
7
和文学を隆盛させた紀貫之
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業しげきものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言い出せるなり。花に鳴くうぐひす、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか、歌を詠まざりける。力にも人れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、別交の仲を和らげ、たけき武人の心をも慰むるは、歌なり。」
古今和歌集仮名序の冒頭部分です。平安前期、十世紀になると、和歌はいよいよ降盛になり、漢詩文を圧倒するようになります。醍醐天皇から古今集編纂の勅命が下り、その撰者の一人になり、古今集成立を主導したのが紀貫之です。最初に記した仮名序の作者として、貫之は仮名文創造時代のものとして、文学史上重要な初めての歌論を苦しました。
この仮名序では、「心」と「詞」という二面から、和歌を説明し、理論的な考察の対象としています。通訳しますと、「この世に生きている人は、なにかにつけて、さまざまな事件に出合うので、そこで感じたこと、または見たこと、聞いたことにつけて、言い出したのが、歌になったのです。花に鳴くうぐいす、清流にいるかじかの声を聞くと、およそ生命のあるすべてのものは、歌を歌わないものはありません。歌は、力を入れないで、天地の神々を感動させ、男女の仲を親しくさせ、勇猛な武者の心も慰めるものです。」
紀貫之は和歌の本質は、日常での出来事をとおして、人の心に生まれた感動を、言葉によって表現したものであるとしたわけです。漢詩文や万葉集の両方に涼くつうじていた貫之は、伝統的な和歌を言話芸術として確立し、その当時、公的な文芸であった漢詩文と対等、またはそれ以上の位置まで高めた人物です。
生没年は不詳とされていますが、宮中では、位記などを書く内記の職につき、四十代なかばで、ようやく従五位下になっています。以後、六十歳近くで、土佐守に任ぜられています。最終的には、従五位上に終わっています。
紀賞之は官位、官職については、それほど恵まれていませんでしたが、歌人としては、国文学史上、白眉の一人で、華やかな存在でした。古今集にも筆頭の歌数を残し、古今集の性格を決定づけています。歌風は理知的で情趣的な味わいに欠ける傾向があります。その歌は掛詞、緑語などもよくし、知巧的ともいわれています。
こんな歌も残っています。
霞立ち木の芽もはるの雪ふれば 花なき里も花ぞ散りける
( 霞が立ち、木の芽が張るこの初春に、雪が降るので、花もない里に花が散るといった珍しい景色だなあ)
さらに貫之といえば、日記文学の祖とされる土左日記です。紀貫之が土佐の国主としての任期が満ちて、都へ帰るまでの日記体による紀行文学です。男はは漢文を書くのが常識とされていた時代に、女の作者を装って、平仮名でつづりました。表現が簡潔で余情にあふれ、明るい朗らかなおかしみがあり、率直でいゃみがない作品として評価されています。
紀貫之は、国風文化の推進、確立を果たすという大きな功績を後生に残しました。 
8
紀貫之
日本の文学史上、言語学史上の最大の功労者は紀貫之ではないだろうかと思っています。その最大の功績は「ひらがな」の文学的価値の普及と定着にあると思います。紀貫之は実在の人物と思われますが、その生年も没年も定かではありません。
貞観8年(866年)〜貞観14年(872年)ころに生まれたのではないかとされていますが、確認できる資料はありません。没年は天慶8年(945年)ころとされていますので、73歳から79歳まで生きたことになります。いくらなんでも生きすぎだと思います。醍醐天皇、朱雀天皇の2代に仕えたとされています。
905年、醍醐天皇代に紀友則(貫之の従弟)・壬生忠岑・凡河内躬恒らとともに「古今和歌集」の編者として選ばれており、その「古今和歌集」が完成したのが930年と言われています。「古今和歌集」の仮名による序文である「仮名序」を執筆したと言われています。漢文による序文である「真名序」を執筆したのは紀淑望(きのよしもち)であり、「真名序」「仮名序」の対比によって当時の仮名の完成度を確認することができます。
万葉集(760年以降ころで完成は806年とも言われる)のときに表された仮名(万葉仮名)は、見た目は完全に漢字であり、その音読みにてそれまで口語であった歌の「やまとことば」を表記したものです。「古今和歌集」の「仮名序」を見ることによって、万葉集以降の仮名の変遷を想像することが可能となります。文字によってはかなり崩れてきており、ひらがなの一歩手前のものもあったと思われます。
「古今集」は数々のことばの謎に隠された史実が込められていると言われています。それもあって皇族の中には「古今伝授」として、口頭で古今集の読み方を秘伝的に伝えていくことが行われました。今でも数多くの学者の研究対象となっています。
承平5年(935年)に土佐の任地から都へ戻った記録を、のちにひらがなを主体として日記風に散文として表したのが「土佐日記」です。当時は男しか日記は書きませんでした、それも漢文です。女が使用する文字としての仮名(この時点ではほとんど「ひらがな」と呼んでいいものだったと思われます)を使用して、女の文章として書いたものです。ひらがな文学の原点と言っていいでしょう。
紀貫之は筆も達者だったようです。そのために貫之の本は文字の手習本としての価値もあったようです。そのために写本が多く存在し、原本がなくともその姿を想像することができるようになりました。このことも貫之の才能の一部を示すものではないでしょうか。
これを機として、日記文学は女流文学としても定着し「蜻蛉日記」以降の日記文学を生み出します。また、女こどもの日常言葉であった「ひらがな」が、文学的な位置を確保して、女流文学としての物語文学の最盛期へと導きます。
「やまとことば」に文字としての表記を与えたのは、万葉仮名と言えるでしょうが、それだけでは仮名の位置づけは今の様にはならなかったでしょう。紀貫之という天才が、仮名の使い方を示し、その可能性を広げたことによって、「古代やまとことば」を文字として表現する方法が確立され、記録されるようになったのだと思います。
その後の「源氏物語」のなかでも、ひらがなの使い方についての試行錯誤の跡は見て取ることができます。同じような表現の内容でも言葉の使い方を模索しているところがあるようです。しかし、紀貫之によって開かれた道は、その後は留まるところを知らないないかのように散文や紀行文・随筆として発展を続けます。
漢文を理解するための読みとしての訓読みとともに、「ひらがな」は広がっていきました。日本語の原点は口語としての「やまとことば」、文字としての「ひらがな」にあります。そこはタイムカプセルのように2000年にわたる歴史が刻まれています。当時の感性を感じることができるのも「ひらがな」のおかげですね。
紀貫之の当時も、役人としての公用語は漢語です。あえて、ランクが低いとされる女こどもが用いる言葉を発展させたモチベーションはどこにあったのでしょうか。歌は音としては「やまとことば」です。それを表記さえできればよかったはずです。「ひらがな」を文学にまで高め、現代日本語の標準形である「漢字かな交じり」の礎を築いた天才の功績を改めて考えてみたいと思います。 
 
36.清原深養父 (きよはらのふかやぶ)  

 

夏(なつ)の夜(よ)は まだ宵(よひ)ながら 明(あ)けぬるを
雲(くも)のいづこに 月宿(つきやど)るらむ  
夏の夜は、まだ宵だと思っているうちに明けてしまったが、雲のどのあたりに月はとどまっているのだろう。 / 夏の夜はとても短く、まだ宵の口だと思っているうちに、もう夜が明けてしまう。これではいったい雲のどの辺りに月はとどまっていられるのだろうか。 / 夏の短い夜は、まだ夜が始まったばかりだと思っているうちに、あっという間に明けてしまうなぁ。月が西へ傾く暇もないではないか。いったい、月は雲のどこに隠れるのだろうか。 / 夏の夜は、まだ宵のうちだと思っているのに明けてしまったが、(こんなにも早く夜明けが来れば、月はまだ空に残っているだろうが) いったい月は雲のどの辺りに宿をとっているのだろうか。
○ 夏の夜は / 「は」は、区別を表す係助詞。
○ まだ宵ながら明けぬるを / 「宵」は、夜になって間もないころ。「ながら」は、状態の継続を表す接続助詞で、「〜のままで」の意。「ぬる」は、完了の助動詞の連体形。「を」は、逆接の確定条件を表す接続助詞。「明けぬるを」で、「すっかり明けてしまったが」の意。「を」を順接の確定条件とし、「すっかり明けてしまったので」と解釈する説もある。いずれにせよ、夜がきわめて短い時間であることを示しているが、直訳すると現実にはありえない非科学的状況「まだ宵のままで明けてしまった」になるので、「思っているうちに」という語を補って訳す。
○ 雲のいづこに月宿るらむ / 「月」は、夜が明けても空にとどまっているということなので、陰暦で16日から月末までの月、すなわち、有明の月。その「月」は、「宿る」という述語を伴っているので、擬人化されている。「宿る」は、「とどまる」の意。「らむ」は、視界外の推量を表す助動詞。疑問を表す代名詞、「いづこ」を受けているため連体形。 
1
清原深養父(きよはらのふかやぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人・貴族。豊前介・清原房則の子。官位は従五位下・内蔵大允。中古三十六歌仙の一人。
延喜8年(908年)内匠少允、延長元年(923年)内蔵大允等を歴任、延長8年(930年)従五位下に叙せられる。晩年は洛北・岩倉に補陀落寺を建立し、隠棲したという。勅撰歌人であり、『古今和歌集』(17首)以下の勅撰和歌集に41首が入集している。藤原兼輔・紀貫之・凡河内躬恒などの歌人と交流があった。家集に『深養父集』がある。琴の名手であり、『後撰集』には清原深養父が琴を弾くのを聴きながら、藤原兼輔と紀貫之が詠んだという歌が収められている。
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ(『古今和歌集』、小倉百人一首)
存命中は高い評価を受けていたが、藤原公任の『三十六人撰』(いわゆる三十六歌仙)に名をあげられなかったこともあって、この歌は平安末期まで秀歌の扱いを受けなかったようである。その後、藤原俊成や藤原清輔らに再評価され中古三十六歌仙の一人に撰ばれた。
2
清原深養父 生没年未詳
舎人親王の裔。豊前介房則の子(または房則の祖父備後守通雄の子とも)。後撰集の撰者元輔の祖父。清少納言の曾祖父。延喜八年(908)、内匠允。延長元年(923)、内蔵大允。延長八年(930)、従五位下。晩年は、洛北の北岩倉に補陀落寺を建てて住んだとの伝がある。寛平御時中宮歌合・宇多院歌合などに出詠。貫之・兼輔らと親交があった。古今集に十七首入集。勅撰入集四十二首。家集『深養父集』がある。中古三十六歌仙。小倉百人一首にも歌を採られている。
春 / 題しらず
うちはへて春はさばかりのどけきを花の心や何いそぐらむ(後撰92)
(毎日春はこれほどのどかであるのに、花の心は何故急いで散ろうとするのだろうか。)
弥生のつごもりがたに、山を越えけるに、山河より花の流れけるをよめる
花ちれる水のまにまにとめくれば山には春もなくなりにけり(古今129)
(花が散り浮かぶ水の流れにしたがって尋ねて来ると、桜はすっかり散り果てて、山にはもう春はなくなってしまったのだ。)
夏 / 月のおもしろかりける夜、暁がたによめる
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ(古今166)
(夏の夜はまだ宵のうちと思っている間に明けてしまったが、月はこんな短か夜では、まだ西の山の端に辿り着いていないだろう。雲のどこに宿を借りているのだろうか。)
秋 / 秋の歌とてよめる
幾世へてのちか忘れむ散りぬべき野辺の秋萩みがく月夜を(後撰317)
(何年経ってのち忘れるのだろうか。いずれは散ってしまうはずの野辺の秋萩を、冴え冴えとした月光によって磨きあげるように、色美しく見せるこの月夜を。)
題しらず
川霧のふもとをこめて立ちぬれば空にぞ秋の山は見えける(拾遺202)
(川霧が山の麓をすっかり包んで立ちこめたので、秋の山は空に浮かんでいるように見えるのだった。)
題しらず
なく雁のねをのみぞ聞くをぐら山霧たちはるる時しなければ(新古496)
(雁の鳴き声ばかりを聞くことよ。小倉山では、霧が晴れる時がないので。)
神なびの山をすぎて龍田川をわたりける時に、もみぢの流れけるをよめる
神なびの山をすぎゆく秋なれば龍田川にぞ幣ぬさは手向たむくる(古今300)
(神奈備山を越え、過ぎてゆく秋なので、秋は龍田の神への手向として龍田川に紅葉を幣(ぬさ)として捧げるのだ。)
冬 / 雪のふりけるをよみける
冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ(古今330)
(冬でありながら空から花が落ちて来るのは、雲のかなたはもう春だというのだろうか。)
恋 / 題しらず
恋ひ死なばたが名はたたじ世の中のつねなき物と言ひはなすとも(古今603)
(私がこのまま恋い焦がれて死んでしまったなら、誰のせいだと評判が立つでしょう、あなた以外の誰でもありますまい。いくらあなたが「人の世は無常なもの」などと言ってごまかそうとしたって――。)
題しらず
今ははや恋ひ死なましを相見むとたのめしことぞ命なりける(古今613)
(今はもう、いっそ恋い死にしてしまいたいよ、ああ。「お逢いしましょう」と期待させたあなたの約束が、私の生きる力だったのだ。その願いも空しくなった今はもう…)
題しらず
みつ潮のながれひる間を逢ひがたみみるめの浦に夜をこそ待て(古今665)
(満ちて来る潮が流れて干潮になるまでの間は逢うのが難しいので、海松目(みるめ)が流れ寄る浦で、夜になってあなたに逢える時を待っている。)
題しらず
心をぞわりなき物と思ひぬる見るものからや恋しかるべき(古今685)
(心というものは、わけの分からないものだと思ったよ。とうとう思いを遂げてあなたと逢うことができて、恋しさも満たされたはずなのに、逢っているからこそまたこんなに恋しい思いがする…そんなことがあるものだろうか。)
題しらず
恋しとはたが名づけけむことならむ死ぬとぞただに言ふべかりける(古今698)
(「恋しい」とは、誰が名付けた言葉なのだろう。そんなこと言わずにただ、「死ぬ」と言うべきだったのだ。)
題しらず
うれしくは忘るることもありなましつらきぞ長きかたみなりける(新古1403)
(嬉しい思い出だったら、忘れることもあるだろうに、あの人の薄情さゆえの堪えがたい苦しみだけが、長く消えない恋の形見だったのだ。)
雑 / あひしりて侍りける人の、あづまの方へまかりけるをおくるとてよめる
雲ゐにもかよふ心のおくれねば別ると人に見ゆばかりなり(古今378)
(遥かな国へと旅立つあなたを追って空さえも往き来する心は、あなたに遅れずについて行きますので、人の目には別れると見えるだけであって、心は離れ離れにならないのです。)
時なりける人の、にはかに時なくなりて嘆くを見て、みづからの、嘆きもなく、喜びもなきことを思ひてよめる
光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散る物思ひもなし(古今967)
(光の射し込まない谷では春もよそごとなので、咲いてすぐに散る心配もありません。)
題しらず
昔見し春は昔の春ながら我が身ひとつのあらずもあるかな(新古1450)
(昔経験した春は、昔の春そのままであるのに、我が身だけは変わってしまったなあ。) 
 
37.文屋朝康 (ふんやのあさやす)  

 

白露(しらつゆ)に 風(かぜ)の吹(ふ)きしく 秋(あき)の野(の)は
つらぬきとめぬ 玉(たま)ぞ散(ち)りける  
白露に風がしきりに吹きつける秋の野は、紐で貫き留めていない玉が散っているのだよ。 / 葉の上に降りた美しい白露に、しきりと風が吹きすさぶ秋の野。風で散ってゆく白露はまるで一本の糸で貫き止まっていない玉を、この秋の野に散りばめたようだなあ。 / 草葉におかれた白露に、風がしきりに吹いている秋の野は、その露が風に散り乱れて、紐に通されていない美しい宝石やガラスのビーズが散らばっているかのようだなぁ。 / (草葉の上に落ちた) 白露に風がしきりに吹きつけている秋の野のさまは、まるで糸に通してとめてない玉が、美しく散り乱れているようではないか。
○ 白露に風の吹きしく / 「白露」は、葉の上についた露が白く光るさまを強調した表現。「に」は、「吹きしく」という動作の対象を表す格助詞。「吹きしく」は、しきりに吹くの意。「白露に風の吹きしく」で「秋の野」にかかる連体修飾格。
○ 秋の野は / 「は」は強意の係助詞。
○ つらぬきとめぬ玉ぞ散りける / 「ぞ」と「ける」は係り結び。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形で「〜ない」の意。「玉」すなわち、真珠を貫いて紐でとめていないことを表す。「白露」を「玉」に見立てている。平安時代に頻繁に用いられた表現。「ぞ」は、強意の係助詞。「ける」は、今初めて気がついたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で「ぞ」の結び。
1
文屋朝康(ふんやのあさやす、生没年不詳)は、平安時代前期の官人・歌人。縫殿助文屋康秀の子。子に康永がいる。官位は従六位下・大膳少進。
寛平4年(892年)駿河掾、延喜2年(902年)大舎人大允のほか、大膳少進を歴任した。「寛平御時后宮歌合」「是貞親王家歌合」の作者として出詠するなど、『古今和歌集』成立直前の歌壇で活躍した。しかし、勅撰和歌集には『古今和歌集』に1首と『後撰和歌集』に2首が入集しているに過ぎない。
白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける (『後撰和歌集』、小倉百人一首)
2
文屋朝康 生没年未詳
六歌仙の一人康秀の子。寛平四年(892)正月二十三日、駿河掾に任ぜられ、延喜二年(902)二月二十三日には大舍人大允に任ぜられる(『古今和歌集目録』)。宇多・醍醐朝の卑官の専門歌人かという。是貞親王家歌合に出詠。勅撰入集は古今集に一首、後撰集に二首。
是貞のみこの家の歌合によめる
秋の野におく白露は玉なれやつらぬきかくる蜘蛛の糸すぢ(古今225)
(秋の野に置く露は玉だろうか。つらぬいて通す蜘蛛の糸すじよ。)
延喜御時、歌召しければ
白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける(後撰308)
(草の上の白露に風がしきりと吹きつける秋の野とは、緒で貫き通していない玉が散り乱れるものだったのだ。)
題しらず
浪わけて見るよしもがなわたつみの底のみるめも紅葉ちるやと(後撰417)
(波を分けて見てみたいものだ。海の底を見れば、海松布(みるめ)も紅葉して散っているのかと。) 
 
38.右近 (うこん)  

 

忘(わす)らるる 身(み)をば思(おも)はず 誓(ちか)ひてし
人(ひと)の命(いのち)の 惜(お)しくもあるかな  
あなたに忘れ去られる私自身については何とも思わないですが、永遠の愛を神に誓ったあなたの命が、誓いを破った罰として失われることが惜しいだけなのですよ。 / あなたに忘れられる私のこの身がどうなろうともかまわない。それよりも神に誓った私との愛を破ったことで神罰が下り、あなたの命が失われることが悔しいのです。 / あなたから忘れられる、わたしの身の辛さは気にはしません。それよりも、あんなにも愛を誓ったあなたが、神さまの怒りをかって、命がちぢまりはしないかと、心配になってしまうのです。 / あなたに忘れられる我が身のことは何ほどのこともありませんが、ただ神にかけて (わたしをいつまでも愛してくださると) 誓ったあなたの命が、はたして神罰を受けはしないかと、借しく思われてなりません。
○ 忘らるる / 「るる」は、受身の助動詞「る」の連体形。男(『大和物語』によると藤原敦忠)に捨てられ、忘れられることを表す。
○ 身をば思はず / 「身」は、自分自身。「を」は、動作の対象を表す格助詞。「ば」は、強意の係助詞「は」が「を」に接続して濁音化したもの。「ず」は、打消の助動詞の連用形。終止形とする説もあり、どちらとするかにより解釈は大きく異なる(下記参照)。
○ 誓ひてし / 「誓ひ」は、二人の愛を神仏に誓うこと。「て」は、完了の助動詞「つ」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。
○ 人の命の / 「人」は、相手。「身」との対比で用いられている。「人の」の「の」は、連体修飾格の格助詞。「命の」の「の」は、主格の格助詞。
○ 惜しくもあるかな / 「惜しく」は、天罰によって命が奪われることを惜しむ意。相手に対する執着・未練があることを表す表現。「も」は、強意の係助詞。「かな」は、詠嘆の終助詞。
※ 「ず」を連用形とするか終止形とするかにより異なる解釈
・ 連用形 / 自分を捨てた恋人に対する皮肉をこめた歌であるとする解釈。あなたに忘れられた自分自身のことなど何とも思っていませんが、私との誓いを裏切ったあなたにも神罰が下って命が失われるのは、惜しいことですよ。
・ 終止形 / 別れても愛は永遠であることを伝えたかった歌であるとする解釈。私のことは何とも思っていません。ただ気がかりなのは、ともに愛を誓ったあなたの命が神罰によって縮められはしないかと惜しまれてならないのです。
※ 大和物語によると、この歌に対する敦忠の返歌はなかったらしい。  
1
右近(うこん、生没年不詳)は、平安時代中期の女流歌人。父は右近衛少将藤原季縄。
醍醐天皇の中宮穏子に仕えた女房で、元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順(みなもとのしたごう)などと恋愛関係があった。960年(天徳4年)と962年(応和2年)の内裏歌合・966年(康保3年)の内裏前栽合(だいりぜんざいあわせ)などの歌合に出詠、村上天皇期の歌壇で活躍した。
『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『新勅撰和歌集』に入集している。
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな(「拾遺和歌集」、小倉百人一首)
一説によると、この歌の相手は藤原敦忠と言われている。

この歌は、権中納言敦忠(逢ひみての)に贈られた歌と言われています。そのお話は『大和物語』という本に出てきます。
「同じ女(右近のこと)、男の忘れじとよろづのことをかけて誓ひけれど、忘れけるのちに言ひやりける」 (八十四段 / 右近が、藤原敦忠と貴女のことは決して忘れないとすべてを掛けて誓つてくれたのにもかかわらず、忘れられてしまった後に送られた歌。) 
2
女の恨み
「忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人のいのちの 惜しくもあるかな」
これは恐ろしい恨みの歌でございます。女の一念の凄まじさを感じさせる「言霊」がこもっております。
「右近さん、ボクはキミが好きなんだ」とハンサムな貴公子、藤原敦忠に言い寄られ、右近は、「いけません、そんなことをおっしゃっては…」「ボクの心は変わらない。変わったら命を差し出してもかまわない」「ほんとう?」などとついには二人は恋に堕ちたのでございます。
しかし、敦忠は一度抱いてしまうと、誓いの言葉など忘れ、他の女性とのお遊びに夢中。待っても待っても、デートのお誘いはないのであります。
右近は後醍醐天皇の后に使われる女官。一方の敦忠はいまをときめく右大臣の御曹司。決定的な身分にちがいがあります。
が、右近は彼の誓いの言葉を信じていたのでありますです。
嫌いならキライと言ってくれるだけでいい。歌でも良いから気持ちを伝えて欲しい…。
が、敦忠からはなしのつぶて。
これは、現代にも通じることでございましょう。
そんなとき、女性は極端なことを考えるようでありますですね。
右近の脳裏にも過るモノがありました。「死ねばいい」コレであります。
自分を苦しめている敦忠さえ死ねば、自分は楽になれる…と。
その時の歌なのでございます。「フラれて一人ぼっちのわたしが、どうなろうとかまいません。でも、神様に愛を誓ったあなたも無事で済むわけにはいきませんよ。きっと天罰がくだされるでしょう。そう思うとたまらなく悲しいのです」
やれやれ、男は、こういう女性の感情の起伏に手を焼くのでございますです。
しかし、不思議なことに、冗談で誓ったことが本当になってしまいました。敦忠は三十八の若さで死んでしまうのです。
一説には藤原道真の祟りとか。でも、右近の一念も作用していたような気がいたしますね。
さてさて、敦忠の歌も百人一首に選ばれておりますです。「あひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思わざりけり」
マジ恋愛をしてしまうと、その苦しさは、片思いで悩んでいたより、ずっと深いなぁ」てな歌です。しかし、この歌は右近に対するモノではないのでございますです。哀れ右近。 
3
右近 恨み節
19番伊勢以来久々の女流歌人の登場です。主として村上朝歌壇で活躍した右近、まさにモテモテのナンバーワン女房であったようです。
忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
(私はいいのです 忘れられてしまおうと わが身のことは いいのです でもあなた あれほどに変らぬ愛を お誓いになったあなたのおいのち それが ひとごとならず心にかかってなりません)
○ 父は藤原季縄(すえなわ)(?-919)(藤原南家の系統)右近衛少将 従五位上
鷹狩りの名手で交野少将と呼ばれた。「交野少将物語」色好み少将の物語、今や散逸だが当時は有名だった。
源氏物語帚木の冒頭、源氏はまじめ男で交野少将には負けるとの叙述あり。
さるは、いといたく世を憚りまめだちたまひけるほど、なよびやかにをかしきことはなくて、交野の少将には、笑はれたまひけむかし。
色好み男として物語のモデルにもなった父を持つ右近。ポイントでしょう。
○ 右近自身のこと 「右近」の呼び名は父の官職名から
醍醐帝の中宮穏子に仕える。穏子(885-954)は藤原基経が醍醐帝に投じた切り札で朱雀帝・村上帝を生む。中宮穏子の局は延喜の聖代最も華やかで重要な局であった。醍醐帝亡き後も穏子は二代の国母として政治的にも君臨。時平・忠平は穏子の兄であり摂政・関白として穏子の局はしばしば訪れたことであろう。
そういう華々しい局に仕えた歌才に秀でた女房。右近がモテモテだったのは当然でしょう。
右近を通り過ぎたとされる貴公子たち
   藤原敦忠43 時平の三男 38番歌の相手 大和物語は後述
   藤原師氏  忠平の息子 大和物語85段の桃園の宰相の君
   藤原師輔  忠平の息子 醍醐帝の皇女3人を妻に 藤原摂関家の主流 道長の祖父
   藤原朝忠44 定方の息子 右近への思いやりの歌あり
   源順    百人一首には入ってないが勅撰集51首入集の大歌人 三十六歌仙
   元良親王20 一夜めぐりの君 ほととぎすの歌の贈答あり
   清原元輔36 清少納言のお父さんも、、
   大中臣能宣49 「みかきもり」の神祇官も、、
噂の真相やいかに。そりゃあ火のないところに煙は立たずと申しまして。
○ 後宮は妃たちが帝寵を争うところ、女主人を盛り立てるにはお付きの女房が優秀でなくてはならない。そんな後宮は自ずと高級貴族たちの社交場になる。お付きの女房はいわばホステス。歌才・技芸に秀で教養深い女房は崇められた。
右近はナンバーワンホステスとして引く手あまただったことだろう。伊勢と違うのは帝のお手がつかなかったことか。
○ 歌人右近について
天徳、応和の内裏歌合などに出詠、村上朝歌壇で活躍 / 後撰集5首 拾遺集3首 新勅撰集1首 勅撰集計9首入集
右近の歌、後撰集より
おほかたの秋の空だにわびしきに物思ひそふる君にもあるかな(後撰集)
とふことを待つに月日はこゆるぎの磯にや出でて今はうらみむ(後撰集)
身をつめばあはれとぞ思ふ初雪のふりぬることも誰に言はまし(後撰集)
何れも来なくなった男への恨み節っぽい歌でしょうか。
○ 38番歌 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
「題しらず」となっている。独詠だろうか、それとも男に言いやった? 相手の男は誰だろうか→大和物語からして敦忠でしょう。
大和物語は81〜84段を右近と敦忠の話として右近の歌を載せている。
81段 忘れじと頼めし人はありと聞くいひしことのはいづち往にけむ 
82段 栗駒の山に朝立つ雉よりもかりにあはじと思ひしものを
83段 思ふ人雨と降り来るものならばわがもる床は返さざらまし
84段 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
敦忠との恋は長続きしなかった。来てくれない敦忠への恨み節が続く。
歌の解釈 2句切れか3句切れか
2句切れ 誓ったのは相手の男、男が神に見捨てられて死ぬのは惜しい。女の恋心の悲しさが出ている歌(定家の解釈)
3句切れ 誓ったのは私。あなたもご存知でしょう。そんな私から去っていった貴男でも身を滅ぼすのは惜しい。
よく分からないがこの歌は女心の誠(純情)を詠ったものなどではなかろう。「裏切られた男なんか許せない、バチが当たって死んじまえ!」という女心の本音をオブラートに包んでぼやかしただけ、、、と思うのだがいかがでしょう。
当時「神仏への信仰」「神仏への誓い」は絶対的なものであった(破れば必ずバチが当たる)ということを前提として考えないとこの歌は解釈できないだろう。
38番歌を気に入った定家は本歌取りもしている。
/ 身を捨てて人の命を惜しむともありしちかひのおぼえやはせん
○ 源氏物語との関連
紫式部は先輩女房として右近を強烈に意識していたのではないか。
明石から帰った源氏が明石の君のことを紫の上に打ち明ける。紫の上はショックを受けるがさりげない風を装う。その人(明石の君)のことどもなど聞こえ出でたまへり。思し出でたる御気色浅からず見ゆるを、ただならずや見たてまつりたまふらん、わざとならず、(紫の上)「身をば思はず」などほのめかしたまふぞ、をかしうらうたく思ひきこえたまふ。源氏は紫の上に永遠の愛を誓った筈、それなのに明石の君が登場し、後には女三の宮が正妻として降嫁してくる。自分への愛の誓いを破った源氏、源氏には神の天罰が下るかもしれない。紫の上は我が身のことはうちおき源氏の身の上を思いやった。
紫の上の切ない思いに胸がつまります。ホンに源氏はお阿呆さんであります。
源氏物語には二人の「右近」が重要脇役として登場する。
1. 夕顔&玉鬘の女房の右近 / 夕顔が取り殺されるシーンでの右近 / 執念で夕顔の遺児玉鬘を探し出す右近(35番歌の所で述べました)
2. 浮舟の乳母子の右近 / 薫と匂宮の三角関係に振り回され進退窮まっていく浮舟。その浮舟を同僚侍従とともに支える右近。ウソにウソを重ねて薫からの追及をかわしていく筋運びは圧巻でした。 
4
「ひたすら浮気する彼を待つ」百人一首に見る平安時代の恋愛
競技かるたをテーマとした人気少女漫画『ちはやふる』、大ヒットを記録中のコミックエッセー『超訳百人一首 うた恋い』など、百人一首を題材にした書籍が注目を集めています。そもそも百人一首とは、藤原定家が選定し、平安時代の100人の歌人が歌った和歌を収録したもの。正式名称は『小倉百人一首』です。子供時代に遊んだことがある、学生時代になんとなく授業で習った記憶があるという人も多いのではないでしょうか。
百人一首は当時の男女の恋愛模様を知ることができる貴重な存在であり、いつの時代も変わらない恋愛心理を学ぶ「教材」としての役目も果たしてくれます。
平安時代の恋は「最初はひたすら女性が追いかけられる」
 「一度体を許したら、男性を待つことしかできない」ものだった。
そもそも、平安時代の貴族の恋愛とはどのようなものだったのでしょうか。まず、男性は女性の顔がわからないままアプローチをスタートしていたそうです。家柄はすぐにわかりますが、教養、美しさ、性格などは人伝いで情報を集めていくしかなかったそうです。
それでも、女性側がOKするまでは顔を見ることも、直接会話することもほぼできなかったとされています。アプローチする女性を絞り込んだ男性は、まず相手に歌を送ります。男性側は女性からの返事を期待してはいけません。何度も何度も歌を送り、ようやく女性側から手紙がもらえれば思いが伝わったという証し。
そこから男性側が女性の家で一夜を過ごすことになりますが、なんとそこで初めてお互いに顔を合わせます。ここまでは男性側が女性にひたすらアタックしますが、この一夜から立場が逆転するとされています。女性はひたすら、男性が通ってくるのを待つことになるでしょう。貴族の男性は、複数の女性と関係を持つ人も多かったそうです。ですから、浮気を黙認せざるを得なくなるのです。
百人一首は、男性の浮気症をテーマにした歌も多い
百人一首にて詠まれている恋愛とは、心変わりを嘆くもの、待ち続けている切なさを歌ったものが非常に多いとされています。特に女性の歌人が作ったものは男性の浮気を嘆く和歌が多く、昔も今も男性の浮気に悩まされている女性が多かったということがわかります。
例えば、歌人・右近によるこの和歌。「忘らるる 身をば思わず 誓ひして 人の命の 惜しくもあるかな」。現代語訳をすると「あなたに忘れられてしまう、そんな私の身については何も思わない。だけど、『心変わりしない』と誓ったあなたの命が、神罰によって失われてしまうかもしれない。それが、惜しく思われてしかたありません」という内容です(解釈には諸説あり)。つまり、「あなたが他の女性のところに行くのは仕方がないと諦めているけれど、自分で『お前だけ』と神に誓っていたくせに。いつか天から罰が下るかもしれませんね」と、皮肉をたっぷりと込めた和歌を詠んでいるのです。
これ以外にも、儀同三司母による「忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな」という和歌はインパクト大。現代語訳すると「『いつまでもお前のことを忘れないよ』とあなたは言うけれど、いつその気持ちが変わるのか不安で仕方がない。こうしてあなたが愛してくれる今、このまま死んでしまいたい」という意味になります。平安の恋愛といえばのんびりゆったりしたイメージがありますが、女性の愛にかける激しい気持ちはいつの時代も変わりがないようです。
ちなみに、逢瀬(おうせ)を交わした次の日の朝に、相手に和歌を送るのは平安時代の恋愛マナーのひとつ。現代風にいうと、お泊まりをして帰った次の日の朝にメールを送るようなもの。これができない男性は、無粋だというレッテルを貼られてしまっていたようです。
やはりどの時代においても男性は、女性の心をつなぎとめられるアフターケアができないとモテないのかもしれません。  
 
39.参議等 (さんぎひとし)  

 

浅茅生(あさぢふ)の 小野(おの)の篠原(しのはら) しのぶれど
あまりてなどか 人(ひと)の恋(こひ)しき  
浅茅が生えている小野の篠原の“しの”のように忍んでいるけれども、どうしてあの人のことが、どうしようもなく恋しいのだろう。 / 浅茅が生えている小野の篠原ではないが、この心を耐え忍んでも、耐えきれぬほどにどうしてこんなにも、あなたのことが恋しくてたまらないのだろうか。 / ススキ(茅)や細い竹(篠)がまばらに生えている野原の「しの」のように、わたしは恋を心にしのんできましたが、しのびきれずに、どうしてこんなにもあなたを恋しいと想うのでしょうか。 / 浅茅の生えた寂しく忍ぶ小野の篠原ではありませんが、あなたへの思いを忍んではいますが、もう忍びきることは出来ません。どうしてこのようにあなたが恋しいのでしょうか。
○ 浅茅生の / 「小野」にかかる枕詞。「浅茅」は、丈の短いチガヤ。「生」は、草木が生えている所。
○ 小野 / 野原の意を表す普通名詞。「小」は、接頭語。
○ 篠原 / 細い竹が生えた原。ここまでが、「しのぶれど」にかかる序詞。
○ しのぶれど / 「しのぶれ」は、バ行上二段の動詞の已然形で、耐える・こらえるの意。「ど」は、逆接の確定条件を表す接続助詞。
○ あまりてなどか人の恋しき / 「か」と「恋しき」は、係り結び。「あまりて」は、多すぎてあふれる状態を表す。この場合は、「しのびあまりて」で、耐えきれなくなっての意。「など」は、疑問を表す副詞で、「どうして〜だろうか」の意。「か」は、疑問の係助詞。「人」は、恋の対象となる女性。「恋しき」は、形容詞の連体形で、「か」の結び。 
1
源等(みなもとのひとし、元慶4年(880年) - 天暦5年3月10日(951年4月18日))は、平安時代前期から中期にかけての公家。嵯峨源氏、中納言・源希の次男。官位は正四位下・参議。小倉百人一首では参議等。
昌泰2年(899年)近江権少掾に任ぜられたのち、主殿助を経て、延喜4年(904年)従五位下に叙爵。以後、三河守・丹波守・美濃権守・備前守と地方官を歴任し、この間、治国の功労により延喜12年(912年)従五位上、延喜23年(923年)正五位下に昇叙され、同年10月には左中弁に補任されている。延長8年(930年)従四位下・大宰大弐に叙任。
朱雀朝では、弾正大弼・山城守・勘解由長官を歴任し、天慶6年(943年)従四位上・右大弁に叙任される。
村上天皇が即位した翌年の天暦元年(947年)参議に任ぜられ公卿に列す。天暦5年(951年)正月に正四位下に昇叙されるが、同時に議政官として兼帯していた右大弁・勘解由長官・讃岐守の官職を全て辞任し、同年3月10日に薨去。享年72。
勅撰歌人として『後撰和歌集』に4首が採録されている。百人一首に収録された歌は本歌取りである。
浅茅生(あさじふ)の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき (『後撰和歌集』、小倉百人一首)
2
源等 元慶四〜天暦五(880-951)
嵯峨源氏。中納言希の二男(公卿補任)。醍醐天皇の昌泰二年(899)、近江権少掾。同四年、主殿助。延喜四年(904)、従五位下。以後、大蔵少輔・三河守・丹波守・内匠頭・左中弁・主殿頭などを経て、延長八年(930)、従四位下。さらに大宰大弐・山城守・勘解由長官などを歴任し、天慶六年(943)、従四位上。右大弁を経て、天暦元年(947)、参議に就任する。天暦五年(951)正月、正四位下に昇叙された後上表して致仕。同年三月、卒去した。七十二歳。勅撰入集は後撰集の四首のみ。
人のもとにつかはしける
東路あづまぢの佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人のなき(後撰619)
(東国の佐野の舟橋を架け渡す――その「かけ」ではないが、思いをかけてずっと恋し続けていることを知ってくれる人がいないことよ。)
人につかはしける
浅茅生あさぢふの小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき(後撰577)
(浅茅の生えている野原の、篠竹の群落――その篠竹が茅(ちがや)の丈に余って隠れようがないように、忍んでも私の思いは余って、どうしてこうあなたが恋しいのでしょう。)
題しらず
かげろふに見しばかりにや浜千鳥ゆくへもしらぬ恋にまどはむ(後撰654)
(陽炎のようにほのかに見たばっかりに、浜千鳥のように行方もわからない恋に私は迷うのだろうか。) 
 
40.平兼盛 (たいらのかねもり)  

 

しのぶれど 色(いろ)に出(い)でにけり わが恋(こひ)は
ものや思(おも)ふと 人(ひと)の問(と)ふまで  
他人には気付かれないように耐え忍んできたけれど、顔色に出てしまっているのだ。私の恋は。「恋の物思いをしているのですか」と他人が問うほどまで。 / 私の恋心は、誰にも知られまいと心に決め、耐え忍んできたが、とうとうこらえきれず顔に出てしまったのか。何か物思いがあるのですかと人が尋ねてくるほどに。 / 誰にも知られないように隠してきたのに、わたしの恋心は、とうとう顔色に出るまでになってしまいました。「恋の悩みですか?」とまわりの人に尋ねられてしまうほどに。 / 人に知られまいと恋しい思いを隠していたけれど、、とうとう隠し切れずに顔色に出てしまったことだ。何か物思いをしているのではと、人が尋ねるほどまでに。
○ しのぶれど / 「しのぶれ」は、バ行上二段の動詞「しのぶ」の已然形で、人目につかないようにする・他人に気づかれないようにするという意。「ど」は、逆接の確定条件を表す接続助詞。
○ 色に出でにけり / 「色」は、顔色。「出で」は、ダ行下二段の動詞「出づ」の連用形。「色に出づ」で恋愛感情が顔色に出ることを表す。「けり」は、今初めて気づいたことを表す詠嘆の助動詞。この場合、他人から「恋の物思いをしているのか」と質問されたことで、恋心が顔色に出てしまっていることに初めて気づいたことを表す。
○ 物や思ふと / 「や」と「思ふ」は、係り結び。「物思ふ」は、恋の物思いをすること。「や」は、疑問の係助詞。「思ふ」は、ハ行四段の動詞「思ふ」の連体形で、「や」の結び。「物や思ふ」で、「物思いしているのですか」という意の他人からの質問を表す。「と」は、引用を表す格助詞。
○ 人の問ふまで / 「人」は、自分と恋愛の対象女性以外の第三者。ただし、この歌は、技巧を競う歌合で詠まれたものであり、恋愛対象も第三者も架空の人物。「の」は、主格の格助詞。「まで」は、程度を表す副助詞で、「〜ほど・くらい」の意。「色に出にけり」にかかる倒置法。
※ 天暦の御時の歌合(天徳内裏歌合)で、ともに「恋」を題に詠まれた歌として、壬生忠見(41番)の歌を参照されることをおすすめします。  
1
平兼盛(たいらのかねもり、生年不詳 - 正暦元年12月28日(991年1月16日))は、平安時代中期の歌人・貴族。臣籍降下前は兼盛王と称す。光孝平氏、大宰大弐・平篤行の三男。官位は従五位上・駿河守。三十六歌仙の一人。
文章生を経て、天慶9年(946年)従五位下に叙爵。天暦4年(950年)平朝臣姓を与えられて臣籍降下するとともに、越前権守に任ぜられる。応和元年(961年)山城介。応和3年(964年)大監物として京官に復し、康保3年(966年)従五位上に叙せられる。円融朝の天元2年(977年)駿河守に任ぜられ再び地方官に転じた。正暦元年(991年)12月28日卒去。享年は明らかでないが、父・篤行王の生没年を勘案すると80歳位まで生存したと推定される。最終官位は前駿河守従五位上。
『拾遺和歌集』・『後拾遺和歌集』における代表的な歌人の一人であり、『後撰和歌集』以降の勅撰和歌集に約90首が採録。家集に『兼盛集』がある。その歌風は一首一首を深く考えてつくるというものであったが、難解になることもなく、比較的わかりやすい素直な表現の歌が多い。
逸話
兼盛といえば「天徳内裏歌合」における壬生忠見との対決(この時の歌が百人一首にも取られた「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで」である)が一番有名であるが、「天徳内裏歌合」を始めとするさまざまな歌合、歌会、屏風歌の有力歌人として知られる。生存中から様々な挿話、逸話の主人公として知られていた。
兼盛が妻と離婚した際、妻は既に妊娠しており、赤染時用と再婚した後に娘を出産したため、兼盛が娘の親権を主張して裁判で争ったが認められなかったとの逸話が伝わる。なお、その娘は赤染衛門として大江匡衡に嫁ぎ、その血脈は大江広元や大江姓毛利氏にも流れている。
2
平兼盛 生年未詳〜正暦元年(990)
光孝天皇の五代孫。筑前守篤行の子。『袋草紙』には『江記』からの引用として赤染衛門の実父であるとの説を載せる。もと兼盛王と名のったようであるが、天暦四年(950)、平姓を賜わる。越前権守・山城介・大監物などを経て、従五位上駿河守にいたる。天徳四年(960)の内裏歌合など、多くの歌合に出詠。また永観三年(985)二月、円融院紫野御幸における歌会では和歌序を執筆。屏風歌も多い。後撰集に二首入集したのを始め(ただし兼盛の作であることを疑う説もある)、勅撰入集計九十首(金葉集三奏本は除く)。拾遺集・後拾遺集では主要歌人の一人。三十六歌仙。家集『兼盛集』がある。『大和物語』五十六〜五十八、八十六段などに登場し、同書によれば後撰集の978・1172番歌は兼盛の作になる。
春 / 麗景殿の女御の哥合に
見わたせば比良の高嶺に雪きえて若菜つむべく野はなりにけり(続後撰34)
(見わたせば、比良の峰々に積もっていた雪はもう消えて、若菜を摘めるほどに野はなっていたのだ。)
題しらず
けふよりは荻の焼け原かきわけて若菜つみにと誰をさそはむ(後撰3)
(春になった今日からは、野焼きした荻の枯草を掻き分けて、若菜を採みに行こうと誰を誘おうか。)
冷泉院御屏風の絵に、梅の花ある家にまらうど来たる所
わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ思ひのほかに君が来ませる(拾遺15)
(我が家の高く伸びた梅の枝が見えたのだろうか。思いもかけず、あなたが来てくれた。)
河原院にてはるかに山桜をみてよめる
道とほみ行きては見ねど桜花心をやりて今日はかへりぬ(後拾遺97)
(道が遠いので、実際行っては見ないけれども、山桜の花よ、心だけは行かせて、今日は帰って来たよ。)
清慎公、月輪寺の花見侍りける時、よみ侍りける
山桜あくまで色を見つるかな花散るべくも風ふかぬ世に(続古今104)
(山桜の美しさを心ゆくまで堪能できました。花が散りそうには見えない、風のない穏やかな世にあって。)
円融院御時、三尺御屏風に、花の木のもとに人々あつまりゐたる所
世の中にうれしき物は思ふどち花見てすぐす心なりけり(拾遺1047)
(この現世にあって嬉しいことと言ったら、何よりも、気の合う同士が花を眺めて過ごす時の心持でしたよ。)
屏風、旅人花見る所をよめる
花見ると家路におそくかへるかな待ちどき過ぐと妹やいふらむ(後拾遺109)
(花見をするというので、家に遅く帰ることだよ。待ち時間が過ぎたと、妻は責めるだろうか。)
夏 / 天暦御時歌合に
み山出でて夜はにや来つる時鳥暁かけて声のきこゆる(拾遺101)
(山を出て、夜中にやって来たのだろうか、時鳥は。暁にかけて、その声が聞える。)
九条右大臣家の賀の屏風に
あやしくも鹿のたちどの見えぬかなをぐらの山に我や来ぬらむ(拾遺128)
(不思議なことに、鹿の居場所が見えないことだ。小暗いという名の小倉山に私は来たのだろうか。)
秋 / 駿河へまかりけるとき、せたの橋といふ所にやどりてはべりけるに、駒ひきの馬ひきわたしけるをききて
望月の駒ひきわたす音すなり瀬田の長道橋もとどろに(麗花集)
(望月の駒を牽いて渡す蹄の音が聞えてくる。瀬田の長道は、橋も轟くほどに。)
月の明あかき夜、紅葉の散るを見てよめる
荒れはてて月もとまらぬ我が宿に秋の木の葉を風ぞふきける(詞花136)
(荒れ果てて、月も留まってくれない我が家には、ただ秋風が吹きすさび、散らした紅葉で屋根を葺くのだった。)
暮の秋、重之が消息せうそこして侍りける返り事に
暮れてゆく秋の形見におくものは我が元結の霜にぞありける(拾遺214)
(暮れて去る秋が形見に残して行ったものは、私の元結についた霜――いや白髪であったよ。)
冬 / 入道摂政の家の屏風に
見わたせば松の葉しろき吉野山いく世つもれる雪にかあるらむ(拾遺250)
(見わたせば、松の葉までも白い吉野山よ。どれほど長い年月消えずに積もっている雪なのだろうか。)
冬、山寺に心地わづらひてありけるに、とぶらひにこむといひたりける人待つほとに雪の松にかかりたりけるを
山がくれ消えせぬ雪のかなしきは君松の葉にかかるなりけり(兼盛集)
(山の陰にあって消えない雪のうちでも悲しいのは、松の葉にかかった雪です――そんな風に、いつまでもあなたを待って寂しい山にいる私の境遇を思いやって下さい。)
斎院の御屏風に、十二月つごもりの夜
かぞふればわが身につもる年月を送り迎ふとなにいそぐらむ(拾遺261)
(数えれば、またひと月、また一年と、我が身に積もる年月なのに、それを送り迎えると言って、人は何をこう急いでいるのだろうか。)
恋 / 天暦御時歌合
忍ぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで(拾遺622)
(知られまいと秘め隠していたが、顔色に出てしまったのだなあ、私の恋心は。思い悩んでいるのかと、人から尋ねられるまでに。)
題しらず
恋ひそめし心をのみぞうらみつる人のつらさを我になしつつ(後拾遺638)
(あなたを恋するようになった私の心を一方的に責めていました。人の無情を自分のせいにしてばかりいて。)
人につかはしける
雨やまぬ軒の玉水かずしらず恋しきことのまさる頃かな(後撰578)
(雨のやまない軒から垂れる雫が数え切れないように、限りなく恋しさが増す今日この頃ですよ。)
いひそめて久しくなりにける人に
つらくのみ見ゆる君かな山のはに風まつ雲のさだめなき世に(続千載1545)
(いつも薄情な態度に見えるあなたですよ。山の端で風を待つ雲のように、頼りない世にあって。)

君恋ふと消えこそわたれ山河にうづまく水のみなわならねど(兼盛集)
(あなた恋しさに、私の命はしょっちゅう消えそうになっているのですよ。谷川に渦巻く水の泡ではないけれど。)
屏風にみ熊野の形かたかきたる所
さしながら人の心をみ熊野の浦の浜はま木綿ゆふいくへなるらむ(拾遺890)
(熊野の浦の浜木綿に、そっくりそのまま都の恋人の心を見透したことだよ。その葉が幾重にも重なっているように、あの人がどれほど繰り返し私のことを思ってくれているかと。)
雑 / みちのくにの白河関こえ侍りけるに
たよりあらばいかで都へつげやらむけふ白河の関はこえぬと(拾遺339)
(つてがあったなら、どうにかして都の人たちに告げたいものだ。今日あの名高い白河の関を越えたと。)
むすめにまかり後れて、又の年の春、桜の花ざかりに家の花を見て、いささかに思ひをのぶといふ題をよみ侍りける   小野宮太政大臣
桜花のどけかりけり亡き人を恋ふる涙ぞまづはおちける
(桜の花は散る気配もなく、のどかに咲いていることだ。亡き娘を慕う私の涙は、まっさきに落ちたけれど。)
面影に色のみのこる桜花いく世の春を恋ひむとすらむ(拾遺1275)
(亡き人を偲ぶ面影として、美しい色ばかりが留まっている桜の花――これから先、この花を眺めては、幾代の春、故人を慕うのだろうか。)
つかさ給はらで内わたりの人に
沢水に老いぬる影を見るたづのなくね雲井にきこゆらむやは(兼盛集)
(沢の水面に老いた自分の影を映す鶴の啼く声は、雲の上まで届くでしょうか。) 
3
平兼盛と『大和物語』
五十六段
越前權守(平)兼盛、兵衞の君(參議藤原兼茂女)といふ人にすみけるを、としごろはなれて又いきけり。さてよみける、
ゆふさればみちもみえねどふるさとはもと來し駒にまかせてぞ行く
女、かへし、
こまにこそまかせたりけれはかなくも心の來ると思ひけるかな
(越前の権守兼盛が、兵衛君という人の所に通っていた。長い間離れてからまた行った。その時に詠んだ歌。夕方になりますと、道もはっきり見えませんが、以前よく来た所ですから、そのころ通い慣れた馬にまかせて来ました。女の返事 馬に任せていらっしゃったのですね。それなのに、おろかにもあなたが心から私を慕って来てくださったと思っていました。)
五十七段
近江の介平の中興がむすめをいたうかしづきけるを、親なくなりてのち、とかくはふれて、人の國にはかなき所にすみけるを、あはれがりて、兼盛よみておこせたりける、
をちこちの人目まれなるやまざとに家居せむとはおもひきや君
とよみてなむおこせたりければ、見てかへりごともせで、よゝとぞ泣きける。女もいとらうある人なりけり。
(近江の介の平の中興(なかおき)が、娘を本当にたいそう大切に育てていたが、親が亡くなって後、いろいろな目にあっておちぶれて、よその国の心細い所に住んでいたので、しみじみとかわいそうに思って、兼盛が歌を詠んでよこした。それに、あちらこちらの人も訪れてくるのがまれな寂しい山里に、家をつくって住むことになろうなどと思ったことがありましたか、あなたは。とあったので、女はそれを見て返歌もしないで、おいおい声をあげて泣いた。この女の人も、たいそうさまざまな事を心得て、ものごとの分かる人だったのである。)
五十八段
おなじ兼盛、みちの國にて、閑院の三のみこ(清和天皇皇子貞元親王)の御むこにありける人、黒塚といふ所にすみけり、そのむすめどもにをこせたりける、
みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか
といひたりけり。
かくて、「そのむすめをえむ」といひければ、親、「まだいとわかくなむある。いまさるべからむ折にを」といひければ、京にいくとて、やまぶきにつけて、
はなざかりすぎもやすると蛙なく井手の山吹うしろめたしも
といひけり。
(中略)
さてこのこゝろがけしむすめ、ことおとこして、京にのぼりたりければ、ききて兼盛「のぼり物し給なるを告げたまはせで」といひたりければ、「井手の山吹うしろめたしも」といへりける文を、「これなむみちのくにのつと」とてをこせたりければ、男、
としをへてぬれわたりつる衣手をけふの涙に朽ちやしぬらん
といへりけり。
(おなじ兼盛の陸奥の国での話である。閑院の第三の皇子の御息子であった人(源重之)が、黒塚という所に住んでいた。その娘たちに、兼盛が歌を送った。陸奥の国の安達が原の黒塚に、鬼がこもっていると聞きますが、それはまことですか。というのであった。こうして兼盛が、「その娘をもらいたい」といった所、親が「まだ年齢的に早いのです。年頃になりましたらその折にでも」といったので、兼盛は都に行くと言って、山吹につけて、花盛りを過ぎもするのではなかろうと、蛙が鳴く井手の山吹にも例えられる娘さんを残して、都へ行くことが気掛かりですよ。といった。 (中略) さて、兼盛が心をかけていた娘が、他の男と一緒になって都に上って来たので、それを伝え聞いて兼盛は、「都へおいでになっているそうですが、それをお知らせくださらないで」といった。すると、「井手の山吹うしろめたしも」と詠んであった手紙を、「これが陸奥の国の土産で」といって送ってよこしたので、男は 長い年月、あなたのことを思う涙で乾く暇もなく濡れておりました袖なのですが、今日のあなたの仕打ちによるつらい涙で、朽ちてしまうことでしょう。と言ってやった。)
八十六段
む月のついたちごろ、大納言(藤原顕忠)殿に兼盛參りたりけるに、物などのたまはせて、すゞろに「うたよめ」とのたまひければ、ふとよみたりける、
今日よりは荻の焼原かきわけて若菜つみにと誰をさそはむ
とよみたりければ、になくめでたまひて、御返し、
片岡にわらび萌えずはたづねつゝ心やりにやわかな摘ままし
となむよみたりける。
(正月の始めごろ、大納言(藤原顕忠。時平の子。富小路右大臣といわれた。)のお屋敷に兼盛が参った時に、いろいろな事をお話になって、なにげなしに「歌を詠め」と仰せになったので、気軽にすぐ詠んだ。春になった今日からは、荻を焼いた野原をかきわけ、若菜を摘みに行きましょうといって、誰を誘いましょうか。ぜひあなたをお誘いしたいものです。と詠んだので、大納言はたとえようもなくお褒めになって、お返事に、片岡にわらびが芽を出しておりませんでしたら、あちらこちらをさがしもとめて、気晴らしにあなたと若菜を摘みましょうか。とお詠みになった。)

兼盛集では、「みやづかへ人のざうしのかべちかき所にたちよりておぼつかなき事など云ひければ、されども夢には見つめりといへば、女のつれなくのみいへれば」というように、お目当ての女官の局の周りをうろうろ。「あなたの心が頼りにならない。」「でもあなたの事を夢には見たのだ」とか未練がましいことを言い、女に相手にされない・・・という詞書きが二回も出てきます。
思いをかけている女性に対してはたくさん失恋しているみたいで、大和物語の58段や兼盛集には失恋の歌が残っています。一方、一度釣った魚には余り餌をやらなかったみたいで、大和物語の56段、兼盛集(47、48)に相手の女性が兼盛の不実を責める詞書きが残っています。
生前から歌の評価は高く、著名な歌合に度々詠進、貴人に歌を召されることも多く、屏風歌もたくさん詠みました。大嘗祭の歌も詠みました。
忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで(『拾遺』622) 
4
沙石集『歌ゆえに命を失ふ事』 (『兼盛と忠見』)
原文
天徳の御歌合のとき、兼盛、忠見、ともに 御随身にて、左右についてけり。初恋といふ題を給はりて、忠見、名歌詠み出したりと思ひて、兼盛もいかでこれほどの歌詠むべきとぞ思ひける。
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
さて、すでに御前にて講じて、判ぜられけるに、兼盛が歌に、
つつめども色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで
判者ども、名歌なりければ、判じわづらひて、天気をうかがひけるに、帝、忠見が歌をば、両三度御詠ありけり。兼盛が歌をば、多反御詠ありけるとき、天気左にありとて、兼盛勝ちにけり。
忠身、心憂くおぼえて、心ふさがりて、不食の病つきてけり。頼みなきよし聞きて、兼盛とぶらひければ、
「別の病にあらず。御歌合のとき、名歌詠み出だしておぼえ侍りしに、殿の『ものや思ふと人の問ふまで』に、あはと思ひて、あさましくおぼえしより、胸ふさがりて、かく重り侍りぬ。」
と、つひにみまかりにけり。
執心こそよしなけれども、道を執するならひ、あはれにこそ。ともに名歌にて拾遺に入りて侍るにや。
現代語訳
天徳の御歌合のときに、兼盛と忠見は、ともに随身として左方と右方についていました。初恋という題材を頂いて、忠見は、名歌を詠むことができたと思い、兼盛もどうしてこれほどできのよい歌を詠むことができようか、いやできないと思ったのでした。
恋をしているという私の評判が、早くも広がってしまいました。人に知られないようにと想っていいたのに。
さて、すでに天皇の御前で歌を読み上げて、判定なさっていたときに、兼盛の歌として
包み隠していたけれど、顔色に出てしまいました。私の恋心は、物思いをしているのかと人が問うほどまでに(顔色に出てしまっていることです。)
歌の優越を判定する人たちは、(どちらも)名歌でしたので優越をつけかねて、天皇のご意向を伺ったところ、帝は、(まず)忠見の歌を、二度三度お詠みになられました。(次に)兼盛の歌を、何回も繰り返しお詠みになられたときに、天皇のご意向は左方にあるということで、兼盛が勝ったのでした。
忠身は、つらく思って、ふさぎこんでしまい、食べられない病になってしまいました。病気が重く回復の期待が見込まれない旨を聞いて、兼盛がお見舞いにいったところ、(忠身は、)
「特別な病気というわけではありません。御歌合のときに、名歌を詠み出せたと思っておりましたが、あなたの、『物思いをしているのかと人が問うほどまでに』という歌に、あぁと思って、驚いたと思ったときから、胸がふさがって、このように重病になったのです。」
と言って、ついには亡くなりました。
物事に深くとらわれる心はよくないですが、(歌の)道を深く心にかける習慣は、心が動かされるものです。どちらの歌も名歌でしたので、拾遺集に収められているのでしょうか。 
 
41.壬生忠見 (みぶのただみ)  

 

恋(こひ)すてふ わが名(な)はまだき 立(た)ちにけり
人知(ひとし)れずこそ 思(おも)ひそめしか  
恋をしているという私の噂が早くも立ってしまったのだよ。他人に知られないように思いはじめていたのに。 / 私が恋をしてしまったという浮き名が、こんなにも早く世間に広まってしまった。誰にも知られないよう自分の心の中だけで、ひそかにあの人を思いはじめたのに。 / 恋をしている、というわたしの噂は、はやくも皆に知られてしまった。人知れず、密かに恋しはじめたところだったのになぁ。 / わたしが恋をしているという噂が、もう世間の人たちの間には広まってしまったようだ。人には知られないよう、密かに思いはじめたばかりなのに。
○ 恋すてふ / 「てふ」は、「といふ」がつづまった形。直前には会話文・心内文などがあり、伝聞を表す。
○ わが名はまだき立ちにけり / 「名」は、噂・浮き名。「まだき」は、早くもの意を表す副詞。「立ちにけり」は、平兼盛の歌(40番)の「出でにけり」と同じ用法で、今初めて気づいたことを表す詠嘆の助動詞。この場合、誰にも知られないように恋心をいだきはじめたのに、気がついたら早くも噂が立っていたことを表す。
○ 人知れずこそ思ひそめしか / 「こそ」と「しか」は、係り結び。「知れ」は、下二段の動詞「知る」の未然形で、知られるの意。「ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「知れず」で、知られないようにの意。「こそ」は、強意の係助詞。「思ひそめ」は、「思ひ初め」で、思いはじめるの意。「しか」は、過去の助動詞「き」の已然形で「こそ」の結び。この場合は、倒置法が用いられているため、「〜たのに…」という逆接の意を表し、上の句にかかる。
※ 『拾遺集』の詞書によると、この歌は、40番の平兼盛の歌とともに、天徳4年(960年)に村上天皇の御前で行われた歌合、いわゆる、天暦の御時の歌合(天徳内裏歌合)で、「恋」を題として優劣を競った歌である。しかも、この歌合の最後の勝負、いわばエース対決として戦った歌であり、判者の藤原実頼も優劣つけがたく、持(引き分け)にしようとした。しかし、天皇が「しのぶれど」と口ずさまれたことから勝敗は決し、兼盛の勝ちとなった。この敗戦が原因で、忠見は、拒食症に陥り病死したと『沙石集』は伝えている。この逸話の真偽は定かではないが、当時の人々の歌合に対する思い入れが並々ならぬものであったことは、うかがい知ることができる。ちなみに、天徳内裏歌合の二人の直接対決は、2勝1敗で忠見の勝ち、団体戦でも忠見が属する左方が10勝5敗5分(そのうち忠見は、2勝1敗1分)で勝っている。対する兼盛は、4勝5敗1分で負け越し、右方の勝利に貢献することはできなかった。 
1
壬生忠見(みぶのただみ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。右衛門府生・壬生忠岑の子。父・忠岑とともに三十六歌仙の一人に数えられる。
天暦8年(954年)に御厨子所定外膳部、天徳2年(958年)に摂津大目に叙任されたことが知られるほか、正六位上・伊予掾に叙任されたとする系図もあるが、詳細な経歴は未詳。歌人としては天暦7年(953年)10月の内裏菊合、天徳4年(960年)の内裏歌合に出詠するなど、屏風歌で活躍した。勅撰歌人として『後撰和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に36首入集。家集に『忠見集』がある。

「天徳内裏歌合」で
恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか(『拾遺和歌集』・『小倉百人一首』)
と詠み、
忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
と詠んだ平兼盛に敗れたために悶死したという(『沙石集』)。なお、『袋草紙』では悶死まではしておらず、家集には年老いた自らの境遇を詠んだ歌もあり、この逸話の信憑性には疑問が呈されている。
忠見は家は貧しかったものの、早くから和歌の才能を人々に知られていたので、幼少のとき内裏よりお召しがあった。乗り物がなくて参内できないと申し上げると、竹馬に乗ってでも参内せよと仰せがあったので、「竹馬は ふしかげにして いと弱し 今夕陰に 乗りて参らむ(=竹には節があり、竹馬はふし鹿毛という毛色で弱いので、今日の夕日かげに乗って参上いたします)」と歌を詠んで奉った。この逸話は『袋草子』に収録されていて、江戸時代ごろの忠見の画像には、子供の姿で竹馬にまたがっているところを描いたものが多かったという。
2
壬生忠見 生没年未詳
忠岑の息子。幼名は名多(なだ)といった(『袋草紙』)。長く摂津国に沈潜していたが、天暦初年頃、村上天皇に召され、御厨子所に官職を得ると共に、都の歌壇で活躍をみせるようになった。天暦七年(953)の内裏菊合、天暦十年の麗景殿女御歌合に出詠。天徳二年(958)、摂津大目。天徳四年(960)、内裏歌合に出詠した時、平兼盛の歌と合わされて敗れた話は著名(但しそれが原因で病を得て死んだとの説話は事実ではないらしい)。後撰集初出。勅撰入集三十七首(金葉集三奏本の一首を除く)。三十六歌仙の一人。家集『忠見集』がある。
春 / 天暦御時、麗景殿の女御の歌合に
あさみどり春は来ぬとやみ吉野の山の霞の色に見ゆらむ(続後撰3)
(うっすらと青く――春が来たというわけだろうか、吉野の山が霞の色に見えるのは。)
題しらず
焼かずとも草はもえなむ春日野をただ春の日にまかせたらなむ(新古78)
(野焼きをせずとも、草はもえるだろう。春日野を、ただ春の日の光に任せてほしい。)
春のわかれを惜しむ
はかなくも花のちりぢりまどふかな行方もしらぬ春におくれて(忠見集)
(たよりなくも花は散り、舞い乱れているなあ。どこへ行くとも知れぬ春に去られて。)
夏 / 天暦御時の歌合に
さ夜ふけて寝ざめざりせば時鳥ほととぎす人づてにこそきくべかりけれ(拾遺104)
(夜が更けて目を覚まさなかったら、時鳥の声を人づてにばかり聞いていただろうなあ。)
天暦御時御屏風に、よどのわたりする人かける所に
いづ方になきてゆくらむ郭公淀のわたりのまだ夜ぶかきに(拾遺113)
(どちらの方へ啼いて行くというのだろうか、時鳥は。淀の渡りのあたりはまだ深夜で真っ暗なのに。)
恋 / 天暦御時歌合
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか(拾遺621)
(恋をしているという私の評判は、早くも立ってしまった。人知れず、ひそかに思い始めたのに。)
天暦御時歌合に
夢のごとなどか夜しも君を見む暮るる待つまもさだめなき世に(拾遺734)
(まるで夢のように、なぜ夜に限ってあなたを見るのだろうか。日が暮れるのを待っている間さえ、どうなるか分からないこの世にあって。)
あはぬ恋
暮ごとにおなじ道にもまどふかな身のうちにのみ恋のもえつつ(忠見集)
(夕暮になるたび、あの人のことを思っては、堂々巡りを繰り返しているのだなあ。我が身の内だけで恋の火が燃えつづけて。)
雑 / 播磨のゆめさき川をわたりて
渡れどもぬるとはなしに我が見つる夢前川ゆめさきがはを誰にかたらむ(忠見集)
(渡っても濡れることなしに、寝たわけでもなしに見た夢のような夢前川――この不思議を、誰に語ろうか。)
天暦御時、菊のえん侍りけるあしたに、たてまつりける
吹く風にちるものならば菊の花雲ゐなりとも色は見てまし(拾遺1121)
(空を吹く風に花が散ってくるものでしたら、たとえ雲の上でしょうと、菊の花を賞美したいものでした。)
歌たてまつれとおほせられければ、忠岑がなどかきあつめてたてまつりける奥にかきつけける
ことのはの中をなくなくたづぬれば昔の人にあひみつるかな(新古1729)
(遺稿の中を涙ながらに探し求めると、亡き人に逢うことができましたよ。) 
3
天徳内裏歌合
この歌合は村上天皇(62代天皇)の御代の天徳四年(960年)3月30日に、延喜13年(913年)の亭子院(ていじのいん)歌合にならい、さらに儀式を整えつつ清涼殿で催された歌合で、世に天徳内裏歌合といわれ、後世の歌合の模範となった。
歌合とは、歌人を左右に分け、その詠んだ和歌を左右一首ずつ組み合わせて判者が優劣を判定するもので、数番を番え、勝の多い方が全体としての勝者となるという、典雅でしかも激しいゲームである。
歌合は平安初期以来、宮廷人や貴族の間で流行した遊戯である。初期のころは遊びであったが、徐々に政治性を帯び、時には政争の具となり、権力を有する者は有力な歌人を雇ってまで歌合に勝利しようとした。
さて、天徳歌合は、当時ともに権勢を誇った貴族同士である藤原家と源家との間で天皇の御前での戦いとして催された(私の記憶が定かではなく、この歌合が藤原家と源家の戦いであったかどうかははっきりしないが、一応ここでは上述のように記しておく。まちがっていればお詫びしなければならない)。
番える歌は20番。歌題は霞、鶯(2) 、柳、桜(3) 、山吹、藤花、暮春、初夏、郭公(2) 、卯花、夏草、恋(5) の12題。20番の判者は左大臣実頼。作者は藤原朝忠、源 順(みなもとのしたごう)、大中臣能宣、中務(なかつかさ)、藤原元真、壬生忠見(みぶのただみ)、平兼盛(たいらのかねもり)ほか当代一流の歌人たち(平凡社大百科事典)。  兼盛は藤原側、忠見は源側。ともにその力をかわれて参加した歌人である。
この歌合は19番まで進み、藤原方が圧倒的リードのなかで20番目の歌題「恋」の歌で、しかもお互いに力のある兼盛と忠見の歌が番えられた。トリの一番が大きな勝負であることは昔も今も変わらない。兼盛も忠見もこの歌合で成果をあげ、官位のうえで、より高い地位に登用されたいとの思いがある。
二人が詠んだ歌は次のものである(いずれも百人一首のなかの秀歌として名高い)。
天徳内裏歌合
しのぶれど色に出でにけり我恋(わがこひ)は 物や思ふと人の問ふまで(兼盛)
恋すてふ我名(わがな)はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひ初(そめ)しか
(忠見)右の歌は「兼盛の歌が技巧的にすぐれているのに対して、忠見の歌は率直に感情を詠出している」(島津忠夫著「百人一首」角川文庫)といわれている。しかし、いずれも恋を歌って余りあるものがあり優劣をつけがたい。
判者の実頼は勝負を決することができない。御簾のなかの天皇の方を見るが、天皇も優劣をつけられない。
そんななかで天皇が、御簾(みす)の向こうから「しのぶれど……」と口ずさぶ。
これによって実頼が兼盛の歌を勝ちとしたといわれている(袋草子など)。
兼盛は、この歌が勝ったと訊いて拝舞(はいむ)して喜び、忠見は落胆し食欲を失い病床につき、ついには死んでしまったと伝えられている。
私はたたかいに破れたとはいえ、いきなり「恋すてふ」(恋すちょう)と主題の恋を歌の頭にもってきて、一気に歌いあげた忠見の先進性と斬新さを高く評価したい。命を賭けて歌を詠出した忠見には心引かれるものがある。 
 
42.清原元輔 (きよはらのもとすけ)  

 

契(ちぎ)りきな かたみに袖(そで)を しぼりつつ
末(すゑ)の松山(まつやま) 波越(なみこ)さじとは  
約束したのだなあ。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を波が越さないように、二人の愛が永遠であることを。 / 誓い合いましたね。お互いの涙で濡れた袖を絞りながら。心変わりをすれば波が越すという末の松山を波が越すことがないように、私たち二人の愛も決して変わりはしないと。 / あなたとふたりで、かたく誓い合いましたよね。お互いにしぼれるくらいに涙で袖を濡らして。末の松山(現在の宮城県仙台市にあると考えられていた山)を海の波が越えることが絶対にないのと同じように、決して心変わりをしないってね。 / かたく約束を交わしましたね。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、波があの末の松山を決して越すことがないように、二人の仲も決して変わることはありますまいと。
○ 契りきな / 「契り」は、約束するの意を表すラ行四段の動詞「契る」の連用形。「き」は、体験的回想を表す過去の助動詞。男女の関係にある者同士が、互いの愛が永遠であると約束したことを回想している。ただし、『後拾遺集』の詞書によると、この歌は、女に振られた男に代わって元輔が詠んだ歌であり、元輔本人の体験ではない。「な」は感動を表す終助詞。以上で切れる、初句切れ。
○ かたみに袖をしぼりつつ / 「かたみに」は、互いにの意を表す副詞。「袖をしぼり」は、涙で濡れた袖をしぼること。「つつ」は、反復・継続を表す接続助詞。
○ 末の松山 / 歌枕。現在の宮城県多賀城市周辺の地名。どれほど大きな波も末の松山を越すことはないとされた。
○ 波越さじとは / 「波」は、気持ちの変化のたとえ。「波越す」で気持ちが変わること。浮気。「じ」は、打消推量の助動詞「じ」の終止形で打消の意志を表す。「と」は、引用の格助詞で、「末の松山波越さじ」を受ける。「…とは」は、意味上、初句に続く。倒置法。 
1
清原元輔(きよはらのもとすけ、延喜8年(908年)- 永祚2年(990年)6月)は、平安時代の歌人・貴族。内蔵允・清原深養父の孫で、下総守・清原春光の子。娘に清少納言がいる。三十六歌仙の一人。
天暦5年(951年)河内権少掾に任ぜられ、のちに少監物・中監物・大蔵少丞・民部少丞・同大丞などを経て、安和2年(969年)62歳にして従五位下・河内権守に叙任される。天延2年(974年)周防守に鋳銭長官を兼ね、天元3年(980年)従五位上に叙せられる。寛和2年(986年)79歳の高齢で肥後守として九州に赴き、永祚2年(990年)6月に任地にて卒去。最終官位は従五位上行肥後守。享年83は当時としては長命であった。熊本市の清原神社(北岡神社飛地境内)に、祭神として祀られている。
『今昔物語集』28巻や『宇治拾遺物語』13巻には、元輔が賀茂祭の奉幣使を務めた際に落馬し、禿頭であったため冠が滑り落ちたさまを見物人が笑うと、元輔は脱げ落ちた冠をかぶろうともせずに、物見車の一台一台に長々と弁解し、理屈を述べて歩いた。その様子を見て、見物人はさらに面白がったという話がある。清原元輔のひょうきんな一面をうかがうことができる。
歌人としての評価
天暦5年(951年)撰和歌所寄人に任ぜられ、同年から梨壺の五人の一人として、『万葉集』の訓読や『後撰和歌集』の編纂に当たった。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に約100首が入集。家集に『元輔集』がある。
元輔が歌人として高名だったことは『枕草子』に見え、女房勤めした折に清少納言が「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」といって許されたという逸話がある。
祖父の深養父も『古今和歌集』に17首も採用され、歌人として名高い。深養父・元輔・清少納言はともに小倉百人一首に和歌が採られている。
小倉百人一首 / ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは
2
清原元輔 延喜八〜永祚二(908-990)
内蔵允深養父の孫。父は下野守顕忠とも下総守春光ともいう。母は従五位上筑前守高向利生の娘という。清少納言の父。天暦五年(951)正月、河内権少掾に任ぜられ、少監物・中監物・大蔵少丞・民部少丞・同大丞などを歴任し、安和二年(969)九月、従五位下に叙せられる。同年十月、河内権守。天延二年(974)正月、周防守。同年八月、兼鋳銭長官。天元三年(980)三月、従五位上。寛和二年(986)正月、肥後守。永祚二年(990)六月、任地にて死去した。八十三歳。天暦五年十月、源順・大中臣能宣らと共に梨壺の和歌所の寄人に召され、万葉集の訓読と後撰集の編集に携わる。村上天皇代から多くの歌合に出詠し、小野宮家をはじめ権門の屏風歌や賀歌を多作した。源順・中務・能宣・藤原実方ら多くの歌人との交流が窺える。家集『元輔集』がある。拾遺集初出。勅撰入集百八首。三十六歌仙の一人。
春 / 小野宮の太政大臣、月輪寺に花見侍りける日よめる
誰たがために明日はのこさむ山桜こぼれてにほへ今日のかたみに(新古150)
(いったい誰のために明日まで花を残すのでしょうか。大臣殿のためにほかならないのです。山桜よ、霞の間から溢れて美しく映えなさい、今日の花見の記念に。)
屏風に
物も言はでながめてぞふる山吹の花に心ぞうつろひぬらん(拾遺70)
(物も言わずに、ぼんやりと眺めて日々を過ごしている。山吹の花の色に私の心が染まってしまったのだろうか。)
夏 / 四月朔日よみ侍りける
春は惜し時鳥ほととぎすはた聞かまほし思ひわづらふしづごころかな(拾遺1066)
(春が去り行くのは惜しい。と言って、時鳥の声はやはり聞きたい。あれこれと思い煩い、落ち着かない「しづ心」であるよ。)
秋 / 天禄四年五月二十一日、円融院のみかど、一品の宮にわたらせたまひて、乱碁とらせたまひけるに、負けわざを七月七日に、かの宮よりうちの大盤所(だいばんどころ)にたてまつられける扇(あふぎ)に張られて侍りけるうすものに、織りつけて侍りける
天の川あふぎの風に霧はれて空すみわたるかささぎの橋(拾遺1089)
(天の川は、扇で煽ぐ風によって霧が晴れて、七月七日の夜空は澄み渡り、鵲の橋もくっきりと見える。)
題しらず
いろいろの花のひもとく夕暮に千世まつ虫のこゑぞきこゆる(後拾遺266)
(色様々の花の蕾がほころびる秋の夕暮に、千年も生きるという松の名に因む松虫の声が聞えるのだ。なんとめでたく、情趣深いことだろう。)
津の国にまかりて、いさりするを見たまへて
いさり火のかげにもみぢて見ゆめれば浪の中にや秋をすぐさん(元輔集)
(漁火の光に海が紅葉したように見えるのだから、漁師たちは波の中に秋を過ごすのだろうか。)
内裏御屏風に
月影の田上川にきよければ網代にひをのよるもみえけり(拾遺1133)
(月の光が田上川に清らかに反映しているので、網代に氷魚が寄っているのも見えるのだなあ。)
冬 / 題しらず
冬をあさみまだき時雨とおもひしをたえざりけりな老の涙も(新古578)
(冬は浅く、時雨には早すぎると思ったけれども、絶え間なく降り続くことだなあ、老いを嘆いて泣く私の涙と一緒に。)
恒徳公家の屏風に
高砂の松にすむ鶴冬くればをのへの霜やおきまさるらむ(拾遺237)
(高砂の松に住む鶴は、冬が来れば尾羽に霜が置いて、色がいっそう美しく見えるのだろうか。)
恋 / しのびて懸想し侍りける女のもとにつかはしける
音なしの河とぞつひにながれける言はで物おもふ人の涙は(拾遺750)
(音無の川となって、とうとう流れてしまった。口に出して言わずに恋の悩みをかかえている人の涙は。)
ある女に
うつり香のうすくなりゆくたき物のくゆる思ひにきえぬべきかな(後拾遺756)
(あなたの移り香が薄くなってゆく――その微かな薫物(たきもの)の匂いのように、あなたを恋い焦がれる思いに今にも消え入ってしまいそうです。)
題しらず
大井川ゐぜきの水のわくらばに今日はたのめし暮にやはあらぬ(新古1194)
(大堰川の井関の水が「沸く」ように、今日は「わくらば」に約束して、逢えることを期待させた夕暮ではないのですか。)
八月ばかりに、桂といふ所にまかりて、水に月のうつりて侍りけるを、もろともにみし人に、後につかはしける
思ひいづや人めなかりし山里の月と水との秋のおもかげ(玉葉1989)
(あなたは思い出しますか。人目のない所で二人で見た、山里の月との秋の美しい風景を。)
心かはりて侍りける女に、人にかはりて
ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは(後拾遺770)
(約束しましたね。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を決して波が越さないように、行末までも心変わりすることは絶対あるまいと。)
雑 / 贈皇后宮の御産屋の七夜に、兵部卿致平の親王の雉の形(かた)を作りて、誰ともなくて歌をつけて侍りける
朝まだききりふの岡にたつきじは千代の日つぎのはじめなりけり(拾遺266)
(早朝、霧が立ち込める「きりふ」の岡にあらわれる雉は、千年にわたって続く貢物の始めであったのだ。)
初瀬の道にて、三輪の山を見侍りて
三輪の山しるしの杉はありながら教へし人はなくて幾世ぞ(拾遺486)
(三輪山の目印の杉は今もあるけれども、そのことを歌に詠んで教えてくれた人は、亡くなって何年経つのだろうか。)
天暦の帝かくれおはしまして、七月七日御忌はてて、ちりぢりにまかり出でけるに、女房の中におくり侍りける
けふよりは天の河霧たちわかれいかなる空に逢はんとすらん(詞花399)
(今日より後は、天の川の川霧が「立つ」ではないが、皆「立ち別れ」、どこで再び逢おうというのだろうか。)
小一条のおとどのなくなり侍りて後、桜の花面白きをもてあそび侍る日、帰る雁といふことを
かへる雁君もし逢はばふるさとに桜惜しむとなきてつげなむ(元輔集)
(帰る雁よ、おまえがもし亡き左大臣に逢ったなら、私は故郷の京で桜の花を惜しんで啼いてますと告げてほしい。)
肥後守にて、清原元輔くだり侍りけるに、源満仲、餞(せん)し侍りけるに、かはらけとりて
いかばかり思ふらんとか思ふらむ老いてわかるる遠き別れを(拾遺333)
(私がどれほど悲しいと思っていると、あなたは思っているだろうか。年老いて遠くへと別れるこの別離を。) 
3
清原元輔の娘 清少納言から見た父像
『枕草子』第九十五段の一部より
一条天皇の中宮 定子様から清少納言に和歌を詠むよううながされて・・・
「〜<略>〜 いといかがかは、文字の数知らず、春は冬の歌、秋は梅、花の歌などをよむやうははべらむ。なれど、歌よむと言はれし末々は、すこし人よりまさりて、『そのをりの歌は、これこそありけれ。さは言へど、それが子なれば』など言はればこそ、かひある心地もしはべらめ。つゆとりわきたる方もなくて、さすがに歌がましう、われはと思へるさまに、最初に詠み出ではべらむ、亡き人のためにも、いとほしうはべる」と、まめやかに敬す〜(略)〜」
(「わたくしは、歌は三十一字で詠むものと知っておりますし、春に冬の歌を詠んだり、秋に梅の花の歌を詠んだりはいたしませんわ。けれども、私の先祖は歌人の家系と言われた者ですから、少しは人より優れた歌を詠んで『その時の歌は、これこそ見事な出来だった!さすがは清原の家の子だけのことはある!』などと言われればこそ、歌を詠む甲斐もある心地がいたします。それが少しも優れたところがないのに、それでもいかにも歌のつもりでわたくしこそはと思い最初に歌を詠むのは、亡き父・清原元輔のためにも大変申し訳ないことです」とまじめに申し上げる)
この後、中宮様はお笑いになって「それなら好きなようにになさい。もう無理に歌を詠めとは言わないわ。」とおっしゃた。
『枕草子』には、上記のようなエピソードがあります。清少納言にとって、清原の家が歌人の家であること、清原元輔の子であることは、少なからずプレッシャーでもあったようです。このエピソードには、こんな続きがあります。
(第九十五段つづきのエピソード)
中宮様はちょっとしたお手紙を書いて、清少納言に投げてお下げ渡しになった。
見るとそこには一首の歌が書かれてあった・・・。
元輔が 後といはるる君しもや 今宵の歌に はづれてはをる
(歌詠みの元輔の子と言われる清少納言が、今宵の歌に加わらないでかしこまって控えているの?)
清少納言は、中宮様にこう申し上げるのだった。
「その人の 後といはれぬ 身なりせば 今宵の歌を まづぞよままし つつむ事さぶらはずは、千の歌なりと、これよりなむ出でまうで来まし」と啓しつ。
(「もしも私がだれそれの子と言われない身でしたら、今宵の歌を真っ先に詠むことでございましょうに! 父・元輔に遠慮する事がございませんなら、千首の歌でも、こちらから進んで出て詠むことでございましょう」と申し上げた。)  
4
清少納言の父 清原元輔 (肥後の名国司)
JR熊本駅近く花岡山の麓に鎮座する北岡神社。その境内の北側、民家が続く一角に小さな鳥居と祠がある。ここが平安時代に肥後国司を務めた清原元輔(きよはらのもとすけ)を祀った神社である。「枕草子」で有名な清少納言の父であり、自らも「小倉百人一首」の歌人の一人として名高い。この清原元輔について郷土史家の鈴木喬先生は「ふるさと寺子屋塾(熊本県観光連盟主催)」の講演で次のように述べている。
肥後の国司として、また平安時代の歌人として名を馳せた人が清原元輔です。清原家は代々和歌を善くし、学問を指導する家柄でした。祖父深養父(ふかやぶ)は歌人、またその娘清少納言は皆様ご存知の『枕草子』の作者です。また清原家の子孫が肥後藩主細川幽斎(ゆうさい)であり、学問や和歌を学んでいます。
元輔は天暦年間(947〜957)に大中臣(おおなかとみ)の能宣(よしのぶ)らとともに和歌所寄人(わかどころよりうど)となり、『万葉集』の読み方を記す訓点を施し、『後選和歌集』の選者を命じられました。当時の和歌の名人達は梨壺(なしつぼ)の五人と称され、元輔もその一人に数えられています。
元輔は寛和2年(986)に肥後の国司となり、妻の周防命婦(すおうみょうふ)を伴って赴任してきました。この時元輔は79歳。元輔の国司としての業績は記録にありませんが、その歌集『元輔集』の中に藤崎宮で子(ね)の日遊び(若い松の木を根ごと採ってきて植える行事)をしたときに詠んだ歌が残されています。
  藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代の子の日過ごさむ
元輔と親交を重ねた人物に女流歌人の檜垣(ひがき)がおり、歌を詠み交わしています。檜垣についての記録は、そのまま史実を反映しておらず、歌語りの世界が色濃く映し出されています。また檜垣は架空の人物という説もありますが、熊本の蓮台寺に住み、岩戸観音を篤く信仰したと伝えられています。
元輔は永祚(えいそ)2年(990)6月に83才で亡くなります。熊本市北岡神社の北側にある清原神社は、元輔を祭神としており都に帰れなかったその霊を慰めた跡と伝えられています。
なお、清原家の子孫である肥後細川家の始祖・細川幽斉公の嫡男・忠興公の夫人、玉子(ガラシア)に仕え、キリシタンの洗礼を与えたとされる清原マリアにとって幽斉公は大伯父にあたる。 
5
宇治拾遺物語 / 元輔落馬の事
今は昔歌詠の元輔内蔵助になりて賀茂祭の使しけるに一条大路渡りけるほどに殿上人の車多くならべ立てて物見ける前渡るほどに寛厚にては渡らで `人見給ふに `と思ひて馬をいたく煽りければ馬狂ひて落ちぬ `年老たる者の頭を逆さまにて落ちぬ `君達 `あないみじ `と見るほどにいと疾く起きぬれば冠脱げにけり `髻つゆなし `ただ缶をかづきたるやうにてなんありける `馬添ひ手惑ひをして冠を取りて着せさすれど後ろざまにかきて `あな騒がし `暫し待て `君達に聞ゆべき事あり `とて殿上人どもの車の前に歩み寄る
`日のさしたるに頭きらきらとしていみじう見苦し `大路の者市を成して笑ひ喧騒る事限りなし `車桟敷の者ども笑ひ喧騒るに一の車の方ざまに歩み寄りて云ふやう `君達この馬より落ちて冠落したるをば迂愚なりとや思ひ給ふ `然か思ひ給ふまじ `その故は心ばせある人だにも物に躓き倒るる事は常の事なり `況して馬は心あるものにあらず `この大路はいみじう石高し `馬は口を張りたれば歩まんと思だに歩まれず `と引きかう引きくるめかせば倒れなんとす `馬を悪しと思ふべきにあらず `唐鞍はさらなる鐙のかくうべくもあらず `それに馬はいたく躓けば落ちぬ `それ悪ろからず
`また冠の落つる事は物して結ふ物にあらず `髪をよくかき入れたるに捕へらるるものなり `それに鬢は失せにければひたぶるになし `されば落ちん事冠怨むべきやうもなし
`また例なきにあらず `何の大臣は大嘗会の御禊に落つ `何の中納言はその時の行幸に落つ `かくの如くの例もかんがへやるべからず `然れば案内も知り給はぬこの比の若き君達笑ひ給ふべきにあらず `笑ひ給はば迂愚なるべし `とて車毎に手を折りつつ数へて云ひ聞かす
`かくの如く云ひ果てて `冠持て来 `と云ひてなん取りてさし入れける `その時に響みて笑ひ喧騒る事限りなし `冠せさすとて馬添ひの曰く `落ち給ふ即ち冠を奉らでなどかく由なし事は仰せらるるぞ `と問ひければ `痴事な云ひそ `かく道理を云ひ聞かせたらばこそこの君達は後々にも笑はざらめ `さらずば口さがなき君達は長く笑ひなんものをや `とぞ云ひける `人笑はする事役にするなりけり
現代語訳
`昔、歌詠みの清原元輔が内蔵助になって賀茂祭の勅使をしたときのこと、一条大路を通り、殿上人が車をたくさん並べ立てて見物している前を通り過ぎる際、ゆったりと渡らず `人が見ている `と思って馬を強く煽ったので、馬が暴れて、落ちてしまった `年老いた者が頭から逆さまに落ちたのである `君達は `ああ大変だ `と見ているうちに、すかさず起き上がったものの、冠が脱げてしまった `髻がまったくない `まるで瓶をかぶったがごときである `馬副の者が慌てふためき、冠を拾ってかぶせたが、それを後ろにずらして `ああ騒がしい `しばらく待たれよ `君達に話すべきことがある `と、殿上人らの車の前に歩み寄った
`日が当ると頭がきらきら光って、なんとも見苦しい `大路の者らは群れをなして、大笑いすることこの上ない `車や桟敷の者らが笑い騒いでいる中、一台の車のそばへ歩み寄り `君達、馬から落ちて冠を落としたのを愚かだと思われますか `そうは思われますまい `そのわけは、思慮のある人でも、物につまずき倒れることは世の常だからです `ましてや馬は分別などありません `この大路はたいへんでこぼこしております `馬は口をとられているので、歩むに歩めません `ああ引きこう引き、ぐるぐる回すので、倒れそうになります `馬をだめだと思ってもなりません `また、冠が落ちるのは、紐などで結うものではないからです `馬が大きくつまずけば落ちてしまいます `しかし悪いことではありません
`また冠は落ちないように物を使って留めるものでもありません `髪をしっかり中に入れて留めるものなのです `しかし、私は髪が抜けてしまい、まったくありません `それを、落ちた冠のせいにすべきではありません
`また、こうした例がこれまでなかったわけでもありません `何某の大臣は大嘗会の御禊で落されました `また何某の中納言はその時の行幸で落されました `このように例を挙げればいくらでもあります `ですから、事情をご存じないこの頃の若い君達が笑うべきではないのです `笑うのは却って愚かしいことですぞ `と、車ごとに指折り数えつつ、言い聞かせて歩いた
`こうして言い終えると `冠を持ってまいれ `と言い、受け取って被った `その瞬間、人々が笑いどよめくことこの上ない `冠を被せるとき、馬副が `落馬されてすぐ冠をお召しにもならず、なぜこのようなつまらぬことを仰せられるのですか `と訊くと `ばかなことを言うでない `こうして道理を言い聞かせるからこそ、この君達は後々笑われなくなるのだ `そうでないと、口さがない君達はいつまでも物笑いにするのだ `と言った `人を笑わせることを役目にするのであった 
6
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは
詠み人は清原元輔。清少納言の父親です。彼女は「枕草子」の中で「あの人の子孫と言われないのだったらいくらでも歌を詠むのですけれど」などと言っていますね。元輔の祖父、清少納言にとっては曽祖父に当たる深養父も有名な歌人ですから、彼女としてはそう言いたくなってしまうのでしょう。この歌は元輔の歌ですから、男が詠っていることになります。どことなく叙情的で柔らかさが女性のようにも思えるのですけれどね。「後拾遺集」の詞書には、心変わりした女に向けて振られた男に代わって詠んだ、とあります。いくら和歌の時代と言ってもやはり上手下手、あるいは得手不得手はあったのでしょう。そう思えばなにとなく微笑ましくなりますね。
約束、したよね。あなたと僕は決して離れないって。互いの袖を濡らして、あなたと誓った――。あの日のことを僕は今でも忘れていないよ。末の松山は絶対に波が超えていかないって言うのだもの。それにかけて誓ったね。波が超えないように、僕たちは決して心変わりなんてしないんだって。あなた、覚えているのかな……。
最初に「契りきな」と強く出ていますが、それ以後はゆるゆると溶けて消えていくような詠いぶりが、男の気の弱さを表しているようで切なく悲しい歌ではないかと私は思います。元輔に代作を頼んだ男はどんな男だったのでしょうね。元輔は、清原氏代々歌詠みと言われた家系の中でも最も高名と言われたほどの人ですからきっとその男らしい歌を詠んだのだと思います。とすると、やはりこの男は気弱でそれが可愛らしいような愛嬌になる男だったのかもしれませんね。強く出るのははじめばかり。それからいつの間にか口数が増えるごとに愚痴になり、最後は泣いてしまうような。贈られたほうの女は、と考えるとこの男に愛想を尽かすのだからごく普通の女だった、と考えるか、それとも「仕方ないわね」とまた母親のような愛情で包んでくれる女だったのか。
色々考えるのも、楽しいものです。この歌には、本歌と言うわけではありませんが、この歌を見れば思い出すはずの歌、と言うものがあります。「古今集」に収められている歌で
君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も超えなむ
という「もしも浮気したりしたら、末の松山を波が越える。そんなことはおこらない」と言うものです。あまりにもはっきりと思い出させるので私は本歌とは取りませんが、あるいははっきりしているからこそ本歌としてもよいのかもしれません。歌詠みの家に生まれた元輔は当時としては当たり前と言いますか、官吏としてはさほどの功績もありません。ですが、歌の世界で素晴らしい業績を上げました。天暦五年、と言いますからあの盛大な歌合があるほんのわずか前のことです。元輔は大中臣能宣とともに「万葉集」に訓点をつけるよう命ぜられました。それだけでも大事業ですが、さらに「後撰集」の選者ともなります。先の大中臣能宣に加え源順、紀時文、坂上望城の五人で世に言う「梨壺の五人」です。どうでしょう。これを聞くとあの明るい清少納言でさえ、歌詠みと言われる家系に尻込みをしたと言うのがわかりませんか。歌詠みとして大貴族たちにさえ重宝がられる元輔でしたが、官位のほうはといえば遅々として進みません。ですが、彼の業績はそこにはないのですよ。本人とすれば、少しでも官位を進ませ、良い暮らしをしたいと思ったことでしょうけれど。そう思いつつも、私は元輔はそのようなことを考えたかな、とも思うのです。
娘の清少納言はどうやら遅いときの子のようです。幼い彼女を連れて任地に下るとき、可愛らしい声をして「あれはなに」「これは」と問う娘に目を細めたのでは、など想像は尽きません。そして案外そんな生活を楽しんでいたのでは、とも思うのです。やると言われればもらったでしょうが、元輔にとっては官位よりも歌詠みであることのほうが大切だった、そう思いたいのは私がやはり歌詠みだからでしょうか。かの偉大な歌人に並べるなどおこがましいと、どこからともなく、と言うよりむしろすぐ横からも己の胸の中からも聞こえてきますが。彼の歌集「元輔集」には賀歌や屏風歌、折々の贈答歌などが並んでいます。それは元輔がどれほど貴族に歌詠みとして大切にされていたかを示すものでもあります。彼にとっては、誰それのために詠んだ歌、どこそこの家の屏風のための、そのような思い出こそが誇りを満たすものであったのでは、そう思うのです。 
 
43.権中納言敦忠 (ごんちゅうなごんあつただ)  

 

逢(あ)ひ見(み)ての のちの心(こころ)に くらぶれば
昔(むかし)はものを 思(おも)はざりけり  
あなたを抱いた後の恋しさに比べると、昔の恋の物思いなどは何も思っていなかったのと同じであったなあ。 / どうかしてあなたに逢いたいと思っていたが、逢ってみるとかえって苦しく、切ない今のこの気持ちに比べると、逢う前の恋の悩みは何ほどのこともなかったのだなあ。 / あなたにお逢いできて、お互いの気持ちを確かめ合えたいまの、ますますあなたを恋しく想う心にくらべると、あなたにお逢いできる前のわたしの恋の悩みなんてなんでもないものでしたよ。 / このようにあなたに逢ってからの今の苦しい恋心にくらべると、会いたいと思っていた昔の恋心の苦しみなどは、何も物思いなどしなかったも同じようなものです。
○ 逢ひ見ての / 「逢ふ」と「見る」は、ともに男女の関係を結ぶことを表す。この歌の作者は男なので、「逢ひ見」で、女を抱くという意。「て」は、接続助詞。「の」は、連体修飾格の格助詞。「逢ひ見て」を体言に準じて用いている。
○ のちの心にくらぶれば / 「のちの心」は、男女の関係となった後、すなわち、今の心境。「くらぶれば」は、「バ行下二段の動詞“くらぶ”の已然形+接続助詞“ば”」で順接の確定条件を表す。比べるとの意。
○ 昔は物を思はざりけり / 「昔」は、男女の関係となる前。「は」は、区別を表す係助詞。「物を思ふ」は、恋の物思いをする意。「ざり」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「けり」は、今初めて気づいたことを表す詠嘆の助動詞。「昔は物を思はざりけり」で、「以前の恋の物思いなどは、何も思ってないのと同じであったなあ」の意。 
1
藤原敦忠(ふじわらのあつただ、延喜6年(906年) - 天慶6年3月7日(943年4月18日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、左大臣・藤原時平の三男。官位は従三位・権中納言。三十六歌仙の一人。通称は枇杷中納言・本院中納言。小倉百人一首では権中納言敦忠。
延喜21年(921年)従五位下に叙爵、延喜23年(923年)侍従に任ぜられる。左兵衛佐・右衛門佐・左近衛権少将と武官を経て、承平4年(934年)従四位下・左近衛権中将兼蔵人頭に任ぜられる。天慶2年(939年)従四位上・参議に叙任され公卿に列す。天慶5年(942年)には先任の参議4名(源高明・源清平・藤原忠文・伴保平)を越えて、一挙に従三位・権中納言に叙任されるが、翌天慶6年(943年)3月7日薨去。享年38。
美貌であり、和歌や管絃にも秀でていた。
『後撰和歌集』や『大和物語』などに、雅子内親王(醍醐天皇皇女、伊勢斎宮)ほか多くの女流歌人との贈答歌が残されている。『後撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に30首入集。家集に『敦忠集』がある。
管弦では、敦忠の死後に管弦の名手であった源博雅が音楽の御遊でもてはやされるのを見た老人たちが、敦忠の生前中は源博雅などが音楽の道で重んぜられるとは思いもしなかったと嘆いた、との逸話が『大鏡』で語られている。
比叡山の西坂本に音羽川を引き入れた別業(別荘)を有していたという。
あひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり (『拾遺和歌集』、小倉百人一首)
敦忠は北の方(藤原玄上の娘)を非常に愛していたが、ある時北の方に対して自らが短命でまもなく死ぬであろう事、死後にはその北の方が敦忠の家令である藤原文範と夫婦になるであろうことを予言し、事実その通りになったという。 
2
藤原敦忠 延喜六〜天慶六(906-943) 号:枇杷中納言
左大臣時平の三男。母は『公卿補任』によれば在原棟梁女、『尊卑分脈』によれば本康親王女、廉子。兄に右大臣顕忠・大納言保忠がいる。子に助信・佐時・佐理(能書家の佐理とは別人)・明昭、および大納言延光の室になった女子がいる。源等の女子、藤原仲平の女子明子、藤原玄上の女子らを室とした。また西四条の斎宮雅子内親王や越後蔵人と呼ばれた女房らに恋歌を贈っている。延喜二十一年(921)正月、従五位下。同年二月、昇殿を許される。同二十三年、侍従。延長六年(928)、従五位上に昇り、左兵衛佐。以後、右衛門佐・左近権少将・伊予権守などを歴任し、承平四年(934)正月、従四位下・蔵人頭。さらに左近中将・兼播磨守を経て、天慶二年(939)正月、従四位上。同年八月、参議。同五年三月、従三位任権中納言。同六年三月七日、薨(三十八歳)。その夭折を、世の人々は菅原道真の怨霊のしわざと噂したという。枇杷中納言、本院中納言と号す。風流を好んだ敦忠は、比叡山麓の西坂本に数寄を凝らした山荘を構え、伊勢・中務を招いて歌を詠ませるなどした(拾遺集)。後撰集初出、勅撰入集は三十首。三十六歌仙の一人。百人一首に歌を採られている。
夏 / 題しらず
わがごとく物思ふときやほととぎす身をうの花のかげに啼くらむ(続古今213)
(ほととぎすは私と同じ様に、何か思い悩む時、我が身の境遇の辛さを嘆いて、卯の花の蔭で啼くのだろうか。)
冬 / 御匣殿の別当に、年をへていひわたり侍りけるを、えあはずして、その年の師走のつごもりの日つかはしける
物思ふと過ぐる月日も知らぬまに今年は今日に果てぬとか聞く(後撰506)
(物思いをしていて、過ぎ去って行く月日も知らないうちに、今年は今日で終りだとか聞くことだよ。)
恋 / はじめて人につかはしける
雲ゐにて雲ゐに見ゆるかささぎの橋をわたると夢に見しかな(新勅撰636)
(雲の上にあって、さらに見上げるほど空高く見える鵲の橋――その橋を渡ると夢に見たことです。)
まさただがむすめにいひはじめ侍りける、侍従に侍りける時
身にしみて思ふ心の年ふればつひに色にも出でぬべきかな(拾遺633)
(つくづくと深く思う心が、久しい年を経たので、ついに思い余り、外にあらわれてしまいそうです。)
御匣殿に初めてつかはしける
今日そゑに暮れざらめやはと思へどもたへぬは人の心なりけり(後撰882)
(初めてあなたと結ばれた今日だからと言って、日が暮れないはずはあろうか。そうは思うけれども、夜になるまでの時間を堪えきれないのは私の心であるよ。)
しのびて御匣殿の別当にあひかたらふと聞きて、父の左大臣の制し侍りければ
いかにしてかく思ふてふ事をだに人づてならで君にかたらむ(後撰961)
(どうにかして、このように思っているという事だけでも、人伝でなく、直接あなたにお話したいものです。)
題しらず
逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物も思はざりけり(拾遺710)
(逢瀬を遂げた後の、この切ない気持に比べれば、まだ逢うことのなかった昔は、物思いなど無きに等しかったのだ。)
しのびてすみ侍りける女につかはしける
逢ふことをいざ穂に出でなむ篠すすき忍びはつべき物ならなくに(後撰727)
(あなたと私が逢っていることを、さあ世間にはっきりさせてしまいましょう。篠薄がいつかは穂を出すように、最後まで隠しおおせるものではないのですから。)
西四条の斎宮まだみこにものし給ひし時、心ざしありておもふ事侍りけるあひだに、斎宮にさだまりたまひにければ、そのあくるあしたにさか木の枝にさしてさしおかせ侍りける
伊勢の海のちひろの浜にひろふとも今は何てふかひかあるべき(後撰927)
(伊勢の海の広大な浜に行って拾うとしても、今はどんな貝があるというのでしょうか。もはや伊勢斎宮となられたあなたを、いくらお慕いしても、何の甲斐もないでしょう。)
西四条斎宮のもとに、花につけてつかはしける
にほひうすく咲ける花をも君がため折りとし折れば色まさりけり(玉葉1612)
(彩り淡く咲いた花ですが、あなたのために心を込めて折りましたので、こんなに色が濃くなったのです。) 
3
延喜九年―天暦八年。
雅子内親王は、醍醐天皇と、近江更衣と呼ばれた、源周子の子として 生まれる。
やがて年頃になった雅子の許に、左大臣藤原時平の息子の藤原敦忠が恋文を送るようになり、二人は恋に落ちる。彼らは何度も、情熱的な恋の歌を交わしている。しかし、彼らにとっては悲劇的な決定がなされる事になるのである。承平元年の十二月二十五日、雅子が斎王としてト定されたのである。
「後撰和歌集 恋」の敦忠朝臣の項の説明によると、まさに二人が逢う約束をした直後の事だったという。
雅子も、敦忠に心を残しつつも、この決定には逆らえず、承平三年の九月二十六日に、伊勢に群行した。
敦忠は、この突然の恋の終わりの悲しみを、「伊勢の海の千尋の浜に拾ふともいまは何てふかひかあるべき」の歌に詠み、歌を書いた文を榊の枝に結んだ。
悲しみの気持ちが静まらない敦忠は、日頃親しくしていたと思われる、雅子の母の近江更衣に宛てて、この悲しみを訴える歌を送っている。
「みわの山かひなかりけり我宿の入江の松はきりやしてまし」
また、敦忠は、まだ柔子が都にいる時に、次の文を送っている。
「忘れじと結びし野辺の花簿仄かにみてもかれぞしぬべき」

雅子も、このような敦忠の文を見るにつけても、この別れは辛い事だっただろう。しかし、雅子が斎王として伊勢に赴いてからも、二人の恋の情熱は衰えなかったようであり、二人の歌の贈答は続いた。
「匂薄く咲ける花をも君がため折りとしをれば色まさりけり」
「折らざりし頃より匂ふ花なればわがため深き色とやはみる」
三年後の承平六年の三月七日、雅子は二人の恋の理解者でもあったと思われる、母の周子の死によって斎宮を退下、帰京した。これで再び敦忠との恋が復活するかに思われた。実際に、雅子の帰京後、敦忠と雅子は次の文を交している。
「あらたまのとしのわたりにあらためぬ昔ながらのはしもみせまし」
「はしばしら昔ながらにありしかばつくるよもなくあはむとぞみし」

だが、二人の間に、新たな雅子への求婚者が現れたのである。藤原忠平の息子の藤原師輔だった。実は、彼も以前に雅子に恋文を送っていたのである。
三年の間に、雅子の間にどのような心境の変化があったのかわからないが、結局雅子が選んだのは、敦忠ではなく師輔だった。理由として考えられるのは、当時すでに父の時平を亡くし、翳りつつある家の息子であった敦忠に比べ、日の出の勢いの師輔の権勢が、決め手だったのかもしれないという事である。
すでに師輔は正室として、雅子と同母の姉妹である、勤子内親王を迎えていた。雅子は師輔の妻となり、彼との間に高光、為光、尋禅、愛宮の四人の子供をもうけている。勢威ある、藤原師輔の妻として、安定した生活であったと思われる。天暦八年の八月二十九日に、雅子は四十五歳で死去した。
一方、雅子の結婚から六年後の天慶六年の三月七日に、かつて雅子と何首も情熱的な相聞を交わしていた敦忠は、三十八歳の若さで死去していた。この貴公子の早死に、父の時平の死の時と同じく、人々は菅原道真の祟りだと噂した。彼の父時平は、当時右大臣だった菅原道真を失脚させ、九州に左遷していた人物だった。
藤原敦忠は、優れた歌人であり、三十六歌仙にも選ばれる程だった。そして百人一首の歌でも知られている。
「あひみての後の心に比ぶれば昔はものを思はざりけり」 
4
「在原氏の亡息員外納言四十九日のために諷誦を修むる文」
『朝野群載(ちょうやぐんさい)』と『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』という二種類の史料に、このようなタイトルの文章が載せられています。諷誦は「ふうしょう」または「ふじゅ」と読み、声に出して読むということです。『朝野群載』とは、12世紀前半、算博士三善為康(1049-1139)という博学の人によって、公私の名文を収集、分類して作られた、いわば文章用例集のような本、『本朝文粋』はこれも博学で知られる儒者(儒学の教えを説き、研究し、実践する人)、右京大夫藤原明衡(989?-1066)の編による日本史上最高級の漢詩文集です。
この文章は漢字150字あまりからなり、中身は「在原」某という貴族が、亡くなった息子の四十九日のために整えた追悼文です。といっても作者は、『本朝文粋』によると大江朝綱なので、依頼されて作ったわけですね。この参議大江朝綱(886-958)もまた学者や書家として、平安時代漢文学に興味のある人には有名な貴族です。そしてその内容は、在原某という人のモノローグになっています。日付は天慶六年四月二十二日、西暦943年のことです。
さてそこで、おや、と思ったわけですね。この時期の在原氏といえば、せいぜい五位止まりのいわば衰退氏族、ところがその息子が員外納言、員外とは定数外のという意味なので、権大納言とか権中納言とかいう高位の貴族になっている在原氏とは誰だろう、とね。
で、本文を見ていきますと、員外納言という人は、病気になった時に落飾して僧になり、まもなく亡くなったらしいのです。そして依頼者の「妾」は「愛子」のために大変嘆き悲しんだのです。ここでは「妾」は「めかけ」ではなく「わらわ」と読むべきなのですね。そして、「人はみな短命を嘆くのに、私一人が長寿を憂う」としています。つまりこの依頼者の「在原氏」とは、息子の員外納言より長生きをした、その母なのですね。
とすると、この息子は在原氏ではない、ということになります。
で、『公卿補任(くぎょうぶにん)』の出番です。天慶六年四月二十二日の四十九日ほど前に亡くなった権納言はいないかな・・・。
と、ドンピシャ大当たり。同年三月七日が命日の、
藤原敦忠さん三十八歳
おおっ、斎王雅子内親王の恋人だった人ですよ。
つまりつまり、この「在原氏」とは、谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』のモデルになった人ではないか、ということなのです。
ここで関係者を整理いたしましょう。
在原業平(825-880)には棟梁(むねやな?-898)という長男がいました。『公卿補任』によるとその娘が藤原敦忠の母になった女性です。つまり業平の孫。ところが『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』には敦忠の母親は本康親王の娘康子女王と記されており、両説が対立しているのです。しかし少なくともこの史料から見て、在原氏説はかなり動かしがたいと見られるでしょう。
で、この業平の孫は、お祖父さんに似て大変な美人だったらしいのです。父の棟梁は、とうりょうという名に負けたか、五位で終わった平凡な貴族人生だったのに、娘の彼女は大納言藤原国経(828〜908)に見初められ、妻となりました。藤原国経といえば、業平の恋人藤原高子の兄弟で、関白基経の弟。はやい話が『伊勢物語』の「芥川」で鬼にみせかけて高子を取り戻した藤原兄弟の一人だとされている人、つまり彼女にとってはお祖父ちゃんの仇敵の一人で、『今昔物語』によると八十才と二十才というスーパー年の差カップルだったらしいのです。でも二人の間には息子もできて、それなりに幸せでした。

ところがそこに割り込んだのが基経の長男、菅原道真を失脚させたのでも有名な左大臣藤原時平(871-909)、国経邸での酒宴の引き出物に「わが家のどんな宝でも」と口を滑らせたのを幸い、彼女をもらって帰ったと『今昔』は記しています。そして生まれたのがこの藤原敦忠(906-943)。一方、父の元に残された息子、藤原滋幹が成長して母と再会するというのが『少将滋幹の母』のラスト。『続群書類従』雑部にある『世継物語』という本では、彼女は時平の妻となっても国経のことを偲んでいた、とされています。
こんな数奇な人生を歩んだ彼女ですが、このころにはすでに国経は亡く、時平も早世、兄弟で唯一名を残した中古三十六歌仙の一人、在原元方(生没年不詳、国経の養子とも)も五位程度の下級貴族にすぎません。そんな境遇で晩年に一人息子に先立たれた悲しみにうちひしがれ、故人の袈裟を布施として寺に納めるため、彼女が大江朝綱に依頼したのが、この諷誦だったようなのです。
そう思ってみると、「人みな短命を以て歎きとなし」という一説は、業平の辞世とされる「かねてより行くべき道とききしかど昨日今日とは思はざりしを」を彷彿とさせます。作者の大江朝綱は大江音人の孫、音人は実は阿保親王の子とも言われており、業平の母親違いの兄だった可能性があります。つまり依頼者と作者は祖父同士が兄弟だったかもしれないわけですね。ならば意識もしていたかもしれません。
こうして見ると、この文は、二重三重に在原業平と関係しており、いわば業平と藤原敦忠の橋渡しをしているように思えてくるので不思議です。
この諷誦は『朝野群載』などに採られたくらいなので、広く知られたものだったようです。あるいは、当時藤原師輔(もろすけ)の妻となっていた元斎王・雅子内親王の目や耳にも触れていたかもしれません。どんな気持ちで聴いていたのでしょうね。
(書き下し)
敬白  諷誦を請う事  三寶と衆僧に御布施す法服一具
右、員外納言病を受く時、風儀変じて俗累を脱し、終命の日、雲鬢を落として空王に帰す。よって此方袍の具をフげて、彼の円照の庭に捨てん。妾少しく所天に後れ、独り血涙を眼泉に流し、老いて愛子に哭す。誰か紫笋を雪林に抽さんや。人皆短命を以て歎きとなし、我独り長寿を以て憂いとなす。もしすみやかなる死あらば、あにこの悲しみに逢はんや。灯前裁縫の昔は龍尾の露を曳き、涙底染出の今は鷲頭の風に任す。魂魄霊あらば、この哀贈を受けよ。請う所件の如し。敬白す。
(大意 / 権中納言敦忠は病となった時に世を捨てて、命の尽きる日に髪を落として僧の姿となった。そのため、この法衣を寄進しようと思う。私は生き残ってしまったために、老いて愛し子のために慟哭している。二十四孝の孟宗が母のために雪の竹林で筍を探したような孝行をしてくれる人はもういない。世間では短命を嘆くが私は長寿を憂えている。もし速やかに世を去っていたならば、こんな悲しいことに逢うこともなかっただろう。灯の前で子供のために着物を縫ってやった昔は龍の尾が引きずる露のように記憶に残っているのに、涙にくれる今は、飛翔する鷲の頭が切っていく風のように空しい。死者の魂魄にもしも霊があるのなら、この哀しい贈り物を受け取ってほしい。) 
5
西院野々宮神社 (右京区)
天神川の東、西院野々宮(さいいん ののみや じんじゃ)神社(野々宮神社)は、市内にいくつかある現存する斎宮跡の中で、最もかつての風情をとどめているとされる。現在は、西院春日神社の御旅所になる。祭神の倭姫命(やまとひめのみこと)は、第11代垂仁天皇の第4皇女との神話伝承があり、伊勢神宮を創建したとされている。さらに、桓武天皇皇女・布勢内親王(ふせないしんのう)の2座。心願成就、女人守護の信仰がある。
歴史
神社の創建の詳細については不明。古くは機織の守護神として織女の信仰を集めたという。その後、女性の守護神として崇敬を集めたという。平安時代には西四条斎宮(にししじょうさいぐう)とも呼ばれていた。斎宮とは斎王の宮殿、仕えた官人の斎宮寮のことをいう。斎王は、伊勢へ下向するまでの間、この地の潔斎所で心身を清めた。「野宮(野々宮)」の名称も、この地が発祥ともいわれている。布勢内親王は、第50代・桓武天皇の第5皇女で、平安遷都直後の797年に現在地の野々宮に入り、平安時代初めて伊勢へ下った斎王という。932年には、第60代醍醐天皇の第10皇女・雅子内親王(がし、まさこ ないしんのう、910- 954)が野々宮に入っている。内親王は、斎宮卜定(ぼくじょう)前に、公家・歌人の藤原敦忠と相愛となった。「匂ひ 薄く 咲ける花をも 君がため 折りとじをれば 色まさりけり」(権中納言敦忠)、返し「折らざりし 時より匂ふ 花なれば わがため深き 色とやはみる」(雅子内親王、『玉葉集』)。社は、その後、皇室や公家から庶民にいたるまで広く崇敬を集めたという。室町時代には、野々宮と呼ばれていた。江戸時代から西院春日神社の御旅所となっている。春日祭には、天皇の勅使をはじめ多くの公家が参列していたという。現在の社殿は、江戸時代、1774年に、後桃園天皇より宮中・賢所を拝領し造営されたものという。
雅子内親王
平安時代の伊勢斎宮・雅子内親王(がし ないしんのう、910-954)。第60代・醍醐天皇第10皇女。母は更衣源周子。911年、内親王宣下、四品に叙される。920年、源氏に賜姓された。932年、斎宮に卜定、932年、宮内省へ初斎院入り、野宮に入る。933年伊勢へ下向。936年、母死去により退下、帰京。939年頃、藤原師輔と結婚し、3男1女をもうけた。前斎宮の内親王降嫁の唯一例になる。第63代・冷泉天皇の養母。西四条斎宮と呼ばれた。斎宮卜定前に藤原敦忠と恋仲であったという。実ることはなかった。伊勢下向での歌「もちち葉を幣に手向けて散らしつつ秋とともにやゆかんとすらむ」。
斎王
斎王(さいおう/いつきのみや)は、伊勢神宮の天照大神に御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)として奉仕した未婚の内親王か女王をいう。洛西の大堰川、紙屋川、有栖川は古代より祓禊の場になっており潔斎の場も置かれていた。伝承では、垂仁(すいにん)天皇の代(B.C.29?- A.D.70?)の、倭姫命(やまとひめのみこと)に始まったという。実質的には、飛鳥時代、670年第40代・天武天皇により、一度途絶えていた斎王制度が正式に始められる。以後、娘・大来皇女(おおくのこうじょ)を初めとして、第96代・後醍醐天皇の代(1330頃)まで、660年間に60人余りの斎王が生まれている。天皇の即位とともに、斎王には卜定(ぼくじょう)により未婚の内親王か女王が選ばれた。最初は、大内裏の斎所である初斎院(しょさいいん)で1年間の潔斎をした。その後、7月に郊外の清浄な野に建てられた野宮(ののみや)に入る。8月、賀茂川で禊を行った。朱雀天皇の頃より9月に変更された。さらに1、2年の精進潔斎生活を送り、9月に野宮より出て桂川で禊し、宮中に入った。天皇との別れの儀を経て、伊勢神宮に仕えるため、伊勢の斎宮へ向けて群行(ぐんこう)した。斎宮列は総勢500人にもなり、5泊6日かけて近江、鈴鹿山峠を越え、伊勢の斎宮寮へ向かった。斎王の日常は伊勢の斎宮で過ごし、数百人もの御使えの人々がいた。6月と12月の月次祭、9月の神嘗祭の3度、伊勢神宮に赴いた。天皇の崩御、譲位の際、本人、肉親などの死去などにともない退下(たいげ)になった。野宮は洛西にあったとされ、野宮神社、斎宮神社、斎明神社などもその旧跡地とされている。なお、野宮は一代限りで取り壊しにされていた。 
 
44.中納言朝忠 (ちゅうなごんあさただ)  

 

逢(あ)ふことの 絶(た)えてしなくは なかなかに
人(ひと)をも身(み)をも 恨(うら)みざらまし  
男女関係が絶対にないのであれば、かえって、あの人に相手にされないことも自分自身のふがいなさも恨むことはないのに。 / もし逢うことが絶対にないのなら、かえってあの人をも私自身をも恨むことはしないだろうに。 / もし、出会うことがまったく無いのなら、あなたの無情を恨んだり、わたしの身のつらさを恨んだりすることもなかったでしょうに。 / あなたと会うことが一度もなかったのならば、むしろあなたのつれなさも、わたしの身の不幸も、こんなに恨むことはなかったでしょうに。(あなたに会ってしまったばっかりに、この苦しみは深まるばかりです)
○ 逢ふことの / 「逢ふ」は、男女関係を結ぶこと。この場合、作者個人の男女関係(あの人との関係がないならば…)とする説と男女関係の存在自体(男女関係がこの世に存在しないならば…)とする説がある。「の」は、主格の格助詞。
○ 絶えてしなくは / 「絶えて」は、下に打消の語をともなう呼応の副詞で、「絶対に…ない」の意。「し」は、強意の副助詞。「なく」は、ク活用の形容詞で、係助詞「は」をともなって、「なくは」となり、「…ないならば」という反実仮想を表す。「逢ふことの絶えてしなくは」で、「男女関係が絶対にないならば…」の意。「逢うことが絶えて、しなくなったのは」ではない。
○ なかなかに / 副詞で、かえって・むしろの意。
○ 人をも身をも / 「人」は、恋愛の対象女性。「身」は、自分自身。「も」は、並列の係助詞。
○ 恨みざらまし / 「ざら」は、打消の助動詞「ず」の未然形。「まし」は、反実仮想の助動詞。「もし…ならば、…のに」という現在の事実と反することを仮に想像する。この場合は、男女の関係があるという事実に反すること、すなわち、男女の関係がない状態を仮に定め、「男女関係がなければ、相手の女性の態度もそれに一喜一憂する情けない自分も恨みに思うことはないのに」という想像を展開している。 
1
藤原朝忠(ふじわらのあさただ、延喜10年(910年) - 康保3年12月2日(967年1月15日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、三条右大臣・藤原定方の五男。三十六歌仙の一人。官位は従三位・中納言。土御門中納言または堤中納言と号する。小倉百人一首では中納言朝忠。
延長4年(926年)従五位下に叙爵。侍従を経て延長8年(930年)朱雀天皇の即位に伴い五位蔵人となる。のち右兵衛佐・左近衛権少将・左近衛中将など武官を歴任する傍らで地方官を兼ねる。この間、天慶6年(943年)には従四位下に、天慶9年(946年)には村上天皇即位の大嘗会で悠紀方の和歌を詠んだ労により従四位上に昇叙されている。
天暦6年(952年)参議として公卿に列す。天暦10年(956年)讃岐守、天徳2年(958年)備中守。応和元年(961年)従三位に叙され、応和3年(963年)中納言に任じられた。議政官として右衛門督・検非違使別当を兼帯するが、康保2年(965年)10月頃以降中風により政務に就くことが困難となり、同年11月右衛門督などの兼務を辞任。翌康保3年12月2日(967年1月)没。享年58。最終官位は中納言従三位。
歌人として『後撰和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に21首が入集。家集に『朝忠集』がある。小倉百人一首の歌は『天徳内裏歌合』で六番中五勝した中の一首である。また、和歌のほかに笛や笙に秀でていた。『百人一首夕話』には、座るのも苦しいほどの肥満体で痩せるために水飯を食べるように医師に勧められたが、かえって太ったという逸話がある。しかし、これは『古今著聞集』や『宇治拾遺物語』にある「三条中納言水飯事」が出典と思われるが、そこで語られる三条中納言は藤原朝成のことであり、朝忠が肥満体であったというのは『百人一首夕話』の作者の勘違いであると思われる。
逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし (『拾遺和歌集』、小倉百人一首) 
2
藤原朝忠 延喜十〜康保三(910-966) 号:土御門中納言
右大臣藤原定方の五男(公卿補任)。母は中納言藤原山蔭女。出羽守忠舒の娘との間に理兼(摂津守正四位下に至る)、鷹司殿女(倫子)との間に、左大臣源雅信の室となった穆子がいる。また左大臣源重信の室となった女子がいる。延長四年(926)正月、従五位下。同五年十一月、侍従。同八年、蔵人となり、朱雀天皇に近侍。右兵衛佐・左近権少将・内蔵頭・近江守などを経て、天暦五年(951)正月、左中将。同六年十二月、参議に就任。応和元年(961)十二月、従三位に昇り、同三年(963)五月、中納言に至る。康保三年十二月二日、薨。五十六歳。醍醐・朱雀・村上三代にわたり厚い信任を受ける。また天慶九年、村上天皇即位の大嘗会では悠紀方の歌を詠み、天徳内裏歌合では巻頭歌を出詠するなど、歌人としても重んじられた。少弐・大輔・右近・本院侍従など宮廷の才女と恋歌を贈答している。三十六歌仙の一人。家集『朝忠集』がある。小倉百人一首に歌を採られている。後撰集初出、勅撰入集二十二首(金葉集三奏本の三首を除く)。
村上御時歌合 霞
くらはしの山のかひより春がすみ年をつみてやたちわたるらむ(朝忠集)
(倉橋山の谷あいから、春霞はめでたい年を積み重ねてたち渡るだろう。これから先、何年にもわたって。)
天徳四年内裏歌合に、鶯
わが宿の梅が枝に鳴く鶯は風のたよりに香をや尋とめこし(玉葉42)
(私の居る家の梅の枝で鳴く鶯は、風の案内によって香を求めてやって来たのだろうか。)
小弐につかはしける
時しもあれ花のさかりにつらければ思はぬ山に入りやしなまし(後撰70)
(時もあろうに、花の盛りの今にあって、あなたの心がつれないので、思いもしなかった山に入ろうかとも思います。)
天暦御時、斎宮くだり侍りける時の長奉送使にてまかりかへらむとて
万代よろづよのはじめと今日を祈りおきて今行末は神ぞ知るらむ(拾遺263)
(万代も続く御代の始まりとして、今日が佳き日であらんことを祈っておきましょう。そしてこれから後のことは、ただ神のみぞ知っておりましょうから、神意のままに委ねましょう。)
天暦御時歌合に
人づてに知らせてしがな隠れ沼ぬのみごもりにのみ恋ひやわたらむ(新古1001)
(人を通して知らせたいものだ。ひっそりとした沼のように、思いを胸に秘めたまま恋し続けるのだろうか。)
天暦御時歌合に
逢ふことのたえてしなくは中々に人をも身をも恨みざらまし(拾遺678)
(そもそも逢うということが全くないのならば、なまじっか、相手の無情も自分の境遇も、恨んだりしなかっただろうに。)
朝忠の中将、人の妻にてありける人に忍びて逢ひわたりけるを、女も思ひかはして、通ひ住みけるほどに、かの男、人の国の守になりてくだりければ、これもかれも、いとあはれと思ひけり。さて、よみてやりける
たぐへやる我が魂をいかにしてはかなき空にもてはなるらむ(大和物語)
となむ、くだりける日、いひやりける。
(あなたのもとに寄り添わせた私の魂を、どうして頼りない旅の空に置き去りにするのでしょうか。)
おなじ諒闇のころ、よみてつかはしける
夢かとぞわびては思ふたまさかに問ふ人あれや又やさむると(続古今1396)
(これは夢ではないかと、嘆き侘びては思うのです。たまに問いかけてくれる人はいないでしょうか、もう目は覚めたかと。)
題しらず
世の中はただ今日のごと思ほえてあはれ昔になりもゆくかな(続千載1944)
(現実とは、たった今、この日この時の出来事のように思えて、ああ、たちまち昔のことになってゆくのだ。) 
3
天徳内裏歌合
   霞
倉橋の 山のかひより 春霞 年をつみてや たちわたるらむ 藤原朝忠(勝)
ふるさとは 春めきにけり みよしのの 御垣の原を かすみこめたり  平兼盛
   鶯
氷だに とまらぬ春の たに風に まだうちとけぬ うぐひすの声  源順(勝)
わが宿に うぐひすいたく なくなるは 庭もはだらに 花やちるらむ  平兼盛
わが宿の 梅がえになく うぐひすは 風のたよりに 香をやとめこし  藤原朝忠(勝)
しろたへの 雪ふりやまぬ 梅がえに いまぞうぐひす はるとなくなる  平兼盛
   柳
あらたまの としをつむらむ あをやぎの いとはいづれの 春かたゆべき  坂上望城
さほひめの いとそめかくる あをやぎを 吹きなみだりそ 春の山かぜ  平兼盛(勝) 
   桜
あだなりと つねはしりにき 桜花 をしむほどだに のどけからなむ  藤原朝忠(勝)
よとともに 散らずもあらなむ 桜花 あかぬ心は いつかたゆべき  清原元輔
桜花 風にし散らぬ ものならば 思ふことなき 春にぞあらまし  大中臣能宣
桜花 色みゆるほどに よをしへば 歳のゆくをも しらでやみなむ  平兼盛
あしひきの やまがくれなる 桜花 散りのこれりと 風にしらすな  少弐命婦(勝)
としごとに 来つつ我が見る 桜花 霞もいまは たちなかくしそ  中務 
   山吹
春ふかみ 井手のかはなみ たちかへり 見てこそゆかめ 山吹の花  源順(勝)
ひとへづつ 八重山吹は ひらけなむ 程経てにほふ 花とたのまむ  平兼盛
   藤
むらさきに にほふ藤波 うちはえて まつにぞ千代の 色もかかれる  藤原朝忠
我ゆきて 色見るばかり 住吉の きしの藤波 をりなつくしそ  平兼盛(勝)
   暮春
花だにも ちらでわかるる 春ならば いとかく今日は をしまましやは  藤原朝忠(勝)
ゆく春の とまりをしふる ものならば 我もふなでて おくれざらまし  藤原博古 
   首夏
なく声は まだきかねども せみのはの うすき衣を たちぞきてける  大中臣能宣
夏ごろも たちいづるけふは 花ざくら かたみの色も ぬぎやかふらむ  中務 
   卯花
道遠み 人もかよはぬ 奥山に さける卯の花 たれとをらまし  壬生忠見
あらしのみ さむきみやまの 卯の花は きえせぬ雪と あやまたれつつ  平兼盛(勝) 
   郭公
ほのかにぞ 鳴きわたるなる ほととぎす み山をいづる 今朝のはつ声  坂上望城
み山いでて 夜はにや来つる ほととぎす 暁かけて 声のきこゆる  平兼盛
さ夜ふけて 寝覚めざりせば ほととぎす 人づてにこそ きくべかりけれ  壬生忠見
人ならば まててふべきを ほととぎす ふたこゑとだに きかですぎぬる  藤原元真
   夏草
夏草の なかを露けみ かきわけて かる人なしに しげる野辺かな  壬生忠見(勝)
夏ふかく なりぞしにける おはらぎの もりの下草 なべて人かる  平兼盛
   恋
人づてに しらせてしがな 隠れ沼の みごもりにのみ 恋ひやわたらむ  藤原朝忠(勝)
むばたまの 夜の夢だに まさしくは わが思ふことを 人に見せばや  中務 
恋しきを なににつけてか なぐさめむ 夢にもみえず ぬるよなければ  大中臣能宣(勝) -
君恋ふる 心はそらに 天の原 かひなくてふる 月日なりけり  中務  
人しれず 逢ふを待つまに 恋ひ死なば なににかへたる 命とかいはむ  本院侍従
ことならば 雲居の月と なりななん 恋しきかげや 空に見ゆると  中務  
逢ふことの たえてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし  藤原朝忠(勝)
君恋ふと かつは消えつつ ふるほどを かくてもいける 身とやみるらむ  藤原元真
恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか  壬生忠見
しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで  平兼盛(勝) 
 
45.謙徳公 (けんとくこう)  

 

あはれとも いふべき人(ひと)は 思(おも)ほえで
身(み)のいたづらに なりぬべきかな  
私のことをかわいそうにといってくれるはずの人は思い浮かばず、はかなく死んでいくのだろうなあ。 / 私のことをかわいそうだと悲しんでくれそうな人が思い浮かばなくて、きっと私は一人恋焦がれて、むなしく死んでいくのにちがいないのだろうなあ。 / わたしが死んでしまっても、可哀想だと言ってくれそうなひとがいるとは思えないまま、わたしはひとりぽっちで、空しく死んでしまうのでしょうか。 / (あなたに見捨てられた) わたしを哀れだと同情を向けてくれそうな人も、今はいように思えません。(このままあなたを恋しながら) 自分の身がむなしく消えていく日を、どうすることもできず、ただ待っているわたしなのです。
○ あはれとも / 「あはれ」は、感動詞で、「ああ、かわいそうに」の意。「と」は、引用の格助詞。「も」は強意の係助詞。
○ いふべき人は思ほえで / 「べき」は、当然の助動詞「べし」の連体形で、「…はずの」の意。「人」は、恋人。「思ほえ」は、ヤ行下二段の動詞「思ほゆ」の未然形。「で」は、打消を表す接続助詞で、「…ないで」の意。
○ 身のいたづらになりぬべきかな / 「いたづらに」は、無駄だの意を表すナリ活用の形容動詞「いたづらなり」の連用形。「身のいたづらになり」で死ぬの意。とくに、はかなく無駄な死に様を表す。「ぬ」は、強意を表す完了の助動詞。「べき」は、推量の助動詞「べし」の連体形。「ぬべき」で「きっと…にちがいない」の意。「かな」は、詠嘆の終助詞。
※ 『拾遺集』の詞書によると、付き合っていた女が冷たくなり、ついには、相手にしてもらえなくなったという状況で詠まれた歌とある。 
1
藤原伊尹(ふじわらのこれただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿。
右大臣藤原師輔の長男で、妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇が即位すると栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めた。しかし、その翌年に早逝。子孫は振るわず、権勢は弟の兼家の家系に移る。
父の師輔は右大臣として村上天皇の天暦の治を主導した実力者だった。妹の中宮安子が村上天皇の後宮に入り、東宮憲平親王、為平親王、守平親王といった有力な皇子を生んでいる。
天慶4年(941年)従五位下に叙される。 村上天皇の時代の天暦・天徳年間に蔵人に補任され、美濃介・伊予守など地方官を兼任した。ところが天徳4年(960年)に父が急死する。この時伊尹は従四位上蔵人頭兼春宮権亮兼左近衛権中将で、弟の兼通・兼家もそれぞれ従四位下中宮権大夫、正五位下少納言に過ぎず、九条流は衰退の危機を迎えた。しかし憲平親王を皇太子と定めた村上天皇の強い意向で、同年の除目では参議に進み、康保4年(967年)には従三位、続いて上臈4名を飛び越して権中納言に転じる。その間に弟の兼通・兼家を相次いで蔵人頭に送り込むことに成功、村上天皇との関係を強化した。
同年、村上天皇が崩じて安子所生の憲平親王が即位(冷泉天皇)。伯父の実頼が関白太政大臣となったが、天皇との外戚関係がなく力が弱かった。その一方で伊尹は天皇の外伯父として権大納言に任じられ、翌安和元年(968年)正三位に昇る。伊尹は冷泉天皇に娘の懐子を女御として入内させ、師貞親王が生まれている。
冷泉天皇には狂気の病があったため長い在位は望めず、東宮にはとりあえず同母弟の為平親王か守平親王が立てられることになった。そして選ばれたのは年少の守平親王だったが、これは為平親王の妃が左大臣 源高明の女子であり、将来源氏が外戚となることを藤原氏が恐れたためだった。さらに翌安和2年(969年)には源満仲の誣告により高明は謀反の咎で突如失脚、大宰府へ左遷されてしまった(安和の変)。この陰謀の首謀者は諸説あるが伊尹が仕組んだという説もある。同年冷泉天皇は守平親王に譲位(円融天皇)。東宮には冷泉天皇の皇子で伊尹の外孫である師貞親王が立てられた。
天禄元年(970年)には右大臣を拝す。同年摂政太政大臣だった伯父の実頼が薨去すると、天皇の外伯父である伊尹は藤氏長者となり摂政に任じられた。翌天禄2年(971年)には太政大臣に任じられ、正二位に進む。ここに伊尹は名実ともに朝廷の第一人者となったが、それから程ない翌天禄3年(972年)に病に倒れる。死期を悟った伊尹は上表して摂政を辞し、まもなく薨去した。享年49。正一位を贈られ、謙徳公と諡された。
伊尹の後任の関白には兼家が有力だったが、中宮安子の遺言によってその兄の兼通が任じられた。永観2年(984年)、円融天皇が譲位して師貞親王が即位した(花山天皇)。外伯父となった伊尹の子の中納言義懐が朝政を執るが、花山天皇は兼家の策謀によって出家させられ一条天皇に譲位、外祖父の兼家が摂政となった(寛和の変)。絶望した義懐は出家遁世、これ以後の伊尹の系統は振るわなくなってしまった。

性格は豪奢を好み、大饗の日に寝殿の壁が少し黒かったので、非常に高価な陸奥紙で張り替えさせたことがある。父の師輔は子孫に節倹を遺訓していたが、伊尹はこの点は守らなかった。
和歌に優れ、天暦5年(951年)梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰和歌集』の編纂に深く関与した。『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に38首が入首。家集『一条摂政御集』(『豊蔭集』)がある。書家として名高い藤原行成は孫であり、そこから世尊寺家を輩出した。
逸話
『大鏡』において、伊尹の若死についての以下の逸話がある。
伊尹の父師輔は自らの葬送について、極めて簡略にするように遺言していたにもかかわらず、伊尹は通例通りの儀式を行った。師輔の遺言に背いたために伊尹は早逝したとの噂があったとされる。
伊尹が若年の頃の除目で藤原朝成とともに蔵人頭の候補になった。朝成は伊尹がまだ若く、家柄もよいのだから、これからも機会はあろうが、自分はこれが最後の機会だから譲ってくれと頼み込んだ。伊尹はこれを承知するが、結局、蔵人頭には伊尹がなった。朝成は生霊となって祟りをなし、摂政になって程ない伊尹を殺し、その子たちにも祟りをなしたという。なお、記録上両者が官職を競合したとする証拠は無く、伊尹は朝成よりも先に亡くなっている。 
2
藤原伊尹 延長二〜天禄三(924-972) 通称:一条摂政 諡号:謙徳公
右大臣師輔の長男。母は贈正一位藤原盛子(藤原経邦女)。兼通・兼家・為光・公季(いずれも太政大臣)は弟。恵子女王を室とし、懐子(冷泉院女御)・義孝・義懐らをもうける。書家として名高い行成は孫。天慶四年(941)二月、従五位下に叙せられ、同年四月、昇殿を許される。同五年十二月、侍従。その後右兵衛佐を経て、天暦二年(948)正月、左近少将となり、同年二月には蔵人に補せられる。同九年、中将。同十年、蔵人頭に任ぜられたが、この地位を争った藤原朝成(あさひら。定方の子)に恨まれ、子孫にまで祟られたと言う(『大鏡』)。天徳四年(960)八月、参議に就任し、三十七歳にして台閣に列した。康保四年(967)正月、中納言・従三位。同年十二月、さらに権大納言となる。安和二年(969)、むすめ懐子所生の師貞親王(のちの花山天皇)が皇太子になると、以後は急速に昇進。同年大納言、天禄元年(970)右大臣と進み、同年五月には摂政に就いた。同二年十一月、太政大臣正二位となったが、翌年の天禄三年十一月一日、薨じた。四十九歳。贈一位、参河国に封ぜられ、謙徳公の諡を賜わる。天暦五年(951)、梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰集』の編纂に深く関与した。架空の人物「大蔵史生倉橋豊蔭」に仮託した歌物語的な部分を含む家集『一条摂政御集』がある。『大鏡』にもこの家集の名が見え、歌才が賞讃されている。後撰集初出。勅撰入集三十七首。小倉百人一首にも歌を採られている。
恋 / 侍従に侍りける時、村上の先帝の御めのとに、しのびて物のたうびけるに、つきなき事なりとて、さらに逢はず侍りければ
隠れ沼ぬのそこの心ぞうらめしきいかにせよとてつれなかるらむ(拾遺758)
(隠れ沼のように、思いをあらわしてくれない心の底が恨めしい。私にどうしろというつもりであなたはそんなに冷淡なのだろうか。)
心やすくもえ逢はぬ人に
つらかりし君にまさりて憂きものはおのが命の長きなりけり(風雅1327)
(つれない態度をみせたあなたよりも更に辛いのは、自分の命の長さであったよ。)
題しらず
かなしきもあはれもたぐひ多かるを人にふるさぬ言の葉もがな(新勅撰789)
(切ないとか、愛しいとか、恋心をあらわす言葉は色々例が多いけれども、人がまだ使い古していない、気のきいた表現があってほしいよ。)
春日の使にまかりて、かへりてすなはち女のもとにつかはしける
暮ればとく行きてかたらむ逢ふことのとをちの里の住み憂かりしも(拾遺1197)
(今日でお勤めも終りですので、日が暮れたらすぐに訪ねて行ってお話ししましょう。その名の通り遠すぎて逢うことの叶わなかった十市の里は、住みづらかったことですよ。)
いかなる折にかありけむ、女に
から衣袖に人めはつつめどもこぼるる物は涙なりけり(新古1003)
(袖で人目は隠すけれども、涙ばかりは包みきれずに溢れ出ることです。)
冷泉院、みこの宮と申しける時、さぶらひける女房を見かはして言ひわたり侍りける頃、手習ひしける所にまかりて物に書きつけ侍りける
つらけれど恨みむとはた思ほえずなほゆく先をたのむ心に(新古1038)
(あなたの態度はつれないけれど、それでも恨もうとは思えません。なおも将来を期待する気持から。)
しのびたる女を、かりそめなるところにゐてまかりて、かへりてあしたにつかはしける
かぎりなく結びおきつる草枕いつこのたびを思ひ忘れむ(新古1150)
(草を枕に、何度も繰り返し契りを交わし、約束を交わしました――いつこの度の旅寝を忘れましょうか。)
恨むること侍りて、さらにまうでこじと誓言ちかごとして、二日ばかりありてつかはしける
別れては昨日今日こそへだてつれ千世しも経たる心ちのみする(新古1237)
(別れてから昨日今日と逢わなかっただけなのに、千年も経ったような気持がしてなりません。)
物いひ侍りける女の、後につれなく侍りて、さらに逢はず侍りければ
あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな(拾遺950)
(ただ一人と思っていたあなたに捨てられてしまった上は、情けをかけてくれそうな人は誰も思い当たらないので、我が身はこのまま独り空しく死んでしまうのでしょうねえ。)
たえてひさしうなりにける人のもとに
ながき世につきぬ嘆きのたえざらば何に命をかけて忘れむ(一条摂政御集)
(あの世まで永くこの嘆きが尽きないならば、今の世で、何に命をかけて恋の苦しさを忘れようか。)
哀傷 / 中納言敦忠まかりかくれてのち、比叡の西、坂本に侍りける山里に、人々まかりて花見侍りけるに
いにしへは散るをや人の惜しみけむ花こそ今は昔恋ふらし(拾遺1279)
(昔はあの人が花の散るのを惜しんだだろうに、今では花の方が亡き人を恋しがっているようだ。) 
3
「大鏡」 藤原伊尹 謙徳公
この大臣(おとど)は、一条摂政と申(まう)しき。これ、九条殿(くでうどの)の一男に御座(おは)します。いみじき御集(ぎよしふ)つくりて、豊景(とよかげ)と名のらせ給(たま)へり。大臣になり栄え給(たま)ひて三年。いと若くて失(う)せ御座(おは)しましたることは、九条殿の御遺言(ゆいごん)をたがへさせ御座(おは)しましつる故(け)とぞ人申(まう)しける。されどいかでかは、さらでも御座(おは)しまさむ。御葬送(さうそう)の沙汰(さた)を、むげに略定(りやくぢやう)に書きおかせ給(たま)へりければ、「いかでか、いとさは」とて、例(れい)の作法(さはふ)に行(おこなは)せ給(たま)ふとぞ。それはことわりの御しわざぞかし。ただ、御かたち・身の才(ざえ)、何事もあまりすぐれさせ給(たま)へれば、御命のえととのはせ給(たま)はざりけるにこそ。
折々の御和歌などこそめでたく侍(はべ)れな。春日(かすが)の使(つかひ)に御座(おは)しまして、帰るさに、女のもとに遺(つか)はしける、
暮ればとくゆきて語らむ逢(あ)ふことはとをちの里の住み憂(う)かりしも
御返し、
逢(あ)ふことはとをちの里にほど経(へ)しも吉野の山と思(おも)ふなりけむ
助信(すけのぶ)の少将(せうしやう)の、宇佐(うさ)の使にたたれしに、殿(との)にて、餞(うまのはなむけ)に「菊の花のうつろひたる」を題にて、別れの歌よませ給(たま)へる、
さは遠くうつろひぬとかきくの花折りて見るだに飽(あ)かぬ心を
帝(みかど)の御舅(をぢ)・東宮(とうぐう)の御祖父(おほぢ)にて摂政せさせ給(たま)へば、世の中はわが御心(みこころ)にかなはぬことなく、過差(くわさ)ことのほかに好ませ給(たま)ひて、大饗(たいきやう)せさせ給(たま)ふに、寝殿(しんでん)の裏板(うらいた)の壁の少し黒かりければ、にはかに御覧(ごらん)じつけて、陸奥紙(みちのくにがみ)をつぶと押させ給(たま)へりけるがなかなか白く清(きよ)げに侍(はべ)りける。思(おも)ひよるべきことかはな。御家は今の世尊寺(せそんじ)ぞかし。御族(ぞう)の氏寺(うぢでら)にておかれたるを、斯様(かやう)のついでには、立ち入りて見給(たま)ふれば、まだその紙の押されて侍(はべ)るこそ、昔にあへる心地(ここち)してあはれに見給(たま)ふれ。斯様(かやう)の御栄えを御覧じおきて、御年五十(いそじ)にだなたらで失(う)せさせ給(たま)へるあたらしさは、父大臣(おとど)にもおとらせ給(たま)はずこそ、世の人惜しみ奉(たてまつ)りしか。
その御男(をとこ)・女君(をんなぎみ)たちあまた御座(おは)しましき。女君(をんなぎみ)一人は、冷泉院の御寺の女御(にようご)にて、花山院の御母、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)にならせ給(たま)ひにき。次々の女君(をんなぎみ)二人は、法住寺(ほふぢゆうじ)の大臣(おとど)の北の方にて、うちつづき失(う)せさせ給(たま)ひにき。九の君は、冷泉院の御皇子(みこ)の弾上(だんじやう)の宮(みや)と申(まう)す御上(うへ)にて御座(おは)せしを、その宮失(う)せ給(たま)ひて後(のち)、尼(あま)にていみじう行ひつとめて御座(おは)すめり。また、忠君(ただきみ)の兵衛督(ひやうゑのかみ)の北の方にて御座(おは)せしが、後(のち)には、六条の左大臣(さだいじん)殿(どの)の御子(みこ)の右大弁(うだいべん)の上にて御座(おは)しけるは、四の君とこそは。
また、花山院の御妹(いもうと)の女一の宮は失(う)せ給(たま)ひにき。女二の宮は冷泉院の御時の斎宮(さいぐう)にたたせ給(たま)ひて、円融院の御時の女御に参(まゐ)り給(たま)へりしほどもなく、内(うち)の焼けにしかば、火(ひ)の宮(みや)と世の人つけ奉(たてまつ)りき。さて二三度参(まゐ)り給(たま)ひて後(のち)、ほどもなく失(う)せ給(たま)ひにき。この宮に御覧(ごらん)ぜさせむとて、三宝絵(さんぽうゑ)はつくれるなり。
男君たちは、代明(よあきら)の親王(みこ)の御女(むすめ)の腹に、前少将(せうしやう)挙賢(たかかた)・後少将(せうしやう)義孝(よしたか)とて、花を折り給(たま)ひし君たちの、殿(との)失(う)せ給(たま)ひて、三年ばかりありて、天延(てんえん)二年甲戌(きのえいぬ)の年、皰瘡(もがさ)おこりたるに、煩(わづら)ひ給(たま)ひて、前少将(せうしやう)は、朝(あした)に失(う)せ、後少将(せうしやう)は、夕(ゆふべ)にかくれ給(たま)ひにしぞかし。一日(ひとひ)がうちに、二人の子をうしなひ給(たま)へりし、母北の方の御心地(ここち)いかなりけむ、いとこそ悲しく承(うけたまは)りしか。
かの後少将(せうしやう)は義孝とぞ聞えし。御かたちいとめでたく御座(おは)し、年頃(としごろ)きはめたる道心者(だうしんざ)にぞ御座(おは)しける。病重くなるままに、生くべくもおぼえ給(たま)はざりければ、母上に申(まう)し給(たま)ひけるやう、「おのれ死に侍(はべ)りぬとも、とかく例(れい)のやうにせさせ給(たま)ふな。しばし法華経(ほけきやう)誦(ずん)じ奉(たてまつ)らむの本意(ほい)侍(はべ)れば、かならず帰りまうで来(く)べし」と宣(のたま)ひて、方便品(はうべんぼん)を読み奉(たてまつ)り給(たま)ひてぞ、失(う)せ給(たま)ひける。その遺言(ゆいごん)を、母北の方忘れ給(たま)ふべきにはあらねども、物(もの)も覚(おぼ)えで御座(おは)しければ、思(おも)ふに人のし奉(たてまつ)りてけるにや、枕(まくら)がへしなにやと、例の様(やう)なる有様(ありさま)どもにしてければ、え帰り給(たま)はずなりにけり。後(のち)に、母北の方の御夢に見え給(たま)へる、
しかばかり契りし物(もの)を渡り川かへるほどには忘るべしやは
とぞよみ給(たま)ひける、いかにくやしく思(おぼ)しけむな。
さて後(のち)、ほど経(へ)て、賀縁(がえん)阿闍梨(あざり)と申(まう)す僧の夢に、この君たち二人御座(おは)しけるが、兄、前少将(せうしやう)いたう物(もの)思(おも)へるさまにて、この後少将(せうしやう)は、いと心地(ここち)よげなるさまにて御座(おは)しければ、阿闍梨、「君はなど心地よげにて御座(おは)する。母上は、君をこそ、兄君よりはいみじう恋ひきこえ給(たま)ふめれ」と聞えければ、いとあたはぬさまのけしきにて、
しぐれとは蓮(はちす)の花ぞ散りまがふなにふるさとに袖(そで)濡(ぬ)らすらむ
など、うちよみ給(たま)ひける。さて後(のち)に、小野宮(をののみや)の実資(さねすけ)の大臣(おとど)の御夢に、おもしろき花のかげに御座(おは)しけるを、うつつにも語らひ給(たま)ひし御中(なか)にて、「いかでかくは。いづくにか」とめづらしがり申(まう)し給(たま)ひければ、その御いらへに、
昔ハ契リキ、蓬莱宮(ほうらいきゆう)ノ裏(うち)ノ月ニ
今ハ遊ブ、極楽界(ごくらくかい)ノ中(なか)ノ風ニ
昔契蓬莱宮裏月 今遊極楽界中風
とぞ宣(のたま)ひける。極楽に生れ給(たま)へるにぞあなる。斯様(かやう)にも夢など示(しめ)い給(たま)はずとも、この人の御往生(わうじやう)疑ひまうすべきならず。
世の常(つね)の君達(きんだち)などのやうに、内(うち)わたりなどにて、おのづから女房(にようばう)と語らひ、はかなきことをだに宣(のたま)はせざりけるに、いかなる折にかありけむ、細殿(ほそどの)に立ち寄り給(たま)へれば、例(れい)ならずめづらしう物語りきこえさせけるが、やうやう夜中などにもなりやしぬらむと思(おも)ふほどに、立ち退(の)き給(たま)ふを、いづかたへかとゆかしうて、人をつけ奉(たてまつ)りて見せければ、北(きた)の陣(ぢん)出(い)で給(たま)ふほどより、法華経(ほけきやう)をいみじう尊く誦(ずん)じ給(たま)ふ。大宮(おほみや)のぼりに御座(おは)して、世尊寺へ御座(おは)しましつきぬ。なほ見ければ、東(ひんがし)の対(たい)の端(つま)なる紅梅(こうばい)のいみじく盛りに咲きたる下に立たせ給(たま)ひて、「滅罪(めつざい)生善(しやうぜん)、往生(わうじやう)極楽(ごくらく)」といふ、額(ぬか)を西に向(む)きて、あまたたびつかせ給(たま)ひけり。帰りて御有様(ありさま)語りければ、いといとあはれに聞(き)き奉(たてまつ)らぬ人なし。
この翁(おきな)もその頃大宮なる所に宿りて侍(はべ)りしかば、御声にこそおどろきていといみじう承(うけたまは)りしか。起き出(い)でて見奉(たてまつ)りしかば、空は霞(かす)みわたりたるに月はいみじうあかくて、御直衣(なほし)のいと白きに、濃(こ)き指貫(さしぬき)に、よいほどに御くくりあげて、何色(なにいろ)にか、色ある御衣(おんぞ)どもの、ゆたちより多くこぼれ出(い)でて侍(はべ)りし御様体(やうだい)などよ。御顔の色、月影に映(は)えて、いと白く見えさせ給(たま)ひしに、鬢茎(びんぐき)の掲焉(けちえん)にめでたくこそ、誠(まこと)に御座(おは)しまししか。やがて見つぎ見つぎに御供(とも)に参(まゐ)りて、御額(ぬか)つかせ給(たま)ひしも見奉(たてまつ)り侍(はべ)りにき。いとかなしうあはれにこそ侍(はべ)りしか。御供(とも)には童(わらは)一人ぞ候(さぶら)ふめりし。
また、殿上(てんじやう)の逍遥(せうえう)侍(はべ)りし時さらなり、こと人はみな、こころごころに狩装束(かりしやうぞく)めでたうせられたりけるに、この殿(との)はいたう待たれ給(たま)ひて、白き御衣どもに、香染(かうぞめ)の御狩衣(かりぎぬ)、薄色(うすいろ)の御指貫(さしぬき)、いとはなやかならぬあはひにて、さし出(い)で給(たま)へりけるこそ、なかなかに心を尽(つ)くしたる人よりはいみじう御座(おは)しましけれ。常(つね)の御ことなれば、法華経、御口(くち)につぶやきて、紫檀(したん)の数珠(ずず)の、水精(すいさう)の装束(さうぞく)したる、ひき隠して持ち給(たま)ひける御用意などの、優(いう)にこそ御座(おは)しましけれ。おほかた、一生(いつしやう)精進(さうじん)を始(はじ)め給(たま)へる、まづありがたきことぞかし。なほなほ同じことのやうにおぼえ侍(はべ)れど、いみじう見給(たま)へ聞(き)きおきつることは、申(まう)さまほしう。
この殿は、御(おほん)かたちのありがたく、末の世にもさる人や出(い)で御座(おは)しましがたからむとまでこそ見給(たま)へしか。雪のいみじう降りたりし日、一条(いちでう)の左大臣(さだいじん)殿(どの)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて、御前(おまへ)の梅の木に雪のいたう積(つも)りたるを折りて、うち振らせ給(たま)へりしかば、御上に、はらはらとかかりたりしが、御直衣(なほし)の裏の花なりければ、かへりていと斑(まだら)になりて侍(はべ)りしに、もてはやされさせ給(たま)へりし御かたちこそ、いとめでたく御座(おは)しまししか。御兄の少将(せうしやう)も、いとよく御座(おは)しましき。この弟殿(おととどの)はかくあまりにうるはしく御座(おは)せしをもどきて、すこし勇幹(ようかん)にあしき人にてぞ御座(おは)せし。
その義孝の少将(せうしやう)、桃園(ももぞの)の源(げん)中納言保光(やすみつ)卿の女(むすめ)の御腹にうませ給(たま)へりし君ぞかし、今の侍従(じじゆう)大納言(だいなごん)行成(ゆきなり)卿、世の手書きとののしり給(たま)ふは。この殿(との)の御男子(をのこご)、ただいまの但馬守(たじまのかみ)実経(さねつね)の君・尾張守(をはりのかみ)良経(よしつね)の君二人は、泰清(やすきよ)の三位(さんみ)の女の腹なり。嫡腹(むかひばら)の少将(せうしやう)行経(ゆきつね)の君なり。女君(をんなぎみ)は、入道(にふだう)殿(どの)の御子(みこ)の、高松腹(たかまつばら)の権(ごん)中納言殿の北の方にて御座(おは)せし、失(う)せ給(たま)ひにきかし。また、今の丹波守(たんばのかみ)経頼(つねより)の君の北の方にて御座(おは)す。また、大姫君(おほひめぎみ)御座(おは)しますとか。
この侍従大納言(だいなごん)殿こそ、備後介(びごのすけ)とてまだ地下(ぢげ)に御座(おは)せし時、蔵人頭(くらうどのとう)になり給(たま)へる、例(れい)いとめづらしきことよな。その頃は、源民部卿殿(げんみんぶきようどの)は、職事(しきじ)にて御座(おは)しますに、上達部(かんだちめ)になり給(たま)ふべければ、一条院(いちでうゐん)、「この次にはまた誰(たれ)かなるべき」と問(と)はせ給(たま)ひければ、「行成なむまかりなるべき人に候(さぶら)ふ」と奏(そう)せさせ給(たま)ひけるを、「地下(ぢげ)の者はいかがあるべからむ」と宣(のたま)はせければ、「いとやむごとなき者に候(さぶら)ふ。地下など思(おぼ)し召(め)し憚(はばか)らせ給(たま)ふまじ。ゆく末にもおほやけに、何事にもつかうまつらむにたへたる者になむ。斯様(かやう)なる人を御覧(ごらん)じ分(わ)かぬは、世のためあしきことに侍(はべ)り。善悪をわきまへ御座(おは)しませばこそ、人も心遣(こころづか)ひはつかうまつれ。このきはになさせ給(たま)はざらむは、いと口惜(くちを)しきことにこそ候(さぶら)はめ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、道理のこととはいひながら、なり給(たま)ひにしぞかし。
おほかた昔は、前頭(さきのとう)の挙(きよ)によりて、後(のち)の頭はなることにて侍(はべ)りしなり。されば、殿上(てんじやう)に、われなるべしなど、思(おも)ひ給(たま)へりける人は、今宵(こよひ)と聞(き)きて参(まゐ)り給(たま)へるに、いづこもととかにさし会(あ)ひ給(たま)へりけるを、「誰(たれ)ぞ」と問(と)ひ給(たま)ひければ、御名のりし給(たま)ひて、「頭になしたびたれば、参(まゐ)りて侍(はべ)るなり」とあるに、あさましとあきれてこそ、動きもせで立ち給(たま)ひたりけれ。げに思(おも)ひがけぬことなれば、道理なりや。
この源民部卿かく申(まう)しなし給(たま)へることを思(おぼ)し知(し)りて、従二位の折かとよ、越えまうし給(たま)ひしかど、さらに上(かみ)に居(ゐ)給(たま)はざりき。かの殿(との)出(い)で給(たま)ふ日は、われ、病(やまひ)まうし、またともに出(い)で給(たま)ふ日は、むかへ座(ざ)などにぞ居(ゐ)給(たま)ひし。さて民部卿正二位の折こそは、もとのやうに下臈(げらふ)になり給(たま)ひしか。
おほかた、この御族(ぞう)の頭争(とうあらそ)ひに、敵(かたき)をつき給(たま)へば、これもいかが御座(おは)すべからむ。みな人知ろしめしたることなれど、朝成(あさひら)の中納言と一条摂政と同じ折の殿上人(てんじやうびと)にて、品(しな)のほどこそ、一条殿とひとしからねど、身の才(ざえ)・人覚(ひとおぼ)え、やむごとなき人なりければ、頭になるべき次第(しだい)いたりたるに、またこの一条殿さらなり、道理の人にて御座(おは)しけるを、この朝成の君申(まう)し給(たま)ひけるやう、「殿(との)はならせ給(たま)はずとも、人わろく思(おも)ひ申(まう)すべきにあらず。後々(のちのち)にも御心(みこころ)にまかせさせ給(たま)へり。 
4
花山天皇 藤原兼家・道兼父子の謀略で在位わずか2年で退位
第65代花山天皇は父の冷泉天皇と同様、藤原元方の怨霊にとりつかれ、乱心の振る舞いがあったと伝えられるが、藤原一家の策謀により、在位わずか二年で退位させられた人だ。少し奇異な所業が目立ったにしろ、荘園整理令の布告など革新的な政治路線も打ち出しており、無事ならまだまだ善政が敷かれていたはずだ。生没年は968(安和元年)〜1008年(寛弘5年)。
花山天皇は冷泉天皇の第一皇子。母は太政大臣正二位藤原伊尹(これただ)の娘、懐子(かいし)。諱は師貞(もろさだ)。984年(永観2年)、円融天皇の譲位を受けて即位した。17歳のことだ。即位式において、王冠が重いとしてこれを脱ぎ捨てるといった振る舞いや、清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとしたとの逸話がある。こうした所業が直ちに表沙汰にならなかったのは、天皇に仕えた賢臣、権中納言藤原義懐(よしちか)と左中弁藤原惟成(これしげ)の献身的な支えによるところが大きい。
関白は先代から引き続き藤原頼忠(よりただ)だったが、実際の政治は義懐や惟成ら新進気鋭の官僚により推進されていた。饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引き締めを図り、902年(延喜2年)に出されて以来、布告されていなかった荘園整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した。この荘園整理令は、受領らの間で高まってきていた荘園生理の気運を政策化したもので、以後、頻出する整理令の嚆矢となった。
花山天皇については様々な多くのスキャンダルが聞かれるが、中でも大納言藤原為光の娘、女御・_子(きし)への寵愛ぶりはとくに知られている。そのため_子はほどなく懐妊したが、その後体調を崩して遂に妊娠8カ月の身で他界した。天皇の落胆ぶりは大きく、いかに神に祈祷すべきか悩みぬいていた。
この様子を見て陰謀をめぐらせたのが右大臣、藤原兼家だ。兼家は天皇の不安定な心理状態を利用し、天皇に出家を勧めて、一日も早く外孫懐仁(やすひと)親王へ譲位させようと謀ったのだ。「大鏡」によると986年(寛和2年)、藤原兼家の次男、蔵人・道兼が言葉巧みに花山天皇を連れ出し元慶寺へ向かう。そのころ兼家の長男の道隆と三男の道綱は清涼殿に置かれていた神器を皇太子・懐仁親王の部屋へ移す。
いったんは出家を納得した花山天皇だったが、心変わりしそうな雰囲気に、道兼は涙ながらに自分もともに剃髪、出家するからと天皇を説き伏せ剃髪させてしまう。そして、次は道兼の番になったが、道兼はどこにもいない。花山天皇が騙されたと思ったころには、“役者”の道兼は丸坊主になった花山天皇を残して藤原家に帰ってきていた。そのころには兼家の末子、道長が関白、藤原頼忠(兼家の従兄弟)に天皇行方不明の報告をしていた。そこで懐仁親王(当時7歳)が即位して一条天皇となり、兼家は念願の外祖父となったのだ。
こうして兼家・道兼父子の謀略によって、無念の思いで皇位を追われた花山上皇はその後、仏門修行、そして和歌と女に明け暮れたといわれる。とくに歌人として優れており、多くの和歌を残している。 
 
46.曽禰好忠 (そねのよしただ)  

 

由良(ゆら)の門(と)を 渡(わた)る舟人(ふなびと) かぢを絶(た)え
ゆくへも知(し)らぬ 恋(こひ)のみちかな  
由良の瀬戸を漕ぎ渡ってゆく船頭が櫂(櫓)がなくなって、行き先もわからず漂流するように、この先どうなるかわからない恋の道だなあ。 / 由良の海峡を渡って行く舟人が、櫂をなくしてどうすることもできず、行く先もわからないで漂うように、これからの私の恋の行く末もわからないことだ。 / 由良(現在の京都府宮津市)の海辺を漕ぎ渡る舟人が、舟を操る舵を失って、ゆくえも知れず波間に漂うように、どうなっていくのかわからない、わたしの恋の道です。 / 由良の海峡を渡る船人が、かいをなくして、行く先も決まらぬままに波間に漂っているように、わたしたちの恋の行方も、どこへ漂っていくのか思い迷っているものだ。
○ 由良のとを / 「由良」は、作者が丹後掾であったことから、丹後国(京都府)の由良川と思われるが、日本各地に由良という地名があり、それらも歌枕として用いられた例があるため、定かではない。この歌の場合、「由良」は、特定の場所であることは重要ではなく、かぢがなくなった舟が“ゆらめく”さまを表現するたに用いられている。「と」は、水の流れが速くなる場所。瀬戸。「を」は、経由点を表す格助詞。
○ 舟人 / 船頭
○ かぢを絶え / 「かぢ」は、操船に用いる道具。櫓(ろ)や櫂(かい)。舵ではない。「を」は、間投助詞。「絶え」は、ヤ行下二段の動詞「絶ゆ」の連用形。「絶ゆ」が自動詞であるため、「を」は格助詞ではなく、間投助詞とする説が有力。「かぢを絶え」で、「かじがなくなって」の意。ここまでが序詞。
○ ゆくへも知らぬ恋の道かな / 「ゆくへ」は、(恋の)行く先。「恋の道」は、これから進んで行く恋の道筋。 
1
曽禰好忠(そねのよしただ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。出自については未詳。中古三十六歌仙の一人。官位は六位・丹後掾。長く丹後掾を務めたことから曾丹後(そたんご)とも曾丹(そたん)とも称された。
当時としては和歌の新しい形式である「百首歌」を創始し、さらに1年を360首に歌いこめた「毎月集」を作った。当時の有力歌人であった源順・大中臣能宣・源重之らと交流があったが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であった。新奇な題材や『万葉集』の古語を用いて斬新な和歌を読み、平安時代後期の革新歌人から再評価された。
『拾遺和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に89首入集。家集に『曾丹集』がある。小倉百人一首 46番(及び『新古今和歌集』恋一1071)より。
由良の門(と)を 渡る舟人 梶(かじ)を絶え 行方も知らぬ 恋の通かな
逸話
寛和元年(985年)円融上皇の紫野での子の日の御遊において、官位に関係なく歌人の和歌を鑑賞する趣向の催しが開かれた際、催しに呼ばれていないにもかかわらず、好忠は召された歌人方の席に強引に着席したところ、藤原実資・藤原朝光の指図により追い出されたという。 
2
曾禰好忠  生没年未詳 通称:曾丹
生年は延長初年頃(西暦923年頃)かという。父祖は不詳。『新撰姓氏録』によれば曾禰連(むらじ)は石上氏と同祖すなわち物部氏の裔。円融天皇の貞元二年(977)八月、三条左大臣藤原頼忠家歌合に名が見え、丹後掾とある。ただし、正式な参席は許されず、後日召されて詠んだ歌が二首見えるのみ。小野宮家(藤原頼忠ら)の後援を得ていたか。天元四年(981)斉敏君達謎合、長保五年(1003)左大臣道家歌合などにも見える。また源順との交流がみられる(家集)。花山天皇の寛和元年(985)二月十三日、円融院の紫野行幸における「子の日」御遊には、召されなかったのに推参し、追い立てられたという(家集、『大鏡』裏書、『今昔物語』巻二十八の三など)。拾遺集初出。詞花集では最多入集歌人。勅撰入集計九十二首(金葉集三奏本の六首を除く)。中古三十六歌仙の一人。自撰と思われる家集『好忠集』(通称『曾丹集』)がある。同集所収の「好忠百首」(天徳四年-960-頃成立かという)は源重之の百首歌と共に最初期の百首和歌の試みである。
春 / 題しらず
三島江につのぐみわたる蘆の根のひとよのほどに春めきにけり(後拾遺42)
(三島江全体にわたって芽ぐむ蘆(あし)の根――その一節(ひとよ)ではないが、一夜の間にすっかり春めいたのだなあ。)
題しらず
雪きえばゑぐの若菜もつむべきに春さへはれぬ深山べの里(詞花5)
(雪が消えれば黒慈姑(くろくわい)の若菜も摘むことができるのに、春になっても晴れることなく雪が積もったままの深山のほとりの里よ。)
題しらず
荒小田のこぞの古跡の古よもぎいまは春べとひこばえにけり(新古77)
(荒れた田の去年生い茂っていたあたりの古蓬は、もう春になったと、古株から新芽を出したことだ。)
三月中
ねやのうへに雀のこゑぞすだくなる出でたちがたに子やなりぬらむ(好忠集)
(寝屋の上で雀の群がる声がしているようだ。雛どもが巣立つ頃になったのだろうか。)
三月をはり
み苑生そのふのなづなの茎もたちにけりけさの朝菜になにをつままし(好忠集)
(お庭の薺(なずな)の茎も伸びてしまった。今朝の朝御飯のおかずに何を摘んだらよいだろう。)
夏 / 題しらず
花ちりし庭の木の葉もしげりあひて天照る月の影ぞまれなる(新古186)
(花が散ってしまった庭の樹々――その木の葉も今は盛んに繁り合って、夜空を照らす月の光はほとんど漏れて来ない。)
題しらず
榊とる卯月になれば神山のならの葉がしはもとつ葉もなし(後拾遺169)
(賀茂社の祭のために榊の葉を採る初夏卯月になったので、神山の楢の大きな葉はすっかり若返り、古い葉などありはしない。)
さなへをよめる
御田屋守みたやもりけふは五月さつきになりにけりいそげや早苗おいもこそすれ(後拾遺204)
(御田の番人よ、今日はもう五月になってしまった。田植えを急ぎなさいよ、早苗が枯れてしまいますぞ。)
題しらず
夏衣たつた川原の柳かげすずみにきつつならすころかな(後拾遺220)
(夏衣を「裁つ」という名の龍田川の河原の柳の木陰――その夏衣を着慣らして、何度も涼みに通う季節だなあ。)
題しらず
そま川の筏のとこの浮まくら夏はすずしきふしどなりけり(詞花76)
(杣川を浮かび流れる筏の床を枕にして横たわる――夏には涼しい寝床であったよ。)
五月中
蝉の羽のうすらころもになりしより妹いもとぬる夜のまどほなるかな(好忠集)
(蝉の羽のように薄い着物に衣替えしてからというもの、妻と寝る夜は間があくようになったことよ。)

曇りなき青海あをみの原をとぶ鳥のかげさへしるくてれる夏かな(好忠集)
(一点の曇りもない真っ青な海原を鳥が飛んでゆく――そのちっぽけな姿さえくっきりと照らし出て、太陽がかがやく夏よ!)
題しらず
川上に夕立すらし水屑みくづせく梁瀬やなせのさ波たちさわぐなり(詞花78)
(川の上流では夕立が降っているらしい。水屑を塞き止める梁瀬に波が立ち騷いでいる。)
六月はじめ
なが日すらながめて夏をくらすかな吹きくる風に身をばまかせて(好忠集)
(永い一日ですら、じっと物思いに耽って夏を暮らすことだよ。吹いて来る風に身をまかせて。)
題しらず
来てみよと妹が家路につげやらむ我がひとりぬるとこ夏の花(後拾遺227)
(見においでとあの子の家に告げてやろう。私が独り寝している「床」という名の「とこなつ」の花を。)
六月中
みそぎする賀茂の川風吹くらしも涼みにゆかむ妹をともなひ(好忠集)
(禊ぎが行なわれる賀茂の川風が吹いているらしいなあ。河原へ涼みに行こう、妻を連れて。)
六月をはり(四首)
わぎもこが汗にそぼつる寝たわ髪夏のひるまはうとしとや見る(好忠集)
(妻君の汗にびっしょり濡れた、寝乱れ髪よ。夏の昼間は疎ましく見るだろうか、そんなことはない。)
妹と我ねやの風戸かざとにひるねして日たかき夏のかげをすぐさむ(好忠集)
(妻と私と、風が吹き入る寝屋の戸口で昼寝して、日が高い夏の暑さを避けて過ごそう。)
入日さし蜩ひぐらしの音ねをきくなべにまだきねぶたき夏の夕暮(好忠集)
(夕陽が射し、蜩の鳴き声を聞くにつれて、早くも眠くなってしまう夏の夕暮だことよ。)
むら鳥の浮きてただよふ大空をながめしほどに夏はくらしつ(好忠集)
(群をなす鳥がふわふわと浮いて漂う大空を眺めているうちに、夏を過ごしてしまった。)
秋 / 題しらず
山城の鳥羽田のおもを見わたせばほのかに今朝ぞ秋風は吹く(詞花82)
(山城の鳥羽の田の面を見わたすと、稲の穂がそよいでほのかに今朝は秋風が吹いているのだ。)
題しらず
朝ぼらけ荻のうは葉の露みればやや肌さむし秋の初風(新古311)
(早朝、荻の上葉に置いた露を見れば、少し肌寒く感じられる秋の初風よ。)
題しらず
山里に霧のまがきのへだてずはをちかた人の袖も見てまし(新古495)
(山里で、霧の籬が隔てていなければ、遠くの人の袖も見えただろうに。)
三百六十首の中に
神なびのみむろの山をけふ見れば下草かけて色づきにけり(拾遺188)
(神奈備の三室山を今日見ると、木の葉だけでなく、下草までもが色づいていたのだった。)
題しらず
なけやなけ蓬が杣のきりぎりすすぎゆく秋はげにぞかなしき(後拾遺273)
(鳴けよ、鳴け。杣木のように繁っている蓬の下の「きりぎりす」よ。過ぎ去ってゆく秋は本当に悲しいよ。)
八月をはり
身にさむく秋の夜風の吹くからにふりにし人の夢に見えつる(好忠集)
(身体に寒々と秋の夜風が吹いたために、もう長いこと逢っていない人が夢に現れた。)
題しらず
人はこず風に木の葉はちりはてて夜な夜な虫は声よわるなり(新古535)
(待ち人は来ず、木の葉は風にすっかり散り切って、夜ごとに虫は声が弱まってゆく。)
九月中
妹がりと風のさむさにゆく我をふきなかへしそさ衣の裾(好忠集)
(風の寒さの中、恋人のもとへ行く私を追い返すかのように吹きつけないでくれ。着物の裾を翻すほど、そんなに激しく…。)
冬 / 題しらず
なにごとも行きて祈らむと思ひしに神な月にもなりにけるかな(詞花140)
(何事もお参りしてお祈りしようと思っていたのに、いつのまにか神無月になってしまっていたなあ。)
題しらず
ひさぎおふる沢べの茅原ちはら冬くればひばりの床ぞあらはれにける(詞花141)
(楸の生える沢辺の茅原――冬になって草が枯れたので、雲雀の巣が露わになってしまった。)
題しらず
外山なる柴のたち枝に吹く風の音聞く折ぞ冬はものうき(詞花147)
(里山に生えている雑木の高く伸びた枝――それに吹きつける風の音を聞く折だ、冬が憂鬱に感じられるのは。)
題しらず
草のうへにここら玉ゐし白露を下葉の霜とむすぶ冬かな(新古619)
(草の上にたくさん玉のように置いた露を氷らせて、下葉の霜に凝結させる冬であるなあ。)
十月はて
みだれつつ絶えなばかなし冬の夜をわがひとりぬる玉の緒よわみ(好忠集)
(思い乱れ、思い乱れて、このまま死んでしまったら悲しい。冬の夜を独りで寝る私の玉の緒が弱って…。)
十一月はじめ
やぶかくれ雉きぎすのありかうかがふとあやなく冬の野にやたはれむ(好忠集)
(薮に隠れて雉の居場所を窺っていると、人からは愚かに冬の野で遊び戯れているように見えるだろうか。)
題しらず
岩間には氷のくさびうちてけり玉ゐし水もいまはもりこず(後拾遺421)
(岩の間には氷の楔を打ち込んであるのだな。玉をなして滴っていた水も、今は漏れて来ない。)
十二月はじめ
うづみ火の下に憂き身となげきつつはかなく消えむことをしぞ思ふ(好忠集)
(埋み火のもとで、辛い我が身だと嘆いては、果敢なくこの世から消えることを思っているのだ。)
三百六十首の中に(二首)
みやま木を朝な夕なにこりつめてさむさをこふる小野の炭焼(拾遺1144)
(深山の木を毎朝毎晩樵り貯えて、寒さをこいねがう小野の炭焼よ。)
にほ鳥の氷の関にとぢられて玉藻の宿をかれやしぬらむ(拾遺1145)
(一面氷が張って通り路を邪魔されたために、鳰鳥は藻で作った巣を捨ててどこかへ行ってしまったのだろうか。)
歳暮の心をよめる
魂たままつる年のをはりになりにけり今日にやまたもあはむとすらむ(詞花160)
(先祖の霊をまつる年の終りになった。自分は生き長らえて、今年もまた大晦日の今日に廻り合おうというのだろうか。)
恋 / 題しらず
片岡の雪まにねざす若草のほのかに見えし人ぞ恋しき(新古1022)
(片岡の積雪の隙間に根をつけた若草のように、ほのかに逢っただけの人が恋しいのだ。)
題しらず
あぢきなし我が身にまさる物やあると恋せし人をもどきしものを(後拾遺775)
(詮方ないことだ。かつては「恋のために命を落とすなど愚かしい。自分の命より大切なものがあるだろうか」と人を非難したものだが、いざ我が身が恋に落ちてみれば、非難した相手と同じではないか。)
題しらず (二首)
かやり火のさ夜ふけがたの下こがれ苦しやわが身人しれずのみ(新古1070)
(蚊遣火が夜更けにじりじりと焼け焦げるように、辛いことだ、我が身は人知れず思いを燃やすばかりで。)
由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな(新古1071)
(由良の門を渡る船頭が、櫂がなくなって行方も知れず漂うように、将来どうなるとも知れない恋の行方であるなあ。)
こころづかひ 家集
思ひやる心づかひはいとなきに夢にみえずときくがかなしさ(夫木抄)
(あの人を思いやる心遣いは絶え間ないのに、私を夢に見てくれないと聞くことの切なさよ。)
三百六十首の中に
わがせこがきまさぬ宵の秋風はこぬ人よりもうらめしきかな(拾遺833)
(愛しいあなたが来られない宵に吹く秋風は、訪れない人よりも恨めしく思えますよ。)
もとつ人に今はかぎりと絶えしより誰ならすらむわがふしし床(好忠集)
(もとの妻とこれで終りだと離縁してから、ほかの誰が、私の臥していた床に馴れ親しんで寝ているのだろう。)
雑 / ものへまかりける人のもとに、人々まかりて、かはらけとりて
雁がねのかへるをきけば別れ路は雲ゐはるかに思ふばかりぞ(拾遺304)
(雁が北の故郷へ帰って行く声を聞けば、あなたの向かう所は空の遥か彼方で、再会する時も遥か遠くに思えてなりません。)
何もせで若きたのみにへしほどに身はいたづらに老いにけらしも(好忠集)
(何をすることもなく、若さばかりを頼んで年月を経るうちに、我が身は空しく年老いてしまったのだなあ。)
春歌の中に
浅みどり野べの霞にうづもれてあるかなきかの身をいかにせむ(続後撰1036)
(うっすらと青い野辺の霞に埋れて、存在しているのかどうか判りにくい程の我が身をどうすればよいのだろう。)
円融院の御子ねの日に、召しなくて参りて、さいなまれて又の日、奉りける
与謝の海のうちとの浜のうらさびて世をうきわたる天の橋立(好忠集)
と名を高砂の松なれど身はうしまどによする白波のたづきありせばすべらぎの大宮人となりもしなましの心にかなふ身なりせば何をかねたる命とかしる
(与謝(よさ)の海の内外(うちと)の浜の浦ではないが、うら寂びた様で、辛い思いをしつつ世を渡ってゆくことよ、海に浮いた天橋立を渡るように。) 
 
47.恵慶法師 (えぎょうほうし)  

 

八重(やへ)むぐら しげれる宿(やど)の さびしきに
人(ひと)こそ見(み)えね 秋(あき)は来(き)にけり  
幾重にもつる草が生い茂っている家、さびしい家に人は訪ねてこないが、秋だけはやって来たのだよ。 / 幾重にも蔓草が生い茂るこの家は寂しいので、こんな寂しい所に誰も訪ねては来ないけれども、秋だけはいつものようにやってきたのだなあ。 / つる草のむぐらのような雑草がたくさん生え茂っているような荒れ果てたさびしい住まいに、訪ねてくるような人もいないけれど、秋だけは、きちんとやってきたのだなぁ。 / このような、幾重にも雑草の生い茂った宿は荒れて寂しく、人は誰も訪ねてはこないが、ここにも秋だけは訪れるようだ。
○ 八重葎しげれる宿のさびしきに / 「八重」は、何重にもの意。「葎」は、ツル性の雑草の総称。「しげれ」は、ラ行四段の動詞「しげる」の命令形。已然形とする説もある。「の」は、同格の格助詞。「に」は、場所を示す格助詞。順接の確定条件を表す接続助詞や逆接の確定条件を表す接続助詞とする説もある。
○ 人こそ見えね / 「こそ」と「ね」は、係り結び。「人」は、訊ねてくる客。「こそ」は、強意の係助詞。「ね」は、打消の助動詞「ず」の已然形で「こそ」の結び。「こそ〜ね、…」という形で下に続く場合、逆接の関係を表し、「〜ないが、…」の意となる。
○ 秋は来にけり / 「人こそ…」と並列。「は」は、区別を表す係助詞。「けり」は、今初めて気づいたことを表す詠嘆の助動詞。 
1
恵慶(えぎょう、生没年不明)は平安時代中期の日本の僧、歌人。恵慶法師とも。中古三十六歌仙の一人。
出自・経歴は不詳。播磨国分寺の講師をつとめ、国分寺へ下向する際に天台座主尋禅から歌を送られた。歌人としては『拾遺和歌集』に初出する。962年(応和2年)ごろより歌合などで活動し、986年花山院の熊野行幸に供奉した記録がある。また、大中臣能宣・紀時文・清原元輔など中級の公家歌人と交流していた。小倉百人一首にも歌が取られている。家集に『恵慶法師集』がある。
山吹の花のさかりに井手にきてこの里人になりぬべきかな 『拾遺和歌集』
八重むぐらしげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり 『拾遺和歌集』『小倉百人一首』
あまの原空さへさえやわたるらん氷と見ゆる冬の夜の月 『拾遺和歌集』(『古今和歌六帖』では詠み人知らず、『今昔物語集』では安法法師の作とする。) 
2
恵慶 生没年未詳
出自・経歴などは不明。応和二年(962)、安法法師主催の河原院歌合に参加。安和二年(969)、源高明の筑紫左遷直後に西宮家で詠歌。また寛和二年(986)、出家した花山院の熊野参詣に供奉。講師として播磨に下ったこともあったらしい(続詞花集)。能宣・元輔・重之・兼盛ら同時代の歌人の多くと交流をもった。自撰と推測される家集『恵慶法師集』がある(群書類従二六七・私家集大成一・新編国歌大観三などに所収。
春 / 正月二日、近江へまかるに、逢坂こえ侍るに鶯のなくを聞き侍りて
ふるさとへゆく人あらば言伝ことづてむ今日うぐひすの初音聞きつと(恵慶集)
(故郷の都へ行く人があったなら、伝言しよう。今日逢坂で鶯の初鳴きを聞いたと。)
山寺に人々のぼりて桜の散るをみて
桜ちる春の山べは憂かりけり世をのがれにと来しかひもなく(恵慶集)
(桜の花が散る春の山は憂鬱であった。せっかく世を遁れようとやって来たのに、その甲斐もなく。)
年かへりて、二月になるまで、まつ人のおとづれねば、いひやる
ももちどり声のかぎりは鳴きふりぬまだおとづれぬものは君のみ(恵慶集)
(百千鳥は声の限りを出してずっと鳴き続けた。まだ音もしないのはあなただけだ。)
井手といふ所に、山吹の花のおもしろく咲きたるを見て
山吹の花のさかりに井手に来てこの里人になりぬべきかな(拾遺69)
(山吹の花盛りに井手にやって来て、花の余りのすばらしさに、このまま此処の里人になってしまいそうだ。)
夏 / 題しらず
わが宿のそともにたてる楢の葉のしげみにすずむ夏は来にけり(新古250)
(我が家の外に立っている楢の木――その葉繁みの蔭に涼む夏がやって来たのだ。)
秋 / 秋立つ日よめる
浅茅原玉まく葛くずのうら風のうらがなしかる秋は来にけり(後拾遺236)
(浅茅原で、玉のように巻いた葛(くず)の葉を裏返して吹く風――その「うら」ではないが、うら悲しい秋はやって来たのだった。)
河原院にて、荒れたる宿に秋来たるといふ心を人々よみ侍りけるに
八重むぐらしげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(拾遺140)
(幾重にも葎が生い茂った寂しい宿に、人の姿こそ見えないが、秋だけはやって来たのだった。)
河原院にてよみ侍りける
すだきけむ昔の人もなき宿にただ影するは秋の夜の月(後拾遺253)
(ここに集まって騒いだろう昔の人も今はない宿に、影を見せるものと言ったら、ただ秋の夜の月ばかりである。)
月の入るをみて
月の入いる山のあなたの里人と今宵ばかりは身をやなさまし(続千載518)
(月が沈む山の彼方の里人に、今夜だけは我が身を代えてしまいたいものだ。)
冬 / 月をみてよめる
天の原空さへさえやわたるらむ氷と見ゆる冬の夜の月(拾遺242)
(天の原と呼ばれる広大な空さえ一面冷えきっているのだろうか。氷と見える冬の夜の月よ。)
つごもりの夜、年のゆきかふ心、人々よむに
ふる雪にかすみあひてやいたるらむ年ゆきちがふ夜はの大空(恵慶集)
(降りしきる雪でぼうっと霞んだまま、やがて新年に至るのだろうか。旧い年と新しい年が行き違う夜の大空よ。)
雑 / 旅の歌とてよみ侍りける
わぎもこが旅寝の衣うすき程よきて吹かなむ夜はの山風(新古921)
(我が妻の旅寝の衣は薄いので、避けて吹いてくれ、夜の山風よ。)
旅の思ひ
春をあさみ旅の枕にむすぶべき草葉もわかきころにもあるかな(新続古今921)
(まだ春が浅いので、野宿の枕に結ぶはずの草葉も若くて短すぎる頃であるなあ。)
深き山に住み侍りける聖のもとに、たづねまかりけるに、庵の戸をとぢて人も侍らざりければ、帰るとてかきつけける
苔の庵さしてきつれど君まさでかへるみ山の道のつゆけさ(新古1630)
(苔むした庵を目指してやって来たけれど、あなたは居られなくて、引き返して行く山道の露っぽいことよ。)
貫之が集を借りて、返すとてよみ侍りける
一巻ひとまきに千々の金こがねをこめたれば人こそなけれ声はのこれり(後拾遺1084)
(一巻に数千の黄金を籠めたので、人々から珍重され、作者は亡くなってしまったけれども、その声はこうして残ったのだ。)
ぬしなき宿を
いにしへを思ひやりてぞ恋ひわたる荒れたる宿の苔の石橋いははし(新古1685)
(昔を思いやっていつまでも慕い続けるのだ。荒廃した屋敷に残る、苔むした石の橋よ。) 
3
『恵慶集』は、平安時代中期の歌僧として著名な恵慶(生没年未詳。十世紀後半頃の人)の家集で、本帖は上帖のみではあるが、藤原定家の書写になる新出の古写本である。
体裁は綴葉装の舛型本で、銀小切箔散しの原表紙の中央に藤原定家筆にて「恵慶集」と外題がある。料紙は斐紙、内題はなく、本文は「はしめのはる」以下、半葉九〜十行、和歌は一首二行書きに書写している。本文の書写は二筆からなり、首より第二一丁表一行目までは、その筆致から藤原定家晩年の筆になるものと認められ、それ以降は伝民部郷局筆と伝えられるものと類似する。文中、墨書訂正、集付等の書入れがあるが、これらの訂正、書入れは藤原定家の手になるものと認められる。現状、一部に錯簡と脱落があるが、これは江戸時代前期に本帖を模写した宮内庁書陵部本でも同様であり、江戸時代以前に生じたものである。
『恵慶集』の伝本は、流布本系統の二冊本と古本系統の一冊本の二系統に分類されるが、流布本系統は定家本系統とも呼ばれ、藤原定家本を祖本とするもので、この冷泉家本はその上巻の祖本にあたる。定家本の下巻は現在石川県の越桐弥太郎氏の所有で既に重要文化財に指定されているが、その帖首にある定家の識語では、この下帖を書写した際に、そこに載せられていない恵慶の歌が多いことを不審であるとしているので、この冷泉家本の上帖は、下帖書写より後に書写されたものであることが知られる。この冷泉家本により、流布本系の祖本が上下そろったことになり、国文学研究上に注目される。 
 
48.源重之 (みなもとのしげゆき)  

 

風(かぜ)をいたみ 岩(いわ)うつ波(なみ)の おのれのみ
くだけてものを 思(おも)ふころかな  
風が激しいせいで岩を打つ波が、自分だけで砕け散るように、私だけが砕け散るような片思いにふけるこのごろだなあ。 / 風が激しいので、岩にぶちあたって砕け散る波のように、あなたの冷たさに私の心も砕けるくらいに思い悩む今日この頃だなあ。 / 風が激しいので、岩にあたる波がひとり砕け散るように、わたしひとりだけが、恋に心が乱れ砕けて、思い悩むことですよ。 / 風がとても強いので、岩に打ちつける波が、自分ばかりが砕け散ってしまうように、(あなたがとてもつれないので) わたしの心は (恋に悩み) 砕け散るばかりのこの頃です。
○ 風をいたみ / 「AをBみ」で原因・理由を表す。「AがBなので」の意。Aは名詞、Bは形容詞の語幹。「いたし」は、程度がはなはだしいことを表す形容詞。「風をいたみ」で、「風が激しいので」の意。
○ 岩うつ波の / 「の」は、比喩を表す格助詞。「岩をうつ波が…するように」の意。作者の思いを全く意に介さない女性の心を不動の岩にたとえている。ここまでが序詞。
○ おのれのみくだけて物を思ふころかな / 「のみ」は、限定の副助詞。波が岩に当たって砕けるという力強い風景描写に、自分の気持ちだけが粉々に打ち砕かれ、悩み苦しむ心理描写を重ねることで、一人ではどうすることもできない絶望的状況を表現している。 
1
源重之(みなもとのしげゆき、生年未詳 - 長保2年(1000年)頃?)は、平安時代中期の歌人・貴族。清和源氏、上野太守・貞元親王の孫で、三河守・源兼信の子。伯父の参議・源兼忠の養子。官位は従五位下・筑前権守。三十六歌仙の一人。
父・源兼信が陸奥国安達郡に土着したことから、伯父の参議・源兼忠の養子となった。
村上朝にて、春宮・憲平親王の帯刀先生(たちはきせんじょう)を務め、その際に最古の百首歌の一つである『重之百首』を詠進している。康保4年(967年)10月に憲平親王が即位(冷泉天皇)すると近衛将監となり、11月に従五位下に叙爵する。
円融朝半ば以降は、貞元元年(976年)の相模権守を皮切りに、信濃守・日向守・肥後守・筑前守など地方官を歴任した。またこの間、貞元2年(977年)頼忠家歌合や寛和元年(985年)円融院子日行幸和歌などに出詠している。
正暦2年(991年)以後に大宰大弐・藤原佐理を頼って筑紫に下向。長徳元年(995年)以後は陸奥守・藤原実方に従って陸奥国に下向し、長保2年(1000年)に当地で没したという。享年は60余。

『拾遺和歌集』(13首)以下の勅撰和歌集に66首が入集。家集『重之集』に見える『重之百首』は、百首歌の中で最も古いものである。旅の歌や不遇を嘆く歌が多い。
宮崎県高鍋町の東方にあった老松を見て詠んだ彼の歌「しら浪のよりくる糸ををにすげて 風にしらぶることひきの松」の歌碑がある。現在、地区住民の手によって保護管理されている。
風をいたみ 岩うつ波の 己のみ くだけて物を 思ふころかな (『詞花和歌集』、小倉百人一首) 
2
源重之 生没年未詳
清和天皇の皇子貞元親王の孫。従五位下三河守兼信の子。父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議兼忠の養子となった。子には有数・為清・為業、および勅撰集に多くの歌を載せる女子(重之女)がいる。名は知れないが、男子のうちの一人は家集『重之の子の集』を残した。康保四年(967)十月、右近将監(のち左近将監)となり、同年十一月、従五位下に叙せられる。これ以前、皇太子憲平親王(のちの冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)を勤め、皇太子に百首歌を献上している。これは後世盛んに行なわれる百首和歌の祖とされる。その後相模権介を経て、天延三年(975)正月、左馬助となり、貞元元年(976)、相模権守に任ぜられる。以後、肥後や筑前の国司を歴任し、正暦二年(991)以後、大宰大弐として九州に赴任していた藤原佐理のもとに身を寄せた。長徳元年(995)以後、陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した。没年は長保二年(1000)頃、六十余歳かという。貞元二年(977)八月の三条左大臣(頼忠)家の前栽歌合、寛和元年(985)円融院子日行幸和歌に出詠。平兼盛・源信明など歌人との交友が知られる。三十六歌仙の一人。家集に『重之集』がある。拾遺集初出。勅撰入集六十八首(金葉集三奏本を除く)。
春 / 冷泉院東宮におはしましける時、歌たてまつれとおほせられければ
吉野山みねのしら雪いつ消えて今朝は霞のたちかはるらむ(拾遺4)
(吉野山の嶺に積もった雪はいつのまに消えたのだろう。今朝は霞に取って代わられている。)
冷泉院春宮におはしましける時、百首歌めしける中に、春歌
鶯のきゐる羽風にちる花をのどけく見むと思ひけるかな(玉葉218)
(鶯が来て枝に止まり、羽ばたく――そのかすかな風にさえ散る花を、いつまでものんびり見ていようと思っていたとはなあ。)
題しらず(二首)
春雨のそぼふる空のをやみせずおつる涙に花ぞ散りける(新古119)
(春雨のしめやかに降る空がしばらくの晴れ間もないように、絶えず落ち続ける涙のうちに花が散ってしまうのだ。)
雁がねのかへる羽風やさそふらむ過ぎゆく峰の花も残らぬ(重之集)
(北へ帰って行く雁の翼の起こす風が、花を誘ってゆくのだろうか。雁の群が過ぎてゆく峰の花は、残らず散ってしまった。)
春のくれつかた(二首)
憂きことも春はながめてありぬべし花の散りなむのちぞ悲しき(重之集)
(辛いことも、春は心を空にしてじっと堪えているべきであった。桜が散った後こそが本当に悲しいのだ。)
うち忍びなどか心もやらざらむ憂き世の中に花は咲かずや(重之集)
(耐え忍んで、心を晴らそうではないか。辛い現世だが、桜の花が咲かないことがあろうか。)
夏 / 冷泉院の東宮におはしましける時、百首歌たてまつれとおほせられければ
花の色にそめし袂の惜しければ衣かへうき今日にもあるかな(拾遺81)
(花の色に染めた着物が名残惜しいので、衣替えをするのは気が進まない今日であるよ。)
〔題欠〕
いなび野にむらむらたてる柏木の葉広になれる夏は来にけり(重之集)
(稲美野に所々むらがり立っている柏の樹――その葉が広々と栄え繁る夏がやって来たのだなあ。)
冷泉院の東宮と申ける時、百首歌たてまつりける中に
夏草はむすぶばかりになりにけり野飼のがひし駒やあくがれぬらむ(後拾遺168)
(夏草は絡まり合うばかりに繁茂し、結んで道標べとしなければならない程伸びたのだった。野に放し飼いしていた馬は道に迷っているのではないか。)
ほたるをよみ侍りける
音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ(後拾遺216)
(音も立てずに、ただ「思ひ」の火に燃えて飛ぶ蛍こそは、声立てて鳴く虫よりもあわれ深いのだ。)
題しらず
夏刈の玉江の蘆をふみしだき群れゐる鳥のたつ空ぞなき(後拾遺219)
(夏刈の行なわれた玉江の蘆原では、鳥たちが切株を踏み折って群らがっている――空へ飛び立つこともせず、あてどなく迷うばかりだ。)
秋 / 秋歌の中に
秋風は昔の人にあらねども吹きくる宵はあはれとぞ思ふ(玉葉1957)
(秋風は昔の人でもないのに、夜、独りでいる部屋に吹き入ってくる時は、懐かしく思われるのだ。)

秋風に潮みちくれば難波江の葦の穂よりぞ舟もゆきける(重之集)
(秋風と共に潮が満ちてきたので、難波江の葦の穂をかすめるようにして舟も往き来するのだ。)
冬 / 百首歌の中に
葦の葉にかくれてすみし津の国のこやもあらはに冬は来にけり(拾遺223)
(葦の葉に隠れて住んだ、津の国の昆陽(こや)の小屋――葦が霜枯れした今、その小屋もあらわに見えて、すっかり冬景色となった。)
恋 / 冷泉院春宮と申しける時、百首歌たてまつりけるによめる
風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふ頃かな(詞花211)
(風がひどいので岩に打ち当たる波のように、自分ばかりが千々に心を砕いて思い悩むこの頃であるよ。)
冷泉院みこの宮と申しける時、百首歌よみて奉りける中に
荻の葉に吹く秋風を忘れつつ恋しき人の来るかとぞ思ふ(玉葉1662)
(荻の葉に吹く秋風の音なのに、そのことをふと忘れては、恋しい人が来たのかと思ってしまうのだ。)
題しらず
よどのへとみま草かりにゆく人も暮にはただにかへるものかは(後拾遺685)
(淀野へと馬草刈りに行く人も、暮には手ぶらで帰ることなどしようか。夜殿へ忍んで行く人が、何もせずに帰ったりするものではない。)
題しらず
つくば山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり(新古1013)
(筑波山が端山・茂山と繁っていても、人は山の中へ踏み入ってゆく。――そのように、人目がうるさいけれども、だからと言って恋へ踏み入ることに障害となりはしないのだ。)
題しらず
松島や雄島をじまの磯にあさりせし海人の袖こそかくは濡れしか(後拾遺827)
(松島の雄島の磯で漁をした海女の袖くらいです、私の袖のようにこれ程ひどく濡れた袖と言ったら。)
ある人、宮たちに夢のやうにてやみにけるを「ゆめ人にしらすな」と泣く泣く口がためられけるを、失せたまひにければ
思ひ出のけながきものは人しれぬ心の内の別れなりけり(重之集)
(思い出のうちでも永いこと忘れられないのは、人知れず心の中で恋人と別れることであったよ。)
雑 / 右馬助うまのすけにて播磨へ行くに、明石の浜にて夜いと暗きに千鳥なきて沖のかたへいぬ
白波に羽うちかはし浜千鳥かなしきものは夜の一こゑ(重之集)
(白波に白い羽を交差させて、海上を飛ぶ浜千鳥――切ないのはその夜の一声。)
秋、身まかりける人をおもひいでてよめる
年ごとに昔は遠くなりゆけど憂かりし秋はまたも来にけり(後拾遺597)
(年ごとに昔は遠くなってゆくけれども、あの人が亡くなった辛い秋は再び巡って来るのだった。)
陸奥の守さねあきら、ある人の親におくれたるにやるとて、絹とまた綿など、籠をつくりておこせたり
はぐくみし君を雲居になしてより大空をこそたのむべらなれ
(大事に育てた子であるあなたを雲の上のように遥か遠くへやってしまってから、親御さんはきっと大空をばかり頼みにするように不安でいらしたのでしょうね。)
いふべき事あらばいへとあれど、こち風をぞ頼むといへればなるべし、かへる春になりて
吹く風も今日はのどかになりにけり物思ふほどに春や来ぬらむ(重之集)
(吹く風も今日はのどかになりました。物思いに耽っている間に春がやって来たのでしょうか。)
みちのくににて子のかくれたるに(三首)
言の葉にいひおくこともなかりけり忍ぶ草にはねをのみぞなく(重之集)
(紙に書き残しておくことなど何もありはしない。子のいなくなった古家で、亡き子を偲び、忍び泣きばかりしている。)
さもこそは人におとれる我ならめおのが子にさへおくれぬるかな(重之集)
(いかにも人より劣った私であるよ。自分の子にさえ死に後れてしまったなあ。)
なげきても言ひても今はかひなきを蓮の上の玉とだになれ(重之集)
(嘆いても何を言っても今は甲斐もないが、せめて子よ蓮の上の玉となって極楽に往生してくれ。)
題しらず
水のおもに浮きたる泡を吹く風のともに我が身も消えやしなまし(続後拾遺1230)
(水面に浮いた泡を吹き消す風と道連れに、私の命も消えてしまえばよかったのに。) 
3
「藤原実方」と「源重之」
藤原実方中将朝臣の陸奥下向、陸奥守赴任にあたってその事情をよく知り、又、彼の随伴者として、下向を共にした可能性のある「源重之」のことを書いてみます。
実方も重之も能因法師も共に歌人としてその名を残し、それぞれに私家集がございます。在原業平の父行平は陸奥出羽按察使として陸奥にいた記録が残っております。そんな関係もあり、つまり今、書き出した人物は全て高名な歌人としても、又、陸奥に在所したことのある人たちばかりです。 
そこで今回は「源重之」です。「中古三十六歌仙」の一人として沢山の和歌を詠み、その私家集も色々とあります。宮内庁書陵部蔵の私家集を始めとして、徳川美術館には伝、藤原行成筆によるものもございます。ただし彼の官位は高くはないというよりも微官と呼ぶべきものでした。976年相模国権守、從五位下として、信濃守、日向守等を歴任してますが、いわゆる地方官として一生を閉じています。
実父兼信は所謂官途に希望を見いだせず陸奥国に土着しています。結果、重之はかなりの地方を経めぐったことになりますが、本人の願いはかなわないままに、宮廷での出世を終生望みつづけます。 
小倉百人一首には、48番歌として
「風をいたみ 岩うつ波の 己のみ くだけて物を 思うころかな」
が所集される等、それなりに和歌詠みとしては評価の高い人物でした。つまり重之の「百首歌」歌集は、歌に堪能なことが上に聞えて特に詠ませられたものであり、彼の得意の作ともいえます。
しかし、宮廷内での権力をめぐる所謂、中関白家の没落により、藤原道長を頂点とした摂関政治がまかり通ってゆく中で、重之の昇進も何もなくなってゆきます。そこで藤原実方ですが、重之と同じような立場になってしまいます。ただし実方は優美淡麗の容姿と当意即妙の機智とで宮廷の花形でもありました。位は重之とは較べようもなく、正暦五年(994)に左近衛中将、兼陸奥守となっております。当時は遥任として地方の例えば駿河守に任じられたとしても、本人が赴任しなくても代理人が居れば、よい制度がありました。しかし、時代の流れの中で父を亡くし喪中(本来は重喪でありそれ故当初の赴任予定日より大幅に遅れます)の実方でしたが、多くの人に惜しまれつつ京の都を離れるわけです。しかし、この事実は当時としては大変センセーショナルな出来事でした。そのために色々な憶測も生まれ、例えば藤原行成との不仲説のようなことも「古事談」などに出てきます。 
4
衣川の関 / 中央政権と攻防の砦か
胆沢鎮守府と多賀国府の管轄領域の境に置かれていたのが衣川の関(衣の関)である。
平安時代中期、衣川の関の名は良く知られており、清少納言の『枕草子』の全国の有名な関を列挙した章段(第111段)にも、逢坂(おうさか)の関、須磨の関、白河の関などと並んで衣の関があげられている。また、藤原道長と同時代の著名な歌人、藤原実方(さねかた)が陸奥(むつの)守(かみ)となって多賀城に赴任した時に実方と同行した、やはり歌人として知られていた源重之(しげゆき)は、衣川の関の長(をさ)が老いてしまったのを見て「昔見し 関守(せきもり)見れば 老ひにけり 年のゆくをば えやはとどめぬ」(『夫木和歌抄』)と詠んでいる。
関は通常は国境に置かれるものであるが、衣川の関は陸奥国のまっただなかにある。これは関のありかたとしては異例であるが、鎮守府と多賀国府の管轄領域はそれぞれ国に准(じゅん)ずる扱いであったことを反映しているのである。
郡の境界上
衣川の関の位置は、厳密にはわからない。しかし、おおまかには現在の奥州市衣川区と平泉町の境となっている衣川の流れに近い所、すなわち当時の胆沢郡と磐井郡の境界上であったにちがいない。ただし、当時の郡境は現在のように厳密には定められていなかったかもしれないし、関には人や物の通関をチェックする施設だけではなく、関守の宿舎や、関を守る兵士の駐屯施設など、さまざまな施設が付随していたであろうから、中尊寺のある丘陵上なども含む部分が、広義の衣川の関だったと考えたほうが良いかもしれない。
鎮守府は、もともとは朝廷が蝦夷(えみし)の地域を支配するために置いたものである。ところが、安倍氏が実質的に鎮守府を掌握するようになったことから、鎮守府の性格は大きく変質し、蝦夷と見なされていた安倍氏の権力拠点となった。これにより、衣川の関の性格も変貌(へんぼう)し、京都の中央政権の支配が強く及ぶ地域と、なかばは中央政権の力が及ばない蝦夷の世界との間を隔てる関門となった。そして最後には、安倍氏や清原氏が中央政権の出先である多賀国府側の攻撃を防ぐ砦(とりで)としての役目をになうことになったと考えられる。
これをシルクロードの世界に例えるならば、衣川の関は敦(とん)煌(こう)西郊の陽(よう)関(かん)や玉(ぎょく)門関(もんかん)に相当するということもできる。盛唐(せいとう)の詩人・王維(おうい)は「西のかた陽関を出づれば故人(知己)なからん」(ここを越えればもう知っている人に会うことはないだろう)と詠んでいる。陽関・玉門関のかなたは、もはや漢民族の世界ではなく、胡人の世界であった。明代には、敦煌の東方にあたる嘉峪(かよく)関(かん)がその役目をになっている。
北京郊外の万里の長城線上にある居庸(きょよう)関(かん)、あるいは山海(さんかい)関(かん)などもある。居庸関は北京からモンゴルに入る要路上に置かれたもの、山海関は万里の長城の東の基点で、華北と中国東北部の境界上の要衝である。シルクロードや北京に近い中国のこれらの関は、いずれもほぼ北緯40度付近に位置している。興味深いことには、衣川の関の位置もほぼこれらと同じ緯度上にある。
一定の自治
安倍氏が掌握する衣川の関以北の地は、安倍氏が京都の中央政権の権威を大きく損なうような行動に出ないかぎり、暗黙のうちに一定程度の自治が認められていたのであろう。具体的には、一定量の砂金、馬、あるいは北方からもたらされる鷲(わし)や鷹(たか)の羽根、海獣の皮などを陸奥守に提供すること、多賀国府の官人、あるいは名目的に任命される鎮守府の官人が胆沢鎮守府管内で行う交易活動を妨害しないこと、などだったと思われる。
関の周辺は、シルクロードの場合でも、国境の雰囲気がただよう緊張感に満ちた場であったが、一方では漢人・胡人が入り交じって日常的には交易活動を展開する場でもあった。後に、平泉藤原氏が東北の都として平泉の地を選ぶことになるのも、平泉周辺のこのような歴史を背景とした選択だったのである。 
5
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず
詠み人は殷富門院大輔、殷富門院にお仕えした大輔と言う女房です。殷富門院というのは後白河天皇の皇女・亮子内親王のことで式子内親王の姉宮に当たります。伊勢の斎宮にもなり、安徳帝・後鳥羽院、二代の准母として門院号を宣下され、また順徳院のご養女ともなられました。その殷富門院に仕えたのが大輔です。父は藤原信成と言われ、姉があり、共に殷富門院に仕えたといいます。大輔、は「たいふ」と読みます。
見せたいの。あなたに、この色が変わってしまった私の袖を。
松島の雄島の漁師の袖は若布を刈り、塩を汲み、いつもぐっしょりと濡れているのですってね。漁師の袖は濡れることはあっても、色が変わりはしないでしょう。あなたの袖は、その漁師の袖のように濡れたと言うけれど、私の袖はどう。ご覧なさいな、これを。あなたは心破れてなど、いないのよ。この袖は涙に濡れるばかりか血の涙に色さえ変わってしまったわ。
この歌は源重之の歌を本歌取りしています。「後拾遺集」に収められている歌で
松島や 雄島の磯に あさりせし 海士の袖こそ かくはぬれしか
「松島の雄島の漁師の袖は涙に濡れた私の袖のように濡れている」と言う歌意です。
大輔の歌は「千載集」に収められていて、その詞書には歌合せの際に恋の歌として詠んだ、とあります。ですからこの歌も題詠です。重之の歌に応じる返歌のような形で詠まれていますが、これは当時の流行と言いますが、このような形の本歌取りもあった、と言うことのようです。ちなみに「あま」を漁師と訳しましたが、あまは重之の歌にあるよう、海士の字を当てることもあります。今は海女のほうが一般的でしょうか。元々は男女どちらでも使う言葉です。一見してわかりにくいですが、涙に袖の染め色が変わったのではなく、血の涙に染まってしまった、と取るべきでしょう。
紀貫之の歌にもあります。
白玉に 見えし涙も 年経れば からくれなゐに 移ろいにけり
と言うものです。ここでは中国の故事を指しています。血涙、と言うのは元々中国の故事で、周易や韓非子から来ているようです。大輔の歌はそれを踏まえているので、恋に破れた自分の涙は血の色をしている、だからそれに染まった袖は色が変わったのだ、と解釈します。さて、いつものことですが、大輔の生涯はほぼ何もわかりません。どうやら七十歳くらいまでは生きたらしいですが、これと言って話題が残っていないのですよ。無論のこと、本名などわかるはずもありません。そんな大輔ですが、歌は素晴らしいものをたくさん残しました。家集もありますが、何と言っても勅撰集に六十首近く採られているというのは大変なものです。特に素晴らしいのが恋歌ではないか、と私は思います。この百人一首に採られている歌もそうですね。
見せたいものよ、と高らかに詠い出すところから始まって、男をなじりつつも悲しく、だからこそ美しい女の情愛を歌っています。気性激しく、誇り高い、そんな女性だったのかと想像します。あるいはいつか悲しい恋をしたのかな、とも。それほど彼女の恋歌には胸に迫る実感があるのですよ。切なくて苦しくて、こんな歌を贈られたら男はきっと彼女を放ってはおかなかったのではないかな、など思います。
そうは思うのですが、人の心と言うものは一度離れるともう元には戻らないものでもあります。もしかしたら男は彼女の元には戻らなかったのかもしれません。そして最後に彼女は血涙を振り絞り、男と決別することになったのではないでしょうか。強い決意と滲み出る苦悩、それでいて決して彼女は懇願したりはしないのですよ、この歌で。こんな女性をそれこそ袖にした男はよほど見る目がなかった、としか言えませんね。
紹介した恋の歌は、すべて袖を濡らしている歌を選びました。すべて袖を濡らしつつも、歌枕を変え、色を変え、様々な形で詠っています。ある意味で「袖を濡らす」と言うのは類型的な表現ですから、歌の上手と言われる人ほど心を砕いて形にした、と言うことではないでしょうか。どれもこれも味わいがあって素敵な歌だと思います。
 
49.大中臣能宣朝臣 (おおなかとみのよしのぶ)  

 

御垣守(みかきもり) 衛士(ゑじ)のたく火(ひ)の 夜(よる)は燃(も)え
昼(ひる)は消(き)えつつ ものをこそ思(おも)へ  
皇宮警備の衛士の焚く火が、夜は燃えて昼は消えることをくり返すように、私の恋の炎も夜は燃えて昼は消えることをくり返しながら、物思いにふける日々が果てしなく続くのだ。 / 宮中の門を守る衛士がたくかがり火のように、夜は燃え、昼になると消えるように、私の恋心も夜は熱い思いで身を焦がし、昼は魂が消えそうになるほど思い悩むのだ。 / 夜は焚き、昼は消えている、宮中を守る衛士が焚くかがり火のように、わたしの恋心も夜は激しく燃え上がり、昼間は身も心も消えそうにもの思いに沈んでいることです。 / 禁中の御垣を守る衛士のかがり火は、夜は赤々と燃えているが、昼間は消えるようになって、まるで、(夜は情熱に燃え、昼間は思い悩んでいる) わたしの恋の苦しみのようではないか。
○ みかきもり / 「御垣守」は、宮中を警護すること。
○ 衛士のたく / 「衛士」は、諸国から毎年交代で召集される宮中警護の兵士。「の」は、主格の格助詞。
○ 火の / 「の」は、比喩を表す格助詞。「火が…するように」の意。ここまでが序詞。
○ 夜は燃え昼は消えつつ / 「は」は、区別を表す係助詞。「夜は燃え」と「昼は消え」が対句になっている。「つつ」は、反復を表す接続助詞。かがり火が燃えては消えることをくり返す風景に、作者の恋心が燃えては消える心情を重ねて表現している。
○ 物をこそ思へ / 「こそ」と「思へ」は、係り結び。「物を思ふ」は、恋の物思いをする意。
※ 『古今六帖』に、「みかきもり 衛士のたく火の 昼は絶え 夜は燃えつつ 物をこそ思へ」が、読み人知らずの歌として載っているため、この歌は、大中臣能宣の作ではないとする説が有力。 
1
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ、延喜21年(921年) - 正暦2年(991年)8月)は、平安時代中期の貴族・歌人。神祇大副・大中臣頼基の子。三十六歌仙の一人。官位は正四位下・祭主・神祇大副。
天延元年(973年)伊勢神宮祭主、寛和2年(986年)正四位下に叙位。天暦5年(951年)梨壺の五人の一人に選ばれて和歌所寄人となり、『万葉集』の訓読と、『後撰和歌集』の撰集にあたった。冷泉天皇・円融天皇の大嘗会和歌を詠進したほか、円融天皇・花山天皇に家集を召されている。また歌合や屏風歌の制作でも活躍し、母娘二代の伊勢斎宮となった徽子女王・規子内親王家にも出入りした。『拾遺和歌集』(59首)以下の勅撰和歌集に124首が入集。家集に『能宣集』がある。なお、百人一首に「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼はきえつつ物をこそ思へ」が能宣作として入っているが、作者は能宣ではないとの説が有力である。 
2
大中臣能宣 延喜二十一〜正暦二(921-991)
伊勢神宮祭主頼基の子。母は未詳。子の輔親、孫の伊勢大輔なども著名歌人。蔵人所に勤務したのち、天暦五年(951)、讃岐権掾となる。のち家職を継いで伊勢神宮に奉仕し、神祇小祐・大祐・小副・大副を経て、天延元年(973)、伊勢神宮祭主となる。以後十九年間在職。寛和二年(986)、正四位下。天暦五年(951)、源順・清原元輔らとともに梨壺の五人として撰和歌所寄人となり、万葉集の訓点と後撰集の撰進に携わる。天徳四年(960)の内裏歌合を始め多くの歌合に出詠。また屏風歌も多い。冷泉・円融二代にわたり大嘗会悠紀方歌人。平兼盛・源重之・恵慶らと親交があった。家集『能宣集』が三系統伝わるが、そのうち西本願寺本系統は能宣の花山帝への自撰献上本の系統をひくという。拾遺集初出。勅撰入集は120余首。三十六歌仙の一人。
春 / 天暦三年、太政大臣の七十賀しはべりける屏風によめる
たづのすむ沢べの蘆の下根とけ汀もえいづる春は来にけり(後拾遺9)
(鶴の棲む沢辺の蘆の地下の根に張っていた氷が解け、汀(みぎわ)がいっせいに芽吹く春はやって来たのだ。)
入道式部卿のみこの子日(ねのひ)し侍りける所に
千とせまでかぎれる松もけふよりは君にひかれて万代よろづよやへむ(拾遺24)
(千年までと寿命が限られる松も、今日からは、あなたに引かれて万年の命を保つでしょう。)
あるところの歌合に梅をよめる
梅の花にほふあたりの夕暮はあやなく人にあやまたれつつ(後拾遺51)
(梅の花が匂う辺りの夕暮にあっては、むやみに人の薫香と間違われて、来客があったのかと思い違いをしてばかりいる。)
春の歌の中に
花散らばおきつつも見む常よりもさやけく照らせ春の夜の月(続後拾遺132)
(花が散ってしまうのであれば、ずっと起きながら見ていようから、いつもより冴えた光で照らしてくれ、春の夜の月よ。)
やよひのつごもりがたに、雨のふる夜、春の暮るるを惜しみ侍る心をよむに
暮れぬべき春のかたみと思ひつつ花のしづくにぬれむ今夜こよひは(能宣集)
(やがて暮れてしまう春の残してゆく形見と思いながら、今夜は花の雫に濡れよう。)
夏 / 屏風に
昨日までよそに思ひしあやめ草けふ我が宿のつまとみるかな(拾遺109)
(昨日までは無縁のものと思っていた菖蒲草が、五月五日の今日、我が家の軒端を飾っているのを見るのだなあ。)
六月、おなじ御前の前栽ほるに、嵯峨野にてなでしこを人々よみしに
時鳥なきつつかへるあしひきのやまと撫子咲きにけらしも(能宣集)
(ほととぎすが鳴きながら山へ帰って行く――ちょうどその頃、やまと撫子の花が咲いたのだなあ。)
秋 / 題しらず
もみぢせぬときはの山にすむ鹿はおのれ鳴きてや秋をしるらむ(拾遺190)
(その名の通り萩も黄葉しない常盤の山に棲む鹿であれば、秋であることを自分の鳴き声によって知るのだろうか。)
九月十余日ばかりの月に、まへちかき菊のいとおもしろくみえわたりはべれば
かをらずは折りやまどはむ長月の月夜にあへる白菊の花(能宣集)
(香をたちのぼらせなければ、手折るのに迷ったろうよ。晩秋九月の夜、月の光と一つになった白菊の花を。)
賀 / はじめて平野祭に男使たてし時、うたふべき歌よませしに
ちはやぶる平野の松の枝しげみ千世も八千世も色はかはらじ(拾遺264)
(平野の松の枝が盛んに繁っていて永遠に美しい緑を保つように、この社はいつまでも栄え続けるでしょう。)
三善佐忠、冠かうぶりし侍りける時
ゆひそむる初元結はつもとゆひのこむらさき衣の色にうつれとぞ思ふ(拾遺272)
(初めて結い上げる髻(もとどり)の糸の濃紫――その色が将来のあなたの衣の色にまで移ることを願いますよ。)
離別 / 伊勢よりのぼり侍りけるに、しのびて物いひ侍りける女のあづまへくだりけるが、逢坂(あふさか)にまかりあひて侍りけるに、つかはしける
ゆくすゑの命もしらぬ別れぢはけふ逢坂やかぎりなるらむ(拾遺315)
(将来の命は知れず、いつか再びこのような僥倖に恵まれるとも思えない。今日逢坂で逢って、こうして別れるのが、永の訣れなのだろうか。)
田舎へまかりける人に、旅衣つかはすとて
秋霧のたつ旅ごろもおきて見よ露ばかりなる形見なりとも(新古860)
(秋霧の立つこの季節、旅の衣を裁って差し上げますので、手もとに置いて眺めて、私を思い出して下さい。露ほどのはかない形見だとしても。)
恋 / 題しらず
みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼はきえつつ物をこそ思へ(詞花225)
(皇居の門を護る衛士(えじ)の焚く篝火、その炎が夜は燃え盛り、昼は消え尽きているように、私もまた、夜は恋心を燃やし、昼は消え入るばかりに過ごしているのだ。)
女の許に紅梅さしてつかはしし
なげきつつ涙にそむる花の色のおもふほどよりうすくもあるかな(能宣集)
(何度も嘆いては涙で染めた花の色ですが、私の思いに比べれば薄いようですねえ。)
又かよふ人ありける女のもとにつかはしける
我ならぬ人に心をつくば山したにかよはむ道だにやなき(新古1014)
(私ではない人に心を寄せているのですね。せめて、ひそかに通う道だけでもないのでしょうか。)
年をへて言ひわたり侍りける女の、さすがに気近くはあらざりけるに、春の末つ方いひつかはしける
いくかへり咲き散る花をながめつつ物思ひくらす春にあふらむ(新古1017)
(幾度繰り返し、咲いては散る花をただ眺めながら、物思いに耽って過ごす春に巡り逢うのでしょうか。)
春夜、女のもとにまかりて、あしたにつかはしける
かくばかり寝であかしつる春の夜にいかに見えつる夢にかあるらむ(新古1385)
(あのように(あなたと二人)一睡もせずに明かした春の夜であったのに、どうしてあんな夢を見ることができたのでしょうか。)
雑 / あるところに庚申し侍けるに、みすのうちの琴のあかぬ心をよみ侍ける
絶えにけるはつかなる音ねをくりかへしかづらの緒こそ聞かまほしけれ(後拾遺1149)
(やんでしまったかすかな音を――繰り返しその美しい琴の音が聞きたいものです。)
神楽し侍るところ
山人のたける庭火のおきあかし声々あそぶ神のやをとめ(能宣集)
(山人が焚いている庭火の燠が赤々と一晩中燃え続け、夜を徹して声々に神楽を歌い舞う少女たちよ。) 
 
50.藤原義孝 (ふじわらのよしたか)  

 

君(きみ)がため 惜(お)しからざりし 命(いのち)さへ
長(なが)くもがなと 思(おも)ひけるかな  
君のためには惜しくなかった命でさえ、結ばれた今となっては、長くありたいと思うようになったよ。 / あなたのためにはたとえ捨てても惜しくはないと思っていた命だけれど、あなたに逢った今となっては長生きをしたいと思うようになってしまったよ。 / あなたにお逢いするためなら、死んでもよいと思っていたわたしの命ですが、お逢いできたいまとなっては、いつまでも長く生きていたいと思うようになったのです。 / あなたに会うためなら惜しいとは思わなかった私の命ですが、こうしてあなたと会うことができた今は、いつまでも生きていたいと思っています。
○ 君がため / 「君」は、恋人の女性。「が」は、連体修飾格の格助詞。「君がため」で、「彼女のため」の意。『後拾遺集』の詞書に、義孝が「女のもとより帰りてつかはしける」とあり、この歌は、逢瀬をとげて帰宅した後に詠まれた後朝の歌であることがわかる。
○ 惜しからざりし命さへ / 「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「惜しからざりし」は、「惜しくなかった」の意。「さへ」は、添加の副助詞で、「〜までも」の意。
○ 長くもがなと / 「もがな」は、願望の終助詞で、「〜であればいいなあ」の意。「と」は、引用の格助詞。
○ 思ひけるかな / 「ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、初めて気づいたことを表す。今までは、彼女のためなら命さえ惜しくないと思っていたが、恋愛が成就してみると、この状態を永続するために長生きしたいと願っていることに初めて気がついたということ。 
1
藤原義孝(ふじわらのよしたか)は、平安時代中期の公家・歌人。摂政・太政大臣・藤原伊尹の三男(または四男)。中古三十六歌仙の一人。子に三蹟の一人藤原行成がいる。
侍従・左兵衛佐・春宮亮を歴任した後、天禄2年(971年)右近衛少将に任官。天禄3年(972年)には正五位下に叙せられる。天延2年(974年)当時流行した疱瘡にかかり、兄・挙賢と同日に21歳の若さで没した。同じ日の朝に挙賢が、夕方に義孝が死亡したとされる。
仏教への信仰心が篤かった。また、美貌で知られ、疱瘡で顔に傷痕が残って醜くなり自殺したとも言われている。怨霊になったという伝説もある。『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に12首が入集。家集に『義孝集』がある。
君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな (『後拾遺和歌集』、小倉百人一首)
義孝の信仰心を示す逸話として、以下のようなものがある。
○ 葷腥(香りの強い野菜や食肉)を断ち、公務の間も法華経を読誦していた。
○ 病気で危篤になった際、一旦自らが息を引き取っても法華経を誦えるためにしばらく生き長らえるので、通常通りの葬儀の作法で死者扱いしないように母親に依頼した]。
○ 賀縁(阿闍梨)や藤原実資は、義孝が極楽に往生している夢を見た。
○ 義孝は夜中に世尊寺の邸宅に戻ると、礼拝の言葉を発しながら、西の方を向いて何度も拝礼していた。 
2
藤原義孝 天暦八〜天延二(954-974) 通称:後少将・夕少将
一条摂政伊尹の三男(四男とも)。母は恵子女王。冷泉天皇の女御懐子は同母の姉。源保光女を娶り、一男行成をもうけた。侍従・左兵衛佐を経て、天禄二年(971)、右少将。同三年、正五位下。天延二年、疱瘡に罹り、九月十六日、朝に亡くなった兄挙賢(たかかた)に続き、夕に亡くなった。享年二十一。美貌で道心深かったことは、『大鏡』『栄花物語』などの逸話に窺われる。その生涯は『今昔物語』などにも説話化された。死後、近親や知友の夢に現れて歌を詠んだことも記録されている。清原元輔・源順・源延光ら歌人との交流が知られる。家集『義孝集』がある。また日記一巻があったというが、伝存しない。拾遺集初出。勅撰入集二十四首。中古三十六歌仙。小倉百人一首にも歌を採られている。
春 / 春、人のよめといひしに
夢ならでゆめなることをなげきつつ春のはかなきものおもふかな(義孝集)
(夢でなくて、夢であること――そんな頼りないことを歎きながら、春のはかない物思いに耽っていることよ。)
秋 / 秋の夕暮 (二首)
秋はなほ夕まぐれこそただならね荻の上風はぎの下露(義孝集)
(秋はやはり夕まぐれが尋常でない。荻の上を吹いてゆく風と言い、萩の下葉に置いた露と言い。)
露くだる星合の空をながめつついかで今年の秋を暮らさむ(義孝集)
(夜露が落ちてくる星合の空を眺めては悩むのだ、どうやって今年の秋を終わりまで過ごそうかと。)
恋 / 堀川の中宮の内侍の簾の前に物言ふほどに、雨の降りかかれば、女のつげければ
わびぬればつれなし顔はつくれども袂にかかる雨のわびしさ(義孝集)
(辛いので、素知らぬ表情に取り繕っているけれども、袂にかかる雨の侘しいことよ。)
女のもとより帰りてつかはしける
君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな(後拾遺669)
(あなたを知る以前は惜しくもなかった我が命でしたが、それさえ貴方のためには永く保ちたいと思ったのです。)
五節のころ、さし櫛とりたる、かへすとて
人しれぬ心ひとつをなげきつつ黄楊の小櫛をさすかひぞなき(義孝集)
(人知れず恋心を一心に抱いて嘆くばかりで、あなたの魂の憑代(よりしろ)であるこの黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)を挿しても恋が叶う甲斐がありません――誰と「指し」て「告げ」たところで、思いが通じる甲斐もないのです。)
哀傷 / 一条摂政、身まかりにける頃よめる
夕まぐれ木こしげき庭をながめつつ木の葉とともにおつる涙か(詞花396)
(薄暗い夕方、木が繁っている庭を眺めながら、散る木の葉とともに落ちる涙よ。)
春、人のよめといひしに
夢ならで夢なることをなげきつつ春のはかなき物思ふかな(義孝集)
(夢でなく現実であるのに、この春が夢のように儚く感じられてならず、そのことを嘆きながら取留めもない物思いに耽っているのです。)
殿失せ給ひて又の年の春、雨の降る日
春雨も年にしたがふ世の中にいまはふるよと思ふかなしな(義孝集)
(春雨も歳月の運行に従うこの世で、今はその降る季節になった――こうして父の死から年月を経てゆくのだと思えば切ないなあ。)
しかばかり契りしものを渡り川かへるほどには忘るべしやは(後拾遺598)
この歌、義孝の少将わづらひ侍りけるに、亡くなりたりともしばし待て、経よみはてむ、と妹の女御にいひ侍りて、ほどもなく身まかりてのち、忘れてとかくしてければ、その夜、母の夢に見え侍りける歌なり
(死んでもすぐには納棺しないでほしいと、あれほど固く約束したのに、私が三途の川から引き返す間に、忘れるなどということがあるのでしょうか。)
時雨とは千草の花ぞちりまがふ何ふる里の袖ぬらすらむ(後拾遺500)
この歌、義孝かくれ侍りてのち、十月ばかりに、賀縁法師の夢に、心ちよげにて笙をふくと見るほどに、口をただ鳴らすになむ侍りける。「母のかくばかり恋ふるを、心ちよげにていかに」といひ侍りければ、立つをひきとどめて、かくよめるとなむ、言ひ伝へたる
(現世の貴方たちは私の死を悲しんで時雨のように涙を流していらっしゃるのですか。しかしこの極楽浄土では、時雨とは、さまざまの花が散り乱れる様を言うのです。どうして袖を濡らしなどなさるのでしょう。)
着てなれし衣の袖もかわかぬに別れし秋になりにけるかな(後拾遺600)
この歌、身まかりてのち、あくる年の秋、いもうとの夢に、少将義孝が歌とてみえ侍りける
(着馴れた衣の袖もまだ乾かないのに、もう別れた秋が巡って来たのですね。) 
3
今昔物語集 / 巻15第42話 義孝少将往生語
今昔、一条の摂政殿1)と申す人御けり。其の御子に、兄は右近少将挙賢2)と云ふ、弟をば左近少将義孝3)と云けり。義孝の少将は幼かりける時より道心有て、深く仏法を信じて悪業を造らず、魚鳥を食はず。
其の時に、殿上人数(あまた)有て、此の少将を呼ければ、行たりけるに、物食ひ酒飲などして遊けるに、鮒の子の鱠を備たりければ、義孝の少将、此れを見て食はずして云く、「母が肉村に子を敢(あへ)たらむ食はむこそ」と云て、目に涙を浮べて、立て去にけるを、人々此れを見て、膾の味も失てぞ有ける。
此様(かやう)にして魚鳥を食ふ事無かりけり。況や、自ら殺生する事は永く無かりけり。只、公事の隙には、常に法花経を誦し、弥陀の念仏を唱へけり。
而る間、天延二年と云ふ年の秋比、世の中に疱瘡(もがさ)と云ふ病発て、極て騒がしかりけるに、有明の月の極て明かかりける夜、弘徽殿の細殿に女房二三人許居て物語などする間、義孝の少将、襴装束□□4)よかにて、殿上の方より来にや有らむ、細殿に来て、女房と物語する様、現に故有らむと見えて、墓無き事を云ふに付ても、「道心有るかな」とぞ思えける。
夜、漸く深更(ふけ)ぬれば、少将、北様へ行ぬ。共には小舎人童、只一人ぞ有ける。北の陣に漸く行く程に、方便品の比丘偈をぞ、極て貴く誦して行ける。細殿に有る女房、此れを聞て、「此の君は道心深き人なめり。何(いづ)ち行くらむ」と思て、侍を呼て、「此の少将の行かむ方見て、返来れ」とて遣れば、侍、少将の後に立て行くに、少将、土御門より出て、大宮登り行て、世尊寺の東の門より入て、東の台の前に紅梅の木の有る下に立て、西に向て、「南無西方極楽阿弥陀仏。命終決定往生極楽」と礼拝してなむ、板敷に上ける。
侍、此れを見て、小舎人童に寄て、「礼も此くや礼拝し給ふ」と問ければ、童、「人の見えぬ時は、例も必ず此くなむ礼拝し給ふ」とぞ答へける。侍、返て此の由を語ければ、女房共、此れを聞て、極て哀れがりけり。
而る間、其の次の日より、少将、疱瘡に煩て、内にも参らずなど云ける程に、兄の挙賢の少将も同じく煩て、寝殿の西東に臥てなむ、共に煩ひける。母上は中に立てぞ、行て見給ひける。兄の少将は、只三日重く成て失にければ、枕など替へて、例の失たる人の如く葬してけり。然れば、弟の少将の煩ふ方に、母は渡てぞ歎き悲びける。
其の病、亦極て重しと見給ける程に、少将、音を挙て方便品を誦しけるに、半許誦しける程に失にけり。其の間、艶(えもいは)ず馥ばしき香、其の所に満たりけり。然れば、「一度に二人の子を失ひて、見給けむ母の御心、何許有けむ。父の摂政殿御まさましかば、何許思し歎かまし」とぞ、人云ける。
其の後三日を経て、母の御夢に、兄の少将、中門の方に立て極(いみじ)く泣く。母、台の角にして此れを見て、「何(な)ど入給はずして此くは泣き給ふぞ」と問ひ給ひければ、少将、「『参らむ』とは思へども、参得ぬ也。我れ、閻魔王の御前にして、罪に勘へられつるに、『此れは未だ命遠かりけり。速に免すべし』とて、免されつれば、返来たるに、怱(いそぎ)て枕を替られにければ、魂の入る方の違て、活(いきかへ)る事を得ずして、迷ひ行(ある)く也。心疎き態せさせ給へる」とて、恨たる気色にて泣くと見る程に、夢覚めぬ。母、夢覚て後、思しけむ事、何許也けむ。
亦、其の時に右近の中将藤原の高遠と云ふ人有けり。義孝の少将と得意にてなむ有けるに、夢に義孝の少将に値ぬ。高遠の中将、此れを見て、極て喜く思て、「君は何(いづ)こに御するぞ」と問ければ、義孝の少将、答て云く、
「昔は契りき、蓬莱の宮の裏の月に 今は遊ぶ、極楽界の中の風に」
と云て、掻消つ様に失ぬと見て、夢覚ぬ。其の後ち、高遠の中将、此の文を書付て置てけり。
此れを聞く人、「道心有る人は、後の世の事は憑しかるべし」となむ云て、讃め貴びける。少将、生たりし時も、身の才有て、文を吉く作ければ、夢の内に作たる文も微妙(めでた)き物にてなむ有る。
「夢に『極楽に遊ぶ』と告たるに、亦終に往生の相を現ず。疑ひ無き往生の人也」となむ語り伝へたるとや。
1) 藤原伊尹 / 2) 藤原挙賢 / 3) 藤原義孝 / 4) 底本頭注「装束ノ下一本キヨヤカニテトアリ」  
今昔物語集 / 巻24第39話 藤原義孝朝臣死後読和歌語
今昔、右近少将藤原義孝と云ふ人有けり。此れは一条の摂政殿の御子也。形ち有様より始て、心ばへ身の才、皆人に勝れてなむ有ける。亦、道心なむ深かりけるに、糸若くして失にければ、親き人々、歎き悲けれども甲斐無くて止にけり。
而るに、失て十日許を経て賀縁と云ふ僧の夢に、少将、極く心地吉気(よげ)にて笛を吹と見る程に、只口を鳴すになむ有ける。賀縁、此れを見て云く、「母の此(か)許り恋給ふを、何(いか)に此く心地吉気にては御座するぞ」と云ければ、少将、答ふる事は無くて、此なむ読ける。
  しぐれにはちぐさの花ぞちりまがふなにふるさとの袖ぬらすらむ
と。賀縁、覚驚て後泣ける。
亦、明る年の秋、少将の御妹の夢に、少将妹に会て此なむ読ける。
  きてなれしころものそでもかはかぬにわかれしあきになりにけるかな
と。妹、覚驚て後なむ極く泣給ひける。
亦、少将、未だ煩ける時、妹の女御、少将未だ失たりとも知らで、「経読畢(よみはて)む」と云ける程に、程無く失にければ、其の後忘れて、其の身を葬てければ、其の夜、母の御夢に此なむ。
  しかばかりちぎりしものをわたり川かへるほどにはわするべしやは
と。母、驚き覚て後、迷(まど)ひ給ひけり。
然れば、和歌読む人は、失て後に読たる歌も、此く微妙き也となむ語り伝へたるとや。
 
51.藤原実方朝臣 (ふじわらのさねかたあそん)  

 

かくとだに えやは伊吹(いぶき)の さしも草(ぐさ)
さしも知(し)らじな 燃(も)ゆる思(おも)ひを  
「こんなに愛している」とさえ言えないのですから、伊吹山のさしも草ではありませんが、それほどとはご存じないでしょう。あなたへの燃える思いを。 / こんなに恋い慕っているということだけでもあなたに伝えたいのですが、伝えられない。あなたは知らないでしょう。伊吹山のさしも草のように燃え上がる私の思いを。 / あなたのことをこんなにも想っているなんて言うこともできないのだから、伊吹山(いぶきやま/滋賀県と岐阜県の県境にある山と栃木県にある山と2説あります)に生えるさしも草(ヨモギ)の香りのように、燃えるわたしの想いをあなたはご存知ないのでしょうね。 / これほどまで、あなたを思っているということさえ打ち明けることができずにいるのですから、ましてや伊吹山のさしも草が燃えるように、私の思いもこんなに激しく燃えているとは、あなたは知らないことでしょう。
○ かくとだに / 「かく」は、このようにの意。この場合は、「こんなに私があなたを恋しく思っている」ということ。「と」は、引用を表す格助詞。「だに」は、程度の軽いものをあげて、重いものを類推させる副助詞。「〜でさえも」の意。
○ えやはいぶきのさしも草 / 「え」は、否定の語(ここでは「やは」)をともなって不可能を表す呼応の副詞。「やは」は、反語の係助詞。結びは、「言ふ」で連体形。「えやはいふ」で、言うことができないの意。「いぶき」は、掛詞で、上を受けて「言ふ」、下にかかって「伊吹」を表す。伊吹は伊吹山のことであるが、近江(滋賀県)と下野(栃木県)に同名の山があり、いずれを指すかは定かではない。「さしも草」は、モグサ。下の句の「さしも」にかかる序詞。
○ さしも知らじな / 「さ」は、そのようにの意。「し」は、強意の副助詞。「も」は、強意の係助詞。「な」は、詠嘆の終助詞。
○ 燃ゆる思ひを / 「思ひ」の「ひ」は、「火」との掛詞。「さしも草」、「燃ゆる」、「ひ(火)」は縁語。「思ひを」は、「知らじな」にかかる倒置法。
※ 『後拾遺集』の詞書に、「女にはじめてつかはしける」とある。序詞・掛詞・縁語・倒置法など、さまざまな技巧を凝らした歌を用いて告白することで、相手の女性に強い印象を与え、恋愛を成就させようとする作者の意図、および、当時の貴族社会の恋愛事情をうかがい知ることができる。 
1
藤原実方(ふじわらのさねかた)は、平安時代中期の貴族・歌人。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。中古三十六歌仙の一人。
父・定時が早逝したため、叔父の大納言・済時の養子となる。
左近衛将監を経て、天禄4年(973年)従五位下に叙爵し、天延3年(975年)侍従に任ぜられる。その後は、右兵衛権佐・左近衛少将・右近衛中将と武官を歴任する傍らで、天元5年(982年)従五位上、永観元年(983年)正五位下、寛和2年(986年)従四位下と順調に昇進する。
正暦4年(993年)従四位上、翌正暦5年(994年)には左近衛中将に叙任され公卿の座を目前にするが、長徳元年(995年)正月に突然陸奥守に左遷される。同年3月から6月にかけて、養父の大納言・藤原済時を始めとして、関白の藤原道隆と道兼の兄弟、左大臣・源重信、大納言・藤原朝光、大納言・藤原道頼ら多数の大官が疫病の流行などにより次々と没するが、養父・済時の喪が明けた9月に陸奥国に出発した。
左遷を巡っては、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生。このために実方は天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話がある。しかし、実方の陸奥下向に際して天皇から多大な餞別を受けた事が、当の口論相手の行成の日記『権記』に克明に記されている事から、左遷とは言えないとの説もある。さらにこの逸話では、口論に際して取り乱さず主殿司に冠を拾わせ事を荒立てなかった行成が、一条天皇に気に入られて蔵人頭に抜擢されたとされるが、実際の任官時期は同年8月29日と実方の任官と8ヶ月も開きがあり、さらにその任官理由は源俊賢の推挙ともされることから、逸話と事実に不整合がある。これらのことから、後世都人の間に辺境の地で客死した実方への同情があり、このような説話(後述の死後亡霊となった噂や、スズメに転生した話も含め)の形成につながったとも考えられる。
『今昔物語集』にある、鎮守府将軍平維茂と藤原諸任との合戦は、実方が陸奥守在任中のこととされる。
長徳4年12月(999年1月)任国で実方が馬に乗り笠島道祖神の前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって没した(名取市愛島に墓がある)。没時の年齢は40歳ほどだったという。また横浜市戸塚区にも伝墓所(実方塚)がある。
『拾遺和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に64首が入集。家集に『実方朝臣集』がある。
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを (『後拾遺和歌集』、小倉百人一首)

○ 藤原公任・源重之・藤原道信などと親しかった。風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされることもある。
○ 当時、五月の節句には菖蒲を葺く風習があった。実方が陸奥守として下向した際、人々が節句にもかかわらず菖蒲を葺かないのを見て、国府の役人に理由を尋ねたところ、陸奥国にはそのような習慣はなく、菖蒲も生えていないとのことであった。すると実方は、浅香の沼の花かつみというものがあるのでそれを葺くように命じたことから、陸奥国では節句に菰を葺くようになったという。
○ 死後、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没するとの噂が流れたとされる。また、死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)。
○ 当時、陸奥守に期待された職務として宋との貿易決済で用いる砂金を調達して中央に献上することであった。砂金の未進問題は980年代には深刻になっていたが、実方はその職務を全く果たすことなく急死したため、後任の源満正、更にその次の橘道貞の責任までが追及されることになった。最終的に寛弘5年(1008年)になって満正が絹によって実方が残した未進分を補填することになった。一方、陸奥から朝廷を介して決済用の砂金を受けられなくなった大宰府では代金を受けられなくなった宋の商人らとのトラブル解消に苦慮し、結果的に中央に送る筈であった官物(あるいはそれで調達した硫黄や材木などの宋側の希望商品)で決済を行うようになった。 
2
藤原実方 生年未詳〜長徳四(998)
小一条左大臣師尹の孫。侍従定時の子。母は左大臣源雅信女。子には朝元(従四位下陸奥守)ほか。父が早世したため、叔父藤原済時の養子となる。左近将監・侍従・右兵衛佐・左近少将・右馬頭などを経て、正暦二年(991)、右近中将。同四年、従四位上。同五年、左近中将。長徳元年(995)、陸奥守に任ぜられ、三年後の長徳四年、任地で没した。四十歳前後であったと見られる。実方の陸奥下向には様々な伝説がつきまとい、『古事談』『十訓抄』などは、侮蔑的な発言をした藤原行成に対し殿上で狼藉をはたらき、一条天皇より「歌枕見て参れ」との命を下されたとする。またその死について『源平盛衰記』などは、出羽国の阿古耶(あこや)の松を訪ねての帰り道、名取郡の笠島道祖神の前を騎馬で通過しようとして落馬し、その傷がもとで亡くなった、とする。寛和二年(986)六月の内裏歌合に出詠するなど、若くして歌才をあらわし、円融・花山両院の寵を受けた。当代の風流才子として名を馳せ、恋愛遍歴も華ばなしく、清少納言・小大君らとの恋歌の贈答がある。また源宣方・藤原道信・道綱・公任らと親交があった。拾遺集初出。勅撰入集六十七首。家集『実方朝臣集』がある(以下「実方集」と略)。中古三十六歌仙。
夏 / 東宮に候ひける絵に、倉橋山に郭公飛びわたりたる所
五月闇さつきやみくらはし山の時鳥おぼつかなくも鳴き渡るかな(拾遺124)
(五月闇に覆われた倉橋山の時鳥(ほととぎす)の声が、ぼんやりと聞こえてくる。暗闇に惑い、たどたどしく啼き渡っているのだなあ。)
石山にて、暁、ひぐらしのなくをききて
葉をしげみ外山の影やまがふらむ明くるも知らぬひぐらしの声(新勅撰187)
(葉が盛んに茂っているので、外山の蔭の暗さを、夜の暗さと見間違っているのだろうか。朝が明けたのも知らずに鳴いている蜩の声よ。)
恋 / 題しらず
いかでかは思ひありとも知らすべき室むろの八島やしまのけぶりならでは(詞花188)
(どうやって恋の火が燃えているとあなたに知らせることが出来ましょう。常に燻ぶり続けているという室の八島の煙でなくては。)
女に初めてつかはしける
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを(後拾遺612)
(これ程あなたをお慕いしていると、そのことだけでも打ち明けたいのですが、どうして言うことなどできましょう。伊吹山の「さしも草」ではないけれど、さしも――それ程だとは知らないでしょう、艾(もぐさ)のようにじりじりと燃える私の思いを。)
題しらず
ながむるをたのむことにて明かしてきただかたぶきし月をのみ見て(玉葉1362)
(恋人のことを思いながらぼんやり考え事に耽るのを心の支えとして、どうにか夜を明かしたよ。ひたすら、西に傾いた月ばかりを眺めて。)
題しらず
あけがたき二見の浦による浪の袖のみ濡れておきつ島人(新古1167)
(なかなか夜が明けない二見の浦に寄せる波で、袖ばかり濡らしながら起きている沖の島人――そのように私は、あなたが戸を開けてくれないので、涙で袖を濡らしながら、戸に寄りかかって起き明かしたのです。)
前栽の露おきたるを、などか見ずなりにしと申しける女に
おきて見ば袖のみ濡れていとどしく草葉の玉の数やまさらむ(新古1183)
(寝床から起きて、朝露が置いているのを見たら、私の袖は涙でひどく濡れて、袖で分けて行く前栽の草葉の玉の数はますます増えるでしょう。)
懸想し侍りける女の、さらに返り事し侍らざりければ
我がためはたな井の清水ぬるけれど猶かきやらむさてはすむやと(拾遺670)
(私にとっては、たな井の清水はぬるく濁っていると感じるけれども、それでもかき回してみよう、そうすれば水が澄むかと。(私に対するあなたの愛情は好い加減だけれども、やはり手紙を書いて送ろう。そうすればあなたの許に通い住むことになろうかと。))
元輔が婿になりて、あしたに
時のまも心は空になるものをいかで過ぐしし昔なるらむ(拾遺850)
(しばし別れている間も、これ程心はうわの空になるというのに、あなたと結ばれる以前、滅多に逢えなかった頃は、一体どんなふうに過ごしていたというのだろう。)
清少納言、人には知らせで絶えぬ中にて侍りけるに、久しう訪れ侍らざりければ、よそよそにて物など言ひ侍りけり、女さしよりて、忘れにけりなど言ひ侍りければ、よめる
忘れずよまた忘れずよ瓦屋の下たくけぶり下むせびつつ(後拾遺707)
(忘れないよ、返す返すも忘れることなどないよ。瓦を焼く小屋の下で煙に咽ぶように、ひそかな思いに咽び泣きをしながら、あなたのことを変わらず恋しく思っているよ。)
女を恨みて、さらにまうで来じと誓ひて後につかはしける
何せむに命をかけて誓ひけむいかばやと思ふ折もありけり(拾遺871)
(どうしてまた、命を賭けてまで、二度と行くまいと誓ったのだろう。行きたい(生きたい)と思う時もあったよなあ。)
語らひ侍りける女の、こと人に物言ふと聞きてつかはしける
浦風になびきにけりな里の海人のたく藻のけぶり心よわさは(後拾遺706)
(里の海人の焚く煙が弱々しく浦風に靡いてしまうように、あなたもほかの男に靡いてしまったのだなあ。心弱さゆえに。)
題しらず
中々に物思ひそめて寝ぬる夜ははかなき夢もえやは見えける(新古1158)
(中途半端に恋心を抱き始めた頃は、夜寝ても、はかない夢での逢瀬さえ見ることができようか。)
哀傷 / 正暦二年、諒闇の春、桜の枝につけて、道信朝臣に遣はしける
墨染のころも憂き世の花ざかりをり忘れても折りてけるかな(新古760)
(人々が墨染の喪服を着る悲しい世の中も、花盛りの季節となり、諒闇という折をつい忘れて、桜の枝を折ってしまいました。)
道信の朝臣、もろともに紅葉見むなど契りて侍りけるに、かの人身まかりての秋、よみ侍りける
見むといひし人ははかなく消えにしをひとり露けき秋の花かな(後拾遺570)
(一緒に見ようと言い交わした人ははかなくこの世から消えてしまったのに、独り残って露に濡れている秋の花であるよ。)
雑 / 敷津の浦にまかりて遊びけるに、舟にとまりてよみ侍りける
舟ながら今宵ばかりは旅寝せむ敷津の浪に夢はさむとも(新古916)
(舟に乗ったまま、今夜一晩は旅寝しよう。頻りに寄せる敷津の浦の波の音に、夢は醒めてしまうとしても。)
祭の使にて、神だちの宿所より斎院の女房につかはしける
ちはやぶるいつきの宮の旅寝にはあふひぞ草の枕なりける(千載970)
(賀茂斎院へ向かう道中の野宿では、葵が草枕なのでした。あなたに「逢ふ日」を夢見て、旅の辛さに堪えているのですよ。)
臨時の祭の舞人にて、もろともに侍りけるを、ともに四位してのち、祭の日遣はしける
衣手の山ゐの水に影みえしなほそのかみの春ぞ恋しき(新古1797)
(舞人の衣裳の山藍で摺った袖が、山井の水に青々と映っていた――あの昔の春が今も懐かしいよ。)
ある人、花見て、又の日、いひおこせたりし
とまるやと惜しみし花を君かとて名残をのみぞ今日はながむる
(昨日はもしや散るのが止まるかと思って、花を惜しみましたが――引き留めようとしたあなたもお帰りになってしまいましたね。今日は、散ってしまった花をあなたになぞらえて、ひたすらその名残を惜しみつつぼんやり過ごしています。)
かへし
むべしこそ帰りし空もかすみつつ花のあたりは立ち憂かりしか(実方集)
(なるほど、道理で昨日、花のあたりを立ち去るのが辛かったはずです。帰って来る時眺めた空もひどく霞んで…。)
宇佐のつかひの餞(はなむけ)しける所にて、よみ侍りける
昔見し心ばかりをしるべにて思ひぞおくる生いきの松原(千載476)
(宇佐まであなたを送ってゆくことはできませんが、昔私が使として下った時、生の松原にかけて道中の無事を祈ったものでした。その時と同じように祈る心ばかりを道しるべとして、気持だけはあなたを遥かな任地まで送ってゆきますよ。)
実方朝臣、陸奥国みちのくにに下り侍りけるに、餞はなむけすとてよみ侍りける  中納言隆家
別れ路はいつもなげきのたえせぬにいとどかなしき秋の夕暮
(人との別れはいつも歎きの絶えないものであるのに、季節柄いっそう悲しい秋の夕暮ですよ。)
返し
とどまらむことは心にかなへどもいかにかせまし秋の誘ふを(新古875)
(都に留まっていることは願うところですけれども、どうすればよいのでしょう、暮れてゆく秋が一緒に行こうと誘うのを。)
陸奥に侍りけるに、中将宣方朝臣のもとにつかはしける
やすらはで思ひたちにし東路にありけるものをはばかりの関(後拾遺1136)
(ためらいもせずに思い立って来た東国だったのに、いざ「はばかりの関」に来てみると、その名の通り、気が引けてしまうのです。)
昔、殿上のをのこども、花見むとて東山におはしたりけるに、俄に心なき雨ふりて、人々げにさわぎ給へりけるに、実方の中将、いとさわがず、木の本に立ち寄りて、
桜がり雨はふりきぬおなじくは濡るとも花のかげにやどらむ(撰集抄)
と詠みて、かくれ給はざりければ、花よりもりくだる雨に、さながらぬれて、装束しぼりかね侍り。此の事、興有ることに人々おもひあはれけり。
'桜狩しているうち、雨は降ってきた。同じことなら、濡れるにしても、花の陰に宿ろう。) 
3
藤原実方について
JR東北本線・館腰駅の北側から県道・愛島名取線に入り西の山側へ行くと、やがて旧東街道の仙台岩沼線に出る。合流地点から北1.5kmほど先に道祖神社があり、そこから1km余り行くと、「中将藤原実方朝臣の墓」と書かれた背の高い標柱が目に止まる。芭蕉が立ち寄りを断念した彼の実方の墓は、ここからほど近い山際にある。
藤原実方は、平安時代、円融院(村上天皇第五皇子)や花山院(冷泉天皇の第一皇子)の寵(ちょう)を受け、歌詠みとして広く聞こえた宮廷花形の貴公子で、中古三十六歌仙の一人に数えられる。藤原道綱、道信や源宣方などとの親交や、清少納言など多くの女性たちとの交際が今に伝えられ、宮廷生活の交友歌や恋歌、贈答歌を数多く残している。
[参考] 中古三十六歌仙 / 和泉式部 相模 恵慶(えぎょう) 赤染衛門 能因法師 伊勢大輔(たいふ) 曽祢好忠(そねのよしただ) 道命(どうみょう) 藤原実方 藤原道信 平定文 清原深養父(ふかやぶ) 大江嘉言(よしとき) 源道済(みちなり) 藤原道雅 増基 在原元方 大江千里(ちさと) 藤原公任(きんとう) 大中臣輔親(おおなかとみすけちか) 藤原高遠(たかとお) 馬内侍(うまのないし) 藤原義孝 紫式部 藤原道綱母 藤原長能(ながとう) 藤原定頼 上東門院中将 兼覧王(かねみおう) 在原棟梁(むねやな) 文屋康秀 藤原忠房 菅原輔昭 大江牛t(まさひら) 安法 清少納言
著書に家集「実方朝臣集」があり、実方が詠んだ歌は「拾遺集」などの勅撰集に67首入集し、「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」は「小倉百人一首」に選ばれている。
家系については、小一条左大臣師尹(もろただ)を祖父、従五位上侍従定時を父、左大臣源雅信の娘(藤原道長室倫子の姉妹)を母とする名門の出であるが、父が早逝したためか、実方は叔父の小一条済時(なりとき)の養子となり、済時室の母に養われた。天禄3年(972年)に左近将監に任ぜられ、翌年、従五位下に昇叙、以後は侍従、左近衛権左、左近少将、右馬頭などを歴任し、正暦2年(991年)右近中将、同5年左近中将に任ぜられ、これより藤原姓を略し藤中将と称された。
実方は、長徳元年(995年)正月陸奥守となり、養父済時の死後、喪が明けるのを待って同年9月陸奥へ赴任した。「古事談」や「十訓抄」には、藤原行成との不和がもとで陸奥に左遷させられたとあるが、行成の日記「権記」には、赴任の儀式が滞りなく行われ、この折、実方が一条天皇から特別な詞を受け正四位下に昇叙したことが記されている。更に、「中古三十六歌仙伝」に「兼陸奥守」とあり、実方が左近中将と陸奥守を兼任していたことが認められる。これらから、「左遷」は説話で、陸奥への下向は「風流を求める実方自らの積極的な願望から」とする捉え方もある。
[撰集抄] 殿上人(てんじょうびと)が東山に花見に出かけた折、にわか雨にあった。この時実方は「桜がり雨は降りきぬ同じくは濡るとも花のかげにかくれん」と詠じて木の下に立ち、雨を避けようとはしなかった。このことを聞いた宮廷の書道の大家、藤原行成は「歌はおもしろし、実方は痴(おこ)なり」と評した。
[古事談] 実方はこれを怒り、行成と宮廷で口論となる。実方は勢い余り、行成の冠をとって庭に投げ捨てた。この様子を見ていた天皇は二人の争いに裁定を下し、少しも動じることなく冠を拾わせて事を治めた行成を、見所のある者として蔵人頭に取り立て、実方については「歌枕見てまいれ」といって左近中将を罷免し、陸奥守として左遷させた。
赴任して数年後の長徳4年(998年)12月、実方は赴任先で不慮の死を遂げることとなる。「源平盛衰記」によれば、先例、慣習に頓着しない奔放な人物像が伝えられる藤中将実方の死の経緯は、次の通りである。
終に、奥州名取郡、笠島の道祖神に蹴殺(けころされ)にけり。実方馬に乗りながら、彼(かの)道祖神の前を通らんとしけるに、人の諌て云ひけるは、此神は効験無雙の霊神、賞罰分明也、下馬して再拝して過ぎ給へと云ふ。実方問うて云ふ。何なる神ぞと。答へけるは、これは都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におはする出雲路の道祖神の女なりけるを、いつきかしづきて、よき夫に合せんとしけるを、商人に嫁ぎて、親に勘当せられて、此国へ追下され給へりけるを、国人是を崇め敬ひて、神事再拝す。上下男女所願ある時は、隠相を造て神前に懸荘り奉りて、是を祈申に叶はずと云事なし、我が御身も都の人なれば、さこそ上り度ましますらめ、敬神再拝し祈申て、故郷に還上給へかしと云ければ、実方、さては此神下品の女神にや、我下馬に及ばずとて、馬を打つて通りけるに、明神怒を成して、馬をも主をも罰し殺し給ひけり。
(源平盛衰記現代語訳 / ついに、実方は奥州名取郡笠島の道祖神に蹴殺された。実方が馬に乗って道祖神の前を通ろうとしたとき、土地の人が諌(いさ)めて「この神は願ったことを叶えてくれる2つとない霊神で、賞罰をはっきりつけてくださる神です。下馬し、再拝してお通りください」と言ったところ、実方は「どのような神か」と聞き返した。「都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におわす出雲路の道祖神のむすめで、親は手厚く養い育て、よき男と一緒にさせようとされたが、商人に嫁いだことから勘当されてこの国へ下されたところを、国人が是を崇(あが)め敬って神として祭り、再拝したのです。身分によらず男女ともに願い事があるときは、陰部を形作って神前にお供えなさってお願いすれば、叶わずということがございません。あなたさまも都の人でいらっしゃるので、ぜひそのようにしてお供えされたらよろしいでしょう。神を敬い再拝され、ご祈願の上で都にお還りなさいませ。」と答えたので、実方は、「さてはこの神は下品な女神ではないか。下馬して再拝するに及ばず」と言い、馬を打って通りすぎたので明神が怒り、馬と実方をともに殺してしまわれた(言い伝えでは、実方は馬が暴れて落馬し、それがもとで病の身となり命を落としたとされる)。)
みちのくの旅を先駆けた実方ゆかりの地・笠島は、西行や芭蕉にとって風雅の心が染みる憧憬の地であった。天養元年(1144年)、27歳の頃に陸奥・出羽への旅に出ている西行は、文治2年(1186年)、実方が死して188年の後、再び陸奥へ向かうこととなった。旅の目的は東大寺修復のため砂金勧進を行うことにあった。西行は、この折に実方の墓に立ち寄り、霜枯れのすすきに心を寄せながら詞書と和歌を一首残した。これが史跡「かたみのすすき」の由来である。
みちの国にまかりたりけるに野中に常よりもとおぼしきつかのみえけるを人にとひければ、中将の御はかと申ハこれがこと也と申ければ、中将とハ誰がことぞと又問ければ、実方の御ことなりと申ける。いとかなしかりけり。さらぬだに物哀におぼえけるに霜がれの薄ほのぼのみえ渡りて、後にかたらむ詞なきやうにおぼえて、  
朽もせぬ其名ばかりをとゞめをきてかれのゝ薄かたみにぞみる (山家集)
元禄2年(1689年)5月3日、芭蕉一行は仙台領に入って白石に一宿し、岩沼の武隈の松に立ち寄った後、名取を目指し奥州街道を北進した。「おくのほそ道」の本文や曽良の「俳諧書留」によれば、「断続的に降り続く五月雨の中ようやく名取に差し掛かり、土民に実方や西行の旧跡の処を尋ねると、右(実際は左)の山際で街道から一里ばかり先という。しかし、日没が迫り、悪路の道中で疲労したため、先行きを案じた芭蕉は、『笠嶋はいづこさ月のぬかり道』の句を詠み、涙をのんで名取の里を後にした」ということになるが、随行日記は、ただ「行過テ不見」を記すばかりである。
鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社・かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
笠嶋はいづこさ月のぬかり道 (おくのほそ道)
中將實方の塚の薄も、道より一里ばかり左りの方にといへど、雨ふり、日も暮に及侍れば、わりなく見過しけるに、笠嶋といふ所にといづるも、五月雨の折にふれければ、
笠嶋やいづこ五月のぬかり道 (俳諧書留) 
4
徒然草 第六十七段
賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひ粉へ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚の、
月をめで花を眺めしいにしへのやさしき人はこゝにありはら
と詠み給ひけるは、岩本の社とこそ承り置き侍れど、己れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ」と、いとやうやうしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられけり。まことにやんごとなき誉れありて、人の口にある歌多し。作文・詩序など、いみじく書く人なり。
( 現代語訳 )
賀茂別雷神社の境内にある岩本社と橋本社は、それぞれ在原業平、藤原実方を祀っているが、参拝する人たちはいつでもちぐはぐになっている。ある年、参拝した際に年を召された神社の職員が横切ったので呼び止めて聞いてみた。「実方は、手を清める水の上に影が映ったという話もありますので、水に近い橋本社の方でしょう。また、慈円僧正が、
月を愛し花を見つめて放心していた昔々の風流人は 今はここに祀られている在原業平
と歌っているので、業平は岩本社の方に祀れていると聞いていますが、私などよりあなたの方がよくご存じでしょう」と、大変親切に教えてくださり、とても好感が持てた。
今出川院の中宮、嬉子に仕えた近衛という名の女官は、勅撰和歌集に数多くの歌が入選しているが、若かりし頃は、常に百首の短歌を詠み、この二つの神社の清めの水で清書して奉納したそうだ。当時は「天才」と呼ばれ、今でも人々がそらんじる歌が多い。漢詩や、その序文に至るまで、良い文章を書く人であった。  
 
52.藤原道信朝臣 (ふじわらのみちのぶあそん)  

 

明(あ)けぬれば 暮(く)るるものとは 知(し)りながら
なほうらめしき 朝(あさ)ぼらけかな  
夜が明けてしまうと、必ず暮れて、あなたに逢えるとは知ってはいるものの、それでも恨めしい夜明けだなあ。 / 夜が明けるとまた日が暮れ、いずれ再びあなたと逢えるとは分かっていても、やはりこの別れを促す夜明けは恨めしいことだ。 / 夜が明けると、また日は暮れて夜になり、あなたに逢えることはわかっているのだけど、それでも夜が明けるのが恨めしく思いますよ。 / 夜が明ければ、やがてはまた日が暮れてあなたに会えるものだと分かってはいても、やはりあなたと別れる夜明けは、恨めしく思われるものです。
○ 明けぬれば / 「ぬれば」は、「助動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。「ば」は、恒時条件を表し、「…と,…といつも」の意。「明けぬれば」で、「明けると」の意で、男が女の家から帰る時が来たことを表す。
○ 暮るるものとは知りながら / 「と」は、引用の格助詞。「は」は、強意の係助詞。「ながら」は、逆接の接続助詞。「暮るるものとは知りながら」で、「暮れるものであるとは知っているが」の意。夜明けは別れを表し、日暮れは再会を表す。
○ なほうらめしき朝ぼらけかな / 「なほ」は、それでもの意。「朝ぼらけ」は、夜がほのぼのと明けるころ。秋または冬に用いられる語。『後拾遺集』の詞書には、「女のもとより雪降り侍る日帰りてつかはしける」とあり、雪の降る朝に女の家から帰った若者が、一人さびしく詠んだ後朝の歌であることがわかる。 
1
藤原道信(ふじわらのみちのぶ)は、平安時代中期の公家・歌人。太政大臣・藤原為光の三男。中古三十六歌仙の一人。
寛和2年(986年)伯父・兼家の養子として淑景舎にて元服し、従五位上に直叙。同年侍従に任ぜられる。寛和3年(987年)右兵衛佐、永延2年(988年)左近衛少将、正暦2年(991年)左近衛中将と武官を歴任。正暦5年(994年)正月には従四位上に叙されたが、同年7月11日に当時流行していた天然痘により卒去。享年23。
非常に和歌に秀で、奥ゆかしい性格と評されたという。懸想し恋文を贈った婉子女王(為平親王の娘)が藤原実資に嫁してしまったのちに詠んだ和歌が『大鏡』に伝わる。また、藤原公任・実方・信方などと親しかった。『拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に49首が入首している。家集に『道信朝臣集』がある。
「明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな」 『後拾遺和歌集』 
2
藤原道信 天禄三〜正暦五(972-994)
太政大臣為光の三男。母は一条摂政伊尹女。兄に参議誠信・権大納言斎信、弟に権中納言公信ほか。寛和二年(986)、摂政兼家の養子として、宮中で元服の儀を受ける。翌年、右兵衛佐。永延二年(988)、左近少将。正暦二年(991)、左近中将・美濃権守。同三年六月、父為光が薨去し、多くの哀傷歌を詠む。同五年正月、従四位下に叙されたが、同年七月十一日、二十三歳で夭折した。藤原実方・公任と特に親しく、頻繁に歌の贈答をしている。拾遺集初出。勅撰入集四十八首。家集『道信朝臣集』がある。中古三十六歌仙。『時代不同歌合』歌仙。百人一首にも歌を採られている。『大鏡』に「いみじき和歌の上手」とあり、『今昔物語』巻二十四「藤原道信朝臣送父読和歌語第三十八」など多くの説話集にも取り上げられている。
春 / 題しらず
さ夜ふけて風や吹くらむ花の香のにほふここちのそらにするかな(千載23)
(夜が更けて風が吹いているのだろうか。梅の花の香がにおう気持が、なんとなくすることよ。)
かへる雁をよめる
ゆきかへる旅に年ふる雁がねはいくその春をよそに見るらむ(後拾遺69)
(往っては還る旅の中で年を重ねる雁は、どれほど多くの春をよそに眺めることだろうか。)
春の暮つ方、実方朝臣のもとにつかはしける
散りのこる花もやあるとうち群れて深山みやまがくれを尋ねてしがな(新古167)
(もしや散り残っている花もあるかと、皆で連れ立って、深山の人目につかないところを探し廻りたいものだ。)
秋 / 九月十五夜、月くまなく侍りけるを、ながめ明かしてよみ侍りける
秋はつる小夜更けがたの月見れば袖ものこらず露ぞおきける(新古486)
(秋も終りになる夜更けの月を見れば、庭や野原などあたり一面露が降りているが、私の袖も例外でなく露が置いている。)
恋 / 女のもとにつかはしける
あふみにかありといふなる三稜草みくりくる人くるしめの筑摩江つくまえの沼(後拾遺644)
(近江にあるとかいう、三稜草を手繰る筑摩江の沼――なかなか根が見えず人を苦しめるというその水草のように、逢ってくれずに私を苦しめるあなたですよ。)
女のもとより雪ふり侍りける日かへりてつかはしける (二首)
かへるさの道やは変はる変はらねどとくるにまどふ今朝のあは雪(後拾遺671)
(帰り道はいつもと違う道でしょうか、いや同じなのに、今朝は淡雪が融けて行き悩んでおります。貴女が打ち解けた態度を見せて下さったので混乱しています。)
明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな(後拾遺672)[百]
(夜が明けてしまえば、いずれ日は暮れるものだと――そして再びあなたと逢えるのだと――分かってはいるのだけれども、やはり恨めしい朝ぼらけであるよ。)
二月ばかりに人のもとにつかはしける
つれづれと思へばながき春の日にたのむこととはながめをぞする(後拾遺798)
(気のまぎれることもなく退屈に思って過ごしていますと、春の日がいっそう永く感じられますが、そんな時、あてにできることと言ったら、ぼんやり景色を眺めながら物思いに耽ることばかりです。)
題しらず
須磨のあまの波かけ衣よそにのみきくは我が身になりにけるかな(新古1041)
(須磨の海人のいつも波で濡れている衣――今まで他人事として聞いていたことが我が身の上のことになってしまい、始終恋に涙してばかりいる。)
小弁がもとにまかりたりけるに、人あるけしきなれば帰りてつかはしける
露にだに心おかるな夏萩の下葉の色よそれならずとも(風雅1340)
(少しでも私に心を隔てないで下さい。夏の萩の下葉の色は露が置いて変わっていますが、それでなくとも。)
離別 / 遠江守為憲、まかり下りけるに、ある所より扇つかはしけるによめる
わかれての四とせの春の春ごとに花の都を思ひおこせよ(後拾遺465)
(別れて後、任地で過ごす四年間の春の、その春ごとに花の都を思い起して下さい。)
哀傷 / 女のもとにまかりて、月の明あかく侍りけるに、空のけしき物心細く侍りければよみ侍りける
この世にはすむべきほどや尽きぬらむ世の常ならず物のかなしき(千載1094)
(現世で心穏やかに過ごせる時間が尽きたのでしょうか。尋常でないほど悲しい気持がします。)
正暦二年、諒闇の春、桜の枝につけて、道信朝臣に遣はしける  実方朝臣
墨染のころもうき世の花ざかり折わすれても折りてけるかな
(墨染の喪服を皆が着る世の中ですが、花盛りの季節となり、私はそんな折であることも忘れて花の枝を折ってしまいましたよ。)
返し
あかざりし花をや春も恋ひつらむありし昔を思ひ出でつつ(新古761)
(いくら眺めても見飽きなかった花を、我々だけでなく春も恋い慕っているのでしょうか。亡き人が健在だった昔を懐かしく思い出しながら。)
恒徳公かくれて後、女のもとに、月あかき夜、忍びてまかりてよみ侍りける
ほしもあへぬ衣の闇にくらされて月とも言はずまどひぬるかな(新古808)
(止まらない涙に衣を乾かすことも出来ない諒闇の頃――悲しみに目の前も真っ暗で、明るい月夜にもかかわらず道に迷ってしまいましたよ。)
恒徳公の服ぶく脱ぎ侍るとて
限りあれば今日ぬぎ捨てつ藤衣はてなきものは涙なりけり(拾遺1293)
(限度があるので、今日喪服を脱ぎ捨ててしまった。果てしもなく続くのは、涙であったよ。)
朝顔の花を、人の許につかはすとて
朝顔を何はかなしと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ(拾遺1283)
(朝顔の花をどうして果敢ないなどと思ったのだろう。人のことだって、花は果敢ないと見ているだろうに。) 
3
『俊頼髄脳』
源俊頼〔としより〕の歌論書『俊頼髄脳〔ずいのう〕』にある話です。「髄脳」というのは和歌の決まりや修辞技巧、心得を書いた書物のことですが、ここは、そういう難しい話の部分ではなくて、こんな話があるんだよという気楽な部分です。

道信の中将の、山吹の花を持ちて、上の御局といへる所を過ぎけるに、女房たちあまた居こぼれて、「さるめでたきものを持ちて、ただに過ぐるやうやある」と、言ひかけたりければ、もとよりやまうけたりけむ、
  くちなしにちしほやちしほ染めてけり
と言ひて、さし入れりければ、若き人々、え取らざりければ、奥に伊勢大輔が候ひけるを、「あれ取れ」と宮の仰せられければ、受け給ひて、一間がほどをゐざり出でけるに、思ひよりて、
  こはえも言はぬ花の色かな
とこそ、付けたりけれ。これを上、聞し召して、「大輔なからましかば、恥がましかりけることかな」とぞ、仰せられける。
〔訳〕
藤原道信が、山吹の花を持って、清涼殿の上の御局と言っている所を通りすぎた時に、女房たちが大勢外まであふれ出て座っていて、「そういうすばらしい物を持って、何も言わずに通り過ぎることがあるか」と、言葉を掛けていたので、前から用意していたのだろうか、
くちなしに幾度も幾度も染めてしまった。それで私は何も言わないのです。
と言って、部屋の中に差し入れたので、若い女房たちは取ることができなかったので、奥に伊勢大輔が伺候していたので、「あれを取れ」と中宮がおっしゃったので、お受けになって、柱と柱の間を膝をついて進んだ間に、思い付いて、
これは何とも言えないみごとな花の色だなあ。
と、付けていた。これを主上がお聞きになって、「もし伊勢大輔がいなかったならば、恥をかいたことだなあ」と、おっしゃった。

藤原道信は九九四(正暦五)年に二十三歳で亡くなっています。早死にしてしまった人なんですね。文中に出て来る「上」は一条天皇のようです。一条天皇は九八六(寛和二)年にしていますから、まあ妥当な線でしょう。で、伊勢大輔は有名な歌人で、一条天皇中宮の藤原彰子に仕えた女房です。出仕したのは一〇〇八(寛弘五)年頃ということなので、藤原道信が死んだ後ということになってしまって話が合いません。こういうところは深く追究しないで、短連歌を楽しんだらよいのでしょう。ということで、道信の亡くなった九九四年を目印にすることにします。
「くちなし」は襲の色目の「くちなし」と、何も言わない「口無し」の掛詞です。山吹は黄色い花をつけますが、襲の色目に「くちなし」というのがあって表も裏も黄色なのだそうです。夏に白い花をつける梔子〔くちなし〕は、果実が黄色の染料になるのだそうです。こちらも掛けてあるのでしょう。
伊勢大輔の句の「えも言はぬ」は、「ぬ」が打消の助動詞「ず」の連体形ですが、何とも言えないほどこれこれだという意味で使われる形です。この意味と、「口無し」だから何も言うことができないという意味を掛けています。大きな邸の柱と柱の間というのは3mくらいでしょうから、その間をずりずりと進んでいる間に思い付くのは、有名な歌人だとは言っても大したものですね。 
4
今昔物語集 巻24第38話 藤原道信朝臣送父読和歌語
今昔、左近中将に藤原道信と云ふ人有けり。法住寺の為光大臣の子也。一条院の御時の殿上人也。形ち有様より始て、心ばへは糸可咲て、和歌をなむ微妙く読ける。
未だ若かりける時に、父の大臣失給ひにければ、歎き悲むと云へども甲斐無くて、墓無く過て、亦の年に成たれば、哀れは尽せぬ物なれども、限り有れば、服除(ぶくぬぐ)とて、道信中将、此なむ読ける
  かぎりあればけふぬぎすてつふぢ衣はてなきものはなみだなりけり
と云ひてぞ、泣ける。
亦、此の中将、殿上にして数(あまた)の人々有て、世の中の墓無き事共を云て、牽牛子(けにごし)の花を見ると云ふ心を、中将此なむ、
  あさがほをなにはかなしと思ひけむ人をも花はさこそみるらめ
と。
亦、此の中将、屏風の絵に、山野に梅の花栄(さき)たる所に、女の只一人有る屋の糸幽(かすか)なる所を、此なむ読ける。
  みる人もなき山ざとの花のいろは中々かぜぞおしむべらなる
と。
亦、此の中将、九月許に或る女の許に行たりけるに、祖(おや)の隠しければ、有り乍ら会はずして返て、亦の日此くなむ云て遣たりける。
  よそなれどうつろふ花はきくのはななにへだつらむやどのあきぎり
と。
亦、此の中将、菊の盛也ける比、「山郷なる所に行かむ」とて、人を以て云ひ遣ける。
  わがやどのかきねの菊の花ざかりまだうつろはぬほどにきてみよ
と。
亦、此の中将、八月許に槁(かつら)に知たりける所に行たりける所に、月の極く明くて水に移たりけるを見て、此なむ読ける。
  桂川月の光に水まさり秋の夜ふかくなりにけるかな。
と。其より返て、三日許有て、共に彼の槁にて月を見し人の許に、此なむ云ひ遣ける。
  おもひいづや人めながらも山ざとの月と水との秋のゆふぐれ
と。
亦、此の中将、兄弟の公信朝臣と共に壺坂と云ふ所に行たりけるに、道に蘭(ふじばかま)の栄(さき)たりけるを見て、此なむ読ける。
  おいのきくおとろへにけるふじばかまにしきのこりてありとこたへよ
と。
亦、此の中将、「極楽寺の辺に物見に行かむ」と契ける人の行かず成にければ、此なむ読て遣ける。
  ふくかぜのたよりにもはやききてけむけふもちぎりしやまのもみじば
と。
亦、此の中将、「然法橋と云ふ人の、「唐へ渡らむ」とて、此の中将の許に来て、菊の花を見て、「亦何(いつ)の秋か会ふべき」と云けるを聞て、中将、此なむ読ける。
  あきふかみきみだにきくにしられけりこの花ののちになにをたのまむ
と。
亦、此の中将、或所に大破子と云ふ物をして奉けるに、子の日したる所に、此く書付たり。
  きみがへむ世々の子の日をかぞふればかにかくまつのおひかはるまで
と。
亦、此の中将、女院の長谷に参らせ給ひて出給ひけるに、未だ夜深かりければ、暫く御座ける間、数(あまた)の人々、有明の月の極く見ゆるを詠めけるに、此の中将、此なむ読ける。
  そむけどもなをよろづよをありあけの月のひかりぞはるけかりける
と。人々極く此れを讃けり。
亦、此の中将、或る女の内に候けるが、「内より出でむ時は、必ず告げむ」と契て出けるに、知らせで出にければ、亦の日の朝(つとめて)、此ぞ読て遣たりける。
  あまのはらはるかにれらす月だにもいづるは人にしらせこそすれ
と。
亦、此の中将、藤原為頼朝臣の遠江守に成て、其の国に下けるに、或る所より扇を遣(おこせ)けるに、此の中将行き会て、此なむ読て遣ける。
  別れぢのよとせの春のはるごとに花のみやこをおもひおこせよ
と。
亦、此の中将、或る人の遠き田舎へ下けるに、此く読て遣ける。
  たれが世もわがよもしらぬ世の中にまつほどいかにあらむとすらむ
と。
亦、此の中将、藤原相如朝臣の出雲守に成て、其の国に下けるに、此なむ遣ける。
  あかずしてかくわかるるをたよりあらばいかにとだにもとひにおこせよ
と。
亦、此の中将、□□の国範朝臣の帯を借て、返し遣けるに、此なむ読て遣ける。
  ゆくさきのしのぶぐさにもなるやとてつゆのかたみをおかむとぞおもふ
と。
亦、此の中将、屏風絵に、遥に沖に出たる釣船を書たる所を見て、此なむ読ける。
  いづかたをさしてゆくらむおぼつかなはるかにみゆるあまのつりぶね
と。
亦、同じ所に霧の立隠したるに、旅人の行(あるき)たるを書たる所を見て此なむ読ける。
  あさぼらけもみぢばかくす秋ぎりのたたぬさきにぞみるべかりける
と。
亦、此の中将、人の、絵を遣せて「此御覧ぜよ」と云たるを、山郷の心細気なる、水など乍れて、物思たる男の居たる所を書たるを1)見、此なむ書付て返し遣ける。
  ながれくる水にかげみむ人しれずものおもふ人のかほやかはると
絵の主、此れを見て、極くぞ讃けるとなむ語り伝へたるとや。  
 
53.右大将道綱母 (うだいしょうみちつなのはは)  

 

嘆(なげ)きつつ ひとり寝(ね)る夜(よ)の 明(あ)くる間(ま)は
いかに久(ひさ)しき ものとかは知(し)る  
あなたが来てくださらないことを嘆きながら一人で寝る夜が明けるまでの間は、どれほど長いものかご存知でしょうか。ご存知ないでしょう。 / あなたが来ないのを嘆きながら、一人寝る夜が明けるまでの間がどんなにか長いものであるかをあなたはご存じでしょうか。いいえ、おわかりではないでしょうねえ。 / あなたがいらっしゃらないことを嘆き悲しみながら、ひとり寝る夜が明けるまでの間は、どんなにか長いものであるか、おわかりになりますか?おわかりにならないでしょうね。 / (あなたが来てくださらないことを) 嘆き哀しみながらひとりで夜をすごす私にとって、夜が明けるのがどれほど長く感じられるものか、あなたはいったいご存じなのでしょうか。
○ 嘆きつつ / 「つつ」は、反復・継続を表す接続助詞。「〜ながら」の意。
○ ひとり寝る夜の / 「の」は、主格の格助詞。「(夫が訪れず)一人で寝る夜が」の意。『拾遺集』の詞書には、「入道摂政(兼家)まかりたりけるに、門を遅く開けければ、『立ちわづらひぬ』と言ひ入れて侍りければ」とあり、『蜻蛉日記』には、夫に他の妻ができたことを知った作者が、その来訪を知りながら決して門を開けようとせず、新しい妻の家へ立ち去ってから、しおれかけの菊とともに贈った歌とある。いずれにせよ、この歌の背景には、夫に別の妻ができたことに対する嫉妬が存在する。また、それが道綱を出産して間もない時期であったため、一層、精神的な負担を増大させていたことがうかがえる。もっとも、藤原道綱母自身が兼家の妻とはいえ、実質的には第二夫人であり、藤原中正の女が産んだ道隆、道長が兼家の後を継ぐこととなった。
○ 明くる間は / 「は」は、強意の係助詞。「明けるまでの間は」の意。
○ いかに久しきものとかは知る / 「かは」と「知る」は、係り結び。「いかに」は、程度をたずねる疑問の副詞で、「どれくらい」の意。「と」は、引用の格助詞。「かは」は、反語の係助詞。「知る」は、ラ行四段の動詞「知る」の連体形で、「かは」の結び。
※ 兼家からの返歌は、「げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も 遅く開くるは わびしかりけり」であった。現代語訳すると、「ほんとにほんとに、冬の夜明けではないが、門が開くまでに時間がかかるというのは、寂しいものだよなあ」となる。この歌に用いられた過去の助動詞は、直接体験の「き」ではなく、詠嘆の「けり」である。すなわち、自分が寂しかったのではなく、妻の歌を読んで、そうした状況が寂しいものであると初めて気がついたということを表している。これによって、どこか他人事であるかのような雰囲気を醸し出すとともに、寂しいのはお前だけだという皮肉を込めている。ここからは推測の域を出ないが、仮に、不明である藤原道綱母の本名が“まきこ”であった場合、当時は極めて親しい女性以外の名前を呼ぶ習慣がないことから、その名を掛詞に用いることで、新しい妻ができても、お前は他人ではなく俺の妻だということを暗示しているのかもしれない。 
1
藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは、承平6年(936年)? - 長徳元年5月2日(995年6月2日))は、平安時代中期の歌人。藤原倫寧の娘。
『尊卑分脈』に「本朝第一美人三人内也(=日本で最も美しい女性三人のうちの一人である)」と書かれているが、尊卑分脈は間違いも多く根拠は判然としない。なお、『榻鴫暁筆』(室町時代後期)によれば、他の2人は、藤原安宿媛(光明皇后)。と藤原明子 (染殿后)である。
藤原兼家の妻の一人となり一子道綱を儲けた。また、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取り養女にしている。兼家との結婚生活の様子などを『蜻蛉日記』につづった。晩年は摂政になった夫に省みられる事も少なく寂しい生活を送ったと言われているが詳細は不明。『蜻蛉日記』は没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。小倉百人一首では右大将道綱母とされている。

『拾遺和歌集』以下の勅撰集に36首が採られ、弟・藤原長能や一子・藤原道綱と共に中古三十六歌仙に選ばれている。家集に『傅大納言母上集』がある。
○ なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる (拾遺和歌集 / 小倉百人一首)
また、清少納言らと共に女房三十六歌仙の1人にも選ばれている。道綱母の兄・藤原理能は清原元輔の娘、すなわち清少納言の姉を妻に迎えており、そのこととの関連性は不明ながら『枕草子』では道綱母が詠んだ以下の歌が紹介されている 。
○ たきぎこる ことは昨日に尽きにしを いざ斧の柄は ここに朽たさむ (拾遺和歌集)
『今昔秀歌百撰』では30番に蜻蛉日記から
○ あらそへば思ひにわぶるあまぐもにまつそる鷹ぞ悲しかりける
『更級日記』の作者・菅原孝標女は道綱母の妹が母であり、道綱母から見て姪に当たる。 
2
美しい人 道綱の母
彼女のことは知らずとも、彼女の作った歌は、日本人なら誰でも一度は耳にしたことがあるはず。歌、といってもソングじゃないっすよ。和歌ですよ、和歌。彼女の作った歌は、かの百人一首におさめられているのだ。
学生時代に暗記させられませんでしたか、百人一首。その中に彼女の歌もあったわけだ。(覚えてないけどね、私は)百人一首におさめられるような秀でた歌を作った上に、かの源氏物語にも影響を与えたといわれる「蜻蛉日記」を書いたのが、今回の美女、「藤原道綱母」である。
彼女の名前は伝わっていない。彼女が生んだ息子の名前から、「道綱の母ちゃん」と呼ばれているのだ。
そんな彼女は、「本朝三美人」の一人と噂されるような、絶世の美女だったという。
今でいえば、大ベストセラー作家が、スーパーモデル並みの美人、ってとこですよ。(スーパーモデル、って表現、古っ!)
そんな、究極の才色兼備の彼女は、結婚相手もそんじょそこらの人じゃない。彼女に求婚してきたのは、今をときめく摂関家の三男、藤原兼家である。彼ってば、「この世をば我が世とも思う望月の」で有名な藤原道長の、お父さん。要するに、超〜〜玉の輿、ってわけですよ。
そんな兼家に求婚されて嬉しくない女はいないはずなんだけど、彼女には「超美人」とともに「超頭いい」というエベレストより高いプライドがある。彼女は、じらしにじらして兼家を受け入れる。「三十日三十夜はわがもとに」(つまり毎日通ってこい、ってこと)なんて言って彼と結婚するわけよ。彼女にしてみたら、どんなお坊ちゃんだろうと、それくらいしてくれて当然、だったんだな。
しかし。当時は一夫多妻の通い婚。夫は妻のもとに通ってくるもので、気が向けば毎日でも通ってくるけど、飽きたらポイ、ってのが普通だった。道綱母も、記録に残っているだけでも兼家の二人目の妻なんですね。お坊ちゃんと結婚した道綱母の、苦悩の日々が始まるわけですよ。
彼女にしてみたら、自分がだれかとくらべられるってこと自体、もう許しがたいことだったはず。自分を最優先にしてくれなきゃ、プライドが許さなかったと思われる。
でも、兼家くんはお坊ちゃんだけあって、ものすごい遊び人なんだな、これが。もともと、道綱母のもとに通い始めたのも、一人目の妻の出産が原因らしい。どっちかっつーと、そっちが正妻で、道綱母とのほうが遊び、って感じなのだ。だから、道綱母が妊娠するやいなや、今度は町の小路に住んでる女に入れあげ、道綱母の所には寄りつかなくなってしまう。今でもいるよね、妻が妊娠中に浮気する男。
けれども兼家くんは、大らかで明るくて、「陽性の光源氏」みたいな人なので、道綱母も彼を嫌いにはなれない。いや、嫌いになってしまったら、彼女はおろか、生まれたばかりの息子や、屋敷に仕える人々までもが路頭に迷ってしまうので、彼の愛情にすがるしかない身の上なのだ。
そういった、「男にすがるしかない立場」と、山よりも高い自らのプライドとの間で、彼女はもがき、苦しむ。「蜻蛉日記」には、そのあたりのことが克明に描かれていて、胸に迫る。
彼女の葛藤は、時に憎悪となって燃え上がる。彼女の憎しみは、通ってこない兼家ではなく、兼家の相手となった女に向けられるのだ。町の小路に住んでる女と兼家との間に生まれた子どもが死んだと聞いた時には、
「今ぞ胸あきたる」 胸がすっとした。あ〜、すっきりした。
なんて日記に書いちゃう。おいおい、いくらなんでも、それは人としてまずいでしょう、道綱母。当時の人たちも、「ひえ〜〜、こええよ、この女」と思ったことだろう。紫式部は彼女をモデルにして六条御息所を書いたと思うな、私は。
そんな道綱母なので、素直に兼家くんに甘えられない。久しぶりの訪れに、本当は嬉しくて嬉しくて仕方ないのに、「別にあたしは」みたいな顔をして、つんとしてる。兼家のほうはそれをお見通しで、「なぜ来ない、なぜ便りをくれない、憎らしい、切ないと言って、打つなり、つねるなり、なさればいいのに」なんて言う。そうできたら苦労はないんだよ、兼家くん。それができないから苦しいんじゃないか。あたしのことだけ見てよ、あたしのことだけ考えてよ、お願いだから‥‥、と泣けたら、どんなに楽だろう。でも、道綱母には、それはできない。「もうお帰りになったら」なんて言って、本当に兼家が帰ってしまうと、悲嘆にくれたりしているのだ。彼女の苦悩は、はかりしれない。
結局彼女は、道綱一人しか生むことができず、道長ら5人の子を得た時姫が、兼家の正妻の座を得る。この時姫という女性は、とりたてていい家柄でもないし、道長の母でありながら、歌が後世に残っていないところを見ると、文才もあまりなかったようである。けれど、5人の子を生んだという実績がものをいい、兼家の正妻となったのだろう。そんな何のとりえもない女に負けて、道綱母のプライドはズタズタである。
もしも道綱母が甘え上手だったら、兼家も彼女を可愛く思って足繁く通い、もっと多くの子を得ることができたのかもしれない。もしかしたら「望月の歌」を詠んでいたのは、彼女の息子のほうだったのかもしれないのだ。けれども、彼女はそのプライドの高さゆえ兼家に敬遠され、彼女の息子である道綱も、道長の異母兄でありながら、それほどの出世もせずに終わってしまう。
今もなかなかに苦労の多い時代だけれど、男の愛情が、自らの生活や行く末までも左右していたあの時代、女たちは心に悲鳴をあげながら生きていかねばならなかった。道綱母は、そうした女たちの苦しみを、「蜻蛉日記」に鮮やかに描き出した。
こうして千年後まで読み継がれる作品を残せたことを、道綱母は幸せと思うだろうか。それとも、そんな幸せなどいらないから、兼家の愛がもっと欲しかったと言って泣くだろうか。‥‥私は、後者だと思う。何もいらなかった、あの人の愛以外は。そう言って彼女は、子どものように泣きじゃくると、私は思う。
美人だからといって、幸せになれるわけではない。道綱母は、その一例である。 
3
道綱母
ムッツリ意地悪型の、紫式部。乾燥意地悪型の、清少納言。……と、タイプの異なる意地悪界の東西両横綱が存在していた千年前。この二人が同時に生きていた時代があったということを考えると、恐くもあり面白くもあり。タイムマシンがあったら私は是非未来ではなく過去に行って、二人の顔を見に行きたいところです。
が、平安時代の意地悪者は、この二人ばかりではありません。この時代の女流文学の人材の層は厚く、ということはつまり意地悪者の層も厚いということなのです。
その中から今回、ご紹介してみるのは、 「道綱母(みちつなのはは)」さん。すなわち「蜻蛉日記」の作者です。
道綱母、という名前は、どうも落ち着きが悪いものです。その名の通り、彼女は藤原道綱を産んだお母さんではあるものの、「もうちょっと言い方があるんじゃないの」と、今を生きる私達としては言いたくなる。
しかしこの時代の女性は、たとえ貴族であっても、よほど身分の高い人以外は、記録に名前が残っていないのです。紫式部にしても清少納言にしても、それは本名ではない。「なんとかさんの妻」「なんとかさんの娘」「なんとかさんの母」的な名前でしか、後世の人に記憶には残っていないのでした。
で、道綱母。彼女は、紫式部や、彼女より少し年上だった清少納言よりも、一世代前に生きた女性です。清少納言が仕えた定子は藤原道隆の娘であり、紫式部が仕えた彰子は藤原道長の娘であるわけですが、道隆と道長というのは、兄弟でもあるわけです。で、その兄弟の父親が、藤原兼家。そして道綱母は、兼家の妻の一人でありました。
しかし道綱母は、道隆や道長の母ではありません。兼家はその時代の実力者であり、勢力・精力ともに旺盛な人であったので、妻はたくさんいた。中でも正妻格であったのが 「時姫」という人で、道隆・道長兄弟を産んだのは、この人なのです。
道綱母は、たいへん美しい人であったようです。だからこそ、受領の娘という貴族としてはさほど高い生まれではなかったにもかかわらず、兼家に見初められたのでしょう。一時は兼家にもたいへん愛され、一児・道綱も産み、とても幸せな時期もありました。
しかし兼家は、次々と女を作ります。一応は妻ではあるものの正妻でもない、という立場にある道綱母にとって、唯一頼りになるものは兼家の愛情ですが、兼家はあちらこちらに女を作り、時には子供を産ませたりもしている様子。道綱母は、兼家の夜離れを恨み、悶々として過ごすのです。
蜻蛉日記は、そんな気分の中から生まれてきた作品です。道綱母ににとって書くことは、胸の中でうずまく嫉妬や恨みといった感情を、一瞬、解き放つ行為だった。これは他の平安女流作家にしても同じことですが、書かずにいられなかったから彼女は書いたのだなぁと、蜻蛉日記を読んでいるとしみじみ思えてきます。
そんな彼女ですから、その意地悪性の発露も、嫉妬がらみなのです。たとえば兼家が、「町の小路の女」という女性と懇ろにしている、という時。町の小路の女にすっかり夢中になっている兼家は、道綱母の家には寄り付かなくなっています。
そもそも和歌に堪能な道綱母は、兼家に 「私はこんなに寂しく思っているのに」的な意味の歌を詠みかけるのですが、兼家はのらりくらりとした返歌。それどころか、わざわざ道綱母の家の前を通って町の小路の女のところに通っていったりするので、道綱母は嫉妬で身悶えします。
そんな時、彼女はなんと、正妻の時姫に歌を詠みかけるのです。それも最初は、
「あなたの家にさえ最近は寄り付かない兼家さんは、今はいずこにいるのでしょうねぇ」 といった意味の歌。これに対して時姫は、
「うちにはいませんから、あなたの所かと思ってましたッ」
といった歌を返しています。
道綱母としては、兼家が時姫の元にも行っていないらしいということを聞いて、「同病相憐れむ」感覚で、「お互いつらいですねぇ」と言いたかったのかもしれません。が、時姫にしてみたら、道綱母だって町の小路の女と同じ、夫の浮気相手なのです。その相手から「お互いつらいですねぇ」と言われても、嬉しくも何ともない。素っ気ない歌を返すのも、無理からぬところでしょう。
道綱母は、それでも懲りません。「時姫様は私以上につらかろう」などと思い、
「兼家さんがたとえ通ってこなくなったとしても、あなたとはお互いに慰めあっていきたいものです」
といった意味の歌をまた詠み、時姫は、
「人の心はうつろいやすいものですからねぇ……」
と、また醒めた歌。
道綱母の、「裏切られた者同士で憐れみ合いたい」という気分も、わからぬではありません。そうしなければいられなかったほど、彼女もつらかったのでしょう。しかしそこに、「時姫が負っているであろう傷をさらにえぐりたい」といった気分もほんの少しあったのではないかと、私は思うのです。
道綱母は、正妻的立場である時姫に対しても、嫉妬心を燃やしていたことでしょう。一時は、「でも私は誰よりも愛されているのだし」と自分を納得させることもできたかもしれませんが、兼家の愛が他の女に向かってしまった今、心の支えはなくなった。そんな時、 「傷ついているのが私だけ、っていうのは許せない。時姫さんにだって同じように傷ついてもらわなくちゃあ」
という意地悪心が、うずかなかったかどうか。もちろん本人はその意地悪心には気付いていなかったとは思いますが、一度ならず二度までも(本当はそれだけじゃないんですけど)、時姫に対して歌を送るという行動を見ていると、そこには女性特有の残酷さが存在しているような気がしてなりません。
町の小路の女は、やがて子供を産みます。出産で大騒ぎしている兼家の様子を聞くにつれても、道綱母の嫉妬はますます燃え上がります。
しかし、町の小路の女が産んだ子供は、しばらくして死んでしまうのでした。相前後して、兼家の愛情も、町の小路の女から離れていってしまった様子。
この時の道綱母の書きっぷりは、かなり迫力があります。
「私が悩んだのと同じように、あの女にもつらい思いを味わわせてやりたいと思っていたら、すっかりそんな風になってしまった挙げ句、子供まで死んでしまうなんて……。私が悩んでいたより、さらにもっとあの女が嘆いているかと思うと、やっと胸がすいた」
などと記しているのです。何と率直な、そして何と無防備な……! 何となく、源氏物語における六条御息所を思わせる書きっぷりではありませんか。
彼女はここで、被害者としての自分、ということしか考えていません。「私だって時姫を苦しめたのだから、私が町の小路の女に苦しめられても当然なのだなぁ」とは思わず、「私が苦しんだのだから、町の小路の女にも私と同等、もしくはそれ以上に苦しんでもらいたい」となる。
しかし、そう思ってしまうのも無理はないことかもしれません。当時の結婚形態は一夫一婦制ではなく、妻は夫が自分のところに通ってくるのをひたすら待つだけの身の上。貴族女性は自由に出歩くこともままならないため、他に気晴らしも無い生活の中で、夫の愛情を頼りにするしかなかった。そんな時に夫が他の女に夢中であることを知ったら、夫ではなく、相手の「女」に対する恨みが募るのも、わかる気はするのです。
兼家はしかし、懲りません。その後も、女を作っては道綱母に嫉妬されているわけですが、道綱母はその女の家が火事になったと聞いては「憎しと思ふところ」が半焼けになったとか、「さきに焼けにし憎どころ」が今度は全焼したらしいとか、いちいち記している。別にそんなことは書いてないけれど、憎い人の家が火事になったことに対する「ざまぁ……」という心情が、そこには見え隠れします。
道綱母は、いつまでも終らない嫉妬の波の中で、仏にすがろうともしています。幸せだった頃は「最近は女もお経を唱えたりするらしい」ということを聞いて「まぁみじめったらしい、そんなことをしてる人に限って、やもめになったりするのよ」などと思っていたのに、今や彼女自身が「私達夫婦なんて所詮……」と、涙を浮かべながらお勤めをする身。 そんな時、彼女は夢を見ます。それも、彼女の胎内にいる蛇が内蔵を喰う、という夢を。
嗚呼、何をか言わんや。今時の夢判断であったら、蛇が何を示しているか、そしてその夢がどういう意味であるのか、いくらでも説明してくれることでしょう。素人が読んでも、その時の彼女の胸の中にいかにドロドロしたものが溜まっていたかは、理解できるのですから。
当然のことながら、彼女の愛情は一人息子の道綱へと注がれていきます。夫に背かれた母に溺愛され、女性に和歌を詠みかける時も、才能豊かな母に代作してもらっていた道綱。長じて後の道綱は、兼家の子供ではあるのでそれなりに出世はするものの、時姫の子供である道隆や道長に比べるとパッとしないのでした。何か世間で馬鹿にされていたような感じもあって、その原因は母親からの少し歪んだ愛情なのではないかとも、思えてくるのです。
美しく、またエリートを夫に持ったにもかかわらず、幸せではなかった道綱母。しかし彼女は書くことによってもがきながら嫉妬を乗り越えようとし、結果的に日記文学という一分野を切り拓いたのでした。後世の世においても、道綱母と同じようなドロドロを抱える女性は数多存在するわけですが、彼女が切り拓いた道をたどることによってラクになることができた女性達もまた、少なくないのではないかと私は思うのです。 
4
藤原道綱
(ふじわらのみちつな)は、平安時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・藤原兼家の次男。
天禄元年12月(970年1月)従五位下に叙爵。のち、右馬助・左衛門佐・左近衛少将と武官を歴任するが、正妻腹の異母兄弟である道隆・道兼・道長らに比べて昇進は大きく遅れた。
寛和2年(986年)の花山天皇を出家・退位させた寛和の変では、長兄・道隆と共に清涼殿から三種の神器を運び出すなど父・兼家の摂政就任に貢献(『扶桑略記』)。変から1年半ほどの間に正五位下から従三位にまで一挙に昇進し、公卿に列した。
その後、異母弟の道長とは親しかった(妻同士が姉妹で相婿)こともあって、長徳元年(995年)道長が執政となると、その権勢の恩恵を受け、長徳2年(996年)中納言、長徳3年(997年)大納言と急速に昇進した。一方で、異母兄・道隆の娘を妻とし、嫡男・兼経が道隆の四男・隆家の娘婿であったことから、道長との不仲を噂されることもあったという 。
寛仁4年(1020年)9月半ば頃より病気のため重態に陥り、10月13日に法性寺にて出家、前年に既に出家していた道長の見舞いを受けるが、15日に薨去。

官途における競争相手であった藤原実資は「一文不通の人(何も知らない奴)」「40代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めなかった」などと記している。父や兄弟に見られるような政治的才能や、母のような文学的素養はなかったと伝えられている。
藤原道綱母が著した『蜻蛉日記』における道綱に関する記述は、やはり母から見てもおとなし過ぎるおっとりとした性格であると記されているが、弓の名手であり、宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により旗色が悪かった右方を引き分けに持ち込んだという逸話が書かれている。
勅撰歌人として『後拾遺和歌集』巻十五雑一に1首、『詞花和歌集』巻七恋上に1首、『新勅撰和歌集』巻十二恋二に1首(『蜻蛉日記』にも掲載)、『玉葉和歌集』巻十二恋四に1首、計4首が入集している。また、『和泉式部集』に和泉式部と歌の贈答が見えるが、そこで和泉式部は道綱のことを「あわれを知れる人」と詠んでおり、道綱に対して好感をもっていたようだ。 
5
『蜻蛉日記』1
(かげろうにっき、かげろうのにっき、かげろうにき)は、平安時代の女流日記。作者は藤原道綱母。天暦8年(954年) - 天延2年(974年)の出来事が書かれており、成立は天延3年(975年)前後と推定される。上中下の三巻よりなる。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」より。
夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。
歌人との交流についても書いており、掲載の和歌は261首。なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首にとられている。女流日記のさきがけとされ、『源氏物語』はじめ多くの文学に影響を与えた。また、自らの心情や経験を客観的に省察する自照文学の嚆矢ともされている。
なお兼家に対する恨み言を綴ったもの、ないし復讐のための書とする学者もあるが、今西祐一郎は、兼家の和歌を多数収めているので、兼家の協力を得て書いた宣伝の書ではないかという説を唱えている。 
6
『蜻蛉日記』2
蜻蛉日記とは、菅原孝標女のおばちゃんでもある右大将道綱母が自身について綴った、自称世界初の同人ではないノンフィクションドキュメンタリーである。小説でもない。
当時連載されて間もない腐女子向け同人誌である源氏物語を見て、あまりの妄想怪電波っぷりに憤慨した晩年の筆者が、今迄書き溜めたチラシの裏の山を体裁だけは物語かつ随筆っぽくまとめたものである。ドキュメンタリーであるので3年から5年に及ぶこともある、継続して書かれていない空白期はそのままにして残している。
しかしその彼女のあまりの率直さ―ともすれば桂言葉のようになってしまうような狂おしい感情から、本作をドキュメンタリーは勿論、随筆ですら無く、あたかも小説のように捉えてしまう読者が後を絶たない。出版当時の読者も同様で、本作は枕草子や源氏物語のような形式的なキャラクターやマンネリ化した様式美をただなぞっただけのいわゆる人気作品に金だらいすりきり一杯位の冷や水を浴びせ、これらに飽き飽きしていた当時の日本人を驚愕させた。
そのような強いインパクトを与えた最大の要因は、皮肉にも筆者自身の性格が、まさしく前述した形式的なキャラクターやマンネリ化した様式美の主要な要素を複数、そのまま具現化したような存在であったことにある。このことは前述した定義における世界初の件より遙かに興味深い、別の側面での世界初の作品として、その名を轟かせている。そのような人間自身からダイレクトに発せられる、かつ中古三十六歌仙および女房三十六歌仙に名を連ねる者としての文章構築能力から作り込まれたかのように見える生の心情により、強烈なリアリティも兼ね備えていたことから、長い間どの作家も本作を範とする作品を執筆する事はなく、現代語訳や同人誌を制作することが精々であった。
しかし、戦後以降は本作の筋書きが、また近年ではついに本作のキャラクター類型が注目され、インスパイヤやオマージュの数々が金太郎飴のごとく量産され続けている。性格の上では主人公またはヒロインとして最適な彼女自身の言動や心情が克明に記されていることが、背景や設定を作りやすい理由となっている。
筋書き
上巻 / 「殿は今日も来ないわ!」ではじまり、「殿はもう1ヶ月もこないわ!」と続き、「殿はやっぱり私がいいのね! でもあの方に比べたら…。」と終わる。日本におけるツンデレの起源である。当時はまだ物珍しいものであったため、ツンとデレが1:1の比率で繰り返されるという極めて分かりやすい構成となっている。しかし夫が来ない日が増えるにつれ、徐々にツン指向が強まっていく。
中巻 / 「看病してやったのに、殿は元旦すら来なかったわ!」ではじまり、「そんなに私のことが気に入らないのなら、家出してやるんだから!」と続き、「戻ってきてやったわ! でも…、殿のことなんて…、どうでもいいんだから…。」で終わる。日本におけるヤンデレ、及び現在の類型に通ずるモンスターペアレントの起源である。ツン指向は更に強まり病へと転じ、感情は極めて混乱する。そしてこの混沌は2008年現在ですらみやこびとにとっては片田舎の郊外に位置する鳴滝青少年自然の家への逃避行、そして当施設での引きこもりへと駆り立てさせることとなる。ただ、さすがに対象読者は貴族であるので、Nice boat.な演出は悉く回避されている。
下巻 / 「殿の産ませ捨てた娘を引き取ってやるのだから、感謝しなさいよね!…」ではじまり、「道綱! その書き方はノーマナーよ!」と続き、「もう殿は私のことなんて忘れているわよね…。でも、こうして書き残してやったわ!…」と帰結する。日本における各種物語作品の、番外編や引き延ばし続編、原作レイプの虚しさを風刺した内容となっている。「たった1人の半生における晩年すらこのように出涸らしもといかげろうのようなものなのに、どうして小物に過ぎない子孫たちが見栄ばかり張る作り話が面白いのだろうか?」と、源氏物語の宇治十帖やドラゴンボールGTに対する痛烈な皮肉となっている。その上で前二巻の底にあった激情という床が大幅に外されており、この一転したユルさが逆に感情移入して読破したスイーツ(笑)にとっては、前二巻以上に心をかき乱されるものとなっている。
登場人物
藤原兼家(ふじわらのかねいえ) / 「不倫は文化」と公言しそうな浮気者であるが、それでも彼直系の子孫(ヒロイン直系ではない)がモデルである光源氏よりはマシである。ヒロインを捨てたかのように思われがちだが、これについては兼家はヒロインのツンデレな所こそ愛していたとする説が学会の主流である。つまり、世界で初めてのツンデレ愛好家。でも毎日見るのは嫌。つまり、女にとっては人をタイプでしか見ない最低の男であり、効率よく人付き合いができる極めて有能な人物でもある。また、浮気をしてもすぐにバレてしまう間抜けさがヒロインの母性本能を刺激し続けていたという説もある。HITACHIでヤり捨てた女が産んだ子供の子孫が、あの小栗上野介と花さか天使テンテンくんである。
藤原道綱(ふじわらのみちつな) / 兼家とヒロインとの一人息子。自己主張の激しい父母に挟まれて磨き上げられた、生真面目な常識人。母は彼の縁談についてよく苦言を挟んでいる。結婚すれば嫁姑の仁義なき争いが勃発することは確実で、おそらくこれが作中道綱が独身のままでいた重要な要因であるとされている。ひょっとしたら父のように、いや父とは比較にならないほど用意周到にこっそり見えないところであれこれしていたのかもしれないが。苦労性なのか、子孫は断絶した。
藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは) / 本作の筆者にしてヒロイン、そして、文学作品におけるツンデレ、ヤンデレかつモンスターペアレントの起源である。同時期の類似したキャラクターといえば、それぞれ葵上や六条御息所、さぬきのみやつこが挙げられる。しかし彼はともかくとして、彼女らが束になってかかっても、道綱母ほど分かりやすく典型的な類型を描写されているわけではない。
姫君(ひめぎみ) / 兼家の隠し娘でヒロインの養女。無口。童顔としてヒロインは嫁に出したがらないが、そんな例は若紫を筆頭に幾らでもいた時代である。きっと本当の理由が他にあったのだろう。道綱とは違い、ヒロインはあれこれ思案をめぐらせてはいるもののお節介を焼くことが憚られる存在でもある。 
 
54.儀同三司母 (ぎどうさんしのはは)  

 

忘(わす)れじの ゆく末(すゑ)までは かたければ
今日(けふ)を限(かぎ)りの 命(いのち)ともがな  
忘れはしまいとおっしゃるお言葉は、遠い未来まではあてにしがたいので、今日を限りの命であってほしいものです。 / いつまでも忘れはしないとおっしゃるあなたのお言葉が、将来いつまでも期待できるものとは思えませんから、今日を最後の命としたいと思います。 / 「いつまでも忘れない」、とおっしゃるその未来を信じるのは難しいので、そのことばをいただいた今日をかぎりとして、死んでしまいたいと思うのです。 / いつまでも忘れまいとすることは、遠い将来まではとても難しいものですから、(あなたの心変わりを見るよりも早く) いっそのこと、今日を最後に私の命が終わって欲しいものです。
○ 忘れじの行く末までは / 「忘れじ」の部分は、夫、藤原道隆の言葉であり、主語は一人称であるため、「じ」は、打消意志の助動詞。、「〜ないつもりだ」の意。「忘れじ」で、「私(道隆)は、決してあなた(貴子)を忘れないつもりだ」の意。「の」は、連体修飾格の格助詞で、「…という…」。「行く末」は、未来・将来。「まで」は、限度を表す副助詞。
○ かたければ / 「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。「(〜は)困難だから」の意。この場合、道隆の言葉を信用することが難しいことを表す。
○ 今日を限りの命ともがな / 「今日」は、道隆が「忘れじ」と言った日。「限り」は、最後の意。「と」は、引用の格助詞。「もがな」は、願望の終助詞で、「〜であってほしい」の意。『新古今集』の詞書に、「中関白通ひそめ侍りけるころ」とあり、道隆が儀同三司母の屋敷に通いはじめたころ、すなわち、新婚当初に詠まれた歌であることがわかる。
※ 藤原道隆は、この歌が詠まれた当時、10代後半であって官位は低く、父の兼家が、伯父の関白兼通から疎まれていたため、必ずしも順風満帆という状況ではなかった。その後、兼通の死去により兼家が政界の中枢に復帰すると、道隆もまた急激に官位を進めた。道隆が関白になると、定子は一条天皇の中宮に、嫡男伊周(儀同三司)は10代でありながら公卿に列するなど、貴子の産んだ子供たちは、朝廷内で重要な役割をはたすこととなった。しかし、道隆が43歳の若さで亡くなり、伊周が叔父道長との政争に敗れ、隆家が花山法皇を襲撃するという暴挙に及んだことにより、兄弟そろって地方に左遷された。こうした混乱の最中、貴子は伊周に同行することを求めたが許されず、失意のうちに病を得て亡くなった。 
1
高階貴子(たかしなのきし / たかこ、生年不詳 - 長徳2年(996年)10月没)は平安時代の女流歌人。女房三十六歌仙に数えられる。通称は高内侍(こうのないし)、または儀同三司母(ぎどうさんしのはは)。前者は女官名、後者は息子藤原伊周の官職の唐名(儀同三司)による。
従二位高階成忠(923年 - 998年)の娘、生母は不詳。成忠室には紀淑光女が知られ、貴子はその所生だとすれば、学者・紀長谷雄の血をひくことになる。兄弟に右中弁信順・木工権頭道順・伊予守明順らがいる。
和歌を能くし、女ながらに詩文に長けた由、『大鏡』など諸書に見える。円融朝に内侍として宮中に出仕し、漢才を愛でられ殿上の詩宴に招かれるほどであった。おなじ頃、中関白藤原道隆(953年 - 995年)の妻となり、内大臣伊周(974年 - 1010年)・中納言隆家(979年 - 1044年)・僧都隆円(980年 - 1015年)の兄弟及び長女定子を含む三男四女を生んだ。
夫・道隆が永延3年(989年)に内大臣、永祚2年(990年)5月に関白、次いで摂政となり、10月に定子が一条天皇の中宮に立てられたため、同年10月26日、従五位上から正三位に昇叙。一方、貴子腹の嫡男伊周も急速に昇進し、正暦3年(992年)十九歳にして権大納言に任ぜられ、翌々年さらに内大臣に昇ったため、貴子は末流貴族の出身ながら関白の嫡妻、かつ中宮の生母として栄達し、高階成忠は従二位と朝臣の姓を賜った。
ところが、長徳元年(995年)4月10日に夫・道隆が病死すると、息子の伊周と隆家は叔父道長との政争に敗れ、権勢は道長側に移った。翌年になって、伊周と隆家は、花山院に矢を射掛けた罪(長徳の変)によって大宰権帥・出雲権守にそれぞれ左降・配流。貴子は出立の車に取り付いて同行を願ったが、許されなかった。その後まもなく病を得て、息子の身の上を念じながら、同年10月末に薨去した。四十代であったと推定される。
『古今著聞集』によれば、道隆との関係にはじめ成忠は乗り気ではなかったが、ある後朝のあさ、帰って行く道隆の後ろ姿を見て、「必ず大臣に至る人なり」といって二人の仲を許したという。 
2
高階貴子 生年未詳〜長徳二(996) 通称:儀同三司母 高内侍
高階氏は長屋王の末裔と伝わる。式部大輔従三位高階成忠の娘。兄弟に左中弁明順(あきのぶ)・弾正少弼積善(もりよし。すぐれた漢詩人で『本朝麗藻』の編者)がいる。中関白藤原道隆の妻。伊周(これちか)・隆家・定子らの母。伊周の号「儀同三司」から、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)と称される。円融天皇の内侍となり、高内侍(こうのないし)と呼ばれる。その後、藤原道隆の妻となる。正暦三年(990)、正三位。長徳元年(995)に夫が死去し、同二年伊周・隆家が左遷されるに及び、中関白家は没落。同年十月、失意の内に没した。漢詩を能くしたという。勅撰集入集は5首(拾遺集との重出歌を載せる金葉集三奏本の1首を除く)。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも歌をとられている。
中関白かよひそめ侍りけるころ
忘れじの行末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな(新古1149)
(あなたは「いつまでもおまえを忘れまい」と言うけれど、先々まではそれも難しいので、いっそ、この上なく幸せな今日を限りの命であったらよい。)
中関白かよひはじめけるころ、夜がれして侍りけるつとめて、こよひは明かし難くてこそなど言ひて侍りければよめる
ひとりぬる人や知るらむ秋の夜をながしと誰か君につげつる(後拾遺906)
(秋の夜が長いことは独り寝する人が知っているでしょう。独り寝されたはずのないあなたは秋の夜が長いと、誰からお聞きになったのですか。)
中納言平惟仲、久しくありて消息(せうそこ)して侍りける返り事に書かせ侍りける
夢とのみ思ひなりにし世の中をなに今さらにおどろかすらむ(拾遺1206)
(あなたとの仲は、はかない夢だった――すっかりそう思うようになっていたのに、どうして今更目を覚ますようなことをするのでしょうか。)
帥前内大臣、明石に侍りける時、こひかなしみて病になりてよめる
夜のつる都のうちにこめられて子を恋ひつつもなきあかすかな(詞花340)
(夜の鶴は籠の中で子を思って哭いたというけれど、私は都の内に足止めされて、子を恋い慕いながら哭き明かすのだなあ。) 
3
儀同三司母 中関白・藤原道隆の正室で教養人だったが、道長一族に敗れる
儀同三司母は、学者として高名な高階成忠の娘、貴子(きし、もしくは たかこ)のことだ。摂政・関白を務めた藤原兼家の長男、道隆の正室で、二人の間に伊周(これちか、正二位、内大臣)、隆家(正二位、中納言)、僧都隆円、定子、原子ら三男四女がいた。定子は一条天皇の中宮として入内しているし、末娘の原子は三条天皇の女御となっている。きらびやかで栄華に満ちた一族だった。また、夫・道隆の弟に栄華の頂点を極めた道長がいる。
だが、従一位で摂政関白、内大臣を務め、中関白(なかのかんぱく)と称した夫・道隆が43歳の若さで亡くなってしまうと、儀同三司母=高階貴子の人生は暗転してしまう。摂関家の嫡流・氏の長者は道兼、次いで道長に奪われてしまった。まさに血脈を分けた一族の中で政権争いが発生。夫の弟、道長と伊周、叔父・甥の骨肉の争いとなったのだ。結果は、道長が勝利し、まだ22歳の伊周がこの政争に敗れ、弟の隆家ともども官位を剥奪され、996年(長徳2年)九州(大宰権帥)へ左遷された。このとき、母貴子は同行を願ったが、聞き容れられず、彼女は半年後、不幸にも失意のうちにこの世を去った。
儀同三司は息子、藤原伊周のことで、結局、伊周は三公(太政大臣、左大臣、右大臣、唐風には三司)になれなかった。後年、彼が「准大臣」となり、自らをこの官職の唐名「儀同三司」と称した。そのため、彼の母ということで、「儀同三司母」は彼女の死後付けられた通称だ。
高階貴子の生年は不詳、没年は996年(長徳2年)。平安時代の女流歌人で、女房三十六歌仙に数えられる。貴子の生母は不詳。成忠の妻には紀淑光の娘が知られ、貴子がその所生だとすると、名立たる学者、紀長谷雄の血をひくことになる。円融天皇の後宮に内侍として仕え、高内侍(こうのないし、女官名)と呼ばれていた。
『大鏡』などによると、貴子は女性ながら和歌を能くし、漢学、漢詩の素養も深く、円融天皇も一目置かれたほどの才媛だった。その貴子と恋に落ちたのが、時の大納言・藤原兼家(後の従一位、摂政・関白・太政大臣)の長男、道隆だった。その道隆との恋の歓びを歌ったのが次の歌だ。これは『新古今集』、『小倉百人一首』に収められている、激しくも傷(いた)ましい恋の歌だ。
「忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな」
歌意は、あなたはいつまでも決して忘れないよ、そうおっしゃいます。でも、それは信じられません。それなら私はいっそ、たった今死んでもいいのです。今日のこの嬉しさの絶頂で。詞書(ことばがき)によると、この歌は道隆との恋が始まったばかりの、幸福の絶頂ともいうべき時期の歌だ。にもかかわらず、傷ましいほどの緊迫感をもって、明日のことはあてにするまい、せめて今日の命のこの歓びだけをしっかり握っていたい−と、その心情を吐露している。
一夫多妻の平安期において、ほとんどの場合、女はひたすら男の訪れを待つだけの存在だった。したがって、女は未知の恋に対して極めて慎重であるのが普通で、ひとたび男に身を委ねたときには、その恋を永続させることに心を砕き、絶えず不安におののいていなければならなかった。恋の歓びの歌に、深い哀しみが内蔵されるのは、そうした女の受け身の立場からきており、この歌もその典型的な一首だ。 
 
55.大納言公任 (だいなごんきんとう)  

 

滝(たき)の音(おと)は 絶(た)えて久(ひさ)しく なりぬれど
名(な)こそ流(なが)れて なほ聞(き)こえけれ  
滝の音は聞こえなくなってから長い年月がたったが、音の評判だけは世間に流れて、今もなお聞こえているなあ。 / ここ大覚寺にあった滝の水の音が聞こえなくなってずいぶん長い年月が経てしまったが、その評判だけは世の中に流れ伝わり、今日でも聞こえ知られているよ。 / 水が枯れたので、滝の音が絶えてからずいぶんと長い年月が経ちましたが、その滝の名声は世の中に流れ伝わって、いまもなお世間に知られていることです。 / 水の流れが絶えて滝音が聞こえなくなってから、もう長い月日が過ぎてしまったが、(見事な滝であったと) その名は今も伝えられ、よく世間にも知れ渡っていることだ。
○ 滝の音は絶えて久しくなりぬれど / 「滝」は、『拾遺集』の詞書から、大覚寺にあった人工の滝。大覚寺は、もともと嵯峨天皇(796〜842)の離宮として造営され、後に真言宗の寺院となった。「絶え」は、ここでは、「聞こえなくなった」ことを表す。「ぬれ」は、完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ど」は、逆接の確定条件を表す接続助詞で、「…けれども」の意。この歌が詠まれたのは、離宮造営から約200年後のことであり、滝の水は既に枯渇していたものと思われる。
○ 名こそ流れてなほ聞こえけれ / 「こそ」と「けれ」は、係り結び。「名」は、評判。「流れ」は、(評判が)広まること。「こそ」は、強意の係助詞。「なほ」は、それでもやはりの意を表す副詞。「けれ」は、詠嘆の助動詞「けり」の已然形で「こそ」の結び。
※ 現在、大覚寺の滝跡は、この歌にちなんで、“名古曽(なこそ)の滝跡”と呼ばれおり、滝が復元されている。
※ 縁語(“滝・絶え・流れ”、“音・聞こえ”)
※ 「た」および「な」で頭韻を踏んでいる。 
1
藤原公任(ふじわらのきんとう)は、平安時代中期の公卿・歌人。関白太政大臣藤原頼忠の長男。小倉百人一首では大納言公任。
祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務め、母(醍醐天皇の孫)・妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王。また、いとこに具平親王、右大臣藤原実資、書家藤原佐理がおり、政治的にも芸術的にも名門の出である。関白の子として天元3年2月15日に内裏にて円融天皇自らの加冠により元服して異例の正五位下が授けられる(『日本紀略』・『扶桑略記』、ただし後者には同3年条に誤って入れられている)など、将来が期待されていた。
政治的には、当時藤原北家の嫡流は皇室の外戚の座を失った小野宮流から九条流に移っていたことから、官位は正二位権大納言に止まったが、九条流の藤原道長の意を進んで迎え、優れた学才により一条天皇の治世を支え、藤原斉信、源俊賢、藤原行成とともに「一条朝の四納言」と称された。
道長が対抗意識を燃やしたという逸話もあるが、実際には寛和2年6月10日の内裏歌合で若手貴族の代表として道長・斉信ともに選ばれるなど、青年時代から共に行動することが多かった。また、実際に四納言の中で唯一、道長が政権の座に就く以前に参議に昇進している(正暦3年(992年)8月)。
和歌の他、漢詩、管弦にもすぐれた才能を見せ、道長に対して自らの才能を誇示した「三舟の才」の逸話は、小野宮流の嫡男として芸術面での意地を見せたともいえる。また、道長には迎合していたものの、自らの門地に対する誇りは高く、四納言の一人斉信に位階を越された際は半年間出仕を止めた上に、当時文人として有名であった大江匡衡に作らせた辞表を提出したこともあった。
家集『大納言公任集』、私撰集『金玉和歌集』、歌論書『新撰髄脳』『和歌九品』などがあり、『和漢朗詠集』や三十六歌仙の元となった『三十六人撰』は公任の撰による。勅撰歌人として『拾遺和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に88首が入首している。また引退後著したと見られる有職故実書『北山抄』は摂関政治期における朝廷の儀式・年中行事の詳細が分かる貴重な史料である。
逸話
三舟の才 / 『大鏡』に見える。三船の才ともいう。道長が大堰川に漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟を出し、それぞれの分野の名人を乗せた際、乗る舟を尋ねられた公任は和歌の舟を選び、「小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき」と詠んで賞賛された。ところが公任は、漢詩の舟を選んでおけば、もっと名声が上がったはずだと悔やみ、道長に舟を選べと言われたときに、すべての分野で認められているとうぬぼれてしまったと述懐した。
着鈦勘文 / この時代、強盗・窃盗・私鋳銭の3つの罪については検非違使が裁判を行うことになっていたが、長徳2年(996年)11月に検非違使の最高責任者であった検非違使庁別当である公任の別当宣によって、初めて着鈦勘文(判決文)に徒(懲役)年数が書かれることになった。それまでは、被害額の総額に応じて徒の年数は定められていたものの、その年数が罪人に示されることは無く、罪人は釈放されて初めて自分がどんな刑罰を受けたのかを知ったという。公任はその矛盾を指摘してこれを改めさせた。この時、左衛門志であった明法家(法律家)の惟宗允亮は、公任の意向に沿って素晴らしい着鈦勘文を書き上げ、法律家としての名声を高めたという。
『源氏物語』の話題 / 寛弘5年(1008年)11月1日、土御門殿で催された敦成親王(後一条天皇)の誕生祝いの宴で、酔った公任が紫式部に対して「この辺りに若紫は居られませんか」と声をかけた、という。式部は(光源氏似の人も居ないのに、どうして紫の上が居るものかしら)と思い、その言を聞き流した、と『紫式部日記』に見える。なお、この逸話の条が、本文以外で『源氏物語』に触れられた記録の初見とされる。

滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ (小倉百人一首) 
2
藤原公任 康保三〜長久二(966-1041) 通称:四条大納言
実頼の孫。三条太政大臣頼忠の嫡男。母は醍醐天皇の皇子代明親王の娘、厳子女王。同母姉妹に円融天皇の皇后遵子、花山天皇の女御となった女性などがいる。具平親王、歌人藤原高遠、書家藤原佐理はいとこ。子には定頼、僧任入、藤原教通の妻になった女性などがいる。天元三年(980)、清涼殿で元服。円融天皇より加冠され、正五位下に叙せられる。同年、侍従に任ぜられる。永観元年(983)、左近衛権中将となり、尾張権守と伊予権守を兼ね、正四位下に昇叙。寛和二年(986)、詮子を母とする一条天皇が即位して以後は、兼家一門の繁栄に圧倒される。道長が勢力を得てのちは、追従の態度がみえ、いとこの実資を歎かせたほどであった(『小右記』)。永祚元年(989)、蔵人頭。同年、父頼忠が急逝。正暦元年(990)、備前守。正暦三年(992)、二十七歳にして参議。さらに左兵衛督、皇后宮大夫、右衛門督、検非違使別当、勘解由長官、皇太后宮大夫、按察使などを歴任し、寛弘六年(1009)、権大納言。万寿元年(1024)上表致仕、万寿三年、出家。山城国長谷(ながたに)に隠棲した。一条朝四納言の一人。漢詩・和歌・管弦の三舟の才を謳われた。歌人としては、天元五年、東宮御所の歌会に出詠したのをはじめ、内裏歌合・屏風歌などに活躍。拾遺集に初出、代々の勅撰集に百首足らず入集している。中古三十六歌仙の一人。他撰の家集に『公任集(四条大納言集)』、歌学書に『新撰髄脳』『和歌九品』がある。『古今集注』『四条大納言歌枕』『歌論議』などの著作も名が知られるが、散逸した。撰集には『拾遺抄』『金玉集』『深窓秘抄』『前十五番歌合』『三十六人撰』『和漢朗詠集』、また有職故実の著書『北山抄』などがある。
春 / 北白川の山庄に、花のおもしろくさきて侍りけるを見に、人々まうできたりければ
春きてぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ(拾遺1015)
(春になって客がたくさん訪れた、この山里にある私の宿の主人は、この私ではなくて、桜の花だったのだな。)
前近き桃の、はじめて花咲きたるに
うれしくも桃の初花見つるかなまた来む春もさだめなき世に(公任集)
(嬉しいことに桃の初花を見たなあ。再び訪れる春に会えるかどうか、運命は定かでないこの世にあって。)
春のころ、粟田にまかりてよめる
うき世をば峰の霞やへだつらむなほ山里は住みよかりけり(千載1059)
(辛いことばかり多い現世を、峰の霞が隔ててくれるのだろうか。やはり山里は住みよいところだなあ。)
夏 / 廉義公家歌合に
卯の花のちらぬかぎりは山里の木の下闇もあらじとぞ思ふ(玉葉302)
(卯の花が散らないうちは、その白い花が月光に反映するせいで、この山里には木の下闇もないだろうと思うよ。)
秋 / 寂昭がもろこしにまかりわたるとて、七月七日舟にのり侍りけるに、いひつかはしける
天の川のちの今日だにはるけきをいつともしらぬ船出かなしな(拾遺1093)
(天の川を隔てた牽牛織女の出逢いは、来年の七夕の今日でさえ遥か遠いことなのに、唐土へ舟出するあなたとの再会はいつとも知れないことを思えば哀しいことです。)
雨中九月尽といふことをよめる
いづかたに秋のゆくらん我が宿にこよひばかりの雨やどりせよ(金葉三奏本258)
(どこへ秋は去ってゆくのだろう。私の家で、今夜だけでも雨宿りして行ってくれよ。)
嵐の山のもとをまかりけるに、紅葉のいたくちり侍りければ
朝まだき嵐の山のさむければ紅葉の錦きぬ人ぞなき(拾遺210)
(早朝、嵐の吹く嵐山が寒々としているので、木々は色様々の紅葉を盛んに散らせ、その美しい錦衣(きんい)を着ない人とてない。)
冬 / 題しらず
霜おかぬ袖だにさゆる冬の夜に鴨のうは毛を思ひこそやれ(拾遺230)
(霜は置かない袖さえ冷える冬の夜には、鴨の上毛をどれほど寒いかと思いやるのだ。)
恋 / 左大将朝光五節舞姫奉りけるかしづきを見て、遣はしける
天つ空とよのあかりに見し人のなほ面影のしひて恋しき(新古今1004)
(内裏の豊明の宴で見た人の面影が、今もひどく恋しくてなりません。)
雑 / 嵯峨大覚寺にまかりて、これかれ歌よみ侍りけるによみ侍る
滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ(千載1035)
(滝の音は途絶えてから長い年月が経つけれども、その名は今に流れ伝わって、なお名声を保っているのだ。)
中宮の御うぶ屋の五日の日
秋の月影のどけくも見ゆるかなこや長きよの契りなるらむ(公任集)
(秋の月の光はのどかに見えることだ。これがお生まれになった皇子の永続する御代を約束するものだろうか。)
九月ばかりに四条太皇太后宮にまゐりあひて、前大納言公任につかはしける    法成寺入道前摂政太政大臣
君のみや昔を恋ふるそれながら我が見る月もおなじ心を
(あなただけが昔を恋うているのでしょうか。私が昔を慕って見る月も、そのままあなたと同じ心ですのに。)
返し
今はただ君が御かげをたのむかな雲隠れにし月を恋ひつつ(続拾遺1302)
(今はもうあなたの御蔭を頼むばかりです。雲に隠れてしまった月を恋い慕いながら。)
維摩経十喩、此の身は水の泡のごとしといへる心をよみ侍りける
ここに消えかしこに結ぶ水の泡のうき世にめぐる身にこそありけれ(千載1202)
(ここに消えたかと思えばあそこに出来る水の泡のように、現世に輪廻転生する我が身なのだ。) 
3
藤原公任撰 / 和漢朗詠集
この詞華集を読むと、さまざまなおもいが去来する。そのうち最も大きな感興は、ここにひそむ日本的編集方法とは何だろうかということである。詞華集とはアンソロジーのことをいう。アンソロジーでは編集の技量がそうとうに問われる。何を選ぶかだけが重要なのではない。その按配をどうするか。内容で選ぶか、作者で選ぶか。主題のバランスをどうするか。男女の作者の比率はこれでいいか。長短をどうするか。巧拙をどこで見るか。有名無名をどうするか。これらのいずれにも十全な配慮が問われる。しかも、『和漢朗詠集』は和漢の秀れた詩歌を此彼の文化表現にまたがって、かつ同時に選んで見せるという編集である。漢詩から詩句を選び、そこに和歌をもってくる。和歌を選んで、そのあいだに漢詩を入れる。そのような作業と工夫に当時の日本の編集思想が出ないはずはない。こういうことをやっと終えたとしても、さらにこれらをどう並べるか、さてレイアウトをどうするかが待っている。とくに順番が難しい。
『和漢朗詠集』は関白頼忠の子の藤原公任が編集した。編集したといっても勅選ではなく、自分が好きで編集したものである。誰かに頼まれたわけでもない。ハウスメイドの、カスタマイズ・ヴァージョンなのである。こういう仕事はいちばん楽しい。公任は娘が結婚するときの引出物として詞華集を贈ることをふと思いついた。そこで当時、貴族間に流布していた朗詠もの、つまりは王朝ヒットソングめいたものに自分なりに手を加え、新しいものをふやして贈ることにした。それだけでは贈り物にならないので、これを藤原行成に清書してもらい、粘葉本(でっちょうぼん)に仕立てた。まことに美しい。
まず料紙が凝っている。紅・藍・黄・茶の薄めの唐紙に雲母引きの唐花文をさらに刷りこんだ。行成の手はさすがに華麗で、変容の極みを尽くした。漢詩は楷書・行書・草書を交ぜ書きにした。和歌は得意の行成流の草仮名である。これが交互に、息を呑むほど巧みに並んでいる。部立ては上巻(上帖)を春夏秋冬の順にして、それぞれ春21、夏12、秋24、冬9を配当した。たとえば冬は「初冬・冬夜・歳暮・炉火・霜・雪・氷付春氷・霰・仏名」と並ぶ。つまり時間の推移を追った。いわば「うつろひ」の巻、月次の巻である。これに対して下巻すなわち下帖は、もっと自由に組んだ。その構成感覚がうまかった。「風・雲・松・猿・古京・眺望・祝‥」といったイメージ・アイコンが48主題にわたって並ぶ。最後はよくよく考えてのことだろうが、「無常」「白」である。すべてが真っ白になってしまうのだ。なかなか憎い。これをしかも漢詩と和歌の両方でつなぐ。つなぎのしくみはイメージとエクリチュールの重ね結びである。いわば洋服と着物を併せて楽しむようにするわけだから、ここにはかなりの「好み」が動かなければならない。公任にして編集できたことである。
結局、漢詩が588詩、和歌が216首を数えた。
漢詩は白楽天(白居易)が断然に多い。135も入っている。ところが李白と杜甫が一つずつしか入っていない。全体には中唐・晩唐の漢詩人から選んでいるので、公任がよほど李白・杜甫を嫌ったということになる。これは実は当時の風潮でもある。中西進さんが快著『源氏物語と白楽天』で詳述したように、当時は白楽天がビートルズのように日本を席巻していた。日本人の漢詩ではさすがに菅原文時・菅原道真がトップで選ばれている。この「好み」は紫式部に近くて、和泉式部に遠い。公任だけではなく、この当時の一派の「好み」なのである。先の中西進の『源氏物語と白楽天』、および大岡信の『うたげと孤心』や丸谷才一の『詞華集的人間』などを読むと、このへんの見当がつく。和歌は貫之26、躬恒12、人麻呂8の順である。ここにも紫式部に近くて、和泉式部に遠い「好み」があらわれる。公任はそうした独断的編集を随所に発揮した。公任はこれらの漢詩と和歌を交互にならべたのではない。自由に並べた。漢詩ひとつのあとに和歌がつづくこともあれば、部立てによっては和歌がつづいて、これを漢詩が一篇でうけるということも工夫した。その並びは絶妙である。しかも漢詩は全詩ではなく、適宜、朗詠しやすいような詩句だけを抽出した。こうして最初にもってきたのが紀淑望の立春の漢詩からのエピグラフであった。なかなか溌剌とした漢詩なので、むろんその内容と表現でも選んだのだろうが、公任はこの歌の作者が淑望であることに注目したのであろう。紀淑望は紀長谷雄の子で、いわずとしれた貫之の従兄弟だが、それよりも公任は淑望が『古今集』の真名序を書いたということを重視したにちがいない。真名序は漢文で書かれた序文のことをいう。仮名序は貫之の執筆である。こうして『和漢朗詠集』の冒頭を立春から始め、その歌詞を真名序の紀淑望としたことによって、ここに「和漢」の並立というコンセプトが立ったのである。それにしても全篇を通じてまことに巧みな編集構成である。
実は、このような編集方法は、藤原公任ひとりの手柄なのではなかった。この時代の貴族に流行し、これらに先立って試みられた日本的編集方法の、そのまた再編集だったのである。まず「漢風本文屏風」というものがあった。小野道風が書いた延長6年の内裏屏風詩、天暦期の内裏坤元屏風詩をはじめ、漢詩を書きつけた屏風である。このほかにも長恨歌屏風、王昭君屏風、新楽府屏風、月令屏風、劉白唱和集屏風、漢書屏風、後漢書屏風、文選屏風、文集屏風などがある。いずれも唐絵を描いた屏風に漢詩句漢詩文の色紙が貼ってある。公任はこれらから漢詩をピックアップしたにちがいない。和歌にも似たような屏風が出回っていた。大和絵を描いた屏風に和歌色紙を貼ったもので、これもかなりたくさんの種類がある。扇面和歌散らし屏風、和歌巻屏風などもある。これらはぼくも『アート・ジャパネスク』編集中にかなり出くわした。もっと調べてみると、『古今著聞集』の図画部に「和漢抄屏風二百帖」というものがあったと載っている。藤原道長の邸宅に出入りしていた藤原能通が絵師の良親に描かせたもので、道長の子の教通に進呈された。唐絵と倭絵(大和絵)を対応させ、それぞれにふさわしい漢詩と和歌を配当してあった。しかもこの屏風の色紙の歌詞は公任の清書であったというのである。
これではっきりする。公任はすでにこうした和漢屏風の流行に熟知していたばかりか、その制作過程にもしばしば携わっていたのであった。今日の言葉でいえば、和漢屏風や和漢朗詠集は二カ国対応型ヴィジュアルテキスト・ライブラリーといったところで、屏風システムというOSに色紙というソフトを自由に貼りこんでいるという点では、マルチメディアライクで、マルチウィンドウ型の編集によるデータベースになっている。下巻はどちらかというと主題別百科事典にさえなっている。王朝エンカルタなのである。
ぼくは、王朝時代にはやくも徹底化されていたこうした日本的編集方法に注目している。いったいこうした方法感覚がどこから出てきたかということはここでは省略するが、その背景には日本文化の確立には中国から漢字や律令を導入せざるをえなかったということが大きな原因になっていることだけは指摘しておきたい。ともかくもまずは中国のシステムを入れ、これをフィルタリングして、一部をゆっくり日本化し、それが確立できたところで、元の中国システムと日本システムを対照的に並列させる。こういう方法が古代すでに確立していたのである。確立したのは天智・天武の時代であった。この編集方法はいろいろな場面にあらわれる。政治と立法の舞台の大極殿を瓦葺の石造りの中国風にし、生活の舞台の清涼殿などを檜皮葺で白木造りの寝殿にするというのも、その例である。もっと象徴的なのが『古今集』に真名序と仮名序を配したことだった。
『和漢朗詠集』は、いまほとんど読まれていないという。そういう本はいくらも日本の古典にはあるのだから仕方がないが、『和漢朗詠集』だけは一度は覗いたほうがいい。少なくともインターネットやライブラリーに関心があるのなら、覗きたい。『平家物語』や『太平記』に関心がある者も、覗きたい。とくに下巻の「無常」「白」にいたる漢詩と和歌の進行に心を寄せてみたい。ぼくは公任の『北山抄』が有職故実を巧みに編集しているのを見て公任の編集手腕に関心をもち、そのうえで『和漢朗詠集』の編集構造に注目するようになったのだが、いまではたいそう便利な王朝感覚データベースになっている。お試しあれ。 
4
大鏡『三船の才(公任の誉れ)』
一年、入道殿の大井川に逍遥せさせ給ひしに、作文の舟・管絃の舟・和歌の舟と分たせ給ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言の参り給へるを、入道殿、
「かの大納言、いづれの舟にか乗らるべき。」
とのたまはすれば、
「和歌の舟に乗り侍らむ。」
とのたまひて、詠み給へるぞかし、
小倉山嵐の風の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき
申し受け給へるかひありてあそばしたりな。御自らものたまふなるは、
「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、
『いづれにかと思ふ』
とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし。」
とのたまふなる。一事の優るるだにあるに、かくいづれの道も抜け出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。
(口語訳)
ある年、入道殿(藤原道長)が大井川で舟遊びをなさったときのことです。(入道殿は、舟を)漢文を作る(人が乗る)舟、管絃をする(人が乗る)舟、和歌を詠む(人が乗る)舟とお分けになって、その道に優れている人々をお乗せになりました。(そこへ)大納言(藤原公任)がいらっしゃったので、入道殿は、
「あの大納言は、どの舟に乗るのだろうか。」
と仰ったところ(大納言は、)
「(私は)和歌の舟に乗りましょう。」
と仰って、歌をお詠みになられました。
小倉山や嵐山から吹いてくる風が寒いので、紅葉が散って人々にかかり、錦の着物を着ていないものはいないことだよ(紅葉がかかって、誰もが皆、錦の着物を着ているように見える)
自らお願い申し上げた(自らすすんで和歌の舟に乗っただけあって)かいがあって、(見事に)お詠みになったことです。(大納言)ご自身も仰ったと聞いたのですが、
「漢文を作る舟に乗ればよかったなぁ。そしてこれぐらいの(今詠んだ歌と同レベル)の漢詩を作ったならば、名声の上がることもよりあっただろうに。残念なことです。それにしても、入道殿が、
『どの舟に乗るのか。』
と仰られたことは、(私には漢詩の才能も、管絃の才能も、和歌の才能もあると見越しての発言であり、それを聞いた私は)我ながら得意気になったものです。」
と仰られたということです。一つの事に優れることでさえ難しいのに、このようにいずれの分野でも優れていらっしゃるということは、昔(の人とくらべてみても)にもないことでございます。 
5
大鏡 / 三舟の才
『大鏡』がその中心に据えて語っているのは、藤原道長の栄華である。『大鏡』が紀伝体の形で書かれていることは既に触れたが、その構成は、まず「序」で、話の行われた場所( 雲林院)、話し手(大宅世継・夏山繁樹など)の紹介、そして『大鏡』著作の主要な目的(道長が不世出の大人物であるゆえんと、その栄華の由来を究明しようとすること)などについて語り、以下「本紀(帝紀)」(帝王の歴史)、「列伝」、「藤氏物語」、「昔物語」と、五部構成でできている。「本紀」は天皇に関する事蹟で、藤原氏一族興隆の起点となった藤原冬嗣の娘が生んだ第五十五代文徳天皇の八五〇年から語り起こして、第六十八代後一条天皇の一〇二五年に至る十四代一七六年間の歴史を語っている。「列伝」は大臣たちの伝記で、これは具体的にいうと、藤原冬嗣という人から藤原道長に至る二十人の大臣の伝記であり、その人たちに関係のある多くの人々の逸話をあわせて記したもの。今回の「三舟(船)の才」における話題の人、藤原公任は、大納言どまりで大臣になることはなかったため、彼の逸話は、太政大臣であった彼の父藤原頼忠の伝記に収められている。この頼忠という人は、前回登場した東三条殿兼家公のいとこに当たる。兼家公と兄弟の確執があった兄の兼道から譲られて関白就任を果たすが、歴代の摂政・関白に比して必ずしも絶対的権勢を振るうことはなかった人物である。『大鏡』によれば、頼忠は、自身は関白までのぼりつめて朝廷の政治に携わり、また娘を天皇に入内させ外戚関係を結んだが、形式的な外戚という弱点を有していた。円融天皇に入内した長女は中宮に立ち、花山天皇には次女が女御として入内するのだが、ともに皇子の誕生を見ることはなく、「よそ人」と見られていたのである。天皇の外戚であるということが、権力を握ることの絶対条件となっていた当時において、皇孫を持たない頼忠一族の栄華は続かなかった。頼忠は権威を失墜していく。姉が天皇の第一の妻である中宮になって政権に近づいていたはずの公任も、摂政や関白となって政治的・社会的な権力を手にすることが絶望的になってしまった。代わって権力を手にしたのは東三条兼家、道長の父であった。結果として道長は栄華を極め、公任は、位・官職の点で道長にはるかに及ばない大
納言で終わることになる。
今回読むのは、この大納言藤原公任の逸話である。公任は政治的・社会的には不遇であったが、文化人としてずば抜けて優秀な存在であった。子どものころから何にでも優秀で、兼家が自分の三人の息子、道隆・道兼・道長たちに、「どうして、ああも、公任君は何にでもすぐれているのであろう。うらやましいことだなあ。うちの子どもたちは公任君の影帽子さえ踏めそうもないことが実に残念だ。」とぼやいたという逸話があるほど。この「三舟(船)の才」は「公任三船の誉れ譚」ともいい、博学多才にして平安朝第一級の文化人であった藤原公任の文芸的才能を語って、『大鏡』の中でも最も著名な説話の一つとして知られるものである。政治ではなく文化人として自分の才能を発揮させるという生き方を選んだ公任の、文化の香り高い姿を読み味わうと同時に、道長の心理や、権力を失った者の末裔の生き方を身をもって示した公任の心の葛藤を理解してもらえればと思う。 
6
公任大納言、屏風歌遅く進ずる事
今は昔、女院、内裏へはじめて入らせおはしましけるに、御屏風どもをせさせ給て、歌詠みどもに詠ませさせ給ひけるに、四月、藤の花面白く咲きたりけるひらを、四条大納言、あたりて詠み給けるに、その日になりて、人々歌ども持て参りたりけるに、大納言遅く参りければ、御使して、遅きよしをたびたび仰せられつかはす。
権大納言行成、御屏風たまはりて、書くべきよし、なし給ひければ、いよいよ立ち居待たせ給ふほどに、参り給へれば、歌詠ども、「はかばかしきどもも、え詠み出でぬに、さりとも」と、誰も心にくがりけるに、御前に参り給ふや遅きと、殿の、「いかにぞ、あの歌は。遅し」と、仰せられければ、「さらにはかばかしく仕らず。悪くて奉りたらんは、参らせぬには劣りたる事なり。歌詠むともがらの優れたらん中に、はかばかしからぬ歌、書かれたらむ。長き名にさぶらふべし」と、やうにいみじくのがれ申し給へど、殿、「あるべき事にもあらず。異人の歌なくても有なむ。御歌なくは、大方色紙形を書くまじき事なり」など、まめやかに責め申させ給へば、大納言、「いみじく候ふわざかな。こたみは誰もえ詠みえぬたびに侍るめり。中にも公任をこそ、さりともと思ひ給ひつるに、『岸の柳』といふ事を詠みたれば、いと異様なる事なりかし。これらだにかく詠みそこなへば、公任はえ詠み侍らぬもことはりなれば、許したぶべきなり」と、さまざまに逃がれ申し給へど、殿、あやにくに責めさせ給へば、大納言、いみじく思ひわづらひて、ふところより陸奥紙に書きて奉り給へば、広げて前に置かせ給ふに、帥殿より始めて、そこらの上達部・殿上人、心にくく思ひければ、「さりとも、この大納言、故なくは詠み給はじ」と思ひつつ、いつしか、帥殿読み上げ給へば、
  紫の雲とぞ見ゆる藤の花いかなる宿のしるしなるらん
と読み上げ給ふを聞きてなむ、褒めののしりける。
大納言も、殿を始め、みな人、「いみじ」と思ふ気色を見給て、「今なむ胸少し落ちゐ侍ぬ」など申し給ひける。
白河の家におはしける頃、さるべき人々、四五人ばかりまうでて、「花の面白き、見に参りつる也」と言ひければ、大御酒など参りて詠み給ひける、
  春来てぞ人も問ひける山里は花こそ宿の主なりけれ
人々めでて詠み合ひけれど、なずらひなるなかりけり。 
7
『枕草子』 二月晦ごろに
二月晦〔つごもり〕ごろに、風いたう吹きて、空いみじう黒きに、雪すこしうち散りたるほど、黒戸〔くろど〕に主殿寮〔とのもづかさ〕来て、「かうてさぶらふ」と言へば、寄りたるに、「これ、公任〔きんたふ〕の宰相殿の」とてあるを見れば、懐紙〔ふところがみ〕に、
  すこし春ある心地こそすれ
とあるは、げに、今日の気色〔けしき〕に、いとよう合ひたる、「これが本〔もと〕は、いかでか付くべからむ」と、思ひわづらひぬ。「誰々〔たれたれ〕か」と問へば、「それそれ」と言ふ。「みな、いと恥づかしき中に、宰相の御いらへを、いかでか事無〔ことな〕しびにいひ出でむ」と、心一つに苦しきを、御前〔おまへ〕に御覧ぜさせむとすれど、上〔うへ〕のおはしまして、御殿〔おんとの〕ごもりたり。主殿寮は、「疾〔と〕く、疾く」と言ふ。げに、遅うさへあらむは、いと取りどころなければ、「さはれ」とて、
  空寒み花に紛がへて散る雪に
と、わななくわななく書きて、取らせて、「いかに思ふらむ」と、わびし。「これがことをきかばや」と思ふに、「譏〔そし〕られたらばきかじ」とおぼゆるを、「俊賢〔としかた〕の宰相など、『なほ、内侍〔ないし〕に奏〔そう〕してなさむ』となむ、定めたまひし」とばかりぞ、左兵衛〔さひやうゑ〕の督〔かみ〕の、中将におはせし、語りたまひし。
〔訳〕
二月の末頃に、風がひどく吹いて、空はひどく黒い上に、雪がすこし散っている時、黒戸に主殿寮〔:掃除係〕が来て、「ごめんください」と言うので、寄ったところ、「これ、公任の宰相殿のお手紙です」と言ってあるのを見ると、懐紙に
  少し春がある気持ちがする。
と書いてあるのは、たしかに今日の空模様にとてもよく合っているのは、「これの上の句はどうやって付けたらよいだろう」と、悩んでしまった。「同席の方は誰か」と尋ねると、「誰それ誰それ」と言う。「皆、とてもすばらしい方々の所へ、宰相へのお返事をどうして何気ないふうに言えようか」と思うと、自分一人ではつらいので、宮様に御覧になっていただこうとするけれども、主上がいらっしゃっておやすみになっている。主殿寮は「はやくはやく」と言う。「たしかに、おまけに遅いようなのは、本当に取り柄がないので、「どうなっても構わない」と思って、
  天気が寒々としているので花と見間違うようにして散る雪に。
と、ぶるぶる震えながら書いて、渡して、「どのように評価しているだろう」と思うと、つらい。「この句の評判を聞きたいなあ」と思うけれども、「非難されたならば聞かないようにしよう」と感じていると、「俊賢の宰相などが、やはり内侍に奏上してしようと、評議なさった」とだけ、左兵衛の督が、この時中将でいらっしゃった方が、お話しになった。

清少納言は一条天皇中宮の藤原定子に仕えた女房です。話の中に出て来る公任は藤原公任で、『和漢朗詠集』や歌論書の『新撰髄脳』を残した、この時代の中心になる文化人です。そういう超一流の人から、短連歌をしようと清少納言が誘われたのですから、それは大変だし緊張します。なにしろ、気の利いたことを言わないといけないからです。で、この文章を読んで不思議なのは、空模様がすごく悪いのに、「すこし春ある心地こそすれ」という藤原公任の句に対して、「げに、今日の気色に、いとよう合ひたる」と清少納言が感心していることです。この辺は専門家がすでに調べてあって、中国の詩人の白居易の詩の「南秦雪」を素材にしていて、その素材の選び方が今日の空模様にぴったりだと感心したということなのだそうです。その詩の該当部分は、
三時〔春夏秋のこと〕雲冷ややかにして多く雪を飛ばし
二月山寒くして春あること少なし
だそうですが、藤原公任は「春あること少なし」を「少しく春あり」とひねって解釈したようです。白居易の詩文集の『白氏文集』が平安時代に愛読されて、知識人の血となり肉となっていました。そういう着想のおもしろさを清少納言が見抜いたということです。清少納言は、白居易の詩の「三時雲冷ややかにして多く雪を飛ばし」を素材に、雪を花に見立てて句に仕立てたわけです。対句になっている所を使うというのは、さすが、鋭い着想ですね。この句は、ずいぶんよい評価を得たようで、天皇に申し上げて清少納言を内侍〔:天皇への取り次ぎなどをする〕にしてもらおうという発言まで飛び出したようです。この話は登場人物の関係から九九六(長徳二)年だろうかと専門家の注釈がついています。 
8
東三条院詮子四十賀屏風歌と藤原公任 

屏風絵を題にして詠んだ歌を屏風歌という。それは、屏風に直接書いたり、あるいは色紙形に書いて屏風に貼ったりするのを主たる目的として、十世紀に入ってから約百年の間、盛んに詠作された。たとえば『古今集」の撰者の一人である紀貫之の家集、『貫之集』(歌仙家集本) では、九巻八百八十九首のうち、実に巻四まで五百三十二首が屏風歌であり、それは総歌数の半数以上を占める。では、屏風歌がいかなる時に詠作されるかと言えば、それはおそらく屏風を新調した際であるのが一般的だったであろう。いったい屏風は、算賀などの晴の日の調度として新調されることが多かったから、当時の歌人たちが屏風歌を盛んに詠み、それが屏風に書かれることに少なからぬ誇りを感じたのも、想像に難くない。道綱母が、小一条左大臣藤原師罪の五十賀のための屏風歌を詠んで提出した後、その採否にまで言及していることからも窺えるように、自分の詠歌が屏風に書かれる歌として採用されるか否かということは、歌人たちの大きな関心事であった。それは程度の差こそあれ、自分の歌が勅撰集に入集されたり、歌合で勝となったりした際に味わったであろう、歌人としての名誉の一つであったと考えてよい。しかし、一方で、どんなに優れた技能をもっていようと、屏風絵を描く絵師の身分が必ずしも高くはなかったのと同様に、屏風歌を献上することも、元来は高貴の者がする仕事ではなかったという点には留意しておかねばなるまい。屏風歌を依頼に応じて提出する歌人は、先に触れた貫之をはじめ、躬恒、元輔、能宣などがそうであったように、元来は「歌の職人」ーいわゆる「専門歌人」「であって、貴族ではなかったのである。ところが、その状況が十世紀後半からト一世紀にかけて、徐々に変化を見せ始め、公卿などの高貴の歌人も屏風歌を詠進し、それが実際に屏風に書かれるようになってくる。その例としてよく引かれるのが、長保元年の彰子入内屏風歌で、この時は花山法皇、主人相府道長、右大将道綱、右衛門督公任、宰相中将斉信、源宰相俊賢といった公卿以上の身分の者の歌が屏風に書かれたのである(『小右記』長保元年十月三十日条)。
その彰子入内屏風歌において歌を採用された顔触れの中に、当代屈指の歌人、藤原公任がいる。公任は藤原北家小野宮流の貴族で、四条大納言と呼ばれ、漢詩、和歌、管絃の三舟の才を称されたことは、あまりにも有名である。公任は、彰子入内屏風をはじめとして、しばしば屏風歌を詠んだ。いま、『公任集』に載る屏風歌を拾うと次の如くである。
1 中宮のうちにまいり給ふ御屏風歌
2 中宮のうちにまいり給御屏風
3 女院の珊の御賀の屏風の歌
4 寛仁二年正月、入道前太政大臣大饗し侍りけるに、屏風の絵に
5 上東門院の御屏風に
1 ・2 ・5 は前述の彰子入内屏風歌、4 は寛仁二年、頼通大饗の屏風歌であるが、以下、本稿が問題にするのは、3 の長保三年、東三条院詮子四十賀屏風歌である。
女院の珊の御賀の屏風の歌、もしもやとてまうけ給へりけれとも、さもあらさり、花ある所
春たちてさく花みれは行末の月日おほくもおもほゆる哉
松おほかる所にて、みな月はらへしたる所
姫松のしけき所にたつねきて夏はらへする心あるらし
はらへする河への松もけふよりは千世をやちよにのへやしつらむ
七月七日、女、おとこに物いひたるけしきしたる所
わか恋はたなはたつめにかしつれと猶たゝならぬ心ちこそすれ
この時期、公任のような公卿が屏風歌を詠んでいるという事実自体は、彰子入内屏風歌という先例が存することではあり、特に問題にすべきことではない。しかし、ここで注意を喚起させられるのは、波線を施した部分の詞書の意味である。従来、ここの解釈は、次に挙げるように、表現の違いこそあれ、公任の側では賀のための屏風歌が準備されていたにも関わらず、実際にその公任歌は屏風に書かれるに至らなかったという、共通理解を得ていると見られる。
1 冒頭の詞書にいう如く、実際には屏風歌としての撰には入らなかったのである。但し、このように歌題によって公任が歌作しているところよりすれば公任は、この際の歌題を何等かの事情によって承知していて、若し作品を要求されたら持参しようと予め作っておいたのであろうなどと想像は廻転してゆくのである。〔杉崎重遠氏『平安中期歌壇の研究』第四章道長を中心としたる歌壇の状勢第三節東三条院四十御賀算料屏風和歌(桜楓社〕
2 公任の歌は屏風歌に用いられなかったようである。そのことが、右のような詞書となったのであろう。〔伊井春樹氏「公任年譜考」(『国文学研究資料館紀要』第十号)〕
9 名実ともに秀れた歌よみをもって任ずる公任のこと、必ずや詠進の依頼のあらんことを自負して準備していたにもかかわらず、その沙汰なく終わったの意。〔福井遽子氏「橘為義考-道長親近の一家司層の生涯「」(『人文』第九〜十一号。後に『一条朝文壇の研究』桜楓社に所収)〕
4 [通釈]もしも必要があるかも知れないと思って詠作していたのだけれど、そうでもなかった。[参考] (『権記』十月八日条に…筆者注)公任の名が見えないのは、撰歌に漏れたためと思われる。詞書に「さもあらざりけり」とは、そのあたりのことをのべているのであろう。〔伊井春樹氏、津本信博氏、新藤協三氏共著『私家集全釈叢書7、公任集全釈』(風間書房)〕
あるいは、公任に対して敬語を用いているこの詞書が、公任自身によって書かれたものではないという理由で、詞書の信愚性を問題にする向きもあるかもしれない。しかし、公任以外の人物がこのような細かい屏風歌詠進状況を記すためには、その情報を知る材料が当然あったはずであり、従って、詞書の内容は信用に足るものと思われる。そうすると公任の側ではあらかじめ屏風歌を準備していたにも関わらず、東三条院四十賀の際には依頼がなく、結果的には屏風に書かれなかったという事実が浮かび上がってくる。長保三年といえば、公任は、その二年前に彰子入内屏風歌を詠んでいるだけではなく、『拾遺集』に先駆けて、既に『拾遺抄』を編纂し終わっていたと考えられるので、これらの業績からみても、彼が当時、屈指の歌人と見倣されていたことは容易に推測できる。にもかかわらず、公任に正式な屏風歌の依頼がなかったのはなぜか。そしてそもそも公任は、依頼が来る前からなぜ屏風歌を詠作しておいたのか。そこには冒頭に述べた、屏風歌詠作をめぐる歌人構成の移り変わりという問題と、何か関連する事情があったように思われる。そこで以下、この詞書の意味する状況を、公任以外の歌人の屏風歌詠進状況に照らし、公任の立場がいかなるものであったかという観点から考察してみたい。 

まず初めに、東三条院四十賀がどのような経緯で催されるに至ったかという点から考察する。猶、以後用いる資料は、主に杉崎重遠氏 、平野由紀子氏によって既に指摘されたものである。
東三条院詮子四十賀は、十月九日に催される以前に何度か計画され、その度に延期されている。次に挙げるのは、『権記』長保三年、一月九日条である。
九日、辛亥、罷出、参院、赴桃園、式部丞兼宣来、告自一條院有召之由、即参、仰云、日者錐有云く之説、未承一定之間、左大臣申来月十日可令行賀事給之由、而近日天下不静、病死之輩遍満京中、只偏可令修擁実事給之比也、若以有旧例必可被行者、過此間令行給甚可宜者、以此由可奏者、即参入、奏聞、仰云、今朝自院有仰事、又ロハ今有此仰、く旨可然、而賀算之事古今恒例、不可獣過、行事已甫、為之如何、相定可申、可仰左大臣者、即詣彼第伝勅命、即被申云、御賀事欲令行給、尤可然、但自院所令奏給亦理也、抑天下病患有増無減、奉仕御調度等之道く雑工等皆愁此病、奉行人亦如此、期日已迫、若可然来四月祭後揮吉日、令行給可宜旨歎者、即還参、奏聞此旨、即依仰旨参院、令奏承由退出、
当時、東三条院詮子は一條院に移っていたが、女院はここに行成を召して次のように指示する。すなわち、なかなか決まらなかった賀宴の日取りを、左大臣道長は三月十日に予定したが、これに対し女院は疫病が流行しているため延期する旨を…条帝に伝えるように申しつけたのである。一方、女院の賀宴延期の申し出を辞退のニュアンスで受け取った一条帝は、賀宴をせずに済ますことはできないという意向を添えて、道長に最終決定を下すよう命じた。そこで、賀宴の決定権を委ねられた道長は、女院と一条帝、双方の意向を汲んで、賀宴をひとまず延期することとし、賀宴は賀茂祭以後の吉日を選んで行われることになった。東三条院四十賀の表向きの主催者は一条帝だが、道長も主催者的立場で活躍していたことがわかる。
ここで東三条院の晩年について触れておこう。女院は、正暦二年九月十六日に病気のため落飾。その後は一条帝の母后として政界に絶大な権勢を保ちながらも、寺社詣でに余念がなく、四十賀のこの年も、賀宴と相前後して石山詣でを行っている。しかし、女院の体調はすぐれず、特に九月頃からは不調が続き、ついに同年閏十二月二十一日に亡くなることになる。これは、四f賀宴からほぼ三ヶ月後のことである。つまり、東三条院四十賀にあたる年は、疫病の流行に加えて、女院の病気も思わしくないという、算賀を催すには不都合な状況が続いたのである。 

さて、このような状況の中で、東三条院四十賀の屏風歌は、どのような方針で詠作されたのだろうか。屏風歌に関わる記事としては、まず、『権記』長保三年十月七日条が挙げられる。
A 参大内、今日御賀試楽也、依召候御前、有勅見右少弁輔サ・伊賀守為義・前越前守為時・蔵人道済等所進御屏風和歌、
東三条院四十賀の試楽の日、行成は一条帝から、輔サ、為義、為時、道済らが詠進した屏風歌を見るよう命じられる。以下、これらの人物について、簡単に触れておく。まず輔サは、六位蔵人、式部丞から、後に左少弁となり、東宮昇殿を許されることになる人物である。また為義は、福井迫子氏によると、橘氏で、叔母に一条天皇の乳母として有名な橘三位をもつ人物である。蔵入所雑色文章生から敦康親王の家司になるが、本来は道長家の家司だったらしい。そして為時は、言うまでもなく紫式部の父で、長徳二年正月に下国の淡路守に任じられたのが不満で、一条帝に申文を奉り、その名句により越前守にかえられたというエピソードはよく知られている。東三条院四十賀の時は、越前守の任期を終え帰京後、職のない時であつた。最後の道済は、歌人、源信明の孫で、文章生出身の蔵人である。東三条院四十賀の折も一条帝の身辺にいて、大きく賀の実務に関与していた。
このように、これら四人に共通するのは、一条帝や道長周辺の蔵人や家司クラスで、いわゆる専門歌人と言われる階層の人々であるという点である。先の『権記』の記事に、「輔サ・為義・為時・道済等」とあるところから、他にも同じように、試楽の日以前に屏風歌を詠んで献上していた人々がいたはずであるが、それらの人々もこの四人が属する階層からそう逸脱するものではないと思われる。また、『輔サ集』39〜4番に載る、この時の屏風歌の詞書には、
東三条院の御賀の屏風の歌たてまつれと人くにめしけれは、その中にてたてまつる、
と記されているが、ここの「人く」も、先の『権記』の記事と同じ、専門歌人層を指すものだろう.猶、彼らが、決して帝をはじめとする貴人の御前で屏風歌を詠んでいるのではなく、自分の詠歌を書いて、前もって献上している点に注意しておきたい。
さて、同じ試楽の日、試楽やその後の酒宴などがみな終了して各々が退出した後、行成らは一条帝の御前に残った。
B 事詑各退出、撤御装束後、左大臣・内大臣・左衛門督井金吾召候御前、左大臣・左金吾詠御屏風和寄、了退出、
これは、先に挙げた『権記』の記事の続きで、長保三年十月七日条の最後の部分。ここでは、左大臣道長をはじめ、内大臣公季、左衛門督公任と金吾ー右衛門督を指すとすれば斉信1 が一条帝の御前に集い、このうち道長と公任が屏風歌を詠んでいる。このことは、次に挙げるように、簡略ながら『小右記』(小右記逸文〔野府記〕七東三條院御賀試楽事) にも見える。
B' 戌終事畢、各く退出、伝聞、□ 圓御屏風和寄云短
この記事には欠字があるため、「御屏風和寄」をめぐって何がなされたのか定かではない。しかし、先の『権記』の記事と照らし合わせると、屏風歌を詠んだという意味の記事と見られる。実資は御前に残ることはせず、後に屏風歌が詠まれたことを人づてに聞いたのである。B の記事で屏風歌を詠んでいるのが、道長、公任といった公卿であるという点で、Aの記事の専門歌人層とは対照的である。
そして試楽の翌日、十月八日の『権記』には、最終的に歌を採用された歌人とその歌数が記されている。
C 八日、詣揮正宮、参左府、被奉寄和寄二首、又祭主輔親所進和寄十二首、同付余被奏、余参内、於弓場殿、招出蔵人道済、令奏事由、於弘徽殿東庇、書御屏風四帖和歌十二首、〔左大臣三首、輔サ一首、兼隆三首、輔親一首、為時一首、為義二首、道隆一首、〕令奏覧、依勅候弓場殿、給御衣、拝舞退出、帰宅、
この日になって、道長が二首、輔親が十二首の歌を詠進し、おそらくそれらをも含あて撰歌した結果、採用されたのがここに列挙された七名の歌、十二首だった。『権記』の記事には人名の誤りがあるが、既に杉崎氏によって改訂されたのに従って見てみると、先に触れた輔歩、為時、為義、道済の他に、道長と兼澄、そして輔親の歌が採用されたと見られる。道長は三首採られているので、この日提出した二首以外にも、前もって歌を提出していたと見られるが、この点については後述する。ちなみに、現在確認される東三条院四十賀屏風歌は、公任歌(『公任集』鵬〜鋤番)、輔サ歌(『輔サ集』39〜4、56番、『栄花物語』巻第七とりべ野)、道済歌(『道済集』75〜86番)、兼澄歌(『栄花物語』巻第七とりべ野、『後拾遺集』螂番)、輔親歌(『夫木抄』罎番) である。C の記事に、最終的に採用された歌数が十二首とあるので、この時の屏風は月次屏風であったと推測されるが、その屏風絵の全体像を捉えるには、月次屏風の形式を比較的保って東三条院四十賀屏風献上歌を収めると見なしうる『輔尹集』、『道済集』が参考になる。
輔尹集
東三条院の御賀の屏風の歌たてまつれと人くにめしけれは、その中にてたてまつる、正月、人の家にやり水にむめの花さけり、うくひすをきく
やとちかくうへてしはなのかひありてけふうくひすのはつねをそきく
二月、子日する所にくるまよりをりてこまつ(享分空白)ひく
ひともとにちとせこもれるひめこまつてことにひけるほとをしらなん
三月、むまとめてはなみる
わかこまをとゝめておれるやまさくらみやこのはなにくらへつゝみん
四月、まつりのつかひたつ
よそにのみゝわたりきつるあしひきのやまゐのころもけふそ(以下空自)
五月、まらうと、女のものいりやのつまになてしこさきたり
とこなつのはなによりこそあやめくさねもみぬやとをたつねてもくれ
六月、はらへする所
しろたへにかはせのなみもうちかさね神のみぞきのしるしあるかも
東三条院の御賀、一条院のし給に、屏風の歌、八月十五夜
あまのはらやとはちかくもみえねともかよひてすめるあきのよの月かな
道済集
はなの木をうゑしもしるく春くれはまつうくひすのこゑをきゝつる
子日
ひめこ松おほかるのへにねの日してこゝうに千代をまかせつる哉
たひ人、山里を見る
ちりはてゝのちや帰覧ふるさともわすられぬへき山さくら哉
今日くれはかさすあふひはちはやふる神につかふるしるしなりけり
五月、あやめふくいゑ
年ことの今日におひそふあやめ草ひくらんぬまのみまほしきかな
六月、はらへ
みな川のたゆる世もあらし年ことのなこしのはらへこゝにきてせん
七月七日
さ夜ふけてあひやしぬらんたなはたもよそひともまたれこそすれ
八月十五夜
としことに秋のすくれておほゆるはこよひの月の見するなりけり
九月九日
をる人はよはひをのふときくなへにちることしらぬきくの花かな
冬、もみちする家
日をふれとあかすもあるかな紅葉ゝのひるたひことに色のまされる
十一月(神まつりする家
神代よりいはひそめてしあしひきの山のさかきは色もかはらす
ゆきふる家
松のうゑにふるしら雪のかつきえてちよはかくれぬものにそ有ける

猶、『道済集』には、いつ、何のために詠まれた歌群なのか明記されないけれども、この歌群の中には、後世の勅撰集、私撰集に、東三条院四十賀屏風歌として採られている歌が存することから、この歌群全体を、『輔サ集』同様、一連の東三条院四十賀屏風歌と見倣すごとが許されよう。
さて、Cの記事で初めて登場する兼澄と輔親は、当時の代表的な受領層歌人である。そうすると、彼らは、先に触れた輔サ、為時、為義、道済と同様に専門歌人であり、従って、最終的に屏風歌を採用された歌人たちは、道長を除けばすべて専門歌人であることになる。それは、たとえば長保五年の道長歌合にも見られるような、道長と、彼に親近するメンバーで横成されていると言ってもよい。だから、専門歌人たちの歌の中に道長の歌が三首も入っているのは、道長の公卿としての身分ゆえというよりはむしろ、この賀宴の主催者としての道長が、東三条院への敬意を表すために寿いだもので、他の専門歌人たちよりも優先的に採歌されたからだと解するのが妥当だろう。このようにして、東三条院四卜賀屏風歌は撰歌され、屏風は完成したのである。 

東三条院四十賀屏風歌において最終的に採用されたのは、道長の他は六人の専門歌人たちの歌であった。その一方で、あらかじあ屏風歌を準備し、その上、帝の御前で屏風歌を詠んでいる公任の歌が、屏風に書かれなかったのはなぜか。この点については、杉崎氏によって、"身分無視、実力重視"という撰歌基準が指摘され、次のように述べられている。
然も公任「長保六年十月には正四位下参議に過ぎなかったのに、.一年後の長保三年十月には従三位中納言に昇進していて堂々たる上達部であった「が御前に於いて和歌を詠じているにも拘らず、その和歌が採用されないで、身分低き人々の和歌を道長のそれに伍せしめて色紙形に書かしたということは軽々に見逃せない。思うに、これは身分に関する問題ではなくして、歌人として世上に認められていたか否かという問題ではなかろうか。
後世の視点から、ある歌人がその当時「歌人として世上に認められていたか否か」を客観的に見定めることは、容易なことではない。しかし先に触れたように、公任の『拾遺抄』編纂はこの頃までに終了していたらしいし、また、公任が東三条院四十賀の二年前に彰子入内屏風歌として、「紫の雲とそ見ゆる藤の花いかなる宿のしるしなるらむ」という歌を詠み、世間の評判となったことを思い起こす時、東三条院四十賀当時、公任が歌人として認められていなかったとはおよそ考えられない。とすれば、公任の歌が最終的に屏風に書かれていないのは、公任が歌人として世間に認められていなかったからではなく、杉崎氏が用いられたのとは全く逆の意味での「身分に関する問題」、つまり、屏風歌を詠んで正式に献上するにしては高すぎる公卿という地位にその理由があると考えられないだろうか。
ここでもう一度A〜Cの記事を振り返ってみよう。Aでは、一条帝や道長に親近している専門歌人たちが、前もって屏風歌を詠作し、提出していた。…方、B (B) では、帝の御前で公卿が屏風歌を詠んでいた。この試楽の後の一条帝の御前での屏風歌詠進について、平野氏前掲論文では、屏風歌の詠作過程に言及する際にも触れられていないし、また杉崎氏の場合も、この記事を指摘されるものの、取り立てての考察は見られない。B (B) の記事が、東三条院四十賀屏風歌の詠作過程の中にどう位置づけられるのか、難しいところではある。一つの案として福井氏前掲論文では、Bの記事の「詠」字が「撰」字の誤写である可能性が指摘されている。もっともこの案は一応考慮されただけで、結局『権記』の本文を尊重し、「詠」字として考察は進められているが、仮にこの誤字説をとるとすると、東三条院四卜賀屏風歌の場合、屏風歌の撰者は誰なのか、どの段階で撰歌したのかという点が、占記録類に明記されないので、Bの記事をそれと想定することができるわけである。しかし、「詠」「撰」両者の草体の類似はそれほど認められず、また「詠」を「撰」とする『権記』本文を未だ見ないので、やはり福井氏同様、「詠」字と認めて誤字説をとらない方が妥当であると考える。そこで改めてB (B) の記事を、次のように解釈してみた。すなわち、蔵人、家司クラスの人々が前もって提出するように求められている屏風歌が、実際に屏風に書くためのものであるのに対して、この試楽の後の一条帝の御前での屏風歌詠進は、部屋の調度、設備の類を取り去った後行われたもので、必ずしも屏風に書くための歌を披露した公の場ではないのではないか。仮にこの一条帝の御前での詠歌が、屏風に書くための屏風歌を詠進する正式な機会であったのならば、C の記事に記されるように、道長は試楽の翌日、改めて自らの詠歌を帝に献上する必要はあるまい。道長がこの日、自らの詠歌を献上したのは、かねてから準備しておいた歌か、或いは前日に御前で詠んだ歌を、屏風に書くための歌として正式に提出したということだったからなのだろう。また、道長がこの日詠進したのは二首の歌で、採用されたのは三首であるから、彼はこれ以前にも、自らの詠歌を提出していたと見られるが、それとB (B) の一条帝の御前での詠歌とは、同じ機会ではないと思われる。もしそうでなければ、一条帝の御前で道長と同様に屏風歌を詠んだ公任の歌が採用されていないのは、不自然だからである。つまり、一条帝の御前での道長と公任の屏風歌詠進は、その事だけを取り出すならば、蔵人、家司クラスの人々の屏風歌詠進とは全く別の次元で捉えられるべき事柄だったのではなかろうか。東三条院四十賀当時、帝の御前に仕候する殿上人は御前での詠歌の機会に恵まれるが、一方、下層階級の専門歌人たちは、いわゆる歌の職人となって、依頼された歌を詠んで献上するという、貴族層歌人と専門歌人とが並存する歌壇の状況が看取されるのである。
彰子入内屏風歌を詠進したこと一つをとってみても、公任の歌人としての名声は確固たるものであって、仮に東三条院四十賀屏風歌においても同じ基準で歌人が選定されるならば、公任は屏風歌を召されるべき存在だったはずである。晴の屏風に和歌を依頼されるということは、身分の問題を抜きにすれば、歌人にとっての名誉であるには違いない。しかし、東三条院四十賀屏風歌を実際に提出したことが現在確認できるのは、道長の他は蔵人、家司、受領クラスの専門歌人のみである。専門歌人層へ屏風歌を依頼するという方針は、当初からあったものと見るのがまず妥当なところではあろうが、彰子入内屏風歌で公卿以上の身分の者に屏風歌詠進を求めたのが、他ならぬ道長であることから考えると、あるいは東三条院四卜賀屏風歌においても、当初は公卿層の歌人を選ぼうとしていた可能性も、全く否定してしまうことはできまい。しかし仮にそうだとしても、前述の通り賀宴が延期される事態となったため、後に方針を変更して、屏風歌の詠者を無理に公卿クラスにすることなく、実質的な主催者である道長の身辺の、短期間で一定水準の歌を詠ませることができる専門歌人層にしたのは、穏当な処置と言えるだろう。そうすると、道長がこの時に屏風歌を献上したのは、前述の通り、彼の歌才や身分の高さからではなく、この時屏風歌を詠進した歌人層とは全く別格に、賀宴の主催者的立場から寿ぎの気持を表したものであり、従って、道長以外に屏風歌を詠んだのが、蔵人、家司、受領クラスの専門歌人である中で、階層の異なる、当時従三位の公任が公式に屏風歌を召されたとは、極めて考えにくいのではないだろうか。公任自身にはまして、身分柄、専門歌人のメンバーに割り込もうという意識はなかったと推測される。『公任集』謝番の、「もしもやとてまうけ給へりけれとも、さもあらさり」という詞書は、今回も彰子入内屏風歌と同じように公卿クラスに屏風歌を依頼されるかもしれないことを予想した公任の側は、自身の詠歌を準備していたけれども、結果的に専門歌人層への依頼ということになり、公任には正式な屏風歌の依頼なく終わったという状況を表していると思われる。
猶、東三条院四十賀屏風歌における公任の歌の採否をめぐる問題については、既に福井迫子氏の論考がある。しかしここでは、史料大成本の『権記』が用いられた結果、最終的に歌を採用された歌人の歌数の合計が十一首となり、月次屏風の歌、十二首には一首足りないことになるため、不足分の一首を公任の歌と想定する見解が述べられている。
(Bの記事をふまえて… 筆者注)したがって輔親や兼澄らと同列に御沙汰は無かったものの、つまり、家集所収歌とは別に、身分柄からも当然の別格の形で詠進の機会を得た、と解し(…中略…) (『権記』八日条)と記された実質十一首の「後の一首は公任の和歌であったろうか」と前章で推測したしだいであった。
公任には、「輔親や兼澄らと同列に御沙汰は無かった」けれども、「身分柄からも当然の別格の形」、つまり一条帝の御前での「詠進の機会を得た」と考えられたのである。しかしながら、今日よりよい本文として用いられている史料纂集では、採用された歌の合計は十、一首であり、また、仮に歌数が足りなくても、公任の名が脱落したと想定するよりも、歌数の数字の誤写と考える方が蓋然性が高いと見て、これまでのような考察を行った。つまり、史料大成本によれば、公任には他の専門歌人とは別格の扱いで屏風歌を詠進する機会があったと想定する余地が生まれるけれども、史料纂集本によれば、そのような想定の必要はなくなるのである。但し、福井氏の、公任には他の専門歌人と同列の屏風歌詠進依頼はあり得ないという見方には、全く同感である。 

今日、たとえば増田繁夫氏によって、
一条朝以前においては、晴の屏風に書かれる歌などは高貴の人はよまず、専門歌人によませていたのだが、長保元年の道長女の彰子の入内屏風には、花山院以下参議藤原公任らがよみ、作者名まで記入するという状況になってきていたから、和歌の社会的意味も以前とは異なってきていた。
と述べられているように、彰子入内屏風歌を専門歌人から貴族層歌人への転換点とする捉え方が定説化しつつある。確かに一条朝以後、彰子入内屏風歌をはじめ、長和四年の道長五十賀や、治安三年の倫子六十賀に見られるように、貴族層の歌人たちが屏風歌を詠作し、それが屏風に書かれる事例が増えてくるという一面は認められ、公任も、東三条院四七賀から十七年後の寛仁二年に詠作された、摂政藤原頼通家大饗屏風歌では、輔親、輔サらの専門歌人が採歌される 方で、道長とともに自らの歌を採られている。この時公任は、屏風歌の撰者だったこともあり、『栄花物語』(巻上二ゆふしで) に記される如く、他の専門歌人たちとは別格に自らの歌を詠進したのであった。だが一方で、この説に若干の例外が存することは、やはり考慮すべきだと思われる。たとえば、一条朝以前において、貴人が全く屏風歌を詠まなかったのかと言えばそうではなく、藤原朝忠は、参議であった応和元年に昌子内親王の裳着の屏風歌を詠んでいる。また、一条朝になってからも、今まで考察してきた東三条院四卜賀屏風歌のように、専門歌人が主力となって屏風歌を詠作する場合も存するのである。東三条院四十賀屏風歌では、公任の側では屏風歌を詠作しておきながら、その歌が屏風に書かれた形跡がない。それはこの屏風歌の場合、専門歌人が貴人の御前に出ることなく、歌の職人として屏風歌を詠んで奉仕するという伝統的な様相を呈しており、公卿である公任が一歌人として出る幕はなかったからであると思われる。この点で東三条院四十賀屏風歌は、一条朝以後の記録類に残る事例として例外的ではあるが、これより二年前の彰子入内屏風歌の場合、小野宮実資が記した『小右記』の記事によって、身分の高い者は屏風歌などを詠むべきではないという異見が存していたことを考慮すれば、東三条院四十賀の時点では、まだ専門歌人層と貴族歌人層とが並存していた一条朝以前の様相を引きずることになったとしても、不自然ではないだろう。そして、屏風歌を詠進することに対する価値観が大きく変わり始めたこの時期に、公任が、『公任集』鵬番の詞書から窮えるように、正式な依頼が来るのに備えて、屏風歌をあらかじめ準備しておいたということは、結果的にはこれらの歌が屏風歌として用いられるに至らなかったにせよ、屏風歌詠作にあたる歌人構成の移り変わりに沿った一件として、興味深い事実であると思われる。 
 
56.和泉式部 (いずみしきぶ)  

 

あらざらむ この世(よ)のほかの 思(おも)ひ出(で)に
いまひとたびの 逢(あ)ふこともがな  
私は、そう長くは生きていないでしょう。あの世へ行ったときの思い出のために、もう一度あなたに抱かれたいものです。 / 私の命はもうすぐ尽きてしまうでしょう。せめて、あの世への大切な思い出として、私の命が尽きる前にもう一度だけ、あなたにお逢いしたいものです。 / もうすぐ病気で死んでいくのでしょうけれど、この世の思い出に、もう一度あなたにお逢いしたいものです。 / 私はもうすぐ死んでしまうことでしょうが、私のあの世への思い出になるように、せめてもう一度なりともあなたにお会いしたいのです。
○ あらざらむ / 「あら」は、ラ変の動詞「あり」の未然形で、「生きている」の意。「あらざらむ」で、「生きていないだろう」の意。
○ この世のほかの思ひ出に / 「この世」は、現世。「ほか」は、「外」の意。「この世のほか」で、「この世の外」、すなわち、「あの世」の意。「に」は、目的を表す格助詞で、「〜のために」。
○ 今ひとたびの / 「今」は、「もう」の意を表す副詞。「今ひとたび」で、もう一度。「の」は、連体修飾格の格助詞。
○ 逢ふこともがな / 「逢ふ」は、男女の関係を持つこと。「もがな」は、願望の終助詞で、「〜であったらなあ」の意。
※ 『後拾遺集』の詞書に、「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける」とあり、この歌を詠んだ時は、実際に死が迫っていた様子がうかがえる。「人」が誰かは不明であるが、恋多き女性の最期に相応しい願望を詠み込んだ歌である。 
消え行く「東京」心のルーツ 
1
和泉式部(いずみしきぶ、天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい(母が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。
長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入る。後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。帰京後は道貞と別居状態であったらしく、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。紫式部は和泉式部を評して「和泉式部という人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ」と『紫式部日記』に記されている。
為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。敦道親王の召人として一子・永覚を設けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが晩年の動静は不明。娘を亡くした愛傷歌は胸を打つものがある。「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」は、性空上人への結縁歌であり、式部の勅撰集(拾遺集)初出歌である。仏教への傾倒が伺われる。歌の返しに性空から袈裟をもらい、それを着て命を終えた。戒名は誠心院専意法尼。
人物
○ 和泉式部続集切恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛された。
○ 敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしい。ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集である『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得た。
○ イワシが好きだったという説話があるが、その根拠とされる『猿源氏草紙』は室町時代後期の作品であり、すなわち後世の作話と思われる。
遺跡・逸話
○ 岩手県北上市 - 和賀町竪川目に墓所がある。付近が出生地あるいは没地と伝えられ、ここが和泉式部伝説の北限とされる。早世した小式部を哀れんだ隣人が五輪塔を建てたという伝説に準えて明治2年に奉建された五輪塔などがある。
○ 福島県石川郡石川町 - この地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子「玉世姫」(たまよひめ)が和泉式部であると言い伝えが残る。式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、13でこの地を離れた式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存する。
○ 岐阜県可児郡御嵩町 - 旧中山道の途中に和泉式部の廟所と言われる石碑が存在する。同地に伝わる伝承によると晩年は東海道を下る旅に出て、寛仁3年(1019年)にここで病を得て歿したとされている。碑には「一人さへ 渡れば沈む 浮橋に あとなる人は しばしとどまれ」という一首が刻まれている。
○ 大阪府堺市西区平岡町 - 居宅跡である「和泉式部宮」がある。
○ 大阪府岸和田市 - 阪和線下松駅周辺の大阪府道30号大阪和泉泉南線沿いには和泉式部にまつわる池、塚などが存在する。
○ 兵庫県伊丹市に和泉式部の墓所がある。
○ 京都府京都市右京区太秦 - 太秦和泉式部町という地名がある。
○ 京都府亀岡市 - 称名寺に和泉式部の墓所があると伝えられる。
○ 山口県山陽小野田市 - 和泉式部の墓所がある。
○ 佐賀県白石町/嬉野市 - 白石町の福泉禅寺で生誕し、嬉野市の大黒丸夫婦に育てられたとされる言い伝えがある。寺には故郷を偲んで詠んだとされる和歌の掛け軸が伝わっており、境内には歌碑と供養塔が建立されている。
しかしこれらの逸話や墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。 
2
誠心院
誠心院は、以前は「じょうしんいん」と申しましたが、先代住職の頃から「せいしんいん」と呼ばれています。
寺伝に依りますと、初代の住職は平安の歌人和泉式部で、その法名を誠心院専意法尼と申します。娘の小式部に先立たれた和泉式部は、書写山円教寺の性空上人に勧められ誓願寺の本堂に籠りご本尊に教えを受けます。女人の身でも六字の名号をお唱えすれば、身の穢れも消えて往生できる事を聞き、六字名号を日々お唱えして、阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられ浄土へ往生しました。
上東門院彰子が父藤原道長に勧め、法成寺の中の東北院の傍らに寺を建立させ、東北寺誠心院としました。(現在の京都御所の 東、荒神口辺りでした。)時に万寿四(1027)年の事です。鎌倉期には小川通りの一条上ル誓願寺の南に移転しました。この頃に 泉涌寺の末に成ったようです。
その後、天正年間に豊臣秀吉の命令で現所在地、寺町六角下ルに移転されました。禁門の変による元治元年(1864年)の大火から立ち直る間もなく、明治四年京都府知事の命令で、境内に新京極通りが通り境内地は二分されます。山門をはじめ堂宇を失い、将に寺門は荒廃を極めました。雲龍院からお越しの泉周応宗師を始め、箸蔵栄龍、曽我部俊雄、向井俊恭の四代の先住様方の弛まぬ精進と、檀信徒の惜しみない助力のお蔭で、平成九年の末、山門の建設が成った時には、檀信徒一同その喜びは一入でした。
『わらわがすみかも他所ならず。あの石塔こそすみかにてさむらへ。 不思議やなあの石塔は和泉式部の御墓と こそ聞きつるに そもすみかとは不審なり。』 (謡曲 誓願寺より)
石塔は、和泉式部の往生の、六字名号を念仏する人があれば二十五菩薩と共にお迎えに来てくださるという謡曲「誓願寺」の舞台にもなっている宝篋印塔で、正和二年(一三一三年)に改修建立されました。高さ約四メートル、幅約二.四メートルあります。江戸時代の名所絵図には石塔と共に、傍らにあった軒端の梅が描かれています。当時から和泉式部を慕い多くの旅人が参拝した様ですが、和泉式部を慕い霊前に手を合わせる人の姿は今も絶えることなく続いています。
和泉式部
生没年不詳であるが、生年は天延二年(974)〜天元元年(978)の間とするのが通説である。平安時代中期の歌人。中古三十六歌仙の一人に数えられる。
大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて「和泉式部」と呼ばれた。この道貞との間に娘 小式部内侍を儲ける。夫とは後に離れるが、娘は母譲りの歌才を示している。
まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王との熱愛が世に喧伝される。為尊親王の死後の翌年、今度はその同母弟である「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道親王の求愛を受ける。この求愛は熱烈を極め、親王は式部を邸に迎えようとし、結果として正妃が家出するに至った。
敦道親王との間に一子永覚を儲けるが、兄と同じく、敦道親王も寛弘四年(1007)に早世する。服喪を終えた式部は、寛弘末年(1008-1011)頃から一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕を始めた。この頃、同じく彰子の周辺にいた紫式部・伊勢大輔・赤染衛門らとともに宮廷サロンを築くことになる。四十歳を過ぎた頃、彰子の父道長の家司藤原保昌と再婚し、丹後守となった夫とともにその任国に下った。万寿二年(1025)、式部に先立ち娘の小式部内侍が死去。式部晩年の詳細は知られていない。
歌人式部の真情に溢れる作風は、恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多いのは数々の恋愛遍歴によるものであろう。その才能は、同時代の大歌人藤原公任にも賞賛され、正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえる。伝存する家集は、『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』など。また『拾遺集』以下、勅撰集に二百四十六首の和歌を採られ、死後初の勅撰集『後拾遺集』では最多入集歌人の名誉を得た。
さらに、敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』(寛弘4年(1007)頃成立)は、わが国の女流文学を代表する一つとしてよく知られている。本作品の特長は、恋愛に関する式部のありのままの心情描写が、取り交わされた多くの和歌を交えてあらわされていることである。 
3
”浮かれ女”と呼ばれた歌人
和泉式部とは
平安時代の歌人。父は越前守大江雅致。母は越中守平保衡の娘で,冷泉天皇の皇后昌子に仕え,介内侍と呼ばれた女房であった。
母が仕えていた冷泉院皇后の昌子内親王の宮で育ち 二人の宮さまのお相手をすることが御許丸の遊びだったのです
この絵は幼少の頃の 御許丸と二人の兄宮為尊親王と弟宮の敦道親王の絵です こういう中で育ったことが 後々の人生の基盤となっていったのです
第一の夫:和泉守橘道貞(いずみのかみ たちばなのみちさだ)
平安中期の官人。広相の孫で下総守仲任の子。長徳1(995)年ごろ和泉式部と結ばれた。彼女の女房名は道貞が和泉守であったことによる。ふたりの間に小式部内侍が生まれている。結婚生活は幸福ではなかったようで寛弘1(1004)年陸奥守となったときには,ふたりは離れており,任国への下向の途次,尾張守大江匡衡,赤染衛門夫妻のところへ立ち寄っている。後年左京命婦と結ばれたらしい。権力者藤原道長に追従して,私邸を提供したり,馬を贈るなど典型的な受領であった。
橘道貞との結婚は19才。離縁は為尊親王との仲が原因とも言われていました。
大恋愛の相手:弾正宮為尊親王(だんじょうのみやためたかしんのう)
平安時代中期,冷泉(れいぜい)天皇の第3皇子。
異母兄・花山天皇の薦めにより藤原伊尹の娘・九の御方と結婚するが、のち和泉式部や新中納言と恋愛関係にあった。長保3年(1001年)冬頃から病にあり、翌長保4年(1002年)26歳という若さで薨去。伝染病が大流行していた平安京を毎日のように夜歩きしたために病を得たと噂されたという。同母弟の敦道親王とともに、少し軽薄な性格であったと評された。また、子どものころは非常に美しい容貌をしていたが、元服後は容姿が見劣りしてしまったという。
若くして病に倒れ、和泉式部との短い大恋愛は幕を閉じました。
大恋愛の相手の弟と更に大恋愛:敦道親王(あつみちしんのう)
冷泉院×超子の三の宮です。兄に勝るとも劣らない美貌、加えて教養高く知的なムードの漂う貴公子です。帥宮との呼称は、太宰帥という官職から呼ばれたものです。早くに母君を亡くされて、兄君ともども、祖父・藤原兼家さまにとてもかわいがられたようです。まだ元服前の幼い頃、大嘗会の御禊で行列する兼家に、「おじいさま〜!」と御簾から身を乗り出されて小さなお手を振られたので、可愛い孫におじいさまはメロメロになってしまったとか。
敦道親王は藤原道隆三女を妻に迎えるも離婚し、その後藤原済時の娘を妻に迎えますが、この時和泉式部と恋人となり離婚します。その後和泉式部との大恋愛を楽しみますが、27才という若さで永眠されます。
和泉式部日記 / 敦道親王との大恋愛の備忘録。和泉式部が敦道親王と恋におち、親王邸に入るまでの経緯がつづられています。
最後の夫:藤原保昌(ふじわらやすまさ)
藤原道長の家司(けいし)として仕えた武人 / 敦道親王の死後、一条天皇の中宮、藤原彰子に仕えます。この頃紫式部も同じく彰子に仕えていました。そこで最後の夫、藤原保昌と再婚します。
公家の出身でありながら武勇に秀でており、「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)では、勇気があり武略に優れた人物であったと称え、「今昔物語集」にも「兵の家にて非ずと云えども心猛くして弓箭(武芸)の道に達せり」と記されており、道長四天王の一人として名声を博していました。
和泉式部が60才の頃、最後の夫保昌にも先立たれました。
敦道親王とのやり取り
為尊親王を亡くした和泉式部と、和泉式部に惹かれた敦道親王がどの様なやり取りをしたのか・・・和泉式部日記に書かれています。
亡くなった為尊親王との日々を嘆きながら過ごしていたところ、為尊親王の童が訪ねてきて橘の花を渡し、これを見てどう思うかと言う。この花は敦道親王が渡したもので、橘の花は昔の恋人、つまり兄の為尊親王の事です。それに対し、和泉式部は口頭で伝言だけというのも失礼だと思い・・・
薫る香(か)によそふるよりはほととぎす 聞かばや同じ声やしたると
(橘の花にかこつけて私の消息を確かめているけど、それよりも私はあなたの声が直接聞きたい。あなたの声は兄宮様と同じ声なのかを・・・という様な歌で返事をします。)
同じ枝に泣きつつおりしほととぎす 声はかわらぬものとしらなむ
(同じ枝にとまって泣いていたホトトギスの様に同じ声をしていますよ。つまり兄を思って下さい的な感じです。
ここで和泉式部は敦道親王に惹かれてしまうのですが、あえて返事をしないのです。そこで我慢できず敦道親王は更に歌を送ります。)
うち出ででもありにしものをなかなかに苦しきまでも嘆く今日かな
(ああ告白しなければよかったものを。あなたに告白したばかりに今日もこんなにも心が苦く嘆く毎日です。
とゾッコンです。そこで和泉式部が返事をします。)
今日の間の 心にかへて 思ひやれ ながめつつのみ すぐす心を
(今日一日の嘆きと比べ、考えて下さい。私は毎日愛する兄宮様を亡くし、ずっと物思いに沈んで過ごしているのです。という様な意味で返します。) まさに大人な女性な返し!そんなやり取りを経て数々の大恋愛を経験して行く和泉式部でした。
世の中に 恋てふ色は なけれども 深く身に染む ものにぞありける
(世の中に恋という色は無いけれど、まるで色が染みこむ様に深く身に染みて感じます・・・)
あらざらむ この世の外の思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
(もうすぐ私は死んでしまうでしょう。せめてあの世への思い出にもう一度あなたに抱かれたいものです。)
涙川 おなじ身よりは ながるけど 恋をば消たる ものにぞありける
(涙も恋も同じ身体から流れているけど、涙の川では恋の火を消してはくれないものです。) 
4
和泉式部 生没年不詳
生年は天延二年(974)、貞元元年(976)など諸説ある。父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(たいらのやすひら)女。父の官名から「式部」、また夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれた。母が仕えていた昌子内親王(冷泉天皇皇后)の宮で育ち、橘道貞と結婚して小式部内侍をもうける。やがて道貞のもとを離れ、弾正宮為尊(ためたか)親王(冷泉第三皇子。母は兼家女、超子)と関係を結ぶが、親王は長保四年(1002)六月、二十六歳で夭折。翌年、故宮の同母弟で「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道親王との恋に落ちた。この頃から式部が親王邸に入るまでの経緯を綴ったのが『和泉式部日記』である。親王との間にもうけた一子は、のち法師となって永覚を名のったという。しかし敦道親王も寛弘四年(1007)に二十七歳の若さで亡くなり、服喪の後、寛弘六年頃から一条天皇の中宮藤原彰子のもとに出仕を始めた。彰子周辺にはこの頃紫式部・伊勢大輔・赤染衛門などがいた。その後、宮仕えが機縁となって、藤原道長の家司藤原保昌と再婚。寛仁四年(1020)〜治安三年(1023)頃、丹後守となった夫とともに任国に下った。帰京後の万寿二年(1025)、娘の小式部内侍が死去。小式部内侍が藤原教通とのあいだに残した子は、のちの権僧正静円である。中古三十六歌仙の一人。家集は数種伝わり、『和泉式部集』(正集)、『和泉式部続集』のほか、「宸翰本」「松井本」などと呼ばれる略本(秀歌集)がある。また『和泉式部日記』も式部の自作とするのが通説である。勅撰二十一代集に二百四十五首を入集(金葉集は二度本で数える)。名実共に王朝時代随一の女流歌人である。
「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとをかしきこと、ものおぼえ、歌のことわり、まことのうたよみざまにこそ侍らざめれ。口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目とまる詠み添へ侍り。それだに人の詠みたらん歌なん、ことわりゐたらんは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるゝなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし。恥づかしげの歌よみやとは覺え侍らず」(『紫式部日記』)。
「和泉式部、紫式部、清少納言、赤染衞門、相模、などいふ當時の女性らの名を漠然とあげるとき、今に當つては、氣のとほくなるやうな旺んな時代の幻がうかぶのみである。しかし和泉式部の歌は、輩出したこれらの稀代の才女、天才の中にあつて、容易に拔き出るものであつた。當時の人々の思つた業(ごふ)のやうな美しさをヒステリツクにうたひあげ、人の心をかきみだして、美しく切なくよびさますものといへば、いくらか彼女の歌の表情の一端をいひ得るであらうか」(『和泉式部私抄』)。
「恋を歌い、母性を歌う和泉式部の歌には、女性の身体のあり方と結びついた女性特有の心が炸裂している。古代女性の教養や賢慮、政治・社会・宗教によってさえ差別され、自己否定を強要される女性の心性・分別とはかかわりなく、和泉式部は、女性の生理に根ざす生のあり方を純直に追求した。女性であることによって、女性であるための制約を乗りこえる精神の自由を、かの女は花咲かせた」(『女歌拾遺』)。
春 / 題しらず
春霞たつやおそきと山川の岩間をくぐる音きこゆなり(後拾遺13)
(春霞がたつのを今や遅しと待っていたように、岩の間を潜り流れる山川の音が聞こえるよ。)
梅の花をみて
梅の香を君によそへてみるからに花のをり知る身ともなるかな(続集)
(その香をあなたの袖の香によそえて梅を見るばかりに、花の咲く時節を知る身となったのだ。)
花時心不静といへることを
のどかなる折こそなけれ花を思ふ心のうちに風は吹かねど(続後拾遺93)
(のどかな折とてないよ。咲き満ちた花を思う心は――心の内に風が吹くわけではないけれども。)
花のいとおもしろきを見て
あぢきなく春は命の惜しきかな花ぞこの世のほだしなりける(風雅1480)
(どうしようもなく春は命が惜しいものだ。花こそがこの世を去りかねる妨げであったよ。)
やまぶきのさきたるをみて
われがなほ折らまほしきは白雲の八重にかさなる山吹の花(続集)
(私がやはり手折りたく思うのは、八重に重なって咲く山吹の花であるよ。)
つつじをよめる
岩つつじ折りもてぞ見るせこが着し紅ぞめの色に似たれば(後拾遺150)
(岩躑躅の花を手折り持ってつぶさに見るよ。いとしい人がかつて着ていた紅染(くれないぞめ)の衣の色に似ているので。)
常の事とはいひながら、いとはかなう見ゆる頃、三月晦つごもり比に
世の中は暮れゆく春の末なれやきのふは花の盛とか見し(続集)
(世は今、暮れて行く春の末なのだろうか。つい昨日は花の盛りと見たばかりではなかったか。)
夏 / 四月(うづき)ついたちの日よめる
桜色にそめし衣をぬぎかへて山ほととぎす今日よりぞ待つ(後拾遺165)
(桜色に染めた春の衣を夏の衣に脱ぎかえて、山時鳥の訪れを今日から待つのだ。)
六月祓をよめる
思ふことみなつきねとて麻の葉をきりにきりても祓へつるかな(後拾遺1204)
(水無月の晦日(みそか)、私の悩みが皆尽きてしまえと、麻の葉を細かく切りに切って御祓いをしたことだ。)
秋 / 題しらず
人もがな見せも聞かせも萩の花さく夕かげのひぐらしの声(千載247)
(誰か人がいてほしい。花を見せもしたい、声を聞かせもしたい。萩の花が咲く夕日の中の蜩の声よ。)
あさがほをよめる
ありとてもたのむべきかは世の中を知らする物は朝がほの花(後拾遺317)
(いま生きているからといって、これからも生きていると頼むことなどできようか。この世の道理を知らせてくれるものは朝顔の花である。)
題しらず
秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ(詞花109)
(秋に吹くのはどんな色をしている風だからといって、身にしみるばかりに哀れ深いのだろうか。)
題しらず
晴れずのみ物ぞかなしき秋霧は心のうちに立つにやあるらむ(後拾遺293)
(全く心が晴れることなく何か切なくてならない。秋の霧は心の中に立つのだろうか。)
暮つ方、霧のたたずまひ、空のけしきなど、あはれしれらむとて
今はとて立つ霧さへぞあはれなるありし朝あしたの空に似たれば(続集)
(今は秋の終りと、立ち込める霧さえもが哀れ深い。かつて人と別れた朝の空に似ているので。)
冬 / 題しらず
野辺みれば尾花がもとの思ひ草かれゆく冬になりぞしにける(新古624)
(野辺を見ると、尾花の下の思い草が枯れてゆく冬になってしまったのだった。)
一日、つとめて見れば、いとこき紅葉に、霜のいと白うおきたれば、それにつけてもまづ
もみぢ葉もましろに霜のおける朝は越の白嶺ぞ思ひやらるる(続集)
(紅葉した葉さえも真っ白にして霜が置いている朝は、越の国の白嶺が思い遣られることだ。)
題しらず
外山とやま吹く嵐の風の音きけばまだきに冬の奥ぞ知らるる(千載396)
(里近くの山を吹く嵐の風の音を聞くと、早くも晩冬の寒さが思い知らされるのだ。)
題しらず
こりつめて真木の炭やく気けをぬるみ大原山の雪のむら消え(後拾遺414)
(薪(まき)を樵り集めて、炭を焼く火――その火の気が暖いので、むらむらに消えている大原山の雪よ。)
題しらず
さびしさに煙けぶりをだにも絶たじとて柴折りくぶる冬の山里(後拾遺390)
(寂しくて、せめて炉の煙だけは絶やすまいと、薪を折ってはくべる、冬の山里よ。)
雹(あられ)
竹の葉にあられ降るなりさらさらに独りは寝ぬべき心地こそせね(続集)
(竹の葉に霰が降っているようだ、さらさらと葉の触れ合う音がする――こんな夜は、更々独りで寝る気分になどなれない。)
うづみび
寝ぬる人をおこすともなき埋火うづみびを見つつはなかく明かす夜な夜な(正集)
(寝ている人を起すという程でもない、今にも消えそうな埋み火を見ながら、毎晩はかなく夜を明かしているよ。)

せこが来て臥ししかたはら寒き夜はわが手枕たまくらを我ぞして寝ぬる(正集)
(夫がやって来て横になった傍らで、寒い夜は自分で腕枕をして寝るのだ。)
恋 / 百首歌の中に
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人あまくだりこむものならなくに(玉葉1467)
(つくづくと空が眺められるよ。恋しく思う人が天から降りて来ることなどありはしないのに。)
題しらず
夕暮に物思ふことはまさるやと我ならざらむ人にとはばや(詞花249)
(夕暮になると、物思いが一層甚だしくなる――私だけなのか、それとも誰でもそうなのかと、自分以外の人に訊ねてみたいものだ。)
題しらず
黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき(後拾遺755)
(思い乱れ、髪を乱したまま床にうちふす。その時まっ先に恋しく思い浮ぶのは、(昨夜この床で)わが黒髪をかきやったあの人のこと。)
題しらず
世の中に恋といふ色はなけれどもふかく身にしむものにぞありける(後拾遺790)
(この世に恋という色はないけれども、深く身に染みるものであったよ。)
題しらず
涙川おなじ身よりはながるれど恋をば消けたぬものにぞありける(後拾遺802)
(涙川は同じ我が身から流れているのに、恋の火を消すことはないのだった。)
恋(二首)
いたづらに身をぞ捨てつる人をおもふ心やふかき谷となるらむ(正集)
(むなしく命を捨ててしまった人たちのことを思うよ。恋する心は深い谷となるのだろうか。そうして彼らは谷へ身を投げてしまったのだろうか。)
逢ふことを息の緒にする身にしあれば絶ゆるもいかが悲しと思はぬ(正集)
(逢えば別れることは避け難い。それでも逢うことを「息の緒」にする我が身だから、緒が絶えても悲しいとは思わない。(恋に死ぬとしても本望だ。))
いみじうふみこまかにかく人の、さしもおもはぬに
絶え果てば絶え果てぬべし玉の緒に君ならむとは思ひかけきや(正集)
(命が絶え果てるなら絶え果ててしまえばよい。あなたが私の玉の緒になろうとは、思いもかけませんでした。)
題しらず
君恋ふる心は千々にくだくれどひとつも失せぬものにぞありける(後拾遺801)
(あなたを恋しく思う心は千々に砕けてしまう程だけれども、その思いは一つも失せないものであったよ。)
恋歌の中に
かく恋ひばたへず死ぬべしよそに見し人こそおのが命なりけれ(続後撰703)
(こんなに恋しく思っていたら、堪えきれずに死んでしまうだろう。よそながら見た人こそが私の命であった。)
題しらず
人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ(後拾遺820)
(人たる我が身を、恋にくれてやった。炎の中に飛び入った、蛾のようなもの――ただ、あらわに目には見えないだけなのだ。)
九月ばかり、あかつきかへりける人のもとに
人はゆき霧はまがきに立ちとまりさも中空にながめつるかな(風雅1133)
(恋人は帰ってゆき、霧は籬のあたりを去らずに立ち込めて――私はまったく上の空でぼうっとしていたことだ。)
なげくことありとききて、人の「いかなることぞ」ととひたるに
ともかくも言はばなべてになりぬべし音ねになきてこそ見せまほしけれ(宸翰本和泉式部集)
(どう言いましょうとも、ことばにすればありふれた言い方になってしまうでしょう。ただもう声あげて泣くことで、私の思いをお見せしたいものです。)
雨のいたくふる日、「なみだの雨の袖に」などいひたる人に
見し人に忘られてふる袖にこそ身を知る雨はいつもをやまね(後拾遺703)
(契りを交わした人に忘れられて年月を送っている私の袖の方にこそ、わが境涯を思い知らせる雨はおやみなく降っています。)
題しらず
枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(新古1160)
(枕さえ知らないのですから、告げ口はしないでしょう。ですからあなた、見たままに人に語ったりしないで下さい、私たちの春の夜の夢を。)
露ばかりあひ見そめたる男のもとにつかはしける
白露も夢もこの世もまぼろしもたとへて言へば久しかりけり(後拾遺831)
(人が果敢ないと言う白露も、夢も、この世も、幻も、あなたとの逢瀬の短さに比べれば、長く続くものであったよ。)
弾正尹(だむじやうのいん)為尊(ためたか)のみこかくれ侍りてのち、太宰帥敦道のみこ花たちばなをつかはして、いかがみるといひて侍りければ、つかはしける
かをる香によそふるよりはほととぎす聞かばやおなじ声やしたると(千載971)
(橘の香になぞらえて昔の人を偲ぶよりは、時鳥の声が昔と同じかどうか聞いてみたいものです。(亡き兄宮を懐かしむよりも、生きておられる弟宮のあなたのお声を聞いてみたいものです。兄宮と似ておられるかどうかと。))
七月七日
ながむらん空をだに見ず七夕にあまるばかりの我が身と思へば(正集)
(あなたが眺めておられる空など見る気にもなりません。織女の心に比べたって余るほどの思いを抱えた私ですから。)
太宰帥敦道のみこなかたえける頃、秋つかた思ひ出でてものして侍りけるによみ侍りける
待つとてもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬ秋の夕暮(千載844)
(約束して待っていたとしても、これほど嬉しくはないでしょう。思いもかけない今日の秋の夕暮です。)
風ふき物あはれなる夕ぐれに
秋風はけしき吹くだに悲しきにかきくもる日は言ふかたぞなき(正集)
(秋風はほのかに吹くだけでさえ悲しいのに、その上空が掻き曇る日などは言い表しようもない程だ。)
つゆまどろまで嘆き明かすに、雁の声をききて
まどろまであはれ幾日いくかになりぬらむただ雁がねを聞くわざにして(正集)
(まどろみもせずに、鳴呼何日を過ごしたことだろう。ただ雁の鳴き声を聞くばかりを事として。)
かくて、つごもり方にぞ御文ある。日ごろのおぼつかなさなど言ひて、「あやしきことなれど、日ごろもの言ひつる人なむ遠く行くなるを、あはれと言ひつべからむことなむ一つ言はむと思ふに、それよりのたまふことのみなむ、さはおぼゆるを、一つのたまへ」とあり。あなしたりがほ、と思へど、さはえきこゆまじ、ときこえむも、いとさかしければ、「のたまはせたることは、いかでか」とばかりにて、
惜しまるる涙にかげはとまらなむ心も知らず秋はゆくとも(和泉式部日記)
(別れを惜しむ涙の中に、あなたの面影はとどまりましょう。私の心も知らず、秋は過ぎてゆくとも(あなたの心は私に「飽き」てゆくとしても)。)
雨風はげしき日しも、おとづれ給はねば、きこえさする
霜がれは侘しかりけり秋風の吹くには荻のおとづれもしき(正集)
(霜枯れは侘しいものです――あなたが離れてしまうのもやりきれないことです。秋風の吹いていた頃には、荻の葉に音を立てていた――その頃はあなたもしばしば訪れて下さったものですのに。)
「おなじこころに」とある返り事に
君は君われはわれとも隔てねばこころごころにあらむものかは(正集)
(あなたはあなた、私は私と、分け隔てをしていないので、心が別々などということがあるでしょうか。)
心地あしきころ、「いかが」とのたまはせければ
絶えしころ絶えねと思ひし玉の緒の君によりまた惜しまるるかな(正集)
(あなたとの仲が絶えていた頃、いっそ玉の緒も絶えてしまえと思っていた我が命ですが――優しい言葉をかけて下さったあなたのせいで、また惜しく思われるのです。)
男の、はじめて人のもとにつかはしけるに、かはりてよめる
おぼめくな誰ともなくて宵々に夢に見えけむ我ぞその人(後拾遺611)
(不審に思わないで下さい。夜ごとに夢にあらわれたのは、ほかの誰でもない、私なのです。)
いかなる人にかいひ侍る
いとどしく物ぞかなしきさだめなき君はわが身のかぎりと思ふに(正集)
(ひとしお切ない気持になるのです。うつろいやすい貴方は、私にとってありったけの全部だと思うにつけて。)
また
わが魂たまのかよふばかりの道もがなまどはむほどに君をだに見む(正集)
(身体は行けなくともよい、私の魂が通れるだけでよいから、あなたのもとへと通ずる夢路があってほしい。迷いながらでも、せめてわずかなりとあなたを見よう。)
夜ごとに人の「来む」といひて来ねば、つとめて
今宵さへあらばかくこそ思ほえめ今日暮れぬまの命ともがな(後拾遺711)
(今夜さえ生きていたら、またこんなに辛い思いをすることでしょう。いっそ今日の日が暮れないうちに死んでしまいたい。)
互ひつつむことある男の、「たやすく逢はず」とうらみければよめる
おのが身のおのが心にかなはぬを思はば物は思ひ知りなむ(詞花310)
(あなただって自分の身は自分の心のままにはならないでしょう。そう思えば、私があなたに逢えない事情も分かっていただけるはずです。)
わりなくうらむる人に
津の国のこやとも人を言ふべきにひまこそなけれ葦の八重葺き(正集)
(津の国の昆陽ではありませんが、「来や(来てほしい)」とあなたに言うべきでしょうけれども、葦の八重葺きの屋根の目が詰っているように、世間の人目がいっぱいで、そんなことは言えないのです。)
しのびて人にもの申し侍りけるころ
なにごとも心にこめて忍ぶるをいかで涙のまづ知りぬらむ(続古今1023)
(苦しいことは何でも心の底にひそめて忍んでいるのに、どうして涙はまっさきに我が心を知ってこぼれるのだろう。)
題しらず
身の憂さも人のつらさも知りぬるをこは誰たが誰たれを恋ふるなるらむ(玉葉1679)
(我が身の不如意も人の無情さも思い知ったのに、いったいこれは誰が誰を恋しているというのでしょうか。)
男のもとより、「たまさかにもあはれと言ふになむ、命はかけたる」といひたるに
とことはにあはれあはれはつくすとも心にかなふものか命は(続集)
(私がいつまでも「いとしい、いとしい」と、いとしさの尽きるまで言い続けたとしても、あなたは永久に命を繋ぎ止められるでしょうか。命だけは心にかなうものではありませんことよ。)
人と物語してゐたるに、人のまうできあひて、ふたりながらかへりけるにつかはしける
半天なかぞらにひとり有明の月を見てのこるくまなく身をぞ知りぬる(玉葉1476)
(どっちつかずの状態で独り夜を過ごし、中空に一つ残っている有明の月を見て、あさましい我が身を余すところなく思い知りましたよ。)
男にわすられて、装束つつみておくりはべりけるに、革の帯にむすびつけはべりける
なきながす涙に堪へで絶えぬれば縹の帯の心地こそすれ(後拾遺757)
(泣いては流す涙に堪えきれず生地がぼろぼろになって切れるように、涙に堪えきれずあなたとの仲は絶えてしまったので、まるで自分がはかない縹(はなだ)色の帯のようになった心地がします。)
男にわすられて侍りける頃、貴船きぶねにまゐりて、御手洗みたらし川にほたるのとび侍りけるを見てよめる
物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂たまかとぞみる(後拾遺1162)
(恋しさに思い悩んでいると、沢に飛ぶ蛍も私の身体から抜け出してゆく魂ではないかと見えるよ。)
保昌にわすられて侍りける頃、兼房朝臣とひて侍りければよめる
人知れず物思ふことはならひにき花に別れぬ春しなければ(詞花312)
(自分だけで思い悩むことは、とうに慣れっこです。花に別れない春はないのですから。)
ここち例ならず侍りける頃、人のもとにつかはしける
あらざらむこの世のほかの思ひいでに今ひとたびの逢ふこともがな(後拾遺763)
(私はじきにこの世からいなくなってしまうでしょう――今生(こんじょう)の外へと携えてゆく思い出として、もう一度だけあなたにお逢いすることができたなら。)
哀傷 / 敦道親王におくれてよみ侍りける
今はただそよそのことと思ひ出でて忘るばかりの憂きこともがな(後拾遺573)
(帥宮に先立たれた今はただ、「そう、そんなことがあった」と楽しいことを思い出しては泣くばかりで、いっそ宮のことを忘れたくなる程の辛い思い出があればよかったのに。)
おなじころ、尼にならむと思ひてよみ侍りける
捨て果てむと思ふさへこそかなしけれ君に馴れにし我が身とおもへば(後拾遺574)
(捨て切ってしまおうと、そう思うことさえ切ないのだ。あの人に馴染んだ我が身と思えば。)
なほ尼にやなりなましと思ひ立つにも
かたらひし声ぞ恋しき俤はありしそながら物も言はねば(続集)
(語り合った声こそが恋しい。面影は生きていた時そのままだけれど、何も言ってくれないので。)
つくづく、ただほれてのみおぼゆれば (二首)
はかなしとまさしく見つる夢の世をおどろかでぬる我は人かは(続集)
(儚いものだと、まざまざと思い知った夢の如き世――それなのにこの世から目を醒まさず眠りに耽っている私は人と言えようか。)
ひたすらに別れし人のいかなれば胸にとまれる心地のみする(続集)
(まったく別世界へ逝ってしまった人が、どういうわけで、私の胸にいつまでも留まっている心地がしてならないのだろうか。)
雨のつれづれなる日
あまてらす神も心あるものならば物思ふ春は雨なふらせそ(続集)
(天を照らす神もお心がおありならば、物思いに耽る春にはどうか雨を降らせないで下さいな。)
ならはぬ里のつれづれなるに (二首)
身よりかく涙はいかがながるべき海てふ海は潮やひぬらむ(続集)
(身体からどうしてこんなに涙は流れ出るはずがあろう。海という海は潮が引いてしまったのだろうか。)
身をわけて涙の川のながるればこなたかなたの岸とこそなれ(続集)
(身を裂くように涙の川が激しく流れるので、我が身はあちらとこちらと、二つの岸に別れてしまう。)
七日、雪のいみじうふるに、つれづれとおぼゆれば
君をまたかく見てしがなはかなくて去年こぞは消えにし雪も降るめり(続集)
(あなたを再びこんなふうに見てみたい。果敢なくて去年には消えてしまった雪も、年が巡ってまた降っているようだ。)
ゆふべのながめ
夕暮はいかなる時ぞ目にみえぬ風の音さへあはれなるかな(続集)
(夕暮とは一体どのような時なのか。目に見えない風の音さえしみじみと感じられるよ。)
よひのおもひ
なぐさめて光の間にもあるべきを見えては見えぬ宵の稲妻(続集)
(光一閃の間だけでも慰めてくれてよさそうなものなのに、稲光は見えても亡き人の姿は見えない宵の稲妻よ。)
夜なかの寝覚
寝覚する身を吹きとほす風の音を昔は耳のよそに聞きけむ(続集)
(夜中にふと目覚めてしまう我が身を突き通して吹いてゆく風の音――昔は耳遠いものとして聞いていたのだろうか。こんなに寂しい音だったと、独り寝の今になって初めて知ったのだ。)
あかつきの恋 (二首)
夢にだに見で明かしつる暁の恋こそ恋のかぎりなりけれ(続集)
(夢でさえあの人に逢えずに明かしてしまった暁――その時の恋しさこそ、この上ない恋の苦しみであったよ。)
我が恋ふる人は来たりといかがせむおぼつかなしや明けぐれの空(続集)
(私の恋しい人はやって来たとしても、どうしよう。本当にその人かどうか、心もとないよ、明けたばかりのほの暗い空では。)
十二月の晦(つごもり)の夜よみはべりける
なき人のくる夜ときけど君もなし我がすむ宿や玉なきの里(後拾遺575)
(亡き人が訪れる夜だと聞くけれども、あなたはいない。私の住まいは「魂無きの里」なのだろうか。)
内侍のうせたるころ、雪の降りてきえぬれば
などて君むなしき空に消えにけむあは雪だにもふればふるよに(正集)
(どうしてあなたは虚しい空に消えてしまったのでしょう。こんなに果敢ない淡雪も消えずに降ってくる――そんな風にどうにか日々を送ってゆくこともできるこの世なのに。)
小式部内侍なくなりて後よみ侍りける
あひにあひて物おもふ春はかひもなし花も霞も目にし立たねば(玉葉2299)
(巡り来た春に逢うには逢ったが、物思いに沈む身にはその甲斐もない。花も霞も目にはっきりとは見えないので。)
小式部内侍なくなりて、むまごどもの侍りけるを見てよみ侍りける
とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり(後拾遺568)
(子供たちと私を置いて死んでしまって、娘はいったいどちらを哀れと思っているだろうか。きっと、親である私よりも、子供たちの方を愛しんでいるだろう。親より子と死に別れる方が、私も辛かった。)
若君、御送りにおはするころ
この身こそ子のかはりには恋しけれ親恋しくは親を見てまし(正集)
(この子をこそ、我が子の代りに恋しく思う。若君よ、母が恋しい時には、代りに、その親である私をごらんなさい。)
小式部内侍うせてのち、上東門院より、としごろ給はりけるきぬを、亡きあとにもつかはしたりけるに、「小式部内侍」と書きつけられたるを見てよめる
もろともに苔の下にはくちずして埋もれぬ名を見るぞかなしき(金葉三奏本612)
(一緒に苔の下に朽ちることなく、私ばかりが生き残ってしまって、埋もれることのない娘の名を見ることが悲しいのです。)
山寺にこもりてはべりけるに、人をとかくするが見えはべりければよめる
たちのぼる烟けぶりにつけて思ふかないつまた我を人のかく見む(後拾遺539)
(立ちのぼる火葬の煙を見るにつけてつくづく思うなあ。いつ煙になった私を人々がまたこうして見るのだろうかと。)
雑 / 道貞、わすれてのち、陸奥守(みちのくにのかみ)にてくだりけるに、つかはしける
もろともに立たましものをみちのくの衣の関をよそに聞くかな(詞花173)
(私たちの仲が絶えていなければ、一緒に出発したものを。あなたが越えて行く陸奥の衣の関を、他人事として聞くのですねえ。)
宮、法師になりて、髪のきれをおこせ給へるを
かき撫でて生ほしし髪のすじことになりはてぬるを見るぞ悲しき(正集)
(髪を掻き撫でつつ育てたあなたが、普通の人とは違った道に入ってしまったのを見るのは切ないことです。)
丹後国にて、保昌あす狩せむといひける夜、鹿のなくをききてよめる
ことわりやいかでか鹿の鳴かざらむ今宵ばかりの命と思へば(後拾遺999)
(もっともなことだよ。今夜限りの命と思えば、どうして鹿が啼かないわけがあろう。)
観身岸額離根草、論命江頭不繋舟(四首)
たらちめの諌めしものをつれづれとながむるをだに問ふ人もなし(正集)
(母はうたた寝を叱ったものであるが、こうして物思いに耽りながら寝転んでいるのを、どうしたのかと今は尋ねてくれる人もいない。)
るりの地と人も見つべしわが床は涙の玉としきにしければ(正集)
(瑠璃の地と人も見るに違いない。私の寝床は、涙が玉のように敷き詰められているので。)
暮れぬなり幾日いくかをかくてすぎぬらむ入相の鐘のつくづくとして(正集)
(日は暮れてしまったようだ。こんなふうにして何日を過ごしたのだろう。入相の鐘を撞き、また撞きする音をつくづくと聞くばかりで…。)
すみなれし人かげもせぬ我が宿に有明の月の幾夜ともなく(正集)
(よく通って来てくれた人の気配も絶えた我が家に、有明の月明りが幾夜ともなく射して――。)
世の中にあらまほしき事 (三首)
おしなべて花は桜になしはてて散るてふことのなからましかば(正集)
(花という花は全部桜にしてしまって、散るということがなかったならよいのに。)
みな人をおなじ心になしはてて思ふ思はぬなからましかば(正集)
(すべての人を同じ心にしてしまって、片方だけが思い、片方は思わないというようなことがなかったらよいのに。)
世の中に憂き身はなくてをしと思ふ人の命をとどめましかば(正集)
(辛いことばかり多い我が身はこの世から無くなって、代りに愛しく惜しいと思う人たちの命を残すことができたらよいのに。)
題しらず
いかにせむいかにかすべき世の中をそむけば悲しすめばうらめし(玉葉2546)
(どうしよう。どうすればよいのだろう。この世を捨てるのも悲しいし、住み続けるのも耐え難いし。)
心地いとあしうおぼゆる比
我に誰あはれをかけむ思ひ出のなからむのちぞ悲しかりける(続集)
(私に誰が同情をかけてくれるだろうか。私の死後、人々が思い出してもくれなくなった後を思えば、悲しいことである。)
世間よのなかはかなき事を聞きて
しのぶべき人もなき身はある時にあはれあはれと言ひやおかまし(正集)
(死んでしまったら、偲んでくれるような人もいない我が身だから、生きている時に「ああ可哀そうに」と自分で言っておこうか。)
よみ花のさきたるを見て
かへらぬは齢よはひなりけり年のうちにいかなる花かふたたびは咲く(続集)
(戻ってこないのは年齢であったよ。一年のうちで、どんな花が再び咲くものか。)
地獄絵に、つるぎの枝に人のつらぬかれたるを見てよめる
あさましやつるぎの枝のたわむまでこは何の身のなれるなるらむ(金葉644)
(なんてひどい。剣の枝がたわむ程に身を貫かれて、これは一体どんな罪を犯した人がこうなったのであろう。)
性空上人のもとに、よみてつかはしける
暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月(拾遺1342)
(暗闇から暗闇へと、煩悩の道に迷い込んでしまいそうです。遥か彼方まで照らし出して下さい、山の端(は)の真如の月よ。)
七日、例ならぬ心地のみすれば、「今日や我が世の」とおぼゆる
生くべくも思ほえぬかな別れにし人の心ぞ命なりける(続集)
(生きていられそうには思えないなあ。別れてしまった人の心が、私の命であったのだ。) 
5
和泉式部日記
唐木順三の「はかなし」の議論に誘われて『和泉式部日記』をちらちら読みはじめたころが懐かしい。
「夢よりもはかなき世の中を歎きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく‥」。このあまりに有名な冒頭に引きこまれ、そのまま読みこんでいくのは、まるで自分が少女になって大人の女の熟した気分を覗き見るようで、なにか落ち着かないフラジリティなのである。
これは男の読後感なのかもしれない。いつもそうなのだが、女房たちの王朝文芸を読むと、自分がだんだん内股で歩いている感触が出てくる。体がそうなるのではない。観念の中枢のようなものが、なんだか女っぽくなってくる。きっと『源氏』を訳していたころの谷崎や舟橋も、そういう気分になったことだろう。いいかえれば、男がすなるものを女がしてみているのか、女がすなるものを男がしているのか、わからなくなるわけだ。わからなくなるというより、そうした絹ずれを伴う倒錯のよう感覚が虚実皮膜のあわいに入っていく。そういうと難しいようだが、ようするに自分がなまめかしくなっていくのが実感できるのだ。それを隠して研究者めいたとしても、大半の学者たちがそうであるのだが、やたらに敬語を多用して論文を綴るようになる。皇族たちをめぐる出来事や歌や物語にかかわっているということもあるだろうが、本音をいえば、その「世」に謙譲したくなっているのである。だからぼくが唐木の読み方をまねたのも実のところは最初のうちだけで、“内股の意識”になってからは、しだいに別の関心に移っていった。別の関心というのは和泉式部の文芸的実験性への関心である。こういうことは読書にはよくあることで、最初の読みちがいが次の読み当たりを導くものなのだ。
だいたい『和泉式部日記』は、これを通読したからといって、読んだことにはならない。二度目からは、頻繁に出てくる歌に佇んで読む。ぼくもまたいつごろからかは忘れたが、歌に佇み、少しずつ数珠つなぎに読んだ。行きつ戻りつもした。佇み方も、ちょうど同じ散歩道でもいつもちがった立ち止まりがあるように、その時その場で変わっていく。木蓮があれば木蓮に、夾竹桃があればそのわさわさと風にゆらめく実況に、佇んでいく。それにもかかわらず、この日記が日本の古典の中でも群を抜いて独創に満ちていて、しかもおそらくは何度そこに入っても、どの歌の前後を拾い読んでも、つねに格別の示唆に富んでいることは断言することができる。なんといっても傑作なのである。そして、この作品こそが日本文芸の反文学上の原点なのである。原点だというのは、べつだん厳密な意味ではない。けれども、この日記が日記でありながら「記録」のためではなく、「歌」のためにのみ綴られたものであること、および日記でありながら、「私は」というべきところを「女は」というように三人称で綴ったこと(これは画期的だった)、ようするにあとから当時の歌を偲んで綴られたことに、瞠目させられるのだ。歌が先にあり、あとから147首を偲んで並べ替え、それを編集をした。そういう日記であった。反文学だというのは、歌から出て歌に出て、文から出て文に出て、歌でも文でもあるような偲びの世界をつくったということである。
この、歌を偲ぶということが大事なのである。日本の歌というものは、いたずらに文学作品として鑑賞するものではない。ここにおいてそこを偲ぶものだ。ここにおいてそこを偲ぶとは、その歌が「ひとつの世」にひそむ「夢うつつ」のあいだを通して贈答されているからだ。「ゆめ」(夢)から「うつつ」(現)へ、「うつつ」から「ゆめ」へ。そのあいだに歌が交わされる。贈り、返される。その贈答のどこかの一端にわれわれがたまさか佇めるかどうかが、歌の読み方になる。そのような歌の読み方があるのだということを、歌を下敷きして綴った和泉式部が擬似日記をもって教唆した。『和泉式部日記』とはそういうものである。擬態なのである。そういう文芸実験なのだ。それが、歌を偲んで歌をめぐる物語を綴るということだった。かつての『伊勢物語』がそうであるように。けれども『伊勢』が男の歌を偲ぶのであるのに対し、『和泉式部日記』は女の歌を偲ぶとはどういうものかということを知るための、また、そのように歌を読ませるための歌とは何かということを告げるべき、最初の両義的な金字塔ともなっている。まことにもってたいした実験だった。
急いで和泉式部が日本の歌人の最高峰に耀いていることも言っておかなくてはならない。こんな歌人はざらにはいない。わかりやすく一言でいえば、与謝野晶子は和泉式部なのだ。「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」「竹の葉に霰ふる夜はさらさらに独りはぬべきここちこそせね」、そして「願くは暗きこの世の闇に出でて紅き蓮(はちす)の身ともならばや」。これは和泉式部だが、また晶子でもあった。晶子ばかりではない。樋口一葉も山川登美子も、生方たつゑも円地文子も馬場あき子も、和泉式部だった。きっと岡本かの子も瀬戸内寂聴も俵万智も、ユーミンも中島みゆきも椎名林檎も、“その後の和泉式部”なのである。恋を歌った日本人の女性で和泉式部を詠嘆できない者がいるとはぼくには思えない。男たちも和泉式部にはぞっこんだった。はやくに和泉式部を最高の歌人と見たのは、昭和11年から17年まで書き継いだという保田與重郎の『和泉式部私抄』だったけれど、歌としてすでに与謝野鉄幹や吉井勇や萩原朔太郎や窪田空穂が、つづいて谷崎潤一郎や唐木順三や寺田透が深々と傾倒していった。それほど和泉式部の歌には才能が迸(ほとばし)っている。
鴨長明が『無名抄』で和泉式部と赤染衛門をくらべ、人柄はいささか劣るものの歌ではやっぱり式部だと書いたことは、さすがに長明ならではの判釈だった。その通りである。では以来このかた、式部の歌の最高位がゆるがなくなったかというと、そういうことはない。世の中には勝手な風評はいろいろあるもので、紫式部が和泉式部より赤染衛門を優位においたという説に加担する者も少なくはない。なにしろ嫉妬深い紫式部の御意見だ。「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど和泉式部はけしからぬ方こそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない詞(ことば)の匂ひも見え侍るめり云々」。和泉式部は手紙などは趣き深く、走り書きなどには天性の才能を感じるが、品行がふしだらである。歌もなかなかうまいけれど、古歌の知識や理論があるわけではなく、他人の歌の批評をさせるとたいしたことはない。口にまかせて即興するのが上手だということだけだ。そう言うのである。この紫式部の意見を引っ張って、いまだに式部に難癖をつけようとする者もいる。ただし、これはたいてい和泉式部の生き方に呆れているせいである。
世間が和泉式部の生き方に呆れるのは、その男遍歴による。むろん大半は誤解だが、世間というものはそのように型破りの女を批評するものだ。当時すでに身持ちが悪い女という噂もたっていた。御伽草子には「浮かれ女」(遊女)ともしるされた。品行がふしだらというよりも、おそらくは男好きのする女であったのだろうという、そんなまことしやかな見方も出回った。式部は「御許丸」(おもとまる)とよばれた少女時代から、たしかに多感な娘であったようで、父の大江雅致が冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇皇女)に宮仕えをしたころには、父に伴い女房として昌子に仕え、すでにいくつかの浮名を流していた。察するにかなりの美人だった。が、男遍歴といっても、最初は結婚である。式部の最初の結婚の相手は、その宮仕えのころに出会った橘道貞で、道貞がのちに和泉守となったので、結婚後に和泉式部とよばれた。二人のあいだには小式部が生まれた(のちに百人一首「大江山生野の道の遠ければ」に採られた歌を詠む)。道貞は出世街道を進んでいた。道長にも気にいられるようになっていく。が、その一方で、式部は夫が遠国によく出掛けて留守がちだったこともあって、道貞とはしだいに疎遠となり、別居同然の日々になっていく。そこへもってきて昌子内親王が亡くなった。式部の心が乱れていたころ、新たな男、為尊親王が近づいた。これが弾正宮である。冷泉天皇の皇子。『大鏡』には幼少時より容姿がとりたてて「かがやく」ほど美しかったとある。
この式部と弾正宮の仲のことは『栄華物語』にも出ていて、式部の浮気というより、「かろがろ」としていて「御夜歩き」が好きなプレイボーイ気味の弾正宮が積極的だった。蛍狩りの帰途に笹の枝に蛍をつけて贈るような公達である。式部はかなりぐらりとする。ひそかに弾正宮の好きな蘇芳の小袿を着け、弾正宮の好きな真名磐を焚きしめた。これでは二人の噂はいやがうえでも広まっていく。そのため弾正宮為尊の妻は悲しみのあまり出家した。ところが弾正宮は流行の病で26歳であっけなく死亡する。昌子の死、夫との離別、新たな恋人の死―。これらがわずか1、2年のあいだに連打されたのである。
式部はこうした自分にふりかかる人の世のはかなさと男女の浮き沈みに、激しく動揺をする。中世、これを「宿世」(すくせ)といった。式部に「はかなさ」をめぐる無常の美学が透徹し、日本文芸史上に最も「はかなさ」の言葉を多用しているのも、こういう事情と背景による。それとともに男女のはかなさにも宿世を感じて心を揺らした。式部に男の接近と男との別離を暗示的に詠んだ歌がまことに数多いのはそのせいである。式部と親しかった赤染衛門もそういう式部の心の浮沈に同情し、いくつかの歌を贈っている。
そこへ登場してきたのが敦道親王である。弾正宮の弟で、やはり冷泉院の皇子、太宰師宮だったところから師宮(そちのみや)とよばれた。師宮はすでに二人以上の妻をもっていたが、正妻の関白道隆の三の姫は異常なふるまいをする。あどけないのか、どこか白痴的なのか、しばしば奇矯なことをする。来客があると急に御簾をまくって相手の顔を見たり、ふしだらな着付けで乳房が出そうな恰好をすることもあった。師宮はほとほと困っていた。そのころの式部はまさしく落花狼藉の風情。成熟した女が心の奥に沈んでいたのだ。師宮はたちまち式部に夢中になった。おそらくは式部が6つくらいの年上だった。式部も師宮がたずねてくるのを待つ身となっていく。「薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたる」と式部が詠めば、「同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声はかはらぬものと知らなむ」と返ってきた。二人のあいだに、待つ身と逢う身を交わらせる後朝(きぬぎぬ)がうちつづく。『和泉式部日記』は、この師宮との約10カ月におよぶ人を憚る恋愛を語った歌日記になっている。歌が先にあり、それをのちに偲んで綴ったものだった。先にも書いたように、擬態としての日記にしてみせたのである。
なぜ日記にできたかといえば、師宮が突然に死んでしまったからだった。27歳の死であった。弾正宮につぐ師宮との死別。美貌の兄弟の唐突の死。式部はよほど離別や死別に見舞われる宿命の女性なのである。恋した男の兄宮と弟宮があいついで死ぬとは、よほどのこと、まさに「無常迅速」としかいいようがない。式部は師宮のために1年にわたる喪に服し、おそらくはその直後であろうが、その思い出を歌日記につくっていく。日記には載ってないが、師宮を慕う挽歌数十首はその構想といい、その複雑な構成といい、和泉式部畢生の最高傑作になっている。
もっとも、このような「人の世のはかなさ」だけが式部の歌や日記をつくった原因ではなかった。そこには、この時代特有の「王朝文化」というものがある。華麗で異様で洗練された「女房文化」というものがある。和泉式部は、赤染衛門・清少納言・紫式部・伊勢大輔についで藤原道長の後宮に出仕したれっきとした女房である。彼女らと同じ世の「後宮文化」の中にいた女房だった。このことを理解するには、余計なことながら、少しだけでも時代背景を知る必要がある。とくに天皇家の血筋と藤原道兼・道長のシナリオを知らなければならない。
そうおもうと溜息が出るのだが、いまからちょうど1000年前が1001年である。長保3年になる。一条天皇の時代にあたる。すべてはこの「一条の世」の文化がどのように用意されていったかということにかかわっている。このとき、花山天皇を欺いて「一条の世」を政略的に用意した摂政藤原兼家が死に、子の藤原道長が12歳の彰子を強引に入内させていた。和泉式部は27、8だったろうか。あるいはもう少し若かったかもしれない。一条の世とは、日本の女流文芸が頂点に達した時期であるが、そこには複雑な血筋の蛇行があった。まず劈頭に村上天皇がいた。醍醐天皇の皇子で、摂関をおかずに親政をしいた。これがいわゆる「天暦の治」にあたる。この村上天皇に二人の皇子がいて、その皇子の冷泉と円融が10世紀末に次々に天皇になった。このあと、天皇譜は冷泉系と円融系が代わる代わる立つことになり、冷泉・円融ののちは、次が冷泉系の花山天皇、次が代わって円融系の一条天皇、さらに冷泉系に戻って三条天皇が立ち、そのあとは円融系の後一条天皇と後朱雀天皇になっていった。ここで冷泉系は地に堕ちる。藤原兼家と道長は、その円融系のほうの一条天皇の外戚なのである。日本の天皇家には、天智系と天武系をはじめ、桓武・嵯峨時代の二所朝廷といい、この冷泉、円融系の対立といい、さらには日本を真二つに分断した南北朝といい、実は天皇家はたえず千々に乱れてきたものだ。そのため、これをどちらに立って誰が支援するかというのが日本史の起伏をつくってきた。兼家、道長親子にもそのシナリオが強烈に発動した。それが藤原文化というものであり、そこに後宮文化の血の本質が躍ったのである。
もっとも抜け目のない藤原一族は、不比等、仲麻呂の時代からルーレットには赤にも黒にもチップを置いてきた。兼家も娘の超子を冷泉天皇に、詮子を円融天皇のほうに入れて、両系の天秤をはかっている。結局、超子からは三条天皇が生まれたが、超子がはやく死んだため、冷泉家は伸び悩む。逆に詮子は一条を生んで、7歳で天皇に就かせた。兼家の摂関家の地位はここで不動のものとなる。このシナリオを完璧に仕上げていくのが藤原道長で、彰子を入内させて一条天皇の中宮とし、「一条の世」を望月のごとくに完成させた。道長政治の確立である。それとともに、そのサロンこそが日本の女流文芸を熱情させた。王朝ハーレムの溜熟でもあった。
一方、和泉式部は負の札を引いた冷泉天皇一族に仕えた一家に育っている。父も母も式部自身も、冷泉天皇の昌子内親王に仕え、夫の道貞もその太后大進に就いた。式部は冷泉系だったのだ。その道貞が時代のなりゆきとはいえ、道長のほうに引かれていった。式部は夫に惹かれつつも(ちゃんと夫を愛していたようだ)、道長に従って自分のところから遠のいていくその運命のいたずらを儚んだ。和泉式部は冷泉系と円融系(一条)の交点にさしかかって、前半は冷泉に、後半は道長に呼ばれて、清少納言や紫式部にまじって女房となっていった女性なのである。これは清少納言や紫式部の女房生活とはまったくちがう立場であった。心の血がゆらめいている。中心がない。しかし、そうなればなったで、式部は後宮文化を生き抜かなければならない。式部は師宮の喪に服したあと(寛弘5年10月)、召されて一条中宮彰子の女房となる。娘の小式部も一緒に出仕した。すでに中宮のもとには紫式部や伊勢大輔が古参のごとく待っていた。式部があれこれ揶揄されたのは当然だったのだ。
このように見てくると、式部が“擬態としての歌日記”をつくれたのは、師宮が死んで後宮に入るまでの、ごくわずかなあいだだけだったということがわかる。そのわずかな時間だけが式部の“文芸実験”にゆるされた時間だったのだ。しかし、その実験こそ日本の文芸の反文学上の原点になった。反文学上のという意味は、今日にいう文学の意義とはまったくちがってというほどの意味だ。省略も効かせた。主語を三人称にもした。しかし、それなら歌そのものだけでもよかったのに、そうもしなかった。すべてを削いだわけではなく、すべてを活かしたわけでもない。そこが和泉式部の実験だった。言葉が心であるような贈答の場面だけを浮上させたのである。よほど考えてのことだったろう。三人称のつかいかたは、こんな感じである。
晦日(つごもり)の日、女、
ほととぎす世に隠れたる忍び音を いつかは聞かむ今日し過ぎなば
ときこえさせたけれど、人々あまたさぶらふほどにて。つとめて、もて参りたるを見給うて、
忍び音は苦しきものをほととぎす 木高き声を今日よりは聞け
とて、二、三日ありて、忍びてわたらせ給ひたり。
式部が日記をつくるのは、「夢よりもはかなき世の中」を自分の歌が示していると思えたからである。そこに師宮との相聞がある。恋の歌の贈答がある。行きつ戻りつがある。寄せては返す無常というものがある。そこを式部は、最初は自分のところに忍んで逢いにくる師宮の「せつなさ」を中心に描きあげる。ついで、自分の恋心の高まりを抑える歌で綴っていく。日記のクライマックスは互いに手枕を交わして後朝を迎えあうあたり、あるいはさらには霜の朝に師宮が式部を紅葉に誘うあたりだろうか。さすがに歌の調子も高まる。
露むすぶ道のまにまに朝ぼらけ濡れてぞ来つる手枕の袖(宮)
道芝の露におきゐる人によりわが手枕の袖も乾かず(式部)
けれども、これがたった一度の頂点だった。式部は南院に誘われ、先にも書いたように 道長のハーレムに出仕する。『和泉式部日記』はそこまでは書いてはいない。師宮に請われて車で出掛ける場面の問答でおわっている。師宮が死ぬ前の歌世界でおわったのである。これは『和泉式部日記』が歌を偲ぶことを本懐としている以上は当然だった。
日記はそこでおわったが、式部はその後も波乱の人生を送る。そして、もう説明するのはよしておくが、ここからが、謡曲や和泉式部伝説にうたわれた“伝承の和泉式部”となっていく。それが藤原保昌との結婚であり、保昌とともに丹後に下向する和泉式部の後半生の物語というものになる。保昌は道長の家司で、式部とは十数歳の年上である。けれども式部にとっては、中宮彰子との日々や保昌との日々が華やかであればあるほど、師宮との日々が幻想のごとく心を覆ってきただけだったようだ。保昌との結婚生活などたのしいはずはない。
結局のところ、和泉式部は師宮との日々の追想によって生きた人なのである。追想とはいえ、それは二人が交わした歌をフーガのごとく追想するということで、歌を偲べば、体も燃えたが、残るのはやはり歌だけなのだ。しかし、その歌も「偲び」の中だけにある。追想と連想の中だけにある。実在としての歌は、ない。それは、式部の気持ちに戻っていえば、師宮との恋そのものがありえぬ日々の出来事だったということでもあった。しょせんは「はか」のない日々だということだったのだ。師宮との日々だけではない。式部が見た後宮文化そのものが「はかなさ」であり、もはやありえぬ日々だったのである。
日本文芸は、このあと300年をへて世阿弥の複式能楽を獲得する。それは世阿弥ならではの極上である。が、ぼくには『和泉式部日記』がはからずもそれを先駆したとも見えている。唐木順三に言ってみたかったことである。こんな歌がある。
思はむと思ひし人と思ひしに 思ひしごとも思ほゆるかな  
6
和泉式部 為尊・敦道両親王との恋に身をやつした多情な情熱の歌人
和泉式部の情熱的で奔放な恋の歌は、同時代の誰しもが認めるものだった。紫式部は『紫式部日記』で和泉式部について、彼女の口から出任せに出る歌は面白いところがあるが、他人の歌の批評などは全く頂けず、結局歌人としても大したものではないとけなしているが…。
和泉式部が紫式部の持たない能力を持っていたことは確実だ。一口で言えば、恋の、もっと言えば好色の能力だ。紫式部は好色の物語『源氏物語』を書いたが、彼女自身、好色の実践者ではなかった。その点、和泉式部は見事なまでに好色の実践者だった。女性として好色の実践者であるためには、美しい肉体を持ち、自らも恋に夢中になるとともに、男を夢中にさせる能力が必要だろう。
『和泉式部日記』は、彼女がどのように帥宮敦道(そちのみや あつみち)親王を彼女に夢中にさせたかの克明な記録だといってもいい。敦道親王は冷泉天皇の第四皇子だが、母は関白・藤原兼家の長女・超子で、優雅な風貌を持ち、時の権力者・藤原道長が密かに皇位継承者として期待を懸けていた親王だった。
『和泉式部日記』はこの敦道親王が、その兄の故弾正宮為尊(だんじょうのみや ためたか)親王が使っていた童子を使いに立てて和泉式部に手紙を届けるところから始まる。和泉式部は為尊親王の恋人だったが、親王は式部らへの「夜歩き」がたたって、疫病にかかって死んだ。
その亡き兄の恋人で、好色の噂が高い和泉式部に好奇心を抱いたのだろう。こうして二人の間にはたちまちにして男女の関係ができ、やがて天性のものと思われる彼女の絶妙の手練手管によって、親王は遂に彼女の恋の虜となる。親王は、一晩でも男性なくして夜を過ごせぬ多情な彼女が心配で、和泉式部を自分の邸に引き取るのだ。だが、このことでプライドを大きく傷つけられた親王の正室が家出してしまうのだ。
一夫多妻制の当時のことだけに、男性が同時に何人の女性と恋愛関係を持とうが、それは誰からも非難されるところではなかったが、女性の立場からみれば複雑だ。夫が外で恋愛関係を持った女性を自分の邸に引き取ることは、正室の女性にはショックで、それが家柄のいい女性の場合、やはり耐え難いことだったに違いない。
『和泉式部日記』は親王の北の方(正室)が親王のつれない仕打ちに耐え切れず、親王の邸を出るところで終わる。和泉式部は完全な恋の勝利者になったわけだ。『栄華物語』は、世間を全くはばからない二人の大胆な恋のありさまを綴っている。衆知となった二人の恋も長くは続かず、敦道親王はわずか27歳で死んだ。和泉式部は30歳前後だったと思われる。
当時、和歌に秀でていることは男性の場合、出世に大きく関わる才能でさえあった。天皇や高級官僚が主催する歌合(うたあわせ)では、その和歌の優劣が、その人の評価=出世につながることさえあったのだ。女性の場合も、今日のように外でデートできない時代のことだけに、和歌に対する素養や表現の仕方ひとつで、男性の心をわし掴みにすることもできたのだ。もっといえば、和歌の世界なら身分の差は関係なく、男女は五分五分だったのだ。
和泉式部は生没年不詳。越前守、大江雅致の娘。996年(長徳2年)、19歳ぐらいでかなり年上の和泉守・橘道貞と結婚。夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。夫道貞との婚姻は、為尊親王との熱愛が喧伝されたことで、身分の違いの恋だとして親から勘当され、破綻したが、彼との間にもうけた娘、小式部内侍は母譲りの歌才を示した。
1008〜1011年、一条天皇の中宮、藤原彰子に女房として出仕。40歳を過ぎた頃、主君彰子の父、藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。恋愛遍歴が多く、道長から“浮かれ女”と評された。真情にあふれる作風は恋歌・哀傷歌などに最もよく表され、ことに恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人、藤原公任にも賞賛され、男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。
1025年(万寿2年)、娘の小式部内侍が死去した折には、まだ生存していたが、晩年の詳細は分からない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。 
 
57.紫式部 (むらさきしきぶ)  

 

めぐり逢(あ)ひて 見(み)しやそれとも わかぬ間(ま)に
雲(くも)がくれにし 夜半(よは)の月(つき)かな  
めぐりあって見たのがそれだったのか、それでなかったのかも判らない間に雲隠れしてしまった夜中の月のように、(幼なじみの)あなたはあっという間にいなくなってしまいましたね。 / 久しぶりにめぐり逢って見たのが確かであるかどうか、見分けがつかないうちにあなたは慌ただしく帰ってしまった。雲の間に隠れてしまった月のように。 / 久しぶりに会えたのに、見たかどうかもわからないくらいに雲に隠れてしまう夜更けの月のように、あなたも、あっという間に帰ってしまいましたね。 / 久しぶりにめぐり会ったのに、それがあなたかどうかも分からない間に帰ってしまうなど、まるで (早くも) 雲に 隠れてしまった夜中の月のようではありませんか。
○ めぐりあひて / 字余り。「めぐりあひ」の対象は、表面上、「月」であるが、新古今集の詞書から、実際は、幼馴染の友人(女性)であることがわかる。
○ 見しやそれともわかぬ間に / 「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「や」は、疑問の係助詞で、結びは省略。「それ」は、月。実際は、友人を重ねている。「と」は、引用の格助詞。「も」は、強意の係助詞。「わか」は、カ行四段の動詞「わく(分く・別く)」の未然形。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「に」は、時を表す格助詞。
○ 雲がくれにし / 「雲がくれ」は、「月が雲に隠れる」の意であるが、実際は、「友人がいなくなる」ことを表す。「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。
○ 夜半の月かな / 「夜半」は、夜中。「かな」は、詠嘆の終助詞。『新古今集』では、「夜半の月かげ」となっている。「めぐる」と「月」は縁語。
※ この歌は、詞書がなければ、その真意がわからない歌の典型である。歌を見る限り、“月”が主題であるように思えるが、実際は、幼馴染とのつかの間の再会を詠っている。当時、紫式部と同程度の中流貴族階級の女性は、受領として赴任する父や夫とともに地方に下ることが多く、この歌は、そうした状況に伴う再会の喜びと別れの寂寥感を詠み込んでいる。都人にとって、地方は異境であり、京の価値観が通用しない別世界であった。紫式部も、その例外ではなく、越前守となった父に随って越前(福井県)に赴いたものの、現地の生活に耐え切れず、一年後に単身帰京した。 
昔の女性
奈良平安の日本
平安鎌倉の物語に見る神仏
無頼漢・雑題・うわさ話
1
紫式部 (むらさきしきぶ、生没年不詳)
平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。屈指の学者、詩人である藤原為時の娘。藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。夫の死後、召し出されて一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えている間に、『源氏物語』を記した。
藤原北家の出で、越後守・藤原為時の娘で母は摂津守・藤原為信女であるが、幼少期に母を亡くしたとされる。同母の兄弟に藤原惟規がいる(同人の生年も不明であり、式部とどちらが年長かについては両説が存在する)ほか、姉がいたことも分かっている。三条右大臣・藤原定方、堤中納言・藤原兼輔はともに父方の曽祖父で一族には文辞を以って聞こえた人が多い。
幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著したというのが通説、家集『紫式部集』が伝わっている。
父・為時は30代に東宮の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人、式部大丞と出世したが花山天皇が出家すると失職した。10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国の受領となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。
長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚し長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かずまもなく長保3年4月15日(1001年5月10日)宣孝と死別した。
寛弘2年12月29日(1005年1月31日)、もしくは寛弘3年の同日(1006年1月26日)より、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。
なおこれに先立ち、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した可能性が指摘されている。源氏物語の解説書である「河海抄」や「紫明抄」、歴史書の「今鏡」には紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。それらは伝承の類であり信憑性には乏しいが、他にも紫式部日記からうかがえる、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮があること、永延元年当時為時は失職しており家庭基盤が不安定であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たることなどが挙げられる。また女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である。
『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
藤原実資の日記『小右記』長和2年5月25日(1014年6月25日)条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」との記述が紫式部で残された最後のものとし、よって三条天皇の長和年間(1012-1016年)に没したとするのが昭和40年代までの通説だったが、現在では、『小右記』寛仁3年正月5日(1019年2月18日)条で 、実資に応対した「女房」を紫式部本人と認め、さらに、西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文に「おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…」とある詞書と和歌を、岡一男説の『頼宗集』の逸文ではなく、『定頼集』の逸文と推定し、この直後に死亡したとする萩谷朴説、今井源衛説が存在する。
人物
本名
紫式部の本名は不明であるが、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日(1007年2月19日)の条において掌侍になったとされる記事のある「藤原香子」(かおりこ / たかこ / こうし)とする角田文衛の説もある。この説は発表当時「日本史最大の謎」として新聞報道されるなど、センセーショナルな話題を呼んだ。 但し、この説は仮定を重ねている部分も多く推論の過程に誤りが含まれているといった批判もあり、その他にも、もし紫式部が「掌侍」という律令制に基づく公的な地位を有していたのなら勅撰集や系譜類に何らかの言及があると思えるのにそのような痕跡が全く見えないのはおかしいとする批判も根強くある。その後、萩谷朴の香子説追認論文も提出されたが、未だにこの説に関しての根本的否定は提出されておらず、しかしながら広く認められた説ともなっていないのが現状である。また、香子を「よしこ」とする説もある。
その他の名前
女房名は「藤式部」。「式部」は父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞だったこと)に由来するとする説と同母の兄弟惟規の官位によるとする説とがある。
現在一般的に使われている「紫式部」という呼称について、「紫」のような色名を冠した呼称はこの時代他に例が無くこのような名前で呼ばれるようになった理由についてはさまざまに推測されているが、一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物「紫の上」に由来すると考えられている。
また、上原作和は、『紫式部集』の宣孝と思しき人物の詠歌に「ももといふ名のあるものを時の間に散る桜にも思ひおとさじ」とあることから、幼名・通称を「もも」とする説を提示した。今後の検証が待たれる。
婚姻関係
紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚はこの一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説との関係で、『権記』の長徳3年(997年)8月17日条に現れる「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないかとする説が唱えられている。
『尊卑分脈』において紫式部が藤原道長妾であるとの記述がある(後述)ことは古くからよく知られていたが、この記述については後世になって初めて現れたものであり、事実に基づくとは考えがたいとするのが一般的な受け取り方であった。しかしこれは『紫式部日記』にある「紫式部が藤原道長からの誘いをうまくはぐらかした」といった記述が存在することを根拠として「紫式部は二夫にまみえない貞婦である」とした『尊卑分脈』よりずっと後になって成立した観念的な主張に影響された判断であり、一度式部が道長からの誘いを断った記述が存在し、たとえそのこと自体が事実だとしても、最後まで誘いを断り続けたのかどうかは日記の記述からは不明であり、また当時の婚姻制度や家族制度から見て式部が道長の妾になったとしても法的にも道徳的にも問題があるわけではないのだから、尊卑分脈の記述を否定するにはもっときちんとしたそれなりの根拠が必要であり、この尊卑分脈の記述はもっと真剣に検討されるべきであるとする主張もある。
日本紀の御局
『源氏の物語』を女房に読ませて聞いた一条天皇が作者を褒めてきっと日本紀(『日本書紀』のこと)をよく読みこんでいる人に違いないと言ったことから「日本紀の御局」とあだ名されたとの逸話があるが、これには女性が漢文を読むことへの揶揄があり本人には苦痛だったようであるとする説が通説である。
「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべるものなりけり」(『紫式部日記』)
生没年
当時の受領階級の女性一般がそうであるように、紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。そのため紫式部の生没年についてはさまざまな状況を元に推測したさまざまな説が存在しており定説が無い状態である。
生年については両親が婚姻関係になったのが父の為時が始めて国司となって播磨の国へ赴く直前と考えられることからそれ以降であり、かつ同母の姉がいることからそこからある程度経過した時期であろうとはみられるものの、同母の兄弟である藤原惟規とどちらが年長であるのかも不明であり、以下のようなさまざまな説が混在する。
970年(天禄元年)説(今井源衛・稲賀敬二・後藤祥子説)
972年(天禄3年)説(小谷野純一説)
973年(天延元年)説(岡一男説)
974年(天延2年)説(萩谷朴説)
975年(天延3年)説(南波浩説)
978年(天元元年)説(安藤為章(紫家七論)・与謝野晶子・島津久基説)資料・作品等から1008年(寛弘5年)に30歳位と推測されることなどを理由とする。
また没年についても、紫式部と思われる「為時女なる女房」の記述が何度か現れる藤原実資の日記『小右記』において、長和2年5月25日(1014年6月25日)の条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」との記述が紫式部について残された明確な記録のうち最後のものであるとする認識が有力なものであったが、これについても異論が存在し、これ以後の明確な記録が無いこともあって、以下のようなさまざまな説が存在している。
1014年(長和3年)2月の没とする説(岡一男説)。なお、岡説は前掲の西本願寺本『平兼盛集』の逸文に「おなじみやのとうしきぶ、おやのゐなかなりけるに、『いかに』などかきたりけるふみを、しきぶのきみなくなりて、そのむすめ見はべりて、ものおもひはべりけるころ、見てかきつけはべりける」とある詞書を、賢子と交際のあった藤原頼宗の『頼宗集』の残欠が混入したものと仮定している。
1016年(長和5年)頃没とする与謝野晶子の説(『小右記』長和5年4月29日(1016年6月6日)条にある父・為時の出家を近しい身内(式部)の死と結びつける説が有力であることによる)
1017年(寛仁元年)以降とする山中裕による説(光源氏が「太上天皇になずらふ」存在となったのは紫式部が同年の敦明親王の皇太子辞退と准太上天皇の待遇授与の事実を知っていたからであるとして同年以後の没とする)。
1019年(寛仁3年)『小右記』正月5日条に実資と相対した「女房」を紫式部と認め、かつ西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文を、娘・賢子の交友関係から『定頼集』の逸文と推定して、寛仁3年内の没とする(萩谷朴説) 、(今井源衛説)。
1025年(万寿2年)以後の没とする安藤為章による説(「楚王の夢」『栄花物語』の解釈を根拠として娘の大弐三位が後の後冷泉天皇の乳母となった時点で式部も生存していたと考えられるとする。)
1031年(長元4年)没とする角田文衛による説(『続後撰集』に長元3年8月(1030年)の作品が確認出来ることなどを理由とする。)
墓所
紫式部の墓と伝えられるものが京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されている。紫式部の墓とされるものは小野篁の墓とされるものに隣接して建てられている。この場所は淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年に住んだと言われ後に大徳寺の別坊となった雲林院百毫院の南にあたる。この地に紫式部の墓が存在するという伝承は、古くは14世紀中頃の源氏物語の注釈書『河海抄』(四辻善成)に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と明記されており、15世紀後半の注釈書『花鳥余情』(一条兼良)、江戸時代の書物『扶桑京華志』や『山城名跡巡行志』、『山州名跡志』にも記されている。1989年に社団法人紫式部顕彰会によって整備されており、京都の観光名所の一つになっている。
紫式部日記
人物評
同時期の有名だった女房たちの人物評が見られる。中でも最も有名なのが『枕草子』作者の清少納言に対する、(以下、意訳)
「得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない」(「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」『紫日記』黒川本)、
「こんな人の行く末にいいことがあるだろうか(いや、ない)」(「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」『紫日記』黒川本)
などの殆ど陰口ともいえる辛辣な批評である。これらの表記は近年に至るまで様々な憶測や、ある種野次馬的な興味(紫式部が清少納言の才能に嫉妬していたのだ、など)を持って語られている。もっとも本人同士は年齢や宮仕えの年代も10年近く異なるため、実際に面識は無かったものと見られている。近年では、『紫式部日記』の政治的性格を重視する視点から、清少納言の『枕草子』が故皇后・定子を追懐し、紫式部の主人である中宮・彰子の存在感を阻んでいることに苛立ったためとする解釈が提出されている。同輩であった女流歌人の和泉式部(「素行は良くないが、歌は素晴らしい」など)や赤染衛門(「家柄は良くないが、歌は素晴らしい」など)には、否定的な批評もありながらも概ね好感を見せている。
道長妾
紫式部日記及び同日記に一部記述が共通の『栄花物語』には、夜半に道長が彼女の局をたずねて来る一節があり鎌倉時代の公家系譜の集大成である『尊卑分脈』(『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』)になると、「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」と紫式部の項にはっきり道長妾との註記が付くようになるが、彼女と道長の関係は不明である。 
2
紫式部
1 出生
紫式部の出生については、ほとんど分かっていないというのが実状である。それどころか、本名も判然としないし、本当に『源氏物語』を執筆したのかすら分かっていない。それと言うのも、現代のように作品を執筆する際に作者名を公表することなど当時にはないことだからである。しかしながら、幸いにも紫式部には日記『紫式部日記』があり、ここの記事から『源氏物語』の作者が、おそらく紫式部であろうことが分かる。もちろん絶対ではないが・・・。さらに、この日記から紫式部の出生年もある程度予想することができるがはっきりとはしていない。現在までに予想された出生年は4説ある。
1 970年説……今井源衛(『人物叢書 紫式部』)
2 973年説……岡一男(『源氏物語の基礎的研究』)
3 975年説……与謝野晶子(『紫式部新考』)
4 978年説……安藤為章(『紫女七論』)
以上がその説であるが、現代では今井説もしくは岡説が有力であるようだ。しかし、もし今井説が正しいということになると、今まで紫式部の兄と見られてきた惟規が弟ということになる。いずれにせよ、このあたりが紫式部の出生年と考えて良いだろう。
2 家系
紫式部は、当時の代表的な文人で、後年国司を歴任した藤原為時の娘である。為時の祖先をたどってみると、藤原冬嗣ぐにつながる摂関権門の藤原北家と同族であるが、『古今集』時代の歌人として名高い曾祖父の藤原兼輔(中納言)以外は四・五位どまりの中流階級の家柄であった。
それでは、家系上の重要人物を個別に見ていくことにする。
○ 藤原兼輔
兼輔は、中納言という身分でありながら、その娘の桑子を醍醐天皇の更衣として奉ったり、また勅使として宇多天皇のお見舞いに上ったり、伊勢斎宮に赴いたりしているところを見ても、よほど天皇の信任が厚かったものと察せられる。また彼は、和歌の方面でも勅撰集に計四十五首収められたり、『兼輔集』という家集を残したり、後に三十六歌仙の一人にあげられたりしている。そして、彼の邸宅は京極加茂河畔にあったことから、「堤中納言」とも呼ばれていた。紫式部も『源氏物語』の中でたびたびこの兼輔の歌を題材にしている。
○ 藤原雅正
雅正は兼輔の長男で、官位は低かったが、彼の妻は兼輔の親友である定方の娘であった。そして彼も、『後撰集』に七首選ばれ、その中には貫之や伊勢御との親密な贈答歌もある。
○ 藤原為頼
雅正の長男で紫式部の伯父にあたるのが為頼である。彼には家集が一巻あり、また『拾遺集』以下勅撰集に十一首入っている。
○ 藤原為時
紫式部の父為時は、雅正の3男で、菅原文時を師としてその門下に入った文人であった。彼は若くして大学で学び文章生となり、式部丞・蔵人を経て式部大丞に進んだ。また、藤原為信の娘と結婚し、その翌年には長女が、さらに次の年に次女が生まれた。この次女が紫式部である。それから二年後に長男の惟規も生まれた。しかし為時の妻(紫式部の母)は、体が弱かったらしく長男惟規を生むとすぐに亡くなってしまったようである。また彼の官位は、式部大丞に進んだ後九八六年退官することになり、そのまま長い歳月がたつことになる。それから十年後、ようやく越前の国守に任ぜられた。
以上が紫式部の主な家系の人物であるが、まず、彼女の家系は身分的には非常に低い方であったことが分かる。そのことが、おそらく『源氏物語』の登場人物にも色濃く影響を与えているのであろう。その証拠に、作品中では受領階級の人物が際だっている。明石一族などがそうである。また、彼女の家系には文人が多かったことも非常に重要であろう。紫式部の育った環境の全てが、あの膨大な作品を書かせたのであろう。
3 少女・青春時代
紫式部が『源氏物語』を執筆した要因は、先に見た家系の他にも、彼女自身の送ってきた生活・経験というものが大きく影響を与えていることは間違いないであろう。それは、もし彼女がたとえ文人の揃った環境で育ったとしても、彼女自身が当時の一般的な女性たちと同じ生活を送っていたならば、おそらく『源氏物語』などという作品を執筆する題材など発見することができなかったものと思われるからである。たとえば『蜻蛉日記』を書いた道綱母は、藤原道長の父である兼家と結婚しているし、清少納言も中宮定子に仕えるという生活を送っている。それでは紫式部はどのような生活を送ってきたのか、項目に分けて見ていくことにする。
○ 学才
『源氏物語』を一読すると分かるように、あの作品を執筆するためには多くの知識が必要である。特に中国文学(『史記』や白楽天など)の影響が色濃く見え、彼女がそれらを愛読していたことは明らかであろう。それは、彼女の家系的なものが大きく関係していると思われるが、それだけであれほど知識が豊富になるとは考えられない。やはり、彼女の学才というものがずば抜けていたからであろう。彼女の学才について参考になる記事が『紫式部日記』にある。
この式部丞といふ人の、童にて『史記』といふ書読み侍りし時、聞きならひつつ、彼の人は遅う読み忘るる所をも、怪しきまで敏く侍りしかば、書に心入れたる親は「口惜しう男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけり」とぞ常に嘆かれ侍りし。
ここで「式部丞」というのは弟(一説には兄)の惟規である。彼に『史記』を教えていたところ、傍らで聞いていた紫式部が先に覚えてしまったので、父為時が、男の子なら良かったのに・・・、と嘆いている場面である。これを見れば分かる通り、彼女は人一倍暗記力・学才があったということである。これが『源氏物語』の夕霧などに反映されているのではないだろうか
○ 出仕
紫式部が中宮彰子に出仕したことは有名であるが、与謝野晶子はそれより以前の彼女が十七歳の時に一度出仕していたのではないかと想定している。それは、家集に「童友だちなりし人」という文字があり、それを紫式部が伯父為頼がその役所の次官を勤めていた皇太后昌子内親王のもとに童女(メノワラワ)として奉仕していたころの仲間ではないかということである。しかしながら、これに関しては、今井源衛氏も言及しているが、日記その他の傍証するものがなく、さらに日記では彰子がはじめての出仕であるかのような書きぶりであるので、これに賛成することは難しい。
○ 恋愛
紫式部が藤原宣孝と結婚したことは周知の通り(後に述べる)であるが、彼女が結婚した年齢はおよそ27・8歳の頃と言われている。これは当時で考えると大変晩婚であり、それまで彼女が恋愛を経験していなかったと考えるのは不自然である。そこで彼女の恋愛に関して参考になる記事が家集にある。
方違へに渡りたる人のなまおぼおぼしきことありて帰りにけるつとめて、朝顔の花をやるとて、
おぼつかなそれかあらぬか明けぐれの空おぼれする朝顔の花
この解釈を石川徹氏は、男性と肉体関係をもった翌朝に、彼女が贈った手紙であると解している。そしてこの時、彼女は姉の死の直前である23・4歳であったらしい。つまり、宣孝と結婚する前であることは明らかである。もちろん確証はないが、彼女が28歳頃まで男性と関係を持たなかったと考えるよりも、ここで恋愛をしていたと考える方が自然ではないであろうか。
○ 姉の死
紫式部の青春時代には一つの転機があった。それは994年頃、彼女が25歳頃であるが、この前後に彼女の姉が亡くなってしまう。おそらく当時の流行病であると思われる。紫式部には同腹の女兄弟は姉一人で、生まれてからずっと一緒に暮らしていたので、その存在は非常に重要な人物であった。その証拠に、彼女は姉が亡くなると、他人をその身代わりにして姉君と呼んでいたくらいである。特にこの女兄弟との関係は、宇治の大君と中君にその面影が写されているとも言われている。
○ 越前行
先にも述べた通り、紫式部の父為時は、長い無官時代を経て、996年越前(現在の福井県武生市)の国守に任官された。彼女はそれに同行することになる。弟の惟規は、当時まだ文章生であたために同行はしなかったらしい。それにしても、紫式部は何故に4年間という長い離京を決心したのだろうか。その理由は様々考えられるが、たとえば今井源衛氏は、何らかの男性(後の結婚相手宣孝)との交渉が破綻しつつあったのではないか、と予想している。宣孝は彼女の離京前より結婚を申し入れていたらしく、彼女はそれに気が進まなかったようである。いずれにしても、彼女は越前へ発っていくのである。しかしながら、越前での生活はわずか1年で帰京することになる。その理由は、いよいよ宣孝との結婚の意志が固まったからであろうと考えられる。宣孝は離京中も求婚し続け、そのねばり強さが彼女に結婚に踏み切らせたのであろう。
4 結婚生活
998年に越前から帰京した紫式部は、まもなく藤原宣孝と結婚する事になる。この時、紫式部は27・8歳で宣孝は45・6歳で、宣孝が17歳程度年長になる。そして二人はいとこ関係にもあった(系図参照)。当時としては、非常に晩婚であったと思われる。それは、母をすぐに亡くしたために、為時一家の母代わりになったことから、結婚が遅れたと考えられる。
夫になった宣孝は、中流階級の官人で、その経歴は備後・周防・山城・筑前等の受領を経て正五位下中宮大進に至った。また性格は、『枕草子』115段「あはれなるもの」などを見ると分かるように、非常に闊達・磊落な性格であったようである。そのため女性関係も多いようだが、宣孝は紫式部と結婚して2年後に亡くなっているので、これらの女性関係はそのほとんどが彼女との結婚以前であったことは間違いない。
ところで紫式部と宣孝との出会いは、いとこ同士であったこともあるが、彼女の父為時と宣孝は以前より知り合いであったことが大きく関係している。そして宣孝は、筑前の任期が終わった995年以後、紫式部が越前に赴いた翌年秋まで1年半ばかりの間と考えられる。この求婚が彼女の単身帰京を決心させた主な動機であるだろう。それから結婚生活が始まったのだが、結婚直後より事件が多発した。まず紫式部の伯父為頼の死、内裏焼失、それから道長の娘彰子の入内などである。999年宣孝は豊前国宇佐神宮(九州地方)の奉幣使に任ぜられた。このころ紫式部は宣孝との間に女の子を生み、賢子(カタイコ・大弐三位)と名付けた。
さて二人の結婚後の関係であるが、紫式部の性格が芯の強い、勝気なものであったために、あまりうまくは進まなかったようである。当時の一般的な妻とは違うところに新鮮さを感じた宣孝であったが、結婚相手としては疲れのたまるような相手であったようだ。そのため、徐々に宣孝の足は彼女から遠のきはじめる。まさに『蜻蛉日記』の作者道綱母と同じ境遇に立たされるのである。しかしながら、もっと不幸な事が起きるのである。それは1001年、夫宣孝が突然亡くなってしまうことである。結婚わずか2年という短い期間であった。宣孝はこの時享年49歳ほどであった。おそらく当時の流行病であろうが、これにより、紫式部は再び一人の人生が始まるのである。
5 物語執筆
紫式部がいつ大作『源氏物語』を執筆したかはまだはっきりしていない。日記の記述から、1008年(寛弘5年)までには、少なくとも「若紫」巻までは執筆していたようである。それは藤原公任から彼女が若紫と呼ばれている記述である。そして、物語の執筆時期について主に3つの論に分かれている。
1、宣孝と結婚以前ないし結婚生活中
2、宣孝死後、宮仕え以前
3、宮仕え以後
一応以上の3つがその論であるが、安藤為章の『紫家七論』以来、2の寡居時代起筆というのが通説になているようだ。彼女は少女時代からも物語を書く才能があったようだし、夫を失った後、友人を慰めに物語遊びなどをしていたようである。その延長が、あのような大作を生むようになったのではないだろうか。また、後に彼女は中宮彰子に宮仕えすることになるが、これは『源氏物語』を読んだ道長が彼女に宮仕えを依頼したという説があり、これからも寡居時代に書いたという説が有力になる一つの理由がある。しかしながら、実際のところ起筆の時期がいつであるのかははっきりしていないし、これを証明することも難しいであろう。それは、『源氏物語』を執筆したのが紫式部であるということすら、まだ定説にはなっていないからである。
1、藤原道長の加筆説
2、紫式部の父為時が大筋を書き、細部を彼女が書いたという説
3、宇治十帖以下は娘の賢子(大弐三位)が書いたという説
4、匂宮・紅梅・竹河の三帖は別人が書いたという説
これらの説が未だ根強く残っているのである。まず、これらを証明しないかぎり起筆の時期を判然とさせることは難しいであろう。
6 宮仕えと死
紫式部が中宮彰子に出仕したのは、夫の死後1005年(寛弘2年)12月29日と言われている。このことについて彼女は一首の歌を残している。
身の憂さは心の内にしたひ来ていま九重ぞ思ひ乱るる
この歌を見れば分かる通り、紫式部はこの出仕に対して、あまり乗り気ではなかったようである。おそらく藤原道長の要請により、無理矢理出仕させられたものと思われる。それはやはり、『源氏物語』を執筆したという噂がそうさせたのであろう。
ところで当時の出仕は、紫式部があまり乗り気でなかったことからも分かるように、必ずしも良いことであるとは考えられていなかったようである。実際、彼女は出仕するにあたり、友人から批判を受けているし、『枕草子』にも宮仕えを軽々しい行為と述べている。それは、女房生活ではとりわけ男女関係が乱れやすいことが一番の原因であるらしい。しかし、紫式部は中宮彰子に出仕することになった。これは、対立関係にある道隆の娘定子に清少納言が出仕していて、その文芸的世界に対抗するためであったと思われる。
さて出仕後であるが、その学才ゆえに周囲からは、あまり良い目で見られなかったようである。「日本紀の御局」というあだ名がつけられたことは有名であろう。それで、出仕後まもなく実家に帰ってしまうが、彰子から呼ばれて泣く泣く戻ってくることになる。その後も、周囲は厳しかったようで、彰子に中国文学などの講義を行っていたが、周囲に対しては、自分はボケたように振る舞うことで、その学才を隠していたらしい。
そんなこんなで、日記から1013年(長和2年)秋までは出仕が続いたことが分かるが、その後の消息は不明である。おそらくこの翌年1014年(長和3年)春ごろに彼女は亡くなったという説が現在有力である。今井源衛説では45歳、岡一男説では42歳ということになる。今井説では、晩年の紫式部は、道長に対して批判的になった彰子と藤原実資の間を取り次ぐ重要な役割を担っていたようである。いずれにせよ、それほど長寿ではなくむしろ早逝であったようである。 
3
紫式部が「源氏物語」を書いた切ない理由
切ない想いを抱いたら「源氏物語」
3月も終わりに近づきました。この季節は卒業や人事異動で切ない別れを経験する人が少なくありません。なかには、突然転勤を命じられて、恋人と遠距離恋愛に突入すべきか、もしくはサッパリ別れてしまった方がいいのか、結論が出せないまま引っ越しの準備をしているビジネスパーソンもいるかもしれません。
そこで今回は、切ない想いが約100万文字、54帖にもわたって綴られた日本最古の(世界最古とも言われている)大長編恋愛小説「源氏物語」に秘められた、千年の謎に迫ってみたいと思います……なんて言うと、きっと多くの源氏物語ファンから、こんなお叱りを受けるでしょう。
「えっ、そんな軽々しく源氏物語の謎に迫れると思っているの? これまで数えきれないほど多くの文学者や歴史学者が研究して、まだ分かっていないのに、素人がとんでもないことを言うな!」
もちろん、私も簡単に「千年の謎」を解き明かせるとは思っていませんし、私にできるとも思っていません。ただ、今の価値観をもって作者の紫式部の人生を深掘りすると、「人生がラク」になるヒントがザクザクと見つかるのです。
「紫式部がもし、今どきの女性だったら」――そんな視点で源氏物語が書かれた背景を読み解くと、びっくりするような“女の大戦略”が浮かび上がってきたというわけです。
紫式部はなぜ、“刺激的な”源氏物語を書いたのか
そもそも紫式部はなぜ、源氏物語を書き始めたのでしょうか。というのも源氏物語は女性が書きそうなロマンチックな恋愛小説ではありません。冒頭からかなり刺激的な内容です。源氏物語を知らない読者のために、第1帖「桐壺」から第5帖「若紫」までの大まかなあらすじをご紹介しましょう。
それほど身分が高くない更衣という女性が桐壺帝(天皇)の愛情を一身に受け、イケメンの光源氏を生む。更衣は身分が低いゆえに宮廷でイジメを受け、心労がたたって源氏が3歳のときに死んでしまう。桐壺帝は悲しんで、更衣に生き写しの藤壺を後宮に迎える。光源氏は藤壺に亡き母の面影を重ね、心から愛するようになる。そんな中、源氏は元服の夜に左大臣の娘・葵の上(4歳年上)と結婚する。
しかし、光源氏は妻の葵の上とは打ち解けず、「上流階級の箱入り娘より中流階級の女性の方が素晴らしい」などと言って次々に人妻や継娘に手を出し、ついに継母の藤壺にも子供を生ませてしまう。(源氏物語 第1帖「桐壺」から第5帖「若紫」まで要約抜粋)
まるでシンデレラとドロドロの不倫ドラマをミックスしたような展開ではありませんか。現代なら誰が書いてもとがめられませんが、平安時代はバリバリの男尊女卑だったはず。そんな中でよく女性の紫式部が、最高権威の宮廷を舞台に、こんな不倫物語を書いたと思いませんか?
もちろん、情緒豊かな和歌や心理描写の素晴らしさなど、文学的に優れた作品であることは間違いありません。しかし何か強い動機がない限り、一人の女性がこれほど“大それたストーリー”を紡ぐとは、私には考えられません。
そこで、どうしても、その動機が知りたくて、紫式部が源氏物語を書き始めた頃の逸話を調べてみました。
紫式部も不倫していた?
紫式部がいつ生まれたのか、明確な年号は記録にありません。様々な史料を照らし合わせると、973〜979年の間に生まれたのではないか、という説が有力だと分かりました。
身分は平安時代に最も栄えた「藤原北家」の家柄で、父は越後守・藤原為時、母は摂津守・藤原為信の娘。父は花山天皇の子供時代、読書役を務めた経歴をもつ文才豊かな人だったそうです(なお、「紫式部」は後の官職名ですが、本名については諸説ありますので、このコラムでは「紫式部」と統一表現します)。
つまり紫式部は平安時代のセレブな家に生まれ、文才のある父のDNAを受け継いだお嬢様だったということです。史料には、幼女の頃より漢文を読みこなしたなど、文才あふれる逸話が紹介されています。
そして長徳4年(998年)、20歳も年の離れた山城守・藤原宣孝と結婚して、一女・藤原賢子(大弐三位)を生んでいます。ところがその結婚、よく調べてみると、紫式部が嫁いだとき、宣孝にはすでに3人の妻と嫡男がいたことがわかりました。セレブで文才あるお嬢様がなぜ、20歳も年の離れた男性に4番目の妻として嫁いだのでしょうか。
さらに、藤原宣孝は紫式部と結婚してわずか3年後の長保3年(1001年)に他界しており、紫式部は宣孝と死別後に源氏物語の執筆を始めたという説が有力になっています。では、なぜこの時期に、紫式部は源氏物語を書き始めたのでしょうか。セレブな女性が未亡人になって、いきなり不倫小説(失礼!)を書くなんて、ちょっと不思議ではありませんか?
「きっと、何かあるに違いない」と思った私は、さらに紫式部のプロフィルに関する逸話を探してみました。するともうひとつ、逸話が見つかったのです。
なんと、紫式部は結婚する11年前(987年)、後に源氏物語の執筆を応援する藤原道長が左大臣の娘・源倫子と結婚した時、倫子付きの女房(使用人のこと)として出仕した(宮仕えすること)というのです。
もちろん、これはひとつの逸話ではありますが、紫式部が最も早い生年とされる973年に生まれていたとすると、987年には14歳になっています。当時は結婚しても良い年ですが、紫式部は才女の評判が高かったことから、出仕させられたのかもしれません。今に置き換えれば「私、結婚より仕事を選びました!」ということでしょう。
そして、ここからは勝手な推理にすぎませんが、倫子付きの女房の仕事をしている中で、藤原道長と出会い、深い関係になったのではないでしょうか。つまり、こういうことです。
(1)紫式部はいったん結婚より仕事を選んだものの、就職先の社長にあたる藤原道長と道ならぬ関係に陥ってしまった。
(2)10年ほど不倫関係を続けていたが、25歳になったとき、賢明な式部は「このままではいけない」と思い直し、道長との関係を清算するため、20歳も年上の藤原宣孝と結婚し4番目の妻となった。
(3)しかし、夫の宣孝は3年後に死んでしまった。このとき紫式部はすでに28歳。当時は年増といわれる年齢で、しかもシングルマザーになっていた。そんなトリプルパンチに見舞われて彼女は「この先、子供を抱えて、どうやって生きていこうか」と悩んだ。
(4)そう考えているうちに、「私がこんなことになったのは全部、道長のせいだ!」と思うようになった。しかも、その道長は“何も無かったかのように”どんどん出世している。「何よ、自分だけいい思いをして! このままじゃ許せないわ」と策を練った。
(5)賢く文才のある紫式部は、得意の情緒豊かな和歌や文章をもって、道長がかつての不倫を彷彿するであろう源氏物語を書き始めた。
源氏物語ファンの皆様、勝手なことを書いて、申し訳ありません。しかし、こう考えれば、すべての辻褄が合うと思いませんか?
“前の男”を利用して出世した? 紫式部の大戦略
冒頭で紹介した源氏物語のストーリーは、藤原道長と紫式部が不倫したと仮定して物語に当てはめると、濃厚なメッセージが浮かび上がってくるのです。
1 桐壺帝は身分の高くない更衣を愛し、イケメンの光源氏が生まれる。→→→ 藤原道長(あなた)は妻の女房(使用人)にすぎない紫式部(私)を愛した。だから「源氏物語」が生まれるのよ(道長への果たし状?)。
2 光源氏が3歳のとき更衣は他界。桐壺帝は更衣と生き写しの藤壺を後宮に迎える。→→→ 私は結婚3年目で旦那と死別した。あなたはもう一度、私の面倒を見るべきなのよ(道長への宣戦布告?)。
3 光源氏は元服して左大臣の娘・葵の上と結婚するが、「女性は、上流より中流階級の方が素晴らしい」などと言って、次々に人妻や継娘、継母と不倫する。→→→ あなたの妻は、左大臣の娘だったわね。そんな妻より私の面倒をみなさい。そうでなければ、あなたとの不倫の日々を「源氏物語」で次々とばらすわよ(道長への 脅迫?)。
藤原道長といえば「栄花物語」に描かれたほどの出世頭。もし、この推理が当たっていたなら、藤原道長にとって源氏物語は脅威だったに違いありません。情緒豊かな和歌と見事な心理描写で読む人を魅了するだけに、「いつ、この物語の真実が明かされるか」とハラハラしたのではないでしょうか。
というのも源氏物語が書き始められたとされる時期は、藤原道長にとって長女の彰子を一条天皇に嫁がせた非常に大切な時期だったのです。もし、このタイミングで、紫式部にカミングアウトされたら、たまったものではありません。天皇の信頼を失うばかりか、妻の倫子も怒り出し、大変なことになるでしょう。
しかし、道長はさすがに賢い人でした。紫式部のメッセージをプラスに受け止めて、彼女が宮廷で働けるように手配したばかりか、源氏物語を優れた文学作品と位置付け、紫式部に「どんどん続きを書け」と促したのです。
史料には、道長は源氏物語の評判を耳にして、作者の紫式部を一条天皇に嫁がせた長女の彰子の女房に迎え入れ、源氏物語を一大文学小説として書き続けるよう奨励したと記録されています。
さらに、道長の長女・彰子の女房には紫式部のほかに、王朝有数の歌人・和泉式部や伊勢大輔、道長の栄華を綴った「栄花物語」の作者・赤染衛門、出羽弁などが集められ、彰子の元には、華麗な文芸サロンが形成されたと伝えられています。
つまり道長は自身の不倫物語を一大文学作品に仕立て上げ、紫式部を作家に押し上げて、みずから支援することで、身を守ったことになります。それが高じて紫式部の執筆を促しすぎた結果、源氏物語は巨大長編恋愛小説になったのかもしれません。
この“仮説”を裏付けるかのように、源氏物語のストーリーは第9帖「葵」あたりから別の方向へ急展開します。光源氏が妻の葵の上を愛しく思うようになり、第10帖「賢木」で光源氏は最も愛しい藤壺に振られ、さらには天皇の思い人に手を出したことがバレて、第12帖「須磨」では流罪で須磨に流されています。
紫式部が源氏物語を書く目的が変わったから、なのかもしれません。
当時、紫式部が住んでいた家の跡とされる「蘆山寺」は、京都御所のすぐ近くにありました。紫式部はこの場所から毎日、宮廷に通っていたのでしょうか。蘆山寺にある「源氏庭」は平安朝の庭園の「感」を表現したと説明されていますが、白砂と苔が織りなす庭園には、結婚より仕事に生きた紫式部の心模様が描かれているようです。
「宇治十帖」に込められた亡き夫・宣孝へのメッセージ
さらに光源氏の死後の物語として描かれた「宇治十帖」にもメッセージ性が感じられます。山城守(宇治市長にあたる役職)だった夫の藤原信孝を偲ぶ気持ちから書き綴ったのではないかと思われるのです。
光源氏が他界していったん物語は終わったかに見えるのですが、舞台を宇治に移し、源氏の子孫の物語が描かれているからです。「不倫を隠していてごめんなさい。せめて償いの気持をこめて、源氏物語はあなたが守っていた宇治を舞台に終わることにするわ」――そんな紫式部のメッセージが聞こえてくるような気がします。
というのも、源氏物語は「宇治十帖」だけ仏教色が漂っているのです。ストーリーを要約すると、光源氏の面影を継ぐ匂宮と薫が同じ女性・浮舟を愛しますが、浮舟は2人の男に愛されたことに苦悩して、宇治川に投身自殺します。しかし死にきれず、横川僧都に救われ出家します。それを知った薫が熱いラブレターを送りますが、浮舟は一切、薫との関係を断ち切り、平穏に生きる道を選ぶのです。この展開は紫式部が男性との関係をキッパリ断って、文学に生きることを夫の宣孝に告げたものと解することもできます。
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな (紫式部)
これは、百人一首に入選した紫式部の和歌ですが、3年の短い間、夫だった宣孝への深い思いが感じられます。
紫式部に見習って、別れをプラスに変えよう
ここまで紫式部を一人の女性として、現代の価値観で深掘りしてみましたが、いかがでしたか。源氏物語ファンは気を悪くされたかもしれませんが、紫式部も血の通った女性だったはず。こんな見方も一理あると思っていただければうれしいです。
そして、この「紫式部的な生き方」は、私たちに大きなヒントをくれます。
たとえば、いきなり転勤を命じられて恋人と離れてしまうあなた。迷わず「遠距離恋愛」に挑戦してみましょう。せっかく愛し合った仲なのですから、これからも、メールやLINEで情緒豊かな文章でメッセージを送れば、心が離れることはありません。
「着いた? 寂しくない?」
「うん、君と同じ月を見ていると思うと、寂しくないよ」
なんて、ちょっとキザですか? でも、いつものメールに情緒豊かな表現をプラスすると、かえって愛情が深まることもあるかもしれません。
ただ、文才豊かな人との不倫は絶対に避けましょう。突然、不倫小説を書いて「これは実体験です」なんてカミングアウトされたら、たまったものではありません。愛は、情緒豊かな文章が心に響く相手と育みたいものです。  
4
石山寺
石山寺は滋賀県大津市にある 東寺真言宗の寺院です。 琵琶湖の南に位置しており、 国の天然記念物・珪灰石の巨大な岩盤の上に本堂が置かれていることから「石山寺」という名前になったと言われています。
このお寺が有名な理由の一つが平安時代を代表する作家・紫式部にあります。紫式部が石山詣で石山寺を訪れた時、作品の着想を得たことから、紫式部ゆかりの寺として知られるようになりました。
石山寺は平安時代から多くの人々に愛され、色々な作品の中にも登場します。「枕草子」や「更級日記」・「蜻蛉日記」などにも登場することから、平安時代より多くの人に愛されてきたことがうかがえます。
石山寺は、天災や兵火に襲われる事無く長くこの地にあったために、貴重な建築物や仏像などが多く残されていることも特徴です。建立当時の技術の高さには驚かされますね。
石山寺は別名を花と月の寺といいます。四季折々の美しい風景はもちろん、近江八景のひとつにも数えられる秋の月は格段と美しいと言われています。

石山寺のすぐ前に、千年紀期間中運行されるレトロな観光船、一番丸に乗って多くの観光客がお参りに訪れる。お土産店がならぶ広場を通りすぎると、三間一戸八脚門の山門がそびえる。その左右に運慶・湛慶の作といわれる仁王像が大きな目を見開いて、睨みをきかせている。石山寺は聖武天皇の勅願によって良弁僧正(六八九〜七七三)が創建した寺である。そして、天皇はじめ皇族貴族の厚い信仰を受けて栄えていく。平安時代になると時の権力者藤原氏の庇護の元、石山詣は一大ブームを引き起こすのである。
式部の日記や歌集にも石山詣をしたという記述は残っていない。しかし、源氏物語宇治十帖「浮舟」の巻に、石山詣を効果的に使っている。ただし、これは実際に行った描写ではなく、石山詣をする予定がダメになる話である。浮舟が源氏の子、薫の愛人になり宇治に囲われる。薫は公務が忙しくてめったに浮舟の所にあらわれない。そこへ薫の親友匂宮(源氏の孫)が現れ浮舟に惹かれていく。匂宮は、薫になりすまし、夜おそく宇治にしのんで行き、闇のなかで浮舟とちぎってしまう…。悲劇の発端となるこの事件は、母と乳母に誘われて石山詣を予定していた浮舟の予定を、大きく狂わせる。石山寺は紫式部が源氏物語を書きはじめたという伝説の残る有名な寺である。本堂の隣には「紫式部源氏の間」がある。王朝貴族の女装束をつけた人形が机を前に座っている。机の上には紙が広げられ、硯があり、人形は筆を持っている。あたかも紫式部がすぐにでも、物語を書き出しそうな雰囲気を呈している。この事は『石山寺縁起絵巻』にも記されている。また、十四世紀後半に成立した『源氏物語』の注釈書『河海抄』にも………宇津保・竹取やうの古物語は目馴れたれば、新しく作り出して奉るべきよし式部に仰せられければ、石山寺に通夜してこのことを祈り申すに、折りしも八月十五夜の月、湖水にうつりて心の澄みたるままに、物語の風情空に浮かびたるをわすれぬさきとて、仏前にありける大般若の料紙を本尊に申しつけて、まず須磨明石の両巻を書きとどめけり、とある。
紫式部が瀬田川に映る十五夜の月をめで、どんな思いで「須磨・明石」の構想を練ったのか、今では知る由もない。石山寺界隈で繰り広げられている源氏物語千年紀。千年もの時を越え、様々なイベントを通じ、源氏物語が身近なものになったに違いない。境内の奥にある豊浄殿では「紫式部特別展」が開催されている。展示品は紫式部観月図(江戸時代・土佐光起筆)などがあり、訪れる人は後を絶たない。

琵琶湖の南、瀬田の唐橋から1.5kmほど下ったところにある石山寺は、如意輪観世音菩薩をご本尊とし、平安時代には清水や初瀬と並ぶ観音信仰の中心地でした。『蜻蛉日記』や『更級日記』に石山詣の記述が見られるように、女性の信仰が篤く参詣の多かったことでも知られます。
石山寺というと、「紫式部は石山寺参籠中に『源氏物語』の着想を得た」という『源氏物語』起筆伝説が有名ですが、あれはあくまで後世の伝説に過ぎず、石山寺と紫式部及び『源氏物語』執筆との間に、歴史的事実として確認できるつながりは見つかっていません。(ただし、伝説に基づいて長年にわたり人々が紫式部と『源氏物語』に因む美術工芸品や文学作品を奉納してきたため、石山寺は『源氏物語』享受史の宝庫となっています)
執筆との関わりはないものの、観音信仰・石山詣が盛んだった当時の世相を反映して、『源氏物語』の中には何度か石山寺が登場します。
最初は、逢坂の関でご紹介した関屋巻。逢坂の関で空蝉と邂逅する光源氏は、その権勢を誇示するかのように美々しく行列を整えて都から石山詣に向かう途上でした。この場面では、粟田山と逢坂山を越え打出の浜を経、琵琶湖と瀬田川に沿って石山寺へ至る、都からの道筋も窺うことができます。
次は真木柱巻冒頭で、玉鬘付きの女房・弁のおもとに手引きをさせ、大逆転で玉鬘を手に入れた髭黒大将が「石山の仏をも、弁の御許をも、並べて預かまほしう」と思う件があります。髭黒大将が石山寺に玉鬘との結婚を熱心に祈願していたという設定です。この一節に続く「げにそこら心苦しげなることどもをとりどりに見しかど心浅き人のためにぞ寺の験も現はれける」との語り手の批評も、当時悩み苦しみを抱えた沢山の人々が石山寺の霊験に縋ったのだろうことを感じさせます。
その次に石山寺が登場するのは浮舟巻ですが、この巻での記述の仕方は少々注意を引きます。匂宮が宇治に隠し据えられた浮舟の許に忍び込んだのは、浮舟が母君の計画で石山詣へ出かけようとしていた、その前夜のことでした。この石山詣は匂宮の闖入と居座りによって中止になってしまうのですが、そのことは浮舟巻の中でなんと3回も繰り返して言及されます。まるで、浮舟が匂宮との関係をきっかけに出口のない苦悩の底へ転落してゆく展開を、「女性が救いを求めて参詣する石山寺に行けなくなった」という事態によって象徴しているかのようにも読める執拗な反復ぶりです。そして、薫と匂宮との間で悩む浮舟にどちらか一方を選ぶよう勧める右近が「とてもかくても、事なく過ぐさせたまへと、初瀬、石山などに願をなむ立てはべる」と言うのも、当時の観音信仰を考えればごく自然な言葉でしょうが、浮舟が右近の言葉に却って追い詰められて死を願うようになることを思うと、石山寺の存在は浮舟を悲劇の方向へ導く役割を果たしているような気がいたします。更に、本文中に石山寺の登場する最後の場面が、蜻蛉巻で石山寺参籠中の薫が浮舟失踪の知らせを受ける、という内容であるのも、何やら意図的なものを感じるのですが…深読みのしすぎでしょうか?
境内の山を半ばまで登り、寺名の由来でもあるごつごつとした珪灰石を見上げると、雄大で清浄な雰囲気が参拝者を包み込みます。個人的には、観光ガイドなどによく書かれている「紫式部伝説の地」というよりも、『源氏物語』の描く仏教信仰の観点から考えてみたいお寺です。

紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされ伝承
『和泉式部日記』(十五段)では、「つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて」とあり、 和泉式部が敦道親王との関係が上手くいかず、むなしい気持を慰めるために寺に籠った様子が描かれています。
石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁。当寺は京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所となっています。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承があります。
「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にあります。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっています(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされています。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていました。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峰山に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようです。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げました。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てました。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めました。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけだが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創といわれています。
その後、天平宝字5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われ、正倉院文書によると、造東大寺司(東大寺造営のための役所)からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていました。これには、淳仁天皇と孝謙上皇が造営した保良宮が石山寺の近くにあったことも関係していると言われ、本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像は、天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたといわれています。以降、平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていませんが、寺伝によれば、聖宝、観賢などの当時高名な僧が座主(ざす、「住職」とほぼ同義)として入寺している。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧です。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われます。
石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐(890−953)で、内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号で、高僧でありながら、諸職を固辞していた淳祐がこの内供を称され、「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれています。その理由は淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。
このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、「蜻蛉日記」や「更級日記」にも描写されています。現在の本堂は永長元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われます。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存しています。石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られています。『枕草子』二百八段(三巻本「日本古典文学大系」)には「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」とあり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)7月の記事に登場する。『更級日記』の筆者・菅原孝標女も寛徳2年(1045年)、石山寺に参篭しています。紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされ、伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られています。 
5
紫式部と武生(たけふ)
紫式部の越前下向
『源氏物語』の作者として有名な紫式部が、都を離れて越前の国に向かったのは、長徳2年(996年)の夏であったとされています。官途から遠ざかっていた父の藤原為時が、春の除目で帝に文を奉り、やっと大国である越前の国守に任じられ、式部はその父とともに国府があった現在の福井県武生市にやってきたのです。式部が生まれたのは、天延元年(973年)とする説が有力なようですが、それに従えば、23歳のころということになります。
『紫式部集』に収められた和歌によると、彼女は当時たった一人の姉を失い、同様に妹を亡くした友人と「姉妹」の約束をしてお互いを慰め合っていたところ、式部が越前へ向かうのと同じ時にその友も筑紫へ向かうこととなり、二人で別れを惜しみながらそれぞれの地へ下って行ったようです。
北へゆく雁のつばさにことづてよ雲の上がきかき絶えずして
(北へ向かう雁のつばさにことづけて下さい。「私」あての手紙の上書きを絶やすことなく。)
行きめぐり誰も都にかへる山いつはたと聞く程のはるけさ
(遠く離れた国々をめぐり歩いても、やがては誰もが都に帰るのでしょうが、「かへる山」「いつはた」というあなたが向かうお国の地名を聞くにつけても、はるか先のように思われてしまいます。)
前の歌が紫式部のもので、後の歌は友人の返歌です。「かへる(鹿蒜・帰)」(現在の福井県南条郡今庄町)、「いつはた(五幡)」(現在の福井県敦賀市の東部)は、ともに越前の国の地名。いずれも万葉集の時代から和歌に詠み込まれていたので、式部もその友人も、越前への下向と聞いて、この二つの地名が頭の中に思いうかんだのでしょう。式部一行は越前へ向かう際、まず琵琶湖の西岸沿いを船で移動し、北端の塩津から山を越えて敦賀に入り、今庄を通って国府(武生)にたどりついたと思われます。ただ、式部の時代には、敦賀から今庄へ向かうコースについては、1敦賀から海沿いに五幡を通るか、あるいは敦賀から水津(杉津)までは船で移動し、山中峠を越えて今庄に至るコースと、2敦賀から山中峠の南方にある木ノ芽峠を越えて今庄に至るコースが両方使われていた可能性があるので、彼女が実際にどちらのコースを通ったのかは、はっきりとはわかりません。→「かへる山」と「いつはた」の謎へ
国府(武生)での紫式部
式部の国府(武生)での様子を偲ばせる和歌が、『紫式部集』の中にはいくつかあります。
こゝにかく日野の杉むら埋む雪小塩(をしほ)の松に今日やまがへる
(この地でこのように日野山の杉木立を埋めるように降っている雪。都の小塩山の松にも今日は雪が降り乱れているのでしょうか。)
小塩山松の上葉に今日やさは峰の薄雪花と見ゆらむ
(都の小塩山の松の上葉にも、さすがに今日が暦に「初雪降る」とあるのなら、峰にうっすらと雪が積もって、花のように美しく見えることでしょうね。)
ふる里に帰るの山のそれならば心や行(ゆく)とゆきも見てまし
(都に帰る途中の「かへる山」の雪ならば、心も晴れるだろうかと出ていって見るでしょう。)
最初の歌には、「暦に、初雪降(ふる)と書きつけたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深く見やらるれば」という詞書きがあって、目の前の日野山に降り積もる雪を眺めながらも、心はやはり恋しい都に移っていってしまうという状況が描かれています。次に続く歌は、その式部の歌に対する侍女の返歌だろうと言われていますが、もしかするとこれも式部自身の作なのかもしれません。歌枕である小塩山の上品な雪景色を思い描くことで、よりいっそう目の前に降る国府(武生)の雪の重々しさはつのります。三つ目の歌は、「降り積みていとむつかしき雪を、掻き捨てて山のやうにしなしたるに、人々登りて、『猶、これ出でて見給へ』といへば」という詞書きにあるように、庭に降り積もった雪で作った雪山で、人々が少しでも式部の気持ちを晴らそうと声をかけてくれるのに、式部はたいそうそっけないことばでそれを断ります。『枕草子』でもふれられているように、都に雪が降れば趣向をこらして「雪山作り」を行い、雪を楽しむのが当時の都の貴族の習慣であったようですが、越前ではじめて味わった本格的な雪の様子は、彼女にとっては重苦しいだけのものであって、とても「楽しむ」といった部類のものではなかったのでしょう。
このように、『紫式部集』からイメージできる国府(武生)での紫式部像は、あまりこの地での生活を楽しんでいるようには見えません。ただ、この当時の越前の国が、外国との関係においてかなり重要な役割を果たしていたことは確かで、長徳元年(995年)9月にも宋人が漂着し、越前の国で応対したという記録があるようです。式部がそれに興味を抱かないはずはないでしょう。また、彼女が都を離れたのがこの越前下向たった一度だけであったことを考えれば、国府(武生)での生活が式部の意識にさまざまな意味で影響を与えたことは容易に推測できます。後に『源氏物語』に描かれるいくつかのエピソードにも、もしかするとこの越前での経験が反映されているのかもしれません。
紫式部の帰京
式部が越前からふたたび都にもどったのは、長徳3年(997年)の晩秋から初冬(一説には長徳4年春)であったとされています。父為時の国守としての任期は当然まだ終わってはいませんから、父を残して単独で帰京したわけです。なぜ、彼女はそこまでして都にもどりたかったのか。それには特別な理由があったようです。
実は、式部には越前へ向かう前から言い寄ってきている男性がいました。藤原宣孝です。
春なれど白嶺の深雪いや積もり解くべき程のいつとなき哉
(春にはなりましたが、こちらの白山の雪はますます積もって、いつ解けるものかわかりません。)
水うみに友呼ぶ千鳥ことならば八十の湊に声絶へなせそ
(近江の湖に友を呼ぶ千鳥よ。いっそのことあちらこちらの湊で声を絶やさずにいたら。)
いずれも、宣孝が越前の式部のもとへ送ってきた文に対する彼女の返しの歌です。前の歌には、「年かへりて、『唐人見に行かむ』といひたりける人の、『春は解くる物と、いかで知らせたてまつらん』といひたるに」という詞書きがあります。「唐人」とは、先にふれた宋人たちのことを指しているのでしょう。越前の国まで宋人を見に行こうと言っていた人、つまり宣孝が、恋に対してかたくなな式部の心を解きほぐそうとしてあれこれとことばを尽くしているのに、彼女はあえて冷たい態度をとります。なぜなら、宣孝は式部よりも二十歳ほど年上で、先妻との間にはすでに数人の子どもがおり、おまけに当時、近江守の娘にも言い寄っているという噂まであったのです。後の歌には、「近江の守の娘懸想ずと聞く人の、『二心なし』と、つねにいひわたりければ、うるさがりて」との詞書きがついています。式部とて決して興味がないわけではないのに、どこまで彼を信じてよいものか迷いあぐね、わざとこのようなそぶりをしている様子がわかります。しかし、最初はこのような態度をとっていた式部も、宣孝の執拗なアタックに、次第に心が傾いてきていたのでしょう。式部が帰京を急いだ背後には、このような出来事があったのです。
結局、式部が越前の国府(武生)に過ごしたのは、一年あまり。これが短いか長かを議論しても無意味なことですが、今から1000年の昔、この武生に彼女が存在していたことは明らかな事実なのです。 
6
紫式部 生没年未詳
生年は天禄元年(970)、天延元年(973)など諸説ある。藤原兼輔の曾孫。雅正の孫。正五位下越後守為時の次女。母は摂津守藤原為信女。兄の惟規、娘の賢子(大弐三位)も勅撰歌人。早く生母に死別、長徳二年(996)、越前守となった父の任国に同行する。その後単身帰京し、同四年頃、山城守藤原宣孝の妻となる。長保元年(999)、賢子を出産するが、二年後、夫と死別。この頃から『源氏物語』の執筆に着手した。寛弘二年か三年(1006)頃、一条天皇の中宮彰子のもとに出仕する。没年は長和三年(1014)、長元四年(1031)など諸説ある。著書に『源氏物語』『紫式部日記』がある。また自撰と思われる家集『紫式部集』がある。後拾遺集初出。勅撰入集六十二首。中古三十六歌仙。女房三十六歌仙。
春 / 一条院御時、殿上人、春の歌とてこひはべりければ、よめる
み吉野は春のけしきにかすめども結ぼほれたる雪の下草(後拾遺10)
(吉野はもう春めいた様子に霞んでおりますが、地面にはまだ固く凍りついた雪に覆われている草――そのように私は家で逼塞しております。)
題しらず
世の中をなになげかまし山ざくら花見るほどの心なりせば(後拾遺104)
(この世をどうして嘆きなどするだろう。花を見ている時のような心――忘我の境地――でいられたなら。)
夏 / 賀茂にまうでて侍りけるに、人の、郭公なかなむと申しけるあけぼの、片岡のこずゑをかしく見え侍りければ
ほととぎす声待つほどは片岡の杜のしづくに立ちや濡れまし(新古191)
(時鳥の声を待っている間は、片岡の森の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていようか。)
秋 / 七月一日、あけぼのの空をみてよめる
しののめの空霧りわたりいつしかと秋のけしきに世はなりにけり(玉葉449)
(わずかに白んできた空は一面霧が立ち込め、いつのまにか秋の気色に時はなっていたのだなあ。)
題しらず
おほかたの秋のあはれを思ひやれ月に心はあくがれぬとも(千載299)
(秋は概してしみじみと哀しい季節――そのことを思い遣って下さい。美しい月にあなたの心はふわふわ浮かれているとしても。)
冬 / 里に侍りけるが、しはすのつごもりに内にまゐりて、御物忌みなりければ、つぼねにうちふしたるに、人のいそがしげにゆきかふ音をききて思ひつづけける
年暮れて我が世ふけゆく風のおとに心のうちのすさまじきかな(玉葉1036)
(一年が暮れて、私もまた年を取るのだと思いつつ、夜更けの吹きつのる風の音を聞いていると、心の中のなんと冷え冷えと荒んでいることよ。)
雑 / 東三条院かくれさせ給ひにける又の年の春、いたくかすみたる夕暮に、人のもとへつかはしける
雲のうへの物思ふ春は墨染にかすむ空さへあはれなるかな(玉葉2298)
(国母が崩ぜられて宮中で喪に服している春は、墨で染めたように霞む空さえも哀れ深い様子ですねえ。)
はやくよりわらはともだちに侍りける人の、としごろへてゆきあひたる、ほのかにて、七月十日の比、月にきほひてかへり侍りければ
めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半よはの月かげ(新古1499)
(久々に再会して、面差しをその人とはっきり見分けることもできないうちに、慌ただしく帰ってしまった友よ――あたかも、ほの見えた月がたちまち雲に隠れるように。)
とほき所へまかりける人のまうできて暁かへりけるに、九月尽くる日、虫の音もあはれなりければよめる
なきよわる籬まがきの虫もとめがたき秋のわかれや悲しかるらむ(千載478)
(なき声の弱ってゆく籬の虫も、止め難い秋との別れが哀しいのでしょうか。)
浅からず契りける人の、行きわかれ侍りけるに
北へゆく雁のつばさにことづてよ雲のうはがきかき絶えずして(新古859)
(北へ帰って行く雁の翼に言付けて、遠い南の国からも私に便りを下さいよ。書き絶やすことなく。)
題しらず
数ならで心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり(千載1096)
(ものの数にも入らない私だから、我が身を心のままに委ねることはできない――それはわかっているけれど、こうして我が身の境遇に支配されてしまうのが、心であったとは…。)
後一条院うまれさせたまひて七夜に人々まゐりあひて、盃いだせと侍りければ
めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千世もめぐらめ(後拾遺433)
(美しい月が射し込んで光を添えている盃――この満月が大空を永遠に巡るように、盃は皆さんの手から手へと巡って、親王のご誕生の栄えを祝福し続けるでしょう。)
失せにける人のふみの、物の中なるを見出て、そのゆかりなる人のもとにつかはしける
暮れぬまの身をば思はで人の世のあはれを知るぞかつははかなき(新古856)
(日の暮れぬうちは命があるとしても、明日は知れぬ我が身――そのことは忘れて、他人の死から人の世のはかないことを知るとは、それもまた果敢ないことではある。)
源氏物語 / 源氏、中将ときこえし時、立ち給へる御車に、扇に書きつけて
心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花〔夕顔「夕顔」〕
(当て推量で、その方かと存じます。白露の光を添えた夕顔の花のように、輝かしい夕方のお顔を。)
中将ときこえし時、かぎりなく忍びたる所にて、あやにくなるみじか夜さへほどなかりければ
見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるる我が身ともがな〔光源氏「若紫」〕
(今夜はお逢いできましたが、再びお逢いする夜は、稀でしょう――そんな果敢ない逢瀬の夢の中に、そのまま紛れ込んで消えてしまう我が身でありたいものです。)
三の口にて
憂き身世にやがて消えなばたづねても草の原をばとはじとや思ふ〔朧月夜「花宴」〕
(つまらない我が身がこの世からこのまま消えてしまったら、墓のある草の原を探し求めてまで訪れようとは思ってくれないのですか。)
須磨の浦にて
恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふかたより風や吹くらむ〔光源氏「須磨」〕
(都恋しさに歎いて泣く私の声と区別がつかない、須磨の浦に寄せる波音――恋い慕う都の方角から風が吹くからなのだろうか。)
紫の上かくれ給ひて後、昔の野分の夕べほのかなりし御面影、いまはのほどの悲しさなど思ひ続けて
いにしへの秋の夕べの恋しきに今はと見えしあけぐれの夢〔夕霧「御法」〕
(紫の上をかつて垣間見た秋の夕方が思い出されて懐かしい――それにつけても、臨終の時の払暁が夢のようにはかなかく悲しいことよ。)
冬の夜、宇治にこもりゐてのころ、千鳥の鳴きければ
霜さゆる汀みぎはの千鳥うちわびてなく音かなしき朝ぼらけかな〔薫「総角」〕
(霜も凍りつく波打ち際の千鳥は辛がって啼く――その声が切ない明け方であるなあ。)
あやしうつらかりける契りどもを、つくづくと思ひつづけながめたまふ夕暮、蜻蛉のものはかなげに飛びちがふを
ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへもしらず消えしかげろふ〔薫「蜻蛉」〕
(目の前にいると見て手に取ることはできず、次に見た時には行方も知れずに消え失せた蜻蛉よ。) 
7
紫式部は二重人格だった
日本を代表する女流作家・紫式部(むらさきしきぶ)。源氏物語という超有名な長編恋愛小説を描き、紫の上をはじめ、美しく教養の備わった女性たちを登場させているものの、本人は極めてゆがんだ性格で、ライバルたちを批判し続け、とくに清少納言をディスりまくっていた。おまけに「源氏物語」の作者とも断定できず、後年に新訳を書いた与謝野晶子も「一人で書いたのではなさそう」と疑っているほど疑惑の作家だった!
紫式部、じつは正体不明
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」という土佐日記の冒頭の一文は、誰もが一度は聞いたことがあるだろう。現代語では「男性が書いている日記を、女性もしてみようと思って始めました」の意味で、平安前期の当時、文学は男性のものだった。
実際は男性の紀貫之(きのつらゆき)が、私的なことを書くために女性に成り代わり、「かな文字」で日記を書いたとされているが、結果的に「女性も日記を書いても良いのかも!」という空気になったのかもしれない。
かな文字は女性にも親しみやすいものだった。なにせ当時、和歌が詠(よ)めなければ男女ともに結婚なんてできなかったのだ。たとえ、地位も名誉も金も美貌もそろっていたとしても、和歌が詠めなければ「ダサい奴」のレッテルを貼られてしまう。
そのため貴族は、娘がよい相手と結ばれるためにも、家庭教師を雇っていたのだ。
才女と呼び声の高かった紫式部は、天皇の中宮である藤原彰子(ふじわらのしょうし)の家庭教師を務めていた。このころから、源氏物語や紫式部日記を書いたのではないかとされている。
しかしこの紫式部、いつ生まれ、いつ亡くなったのか、ふんわりとしかわかっていない。もちろん本名もナゾだが、そもそも当時名前というものは、両親と夫くらいにしか教えないのが常識だった。
源氏物語に関しても、作者は紫式部だと断定されていない。なぜなら、紫式部日記のなかにある「源氏物語を褒められた」的な記述ぐらいしか証拠がないからである。後世に「新新訳源氏物語」を手がけた与謝野晶子(よさのあきこ)は、途中で作風が変わっていることから作者は2人なのでは?
と、疑問を唱えている。理由として、良く使う単語が変わった、盛り込まれる歌が減ったなどをあげているが、単に作風が変わっただけかもしれない。結論は出ないままだが、同じ女流作家同士、与謝野晶子は何かを感じたのかもしれない。
ゆがんだ性格は、雇い主が原因
紫式部日記には、同時代に活躍した女流作家を批評するまさかの記述がある。当時の日記は読み手を意識した「ブログ」のようなもので、つまり悪口を公開しまくっていたのだ。
同じ彰子に仕えていた同僚の和泉(いずみ)式部のことは「まあまあ良いンじゃない?ちょっと男好きで浮気性だけど」と、褒めたりけなしたり。ところが、枕草子(まくらのそうし)で一躍有名になった清少納言(せいしょうなごん)に対しては「自分の知識をひけらかして、調子コイてんじゃないわよ!」と完全にこき下ろす始末…。
源氏物語の雅(みやび)な世界観をぶっ壊すほどに下品な人物だったのだ。
そもそも、清少納言が仕えていた藤原定子(ふじわらのていし)と、紫式部のクライアント・彰子はライバル関係だった。2人とも一条天皇の妻という立場にいたが、天皇は先に妻となった定子をものすごく大事に想っていた。
しかし、彰子の父は時の権力者・藤原道長(みちなが)で、いくら娘が愛されなかろうが、どうしても息子がほしかった。結果的に定子の死によって彰子に軍配があがるのだが、そういった背景から生まれた清少納言に対する強いライバル意識が、ヒステリックな批判に発展したのだろう。
まとめ
○ 平安時代の女流作家は、極めてめずらしい存在だった
○ 源氏物語の作者は、「紫式部だ!」と断定できる証拠がない
○ いまのブログに相当する「日記」で、ライバルたちをディスりまくっていた
紫式部が彰子に仕える頃には、すでに定子は亡くなり、清少納言と顔を合わせることはなかっただろうが、宮中には定子派の人々が根強くいたという。居心地の悪さは容易に想像できる。
そして、教養のありすぎる紫式部への風当たりも厳しかったことだろう。強い自分を保つためにも、二重人格とも思えるようなキツイ批評が必要だったのかもしれない。 
■ 8
紫式部伝記 / 与謝野晶子
今から85年前、1917年5月に与謝野晶子は「紫式部の伝記に関する私の発見」という一文を書いている。
『古来の日本の婦人の中で何と云っても特に大きく輝いて居る星は「源氏物語」の作者紫式部です。遺憾なことには、此人の伝記が今日まで精確でありませなんだから、世人は紫式部の盛名を耳にするだけで其の本体を知らずに居ります。私は此に自分の推定を述べて、天才の伝記の輪郭だけなりとも明かにしたいと思います。(原文のまま)』このような書き出しで与謝野晶子は紫式部伝記を書いている。要約すると
家系について
紫式部は太政大臣藤原冬嗣の七世の孫に当たり、曾祖父中納言兼輔までは上卿の列に入って謂ゆる「上達部」の地位にあったが、父為時に到って地方官となる。曾祖父兼輔は堤中納言と云われた著名な歌人、小説も書いて世間は「堤中納言物語」と呼ぶ。但し、現存する同名の小説は後人の偽作。父為時は大学を卒学して文章生となり、当時の大儒菅原文時の門で詩賦文学を学び、詩は「本朝麗藻集」に入り、歌は「拾遺集」以下の選集に選ばれている。為時の弟で紫式部の叔父太皇太后宮亮為頼も歌を善くして、歌集「藤原為頼朝臣集」一巻が遺っている。紫式部には文章生で式部丞を経て蔵人の辨になった惟規という兄と、人に嫁して早く歿した姉と、常陸介惟通、阿闍梨定暹という二人の弟がいた。兄惟規は、父と同じく学問文藻に富んだ少壮官人であった。当時、才女の一人であった斎院選子内親王の侍女の中将と恋をし、門衛から名を問われて、「神垣は木の丸殿にあらねども名宣りをせねば人咎めけり」と詠んだ歌は世に逸話として遺っている。紫式部が幼い時に、父が兄に史記を口授して居るのを聞いて兄よりも善く語誦して、父から「此子が男でないのは自分に幸が無いのだ」と云って歎じたと云う逸話の中に出る兄は此の惟規である。此の兄は、愛情生活の経験を豊かに持つて居た謂ゆる「なさけ知り」で、紫式部の「源氏物語」の資料には直接間接に此の兄から供給された所が混って居るものと想われる。「帚木」の巻の婦人の批評の席に出て来る式部丞は此の兄をわざと滑稽に取扱ったのかも知れない。母は常陸介藤原為信の娘で名を堅子という。平安朝の婦人で特に名が伝はって居るからには、母は公式の女官として仕えたことのある人に違いない。当時の習慣として一般の女には実名が無く、実名の必要は公式に朝臣として登録される際に初めて起るのである。
生い立ちと「源氏物語」
紫式部の歌集によると、歌を贈答して居た童女時代からの親友があるが、これで思うと紫式部はその少女時代に童女として何れかの宮に奉仕して居たが、それが当時の皇后や御母后で無いことは後に一條天皇の中宮彰子の御用掛になった時に始めて宮中を見たということが歌集の詞書にある。 当時では母と小さな娘とが同じ所に宮仕をする習慣があったので、紫式部も恐らく母に伴なはれられて同じ宮に仕えて居たのであらうと思われる。私(与謝野晶子)はいろいろと調べた結果、紫式部母子の仕えて居た宮は冷泉天皇の中宮の昌子内親王であると推定。圓融天皇で無いことは、中宮の御弟の藤原公任と紫式部とが寛弘五年の秋まで交際の無かったことで想像される。また斎院や斎宮で無いことは「源氏物語」の中に野の宮の描写が一箇所あるだけで斎院や斎宮の生活に筆がつけられて居ないことで想像される。昌子内親王は康保四年に立后の宣下があったが、冷泉天皇に精神的の御病患がおありになった為に殆ど一生を独棲してお送りになった皇后である。聡明と仁慈とに富まれた方で、崩御の時には、自分の葬儀其の他のために公物を費すな、必ず普通人の作法で葬れ、法事も喪も無用であると御遺言になった。紫式部はこの童女時代の見聞を想像の資料として「源氏物語」の中に貴人の生活を描写した所が少なからぬことであらうと思う。紫式部は歌集によると、結婚前に父の任地の越前國敦賀へ遊びに行った。長徳三年の夏、此の式部の二十歳位の時と推定。翌年の春に帰京し、更に次の年の長保元年(西暦999)の初春に右衛門権佐藤原宣孝と結婚する。紫式部は二十二歳の時だと思う。これより以前に、紫式部は少女時代から短篇小説風のものを書いて居る。中流以上の家の女子が漢書、佛典、國史を読み、詩賦に親しむことは奈良朝以来の風潮であり、平安朝に入って、殊に紫式部の両親の生れた天暦頃から一層、その風が盛んに行われたので、学者の子に生れた紫式部が、そうとうの高等教育を人知れず受けて居たことは云うまでもないが、歌を詠み小説を書くことは早くから女子に許されて居たことで、漢書や佛典の研究は或はまだ女子に生意気な学間として遠慮せねばならない場合もあったが、歌や小説は何人も怪まない普通の事になって居たから、紫式部は「源氏物語」以前に既に幾種かの短篇小説を書いて居た。これは紫式部に限らず当時の教育ある官人の家で男も女も常に試みて居たことで、時の内閣総理大臣である左大臣藤原道長も小説を書いていた。紫式部が早くから小説を書いて居たことは、結婚前に宣孝と贈答した歌の詞書の中に、宣孝が紫式部の書いた幾つかの作品を持って帰って人に見せ散らしたのを恨んでそれを取返した記事があり、また「紫式部日記」の中に、紫式部の居ない時にその部屋に隠して置く草稿類を道長が勝手に取リ出した記事のあるのでも想像される。そう云う経験が早くからあるので無くては如何に天才と云っても一躍して「源氏物語」のような傑作は書けなかろうと思う。
紫式部の結婚
紫式部と宣孝との結婚関係に就て古人は何事をも述べて居ないようだが、私(与謝野晶子)の推定では、初めから紫式部に積極的な愛情があったと云うので無くて、宣孝の方からの熱い恋心に負けてしまったと云う形である。宣孝は学間も趣味も普通にあった人だが、紫式部と結婚した時は少くも三十七、八歳の官人で、十六、七歳年上であり、既に十四、五年間も情人関係を結んで三人の子までも生ませた女のあることが知れて居たので、紫式部はつとめて宣孝の恋を避けようとしたが、そうされて、激する男の心は有らゆる手段を尽くしてその恋の真実を示そうとする。終には一概に情を知らぬ者のように「賢くも身固めて不動の陀羅尼読み、印作りて居る」ことは紫式部の女性としての理想で無かったので、己むを得ぬ運命とあきらめて其の恋を容れたのだと思う。二人が結婚したのは長保元年の正月中旬。此の恋に対する紫式部の態度が受動的消極的であった証拠には、宣孝の歌に答えてその恋を拒んた時の歌が三四首あるばかりで、二人の恋を詠んだ歌らしいものが他に一首も見当らない。結婚の翌年に娘(大貳三位)を生み、翌、長保三年の四月に宣孝が疫病に罹って歿した為に紫式部の結婚生活は二年半で終る。長い関係でも無かったので、紫式部の着けた喪服は薄い鈍色のものだったが、此の宣孝の死は紫式部の一生に二つと無い不幸の影を投げた。紫式部の宣孝に対する熱愛は結婚して後に目ざめたので月日が立つに従って亡き良人のことが偲ばれた。後に宮中に入り、地上の美を集めた道長の土御門殿に在っても、常に心の中で快々として楽しまなかったのは宣孝を亡くした悲哀と寂しさとの為だ。それは「紫式部日記」に於て自ら語って居る。
源氏物語はいつ書いたか
紫式部は寡居して後に排悶の料として「源氏物語」を書く。私(与謝野晶子)の推定では良人の歿した翌年、即ち長保四年(西暦1002)の春頃から筆を起して寛弘元年(西麿1004)の冬頃までに完成さしたと思われる。足掛三年、紫式部の二十五歳から二十七歳までの間である。私(与謝野晶子)は、かの物語が初めから五十四帖の大作を成す構想は無くて、先ず第二巻の「帚木」を書き、雨夜の徒然に若い貴公子や若い官人が集って女の批評を交換する所を叙したのが本で、次第に感興を得て書いて行ったのであらうと思う。「桐壷」の巻は総序として後から加え、短日月の間に「源氏物語」の大作を完成させた。
宮中生活
「源氏物語」に由って紫式部の才名は世人の間に喧伝された。中宮彰子の周囲を飾るために藤原道長は一代の才女を多く網羅した中に、先づ誰よりも第一に招致しようとした紫式部は当時の教育ある婦人達が無上の栄誉とした宮仕を却って喜ばず、人中に立交って気苦労の多い生活をする事を好まなかった。勿論紫式部の高く清く生きて行かうとする超俗的な性格にもよるが、一つは良人歿後の悲哀が其の心持を淋しくさせた。しかし又、兄を通して威圧的に来る道長の招きを強いて拒むこともならず、出来るだけ延ばし、終に中宮が土御門邸から新しい皇居へお還りになつた数日後、即ち寛弘二年十二月の二十九日の夜に押迫って初めて中宮の御用掛として宮中へ入った。紫式部はその頃「不本意なことの決定されて行くのを嘆く」と云う意昧の詞書の下に「数ならぬ心に身をば任せねど身に従ふは心なりけり」と詠んでる。また宮中の栄華に接しながらも紫式部の心は慰まないで「身の憂さは心の内に慕ひ来て今九重に思ひ乱るゝ」と云う歌を詠んでいる。中宮御用掛としての紫式部は中宮と道長とから特別の寵遇を受けたのみならず、父為時の才学を愛せられた一條天皇は同じく紫式部をお愛しになり、其の作品を御覧の後に「日本紀に精通した女であろう」と云う御褒詞をさへ下され、紫式部のあることが中宮の光輝をいやが上に増したので、それだけに同輩の侍女達の多くに嫉妬と憎悪とを以て対せられた。清少納言とは反対の紫式部はその婦人達と敢えて争そうとはしなかったが、あまりに侮辱や批難を受けては「わりなしや、人こそ人と云はざらめ、みづから身をや思ひ捨つべき」と歌って自重し、親しき友への返歌に「挑む人あまた聞こゆる百敷の住まい憂しとは思ひ知るやは」と云って歎息を洩らし「紫式部日記」に於て宮仕の苦痛を細かに書き留めて居る。寛弘四年の夏から中宮の望に由って「楽府」を講したりもしたが、それも同輩の目に触れる場合を避けてこっそりと講じた。同五年の五月五日に道長の土御門邸で催された法華経三十講の五巻の講席へ中宮にお供して列なって、人は皆歓楽を語り藤氏の栄華を祝う日に、紫式部は自らの内心と周囲との対照に一しほ哀感の身を噛むのを覚えて眠り難く、夜明方に年下の気の合う友である小少将の局の格子を叩いて、共に廊へ出て池水に映る我が影を眺めながら手をとりあって泣いた。藤氏栄華の裏面にこう云う天才婦人の冷い涙が流れて居ようとは誰が知ろう。寛弘七年に紫式部はその日記の筆を置く。同八年六月に一條天皇が崩ぜられたので、四十九日の忌を終って一條院を退出する時、紫式部は「ありし世は夢に見なして涙さへ留まらぬ宿ぞ悲しかりける」と詠む。宮中にあって日夕親しく天顔を拝し参らせた紫式部の悲嘆は言外に深かったと思われる。此年に兄の惟規が父の任地の越後国で歿した。紫式部は兄を悼んで「いづ方の雲路と聞かば尋ねまし、列離れけん雁の行方を」と嘆く。
その後
虚弱体質であったらしい紫式部は寛弘七、八年の頃からは病気で私邸へ帰りがちになり、長和二年(西暦1013年)にはずっと弱くなり全く私邸にばかり引籠って居た。その頃の歌は死の近づくことを予感した悲観的なものばかり詠んでいる。翌、長和二年の六月に撫子の花を見て「垣根荒れ淋しさまさる床夏に露置き添はん秋までは見じ」と歌って、その年の秋までは自分の命が保つまいと云ったが、九月三十日に「花すすき葉分の露や何にかく枯れ行く野辺に冴え止まるらん」と詠んでその年の秋まで永らえて居たことを自ら怪しむ。その頃、前に述べた年若の同輩の非常に美人であった小少将が先きに歿し、その遺稿を見ながら「暮れる間の身をば思はで人の世の哀れを知るぞ且つは悲しき」と嘆き、自分が死んだら親しかった友の遺稿を読む人も無いのを思いやって「誰か世に永らへて見ん、書き止めし跡は消えせぬ形見なれども」と詠んでいる。
最後に
紫式部の聡明な理想の然らしめた所であるのは勿論だが、文学の著作に傾倒して現実以上の「美」を想像の世界で経験し、現実の世界に理想通りの恋の対象を求めることは容易で無かったし、また其れを求めることが煩さく感ぜられたかも知れず、その上、早くから文筆に親しむような気質の人であり、若死をした人でもあるだけに体質の関係もあって、貞操的に終始することが自然に出来た点もあろうと思う。文学者として思想家として一人当時に抜群であったのみならず、貞操の純潔な点に於ても馬内侍、小大君、清少納言、赤染衛門、和泉式部、相模などとは正反対を成して居た。
与謝野晶子の結びの記述
「在来の学者が紫式部の貞操を感歎しながら、猶、平安朝の男女道徳が徳川時代の其れのやうに窮屈で無かったと云ふ先入見と、後拾遺集や新千載集に載った歌とに依って、一人や二人の情人が宣孝の外にあったのは咎めるに足らないと云ふ説を立てられるのは、私の飽迄も紫式部の為に辨じないで居られない事の一つです。後拾遺集と新千載集とにある歌は何れも女友達との贈答の作で、其事は紫式部歌集に就て直接に調ぺると明白なことであるのを新千載集の選者が「浅からず頼めたる男の心ならず肥後國へまかりて侍りけるが、使につけて文をおこせたる返事に」と云ふ風に捏造して書いた詞書を学者達が信用した為めに起つた誤解です。丁度假作小説である伊勢物語の文章を後の選集の選者が業平の歌の詞書として抜いたりした為めに、後人が其れを軽信して業平の伝を誤解する結果に陥ったのと同じ径路です。九州へ行ったのは前に云ひました童女時代からの女友達で、共に手紙の往復をして居たのは紫式部の越前の旅行時代に初まって帰京後の四、五年にも亘って居ました。「玉鬘」の巻を書くのに其友の見聞した事実が重な資料になって居ます。「めぐり合ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな」は其友に寄せた作です。 湖月抄に添へた系図の註に「藤原道長の妾云々」とあるのなどは、何等の根拠も無いことで、天才に対する冒涜も甚だしいと想ひます。」 (一九一七年五月) 与謝野晶子の「紫式部の伝記に関する私の発見」から  
 
58.大弐三位 (だいにのさんみ)  

 

有馬山(ありまやま) 猪名(ゐな)の笹原(ささはら) 風吹(かぜふ)けば
いでそよ人(ひと)を 忘(わす)れやはする  
有馬山、猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音を立てる。さあ、そのことですよ。(あなたは、私が心変わりしたのではないかと気がかりだなどとおっしゃいますが、)私がどうしてあなたのことを忘れたりするものですか。 / 有馬山近くにある猪名の笹原に風が吹くとそよそよ鳴る音がする。そうですよ、(忘れるのはあなたの方であって)どうして私があなたのことを忘れることがありましょうか。 / 有馬山(現在の兵庫県神戸市)の近くの猪名の笹原(現在の大阪府北部を流れている猪名川の川辺)に風が吹けば、そよそよと音がしますね。そうよ。どうしてわたしがあなたを忘れたりするでしょう。 / 有馬山のふもとにある猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと鳴りますが、そうです、その音のように、 どうしてあなたを忘れたりするも のでしょうか。
○ 有馬山 / 摂津国の山。現在の神戸市北区にある六甲山系の一部。
○ 猪名の笹原 / 摂津国の猪名川沿いに広がる原野。有馬山と猪名は、いずれも歌枕で、揃って詠みこまれることが多い。
○ 風吹けば / 「吹けば」は、「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。風が吹けば笹原がそよぐことから、ここまでが、「そよ」を導き出す序詞。
○ いでそよ人を / 「いで」は、感動詞で、「さあ」の意。「そよ」は、掛詞。指示代名詞+間投助詞で、「そのことですよ」という意を表すとともに、擬声語として、笹原がそよそよと音をたてるさまを表す。後拾遺集の詞書に、「かれがれなる男の、おぼつかなくなど言ひたりけるによめる」とあることから、この歌は、自分から離れぎみの男が、「あなたが心変わりしたのではないかと気がかりだ」としらじらしく言ってきたことに対する返答であって、「人」は、相手の男を表す。
○ 忘れやはする / 「やは」と「する」は、係り結び。「やは」は、反語の係助詞。「する」は、サ変動詞「す」の連体形で、「やは」の結び。 
1
大弐三位(だいにのさんみ、長保元年(999年)頃? -永保2年(1082年)頃?)は、平安中期の女流歌人。女房三十六歌仙の一人。藤原宣孝の女、母は紫式部。本名は藤原賢子(ふじわら の かたいこ/けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれる。
長保3年(1001年)3歳ごろ父と死別。長和6年(1017年)18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕。この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったことが知られている。その後、関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚、一女をもうけた。万寿2年(1025年)、親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられた。長暦元年(1037年)までの間に東宮権大進・高階成章と再婚、同2年(1038年)高階為家を生む。他に、一女をもうけている。天喜2年(1054年)、後冷泉天皇の即位とともに従三位に昇叙、夫・成章も大宰大弐に就任した。
『新古今和歌集』
歌や実生活から、母の紫式部と比べ、恋愛の駆け引き上手というイメージを持たれることがある。
梅花にそへて大弐三位につかはしける 権中納言定頼
来ぬ人によそへてみつる梅の花 散なん後のなくさめそなき
返し                大弐三位
春ことに心をしむる花の枝に たかなをさりの袖かふれつる
「君に振られて俺は悲しいぞ」「浮気したくせに何言ってるの」
百人一首 / 『後拾遺和歌集』
かれかれなるおとこのおほつかなくなといひたりけるによめる 大弐三位
ありま山ゐなの篠原風吹は いてそよ人をわすれやはする
「もう俺たちって終わったのかなあ」「終わりました」 
2
大弐三位藤原賢子(だいにのさんみ/ふじわらのかたこ・かたいこ・けんし)
平安中期の女官。歌人。歌集『大弐三位集』を遺す。
生年は、999年(長保元年)または1000年(長保2年)。
没年は、1082年(永保二年)と考えられている。
父は、藤原宣孝。
母は、紫式部。 祖父は、越後守藤原為時。
幼少期は母・紫式部とともに<堤第(つつみてい)>で過ごしたと思われる。
若い頃から、上東門院藤原彰子(一条天皇中宮)のもとに出仕。
数々の恋愛ののち、大宰大弐(だざいのだいに)高階成章(たかしなのなりあきら)と結婚し、為家を出産する。
後朱雀天皇の第一皇子・親仁親王(ちかひとしんのう=のちの後冷泉天皇)の乳母(めのと)の一人となり、親仁親王が即位するにあたって、典侍(ないしのすけ)に任ぜられ従三位に昇進。
「大弐三位」という女房名は、夫の成章の官名・大宰大弐と賢子自身が三位であることにちなむ。
記録の上では、「大弐三位」のほか、出仕して間もない頃は、祖父である為時の官名にちなんで「越後弁(えちごのべん)」、のちには「藤三位(とうのさんみ)」、「弁乳母(べんのめのと)」などと呼ばれた。
高齢になっても、宮廷歌人として活躍した。
『源氏物語』や『狭衣物語』の執筆・完成に関わっているという説があるが定かではない。 
3
賢子は紫式部の娘ではあるが、それにしてはまったく違った人生を歩んでいる。
少女時代から彰子のもとに出仕し、幾人もの公達と恋愛をし、子どもを生んだときにはちょうど道長の孫も生まれており、その乳母の座をちゃっかり射止めている。東宮、ひいては天皇になる可能性のある皇子が生まれると、乳母になりたがる者は大勢いて、けっこう難関の役目らしいのに、である。そして若いとは言えぬ年になるころには、上流貴族の御曹司たちとの恋愛遊戯に終止符を打ち、さっさと受領階級の男と結婚する。その相手は「欲大弐」と称されるほどの人で、さぞかし金持ちだったに違いない。お世話した赤ん坊は後に帝位を踏み(後冷泉天皇)、賢子は典侍になり、従三位に叙せられる。恋愛・結婚と言い、得た地位と言い、宮仕えする女房なら、こんなことをしたい、こんな風になりたいと思うようなことを、賢子はすべてしおおせているのだ。どうも気質や資質は父の宣孝に似ていたようである。 
もっとも、賢子のような受領階級の娘たちは、初めから、また自ら求めて受領階級の男の妻におさまりたいと思っているわけではなかった。できればより上流の公達の妻になりたい、その可能性のあるのは女房勤めである、と思っている者も多かっただろう。賢子には恋愛の相手が5人も判明していて、これは母の紫式部が夫の宣孝ひとりなのに比べると雲泥の差という感じがする。家集『大弐三位集』や勅撰集の彼女に関する和歌から考察すると、その恋愛相手と時期は以下のようになる。
賢子16歳ごろ 藤原頼宗(道長二男 993〜)、長和3(1014)年に22歳で参議、長和5(1016)年に右衛門督
賢子21歳ごろ 源朝任(源時中男 989〜1034)、頭中将、治安3(1023)年に35歳で参議 
賢子23歳ごろ 藤原定頼(公任一男 995〜1045)、頭弁、寛仁4(1020)年に29歳で参議
賢子26歳ごろ 藤原兼隆(道兼二男 985〜)、左衛門督、寛弘5(1008)年に24歳で参議
賢子29歳ごろ 高階成章(高階業遠男 990〜1058)、東宮権大進、65歳で太宰大弐 
成章以外はみな公卿になっている。それも道長に近しい者ばかりで昇進も早く、恵まれた環境にあって、当然のことながら正室は身分の高い人ばかり。
のみならず、彼ら上流貴族の御曹司らは賢子のことを宮中にありがちな恋愛遊戯の相手としか見ていなかったようである。定頼などは、賢子とほとんど同年代の小式部内侍(和泉式部の娘)や相模とも浮き名を流し、小式部内侍はその母に似て恋多き女であり、頼宗や教通(道長五男)とも交渉を持った。狭い宮中でたらい回しに恋愛が成立してしまうのだから、その一つ一つが長続きせず、結婚までいかないのもうなずける。現に後拾遺集には「中納言定頼かれがれになり侍りにけるに」詠んだ歌が残っている。
そこへもっていくと、成章は明らかに違う。藤原伊周が道長との政争に敗れて配流の憂き目を見たのは賢子の生まれる前のことである。成章の大伯父成忠を初め、高階一族が一時は栄華を誇り、そして突然凋落したことも、賢子の中には実感としてはなかったろう。だが成章は7歳だった。幼少のころならともかく、長ずるに従い一族の衰退を目の当たりにすることになる。それでも成忠の直系の子孫ではなかったためか、昇進は一受領としてはさほど悪くはない。ただ、安穏と恋愛遊戯に明け暮れていた御曹司らとは一線を画するものがあるのではないか。
そういう思いで『大弐三位集』を見ると、定頼らとの贈答歌は恋の歌でもそれほど心がこもっている感じがしないのに対し、相手のわからないいくつかの贈答歌は、妙に男のほうが熱心な様子で、これはひょっとして成章を相手にしたものではないかと考えたくなる。詞書に「返事いたう乞う人に」「かたらふ人の、をくれては、えながらふまじ(あなたに死に遅れては、生き長らえられそうにない)とあるに」というのがあって、真情のあふれる歌を贈ってきたのであろう。賢子のほうはさほど熱心でなさそうなところをみると、成章はそれまでの恋愛の相手に比べて地味なのが気に入らなかったのかもしれない。それでも真剣な求愛にほだされたというのが、真実に近いのではないか。
成章は勅撰集に1首だけ歌を採られている。
「人の局を忍びてたたきけるに、たぞととひ侍りければよみ侍りける
磯なるる 人はあまたに 聞こゆるを たがなのりそを 刈りてこたへん」
あなたは大勢の男を相手にしていて、局の戸を叩く人が誰かと聞かなくてはならないのだね、というあたり、この歌を贈られたのはまさに賢子ではないかという気がする。あの紫式部の一人娘を相手にするのも、なかなか大変だったご様子、成章もよくやった、と言うべきか。賢子も成章と連れ添って、それなりに幸福な後半生を送ったようである。
太宰大弐と言えば、『源氏物語』「蓬生」の巻には、太宰大弐の妻となった末摘花のおばが描かれている。もとは皇族の出身らしい人が、落ちぶれているのは目も当てられないと、紫式部はこのおばを貶した書き方をしている。奇しくもその太宰大弐の妻になった賢子は、それをどう感じていたのだろうか。 
4
大弐三位藤原賢子 / 紫式部の娘
「百人一首」には、紫式部の歌「めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲かくれにし 夜半の月影」(57番)と、その娘大弐三位の歌「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」(58番)と、親子二代の歌が並べられています。紫式部というと「源氏物語」の作者として有名ですが、その娘の大弐三位というと名前は知っている方は多いと思いますが、その生涯についてはあまり知られていないのではないでしょうか。
そこで今回の人物伝では、その大弐三位の生涯についてまとめてみることにしました。
大弐三位は本名を藤原賢子といい、長保元年(999)頃に誕生しました。父は右衛門権佐や山城守などを勤めた藤原宣孝、母は上記に述べたとおり紫式部です。
長保三年(1001)、父の宣孝が流行病で薨じます。その後賢子は、紫式部や母方の祖父の藤原為時の手で育てられたと考えられます。そして賢子は15歳頃、皇太后藤原彰子の許に出仕したのではないかと推定されます。出仕した当時の女房名は、祖父為時の官職「越後守」と「左少弁」にちなんで「越後の弁」と言いました。なお従来は、賢子は母の死後に彰子の許に出仕したと考えられていましたが、最近の研究によると紫式部の没年は寛仁三年(1019)以降と推定されるため、賢子は母と一緒に彰子の許に出仕していたようです。そこで賢子は、母から直接宮仕えの心得を伝授されていたのではないでしょうか。
しかし賢子は、宮仕えにあまりなじめなかった母とは全く違う道を歩むこととなります。元々賢子は、母よりも父宣孝に似ており、明るく朗らかで細かいことにこだわらない性格だったようです。そのせいか賢子はたちまち貴公子たちの人気者となり、藤原定頼(公任の子)、源朝任(道長室の倫子の甥)、藤原頼宗(道長の子)などの恋人ができました。
そして二十代半ば頃、賢子に運命の転機が訪れます。道長の甥に当たる藤原兼隆との間に子供を身ごもったのでした。(角田文衞氏の説)しかしこれには異説があり、「尊卑分脈」に賢子と兼隆の間の子供の記載がないため、賢子の子供の父親は兼隆ではなく藤原公信(藤原為光の子)だという説です。ちなみに賢子を主人公にした小説「猪名の笹原風吹けば 紫式部の娘・賢子(田中阿里子著 講談社 昭和61年刊行 現在は絶版のようです。)では、賢子の許へはその頃、兼隆と公信が同時に通ってきていました。そして賢子の身ごもった子供はどちらの子供ともとれるような書き方をしてありました。しかし賢子は公信のことを嫌っていたため、「この子は絶対に兼隆殿の子」と信じていました。そのためか巻末の登場人物系図でも、子供の父親は兼隆となっていました。結局、賢子は娘を産むことになるのですが、この娘がどちらの子だったかは私も判断がつかないので結論は差し控えますが、ここでは角田氏の説に従って兼隆の子ということで話を進めさせていただきます。
万寿二年(1025)に産まれたこの娘のおかげで賢子は大きな幸運を得ることとなります。賢子が娘を産んだのと同じ万寿二年、春宮敦良親王妃の藤原嬉子(道長の娘)が皇子を出産したのです。しかし嬉子はお産の影響と流行病のために皇子を産むとすぐになくなってしまったのですが…。皇子は「親仁」と命名されたのですが、その乳母に娘を産んだばかりの賢子が選ばれたのでした。賢子は当時の太皇太后彰子からの信任も厚く、のちに述べるようにかなりの長寿を保ったことからみても体も丈夫だったため、乳母に選ばれたものと思われます。しかしその結果、兼隆とはだんだん疎遠になっていったのではないでしょうか。賢子はやがて兼隆と離別し、娘も兼隆に託したのではないかと思われます。そして彼女自身は宮仕えに専念していったのではないかという気がします。
それから約10年近く経った頃、すでに三十代後半にさしかかっていた賢子に一人の男性が現れます。その人の名は高階成章…。今までの賢子の恋人たちのような公達ではありませんが、何カ国もの受領を歴任してばく大な財宝をため込み、しかも賢子より10歳年上の頼りがいのある男性でした。もっとものちに「欲の大弐」と言われることになる成章ですから、「出世のため」という魂胆で彼の方から春宮(その頃親仁は親王宣下され、父後朱雀天皇の春宮になっていました)の乳母に近づいていったのかもしれませんが…。やがて2人は結婚し、賢子は長暦二年(1038)、成章との間に男児(後の為家)を産むことになります。
寛徳二年(1045)、親仁親王が後冷泉天皇として踐祚すると、乳母である賢子は慣例によって従三位に叙され、典侍に任じられます。
天喜二年(1054)、夫の成章は大宰大弐となって大宰府に下向、賢子は夫の官職にちなんで「大弐三位」と呼ばれることとなりました。賢子は天皇御乳母としての職務を遂行する一方、大宰大弐の妻としての役目も忘れず、夫の任地である大宰府にも下向しているようです。大宰府は母の書いた「源氏物語」のヒロインの一人、玉鬘が少女時代を送った土地です。大宰府に下向した賢子はそのことを思い出し、母のことを偲んでいたのかもしれません。天喜六年(1058)、成章は都へ帰ることなく大宰府で薨じます。終生の伴侶と決めた成章の死は賢子にとっては大きな哀しみだったことと思います。
その後も、賢子は後冷泉天皇に献身的に仕えていたと思われますが、約10年後に人生で最も哀しい出来事が訪れます。。治暦四年(1068)、赤子の時から世話をしてきた後冷泉天皇は、まだ早すぎる44歳で、しかも皇子を残すことなく崩御されました。皇統は異母弟の後三条天皇に移ることとなるのですが、賢子にとっては後冷泉天皇の血を引く皇子が誕生しなかったことはさぞ心残りだっただろうなと察せられます。しかし賢子はまだまだ健在で、承暦2年(1078)に、内裏後番歌合にて、我が子為家の代詠をつとめているのです。この時、賢子は80歳になっています。彼女の没年は不明ですが、兼隆との間にもうけた娘や孫の源知房、あるいは成章との間にもうけた為家の世話を受け、平穏な晩年を送ったものと思われます。
こうして彼女の生涯を見てみると、母の紫式部を反面教師にしていたような所があるように見受けられます。宮廷生活を思いっきり楽しみ、若い頃はたくさん恋をして、中年になってからお金持ちの頼りがいのある男性と結婚する、しかも天皇の乳母となって出世するなんて、現代に生きる私から見てもうらやましい人生です。もちろん彼女は彼女なりに苦労も悩みも哀しみもあったでしょうけれど、そこは彼女の明るくて前向きな性格で切り抜けていたのでしょうね。
最後に、賢子は数々の歌合に出席し、「後拾遺集」以下の勅撰集に37首の歌が入集した優れた歌人であったこともつけ加えておきます。百人一首に取られた歌の意味は、有馬山の猪名から風が吹いてくるとあなたを思い出します。どうして恋するあなたを忘れることができるでしょうか。」という意味です。賢子は誰を思ってこの歌を詠んだのでしょうか。今では知るすべもありませんが…。 
 
59.赤染衛門 (あかぞめえもん)  

 

やすらはで 寝(ね)なましものを さ夜更(よふ)けて
傾(かたぶ)くまでの 月(つ)を見(み)しかな  
いらっしゃらないことがはじめからわかっていたなら、ためらわずに寝てしまったでしょうに。今か今かとお待ちするうちに夜も更けてしまい、西に傾くまでの月を見たことですよ。 / (あなたがおいでになる気配がなければ)ためらわずに寝てしまいましたものを。あなたをお待ちしていたばかりに西の空に沈んでいく月までも見てしまいました。 / あなたがいらっしゃらないとわかっていたのなら、ためらわずに寝てしまいましたのにね。お待ちしているうちに、夜も更けて、とうとう西に傾く月を見てしまいました。 / (あなたが来ないと知っていたら) さっさと寝てしまえばよかったものを、(あなたの約束を信じて待っていたら) とうとう明け方の月が西に傾くまで眺めてしまいました。
○ やすらはで / 「やすらは」は、ハ行四段の動詞「やすらふ」の未然形で、ためらう・ぐずぐずするの意。「で」は、打消の接続助詞で、〜ないでの意。
○ 寝なましものを / 「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「ものを」は、逆接の接続助詞。「寝なましものを」で、もし〜であれば、寝てしまったであろうにの意。
○ さ夜更けて / 「さ」は、接頭語。
○ かたぶくまでの月を見しかな / 「かたぶく」は、月が西に傾くことで、夜明けが近付いたさまを表す。「まで」は、限定を表す副助詞。「かな」は、詠嘆の終助詞。 
1
赤染衛門(あかぞめえもん、天暦10年(956年)頃? - 長久2年(1041年)以後)は、平安時代中期の女流歌人。大隅守・赤染時用の娘。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。
赤染衛門は赤染時用の娘とされる。しかし、赤染衛門の母親が前夫である平兼盛と婚姻していた頃に懐胎した後、再婚先である赤染家において、赤染衛門を出産したために、実父は平兼盛との説もある。後に、平兼盛は娘の親権を巡り、前夫の赤染時用との間で裁判を起こすが敗訴している。
赤染衛門は文章博士・大江匡衡と貞元年中(976〜978)に結婚する。大江匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られており、仲睦ましい夫婦仲より、匡衡衛門と呼ばれたという。大江匡衡との間に大江挙周・江侍従等を設けた。赤染衛門は源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻である源倫子とその娘の藤原彰子に仕えており、紫式部・和泉式部・清少納言・伊勢大輔等とも親交があった。匡衡の尾張赴任にもともに下向し、夫を支えた。また、子の挙周の和泉守への任官に尽力して成功させ、病のときには住吉に和歌を奉納し病平癒に導いた話など、母としての像も鮮やかである。
長元8年(1035年)関白左大臣頼通歌合出詠。長久2年(1041年)弘徽殿女御生子歌合出詠。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に93首が入集。
長和元年(1012年)に夫・大江匡衡が逝去した後は、信仰と子女の育成に尽くしたという。
赤染衛門は平安時代中期において活躍した女流歌人として、和泉式部と並び称されている。その歌風は、和泉式部の情熱的な歌風と比較して、穏健且つ典雅なる歌風と評価されている。
やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな (『後拾遺和歌集』、小倉百人一首)
姉妹のもとに通っていた藤原道隆が訪れなかったため、姉妹の為、和歌を代作した。
代わらむと 祈る命は をしからで さてもわかれんことぞ悲しき (『詞花和歌集』)
(息子に)代わり、死んであげたい、と祈る私の命は惜しくはないけれど、その祈りが叶い、(息子の大江挙周と)別れる事になるのは、悲しい。
今昔秀歌百撰三十二番に選ばれている。
今宵こそよにある人はゆかしけれいづこもかくや月をみるらん (『後拾遺和歌集巻四』)
息子の大江挙周が重病を患っていた際、「大江挙周の重病の原因は住吉神社による祟りではないか」との話を見聞したことから、赤染衛門は挙周の快方を祈願して、「代わらむと 祈る命は をしからで さてもわかれんことぞ悲しき」との和歌を住吉神社の祭殿に奉納した。赤染衛門の挙周への祈念が、住吉神社の祭神に聞き入れられ、挙周の重病は根治したという。 
2
赤染衛門 生没年未詳
生年は天徳四年(960)以前、没年は長久二年(1041)以後かという。赤染時用(時望)の娘。『中古歌仙伝』『袋草紙』などによれば、実父は平兼盛。赤染衛門の母は兼盛の胤を宿して時用に再嫁したのだという。貞元元年(976)頃、のち学者・文人として名を馳せる大江匡衡(まさひら)の妻となり、挙周(たかちか)・江侍従を生む。権中納言匡房は曾孫。藤原道長の室、源倫子(源雅信女。上東門院彰子の母)に仕え、養父の姓と官職(衛門志)から赤染衛門と呼ばれた。『紫式部日記』には「匡衡衛門」の名で歌人としての評価が見える。夫の親族(一説に姪)であったらしい和泉式部とは何度か歌を贈答し、親しかったことが窺える。長保三年(1001)と寛弘六年(1009)、二度にわたり尾張守に任ぜられた夫と共に任国に下る。長和元年(1012)、匡衡に先立たれ、多くの哀傷歌を詠んだ。長久二年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」に出詠したのを最後の記録とし、まもなく没したかと思われる。家集『赤染衛門集』がある。拾遺集初出。後拾遺集では和泉式部・相模に次ぎ第三位の入集数。二十一代の勅撰集入集歌は九十七首(金葉集三奏本を除く)。『栄花物語』正編の著者として有力視される。中古三十六歌仙。女房三十六歌仙。
春 / 題しらず
消えはてぬ雪かとぞみる谷川の岩間をわくる水の白浪(玉葉2065)
(消えきらずに残っている雪かと見える――谷川の岩の間を分けてゆく水流の白波。)
鷹司殿の七十賀の月次(つきなみ)の屏風に、臨時客のところをよめる
紫の袖をつらねてきたるかな春立つことはこれぞうれしき(後拾遺14)
(公卿の皆さんが紫の袖を列ねてやって来ましたねえ。春になることはこれだから嬉しいのです。)
かへる雁をよめる
かへる雁雲ゐはるかになりぬなりまた来む秋も遠しと思ふに(後拾遺68)
(北へ帰って行く雁たちよ――その声からすると、遥か雲の彼方に去ってしまったようだ。再びやって来る秋は遠いと思うのに。)
落花満山路といへる心をよめる
踏めば惜し踏まではゆかむ方もなし心づくしの山桜かな(千載83)
(踏んでは勿体ない。踏まなければ行きようもない。心をすり減らせる山桜の散り花であるよ。)
秋 / ひさしくわづらひけるころ、雁の鳴きけるを聞きてよめる
起きもゐぬ我がとこよこそ悲しけれ春かへりにし雁も鳴くなり(後拾遺275)
(雁の帰るところは常世と聞くが、ずっと起きもせずにいる私の寝床――その「とこ」世こそ悲しいことだ。春に帰ってしまった雁が、秋になって帰って来て、啼いてている。それを私は相変わらず寝床にいて聞くのだ。)
哀傷 / 上東門院にまゐりて侍りけるに、一条院の御事など思し出でたる御気色なりけるあしたに、たてまつりける
つねよりもまたぬれそひし袂かな昔をかけておちし涙に(千載566)
(常にもまして濡れまさった袂ですことよ。ご存命中の昔に思いをかけて溢れ落ちました涙に。)
八月(はつき)の廿日ごろ、月くまなかりける夜、むしのこゑいとあはれなりければ
有明の月は袂になかれつつ悲しきころの虫の声かな(続古今482)
(有明の月の光は涙で濡れた私の袂に流れ流れして、聞くにつけ切ない頃おいの虫の声であることよ。)
梅の花もさきにけり、桜の花みなさくけしきになりにたりと人のいふをききて
君とこそ春来ることも待たれしか梅も桜もたれとかは見む(赤染衛門集)
(あなたと一緒だからこそ春の訪れも待たれたのだ。梅も桜も、誰と共に見ればよいのか。)
さみだれ空晴れて月あかく侍りけるに
五月雨の空だにすめる月影に涙の雨ははるるまもなし(新古1491)
(五月雨の降り続いていた空に、珍しく顔を出し澄み渡る月――その光のもとでさえ、私の涙の雨は晴れる間もない。)
恋 / 中関白少将に侍りける時、はらからなる人に物言ひわたり侍りけり、頼めてまうで来ざりけるつとめて、女に代りてよめる
やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな(後拾遺680)
(迷ったりせず、さっさと寝てしまえばよかったものを。夜が更けて沈もうとするまで、月を見ていましたよ。)
右大将道綱久しく音せで、「など恨みぬぞ」と言ひ侍りければ、むすめに代りて
恨むとも今は見えじと思ふこそせめて辛さのあまりなりけれ(後拾遺710)
(恨んでいると今は見られたくないのです――そう思うのは、あなたの態度がひどくつれなかった余りのことなのですよ。)
題しらず
いかに寝て見えしなるらむうたたねの夢より後は物をこそ思へ(新古1380)
(どんな寝方をして、あの人が夢に見えたのだろうか。うたたねの夢から覚めたあとは、物思いばかりしているのだ。)
雑 / 七月朔ごろに、尾張にくだりけるに、夕すずみに関山を越ゆとて、しばし車をとどめてやすみ侍りて、よみ侍りける
越えはてば都も遠くなりぬべし関の夕風しばしすずまむ(後拾遺511)
(ここをすっかり越えたら、都も遠くなってしまうに違いない。関山に吹く夕風にしばらく涼んでゆこう。)
丹後国にまかりける時よめる
思ふことなくてぞ見まし与謝よさの海の天の橋だて都なりせば(千載504)
(物思いもなくて、存分に眺めを楽しんだろうに――与謝の海の天橋立よ、ここが遠い異国でなく都であったなら。)
思ふこと侍りけるころ、寝(い)のねられず侍りければ、夜もすがら眺めあかして、有明の月のくまなく侍りけるが、にはかにかきくらし時雨けるを見てよめる
神な月ありあけの空のしぐるるをまた我ならぬ人や見るらむ(詞花324)
(神無月、有明の空に時雨が降るのを、私以外の人もまた寝られずに見ているのだろうか。)
和泉式部、道貞に忘られて後、ほどなく敦道親王にかよふと聞きて、つかはしける
うつろはでしばし信太しのだの森を見よかへりもぞする葛のうら風(新古1820)
(心移りせずに、しばらく和泉国の信田の森を見守りなさい。葛に吹く風で葉がひるがえるように、あの人がひょっとしたきっかけで帰って来ることもあるのですよ。)
伊勢大輔、「しきしまの道もたえぬべきこと」などいひつかはして侍りければ
やへむぐらたえぬる道と見えしかど忘れぬ人は猶たづねけり(玉葉2439)
(和歌の道は葎(むぐら)が幾重にも繁茂して途絶えてしまった道と見えましたけれど、忘れない人はやはり訪ねてくれたのですね。)
大江挙周(たかちか)朝臣重くわづらひて限りにみえ侍りければよめる
かはらむと祈る命は惜しからでさても別れむことぞ悲しき(詞花362)
(身代わりになろうと祈る我が命が惜しいのではなくて、それでも結局は死に別れることが悲しいのだ。)
天王寺にまゐるとて、長柄の橋を見てよみ侍りける
我ばかり長柄の橋はくちにけりなにはのこともふるる悲しな(後拾遺1073)
(私と同じ程、長柄の橋は朽ちてしまった。難波ではないが、何もかも古くなってゆくのは悲しいなあ。)
匡房朝臣うまれて侍りけるに、産衣(うぶきぬ)縫はせてつかはすとてよめる
雲のうへにのぼらむまでも見てしがな鶴の毛ごろも年ふとならば(後拾遺438)
(鶴が雲の上まで翔るように、雲上人となるまでその成長を見ていたいものだ。鶴の毛衣と呼ばれる産着を着た子も、年を経たならば。) 
3
一条朝の四才女
四才女
紫式部の作とされる『紫式部日記』には、和泉式部、赤染衛門、清少納言の三人を並べて批評した有名な段落があります。この三人に張本人の紫式部を加えた「四才女」について見ていきたいと思います。
主家の系譜
藤原兼家は策略により花山天皇を退位させ、娘の生んだ一条天皇を即位させます。兼家の嫡男である道隆は、娘の定子を甥である一条天皇の女御として入内させ、後に中宮とします。兼家が死ぬと道隆が後を継いで関白となりますが、五年ほどで病に倒れます。道隆は嫡男の伊周を後任の関白に願いますが、天皇から許されず、世を去ります。伊周との政争に勝って朝政の実権を握ったのは、道隆の弟の道長です。中宮定子を皇后に押し上げ、娘の彰子を入内させて中宮とします。定子はまもなく世を去ります。
時代対比
清少納言は、正暦四年(993年、27歳位)の冬頃から中宮定子(16歳位)に仕え、長保二年(1000年、34歳位)に定子が亡くなってまもなく、宮仕えを辞めたとされます。
和泉式部は、寛弘五年(1008年、30歳位)から中宮彰子(20歳位)に出仕しました。四十歳を過ぎた頃、藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下りました。
紫式部は、寛弘二年(1005年、26歳位)の末から中宮彰子(17歳位)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも同八年(1011年、32歳位)まで続けたとされます。
清少納言
赤染衛門は『栄花物語』の一節で清少納言の様子を敬意をもって記しています。しかし、紫式部にとっては、主家の政敵に仕え、漢詩文の知識をちらつかせ、王朝的優雅さを気取る『枕草子』の著者は、どこか自分と似ているだけに、目障りなライバルとしてこき下ろさずには気がすまない存在だったようです。
【紫式部日記】 / 清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。
【解釈】 / 清少納言ときたら、得意顔でいやな人。知識をひけらかして漢詩文を書きまくっているけど、よく見ると稚拙なところがいっぱい。こんなふうに、人とは違うと思い込んでいい気になっている人は、化けの皮がはがれて、痛い目を見ること間違いなし。それに、エレガントさを気取っているけど、そんな人は、白けて退屈なときでも感動的なことを探そうとして、頓珍漢になるものよ。頓珍漢になったあげくに、行き着く果ては知れているわ。
赤染衛門
中宮定子の実家に仕える赤染衛門は、紫式部にとってお局様のような存在で、内心どう思っていても悪口など書けなかったでしょう。なお、赤染衛門が『栄花物語』を著したのは『紫式部日記』より後のこととされています。
【紫式部日記】 / 丹波守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言ひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えも言はぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くもいとほしくもおぼえはべるわざなり。
【解釈】 / 丹波守大江匡衡の奥方を、彰子様や道長様の所では「匡衡衛門」と呼んでいます。特別高貴な生まれではありませんが、とても気品のある方です。歌人を自負して何かにつけて詠みまくるということはされませんが、世に知られている歌はどれも、何気ない折節の歌でさえ、惚れ惚れとしてしまいます。この方と比べると、上の句と下の句がちぐはぐなみっともない歌を詠んで得意になっている人が、憎らしくも可哀想にも思えてきます。
和泉式部
和泉式部は、『和泉式部日記』に綴られた不倫関係をはじめ、いくつかのスキャンダルで有名です。紫式部は賢女ぶって、その方面も一応非難しています。非常に多作で屈指の勅撰集入選数を誇る和泉式部の和歌に対しては「白痴美人」と揶揄しています。理詰めの紫式部にはうらやましい才能だったのかもしれません。
【紫式部日記】 / 和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。
【解釈】 / 和泉式部という人は、手紙のやりとりが絶妙だけれど、倫理的には感心しませんね。気軽に走り書きした恋文の何気ない言葉にも色香が漂うといった才覚があります。和歌はとても上手です。古典の知識や歌の理論に関してはプロの歌人のレベルとは言えませんが、口にまかせて出てくる言葉に、かならず興のある一節が見られます。だからといって、和泉は他の人の詠んだ歌を理屈をこねて批判しているけど、そこまで理解しているとは思えません。口に歌を詠まれているのが見え見えといったところでしょうか。尊敬するほどの歌人とは思いませんね。
紫式部
紫式部にとって漢詩文の知識は文学活動のバックボーンであり、誇りでもありながら、冷やかしの対象になるという脅迫観念が存在したようです。清少納言を「賢しだち」と評した紫式部自身が、実は、「才がる」と評されてコンプレックスを持っていました。
【紫式部日記】 / 内裏の上の『源氏の物語』、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」と、のたまはせけるを、左衛門の内侍といふ人、ふと推しはかりに、「いみじうなむ才がる」と殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞはべる。この古里の女の前にてだにつつみはべるものを、さる所にて才さかし出ではべらむよ。
【解釈】 / 一条天皇様が『源氏物語』を人に読ませて聞かれ、「この作者は、日本書紀を読んだにちがいない。ほんとうに学識がある」と、言われました。さすが、天皇様。私って、すごいでしょ。でも、左衛門の内侍という人がこれを聞きかじって、「はなはだしく学識をひけらかす」と殿上人などに言いふらし、「日本書紀のお局様」とあだ名をつけました。理不尽なことですね。実家の侍女の前でも隠しているのに、宮中のような所で学識をひけらかしたりはしませんよ。 
4
赤染衛門
赤染衛門集を一通り読んだ。 実に不思議な歌を詠む人だ。 普通、歌とは、花鳥風月や春夏秋冬、恋や別れなどの、浮き世離れしたことを詠むものである。 ある意味やんごとなき、高尚なものであるという認識がある。 西行も「花鳥風月に感じて三十一文字をなす」というような言い方をしている。 紀貫之が屏風歌職人であったように、 古今集の時代から歌は「文芸」であると考えられていた。 当たり前のようだが、当たり前ではない。 万葉時代には歌は芸能、芸事というよりは、娯楽とか、余興に近かったはずだ。 今で言えば歌謡曲に近い。 江戸時代の都々逸には近いだろう。狂歌と言ってしまうとまた違う。 ある意味漫才や落語にも近かったと思う。
彼女の時代、歌と話し言葉にはほとんど違いが無い。
赤染衛門が「発掘」されたのは後拾遺集であるが、 彼女の時代はそれより少し前の、藤原道長や紫式部の時代である。 この時代までは、こういう素朴で野卑な歌を詠む人はざらにいたのだろう。 しかし身分が低すぎて、自分で歌集を遺したりしない。 そういう歌をわざわざ蒐集する人もいない。 だけど、赤染衛門は大江匡衡の妻だったから歌を記録してもらえた。 さらに後拾遺集の選者は変わり者だったから、 和泉式部や相模などの、 普通の勅撰集の選者ならば選ばないような歌を選んだ。 或いは白河天皇がそういう趣味の人だったかもしれない。 祇園女御と出会う前からそういう人だったのかもしれない。 いくつかの偶然が重なって赤染衛門の歌は奇跡的に後世に残った。
後拾遺集
乳母せんとて、まうで来たりける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける 大江匡衡
はかなくも 思ひけるかな ちもなくて 博士の家の 乳母せむとは
かへし 赤染衛門
さもあらばあれ 大和心し かしこくば ほそぢにつけて あらすばかりぞ
有名な話である。 匡衡は学者である。 博士である。 一方赤染衛門はおそらく浪速の肝っ玉おばちゃんみたいな、地頭(じあたま、ね)はすごいが、 教養はもともとない人だっただろう。 だから上のようなやりとりが生まれた。 漫才のようなものだ。 現代人がそのニュアンスを感じとることは絶望的に不可能だろう。 つまり、当時の雅語は現代人でもある程度理解できる。 しかし当時の自然な話しぶり語り口で赤染衛門のような歌を詠むのは、現代人にとっては自然どころではない。 超絶技巧である。 後世、歌語が口語から遊離してしまうと、歌語は人々にもはや教養としてしか理解できなくなってしまう。 教養であるから技巧によって、理屈によって歌を詠むことになる。 理屈抜きで自然に歌を詠むなんてことはできない。 それは技巧ではない。 超技巧である。 理屈が理屈でなくなるまで技巧をこらし技巧を極めて初めて到達できる、天衣無縫の境地。
「やまとごころ」という言葉が大鏡や源氏物語に出てくるように、 そして赤染衛門以外の人がほとんど歌に使ってないように、 「やまとごころ」は雅語ではない。 たぶん庶民が使う話し言葉だった。 学問をして身に付ける漢才とか、花鳥風月をもてあそぶ雅びな教養とは違う。 それこそ「浪速の肝っ玉」それが「やまとごころ」だったはずだ。
江戸後期になると小沢蘆庵が「ただごと歌」というのを始める。 良寛もそれに近い歌を詠む。 小沢蘆庵に影響を受けた香川景樹も、地下らしい素朴だが力強い歌を詠む。 庶民が歌を詠み始めた証拠であろう。 庶民の歌が復活するまでに、赤染衛門から七百年もかかったのだ。
赤染衛門が珍しいのではない。 現代人にはそう見えるだけなのだ。 彼女の時代には彼女のような庶民の歌の方が圧倒的に多かった。 しかし後世に遺されたのは一部の貴族が詠んだ歌だったのだ。
踏めば惜し 踏まではゆかむ 方もなし 心づくしの 山桜かな
千載集に載った、ぎょっとするほど美しい歌だが、 勅撰集には何千という赤染衛門の歌の中でもこういう特に歌らしい歌しか採られていない。 つまり、浪速のおばちゃんがごくまれにがらにもなく上品な言葉をぽろっと言ったりする。 それをわざわざ拾い上げて勅撰集に入れた。 俊成はもちろんわかった上でそうした。 しかし俊成より後の人はもうわからない。 在野の、庶民的な歌人はまもなく絶滅してしまうからだ (俊成や西行は赤染衛門にかなり近いタイプの歌人だったと思う。 感覚的直感的に歌を詠む人、ただし洗練された教養を身に付けているが)。 赤染衛門というのは、とても雅びな女流歌人のように思ってしまう。 たぶんそれは赤染衛門の実態ではない。
やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
後拾遺集に採られ、百人一首にも採られたこの有名な歌。 風流きわまりない。 しかしそれは赤染衛門の実像ではない。 なんという大誤解! 真淵は「やまとごころ」という言葉を国学的に読みかえた。 近世や現代の人はこれほど古代や中世のことがわからんのだ。
恋の歌をみると良くわかるとおもうのだが、 彼女の場合剽軽な詠み口に味があるので、 よくよくみると深みがない。 ひねりがない、とも言える。
この世より 後の世までと 契りつる 契りは先の 世にもしてけり
この歌など、ただの頓知だ。 ぞんざいに言い放っている。 歌という感じがあまりしない。 と、考えると他の、百人一首の歌なども同じような調子に思えてしまうのだ。 和泉式部の
あかざりし 君を忘れむ ものなれや ありなれ川の 石は尽くとも
あるいは実朝の
かもめゐる 荒磯の州崎 潮満ちて 隠ろひゆけば まさる我が恋
のような気の利いた比喩や暗喩表現は、赤染衛門には見られない。 情景描写も見事だが、ただ見たままをうまく歌ったとも言える。 和泉式部もあんまりもって回った表現はしないが、 赤染衛門に比べれば多少の技巧はある。
都にて あひ見ざりしを つらしとは とほき別れの 後ぞ知りける
忘れじと かたみに言ひし 言の葉を たがそら言に なして良からむ
つらしとも 思はぬ人や 忘るらむ 忘れぬ我は なほつらきかな
忘れなば 我も忘るる わざもがな 我が心さへ つらくもあるかな
起きて伏し 伏しては起きぞ 明かしつる あはれやすぐや 人は寝つらむ
飛鳥川 淵こそ瀬には なると聞け こひさへふなに なりにけるかな
飛鳥川は淵が瀬になるほど流れが激しくて変わりやすいが、ならば鯉(恋)も鮒になるだろうと。 単なるだじゃれである。
我が歎く 心のうちを 記しても 見すべき人の なきぞかなしき 
5
赤染衛門の妹 / 『大和怪異記』巻一「赤染衛門が妹魔魅にあふ事」
「中の関白」藤原道隆公は、いまだ少将であったころ、ある女のもとに通っていた。
その女は女流歌人 赤染衛門の妹で、百人一首にある、
やすらはで寝なましものを小夜ふけて傾くまでの月を見しかな
は、そのころ、赤染衛門が妹にかわって詠んだものだという。
やがて道隆公に忘れられた女は、つのる恋心のままに、南面の簾を巻き上げて物思いにふける日々を送った。そんなある夜、直衣を着た男が訪れた。すると女は自然に心惹かれて、誰とも知れぬ男と深い仲になった。以来、男は毎夜通ってきたが、明け方に帰っていく車馬の音がしない。女は怪しく思って、長い糸に針をつけ、直衣の袖に刺しておいた。朝になって糸をたどると、先は南庭の樹上に引っかかっていた。
その後、男はふっつりと来なくなった。魔物の仕業だったのだろうか。女は妊娠しており、ほどなく一つの胞衣(えな)を産んだ。切り開いてみるに、どっぷりと血ばかりが詰まって、ほかに何もなかった。
(『近世拾遺物語』は『大和怪異記』の改題本) 
 
60.小式部内侍 (こしきぶのないし)  

 

大江山(おほえやま) いく野(の)の道(みち)の 遠(とほ)ければ
まだふみも見(み)ず 天(あま)の橋立(はしだて)  
大江山を越えて生野を通って行く道は遠いので、まだ天の橋立に行ったこともなければ、母からの手紙も見ていません。 / 大江山を越えて行く生野の道のりが遠いので、まだ天の橋立へ行ったことはありませんし、ましてや母からの手紙なども見てはおりませんよ。 / 大江山(現在の京都府京都市と亀岡市の間にある山)を越えて幾野(現在の京都府亀岡市)への道はとても遠いので、天橋立(現在の京都府宮津市)へは行ったこともありませんし、母からの手紙も見ておりませんよ。 / (母のいる丹後の国へは) 大江山を越え、生野を通って行かなければならない遠い道なので、まだ天橋立へは行ったことがありません。 (ですから、そこに住む母からの手紙など、まだ見ようはずもありません)
○ 大江山 / 源頼光の鬼退治で有名な大江山は、丹後(京都府北部)の山であるが、この歌に詠まれた大江山は、道順から考察して、丹波(京都府南部)の大枝山を指していると思われる。
○ いく野 / 「生野」は、丹波(京都府福知山市)にある地名で、「行く」との掛詞。
○ 道の / 「道」は、大江山を越え、いく野を通って行く道。「の」は、主格の格助詞。
○ 遠ければ / 「動詞の已然形+接続助詞“ば”」で、順接の確定条件。
○ まだふみもみず / 「ふみ」は、「文」と「踏み」の掛詞。母からの手紙が来ていないことと母のいる天の橋立へは行ったことがないことを表している。すなわち、作品が代作ではないことを主張している。
○ 天の橋立 / 丹後(京都府宮津市)にある名勝。日本三景の一。「ふみ」と「橋」は縁語。
※ 当時、10代半であった小式部内侍の歌が優れていたため、それらの作品は丹後に赴いていた母の和泉式部による代作ではないかとの噂があった。『金葉集』の詞書に、この歌は、歌合の前に藤原定頼が、「代作を頼むために丹後へ人を遣わされましたか」と小式部内侍をからかったことに対する返答として即興で詠まれたものであると記されている。 
1
小式部内侍(こしきぶ のないし、長保元年(999年)頃 - 万寿2年(1025年)11月)は平安時代の女流歌人。掌侍。女房三十六歌仙の一人。父は橘道貞、母は和泉式部。母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕した。そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになった。
母同様恋多き女流歌人として、藤原教通・藤原定頼・藤原範永など多くの高貴な男性との交際で知られる。教通との間には静円、範永との間には娘をもうけている。万寿2年、藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に20代で死去し、周囲を嘆かせた。この際母の和泉式部が詠んだ歌
とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり 『後拾遺和歌集』
は、哀傷歌の傑作として有名である。
小式部内侍の逸話は、下記の「大江山」の歌のエピソード、また教通との恋のエピソードを中心に、『十訓抄』や『古今著聞集』など、多くの説話集に採られている。また『無名草子』にも彼女に関する記述があり、理想的な女性として賞賛されている。
大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立 小倉百人一首
この歌は『金葉和歌集』にも収録されているが、そちらは「ふみもまだ見ず」となっており、百人一首とは語順が異なる。
これは、「大江山を越えて、近くの生野(京都府亀岡市内の古地名)へと向かう道のりですら行ったことがないので、まだ母のいる遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」という意味である。歌合に歌を詠進することになった小式部内侍に、四条中納言(藤原定頼)が「丹後のお母さん(和泉式部は当時、夫の任国である丹後に下っていた)の所に、代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」などと意地の悪い質問をしたのに対し、その場で詠んだ歌とされている。
当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったため、四条中納言は小式部内侍をからかったのだが、小式部内侍は見事な歌で答えたのだった。これに対し四条中納言は、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去ってしまい恥を掻いたという。
「行く野・生野」「文・踏み」の巧みな掛詞を使用したその当意即妙の受け答えが高く評価され、以後小式部内侍の歌人としての名声は高まったという。なお、「ふみ」と「橋」は「道」の縁語である。 
2
小式部内侍 生年未詳〜万寿二(1025)
橘道貞と和泉式部の間の子。寛弘六年(1009)頃、母とともに上東門院彰子に仕える。はじめ堀河右大臣頼宗の愛人であったらしいが、その弟二条関白藤原教通の妾となって一子を生む(のちの静円)。また藤原範永との間に女子を生んだ(堀河右大臣家女房。「範永女」として後拾遺集に歌を載せる)。万寿二年(1025)十一月、藤原公成の子(のちの頼忍阿闍梨)を出産後、死亡した。二十八歳くらいか。歌人藤原定頼との親交も知られる。後拾遺集初出。勅撰入集は八首(金葉集は二度本で数える)。女房三十六歌仙。「おほえ山…」の歌が小倉百人一首にとられている。
題しらず
見てもなほおぼつかなきは春の夜の霞をわけていづる月かげ(続後撰145)
(いくらよく見ても、やはり覚束ないのは、春の夜に立ち込める霞を分けて現われる月である。)
二条関白、白川へ花見になむと言はせて侍りければ、よめる
春のこぬところはなきを白川のわたりにのみや花はさくらむ(詞花280)
(春の来ないところはないのに、白川のあたりにだけ花は咲くのでしょうか。私の家にだって花は咲いておりますのに。)
二条前大臣、日頃患ひて、おこたりて後、「など問はざりつるぞ」と言ひ侍りければよめる
死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしかいきてとふべき身にしあらねば(後拾遺1001)
(あなたのご病気を聞いて私の方こそ死ぬばかりに嘆きに嘆いておりました。とても生きてはいられず、あなたのお宅へお見舞に伺えるような我が身ではありませんでしたので。)
和泉式部、保昌に具して丹後国に侍りける頃、都に歌合侍りけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、定頼卿、局のかたに詣で来て、「歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけんや、使まうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらん」など、たはぶれて立ちけるを、引き留めてよめる
おほえ山いく野の道のとほければまだふみもみず天の橋立(金葉550)
(大枝山を越え生野を通り、幾つもの野を過ぎて行く道があまりに遠いので、まだ天の橋立を踏んでもおりませんし、丹後からの母の手紙も見ておりません。)  
3
十訓抄『大江山の歌』
ここでは、十訓抄の中の『大江山の歌』の現代語訳と解説をしています。書籍によっては『小式部内侍が大江山の歌の事』、『大江山のいくのの道』と題されているものもあるようです。古今著聞集にも収録されていますが、若干原文が異なります。
このお話のあらすじ
和泉式部とその娘の小式部内侍は才能にあふれた歌人として知られていました。
ある日、和泉式部が旦那の転勤で丹後に引っ越していくことになります。京都には娘の小式部内侍だけが残っています。そんな中で小式部内侍は歌詠みの大会によばれることになります。この大会によばれるだけで大変な名誉なのですが、仮に大会で平凡な歌を詠もうものなら、その評判は一気に下がってしまう厳しいものでもありました。
そんな緊張感の中で定頼中納言から、「こんなプレッシャーの中であなたは良い歌なんて詠めないでしょう。(歌の名人であるお母さんに)代わりに歌を詠んでもらうために遣わした者は帰ってきた?」なんて意地悪なことを言われてしまいます。
むっとした小式部内侍は、すばらしい歌でこれに答えます。あまりのすばらしさに返す言葉もなくなった定頼中納言。そんな、すかっとするようなお話です。
原文
和泉式部、保昌が妻にて、丹後に下りけるほどに、京に歌合ありけるを、小式部内侍、歌詠みにとられて、歌を詠みけるに、定頼中納言たはぶれて、小式部内侍にありけるに、
「丹後へ遣はしける人は参りたりや。いかに心もとなくおぼすらむ。」
と言ひて、局の前を過ぎられけるを、御簾より半らばかり出でて、わづかに直衣の袖を控へて
大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天の橋立
と詠みかけけり。思はずにあさましくて、
「こはいかに、かかるやうやはある。」
とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引き放ちて逃げられけり。小式部、これより、歌詠みの世におぼえ出で来にけり。
これはうちまかせて理運のことなれども、かの卿の心には、これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは、知られざりけるにや。
現代語訳
和泉式部が、藤原保昌の妻として、丹後の国に赴いた頃のことですが、京都で歌の詠みあい合戦があり、(そこに和泉式部の娘の)小式部内侍が、歌の詠み手に選ばれて歌を詠んだのを、定頼中納言がふざけて、小式部内侍が(局に)いたときに、(次のようなことを言いました。)
「(お母さんに歌を詠んでもらうために)丹後に遣わした人は帰って参りましたか。(使いが帰ってくるのを)どんなに待ち遠しく思われていることでしょう。」
と言って、(定頼中納言が)局の前を通り過ぎられたのですが、(小式部内侍は)御簾から体を半分ほど乗り出して、少し(定頼中納言の)袖を引っ張って
大江山を越えて、生野という土地を通っていく丹後までの道が遠いので、私はまだ天の橋立を踏んだこともありませんし、母からの手紙も見ておりません。
(※丹後に行くには、天橋立という名所を通らなければならない。)
と詠みかけました。思いがけず驚くばかりで(定頼中納言は)
「これはどうしたことか、こんなことがあるものか、いやない。」
とだけ言って、返歌もできずに、袖を引き払ってお逃げになりました。
小式部内侍は、この件から歌詠みの世界で評判が広まりました。
これは(小式部内侍にとっては)道理にかなった話ではあるのですが、あの卿(定頼中納言)の心には、これほどの歌を、(小式部内侍が)とっさに詠み始めることができるとは、おわかりではなかったのでしょうか。 
4
小式部内侍の物語 恋の和歌
偉大なる母・和泉式部
小式部内侍は、和泉式部と中級貴族・橘道貞との間に生まれた娘でした。しかし、彼女の母和泉式部は、冷泉天皇の皇子為尊親王・敦道親王との不倫に走り、父と母は別れます。小式部内侍は母の愛を知らずに育ちますが、寛弘六年(1009)頃、母とともに、一条天皇の中宮、上東門院彰子に仕えるようになりました。この頃彼女は10代前半だったと思われます。
売られた喧嘩は買います
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 小式部内侍
大江山を越えていく、その生野を通る丹後への道は遠すぎますので、まだ天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙も見てはいません。
小式部内侍の母は、恋愛歌人として名高い和泉式部(だから「小」式部なんですよね)。小式部内侍は母顔負けに恋愛をし、恋愛に関する和歌を詠うのですが、「母に代作してもらっているのだろう。」と日頃噂になっていました。
母の和泉式部が再婚し、夫とともに丹後へ言っていた時、事件は起こりました。和歌・漢詩・管弦に秀でた父藤原公任を持っていた藤原定頼、日ごろ自分も同じようなことを言われていたのか、小式部内侍についつい嫌味を言ってしまいました。
「お母様からのお手紙はまだですか?和歌が作れなくて困っているでしょう??」
その嫌味に対しスパッと対応した小式部内侍。「読んでないしそんなん読まなくても和歌ぐらい作れますわ!」と言わんばかりの勢いで上記の和歌を詠みます。
で、和歌を詠みかけられたら即座に返歌するのがマナー。しかしあまりの出来事にうろたえた藤原定頼はほうほうのていで小式部内侍の前から逃げ出した…と伝わっています。
優雅に見えても女だもの。女は売られた喧嘩は買う生き物です。そんな激しい気性を持った彼女ですが、彼女も悲しい恋をしました。
小式部内侍の身分ちがいの恋
女房として上東門院彰子に仕える中で、彼女は恋をします。彼女の恋の相手…それは時の関白、藤原道長の次男、そして主人である上東門院彰子の弟、藤原教通。彼には妻(なんと藤原定頼の姉妹!)がいました。つらい恋の始まりです。彼女はこの恋の中で子供を一人生みましたが、その子供は僧侶となりました。
春のこぬ ところはなきを 白川の わたりにのみや 花はさくらむ 小式部内侍
春の来ないところはないのに、白川のあたりにだけ桜は咲くのですか。私の家にだって桜は咲いておりますのに。なぜお越しにならないのですか。
白川に花見に行かないか、そう誘われた彼女はこう返事します。白川には人がいっぱいいるのでしょう、私は貴方と二人だけの時間がほしいのよ。そういわんばかりの和歌です。
死ぬばかり 嘆きにこそは 嘆きしか いきてとふべき 身にしあらねば 小式部内侍
もう会えないかと、死ぬかというほどに嘆きに嘆いておりました。本妻ではない、愛人にすぎない私の身分では、あなたのもとに尋ねることができないのです。
ある日、教通が重病にかかったという知らせが小式部内侍の元に届きます。彼女は嘆きます、嘆くことしかできません。―教通の側には妻がいるのだから。病から回復した教通は「なぜ来てくれなかったの?」と呑気なものです。私は愛人、どうしてあなたの側に行くことができると思っているのですか―女の愛と恨みに満ちた、痛烈な和歌ではないでしょうか。
その後彼女は教通と別れ、藤原範永という中級貴族との間に娘を産みます。しかし彼女は範永と別れ、再び身分ちがいの恋に走ります。太政大臣藤原公季の孫にして養子、藤原公成です。万寿二年(1025)十一月、藤原公成の子を出産後、彼女は亡くなりました。20代後半であっただろうと考えられています。疎遠であった母和泉式部は、彼女の死に寄せて和歌を詠んでいます。
あひにあひて 物おもふ春は かひもなし 花も霞も 目にし立たねば 和泉式部
巡り来た春に逢うには逢った。しかし物思いに沈む身にはその甲斐もない。花も霞も娘を失った悲しみで浮かぶ涙のため、目にはっきりとは見えないのだから。
また主人であった上東門院彰子も彼女の死を惜しみました。毎年、彼女は自分に仕えている人に衣をあげていたのですが、上東門院彰子は彼女の死の翌年、小式部内侍の名で母の和泉式部に衣を与えました。
もろともに 苔の下には くちずして 埋もれぬ名を 見るぞかなしき 和泉式部
一緒に墓の下で亡骸が朽ちることなく、私ばかりが生き残ってしまった。娘の亡骸は朽ちてしまっても、埋もれることのない死んだ娘の名を見ることが悲しいのです。
小式部内侍はその短い生涯を精一杯駆け抜けて生きていきました。そして多くの人の心に残り続けたようです。男性からも、女性からも愛される、愛嬌があるけど気の強い、そんなところもかわいらしい女性であったのではないでしょうか。母和泉式部は娘の死を見送った後、彼女の残した子供たちを育てていたようです。 
5
小式部内侍(997年?〜1025年)
和泉式部の愛娘です。父親は道貞さまです。すでに恋多き女と思われていた和泉さまに向かって、「誰が父親なのやら」と失礼な物言いをする口さがない人もおりました。 その程度ではへこたれない和泉さまは、お歌にまぎらせて「わかる人にはわかるのよ〜」と、鮮やかに切り返しております。
その頃の和泉さまは夫の道貞さまと別離し、父親から勘当されるという状況にあったため、幼い小式部は和泉さまの実家に引き取られ、母親からは離されて養育されました。
結果的に自分を置き去りにした母親に、小式部はどのような想いを寄せて育ったのでしょうか・・・。その後の小式部の様子から考えますと、嫌ったり憎んだりはしなかったようです。むしろ大好きだったように思われてなりません。
宮さまご兄弟(弾正宮さまと帥宮さま)と人の噂になるほどの恋愛の後、両親王とも死というかたちの結末を迎えてしまった和泉さま。 道長さんに請われて彰子中宮のもとに出仕しますが、成長した小式部もここに一緒にお仕えすることになりました。
やはり血は争えないものですね。小式部もやんごとない公達(複数)と華やかに恋愛を重ねました。 お相手は、定頼(公任男)、教通(道長男)、教通に先を越された頼宗(道長男)、公成(実成男)とか・・・。
歌才のほうも受け継ぎました。母親の代作ではないか?との濡れ衣もありましたが、それを取っ払う事件が起きております。百人一首に採られた有名なお歌にからむものです。それは母親の和泉さまが夫(保昌)について丹後に下っていた時のことです。 定頼に「丹後に使者は送りましたか?(母上が不在では代作の歌が詠めないでしょうね〜)」とからかわれた小式部は、定頼を呼び止め、どかーんと一発詠み放って差し上げました。
「大江山いくのの道も遠ければまだふみもみず天の橋立」
遠くにいる母から文(ふみ)なんて貰ってないですわ!(代作ではございませんわよ。失礼しちゃう!)
当意即妙に詠まれたこのお歌は、当然ながら小式部の自作。我が身の敗北を悟り気まずくなった定頼は、ほうほうの体で逃げていきました(笑)。
その定頼とは恋人関係だったのですが、彼はなかなかに食えない殿方だったようです。こちらも父親譲りの気質でしょうか?(笑)
定頼と教通、同時進行で関係のあった小式部。ある日、局で教通と伏せっていたところに折り悪く定頼も訪ねて来て戸を叩きました。 そこで来客中(笑)であることを告げられた定頼はおとなしく(?)引き返しながらも、あろうことか、声のトーンをやや上げてお経を読み上げたのです。 局の内で、二声までは「きっ」として聞いていた小式部。少し声が遠くなってから三声、四声と続くや、「うっ」と呻いて教通に背中を向け、しくしく泣き始めました。 教通は後になって語ったそうです。「あんなに恥ずかしい思いをしたことはなかったな」と。もっともなことです。なんだってお経なんか浴びせられて、ね〜。
教通との間には子供が生まれました。両親の身分の違いの関係で僧籍に入らざるを得なかった、静円と呼ばれる息子です。もう一人娘がいたとか、別の男(藤原範永)の娘もいたとか・・・とも言われております。
万寿二年の冬、公成の子(頼仁)のお産がもとで小式部は若い命を落としました。まだ三十路も踏んでいなかったのです・・・。
幼い子を残して亡くなってしまった娘を悼み、和泉さまは深い悲しみに沈みました。小式部を可愛がっておられた彰子中宮もお嘆きになられて、いろいろとお心を尽くして下さいました。 小式部の衣で経文の表紙もお作らせになりました。母親の和泉さまはたいそう感激して、新しい涙にむせぶのでした。
教通が病を患った時、小式部は自分の身分を憚って、お見舞いに行くことができませんでした。
後日、「どうして見舞って下さらなかったのです?」と、教通から問われてお返ししたお歌です。
「死ぬばかりなげきにこそはなげきしか生きてとふべき身にしあらねば 」
死にそうなほど嘆きに嘆いておりました。生きてお見舞いできる身にはございませんもの・・・。
身分違いの恋に泣いたのは、母である和泉さまと同じ。
小式部は女房三十六歌仙の一人です。お歌は後拾遺集に初めて採られ、勅撰集には八首入集とありますが、同名の別人などの作が半分ほど混じっております。家集も残されておりません。 
6
小式部内侍をめぐる男たち
小式部内侍は、周知のように弾正宮為尊親王・帥宮敦道親王兄弟との間に浮名を流し、それでも『後拾遺集』には六十七首も採られ当勅和歌集の入集歌数第一位となり、上東門院彰子に仕える同僚女房の紫式部には「口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠みそへはべり」(日記)と和歌の力量に関して評される、平安中期を代表する女流歌人和泉式部の娘である。しかも、この母娘はともに定家撰『小倉百人一首』に採られ、そうした意味でも紫式部と大弐三位賢子母娘に比肩拮抗した存在価値を示しているといえよう。そして、母の道長時代に対し、その娘たちは嫡嗣頼通時代を生きていた訳だから、彼女らに関わる男たちも道長時代に名を馳せた父の世代から、その息子たちの世代となる訳である。これも父子がともに『百人一首』に採られる大納言公任と権中納言定頼が挙げられる。
そこで小式部内侍の『百人一首』歌、
大江山いくのの道のとをければまだふみもみず天の橋立
だが、当歌の詠作事情や背景が知られない以上、名勝の天の橋立は都から遠いので、まだ訪れて見たこともありませんほどの意味としか理会できず、「ふみ」に「踏み」と「文」とが掛けられているとの常識的な技巧も看取し得ないはずで、「当意即妙の才気にみちた歌」(島津忠夫訳注『新版百人一首』角川ソフィア文庫)などとする評価は、この限りではできようはずもないのである。
『百人一首』には定家の選歌やその配列に特異な意図を探ろうとする向きもあるけれども、「大江山」歌は直截的な表出言語や歌の趣向の対応からすれば、まさに大弐三位の、
有馬山いなのささ原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
と、対照できるといえよう。吉海直人『百人一首の新研究ー定家の再解釈論ー』(和泉書院、平成13年)は、次のように両歌の共通項を指摘している。
両歌ともに「有馬山、猪名野」「大江山、生野」と地名を詠み、それが「否」・「行く」の掛詞となっている点は完全に一致している。また三句目が接続助詞「ば」になっている点、さらに四句目に「そよ」・「ふみ」という掛詞が置かれている点まで、歌の構造が酷似しているのである。しかも内容的に男に対する手厳しい返歌であることも共通しており、ある種のパターン化された詠み方とも考えられる。あるいはそれ以上に宮廷女房の悲哀として考えるべきかもしれない。
吉海氏が言うこの両歌が「男に対する手厳しい返歌である」という共通性も『百人一首』歌としての表出機能に負うところではなく典拠となるらしい勅撰和歌集の詞書を前提とする詠歌事情や背景に依拠しての内容理会があってのことだといえよう。このように『百人一首』歌相互の連関性はその背後にある典拠を資料として導き出すことによって、その作者たちの歴史社会性を開示していくことにつながるようなのである。つまり小式部内侍の「大江山」歌が載る『金葉集』(雑上)の詞書は次の如くである。
和泉式部保昌にぐして丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけんや、つかひはまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらんなど、たはぶれて立ちけるをひきとどめてよめる
長い詞書ゆえ既に説話化されていると言われているが、相手の男が定頼であったことは明示される。一方、大弐三位の「有馬山」歌の『後拾遺集』(恋二)詞書は、
かれがれになるをとこの、おぼつかなくなどいひたるによめる
と、間遠になった男が誰とも知られないが、同じ『後拾遺集』(秋下)に、
中納言定頼かれがれになりはべりけるに、
きくのはなにさしてつかはしける   大弐三位
つらからんかたこそあらめ君ならでたれにかみせん白菊の花
とあって、「有馬山」歌の「かれがれなるをとこ」と必ずしも同一人物とは限らないが、そうした状況に酷似して、両歌とも大弐三位の方が男に執着を残している詠歌となっている点で、「有馬山」歌の男に定頼のイメージを重さねる連想が働いたとしても故なしとはしないであろう。少なくとも公任息の定頼は、あの紫式部と和泉式部の娘たちと、交渉があったということなのであろう。
定頼との関係の深さからいえば、大弐三位の方は明らかに男女関係で、『定頼集』からもその親交がうかがわれ、定頼が蔵人在任中、寛仁二(一〇一八)、三年ごろのことで、定頼二十七、八歳、賢子二十歳ころと推定されている(森本元子『定頼集全釈』風間書房、平成元年)。それに対し、小式部内侍との親交はどの程度であったものか。そもそも『金葉集』の詞書さえも定頼との一件が説話化されている状況が看取される訳だから、萩谷朴『平安朝歌合大成三』(同朋舎)のように、和泉式部が都に残していく小式部を気遣って同僚の大輔命婦に依頼した事実(『和泉式部集』)と、夫保昌にともなって丹後に下向するのを決めかねている和泉式部を定頼がからかった事実(『定頼集』)とを合成したフィクションだったのかもしれないのである。『定頼集』にこの一件の傍証となるような歌さえ残されていないというのも気がかりな点だが、ともかくこうした定頼と小式部内侍との遭遇が和泉式部が丹後に同行したと推定される治安元年(一〇二一)秋ごろ(森本前掲書)以降にあった事実であるとの前提でこれから述べることとする。
三木紀人「亜流の世代のアイドルー小式部」(「国文学」昭和50年12月)は、才媛が多い中で歌合にはじめて詠み手として選ばれた小式部への親の七光りゆえとする周囲の嫉妬の念を酌むかのような「歌はいかがせさせ給ふ」との必要以上の丁重な言葉遣いに、定頼の「たはぶれ」の底意地の悪さを見抜く常識的な読みの可能性を是認した上で、家族愛のやさしさをわきまえる定頼の行動としては腑に落ちないから、この一件は定頼と小式部とが仕組んだことで、定頼が「大江山」歌の返答に窮してほうほうの体で遁走して行くことで、小式部の引き立て役を演じたのだとする。吉海氏もこの解に賛して、「自ら二枚目のピエロ役を見事に演じた定頼の心をも高く評価したい気がする」(前掲書)と述べている。
定頼は、小式部が丹後に居る母和泉式部に相談できずに焦慮しているに違いないと思い、「いかに心もとなくおぼすらん」と言い放って、そのまま小式部の局の前を立ち去ろうとしたが、小式部に「大江山」歌を即座に詠みかけられた。その時の状況を『金葉集』詞書には「ひきとどめてよめる」とあるばかりだが、『古今著聞集』(巻五)『十訓抄』(三)『俊頼髄脳』には、「御簾よりなかばいでて、直衣の袖をひかへて」(『著聞集』)とあって、小式部の露骨で過剰な反応が記されている。もしこうした小式部の大胆な行動が事実だとすれば、誇張した演出の趣向がうかがわれ、定頼との深い関係が既にあって、成り立ち得る挙措であったと理会するのが穏当であるかもしれない。そうでなければ、定頼の言動が、余程腹に据えかねたのであろう。
三木氏は和泉式部が下向に際して定頼にも同僚の大輔命婦と同じような依頼をしておいたのではないかとの推察を示しているが、いかがなものか。下向を逡巡する和泉式部に対して「行き行かず聞かまほしきをいづかたに踏みさだむらんあしうらの山」(『定頼集』)と、からかい半分に足占を詠み入れて送りつけるお調子者の定頼であり、その上北の方(源済政女)が居るにも拘らず、大江公資の妻相模との密通や越後弁(大弐三位)との関係(森本元子『私家集の研究』明治書院、昭和41年は寛仁年間(一〇一七〜一〇二〇と推定)も知られるところで、そんな定頼に娘のことを依頼すれば、頭痛の種を一つ増やすようなものである。小式部の大胆な行動に過剰な演出を読みとって、いかにも定頼が小式部のために一膚脱いで引き立て役を演じた美談とするには、当時の定頼や小式部の周辺に於ける人間関係に余りにも無頓着すぎるのではないか。
定頼にやさしい家族愛(森本前掲書。森本真奈美「定頼とその家族ー『定頼集』に見るー」「相模国文」、昭和60
年3月)を認めるならば、同母妹が教通室であったことを忘れてはならないだろう。教通はいわずと知れた摂関家頼通と倫子腹の同母弟で、その教通と公任の長女とは、『小右記』長和元年(一〇一二)四月二十八日条に拠れば、彼女が十三歳で教通と結婚したことが知られる。ところが、教通室は治安三年(一〇二三)十二月下旬に男子を無事出産するが、翌年万寿元年(一〇二四)正月六日、にわかに絶命してしまう。享年二十五。いかにも若い死だが、その間に所生の子女は出産順に、生子、真子、信家、通基、歓子、信長と子沢山である。公任女も早世だが、小式部内侍もほぼ同時期の万寿二年(一〇二五)にこれもほぼ同年齢の二十五、六歳で病没してしまう。問題は、その公任女との結婚期間に教通と小式部内侍との間にも男女関係があったということなのである。
『後拾遺集』(雑三)に次のような小式部の歌が所載されている。
二条のさきのおほいまうちぎみ日ごろわづらひてのち、
などとはざりつるぞといひはべりければよめる   小式部内侍
死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしか生きて問ふべき身にしあらねば
大二条殿と言われた教通(治安年間は内大臣)が大病を患ったが、愛人の小式部は立場上見舞うことができなかったという。小式部は寛仁二年(一〇一八)十二月二十四日(『御堂関白記』)、教通の子静円を産んでいる。ちょうど定頼が大弐三位と深い関係にあった頃である。もちろん、それは定頼の同母妹が教通室であった期間のこととはいえ、定頼と小式部との一件の三年程前のことだから、教通との関係が続いていたとは断言できないが、教通室である妹のことを度外視して定頼が容易に小式部に加担できるとは言い難いであろう。
小式部と教通との関係には母の和泉式部も相当期待していたことは、『後拾遺集』『入道右大臣(頼宗)集』の道長次妻明子腹の兄頼宗との贈答歌で知られるところでもある。小式部を口説こうとしたのは教通より自分の方が先だと拗ねる頼宗がまた大弐三位賢子の想い人だったのだから、平安時代の男女関係は多少錯綜している。 
 
61.伊勢大輔 (いせのたいふ)  

 

いにしへの 奈良(なら)の都(みやこ)の 八重桜(やへざくら)
けふ九重(ここのへ)に にほひぬるかな  
昔の奈良の都の八重桜が(献上されてきて)、今日、京都の宮中に一層美しく咲きほこっていることですよ。 / 昔、奈良の都で咲き誇っていた八重桜が、今日は平安京のこの宮中でいちだんと美しく咲き誇っていることであるよ。 / 昔みやこのあった奈良の八重桜が、今日は九重の宮中に美しく咲き誇って、一段と輝いていることですよ。 / 昔、奈良の都で咲き誇っていた八重桜が、今日はこの宮中で、いっそう美しく咲き誇っているではありませんか。
○ いにしへの奈良の都の八重桜 / 「奈良」は、元明天皇による和銅3年(710)の遷都から約70年間にわたって帝都であった平城京。伊勢大輔は平安中期の歌人であり、当時の人々にとって、既に古都という印象を持たれていた。「八重桜」は、八重咲きの桜で、ソメイヨシノより開花時期が遅い。
○ けふ九重に / 「けふ」は、今日。「いにしへ」との対照。「九重」は、宮中。「八重」との対照。数が多い分、奈良よりも京都で“さらに”美しく咲きほこるさまを強調している。
○ にほひぬるかな / 「にほひ」は、ハ行四段の動詞「にほふ」の連用形で、「美しく咲く」という視覚的な美を表している。「ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。「かな」は、詠嘆の終助詞。 
1
伊勢大輔(いせのたいふ/いせのおおすけ、永祚元年(989年)頃? - 康平3年(1060年)頃?))は、平安時代中期の女流歌人。大中臣輔親の娘。高階成順に嫁し、康資王母・筑前乳母・源兼俊母など優れた歌人を生んだ。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
1008年(寛弘5年)頃に一条天皇の中宮・上東門院藤原彰子に仕え、和泉式部・紫式部などと親交し、晩年には白河天皇の傅育の任にあたった。1060年(康平3年)までの生存が確認されている。
『百人一首』にも採られて有名な「いにしへの」の歌は、奈良から献上された八重桜を受け取る役目を、紫式部が勤める予定のところ、新参女房の伊勢大輔に譲ったことがきっかけとなり、更に藤原道長の奨めで即座に詠んだ和歌が、上東門院をはじめとする人々の賞賛を受けたものである。
一条院御時 ならの八重桜を人の奉りけるを そのおり御前に侍けれは
そのはなをたいにて うたよめとおほせことありけれは 伊勢大輔
いにしへのならのみやこの八重桜 けふ九重ににほひぬる哉 『詞花和歌集』
奈良の八重桜を内にもてまいりたるを うへ御覧して歌とおほせことありけれは 伊勢大輔
いにしへのならのみやこのやへさくら けふこゝのへににほひぬるかな 『金葉和歌集』 
2
伊勢大輔 生没年未詳
神祇伯正三位大中臣輔親の娘。能宣は祖父、頼基は曾祖父にあたり、大中臣家重代歌人の系譜に連なる。子の康資王母(やすすけおうのはは)・筑前乳母・源兼俊母も勅撰集歌人。寛弘四年(1007)または翌年頃から上東門院彰子に仕える。新参の頃、「いにしへの奈良の都の八重桜…」の歌を奉って人々の賞讃を得た(『伊勢大輔集』『三十六人伝』『袋草紙』など)。その後、高階成順(たかしなのなりのぶ)と結婚。長元五年(1032)十月の「上東門院彰子菊合」、長久二年(1041)二月の「弘徽殿女御生子歌合」、永承四年(1049)十一月の「内裏歌合」、同五年(1050)六月の「祐子内親王家歌合」、天喜四年(1056)の「皇后宮春秋歌合」などに出詠。康保三年(1060)頼通主催の志賀僧正明尊の九十賀に歌を詠んだ(『袋草紙』)のが最後の記録になる。後拾遺集初出。同集に二十七首、新古今集に七首など、代々の勅撰集に計五十一首入集している。家集『伊勢大輔集』がある。中古三十六歌仙。女房三十六歌仙。
春 / 一条院御時、奈良の八重桜を人のたてまつりて侍りけるを、その折御前に侍りければ、その花をたまひて、歌よめとおほせられければ、よめる
いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな(詞花29)
(古い都があった奈良の八重桜は、献上された今日、ここ平安京の九重の宮中で色美しく咲き匂うのだった。)
夏 / 永承五年六月五日、祐子内親王家の歌合によめる
聞きつとも聞かずともなく時鳥心まどはすさ夜のひと声(後拾遺188)
(聞いたとも聞かないともはっきりせず、時鳥よ、人の心を惑わせる、夜の一声――。)
年ごろすみはべりけるところはなれて、ほかにわたりて、またの年の五月五日によめる
けふも今日あやめもあやめ変はらぬに宿こそありし宿とおぼえね(後拾遺213)
(日付けは同じ五月五日、菖蒲草も同じ菖蒲草。去年と変わりはしないのに、住む家だけは以前と同じ家だとは思えないことだ。)
六月祓をよめる
みなかみも荒ぶる心あらじかし波もなごしの祓へしつれば(後拾遺234)
(上流の水神も荒々しい心はないだろう。波も立たぬよう夏越の祓えをしたのだから。)
秋 / 後冷泉院の御時、后の宮の歌合によめる
さ夜ふかく旅の空にて啼く雁はおのが羽風や夜寒なるらむ(後拾遺276)
(夜も更けた頃、旅の空で啼く雁は、自身の羽ばたく風のせいで夜寒を感じているのだろうか。)
物思ふことありけるころ、萩を見てよめる
おきあかし見つつながむる萩のうへの露吹きみだる秋の夜の風(後拾遺295)
(夜が明けるまで起きていて、じっと物思いに耽りつつ見つめる萩――その花びらの上の露を吹き乱す秋の夜の風よ。)
上東門院、菊合せさせ給ひけるに、左の頭(とう)つかまつるとてよめる
目もかれず見つつ暮らさむ白菊の花よりのちの花しなければ(後拾遺349)
(始終目を離さず、枯れないかと見守りながら一日を暮らそう。白菊の花が枯れてしまえば、そのあとに咲く花などないのだから。)
恋 / 秋いひはじめたりし人のいひたりし
けぶりこそたつとも見えね霧まよふ恋にこがるる秋を知らなむ
(必死で忍んでいるので煙が立つとは見えないでしょうが、私がこの秋から霧に迷うような恋に胸焦がしていることを知ってもらえないでしょうか。)
かへし
霧まよふ秋の空にはことごとにたつとも見えぬ恋のけぶりを(伊勢大輔集)
(霧が立ち込めた秋の空では、いくら人が恋の煙を立てようと、はっきりと区別して見えないでしょうに。)
世の中騒がしき頃、久しう音せぬ人のもとにつかはしける
なき数に思ひなしてやとはざらむまだ有明の月待つものを(後拾遺1004)
(大勢の人が病没しましたが、私も故人の中に勘定して、あなたは訪問なさらないのでしょうか。私はまだ生きていて、有明の月を待つではありませんが、何カ月もお便りを待っておりますのに。)
雑 / 成順におくれ侍りて、又の年、はてのわざし侍りけるに
わかれにしその日ばかりはめぐりきていきもかへらぬ人ぞ恋しき(後拾遺585)
(死に別れた日だけは巡って来るのに、亡き人は生き返らない――あの人が恋しくてならない。)
秋の頃わづらひける、おこたりて、たびたびとひける人に遣はしける
うれしさは忘れやはする忍ぶ草しのぶるものを秋の夕暮(新古1732)
(あなたがたびたび見舞って下さった、その嬉しさは忘れたりするものですか。茅屋の軒に生える忍ぶ草ではありませんが、我が家を訪ねて下さった秋の夕暮を懐かしく偲んでおりますよ。)
上東門院、住吉に参らせ給ひて、帰るさに人々歌よみ侍りけるに
いにしへにふりゆく身こそあはれなれ昔ながらの橋を見るにも(後拾遺1074)
(昔の人となって古びてゆく身こそ哀れなことですよ。昔ながらの長柄の橋を見るにつけても。) 
3
古本説話集 / 伊勢大輔、歌の事
今は昔、紫式部、上東門院(1)に歌読み優の者にて候ふに、大斎院(2)より、春つ方、「つれづれに候ふに、さりぬべき物語や候ふ」と尋ね申させ給ひければ、御草子どもとり出ださせ給ひて、「いづれをか参らすべき」など、選り出ださせ給ふに、紫式部、「みな目慣れて候ふに、新しく作りて参らせさせ給ひつかし」と申しければ、「さらば、作れかし」と仰せられければ、源氏は作りて参らせたりけるとぞ。
いよいよ心ばせすぐれて、めでたきものにて候ふほどに、伊勢大輔参りぬ。それも歌詠みの筋なれば、殿、いみじうもてなされ給ふ。奈良より年に一度、八重桜を折りて持て参るを、紫式部、「今年は大輔に譲り候らはむ」とて、譲りければ、取り次ぎて参らするに、殿、「遅し、遅し」と仰せらるる御声につきて、
いにしへの奈良のみやこの八重桜今日九重に匂ひぬるかな
「取り次ぎつるほどほどもなかりつるに、いつの間に思ひ続けけむ」と、人も思ふ、殿もおぼしめしたり。
めでたくて候ふほどに、致仕(ちじ)の中納言の子の、越前の守とて、いみじうやさしかりける人の妻になりにけり。
会ひ始めたりけるころ、石山にこもりて、音せざりければ、遣はしける、
みるめこそあふみの海にかたからめ吹きだに通へ滋賀の浦風
と詠みてやりたりけるより、いとど歌おぼえまさりにけり。まことに子孫栄へて、六条の大弐・堀河の大弐など申しける人々、この伊勢大輔の孫なりけり。白河院は曾孫(ひいこ)おはしましけり。
一の宮と申しける折、参りて見参らせけるに、「鏡を見よ」とて、賜びたりけるに、給はりて、
君見ればちりも曇らでよろづ代の齢(よはひ)をのみもます鏡かな
御返し。大夫殿、宮の御伯父におはします。
曇りなき鏡の光ますますも照らさむ影に隠れざらめや
* (1)一条天皇中宮彰子 (2)選子内親王 
 
62.清少納言 (せいしょうなごん)  

 

夜(よ)をこめて 鳥(とり)の空音(そらね)は 謀(はか)るとも
よに逢坂(あふさか)の 関(せき)はゆるさじ  
孟嘗君は、深夜に鶏の鳴きまねを食客にさせて、函谷関の関守をだまして通り抜けましたが、逢坂の関は決して許さないでしょう。 / あなた(藤原行成)は、翌日に宮中の物忌があるから鶏の声にせきたてられて帰ったと弁解しますが、そんな嘘は私には通用しませんよ。あなたは深夜に帰ったのであって、朝まで逢瀬を楽しんだのではないのですから、いい加減なことはおっしゃらないでください。 / まだ夜も明けきらないうちに、鶏の鳴きまねをして、だまして通ろうとしても、私と逢うこの逢坂の関だけは決して通しはしませんから。 / 夜が明けないうちに、夜明けを告げる鶏の鳴き声をまねて、わたしをだまそうとしても、鶏の鳴き声をまねて門が開いた函谷関(かんこくかん)ならともかく、あなたとわたしの間にある逢坂関は開きませんよ。 / 夜の明けないうちに、鶏の鳴き声を真似て夜明けたとだまそうとしても、(あの中国の函谷関ならいざ知らず、あなたとわたしの間にある) この逢坂(おおさか)の関は、決して開くことはありません。
○ 夜をこめて / 夜が深いうちに
○ 鳥のそらねははかるとも / 「鳥のそらね」は、ニワトリの鳴きまね。「はかる」は、「謀る」で、だます・いつわるの意。斉の孟嘗君が秦から逃げる際、一番鶏が鳴いた後にしか開かない函谷関にさしかかったのが深夜であったため、食客にニワトリの鳴きまねをさせて通過したという故事から。
○ よに逢坂の関はゆるさじ / 「よに」は、決して・絶対にの意を表す呼応の副詞で、下に否定の語を伴う。「逢坂の関」の「あふ」は、「逢ふ」、即ち、逢瀬と「逢(坂)」の掛詞。「逢坂の関」は、山城(京都府)と近江(滋賀県)の境にあった関所。逢坂の関の通過は許さないということと逢うこと、即ち、あなた(藤原行成)と男女の関係を持つことは許さないということを重ねている。
※ 後拾遺集の詞書及び枕草子(第136段『頭の弁の、職にまゐり給ひて…』)によると、清少納言と深夜まで語り合った藤原行成が、翌日に行われる宮中の物忌みを理由に、男女の関係を持つことなく帰ってしまった。翌朝、行成は「鳥の声にもよほされて(せかされて帰った)」と言ってきたので、清少納言は、「鳥とは、函谷関の鶏、即ち、嘘の言い訳でしょうと言い返した。これに対し、行成は、函谷関ではなく、逢坂の関、即ち、あなたとは男と女の関係ですよと反論した。そこで、清少納言は、この歌によって、自分に逢うことは決して許さないという意思を表し、行成をやりこめた。ところが、その後に、行成は、逢坂の関は、誰でも簡単に通れる関ではないか、つまり、清少納言は、どんな男でも相手にしているではないかという内容の歌を詠んだ。 
平安鎌倉の物語1
昔の女性
奈良平安の日本
消え行く「東京」心のルーツ
1
清少納言(せいしょうなごん、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代の女流作家、歌人。随筆『枕草子』は有名。
梨壺の五人の一にして著名歌人であった清原元輔(908年 - 990年)の晩年の娘。曽祖父(系譜によっては祖父)は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父。兄弟姉妹に、雅楽頭為成・太宰少監致信・花山院殿上法師戒秀、および藤原理能(道綱母の兄弟)室となった女性がいる。
「清少納言」は女房名で、「清」は清原姓に由来するとされているが、近い親族で少納言職を務めたものはおらず、「少納言」の由来は不明であり、以下のような推察がなされている。
女房名に「少納言」とあるからには必ずや父親か夫が少納言職にあったはずであり、同時代の人物を検証した結果、元輔とも親交があった藤原元輔の息子信義と一時期婚姻関係にあったと推定する角田文衞説。
藤原定家の娘因子が先祖長家にちなみ「民部卿」の女房名を後鳥羽院より賜ったという後世の事例を根拠に、少納言であり能吏として知られた先祖有雄を顕彰するために少納言を名乗ったとする説。
花山院の乳母として名の見える少納言乳母を則光の母右近尼の別名であるとし、義母の名にちなんで名乗ったとする説。
岸上慎二は、例外的に親族の官職によらず定子によって名づけられた可能性を指摘している。後世の書ではあるが「女房官品」に「侍従、小弁、少納言などは下臈ながら中臈かけたる名なり」とあり、清原氏の当時としては高からぬ地位が反映されているとしている。
実名は不明で、「諾子(なぎこ)」という説もあるが、実証する一級史料は現存しない。
中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人に数えられ、42首の小柄な家集『清少納言集』が伝わる。『後拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に15首入集。また漢学にも通じた。
鎌倉時代に書かれた『無名草子』などに、「檜垣の子、清少納言」として母を『後撰和歌集』に見える「檜垣嫗」とする古伝があるが、実証する一級史料は現存しない。檜垣嫗自体が半ば伝説的な人物であるうえ、元輔が檜垣嫗と和歌の贈答をしていたとされるのは最晩年の任国である肥後国においてであり、清少納言を彼女との子であるとするには年代が合わない。
経歴
天延2年(974年)、父・元輔の周防守赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。なお、『枕草子』における船旅の描写は、単なる想像とは認めがたい迫真性があり、あるいは作者は水路を伝って西下したか。この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。
天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光(965年 - 1028年以後)と結婚し、翌年一子則長(982年 - 1034年)を生むも、武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。ただし、則光との交流はここで断絶したわけではなく、枕草子の記述によれば長徳4年(998年)まで交流があり、妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったという。のち、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた。
一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。藤原実方(? - 998年)、藤原斉信(967年 - 1035年)、藤原行成(972年 - 1027年)、源宣方(? - 998年)、源経房(969年 - 1023年)との親交が諸資料から窺える。ことに実方との贈答が数多く知られ、恋愛関係が想定される。
清少納言の名が今日まであまねく知られているのは、残した随筆『枕草子』によるところが大きい。『枕草子』には、「ものはづくし」(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、清少納言が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。
長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。晩年は亡父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたという(『公任集』『和泉式部集』『赤染衛門集』など)。
没年は不明で、墓所が各地に伝承される。
紫式部との関係
清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし 行末うたてのみはべれば え心になりぬる人は いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ をかしきことも見過ぐさぬほどに おのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ 『紫日記』
清少納言と、同時代の『源氏物語』の作者・紫式部とのライバル関係は、後世盛んに喧伝された。しかし、紫式部が中宮彰子に伺候したのは清少納言が宮仕えを退いてからはるか後のことで、2人は一面識さえないはずである。紫式部が『紫式部日記』(『紫日記』)で清少納言の人格と業績を全否定するかのごとき筆誅を加えているのに対し、清少納言が『枕草子』で紫式部評を残していない一方的な関係からもこの見方は支持される。もっとも、『枕草子』には紫式部の亡夫・藤原宣孝が派手な衣装で御嵩詣を行った逸話や従兄弟・藤原信経を清少納言がやり込めた話が記されており、こうした記述は紫式部の才能を脅威に感じて記したものであるという説も存在する。
清女伝説
紫式部の酷評に加え、女の才はかえって不幸を招くという中世的な思想が影響し、鎌倉時代に書かれた『無名草子』『古事談』『古今著聞集』などには清少納言の落魄説話が満載された。『古事談』には、「鬼形之法師」と形容される出家の姿となり、兄・清原致信が源頼親に討たれた際、巻き添えにされそうになって陰部を示し女性であることを証明したという話がある。
また全国各地に清女伝説(清少納言伝説)がある。鎌倉時代中期頃に成立したと見られる『松島日記』と題する紀行文が清少納言の著書であると信じられた時代もあったが、江戸時代には本居宣長が『玉勝間』において偽書と断定している。
伝墓所
○ 徳島県鳴門市里浦町里浦坂田 - 比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めを受けんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという。
○ 香川県琴平金刀比羅神社大門 - 清塚という清少納言が夢に死亡地を示した「清少納言夢告げの碑」がある。
○ 京都市中京区新京極桜ノ町 - 誓願寺において出家、往生を遂げたという。

「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」が百人一首に採られている。 
2
清少納言
平安中期に活躍。姓は清原、名は不明。父・清原元輔(もとすけ)は百人一首に「契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは」が採られた三十六歌仙の一人。曾祖父・清原深養父(ふかやぶ)も百人一首に「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづくに月宿るらむ」が入った『古今集』の歌人。こうした周囲の環境に感化され、彼女は幼い頃から和歌や漢文に親しみ、機転の利く明るい活発な女性に成長した。15歳で橘則光と結婚し、翌年に則長を産む。しかし武骨な則光とは性格が合わずに約10年で離婚した。24歳、父が他界。
993年(27歳)、関白・藤原道隆から「宮中で教養係をして欲しい」と依頼が届く。相手は関白の長女で一条天皇の中宮(后)、藤原定子(ていし、17歳)。それまで想像もしなかった夢のような宮廷生活が突然始まった。後宮には30名ほどの高い教養の女房(侍女)がいたが、清少納言の機知に富む歌の贈答に誰もが感心し、和歌や漢詩の豊富な知識もあって、彼女は詩歌を愛する定子に人一倍寵遇された。当時、漢文は男が学ぶものであり、漢詩に詳しい女性は男達から「生意気だ」と言われたが、清少納言は子どもの頃から父にみっちり教え込まれており、定子はそんな彼女を貴重な存在に思った。清少納言は漢文の知識で天狗になっている男達をやり込め、名声はどんどん高まった。
ところが、それから僅か2年後の995年(29歳)に道隆が逝去。関白に弟の藤原道長(「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」で有名)が就任すると、後宮の花形だった彼女の運命は暗転し始める。996年(30歳)、定子の兄が道長の策謀で流刑になり、こともあろうに「清少納言は道長方のスパイ」という酷い噂が流れ、彼女は自ら宮廷を出て家に閉じこもってしまう。定子は母も他界し屋敷が焼失するなど不幸な出来事が続いていたが、これまでは陽気で勝気な清少納言が側にいるだけで気持が弾んだし、彼女が努めて明るく振舞い皆の心を元気にする姿に励まされた。それゆえ、早く宮廷に戻って欲しくて、清少納言が以前に“気が滅入った時は上等な紙や敷物を見ると気が晴れる”と言っていたので、20枚の紙(当時はとても貴重だった)と敷物を贈った。清少納言はこの時の喜びを「神(紙)のおかげで千年生きる鶴になってしまいそう」と記した。彼女は以前にも定子が兄から貰った紙を贈られており、授かった紙に宮廷生活の様子を生き生きと描き込み、詩情豊かに自然や四季を綴ったものが随筆『枕草子』となった。
※『枕草子』…約320段の章で構成。『源氏物語』を貫く精神が“もののあはれ”(情感)の「静」とすれば、『枕草子』には“をかし”(興味深い)という「動」の好奇心が満ちている。作中には実に400回以上も“をかし”が登場する。この気持こそが、鋭い感受性で鮮烈に平安朝を描き出した清少納言の原動力だ。“枕”の由来は複数あり、「備忘録」「枕詞の集まり」のほか、唐の詩人・白居易(はくきょい)の漢詩集『白氏文書』(はくしもんじゅう)に登場する「白頭(はくとう)の老監(ろうかん)書を枕にして眠る」とする説もある。“草子”とは閉じた本のこと。
定子の気持に応える形で彼女は宮廷に戻ったが、再び波乱が起きた。1000年に関白道長が娘の彰子(しょうし)を強引に中宮とし、天皇が2人の妻を持つ事態になった(一帝ニ后は初のケース)。そして同年12月、定子は出産で衰弱して、24歳の若さで他界する。清少納言は自分より10歳も年下なのに聡明で歌の知識も豊富な定子のことを心底から敬慕していたので、この悲劇に打ちのめされた。そして、哀しみを胸に宮廷を去り、山里で隠遁生活を送るようになる(34歳)。
その後、摂津守・藤原棟世と再婚。1001年、清少納言が書いた『枕草子』の初稿は、非公開のつもりだった彼女の意に反して、家を訪れた左中将・源経房が「これは面白い!」と持ち出し世間に広めてしまう。驚くほど好評だったので、彼女はその博識を総動員して『枕草子』に10年近く加筆を続ける。やがて宮仕えの7年間に興味を持った全てのものを刻み終え、1010年(44歳)ごろ最終的に脱稿した。晩年は尼となり京都東山の月の輪に住む。墓は滋賀坂本のほか、徳島・鳴門市の里浦町にも供養塔(尼塚)がある。
※「なにもなにも ちひさきものは みなうつくし」
枕草子
○ 第1段 春はあけぼの…春は曙が最高!ジョジョに白んで、山際の空がほんのり明るくなって、紫に染まった雲が細くたなびいているのはたまらない。夏は夜がいい。月夜はもちろんのこと、闇夜でもたくさんの蛍が舞う様子が美しい。また、ほんの一、二匹が、ほのかに光って飛んで行くのも、何とも趣がある。夏の雨の夜も風情がある。秋は夕暮れに限る。夕日が赤くさして今にも山に沈もうとする時に、カラスがねぐらへ向かって、三羽、四羽、二羽と飛び急ぐ様子さえ、しみじみと心に染む。まして雁などが連なって、遠い空に小さく見えるのはとても感じ入ってしまう。とっぷり日が落ちて、風の音、虫の音などが聞こえるのは、言葉にならないほど素晴らしい。冬は早朝ですね。雪が降り積もる景色は言うまでもなく、霜で真っ白なのも、空気のはりつめた寒い朝に、火を急いでおこして、炭火を持ち運ぶのも、冬の朝ならではのもの。ただし、昼になって寒さが次第に緩み、火鉢の炭が白い灰ばかりなのは、見た目がイマイチかなぁ。
○ 第2段 小五月-高貴な方も無礼講…1月15日は身分の上下を問わず、女性同士が薪(たきぎ)でお尻を叩く風習がある(安産の祈り)。宮中では侍女たちが薪を隠し持ち、相手の隙を狙う者、常に背後を警戒している者、なぜか男を叩いている者、叩かれて“してやられた”と言う者もいれば、呪いの言葉で悪態をつく者もいて楽しい。
○ 第21段 宮仕え礼賛…この時代、高貴な女性は顔を見せてはいけなかった。成人すると親子でも扇で隠していたほど。結婚3日目の朝にやっと夫は妻の顔を見ることが許される(だから平安貴族は歌の良し悪しで恋の運命が決まった)。ところが宮仕えをする者は色んな人に顔を見られているので「すれっからし」と言う男がいる。そんな男は本当に憎たらしい。
○ 第25段 憎きもの…局(つぼね、私室)にこっそり忍んで来る恋人を見つけて吠える犬。皆が寝静まるまで隠した男がイビキをかいていること。また、大袈裟な長い烏帽子(えぼし)で忍び込み、慌てているので何かに突き当たりゴトッと音を立てること。簾(すだれ)をくぐるときに不注意で頭が当たって音を立てるのも、無神経さが憎らしい。戸を開ける時も少し持ち上げれば音などしないのに。ヘタをすれば軽い障子でさえガタガタ鳴らす男もいて、話にならない。※局で音を立てるのは憎しみの対象になるほど最低の無作法らしい。
○ 第26段 胸がときめくもの…髪を洗い、お化粧をして、お香をよくたき込んで染み込ませた着物を着たときは、別に見てくれる人がいなくても、心の中は晴れやかな気持がして素敵だ。男を待っている夜は、雨音や風で戸が音を立てる度に、ハッと心がときめく。
○ 第27段 過ぎ去りし昔が恋しいもの…もらった時に心に沁みた手紙を、雨の日などで何もすることがない日に探し出した時。
○ 第60段 暁に帰らむ人は…明け方に女の所から帰ろうとする男は、別れ方こそ風流であるべきだ。甘い恋の話をしながら、名残惜しさを振り切るようにそっと出て行くのを女が見送る。これが美学。ところが、何かを思い出したように飛び起きてバタバタと袴をはき、腰紐をごそごそ締め、昨晩枕元に置いたはずの扇を「どこだどこだ」と手探りで叩き回り、「じゃあ帰るよ」とだけ言うような男もいる。最低。
○ 第93段 呆然とするもの…お気に入りのかんざしをこすって磨くうちに、物にぶつかって折ってしまった時の気持ち。横転した牛車を見た時。あんなに大きなものがひっくり返るなんて夢を見てるのかと思った。
○ 第95段 ホトトギスの声を求めて…お供の者たちと卯の花を牛車のあちこちに挿(さ)して大笑い。「ここが足りない」「まだ挿せる」と挿す場所がないほどなので、牛にひかせた姿は、まるで垣根がそのまま動いているようだ。誰かに見せたくなり、ホトトギスの声を聞くフリをして町をひかせると、こういう面白い時に限って誰ともすれ違わない。御所の側まで来てついに知人に見てもらった。すると相手が大笑いしながら「正気の人が乗っているとは思えませんよ!ちょっと降りて見て御覧なさい」。知人のお供も「歌でも詠みましょう」と楽しそう。満足した。
○ 第95段 父の名は重い…父の元輔が有名な歌人なので、歌会になる度に「あなたも何か詠め」と言われるのが嫌だ。これ以上詠めと言われたら、もうお仕えはできない。常に人より良いものを詠まねばならない重圧。
※彼女は歌人の家系であり、自身も百人一首に「夜をこめて鳥の空音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」(まだ夜明け前なのに鶏の鳴きマネで門を開けさそうという魂胆ですが、この逢坂の関はそう簡単には行きませんことよ)が採用されている。家集「清少納言集」(42首)もある。しかし、彼女は歌才がないことを痛感していたようで、宮仕えの際に“詠め”と言われて「父の名を辱める訳にはいかないので詠めません」と断っている。
○ 第123段 はしたなきもの…きまりの悪いもの。他人が呼ばれているのに、自分と思って出てしまった時。贈り物を持ってる時はなおさら。何となく噂話のなかで誰かの悪口を言った時に、幼い子どもがそれを聞いて、当人の前で言い始めた時。悲しい話をされて本当に気の毒に思ってこちらも泣こうとしているのに、いくら泣き顔を作っても一滴も流れないのは決まりが悪い。
○ 第135段 退屈を紛らわすもの…碁、すごろく、物語。3、4歳の子どもが可愛らしく喋ったり、大人に必死で物語を話そうとして、途中で「間違えちゃった」と言うもの。
○ 第146段 かわいらしいもの…瓜にかいた幼子の顔。雀の子に「チュッ、チュッ」と言うとこちらに跳ねてくる様子。おかっぱ頭の小さな子が、目に髪がかぶさるので、ちょっと首をかしげて物を見るしぐさは本当に可愛い。公卿の子が奇麗な衣装を着せられて歩く姿。赤ちゃんを抱っこしてあやしているうちに、抱きついて寝てしまった時。人形遊びの道具。とてもちっちゃな蓮の浮葉。小さいものは何でも皆かわいらしい。少年が子どもらしい高い声で懸命に漢書を読んでいる様子。鶏のヒナがピヨピヨとやかましく鳴いて、人の後先に立ってちょこちょこ歩き回るのも、親が一緒になって走るのも、皆かわいらしい。カルガモの卵、瑠璃の壺。
○ 第147段 人前で図に乗るもの…親が甘え癖をつけてしまった子。隣の局の子は4、5歳の悪戯盛りで、物を散らかしては壊す。親子で遊びに来て、「あれ見ていい?ね、ね、お母さん」。大人が話しに夢中だと、部屋の物を勝手に出してくる。親も親でそれを取り上げようともせず、「そんなことしちゃだめよ、こわさないでね」とニッコリ笑っているので実に憎たらしい。
○ 第209段 牛車…五月ごろ、牛車で山里に出かけるのはとても楽しい。草葉も田の水も一面が青々としている。表面は草原でも、草の下には透明な水が溜まっていて、従者が歩く度に奇麗なしぶきがあがる。道の左右の木の枝が、車の隙間から入った瞬間に折ろうとすると、スッと通り過ぎて手元から抜けてしまうのが悔しい。牛車の車輪で押し潰されたヨモギの香りが、車輪が回るにつれて近くに漂うのは、とても素敵だった。
○ 第218段 水晶のかけら散る…『月のいとあかきに、川をわたれば、牛のあゆむままに、水晶などのわれたるやうに水のちりたるこそをかしけれ』“月がこうこうと明るい夜、牛車で川を渡ると、牛の歩みと共に水晶が砕けたように水しぶきが散るのは、本当に心が奪われてしまう”。 
『枕草子』を読む度に“これが千年前に書かれたとは思えない”と感嘆する。心の動きが現代の僕らと何も変わらないからだ。描かれたのは、冗談を言い合い、四季の景色を愛で、恋話に花を咲かせる女たち。そこには敬愛していた定子を襲った悲劇(父母の死、兄の流刑、家の焼失、そして24歳の死)は一言も書かれていない。作品中の定子は、常に明るい光の中で笑っており、『枕草子』そのものが彼女への鎮魂歌となっている。清少納言が宮仕えをした人生の7年間は、筆を通して永遠になった--彼女が出会った愛する人々の命と共に。 
3
清少納言 生没年未詳
歌人清原深養父の曾孫。元輔の娘。生年は康保元年〜同三年(964-966)頃とする説が多い。天元五年(982)、橘則光との間に則長を産む。則光と正式な夫婦であったかは不明であるが、関係は長徳四年(998)頃まで続いたと考えられている。正暦初年(990-993)頃、一条天皇の中宮定子(藤原道隆の息女)のもとに宮仕えを始める。時に二十代後半、または三十歳前後か。中宮定子の恩寵を蒙り、生来の機知と豊かな教養は評判となって、やがて『枕草子』を執筆。その一部は長徳元年(995)または翌年頃に清少納言の手を離れ、漸次宮中で広く愛読されるに至ったらしい。この間、藤原実方・行成・公任などとも親交を持った。関白道隆は長徳元年(995)に死去し、代って道長が台頭。長保二年(1000)、定子は皇后に棚上げされ、中宮の地位には道長の息女彰子がついた。同年、定子は皇女出産の直後崩じ、この頃清少納言も宮仕えを退いたと思われる。以後の生涯は不明な点が多いが、『枕草子』の執筆は定子の死後にも継続されたらしい。また藤原棟世と結婚し、重通と女子(小馬命婦。後拾遺集入撰歌人。家集を持つ小馬命婦は別人)をもうけた(尊卑分脈)。『赤染衛門集』には、父元輔の荒れた旧居に住む清少納言に触れた歌があり、晩年の暮らしぶりが窺われる。没年も不明であるが、寛仁四年(1020)頃とする説や、万寿四年(1027)頃とする説などがある。中古三十六歌仙の一人。家集『清少納言集』がある(群書類従二七四(第十五輯)・桂宮本叢書九・私家集大成一・新編国歌大観三・和歌文学大系二十などに収録)。後拾遺集初出。勅撰入集十四首。
たのめたる夜、見えざりける男の、後にまうで来たりけるに、出でてあはざりければ、言ひわびて、「つらきことを知らせつる」など言はせたりければよめる
よしさらばつらさは我にならひけり頼めて来ぬは誰か教へし(詞花316)
(〔詞書〕期待して待っていた夜、とうとう現れなかった男が、その後やって来たけれども、出て行って会わなかったので、男はどう言えばよいのかと嘆いて「貴女は心が薄情であることを教えてくれました」などと人を通じて言って来たので、詠んだ。〔歌〕わかりました、それなら、人の心の薄情さは私から学んだというわけです。でも、期待させて来ないという非道い仕打ちは、誰があなたに教えたのでしょうか。)
実方の君の、みちのくにへ下るに
とこも淵ふちも瀬ならぬ涙川そでのわたりはあらじとぞ思ふ(清少納言集)
(私の寝床も淵になり、その淵も浅瀬になることなく流れ続ける涙川――もはや、陸奥の国の袖の渡も渡れないだろうと思います。)
みな月の比、萩の下葉にかきつけて人のもとへつかはしける
これを見ようへはつれなき夏草も下はかくこそ思ひみだるれ(続千載1073)
(これを見て下さい。上葉は何ともない夏草も、下葉はこんなに色が変わるほど思い乱れているのです。)
人の許につかはしける
たよりある風もや吹くと松島によせて久しき海人あまのはし舟(玉葉1251)
(都合のよい風が吹くかと松島に寄せて、永いこと風待ちをしている海人の小舟――そのように、もしやあなたから色よい便りがあるかと、久しくお待ちしているのです。)
人を恨みて更に物言はじとちかひて後につかはしける
我ながらわが心をも知らずしてまた逢ひ見じとちかひけるかな(続後撰843)
(自分のことながら、自分の心さえ知らずにいて、もう二度と逢うまいと誓ったのでしたよ。)
菩提といふ寺に、結縁の講しける時、聴聞にまうでたりけるに、人のもとより「とく帰りね」といひたりければつかはしける
もとめてもかかる蓮の露をおきて憂き世にまたはかへるものかは(千載1206)
(自ら求めてでもかかりたい蓮の露―こんな有り難い結縁―をさし置いて、辛いことの多い俗世間に舞い戻ったりするものですか)
一条院御時、皇后宮に清少納言初めて侍りけるころ、三月ばかりに二三日まかり出でて侍りけるに、かの宮よりつかはされて侍りける  皇后宮定子
いかにして過ぎにしかたを過ぐしけむ暮らしわづらふ昨日今日かな
(どうやって過ぎ去った日々をやり過ごしてきたのでしょう。日暮まで時間を過ごすのに苦労する昨日今日ですことよ。)
御返事
雲のうへも暮らしかねける春の日をところがらともながめつるかな(千載967)
(宮中でも暮らすのに難儀されるという春の永い一日一日を、私は鄙びた実家の場所柄ゆえと思ってぼんやり過ごしておりましたよ。)
一条院の御時、皇后宮五節奉られける時、辰の日、かしづき十二人、わらは、下仕へまで青摺りをなむ着せられたりけるに、兵衛といふが赤紐の解けたりけるを、「これ結ばばや」と言ふを聞きて、中将実方朝臣寄りてつくろふとて、「あしびきの山井の水はこほれるをいかなる紐の解くるなるらむ」と云ふを聞きて、返り事によみ侍りける
うは氷ごほりあはにむすべるひもなればかざす日影にゆるぶばかりを(千載961)
(〔詞書〕一条天皇の御代、皇后宮(藤原定子)が五節の舞を奉仕なさった時、(当日の)辰の日に、介添え十二人、童女たちから下仕えの者たちまで青摺りの衣を着せられたが、兵衛という者が赤紐のほどけたのを、「誰かこれを結んで下さい」と言うのを聞いて、中将実方朝臣が近寄って直す時に、「山の井の清水が氷ったように冷たかったあなたが、紐が解けるように私にうちとけるとはどうしたことでしょう」と言うのを聞いて、返事として詠みました。〔歌〕表面だけ氷った薄氷のように、ゆるく結んだ紐ですから、頭に挿頭す「日影のかずら」ではありませんが、日の光にあたって解けてしまっただけのことです。)
大納言行成ものがたりなどし侍りけるに、内の御物忌みに籠ればとて急ぎ帰りて、つとめて「鳥の声にもよほされて」と言ひをこせて侍りければ、「夜深かりける鳥の声は函谷関の事にや」と言ひにつかはしたりけるを、たちかへり「これは逢坂の関に侍り」とあればよみ侍りける
夜をこめて鳥のそらねにはかるともよにあふ坂の関はゆるさじ(後拾遺939)
(〔詞書〕大納言藤原行成が私と雑談しました時に、内裏の物忌に参内するというので急いで帰って、翌朝、「鶏の声に促されまして(慌ただしく帰ってしまいました)」と言って寄越しました。そこで私は「深夜のうちに鳴いた鶏の声は、(孟嘗君が食客の中の鶏鳴の真似の名人を使って関門を開けさせ、まんまと脱出したという)函谷関の故事でしょうか」と言い遣ったところ、折り返し「函谷関ではなく、(恋人たちの逢い引きに因む)逢坂の関です」とありましたので、詠みました。〔歌〕まだ夜が深いうちに鶏の鳴き声を真似て騙そうと思っても、函谷関ならばともかく、逢坂の関は決して通ることを許さないでしょう。) 
4
犬島
犬島は岡山市の南東にあり、市内唯一の人の住んでいる島です。古くは、1万年以上前のサヌカイトの石器が発見されており、岡山では最も早く人が住んでいたところと言われています。最も活気があった時代は、明治30年頃からの大阪港造営の時期で、5千人から6千人あまりが生活していた時代もありましたが、現在では100人に満たない人が生活している島となっています。島の名前の由来ともなっている犬の形をした大きな石、犬石様でも分かるように、花崗岩を産出する島で、犬島の石は遠くは仙台東照宮や鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居、また大阪城の石垣など各地に嫁いでいきました。
清少納言の枕草子と犬島
清少納言の「枕草子」の中にあるお話です。
平安時代、時の天皇は一条天皇と申されました。そのお妃に定子(ていし)様とおっしゃる美しい皇后様がおられました。
お二人はとても仲むつまじくそしてお二人ともとても動物好きでいらっしゃいました。天皇は可愛い猫を飼っておられ「命婦(みょうぶ)のおとど」と名付け、おもり役も「馬の命婦」を付けて大切にしておられました。命婦のおとどというのは身分の高い婦人の敬称なのです。
定子皇后は勇ましく強い「翁丸」という犬を飼っていて「右近の内侍(うこんのないし)」が大切にお世話をしておりました。
ある日、一条天皇の御猫の「命婦のおとど」が縁先で居眠りをしていたのをおもり役の「馬の命婦」がお行儀が悪いと思い何回も声をかけたのですが、いうことを聞かないのです。そこへ定子様の飼われている犬の翁丸が姿をみせたものですから、もり役はちょっと脅そうと思って、「翁丸、命婦のおとどをかめ!」と声をかけました。
正直者の翁丸は本当かと思い「命婦のおとど」に飛びかかりました。びっくりしたのは猫です。宮中を駆け回り天皇の御簾(みす)の中に逃げ込みました。
ちょうど天皇はおいでになり「命婦のおとど」をふところにお入れになり、「この翁丸を捕らえて打て。犬島へ流し使わせ。ただいますぐに。」とたいそうお怒りになりました。近習たちはよってたかって打ち、犬島へ流されました。
それからしばらくして、あまりにけたたましい犬の鳴き声がします。
定子様のところへ女官が飛んできて「翁丸がもどってきたのを見つけられ、打たれて死んでしまったということです。」と申し上げました。
ふびんなことをしたと定子様は思われました。しかし、死んだと思っていた翁丸は息を吹き返し定子様と会われます。そしておとがめも許されて再び宮中で飼われる事となりました。
このことから犬島は、当時皇室と縁があったと思われます。
菅原道真と犬島
犬島は、岡山市宝伝の沖約3キロメートルの周囲約4キロメートル、面積約0.85平方キロメートルで、瀬戸内海に浮かぶ45世帯、人口80人余りの岡山市で唯一の人の住む島です。
犬島本島と、犬ノ島、沖鼓(おきつづみ)島、地竹ノ子(じたけのこ)島、沖竹ノ子(おきたけのこ)島などを含めて犬島と呼ばれています。
全島が花崗岩からなり、気候は四季を通じて温暖で、春は桜、夏は四国屋島五剣山を一望できる海水浴場、秋は釣りのだいご味、冬は水仙が島内に咲き誇る、風光明媚なとても美しい島です。
朝日が黄金色に輝かせて小豆島の北東の端から昇り、夕陽があたりを真っ赤に染めて金甲山に沈む瞬間は、息をするのももったいないほどの美しい風情です。
「犬島」の名の由来となっている「犬石様」は、犬ノ島の小山の上にある、高さ3.6メートル、周囲15メートル余りの巨石で、その姿がうずくまった犬そっくりの形をしており、いつの頃から信仰されるようになったのか定かでありませんが、諸説言い伝えが残されています。

延喜元年(901)菅原道真公が、九州の太宰府に流される途中、海上で嵐に遭い船から海に投げ出されそうになった時、どこからか聞いたことのある犬の鳴き声がするので、鳴き声をたよりに、岸辺に漕ぎ寄せてみると、かって熊野詣での時に、人に預けた道真公の愛犬が殺され、いつのまにかこの島に流れ着き、犬石となって道真公の命を助けたと伝えられています。
犬石様のお祭りは、毎年5月3日に行われます。この犬ノ島では、岡山化学工業株式会社が操業しており、ふだんは関係者以外は出入りができませんが、このお祭りの日には渡し船が絶えず往復し、参拝者が後を断ちません。
新緑におおわれた木々の間の鳥居をくぐり、25メートルはある長い細い石段には、数十本の幟が立てられ、一歩一歩登るにつれ、海を隔てて、遠くは四国山脈や小豆島、豊島(てしま)、児島の姿が新緑の風になびく幟の間からのどかな風景を望むことができます。
犬石様は、安産の神として、勝負ごとの神として祭られています。
お祭りの日には、島を離れた人々や親類の人が帰り、犬島ずしでお祝いし、なつかしい昔話に花を咲かせます。
桃太郎伝説と犬島
岡山には誰でも一度は聞いたことがある「桃太郎」の話があります。
日本各地に桃太郎伝説の発祥地は数あると思いますが、やはり岡山が一番有名ではないでしょうか。
犬島にも海賊が住んでいた洞穴があったりしますが、ここにも桃太郎伝説が伝わっています。
当時鬼たちは鬼ヶ島から讃岐(現香川県)の鬼無(きなし)付近へ出没して人々を苦しめていました。
桃太郎はきび団子を分け与えて「犬」たちと主従の約束をしました。
犬は我が島の住人で、船乗りだったのでしょうか。航海術が上手で鬼ヶ島の動静監視を行い、「猿」は讃岐国陶村(すえむら)の住人、「雉」は鬼無町雉が谷の住人だといわれています。
桃太郎は家来の犬たちと一緒に備讃瀬戸の鬼ヶ島へと攻め上がり、見事に鬼退治を遂げるのです。
鬼を退治していなくなったので鬼無、鬼を待ち伏せしていたので鬼待など、桃太郎伝説を裏付ける地名が残されています。
犬はほうびに島をもらいそれから犬島と呼ぶようになった、とも伝えられています。 
5
『枕草子』に見る清少納言の得意顔
清少納言は30歳ぐらいの頃、一条天皇の妃である中宮定子(ちゅうぐうていし)に仕えるために宮中に出仕する。定子は彼女を非常に気に入り、2人は相思相愛とも思えるような関係を築いていくが、幸せは長くは続かなかった。清少納言の随筆『枕草子』には自慢話が多いとされるが、その理由が実はここに隠されていた。日本語学者で埼玉大学名誉教授の山口仲美(やまぐち・なかみ)氏が解説する。
当時、一条天皇の后妃として藤原道隆(ふじわらのみちたか)の娘である定子がサロンを形成していましたが、父・道隆が亡くなり、また兄弟の伊周(これちか)・隆家がライバルの道長の策謀によって流罪(るざい)となったことで、後ろ盾を失った定子は凋落(ちょうらく)の一途をたどっていました。その後、道長の娘の彰子(しょうし)が入内(じゅだい)したことで形勢の不利は明らかとなり、定子は失意のうちに24歳の若さで亡くなってしまいます。清少納言の宮仕えの期間は7年間ですが、そのうち定子が栄えたのは、彼女が出仕した最初のわずか1年半ほどでした。
定子と清少納言。この二人の親密な間柄が分かる章段が『枕草子』にはいくつも出てきます。ひとつ例を挙げましょう。「うれしきもの」(二五八段)から。定子に特別扱いされていると感じた時の清少納言の気持ちです。
よき人(ひと)の御前(おまえ)に、人々(ひとびと)あまた候(さぶら)ふをり、昔(むかし)ありける事(こと)にもあれ、今(いま)聞(きこ)しめし、世(よ)に言(い)ひける事(こと)にもあれ、語(かた)らせたまふを、われに御覧(ごらん)じ合(あ)はせて、のたまはせたる、いとうれし。
「身分の高い方の前に大勢の女房がひかえていて、昔のことや最近話題になったことをお話し下さる時に、自分に目を合わせて話をしてくださるのはとてもうれしい」という意味です。「よき人の御前(身分の高い方の前)」とあって、定子とははっきり述べていないけれど、当然、定子が含まれています。
この気持ち、分かりますね。憧れの先生が授業中に自分の目を見て話してくれた時に「あら、私に語りかけてくれている!」と思ってちょっとうれしくなる。それと同じ。清少納言の場合は、そのうれしさがものすごく大きいわけです。
さらに、同じ章段で、こうも述べています。
御前(おまえ)に人々(ひとびと)所(ところ)もなくゐたるに、今(いま)のぼりたるは、すこし遠(とお)き柱(はしら)もとなどにゐたるをとく御覧(ごらん)じつけて、「こち」と仰(おお)せらるれば、道(みち)あけて、いと近(ちこ)う召(め)し入(い)れられたるこそうれしけれ。
(中宮様の御前に女房たちがびっしりと座っている時に、新参者の私が、少し離れた柱のもとなどに座っているのを中宮様はすばやくお見つけになって「こちらへ」とおっしゃる。女房たちが通り道を開けてくれ、中宮様の近くに呼び寄せられたのは、何にもましてうれしいわ。)
このように、定子は清少納言に寵愛(ちょうあい)の情を示し、清少納言は定子の意向をいち早く察知し定子の意に応えようとする。定子と清少納言は、まさに相思相愛の間柄にあったのです。
『枕草子』は、清少納言と定子の出会いがなければ書かれなかった作品です。『枕草子』は、清少納言が宮仕えを始めてから定子が亡くなるまでの7年間の後宮生活をもとに書かれましたが、ここで強調したいのは、清少納言は定子が輝いている絶頂期の1年半にのみ焦点を合わせ、凋落が始まってからの屈辱的で悲しい出来事はほとんど書かなかったということです。あくまで、明るく輝き、意気軒昂(いきけんこう)とした定子のサロンの様子を描き切っている。ここに『枕草子』の虚構があります。この事実は、『枕草子』を読む時にぜひとも知っておいてほしいことです。
『枕草子』は自慢話が多く、清少納言の得意顔がイヤだという人もいるでしょう。でも覚えておいてください。清少納言は、本当はあったつらい思い出を“わざと”書かなかったのです。 
6
清少納言の憩
清少納言「枕草子」に記された、 名泉・ななくりの湯
清少納言は、『枕草子』の中の第百十七段で、「ななくりの湯」をとり上げ、称賛している。
この温泉は、日本三名泉のーつとして名高い榊原温泉であるとされているが、入るとお肌がツルツルになるこの美人の湯の効能を知ってか知らずか、気丈で男まさりだったと言われる清少納言が褒めているのが面白い。男まさり、という清少納言の性格は、宮中での活躍ぶりからうかがえる。例えば当時、漢詩文は一般女性の教養としては不必要で、それを学んでいるとかえって同僚たちに嫉妬された。しかし、漢詩文に精通していた清少納言は隠そうとしなかった。それどころか男性との問答の際、漢文書の名言を巧みに使って相手を唸らせたりしている。こうした態度から、かの紫式部は、清少納言のことを利口ぶっていて、でしゃばりだと批判した。しかし、その活発でユーモアに富んだ気質が、天皇や中宮に親しまれた大きな要因だったのである。
ところで平安時代の温泉は、湯治のために利用されていた。しかも女性はほとんど旅をしなかったので、ななくりの湯を楽しんだのは、もっぱら公用で出かけた男性貴族ということになる。つまり、せっかく清少納言が紹介しても、美人の湯の効能にあやかった平安女性は、皆無に等しかったと推測できるのだ。
そもそも平安の貴族たちは、5日に1度くらいしか風呂に入らなかったらしい。それも疲れを癒すというより、化粧や服装を整える前の下準備という意味合いが強かった。
結局、『枕草子 第百十七段』は、平安時代の人々よりも、温泉好きで旅好きな現代人にこそ価値のある文章だったのである。 
7
枕草子
春は曙、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。この言いぶんである。この言いなりだ。海は琵琶湖に、与謝に、河内がいいでしょう。草花は撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、桔梗、朝顔、刈萱(かるかや)、菊、壷すみれ。けれども萩はといえば、朝露に濡れていてほしい。御陵といえば、それはうぐひす、かしはぎ、雨の帝のみささぎだ。そして峰なら摂津はゆづる葉の峰、山城が阿弥陀の峰、播磨の弥高の峰である。
こう、断定されると逃げ場がない。けれども、追いこんでいるようでいて、さっと引く。ヒット・アンド・アウェイなのである。美の遊撃であって、知の遊動なのだ。「同じことなれども聞き耳異なる物語、法師の言葉。男の言葉、女の言葉。下衆の言葉にはかならず文字余りたり」。
この気になる配分に、この応答をすかさず散らせるところに『枕草子』の『枕草子』たるゆえんがある。編集がある。現代語になおしてみる。「同じ内容を聞いていましても、その言葉が違って聞こえることがあるものですが、たとえば坊さまが言うことはたいてい同じことを言っているはずなのに、坊さまごとに聞こえかたが違ってまいります。男と女も同じ言葉が違った意味に聞こえますでしょ。下衆(げす)の勘ぐりなど、そのつどほとんど言葉の意味を変えておりますね…」。右や左や後ろや前に飛ぶ。飛ぶたびにこう、言い切っていく。
言い切るだけではない。屋形(やかた)は玉造、家は近衛の御門、二条の院、その他云々と言っておいて、ところで清涼殿の東北の隅には障子があって、これは荒海障子というもので、奇妙な手長足長が描いてあるのに、それを上の御局(おつぼね)の戸があけはなしてあるからよく見える。その御局の簀子の高欄には青い大きな瓶が置いてあって、そこにみごとな桜の五尺におよぶ枝を活けているから、まさに咲きこぼれているようなのですと、急に詳しく細部に入っていく。さらにそのまま、その桜が咲きこぼれているところへ、ある日、大納言さまが桜襲(さくらがさね)の直衣(なおし)など着てというふうに、情景や人物の風情や趣向の評定を始めて、あとは延々、日ごろあれこれ感じていた中宮の話をしてしまうというような、そういうカメラがゆっくりまわっていくというようなこともする。
ようするに、言いたいことを大小、長短、内外に自在に分けて、まったくもって清少納言は勝手気儘に自分の好みを言いたいほうだいなのである。

清少納言の話題はほとんど「好み」に類する。何が好きで何が嫌いなのかをはっきりと言う。そのときすばやく比較を入れる。これはのちのちの数寄の文化の先駆ともいうべきで、「好み」の「取り合わせ」がさすがなのである。それが世事に速く、ファッショナブルで、かつそれでいて大胆に斬る。
リストのあげかた、それを答える手順、順序、序破急、守破離が巧みなのである。わかりやすい例でいえば、猫は背中全体が黒くて腹が真っ白なのがいいと書いたあと、雑色や随身はちょっと痩せて細身なのがとてもよくて、あまり太ると眠たくていけないなどと続け、小舎人童(ことねりわらわ)は髪の先がさっぱり落ち細って、やや青みがかっていると色っぽい、などと付け加えるのだ。こんなコメンテーターはめったにいない。
ピーター・グリーナウェイが気にいってポストモダンな現代人に向けた前衛映像にしたかったのも、よくわかる。もっともこれにはヒントがあった。グリーナウェイより十年ほど前に、クリス・マルケルが『枕草子』に大きな影響をうけて、映像化を試みていた。清少納言が思いつくままにリストをあげたように、マルケルも次々に当時の日本の光景、たとえば酒を立ち飲みする浮浪者、海岸の注連縄、青函連絡船で眠りこける人々、屋上の稲荷明神、夏目雅子の顔などを切り取って、次々に羅列した。実験的な『サン・ソレイユ』という作品だった。マルケルもグリーナウェイもよく『枕草子』を理解していた。
 
清少納言は好きに出題をしている。自分でお題を出して、ただちに答えてみせているのだ。ぼくの仕事でいえば、これはISIS編集学校でやっている編集稽古の方法なのである。その連打。しかも、なかには巧みに大喜利のようなユーモアもとりこんでいる。
試みに、清少納言に代わって問題を出してみると、たとえば「間の悪いもの」は何か、「名前のこわいもの」「つらそうなもの」「羨ましくみえるもの」は何かなどと連発される。「間の悪いもの」って何だといえば、ほかの人を呼んだのに自分かと思って顔を出してしまった時、というふうに答えてみせる。また、何げなくだれかのちょっとした悪口を言ったところ、それをその場にいた子供が憶えていて本人の前で口にしてしまった時、というふうにあげる。「名前のこわいもの」は青淵、雷、荒野。「つらそうなもの」は愛人が二人いて両方から嫉妬されている男とか、疑い深い男にぞっこん惚れられた女というところ、というふうに答える。「羨ましくみえるもの」は、一大決心をして稲荷参りをして坂道を気張って上っているときに、スイスイと上へ行く人が信心深く見えるときであるというふうに。
あまりによくできた応答なので、こうまでされるとつい反発もしたくなるが、読んでみればわかるように反発の隙間もなく、ただただ引っ張りまわされる。
知たり顔に自分だけが知っている知識の問答をしているのではない。ここにはピエール・ブルデューの「ハビトゥス」こそが躍っているのである。ハビトゥスとは人々が習慣的に知っているはずの趣味・趣向のことをいうのだが、清少納言はその扱いを徹底して動かした。そのうえで趣味趣向を自分のハンドリングのなかでのみ動けるようにした。
そのため、『枕草子』はリストアップとその回答の羅列でありながらも、つねにどこかで読む者の「好み」の心を打つ決定打を放つようになっている。研ぎすました決定打を放つときはそこでチョーンと拍子木が打たれるように、幕なのだ。たとえば「きれいにみえるもの」は土器(かわらけ)と水を何かの器に入れるときの光というふうに、才気煥発を期待する読者をさらりとかわしてしまう。「下品なもの」では、ずばり「新しい布屏風」と言ってのけ、しかもその屏風が新調されて満開の桜などを描いているともっとうんざりする、とさらに決定打なのである。

いっときぼくはパーソナル・メディア「半巡通信」に、「キレイダ・キライダ」を毎月あげて、ぼくがキレイダと思ったもの、キライダと感じたものや人物たちを2、3例ずつ“公表”していたことがある。
反響が多いのに驚いた。みんながおもしろがってくれる。勝手な判定なのは承知のことだ。いまは京都造形芸術大学の学長をしている芳賀徹さんなどは、キライダに「子安宣邦の宣長論、吉村作治のエジプト語り」とあったのを見て、胸のつかえがおりるほど感動したよと言っていた。
図にのって、キカイダ、キシンダ、キケンダ、キホンダというふうにふやしていったのだが、2001年になったのをきっかけに、やめた。実はキコンダ、キザンダなども用意していたのだが、少し長めの文章を多くしたくなったので、中断してしまったのだった。あれ、おもしろかったのにと今でも再開を望まれる。実はこの「キレイダ・キライダ」シリーズは、その前に書いていた「今月の収穫・今月の失望」という書物選びの延長だった。
そのとき感じたのだが、自分で出題をした価値観に自分で答えていくというのは、選び出しはふだんから感じていさえすればなんとかなるのだが、その組み合わせ、取り合わせに苦労する。フィル・コリンズ、マドンナ、エルトン・ジョンではつまらないと言ったあとに、そこからルー・リード、桑田佳祐、坂本冬美、清元(きよもと)延寿太夫というふうに攻めていくのが大変なのである。
もうひとつは文句をつけるのは楽なのだが、案外に肯定がむずかしい。よほどに選びこまないと、肯定した対象が跳び上がらない。弾みがつかない。清少納言はそこが用意周到というのか、思い切りがいいというのか、それともよくよく観察がゆきとどいているのか、ともかく“はずれ”をおこさない。
そういう清少納言の感覚と美意識が、さらに研ぎすまされるのは「あてなるもの」や「うつくしきもの」によせる気持ちを披露するときである。「あてなるもの」とは上品な感じがするものといった意味だが、さすがに目が透明になっている。何をあげたかというと、薄紫色の衵(あこめ)に白がさねの汗衫(かざみ)、カルガモの卵、水晶の数珠、藤の花、梅に雪が降りかかっている風情、小さな童子がいちごなどを食べている様子、というものだ。完璧だ。「いみじううつくしきちごの、いちごなど食ひたる」といった、チゴ・イチゴの語調の連動もある。
一方、「うつくしきもの」は今日の言葉なら「かわいい」というところだが、これも順番がみごとで、酔わされる。まずは雀の子のちょんちょんしたところやヒヨコが人の後をついてくるところ、幼な子がほんの小さな塵などを見つけて摘まもうとしている仕草がよくて、それから、人形の道具類、蓮の小さな浮葉をふっと池から掬いあげたときの小ささ、小さな葵、水鳥の卵がすばらしい。そして最後に、玻璃(は り)の壷が極め付き。これは、唸る。玻璃の壷とは、今日ならごく小さな香水瓶のようなものである。
もともと「小ささ」というスモールサイズに気をとめ、スケアシティを重視した人である。気象も現象も事象も「少なめ」にこそ目を光らせた。そこは「ほころび」や「足りなさ」に着目した兼好法師とはちがっていた。どちらにも軍配をあげたいが、まずは「小ささの発見」であるだろう。もしも清少納言がそこを注目しなかったとしたら、きっと兼好法師がそのことを綴っていたにちがいない。

清少納言については、そんなに多くのことがわかってはいない。血筋ははっきりしている。父親は歌人の清原元輔で、曾祖父が清原深養父(ふかやぶ)。「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」が百人一首にとられている。その清原家の娘だから、「清」の一字をとって清少納言と呼ばれた。ちなみにセイショー・ナゴンではなく、セイ・ショーナゴンである。なぜ少納言だったかはわかっていない。
これほどの歌人の血をひいたわりには、歌はあまり得意ではなかった。自分でもそう思っていたらしいことが『枕草子』にもふれられているが、歌より早く文章が出て、歌より短くフレーズを切るのがうまかったせいだろう。
これは漢詩漢文に堪能だったことにも関係がある。ぼくの推理でいうのなら、彼女は表意文字的だったのだ。きっと漢字の連なりでイメージを記憶し、保持していたのではないかと思われる。もっとも百人一首には、「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」が採用されていて、この一首だけはよく知られるようになった。編集工学研究所の代表である澁谷恭子は百人一首をかなり諳(そらん)じているが、聞けば少女時代に最初におぼえたのが、この清少納言の歌だったらしい。めずらしい。
結婚もして、離婚もした。16歳のころに橘則光に嫁いで、すぐ別れた。そこで正暦4年の993年に一条天皇の中宮だった定子(ていし)のもとに女房として出仕した。中宮は17歳、一条帝は14歳である。『枕』182段に詳しい。
定子の父は藤原道隆で、関白になっている。世に「中の関白家」と誉めそやされた。定子はそういう栄華絶頂の14歳のときに、11歳の一条帝に入内した。が、5年後に父は死ぬ。そこで関白の席をめぐって道隆の息子の伊周と道隆の弟の道長のあいだで対立がおこり、道長が圧勝した。定子は伊周に後見役になってもらっていたので、立場が悪くなる。宮中を出て屋敷を転々ともしたようだ。そこを狙って道長は自分の娘の彰子(しょうし)を一条天皇に入内させた。この彰子に仕えたのが紫式部である。
かくて清少納言も旗色が悪くなる。それでも才気煥発だけは緩めなかった。紫式部が口をきわめてそういう清少納言を批判したことは、よく知られている。ところが、清少納言が女房として出仕して7、8年目にあたる長保2年の、西暦でいえばちょうど1000年に、中宮はお産がこじれて24歳の若さで亡くなった。清少納言はこのあとに宮仕えを辞したようである。言わずもがなだが、『枕』はこの7、8年間の記録ともいうべきエッセイである。
エッセイとはいえ、こんなすごいエッセイは堀田善衞さんの言い草ではないが、ヨーロッパの10世紀、11世紀の説教・寓話にはまったくなかった。あえて20世紀をもちだせば、アドルノの「ミニマ・モラリア」か、ベンヤミンの「パサージュ」なのである。が、これを観照の物語とみるとその出来栄えはさらに群を抜いている。今度、さあっと読んでいて、なんだこれは編集稽古だと感じたことだった。 
8
清少納言と殿方
橘 則光 / 清少納言の最初の夫であった橘 則光は、角川文庫版『枕草子』第80段「里にまかでたるに、」の中に疎遠になってしまった話が収録されています。
藤原実方 / 藤原実方は、どうも清少納言と愛人関係にあったようです(婚姻までいったのか?)。彼は藤原行成と争った後、陸奥へ赴任していますが、この争いの原因は清少納言をめぐってのことだとの説があります。実方は在原業平のような雅でハンサムな歌人でしたが(光源氏のモデルともいわれるくらいのハンサム)、仕事に関しては要領の悪いタイプだったようです。
藤原斉信 / 藤原斉信は、資料によって「出世の下心丸出しで清少納言に近づいていて、彼女は嫌っていた」「清少納言とはプラトニックな関係だった」と正反対な捉えられ方をしています。
源経房 / 源経房は『枕草子』を持ち出したり、清少納言の隠棲先を知っていたりする人ですが、わからないことが多い人です。
『枕草子』は清少納言のすべての事実を書いてはいない
清少納言の男性を見る眼は表層的で甘い、と書かれている資料がありました(何人もの学者が口をそろえて言っています)。たとえば、行成はただ自分の地位を上げたいがために、清少納言を利用しているだけだと。清少納言に気に入られることにより、中宮を通させて天皇にアピールしているのだと。
また、日記を書くくらい自意識の高い女性は自分の男性関係の自慢もしたがるものだと。例として紫式部や和泉式部があげられています。
私は、清少納言が『枕草子』を書いた動機は、「中宮の素晴らしさをとどめておきたい」ただ一心だと考えています。清少納言は、道長に追い落とされていくつらい日々については一切書かず、ただただ中宮とそのサロンの素晴らしさを書いています。そのような『枕草子』において、行成らの下心など、どうでもよかったのではないでしょうか。
女性として清少納言自身が、利用されていると感じていたかどうかはわかりません。『枕草子』は、感性のきらめく作品ですが、ごく私的な愛憎などばっさり切り捨てられている随想です。自分の心の奥底を封印して、女房としての自分を素晴らしい中宮のサロンと同化させて、忠実に『枕草子』を書き上げたのではないかと思います。だから、経房は謎の重要人物なのです。 
 
63.左京大夫道雅 (さきょうのだいぶまちまさ)  

 

今(いま)はただ 思(おも)ひ絶(た)えなむ とばかりを
人(ひと)づてならで いふよしもがな  
今はただ(恋愛を禁じられて監視されているいる)あなた〔前斎宮当子内親王〕への思いをあきらめてしまおうということだけを、人づてではなく直接お目にかかってお話しする方法があればなあ。 / 今となってはただもうあなたのことはきっぱり思い切ってしまおう、というその一言だけを、他人に頼んでではなくて、直接あなたに言う方法があってほしいものだなあ。 / いまはもう、あなたのことをあきらめてしまおう、という気持ちを人づてではなく、あなたにお逢いして言う方法があればいいのに。 / 今はもう、あなたのことはきっぱりと思い切ってしまおうと決めましたが、そのことだけを人づてでなく、直接 あなたに伝える方法があればいいのですが。
○ 今はただ / 「今」は、後拾遺集の詞書によると、(伊勢)神宮の斎宮(未婚の皇女。恋愛は厳禁であった)を勤めて帰京された当子内親王のもとに道雅が通っていたことが発覚し、天皇が内親王に監視を付けて逢えないでいる状態。「ただ」は、下に限定の副助詞「ばかり」を伴い、「ただ…だけ」の意。
○ 思ひ絶えなむとばかりを / 「思ひ絶ゆ」は、思い切る・あきらめるの意。「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形で強意を表し、〜てしまうの意。「む」は、意志の助動詞。「思ひ絶えなむ」で、思いをあきらめてしまおうの意。「と」は、引用の格助詞。
○ 人づてならで / 「で」は、打消の接続助詞で、〜ないで・なくての意。「人づてならで」で、人づてではなく、即ち、自ら直接にの意。
○ 言ふよしもがな / 「よし」は、方法。「もがな」は、願望の終助詞で、〜があればいいなあの意。  
1
藤原道雅(ふじわらのみちまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。儀同三司・伊周の長男。小倉百人一首では左京大夫道雅。
祖父の中関白道隆に溺愛されて育つが、長徳元年(995年)に道隆は死去、さらに、翌長徳2年(996年)内大臣という高官にあった父・伊周が花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こして大宰権帥に左遷され(長徳の変)、実家の中関白家が没落する中で成長する。
長保6年(1004年)従五位下に叙せられる。右兵衛権佐・右近衛少将を経たのち、寛弘8年(1011年)春宮権亮に任ぜられて、春宮・敦成親王(後の後一条天皇)に仕える。しかし、長和2年(1013年)三条天皇の皇子・敦明親王(後一条朝の皇太子)の従者であった織部司桃文師・小野為明が敦明の母である皇后・藤原娍子が住む弘徽殿に参上したところを、敦成親王の従者に拉致させ自邸へ連行させる。自邸において道雅は自ら為明の髪を掴んで周囲の者に打ち踏ませ、瀕死の重傷を負わせた。その後、敦明親王から訴えがあり、道雅は謹慎処分に処された。
長和4年(1015年)左近衛中将。長和5年(1016年)正月に後一条天皇践祚に際して藤原資平とともに蔵人頭に任じられたが、間もなく春宮権亮の功労という名目で従三位に叙せられて、在任8日目で蔵人頭を更迭されてしまう。更に同年9月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通し、これを知った内親王の父三条院の怒りに触れて勅勘を被った。また、仲を裂かれた当子内親王は翌寛仁元年(1017年)に病により出家した。
万寿元年(1024年)12月6日に花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝に死体が野犬に食われた姿で発見された。この事件は朝廷の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)3月に右衛門尉・平時通が容疑者として法師隆範を捕縛する。検非違使が尋問するも隆範は口が堅く、7月25日になってようやく隆範は道雅の命で皇女を殺害したと自白する。この自白の連絡を受けて、権力者の藤原道長・頼通親子も驚嘆したという。しかし、7月28日にこの殺害事件を起こした盗賊の首領という者が自首を申し出る。しかし、この首領に対する拷問実施の是非について判断しかねた検非違使別当・藤原経通から意見を求められた右大臣・藤原実資は、自首犯に対して拷問を行った事例はないとして不要の旨を、さらには首領に対する罪状を検非違使で決定すべきでない旨を回答している。結局、誰がこの首領を殺人事件の主犯として認定したのか、どのような刑罰に処したのか、そもそもこの主犯の氏名は何か、が各種記録に残っておらず、どのような形でこの事件が決着したのか明らかではない。なお、この事件の影響によるものか、翌万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将兼伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に左遷されている。
万寿4年(1027年)には、帯刀長・高階順業と賭博に興じていたところ激しい口論を始め、ついには道雅の狩衣の袖先を引き破った順業の乳父・惟宗兼任と路上で取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。そのため、往来の人々がこの喧嘩を見物するために大勢集まったという。
その後、寛徳2年(1045年)左京大夫に転じるも、従三位から昇進できぬまま、天喜2年(1054年)7月10日に出家し、20日薨去。享年63。

花山法皇の皇女を殺させた、敦明親王の雑色長小野為明を凌辱し重傷を負わせた、博打場で乱行した、など乱行が絶えなかったため、世上荒三位、悪三位などと呼ばれたという。その一方で和歌には巧みであり、中古三十六歌仙の1人としても知られている。『後拾遺和歌集』5首、『詞花和歌集』2首と、勅撰和歌集に合わせて7首が入集。
『小倉百人一首』には道雅が当子内親王に贈った歌が採られている。
今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
『後拾遺和歌集』の詞書には
伊勢の斎宮わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、おほやけも聞こしめして、守り女など付けさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、詠み侍りける
とある。
左京大夫を務めていた晩年には、八条の邸宅にて「左京大夫八条山庄障子和歌合」と呼ばれる歌合を主催している。 
2
藤原道雅 正暦三〜天喜二(992-1054) 通称:道雅三位・荒三位
中関白道隆の孫。父は儀同三司伊周。母は大納言源重光女。高階貴子の孫、定子の甥にあたる。山城守藤原宣孝の娘を妻とし、上東門院中将をもうける(中古歌仙伝)。妻にはほかに平惟仲女がいたが、離婚して皇太后宮妍子に仕え、大和宣旨と号したという(大鏡)。幼名を松君といい、祖父道隆に溺愛されて育った。しかし長徳元年(995)道隆は死去し、翌年父伊周が花山院に対する不敬事件で大宰権帥に左遷されて、中関白家は没落へ向かう。この時道雅は五歳であった。長保六年(1004)、従五位下に叙せられ、寛弘二年(1005)、侍従に任ぜられる。以後、右兵衛佐・左近少将と進み、寛弘六年(1009)、従四位下に至る。同八年には春宮権亮となって敦成親王(のちの後一条天皇)に仕え、のち左権中将となる。長和五年(1016)正月、後一条天皇践祚の際には蔵人頭に補せられ、翌月従三位に叙せられた。ところが、同年九月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通し、これを知った三条院の怒りに触れて寛仁元年(1017)勅勘を被った。万寿三年(1026)、中将を罷免され、右京権大夫に遷される。寛徳二年(1045)、左京大夫。永承六年(1051)、備中権守。晩年は西八条邸に閑居し、歌会を催すなどして、藤原範永・同経衡ら和歌六人党や、藤原家経・同兼房ら風流士との雅交を楽しんだ。天喜二年七月二十日、出家の直後、薨ず。六十三歳。『小右記』によれば、法師隆範を用いて花山院女王を殺させたり、敦明親王雑色長を凌辱したり、博打の場で乱暴を働いたりと、乱行の噂が絶えなかったようである。「悪三位」とも称された。後拾遺集初出。勅撰入集は六首。中古三十六歌仙。小倉百人一首に歌をとられている。
東山に百寺拝み侍りけるに、時雨のしければよめる
もろともに山めぐりする時雨かなふるにかひなき身とはしらずや(詞花149)
(山をめぐるように時雨が降っている。俺と一緒に寺めぐりをしようというのか、時雨よ。降る峡がない――生きていても甲斐のないこの身だと知らないのか。)
伊勢の斎宮わたりよりのぼりて侍りける人に、忍びて通ひけることをおほやけも聞こしめして、まもりめなど付けさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、よみ侍りける(三首)
逢坂はあづま路とこそ聞きしかど心づくしの関にぞありける(後拾遺748)
(逢坂の関は、そこを越せば東(あづま)へ通じる道と聞いていたけれども、あなたと逢ったのち、障害が出来て、吾妻(あづま)とすることは適わない。逢坂の関と思ったのは、心魂尽きさせる、筑紫の関だったのだなあ。)
榊葉のゆふしでかけしそのかみにおしかへしても似たる頃かな(後拾遺749)
(斎宮であった貴女は、榊葉の木綿四手を掛け、伊勢の神に仕えておられて、触れることのできない存在だった。まるで、その当時に戻ってしまったような今の状態ですよ。)
今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな(後拾遺750)
(今はただ、こう思うだけです。あなたのことは諦めよう――そのことだけを、人伝でなく、なんとか直接あなたに言いたい、と。)
また同じところに結びつけさせ侍りける
みちのくの緒絶をだえの橋やこれならむふみみ踏まずみ心まどはす(後拾遺751)
(陸奥にある緒絶の橋とはこれのことだったのか。手紙をもらえたりもらえなかったり、その度に心をまどわせる――あなたとの繋がりが絶えてしまいはしないかと。ちょうど、いつ断ち切れてしまうかわからない橋を、踏んだり踏まなかったり、ビクビクしながら渡るようなものだ。)
題しらず
涙やはまたも逢ふべきつまならむ泣くよりほかのなぐさめぞなき(後拾遺742)
(なぜこんなに涙があふれてくるのだ。涙がまたあの人に逢うための糸口になるとでもいうのか。そんなわけもあるまいに、俺にはもう泣くよりほか慰めがないのだ。) 
3
当子内親王
当子内親王(まさこないしんのう)の不幸は、既に生まれた時から始まっていたと言えるのかもしれない。
父は三条天皇、母は大納言・藤原済時(ふじわらのなりとき)の娘のせい子である。せい子は三条帝の皇后であった。しかし、時の権力者はあの藤原道長であった。御堂関白(みどうかんぱく)と呼ばれ、「望月の欠けたることもなしと思へば」と自らの権勢を詠った人物である。道長と三条天皇はそりの合わない中であった。しかも、母は道長の娘ではなく、たかだか大納言の娘、皇后になるのにふさわしい家柄ではなかった。せい子が皇后になれたのはただ三条帝の気持ちだけに支えられている風なところがあった。
当子内親王が斎王に卜定されたのは12歳の時だった。既に匂いたつような美貌で、父・三条帝の愛情はこの女一の宮(おんないちのみや)に対してことさらに深かった。三条帝は自らの手で当子の前髪に『別れの小櫛』を挿した。しかし、帝は鍾愛する姫宮との別れに耐え切れず、群行の際に禁忌を破って、彼女を見返ってしまった。
当子内親王が16歳の時、健康不良と失明、そして道長の圧迫に耐え切れず、三条帝は遂に位を退いた。それと共に当子も斎王を退下した。
いつの頃からか噂が立った。中将・藤原道雅(ふじわらのみちまさ)が前斎宮・当子内親王と通じたという噂である。道雅は道長の政敵だった藤原伊周(ふじわらのこれちか)の息子である。伊周は道長の兄・道隆の息子で、今は失脚したとはいえ、常に道長のキャリアを脅かしてきた相手であり、伊周の妹・定子は道長の娘・彰子と一条帝の寵を争った仲である。当代一の権力者・藤原道長の目を恐れるならば、まさに最もふさわしくない相手であった。噂を聞いて父の三条院は激怒した。手引をした当子の乳母(めのと)は放逐され、当子の身辺の監視は厳しくなった。心頼りにする道雅とはもはや会う事も文を通わす術もなく、当子はあれこれと心悩ませ涙で袖を濡らす夜々を過ごすだけであった。
やがて三条院は崩御。当子は17歳の若さで手ずから髪を下ろし、二度と道雅に会う事のないまま、23歳の花の命を閉じたのであった。道雅の艶聞はその後絶えてない。
今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな (『小倉百人一首』)

長保三年―治安二年。三条天皇と藤原済時の娘娍子の皇女。
当子の父三条天皇は、寛弘八年の六月に即位したものの、時の権力者道長から日々圧迫され、譲位を迫られていた。そのような中、当子が十二歳になる長和一年の十二月四日、当子は斎王にト定された。当子を大変愛していた父の三条天皇は、娘との別れを嘆いたようである。三条天皇は、このト定に先立ち、当子に着裳をさせたいと、道長に着裳を命じていた。第一皇女の晴れ姿を、自分の眼が見える内に、見たいと思っていたのであろう。三条天皇は、眼病により視力が失われつつあったのである。しかし、道長はこの三条天皇の命令を無視し、当子に着裳をさせないまま、翌年の野宮入りを行なわせた。
当子は長和三年の九月二十日、伊勢へ群行した。しかし、「別れの小櫛」を父の三条天皇が自ら当子の髪にさす時に、天皇は悲しみのあまり、思わず禁忌を破り、娘の方を振り返ってしまうのである。伊勢の斎宮へ到着した当子が、斎王として務めを果たしている頃、三条天皇の眼の病は、ますます悪化し、目の前の物さえ見えない日々が続くようになる。これを察知した道長は、早速三条天皇に自分の孫の敦成親王への譲位を迫った。とうとう長和五年の一月、三条天皇は後一条天皇に譲位する。譲位が行なわれたため、当子はこの年の九月、斎宮を退下し、帰京する。
この時、当子は十六歳の乙女になっていた。
三条上皇は、やっと自分の愛娘と再会できたのである。しかし、翌年の寛仁元年の四月から、三条上皇を激怒させる噂が流れ始める。当子と藤原伊周の息子で定子の甥に当たる、道雅の恋である。
当子の乳母が手引きして、道雅が当子の許に通ってくるようになったという。二人の関係に激怒した三条上皇は、当子に警護を付けさせ、二人の逢瀬を阻止してしまった。当子に会う事ができなくなってしまった道雅は、突如引き裂かれた恋の苦しみを、こう歌っている。
「今はただ思い絶えなむとばかりを人伝ならでいふよしもがな」
この道雅の絶唱は、やがて「百人一首」に収められる事となる。
当子は、道雅と会う事ができなくなった絶望と、二人の仲を引き裂かれた事に対する抗議からか、ある日の夕暮れに、自ら髪を下ろして出家してしまった。やがて当子は、治安三年の九月十三日に、二十三歳の若さで死去した。一方、このように悲劇的な形で当子との恋を、裂かれてしまった道雅の方は、「荒三位」と呼ばれる程の、無頼の生活を送るようになったという。 
4
天皇に代わって伊勢神宮に仕えた皇女「斎王」
選ばれし斎王
斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれ、都から伊勢に派遣されました。斎王は、天皇が即位すると未婚の内親王(または女王)の中から卜定(ぼくじょう)と呼ばれる占いの儀式で選ばれました。 斎王になると、宮中に定められた初斎院(しょさいいん)に入り、翌年の秋に都の郊外の野宮(ののみや)に移り潔斎の日々を送り身を清めました。 その翌年9月に、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめのまつり)に合わせて都を旅立ちました。出発日の朝、斎王は野宮を出て葛野川(現在の桂川)で禊(みそぎ)を行い、大極殿での発遣の儀式に臨みます。古くは、伊勢神宮起源伝承で広く知られる倭姫命(やまとひめのみこと)などの斎王もいますが、その実態はよくわかっていません。 制度上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)で、制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き、その間記録には60人余りの斎王の名が残されています。
斎王群行
斎発遣の儀式を終えた斎王は葱華輦(そうかれん)という輿に乗り伊勢へと旅立ちます。群行(ぐんこう)と呼ばれるこの旅は、斎王に仕える官人・官女に加え、京極まで見送る勅使など500人を越える壮麗なものでした。一行は、近江国の勢多(せた)・甲賀(こうか)・垂水(たるみ)伊勢国の鈴鹿(すずか)・一志(いちし)に設けられた仮設の宮、頓宮(とんぐう)に宿泊し5泊6日の行程で伊勢に赴きました。斎王がその任を解かれるのは、天皇の譲位・崩御、斎王の病、肉親の不幸などの理由により、天皇一代に一人が原則でした。解任された斎王の帰京時は、天皇譲位の場合は往路と同じ鈴鹿峠・近江路を通りました。しかし不幸な理由(凶事)の場合は、伊賀・大和路を通るきまりでした。いずれの場合も難波津(大阪湾)で禊を行った後、密かに入京しました。
斎王の務め
斎王が伊勢神宮へ赴くのは、6月と12月の月次祭と9月の神嘗祭の3回に限られていました。 これを三節祭と呼び、外宮では15・16日、内宮では16・17日に行われます。 斎王はその前月の晦日に祓川や尾野湊(大淀浜)で禊を行い、15日に斎宮を出て離宮院に入ります。翌16日には外宮、17日には内宮に赴き、まつりに奉祀して、18日に再び斎宮に戻ります。
斎宮
斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所のあったところです。昭和45年(1970年)、現在博物館の建つ古里地区で発掘調査が行われ、長い間埋もれていた斎宮が再びその姿を現しました。東西約2Km、南北約700m、面積約137Hが 国の史跡に指定され、現在も計画的な発掘調査が続けられています。 斎宮では区画道路により碁盤目状に区切られた方格地割(ほうかくちわり)が造営され、建物が整然と建ち並んでいたことが判明しています。約120m四方の区画が東西7列・南北4列並んで構成される大規模なものでした。
斎王と王朝文学
神に仕える未婚の皇女という特殊な立場にあった斎王は、王朝文学に登場したり、そのモデルとされています。恬子内親王と在原業平とおぼしき男との一夜を描いた『伊勢物語』、当子内親王と藤原道雅の関係を描いた『栄華物語』、雅子内親王と藤原敦忠の恋を描いた『大和物語』など、人間としての斎王が描かれる文学も少なくありません。 斎王、ト子内親王を描いた『とはずがたり』や『増鏡』に至るまで、幅広い時代に渡って多くの作品の中に斎王の姿が見え隠れしているのです。『源氏物語』に登場する光源氏の思い人「六条御息所」は、実在の斎王で三十六歌仙の一人に数えられる「徽子女王」をモデルにしたといわれています。 
 
64.権中納言定頼 (ごんちゅうなごんさだより)  

 

朝(あさ)ぼらけ 宇治(うじ)の川霧(かはぎり) たえだえに
あらはれわたる 瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ)  
朝がほのぼのと明けるころ、宇治川の川面に立ちこめていた川霧がところどころ晴れていって、その合間から現れてきたあちこちの瀬に打ち込まれた網代木よ。 / 朝、だんだんと明るくなってくる頃、宇治川に立ち込めた川霧がとぎれとぎれに晴れていき、その霧の間から、しだいに現れてくるあちらこちらの川瀬に仕掛けた網代木よ。 / ほのぼのと夜が明ける頃、宇治川(琵琶湖から流れ淀川になる京都府の南を流れる川)にかかる川霧が、とぎれとぎれに薄れていって、その間から次第に見えてくる、魚を捕らえるために仕掛けられている網代木であるなぁ。 / ほのぼのと夜が明けるころ、宇治川に立ちこめた川霧が切れ切れに晴れてきて、瀬ごとに立っている網代木が次第にあらわれてくる景色は、何ともおもしろいものではないか。
○ 朝ぼらけ / 夜が明けて、ほのぼのと明るくなる時分。暁(あかつき)→曙(あけぼの)・東雲(しののめ)→朝ぼらけの順で明るくなる。
○ 宇治の川霧 / 「宇治」は、現在の京都府宇治市。瀬田川が、宇治川となり、木津川・桂川と合流して淀川となって、大阪湾に到る。
○ たえだえに / 「川霧」を受けて、川霧が徐々に晴れていくさまを表す主述関係であるとともに、「あらはれわたる」に続いて網代木があちこちに見えるようになってきたさまを表す連用修飾関係となっている。
○ あらはれわたる瀬々の網代木 /  「わたる」は、網代木が現れる、即ち、見える状況が時間的・空間的に広がるさまを表す。「瀬々」は、あちこちの瀬、即ち、川の水深が浅い部分。「網代」は、網の代わりに木や竹を編んで作った漁具。それを立てる杭が網代木。
※ 千載集の詞書によると、「宇治にまかりてはべりけるときよめる」とある。宇治川の上流、瀬田川が琵琶湖から発する地、瀬田の対岸は膳所(ぜぜ)であり、実際に宇治からは見えないが、川霧が晴れていく空間的な広がりを象徴する地名として意識したかもしれない。また、宇治と瀬田の中間点は石山であり、紫式部は、石山寺で源氏物語の構想を練ったとされ、その宇治十貼に登場する浮舟は宇治川で入水に失敗した後に尼になるという件がある。宇治川を見た定頼が、これらさまざまな背景をもとに、この歌を詠んだ可能性は高く、単純な叙景詩ではない趣を持った作品であると言える。 
1
藤原定頼(ふじわらのさだより)は平安時代中期の公家・歌人。権大納言・藤原公任の長男。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首では権中納言定頼。
寛弘4年(1007年)末に元服して従五位下に叙爵し、年が明けて侍従に任ぜられる。寛弘6年(1009年)右近衛少将に任ぜられると、少将を務める傍らで、寛弘7年(1010年)正五位下、寛弘9年(1012年)従四位下と昇進する。
長和3年(1014年)に右中弁と文官に転じると、長和6年(1017年)正四位下・蔵人頭に叙任される。しかし、寛仁3年(1019年)弾正弼・源顕定を嘲笑した際、摂政・藤原頼通の発言を引き合いに出したことから、頼通の勘気を蒙りこの年の後半謹慎させられている。またこの事件の背景には藤原頼通と藤原教通の兄弟の対立も原因であったとされる。同年末には謹慎が解け、同じ蔵人頭の藤原経通と参議の任官を激しく争うが、経通の後塵を拝して左中弁への昇進に留まった。この人事に対して定頼は失望し、除目後初めての結政に遅参している。翌寛仁4年(1020年)参議兼右大弁に任ぜられて公卿に列す。
治安2年(1022年)従三位、治安3年(1023年)左大弁兼帯を経て、長元2年(1029年)権中納言に任ぜられる。長元3年(1030年)清涼殿での宴において、御前作文の探韻を命じられた際、不正を行っていることが発覚した上に、さらにそれを誤魔化そうとしたため、関白・藤原頼通から「不正直」と批判されている。権中納言昇進後は、長暦2年(1038年)従二位、長久3年(1042年)正二位と昇叙はなされるが、10年以上に亘って兼官なしに据え置かれた。この状況の中、長暦3年(1039年)藤原頼通の反対を押し切って、内大臣・藤原教通が娘の生子を後朱雀天皇の後宮に入内させた際には、他の殿上人らが頼通に遠慮した結果、入内に参列する殿上人はわずか5名(内公卿は2名)であったが、定頼は権中納言・藤原経通とともに参列に参加している。
長久4年(1043年)兵部卿を兼ねるが、翌長久5年(1044年)6月9日に病のため出家。

少し軽薄な性格であったようで、小式部内侍にやり込められた逸話が残っている。相模や大弐三位などと関係を持った。音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたという。
長元5年(1032年)の『上東門院彰子菊合』、同8年(1035年)の『関白左大臣頼通歌合』などに出詠。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に45首が入集。家集に『定頼集』がある。
朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木 (『千載和歌集』、小倉百人一首)

一条天皇の大堰川行幸のお供で和歌を詠んだときのこと、父の公任も同行していて定頼の歌の出来映えを心配していた。すると定頼の番になり読み手が上の句を「水もなく見え渡るかな大堰川」と読み始めた。満々たる大堰川を前にして「水もなく」とはどういうつもりだ、何という不調法な、と公任が思っていると「峰の紅葉は雨と降れども」と朗々と下の句を詠み上げた。そのあまりの見事さに、公任もうれしさをこらえきれず、思わず会心の笑みを漏らしたという(『西行上人談抄』)。 
2
藤原定頼 長徳元〜寛徳二(995-1045) 号:四条中納言
大納言公任の長男。母は昭平親王女(後拾遺集ほかに「定頼母」として歌を載せる)。源済政女との間にもうけた経家(権中納言)と女子(藤原経季の妻)はともに勅撰集歌人。寛弘四年(1007)、元服し従五位下に叙される。同五年、侍従となり、同六年、昇殿を許される。右中弁などを経て、寛仁元年(1017)蔵人頭に補され、正四位下に叙される。寛仁四年(1020)、参議に就任し右大弁を兼ねる。治安二年(1022)、従三位。長元二年(1029)、権中納言。長久三年(1042)、正二位に至る。寛徳元年(1044)、病により出家し、翌年正月十九日、薨去した。五十一歳。長元五年(1032)の「上東門院彰子菊合」、同八年の「関白左大臣頼通歌合」などに出詠。「懈怠人」「無頼者」などの評もあるが(『小右記』)、書や誦経にも優れた風流才子で、容姿端麗だったという。大和宣旨・相模・公円法師母(小式部内侍の娘)などを恋人とし、小式部内侍・大弐三位とも贈答歌がある。『袋草紙』『古事談』『十訓抄』ほかに歌人としての逸話を多数残す。家集『定頼集』(『四条中納言集』とも)がある。後拾遺集初出。勅撰入集四十五首。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首にも歌をとられている。
梅の花にそへて、大弐三位に遣はしける
来ぬ人によそへて見つる梅の花散りなむ後のなぐさめぞなき(新古48)
(花の香に、いつまで待っても来ない人を偲びながら、我が家の梅を眺めていました。花が散ってしまったら、後はもう何も慰めがありません。)
春歌中に
梅の花をりける袖のうつり香にあやな昔の人ぞ恋しき(続後撰52)
(梅を手折った袖に、花の移り香がただよう――その薫りに、むしょうに昔の人が恋しくなるのだ。)
随風尋花といへる心をよみ侍りける
吹く風をいとひもはてじ散りのこる花のしるべと今日はなりけり(続後撰119)
(吹く風を一方的に嫌がったりはするまい。今日は、散り残った花がどこにあるか、その場所を教えてくれる道案内になったのだ。)
大井河にてよみ侍りける
水もなく見えこそわたれ大井川きしの紅葉は雨とふれども(後拾遺365)
(大井川は、見渡す限り川面を紅葉に覆われて水がないように見えるよ。岸に生えている木々から、紅葉は雨のように降っているのに。)
宇治にまかりて侍りける時、よめる
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木(千載420)
(夜が白じらと明ける頃、宇治川に立ち籠めていた霧が切れ切れに晴れてきて――その絶え間から次第に姿をあらわしてゆく、浅瀬浅瀬の網代木よ。)
題しらず
沖つ風夜半よはに吹くらし難波潟あかつきかけて波ぞ寄すなる(新古1597)
(夜更け、沖からの風が吹き始めたらしい。難波潟の岸には、夜明けまでずっと波の寄せる音が聞える。)
日ごろ雨のふるに、人のもとにつかはしける
つれづれとながめのみするこの頃は空も人こそ恋しかるらし(風雅1224)
(手持ち無沙汰にじっと空を眺めてばかりいる今日この頃――こんな時節は、空の方も人が恋しいらしいですねえ。)
長和五年四月、雨のいとのどかにふるに、大納言公任につかはしける
八重むぐらしげれる宿につれづれととふ人もなきながめをぞする(風雅1795)
(幾重にも葎(むぐら)が繁っている荒れた家で、気の紛れることもなく、訪れる人もない――そんな有様で、長雨を眺め、ぼんやり物思いに耽っています。)
橘則光みちのくににくだり侍りけるに、いひつかはしける
かりそめの別れと思へど白河のせきとどめぬは涙なりけり(後拾遺477)
(ほんの一時の別れとは思うけれども、白河の関を越えてゆくあなたを思うと、堰きとめることができないのは涙でしたよ。) 
3
権中納言定頼(ごんちうなごんさだより)
”朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木” (千載集巻六・冬)
「夜が白々と明ける朝ぼらけのなかで、宇治川に一面にたちこめていた川霧が次第に晴れはじめ、霧の絶え間絶え間に、姿を見せはじめた川瀬川瀬の網代木よ」
宇治は平安朝貴族の別荘地であり、宇治川の川霧や網代木はその地の名物でもあった。 定頼は宇治にきて泊り、早朝窓辺によって宇治川を見る。一面にたちこめた霧も次第に晴れはじめ、霧の絶え間のあちらこちらに、鮎を獲るために設けられた網代木が見られ、ああ自分はいま宇治に居るのだという思いを新たにした歌。現実に即した写実的な作、叙景歌である。
人となり
藤原定頼、長徳元年(995)の生れ、四条中納言とも呼ばれる。四条大納言公任(きんとう)の長男。 父の公任は、詩歌管絃のすべての分野にすぐれていたが、定頼も父の教えを受けて作歌活動を開始した。公任は定頼が歌人として遜色ないよう、常に気を遣っていたようであり、「西行上人談抄」には次のような話が載っている。一条院の御代に大井川行幸が行われ、歌が披講された。 公任は定頼の歌を心配して、自分の歌はどうでもよいが、定頼の歌はよい歌であってくれと祈っていた。 定頼の番がきて歌が詠みあげられた。まず上の句の ”水もなく見え渡るかな大井川” を聞いて公任は、水涸れの河原を詠んだのでは、それでは歌にならないと顔色を変えたが、下の句の”峰の紅葉は雨と降れども”を聞いて 秀歌を作ってくれたと安堵したという。峰の紅葉が雨のように降り、その紅葉が一面に川面をおおって流れる壮観さをひとひねりして詠んだ歌であるが、下の句を聞いてはじめて ”水もなく見え渡るかな”が紅葉によって水もなく見えたことがわかる歌であったからだ。
定頼は歌にすぐれた才子ではあったが、性格的にはやゝ軽佻浮薄なところもあった。 ある歌合せのおりに、和泉式部の娘 小式部内侍をからかって、「丹後の母上(和泉式部)の所へ使いを出しましたか、使いは歌を持って帰ってきましたか、どんなにかご心配でしょう」などと言った所、小式部内侍に直衣の袖をとらえられて ”大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立”の歌を詠みかけられた。 定頼はとっさに返歌も出きず、小式部内侍の手をふりほどいて逃げ出したとのことである(袋草紙より)。この逸話は、いつも父親に手伝ってもらっている定頼の秘密を語っているようで興味深い。
定頼は父公任に対しては大変親孝行であった。 公任が万寿三年(1026)の暮、出家して山に篭った時、年明け早々に定頼が見舞いに来た。新年早々の訪れに公任は大変驚いたが、然もきちんと貴族の正服を着用して新年の拝礼をする。 公任は我が子の拝礼する姿を眺めて、都においても人より勝れた容姿なのに、ましてこの山里では本当に光り輝いているようだ。見目かたち才能、すべて整った我が子を見たら、人は誰でも自分の子として持ちたくなるに違いない程の子であると、嬉しさのあまり涙を流して喜んだとのことであった。公任はお供の人達にもお神酒を賜って、やがて帰っていく定頼を一入名残惜しく見送られたという(栄花物語より)。 

(山里の父を偲んで定頼)
”ふるさとの板間の風に夢さめて谷の嵐を思ひこそすれ” (千載集・雑中)
「ふるさとの家の板の隙間から吹き入る寒風に寝覚めして、父上のいらっしゃる長谷の嵐がどんなにか烈しいかと思いやっております」
(公任の返し)
”山里の谷の嵐の寒きにはこのもとをこそ思ひやりつれ” (千載集・雑中)
「山里の谷の嵐の寒いのにつけて木の下を思うように、子供達がどうしているかと思いやっております」
(秋の夜、月に向ふ ・・ 栄花物語巻十九より)
”月の出づる峰をうつせる大井川このわたりをや桂といふらん”
満月に縁取られて峰が川面に映し出された風景から、月の桂の伝説を介して、桂という地名へと連想が紡ぎ出されていく。大井川からその下流の桂川へと川の名称が変る点に着眼して詠出された。

定頼は父公任の指導を受け諸芸に通じ、和歌は「後拾遺集」以下の勅撰集に四十六首載せられ中古三十六歌仙の一人であった。また能書家でもあり、ず経の名手でもあって、陽勝上人が聞きほれた話が「古事談」に載っている。寛徳二年(1045)正月十九日 五十一歳で亡くなった。その前日の正月十八日 後朱雀院が崩御されたのを悼み詠まれた定頼の歌
”木隠れに残れる雪のした消えて日を待つほどの心地こそすれ” (続詞花集)
「栄花物語巻三十六・根あはせ」には、この歌に就いて、「樹陰の残雪の朝日に今や消えんとするを、なだらかにも哀れによまれたる、さすがに歌人と云はるゝ此卿の絶筆、感ずべし」と標注されている。 
 
65.相模 (さがみ)  

 

恨(うら)みわび ほさぬ袖(そで)だに あるものを
恋(こひ)に朽(く)ちなむ 名(な)こそ惜(を)しけれ  
恨みに恨みぬいて、ついには恨む気力すら失って、涙に濡れた袖が乾く暇もありません。そんな涙で朽ちそうな袖さえ惜しいのに、恋の浮名で朽ちてしまうであろう私の評判がなおさら惜しいのです。 / つれない人を恨み悲しんで流す涙で、乾くときもないこの袖さえ朽ちずに残っているのに、恋の噂で朽ちてしまう私の名が惜しいことですよ。 / あの方のつれなさに、恨み嘆いて、涙に濡れた袖が乾くひまもなく朽ちてしまいそうなのに、それにもまして、恋の噂が、みっともなく広まって、わたしの名が空しく朽ち果ててしまうかもしれないのは惜しいことです。 / あなたの冷たさを恨み、流す涙でかわくひまさえもない袖でさえ口惜いのに、こ の恋のために、(つまらぬ噂で) わたしの名が落ちてしまうのは、なんとも口惜しいことです。
○ 恨みわび / 「わび」は、バ行上二段活用の動詞「わぶ」の連用形で、〜する気がなくなるの意。
○ ほさぬ袖だにあるものを / 「ほさぬ」は、“ほさ+ぬ”で干さない、即ち、(涙で)濡れたままにしているの意。「だに」は、軽いものをあげて重いものを類推させる副助詞で、〜でさえもの意。「ものを」は、逆接の接続助詞で、〜のにの意。「ほさぬ袖だにあるものを」で、涙で濡れて朽ちそうな袖さえ惜しいのにの意。ただし、“涙で濡れた袖さえ朽ちずにあるのに”と解釈する説もある。
○ 恋に朽ちなむ / 「に」は、原因・理由を表す格助詞。「な」は、完了の助動詞で強意を表す。「む」は、推量の助動詞の連体形。恋のせいで朽ちてしまうであろう。
○ 名こそ惜しけれ / 「こそ」と「惜しけれ」は、係り結び。「名」は、評判。「こそ」は、強意の係助詞。「惜しけれ」は、形容詞の已然形。
※ 後拾遺集の詞書に、「永承六年、内裏歌合に」とあり、具体的な出来事の際に詠まれた歌ではない。しかし、恋多き女性として有名であった相模らしい実感のこもった歌である。 
1
相模(さがみ、生没年不詳:998年(長徳4年)頃 - 1061年(康平4年)以降か)は、平安時代後期の歌人である。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。実父は不詳で、摂津源氏但馬守頼光の養女。母は能登守慶滋保章の娘。
初名は乙侍従(おとじじゅう)。十代の頃、橘則長の妻となるが離別、1020年(寛仁4年)以前に大江公資の妻となり、「相模」の女房名で呼ばれるようになる。夫の任地相模国に随行したものの、結婚生活が破綻し、1025年(万寿2年)頃離別した。この頃、四条大納言藤原公任の息男であり、自身も歌人として名高い中納言藤原定頼との恋愛も知られている。やがて一条天皇の第1皇女(入道一品宮)脩子内親王に出仕。1049年(永承4年)内親王薨去後は、さらに後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた。この間、数々の歌合に名をつらね、後朱雀・後冷泉朝の歌壇で活躍した。彼女は和歌六人党(藤原範永・平棟仲・藤原経衡・源頼実・源頼家・源兼長)の歌道の指導的立場にあったばかりでなく、能因法師・和泉式部・源経信などとの交流もそれぞれの家集から伺える。『後拾遺和歌集』では和泉式部についで第二位の入集歌数を誇る他、以降の勅撰集、家集等に多数作品を残している。

帰京後に恋愛関係が表面化する藤原定頼とは、任国下向以前から何らかの交流があり、好意を抱いていた。大江公資に強引に妻にされ、任国下向させられたのは、彼女にとって不本意なことだった。しかも、夫公資はやがて現地の女性と懇ろになり--といった悩みを、1024年(治安4年)正月、百首の歌に詠んで伊豆走湯権現の社頭に埋めた。すると、4月になって、権現からの返歌だと称する百首の歌が社僧からもたらされた。彼女は、それに対して更に百首の返歌を詠んだ。家集にはそれらが収められているが、権現作と称する百首を詠んだのが誰なのかは未だに不明である。その中に、夫が愛人を作ったことを訴える歌、
わかくさをこめてしめたるはるのゝに われよりほかのすみれつますな 『相模集』
権現(夫本人ではないかとも言われる)がなだめるつもりで、
なにか思なにをかなげくはるのゝに きみよりほかにすみれつませじ 『相模集』
ところが、ごまかしても無駄だと火に油、
もえまさるやけのゝのべのつぼすみれ つむひとたえずありとこそきけ 『相模集』
「焼け野の野辺の坪菫」という表現に、浮気相手の田舎女に対する敵意と蔑視が感じられる。別の歌では女を「そほづ」(案山子)にも例えている。
順徳院は、中期の女流歌人として、赤染衛門・紫式部・和泉式部と並んで相模を挙げ、「上古にはぢぬ歌人」の一人として称賛している。
百人一首 / 永承六年内裏歌合に
うらみ侘ほさぬ袖たにある物を 恋にくちなん名こそおしけれ 『後拾遺和歌集』 
2
相模 生没年未詳
生年は長徳年間(995〜999)か。父は不詳。母は能登守慶滋保章女(中古三十六歌仙伝)。『勅撰作者部類』は父を源頼光とするが、養父とみる説もある(『俊頼髄脳』『金葉集』には、但馬守だった源頼光が「相模母」と交わした連歌が載る)。『相模集』によれば、娘のあったことが知られる。はじめ乙侍従(おとじじゅう)と称した。大江公資(きみより)が相模守だった時妻となり、相模の通称で呼ばれるようになる。寛仁四年(1020)、夫とともに相模国に下向。治安三年(1023)正月、箱根権現に百首歌を奉納したが、憂悶を訴える歌が多く、また子を願う歌をさかんに詠んでおり、結婚生活には不如意が多かったようである。果して同年相模から帰京した後、公資との仲は破綻を迎えたらしく、藤原定頼(さだより)などからたびたび求愛を受けている。のち公資は遠江守として赴任する際、別の女性を伴った。やがて一条天皇の第一皇女である脩子内親王(996-1049)のもとに出仕し、歌人としての名声も高まり、長元八年(1035)の「関白左大臣頼通家歌合」、長久二年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」、永承四年(1049)・同六年の内裏歌合、永承五年(1050)の「前麗景殿女御延子歌絵合」「祐子内親王歌合」、天喜四年(1056)の「皇后宮寛子春秋歌合」など、多くの歌合に出詠。和泉式部・能因法師・源経信ら歌人との幅広い交流をもった。また藤原範永ら和歌六人党の指導者的な立場にあった。永承四年(1049)脩子内親王の薨後は入道一品宮祐子内親王(1038-1105。後朱雀天皇の第三皇女)の女房として仕える。康平四年(1061)三月の「祐子内親王家名所歌合」への出詠を最後に消息は途絶える。後拾遺集初出。勅撰入集は計百八首(金葉集は二度本で計算)。中古三十六歌仙の一人。『物思ふ女の集』と名付けられた自撰家集があったことが知られるが、現在残る家集『相模集』(『玉藻集』『思女集』などの異称がある)との関係は明らかでない。
春 / 春歌とて
花ならぬなぐさめもなき山里に桜はしばし散らずもあらなむ(玉葉229)
(花以外、何の慰めもない山里なので、桜はもう少しの間散らずにいてほしい。)
仲春
なにか思ふなにをか嘆く春の野に君よりほかに菫つませじ(相模集)
(何を思い煩うのです。何を歎くのです。春の野で、あなた以外の人に菫を摘ませたりしません。)
夏 / 正子内親王の、絵合し侍りける、かねの草子に書き付け侍りける
見わたせば波のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里(後拾遺175)
(見渡すと、いちめん白波の立つしがらみがかけ渡してあるようだよ、卯の花が咲くこの玉川の里は。)
題しらず
聞かでただ寝なましものをほととぎす中々なりや夜はの一こゑ(新古203)
(聞かずにそのまま寝てしまえばよかったのに。時鳥よ、中途半端であったよ、あの夜半の一声は。)
花橘をよめる
五月雨の空なつかしく匂ふかな花橘に風や吹くらむ(後拾遺214)
(五月雨(さみだれ)の降る空から、なつかしい香りがしてくることだよ。きっと橘の花に風が吹いているのだろう。)
宇治前太政大臣家にて卅講ののち、歌合し侍りけるに五月雨をよめる
さみだれは美豆みづの御牧みまきのまこも草かりほすひまもあらじとぞ思ふ(後拾遺206)
(五月雨の頃は、美豆の御牧では真菰草が盛んに伸びる。けれども、刈り取って干す晴れ間もないだろう。)
題しらず
下もみぢ一葉づつ散る木このしたに秋とおぼゆる蝉の声かな(詞花80)
(色づいた下葉がはらはらと一枚ずつ散る、木の下蔭にいると、もう秋なのだなと思える蝉の声よ。)
秋 / 題しらず
手もたゆくならす扇のおきどころ忘るばかりに秋風ぞ吹く(新古309)
(手がだるくなるほど使い親しんだ扇――その置き所を忘れてしまうほど、近頃は秋風が吹いているのだ。)
題しらず
暁の露は涙もとどまらでうらむる風の声ぞのこれる(新古372)
(暁の別れを悲しむ織姫の涙は少しも止まることなく流れ続け、あとには恨むような風の声が残るばかりだ。)
題しらず
我も思ふ君もしのぶる秋の夜はかたみに風の音ぞ身にしむ(新勅撰1021)
(私も思うことがある、あなたも辛い恋に耐えている――こんなふうに二人で語り明かす秋の夜は、お互い風の音が身に染みることよ。)
冬 / 永承四年内裏歌合に、千鳥をよみ侍りける
難波がた朝みつ潮にたつ千鳥浦づたひする声きこゆなり(後拾遺389)
(朝、難波潟に満ちてくる潮に飛び立つ千鳥――その浦沿いに渡って行く鳴き声が聞えるよ。)
永承四年内裏歌合に、初雪をよみ侍りける
都にも初雪ふれば小野山のまきの炭竈すみがまたきまさるらむ(後拾遺401)
(都にも初雪が降ったのだから、小野山の槙を焼く炭竈はさぞや盛んに火を燃しているだろう。)
年の暮の心をよめる
あはれにも暮れゆく年の日かずかな返らむことは夜のまと思ふに(千載471)
(暮れてゆく年のわずかに残った日数がしみじみと心にしみることよ。年が改まるのはたった一晩のうちなのだと思えば。)
哀傷 / 枇杷皇太后宮かくれて後、十月ばかり、かの家の人々の中に、たれともなくてさしおかせける
神無月しぐるる頃もいかなれや空にすぎにし秋の宮人(新古804)
(神無月で時雨が降る頃、あなた方の衣もいかほどでしょうか。御主人様を亡くされて、茫然と過ごしておられた、皇太后宮の人たちよ。)
二月十五日のことにやありけむ、かの宮の葬送の後、相模がもとにつかはしける   小侍従命婦
いにしへの薪たきぎもけふの君が世もつきはてぬるをみるぞ悲しき
(脩子内親王をご葬送申し上げる今日二月十五日は、あたかもお釈迦様が入滅された日ですね。その昔の薪も、今日の宮のご寿命も、ともに尽きてしまったのを見ることが悲しいのです。)
返し
時しもあれ春のなかばにあやまたぬ夜はの煙はうたがひもなし(後拾遺547)
(時あたかも、春の真ん中の二月十五日、お釈迦様ご入滅の日にぴったり重なった今日の夜半の葬送の煙を見れば、宮のご成仏は疑いもありません。)
恋 / 公資に相具して侍りけるに、中納言定頼しのびておとづれけるを、ひまなきさまをや見けむ、絶え間がちにおとなひ侍りければよめる
逢ふことのなきよりかねてつらければさてあらましに濡るる袖かな(後拾遺640)
(まだ逢っていないうちから、もう辛い思いがするので、あなたとの仲が深くなったあとで、どんなことになるのだろうと、先のことを考えて、私の袖は涙に濡れているのだ。)
男の「待て」と言ひおこせて侍りける返り事によみ侍りける
たのむるをたのむべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせむ(後拾遺678)
(「待っていてくれ」なんて言って、あてにさせる貴方を信頼すべきではないのだけれど、待つつもりはなくても、やはり心は待ってしまうのだろうか。)
ときどき物言ふ男「暮れゆくばかり」などいひて侍りければよめる
ながめつつ事ありがほに暮らしてもかならず夢にみえばこそあらめ(後拾遺679)
(「夕暮ほど嬉しいものはない」とおっしゃるのですか。私もぼんやりと思いに耽りながら、いかにも何かありそうな顔をして、夕暮までの時間を過ごしていますが――あなたと必ず夢で逢えるならいいのですけれど、そうとは限らないのだから空しいことです。)
しのびて物思ひ侍りけるころ、色にやしるかりけむ、うちとけたる人、などか物むつかしげにはと言ひはべりければ、心のうちにかくなむ思ひける
もろともにいつかとくべき逢ふことのかたむすびなる夜はの下紐(後拾遺695)
(二人していつか解く夜があるだろうか。逢うことの難しいあの人と共に、この片結びにした下紐を。)
題しらず
わが袖を秋の草葉にくらべばやいづれか露のおきはまさると(後拾遺795)
(私の袖を、秋の草の葉とくらべてみたいものだ。どっちがたくさん露が置いているかと。)
題しらず
焼くとのみ枕のうへにしほたれてけぶり絶えせぬとこのうらかな(後拾遺814)
(海人の塩焼は、海水を火で焼くのだけれど、私も同じだ。胸の火を燃やしに燃やし、枕の上で塩辛い涙にぐっしょり濡れている。それで、私の寝床の中はいつも煙が絶えないのだなあ。)
永承六年内裏歌合に
恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ(後拾遺815)
(恨んだり歎いたりで、乾かす暇もないほど常に濡れている袖――この袖さえ朽ちそうであるのに、ましてや恋のために我が名が朽ちるのは、それこそ口惜しくてならないよ。)
永承四年内裏歌合によめる
いつとなく心そらなる我が恋や富士の高嶺にかかる白雲(後拾遺825)
(恋をしている私の心は、いつと限らずうわの空になってしまう。これではまるで富士山にかかっている白雲。)
ほどなく絶えにける男のもとへ言ひつかはしける
ありふるも苦しかりけり長からぬ人の心を命ともがな(詞花255)
(生きて月日をしのいでゆくだけでも辛いなあ。いっそ、長続きしない人の心を、私の命にしてこの人生を切り上げてしまいたい。)
恋の歌のなかに
いかにせむ水隠みこもり沼の下にのみ忍びあまりて言はまほしきを(玉葉1270)
(どうしよう。隠れ沼のように、心をおもてにあらわさず、ずっと秘め隠してきたけれど、もう耐えきれなくなって、この思いを告白したいのを。)
恋の歌とて
もえこがれ身をきるばかりわびしきは歎きのなかの思ひなりけり(玉葉1536)
(薪は身を切られ、炎の中に投げられて燃え焦げる。私も同じで、燃え焦がれ、身を切るほどせつない。それは、「歎き」という木の中で燃える、「想ひ」という名の火のせいなのだなあ。)
題しらず
稲妻はてらさぬ宵もなかりけりいづらほのかに見えしかげろふ(新古1354)
(近頃、稲妻が光らない夜とてないことよ。それにつけても、どこに消えてしまったのだろう、一瞬姿を見せた陽炎のようなあの人。)
大江公資にわすられてよめる
夕暮は待たれしものを今はただゆくらむかたを思ひこそやれ(詞花270)
(以前は、夕暮になるとあなたの訪れが待たれたものなのに――今はただ、あなたがどこへ向かって行くのだろうと、そればかりを思いやっています。)
題しらず
うたた寝にはかなくさめし夢をだにこの世にまたは見でややみなむ(千載904)
(うたた寝で恋しい人を夢に見て、あっけなく覚めてしまった。――まるでそんな果敢ない夢のようだった、あの人との仲だった。あんな夢でさえ、生きているうちに二度と見ることはないのだろうよ。)
雑 / 嘉言よしとき、対馬になりて下り侍りけるに、人に代りてつかはしける
いとはしき我が命さへゆく人のかへらむまでと惜しくなりぬる(後拾遺475)
(今までは厭わしく思っていた自分の命――それさえ、旅立ってゆくあなたがお帰りになるまでは、と惜しくなりました。)
子をねがふ
光あらむ玉の男子をのこご見てしがな掻き撫でつつも生おほしたつべき(相模集)
(光かがやく玉のような男の子をお授けくださいな。心から愛しみながら育てられるような男の子を。)
うれへをのぶ
いづれをかまづ憂へまし心にはあたはぬことの多くもあるかな(相模集)
(どれから最初に悩めばよいのか。心には、思い通りにゆかないことが、なんて沢山あるのだろうか。)
心のうちをあらはす(二首)
しのぶれど心のうちにうごかれてなほ言の葉にあらはれぬべし(相模集)
(いくら堪え忍んでも、思いというものは、心の中で動くのはとめられなくて、やっぱり言葉にあらわれてしまうものなのだろう。)
手にとらむと思ふ心はなけれどもほの見し月の影ぞこほしき(相模集)
(手に取ろうと思う気持はないけれども、かすかに見た月の光が恋しくてならないのだ。)
ゆめ
いつくしき君が面影あらはれてさだかにつぐる夢をみせなむ(相模集)
(凜として美しいあなたの御姿が現れて、はっきりと良きことを告げる夢を見せてほしい。)
題しらず
ながめつつ昔も月は見しものをかくやは袖のひまなかるべき(千載985)
(物思いをしながら、昔も月を見たものだったよ。でも、こんなふうに暇もなく袖が濡れるなんてことがあっただろうか。) 
3
相模
離婚後、情熱的で奔放な恋の歌を数多く残した、評価の高い女流歌人
相模(さがみ)は、情熱的で妖艶な歌風で知られ、相模守・大江公資(きんすけ)と離婚した後、浮き名を流した奔放な恋を回顧して詠んだ歌などに佳作が多い。勅撰集に合計百九首が入っているほか、『後拾遺和歌集』に採られた四十首は和泉式部の六十七首に次いで二位だ。『新勅撰和歌集』には十八首で和泉式部の十四首よりも多かった。それだけ、女流歌人としての評価が高かった人物なのだ。
相模の生没年は不詳だが、宇治関白・藤原頼通と同時代の宮廷で1020年代から1050年代にかけて、優れた恋歌を数多く残した歌人だ。大江山の鬼退治で名を馳せた源頼光の娘とも養女ともいわれる。母は慶滋保章(よししげのやすあき)の娘。頼光は清和源氏だが布衣(ほい=無官)、慶滋氏は学者の家系で、いずれにしても下級貴族だ。
相模は初め、第六十九代・後朱雀天皇の皇女、祐子(ゆうし)内親王に仕えて、乙侍従(おとのじじゅう)といわれた。その後、相模守・大江公資の妻となったので、その縁で以後、相模と通称された。ただ、不幸にも夫婦生活はそれほど長くはなかった。公資が相模守に任官したのは1021年(治安元年)だが、その任地で次第に夫婦の仲が疎隔。相模守の任期を終え京に帰って後、公資が次に遠江守に任じられたときには、二人の仲は亀裂が走り、相模は同行していない。公資は別の女性を任地に伴っているから、恐らく離婚したのだ。それにしても、この大江公資、相模夫妻は、ともに歌人として知られ、仲もよかったといわれるが、儚いものだ。
二人の仲が良かったときのこんなエピソード伝わっている。公資はかねて望みの大外記書記官に任じられそうになった。そのとき、ある人が公資は妻の相模と一緒に歌をつくるのが好きで、そのために役目がおろそかになるのではないかとからかった。この一言がもとで、公資はその役がふいになったという。
「恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」
この歌は『小倉百人一首』に収められている作品で、歌意は恋人の無情を恨めしく思い、悲しんで、涙のために乾くひまもない袖、そのため袖は濡れて朽ちてしまいそうだ。そのうえ、この恋のために立つ噂に私の名まで朽ち果ててしまうのは本当にくやしいことです。
公資と別れた後、一条天皇の皇女、脩子(しゅうし)内親王家に仕えていた時代に浮き名が知られた権中納言・藤原定頼、源資通らとの奔放な恋を回顧して詠んだ歌とされる。
「五月雨(さみだれ)の空なつかしく匂ふかな 花たちばなに風や吹くらむ」
これは6月の季節感を詠んで心に深く訴える佳作だ。さみだれは旧暦5月の雨、つまり梅雨のこと。橘はそれに先立って白色五裂の小花が咲き、芳香を発する。そうした季節感を強く意識するとともに、彼女は心密かに往時、その季節にあった、心躍る恋を回顧し、懐かしんでいるのかも知れない。
相模は歌道の指導的立場にあったばかりでなく、和泉式部、能因法師、源経信らと交流があったことがそれぞれの家集からうかがえる。 
 
66.大僧正行尊 (さきのだいそうじょうぎょうそん)  

 

もろともに あはれと思(おも)へ 山桜(やまざくら)
花(はな)よりほかに 知(し)る人(ひと)もなし  
山桜よ、私がお前を見て趣深く思うように、お前も私のことを愛しいと思ってくれ。私にはお前以外に知人はいないのだから。 / 私がお前に親しみを感じるように、お前も一緒に私のことを懐かしく思っておくれ。山桜よ。お前以外に私の心を本当に知ってくれるものはいないのだから。 / 山桜よ。わたしがおまえをしみじみと懐かしく思うように、わたしのことも懐かしく思っておくれ。こんな山奥にわけいったいまのわたしには、おまえのほかに、この心のうちを知ってくれるひともいないのだからなぁ。 / 私がおまえを愛しむように、おまえも私を愛しいと 思ってくれよ、山桜。 (こんな山奥では) おまえの他には私を知る人は誰もいないのだから。
○ もろともに / 一緒にの意を表す副詞。
○ あはれと思へ / 「あはれ」は感動を表す形容動詞の語幹。この場合は、“愛しい”の意。「思へ」は、ハ行四段の動詞、「思ふ」の命令形で、ここでは、“思ってくれ”という依頼を表す。
○ 山桜 / “山桜よ”という呼びかけを表し、山桜を擬人化している。金葉集の詞書によると、行尊が大峰山(現在の奈良県吉野郡)において、思いがけず山桜を見て詠んだ歌とある。
○ 花よりほかに知る人もなし / 「花」は、山桜。「より」は、限定を表す格助詞。「知る人もなし」は、大峰山で修行中の孤独な自分にとって、誰も知っている人がいないということを表している。 
1
行尊(ぎょうそん、天喜3年(1055年)- 長承4年2月5日(1135年3月21日))は、平安時代後期の天台宗の僧・歌人。平等院大僧正とも呼ばれる。
父は参議源基平。園城寺(三井寺)の明尊の下で出家、頼豪から密教を学び、覚円から灌頂を受けた。1070年(延久2年)頃より大峰山・葛城山・熊野などで修行し、修験者として知られた。
1116年(永久4年)、2代熊野三山検校に補任。熊野と大峰を結ぶ峰入りの作法としての順峰(熊野本宮から大峰・吉野へ抜ける行程)選定をおこなったという。1107年(嘉承2年)5月法眼に叙せられる。また、同年12月鳥羽天皇即位に伴いその護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現し、公家の崇敬も篤かった。のちに、園城寺の長吏に任じられ、1123年(保安4年)には天台座主となったが、延暦寺と園城寺との対立により6日で辞任している。1125年(天治2年)大僧正。その後、諸寺の別当を歴任する一方、衰退した園城寺を復興した。
なお、鎌倉時代に編纂されたと推定される『寺門高僧記』に収められた行尊の「観音霊所三十三所巡礼記」は西国三十三所巡礼の確かな初見史料として高く評価されている。
歌人としても有名で、作品が小倉百人一首にも収録されている。また、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に48首入首。歌集に『行尊大僧正集』がある。
もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし (『金葉和歌集』、小倉百人一首)
また、能筆であったという話も伝わっている。 
2
行尊 天喜三〜長承四(1055-1135)
三条院の曾孫。敦明親王(小一条院)の孫。参議従二位侍従源基平の子。母は権中納言良頼の娘。兄に季宗・権大僧都頼基・同覚意、弟に権大僧都厳覚・大蔵卿行宗ほか、姉に後三条天皇女御基子(実仁親王・輔仁親王の母)がいる。康平七年(1064)、十歳で父を亡くす。麗景殿女御延子(後朱雀天皇女御)の猶子となり、厚い庇護を受けたという(『古今著聞集』)。二年後、出家して園城寺に入る。頼豪阿闍梨に師事し、密教を学ぶ。やがて園城寺を出、大峰・葛城・熊野など各地の霊場で修行に打ち込む。承暦三年(1079)、頼豪より三部大法灌頂を受ける。永保元年(1081)、園城寺はかねて対立していた延暦寺の襲撃を受け、堂塔僧坊の殆どを焼失。応徳二年(1085)十一月、甥にあたる皇太子実仁親王が疱瘡に罹り薨去(十五歳)。帰洛して喪に服し、多くの哀傷歌を詠んだ。その後再び山林修行に入るが、一時なんらかの冤罪事件に巻き込まれることがあったらしい(行尊大僧正集)。まもなく修行を終えて山を下る。この頃すでに歌人としての名が立ち、寛治三年(1089)八月の太皇太后宮寛子扇歌合、寛治五年(1091)八月の右近衛中将宗通朝臣歌合に出詠している。 嘉承二年(1107)五月、東宮祈祷の効験により法眼和尚位権少僧都に任ぜられる。同年十二月、鳥羽天皇(五歳)が即位すると直ちに護持僧の宣下を受けた。以後天皇のみならず白河院や待賢門院の病気平癒、また物怪調伏などに数々の功績あり、験力無双の高僧として朝廷の尊崇を受けた。天永二年(1111)八月、護持賞により権大僧都に進む。この時五十七歳。永久四年(1116)正月、増誉大僧正が入寂し、後継者として園城寺長吏に指名される。同年五月、権僧正に任ぜられる。保安二年(1121)には園城寺が再度の焼き打ちにあう。同年、僧正に昇る。同四年、天台座主となったが、拝命直後辞任。天治二年(1125)五月、大僧正覚助入寂の跡を嗣ぎ大僧正となる。大治二年(1127)、白河院・鳥羽院の熊野臨幸に供奉。同三年八月、広田社西宮歌合・同南宮歌合に参加(後者では判者も務める)。同年九月、住吉社歌合に出詠。長承三年(1134)八月には再建なった園城寺金堂の落慶供養が営まれ、年来の宿願を果した。同四年二月五日、病により入滅。「僧正阿弥陀仏に向ひ、一手に五色の五孤を持ち、念仏を唱へ、開眼しつつ、居ながらに死すと云々」(『長秋記』)。八十一歳。歌壇的な活動は必ずしも多くなかったが、藤原仲実・加賀左衛門ほか歌人との交流が知られる。主に修行時代の歌を集めた家集『行尊大僧正集』がある(以下「大僧正集」と略す)。金葉集初出。勅撰入集四十九首(金葉集は二度本で計算)。小倉百人一首に「もろともに…」の歌を採られている。歌は時代順に排列した。と言っても、制作年を確定できる歌は稀で、ほとんどは推測に基づいている。作歌年の推定に関しては、近藤潤一著『行尊大僧正―和歌と生涯―』に負うところが大きい。
若年修行時代 応徳二年(1085)まで
修行に出で立ち侍る時、「いつほどにか帰りまうで来べき」と人の言ひ侍りければ、よめる
かへりこむほどをばいつと言ひおかじ定めなき身は人だのめなり(千載482)
(修行から帰るのはいつ頃になるか、それは言わずに置きましょう。どうなるとも分からないこの身でそんなことを言っても、人にむなしい期待を抱かせるだけです。)
寒さに人わろく思ひて籠り居て侍りしに、梢さびしくなりて侍りければ
山おろしの身にしむ風のけはしさにたのむ木の葉もちりはてにけり(大僧正集)
(身にしむほど冷たい山下ろしの風はあまりに険しくて、冬までは寒さを防いでくれるかと頼みにしていた木の葉も散り切ってしまったなあ。)
年久しく修行しありきて熊野にて験競べしけるを、祐家卿まゐりあひて見けるに、ことのほかに痩せおとろへて姿もあやしげに窶れたりければ、見忘れて、かたはらなる僧に「いかなる人ぞ、ことのほかに験ありげなる人かな」など申しけるを聞きて遣はしける
心こそ世をば捨てしかまぼろしの姿も人に忘られにけり(金葉587)
(心はこの世を捨ててしまいましたが、幻のような姿だけは、まだこの世に残っていたのですよ。それも人から忘れられてしまったのですねえ。)
熊野へ参りて大峯へ入らむとて、年頃やしなひたてて侍りける乳母(めのと)の許に遣はしける
あはれとてはぐくみたてし古へは世をそむけとも思はざりけん(新古1813)
(私を可愛がって育ててくれたその当時は、出家遁世するようにとは思いもしなかったでしょうに。)
修行し侍りける比、月の明(あか)く侍りけるに、もろともにあそび侍りける人を思ひ出でて
月影ぞむかしの友にまさりけるしらぬ道にも尋ねきにけり(玉葉1152)
(月の光は、昔からの親友にもまさって情に篤いなあ。どこへ行くとも告げていないのに、知らない山道を尋ねて私のもとにやって来てくれた。)
月あかく侍りける夜、袖のぬれたりけるを
春くれば袖の氷もとけにけりもりくる月のやどるばかりに(新古1440)
(冬の間、孤独な修行の辛さに涙で濡らした袖は氷が張っていた。それも春になったので、やっと解けたなあ。庵の屋根の隙間を漏れてくる月を映すほどに。)
修行し侍るとてたかせ舟にのりてよみ侍りける
いづくともさしてもゆかず高瀬舟うき世の中を出でしばかりぞ(玉葉1212)
(どことあてがあって行くわけでもないのだ。高瀬舟が川に浮く――ではないが、憂き世を厭って遁れてきたばかりなのだよ。)
明暮(あけぐれ)は木のもとにのみ過ぐし侍りしかば、身をかへたる心地して
木のもとぞつひの住みかと聞きしかど生きてはよもと思ひしものを(大僧正集)
(釈迦は沙羅双樹の下で涅槃に入られ木の下こそ最後の住み処だと聞いていたが、まさか生きているうちからこうなろうとは思っていなかったなあ。)
大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる
もろともにあはれと思へ山ざくら花よりほかにしる人もなし(金葉521)
(山桜よ、私がおまえを愛しく思うように、おまえも私を愛しく思ってくれ。知合いもいないこんな深山では、おまえのような花よりほかに友とすべき相手もないのだ。おまえだってそうだろう。)
大峰の生(しやう)の岩屋にてよめる
草の庵なに露けしと思ひけむ漏らぬ岩屋も袖はぬれけり(金葉533)
(何をまた、草の庵だけが露っぽいものだと思っていたのだろう。雨漏りのしない岩屋でも、修行の辛さに流す涙で袖は濡れるのだった。)
皇太子実仁親王哀傷 応徳二年・三年(1084-1085)
御前の御忌のうちに正月二十日、人の許より
鶯の声より先にまづなきて霞ばかりを飽かずとぞ見る
(春になると鳴き始める鶯よりも早く、真っ先に泣いて、ただ山に立ちこめる春霞を亡き春宮(とうぐう)として偲びつつ、いつまでも眺めています。)
返し
朝まだき霞み果てぬと見てしより我も山路に立ちぞしぬべき(大僧正集)
(朝早く、山々にすっかり霞が籠めるようになりました。春宮の薨去から、それだけ時が経ったのです。それからすると、そろそろ私もまた山へと修行に出立するべき時が来たのです。)
春雨いつよりも静かなる頃、遠江御乳母の許へ
まとゐしてもの思はざりしいにしへも静かなりしか夜半の春雨(大僧正集)
(みんなで輪になって座り、悩みごともなく楽しくお喋りした昔――あの頃も、夜半に降る春雨はこんなに静かだったのでしょうか。)
三月晦に兵部大輔実宗が許より
山桜木高き花も散りにしになど隠れゆく春はおほきぞ
(梢高く咲いていた山桜の花も散ってしまいました。それで花に隠れていた春の空は見えやすくなったはずなのに、どうして春はまたもや去ってゆこうとするのでしょう。春宮もお隠れになったばかりだというのに…。)
返し
伏しまろび春てふ名さへ惜しきかなまたも見るべき花の影かは(大僧正集)
(春という名を聞くことさえ惜しくてなりません、春宮のことを思い出しては、輾転反側しているのです。花のように美しいあの御面影を、再び拝見することなどできないのですから。)
再び修行時代 応徳三年(1086)より天永二年(1111)頃まで
霜月の御忌過ぎしままに、修行に罷り出でしに、三島江にて
三島江の水鳥さわぐ夕暮に袖うちぬらし今ぞ過ぎゆく(大僧正集)
(三島江でねぐらを求めて水鳥たちが騒ぐ夕暮、私は袖を涙で濡らし、今通り過ぎてゆく。)
山家にて有明の月を見てよめる
木の間もるかたわれ月のほのかにも誰たれか我が身をおもひいづべき(金葉536)
(木の間を漏れてくる半月の光のように、たとえほのかにでも、都にいる誰が私のことを思い出してくれるだろうか。)
歎くこと侍りける頃、大峯に籠るとて、「同行どもも、かたへは京へ帰りね」など申して、よみ侍りける
思ひ出でてもしも尋ぬる人もあらばありとな言ひそさだめなき世に(新古1833)
(京に帰った時、もしも私を思い出して「あいつはどうした」と尋ねる人があったら、生きているとは言わないでくれ。いつ死ぬかも分からないこの世なのだから。)
大峰の神仙といへる所に久しう侍りければ、同行ども皆かぎりありてまかりにければ、心細さによめる
見し人はひとりわが身にそはねどもおくれぬものは涙なりけり(金葉576)
(一緒にいた人たちは皆去り、一人として私に連れ添う人はいなくなったけれども、そんな時も遅れずについてくるものは、涙だったよ。)
懸樋の水の、暁になれは音のまさるを聞きてよめる
寝ぬほどに夜や明けがたになりぬらんかけひの水の音まさるなり(新後拾遺)
(床に臥さないうちに、夜はもう明け方になったのだろうか。筧の水の音が高く聞えるようになった。)
水車(みづぐるま)をみてよめる
はやき瀬にたたぬばかりぞ水車われもうき世にめぐるとをしれ(金葉561)
(流れの速い瀬に立っていないというだけのことで、水車よ、私もおまえとおんなじなのだ。この憂き世の中を、せわしなく廻り続けているのだ。それを知ってくれよ。)
修行し侍りける頃、春の暮によみける
木このもとのすみかも今はあれぬべし春しくれなば誰かとひこむ(新古168)
(木の下に建てて住んでいた庵も、今頃は荒れてしまったに違いない。こうして春が暮れてしまい、花も散ってしまったなら、誰が訪ねてなど来るだろう。)

人のすむ里の気色になりにけり山路の末のしづの焼け畑(夫木抄)
(ようやく人の住む里の気配になってきたなあ。山道を下って来た末に、山人の焼け畑が見えた。)
夏歌に
みな月のてる日といへど我が宿のならの葉風はすずしかりけり(玉葉425)
(真夏の太陽が照りつける日とはいっても、我が家の楢の葉をそよがせて吹く風は涼しいのだった。)
三井寺焼けて後、住み侍りける坊を思ひやりてよめる
すみなれし我が古郷はこの頃や浅茅がはらに鶉なくらむ(新古1680)
(長年私が住み慣れた懐かしい場所は、この頃はもう、浅茅の生い茂る野原になって、鶉が鳴いているだろう。)
晩年 天永三年(1112)以後
題しらず
数ならぬ身をなにゆゑに恨みけんとてもかくてもすぐしける世を(新古1834)
(物の数にも入らない我が身を、何故恨んだりしたのだろう。今になって振り返れば、こんな私でもどのようにしてでも、ともあれ生きおおせることはできる世であったのに。)
題しらず
くりかへし我が身のとがをもとむれば君もなき世にめぐるなりけり(新古1742)
(何度も繰り返し自分の罪業を探し求めると、それは君の亡くなった世にいつまでも生き永らえていることであった。)
病おもくなり侍りにければ、三井寺にまかりて、京の房に植ゑおきて侍りける八重やへ紅梅こうばいを「いまは花咲きぬらん、見ばや」といひ侍りければ、折りにつかはして見せければよめる
この世には又もあふまじ梅の花ちりぢりならんことぞかなしき(詞花363)
その後ほどなくみまかりにけるとぞ
(この世で再び梅の花を見ることはないだろう。そのように、おまえたちにも二度と出逢うことはないのだ。そしていずれ花が散ってしまうように、おまえたちも散り散りに別れてしまうのだろう。それが定めだとしても、やはり悲しいよ。) 
3
「桜と恋」
なぜ人間は詩に惹かれ、詩を書き続けてきたのでしょうか。わたしは、現代の自由詩を書いてきたのですが、ここ数年、百人一首と現代詩とのあいだを、いったりきたりするようなことをやってきました。今日はその百人一首のなかから、一首、選んで、一千年ほど前の詩人と、交流してみたいと思うのです。
和歌は文語で書かれていますから、それだけでちょっととっつきにくい。古語辞典をひけば、単語の意味はなんとかわかりますが、ひとつの流れとして歌を見ると、何が言いたいのか、よくわからないことも多いんですね。でもすばらしい研究書がたくさん出ていますから、知ろうとしさえすればかなりのことがわかります。で、ある程度、歌の全体像を掴んだら、いったん、その歌を手放し、歌のまわりをうろうろしながら、いろいろと想像を重ねてみると楽しいです。
とりわけわたしが興味を覚えているのは、実は言葉が出てくる、前のところなんです。作者が、何を、どのように見たか。そのまなざしを想像し、歌を内側から味わってみたいと思います。
百人一首の並びでは、六十六番、前大僧正行尊の歌をごぞんじでしょうか。
もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
もろともにというのは、いっしょにということで、もろともに思うというのは、想い合うということですね。わたしが山桜をあわれに思うように、山桜よ、おまえもわたしにあわれをかけてくれ。つまり、ここでもう、桜を一方的に風景として見ているわけではないことがわかります。桜との交流を願っている。これはちょっと異様なこと、この歌に特徴的なことではないでしょうか。
下の句ですが、「花よりほかにしる人もなし」、花よりほかに私の心を知る人はいない、と同時に、わたしのほうも花よりほかに知っている人がいないというふうに、主語を二重にとり、ここでもまた、交流的に読んでみるのはどうでしょう。 
それから、上の句では、はっきり山桜に呼びかけているのがわかりましたが、下の句では、自分自身につぶやいているようでもあります。言葉の向く角度が少し変化したように思われませんか。歌は一つの流れですが、細かくみると、こうして切れている場合があるんですね。そこを意識して読むと、歌が立体的になって味わいが深まるような気がします。 
あわれという言葉を古語辞典でひきますと、たくさんの意味が出てきます。いとおしい、すきだ、かなしい、さびしい、かわいそう、ふびん、かわいい……。しみじみと心を動かされるさまがぜんぶつまった言葉です。
この歌が収録されていた金葉集の詞書には、「大峯にて思いがけずに桜の花を見て詠んだ」とあります。大峯というのは、奈良県にある大峯山をさしますが、広い意味では、奈良の吉野と和歌山の熊野とを結んで連なる山脈をいうようです。修験者、山伏とも言いますが、修験者の修行する神聖な場所として知られたところです。現在、このあたりを含む一帯は、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
修験者たちは、山の奥で厳しい修業を積むことで、病いを癒やしたり、加持祈祷を行ったりという神秘的な能力を身につけたようです。行尊はその修行中に、思いがけず桜を見た。山のなかに幽玄な薄桃色が広がっていたら、もうそれだけであっと息をのみますね。どんな修行をしていたのかはよくわかりませんが、滝に打たれたり崖を登ったりという肉体修行に加え、断食や穀物類を断つといった食事制限もあったようです。精神的にも孤独を強いられ、追い詰められた心が、幻の桜を見たのではないかとも考えられる状況です。
なお、行尊の歌ばかりを集めた「行尊大僧正集」という歌集があり、そちらにはまた違う詞書がついているようです。ざっくりまとめますと、山の中に蕾のまざった桜があり、それがはげしい風に吹き散らされていた。枝が吹き折れても、なお咲いている、そんな姿を見て詠んだ、とあります。 
この歌集で、もろともに…の歌の前に、置かれているのが――
折りふせて後さへ匂ふ山桜 あはれ知れらん人にみせばや
風に枝を折られてもなお香っている山桜、それを、あはれを知っているひとに見せたいなあという歌です。折られた枝に蕾がついていたと考えると、詩情の輪郭が一層強まります。これから咲くはずのつぼみ、折れてしまった枝、生と死とが枝一本にせめぎあう、なかなか壮絶な一瞬がとらえられています。余韻というやさしい言い方では追いつかない荒々しい抒情が行尊の歌にはあります。こうした歌をあわせて読むと、「もろともに……」の一首が、自然を歌っただけの歌とは到底、思えなくなります。
作者について簡単にお話しますと、三条天皇の曾孫にあたり、もとをたどれば高貴な身分の人でした。三条天皇もその子の敦明親王も、当時、権勢をほこっていた藤原道長に圧迫され、道長の思惑に沿うように中心勢力からははずれてしまった。行尊の父に至っては皇族の身分を離れ、源氏の姓を与えられています。そのおとうさん、行尊が十歳のときになくなり、行尊は十二歳で出家しました。厳しい修行を経て、僧としては最高位の大僧正にまでなったのです。
山桜と出会ったよろこびの後ろには、想像を絶する孤独がありました。宗教的な境地が、行尊の歌に透明感と深みとをもたらしていると感じます。自然の風物に対して、友のように呼びかけた歌は、百人一首に、他にもありますが、行尊の歌は呼びかけだけで終わっていません。桜を見、桜からも見られている。まなざしが交流的です。桜との出会いによって、彼の心のなかに、思いがけず浄福の一瞬がぱっと開かれた、光のようなものが差し込んだ。そんな気がするのです。風吹く山のなかで出逢ったのは、桜という名前の「仏」であったかもしれないし、「幻の女人」であったかもしれない。とにかく彼は荒々しい自然の奥へと踏み込み、そこで精神がふるえるような出会いを経験しました。
この山桜、野性的で生命力があって、古い女房のようでもありますが、実際のところ、彼に妻帯は許されていなかったのではないでしょうか。相手が桜であるからこそ、あはれは深いとわたしには思えます。
さあ、風吹く山の奥、桜の木の前に立つ一人の修行僧を想像してみてください。もろともに……という静かでたっぷりとした歌い出しに深い悲哀を覚えます。百人一首にはたくさんの恋歌が収録されていますが、今のわたしには、行尊のこの歌が、どんな恋歌よりも、生々しく色っぽく思われます。 
 
67.周防内侍 (すおうのないし)  

 

春(はる)の夜(よ)の 夢(ゆめ)ばかりなる 手枕(たまくら)に
かひなく立(た)たむ 名(な)こそをしけれ  
春の短い夜の夢ほどの添い寝のために、何のかいもない浮名が立ったとしたら、本当に口惜しいことです。 / 春の夜の夢のようにはかないあなたの腕枕のために、つまらなく立ってしまう浮き名を残念に思うことです。 / 春の夜の夢のように、儚くて短いたわむれに差し出された手枕(腕枕のこと)のために、つまらない噂がたってしまうでしょうね。そんなことで、恥ずかしくわたしの名が広まることが、惜しく思われますよ。 / 春の夜のはかない夢のように、(僅かばかりの時間でも) あなたの腕を枕にしたりして、それでつまらない噂が立つことにでもなれば、それがまことに残念なのです。
○ 春の夜の夢ばかりなる / 「春の夜」は、秋の夜(長)の対義語で、短い夜を表す。「春の夜の夢」は、短い夜に見る、すぐに覚める浅い夢の意。「ばかり」は、程度を表す副助詞。
○ 手枕に / 「手枕」は、腕枕。千載集の詞書によると、二条院に人々が集まって物語などをして夜を明かしたときに、周防内侍が、「枕がほしい」と静かに行ったところ、御簾の下から藤原忠家が腕を差し出してきた。その誘いをかわすために、この歌を詠んだという。
○ かひなく立たむ名こそ惜しけれ / 「こそ」と「惜しけれ」は、係り結びの関係。「かひなく」は、腕(かいな)と甲斐・詮・効(かい)の掛詞。「む」は、仮定を表す助動詞。「名」は、浮名。「こそ」は、強意の係助詞。ほんの短い時間、腕枕で寝ただけで、意味のない浮名が立ったら口惜しいということ。 
1
周防内侍(すおうのないし、1037年(長暦元年)頃 - 1109年(天仁2年)以後 1111年(天永2年)以前)は、平安時代後期の歌人である。女房三十六歌仙の一人。本名は平仲子(たいらのちゅうし)。掌侍 正五位下に至る。父は「和歌六人党」の一人、桓武平氏の周防守 従五位上 平棟仲。母は加賀守 従五位下 源正軄の女で、後冷泉院の女房となり小馬内侍と呼ばれた者だという。
はじめ後冷泉天皇に出仕、治暦4年(1068年)春の崩御後は家でふさぎこんでいたが、後三条天皇即位により7月7日から再出仕せよとの命を受け、以後白河天皇、堀河天皇に至る4朝に仕えた。歌合等にも度々参加し、公家・殿上人との贈答歌も残されている。『後拾遺和歌集』以降の勅撰集、家集『周防内侍集』等に作品を残す。天仁元年(1108年)以後、病のため出家、天永2年(1111年)までの間に没したようである。

住んでいた家を人手に渡して退去する際、柱に書き付けたという歌が『金葉和歌集』に採られている。
家を人にはなちてたつとて 柱にかきつけ侍りける  周防内侍
住わひて我さへ軒の忍ふ草 しのふかたかたしけきやとかな 『金葉和歌集』
寂超、鴨長明、藤原信実らの残した文献によると、この家は少なくとも建久年間(1190年代)まで荒廃したまま残っていた。その場所は冷泉堀川北西角で、柱には確かに「我さへ軒のしのふ草」の歌が書き付けてあったという。一種の旧跡・名所のようになっていたようで、実際に西行もこの周防内侍旧宅の言わば見学ツアーに参加している。
周防内侍 われさへのきの とかきつけけるふるさとにて 人人思ひをのへける  西行
いにしへはついゐしやともあるものを なにをかけふのしるしにはせん 『山家集』
郁芳門院が主催した根合において周防内侍が詠んだ歌、
郁芳門院根合に恋のこゝろをよめる  周防内侍
恋わひてなかむる空のうき雲や 我したもえの煙なるらん 『金葉和歌集』
は、良い歌だと評判になったが、一部には煙が死を暗示する不吉な歌だと非難する者もあった。作者である周防内侍に凶事が起こるのかと思われたが、女院のほうが若くして世を去ってしまった。『俊頼髄脳』や『袋草子』のような歌論書がこの逸話を取り上げていることから、この歌と女院の早世に因果関係があるかのように人々の噂として語られていたと考えられる。近世になって百人一首の普及と共に、周防内侍とその歌に関する逸話は大衆化し、彼女の機知や思慮深さを称賛する記述が多く見られるようになり、さらには彼女と藤原忠家をめぐる恋愛譚に発展し、元禄年間に江戸で流行した土佐浄瑠璃の作品『周防内侍美人桜』の成立に至った。
二月はかり 月のあかき夜 二条院にて人々あまたゐあかして物語なとし侍けるに 内侍周防よりふして 枕をかなとしのひやかにいふを聞て 大納言忠家 是を枕にとて かひなをみすの下よりさし入て侍けれは読侍ける  周防内侍
春のよの夢はかりなる手枕に かひなくたゝむ名こそをしけれ 『千載和歌集』『百人一首』
二条院で貴族たちが語らっていた夜、ふと疲れた周防内侍が「枕がほしい」と言ったところ、藤原忠家が「これを枕に」と御簾の下から腕を差し出してきたため詠んだ歌。 
2
周防内侍 生没年未詳(1037頃-1109以後) 本名:平仲子
父は和歌六人党の一人、従五位上周防守平棟仲。母は加賀守従五位下源正軄の娘で後冷泉院女房、小馬内侍と称された人だという(後拾遺集勘物)。金葉集に歌を残す比叡山僧忠快は兄。後冷泉天皇代に出仕を始め、治暦四年(1068)四月、天皇の崩御により退官したが、後三条天皇即位後、再出仕を請われた(後拾遺集雑一の詞書)。その後も白河・堀河朝にわたって宮仕えを続け、掌侍正五位下に至る。天仁二年(1109)頃、病のため出家し、ほどなく没したらしい。七十余歳か。寛治七年(1093)の郁芳門院根合、嘉保元年(1094)の前関白師実家歌合、康和二年(1100)の備中守仲実女子根合、同四年の堀河院艶書合などに出詠。後拾遺集初出。勅撰入集三十六首。家集『周防内侍集』がある。女房三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。
寛治八年さきのおほきおほいまうち君の高陽院の家の歌合に、桜をよめる
山桜惜しむ心のいくたびか散る木このもとに行きかへるらむ(千載81)
(散り始めていた花をあとにして、家路についた。山桜を惜しむ私の心は、いったい幾度、花を散らす木の下を行きつ戻りつするのだろうか。)
寛治八年前太政大臣高陽院歌合に、郭公を
夜をかさね待ちかね山のほととぎす雲ゐのよそに一声ぞ聞く(新古205)
(何夜もつづけて待ち兼ねた、待兼山のほととぎすの声を、はるか雲の彼方にたった一声だけ聞いた。)
後三条院くらゐにつかせ給ひてのころ、五月雨ひまなく曇りくらして、六月一日またかきくらし雨のふり侍りければ、先帝の御事など思ひ出づることや侍りけん、よめる
さみだれにあらぬ今日さへはれせねば空も悲しきことや知るらむ(後拾遺562)
(もう六月になって五月雨の季節ではない今日でさえ、晴れないなんて。空も先帝の崩御という悲しいことを知っているのだろうか。)
二月ばかり、月のあかき夜、二条院にて人々あまた居明かして物語などし侍りけるに、内侍周防、寄り臥して「枕もがな」としのびやかに言ふを聞きて、大納言忠家、「是を枕に」とて、かひなを御簾の下よりさし入れて侍りければ、よみ侍りける
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ(千載964)
(春の夜の夢みたいな、一時ばかりの手枕のせいで、甲斐もなく立ってしまう浮き名、それが惜しいのですよ。)
郁芳門院の根合(ねあはせ)に、恋の心をよめる
恋ひわびてながむる空の浮雲やわが下もえのけぶりなるらむ(金葉435)
(恋の辛さに耐えかねて空を眺めると、浮雲がひとひら漂ってゆく。あれは、人知れず恋に身を焦がす私から出た煙なのかしら。)
心かはりたる人のもとにつかはしける
契りしにあらぬつらさも逢ふことのなきにはえこそ恨みざりけれ(後拾遺785)
(あなたとはねんごろに契り合った仲なのに――こんなつらい目をみるとは、約束違いだ。しかし、逢うこともできないのでは、恨み言を言うことさえできないのだった。)
家を人に放ちて立つとて、柱にかきつけ侍りける
住みわびて我さへ軒の忍草しのぶぐさしのぶかたがたしげき宿かな(金葉591)
(古家の軒端には忍草が生えるというけれど、この家にはもう住んでいられず、立ち退くことになってしまった。私も軒の忍ぶ草。しのぶと言えば、色々懐かしいことの多い家であるよ。)
例ならで太秦(うづまさ)にこもり侍りけるに、心細くおぼえければ
かくしつつ夕べの雲となりもせばあはれかけても誰かしのばむ(新古1746)
(こんなふうに係累もなく孤独な境遇で寺に籠ったまま、死んでしまったら…。夕べの雲のように果敢なく消えてしまいでもしたら、ああ、いったい誰が心にかけて偲んでくれるだろうか。) 
3
周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官
周防内侍は、平安時代後期の女流歌人だ。後冷泉・後三条・白河・堀河の四代(在位1045〜1107年)の62年間、後宮に出仕し、内侍として仕えた女官だ。宮仕えが長期にわたり、歌がうまかったので、宮中でもいい顔だったとみられる。その証拠に、多くの男が彼女宛てに歌を贈ったことが、勅撰集に見い出される。
周防内侍は周防守・平棟仲(継仲の説もあ)の娘で、ここからその呼び名が出た。本名は仲子(ちゅうし)。生没年は不詳。四代の天皇に仕えた後、1108年(天仁元年)以後、病のため出家し、1111年(天永2年)までの間に没したとみられる。歌は『後拾遺和歌集』『金葉集』『詞花集』『新古今和歌集』など勅撰集に35首が収められている。
「春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)に かひなく立たむ名こそ惜しけれ」
これは『千載和歌集』『小倉百人一首』に収められている歌だ。歌意は、春の短い夜に、夢をみるくらいのほんの短い時間、あなたの腕を借りて枕にすることで、つまらない噂を立てられては、口惜しい限りです。
『千載和歌集』雑の部に、「二月(きさらぎ)ばかり月のあかき夜、二条院にて人々あまた居あかして物語などし侍りけるに、内侍周防より伏して枕もがなと忍びやかにいふを聞きて大納言忠家、是を枕にとて、腕(かひな)を御簾(みす)の下よりさし入れて侍りければ、よみ侍りける 周防内侍」と詞書(ことばがき)がある。どのような状況のもとで、この歌が詠まれたかがよく分かる。当時の宮廷人の趣味的、遊蕩(ゆうとう)的な雰囲気がよく表現されている。
早春の月夜、徹夜で女房らがしゃべり合う。「枕がほしいなあ」と周防内侍がいう。通りすがりの大納言・藤原忠家が「これを貸しましょう」と腕を御簾の下から差し入れた。そのたわむれに対して、「これくらいのことで、浮き名を立てられてはやりきれません。せっかくですが、お断りします」と答える代わりに、この歌を詠んだのだ。周防内侍の当意即妙の才気がみなぎっている。
そして、この続きがある。忠家は
「契ありて春の夜深き手枕を いかがかひなき夢になすべき」と返している。歌意は、あなたと私との間はさきの世からの縁で、ひとかたならぬ仲です。春の夜更けに、私の手をあなたが枕にするのです。どうしてつまらない夢に終わらせましょうか−という意味だ。
こういう宮廷の男女関係のありようは自由といえば自由だが、ふしだらになる一歩手前で品を失わなかったのは、女の誇り高い態度もさることながら、それを許した男の女に対する、尊敬を失わない距離の取り方に負うところが大きい。男が大納言という高位の殿上人で、女が受領階級出身の女房であることを考えれば、これは奇跡に近いことだ。
平安時代、紫式部(一条天皇の中宮彰子に仕えた)や清少納言(一条天皇の中宮定子に仕えた)の例を持ち出すまでもなく、中級貴族ぐらいまでの子女が宮中に出仕することはよくあることで、決して珍しいことではない。だが、その期間が四代の天皇にわたって60年余にもなると、これは異例のことだ。周防内侍はそれだけの間、宮中に仕えた女官だけに、備わった歌のうまさとともに、内部事情には当然明るく、官僚たちにとって無視できない存在でもあったとみることができる。 
 
68.三条院 (さんじょういん)  

 

心(こころ)にも あらで憂(う)き夜(よ)に 長(なが)らへば
恋(こひ)しかるべき 夜半(よは)の月(つき)かな  
心ならずも、つらいこの世に生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出すにちがいない、この夜更けの月であるなあ。 / 自分の本心に反して、この思うままにならないつらい世の中に生き永らえていたならば、その時はきっと恋しく思い出すに違いない。今夜のこの美しい月のことを。 / 思いがけなく、このつらい世を生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出すだろう。この美しい夜半の月を。 / (もはやこの世に望みもないが) 心にもなく、このつらい浮世を生きながらえたなら、さぞかしこの宮中で見た夜の月が恋しく思 い出されることであろうなぁ。
○ 心にもあらでうき世にながらへば / 「心」は、本心・本意。「に」は、断定の助動詞、「なり」の連用形。「で」は、打消の接続助詞。「心にもあらで」で、心ならずも・本意ではなくの意。「うき世」は、浮世・憂き世で、はかない世・つらい世の意。「ながらへば」は、動詞の未然形+接続助詞“ば”で、仮定条件を表し、生きながらえたならばの意。
○ 恋しかるべき / 「べき」は、当然を表す推量の助動詞で〜はずだの意。
○ 夜半の月かな / 「夜半」は、夜中・夜更け。「かな」は、詠嘆の終助詞。
※ 後拾遺集の詞書によると、この歌は、三条天皇が眼病で失明寸前、かつ、藤原道長によって皇位を奪われる前年に詠まれた歌ということである。また、目以外の体調もすぐれず、内裏が二度も炎上するなど、絶望的な状況に陥られていた。そのため、「心ならずも生きながらえていたならば…」などという悲劇的な御製を残されることとなり、この歌を詠まれた翌年に譲位され、さらにその翌年崩御された。 
日本史概観 1 神代から平安
1
三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。
冷泉天皇の第二皇子。冷泉天皇が弟・守平親王(円融天皇)に譲位してから7年後、天延4年(976年)に冷泉上皇と、女御藤原超子の間に生まれた。その超子の父は当時正三位権大納言であった藤原兼家である。
七歳で母を失い、父帝・冷泉上皇は精神病を患っていたため、その後見は薄弱であった。外祖父兼家に容姿が酷似し風格があったといい、兼家の鍾愛を受けて育ったことが『大鏡』に見える。
花山天皇の寛和2年(986年)6月23日、花山天皇は出家し懐仁親王(7歳・一条天皇)に譲位した。一条天皇は円融上皇と女御藤原詮子(超子の同母妹)の子であり、居貞親王の従弟にあたる。同年7月16日、11歳の居貞親王は兼家の後押しで東宮となる。冷泉・円融両統の迭立に基づく立太子であったが、東宮の方が天皇より4歳年上であったため、「さかさの儲けの君」といわれた。この立太子の理由は次の様に考えられている。すなわち、兼家は冷泉・円融の両天皇に娘を入内させていたが、円融天皇と不仲であったこと、冷泉天皇は超子との間に3人の親王を儲けていたことから、冷泉系をより重要視していた。また、孫(一条帝)は天皇、娘詮子は皇太后となり、自らは摂政となった兼家の自己顕示欲によって、もう一人の孫である居貞親王も東宮とされた。
一条天皇の朝廷では、外舅(母の兄弟)にあたる道隆・道兼・道長三兄弟が先後して政権を掌握し、それぞれ後宮政策を布いていた。東宮の居貞親王は正暦2年(991年)藤原済時の娘娍子を妃とし、同5年(994年)には敦明親王を儲けた。
寛弘8年(1011年)危篤状態の一条帝は崩御数日前に譲位し、36歳の居貞親王はようやく即位することとなった。皇太子には中宮藤原彰子の子、敦成親王(後一条天皇)が立った。
翌長和元年(1012年)道長の次女妍子が入内して中宮となるが、三条天皇は東宮時代からの妻である娍子を皇后とし、二后並立状態となる。同2年(1013年)妍子は禎子内親王を出産する。外孫の早期即位を図る道長と親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠いていたが、道長の娘・妍子がいながら娍子を立后したこと、妍子との間には女児しか儲けられなかったことにより、道長と三条天皇の関係は決定的なものとなった。
長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患う。仙丹の服用直後に視力を失ったといわれる。道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。更にこの年と翌年、内裏が相次いで焼失。病状の悪化もあり、同5年(1016年)三条天皇は皇后娍子の子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い退位し、後一条天皇が即位した。翌寛仁元年(1017年)4月に出家し、程なく42歳で崩御した。
同年8月9日、敦明親王は道長に無言の圧迫を掛けられ、自ら東宮を辞退した。このことにより冷泉・円融両系の両統迭立に終止符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰したが、三条天皇の血統もまた禎子内親王(後三条天皇の母)を通じて以後の皇室へ受け継がれていくことになる。

退位の際に詠んだとされる歌が小倉百人一首に採られている。
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな  三条院 
2
第67代 三条(さんじょう)天皇
   別名: 居貞(おきさだ)・金剛浄
   父:  冷泉天皇 第2皇子
   母:  藤原超子(藤原兼家の娘)
   生没年:天延4年(976) 〜 寛仁元年(1017)(42歳)
   在位: 寛弘8年(1011)〜 長和5年(1016)
   皇后: 藤原妍子
   皇妃: 藤原綵子、藤原原子
   皇子女:敦明親王、敦儀親王、敦平親王、師明親王、当子内親王、℃q内親王
        禎子内親王
   皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
   御陵: 北山陵(きたやまのみささぎ:京都府京都市北区衣笠西尊上院町)
三条天皇即位の背景
関白藤原道隆が没した後、その長子伊周(これちか)は当然自分が関白になるものと考えていた。だが道隆の後は、道隆の弟で右大臣の藤原道兼(花山天皇を謀略で退位させた)が就任する。伊周にとっては叔父にあたる。ところがこの道兼は4月27日関白の宣旨を受けた時、既に巷間猛威を振るっていた疫病にかかっており、七日後に死去してしまう。世に七日関白と言われるが、道兼の死で、再度関白への望みを抱いた伊周だったが、意外な対立候補が出現する。同じく叔父である内大臣藤原道長である。宮中での勢力バランスはほぼ五分五分であったが、道長の姉で一条天皇の生母東三条院詮子(せんし)が道長を強力に支援し、ついに道長に内覧(ないらん:摂政・関白に準じた天皇補佐職)の宣旨が下る。位も右大臣となり伊周より上位となる。伊周は失望し、道長との不仲は決定的となる。
その後幾つか不穏な事件が続いた後、弟の藤原隆家が法王を弓矢で威嚇するという事件が発生し、加えて法王の従者が殺害されその嫌疑が伊周側にかかり、また東三条院(詮子)の病の呪詛の嫌疑も噂され、天子のみの行為である太元帥法を伊周が密かに行ったことなどが告発され、伊周・隆家らは流罪となる。翌年伊周は赦免されるが、もはや政治的には無力となっていた。道長は藤原家内部抗争で頂点に立ったのである。
三条天皇と道長
一条天皇が崩御(道長長女彰子の夫)して、居貞親王(三条天皇)が即位した。道長は次女研子(けんし)を居貞親王が皇太子の時、入内させていたが、その前に三条天皇は大納言藤原済時の娘清子(せいし)の間に、敦明親王以下六人の皇子、皇女をもうけていた。
三条天皇は冷泉天皇の皇子で、母は道長の姉超子である。三条天皇にとって道長は外叔父であるが、超子が早く死んだので、両者の間には血縁的な意識が薄かったと言われる。加えて居貞親王は長い東宮(皇太子)時代を通じて道長への批判をつのらせてきた。
さらに、研子ではなく清子を中宮にしたことも道長の不興をかっていた。そうした外因と、一方道長は、外孫東宮敦成親王(後一条天皇)の一日も早い即位を願っていた。長和3年(1014)1月27日の彗星出現にかこつけ、体調の芳しくなかった三条天皇に対し、道長は三条天皇に退位を迫った。天皇の眼病は治癒することなく、しかも焼失後再建された内裏が再び焼失する出来事もあり、三条天皇は次の東宮に第一皇子の敦明親王を立てることを条件に、長和5年(1016)1月29日敦成親王(後一条天皇)に譲位する。こうして道長待望の外孫が帝位についた。後一条天皇は僅かに9歳。道長は摂政となる。
さらに道長の追撃は続いた。道長は東宮に後一条天皇の弟敦良親王を擁したかったが、三条天皇の退位と引き替えにやむなく譲歩したのであって、三条の皇子敦明親王の東宮(皇太子)には不本意であった。道長は、後一条帝が皇太子の証として所持していた壺切の剣を敦明親王に渡さず、敦明親王の母清子の父藤原済時もすでに亡く、敦明親王の後援者は父三条上皇のみであった為、唯一の後盾三条上皇が寛仁元年(1017)5月42才で崩御した後、東宮は孤立無援となり、8月9日自ら東宮を辞した。道長は直ちに外孫敦良親王を東宮とした。ここに道長の「天皇家外堀埋込オペレーション」は完了した。その後約50年間、道長家は繁栄の頂に居続ける。
道長の外戚政策
「一家に三后(さんこう)を立つ」と言われた道長の外戚政策は、今日凡人達の眼から見れば非常識を通り越して浅ましさすら覚えるような部分がある事は確かである。「そこまでして」と思わせる。しかし凡人達ばかりではない世界では、これに似た政策は今も行われている。凡人はそんな世界を知らないだけである。一度権力や財力を手にし、その効力の絶大なることを体感した人間達が、それを失う事に対する防御のエネルギーは凄まじいものがある。
甥の伊周(これちか)に勝利して権力を握った藤原道長は、長女の彰子(しょうし)を11才の若さで入内させ、後に一条天皇の中宮とする。
中宮とは皇后の事であるが、通常皇后は一人である。一条天皇には既に定子という皇后がいた為、皇后が2人という前例の無い事になる。
程なく皇后の定子は他界するので、彰子が正式に中宮となるのではあるが、一条天皇の次に三条天皇が即位する。道長は、三条天皇がまだ皇太子で35才の時、次女の妍子(けんし)17才を入内させている。後に三条天皇は元の妃清子を中宮にし、道長の圧力で妍子も三条天皇の中宮となり、二代続いて中宮二人という極めて異例な事態を引き興した。また、一条天皇の中宮に彰子、三条天皇の中宮に妍子と、一家から二人の中宮を輩出するのも史上初であった。
道長の圧力で三条天皇が退位し、彰子の生んだ後一条天皇が即位する。後一条天皇が11才になった時、道長は三女の威子(いし)を入内させ、後一条天皇の中宮とした。威子の立后によって道長家から3人の娘が中宮となったのである。日本史上、後にも先にもこんな例は無い。
威子の立后の日、道長の邸宅で酒宴が開かれ酔った道長は和歌を読む。
「この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることも なしと思えば」
東宮敦良(あつなが:後の後朱雀天皇)親王には、四女嬉子(きし)も用意されていた。
藤原道長
庚保3(966)年〜1027)平安中期の公卿。政治家。藤原兼家(かねいえ)の4男(5男説もある)。母は藤原中正の娘時姫。988年、権中納言、991年、権大納言に昇進。995年兄道隆の子、内大臣伊周と争い勝利、内覧の宣旨を受ける。同年右大臣、翌年左大臣に進んだ。
999年、娘彰子を一条帝に入内させ、翌年中宮に冊立、1012年に娘妍子を三条帝の、さらに1018年威子を後一条帝のそれぞれ中宮にたて栄華を築く。1016年摂政となったが、同年左大臣を辞し、同年太政大臣。翌年摂政を子の頼通に譲り、1019年出家し晩年には浄土教に傾倒した。法成(ほうじょう)寺を建立し,ここに居住したので「御堂関白」ともよばれたが,実際には「関白」にはなっていない。
日記『御堂関白記』、家集『御堂関白集』がある。
藤原兼家の4男としての道長には、本来は摂政になって権力者になる可能性などなく、兄達の死等の幸運によって地位を築いたという見方が一般的である。なお中宮となった娘達の女御達の中に、和泉式部や紫式部などがあり、道長は彼女らのスポンサーでもあった。
万寿4年(1027)12月4日、自ら建立した法成寺阿弥陀堂の本尊の前で、妻倫子や関白頼通以下有力者が病床を囲む中、午前4時頃、30年間無双の権勢を誇った入道前摂政太政大臣従一位藤原道長は没した。享年62歳。 
3
藤原道長
藤原道長は平安時代中期の公卿。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。 晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けている。

豪爽な性格であったとされており、『大鏡』には次のような逸話が残されている。若い頃の話として父・兼家が才人である関白頼忠の子の公任を羨み、息子たちに「我が子たちは遠く及ばない、(公任の)影を踏むこともできまい」と嘆息した。道隆と道兼は言葉もなかったが、道長のみは「影を踏むことはできないでしょうが、その面を踏んでやりましょう」と答えている。また花山天皇が深夜の宮殿をめぐる肝試しを命じた際には、同様に命ぜられた道隆と道兼が逃げ帰ってしまったのに対し、道長一人大極殿まで行き、証拠として柱を削り取ってきたという。 父・兼家の葬儀の際、道長の堂々たる態度を見た源頼光は将帥の器であると感嘆して、自ら従うようになったという。 弓射に練達し、後に政敵となる兄・道隆の嫡男の伊周と弓比べをし、「我が娘が寝極に入るならば当たれ」と言って矢を放つと見事に命中し、伊周は外してしまった。続いて道長が「我れ摂関に至らば当たれ」と言って放つとやはり命中した。道隆は喜ばず、弓比べを止めさせたという(『大鏡』)。 文学を愛好した道長は紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、内裏の作文会に出席するばかりでなく自邸でも作文会や歌合を催したりした。『源氏物語』の第一読者であり、紫式部の局にやってきてはいつも原稿の催促をしていたといわれている(自分をモデルとした策略家の貴族が登場していることからそれを楽しみにしていたとも言われる)。また、主人公光源氏のモデルのひとりとも考えられている。
藤原道長と三条天皇の対立
三条天皇は東宮に4歳の敦成親王を立てた。長和元年(1012年)2月、道長は東宮時代の三条天皇に入内させていた次女の妍子を皇后(号は中宮)とした。当初、天皇は道長に関白就任を依頼するが道長はこれを断り、続けて内覧に留任した。道長は三条天皇とも叔父・甥の関係にあったが、早くに母后超子を失い成人してから即位した天皇と道長の連帯意識は薄く、天皇は親政を望んだ。妍子が禎子内親王を生んだこともあり、天皇との関係は次第に悪化していった。 天皇には妍子とは別に東宮時代からの女御?子(藤原済時の娘)が第一皇子敦明親王始め多くの皇子女を生んでおり、天皇は?子も皇后(号は皇后宮)に立てることとした。ところが立后の儀式の日を道長は妍子の参内の日として欠席し、諸公卿もこれにおもねって誰も儀式に参列しようとしなかった。実資が病身をおして意を決して中納言・隆家とともに参内し儀式を取り仕切ったが、寂しい儀式となった。 翌年の?子参内の行賞として?子の兄の通任を叙任しようとした際に、道長は本来は長年?子の後見をしたのは長兄の為任であるとして通任を叙位しようとした天皇の姿勢を批判して、最終的に為任を昇進させた。
三条天皇と道長との確執から政務が渋滞し、大勢は道長に有利であった。これに対して三条天皇は密かに実資を頼りとする意を伝えるが、実資も物事の筋は通すが権勢家の道長と正面から対抗しようとはしなかった。孤立した天皇は長和3年(1014年)、失明寸前の眼病にかかり、いよいよ政務に支障が出てこれを理由に道長はしばしば譲位を迫った。道長が敦成親王の即位だけでなく同じ彰子の生んだ敦良親王の東宮を望んでいるのは明らかで、天皇は道長を憎み譲位要求に抵抗し眼病快癒を願い、しきりに諸寺社に加持祈祷を命じた。 長和4年(1015年)10月、譲位の圧力に対して天皇は道長に准摂政を宣下して除目を委任し、自らは与らぬことを詔する。11月、新造間もない内裏が炎上する事件が起こる。これを理由に道長はさらに強く譲位を迫り眼病も全く治らず三条天皇は遂に屈し、自らの第一皇子敦明親王を東宮とすることを条件に譲位を認めた。 
 
69.能因法師 (のういんほうし)  

 

嵐吹(あらしふ)く 三室(みむろ)の山(やま)の もみぢ葉(ば)は
竜田(たつた)の川(かは)の 錦(にしき)なりけり  
嵐が吹く三室の山のもみじの葉は、竜田川の水面に落ちて、川を錦に織りなすのだ。 / 激しい風によって吹き散らされた三室の山のもみじ葉は、やがて竜田の川に散り、ほら、水面を錦織の布のように鮮やかに彩っているよ。 / 嵐が吹き降ろす神さまのおいでになる御室山の紅葉は、竜田川(奈良県西部を流れる川。古くより紅葉の名所として有名。)に散り落ちて、まるで錦のようです。 / 嵐が吹き散らした三室の山の紅葉の葉が、龍田川 に一面に散っているが、まるで錦の織物のように美しいではないか。
○ 嵐吹く / 山から吹きつける激しい風。
○ み室の山の / 「み室の山」は、本来は、神のおわす山という意味の普通名詞であり、同名の山が複数あるが、この場合は、竜田川の付近にある神南備山(奈良県生駒郡斑鳩町)。
○ もみぢ葉は竜田の川の錦なりけり / 「竜田の川」は、奈良県の川で紅葉の名所。「錦」は、彩色の鮮やかな厚地の絹織物。もみぢ葉を錦に見立てている。「けり」は、今初めて気づいたことを表す詠嘆の助動詞。 
1
能因(のういん、永延2年(988年) - 永承5年(1050年)あるいは康平元年(1058年))は、平安時代中期の僧侶・歌人。俗名は橘永ト(たちばな の ながやす)。法名は初め融因。近江守・橘忠望の子で、兄の肥後守・橘元トの猶子となった。子に橘元任がいた。中古三十六歌仙の一人。
初め文章生に補されて肥後進士と号したが、長和2年(1013年)、出家した。和歌に堪能で、伊勢姫に私淑し、その旧居を慕って自身の隠棲の地も摂津国古曽部にさだめ、古曽部入道と称した。藤原長能に師事し、歌道師承の初例とする。和歌六人党を指導する一方、大江嘉言・源道済などと交流している。甲斐国や陸奥国などを旅し、多くの和歌作品を残した。
『後拾遺和歌集』(31首)以下の勅撰和歌集に67首が入集している。歌集に『能因集』があり、ほかに私撰集『玄々集』、歌学書『能因歌枕』がある。
(現大阪府高槻市古曽部町)には、隠棲の地と伝えられる少林窟道場(「正林庵」、「松林庵」)や、その墓と伝えられている陵が存在する。

あらし吹く み室の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり (百人一首、「後拾遺集」)
古今著聞集 / 能因法師は、いたれるすきものにてありければ、「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」とよめるを、都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなして後、「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」とぞ披露し侍りける。 
2
能因 永延二〜没年未詳(988-?) 別称:古曾部入道
俗名橘永ト(ながやす)。法名は初め融因、のち能因に改称した。父は肥後守橘元ト(もとやす)かという。子に元任と女子一人がいる。大学に学び、文章生となるが、長和二年(1013)頃に出家し、摂津国に住む。諸国を旅し、奥州・伊予・美作などに足跡を残した。ことに陸奥旅行での作「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞふく白河の関」は名高い。家集には馬の記事が多く見えることなどから、馬の交易のため各地を旅していたとみる説がある(目崎徳衛)。歌は藤原長能に学び、歌道師承の初例とされる。長元八年(1035)の関白左大臣頼通歌合、永承四年(1049)の内裏歌合などに参加。和歌六人党の指導的立場にあり、また源道済・藤原公任・大江嘉言・相模ら多くの歌人と交流をもった。自撰の家集『能因集』がある。著にはほかに私撰集『玄々集』、歌学書『能因歌枕』がある。後拾遺集初出。勅撰入集六十六首。中古三十六歌仙。
春 / 長楽寺にて故郷の霞の心をよみはべりける
よそにてぞ霞たなびくふるさとの都の春は見るべかりける(後拾遺39)
(遠くからこそ、霞棚引く懐かしい都の春は眺めるべきであるよ。)
正月ばかりに津の国に侍りける頃、人のもとに言ひつかはしける
心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを(後拾遺43)
(情趣を解する人に見せたいものだ。ここ津の国の難波あたりの春のありさまを。)
夜さくらをおもふといふ心をよめる
桜咲く春は夜だになかりせば夢にもものは思はざらまし(後拾遺98)
(桜の咲く季節は、夜さえ無ければ、夢の中でまで思い悩まずにすむだろうに。)
賀陽(かや)院の花ざかりに、忍びて東面の山の花見にまかりありければ、宇治前太政大臣聞きつけて、「この程いかなる歌かよみたる」など問はせて侍りければ、「久しく田舎に侍りて、さるべき歌などもよみ侍らず。今日かくなんおぼゆる」とてよみ侍りける
世の中を思ひすててし身なれども心よわしと花に見えぬる(後拾遺117)
これを聞きて、太政大臣、「いとあはれなり」と言ひて、被物(かづけもの)などして侍りけりとなん言ひ伝へたる。
(現世を捨てる決心をした身ですけれども、修行の心が弱いと花に見られてしまいました。)
山里にまかりてよみ侍りける
山里の春の夕暮きてみれば入相の鐘に花ぞ散りける(新古116)
(山里の春の夕暮に来てみれば、山寺の晩鐘の響きとともに桜の花が散るのであった。)
夏 / 津の国の古曾部といふ所にてよめる
わがやどの梢の夏になるときは生駒の山ぞ見えずなりぬる(後拾遺167)
(我が家の庭の梢が夏になって盛んに葉の茂るときは、生駒山が見えなくなってしまうのだ。)
秋 / 永承四年内裏歌合によめる
嵐吹くみむろの山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり(後拾遺366)
(嵐が吹いて散らす三室の山の紅葉は、龍田川に浮かび流れ、まさに川面を飾る錦であった。)
津の国に侍りけるころ、道済が許につかはしける
夏草のかりそめにとて来こしかども難波の浦に秋ぞ暮れぬる(新古547)
(夏草の刈り取りの頃、ほんの一時と思ってやって来たけれども、そのまま長居して難波の浦で秋が暮れてしまった。)
恋 / 題しらず
ねやちかき梅のにほひに朝な朝なあやしく恋のまさる頃かな(後拾遺788)
(寝屋近くの梅の匂いで、朝ごとに不思議なほど恋心のまさる頃であるよ。)
早春庚申夜恋歌 秋
虫のねも月のひかりも風のおともわが恋ますは秋にぞありける(能因集)
(虫の鳴く声も、月の光も、風の音も、私の恋心がつのるのは秋であったよ。)
雑 / 源為善朝臣身まかりにける又の年、月をみて
命あれば今年の秋も月はみつ別れし人にあふよなきかな(新古799)
(命があるおかげで、今年の秋も月は見ることができた。けれども、死に別れた友に再会する時はないのだ。)
題しらず
瑞垣にくちなし染めの衣きて紅葉にまじる人や祝はふり子(新勅撰573)
(瑞垣の内で梔子染めの衣を着て、紅葉に混じり込んでいるのは、神に仕える乙女たちであるよ。)
しかすがの渡りにてよみ侍りける
思ふ人ありとなけれど故郷はしかすがにこそ恋しかりけれ(後拾遺517)
(恋しく思う人があるわけではないけれど、しかすがの渡りまでやって来て、故郷はやはり何と言っても恋しいのだった。)
常陸にまかりてよみ侍りける
よそにのみ思ひおこせし筑波嶺つくばねのみねの白雲けふ見つるかな(新勅撰1303)
(もっぱら遠くから思い遣ってばかりいた筑波山の嶺にかかる白雲を、今日ついに見ることができたのだ。)
みちのくににまかり下りけるに、白川の関にてよみ侍りける
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(後拾遺518)
(春霞が立つのとともに都を発って来たけれど、白河の関ではもう秋風が吹いているのだ。)
出羽の国にまかりて、象潟といふところにてよめる
世の中はかくても経けり象潟の海人の苫屋をわが宿にして(後拾遺519)
(人の世というのは、こんなふうにしてもどうにか暮らせるものだったよ。象潟の海人の小屋を自分の住まいにして。)
わび人は外とつ国ぞよき咲きて散る花の都はいそぎのみして(能因集)
(私のような落ちぶれた人間には、辺境の国が合っている。花が咲いては散るように栄枯盛衰の激しい都は、せわしないばかりで。)
東国風俗
月草に衣はそめよ都びと妹を恋ひつついやかへるがに(能因集)
(月草で衣を染めなさい、旅の都人よ。東(あずま)の地に残してゆく娘を恋しがりながら、もはや帰るべき時が来たのだと、その娘(こ)に知らせるように。)
陸奥国にまかりける時よみ侍りける
夕されば汐風こしてみちのくの野田の玉川千鳥鳴くなり(新古643)
(夕方になると、潮風が海から吹いて来て、陸奥の野田の玉川に千鳥が寒そうに連れを恋うて鳴いている。)
京にのぼりて、はやううゑし松の蔭にすずみて詠之
幾とせにかへりきぬらむ引きうゑし松の木蔭にけふ涼むかな(能因集)
(何年ぶりに都へ帰って来たのだろうか。昔移し植えた小松が大きく育った木陰に、今日こうして涼むのだ。)
九月十三夜の月をひとり眺めて思ひ出で侍りける
更級さらしなや姨捨山に旅寝してこよひの月を昔見しかな(新勅撰282)
(更級の姨捨山に旅寝して、今宵十三夜の月を昔見たのだったよ。) 
3
「姨捨山の月」を詠んだ平安貴族
更級日記の作者である菅原孝標女にとって、当地に旅をしたことのある能因法師は、更級日記という物語の構想を固める大事な情報を提供した人だった可能性がある。仮説ですが、「さらしなという地はどんな所でしたか」と菅原孝標女に尋ねられた能因法師は、喜んでというか熱意を持って答えたのではないかと想像しました。そう考える理由は、能因法師を出家させた事情がうかがえる和歌が、「さらしな・姨捨」に関係したものだからです。
重い病の女性と交際
その和歌は能因法師が晩年に自分が作った歌を中心に編んだ歌集「能因集」の中にあります。下にそれに該当する和歌を列挙しました。
ある所にある女、桜花の散るを見てもの思へるさまにてかくいふ
うき身をばなぐさめつるに桜花いかせにせよとかかくは散るらん
これを聞きて
思ふことなぐさめけるは桜花をばすて山の月にますかも
女、かえし
をばすての山をば知らず月見るはなほ哀れます心地こそすれ
また返し
月はまたなほ哀れと物を思ふなりつれなき人は見ぬやあるらん
研究者によると、これらの歌は能因法師が26歳のころ、恋人の女性が重い病にかかってからやりとりされた歌だそうです。同歌集には全部で約250の歌が載っているのですが、ほぼ全部が詠んだ時間順に並べられ、それぞれの歌の前には歌が作られた経緯や事情も書き添えられていることから、能因法師の人生の歩みの軌跡もうかがうことができるのです。
一番上の「うき身をばなぐさめつるに桜花いかにせよとかかくは散るらん」は、その女性が能因法師に送った歌で、病の身を慰めるのは桜の花だが、どんなにしても散ってしまうのが悲しい―というような病身の心を打ち明けたものです。これに対して能因法師はその左隣の「思ふことなぐさめけるは桜花をばすて山の月にますかも」という歌を作って女性に送りました。病気が治らずにふさぎこんでいる女性に、「桜の花は姨捨山の月より心を慰めるものですよね」というような慰め、お見舞いの気持ちを詠んだのです。
しかし、それでも女性にはあまり慰めにはならなかったようです。「をばすての山をば知らず月見るはなほ哀れます心地こそすれ」と歌を返します。「さらしなの姨捨山」には行ったことはないが、月を見ると、よけい悲しい気持ちになるというのです。それで能因法師はさらに一番左の歌「月はまたなほ哀れと物を思ふなりつれなき人は見ぬやあるん」を作り、女性に送りました(女性を慰めようとして作っただろうことは分かるのですが、この歌は難解で、どういう意味なのか私にはよく分かりません)。
二人の間でやりとりされたこれらの歌では「慰め」「姨捨山の月」というフレーズがポイントになっています。これらの和歌は、当地の名を世に知らしめることになった古今和歌集収載の「わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(この歌についてはシリーズ30、60など参照)を踏まえていることが濃厚にうかがえます。老人ほどに年をとっているわけではない若者の二人なのに、姨捨山をテーマにしたこの歌が、お互いの気持ちをやり取りする手段の歌として共有されているところが面白いと思います。花と言えば月、その月の名所と言えば「さらしな・姨捨」という美意識が世代を超えて当時の都人の間にあったことがうかがえます。
研究者によると、結局、女性は亡くなり、その子の養育などをめぐって能因法師は悩み、結果的に官職に付くことをやめ、出家に踏み切ったとも考えられるそうです。
出家の原点の地?
能因法師が出家して和歌の道に人生を捧げることを決める際に、歌の大きなテーマになった「さらしな・姨捨」です。そのテーマに関連した質問を能因法師が受けたとすれば、熱く語らずにはいられなかったのではないでしょうか。能因法師にとって菅原孝標女は、自分の歌の師と仰いだ藤原長能の姪っ子なので、よけい親しみを感じて話したのではと想像しました。菅原孝標女との出会いは人生の晩年期と考えられるので、能因法師は「『さらしな・姨捨』は、私の出家の原点の歌枕の地でもあった」と振り返り、旅の思い出や歌枕としての「さらしな・姨捨」論を披露したのではないか…。本当のところは分りません。 
4
「岩沼」の由来を
私たちのふるさと岩沼の地名の由来を古文書によって調べてみよう。 岩沼は昔、「武隈の里」と呼ばれ名取郡内の七郷のひとつであった「玉前郷(たまさきのあと)」(玉崎)に属し、古くから開けた地方である。多賀城の国府(724年)に先だって、この地に陸奥の国府が置かれ「武隈の国府」と呼ばれていた。この「武隈」の名はアイヌ語の転訛と言われている。それは阿武隈川の水神であって、今、岩沼市の対岸の亘理町逢隈田沢の水神山に祀られてある「安福河伯神社(あふくかはくじんじゃ)」につながるアイヌ語の「アブクマ」が、古文書には「阿武隈」と書いてあったが、平安の頃に「阿」の字を取り去って「武隈」となり、更に竹駒寺の先祖、能因法師にあやかってその縁起にちなんで「武隈(たけくま)」を「竹駒(たけこま)」と呼んで岩沼の地名にしたという。
しかし、その後「武隈・竹駒」の地名とまったく別名である「岩沼」と呼ぶようになったことについては2つの説が、宮城県地名考(著者 菊地勝之進)に堂々と書かれてある。 その1つは、今から4百年前の戦国時代の天正年間のことである。伊達家の家臣、泉田安芸重光が、この地に築城して「鵜ヶ崎城」と称した。このお城回りの堀が「沼」になっていて、10の沼があった上に、このお城の一角と沼とを併せて「岩沼」と呼んだといわれている。 現在の1地区町名に鵜ヶ崎があるが、この鵜ヶ崎はお城の「一の丸」にあった所であるという。
このことは江戸末期(1776年)の安永風土記の岩沼の郷の項に「往古は武隈申せし由、何年の頃から岩沼と申されしか不明であるが、御要害脇に岩沼と申す「沼」があった故に、かく言われたと云うとある。」
さて、次の一説には、平安時代末期の後三年の役の頃のことである。 「岩沼八郎」という野武士がこの地方に出没して、民家を荒らし回っていたので、他郷の名取の里人や、亘理、柴田の里人がこの名を取り、この地を「岩沼」と称したというのである。野武士がこの地の民家を荒らし回ったことは、人々にとっては大きな恐怖であったろうし、このままの話による「岩沼」の地名としては香ばしいものではないと思われる。若しこの野武士が、義侠心に富んでいたか、極端に言えば、悪さの行動が、前代未聞だったので、岩沼の地名の起因になったのかもしれない。
この両説の何れが真か、また何れの説が先か、詳らかではないが、相互に関連しているものと思われる。 
5
「白河の関」
便りあらば いかで都へ 告げやらん けふ白河の 関は越ぬと 平兼盛
秋風に 草木の露を 払はせて 君が進めば 関守もなし 梶原景時
都には 未だ青葉にて 見しかども 紅葉散りしく 白河の関 源頼政
見て過ぐる 人しなければ 卯の花の 咲ける垣根や 白河の関 藤原季通
人ずてに 聞きわたりしを 年ふりて けふ行き過ぎぬ 白河の関 橘為仲
行く人を 弥陀の誓ひに 漏らさじと 名をこそとむれ 白河の関 一遍上人
白河の 関の関守 いさむとも しぐるる秋の 色はとまらじ 藤原定家
いかでかは 人の通はん かくばかり 水だに漏らぬ 白河の関 中将実方
かりそめの 別れと思へと 白河の 関とどめぬは 涙なりけり 中納言藤原定頼
音にこそ 吹くともききし 秋風の 袖に濡れぬる 白河の関 藤原頼載女
逢坂に 今朝はきにけり 春霞 夜半には立し 白河の関
いろいろの 木の葉に路も 埋もれいて 名をさへたとる 白河の関 藤原俊成
見て過ぐる 人しなければ 卯の花の 咲ける垣根や しらかはの関 藤原季通
やま水の 高きひくきも 隔てなく 共に楽しき まどゐすらしも 松平定信
影うつる 山もみどりの 波はれて 見渡し広き 関の湖 近衛基前
二年の春陸奥国にあからさまにくたるとてしらかはの関にやとりて
都をば 霞とともに たちしかど 秋風そ吹く 白河の関 能因法師
白河の 関屋を月の 漏る影は 人の心を とむるなりけり
都いで 逢坂越へし おりまでは 心かすめし 白河の関
白河の 関路の桜 咲きにけり 東より来る 人の稀なる 
思はすは 信夫の奥へ 来ましやは 越え難かりし 白河の関
雪にしく 袖に夢路も 絶へぬべし また白河の 関の嵐に 西行
春はただ 花にもらせよ 白河の せきとめずとも 過ぎん者かな 道興准后
行く春の とめまほしきに 白河の 関を越へぬる 身ともなるかな 和泉式部
行くすゑの 名をばたのまず 心をや 世々に留めん 白河の関 宗祇
有明の 月も雲居に 影とめぬ かすめる末や 白河の関 順徳天皇
東路の 道の奥なる 白河の せきあえぬ袖を 漏る涙かな 源実朝
都をば 猶遥々と旅立ちて けふ仮寝する 白河の関 織田信長
紅葉ばの みな紅に 散りしけば 名のみなりけり 白河の関 左大弁親宗
東路も 年も末にや なりぬらむ 雪降りにけり 白河の関 僧都印性

関の名を一躍有名にしたのは何と言っても能因法師でしょう。彼は著名人に有りがちなゴシップに1000年以上も悩まされているのです。歌道の達人が故に都に居ながらにして白河の関を詠んだのだと。つまりさも現地に行ったかの様に見せかけるため人目をしのび肌を焼き陸奥に歌の修行の折に詠んだ様に見せかけたと云うのです。それが延々と今日まで燻ぶり続け江戸時代には川柳・狂歌でも皮肉られているのです。
能因が 顔をとりこむ 俄か雨
能因は 一つの嘘を 小半生
能因に くさめさせたる 秋はここ
正岡子規までもが「能因はまだ窓の穴に首をさ差出す頃なるを、昨日都をたちて、けふ此処を越ゆるも、思うへば汽車は風流の罪人なり」と書いている。それもこれも白河の関の評判のなせる業だったのでしょう。 
6
少し大げさになるが、日本人というものが古くから、敬神を歌い又己の心を伝える手段として用いてきた和歌というものを少しばかり考えてみよう。
兎角日本人は、何かというと道という言葉が好み、歌の道、茶の道、能の道、と何でも道を作りたがる傾向がある。歌の道について考えれば、そもそも先人が詠んだ無数の歌を「何々集」等としてまとめて、それがひとつの道の役目を担ってきたことになる。
一般にどんな単純明快なことでも、文章の巧みな人が、それなりの論理構成力をもって、ひとつの文章に残すと、なるほど、と唸ってしまう傾向にある。歌の場合も同じで、耳障りの良い文言の並びに長けた人が、流れるようなリズムと音韻をもって歌を詠むと、その人はすぐに結社などを作ってたちまち一団を形成し、一家言を持つようになる。
しかし本当に優れた歌というものは、そうあるものでもないし、「折々の歌」(大岡信の選朝日新聞に連載中)に取り上げられている歌でも、何でこんな歌をという歌が選歌されている場合がある。
思うに歌で大切なことは、自分の感受性とか感性というもので、それが誰にも真似の出来ぬ自分なりの個性あるものであれば、その実感を言の葉に代えて、卵からやがて鄙鳥が孵(かえ)るようにその人の歌は、自ずと誕生するはずである。
このように歌は、個々の人間の心の中に潜んでいる歌の種(あるいは卵子)のようなものが、外界からの刺激を受けて、受精し、命を得て、短い推敲の間を経て、作品として生まれてくるものなのである。だから概ね名歌として今日の世に遺っていくような歌も、言葉を捻って作るようなものではなく、自然に生まれてくる類のものが多いように思われる。
確か藤原定家(1162-1241)は、歌について、「心と詞(言葉)」が「鳥の両方の翼のようだ」と表現していたように思うが、心に湧いた実感が、素直な形で、詞となって結晶した時に、心に残るような歌というようなものは生まれてくるのであろう。ここで名歌の条件のようなものを考えてみれば、歌という鳥の両翼としての「心」と「言葉」がどちらも勝ちすぎず程よくバランスが取れ、瑞々しい感性が今誕生したかのように感じられるような歌ということができるかもしれない。もちろんその場合、言葉としては、万葉の時代の古い言い回しでであっても、歌に込められている感性が瑞々(みずみず)しければ、歌の端々(はしはし)からその実感は伝わってくるものである。
そう考えると、歌は、まさに人の心から生まれた生き物のようなものである。だからこそ、人の心を打ち、天土をも動かす力がある、と先人たちも表現してきたのであろう。これはひとつのエピソードであるが、昔時、自分が詠んだ歌が、盗作をされ、勅撰集に収載されたのであるが、そのことで思い悩んだその作者は、死んだ後に、盗作をした人物の枕辺に立って、「私の歌を返せ」と迫ったのだそうである。もちろん盗作したものは、びっくりして、一度選ばれた勅撰集からもその歌は抜かれたそうである。
もちろん歌は、先のエピソードのようにおどろおどろしいものではなく、一般的な表現で言えば「その気持ちよく分かるねー」とか「きっと、悲しかったんだろうねー」」と言った、その作者の実感を共有しうる実に楽しい芸術だ。
歌は誰でも作れるが、名歌はそう簡単には誕生しない、と言う人がいる。その通りであろう。別に名歌を作ろうとして名歌が誕生するのではない。その人物の実感を込めた歌の感性と詞の選び方、リズム、思想、そうした諸々の要素が渾然一体となって、世に名歌として遺るような歌も生まれてくるのである。
平安中期の歌人の能因法師(988-没年不祥?)の奥州を訪ねた時の歌にこのような歌がある。
都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関 (後拾遺和歌集)
(京の都を旅立ったのが、霞み棚引く春であったのに、白河の関に来てみればもう秋風が吹いているではないか・・・)
極めてシンプルな歌ではあるが、「白河の関」という歌枕の醸し出す叙情性もあって、いつの間にか名歌にされ今日に至っている。この歌を題材にした岡本綺堂(おかもときどう):1872-1939)の戯曲がある。この中では、この歌は、実は都で詠まれていたという設定になっている。でも、能因としては、それが口惜しいのである。せっかく良い歌ができたのに、これだけの歌が、実は都で出来たものと知れては、「無念である」というわけだ。そこで、奥州の旅に出たことにして、都の自室にこもり、旅ですっかり黒くなったように日焼けの細工をしている所を他人に見つかるという実にコミカルな劇なのである。元々能因にまつわるこの話は、昔から口承されていたらしく、教訓的な説話を集めた「十訓抄」(1250年前後に成立か?)にも記載されている。きっと作者の岡本は、歌というものの本質論に分け入りたかったのかもしれない。
私は奥州の歌枕の数々を都の歌人たちに紹介した能因法師が、先の作品を都に居て作ったとは間違ってもあり得ない事と思っているが、歌というものの本質である感性とか実感をというものを考える時には、実に面白いエピソードであると思う。
というのは、少なくても能因以後の歌詠みの傾向をみれば、能因のような旅の歌人が収拾してきた歌枕という便利なもの(ツール?)を使いながら、都にいる貴族の連中は、先の能因法師の虚言の歌のように、都にじっといて、あたかも歌枕の土地に行ったかのような、あるいはその歌枕が醸し出す囲気を細工として使いながら、書斎で歌を詠んで、歌の優劣などを「歌合わせ」と称して競っていたのである。このような歌の詠み方そのものを、岡本綺堂は皮肉りたかったのではなかっただろうか。「所詮、歌詠みと言ったところで、皆、逸話の能因の如き存在ではないのか?!」と。もちろん中にも優れた歌人もいる。しかし古代から中世に至る時代の歌の多くは、やはり貴族を主流とした雅な言葉遊びの傾向が強かったことは否定できないであろう。
私は、その点で、今日、歌の家、冷泉家の中で連綿として受け継がれている藤原俊成(1114--1204)やその子、藤原定家(1162-1241)の歌も、歌を詠む技法や細工の仕方音韻の醸すリズム感には長けていたとしても、能因や西行のような苦しい旅の実感や想像を絶するほどの美しい景色との出会いや深い人生の陰翳を、歌に詠む込むという点では、遙かに及ばないものがあると思う。
西行は、鎌倉にある時、頼朝に歌のことを聞かれ、
「詠歌者。対花月動感之折節。僅作卅一字許也。全不知奥旨。」(吾妻鏡)とだけ答えたと言う。簡略すれば、「歌の道については、奥義などというものはまったくありません。ただただ花や月を見ては心に感ずるままに三十一にまとめて書き連ねるだけのことですよ。人にお教えするほどのものは何もありません」ということになる。これこそが西行の歌に対する考え方であり、何も頼朝にもったいをつけて教えないのではない。
私は一家一流を残さない能因を歌の道の先達として西行が慕い、同じく旅に明け暮れ、旅を志して歌を詠み、亡くなった心意気にこそ、歌というものの本質があり、そのことを五百年後に直感により理解して、やはり一家をなすことをせず、旅に殉ずる形で亡くなった俳諧の松尾芭蕉という人物がいると思うのである。 
 
70.良暹法師 (りょうぜんほうし)  

 

寂(さび)しさに 宿(やど)を立(た)ち出(い)でて ながむれば
いづこも同(おな)じ 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ  
さびしさに耐えかねて家を出てあたりを見渡すと、どこも同じ寂しい秋の夕暮れだ。 / あまりの寂しさに、庵の外に出て辺りを物思いにふけりながら眺めてみると、私の心が悲しみに沈んでいるせいだろうか、どこもおなじように寂しい秋の夕暮れであるなあ。 / あまりの寂しさに耐えかねて、思わず庵を出て、あたりを見回してみたけれど、どこもかしこも同じ寂しい景色でしたよ。この秋の夕暮れは。 / 寂しくて家を出てあたりを眺めてはみたが、この秋の夕暮れの寂しさはどこも同じであるものだ。
○ さびしさに / 「に」は、原因・理由を表す格助詞。
○ 宿を立ち出でてながむれば / 「宿」は、自宅の草庵。「ながむれば」は、動詞の已然形+接続助詞“ば”で順接の確定条件であり、見渡すとの意。
○ いづこも同じ / 「も」は、強意の係助詞。
○ 秋の夕暮れ / 体言止め。余韻を残し情緒を持たせる表現方法として用いられている。  
1
良暹(りょうぜん、生没年不詳)は、平安時代中期の僧・歌人。
出自・経歴については不明であるが、比叡山(天台宗)の僧で祇園別当となり、その後大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだといわれている。一説では、康平年間(1058年 - 1065年)に65歳ぐらいで没したともいわれている。
歌人の友として、賀茂成助・津守国基・橘為仲・素意法師などがいた。1038年(長暦2年)9月の「権大納言師房家歌合」などいくつかの歌合に出詠している。「良暹打聞」という私撰集を編んだというが現存していない。
歌は「後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に入集している。
さびしさに 宿をたち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ (「後拾遺和歌集」、百人一首) 
2
良暹 生没年未詳(990頃〜1060頃)
出自未詳。母を藤原実方家の童女白菊とする伝がある(『後拾遺集勘物』)。比叡山の天台僧。祇園別当となり、大原に隠棲。晩年は雲林院に住むか。長暦二年(1038)九月の「源大納言師房家歌合」、長久二年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」などに参加。津守国基・橘為仲らを歌友とした。康平年間(1058-1065)頃、六十五歳前後で没したかという。『十訓抄』『古今著聞集』などに説話が載る。『小倉百人一首』に歌を採られている。後拾遺集初出。勅撰入集三十二首。
藤原通宗朝臣歌合し侍りけるによめる
さ月やみ花橘に吹く風は誰が里までか匂ひゆくらむ(詞花67)
(五月の闇夜、橘の花を吹いて過ぎる風は、誰の住む里まで匂いを運んでゆくのだろうか。)
八月駒迎へをよめる
逢坂の杉のむらだちひくほどはをぶちに見ゆる望月の駒(後拾遺278)
(逢坂山の杉の群生する間を牽いて行く間は、木立を漏れてくる月明かりのために馬の毛が斑模様に見える、望月の駒よ。)
題しらず
さびしさに宿をたち出でて眺むればいづくも同じ秋の夕暮 (後拾遺333)
(あまり寂しいので庵を出て、あたりを眺めれば、どこも寂しさに変わりはない秋の夕暮であったよ。)
比叡(ひえ)の山の念仏にのぼりて、月をみてよめる
あまつ風雲ふきはらふ高嶺にて入るまで見つる秋の夜の月(詞花100)
(空行く風が雲を吹き払う高山の頂きで、西の山の端に沈きみるまでじっと見てしまった、秋の夜の月を。)
あれたる宿に月のもりて侍りけるをよめる
板間より月のもるをも見つるかな宿は荒らしてすむべかりけり(詞花294)
(板の隙間から月光が漏れるのを見たことだ。庵はこのように荒して住むのがよかったのだなあ。)
初めたる恋のこころをよめる
かすめては思ふ心を知るやとて春の空にもまかせつるかな(金葉421)
(恋心をほのめかせばあの人が私の思いを知ってくれるかと、春の空が霞むのにまかせてしまったなあ。)
雲林院のさくら見にまかりけるに、みなちりはてて、わづかに片枝にのこりて侍りければ
たづねつる花もわが身もおとろへて後の春ともえこそ契ちぎらね(新古153)
(訪ね求めてやって来た桜も、その我が身も、共に衰えて、将来いつの春に再会できるとも約束できそうにないのだ。)
やまひして雪の降りける日、死なむとしければ詠める
死出の山まだ見ぬ道をあはれ我が雪ふみわけて越えむとすらむ(俊頼髄脳)
(死出の山の見知らぬ道を、ああ今私はこの雪を踏み分けて越えようとするのだろうか。) 
3
良暹法師
さびしさに宿を立ち出でてながむればいづこもおなじ秋の夕暮れ
(ひとりで庵に閉じこもっていて寂しさのあまり気がふさぐので、外に出てあちこち眺めると、さすがに秋の夕暮れだ。どこも同じように寂しい。)
秋の寂寥感を歌ったもので、秋の夕暮れを巧みに歌いつくした、次の三夕(さんせき)の歌の先駆けをなすと評価されている秀歌。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行法師
見わたせば花ももみぢなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家
寂しさはその色しもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮法師 
4
詩は再現か
過去の感覚
寂しさに 宿を立ち出(い)でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ (良暹法師)
寂しくて寂しくて仕方ないときに外に出たら、夕焼けが、愕然と拡がっていた、感覚を忠実に再現している。
詩は、過去の感覚の再現である、という哲学者は多い。西田幾多郎によれば、詩は純粋経験の再現である。
事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲(びょう)といったが、天文学者はこれを詩人の囈語(げいご)として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。( 西田幾多郎『善の研究』)
ところで、私は哲学を読むときには、「どうすれば真実を手にすることができるか」というテーマで哲学者たちが闘っていると想定して読んでいくとわかりやすいのではないかと思っていて、例えばカントは、「有限な人間は、真実を手にすることはできない。限りなく近づいて漸近線を描くだけ」と言ったけど、西田幾多郎は、「今この瞬間に、すでに真実を丸ごと経験している。しかし次の瞬間、思惟の方面や物理の方面で分裂していく運命にある」と言った。したがって、西田幾多郎によれば、「星は金の鋲である」というハイネの詩は、純粋経験の主体方面の再現といえるのではないか。
プラトンによれば、詩はイデアの再現の再現の再現である。詩は感覚像の再現であり、感覚像は事物の再現であり、事物はイデアの再現であるため、詩は「真実から三番目に離れているもの」である。詩において、三番だしの真実を手にすることができる。
アリストテレスによれば、詩は、普遍的なものを目指す人間の行為の再現であり、もっとも優れた文学形式である。人は再現されたものに喜びを感じる。たとえ現実にある物を見て苦痛を感じたとしても、その現実を再現したもの(詩や演劇や彫刻)であれば、かえって喜びを感じるのである。しかし、これは普遍性の再現のようなもので、感覚の再現というわけではないので、本稿でいう「再現」とはだいぶずれるので、「再現」で真っ先に思い出されるのがアリストテレスなんだけど、今は念頭に置かない。
未知の感覚
次の詩は、感覚の再現ではない。具体的な馬らしさが書かれているわけではないので、匂いや手触りが喚起されない。
馬を洗わば 馬のたましひ 冴ゆるまで 人恋わば人 あやむるこころ (塚本邦雄)
まをあらわば/うまのたましい/さゆるまで/ひとこわば ひと/あやむるこころ
馬の魂が冴えるほど洗うことと、恋人を殺したくなるほど恋すること、が同列に置かれている。冴えるというのは、ひえびえと凍りつくようなものだし、一方で恋は情熱的なもの。相対立するもの同士がぶつけられることによって力を生んで、本来なら一行の詩には納められないのに、なぜか納まっている。詩の奔流はすごいのに、具体的な馬の映像的イメージは、そこまで強くない。
馬の詩を見て、詩人の穂村弘はこう言う。
「現実の表現」とは事実上の「再現」であって、表現の根拠を過去に置いている。それに対して塚本的な「何か」は、自らの表現が未来と響き合うことを期待している、とでも云えばいいだろうか。ここで云う未来とは過去の反対語としてのそれではなく、現実を統べる直線的な時間の流れからの逸脱そのものであるような幻の時である。 (穂村弘『短歌の友人』)
つまり、詩には2つあって、1つ目は過去の感覚を再現して、過去と響きあう詩。2つ目は、未来と響き合う詩。未来の何と響き合うのかについて、私なりに言い換えれば、未来にある未知の感覚と響きあって、その経験していない感覚を教えてくれる詩ということ。
詩人の渡邊十絲子も、穂村に同意し、感覚の再現とはまったく性質のちがうことばで書かれた詩が存在するという。この馬の詩は、昔に馬を触った体験や匂った感覚を再現する詩ではない、そういう具体的な馬ではなくて、むしろ馬一般という概念を表現する詩。「あれあれ、あの感じですよ、知ってるでしょ、あの匂い、あの手触りのこと」と体験や感情をひっぱってくる具体的な詩ではない。感情的体験が共有されていることを前提にしていない。詩に親しんでいない人にとっては、感覚を再現してくれる詩のほうがわかりやすいけど、それは逆に言えば、未来にある、未知の感覚を味わえないということ。別の文脈だけど、未知の感覚を教えてくれる詩について、こう言っている。
刺激されていたのは過去に経験した感情ではなくて、それまでいちども味わったことのない、未知の感情だった。わたしは詩によって、あたらしい感情を体験させられていたのだ。ここに書かれていることばは、いまは照合すべき実体のない呪文だが、やがて私の未来のどこかで、なにかちゃんと「響きあう」。その予感が、わたしのからだをいっぱいに満たしていたのだ。 (渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』)
こうして穂村と渡邊は、過去の感覚を再現する詩と、未知の感覚を予言する詩の2種類に分けている。 
 
71.大納言経信 (だいなごんつねのぶ)  

 

夕(ゆふ)されば 門田(かどた)の稲葉(いなば) 訪(おとず)れて
蘆(あし)のまろ屋(や)に 秋風(あきかぜ)ぞ吹(ふ)く  
夕方になると、家の門前の稲の葉に音を立てて、蘆葺きの小屋に秋風が吹いてくることだ。 / 夕方になると、家の前の田んぼに秋の風が訪れ、稲葉がさやさやとよい音を立てて揺れる。その冷たくて心地好い秋風は、私がいるこの葦葺きの田舎家にも吹き渡ってくるよ。 / 夕方になると、門の前の田んぼの稲の葉が、そよそよと葉ずれの音をさせて、葦葺きの粗末な家に、秋風が吹いているよ。 / 夕方になると、家の前にある田の稲葉を音をたてて、 葦葺きのそまつな小屋に秋風が吹き訪れることよ。
○ 夕されば / 「されば」は、移動するを意味するラ行四段の動詞「さる」の已然形+接続助詞「ば」で順接の確定条件。「夕されば」で、夕方になるとの意。
○ 門田 / 家の周辺にある田
○ おとづれて / 音を立てるの意。
○ 芦のまろやに / 芦で葺いた粗末な小屋。この場合は、金葉集の詞書から、源師賢の山荘。
○ 秋風ぞ吹く / 「ぞ」と「吹く」は、係り結びの関係。「ぞ」は、強意の係助詞。「吹く」は、カ行四段の動詞「吹く」の連体形で「ぞ」の結び。 
1
源経信(みなもとのつねのぶ、長和5年(1016年) - 永長2年閏1月6日(1097年2月20日))は、平安時代後期の公家・歌人。宇多源氏、権中納言・源道方の六男。官位は正二位・大納言。桂大納言と号す。小倉百人一首では大納言経信。
三河権守・ 刑部少輔・左馬頭・少納言などを経て、康平3年(1062年)右中弁に任ぜられ、以後蔵人頭などを経て、治暦3年(1067年)参議として公卿に列す。
治暦4年(1068年)兼伊予権守、治暦5年(1069年)従三位・東宮権大夫、延久2年(1070年)兼大蔵卿、延久3年(1071年)正三位、延久4年(1072年)左大弁、延久5年(1073年)兼播磨権守、延久6年(1074年)皇后宮権大夫・兼勘解由長官、承保2年(1075年)権中納言、承保4年(1077年)正二位、承暦5年(1081年)兼民部卿、永保3年(1083年)69歳で権大納言に進み、兼皇后宮大夫。寛治5年(1091年)大納言、寛治8年(1094年)大宰権帥に任命され、翌嘉保2年(1095年)現地に下向し、承徳元年(1097年)大宰府で没している。82歳。
詩歌・管絃に秀で、有職故実にも通じ、その多芸多才は藤原公任に比較された。長久2年(1041年)の「祐子内親王家名所歌合」をはじめとして、多くの歌合に参加している。当代一の歌人とされたが、経信をさしおいて藤原通俊が撰集した『後拾遺和歌集』に対して『後拾遺問答』・『難後拾遺』を著してこれを批判した。
『後拾遺和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に87首が入集。家集に『経宣集』、日記に『帥記』がある。
夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く (『金葉和歌集』、百人一首) 
2
源経信 長和五〜永長二(1016-1097) 号:桂大納言
宇多源氏。民部卿道方の子。母は播磨守源国盛の娘で、家集『経信卿母集』(『帥大納言母集』とも)をもつ歌人である。母方の先祖には公忠・信明がいる。経長・経親の弟。俊頼の父。長元三年、十五歳で叙爵。三河権守・刑部少輔・左馬頭・少納言・右大弁などをへて、治暦三年(1067)、参議。民部卿・皇后宮大夫などを兼任し、承保四年(1077)、正二位。寛治五年(1091)、大納言。同八年、大宰権帥を兼ね、翌年七月下向。赴任三年目の永長二年閏正月六日、薨ず。八十二歳。桂に別業を営んだことから、桂大納言と号される。生前より歌人としての名声は高く、永承四年(1049)の内裏歌合などに参加。後冷泉朝歌壇において指導的立場にあったが、白河朝では冷遇され、後拾遺集の撰進は若い藤原通俊に命が下った。晩年の堀河天皇代には歌壇の重鎮として、嘉保元年(1094)の関白師実歌合などの判者を務めた。歌人の出羽弁は若い頃の年上の恋人。また伊勢大輔や相模とも歌のやりとりがある。歌論書『難後拾遺』の作者とされる。他撰の家集『経信集』がある。博学多才で、詩歌管弦、特に琵琶にすぐれ、有職故実にも通じた。『本朝無題詩』『本朝文集』に漢詩文を残し、また日記『帥記』がある。後拾遺集初出、勅撰入集八十六首。
「かの大納言の歌の風体は、又殊にたけをこのみ、ふるき姿をのみこのめる人とみえ」(俊成『古来風体抄』)
「大納言経信、殊にたけもあり、うるはしくして、しかも心たくみに見ゆ」(『後鳥羽院御口伝』)
春 / 帰雁を
古里とあはれいづくをさだめてか秋こし雁かりの今日かへるらむ(玉葉107)
(ああ、どこを自分の故郷と定めて、秋にやって来た雁は春の今日北へ帰って行くのだろう。)
水上落花をよめる
みなかみに花や散るらむ山川の堰杙ゐくひにいとどかかる白波(金葉62)
(川上で花が散っているのだろうか。谷川の井堰の杭に、ますます盛んな勢いでかかる白波よ。)
殿上花見
春風の山の高嶺を吹き越せば梢も見えぬ花ぞ散りける(玉葉258)
(春風が山の高い頂きを吹き越すので、梢がどこにあるとも知れない花が散っているのだった。)
山花未落といふ事を
うらみじな山のはかげの桜花おそく咲けどもおそく散りけり(風雅259)
(恨みはすまいよ。山の端の葉陰の桜花――遅れて咲いたけれども、散るのも遅いのであった。)
見山花といへる心を
山ふかみ杉のむらだち見えぬまで尾上の風に花の散るかな(新古122)
(山が深いので、群生する杉木立も見えないほど、尾上を吹く風によって花が散り乱れている。)
題しらず
ふるさとの花の盛りは過ぎぬれど面影さらぬ春の空かな(新古148)
(古里の花の盛りは過ぎてしまったけれど、その幻影が消え去ることのない春の空であるなあ。)
後冷泉院の御時、御前にて翫新成桜花といへる心ををのこどもつかうまつりけるに
さもあらばあれ暮れゆく春も雲の上に散ること知らぬ花し匂はば(新古1463)
(どうとでもなれ、暮れてゆく春も――。「雲の上」すなわち内裏で、散ることを知らぬ桜の花が色美しく咲いているのなら。)
春の田をよめる
あら小田に細谷川をまかすればひく注連縄しめなはにもりつつぞゆく(金葉73)
(新しい田に谷川の細流の水を引けば、引き巡らした注連縄を越えて水が溢れてゆくのだ。)
夏 / 卯花
しづの女めが葦火たく屋も卯の花の咲きしかかればやつれざりけり(金葉103)
(賤しい女が葦火を焚く小屋も、卯の花が咲き掛かっているので、みすぼらしくはないのだった。)
応徳元年四月、三条内裏にて庭樹結葉といへる事をよませ給けるに
玉がしは庭も葉広になりにけりこや木綿ゆふしでて神まつる頃(金葉97)
(柏の木が庭にも葉を広げるようになった。これはまあ、榊に木綿(ゆう)を垂らして神を祭る頃というわけか。)
五月五日、薬玉つかはし侍りける人に
あかなくに散りにし花の色々は残りにけりな君が袂に(新古222)
(見飽きないままに散ってしまったさまざまな色の花は、あなたの袂のうちに残っていたのですね。)
永承四年殿上根合に、菖蒲をよめる
よろづ代にかはらぬものは五月雨のしづくにかをる菖蒲なりけり(金葉128)
(万代にわたって不変のものは、五月雨の雫に濡れて香る、軒の菖蒲草なのだなあ。)
山畦早苗といへる心を
早苗とる山田のかけひもりにけり引くしめなはに露ぞこぼるる(新古225)
(早苗を取る山田に引いた樋(とい)――その水が漏れてしまったな。引き渡した注連縄に露がこぼれている。)
題しらず
三島江の入江のまこも雨ふればいとどしをれて苅る人もなし(新古228)
(三島江の入江の真菰(まこも)は、雨が降るので、ますます萎れて、刈る人もいない。)
秋 / 筑紫に侍りける時、秋野を見てよみ侍りける
花見にと人やりならぬ野辺に来て心のかぎりつくしつるかな(新古342)
(花を見ようと、人に行かされたのでなく自分の意志で野辺までやって来て、心の限界まで尽くして花を愛で憔悴してしまった。)
桂にて稲花風を
ひたはへてもる注連縄しめなはのたわむまで秋風ぞ吹く小山田の庵(続古今455)
(引板(ひた)を張り巡らして稲を守る注連縄(しめなわ)――それも撓むまで秋風が吹きつけている、山の田の庵よ。)
師賢朝臣の梅津の山里に人々まかりて、田家秋風といへる事をよめる
夕されば門田の稲葉おとづれて芦のまろ屋に秋風ぞ吹く(金葉173)
(夕方になると、吹きつのる秋風は、門田の稲葉を音立てて訪れ、葦で作った仮小屋の中まで吹き入って来る。)
経長卿の桂の山里にて人々歌よみけるによめる
今宵わが桂の里の月を見て思ひのこせることのなきかな(金葉191)
(今宵、私は桂の里の月を眺めて、心に思い残すことは何もないよ。)
伏見にて望月
さすらふる身はなにぞとよ秋深み生駒の山の月しみつれば(経信集)
(流浪する我が身は何だというのだ。秋も深まった頃、生駒の山に昇った満月を見たのだから。)
永承四年内裏哥合に
月影のすみわたるかな天の原雲吹きはらふ夜はの嵐に(新古411)
(月の光が澄み渡っていることよ。大空の雲を吹き払う夜の嵐によって。)
題しらず
秋ふかみ山かたぞひに家ゐして鹿の音さやに聞けばかなしも(続詞花集)
(秋も深まった季節、山の片側に家住まいして、鹿の声をきわやかに聞くと切ないことよ。)
擣衣をよみ侍りける
ふるさとに衣うつとは行く雁や旅の空にも鳴きてつぐらむ(新古481)
(故郷で私が衣を打っているとは、飛び行く雁よ、旅の空にある夫にも鳴いて告げてくれるだろうか。)
宇治前太政大臣、大井川にまかりたりける、供にまかりて、水辺紅葉といへることをよめる
大井川いは波たかし筏士いかだしよ岸の紅葉にあからめなせそ(金葉245)
(大井川は岩に寄せかかる波が高い。筏士よ、岸の紅葉にわき目をふるな。)
深山紅葉といへる事をよめる
山守よ斧の音たかくひびくなり峰の紅葉はよきてきらせよ(金葉249)
(山の番人よ、斧の音が高く響いて聞こえる。峰の紅葉した樹は避けて切るようにさせよ。)
後冷泉院御時、うへのをのこども、大井川にまかりて、紅葉浮水といへる心をよみ侍りける
ちりかかる紅葉ながれぬ大井川いづれ井せきの水のしがらみ(新古555)
(散り落ちる紅葉が一向に流れない大井川――どこに水を堰き止める柵(しがらみ)があるのだろうか。)
承暦三年おなじ逍遥に、水上落葉を
嵐吹く山のあなたのもみぢ葉を戸無瀬の滝におとしてぞ見る(続古今565)
(嵐が吹く山の彼方の紅葉を、戸無瀬の滝に落として眺めるのだ。)
冬 / 落葉をよめる
三室山もみぢ散るらし旅人の菅のを笠に錦織りかく(金葉263)
(三室山では紅葉が散っているらしい。旅人の菅笠(すげがさ)に錦を織って掛けているよ。)
承保三年十月、大井川の逍遙につかうまつりて詠みてたてまつりける
古のあとをたづねて大井川もみぢのみ船ふなよそひせり(新千載623)
(昔の跡を求めてやって来た大井川――紅葉が水面に浮かんで船出の用意をしています。)
月網代をてらすといふことをよめる
月きよみ瀬々の網代による氷魚ひをは玉藻にさゆる氷なりけり(金葉268)
(月の光が清らかに澄んでいるので、網代に寄って来る氷魚は、美しい藻に冴え冴えと光っている氷であったよ。)
題しらず
初雪になりにけるかな神な月朝くもりかと眺めつるまに(経信集)
(初雪になったなあ。神無月の今日、朝曇りかと眺めているうちに。)
山家の雪の朝といへる心をよみ侍りける
朝戸あけて見るぞさびしき片岡の楢のひろ葉にふれる白雪(千載445)
(朝起き抜けの戸を開けて見るそれが何とも寂しい気持にさせる――片岡の楢の広葉に降り積もっている白雪よ。)
初雪をよめる
初雪は槙の葉しろく降りにけりこや小野山の冬のさびしさ(金葉280)
(初雪は槙の葉を真っ白にして降り積もった。これが世に言う小野山の冬の寂しさなのか。)

雲はらふ比良の嵐に月さえて氷かさぬる真野のうら波(経信集)
(雲を吹き払う比良山おろしの風に月は皓々と冴えて、氷を重ねるように打ち寄せる真野の浦波よ。)
恋 / 題しらず
葦垣にひまなくかかる蜘蛛の網いの物むつかしくしげる我が恋(金葉446)
(葦の垣根に隙間なくかかる蜘蛛の巣のように、鬱陶しく募る我が恋よ。)
雪のあしたに、出羽弁がもとより帰り侍りけるに、おくりて侍る   出羽弁
おくりては帰れと思ひし魂のゆきさすらひて今朝はなきかな
(あなたを送り終えたら帰っておいでと――そう思っていた私の魂ですが、まだ雪の中をさ迷っていて、戻りません。今朝の私は死んでしまったように過ごしています。)
返し
冬の夜の雪げの空に出でしかど影よりほかにおくりやはせし(金葉474)
(冬の夜の雪模様の空に出て、見送ってくれたことは知っていましたが、あなたの姿ばかりでなく魂までが送ってくれたのでしょうか。知りませんでしたよ。)
寄物見恋
忘れずやかざしの花の夕ばえも赤紐かけし小忌をみの姿は(経信集)
(忘れないよ。髪に挿した花が夕影に美しく映えていたのも。赤紐を肩からかけて垂らした、小忌衣(おみごろも)の姿は。)
雑 / 承暦二年内裏歌合によみ侍りける
君が代はつきじとぞ思ふ神風や御裳濯川みもすそがはのすまむかぎりは(後拾遺450)
(我が君の御代はいつまでも続くことと思います。伊勢神宮の御裳濯川の流れが澄んでいる限りは。)
延久五年三月に住吉にまゐりて、帰さによめる
沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづ枝をあらふ白波(後拾遺1063)
(沖では風が吹いたらしいな。住吉の岸辺の松の下枝を洗う白波よ。)
東(あづま)に侍りける人につかはしける
東路あづまぢの旅の空をぞ思ひやるそなたに出づる月をながめて(後拾遺725)
(東国の旅の空を遥かに思い遣ります。そちらの方に昇った月を眺めて。)
題しらず
み山路に今朝や出でつる旅人の笠しろたへに雪つもりつつ(新古928)
(深山の道に今朝出たばかりなのだろうか。旅人のかぶる笠が真白になって雪が降り積もっている。)
家にて、月照水といへる心を、人々よみ侍りけるに
すむ人もあるかなきかの宿ならし蘆間の月のもるにまかせて(新古1530)
(住む人もいるのかいないのか分からない家と見える。蘆の繁る隙間から月の光が池に漏れ射すままに放置して。)
むかし道方卿に具して筑紫にまかりて、安楽寺にまゐりて見侍りける梅の花の、我が任にまゐりて見れば、木の姿は同じさまにて花の老木になりて所々咲きたるをみてよめる
神垣に昔わが見し梅の花ともに老木おいぎになりにけるかな(金葉516)
(神社の垣で昔私が見た梅の花は、私が老いるのと共に、老木になったのだなあ。) 
3
源経信の歌論  

中世歌論における源俊頼歌論の意義については、すでに述べた。俊頼が金葉集の撰進と俊頼髄脳によって、革新的な歌風と歌論を樹立するにあたり、父経信はどのような素地を作り、どのような先駆者的役割を果たしたかを見ていくことにする。
彼は公卿補任や中右記によると承徳元年閏正月六日大納言兼大宰権帥として大宰府で八十二才で麗じた。勅撰和歌集には後拾遺集以下続詞花集に八十七首入部し、帥記(経信卿記または都記)大納言経王卿集などによってその伝記を見ることができる。彼は公任箆後の歌壇において大江匡房と並び「此道之英才、先達也」といわれ、歌合では「たゴ経信一人、天下判者にてならびなし」と称せられる“ほどで、当時の多くの歌合には判者として活動したと思われるが、今日記録に残っている判者としての歌合は、四条宮扇合、寛治三年十五番白三后宮扇合、高陽院殿七番和歌合の少数だけにすぎない。しかし、袋草紙遺編によると、承暦二年四月二十八日の内裡歌合は判者は六条右府(皇后宮大夫源顕房)であるが、経信は左方撰者として出席し、経三三記を引いて批判を加えているから、資料とすることができるであろう。応徳三年九月十六日白河院宣を奉じ、藤原通俊の撰進した後影星野を非難した難平拾遺抄は袋草紙の著者清輔はこれを経信の口授を俊頼が執筆したと推考したが、久松潜一博士は同書の批評内容を吟味することにより経信作であることを推定されている、袋草紙遺編にある逸文後楽遣問答は問は経信卿、答は通俊卿と明記してあるので、明らかに両者の問答と見てよいであろう。
なお、難後拾遺抄が経信の歌論であることについては、同書に、「宇治前太政太臣の家の三十講の歌合に」
と赤染衛門の歌を挙げた次に、
この歌合は右方にてはべりしかば、そのほどのことはくはしうき、たまへしなり。故宮内卿経長は蔵人の弁に相方人にて、その歌どもを四条大納言の長谷にこもりゐられたる所にもてまうでて、とひあはせられけるに云汝
とあるのは、袋草紙上巻にある長元歌合時、経信卿生馴十八也。為三河権守。舎兄経長卿は為蔵論弁。件歌合等ヲ為評定以経長四条大納言長谷二遣之云云という記事の原拠となったものと思われるし、長元歌合は袋草紙遺編の宇治殿十番三十講歌合で、長元八年五月十六日催されているから、軽信二十才で十八才という袋草紙の年令は誤である。前述引用の叙述も、和漢の違いはあるが、同歌合に出席した経信自身の回想としてうなずけるものであろう。更につくし大山寺といふ所にて歌合し侍りけるによめる。元慶法師 と詞書のある歌の次の記述に、
此歌はつくしにはべりしほど、良遅といふそうの、わがよみたるとなんいふとき、て、云汝
と記してあることについて考えると、受信が大納言兼大宰権帥として九州に下ったのは、公卿補任によると嘉保二年七月で、翌々承徳元年蝿じているから、「つくしにはべりしほど」という書き方をしないであろう。これはそれ以前の九州旅行を都で回想したものであり、それは恐らく経信卿集の「昔道方卿にぐしてつくしにまかりて安楽寺に参りて見侍りける醐の梅のまがま、に参りて見れば、木の姿はおなじさまにて花の老木になりて所汝咲きたるを見てしとある時のことであろう。これは大宰権帥になってからのもので、 「昔」といい「老木」という感懐はもっともである。父道方は尊卑分脈によると、長久五年九月二十五日七十七才で麗じ、この年音信は二十九才であるから、経町が難後拾遺抄で「つくしにはべりしほど云汝」と記したのは、この年より前のことである。
難後拾遺抄では後拾遺集に元慶法師を作者とするのは「そらごと」であるとし、「若し元慶法師が良逞が歌を書きて出だしたりけるにやあらん」と述べ、この歌の作者について後拾遺集の撰者通俊に尋ねなどしている点は、やはりこの間の事情に精しい配信でなければ述べ得ないところであろう。前述した久松博士の研究とこの私見とにより難場拾遺抄は経学の歌論であることは動かせないところであろう。たとえ経信の口授を俊頼が筆記したとしても。経信が難後拾遺抄を著わしたのはもっともな事情があった。後陣置集はその序によると、通俊一人で「承保之比奉之、応徳三年九月十六日奏之、其間及十有年」成ったもので、承保の頃(元一三)は書信五十九才から六十一才、通俊は二十九才から三十一才、通俊が勅撰汝者の年令」して若すぎるのに対し、経信は年令的にふさわしく、殊に承保三年大井川三般の御遊には、権中納言経信は所謂三船の才を表わすほどの実力と名声を持っていた。それほどの名声を持っていた経信や匡房に院宣が下らなかったのは、通俊が白河院の「御気色を取って」のことであろう。後拾遺集は撰進後、世人の非難多く、この非難は永続した。八雲御手では、 「親身卿をおきながら、通俊これをうけたまはる、これ末代の不審なり」と仰せられ、これは白河上皇の御意志から発せられたのではなく、通俊が強いて請願したのであると述べられている。このような事情から経信自身も大いに不平を感じ、難後拾遺抄を著わしたと思われる。その成立はもちろん後拾遺集撰進後であるが、通俊は前信里諺二年目の康和二年八月十六日麗じ、袋草紙によると彼は難後拾遺抄を見たと云っているので、この頃既に流布していたようである。俊頼の子俊恵が見つけたのは回信口授の草稿と思われる。以上を資料として彼の歌論を見ていくこととする。  

三代集の歌風に対する革新的な美意識が好忠、経信、俊頼の系列において発展してきたことはすでに述べた。郵信はこの系列発展の上でどのような過程的位置を持つか。
俊頼の秀歌の条件は、俊頼髄脳によると「優なる心を先とし、珍らしきふしを求め、詞をかざる」ところにあり、そのような秀歌の一つの美的内容として挙げるものは「けだかく遠白き」美であった。経信も「めづらし」を重んじていた。
高陽院殿七番和歌合  桜二番
      左持   筑前
くれなみのうす花ざくら匂はずばみな白雲と見てや過ぎまし
      右    中納言匡抄
しら雲と見ゆるにしるしみ吉野の吉野の山の花ざかりかも
に対し、経営は「左の歌は、めづらしきようによまれたれど野馳」といい、この判は結局「持」になったが、その歌合の席に出なかった筑前が、この判に納得せず反駁した陳状に答えた経信は、「くれなみの桜といふ事はおぼろげの人はえ得らじと侍りける、いといはれたる事に侍り。しといって、筑前の歌の知的な構案、趣向について同感し、これは当代における凡人にはその良さは了解できないであろう、いかにももっともなことだと思われると述べている。そして、その良さというのは、「遠くて雲と三つれども、近く過ぐればあさくれなみの花なりけりと侍るは、いとをかしく思ひよられて侍めり」と、今までの歌には見られない清新な情景に魅力を.感じ、これを「めづらし」と評価しているのである。たゴし、左の歌を経信は全面的に支持したのでなく、「おなじくは、雲のあなたに山などといふ遠き心の侍らましかば」といい、なんとなく山などがあったらと一段の情景構成を希望している。なお序でながら、右の歌は孫の俊恵が「これこそはよき歌の本とはおぼえ侍れ、させる秀句もなくかぎれる詞もなけれど、姿うるはしく清げにいひくだして、たけ高く遠白きなり」と絶讃し、いわゆる遠書体の代表的な歌であるが、経信自身後世「大納言経信殊にたけもあり」と賞讃されながら、たゴ「めづらしげなけれど、別の難なければ」と、持にしてしまってこの歌の「たけ高く遠白き」美を押し出すまでに至らなかたのである。いずれにしても歌における知的な要素としての「めづらしげ」ということが強く意識され、これが歌合の判の重要な評価基準になっていたことを知るのである。しかしすべての美的価値が「めづらし」を優位において決定されるのではなく、同歌合郭公六番の
      左勝   信漫
ほととぎす雲居の声は聞く人の心さへこそそらになりけれ
      右    頼綱朝臣
ほととぎす今ぞ鳴くなる隣にも吹きつる笛の音をもとどめて
を「左の、めづらしからねどまさりたりとこそは申さめ。」と「めづらしげしがなくとも勝と直しているのでも知られる。 「めづらしげ」ということは必ずしも経信だけの創始ではなく、後拾三献の編集において和歌の評価基準の再検討が始まっていた。後拾遺集撰者の通俊の判者であった若狭守通宗朝臣女子達歌合は応徳三年三月十九日七条亭で催されたものであるが、二番桜の歌に対し
      左持
さくら咲く春の山べは雪消えぬこしのしらねのこ、ちこそすれ
      右
山さくらちらぬかぎりはしら雪のはれせぬ峯とみえわたるかな
に対し、左歌右のうた「ともにめづらしきふしなけれど云汝」と「めづらしきふし」の有無が評価条件として重要な要素をなしていて、わずか十番の歌合判適中に三個所も取り上げられている。また高熱院殿七首歌合の記録者は、「桜の二番の歌、持にはせらる。なほ左回めづらしきにやあらん。殿(藤原師実)より筑前の君につかはす。」と主催者関白師実が筑前の歌に同情的であったのを記しているのを見ても、当時一般的に清新で新奇な着想の歌を求めていたのがうかがわれる。
しかし、難後拾遺抄や高陽刻殿七首歌合判詞で、経信が積極的に「めづらし」と評価したものは、前述した桜二番の「くれなみのうす花ざくら」という筑前の歌だけで、他はすべて「めづらしからねど」とか、 「めづらしき事も見えねど」というように述べているので、 「めづらし」という内容は明らかでない。この歌に対してはむしろ関白師実などの方がめづらしさを強く.感じていたもののようである。だから、同歌合雪七番の
      左勝   摂津の君
ふる雪に杉の青葉も埋もれてしるしも見えず三輪の山もと
      右    俊頼
ふる雪に谷のかけ橋埋もれてこずゑぞ冬の山路なりける
を「左の歌、いとをかしく縮めり。勝とすべし。」として、楕が山路となったという誇張が俊頼のいわる「新しきふし」であったのであるが、こういう新奇な趣向を経信を始めとする当代の人汝は十分な興味を持たなかったものと思われる。また俊頼自身も独自のよさを発揮できなかった時代であったであろう。
経信の判詞には「めづらし」よりも、「をかし」の方が遙かに多い。 「をかし」は「すさまじ」に対立し、おもしろみや興味を感ずるという概念で、和歌においては、素材の装え方、構案に対する魅力であるから、 「めづらし」と本質的に異なるものではない。だから、同歌合雪一番
      左持   中納言霜
磐代の結べる松にふる雪は春も解けずやあらんとすらん
      右    通俊卿
おしなべて山の白雪積れどもしるきは越の高嶺なりけり
を、「左の歌、いとをかしうよまれて治めり。右の歌、うるはしくよまれたれば、持にも侍らん。」と、万葉集巻二有馬皇子の史的悲劇を象徴するむすびの松に降る雪に対し、 「春も解けずやあらんとすらん」と続けた趣向の面白さを「をかし」と評しているところがらも知ることができる。しかし、筑前が陳状で「さはれをかしきぞ歌はもととて云汝」つまり、歌は「をかしき」を基とする。歌そらごとや、誇張した趣向があってもいいという主張に対し、 「いはれたる」歌でなければならないと説得している。 「いはれたる」は難後拾遺抄にしばしば用いられた語で、落陽院殿七番和歌合にも国詞には見えないが、筑前陳状への返答には二個所も用いている。それは歌の内容がいかにももっともであるという意味で、古今序以来の「たゴごと歌」定家の時評然様に通ずるもので、歌は現実性や論理性を重んじなければならないとする態度で、 ここに「めづらし」「をかし」の内容に限界をおいている経信のことわりを重視をする行き方が了解されるであろう。通俊の「おしなべて」の歌は、歌合の制約のため、「持」にされているうえ、前述したように、経信自身、 「たけあり」とか、俊頼に至って具体化する「遠白し」とかの評語をとっていないから、この歌に対し評価を与えているか十分ではないが、 「うるはしく詠まれたれば」といっているところがらすると、経町としては後拾遺撰者通俊という経緯を超えて、経史を満足させた歌であったと思われる。御裳濯河歌合三番左の西行の歌
おしなべて花の盛りになりにけり山の端ごとにかかる白雲
を俊成は「うるはしくたけ高く見ゆる。−事もなくうるはし。勝とや申すべからん」と絶讃しているが、詠歌一体でも為家は「近代よき歌と申しあひたる歌ども」の筆頭においていることからすると、通俊の歌はこれと通ずるものであるから、これを「うるはし」と評したのである。「うるはし」は端正にして堂汝たる美をいう。それは「たけ高し」という姿がすらりとして格調が高い風格の歌姿に通ずる。経回が前記歌合で「うるはし」と評した歌は、桜一番左
中納言君
山ざくら匂ふあたりの春がすみ風をぼよそに立ちへだてなむ
の一首だけで、その内容を十分究明できないが、十分にことわり正しく言い了え、歌心が言いつくされ、悠揚せまらぬ耳垂を指していると思われる。このような歌が経界の庶幾した歌であったであろう。桜七番の
      左持   摂津君
散りつもる庭をぞ見ましさくら花風よりさきにたつねざりせば
      右    薬頼朝臣
山ざくら咲き初めしょりひさかたの雲居に見ゆる瀧の白糸子俊頼の歌を 「きららかによまれたるように見」 えるからと、持にしたのは、歌合という相対な評価によるものであって、左の歌が「いと心ばへをかしう侍る」にも拘らず、俊頼の歌を「きららか」という長所において称揚しているのである。 「きららか」というのは、絢燗というにはやや堅実であるが、優艶な風情をたけ高く、しかもがっちりと詠んでいるのをさす。我が子の歌に私意を挾んではならないと警戒して負けにしたのであろうが、この歌ははたして左歌に劣るであろうか。「きららか」と言ったのは語の表面的意味としては、「きらびやか」とか「派手」とかと難じる表現になっているが、実質は俊頼の革新的な試みに同感しながら、一座の共感を呼び得ないと考えたのであろう。この歌は俊成の古来風体抄の金葉集の秀歌として、定家の近代秀歌の第二番目に、さらに為家の詠歌一体には、 「たけもあり物にもうつまじからむ姿」で「晴れの歌」として挙げているのである。
同歌合祝七番は
      左持   摂津君
千代経べき君をまもれば春日山神の心ものどけかるらん
      右
落ちたぎつ八十宇治川の早き瀬に岩越す浪は千代の数かも
には判詞がない。祝の歌は藤原氏の氏神春日神社から三笠山、春日山を特に選び祝うならわしがあり、これが勝となるのが例である。それにも拘らずこれを持としたのは、摂津碧にとっては不満であったらく、この歌合に欠席していた筑前君にその夜の模様を語り伝えた伝え方に問題があり、これが筑前の陳状となった。その返答の中で経信は、 「岩越すもめづらしき事には侍らねど、まもるとあるよりは歌とこそ覚え侍れ」と、摂津の君の歌に比較すれば、俊頼の歌の方が詩的であるといい、「なほのたまふ事侍らば、みつからなどこそは申し侍らめ。ひとひの歌の事のたまひけん人に、忍びで見せ給へ」と、かげ口をきいて筑前を刺激した摂津の君に書見と確信を持ってたしなめているのである。この歌は後の歌学書に引例されてはいないが万葉調の歌で、もし判詞が記録されていたら「山ぎくら咲きそめしょり」と同様な評価が示されたであろうと思われる。月七番の右勝とした俊頼の歌
山の端に雲のころもを脱ぎ捨ててひとりも月の立ちのぼるかな
を、「右の歌、まさりて侍めり」と簡単にしるしているが、これは万葉集の求人三子登場を背景として、擬人的に表現した壮大な感銘を与える歌である。これも経信の満足した歌であろう。この歌を筑前は「なでふさることのあらむ。」と難じているが、筑前を含めた当時の歌人には、知的な趣向の「めづらしきふし」を求めようとする動きは広がっていたが、その「ふし」が万葉的な格調をもった経信の「うるはしさ」には追いつけなかったものと考えるべきであろう。経信の自作が「たけ高き」歌として後世賞美されただけでなくこのような短歌美が格調的に「うるはし」として把握され、俊頼、俊恵後色調的に「遠白き」美として充実されていくところに、経信の歌論史的位置を見るべきであろう。
経信の「うるはし」と満足する歌を詠ずるには、 「思ひ入れ、」つまり想のめぐらし方の深さが要求される。それが「よみ知りたる」あるいは「いはれたる」というように論理的に妥当性があり、風情のある短歌内容が形象化されてこなければならないとする。これの欠けるところに「おぼつかなき」非…難が生まれてくる。用語の配列は「すべらか」でなければならない。廷臣、野駈父子の歌が悠揚とした格調に富んでいるのは、島流の始祖としての琵琶の大家経信の音楽的素養によることが大である。
経信はその歌論を体系的に述べていないが、以上、午後拾遺抄および高揚院七首歌合判詞によって彼の歌論を見て来た。経学、俊頼、俊恵の系列における経信歌論の意義を認め得るであろう。 
4
和歌究竟の秘説
帥大納言云はく、「女房の歌読み懸けたる時は、これを聞かざる由を一両度不審すべし。女房また云ふ。かくのごとく云々する間、風情を廻らし、なほ成らずんばまた問ふ。女房はゆがみて云はず。その間なほ成らずんば、『別の事に侍ひけり』とて逃ぐべし。これ究竟《くつきやう》の秘説なり」と云々。
ある説には、「返歌を髣髴《ほのか》にその事となく云ふを、女房聞かざるの由を云ひて、またみさみさと云ふ。なほ聞かざるの由を云ふ時、『別の事に侍ひけり』とて逃ぐべし」と云々。また同じく、「女房のそへ事云ふには、知らざる事ならば、『さしもさぶらはじ』と答ふべし。いかにも相違なき答」と云々。
先年ある女房の許に小貝卅一に歌を一文字づつ書きて、ある人これを送る。女房予に歌を読み解くべきの由を示す。およそ力及ばず。仍りて萩の枝を折りてその葉にその事となき字を卅一、葉ごとに書きてこれを遣はす。件の所にまた読むことを得ず。両三日を経るの間、萩の葉枯れて字見えず。遺恨となすと云々。一説なり。 (『袋草紙』)

帥大納言(源経信)いわく、「女房が歌を詠んできた時は、聞こえなかったからと一、二度聞き直すとよい。女房がまた言ってくる。そうしている間に(返歌を)あれこれ推敲して、まだできなければもう一度聞き直す。そのうち女房のほうはふてくされて言ってくれなくなるが、それでもまだできあがらなければ『別の用事を思い出しました』といって逃げればよい。これ究竟の秘説である」と。
またある説には、「返歌を小さな声で、なにを言っているのかわからないくらいで言うと、女房は聞こえませんでしたと言ってくるから、またごにょごにょと言う。しつこく聞き返してきたら『別の用事を思い出しました』と言って逃げるべし」と。また同様に、「女房がなにか利発なことを言ってきたものの、意味がよくわからないという時には、『ははは、そんなことはありますまい』と言っておけばよい。たいていの場合はうまくはまってくれる」という。
先年、ある人がある女房のもとに小貝三十一枚に歌を一文字ずつ書いて送ってきた。女房は書かれた歌を読み解いてくれと、私のところにそれを持ってきた。さっぱりわからない。そこで萩の枝を折って、その葉の一枚一枚に、三十一文字、でたらめに書き付けてその女房に送ってやることにした。先方もさっぱり読み取ることができない。二、三日もすれば、萩の葉のほうは枯れてしまって、なんの字が書いてあったかもわからなくなる。してやられたと悔しがっていたが、これも一つの手である。 
5
「月隈」
「月隈」という地名についての由来にはいくつかの説があるようですが、そのうちの一つをご紹介します。
寛治5年(1091年)のことだそうです。源経信卿が大宰師に任命され、京から太宰府に向かう途中の8月15日の夜。空は一点の雲もなく晴れて、月の光は夜空に冴えわたっていたそうです。しかし、経信卿が滞在していた館の前には大きな槻(ツキ)の木があり、大きく枝をひろげ、葉をしげらせて月を覆い隠していました。そこで経信卿は人々を呼び、枝を切りはらわさせて、一晩中琵琶を弾き鳴らしては名月を観賞されたそうです。
なお、このとき経信卿がいた場所は隈(山の入り組んだ隅のあたり)だったことから、この地が「ツキグマ」と名付けられたということだそうです。  
6
久遠山地蔵寺
歴史の街、京都。その西部を流れる桂川に面して名園桂離宮がある。八条宮智仁親王が元和年間(17世紀はじめ)に造営した別邸で、明治になり離宮となった。風光明媚な場所で、いまでも緑の多く残る土地である。
その桂離宮からほんの数分の場所に、「京の六地蔵」の一体をまつる桂の地蔵寺が位置する。
寺の開創は明らかではないが、この地で平安時代の貴族桂大納言源経信が桂河原を月の名所として山荘を営み、愛でたという来歴がある。その後、現在も地蔵寺の薬師堂に安置される石造り薬師如来(鎌倉初期の作)がまつられて信仰を集め、やがて寺として成立をしたといわれている。
京の六地蔵は、平安時代の学者で歌人の小野篁(おののたかむら)により仁寿2(852)年に造られたと伝えられる6体の地蔵菩薩のこと。末法の世において地蔵菩薩の慈悲の利益をこうむろうとの発願であったという。
当初は伏見六地蔵(浄土宗大善寺)に6体があったが、後白河天皇が深くこの六地蔵を信仰し、京の守護と民の安全を祈るために平清盛に命じ、清盛は西光法師に命じて京に通じる街道の入口6カ所に一体ずつまつることになったという。そしてこの六地蔵を巡る風習が起こっている。
地蔵寺のお地蔵さまは、山陰道の入口を守る彩色もあざやかな、身の丈約2メートルの大きなみ姿。左手に宝珠(ほうじゅ)を、右手に錫杖(しゃくじょう)を持って微笑んでいる。8月の地蔵盆には民間に伝承される「六斎(ろくさい)念仏」の奉納も行われる。ちなみに、他の5体は、伏見六地蔵(前記・奈良街道)、鳥羽地蔵(西国街道)、常磐地蔵(周山街道)、鞍馬口地蔵(鞍馬街道・浄土宗上善寺)、山科地蔵(東海道)にそれぞれまつられている。 
 
72.祐子内親王家紀伊 (ゆうしないしんのうけのきい)  

 

音(おと)に聞(き)く 高師(たかし)の浜(はま)の あだ波(なみ)は
かけじや袖(そで)の ぬれもこそすれ  
噂に名高い高師の浜のいたずらに立つ波は、かけないように気をつけましょう。袖が濡れると困りますから。 / 噂に高い浮気者のあなたの言葉なんて信用しませんよ。袖を涙で濡らすことになるのは嫌ですから。 / うわさに名高い高師の浜の波は身にかけますまい。袖が濡れては大変ですから。おなじように浮気で名高いあなたのお言葉は心にかけますまい。袖を涙で濡らすのは嫌ですから。 / 噂に名高い高師の浜(現在の大阪府高石市にある浜)の大げさに騒々しく立つ波のように、浮気と名高いあなたに気をつけないと、波で袖が濡れるように、涙で袖を濡らすことになってしまいそうで困りますわ。 / 評判の高い高師の浜の寄せてはかえす波で、 袖を濡らさないようにしましょう。(移り気だと、噂の高いあなたに思いをかけて、わたしの袖を濡らさないように)
○ 音に聞く / 「音」は、噂・評判。
○ 高師の浜 / 「高師」は、大阪府堺市から高石市にある高師浜と評判が高いことを表す「高し」を掛けたもの。
○ あだ波は / いたずらに立つ波。「は」は、強調を表す係助詞。
○ かけじや袖の / 「じ」は、打消意志の助動詞で、〜まいの意。「かけじ」は、「あだ波は」を受けて、「あだ波をかけまい」を表し、また、あなたの言葉を「気にかけまい」ということを表す。「や」は、詠嘆の間投助詞。
○ ぬれもこそすれ / 「こそ」と「すれ」は、係り結びの関係。「ぬれ」は、波で濡れることと涙で濡れることを掛けている。「も」と「こそ」は、強意の係助詞。「もこそ」で、懸念や困惑を表す。「すれ」は、サ変の動詞「す」の已然形で、「こそ」の結び。 
1
祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい、生没年不詳)は、平安時代院政期の女流歌人で、後朱雀天皇の皇女祐子内親王の女房。女房三十六歌仙の一人。一宮紀伊、紀伊君とも呼ばれる。従五位上民部大輔春宮亮平経方の娘とも、藤原師長の娘である堀河院御乳母典侍紀伊三位師子と同一人物ともいわれており父親は定かではない。母は「岩垣沼の中将」の作者祐子内親王家小弁(こべん)。紀伊守藤原重経(素意法師)は兄とも夫とも言われている。
母と同じく祐子内親王家に出仕したこと以外は、伝記的情報はほとんど知られていない。歌人としての活動は、1113年(永久元年)「少納言定通歌合」への出詠まで確認されている。

大久保利通の詠として、
音に聞く高師の浜のはま松も世のあだ波はのがれざりけり
明治時代に高師の浜(現在の浜寺公園付近)の松が薪や材木として伐採されることを嘆いた歌で、この紀伊の歌の本歌取りである。現在は『惜松碑』と呼ばれる石碑が建てられている。
堀河院御時艶書合によめる   中納言俊忠
人しれぬ思ひありその浦風に なみのよるこそいはまほしけれ
返し   一宮紀伊
音にきくたかしのはまのあた波は かけしや袖のぬれもこそすれ (『金葉和歌集』、百人一首) 
2
祐子内親王家紀伊 生没年未詳 別称:一宮紀伊
父は散位平経重とも言い(作者部類)、従五位上民部大輔平経方とも言う(尊卑分脈)。母は歌人として名高い小弁。紀伊守藤原重経の妻(袋草紙)、または妹(和歌色葉)。母と同じく後朱雀天皇皇女高倉一宮祐子内親王家に出仕する。長久二年(1041)の祐子内親王家歌合、康平四年(1061)の祐子内親王家名所合、承暦二年(1078)の内裏後番歌合、嘉保元年(1094)の藤原師実家歌合、康和四年(1102)の堀河院艶書合、永久元年(1113)の少納言定通歌合などに出詠した。『堀河院百首』の作者。家集『一宮紀伊集(祐子内親王家紀伊集)』がある。後拾遺集初出。勅撰入集は三十一首。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも歌をとられている。
京極前太政大臣家の歌合によめる
朝まだき霞なこめそ山桜たづね行くまのよそめにも見む(詞花21)
(朝早くから霞よ立ちこめてないでおくれ。山の桜を目指して出掛けてゆくのだから、道々、遠目からも眺めて行きたい。)
堀河院御時の艶書合けさうぶみあはせによめる   中納言俊忠
人知れぬ思ひありその浦風に波のよるこそ言はまほしけれ
(人知れず抱いている思いがあります。有磯海の激しい浦風に波が寄せるように、恋心がしきりと寄せる夜にこそ、この思いを打ち明けたいものです。)
返し
音に聞く高師の浦のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ(金葉469)
(噂に高い高師の浦のあだ波は我が身に掛けますまいよ。袖が濡れてしまいますから。――そのように、浮気な人の言葉など、心に掛けますものか。涙で袖が濡れてしまいましょう。)
人の夕方まうでこむと申したりければよめる
うらむなよ影見えがたき夕月夜ゆふづくよおぼろけならぬ雲間まつ身ぞ(金葉483)
(恨まないで下さい。今日の夕方は、月の見えにくい朧月夜――雲が晴れるまで待たなくてはならない我が身です。)
思ふ事ありてよみ侍りける
恋しさにたへて命のあらばこそあはれをかけむ折も待ちみめ(玉葉1815)
(この恋しさに耐えて、生き延びることができたなら、その時は、あの人が情けをかけてくれるのを待ってみよう。でも、今は辛くてとても生きていられそうにない。)
海路
舟とめて見れどもあかず松風に波よせかくる天の橋立(堀河百首)
(ゆっくり景色を眺めたくて舟を漕ぐのを止めてもらったが、いくら見ても飽きることなどない。風は海辺の松を吹き、その風に波が立っては寄せる、天の橋立は。) 
3
父は散位平経重(従五位上民部大輔平経方説もあり)で、母は歌人として名高い小弁の娘です。そして、紀伊守藤原重経の妻とも妹とも言われています。兄が紀伊守(きのかみ)だったので紀伊(き)と呼ばれていました。また、母の小弁と同じく後朱雀天皇皇女高倉一宮祐子内親王家に出仕したので「祐子内親王家に仕える紀伊」というのが通称となっています。最初に出仕したのは後朱雀天皇の中宮ゲン子(げんし/一条天皇の中宮 定子の孫/「ゲン」は「女」偏に「原」)だったので「中宮の紀伊」と呼ばれていたのですが、ゲン子中宮の娘の子祐子内親王に仕え、高倉邸に住んだので「高倉一宮紀伊」「一宮紀伊」とも呼ばれていました。
祐子内親王の後見が藤原頼通(藤原道長の子で摂政・関白・太政大臣も務めました)だったので、一宮家の羽振りはよく歌合せはなどの行事が盛大に度々行われたようです。
この歌は「堀河院御時 艶書合によめる」の詞書があります。つまり、康和4年(1102)に開催された堀川院の艶書合わせの歌会で、返事として詠んだ「返し」の歌。艶書合わせの歌会と聞くと隠微な響きがありますが、いわばラブレターとしての歌の読み方講習会のようなものでしょう。
この場で中納言俊忠(藤原俊成の父)が
人知れぬ思ひありその浦風に 波のよるこそいはまほしけれ
(人は知らないでしょうが、恋に悩んでいますので風に寄る波のように、貴方の元へ通いたいものだ)と歌ったのに対しての返歌です。「噂に高い、高師(たかし)の浜にむなしく寄せ返す波にはかからないようにしておきましょう。袖が濡れてしまうだけですからね」=「浮気者だと噂に高いあなたの言葉なぞ、心にかけずにおきましょう。後で涙にくれて袖を濡らすだけでしょうから」
この時、俊忠は29歳で紀伊は70歳くらいだったということで、その感性の瑞々しさには驚かせられます。勿論、本気での恋歌ではなくあくまでも文学上でのやりとりなのですよ。「艶書合せ」では現実とは関係なく男性が言い寄って、それを女性がはねつけるというあんうんの形式があったようです。王朝も末期になるにつれて歌の方も万葉集にみられたような精神的な希求が消えて技巧を競うようなゲーム化していったのでしょう。しかし、それはそれで倦怠味を帯びた華やかな王朝文化が感じられるものです。
この歌の舞台となった和泉国高師浜は、今の大阪府堺市浜寺か高石市におよぶ一帯です。昭和の半ば頃までは関西の風光明媚な別荘地でした。現在では残念ながら埋め立てが進み、かっての風情はありませんが、高級住宅地の一角には仄かに漂うものもあります。
紀伊は当時の歌人として有名で、種々の歌会の記録に名前を残したほか『堀河院百首』の作者でもあり『一宮紀伊集(祐子内親王家紀伊集)』の家集があります。
私生活については殆ど記録が発見されていませんが、この高師浜の歌が70歳くらいの頃のものであるならかなりの長命で雅に心豊かな生涯を過ごしたことと思われます。 
 
73.権中納言匡房 (さきのちゅうなごんまさふさ)  

 

高砂(たかさご)の 尾(を)の上(へ)の桜(さくら) 咲(さ)きにけり
外山(とやま)の霞(かすみ) 立(た)たずもあらなむ  
遠くの山の峰の桜が咲いたことだ。人里近い山の霞よ、立たないでほしい。 / 遠くの高い山の頂きに山桜が美しく咲いたなあ。近いところの山の霞よ、どうか立たないでおくれ。あの美しい山桜が見えなくなってしまうから。 / はるかかなたに見える山の峰に桜が咲いたなぁ。その桜が見えなくなると困るから、人里近い山の霞よ、どうか立ち込めないでおくれ。 / 高砂の峰にも桜の花が咲いたようだから、(その桜を見たいので) 手前の山の霞よ、どうか立たないようにしてくれないか。
○ 高砂の尾の上の桜 / 「高砂」は、砂が高く盛り上がった場所。「尾の上」は、峰の上。ともに普通名詞であり、特定の場所を表す固有名詞ではない。播磨の高砂とする説もあるが、『後拾遺集』の詞書に「遥かに山の桜を詠める」とあること、及び、播磨の高砂は瀬戸内海沿岸部であり、松の名所であって桜の名所ではないことから、地形的に合致しない。
○ 咲きにけり / 「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けり」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞。
○ 外山の霞 / 「外山」は、深山(みやま)・奥山の対義語で、人里近い山。この場合、桜が咲いた遠くの高い山の手前にある低い山。「霞」は、空気中に浮かぶ小さな水滴やちりなどによって遠くのものが見えなくなる現象で、春に現れるものをいう(秋は霧)。
○ 立たずもあらなむ / 「ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「も」は、強意の係助詞。「なむ」は、他者に対する願望を表す終助詞。 
1
大江匡房(おおえのまさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥ごうのそつと号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。
大江氏は古くから紀伝道を家学とする学者の家柄であり、匡房も幼少のころから文才があったと伝えられる。正房の詩文に関する自叙伝『暮年記』の中で「予4歳の時始めて書を読み、8歳のときに史漢に通ひ、11歳の時に詩を賦して、世、神童と謂へり」と書いている。早くも天喜4年(1056年)16歳にして省試に合格して文章得業生に、康平元年(1058年)に対策に及第し、康平3年(1060年)には治部少丞・続いて式部少丞に任ぜられ、従五位下に叙せられた。
その後は昇進が止まり、一時隠遁しようとするが、藤原経任の諫止により思いとどまり、治暦3年(1067年)、東宮・尊仁親王の学士に任じられる。学士を務める中で尊仁親王の信頼を得て、治暦4年(1068年)に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると蔵人に任ぜられる。翌延久元年(1069年)、左衛門権佐(検非違使佐)・右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得る。また、東宮・貞仁親王(のち白河天皇)の東宮学士も務める。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした。
延久4年12月(1073年1月)の白河天皇の即位後も引き続き蔵人に任ぜられるとともに、善仁親王(のち堀河天皇)の東宮学士となり三代続けて東宮学士を務める。また、弁官にて累進し応徳元年(1084年)に左大弁に任ぜられ、応徳3年(1086年)に従三位に昇叙され公卿に列す。この間の承暦2年(1078年)、自らの邸宅に江家文庫を設置している。
堀河朝に入ると、寛治2年(1088年)に正三位・参議、寛治8年(1094年)に従二位・権中納言と順調に昇進する。この間、寛治4年(1090年)には堀河天皇に漢書を進講している。永長2年(1097年)、大宰権帥に任ぜられ、翌承徳2年(1098年)、大宰府へ下向する。康和4年(1102年)には大宰府下向の労により正二位に叙せられるが、まもなく大宰権帥を辞任した。長治3年(1106年)、権中納言を辞して、再度大宰権帥に任ぜられる。鳥羽天皇の天永2年(1111年)、大蔵卿に遷任されるが、同年薨去した。

○ 大江氏の再興を願う匡房にとって、大江維時以来途絶えていた公卿の座に自らが就いたことは大きな喜びであった。惟宗孝言が大学者として知られていた匡房の曾祖父大江匡衡について尋ねたところ、匡房は自分が意識しているのは維時のみであると述べて暗に匡衡は評価に値しないことを示した。これは匡衡の位階が正四位下に終わった事から、公卿を目指す匡房には目標たるべき人物ではないと見ていたと考えられている。
○ 『続拾遺和歌集』(巻7 賀438)には匡房誕生時にまだ健在であった曾祖母の赤染衛門(匡衡の未亡人)が曾孫の誕生を喜ぶ和歌が載せられている。
○ 大江氏の祖・大江音人を阿保親王の子とする伝承を作成したのは、匡房であるという説がある(今井源衛説)。
○ 学才を恃まれ多くの願文の代作をし、それらをまとめた江都督納言願文集が残る。
○ 和歌にも優れ、『後拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に114首の作品が収められている。歌集に『江帥集』、著書に『洛陽田楽記』『本朝神仙伝』がある。また『江談抄』は、彼の談話を藤原実兼(信西の父)が筆記したものである。
○ 兵法にも優れ、源義家の師となったというエピソードもある。前九年の役の後、義家は匡房の弟子となり兵法を学び、後三年の役の実戦で用い成功を収めた。『古今著聞集』(1254年成立)や『奥州後三年記』(1347年成立)に見える話である。
○ 高砂の 尾の上の桜 咲きにけり とやまの霞 立たずもあらなむ (百人一首、『後拾遺和歌集』) 
2
大江匡房 長久二〜天永二(1041-1111) 号:江師(ごうのそち)
匡衡・赤染衛門の曾孫。大学頭従四位上成衡の子。母は宮内大輔橘孝親女。神童の誉れ高く、天喜四年(1056)、十六歳で文章得業生に補せられる。治暦三年(1067)、東宮学士として尊仁親王(即位して後三条天皇)に仕えたのを始め、貞仁親王(白河)、善仁親王(堀河)と三代にわたり東宮学士を勤めた。左大弁・式部大輔などを経て、寛治八年(1094)六月、権中納言に至り、同年十一月、従二位に進む。永長二年(1097)、大宰権帥を兼任し、翌年筑紫に下向。康和四年(1102)、正二位に至る。長治三年(1106)、権中納言を辞し、大宰権帥に再任されたが、病を理由に赴任しなかった。天永二年(1111)七月、大蔵卿に任ぜられ、同年十一月五日、薨じた。平安時代有数の碩学で、その学才は時に菅原道真と比較された。稀有な博識と文才は、『江家次第』『狐媚記』『遊女記』『傀儡子記』『洛陽田楽記』『本朝神仙伝』『続本朝往生伝』など多数の著作を生み出した。談話を録した『江談抄』も残る。漢詩にもすぐれ、『本朝無題詩』などに作を収める。歌人としては承暦二年(1078)の内裏歌合、嘉保元年(1094)の高陽院殿七番歌合などに参加し、自邸でも歌合を主催した。『堀河百首』に題を献じて作者に加わる。また万葉集の訓点研究にも功績を残した。後拾遺集初出。詞花集では好忠・和泉式部に次ぎ第三位の入集数。勅撰入集百二十。家集『江帥集』がある。
春 / 堀河院御時、百首歌奉り侍りけるに、春立つ心をよめる
氷ゐし志賀の唐崎からさきうちとけてさざ波よする春風ぞ吹く(詞花1)
(凍りついていた志賀の唐崎の汀(みぎわ)はすっかり氷がとけて、さざ波を寄せる春風が吹いている。)
堀川院御時、百首の歌奉りけるとき、残雪をよめる
道絶ゆといとひしものを山里に消ゆるは惜しきこぞの雪かな(千載4)
(冬の間は道が途絶えて煩わしく思っていたのに、こうして山里にも春がおとずれてみると、消えてしまうのが惜しくなる、去年の雪であるよ。)
堀川院の御時、百首の歌のうち、霞の歌とてよめる
わぎも子が袖ふる山も春きてぞ霞の衣たちわたりける(千載9)
(「妻が袖をふる山」という布留(ふる)の山も、春になって、白い衣を纏うように霞が立ちこめたなあ。)
堀川院御時、百首の歌奉りけるとき、梅の花の歌とてよめる
にほひもて分わかばぞ分わかむ梅の花それとも見えぬ春の夜の月(千載20)
(どの辺に咲いているか、匂いでもって区別しようと思えば出来るだろう。春夜の朧月の下、それと見わけがつかない梅の花だけれど。)
百首歌の中に、柳を
さほ姫のうちたれ髪の玉柳ただ春風のけづるなりけり(玉葉92)
(佐保姫の長い垂れ髪のような柳は、ただ春風が櫛でとくばかりで、こんなに美しく打ちなびいているのだ。)
堀川院の御時、百首の歌奉りけるとき、春雨の心をよめる
よもの山に木の芽はる雨ふりぬればかぞいろはとや花のたのまむ(千載31)
(四方の山に春雨が降り、木の芽をふくらませるので、花は春雨を父母と頼りにするのだろうか。)
京極前太政大臣の家に歌合し侍りけるによめる
白雲と見ゆるにしるしみよしのの吉野の山の花ざかりかも(詞花22)
(山に白雲がかかっているように見えるのではっきり分かる。吉野の山の花盛りなのだ。)
遥見山花といへる事をよめる
初瀬山雲ゐに花のさきぬれば天の川波たつかとぞみる(金葉51)
(遥かに眺めれば初瀬山は雲の上に桜の花が咲いたので、天の川に波が白く立っているのかと思うよ。)
故郷花といふことを
桜さく奈良の都を見わたせばいづくもおなじ八重の白雲(玉葉186)
(桜の咲いた奈良の旧都を見渡すと、どこもかしこも同じだ。白雲、白雲。幾重もの白雲。)
内のおほいまうちぎみの家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥かに山桜を望むといふ心をよめる
高砂のをのへの桜さきにけり外山の霞たたずもあらなん(後拾遺120)
(遥かに山並を眺めやれば、高い峰の上の方に、桜が咲いているなあ。こっち側の里近い山に、霞が立たないでほしいよ。)
堀川院の御時、百首の歌奉りける時、桜をよめる
山桜ちぢに心のくだくるは散る花ごとにそふにやあるらむ(千載84)
(山桜を思って、心は千々に砕けてしまった。花びらの一枚一枚に、私の心のカケラが連れ添って散ってゆくとでもいうのか。)
堀川院の御時、百首の歌奉りける時、春の暮をよめる
つねよりもけふの暮るるを惜しむかな今いくたびの春と知らねば(千載134)
(三月晦日、いつにもまして今日の暮れるのが惜しまれるよ。このあと何度めぐり逢えるかわからない春だから。)
夏 / 卯花連垣といへる事をよめる
いづれをかわきてとはまし山里の垣根つづきにさける卯の花(金葉99)
(どこがその家と区別して訪ねよう。山里の家々は、見わたす限り卯の花が垣根につらなって咲いている。)
秋 / 題しらず
たとふべきかたこそなけれわぎも子が寝くたれ髪の朝顔の花(新千載371)
(何に喩えても言い表しようがない。寝乱れた髪をした妻の「朝顔」ではないが、朝顔の花は。)
題しらず
妻恋ふる鹿のたちどを尋ぬればさ山がすそに秋風ぞふく(新古441)
(妻を恋しがって鹿が鳴く。その声をたよりに、鹿のいる場所を求めて野を行くと、狭山の山裾には秋風が吹いていた。)
題しらず
秋来れば朝けの風の手をさむみ山田の引板ひたをまかせてぞ聞く(新古455)
(もう秋になったので、夜明けの風は手に寒く、引板を鳴らすのも辛い。風の吹くのに任せ、板が音を立てるのを聞くばかりだ。)
承暦二年内裏歌合に、紅葉をよめる
龍田山ちるもみぢ葉を来て見れば秋は麓にかへるなりけり(千載385)
(龍田山に来て、紅葉した葉の散るのを見てわかった。秋が帰ってゆく先は、山の麓だったのだ。)
冬 / 堀川院の御時、百首の歌奉りける時よめる
高砂のをのへの鐘の音すなり暁かけて霜やおくらむ(千載398)
(高砂の峰の上から鐘の音が聞えてくる。暁にかけて霜が降りたのだろう。)
深山の霰あられをよめる
はし鷹の白ふに色やまがふらんとがへる山に霰ふるらし(金葉276)
(はし鷹の毛の白い斑点に色を見間違えるだろうか。鳥屋(とや)に籠っている山に、霰が降っているようだ。)
賀 / 承暦二年内裏歌合に、祝の心をよみ侍りける
君が代は久しかるべしわたらひや五十鈴の川の流れ絶えせで(新古730)
(陛下の御代は、末永く続くに違いありません。度会(わたらい)の五十鈴川の流れは絶えることなく――。)
寛治二年、大嘗会屏風に、鷹の尾山をよめる
とやかへる鷹の尾山の玉つばき霜をばふとも色はかはらじ(新古750)
(鷹の尾山の美しい椿は、いくたび霜に逢っても、色は変わることがないでしょう。)
天仁元年大嘗会悠紀方、近江国石根山
石根いはね山やま藍あゐにすれる小忌をみ衣ごろも袂ゆたかに立つぞうれしき(新千載2363)
(石根山に生える山藍で摺った小忌衣が袂を広々と裁っているように、豊かな御代にあって皇位にお立ちになることを嬉しく存じます。)
離別 / 堀川院の御時、百首の歌奉りける時、別れの心をよみ侍りける
行末を待つべき身こそ老いにけれ別れは道の遠きのみかは(千載480)
(あなたといつか再びお逢いできるとしても、その将来を待つべき自分の身は年老いてしまった。別れは道が遠いだけではない。恐らく生と死を隔てることになるのだ。)
思ふ人のあづまへまかりけるを、逢坂の関まで送るとて
かぎりあれば八重の山路をへだつとも心は空にかよふとをしれ(玉葉1119)
(お供するのも限りがあるので、ここでお別れです。幾重にも重なる山道を隔てても、心は空を往き来してあなたのもとへ通っているのだと知ってください。)
哀傷 / 五月のころほひ、女におくれ侍りける年の冬、雪のふりける日よみ侍りける
わかれにしその五月雨の空よりも雪ふればこそ恋しかりけれ(後拾遺571)
(あの人と別れた日、雨がしきりに降っていた。涙にかき暮れて眺めたあの梅雨空が切なく思い出される。…あれから時が経ち、冬になって、雪の降る寒空を見上げれば、いっそうあの人のことが恋しいのだ。)
右衛門督基忠かくれ侍りてのち、後家につかはしける
花とみし人はほどなく散りにけり我が身も風をまつとしらなん(千載570)
(盛りの花と思っていた人は、程なく散ってしまいました。私も風を待つばかりの身と知ってください。)
顕仲卿、むすめにおくれて嘆き侍りけるころ、程へて問ひにつかはすとてよめる
その夢をとはば嘆きやまさるとておどろかさでも過ぎにけるかな(金葉616)
(夢のようなその出来事を尋ねたなら、よけい嘆きが増すばかりかと思って、訪問もせずに過ごしてしまいましたよ。)
雑 / 頼綱朝臣、津の国の羽束はつかといふ所に侍りける時、遣はしける
秋はつるはつかの山のさびしきに有明の月を誰と見るらん(新古1571)
(秋も終りの九月二十日頃、羽束(はつか)の山はきっと寂しげな様子でしょう。あなたは有明の月を誰と見るのでしょう。)
周防内侍尼になりぬと聞きて、いひつかはしける
かりそめのうきよの闇をかき分けてうらやましくもいづる月かな(詞花370)
(仮初めのものにすぎない現世の闇の中をかき分けて進み、うらやましいことに、その外へと出て行った月なのだあなたは。)
堀河院御時、百首歌奉りける中に
百ももとせは花にやどりて過ぐしてきこの世は蝶てふの夢にぞありける(詞花378)
(百年もの間、花を住み家に借りて過ごしてしまった。やはりこの世は蝶の見る夢だったのだなあ。) 
3
暮年記
予四歲始讀書,八歲通史漢,十一賦詩,世謂之神童。源大相國,風月之主,社稷之臣也。試賜雪裏看松貞之題。此日,時棟朝臣在座,筆不停滯,文不加點。相府深賞歎之,幸賜汲引之恩。宇治前大相國又為被賦詩,忝有徵辟。雖豫參,不賦之。依當相府忌月也。【十二月。】此日,相予曰:「履地踰人。必至大位。」故肥前守長國朝臣,予先祖李部大卿之門人也,長於文章。時在任國,見予詩草,送書相副賀之。十六作秋日閑居賦。故大學頭明衡朝臣,深以許焉。常曰:「期鋒森然,定少敵者。」後作落葉埋泉石詩,感曰:「已到佳境。」予後日見之,未盡其美。然而感先達名儒如此,故文章博士定義朝臣謂予師右大辨定親朝臣曰:「定義始不許,江茂才文,近日製作可謂日新。故都督源亞相久好鑽仰,兼知文章。見予文章,必加褒美。」馬嘶吳坂之風,龜拤廬江之浪。予昇進之間,加吹噓之力。前肥前守時網朝臣深得詩心,見予前大相國表并源右相府室家源二位願文曰:「殆近江吏部文章,故伊賀守孝言朝臣掃部頭佐國提攜於文浮沉於道,蓋後進之領袖也。」見予圓コ院願文并前大相國關白第三表,深感歎,故式部大輔實綱朝臣,雖不深文章,猶非無感激。見予高麗返條而心伏。右中辨有信朝臣,頗得詩心。見予文章,泣而感之。爰頃年以來,此人皆物故,識文之人,無一人存焉。司馬遷有謂曰:「為誰為之,令誰聞之。」蓋聞匠石輟斧於野人,伯牙絕絃於鍾子。何況風騷之道,識者鮮焉。巧心拙目,古人所傷。ェ治以後文章,不敢深思。唯避翰墨之責而已。若夫心動於內,言形於外,獨吟偶詠,聊成卷軸。仍記由緒,始於來葉。
右暮年記,以朝野群載并本朝續文粹所收同記校合畢。 
4
傀儡子記
傀儡子者,無定居、無當家,穹廬氈帳,逐水草以移徙,頗類北狄之俗。男則皆使弓馬,以狩獵為事。或跳雙劍弄七丸,或舞木人、闘桃梗,能生人之態,殆近魚龍曼蜒之戲。變沙石為金錢,化草木為鳥獸,能誑人目。女則為愁眉、啼粧,折腰步,齲齒咲,施朱傅粉,倡歌淫樂,以求妖媚。父母夫聟不誡告,亟雖逢行人旅客,不賺一宵之佳會。徵嬖之餘,自獻千金繡服錦衣、金釵鈿匣之具,莫不異有之。不耕一畝田,不採一枝桑,故不屬縣官,皆非土民。自限浪人,上不知王公,傍不怕牧宰。以無課役,為一生之樂。夜則祭百神,鼓舞喧嘩,以祈福助。
東國美濃、參川、遠江等黨,為豪貴。山陽播州、山陰馬州等黨次之。西海黨為下。其名儡,則小三、日百、三千載、萬歲、小君、孫君等也。動韓娥之塵,餘音繞梁,聞者霑纓,不能自休。今樣、古川樣、足柄、片下、催馬樂、K鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、滿固、風俗、咒師、別法等之類,不可勝計。即是天下之一物也,誰不哀憐者哉。
傀儡子記2
傀儡子は、定居無く、當家無し。穹廬氈帳し、水草を遂て以て移徒するは、頗る北狄の俗に類す。
(傀儡子は、定まった住処や、しかるべき家を持たない。天幕を張り、毛織物をとばりとし、水草を追うように移住していくことは、北狄の風俗によく似たものである。)
男は則ち皆弓馬を使ひ、狩猟を以て事と為す。或は双剣七丸を弄し、或は木人を舞はせ、桃梗を闘はせ、生人の態を能くすること、殆ど魚龍曼蜒之戯に近し。沙石を變じて金銭と為し、草木を化して鳥獸と為す。
(男は皆弓を持って馬に乗り、狩猟を行って仕事にしている。あるいは、剣舞やお手玉の技を見せる。また、木の人形を舞わせたり、操り人形を闘わせたりして、生きた人間の様子を模すことは、ほとんど、書物にある散楽の『魚龍曼蜒之戯』に近いのでは、と思われる。砂利を金銭に変えたり、草木を鳥や獣に変えもする。)
□□□女は則ち愁眉に啼くを為し、折腰の歩を粧ひて、齲齒のごとく咲ふ。朱を施し粉を傅す。倡哥淫樂し、以て妖媚を求む。父母夫誡せざるを知る。丞ち行人に逢ふと雖も、振容を嫌はず。一宵の佳會、微嬖の餘、自ずから金繍服錦、金釵鈿匣の具を献ずれば、之を異に有せざるはなし。
(女は、細く愁わしげな眉、泣き跡の残るような目元をつくり、しなしなと腰を折って歩き、物憂く微笑み、紅を差し白粉を塗って、魅惑的な歌舞戯で媚を振りまく。父母や夫が戒めないことを知っているので、行きずりの者にも愛想よく微笑んでみせる。客は一夜のこころよい酒席のあとで、想いの余りに豪華な衣装や宝飾品を贈るが、女の方では、大概のものは既に同じ品を持っている。)
一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らずして、故に縣官にも属さず。皆土民に非じ、自ら浪人と限ず。上は王公を知らずして、傍の牧宰も怕れず。課役の無きを以て一生の樂と為す。夜は則ち百神を祭り、鼓舞喧嘩を以て福助を祈る。
(耕作も養蚕もすることはなく、その為、県官の管理を受けない。皆土地に根付いた者ではなく、自らを浪人と思い定めている。雲の上の上達部はおろか、身近な国司さえ恐れない。租税を課されない人生を幸せだと思っている。夜は多くの神を祭り、鳴り物入りで踊り騒いで、幸運を祈る。)
東国は美濃参河遠江等の黨を豪貴と為し、山陽の播州、山陰の馬州土黨これに次ぐ。西海黨を下と為す。其名儡則ち小三、日百、三千載、萬歳、小君孫君等也。韓娥の塵を動かし、餘音の梁を繞るを聞かば、霑纓自ら休むこと能わず。
(東国の、美濃、三河、遠江などに威勢のある一党がおり、山陽の播磨、山陰の但馬がこれに次ぐ勢力をもっている。西海の集団はこれらよりは劣っているといわれる。名のある傀儡子は、小三、日百、三千載、萬歳、小君、孫君などである。彼女らの歌声は、いにしえの歌姫韓娥のごとく塵を震わせ、余韻はいつまでも梁をめぐる。それを聞く者は、思わず、冠の纓(えい)を止めどなく濡らしてしまう。)
今樣、古川樣、足柄片下、催馬樂、里鳥子、田哥、神哥、棹哥、辻哥。満周[ィ固]、風俗、咒師、別法士の類、勝れるを計るべからず。即ち是れ天下の一物なり。誰かは哀憐せざらん哉。
(今様、古川様、足柄片下、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満周、風俗、咒師、別法師の類は、いずれが優れているか、はかることはできない。これらは天下に誇るべきもので、哀れと思い、いつくしまない者はない。)
傀儡子記3
傀儡子は、定まれる居なく、当(マモ)る家なし。穹盧氈帳、水草を逐ひてもて移徙す。頗る北狄の俗(ナライ)に類(ニ)たり。男は皆弓馬を使へ、狩猟をもて事と為す。或は双剣を跳らせて七丸を弄び、或は木人を舞はせて桃梗を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜒の戯に近し。沙石(幻術)を変じて金銭となし、草木を化して鳥獣と為し、能く人の目を□す。女は愁眉・啼粧・折腰歩・齲歯咲を成し、朱を施し粉を傳け、倡歌淫楽して、もて妖媚を求む。父母夫聟は誡□せず。亟行人旅客に逢ふといへども、一宵の佳会を嫌はず。徴嬖の余に、自ら千金の?の服・錦の衣、金の釵(カンザシ)・鈿の匣の具を献ずれば、これを異(ウヤマ)ひ有(ヲサ)めざるはなし。一畝の田も耕さず、一枝の桑も採まず。故に県官に属かず、皆土民に非ずして、自ら浪人に限(ヒト)し。上は王公を知らず。傍牧宰を怕れず。課役なきをもて、一生の楽と為せり。夜は百神を祭りて、鼓舞喧嘩して、もて福の助を祈れり。
東国は美濃・参川(三河)・遠江等の党を、豪貴と為す。山陽は播州、山陰は馬州等の党、これに次ぐ。西海の党は下と為せり。その名のある儡(クグツ)は、小三、日百、三千載・万歳。小君・孫君等なり。韓娥の塵を動かして、余音は梁を繞る。聞く物は纓を霑して、自ら休むこと能はず。今様・古川様・足柄・片下・催馬楽・黒鳥子・田歌・神歌・棹歌。辻歌・満固・風俗・咒師・別法等の類は、勝げて計ふべからず。即ちこれ天下の一物なり。誰か哀憐せざらむや。
くゞつには定まった家がない。テント住居をしながら水草を逐って流れ歩いて行く。その様子は頗る北狄(蒙古人)の風俗に似ている。男は皆弓馬を習ひ、狩猟を事とする。或は双剣を跳ね上げ、匕(アイクチ)を弄び、また木人(人形)を舞はし、桃梗(これも人形)を闘はせて、まるで生きた人間のやふにあつかふ。或は沙石を変じて金銭となし、草木を化して鳥獣となし、人目をおどろかす。女は様々のメーキャップよろしくあって、みだらな歌を歌ひ、淫楽の友として媚びを売る。親も亭主もそれを一向苦にしない。行人旅客と逢って一夜の佳会をなすことも敢て辞さない。客は可愛さの余り、千金でも与える。そこで錦?の衣装から、金のかんざし装身具の類まで、何でもかでも持たぬものはない。彼等は一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らない者で、県官の支配を受けないから、土民ではなく流浪の民だ。上に王公のあるを知らず、少しも地方の役人を怖れない。課役もないので、一生を安楽に暮らしてゐる。夜は百神を祭り、太鼓をたゝき踊り騒いで神の助けを祈る。東国の美濃、三河、遠江などのやからが最も豪気なもので、山陽の播磨、山陰の但馬などのやからがその次、西海(九州)のやからは最下等とされてゐる。名高いくゞつ(あそびめ)には、小三、百三、千歳、萬歳、小君、孫君などがある。何れも歌舞に妙を得て音声いとも美しく、聞く者感に堪えざるものがある。今様、古川様、足柄、竹下、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満週、風俗、咒師、別法士の類、何でもやる。これも天下の一物だ。誰か哀れをもやうさぬものがあろう。
大江匡房の遊女記が河川に屯した遊女群を描いているのに対し、同じ筆者が同時期に記したとされるこの『傀儡子記』は平安期より、陸を拠点とした、売笑を生業の一つとした人形使いの集団を述べています。
遊女記で匡房は遊女を随分好意的に見つめているのに対し、傀儡子記では客観的に、この得体の知れぬ一族を眺めているようです。 
5
遊女記
自山城國與渡津,浮巨川西行一日,謂之河陽。往返於山陽、南海、西海三通之者,莫不遵此路。江河南北,邑邑處處,分流向河內國,謂之江口。蓋典藥寮味原樹,掃部寮大庭庄也。到攝津國,有神崎蟹嶋等地,比門連戶,人家無絕。倡女成群,棹扁舟看撿舶,以薦枕席。聲過溪雲,韻飄水風,經迴之人,莫不忘家。州盧浪光,釣翁商客,舳艫相連,殆如無水,蓋天下第一之樂地也。江口則觀音為祖,中君、□□、小馬、白女、主殿。蟹嶋則宮城為宗,如意、香爐、孔雀、三枚。神崎則河泒姬為長者,孤蘇、宮子、刀命、小兒之屬。皆是俱尸羅之再誕,衣通姬之後身也。上自卿相,下及黎庶,莫不接牀第、施慈愛,又為人妻妾,歿身被寵。雖賢人君子,不免此行。南則住吉,西則廣田,以之為祈徵娶之處。殊事百大夫,道祖神之一名也。人別刻期之,數及百千,能蕩人心,亦古風而已。長保年中,東三條院參詣住吉社天王寺,此時禪定大相國被寵小觀音。長元年中,上東門院又有御行,此時宇治大相國被賞中君。延久年中,後三條院同幸此寺。狛犬犢肆等之類,並舟而來。人謂神仙,近代之勝事也。相傳曰:「雲客風人,為賞遊女,自京洛向河陽之時,愛江口人。刺史以下自西國入江之輩,愛神崎人。」皆以始見為事之故也。所得之物,謂之團手,及均分之時,慮恥之心者,忿飼V色興,大小諍論,不異闘亂。或切麤絹尺寸,或分粳米斗升,蓋亦有陳平分肉之法。其豪家之侍女,宿女下船之者,謂之湍繕,亦稱出遊。得少分之贈,為一日之資。爰有髻,依繡絹之名,舳取登捐,皆出九公之物,習俗之法也。雖見江翰林序,今亦記其餘而已。右遊女記,以朝野群載所收同記挍合畢。
遊女記2
平安時代後期の文人大江匡房(おおえのまさふさ)の著。1巻。成立年代は不明だが、『傀儡子記(くぐつき)』や『洛陽田楽記(らくようでんがくき)』と同じく匡房の晩年に書かれたものと推定される。その頃、淀川から分かれた神崎川(かんざきがわ)の辺りは西国から京への交通の要所にあたり、江口(えぐち)、神崎、蟹島などの港津が発達し遊里が繁栄していた。その繁栄の様子とそこに暮らす遊女の生態や遊女に接する人々の有様を記した漢文体の短編である。それによると、遊女たちは通行する舟に小舟を操って近づき客をとる。舟の数は水面が見えなくなるほどであり、なかには管弦や今様など歌舞音曲に秀で和歌をよくする者も少なくなかったといい、後半では所得の配分をめぐる争論や乱闘など、遊女の生々しい生活の一端を描いている。客は庶民から卿相まで幅広く、当時の貴族社会の風俗の一端を窺わせるほか、淀川や瀬戸内海の交通の状況を考える史料としても有用である。
遊女記3
山城国与渡津(ヨドノツ)より、巨川(宇治川)に浮びて西に行くこと一日、これを河陽(カヤ)と謂ふ。山陽、西海・南海の三道を往返する者は、この路に遵らざるはなし。江河南し北し、邑々処々に流れを分ちて、河内国に向ふ。これを江口と謂ふ。蓋し典薬寮の味原の牧、掃部寮の大庭の庄なり。
摂津国に至りて、神崎、蟹島等の地あり。門を比べ戸を連ねて、人家絶ゆることなし、倡女群を成して、扁舟に棹さして旅舶に着き、もて枕席を薦む。声は渓雲を遏(トド)め、韻は水風に飃へり。経廻の人、家を忘れずといふことなし。洲蘆浪花、釣翁商客、舳蘆相連なりて、殆(ホトホト)に水なきがごとし、蓋し天下第一の楽しき地なり。
江口は観音が祖を為せり。中君・□□・小馬・白女・主殿あり。蟹島は宮城を宗と為せり。如意・香炉・孔雀・立牧あり。神崎は河菰姫を長者と為せり。孤蘇・宮子・力命・小児の属あり。皆これ倶戸羅(クシラ)の再誕にして、衣通姫(ソトホリヒメ)の後身なり。上は卿相より、下は黎庶に及るまで、牀笫(ユカムシロ)に接(ミチビ)き慈愛を施さずといふことなし。また妻妾と為して、身を歿(ぼつ)するまで寵せらる。賢人君子といへども、この行を免れず。南は住吉、西は広田、これをもて徴嬖(ちょうへい)を祈る処と為す。殊に事(ツカマツル)百大夫(遊女の守り神)は道祖神の一名なり。人別にこれを剜(エ)れば、数は百千に及べり。能く人心を蕩す。また古風ならくのみ。
長保年中(999~1003)、東三条院は住吉の社・天王寺に参詣したまひき。この時に禅定大相国は小観音を寵せられき。長元年中(1028~36)、上東門また御行ましましき。この時に宇治大相国は中君を賞(モテアソ)ばれき。延久年中(1069~73)、後三条院は同じくこの寺社に幸したまひき、狛犬・犢(共に遊女の名前)等の類、舟を並べて来れり。人神仙を謂へり。近代の勝事なり。
相伝えて曰く、雲客風人、遊女を賞ばむとして、京洛より河陽に向ふの時は、江口の人を愛す。刺史より以下、西国より河に入る輩は、神崎の人を愛すといへり。皆始めに身ゆるえをもて事とするが故になり。得るところの物は、団手(花代)と謂ふ。均分の時に及びては、廉恥の心去りて、忿獅フ色興り、大小の諍論は、闘乱に異らず。或は麁絹尺寸を切り、或は粳米斗升を分つ。蓋しまた陳平が肉を分つの(公平に分配する)法あり。その豪家の侍女の上り下す船に宿る者、湍繕と謂ひ、また出遊(素人の遊女)と称ふ。小分の贈を得て、一日の資と為せり。ここに髺俵・絧絹の名あり。舳に登指を取りて、皆九分の物出すは習俗の法なり。
江翰林(ガウノカンリン)が序に見えたりといへども、今またその余を記せるのみなり。
以上は大江匡房が晩年に出筆にかかったとされる『遊女記』の全文の現代訳で、原文の漢文共にネットで拝見することができます。
大江匡房は平安時代の公家であり、政治家であり、学者、歌人と多才多能、百人一首にもその名を留め、正二位権中納言まで昇りました。京都では五条西洞院南あたり(毘沙門町全域を中心とした一帯)、藤原師実が売却した千種殿に1077年から住んでいました。
この『遊女記』は平安時代、川尻の江口、神崎、蟹島の舟着場で繁栄した遊女群について述べたもので、この三箇所は現在の大阪の東淀川区の南江口、神崎橋を挟んで大阪側の加島、尼崎側の神崎町に当ります。
「山城国與渡津から大川に浮び、西に一日行程の所を河陽といって、山陽、南海、西海の三道を往き返りするものは此の路を通らないものはない。此の両岸には所々に村落がある。川が岐れて河内の国に向ふ所を江口といって、典薬寮や掃部寮の大庭荘があるところである。而して摂津国に入れば神崎や蟹島といふ所があって人家櫛の歯のやうに比び、娼婦群集し小舟に棹して碇舶の舟を訪ひ、頻りに一夜の情を進むるの声、雲を起し風を呼ぶので、此の地を経廻る人は皆故郷の家を忘れて終ふほどである。そしてそれを附けこんで浪を切って行商の舟が往来する間を、蘆を分けて釣舟が横ぎるといふやうに、川の上は舟で埋まって水も見えない程である、誠に天下第一の楽地といってよからう云々」
江口・神崎・蟹島についてはいずれ先の課題として、今回長々川尻の遊所について書いたのは、『雲萍雑誌』(柳沢淇園著として天保十四年刊とされるも書かれた年代、著者ともに不明)の三の巻に
「宇治、木幡、淀、竹田あたりは、昔遊女多くありたるところなり。古き洛陽の地図に、小椋姫町といふところありて遊女町なり。そのかみは多く水辺に居たること、古書に見えたり。あさ妻舟の図などもおもひあはすべし。」
与渡津は賀茂・桂・宇治三川の合流点でありますので、江口、神崎、蟹島の遊女群が期を見て、雲萍雑誌にはありませんが橋本そして宇治、木幡、淀、竹田辺りに勢力を伸ばした物と私は考えます。
そしてさらに桂まで到達した遊女が九条の里を形成に与したと考えるなら、京都の水辺の遊女の源流も又、江口、神崎、蟹島に求め得ることになりませんでしょうか? 
6
狐媚記
康和三年,洛陽大有狐媚之妖,其異非一。
初於朱雀門前儲羞饌禮,以馬通為飯,以牛骨為菜。次設於式部省後及王公卿士門前。世謂之狐大饗。圖書助源隆康參賀茂齋院,車在門外。入夜,少年雲客兩三推駕其車。兼有偶女,乘月行行經鴨川,到七條川原。右兵衛尉中原家季,相逢於途中,見其車中,紅衣皎然。入夜,有色,獨恠之。牛童不堪其苦,平伏道間。雲客給一張紅扇,倏忽而去車前。軾上有狐腳跡。牛童皈家,明日見之,扇是璽栗骨也。其後受病,數日而死。其主大恐,欲焚其車。夢有神人,來曰:「請莫焚之。將以有報。」明年,除書任圖書助。
主上依造御願寺,不滿卌五夜,有避方忌之行幸。忽有何人騎馬扈從,舉左右袖,自掩其面。其後有乘總小舍人、藏人。大學助藤原重隆,恠而問之。不答子細,馳入於朱雀門,瞥爾不見。
搨ソ律師,說法宗匠也。有一老嫗來曰:「無ョ婦人欲修法會,忝垂光臨。」律師許諾。臨其日夕,嫗重來屈。律師赴請,到於六條朱雀大路,人家堂莊嚴如常。雖設僧供,無役送人。簾中拍手,偶出酒盃。律師恠之,敢不就饌,先登講座。打鐘一聲,灯色忽青,所儲之饌,亦是糞穢之類也。事事違例,心神迷惑,半死遁去。後日尋之,掃地無宅。  有人買七條京極宅,其後壞此屋,到鳥部野為葬歛之具。其所渡與之直,本是金銀絲絹也。後日見之,皆是弊鞋、舊履、瓦礫、骨角也。
嵯呼,狐媚變異,多載史籍。殷之妲己為九尾狐,任氏為人妻。到於馬嵬,為犬被獲。惑破鄭生業,或讀古冢書,或為紫衣公,到縣許其女屍,事在倜儻,未必信伏。今於我朝,正見其妖。雖及季葉,恠異如古。偉哉。 
 
74.源俊頼朝臣 (みなもとのとしよりあそん)  

 

憂(う)かりける 人(ひと)を初瀬(はつせ)の 山(やま)おろしよ
激(はげ)しかれとは 祈(いの)らぬものを  
私の愛に応えてくれず、つらく思ったあの人を振り向かせてくれるように初瀬の観音様に祈りはしたが。初瀬の山おろしよ、ひどくなれとは祈らなかったのに。 / 私につれないあの人をなびかせてくれるようにと初瀬の観音様にお祈りはしたが、ああ、初瀬の山に吹く冷たい山おろしよ、お前のように冷たくなれとは祈らなかったのに。 / つれなかったあの人をわたしに振り向かせてください、と初瀬の観音さまにお祈りしましたが、初瀬山の山おろしの激しさのように、この恋のつらさまで激しくなるように、とは祈らなかったのになぁ。 / 私に冷たかった人の心が変わるようにと、初瀬の観音さまにお祈りしたのだが、初瀬の山おろしよ、そのようにあの人の冷たさがいっそう激しくなれとは祈らなかったではないか…
○ 憂かりける人を / 「憂かり」は、ク活用の形容詞「憂し」の連用形で。「憂し」は、思うようにならない、自分の愛に応えてくれないの意。
○ 初瀬の山おろしよ / 「初瀬」は、現在の奈良県桜井市の地名で、初瀬観音(長谷寺)がある。「山おろし」は、山から吹き下ろす激しい風。「よ」は呼びかけの間投助詞。山おろしを擬人化して呼びかけている。第三句は、字余り。
○ はげしかれとは祈らぬものを / 「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「ものを」は、逆接の確定条件を表す接続助詞。
※ 第二句には句割れがあり、「憂かりける人を」は、「祈らぬものを」にかかり、「初瀬の」は、「山おろしよ」にかかる。 
1
源俊頼(みなもとのとしより、天喜3年(1055年) - 大治4年1月1日(1129年1月22日))は、平安時代後期の官人・歌人。宇多源氏。大納言・源経信の三男。官位は従四位上・木工頭。
10歳代より一時期修理大夫・橘俊綱の猶子となる。篳篥に優れ、はじめ堀河天皇近習の楽人として活動し、承暦2年(1078年)の『承暦内裏歌合』には楽人として参加している。
嘉保2年(1095年)に父・経信が大宰権帥に任ぜられたため、父ともに大宰府へ下向するが、承徳元年(1097年)経信の死去に伴い帰京する。その後は、堀河院歌壇の中心人物として活躍し、多くの歌合に作者・判者として参加するとともに、『堀河院百首』を企画・推進した。天治元年(1124年)、白河法皇の命により『金葉和歌集』を撰集。藤原基俊とともに当時の歌壇の中心的存在であった。歌風としては、革新的な歌を詠むことで知られた。
『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に201首入集。『金葉和歌集』(35首)・『千載和歌集』(52首)では最多入集歌人となっている。
右近衛少将・左京権大夫などを歴任し、長治2年(1105年)に従四位上・木工頭に叙任、天仁3年(1110年)越前介を兼任。天永2年(1111年)以後散位。
摂政関白にまでなった法性寺殿こと藤原忠通の家で歌会があった。歌を詠み上げる役目の講師が、俊頼の歌を詠もうとすると短冊に名前が書いていない。そこで講師が俊頼に目配せをし咳払いまでしたが、気づかないようなので密かに「お名前をお忘れでは」と言うと、俊頼は「そのままお詠みなさい」と言うので、歌を詠むと「卯の花の身の白髪とも見ゆるかな賤(しづ)が垣根もとしよりにけり」という。歌に俊頼(としより)の名がちゃんと読み込まれていたのである。講師の者はしきりにうなずいて感心し、藤原忠通もたいへん面白がったという。(『無名抄』)
うかりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを (百人一首、『千載和歌集』)
山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸 (百人秀歌、『金葉和歌集』)
百人秀歌と百人一首の両方に採られている歌人で、異なる歌が採られているのは俊頼のみである。 
2
源俊頼 天喜三頃〜大治四(1055-1129)
宇多源氏。大納言経信の三男。母は土佐守源貞亮の娘。一時期橘俊綱の養子となる。子に俊重(千載集に入集)・俊恵・祐盛がいる。篳篥の才があり、はじめ堀河天皇近習の楽人となる。のち和歌の才も顕わし、堀河院歌壇の中心歌人として活躍。また藤原忠通・顕季を中心としたサロンでも指導的な立場にあった。康和二年(1100)の源国信家歌合、長治元年(1104)の藤原俊忠家歌合など、多くの歌合で判者を務めた。ことに藤原基俊との二人判をおこなった元永元年(1118)の内大臣忠通家歌合は、好敵手と目された両者の歌観がぶつかり合い、注目される。右近衛少将・左京権大夫などを経て、長治二年(1105)従四位上木工頭に至る。天永二年(1111)以後は散位。官人としては、大納言に至った父にくらべ、著しく不遇であった。晩年、出家。大治四年正月一日、卒。享年七十五と推定されている。天治元年(1124)以前、白河院の命を受けて金葉集を編纂。大治元年(1126)頃にかけ、三度にわたり奏上する。大治三年(1128)頃、家集『散木奇歌集』十巻を自撰。また、関白藤原忠実の依頼により、その娘泰子(高陽院)のための作歌手引書として歌論書『俊頼髄脳』を著した。金葉集初出。勅撰入集は二百七首(金葉集は二奏本で計算)。金葉集・千載集で最多入集歌人。
春 / 春たちける日よみ侍りける
春のくるあしたの原をみわたせば霞もけふぞ立ちはじめける(千載1)
(春の来る朝、あしたの原を見わたすと、霞もまさに今日から立ち始めたのだった。)
堀河院御時、百首歌たてまつりけるによめる
なみたてる松のしづ枝えをくもでにて霞みわたれる天あまの橋立はしだて(詞花274)
(並び立つ松の下枝を蜘蛛手として、霞の中に渡された天の橋立よ。)
皇后宮にて人々歌つかうまつりけるに、雨中鶯といへることをよめる
春雨はふりしむれども鶯の声はしほれぬものにぞありける(金葉16)
(春雨は浸み透るように降るけれども、鶯の声は湿って弱々しくなるものではないのだった。)
宇治前太政大臣家歌合によめる
山桜咲きそめしより久かたの雲ゐに見ゆる滝のしら糸(金葉50)
(山桜が咲き始めてからというもの、空に眺められる滝の白糸よ。)
題しらず
桜花咲きぬる時はみ吉野の山のかひより波ぞこえける(新後拾遺82)
(吉野山に桜の花が咲いた時には、山峡から白波が押し寄せてくるのだなあ。)
北山の辺にまかりて花見ありきて、やうやう暮れぬる程に、木のもとにて酒などたべけるついでに、かはしとりてよめる
我がこころ花の木ずゑに旅ゐして身のゆくへをも知らじとすらむ(散木奇歌集)
(私の心は花の梢から梢へ旅の宿りをとって、我が身がどこへ向かうのか、どうでも良いというつもりだろうか。)
堀河院御時中宮御方にて風閑花香といへる事をつかうまつれる
梢には吹くとも見えで桜花かをるぞ風のしるしなりける(金葉59)
(梢は微動だにせず、風が吹いたとも見えないのに、桜の花の香があたりに漂う――それこそが風の吹いている証拠なのであったよ。)
白川に花見にまかりてよめる
白川の春の木ずゑを見わたせば松こそ花のたえまなりけれ(詞花26)
(白川の春の梢を見渡すと、松の緑が花の絶え間を埋めているのだった。)
桜花のちるを見てよめる
身にかへて惜しむにとまる花ならばけふや我が世のかぎりならまし(詞花42)
(我が身と引き換えにして惜しめば、散るのを思いとどまる花であるのなら、今日こそが私の人生の終りということになるよ。)
堀河院御時、百首歌のうち、帰雁のうたとてよめる
春くればたのむの雁もいまはとてかへる雲路に思ひたつなり(千載36)
(春が来たので、田の面にいた雁も、今はもうその時だと、帰りの雲路に思い立つようだ。)
堀河院御時、御前にて雨中藤花といへる事をよめる
雨ふると藤のうら葉に袖ふれて花にしほるる我が身と思はむ(散木奇歌集)
(雨が降っているので、藤の先端の葉に袖を触れて、花によって濡れそぼつ我が身と思おう。)
梨の花さかりなりけるを見てよめる
桜あさの麻生をふの浦波たちかへり見れどもあかぬ山梨の花(散木奇歌集)
(麻生の浦の浦波が寄せては返すように、繰り返し眺めても飽きることがない、山梨の花よ。)
夏 / 百首歌中に卯花うのはなをよめる
卯の花も神のひもろきときてけりとぶさもたわに木綿ゆふかけてみゆ(散木奇歌集)
(卯の花も神籬(ひもろき)を解いてしまったのだな。枝先もたわわに木綿(ゆう)を掛けているように見える。)
堀河院御時、百首歌たてまつりける時、五月雨のうたとてよめる
おぼつかないつか晴るべきわび人の思ふ心やさみだれの空(千載179)
(はっきりしないことよ。いつになったら晴れるのだろう。侘しく暮らす人の心が、さみだれの降る空になってあらわれるのだろうか。)
題しらず
あはれにもみさをにもゆる蛍かな声たてつべきこの世とおもふに(千載202)
(あわれにも一途に燃える蛍であるよ。泣き声をあげてしまうそうな辛いこの世だと思うにつけ。)
題しらず
あさりせし水のみさびにとぢられて菱の浮き葉にかはづ鳴くなり(千載203)
(餌を漁っていた池水の水渋に閉じ込められて、菱の浮き葉の上で蛙が鳴いている。)
水風晩涼といへることをよめる
風ふけば蓮はすの浮き葉に玉こえて涼しくなりぬ日ぐらしの声(金葉145)
(風が吹くと、蓮の浮き葉の上を露の玉が過ぎてゆき、涼しくなった。あたかも蜩の声もして。)
殿下にて夏夜の月をよめる
あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながらをる身ともがな(散木奇歌集)
(今宵、月の光はあじさいの繁みを洩れ、池の水面に四枚の花びらのように映っている。その影を、そのまま折り取ることができたらよいのに。)
夏草をよめる
汐みてば野島が崎のさゆりばに波こす風のふかぬ日ぞなき(千載1045)
(潮が満ちると、野島が崎の百合を越えて波が寄せる――その波を起こす風の吹かない日とてない。)
樹陰風来
日ざかりはあそびてゆかむ影もよし真野の萩はら風たちにけり(散木奇歌集)
(陽盛りの時は日陰で遊んでゆこう。ちょうど良い木陰がある。あたかも真野の萩原からは風が起こった。)
二条関白の家にて、雨後野草といへる事をよめる
この里も夕立しけり浅茅生あさぢふに露のすがらぬ草の葉もなし(金葉150)
(この里でも夕立が降ったのだ。浅茅生のどの草の葉にも露が縋り付いている。)
雲隔遠望といへる心をよみ侍りける
とをちには夕立すらし久方の天のかぐ山雲がくれゆく(新古266)
(十市の里では夕立が降っているらしい。天の香具山が雲に隠れてゆく。)
秋 / 晩風告秋
夕まぐれ恋しき風におどろけば荻の葉そよぐ秋にはあらずや(散木奇歌集)
(夕暮、恋しく思っていた風が吹き、はっとしていると、今はもう荻の葉がそよぐ秋ではないのか。)
殿下にて野風といへる事をよめる
夕されば萩をみなへしなびかしてやさしの野べの風のけしきや(散木奇歌集)
(夕暮になると、萩や女郎花を靡かして、野を吹く風の優美なありさまであるよ。)
堀河院御時、百首歌たてまつりける時、よめる
さまざまに心ぞとまる宮城野の花のいろいろ虫のこゑごゑ(千載256)
(あれにこれにと、様々に心が惹かれる。宮城野の色とりどりの花、種々の虫の音よ。)
野花留客といへる心をよめる
秋くれば宿にとまるを旅寝にて野辺こそつねのすみかなりけれ(千載257)
(秋になると、仮の宿りは旅寝であって、野辺こそが日頃の住み処なのであった。)
題しらず
なにとなく物ぞかなしき菅原やふしみの里の秋の夕ぐれ(千載260)
(何とはなしに物悲しい。菅原の伏見の里の秋の夕暮よ。)
堀河院御時、御前にて各題をさぐりて歌つかうまつりけるに、すすきをとりてつかまつれる
鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花なみよる秋の夕暮(金葉239)
(鶉が鳴く真野の入江――そこから吹き寄せる浜風に、穂の出た薄が波のように寄せる、秋の夕暮よ。)
権中納言俊忠かつらの家にて、水上月といへるこころをよみ侍りける
あすも来こむ野ぢの玉川はぎこえて色なる波に月やどりけり(千載281)
(明日も来よう、野路の玉川に。川岸の萩の枝を越えて寄せる波は、花の色に映えて美しい。しかも、その波には月の光さえ宿っていたのだ。)
翫明月
吹く風にあたりの空をはらはせてひとりもあゆむ秋の月かな(散木奇歌集)
(吹く風に周囲の空を掃わせて、ひとり夜空を歩む秋の月よ。)
八月十五夜明月の心をよめる
すみのぼる心や空をはらふらむ雲のちりゐぬ秋の夜の月(金葉188)
(澄んでのぼってゆく心が空を掃除するのだろうか。光を遮る塵ほどの雲もない、秋の夜の月よ。)
堀河院御時、百首歌たてまつりける時、よめる
木枯しの雲ふきはらふ高嶺たかねよりさえても月のすみのぼるかな(千載276)
(木枯しが雲を吹き払う――そうして現れた高嶺から、冴え冴えと澄んで月が昇ることよ。)
堀河院御時、百首歌たてまつりける時、擣衣のこころをよみ侍りける
松風の音だに秋はさびしきに衣うつなり玉川の里(千載340)
(松風の音だけでも秋は寂しいのに、そのうえ衣を擣つ響きも聞こえる。玉川の里よ。)
堀河院御時、百首歌たてまつりける時よめる
秋の田に紅葉ちりける山里をこともおろかに思ひけるかな(千載378)
(秋、稲が実った田に紅葉が散っていた――あの山里のありさまを、なおざりに思っていたことよ。もっとよく眺めるべきだった。)
障子の絵に、あれたる宿に紅葉ちりたる所をよめる
故郷はちる紅葉ばにうづもれて軒のしのぶに秋風ぞ吹く(新古533)
(荒れた田舎家は散る紅葉に埋もれて、軒端のしのぶに秋風が吹く。)
雲居寺結縁経の後宴に歌合し侍りけるに、九月尽のこころをよみ侍りける
明けぬともなほ秋風はおとづれて野べのけしきよ面がはりすな(千載384)
(夜が明けて暦の上では冬になってしまったとしても、なお秋風はおとずれて、野辺のありさまよ、変わらずにいてくれ。)
秋の暮にきりぎりすのなくを聞きてよめる
なきかへせ秋におくるるきりぎりす暮れなば声のよわるのみかは(散木奇歌集)
(もう一度啼いてくれ。秋に置き去りにされる蟋蟀よ。今日の日が暮れて、秋が去ったなら、おまえの声が弱るだけですむだろうか。)
冬 / 堀河院御時、百首歌たてまつりける時、初冬の心をよみ侍りける
いかばかり秋の名残をながめまし今朝は木の葉に嵐ふかずは(千載388)
(どれほど秋の名残を惜しみつつ眺めたことだろうか。今朝は、梢に残っていた木の葉に嵐が吹き付けなければ。)
堀河院御時、百首歌たてまつりける時、時雨をよめる
木の葉のみ散るかと思ひし時雨には涙もたへぬものにぞありける(千載412)
(木の葉ばかりが散るかと思っていた時雨であるが、涙も堪えきれずにこぼれるものだったのだ。)
深山落葉といへる心を
日暮るれば逢ふ人もなしまさきちる峰の嵐の音ばかりして(新古557)
(日が暮れてしまうと、山道ですれ違う人もいない。まさきが散る峰の嵐の音ばかりがして。)
堀河院御時、百首歌たてまつりける時、鷹狩の心をよめる
夕まぐれ山かたつきて立つ鳥の羽音に鷹をあはせつるかな(千載423)
(夕暮、山の方に寄って飛び立つ鳥の羽音――その音のする方向にあわせて鷹を放ったのだ。)
京極前太政大臣の高陽院の家の歌合に、雪の歌とてよみ侍りける
雪ふれば谷のかけはしうづもれて梢ぞ冬の山路なりける(千載454)
(雪が積もったので、谷の桟(かけはし)が埋もれてしまい、冬の山道は梢の上を通ってゆくのだった。)
祝 / 京極の前太政大臣の高陽院の家の歌合に、祝ひの心をよみ侍りける
おちたぎつ八十やそうぢ川のはやき瀬に岩こす波は千代の数かも(千載615)
(滾り落ちる宇治川の早瀬で、岩を越えてゆく波は次々と数知れず――それこそはあなたの千年の齢の数でありますよ。)
前斎宮、伊勢におはしましけるころ、石な取合せせさせ給ひけるに、祝の心をよめる
くもりなく豊さかのぼる朝日には君ぞつかへむ万代よろづよまでに(金葉333)
(曇りなく美しく輝きながら昇る朝日に、あなたはお仕えするでしょう、万代にわたって。)
別離 / 堀河院御時、百首歌たてまつりける時、別れの心をよみ侍りける
わするなよかへる山路にあとたえて日かずは雪のふりつもるとも(千載481)
(私のことを忘れるなよ。帰る山の山道が途絶えて、帰れない日数が雪の積もるように積もったとしても。)
伊勢にくだりて侍りけるころ、顕季卿のもとにいひつかはしける
とへかしな玉串の葉にみがくれて鵙もずの草ぐき目路めぢならずとも(続古今1759)
(春になると百舌は草にもぐり込んでしまうというが、そのように榊の葉に隠れて、私の姿があなたの目に見えなくなっても、私のことを忘れず、安否を尋ねてください。)
悲歎 / 帥大納言、筑紫にてかくれ給ひにければ、夢などの心地してあさましさに、かかることは世のつねの事ぞかしなど思ひ慰むれど、それは旅の空にて、物おそろしさもそひ、人の心もかはりたるやうにて、われが身もたひらかにとつかんことも、ありがたかりぬべきやうにおぼえて、ほけすぐる程に、おのづから涙のひまにおぼえける事をわざとにはあらねど書きおきたる中に、きぬの色などかへける次によめる
墨染の衣を袖にかさぬれば目も共にきるものにぞありける(散木奇歌集)
(墨染の喪服を袖に重ねると、目も一緒になって霞むものなのであった。)
はしりけるに、風夕はりして、帆柱折れなどして、騒ぎけるを見てよめる
今日もまた世をうみわたる帆柱の折れぬる舟の身をいかにせむ(散木奇歌集)
(今日もまた、この世を厭いつつ海を渡ってゆく、帆柱が折れてしまった舟――その舟のような我が身をどうすればよいのか。)
例ならぬ人の、舟にあるが苦しかると聞きて、そひ船にのせて移すを聞き
いとほしやまた憂きことをそひ舟にうつし心もなくなりにけり(散木奇歌集)
(見るに耐えないよ。また辛いことが加わって、病人を添い船に移すにつけ、みな正気も失くしてしまっている。)
むろには日ごろとどまりて、たまたま出てこぎゆく程に、なごろなほたかしとて、こぎもどるを見て
なごろには漕ぎもどりけりあはれ我が別れの道にこちもふかなむ(散木奇歌集)
(余波の中を漕ぎ戻るのだった。ああ、父との死別の道に、東風が吹いて押し返してほしい。)
明石をすぎて、生田の森をすぐとて
死なばやと思ひあかしの浦を出ていく田の森をよそにこそみれ(散木奇歌集)
(いっそ死にたいと思いながら夜を明かし、明石の浦を出て、「生く」という生田の森をよそごとのように見て過ぎてゆくのだ。)
年こえにければよめる
あらぬ世にふる心ちして悲しきにまた年をさへへだてつるかな(散木奇歌集)
(この世に生きている心地もしないで悲しいところへ、さらに年を隔て、亡き人からいっそう遠ざかってしまったのだな。)
神祇 / 一品宮、天王寺にまゐらせ給ひて、日ごろ御念仏せさせ給ひけるに、御ともの人々、住吉にまゐりて歌よみけるによめる
いくかへり花咲きぬらむ住吉の松も神代のものとこそきけ(金葉530)
(稀に咲く松の花が何度咲いたのだろう。住吉の松も神代から続くものと聞いている。)
恋 / 堀河院御時、百首歌たてまつりける時、はじめの恋の心をよめる
難波江の藻にうづもるる玉がしはあらはれてだに人を恋ひばや(千載641)
(難波江の藻に埋もれている石が水面にあらわれるように、せめて思いをあらわして人を恋いたいものだ。)
堀河院御時、百首歌たてまつりける時、恋の心をよめる
麻手あさでほす東乙女あづまをとめの萱筵かやむしろしきしのびても過ぐす頃かな(千載789)
(麻の葉を干す東国の乙女が萱の筵にそれを敷きのべるように、私は恋心をじっと偲んで過ごしているこの頃であるよ。)
国信卿家歌合に、夜はの恋の心をよめる
よとともに玉散る床の菅枕見せばや人に夜はのけしきを(金葉387)
(夜になると、常に変わらず涙の玉が散る、寝床の菅枕――見せたいものだ、あの人に、夜のありさまを。)
初会恋の心を
葦の屋のしづはた帯のかたむすび心やすくもうちとくるかな(新古1164)
(葦葺きの小屋で賤(しづ)の女(め)が織る、倭文織(しづおり)の帯の固結び――そのように固く鬱結していた心も、今宵は安らかに打ち解けることよ。)
旅の恋
したひくる恋の奴やつこの旅にても身のくせなれや夕とどろきは(千載1192)
(私を慕ってどこまでも追って来る恋という従者の、旅にあっても沁みついた習性なのだろうか、夕方になると胸が高鳴るのは。)
年をへたる恋といへる心をよみ侍りける
君恋ふとなるみの浦の浜楸はまひさぎしをれてのみも年をふるかな(新古1085)
(あなたを恋する身となり、鳴海の浦の浜楸ではないが、涙に濡れてしおれてばかりで何年も経つことよ。)
題しらず
これを見よ六田むつだの淀にさでさしてしほれし賤しづの麻衣かは(千載955)
'この袖を見て下さい。六田の淀に小網(さで)を使って濡れそぼった海人の麻衣でしょうか。そんなものとは比べ物になりません。)
恋歌人々よみけるによめる
あさましやこは何事のさまぞとよ恋せよとても生むまれざりけり(金葉515)
(情けない。これは何ごとのありさまなのか。恋をせよと命じられて生まれて来たわけでもないのだ。)
寄花恋
わが恋ふる人ににほひの庭ざくら折れば心のゆきもするかな(散木奇歌集)
(私の恋する人と同じ香のする庭桜よ。手折れば気が晴れもするのだろうか。)
俊忠卿家にて恋歌十首人々よみけるに、頓来不留といへることをよめる
思ひ草葉末にむすぶ白露のたまたま来ては手にもたまらず(金葉416)
(人を思うという名の思い草。その葉末には涙のような白露が結ぶと言うが、私も涙を溜めてあなたを待っていたのだ。それなのに、あなたは白露の「玉」よろしく、「たまたま」来ては、私の手に抱かれることもなく帰ってしまう。まるで、白露が手にもたまることなくこぼれ落ちてしまうように。)
権中納言俊忠家に恋十首歌よみ侍りける時、祈れども逢はざる恋といへる心をよめる
憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを(千載708)
(つれなかった人を私の方になびかしてくれと観音様に祈ったのだが、初瀬の山颪よ、ただ激しく吹けと祈ったわけではないぞ。あの人はおまえのように、いっそう私につらくあたるばかりではないか。)
雑 / 述懐百首歌よみ侍りけるに夢
ささがにのいとかかりける身のほどを思へば夢の心ちこそすれ(新古1816)
(蜘蛛の巣が掛かるほど古ぼけてしまった身の程を思うと、夢のような気がするよ。)
天王寺へまうで侍りけるに、長柄にて、ここなん橋の跡と申すを聞きて、よみ侍りける
ゆく末を思へばかなし津の国のながらの橋も名はのこりけり(千載1030)
(私の行末を思うと切ない。津の国の長柄の橋も名は残っているのだ。)
身のあやしさにあらまし事を思ひつづけてよめる
つくづくとひとり笑ゑみをもしつるかなあらましごとを思ひつづけて(散木奇歌集)
(しみじみと独り笑いをしてしまったよ。こうなったらよいなと願いごとを思い続けているうちに。)
恨躬恥運雑歌百首より二首
世の中を思ひはてなば放ち鳥とびたちぬべき心ちこそすれ(散木奇歌集)
(世の中と縁を切ろうと思うと、いっそ放たれた鳥のように飛び立ってしまいたい気持がするのだ。)
世の中を思ひつづけてながむれば身はくづほるる物にぞありける(散木奇歌集)
(世の中についてずっと物思いに耽っていると、我が身は挫けてしまうのであった。)
百首歌中に述懐の心をよめる
世の中は憂き身にそへる影なれや思ひすつれどはなれざりけり(金葉595)
(世の中は辛いことばかり多い我が身に伴う影なのだろうか。思い捨ててもこの身から離れないのだった。) 
3
源俊頼「俊頼髄脳」 鷹狩りの歌の優劣をつける藤原公任
「俊頼髄脳」は歌論書ですが、授業で扱ったのは、評判となってなかなか優劣がつかない鷹狩りの和歌の判定を藤原公任がつける話です。藤原公任は和歌、漢詩、管絃いずれの才能にも秀でた当時、超一流の文化人でした。文中では四条大納言という名で出てきます。
2首の和歌とは長能が詠んだ「霰降る交野のみののかりごろも濡れぬ宿貸す人しなければ」と道済が詠んだ「濡れ濡れもなほ狩り行かむはし鷹の上毛の雪をうち払ひつつ」です。
前者の和歌は「みの」に「蓑」と「御野」の意を掛け、「かりごろも」に「狩衣」と「借り衣」の意を掛けた掛詞が使われており、「ぬ」という助動詞は完了と打消の2通りの意味を表しています。後で公任が趣向を凝らして表現した歌の詠みぶりも言葉遣いも非常に優れているとこの歌を評価していますが、確かに技巧を駆使した歌です。「霰が降る交野の御野では、蓑の借り衣もなく、狩衣が濡れてしまった。濡れずにすむ宿を貸してくれる人もいないので」という歌意です。
後者の和歌はそういう技巧は使われていません。「降る雪に濡れに濡れても、さらに鷹狩りを続けていこう。はい鷹の上羽に降りかかる雪をうち払いうち払いして」という歌意です。
どちらもよい歌であって、人々の評判になりましたが、2人は自分の歌の方がよいと互いに主張し、何日か経ちました。今日こそその決着をつけようとして、2人は連れ立って四条大納言のもとに参上して、「この歌2首は互いに優劣を争っていまだに決着がつかない。どうぞ判定なさってくださいということで、参上したのである」と言います。公任は何度も2首を口ずさんで考えますが、真摯な姿勢で判定しようとしたことがうかがえますし、なかなか優劣がつけがたかったのかもしれません。公任は「本当に優劣を申し上げたとしても、あなた方は立腹なさらないだろうか」と申し上げて念を押します。2人は「全くない。どのようにおっしゃっても、腹を立て申し上げるはずはない。そのために参上したのだから、一刻も早くお聞きして退出させていただこう」と申し上げなさったので、公任は判定を下します。
長能の和歌はさきほど言ったような点で褒めながらも、その和歌にはさまざまな不都合な点があると公任は指摘します。「鷹狩りは、雨が降るというようなくらいで、できなくて中止するはずがあろうか、いや、そういうはずはない。霰が降ることによって、宿を借りて中止になるというのは奇妙なことである。霰などは降っても狩衣が濡れ通って、惜しいほどそぼ濡れるものではないだろう(狩衣がびしょ濡れになるほど霰は降らないというわけです)。それに対して、道済の和歌は鷹狩りの本来あるべき姿も表れ、実情としても風情があっただろうと感じられる。歌の品格も優雅で趣がある。選集にも、この歌が入るのではないだろうか」と申し上げなさったので、道済は舞を舞うように退出したとありますが、自分の歌の方が良いと判定された道済が踊り上がって喜んでいる様子が目に浮かぶようです。
要するに長能の和歌は鷹狩りの内容が現実からかけ離れているのに対して、道済の歌は雪に濡れながらも鷹狩りを続けた点に鷹狩り本来の姿が表れているから、公任は道済の歌の方が優れていると判定したというわけです。 
4
源俊頼の和歌と短連歌 / 後代の和歌への影響  
源俊頼が『金葉和歌集』に勅撰集で初めて連歌の部を設定したことは、歴代勅撰集の編纂史上において異例の出来事であった。自らの著した『散木奇歌集』や『俊頼髄脳』に多くの連歌作品を取りこんでいることから明かなように、俊頼は和歌に比べて一段低く見られがちな「連歌」という形式に対して強い関心を抱いていた。その俊頼が編者をつとめる晴の歌集に「連歌」という呼称を置いたということは、和歌と連歌とを完全に同等と認めるまではいかずとも、短連歌が和歌という伝統的な文学へと、より接近する表現形式へと成熟していたと考えていたことを示すであろう。
俊頼の短連歌が研究される場合、掛詞(秀句)や縁語といった和歌と共通するレトリックを用いつつも、和歌とどれほど異なる表現形式として新たに発達・展開していったかということに力点が置かれ、和歌との親和性についてはあまり論じられてこなかったように思う。しかし、それらの作品を分析していくとある特徴の認められる一群が存在した。
俊頼自身あるいは彼によって収集された連歌を見ていくと、ある特定の和歌から秀句を求めるのではなく、何首もの和歌に繰り返し用例の見られる句の「型」を用いていたのである。この場合、連歌と和歌のあいだに意味内容においては重なるところはないのだが、もともと和歌において用例の多い句の「型」を連歌に用いたということは、前句の形式に対してどのような付句をすれば構造として安定するのかを先行和歌から学んでいたことの証となろう。和歌において汎用性の高い句の「型」を連歌に取り入れたということは、前句あるいは付句のように通常の和歌の半分しかない文字数を「決まった句」によって埋め、作者の創作の範囲を狭めるということになる。しかし、これは裏を返せば、作者自身が創作する文字数を極力減らすことで素早く前句に対応するという手法であり、そのように詠むことで連歌の特質である即興性に対応しやすくするという効果があったと考えられる。
そこで『散木奇歌集』と『俊頼髄脳』に収録された短連歌が後代の和歌にどのように受けいれられていたのかを見ていくと、いわゆる本歌取りのように特定の連歌に拠って新詠和歌が詠まれていたほか、俊頼が連歌を詠むために多用していた、複数の歌に共通する句の「型」をとるという先行作品摂取の方法が新たに和歌を詠む際に用いられていることが確認された。従来の詠法に行き詰まりを感じていた院政期の和歌には、新要素を取り入れる柔軟さがあった。このため、遊戯性が強く和歌より一段低いものとされていた連歌の詠法までもが、俊頼以降の和歌では積極的に取り入れられていったと思われる。さらに、こうした先行歌摂取の方法の広がりは、やがて新古今時代の本歌取りへと連なる流れの一つとなっていた可能性が考えられる。 
一.はじめに
源俊頼は、先行する作品を新詠に取り入れるという、それまでの和歌にあっては積極的に認められてこなかった方法(1)を連歌に用いていたことを別稿(2)において確認した。その方法は、特定の和歌に拠って作品を構築していくいわゆる一般的な本歌取りの他に、先行作品で繰り返し使われている句の「型」を自詠に取り込むというものであった。後者については、稿者が新たに認定した方法であるので(3)、論に入る前に具体的な事例をここで再確認しておく。
田上に侍りけるころ、日のくれがたにいし山のかたにかねのこゑの聞えければくちずさびに
いしやまのかねのこゑこそきこゆなれ これを連歌にききなして   俊重
たがうちなしにたかくなるらん (散木奇家集 一五九三)
          永成法師
あづまうどの声こそきたにきこゆなれ
          権律師慶範
みちのくによりこしにやあるらむ
ゐたりける所の、北のかたに、声なまりたる人の、物いひけるを聞きて、しけるとぞ。 (俊頼髄脳 三七三/金葉和歌集(二度本)雑部下 連歌 六四八 永成法師・権律師慶範)
          加茂成助
しめのうちにきねの音こそ聞ゆなれ
          行重
いかなる神のつくにかあるらむ
賀茂の御社にて、よねのしろむる音のしけるを聞きて、しけるとぞ。 (俊頼髄脳 三七八/金葉和歌集(二度本)雑部 連歌 賀茂のやしろにて物つくおとのしけるをききて 六五〇 神主成助・行重)
連歌、しかまつにてかりを聞きて 前中納言通房卿
しかまつにかりのこゑこそきこゆなれいほのとなりにつるやなくらん (夫木和歌抄 秋部 四九八五/江帥集 雑部 連歌 三一五)
これらの連歌は、いずれも前句で「〜こそきこゆなれ」と詠じ、付句で「〜らむ」と推量の意を示して結ぶ形を取っている。この三作品のうち『江帥集』の連歌は『散木奇家集』一五九三との先後がはっきりしないものの、『金葉集』入集の連歌二つは作者の没年などから考えて、俊頼・俊重はこれらの連歌を参考にし、連歌において多用される句の「型」を取り入れて詠んでいたと思われる。
さらにいえば、先行作品とした『金葉集』の連歌そのものが先行する和歌のパターンを取りこむという手法によって作り上げられていた。
神楽の心を 藤原政時
あさくらのこゑこそ空にきこゆなれあまの岩戸もいまや明くらん (続詞花和歌集 神祇 三六四/金葉和歌集(初度本)神楽のこころをよめる 四二八 藤原致時)
いはまわくみづのおとこそきこゆなれあきのよふかくなるにやあるらむ (多武峰往生院千世君歌合 水有幽音 一○ 泉円)
ちとせふるたづのこゑこそきこゆなれけさしらつゆやおきまさるらむ (無動寺和尚賢聖院歌合 白露 四 広算法印)
うぐひすのねこそはるかにきこゆなれこや山ざとのしるしなるらむ (経信集 山家聞鶯 一四)
「〜こそきこゆなれ〜らん」という句の形は、このように同時代以前の和歌に繰り返し用例が見られる一方で、それぞれの歌の主題に影響関係が見られないことから、この句の形式が音に関わる和歌を詠むにあたってすでに一つのパターンを形成していたと推測される。おおよそ即興性・即応性を旨とする短連歌の場合において、前句で「〜こそきこゆなれ」というように詠み慣れた句の「型」が出てきたならば、すでにある和歌の句のパターンに沿った付句「〜らん」が詠まれることは、半ば必然であったと言えよう。
俊頼あるいは俊頼周辺で短連歌が詠まれるとき、このように先行作品に作例が見られる句の「型」が用いられていることが多い。別稿において述べたように(4)、さまざまな場において難句を素早く捌くことを求められ続けた俊頼の短連歌に、周囲の人々にも馴染みの句の「型」を使って作品を作るという手法がしばしば用いられていたのは、前句の形式に対してどのような付句をすれば構造として安定するのかを先行和歌から学び、それを実際に己の短連歌に活用した結果である。さらに、この手法を別の角度から見れば、前句あるいは付句のように和歌の半分しかない文字数を汎用性の高い「決まった句」で埋めることによって、作者自身が創作する文字数を極力減らすことになる。しかし、この一見すると作者の独創性を喪失させるような方法は、短連歌の特質である即興性に対応するには効果的であった。それゆえ俊頼は、和歌においては容易に認められなかった先行作品からの摂取という方法を、句の「型」をとるという形で実践したのである。
先行作品を摂取して新たに歌を作るということは、当時の和歌において積極的に認められる方法ではなかった。ここで述べたような短連歌における先行作品摂取の方法は、同時代以降の連歌や和歌にどのように受け取られていたのであろうか。本稿では、いわゆる本歌取り的な方法や短連歌にみられるな句の「型」を取る方法など、先行歌摂取にかかわる手法が俊頼以降の和歌に与えた影響について考察していく。 
二.『散木奇歌集』の連歌が後代の連歌・和歌に与えた影響
俊頼が連歌の名手であったことは、他の人々には付けおおせることのできなかった難句に付けよと幾度となく指名されていることによって明らかである(5)。そのような人物の連歌が収録された家集であれば、同時代以降に連歌を作る参考とされた可能性も想定し得る。そこで、実際に俊頼の連歌は後代の連歌・和歌とどのように関わっていったのか、まずは俊頼の家集である『散木奇歌集』の連歌を軸として見ていく。
をさなき児のちまきむまをもちたるをみて   承源法師
ちまきむまはくびからきはぞにたりける
つくる人もなしときこえしかば
きうりのうしはひきぢからなし (散木奇歌集 一五九七)
ひのいるを見て  観暹法師
ひのいるはくれなゐにこそにたりけれ   平為成
あかねさすともおもひけるかな (金葉和歌集(二度本)連歌 六五二/俊頼髄脳 三八二)
あやしげなるきくの花を見て、源頼茂朝臣の歌のもとをいひければ、すゑを    源頼成
きくの花すまひぐさにぞにたりけるとりたがへてや人のうゑけん (続詞花和歌集 九三九/俊頼髄脳 三八四)
          待賢門院の堀河
ともし火はたき物にこそ似たりけれ
          上西門院の兵衛
ちやうじがしらの香やにほふらん (今物語 一八)
「〜似たりけ(る)」という句は、別稿においてすでに述べたように俊頼以降の時代には連歌において繰り返し用いられ、一種の句の「型」となっていたと思われる(6)。また、この「〜似たりけ(る)」句は全時代を通じて和歌での用例が少なく、管見によれば俊頼以前の和歌に用いられた例はみられない。俊頼以降の時代の和歌での用例は四例ある(7)。数量では連歌の作例数とほとんど変わらないが、比率から考えるならば「〜似たりけ(る)」という句の用例は和歌においては些か少なく感じられる。しかし、俊頼以前には作例のなかった句の「型」が後に和歌においても用いられるようになったことは見落としてはなるまい。
次の例は、「〜見ゆるかな」という句であるが、それ自体は平安・鎌倉時代を通じて和歌に数百の用例が見られる。和歌の用例数には比ぶべくもないが、連歌においても俊頼以前に作例がさまざま見られたほか、俊頼自身の連歌にも繰り返し用例が見られることから、連歌に常用される句の「型」の一つとして、すでに指摘した(8)。次にあげる例は、それと同様の傾向が俊頼より後の時代にも続いていたことを示すものである。
修理大夫顕季あるかれけるに、おほぢにくるまのわのかたわもなくてかたぶきてたてるをみて   忠清入道
かたわにてかたわもなしと見ゆるかな
後に彼大夫のえつけざりしとかたられければつけける
ここへくるまもいかがしつらん (散木奇歌集 一五八五)
或人月をみて
しらくもかかるやまのはの月
と申し侍りけるに
まめのこのなかなるもちひとみゆるかな (明恵上人集 一五〇)
          入道民部卿(為家)
にしきかと秋はさがのの見ゆるかな (井蛙抄 五三九)
          鎌倉殿(源頼朝)
あかぎ山さすがにつかと見ゆるかな
          梶原(梶原景季)
こしぢの人もさや思ふらん (曽我物語(真名)二七)
          其座にありける人
くくたちのやいばはたりて見ゆるかな
          房主(聖信房)
なまいでたれかつくりそめけむ (古今著聞集 聖信房の弟子等茎立を煮るを見て其座の人連歌の事 三二九)
          禅師隆尊
もちながらかたわれ月にみゆるかな
          小童
まだ山のはを出でもやらねば (沙石集 和歌の人の感ある事 二六)
これらのように『散木奇歌集』の連歌に用いられていた句の「型」は、さらに後の時代の和歌・連歌にも引きつづき用いられていたのである。ただし、その総数はここにあげた二例ほどに過ぎず、『散木奇歌集』を見る限り、句の「型」を取って連歌を詠むという方法が広範囲に影響を及ぼしていたのかは判断しがたい。
一方、句の「型」による先行歌摂取ではなく、特定の歌に拠る一般的な本歌取りの状況はどのようであるかといえば、こちらの例も少ない。
ふしみにくぐつしさむがましてきたりけるに、さきくさにあはせて歌うたはせんとてよびにつかはしたりけるに、もとやどりたりける家にはなしとてまうでこざりければ   家綱
うからめはうかれてやどもさだめぬるつく
くぐつまはしはまはりきてをり (散木奇歌集 一六○八)
うかれめのうかれてやどるたびやかたすみつきがたき恋もするかな (六百番歌合 寄遊女恋 一一五七 季経)
「うからめ」の語が和歌に用いられること自体、『六百番歌合』における季経・隆信詠以降に数例みられるのみと非常に珍しい(9)。特に季経の歌については語の重なり具合からみて『散木奇歌集』一六○八の前句を取って詠まれたとみてよいだろう。
ようもしらぬ事をとへば、えしらぬよし申すを聞きて 肥後君難義をばかりにも人のいはぬかなつく
せりつみにしてよをしすぐせば (散木奇歌集 一六○○)
さしもなぞいとふなるらんせり摘みし人だによには有りとこそきけ (林葉和歌集 不知身程恋 八九二)
当時、「芹摘みし説話」は一定の広まりをすでに見せており(10)、俊頼も「せりつみしことをもいはじさかりなる花のゆふばえ見ける身なれば」(散木奇歌集 七四)などというように、連歌の他に和歌でも用いている。しかし、いわゆる「芹摘みし説話」を本として俊頼以前に詠まれた例は少なく、『四条宮主殿集』六四の「せりつみしむかしの人もわがごとやこころのもののかなはざりけん」がほとんど唯一にして著名な一首となる。この歌は院政期以降の歌学・歌論書の多くに収録されており(11)、そのためもあってか『四条宮主殿集』六四を本歌としていると思われる歌が院政期以降に見られるようになってくる(12)。そういった歌々のなかにあって、俊頼と俊恵の歌は説話の「芹摘みし」に拠りつつも『四条宮主殿集』六四とは語彙の面で重なりが少ない。その一方で、これら二首は「よをしすぐせば」・「よにはありと」と芹を摘むものが「世」に存在したことを詠んでいる点で共通している。このことから、俊恵詠は俊頼詠を本として詠まれた可能性を指摘してよいだろう。
ところで、先行歌を参考とする場合について考えるとき、語彙の摂取についても見落とすことはできない。
ある女房のくらまへまゐらむとて、かたへの女房にしたうづをかりければ、一日うづまさにまゐりしにはきたりしかば、みなやぶれにけりといふを聞きて
けふみればしたうづまさにやれにけり
と申したりしかどつくる人になかりしかば、かの女房にかはりくらまぎれにぞいまははくべき (散木奇歌集 一五八七)
ゆふ暮に市原野にておふきずはくらまぎれとやいふべかるらん (古今著聞集 第十九 鞍馬詣の者市原野を過ぎ盗人に遇ひたるを聞きて慶算詠歌の事 二四四 慶算)
いちにいちめがさおほかるを見て   時房
いちみればいちめがさこそつきもせね
きなるうりをおきならべたるをみてつくうりかふためのみのみつとへば (散木奇歌集 一五九六)
とことはにおもふ事こそつきもせね欣求浄土と厭離穢土とを (拾玉集 賦百字百首一時半詠之 おもふこと 一三○三)
中宮亮仲実備中の任にくだりける時に、備前国のあふすきのくひといふもののたちなみたるさきに、うといふとりとさぎといふとりとゐたりけるを、ぐしたりける六波羅別当といふ僧の申したりける
とりと見つるはうさぎなりけり
これをかみ仲実みつけて京にまうできてかたりければつけけるこのみかとかきはまくりもきこゆれど (散木奇歌集 一五七六)
同佐のもとに、かひつものをまぜくだ物にして、きこえさすとて
わたつみのなみのはなさくうききにはかきはまぐりのなるにやあるらん (国基集 一四八)
「くらまぎれ」・「こそつきもせね」という『散木奇歌集』の連歌に見られる新奇な語彙は、それぞれ慶算と慈円の歌以外に作例が見られない上、慶算と慈円の活躍期は俊頼の没後であるので、この二人の和歌は『散木奇歌集』の連歌を参考にして詠まれた可能性が高い。「かきはまぐり」についてはどちらも貝を木の実に見立てているので影響関係があると思われるものの、仲実と国基の生存時期が重なりあうため連歌と和歌のいずれが先に作られたものであるのか定めがたい。しかし、基国に良暹・賀茂成助や源経信らと親交のあったことを考えるならば、連歌的な思考から『国基集』一四八が詠み出されたことも否定できないだろう。
以上、『散木奇歌集』におさめられた連歌が俊頼以降の時代の連歌・和歌に影響を与えた例を見てきた。作例は少なかったものの、ここでとりあげた連歌の句の「型」は後代の連歌にも引き継がれていた上、さらに和歌にも利用されていた。これに対し、特定の連歌に拠って詠むというように本歌取りの手法が用いられる場合には、和歌にしか用例が見られなかった。また、先行連歌に特有の語彙をとって作品が作られる場合にも和歌にのみ用例が見られるなど、連歌に含まれるさまざまな要素が和歌へと流れこんでいる状況が看取された。これらのことから、連歌の即応性を満たすための手法であった句の「型」を取り入れるという方法も、和歌の詠作技法として再び和歌に取り込まれる傾向にあったとみてよかろう。
ただし、『散木奇歌集』から得られた用例は俊頼の家集という非常に限定された範囲内でのことであり、用例数も決して多いものではないので、この傾向はさらに分析の範囲を広げたときにも同様であるのか、現時点では判断がつかない。そこで次節では、多くの短連歌が収集された『俊頼髄脳』を例にとって、さらに考察をすすめていく。 
三.『俊頼髄脳』の連歌が後代の連歌・和歌に影響を与えた例
『俊頼髄脳』がそもそも貴人に向けて書かれた作歌手引き書であったということから推して、同書に収録されている連歌は、手本とすることが可能な、つまりは俊頼が一定の評価を与えた作品が集められていたと思われる。
          永胤法師
をぎの葉に秋のけしきの見ゆるかな
          永源法師
風になびかぬ草はなけれど (俊頼髄脳 三七九)
          観暹
日のいるはくれなゐにこそにたりけれ
          平為成
あかねさすとも思ひけるかな (俊頼髄脳 三八二)
「見ゆるかな」・「似たりけれ」という句の「型」が俊頼以降の時代の連歌にも取り入れられていたことは、第二節ですでに述べた。これらのように『散木奇歌集』収録の連歌に用いられていたのと同じ句の「型」が『俊頼髄脳』収録の連歌にも用いられていることから、俊頼自身の連歌論に合致する作品が『俊頼髄脳』にも意図的に選び入れられていた蓋然性が高いといえよう。これは更に言えば、家集に選び入れられた連歌の選定基準とも軌を一にするものであったのではなかろうか。
そこで本節では、家集の倍以上の数になる連歌が選び入れられている『俊頼髄脳』において、収録された連歌がのちの連歌・和歌にどのような影響を与えていったのかを見ていく。
[1] 後代の連歌に影響を及ぼしている例
          道なかの君
あやしくもひざよりしものさゆるかな
          実方中将
こしのわたりに雪やふるらむ (俊頼髄脳 三七一)
          天文博士
あやしくも西に朝日のいづるかな
          朝日の阿闍梨
天文博士いかに見るらむ (沙石集 巻七 嫉妬の心無き人の事 一○七)
かはらやの板葺にてもたてるかな
          木工助助俊
つちくれしてやつくりそめけむ (俊頼髄脳 三九一/金葉和歌集(二度本)雑部下 連歌 六五四)
          其座にありける人
くくたちのやいばはたりて見ゆるかな
          房主(聖信房)
なまいでたれかつくりそめけむ (古今著聞集 聖信房の弟子等茎立を煮るを見て其座の人連歌の事 三二九)
          慶暹
このとのは火桶に火こそなかりけれ
          永源
わがみづがめに水はあれども (俊頼髄脳 三八三/続詞花和歌集 物名 九四三 永源法師)
          あるじ(左京大夫顕輔卿)
たたみめにしくさかなこそなかりけれ
          青侍
こものこのみやさしまさるらむ (古今著聞集 左京大夫顕輔青侍と連歌の事 三一三)
「あやしくも〜かな〜らむ」・「つくりそめけむ」・「〜こそなかりけれ」という連歌の句の「型」は、いずれも『俊頼髄脳』以降の連歌に用いられている。そもそも現存する短連歌は数が少なく、ひとつの「型」に対して複数の用例を見いだすことは難しいため、それぞれの「型」に対して一例ずつしか作例を見いだせないところに論拠としての弱さはある。しかし、これら三つは短連歌の用例は少ないながら、句の「型」として機能していたことがうかがわれる。
まず、「あやしくも〜かな〜らむ」という句の「型」であるが、「あやしくもしかのたちどの見えぬかなをぐらの山に我やきぬらん」(拾遺抄夏 九条右大臣賀の屏風 七七 兼盛)という『拾遺抄』に入集して以降も数々の集に選び入れられた著名歌(13)に現れる「型」であるにもかかわらず、和歌において広く用いられていくようなパターンにはなり得なかった(14)。
あやしくもときはのもりのゆふ風に秋きにけりとおどろかるらん (為忠家初度百首 夏 樹陰納涼 二五二 忠成)
あやしくも雨にくもらぬ月かげや卯花山のさかりなるらむ (百首歌合建長八年 四百十三番 左持 八二五 権中納言)
しかし、「あやしくも〜かな」あるいは「あやしくも〜らむ」という「型」に範囲を拡大して調査すると用例が急激に増える。特に「あやしくも〜らん」と歌い出しと下句の結びを規制する「型」の場合にはそのほとんど用例が院政期以降に見られるのであるが、これは「あやしくも〜かな〜らん」という句の「型」を用いた連歌の存在が『俊頼髄脳』の記述によって再認識されたことによって、用例を増やしていった可能性が考えられる。
次に、「つくりそむ」であるけれども、こちらは連歌でその句の「型」が用いられる以前には連歌・和歌ともに作例がなく、『俊頼髄脳』の成立期あたりから後に和歌で用いられるようになった。
かろしまのあがりのみやのむかしよりつくりそめてしから人のいけ (新撰和歌六帖 いけ 一○四一 家良)
建長七年顕朝家千首歌、兼作抄 光俊朝臣
をぐら山花ももみぢもうゑおきていかなる神のつくりそめけむ (夫木和歌抄 雑部二 八二四七)
あやすぎのとざしはなどやあやにくに心づよくもつくりそめけん (住吉物語(真鍋本)一〇五 中将(大将))
ところで「つくりそむ」という語は俊頼詠「君はしもききわたりけんつのくにのながらのはしをつくりそめしも」(散木奇歌集 一三六六)にも見られるので、こちらを参考とした可能性も否定できない。しかし、そもそも俊頼は連歌に親しんだ歌人であり、この歌自体が連歌の語彙から発想を得たことも充分に考えられる。いずれにせよ、「つくりそむ」という語は連歌に連なる土壌に息づいていた言葉であったと言ってよかろう。
続いて、「〜こそなかりけれ」であるが、この句は和泉式部の「たとふべきかたはけふこそなかりけれ昨日をだにもくらしてしかば」(和泉式部集 五八九)以降、和歌にはまま見られ、それほど珍しい句ではない。しかし、これが連歌と同じ「〜なかりけり(る)〜あれども」・「〜なかりけり(る)〜らん」という形になると、院政期以降に次のような作例が見られるようになる。
          たれかよみたりけん
かきつくる跡は千とせもなかりけり忘れずしのぶ人はあれども (古今著聞集 住吉社の修理に当り古来の詩歌失せ果てたるを見て或人詠歌の事 二一九)
わらはにつかはしける 心円法師
しらなみのたちくるときぞなかりけるまくらのしたにうみはあれども (楢葉和歌集 雑一 七二三)
かみなづきしぐれぬひこそなかりけれながめがしはのなにやふるらん (現存和歌六帖 ながめがしは 七一七 藤原隆祐)
これら三首はいずれも上句で提示された状況が、どのような矛盾や理由のもとで起きていたことなのか下句で説明を加えており、それぞれ連歌的な構造を持つ歌となっていた。このように、『俊頼髄脳』収録の連歌の句の「型」が後代の作品に取り入れられるときには、連歌だけでなく和歌にも利用されていることがほとんどであった。
以上のように、詠歌内容は意識せず句の「型」のみを取るという方法は、後代においても、即興性が求められる場合には有効であるとして連歌において用いられていた。またさらに、連歌に転用され繰り返し用いられたこれらの句の「型」は、院政期以降の和歌において、右にあげた例の他にも数多く用いられていた点は注意されてよいだろう。
[2] 後代の和歌に影響を及ぼしている例
結論から言えば、『俊頼髄脳』におさめられた連歌を本歌取りして和歌が詠まれた例は、かなりの数に上る。すべてを指摘するのは煩雑となるので、それらの幾つかを選んで解説を加えていく。
【例一】
しらつゆのおくにあまたのこゑすなり
はなのいろいろありとしらなむ
これは、後撰の連歌なり。  (俊頼髄脳 二二/後撰和歌集 秋中 二九三 よみ人しらず/袋草紙 撰集故実 ※三句「声すれば」)
しらつゆはおきてみんともおもふらんさのみうつさじはなのいろいろ (文治六年女御入内和歌 野花 一五七 従三位季経卿前宮内卿)
たまだれのこすのをゆけばしら露のおくにあまたのむしぞなくなる (夫木和歌抄 秋部五 五五七七 光俊朝臣)
連歌では御簾の内側にいる女房たちを花に見立てたところを、季経は「野花」という題に合わせて花そのものと解釈して詠んでいる。一方、光俊は白露の奥に数多いるものを「虫」であるとして秋歌を詠んでいる。いずれも『俊頼髄脳』二二の影響下で和歌を詠まれたと考えられるが、もともとこの連歌は後撰集入集歌である。そのため、光俊の和歌は『後撰集』の詞書に「あきのころほひ、ある所に女どものあまたすの内に侍りけるに」とあるところを初句に取り入れており、『俊頼髄脳』からではなく勅撰集歌を直接に本歌取りした可能性も捨てきれない。
【例二】
ひとごころうしみついまはたのまじよ
ゆめにみゆやとねぞすぎにける
これは、拾遺抄の連歌なり。 (俊頼髄脳 二三/拾遺抄 雑上 四五〇/拾遺和歌集 雑賀一一八四/大和物語 二七九)
人ごころうしみつと思ふ時しまれそよとてわたる荻のうは風 (太皇太后宮小侍従集 深夜聞 四九)
うしみつといふに昔ぞしられけるねぞすぎにける人の心は (正治後度百首 禁中 八八一 宮内卿)
をしめどもうしみついまは更くる夜のただ夢ばかりのこる春かな (夫木和歌抄 春部 洞院摂政家百首、暮春 二二九八 家長朝臣)
うしみつときこゆるこゑのつらきかなたのめしよはもまたふけにけり (顕氏集 寄声恋 八四)
「うしみつ」という言葉は、新古今歌人らを中心に俄に用いられるようになっていくのであるが、そこで詠み出された歌の多くは右に見られるように『俊頼髄脳』二三の本歌取りとなっている(15)。この連歌も『俊頼髄脳』二二と同じく勅撰集に見られる作品であるので『俊頼髄脳』ではなく勅撰歌を本歌としているとも考えられるものの、『俊頼髄脳』二二と同じく後代の歌に影響を与えはじめるのが『俊頼髄脳』成立以降の時代であることは見逃せない。これらの連歌が本歌取りされる要因の一つとして、俊頼自身や作歌手引き書としての『俊頼髄脳』の地位の高まりといったことがあった可能性を合わせて指摘しておきたい。
【例三】
          重之
物あはれなる春のあけぼの
          修行者
虫のねのよわりし秋のくれよりも (俊頼髄脳 三八八)
百首の歌に虫をよめる
よわりゆく虫のこゑにや山里はくれぬる秋のほどをしるらん (散木奇歌集 四二七/堀河百首 虫 八二四)
保延のころほひ、身をうらむる百首歌よみ侍りけるに、むしのうたとてよみ侍りける 皇太后宮大夫俊成
さりともとおもふこころもむしのねもよわりはてぬる秋のくれかな (千載和歌集 秋下 三三三/長秋詠草 一五三)
百首歌たてまつりける時、よみ侍りける 大炊御門右大臣
夜をかさねこゑよわりゆくむしのねに秋のくれぬるほどをしるかな (千載和歌集 秋下 三三一/久安百首 秋二十首 一四九)
秋暮れていまはの比の虫のねもよわりはてなば何心ちせむ (正治初度百首 秋 一五五七 範光)
虫の音弱まる秋の暮れの景が和歌に詠まれるようになるのは、おおよそ十二世紀頃からであり、その最も早い作例は『散木奇歌集』四二七である。よって、俊成・公能・範光の歌はこの俊頼詠から学んだ可能性がないとは言えないが、語彙の重なりからすれば俊頼詠よりも『俊頼髄脳』三八八のほうが近い。
【例四】
          頼光
たでかる舟のすぐるなりけり
          相模が母
あさまだきからろの音のきこゆるは (俊頼髄脳 四〇〇/金葉和歌集(二度本)雑部下 連歌 六五九)
さよふけてそらにからろのおとすなりあまのとわたるふねにやあるらん (江帥集 かり 八八)
あはぢしまかざまにわたる塩舟のからろのおとぞおきにきこゆる (新撰和歌六帖 ふね 一一一一 家良)
和歌において「唐艪の音」という語が詠まれること自体珍しい。匡房詠は雁の鳴き声を唐艪の音に喩えていて主題は題のとおり「雁」であるのだが、ここであげた連歌も和歌も自らの目では確認できない景色を聴覚的に捉えている点で共通しており、匡房と家良の歌は『俊頼髄脳』四〇〇から学んだとみてよかろう。
【例五】
道信の中将の、山吹の花をもちて、上の御局といへる所を、すぎけるに、女房達、あまたゐこぼれて、「さるめでたき物を持ちて、ただにすぐるやうやある」と、いひかけたりければ、もとよりや、まうけたりけむ、
口なしにちしほやちしほそめてけり
といひて、さし入れりければ、若き人々、え取らざりければ、おくに、伊勢大輔がさぶらひけるを、「あれとれ」と宮の仰せられければ、うけ給ひて、一間が程を、ゐざり出でけるに、思ひよりて、こはえもいはぬ花のいろかなとこそ、付けたりけれ。  (俊頼髄脳 四四○/続詞花和歌集 物名 九三五/八雲御抄 四七/袋草紙 一六二 *付句のみ)
いひわたりけるをとこのかへりごとに、まことのまつのといひたりければ、いはにまつをおほしておこせたるに、女にかはりて
かりそめにつけたるまつはかひもあらじこはえもいはぬあだごころかな (江帥集 四二九)
花をよみ侍りける    源道時朝臣
くもゐなるみねのこずゑを見わたせばこは世にしらぬはなのいろかな (万代和歌集 春歌下 二三三)
くちなしの色のやちしほ恋ひそめし下の思ひやいはではてなん (洞院摂政家百首 忍恋 一〇一四 定家/拾遺愚草 関白左大臣家百首貞永元年四月 忍恋 一四五一)
前斎院に山吹のえならぬ枝につけてきこえはべりけるふくらすずめの左大臣
くちなしのこはえもいはぬ色なれどさしてもいかがやま吹の花 (風葉和歌集 一二〇)
くちなしの千しほのいろ〔 〕いはねどもこころにあかぬやまぶきのはな (如願法師集 款冬を 四三一)
宇都宮神宮寺二十首歌に    素暹法師
君をわがおもふこころのいろならばちしほやちしほそめてみせまし (新和歌集 恋下 五九五)
『俊頼髄脳』二二・二三のように勅撰集に入集しているわけでももない連歌が、さまざまな歌の本歌となっている。当該連歌は、前句・付句ともに言い切りの形をとっていて、「そのなからがうちに、言ふべき事の心を、いひ果つるなり」(俊頼髄脳)と主張した俊頼が求める連歌の形式には則っているものの、用いられている語彙に珍しいところはない。例えば「こはえもいはぬ」という句になると右にあげた例がすべてとなるが、「えもいはぬ」という言葉自体は、
なぞなぞものがたりし侍りける所に  曾禰善忠
わがことはえもいはしろのむすび松ちとせをふともたれかとくべき (拾遺抄 雑下 五一三)
えもいはぬよはのこほりにあい□ければまだうちとけぬここちかもする (四条宮主殿集 返し 一五)
というように古くから用例があり、和歌に取り入れやすい語彙であった。これは本節で取りあげた連歌全体に言えることであり、そういった和歌との馴染みやすさゆえに数々の歌の本歌になり得たのではなかろうか。
また、定家にも連歌を本歌とした作例があったことは見逃せない。さらに定家は次に示すとおり、『千五百番歌合』八百十番の判詞において連歌を指摘しつつ一定の評価を与えてもいる。
          良暹
もみぢ葉のこがれてみゆるみふねかな (俊頼髄脳 四四二/八雲御抄 四八)
八百十番 左   顕昭
もみぢ葉にこがれあひてもみゆるかなゑじまがいそのあけのそほ舟
          右   丹後
なきとめぬ秋こそあらめきりぎりすおのがねさへぞよわりはてぬる
良暹がつかうまつれる連歌とかや物語に申しつたへたる、すぐれてをかしきにはあらねど、あまねく人の口に侍るゑじまがいそのまじりて歌になりにけるとやきこえ侍らむ (千五百番歌合 秋四 一六一八・一六一九)
新古今時代の歌壇において指導的な立場にいた定家が自詠に連歌の句を取り入れ、さらに後鳥羽院歌壇の盛儀であった『千五百番歌合』の判詞で連歌を引用したことの意味は軽くはない。これによって、定家は和歌を詠むときに、連歌を参考にすることがあってもよいと間接的に認めていた可能性を指摘してもよいように思う。あるいは、定家自身は連歌的なものを取り入れることに必ずしも肯定的でなくとも、歌壇自体の流れが個人の力では止めようもないほど連歌を取り入れる方向に動いていたことを示すものであったのかもしれない。
承久元年に催された『内裏百番歌合』七十四の衆議判においても、『千五百番歌合』と同じく良暹の連歌が指摘されている。
七十四番    左   家衡卿
紅葉ばのこがれて見ゆる木末かな衛士のたくひのよるはもえつつ
          右勝   行能
しぐれつつ木のはのおつる庭のおもにつもるあはれも色まさりつつ
左歌、上句、良暹法師連歌なり、下句ばかりわづかに新之由、その沙汰あり、右、さほどなる事侍らねども、勝とす (内裏百番歌合 庭紅葉 一四一・一四二)
ここでは連歌を用いた歌が負けになっており、判詞に「上句、良暹法師連歌なり」とあるが、おそらく連歌発祥の歌句を用いたことが咎となったという意味ではない。ここで下句に対して「下句ばかりわづかに新」という評価が付けられているのだが、下句はあきらかに
君がもるゑじのたくひのひるはたえよるはもえつつ物をこそ思へ (古今和歌六帖 火 七八一)
を本歌としている。ただし、家衡は『古今和歌六帖』七八一の句を大きく取りながら恋情を叙景に詠み換えており、判ではその部分について「わづかに新」と評価が付けられたのであろう。また「上句、良暹法師連歌なり、下句ばかりわづかに新之由」という判詞を見直すと上句と下句は並立する書き方で評価が記されており、下句が詞は本歌に大きく依拠しつつも詠歌内容を転じていて工夫があると評価されていることを考えれば、上句は詞も詠歌内容も良暹の詠んだままであるという工夫のなさが非難の対象となったと考えられるのである。つまり「良暹法師連歌なり」という判詞は、先行作品を捻りもなくあからさまに用いた浅はかな表現を咎めたもので、その歌句がもともと短連歌のものである事は問題ではなかった蓋然性が高い。したがって、ここでも連歌を取り入れて歌を詠むことそれ自体は否定されていないとみてよいだろう。また、この歌合の場合、主導する人間はいたにしても衆議判であるので、やはり歌壇的な流れとして和歌に連歌を取り入れることがある程度認められていたと
言ってよいのではなかろうか。
『俊頼髄脳』収録の連歌は『散木奇歌集』収録の連歌と異なり、収録歌数の違いというだけでは説明が付かないほど多くの連歌が和歌の本歌となっていた。『散木奇歌集』収録の連歌が本歌となるのは極めて限定的な状況においてだけであったのとは、傾向がかなり異なっている。これはおそらく『散木奇歌集』が著名な歌人ではあるものの、あくまで一歌人の作品集でしかないのに対し、『俊頼髄脳』は歌を学ぶものに対して書かれた作歌手引き書である、という性格の違いによるものではなかろうか。和歌に堪能と認められた歌人が執筆した作歌手引き書である『俊頼髄脳』に収められた歌々は、それが和歌であれ連歌であれ、のちの歌人にはほぼ等しく手本にできる作品であると認識されたのであろう。
ただし、これまで見てきたとおり、『俊頼髄脳』収録の連歌が後代の連歌・和歌に取り入れられる場合には、例歌の総数に差異はあるものの手法そのものは『散木奇歌集』収録の連歌とおおよそ同様の傾向を示していた。連歌の句の「型」が後代の作品に取り入れられるときには連歌と和歌の両方に作例が見られたが、特定の連歌に拠って作品が作られる場合には和歌にしか作例がなかった。これは前節で指摘したように、連歌の即応性を満たすために生みだされた方法が、院政期以降の和歌を作る際にも有効な手段であるとして、和歌にも取り入れられつつあったことを示していよう。 
四.おわりに
『散木奇歌集』と『俊頼髄脳』の連歌を見ていくと、比率の差は見られたものの、後代の和歌・連歌への取り入れ方はおおよそ同じ傾向を示していた。いわゆる本歌取り的な方法で連歌が新詠和歌へと取り入れられている以外に、連歌の製作に有効な手法として成立した句の「型」を取り入れるという先行歌摂取の方法も和歌で用いられるようになった。
別稿において詳述したように(16)、即応を重視するゆえに句の「型」を取り入れて連歌を詠むということは、既存の定型的な語によって句の多くの文字数を埋めてしまうことになる。それは作者の独創性を発揮する場を大幅に減じてしまうことにもなりかねない。しかし、即応の必要に迫られた場合には、連歌のみならず、おそらく和歌においても大きなメリットの得られる方法と認識されたであろう。
句の「型」をとること自体は、先述の用例にも見られるように古くから例のあることだが、この主題にかかわらない部分の句をだけを取って句の「型」として用いるという方法は、俊頼によって収集された短連歌の傾向から推測されるように、もっとも活発に短連歌が詠まれたと思われる院政期頃に作例を増加させているのである。このような傾向を示すのは、常に即興的・即応的に連歌を詠み出す必要のあった歌人らに有効な手段と見なされたためではなかろうか。
また、本稿で確認してきたように、句の「型」を取り入れるという方法が連歌で多用されるのとほぼ同時期に、和歌においても句の「型」をとって詠むという作例が増えていくのであるが、これは連歌の方法として確立した手法が和歌でも再評価されるという流れがあったことが推測される。そして、句の「型」を取り入れるという手法が和歌でも多用されるようになったのは、『堀河百首』以降に百首歌が流行しはじめて一度に大量の新詠歌を確保せねばならなくなった時代でもある。そのような時代的状況にあって、素早く和歌を作り出せる手法は極めて有用であると考えられたのではなかろうか。
もともと俊頼には、連歌は出来がどうであれ黙っているより応じた方がよいという考え方があったため(17)、和歌に比べて先行作品の摂取がしやすかったと推測される。『俊頼髄脳』では古歌を取って和歌を詠むことについて、
歌を詠むに、古き歌に詠み似せつればわろきを、いまの歌詠みましつれば、あしからずとぞうけたまはる。 (俊頼髄脳)
と述べており、古歌を取るならば本の歌以上に良いものを作らなくてはならないと規定しているのであるが、作品の出来を云々せずとにかく付けよとする連歌の場合には、和歌における「詠み増す」という意識からはおそらく解放されていたと思われる。このような意味でも、連歌では句の「型」を取るというような実験的な先行作品摂取の方法を取り入れやすかった。
ところで、王朝和歌からの脱却をはかっていたこの時期の和歌は、新要素を取り入れる柔軟な意識があり、今様などといった和歌周縁の領域とも接近して新たな歌を生み出していた(18)。より和歌に近い形式を持つ連歌の中で形成された「先行作品を取り入れる」という新手法が、いつまでも連歌のなかにだけ留まっていることができず、本稿で見てきたように和歌の側へも扉を開いていったのは自然な成り行きであろう。そしてこの流れは、やがて新古今時代における本歌取りの隆盛へと連なる潮流の一つとなっていったと思われる。 

(1) 『新撰髄脳』に「古歌を本文にして詠める事あり。それはいふべからず。」とあるように、先行する歌学書において、古歌を取って歌を詠むという、いわゆる本歌取りは否定的に捉えられている。
(2) 「源俊頼における和歌と連歌」を『国文学研究資料館紀要 文学研究篇』第三十七号(平成二十三年二月)に掲載予定。
(3) 拙論については注二論文を参照。また、稲田利徳氏が「連歌と和歌」(『論集 和歌とは何か』(和歌文学の世界 第九集)笠間書院 昭和五十九年十一月)のなかで、「にて」(指定の助動詞「なり」の連用形「に」+接続助詞「て」)について和歌(八代集)と連歌(菟玖波集)の用例を調査し、和歌よりも連歌の用例の方が高いパーセンテージを示す上に、連歌には「三句末が「にて」、五句が体言で終わる」ものが全体の約三分の一を示すことを述べて、「かなり類型的な様相を呈している」と述べている。稲田氏の論は和歌と連歌は類似する表現をとりつつも用法に違いが出ることなど、形態的・表現的には接近する時代状況にあった両ジャンルの「異質性」を論ずるものであり、両ジャンルの接近の過程に着目して論じている稿者とは方向が異なる。しかしながら連歌の表現の類型性に言及した論は他にほとんどなく、また稲田氏が扱うのが本稿よりも後の『菟玖波集』であるので、そこに類型的な詠法が取られているという指摘がなされているのは、後代にも句の「型」という方法が生き続けた可能性を示す貴重な例となろう。
(4) 注二拙論。
(5) 前の中宮に、連歌といふ女房にしのびて右中弁伊家もの申すと聞えけるが、ほどなくおともせずとききて、ふぢなみといふ人のしける
まことにや連歌をしてはおともせぬ
右中弁のゆづりてつけよと申ししかば一はしもやどにすゑつけよかし (散木奇歌集 一五九八)
皇后宮亮顕国人のがりおはしたりけるに、あはざりければやりみづのこころもゆかでかへるかな
後に、これをえつけざりしことのはぢがましかりしと人にかたりけるをききて、かういへなどてつけける
たてならべたるいはまほしさに (散木奇歌集 一六一一)
堀河院御時、出納が腹立ちてへやのしうといふものを、みくらのしたにこむなるを聞きて 源中納言国信
へやのしうみくらのしたにこもるなり
つけよとせめありければをさめどのにはところなしとて (散木奇歌集 一六一五)
西山に五節の命婦といふことひきのもとに、人人あまたぐしておはしまして、みちにてときはをすぎさせ給ふとて  帥大納言殿
ときははすぎぬいづらかきはは
刑部卿政長のつけずとてゆづられしかばみちすがらまもりさいはひたまふれば (散木奇歌集 一六二〇)
(6) 注二拙論。
(7) われといへばかぎりあるにぞにたりけるそこともささぬひかりなれども (散木奇歌集 十二光仏の名を人人よませしによめる 八八四 無辺光仏)
ゑにかけばむめもさくらもにたりけりはるのかたみはおもはざらなん (忠盛集 百首 物名 かけばん 九九)
わが心池水にこそにたりけれ濁りすむ事さだめなくして (続後拾遺和歌集 釈教歌 一三一五 源空上人)
平茸はよき武者にこそにたりけれおそろしながらさすが見まほし (古今著聞集 観知僧都平茸を九条相国に贈るとて詠歌の事 三一七 相国(九条太政大臣))
「〜にたりけ(る)」という句は、そのほとんどが何かと何かが似ているとする上句の内容を下句で読み解くという問答的な形式をとっており、この点でも連歌に近いと思われる。
(8) 俊頼以前の連歌の例は次にあげるとおりである。これらの例についての詳細は注二拙論を参照。
はしに人のあからさまにふしたりけるを見て、権少将
うたたねのはしともこよひ見ゆるかなといへば
ゆめぢにわたすなにこそありけれ (実方集 三二一)
むまのかみ〔 〕あついへ、殿上人のまゐるひんがしおもての、みさうじのゑにむまのかかれたるを、月のあかき夜ゑなるむまの月のかげにもみゆるかなとあれば
くらからずこそかきおきてけれ (四条宮下野集 一五三)
善恵房といふものの、むまよりおちて、てをつきそこなひてありしを、かひのかみありすけ
けふよりはおつるひじりとみゆるかな
またつける
いまはてつきぬすみかけんさは (行尊大僧正集 二七)
(9) 浪のうへにうかぶ契のはてよりも恋にしづまむなこそうからめ (隆信集 あそびによするこひ 五七六/六百番歌合 寄遊女恋 二番右 一一四四 隆信)
秋の夜の月にぞうたふ舟のうち浪のうへなるうからめのこゑ (正治後度百首 遊宴 八八 後鳥羽院/後鳥羽院御集 正治二年第二度御百首 月日未勘 遊宴 一八八)
十三世紀以前に「うからめ」を詠みこんだ和歌は、管見によれば右の二首のみである。十四世紀以降においても『朗詠題詩歌』(四一四)・『芳雲集』(四八六四)・『琴後集』(九七一)・『大江戸倭歌集』(二九六)しかなく、和歌に用いられる語としてはやはり珍しいものであった。(10) 『枕草子』二百三十段に「御簾のもとに集り出て、見たてまつるをりは、「芹摘みし」などおぼゆることこそなけれ」と記されているほか、『更級日記』や『讃岐典侍日記』、『狭衣物語』などにも用例が見られる。
(11) 『綺語抄』三五七、『和歌童蒙抄』六三六、『奥義抄』六二九、『和歌初学抄』一四○、『袖中抄』二六八、『和歌色葉』一八六、『色葉和難集』九七二、『源氏釈』二四五などに収録されている。
(12) さしもなぞいとふなるらんせり摘みし人だによには有りとこそきけ (林葉和歌集 不知身程恋 八九二)
古はみかきが原にせりつみし人もかくこそ袖はぬれけめ (頼政集 恋、経正朝臣家歌合 五五二)
おもひかねあさざはをのにせりつみし袖のくち行くほどをみせばや (式子内親王集 恋 一七五)
せりつみしむかしの人やわれならむかたきおもひに身をくだくらん (雅有集 六一)
(13) 『拾遺抄』七七は、この集以外に『拾遺和歌集』一二八・『宝物集』三八四・『古来風体抄』三五三・『五代集歌枕』五などに入集している。
(14) あやしくもけさの袂のぬるるかな今夜いかなる夢をみつらむ (風葉和歌集 恋二 九一七 やせかはの右衛門督)
「あやしくも〜かな」という形であれば和歌に用例は多いが、「あやしくも〜かな〜らむ」という形になると用例は右の一例のみとなる。だが「やせかはの右衛門督」というのがどういう物語の登場人物であるのかはっきりしないので、連歌以前にこの物語歌が出来たのかどうか判断しがたい。また、『拾遺抄』七七を本として詠んだと思われる歌は次の二首である。このうち顕昭歌は卯の花を主題としていることからして、一般的な本歌取りというよりは句の「型」をとったというほうがよいように思われる。しかし、本文にあげた連歌二首とは句の取り方が違っているので、『拾遺抄』歌を通過しさらに『俊頼髄脳』の連歌から学んだとは言い難い。
をぐら山しかのたちどのみゆるかな峰のもみぢやちりまさるらん (高遠集 十月 三六三)
卯花ををりたがへてもおもふかなゆきふるさとにわれやきぬらむ (千五百番歌合 夏一 三百十五番左 六二八 顕昭)
(15) 本文にあげた以外にも、『俊頼髄脳』二三を本歌取りしたと思われる和歌がある。
おもひかね夢にみゆやとかへさずはうらさへ袖はぬらさざらまし (千載和歌集 恋三 題不知 八二八 前右京権大夫頼政)
まちかねて夢にみゆやとまどろめばねざめすすむる荻のうはかぜ (山家集 雑 恋百十首 一二六七)
床のうへに手枕ばかりかたかけてしばしと思へばねぞ過ぎにける (信実集 雑歌 うたたね 一六八/新撰和歌六帖 おもかげ 一二四四)
(16) 注二拙論。
(17) 良暹の前句に誰一人付けることができなかったエピソードを語った後で、「この事を好むものは、あやしけれども、おもなくいひいでて、打ちわらひてやみぬるものなり。その日も、付けたる人はありけめど、好まぬ人は、つつましさに、さやうの晴などは、えいひ出ださで程へぬれば、やがて、こもりぬるなり。さればなほ、よしなし事なれど、かやうの折りの料に、おもなく好むべきなめり。」と、付句は出来の如何によらず、間を置かずにすべきであると述べている。
(18) 拙稿「寂然『法門百首』と今様」(『総研大文化科学研究』三号、平成十九年三月)・「藤原顕季の和歌と今様」(『総研大文化科学研究』六号、平成二十二年年三月)・「藤原俊成の和歌と今様」(『中世文学』五十五号、平成二十二年六月)。 
 
75.藤原基俊 (ふじわらのもととし)  

 

契(ちぎ)りおきし させもが露(つゆ)を 命(いのち)にて
あはれ今年(ことし)の 秋(あき)もいぬめり  
お約束くださいましたお言葉を、よもぎの葉に浮かんだ恵みの露のように、命と思って期待しておりましたのに、ああ、今年の秋もむなしく過ぎていくようです。 / つらくても私を信じなさいというさしも草の歌に掛けた恵みの露のようにありがたい約束のお言葉を命綱のように頼ってきましたのに、今年の秋も過ぎてゆくようです。 / お約束くださった、「わたしを頼りにしなさい」と詠まれた「させも草」におく恵みの露のようなお言葉をいのちのように大切にしてまいりましたのに、ああ、残念なことに今年も秋は過ぎ去ってしまいますよ。 / あなたが約束してくださった、させも草についた恵みの露のような言葉を、命のように恃んでおりましたが、それもむなしく、今年の秋もすぎてしまうようです。
○ 契りおきし / 字余り。「契りおき」は、約束しておく。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。千載集の詞書によると、この約束は、藤原基俊の息子の僧都光覚が、興福寺の維摩会の講師になれるよう藤原忠通(法性寺入道前太政大臣)に頼み、忠通が「私に頼りなさい」と返答したこと。
○ させもが露を命にて / 「させも」は、さしも草で、よもぎのこと。「露」は、恵の露。「て」は、逆接を表す接続助詞。
○ あはれ今年の秋もいぬめり / 「あはれ」は、慨嘆を表す感動詞。「も」は、強意の係助詞。「いぬ」は、「往ぬ」で過ぎるの意。「めり」は、婉曲を表す推量の助動詞。
※ 維摩会の講師の任命権者は、藤原氏の氏の長者、忠通であった。たびたび息子の光覚が選に漏れるので、基俊が恨み言を言ったところ、忠通は、「なほ頼め しめじが原の させも草 わが世の中に あらむ限りは」という歌の「しめじが原」という語を用いて、善処を約束した。ところが、またしても光覚は選に漏れた。これは、その私怨を晴らすために贈られた歌。  
1
藤原基俊(ふじわらのもととし、康平3年(1060年)- 永治2年1月16日(1142年2月13日))は、平安時代後期の公家・歌人。父は右大臣藤原俊家。
藤原氏の主流である藤原北家の出身で藤原道長の曾孫にあるが、官位には恵まれず従五位上左衛門佐にとどまった。1138年(保延4年)に出家し、覚舜(かくしゅん)と称した。
歌壇への登場も遅かったが、歌合では作者のほか、多くの判者もつとめ、源俊頼とともに院政期の歌壇の指導者として活躍した。革新的な作風であった俊頼に対し、基俊の作風は古い歌風を重んじたものであったという。晩年には藤原俊成を弟子に迎えた。漢詩文にも通じ「新撰朗詠集」を撰集している。
「金葉和歌集」以下の勅撰和歌集に百余首入集。家集に「基俊集」がある。
ちぎりおきし させもが露を いのちにて あはれ今年の 秋もいぬめり (百人一首、「千載集」)
書家としても名があり、現存する書跡には次のものがある。
○ 多賀切 / 和漢朗詠集の写本の断簡。現在70葉ほどが残る。下巻末にあたる部分の断簡(陽明文庫蔵)に、本文と同筆で「永久四年(1116年)孟冬二日、扶老眼点了、愚叟基俊」と二行の奥書きがあり、さらに別筆で「おなじとし月によみはてつ」と記されている。このように年代と筆者が明記された書跡は、現存するおびただしい平安時代の遺品の中でも稀である。
○ 山名切新撰朗詠集 
2
藤原基俊 康平三〜永治二(1060-1142)
右大臣俊家の子。道長の曾孫にあたる。母は高階順業女。権大納言宗俊の弟、参議師兼・権大納言宗通の兄。名門の出身でありながら、官途には恵まれず、従五位上左衛門佐に終わった。永保二年(1082)三月以前にその職を辞し、以後は散官。長治元年(1104)成立の堀河百首の作者の一人。永久四年(1116)、雲居寺結縁経後宴歌合で判者を務める。この頃から藤原忠通に親近し、忠通主催の歌合に出詠したり判者を務めたりするようになる。源俊頼と共に院政期歌壇の重鎮とされ、好敵手と目された。保延四年(1138)、出家して法名覚俊を称した。また同年、当時二十五歳の藤原俊成を入門させている(『無名抄』)。家集『基俊集』がある。金葉集初出。千載集では俊頼・俊成に次ぎ入集歌数第三位。勅撰入集百五首。万葉集次点者の一人。古今集を尊重し、伝統的な詠風は、当時にあってむしろ異色の印象がある。漢詩にもすぐれ、『新撰朗詠集』を編纂し、『本朝無題詩』に作を残す。
春 / 堀川院の御時、百首の歌奉りけるとき、春雨の心をよめる
春雨のふりそめしより片岡のすそ野の原ぞあさみどりなる(千載32)
(春雨が降り始めてから、片岡の山裾にひろがる野原は浅緑色になったのだ。)
題しらず
春山の佐紀野のすぐろかき分けて摘める若菜にあは雪ぞふる(風雅14)
(春の草花が咲く丘、佐紀の野――野焼きで黒くなった草をかきわけて摘む若菜に淡雪が降りかかる。)
夏 / 題しらず
から衣たつ田の山のほととぎすうらめづらしき今朝の初声(続千載237)
(龍田山のほととぎすの、心ひかれる今朝の初声だことよ。)
題しらず
風にちる花たちばなに袖しめて我がおもふ妹が手枕にせむ(千載172)
(風が吹き、橘の花が散る――その花の香りで袖を染み込ませて、恋しいあの子の手枕の代りにしよう。)
堀川院の御時、百首の歌奉りける時、五月雨の歌とてよめる
いとどしく賤しづの庵のいぶせきに卯の花くたし五月雨ぞする(千載178)
(ただでさえ卑しい身分の我が家は鬱陶しいのに、この季節、卯の花を腐らして五月雨が降りつづき、いっそう気分がふさいでしまうよ。)
雨中木繁といふ心を
玉柏しげりにけりな五月雨に葉守の神の標しめはふるまで(新古230)
(みごとな柏の木は、降りつづく梅雨に、繁りに繁ったものだ。葉を守る神が、結界を張ったかのように見えるまで。)
公実卿の家にて対水待月といへる心をよめる
夏の夜の月待つほどの手すさみに岩もる清水いくむすびしつ(金葉154)
(夏の夜、清水のほとりで月の出を待っている間、なんとなく手持ち無沙汰なもので、岩の隙間から漏れてくるその水をすくっては、喉を潤していた。いったい月が出るまで、何度手にすくったことだろう。)
秋 / 堀河院に百首歌奉りける時
秋風のややはださむく吹くなへに荻のうは葉の音ぞかなしき(新古355)
(秋風がだんだんと肌寒く吹くようになるにつれて、荻の上葉のたてる音が悲しげに聞えてくるよ。)
冬 / 時雨
晴れくもりさだめなければ初時雨いもが袖笠かりてきにけり(堀河百首)
(初時雨の季節で、晴れたり曇ったり、天気が変わりやすいものだから、妻の袖を笠に借りてやって来たよ。)
法性寺入道前関白太政大臣家の歌合に、野風
高円の野ぢの篠原すゑさわぎそそや木枯けふ吹きぬなり(新古373)
(高円(たかまど)の野道を行くと、群生する篠の尖端がざわざわと音を立てる。そうか、木枯しが今日から吹き始めたのだ。)
題しらず
霜さえて枯れゆくを野の岡べなる楢の広葉ひろはに時雨ふるなり(千載401)
(草にひえびえと霜が置いて、枯れてゆく野――小高くなったあたりに楢の木が生えていて、その広葉に時雨が落ちてあたる。なんと寂しげな音が聞えてくることだ。)
山家雪
雪のうちに今日も暮らしつ山里は妻木のけぶり心ぼそくて(風雅824)
(一日中雪が降りやまないまま、今日も暮れていった。冷え込む山里の夕べ、薪は尽きかけていて、細ぼそとたちのぼる煙に心細い思いをしながら私は過ごしている。)
恋 / 月前旅宿といへる心をよめる
あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて妹恋しらに見つる月かな(千載500)
(もったいないような月夜なのに、私は伊勢の海辺で旅寝するために葦を折り敷いて寝床に作り、都の妻を恋しがりながら、こうして月を眺めることよ。)
権中納言俊忠の家の歌合に、恋の歌とてよめる
みごもりにいはでふる屋の忍草しのぶとだにも知らせてしがな(千載655)
(思いを胸に秘め、口には出さずに過ごしてきた。俺はまるで陸奥の岩手の古屋に生える忍ぶ草だな。せめて、怺えているってことだけでも、あの人に知らせたいよ。)
雑 / 旅
初雁の心そらなる旅寝にはわが故郷ぞ夢にみえける(堀河百首)
(初雁が故郷へ帰ってゆくのを空に聞きながら、うわの空で旅寝をする。そんな夜には、なつかしい故郷の夢を見るのだった。)
堀河院御時、百首歌たてまつりける時、述懐の心をよめる
唐国にしづみし人も我がごとく三代まであはぬ歎きをぞせし(千載1025)
(唐の国で不遇に沈んだ人、顔駟(がんし)も、私のように三代にわたって、取り立ててくれる天子に出逢えない嘆きをしたのだ。)
律師光覚維摩会ゆいまゑの講師の請を申しけるを、たびたび洩れにければ、法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを、しめぢの原のと侍りけれども、又その年も洩れにければ、よみてつかはしける
契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり(千載1026)
((詞書)律師光覚が維摩会の講師を請い願ったのに、たびたび人選に洩れたので、法性寺入道前太政大臣(藤原忠通)に不平を申したところ、「しめぢの原の(委せておきなさい、の意)」と返答があったけれども、その年もまた洩れてしまったので、(忠通に)詠んで贈った歌 (歌)「なほ頼めしめぢが原のさせも草」と、貴方はあれほどはっきりお約束してくださったのに。「させも草」に置く露のようにあてにならないではありませんか。それでも私はそのはかない露を、命の綱と頼むしかないのです。ああ、こんなふうにして、今年の秋もむなしく過ぎてゆくようです。)
長月のつごもり頃、わづらふことありて、たのもしげなく覚えければ、久しく問はぬ人につかはしける
秋はつる枯野の虫の声たえばありやなしやを人のとへかし(千載1093)
(秋も果てた頃、枯野の虫の声が絶えるように、私の消息が途絶えたら、生きているかどうかくらいは、尋ねて下さい。)
公実卿かくれ侍りてのち、かの家にまかりたりけるに、梅の花さかりに咲けるを見て、枝に結びつけて侍りける
むかし見しあるじ顔にも梅が枝の花だに我に物がたりせよ(金葉604)
(昔、この家でお会いしたご主人のような顔をして、梅の花よ、せめておまえだけでも私に昔話をしてくれ。)
基俊に古今集を借りて侍りけるを、返しつかはすとて  皇太后宮大夫俊成
君なくはいかにしてかは晴るけまし古いにしへ今いまのおぼつかなさを
(先生がおられなければ、どうやってこのもやもやを晴らすことができたでしょう。昔と今の歌で、どれが良いのか区別することも覚束なかったでしょうし、古今集の正しい姿をはっきり知ることもできなかったでしょう。)
返し
かきたむる古いにしへ今いまの言の葉をのこさず君につたへつるかな(風雅1841)
(書き集めておいた昔と今の歌々を、一首残さずあなたに伝えたことだよ。しっかりと後世にこの歌風を伝えておくれよ。) 
3
“あたりまえ”に喜びを
いよいよ梅雨の時期を迎えます。長雨が続き、じめじめとして、身も心もうんざりです。この梅雨のことを“五月雨”といいます。旧暦の五月にあたる頃に降る雨ということからだそうです。また、“卯の花くたし”ともいわれます。その頃に美しく咲く卯の花を腐らせてしまうほどの長雨ということからです。
さて、我々にとってイメージの良くない梅雨を、平安時代の歌人、藤原基俊はこう詠んでいます。
いとどしく 賤の庵の いぶせきに 卯の花くたし 五月雨ぞする
「ただでさえ卑しい身分の我が家は鬱陶しいのに、この季節に美しく咲く卯の花を腐らせてしまう五月雨が降り、より気分もふさいでしまう」というような意味でしょうか。誰もが、藤原基俊の気分がわかるように思います。
しかしよく考えてみますと、この梅雨は今年の卯の花は腐らせますが、卯の花の樹木にとっては、来年また花を咲かせるための恵みの雨ともいえます。私たちの生活においても、この梅雨がこの時期に降ることによって、田畑の稲や野菜を実らせ、食生活を豊かにしてくれます。木々を青々と茂らせ、夏場の水不足も解消してくれます。こう考えると、私たちにとっては、確かに鬱陶しい梅雨ではありますが、なくてはならない梅雨であると言っても過言ではありません。
鎌倉にある円覚寺の洪鐘には、北條貞時が国家の安泰を願って「風調雨順 国泰民安」と刻んでいまいます。国家の安泰は、風雨が順調に繰り返されるところにあるということです。風が吹く時には風が吹いて、雨が降る時には雨が降るという、あたりまえが国家の安泰につながるのです。国家だけではなく、私たちそれぞれの心もそうではないでしょうか。
あたりまえの時にあたりまえにある喜びを知ることが、この世の中に生かされている自分に感謝できる方法だと思います。あたりまえに感謝して生活していきましょう。  
4
『古今著聞集』にある藤原基俊
基俊、城外しけることありけり。道に堂のあるに椋〔むく〕の木あり。その木に六歳ばかりなる小童〔こわらは〕のぼりて、椋を採りて食ひけるに、「ここをば何と言ふぞ」と尋ねければ、「やしろ堂と申す」と答へけるを聞きて、基俊、何となく口ずさみに童に向かひて、
この堂は神か仏かおぼつかな
と言ひたりければ、この童うち聞きて、とりもあへず、
ほふしみこにぞ問ふべかりける
と言へりけり。基俊、あさましく不思議におぼえて、「この童はただ者にはあらず」とぞ言ひける。
(基俊が郊外へ出掛けたことがあった。途中にお堂のある所に椋の木がある。その木に六歳ぐらいである子供が登って、椋を採って食べていたので、「ここを何と言うのか」と尋ねたところ、「やしろ堂と申し上げる」と答えたのを聞いて、基俊が、なにげなく口ずさんで子供に向かって、この堂は神か仏かはっきりしない。と言っていたところ、この子供がちょっと聞いて、すぐさま、法師神子に尋ねるのがよいよ。と言っていた。基俊は、意外に思い掛けないことに感じて、「この子供はただ者ではない」と言った。)
これは面白いですねえ。何気ない会話が、形式も内容も短連歌になっています。
「やしろ堂」というお堂の名前、「やしろ」は「社」で神社、「堂」は仏を祭ってある建物と理解できるわけで、どっちの建物なのか分からない変な名前です。「おぼつかな」は「おぼつかなし」の語幹で、よくわからないなあと、感嘆表現をしています。「ほふしみこ」は「法師神子」、「法師」は仏教、「神子」は神道、こういう両方を兼ねた人がいたと言うことです。仏教と神道を兼ねた言葉が対応しているわけです。 
 
76.法性寺入道前関白太政大臣
  (ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん)  

 

わたの原(はら) 漕(こ)ぎ出(い)でて見(み)れば ひさかたの
雲居(くもゐ)にまがふ 沖(おき)つ白波(しらなみ)  
大海原に漕ぎ出して見渡すと、雲かと見まがうばかりの沖の白波だ。 / 広々とした海に舟を漕ぎ出して、遥かかなたを見渡すと、沖の方には白い雲に見間違えるほどの大きな白波が立っていたのです。 / ひろびろとした大海原に、舟を漕ぎ出して、あたりを見渡すと、はるかかなたの水平線は海と空がひとつに溶け合って、雲と見間違えてしまうような沖の彼方の白波だなぁ。 / 大海原に船を漕ぎ出してみると、遠くの方では、雲と見わけがつかないような白波が立っているのが見える。(まことにおもしろい眺めではないか)
○ わたの原 / 大海原。
○ 漕ぎ出でて見れば / 「見れば」は、マ行上一段の動詞「見る」の已然形+接続助詞“ば”で、順接の確定条件を表し、見るとの意。
○ ひさかたの / 「雲居」にかかる枕詞。
○ 雲居にまがふ / 「雲居」は、雲のいるところ、即ち、空または雲。「まがう」は、区別がつかなくなる。
○ 沖つ白波 / 「つ」は、上代の格助詞で、“の”の意。
※ 『詞花集』の詞書によると、この歌は、崇徳天皇の御前で「海上遠望」を題に詠んだ歌であり、山部赤人の「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ」と小野篁の「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」を折衷したような印象を与える歌である。ただし、歌の内容としては、流刑となる直前に詠まれた篁の悲哀に満ちた歌よりも、雄大な景色の中で、空に浮かび上がる“白”の美しさを基調とした赤人の堂々たる歌に近いと言える。しかし、皮肉なことに、忠通は、保元の乱で敗れた崇徳上皇を讃岐に流した。天皇の配流は、赤人より少し後の世代である淳仁天皇が淡路に流されて以来、約400年ぶりの出来事であった。 
1
藤原忠通(ふじわらのただみち)は、日本の平安時代後期から末期の公卿。従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。
康和5年(1103年)、大江匡房の名付により「忠通」と称する。嘉承2年(1107年)、元服し白河法皇の猶子となる。永久2年(1114年)、白河法皇の意向により法皇の養女の藤原璋子(閑院流・藤原公実の娘)との縁談が持ち上がるが、璋子の素行に噂があったこともあり、父・忠実はこの縁談を固辞し破談となる。保安2年(1121年)、法皇の勅勘をこうむり関白を辞任した忠実に代わって藤原氏長者となり、25歳にして鳥羽天皇の関白に就任。その後も崇徳・近衛・後白河の3代に渡って摂政・関白を務めることとなった。摂関歴37年は高祖父・頼通の50年に次ぐ。また太治4年(1129年)、正妻腹の娘・聖子を崇徳天皇の後宮に女御として入内させ、翌5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。崇徳帝と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日、女房・兵衛佐局が崇徳帝の第一皇子・重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという。保元の乱で崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。
一般には父・忠実が弟の頼長を寵愛する余り、摂政・関白の座を弟に譲るように圧力をかけられたように言われているが、実際には長い間摂関家を継ぐべき男子に恵まれず、天治2年(1125年)に23歳年下の頼長を一度は養子に迎えている。だが、40歳を過ぎてから次々と男子に恵まれるようになった忠通が実子に摂関家を相続させるため、頼長との縁組を破棄した。
忠通と忠実・頼長は近衛天皇の後宮政策においても対立し、久安6年(1150年)正月に頼長が養女・多子を入内させ、皇后に冊立させたのに対し、忠通もその3ヵ月後にやはり養女・呈子を入内させて、中宮に冊立させた。この呈子立后にとうとう忠実・頼長は業を煮やし、忠通は父から義絶されて頼長に氏長者職を譲らされるが、多子と天皇の接触を妨害する事などで対抗し、久寿2年(1155年)の後白河天皇の践祚により復権。それら一連の対立が保元の乱の原因の一つとなった。乱後、氏長者の地位は回復されたが、その際に前の氏長者である頼長が罪人でかつ死亡していることを理由として、宣旨によって任命が行われ、藤原氏による自律性を否認された。更に忠実・頼長が所有していた摂関家伝来の荘園及び個人の荘園が全て没官領として剥奪されることになったが、忠通が忠実に摂関家伝来のものと忠実個人の荘園を自分に譲与するように迫り、漸く忠通の所領として認められて没収を回避された。
保元3年(1158年)の賀茂祭の際に院近臣の藤原信頼との対立を起こしたことから後白河天皇より閉門に処せられて事実上失脚、同年に関白職を嫡男の基実に譲った。やがて、平治の乱で信西と藤原信頼が討たれ、続いて実権を握った藤原経宗・藤原惟方も配流されたことで、朝廷には既に退位した後白河上皇と二条天皇の対立と政務担当者のいない状態だけが残された。そんな中で「大殿」と称された忠通が一時的に復権している。その後、応保2年(1162年)に法性寺別業で出家して円観と号した。忠通は晩年身近に仕えていた女房の五条(家司・源盛経の娘)を寵愛していたが、長寛元年(1163年)末か翌年の年初頃、五条が兄弟の源経光と密通、これを目撃した忠通は直ちに経光を追い出した(『明月記』)ものの、精神的な衝撃もありまもなく薨去したという。
人物
忠通が氏長者となった時は既に摂関政治は形骸化し、さらに父や弟との対立を抱え、男子を儲けたのも遅い方であったが、そのような悪い状況の中でも本来対抗勢力である鳥羽法皇や平氏等の院政勢力と巧みに結びつき、保元の乱に続く、平治の乱でも実質的な権力者・信西とは対称的に生き延び、彼の直系子孫のみが五摂家として原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占する事となった。もっとも、基実の後継者として藤原信頼の妹が生んだ近衛基通ではなく、娘・皇嘉門院(聖子)の猶子となっていた庶子(三男)の兼実を後継者にすることを意図したものの、基実の急死による挫折(次男・基房の関白任命や平氏一族による基通後見の成立などの事態の急変)がその後の摂関家分裂の原因となったとする説もある。
悪辣な陰謀家とする説があるが(角田文衛など)、異論もある(元木泰雄など)。
詩歌にも長じ、書法にも一家をなして法性寺様といわれた。漢詩集に『法性寺関白集』、家集に『田多民治集』がある。日記に『玉林』があるが散逸してほとんど現存しない。
歌人
『金葉集』以下の勅撰集に58首入集しているが、その歌について『今鏡』では「柿本人麻呂にも恥じないのではないか、と人々が申し上げている」とあり、また漢詩をつくれば菅原道真より優れているといわれた。これは鳥羽天皇から後白河天皇の4代にわたって関白となり、摂政と太政大臣におのおの2度ずつなっている人物であるため、美辞麗句に満ちたものになったと考えられる。
小倉百人一首から。
わたの原 こぎいでてみれば 久方の雲いにまがふ 沖つ白波 (法性寺入道前関白太政大臣)
なお、この直前・直後の歌の詠み人は、いずれも忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)である。
書家
藤原忠通筆書状案(京都国立博物館蔵、国宝)25通のうち法性寺流を開いた。肉太で、丸味と力強さを兼ね備えた生々したものである。
藤原基衡が毛越寺に伽藍を建立した際、金堂円隆寺(のちに兵火で焼失)に掲げる額の揮毫を忠通に依頼した。しかし、奥州藤原氏は京都からすれば俘囚の係累であり、身分を明かして依頼しても応じられるはずがないため、実際の依頼は仁和寺を通して行われた。のちに真の依頼者を知った忠通は額を取り返そうとしたが失敗に終わった(『吾妻鏡』には「円隆寺の額は関白忠通の筆、色紙形は藤原教長」とある)。 
2
藤原忠通 承徳元〜長寛二(1097-1164) 号:法性寺関白
道長の直系。関白太政大臣忠実の息子。母は右大臣源顕房のむすめ、従一位師子。左大臣頼長・高陽院泰子の兄。基実・基房・兼実・兼房・慈円・覚忠・崇徳院后聖子(皇嘉門院)・二条天皇后育子・近衛天皇后呈子(九条院)らの父。藤原忠良・良経らの祖父。堀河天皇の嘉承二年(1107)四月、元服して正五位下に叙され、昇殿・禁色を許され、侍従に任ぜられる。鳥羽天皇代、右少将・右中将を経て、天永元年(1110)、正三位。同二年、権中納言に就任し、従二位に昇る。同三年、正二位。永久三年(1115)正月、権大納言。同年四月、内大臣。保安二年(1121)三月、白河院の不興を買った父忠実に代わって関白となり、氏長者となる。同三年、左大臣・従一位。崇徳天皇の大治三年(1128)十二月、太政大臣。近衛天皇代にも摂政・関白をつとめたが、大治四年(1129)の白河院崩後、政界に復帰した父と対立を深め、久安六年(1150)には義絶されて氏長者職を弟の頼長に奪われた。以後美福門院に接近し、久寿二年(1155)の後白河天皇即位に伴い忠実・頼長が失脚した結果、氏長者に返り咲いた。保元三年(1158)、関白を長子基実に譲り、応保二年(1162)、出家。法名は円観。永久から保安(1113-1124)にかけて自邸に歌会・歌合を開催し、自らを中心とする歌壇を形成した。詩にもすぐれ、漢詩集「法性寺関白集」がある。また当代一の能書家で、法性寺流の祖。日記『法性寺関白記』、家集『田多民治(ただみち)集』がある。金葉集初出。勅撰入集は五十九首(金葉集は二度本で数えた場合)。
春 / 花薫風といふ心をよみ侍りける
吉野山みねの桜や咲きぬらむ麓の里ににほふ春風(金葉29)
(吉野山の峰の桜が咲いたのだろうか。麓の里に吹いてくる春風は、花の気(け)に満ちている。)
深山花を
峰つづきにほふ桜をしるべにて知らぬ山路にまどひぬるかな(金葉46)
(峰から峰へと咲き連なる桜に手引されるまま、知らない山に入り込み、道に迷ってしまったことよ。)
鳥羽院位おりさせ給うて後、白河に御幸ごかうありて花御覧じける日、よみ侍りける
常よりもめづらしきかな白河の花もてはやす春のみゆきは(新拾遺121)
(常にもまして尊く喜ばしいことでございますよ。白河の桜に引き立てられて一層豪勢な春の御幸は。)
新院位におはしましし時、牡丹をよませ給ひけるによみ侍りける
咲きしより散りはつるまで見しほどに花のもとにて二十日はつか経にけり(詞花48)
(咲いてから散りきるまで眺めているうちに、花のもとで二十日を過ごしてしまったことになるのだ。)
夏 / 水草隔船といへる心をよみ侍りける
夏ふかみ玉江にしげる蘆の葉のそよぐや船の通ふなるらむ(千載204)
(夏も深いので、玉江の蘆が繁って水路を隠している――その蘆の葉がそよぐことで、ああ船が往き来しているのだなと知れるのだ。)
六月二十日ごろに秋の節になる日、人のもとにつかはしける
六月みなづきのてる日の影はさしながら風のみ秋のけしきなるかな(金葉153)
(真夏の太陽の光が射してはいるけれども、風ばかりは秋の気配を感じさせることよ。)
秋 / 月の歌三十首よませ侍りける時、よみ侍りける
秋の月たかねの雲のあなたにて晴れゆく空の暮るる待ちけり(千載275)
(秋の月は、高山の頂にかかる雲の彼方にあって、しだいに晴れてゆく空が暗くなるのを待っているのだった。)
冬 / 永久三年十月家歌合 水鳥
三島江や葦の枯葉の下ごとに羽がひの霜をはらふをし鳥(夫木抄)
(三島江では、冬枯れした葦の葉の下ごとにオシドリがいて、身をふるわせては羽交いに積もった霜を払い落している。)
題しらず
さざなみや志賀の唐崎風さえて比良ひらの高嶺に霰あられふるなり(新古656)
(さざ波寄せる琵琶湖畔、志賀の唐崎に吹く風は肌寒く、比良の山の頂きには霰が降っているようだ。)
恋 / 恋の歌とてよめる
いはぬまは下はふ葦の根をしげみ隙ひまなき恋を人しるらめや(金葉401)
(岩沼の底を葦の根がびっしりと這っているように、ひっそりと隙もなくあの人を思い続けている。口に出して言わない間は、やはりこの恋を知ってはもらえないだろうなあ。)
寄水鳥恋
逢ふこともなご江にあさる葦鴨のうきねをなくと人しるらめや(金葉454)
(貴方に逢うこともできず、私は辛い独り寝に泣いている。奈呉江の葦辺で餌を漁る鴨が、ぷかぷかと水に浮きながら鳴き声をあげるように…。あの人は知ってくれるだろうか、いやそんなわけもないのだ。)
恋の歌とてよみ侍りける
あやしくもわがみ山木のもゆるかな思ひは人につけてしものを(詞花187)
(不思議なことに、この我が身が深山木(みやまぎ)の薪よろしく燃えるものよ。「思ひ」の火は、あの人に点けたというのに。)
新院位におはしましける時、雖契不来恋といふことをよませ給ひけるに、よみ侍りける
来ぬ人を恨みもはてじ契りおきしその言の葉もなさけならずや(詞花248)
(来てくれなかった人を、最後まで恨み通すことはやめましょう。手紙で逢おうと約束してくれただけでも、あの人なりのせめてもの情けだったのだわ。そうじゃないかしら。)
恨恋の心を
恨みじと思ふ思ひのともすればもとの心にかへりぬるかな(玉葉1791)
(あの人を恨んで何になる、恨むまい。何度もそう思うのだが、その決心も、どうかしたきっかけで、もとの心に戻ってしまって、やはりあの人を恨んでしまうのだ。)
題しらず
冬の日を春より長くなすものは恋ひつつ暮らす心なりけり(千載796)
(短いという冬の日を春の日よりも長くするものは、人を恋しく思いながら過ごす心なのであった。)

限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(田多民治集)
(これ以上ないほど嬉しいと思ったことがある。でも、それよりも、この愚かな恋の方がさらに上だったよ。)
雑 / 月の歌あまたよませ侍りける時、よみ侍りける
さざなみや国つ御神みかみのうらさえて古き都に月ひとりすむ(千載981)
(ああ、かつて楽浪(さざなみ)と呼ばれた国――さざ波の寄せる近江の国の神様のお心も今は冷えきり、寒々とした湖の入江のほとり、荒れ果てた旧都の跡には、ただ月だけが澄んでいる。)
左京大夫顕輔、近江守あふみのかみに侍りける時、とほき郡こほりにまかりけるに、便りにつけて言ひつかはしける
思ひかねそなたの空をながむればただ山の端にかかる白雲(詞花381)
(あなたに逢いたいという思いが抑えきれずに、そちらの方の空を眺めると、ただ山の稜線に白雲がかかっているのが見えただけだ。)
新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる
わたのはら漕ぎ出でてみれば久かたの雲ゐにまがふ沖つ白波(詞花382)
(海原に漕ぎ出して遠望すると、沖合には、雲と見紛うばかりに白波が立っている。) 
3
保元の乱  
保元の乱前夜
御堂関白とよばれた藤原道長が栄華を極めたのは遠い昔のこと。一旦外戚の地位を失うと、かつての勢いはどうにも取り戻せず、ただ名跡の誉れを誇ることしかできない斜陽期の摂関家――。
時の関白藤原忠実には、二人の子息がいました。長男は藤原忠通。白河法皇の養女璋子の結婚相手として、第一候補に上がった人物です。そして、次男は藤原頼長。忠実が白河院の勘気を蒙り、関白を停任された頃(43歳)に生まれた子で、兄の忠通とも二十歳以上離れた親子程の年の差でした。しかし、この頼長は幼い頃から学問をよく修め、「日本一の大学生(だいがくしょう)」と評されるほどの、自他共に認める秀才で、そうでなくとも、歳をとってから生まれた子は可愛いと申しますから、忠実が頼長を溺愛したのも無理はないでしょう。が、何事も過ぎたるは、不幸の始まり……。
父忠実に代り関白の座に就いた長男忠通には、後を継ぐべき男子がいませんでした。正確には正室腹に一人、妾腹に二人の男子がいましたが、後に禍根を残さないために、妾腹の二人の男子は早くに出世させていた所に、正室腹の嫡子が夭折したため、後継者となり得る男子がいなくなってしまったのです。父親の忠実はそこに目をつけ、忠通に頼長を養子にするようにと勧めます。摂関家の血筋が絶えるのを防ぎ、なおかつ可愛い頼長を引き立てる――これぞ、一石二鳥を狙った策でした。忠通にしても、後継ぎがないことを気にしていましたし、また父がしきりに勧めるのを無下にもできないと思ったのでしょう、忠実の言を入れて頼長を養子に迎えることを了承します。
忠通の養子となり、とんとん拍子の出世を重ねる頼長は、30歳で左大臣にまで上り詰め、その学識の確かさゆえに、世に「悪左府」と呼ばれるようになります。ちなみに、この「悪」は「悪い」という意味ではなく、「ずば抜けた才能を持つ」とか「恐るべき」とか「凄い」とか、どちらかと言うと、良い意味で使われるものなので、お間違えなく!
さて、自慢の愛息のためにできる限りの布石を敷き、晴れて頼長が関白となる日を待ち焦がれていた忠実でしたが、急転直下、思いも掛けない事態が起きます。もはや実子を得ることはあるまいと諦めていたはずの忠通に、47歳にしてようやく男子が生まれたのです。しかもこの後、続々と子宝に恵まれことになるのですから、人生とは、何とも皮肉なものです。
何せ子を思う親の心は、誰しも同じようなもの、忠通もご多分にもれず、自分の実の子にこそ、後を継がせたいと思うようになります。それに、弟とはいえ異腹の、それも母の身分の劣る頼長に対して、忠通が肉親の情というよりも、一種の蔑みにも似た感情を抱いていたとしても、不思議ではありませんでした。実際、この当時の兄弟姉妹というものは、同胞――つまり母親が同じでなければ、既に他人も同然と考えられていました。となれば、なおのこと、頼長に後は譲れないと考えるのは自然の流れでしょう。
一度気持ちが離れると、急速に溝は深まり、忠実・頼長vs忠通の対立は、摂関家内のお家騒動に留まらず、朝政にまで影響を及ぼすようになります。その最たるものが、近衛天皇の后妃問題でした。弟頼長の養女多子(まさるこ)が最有力候補として、ほぼ当確であったにもかかわらず、兄忠通は自分の正室の姪に当たる呈子(しめこ)を養女として、対抗馬に押し立てて来たのです。両者相譲らぬ対立を憂慮した鳥羽法皇は、多子を皇后に、呈子を中宮とすることで、とりあえずこの難局を切り抜けます。が、こんな小手先だけの妥協案で、即問題解決と行くわけがありません。
案の定、頼長はことあるごとに、父忠実に自分を早く関白にしてくれるようにと迫り、忠実の方もこれまで散々に甘やかして来たわけですから、すっかり言いなりです。やむなく、忠実は、いずれは忠通の子供に摂関職を返すことを条件に、関白を頼長に譲るようにと忠通に求めますが、忠通も父親としての自覚に目覚めたことでもあり、うんと首を縦に振るわけがありません。「それでは約束が違う!」とさらに詰め寄るも、やはり忠通に退けられて、ついに忠実もキレてしまったのでしょう、摂関職に付随する「氏長者」の権限を忠通から強引に取り上げ、頼長に与えてしまいます。「氏長者」とは文字通り藤原氏の長者のことで、本来は摂関職を継ぐ者が同時に受け継ぐものでしたが、この忠実の暴挙により「氏長者」=「摂政・関白」の図式が初めて崩れたのでした。
さらに、忠実は鳥羽法皇にも忠通の摂政解任を働きかけます。「氏長者」は朝廷から任命される公のものではなく、あくまでも私的な地位ですから、長老の権限でごり押しもできましたが、こと摂政の官職に関しては、隠居の身では力の及ぶものではなく、法皇に頼る他ありません。しかし、これは法皇に退けられます。法皇は忠通を摂政から改めて関白に任じ、一方では頼長を内覧とするなど、両者の面目を保ちつつ、和解を促しますが、これは結局の所、問題の先送りでしかありませんでした。
これ以後も、忠通vs頼長の冷戦は続きますが、共に自身の官位は既に頭打ちの状態でしたから、今度はそれぞれの息子達を代理に立てた出世バトルに移行して行きます。忠通の長男基実・次男基房、頼長の長男兼長・次男師長、まずは年長の頼長の息子達の方が一歩リードするも、やはりそこは摂関家の子息、父の威光をバックに基実の方も凄まじい追い上げをみせます。それこそ、本人そっちのけの出世レースを繰り広げる両陣営――しかし、近衛天皇の早世という予想外の事態により、新たな局面を迎えることになります。
後継天皇を誰にするか――先帝 崇徳天皇の皇子重仁か、崇徳天皇の弟雅仁の皇子守仁か、鳥羽法皇にとってはどちらも孫にあたる二人が対立候補となります。そして、この皇位継承者の決定に際して、鳥羽法皇は関白忠通に意見を求め、反対に忠実・頼長父子はその議定の場から完全に排除する行動に出ます。これまで摂関家の内紛には関知せず、常に両者の顔を立て、曖昧な態度で臨んできた法皇が、ついに下した裁断――それは忠通との連携でした。が、そこには一人の女性【美福門院】の意思が多分に反映されていました。
少し話は遡りますが、近衛天皇は誕生して間もなく、崇徳天皇の中宮聖子(忠通の娘)の養子となっており、それ以来、忠通は生母である美福門院と友好関係にありました。忠通は名目上近衛天皇の外祖父という地位を得ることになり、一方、確かな政治的基盤を持たない美福門院にとっても、摂関家という格好の後ろ盾を得ることができる――両者の利害が一致しての提携でした。これも、中宮聖子に皇子がいたならば、決してありえないことでした。もし仮に、重仁の母がこの聖子であれば、当然のことながら、忠通は重仁擁立に奔走し、この後の展開はまるで違ったものになっていたでしょう。
再び話を元に戻しますと、かねてより、美福門院の養子である守仁を推して来た忠通の登用を決めた時点で、鳥羽法皇の意中の後継は守仁に絞られていました。ところが、ここで忠通は一転して、守仁の父雅仁を先に位につかせ、その後、守仁に譲位させるという修正案を示します。近衛天皇(弟)から雅仁(兄)、雅仁(父)から守仁(子)という段取りを踏むことで、守仁の践祚の正当性を高めると共に、今後雅仁との間にしこりを残さないために忠通がひねり出した奇策でした。鳥羽法皇は、かねてより雅仁を「天皇の器にあらず」と評価していたこともあり、その擁立には消極的でしたが、苦慮の末、ついにはこの案を受け入れます。
雅仁親王の即位に伴い、忠通は関白に再任され、一方、頼長は左大臣には再任されたものの、内覧の宣旨を賜ることはできませんでした。失脚とまではいかないものの、新体制からは完全に爪弾きにされた形となり、これに強い不満を抱いた頼長は、以後出仕をやめて、籠居生活に入ることになります。 
保元の乱勃発
崇徳上皇と藤原頼長――天皇家・摂関家双方に波乱の火種を抱えながらの船出となった後白河天皇下の新体制でしたが、それも、鳥羽法皇という絶対君主の存在があってこそ、どうにか平穏を保つことができたのでした。そして、後白河天皇の即位からわずか1年――保元元年(1156)7月2日、鳥羽法皇の崩御により、時代は戦乱の世へと、まっしぐらに突き進んで行くことになります。
鳥羽法皇危篤の報を受け、その病床を見舞おうと、院の御所鳥羽殿に赴いた崇徳上皇を待ち受けていたのは、面会拒否の上に門前払いという冷酷な仕打ちでした。死を目前にしてなお、自分を無視しようとする鳥羽法皇――埋めることのできないままに、深まり行くばかりの溝は、崇徳上皇にある決断を促します。
鳥羽法皇の崩御と同時に「崇徳上皇と左大臣頼長に謀反の気色あり」の噂が廟堂を駆け抜け、それに呼応するかのように、崇徳上皇はもう一つの院の御所白河殿に入り、宇治で籠居していた頼長も駆けつけます。さらに、頼長の家来筋になる源為義も、主命による再三の召集に抗うことができず、嫡男の義朝を除く六人の息子達と共に馳せ参じます。嫡男の義朝は、かねてより他の兄弟とは折り合いが悪く、これ以前に、領地をめぐる争いから次弟の義賢を義朝の息子の義平が殺害に及ぶなど、兄弟とは名ばかりの、殺伐とした関係にあり、今回の合戦についても、いち早く、天皇方に加わっていました。
さて、白河殿占拠の報を受けた後白河天皇方は、これを謀反と断定し、すぐさま兵に召集をかけます。後白河方では、父と袂を分かった源義朝を中心に、美福門院の強い要請により、平清盛とその一門が加わり、謀反鎮圧の態勢が着々と整えられていました。
平清盛が一門総出で後白河方についたことは、少なからず崇徳上皇の陣営に動揺を与えました。というのも、清盛の継母にして、先代当主忠盛の正室宗子は重仁親王の乳母であり、清盛はともかく、宗子の実子である頼盛とその一党については、必ずや上皇側につくものと目されていたからです。弟とはいえ正妻腹の頼盛は、当時の平家一門においては、清盛と同等に近い勢力を保持していました。あるいは平家が二分される危険性も憂慮しつつ、あえて天皇方につくことを決断した清盛にとって、頼盛が自分に従ったことは喜ぶべきことながら、反面、それを指示した義母に大きな借りを作ることになったのでした。
平家の主力が天皇方についたことで、いささか兵力において劣勢気味の上皇方では、源為義・八郎為朝父子が「夜討ち」をかけることを進言します。これは、陣を張る白河殿が守るに難く、籠城には不向きであることも踏まえた上での、最良の策と思われました。ところが、頼長はこの案をにべもなく一蹴します。一つには、忠実・頼長父子の拠点である宇治や奈良からの援軍を待ち、体制を整えてからの方が良いという、理に適った理由もありました。しかし、「皇位継承という大事のための戦に、夜討ちのような卑怯な戦法は似つかわしくない」戦のプロフェッショナルを相手に、頼長はしたり顔で、こんな講釈を垂れたと言います。
一方天皇方でも、同じ頃、作戦会議が開かれ、やはり源義朝が「夜討ち」を主張していました。さすがは親子、敵味方に分かれても、考えることは同じです。が、こちら側では、後白河天皇の参謀役の信西(しんぜい)が支持に回り、「夜討ち」は実行に移されることになります。信西は権門の出ではありませんが、頼長に負けず劣らずの学識者で、僧形の身ながら鳥羽法皇に取り立てられ、また、雅仁の乳母を妻にしていたこともあり、雅仁の即位後も補佐役として、その意思決定にも大きな影響を与え得る立場にありました。戦のスペシャリストである義朝の意見を尊重した信西、持論を展開し為義を退けた頼長、その真意はともかく、二人の判断の相違が、勝者と敗者の明暗を決定付けたと言えるでしょう。
7月11日未明、義朝の勢の夜襲により、合戦の火蓋は切って落とされます。その戦闘の様子は『保元物語』に多く語られていますが、「夜討ち」に否定的だった頼長が、よもや敵の「夜討ち」を予想できるはずはなく、パニック状態に陥ったことは、想像に難くありません。また、為義以下の源氏武者も、既に勢力の大半が敵方の義朝に帰属していたため、劣勢は否めず、そんな中、為義の八男である鎮西八郎為朝が一人果敢に応戦し、天皇方の兵を蹴散らす姿に、紙面の多くが割かれています。
兵力において圧倒的優位を誇るはずの天皇方も、為朝の奮戦には思いのほか手こずり、最後の手段として白河殿に火をかけます。途端に上皇方は総崩れとなり、我先に逃げ出す始末。崇徳上皇も火の粉舞う御所から命からがら脱出し、同母弟の覚性法親王が仁和寺御室であったことから、そこへ逃げ込み、慌てて出家を遂げますが、すぐに天皇方に拘束されます。一方、馬に乗って逃亡を図った頼長の方も、途中で顔面を矢で射られる重傷を負い、その3日後に死去するという悲惨な末路が待ち受けていました。
こうして、平安京始まって以来の洛中での合戦は、後白河天皇方の大勝利をもって、その決着を見たのでした。 
保元の乱の戦後処理
後白河天皇方の勝利で幕を閉じた保元の乱、その敗者の処分は苛烈極まりないものでした。   
まず、仁和寺において拘束された崇徳上皇は、讃岐国(香川県)への配流に。乱の張本人とはいえ、既に出家を果たし、また上皇という高貴な身分も考慮するなら、京都周辺のどこかに幽閉されるぐらいに留められるものと思われたのが、流罪という予想外に厳しい処断が下されたのでした。讃岐に渡った上皇は、ひたすら京への帰還を願い、しかし、果たされることのないまま、8年後に配所において死を迎えることになります。絶望のうちに世を去った上皇の魂は、やがて怨霊となり、世の中に多くの天災・人災をもたらすようになります。その怨念の深さは、天神様―菅原道真―と並び評されるほどであったとも言います。おかげで、以後、天災が続いたり、良からぬことが起きる度に、讃岐院(崇徳上皇)のたたりだと怖れ、その調伏に努めることになります。   
一方、摂関家の方は、第一級戦犯の頼長が逃亡中に不慮の死を遂げましたが、父親の忠実は、合戦の報を聞くや、宇治を離れ奈良に逃がれていました。藤原氏の氏寺である興福寺は、忠実の勢力下にあり、その僧兵の力を動員しようとしたとも言われています。ところが、上皇方惨敗の報に続き、重傷を負った頼長が、瀕死の状態で奈良を目指し、父忠実に助けを求めて来るに至って、ようやく敗北を悟ったのでしょう、今度は自らに責が及ぶことを恐れ、対面すら許さず、頼長を見捨てる道を選びます。衝撃の絶縁宣言を申し渡された頼長は、生きる気力も失せ果て、自ら舌を噛み切り、命を絶ったという逸話が残されています。それにしても、何という親でしょう。散々猫可愛がりしておきながら、肝心な所では己の保身のみを考えて冷たく突き放す……、そのあまりの無責任ぶりには、呆れるのを通り越して、怒りすら覚えます。もし、忠実に人並みの分別があり、摂関家の次男という立場に生まれた頼長に、彼の身の丈に合った人生を歩ませていれば、今回の悲劇は防げたはずでした。結局、忠実は謀反人の烙印を押されたまま、洛北にある知足院に幽閉の身となります。崇徳上皇と異なり流罪を免れたのは、忠通の嘆願によるものと、79歳という高齢であったことが主な理由に上げられ、6年の幽閉生活の後に死去します。   
その他の処分としては、崇徳上皇の子重仁親王は、出家することで、流罪を免れましたが、頼長の子息達を始め、乱に関わった公家の多くは流罪に処されました。しかし、文臣である公家が、いずれも極刑を免れた一方で、実際に戦闘を行った武家には、断固とした処断が待ち受けていました。   
近江へと逃れた源為義は、途中で病を得たこともあって逃亡を諦め、嫡男義朝の許に自首して出ます。義朝は自身の武功をもって、父の助命を願い出たと言います。しかし、同じ頃、上皇方だった平忠正がやはり甥の清盛を頼って自首してきたのを、勅命により清盛自身がその処刑を行っており、それを引き合いに出されて、却って、為義の死刑執行を迫られることになります。   
そもそも、この保元の乱より遡ることおよそ250年ほどの間に、死刑が執行された例はなく、既に死刑制度そのものが有名無実の刑罰と化していました。それを復活させたのが、後白河天皇の側近信西であり、保元の乱の元となった崇徳上皇と頼長謀反の噂も、実は、この信西が立てた筋書きによる謀略との説もあります。一度は天皇の位にあった人物を流罪にしたり、タブーとされてきた死刑をあえて行うなど、当時の常識からして、あまりに厳し過ぎる処分の数々を鑑みると、これもあながちあり得ない話でもなさそうです。   
最終的に、義朝は父為義のみならず、為朝を除く四人の弟も処刑し(三男頼賢は戦場での傷がもとで既に死亡していた)、さらには、異腹の幼い弟達までも手に掛けることになります。なお、合戦における見事な戦いぶりが鮮烈だった為朝だけは、その武勇を惜しまれてか、死一等を減じられ、伊豆大島への遠流に留められています。   
こうして、肉親の悉くを手に掛けざるを得なかった義朝は、自らの手に入れた勲功では補え切れないほどの大きな痛手を負うことになりました。そう、次なる争乱の火種は、この時、既に芽生えていたのです。  
4
神明神社(下京区)
神明神社(しんめい じんじゃ)は、白い色の鳥居が建つ。かつて社頭に榎(えのき)の大木があり、「榎神明」ともいわれた。「神明さん」とも呼ばれる。現在は神明町が管理している。祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、豊受神(とようけのかみ)もとも、文子天満宮は菅原道真を祀る御霊社。末社は五社。洛中神明社二十一社の一つ。厄除け、火除けの神として信仰を集めている。
歴史
創建の詳細は不明。平安時代末期、摂政・関白の藤原忠通(1097-1164)の邸(四条内裏、四条東洞院内裏、東洞院内裏)があったという。邸には第76代・近衛天皇(1139-1155)がしばしば行幸した。里内裏だったという。社はその鎮守社として創祀された。藤原時代末期(平安時代中後期)、天台宗の護国山立願寺円光院の社僧により管理され、天台宗護国山立願寺円光院と称した。中世(鎌倉時代-室町時代)以降、社僧が管理した。近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により廃寺になり、現在の神社だけが残された。 現代、戦後、1945年以降、文子天満宮が合祀されている。
藤原忠通
平安時代末期の公卿・藤原忠通(1097-1164)。関白・藤原忠実の子。1115年、内大臣、1121年、関白となる。崇徳、近衛、後白河天皇の摂政関白、左大臣・太政大臣を務める。1129年、白河法皇の死去、鳥羽院政により父・忠実と対立、1150年、父より義絶され、氏長者は異母弟頼長が就き、対立が続いた。1155年、近衛天皇没後、後白河天皇の即位を助言、鳥羽上皇の信頼を得る。だが、1156年、保元の乱の一因となる。対立した崇徳上皇方についた父の所領を相続し、その流罪を防いだ。1158年、摂関職を子・基実に譲り、1162年、出家した。子孫は近衛家、九条家に分かれ、後の五摂家となる。晩年は法性寺別荘に住み法性寺関白と号した。書は法性寺流と称され、和歌を好み、歌壇を形成した。
源頼政
平安時代の武将・源頼政(1104‐1180)。源仲正の長男に生まれた。後白河法皇をめぐって藤原通憲(信西)・平清盛と藤原信頼・源義朝とが対立した平治の乱(1159)では、平清盛方につき、平家政権下唯一の源氏となった。1180年、平氏追討のため以仁(もちひと)王をたてて挙兵したが敗れ、三井寺の僧兵とともに落ち延びる途中、平知盛、重盛の軍に追われ、平等院境内「扇の芝」で自刃した。  鵺(ぬえ)退治の伝説、歌人としても知られる。
謡曲
謡曲「鵺(ぬえ)」では、社が鵺退治の舞台になった屋敷跡とされている。『平家物語』を題材にした物語では、鵺は頭が猿、尾が蛇、手足が虎、鳴声は鵺(トラツグミ)という化物とされている。平安時代の第73代・堀河天皇の時世(1087-1093)には、天皇を怖れさせた鵺を武将・源義家(1039-1106)が鳴弦で追い払ったという。またその後、武将・歌人で弓の名手・源三位頼政(源頼政、1104-1180)が、近衛天皇、二条院を悩ませた鵺を退治したという。謡曲では、近衛天皇の頃(1142-1152)、毎夜御所に現れた鵺を、頼政が勅命により退治を命じられる。頼政は神明神社に祈願し、成就する。旅の僧が、摂津国芦屋の里で一夜を明かすと、うつほ舟(丸木舟)に乗った男が漕ぎ寄せる。男は、自らを頼政に射落とされた鵺の亡霊であるという。僧に弔って欲しいという。僧が読経すると、鵺となった亡霊が現れ、頼政の栄光と、屍を切り刻まれうつほ舟に押し込められ、鴨川、淀川に流された自らの姿を対比させ、闇に消え去る。当社には、頼朝により奉納された鏃二本が社宝として伝えられている。二本の矢の一本は鵺を討ち取るために、そしてもう一本は仕損じた場合に、命を賭した自らを推した左大臣を射るためのものだったという。
文子天満宮
文子(あやこ)天満宮は、近代以降、1897年頃、豊国小学校内に祀られていた。菅原道真を祭神とし、学門の神として崇敬されていたという。戦後合祀された。社は洛陽二十五天満宮の一つといわれた。

鵺は「頭が猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎」(『平家物語』)、また「頭は猿、胴は虎、尾は狐、足は狸」(『源平盛衰記』)ともいわれた。実際には、ツグミ科のトラツグミ(30cm)という鳥であり、京都でも深い森に生息していた。ミミズ、昆虫などを捕食する。繁殖期(春-夏)の夜に「ヒー、ヒョー」と不気味な声で鳴く。曇りや雨の日にも鳴き、人目に触れることはほとんどないという。生息数は減っている。  
5
藤原璋子(待賢門院)
ふじわらのたまこ: 康和3年(1101年)生まれ。実父は藤原公実(きんざね)、養父は白河院。17歳で鳥羽天皇の中宮となり、長男・顕仁(崇徳院)、次男・君仁、三男・通仁、四男・雅仁(後白河院)、五男・覚性法親王、長女・統子(上西門院)を産む(君仁は足に障害があり、通仁は盲目で、早くに亡くなった)。久安元年(1145年)没。
父の公実が1107年に亡くなったとき、璋子はわずか7歳。保護者を失った少女を養女として育てたのが、公実といとこ同士だった白河院でした。璋子の実家の閑院流は後三条天皇、堀河天皇の后を輩出して、王家との血のつながりを深めつつあったのです。
成長した璋子に良い縁談を世話してやろうと、白河院が選んだ相手は摂関家の長男・藤原忠通。このとき、忠通の姉・勲子と、白河院の孫の鳥羽帝の結婚も同時に進められていました。ところが、勲子と忠通の父である忠実がこの2組の婚儀に難色を示します。
というのも、璋子の父・公実はかつて忠実の摂政就任を阻もうとした人物。その娘を摂関家に迎えるのに気乗りがしなかったのは不思議ではありません。さらに、忠実は璋子のことを異性関係のだらしない女性だと思っていたらしく、日記「殿暦」で璋子と藤原季通が密通していると記し「乱行の人」「奇怪不可思議の女御」と非難しています。こうしたマイナス要因から、忠実は勲子・鳥羽帝、忠通・璋子の結婚を取りやめたのでした。
可愛い娘の婚儀をふいにされた白河院は頭にきたことでしょう。代わりに璋子を鳥羽帝の后につけて閑院流を外戚とし、摂関家の外戚復帰を困難にするという報復行為に出ました。鳥羽帝の生母・苡子(いし)は前述のように閑院流出身で、璋子の父・公実ときょうだいですから、璋子と鳥羽帝はいとこ同士です。
入内から2年後の1119年には長男・顕仁が誕生。5歳で即位して崇徳帝となりますが、成人して独自の意思を示し始めていた鳥羽帝が目ざわりになったという白河院の意向による譲位でした。璋子は国母の地位についたものの、幼い天皇が形だけ据えられて、実権を握るのは白河院。蚊帳の外に置かれた夫・鳥羽上皇は情けないやら悔しいやら、という状況でした。一方で璋子は白河院に可愛がられて育ったのですから、手厚く遇されていたことは想像に難くありません。発言力を奪われた鳥羽院は、妻の権勢を苦々しい思いで見ていたのではないでしょうか。
しかし、強権を振るった白河院が1129年に世を去ると、情勢は変わって行きました。1134年には鳥羽院が摂関家の勲子(泰子と改名)を后に迎え、さらに藤原得子のもとに通い始めます。1141年、得子が産んだ長男・体仁の即位のために、璋子の子である崇徳帝は強引に退位させられ、院政の権利まで否定されてしまいました。鳥羽院の寵愛を得て皇后に立った得子に対し、後ろ盾を失った璋子は明らかに劣勢でした。
1142年に出家した璋子は、3年後に死去。45歳でした。この11年後、実の息子である崇徳院と後白河帝が皇位をめぐって衝突し、流血の惨事となるのです。
待賢門院のイメージは、ちょっと影ある女性。端正な顔立ちですが、感情の起伏が表に出ないミステリアス美女です。ちなみに璋子は、「二代の后」藤原多子の大叔母にあたります。美形の血筋だったんでしょうね。 
6
五摂家
藤原氏の中でも摂政関白に任ぜられる家柄を摂家という。近衛、九条、二条、一条、鷹司の五家である。藤原北家の良房の嫡流が鎌倉初期になって藤原忠通の子の基実と兼実が近衛家と九条家を立てたのが始まり。藤原忠通の父親の忠実(1078-1162)は自身が権力基盤を承継する前に父・師通が亡くなったため一族の政治抗争に渦中に投げ出された。この抗争を白河院が嫡流への承継が望ましいという形で忠実に軍配を上げ氏の長者としての地位を得た。こうした経緯から藤原氏は院政の下に置かれることを余儀なくされた。
堀河天皇の関白、鳥羽天皇の摂政・関白を歴任した後、娘の泰子の入内問題で白河院と対立し、関白の位を忠通に譲った。丁度、この頃、同じく白河院の寵愛を受けていた河内源氏の源 為義が家人の乱暴狼藉が相次いだことで信任を失っている。伊勢平氏の平 忠盛は同い年だったが順調に昇殿を果たしていることに憤った為義は権力の後ろ盾を、同じく逼塞していた藤原氏嫡流に求めるようになる。ここに、1143(康治2)年為義は頼長に対して臣下の礼をとっている。忠実は、鳥羽院政の開始とともに政界に返り咲いており、かつ、位を譲った忠通ではなく頼長を重んじていた。また、当初は子がいなかった忠通が頼長を養子にしていたが、この年に忠通に基実が生まれる(1143[康治2]年)と養子関係を解消した。ここに至って、忠通と頼長との対立が表面化してくる。そして、1150年に忠実が氏長者の地位を忠通から剥奪して頼長に与えると時勢は頼長に傾くかに見えた。その5年後、近衛天皇が嗣子なく崩御すると、鳥羽法皇と藤原忠通そして美福門院の推す後白河天皇(美福門院が養育)が即位。これによって、崇徳上皇の第一皇子の重仁親王の擁立を目指していた藤原忠実・頼長父子の形勢は一気に逆転。崇徳上皇も面子を潰された形となった。加えて、崇徳上皇は鳥羽法皇の子ではなく祖父の白河法皇の子であるとされ鳥羽法皇が崇徳上皇を疎んでいたことも問題を複雑なものとした。それでも、鳥羽法皇が存命中は皇室と藤原家の内部対立は辛うじて均衡を保っていた。
しかし、1156年に鳥羽法皇が亡くなると一触即発の状況となる。崇徳上皇方には藤原頼長を始め、源為義、源頼賢、源為朝、源頼憲(多田頼憲)、平忠正が集まり、後白河天皇方には、藤原忠通を始め源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)が集まり平治の乱となったのである。結果は後白河天皇方の勝利となり、左大臣頼長は源重貞の放った矢が眼にあたり重傷を負い戦死する。落ち延びる途上で父親の忠実に助けを求めたが拒絶されている。家を守るための非情であろうか。頼長の長男兼長、次男師長、三男隆長、四男範長は悉く流罪となった。父親の忠実は奈良の知足院に逼塞したが、忠通の取り成しによって流罪は免れた。しかし、これも父親を思う気持ちからというよりは藤原氏の所領を没収されないための措置だったと言われている。
忠通の跡は近衛基実(1143-1166)が承継した。基実は平 清盛の娘の盛子を妻としている。この基実から近衛家、鷹司家が出た。また、藤原忠通の三男の兼実は嫡流の基実とは異なり平家一門とも後白河天皇とも一定の距離を保ち、やがて源 頼朝と結んで後鳥羽天皇の摂政・藤原氏長者となる。その子の内大臣良通、摂政太政大臣良経が早世したため、孫の道家の養育に心血を注ぎ九条家、二条家、一条家の礎を築いた。 
 
77.崇徳院 (すとくいん)  

 

瀬(せ)をはやみ 岩(いは)にせかるる 滝川(たきがは)の
われても末(すゑ)に 逢(あ)はむとぞ思(おも)ふ  
川瀬の流れが速いので、岩にせき止められる急流が、一度は別れても再び合流するように、愛しいあの人と今は障害があって別れていても、行く末は必ず添い遂げようと思う。 / 急な傾斜のため、川の瀬が激しく速いので、岩にせき止められた水の流れが一度は二筋に別れても、また後ほど出会うように、熱い思いで別れた私たちもまた必ず逢おうと思う。 / 浅瀬の流れが速くて、岩にせき止められている滝川が2つにわかれてもまた合流するように、仲を裂かれて別れさせられても、将来はきっと、必ず逢おうと思う。 / 川の流れが早いので、岩にせき止められた急流が時にはふたつに分かれても、またひとつになるように、わたし達の間も、(今はたとえ人にせき止められていようとも)後にはきっと結ばれるものと思っています。
○ 瀬をはやみ / 川底が浅く、流れの速いところ。「AをBみ」で原因・理由を表す。「AがBなので」の意。Aは名詞、Bは形容詞の語幹。「瀬をはやみ」で、川瀬の流れが速いのでの意。
○ 岩にせかるる滝川の / 「せか」は、カ行四段の動詞「せく」の未然形。「せかるる」で、せき止められるの意。「滝川」は、急流・激流。現代語の滝に相当する古語は、垂水(たるみ)。「の」は、比喩を表す格助詞。ここまでが、「われても」を導き出すための序詞。
○ われても末に / 「われ」は、水の流れが岩に当たって分かれることと愛し合う二人が別れることを表す。「ても」は、接続助詞+強意の係助詞で、逆接の仮定条件を表す。「末」は、将来・行く末。
○ あはむとぞ思ふ / 「ぞ」と「思ふ」は、係り結びの関係。「あは」は、水が合流することと別れた二人が再び結ばれることを表す。「ぞ」は、強意の係助詞。「思ふ」は、ハ行四段の動詞「思ふ」の連体形で、「ぞ」の結び。 
祟り・御霊 
1
崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。
略歴
幼き帝 / 元永2年(1119年)5月28日に生まれ、6月19日に親王宣下を受ける。保安4年(1123年)正月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に即位した。大治4年(1129年)、関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)が入内する。同年7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。翌大治5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。天皇と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日女房・兵衛佐局が天皇の第一皇子・重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという。保元の乱で忠通が崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。一方、この件があった後も崇徳上皇と聖子は保元の乱まで常に一緒に行動しており、基本的には円満な夫婦関係が続いたとみられている。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳上皇の中宮・藤原聖子の養子となっており、崇徳天皇とも養子関係にあったと考えられるため、「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』『今鏡』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。崇徳上皇は鳥羽田中殿に移り、新院と呼ばれるようになった。
実権無き上皇 / 崇徳院は在位中から頻繁に歌会を催していたが、上皇になってからは和歌の世界に没頭し、『久安百首』を作成し『詞花和歌集』を撰集した。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開した。法皇も表向きは崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王を美福門院の養子に迎えた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁親王への皇位継承も可能となった。また、近衛天皇の朝覲行幸に際して、法皇は美福門院とともに上皇を臨席させ(『本朝世紀』)、上皇の后である聖子を母親として天皇と同居させるなど崇徳院を依然として天皇の父母もしくはそれに準じる存在と位置づけており、近衛天皇が健在だったこの時期においては、崇徳院は鳥羽院政を支える存在とみなされ、両者の対立はまだ深刻な状況にはなかったとする説もある。久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれた。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。鳥羽法皇や美福門院は、崇徳上皇に近い藤原頼長の呪詛により近衛天皇が死んだと信じていたといい(『台記』)、背景には崇徳院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、兵衛佐局・重仁親王の件で崇徳上皇を良く思わない藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測される。また、守仁親王が直ちに即位した場合、その成人前に鳥羽法皇が崩御した場合には唯一の院になる崇徳上皇が治天の君となれる可能性があったが、父親でかつ成人している雅仁親王が即位したことでその可能性も否定された。これにより崇徳院政の望みは粉々に打ち砕かれた。
保元の乱 / 保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日申の刻(午後4時頃)に崩御した。崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の葉室惟方に自身の遺体を崇徳院に見せないよう言い残したという。崇徳院は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。法皇が崩御して程なく事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳院・藤原頼長を抑圧していた美福門院・藤原忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられる。7月9日の夜中、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、子の重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳院に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。翌10日には、藤原頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳院の側近である藤原教長や平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結する。崇徳上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳院は今は亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子・清盛が味方になることに一縷の望みをかけた。重仁親王の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の平頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。後白河天皇方は、崇徳院の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員し、11日未明、白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、崇徳院は御所を脱出して行方をくらました。
讃岐配流 / 13日、逃亡していた崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳院は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。23日、崇徳院は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐国へ下った。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされる。
配流先での生活 / 『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である。崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所で国府役人の綾高遠の娘との間に1男1女をもうけている。
怨霊伝説
保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。それは後白河天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命(『平安遺文』2848)にも表れている。崇徳院が讃岐国で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀(太上皇(崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし)」(『百錬抄』)と後白河院はその死を無視し、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)」(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった。
ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。『愚昧記』5月13日条によると、すでに前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたという。安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。崇徳の怨霊については、『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成に深く関わっていたと見られる。精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。
寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。この廟は応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。
怨霊としての崇徳院のイメージは定着し、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ、現代においても様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多い。
その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている(ともに『金毘羅参詣名所図会』・『白峰寺縁起』)。
明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。
昭和天皇は崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。
血書五部大乗経
『保元物語』にある五部大乗経の存在を語る唯一の史料は、以下の記事である。
『吉記』 寿永2年(1183年)7月16日条
崇徳院讃岐において、御自筆血をもって五部大乗経を書かしめ給ひ、件の経奥に、理世後生の料にあらず、天下を滅亡すべきの趣、注し置かる。件の経伝はりて元性法印のもとにあり。この旨を申さるるにより、成勝寺において供養せらるべきの由、右大弁をもって左少弁光長に仰せらる。彼怨霊を得道せしめんがためか。…
内容は、後白河が五部大乗経の存在を聞いて弁官に供養のための願文を起草することを命じたものである。この時期は怨霊鎮魂のため、菅原道真の例に倣い崇徳を神として祀るべきとする意見が出されていたものの、実現には至っていなかった(『吉記』寿永元年6月21日条)。それから程なく、後白河は神祠(崇徳院廟)の建立を命じる院宣を下している(『玉葉』寿永2年8月15日条)。崇徳が崩御して19年も経過してから経典が出てくるのは不自然であり、経典の実物を見た人もいないことから、血書五部大乗経は存在しなかったとする説もある(山田雄司 『崇徳院怨霊の研究』)。

○ 詞花和歌集(八代集の第六)の勅撰を命じる。仁平元年(1151年)に完成奏覧。選者藤原顕輔。
○ 千載和歌集(八代集の第七)に23首入集。
○ 久安百首
○ 小倉百人一首から。
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院)
(滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。)
この歌を題材に取った古典落語の演目に「崇徳院」というものがある。なおこの歌と保元の乱との因果関係はない。
○ 山家集から
あるとき(1141年以降)西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)が崇徳院の勅勘を賜った際、許しを請うと次の歌を詠まれた。
最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ
(最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しょう。舟が碇を下ろし動かないように。)
対して西行は次の返歌を詠んだ。
つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて
(最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私の切なるお願いをおきき届け下さい)。) 
2
崇徳院 元永二〜長寛二(1119-1164) 諱:顕仁
鳥羽天皇の第一皇子(『古事談』は実父を白河法皇と伝える)。母は待賢門院璋子。後白河天皇は同母弟、近衛天皇は異母弟。子に重仁親王・覚恵がいる。保安四年(1123)、鳥羽天皇より譲位され、五歳で即位。七十五代天皇。大治五年(1130)、藤原忠通の娘聖子を中宮とした。保延五年(1139)、鳥羽院の室美福門院得子に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽院は同親王を皇太子に立て、永治元年(1141)、即位させた(近衛天皇)。以後、鳥羽院を本院、崇徳院を新院と称した。近衛天皇は久寿二年(1155)七月に崩じ、崇徳院は子の重仁親王の即位を望んだが、結局鳥羽第四皇子の雅仁親王が即位(後白河天皇)。皇太子には後白河の皇子が立てられた。翌年の保元元年(1156)七月二日、鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇・後白河天皇は互いに兵を集め、ついに内乱に至る(保元の乱)。十一日未明、後白河方の奇襲に始まった武力衝突は、その日のうちに上皇方の完敗に決着した。崇徳院は讃岐に流され、松山(現坂出市)の配所に移される。八年後の長寛二年(1164)、同地で崩御、白峰に埋葬された。安元三年(1177)、崇徳院の諡号が贈られた。幼時から和歌を好み、忠通・顕広(俊成)らを中心とする歌会・歌合を頻繁に催した。在位中、『堀河百首』に倣った百首歌を召す(崇徳天皇初度百首)。譲位後、二度目の百首歌を召し(『久安百首』)、久安六年(1150)までに完成。仁平初年頃、俊成に命じて同百首を部類に編集させた。また仁平元年(1151)頃、藤原顕輔に命じて第六勅撰和歌集『詞花和歌集』を撰進させた。
春 / 若菜
春くれば雪げの沢に袖たれてまだうらわかき若菜をぞつむ(風雅17)
(春になったので、雪解け水の溜まった沢に袖を垂れて、まだ萌え出たばかりで瑞々しい若菜を摘むのだ。)
百首歌めしける時、梅の歌とてよませ給うける
春の夜は吹きまふ風のうつり香を木ごとに梅と思ひけるかな(千載25)
(春の夜は、吹き舞う風が梅の香を他の木にも移して、その残り香のために、どの木もどの木も梅と思ってしまうのだった。)
百首歌めしける時、春の歌とてよませ給うける
朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける(千載41)
(朝夕桜の開花を待ち焦がれる頃は、花を思いつつ寝入って見た夢のうちに咲き始めるのだった。)
百首歌めしける時、春歌
山たかみ岩根の桜散る時は天の羽衣なづるとぞ見る(新古131)
(山の高いところ、大岩のほとりに生えている桜――その花が散る時は、天人の羽衣が岩を撫でているかと見るのだ。)
近衛殿にわたらせたまひてかへらせ給ひける日、遠尋山花といへる心をよませ給うける
尋ねつる花のあたりになりにけり匂ふにしるし春の山風(千載46)
(探し求めていた花のあたりまで来たのだった。漂う気きによって、はっきり分かる。春の山風は――。)
百首歌めしける時、くれの春のこころをよませたまひける
花は根に鳥はふる巣にかへるなり春のとまりを知る人ぞなき(千載122)
(春が暮れゆけば、桜の花は根に帰り、鶯は古巣に帰るという。桜も鶯も帰るべき場所はあるが、では春はどこに帰るのだろう、その帰り着く果てを知る人はいないのだ。)
三月尽日うへのをのこどもを御前にめして、春暮れぬる心をよませさせ給ひけるによませ給ひける
惜しむとて今宵かきおく言の葉やあやなく春の形見なるべき(詞花50)
(春を惜しむということで、今宵皆で書き残しておく和歌――この言の葉が、道理に合わないことに、逝く春を思い出すよすがとなるものだろうか。)
夏 / 百首歌めしける時、花橘の歌とてよませ給うける
五月雨に花橘のかをる夜は月すむ秋もさもあらばあれ(千載176)
(梅雨どきの雨が降る中、橘の花が香る夜――こんな夜には、月が曇りなく輝く秋さえどうでもよいと思える。)
百首歌めしける時
五月山さつきやま弓末ゆずゑふりたてともす火に鹿やはかなく目をあはすらむ(新拾遺274)
(五月山で、猟師が弓末を振りたて、燃やす篝火――その炎に鹿は浅はかにも目を合わせてしまうのだろうか。)
百首歌の中に、鵜河の心をよませ給うける
早瀬川みをさかのぼる鵜かひ舟まづこの世にもいかが苦しき(千載205)
(急流の川の水脈をさかのぼる鵜飼船――殺生戒による来世の報いばかりでなく、それに先立ってまず現世でもどれほど難渋することだろう。)
秋 / 百首歌に、はつ秋の心を
いつしかと荻の葉むけの片よりにそそや秋とぞ風も聞こゆる(新古286)
(いつの間にか、荻の葉の向きが一斉に片寄るようになり、それによって、ほらほら、もう秋だよと――そう風の音も聞こえるのだ。)
百首の歌の中に、七夕の心をよませ給うける
たなばたに花そめ衣ぬぎかせば暁露のかへすなりけり(千載240)
(織女に花染めの衣を脱いで貸せば、暁の露がすっかり色抜きして返してくれたのだった。)
百首歌めしける時、月の歌とてよませ給うける
玉よする浦わの風に空はれて光をかはす秋の夜の月(千載282)
(真珠を打ち寄せる浦風によって秋の夜空は晴れわたり、浜辺では真珠と月とが光を映し合っている。)
月の歌とて
見る人に物のあはれをしらすれば月やこの世の鏡なるらむ(風雅608)
(眺める人に物の哀れとはどういうものかを知らせるので、月はこの世の鏡なのだろうか。)
百首歌御中に
秋の田の穂波も見えぬ夕霧に畔あぜづたひして鶉うづらなくなり(続詞花)
(秋の田の穂波も見えないほど立ちこめている夕霧の中、畔づたいに移動して鶉が鳴いている。)
暮尋草花といへる心をよませ給うける
秋ふかみたそかれ時のふぢばかま匂ふは名のる心ちこそすれ(千載344)
(秋も深くなり、黄昏時の藤袴が匂うと、花が自分の名を名のっているような気持がするのだ。)
百首歌めしける時、九月尽の心をよませ給うける
もみぢ葉のちりゆく方を尋ぬれば秋もあらしの声のみぞする(千載381)
(紅葉した葉の散ってゆく方向を尋ねて行くと、秋ももう終りだと告げるような嵐の声ばかりがする。)
冬 / 百首歌めしける時、初冬の心をよませ給うける
ひまもなく散るもみぢ葉にうづもれて庭のけしきも冬ごもりけり(千載390)
(隙間もなく散り敷いた紅葉に埋もれて、庭のありさまも冬ごもってしまったのだな。)
百首歌めしける時、よませ給うける
このごろの鴛鴦をしのうき寝ぞあはれなる上毛うはげの霜よ下のこほりよ(千載432)
(今頃の季節の鴛鴦の浮寝こそは哀れである。上毛に降りた霜よ、下の水面に張った氷よ。)
百首歌めしける時、氷の歌とてよませ給うける
つららゐてみがける影の見ゆるかなまことに今や玉川の水(千載442)
(氷が張って、つやつやと磨いたような光が見えるよ。本当に今のありさまが玉川の水なのだろう。)
百首歌の中に、雪の歌とてよませ給うける
夜をこめて谷の戸ぼそに風さむみかねてぞしるき峰の初雪(千載446)
(夜深く、谷への狭い通り路に吹き込む風が寒いので、朝には峰に初雪が積もるだろう――そのことが前以てはっきりと感じ取れるのだ。)
恋 / 題しらず
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(詞花229)
(瀬の流れが速いので、岩に塞がれている急流がその岩に当たって割れるように、たとえあなたと別れても、水の流れが下流で再び行き合うように、将来はきっと逢おうと思っているのだ。)

恋ひ死なば鳥ともなりて君がすむ宿の梢にねぐらさだめむ(久安百首)
(恋い焦がれた果てに死んでしまったら、鳥にでもなって、あなたが住む家の梢にねぐらを定めよう。)
雑 / 慶賀
吹く風も木々の枝をばならさねど山は久しき声ぞ聞こゆる(久安百首)
(吹く風も木々の枝を鳴らさないけれども、山には万歳の声が聞こえるのだ。)
百首歌めしける時、旅歌とてよませ給うける
狩衣かりごろも袖の涙にやどる夜は月も旅寝の心ここちこそすれ(千載509)
(狩衣の袖を涙に濡らして旅宿する夜は、月も私と一緒に旅寝している心地がするのだ。)
神祇
闇のうちに和幣にきてをかけし神あそび明星あかほしよりや明けそめにけむ(久安百首)
(闇夜のうちに和幣(にきて)を掛けて奏し始めた神楽――明けの明星と共に、「明星」の歌によって夜が明け始めたのだろうか。)
百首歌めしける時、神祇歌とてよませ給うける
道のべの塵に光をやはらげて神も仏の名のるなりけり(千載1259)
(路傍の塵にまじって智徳の光をやわらげて、我が国の神は、仮に仏がそう名のっているのである。)
題しらず
うたたねは荻ふく風におどろけど永き夢路ぞさむる時なき(新古1804)
(転た寝は荻を吹く風によって醒めたけれども、煩悩の迷いの永い夢が醒める時はないのだ。)
讃岐につかせ給ひしかども、国司いまだ御所をつくり出さざれば、当国の在庁、散位高季といふ者のつくりたる一宇の堂、松山といふ所にあるにぞ入れまゐらせける。されば事にふれて都をこひしく思しめしければ、かくなん
浜ちどり跡は都へかよへども身は松山に音ねをのみぞなく(保元物語)
(浜千鳥の足跡ならぬ筆の跡は都へ通うけれども、我が身は松山で千鳥よろしくただ哭いてばかりいる。)
讃岐国にてかくれさせ給ふとて、皇太后宮大夫俊成にみせよとて書きおかせ給うける
夢の世になれこし契りくちずしてさめむ朝あしたにあふこともがな(玉葉2368)
(夢のように果敢ない世で親しんできた縁がこのまま朽ちることなく、迷妄の夢から覚めて成仏する朝に、あなたと再び逢いたいものだ。) 
3
崇徳上皇の熊野御幸
崇徳(すとく)上皇(1119〜68)が熊野を詣でたのはわずかに1回。父の鳥羽上皇の21回、弟の後白河上皇の34回にくらべて少な過ぎるように思いますが、崇徳上皇は院政期にあって治天の君(院政を行う上皇のこと)にはなれなかった上皇です。院政期にあって治天の君になれなかった上皇で熊野詣をすることができたのは、ただひとり崇徳だけです。後白河院政下、上皇となった二条・六条・高倉の各上皇は熊野を詣でず、後鳥羽院政下、上皇となった土御門・順徳も熊野を詣でていません。崇徳上皇ただ1度の熊野参詣は、父・鳥羽上皇の熊野御幸に同道したものです。
崇徳天皇は1119年、鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。母は待賢門院 璋子(たいけんもんいん・しょうし)。治天の君である曾祖父の白河上皇(1034〜1129)の意志により、1123年、鳥羽天皇を20歳の若さで退位させ、わずか5歳で崇徳天皇は即位しました。
これにより崇徳は鳥羽上皇の恨みを買います。譲位させられた鳥羽上皇は、白河上皇存命のうちは何の権限ももてません。もう天皇ではなく、かといって治天の君として権力を振るうこともできない。鳥羽上皇はそうとう悔しい思いをしたことでしょう。しかし、治天の君・白河上皇は巨大すぎて、直接、怒りをぶつけることはできません。怒りの鉾先は子供の崇徳に向けられたのでした。5歳の崇徳に何の責任もなく、完全に逆恨みですが。
また、これも、崇徳に何の責任もないことですが、崇徳はじつは鳥羽の子ではなかったらしいのです。崇徳は鳥羽の子ではなく、白河上皇の子らしい。そう噂されました。崇徳の母・待賢門院 璋子は、白河上皇の寵妃・祇園女御の養女であり、白河上皇にとって璋子は養女のようなものでした。しかし、白河上皇は璋子とまで性的関係を結んでしまいました。
白河上皇はよりにもよって自分の愛妾である璋子を孫の鳥羽天皇の妃にしてしまうのです。鳥羽天皇は祖父の愛妾を皇后にしたことになります。そして、その后が第一皇子(のちの崇徳天皇)を生みますが、その子はじつは祖父の白河上皇の子であると噂され、鳥羽の耳にもその噂が入ります。
自分の后が祖父の子を生んだなどと考えたら、その子を疎ましく思うのも仕方ありません。そのため、鳥羽はその子を叔父子(叔父でもあり子供でもある。崇徳が白河院の子だとしたら、鳥羽にとって父の弟になります)と呼んで嫌いました。不義密通の子であり、自分から皇位を奪った崇徳を鳥羽は露骨に嫌いました。臨終の際の拝顔さえ許さなかったといいます。
白河上皇の死後、鳥羽上皇は治天の君となり、これまでの鬱憤を晴らすかのように専制君主として振る舞います。高陽院 泰子を入内させ、白河上皇にうとまれ陰棲していた泰子の父・藤原忠実を重用。反白河体制で院政を行います。1141年、鳥羽上皇は22歳の崇徳天皇を退位させ、待賢門院亡きあと寵を得た美福門院 得子(びふくもんいん・とくし)との間にできた第九皇子の近衛天皇(崇徳にとっては異母弟)を2歳で即位させます。崇徳は、もう天皇でもなく治天の君でもないというかつて鳥羽上皇自身もした悔しい思いを味わわされます。
しかし、近衛天皇が1155年、わずか16歳の若さで、世継ぎをもうけることなく亡くなってしまいます。崇徳上皇は自分の子の即位を期待していましたが、鳥羽上皇はその望みを無視。第四皇子・後白河天皇(崇徳の同母弟)を29歳で即位させ、後白河の子を皇太子(のちの二条天皇)とします。この後白河天皇、今様にうつつをぬかし、「文にもあらず、武にもあらぬ四の宮」「即位の器量にあらず」と評されるようなうつけものです。そんなうつけものに即位させてまでも、鳥羽上皇は、崇徳の子には皇位を継承させたくなかったのでしょう。崇徳の子が天皇になるということは、鳥羽上皇没後は、崇徳が治天の君になるということです。崇徳が治天の君として院政を行う。そんなことには絶対にさせない、と鳥羽上皇は考えていたのでしょう。
望みが断たれた崇徳上皇は翌年、1156年(保元元年)7月、鳥羽上皇の死をきっかけにこれまでの不満を爆発させ、後白河天皇から皇位を奪うべく挙兵しました。藤原摂関家や武家の源氏や平氏が父子・兄弟、天皇側・上皇側の二手に分かれ、都を舞台に戦いました。これが保元の乱です。この戦いはじつにあけなく後白河天皇側の勝利に終わり、上皇側についた藤原頼長は戦死、源為義・平忠正は斬首、そして 崇徳上皇は讃岐国(香川県)に配流されました。
配所で祟徳上皇は後生の菩提のために3年の歳月をかけて五部の大乗経(華厳経・大集経・大品般若経・法華経・涅槃経)を写経し、これを都に送りましたが、後白河天皇の近臣・藤原信西(しんぜい)に受け取りを拒否され、五部の大乗経は突き返されます。祟徳上皇は激怒し、「我願わくば五部大乗経の大善根を三悪道に抛(なげう)って、日本国の大悪魔とならん」と、舌を噛み切り、流れる血で、突き返された五部の大乗経に呪詛の誓いの言葉を書きつけ、瀬戸の海に沈めました。
このとき以来、髪も爪も切らず伸ばし放題にし、怨念の炎に身を焦がし、身はやつれ、日々に凄まじい形相になっていったといいます。 状況調査のために派遣された平康頼は「院は生きながら天狗となられた」と報告しています。崇徳上皇は、死後の祟りを誓って、8年間の配所暮らしの後に1164年8月26日、46歳で亡くなりました(二条天皇の命により暗殺されたとの説もあります)。
崩御ののち、陵墓は白峰山(しらみねさん。香川県坂出市)に造られましたが、諡号(生前の徳をたたえる称号)は贈られず讃岐院と呼ばれました。崇徳上皇の遺体は葬儀に関する朝廷からの指示を待つ間、木陰の下の泉に20日間漬けておかれましたが、その間、全く様子が変わらず生きているかのようであったといい、死骸を焼く煙は御念のためか都の方にたなびいていったといい、その柩からは血が流れ出し、柩を置いた台を真っ赤に染めたといいます。
崇徳上皇死後、崇徳と生前交流のあった西行は、崇徳の跡を尋ね、讃岐に渡ります。『山家集』より、
讃岐に詣でて、松山の津と申(もうす)所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ、
松山の波に流れて来(こ)し舟のやがて空しく成(なり)にける哉(かな)
(松山に波に流れてきた舟(院)はやがてむなしく朽ち果ててしまったことよ。)
松山の波の景色は変わらじを形無く君はなりましにけり
(松山の波の景色は変わらないだろうが、形なくわが君はなってしまったことよ。)
白峯と申(もうし)ける所に御墓の侍(はべり)けるにまゐりて
よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何かはせん
(かりにわが君が昔の宝玉で飾られた床(皇居)におられたとしても、このように亡くなってしまった後では何になりましょう(何にもなりません。どうか皇位への執着など断ち切ってください)。)
そんな西行の想いは、崇徳上皇の御霊に届いたのか、届かなかったのか、崇徳院の死後、都では凶事が相次ぎました。23歳という若さでの二条上皇の病没、延暦寺衆徒の強訴、天然痘の流行、大火、・・・(配所暮らしのさなかには平治の乱もありました。五部の大乗経の受け取りを拒否した藤原信西は殺され、保元の乱で後白河側に付いた源義朝も殺されます)。都の人々は、崇徳上皇と藤原頼長の怨霊のなすところと怖れおののきました。
朝廷は怨霊を鎮めるため、1177年、「崇徳院」の諡号を贈りましたが、それでも、凶事は続きます。平清盛による後白河上皇の幽閉、飢饉・・・。飢饉による平安京の餓死者は42300人に達したといいます。
1183年には崇徳上皇の霊を慰めるために保元の乱の戦場跡に粟田宮をつくりました(このとき別当のひとりに西行の子・慶縁が選ばれたそうです)。しかし、そののちも、時折、崇徳上皇の霊威は発動され、崇徳院の御霊は天皇御霊のなかでも特に怖れられ、ことあるごとに、崇徳院の祟りではないかと噂されました。江戸時代になってからも、歴代の高松藩主は白峰陵を手厚く祀っています。
明治と年号が改まる約半月前の慶応4年(1868)8月26日(崇徳上皇の命日)、明治天皇は、京都の皇宮近くに造営した白峰神宮に、讃岐白峰から崇徳上皇の神霊を向かい入れました。崇徳院の怨霊を鎮め、反対に祀り上げて朝廷の守護神とするためです。 崇徳上皇の怨霊を鎮めることから明治の世が始まったのでした。
さて、話戻って、崇徳が1度きりの熊野参詣を行ったのは、1143年、崇徳が譲位させられてから2年後のこと。父・鳥羽上皇が前年、出家し、法皇となったのですが、法皇となって最初の熊野御幸に、鳥羽は崇徳を同道させました。出家をきっかけに鳥羽は崇徳との和解を目指していたのでしょうか。しかし、崇徳の熊野御幸は、これが最初で最後になってしまいました。 
4
鬼になった崇徳天皇
流刑(るけい)や幽閉(ゆうへい)の憂き目を見た歴史上の天皇は少なくありませんが、その内後世に最も恐れられたのは第75代・崇徳天皇(すとく・てんのう)です。流刑地で深い失望と怒りのうちに憤死した崇徳天皇は、怨念のかたまりとなって自ら魔界に入り、魔王となって天皇を呪い続けたと語り継がれています。
一体どうして天皇が魔王になってしまったのでしょう。崇徳天皇は、保安(ほうあん)4年(1123)、曽祖父(そうそふ)・白河上皇(しらかわ・じょうこう)の意向により、鳥羽天皇(とば・てんのう)の譲位によって5歳で天皇となりました。その歳ではとても天皇として振舞うことはできず、白河院政が継続されました。崇徳天皇は正式には鳥羽天皇の皇子ということになっていますが、実際は白河上皇の御落胤(ごらくいん)であったといわれています。このことは当時の宮中では公然の秘密だったそうです。白河上皇が崇徳天皇の最大の庇護者(ひごしゃ)であったことからも頷けます。ところが、その白河上皇が崩御すると、白河院政に替わって鳥羽院政が敷かれ、崇徳天皇の立場はにわかに不安定になりました。崇徳天皇と鳥羽上皇は、系譜上は親子とされていますが、どうやら強い確執(かくしつ)があったようです。鳥羽上皇は別の皇子を天皇に立てようとしました。永治(えいじ)元年(1141)、鳥羽上皇の圧力により崇徳天皇は譲位を余儀なくされます。新たに天皇となったのは、系譜上弟とされる近衛天皇(このえ・てんのう)でした。
その後、崇徳上皇は自らの皇子を即位させようと機会をうかがっていましたが、久寿(きゅうじゅ)2年(1155)に近衛天皇が眼病により17歳で崩御すると、崇徳天皇の同母弟(どうぼてい)・後白河天皇(ごしらかわ・てんのう)が即位してその皇子(後の二条天皇)が皇太子となりました。そして保元(ほうげん)元年(1156)に鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇はついに挙兵しました。これが「保元の乱」です。崇徳上皇の挙兵は、後白河天皇方の罠だったと思われます。鳥羽上皇の危篤を聞いて鳥羽殿に駆けつけた崇徳上皇は、鳥羽上皇の近臣に面会を謝絶され、父子の最期の対面も叶いませんでした。崇徳上皇が近衛天皇を呪い殺したという噂や、崇徳上皇が反乱の準備をしているなどといった噂が意図的に広められたため、崇徳上皇は身の危険を感じ、挑発されるような形で挙兵の準備をはじめたのです。一般的には「崇徳上皇が挙兵した」と表記されますが、「挙兵」といっても、先に攻撃をしかけたのは、崇徳上皇方ではなく、後白河天皇方です。「崇徳上皇ははめられた」のだと考えられます。後白河天皇方の軍兵は、崇徳上皇方の白河北殿を夜襲で先制攻撃し、崇徳上皇方はあっけなく敗北を喫しました。崇徳上皇は仁和寺(にんなじ)に逃れたものの、捕らえられて遠方の讃岐国(さぬきのくに)(四国・香川県)に流されます。上皇は時に39歳、これから8年の配所(はいしょ)生活がはじまりました。
崇徳上皇は京都に帰ることをずっと夢見ていましたが、許されることはありませんでした。苦しみと失望と怒りのなかで、悶々と過ごしたのです。そんな中、崇徳上皇は鳥羽上皇を弔おうと、流刑地で大掛かりな写経に着手しました。3年がかりで五部の大乗経の写経を完成させると、上皇は鳥羽院の墓所に納めようと写本を仁和寺に預けました。ところが、写経は後白河天皇の許しが得られずに返却されてしまいました。『保元物語』(ほうげん・ものがたり)には写本が返却されてから上皇が崩御するまでを次のように書き記しています。
仁和寺からは、「(天皇の)お咎めが重いので手跡(しゅせき)であっても都に置くことができない」との理由で後白河天皇が写本の受入を拒絶したとの説明がありました。
これを聞いた崇徳上皇は激怒し、「悔しい。我が国だけでなく、インドや中国でも王位を争って兄弟が合戦をすることはあるが、私はこのことを後悔して、自らの罪が救われるように、懺悔のために膨大な写経をしたのである。にもかかわらず、ただの手跡でさえも都に置かないということならば、いっそうのこと、この経を地獄に投げ込んで魔道に差し向け、自分が魔王となって遺恨を晴らそうではないか。天皇を取りつかまえて民となし、民を引き上げて天皇としてくれる」
というと、自らの指を噛み切って、したたる血液で大乗経に「天下滅亡」の呪いのことばを書き記しました。その後、崇徳上皇は爪を伸ばし続け、髪と髭も切らずに、その姿は生きながらにして、およそ天狗のようであったと伝えられています。そして、長寛2年(1164)、崇徳上皇は46歳で憤死しました。
崇徳上皇が失意のうちに崩御すると、間もなく延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵による強訴(ごうそ)事件が起こり、度重なる飢饉と洪水によって社会が不安定になりました。これは崇徳上皇の怨念によるものだと、まことしやかに語られるようになったのです。崇徳上皇の崩御から13年後の治承(しじょう)元年(1177)になって、朝廷は崇徳上皇の霊を慰めるために、院号である「讃岐院」に換えて「崇徳院」を贈りました。ところが、社会の混乱は鎮まりませんでした。後白河上皇と平氏が対立を深め、治承(じしょう)元年(1177)には「鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀」が起こり、治承3年に後白河上皇は平清盛(たいらのきよもり)によって幽閉され、院政が停止されたのです。そして、壇ノ浦(だんのうら)の合戦に向けて、混乱は更に拡大していきました。これも崇徳上皇の怨念だと信じる者が多かったといいます。保元の乱の戦場跡には鎮魂のために粟田宮(あわたのみや)が建てられましたが、その後も崇徳天皇の怨念の凄まじさは長年にわたって恐れられ、数世紀の後には京都に白峰宮が立てられました。崇徳天皇の怨念はその後も忘れられることはありませんでした。崇徳天皇没後700年に当たる幕末の元治元年(1864)には、世情は混乱を極め、禁門の変が起きて崇徳天皇の怨念が再来したのではないかと心配されたのです。
崇徳天皇は今も、香川県坂出市の白峯陵(しらみねのみささぎ)に眠っています。 
5
西行と崇徳天皇 
1.白河上皇の院政
西行の、厭世・出家しながらも都離れぬ心を考えるうえで、西行と鳥羽院や崇徳院の関係をみておくことは欠かせない。そこから西行と噂の多い待賢門院璋子との関係も見えてくる。北面の下級武人がなぜ時の権力中枢の人々と交えることができたのか、ほっておけばよいのになぜ最後まで関わり切ってしまうのか。厭世と旅の歌人なのに、この権力者たちとの関わりは何なのか。
この時代の朝廷の院政権力の流れは、次のとおり。
白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)。
天皇が退位すると「上皇」になり、天皇の地位には自分の子をつけて権勢をふるい、さらに上皇が出家して「法皇」となる。「天皇→上皇→法皇」の権力循環サイクル、これが院政である。これは摂関政治に対する天皇家からの巻き返し、権力奪取のため策略といわれるが、この権力形態は白河上皇の時代に完成した。白河上皇は、堀河天皇の死後はその息子で4歳の鳥羽天皇の上皇として本格的な院政をしいた。白河上皇は、院御所の北面に警護のための詰所を設け、親衛の武士団を組織した。官位で四位や五位の武士は上北面、六位のものは下北面に詰めた。
1129年、白河法皇が崩御し、鳥羽院は崇徳天皇に位を譲り自らは上皇になって院政を始めた。佐藤義清(のりきよ:出家後の西行)12歳の時だった。佐藤義清は、20歳の時に六位の位階をもっていたため鳥羽院の下北面として仕えることになる。この時の天皇は崇徳院で、西行より2歳年下だった。佐藤義清が北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた時、皇位継承をめぐって複雑な問題が起きていた。崇徳天皇が鳥羽上皇の直接の子ではないことが問題のはじまりだった。佐藤義清は、上皇・天皇の傍ですべてをみており、そして彼ら父と子のその行く末をすべて予見していたのだろう。
鳥羽上皇の中宮は待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)だが、璋子は幼女の頃から白河上皇に寵愛されており、璋子が鳥羽天皇の中宮になったものの、その子顕仁(後の崇徳天皇)の実の父は白河上皇であったろうとされていた。白河上皇と中宮璋子との関係は白河上皇の崩御まで続いたという。このことが後の崇徳天皇と鳥羽上皇との確執となり、保元の乱への遠因となっていく。
西行の生きた時代はかくのごとし。佐藤義清は、鳥羽上皇の親衛隊として北面の下級武士を勤めていたが「世を憂う」ことが多く、出家して西行になってからも、この憂いは止むことはなかった。 
2.佐藤義清(西行)と璋子・崇徳天皇の関係
義清は、馬や弓矢の武芸はもちろん、詩歌・管絃の道にも優れた才能をもっていたようだ。和歌の道にかけては、業平や貫之などの古の歌仙にもひけをとらないほどであったとか。また、西行の母方の祖父に源清経なる人物がいて、彼は今様の名手で、蹴鞠(けまり)にも長じていたようだ。そのため、今様や蹴鞠の文化は西行にも伝えられていただろうといわれている。こうしてみてみると、西行は、武術・詩歌・管絃・今様・蹴鞠の道に通じたほとんどスーパーマンのような、技能・才能の持ち主だったことになる。後世の脚色もあるのかもしれないが、西行は各方面で多彩な才能を発揮していた。容姿は武門の出だけにやや無骨だったようだが、御殿勤めの女性たちにはもてた。鳥羽上皇にもその才能をみとめられ、なぜか中宮待賢門院璋子(たまこ)の覚えもめでたかった。早くから歌の才能が評価されたものだともいわれている。
近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして、その苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。その真偽は判断できるだけの材料がない。この話は週刊誌のスキャンダル記事のようで、面白すぎる。
下級武士の西行がなぜ、待賢門院璋子に接することができたのか、崇徳天皇とも親しくつきあうことができたのか。義清の田仲庄は徳大寺家の知行地で、義清も当初は徳大寺家の家人として仕えていた。その関係で徳大寺(藤原)実能(さねよし)の妹、待賢門院璋子とも彼女に仕える女房たちとも浅からぬ縁があったようだ。また、義清は徳大寺藤原実能(さねよし)の働きもあり、鳥羽上皇にも近づけた。義清の蹴鞠(けまり)や騎乗や弓矢の才能が評価されたのだともいわれている。義清は鳥羽上皇の親衛隊、北面の武人として勤めることになった。この時、北面の同僚に平清盛がいた。西行と清盛との付き合いがどの程度だったかわからないが、西行が出家して高野山にいた時に、清盛に手紙を書いて、願いを聞いてもらっている。時の最高権力者、清盛とも直に話ができる間柄だった。
崇徳天皇は、鳥羽上皇の子ということになっているが、実際には鳥羽上皇の父である白河法皇の子であったらしい。白河法皇は璋子を寵愛し、璋子を鳥羽上皇の中宮にしてからも関係が続いていたという。世の習いとはいえ、鳥羽上皇は璋子を敬愛していたが、崇徳天皇に対してはどうしても複雑な感情を抑えることができなかったのだろう。白河法皇がなくなると、鳥羽上皇は藤原得子(美福門院得子)を御所に迎え、皇子体仁(後の近衛天皇)をもうけた。1139年、保延五年、鳥羽上皇は体仁を次期天皇として立太子させる。
西行の出家後、鳥羽上皇の崇徳天皇・璋子への対応が決定的になる。鳥羽上皇は、崇徳天皇をだまして譲位させ、美福門院得子の幼児体仁を近衛天皇として天皇の位につけた。鳥羽院は崇徳院に譲位することなく、引き続き上皇として院政をしいた。これは誰がみてもあくどいものだった。鳥羽院は崇徳天皇に、「美福門院生まれの体仁をあなたの子ということで譲位すれば、あなたは院政をしくことができますよ」といって譲位させながら、譲位の宣命には「子」ではなく「弟」と記すように画策して、崇徳天皇が上皇になる機会を奪ってしまった。
このことは、崇徳天皇が上皇になって院政をしき、 待賢門院璋子も安泰の日を送ることができるものと考えていた西行にも、衝撃的なできごとだった。崇徳天皇は和歌を愛し、文化振興にも理解が深く、和歌を通して西行とも関係をもっていて、それなりの相互理解の関係にあったようだ。西行は、鳥羽上皇の北面だから鳥羽上皇にとは直接の主従関係にあったが、出家後は、むしろ崇徳天皇や待賢門院璋子らに同情を寄せている。鳥羽上皇の崇徳天皇・璋子への嫌がらせや徹底して排除していこうとするやり方に、嫌悪を感じたからだろう。鳥羽上皇と取り巻きの摂関家のこのような陰湿な権力運用が、西行出家の原因のひとつであったことは間違いないだろう。 
3.保元の乱 1156年 保元元年7月
保安4年(1123年)7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子が生んだ体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。上皇になるためには、天皇は「子」でなくてはならない。天皇が「弟」では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。崇徳は鳥羽田中殿に移り、「新院」と呼ばれるようになった。この事件により、崇徳院は鳥羽上皇に恨みを抱くことになるが、この策略は実際には摂政の忠通によるものだったらしい。
法皇も表向きは崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王(母は兵衛佐局)を美福門院の養子に迎えた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁への皇位継承の可能性も残したことになる。久寿2年(1155年)7月24日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれる。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。
忠通は美福門院の養子・守仁への譲位を法皇に奏上する。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったとされる。背景には崇徳院の院政により自身の立場が弱くなることを危惧する美福門院、忠実・頼長との対立で苦境に陥り崇徳の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む忠通、雅仁の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったようだ。これにより崇徳院の院政の望みは完全に打ち砕かれることになった。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ (「百人一首」の崇徳院の歌)
二つに分かれた急流が、いつかは一つになって出あうことがあろうとの期待は、崇徳院の皇統がいつかは日の目を見ることがあろうとの期待に重ねられている。
崇徳院の母の待賢門院の落胆も大きく、病気がちになり、1145年久安元年に崩御。 西行28歳、嘆きはいかばかりか。
一方、病床の鳥羽法皇は源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。
以下、保元の乱の推移をかいつまんで紹介する。
保元、元年(1156年) 6月1日、法皇の容態が絶望的になった。法皇のいる鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏の源義朝・源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた(『兵範記』7月5日条)
保元、元年(1156年)、7月2日申の刻(午後4時頃)鳥羽法皇が崩御した。崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、鳥羽法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。
7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられる。
この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
7月9日の夜中、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。
翌10日には、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳の側近である藤原教長や、平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結する。上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳は今は亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子・清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。天皇方は、崇徳の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員した。
11日未明、後白河天皇方が崇徳院方の白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、崇徳院は御所を脱出して行方をくらました。為朝らが状況打開のためには夜討しかないと進言したが、頼長は一言のもとに退けた。頼長は学問があったために実戦に馴れた武士との間が円滑にいかなかったことも、崇徳院方の敗因の一つとなった。
頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した(『兵範記』7月21日条)。忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。上皇方の中心人物とみなされた教長は厳しい尋問を受け、「新院の御在所に於いて軍兵を整へ儲け、国家を危め奉らんと欲する子細、実により弁じ申せ」と自白を強要されたという(『兵範記』7月15日条)。
逃亡していた崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。 
4.西行、敗れた崇徳院を訪ねる
この頃、西行は高野山で修行していたはずだが、いち早く仁和寺の崇徳院のもとに駆け付けた。
世の中に大事出で来て、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪おろして、仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨出であひたり。月明かくて詠みける
かかる世に 影も変わらず 澄む月を 見るわが身さへ 恨めしきかな (1227) 
1156年 保元元年、西行は鳥羽上皇の葬送に参列して次のような歌を残している。
一院崩れさせおはしまして、やがての御所へ渡しまゐらせける夜、高野より出であひてまゐりあひたりける、いと悲しかりけり。この、後おはしますべき所御覧じ初めけるそのかみの御供に、右大臣実能、大納言と申しける候はれけり。忍ばせおはしますことにて、また人候はざりけり。その御供に候ひけることの思ひ出でられて、折しも今宵にまゐりあひたる、昔今のこと思ひつづけられて詠みける
今宵こそ 思ひ知らるれ 浅からぬ 君に契りの ある身なりけり (782)
鳥羽院の崩御に接し、「浅からぬ君に契りのある身」と詠った西行は、同じ年、敗残の崇徳院のもとにも身の危険を顧みず馳せ参じた。鳥羽上皇に対しては主従の契りを感じながら、崇徳院にたいしては和歌をとうしての心の繋がりだろうか、敗残と失意に沈む崇徳院へのいたわりの情を歌にしている。戦乱が終息していたとは言え、仁和寺に居る崇徳院を訪ねることは、身の危険を顧みない勇気が必要だが、一介の下級武人・出家人にできることではない。清盛や信西へのコネクションがあったとはいえ、西行はやはりだものではない。西行は決して政治的・党派的な人間ではない。出家者という立場が、西行の行動を自由にし、有利にはたらいたことは間違いない。
敗残の武士に対する処罰は厳しく、薬子の変(くすこのへん)(=平城太上天皇の変)を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた弓の名手である為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられる。『保元物語』によれば武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流されたがそこでも大暴れをしたと言われている。
こうして天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。
乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持するグループ(後白河院政派)と二条天皇を支持するグループ(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる(平治の乱)。
保元、元年(1156年) 7月23日、崇徳は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐へ下った。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。崇徳はその後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。
『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の汐路」では、
「八重の汐路をわけて、遠くおはしまして、上達部殿上人(かむだちめてんじょうびと)の、ひとり参るものなく、一ノ宮(重仁親王)の御母の兵衛佐(ひょうえのすけ)ときこえ給ひし、さらぬ女房、ひとりふたりばかりにて、男もなき御だびずみも、いかにこころぼそく、朝夕におぼしめしけむ」、と哀れ深く伝えているが、都に残った人々は「世の怖ろしさに」一人も訪ねるものはいなかったという。
西行はつてを求めて、たびたび慰めの歌を送っている。
讃岐にて、御心ひきかへて、後の世の御勤め暇なくせさせおはしますと聞きて、女房の許へ申しける。この文を書き具して、「若人不嗔打、以修忍辱」
世の中を 背く便りや なからまし 憂き折節に 君逢はずして (1230)
(このような辛い目に会わなかったら、仏道に入る機縁とならなかったでしょう。)
しかし安元2年(1176年)に建春門院・高松院・六条院・九条院など後白河や忠通に近い人々が相次いで死去し、翌安元3年(1177年)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷事件といった大事件が勃発するに及んで、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。7月29日、後白河は保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長に正一位太政大臣を追贈することを命じた。保元の乱が終結して、およそ20年後のことだった。 
5.讃岐配流
『保元物語』によると、崇徳は讃岐での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。
一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても、怨念を抱いていた様子はない。
これは承久の乱で隠岐に配流された後鳥羽上皇が
「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)
と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的といえる。
『今鏡』の著者とされる寂超は崇徳の在位中に蔵人を務め、歌会にも出席するなど親密な関係であり、『今鏡』も崇徳の死からそれほど経過していない嘉応2年(1170年)に執筆されている。これに対して『保元物語』が書かれたのは『六代勝事記』の成立した貞応2年(1223年)以降と見られている。崇徳の逸話に関しては『今鏡』の方が信憑性が高く、『保元物語』における崇徳の描写は後鳥羽上皇に重ね合わせて創作された虚像とも考えられる。
「西行が讃岐へ送った歌は多いので、一々ここにあげることはできない。が、いずれも院の心を鎮めることに重点がおかれており、仏道修行に専念されることを、しきりに勧めている。ということは、ある種の危険を感じていたに違いない。保元物語その他が伝えるところによれば、最初の三カ年がほどは、後生菩提のために、院は自筆で五部の大乗経を書写し、安楽寿院の鳥羽陵へおさめるこさを希望されていた。「浜千鳥」の御製は、都へお経を送った時のものだといわれている。が、その望みは、断固退けられた。後白河天皇、というよりは側近の信西入道によって、突っ返されてきたのである。讃岐の院は烈火の如く憤り、此経を魔道に廻向して、魔縁と成って、遺恨を散ぜん、といって其後は御つめをもはやさず、御髪をもそらせ給はで、御姿をやつし、悪念にしづみ給ひける。
西行が恐れていたことは実現したのである。・・・
配流の後、八年を経て、讃岐の院は長寛二年(1164年)46歳で崩御になった。西行が讃岐へ行ったのはそれから四年後のことで、その時詠じた歌には、落胆した気持ちがよく現れている。
讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡たづねけれど、かたも無かりければ
松山の 波に流れて 来し舟の やがて空しく なりにけるかな(1353)
松山の 波の景色は 変らじを かたなく君は なりましにけり(1354)
白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに、まゐりて
よしや君 昔の玉の ゆかとても かからん後は 何にかはせん(1355)
崇徳院の執念とは何か。我が子を天皇にし、自分が上皇になって院政を布くことか。いかしそれは、鳥羽院にしてみれば、直系の子に天皇を継がせ、さらに法皇となって天皇-上皇の連綿と続く皇統を確証したいという願いがあるだろう。それが時の勢いであってみれば、崇徳としては出家して身を引くのが大人の対応というものだと思うのだが。この執念は私のような庶民には理解できないことなのかも知れない。その崇徳院に対する西行の戸惑いは理解できる。かっては天皇と北面武士の関係であり、それ以上に和歌を通じて心通わすこともあったのだろう。西行という男は、そういう義理がたい男であった。
崇徳院は優れた歌人であり、数寄の好みにおいて西行と共通するものがあったようだ。崇徳院は、久安6年、1150年に「久安百首」という歌集を出し、翌年の仁平元年には「詞花和歌集」を出している。「詞花和歌集」には、西行の次の歌を「読人しらず」としてとっている。
「身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ」 
6
なぜ崇徳上皇は怨霊になったのか
保元元年(一一五六)、後白河天皇との対立によって発生した政変「保元の乱」に敗れた崇徳上皇は讃岐国へ配流となる。わずかな女官らとともに極楽浄土への往生だけを願いとして静かな余生を送り、長寛二年(一一六四)、その不遇の生涯を閉じた。
「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(風雅和歌集)
心細い思いを歌に詠み、失意のうちに亡くなった孤独で無力な元天皇が怨霊となったのは、安元二年(一一七六)年から翌安元三年(一一七七)にかけてのことだという。この頃京都には不穏な空気が蔓延していた。
安元二年六月十三日  二条天皇の中宮高松院妹子死去
安元二年七月八日   後白河院の女御で平清盛の義妹建春門院滋子死去
安元二年七月十七日  後白河院の孫、第七十九代天皇であった六条院が十三歳の若さで死去
安元二年八月十九日  近衛天皇の中宮九条院呈子死去
安元三年四月十三日  延暦寺の僧侶による強訴で死者多数
安元三年四月二十八日 安元の大火(太郎焼亡)で京の三分の一が焼失
安元三年六月一日   平氏政権打倒を企図した鹿ケ谷の陰謀発覚
名だたる王族・貴族が次々とこの世を去り、社会を揺るがす大事件が頻発する中で、これは崇徳院の怨霊の仕業だとする噂が囁かれ、瞬く間に広がった。
怨霊とは何か、「跋扈する怨霊―祟りと鎮魂の日本史」(山田雄司著)では院政期の僧侶慈円が著した「愚管抄」からその定義を引いている。
『怨霊とは、現世において深く恨みを持って、仇を選んで転倒させようとし、讒言虚言を作り出し、それが天下にも及んで世を乱れさせ人に危害を加えたりするものであり、現世でできなったことを冥界で晴らす存在だと解釈している。』
人を怨霊と化すものは何か、『怨霊とは人々の共通認識として怨霊となるであろうと思われた人物が怨霊となる』のであり、『人々の心の根底にある「あるべき姿」を求めようとする意識が怨霊を作り出す』ことになる。人々がその存在を必要とするとき、怨霊が誕生するわけだ。
崇徳帝の怨霊を生んだ人物は実ははっきりしているらしい。藤原教長である。大河ドラマ「平清盛」でも矢島健一さんが好演している。教長は崇徳帝の側近として長らく仕え、保元の乱でも崇徳側について、乱後には出家の後、一時常陸国浮島に配流されていたが赦されて京都に戻っていた。記録では『藤原教長が崇徳と頼長の悪霊を神霊として祀るべきであると人々に仰せ合わせている』という話が残されており、また崇徳帝の怨霊に関るエピソードにも少なからぬ影響があったと見られている。
崇徳帝の恨みをあらわしたエピソードに、自身の舌を噛み切った血で天下を滅亡させる旨記した崇徳帝自筆の「五部大乗経」の存在がある。これは史書「保元物語 (岩波文庫)」などにも紹介されている話だが、その初出は寿永二年(一一八三)七月十六日条の「吉記」であるという。山田は『実際にこの経を見たという人物はなく、この記録以外に経について記したものも存在しない』点、崇徳死後十九年経ってから初めてその経の存在が明らかにされている点などから、これは実在しない創作であったということを指摘する。そして、この経を保管していたとされるのが崇徳帝の子の一人、元性法印という僧侶で、教長は元性法印に『古今和歌集』の進講をするなど深く交流があった。
『保元の乱で崇徳側に与した人々の間で、崇徳の復権、さらにはみずからの復権を行うために、怨霊の存在を語ったのではないだろうか。ちょうどそのとき社会は不安定で、その原因を何かに求めたいという状況であった。そのため、最初は取り合わなかった後白河院も、ひとたび怨霊の存在を信じるとそれにおびえ、院主導で種々の対応が講じられていったのである。』
御霊(怨霊)信仰のはじまりは八世紀から九世紀ごろである。義江彰夫著「神仏習合 (岩波新書)」によると『奈良時代半ばまでに、王権中枢部では、権力抗争の末に敗死した特定の者の霊が恨みをもって現れるという観念が生まれつつあった』(義江)という。平安初期になると、民衆たちによって早良親王など六人の政争敗死者たちを御霊として祀ろうとする動きが顕著になる。御霊会と呼ばれるそれは京・畿内を中心に全国に拡大し、反王権運動の様相を呈していた。
怨霊を祀り上げるということは、その怨霊となる政争敗死者を生んだ時の権力者たちの責任を問うということであり、怨霊は中世を通じてその時々の社会不安や不満を反王権運動へと結びつけるシンボルとして機能し、時にそれは謀反の論理にも転化した。平将門は新皇即位の儀式に際して怨霊として怖れられた菅原道真の霊を呼び出している。怨霊の存在は霊的な脅威としてだけでなく、文字通り権力構造を揺るがす危機の象徴であった。
ゆえに怨霊の鎮護は政治的にも最優先課題であった。崇徳側の復権を企図として流された崇徳怨霊説は社会不安を背景にして広がり、その結果、王権への不満を糾合する象徴として後白河院政・平氏政権に揺さぶりをかける。安元三年八月三日、後白河院はそれまでの「讃岐院」という呼称を「崇徳院」にあらため、崇徳とともに怨霊の噂が囁かれていた藤原頼長には増官贈位を行い、続けて法要を開催。寿永二年(一一八三)十二月二十九日、保元の乱の際の崇徳側御所があった春日河原に神祠建立を決定、建久二年(一一九一)には後白河院の病に際して、讃岐の崇徳院陵に御影堂が建立されるとともに整備が行われた。
また平氏にかわって政権についた源頼朝も父義朝が保元の乱時に後白河側に就いていたことから、崇徳院の怨霊を怖れてその鎮魂に注意を払っているという。文治元年(一一八五)、守護・地頭を全国に設置するに際し、諸国に宛てて崇徳院が生前建立した寺院成勝寺の修造を命じ、同年には妻北条政子に仕える女房の夢に鶴岡八幡宮に崇徳帝を鎮める祈祷をするよう祖先の源義家の部下の霊が出たという話を受けてその祈祷を命じている。
怨霊鎮護は支配の正当性を確立するために時の権力者たちが最も苦心した課題であった。怨霊とその怨霊を反乱や不満のシンボルとしようとする反対勢力・民衆に付け入る隙を与えず、無力化、懐柔に成功した暁には怨霊は守護神に転じる。平将門しかり、菅原道真しかり。崇徳院の怨霊も後白河院の死後、鎌倉幕府による支配の安定化によって社会・政治不安が解消されていく中で皇統を守護する善神へと転じて行った。
このように崇徳院に代表される怨霊の存在は、怨霊という概念が権力に対する怒りや不安、憎悪を糾合する象徴であるという点で、歴史上の出来事ではなく、今でも形を変えて出現しうるものだ。それが悲しく不遇な生涯を送った崇徳院のように望んで怨霊になったわけではないとしても。
「怨霊」の存在を望む人々がいる限り、哀しき「怨霊」は跋扈し続ける。 
7
人喰い地蔵 / 崇徳上皇の怨霊伝説
「われ魔界に堕ち、天魔となって人の世を呪わん。人の世の続く限り、人と人を争わせ、その血みどろを、魔界より喜ばん」
凄まじいまでの怨みの言葉を残して、自らこの世を去った崇徳(すとく)上皇。その霊を慰めるお地蔵さまが、左京区聖護院の「積善院準提堂(しゃくぜんいんじゅんていどう)」というお寺に安置されています。
“五大力さん”で親しまれているお寺
積善院準提堂は、本山修験宗の総本山である聖護院の塔頭(たっちゅう)として、鎌倉時代初期に創建されたお寺です。もともとの寺名は「積善院」だったのですが、明治維新後の廃仏毀釈の際に「準提堂(じゅんていどう)」と合併し、現在の2つのお寺が合わさった名称になりました。敷地は元から積善院があった場所ですが、本堂は準提堂から移築されたもだそうで、ちょっと妙なことのように思いますが、当時、廃仏毀釈によって、無理な合併を強いられたお寺は多くあったようです。
このお寺は、毎年2月23日に、山伏が般若心経を読経し、護摩木を焚き上げて、諸願成就を願う“五大力尊法要(ごだいりきそんほうよう)”が行われることで知られ、その日は多くの人で賑わいますが、普段は地元の人が時折お参りに来る程度のひっそりとした寺院です。その境内の片隅に、保元の乱によって都を追われた崇徳上皇の霊を慰めるために祀られた「崇徳院地蔵」があります。この地蔵尊には「人喰い地蔵」という、なんとも恐ろしい呼び名が付いているのです…。
実の父親に嫌われた崇徳上皇
崇徳は平安時代の末期に、鳥羽上皇の第一皇子として生まれました。ところが、崇徳は鳥羽上皇の祖父である白河法皇が母・璋子(しょうし/たまこ)との密通、つまり不倫により生まれた子どもだったのです。このために鳥羽天皇は崇徳を自分の子とは認めず、「叔父子」と呼ぶほどに崇徳を疎んじていたと言われています。
崇徳は5歳にして即位し、天皇になりますが、当時はいわゆる院政の時代。実権を握っていたのは天皇ではなく、「治天の君」と呼ばれた天皇の父や祖父が政を行うのが慣例だったのです。自分に実権がない崇徳はやがて自分の子どもが天皇に即位し、自らが「治天の君」になる日を夢見ていました。しかし、とことん崇徳を嫌った鳥羽上皇は、崇徳を退位させ、藤原得子(ふじわらのなりこ:美福門院)に生ませた第九皇子の近衛を天皇に就けたのです。まさに嫌がらせの極み!
その後、近衛天皇は若くして崩御してしまうのですが、次に鳥羽上皇が天皇に就けたのは崇徳ではなく、崇徳の弟である後白河だったのです。鳥羽上皇は徹底して、崇徳を自分の周りから遠ざけようとしたわけです。崇徳のその屈辱は如何なるものだったでしょう…。
肉親が血で血を洗う、悲惨な戦い
ところが、運命とは皮肉なもので、事態は急展開を見せることになります。後白河天皇が即位した翌年の1156(保元1)年、鳥羽上皇が崩御してしまい、その結果、崇徳と後白河天皇は兄弟で権力の座を争い、そして、公家に代わって台頭してきた武士階級の源氏と平氏も血で血を洗う戦へとなっていったのです。これが、世に云う「保元の乱」です。
「保元の乱」は歴史上、よく知られている戦で、長きに渡る戦だったような印象がありますが、崇徳と後白河の兄弟争いの戦局は一機に決したと言われています。崇徳が自分の屋敷である崇徳院で兵を挙げた翌日、後白河天皇の軍勢は崇徳院を急襲し、あっけなく崇徳方の敗北に終わってしまうのです。この間、実質2日という、意外にも短い戦だったのです。
戦に負け、囚われの身になった崇徳は流刑になり、讃岐(現在の香川県)へ送られました。都に戻ることを切に願った崇徳は、保元の乱を引き起こしたことを悔い改め、その証しとして、3年もかけて10巻にも及ぶ写経を記し、都に送りました。ところが、送った経文はあっさりと突き返されてしまったのです。この時、落胆と怒りが渦巻いた崇徳は、送り返された経文に、自らの舌を食いちぎり、滴る血で「われ魔界に堕ち…」という呪いの言葉をしたためたと言われています。
この世を呪い続けた崇徳上皇
その後、8年間、讃岐に留め置かれた崇徳は、朝廷を呪い、世を呪い続け、ついに狂い死にしてしまいました。すると、崇徳の呪いの言葉通りなのか、都では火事が相次ぎ、疫病が流行り、挙げ句には大地震まで起こったのです。
崇徳の霊を慰めるために
都の人々の間では、この数々の災いは哀れな死を遂げた崇徳の祟りに違いないとして、崇徳の霊を慰めるために、崇徳の屋敷があった鴨川の東、春日河原に粟田宮という神社を建て、そこに「崇徳天皇廟」を造ったのです。その後、長い年月とともに粟田宮は衰退し、地蔵尊だけが残りました。「崇徳天皇廟」があった場所は、現在の京都大学医学部附属病院の敷地で、そこにあった地蔵尊は明治になって、病院の建設に伴い、聖護院の積善院準提堂に移されました。
どうして“人喰い地蔵”とよばれるようになったのか?
ところで、この「崇徳院地蔵」がどうして“人喰い地蔵”という怖い名前で呼ばれるようになったかというと、世を呪った崇徳上皇だけに、何かいわくがありそうに思えますが、実はそのようなものはまったくなく、ちょっと拍子抜けするようなことから、“人喰い地蔵”と呼ばれるようになったのです。
それは、崇徳院地蔵、崇徳院地蔵…と呼んでいるうちに、“すとくいん”が、“ひとくいん”になり、いつしか“ひとくい”となって、「人喰い地蔵」が定着したということなのです。要するに、“すとくいん”が訛って、“ひとくい”になったというわけですね。
このような理由を知ってしまうと、やや味気のないものになってしまいますが、このように訛ったのも、崇徳上皇の呪いが京の人たちに恐れられていたということなのかもしれません。今は、無病息災の守りとして、恐ろしげな名前とは逆に、京の人たちから親しまれています。 
 
78.源兼昌 (みなもとのかねまさ)  

 

淡路島(あはぢしま) 通(かよ)ふ千鳥(ちどり)の 鳴(な)く声(こゑ)に
幾夜寝覚(いくよねざ)めぬ 須磨(すま)の関守(せきもり)  
淡路島との間を飛び交う千鳥の鳴く声のせいで、幾夜目を覚ましたことであろう、須磨の関守は。 / 海峡を隔てて日中は見えるあの淡路島から渡ってくる千鳥の鳴く悲しい声に、この須磨の関所の番人は幾夜目を覚まして物思いにふけったことだろうか。 / 淡路島を行き来する千鳥のもの哀しい鳴き声を聴いて、幾夜目を覚ましたことでしょう。あの須磨の関守は? / 淡路島から通ってくる千鳥の鳴き声に、幾晩目を覚ましたことであろうか、この須磨の関の関守は…。
○ 淡路島 / 歌枕。淡路国、現在の兵庫県にある島。大阪湾及び明石海峡を隔てた須磨の対岸。
○ かよふ千鳥の鳴く声に / 「かよふ」は、「行く」、「帰る」、「往来する」の三通りの解釈が可能であるが、ここでは、三説を総合して「飛び交う」とした。「千鳥」は、海岸などで群れをなして生息する小型の鳥。冬の風物として歌に詠まれる。「の」は、主格の格助詞。「に」は、原因・理由を表す格助詞。
○ いく夜寝覚めぬ須磨の関守 / 「いく夜」が、疑問詞「いく」+名詞「夜」という構成の名詞であるため、「ぬ」は、本来、連体形の「ぬる」であるべきところ、終止形となって名詞「須磨」に続いている。「須磨」は、歌枕。摂津国西部の海岸地域。現在は、兵庫県神戸市須磨区。「関守」は、関所の番人。四句と五句は倒置。体言止めを用いることで、辺境の寂寥感を強調している。 
1
源兼昌(みなもとのかねまさ、生没年不詳)は、平安時代中期から後期にかけての歌人・官人。宇多源氏で、美濃介・源俊輔の子。子に昌快、前斎院尾張がいる。官位は従五位下・皇后宮少進。
官位には恵まれず従五位下・皇后宮少進に至るが、その後出家。没年については不詳であるが大治3年(1128年)頃には生存していたようである。康和2年(1100年)の国信卿家歌合以下、永久3年(1115年)、元永元年(1118年)、同2年(1119年)の内大臣忠通家歌合などに出詠しており、堀河院歌壇の下部集団である忠通家歌壇で活躍した。永久4年(1116年)の「堀河次郎百首」の作者の一人。
『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新勅撰和歌集』『新千載和歌集』の勅撰和歌集に和歌作品が計7首入集している。家集は伝わらない。
淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守 (「金葉和歌集」、百人一首) 
2
源兼昌 生没年未詳
宇多源氏。美濃守従四位下俊輔の子。娘の前斎院尾張は金葉集に歌を残す歌人。従五位下皇后宮少進に至る。のち出家した。永久三年(1115)・元永元年(1118)・同二年の内大臣藤原忠通家歌合などに出詠した。堀河院歌壇の一員でもあり、康和二年(1100)の「宰相中将国信歌合」、永久四年(1116)の「永久百首」(堀河院後度百首)などに詠進。大治三年(1128)、源顕仲主催の住吉社歌合に出詠。『夫木和歌抄』によれば家集があったらしいが、伝わらない。金葉集初出。勅撰入集歌は計七首と決して多くないが、「淡路島かよふ千鳥の…」の歌が小倉百人一首に採られている。
避暑
玉垂の御簾さわぐまで風ふけばよどののうちも涼しかりけり(永久百首)
(御殿の美しい簾がざわざわ音をたてるほど風が吹き込んでくるので、寝室の中まで涼しいのだった。)
晩立
夕立にをちの溝河みぞかはまさりつつふらぬ里までながれきにけり(永久百首)
(遠くの里で夕立が降っているようだ。あちらの水路が増水して、雨の降らないこの里まで溢れるように流れて来るよ。)
秋風
真葛原もみぢの色のあか月にうら悲しかる風の音かな(永久百首)
(葛の生える野原で夜明けを迎えた。月の残る空は紅葉の色に映え、朝風がしきりに吹く。なにか悲しげな風の音であるよ。)
八月十五夜
望月の山の端いづるよそほひにかねても光る秋の空かな(永久百首)
(満月が山の稜線を昇ろうとしている。その準備だとでもいうように、秋の夜空は前以て明るく輝いているよ。)
法性寺入道前関白家歌合に
夕づく日いるさの山の高嶺よりはるかにめぐる初時雨かな(新勅撰385)
(夕日が沈む入佐の山の高嶺から、遥かな距離を巡って来る初時雨であるよ。)
霙(みぞれ)
夕暮のみぞれにしみやとけぬらん垂氷たるひづたひに雫落つなり(永久百首)
(雪ばかり降る毎日だったが、今日の夕暮は霙に変わって、縮み上がるような冷えも緩んだのだろうか。軒の氷柱をつたって雫がぽとぽと落ちる音が聞える。)
関路千鳥といへる事をよめる
淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬ須磨の関守(金葉270)
(夜、須磨の関の近くに宿っていると、淡路島との海峡を通って来る千鳥の鳴く声に、目を醒まされる。旅人の私も悲哀の情を催すが、須磨の関守はこの声に幾晩も眠りを破られたことだろう。) 
 
79.左京大夫顕輔 (さきょうのだいぶあきすけ)  

 

秋風(あきかぜ)に たなびく雲(くも)の 絶(た)え間(ま)より
漏(も)れ出(い)づる月(つき)の 影(かげ)のさやけさ  
秋風のためにたなびいている雲の切れ間からこぼれ出る月の光の何と明瞭なことか。 / 秋風に吹かれて、大空に横に細くたなびいている雲の切れ間から、漏れて姿を現す月の光の、何という清らかな明るさであろう。 / 秋風に吹かれて、たなびいている雲の切れ間から、もれ出てくる月の光の、なんて清らかで明るいことだろうか。 / 秋風に吹かれてたなびいている雲の切れ間から、もれでてくる月の光は、なんと清らかで澄みきっていることであろう。
○ 秋風に / 「に」は、原因・理由を表す格助詞。
○ たなびく雲の絶え間より / 「たなびく」は、横に長く伸びる。「絶え間」は、切れ間。「より」は、起点を表す格助詞。
○ もれ出づる月の / 字余り。「もれ出づる」は、雲の隙間から、月光がこぼれ出るさまを描写している。「の」は、連体修飾格の格助詞。
○ 影のさやけさ / 「影」は、光。この場合は、月光。「の」は連体修飾格の格助詞。「さやけさ」は、ク活用の形容詞「さやけし」+接尾語「さ」で、名詞化したもの。はっきりしていることの意。体言止め。 
1
藤原顕輔(ふじわらのあきすけ、寛治4年(1090年) - 久寿2年5月7日(1155年6月8日))は、平安時代後期の公家・歌人。修理大夫・藤原顕季の三男。官位は正三位・左京大夫。六条と号す。小倉百人一首では左京大夫顕輔。
康和2年(1100年)1月に白河上皇の院判官代に任ぜられて以降、院の近臣として昇進した。加賀守や中務権大輔を経て、元永元年(1118年)12月正四位下に昇る。大治2年(1127年)1月、讒言により白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、白河院崩御の翌年(1130年)関白藤原忠通の娘聖子が崇徳天皇の中宮に冊立されると、中宮亮となり官界に復帰。保延3年(1137年)10月従三位に叙せられて公卿に列し、同5年(1139年)1月左京大夫に任じられ、久安4年(1148年)7月正三位に至った。久寿2年(1155年)5月7日に薨去。享年66。
周辺に優れた歌人が多く、永久4年(1116年)の鳥羽殿北面歌合・六条宰相家歌合や久安6年(1150年)の「久安百首」など、多数の歌会・歌合で活躍し、父から六条藤家の象徴である人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を受け継いだ。天養元年(1144年)6月に崇徳上皇から勅撰集撰進の命を受けて、仁平元年(1151年)に『詞花和歌集』を完成させ、奏覧に供した。
『金葉和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に84首が入集しており、家集には『左京大夫顕輔卿集(顕輔集)』がある。
秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ (『新古今和歌集』、百人一首) 
2
藤原顕輔 寛治四〜久寿二(1090-1155)
六条藤家。顕季の三男。母は藤原経平の娘。兄に長実・家保がいる。子に清輔・重家・顕昭(猶子)・頼輔・季経ほかがいる。康和二年(1100)、叙爵。白河院判官代となる。中務権大輔・美作守を歴任し、元永元年(1118)、正四位下に叙される。保安四年(1123)、鳥羽天皇の譲位に伴い、鳥羽院別当となる。大治二年(1127)、讒言によって白河院の勘気を蒙り、昇殿を止められる。同四年、白河院崩じ、同五年、中宮亮に任ぜられ、崇徳院后聖子(忠通女)に仕える。同年、再び昇殿を許された。保安三年(1122)、従三位。左京大夫などを兼ねる。久安四年(1148)、正三位。久寿二年五月七日、薨ず。六十六歳(一説に六十七歳)。永久四年(1116)の鳥羽殿北面歌合・六条宰相歌合、元永元年(1118)の中将雅定家歌合・右兵衛督実行家歌合、保安二年(1121)の内蔵頭長実家歌合、大治三年(1128)の西宮歌合、保延元年(1135)の播磨守家成家歌合、同二年から永治元年(1141)にかけての中納言伊通家歌合など、多くの歌合に出詠。また元永元年の顕季家人麿影供、康治元年の大嘗会和歌に参加し、久安六年(1150)までに完成した「久安百首」の作者に列なった。自ら主催した歌合も多い。基俊没後、歌壇の第一人者と目され、天養元年(1144)六月二日、崇徳院より勅撰集撰進の院宣を下され、仁平元年(1151)に『詞花集』として完成、奏覧。
春 / 正月八日、春立ちける日、鶯のなきけるを聞きてよめる
今日やさは雪うちとけて鶯の都に出づる初音なるらむ(金葉14)
(今日は立春だからそれでなのか、雪はとけ、鶯も心うちとけて、山から都に出て来て初音を響かせるのだろう。)
梅の木に雪の降りけるに、鶯のなきけるをよめる
梅が枝にふりつむ雪は鶯の羽風に散るも花かとぞ見る(千載17)
(梅の枝に降り積もった雪は、花のようだ。そこへ鶯がやって来て、枝から枝へ飛び移ると、その羽風に散ってしまう。それもまた、花が散るかと思うのだ。)
崇徳院に百首歌奉りける時、花の歌とてよめる
葛城かづらきや高間の山のさくら花雲ゐのよそに見てや過ぎなむ(千載56)
(葛城の連山に、抜きん出て聳える高間の山、今や桜の花盛りだ。あれを、雲の彼方に眺めるばかりで通り過ぎてよいものだろうか。山に登って花にまじりたいよ。)
花十首歌よみ侍りけるに
ふもとまで尾上の桜散りこずはたなびく雲と見てや過ぎまし(新古124)
(麓まで桜の花が散って来ることがなかったなら、峯の上にたなびいている雲だと思い込んだまま通り過ぎてしまったろう。)
落花を
散る花を惜しむばかりや世の中の人の心の変はらざるらむ(風雅242)
(散る花を惜しむことについてだけは、世の中の人の心は変わりがないだろう。)
秋 / 崇徳院に百首歌奉りけるに
秋風にたなびく雲の絶えまよりもれ出づる月の影のさやけさ(新古413)
(秋風が吹き、幾重にもたなびいている雲の切れ目から、いま洩れ出た月の光――その冴え冴えとした鮮明さよ。)
崇徳院御時、百首哥めしけるに
秋の田にいほさすしづの苫とまをあらみ月と共にやもり明かすらむ(新古431)
(秋の田に小屋を建てて見張り番をする農夫――屋根の苫が粗いので、漏れてくる月の光といっしょに、夜が明けるまで田を守り続けるのだろう。)
歌合し侍りける時、紅葉の歌とてよめる
山姫にちへの錦をたむけても散るもみぢ葉をいかでとどめむ(千載359)
(龍田姫に錦の織物を何枚もお供えしたところで、紅葉した木の葉が散るのをどうして止めることなどできるだろう。)
恋 / 百首の歌奉りける時、恋の歌とてよめる
高砂の尾上の松に吹く風のおとにのみやは聞きわたるべき(千載652)
(高砂の尾上の松を吹く風の音は、ひときわ高く、心にしみるそうだ。それではないが、ずっと音に――噂にばかり聞いて過ごさなければならないのだろうか、貴女のことを。)
顕季卿の家にて人々恋の歌よみけるによめる
逢ふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞ命なりける(金葉354)
(あの人と結ばれる夢を見た。だからと言って、現実にどうなるということはないのだけれど、それでもこんな果敢ない夢が、今は私の命なのだった。)
恋の心を
恋ひわびて寝ぬ夜つもれば敷妙の枕さへこそうとくなりけれ(金葉425)
(恋につらい思いをして、眠れない夜が何日も続いたので、枕さえよそよそしく感じられるようになってしまったよ。)
贈左大臣長実八条の家にて、恋の心をよめる
今はさは逢ひみむまではかたくとも命とならむ言の葉もがな(千載731)
(今はそういうことで、逢うことは難しいとしても、せめて命の糧となる言葉がほしいのです。)
雑 / 百首の歌奉りける時、別れの心を
たのむれど心かはりて帰りこばこれぞやがての別れなるべき(千載483)
(またきっと会えるとあなたは請け合ってくれるけれど、心変わりして帰ってくるとしたら、今この別れがそのまま永遠の別れになるでしょう。)
百首歌たてまつりける時、旅の心をよめる
あづまぢの 野島が崎の はま風に わが紐ゆひし 妹がかほのみ 面影に見ゆ(千載1166)
(はるかな東国を旅して来て、野島が崎の浜風に吹かれていると、妻の顔がしきりと面影に浮かぶ。衣の紐を結んでくれた時のその顔が、まぶたに焼き付いて離れないよ。)
年頃住み侍りける女の、身まかりにける四十九日はてて、なほ山里に籠りゐてよみ侍りける
たれもみな花の都に散りはててひとり時雨しぐるる秋の山里(新古764)
(誰もみな、花盛りの都に散って行ってしまって、私ひとりは時雨の降る山里に残っている。)
かよひける女、山里にてはかなくなりにければ、つれづれと籠りゐて侍りけるが、あからさまに京へまかりて、暁かへるに、「鳥なきぬ」と人々いそがし侍りければ
いつのまに身を山がつになしはてて都を旅と思ふなるらむ(新古848)
(いったいいつの間に、私は山住いの賤しい身に落ちぶれてしまって、都にいても旅をしているように落ち着かない気分になってしまったのだろう。)
このもとに朽ちはてぬべき悲しさにふりにしことの葉を散らすかな
(美しい紅葉が散って、木のもとで朽ち果ててしまうのは悲しいことです。亡き父の歌々を、子のもとで朽ちさせてしまうのは惜しいですから、古くなった歌ですが、あなたのもとへ送らせて頂きます。)
返し
家の風吹きつたへずはこのもとにあたら紅葉の朽ちやはてまし(玉葉2483)
(どうかお家の歌風を伝えてください。でないと、美しい紅葉が木の下でもったいなくも朽ちてしまうように、お父上の秀歌がご子息のあなたのもとで朽ちてしまうではありませんか。)
神祇伯顕仲、広田にて歌合し侍るとて、「寄月述懐といふことをよみて」と乞ひ侍りければ、つかはしける
難波江の葦間にやどる月みればわが身ひとつもしづまざりけり(詞花347)
(難波江には葦が生い茂っていて、その隙間から、水面に月が映っている――それを見れば、ひっそりと世間から埋もれて沈んでいるのは、自分の身だけでもないのだった。)
九月十三夜、九条殿にて女院御堂にて和歌ありしに、いたはることありて得まゐらぬを、殿よりせめておほせらるれば、はうはう参りて、月の恋。またもあり。しかと覚えず (二首)
暮の秋月の姿はたらねども光は空にみちにけるかな(顕輔集)
(晩秋の名月は、形は足りませんけれども、その光は空に満ち満ちておりますなあ。)
人まねの恋にぞ老は忘れぬる昔の心いまだありけり(顕輔集)
(人真似の恋ですが、おかげで老いの憂さを忘れました。昔のような、季節の風情に感動する心はまだあったのですなあ。)
老の病日にそへて、よろづもおぼえねど、「南おもての花さかりなり」と聞きて、例のことなれば、人々に案内して花の宴せしに
命あれば多くの秋になりぬれど今年ばかりの花は見ざりき(顕輔集)
(命永らえて、多くの年を経て来たけれども、今年ほどの花を見たことはない。)
この花つねよりもめでたかりしを忘れがたけれど、昨日の名残に乱れ心地まさりて、さしいづべくもおぼえざりしかば、人して折りにやりて見るにつけて
かばかりの花の匂ひをおきながら又も見ざらむことぞ悲しき(顕輔集)
こののち病おもくなりて、五月七日になむ隠れはべりにける。
(これほどの花の美しさを、起きながら再び見ることが出来ないのが悲しいよ。) 
3
百人一首 秋の歌
自然との関わりが薄れがちな現代の生活の中にあっても、秋の夜長に、チリチリ、コロコロと聞こえる虫の声に、私たちは心ひかれ、しばし耳を傾けます。昔の人は今と比べると、はるかに自然と近い暮らしをしていましたから、自然によって呼び起こされる感覚はとても鋭く、そして豊かでした。
和歌の分類を部立といいますが、百人一首を部立でみますと、恋の歌が四三首、季節の歌が合わせて三二首あります。これだけで七五首になりますので、歌の題材として恋と季節が占める割合が高いことがわかります。恋はある意味で、人のうちにある自然ですし、自然界がつかさどる季節は日本の気候、風土と切り離せないものです。恋と季節、いずれも変化しないではいられず、人の心をさまざまに揺り動かし、歌の言葉を生み出すきっかけとなるのです。百人一首の季節の歌は春の歌が六首、夏が四首、秋の歌十六首、冬六首です。中学生に聞いてみたところ、海や山へ出かける機会、夏休み向けのイベントの多い夏や、スキーやスケートといったスポーツ、クリスマスやバレンタインデーのような楽しみが続く冬が好きということですから、古典の和歌が重んじていた趣の傾向とはだいぶ違いますね。ただ現代でも、自然そのものの変化の妙やこまやかさを見つけようとしたら、春と秋が優勢になるのではないでしょうか。春と秋のどちらに趣があるかというのは、古くから問われてきたことです。『万葉集』を代表する女性歌人、額田王は秋に軍配を上げています。百人一首のもとになった歌を撰んだ藤原定家にも、秋を好む美意識が強くあったようです。秋の十六首と比べると、春が六首で冬と同じですから、花や鳥がさかんに動き出す、生命力に満ちた春なのに数としては少ないですね。定家は雪を好んだので、それだけで冬には肩入れしています。春の花は平安時代以降の歌の世界では、桜をおもに指しますが、それに匹敵する秋の花が「もみじ」です。
○ ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
奈良の北西部を流れる竜田川のあたりは、昔から紅葉の名所として知られています。散った紅葉が川の水を紅色にしぼり染めにして、うねるように流れている。それを大昔の神代にだって聞いたことがない、というのです。作者の在原業平は平安時代前期を代表する歌人で、美男子の色男の代名詞的存在。日本で最も古い歌物語『伊勢物語』のモデルともいわれます。この歌は、竜田川を描いた屏風の絵を見て詠んだものですが、歌人が実際に目にしたことのある華やかな紅葉を思い浮かべていたことでしょう。秋の歌には、もみじの色さながらに、いろいろな題材が詠まれています。
○ 夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く
夕方になると、稲の葉が音をたててそよぎ、田んぼをわたってくるその音とともに、芦でできた小さな家にも秋風が吹いてきます。平安中期、十一世紀に活躍した大納言経信、源経信の歌です。「田家秋風」つまり農村の家に吹く秋風というテーマを与えられて詠んだ歌で、絢爛豪華なもみじや、秋らしい月を詠んだものではありません。素朴な田園風景のよさを発見したのです。また歌人は、題そのもののような光景を目の前にして、音を伴って動いていく風の姿をとらえています。景色をスケッチするのは現代では当たり前ですが、類型的な季節の言葉を用いることの多かった昔、実景に接した体験を言葉にするのは新しい試みでした。山の秋に移りましょう。
○ 村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
急な雨が去って、木の葉のしずくが乾かないうちに、霧が立ちのぼってくる秋の夕暮れの光景を、時の流れとともに追っています。「村雨」とは、秋から冬にかけて降るにわか雨で、「まきの葉」は杉や檜のような常緑の木を指しますので、秋になっても色づくものではありません。けれども、この冷たいにわか雨のあとに秋がいっそう深まるのです。葉のしずくが一瞬きらめきますが、霧によってふたたび隠されてしまう。遠景と近景が水墨画のようにゆらめき、はかない空気感が秋の夕暮れに漂います。作者は寂蓮法師、平安末期から鎌倉時代にかけて生きた、藤原定家と同時代の歌人です。「露」は秋の歌の大事なモチーフです。次は秋の野にあそぶ露、時間は朝でしょうか。晴れ渡って澄んだ青い空を背景にイメージするとよいかもしれません。
○ 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
風がしきりに吹いてくる秋の野で、糸に通していない真珠のような白露が散っていく。草の葉にのった露が連なりながらぱらぱらとこぼれ落ちる一瞬の様子をとらえています。平安時代前期の文屋朝康の歌です。わずか三首しか残っておらず、もっぱらこの歌で知られています。この人のお父さんは六歌仙の文屋康秀で、在原業平や小野小町と並び称せられる著名な歌人です。秋といえば空が澄んでいますから、夜は月が美しい。
○ 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
風が吹いてきて、雲の切れ目からもれてくる月の光の何と澄み切っていることか。十二世紀前半に活躍した藤原顕輔の歌。シンプルな歌ですが、その中にも風が吹いて、雲が流れてという時間の経過があり、「影のさやけさ」という体言止めが、すっきりした余韻をもたらします。これもまた長い時間、月を眺めていられるのではないのです。雲の切れ目にようやく現れた月は、間もなく隠れてしまうでしょう。藤原定家は多彩な秋を十六首にちりばめたのです。百人一首の秋の歌すべてをご紹介することはできませんが、これだけでも、とりどりの秋を楽しんでいただけたことと思います。最後に、平安時代前期、在原業平のあとの時代で、紀貫之より少し前に活躍した大江千里の歌です。
○ 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
月を眺めているとあれこれと悲しく思われる、私一人のために来た秋ではないのだけれど、と孤独な気持ちを控えめに表しています。やがて訪れる冬を意識しているのでしょうか。これという理由があるわけではないけれど、秋というものが身体にしみてくるようです。秋の自然はとりわけ変化に富んでいて、過ぎゆく時のはかなさを強く感じさせられます。私一人のために来た、それぞれの秋がある、のかもしれません。百人一首の歌を通して、すてきな秋を探してみてはいかがでしょうか。 
4
「増鏡」
大方、古(いにしへ)奈良の御門の御代に、はじめて、左大臣橘朝臣勅を承(うけたまは)りて、万葉集を撰びしよりこの方、延喜(えんぎ)の聖の御時の古今集、友則(とものり)・貫之(つらゆき)・躬恒(みつね)・忠岑(ただみね)。天暦の賢かりし御代にも、一条摂政殿謙徳公、いまだ蔵人(くらうど)の少将など聞こえける頃、和歌所の別当とかやにて、梨壺の五人に仰(おほ)せられて、後撰集は集められけるとぞ、僻(ひが)聞きにや侍らん。その後、拾遺抄は、花山の法皇の身づから撰ばせ給へるとぞ。白河院位の御時は、後拾遺集、通俊(みちとし)の治部卿承(うけたまは)る。崇徳院(しゆとくゐん)の詞花集は、顕輔(あきすけ)三位撰ぶ。また、白河院下り居(ゐ)させ給ひて後、金葉集重ねて俊頼(としより)朝臣に仰せて撰ばせ給ひしこそ、初め奏したりけるに、輔仁(すけひと)の親王の御名乗りを書きたる。悪(わろ)しとて直(なほ)され、また奉れるにも、何事とかやありて、三度奏して後こそ納まりにけれ。かやうの例も、おのづからの事なり。押(を)し並(な)べては、撰者のままにて侍るなれど、こたみは、院の上みづから、和歌の浦に降(を)り立ち漁(あさ)らせ給へば、まことに心殊(こと)なるべし。

そもそも、古の奈良帝(第五十一代平城天皇)の御代に、はじめて、左大臣橘朝臣(橘諸兄。現在では大伴家持編纂説が最有力らしい)勅を承り、万葉集を撰ばれてより、延喜の聖主(第六十代醍醐天皇)の御時の古今集(『古今和歌集』)、友則(紀友則)・貫之(紀貫之)・躬恒(凡河内(おおしこうち)躬恒)・忠岑(壬生忠岑)。天暦の賢王(第六十二代村上天皇)の時代にも、一条摂政殿謙徳公(藤原伊尹(これただ))が、いまだ蔵人少将などと申しておられた頃、和歌所([勅撰和歌集のために設けられた撰集所])の別当とかで、梨壺の五人([村上天皇の命により、平安御所七殿五舎の一つである昭陽(せうやう)舎に置かれた和歌所の寄人])に命じられて、後撰集(『後撰和歌集』)を編纂されたと聞いておりますが、本当でございましょうか。その後、拾遺抄(『拾遺和歌集』)は、花山法皇(第六十五代天皇)が自ら撰ばれたとお聞きしております(確証はないらしい)。白河院(第七十二代天皇)が位の御時には、後拾遺集(『後拾遺和歌集』)、通俊治部卿(藤原通俊 )が編纂されました。崇徳院(第七十五代天皇)の詞花集(『詞花和歌集』)は、顕輔三位(藤原顕輔)が編纂されました。また、白河院が位を下りられた後、金葉集(『金葉和歌集』)を重ねて俊頼朝臣(源俊頼)に命じて撰ばさせましたが、最初奏上した折には、輔仁親王(第七十一代後三条天皇の第三皇子)の名が書いてありました。よろしくないと書き直され、また奏上しましたが、何事とかあって、三度奏して後に納められたのでございます(白河院は弟である輔仁親王を嫌っていたらしい)。このような例も、ございました。大抵、撰者の書いたままでございましたが、この度は、院の上(後鳥羽院)自ら、和歌を選ばれたものでございますれば、まこと格別なものでございました。 
 
80.待賢門院堀河 (たいけんもんいんのほりかわ)  

 

長(なが)からむ 心(こころ)も知(し)らず 黒髪(くろかみ)の
乱(みだ)れて今朝(けさ)は 物(もの)をこそ思(おも)へ  
あなたが末長く心変わりしないということは信じがたいのです。お別れした今朝は、黒髪が乱れるように心も乱れて、あれこれともの思いにふけるばかりです。 / 末永く愛してくれると誓ったあなたの心が分からないので、一夜逢って別れた今朝の私の心はこの寝乱れた黒髪のように物思いで乱れていることですよ。 / あなたのお心が、末長くお変わりにならないかどうかもわからないのに、ご一緒してしまいました。わたしの心は、この寝乱れた長い黒髪のように乱れて、今朝はもの思いに沈んでいることです。 / あなたの心は末永くまで決して変わらないかどうか、わたしの黒髪が乱れているように、わたしの心も乱れて、今朝は物思いに沈んでおります。
○ 長からむ心も知らず / 「長からむ」は、「黒髪」の縁語。「長からむ心」は、永久不変の愛情。「も」は、係助詞。「知らず」は、信じがたいの意。「ず」は、打消の助動詞の終止形で、二句切れ。
○ 黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ / 「こそ」と「思へ」は、係り結びの関係。「の」は、比喩を表す格助詞。「乱れて」は、「黒髪」の縁語で、「黒髪の」を受けて黒髪が乱れることを表し、「今朝は物をこそ思へ」に続いて心が乱れて物思いにふけるばかりであることを表す。これらが「の」によって結ばれ、黒髪が乱れる“ように”心も乱れて物思いにふけるばかりであることを表す。「今朝」は、後朝、すなわち、男女が結ばれた翌朝の意。「は」は、区別を表す係助詞で、この日の朝が特別であることを示す。「こそ」は、強意の係助詞。「思へ」は、ハ行四段の動詞「思ふ」の已然形で「こそ」の結び。
※ 「知らず」の「ず」を連用形とし、「信じがたく、…」と解釈する説もある。 
1
待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ、生没年不詳)は、平安時代後期の歌人である。女房三十六歌仙・中古六歌仙の一人。父は神祇伯・源顕仲。姉妹に、顕仲卿女(重通妾)、大夫典侍、上西門院兵衛がいる。前斎院六条とも呼ばれる。
白河院皇女で斎院を退いた二条大宮令子内親王に出仕、六条と呼ばれた。後に鳥羽天皇の中宮・待賢門院藤原璋子に出仕し、堀川と呼ばれるようになった。康治元年(1142年)、主人・璋子の落飾に従い、同僚の待賢門院中納言と共に出家している。少なくとも一度は結婚したらしいが、夫とは死別。『金葉和歌集』以降の勅撰集、歌合等の他、家集『待賢門院堀河集』にも作品を残している。

○ 兵衛との姉妹連歌が記録されている。
油綿をさし油にしたりけるがいと香しく匂ひければ
ともし火は たき物にこそ 似たりけれ   上西門院兵衛
丁子かしらの 香や匂ふらん   待賢門院堀河 『菟玖波集』
○ 主人だった待賢門院なき後、女房達は高倉三条第で翌年まで服喪していた。西行が、
待賢門院かくれさせおはしましける御あとに 人々またのとしの御はてまで候はれけるに
みなみおもての花ちりけるころ堀河の局のもとへ申しおくりける
尋ぬとも風のつてにもきかじかし 花と散りにし君が行方を
かへし
吹く風の行方しらするものならば 花とちるにもおくれざらまし 『山家集』
○ 「あの方はどこに行ってしまったのでしょう」と問いかけたのに対し「それがわかるなら私もついて行ったのに」と応じている。主のいない法金剛院を訪ね、ヒグラシの声に
待賢門院かくれさせ給て後六月十日比 法金剛院にまいりたるに
庭も梢もしけりあひてかすかに人影もせさりけれは
これに住そめさせ給し事なとたゝ今の心ちして哀つきせぬに
日くらしの声たえす聞えけれは   堀川
君こふるなけきのしけき山里は たゝ日くらしそともに鳴ける 『玉葉和歌集』
○ 思えば法金剛院が最も華やかだったのは、崇徳天皇の行幸の頃だった。
崇徳院の御時 法金剛院に行幸ありて 菊契千秋といふことを講せられ侍けるに 待賢門院堀川
雲のうへの星かとみゆる菊なれは 空にそちよの秋はしらるゝ 『続古今和歌集』
○ 幼い子供を残して夫が死んだ。
具したる人の亡くなりたるを嘆くに おさなき人の物語りするに
言ふかたもなくこそ物は悲しけれ こは何事を語るなるらむ 『待賢門院堀河集』
○ 子供は父のもとに預けて養育した。
子日にあたりたりける日 神祇伯顕仲もとにやしなひたりける児のもとへ申つかはしける 待賢門院堀川
いさけふは子日の松の引つれて 老木の千代を友にいのらん 『新千載和歌集』
子(ね)の日の小松引きは、現代の門松の起源となった行事だが、その日にあたって「おじいさんと孫」の健康長寿を願う様子がうかがえる。
○ 西行に無視され素通りされたと怒ってみせた堀河だが、
西行法師をよひ侍けるに まかるへきよしは申なからまうてこて
月のあかかりけるに門の前をとをるときゝて よみてつかはしける 待賢門院堀川
西へ行しるへと思ふ月影の 空たのめこそかひなかりけれ 『新古今和歌集』
○ 彼女自身が、春日明神の前を素通りしてしまったこともある。
人しれす今や今やと千はやふる 神さふるまて君をこそまて
このうたは 待賢門院堀川 やまとのかたよりくま野へまうてはへりけるに
春日へまいるへきよしの夢を見たりけれと のちにまいらむとおもひてまかりすきにけるを
かへりはへりけるに侘宣したまひけるとなむ 『新古今和歌集』 
2
待賢門院堀河 生没年未詳 別称:伯女・伯卿女・前斎院六条
村上源氏。右大臣顕房の孫。父は神祇伯をつとめ歌人としても名高い顕仲。姉妹の顕仲女(重通妾)・大夫典侍・上西門院兵衛はいずれも勅撰歌人。はじめ前斎院令子内親王(白河第三皇女。鳥羽院皇后)に仕え、六条と称される。のち待賢門院藤原璋子(鳥羽院中宮。崇徳院の母)に仕えて堀河と呼ばれた。この間、結婚し子をもうけたが、まもなく夫と死別し(家集)、まだ幼い子は父の顕仲の養子に出した(新千載集所載歌)。康治元年(1142)、待賢門院の落飾に従い出家し、仁和寺に住んだ(山家集)。この頃、西行との親交が知られる。院政期の代表的女流歌人。大治元年(1126)の摂政左大臣忠通歌合、大治三年(1128)の西宮歌合などに出詠。また崇徳院が主催し久安六年(1150)に奏覧された『久安百首』の作者に名を列ねる。家集『待賢門院堀河集』(以下「堀河集」と略)がある。金葉集初出。勅撰入集六十七首。中古六歌仙。女房三十六歌仙。小倉百人一首に歌をとられている。
春 / 百首歌たてまつりける時、はじめの春のこころをよめる
雪ふかき岩のかけ道あとたゆる吉野の里も春は来にけり(千載3)
(冬のあいだ雪が深く積り、岩に架け渡した桟道が途絶えてしまう吉野の里にも、ようやく春は来たのだった。)
百首歌たてまつりける時、春の歌とてよめる
いづかたに花咲きぬらむと思ふより四方よもの山べにちる心かな(千載42)
(どちらの方で桜の花が咲いのだろう――そう思い始めたらもう、私の心はあちらこちらの山へと散り乱れてしまったよ。)
秋 / 百首歌たてまつりける時、秋たつ心をよめる
秋の来るけしきの森の下風に立ちそふ物はあはれなりけり(千載228)
(梢の下を風が通り過ぎて、気色の杜に秋の訪れる兆しが感じられる。それにつれて立ちまさってくるのは、深い悲しみの感情なのだ。)
七夕の心を
七夕の逢ふ瀬たえせぬ天の川いかなる秋かわたりそめけむ(新古324)
(織女と毎年絶えず逢い続けてきた天の川――その川の瀬を、どのような秋に牽牛は初めて渡ったのだろうか。)
崇徳院に百首歌たてまつりける時、よめる
はかなさを我が身のうへによそふれば袂にかかる秋の夕露(千載264)
(この果敢なさを、自分の身の上のことに喩えるとしたら、何になるだろう。そう、秋の夕方、袂にふりかかる草木の露。)
百首歌中に
水のおもにかきながしたる玉章たまづさはとわたる雁の影にぞありける(続詞花)
(水面にさらさらと書き流した消息文のように見えたのは、空を渡る雁たちの映った影だったのだなあ。)
百首歌たてまつりける時、よめる
さらぬだに夕べさびしき山里の霧のまがきにを鹿鳴くなり(千載311)
(ただでさえ山里の夕方は寂しいものなのに。霧の立ちこめる垣根のあたりで牡鹿が鳴いているよ。)
きりぎりすをよめる
露しげき野辺にならひてきりぎりす我が手枕の下に鳴くなり(金葉218)
(秋の野は、この頃いつも露でびっしょりだ。それに慣れっこになっている蟋蟀は、私が手枕のわびしさに涙を流しても、いつもの露と思って、その下でこともなげに鳴いている。おまえの声を聞くと、いっそう哀れを催して泣けてしまうのに。)
恋 / 久安百首歌たてまつりけるこひの歌
袖ぬるる山井の清水いかでかは人目もらさでかげを見るべき(新勅撰659)
(山の清水に袖を濡らすみたいに、あの人の面影に私の袖は涙で濡れてしまう。一体どうやって、世間の人に気づかれないままあの人の姿を見れるというのだろう。)
百首歌たてまつりける時、恋のうたとてよみ侍りける
荒磯の岩にくだくる波なれやつれなき人にかくる心は(千載653)
(無情な人にいくら思いをかけても…。こんな思いは、荒磯の岩にくだけ散る波みないなものだろうか。相手はちっとも動じないのだから。)
百首歌たてまつりける時、恋のこころをよめる
長からむ心もしらず黒髪のみだれてけさは物をこそ思へ(千載802)
(末長く変わらないというあの人の心も計り難い。この黒髪が寝乱れているように、今朝は心乱れて思い悩んでいるのだ。)
寄石恋といふ心をよめる
逢ふことをとふ石神いしがみのつれなさに我が心のみうごきぬるかな(金葉508)
(石神様に祈ると、願いが叶うしるしに石が動くと言うが、私が恋の成就を占ってみると、石は動かず、動いたのは私の心だけだった。)
恋の歌のなかに
友こふる遠山鳥とほやまどりのます鏡みるになぐさむ袖のはかなさ(続後撰702)
(山鳥は、鏡に映った自分の姿を見て、友かと思い、恋しがって鳴くと言うが、私はと言えば、あなたの幻影を見ては心を慰めるのだ、はかなくも袖に溜まった涙に。)
久安百首歌に
つれなさをいかに忍びてすぐしけむ暮まつほどもたへぬ心に(続拾遺892)
(あの人との仲もずいぶん長くなったけれども、あの薄情さをどうやってこれまで我慢して過ごしてきたのだろうか。夕暮になるのを待つのさえ耐えきれない私の心で。)
百首歌たてまつりける時、恋のうたとてよめる
うき人をしのぶべしとは思ひきや我が心さへなどかはるらむ(千載918)
(こんなつもりではなかった――冷たい態度を見せた人を、それでもまだ慕い続けることになるとは。変わったのはあの人の心ばかりではない。私の心までがどうして変わってしまうのか。)
百首歌たてまつりける時、恋のうたとてよめる
逢ふごなきなげきのつもる苦しさを負へかし人のこり果つるまで(千載1193)
(逢う折のない嘆きが積もるこの苦しさを、あの人も負うがよい。こりごりするまで。)
雑 / 西行法師をよび侍りけるに、まかるべきよしは申しながらまうでこで、月のあかかりけるに、門の前をとほると聞きて、つかはしける
西へ行くしるべと思ふ月影の空だのめこそかひなかりけれ(新古1952)
(「西行」という名のとおり、西へ行く――西方浄土へと私たちを導いてくれる道しるべと思っていた月の光がむなしい期待だったとは、詮のないことです。)
待賢門院かくれさせ給ひて後六月十日比、法金剛院に参りたるに、庭も梢もしげりあひて、かすかに人影もせざりければ、これに住み初めさせ給ひし事など、只今の心ちして、哀れつきせぬに、日ぐらしの声たえず聞こえければ
君こふるなげきのしげき山里はただ日ぐらしぞともになきける(玉葉2409)
(亡きお方が恋しくて、私は何度も悲しい溜息をついてしまう。そんな思い出の多すぎる山里に、人影はなく、いっしょに泣いてくれる人はいない。ただ蜩だけが私の泣き声に合わせてくれるだけだ。)
すむかひもなきよながらの思ひ出は浮雲かけぬ山の端の月(久安百首)
(住む甲斐もない世ではあるものの、懐かしく思い出すのは、浮雲ひとつかかっていない山の端の月のように、辛いこともなく過ごした日々なのだ。)
百首歌たてまつりける時、月歌とてよめる
のこりなく我がよふけぬと思ふにもかたぶく月にすむ心かな(千載999)
(もう残りもなく私の人生も更けてしまった。そう思うにつけても、沈んでゆく月を眺めていると、雑念も消えて、心は澄んでゆくよ。)
夕暮に雲のただよふをみてよめる
それとなき夕べの雲にまじりなばあはれ誰かはわきてながめむ(風雅1955)
(いつか私も煙となって、どれともない夕方の雲に混じってしまったなら、ああ、誰が区別して眺めようか。) 
3
待賢門院璋子
時代は飛んで、西暦1000年頃と言えば どういう時代だったでしょうか。そう、あの藤原道長が、「この世をば 我が世とぞ思う・・」、と絶頂期にあった頃です。 それから100年経って、その藤原氏の勢いも そろそろ終わりかなぁ、と思える1100年頃に、この待賢門院璋子(たいけんもんいん たまこ)、は生れました。本名は、藤原璋子と言い、辿って行けば道長の何かに当たります。この時の宮廷の権力者は白河法王です。法王とは天皇だった方が退位して出家された名前です。 璋子の父、公実は この法王の近臣でした。美男だったそうです。母は光子と言います。 光子は法王の子や孫(つまり天皇)の乳母でもありました。ともかく、家柄抜群の両親であります。 この法王の側に寵愛を受けていた祇園女御と言う女性がおりましたが、子がありませんでした。(平清盛の生母だと言う噂は間違いみたいです)。
祇園女御: 「光子さん、貴女には お子様が沢山おありになる、今度の子は私に下さらない?」、「はい・・」。 てな事で、この赤ちゃん(璋子)は女御と白河法王の元で育つ事になった分けです。 この愛らしい子は、やがて輝く様な美しい姫に変身して行きます、そうなると養父とも言うべき白河は(呼び捨て)、タダのスケベじじいに変身して行きます。 身分の上下に関わらず、こういう女性は本当に無力な被害者だと思いますね。この関係は周囲の知る所となりました。 白河は隠そうともしなかったのですから。 そしてウソかホントか、「彼女は宮廷に出入りしている身分の低い者とも関係を持った」、と 言う噂も流されます。 不幸にも一目惚れさせる魅力があったのも事実です。 いつまでも側に置いておく分けにも行かず、白河は彼女のムコ探しを始めます。 白羽の矢は、超エリート藤原忠通殿に。 しかし・・ その父親である関白、忠実は断固として断ります。
「あんなウワサのある娘をウチの嫁には出来ん!」。 ちょっとゴタゴタした後、別のムコが決まりました。 なんと、白河自身の孫、鳥羽天皇です。 彼女より二つ下で16歳です。 (父の堀河天皇は、早くに亡くなっておりました)。なんと言うジジイでしょうか!。やがて彼女は親王を産みました。この頃は皇子とは言わず、親王と言います。
鳥羽天皇:「おじいちゃんの子かも」
やっぱり・・、白河法王は、孫である鳥羽天皇を退位させて、この子を天皇にしちゃいます。 まだヨチヨチ歩きの頃でした。 崇徳天皇と呼ばれる方です。鳥羽天皇は アタマに来たでしょうね、でも権力者はおじいちゃんなのです。 ここで璋子は皇后ではなくなる分けですので、院号と言うものが与えられます、これが待賢門院と言う名前です。夫は鳥羽上皇とか鳥羽院とか呼ばれます。
じゃぁ、鳥羽と彼女は仮面夫婦だったのかと言えば、そうではありません。仲睦まじかったのであります。 二人の間には次々と親王や内親王が誕生しました。 彼女は美貌だけでなく、性格も良かったのだと思うんです。 鳥羽には、美濃局と言う女性との間にも沢山の子が生れたのですが、この子たちも彼女は面倒を見ています。 そういう人なんです。
白河法王と孫の鳥羽院ですが、一生険悪な状態だったかと言えば、そうでもなく、彼女を挟んでの団欒の場面だってあったのです。 「不道徳な!」と思われるかも知れませんが、当時の、まして雲の上の事は 現代の我々の物差しや感覚で捉える事は出来ません。
実は、この頃に、あの西行も この鳥羽院に仕えていました。 今で言うなら、カッコいいエリートです。 本名は佐藤義清(さとう のりきよ)、と言いました。 彼もまた璋子に惹かれた男です。 西行の方がずっと若いんですけどね、切なかったんじゃないでしょうか。「そのせいで、地位も名誉も捨てて出家したのだ」、とは思いませんけど、西行の人生や歌に全く影響していない筈はありません。二人は結ばれていた、と言う人もいますが、詮索する事に意味はありません。彼女には歌の才能が無かったのか、何処を調べても出て来ません。 歌をやりとり出来る才女に 歌人は惹かれる・・、そんな事は無いんですわヨ。
このまま静かに時が流れれば良かったものを、そうは行かないのが人生です。 彼女を拒否した、あの関白一族が、若く美しい姫を見つけて来て、鳥羽の側に侍らせたのです、同じ藤原系の女性で、得子(なりこ)と言います。 イヤがらせと言うよりは、自分達が権力を持ちたいとの欲からです。 いつも取り巻きと言うものは、主よりも我が身の事を考えます。 白河は、もう亡くなっていました。そして、鳥羽(呼び捨て)、の愛情は こちらの方へ移ります、親王も生まれました。メロメロの鳥羽は、疑惑ありの崇徳天皇(22歳)を降ろして、この子を天皇にしちゃいます、近衛天皇です。 なんだか繰り返すなぁ・・、璋子は こういう争いには元々無力な人だったと思います。 年は40歳を過ぎていました。 夫も、成長した子供達も側には居ません。彼女の内なるものも変化し始めただろうと思われます。 初めて脱皮したのかも知れません。
彼女は、縁のある法金剛院と言う寺に入りました、そこで出家します。 身も心も仏さまに預ける余生を選んだのでしょう、 白河法王の菩提も弔います。後悔も恨みも無かったのではないでしょうか。 まもなく、44歳で そのドラマティックな生涯を終えました。 静かに眠られたのだと思います。 美貌が災いした人生だったと言われますが、「美しかった私が悪いのよ」、なんて、イヤ味な女性ではありません。「魅力が美しさを上回っていただろう」、と言う人が多いのも頷けます、私もそう思います。 見る方からすれば、痛々しくもありますが、彼女は その誕生から純粋に真っ直ぐに、自も他も受け入れて生きただけなのです。 大輪の花が咲いて散ったのです。
このまま時が流れるかと言えば、そうは行かないのが世の中です。得子が産んだ天皇は病弱で、更に目もご不自由でした。 暗い奥の部屋で大事にされ過ぎたんじゃないでしょうか。 跡継ぎも無く、17歳で亡くなってしまいます。 またまたモメました。降ろされた崇徳(既に36歳)は希望を持ちます、「私は父に疎まれたが、我が子を天皇に」、と。 だって、俗に言えば、長男の長男ですからね。 しかし、鳥羽には その気はありませんでした。本当に崇徳の運命は悲劇だったと思います。この後、欲の塊みたいな連中も登場し、鳥羽も その策略にハマッて行きます。 そして武士の応援も巻き込んでの大乱に発展して行きます。 保元、平治の乱です。源氏と平家は、こうして歴史に登場して来ました。
璋子が蒔いた種、とも言えるのかも知れません。 彼女自身は何も起こすつもりなど無かったのに・・・。西行は、その醜い争いも、結末も、縁あった人たちの最後も見届けて、73歳の長寿を全うしています。 その死は、正に本人の予言(望み)通りのものでした。
願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ
それは、お釈迦さまが亡くなられた日でした。 
 
81.後徳大寺左大臣 (ごとくだいじのさだいじん)  

 

ほととぎす 鳴(な)きつる方(かた)を ながむれば
ただ有明(ありあけ)の 月(つき)ぞ残(のこ)れる  
ほととぎすが鳴いている方をながめると、そこにはほととぎすの姿はなく、ただ有明の月が残っているだけである。 / 戸外の明け方近い夜空を、ひと声ほととぎすの鳴いた方角を見ると、もうその姿はなく、ただ夜明けの下弦の月だけが残っているのであった。 / ほととぎすの鳴き声の聴こえたなぁと思って眺めると、ほととぎすの姿は見えず、ただ明け方の月が空にぼんやりと残っているだけでした。 / ほととぎすの鳴き声が聞こえたので、その方に目をやってみたが、(その姿はもう見えず) 空には有明の月が残っているばかりであった。
○ ほととぎす / カッコウ科の鳥。日本には初夏に飛来し、冬は東南アジアに渡る。托卵の習性があり、ウグイスなどの巣に卵を産む。
○ 鳴きつる方をながむれば / 「つる」は、完了の助動詞「つ」の連体形。「つ」は、意思的・作為的な動作の完了に用いられる助動詞であり、ほととぎすを擬人化している。「ながむれば」は、マ行下二段の動詞「ながむれ」の已然形+接続助詞「ば」で、順接の確定条件を表し、ながめるとの意。
○ ただ有明の月ぞ残れる / 「ぞ」と「る」は、係り結びの関係。「有明」は、陰暦で、16日以後月末にかけて、月が欠けるとともに月の入りが遅くなり、空に月が残ったまま夜が明けること。「有明の月」は、その状態で出ている月。「ぞ」は、強意の係助詞。「る」は、存続の助動詞「り」の連体形で、「ぞ」の結び。 
1
徳大寺実定(とくだいじさねさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大臣。後徳大寺左大臣(ごとくだいじの さだいじん)として知られる。
永治元年(1141年)に3歳で叙爵(『公卿補任』)、天養元年1月26日(1144年3月2日)に叔母の夫にあたる藤原頼長の邸で元服する(『台記』)。以降、順調に昇進を重ねて、保元元年(1156年)9月に左近衛権中将に任ぜられ、11月9日に従三位に叙されて公卿に列した。保元3年(1158年)に正三位権中納言に任ぜられた。この年、後白河天皇の姉である統子内親王が皇后とされると、皇后宮権大夫に任ぜられた。永暦元年(1160年)に正官の中納言に転じた。長寛2年(1164年)には権大納言へ昇り、翌永万元年(1165年)これを辞して正二位に叙されている。これは『著聞集』によれば、同官で越階された藤原実長を越え返すために行ったものだという。ところが、その後12年間にわたって散位に置かれた。中村文は当時の徳大寺家と平家が競合関係にあり、平清盛が実定・実家兄弟を政治的排除の対象にしていたことを指摘している。治承元年(1177年)3月には大納言に還任し、12月に左近衛大将を兼ねた。この除目に関して『平家物語』は実定が平清盛の同情を乞うために厳島神社に参詣したためと伝えているが、実際に実定が厳島を参詣したのはこの2年後の治承3年(1179年)3月のことである。また、当時の貴族の間で厳島参詣が流行になっており、平家との関係に関わりなく多くの貴族が参詣している(実際、実定の同行者に治承三年の政変で更迭された源資賢らも含まれている)。
寿永2年(1183年)には内大臣となる。同年11月に源義仲が法住寺合戦によって政権を奪取した際には、実定は喪中で公務に就けない事実上の休職中だった。これに目をつけたのが折しも義仲と結んで政権奪回を画策していた前関白の松殿基房で、基房はわずか12歳の嫡子・師家を藤氏長者とするために、実定から一時的に内大臣の職を借官するかたちで師家の摂政内大臣就任を実現させた。しかし翌年1月には義仲が敗死したことで基房・師家父子は失脚、実定は復官する。
文治元年(1185年)10月、源義経と後白河法皇による源頼朝追討宣旨発給に一度は賛同したものの、翌月には義経は都落ちする。その後、意外にも他ならぬ頼朝の推挙で議奏公卿に指名された。文治2年(1186年)10月に右大臣、文治5年(1189年)7月には左大臣となり、九条兼実の片腕として朝幕間の取り次ぎに奔走した。「後徳大寺左大臣」は祖父の徳大寺実能が「徳大寺左大臣」として知られていたことに由来する。
だが、左大臣就任後は、病気がちとなり、大臣の辞任を引換に後継者である三男公継の参議任命を望むようになる。建久2年(1191年)6月20日、病のため官を辞して出家、法名は如円。7月17日に実定の希望通りに公継が参議に任ぜられた。同年閏12月16日に薨去した。享年53。その死について『吾妻鏡』は「幕下(頼朝)殊に溜息し給う。関東由緒あり。日来重んぜらるる所也」と書いてあり頼朝の信頼ぶりがうかがえる。

詩歌管絃に優れ、教養豊かな文化人だったと伝わる。また文才があり治承・寿永年間(1177年 - 1185年)の行幸に関する記録の抄録『庭槐抄』(別名『槐林記』)を残した。他にも『掌函補抄』10巻の著述が存在したらしいが、現存していない。
『著聞集』129に「風月の才人にすぐれ」と記されるように漢詩をも能くしたが、特に和歌の才能に優れた。嘉応2年(1170年)10月9日の『住吉社歌合』、治承2年の『右大臣藤原兼実家百首』など、多くの歌合・歌会に参加している。実定の家集を『林下集』といい、『千載和歌集』『新古今和歌集』以下の勅撰集にも73首が入集している。
なお、実定の和歌活動は平家との政治的競合に敗れて散位に留め置かれ、沈淪を余儀なくされた永万-治承年間に集中している。しかし晩年は作歌にあまり精力的ではなく、精進を怠ったことを後に俊恵に批判されている。
ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる(「千載和歌集」、百人一首) 
2
徳大寺実定 保延五〜建久二(1139-1191)通称:後徳大寺左大臣
右大臣公能の一男。母は藤原俊忠女、従三位豪子。忻子(後白河天皇中宮)・多子(近衛天皇・二条天皇后)の同母弟。大納言実家・権中納言実守・左近中将公衡の同母兄。子に公継がいる。俊成の甥。定家の従兄。永治元年(1141)、三歳で従五位下に叙される。左兵衛佐・左近衛少将・同中将などを歴任し、保元元年(1156)、十八歳で従三位。同三年、正三位に叙され、権中納言となる。永暦元年(1160)、中納言。同二年、父を亡くす。応保二年(1162)、従二位。長寛二年(1164)、権大納言に昇ったが、翌永万元年(1165)、辞職した(平氏に官職を先んじられたことが原因という)。同年、正二位。以後十二年間沈淪した後、安元三年(1177)三月、大納言として復帰。同年十二月には左大将に任ぜられた。寿永三年(1184)、内大臣に昇り、文治二年(1186)には右大臣、同五年には左大臣に至る。摂政九条兼実の補佐役として活躍したが、建久元年(1190)七月、左大臣を辞し、同二年(1191)六月、病により出家。法名は如円。同年十二月十六日、薨ず。五十三歳。祖父の実能(さねよし)を徳大寺左大臣と呼んだのに対し、後徳大寺左大臣と称された。非常な蔵書家で、才学に富み、管弦や今様にもすぐれた。俊恵の歌林苑歌人たちをはじめ、小侍従・上西門院兵衛・西行・俊成・源頼政ら多くの歌人との交流が窺える。住吉社歌合・広田社歌合・建春門院滋子北面歌合・右大臣兼実百首などに出詠。『歌仙落書』には「風情けだかく、また面白く艶なる様も具したるにや」と評されている。『平家物語』『徒然草』『今物語』ほかに、多くの逸話を残す。日記『槐林記』(散佚)、家集『林下集』がある。千載集初出。代々の勅撰集には計79首入集。
春 / 晩霞といふことをよめる
なごの海の霞の間よりながむれば入日いるひをあらふ沖つ白波(新古35)
(なごの海にたなびく霞の切れ間をとおして眺めると、水平線に沈んでゆく太陽を洗っているよ、沖の白波が。)
花歌とてよめる
身にしみて花をも何か惜しむべきこれも此の世のすさみと思へば(林下集)
(しみじみと我が身のことのように、散る花を惜しむべき道理などあろうか。これもまた、私にとっては所詮現世のはかない慰めごとにすぎないのだと思えば。)
題しらず
はかなさをほかにもいはじ桜花咲きては散りぬあはれ世の中(新古141)
(はかなさというものを、桜の花のほかには、何にも喩えて言うまい。咲いては散ってしまう、ああ、人の世というもの。)
夏 / 暁聞時鳥といへる心をよみ侍りける
ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる(千載161)
(暁になって、やっとほととぎすが鳴いた。その声のした方を眺めると、鳥のすがたは跡形も無くてただ有明の月が空に残っているばかりだ。)
ゆふべの風如秋
夕かけてならの葉そよぎふく風のまだき秋めくかむなびの森(林下集)
(夕方にかけて、楢の葉をそよがせて吹く風の、早くも秋めいて感じられる、神奈備の森。)
夏の歌のなかに
秋きぬとおどろかれけり窓ちかくいささ群竹むらたけかぜそよぐ夜は(林下集)
(秋が来たのだと驚いたのだった。窓の近く、ささやかな竹林が風にそよぐ夜は。)
秋 / はるかに鹿を聞くといふことを
駒とめてなほや聞かましはるばると朝たつあとのさをしかの声(林下集)
(馬をとめて、もっとよく聞きたいものだ。早朝、遥々と発って来た私の背後から遥かに響いてくる、牡鹿の声を。)
文治六年女御入内屏風に (二首)
いつもきく麓の里とおもへども昨日にかはる山おろしの風(新古288)
(ここは、山から吹き下ろしてくる風なんてしょっちゅう耳にする麓の里とは思うけれども、やはり昨日とはちがって聞える、山颪の風の音だなあ。)
住吉の松のうれよりひびき来て遠里とほざと小野に秋風ぞふく(続後撰267)
(住吉の浜に生えている松の梢に吹きつけ、そこから音を響かせながら、遠里小野にまで秋風が吹いて来る。)
題しらず
夕されば荻の葉むけを吹く風にことぞともなく涙おちけり(新古304)
(夕暮になると、荻の葉を一方になびかして吹く風で、あっけなく露が落ちる。そのように私も何ということもなく、涙が落ちてしまった。)
旅のみちに秋つきぬといふことを
ゆく秋のたむけに紅葉ちりまがひかむなび山をともにこえつる(林下集)
(去ってゆく秋への餞別に紅葉が散り乱れ、神奈備山を紅葉と共に越えたことだよ。)
冬 / 題しらず
夕なぎに門と渡る千鳥波間より見ゆる小島の雲に消えぬる(新古645)
(夕暮、風のやんだ頃に海峡を渡ってゆく千鳥――波間に見える小島にかかっている雲の中に、消えてしまった。)
雪のあした、後徳大寺左大臣のもとにつかはしける  皇太后宮大夫俊成
けふはもし君もや問ふとながむれどまだ跡もなき庭の雪かな
(今日あたり、もしかしたら貴方が来てくれるかと思って庭を眺めて見たけれども、積もった雪にはまだ足跡もついていなかったですよ。)
返し
今ぞきく心は跡もなかりけり雪かきわけて思ひやれども(新古665)
(それを聞いて今初めて気づきました。心は足跡を残すことなんてなかったのでしたね。思いだけは、雪をかきわけて、貴方のもとへ遣っていたのですが。)
恋 / かたらひ侍りける女の、夢にみえて侍りければ、よみける
さめてのち夢なりけりと思ふにもあふは名残のをしくやはあらぬ(新古1125)
(目が覚めて、そのあと「夢だったのだ」と思う。――そんな場合だって、逢ったことに変わりはないのだ。名残惜しくないわけないじゃないか。)
題しらず
憂き人の月はなにぞのゆかりぞと思ひながらもうちながめつつ(新古1266)
(月は、つれないあの人と何の関係があるというんだ。そう思いながらも、何度も夜空を眺めずにはいられなくて…。)
題しらず
はかなくも来こん世をかねて契ちぎるかなふたたびおなじ身ともならじを(千載921)
(はかなくも、来世にわたってまで言い交わすことだよ。ふたたび同じこの身に生まれ変ることなどあるまいに。)
女の許につかはしける
恋ひ死なんゆくへをだにも思ひ出でよ夕べの雲はそれとなくとも(続拾遺890)
(私はもう恋しさに死んでしまうだろう。そのあと魂がどこをめざして行ったか、せめてその行方だけでも思い出してくれ。夕空に、それらしい雲は見えないとしても。私の魂は、あなたのもとへ行ったはずなのだ。)
恋歌の中に
心こそうとくもならめ身にそへる面影だにも我をはなるな(玉葉1531)
(あの人の心は冷淡になってゆくとしても、せめて我が身に付き添う面影だけは、私から離れないでくれ。)
雑 / 公時卿母みまかりて歎き侍りけるころ、大納言実国がもとに申しつかはしける
悲しさは秋のさが野のきりぎりすなほ古郷にねをや鳴くらん(新古786)
(悲しみは逃れ得ぬ運命で、秋の嵯峨野のこおろぎのように、貴方もやはり故郷で声をあげて泣いておられるのでしょう。)
大炊御門おほゐのみかどの右大臣身まかりて後、かの記しおきて侍りける私記どもの侍りけるを見て、よみ侍りける
をしへおくその言の葉を見るたびに又問ふかたのなきぞかなしき(千載590)
(伝え残してくれた父のこの文章を見るたびに、ふたたび質問する手立てのないことが悲しく思える。)
大納言辞し申して出で仕へず侍りける時、住吉の社の歌合とて人々よみ侍りけるに、述懐の歌とてよみ侍りける
かぞふれば八やとせ経にけりあはれ我がしづみしことは昨日と思ふに(千載1262)
そののち神感あるやうに夢想ありて、大納言にも還任して侍りけるとなむ
(数えるともう八年も経ったのだなあ。ああ、私が沈淪したことは、ほんの昨日のことのように思えるのに。) 
3
藤原実定 / 激動の時代を生き抜いた風流人
ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞのこれる
「百人一首」の81番目の歌です。情景がぱっと浮かんでくるような風流な歌ですよね。歌の意味は、「ほととぎすの鳴き声がしたのでそちらの方を見てみましたが、ほととぎすの姿は見えず、ただ有明の月がはかなく輝いていました。」ということでしょうか。
ほととぎすは夏の訪れを告げる鳥、そして有明の月は明け方にはかなく輝く月…。つまり、この歌が詠まれたのは初夏の明け方ということになります。一瞬の間鳴いていたほととぎすと、はかない有明の月のコントラストが胸に迫ってきます。そして、明け方というと夜を一緒に過ごした恋人が別れる時刻、この歌からはそんな切なさも伝わってくるような気がします。
このような風流でありながら、ちょっと切ない歌を詠んだ後徳大寺左大臣、藤原実定という人はいったいどのような人だったのでしょうか?
彼は、藤原多子の兄に当たる人です。
藤原実定(1139〜1191)、父・藤原公能 母・藤原豪子 二人の嫡男として生まれました。姉には後白河天皇中宮の忻子、妹には近衛天皇皇后、後に二条天皇の後宮に入った多子、弟には大納言実家などがいます。
父の公能は、徳大寺家の祖となった左大臣実能の嫡男で、最終的には右大臣にまで出世した人物です。母の豪子は藤原俊忠の女でした。つまり、歌人として有名な俊成は実定のおじ、その息子定家はいとこに当たり、この親子とは親しい交流があったようです。実定の歌才は、母方の血を受け継いだものと思われます。
そんな両親の間に生まれた実定は官位の昇進もなかなか順調で、永治元年(1141)従五位下に叙され、左兵衛佐、左近衛権中将等を経て、保元元年(1156)、姉の忻子が後白河天皇の中宮に立てられたことから中宮権亮となり、その年のうちに従三位に叙されます。
長寛二年(1164)26歳の実定は権大納言に任じられます。ところが、翌年にはこれを辞して正二位に叙されています。『古今著聞集』には、同じ閑院流の藤原実長(1130〜1182)に同官で位階を超えられたことに悔しがり、権大納言を辞すことによって実長より上の正二位をもらったと記述されています。つまり、官職を辞めてまで、実長より上位になろうとしたわけです。実定の、実長に対するライバル心のすさまじさがうかがえる話です。
実定が権大納言に還任するのは、それから12年後の治承元年(1177)三月のことでした。この間彼は復任運動を行っていたようですが、世は平家の全盛時代、福任はなかなか実現しませんでした。そのため彼は和歌に没頭していたようです。
さらに、同年十二月には左大将を兼ねます。この任左大将の人事に関して、『平家物語』二は、実定が平清盛の同情を乞うために厳島神社に参詣したからだと描かれています。またこの頃、藤原兼実主催の歌合わせに出詠しています。このように、平家とも摂関家ともつかず離れずで要領よくつきあっていたようです。このあたりは、平家を倒そうと謀反を企てて流罪になり、その後殺された藤原成親と対照的と言えます。
こののち、寿永二年(1183)に内大臣、文治二年(1186)に右大臣と昇進し、文治五年(1189)には左大臣に任じられました。祖父の実能が「徳大寺左大臣」と呼ばれていたため、実定は「後徳大寺左大臣」と称しました。
しかし翌年、左大臣を辞し、建久二年(1191)六月二十日病により出家、法名を如円。同年閏十二月十六日薨去、五十三歳。源頼朝も、その死を深く嘆いたと伝えられています。家集に『林下集』があり、『千載』以下の勅撰集に七十三首入集しています。
こうして彼の生涯を見てみると、乱世を要領よく生き抜き、最終的には左大臣という朝廷の実力者にのし上がったと言えそうです。世捨て人のような生活をしていた妹の多子にとっては頼もしいお兄さんだったであろうことが想像されます。『平家物語』巻五『月見』の項では、新都福原から京に戻り、多子のもとを訪れた実定が、多子や女房たちと月見をしながら昔語りをする様子が描かれていますが、多子が兄の訪れを喜んでいる様子が伝わってきます。
ただ、よくわからないのは彼の性格や実像です。
彼については説話文学に様々な逸話が描かれていますが、どうも権力者にこびたり昇進運動に躍起になったりするといったあまり良くないイメージがあります。実際彼は、平清盛の盟友で、大富豪として知られた藤原邦綱の婿になろうとして清盛に制止され、世の中の失笑を買ったようです。でも、考えてみるとこの時代は激動の時代、古い秩序が壊れ、新しい芽が吹き出して来るという時代でした。そんな時代だからこそ、権力者にある程度こびることは必要なことだったかもしれません。実は実定は、不遇なおじの俊成に皇太后宮大夫を譲るなどの優しい面もありました。また、和歌、今様、管絃など各種の文化に優れ、俊成・定家親子だけでなく、西行、源頼政、待宵の小侍従など階級を問わず、交際範囲も広かったようです。なかなか面倒見の良いところもあったのかもしれませんね。
ところで、実定が40歳を過ぎた頃になると、あれほどの栄華を極めた平家は没落し、源氏に追われて西海に滅び去っていきました。壇ノ浦で救われ、京に戻って落飾された建礼門院平ら徳子(高倉天皇中宮・安徳天皇母)を後白河院が大原に訪ねたのは文治二年(1186)の春のことでした。実定もその際、院に供奉して大原を訪れました。墨染めの衣姿の女院と対面し、実定も哀れに思ったのでしょうか。彼は庵室の柱に次のような歌を書きました。
いにしへは 月にたとへし 君なれど その光なき 深山辺の里
「昔はまるで月の光のように輝いていましたのに、今ではその面影もございません。こんな山里でこのようなお姿を拝見しようとは夢にも思いませんでした。」という意味でしょうか。世の移り変わりの早さを女院の姿と重ね合わせた歌とも言えそうです。
実定が「百人一首」にとられているほととぎすと有明の月の歌を詠んだのは、50歳頃のことなのだそうです。激動の時代を生き抜いてきた彼の人生を、はかないほととぎすの鳴き声と有明の月に重ね合わせたのでしょうか。彼は要領の良い政治家である前に、自然と文化を愛する風流人だったような気がします。 
4
源平盛衰記 左右大将事(さうのたいしょうのこと)
そうしているほどに、筆頭と次席の大納言でいらっしゃる徳大寺(藤原)実定卿と花山院(藤原)兼雅卿もいろいろ祈られるようになった。平家の方は右大将だった重盛が左大将に、中納言だった宗盛が右大将になって、兄弟で両大将を勤める事となり、これまたすごいことである。
実定は筆頭の大納言であるし、能力的にも勝っており、家督相続者でもあり、今回の大将はきっと実定のものになるはずだったのが、宗盛に越えられてしまい、大層お恨みになり、きっと出家するのではないかと人々が噂しあっていたところ、大納言を辞職して家に閉じこもってしまった。
成親卿の方も、さすがに先のようなお告げがあったので、大将を望む事は思いとどまったものの、それでもなお、執着癖が治らず、
「徳大寺や花山院といった人々に越えられるのは仕方が無い。だがあの三位中将風情の宗盛に越えられたら、上座につくものとしてはどうすればよいのだろう。宗盛に越えられるのはなんとも悔しい」
と思い、
「何とか平家を亡ぼして本望を遂げよう」
と思う心が離れないというのは不思議な事だった。
それというのも、成親という人は平治の乱に荷担して死罪になったにも関わらず、重盛のとりなしで首が繋がって、乱の首謀者である藤原信頼の首が落とされるところを見た人ではなかったのではないか。彼の父家成は中納言で止まったのに、その末っ子で正二位・大納言まで登り、未だ四十二歳で大きな国をいくつも頂き、家中豊かであるのに何の不満があるのだろうか、天魔が成親の身に入ってこの家を亡ぼそうと思っているのだろうか、驚きあきれる事だ。
また、宗盛に位を越された実定の方は、山に篭っていたのだが、ある嵐の朝、前中納言顕長卿に和歌を贈った。
夜半にふく 嵐につけて 思ふかな 都もかくや あきはさびしき
顕長の返事には
世の中に あきはてぬれば 都にも 今はあらしの 音のみぞする
そして出家する事を披露し、天皇や上皇をも驚かせた実定ですが、清盛に対して一言吐き捨てた後は何も音沙汰無かったのでした。
実定お側には佐藤兵衛尉近宗という賢い者がいて実定卿は常々彼と相談していました。
「平家は桓武天皇の後胤とはいうものの、無官でせいぜい辺鄙な受領だったのが忠盛の時にのし上がってきた。それに比べて我家は仁義公太政大臣藤原公季以来ずっと御門の近くに仕え、大将の位を歴任してきた。それが今回あの宗盛に越され、世間はきっと嘲るだろう。こうなっては出家せねばと思っているのだが、どうしたものであろう。」
近宗は答えます。
「御出家までする事はないでしょう。太公望も竹林の七賢も庄公も濁れる世を避けてしかるべき時を待ったではないですか。今回の事で朝廷を恨んではなりません。あれは清盛入道の我が侭です。こんな辛い世の中に生れてきたのはしょうがないですが、賢は愚にかえるとか言うではありませんか。今は何としても大将の位につくべきです。そこでなのですが、どうぞ、安芸の厳島へお祈りに行くのがよいでしょう。なにせ、あそこは平家が深く信仰していて、内侍と呼ばれる巫女達が毎年一度は上洛して清盛の目にかかると承っております。大将任官のお願いなどをしますと安芸の明神の御利益もあるでしょうし、入道も信仰深い人なので、思い直す事もあるでしょう。」
近宗の意見に耳を貸した実定は早速精進潔斎して、厳島に向って漕ぎ出しました。三月の半ばの頃でしたので、山々に霞がかかり、都がどんどん離れてゆき、実定卿は心配になってきましたが、無理もないこと。
舟は須磨の浦を過ぎてゆく。在原行平が
旅人の たもとすゝしく なりぬらん 関 吹きこゆる 須磨浦波
と吟じたのも思い出される。
また、須磨の浦といいますとかの光源氏がやってきた場所で、源氏が家臣の惟光や良清と一緒に琴や歌を歌っているときにやってきた源氏の思い人の五節君との和歌のやり取りも、今更ながら思い出される。
さらに明石の浦へとやってきますと光源氏と明石上の出会いもこの近くであったのだろうが、思い出す手がかりも無い。
四月二日には厳島に到着した。その美しく、神々しいたたずまいから、内侍と呼ばれる厳島の巫女たちが歓迎する。実定卿の御参篭の予定は七日間だが、その間、内侍たちは今様や琵琶、琴などで実定卿を慰め、実定卿も彼女らに目をかけなさった。
その内侍の中に有子という者がいました。十六、七というところだろうか。幼稚でいつも実定卿の元に参上しているわけでもないが、琵琶が大変上手で、実定卿も思わず京のことを忘れてしまうほど目をかけられていた。
ある日、有子は実定卿の元にやってきた。早くやってきたので周りには有子一人だった。そこで実定卿が有子に出身などを尋ねると、有子は恥ずかしくなってもじもじする。実定卿はその姿にいたく思われて、懐から紙を出し、
山の端に 契て出でん 夜半の月 廻逢べき 折を知ねど
と書いて有子に投げた。それを見た有子は恥ずかしさに堪えれなくなって退出した。実定卿の方はいつものような恋愛事だと思っているのだが、有子の方はもっと思い沈んでいた。
そうして七日も過ぎ、とうとう実定が都に帰る日が来た。有子も他の内侍と共に見送りにやって来た。でも、有子はこれで実定卿が行ってしまうともう二度と逢えないだろうと思うととても悲しくなって伏し沈んでしまう。そこで一日目の港まで御一緒することにした。その翌日、とうとうお暇申し上げることになった折、実定卿はそんな有子の気持ちを汲み取って、とうとう一緒に京まで行くことになったのだった。明石、高砂、須磨の浦、雀の松原、小屋の松、淀の泊と、有子と一緒に船は進み、やがて鳥羽の渚に到着する。
そうして参篭の人々は船より降りて京に向かった。有子も徳大寺実定卿についてゆき、三日の間お世話になり、引出物も貰い、実定卿にお暇申し上げ、屋敷を後にした。有子は折角京に登って来たのだからということで、西八条にある清盛の屋敷を尋ねた。清盛は早速事の次第を聞いたところ、有子は、実定が大将に漏れたことを悔やんで厳島に参篭し、有子をいたわって京まで一緒になり、引出物もいろいろ貰ったことを話すと、感動屋の清盛ははらはらと涙を流す。
「近衛大将になることは家の前途に関わることだ。御嘆きもごもっともだ。それにしても都の中には神社仏閣いくらでもあるのに、私が深く信仰している厳島まで行かれたのはなんともすばらしいことだ。そう、実定卿が今度大将になられるのはスジだったのだが、私の差し金で宗盛を大将に推挙してしまった。なんとかしようではないか。」
その後すぐに、左大将だった重盛は辞職申し上げて右大将に移り、清盛は実定卿を左大将に推挙した。
実定卿はこの年の五月八日に御悦び申し上げ、発案者の佐藤兵衛近宗を左衛門尉に上げられ、さらに但馬国の城崎庄を賜った。厳島の霊験もさる事ながら、近宗の計画はまことに神妙であったと、実定卿は思ったのだった。 
5
内侍岩伝説
平安時代の後期、徳大寺大納言藤原実定[とくだいじだいなごんさねさだ]卿が厳島に参籠[さんろう]している時、琵琶の名手で十七歳になる有子内侍[ありこないし]を寵愛[ちょうあい]され、次のような歌を詠みました。
「山の端に 契りて出んよはの月 めぐり逢べき折を知らねど」 実定卿
やがて、実定卿が都に帰るとき、有子内侍は嘆き悲しみ、船を追いかけ、この岩に立って卿の船が見えなくなるまで別れを惜しんだという。この岩を内侍岩という。内侍岩は、大野の対岸、室浜の西側300m位先の海岸にあります。
「はかなしや 浪の下にもいりぬべし 月の都の人や見るとて」 有子内侍 
6
平家物語
藤原成親の流罪
6月2日、新大納言・藤原成親卿を、寝殿の公卿の間に呼んで、食事などを出したが、胸がつまってはしをつけさえしませんでした。
護送の武士・難波次郎経遠が車を呼び入れ、「はやく、はやく」と告げると、成親は、心ならずも乗りました。「ああ、どうにかして、今一度、重盛殿に会いたい」と思いましたが、それもかないませんでした。見渡せば、軍兵どもが前後左右を固めていて、心を許せる者は一人もいません。たとえ重科をこうむって遠国へ行くといっても、召使一人連れていけないことなどあるだろうか、そう車の中で訴えると、皆、鎧の袖を濡らしました。
西の朱雀大路を南へ進むと、内裏をも、今は、それまでとは別の場所として見ていました。何年も見慣れた雑人、牛飼いに至るまで、皆、涙を流し袖を濡らしました。ましてや、都に残る北の方、幼い子どもたちの心の内は推し量られてあわれです。
鳥羽殿を過ぎるときも、鳥羽殿へ後白河法皇が御幸になったときはいつも必ず供をしていたと嘆き、成親の山荘・洲浜(すはま)殿を過ぎるときも、よそに見ながら過ぎました。
鳥羽殿の南の門を出て、護衛の者たちが、船が遅いと急がせました。
大納言・藤原成親が「どうせ殺されるなら、都に近いこの辺りで殺されたい」と言うのは、せめてと思ったのでしょう。近くに付き添っていた武士に「誰か」と尋ねると「護衛の武士、難波次郎経遠」と名乗りました。
成親は「もしこの辺りに、私の近親の者がいないか、探して、一人連れてきてくれないか。船に乗る前に言い置きたいことがある」と告げました。経遠がその辺りを走り回って尋ねましたが、成親に親しい者は一人もいませんでした。
すると、成親は涙をはらはらと流して、「私が世にあったときは、従いついた者は、1、2千人はいたのに、今は、よその地とは言え、流されようとする私を見送る者のいない悲しさよ」と嘆きました。荒々しい武士たちも皆、鎧の袖を濡らしました。
成親に添えるものといえば、尽きせぬ涙ばかり。かつては、熊野詣、天王寺詣などには、2つ瓦や、3つ棟作りの船に乗り、供の船を2、30槽も従えていたのに、今は粗悪なかきすえ屋形船に大幕を引き、見知らぬ武士どもに囲まれて、今日を限りに都を出て、波路はるかに赴こうとする心の内は、推し量られて哀れです。
成親は、ほんらいならば死罪であるところ、流罪に減刑されたのは、ひとえに、平重盛がさまざまに口添えをしたからにほかなりません。その日は、摂津国大物の浦(尼崎市の海岸)に到着しました。
明けて3日には、大物の浦に、京より使者がくるというので、一同はひしめきました。成親をこの場で誅せよということかと尋ねると、そうではなくて、備前の児島(岡山県児島半島)へ流せとのことでした。
また、平重盛から文が届きました。重盛は「ああ、どうにかして都に近い片山里にでもと頼んでみたのですが、かないませんでした。世にある面目もございません。しかしながら、命ばかりは乞い受けました。ご安心ください」と記し、警護の難波経遠にも「よくよく仕えよ。決して、お心をたがうようなことはするな」と伝えて、旅の仕度をこまごまと沙汰し、送ってきました。
成親は、「あれほど寵愛を受けていた後白河法皇から離れ、ひとときも離れていられないと思っていた北の方と幼い子どもたちとも別れ、私はどこへ流されるのだろう。再び故郷に帰って、妻子と相まみえんことも難しいだろう。先年、山門の訴訟によっていったんは流罪となったのを、後白河法皇が惜しんで、西の七条から帰ってくることができた。しかし、今回は後白河法皇からの勘当ではないので、後白河法皇が戻してくれることもあるまい。なんとしたことであろうか」と、天を仰ぎ、地に伏して、泣き悲しみましたが、どうにもなりません。
夜が明けると、船を押し出して出発しました。道すがらただ涙にのみむせんで、命が消え入ってしまいそうではありましたがさすがに露の命といえども消えることはなく、跡の白波を隔てれば、都はしだいに遠ざかり、日数を重ねると、遠国にすでに近づいていました。
船を備前の児島に漕ぎ寄せて、民家の粗末な柴の庵に、成親を入れました。島の習いとて、後ろは山、前は海です。磯の松風も、浪の音も、なにもかもがあわれでした。
藤原成経の流罪
およそ、新大納言・藤原成親一人に留まらず、多くの人が召し取られました。近江中将入道・蓮浄は佐渡の国へ、山城守・基兼は伯耆の国へ、式部大輔・正綱は播磨の国へ、判官・宗信房は阿波の国へ、新判官・平資行は美作の国へ、おのおの流されたということでした。
そのころ、平清盛は、福原の別荘にいましたが、同月20日に、摂津左衛門・盛澄を使者として、平教盛のもとへ、「そこへあずけている丹波少将・藤原成経を急ぎこちらへ差し出せ。申し伝えることがある」と、伝えました。
藤原成経は、「どうせなら、最初に西八条に召されたときに、いかようにも処分されていたらよかったのに。再び召しだされて、つらい思いをするのは悲しいことだ」と言いましたが、急いで福原へくるようにとのことでしたので、成経は泣く泣く、出発しました。
北の方以下の女房たちは、「どうにもしかたのないことではありますが、なお、宰相殿から、よしなにはからうように頼んでみてください」と嘆きました。しかし、宰相・平教盛は、「すでに頼むべきことは頼んだ。今はもう、出家するしかできることはない。たとえ、どこの浦に流されたとしても、命のある限りは、かならず訪れていきます」と言いました。
成経には今年3歳になる幼い子どもがいました。日頃は、まだ幼いので、子どもたちのことはあまり気にしていませんでしたが、最後の別れともなれば、さすがに懐かしく思ったのか、「幼い者を今一度見たい」と言いました。
乳母が幼い子を抱いてきました。成経は、膝の上に抱いて、髪をかきなで、涙をはらはらと流し、「ああ、お前が7歳になったら、元服して、君へ奉公させようと思っていたのに、しかし、今は言ってもどうにもならない。もし、幸いに命長らえて、立派に成人したら、法師になって、父の後世をよく弔ってくれ」と告げました。
いまだ幼い心に成経の言葉が理解できたわけではないだろうけれど、言葉にうなずきなどすると、成経をはじめ、北の方、乳母、女房など、その場にいあわせた人々は、心ある人も、ない人も、皆、袖を濡らしました。
福原の使者は、今夜のうちに鳥羽まで来るようにと伝えました。藤原成経は、「いくらも延びることはないだろうから、せめて、今夜ばかりは都で夜を明かしたい」と言いますが、使者がそういうわけにはいきませんとしきりに急かすので、仕方なく、その夜、鳥羽へ行きました。教盛は、あまりに気が滅入って、今回はいっしょに行きませんでした。同月22日、成経は、福原へ到着しました。
平清盛は、備中の国の住人・瀬尾太郎兼康に命じ、成経を備中国へ流しました。兼康は、あとで教盛の耳に入ることを恐れて、成経を厳しく扱わぬよう気を遣い、道中でも、さまざまに労わりましたが、成経は少しも気持ちが慰むことなく、昼も、夜も、ただ、仏の名をのみとなえ、一途に、父・成親のことを祈りました。
阿古屋の松
さて、新大納言・藤原成親は備前の国・児島に流されていました。児島は港に近く、にぎわっていた場所でもありましたので、万が一のことがあってはと危惧し、内陸へ連れ出し、備前と備中の境にある庭瀬の郷・吉備の中山の有木の別所という山寺に入れられていました。
その有り木の別所と、成経のいる備中の瀬尾との距離は、50町(約5.5キロメートル)もしないわずかな距離でした。
成経は、有木の方から吹く風も懐かしく思われたのか、あるとき、兼康を呼び、「ここから、父の大納言・成親殿が流されたという有木の別所という所は、どのくらいの距離か」と尋ねました。
兼康は、正直に答えては悪いだろうと思い、「片道、12、3日ほど離れています」と告げました。
成経は、涙をはらはらと流して言いました。
「日本は昔、33か国だった。それを、中ごろに、66か国に分けたのだ。今の備前、備中、備後の国も、もとは1つの国だった。また、東にあるという出羽と陸奥の国も、昔は、陸奥54郡と出羽12郡の66郡で一つの国だったのを、12郡を分けて出羽の国としたのだ」
「されば、中将・藤原実方が奥州へ流されたとき、当国の名所・阿古屋の松を見たいと思い、陸奥の国内を訪ね歩いた。しかし、いっこうにみつからず、あきらめて帰ろうとしたときに、道で、ある老人と会った」
「実方は、『やや、あなたはこの地に古い方とお見受けしました。当国の名所・阿古屋の松という所を知っていますか』と尋ねました。老人は、『国内にはそのような場所はございません。出羽の国にあります』と答えました」
「実方は、『ああ、あなたでも知らないと。世も末となり、国の名所をも、皆、顧みなくなっていることよ』と嘆き、通り過ぎようとしました。そのとき、老人が、実方を呼び止めて、『さては、あなたは、
陸奥(みちのく)の阿古屋の松に木隠れて 出づべく月の出でるもやらぬか
という歌の心をもって、当国の名所の阿古屋の松、とお尋ねだったのですか。もしそうなら、それは昔、両国が一つの国だったときに、詠まれた歌です。陸奥の国から12郡を裂いたのちは、阿古屋の松は出羽の国にあります』と答えた。それならばと、実方中将も、出羽の国へ行き、阿古屋の松を見物した」
「筑紫の国の大宰府から都へ、腹赤の魚を送るさいは、陸路は15日と定められた。いま、あなたが、12、3日と言ったのは、ここからほとんど九州へ向かう日数。いかに遠いといっても、備前、備中、備後の間は、両3日もあれば十分でしょう。近いのを遠いと言ったのは、父大納言・藤原成親のいる場所を私に知らせまいと思ってのことでしょうか」
そう告げると、成経は、成親の居場所のことは、恋しいけれど、尋ねることはありませんでした。
鬼海が島
そうこうしているうちに、法勝寺の執行で僧都の俊寛、丹波守で近衛少将の藤原成経、判官・平康頼の3人が、薩摩方の鬼海が島(鹿児島県南部の硫黄島か)へ流されました。
鬼海が島は、都を出て、はるばるの波路を凌ぎ、行き渡る場所にあります。なみたいていのことでは船も通いません。島人はいるにはいますが、衣服を着けず、本土の人とは似ておらず、別の言葉をしゃべります。身には毛が多く、色が黒いことは牛のようです。男は烏帽子も着けず、女は髪もさげません。食べるものがないので、常に、殺生をしています。土地を耕さないので米穀の類もなく、畑を耕さないので桑が取れず、絹などの類のものもありません。
鬼海が島には高い山があります。とこしえに火を噴いています。硫黄というものが、満ちていました。それゆえに、硫黄が島とも名づけられています。雷が常に鳴り響き、ふもとは雨ばかりです。一日でも、片時でも、生き延びられそうにありません。
藤原成親の出家
備前の国・児島に流されていた新大納言・藤原成親は、少し落ち着いて余裕が生まれていましたが、子息の丹波少将・藤原成経以下3名が薩摩方鬼海が島へ流されたと聞いて、もはや何も期待できないと思い、出家したい旨を文にしたためて、平重盛に送りました。重盛が後白河法皇に伺いをたて、許しがでました。栄華を極めた過去に引き替え、浮き世を捨てて墨染めの衣に袖を通しました。
そうこうしているちに、成親の北の方は、都の北山の雲林院の辺りに人目を忍んで住んでいましたが、世を忍ぶ身でなくとも住み慣れぬ土地はもの憂く、ましてや、人目を忍べば、過ぎゆく月日をもてあまし、人目を忍ぶゆえに、誰も訪れて来ませんでした。
その中で、左衛門尉の源信俊という侍一人は、情けのある者で、常に訪問していました。あるとき、北の方が、信俊を呼んで、「うそかまことか、成親殿は、備前の児島にいるが、このほど聞いたところでは、有木の別所とかいう所にいるとか。ああ、なんとかして、はかない筆でしたためた文を出し、お返事を今一度もらいたいものだが、どうでしょう」と問いました。
信俊は、はらはらと涙を流し、答えました。
「私は幼少のころから、憐れみをもって召し使っていただき、片時も離れず、お仕えしてきました。お呼びになる声や、おしかりになったお言葉も肝に銘じております。西国へ流される時も、お供つかまつりたく思いましたが、六波羅の許しがなかったので、力及びませんでした。このたびは、たとえこの身がいかなる憂き目に遭おうとも、文をいただいて参ります」
北の方は、たいへんよろこび、すぐに文をしたためて、渡しました。若君、姫君の面々も、それぞれ文を書きました。
信俊は、それらの文を預かり、備前の国・有木の別所へ行きました。まず、監視役の武士・難波次郎経遠に案内を頼むと、経遠は、信俊の志のほどを感じて、成親のもとへ連れて行きました。
源信俊の訪問
藤原成親は、いまも都のことを懐かしんで嘆き沈んでいたところ、「京より信俊が参りました」と聞くと、起き上がって、「なに、なに。夢か現か。これへ、これへ」と言いました。
信俊は、そば近くに寄って、成親の様子を見ました。まず、住まいの貧弱さが、ひどかったです。それに、成親の黒染めの衣を見るにつけ、目も当てられず、心も砕けて、涙はさらに止まりませんでした。
信俊は、しばらくして、涙を抑えて、北の方の言葉を詳細に伝え、そののち、文を取り出して渡しました。
成親が手紙を開いてみると、あちこちに、水茎の跡が涙にしみていました。幼い子どもたちが、自分を恋しがって悲しむ様子を、わが身が壊れてしまいそうですが耐え忍ぶほかありません、などと書いてきていたので、成親は、日頃に感じている恋しさなどは取るに足らないと悲しみました。
そのようにして、4、5日も過ぎましたが、信俊は、「ここにいて、成親殿の最期をみとります」と言いました。しかし、監視の武士・難波経遠がどうしてもそれはできないと言うので、成親は、「何日も延びるということはないのだから、早く帰れ」と告げました。
成親は、「わが身が失われるのも近いというぞ。この世に亡きものと聞いたら、後世をよく弔ってくれ」と告げました。
成親は、返事をしたためました。信俊が受け取りました。信俊は「また、参上します」と告げると、成親は「あなたが再び来るのを待てそうもない。名残あまりに惜しく、しばらく、しばらく」と、たびたび、呼び返しました。しかし、そうばかりしてはおられないので、信俊は、涙を抑えつつ、都へ帰りました。
信俊は、北の方に返事を渡しました。開けてみると、成親はすでに出家をされたとみえて、文の奥に御髪が一ふさ、忍ばせてありました。北の方は、二目に見ることができず、「形見が今はかえってうらめしい」と引き伏してしまいました。若君、姫君も、声をあげて泣きました。
藤原成親の処刑
やがて、大納言・藤原成親は、8月19日に、備前と備中の境・庭瀬の郷の有木の別所にて、ついに、処刑されました。
成親の最期の様子はいろいろにうわさされました。
はじめ、酒に毒を盛って飲ませましたが目的を達しませんでした。2丈(約6メートル)ほどのがけの下に、「菱」という菱形のとがった歯の武器を地面に植え、そこに突き落として殺したとのこと。なんとも、むごいことです。そのような例はほとんど聞かれません。
北の方は、そのことを聞くと、「ああ、変わりのない姿を今一度見て、見せもしたいと思い、今日まで出家せずにいましたが、もはや」と嘆き悲しみました。菩提寺というお寺に入って、尼になり、式どおりに成親を弔いましたが、まことにあわれなことです。
この北の方と申すお方は、山城守・敦方の娘で、後白河法皇の寵愛も深く、比類なき美人でした。藤原成親も後白河法皇から寵愛をいたく受けていたので、後白河法皇から賜ったといわれています。
成親の若君、姫君が、それぞれに折った花を手にし、仏に奉る水をくんで、父の後世を弔う様子はあわれです。このようにして時が流れ、世の変るありさまは、まさに、天人が死なんとするときに現れる五つの相という「天人五衰」に異なることはありません。
藤原実定
徳大寺大納言・藤原実定は、平清盛の次男・平宗盛に、自分を飛び越えて大将になられたので、しばらく様子を見ようと、大納言を辞して籠居していましたが、やがて、出家しようと言ったので、身内のものは上下を問わず皆、悲しみました。その中に、蔵人大夫・藤原重兼という、大臣などに使える四位、五位ほどの人がいました。
ある月夜、藤原実定は、ただ一人で、南面の格子戸を開けさせて、月へ向かって詩歌などを口ずさんでいたところ、重兼がやってきました。
実定が「誰だ」と問うと、「重兼が参りました」と答えます。実定が「夜はとっくにふけているのに、このような時間に何事か」と告げると、「今夜は月が冴えています。心のおもむくままに、参りました」と答えました。実定は、「神妙なことだ。まことに、今宵はなんとなく心細く、ことのほかたいくつであった」と言いました。
そうこうするうちに、最近の話や、昔の話などをして、そののち、藤原実定が言うには、「平家の繁盛する様子を細かくみると、嫡子重盛、次男宗盛は、左右の大将だ。やがて、三男知盛、嫡孫維盛も続きよう。平家の誰もかれもが出世となると、他家の人々は、いつ大将になれるともおぼつかない。されば最後には出家するしかない。いざ、出家しよう」。
重兼は、はらはらと涙を流して、言いました。
「実定殿が出家されたら、身内の上下の者が皆、路頭に迷います。重兼に、ちょっとしたアイデアがあります。たとえば、安芸の国の厳島神社は、平家一門がたいそう敬っています」
「厳島神社へお参りなされませ。厳島神社には、内侍(ないし)といって、優雅な舞姫が多くいますので、お参りを珍しく思われて、もてなしをするでしょう」
「何を祈願したのですかと尋ねられたら、有りのままにおっしゃればよいでしょう」
「さて、厳島神社からお帰りの際は、おもだった内侍一両人を、都までお連れしてください。そうすれば、おそらく西八条へ参上するでしょう。清盛殿が『何事だ』と問えば、内侍たちは、有りのままに申し上げるでしょう。清盛殿は、ちょっとしたことにもいたく感心する人なので、それなりのはからいもあると思われます」
藤原実定は「それは思いも寄らなかったことだ。ならば、さっそくお参りに行こう」と、にわかに精進を始め、厳島神社へお参りに行きました。
藤原実定の厳島神社詣で
厳島神社には、ことのほか優雅な内侍たちがたくさんいました。「もともと当社には、われらが主の平家の君たちのお参りが多いのですが、あなたのような方は珍しい」と、主だった内侍が10人あまり、昼夜を問わず付き添い、さまざまにもてなしました。
さて、内侍たちが「何を御祈願したのですか」と尋ねると、実定は、「大将の位を人に越えられて、その祈りのため」と言いました。
藤原実定は、七日七夜、参籠し、その間、神楽が奏でられ、風俗歌や、流行り歌なども歌われた。舞楽も3回、行われた。
さて、帰りの段になり、内侍10人あまりが船を仕立て、日帰りの路を見送りました。藤原実定は、「あまりに名残惜しいので、あと一日、二日」といい、ついに、都まで連れてきてしまいました。実定は徳大寺の屋敷に迎え入れ、さまざまにもてなし、たくさんの贈り物を持たせました。
内侍たちは、「はるばる都まで来たのに、われらが主・平家へ参らない法があるべきか」と、西八条へ参じました。
平清盛が内侍たちに対面し、「内侍たちはどうした。この時分に、何ごとの参列だ」と問いました。内侍たちは「徳大寺殿が厳島神社へお参りになり、船を出して日帰りの見送りをし、そこでいとまをこいましたが、実定殿が、あと一日、もう一日と言われ、都まで連れられてきました」と答えました。
平清盛は、「実定はなんの祈願のため、厳島神社へ参詣したのだ」と尋ねると、内侍たちは、「大将の位を人に越えられて、そのための祈願とおっしゃっていました」と告げました。
平清盛は、大きくうなずきました。「都には霊験あらたかな神社仏閣がたくさんあるのに、それらを差し置いて、浄海が崇め奉る厳島神社へはるばると参詣するとは、なんともいじらしい心構え。それほどまで、切に願うなら」と、嫡子の内大臣・平重盛が左大将を兼ねていたのを辞任させ、実定を左大将にしました。
なんと、賢い計らいでしょう。新大納言・藤原成親も、このように謀ればよかったものを、しかたのない謀反を起こして、わが身も子孫も滅ぼしたのは、気の毒なことでした。
三井寺での受戒、天王寺での灌頂
そうしているうちに、後白河法皇は三井寺座主・公顕(こうけん)僧正を、受戒の阿闍梨である御師範として、真言の秘宝を伝授されました。大日経、金剛頂経、蘇恣地公羯羅経の3部の秘教を受け、9月4日に、三井寺にて、受戒の時に水を頭頂に灌(そそ)ぐ厳重な秘宝である御灌頂が行われるといわれました。
山門の大衆は怒り、言いました。
「昔より、御灌頂の御受戒は皆、当山にて遂げることになっている。ましてや、山王権現が当山に化導を垂れて、強化し導いているのは、受戒・灌頂のためである。それなのに、三井寺にてなさるというのなら、三井寺を一切、焼き払ってしまおう」
後白河法皇は「そうなっては無益になってしまう」と、受戒灌頂の修行を取りやめて、御灌頂を中止しました。しかし、本意だからと、公顕僧正を連れて天王寺へ行き、五智光院を建て、境内の井戸を、灌頂の時に受者の頂に灌ぐ香水を盛った五箇の水瓶である五瓶の智水と定め、仏教最初の霊地にて、伝法灌頂を遂げられました。
・・・・・ 
徳大寺実定と藤原多子の月見
治承4年(1180年)。6月9日には、新都・福原での事始(ことはじめ)。8月10日には、内裏の棟上げ式。11月13日には、新しい皇居への御幸がありました。
旧都は廃れていきますが、現在の都は繁栄していくもの。以仁親王や源頼政の謀反があったあさましい夏が過ぎ、秋も半ばになりました。
福原の新都にいた人たちは、名所の月を見たいと思い、光源氏の跡をしのびつつ、須磨から明石の浜へ伝い、あるいは、淡路の灘を渡って輪島の磯で月を見ました。白浦、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上のおぼろ月を眺めて帰る人もいました。平安京に残っていた人たちは、伏見、広沢で月を見ました。
なかでも、左大臣・徳大寺実定は、平安京の月を恋いつつ、8月10日ほどに福原から旧都へ行きました。
旧都では何もかもみな変わり果てて、まれに残っている家は、門前に草が生え茂り、庭の中は露で濡れていました。よもぎが生い茂っている所、浅茅が原、鳥の臥所と荒れ果てて、虫の声が恨めしく響く、黄菊や紫蘭が生い茂る野辺となっていました。
今、故郷の名残としては、「近衛河原の大宮」こと徳大寺実定の姉で大皇大后の藤原多子(まさるこ)ばかりが留まっていました。徳大寺実定は、まず随身の者に外構えの大門をたたかせました。すると、中から声がして、「誰ですか。ヨモギが生え茂り、露に濡れた、誰も来ない場所なのに」と言ってきます。
随身は、「これは福原から徳大寺実定が上ってきたのだ」と告げます。「それなら、総門は錠が下されているので、東の小門からお入りください」と再び声がしました。
徳大寺実定は、それならと、東の小門から入りました。
藤原多子は、徒然に昔のことを思い出したのでしょうか、南面の格子戸を開けさせて、琵琶を奏でました。そして、そこに徳大寺実定が来ると、しばらく琵琶の手を休めました。
藤原多子は、「夢か現(うつつ)か、これへ、これへ」と誘いました。源氏物語五十四帖の後十帖(宇治十帖)の「橋姫の巻」には、桐壺帝の子で「八の宮」と呼ばれていた、俗世におりて仏門に帰依していた男の娘が、秋の名残を惜しみつつ琵琶を奏で、夜通し心をすましていたところ、有明の月が出てあまりに感動したので「ばち」で招いたとありますが、藤原多子は、その心を今まさに知ったのかもしれません。 
7
徒然草 第十段
家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。
よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きらゝかならねど、木立もの古りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
多くの工の、心を尽してみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間の烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるゝ。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
後徳大寺大臣の、寝殿に、鳶ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂どのの棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひ出でられ侍りしに、「まことや、烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。

住まいの建築様式は、バランスが理想的であってほしい。短い人生の仮寝の宿と知りつつも気になるものだ。
優良市民が閑静に住み続けている所は、降りそそぐ月光が、よりいっそう心に浸みる。流行の最先端を走っているわけでもなく、ゴージャスでもなく、植えてある木々が年代物で、自然に生い茂っている庭の草も趣味がよく、縁側のすの子や透かしてある板塀の案配もちょうどよく、その辺に転がっている道具類も昔から大事に使っている感じがするのは、大変上品である。
それに引き替え、大人数の大工が汗水たらしながら磨いた「メイド・イン・チャイナ」とか「メイド・イン・ジャパン」とか言う、珍品、貴重品などを陳列したり、植え込みの草木まで不自然で人工的に仕上げたものは、目を背けたくなるし、見ると気分が悪くなる。そこまでして細部にわたって拘って建築したとしても、いつまでも住んでいられるわけがない。「すぐに燃えてなくなってしまうだろう」と見た瞬間に想像させるだけの代物である。たいていの建築物は、住んでいる奴の品格が自然と滲み出てくるものだ。
後徳大寺で坊さんになった藤原実定が、ご本殿の屋根にトンビがクソを垂れないように縄を張っていた。それを西行が見て「トンビがとまってクソをまき散らしたとしても、何も問題はありません。ここの亭主のケツの穴といったら、だいたいこの程度のものでしょう」と、この家に近寄ることは無くなったと聞いた。綾小路宮が住んでいる小坂殿という建物に、いつだか縄が張ってあったので、後徳大寺の実定を思い出したのだが「カラスが群をなして池のカエルを食べてしまうのを綾小路宮が見て、可哀想に思ったから、こうしているのだ」と誰かが言っていた。何とも健気なことだと感心した。もしかしたら、後徳大寺にも何か特別な理由があったのかも知れない。  
8
百人一首に見る季節の移ろい
百人一首といえば百人の歌人の和歌を一首ずつ集めたもので、鎌倉時代前期に藤原定家が撰んだ小倉百人一首がもっともよく知られています。かるた取りの遊びで長いこと親しまれてきましたし、最近では競技かるたがブームで、歌の内容よりもかるたの札にふれることで百人一首を身近に感じている方も多いと思います。遊びのかたちで和歌に親しみ、耳から入る言葉によってしぜんに学べることはとても意味のあることではないでしょうか。
五七五七七、三十一文字(みそひともじ)の和歌には「短歌」という呼び方もあり、「うたう」つまり言葉を声にのせて唱えることが本来的なありかたです。「歌をよむ」と言いますのも、歌人が自然や周りの人びとに対して抱く思いを、世界との交わりとしてとらえ、言葉でよみとって表すことなのではないかと思います。歌を味わう人も、声を通して聞くことがもともとのかたちでした。言葉が人のあいだに立ち上がるといいますか、そこにいる人たちが共感してイメージがわいてくる。かるたの札を声に出して読むのも、このような場なのです。
さて、百人一首には季節の歌も多く入っています。それぞれの歌に季節の特徴をとらえた趣向があり、その季節らしい光景や風物が、なじみのあるものだったりしますと、歌が身近に感じられるのではないでしょうか。
夏の歌をまず二首ご紹介します。
「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ」
「枕草子」の作者清少納言の曾祖父、清原深養父の歌です。秋の夜長、長夜と比べて夏の夜は短夜といいまして、早く明けてしまいます。だから、月が空をわたっていくのに時間が足りない。いったい月は雲のどのあたりに隠れているのだろうというのです。
もう一首
「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」
後徳大寺左大臣、藤原実定が作者です。夜が明けるころ、ほととぎすの鳴き声がしたので、そちらを見やると、もうその姿は見えません。有明の月だけが残っているというのです。有明の月は明け方まで残っている月のこと。ほととぎすの声が有明の月に置き換わったような不思議な感じがします。
月といえば空が澄み渡っている秋がいいとされますが、百人一首に「夏の月」が二首ありますのは、秋に月という定番の取り合わせとは違う趣を求めたということです。また、生命力の盛んな夏にも、はかなげなほととぎすの声や短夜の月に注目したのです。『陰翳礼賛』のような随筆でも知られる谷崎潤一郎は、『恋愛及び色情』という文章の中で「思うに古えの人の感じでは、昼と夜とは全く異なった二つの世界だったであろう」と語っています。夜に昼を思うとき、昼に夜を感じるとき、その違いが日々の営みに奥行き感をもたらしたのではないでしょうか。昼と夜の隔たりが昔の人の想像力を育てたのです。百人一首だけでなく、ほかの古典作品を読むときにも大切な視点だと思います。たった一日の中にもドラマがあるのですから、四季の変化といったら昔の人はどれほどのドラマをそこに見いだしたことでしょう。
百人一首で季節のうつり変わりを詠んだものをご紹介します。
秋から冬になる頃の歌
「心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花」
古今和歌集の撰者でもあった凡河内躬恒の歌です。あてずっぽうに折るものなら折ってみようか、初霜がおりたせいで、見分けがつかないように目をまどわせている白い菊の花を。霜と菊の花をまちがえるなんてと、リアリズムを求める近代的なものの考え方からすると大げさだなどと言われることもある歌ですが、小さな菊の花びらにおりた霜がきらきらと光る幻想的な光景です。それがたとえ頭の中でつくられたものであっても、歌人の発想には独自性が感じられます。
「君がため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」
平安時代の前期八〇〇年代の後半に五十五歳という年齢で即位した光孝天皇が若い頃に詠んだ歌です。あなたのために、これは恋人への呼びかけでしょうか。早春の野に出かけて若菜、つまり春の七草のような若草を摘むのです。その人を思って若菜を摘んでいると袖に春の雪が降ってきました。これは冬と春の境目の、季節の変化を肌で受けとめる歌なのです。
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
飛鳥時代、六〇〇年代の終わり頃、夫の天武天皇を継いだ女帝・持統天皇の歌です。春がすぎて夏がきたという季節のうつり変わりそのものをテーマにして、季節に人格があるかのように親しみをこめています。奈良盆地の南、飛鳥地方が歌の舞台です。大和三山のひとつ、香具山に神事のために用いる白い布が干されて、木々の緑に映えています。
「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」
作者は藤原定家と同時代の歌人、藤原家隆です。「みそぎ」は六月三十日に行われた夏越の祓のことで、罪やけがれを祓うために川でからだを浄める行事でした。ならの小川とは、京都・上賀茂神社の御手洗川のことで、みそぎだけが夏の証だというのです。暑い夏を何とか無事に過ごし、秋の訪れを知らせる風にほっとしたのでしょう。風の音と肌ざわり、聴覚と触覚が合わさって心地よい。こういった感覚は現代も変わりません。今とくらべますと一か月余りのずれが生じますので、八月のお盆を過ぎたころに吹く涼しい風を思い浮かべてください。
こうして四首を並べますと、歌が詠まれた場として「心あてに」が庭、「君がため 春の野にいでて」が野原、「春すぎて」が山、「風そよぐ」は川となります。百人一首のもとになる歌を藤原定家が撰んだのは、京都・嵯峨にある親戚の山荘の襖に貼る色紙形のためと言われています。季節のうつり変わりに配慮し、絵として想像したときの効果も考えたのではないでしょうか。さらに、晩秋の初霜と白菊、早春の野の雪、香具山に干された白い布、夏の終わりのみそぎの白い衣と、どの歌にも白が詠みこまれています。季節の変化を前に、気持ちを新たにして、無事であることへの感謝と祈りをこめているのかもしれません。
夏の歌を中心に見てきました。いずれも言葉を通して自然とのかかわりを大切にする昔の人の心が伝わってきます。季節の移ろいを改めて百人一首で味わってみてはいかがでしょうか。 
 
82.道因法師 (どういんほうし)  

 

思(おも)ひわび さても命(いのち)は あるものを
憂(う)きに堪(た)へぬは 涙(なみだ)なりけり  
うまくいかない恋に思い悩んで、それでも命はあるものなのに、つらさに耐えないで落ちてくるのは涙であったなあ。 / 長い年月、つれない恋のため思い悩んでいても、こうして死にもせず命はあるのに、それでもそのつらさに耐えられなくて流れて仕方がないものは涙であることよ。 / あなたのつれなさを嘆いて嘆いて、とても耐えられないと思っていましたが、それでも耐えて生きつづけているのに、やはり耐えられないつらさに涙がこぼれます。 / つれない人のことを思い、これほど悩み苦しんでいても、命だけはどうにかあるものの、この辛さに耐えかねるのは (次から次へと流れる) 涙であることだ。
○ 思ひわび / 「思ふ」+「侘ぶ」で、思い悩む。この場合は、自分の思うようにならない恋の悩み。
○ さても命はあるものを / 「さても」は、それでも。「思ひわび」ている状態を表す。「は」は、区別を表す係助詞。「ものを」は、逆接の接続助詞。
○ 憂きにたへぬは / 「憂き」は、ク活用の形容詞「憂し」の連体形で、つらさの意。「に」は、動作の対象を表す格助詞。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「は」は、区別を表す係助詞。「命はある」と「たへぬは涙」を区別し、対比している。
○ 涙なりけり / 「けり」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞。 
1
藤原敦頼(ふじわらのあつより、寛治4年(1090年) - 寿永元年(1182年)頃?)は、平安時代後期の歌人。法名は道因。藤原北家高藤流、正三位・藤原惟憲の曾孫。治部丞・藤原清孝の子。官位は従五位上・右馬助。
若い頃の事績は不明であるが、官人としては右馬助などを務めて従五位上に至る。承安2年(1172年)に出家して道因と称した。
永暦年間から治承年間(1160年 - 1181年)にかけて開催された主要な歌合せに参加・出詠し、また自らも「住吉社歌合」「広田社歌合」などの社頭歌合を主催している。
『千載和歌集』(20首)以下の勅撰和歌集に41首が入集している。
出家の身ではあったが、歌道に志が深く、たいへん執着していた。七、八十歳の老年になってまでも「私にどうぞ秀歌を詠ませてください」と祈るために、歌神として信仰されていた大坂の住吉大社までわざわざ徒歩で、毎月参詣していたという。実際の歌会のときも、とくに講師の席の近くに座って、歌の講評をひと言も聞き漏らすまいとするような態度で耳を傾けていた。
敦頼の死後、藤原俊成が『千載和歌集』を撰進したとき、彼の歌への打ち込みかたが熱心だったので十八首の歌を入集させた。すると敦頼が夢の中に現れて涙を流して喜んだ。それを見ていっそう哀れに思った俊成は、さらに二首を加えて二十首にしたという。
思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり (『千載和歌集』、百人一首) 
2
道因(どういん) 寛治四(1090)〜没年未詳 俗名:藤原敦頼
藤原北家高藤の末裔。治部丞清孝の息子。母は長門守藤原孝範女。子に敦中ほかがいる。従五位上右馬助に至る。承安二年(1172)三月、藤原清輔が催した暮春白河尚歯会和歌に参加、この時「散位敦頼八十三歳」と記録されている(古今著聞集では八十四)。その後まもなく出家したか。歌壇での活動は主に晩年から見られ、俊恵の歌林苑の会衆の一人であった。永暦元年(1160)、太皇太后宮大進清輔歌合、嘉応二年(1170)の左衛門督実国歌合、安元元年(1175)及び治承三年(1179)の右大臣兼実歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに出詠。また承安二年(1172)には広田社歌合を勧進した。鴨長明『無名抄』には、歌への執心深く、秀歌を得ることを祈って住吉神社に月参したとある。没後、千載集に二十首もの歌を採られたが、これは最初十八首だったのを、編者藤原俊成の夢に現れ涙を流して喜んだのを俊成が憐れがり、さらに二首加えたものという(『無名抄』)。『歌仙落書』には歌仙として六首の歌を採られている。同書評に「風体義理を先としたるやうなれども、すがたすてたるにあらず。すべて上手なるべし」とある。小倉百人一首にも歌を採られている。私撰集『現存集』を撰したが、散佚した。千載集初出。勅撰入集四十首。
春 / 花の歌とてよめる (二首)
花ゆゑにしらぬ山路はなけれどもまどふは春の心なりけり(千載62)
(毎年花を尋ねて歩き回ったおかげで、知らない山路とてないけれども、やはり春が来ると心はあれこれと迷ってしまうのだった。いつ咲くだろう、咲いたらどの花を見に行こうか、等々と思い悩んで。)
ちる花を身にかふばかり思へどもかなはで年の老いにけるかな(千載95)
(花の散るかわりに我が身を差し出したいとまで思ってきたけれども、それもかなわないまま、年老いてしまったことよ。)
秋 / 題しらず
山のはに雲のよこぎる宵のまは出でても月ぞなほ待たれける(新古414)
(すっかり暗くなって、もう月が出たかと眺めてみたら、山の稜線に雲がたなびいている。こんな夜は、月の出のあとも、さらに月が待たれるのだ。)
夜泊鹿と云ふことを
みなと川夜ぶねこぎいづる追風に鹿のこゑさへ瀬戸わたるなり(千載315)
(湊川を夜船で漕ぎ出してゆく。その追風に乗って、背後の山で鳴く鹿の声さえも船といっしょに海峡を渡ってゆくんだ。)
鹿の歌とてよめる
夕まぐれさてもや秋は悲しきと鹿の音ねきかぬ人にとはばや(千載321)
(ほの暗い夕方、鹿の哀れ深い声が聞こえてくる――この鹿の声を聞いていない人に問うてみたいものだ。それでもやはり秋は悲しいものか、と。)
大井川に紅葉見にまかりてよめる
大井川ながれておつる紅葉かなさそふは峰の嵐のみかは(千載371)
(ああ、大井川の水に浮かび、流れ下ってゆく紅葉よ。そうか、散るように紅葉を誘うのは、峯の嵐だけではなかったのか。川の流れだって、紅葉を誘うものだったのだ。)
冬 / 時雨の歌とてよめる
嵐ふく比良ひらの高嶺のねわたしにあはれ時雨しぐるる神かみな月かな(千載410)
(比良山には嵐が吹き、聳える峰々をわたる風に雲が運ばれて来て、ああ、時雨れてきたよ。なんてわびしい神無月だ!)
千鳥をよめる
岩こゆるあら磯浪にたつ千どり心ならずや浦づたふらむ(千載426)
(岩を越して荒々しい磯波が打ち寄せると、千鳥はたまりかねたようにその場を飛び立ってゆく。こうして千鳥は、心ならずも浦から浦へとさまよってゆくのだろう。)
氷の歌とて読る
月のすむ空には雲もなかりけりうつりし水は氷へだてて(千載441)
(月が冴え冴えと光る冬の空には、雲ひとつないよ。秋の間、月を映していた水面は、いま氷が張りつめて、月を隔てているけれども。)
恋 / 題しらず (二首)
思ひわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり(千載818)
(恋に思い悩んだり嘆いたり。それでも何とか命は怺えているのに、辛さに耐えきれないのは涙なのだ。)
なれてのち死なん別れのかなしきに命にかへぬ逢ふこともがな(千載725)
(恋人と馴れ親しんで、その後で死ぬことになってしまったら、別れはどんなにか悲しいだろう。それを思えば、なんとか命と引き換えにせずにあの人と結びつきたいのだ。)
入道前関白太政大臣家哥合に
紅に涙の色のなりゆくをいくしほまでと君にとはばや(新古1123)
(恋しさに、袖に染みた涙の色は紅に変わってゆくよ。なのにあなたは気づいてくれないのか。いったい何度繰り返し染めればいいのかと、あなたに訊いてみたいもんだよ。)
雑 / 尾張国に知るよしありてしばしば侍りける比、人のもとより「都の事は忘れぬるか」といひて侍りければ、つかはしける
月みればまづ都こそ恋しけれ待つらむとおもふ人はなけれど(千載521)
(月を眺めれば、まっさきに都を恋しく思いますよ。私を待ってくれている人がいるとは思いませんけれども。)
述懐の歌とてよめる
いつとても身のうきことはかはらねど昔は老をなげきやはせし(千載1080)
(これまでの人生、いつだって我が身の上を思えば憂鬱だった。それはずっと変わらないのだけど、昔は老いを歎くなんてことがあったろうか。年老いた今、さらに嘆きの種は増えたのだ。)
皇太后宮大夫俊成家に十首歌よませ侍りける時
身につもる我がよの秋のふけぬれば月みてしもぞ物はかなしき(玉葉702)
(年を重ねて、私の人生も晩秋を迎えた。だから、秋の夜更けの月を見るにつけ、切ない思いがしてならないよ。) 
3
道因歌に志深事
この道に心ざし深かりしことは、道因入道並びなき者なり。七、八十になるまで、「秀歌よませ給へ」と祈らんために、かちより住吉へ月詣でしたる、いとありがたき事なり。ある歌合に、清輔判者にて、道因が歌を負かしたりければ、わざと判者のもとへ向ひて、まめやかに涙を流しつつ泣き恨みければ、亭主もいはん方なく、「かばかりの大事にこそ逢はざりつれ」とぞ語られける。九十ばかりになりては、耳などもおぼろなりけるにや、会の時には、ことさらに講師の座に分け寄りて、脇もとにつぶとそひゐて、みづはさせる姿に耳を傾けつつ、他事なく聞ける気色など、なほざりの事と見えざりけり。千載集撰ばれし事は、かの入道失せてのちの事なり。亡き跡にも、さしも道に心ざし深かりし者なればとて、優(いう)して十八首を入れられたりければ、夢の中に来て涙を落としつつ、よろこびを云ふと見給ひたりければ、ことにあはれがりて、今二首を加へて二十首になされにけるとぞ。しかるべかりける事にこそ。

道因が、歌に思い入れが深かった話
歌道に思い入れが深かったということでは、道因入道が比類ない人である。七、八十歳になるまで、「すぐれた歌を読ませて下さい」と祈らんがために、(和歌の神)住吉神社に月参していたのは、本当に殊勝なことである。ある歌合で、清輔が判者として、道因の歌を負けにしたという話だが、わざわざ判者である清輔の方へ向けて、本気で涙を流しては泣いて恨み言を言ったそうで、主催者もなんともいいようもなく、「これほどの大事件に出くわしたことはなかったのに」とおっしゃったそうだ。九十歳ぐらいになっては、耳なども遠かったのだろうか、歌会の時には、わざわざ講師(歌を詠み上げる係)の座に、人を掻き分けて寄っていって、講師のすぐ脇にぴたりと寄り添って坐って、年老いた姿で耳を傾けては、一心に聞いている様子など、(歌に対する思い入れが)なみなみではないことだと思われたという。(俊成卿が)『千載集』をお撰びになったのは、その道因入道が亡くなってからのことである。(俊成卿が)「没後でも、あんなにも歌道に思い入れが深かった人だから」といって、優遇して十八首をお入れになったそうだが、(俊成卿の)夢の中に(道因が)現れて涙を落としては、感謝を繰り返している、という夢を(俊成卿が)御覧になったので、(俊成卿は)格別に感心して、もう二首を加えて都合二十首になさったという話である。(俊成卿がそうなさったのも)当然のことだろう。

曾根好忠や能因と肩を並べる、歌道の「好き者」(変人?)、道因入道の話です。道因(寛治四(1090)〜?)は、俗名・藤原敦頼。藤原北家高藤流、治部丞清孝と、長門守藤原孝範女との子。康治元年(1142)従五位上。翌年、左馬助を辞す。百人一首に載る、「思ひわびさてもいのちはあるものを憂きにたへぬは涙なりけり」は、上記エピソードの、『千載集』十三・恋三・818 に載っています。 
 
83.皇太后宮大夫俊成 (こうたいごうぐうのだいぶとしなり)  

 

世(よ)の中(なか)よ 道(みち)こそなけれ 思(おも)ひ入(い)る
山(やま)の奥(おく)にも 鹿(しか)ぞ鳴(な)くなる  
世の中なんて、どうにもならないものだ。(世俗を離れるべく)思いつめて入り込んだ山の奥にも、鹿が悲しげに鳴いているようだ。 / 世の中には悲しみやつらさから逃れられる道はないのだろうか。世間からずっと離れた山奥でさえ、鹿が妻恋しさに悲しげに鳴く声が聞こえてくる。 / 世の中には、つらさから逃げる方法は無いのだなぁ。強く決心をして、深い山に入ったのに、こんな山奥でも、やはりつらいことがあるのだろうか、鹿が哀しそうに鳴いているなぁ。 / 世の中というものは逃れる道がないものだ。(この山奥に逃れてきたものの) この山奥でも、(辛いことがあったのか) 鹿が鳴いているではないか。
○ 世の中よ / 「よ」は、詠嘆の間投助詞。
○ 道こそなけれ / 「こそ」と「なけれ」は、係り結びの関係。「道」は、方法・手段の意。「こそ」は、強意の係助詞。「なけれ」は、ク活用の形容詞「なし」の已然形で、「こそ」の結び。「道こそなけれ」で、どうする方法もない。二句切れ。
○ 思ひ入る / 思い込む。「入る」には、山に「入る」意味が重ねられている。
○ 山の奥にも / 「に」は、場所を表す格助詞。「も」は、並列を表す係助詞。
○ 鹿ぞ鳴くなる / 「ぞ」と「なる」は、係り結びの関係。「ぞ」は、強意の係助詞。「なる」は、推定の助動詞「なり」の連体形で、「ぞ」の結び。 
1
藤原俊成(ふじわらのとしなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ葉室家に養子に入り藤原(葉室) 顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の編者として知られる。
早くから歌人としての活動を始め、藤原基俊に師事する。佐藤義清(西行)の出家に影響され、自身も一時その願望を持つ事となったが、平安末期の無常観を反映しつつ、『万葉集』『古今和歌集』の伝統を踏まえた抒情性の豊かな歌風を確立し、当世風の新奇性を重視した六条流の歌風と当時の歌壇を二分した。和歌所寄人をつとめ、後白河院の院宣で単独で『千載和歌集』を編んだ。
歌学書には『古来風躰抄』(後白河院の皇女である式子内親王に奉ったもの)のほか、『俊成卿和字奏状』『古今問答』。選歌集に『俊成三十六人歌合』。家集に『長秋詠藻』『俊成家集』があり、『長秋詠藻』は六家集の一つに数えられる。『詞花和歌集』以下の勅撰和歌集に414首が採録されている。また九条良経が催した六百番歌合の判者をつとめた。
指導者としても、九条家の歌の指導をおこなうほか、息子・定家をはじめとして、門下に寂蓮・藤原家隆など優秀な歌人を多数輩出した。『平家物語』にも門下のひとり平忠度とのエピソードが描かれる。また桐火桶を抱えながら歌を作る癖をからかわれていた事も有名である。
北家でも、権大納言を極官とした傍系の長家流で、父と早く死別した事もあって出世は大きく遅れたが、当時としては異例の長寿を保ち、皇太后宮大夫・正三位にまで進んだ。息子・藤原定家の『小倉百人一首』には皇太后宮大夫俊成として採られるが、彼とともに社会の政治・経済的矛盾が深まる中、武家が政権を奪取する中世へ移行する時代の激動期を生き抜き、歌の家としての御子左家の名を確立した。
俊成と平忠度
俊成に関する逸話で第一に思い浮かぶのが源平合戦(治承・寿永の乱)の最中の平忠度との最後の対面であろう。この話は『平家物語』巻7「忠度都落」に記されている。
平清盛の末弟・平忠度は武勇も優れていたが、俊成に師事し歌人としても才能に優れていた。寿永2年(1183年)7月の平家一門が都落ちした後、忠度は従者6人と共に都に引き返し、師・藤原俊成の邸を訪れた。「落人が帰って来た!」と動揺する家人達に構わず対面した俊成に忠度は「(源平)争乱のため院宣が沙汰やみとなった事は残念です。争乱が収まれば改めて『勅撰和歌集を作るように』との院宣が出るでしょう。もし、この巻物の中に相応しい歌があるならば勅撰和歌集に私の歌を一首でも入れて下さるとあの世においても嬉しいと思えば、遠いあの世からお守りする者になりましょう」と秀歌と思われる歌・百余首が収められた巻物を俊成に託して立ち去った。翌年に忠度は一ノ谷の戦いで戦死した。その巻物に勅撰和歌集に相応しい秀歌はいくらでも収められていたが、忠度は勅勘の人だったので、俊成は忠度の歌を「詠み人知らず」として一首のみ勅撰和歌集(『千載和歌集』)に載せた。その加護があったのか、既に70近かった俊成は更に20年余り生きた。
なお、俊成死去の4ヶ月前には、平氏に代わって政権を握り鎌倉幕府を建てた源氏も前将軍・源頼家が御家人の勢力争いの中命を落とし、それを見ていた専制的君主・後鳥羽上皇が政治の主導権を朝廷に取り戻そうとしていた。早くから出家願望があった俊成だったが、改めて世の無常をかみ締めていたのかもしれない。 
2
藤原俊成 永久二年〜元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位
藤原道長の系譜を引く御子左みこひだり家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。保安四年(1123)、十歳の時、父俊忠が死去し、この頃、義兄(姉の夫)にあたる権中納言藤原(葉室)顕頼の養子となる。これに伴い顕広と改名する。大治二年(1127)正月十九日、従五位下に叙され、美作守に任ぜられる。加賀守・遠江守を経て、久安元年(1145)十一月二十三日、三十二歳で従五位上に昇叙。同年三河守に遷り、のち丹後守を経て、久安六年(1150)正月六日、正五位下。同七年正月六日、従四位下。久寿二年(1155)十月二十三日、従四位上。保元二年(1157)十月二十二日、正四位下。仁安元年(1166)八月二十七日、従三位に叙せられ、五十三歳にして公卿の地位に就く。翌年正月二十八日、正三位。また同年、本流に復し、俊成と改名した。承安二年(1172)、皇太后宮大夫となり、姪にあたる後白河皇后忻子に仕える。安元二年(1176)、六十三歳の時、重病に臥し、出家して釈阿と号す。元久元年(1204)十一月三十日、病により薨去。九十一歳。長承二年(1133)前後、丹後守為忠朝臣家百首に出詠し、歌人としての活動を本格的に始める。保延年間(1135〜41)には崇徳天皇に親近し、内裏歌壇の一員として歌会に参加した。保延四年、晩年の藤原基俊に入門。久安六年(1150)完成の『久安百首』に詠進し、また崇徳院に命ぜられて同百首和歌を部類に編集するなど、歌壇に確実な地歩を固めた。六条家の藤原清輔の勢力には圧倒されながらも、歌合判者の依頼を多く受けるようになる。治承元年(1177)、清輔が没すると、政界の実力者九条兼実に迎えられて、歌壇の重鎮としての地位を不動とする。寿永二年(1183)、後白河院の下命により七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』の撰進に着手し、息子定家の助力も得て、文治四年(1188)に完成した。建久四年(1193)、『六百番歌合』判者。同八年、式子内親王の下命に応じ、歌論書『古来風躰抄』を献ずる。この頃歌壇は後鳥羽院の仙洞に中心を移すが、俊成は院からも厚遇され、建仁元年(1201)には『千五百番歌合』に詠進し、また判者を務めた。同三年、院より九十賀の宴を賜る。最晩年に至っても作歌活動は衰えなかった。詞花集に顕広の名で初入集、千載集には三十六首、新古今集には七十二首採られ、勅撰二十一代集には計四百二十二首を入集している。家集に自撰の『長秋詠藻』(子孫により増補)、『長秋草』(『俊成家集』とも。冷泉家に伝来した家集)、『保延のころほひ』、他撰の『続長秋詠藻』がある。歌論書には上述の『古来風躰抄』の外、『萬葉集時代考』『正治奏状』などがある。
「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。
「ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ」(芭蕉「許六別離の詞」)。
春 / 入道前関白太政大臣、右大臣に侍りける時、百首歌よませ侍りけるに、立春の心を
今日といへば唐土もろこしまでも行く春を都にのみと思ひけるかな(新古5)
(今日は立春であるというので、唐土まで行き渡る春であるのに、都にばかりと思っていたことよ。)
刑部卿頼輔、歌合し侍りけるに、よみて遣はしける
聞く人ぞ涙はおつる帰る雁なきて行くなる曙の空(新古59)
(聞いている人の方こそ涙はこぼれ落ちるのだ。北へ帰る雁が鳴いて飛んでゆく曙の空よ。)
久安六年崇徳院に百首の歌奉りけるに
ながめするみどりの空もかき曇りつれづれまさる春雨ぞふる(玉葉102)
(眺めて物思いに耽っていた青空もいつしか曇り、物憂い気分の一層まさる春雨が降ることよ。)
崇徳院近衛殿にわたらせ給ひて、遠尋山花といふ題を講ぜられ侍りけるによみ侍りける
面影に花のすがたを先だてて幾重越えきぬ峯の白雲(新勅撰57)
(まだ桜は咲いていないのに、心がはやり、白雲を花と見なして、いくつの峰を越えて来たことだろう。)
千五百番歌合に、春歌
いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へみ吉野の花(新古100)
(幾年の春に心を尽くして来たのだろう。憐れと思ってくれ、吉野の桜の花よ。)
十首の歌人々によませ侍りける時、花の歌とてよみ侍りける
み吉野の花のさかりをけふ見れば越の白根に春風ぞ吹く(千載76)
(吉野山の花の盛りを今日見ると、あたかも越の白山に春風が吹くかのようだ。)
摂政太政大臣家に、五首歌よみ侍りけるに
またや見む交野かたのの御野みのの桜がり花の雪ちる春の曙(新古114)
(再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。)
法勝寺にて、人々花十首の歌よみ侍りけるに
花にあかでつひに消えなば山桜あたりをさらぬ霞とならむ(風雅1453)
(花に満足することなく結局この世から消えてしまったなら、山桜のあたりを去らずにいる霞となろう。)
百首歌奉りし時
駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井手の玉川(新古159)
(馬を駐めて、さらに水を飲ませよう。山吹の花の露が落ち添う井手の玉川を見るために。)
賀茂社へよみてたてまつりける百首歌に、やまぶきを
桜ちり春の暮れゆく物思ひも忘られぬべき山吹の花(玉葉270)
(桜が散り、春が暮れてゆく憂鬱も、思わず忘れてしまいそうなほど美しい山吹の花よ。)
夏 / 入道前関白、右大臣に侍りける時、百首歌よませ侍りける時、郭公の歌(二首)
昔思ふ草の庵いほりの夜の雨に涙な添へそ山ほととぎす(新古201)
(昔を思い出して過ごす草庵の夜――悲しげな鳴き声で、降る雨に涙を添えてくれるな、山時鳥よ。)
雨そそく花橘に風過ぎて山ほととぎす雲に鳴くなり(新古202)
(雨の降りそそぐ橘の花に、風が吹いて過ぎる――すると、ほととぎすが雨雲の中で鳴いている。)
摂政右大臣の時の歌合に、ほととぎすの歌とて
過ぎぬるか夜半の寝ざめのほととぎす声は枕にある心ちして(千載165)
(通り過ぎてしまったか。夜更けに目覚めて聞いたほととぎすは。声はまだ枕もとに残っている心持がするけれど。)
後徳大寺左大臣家に、十首歌よみ侍りけるに、よみてつかはしける
我が心いかにせよとて時鳥雲間の月の影に鳴くらむ(新古210)
(私の心をどうせよというので、ほととぎすは雲間から漏れ出た月――それだけでも十分あわれ深い月影のもとで鳴くのだろう。)
題しらず
誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば(新古238)
(橘の花の香をかげば、亡き人を懐かしく思い出す――私も死んで過去の人となったならば、誰がまた橘の花に私を思い出してくれることだろうか。)
崇徳院に百首の歌奉りける時よめる
五月雨は焼たく藻ものけぶりうちしめりしほたれまさる須磨の浦人(千載183)
(五月雨は海藻を焼く煙も湿らせて降り、一層塩水でぐっしょり濡れる須磨の浦人よ。)
秋 / 百首の歌奉りける時、秋立つ心をよめる
八重葎むぐらさしこもりにし蓬生よもぎふにいかでか秋の分けて来つらむ(千載229)
(幾重も雑草が繁茂するまま、閉じこもって過ごしていた荒れ果てた家に、どうやって秋は分け入って訪ねて来たのだろう。)
百首歌奉りし時
伏見山松の蔭より見わたせば明くる田の面もに秋風ぞ吹く(新古291)
(伏見山の松の蔭から見渡すと、明けてゆく田の面に秋風が吹いている。)
崇徳院に百首歌たてまつりける時
水渋みしぶつき植ゑし山田に引板ひたはへてまた袖ぬらす秋は来にけり(新古301)
(夏、袖に水渋をつけて苗を植えた山田に、今や引板を張り渡して見張りをし、さらに袖を濡らす秋はやって来たのだ。)
七夕の歌とてよみ侍りける
たなばたのとわたる舟の梶の葉にいく秋書きつ露の玉づさ(新古320)
(七夕の天の川の川門を渡る舟の梶――その梶の葉に、秋が来るたび何度書いたことだろう、葉に置いた露のように果敢ない願い文(ぶみ)を。)
入道前関白太政大臣、右大臣に侍りける時、百首歌よませ侍りけるに
いとかくや袖はしをれし野辺に出でて昔も秋の花は見しかど(新古341)
(これほどひどく袖は涙に濡れ萎れたことがあったろうか。野辺に出て、昔も今のように秋の花々を眺めたことはあったけれど。)
百首歌めしける時、月の歌とてよめる
石いしばしる水の白玉数見えて清滝川にすめる月影(千載284)
(石にほとばしる水の飛沫の白玉が、数えられるほどくっきりと見えて、清滝川に澄んだ月影が照っている。)
入道前関白太政大臣家に、百首歌よみ侍りけるに、紅葉
心とや紅葉はすらむ立田山松は時雨にぬれぬものかは(新古527)
(木々は自分の心から紅葉するのだろうか。立田山――その山の紅葉にまじる松はどうか、時雨に濡れなかっただろうか。そんなはずはないのだ。)
崇徳院に百首の歌奉りける時、落葉の歌とてよめる
まばらなる槙の板屋に音はして漏らぬ時雨や木の葉なるらむ(千載404)
(隙間が多い槙の板葺き屋根に音はして、雨は漏ってこない――時雨と思ったのは木の葉なのだろうか。)
冬 / 題しらず
かつ氷りかつはくだくる山川の岩間にむせぶ暁の声(新古631)
(氷っては砕け、砕けては氷る山川の水が、岩間に咽ぶような暁の声よ。)
守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに
ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな(新古640)
(独り見ていた池の氷にくっきりと照っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映ったのであるよ。)
久安百首歌たてまつりける時、冬歌
月きよみ千鳥鳴くなり沖つ風ふけひの浦の明けがたの空(新勅撰404)
(月がさやかに照って、千鳥が鳴いている。沖の風が吹く吹飯の浦の明け方の空よ。)
千鳥をよめる
須磨の関有明の空に鳴く千鳥かたぶく月は汝なれもかなしや(千載425)
(須磨の関で有明の空に鳴く千鳥よ、沈もうとする月は、おまえも悲しく眺めるのか。)
雪のあした、後徳大寺左大臣の許に遣はしける
今日はもし君もや訪とふと眺むれどまだ跡もなき庭の雪かな(新古664)
(今日はもしやあなたが訪ねて来るかと眺めるけれど、まだ足跡もない庭の雪であるよ。)
守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに
雪ふれば嶺の真榊まさかきうづもれて月にみがける天の香久山(新古677)
(雪が降ると、峰の榊の木々は埋もれてしまって、月光で以て磨いているかのように澄み切った天の香具山よ。)
後法性寺入道前関白、右大臣に侍りける時、家に百首歌よみ侍りけるに、雪を
まきもくの珠城たまきの宮に雪ふればさらに昔の朝あしたをぞ見る(玉葉1001)
(巻向の珠城の宮に雪が降ると、こうして見ている現在の有様だけでなく、さらに遠い代の朝を眺めるような心持がするのだ。)
旅 / 百首の歌めしける時、旅の歌とてよませ給うける
浦づたふ磯の苫屋の梶枕聞きもならはぬ波の音かな(千載515)
(浦伝いに旅して来て、磯の苫屋で梶を枕に寝ていると、聞き慣れない波の音がすることよ。)
家に百首の歌よませ侍りける時、旅の歌とてよみ侍りける
あはれなる野島が崎のいほりかな露置く袖に浪もかけけり(千載531)
(哀れ深い野島が崎の旅の宿であるよ。涙が露のように置いた袖に、さらに波もかかるのだった。)
久安百首歌たてまつりける旅の歌(二首)
我がおもふ人に見せばやもろともにすみだ川原の夕暮の空(新勅撰519)
(私が恋しく思う人に、この景色を見せたいものだ。隅田川の夕暮の空を。)
はるかなる芦屋の沖のうき寝にも夢路はちかき都なりけり(新勅撰520)
(遥かな芦屋の沖で、波に浮いて寝泊まりする――そんな夜にも、夢路では近い都なのであった。)
守覚法親王家に、五十首歌よませ侍りけるに、旅の歌(二首)
夏刈りの芦のかり寝もあはれなり玉江の月の明けがたの空(新古932)
(夏刈りの芦を刈り敷いての仮寝も興趣の深いものである。玉江に月が残る明け方の空よ。)
立ちかへり又も来てみむ松島や雄島をじまの苫屋波に荒らすな(新古933)
(再び戻って来て見よう。それまで松島の雄島の苫屋を波に荒れるままにしないでくれ。)
入道前関白家百首歌に、旅の心を
難波人あし火たく屋に宿かりてすずろに袖のしほたるるかな(新古973)
(難波人が蘆火を焚く小屋に宿を借りて、わけもなく袖がぐっしょり濡れてしまうことよ。)
述懐百首歌よみ侍りける、旅の歌
世の中は憂きふししげし篠原しのはらや旅にしあれば妹夢に見ゆ(新古976)
(篠竹に節が多いように、人生は辛い折節が多い。篠原で旅寝していれば、妻が夢に見えて、また辛くなる。)
悲傷 / 権中納言俊忠の遠忌に鳥部野の墓所の堂にまかりて、夜ふけて帰り侍りけるに、露のしげかりければ
分け来つる袖のしづくか鳥部野のなくなく帰る道芝の露(玉葉2386)
(草を分けて来た私の袖の雫が残っているのだろうか。亡き父を偲びつつ泣く泣く帰る鳥部野の道端の芝草にいっぱい置いた露は。)
母の思ひに侍りける秋、法輪寺にこもりて、嵐のいたく吹きければ
うき世には今はあらしの山風にこれや馴れ行くはじめなるらむ(新古795)
(辛い現世にはもう留まるまいと思って籠る嵐山の山風に、これが馴れてゆく始めなのだろうか。)
後白河院
かくて日頃のすぐるにも、つきせぬ心ちのみして、思ひつづけしことを誰にかは言ひやらむなど、思ふ給へしほどに、静賢法印こそはと、歎きのほども思ひやられて、三月つくる日つかはしける〔長歌略〕(二首)
思ひきやあるにもあらぬ身のはてに君なきのちの夢を見むとは(長秋草)
(思いもしなかった。生きているとも言えない身の終りにあって、院のおられない後の夢の世を生きようとは。)
なげくべきその数にだにあらねども思ひ知らぬは涙なりけり(長秋草)
(院の崩御を嘆いて然るべき、そんな人の数にも入らないような私だけれども、身の程を知らずに落ちるのは涙なのだった。)
建久四年二月十三日、年頃のとも子共の母かくれて後、月日はかなく過ぎゆきて、六月つごもりがたになりにけりと、夕暮の空もことに昔の事ひとり思ひつづけて、ものに書き付く(二首)
おのづからしばし忘るる夢もあればおどろかれてぞさらに悲しき(長秋草)
(自然としばらく忘れる夢もあるので、目が覚めて妻の死は現実なのだと気づくと尚更悲しいのである。)
いつまでかこの世の空をながめつつ夕べの雲をあはれとも見む(長秋草)
(いつまでこの世の空を眺めては、夕暮の雲を哀れ深いものと見るのだろうか。)
又、法性寺の墓所にて(二首)
思ひかね草の原とてわけ来ても心をくだく苔の下かな(長秋草)
(恋しさに耐えかねて、草の原となった墓所を分けて来たけれども、墓の下の人を思えばさまざまに心は乱れるのだった。)
苔の下とどまる玉もありといふ行きけむ方はそこと教へよ(長秋草)
(亡骸にとどまっている魂もあるという。亡き人がどこへと行ったのか、そこであると教えてくれ。)
定家朝臣母身まかりて後、秋頃、墓所ちかき堂にとまりてよみ侍りける
稀にくる夜半も悲しき松風をたえずや苔の下に聞くらむ(新古796)
(稀に訪れる夜でも悲しく聴こえる松風を、亡き妻は絶えず墓の下で聞くのだろうか。)
次の日、墓所にて
しのぶとて恋ふとてこの世かひぞなき長くて果てぬ苔の行方に(長秋草)
(墓はいつまでもこのままであり続けるのに、この世に残っている私がいくら偲ぼうと恋しがろうと、それは束の間のことで甲斐もない。)
祝 / 文治六年女御入内屏風歌
山人の折る袖にほふ菊の露うちはらふにも千代は経ぬべし(新古719)
(仙人が花を折り取る、その袖を濡らして香る菊の露――それを打ち払う一瞬にも、千年が経ってしまうだろう。)
祝の心をよみ侍りける
君が代は千世ともささじ天あまの戸や出づる月日のかぎりなければ(新古738)
(大君の御代は、千年とも限って言うまい。天の戸を開いて昇る太陽と月は限りなく在り続けるのだから。)
仁安元年、大嘗会悠紀歌奉りけるに、稲舂歌
近江あふみのや坂田の稲をかけ積みて道ある御代の始めにぞ舂つく(新古753)
(近江の坂田の稲を積み重ねて掛け、正しい道理の通る御代の最初に舂くのである。)
仁安元年の大嘗会の悠紀方の、巳の日の楽急、木綿園ゆふその
木綿園ゆふそのの日影のかづらかざしもて楽しくもあるか豊の明りの(玉葉1099)
(木綿園に生える日影のかずらを冠に挿頭して、楽しいことよ、豊の明りの宴は。)
恋 / 忍恋しのぶるこひを
いかにせむ室むろの八島やしまに宿もがな恋のけぶりを空にまがへむ(千載703)
(この思いをどうすればよいだろう。いつも蒸気で煙っているという室の八島に家があったなら。私の身から恋の煙を空に立ちのぼらせ、その湯気に紛らそうものを。)
法住寺殿にて五月の御供花の時、男ども歌よみ侍りけるに、契後隠恋といへる心をよみ侍りける
たのめこし野辺の道芝夏ふかしいづくなるらむ鵙もずの草ぐき(千載795)
(約束をあてにしてやって来た野辺の道芝は、夏も深いこととて深く繁っている。あの人の住まいはどこなのだろう。まるで百舌が草の繁みに潜り込んだように行方が知れない。)
法住寺殿の殿上の歌合に、臨期違約恋といへる心をよめる
思ひきや榻しぢの端書き書きつめて百夜ももよも同じまろ寝せむとは(千載779)
(思ってもみただろうか――昔、男が恋の成就を祈って榻の上に百夜丸寝し、その端に印を書き集めたというが、私もそんなふうに、百夜も同じ姿で独り寝しようとは。)
後朝の歌とてよみ侍りける
忘るなよ世々の契りを菅原や伏見の里の有明の空(千載839)
(忘れるなよ。後の世までもと誓い合い、夜ごと情を交し合ったことを。菅原の伏見の里で、共に臥しながら眺めた有明の空を――。)
崇徳院に百首歌奉りける時、恋の歌とてよめる
恋をのみ飾磨しかまの市いちに立つ民の絶えぬ思ひに身をや替へてむ(千載857)
(飾磨の市に現われる民衆が絶えないように、恋しいばかりで絶えずあなたを思う苦しさに、いっそ我が身を他人の身に替えてしまおう。)
摂政右大臣の時、家の歌合に、恋の心をよめる
逢ふことは身を変へてとも待つべきを世々を隔てむほどぞかなしき(千載897)
(逢って思いを遂げることは、来世生まれ変わってでもと待つべきであるのに、今生(こんじょう)と来世(らいせ)とを隔てる時間が切ないのである。)
百首歌めしける時、恋の歌とてよめる(二首)
奥山の岩垣沼いはかきぬまのうきぬなは深きこひぢになに乱れけむ(千載941)
(奥山の岩で囲まれた沼に生えている蓴菜(じゅんさい)は泥土の中に根を延ばしている――そのように私は恋路の深みにはまって、何を思い乱れていたのだろう。)
雨のふる日、女に遣はしける
思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞふる(新古1107)
(思い悩むあまり、あなたの住む方の空を眺めると、霞を分けて春雨が降っている。)
百首歌奉りし時
逢ふことはかた野の里の笹の庵いほしのに露ちる夜半の床かな(新古1110)
(あの人に逢うことは難く、交野の里の笹葺きの庵の篠に散る露ではないが、しきりと涙がこぼれる夜の寝床であるよ。)
四月一日頃雨ふりける夜、忍びて人に物いひ侍りて後、とかくびん悪しくて過ぎけるに、五月雨の頃申し遣はしける
袖ぬれしその夜の雨の名残よりやがて晴れせぬ五月雨の空(玉葉1626)
(袖が濡れたあの夜の雨――あの時の別れの名残惜しさから、そのまま晴れることなく五月雨の空になってしまいました。)
片思ひの心をよめる
憂き身をば我だに厭ふいとへただそをだに同じ心と思はむ(新古1143)
(辛い境遇のこの身を、自分自身さえ厭うています。あなたもひたすら厭うて下さい、せめてそれだけはあなたと心が一つだと思いましょう。)
女に遣はしける
よしさらば後の世とだに頼めおけつらさに堪へぬ身ともこそなれ(新古1232)
(仕方ない、それなら、せめて来世だけでも約束して下さい。我が身は貴女のつらい仕打ちに堪えられず死んでしまいますから。)
千五百番歌合に
あはれなりうたた寝にのみ見し夢の長き思ひに結ぼほれなむ(新古1389)
(はかないことである。転た寝に見ただけの短い夢のような逢瀬が、長い恋となって私は鬱屈した思いを抱き続けるのだろう。)
崇徳院に百首歌奉りける時、恋歌
思ひわび見し面影はさておきて恋せざりけむ折ぞ恋しき(新古1394)
(歎き悲しむ今は、逢瀬の時に見た面影はさておいて、あの人をまだ恋していなかった頃のことが慕わしく思われるのである。)
左大将の家に会すとて、歌加ふべきよしありし時、恋歌
恋せずは人の心もなからまし物のあはれもこれよりぞ知る(長秋詠藻)
(恋をしなかったなら、人には心というものもないだろう。「物のあはれ」も、この恋ということによって、人は知るのである。)
雑 / 述懐百首歌中に、五月雨
五月雨は真屋の軒端の雨あまそそぎあまりなるまでぬるる袖かな(新古1492)
(五月雨は、真屋の軒端から落ちる雨垂れが余りひどいように、ひどく涙に濡れる袖であるよ。)
述懐百首の歌よみ侍りける時、鹿の歌とてよめる
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(千載1151)
(辛いこの現世というものよ。そこから逃れる道はないのだ。深い思いをこめて入り込んだ山の奧でも、鹿が悲しげに啼いている。)
述懐百首歌よみける時、紅葉を
嵐吹く峯の紅葉の日にそへてもろくなりゆく我が涙かな(新古1803)
(嵐が吹き荒れる峰の紅葉が日に日に脆くなってゆくように、感じやすくなり、こぼれやすくなってゆく我が涙であるよ。)
雪によせて、述懐の心をよめる
杣山そまやまや梢におもる雪折れにたへぬ歎きの身をくだくらむ(新古1582)
(杣山の木々の梢に雪が重く積もって枝が折れる――そのように、耐えられない嘆きが積もって我が身を砕くのであろう。)
暁の心を
暁とつげの枕をそばだてて聞くも悲しき鐘の音かな(新古1809)
(暁であると告げるのを、黄楊の枕をそばだてて聞いていると、何とも悲しい鐘の音であるよ。)
述懐百首歌よみ侍りけるに
いかにせむ賤しづが園生そのふの奧の竹かきこもるとも世の中ぞかし(新古1673)
(どうしよう。賤しい我が園の奧の竹垣ではないが、深く引き籠って生きようとも、世間から逃れることはできないのだ。)
述懐百首歌の中に、夢の歌とてよめる
憂き夢はなごりまでこそ悲しけれ此の世ののちもなほや歎かむ(千載1127)
(辛い夢は、覚めたあとの名残までもが悲しいのだった。この世から生まれ変わっての後の世も、やはり歎き続けるのだろうか。)
永治元年、御譲位近くなりて、夜もすがら月を見てよみ侍りける
忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月の心ありせば(新古1509)
(私も忘れまい。おまえも忘れるなとだけは言っておきたいものだ。殿上から眺める月に心があったならば。)
崇徳院に百首歌奉りける、無常の歌
世の中を思ひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲(新古1846)
(世の中のことを次から次へ思い続けて、外を眺めていると、虚空にはなかく消えてゆく白雲よ。)
山家月といへる心をよみ侍りける
住みわびて身を隠すべき山里にあまり隈なき夜半の月かな(千載988)
(浮世が住みづらくなって、隠遁しようと山里にやって来たが、あまりにも隈なく月が照っていて、身を隠すすべもないのだった。)
安元弐年にや、九月廿日比より心ち例ならずおぼえて、廿七日にはかぎりになりければ、さまかへむとするほど、皇太后宮大夫辞し申すよしなど、左大将のもとに消息つかはす次にそへける歌
昔より秋の暮をば惜しみしが今年は我ぞ先立ちぬべき(長秋詠藻)
(昔から秋の暮を惜しんだものだが、今年は秋が終わる前に私の方が先に逝ってしまうことだろう。)
秋の暮に病にしづみて世をのがれ侍りにける、又の年の秋九月十余日、月くまなく侍りけるに、よみ侍りける
思ひきや別れし秋にめぐりあひて又もこの世の月を見むとは(新古1531)
(思いもしなかった。この世と訣別した秋に巡り逢って、再び生きて月を眺めようとは。)
入道前関白太政大臣家、百首歌よませ侍りけるに、立春の心を
年暮れし涙のつららとけにけり苔の袖にも春や立つらむ(新古1436)
(年が暮れたのを惜しんで流した涙のつららも解けてしまった。苔の袖にも春が来たのであろうか。)
遁世ののち花の歌とてよめる
雲の上の春こそさらに忘られね花は数にも思ひ出でじを(千載1056)
(宮中で経験した春こそは絶えて忘れられない。禁裏の花は、私のことなど物の数にも思い出さないだろうに。)
世をのがれて後、百首歌よみ侍りけるに、花歌とて
今はわれ吉野の山の花をこそ宿の物とも見るべかりけれ(新古1466)
(出家した今、私は吉野山の桜を我が家のものとして眺めることができるのだ。)
入道前関白太政大臣家の百首歌に
照る月も雲のよそにぞ行きめぐる花ぞこの世の光なりける(新古1468)
(美しく輝く月も、雲の彼方という遥か遠い世界を行き巡っている。それに対して桜の花こそはこの世界を照らす光なのだ。)
題しらず
老いぬとも又も逢はむと行く年に涙の玉を手向けつるかな(新古1586)
(老いてしまったけれども、再び春に巡り逢おうと、去り行く年に涙の玉を捧げたのであった。)
入道前関白太政大臣家歌合に
春来ればなほこの世こそ偲ばるれいつかはかかる花を見るべき(新古1467)
(春が来ると、やはりこの現世こそが素晴らしいと心惹かれるのである。来世ではいつこのような花を見ることができようか。そんなことは分かりはしないのだから。)
太神宮に奉りける百首歌中に、若菜をよめる
今日とてや磯菜つむらん伊勢島や一志いちしの浦のあまの乙女子(新古1612)
(今日は正月七日というので、若菜の代りに磯菜を摘んでいるのだろうか。伊勢島の一志の浦の海人の少女は。)
春日社にたてまつりける百首歌の中に、野を
春日野は子ねの日び若菜の春のあと都の嵯峨は秋萩の時(玉葉2062)
(春日野は、子の日の若菜摘みをした春の野遊びの跡が良い。都の嵯峨野は、秋萩の時が良い。)
百首歌よみ侍りけるに、懐旧歌
昔だに昔と思ひしたらちねのなほ恋しきぞはかなかりける(新古1815)
(まだ若かった昔でさえ、亡くなったのは昔のことだと思っていた親――その親が今もなお恋しく思われるとは、はかないことである。)
八十やそぢにおほくあまりて後、百首歌召ししに、よみて奉りし
しめおきて今やと思ふ秋山の蓬がもとにまつ虫のなく(新古1560)
(自身の墓と定めて置いて、今はもうその時かと思う秋山の、蓬(よもぎ)の繁る下で、私を待つ松虫が鳴いている。)
千五百番歌合に
荒れわたる秋の庭こそ哀れなれまして消えなむ露の夕暮(新古1561)
(一面に荒れている秋の庭は哀れなものだ。まして、今にも消えそうな露が庭の草木に置いている夕暮時は、いっそう哀れ深い。)
山家松といふことを
今はとてつま木こるべき宿の松千世をば君となほ祈るかな(新古1637)
(今となっては、薪を伐って暮らすような隠棲の住まいにあって、その庭先に生える松に寄せて、千歳の齢を大君に実現せよと、なおも祈るのである。)
神祇 / 賀茂社の後番の歌合のとき、月歌とてよめる
貴船川たまちる瀬々の岩浪に氷をくだく秋の夜の月(千載1274)
(貴船川の瀬々の岩に寄せては玉と散る波――その波に、氷を砕くと見える秋の夜の月よ。)
入道前関白家、百首歌よみ侍りけるに
神風や五十鈴の川の宮柱いく千世すめとたてはじめけむ(新古1882)
(五十鈴川のほとりの内宮(ないくう)の宮柱は、川の水が幾千年も澄んでいるように幾千年神が鎮座されよと思って建て始めたのであろうか。)
文治六年女御入内屏風に、臨時祭かける所をよみ侍りける
月さゆるみたらし川に影見えて氷にすれる山藍の袖(新古1889)
(澄み切った月が輝く御手洗川に、小忌衣(おみごろも)を着た人の影が映っていて、その氷で摺り付けたかのような山藍の袖よ。)
家に百首歌よみ侍りける時、神祇の心を
春日野のおどろの道の埋れ水すゑだに神のしるしあらはせ(新古1898)
(春日野の茨の繁る道にひっそり流れる水――そのように世間に埋もれている私ですが、せめて子孫にだけでも春日の神の霊験をあらわして下さい。)
釈教 / 法師品ほつしほんの漸見湿土泥ぜんげんしつどでい、決定知近水けつじやうちごんすいの心をよみ侍りける
武蔵野のほりかねの井もあるものをうれしく水の近づきにける(千載1241)
(武蔵野の堀兼の井のように掘るのが困難な井もあるものを、私が掘ってゆくと、嬉しいことに水脈が近づいてきたのだった。)
勧発品くわんぽつほんの心をよみ侍りける
更にまた花ぞ降りしく鷲の山法のりのむしろの暮れ方の空(千載1246)
(再びまた蓮華が降りしくのだ。釈迦が説法する霊鷲山(りょうじゅせん)の暮れかかる空から。)
美福門院に、極楽六時讃の絵にかかるべき歌奉るべきよし侍りけるに、よみ侍りける、時に大衆法を聞きて弥いよいよ歓喜膽仰せんがうせむ
今ぞこれ入日を見ても思ひこし弥陀みだの御国みくにの夕暮の空(新古1967)
(今目の当りにしているのがそれなのだ、入日を眺めては思い憧れてきた、阿弥陀如来の御国、極楽浄土の夕暮の空よ。) 
3
中世和歌の表現と理念
藤原俊成の和歌と歌論を中心に
本博士論文は、主に俊成が残した和歌作品と歌合判詞を資料として利用し、和歌表現と歌論との二つの部分に分けて、俊成の創作手法と批評態度について分析、検討し、その作品と歌論の特徴と本質を考察したものである。
第一編「俊成の和歌表現に関する研究」において、俊成の和歌創作における古典摂取、ことに漢詩文との関係について論じた。
第一章では、現在知られる俊成の最初のまとまった作品群である『為忠家初度百首』に焦点を絞って、とりわけ「竹林鶯」と「窓前梅」との二題にある俊成の存疑歌を中心に、これらの歌の表現上の特徴から俊成作であると判断した上で、若き日の俊成の創作に見られる漢詩文摂取のありかたを探ってみた。
第二章において、漢詩文における「蘭」のイメージに注目した俊成は、「蘭」即ち「藤袴」という当時の共通認識をうまく利用し、「藤袴」に「蘭」のイメージをダブらせて、お互いに響き合わせることによって、歌ことばとしての「藤袴」のイメージをいっそう多様化させ、その意味や表象の広がりを図ったことを指摘した。
第三章は和歌における「積薪」という故事の受容と「塵」のイメージに関する和漢比較を中心に、表現と発想の両面において述懐歌における漢詩文摂取の様相を考察してみた。漢文学と和歌における述懐の伝統は違うにもかかわらず、述懐の歌にはしばしば漢文学から摂取したと思われる表現や発想などが見られる。これらの表現や発想が和歌に詠み込まれる際に、原典と趣を異にし、独自な展開を遂げる場合も少なくない。
第四章では、『古来風躰抄』初撰本と再撰本における万葉歌の本文変更とその理由に対する分析を通じて、『古今集』を代表とする中古の歌集を尊重し、心情の表出を重んじる俊成と、あくまで『万葉集』や古語を尊重し、衒学的な解釈を好む顕昭との距離、すなわち万葉摂取や古典受容をめぐる両者の立場の違いを指摘した。
第二編「俊成歌論に関する研究」において、俊成の歌合判詞に見られる「心」と「詞」に関する指摘を中心に、歌論のもっとも根本的かつ基本的な問題―「心詞論」について考えた。
第一章では、まず俊成に至るまでの「心詞論」について検討したうえ、主に「心あり」という批評用語をめぐって、俊成の「心」に関する考え方を考察した。「心あり」という批評用語の評価対象によって、一句や具体的表現に対する評価と一首全体に対する評価との二つの枠組みを設けて、それぞれの意味について分析を施した。初期の歌合判詞において、一句や具体的表現に対する評価としての「心あり」は縁語や掛詞など、すなわち言葉の寄せを重視している傾向が見られる。ただ、俊成が「心あり」と評価された言葉の「よせ」は単なる技巧や機知を見せつけるためのものではなく、一首の意味や感情の伝達に大きく役立つ表現である。一方、『六百番歌合』を中心に、後期の歌合判詞に見られる「心あり」は表現伝統或いは特定の文脈との結びつきによって、言葉そのものの意味以外に、或いは文脈から直接読み取れない、一種の感情的、気分的な「意味」をもたらすことに対する評価であると見なされる。表現が担っている意味伝達と感情伝達の機能をバランスよく働かせることを前提として、効果的な感情伝達をいっそう重視する俊成の姿勢が「心あり」という評論用語からうかがえる。
第二章では、俊成の「詞」つまり表現に関する考え方、なかんずく「本歌取り」など中世和歌の基本的技法と関係の深い「古」と「新」の問題について考えてみた。俊成は、「本歌」とほとんど変わりばえがしない「本歌取り」を高く評価していない。俊成が庶幾する本歌取りの姿は、古歌の表現を読み込むことによって、古歌に詠まれた感情や情緒を一種の気分として新しい歌に移入することができ、また、もとの文脈との感情的つながりによって、新しい歌は時間的、空間的な広がりを持つようになり、奥行きの深い、立体的な歌境を開けるようなものであろう。
最後に、終章において『古来風躰抄』序文における「もとの心」について分析を試みた。歌ことばとしての「もとの心」は、『古今集』に三例ほど見られるが、いずれも掛詞や縁語関係によって情と景の両方に対応する二重構造を構成している。そこで、『古来風躰抄』序文における「もとの心」はこのような和歌の伝統的な詠み方の流れを汲んだものであると考えられ、「もとの心」の「もと」は「元来」という意味の「元」だけではなく、「花紅葉」や「種」「葉」の縁語としての、根元という意味の「本」でもあると解せられる。すると、「もとの心」は「心を種として」という仮名序の記述と対応して、さらに俊成の縁語的表現をも考慮して「心根」と解することができる。つまり、表現を生み出す前の感動や感情、あるいは表現に託された思いや情緒のことを意味する。 
4
本歌取り論成立と藤原俊成
新古今時代において確立された「本歌取り」の技法論には、藤原俊成・定家父子の影響が最も大きいと考えられている。俊成は当代歌壇の中心人物で歌合の名判詞とも称されたが、その判詞において、本歌取りによる作歌を初めて公的に評価し始めた人物でもあった。また、「本歌」という語を初めて用いたのも俊成であった事が先行研究において指摘されている。そのため俊成は、本歌取りの最初の本格的な推奨者であると考えられてきた。
本歌取りは当時広く流行していたが、「古歌の一節を引用して新しく作歌する」という技法の性格上、盗作問題と密接に結び付き非難される風潮が根強くあった。俊成以後の歌人らによって「本歌を取る」と呼ばれるようになるまでは、「古歌を盗む」と呼ばれていた事にも当時の世情が窺える。
しかし今日の先行研究によって、俊成以前の歌人らの間にも、本歌取りを積極的に評価しようとする動きが少しずつ高まっていた事が明らかになってきた。彼らの本歌取り論を時代に沿って見ていくと、当初の論は「詠み益し」と呼ばれる「引用した古歌を超えるものであるならば良い」という限定的な肯定がほとんどであった。それに対して俊成の師である藤原基俊の論になると、「詞は違うが心は同じなので良くない」と評している判詞があり、この事はただ「詠み益すことができれば良い」と述べていたものから、時代と共に論がより深く展開されていった事が分かる。ところが基俊は、技法自体は否定しないが、歌合のような公的な晴れの場では用いるべきではないとする態度をとっていた。
本発表では、まず俊成以前の本歌取り論と俊成の本歌取り論を比較し、双方の論の相違点を浮かび上がらせる。その上で、それ以前の論から差異が生じる事となった俊成本歌取り論の、背景にある思想・影響関係についての考察を試みる。
歌合判詞の読解を通して浮かび上がってくる俊成の本歌取り論は、本歌取りを用いて作歌する事を認めた上で、更にどのような本歌取りが良くてどのようなものが良くないかという、評価の明確な基準設定を試みていたものであった事が分かる。それら詳細な設定は、後に本歌取り論を確立させた定家の論にも引き継がれる「引用した詞の配置」や「心を変化させる」等の技巧的な問題点にも及ぶが、後者は師である基俊の論の影響が示唆される。
しかしながら、俊成の論には前時代の歌人らの論とは異なった特徴がある。それは本歌取りによる作歌に限らず、判詞の際に頻繁に古歌や物語などの古典作品を引き合いに出し、「古歌(または古言ども)を覚えて優に聞ゆ」と、古典作品が想起されるような作歌を高く評価していた点である。歌を鑑賞する際に古典作品を想起するという事は、本歌取りにおいて、引用した和歌とそれを元にした新作歌との、重層的な内容の構造を鑑賞する事に通ずると言える。よって、この姿勢が俊成の本歌取り論を形成する一助になったと考えられる。  
5
『平家物語』平忠度の都落ちと藤原俊成
薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。
「忠度」 と名のり給へば、
「落人帰り来たり」 とて、その内騒ぎ合へり。
薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、
「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、このきはまで立ち寄らせ給へ。」 とのたまへば、俊成卿、
「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」 とて、門を開けて対面あり。ことの体、何となうあはれなり。
(忠度が五条の三位俊成の門前で「忠度です」と名乗ると、閉じられた門扉の中で「落人がきたー」と騒ぐ声がする。忠度は開門せずともいいと言ったが、俊成は開門し対面した。どうしたことか、姿に哀愁が漂っている。)
薩摩守のたまひけるは、
「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御ことに思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。
君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。 」
(忠度は言う。「先年より歌道に就いて教えを承り、私は決してあなたを粗末にするまいと思っていました。しかし、ここ二、三年の京都や国々の騒乱は、わが平家の上に覆い被さっていることなので、日頃は参上致しませんでした。安徳天皇は既に都を出ました。一門の運命ももはや尽きたのです。」)
撰集のあるべきよし承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存ずる候ふ。
世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。
これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」とて
(「和歌集の勅撰の沙汰があると聞き、生涯の名誉に一首だけでも勅撰集に入れて戴けたら、と思っていたものの、世の中が乱れ、その沙汰もなくなってしまったことは、ただひたすら嘆かわしいことと存じております。世の中が静まったなら、きっと勅撰集編纂のご沙汰があるでしょう。この巻物の中にしかるべき和歌があり、もし一首だけでも勅撰集に入れて戴けたら、草葉の陰であっても嬉しく存じ、微力を尽くし貴方を御守り致します」と言って)
日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。
(忠度は、今こそ最後と覚悟して出発した時、日頃詠みためた中から秀歌と思われる歌を百余首書き留めた巻物を、持ち出していた。それを鎧の引き合わせから取り出して俊成に渡した。)
三位これを開けて見て、
「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。
さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ。」 とのたまへば、
(俊成はそれを見て 「このような忘れ形見を賜った上は、ゆめゆめ粗末に致しません。それにしても、今、この時に来てくれたことこそ情け深く、哀れなことと思い知らされ、感涙が抑えられません」と言ったところ、)
薩摩守喜んで、
「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。
浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」
とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。三位、後ろをはるかに見送つて、立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、
「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す。」
と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。
(忠度は喜んで、「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野に屍をさらさばさらせ。浮き世に思い置くことなし。では、これでお別れでございます」と、馬に乗り、甲の緒を締め、西をさして進んだ。俊成は立ち尽くして、忠度の後ろ姿をはるか先まで見送っていたが、遠くから忠度とおぼしき高らかな声がして「前途程遠し、思いを雁山の夕べの雲に馳す」(※朗詠集にある別れの歌)と聞こえた。俊成は、とても名残惜しくあわれに思え、涙を抑えて門の中に入った。)
そののち、世静まつて千載集を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠み人知らず」と入れられける。
さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな
その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりしことどもなり
(その後、世が静まり、千載集の撰集があった。俊成は、平忠度のあの日の姿、言い置いた言葉が今更思い出されて、哀れだった。受け取った巻物の中にしかるべき歌はたくさんあったが、忠度はもはや朝敵となった人なので、名前を明かさず、「故郷の花」という題の一首を、「読み人知らず」として載せた。

さざ浪や志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな
天智天皇時代に都であった志賀の都は荒れてしまったが、昔から変わらない長等(ながら)山桜が咲いていることよ。忠度が朝敵となった上は仕方のないことだが、恨めしいことであったよ。俊成に歌への心残りを静かに語る姿から一転。武将・忠度の覚悟の言葉が対照的です。
忠度の歌
『千載和歌集』に1首・『新勅撰和歌集』等の勅撰和歌集に11首が入集。この『千載和歌集』の1首こそ、『平家物語』に語られる「読み人知らず」の歌。作者が忠度であることは周知の事実であったものの、朝敵の身となったため、撰者の藤原俊成が配慮して名を隠したのです。
『忠度集』 / 閨冷夢驚といふことを人にかはりて
風のおとに秋の夜ぶかく寝覚して 見はてぬ夢のなごりをぞ思ふ
(秋の深夜、寒ざむとした風の音に目が覚めて、途切れてしまった夢のなごりを追想するのだ。)
「閨冷夢驚」とは、「閨(ねや)の冷たさに夢から醒める」の意味。この歌は鴨長明『無名抄』で「させる事なけれど、ただ詞続きにほひ深くいひなしつれば、よろしく聞こゆ」歌の例として挙げられています。 
6
雪の調べ 藤原俊成
ひと月ほど前になりますか、しばらく暖かい日が続いていたのが、急に寒が戻ってきて雪がちらついた日がありました。それまで暖かい代わりに曇り空が多く、久しぶりに澄み切った冬晴れだったので、自転車で近所に散策にでかけました。外に出てみると、空は晴れているのに細かい雪が舞っているのに気付きました。比良山の方を見ると、山の上が雪雲らしいものに覆われて白く霞んでいます。青空の下に舞う雪は、まるで風に散る桜の花のようでした。
またや見む 交野のみ野のさくらがり 花の雪散る春のあけぼの
   皇太后宮大夫俊成 新古今 春下114
これはボクの好きな歌人の一人、釈阿・藤原俊成の歌の中でも、特にお気に入りの歌です。こちらは春の歌で、ボクが見た光景とは逆に散る花を雪に見立てているわけです。桜の落花を雪に(あるいは逆に雪を桜の花に)見立てるという発想は、古今集あたりからのようです。たとえば有名なところでは、百人一首の入道前太政大臣(藤原公経)の歌「花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり」があります。しかし、多くの場合見立てというのは単に本意を引き出すための技巧にすぎず、公経の歌の趣向は、同じ百人一首中の小野小町の名歌「花のいろはうつりにけりな いたづらにわが身世にふる ながめせしまに」の一変奏にほかなりません。
俊成の「またや見む」の歌は、そうした単なる見立ての歌とは異なり、奥深い重層性を持っているように思えます。まず詠者に一番近い風景、つまり「春のあけぼの」という特権的な時間における桜狩りの光景がまずあります。しかしそれが、眼前の風景なのか、それとも回想の風景なのかが判然としないところがあります。さらに、花を雪と見立てることで、冬に行われる実際の狩りの風景がそこに重ねられています。そもそも、詠歌というのはほとんどが宮廷の儀式的な空間における営みであって、仮想的な光景が詠まれていることが多いわけです。しかしこの俊成歌は、「またや見む(ふたたび見ることがあろうか)」という強い詠嘆を伴った問いかけ(しかも「交野」が「難い」の意味を含んで否定となっていて、ほぼ断念の意)を初句におくことによって意識的に舞台をつくり、その中に風景を重ね合わせているのです。
この歌は、時代は下って俊成の曾孫(定家の孫)にあたる二条為氏の作ですが、曽祖父・俊成の「またや見む」の歌とまったく同じ構造になっています。それも「春のあけぼの」を結句においてところは全く同じです。言い伝えによれば、最初為氏は「人とはば見つとやいはん(訊かれたら見たと言おうか)」としていたのを、父・為家が直して現在の形になったそうです。「訊かれたら見なかったと言おうか」と否定の形にすることで、万葉以来の伝説の歌枕・玉津島の幻想性を高める効果を出しています。しかし、俊成歌と比べると、残念ながらその余情において数段劣ると思います。
俊成の歌に余情を加えているのは、その背景として重ねられた伊勢物語(八十二段)のエピソードです。伊勢物語は、周知のように在原業平を主人公とした歌物語ですが、八十二段には、不遇の皇子・惟喬親王との交遊が描かれ、その中に交野(現在の大阪府・枚方市にあった皇室の狩場)での桜狩りのエピソードが紹介されています。業平もまた、平城天皇の皇子・阿保親王を父にもちながら、臣籍降下させられた経緯があり、二人の間には通じるものがあったのでしょう。続く八十三段には、皇位継承の望みを絶たれた惟喬親王が出家して、小野(現在の京都市・左京区、大原のあたり)に隠棲する様子が愛惜に満ちた調子で描かれています。
「またや見む」の歌は、建久六年(1195年)二月に左大将・良経家で詠まれた五首歌のうちの一首です。良経の父、九条兼実は、当時関白として鎌倉幕府の頼朝の京における窓口になっており、また娘の任子は若き後鳥羽天皇の中宮となっていたため、宮廷における第一人者の地位にありました。そのため、子の良経も、前年の建久五年には26歳という若さで権大納言と左大将を兼任するという昇進の早さでした。俊成はその九条家の和歌師範であり、子の定家は九条家の家司を務めていたので、九条家は、俊成・定家にとって主家であり庇護者でもあったわけです。
実は俊成は、この歌を詠む5年前の文治六年(1190年)、兼実の娘・任子が、元服した後鳥羽天皇に入内した祝いの屏風和歌中に、「野辺に鷹狩したる所」の題で「またもなほ人に見せばや 御狩する交野の原の雪の朝を」という歌を詠んでいます。「またや見む」はこの旧作を改作したものです。元の歌の方は、単純に冬の狩りと雪を詠っています。「またや見む」の歌は、冬の狩りに春の桜狩りを、雪に落花を重ね合わせ、「もう一度見せたい」という願望を「もう一度見ることができるだろうか」と、否定による屈折を加えながら強めているわけです。
この歌を詠んだ時、俊成自身は数えで83歳でした。当時としては長寿(結局、亡くなったのは数えで91歳)だった俊成は、68歳の時に病で出家して以降も、源平の騒乱、自ら撰者となった千載集の撰集、また愛妻・美福門院加賀(定家の母)の死、そして六百番歌合の判者をつとめるなど、様々な出来事を経験してきたわけです。あるときは喜び、またあるときは苦しみや悲しみといった数々の思い出に対する想いが、この歌には込められているような気がします。
すでに後鳥羽院中宮になっていた任子は良経の妹でもあり、俊成としては、良経家で行なわれた和歌の催しに、目出度い思い出の記念である旧作を取り上げて、慶賀の意を表したのかもしれません。ところが、この歌が詠まれた翌年の建久七年(1196年)、兼実はじめ九条家一家は、政敵であった源通親の陰謀でほぼ公の場から追われることになります(建久の政変)。皮肉なことですが、過ぎ去った栄華に対する哀惜を詠ったこの歌は、変転極まりないこの時代において不吉な予言となってしまったようでした。
建仁二年(1202年)、源通親が没したため、良経はめでたく政界に復帰することになります。ところが、摂政太政大臣として位人臣を極めたものの、建永元年(1206年)38歳の若さで亡くなってしまいます。しかもそれは、寝室で天井から刺されたことによる「頓死」と伝えられるような死に方で、俊成が二年前に91歳で大往生を遂げたのとはきわめて対照的でした。しかし良経は、新古今集に収められた仮名序と名歌の数々によって、俊成とともに新古今集歌人を代表する一人として後世に名を残すことになるわけです。 
7
「世には通例良経を定家の対照もしくは対極におき、一方を清麗閑雅、一方を妖艶晦渋と見なし、甚しきにいたっては良経然らずんば定家の二者択一を試みるような説が行れるやに見うける。式子内親王対俊成卿女にもこ傾向は多分にあるようだ。だが良経はたとえばこの六百番作品を一覧しただけでも大胆な詞句の斡旋、人の意表を衝く奇想に関して定家の弟たりがたい凄じさである。決して単に定家に煽られかつは心酔しての冒険などではない。特に建久二年(一一九一年)以後数度の伊呂波歌や古歌一首頭韻の鎖歌などではむしろ定家を煽り唆すかの趣が著しい。
俊成の苦慮もこの辺に兆していたものと思われる。千載集約千三百首から引用の定家、良経約六十首に目を転ずる時、俊成ならずとも危惧、幻惑こもごもに感じよう。もはや和歌は止めるすべもない変貌を示しているのだ。発想も美学も過去七代集からははみ出し清輔、顕昭ラインは勿論、そもそもは新風の生みの親であった俊成すら眩惑と反撥をこもごも覚えるまでの異風の文体を示しつつあった。
定家、良経の作中に見える、たとえば「闇を光のかがり火」「上おく袖のしたのさざなみ」「嵐のまくら」「わが涙のみ袖に待てども」「手枕うとき」「移ろふ人のあらし」「袖ぞ今は」「露より上を風かよふ」「秋風のすみか」「露にぞうつる花の夕顔」「暮す涙をまづおさふ」「むかしに霞む」「時雨をいそぐ人のそで」「払わぬ塵をはらふ秋風」「扇に秋のさそはれて」「鶉の床をはらふ秋風」「袖より鴫のたつ心地」「薄雪凍る寂しさのはて」「答えぬ風の松に吹くこゑ」「つらさとぢむる」「胸と袖とにさわぐ風」「稲妻通ふ手枕」「氷を敲く」「山越す波を袖にまかせて」等等一首毎にショッキングな修辞の示威が立ち現れるのだ。しかも虚心に見れば決して単なる示威や装飾ではない。在来の規範的作品及び作家が見ようとしなかったものを見、時代の底、魂の淵に臨もうとする時かく歌わねば他に道のない必然性に支えられていたのだ。俊成の直言回避とこれに伴う自己嫌悪はそれゆえに彼の内部でくすぶりつづける。単なる奇矯と頽廃ならばたとえ相手が九条家であろうと最愛の息子であろうと彼ならば直諌をためらわなかったはずである。(略)俊成を口籠らせたのは下剋上的なしかも痛切に今日を追求する彼等の詩精神であった。(略)王朝和歌起死回生の劇毒をいかに評価しいかに遇するかが焦眉の問題となりつつあったのだ。」 
 
84.藤原清輔朝臣 (ふじわらのきよすけあそん)  

 

長(なが)らへば またこのごろや しのばれむ
憂(う)しと見(み)し世(よ)ぞ 今(いま)は恋(こひ)しき  
この先、生きながらえるならば、つらいと感じているこの頃の世の中もなつかしく思い出されるのであろうか。つらいと思っていた昔のことも、今では恋しく思い出されるのだから。 / もしこの世に生き永らえていたら、つらい今が懐かしく思い出されることもあるのだろうか。かつてつらかったあのときも、今思い返すと恋しく懐かしく思われるのだから。 / もし、これから先も生きていることがあるのなら、つらいことの多い今のことを懐かしく思い出すのだろうか。そのときはつらいと思った昔のことが、今では懐かしく思うことがあるのだから。 / この先生きながらえるならば、今のつらいことなども懐かしく思い出されるのだろうか。昔は辛いと思っていたことが、今では懐かしく思い出されるのだから。
○ 長らへば / 下二段の動詞「長らふ」の未然形+接続助詞「ば」で順接の仮定条件を表し、「もしも、生きながらえるならば」の意。
○ またこのごろやしのばれむ / 「や」と「む」は、係り結びの関係。「や」は、疑問の係助詞。「しのば」は、バ行四段の動詞「偲ぶ」の未然形で、懐かしく思うの意。「れ」は、自発の助動詞「る」の未然形。「む」は、推量の助動詞「む」の連体形で「や」の結び。
○ 憂しと見し世ぞ今は恋しき / 「ぞ」と「恋しき」は、係り結びの関係。「憂し」は、つらい。「と」は、内容を示す格助詞。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「ぞ」は、強意の係助詞。「は」は、区別を表す係助詞。「恋しき」は、シク活用の形容詞「恋し」の連体形で、「ぞ」の結び。 
1
藤原清輔(ふじわらのきよすけ、長治元年(1104年) - 治承元年6月20日(1177年7月17日))は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家魚名流、左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。
天養元年(1144年)、崇徳上皇より父・顕輔が勅撰集『詞花和歌集』の撰集を命ぜられ、清輔もその補助に当たったが、顕輔と対立し、ほとんど清輔の意見は採用されなかったという。その後も父に疎まれ昇進面で支援を得られなかったためか、40歳代後半まで位階は従五位下に留まった。
二条天皇に重用され『続詞花和歌集』を撰したが、奏覧前に天皇が崩御し勅撰和歌集にならなかった。久寿2年(1155年)、父から人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を伝授され、六条藤家を継ぐ。御子左家の藤原俊成に対抗した。
保元元年(1156年)従四位下。のち太皇太后宮大進に任ぜられ、藤原多子に仕えた。共に仕えた同僚平経盛とは弟・重家と共に親密な交流を持った。
多くの著作を残し六条藤家歌学を確立しただけでなく、平安時代の歌学の大成者とされる。公的な場で歌を詠むには古い歌集をみるべきだといって『万葉集』を繰り返し読んだという。歌人として認められてからは多くの歌合の判者をつとめ、歌壇を牽引する存在となった。『千載和歌集』(19首)以下の勅撰和歌集に89首が入集。家集に『清輔朝臣集』が、歌学書に『袋草紙』『奥義抄』『和歌一字抄』などがある。
ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき (『新古今和歌集』、百人一首) 
2
藤原清輔 長治一〜治承一(1104-1177)
六条藤家顕輔の次男。母は能登守高階能遠女。初め隆長と名のった。顕方は同母兄、顕昭・重家・季経は異母弟。父顕輔は崇徳院の命をうけ、天養元年(1144)より『詞花集』の撰集に着手。この時清輔は父より助力を請われたが、かねて父とは不和が続き、結局清輔の意見は採られなかったという(『袋草紙』)。四十代後半に至るまで従五位下の地位に留まったのも、父からの後援を得られなかったためと推測されている(『和歌文学辞典』)。しかし歌人としての名声は次第に高まり、久安六年、崇徳院主催の『久安百首』に参加。同じ頃、歌学書『奥義抄』を崇徳院に献上した。また仁平三年(1153)頃、『人丸勘文』を著し、類題和歌集『和歌一字抄』を編集。久寿二年(1155)、父より人麿影と破子硯を授けられ、歌道師範家六条家を引き継ぐ。保元元年(1156)、従四位下。保元三年、和歌の百科全書とも云うべき『袋草紙』を完成する。翌年、これを二条天皇に献上。天皇の信任は篤く、太皇太后宮大進の地位を得る。この頃から自邸で歌合を催したり、歌合の判者に招かれたりするようになり、歌壇の中心的存在となってゆく。二条天皇からは、かねて私的に編纂していた歌集を召され、補正を進めていたが、永万元年(1165)、天皇は崩御。同年、清輔による撰集は、私撰集『続詞花和歌集』として完成された。やがて九条兼実の師範となり、歌道家としての勢威は、対立する藤原俊成の御子左家を凌いだ。治承元年(1177)六月二十日、七十四歳で死去。最終官位は正四位下。著書にはほかに『和歌現在書目録』『和歌初学抄』などがある。自撰と推測される家集『清輔朝臣集』がある(以下『清輔集』と略)。千載集初出。勅撰入集九十六首。
春 / 海上晩霞
夕汐に由良ゆらの門とわたる海人小舟あまをぶね霞の底に漕ぎぞ入りぬる(清輔集)
(夕方の満ち潮どき、由良の海峡を渡る漁師の小船が、霞の底に漕ぎ入って行った。)
海辺霞
塩竈しほがまのうらがなしくも見ゆるかな霞にすける海人の釣舟(中古六歌仙)
(塩竈の浦はうらがなしく見えるなあ。霞に透けて見える、漁師の小舟よ。)
崇徳院に百首歌たてまつりける時、花の歌とてよめる
神垣の三室の山は春来てぞ花の白木綿しらゆふかけて見えける(千載58)
(三室の山は春が来たので、花の白木綿を掛けたように見えるのだった。)

かざしをる三輪の檜原の木この間より領布ひれふる花や神の八乙女やをとめ(清輔集)
(三輪の檜林の木の間から、領布を振って舞うように見える桜の花――あれは、神楽を舞う少女たちなのだ。)
題しらず
思ひ寝の心やゆきて尋ぬらむ夢にも見つる山桜かな(続千載89)
(思いながら寝入った心が訪ねて行ったのだろうか。夢でも逢えた山桜よ。)
花の歌の中に
老いらくは心の色やまさるらむ年にそへてはあかぬ花かな(玉葉169)
(老年になると心の色がまさるのだろうか。年を取るにつれてますます見飽きない桜の花であるよ。)
見花述懐
身をつめば老木おいぎの花ぞあはれなる今幾とせか春に逢ふべき(清輔集)
(自分が同じ境遇を味わってみると、老木の花がいとしく思える。あと何年、春に逢うことができるのだろうか。)
崇徳院に百首歌たてまつりける時、春駒の歌とてよめる
みごもりに蘆の若葉や萌えぬらむ玉江の沼をあさる春駒(千載35)
(水中に隠れて蘆の若葉が萌え出ているのだろうか。玉江の沼に餌をあさる春の馬よ。)
夏 / 郭公の歌とてよめる
風越かざこしを夕こえくればほととぎす麓の雲の底に鳴くなり(千載158)
(風越山を夕方越えて来ると、ほととぎすが麓の雲の底で鳴くのが聞こえる。)
崇徳院に百首歌たてまつりける時
おのづから涼しくもあるか夏衣なつごろもひもゆふぐれの雨のなごりに(新古264)
(おのずと涼しいのだなあ。夏衣の紐を「ゆう」ではないが、夕暮の雨のなごりのせいで。)
秋 / 崇徳院に百首歌奉りける時
うす霧の籬まがきの花の朝じめり秋は夕べと誰か言ひけむ(新古340)
(薄霧の立ちこめる垣根の花がしっとりと朝露に濡れている。秋は夕方が良いなどと誰が言ったのだろう。)
崇徳院に百首歌たてまつりける時、よめる
龍田姫かざしの玉の緒をよわみ乱れにけりと見ゆる白露(千載265)
(龍田姫の髪飾りの玉をとめた糸が弱いので乱れてしまった――そんなありさまで散り乱れる白露よ。)

霧のまに明石の瀬戸に入りにけり浦の松風音にしるしも(清輔集)
(霧の立ち込める中、明石の海峡に入ったのだな。浦の松を渡る風の音によってはっきりと知れる。)
百首歌めしける時、月のうたとてよませ給うける
塩竈の浦ふく風に霧はれて八十島やそしまかけてすめる月かげ(千載285)
(塩竈の浦を吹く風に霧が晴れて、数知れぬ島々まで澄んだ光のうちに照らし出す月影よ。)

ゆく駒のつめの隠れぬ白雪や千里のそとにすめる月かげ(清輔集)
(駆けて行く馬のひづめが隠れない白雪は、千里の遠くまで澄み渡る月の光である。)
月三十五首のなかに
夜とともに山の端いづる月影のこよひ見そむる心地こそすれ(清輔集)
(夜になると同時に山の端から出てくる月――今夜初めて目にするような気がするのだ。)
法性寺入道前関白太政大臣、月歌あまた人々によませけるによめる
夜もすがら我をさそひて月影のはては行方もしらで入りぬる(新拾遺439)
(一晩中、月の光は私をどこまでも誘いつづけ、あげくの果て、行く方も知れずに沈んでしまった。)
月のうた十首よみ侍りける時、よめる
今よりは更けゆくまでに月は見じそのこととなく涙落ちけり(千載994)
(これからは、夜が更けるまでずっと月を見ることはするまい。これといった理由もなく涙が落ちてしまった。)
題しらず
更けにける我が世の秋ぞあはれなるかたぶく月はまたも出でなむ(千載297)
(更けてしまった私の人生の秋は悲しいものだ。西へ傾く月は、再び東から昇るだろうけれど。)
冬 / 久安六年崇徳院に百首歌奉りける時
山がつの蓬よもぎが垣も霜枯れて風もたまらぬ冬は来にけり(玉葉834)
(山賤の家の蓬が生えた垣根も霜に枯れて、風も止まらずに吹きつける冬はやって来た。)
題しらず
柴の戸に入日の影はさしながらいかに時雨しぐるる山べなるらむ(新古572)
(柴の戸に入日の影は射しているのに、どうしてこの山では時雨が降っているのだろう。)
題しらず
おのづから音するものは庭の面おもに木の葉吹きまく谷の夕風(新古558)
(人が来たわけでもないのに音をたてるものと言えば、庭の上に木の葉を吹き散らす谷の夕風ばかり。)
社頭月
月影はさえにけらしな神垣のよるべの水もつららゐるまで(住吉社歌合)
(月の光は冴え冴えと冷たくなったらしい。神前に供えた寄辺の水も氷が張るまでに。)
百首歌の中に、雪のうたとてよませ給うける
消ゆるをや都の人は惜しむらむけさ山里にはらふ白雪(千載448)
(消えてしまうのを都の人ならば惜しむだろう。今朝、山里にあって払う白雪よ。)
久安百首歌に
白妙の雪吹きおろす風越かざごしの峯より出づる冬の夜の月(続後撰522)
(白い雪を吹き下ろす風越の峰――その頂きからさしのぼる冬の夜の月よ。)
題しらず
雲ゐよりちりくる雪はひさかたの月のかつらの花にやあるらむ(新勅撰417)
(空から散って来る雪は、月に生えるという桂の花なのだろうか。)
題しらず
冬枯の森のくち葉の霜のうへにおちたる月の影のさやけさ(新古607)
(冬枯れした森の朽葉に置いた霜――その上に落ちた、月の光のさやけさよ。)
崇徳院御時、百首歌たてまつりけるに
君来ずは独りや寝なむ笹の葉のみ山もそよにさやぐ霜夜を(新古616)
(あなたが来ないならば、私は独りで寝ることになるだろう。笹の葉が深山にさやさやとそよぐ、こんな寒い霜夜を。)
恋 / 題しらず
難波女なにはめのすくもたく火の下こがれ上はつれなき我が身なりけり(千載665)
(難波の海女がもみ殻を焼く火は、下の方でくすぶっている。そのように、表にはあらわさずに恋心を燃やしている我が身なのだ。)
崇徳院に百首歌たてまつりける時、恋歌とてよめる
逢ふことは引佐細江いなさほそえのみをつくし深きしるしもなき世なりけり(千載860)
(逢うことは否(いな)というあの人――引佐細江の澪標(みおつくし)ではないが、いくら身を尽しても、それだけの深い報いは得られない仲なのであった。)
歌合し侍りけるときよめる
しばしこそ濡るる袂もしぼりしか涙に今はまかせてぞ見る(千載816)
(涙に濡れた袖を絞ったのも暫しの間だけだ。もはや涙が溢れ出るのにまかせ、それをただ眺めている。)
恋歌の中に
そなたより吹きくる風ぞなつかしき妹が袂にふれやしぬらむ(玉葉1470)
(そちらの方から吹いてくる風が慕わしい。いとしい人の袂に触れたのだろうか。)
恋の歌とてよみ侍りける
いかに寝てさめし名残のはかなさぞ又も見ざりし夜はの夢かな(新勅撰833)
(どのように寝て目覚めたゆえの、今も残る余韻のはなかさなのか。再び見ることのなかった夜の夢よ。)
賀 / 嘉応元年、入道前関白太政大臣、宇治にて、河水久澄といふ事を人々によませ侍りける
年へたる宇治の橋守こととはむ幾世になりぬ水のみなかみ(新古743)
(年老いた宇治の橋守よ、質問しよう。いったい幾世を経たのか、宇治川の川上が澄むようになってから。)
日吉禰宣ねぎ成仲、七十賀し侍りけるに、つかはしける
七十路ななそぢにみつの浜松老いぬれど千代の残りは猶ぞはるけき(新古744)
(七十に満ちるまで三津の浜松は老いたけれども、千年まで残りはまだ遥かです。)
高倉院御時大嘗会御屏風歌
はるばると曇りなき世をうたふなり月出が崎のあまの釣舟(新拾遺733)
(遥々と遠くまで、曇りなく平穏なこの世を讃えて歌っている。月出が崎の漁師の釣舟よ。)
哀傷 / 母のおもひに侍りけるころ、又なくなりにける人のあたりよりとひて侍りければ、つかはしける
世の中は見しも聞きしもはかなくてむなしき空の煙けぶりなりけり(新古830)
(この世は、実際経験したことも、話に聞いただけのことも、みなはかなくて、虚空に漂う煙にほかならないのです。)
年ごろの妻におくれたる人のもとへつかはしける
妹背川かへらぬ水の別れには聞きわたるとも袖ぞぬれける(清輔集)
(妹背川の水が再び帰らないように二度と逢えない別れ――ただ聞き及ぶだけでも涙で袖が濡れることです。)
雑 / 百首歌奉りける、旅の歌
松がねに 霜うちはらひ めもあはで おもひやる 心や妹が 夢にみゆらむ(新勅撰1348)
(松の根元に寝て、霜を打ち払い、目蓋も合わずに、逢えない妻を思いやる、私の心――その心が通じて、今ごろ妻の夢に私が現れているだろう。)
百首歌めしける時、神祇歌とてよみける
天あめの下のどけかれとや榊葉を三笠の山にさしはじめけむ(千載1260)
(天下がのどかであるようにと、榊の葉を三笠の山に挿しはじめたのだろうか。)
龍門寺のこころをよめる
山人の昔の跡をきてみればむなしき床をはらふ谷風(千載1039)
(仙人が昔住んだという跡に来て見ると、窟はからっぽで、誰もいない岩の寝床を谷風が払うばかりである。)
題しらず
ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき(新古1843)〔百)
(生き長らえれば、今この時も懐かしく思われるのだろうか。昔、辛いと思った頃のことが、今では恋しく思われるから。)
人麿の墓に卒都婆たて侍るとてかきつけ侍りける
世をへても逢ふべかりける契りこそ苔の下にも朽ちせざりけれ(玉葉2604)
(幾世を経へても、こうして逢うことになっていた因縁――それこそは、故人は苔の下にあっても、朽ちることのないものであった。) 
3
『袋草紙』(意訳)
清輔の博識宏才は、「歌のかたの宏才は肩をならぶる人なし」(鴨長明『無名抄』)、「近代この道を知る者、唯彼朝臣のみ。貴くべし、仰ぐべし。」『玉葉』)とまで賞賛された。同時に、当時の歌合判者として相並ぶ清輔と俊成との二人を比較する『無名抄』の「俊成清輔偏頗事」によると、俊成は自分の誤りを認めて争わず鷹揚であるのとは対照的に、清輔が外面は清廉中庸に見えながら、相手の批判を許さずに顔色を変えて言い募り、周囲はしらけて口をつぐんだという。これは顕昭の話を伝えたものだから、事実に近いと思われる。『袋草紙』の所々に見られる自賛的口吻や頑固さなどに共通する、清輔の意固地な一面をあらわすものであろう。『顕広王記』によると、清輔の死は「酔死」であったという。このことに深くこだわるのも如何かと思うが、和歌考証の道に一徹でありながら戯言を好みナイーヴであった清輔のもう一つの顔が見えてくるように思われる。

予、顕広に談かいせしとき、ある人の云う次(ついで)に同じくこのことをもってす。
答えること、「先年基俊の君に相尋ねるところ、答えて曰く、『延喜五年の十八日は上奏の日なり。序は貫之仮名をもって土台を書き、淑望をして草せしめる者なり。しかしてともに興有るによりて、仮名序を棄てず。また上奏以後の歌入るの条、貫之優美なるに堪えず追ってこれを入れるなり。よりて奏覧本には件等の歌なし』と」云々。
予重ねて問いて曰く、「その会釈は正しいだろう。ただし不審二つ有り。一つには、上奏本の系統が世間に伝わっていないのは何故か。次に、優美なものを堪えず追って秀歌を入れるならば、同じく亭子院歌合の貫之の『桜散る』の歌を入れるべきである」。
答えて曰く、「件の歌は古今集に承均(そうく)法師の『桜散る花の所は春ながら』と云う歌に同じ意(こころ)である。よってこれを入れるべからざりしか。」
予重ねて曰く、「この儀ならば、新選集に件の両歌を入れるのの条は如何。」
答えて曰く、「件の条においては力及ばず」と云々。新選集は貫之一人して玄中の玄を選ずるなり。しかして古今に入らざる歌を多くもってこれに入れるは、貫之が意秀逸に存するの由(よし)か。然れば件の歌等進みてこれを入れるべし。この議なおもって指南とし難きか。
追ってこの事案ずるに、なお基俊の議宜しきか。

予、応保二年三月六日に昇殿す。「来る十三日、中宮の御方に貝合(かいあわせ)のこと有るべし。よりてにわかに仰せ下す所なり。同七日に和歌の題二首を賜う」と云々。「同日に講ぜられるべし風情を廻らし早く初参すべし」と云々。よりて吉凶を択ばず件の夜籍(ふだ)に付け了(おわ)んぬ。御所は高倉殿翌日、御会。東向きの御所月卿(げっけい)両三、雲客数十なり。これを講じて座を立たずして、また題二首を出ださる。範兼これを出す「躑躅(つつじ)路を挟むと云々。「恋」。これ予を試みんが為なり。即時に各々和歌を作り終えたなり。名を隠して歌合はするなり。予殊に召に応じて天子のお傍近くに控えていたなり。然りといえどもなお恐れをなして位階を超えず、範兼・雅重等の下に居り。御簾を上げられ、次第に歌を講ず。かれこれ合い互いに難陳す。範兼は殊に張本として勝負を定める。これを問うに、僻事有りといえども口入することあたわず。しかして半ば講ずる後、勘定に曰く、「清輔は今夜和歌の沙汰を至さじと思うか」と云々。少しき鼻を突く気なり。人々は心々に恐々として間違いの現れるのを待っていたところ、躑躅の歌に「このかのも」と詠む歌出でく。範兼難じて曰く、「このかのもは筑波山の外は詠むべからず。かの山は八方に面有り。面の方に影有るの故なり。何ぞ平地の路に然るべきや」と。顕広曰く、「然なり。近き歌合にもかくの如く難ずるか」と。予曰く、「基俊の判か」と。顕広このとき承伏して「然なり」と云う。範兼傍若無人になりて、「然らば負けとなす」の由を称す。時に予曰く、「然りといえども、事の外の僻事なり」と。ここに重家の曰く、「基俊が書き置ける事を、末世の僻事と称し難きなり」と。予が曰く、「基俊が説を末世の今案をもって難ぜば、尤も然るべし。基俊より先達のもし申す事有らば如何」と。人々尤も興有り。証歌有らば出だすべしと責められ、暫く隔滞す。頻りにその責め有り。予申して曰く、「躬垣が仮名序には『天の川に烏鷺の与利葉を渡して、このかのも行きかふ』と書きたる様に覚悟す、如何」と。時に主上より始め奉りて、満座鼓動して御簾中に及ぶ。範兼少しく興違うの気有り。よりて勝に定めをわんぬ。範兼・顕広が同心の時虎の如く、証文を聞きて復た鼠の如きなり。この事今夜のみに非らず、後日も世間に鼓動して感嘆極まりなしと云々。ただし万葉集には「是面(このも)と書き顕はせり。然れば普通の事なり。知りたるは高名ならず、知らざるが不覚なり。後に聞くに、中院右府入道(源雅定)の曰く、「和歌によりて昇殿をゆるされ、即日御会に参じては覚えなるかな」と深く感歎すと云々。後日九条大将国(藤原伊通)の許に参ずるに、この事を云いだされて曰く、「道を嗜むをもって昇進す、自愛すべきかな」と云々。深く感有り。予曰く、「承暦の歌合の時、通宗朝臣昇殿す」と云々。申されて曰く、「いまだに先蹝を承り及ばず、いよいよ目出たき事」と云々。両丞相感歎し、いよいよ面目を増せるなり。
公実卿の歌に曰く、
ふもとをば宇治の川ぎり立ちこめてくもゐに見ゆる朝日山かな
自ら歎じて曰く、「これは、『かはぎりのふもとをこめて立ちぬるは』と云う歌を盗めるなり。歌はかくの如くこれを盗むべし」云々。誠にもって興有りと云々。 
4
藤原清輔の妻と子 / 『袋草紙』『和歌一字抄』と関わって 
藤原清輔(一一〇八〜七七)は平安末期の著名な歌人かつ歌学者である。父祖や兄弟等の閲歴等は論じられてきたが、妻と子については資料的な制約もあり等閑視されてきたのが実情である。しかし妻に関する資料の紹介がなされたので、これを契機に子をも含めて検討し、さらに妻子の眷属と清輔の著作である『袋草紙』『和歌一字抄』との関わりを論じていきたい。 

はじめに妻について述べていこう。
『清輔集』に、
としごろすみける人におくれて後、はてのことなんど営みけるとき、人のもとより、わかれし月日になりにけるあはれさなどいへりければありしよの月日ばかりはかへれどもむかしのいまにならばこそあらめ (三四三)
とあり、長年連れ添った妻の存在が分かっていたが、特定することができないでいた。ところが、佐々木孝浩氏が国立歴史民俗博物館蔵の自筆『兼仲卿記』の裏文書の中に『鎌倉遺文』が「妙意申状」と命名する古文書を発見し、翻字と読み下しおよび解説を加えているが、そこに清輔妻が見出されるのである。清輔は讃岐国に里海庄を所有しているが(『清輔集』四一九)、これによると、この荘園は後一条院乳母藤三位局→藤原憲房→藤原敦憲→敦憲女の藤原行盛妻→行盛女の清輔妻→清輔へと相伝されており、かつ清輔妻の素姓まで判然とする。必要箇所を摘記すると「次敦憲譲女子文章博士行盛妻、次女子又譲息女清輔室、次息女譲夫清輔朝臣顕輔息」である。妻の父である行盛の子として『尊卑分脈』に「有盛」「通盛」とともに「女子」とだけある一人がみえるが、これが清輔妻であろう(母の記載なし)。清輔の実子として『尊卑分脈』に「尋顕」「公寛」の僧籍の二人が挙がるが母の記載はない。そして母方の敦憲の「女子」として「行盛室 有盛母」とする一人だけがみられ(母の記載なし)、この「女子」が妻の母に間違いないであろう。
まず清輔の岳父である行盛の家系を取り挙げてみる。 行盛(一〇七四〜一一三四)は祖父家経、父行家、伯父正家と続く儒者として大嘗会和歌に奉仕する家柄の出自である。言うまでもなく大嘗会は公的行事の中でも天皇即位に関わる最も大事な儀式である。当然のことながら和歌が作られるが、「悠紀」「主基」の和歌作者二人のうち、後一条天皇の大嘗会から少なくとも一人は儒者を加えるようになった。佐々木氏は行盛が儒者としての和歌作者であることから六条藤家の歌人達は大嘗会の知識や故実をこれらの儒者から学び相伝したであろうと想定しているが、この卓説の驥尾に付いて詳しく検討していこう。
祖父家経(九九二〜一〇五八)は藤原頼通家の家司であり、地方官を歴任し、正四位下、式部権大輔、文章博士。永承四年(一〇四九)一一月九日の「内裏歌合」(『袋草紙』下巻にみえる)に歌人として参加する。『家経朝臣集』があり、『後拾遺集』に四首など勅撰集に多く入集し、また『新撰朗詠集』に漢詩一首入るなど和漢兼作の学儒歌人で、儒者として永承元年(一〇四六)一一月一五日の後冷泉天皇時の主基歌作者となる。『和歌一字抄』にいずれも『家経朝臣集』にみられる一三首が入る。道長の命により、『万葉集』を書写したという。
父行家(一〇二九〜一一〇六)は地方官を歴任し、正四位下、対策、文章博士。『金葉集』に二首入集。寛治八年(一〇九四)八月一九日に前関白師実が自邸で催した摂関家最後の晴儀歌合である「高陽院七番歌合」(『袋草紙』下巻にみえる)に歌人として参加する。『新撰朗詠集』に漢詩一首入る。儒者として寛治元年(一〇八七)一一月一九日の堀河天皇時の主基歌作者となる。『袋草紙』上巻には行家の機転を利かせた話が紹介される。白河院が宇治に御幸した折のこと、興が尽きず今日一日の滞在を望んだところ、宇治は都から南に当たるので明日は帰京を避けなければならないということで藤原師実が苦慮していたが、行家が喜撰法師のれいの「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」をもって都から宇治は東南の方向に当たり、還御を延引することに支障はないと進言し、「人また美談とな」したという。この逸話は、行盛の没年時には清輔が二十七歳であり、また既に行盛女と婚姻関係にあったかと思われるので清輔が行盛から直接に聞いた可能性が高い。
伯父正家(行家の異母兄。一〇二六〜一一一一)は正四位下、蔵人、右大弁、式部大輔、文章博士、堀河天皇侍読。『金葉集』に一首入集など。承暦二年(一〇七八)四月二八日の「内裏歌合」(『袋草紙』上巻・下巻にみえる)に歌人として参加し、また寛治八年(一〇九四)八月一九日の「高陽院七番歌合」(前述)に弟行家とともに歌人として参加する。永承四年(一〇四九)一一月九日の「内裏歌合」(前述)に「蔵人近江大掾藤原正家」、永承六年五月五日の「内裏根合」(『袋草紙』下巻にみえる)に「蔵人左衛門権少尉藤原正家」の署名でいずれも「殿上日記」を漢文で記している。儒者として天仁元年(一一〇八)一一月二一日の鳥羽天皇時の主基歌作者となる。『袋草紙』下巻には「式部大輔正家語りて云はく」として、和歌六人党で家経のいとこに当たる藤原経衡(一〇〇五ころ〜七八以降)が藤原道雅の八条の山荘における藤原国房(未詳〜一〇七七ころ)の詠歌を揶揄気味に評した逸話を載せている。「語りて云はく」という書き方からみれば、正家の言談を直接聞いた者が清輔に話した、ほぼそのままの口吻で記述されていると考えられる。清輔に伝えたのはあるいは行盛ではないだろうか。正家の没年時に行盛は三十八歳である。また、経衡に関わっていえば、『袋草紙』上巻には、道雅の八条の山荘の障子絵に書く歌に自詠が選ばれたのを盗み聞きした経衡が用意していた名籍を道雅に提出せずに直ぐに帰ったという歌に執する数寄な話が紹介されているが、家経は選者かつ歌人として参加しており、これも正家または行家(没年時に行盛は三十三歳)から行盛が直接に知った可能性は大いにある。
行盛は正四位下、蔵人、式部大輔、文章博士。『金葉集』に三首入集。元永二年(一一一九)七月一三日の「内大臣忠通歌合」(『袋草紙』下巻にみえる)に方人歌人として参加、判者は清輔の祖父顕季(一〇五五〜一一二三)である。保安二年(一一二一)閏五月一三日の「内蔵頭長実歌合」に方人歌人として参加、長実(一〇七五〜一一三三)は顕季の長男である。判者は同じく顕季。これは六条藤家を中心とする白河院側近たちの私的な小規模歌合である。元永元年六月一六日には顕季が自邸で「人麿影供」を催行するが、「水風晩来」で「式部の少輔行盛」として歌一首を講じている。このように、六条藤家とごく近しい関係にある。儒者として保安四年(一一二三)一一月一八日の崇徳天皇時の主基歌作者となる。
一方、六条藤家の方も大嘗会和歌の作者である。清輔の祖父顕季は行盛と同じ崇徳天皇時に和歌作者に決定していたが、『袋草紙』上巻の「大嘗会の歌の次第」によれば、病による出家のために藤原敦光に代わったという。顕季の出家は保安四年(一一二三)八月二四日、同年の一一月一八日の大嘗会催行の前の九月六日に没する。父顕輔(一〇九〇〜一一五五)は康治元年(一一四二)一一月一五日の近衛天皇時の悠紀歌作者である。清輔は仁安三年(一一六八)一一月二二日の高倉天皇時の主基歌作者であり、そして清輔異母弟季経(一一三一〜一二二一)は安徳天皇と後鳥羽天皇のいずれの時にも悠紀歌作者となる(後述)。
大嘗会と六条藤家との関わりについて、浅田徹氏に「六条家が他の「和歌の家」と異なるのは、(中略)和歌の公的側面を取りしきるべき存在だと自覚していたことにある。(中略)清輔の袋草紙が従前の髄脳書と比較して最も違っているのは、それが応製歌会 の作法・大嘗会の故実・勅撰集撰進の故実といった和歌の公的側面を強烈に押し出し、それらに通じた者としての自分をアピールしていることにあるのだ」という指摘がある。迂遠ながら、この公的側面として挙げる三点を『袋草紙』上巻で確認していきたい。
「応製歌会の作法」については内裏歌会の作法であり、目次では「和歌会の事」「題目の読様の事」「位署の読様」「題目の書様」「位署の書様」「和歌の書様」などが該当する。知られるごとく内裏歌会は内昇殿が許されないと参会できないのである。顕季・顕輔・清輔の内昇殿をごく簡略に述べると、顕季は必ずしも明確ではないが、母親子が白河天皇の乳母であり、十八歳で白河天皇の六位蔵人、十九歳で叙爵、そのあとも蔵人の五位として天皇に侍したと思われ、五十歳で従三位となる。父顕輔は三十四歳の正四位下で鳥羽天皇昇殿、翌年崇徳天皇昇殿、三十八歳ころ白河法皇への讒言により昇殿を止められている。四十八歳で従三位になる。清輔は内昇殿を初めて許されたのが二条天皇の応保二年(一一六二)三月六日と遅く、『袋草紙』の根幹部分が成立したとされている保元二(一一五七)〜三年の八月ころはいまだ地下人であった。『清輔集』には昇殿を待望する歌が散見する。
祖父や父が果たした内裏歌会の作法を詳しく取り挙げているのは当然のことであり、そこには清輔の内昇殿、内裏歌会への悲願が込められている。
「勅撰集撰進の故実」については、顕輔が『詞花集』の撰者に選ばれたことによって俎上に載せられたのであろうが、目次では「撰集の故実」「故き撰集の子細」「諸集の人名不審」などが該当する。特に「故き撰集の子細」では『万葉集』から順次取り挙げられている。最後の『詞花集』に至っては「宣下状」が紹介され、さらに撰集過程と清輔自身の関わりなどが記されるが、これは清輔と父との確執や父への世上の批判が紹介される異色の内容となっており、そこには完璧な勅撰集であるべきだという熱いメッセージが込められているとみるべきであろう。その後、清輔は二条天皇から勅撰集撰集の命をうけるが、奏覧を経ないうちに天皇は没する。その想いが『続詞花集』のネーミングに表われているように思われる。
最後に、「大嘗会の故実」をみよう。目次では「大嘗会の歌の次第」が該当する。その内容は大嘗会和歌の制作過程、書く流儀、起源、悠紀・主基を勤める国名、和歌の作者、宣下状と請文とずいぶん多岐にわたっている。
書く流儀の項には、「和歌を書くの時、家々の説同じからざるなり」として、文字遣い(仮名・真名)や用紙の使い方(一紙・別紙)、さらに神楽歌と稲舂歌の書き順について述べられている。ここに家経が挙げられており、「家経の流は歌は仮名、詞は真名、一紙。また神楽歌の言をもって初め、自余の人は稲舂歌をもって初めとなす」とするが、これを『大嘗会悠紀主基詠歌』(書陵部蔵)で検すると、後冷泉天皇時の主基歌作者を勤めた家経の神楽歌はここにいう文字遣いであり、また初めに書かれているが、用紙の使い方は不明である。堀河天皇時の主基歌作者を勤めた息男行家の神楽歌も家経と同様であるが、これも用紙の使い方は不明である。正家と行盛の部分は脱落しており明確ではないが、「家経の流」としているので同じ書式であると考えられる。
顕輔については、「以下(注、大江匡房以降)の人々は皆真名、別紙。ただし故左京は詞は真名、歌は仮名、一紙なり」とあり、故左京顕輔の書式は他の人がすべて漢字で別紙に書くのとは異なっていると述べており、顕輔のそれは家経と同じであることを確認したい。『大嘗会悠紀主基詠歌』では顕輔の部分は脱落しているが、顕輔の大嘗会和歌制作は清輔が三十五歳の時であり、清輔は行盛女と婚姻関係にあったと思われるので家経の書式に倣ったと考えてよいだろう。清輔の高倉天皇時の文字遣いは顕輔の述べるとおりとなっており、季経の安徳天皇時と後鳥羽天皇時の文字遣いも顕輔と同じであり、清輔、季経は顕輔を受け継いでいる(用紙の使い方は不明である)。
和歌の作者の項には、三条天皇から後鳥羽天皇までの作者が挙げられているが、そのうち後冷泉天皇から後鳥羽天皇までに家経・行家・正家・行盛そして顕季(交代した敦光の傍注として)・顕輔・清輔・季経が記されている。
宣下状等の項には、顕輔に大嘗会和歌の制作を命じる宣旨を記した書状、大博士中原師光(生没年未詳)起草の宣旨を承諾する請文の書状、さらに和歌を行事所に献上する際の式部大輔敦光の書状などがある。藤原敦光(一〇六三〜一一四四)は行盛や清輔とは血縁関係はないが、「人麿影供」において画讃と影供記録を書き、さらに崇徳天皇時には顕季に代わって悠紀歌作者に選ばれ、次帝近衛天皇時には主基歌作者(悠紀歌作者は顕輔)になる。
『袋草紙』の根幹部分が成立したのは清輔が五十歳ころであり、行盛女から相伝されたであろう大嘗会関係資料により決して多くはないがごく詳細に記載したと考えられる。
大嘗会和歌作者に選ばれ続けることを希求する六条藤家にとっては、今後の歌道隆盛を考えると、行盛家は儒者として大嘗会和歌作者を輩出する確たる家柄であり、六条藤家とも親交がある。一方、行盛家からすれば、男に有盛、通盛の二人がいるが、ともに儒者や歌人としての事績がまったく見出されないので凡庸であったかと思われ、清輔の歌道に期するところが大きかったのではないか。両家の思惑が一致し、清輔と行盛女との婚姻が成り立ったとしても何ら不思議はない。行盛家からは、経済的な面で援助するべく清輔への里海庄の伝領がなされ、また祖父・父・伯父が関わる逸話も提供されたが、これらに劣らず大嘗会関係資料が相伝せられたことも大きかったであろう。
清輔没後は季経(一一三一〜一二二一)が寿永元年(一一八二)一一月二四日の安徳天皇時の悠紀歌作者と元暦元年(一一八四)一一月一八日ころの後鳥羽天皇時の悠紀歌作者として選ばれており、これが和歌の作者の項に追補されている。六条藤家にとってやはり大嘗会は大きな存在であった。 

次に清輔の子を取り挙げよう。
井上宗雄氏は『尊卑分脈』により「子も何人かおり」として三子息の名前を挙げ、「家の発展は、父の志に沿って弟の重家・季経に托したらしい」と指摘するが、それ以上の言及はない。清輔の異母弟重家(一一二八〜八〇)と季経に歌道家を委ねたいという父の意向に清輔が従ったと述べている。
『尊卑分脈』を挙げてみる。
   ・・・略・・・
実子と思しき二人は僧籍に入っており、尋顕の「興」は興福寺、公寛の「山」は比叡山、「阿」は阿闍梨であろうが、ともに他には見出されず、また母は前述の行盛女であったか否かも不明である。
猷子に清季(生没年未詳)がいるが、他にはまったく見出せない人物である。実父とされる刑部少輔藤原家基は生年未詳、承安二年(一一七二)ころまでは生存が確認される。従五位下(正五位下とも)、刑部少輔(大輔とも)に至る。法名は素覚。歌林苑会衆の一人で源頼政、俊恵、西行とも親交があった。嘉応二年(一一七〇)一〇月九日の「住吉社歌合」(清輔も出詠)、承安二年一二月八日の「広田社歌合」にいずれも「素覚」として出詠する。『千載集』に五首入集など。『千載集』雑歌中によれば「白河院」に出仕しており(一〇八一)、周知のように清輔の祖父顕季も白河院の重臣であり、父顕輔も初め父の縁で白河院に引き立てられている。
家基の子として『尊卑分脈』に家綱、伊綱、知家の三男が挙がるが、清季は見えない。このうち歌人として事績が伝わるのは伊綱のみである。生没年未詳。五位、中務大輔に至る。治承二年(一一七八)三月一五日の「別雷社歌合」、正治二年(一二〇〇)後半期の「石清水社若宮歌合」などに出詠する。『千載集』に二首入集など。
家基の父は家光である。生没年未詳。従四位下(正四位下、正五位下とも)、天仁元年(一一〇八)正月伯耆守となり、永久二年(一一一四)七月二四日には伯耆守在任中であり、元永二年(一一一九)ころには故人であった。和歌の事績は知られない。家光は実父は橘俊綱であるが、『尊卑分脈』に摂政藤原師実二男の左大臣家忠(俊綱の甥)の男として「実者修理大夫橘俊綱子」とみえ、家忠の猷子となっている。同じく『尊卑分脈』には権大納言藤原長家二男の大納言忠家の男としても挙がる(猶子としての記述はない)。両方の系図に同じ子や孫が見えることから同一人物であるが、同一人が二人の猶子となることはないかと思われ、養父は俊綱の血縁関係から家忠がよいのではないか。「家忠」「忠家」の酷似による間違いであろう。
家基の祖父橘俊綱(一〇二八〜九四)は摂政藤原頼通(九九〇〜一〇七四)男、従四位下橘俊遠(生没年未詳)の猷子となるが、その経緯については斎藤熙子氏が詳細に述べている。正四位下、修理大夫と身分は低いが、伏見に数寄を凝らした山荘を営み、風雅の士を招いて歌会や歌合を頻繁に催行し、また和歌六人党などの歌人と親交を結んだことで著名である。『後拾遺集』に四首入集する。
以上、清季の父祖を検してきたのであるが、なぜ清季を猷子としたのであろうか。曽祖父俊綱や父家基は和歌に通暁しており、ことに俊綱はパトロン的な存在として君臨していたし、家基は白河院臣下でもあった。家基は清輔とほぼ同世代であり、旧知の間柄であった可能性が高い。実子が二人とも早くに出家していたであろう清輔としては歌道の継承を期待して年少のうちに清季を猷子にしたのではないか。しかし凡庸であったがゆえに和歌に関して何の事績も残すことができず(位階や職歴等は不明)、清輔は父の意思とは異なった理由で大嘗会関係資料や和歌文書などを季経に譲ることを余儀なくされ、六条藤家の発展を季経に託したというのが実情であろう。なお、里海庄も清輔から季経に伝領されているので財産を相続させるためとは考えられない。
いままで清季を歌道の継承等の観点から述べてきたのであるが、別の視点から論じてみよう。
前述のように曽祖父俊綱は風流才子で多くの歌会などを取り仕切っていた。高重久美氏は俊綱家歌会を詳細に論じているが、これを参考にして清輔が作歌の手引書として編纂した『和歌一字抄』(原撰本の成立は一一五〇〜四年)の諸例で検討したい。
多くまとまってみられる歌群から取り挙げよう。
「下」に、
不一
秋花不一          範永
我はなほ女郎花こそ哀なれ尾上の萩はよ所にてもみん (一〇一七)
同              経衡
秋くればちぢに心ぞわかれけるいづれの花もあかぬ匂に (一〇一八)
同              国房
色色の花咲きけらし秋の野はおく白露の名にやたがはん (一〇一九)
               義孝伊勢守
駒なべて野べに立出でてながむれば心心に花咲きにけり (一〇二〇)
               俊綱
秋の野に心をみてはすぐるかなひとつ色にし花のさかねば (一〇二一)
               広経朝臣
あかずのみ秋さく花のみゆるかないく色になる心なるらん (一〇二二)
とまとまった形でみえる。この歌題「秋花不一」は『橘為仲朝臣集』に、
あきのはなひとつにあらず、といふ題を、をはりのかみとしつながいへにて
いづれとかおもひわくべき秋ののの千草の花にうつる心は (一八)
とあり、俊綱の伏見邸での詠であり、『橘為仲朝臣集』の配列から為仲詠は永承六年(一〇五一)秋のこととなる。三康図書館本『和歌一字抄』は「秋花不一」で藤原範永(生没年未詳)、藤原経衡(一〇〇五ころ〜七八以降)、藤原国房(未詳〜一〇七七ころ)、藤原義孝(生没年未詳)の順で四首を挙げ、義孝詠の詞書の箇所に「以上同座」と注記しており、これら七首は同じ時に詠まれたと思われる。範永、経衡、為仲は和歌六人党のメンバーであり、国房、義孝は六人党の周辺歌人であろう。俊綱は六人党、大江広経(生没年未詳)は為仲と親交がある。為仲を除く六人は『和歌一字抄』成立以前の『後拾遺集』『金葉集』『詞花集』に入集し、範永と経衡は家集を有するが、これら六首は他にみられない。
「上」に、

一葉散林          範永
紅葉ぢせん木木の梢はおほかれど一葉もちるはをしきなりけり (五一六)
                俊綱
山がつのたつらの里のをぐるすのかきをしりても散る一葉かな (五一七)
                経衡
一葉だにちるはをしきに紅葉ぢするもりの梢に風の吹くらん (五一八)
                義孝伊勢前司
あだち野やまゆみも色やつきぬらんなみ木のみやは梢うちちる (五一九)
                良暹
柞原色づく枝をあやにくに一葉なれども先はちりける (五二〇)
    已上五首俊綱会
とみえ、まとまった形で出る。同じ歌題で「下」に、一
一葉散林          国房
いつしかと初秋風に山しなのをかべのくるす朽葉ちるらん (一〇一五)
とあり、五首と同一時と思われ、いずれも俊綱邸の歌会で詠まれている。俊綱、範永、経衡、義孝、国房は最初の例にもみえており、初見の良暹(一〇〇三ころ〜六九ころ)は俊綱と親しい歌僧である。経衡詠は自撰家集とされる『経衡集』に、
一葉はやしにちるといふことを
ひとはだにちるはをしきをもみぢするもりのこずゑにかぜのふくかな (四七)
とあるが、『和歌一字抄』以前の勅撰集に多く入集する良暹詠も含めて五首は他にみられない。
「下」に、

晩涼如秋          範永朝臣
松風の夕日がくれに吹く程は夏すぎにける空かとぞみる (九五六)
同              国基
夏なれど夕風涼し小萩原下葉や秋の色に成るらん(九五七)
同座             義孝伊勢守
夏の日の暮れゆく空の涼しさに秋のけしきを空に知るかな (九五八)
同               頼家卿
夏の日も夕日がくれに成るときは秋かぜよりも涼しかりけり (九五九)
とみえ、これもまとまっている。初見の津守国基(一〇二三〜一一〇二)は白河院側近の歌人や良暹、賀茂成助(一〇三四〜八二)等との親交が知られる。同じく源頼家(生没年未詳)は和歌六人党の一人。このうち、範永詠はのちの『新拾遺集』雑歌上に、
橘俊綱朝臣伏見にて歌合し侍りけるに、晩涼如
秋といふ事を        藤原範永朝臣
松風の夕日がくれに吹く程は夏すぎにける空かとぞみる (一五八五)
と俊綱邸での歌合(あるいは歌会か)として入るが、これら四首とも『和歌一字抄』以前の勅撰集にはみられない。
歌題からみて同じ時に詠まれたと思しき歌が他に三首見出される。
まず『後拾遺集』夏に、
俊綱朝臣のもとにて晩涼如秋といふ心をよみ侍ける   源頼綱朝臣
なつやまのならのはそよぐゆふぐれはことしも秋の心地こそすれ (二三一)
とある。頼綱(一〇二四ころ〜九七)の縁戚に和歌六人党のメンバーが多く、異母兄源頼実(一〇一五〜四四)、父方の叔父源頼家、母方の叔父範永がいる。
次に『経衡集』に、
ゆふべのすずみ秋のごとしといふ題を
なつごろもかさねやせましゆふさればあきたちきたる心地こそすれ (一八)
そして『万代集』夏に、
晩涼如秋といふことを   良暹法師
ゆふぐれのくずのはかへしふくかぜになつののしかもなきぬべきかな (七六七)
とある。
次に、二首まとまっている例を挙げよう。
「上」に、
未落
山花未落           経信
うらみじな山のはかげの山ざくらおそく咲けども遅く散りけり (四四七)
同                師賢
さかりとて見る空もなし色かへぬときはの山の花にしあらねば (四四八)
   已上俊綱会
とある。源経信(一〇一六〜九七)は俊綱の実父頼通の臣下であり、その関係で歌会に参加したのであろう。源師賢(一〇三五〜八一)は経信や頼家と親交があった。経信詠はのちの『風雅集』春歌下に「山花未落といふ事を」との詞書で入集するが、俊綱歌会のことはみえず(二五九)、また他撰家集とされる『経信集』には「山花未落」と歌題だけが記されて入集する(三五)。
いま一例は「下」に、
即事
於伏見別業即事       俊綱
わぎもことまづむつごとの初にはひとりふしみの里とかたらん (一〇三七)
                  顕実
あさまだきかしらの霜をはらへどもきえぬは年のつもるなりけり (一〇三八)
とある。「顕実」は従三位藤原顕実( 一〇四九〜一一一〇)か。和歌の事績は知られていない。これら
二首は他にみられない。
叙上のように、俊綱邸での詠歌と考えられる『和歌一字抄』入集の二〇首(精査すれば増える可能性あり)はそれ以前の勅撰集には入集していない。俊綱邸での歌会および歌合の入集数をみると、『後拾遺集』に三首(いずれも歌会)、『金葉集』に一首(歌合)、『詞花集』に四首(いずれも歌会)とけっして多くはなく、特に『後拾遺集』にはその感が強い。想像されるほどには資料的に恵まれなかったのであろう。これに対して、『和歌一字抄』は総数としてはけっして多くはないが独自の歌があり、しかも同一歌題での四〜六首の歌群がみられる。このことから、諸資料から一首ずつ拾集していったというよりも、完全な形ではなくとも手控え的なものとして残されていた詠草資料をほぼそのまま取り収めたのではないかと推察される。その所持者は当の主宰者俊綱ではないだろうか。これが家光(家忠の猷子であっても)、家基から清季に伝承されたのであろう。
『袋草紙』に目を転じよう。俊綱に関わっての和歌説話が多くみられる。
まず俊綱の直截的な体験談を挙げよう。
木幡山すそのの嵐さむければ伏見のさともえこそねられね
これは、俊綱朝臣の伏見に侍りけるに、夜たたずみありきけるに、あやしの宿直童の土にふせりてながめける歌なり。これを聞きて小袖をぬぎて給ひけりとぞ。下揩フ着るつづりと云ふ物をばこはたといふと云々。 (上巻)
俊綱が宿直童の歌に応えて綴り衣を与えた話である。
俊綱邸での歌会における逸話に次の二話がある。
先達も誤る事あり。良暹は「郭公ながなく」と云ふ事を「長鳴く」といふ心と存じたるなり。俊綱朝臣の許において五月五日に「郭公を詠める」歌に云はく、
やどちかくしばし汝が鳴け時鳥けふのあやめのねにもたぐへん
懐円嘲哢して云はく、「「ほと」と鳴きはじめて、「ぎす」とながむるにや」と云々。 (上巻)
歌僧良暹は前述のように俊綱と親交があり、歌会にも参加している。懐円(生没年未詳)は源道済(未詳〜一〇一九)男で、同じように良暹詠を愚弄、酷評した話もみえる(下巻)。
俊綱朝臣の家に、「水上の月」を詠じたる歌を講ず。而して田舎の兵士、中門の辺に宿してこの事を聞き、即ち青侍に語りて云はく、「予(あらかじ)め今夜の題をこそつかうまつりて候へ」と云々。侍云はく、「興有る事なり、如何」と。兵士詠じて云はく、
水や空空や水ともみえわかずかよひてすめる秋の夜の月
侍来たりてこの由を申す。万人驚歎して詠吟し、且つ感じ且つ恥ぢておのおの退出すと云々。(上巻)
「水や空」詠は『続詞花集』秋上に「題しらず よみ人も」として入集する(一八四)。
また俊綱の播磨守在任中(一〇六四〜六七)の話もある。
俊綱朝臣播磨国に下向の間、高砂においておのおの和歌を詠ず。而して大宮の先生藤原義定これを詠ず。
われのみと思ひこしかど高砂の尾上の松もまだ立てりけり
人々感歎す。良暹云はく、「女牛に腹つかれたるたぐひかな」と云々。自(おのづか)らかくの如きこと有るなり。 (上巻)
先生は春宮坊の帯刀の長のこと。義定は生没年未詳。「われのみと」詠は『後拾遺集』雑三に、
身のいたづらになりはてぬることをおもひなげきてはりまにたびたびかよひ侍けるにたかさごのまつをみて   藤原義定
われのみとおもひこしかどたかさごのをのへのまつもまだたてりけり (九八五)
とあり、義定は播磨国に行き俊綱の歌会にたびたび列することがあったかと思われる。
これらの逸話はいずれも具体的に記されており、かつ俊綱が直接関わったものばかりである。これ以外の俊綱が関わらない場であっても、『袋草紙』には俊綱と親しい経衡、範永、頼綱、国基、良暹(いずれも既出)、俊綱邸での歌合に参加している藤原国行(生没年未詳)、俊綱や良暹との交流が知られている藤原孝善(未詳〜一〇八八ころ)などの逸話が多くみられる。著名な俊綱ゆえにこれらが広く世上に流布していたかとも推測されるが、『和歌一字抄』の例からみて同様な相伝を考えてもよいのではないか。当然のことながら書承だけではなく口承もあったであろう。
次のことが想定されるかもしれない。俊綱の猷子に源俊頼(一〇五五〜一一二九)がいる。俊綱の実父頼通と俊頼の実父経信(一〇一六〜九七)は最高権力者と臣下という親密な信頼関係にあり、これにより猷子縁組なされたのであろう。猷子の期間は俊綱が播磨守時代の俊頼の十二〜十九歳ころから俊綱の没年までの二一〜二八年間とされるが、養父との関係は具体的な資料に乏しく明らかでない。
『袋草紙』には俊頼の言行が頻出するが、二話を挙げてみよう。
俊頼の君云はく、「折節に叶ひたる歌を詠ずるは、よむにはまされるなり。先年、前斎宮伊勢より帰京の時、御供に候す。淀の渡りに御舟付けて人々寝ねずあかす間、向ひの方に子規一声鳴きて
行く。万人断腸す。御船よりは女房の寝声に、「淀の渡りのまだよぶかきに」と詠じたりし、時に臨みてめでたかりし者なり。人々感歎して今に忘れ難し」と云々。(上巻)
白川院、鳥羽殿における九月十三夜の「池上の月」の和歌に、序者経信卿の歌に云はく、
てる月のいはまの水にやどらずは玉ゐるかずをいかでしらまし
「池」の字なきの由をもつてこれを傾く。俊頼語りて云はく、「この由、経信云はく、「しかいふなりにや」とて他の答なし」と云々。 (上巻)
これらは清輔が俊頼から直接聞いたとしても違和感を感じさせない書き方である。清輔が二十二歳の時に俊頼は七十五歳で没しているが、清輔の歌学知識の根幹に位置するのが『俊頼髄脳』であり、『袋草紙』では和歌説話も含めて消化した形でこれを利用する。たとえ上の二話が俊頼直々であったとしても、こと俊綱に関わる逸話の相伝は、俊綱の猷子という実態がまったく不明であり、かつ俊頼と弱冠の清輔の交流がどれほど親密なものであったのかなどから思量すると、前考の方が無難ではないだろうか。
なお、祖父と父は俊頼と直接に接触する機会があり(『袋草紙』)、俊頼からいくらかの話を聞いていた可能性は存する。
憶測を重ねてきたが、清季が家光、家基から相伝してきた俊綱に関わる詠草資料や和歌説話を清輔に提供したであろうことからすると、歌人や歌学者としては期待に沿わなかったとしても、この点では評価するべきではないだろうか。
〔付記〕
和歌の引用は、『清輔集』は拙著『清輔集新注』、他は『新編国歌大観』による。『袋草紙』は『新日本古典文学大系』、『尊卑分脈』は『新訂増補国史大系』による。 
 
85.俊恵法師 (しゅんえほうし)  

 

夜(よ)もすがら 物思(ものおも)ふころは 明(あ)けやらで
閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり  
(愛しいあなたがいらっしゃらないせいで)一晩中、物思いにふけっているこの頃は、夜がなかなか明けようとしないで、(つれないのはあなただけではなく)寝室の隙間さえもがつれなくしているみたいです。 / 夜通し、まだ訪れぬお慕いするあの方のことを思い悩むときは、夜はなかなか明けないで、あの方を待つはずの寝間の戸のすきまさえ、私の気持ちを分かってはくれないものだ。 / 一晩中、つれないあなたのことを想って嘆いているこの頃は、早く夜が明けて欲しいと思うのに、なかなか夜が明けないので、朝日が差し込むはずの寝室の雨戸の隙間さえ、つれないなぁと思うのです。 / 一晩中恋しい人を思って悩んでいるので、早く夜が明けたらよいと思っているのですが、なかなか夜は明けず、寝室の隙間さえもわたしにつれなく感じられます。
○ 夜もすがら / 「すがら」は、最初から最後までの意。「夜もすがら」で、一晩中。
○ 物思ふころは明けやらで / 「物思ふ」は、恋の物思いをする。「ころ」は、状態が継続していることを示す。「明けやら」は、下二段の動詞「明く」の連用形+“すっかり〜する”の意を表すラ行四段の補助動詞「やる」の未然形。「で」は、打消の接続助詞。「明けやらで」で、なかなか明けきらないでの意。
○ 閨のひまさへ / 「閨」は、寝室。「ひま」は、隙間。「さへ」は、添加の副助詞。
○ つれなかりけり / 「つれなかり」は、冷淡だ、そっけないを表すク活用の形容詞「つれなし」の連用形。 
1
俊恵(しゅんえ、永久元年(1113年) - 建久2年(1191年)頃?)は、平安時代末期の僧・歌人。父は源俊頼。母は橘敦隆の娘。早くに東大寺の僧となり、俊恵法師とも呼ばれる。
十七歳のときに父と死別してから、約二十年もの間、作歌活動から遠ざかっていた。現在、俊恵作と伝えられている歌は千百首あまりであるが、その多くは四十歳以降に詠まれたものである。白川の自坊を「歌林苑」と名付け、そこに藤原清輔・源頼政・殷富門院大輔など多くの歌人を集めてさかんに歌会・歌合を開催し、衰えつつあった当時の歌壇に大きな刺激を与えた。鴨長明の師で、その歌論は『無名抄』などにもみえる。 風景と心情が重なり合った象徴的な美の世界や、余情を重んじて、多くを語らない中世的なもの静かさが漂う世界を、和歌のうえで表現しようとした。同じく幽玄の美を著そうとした藤原俊成とは事なる幽玄を確立したといえる。
「詞花和歌集」以下の勅撰集に入集。「歌苑抄」「歌林抄」などの選集を編集し、家集には「林葉和歌集」がある。
なお、無名抄の俊成自讃歌事によると、自らの自讃歌は、
み吉野の 山かき曇り 雪ふれば ふもとの里は うちしぐれつつ (新古今和歌集)
で「もし世の末におぼつかなく云ふ人もあらば、かくこそいひしかと語り給へ」とある。 
2
俊恵 永久一(1113)〜没年未詳 称:大夫公
源俊頼の息子。母は木工助橘敦隆の娘。兄の伊勢守俊重、弟の叡山阿闍梨祐盛も千載集ほかに歌を載せる歌人。子には叡山僧頼円がいる(千載集に歌が入集している)。大治四年(1129)、十七歳の時、父と死別。その後、東大寺に入り僧となる。永暦元年(1160)の清輔朝臣家歌合をはじめ、仁安二年(1167)の経盛朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承三年(1179)の右大臣家歌合など多くの歌合・歌会に参加。白川にあった自らの僧坊を歌林苑と名付け、保元から治承に至る二十年ほどの間、藤原清輔・源頼政・登蓮・道因・二条院讃岐ら多くの歌人が集まって月次歌会や歌合が行なわれた。ほかにも源師光・藤原俊成ら、幅広い歌人との交流が知られる。私撰集『歌苑抄』ほかがあったらしいが、伝存しない。弟子の一人鴨長明の歌論書『無名抄』の随所に俊恵の歌論を窺うことができる。家集『林葉和歌集』がある(以下「林葉集」と略)。中古六歌仙。詞花集初出。勅撰入集八十四首。千載集では二十二首を採られ、歌数第五位。
春 / 題しらず
春といへば霞みにけりな昨日まで浪まに見えし淡路島山(新古6)
(春というので、霞んでしまったなあ。昨日まで波間に見えていた淡路島山よ。)
採菫日暮
すみれ草つみ暮らしつる春の野に家路教ふる夕づくよかな(林葉集)
(すみれ草を日が暮れるまで摘んで過ごした春の野で、家路はこちらだと照らして教えてくれる夕月であるよ。)
花の歌とてよめる
み吉野の山下風やはらふらむ梢にかへる花のしら雪(千載93)
(吉野の麓を吹く風が払うのだろうか。一度散ったのに、梢に戻ってゆく花の白雪よ。)
きぎすをよめる
狩人かりびとの朝ふむ小野の草わかみかくろひかねて雉子きぎす鳴くなり(風雅126)
(狩人が朝狩に踏んでゆく野の草はまだ若いので、隠れようにも隠れることができず雉が鳴いている。)
夏 / 望山恋花 隆房朝臣会
いかにせむ山の青葉になるままに遠ざかりゆく花の姿を(林葉集)
(どうして止めよう。山が青葉に覆われてゆくにつれて、記憶の彼方に遠ざかってゆく花の面影を。)
遥見卯花
卯の花の盛りなるらし袖たれて遠方をちかた人の波を分けゆく(林葉集)
(卯の花が盛りであるらしい。袖を垂れて、遠方の人が白波を分けつつゆく。)
尋郭公帰聞 歌林苑
今こそは入りちがふなれ時鳥ほととぎす尋ねかねつつ帰る山路に(林葉集)
(まさに今、入れ違うとは。ほととぎすの声を求めて得られず、帰ってゆく山路で。)
雨後月明といへる心をよめる
夕立のまだ晴れやらぬ雲間よりおなじ空とも見えぬ月かな(千載217)
(夕立がまだ晴れきらない雲間から、同じ空にあるとも見えない――それほどさやかに輝く月であるよ。)
雨後夏月
今ぞ知る一ひとむらさめの夕立は月ゆゑ雲のちりあらひけり(林葉集)
(今こそ分かった。一しきり降った叢雨の夕立は、月を美しく見せるために、雲の塵を洗い流したのだ。)
水辺待月 右大臣家
宿さむと岩間の水草みくさはらふ手にやがてむつるる夜半よはの月かな(林葉集)
(岩間の清水に月を映そうとして水草を払う――その手に、たちまち戯れるようにまとわりつく月の光であるよ。)
題しらず
岩間もる清水を宿にせきとめてほかより夏を過ぐしつるかな(千載212)
(岩の間から漏れる清水を、庵の方へ流れるように堰き止めて、暑さと無縁に夏を過ごしたのだった。)
夏草をよめる
夏ふかみ野原を行けば程もなく先立つ人の草がくれぬる(林葉集)
(夏も深まったので、野原を行くと、先立って歩く人の姿が程なく草に隠れてしまう。)
刑部卿頼輔歌合し侍りけるに、納涼をよめる
楸ひさきおふる片山かげにしのびつつ吹きけるものを秋の初風(新古274)
(楸の生える片山の陰に、人目を忍ぶようにして吹いているのだった、秋の初風は。)
秋 / 右大臣家百首内 草花
荻の葉に風うちそよぐ夕暮は音せぬよりもさびしかりけり(林葉集)
(荻の葉に風がそよそよと音をたてる夕暮は、静寂の夕暮よりも寂しいのだった。)
薄当路滋
花すすきしげみが中を分けゆけば袂をこえて鶉たつなり(林葉集)
(花薄が繁る中を分けてゆくと、衣の袖を飛び越えて鶉の飛び立つ音がする。)
夕見草花
夕づくよしばしほのめけ咲きそむる小萩が花の数もかぞへむ(林葉集)
(夕月よ、暫し姿を見せよ。咲き始めた萩の花の数も数えようから。)

久方の天あまの川辺かはべに雲消えてなぎたる夜半の月を見るかな(中古六歌仙)
(天の川のほとりにあった雲が消えて、凪いだ夜の月を見ることである。)
月のうた十首よみ侍りける時、よめる
筏おろす清滝川にすむ月は棹さをにさはらぬ氷なりけり(千載991)
(筏を流し下す清滝川に澄む月は、棹の邪魔をしない氷なのであった。)
故郷月をよめる
古郷の板井の清水みくさゐて月さへすまずなりにけるかな(千載1011)
(古びた里の板井の清水は水草が生えて、月さえ住まず、昔のような澄んだ光を宿さないようになってしまった。)
摂政前右大臣の家に百首歌よませ侍りける時、月歌の中によめる
この世にて六十むそぢはなれぬ秋の月死出の山路も面変おもがはりすな(千載1022)
(この世にあって、私が六十歳になる今日まで、離れることのなかった秋の月よ、死出の山路も今と変わりなく照らしてくれ。)
海辺月といへる心をよめる
ながめやる心のはてぞなかりける明石の沖にすめる月影(千載291)
(眺めやる心は果てがないのだった。明石の沖に澄んで輝く月の光よ。)
月前述懐を
ながむれば身の憂きことのおぼゆるを愁へ顔にや月も見るらむ(風雅1576)
(月をじっと眺めていると、自分の身の上が憂鬱になってくるけれど、それを月の方も「あいつは何か言いたそうな顔をしているな」とでも眺めているのだろうか。)
夜泊鹿といへるこころをよめる
夜をこめて明石の瀬戸を漕ぎ出づればはるかに送るさを鹿の声(千載314)
(まだ夜深いうち、明石の海峡を漕ぎ出てゆくと、鹿の声が送ってくれるように遥かに鳴く。)
冬 / 大井河に紅葉みにまかりてよめる
けふ見れば嵐の山は大井川もみぢ吹きおろす名にこそありけれ(千載370)
(今日目にしたところ、よく分かった、嵐山とは、大井川に紅葉を吹き落とすことからついた名であったのだ。)
題しらず
立田山梢まばらになるままにふかくも鹿のそよぐなるかな(新古451)
(立田山の奥山では、紅葉も散り果て、梢と梢の間が広くなったので、鹿がその下を歩くと、深く積もった落葉がサヤサヤ鳴るのが聞こえてくるのであるよ。)

谷ふかみ降りつむ雪に夜やさむきひとつに見ゆる妹と背の山(中古六歌仙)
(深い峡谷に降り積もる雪で、今夜は寒いのだろうか。一つに寄り添ったように見える妹山と背の山よ。)
題しらず
み吉野の山かきくもり雪ふれば麓の里はうちしぐれつつ(新古588)
(吉野の山が霞んで見えないほど雪が降り乱れるので、麓の里には繰り返し時雨が降る。)
恋 / 題しらず
思ひきや夢をこの世の契りにてさむる別れを歎くべしとは(千載756)
(思っただろうか。現実には逢えないけれど、せめて夢での逢瀬をこの世での結びつきとして、夢から覚めるわかれを歎くことになろうとは。)
歌林苑の人々、方をわかちて歌えらびて歌合し侍りしに
あはれてふ言の葉もがなそれにだに消けなむ命をかへつと思はむ(林葉集)
(あなたの「あはれ」という言葉がほしいよ。せめてその言葉と、消えようとする私の命とを、交換してしまったのだと思おう。)
歌合し侍りける時、恋歌とてよめる
思ひかねなほ恋路にぞ帰りぬる恨みはすゑもとほらざりけり(千載885)
(あの人の冷たい態度に、この恋はもう断念しようとしたけれど、思い切れなくて、結局また恋の道に戻って来てしまったよ。好きな人への恨みは、最後まで貫き通せないものだなあ。)
恋歌とてよめる
夜もすがら物思ふ頃は明けやらぬ閨ねやのひまさへつれなかりけり(千載766)
(一晩中、あれこれ思い悩む今日この頃は、なかなか明けきらない閨の隙間さえつれなく見えるのだなあ。)
題しらず
君やあらぬ我が身やあらぬおぼつかな頼めしことのみな変りぬる(千載927)
(あなたは昔のあなたではないのか。私は昔の私ではないというのか。わからないなあ。約束してあてにしていたことが、すっかり違った結果になってしまった。)
夏夜恋といふこころを
唐衣かへしては寝じ夏の夜は夢にもあかで人わかれけり(千載895)
(衣を裏返して寝ると、恋しい人に夢で逢えるというが、そんなことはすまい。短い夏の夜は、夢で逢っても、思いを遂げずに人と別れてしまうことになるのだから。)
或る人のもとにて
侘びつつは逢ふと見る夜の夢をだに君が情けと思はましかば(林葉集)
(心細い気持ではあるが、せめてあなたと逢う夜の夢だけでも、あなたのかけてくれた情けであると、思うことができたなら――。)
入道前関白太政大臣家の歌合に
我が恋は今をかぎりと夕まぐれ荻ふく風の音づれて行く(新古1308)
(私の恋は、今がもう堪え得る限度だという、そんな夕暮に、荻を吹く風が音立てて過ぎてゆく。)
暁恋 右大臣家歌合
見ぬも憂し見てもわりなし夢ゆゑに物を思はぬ暁もがな(林葉集)
(見なければ見ないで辛い。見れば見たで、なんとも堪え難い。夢のおかげで悩まされることのない暁があったらなあ。)
恋遠人 前大僧正房
はるばると山また山を思ひやる心さへこそ苦しかりけれ(林葉集)
(遥かに山また山を越えて思いやる――そんなふうに遠い人を慕うだけでも心は苦しい。)
雑 / 入道前関白家百首歌よみ侍りけるに
神風や玉串の葉をとりかざし内外うちとの宮に君をこそ祈れ(新古1883)
(伊勢神宮の内宮・外宮で、榊の葉を手に取り、また挿頭にして、大君の栄えを祈るのです。)
別の心をよめる
かりそめの別れと今日を思へどもいさやまことの旅にもあるらむ(新古881)
(一時だけの別れであると今日の別れを思うけれども、さあどうか、まさしく二度と帰ることのない旅なのであろうか。)
右大臣殿百首内 旅五首
かへり見し都の山もへだてきぬただ白雲に向かふばかりぞ(林葉集)
(何度も振り返って見た都の山も、遠く隔てて来てしまった。今はただ白雲を目指して進むばかりである。) 
3
『無名抄』深草の里
俊恵しゅんゑいはく、「五条三位入道のもとにまうでたりしついでに、『御詠の中には、いづれをかすぐれたりとおぼす。よその人さまざまに定め侍れど、それをば用ゐ侍るべからず。まさしく承らんと思ふ。』と聞こえしかば、『 夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里 これをなん、身にとりてはおもて歌と思い給ふる。』と言はれしを、俊恵またいはく、『世にあまねく人の申し侍るは、面影に 花の姿を 先立てて 幾重越え来ぬ 峰の白雲 これを優れたるように申し侍るはいかに。』と聞こゆれば、『いさ、よそにはさもや定め侍るらん。知り給へず。なほみづからは、先の歌には言ひ比ぶべからず。』とぞ侍りし。」
と語りて、これをうちうちに申ししは、
「かの歌は、『身にしみて』という腰の句いみじう無念におぼゆるなり、これほどになりぬる歌は、景気を言ひ流して、ただそらに身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ。いみじう言ひもてゆきて、歌の詮とすべきふしを、さはと言ひ表したれば、むげにこと浅くなりぬる。」
とて、そのついでに、
「わが歌の中には、み吉野の 山かき曇り 雪降れば ふもとの里は うちしぐれつつ これをなむ、かのたぐひにせんと思う給ふる。もし世の末に、おぼつかなく言ふ人もあらば、『かくこそ言ひしか。』と語り給へ。」
とぞ。

(現代語訳) 俊恵法師が言うことには、「五条三位入道のところへ参上した折に、『(入道様の)お歌の中では、どれが優れているとお思いですか。世間の人々はいろいろと決めていますが、(私俊恵は)それを受け入れることが出来ません。ぜひお聞きしたいと思います。』と申し上げたところ、『 夕方になると 野辺を吹き渡る秋風が 身にしみて感じられ うづらが寂しげに鳴くようだ 深草の里では これが、私にとっては代表的な歌だと思い申し上げる。』と(入道様が)おっしゃったので、俊恵がまた言ったことには、『世に広く人々が申しておりますのは、面影に 浮かぶ桜の姿を 導き手として いくつ越えてきたことだろう 白雲のかかる山の峰を これを優れているように申しているのは、どうでしょうか。』と申し上げると、『さあ、世の人はそう定めているのでしょうか。存じ上げません。それでも私自身としては、先ほどの歌と言い比べることはできない。』という返事がありました。」
と語って、このことについて、(俊恵法師が鴨長明に対して)内々で申したことには、
「あの歌は『身にしみて』という第三句が非常に残念に思えるのだ。これほど優れた出来になった歌は、具体的な景色や雰囲気をさらりと詠み流して、ただなんとなく身にしみたのだろうな、と思わせるのが奥ゆかしく優れているというものだろう。それなのにたいそう言葉を重ねていって、歌の大切にするべきところ(『身にしみて』、というところ)をそのままあっさりと言い表してしまっては、ひどく趣が浅くなってしまった。」
と言って、その折に、
「私の歌の中にある 吉野の山が 急に曇って 雪が降ると ふもとの里では 時雨が降っていることだ これを私の代表歌にしようと思い申し上げる。もし将来私の代表歌がどれかわからないという人がいれば、『(俊恵法師は)こう言っていた』と語ってください。」
と言った。  
4
俊頼の息子の話もしてしまいましょう。俊恵法師、といいます。前回の経信の孫になりますから、親子三代が百人一首にとられた、ということになりますね。正に歌道の家系、と言っていいのではないでしょうか。
夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり
「千載集」に「恋の歌とてよめる」とありますから、これは題詠の歌です。それも男である俊恵法師が女の気持ちになって詠んだ、という体裁の歌ですね。この時代、といいますか、古来日本の男性歌人の歌には女性の気持ちになって歌う、というものが少なくありません。ご紹介がまだになっていますが、百人一首では二十一番の素性法師もそのうちの一人です。
さて、この歌なのですが、ひとつ問題があるのですよ。百人一首では「明けやらで」になっていますが、千載集には「明けやらぬ」として載っているのです。しかも俊恵法師の家集である「林葉集」も後者ですし、困ったことに百人一首でも古い写本ではどうやら後者の方で載っているようなのですよ。ということはもしかしたら定家は「ぬ」の方をとっていたのかもしれない、ということなのです。ですが、近世以降「で」で親しまれている歌ですからここはもうそちらに従ってしまうことにいたしましょうか。
一晩中、あなたのことを考えていたの。少しも私を気遣ってくれないあなた。冷たいあなたのことばかりをずっと考えていたわ。だからかしら、きっとそうね。なんて夜の長いこと。このままずっと夜明けなんて来ないんじゃないかと思うくらいだわ。夜が明けたらこの鬱々とした私の気持ちも少しは晴れるかしら、と思うのにちっとも明けないのね。早く朝になればいいのに。そうしたらこんなに冷たいあなたのことを考えないでいいのに。そんなことを思っていたら寝間の戸の隙間までもつれないように、思えてきたの。
男を待って待ちくたびれて、几帳の影に打ち伏した女の姿、というものが浮かびませんか。濃く焚き染めた香の匂いや、涙と汗の入り混じった女の体臭、うっそりと重たい髪の匂い、そんなものまで感じさせる歌です。涙に濡れた冬の装束の重たい華やかさがかえって哀れを誘うような。冬の、と言いましたのは、この歌には本歌があるのですね。それが冬の歌なものですから、こちらもそれが漂っているのではないか、と思うのです。
冬の夜に いくたびばかり ねざめして 物思ふ宿の ひま白むらむ
と言うのが本歌で、「後撰集」の中に増基法師の歌、として載っています。こちらの方があっさりとしている、と言いましょうか、物思いの苦悩と言う意味では俊恵法師の歌のほうが私は好きですね。輾転反側する気持ち、と言うのが良く現されているように思うのですよ。増基法師の歌は涼やかで「つい目覚めてしまった冬の夜」と言う印象が強いと感じます。ふ、と目覚めればまだ明けやらぬ闇の中、何度も眠りに落ちまた目覚め、そして気づけば戸の隙間にかすかな明るさ。それもまた、良いものです。
三代続いた歌の上手の俊恵法師ですが、意外な弟子を持っています。「方丈記」の鴨長明は俊恵法師を師としているのですよ。なんだか少し、不思議な気がしますね。ただ、美しいものへの求道心めいた心を持っていた長明のことですからさほど不思議ではないのかもしれません。「無名抄」と言う歌論書というか随筆というか、そういう文章も残していますし。その中に俊恵法師の住まいは歌林苑と呼ばれて、毎月歌の会が開かれた、と言うことが記してあります。俊恵法師は人の歌を評するのに様々なたとえを持ってした、と言います。ごく一般的に良い歌、と言われているものは堅紋の織物のようだ、とか、その艶の素晴らしい歌は浮紋の織物のようにふうわりと情景が浮かび上がってくるようだ、とか。中々面白いたとえではありませんか。なんとなくそうか、とうなずけてしまう気がしませんか。そうして自分の後に続く者たちを教え諭していたのでしょうね。自分がいなくなった後にも、この世の美しいもの、人の心を歌う者は続いていくのだ、そんな情熱を抱いた人であったようです。 
5
俊恵法師
嵐吹く真葛が原に鳴く鹿は うらみてのみやつまをこふらん(秋歌下) 俊恵法師
「嵐が吹く葛の原で鳴いている鹿は妻を恨んでばかりに鳴いているのだろうか、恨む気持ちと裏腹に恋しくおもっているのだろう」という歌であろう。小学館本の注では、「真葛の原」は葛の生えている野で、「真」は美称、「恨みて」と葛の葉が風に裏返りやすい「裏見」をかけて葛の縁語としている。
千載集には22首採られている。俊成は叙情を前に出した歌を多く採っていて、そこに共通した歌風と個性が感じられる。
み吉野の山した風やはらふらむ こずえにかへる花のしら雪(千載)
岩間もる清水をやどにせきとめて ほかより夏をすぐしつる哉(千載)
新古今での俊恵法師は12首採られているがばらばらな印象がある。理由はよくわからない。
良い歌を作ることと、歌人であることは別のことだが、俊恵法師はその典型的な一人かと思う。俊恵法師の歌は散文脈で語られる一行を短歌の詩形にはめ込んだという側面が強く、詩としての浮力に乏しい。もともとは叙情的な感性をもった人であり、「荻の葉に風うちそよぐ夕暮は音せぬよりもさびしかりけり」という歌にこの人の原点を見る気がする。叙情的な千載集の歌は若いころの作が多いのではなかったか。その叙情には資質だけで作られた歌という印象がある。しかし、その恋歌を見ると、この人の歌がその資質の上に開花したとは思えない。
「我が恋は今をかぎりと夕まぐれ荻ふく風の 音づれて行く(新古近)」が叙情と恋との接点を結んでいるが、作者の叙情が恋を包むことが出来たのはここまでであり、以降、俊恵は叙情を脇に置いたところで歌を作っていった気がする。
思ひかねなほ恋路にぞ帰りぬる 恨みはすゑもとほらざりけり(千載)
この歌は男女関係でぬきさしならないところまで行ってしまった様子が伺える。その経験は若い自分の叙情が削り取られる思いを傷として残したのであろう。「嵐ふく」の歌にその傷を痛む叫びが感じられる。
君やあらぬ我が身やあらぬおぼつかな 頼めしことのみな変りぬる(千載)
伊勢物語の「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」そのままに近く、歌としては危ういものがある。作者自身も承知していながら、こう詠わずにはいられないという思いが伝わる歌である。この歌人の本領は男女の恋歌と思うが、詩歌に昇華するよりは、小説に叙述していく方法が当時もしあれば、もっと個性を発揮した人であろう。
「八代抄」は8首採っていて、「百人一首」には千載集から次の歌が採られている。
夜もすがら物思ふ頃は明けやらぬ 閨(ねや)のひまさへつれなかりけり
「恋する人を思って一晩中、つらい気持ちでいると、なかなか明けない夜に、寝室の板戸の隙間さえもが無情に思えてくる。」という歌だろう。
作者の実感がこめられた歌だが、この歌人の力量からすればそれほど優れた歌だろうかという気がする。定家は「閨の閑さえ」という詩句に注目したのであろう。定家は自分の発想になく、昔の歌にも見られないこの表現を俊恵法師の個性と見たのだろう。しかし、歌としては掲出の「嵐吹く」が採られてもよかったと思う。
俊恵法師は源俊頼の息子だという。 
6
俊惠の歌論  

中世歌論における幽玄美の成立は、その二大支流にも警へられる虚字、基俊の二系列の綜合調和の上に行はれたことは既に述べた。今は、幽玄美樹立に大きな功績を持つ俊頼の子俊恵の歌論を眺め、彼がどのやうに幽玄美を意識し、その中核に迫ってみたかを明らかにしょうと思ふ。
俊恵の生殿は今日まで明らかにされてみない。しかし、彼の家集「林葉和歌集」第三秋歌に右大臣家百首の月五首の一つとして、 此の世にて六十はなれぬ秋の月死出の山路もおもかはりすなの歌が見えるところがら、右大臣家百首の時六十才に達してみたことがわかる。 また、 寿永元年十一月に成った月詣和歌集に顕昭が「俊恵法師に七十の賀をしてとらせ侍るとてよめる」
ななぞぢに満ちぬる年をまちつけて千歳つむべきふなよそひせりによって、寿永元年には七十才に達してみたことは明らかである。これから逆算して行くと、六十才の時の右大臣家百首は承安二年であり時の右大臣は九条兼実となる。またその生年は永久元年で、俊頼は大治四年七十五才で超したとする説に従ふと、父俊頼の五十九才の晩年の子といふことになり、さらに俊成より一才の年長であったわけである。俊恵の超年は明らかでない。しかし、無名抄の「歌入は証得すべからざること」によると、長明は「俊恵に和歌の師弟の契結びしはじめの言葉に云」として、 「後徳大寺のおとどは、左右なき手だれにていませしかど、(中略) そのかみ前大納言などきこえし時」とあるのは藤原実定で、実定が大臣となったのは寿永二年以降であり、.」2ゴロが俊恵の弟子長明に対する最初2口謹すると、長明が俊恵に入門したのは俊恵七十一才、長明三十二才以後と思はれる。俊恵が歌合に名の見えるのは、治承三年右大臣家歌合がもつとも新しく(時に六十七才)、それ以後の現存歌合には名を見出すことができないが、前述長明入門の記述と、さらに無名抄「上旬おとれる秀歌」に「俊恵云、歌は客意を思ひえたれども本末いひかなふることのかたきなり」として、後端大寺左大臣の歌を引いて説いてるるところの後徳大寺実定の左大臣拝聞、文治五年七月から建久元年七月までの一ヶ年は彼の七十七才から七十八才にあたり、これらの点から七十七、八才まで生存したと思はれる。この間、大治四年俊恵十七才の時言俊頼は超したが、林葉集によると花園の右大臣有仁の頃、(すなはち彼の十九才から二十四才)の歌から見ることができ、また、永暦元年の清輔朝臣歌合(四十八才)を初めとして多くの歌合に活躍してみる。東大寺の僧であったが、白河わたりに居を構へ歌林苑と称して歌詠み所にして当時の歌人が藻寄り、殊に歌林苑で百首を十首つつ十座に詠み十座の百首と名づけ、頼政、顕昭、俊成、季経、寂蓮、清輔、隆信、など当代の代表的歌人などと歌会を開き、またこれらの歌入と貴紳の邸の歌合に顔を合はせた。
俊恵は当時の歌壇おいても高い位置にあった.、とは、無名抄に引いた俊成の「俊恵は当世の上手なり」によっても降せられ、それでも「されど俊頼には猶をよびがたし。(申略)今の世には、頼政こそいみじき上手なれ」と父俊頼の上に出るほどでなく、俊頼なき今は頼政の歌才がすぐ泊てるると評してみるが、その頼政はまた、俊恵の歌才に頼るところがあった。承安二年二月乃至同年十二月の一年足らずに成立し焦W)と言はれる歌仙落書に当代の代表歌里二十入の一入として俊恵の歌は六首載せられ、「風体高くうるはしきすぢ也。桜の盛なるとやいふべからむ。」と極あて高く賞讃してあるし、和歌色葉上に名誉歌仙者として俊恵法師を挙げてみる。長明も「今の世め入」は「幽玄体をまなぶことのいできたるなり」と幽玄体め勃興したことをのべ、幽玄体の上手として清輔、頼政、俊恵、登蓮を挙げてみる。俊成を中心とする幽玄美の歌風樹立における俊恵の地位の重要さを知ることができるであらう。.現存歌合には俊恵が判者となったものは見られないし、歌論書も.ないが、歌壇的な位置の高いこと以上に、彼の幽玄美についての見解は重要である。以下彼の歌論を見ようと思ふ。 

俊恵の歌論前日といふものはない。しかし彼の歌論は長明の著「長明無名抄」によって知ることができる。長明は無名抄の至る所に「俊恵云」として、師俊恵の言を引いてみるが、「俊恵画すがたを定むる事」は俊恵の秀歌体に対する幽玄美との交渉を見る上にきはあて重要である。無名「抄は歌学大系本の解説に「見られるやうに、その原形は章段も切らず見出しもないものであったと言はれ、伝本によって章段の旬切りが異なってみる。歌学大系解説に載せられた四種の伝本の目録を比較しても、この見出しは凡て出てみるが、どこから次の見出しになるかは異なる。その事は俊恵の言はどこまで続いてみるかといふことが問題となるのであるが、この章の丈初の記述と照応して考へると、「新古今取事」或は「取古歌」の見出しの前までが俊恵の言と思はれる。それはこれまでの引用歌はすべて千載集採取歌以前のもめであること、「よそにのみ」以下の歌の評が文初の俊恵の秀歌に対する見解と一致してみること、更に「新古今職事」は定家の評が載せられ、時代的にも合はないからである。
俊恵はこの章において秀歌を次の如く規定した。
 1、たけたかくとほしろき歌
 2、いうに深くたをやかなる歌
 3、よくえんにすぐれぬる歌
たけたかく遠白.き歌は父俊頼髄脳の「けだかく遠白きをひとつのこととすべし」の展開であって、この美意識は俊恵においては「ひとつのこと」として遠白し「を考へたのが、俊恵においては「たけたかくとほしろき」は「よき歌の本」と考へるに至った。大江心房の
白雲とみゆるにしるし三吉ののよしのの山の花盛かも
を「これこそはよき歌の本とはおぼえ侍れ。させる秀句もなく、かざれる詞もなけれど、すがたうるはしくきよげにいひくだして、たけたかくとほじろきなり」と右の歌を「よき歌の本」と言ひ、そのよき歌たらしめてみるものがたけたかくとほじろき故であるとするのである。遠白体については既に究明せら加てるるところであり、今はその美的内容に触れるまでもないが、経信以来の「たけ高し」が率直且つ壮大な感情のある歌であるのに対し、「とほじうし」もそれと同じやうな雄大な美の歌を言ってみる。その内容は「姿うるはしく清げ」な感情が伴なひ、「たとへば白き色の異なる匂ひもなけれど、もろくの色にすぐれたるが如」き美で、「ようつのこと極まりてかしこきは、淡くすさまじきなり」といふやうに、淡白にしてしかも雄大、しかも優艶な情調め醸し出される自然の景象の歌を「たけ高く遠白し」と最高の歌体に置いたのである。この歌体は「ひともじもたがひなば、あやしのこしおれになりぬべし、いかにもさかひに入らずして、よみいでがたきさまなり」と最高の歌境に悟入せずしては詠み得ない歌であったの・である。
俊恵がかつて俊成に、俊成自詠の中でどの歌が勝れてみると思ふかと尋ねたところ、俊成は
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
を、「これをなん身にとりておもて歌と思ひ給ふる」と答へた。そしてその際、世のあまねく賞讃してみる俊成の歌
面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峯の白雲
をどう思ふかと尋ねたのに対し、またこの歌は先の匡房の歌と相通ずるもののある歌であるから、俊恵自身、匡房の歌と同様賞讃を惜しまない程に思ったであらうが、俊成は「みつからは、さきの歌にはいひくらぶべからずとそ侍りしか」と答へて、「夕されば」の歌をすぐれてみるとした。このことから考へると、余情としての幽玄美の象…徴内容であるところの、たけ高し遠白しと心細し姿さびの二系列のうち、俊恵はやはり経信、依頼の志向した前者の美の勝つた両者の調和の上に幽玄美を考へたもののやうであり、基俊の系統をつぐ俊成は心細し、姿さびに比重がかかってみたと言ひうるであらう。中世歌論における美意識としての幽玄は、激すなはち、美しさを旨とするよりも、さみしさを旨とするものであって、さみしさ、あはれさといふ静寂感が次第に中心を占めて来る美であり、殊に晩年の妻を亡つた俊成の生活自体このやうな幽玄の実践ともいへるのであるが、俊恵は「たけたかく、遠白き」幽玄に志向することが強かったのである。
だからこそこの章の次に俊恵は俊成のこの歌を難じて、「身にしみてといふこしの良いみじく無念に覚ゆるなり」といひ、なほ、表現技巧論の問題ではあるが、「けしきをいひながして、たゴそらに身にしみけんかしと思はせたるこそ心にくくもいうにも」あるのであって、「さはくといひあらはし」すぎると、「事浅く」なってしまふと非難してをるのである。次に挙げた俊恵の歌
み吉野の山かき曇り雪降れば麓の里は打ち時雨つ
の無名抄の個所を、東大本、内閣文庫本は「俊恵自讃歌」、或は「俊恵秀歌」と見出しをつけてみるが、これは決して正しい見出しのっけ方ではなく、召月の言ふ「無計におもしろからずと見るほどに稽古せよと有しなり。げにも上手の目にては一向手あさなる体なり」とあるやうに、俊成が「夕されば」の歌を俊恵を目の前にして自讃したのに、この歌を非難し、俊恵は自詠の中から、これと同様の非難にあたる同類の歌として挙げたのである。
歌に名所をとるにしても、
よそにのみ見てややみなん葛城や高まの山の峯の白雲
に対して、「姿清げに遠白ければことにかなひて聞ゆ」と冒頭に提示したところにも、彼の庶幾した最高の歌が遠白き景趣の歌であったことが知られるのである。「遠白し」は壮大、雄大な景観の自然と、白雲とまがふ…峯の桜とか、白雲の棚引く景趣が中心をなす。しかも「姿清げ」であり、「姿うるはしく」なければならない。 このやうな美が長明にも引きつがれた。その著螢玉集の冒頭に、 「此の道の奥旨なる上に先師のいましめ殊におもし、たやすく入に伝ふべからずといへり」とある上に、無名抄より更に後に成ったもので、その完成に先立って示寂したと思はれるので、長明の終世変らない共感が述べられてみると考へなければならないであらう。引歌の最初にあげたものが、
白雲の見ゆるにしるしみ吉野の吉野山の花ざかりかも
であり、 「此歌深き心もこもらず、異なる秀句もなく、かざれる詞も見えねども、た父清げにうるはしく、とどこほる所もなくいひくだせる、諸々の姿の申に優れたる体なり。例へば五色の中に白色を第一とするが如し、殊なるにほひなけれど、清くうるはしくして万の色に優力たるなり。彼君子の交りをつねにたとふるも、きはまりてかしこきは、あはくすさまじき麗なるべし。」と俊恵の言をそのまΣ忠実に祖述してみるのである。無名抄に引いたと同じやうに、
よそにのみ見てややみなむ葛城や高天の山の峯の白雲
の歌に対して、 「けだかく遠白き事、例へば峯の桜の盛りに咲けるが如し」と言ひ、これを「これ如何にも歌にとり並べたる時、優れて見ゆる徳あるべし」と、最も優れた歌として「遠白き」歌を考へてゐて、
春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらむ
の歌を「はじめの白色に似たれど、是はいますこしたをやかにして、ひとつの姿を飾らざるにしもあらず」と、遠白き歌よりも「たをやか」な「飾れる」歌を低次の段階に置いてみることが明らかに知られるのである。
以上のやうにして、俊成幽玄美の特質はその行きつく所が、静寂な、ひそやかな、さみしい、哀れな情趣の象徴されたものと成っていく中で、俊頼、俊恵、長明の系列はあくまで「たけたかく遠白き」美の発展成熟に志向してみたことを知ることが出来るであらう。
遠白き美に次ぐものは「いうに深くたをやか」な美であり、 「よくえんにすぐれぬる」美であった。
心あらん人に見せばや津の国の難波わたりの葎の景色を
を「かぎりなく遠白くなどはあらねど、いうに深くたをやかなり」と言ひ、優艶な美は古今以来の伝統で、あらゆる歌は優艶であり、あはれあるものでなければならないことは論をまたない。しかし優艶だけの歌は俊恵において最高の段階におくことは出来ないとするのである。だから「照射する」の歌を「ことぼつかひやさしければ」といふ点から見所ある歌として考へ、先に引いた俊成の「夕さカば」の歌を「ものさびしきかたなるによりその見所を考へてるても、決して「遠白き」歌に及ぶものとはしてみないのである。
しかし「たけたかく遠白き」歌は自然の景象を対象とする歌に見られるもので、入事を対象とするものには「えん」とか「いう」なる美が中心となるもので、俊恵は故左京大夫顕輔が詞花集の恋の歌の中で「おもて歌」として
忘らるN誉めばかりを難きにて恋しきことのなからましかば
を挙げたのに対し、歌丁丁の中から
一夜とてよかれし床の小莚にやがても塵の積りぬるかな
を挙げてみるところを見ると、 「よき女のうらめしき事あれど、言葉にはあらはさず、ふかくしのびたるけしきさよなどほのくみつけたるは、詞をつくして恨み袖をしぼりて見せんよりも心ぐるしうあはれも深かるべきがごとし」といふ長明の言のやうな余情の歌であって、幽玄体としての恋の歌はこのやうなものでなければならないとしてるたのである。 「歌は花蓮を先とす」といふ俊恵の言はもっともであらう。
「たけ高く遠白き」歌にしても、「いうなる」「えんなる」歌にしても、それらの歌は「景気」「面影」が添うてみるのである。俊成の幽玄が事理を底ひ残すところに醸し出す余情と、詠の声に匂ひ出る晋楽的な情調の上に成立することと、この幽玄美の要素的なものとして「景気」と「面影」があることが重大な要件となってみなければならな縣幽とは、周知の通りであるが、俊成においては景気と面影とを殆ど同義語として用ひてみるのに対し、「景気の浮かべる」歌は浮文の織物にたとへ、
ほのぐと明石の浦の朝霧に島かくれゆく舟をしそ思ふ
の歌において読者に印象せられる「けしき室に浮かぶ」、 淡くほのかな視覚的な自然景象の表象せられるもののあるのを言ひ、面影は
思ひかね妹がりゆけば冬の夜の河風寒み千鳥なくなり
の歌にみられる鮮明な「さむくなる」やうな自然景象の直観的に迫るものをさしてみる。この見解は長明にも継承せられ、「思ひかね」の歌や
雲はみな払ひはてたる秋風を松に残して月を見るかな
を「うち聞くに面影浮かびてさし向ひ見る心地する」と面影ある歌を一層明瞭に説明し、また
昨日だにとはむと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり
を「景気浅からず、たとへぼ秋の夕暮の塞の景色は、色もなく声もなし、何処に如何なる故あるべしとも見えねども、心にあはれ深く涙おつるが如し」と微荘と漂ふ自然の景趣の直観的に表象せられるものが景気ある歌であることを、 一層詳細に祖述してみるのである。 

以上のやうな俊恵の志向する美の実現する歌はどのやうにして生まれるのであらうか。まつ第一に、歌は「初心のごとく案じ」なければならない。そして、時には「苦心をつぎにして、あやしけれど、入のほめもそしりもするを用ひる」ことも必要である。歌はもちろん自然人生に対する情感、すなはち歌心から出発するのであるが、「いたく案じすぐし」てはならないのであって、 「心にいたく思ふことになりぬれば、おのつから歌はよまるる」ものである。仁和寺の淡路阿闘梨といふ人の「いもうとの許なりけるなま女房」が「いたく世をわびて詠ん」だ歌
みのうさを瓜ひし時は冬の夜もとどこほらぬは涙なりけり
は歌入でなかったので、外に歌はないが、唯思ふあまりを「おのつから」口ずさんだのが良い歌乏成ったのであると言ってみる。このやうに歌を詠まうといふ心さへあれば、 「風情はおのつからいで来るも殊鰯)で、 「おのつからよりくることを、やすらかに言へるが、秀歌」であるとしたのは、歌における最も根源的な創作心理としての、自然入生に対する素直な感動と、その感動をいたはりながらの言語表現の本道を的確に述べたものと言へるであらう。この見解は定家にも引きつがれ、 「俊恵はたゴ歌はおさなかれと申して、やがて三蓋にも、其の姿歌を秀逸とは思ひたりげに候けるとかや」、と述べてみる。長明の歌
時雨には難窪くもれし松の色を降りかへてけりけさの初雪
を俊恵は難じて、たゴ「つれなくみえし」と言ふべきである。 「あまりわりなくわかせる」と返って耳とまると言ひし点や、 「大かたいうなる心詞なれど、わざと求めたるやうに見ゆる」のは「歌にとりて失とすべき」であるとしたのは、傾聴すべき見解であらう。
それだからと言って言葉の選択をおろそかにして良いと言ふのではなく、感動の在るがまNに最も的確な言葉を見出さなけ加ばならないのであって、遍昭僧正の歌
垂乳根はかxれとてしもむば玉の我が黒髪を撫でずやありけん
を長明に「いつれの詞かすぐれたる」と尋ねたのに対し、長明はいみじくも答へたのであるが、俊恵は「とてしも」の四釣餌は装束の半舷のやうに、 「必ず品となりて姿を飾る」もので、これによって姿に花麗が加はり、おのつから余情が生ずる。ここの所を知ることが「さかひに入る」のであると教へてるる。
以上のやうに俊恵は経信、俊頼の系列の発展の上に「たけ高く遠白き」歌の美的理念を確立し、これがさらに長明に継承され、幽玄美の美意識構成の重要.な骨格を形作るものとして、歌論史上高い地位を与へなければならないであらう。 
 
86.西行法師 (さいぎょうほうし)  

 

嘆(なげ)けとて 月(つき)やは物(もの)を 思(おも)はする
かこち顔(がほ)なる わが涙(なみだ)かな  
嘆けといって月が私に物思いをさせるのだろうか。いや、そんなことはない。にもかかわらず、まるで月のせいであるかのように、こぼれ落ちる私の涙であるよ。 / 月が私を悲しませようとでもしているのか、いやそんなはずはないのだが、そうとでも思いたくなるほど、月にかこつけるようにして涙が流れてしまうのだ。 / 嘆きなさい、といって月はわたしにもの思いをさせるのだろうか。いやそうではないのです。わかっているのに、月のせいにしてしまうわたしの涙ですよ。 / 嘆き悲しめと月はわたしに物思いをさせるのだろうか。 いや、そうではあるまい。本当は恋の悩みの所為なのに、まるで月の仕業であるかのように流れるわたしの涙ではないか。
○ 嘆けとて / 「と」は、内容を示す格助詞。「嘆けとて」で、嘆けと言っての意。月を擬人化した表現。
○ 月やは物を思はする / 「やは」と「する」は、係り結びの関係。「やは」は、反語の係助詞。「する」は、使役の助動詞「す」の連体形で、「やは」の結び。「月やは物を思はする」で、月は(私に)物思いさせるだろうかの意。三句切れ。
○ かこち顔なる / 「かこち顔」は、恨みに思う顔つき。「かこち顔なる」で、「(月に)恨みを持つかのような」の意を表す形容動詞。
○ わが涙かな / 「かな」は、詠嘆の終助詞。 
西行の生涯
西行 やまとごころの歌人 
はじめに
その容貌から運慶の『無着』像は、MOA美術館の『西行』像にきわめて類似していることは、すでに指摘したが(「勧進の聖たちと仏教の展開」『新日本学』平成二十三年秋、第二十二号)、『無着』像のモデルが西行だとすると、これには、あまり歌人らしい、繊細さ、神経質な様子がない。堂々とした品格さえ感じられる仏僧の姿だ。或いは思慮深い武士のような隙のない顔をしているのである。それは絵画の方の『西行』像もそうで、朴訥は武士のようで余り歌人のように思われない。
それに、およそ世捨て人、遁世者という顔ではない。インドの見知らぬ無着という法相宗の開祖の想像の姿をここにかぶせた、ということが出来るだろうが、しかしその写実的な個性表現から、これこそが運慶が見た西行の真の顔、真の姿であったという気がしてならない。このことをなぜか、と考えざるをえなかった。
一方、同じ運慶の『世親』像は、神護寺にある『文覚(もんがく)上人』像にそっくりだ、と言った(同右論文)。運慶がこの二人をじかに見ていたことは、十分に考えられるから、この同時代者の二人を、興福寺北円堂の無着、世親像のモデルにしたことは蓋然性がある。そうであるとこれは実に興味深いことである。
というのも、この二人は関係があるからだ。すでに述べたように、文覚(一一三九―一二〇三)は俗名を遠藤盛遠といい、鳥羽法皇の皇女上西門院の北面に仕えて十八歳の若さで遁世した経歴がある。この経歴は西行ときわめて類似している。遁世後、熊野、大峰、葛城をはじめ諸方の山中で修行にはげんでいたのも同じである。やがて、後白河院と源頼朝を後楯として、荒廃していた高尾の神護寺を復興させた。運慶は東大寺再興の勧進役の西行と、神護寺再興の文覚を、その両方の寺の仏像に関わっていた関係でよく知っていたのである。
南北朝時代の歌人、頓阿の『井蛙抄』によると、文覚は先輩の西行(一一一八―九〇)を次のように批判していたという。西行は仏道修行に専念せず、《数寄をたてて、ここかしこにうそぶき歩く》ものだと憎み、いづれか頭を割ってくれようと、弟子たちに語っていたというのだ。
ところが文覚が、ある日、高尾の法華会に参詣した初対面の西行に出会ったとき、かえって、ねんごろにもてなしたので、弟子たちがいぶかったという。すると《あら言いがひ無(な)の法師どもや。あれは文覚に打たれんずる者の面様(おもざま)か。文覚をこそ打たんずる者なれ》と言ったという。西行の堂々とした「面様(おもざま)」に感服してしまったのである。これはまさに運慶の『無着』の像を思わせるではないか。
この話は『古今著聞集』に書かれた《世を遁れ身を捨てたれども、心は猶昔に変わらず、たてだてし(意地のつよいこと)かりけるなり》という西行への評語とも合致するのである。それはまさしく、西行のあの女性的感受性ともいえる作品を生み出したものと異なって、実際は不敵な風貌、剛直な意志、縦横な行動力をそなえていた姿を彷彿させる。
そのことを理解するために、もう少し、西行の経歴を調べてみよう。 
1 天皇に仕える武士
西行は元永元年(一一一八)に生まれているが、元服して義清(のりきよ)と名乗った十五歳のとき、天皇の警衛にあたる役割の「内舎人(うちとねり)」任官を申請している。しかしそれには失敗し、三年後の十八歳のときに、やはり内裏の警護役である「兵衛尉」任官を申請して認可を受けた。このとき息子の任官のために、父の佐藤康清は、鳥羽法皇に拠金している。法皇の御願による勝光明院の造営に資金を出したのである。その費用一万匹の巨額を工面したのは、皇室に対する敬愛が、佐藤氏に代々あったからであり、むろん荘園領主として豊かであったからである。
義清は弱冠二十歳のとき、鳥羽院がお忍びで鳥羽に赴いたとき、選ばれて供奉(ぐぶ)している。彼は御所の「北面」の武士となっており、御所の警備や御幸の供奉に当たっていたのである。この「北面」は白河上皇の時以来置かれた役割で、院みずから近臣の子弟などの中から選び、御所の「北面(きたおもて)」に伺候させていた。その主従関係は身分の差を越えて密接であったといわれる。院の寵愛を受ける位置で、容姿端麗はいうまでもなく、弓術、馬術にすぐれ、詩文、和歌、管弦、歌舞の心得もなければならなかった。貴族の地位上は下位の五位、六位でありながら、宮廷の花形という性格をもっていたのである。
騎馬・弓射は「北面」の武者にとって必須の武技である。
《伏見過ぎぬ 岡屋(おかのや)になほとどまらじ 日野までゆきて 駒こころみむ》(『山家集』)。
これは「駒試みむ」という題で、「北面」時代の、院へ献上された馬か、乗初めに日野まで行ったことを思っている、馬思いの歌であろう。このように率直な武士的面を西行はもっていた。
義清(のりきよ)は、文武両道に精進しただけでなく、「北面」の儀礼にも通暁していた。皇居の守りである「北面」について、『参軍要略抄』という故実を記した書物に、次のような話がみえる。
ある人が後白河院の天王寺御幸に供奉し、「青海波」という舞楽の中で、「垣代(かきしろ)」(庭上に列立して吹奏する楽人)を勤めた時、他の同僚が帯剣しなかったのに思う所あって独り帯剣した。これを耳にした老西行が、《それは帯剣すべきものだ》と、甥の左衛門尉能清に教えたというのである。この行幸は治承三年(一一七九)のことで、この年西行は六十二歳であった。歌人であっただけでなく、院の前での武士としてのたしなみを決して忘れかなったからこそ、文学一筋の文学者などには、到達できぬ公の感覚をもっていた、と考えられる。
西行は晩年、鎌倉で、源頼朝と出会って話合っている。これについてはすでに引用しているが、源頼朝から「弓馬の事」についての教えを請われた時、西行は《弓馬の事は、在俗の当初、なまじ家風を伝ふと雖も、保延三年八月遁世の時、秀郷(ひでさと)朝臣以来九代の嫡家相承の兵法を焼失し、罪業の因たるに依りてその事かつて以て心底に残し留めず、皆忘却し了(おわ)んぬ》(『吾妻鏡』)と語っている。しかしその後、頼朝のたっての願いに応えて、徹夜で兵法を伝授しているのである。西行自身は、遁世の身であったから、《心底に残し留めず》と述べているが、秀郷流九代の武門の伝統への自負が根強くひそんでいたのだった。
この時の西行の語りには、たとえば、《馬上では弓を水平に持たず、拳で斜めに押ったてて、ただちに引けるように持つこと》といった実践的なもので、そばにいた鎌倉武士たちも感心したという。五十年ほど後に、ある老武者の回顧談を聴いた北条泰時のいたく感心し、以後弓の持ち方は西行の説を用いよと言ったと述べているのだ。
ところで西行の祖父、佐藤季清(すえきよ)は、十二世紀初頭の白河院政期に、都の取締役である検非違使として活躍していた。右大臣、藤原宗忠の日記、『中右記』によると、天仁元年(一一八〇)、平正盛(清盛の祖父)が、かねて出雲国で狼藉をはたらいていた流人、源義親(義家の父)の首級をひっさげて上洛した時、この季清が七条河原でこれを受け取り、大路を渡して西獄門の樹に懸けるという役を演じたという(『中右記』)。その時、京中の男女は群れをなして集まり、眼をこらして見物するのだから、検非違使はそれに対して秩序を守る役割となるのである。
また『清・眼抄』という書物には「左藤判官季清記」が書かれ、《季清、子孫に知らしめんがために記し置く所なり、敢て他見に及ぶべからず》とあって、季清が検非違使の故実に明るかったこと、子孫も代々検非違使に補任されることになっていたと記される。西行が最初は官人となったのも、この代々の役割であった。こうして故実に通暁していたのは、祖父から伝えられた庭訓(ていきん=おしえ)によるものであったのである。
こうした武士的な面が、西行の出発点であるとすれば、あの運慶の『無着=西行』像のにこめられている、あの男性的で剛直な面が理解できるのである。あの像が、歌人らしい女性的な西行像ではない、という否定的な見方は、これで解消することが出来るようだ。
一方の歌人として素質はどこから培われたのであろう。
《君がすむ 宿の壺をば 菊ぞかざる 仏(ひじり)の宮とや いふべかるらむ》。
この菊の詠進歌は、義清の「北面」時代の習作と考えられている。この歌合、物合(歌合に伴う菊合、貝合、絵合などに優劣を競う)などがしきりに催された「北面」生活の時代に、若き義清の歌道に魅せられたのである(目崎徳衛『西行』吉川弘文館)。
それは西行の母方からの遺伝にあったといえるであろう。『尊脈分・』によると、母は「監物源清経の女(むすめ)」と書かれている。監物とは役人の取締の役であるが、その清経の名が、後白河院がみずからの「今様狂い」の半生を回想した自伝『梁塵秘抄口伝集』に見出せるのである。
その記述によると、清経は「今様」の達人で、何かの所用で尾張国に下った時、美濃国の青墓にいた「今様」の名手・目井という遊女とその養女乙前(おとまえ)を都へともなったという。清経はこの目井と長年同棲したが、目井の老いさらばえた肉体が厭わしくなってもこらえて、青墓へ連れて行ったり迎えに行ったりして親切を尽し、目井が尼になって死ぬまでねんごろに世話した、と書かれている。養女の乙前はこの事を後白河に語って、《近ごろの人ときたら、愛情がさめたら、京の中でも連れて歩いてはくれまいに》と、清経の人柄を賞賛した。
この乙前は後白河院の「今様」の師匠である。その八十四歳の高齢で世を去る時、院がお忍びで枕頭を見舞い、『法華経』を読誦してやり、また「今様」を歌って聞かせた話も、『口伝集』が語っている。この乙前や・利、初声などという遊女は、みな清経に今様を教えられたのである。しかもその鍛え方は猛烈をきわめた、という。余りのつらさに乙前が不平をいうと、清経はこれを戒め、《若い時はともかく、老いて容色の衰えた時には、歌の心得があってこそ貴人の召しにも預かれるのだ》と、ねんごろに訓したという。
清経はまた粋人で、江口・神崎の遊里に案内役を買って出ている。このした記述を見ると、遊女が決して、蔑まれた存在でも、差別された存在でもないことに驚かされるが、「今様」という後白河院が好んだ歌の表現を通じて、皇室と一般人民が結びついていることに、これまでの「中世」の階級社会の歴史概念を訂正させる社会の交流を感じさせる。
また清経は、藤原頼輔の著した『蹴鞠口伝集』に、孫の西行とともに引用されているが、蹴鞠の名手であったというのも面白い。つまり、西行の蹴鞠の技術はこの清経によっててほどきを受けたといっていいだろう。西行の没後に書かれた版本『西行物語』では、義清が鳥羽院の恩寵を得て、《花の春の詩歌、紅葉の秋の月の宴、懸(かかり)の蹴鞠、南庭の御弓、四季に従ひての御遊びにも先ずこれを召され》たことを記しているのである。ここでも、西行が蹴鞠や弓射を身につけていたことを示している。貴族的な蹴鞠の遊びが、一般化していることがわかるし、この混乱していると思われた時代にあっても、人々は生活の楽しみを欠かすことはなかったのだ。 
2 出家
『無着=西行』の顔に、非日常的な孤高な面があるとすれば、次のような遁世の際のエピソードが、思い起こされる。それはある意味で西行の酷薄な一面である。
西行は佐藤義清の名を捨てて、出家を二十三歳の若さで遂行し、はじめ円位を名乗った。その後、西行と称した。その仏教の道にはいる西行が、娘を足蹴にしたのである。
《この暮の出家さはりなく遂げさせ給へと、三宝に祈請(きしょう)申して、宿へ帰りゆくほどに、年ごろたえがたくいとをかしけりし四歳なる女子、縁に出迎ひて、父の来たるがうれしさよとて、袖に取りつきたるを、たぐひなくいとをしく、眼もくれて覚えけれどお、これこそは煩悩のきづなを切ると思ひて、縁より下へ蹴落したりければ、哭(な)き悲しみけれども、耳にも聞きいれずして中に入りぬ》(『西行物語絵巻』徳川美術館本)。
四歳の娘を足蹴りにしてしまう、というこの行為は、父であることを捨てたっ身勝手な行為でもある。これは「遁世」によって、それまでの家族関係の断絶の悲劇を、閑却にふす傾向があるが、西行にとって大きな傷となったことは、無視出来ないであろう。それだけでなく、このことは、一方で、仏教そのものに、ある種の非情性が、内包していることを物語るものではないか。
それは仏教が、個人のことのみを考える、ひとつの傾向である。仏教が、遁世、出家ということをある意味で理想の修行形態をもつとき、それは、同時に共同代を抜け出し、それを否定することにもなるのだ。仏教でも在家のそれは、そのようなことはないといっても、やはり釈迦にという個人帰依が優先される。
とくに西行のように、妻帯者が、独りで出家する、となると、これまで支えてきた家族のような共同体を破壊してしまうことになる。本来なら慈悲を旨とする仏教が、この残酷な一面をもつ、ということに、西行が、心を痛さなかったとは考えられぬ。出家することが、必づしも、仏にかなったことなのか、疑問さえ感じられたはずである。後に西行は「地獄絵を見て」という歌を詠むことになるが、幼い子供に対し、性的虐待を加えたものは、「衆合地獄」の中の小地獄「悪見処」に堕ちる、いう八大地獄のひとつとして、知らないはずうなないのである(源信『往生要集』九八五年)。彼の行為は「性的虐待」ではないにせよ、幼い子供に対する虐待にはかわりはない。
私がこのことをあえて取り上げるのは、日本人における仏教思想の認識の片寄りのことである。このことは後でも述べるが、西行が晩年、伊勢に住み、日本神道に心を開くこととの関係である。つまりそこには仏教の個人性に対しての疑問である。少なくとも仏教だけでは、日本においては不十分な思想である、という認識のことである。
西行は、娘の哭き声に耳に入れず、妻の決意を告げ、みずから髻(もとどり)を切って持仏堂に投げ入れた。そして旧知の聖(ひじり)のもとに走って素懐を遂げる、という経緯は一見、潔い行為に見られるかもしれないが、しかし人間としての西行の限界を示すことにもなるのだ。
《世を捨つる 人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいふ》。
この歌は、世を捨てた人は、まことに捨てきっているのだろうか、いや、むしろ捨ててない人のほうが世を捨てている、という意味であるが、彼自身、妻子を捨ててきたことに、深く反省する思いがあったに違いない。「述懐の心を」という題名がそれを感じさせる。
しかし彼の行為は、仏教の遁世とは本来、関係のなかったことかもしれない。このような俗界から離れようとする態度は、ある不自然さを伴う。しかし出家の行為は、ただ歌三昧の内に入るという芸術衝動をそこに秘めていた、と思われる。少なくとも西行にとって、それと、本来、相反するものではなかった。つまり出家の名を借りて、芸術の道に入りたかったのである。西行にとって、家族との日常性は、バナリテ(凡俗性)そのものであったのである。彼は家族のことを一切、歌おうとしていないのは、その日常性がたえられなかった、と思われる。
こうした西行遁世の場面は、『西行物語絵巻』(徳川黎明会)の詞書から由来するものであるが、絵巻でも幼児が倒されている場面は迫真力がある。この絵巻に従うと、遁世する時の西行には若妻と幼女がいたことになる。しかし『西行物語』の説話をそのまま信ずるわけにいかないとして、川田順氏(『西行』)などは、《西行に妻子のあったらしい感じのする歌は一首も半首もない》として、「西行独身論」を唱えた。私はこれには賛成しないが、しかし《一首も半首もない》という氏の発見に、かえってある種の恐ろしさを感じる。
西行は妻子に限らず、他の家族も祖先たちもまったく詠歌の対象としていない、という。つまり彼が佐藤義清と名乗ったときに世話になったはずの、祖父、佐藤季清も、父康清も、外祖父源清経もその女子なる西行母も弟の仲清も、和歌の詞書に、絶えてその名がないことになる。そのことは、遁世を徹底したことなのか、もしくは和歌の世界における主題にならない、と考えたのか、いずれにせよ、私はこれを偶然の結果とは考えない。数奇と遁世の境涯にとって、肉親・係累のごときものは無用の夾雑物に過ぎないという、一種のダンディズムが西行の胸中に領していたためとかんがえる人もいよう。しかし痛切に、この娘打擲を思い出としていたからこその沈黙があった、といわざるをえない。
西行の妻子についての信ずべき史料は、鴨長明の『発心集』にある。その記事によれば、西行は出家の際、跡を、「弟なりける男」に譲り、《幼き女子の殊にかなしうしける》を、この弟に託した。その後、この女子は《九条の民部卿の御女に、冷泉殿(れいぜいどの)と聞こえける人》の養女となって、この上もなく愛されたので、西行も安心していた。ところが女子が十五、六歳になったとき、冷泉家の妹が「播磨三位家明」という男と結婚し、女子はその侍女にされてしまった。西行はこれを聞いて不本意に思い、ひそかに女子を連れ出し、《高野のふもとに天野と云ふ所》で尼となっていた旧妻の許に送り届け、母子はその後もろともに修行にはげんだ、というのである。この話は、西行がわが娘に愛情をもっていたことを表している。決して足蹴にしたままではなかったのである。
西行研究の目崎徳衛氏は、長明は西行と同時代人で、西行が晩年住んでいた伊勢の草庵を、その立ち去った直後に訪れなどしているから、かならずや西行の身辺について見聞する所があったに違いない、と述べて、この長明の語ることは正しいと考えている(前掲書)。
とくにこの《世を捨つる》の歌は、崇徳院の勅命によって西行三十四歳の仁平元年(一一三一)に奏覧された『詞花和歌集』(雑下)に、《「よみ人知らず」で「身を捨つる人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ》と少し詞を替えて収録されている。若き西行の名は、まだ知られていなかったから、「よみ人知らず」となったのであろうが、この《世を捨つる》の歌が、歌の修行のための遁世であって、仏教的な意味での、出家ではないことを、示唆しているように見える。
西行が、あたかも仏道修行のためのこの行為が、このような人間関係を絶って、進行させることに、仏教そのものへの、ある種の非人間性として認識したのは、やはり伊勢に至った晩年であろう。
目崎氏は《思うに、西行を敬慕していた芭蕉が、ある期間芭蕉庵に同棲していたらしい尼寿貞などを風雅の対象としなかったと同様な態度であるまいか》(前掲書)と述べているが、それとは異なる、と思う。西行の場合はわが娘のことであり、芭蕉の方は、同棲した女性で、同じに考えるべきではないのだ。西行は隠遁後も数多くの女性と愛の関係を結んでおり、それを歌に数多く詠っているのだ。
もし西行が、仏教をすでに深く体得していたとすれば、そのような出家に仕方をしなかっただろう。そして出家した僧侶として仏道に邁進したとすれば、その才能からして、彼は法然、親鸞、日蓮らと同じ位の、思想的立場を確立していったかもしれない。しかし、西行自身、教理の研究に没頭する学僧ではなく、あくまで自分の感性を、俗社会から離れて自然の中で磨く歌人であったのだ。
そこにあるのは、後でも述べるが、仏教の教理的な遁世の仕方ではなく、自然信仰に基づく、芸術への道の方である。その道にこそ、その行動の思想的根拠がある、と考えられる。その自然信仰は、仏教の顕密両教を超えており、山岳信仰や本地垂迹思想に近いものであった。彼は大峰という山臥(やまぶし)修行の場で、苦行を行なっている。それを『古今著聞集』が伝えており、西行は「大峰二度の行者」と言っている。
ここで思い出されるのは一世紀前の能因法師(九八八〜?)のことである。三十歳ごろ卒然として遁世した能因の動機は、《けだし学びて尽くるなきは、本朝の俗、和歌の道のみ》(『能因法師集』であり、《和歌は昔より師無し、しかるに能因はじめて長能(藤原)を師となす》と同じ精神であっただろう。しかし西行には和歌が「俗」である意識も、「師」を仰ぐ意識もなかった。
《西行にとりては和歌は遊戯文学にあらず、さりとてまた門閥の下に屈従するに堪へず、望む ところは、擅(ほしいまま)に山川花月に対して、おのが感情を述べんとするにあり、平安の末造末だかくの如き歌人にあらず、社会の状態は未だこの種の文芸の士の存在をゆるさず、乃ち西行は最もこの生活を為すに近き法師の境界を選びしものにあらざるか。敢て意識して、これを選びしとはいはず。その天稟の傾向はおのずからここに至らしめたるなり》(藤岡作太郎「西行論」『異本山家集』付載)。
法師はあっても、文芸の士の存在はなかったというのか、この明治時代の研究家、藤岡氏の見解であるが、たしかにこの時代に職業としての歌人、作家の存在はなかっただろう。しかしそれにも関わらず、芸術家の自立性は、存在したのである。純粋歌人などというものは、例え経済的に成り立っても、その創造性は貧しければ、意味はないのであり、他の職業の生活者として生きることによって、文学を創造できるものなら、それが芸術家の自立性なのだ。書くだけの存在からは、人を打つ文学をつくれない、という文学の本質を知っていたのである。歌人としての道に入るためには、他の糊口の道に入っても、それが可能ならば、進むことが出来るという認識をもっていたのである。それは役人でも、僧侶でも、職人でもよかったのである。
若年の作とされる百首歌の「述懐十首」では、捨ててのちも、心のみは、世にある、という歌が何首か詠われている。彼が隠遁したのは、都から遠くはない東山・嵯峨辺であったからかもしれない。
《世の中を捨てて 捨てえぬ ここちして 都離れぬ 我が身なりけり》。
《捨てたれど かくれて住まぬ人になれば なほ世にあるに 似たるなりける》
捨てたはずの俗界にまだ未練を感じていることを承知で詠ったものである。
「捨ててのち」の「捨てて」、がすでに仏教的な生活に入るという意味であるのに、なお、未練を詠っている。それが和歌のリアリティになっているのだが、しかし仏教者からいえば、その不徹底性に首をかしげることになろう。それが山深く入った生活をおくったとしても、同じことであった。
《山深く心はかねて送りてき 身こそうき世を 出てやらねども》
《雲につきて 浮かれのみゆく 心をば 山にかけてを 止めむとぞ思ふ》
ここには、あくまで入山という意味が、山という仏寺という意味ではなく、山という本来の自然の意味に取られているように見える。
彼の遁世には、『源平盛衰記』(巻八讃岐院事)の次の説話がある。それは、より歌人的、芸術的である。
《さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも恐れある上臈(じょうろう)女房を思いかれ進らせたりけるを、「あこぎの浦ぞ」といふ仰せを蒙りて思ひ切り、官位は春の夜見はてぬ夢と思ひなし、楽栄は秋の夜の月西へと准(なぞら)へて、有為の世の契りを遁れつつ、無為の道に入りにける。あこぎは歌の心なり。
伊勢の海 あこぎが浦に 引く網も 度重なれば 人もこそ知れ
といふ心は、かの阿漕(あこぎ)の浦には、神の誓にて年に一度の外は網を引かずとかや。この仰せを承って西行が詠みける、
思ひきや 富士の高嶺に 一夜ねて 雲の上なる月を見んとは
この歌の心を思ふには、一夜の御契りはありけるにや。重ねてきこしめす事のありければこそ、阿漕とは仰せけめ。情ながりける事どもなり》。
この説によれば、西行は身分の違う女性に恋をし、一度は逢う瀬を叶えられたのに、世に知られるのを怖れた女性から縁を切られ、そのために無念やる方なく出家したというのである。こうした話は、すでに触れた文覚が、恋人の寝首を掻く事件によって出家したという話(『源平盛衰記』巻十九文覚発心)と似ており、或いは、それに合わせた作り事かもしれない。しかし《思ひきや・・》の西行の歌が引用されているから、それは本当のことだったのかもしれない。この富士の歌は他に見られないが、しかし恋人を月に例える表現は『山家集』の「月に寄する恋」一連の中に数多く詠まれている。
他にも、『山家集』に収められた「恋百十首」「月に寄する恋」(三十六首)・「恋」(六十首)の三大歌群があり、さらには三百首あまりの恋歌をこの遁世者は詠んでいたのである(目崎、前掲書)。
たしかに女性関係が、彼の出家の原因だ、と思わせるものがある。ただ、それは女性関係を断つ意味ではなく、あらたに交流関係に入る、という意味合いがあるのが問題だ。
西行は遁世後、一体どのような女性と交遊していたのであろうか。言われているのは、その中心は、鳥羽天皇の皇后、待賢門院の女房たちである。『古今著聞集』(巻十五)によると、西行は待賢門院璋子の兄で、左大臣実能(さねよし)の「家人」(従者)であったから、当然、彼女らと接することになったのであろう。
崇徳天皇は鳥羽天皇と寵妃・待賢門院璋子の間に生まれたことになっているが、璋子が白河法皇の養女であったことにより、その子を宿し、それが崇徳天皇となったと言われている。鳥羽上皇は、名目上は崇徳天皇は、我が子だが、「叔父子(おじこ)」と呼んだ(『古事談』二)。その後、鳥羽上皇に疎まれた待賢門院は出家し、仁和寺法金剛院を建立してそこで落飾(髪をそりおとすこと)したが、その翌月に、西行はそこを訪れているのである。
そして待賢門院の死に対し、追慕の情をもって、
《色ふかき こずえを見ても しぐれつつ ふりにしことを かけぬ日ぞなき》と歌っている。
待賢門院の崩御の後は、お付きの女性たちは、遁世する者と女院所生の上西門院に仕える者とに分れたが、西行はそのどちらとも親交を結んでいたという(角田文衛『・庭秘抄』)5。そのとき詠われた和歌は、恋が主題であるのか、交わり自身が主題であったか、判断が分かれる。西行にとっては、恋の状態を歌の発想源にしていたことは、あれほどの恋歌の多さでも理解されるはずである。西行は「小倉百人一首」の院政時代の代表的女流歌人である待賢門院堀河とその妹兵衛をはじめ、村上源氏顕仲の一族と親しかったように、多くの女性との交流による色歌が必要であったと思われる。彼女らは西行より年上で、なまなましい恋愛感情は生まれそうもなかった。西行は彼女らの住む西山の草庵を訪れているが、それは恋愛のためでなく、恋愛感情を楽しむもののようであるのだ。遁世者が、三百首もの恋歌をつくることは、真実の愛からは考えられぬことである。
その交流は、待賢門院中納言との間で知ることが出来る。中納言は、高野山麓なる天野別所に移り住み、修行に入っていた。高野山に入っていた西行はこの別所をも訪ねているが、そこで交わされた会話は、自然と神への共感に満ちたものであった。都から訪れていた待賢門院帥の局を案内して粉河寺に参拝するとき、風光うつくしい吹上・和歌の浦を歩く会話が伝わっている。その折の逸話は次のようなものだ。
《道より大雨風吹きて興なくなりにけり。さりとては吹上に行き着きたれども、見所なきやうにて、社に輿(こし)かきすゑて、思ふにも似ざりけり。能因が「苗代水にせきくだせ」と詠みて言い伝へられたるものをと思ひて、社に書きつけける
あまくだる 名を吹上の神ならば 雲はれのきて光あらはせ
苗代に せきくだされし 天の川 とむるも 神の心なるべし
かく書きつけたりければ、やがて西の風も吹き変りて。たちまちに雲はれて、うらうらと日なりにけり。末の世なれど志いたりぬる事にはしるし新たなりけることを、人々申しつつ信おこして、吹上・和歌の浦思ふやうに見て帰られにけり》(『山家集』)。
待賢門院帥の局を案内しながら、吹上の天気の推移を歌にしており、末の世の仏法より、神道的な自然信仰の中に生きる西行の姿がある。恋愛よりも女性とその自然な交わりを共有しようとする姿である。何気ないこのような自然との交流こそが、仏教的な厭世観よりも先立っており、それが、男女の交わりそのものを自然なものとしているように見えるのだ。高野山という山に住み、吹上・和歌の浦で自然と交わり、そこに神を感じているのである。ここに神が出てくるのも、その仏よりも、自然神の存在を感じている、ととれる。
別の女性との交わりを示す歌がある。この二つの歌には、「神」の受け入れる「やまとごころ」が感じられる。
《天王寺へ参りけるに、雨の降りければ、江口と申す所に宿借りけるに、貸さざりければ、
世の中を厭ふまでこそ 難からめ 仮りの宿りを 惜しむ君かな
返し           遊女 妙
家を出づる 人とし聞けば 仮りの宿に 心留むなと思ふばかりぞ》(『山家集』)。
遁世者が、女性と交遊しようとするのは、これも外祖父の血を引いて「数寄者」と呼ばれるのが常である。しかし、この色好みの西行のことを「数寄者」と呼ぶことを、私が好まないのは、西行はあくまで歌が主であるからだ。応える遊女、妙の歌も、西行自身がつくったと考えられるからである。 
3 仏教か神道か
西行は、陸奥の旅の後、久安年間、三十歳前後で真言霊場の高野山に入山し、草庵を結んだ。その生活はその後、三十年続くことになる。
《高野にこもりたるころ、草のいほりに花の散りければ
散る花の いほりの上を 吹くならば 風入るまじく めぐりかこはむ》。
ここで示されるのは、仏教の話ではなく、花の散る情景なのだ。西行にとっては、高野山という地名の他は、ここが仏教の聖地である、というより、自然の聖地といった方がいいと思われる。つまり仏教修行に入るというより、自然の中に入り込むという要素の方が大きいのだ。
仏教的主題を詠った次の三首でさえ、歌う内容は自然そのものである。
『大日経疏』の文「心自悟心自証心」と題して
《迷いきて 悟りうべくもなかりつる 心を知るは 心なりけり》
と詠み、「論の三種の菩提心のこころ」と題して、
《勝義心  いかでわれ 谷の岩根の つゆけきに 雲ふむ山の嶺にのぼらむ
行願心  思はずば 信夫の奥へ来ましやは 越えがたかりし 白河の関
三摩地  惜しみおきし かかる御法(みのり)は聞かざりき 鷲の高嶺の月は見しかど》
とあるように、『菩提心論』の説く、「三種の菩提心」を詠うのに、山に分け入る旅の僧を回想しているのである。むろんそれは、遠国への「修行」の体験に引き寄せて詠っていると解釈され、「雲踏む山」を高野山、「鷲の高嶺」を法華信仰を寓意にしている、と言われる。が、それは「三種の菩提心」をこめるには、迂遠な述べ方と言った方がよい。和歌が漢語と違って、仏教の教理を述べるのに、ふさわしくない表現形態だから、といえばそれまでであるが、その「勝義心」「行願心」「三摩地」を表すには、仏教性が希薄なようだ。それよりも遠国の山行きは、仏教の「御法」に従うというより、山岳信仰を中心とする神道にその起源が求められるのではないか。顕教よりも密教を尊ぶ志向の反映だと言えるだろうが、それはまさしく山岳修行の神道的なものである。
《観心  闇はれて心の空に澄む月は 西の山べや 近くなるらむ》
この歌も、仏教的に解釈すれば、「心の月」が、覚・の著書『心月輪秘釈』に詳説された「月輪観」(阿字観)を踏まえていると考えられ、「月」を女人の面輪にたくわえる所から進んで、真如の象徴と観ずるに至った、とされる(荻原昌好『和歌と中世文学』所収)。しかし「心の空に澄む月」はやはり、月の動きという自然の場景を詠っている。これはもともと自然信仰をもとにしている。顕密両教よりも。山岳信仰や本地垂迹思想をもとに従っており、大峰という山臥(やまぶし)修行の場、神道の自然信仰のあらわれと考えられる(『古今著聞集』に西行は「大峰二度の行者」と伝えられる)のである。『山家集』には、大峰山中で詠んだ作品が十八首あるが、いずれも山岳信仰が詠われ、仏教的な境地は強いわけではない。
山里に庵を結び、その心の中には、安らかさと孤独の感情であり、自然の中に溶け込む感性がある。多くの評者も、四季折々の自然の風物にふれ、「あはれ」や「さびしさ」の情趣にひたる心境がうたわれている、と指摘する。
《山ふかみ 霞こめたる 柴の庵に 言問ふものは 鶯の声
谷の間に ひとりぞ 松も立てりける われのみ友は なきかと思えば
水の音は さびしき庵の友なれや 峯の嵐の 絶え間絶え間に》。
このような自然との融合が尊ばれ、西行はしばしば自然を「友」と呼び、親しみをこめてこれらを問いかけるのである(目崎、前掲書)。。
私は、「自然」と言う言葉を、そのまま使ってきたが、この言葉は、意味としては、近代のNatureの訳語である。これは近代の包括的な概念として使われなかった当時の山、谷、松、風といった個々の自然の要素を、包含するものである。それは神の観念まで含むアニミスムの意味もあり、それは一種の宗教的感覚さえ包含するものなのである。それは、もともと日本人の宗教であった神道の根本にあるものなのだ。「山」という言葉が、総本山のように仏寺の用語に使われるようになった後、「山」は、その神道的な意味合いが忘れさられたように見えるが、それは仏教の神道化を意味するものと考えなければならない。「山」や「水」を詠む歌が、圧倒的に多い西行には、神道の歌人というのがふさわしいのである。『山家集』という名前も、「山」を「家」とすることを示している。
西行には、晩年、自らの歌を撰んて、藤原俊成に送った『山家心中集』がある。その巻頭に、「花」と「月」の詠各三十六首を配列している。俊成は当時の歌壇の巨匠であり、西行の最も近しい知己でもあった。この表題の脇に《花月集ともふべし》と書かれているように、その主題は、花の歌・月の歌であった。晩年の自作の粋を編んだとされる二部の歌合(『御裳濯河歌合』『宮河歌合』)も、「花」の歌と「月」の歌で構成されていた。このうち「花」は愛してやまなかった自然の象徴であるとすれば、「月」が秘められた恋人の面影とみられる。
この自然への愛に惑溺し、西行は年ごとに吉野の山中深く踏み分けて「花」を探ねた。吉野の地名を織り込んだ約六十首の「花」の歌は圧巻である。ただ「月」といい、「花」といったとき、単に歌の主題として考えるが、それはまさに自然の象徴であり、それが自然崇拝としての神道に根本にあると考えた方がよい。
《春ごとに 花に心をなぐさめて 六十(むそじ)あまりの 年を経にける
吉野山 花の散りにし 木の下に とめし心は われを待つらむ》西行の「花」の憧れは美的な意味での愛情ではなく、そこに信仰があつかったと考えるべきなのだ。
《吉野山梢の花を見し日より 心は身にもそはずなりにき》
《聞きもせず 束稲(たばしね)山の 桜花 吉野のほかに かかるべしとは》などの名句も、旅をして、それを楽しむという以上の、「山」と「花」への神道の自然信仰を感じざるをえない。この傾向を西行が数寄者だから、というが、この数寄とは美学用語であり、その真摯さはそれ以上の信仰があると言わなければならない。つまり数寄、趣味を越えた思慕心があるのである。
《願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ》
あまりにも有名なこの歌が、それをよく詠っている。これまで、ここに風流とか、数奇とか、或いは、歌狂といったその歌人の生涯にふさわしいものとして考える評者が多い。近代流の、「美的趣味」者である。「神道」という言葉が、当時、慣用語でなかったというなら、私はそれを「やまとごごろ」と置き換えてもよい、と考えている(拙著『「やまとごころ」とは何か』ミネルヴァ書房、平成二十二年)。
通釈では、願わくは、桜の花の咲く下で、春に死のう、釈迦入滅のその時節、二月の満月の頃に、と解される。つまり仏教主題の歌としてである。「その」如月の、「その」は「如月の望月の頃」が、ほかならぬ釈迦入滅の時節であるからである。そのことにより、仏教と数寄の融合の歌である、と。
しかし釈迦入滅の日とはいえ、「花」の下に死なむ、ということは矛盾している。仏教でいえば、それは「花」への「執着」であるからだ。するとそれは、釈迦の言葉に反するもののはずである。宗教は数寄を許さない。仏教上、出家した西行がそれを知らないはずはない。
西行の入寂は文治六年(1190)二月十六日であった。我が国の陰暦二月中旬は恰も桜の盛りの季節であり、しかも十六日がまさに満月に当たった。西行往生の報を聞いた都の歌人たちは、この歌を思い合わせて一層感動を深めた、と伝えられる(藤原定家『拾遺愚草』)。
なおこの《花の下にて》は《花のもとにて》で流布し、『古今著聞集』『西行物語』などでもこの形で伝わっている。私はこの「もとにて」が、自然の「元」の大地に帰る、という意味で、自然信仰としての神道の歌にふさわしい、と考える。「花のしたにて」では、風流であることの方が強くなる。その意味で「もとにて」が真意のように感じる。いずれにせよ「春死なむ」の願望は、自然信仰の果てであり、もしそれが釈迦入滅の日だとすれば、日本仏教の神道化を示すものに他ならない。
これがいつの作とも知れないという。『西行物語』などは晩年東山の双林寺に庵していた時の作としているが、或いは、もっと前に、まだ十分に、仏教の「執着」否定の精神を知らぬ時期であったかもしれない。
西行が神道の歌人だとする根拠は、とくに伊勢で晩年を過ごしたことによる。それは勧進としての活動や、讃岐での修行などの末に行き着いたところと言ってよい。
《伊勢にまかりたるけるに、大神宮にまゐりてよみける
さかき葉に 心かけむ ゆふしでて 思へば神もほとけなりけり
高野の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山と申す、大日如来の御垂迹を思ひてよみ侍りける
深く入りて 神路の奥を 尋ぬれば 又うへもなく 峯の松風》。
西行はこの伊勢に入ることによって、大日如来の御垂迹を、大神宮の御山に見るようになったのである。大日如来が神路山となっているのだ。山そのものへの自然信仰が、仏に成り代わっている。このことは神道の徒としての西行の重要性が帯びてくることになるのである。僧徒の神官参詣ということだけでなく、天照大神を、密教の本尊大日如来の垂迹とする観念において、彼は本地垂迹説ではなく、本地神道説なのである(目崎徳衛氏はその本地垂迹説において、「西行は時代の先駆をなしたのである」と述べている。)。しかしそれ以上に、自然信仰という神道の基本が、その皇祖霊信仰の前にあったことを忘れてはならない。
《伊勢にまかりたるけるに、三津と申す所にて、海辺の春の暮といふ事を神主ともよみけるに
すぐる春 しほんみつより 舟出して 波の花をや先にたづらむ》。
海辺の春の暮れを、土地の神主とともにこの歌を詠った。海という自然を詠み込むことにより、伊勢は神の国として西行の現れてきたのである。
《伊勢にて菩提山上人、対月、述懐し侍りしに
めぐりあはで 雲居のよそには なりぬとも 月になれゆく むつび忘るな》。
この歌にもあるように、「月」は西行の自然と人との結びを強めるものであった。それもまた、神道の基礎となる自然信仰を深く内包している。「やまとごころ」とは、「山」の「人」である。まさに西行は「やまと」であったのだ(拙著『「やまとごころ」とは何か』前掲書)。
隠遁者の身であることを自覚しながら、禁忌のきびしい神宮に参詣したのである。つまり伊勢に参ることは、この時代の仏教者としてもっと意図的なものと考えなければならない。
《内宮に詣でて月をみてよめる
神路山 月さやかなる誓ひありて 天が下をばてらすなりけり
内宮に詣でて侍りけるに、桜の宮を見てよみ侍りけり
神風に 心やすくぞ まかせつる 桜の宮の 花のさかりを》
ここには、天照大神の内宮に詣でる心境がかたられ、それが自然信仰と一体となっていく姿が読み取れる。
西行が神道の歌人だとする根拠は、とくに伊勢で晩年を過ごしたことによる。それは勧進としての活動や、讃岐での修行などの末に行き着いたところと言ってよい。
西行の伊勢の生活を支えたのは、内宮の神主荒木田氏であったといわれる。代々、神官として荒木田氏は外宮の度会(わたらい)氏とともに、その伊勢の職分を維持してきた。都から交代に派遣される斎王・斎宮寮官人および太神宮司・祭主の下で、禰宜・大内人・物忌以下の下部祭祀を司っていたのである。
古くから国家の崇敬を受けていた伊勢神宮が、平安末期、奉斎・造営に困難になってきても、荒木田、度会両氏の禰宜・権禰宜(ごんのねぎ)らは、東海道や坂東の在地領主に勧めて所領を神宮に寄進させ、多くの「御厨(みくりや)」(神宮領荘園)をつくりだしていた。これによって神宮の経済基盤を充実させると共に、みずからも「口入神主」として一定の得分をもつ「給主職」を維持してきたのである、その伊勢信仰は地方にひろがっていった。
荒木田氏は、西行の佐藤氏と共通して、官人にして荘園領主であり、同様な自立した経済基盤をもっていたことになる。その余裕ある生活の中で彼らは伊勢神宮をささえ、また歌道を盛んに行っていたのである。後の鎌倉中期には、荒木田氏は寂延法師が編んだ『御裳濯(みもすそ)和歌集』(残欠本)の中に二十余名の在地の歌人がおり、この人々の大部分は年代的に見て西行と交わりがあったと考えられている。とくに入道して蓮阿と称した荒木田満良は、「西行上人の和歌の弟子」と自任し、先師の歌話を筆録して、『西行上人談抄』という書物をのこしている。
そこでは、最初に、彼は西行の草庵のさまを次のように記している。
《西行上人二見浦に草庵結びて、浜荻を折り敷きたる様にて哀れなる住まひ、見るもいと心澄むさま、大精進菩薩の草を座とし給へりけるもかくやとおぼしき。硯は石の、わざとにはあらず、もとより水入るる所くぼみたるを置かれたり。和歌の文台は、花かたみ、扇やうに物を用ゐき。歌のことを談ずるとても、その隙(ひま)には、あああ「一生幾ばくもならず、来世近きあり」といふ文を、口ずさみにいはれし、哀れに貴くておぼえし。今も面影たえぬ道忘れがたし》。
神仏習合の思想を語っていることは、荒木田氏の神道の性格を示しているが、死期を感じた西行が、和歌という表現によって、その神道の心情を吐露していることを、共感をもって語っているのである。
「西行」という言葉は、「西に行く」ことで、「西方浄土」に向う、という意味である。まさに仏教者の言葉であるが、太陽は東から昇り、西に沈む。東は「生」の方位であり、西は「死」の方位なのである。しかし西行は「花」に執着し、「生」を詠った。それによって、逆に「神道」の徒であることを示していたのである。「花のもとにて春死なん」というのは、まさに「生きて死ぬ」ことではないか。
鴨長明は西行が文治二年(一一八〇)の草庵を立ち去った直後に訪れており、 《西行に住み侍りける安養山といふ所に、人歌よみ連歌などし侍りし時、海辺落葉と云ふことをよめる 秋をゆく神嶋山は色消えて 嵐の末に あまのもしほ火》と詠んでいる。
これによれば草庵は、海上はるかに伊勢湾の島々を望む、風光絶佳の場所であったことがわかる。西行がいかに、「東」の海に面して、この伊勢の庵を過ごしていたことがわかるのである。「西」へ向う人が、「東」の「生」をたのしんでいた。
《何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさの 涙こぼるる》
この歌は、延宝二年(一六七四)に刊行された木版本によっており、専門家はこの歌を西行の作から外しているものが多いが、西行の心中をすなおに表現するば正にこのとおりであっただろう。
これこそ神道の真髄なのだ。仏教には言葉が必要だが、神道には言葉がなくてもよい。自然そのものも、御霊そのものも、皇祖霊そのものも、それは言葉にならない精神の動きである。人々は共同して、《かたじけなさ》を感じればいいのだ。《何事の おはしますをば 知らねども》と言いながら、西行は、その言葉にならぬ信仰を熟知しながら、詠ったのである。その意味で、彼こそ、日本人の「やまとごころ」の代表的歌人なのだ。 
 
87.寂蓮法師 (じゃくれんほうし)  

 

村雨(むらさめ)の 露(つゆ)もまだ干(ひ)ぬ 真木(まき)の葉(は)に
霧立(きりた)ちのぼる 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ  
村雨の露もまだ乾いていない真木の葉に、霧が立ちのぼる秋の夕暮れであるよ。 / にわか雨のしずくがまだ乾かずにとどまって輝いている針葉樹(杉や檜)の葉に、霧が谷間から涌き上がってくる秋の夕暮れの光景よ。 / にわか雨のしずくもまだ乾ききらない美しい木の葉のあたりに、霧がほのかにたちのぼっている、もの寂しい秋の夕暮れですよ。 / あわただしく通り過ぎたにわか雨が残した露もまだ乾ききらないのに、槇の葉にはもう霧が立ちのぼっていく秋の夕暮れである。(なんとももの寂しいことではないか)
○ 村雨の / 「村雨」は、にわか雨。秋から冬にかけて、急に激しく降る通り雨。「の」は、連体修飾格の格助詞。
○ 露もまだひぬ / 「露」は、雨露。「も」は、強意の係助詞。「ひ」は、ハ行上一段の動詞「干る」の未然形。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。
○ 真木の葉に / 「真木」は、檜・杉・松などの常緑樹の総称。とくに、良質の木材となる檜をさす。「に」は、場所を表す格助詞。
○ 霧立ちのぼる / 「霧」は、細かい水滴が立ちこめて煙のようになったもの。平安時代以降は、春に立つものを霞、秋に立つものを霧と区別するようになった。
○ 秋の夕暮れ / 体言止めにより、感動を表す。
※ 寂蓮法師には、この歌の他に、秋の夕暮れを詠んだ代表作があり、他の二人の作品と併せて三夕の歌という。
  さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ (寂蓮法師)
  心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ (西行法師)
  見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ (藤原定家) 
1
寂蓮(じゃくれん、1139年(保延5年)? - 1202年8月9日(建仁2年7月20日))は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人、僧侶である。俗名は藤原定長。
僧俊海の子として生まれ、1150年(久安6年)頃叔父である藤原俊成の養子となり、長じて従五位上・中務少輔に至る。30歳代で出家、歌道に精進した。御子左家の中心歌人として活躍し、「六百番歌合」での顕昭との「独鈷鎌首論争」は有名である。1201年(建仁元年)和歌所寄人となり、『新古今和歌集』の撰者となるが、完成を待たず翌1202年(建仁2年)没した。
『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に、117首入集。家集に『寂蓮法師集』がある。
後鳥羽院は、後鳥羽院御口伝において、「寂連は、なをざりならず歌詠みし物なり」、「折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき」と様々な才能を絶賛している。また、鴨長明は無名抄の中で、世間では藤原隆信とは一対に評価されているが、六百番歌合の際、寂蓮は出家していて、時間的に余裕が出来ていたので、「たとしへなく勝りたりければ、其時より寂蓮左右なしといふ事になりにき」と評価が上がったとし、また、三体和歌において、長明自身の出詠歌を事前に見せた時に、同じ様な「高間の桜」を詠出していたが、文句も言わず「いと有難き心也かし」と人間性も評価している。 後の世において、新古今和歌集秋歌上の中の結句が「秋の夕暮」の三首並んだ、西行、定家と寂蓮の「さびしさは」を三夕と称し、茶具の銘などとしている。

葛城や高間のさくら咲きにけり 立田のおくにかかるしら雲 『新古今和歌集』
さびしさはその色としもなかりけり まき立つ山の秋の夕暮 『新古今和歌集』
村雨の露も未だ干ぬ槇の葉に 霧立ち昇る秋の夕暮 『新古今和歌集』『百人一首』 
2
寂蓮 生年未詳〜建仁二(1202) 俗名:藤原定長 通称:少輔入道
生年は一説に保延五年(1139)頃とする。藤原氏北家長家流。阿闍梨俊海の息子。母は未詳。おじ俊成の猶子となる。定家は従弟。尊卑分脈によれば、在俗時にもうけた男子が四人いる。官人として従五位上中務少輔に至るが、承安二年(1172)頃、三十代半ばで出家した。その後諸国行脚の旅に出、河内・大和などの歌枕を探訪した。高野山で修行したこともあったらしい。建久元年(1190)には出雲大社に参詣、同じ頃東国にも旅した。晩年は嵯峨に住み、後鳥羽院より播磨国明石に領地を賜わって時めいたという(源家長日記)。歌人としては出家以前から活動が見られ、仁安二年(1167)の太皇太后宮亮経盛歌合、嘉応二年(1170)の左衛門督実国歌合、同年の住吉社歌合などに出詠。出家後は治承二年(1178)の別雷社歌合、同三年の右大臣兼実歌合に参加した。また文治元年(1185)頃の無題百首、同二年西行勧進の二見浦百首、同三年の殷富門院大輔百首、同年の句題百首、建久元年(1190)の花月百首、同二年の十題百首など、多くの百首歌に参加し、定家・良経・家隆ら新風歌人と競作した。建久四年(1193)頃、良経主催の六百番歌合では六条家の顕昭と激しい論戦を展開するなど、御子左家の一員として九条家歌壇を中心に活躍を見せる。後鳥羽院歌壇でも中核的な歌人として遇され、正治二年初度百首・仙洞十人歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合・院三度百首(千五百番歌合)などに出詠。建仁元年(1201)には和歌所寄人となり、新古今集の撰者に任命される。しかし翌年五月の仙洞影供歌合に参加後まもなく没し、新古今の撰集作業は果せなかった。家集に『寂蓮法師集』がある。千載集初出。勅撰入集は計百十六首。
「風体あてやかにうつくしきさまなり。よわき所やあらむ。小野小町が跡をおもへるにや。美女のなやめるをみる心ちこそすれ」(歌仙落書)。
「寂蓮は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくは高くはなかりしかども、いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奥にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき。折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき」(後鳥羽院御口伝)。
春 / 摂政太政大臣家百首歌合に
今はとてたのむの雁もうちわびぬ朧月夜の明けぼのの空(新古58)
(今はもう北の国へ帰らなければならない時だというので、田んぼにいる雁も歎いて鳴いたのだ。朧ろ月の春の夜が明けようとする、曙の空を眺めて…。)
和歌所にて歌つかうまつりしに、春の歌とてよめる
葛城かづらきや高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲(新古87)
(葛城の高間山の桜が咲いたのだった。竜田山の奧の方に、白雲がかかっているのが見える。)
千五百番歌合に(二首)
思ひたつ鳥はふる巣もたのむらんなれぬる花のあとの夕暮(新古154)
(谷へ帰ろうと思い立った鶯は、昔なじみの巣をあてにできるだろう。馴れ親しんだ花が散ってしまったあとの夕暮――。しかし家を捨てた私は、花のほかに身を寄せる場所もなく、ただ途方に暮れるばかりだ。)
散りにけりあはれうらみの誰たれなれば花の跡とふ春の山風(新古155)
(桜は散ってしまったよ。ああ、この恨みを誰のせいにしようとして、花の亡き跡を訪れるのだ、山から吹く春風は。花を散らしたのは、ほかならぬお前ではないか、春風よ。)
五十首歌奉りし時
暮れてゆく春の湊みなとはしらねども霞におつる宇治の柴舟(新古169)
(過ぎ去ってゆく春という季節がどこに行き着くのか、それは知らないけれども、柴を積んだ舟は、霞のなか宇治川を下ってゆく。)
夏 / 摂政太政大臣家百首歌合に、鵜河をよみ侍りける
鵜かひ舟高瀬さしこすほどなれや結ぼほれゆく篝火の影(新古252)
(鵜飼船がちょうど浅瀬を棹さして越えてゆくあたりなのか、乱れて小さくなってゆく篝火の炎よ。)
秋 / 鹿の歌とてよめる
尾上より門田にかよふ秋風に稲葉をわたるさを鹿の声(千載325)
(峰の上の方から門前の田に吹き寄せる秋風――その風に乗って、稲葉の上を渡って来る牡鹿の声よ。)
題しらず
なぐさむる友なき宿の夕暮にあはれは残せ荻の上風(三百六十番歌合)
(孤独を慰める友もなく庵で過ごす夕暮時、私を気の毒に思うくらいの気持ちは示していってくれ、荻の上葉をざわめかせてゆく秋風よ。)
題しらず
さびしさはその色としもなかりけり槙まき立つ山の秋の夕暮(新古361)
(なにが寂しいと言って、目に見えてどこがどうというわけでもないのだった。杉檜が茂り立つ山の、秋の夕暮よ。)
月前松風
月はなほもらぬ木この間も住吉の松をつくして秋風ぞ吹く(新古396)
(住吉の浜の松林の下にいると、月は出たのに、繁り合う松の梢に遮られて、相変わらず光は木の間を漏れてこない。ただ、すべての松の樹を響かせて秋風が吹いてゆくだけだ。)
百首歌奉りし時
野分のわきせし小野の草ぶし荒れはてて深山みやまにふかきさを鹿の声(新古439)
(私が庵を結んでいる深山に、今宵、あわれ深い鹿の声が響いてくる。先日野分が吹いて、草原の寝床が荒れ果ててしまったのだ。)
百首歌たてまつりし時
物思ふ袖より露やならひけむ秋風吹けばたへぬものとは(新古469)
(物思いに涙を流す人の袖から学んだのだろうか、露は、秋風が吹けば堪えきれずに散るものだと。)
摂政太政大臣、大将に侍りける時、月歌五十首よませ侍りけるに
ひとめ見し野辺のけしきはうら枯れて露のよすがにやどる月かな(新古488)
(このあいだ来た時は人がいて、野の花を愛でていた野辺なのだが、秋も深まった今宵来てみると、その有様といえば、草木はうら枯れて、葉の上に置いた露に身を寄せるように、月の光が宿っているばかりだ。)
五十首歌奉りし時
むら雨さめの露もまだひぬ槙の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮(新古491)
(秋の夕暮、俄雨が通り過ぎていったあと、その露もまだ乾かない針葉樹の葉群に、霧がたちのぼってゆく。)
題しらず
野辺はみな思ひしよりもうら枯れて雲間にほそき有明の月(新拾遺445)
(野辺はどこもかしこも、思っていたよりも早く枯れてしまっていて、雲の間にほっそりとした有明の月が出ている。)
摂政太政大臣、左大将に侍りける時、百首歌よませ侍りけるに
かささぎの雲のかけはし秋暮れて夜半よはには霜やさえわたるらむ(新古522)
(カササギが列なって天の川に渡すという空の橋――秋も終り近くなった今、夜になれば霜が降りて、すっかり冷え冷えとしているだろうなあ。)
冬 / 五十首歌たてまつりし時
たえだえに里わく月の光かな時雨しぐれをおくる夜はのむら雲(新古599)
(月の光が、途切れ途切れに里の明暗を分けているなあ。時雨を運び地に降らせる、夜半の叢雲の間から、月の光が射して。)
入道前関白、右大臣に侍りける時、家の歌合に雪をよめる
ふりそむる今朝だに人の待たれつる深山の里の雪の夕暮(新古663)
(雪が降り始めた今朝でさえ、やはり人の訪問が待たれたよ。今、山奥の里の夕暮、雪は深く降り積もり、いっそう人恋しくなった。この雪では、誰も訪ねてなど来るまいけれど。)
土御門内大臣家にて、海辺歳暮といへる心をよめる
老の波こえける身こそあはれなれ今年も今は末の松山(新古705)
(寄る年波を越え、老いてしまった我が身があわれだ。今年も歳末になり、「末の松山波も越えなむ」と言うが、このうえまた一年を越えてゆくのだ。)
恋 / 歌合し侍りけるに、夏の恋の心を
思ひあれば袖に蛍をつつみても言はばや物をとふ人はなし(新古1032)
(昔の歌にあるように、袖に蛍を包んでも、その光は漏れてしまうもの。私の中にも恋の火が燃えているので、胸に包んだ想いを口に出して伝えたいのだ。この気持ちを尋ねてくれる人などいないのだから。)
摂政太政大臣家歌合によみ侍りける
ありとても逢はぬためしの名取川くちだにはてね瀬々の埋むもれ木(新古1118)
(生きていても、思いを遂げられない例として浮き名を立てるだけだ。名取川のあちこちの瀬に沈んでいる埋れ木のように、このままひっそりと朽ち果ててしまえ。)
建仁元年三月歌合に、遇不遇恋の心を
うらみわび待たじ今はの身なれども思ひなれにし夕暮の空(新古1302)
(あの人のつれなさを恨み、嘆いて、今はもう待つまいと思う我が身だけれど、夕暮れになると、空を眺めて待つことに馴れきってしまった。)
和歌所にて歌合し侍りしに、遇不遇恋の心を
里は荒れぬ空しき床のあたりまで身はならはしの秋風ぞ吹く(新古1312)
(あの人の訪れがさっぱり絶えて、里の我が家は荒れ果ててしまった。むなしく独り寝する床のあたりまで、壁の隙間から秋風が吹き込んで来る――身体の馴れ次第では、気にもならないほどの隙間風が…。)
題しらず
涙川身もうきぬべき寝覚かなはかなき夢の名残ばかりに(新古1386)
(恋しい人を夢に見て、途中で目が覚めた。その儚い名残惜しさに、川のように涙を流し、身体は床の上に浮いてしまいそうだ。なんて辛い寝覚だろう。)
雑 / 八月十五夜、和歌所歌合に、月多秋友といふことをよみ侍し
高砂の松も昔になりぬべしなほ行末は秋の夜の月(新古740)
(高砂の老松も、いつかは枯れて昔の思い出になってしまうだろう。その後なお、将来にわたって友とすべきは、秋の夜の月だ。)
前参議教長、高野にこもりゐて侍りけるが、病限りになりぬと聞きて、頼輔卿まかりけるほどに、身まかりぬと聞きてつかはしける
尋ねきていかにあはれと眺むらん跡なき山の嶺のしら雲(新古836)
(遠く高野までたずねて来て、どんなに悲しい思いで山の景色を眺めておられることでしょう。亡き兄上は煙となって空に消え、ただ山の峰には白雲がかかっているばかりです。)
円位法師がよませ侍りける百首歌の中に、旅の歌とてよめる
岩根ふみ峰の椎柴しひしばをりしきて雲に宿かる夕暮の空(千載544)
(ごつごつとした岩を踏み越え、峰を登って来て、さて日も暮れた。椎の小枝を折ったのを敷いて、雲の上に仮の寝床を作るのだ。)
左大臣家十題百首内
牛の子に踏まるな庭のかたつぶり角のあるとて身をば頼みそ(寂蓮法師集)
(牛の子に踏まれるなよ、庭のカタツムリ。角があるからって、自分は強いんだなんてアテにするんじゃないよ。)
題しらず
さびしさに憂き世をかへて忍ばずはひとり聞くべき松の風かは(千載1138)
(厭なことの多い俗世間での生活を、出家という孤独と引き換えに棄てて、ひたすら寂しさに堪えて生きてきた。だからこそ、たった独りで聞くことにも耐え得るのだ、松の梢を吹きすぎる、この凄絶な風の音を。)
山家送年といへる心をよみ侍りける
立ち出でてつま木折り来こし片岡のふかき山路となりにけるかな(新古1634)
(庵を立ち出ては薪を折って来た丘は、住み始めた頃に比べると、すっかり木深い山道になったものだ。)
賀茂社の歌合に、述懐歌とてよめる
世の中の憂きは今こそうれしけれ思ひ知らずは厭はましやは(千載1146)
(俗世間での生活が辛かったこと――それが今は、むしろ嬉しいのだ。厭というほど思い知らなかったとしたら、世間を厭って出家などしただろうか。)
題しらず
数ならぬ身はなき物になしはてつ誰たがためにかは世をも恨みむ(新古1838)
(物の数にも入らない我が身は、この世に存在しないものとして棄て果てた。今はもう、誰のために世を恨んだりするだろうか。)
出雲
やはらぐる光や空にみちぬらむ雲に分け入る千木ちぎの片そぎ(夫木抄)
この歌は出雲の大社に詣でて見侍りければ、天雲のたなびく山の中までかたそぎの見えけるなむ、この世のこととも思ほえざりけるによめると云々
(仏がわが国の神として垂迹(すいじゃく)した、その知徳の光が、空いっぱいに満ちているのだろうなあ。出雲大社の神殿の千木は、高々と天に聳え、雲にまで突き入っているよ。)
摂政太政大臣家百首歌に、十楽の心をよみ侍りけるに、聖衆しやうじゆ来迎楽らいがうらく
紫の雲路くもぢにさそふ琴の音ねにうき世をはらふ嶺の松風(新古1937)
(浮世の迷妄の雲を払う峰の松風が吹き、紫雲たなびく天上の道を極楽浄土へと誘う琴の音が響きあう。)
蓮華れんげ初開楽しよかいらく
これや此のうき世のほかの春ならむ花のとぼそのあけぼのの空(新古1938)
(これこそが、現世とは別世界にあると聞いていた極楽の春なのだろう。美しい浄土の扉を開くと、曙の空に蓮華の花が咲き満ちている。) 
3
むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ
詠み人は寂蓮法師と言います。法師ですから出家したと、と言うことになりますが、では出家する以前はと言うと面白いことに定家の従兄弟に当たるのですよ。それもただの従兄弟ではなく、定家の父・俊成の弟の子なのですが、一時は俊成の養子になっています。その後、俊成に嫡子たる定家が生まれたので身を退いて仏門に入ったということのようですね。さすが俊成卿の一門と言うべきか、やはり素晴らしい歌才を持っています。現に彼は「新古今集」の選者に選ばれているのですよ。ただ、完成を見ることなく亡くなりましたが。
はらはらと、村雨が通り過ぎて行った。もう秋が来て、冬へと季節は変わっていくのだな。ふと見れば、雨に濡れた槙の葉。見るうちに、その葉先から滴り落ちる雨の雫。雫の後先、まだ乾きもしない葉に漂い来るは霧の流れか。ほの白さ、濃くも薄くも槙の葉を、隠し表しどこからともなく立ち上り、いつしか木立を包み込む。淡く張った霧の帳の向こう側。色を失った秋の夕暮れの静寂よ。
このような古来から名高い情景歌と言うものは翻訳のしにくいものですね。もっとも、私などどの歌を訳しても難しい、と思うものなのですが。
この歌は昔からかるた取りをするときには子供の取り札、と決まっていました。覚えがありませんでしょうか。「むすめふさほせ」と暗記、いたしませんでしたか。
百人一首の中で、「む」で始まる歌はこの一首だけですね。ですから上の句どころか、「む」と聞くだけで取れる、と言うわけです。
ただ、子供の頃に理解できる情景ではないのではないか、と思うのですよ。
秋の夕暮れ、とは言ってももうずいぶんと時間も遅いころでしょう。秋も深まった頃、と思います。そこに村雨と言うのですから、これははらりと降って上がってしまう雨ですね。
この歌の中、色は一切消えてしまっています。わずかに槙の葉がありますが、これは大変に色の濃い葉をしていますから色彩としては無彩色と言っていいかと思います。
余談かもしれませんが、私はこれを槙、としましたが槙の葉は「真木の葉」かもしれません。真木と言った場合、杉・檜・槙などの常緑樹全般を表します。
私がなぜ槙、としたかはただ何となくそのほうが相応しいような気がしたからであって、杉でも檜でも一向にかまわないわけです。
いずれにせよ、黒に近いような葉色です。それが雨に濡れていっそう色を増し、反って無彩色へとなって行きます。葉先から滴る雨もまた色はなく、た漂い流れてくる霧も同じ。
まるで水墨画の景色ですね。それを見ている寂蓮法師自身、法師ですから墨染めの衣です。きっと彼ほどの歌人ならば、そこに配される自己と言うものの色までをも考えに入れていたことでしょう。
どこまでも色を失った世界に動くものは霧のみ。幽玄な美しさと哀しさがある歌です。ただ、哀しみは深くはない。強いて言うならはせ、世界があること自体への物悲しさとでも言うべきでしょう。
それはやはり子供の理解が及ぶものではありません。大人になり、それもある程度以上の経験を積み重ね始めてわかるものではないでしょうか。
功なり遂げてとは言いませんが、来し方行く末を少しなりとも考える世代になって、己の過ぎこしてきた方を振り返ればどこか切ない。
そこに現れた夕暮れの情景は、胸を打ちます。じっと見つめるうちに霧のようわきあがってくる寂寞。不思議とそれは哀しくはないものかもしれません。
さて寂蓮法師のことですが。この人は和歌以外に業績の残っていない人でもありまして、中々に話題が少なくて困ります。
仏門に入る以前は左中弁、中務少輔従五位といいますからようやく殿上人と呼ばれる身分であったというところでしょうか。
ただ法師となって政治の世界から身を退いたことをあまり気にはしていなかったようですね。少なくとも彼には歌がありましたから。
大変親しい友人がいて、日々和歌を論じては争ったと言います。それも世の名利を争うわけではありませんから、反って非常に清々しい争いであったと言います。
では定家はどうでしょうか。寂蓮法師は定家のために仏門に入ったようなものですから、互いにあるいは隔意があったのでは、など俗物の私は思います。
それがどうやらなかったようなのですね。定家の日記である「名月記」に寂蓮法師が亡くなったときのことが記されています。
寂蓮法師逝去の報に、定家は宮中を退出します。そして喪服をまとうわけです。ただその喪の色は大変に軽いものなのです。親族とは言え従兄弟です。この時代、従兄弟と言うならばいくらでもいた時代ですから。
そして自分の軽い色をした喪服を見て定家は嘆くのです。幼少の頃より慣れ親しみ、和歌の何たる歌を教えてくださったのはあの方だった。それなのに自分のまとう喪服の色の薄さは、と言って。あの方こそ誰も追随することができない素晴らしい才能を持った方だった。そう定家に言わしめた寂蓮法師でした。 
 
88.皇嘉門院別当 (こうかもんいんのべっとう)  

 

難波江(なにはえ)の 蘆(あし)のかりねの ひとよゆゑ
身(み)を尽(つ)くしてや 恋(こ)ひわたるべき  
難波の入り江に生えている芦の刈り根の一節(ひとよ)ではないが、〔難波の遊女は〕たった一夜(ひとよ)の仮寝ために、澪標(みおつくし)のごとく、身を尽くして〔旅人を〕恋し続けなければならないのでしょうか。 / 難波江の葦を刈ったあとの一節の根のように、短い仮寝の一夜だけのために、難波江の名物「みをつくし」でもあるまいに私は身を尽くして一生恋することになるのでしょうか。 / たった一晩の出会いで、恋に落ちてしまい、恋の悩みに苦しむことになってしまった歌人のせつない心が詠われています。 / 難波の入江に生えている、芦を刈った根のひと節ほどの短いひと夜でしたが、わたしはこれからこの身をつくして、あなたに恋しなければならないのでしょうか。
○ 難波江の芦のかりねの / 「難波江」は、摂津国(現在の大阪市)の湾岸地域で、芦が群生していた。歌枕。芦・かりね・ひとよ・みをつくしの縁語。「難波江の芦の」は、「かりねのひとよ」を導く序詞。「かりね」は、「刈り根」と「仮寝」の掛詞。
○ ひとよゆゑ / 「ひとよ」は、「一節」と「一夜」の掛詞。
○ みをつくしてや恋ひわたるべき / 「や」と「べき」は、係り結びの関係。「みをつくし」は、「澪標」と「身を尽くし」の掛詞。「や」は、疑問の係助詞。「べき」は、推量の助動詞「べし」の連体形で、「や」の結び。 
1
皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう:生没年不詳)は、平安時代末期の女流歌人。父は源俊隆。大蔵卿源師隆の孫にあたる。
崇徳天皇の中宮皇嘉門院藤原聖子(摂政藤原忠通の娘)に仕えた。皇嘉門院聖子が忠通の子で兼実の姉であることから、1175年(安元元年)の『右大臣兼実家歌合』や1178年(治承2年)の『右大臣家百首』など、兼実に関係する歌の場に歌を残している。1182年(養和元年)皇嘉門院聖子が没したときにはすでに出家していた。
『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。小倉百人一首から
難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき 
2
皇嘉門院別当 生没年未詳
村上源氏。大納言師忠の曾孫。正五位下太皇太后宮亮源俊隆の娘。崇徳院皇后聖子(皇嘉門院)に仕える。安元元年(1175)・治承三年(1179)の右大臣兼実家歌合、治承二年(1178)の右大臣兼実家百首などに出詠。養和元年(1181)、皇嘉門院崩御の折、すでに出家の身であった。千載集初出。勅撰入集計九首。小倉百人一首に「難波江の…」の歌が選ばれている。
摂政右大臣の時の百首歌の時、忍恋の心をよみ侍りける
忍び音の袂は色に出でにけり心にも似ぬわが涙かな(千載694)
(忍び泣く声は袖の袂で抑えたけれども、その袂は涙に染まって、思いが色に表れてしまった。心は恋の辛さを隠そうと必死なのに、涙は心に合わせてくれないのだ。)
百首の歌よみ侍りけるに
思ひ川いはまによどむ水茎をかきながすにも袖は濡れけり(新勅撰667)
(思い川の岩間に淀んでいる水草を払いのけようとすれば、袖は濡れてしまう――そんなふうに、あなたとの仲が淀んでしまったので、思いを手紙に書くにつけ、私の袖は涙で濡れてしまった。)
後法性寺入道前関白家百首歌よみ侍りける、初逢恋
うれしきもつらきも同じ涙にて逢ふ夜も袖はなほぞかわかぬ(新勅撰787)
(嬉しい時も辛い時も、流すのは同じ涙であって――今までは辛くて涙を流してばかりいたけれども――あなたと逢えたこの嬉しい夜にも、私の袖はやはり乾かなかった。)
摂政右大臣の時の家歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる
難波江の蘆あしのかりねの一よゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき(千載807)
(難波江のほとり、蘆を刈って拵えた小屋での、たった一夜の仮の契り――そんな、蘆の一節(ひとよ)のような果敢ない情事のために、澪標(みをつくし)ならぬ身を尽くし、命が尽きるまで恋し続けることになるのだろうか。)
後法性寺入道前関白家に、百首歌よませ侍りける中に
帰るさは面影をのみ身にそへて涙にくらす有明の月(玉葉1448)
(帰り道は、貴女の面影だけを身に添えて、涙に有明の月も見えなくなりました。)
後法性寺入道前関白家百首歌に、般若心経、色即是空々即是色
雲もなくなぎたる空の浅緑むなしき色も今ぞ知りぬる(続後撰608)
(雲ひとつなく晴れ、風もなく穏やかな空の薄藍色――その儚い色を眺めていると、「色即是空…」という教えも今わかったのだ。) 
3
皇嘉門院別当
難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ 身を尽くしてや恋ひわたるべき
百人一首八十八番の皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)の歌です。表面上に書かれた歌の意味を現代語訳したら「難波江に生える葦の刈り根の一節のような、そんな短い一夜の契りであっても、私は身を尽くして恋い続けるのでしょうか」となります。だからこの歌は、「一夜限りの恋のはかなさを詠んだ歌です」と紹介している本等が多いです。(というか、そればかりです。)
しかし昨日の記事の殷富門院大輔の歌 で述べさせていただきましたように、和歌というのは、例えてみれば「ドア」です。「ドア」の向こうに、素晴らしい世界が広がっているのです。古い言葉で書かれているから、それを字義通りに現代語訳してわかったような気になるのは、「ドア」だけを見て、部屋の中にある宝を見たような気になっているようなものです。
宝は「ドア」の向こうにあるのです。「ドア」だけを見てわかったような気でいるだけでは、あまりにももったいない。人生の半分をドブに捨てたようなものです。
ただ、和歌の「ドア」には「鍵」がかけられています。それが、和歌を読み解くための手がかりです。そして鍵はドアに付いているものであるのと同様、和歌を読み解くための手がかりは、ちゃんと和歌の中に詠み込まれています。その手がかりをもとに、和歌の真意を読み取っていく。つまり、鍵を開けてドアの向こう側にある宝にたどり着く。その鍵を開けることが、「察する」という日本の文化です。
もともと和歌というのは、たった31文字の中に、あらゆる感情を込めます。万感の思いを伝えるのに、たった31文字しか使わせてもらえないのです。だから余計なものは全部そぎ落としていかなければならない。いいたいことは山のようにあるけれど、それをわずか31文字で表現するのです。だから「引き算の文化」だとも言われています。
たとえば相思相愛で愛する人がいるとします。その「あふれんばかりの愛する気持ち」を相手に伝えたい。けれど、ひとこと「僕は君を愛してる」だけでは思いは伝えきれるものではありません。人には、言葉では伝えきれない思いがあるわけです。
そのようなあふれんばかりの思いを伝えようとするとき、西洋文学なら、長大な文章でこれを伝えようとします。風景の描写から始まってひとりひとりの状況を事細かに説明する。ですから西洋の古典文学などを読むと、たいてい本の半分くらいまでは眠くてしかたがない。眠い目をこすってようやく半分くらいまで読み進むと、そこから急激に面白くなったりします。彼らは、とにかく語って語って語りぬくことで、心を伝える文化を発展させました。
日本人は、まったく逆です。言葉を削って削って削って削って伝えるという文化を発展させました。そのための方法として熟成されたのが和歌です。
いいたいことは山のようにある。その言いたいことを、部屋の中に全部入れます。そして、部屋のドアを閉めて鍵をかける。
和歌に書いてある31文字のことばは、いわば大切なことを仕舞った部屋の「ドア」です。当然のことながら、言いたいことは「ドア」ではありません。「ドアの向こう側」に言いたいことがあるのです。そして「ドア」を開くための鍵は、ドアにちゃんと付いています。
今日ご紹介する皇嘉門院別当の歌も、歌に書いてあることは、ただのドアです。そのドアの向こう側に、言いたいことがあります。
ドアに書かれていることは、難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ 身を尽くしてや恋ひわたるべき(難波江に生える葦の刈り根の一節のような、そんな短い一夜の契りであっても、私は身を尽くして恋い続けるのでしょうか)です。なるほど一見すると「一夜限りのはかない恋を詠んだ歌」のようです。
そしてこの歌は歌会において、「旅宿逢恋」というテーマで出詠された歌です。『千載集』(八〇七)の詞書に「摂政右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる」とちゃんと記されています。あくまで歌合の席で、旅宿逢恋をテーマに詠んでいます。「だから間違いなく恋の歌です」と言い張るのは、幼稚園の子供か小学校低学年レベルです。そのくらいの年齢なら、それで「たいへんよくできました」と花マルをもらえるかもしれません。
そりゃそうです。華道の先生が生けた花を、「あっ、花だ!」と言っているのと同じだからです。好きな歌詞の歌謡曲を思い浮かべてください。それはきっと恋の歌です。だからその歌を「恋歌です」と答えるなら、たしかに正解には違いないけれど、恋をテーマにした歌謡曲なら他にもいっぱいあるわけです。けれどその歌が好きだというのには、その歌のどこかに何かを感じるからです。その何かを感じ取るから、「いい歌だ」と思えるわけです。それと同じです。
そもそもこの歌はたいへんに技巧的です。なぜかというと、「かりね」=「刈り根」と「仮り寝」 / 「ひとよ」=「一節」と「一夜」、「みをつくし」=「澪標」と「身を尽くし」 / 「こひ」=「恋ひ」と「乞ひ」つまり、ひとつの歌のなかに、四つも掛詞を入れているのです。
文意においても、「難波江の葦の刈り根の一節のように短い」に、「そんな短い仮り寝の一夜のために」が重ねられています。
極めつけが「難波江」です。これがドアを開けるための「鍵」となります。
「難波」は百人一首では19番の伊勢や20番の元良親王の歌にも登場しています。ところが平安末期の頃になると、言葉は同じ「難波」でも、意味がかなり変わくるのです。難波はかつては都として栄えたところです。けれど都が京都に移ってからは徐々にさびれていって、平安末期頃には遊郭が建ち並ぶところになっていたのです。
このことは、いまでも、書店不況とされる中にあって、かつては文芸書が並んでいた書店さんが、いつのまにかエロ本専門店のようになっている様子をみても察することができます。つまり営業が厳しくなるとピンクに走る。そういうところは昔も今も同じです。
その遊郭街のある難波の入り江で、歌は「蘆のかりねのひとよゆゑ」と続いていきます。「かりね」も「ひとよ」も 掛詞です。つまり、「昔繁栄していたけれど今はすっかり様変わりしてしまった難波江の、群生している葦を刈ったあとに残っている根本の短い一節(ひとふし)のような、そんな短い仮り寝の、たった一夜のことだから」となります。
まず「昔の繁栄」と「今の衰亡」がまず描かれ、さらに「群生する葦」と「刈り取られた葦」によって何事かが失われた状態を示し、そして「短い仮眠、短い夜」によって「短い時間」が強調されることで、遊女が客の相手をする短い時間を描いているわけです。
そして下の句は、それらを「身を尽くしてや」と受けています。「身を尽くし」は、船の座礁を防ぐための危険を知らせる標識の「澪標」と、命懸けで我が「身を尽くす」ことの掛詞で、「危険があっても、 命懸けで」という意味です。
「恋ひわたる」は、「恋」が「戀」で千々に乱れる心を暗示し、さらに「乞ひ」との掛詞になっています。「わたる」は長い間続けることを指します。「や〜べき」は係り結びで「〜するべきなのでしょうか」「〜するので しょうか」という自問です。
つまり下の句は、「たとえ危険があろうとも身を尽くして(命懸けで)、恋い(乞い)続けるべきなのでしょうか」という意味になっています。これはたいへんに強い語調ですから、「自問」というより、「分かってほしい、気づいてほしい」という強い意識が込められています。
そこで上の句と下の句をつなげてみると、「昔繁栄していたけれど 今はすっかり様変わりしてしまった難波江の 群生している葦を刈ったあとに残っている 根本の短い一節(ひとふし)のような、そんな短い仮り寝の、たった一夜のことであったとしても、命がけで身を尽くして乞い(恋)続けるべきと、気付いてほしい」となります。
ところがこの歌を詠んだ皇嘉門院別当は、「保元の乱」で追われた「崇徳院」の皇后の聖子(皇嘉門院)に仕えていた女性です。別当というのは、家政全部を司る役職ですから、いわば皇嘉門院の第一秘書といっても良いです。
皇嘉門院の夫の崇徳院は、第75代崇徳天皇のことです。元天皇であった崇徳院が、讃岐に流刑という難事に遭っています。その崇徳院の奥様(つまり皇后です)に仕えていた第一秘書の女性がこの歌を詠んでいます。
そして時代背景を見れば、この歌が歌会の席上で出詠された時期は、「保元の乱」「平治の乱」で世が乱れ、平家の時代になったと思ったら、都に赤禿(あかかむろ)と呼ばれるスパイたちがうろついて、まるでゲシュタポの取り締まりのようなことが公然と行われた時代です。
この歌は、なるほど一見すると、遊女が一夜限り恋であっても、その恋に生命をかける。そんな光景を詠んでいます。しかしたかが・・・あえて「たかが」と書かせていただきますが・・・たかが遊女の恋を詠むのに、この歌はあまりにも技巧を凝らしています。つまり、言いたいことは、遊女ではなく、別なところにある、ということに、大人なら気づくべきなのです。
では皇嘉門院別当の歌の真意は、どこにあるのでしょうか。そもそも前の天皇が「流刑」になるなどということは、普通の日本人なら身が震えるほどの出来事です。 一方で「天皇は政治に関与しない」というのが、私たちの国のカタチです。ですから皇后陛下であっても、そのことについて何の政治的メッセージを発することはありません。
その皇后陛下にお仕えする女官が歌合の席に呼ばれたのです。それが皇嘉門院別当の置かれた立ち位置です。そこには並み居る群臣たちがいます。歌合のテーマは「旅宿逢恋」です。順番が巡ってきたとき、皇嘉門院別当は、持参した歌を披露します。一見したら「遊女たちでさえ、一夜の恋が忘れられない」という意味の歌です。
ところが皇后陛下付きの女官が「遊女の歌を詠む」ことも異例なら、たった一夜の恋であっても「身を尽くしてでも恋い続けるのでしょうか」というのも異例です。しかも歌は「べき」で終わっています。
疑問の係助詞「や」を受けて推量の意味になりますが、もとも と「べし」は意志・命令の助動詞です。つまりこの歌は、「や」を「も」に変えるだけで、「身を尽くしても恋ひわたるべし(命懸けてでも恋い続けるべき)」と意志・命令の意味になっています。
さらに歌には掛詞が多用され、いくつもの意味を重ねるなどたいへんに技巧を凝らしています。「寂れた難波江のたかが遊女の恋」を詠むのに、ここまで技巧を凝らすということも、有り得ないことです。しかもこの歌を出詠したのが、皇嘉門院の別当という高級女官です。
つまり、この歌はあまりにも異例づくめなのです。
和歌は「察する」文化です。ですから当然、その場に居合わせた貴族たちは、この歌に込められた真意は何であろうかと、掛けられた言葉のひとつひとつを追っていきます。すると、そこに詠み込まれた歌の真意に愕然とするのです。 要約します。
「短い一夜限りの逢瀬でも 一生忘れられない恋だって あるといいます。私たちは天皇のもと、一夜どころか 五百年続いた 平和と繁栄を享受してきました。そのありがたさを、その御恩を、たった一夜の『保元の乱』を境に あなた方は お忘れになってしまったのですか 父祖の築いた平和と繁栄のために 危険を顧みず 身を尽くしてでも 平和を守ることが 公の立場にいる あなた方の 本来の役割なのではありませんか」
都中の政府の閣僚や高級官僚たちが大勢集まった歌会の席で、一人の女性が「一夜限りの恋が忘れられませんわ」と、一見すると官能的な恋歌を詠み上げると、その真意を察した並み居る群臣たちが、誰一人、言葉を発することもできずに、ただうつむくことしかできなかった。そんな光景が目に浮かびます。
歌会の席には、もちろん皇嘉門院にとっての敵方の人たちもいます。そんななかにあって皇嘉門院別当は、まるで檄文のような和歌を携えて、たった一人で戦いを挑んだのです。その凄味、その気迫。これが日本の「察する」文化の神髄です。
皇嘉門院別当が生きた時代は、すでに世の中は、人が人を平気で殺す、そういう時代になっていました。このような歌を公式な歌合に出詠すれば、彼女は殺される危険だってあったのです。しかもその咎(とが)は、彼女一人にとどまらず、もしかすると主人である皇嘉門院にも及ぶ危険があります。
ということは、おそらく歌合の前に、皇嘉門院と別当との間で、「皇嘉門院様。私がこの歌を歌会に出詠しようと思います。」「別当、おまは、崇徳院様のために、皆の者に立ちあがれとお言いかえ?」「はい。してみとう存じます。けれど皇嘉門院様、この歌の出詠は、あくまで私の独断ですることでございます。皇嘉門院様には決してご迷惑が及 ばないようにいたします」このくらいの会話はあったことでしょう。そして、別当から「この歌を出詠する」と聞いた皇嘉門院は、これを認めた瞬間に「自分も殺される」と覚悟を決められたことと思います。
つまりこの歌は、単に皇嘉門院別当一人にとどまらず、崇徳天皇の妻である皇嘉門院の戦いの歌でもあるのです。そこまでの戦いを、この時代の女性たちはしていたのです。何のために? 欲望や権力のために、人が人を平気で殺す世の中があまりにも哀しいからです。
元、であったにしても、天皇の位にあった院を、欲得のために流罪にするなどということは、絶対に間違っています。そして間違っていると知りながら、保身のため、自身の栄達のため、つまり自分も欲望の虜となって、そうした間違いにクミする。もちろん、クミしなければ、殺されるわけです。味方すれば、栄達と贅沢が保証され、味方しなければ全てを奪われ、痛い目に遭わされる。それは、今も昔も変わらぬ、ウシハク者達の共通した行動のパターンです。
ある有名人は、テレビにコメンテーターとしてレギュラー出演して、愛国的発言を繰り返していました。ある日、その人のもとに、某有名大手広告代理店の人がやってきて、「スポンサーの意向でやってまいりました。これからスポンサーさんの意向に沿った発言をしてくだされば いま手元に持参した1億円を差し上げます。」その人は、「俺は俺の意思で発言する。馬鹿にするな!」とその1億円を蹴ったそうです。その数カ月後、新たな番組編成のときに、その人は番組から降板となり、以後、もう20年になりますが、いまだ一切のテレビ出演のオファーはないそうです。
文明は進歩します。昔はテレビもエアコンも自動車も鉄道も飛行機だってありません。けれど人々の行動のパターンは、千年前も現代も、そして千年後も何も変わりません。いつの時代も支那は支那、朝鮮は朝鮮です。
女性でありながら、たったひとりで勇敢な戦いに臨んだ皇嘉門院の別当。しかし、並み居る群臣たちは、ただ顔を伏せるしかなかった。そして世の中は、源平の大戦に向かって行きました。
そして「百人一首」は、この皇嘉門院の別当の歌に続いて、次の百人一首の山場ともいうべき式子内親王の歌に続きます。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする 式子内親王 
4
摂政右大臣の時の家の歌合に、旅宿に逢う恋といへる心をよめる
皇嘉門院別当
難波江(なにはえ)の芦のかりねの一夜(ひとよ)ゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき
摂政〔九条兼実〕が右大臣であった時に、その家で催された歌合で、「旅の宿りで夜をともにした恋」という題を詠んだ歌 / 芦の茂る難波の入り江で、たった一晩かりそめの枕を交わしただけで、命をかけて恋い慕い続けなければならないのでしょうか。
有名な『百人一首』の歌である。和歌の専門家のような顔をしていると、『百人一首』のうちでどれがもっともいい歌ですか、とか、一番好きな歌はどれですか、などと聞かれることがよくある。秀歌中の秀歌を集めたものなのだから、答えるのも容易ではない。そこで、情熱的な歌ならこれ、楽屋話が面白いのはこれ、などとその場に合わせて返答するようにしているが、「一番うまい歌」として私が推薦するのは、この皇嘉門院別当の歌である。神がかり、といってよいほどのうまさだと思う。『百人一首』に入って著名になったが、実は皇嘉門院別当は、もともとさほどの歌人ではない。『百人一首』の歌人となったのも予想外の幸運というべきで、彼女より歌力も実績も上回る歌人は、同時代の女流歌人に限っても、少なからず存在する。さては、藤原定家、情実にでも動かされたか、と疑いたくなる。だが、これは、歌そのものの出来栄えに定家が感動したからにほかならない。そしてそれは絶妙無類の縁語の存在による、と私はにらんでいる。

収まったという結果から見れば、「難波江」「芦」「かりね」「夜」「身をつくし」「わたる」と次々に繰り出される縁語も、最初からそう予定されていたかのように、居るべき場所に居る、という印象を与える。とくに、「一夜ゆゑ」と絞り込んでいった直後に、一転して「身を尽くしてや恋ひわたる」と心が暴走していく呼吸は、感嘆する以外にない。一夜の出会いが運命的なものであり、それゆえ恋の懊悩が宿命にほかならなかったことを納得させる。厄介きわまる題が、人々にしっかり共有できる言葉に仕立て上げられたのである。これはもう皇嘉門院別当の技巧でもなければ技量でもない。この程度の歌人でも、歌の神に愛されたならば、こういう歌を生み出すことができる。藤原定家が一首をあえて選び出したのも、そう心動かされたからではなかっただろうか。 
 
89.式子内親王 (しょくしないしんのう)  

 

玉(たま)の緒(を)よ 絶(た)えなば絶(た)えね ながらへば
忍(しの)ぶることの 弱(よわ)りもぞする  
我が命よ、絶えるならば、絶えてしまえ。このまま生きながらえれば、(恋心を表さないように)耐え忍んでいる意思が弱ると困るから。 / 私の命よ、絶えるなら絶えてしまうがいいわ。このまま生き永らえたとしても、恋心を隠し通す気力も衰えてしまうことでしょうから。 / いのちよ。絶えてしまうのなら、はやく絶えてしまっておくれ。このまま生きていたら、耐えて忍んでいる心が弱ってしまって、わたしの恋心が知られてしまうのですよ。 / わたしの命よ、絶えることなら早く絶えてほしい。このまま生きながらえていると、耐え忍んでいるわたしの心も弱くなってしまい、 秘めている思いが人に知られてしまうことになろうから。
○ 玉の緒よ / 「玉の緒」は、玉を貫き通す糸。ここでは、自分の命。「よ」は、呼びかけの間投助詞。
○ 絶えなば絶えね / 「絶えなば」は、ヤ行下二段の動詞「絶ゆ」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の未然形+接続助詞「ば」で、順接の仮定条件を表し、「絶えるならば」の意。「ね」は、完了の助動詞「ぬ」の命令形。「絶えね」で、絶えてしまえの意。二句切れ。
○ ながらへば / ハ行下二段の動詞「ながらふ」の未然形+接続助詞「ば」で、順接の仮定条件を表し、「生きながらえるならば」の意。
○ 忍ぶることの / 「忍ぶる」は、我慢する・耐え忍ぶの意。「の」は、主格の格助詞。
○ よわりもぞする / 「ぞ」と「する」は、係り結びの関係。「も」と「ぞ」は、強意の係助詞。「もぞ」で、〜すると困るの意。「する」は、サ変の動詞「す」の連体形で、「ぞ」の結び。「よわりもぞする」で、弱ると困るの意。 
1
式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう、久安5年(1149年) - 建仁元年1月25日(1201年3月1日))は、平安時代末期の皇女、賀茂斎院である。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。高倉天皇は異母弟にあたる。萱斎院、大炊御門斎院とも呼ばれた。法号承如法。
平治元年(1159年)10月25日、内親王宣下を受け斎院に卜定。以後およそ10年間、嘉応元年(1169年)7月26日に病により退下するまで賀茂神社に奉仕した。
退下後は母の実家高倉三条第、その後父・後白河院の法住寺殿内(萱御所)を経て、遅くとも元暦2年(1185年)正月までに、叔母・八条院ワ子内親王のもとに身を寄せた。同年7月から8月にかけて、元暦大地震とその余震で都の混乱が続く中も、八条院におり、准三宮宣下を受けている。八条院での生活は、少なくとも文治6年(1190年)正月までは続いた。
後に、八条院とその猶子の姫宮(以仁王王女、式子内親王の姪)を呪詛したとの疑いをかけられ、八条院からの退去を余儀なくされた。白河押小路殿に移り、父・後白河院の同意を得られないまま出家した。
建久3年(1192年)、後白河院崩御により大炊御門殿ほかを遺領として譲られたが、大炊御門殿は九条兼実に事実上横領され、建久七年の政変による兼実失脚までは居住することができなかった。建久8年(1197年)には蔵人大夫・橘兼仲夫婦の託宣事件に連座し洛外追放が検討されたが、実際に処分は行われなかった。
正治元年(1199年)5月頃から身体の不調が見られ、年末にかけてやや重くなる。正治2年(1200年)後鳥羽院の求めに応じて百首歌を詠み、藤原定家に見せている。その後ほどなく病状が悪化、東宮・守成親王(後の順徳天皇)を猶子とする案あるも病のため実現せず、建仁元年(1201年)1月25日薨去。享年53。
歌人として、歌合や定数歌等による歌壇活動の記録が極めて少なく、現存する作品も400首に満たないが、その三分の一以上が『千載和歌集』以降の勅撰集に入集している。
逸話
○ 藤原定家との関係
藤原俊成の子・定家は治承5年(1181年)正月にはじめて三条第に内親王を訪れ、以後折々に内親王のもとへ伺候した。内親王家で姉の竜寿の小間使いである家司のような仕事を行っていた。定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場し、特に薨去の前月にはその詳細な病状が頻繁な見舞の記録と共に記されながら、薨去については一年後の命日まで一切触れないという思わせぶりな書き方がされている。これらのことから、両者の関係が相当に深いものであったと推定できる。
後深草院は、西園寺実氏が定家自身から聞いた内容を語った話として、
いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし 『新古今和歌集』
この式子内親王の恋歌は、百首歌として発表される以前に、定家に贈ったものだと記している(しかし、新古今和歌集撰者名注記によると定家はこの歌は評価はしておらす、撰者名にはない。)。こうした下地があって、やがて定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説が公然化し、そこから「定家葛」に関する伝承や、金春禅竹の代表作である謡曲『定家』等の文芸作品を生じた。また、そのバリエーションとして、醜い容貌の定家からの求愛を内親王が冷たくあしらった、相思相愛だったが後鳥羽院に仲を裂かれた、あるいは定家の父・俊成も彼等の仲を知って憂慮していた等々、いくつもの説が派生したが、いずれも後代の伝聞を書きとめたものであり、史実としての文献上の根拠はない。15世紀半ばから語り伝えられていたという「定家葛の墓」とされる五輪塔と石仏群が、現般舟院陵の西北にある。しかし、後白河天皇より相続した白河常光院からは遙かに離れており、根拠はない。
恋愛感情とは別に、定家が式子内親王について記す際、しばしば「薫物馨香芬馥たり」「御弾箏の事ありと云々」と、香りや音楽に触れていることから、定家作と言われる『松浦宮物語』中の唐国の姫君の人物設定が、内親王に由来する「高貴な女性」イメージの反映ではないかとの指摘もある。ただし、云々とは伝聞を示す言葉であり、直接の感想ではない。
○ 法然との関係
法然が、「聖如房」あるいは「正如房」と呼ばれる高貴な身分の尼の臨終に際して、長文の手紙を送ったことが知られていたが、この尼が式子内親王であるとする説が現れ、そこから内親王の出家の際の導師が法然であった可能性、更には内親王の密かな思慕の対象であったという推測も行われている。
○ 歌壇における評価
『新古今和歌集』に大量入集する等、この時代の代表的女流歌人と見なされていたと考えられる。歌合等の歌壇行事への参加がほとんど記録されていない式子内親王が、このような地位を得た理由として、藤原俊成に師事していたこと、その子・定家とも交流があったことにより、この時代の主流に直接触れ得る立場だったことが挙げられる。後鳥羽院は、近き世の殊勝なる歌人として九条良経・慈円と共に彼女を挙げ、「斎院は殊にもみもみとあるやうに詠まれき」等と賞賛している。
○ 近現代の評価
式子内親王の歌に対する評価が、技巧的 - 自然観照的、あるいは定家的 - 西行的等と、両極端に分かれる傾向が指摘されると共に、その抒情性は、和泉式部的な激情から玉葉風雅的な「すみきった抒情」に純化される中間に位置するとの意見がある。また、本歌取りの手法に着目して、主知的な宮内卿と情緒的な俊成卿女の中間、やや宮内卿よりに位置するという分析もある。また、古歌からの本歌取りのみならず、『和漢朗詠集』等の漢詩に題材を得た歌も少なくない。生活や振舞に制約の多い中、作品のほとんどが百首歌という創作環境において、虚構の世界に没入していく姿勢が、こうした特徴の背景にある。
○ 別府観海寺温泉の伝承
大分県別府市観海寺には、式子内親王が同地で葬られたとの口承がある。橘兼仲の託宣事件に連座して都を追われた内親王は、領主・大友能直の内室風早禅尼が中興した尼寺観海寺において、尼宮承如法として晩年を過ごし、没後同地で荼毘に付されたとする。同地に建つ現観海禅寺には式子内親王の墓、その西南の山中には、風早禅尼が内親王を荼毘にふした塚と称する遺跡もあり、観光コースにも取り入れられている。記録上、京都での病死が確実視される式子内親王が、別府で晩年を過ごしたことは、史実としてはあり得ないが、託宣事件の処理に関連して、内親王や他の関係者の追放先として同地が検討の対象となった可能性を指摘する見解もある。
○ 百人一首
『新古今和歌集』 百首歌中に 忍恋を   式子内親王
玉のをよたえなはたえねなからへは 忍ふることのよはりもそする
伝説では、内親王と定家の噂が立ったため、定家の父俊成が別れさせようと定家の家にやってきた。すると定家は留守で、部屋に内親王自筆のこの歌が残されていた。これを見た俊成は二人の想いの真剣さを感じて、何も言わず帰ったという。実際にはこの歌は題詠であって、内親王自身の気持ちを詠ったものではないとされる。 
2
式子内親王 久安五〜建仁一(1149〜1201)
式子は「しきし」とも(正しくは「のりこ」であろうという)。御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。生涯独身を通した。平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によれば、この時二十一歳)。治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。同三年(1192)、父後白河院崩御。この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。他撰の家集『式子内親王集』があり、三種の百首歌を伝える(日本古典文学大系八〇・私家集大成三・新編国歌大観四・和歌文学大系二三・私家集全釈叢書二八などに所収)。千載集初出。勅撰入集百五十七首。
「彼女の歌の特色は、上に才氣溌剌たる理知を研いて、下に火のやうな情熱を燃燒させ、あらゆる技巧の巧緻を盡して、内に盛りあがる詩情を包んでゐることである。即ち一言にして言へば式子の歌風は、定家の技巧主義に萬葉歌人の情熱を混じた者で、これが本當に正しい意味で言はれる『技巧主義の藝術』である。そしてこの故に彼女の歌は、正に新古今歌風を代表する者と言ふべきである」(萩原朔太郎『戀愛名歌集』)
春 / 百首歌たてまつりし時、はるの歌
山ふかみ春ともしらぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(新古3)
(山が深いので春が来たとも知らない我が庵の松の戸――その戸に、途絶えがちに滴りかかる雪の雫よ。)
春もまづしるくみゆるは音羽山峰の雪より出づる日の色
(春でも真っ先にその兆候がはっきり見えるのは、音羽山の峰に積もった雪から姿をあらわす日の光の色である。)
雲ゐより散りくる花はかつき消えてまだ雪さゆる谷の岩かげ
(空から散って来る花はたちまち消えて、まだ残雪が寒々としている谷の岩蔭よ。)
峰の雪もまだふる年の空ながらかたへかすめる春のかよひ路
(峰の雪もまだ降っている、旧年のままの空であるが、片方では霞んでいる――そこが春のやって来る通り路なのだ。)
色つぼむ梅の木のまの夕月夜春の光をみせそむるかな
(花の色が、まだ蕾のうちに潜んでいる梅――その木の間に夕月があらわれて、春めいた朧な光を見せ始めることよ。)
春くれば心もとけてあは雪のあはれふりゆく身をしらぬかな
(春が来たので、鬱結していた私の心も解ける、淡雪のように――そうして、ああ、愚かにも年老いてゆく我が身を忘れてしまうことよ。)
見渡せばこのもかのもにかけてけりまだ緯ぬきうすき春の衣を
(野山を見渡すと、あちらこちらに掛けてあるのだった。まだ横糸の薄い春の衣を。)
百首歌に
にほの海や霞のをちにこぐ舟のまほにも春のけしきなるかな(新勅撰16)
(琵琶湖に立ち込める霞――その彼方に漕いで行く舟が帆をいっぱい広げているのも、満ち足りて春らしい趣きであることよ。)
梅が枝の花をばよそにあくがれて風こそかをれ春の夕闇
(梅は花を遠く置き去りにして枝からさまよい出、風ばかりが香っている、春の夕闇よ。)
百首歌たてまつりしに、春歌
ながめつるけふは昔になりぬとも軒端の梅はわれを忘るな(新古52)
(眺め入った今日は過去になるとしても、軒端の梅は私を忘れずにいておくれ。)
花はいさそこはかとなく見わたせば霞ぞかをる春の明けぼの
(花は咲いたかどうか、それはともかく、何ということもなく見渡すと、霞がほのぼのと香り立つ春の曙よ。)
百首歌たてまつりしに
いま桜さきぬと見えてうすぐもり春にかすめる世のけしきかな(新古83)
(まさに今桜が咲いたと見えて、空はうっすらと曇り、春らしく霞んでいる世のありさまであるよ。)
花ならでまたなぐさむる方もがなつれなく散るをつれなくぞ見む〔玉葉239〕
(花ではなく、ほかに心の慰む手立てがあってくれたらなあ。そうであれば、すげなく散る花を、こちらも冷淡に眺めていよう。)
この世にはわすれぬ春の面影よおぼろ月夜の花のひかりに
(この世にある限りは忘れない春の面影よ。朧月夜の花が、ほのかな光に浮かんで――。)
百首歌に
はかなくてすぎにし方をかぞふれば花に物おもふ春ぞへにける(新古101)
(とりとめもなく過ぎてしまった年月を数えれば、桜の花を眺めながら物思いに耽る春ばかりを送ってしまった。)
家の八重桜を折らせて、惟明親王のもとにつかはしける
やへにほふ軒ばの桜うつろひぬ風よりさきにとふ人もがな(新古137)
(幾重にも美しく咲き匂っていた軒端の八重桜は、盛りの時を過ぎてしまった。風より先に訪れてくれる人がいてほしい。)
夢のうちもうつろふ花に風吹きてしづ心なき春のうたた寝〔続古今147〕
(夢の中でも、盛りの過ぎた花に風が吹いて、落ち着いた心もない春の日のうたた寝よ。)
残りゆく有明の月のもる影にほのぼの落つる葉隠れの花
(空に残り続ける有明の月――漏れて来るその光によってほのかに照らされながら落ちてゆく、葉隠れに散り残っていた花よ。)
正治二年、後鳥羽院にたてまつりける百首歌の中に
今朝みればやどの木ずゑに風過ぎてしられぬ雪のいくへともなく(風雅225)
(今朝見ると、庭の梢に風が吹き過ぎて行ったのだろう、空の与かり知らない雪が幾重ともなく地に積もっている。)
花は散りてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる〔新古149〕
(花は散り果てて、これというあてもなく眺めていると、空虚な空にただ春雨が降っている。)
やよひのつごもりによみ侍りける
ながむれば思ひやるべきかたぞなき春のかぎりの夕暮の空(千載124)
(ぼんやり物思いに耽って眺めていると、鬱々とした思いをどこへ向かって放てばよいのか、そのあてもない、春の最後の夕暮の空よ。)
夏 / 斎院に侍りける時、神館かんだちにて
忘れめや葵あふひを草に引きむすびかりねの野べの露のあけぼの(新古182)
(忘れなどしようか。葵の葉を草枕として引き結び、旅寝した野辺の一夜が明けて、露の置いたあの曙の景色を。)
賀茂の斎院いつきおりたまひてのち、祭のみあれの日、人の葵あふひをたてまつりて侍りけるに書きつけられて侍りける
神山のふもとになれし葵草ひきわかれても年ぞへにける(千載147)
(神山の麓で馴れ親しんできた葵草よ。別れ別れになってから、何年も経ってしまったことよ。)
いにしへを花橘にまかすれば軒のしのぶに風かよふなり
(昔の思い出を橘の花の香にまかせると、軒のしのぶ草に風が通って、その香が昔を語ってくれるのだ。)
百首歌たてまつりし時、夏歌
かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘(新古240)
(再び戻って来ない昔を、今のことのように思いながら寝入ると、うつらうつら夢見る枕もとに匂ってくる、橘の花の香よ。)
花橘の心をよませ給ひける
誰たれとなく空に昔ぞ偲ばるる花橘に風過ぐる夜は(玄玉集)
(誰というわけではないが、空に昔が慕われる。橘の花に風が過ぎてゆく夜は。)
百首歌たてまつりしに
声はして雲路にむせぶほととぎす涙やそそく宵のむら雨(新古215)
(声は聞こえるものの姿は見えず、雲の中でむせぶように泣く時鳥よ。その涙がそそぐのか、今宵の驟雨は。)
五月雨の雲はひとつにとぢはててぬきみだれたる軒の玉水
(さみだれを降らせる雲は一面に空を覆い尽くして、貫いていた糸が切れたように散り乱れている軒の雫よ。)
正治二年、後鳥羽院にたてまつりける百首歌の中に
すずしやと風のたよりを尋ぬればしげみになびく野べのさゆりば(風雅402)
(風のたよりが届き、涼しいことよとそのゆかりを尋ねて行くと、繁みの中で靡いている野生の百合の花に出逢った。)
百首歌の中に
夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声(新古268)
(夕立を降らせた雲ももう留まっていないこの山――暑かった夏の日が傾いたこの山で、いま蜩の声が響く。)
百首の歌たてまつりし時
窓ちかき竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢(新古256)
(窓近くの竹の葉に吹きすさぶ風の音のために、ますます短く醒めてしまった転た寝の夢よ。)
秋 / 百首歌に
うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇あふぎの秋の初風(新古308)
(転た寝した明け方の袖に、変わったと感じる。なれ親しんだ扇の風が、今年最初の秋風に――。)
秋きぬと荻の葉風のつげしより思ひしことのただならぬ暮
(秋がやって来たと、荻の葉を吹く風が告げ知らせてからというもの、思っていた以上に尋常でない夕暮が続いている。)
百首歌の中に
ながむれば衣手すずしひさかたの天の河原の秋の夕暮(新古321)
(じっと眺めていると、自分の袖も涼しく感じられる。川風が吹く、天の川の川原の秋の夕暮よ。)
夕まぐれそこはかとなき空にただあはれを秋の見せけるものを(三百六十番歌合)
(夕暮時、どうということもない空に、ただしみじみとした趣を秋が見せるのだなあ。)
よせかへる波の花ずり乱れつつしどろにうつす真野の浦萩
(寄せては返す波に花が散り込み、あたかも乱れた摺り染めのようになって――しどろに色をうつす真野の浦萩よ。)
おしこめて秋のあはれに沈むかな麓の里の夕霧の底
(麓の里に夕霧がたちこめる。まるで、ああ、秋のあわれな情趣をその中にすべて押し包むようにして。この里も私も、その霧の底深くに、沈み込んでゆくのだ。)
正治二年百首歌たてまつりける時
我がかどの稲葉の風におどろけば霧のあなたに初雁のこゑ(玉葉578)
(家の門先の稲葉を吹く風の音にはっとしていると、霧のかなたに初雁の声がする。)
それながら昔にもあらぬ月影にいとどながめをしづのをだまき〔新古367〕
(それはそれ、月は同じ月であるのに、やはり昔とは異なる月影――その光に、いよいよ物思いに耽って眺め入ってしまった、繰り返し飽きもせず。)
百首歌たてまつりし時、月の歌
ながめわびぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月やすむらん(新古380)
(つくづく眺め疲れてしまった。季節が秋でない宿はないものか。野にも山にも月は澄んでいて、どこへも遁れようはないのだろうか。)
題しらず
更くるまで眺むればこそ悲しけれ思ひも入れじ秋の夜の月(新古417)
(夜が更けるまで眺めていたからこそ悲しいのだ。もう深く心にかけることはすまい、秋の夜の月よ。)
百首歌たてまつりし秋歌に
秋の色は籬まがきにうとくなりゆけど手枕なるる閨ねやの月かげ(新古432)
(色々に咲いていた垣根の草花はうつろい、秋の趣は疎くなってゆくけれど、反対に、私の手枕に馴れてくる閨の月光よ。)
百首歌の中に
跡もなき庭の浅茅にむすぼほれ露の底なる松虫のこゑ(新古474)
(人の通った跡もなく生い茂る庭の浅茅――その草葉にぎっしりと絡みつかれ、露の底から聞こえてくる、人を待つような松虫の声よ。)
擣衣の心を
千たび擣うつきぬたの音に夢さめて物おもふ袖の露ぞくだくる(新古484)
(果てしなく擣つ砧の音に夢から醒めて、悲しい物思いに耽る私の涙が落ち、袖に砕け散る。)
百首歌たてまつりし時
更けにけり山の端ちかく月さえて十市とをちの里に衣うつこゑ(新古485)
(夜は更けてしまった。山の稜線近くにある月の光は冴え冴えとして、十市の里に衣を打つ音が聞こえる。)
秋の夜のしづかにくらき窓の雨打ちなげかれてひま白むなり
(静かな秋の夜の暗い窓を雨が打ち、ふと溜息をついてしまう――そうして過ごしているうち、戸の隙が白んでくるようだ。)
百首歌の中に
秋こそあれ人はたづねぬ松の戸をいくへもとぢよ蔦のもみぢ葉(新勅撰345)
(秋だというので――私に飽きたというわけで――人は訪ねて来ない我が家――その松の戸を、いっそ幾重にも閉じてしまえ、蔦の紅葉よ。)
吹きとむる落葉が下のきりぎりすここばかりにや秋はほのめく
(風が吹き寄せ、ひとところに留まっている落葉――その下で鳴くこおろぎの声――ここだけに秋はかすかに残っているのだろうか。)
百首歌たてまつりし秋歌
桐の葉もふみわけがたくなりにけり必ず人を待つとなけれど(新古534)
(桐の落葉も踏み分け難いほど積もってしまったなあ。必ずしも人を待つというわけではないけれど。)
とどまらぬ秋をや送るながむれば庭の木の葉のひと方へゆく
(留まりはしない秋の後を追うのだろうか。庭を眺めていると、散り積もった木の葉が一つの方向へ寄ってゆく。)
おもへども今宵ばかりの秋の空ふけゆく雲にうちしぐれつつ〔続拾遺377〕
(名残惜しく思っても、今宵限りの秋の空よ。更けてゆく夜の雲に、ぱらぱらと時雨が降って。)
冬 / 題しらず
風さむみ木の葉はれゆく夜な夜なにのこるくまなき庭の月かげ(新古605)
(風が寒々と吹き、そのたびに木の葉が散ってゆく夜々を経て、もはや残る隈(くま)無く照らす庭の月光よ。)
百首歌の中に
見るままに冬は来にけり鴨のゐる入江のみぎはうす氷りつつ(新古638)
(見ている間に、もう冬は来ていたのだなあ。鴨の浮かんでいる入江の波打際が薄く氷りながら。)
正治百首歌の中に、冬歌
時雨しぐれつつ四方のもみぢは散りはてて霰あられぞおつる庭の木かげに(風雅803)
(時雨が何度も降るうち、周囲の紅葉は散り果ててしまい、霰が葉に遮られることなく庭の木陰に落ちるよ。)
荒れ暮らす冬の空かなかきくもり霙みぞれよこぎる風きほひつつ
(荒れたまま暮れる冬の空であるよ。一面に曇り、みぞれが横ざまに降る風が先を争うように吹いて。)
色々の花も紅葉もさもあらばあれ冬の夜ふかき松風の音
(色とりどりの花も紅葉も、どうでもよい――そう思えてしまうほど趣深いのは、冬の深夜に聞く松風の音。)
百首歌に
さむしろの夜半の衣手さえさえて初雪しろし岡の辺の松(新古662)
(寝床の上の夜の袖が冷え冷えとしていたが、今朝見れば初雪が白く積もっているよ、岡のほとりの松は。)
身にしむは庭火のかげにさえのぼる霜夜の星の明けがたの空
(身に沁みるのは、庭の篝火の照らす光のなか、冴え冴えと昇ってゆく星のある、霜夜が明けてゆく頃の空であるよ。)
百首歌に
天あまつ風氷をわたる冬の夜の乙女の袖をみがく月かげ(新勅撰1111)
(天の風が凍った水面を吹き渡る冬の夜にあって、舞姫の袖に月光が光彩を添えている。)
百首歌たてまつりしに
日かずふる雪げにまさる炭竈すみがまの煙もさびし大原の里(新古690)
(何日も続く雪模様で炭竈の煙が多くなるのも寂しげである。大原の里よ。)
せめてなほ心ぼそきは年月のいるがごとくに有明の空
(甚だしく、いっそう心細く感じられるのは、年月が矢を射ったごとく素速く巡り、一年も終りに近い月が山の端に入ろうとしている有明の空であるよ。)

尋ぬべき道こそなけれ人しれず心は慣れて行きかへれども
(あの人のもとへ訪ねてゆける道はないのだ。誰にも知られぬまま、私の心は何度も行き来して、通い慣れてしまったのだけれど。)
たのむかなまだ見ぬ人を思ひ寝のほのかになるる宵々の夢
(夢に縋るのだなあ。まだ逢ったこともないあの人を思いながら寝入る眠りの、ほのかに馴れ親しんでいる夜毎の夢に。)
ほのかにもあはれはかけよ思ひ草下葉にまがふ露ももらさじ
(わずかにでも同情して下さい、思い草を――その下葉にまぎれて置いている露は、ほんの少しもこぼすまいと堪(こら)えているのです。)
百首歌の中に、忍恋を(三首)
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする(新古1034)
(私の玉の緒よ、切れてしまうなら切れてしまえ。もし持続すれば、堪え忍ぶ力が弱ってしまうのだ。)
忘れてはうちなげかるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を(新古1035)
(そのことをふと忘れては、思わず歎息してしまう夕べであるよ。この思いは私だけが知っていて、あの人に知らせず過ごしてきた長い月日であるのに。)
わが恋はしる人もなしせく床の涙もらすなつげのを枕(新古1036)
(私の恋心は知る人とてない。堰き止めている床の涙を洩らすな、黄楊(つげ)の枕よ。)
題しらず
しるべせよ跡なき波にこぐ舟の行くへもしらぬ八重のしほ風(新古1074)
(案内してくれ。先を行った船の航跡も残らない波の上を漕いでゆく舟――その行方も知れず吹き渡る八重の潮風よ。)
百首歌の中に
夢にても見ゆらむものを歎きつつうちぬる宵の袖の気色は(新古1124)
(夢であの人にも見えているだろうに。歎きながら寝る今宵の、涙に濡れた私の袖のありさまは。)
百首の歌読み給ひける時、恋の歌
はかなしや枕さだめぬうたたねにほのかにまよふ夢のかよひ路(千載677)
(果敢ないものだなあ、枕の場所を定めずに寝入ってしまった転た寝で、ぼんやりと迷いつつ恋人のもとを往き来する夢の通り路よ。)
恋の歌の中に
つかのまの闇のうつつもまだ知らぬ夢より夢にまよひぬるかな(続拾遺913)
(束の間の闇の中での逢瀬もまだ知らないで見る夢――そんな果敢ない夢の繰り返しに迷い込んでしまったのだ。)
見えつるか見ぬ夜の月のほのめきてつれなかるべき面影ぞそふ
(あの人が見えたのだろうか。逢えない夜の月がほのかに見えて、きっと冷淡に違いない面影がそこに重なる。)
百首歌に
逢ふことをけふ松が枝の手向草いくよしほるる袖とかは知る(新古1153)
(初めての逢瀬を今日待つことになりましたが、これまで幾夜涙に濡れ弱った袖か御存知ないでしょう。)
ただ今の夕べの雲を君も見ておなじ時雨や袖にかくらむ
(今見えるこの夕べの雲をあなたも眺めていて、同じ時雨が袖に降りかかっているのだろうか。)
待つ恋といへる心を
君待つと閨へも入らぬ槙の戸にいたくな更けそ山の端の月(新古1204)
(あなたを待つというので、寝間にも入らずに槙の戸のそばで過ごしている――その槙の戸にひどく更けた光を投げないでおくれ。山の端の月よ。)
待ち出でてもいかにながめむ忘るなといひしばかりの有明の空〔続後拾遺898〕
(待ったあげくに月が出たら、どんな思いで眺めるのだろうか。忘れてくれるなとあの人が言ったばかりに月の出を待ち続け、とうとう一夜を明かしてしまった有明の空を。)
百首歌の中に
生きてよも明日まで人もつらからじこの夕暮をとはばとへかし(新古1329)
(よもや生きておられようか、明日まで――だからあの人も明日までは私に辛くあたるまい。訪ねるなら、今日の夕暮訪ねて来るがよい。)
あはれとも言はざらめやと思ひつつ我のみ知りし世を恋ふるかな
(愛しいと言ってくれないはずがあろうか、そう思い込みつつ、人には告げず独り恋していた――あの頃を恋しく思うのだ。)
恋歌の中に
君をまだ見ず知らざりしいにしへの恋しきをさへ歎きつるかな(続古今1316)
(あなたをまだ見知らなかった昔が恋しい――そんな気持さえ歎きの種になってしまうのだ。)
恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしと言ひしにあらず君も聞くらむ
(恋し、恋して、その果てには――ままよ、見ておいでなさい。この世に生きていられようと私は言ったおぼえはありません。あなたも聞いて御存知でしょう。)
つらしともあはれともまづ忘られぬ月日いくたびめぐりきぬらむ
(辛いとも思い、愛しいとも思い、一向に忘れられない、あの頃の月日――あれから、幾たび月日が巡り来たことだろうか。)
題しらず
恋ひ恋ひてそなたになびく煙あらばいひし契りのはてとながめよ(新後撰1113)
(あなたを恋し、恋した挙句、そちらの方へ靡く煙があれば、私と言い交わした約束の果てと眺めて下さい。)
題しらず
君ゆゑやはじめもはても限りなきうき世をめぐる身ともなりなむ(新千載1034)
(あなたのせいで、始まりも終わりも限(きり)の無い六道三界をさまよい続ける身ともなってしまうのだろうか。)
雑 / いつきの昔を思ひ出でて
ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ(新古1486)
(ほととぎすよ、その昔、あの神山での旅枕に、おまえがほのかに何度か鳴いた空――決して忘れないのはあの空だ。)
さかづきに春の涙をそそきける昔に似たる旅のまとゐに
(盃に春の涙を落としてしまった。昔を思い出させる、旅中の車座にあって。)
都にて雪まはつかにもえいでし草引きむすぶさやの中山〔続後拾遺559〕
(都を出た時、雪の間にわずかに萌え出ていた草を、今は引いて結び、旅の枕とする、小夜の中山よ。)
つたへ聞く袖さへぬれぬ浪の上夜ぶかくすみし四つの緒のこゑ
(伝え聞く私の袖さえ濡れてしまった。波の上、夜更けに深く澄んだ琵琶の音よ。)
後白河院かくれさせ給ひて後、百首歌に
斧の柄の朽ちし昔は遠けれどありしにもあらぬ世をもふるかな(新古1672)
(斧の柄が朽ちてしまう間に過ぎ去った昔は遥か遠いとは言え、それにしてもすっかり変わってしまった世に永らえることであるよ。)
日に千たび心は谷に投げ果ててあるにもあらず過ぐる我が身は
(日に千度、我が身を谷底に投げ捨ててしまう――それほど心は絶望し、生きているとも言えない様子で過ごしているよ。)
見しことも見ぬ行く末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中
(かつて経験したことも、まだ経験しない未来のことも、はかない夢の枕に浮かぶ幻以外のものでない。)
浮雲を風にまかする大空の行方も知らぬ果てぞ悲しき
(浮雲を風の吹くままにまかせる大空の果ては知れない――そのように行方も知らず私はどこへ行き着くのか。その果てを思えば悲しくてならない。)
はじめなき夢を夢とも知らずしてこの終りにや覚めはてぬべき
(始めも無く遠い過去から続く夢――それを夢だとも気づかないで、この一生の終りには目覚めることができるのだろうか。)
あはれあはれ思へばかなしつひの果てしのぶべき人たれとなき身を
(ああ、ああ、思えば悲しい。死んだあと、偲んでくれる人が誰と言っていない我が身を。)
百首歌の中に
今はとて影をかくさむ夕べにも我をばおくれ山の端の月(玉葉2506)
(これが最期の時と、姿を隠す夕暮にも、私を見送っておくれ、山の端の月よ。)
百首歌たてまつりし時
天の下めぐむ草木のめもはるに限りもしらぬ御代の末々(新古734)
(天の下隅々まで、春雨の恵みを受けた草木が芽をふくらませ、目も遥か限りなく広がっているように、我が君の御代は末々まで永遠に続くだろう。)
幾とせの幾よろづ代か君が代に雪月花の友を待ちみむ
(何年の長きにわたり、君の治める御代にあって、風雅の友を待ち迎えるのだろう。)
百首歌に
暁のゆふつけ鳥ぞあはれなる長きねぶりを思ふ枕に(新古1810)
(暁の鶏の声こそ身に沁みてあわれ深い。無明長夜の眠りを嘆かわしく思っている寝覚めの枕で。)
阿弥陀を
露の身にむすべる罪は重くとももらさじものを花の台うてなに(新後撰672)
(露のようにはかない我が身に生ずる罪は重くとも、阿弥陀如来は蓮(はちす)の台(うてな)に衆生を漏らさず救い上げて下さるのだ。)
百首歌たてまつりしに、山家の心を
今はわれ松の柱の杉の庵に閉づべきものを苔深き袖(新古1965)
(出家した今はもう、柱は松の木、屋根は杉の皮葺きの庵に、閉じこめるべきなのに。法衣をまとった我が身を。)
百首歌の中に、毎日晨朝入諸定の心を
しづかなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞかなしき(新古1969)
(静かな暁ごとに自身を観ずれば、まだ深い迷妄の夢の中にあることが悲しい。) 
3
式子内親王と藤原定家
一口に「お姫様」といっても、生まれた家によって随分と性格が変わるものです。もちろん生まれ持った気性や血筋によるところも大きいですが、武家か公家かといったことも重要です。基本的には武家のお姫様だと芯が強く、公家のお姫様はいかにも”お嬢様”な感じを連想しますよね。しかし、和宮のように皇室の中にも自分の意思をはっきり主張する人がいたのですから、そうとも限りません。今回は鎌倉時代のとある情熱的なお姫様のお話です。
建仁元年(1201年)1月25日は、式子内親王が亡くなった日です。武家政権時代の皇室というととかく影が薄い上、女性ともなればよりその傾向が強まりますが、この方の名前は聞き覚えがあるという人も結構いるのではないでしょうか。なぜなら、二つの点において百人一首と深いかかわりがあるからです。
父ちゃんは、あの大天狗・後白河法皇 
一つは、百人一首に歌が採られていること。
「玉の緒よ 絶えなば絶えね 長らえば 忍ぶることの 弱りもぞする」
という89番の歌の作者がこの方です。
一見するとよくわからない歌ですが、これは恋の歌。意訳すると「私の魂よ、いっそ今すぐ絶えてしまえ。このまま生きていたら、あの人への恋心を隠し切れなくなってしまうから」というなんとも情熱的なものです。この方、実は後白河法皇の娘なのですが、とても「大天狗」の子供とは思えない純粋さですね。いや、大天狗も”権力には”純粋でしたけども。「玉の緒」というのは魂と体を繋いでいると考えられていたひものこと。よく怪談などで人魂が描かれる際、ちょろっと伸びている部分がありますよね。あんな感じです。当時、高貴な女性は自由に恋愛をすることができなかったので、ひたすら隠さなくてはいけませんでした。まして内親王の場合は基本的に独身で生涯を終えるのが当然の時代でしたので、選択の余地がなかったのです。
恋の経験あらずとも、恋心を描くのがあはれなり 
和歌において全く経験したことのない出来事を詠むというのは珍しいことではありません。異性の気持ちになって詠んだり、僧侶が恋の歌を詠んだりと「それってアリなの?」というケースは多々あります。彼らが本当に歌の通りの経験したかどうかはわかりませんが、歌合わせという和歌のコンテストのようなものでは、恋愛がお題になることも多かったからです。百人一首の中にもいろいろありますが、元の歌集ではっきり「恋歌」と書かれているものを二つご紹介しましょう。
動因法師 「思いわび さても命は あるものを 憂きに堪えぬは 涙なりけり」
(届かぬ恋に悩みつくしても、まだ生き長らえていることに耐え切れず、涙が流れてきてしまう)
俊恵法師 「夜もすがら もの思う頃は 明けやらで 閨(ねや)のひまさえ つれなかりけり」
(あの人のことを考えて眠れない夜は、寝室の隙間でさえつれない態度に思える)
どちらもお坊さんが詠んだとは思えない、切々とした心情が出ている歌ですよね。
藤原定家の淡い初恋だったのでは? 
しかし、式子内親王の場合は「もしかするとガチなんじゃ?」ともいわれています。百人一首の選者・藤原定家とのそれっぽいエピソードがあるのです。彼の名前については一般的に「ていか」でも「さだいえ」でも通じるようですので、お好きなほうでお読みください。誰が言い出したのかよくわかりませんが、このあたりの時代の歌人ではよくあることです。
まあそれはともかく、式子内親王と定家は当時からウワサを立てられるほど親密な関係だったとされています。皇女のたしなみとして、式子内親王は定家の父・俊成から和歌の教えを受けており、その繋がりで定家ともいつしか親しく話すようになった……と考えてられていることが多いようです。
なぜはっきりしないかというと、上記の通り内親王であるからには自由な交際することは本来できないはずですから、異性と親しくなること自体がマズイということになりますよね。そのためはっきりした記録はなく、この話は推測に留まっています。定家自身の日記である「明月記」が唯一といってもいい記録で、ここから二人の関係をアレコレ想像する人が増えました。
能の「定家」などもこれを元ネタにしています。この演目は15世紀=室町時代にできたものですので、それ以前から二人のことをそういう関係だったと思っている人が多かったということになります。内親王から定家に歌を送ったことがあるとか、風邪をひいたと聞いて何回もお見舞いに行ったとか、そんな感じのことが多く書かれているので確かにそう取れなくもないですけども、そもそも男女の関係なんて他人が入るものじゃないですから、下世話極まりないですよね。
式子内親王のほうが一回りほど年上なので、個人的には生々しい関係というよりも定家にとって「初恋の人」だったんじゃないかなあと思います。
「史実と物語を両方知り、同一視しない」姿勢でいたい
そんなわけで、数多いる皇女の中でも式子内親王は比較的知られた存在になったのでした。
能や小説はお話として楽しむに留め、「アレで表現されていたのが実際の本人だ!!」と思い込まないようにしたいものですね。高橋お伝や江島など、お芝居やお話の中で不当に貶められた女性はとても多いですが、21世紀にもなって同じことをし続けるのもどうかと思いますし。とはいっても、多分その手の創作はなくならないんでしょうけどねえ。
「史実と物語を両方知り、同一視しない」そんな考え方が当たり前になると良いのですが・・・。 
4
式子内親王の世を忍ぶ恋愛相手は誰か
藤原定家朝臣と式子内親王(後白河天皇の皇女)とは、世を忍ぶ恋愛関係にあったとする伝説があります。小倉百人一首で知られる式子内親王は華やかな宮廷生活を生きた人ではなく、生涯を深窓にすごさねばならなかった女性でした。中世において、神に仕える斎宮や斎院に立った内親王や皇女は、愛や恋など人並みの生活は許されなかった。時代は平安王朝の皇室内部の紛議に、源平争乱が絡んで騒然とした大動乱期。皇族・貴族同胞も互いに殺し合う殺伐たる末世無常の世でした。
謡曲「定家」では今春禅竹が作能したが、曲名になった定家自身は登場しない。の曲の梗概は次のようです。
北国から上ってきた僧が、都の千本あたりで暮色を眺めているうちに、俄に時雨が降ってきたので、程近き宿りに立ち寄ったところ、一人の女が声をかけつつ現れ、この宿りは時雨亭といって、昔藤原定家卿の建てたものであると教え、定家卿の歌を吟じ、軒端を打つ夕時雨の中で昔を語る風情を忍びながら、なき世に残る情景を懐かしみなどしていたが、やがて女は今日は志す人の忌日なので弔ってくださいと僧を促して、式子内親王の墓に詣で、乞われるままに女は、内親王が賀茂の齋の院から下りなさって後、定家卿との忍び忍びの御契りを深くなさったが、程なく内親王は空しくなられた。
それ以来卿の執心が葛となって、このようにお墓に這い纏って互いの苦しみ今に離れがたい故、御経を読誦して救ってくださいといい、さらに二人の恋を語っていましたが女はついに内親王霊であることをあかして姿を消したのでした。
定家の邸宅は洛中に数カ所にあったらしい。定家の時雨亭跡地は現在の般舟院だと伝えています。京都市中京区寺町通二条にも京極邸跡の碑があります。また、供養塔は各地にあるようです。京都市上京区の釘抜地蔵の境内の墓地に定家墓の宝篋印塔、長谷寺の西斜面の林の中にも、俊成の碑と並んで塔が建てられています。
般舟院から西数十bのところに、宮内庁管理の般舟院御陵(京都市千本今出川)があり、御陵の正陵の中には、皇后、中宮、未成年の親王、内親王など多数葬られていますが、この一画の外に式子内親王のものと伝えられる塚があり、古い五輪塔が上に置かれています。式子は晩年ある事件に連座したと嫌疑を受けたため、中に葬ってもらえなく、外側に細々と石塔があるだけです。
偽りのなき世なりけり神無月 誰が誠より時雨そめけん 
山深み春とも知らぬ松の戸に 絶え絶えかかる雪の玉水
玉のをよたえなばたえねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする
式子内親王は後白河法皇の第三皇女として生まれた。仁平三(一一五三)年頃と推定されています。母は藤原成子。二条天皇と高倉天皇は異母兄、以仁王は同母兄、仁和寺の守覚法親王は同母弟にあたります。平治元(一一六九)年、賀茂斎院に任ぜられ、嘉応元(一一六九)年、病気のため退下し、齋内親王とも呼ばれました。建久二(一一九一)年、出家され、戒師は法然がなされ法名を承如法と申しました。正治三(一二〇一)年没。死因は乳癌であったらしい。
式子の藤原俊成を師とした和歌の力量は、肩を並べる人も少なく、特に孤独境に沈む歌は比類がなかった。新古今集に忍ぶる恋の歌を多く残しています。定家の選んだ小倉百人一首の歌も、いちずな人目を忍ぶ激しい恋の歌でした。
藤原定家朝臣
定家は鎌倉初期の歌人で、父は千載和歌集を撰進した歌人藤原俊成です。幼少の頃から父に歌の指導を受け、また西行法師や平忠度らと親交を持ち、天性の歌心に磨きをかけたようです。一一七八年、十六歳で初めて歌合(うたあわせ、和歌バトル)に参加しました。一一八〇年(十八歳)、源氏が挙兵し源平の争乱が勃発しました。この年から定家は日記『明月記』を七十三歳まで五十六年にわたって書き綴りました。その最初の年にこう刻んでいます。
「世上乱逆追討耳ニ満ツトモ、之ヲ注ゼズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」
“世間では反乱者(平家)を追討せよなどと騒いでいるが、そんな事はどうだっていい。紅旗(朝廷の旗)を掲げて戦争しようが、俺の知ったこっちゃない”。
若き定家は、愛する和歌の世界を究める為、孤高に我が道を行くと宣言しているのでした。翌年、その言葉の通りに十九歳で『初学百首』を、二十歳で『堀河題百首』を詠んだのでした。その内容の素晴らしさに、父・俊成は感涙にむせんだといいます。
定家は天才型に多い直情タイプの性格で、歌人にあっても血の気が多く、一一八五年(二十三歳)、宮中で少将源雅行に侮辱されて殴りかかり、官職から追放されるという事件がありましたが、父の奔走で三ヵ月後に許された。同年、平家が壇ノ浦で滅亡しましたが、天下の変動に目もくれず創作に打ち込んでいました。定家の歌風は禅問答のように難解だと、世間から「達磨歌」と非難されていましたが、彼はそれに屈せず、二十四歳の時に西行から勧められて『二見浦百首』を詠み、そこに名歌
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮
花も紅葉も何もなく秋の夕暮れに沈む海岸の漁師小屋
を収めました。
一一八八年(二十六歳)、父の手による『千載集』に八首を採用されました。ますます歌道に精進し、政界の実力者九条家に出仕するようになって順調に官位を上げ、また九条家の歌人グループと親交を深めるにつれ定家への誹謗は消えていきました。一一九三年(三十一歳)に『六百番歌合』で詠んだ百首は、中から三十五首も新古今集に採用されました。三十四歳の『韻歌百二十八首』では
旅人の袖吹き返す秋風に夕日さびしき山の梯(かけはし)
夕日が照らす寂しい山の架け橋を、旅人が秋風に袖を吹かれながら渡って行く
行き悩む牛の歩みに立つ塵の風さへ熱き夏の小車
などと詠んだのでした。
この冬、源通親のクーデターにより九条家は失脚し、定家も出世の夢は消え、貧乏かつ病気がちになりました。三十六歳の時、『仁和寺宮五十首』で
大空は梅の匂いにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月
大空が梅の香りと霞に満ちる春の夜のおぼろ月
春の夜の夢のうき橋とだえして嶺にわかるる横雲の空
春の夜に浮き橋の如く儚い恋の夢から目覚めると、たなびく雲も山の峰から別れていくところだった
を詠みました。同年息子の為家が誕生しました。
一二〇〇年(三十八歳)、不遇な現状を打破すべく、 和歌を愛する後鳥羽院の目にとまろうと精力を傾けて『院初度百首』を詠み
駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮
馬をとめ袖に降り積もった雪を振り払う物陰もない、佐野の渡し場の雪の夕暮れよ
を収めました。果たして後鳥羽院はこれを絶賛し、宮廷への出入りを即日許されました。かつては九条家の歌人だったが、ついに宮廷歌人となったのでした。この頃の歌には
白妙の袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞふく
一夜を過ごした朝の別れに涙の露が袖に落ち、吹き来る秋風が身に染みます
たづね見るつらき心の奥の海よ潮干のかたのいふかひもなし
あの人の冷めた心を探ってみれば、もう何を言っても気持が戻らないことが分かった。潮が引き干上がった潟のように何も貝=甲斐がない
などがあります。
後鳥羽院をバックにつけ歌壇の第一人者となった定家は、歌合の審判になるなど絶頂を迎え、翌年、院から新古今和歌集の選者に任命されました。ここから四年間の歳月をかけて膨大な数の歌を選定していくことになったのですが、後鳥羽院と定家は互いに一家言を持つ激情家だったことから、好みの歌を巡って大激突しました。たとえ相手が上皇だろうと、歌に関しては頑固に折れることを知らない定家で、まして相手は十八歳も年下ですから、院を憤慨させ、徐々に関係が険悪になっていったのでした。
その後の定家は歌を作ることより理論等の研究に興味が移っていきました。歌論書の執筆の傍らで将軍源実朝の歌を通信添削もしていました。一二一六年(五十四歳)には、自分のベスト作品集『拾遺愚草』を制作。一二二〇年(五十八歳)、ついに定家と後鳥羽院の緊張はピークに達し、激怒した院は定家を歌会の参加も禁止という謹慎処分にしたのでした。
ところが翌年、後鳥羽院は鎌倉幕府を打倒すべく挙兵し(承久の乱)、完敗した後、隠岐に流されてしまいました。
定家の境遇は一気に好転し、高い官位を得て生活が安定しました。歌壇の大御所として君臨した定家は、かねてから古典を熱愛していたこともあり、自らの次の仕事として、『源氏物語』『土佐日記』など様々な作品を、後世の人々に正確に伝える為に筆をとって写しまくったのでした。
一二三二年(七十一歳)、後堀河天皇より新たな歌集を作るよう命を受けたので、官位を辞し出家して選歌に没頭し、三年後に『新勅撰和歌集』をまとめあげました。
一二三六年(七十五歳)、それまでの歌集制作の総決算的な意味合いで『小倉百人一首』を選出しました。カルタになるのは戦国末期にトランプが入って来てからです。
一二四一年、七十九歳で永眠。その二年前に後鳥羽院も隠岐で亡くなられていました。院は流される時にわざわざ新古今の資料を運んでおり、彼の地で自分好みの「隠岐本新古今和歌集」を完成させています。
式子内親王
式子内親王[しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう、一一四九(久安五)年〜 一二〇一年三月一日(建仁元年一月二十五日)]は、平安時代末期、後白河天皇の第三皇女。賀茂斎院でもあります。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人でもあります。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟、高倉天皇は異母弟にあたります。萱斎院、大炊御門斎院とも呼ばれました。法号は承如法です。
一一五九(平治元)年十月二十五日、内親王は宣下を受け斎院に卜定し、以後およそ十年間、一一六九(嘉応元)年七月二十六日に病により退下するまで賀茂神社に奉仕したのでした。
退下後は母の実家高倉三条第、その後、父・後白河院の法住寺殿内(萱御所)を経て、遅くとも一一八五(元暦二)年正月までに、叔母・八条院ワ子内親王のもとに身を寄せたのでした。一一八五(元暦二)年七月から八月にかけて、元暦大地震とその余震で都の混乱が続く中も、八条院に留まり、准三宮の宣下を受けています。八条院での生活は、少なくとも一一九〇(文治六)年正月までは続いたのでした。
後に、八条院とその猶子の姫宮(以仁王王女、式子内親王の姪)を呪詛したとの疑いをかけられ、八条院からの退去を余儀なくされたので、白河押小路殿に移り、父後白河院の同意を得られないまま出家しました。
一一九二(建久三)年、後白河院死去により大炊御門殿ほかを遺領として譲られましたが、大炊御門殿は九条兼実に事実上横領され、建久七年の政変による兼実失脚までは居住することができませんでした。一一九七(建久八)年には蔵人大夫橘兼仲夫婦の託宣事件に連座したと洛外追放が検討されましたが、実際に処分は行われませんでした。
一一九九(正治元)年五月頃から身体の不調が見られ、年末にかけてやや重くなったのでした。一二〇〇(正治二)年、後鳥羽院の求めに応じて百首歌を詠み、定家に見せています。その後もさらに病状が悪化し、東宮守成親王(後の順徳天皇)を猶子とする案ありましたが、病のため実現せず、一二〇一(建仁元)年一月二十五日薨去。享年五十三歳でした。
歌人として、歌合や定数歌等による歌壇活動の記録が極めて少なく、現存する作品も四百首に満たないのですが、その三分の一以上が『千載和歌集』以降の勅撰集に入集しています。
逸話としての藤原定家との関係
藤原俊成の子定家は一一八一(治承五)年正月にはじめて三条第に内親王を訪れ、以後折々に内親王のもとへ伺候しました。内親王家で家司のような仕事を行っていたのではないかとも言われていますが、詳細ははっきりしません。定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場しています。特に死去の前月にはその詳細な病状が頻繁な見舞の記録と共に記されながら、薨去については一年後の命日まで一切触れないという思わせぶりな書き方がされています。これらのことから、両者の関係が相当に深いものであったと推定されます。
いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし 『新古今和歌集』
この式子内親王の恋歌は、百首歌として発表される以前に、定家に贈ったものだといわれています。こうした下地があって、やがて定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説が公然化し、そこから「定家葛」に関する伝承や、金春禅竹の代表作である謡曲『定家』等の文芸作品を生じたといわれています。相思相愛だったが後鳥羽院に仲を裂かれ、あるいは定家の父藤原俊成も彼等の仲を知って憂慮していた等々、いくつもの説が派生しましたが、いずれも後代の伝聞を書きとめたものであり、史実としての文献上の根拠はありません。十五世紀半ばから語り伝えられていたという「定家葛の墓」とされる五輪塔と石仏群が、現般舟院陵の西北にあります。
恋愛感情とは別に、定家が式子内親王について記す際、しばしば「薫物馨香芬馥たり」「御弾箏の事ありと云々」と、香りや音楽に触れていることから、定家作と言われる『松浦宮物語』中に登場する唐国の姫君の人物設定が、内親王に由来する「高貴な女性」イメージの反映ではないかとの指摘もあります。
法然との関係
法然が、「聖如房」あるいは「正如房」と呼ばれる高貴な身分の尼の臨終に際して、長文の手紙を送ったことが知られていますが、この尼が式子内親王であるとする説があり、そこから内親王の出家の際の導師が法然であった可能性、更には内親王の密かな思慕の対象であったという推測も行われています。
『新古今和歌集』に大量入集する等、この時代の代表的女流歌人と見なされていたと考えられますが、歌合等の歌壇行事への参加がほとんど記録されていない式子内親王が、このような地位を得た理由として、藤原俊成に師事していたこと、その子定家とも交流があったことにより、この時代の主流に直接触れ得る立場だったことが挙げられます。後鳥羽院は、近き世の殊勝なる歌人として九条良経・慈円と共に式子内親王を挙げ、「斎院は殊にもみもみとあるやうに詠まれき」等と賞賛しています。 
5
式子内親王
承(聖・正とも)如房(承如法の宛字)。加茂斎右大炊御門斎院(おおいみかどさいいん)とも称す。また「式子」は“しきし”“しきこ”と読むことも。 また「しやう如ばう」とも書かれている。母は高倉成子、内親王は賀茂の斎院になり、大炊御門(おおいのみかど)の斎院といった。後白河天皇の第3皇女式子内親王のことで、正女房36歌仙の1人。
法然上人とは長年の親交があったとみえ、式子の臨終に際して、往生の安心を説いた法然上人の書状が残っている。
そこには「ご体調がすぐれないとのことで、お招きの通り参上すればよいとも思いましたが、お会いすれば、臨終の善知識になるどころか、亡骸に執着する心の迷いがでてしまいかねません。ついては、この世での対面よりも、お念仏をお励みになって、浄土で待とうとお考えください」と綴っている。 また、式子には、百人一首の中に、玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(私の命よ、絶えるのならば絶えておくれ、これ以上は忍ぶる気持ちも弱まってしまうから)という歌があり、式子の忍ぶる恋の相手が取り沙汰された。藤原定家という説もあったが、先の書状などから、その相手は法然上人ではなかったか、と見るむきもある。橘兼仲らの妖言に関係して危く洛外追放になるところを辛うじてのがれた。のち病をえて法然上人に往生の要義をたずねたので、法然は懇切な消息を送った。内親王はまた和歌にすぐれた才があった。 
6
式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人
式子(しょくし・しきし・のりこ)内親王は、第七十七代・後白河天皇の第三皇女だが、11年間にわたり、人間の男と交わってはならないという賀茂(かも)の斎院(さいいん)を務めたため、心に秘めた、藤原定家らとの“忍ぶ恋”の苦しみを詠んだ歌を数多く残した。厳しい禁忌(タブー)のもとに生き、その後は出家し、生涯を終えただけに、世俗の女性の恋とは異なる、忍ぶ恋の歌の真実を歌い上げている。定家とともに、『新古今和歌集』の優れた歌人だ。
式子内親王の母は、従三位・藤原成子(なりこ、藤原季成の娘)。二条・高倉両天皇、以仁王は兄にあたる。1159年(平治元年)から、二条・六条・高倉の三天皇の11年間にわたり賀茂の斎院を務め、1169年(嘉応元年)病気のため退下した。そして、1194年(建久5年)ごろ出家したとみられる。生涯独身を通した。萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門斎院(おおいのみかどさいいん)などと称された。法号は承如法(しょうにょほう)。生没年は1149(久安5年)〜1201年(建仁元年)。
式子内親王は、明るい宮廷生活を送った女性ではなかった。その生涯は、源平争乱、朝廷・公卿の没落と武家の台頭という、歴史の転換期だった。崇徳天皇、以仁王、安徳天皇その他の人々の不幸な末路をも見た。それだけに、その歌にも、深い悲しみに洗われた人の持つ味わいがあるのだ。
「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの 弱りもぞする」
これは『新古今和歌集』、『小倉 百人一首』に収められた式子内親王の歌だ。歌意は、私の命よ、絶えるならいっそのこと早く絶えてしまってくれ。このまま生き長らえていると、この恋の苦しさを堪える力がだんだん弱くなって、忍び隠してきた心のうちの思いが、外に現れてしまいかねないから−というものだ。
下二句では「忍ぶ」「弱る」と歌い込んで、心にまつわりつく恋のきずなをきっぱりと絶ちきれぬ、そうかといって恋の苦しみにも耐えられぬ、女心の哀切さがにじみでている。現代人には理解し難い王朝女性の恋の表現だろう。わが存在すべてを焼き尽くすほどの恋情に焦がれながら、一切を自分一人の中に隠し通すのだ。それは、恋の自然な発露からすれば、一種自虐的なものであり、それだけに相手に対する純粋な憧れの思いは、一層切なく哀しい。
大岡信氏は「忍ぶ恋の苦しみを歌った歌はおびただしいが、その最も有名なものは恐らくこの式子の歌だろう」としている。
式子内親王は、藤原俊成に師事して多くの優れた歌を詠んだ。俊成の『古来風体抄(こらいふうていしょう)』は式子内親王に奉った作品といわれる。俊成の息子、定家は1181年(養和元年)以後、折々に式子のもとへ伺候している。一説によると、内親王のもとで家司のような仕事をしていたのではないかともいわれているが、詳細は定かではない。定家の『明月記』にしばしば内親王に関する内容が登場し、とくに死去の前後にはその詳細な病状が記されていることから、両者の関係が相当に深いものであったことは事実だ。
謡曲『定家』は式子と定家の恋を題材にしたものだが、真偽は不明だ。ただ、『渓雲問答』に次のような記述がある。二人の関係を定家の父、俊成は、ほのかに聞いていたが、あるとき定家の住まいを調べると、この歌を書いた式子の手跡があった。それで真剣になるのも道理だと思って、諌めなかったという。
式子内親王は『新古今和歌集』には49首採られ、女流歌人中トップ、また入集歌数では第5位だ。小野小町、和泉式部らとともに、女流歌人として和歌の心を正統に継承した人物といえよう。 
7
斎院
式子内親王は、後白河天皇の第三皇女で、母は藤原季成の女・成子。久安五年(1149)の生れ、平治元年(1159)内親王宣下を受け、斎院に卜定。嘉応元年(1169)病により退下。生年については諸説あるが、京大本『兵範記』断簡に含まれていた嘉応元年七月廿四日の式子内親王斎院退下条の裏書に、「斎王高倉三位腹御年廿一」と記載されていることを受ける。
『賀茂斎院記』には、「後白河院之皇女也。母従三位成子。季成の女。平治元年卜定。号大炊御門斎院。能倭歌。出家法名承如法。」とあり、式子内親王が怡子内親王につづいて第31代斎院に卜定されたのは平治元年(1159)であり、次代の繕子内親王の卜定は嘉応元年(1169)となっている。
式子内親王の斎院退下は、『皇帝紀抄』によると、「嘉応元年七月二十六日、依病退下」であった。
ちなみに、嵯峨天皇皇女智子内親王を初代とする斎院は、式子内親王から四代後の後鳥羽院皇女礼子内親王を第35代として廃絶されている。
薨年は、『源家長日記』と『明月記』に「建仁元年(1201)」とある。 
 
90.殷富門院大輔 (いんぷもんいんのたいふ)  

 

見(み)せばやな 雄島(をじま)の海人(あま)の 袖(そで)だにも
濡(ぬ)れにぞ濡(ぬ)れし 色(いろ)は変(か)はらず  
血の涙に濡れて変色した私の袖をお見せしたいものです。雄島の漁師の袖でさえ、濡れに濡れたにもかかわらず、色は変わらないのですよ。 / ああ、あの人に見せたいものよ。雄島の漁師の袖でさえ、どれほど波しぶきで濡れに濡れたとしても色が変わらないというのに、私の袖はもう涙ですっかり色が変わっている。 / 涙に濡れて、色の変わったわたしの袖をお見せしたいものですよ。雄島(現在の宮城県の名所である松島のなかの島のひとつ)の漁師の袖ですら、たくさん濡れても、わたしの袖のようには色は変わらないでしょうに。 / (涙で色が変わってしまった) わたしの袖をあなたにお見せしたいものです。あの雄島の漁夫の袖でさえ、毎日波しぶきに濡れていても、少しも変わらないものなのに。
○ 見せばやな / 「見せ」は、下二段の動詞「見す」の未然形。「ばや」は、願望の終助詞。「な」は、詠嘆の終助詞。「見せばやな」で、見せたいものだなあの意。初句切れ。
○ 雄島のあまの袖だにも / 「雄島」は、宮城県の松島湾にある島。歌枕。「あま」の漢字は、「海人・海女」であり、漁師のこと。「だに」は、軽いものを取り上げて重いものを類推させる副助詞で、〜でさえもの意。「も」は、強意の係助詞。
○ ぬれにぞぬれし / 「ぞ」と「し」は、係り結びの関係。「ぬれ」は、ラ行下二段の動詞「ぬる」の連用形。「に」は、同じ動詞の間に入れて表現を強調する格助詞。「ぞ」は、強意の係助詞。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形で、「ぞ」の結び。四句切れ。
○ 色はかはらず / 「色」は、袖の色。「は」は、区別を表す係助詞。「漁師の袖の色は変わっていない」が、「私の袖の色は血の涙のせいで変わった」ことを表す。
※ この歌は、本歌取の歌であり、本歌は、源重之の「松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか」である。その現代語訳は、「松島の雄島の磯で漁をしていた漁師の袖が、私の袖が涙で濡れているのと同じように、ひどく濡れていた」である。 
1
殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ、生没年不詳:大治5年(1130年)頃 - 正治2年(1200年)頃)は、平安時代末期に活躍した歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成。母は従四位式部大輔菅原在良の娘。一説に道尊僧正の母ともされる。
若い頃から後白河院の第1皇女・殷富門院(亮子内親王)に出仕、それに伴い歌壇で長年にわたり活躍した。俊恵が白川の自坊で主宰した歌林苑(宮廷歌人の集まり)のメンバーでもあり、藤原定家・寂蓮・西行・源頼政など多くの歌人と交際があった。また、文治3年(1187年)の百首歌等、自ら主催して定数歌や歌会の催しを行うこともあった。建久3年(1192年)の殷富門院出家に伴って自らも出家したとされる。私家集である『殷富門院大輔集』、及び『千載和歌集』以降の勅撰集、その他私撰集等に多数の作品を残している。
逸話
○ 鴨長明が『無名抄』の中で「近く女歌よみの上手にては、大輔・小侍従とてとりどりにいはれ侍りき(=近ごろの女流歌人のなかで上手なのは殷富門院大輔と小侍従であるとさまざまにいわれている)」と述べる等、当時最高の女流歌人であると目されていた。その歌風は『歌仙落書』によると「古風を願ひてまたさびたるさまなり(=古いスタイルの和歌を手本として古風な趣がある)」と評されたが、一方では、本歌取りや初句切れを多用した技巧的な面もある。また、多作家としても知られ、「千首大輔」の異名もあった。
○ そのライバルと目されていた小侍従と夜通し連歌に興じることもあった。
小侍従に始めて対面して夜もすがら連歌などし明かして帰るとて こじじゅう
思ひいでなきこのよにてやみなまし 今宵にあはぬ我が身なりせば
かへし
なかなかになにか今宵にあひぬらん あはずはけさの別れせましや 『殷富門院大輔集』
この時の連歌の内容は伝存していない。別の機会に名月の夜に歌人仲間の男性達を誘って小侍従宅へのアポなし訪問を試みる等、自由な振舞いも垣間見える。
九月十三や ひとびとぐしてこじじゆうのもとへゆきたるに おはしまさずといふに
またそこへたづねゆきて ものがたりなどするついでに 大輔
つきにのりあはぬものゆゑかへらまし ふかき思ひのしるべそへずは
かへし   小侍従
まてばこそたづねもくらめつきをみる ながめにもまづわすれやはする
このついでに 五条さい相中将みちよりぐして 経などよみ給ひしに
をりからにや いたくしみまさりてきこえしかば   大輔
ながづきの月をばいつもみしかども こよひばかりのそではしぼらず 『殷富門院大輔集』
○ 和歌の祖とも言える柿本人麻呂の墓を訪ねて仏事を営み、当代の有名歌人達に和歌の詠進を求めるというイベントを主催している。
殷富門院大輔 人丸はか尋て仏事をこなふとて 人々に尺教歌よませ侍けるに 権中納言長方
かきつめしことはの露のかすことに 法の海にはけふやいるらん 『玉葉和歌集』
○ 建久2年(1191年)頃、源平争乱後の復興が進行していた南都への巡礼に出かけ、東大寺で再建間もない大仏を拝した後、興福寺南円堂、一言主社等を参拝した。荒廃した元興寺では、智光曼荼羅を目にした可能性もある。
元興寺ことのほかに荒れて 煙のたぐひにはなくて うてなの露しげきに似たり
飛ぶ鳥や飛鳥の仏あはれびの そのはぐくみに漏らし給ふな
これに智光が曼陀羅おはします
夢のうちに手の際みせし極楽を とくみのりにぞ思ひあはする
この聖たち 昔の芹摘みしとかや聞こゆる
思ひがけぬものから あはれに 『殷富門院大輔集』 
2
殷富門院大輔 生没年未詳(1130頃-1200頃)
藤原北家出身。三条右大臣定方の末裔。散位従五位下藤原信成の娘。母は菅原在良の娘。小侍従は母方の従姉にあたる。尊卑分脈には「道尊僧正母」とある。若くして後白河天皇の第一皇女、亮子内親王(のちの殷富門院。安徳天皇・後鳥羽天皇の准母)に仕える。建久三年(1192)、殷富門院の落飾に従い出家したらしい。永暦元年(1160)の太皇太后宮大進清輔歌合を始め、住吉社歌合、広田社歌合、別雷社歌合、民部卿家歌合など多くの歌合に参加。また俊恵の歌林苑の会衆として、同所の歌合にも出詠している。自らもしばしば歌会を催し、文治三年(1187)には藤原定家・家隆・隆信・寂蓮らに百首歌を求めるなどした。源頼政・西行などとも親交があった。非常な多作家で、「千首大輔」の異名があったという。また柿本人麿の墓を尋ね仏事を行なった(玉葉集)。家集『殷富門院大輔集』がある。千載集に五首入集したのを始め、代々の勅撰集に六十三首を採られている。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも「見せばやな…」の歌が採られている。鴨長明『無名抄』には小侍従と共に「近く女歌よみの上手」とされ、同時代の名声の程が知られる。親交があった藤原定家の評価はことに高く、定家単独撰の新勅撰集には十五首の多きを採られている。女流では相模に次ぎ第二位の入集数である。「古風をねがひて又さびたるさまなり」(『歌仙落書』)。「古風」「さびたる」は歌の全体的な印象を言っているが、技法的には本歌取りや初句切れを多用し、俊成に学んだ当時先進的な詠みぶりであった。
春 / 春歌の中に
春たつと聞くにも物ぞあはれなる花待つほどもしらぬ命は(玉葉1831)
(春になったと聞くにつけても物悲しいよ。花が咲くのを待つ間さえ、生きられるかどうかわからない私の命だから。)
百首歌よみ侍りける時、春の歌とてよめる
春風のかすみ吹きとくたえまより乱れてなびく青柳の糸(新古73)
(春風が吹き、立ちこめた霞をほぐしてゆく。その絶え間から、風に乱れて靡く青柳の枝が見える。)
花歌とてよめる
花もまたわかれん春は思ひ出でよ咲き散るたびの心づくしを(新古143)
(桜の花も、私と死に別れた次の春は思い出してよ。咲いては散る、そのたびに私が心を使い果たしてきたことを。)
秋 / 題しらず
うき世をもなぐさめながらいかなれば物悲しかる秋の夜の月(続後拾遺1058)
(月は辛いことの多い現世を慰めてくれる――そうは言いながら、どうして物悲しいのだろうか、秋の夜の月を眺めるのは。)
冬 / 寒草を
虫のねのよわりはてぬる庭のおもに荻の枯葉の音ぞのこれる(玉葉902)
(虫の声がすっかり弱くなった庭の地面には、荻の枯葉の風に鳴る音ばかりが残っている。)
恋 / 歌合し侍りける時、恋の歌とてよめる
見せばやな雄島をじまの海人あまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず(千載886)
(見せたいものだ、私の袖を。雄島の海女の袖もさぞや濡れたことだろうが、それさえ色が変わることはないのに。私の袖は、涙でびしょ濡れになったばかりか、血の色に変わってしまった。)
恋歌あまたよみ侍りけるに
もらさばや思ふ心をさてのみはえぞ山しろの井手のしがらみ(新古1089)
(ひそかに伝えたい、あの人を思うこの気持を。こうして堪え忍んでばかりは、とてもいられない。山城の井手のしがらみだって、水を漏らすではないか。)
題しらず
逢ひみてもさらぬ別れのあるものをつれなしとても何歎くらん(新勅撰749)
(逢って契りを交わしたところで、避け難い永遠の別れというものがあるのに。あの人がつれないと言って、私は何を歎いているのだろうか。)
題しらず
いかにせん今ひとたびの逢ふことを夢にだに見てねざめずもがな(新勅撰976)
(どうしよう。なんとか、あの人に逢いたい。今一度あの人と逢うことを、せめて夢にだけでも見て、そのまま眠りから覚めずにいたい。)

はかなしなただ君ひとり世の中にあるものとのみ思ふはや我(殷富門院大輔集)
(果敢ないことだ。この世界にあなた一人しか存在しないとでも思っているのだろうか、私は。)
題しらず
あすしらぬ命をぞ思ふおのづからあらば逢ふよを待つにつけても(新古1145)
(明日も知れない命のことを思ってしまう。生きていれば、ひょっとしたらあの人に逢う折もあるかもしれない――その時を期待するにつけても。)
題しらず
何かいとふよもながらへじさのみやは憂きにたへたる命なるべき(新古1228)
(なにをわざわざこの世を厭うことがあるだろう。万一にも生き永らえることなどできやしない。こんなふうにばかり、辛い思いに堪えていられる命のはずがあるまい。)
題しらず
かはりゆく気色けしきを見ても生ける身の命をあだに思ひけるかな(千載926)
(あの人の顔色やそぶりに、心変わりしたことが感じられる。それを見ても、私の命なんか、もうどうでもいいと思ってしまうのだ。)
百首歌よみ侍りけるに
よしさらば忘るとならばひたぶるに逢ひ見きとだに思ひ出づなよ(続後撰995)
(それならいいわ。私を忘れるというのなら、徹底的に忘れてよ。逢ったとさえ思い出さないでよ!)
題しらず
忘れなば生けらむものかと思ひしにそれも叶はぬこの世なりけり(新古1296)
(あの人に忘れられ、見捨てられたなら、生きてなどいられるものか。――そう思っていたのに、死ぬことも叶わないこの世なのだ。)
恋の歌とて
死なばやと思ふさへこそはかなけれ人のつらさは此の世のみかは(風雅1335)
(死んでしまいたいと思うことさえ虚しい。人の仕打ちが辛いのは、なにもこの世だけではないだろう。)
恋の歌とてよめる
なほざりの空だのめとて待ちし夜のくるしかりしぞ今は恋しき(千載945)
(いいかげんな空約束だったのだ――そう悔やみながら恋人を待っていた夜の苦しかったこと。それも今となっては恋しく思われるよ。)
雑 / 題しらず
命ありてあひ見むこともさだめなく思ひし春になりにけるかな(新勅撰1028)
(去年、命があって、再び巡り逢うことはあるだろうかと、心もとなく思っていた春――どうにかに生き延びて、今年もその季節を迎えたのだ。)
題しらず
今はとて見ざらん秋の空までも思へばかなし夜半の月影(新勅撰1090)
(これがもう最後と、ふたたび見ることのないだろう秋の夜空を眺める――私の死んだ後まで、こうして月は煌々と夜を照らしているのだろう。それを思えば、悲しくてならない。)
題しらず
きえぬべき露のうき身のおき所いづれの野辺の草葉なるらん(続古今1422)
(今にも消えてしまいそうな露のように果敢ない我が身の置き所は、どこの野辺の草葉になるのだろうか。) 
3
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず
詠み人は殷富門院大輔、殷富門院にお仕えした大輔と言う女房です。殷富門院というのは後白河天皇の皇女・亮子内親王のことで式子内親王の姉宮に当たります。伊勢の斎宮にもなり、安徳帝・後鳥羽院、二代の准母として門院号を宣下され、また順徳院のご養女ともなられました。その殷富門院に仕えたのが大輔です。父は藤原信成と言われ、姉があり、共に殷富門院に仕えたといいます。大輔、は「たいふ」と読みます。
見せたいの。あなたに、この色が変わってしまった私の袖を。松島の雄島の漁師の袖は若布を刈り、塩を汲み、いつもぐっしょりと濡れているのですってね。漁師の袖は濡れることはあっても、色が変わりはしないでしょう。あなたの袖は、その漁師の袖のように濡れたと言うけれど、私の袖はどう。ご覧なさいな、これを。あなたは心破れてなど、いないのよ。この袖は涙に濡れるばかりか血の涙に色さえ変わってしまったわ。
この歌は源重之の歌を本歌取りしています。「後拾遺集」に収められている歌で
松島や 雄島の磯に あさりせし 海士の袖こそ かくはぬれしか
「松島の雄島の漁師の袖は涙に濡れた私の袖のように濡れている」と言う歌意です。大輔の歌は「千載集」に収められていて、その詞書には歌合せの際に恋の歌として詠んだ、とあります。ですからこの歌も題詠です。重之の歌に応じる返歌のような形で詠まれていますが、これは当時の流行と言いますが、このような形の本歌取りもあった、と言うことのようです。ちなみに「あま」を漁師と訳しましたが、あまは重之の歌にあるよう、海士の字を当てることもあります。今は海女のほうが一般的でしょうか。元々は男女どちらでも使う言葉です。一見してわかりにくいですが、涙に袖の染め色が変わったのではなく、血の涙に染まってしまった、と取るべきでしょう。紀貫之の歌にもあります。
白玉に 見えし涙も 年経れば からくれなゐに 移ろいにけり
と言うものです。ここでは中国の故事を指しています。血涙、と言うのは元々中国の故事で、周易や韓非子から来ているようです。大輔の歌はそれを踏まえているので、恋に破れた自分の涙は血の色をしている、だからそれに染まった袖は色が変わったのだ、と解釈します。
さて、いつものことですが、大輔の生涯はほぼ何もわかりません。どうやら七十歳くらいまでは生きたらしいですが、これと言って話題が残っていないのですよ。無論のこと、本名などわかるはずもありません。そんな大輔ですが、歌は素晴らしいものをたくさん残しました。家集もありますが、何と言っても勅撰集に六十首近く採られているというのは大変なものです。特に素晴らしいのが恋歌ではないか、と私は思います。この百人一首に採られている歌もそうですね。見せたいものよ、と高らかに詠い出すところから始まって、男をなじりつつも悲しく、だからこそ美しい女の情愛を歌っています。気性激しく、誇り高い、そんな女性だったのかと想像します。あるいはいつか悲しい恋をしたのかな、とも。それほど彼女の恋歌には胸に迫る実感があるのですよ。切なくて苦しくて、こんな歌を贈られたら男はきっと彼女を放ってはおかなかったのではないかな、など思います。そうは思うのですが、人の心と言うものは一度離れるともう元には戻らないものでもあります。もしかしたら男は彼女の元には戻らなかったのかもしれません。そして最後に彼女は血涙を振り絞り、男と決別することになったのではないでしょうか。強い決意と滲み出る苦悩、それでいて決して彼女は懇願したりはしないのですよ、この歌で。こんな女性をそれこそ袖にした男はよほど見る目がなかった、としか言えませんね。
ところで、ご紹介した恋の歌は、すべて袖を濡らしている歌、を選びました。すべて袖を濡らしつつも、歌枕を変え、色を変え、様々な形で詠っています。ある意味で「袖を濡らす」と言うのは類型的な表現ですから、歌の上手と言われる人ほど心を砕いて形にした、と言うことではないでしょうか。 
 
91.後京極摂政前太政大臣
  (ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)

 

きりぎりす 鳴(な)くや霜夜(しもよ)の さむしろに
衣(ころも)かたしき ひとりかも寝(ね)む
こおろぎが鳴く霜の降りた夜の寒々とした筵の上に、衣の片袖を敷いて、一人寂しく寝るのだろうか。 / こおろぎが鳴いている、霜の降りるそんな肌寒い夜、寒いばかりか私は、粗末なむしろの上に片袖を敷いて独りぼっちで寝るのだろうか。 / こおろぎ(きりぎりすはこおろぎの古名)がしきりに鳴いている、この霜の降りた寒い夜のなか、寒々とした筵(むしろ)に、衣を着たまま片袖だけ敷いて、わたしはひとり寂しく寝るんだなぁ。 / こおろぎがしきりに鳴いている霜の降るこの寒い夜に、むしろの上に衣の片袖を敷いて、わたしはたったひとり寂しく寝るのだろうか。
○ きりぎりす / コオロギ。
○ 鳴くや霜夜のさむしろに / 「や」は、詠嘆の間投助詞。「霜夜」は、霜のおりた夜。「さむしろ」は、接頭語「さ」+「筵」。また、「寒し」との掛詞。
○ 衣かたしき / 当時、男女が同衾する場合は、互いの衣の袖を重ねて寝たことから、「衣かたしき」は、一人寝を表す。
○ ひとりかも寝む / 「か」と「む」は、係り結びの関係。「か」は、疑問の係助詞。「も」は、強意の係助詞。「む」は、推量の助動詞「む」の連体形で「か」の結び。  
1
九条良経(くじょうよしつね、嘉応元年(1169年) - 元久3年3月7日(1206年4月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。従一位、摂政、太政大臣。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)。摂政関白・九条兼実の次男。
小倉百人一首では「後京極摂政前太政大臣」。
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ」
治承3年(1179年)元服し、従五位上に叙せられる。元暦2年(1185年)従三位。文治4年(1188年)、同母兄の九条良通が早世したため兼実の嫡男となった。その後も権中納言、正二位、権大納言と昇進し、建久6年(1195年)に内大臣となった。しかし翌年11月、反兼実派の丹後局と源通親らの反撃を受けて父とともに朝廷から追放され、蟄居することを余儀なくされた(建久七年の政変)。
正治元年(1199年)、左大臣として政界復帰を果たし、その後内覧となる。そして建仁2年(1203年)12月、土御門天皇の摂政となり、建仁4年(1204年)には従一位、太政大臣となった。しかし元久3年(1206年)3月7日深夜に頓死。享年38。
良経は和歌や書道、漢詩に優れた教養人だった。特に書道においては天才的で、その屈曲に激しく線に強みを加えた書風は、のちに「後京極流」と呼ばれた。また、叔父慈円を後援・協力者として建久初年頃から歌壇活動が顕著になり、同元年『花月百首』、同4年頃『六百番歌合』などを主催した。その活動は御子左家との強い結びつきのもとで行われたが、六条家歌人との交流もあった。この良経歌壇は、のちに『新古今和歌集』へと結実していく新風和歌を育成した土壌として大きな役割を果たす。その後は後鳥羽院歌壇へ移行し、良経を含む御子左家一派は中核的な位置を占める。
建久元年(1190年)、和歌所設置に際して寄人筆頭となり、『新古今和歌集』の撰修に関係してその仮名序を書いた。自撰の家集『秋篠月清集』(月清集)は六家集のひとつとなっている。『後京極殿御自歌合』も作風を知る上で好資料となる。日記に『殿記』、著作に『大間成文抄』がある。 
2
九条良経 嘉応元〜建永元(1169-1206)
法性寺摂政太政大臣忠通の孫。後法性寺関白兼実の二男。母は従三位中宮亮藤原季行の娘。慈円は叔父。妹任子は後鳥羽院后宜秋門院。兄に良通(内大臣)、弟に良輔(左大臣)・良平(太政大臣)がいる。一条能保(源頼朝の妹婿)の息女、松殿基房(兼実の兄)の息女などを妻とした。子には藤原道家(摂政)・教家(大納言)・基家(内大臣)・東一条院立子(順徳院后)ほかがいる。治承三年(1179)四月、十一歳で元服し、従五位上に叙される。八月、禁色昇殿。十月、侍従。同四年、正五位下。養和元年(1181)十二月、右少将。寿永元年(1182)十一月、左中将。同二年、従四位下。同年八月、従四位上。元暦元年(1184)十二月、正四位下。同二年、十七歳の時、従三位に叙され公卿に列す。兼播磨権守。文治二年(1186)、正三位。同三年、従二位。同四年、正二位。この年、兄良通が死去し、九条家の跡取りとなる。同五年七月、権大納言。十二月、兼左大将。同六年七月、兼中宮大夫。建久六年(1195)十一月、二十七歳にして内大臣(兼左大将)。同七年、父兼実は土御門通親の策謀により関白を辞し、良経も籠居。同九年正月、左大将罷免。しかし同十年六月には左大臣に昇進し、建仁二年(1202)以後は後鳥羽院の信任を得て、同年十二月、摂政に任ぜられる。同四年、従一位摂政太政大臣。元久二年(1205)四月、大臣を辞す。同三年三月、中御門京極の自邸で久しく絶えていた曲水の宴を再興する計画を立て、準備を進めていた最中の同月七日、急死した。三十八歳。幼少期から学才をあらわし、漢詩文にすぐれたが、和歌の創作も早熟で、千載集には十代の作が七首収められた。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受ける。叔父慈円の後援のもと、建久初年頃から歌壇を統率、建久元年(1190)の『花月百首』、同二年の『十題百首』、同四年の『六百番歌合』などを主催した。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移るが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占めた。建仁元年(1201)七月、和歌所設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与、仮名序を執筆するなどした。建仁元年の『老若五十首』、同二年の『水無瀬殿恋十五首歌合』、元久元年の『春日社歌合』『北野宮歌合』など院主催の和歌行事に参加し、『千五百番歌合』では判者もつとめた。後京極摂政・中御門殿と称され、式部史生・秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士などと号した。自撰の家集『式部史生秋篠月清集』『後京極摂政御自歌合』がある。千載集初出。新古今集では西行・慈円に次ぎ第三位の収録歌数七十九首。漢文の日記『殿記』は若干の遺文が存する。書も能くし、後世後京極様の名で伝わる。
「故摂政は、たけをむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由あるさま、不可思議なりき。百首などのあまりに地哥もなく見えしこそ、かへりては難ともいひつべかりしか。秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし」(『後鳥羽院御口伝』)。
「後京極摂政の歌、毎首みな錦繍、句々悉々く金玉、意情を陳ぶれば、ただちに感慨を生じ、景色をいへば、まのあたりに見るが如し。風姿優艷にして、飽くまで力あり、語路(ごろ)逶迱(いだ)として、いささかも閑あらず、実に詞花言葉の精粋なるものなり」(荷田在満『国歌八論』)。(語路逶迱は言葉の続き具合に滞りがないこと。)

みよしのは山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり〔新古〕
空はなほかすみもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月〔新古〕
見ぬ世まで思ひのこさぬながめより昔にかすむ春のあけぼの〔風雅〕
わするなよたのむの沢をたつ雁もいなばの風の秋の夕暮〔新古〕
かへる雁いまはの心ありあけに月と花との名こそをしけれ〔新古〕
ながむればかすめる空のうき雲とひとつになりぬかへる雁がね〔千載〕
吉野山このめもはるの雪きえてまたふるたびは桜なりけり
昔誰かかる桜の花をうゑて吉野を春の山となしけむ〔新勅撰〕
かすみゆくやどの梢ぞあはれなるまだ見ぬ山の花のかよひぢ
桜さく比良の山風ふくままに花になりゆく志賀のうら浪〔千載〕
またも来む花にくらせるふるさとの木のまの月に風かをるなり
鈴鹿川波と花との道すがら八十瀬をわけし春はわすれず
雲のなみ煙のなみやちる花のかすみにしづむ鳰にほのみづうみ
ちる花も世をうきくもとなりにけりむなしき空をうつす池水
なほちらじみ山がくれの遅桜またあくがれむ春のくれがた
よしの山花のふるさと跡たえてむなしき枝に春風ぞふく〔新古〕
あすよりは志賀の花園まれにだに誰かはとはん春のふるさと〔新古〕
ちる花をけふのまとゐの光にて浪間にめぐる春のさかづき

うちしめりあやめぞかをる郭公なくや五月の雨の夕暮〔新古〕
小山田にひくしめなはのうちはへて朽ちやしぬらん五月雨の比〔新古〕
さつき山雨にあめそふ夕風に雲よりしたをすぐる白雲
いさり火のむかしの光ほの見えてあしやの里にとぶ蛍かな〔新古〕
窓わたる宵のほたるもかげきえぬ軒ばにしろき月のはじめに
かさねてもすずしかりけり夏衣うすき袂にうつる月かげ〔新古〕
すずみにとわけいる道は夏ふかし裾野につづくもりの下草
おく山に夏をばとほくはなれきて秋の水すむ谷のこゑかな
手にならす夏のあふぎとおもへどもただ秋風のすみかなりけり
かげふかきそとものならの夕すずみひと木がもとに秋風ぞふく〔玉葉〕

おしなべて思ひしことの数々になほ色まさる秋のゆふぐれ〔新古〕
もの思はでかかる露やは袖におくながめてけりな秋のゆふぐれ〔新古〕
秋をあきと思ひ入りてぞながめつる雲のはたてのゆふぐれの空
水あをき麓の入江霧はれて山ぢ秋なる雲のかけはし〔風雅〕
山とほき門田のすゑは霧はれてほなみにしづむ有明の月〔続拾遺〕
うすぎりの麓にしづむ山のはにひとりはなれてのぼる月かげ
三日月の秋ほのめかすゆふぐれは心にをぎの風ぞこたふる
故郷のもとあらの小萩さきしより夜な夜な庭の月ぞうつろふ〔新古〕
庭ふかきまがきの野べのむしのねを月と風とのしたにきくかな
雲はみなはらひはてたる秋かぜを松にのこして月をみるかな〔新古〕
ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ〔新古〕
とこよにていづれの秋か月は見し都わすれぬ初雁のこゑ
さびしさやおもひよわると月見れば心のそらぞ秋ふかくなる
いとふ身ものちのこよひと待たれけりまたこむ秋は月もながめじ
うつの山こえしむかしの跡ふりてつたのかれ葉に秋風ぞふく〔新続古今〕
時しもあれふるさと人はおともせでみ山の月に秋かぜぞふく〔新古〕
たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯のへにかへるさを鹿の声〔新古〕
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む〔新古〕
ことし見るわがもとゆひの初霜にみそぢあまりの秋のふけぬる〔新後拾遺〕

はるかなる峰の雲間のこずゑまでさびしきいろの冬は来にけり〔新後撰〕
みし秋をなににのこさむ草の原ひとつにかはる野辺のけしきに
ささの葉はみ山もさやにうちそよぎこほれる霜をふく嵐かな〔新古〕
あらしふき空にみだるる雪もよにこほりぞむすぶ夢はむすばず
きえかへりいはまにまよふ水のあわのしばしやどかる薄氷かな〔新古〕
かたしきの袖の氷もむすぼほれとけてねぬ夜の夢ぞみじかき〔新古〕
月ぞすむたれかはここにきのくにや吹上の千鳥ひとりなくなり〔新古〕
里わかぬ雪のうちにも菅原やふしみの暮はなほぞさびしき〔新拾遺〕
さびしきはいつもながめのものなれど雲まの峰の雪の明けぼの〔新勅撰〕
さゆる夜のまきのいたやのひとり寝に心くだけと霰ふるなり〔千載〕
いそのかみふるののをざさ霜をへてひと夜ばかりにのこる年かな〔新古〕

おほかたにながめし暮の空ながらいつよりかかる思ひそめけむ
うつせみのなくねやよそにもりの露ほしあへぬ袖を人のとふまで〔新古〕
もらすなよ雲ゐるみねのはつしぐれ木の葉はしたに色かはるとも〔新古〕
かぢをたえゆらの湊による舟のたよりもしらぬ沖つしほ風〔新古〕
なげかずよいまはたおなじなとり川せぜの埋木くちはてぬとも〔新古〕
身にそへるそのおもかげもきえななむ夢なりけりとわするばかりに〔新古〕
それはなほ夢のなごりもながめけり雨のゆふべも雲のあしたも
いく夜われなみにしをれてきぶね川袖に玉ちるもの思ふらむ〔新古〕
なにゆゑと思ひもいれぬ夕だに待ちいでしものを山のはの月〔新古〕
めぐりあはむかぎりはいつとしらねども月なへだてそよそのうき雲〔新古〕
きみがあたりわきてと思ふ時しもあれそこはかとなきゆふぐれの空
きみもまた夕やわきてながむらん忘れずはらふ荻の風かな
わが涙もとめて袖にやどれ月さりとて人のかげは見ねども〔新古〕
月やそれほのみし人のおもかげをしのびかへせば有明の空
いはざりきいまこむまでのそらの雲月日へだてて物おもへとは〔新古〕
いつもきくものとや人の思ふらむこぬゆふぐれの秋風の声〔新古〕
恋しとはたよりにつけていひやりき年はかへりぬ人はかへらず
われとこそながめなれにし山のはにそれもかたみの有明の月〔風雅〕
見し人の袖にうきにしわがたまのやがてむなしき身とやなりなむ〔新千載〕
恋ひ死なむわがよのはてににたるかなかひなくまよふゆふ暮の雲
のちもうししのぶにたへぬ身とならばそのけぶりをも雲にかすめよ

おしなべてこのめも春のあさみどり松にぞ千代の色はこもれる〔新古〕
しきしまややまとしまねも神代より君がためとやかためおきけむ〔新古〕
もろともにいでし空こそわすられね都の山のありあけの月〔新古〕
わすれじとちぎりていでしおもかげは見ゆらむものをふるさとの月〔新古〕
くにかはるさかひいくたびこえすぎておほくの民に面なれぬらむ
ふるさとは浅茅がすゑになりはてて月にのこれる人のおもかげ〔新古〕
夕なぎに浪間の小島あらはれてあまのふせ屋をてらすもしほ火
人すまぬふはの関屋の板びさしあれにしのちはただ秋の風〔新古〕
はるの田に心をつくる民もみなおりたちてのみ世をぞいとなむ
おのづからをさまれる世やきこゆらむはかなくすさむ山人のうた
わが心そのいろとしはそめねども花やもみぢをながめきにける
うきしづみこむ世はさてもいかにぞと心に問ひてこたへかねぬる〔新古〕
をはり思ふすまひかなしき山かげにたまゆらかかるあさがほの露〔新勅撰〕
あまのとをおしあけがたの雲まより神代の月のかげぞのこれる〔新古〕
神風やみもすそ河のそのかみにちぎりしことの末をたがふな〔新古〕
わが国はあまてる神のすゑなれば日のもととしもいふにぞありける〔玉葉〕
わかの浦のちぎりもふかしもしほ草しづまむ世々をすくへとぞ思ふ
たまつ島たえぬながれをくむ袖にむかしをかけよわかのうらなみ
家に百首歌よみ侍りける時、十界の心をよみ侍りけるに、縁覚の心を
おく山にひとりうき世はさとりにきつねなきいろを風にながめて〔新古〕
前内相府幽霊一辞東閤之月、永化北芒之煙、以来去文治第四之春忽入我夢以呈詩句、今建久第二之春又入人夢、開暁之詞実知娑婆之善漸積、泉壌之眠自驚者歟、爰依心棘之難、抑奉答夢草之幽思而已
みし夢の春のわかれのかなしきはながきねぶりのさむときくまで 
3
九条良経
熊野本宮焼失
建長六年(1254)成立の橘成季編著の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に熊野本宮が焼失した火災のことが書かれた話があります(巻第十三 哀傷第二十一 四六六)。
後京極良経曲水宴を催さんと日到らずして薨去の事
後京極殿(藤原良経(よしつね)。後京極良経、九条良経とも。1169〜1206)は詩歌の道にお優れあそばして、寛弘・寛治の昔を忍んで、建永元年(1206。元久三年。四月二十七日改元、建永元年となる)三月に京極殿(旧上東門院第。第(てい)は邸の意)にて曲水の宴を催そうと思い立ちになられた。
藤原良経は和歌にすぐれ、十九歳の若さで『千載和歌集』に入集、二十五歳で「六百番歌合」を主催、建仁元年(1201)の和歌所開設に当たっては寄人筆頭となりました。『新古今和歌集』では、仮名序を書き、七十九首もの歌を入集させています(入集歌数は西行・慈円に次ぎ第三位)。
み吉野は山もかすみて しら雪のふりにし里に春はきにけり(春歌上 1)
吉野は山も里も霞んでいる。白雪が降っていた里に春が来たのだなあ。
これが『新古今集』巻第一の第一首目を飾る良経の歌。
寛弘・寛治の昔とは、寛弘四年(1007)三月三日に左大臣道長が上東門院第で催した例と寛治五年(1091)三月十六日に内大臣師通(もろみち。道長の孫)が六条水閣で催した例とを指します。
巴(ともえ)の字のように湾曲して水を流し、住吉神社付近の松を引き植えなどして、さまざまにご趣向を凝らしていたが、熊野山炎上の噂が届いたので、三月三日を延期して中の巳(?)を用いられた例もあるといって十二日に行うとお決めになったところ、七日の夜に急にお亡くなりあそばした。人々の秀句はむなしく家に残されました。御歳三十八である。惜しく悲しいことであった。
定家卿(藤原定家、このとき四十五歳)はこのことを嘆いて、家隆卿(藤原家隆、このとき四十九歳)のもとへ歌を申し遣わした。
昨日までかげとたのみし桜花 一夜の夢の春の山風
昨日まで木陰をつくってくれると頼みにしていた桜の花が一夜の夢を見ている間に春の山風に散ってしまったことだ。
その返歌、
かなしさの昨日の夢にくらぶれば うつろふ花もけふの山かぜ
昨日良経卿が急逝せられ、夢のような気持ちがしているが、今日も山風に桜の花が散っている。
後京極殿の御子の前内大臣(藤原基家。1203〜1280。良経の三男)が大納言のとき、三十首の歌を人々に詠ませて撰定なさったとき、慈鎮和尚(慈円。良経の叔父。天台座主・大僧正)が往事のことを思い出しになって、「水に寄する旧懐」と題して歌をお詠みになった。
思出(おもひいで)てねをのぞみなく行水(ゆくみず)にかきし巴(はの)字の春のよの夢
良経卿のことを思い出して泣いてばかりいる。巴の字のように流れる水に数かくよりもはかないと歌われた春の夜の夢のような人生を思う。
定家卿が同じ心を、
せく水もかへらぬ波の花のかげ うきをかたみの春ぞかなしき
せき止めても返らない行く水の波に流されていった花(良経卿)の面影がつらい形見として残っているこの春は何とも悲しいことだ。
この話に出てくる「熊野山炎上」は建永元年(元久三年、1206)二月二十八日にあった熊野本宮の火災のことです。この火災により本宮の社殿は焼失しました。このことが都に伝わったのが『一代要記』によると三月三日。そのため、曲水の宴を延期し、三月十二日に行うことに決めたのですが、後京極良経はそれを待たずに突然に三十八歳という若さで三月七日に死去してしまいます。自ら曲水の宴を催そうと思うくらいでしたから、きっと死の予感などというものもなかったのでしょうね。人生というものはわからないものです。
後京極良経は鎌倉前期の公卿。諸芸に通じていて、とくに書道に秀でていました。その書は法性寺流に新感覚を加えたもので、後に後京極流と呼ばれる書流を形成しました。
熊野の火災についての記事。嘉保三年(1096) 三月十日、熊野本宮焼亡、(『百錬抄』) / 元久三年(1206) 二月二十八日、熊野本宮焼失之由、三月三日風聞、今日於中御門殿、可有曲水宴、而依此事、延引来月、(『一代要記』) / 承久三年(1221) 九月十三日子の刻本宮炎上、(『熊野年代記古写』) / 貞応二年(1223) (十一月)十九日、熊野那智山焼亡、於本宮火事度々有例、当宮事先規不祥云々、(『百錬抄』) / 弘長二年(1262) 同(十一月)一日、熊野悉焼失、(『一代要記』) / 文永元年(1264) 十一月二十四日未剋本宮炎上、仮殿作、(『熊野年代記古写』)
藤原良経
良経の一生は、歌人としての歴史だけではありません。「武者の世」と呼ばれた内乱期を生きる、政治家としての姿も忘れてはなりません。
九条兼実の次男。中御門摂政、のちに後京極摂政太政大臣と呼ばれる。秋篠月清、南海漁夫、西洞隠士などと号した。兄良通の死後、摂関家の跡取りとして政界の表舞台に立つ。源通親らの台頭により一時逼塞するがほどなく復帰、摂政、太政大臣に昇った。和漢の詩歌に優れ、藤原定家らの主唱する新風和歌を庇護し『六百番歌合』を主催。良経・定家らの研鑚はのちに空前絶後の詞華集『新古今和歌集』に結実する。新古今完成の直後、三十八歳での急死は、さまざまな憶測を生んだ。家集に『秋篠月清集』があり、日記『殿記』が部分的に残存する。除目任官の先例集として『大間成文抄』も手がけている。また、その書は後世「後京極流」として珍重され、佐竹本『三十六歌仙絵巻』などさまざまな作品が良経筆に仮託されている。
「六百番歌合」について
鎌倉幕府が成立した建久三年(1192)頃、九条家の後継者で当時権大納言兼左大将であった藤原良経が企画したのが、この「六百番歌合」です。作者には、慈円や藤原定家といった、この時代を代表する著名な歌人十二人が参加しました。判者には、勅撰集「千載和歌集」の撰者でもある藤原俊成が勤めました。評定・加判が完了し、この歌合が完成したのは、建久四年から五年頃と言われています。
ここでの題は、春十五題、夏十題、秋十五題、冬十題、恋五十題が用意されています。そのいずれも、結構ひねった難題ばかりが揃っています。その難題に十二人の歌人が挑み、詠みあげた和歌は全部で千二百首、その全てが良い和歌という訳ではありません。その内容は多様かつ多彩です。
この「六百番歌合」の面白さは、芸術としての和歌を巡る議論の奥深さにあります。十二人の歌人が左右の方人に分かれ、それぞれが相手の和歌に対して難陳がなされており、そこから歌論に対する白熱した当時の議論の様子を伺うことができます。特に、当時の歌論における好敵手同士であった、「御子左家」と「六条家」の歌人がそれぞれ参加しており、歌論を巡ってより深く熱い議論がなされております。さらに、それをあたかも左右の方人と問答するが如く付けられたのが、藤原俊成の判詞です。俊成の判詞からは、その文面の面白さもさることながら、和歌を判ずる俊成の質の高い芸術論を読み取ることが可能です。
なお、藤原俊成の有名な「源氏見ざる歌詠みは遺恨ノ事也」という名言は、この「六百番歌合」の判詞の中に出てきます。
「六百番歌合」作者解説 左方 (藤原良経 24歳)
藤原氏北家摂家相続流、関白太政大臣法性寺兼実の二男、母は従三位藤原季行女。兄良通の夭折後、九条家の後継者となる。慈円は叔父にあたる。摂政太政大臣従一位に至り、後京極摂政・中御門摂政と呼ばれる。建久七年、源通親によって父兼実とともに失脚・蟄居の憂きめに逢うが、正治元年、和歌好きが昂じた後鳥羽上皇によって朝廷に復帰する。建仁二年には氏長者となり、土御門天皇の摂政となる。元久三年に謎の死を遂げる。
この「六百番歌合」の主催者で、「女房」という仮名で歌人としても参加。他に「南海漁父北山樵客百番歌合」を企画(この時の仮名は「南海漁父」)。和歌所寄人、「新古今集・仮名序」の執筆者。家集に「秋篠月清集(六家集の一つ)」。日記に「殿記」。
仮名序
やまとうたは、昔あめつち開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵞の里よりぞつたはれりける。しかありしよりこのかた、その道さかりに興り、その流れいまに絶ゆることなくして、色にふけり、心をのぶるなかだちとし、世をおさめ、民をやはらぐる道とせり。
かゝりければ、代々のみかどもこれを捨てたまはず、えらびをかれたる集ども、家々のもてあそびものとして、詞の花のこれる木のもとかたく、思ひの露もれたる草がくれもあるべからず。しかはあれども、伊勢の海きよき渚の玉は、ひろふとも尽くることなく、泉の杣しげき宮木は、ひくとも絶ゆべからず。ものみなかくのごとし。うたの道またおなじかるべし。
これによりて、右衛門督源朝臣通具、大蔵卿藤原朝臣有家、左近中将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近少将藤原朝臣雅経らにおほせて、むかしいま時をわかたず、たかきいやしき人をきらはず、目に見えぬ神仏の言の葉も、うばたまの夢につたへたる事まで、ひろくもとめ、あまねく集めしむ。
をのをのえらびたてまつれるところ、夏引の糸のひとすぢならず、夕の雲のおもひ定めがたきゆへに、緑の洞、花かうばしきあした、玉の砌、風すゞしきゆふべ、難波津の流れをくみて、すみ濁れるをさだめ、安積山の跡をたづねて、ふかき浅きをわかてり。
万葉集にいれる歌は、これをのぞかず、古今よりこのかた七代の集にいれる歌をば、これを載する事なし。たゞし、詞の苑にあそび、筆の海をくみても、空とぶ鳥のあみをもれ、水にすむ魚のつりをのがれたるたぐひは、昔もなきにあらざれば、今も又しらざるところなり。すべてあつめたる歌二千ぢ二十巻、なづけて新古今和歌集といふ。
春霞立田の山に初花をしのぶより、夏は妻恋ひする神なびの郭公、秋は風にちる葛城の紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮まで、みなおりにふれたる情なるべし。しかのみならず、高き屋にとをきをのぞみて、民の時をしり、末の露もとの雫によそへて、人の世をさとり、たまぼこの道のべに別れをしたひ、あまざかる鄙の長路に都をおもひ、高間の山の雲居のよそなる人をこひ、長柄の橋の浪にくちぬる名をおしみても、心中にうごき、言外にあらはれずといふことなし。いはむや、住吉の神は片そぎの言の葉をのこし、伝教大師はわがたつ杣の思ひをのべたまへり。かくのごとき、しらぬ昔の人の心をもあらはし、ゆきて見ぬ境の外のことをもしるは、たゞこの道ならし。
そもそも、むかしは五たび譲りし跡をたづねて、天つ日嗣の位にそなはり、いまは八隅知る名をのがれて、藐姑射の山に住処をしめたりといへども、天皇は子たる道をまもり、星の位はまつりごとをたすけし契りをわすれずして、天の下しげき事わざ、雲の上のいにしへにもかはらざりければ、よろづの民、春日野の草のなびかぬかたなく、よもの海、秋津島の月しづかにすみて、和歌の浦の跡をたづね、敷島の道をもてあそびつゝ、この集をえらびて、永き世につたへんとなり。
かの万葉集はうたの源なり。時うつり事へだたりて、今の人しることかたし。延喜のひじりの御代には、四人に勅して古今集をえらばしめ、天暦のかしこきみかどは、五人におほせて後撰集をあつめしめたまへり。そののち、拾遺、後拾遺、金葉、詞華、千載等の集は、みな一人これをうけたまはれるゆへに、聞きもらし見をよばざるところもあるべし。よりて、古今、後撰のあとを改めず、五人のともがらを定めて、しるしたてまつらしむるなり。
そのうへ、みづから定め、てづから磨けることは、とをくもろこしの文の道をたづぬれば、浜千鳥あとありといへども、わが国やまと言の葉始まりてのち、呉竹のよゝに、かゝるためしなんなかりける。
このうち、みづからの歌を載せたること、古きたぐひはあれど、十首にはすぎざるべし。しかるを、今かれこれえらべるところ、三十首にあまれり。これみな、人の目たつべき色もなく、心とゞむべきふしもありがたきゆへに、かへりて、いづれとわきがたければ、森のくち葉かず積り、汀の藻くづかき捨てずなりぬることは、道にふける思ひふかくして、後の嘲りをかへりみざるなるべし。
時に元久二年三月廿六日なんしるしをはりぬる。
目をいやしみ、耳をたふとぶるあまり、石上ふるき跡を恥づといへども、流れをくみて、源をたづぬるゆへに、富緒河のたえせぬ道を興しつれば、露霜はあらたまるとも、松ふく風の散りうせず、春秋はめぐるとも、空ゆく月の曇なくして、この時にあへらんものは、これをよろこび、この道をあふがんものは、今をしのばざらめかも。 
4
九条良経と「さらしな」
「さらしな」という地名の白色イメージが強調される和歌が、ちょうど平安末期から、鎌倉時代初めに詠まれるのです。
その詠み手は、九条良経(くじょう・よしつね)。清盛と対立する公家で、藤原兼実(ふじわら・かねざね)の後継ぎです。良経は平氏が滅んだあと、天皇を補佐する側近となり、日本最古の歌集「万葉集」以来の優れた和歌を集めた「新古今和歌集」の編さんに深くかかわった和歌の実力者です。その良経がさらしなの白色イメージを強調してつくった歌のひとつが次です。
さらしなの山の高嶺(たかね)に月さえてふもとの雪は千里(ちさと)にぞしく
一面に雪が降って真っ白になったさらしなの里。その里にある姨捨山の上空には月が白く輝いている。なんと神々しい景色であることか…。良経が実際に当地に来たとは考えられないので、雪の白さと月の白さ、さらに、さらしなの里のの地名が抱かせる白色イメージを重ねた純白の情景を思いうかべ、詠んだと思われます。
さらしなの里の白さがこのようにイメージされるだけでもありがたいのですが、良経はそのさらしなを、奈良の吉野と同列にあつかって雪の白色が映える場所だという歌もつくっています。
雪白きよもの山辺(やまべ)をけさ見れば春のみ吉野秋のさらしな
吉野といえば桜の花の美しさで知られる山岳地帯。一面に降った京の都の雪景色を見ながらその純白の美しさを、春先の花の美しい吉野と、秋の月が美しいさらしなを重ね合わせることで強調しているようです。吉野は良経の時代、花に加えて霊的な力が得られて大きな仕事の後押しをしてくれる神聖な場所としてうけとめられ(今でも修験道のメッカで、そのために世界文化遺産)、当時のスーパーパワー国家、中国とつきあうため、「日本」という国家の礎を築いた天武(てんむ)天皇の活動の原点となった地でした。
公家にとってやっかいだった平氏が滅んだとはいえ、政治の実権は源頼朝を棟梁とする武士に移ってしまったことを良経はにがにがしく思い、吉野が天皇とともに公家が国家を運営する原点の地でもあることを再確認していたはずです。当時の歌詠み人たちの間で、もっともあこがれられた一人、西行の死に場所でもあったので、よけい吉野には思いいれがあったと考えられます。
良経にとってそんな深い思いいれのある「吉野」と、都からはるか遠くの東国のいなかの「さらしな」を組みあわせることで、花と月に代表される公家文化が育んできた崇高な白の美を強調したのが先に紹介した和歌なのです。当時は歌を詠むことが一流の為政者の証しでもあった時代なので、吉野と対等に並べられた「さらしな」について、それまでは姨捨山という言葉が想起させるイメージが強かった人たちも、さらしなの白さをより強くイメージするようになった可能性があります。
良経のお父さんの藤原兼実は、清盛の動乱の中で奈良の東大寺を焼失させてしまったとき、「もしわが寺、興復せば天下興復し、わが寺、衰弊せば、天下衰弊す」という国家安泰のために東大寺を創建した聖武(しょうむ)天皇の言葉を引用し、平氏を糾弾しています。実際にその通りに兼実がふるまったかどうか分かりませんが、兼実が聖武天皇のこの言葉を大事にしていたのは事実で、公家としての兼実が日本の歴史文化をになっている自負を強烈に感じさせます。良経もこうしたお父さんの後継者としての責任感を持っていました。
平氏と源氏の戦いのさなか、良経もたくさんの混沌を見てきたはずなので、より純白で崇高なものを求める気持が、「吉野」と「さらしな」をセットにする歌の創作、新しい美をつくりだすことにもつながったのではないかと思うのです。それが、長野県軽井沢町追分にある道標(道しるべ)の文言「さらしなは右・みよし野は左にて・月と花とを・追分の宿」につながっていったのではないかとも思うのです。
(注)親子でありながら兼実と良経の苗字が違うのは、兼実が後に、九条家という一門を自ら創始したためです。 
5
九条兼実
執政
建久三年後白河院崩御。後鳥羽帝はこの時既に十三歳に達しており摂政の兼実も執政の座につき七年の歳月を過ごしていました。これより先、建久元年正月四日には娘任子の入内を果たし、同四月には中宮に列せられ兼実の弟兼房は太政大臣、次男良経は左大将権大納言に至り、九条家は前途洋々たる気運でした。
兼実の執政(文治二年−建久七年)の十一年間において建久三年は大きな意味と転機をもたらしました。後白河院崩御は政界の空気を一新し、絶えて等しい天皇親政を復活し頼通以来絶えていた外威政治を目指したのは次の歌からも察せられます。
これそこのおもひしことく世をはへん 秋の宮にて月をみるかな  (雲葉和歌集賀)
後法住寺入道先関白入道
この一首は兼実の人生の頂点に達した事を象徴するものとしてかの御堂関白道長公が詠んだとされる「この世をば」に比べても良いでしょう。
こうして九条家は政界の第一線を占めその羽翼を宮廷内外にのばし宿望を達すべき際会したのです。この九条家の最も晴れがましい事業としては南都復興は欠かせません。清盛による南都破壊の直後より朝廷と藤原氏の一日も忘れることの出来ない事業の一つでしたが、その後の戦乱により妨げられていました。しかしながらここに来ての朝廷の安定、京の治安秩序回復、武家幕府の制覇と相まって京・鎌倉両政権が手を携えて復興を行ったのです。
南都復興事業の完成は、九条家公武協調政策に咲いた花とも云うべきものであり、九条家の最高潮期を意味します。
しかし頼朝は二度の上洛で多少の変化をしていました。権門への憧れか、自分の娘を後宮に入れんが為に、兼実の政敵であね丹後局・源通親に接近しやがて通親の利用するところとなって九条家失脚の一因となるのでした。
この絶頂に達したかに見えた九条家に暗雲が立ちこめ始めたのです。
兼実が任子の入内に、皇子誕生に外威政治復活の望みを託していたことは先に記述したとおりですが、建久六年任子が生んだのは皇女であり甚だ九条家を失望させたのでした。
この兼実が失望の情を噛み締めてている間に、後鳥羽院の第一皇子為仁親王が誕生したのです。生母は修明門院在子。通親の養女となり入内していたもので、兼実の失望が一層深まるに引き替え通親は外威政治の可能性を高めその為に画策していました。
彼は近衛家を擁し丹後局と協力し頼朝をも抱き込み完全に兼実包囲網を作り出したのです。
源通親は村上源氏を代表する政治家で、兼実と時を同じくしながら平家政権より後鳥羽院の時代に台頭し摂関家分裂を利用して宮廷内に確固たる自分の地盤を築きました。鎌倉時代の村上源氏の繁栄は通親に因るものであり、源平期を通じて公家政治家中第一の手腕を持っていたと云っても良いでしょう。
通親の政治家としての特色は、第一に現実主義者であること。政権への執念、それのみが通親の不断の目標であり、常に与党に立って落伍することなく政権の推移交代においても即座に反応し転身して手段を選ばず的な行動をしました。
九条家執政の全盛期には表向きは九条家を支持する頼朝に接近して支持を求め、他方九条家と相反する近衛家との連携を強める努力を欠かさず、万全の策を擁していました。
最終的には通親の策にはまり建久七年兼実は執政の座をおわれ、九条家一門では内大臣として良経が残るのみでした。
兼実は後鳥羽帝の即位により、宿願だった外威としての政をとる事を後一歩としながら運命に裏切られ、後鳥羽帝親政下の四年間の執政わ最後に政治の舞台を去るのでした。
晩年
摂政関白として後鳥羽帝を助けた兼実と九条家は、天皇の背後に張り巡らされていた、村上源氏(土御門氏)と高倉家によって敗退を喫し、建久七年の政変によって兼実の政治生命も幕を閉じました。
そして通親は後鳥羽院の後院の別当となり、また新帝土御門帝の外威として権勢を欲しいままとして天皇・院ともに「我が掌中」と評され絶大な権威は執政を近衛家に譲ってはいるものの「源博陸」と呼ばれ摂関にさえ擬されていました。
関東からすれば京の政界を一人にて切回す通親に頼朝は不安を覚え、建久七年の政変を遺憾として兼実・慈円兄弟に連絡を取っています。
しかし正治元年正月の頼朝の突然の死。この事に兼実は最後の希望の光を失ったと云っても良いでしょう。
九条家の将来に気を使おうにも政界においてなんら手がかりを失った兼実は失意のうちに籠居せざるおえませんでした。
しかし譲位によって自由の位を確保した後鳥羽院は、独自の方針を打ち立てたく次第に通親と対立関係を有するようになり、また近衛・九条両家にも出来るだけ公平な態度で向かい両者の緊張を解くために努力をしていました。
正治元年六月の除目には九条良経を左大臣、近衛家実を右大臣に任じられたはその一端です。
建久七年の政変以降正治二年の五年間に渡って籠居していた良経は同年二月、久々に出仕し院に拝謁し、このことが九条家の政界復帰の前触れと成りました。
ましてや建仁二年十月二十一日の源通親の急死によりさらに局面は進められその死後二ヶ月後鳥羽院が良経を摂政に任じた事は九条家勢威完全復活を印象づけたのです。
建仁二年よ五年に渡る良経の摂政、また兼実の五男良平十八歳にて元服。先に建久四年六月には良経に待望の長男道家誕生を見たことはどれだけ大きな喜びだったかは想像に難くない。
しかし、今や五十の春秋を送った兼実にとって長年起居を共にした肉親達と相次いで別れる時が迫ってきました。
建久四年十一月八日、宜秋門院の祖母則ち兼実夫人の母儀の喪に逢い、建仁元年十二月十日、最愛の妻の入滅を迎えます。
それにより翌建仁二年正月二十七日、夫人の四十九日に五十四歳で出家を遂げ円証と称しました。この出家に際して戒師には源空が、剃手には子・良円があたりました。
元久元年四月、兼実五十六歳。身後の計を定めて所領荘園や所管の寺社についての詳細な譲渡法を定めて譲状を作成して、事柄についても幾つかの配慮が見られます。
 ・永所奉附属宜秋門院也
 ・道家若殊非其器量又短命早世者、被仰合摂政可被相伝可継之仁也
 ・摂政若奉後女院者摂政領知之後可□□(被相カ)伝道家
 ・女院若令後摂政給直可被相伝道家也
これらの事を定め後塵を汚さぬよう腐心していた事が解ります。
晩年の哀愁のうちにも次男良経の執政に九条家の将来を託しつつ静に隠居生活を送っていた兼実ですが、元久三年三月七日良経の暗殺の風聞が立つほどの変死を遂げ、この突発事に兼実は改めて現実世界へ戻り孫の道家の教育に配慮するのでした。
年老いて子に先立たれた悲しみと、九条家と幼い道家の前途をについて懸念とが、兼実の健康に惡影響を及ぼしていたようですが、更に加えて帰依していた源空の迫害がことさら心身に衝撃を与えたようです。
そして兼実の終焉、その後の営みについて等は史料が乏しく明月記に片鱗をとどめているに過ぎず、その詳細は知るよしもありません。
明月記承元元年五月五日の条に
臨昏巷説云、入道殿下(兼実)御入滅云々、日来不知御増之由、甚以非慟、須馳参、近日時儀更難測□被処禁忌者於事可失便宜懲前事□只如木石
とあり、仲資王記同日の条には
九条禅定殿下薨去去々、春秋五十九歟、日来御不食云々
と伝えるのみです。 
6
藤原良経のこと
藤原良経(ふじわらのよしつね)〔摂政太政大臣・後京極摂政太政大臣、後京極摂政前太政大臣〕元久三年(一二〇六)没。三十八歳。後法性寺関白太政大臣兼実の二男。建仁二年(一二〇二)摂政、元久元年(一二〇四)従一位太政大臣。中御門摂政・後京極殿と呼ばれ、式部史生秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士とも号した。和歌を俊成、漢詩を藤原親経に学び、定家とも主従関係にあって親しく、新古今集に結実する新風和歌を育成する土壌としての役割を果たした。和歌所寄人の筆頭で。新古今集仮名序を草した。
み吉野は山も霞みて白雪の ふりにし里に春は来にけり
『新古今集』全二十巻の巻頭は、摂政太政大臣すなわち良経のこの歌からはじまる。
言うまでもなく、その御代の勅撰集の巻頭に据えられることは歌人としての最高の栄誉であるが、この人の場合は、新古今編纂のときにはすでに氏の長者であり、摂政、太政大臣という臣下としての最高位にいたわけで、まあ、時の権力者だからそれで巻頭になってんじゃねえの、と見られがち。しかし、この良経さんの歌人として実力はなかなかどうして相当のものであるという評価もある。『新古今和歌集一夕話』において百目鬼恭三郎は、この歌人、政治家についてこんな風に書いている。
良経はこのほか、『新古今集』では、仮名序を後鳥羽院に代わって草するという栄誉も与えられている。こちらのほうは、あるいは、政治的な考慮が入っていたかもしれない。が、巻頭歌のほうは、それにつづく八首の立春の歌とくらべてみると、やはりこの歌しかなかったとしかいいようがないのである。つまり、当然の実力であったということだ。とかく良経は、当時の歌壇のパトロン的存在で、後鳥羽院と定家という二人の天才の間をつなぐ人物にすぎなかった、という風にみられがちで、彼の歌才は不当に低く評価されるきらいがある。
良経の歌風は、この巻頭歌に典型的にみられるように、長高体という堂々とした、平明ながらたけたかい味わいがあると後鳥羽院などにも評価されているそうですが(『後鳥羽御口伝』)、百目鬼恭三郎はこの本において、むしろ悲しみに満ちた述懐歌に着目してこの人物のスケッチをしている。
そもそも関白兼実の二男であった良経が九条家の惣領となったのは長男である兄が若くして急死したためであった。良経本人も病弱だったらしいし、死をつねに意識して生きている人間にとっては、人生のかなしみや、人生のはかなさが親しいものであるというのは古今を問わない。たとえ、位人臣をきわめた政治家であってもそれはかわらないだろう。定家の『明月記』には、この良経が夫人の死にあって、にわかに邸から逐電、出家しようとしたが、山崎あたりでつかまり、ようやく思いとどまったという事件のことが書かれているそうであります。
百目鬼が紹介している良経の述懐歌をいくつか。 
厭ふべきおなじ山路にわけきても 花ゆゑ惜しくなるこの世かな
花もみなうき世の色とながむれば をりあはれなる風の音かな
寂しさや思ひ弱ると月見れば こころの空ぞ秋深くなる
秋はなほ吹きすぎにけり 風までも心の空にあまるものかは
われながら心のはてを知らぬかな 捨てがたき世のまた厭はしき
おしなべて思ひしのことの数々に なほ色まさる秋の夕暮
われかくて寝ぬ夜の涯をながむとも 誰かは知らむ有明のころ
再び、百目鬼の文章を引く。「このつきつめた悲しみは西行の在俗出家めいた遁世にはつゆ感じられない。世にありながら良経はなまじいの出家以上に世を捨てていたのだ」という塚本の評(前掲書)は当を得ていよう。が、その良経も中年にさしかかって、ようやく生をまっとうする気になったのか、中御門京極に広壮な邸宅を造営し、曲水の宴を盛大に張ろうとしてしていた矢先、一夜のうちに急死したと、叔父の慈円の『愚管抄』に記されている。建永元年三月七日のことで、良経は三十八歳であった。 
7
法然上人 / あいつぐ法難(67〜75歳)
『選択集』撰述後も上人は、念仏三昧の人として自ら実践し、さらに他の多くの人を導くこと(自行化他)につとめられました。正治二年(1200)、念仏によって往生することは本望であるが、上人に先だってみまかれば、上人のご臨終、続いて没後の追善はおろか、平常のお給仕すらできない、といって気をやむ病床の愛弟感西に、上人は自分の往生は御房の生没にかかわりないのであるから、こころおきなく念仏を相続せよと、いたわるようにはげまし、臨終の善知識となられました。この秋には大番勤仕のため上洛中であった上野国の御家人、薗田成実が上人の門に入りました。
元久元年(1204)二月、上人は伊豆山源延のために『浄土宗略要文』をしたためられました。上人は専修念仏に対する既成教団からの弾圧の強まることを肌に感じられたので、八月に膝下にあって六ヵ年受教した弁長を 鎮西 (ちんぜい) に帰国させました。弁長は帰国ののち教化活動をこころみましたが、かの地には上人から直接受けた法を素直に伝えない一念義や、金剛宝戒という邪義がひろがっていました。ともかくこのことは、京都をはじめ各地に伝播していた念仏の教えすべてが、上人の真意を伝えるものばかりでなく、かえって上人の名をかりた異説のあったことを物語っています。
元久の法難 ― 制誡七箇条 ―
はたせるかなこの年の十月、叡山三塔の大衆が 専修念仏 (せんじゅねんぶつ) の停止を、ときの天台座主真性に申請しました。上人は彼らのいきどおりをしずめるために、翌月門弟たちを集めていましめ、七箇条からなる制誡をつくり、門弟百九十名の署名をとり、別に誓状をそえて座主に送られました。なぜ専修念仏の停止がさけばれるにいたったかについては、七箇条の制誡の上に読みとることができます。
それによると、念仏以外の行や阿弥陀仏以外の信仰対象をそしったり、念仏以外の行を実践している者を雑行人とののしったり、折伏したり、強いて念仏門にひき入れようとしたり、あるいは阿弥陀仏の本願をたのむ者は造悪をおそれないといって婬酒食肉を勧めたり、上人の説に違反して自分勝手な説(背師自立義)をとなえたり、あまつさえ上人の説といつわる者が続出していたことを知ることができます。
これらは上人の専修念仏に便乗する似て非なる者たちの言行でありますが、その被害者である叡山の衆徒たちは、その責任を上人にとらそうと立ちあがったわけです。
ともかくこの念仏停止の運動は、上人を庇護しようとした兼実が座主に宛てた消息もあって、一応さけることができました。このとき、 安居院 (あぐい) の聖覚法印は法然の命を受けて『登山状』を撰して天台座主のもとに送りました。
興福寺奏状
翌元久二年(1205)正月、上人は霊山寺で別時念仏を行い、八月に入って北白川の二階房で、寒熱が日をへだててきまった時間におこるという一種の熱病にかかられたことがありました。
ついで十月には南都興福寺の衆徒が、後鳥羽院に念仏禁断の奏状に九箇条の過失を書きそえ、上人およびその門弟、とくに法本房行空と安楽房遵西の処罰を強訴しました。その内容は勅許(ちょっきょ)を得ないで一宗をたてたこと、摂取不捨曼荼羅―専修念仏者だけが阿弥陀仏の光明によって救われ、これに対して念仏以外の諸善を行ずる者は光明を預からないことを絵画的に表現したものが流行していること、諸行をもって往生業としないで、称名一辺倒であること、最低の不観不定の口称念仏を勧めることは、最上の観念をすてることであり、念仏の真意をあやまること、阿弥陀仏の名号やその浄土のことを説き示された本師である釈尊を等閑視していること、宇佐や春日などの宗廟大社― 本地垂迹 (ほんじすいじゃく) の神々を礼拝しないなどです。この奏状を八宗同心の願いであるとしたのは、単なる一宗一派の奏状でなく、既成の仏教教団すべての要請であることを示すためでありました。
この年の十二月に専修念仏者の庇護を内容とする宣旨がくだされ、かえって衆徒たちの不満をつのらせたのでした。翌年二月、法本房行空と安楽房遵西が召しだす御教書が発せられ、上人は行空だけを破門されました。ついで衆徒たちは五師三綱を代表にたて、宣旨の内容が寛大なることをするどくつくとともに、念仏禁断の宣旨をくだすべきことを院宣奉行の責任者三条長兼や摂政である九条良経を相手に交渉せしめたのであります。
建永の法難
良経らは念仏禁断の件について慎重に評定をかさねていましたが、三月に急死され、かわって摂政についた近衛家実らによって諸公卿の意見聴取がすすめられました。緊迫した情勢下におかれた上人は、七月に入って兼実の別邸小松殿に移って庇護されることになりました。八月になると衆徒の代表は早急に宣旨をくだすべきことを要請しました。
そうしたなかにあって上人は、十一月に内大臣西園寺(大宮)実宗の戒師をつとめられましたが、翌十二月、門下の住蓮と安楽房遵西の二名が、六時礼讃の哀調に感銘した院の女房と密通したという(捏造)事件がもちあがったので、上人はその責任を免れることができませんでした。兼実は免罪運動を行いましたが、功を奏せず、ついに翌建永二年(1207)二月十八日、上人の四国配流が決定し、安楽房遵西は六条河原で、住蓮は近江の馬淵で処刑されることに決まりました。 
 
92.二条院讃岐 (にじょういんのさぬき)  

 

わが袖(そ)は 潮干(しほひ)に見(み)えぬ 沖(おき)の石(いし)の
人(ひと)こそ知(し)らね かわく間(ま)もなし  
私の袖は、干潮の時にも海に没して見えない沖の石のように、人は知らないが、涙に濡れて乾く間もない。 / 私の袖は、まるで潮が引いたときでさえ姿を現さない沖の石のように、いくらあの人が知らないなんて言ったって、涙で乾く間もないのですよ。 / わたしの袖は、引き潮のときにも海のなかにあって姿の見えない沖の石のように、誰に知られることもなく、恋の涙で乾くひまもありません。 / わたしの袖は、潮が引いたときも水面に見えない沖にあるあの石のように、人は知らないでしょうが、(恋のために流す涙で) 乾くひまさえありません。
○ わが袖は / 「が」は、連体修飾格の格助詞。「袖」を「沖の石」にたとえている。
○ 潮干に見えぬ沖の石の / 「潮干」は、引き潮。「に」は、時を表す格助詞。「見え」は、ヤ行下二段の動詞「見ゆ」の未然形。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「石の」の「の」は、比喩の格助詞。
○ 人こそ知らね / 「こそ」と「ね」は、係り結びの関係。「人」は、世間の人。「こそ」は、強意の係助詞。「ね」は、打消の助動詞「ず」の已然形で、「こそ」の結び。「こそ…已然形」で、逆接を表す。
○ かわく間もなし / 「も」は、強意の係助詞。 
1
二条院讃岐(にじょういんのさぬき、生没年不詳:1141年(永治元年)頃 - 1217年(建保5年)以降)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は源頼政。母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱があり、従姉妹に宜秋門院丹後がある。内讃岐、中宮讃岐とも称される。
二条天皇即位と同じ頃に内裏女房として出仕、1159年(平治元年、19歳頃)以降度々内裏和歌会(「内の御会」)に出席し、内裏歌壇での評価を得た。この時期の歌が、俊恵『歌苑抄』に代表作として言及されている。この後、二十代半ばから四十代後半にかけての讃岐の動静については、大きく分けて二説あり、両説の隔たりは大きい。
○ 先行研究説(『尊卑分脈』の系図注記に基づく説):二条院に最後まで仕え、崩御後に藤原重頼と結婚、重光・有頼らの母となった。1190年(建久元年)頃、後鳥羽天皇の中宮宜秋門院任子に再出仕。
○ 新(伊佐迪子)説(主に『玉葉』等の記録に基づく説):1163年(長寛元年)頃内裏女房を退き、1165年(永萬元年)頃から皇嘉門院に出仕。この間、歌林苑での活動を継続。1174年(承安4年)より九条兼実家女房。兼実の同居妻となる。1187年(文治2年)より同家「北政所」と称する。1190年同家の姫君任子が後鳥羽天皇の中宮として入内、讃岐は中宮女房としてではなく、引続き九条家を切盛りしている。
1172年(承安2年、32歳頃)に『歌仙落書』で高く評価される等、歌壇とのつながりは保っていたようだが、1200年(正治2年、60歳頃)の初度百首で数十年ぶりに歌壇への本格復帰を果たした。この頃には既に出家している。晩年には父頼政の所領であった若狭国宮川保の地頭職を継いでいる他、伊勢国の所領をめぐる訴訟で高齢を押して鎌倉出訴の旅に出る等の事跡もある。これらを縫って歌人としての活動は継続し、1216年(建保4年、76歳頃)の『内裏歌合』まで健在だったことが確認できる。『千載和歌集』以降の勅撰集、『続詞花集』・『今撰集』等の私撰集、家集『二条院讃岐集』等に作品を残している。
逸話
○ 二条院崩御の翌1166年(仁安元年)、『後白河院当座歌合』の場での、内裏歌合のベテランらしい讃岐の立振舞が伝えられている。
金吾の口伝のうちに 女房の故実に 兼日の懐紙なき時は 後白河院の仁安御歌合
当座にて侍りけるに 讃岐参たりけるに 扇をさし出して題をたまはりけるとかや まことにある中にきはもたちて いみじく見えたりけるとなん申侍り 『愚秘抄』藤原定家
○ 「世にふる」の系譜:二条院讃岐の
千五百番歌合に 冬の歌   二条院讃岐
世にふるはくるしき物をまきのやに やすくも過る初時雨哉 『新古今和歌集』
は、延々と続く本歌取りのもととなった。「恋愛に鬱屈しているところへ、恋人は訪れず代りにしぐれの雨が過ぎていった、という恋歌の風情を纏綿させている、『ふる』の使いわけに、歌の中心がある」というのは、浅い読みで、人事と自然の対比にこそ「歌の中心」があると言うべきという。後続の歌
崇徳院に百首の歌奉りける時 落葉の歌とてよめる 皇太后宮大夫俊成
まはらなる槙の板やに音はして もらぬ時雨や木葉なるらん
閑居聞霰といへる心を読侍ける   左近中将良経
さゆる夜の真木の板屋の独ねに 心くたけと霰ふるなり 『千載和歌集』
この二条院讃岐の歌は、さまざまな連歌・俳諧に取り入れられていった。
世々ふるもさらに時雨のやどり哉 - 後村上院
雲はなほ定めある世のしぐれかな - 心敬
世にふるもさらに時雨のやどりかな - 宗祇
時雨の身いはゞ髭ある宗祇かな - 素堂
世にふるも更に宗祇のやどり哉 - 芭蕉
世にふるもさらに祇空のやどりかな - 淡々
世にふるはさらにはせをの時雨哉 - 井上士朗
時雨るゝや吾も古人の夜に似たる - 蕪村
○ 百人一首
寄石恋といへる心を   二条院讃岐
わか袖は塩干に見えぬ沖の石の 人こそしらねかはくまもなし 『千載和歌集』
「沖の石の讃岐」はこの歌によりつけられた異名である。 
2
二条院讃岐 生没年未詳(1141?-1217以後)
源頼政の娘。母は源忠清女。仲綱の異母妹。宜秋門院丹後は従姉。はじめ二条天皇に仕えたが、永万元年(1165)の同天皇崩後、陸奥守などを勤めた藤原重頼(葉室流。顕能の孫)と結婚し、重光(遠江守)・有頼(宜秋門院判官代)らをもうけた。治承四年(1180)、父頼政と兄仲綱は宇治川の合戦で平氏に敗れ、自害。その後、後鳥羽天皇の中宮任子(のちの宜秋門院)に再出仕する。建久七年(1196)、宮仕えを退き、出家した。若くして二条天皇の内裏歌会に出詠し、父と親しかった俊恵法師の歌林苑での歌会にも参加している。建久六年(1195)には藤原経房主催の民部卿家歌合に出詠。出家後も後鳥羽院歌壇で活躍し、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)の新宮撰歌合、同二〜三年頃の千五百番歌合などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保四年(1216)百番歌合の作者にもなった。家集『二条院讃岐集』がある。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも歌を採られている(この歌によって「沖の石の讃岐」と称されたという)。千載集初出、勅撰入集計七十三首。
春 / 前大納言経房家歌合に
風かをる花のあたりに来てみれば雲もまがはずみ吉野の山(新千載95)
(花のけはいを漂わせる風をたよりに、桜が咲いているのはこのあたりかと来てみると、雲と見紛うこともなかったよ、吉野の山の桜は。)
題しらず
咲きそめてわが世に散らぬ花ならばあかぬ心のほどは見てまし(続後拾遺999)
(咲き始めた花が、私の生きている間ずっと散ることがなかったなら、いつまで飽きずに花を眺めているものか、自分の心の程も知られように。)
百首歌たてまつりし時、春の歌
山たかみ嶺みねの嵐に散る花の月にあまぎる明け方の空(新古130)
(高い山にあるので、峰の嵐によって散る桜――その花が、月の光をさえぎり、曇らせている、明け方の空よ。)
建保四年内裏百番歌合に
いにしへの春にもかへる心かな雲ゐの花にものわすれせで(続後撰82)
(昔の春に還るような心持がすることよ。雲居に咲く花に、恋しい気持を忘れることなく。)
千五百番歌合に
枝にちる花こそあらめ鶯のねさへかれゆく春の暮かな(玉葉285)
(枝から散ってゆく花もあるのに、鳴き疲れた鶯の声さえ離れていってしまう、春の終りの夕暮であるよ。)
夏 / 建仁元年三月歌合に、雨後郭公といへる心を
五月雨の雲まの月のはれゆくをしばし待ちける時鳥かな(新古237)
(梅雨を降らせる雲の切れ間の月――雲が晴れて、月の光が照り出すのを待っていた時鳥であるよ。)
正治百首歌奉りける時
あやめふく軒端すずしき夕風に山ほととぎす近く鳴くなり(玉葉347)
(ショウブで葺いた軒端に涼しく吹き寄せる夕風のおかげで、山ほととぎすがすぐ近くで鳴くように聞こえるよ。)
蚊遣火つきぬ
さもこそは短き夜半の友ならめ臥すかともなく消ゆる蚊遣火(二条院讃岐集)
(それだからこそ、夏の短か夜の友なのだろう。床に臥したかと思う間もなく、消えてしまう蚊遣火は。)
泉にむかひて友を待つ
ひとりのみ岩井の水をむすびつつ底なる影も君を待つらし(二条院讃岐集)
(ただ独り、岩間から湧く泉の水を掬いながら、泉の底にうつっている人影も、あの人を待ち焦がれているようだ。)
百首歌たてまつりし時
なく蝉の声もすずしき夕暮に秋をかけたる森の下露(新古271)
(蝉の鳴き声も涼しく感じられる夕暮――木々の繁みの下葉には、秋を思わせる露が置いている。)
〔題欠〕
風そよぐ楢の木陰にたちよればうすき衣ぞまづしられける(二条院讃岐集)
(そよそよと風の鳴る音がする楢の木陰に立ち寄ると、着ている夏服の薄さがまっさきに感じられた。)
秋 / 千五百番歌合に
あはれなる山田の庵いほのねざめかな稲葉の風に初雁のこゑ(玉葉598)
(仮庵で山田の見張りをしている夜中、目が覚めた。なんてあわれ深い寝覚であろう。稲葉を吹く風の音に、初雁の声が重なって…。)
正治百首歌奉りける中に
秋の夜はたづぬる宿に人もなしたれも月にやあくがれぬらむ(玉葉670)
(秋の夜、知合いを訪ねて行ったけれど、家には誰もいない。月に誘われて皆外出してしまったのだ。)
経房卿家歌合に、暁月の心をよめる
おほかたの秋の寝覚の露けくはまた誰たが袖に有明の月(新古435)
(大抵の秋の寝覚が露っぽいものなら、今頃誰かの袖にも有明の月が映っているのだろう。寝覚の床で、涙に濡れた袖に月明かりを映して見ているのは、きっと私だけではないはずだ。)
百首歌奉りし時
散りかかる紅葉の色はふかけれど渡ればにごる山川の水(新古540)
(山峡の谷川の流れに散りかかる紅葉の色は深いけれど、そこを渡ってゆくと、澄んでいた水はたちまち濁ってしまう。川は浅いので。)
冬 / 千五百番歌合に、冬歌
世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな(新古590)
(世の中を、人と関わり合いながら生きてゆくのは、苦しいものだ――そんな思いで冬の夜を過ごしていると、槙で葺いた屋根を叩いて初時雨が通り過ぎていった。辛い思いをしている人の家の上を、まあやすやすと過ぎてゆく雨だことよ。)
題しらず
難波潟みぎはの葦は霜枯れてなだの捨舟あらはれにけり(続後拾遺444)
(難波潟の水際に生えている葦は霜枯れて、水路の難所に捨て置かれていた舟が見えるようになった。)
恋 / 寄石恋といへる心を
我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間ぞなき(千載760)
(私の袖は、潮が引いても見えることのない、沖の石のよう。人は知らないが、いつも涙に濡れて乾く暇もないのだ。)
恋の歌とてよめる
みるめこそ入りぬる磯の草ならめ袖さへ波の下に朽ちぬる(新古1084)
(水松布は満潮になれば波の下に隠れてしまう磯の草だけれども、私の袖もまた、ひたすら隠した恋心でいつも涙に濡れ、ぼろぼろになってしまうのだ。)
百首歌たてまつりし時
涙川たぎつ心のはやき瀬をしがらみかけてせく袖ぞなき(新古1120)
(涙は川のように止めどなく溢れ、恋に激しく沸き返る激流のよう。柵(しがらみ)を設けて塞き止めようにも、そんな袖があるわけはない。)
二条院御時、暁帰りなむとする恋といふことを
明けぬれどまだきぬぎぬになりやらで人の袖をもぬらしつるかな(新古1184)
(もう夜は明けてしまったけれど、お互いの衣を着て別れることがどうしてもできなくて、あの人の袖まで濡らしてしまった。)
恋の歌とてよめる
ひと夜とてよがれし床のさむしろにやがても塵のつもりぬるかな(千載880)
(あの夜、寝床を浄めて待っていたのに。「今夜一晩だけは」と言って訪れの絶えた寝床の敷物には、そのまま塵が積もってしまった。)
初疎後思恋といへる心をよめる
いまさらに恋しといふも頼まれずこれも心のかはると思へば(千載891)
(今更恋しいと言われても、あてにできない。心変わりがしてそう言うのだろう。今度もいずれ心変わりすると思うので。)
題しらず
今はさはなにに命をかけよとて夢にも人のみえずなるらん(新後撰1164)
(今はそれでは何をたよりに生きよとて、夢でもあの人と逢えなくなってしまったのだろう。)
千五百番歌合に
あはれあはれはかなかりける契りかな唯うたたねの春の夜の夢(新勅撰979)
(ああ、ああ、なんて儚い契りだったのだろう。春の夜、転た寝して見た夢にすぎなかったのだ。)
雑 / 山家
山里は野原につづく庭の面おもに植ゑぬ籬まがきの花を見るかな(正治初度百首)
(山里の住まいでは、野原に隔てなく続いている庭に、植えてもいない垣根の花を見ることになるのだ。)

呉竹にねぐらあらそふ村雀それのみ友と聞くぞさびしき(正治初度百首)
(呉竹にねぐらを争って鳴く雀の群。そればかりを心慰む友と思えば寂しいことよ。)
百首歌たてまつりし時、秋歌
昔見し雲ゐをめぐる秋の月今いくとせか袖にやどさむ(新古1512)
(昔眺めた、雲の上をめぐってゆく秋の月――今は袖の涙にその光を映して、ひとり眺めるばかり――そんな月も、あと何年見られるのだろう。)
千五百番歌合に
身の憂さを月やあらぬとながむれば昔ながらの影ぞもりくる(新古1542)
(我が身の辛さを晴らそうと、「月やあらぬ」(月は昔のままでないことがあろうか)とばかり窓を眺めれば、昔そのままの澄んだ月明りが漏れて来た。)
入道前関白家に、十如是じふによぜ歌よませ侍りけるに、如是報によぜはう
憂きもなほ昔のゆゑと思はずはいかに此の世を恨みはてまし(新古1965)
(こんなに辛い思いをするのも、やっぱり前世からの宿縁のせいなのだ――そう思って諦めなければ、どれほど現世を恨みながら死んでゆくことになるだろう。) 
3
二条天皇と二条院讃岐
二条天皇は閑院流藤原家一族にとって待望の期待の星であった。天皇家は今まで摂関家全盛の時代を漸くにして藤原れを外戚に持たぬ後三条天皇によって伏原氏のクヒキを脱しようとしていた。しかし白河天皇によってその夢は打ち砕かれる。今度は内なる敵白川法王によって天皇家自体の内部崩壊の危機「保元の乱」を迎えるのである。そして近衛天皇が薨ずると、人品共に天皇の器であり得ぬ雅仁親王をたて、苦し紛れにこれは繋ぎの天皇だとうそぶく。では誰の繋ぎなのかとみていると雅仁こと後白河天皇の皇子守仁親王だという。此の守仁こそは後の二条天皇その人であった。此の守仁親王誕生には多くのドラマが隠されている。
先にも云ったように守仁の誕生は閑院流藤原家一族にとって待望の期待の星であった。彼の母は藤原懿子、彼女の祖父は藤原道長から四代目師実である母は閑院流始祖公季から五代目徳大寺實能の妹である。その姉妹に大連門院璋子が居る崇徳天皇・以仁王・後白河天皇の母である。實能にはもう一人の妹が居た。この人が後三条天皇天皇の孫、有仁王に嫁いでいた。その縁で懿子は有仁王の養女として育てられた。閑院流藤原一族と後三条一族が結束したのである。しかし懿子は藤原では無く源懿子として入内したのである。あくまでも後三条家の一員としての閣を貫いた。懿子はコレラ皆の総意として後白河に嫁ぐ。むろん天皇親政という大志を抱いて。しかし不幸にも懿子は守仁親王を生んで間もなく無くなってしまった、懿子が持っている守仁養育の目的を知った誰かがまっさつしたのか。とりあえずおさな子は祖阿祖父鳥羽法皇の元に引き取られ美福門院得子が養育することになった。
久寿二年(一一五五)七月近衛天皇が崩御し、雅仁親王か践祚して後白河天皇になると守仁親王はその翌月仁和寺を出て親王宣下を受け皇太子となった。
この頃守仁皇太子の元へ女房仕枝をしたいと強く志望している女性がいた。用明はわからない。源氏で唯一生き残った摂津源氏の統領、源三位頼政の娘であった。彼女は歌人である父の薫陶を受け幼時より和歌が堪能であった。また父は長らく大内守護を務め「鵺退治」などのよ有名をとどめている。念願叶って守仁親王の尿法になった彼女はそれからは二条院讃岐のなで歌壇に飛躍していった。
ところが丹波国佐治庄地頭安達系図に不思議なことが書いてある。
・・・(略)・・・
遠光の母は二条院讃岐というのである。 遠光は確か1165〜1168頃の生まれである。しかし「先于父死去」とはどういう事か丹波の足立系図を見ると必ず「先子父死去」となっている私は長い間これを疑っていた。ところが『尊卑分脈』の宇多源氏佐々木氏の中に「先于父死」として祖父が養子にしている例を発見した。その後、知人が鈴木真年収集の足立系図を送ってきてくれた。毛筆で書かれたその系図には「于」とはっきり書かれていたのである。「先于父死去」とは『子供が生まれる前に父か沁んだ』と理解するべきではあるまいか。
では何故足立遠元が養子にしたのか、少なくとも頼政・遠元・遠景・もちろん讃岐も父親がたれか知っていたはずである。其の上で尚伏せたのである。
問題は白河法皇の皇位継承の態度である。輔仁親王に皇位をという後三条天皇の意志に反して白川が自分の皇子に譲り、孫の鳥羽を経て大叔父子といわれる崇徳天皇へ、(待賢門院璋子が白川の種を宿したまま鳥羽天皇の女院となり生まれたのが崇徳天皇たった、という説。)その後、近衛天皇を経て、天皇の器ではあり得ない後白河天皇へと、倫理的にも政治的にも大きな問題を提起し「保元の乱」を惹起しました。当時後白河天皇は正統な皇位継承者ではないと考えられ、輔仁親王の王子有仁王への践祚期待が高かった。然し有仁王は白河法王によって臣籍に降下させられ源有仁になり。皇位への望みが絶たれた。ここに閑院家は藤原公実の娘公子が生んだ懿子に因果を含め源有仁の養女となし源懿子として後白河の後宮に入り二条天皇をうんだのてある。然し不幸にも懿子は出産後間もなく亡くなります。守仁は鳥羽上皇の妃美福門院得子が養育し立太子します。然し二条は1158年に天皇になっていつの頃からか父後白河上皇と天皇親政をかけて争うことになります。この思想を二条に植え付けたのは誰か。
一方、讃岐は守仁親王(二条)が立太子した1155年頃東宮の女房として守仁のもとに上がりました。彼女はその後平治の乱を経て天皇が薨ずる1165年の直前まで二条天皇の傍近くに仕えていました。讃岐は父源三位の薫陶もあって和歌の道に秀で、後に「我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらね乾く間もなし」と読んで「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになるのであるが、二条院の崩御に際してなぜか追悼の歌一首も遺していないのです。彼女は此の時身重の末期だったのではなかろうか。
では何故足立遠元がその子を養子としてひきとったのか。遠元はその子の父を知っていたとしか考えられない。
讃岐が守仁親王の元に女房として上がった同じ年遠元は天野遠景を猶子としている。
    久寿2年足立判官遠元為猶子
    改姓藤原名遠景
    仁安3年相続良仁卿天野御所
仁安三年は1168年です。1168年と云えば四条天皇を押しのけて、いよいよ平家の血筋高倉天皇が践祚した年です。天野御所は伊豆國にありました。頼朝の流刑地蒜が児島とは目と鼻の距離にあります。良仁は有仁の後継者であり、(熊谷家文書では遠輔となっている、以下同 文書・・・十月十日任大納言□□所提同年十一月、依無実被配流伊豆云々)、ここに伊豆の別業ができたとする。遠景は部分的であれ源有仁の一員となっていたのです。
では遠光は遠景を介して遠元の養子になったのでしょうか。この辺りが推敲の隘路です。遠景の素性は遠駿地方の工藤氏の一員であるという(尊卑分脈説)ところがこの系図では曾祖父の代から系線か点線で書かれていて素直には信用できない。それに較べて『熊谷家文書』にある遠景から九州の便として大江廣元にあてた手紙の綴じ代の空白部分に、頁をまたいで書かれた後三条からの系図がここにある。あるいは毛利家が家臣の経歴を集めた『萩藩閥閲禄』の中にある天野系図。これらは若干の違いがあるものの輔仁親王、有仁王そして天野遠景の系譜をうたっているのです。
さて、では『熊谷家文書』とはどんなものでしょう。これは大枝廣元から九州の天野党景に宛てた手紙の綴じ代の部分に複数枚に渡って書かれているため、閉じ穴によって字がつぶれて読めないところがあります。
・・・(略)・・・
この文書がどうして熊谷家に渡ったのかは不明です。
この天野氏については、訓読本『吾妻鏡』の索引本の中で北条氏・二階堂氏と共に『鎌倉時代の天野氏について』と題して菊池紳一氏が研究論文を書いておられる。
天野遠景は上総介広常の謀殺。しなのげんじの一条忠頼の柳営内に於ける指殺。比企能員の謀殺と当時頼朝の政敵とみられていた有力武将を次々と殺し『殺しや天野』の異名までつけられていたし、伊豆で旗挙げして初戦で勝利した後、全員が石橋山方面に進撃したのに、彼だけは西へ走り、大派景親の群に紛れ込んで『二股をかける男』とも呼ばれた。実は、それは彼の本拠天野御所の地理的な条件もあったろうが、その本拠、遠駿は藤原南家系工藤氏の本拠でもあった。彼は駿河湾方面の海賊(俗に言う白波)を討伐する役目を負っていたのである。こうしたことから彼はに何らかのかたちで工藤氏と繋がりを持っていたのであろうと考えられる。そういった関係から遠景は木曽国に入り義仲の嫡男清水義高を人質として鎌倉に連れ帰ることに成功している。私は彼を足立遠元の諜報・工作活動の要員ではなかったかと推理している。そのために諸国の有力氏族と好を結び、後世その系図作成に混乱をきたしたのではなかろうか。
ちなみに工藤氏の遠祖は平将門の乱の時に翻弄された常陸国司藤原維幾の末裔であった。 そのほか藤原南家乙麿流・藤原北家魚名流・後三条源氏流・新田源氏流とさまざま、探せばきりがない。子孫は遠駿ばもとより目立つものは能登系・安芸系である。特に安芸の場合は大江博元の子孫毛利氏の被官として大いに栄えた。
私か注目するのは讃岐が守人親王付きの女房として上がったその年、遠景が足立遠元の猶子になっていること、又平家系の高倉天皇践祚と時を同じくして遠景が天野御所を相続して居る点である。とすると源有仁家との関係はもっと古かったとも考えられ、もしかしたら懿子が閑院家から言い含められ守仁親王指南すべきその閑院家の遺志を早世した懿子にかわって指南したのが二条院讃岐てはなかったろうか。一条天皇に定子を通して仕えた清少納言や彰子を通して大きな影響を一条天皇に与えた紫式部のように、但し讃岐の場合はより直接的に呼びかけたであろう。なにしろ讃岐がいなかったら大騒ぎになるくらい守仁は讃岐にべったりだったらしいから。こうして父祖の悲願天皇親政の素地はつくられ守仁親王は践祚して二条天皇になると彼の父祖から受け継いできた血が本領を発揮しつつあった。  
大体閑院流藤原氏は天皇家にとって嫁の家といわれるぐらい多くの入内が過去にも行われ、そして未来にもそれは続くのである。
一方後三条家は実質三代で歴史から抹消されていく、『尊微分脈』で見ても有仁以降は曖昧である。
然し此の一族は珍しく後三条天皇の母方に藤原氏が入らなかった。
母は禎子内親王であるため口うるさい藤原系の外祖父を持たなかった。 そのため思い切った荘園整理事業が出来た。摂政の藤原頼通の天皇を蔑ろにしたおこないを兄後冷泉院の二十四年に及ぶ東宮時代に見てきており、そのため摂関の処遇にも厳しかった。然し高齢での皇位継承であり僅か五年にして貞仁親王(後の白河天皇)に皇位を譲ったが、むその後はかならす輔仁親王に渡すようにと遺言し、白川もそれを承知した。このことは宮廷内外で知らぬものはなかった。一応は二宮実仁親王を皇太子に立てたが、実仁が亡くなると三宮輔仁をという故後三条院の遺言にもかかわらず白川は 口を拭ってその約束を反故にし、さっさと我が子喜仁親王を立体子させてしまった。こうして喜仁が践祚し、堀河となると白川は上皇として権力を振るい。したい放題の後濫行が始まるのである。攝関政治は衰頽したが、此の時から同族同士が争う院政期が始まるのである。
忘れてならないのが足立遠元の娘婿が閑院家の一員に連なっていると云うことである。 
4
釣姫神社 (小浜市)
この神社は昔日大日霊貴命(天照大神)を氏神として祭り後年、本地薬師如来を合祀。「薬師の森」として尊敬されていた。承安二年沖の石の和歌の作者二条院讃岐姫が貴く崇敬愛用されていた面が福谷の海岸に漂着した。その面を御神宝とし二条院讃岐姫の御神霊を勧請し合祀された。俗に「釣部明神」と云い、又は「明神さん」と親み深く呼ばれ多くの氏子に祭られた神社である。寛永十一年(1635)酒井忠勝公が小浜藩主として着任後、同二十一年武威増暉の為本殿を造営になり釣姫神社と改名され酒井姫方の祈願所とされた。現在は堀屋敷・板屋町・大湊・福谷が氏子として護持運営に当っているが、以前は北川より以北の雲浜福谷・水取・山手も入り多くの人々が氏神様としてお祀りしていたと聞いている。宝永二年境内に稲荷小社を造営し後、稲荷七社を合祀する。又明治四十一年福谷区にあった若宮神社の御祭神、大日霊貴命を合祀し今日に至っている。その間、神輿の造営・本殿の上葺・拝殿の建設・鳥居・灯篭・狛犬の寄進更には御手洗所の整備寄進等によりその姿を整え、現在に至っている。
石に寄する恋(百人一首所載)
わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

創建年代も場所も不明であるが、大日靈貴尊"おおひるめのむちのみこと"と薬師如来が合祀され、薬師の森と呼ばれていた。寛永年間(1624〜1644 年)、酒井忠勝公が現在の松ヶ崎に神社を再建し、二条院讃岐姫を祭神として釣姫神社と改称した。この釣姫神社は内外海地区・田烏の釣姫明神から移転されたものらしく、また、薬師の森と呼ばれていた時代、二条院讃岐姫愛用の面が祀られていたという伝説がある。僧・行基作といわれる薬師如来は明治になって羽賀寺に移管された。

「沖の石の讃岐」の異名を持つ源頼政の娘、二条院讃岐。晩年は父頼政の所領であった若狭国宮川保の地頭となっていたことから、この地に由緒書のような伝説が生まれたのかも知れません。当神社は、嘗て酒井姫方の祈願所とされていたことを思うと、現在はやや簡素な感じがします。 
 
93.鎌倉右大臣 (かまくらのうだいじん)  

 

世(よ)の中(なか)は 常(つね)にもがもな 渚漕(なぎさこ)ぐ
海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも  
世の中は不変であってほしいなあ。渚を漕ぐ漁師の小舟の引き綱を見ると、胸をしめつけられるような思いがこみ上げてくるよ。 / 変わりやすい世の中ではあるが、ずっと平和であってほしいことだ。この海辺は平穏で、渚を漕ぎ出す小舟が引き綱を引いている光景が、しみじみと愛しく心にしみることだ。 / この世が、ずっと変わらなければよいのになぁ。波打ち際を漕ぐ漁師の小舟が、引き綱を引いていく様子が、しみじみと心が動かされることです。 / この世の中はいつまでも変わらないでいてほしいものだ。渚にそって漕いでいる、漁師の小船をひき綱で引いている風情はいいものだからなぁ…
○ 常にもがもな / 「常に」は、ナリ活用の形容動詞「常なり」の連用形で、不変の意。「もがも」は、願望の終助詞。上代語。「な」は、詠嘆の終助詞。二句切れ
○ 渚こぐ / 「渚」は、波打ち際。
○ あまの小舟の / 「あま」は、漁師。
○ 綱手かなしも / 「綱手」は、舟を陸から海に引くための引き綱。「かなし」は、痛切で胸がつまるほどの感情。「も」は、詠嘆の終助詞。 
鎌倉時代
鎌倉・室町時代概観
1
源実朝(みなもとのさねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の四男(頼朝の子としては第6子で四男、政子の子としては第4子で次男)として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。
歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金槐和歌集がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。
将軍就任
建久3年(1192年)8月9日巳の刻、源頼朝の次男として鎌倉名越の北条時政の屋敷・浜御所で生まれる。幼名は千幡。母は頼朝の流人時代に妻となっていた北条政子。乳母は政子の妹である阿波局が選ばれ、大弐局ら御所女房が介添えをした。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われた。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせた。
建久10年(1199年)に父・頼朝が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぐ。建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い伊豆国に追われた。母・政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、弟の千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に実朝を従五位下・征夷大将軍に補任した。10月8日、遠江国において12歳で元服し、実朝と称した。儀式に参じた御家人は大江広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐に任じられる。翌年、兄・頼家は北条氏の刺客により暗殺された。
元久元年(1204年)12月、京より坊門信清の娘・信子を正室に迎える。正室ははじめ足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた。元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。
北条政権
6月、畠山重忠の乱が起こる。北条義時、時房、和田義盛らが鎮めたが、乱後の論功は政子が行い、論功には年齢が達していないとされた実朝は加わらなかった。閏7月19日、時政邸に在った実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れ渡る。実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れた。牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて義時邸に参じた。20日、時政は伊豆国修禅寺に追われ、執権職は義時が継いだ。牧氏事件と呼ばれる。
9月2日、『新古今和歌集』を京より運ばせる。和歌集は未だ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見る事を望んだ。建永元年(1206年)2月22日、従四位下へ昇り、10月20日には母の命により兄・頼家の次男である善哉を猶子とする。11月18日、近仕を務める東重胤が鎌倉に参る。重胤は暇を得て下総国に帰っており在国は数ヶ月に及んだ。実朝は詠歌を送って重胤を召していたが、なお遅参した為に蟄居させた。12月23日、重胤は義時の邸宅を訪れ蟄居の悲嘆を述べる。義時は「凡そこの如き災いに遭うは、官仕の習いなり。但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」と述べると、重胤は一首を詠んだ。義時はそれを見ると重胤を伴って実朝の邸宅に赴き、歌を実朝の前に置き重胤を庇った。実朝は重胤の歌を三回吟じると門外で待つ重胤を召し、歌の事を尋ね許した。
承元元年(1207年)1月5日、従四位上に叙せられる。承元2年(1208年)2月、疱瘡を患う。実朝はこれまで幾度も鶴岡八幡宮に参拝していたが、以後3年間は病の痕を恥じて参拝を止めた。12月9日、正四位下に昇る。承元3年(1209年)4月10日、従三位に叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられる。7月5日、藤原定家に自らが詠んだ和歌三十首の評を請う。11月14日、義時が郎従の中で功のある者を侍に準ずる事を望む。ここで言う「侍」とは、位階で言えば六位に相当する諸官衙の三等官を指し、御家人たちはこの身分に属していたが、北条氏の被官は御家人の家来にすぎず、「侍」身分とは区別される身分である。つまり、義時は自分の郎従だけを特別扱いして欲しいと望んだわけだが、実朝は許容せず、「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇を企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべからざる」と述べる。しかし、後に北条氏の家人は御内人と呼ばれ幕府で権勢を振るう事となる。
建暦元年(1211年)1月5日、正三位に昇り、18日に美作権守を兼ねる。9月15日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し、22日には受戒の為上洛した。建暦2年(1212年)6月7日、侍所の建物内で宿直の御家人同士のいざこざから刃傷事件があり死者も出た。そこで侍所の建物を破却して流血や死に伴う穢れから逃れようとした。千葉成胤は武家の棟梁が血や死を穢れとする事を諌めた。だが、結果的に7月9日に改めて侍所の建物を破却して新造する様に命じた。12月10日、従二位に昇る。
和田合戦
建暦3年(1213年)2月16日、御家人らの謀反が露顕する。頼家の遺児を将軍とし義時を討たんと企てており、加わった者が捕らえられる。その中には侍所別当を務める和田義盛の子である義直、義重らもあった。20日、囚人である薗田成朝の逃亡が明らかとなる。実朝は成朝が受領を所望していた事を聞くとかえって「早くこれを尋ね出し恩赦有るべき」と述べる。26日、死罪を命じられた渋河兼守が詠んだ和歌を見ると過を宥めた。27日に謀反人の多くは配流に処した。同日、正二位に昇る。3月8日、和田義盛が御所に参じ対面する。実朝は義盛の功労を考え義直と義重の罪を許した。9日、義盛は一族を率いて再び御所に参じ甥である胤長の許しを請うが、実朝は胤長が張本として許容せず、それを伝えた北条義時は和田一族の前に面縛した胤長を晒した(泉親衡の乱)。
4月、義盛の謀反が聞こえ始める。5月2日朝、兵を挙げる。義時はそれを聞くと幕府に参じ、政子と実朝の妻を八幡宮に逃れさせた。酉の刻、義盛の兵は幕府を囲み御所に火を放つ。ここで実朝は火災を逃れ頼朝の墓所である法華堂に入った。戦いは3日に入っても終わらず、実朝の下に「多勢の恃み有るに似たりといえども、更に凶徒の武勇を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきか」との報告が届く。驚いた実朝は政所に在った大江広元を召すと、願書を書かせそれに自筆で和歌を二首加え、八幡宮に奉じる。酉の刻に義盛は討たれ合戦は終わった。5日、実朝は御所に戻ると侍所別当の後任に義時を任じ、その他の勲功の賞も行った(和田合戦)。
9月19日、日光に住む畠山重忠の末子・重慶が謀反を企てるとの報が届く。実朝は長沼宗政に生け捕りを命じるが、21日、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子が隠謀を企んで何の不思議が有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し宗政の出仕を止める。それ伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は叛逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」と述べた。閏9月16日、兄・小山朝政の申請により実朝は宗政を許す。
渡宋計画
11月23日、藤原定家より相伝の『万葉集』が届く。広元よりこれを受け取ると「これに過ぎる重宝があろうか」と述べ賞玩する。同日、仲介を行った飛鳥井雅経がかねてより訴えていた伊勢国の地頭の非儀を止めさせる。『金槐和歌集』はこの頃に纏められたと考えられている。建保2年(1214年)5月7日、延暦寺に焼かれた園城寺の再建を沙汰する。6月3日、諸国は旱魃に愁いており、実朝は降雨を祈り法華経を転読する。5日、雨が降る。13日、関東の御領の年貢を三分の二に免ずる。また同年には、栄西より『喫茶養生記』を献上される。栄西は翌年に病で亡くなるが、大江親広が実朝の使者として見舞った。建保4年(1216年)3月5日、政子の命により頼家の娘(後の竹御所)を猶子に迎える。
6月8日、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧・陳和卿が鎌倉に参着し「当将軍は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べる。15日、御所で対面すると陳和卿は実朝を三度拝み泣いた。実朝が不審を感じると陳和卿は「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じ事を述べ、その夢を他言していなかった事から、陳和卿の言を信じた。
6月20日、権中納言に任ぜられ、7月21日、左近衛中将を兼ねる。9月18日、北条義時と大江広元は密談し、実朝の昇進の早さを憂慮する。20日、広元は義時の使いと称し、御所を訪れて「御子孫の繁栄の為に、御当官等を辞しただ征夷大将軍として、しばらく御高年に及び、大将を兼ね給うべきか」と諫めた。実朝は「諌めの趣もっともといえども、源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」と答える。広元は再び是非を申せず退出し、それを義時に伝えた。
11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝す為に渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元は頻りにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。建保5年(1217年)4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向って曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。なお宋への関心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、円覚寺の舎利殿に祀られている。5月20日、一首の和歌と共に恩賞の少なさを愁いた紀康綱に備中国の領地を与える。詠歌に感じた故という。6月20日、園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により鶴岡八幡宮の別当に就く。また、葛山景倫にこの時渡宋を命じていた。
落命
建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。父の源頼朝は右大将であった。3月16日、左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。
建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲った。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に仲章を切り殺したが、これは太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。
予見が有ったのか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んだ辞世となる和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で、『吾妻鑑』から「禁忌の和歌」と評された。しかし、この歌は『吾妻鑑』以外には『六代勝事記』にしか見えず、菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」に類似する。これらの点から、実朝は梅の歌をしばしば読むのを知っていた『六代勝事記』の作者が、歌人としての実朝を悼み、急速に右大臣になった実朝と道真を重ね合わせて代作し、『六代勝事記』を原史料として用いた『吾妻鑑』が惨劇の予兆としてあえて取り込んだ歌とする説もある。落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わるが、これは後世の創作と考えられ、信憑性に乏しい。『承久記』によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。
28日、妻は落餝し御家人百余名が出家する。亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺した。この時、渡宋を命じられていた葛山景倫は訃報を聞いて、高野山に菩提を弔う為に上がり、その忠心を政子に認められ、和歌山の由良に西方寺(後の興国寺。尺八伝来の地)を与えられた。実朝には子が無かったため、彼の死によって源氏将軍および河内源氏棟梁の血筋は断絶した。 
2
源実朝 建久三〜承久一(1192〜1219) 通称:鎌倉右大臣
建久三年(1192)八月九日、征夷大将軍源頼朝の次男として生まれる。母は北条政子。幼名は千幡(せんまん)。正治元年(1199)、八歳の時父を失う。家督は長兄頼家が継いだが、やがて北条氏に実権を奪われ、頼家は建仁三年(1203)九月、北条氏打倒を企てて失敗、伊豆に幽閉された(翌年七月、北条時政の刺客によって惨殺される)。このため、実朝と改名して第三代将軍となる。翌年、坊門大納言信清の息女を妻に迎える。承元二年(1208)、十七歳の時、疱瘡を病む。翌年、藤原定家に自作の和歌三十首を贈って撰を請い、定家より「詠歌口伝」を贈られる(『近代秀歌』と同一書とされている)。建暦元年(1211)、飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向した鴨長明と会見する。雅経とはその後も親交を続け、京から「仙洞秋十首歌合」を贈られるなどしている。建保元年(1213)には、定家より御子左家相伝の万葉集を贈呈された。また同三年の「院四十五番歌合」を後鳥羽院より送られている。建保四年六月、権中納言に任ぜられる。この頃渡宋を企て大船を造らせたが、進水に失敗し計画は挫折した。建保六年(1218)正月、権大納言に任ぜられ、さらに昇進を望んで京都に使者を派遣、十月には内大臣、十二月には右大臣に進むが、翌年正月二十七日、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際、甥の公暁に暗殺された。薨年二十八歳。新勅撰集初出。勅撰入集計九十二首。家集『金槐和歌集』(『鎌倉右大臣家集』とも)がある。同集定家所伝本には建暦三年(1213)十二月八日の奥書があり、実朝二十二歳以前に纏められたものらしい(自撰説が有力視される)。定家所伝本と貞享四年板本(以下「貞享本」と略称)の二系統があり、後者は「柳営亜槐本」とも呼ばれ、足利義政による増補改編本とする説が有力である。
春 / 正月一日よめる
今朝みれば山もかすみて久方の天の原より春は来にけり
(今朝眺めると、山も霞んでいて――大空から春はやって来たのだなあ。)
梅花風ににほふといふ事を人々によませ侍りし次ついでに(二首)
梅が香を夢の枕にさそひきてさむる待ちける春の山風
(梅の香を、夢見て眠る枕もとへと誘って来てくれた春の山風は、私の目が醒めるまで待っていてくれたのだ。)
この寝ぬる朝けの風にかをるなり軒ばの梅の春のはつ花〔新勅撰31〕
(寝て起きた、この朝明けの風に薫っている。軒端の梅の、この春初めての花が。)
梅の花をよめる
咲きしよりかねてぞをしき梅の花ちりのわかれは我が身と思へば
(咲いた時から予め愛惜される、梅の花よ――散って別れるのは、私の命だと思えば。)
雨中柳
水たまる池のつつみのさし柳この春雨にもえ出でにけり
(池の周囲の堤に植えた柳の插木が、この春雨に芽ぐみ始めた。)
遠山桜
かづらきや高間の桜ながむれば夕ゐる雲に春雨ぞ降る〔新後撰110〕
(夕方、葛城の高間山の桜を眺めると、とどまっている雲に春雨が降っている。)
屏風の絵に旅人あまた花の下にふせる所
木のもとに宿りをすれば片しきの我が衣手に花はちりつつ
(木の下で野宿をすると、片敷きの我が袖に花は散り、また散り…。)
落花をよめる
春ふかみ花ちりかかる山の井はふるき清水にかはづなくなり
(春深く、花の散りかかる山の井では、永い時を経た清水に蛙が鳴いている。)
如月の二十日あまりのほどにやありけむ、北向きの縁にたち出でて夕暮の空をながめ独りをるに、雁の鳴くを聞きてよめる
ながめつつ思ふもかなし帰る雁ゆくらんかたの夕暮の空
(眺めながら思いを馳せるのも切ない。故郷へ帰る雁が向かってゆく方向の夕暮の空を――。)
山吹に風の吹くを見て
我が心いかにせよとか山吹のうつろふ花に嵐たつらむ
(私の心をどうせよといって、山吹の花を散らす嵐が起るのだろうか。)
山吹の花を折らせて人のもとにつかはすとて
散りのこる岸の山吹春ふかみこの一枝をあはれといはなむ
(散り残った岸の山吹の花――春も深まった今、この一枝をいとしく思うと言ってほしいのです。)
夏 / 夏のはじめ
春すぎていくかもあらねど我がやどの池の藤波うつろひにけり
(春が過ぎ去ってから幾日も経っていないけれども、我が家の池の藤の花はもう散ってしまった。――そして水面に映じていた波の揺れるような花房も消えてしまった。)
五月雨
さみだれに夜のふけゆけば時鳥ひとり山辺を鳴きて過ぐなり
(五月雨の降る中、夜が更けてゆくと、ほととぎすが一羽山のあたりを鳴いて過ぎてゆく。)
故郷盧橘
いにしへをしのぶとなしにふる里の夕べの雨ににほふ橘〔続拾遺547〕
(昔を懐かしく思うというわけではなしに過ごす古里――夕方の雨に匂う橘の花よ。)
郭公
ほととぎす聞けどもあかず橘の花ちる里の五月雨のころ〔新後撰209〕
(ほととぎすの声はいくら聞いても飽きない。橘の花が散る、五月雨の降る頃。)
水無月の二十日あまりのころ、夕風簾を動かすをよめる
秋ちかくなるしるしにや玉だれのこすの間とほし風のすずしき
(秋が近くなった証拠だろうか。小簾の間を通して吹く風の涼しいことよ。)
夏の暮によめる
昨日まで花の散るをぞ惜しみこし夢かうつつか夏も暮れにけり
(つい昨日まで桜の花が散るのを惜しんできたのだ。夢か現実か定かでないまま、夏も暮れてしまった。)
秋 / 寒蝉鳴く
吹く風のすずしくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり
(吹く風がなんて涼しく感じられるものか。するとどこからともなく、ひとりでに山の蝉が鳴いて――秋が来たのだなあ。)
夕の心をよめる(二首)
おほかたに物思ふとしもなかりけりただ我がための秋の夕暮
(世間一般の物思いなどではない。ただ私を悲しがらせるために訪れた秋の夕暮よ。)
たそがれに物思ひをれば我が宿の荻の葉そよぎ秋風ぞ吹く〔玉葉486〕
(黄昏、物思いに耽っていると、屋敷の庭の荻の葉をそよがして秋風が吹く。)
庭の萩わづかにのこれるを、月さしいでてのち見るに、散りにたるにや、花の見えざりしかば
萩の花くれぐれまでもありつるが月いでて見るになきがはかなさ
(萩の花は日が暮れようとする頃まで残っていたが、月が出て庭を見に行くと、もう無くなっているとは、はかないことよ。)
山家の晩望といふことを
暮れかかる夕べの空をながむれば木こ高き山に秋風ぞ吹く
(暮れ始めた夕方の空を眺めると、木々が高々と繁る山に秋風が吹いている。)
秋の歌
天の原ふりさけみれば月きよみ秋の夜いたく更けにけるかな
(大空を仰ぎ見れば、月がさやかに照っていて、秋の夜がひどく更けてしまったと知った。)
海のほとりを過ぐとてよめる(二首)
わたのはら八重のしほぢにとぶ雁のつばさのなみに秋風ぞ吹く〔新勅撰319〕
(大海原、その限りない潮流の上を飛ぶ、雁の編隊――その翼の波に秋風が吹きつけている。)
ながめやる心もたえぬわたのはら八重のしほぢの秋の夕暮〔新後撰291〕
(眺めやる心も断ち切れてしまった。秋の夕暮、大海原の、その限りない潮の流れを見ているうちに――。)
鹿をよめる(二首)
雲のゐる梢はるかに霧こめてたかしの山に鹿ぞ鳴くなる〔新勅撰303〕
(雲の留まっている梢を見渡す限り遥かに霧が籠めて、高師山に鹿が鳴いている。)
月をのみあはれと思ふをさ夜ふけて深山がくれに鹿ぞ鳴くなる
(月ばかりを趣深いと思っていたところ、夜が更けて、山の奧深く鹿が鳴く。)
水上落葉
ながれゆく木の葉のよどむ江にしあれば暮れての後も秋は久しき
(流れてゆく木の葉が淀む入江であるので、暮れてしまった後でも秋は久しく留まっている。)
冬 / 十月一日よめる
秋はいぬ風に木の葉は散りはてて山さびしかる冬は来にけり〔続古今545〕
(秋は去ってしまった。木の葉は風に散り尽くし、山が寂しい様をあらわす冬はやって来た。)
霰 (二首)
もののふの矢並つくろふ籠手こてのうへに霰たばしる那須の篠原
(武士が矢並を整える籠手(こて)の上に、霰が激しく降って飛び散る、那須の篠原よ。)
ささの葉に霰さやぎてみ山べは峰の木がらししきりて吹きぬ
(笹の葉に霰が騷がしい音を立て、奧山では峰を木枯しがしきりと吹き過ぎている。)
冬の歌
夕されば潮風さむし浪間より見ゆる小島に雪はふりつつ〔続後撰520〕
(夕方になったので潮風が寒く感じられる。波間に見える小島に雪は降り積もっていて――。)

我のみぞかなしとは思ふ浪のよる山のひたひに雪のふれれば
(私ばかりが悲しいと思うのだ。波の寄る、山のへりに雪が降り積もっているのを見ると。)
老人、歳の暮を憐れむ
うち忘れはかなくてのみ過ぐしきぬあはれと思へ身につもる年
(うっかり忘れ、ただむなしく過ごしてきてしまった。憐れと思ってくれ、我が身に積もった年よ。)
歳暮 (二首)
ちぶさ吸ふまだいとけなきみどりごとともに泣きぬる年の暮かな
(乳を吸うまだあどけない嬰児と共に、私も泣いてしまった年の暮れであるよ。)
はかなくて今宵あけなば行く年の思ひ出いでもなき春にやあはなむ
(むなしいままに今夜が明けてしまえば、去り行く年の思い出を留めない春に逢うことになるのだろうか。)
恋 / 恋歌の中に
夕月夜ゆふづくよおぼつかなきを雲間よりほのかに見えしそれかあらぬか
(夕空にあらわれた月――ぼんやりとだが、雲間からほのかに見えたあれは――本当に月だったのかどうか。)
恋の歌
月影のそれかあらぬかかげろふのほのかに見えて雲がくれにし
(月の光に見えたのは、あの人だったのか、違うのか。陽炎のようにほのかに見えただけで、姿を隠してしまった。)
恋の歌
奧山の岩垣沼に木の葉おちてしづめる心人しるらめや
(奥山の岩で囲まれた沼に木の葉が落ちて、底に沈んでいる――そのように沈んでいる私の心を人は知っているだろうか。)
恋の歌
わが恋は百島ももしまめぐり浜千鳥ゆくへもしらぬかたに鳴くなり
(私の恋は、多くの島を飛び巡って、行く先もわからず干潟に鳴く浜千鳥――それと同じで、どちらへ行けばよいのかわからずに泣いているのだ。)
雑 / 離別
忍びて言ひわたる人ありき、遥なる方へゆかむと言ひ侍りしかば
ゆひそめて馴れしたぶさの濃むらさき思はず今も浅かりきとは
(髻(もとどり)を初めて結んでから、馴染んできた濃紫の緒――思いもしないことだ、今もその色が浅かったとは。)
旅 / 旅泊 (二首)
湊風いたくな吹きそしながどり猪名の水うみ船とむるまで
(湊風よ、ひどく吹かないでおくれ。猪名の海に船を停泊するまで。)
やらのさき月影さむし沖つ鳥鴨といふ舟うき寝すらしも
(也良の崎に月光は寒々と照っている。鴨という舟は辛い思いで浮き寝しているらしいなあ。)
二所詣下向後、朝にさぶらひども見えざりしかばよめる
旅をゆきし跡の宿守おのおのにわたくしあれや今朝はいまだ来ぬ
(私が旅をして来たあとの留守番の者たちは、それぞれに私事があるのだろうか、今朝はまだやって来ない。)
又の年二所へまゐりたりし時、箱根のみ海を見てよみ侍る歌
玉くしげ箱根のみ海けけれあれやふた国かけて中にたゆたふ
(箱根の湖は情愛があるのか、相模と駿河と二つの国にまたがって、その間で揺蕩うように水を湛えている。)
箱根の山をうち出て見れば浪のよる小島あり、供の者に此の浦の名は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答え侍りしをききて
箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ〔続後撰1312〕
(箱根路を我らが越えて来ると、うち出づるところは伊豆の海、その沖の小島に波の寄せるのが見える。)
走湯山参詣の時 (二首)
わたつ海のなかにむかひて出づる湯のいづのお山とむべも言ひけり
(海の中へと湧き出ている湯であるから、なるほど伊豆の御山と名づけたのだなあ。)
伊豆の国や山の南に出づる湯のはやきは神のしるしなりけり〔玉葉2794〕
(伊豆の国の山の南に湧き出る湯がほとばしる速さは、神の霊験あらたかなしるしであった。)
釈教 / 得功徳歌
大日だいにちの種子しゆじよりいでて三昧耶さまや形ぎやうさまやぎやう又尊形そんぎやうとなる
(大日如来の根源から生まれ出て、三昧耶形となって現われ、三昧耶形がまた仏の尊い姿となるのだ。)
懺悔歌
塔をくみ堂をつくるも人のなげき懺悔さんげにまさる功徳くどくやはある
(塔を組んだり堂を造ったりするのも善行ではあるが、労働する人の歎きの種である。懺悔に勝る善行があるだろうか。)
思罪業歌
ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄ゆくへもなしといふもはかなし
(炎ばかりが宙に満ちている阿鼻地獄よ。そこ以外にどこへ行くあてもないというのも、果敢ないことである。)
神祇 / 社頭夏月
ながむれば吹く風すずし三輪の山杉の木ずゑを出づる月影
(眺めていると吹く風が涼しい。三輪山の杉の梢から昇る月を――)
伊勢御遷宮の年の歌
神風や朝日の宮の宮うつしかげのどかなる世にこそありけれ〔玉葉2747〕
(伊勢内宮の御遷宮がある今年、日の光ものどかな世であることよ。)
〔題欠〕
東路の関守もる神の手向たむけとて杉に矢たつる足柄の山(鶴岡八幡宮蔵詠草)
(東国の出入口の関を守る神へのお供えとして、杉に矢を射立てる、足柄山よ。)
雑 / 朝ぼらけ、八重のしほぢ霞みわたりて、空もひとつに見え侍りしかば
空やうみ海や空ともえぞわかぬ霞も波もたちみちにつつ
(空が海か、海が空かとも区別できない。霞も波も一面に立っていて。)
三崎といふ所へまかれりし道に、磯辺の松としふりにけるを見てよめる
磯の松いくひささにかなりぬらんいたく木高き風の音かな〔玉葉2191〕
(磯の松はどれほどの長い年月を経たのだろう。風の音がひどく高く、梢高くから聞こえてくる。)
荒磯に浪のよるを見てよめる
大海おほうみの磯もとどろによする浪われてくだけて裂けて散るかも
(大海の磯を轟かすように寄せる大波――割れて、砕けて、裂けて、散るのだなあ。)

世の中は常にもがもな渚こぐ海人あまの小舟をぶねの綱手かなしも〔新勅撰525〕
(世の中は、いつまでも変わらないでほしいものだなあ。渚を漕ぐ漁師の小舟が、綱手で牽(ひ)かれてゆくさまは、何とも切ないものだ。)
浜へ出でたりしに、海人のたく藻塩火を見てよめる
いつもかくさびしきものか葦の屋にたきすさびたる海人の藻塩火
(いつもこのように寂しいものなのか。葦葺きの小屋で海人が焚く藻塩火が、盛んに燃え、やがて衰えてゆくさまよ。)
山の端に日の入るを見てよみ侍りける
紅のちしほのまふり山の端に日の入るときの空にぞありける
(幾度も繰り返し染めた紅は、山の端に日が沈む時の空の色であった。)
相州の土屋と云ふ所に年九十にあまれるくち法師あり。おのづからきたる。昔語りなどせしついでに身のたちゐにたへずなむ成りぬる事をなくなく申して出でぬ。時に老といふ事を人々に仰せてつかうまつらせしついでによみ侍りし
思ひ出でて夜はすがらに音をぞなく有りし昔の世々のふるごと
(思い出しては、一晩中声をあげて泣いている。その昔、あの年この年に起こった遠い出来事を。)
無常を
かくてのみありてはかなき世の中を憂しとやいはむあはれとやいはむ
(このようにばかり、生きていても果敢ない世の中を、辛いと言おうか、いとしいと言おうか。)
心のこころをよめる
神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは
(神と言い、仏と言うのも、現世の人の心以外のものであろうか。)
道のほとりにをさなき童の母を尋ねていたく泣くを、そのあたりの人に尋ねしかば、父母なむ身まかりにしと答へ侍りしを聞きて
いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる
(いたわしいことよ。見ていると涙も止まらない。親もない子が母を求めて泣くさまは。)
慈悲の心を
物いはぬ四方よものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
(物言わぬ、どこにもいる獣でさえも、いとしいことよ、親が子を思うさまは。)
建暦元年七月、洪水天に漫り、土民愁ひ嘆きせむ事を思ひて、一人本尊に向ひ奉りて聊か祈念を致して云く
時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ
(時によって、雨乞いの祈願を承けて降らせる雨が度を過ぎすことがある。そうなれば却って民の歎きである。八代龍王よ、雨を止めたまえ。)
太上天皇御書下預時歌 (三首)
大君の勅ちよくをかしこみちちわくに心はわくとも人に言はめやも
(大君の勅書を謹んで承り、あれかこれかと心は分かれますけれども、人に言ったりしましょうか。)
ひんがしの国にわがをれば朝日さすはこやの山のかげとなりにき
(東国に私はおりますので、朝日がのぼる藐姑射の山、すなわち上皇の御所の蔭に入っているのです。)
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも〔新勅撰1204〕
(山は裂け、海は干上がる世であろうとも、あなた様に二心を抱くようなことは決してありません。)
庭の梅を覧みて、禁忌の和歌を詠じたまふ
出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな(吾妻鏡)
(私が出て行ったなら、たとえ主人のいない家となってしまうとしても、軒端の梅よ、春を忘れずに咲いてくれ。) 
3
源実朝はなぜ暗殺されなければならなかったか
源実朝には僧籍にある公暁という甥がいました。近江国園城寺(三井寺)に住持していましたが鎌倉鶴岡八幡宮の別当(いわゆる長官)として招聘されました。しかしながら、父源頼家の不幸は叔父の実朝による策謀だと執権北條義時に唆され、恨みを晴らすべく機会を狙っており実朝が右大臣に任官し、鶴岡八幡宮に参詣し、その旨を奉告する時を好機にして事件が起きたとされます。
実行犯は公暁であることは異論の無いところでしょうが、その背景に関しては実朝殺害後、公暁もほど無く討ちとられたため事の真相は闇の中といえます。なお、若くして異例の官位昇進を遂げた実朝ですが、それに対して鎌倉幕府の政所別当になった大江広元は度々、実朝に対して官位昇進を留まるよう説得していました。
当時の社会通念では、位討(くらいう)ちというものがあり身分不相応な人物が高位高官となれば、身を崩す。そしてその影響は子々孫々まで受けるとされたことによります。それに対して、実朝は、位人臣を極めることは源氏の誉れということでその説得を阻み続けたのですが、結果としては惨劇となってしまいます。
官位を与える側の朝廷も位討ちを熟知しており、実朝のほしいままに官位の昇進を認めたのも、政権が鎌倉幕府に移行している現状からみて朝廷としても面白くなくこの位討ちを見越してのことともいえます。 
4
源実朝の暗殺 1
公暁の父である第2代将軍の源頼家は、比企氏と組んで、北条氏を倒そうとしました。しかし、1203年、頼家が重い病気にかかっている間に、比企氏が滅ぼされ、弟実朝が、12歳で第3代将軍になりました。病気が治った頼家は、伊豆の修禅寺にうつされ、翌年、暗殺されました。暗殺を命令したのは、幕府の第一の実力者だった北条時政だ、という説が有力です。
公暁をそそのかした黒幕
頼家が死んだとき、公暁は5歳で、おばあさんの政子に育てられ、鶴岡八幡宮の別当という役職につきました。彼は、父を殺したのは実朝だと信じていたようです。当事13歳だった実朝が、頼家の暗殺を命令する、ということは考えにくいので、公暁をそう信じこませた黒幕がいたのではないかといわれています。
黒幕は北条義時と政子か?
実朝には子供ができなかったので、北条義時(時政の子)と政子は、後鳥羽上皇の皇子を、次の将軍の候補者にしました。公暁は乱暴な性格の人物だったので、候補者からはずされました。義時と政子には、今すぐ実朝を暗殺する理由は、見当たらないようです。
黒幕は三浦義村か?
三浦義村は、北条義時に次ぐ第二の実力者です。彼は、公暁を将軍につけて、自分が幕府を支配しようと考えていたという説があります。公暁は実朝を殺した後、義村の屋敷に行こうとしましたが、途中で義村の家来に殺されました。そのため、実朝暗殺の真相は謎のままになってしまいました。  
5
源実朝の暗殺 2
1219(建保7、この年4月に承久に改元)年、右大臣拝賀の式に臨んだ鎌倉幕府三代目将軍源実朝は、参拝を終えて石段を降りたところで甥(二代目将軍源頼家の子)の公暁に暗殺された。その時に太刀持ちをしていた大学頭・文章博士の源仲章も殺された。仲章の役目は本来執権の北条義時が務めるはずであった。実朝の首を持った公暁は乳母夫の三浦義村の下に向かうが、義村は義時に知らせ、公暁を討ち取る。
実朝がなぜ暗殺されなければならないのかについては、その暗殺の黒幕を含めて議論が存在する。
北条義時黒幕説、三浦義村黒幕説、公暁単独犯説、後鳥羽上皇黒幕説である。
従来有力視されてきたのは北条義時説である。義時は儀式の直前に体調を崩して式を抜け出している。陰謀を知っていたからこそ抜け出したのだろうと考えられていた。それに対し、義時が務めるはずであった太刀持ちを務めていた源仲章が殺されているところと、公暁が三浦義村の下に向かっていることを以て三浦義村黒幕説を主張したのが永井路子氏で、その見解は石井進らの支持を得た。
結論から言えば北条義時主犯、三浦義村共犯というのが現在もっとも説得性のある説であろう。五味文彦氏が1979年に発表した「源実朝−将軍独裁の崩壊」(『歴史公論』後に『吾妻鏡の方法』に「源実朝−将軍親裁の崩壊」に改題され再録)で主張された説である。五味氏は従来考えられていたように実朝を北条氏の傀儡とは考えず、将軍の親裁が機能していた、と捉えた。さらに朝廷との連携を目指した実朝に対し、義時と義村は手を結んで実朝と実朝を支えた源仲章の排除に乗り出した。その後、実朝の従弟(源義経の同母兄阿野全成の子)の阿野時元が滅ぼされている。北条氏は源氏を滅ぼしにかかったのは確実である。
実朝の政治の特徴であるが、五味氏は政所の構成に注目する。実朝の時代は将軍家政所下文が出されているのだが、そこに署名する別当の数が最大9人になっている。この構成を検討することにより、実朝政権の構成員とその勢力分布が分かる。そこで五味氏が注目したのが源仲章である。仲章は単なる文章博士ではない。実朝の時代に政所別当の一員となり、実朝親裁をリードしたと考えられている。鎌倉幕府の政所別当9人の一人であり、同時に後鳥羽院政の近臣でもあった仲章は、後鳥羽と実朝を結びつける強い紐帯となったのである。仲章は偶然殺されたのではない。義時・義村を中心とする反将軍勢力は実朝と仲章をターゲットに据えたのである。
それではなぜ三浦義村黒幕説が出て来たのか。それは三浦氏と北条氏を敵対関係に捉える先入観が強く存在したからだと考えられる。三浦氏と北条氏の対立関係は、この両者が黒幕であった、という五味氏自身も、侍所の別当に北条泰時、その指揮下に義村を据えたことについて「微妙な関係にある北条氏と三浦氏の対立を煽ろうとするねらいがうかがわれる」(「源実朝−将軍親裁の崩壊」『吾妻鏡の方法』162ページ)と、北条氏と三浦氏の対立関係を想定している。そして実朝の狙いが外れた、としている。
実際に三浦氏と北条氏の対立関係は存在したのであろうか。私はそこに疑問を感じる。結果として三浦氏と北条氏は宝治合戦で激しく戦い、三浦氏が滅ぼされるのだが、そこから演繹して三浦氏と北条氏を対抗関係で捉えているのではないだろうか。北条義時の娘は三浦義村の嫡子泰村に嫁ぎ、一方三浦義村の娘は北条泰時に嫁いでいる。そして三浦泰村は北条時頼の初期においては時頼の宿老として重きをなしているのである。三浦氏と北条氏は対立関係ではなく、基本的には協調関係にあったとみていいだろう。公暁とその関係者の抹殺に反対したのは義村の弟の三浦胤義であり、義村の子で泰村の弟の光村である。胤義は承久の乱で後鳥羽側について処刑される。光村は九条道家と組んで反北条時頼クーデターを起こそうとしていた可能性があり、宝治合戦は、安達氏の強硬派安達景盛と、三浦氏の強硬派三浦光村によって引き起こされた、という見解もある(永井晋氏『鎌倉幕府の転換点』)。
こう考えてくると、実朝暗殺事件の背景ははっきりしてくるであろう。将軍親裁を強め、後鳥羽との連携強化を目指し、朝廷という〈共同体−間−第三権力〉内部の強力機構となること、つまり権門体制の中の武を担当する武家権門を目指す実朝政権に対し、鎌倉幕府をあくまでも東国の〈共同体−間−第三権力〉として朝廷からの一定の自立性を持とうとする北条氏・三浦氏を中心とする幕府内部の反実朝派が起こしたクーデターだったのである。
実朝の後継者は後鳥羽の皇子の六条宮雅成親王または冷泉宮頼仁親王が考えられていたが、実朝の暗殺を受けて鎌倉幕府との協調を諦めた後鳥羽はそれを拒絶、結局頼朝の遠縁に当たる藤原頼経(九条道家の子)を実朝の後継者として擁立することとなった。北条氏を中心とする反実朝派は、もはや源氏から将軍を擁立しようとはしなかったのである。もっとも実朝自身も源氏から将軍を出そうという気はなかったようで、実朝の存命中から皇族を将軍に据えようとしていたようである。実朝の場合は明らかに朝廷との一体化を目指す動きに位置付けられるであろうし、だからこそ後鳥羽も乗り気だったのだが、実朝暗殺によって、幕府の方針は一変するだろうと考え、後鳥羽は拒否したのであろう。ちなみに頼経の父の道家を反後鳥羽と考えるのは正しくない。道家は仲恭天皇の伯父に当たり、摂政を務めていた。後鳥羽の倒幕計画にこそ関わらなかったようだが、承久の乱後、仲恭天皇は廃位され、道家も摂政を罷免されている。道家が復活するのは、北条義時、北条政子が相次いで死去し、治天の君であった後高倉法皇(後鳥羽の兄で皇位についていたことはなかったが、幕府によって皇子の後堀河天皇が即位したことを受けて法皇の尊号を受け、治天として政務をみた)も死去し、近衛家実が関白として後堀河親政が行われていたが、1228(安貞2)年関白を辞し、替わって九条道家が関白となる。道家関白就任の背景であるが、西園寺公経(関東申次、道家の義父)と鎌倉幕府のパイプという見方と、藤原頼経(鎌倉幕府将軍、道家の三男)の影響とみる見方があるが、これはもはや実朝とは関係がなくなるので、また別のエントリで検討したい。ここではとりあえず道家を必ずしも「反後鳥羽」とみなす必要はない、ということを指摘しておきたい。後に道家は順徳の皇子を皇位に就けることを主張し、鎌倉幕府の反発を買っている。さらに後鳥羽の死去に際しては「顕徳院」という、とびっきりの尊号を奉っている。後に北条氏の反発を買って「後鳥羽院」に格下げされているのだが。
実朝暗殺の背景を踏まえた上で、実朝暗殺の動きを再構成すると次のようになる。
義時と義村を中心とする反実朝派は、ターゲットを実朝と仲章に据え、クーデターを計画した。舞台は鶴岡八幡宮。実朝暗殺と同時に源氏の将軍継承者も消しておかなければならない。実朝が消えても、新しい将軍は必ず実朝化する。将軍は京都から迎え、必要がなくなれば京都に送還する形が望ましい。公暁も抹殺対象リストに加えられた。義村は公暁を煽る。「あなたの父を殺したのは実朝と義時ですぞ」と。公暁は実朝と義時に殺意を抱く。義村は八幡宮の別当であった公暁にその舞台での決行を勧める。実朝の太刀持ちは義時である。実朝と義時を一気に殺すには最高の舞台だ。もちろんその計画は義時も熟知している。というよりもその計画は義村と義時が練り上げたものであった。儀式の日、公暁にも知られない直前に義時は仮病を使って太刀持ちを実朝の信頼が深い仲章に任せる。何も知らない仲章は喜んで義時の替わりを務めた。同じく何も知らない公暁は実朝を殺し、仲章を殺した。もちろん彼は実朝と義時を殺した、と信じ込んでいた。義村の下に使者を遣わし、暗殺計画の成功を知らせ、義村に迎えを要求する。公暁の中には公暁と義村による鎌倉幕府樹立が見えていたであろう。しかし義村は公暁に刺客を差し向け、公暁を有無を言わせず殺害する。さらに公暁の同母弟の禅暁を謀反人公暁に連座させて誅殺する。ここに頼家の男児は全て消えた。北条・三浦の刃は北条氏ゆかりの源氏にも向かう。頼朝の弟の全成の妻は政子の妹で、実朝の乳母でもあった阿波局である。全成と阿波局の間に生まれた阿野時元は有力な将軍継承者となるであろう。しかし時元も謀反の名のもと討滅される。こうして源氏将軍に近い親族は高野山で修行の日々を送る頼朝の子の貞暁一人になった。貞暁は将軍になる意思のないことを証明するために己の片目をくりぬいた、とされる。この真偽は分からないが、それだけ苛烈な監視下にあった、と考えることもできるだろう。貞暁は1231(寛喜3)年、自害した、と伝えられる。その前年、頼家の遺児の竹御所が藤原頼経に嫁いでいる。頼朝の血を引く後継者が頼経に出来る可能性が出たことで貞暁が邪魔になった、とも考えられよう。しかし竹御所も男子を死産の末、自身も死去し、頼朝の血筋は完全に絶えた。 
6
源実朝の暗殺 3
建保七(1219)年一月二十七日、鎌倉幕府の三代将軍源実朝は、右大臣就任を、鶴岡八幡宮に報告した後、一族の甥;公暁(鶴岡八幡別当職)に殺されました。
この暗殺で、頼朝の血脈は、実朝、公暁の両名が失われ、大混乱。承久の乱の発生につながってゆきます。
この事件については、1吾妻鏡(鎌倉幕府による歴史書、北条氏寄りの記述)、2愚管抄(天台宗大僧正慈円による、朝廷側からの歴史書、距離がある為時間差あり)、3承久記(軍記もの)、などに記載があります。『吾妻鏡』と『愚管抄』は鎌倉時代の成立で、事件と近い時代にかかれ記録として書かれている点で信頼性が高いと言われています。『承久記』は軍記ものなので、ある程度のフィクションの可能性があります。
いづれにせよ、この文書でも、時と場所:「一月二十七日に鶴岡八幡に参拝した帰り」と、被害者と加害者:実朝を甥の公暁が、動機:「実朝は父(二代将軍頼家)の仇、自身が将軍になるべき立場(という思い込み)」である点は、共通しています。
時系列では事件直前の事が1吾妻鏡にあります。文字数が増えるので必要な場合以外は、以下現代語訳にて書きます。「実朝に仕えて親任の厚い大江広元が、私は成人してから涙を流した事がないのですが、今朝は何故か涙が止まりません。きっと何かが起こるので、かつて東大寺修造供養の時、右大将・頼朝さまが束帯の下に腹巻き鎧を着ていた故事にならい、武装して下さい」とお願いします。これに対して御供の源仲章(文章博士)が、「右大臣が武装する事は過去にありません。(頼朝は近衛大将ですが、右大臣は兼任していませんでした)過去に例がない事」と反対します。文章博士は、宮廷儀礼の権威ですから、こういう所で自身の知識を披露したかったのかもしれませんが、それが裏目になります。その他、吾妻鏡には、事件直前の不吉な出来事として、「八幡宮の鳩が異常に鳴いていた」「実朝の剣が折れた」などと書いてあります。
3承久記では「八幡宮に入った後、お供の北条義時の具合が悪くなり、太刀持ちの役を源仲章に譲って自宅へ帰った」と書いてあります。これらの経緯をみると、後知恵のせいか、暗殺が成功するように、物事か動いているようにも思えますし、北条義時の陰謀だという説も出てきます。実朝は北条政子の実子ですが、一方で和歌などを通じて朝廷との心理的な繋がりも懸念されていました。「山は裂け海はあせなむ世なりとも 君に二心わがあらめやも (源実朝)」の和歌が示すように、実朝は後鳥羽上皇に対して忠誠を誓っており、これが武家の独立性を重視する側からは、将軍として不適切との見方もあったのでしょう。
ともあれ、実朝は、朝廷の重臣である右大臣兼近衛大将としての装束をつけ、下に鎧、腹巻はつけずに参拝し、その帰途に公暁とその配下の僧達に襲われます。
その状況を明確に書いているのは3承久記です。
「下馬の印がある階段の辺りから、薄衣を来た人が二三人走ってきて階段脇に潜んでいます。薄衣を払いのけ、細身の太刀を抜くと、右大臣殿(実朝)が斬られました。
一太刀目は、手に持った笏で受けましたが、続いて攻撃を受け切り伏せられてしまいました。(実朝は)傷を負い(臨終の際に)「大江広元はいるか?」と呼ばれておりました。
続いて文章博士(源仲章)が斬られた」と、次々に実朝とお供が殺されてゆく様が書かれています。
事件後は大混乱しましたが、すぐに幕府側は、テロを実行した公暁配下の僧たちを近隣(雪ノ下)にある僧坊で討ち果たします。しかし、ここには公暁はおらず、捜索が始まります。
ここまでは、どの歴史書でも同じような話なのですが、疑問が出てくるのが、この暗殺事件後の展開です。
2愚管抄では暗殺に成功した公暁が、「実朝を討ったので自分が将軍になるから迎えに来い」という手紙を三浦義村に送ります。三浦義村の妻は公暁の乳母なので、それで味方になると思っていたのでしょう。この間、公暁は、討ち取った実朝の首を持ち歩いています。三浦義村はすでに北条義時と通じており、両者は示し合わせて公暁を討つことにします。公暁は、返事がないのにしびれを切らせて、三浦邸に向かう途中を、三浦義村の部下;長尾定景に討ち取られたとあり、これが一応この事件の顛末と言われています。公暁が討たれたのは事件のあった二十七日の夜か、二十八日未明となります。
1吾妻鏡でもほぼ同じ経緯なのですが、気になる記載があります。
公暁が討たれて、首実検になった時に、北条義時の息子:泰時が「未だに公暁の顔を見ていないから、この首が本物かは疑問だ」と言います。
原文は漢文で「正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々」
未だに見ていないというのは、うがった見方をすれば、目の前の首も含めてまだ当人を見かけていないとも考えられるし、素直に読めば「会った事が無いから首を見ても判らない」とも読めます。ともあれ、この首実検をしたのが二十七日未明から二十八日です。
二十八日が明けると実朝の葬儀が行われます。鎌倉の御家人達は、将軍実朝が亡くなったので、弔意を示し髪下し、出家するものが続出します。
実朝の遺体は、首が無いまま、鎌倉の勝長寿院に葬られます。(翌日の葬儀は1吾妻鏡の記述)五体が揃っていないのは後生が悪いと信じられていたので、遺髪を一緒に葬ったと記載されています。
そして首はどうなったかですが、2愚管抄では「その後実朝の首は岡山の雪の下から出てきた」とあります。岡山の地名が不明ですが、「鶴岡山」と見れば、殺害現場近くから出てきたという事です。その、実朝の首ですが、伝承として鎌倉から30km離れた、神奈川県秦野市に首塚があり、乳母の関係がありながら公暁を討たせた三浦義村の家来:武常晴が持ち込んで、現地の地頭:波多野氏の許しを得て葬ったとあります。なぜ首が30km離れたこの地にあった経緯は不明、本来実朝は罪人ではないので、五体満足で葬るべきなら、30km程度の距離なら鎌倉に戻して、合葬しても良いのに、首は離れたまま。(罪人の場合には、首を分けて五体不満足で葬る場合が多い)結構、謎が多い事件ですので、小説に仕立てるにはネタが多いかもしれません。
特に、実行犯:公暁と、その配下は明確であるが、それを使嗾した人間、背後関係は不明です。鎌倉幕府は実朝を殺して終わりではないから、その後のシナリオが必須。
2『愚管抄』によれば、三浦義村に公暁が「実朝を殺して自分が将軍になるから迎えに来い」とある事を考えると、三浦義村が黒幕と考えるのは自然です。ならば、なぜ公暁の呼び出しに答えなかったかと言えば、北条義時が死ななかったからとも推定できます。八幡宮では、本来北条義時がする予定だった太刀持ちを、源仲章が代行し、殺されました。本来の予定が、実朝と義時の暗殺だったら、公暁を三浦義村が支援し、四代将軍となる可能性もあったかもしれません。しかし、北条義時は死なず、予定が狂ったので急遽公暁を見捨て、北条義時と結んだとも考えられます。このように考えると、1吾妻鏡にある北条泰時の「この首が公暁かは疑わしい」という言葉も活きてきます。なぜなら、三浦義村の陰謀ならば、公暁が生きている限り、自分の陰謀が暴かれる危険があるからです。となると、疑いをかけられないように生死不明の公暁を捕まえて口をふさぐ必要があり、革命行動(例として北条家追い落とし)が起こせません。
また、実朝暗殺の後すぐに承久の変(1221)が起きていますから、本当の黒幕は朝廷;後鳥羽上皇との考えもできます。
どのような形にせよ、資料を丁寧にあたると、疑問が出てきて、それをネタに小説を書く事が出来そうです。取りあえずは、北条義時が黒幕(暗殺間際に太刀持ちを変わるのは怪しい)、三浦義村の陰謀は合理的な筋立てと思いますし、更に陰謀の黒幕として後鳥羽上皇をもってくるのも相応しいと思います。弟の三浦胤義は実朝の鶴岡参拝ではお供で参加、承久の変では後鳥羽上皇方の有力武将なのです。
吾妻鏡では、予兆のような話が満載、「鳩が危険を告げた」「大江広元が突然涙を流して武装をするように言った」「太刀が折れた」。北条側の歴史ですから、これは神仏が運命と見ていたという言い訳のようにも思えます。
北条義時が支援した大倉薬師堂(現覚園寺)には、信仰していた薬師如来が、配下の十二神将の伐折羅大将(戌神)を、白い犬に変えて送り、この霊験で太刀持ちを代わり、命が助かったという伝説もあるそうです。 
 
94.参議雅経 (さんぎまさつね)  

 

み吉野(よしの)の 山(やま)の秋風(あきかぜ) さよ更(ふ)けて
ふるさと寒(さむ)く 衣打(ころもう)つなり  
吉野の山の秋風が吹き、夜もふけて、古都は寒く、衣を打つ音が聞こえてくる。 / 吉野の山から秋風が吹き、夜も更けた。昔、都だったこの里では寒さもいっそう身にしみて、砧(木や石の台)に置いた衣を打つ音が寒々と聞こえてくる。 / 吉野(現在の奈良県南部。古来より天皇の離宮が営まれ、多くの天皇が旅をした地です)の山から秋風が吹き降ろすなか、夜更けの吉野の古都の里では、衣を柔らかくするために打つ砧(きぬた)の音が、寒々としたなか聴こえてくるようです。 / 吉野の山の秋風に、夜もしだいに更けてきて、都があったこの里では、衣をうつ砧(きぬた)の音が寒々と身にしみてくることだ。
○ み吉野の / 「み」は、美称の接頭語。「吉野」は、大和国(現在の奈良県)中部にある地域。
○ さ夜更けて / 「さ」は、接頭語。
○ ふるさと寒く / 「ふるさと」は、古里で古都の意。かつて、離宮があった。「寒く」は、ク活用の形容詞「寒し」の連用形でありことから、「ふるさと」の述語であり、「衣うつなり」にかかる修飾語でもある。
○ 衣うつなり / 「衣うつ」は、衣を打って布を柔らかくしたり、光沢を出したりすること。「うつ」が、タ行四段活用の終止形であることから、「なり」は、伝聞推定の助動詞「なり」の終止形。 
1
飛鳥井雅経(あすかいまさつね)(藤原雅経)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公家・歌人。刑部卿・難波頼経の次男。二条または明日香井を号す。飛鳥井家の祖。小倉百人一首では参議雅経。
治承4年(1180年)叙爵し、以後侍従などを歴任するが、源頼朝・義経兄弟が対立した際に義経と親しかった父・頼経が配流され、雅経も連座して鎌倉に護送される。だが、雅経は頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価され、頼朝の息子である頼家・実朝とも深く親交を結んだ。その結果、頼朝から猶子として迎えられ、更に鎌倉幕府政所別当・大江広元の娘を妻とするなど重んじられた。建久8年(1197年)に罪を許されて帰京する際には、頼朝から様々な贈物を与えられた。
その後、後鳥羽上皇の近臣として重んじられ、建保6年(1218年)には従三位に叙せられ、承久2年(1220年)には参議に任命された。また、院における歌壇でも活躍している。和歌は秀句を好み、後鳥羽上皇に「雅経は、殊に案じかへりて歌詠みしものなり(=雅経はとりわけあれこれ思いめぐらして歌を詠む者である)」と評されたが、本歌のことばをとりすぎるという批判もあった。
建仁元年(1201年)7月和歌所寄人となり、また同年11月には上古以来の和歌を撰進する。更にこれを機に始まった勅撰和歌集『新古今和歌集』(元久2年(1205年)奏進)の撰者の一人となった。更に蹴鞠でも重んじられ、承元2年(1208年)に大炊御門頼実が後鳥羽上皇を招いて開いた鞠会で優れた才能を発揮して、上皇から「蹴鞠長者」の称号を与えられた。後に雅経は飛鳥井流蹴鞠の祖とされ、『蹴鞠(しゅうきく)略記』などを著した。また、鎌倉幕府の招きによって鎌倉へ度々下向し、3代将軍になった実朝と藤原定家・鴨長明との間を取り持っている。
日記に『雅経卿記』、家集に『明日香井集』があり、『新古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に132首が入集している。
み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり (『新古今和歌集』、百人一首) 
2
飛鳥井雅経(藤原雅経) 嘉応二年〜承久三(1170-1221)
関白師実の玄孫。刑部卿頼輔の孫。従四位下刑部卿頼経の二男。母は権大納言源顕雅の娘。刑部卿宗長の弟。子に教雅・教定ほかがいる。飛鳥井雅有・雅縁・雅世・雅親ほか、子孫は歌道家を継いで繁栄した。飛鳥井と号し、同流蹴鞠の祖。少年期、蹴鞠の才を祖父頼輔に見出され、特訓を受けたという。治承四年(1180)十一月、叙爵。文治元年(1185)、父頼経は源義経との親交に責を負って安房国に流され、一度はゆるされて帰京するが、文治五年(1189)、今度は伊豆に流された。十代だった雅経は処分を免れたが、京を去って鎌倉に下向、大江広元のむすめを妻とし、蹴鞠を好んだ源頼家に厚遇された。建久八年(1197)二月、後鳥羽院の命により上洛。同年十二月、侍従に任ぜられ、院の蹴鞠の師を務める。同九年正月、従五位上。建仁元年(1201)正月、右少将に任ぜられる(兼越前介)。同二年正月、正五位下。元久二年(1205)正月、加賀権介。建永元年(1206)正月、従四位下に昇り、左少将に還任される。承元二年(1208)十二月、左中将。同三年正月、周防権介。同四年正月、従四位上。建保二年(1214)正月、正四位下に昇り、伊予介に任ぜられる。同四年三月、右兵衛督。建保六年(1218)正月、従三位。承久二年(1220)十二月、参議。承久三年(1221)三月十一日、薨。五十二歳。建久九年(1198)の鳥羽百首をはじめ、正治後度百首・千五百番歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合など多くの歌会・歌合に参加。ことに「老若五十首歌合」では大活躍し、出詠歌五十首中九首もが新古今集に採られることになる。建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、さらに新古今集撰者の一人に加えられた。その後も後鳥羽院歌壇の中心メンバーとして活躍、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合・八幡若宮撰歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院障子和歌などに出詠。順徳天皇歌壇の内裏歌合にも常連として名を列ねた。たびたび京と鎌倉の間を往復し、源実朝と親交を持った。定家と実朝の仲を取り持ったのも雅経である。建暦元年(1211)には鴨長明を伴って鎌倉に下向、実朝・長明対面の機会を作るなどした。新古今集に二十二首。以下勅撰集に計百三十四首入集。家集『明日香井和歌集』(以下「明日香井集」と略)、著書『蹴鞠略記』などがある。
「雅経はことに案じかへりて歌よみしものなり。いたくたけある歌などはむねとおほくはみえざりしかども、手だりとみえき」(『後鳥羽院御口伝』)。
「風体およばすおもしろきさまなり。龍田山のゆふぐれ時、うち時雨れたるに、松にまじりたる紅葉をみる心地なむする」(『続歌仙落書』)。
春 / 千五百番歌合に、春歌
白雲のたえまになびく青柳のかづらき山に春風ぞ吹く(新古74)
(白雲の絶え間に靡く、若葉の美しい柳――その青柳を鬘(かずら)にするという葛城山に、今まさに春風が吹いている。)
和歌所歌合に、羇旅花といふ事を
岩根ふみかさなる山をわけすてて花もいくへの跡の白雲(新古93)
(岩を踏み、重なる山を分け進み、振り返ってみると、私が過ぎて来た後には、花が幾重にも重なった白雲のように続いている。)
五十首歌たてまつりし時
たづねきて花に暮らせる木の間より待つとしもなき山の端の月(新古94)
(桜を尋ねて山に入り、一日中花を見て過ごしたが――日が暮れた木の間から、思いもかけず山の稜線に月がのぼるのを見たのだ。)
落花といふことを
花さそふなごりを雲に吹きとめてしばしはにほへ春の山風(新古145)
(花を誘って吹き散らした、春の山風よ――せめて名残りの花びらを雲のうちに吹きとめて、もうしばらく空を彩ってくれ。)

おほえ山こかげもとほくなりにけりいく野のすゑの夕立の空(明日香井集)
(涼んで一休みした大枝山の木陰も、遠く後にして来たことよ。行くての生野の野末には、夕立のけはいに曇る空……。)
秋 / 建保四年、後鳥羽院に百首歌奉りける時
秋の夜の月にいくたびながめして物思ふことの身につもるらむ(続千載468)
(これまで何度、秋の夜の月をじっと眺めることを繰り返したことか。さぞや物思いが我が身に溜まっているだろうよ。)
五十首歌たてまつりし時
たへてやは思ひありともいかがせむ葎むぐらの宿の秋の夕ぐれ(新古364)
(耐えられるものですか。恋しい思いがあるとしても、どうにもならないわ。こんな、葎の生えた侘び住居の秋の夕暮――とてもあなたの思いを受け入れることなどできない。)
五十首歌たてまつりし時
はらひかねさこそは露のしげからめ宿るか月の袖のせばきに(新古436)
(払っても払いきれないほど、そんなに露がたくさんおいているにしても、よくまあ月の光が宿るものだわ、こんな狭い袖の上に。)
擣衣の心を
み吉野の山の秋風さ夜ふけて古郷さむく衣うつなり(新古483)
(吉野の山から吹き下ろす秋風――夜が更けるにつれて風も吹きつのり、古いゆかりのあるこの里は、寒々として衣を打つ音が聞えてくる。)
秋の暮の歌
秋は今日くれなゐくくる立田川ゆくせの波も色かはるらむ(新勅撰359)
(秋は今日暮れてゆく――紅にくくり染めするという立田川は、散った紅葉を浮かべて、流れゆく瀬の波もあでやかな色に変わるだろう。)
冬 / 春日社歌合に、落葉といふことをよみてたてまつりし
うつりゆく雲に嵐の声すなり散るかまさきのかづらきの山(新古561)
(葛城山を見わたせば、嵐に吹かれ、雲が移動してゆく。その雲の中から、激しい風の音が聞えてくる――岩に絡みつく正木の葛も散っているか。)
題しらず
雲かかるみ山にふかき槙の戸の明けぬ暮れぬと時雨をぞ聞く(続後拾遺416)
(雲がかかっている奥山深く、庵を結んでいる――しぐれがちのこの頃は、住家の槙の戸を「あけ」ることもなく、ただ夜が「あけ」た、日が暮れたと、そんなことを思うばかりで、雨音を聞きながら閉じこもって過ごしている。)

葦辺ゆく鴨の羽風もさむき夜にまづ影こほる三島江の月(明日香井集)
(葦辺を泳いでゆく鴨の、羽ばたきの音も寒ざむしい――そんな夜、真っ先に凍るのは、三島江の水に映った冬の月なのだ。)
五十首歌たてまつりし時
かげとめし露のやどりを思ひいでて霜に跡とふ浅茅生の月(新古610)
(冬枯れの浅茅原――秋の間、月はチガヤの露にかりそめの宿を借りて、光を映し留めていたが――冬になった今、その頃を思い出して、昔の跡を訪ねるかのように霜に射している。)
建保五年四月庚申に、冬夕といへる心を
霰ふるまさきのかづら暮るる日の外山にうつる影ぞみじかき(続拾遺433)
(霰に降られ、まさきの葛も色づいている――その葛を「繰る」ではないが、暮れてゆく日が外山に映る――その日足のなんと短いことだ。)
建保六年内裏歌合、冬歌
狩衣すそ野もふかしはし鷹のとがへる山の峰のしら雪(新勅撰431)
(冬の鷹狩をする我らの狩衣は、裾まで雪に埋まる。すっかり毛の生え替わった箸鷹が飛んでゆく山――その頂きを覆った雪は、ずっと裾野の方まで深く積もっているのだ。)
恋 / 後朝
面影はなほあり明の月草にぬれてうつろふ袖の朝つゆ(明日香井集)
(恋人の面影がなお残る有明の月を眺めながら、明け方の道を帰る――すると道端の月草に濡れて、袖に朝露がついた。いやそれは私の落とした涙なのだ。)
和歌所歌合に、忍恋の心を
消えねただしのぶの山の峯の雲かかる心の跡もなきまで(新古1094)
(いっそもう、思い死んでしまえ。信夫の山の頂きにかかっている雲ではないが、こんな忍びに忍んでいる心が、跡形もなく消え果てるまで!)
水無瀬恋十五首歌合に
草枕むすびさだめむかた知らずならはぬ野辺の夢のかよひ路(新古1315)
(草の枕をどう結んで寝ればよいのか、わからない。馴れないこの野辺の夢の通い路よ――旅寝の夢で、あなたに逢えるためには、どんな結び方をすればよいのだろう…。)
水無瀬恋十五首歌合に
見し人の面影とめよ清見がた袖にせきもる波のかよひ路(新古1333)
(都で愛し合ったあの人の面影が、清らかに見え続けるよう、記憶にとどめてくれ、清見潟よ。波に打たれつつ通るこの関路、私は波のように寄せて来る涙を、袖で必死に抑え止めているのだ。)
承元二年住吉社歌合に、寄旅恋
忘れじの契りばかりをむすびてや逢はむ日までの野べの夕露(新続古今1330)
(「忘れない」という約束だけを結んで、旅に出た――せめて再び逢える日までは生き延びよう、野辺の夕露のようにはかない私の命だとしても。)
入道二品親王家五十首、寄煙恋
恨みじな難波の御津に立つけぶり心からたく海人の藻塩火(新勅撰761)
(あの人を恨むことはするまいよ。難波の湊に立つ煙が、海人がおのれの意思で焚く藻塩火から発するように、この咽ぶような苦しい思いは、ほかならぬ私の心から出たものなのだから。)
雑 / 五十首歌たてまつりし時
影やどす露のみしげくなりはてて草にやつるる故郷の月(新古1668)
(秋も末になり、光を宿す露ばかりはすっかり多くなったが、その露が置いている草は伸び放題の雑草で、すっかり荒廃した故郷――草の露に宿る月は、見違えるほど弱よわしい。)
建久三年正月十四日、賀茂社へまうでけるに、月はくまなくて雪うちちりければ
まだしらずそのかみかけてふりぬれど月と雪との夜半の白木綿(明日香井集)
(いまだ知らないことだ。ここはその昔からずっとあって古びた社であるし、月光も雪も昔から地上に降り注いでいたものであるけれども、夜半、このように月と雪とが白木綿をかけているさまは。 )
九月十五夜、亡者の小手箱を布施にしけるに、なかによみて入れける
いかにせむ行方もしらぬ玉くしげふたたび逢はぬこの世なりけり(明日香井集)
(どうしよう。行方もわからない娘の魂よ。再び逢うことのできないこの世なのだなあ。)
最勝寺の桜は、鞠のかかりにて久しくなりにしを、その木年ふりて、風にたふれたるよし聞き侍りしかば、をのこどもにおほせて、こと木をその跡にうつしうゑさせしとき、まづまかりて見侍りければ、あまたのとしどし、暮れにし春までたちなれにける事など思ひ出でて、よみ侍りける
なれなれて見しはなごりの春ぞともなどしら川の花の下かげ(新古1456)
(すっかり馴れ親しんで来て、あの時見たのが最後の別れとなる春だったと、どうして気づかなかったものか。白河の花の下陰で…。)
和歌所にて、述懐の心を
君が代にあへるばかりの道はあれど身をばたのまず行末の空(新古1763)
(幸いなことに、我が君の御代にお仕いするだけの方途は持ち合わせておりましたが、その道を辿ってどこまで行けますやら。我が身を頼みにできず、心もとない限りです。) 
3
飛鳥井雅経
名門の始祖
百人一首九十四番歌の参議雅経(さんぎまさつね)は本名を藤原雅経といい、和歌と蹴鞠(けまり)の名家飛鳥井家(あすかいけ)の祖とされる人物。
和歌を俊成(八十三)に学んで『新古今和歌集』の編纂に加わるほどの歌人となり、幼少から祖父頼輔(よりすけ)の特訓をうけた蹴鞠では、飛鳥井流を確立して師範家となります。
将軍源頼家(みなもとのよりいえ)に蹴鞠の才能を買われて鎌倉に向かったのは、おそらく二十歳のころ。その後三代将軍実朝(さねとも 九十三)とは和歌を通じて親しくなり、実朝と定家(九十七)の遠距離師弟関係の手助けもしています。和歌史上重要な役割を担っていたことになりますね。
何度も京と鎌倉を往復していたためでしょうか、雅経には旅の歌が多いようです。
白雲のいくへの峰を越えぬらむ 馴れぬあらしに袖をまかせて (新古今和歌集 羇旅 藤原雅経)
(白雲の立つ峰をいくつ越えたことだろう 慣れない山風に着物の袖をひるがえされながら)
「あらし」は台風や突風のようなものではなく、単に強風、あるいは山おろしなどの、平地より強く吹く風を指しています。峰をいくつも越えたというのは、何度も旅をしたという意味が込められているのかもしれません。
夢かうつつかうつの山
京にもどっていたときに後鳥羽院(九十九)から名所の歌を求められ、雅経はこう詠んでいます。
ふみ分けしむかしは夢かうつの山 あとゝも見えぬつたの下道 (続古今和歌集 羇旅 参議雅経)
(踏み分けて登ったあの日のことは夢だったのだろうか 宇津ノ谷峠の生い茂る蔦(つた)の下の道は昔のこととも思えないが)
駿河(静岡県)の宇津ノ谷(うつのや)峠は東海道の難所のひとつ。『伊勢物語』(前話参照)でも知られ、旅人は昼なお暗き細い道を登ったと伝えられます。その旅が後とも見えぬ(過去とも思えない)というのです。「うつ」は夢の対義語である「現(うつつ)」を響かせています。二百年ほど後の子孫、飛鳥井雅世(まさよ)はこの歌をふまえてこんな一首を遺しています。
昔だにむかしと言ひしうつの山 越えてぞしのぶつたのしたみち  (新続古今和歌集 羇旅 権中納言雅世)
(昔の人(=雅経)でさえ昔のことと言った その宇津ノ谷峠を越えて往時を偲ぶ蔦の下の道よ)
雅世は室町時代の歌人で、最後の勅撰集となった『新続古今和歌集』の撰者です。それほどに飛鳥井家の権威が認められていたことがわかりますが、さらに二百年後の飛鳥井雅庸(まさつね)は家康の歌道師範となり『源氏物語』の奥義も伝授、細川忠興(ただおき)らの大名に蹴鞠を教えていました。初代の雅経から四百年経っても名門でありつづけたのにはおどろかされます。 
4
蹴鞠
およそ1400年前、日本国史上で有名な「大化の改新」(645年)は、中大兄皇子が藤原鎌足と蹴鞠を機縁に非常に親密な仲になり、以後、その大業成就へとつながったことは広く知られているところであります。このように大和朝廷時代に、中国から伝えられたといわれる球戯の一種ですが、日本に入ったときから、相手に受け取りやすく打ち返しやすい配球をする、リフティングとアシストの上手さを競う勝敗のない至って平和な球技です。
我が国では、平安時代中頃以降、宮中や公家において盛んに鞠会が催され古文書にもその記述がしばしば見られます。鎌倉時代には、武士階級でも盛んに蹴鞠が行われるようになり、室町時代を経て江戸時代に入ると、徐々に一般庶民にまで普及し、謡曲・狂言・浮世草子など様々なところでも題材になりました。
例えば、清少納言は『枕草子』の中で「あそびわざは、小弓。碁。様あしけれど、鞠もをかし」(遊戯はというものはみっともないものだが、蹴鞠はおもしろい。215段)と書いています。蹴鞠が広まるにつれ、当時の選手(鞠足)の中には信じられないほどの技を持つ「名足」が現れはじめます。平安末期の蹴鞠の名手・大納言藤原成通は、清水寺に詣でたとき、清水の舞台の欄干の上で鞠を蹴りながら何度も往復したといわれています。
また、同時代の刑部卿藤原頼輔も、時の関白九条兼実に「無双達者」と賞賛された達人で、その孫に当たる飛鳥井雅経と難波宗長は、それぞれ飛鳥井流・難波流なる「流派」を打ち立てて、ここに「蹴鞠道」が確立されたわけです。
飛鳥井雅経と難波宗長は鎌倉に下向し、蹴鞠道の普及に努めた結果、将軍・執権を始め、多くの鎌倉武士たちが蹴鞠に熱中し、争うように両派に弟子入りしました。ちなみに飛鳥井流には、鎌倉幕府二代将軍・源頼家らが、難波流には、五代将軍・藤原頼嗣、五代執権・北条時頼らが入門しました。室町〜江戸時代、難波流は衰退したが、飛鳥井流は綿々と受け継がれ、幕府や朝廷の要人・貴人たちに蹴鞠を教え続けたのです。 
5
白峯神宮 (京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町)
創建は明治元年(1868年)。京都の中では最も新しい神社の一つであると言えるだろう。しかし、祭神は崇徳上皇と淳仁天皇である、明治天皇の勅願ということで戦前の社格は最上位・官幣大社である。
この神社の名前の由来は崇徳上皇崩御の地である白峰山からとったものであり、公式の形で崇徳上皇の霊が京都へ戻ってこられたことを意味する。崇徳上皇と言えば史上最強の祟り神とされ、生きながらにして魔王となることを宣言した人物である。その祟りの凄まじさは、死の直後から起こった源平の合戦を鑑みれば納得できる。
だが、なぜ幕末から維新にかけての動乱期に崇徳上皇の御霊を京都へ奉還してきたのか。表向きは孝明天皇の発案、明治天皇の勅願となっているが、実際には、政治的な意図があると言われている。一つは維新の動乱が崇徳上皇の魔力によって引き起こされたものであることを強調するため、そして一つは崇徳上皇の 祟りによって主権者の地位から転落した朝廷が、京都に帰っていただくことで上皇と和解、主権を取り戻したことを暗に示そうとしたためであると考えられる。
新しい神社を創建するということで選ばれた土地は、堀川今出川東入ルの飛鳥井家の邸宅跡であった。飛鳥井家は“蹴鞠”の宗家であり、その邸宅には【鞠の精】を祀った精大明神があった。この神社は鎮守の神という訳で、白峯神宮創建後もその敷地内に置かれることになった。
球を扱う神様だからということで、精大明神のある白峯神宮は【球技の神様】に変身してしまった。かつてはパチンコに御利益があると言われ、今や「蹴鞠は日本のサッカーの原点」ということでサッカーの神様にもなってしまった。
さて、この【鞠の精】であるが、藤原成通という人物が千日に渡る蹴鞠修行を果たした直後に現れた三人の神様で、猿のような童子の姿をしていたとされる(名前は夏安林・春陽花・桃園と名乗る)。この精のおかげで、成通は神業級の蹴鞠が出来たという。 
 
95.前大僧正慈円 (さきのだいそうじょうじえん)  

 

おほけなく 憂(う)き世(よ)の民(たみ)に おほふかな
わが立(た)つ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖(そで)  
私が、身の程をわきまえずしたいと願うのは、つらい世の中で生きている人々に覆いをかけることなのだ。比叡山に住みはじめた私の墨染めの袖を。 / 仏の力で世の中をおおって、人々を救いたいのだ。 / 身のほどをわきまえないことだが、このつらい世の中を生きる人々に覆い掛けるのだ。比叡山に住み、修行の道に入った私の僧衣の袖を。そして人々のために祈ろう。 / 我が身には過ぎたことだとは思いますが、この世の中の人々の幸せを祈りながら、この法衣の袖を人々に掛けましょう。この比叡山で僧侶となり、法衣に袖を通すことになったわたしなのですから。 / 身のほど知らずと言われるかもしれないが、(この悲しみに満ちた) 世の中の人々の上に、墨染の袖を被いかけよう。 (比叡山に出家したわたしが平穏を願って)
○ おほけなく / 「身分不相応である・身の程をわきまえない」」の意を表す、ク活用の形容詞「おほけなし」の連用形。
○ うき世の民におほふかな / 「うき世」は、「憂き世」で、つらいことの多いこの世。「民」は、世間一般の人々。「おほふ」は、「覆う」で、墨染の衣、すなわち、仏の功徳で覆うこと。「かな」は、詠嘆の終助詞。
○ わが立つ杣に墨染の袖 / 「杣」は、杣山、すなわち、材木を切り出す山。ここでは、比叡山。「墨染の袖」は、僧衣。また、「おほふかな」へ続く倒置法。「墨染」は、「住み初め」との掛詞。 
僧侶
平安鎌倉の物語3 (「愚管抄」)
1
慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしなが そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。
幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒。建久3年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。
天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇の配流とともに兼実の曾孫である仲恭天皇(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願う願文を納めている。また、『門葉記』に採録された覚源(藤原定家の子)の日記には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。
また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受けている。
歌人としても有名で家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられている。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えた。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たという。また、『井蛙抄』に残る逸話に、藤原為家に出家を思いとどまらせて藤原俊成・藤原定家の跡をますます興させるようにしたという。『小倉百人一首』では、「おほけなく うきよのたみに おもふかな わがたつそまに すみぞめのそで」の歌で知られる。 越天楽今様の作詞者でもある。 
2
慈円 久寿二〜嘉禄一(1155〜1225) 諡号:慈鎮和尚 通称:吉水僧正
摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀局(忠通家女房)。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房・兼実・兼房らの弟。良経・後鳥羽院后任子らの叔父にあたる。二歳で母を、十歳で父を失う。永万元年(1165)、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる。仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度する。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。以後、天台僧としての修行に専心し、安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまった。養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈円と名を改めたという。寿永元年(1182)、全玄より伝法灌頂をうける。文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く。以後慈円は平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。建久元年(1190)、姪の任子が後鳥羽天皇に入内。同三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。同年、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く。同六年、上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をした(『拾玉集』にこの折の頼朝詠が残る)。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。建久九年(1198)正月、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)二月、慈円は再び座主に補せられた。この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになる。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。九条家に代わって政界を制覇した源通親は建仁二年(1202)に急死し、兼実の子良経が摂政となったが、四年後の建永元年(1206)、良経は頓死し、翌承元元年(1207)には兄兼実が死去した。以後、慈円は兼実・良経の子弟の後見役として、九条家を背負って立つことにもなる。この間、元久元年(1204)十二月に自坊白川坊に大懺法院を建立し、翌年、これを祇園東方の吉水坊に移す。建永元年(1206)には吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修す。また建仁二年の座主辞退の後、勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、仏法興隆に努めた。建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰。建保二年(1214)六月まで在任した。建保七年(1219)正月、鎌倉で将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向。しかし後鳥羽院は倒幕計画を進め、公武の融和と九条家を中心とした摂政制を政治的理想とした慈円との間に疎隔を生じた。院はついに承久三年(1221)五月、北条義時追討の宣旨を発し、挙兵。攻め上った幕府軍に敗れて、隠岐に配流された。慈円はこれ以前から病のため籠居していたが、貞応元年(1222)、青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をするなどした。その一方、四天王寺で後鳥羽院の帰洛を念願してもいる。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。無動寺に葬られた。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。著書には歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)ほかがある。家集『拾玉集』(尊円親王ら編)、佚名の『無名和歌集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。
「大僧正は、おほやう西行がふりなり。すぐれたる哥、いづれの上手にも劣らず、むねと珍しき様(やう)を好まれき。そのふりに、多く人の口にある哥あり。(中略)されども、世の常にうるはしく詠みたる中に、最上の物どもはあり」(後鳥羽院御口伝)。
春 / 法楽日吉社 無題
色まさる松こそ見ゆれ君をいのる春の日吉ひよしの山のかひより(拾玉集)
(緑の色がいつもよりあざやかな松が見える。君の長久を祈る、春の日吉の山の峡から。)
夏 / 更衣をよみ侍りける
散りはてて花のかげなき木このもとにたつことやすき夏衣なつごろもかな(新古177)
(散り果てて、桜の花の影もない木の下――立ち去ることも気安いなあ、薄い夏衣に着替えた身には。)
摂政太政大臣家百首歌合に、鵜河をよみ侍りける
鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十やそ宇治川の夕闇の空(新古251)
(鵜飼船を見ると、情趣深く、悲しげに思えてならない。宇治川の夕闇の空の下で赤々とたいまつを燃やして。)
秋 / 題しらず
身にとまる思ひをおきのうは葉にてこの頃かなし夕暮の空(新古352)
(我が身に留まる、秋の物思い――この物思いを置くのは、荻の上葉ならぬ我が身であるのに、思いはさながら哀れ深い荻の上風のごとくして、この頃かなしいことよ、夕暮の空。)
百首歌奉りし時、月の歌
いつまでか涙くもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ恋しき(新古379)
(涙に目がくもらないで月を見たのは、いつ頃までのことだったろう。待望の秋を迎えても、さやかな月が見られるはずの、ほんとうの秋が恋しいのだ。)
日吉社百首歌に
夕まぐれ鴫たつ沢の忘れ水思ひ出づとも袖はぬれなむ(続古今357)
(ぼんやりと暗い夕方、鴫(しぎ)が飛び立つ沢の、誰からも忘れられてしまったようなひそかな水の流れ――そのように、あの人と私の中も絶え絶えになってしまった。今更思い出したところで、また袖を濡らすだけだろう。)
五十首歌たてまつりし時、月前聞雁といふことを
おほえ山かたぶく月の影さえて鳥羽田とばたの面おもにおつる雁がね(新古503)
(大枝山の稜線へ向かって沈みかけた月の光は冴え冴えとして、鳥羽の田のうえに降りてゆく雁の声。)
冬 / 題しらず
そむれども散らぬたもとに時雨きて猶色ふかき神無月かな(拾玉集)
(私の袂は、紅涙に染められたけれども、木の葉のように散ることはない。そこへさらに時雨が降ってきて、なお色を深くする、神無月なのだ。)
春日社歌合に、落葉といふことをよみてたてまつりし
木の葉ちる宿にかたしく袖の色をありともしらでゆく嵐かな(新古559)
(木の葉の散る家で、ひとり寝ている私の袖は、悲しみに紅く染まっている。その色に気づきもしないで、嵐は無情に吹き過ぎてゆく。)
老若歌合 冬
明けばまづ木の葉に袖をくらぶべし夜半よはの時雨しぐれよ夜半の涙よ(拾玉集)
(朝が明けたらまず、散り落ちた紅葉に私の袖の色を比べてみよ。ああ、無情にも降りしきる夜の時雨よ、流れ続ける夜の涙よ。)
題しらず
ながむれば我が山の端に雪しろし都の人よあはれとも見よ(新古680)
(眺めると、私の住む山の稜線には雪が積もって白く見える。都の人よ、この山の端を、そしてこの山に住む私をあわれと見よ。)
哀傷 / 無常の心を(三首)
みな人の知りがほにして知らぬかなかならず死ぬるならひありとは(新古832)
(誰も皆、知ったような顔をしているが、肝に銘じては知らないのだな。生あるもの、必ず死ぬという決まりがあるとは。)
蓬生にいつか置くべき露の身はけふの夕暮あすの曙(新古834)
(蓬(よもぎ)の生えるような荒れ地に、いつか身を横たえるべき我が身――露のようにはかない我が身は、今日の夕暮とも、明日の明け方とも知れない命なのだ。)
我もいつぞあらましかばと見し人を偲ぶとすればいとど添ひゆく(新古835)
(私もいつからこうなってしまったのか。「元気でいてくれたら」と思っていた人が亡くなって、思い出を偲ぼうとすれば、そんな人ばかりがますます増えてゆくようになったのは。)
羇旅 / 題しらず
初瀬川さよの枕におとづれて明くる檜原に嵐をぞきく(玉葉1193)
(初瀬川のほとりで夜、旅寝していると、枕に川音が高く響いてきた。どうしたことかと思っていると、やがて明るくなり、見えてきた檜原に、嵐が吹きしきる。目覚めて今度はその音を聞くことになったのだ。)
旅の歌とてよみ侍りける
旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢をみるかな(千載533)
(この世は仮の宿。いわば人生とは旅をしているようなものだが、そんな旅の世にあって、さらにまた旅寝をして、草を枕にする。そうして、夢の中でまた夢を見るというわけだ。)
詩を歌にあはせ侍りしに、山路秋行といへる心を
立田山秋ゆく人の袖を見よ木々の梢はしぐれざりけり(新古984)
(立田山を、秋に旅ゆく人の袖を見よ。旅の哀れさに流した涙で紅く染まっているだろう。それに較べたら、木々の梢の紅葉は時雨にも濡れなかったかのようだよ。)
百首歌奉りし、旅歌
さとりゆくまことの道に入りぬれば恋しかるべき故郷もなし(新古985)
(遠く旅してきた人は故郷を恋しがるものだが、私は悟りへと通じる真実の道に入ったので、恋しく思うような故郷もありはしない。)
恋 / 百首歌奉りし時よめる
わが恋は松を時雨のそめかねて真葛が原に風さわぐなり(新古1030)
(私の恋は、松を時雨が染めかねるように、決して色にはあらわさず、ただ真葛が原に風が騒ぐように、胸を騒がせ、葛が葉の裏を見せて翻るように、あの人のつれなさを恨んでいるのだ。)
千五百番歌合に
わが恋はゆくかたもなきながめよりむなしき空に秋風ぞ吹く(風雅1517)
(私の恋は行方も知らず――ただ果てしもなく物思いに耽りつつ空を眺めている――その挙句、ただ虚しい大空に秋風が吹くばかり。)
恋の歌とてよみ侍りける
わが恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋の夕暮(新古1322)
(私の恋は、庭の群萩の枝先が枯れるように、ひからびてしまって、つれないあの人のことも、自分のことも、もう厭になってしまった、そんな秋の夕暮。)
水無瀬恋十五首歌合に
野べの露は色もなくてやこぼれつる袖より過ぐる荻のうは風(新古1338)
(野辺の草についた露は、色もなしにこぼれたのだろうか。私の袖を吹き過ぎていった、荻の上風に吹かれて…。私の袖から落ちた露は、涙で紅く染まっていたのだけれど。)
雑 / 御裳濯百首 述懐
せめてなほうき世にとまる身とならば心のうちに宿はさだめむ(拾玉集)
(我が身がなお俗世間に留まることになるなら、せめて住む家はこの浮世でなく心のうちに定めよう。)
題しらず
おほけなくうき世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖(千載1137)
(つたない我が身ながら、世の民(たみ)のうえに、法服の袖を覆いかけることかな。伝教大師が「我が立つ杣」とおっしゃった比叡山に住み始めて間もない私の墨染の袖ではあるが。)
題しらず
世の中を心高くもいとふかな富士のけぶりを身の思ひにて(新古1614)
(心高くも、俗世を厭離することだよ。天へ昇る、富士山の噴煙を我が身の望みとでもするように。)
五十首歌たてまつりし時
花ならでただ柴の戸をさして思ふ心のおくもみ吉野の山(新古1618)
(桜の花ではなく、ただ庵の粗末な柴の戸を目指して、吉野のことを思っているのだ。そんな私の心の奥まで見てくれよ、吉野の山よ。)
法楽日吉社 無題 (二首)
山路ふかく憂き身のすゑをたどり行けば雲にあらそふ峰の松かぜ(拾玉集)
(辛い身の上の将来を思いつつ、山道を深く辿ってゆくと、雲に挑むように吹き付けているよ、峰の松風が。そのように私も、障害と戦い、高みを目指して進もう。)
わが心奥までわれがしるべせよわが行く道はわれのみぞ知る(拾玉集)
(心の奥の奥まで、自分自身で先導してゆけ。わが行く道は、自分だけが知っているのだ。)
日吉社にたてまつりける百首歌の中に(二首)
まことふかく思ひいづべき友もがなあらざらむ世の跡のなさけに(玉葉2590)
(誠心から深く、私のことを思い出してくれる友がいてくれたらなあ。死んだ後の世、私が生きたことへのいたわりとして。)
心ざし君にふかくて年もへぬまた生むまれても又やいのらむ(玉葉2591)
(こころざしを深く陛下に捧げて、何年も経ちました。再び生まれ変っても、また同じように陛下のためにお祈りいたしましょう。)
題しらず
山里にひとりながめて思ふかな世にすむ人の心づよさを(新古1658)
(山里で、独りぼんやり考えごとに耽っていると、思うのだ、俗世に住む人々の心の強さということを。)
題しらず
草の庵をいとひても又いかがせむ露の命のかかるかぎりは(新古1661)
(山里の草庵を逃れたところで、ほかにどうすればいいというのか。露の命がこのようにはかなく続くかぎりは。)
厭離欣求百首
里の犬のなほみ山べに慕ひくるを心の奥に思ひはなちつ(拾玉集)
(里で馴れついた野良犬が、追い払ってもなお深山のほとりまで慕って来るのを、心の奥で思い決めて、追いやったのだ。)
述懐の心をよめる (三首)
何ごとを思ふ人ぞと人とはば答へぬさきに袖ぞぬるべき(新古1754)
(なにをあなたは思い悩んでいるのか、と人から問われたら、返事をする前に涙で袖が濡れてしまうだろう。)
いたづらに過ぎにしことや歎かれむ受けがたき身の夕暮の空(新古1755)
(虚しく歳月を過ごしたことが、きっと歎かれるのではないかなあ。有り難い果報として人の身に生まれてきたのに、解脱することもなく、最期の日の夕暮の空を迎えた時。)
うち絶えて世にふる身にはあらねどもあらぬ筋には罪ぞかなしき(新古1756)
(すっかり俗世間に染まって暮らしている身ではないけれども、あらぬ方面で罪を犯しているとしたら、悲しい。)
五十首歌の中に
思ふことなどとふ人のなかるらむ仰げば空に月ぞさやけき(新古1782)
(心中に思っていることを、どうして訊いてくれる人がいないのだろう。仰ぎ見れば、空には月が冴え冴えと照っている。)
題しらず(七首)
ひと方に思ひとりにし心には猶そむかるる身をいかにせむ(新古1825)
(一途に出家を決意した私であるのに、その心になお背いてしまうこの身を、どうしたらいいのだろう。)
なにゆゑにこの世を深く厭ふぞと人のとへかしやすく答へむ(新古1826)
(なぜこの世を深く厭うのかと、人よ問うてくれ。やすやすと答えよう。)
思ふべき我がのちの世はあるかなきか無ければこそは此の世にはすめ(新古1827)
(心にかけて思うべき後世(ごせ)は、あるのかないのか。もしないのであれば、いっそ現世に安住できるのだが。)
町くだりよろぼひ行きて世を見れば物のことわりみな知られけり(拾玉集)
(市街地を下り、よろよろと歩いて行きながら世の中を見ると、この世を成り立たせている道理というものが、みな知られるのだった。)
たれならむ目をしのごひて立てる人ひとの世わたる道のほとりに(拾玉集)
(誰だろう、涙に濡れた目をぬぐいながら、そこに立っている人は。人々が稼業(しょうばい)をしている道のほとりに。)
それもいさ爪に藍しむ物はりのしばしとりおく襷すがたよ(拾玉集)
(これはまあ、どうだろう。爪に藍(あい)の染料を染み付かせた物張りが、ちょっとの間する、襷姿(たすきすがた)よ。)
まことならでまた思ふことはなきものを知らぬ人をばなにかうらみむ(拾玉集)
(まことの道以外、心に思うことはありはしない。なのに、それを知らない人を、どうして恨む道理などあろうか。)
神祇 / 十首歌合の中に、神祇をよめる
君をいのる心の色を人とはばただすの宮のあけの玉垣(新古1891)
(我が君の長久をお祈り申し上げる、この心の色を人が問うたなら、糺(ただす)の宮の朱塗りの玉垣と同じであると答えよう。)
題しらず
立ちかへる世と思はばや神風やみもすそ川のすゑの白波(玉葉2800)
(ふたたび昔へと返ってゆく世と思いたいものだ。将来のことはわからないけれども、伊勢の御裳濯川の流れの末に寄せる、白波のように。)
釈教 / 述懐の心を(二首)
わがたのむ七の社のゆふだすきかけても六の道にかへすな(新古1902)
(我が身をゆだねて頼む日吉の七社よ、木綿襷(ゆうだすき)をかけて、ひたすら心を寄せて、お祈りします。どうか決して、私を六道の迷界に返さないでください。)
もろ人のねがひをみつの浜風に心すずしき四手しでの音かな(新古1904)
(衆生を願いを満たす、日吉社の方へ吹いてくる三津の浜風に、すがすがしい音をたてて四手が揺れているなあ。)
述懐歌の中に(三首)
ねがはくはしばし闇路にやすらひてかかげやせまし法のりのともし火(新古1931)
(私の願うのは、出来たらしばらくこの闇路に留まって、天台の法灯を掲げたいということなのだ。)
とく御法みのりきくの白露夜はおきてつとめて消えむことをしぞ思ふ(新古1932)
(説法を聞く時は、菊の白露が夜に置くように、夜は起きて勤行にいそしみ、翌朝、露がはなかなく消えてしまうように、我が身も死んでしまうことを思うのだ。)
極楽へまだ我が心ゆきつかず羊のあゆみしばしとどまれ(新古1933)
(私の心は、まだ修行が足りなくて、極楽に往生できる程に至っていない。刻々と死へと近づいてゆく時間よ、しばし停まってくれ。)
法華経廿八品歌よみ侍りけるに、方便品はうべんほん、唯有一乗法ゆいういちじようほふの心を
いづくにも我が法のりならぬ法やあると空吹く風に問へど答へぬ(新古1941)
(「この世界のどこかに、我が信奉する法華経の教え以外に、一乗の教えがあるだろうか」空吹く風にそう問うてみても、答えてはくれない。) 
 
96.入道前太政大臣 (にゅうどうさきのだいじょうだいじん)  

 

花(はな)さそふ 嵐(あらし)の庭(には)の 雪(ゆき)ならで
ふりゆくものは わが身(み)なりけり  
花をさそって散らす嵐の吹く庭は、雪のような桜吹雪が舞っているが、本当に古りゆくものは、雪ではなくわが身であったなあ。 / 桜を誘って散らす激しい風が吹く庭。そこに散り敷くのは雪かと思う。しかしふる(降る)のは雪ではなく、実は古びていく私自身なのだ。 / 桜の花を誘って散らす嵐の吹く庭の、雪のような花びらではなくて、年老いて古びていくのは、この我が身だなぁ。 / (降っているのは) 嵐が庭に散らしている花吹雪ではなくて、降っているのは、実は歳をとっていくわが身なのだなぁ。
○ 花さそふ / 花をさそう。主語は、「嵐」で、「嵐が花をさそって散らす」の意。
○ 嵐の庭の雪ならで / 「嵐の庭」は、嵐の吹く庭。「雪」は、「花」を雪に見立てた表現。「で」は、打消の接続助詞。
○ ふりゆくものは / 「ふりゆく」は、掛詞。上の「雪」を受けて、「降りゆく」になり、下の「わが身」に続いて「古りゆく」になる。「は」は、区別の係助詞。
○ わが身なりけり / 「けり」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞。 
1
西園寺公経(さいおんじきんつね、正字体:西園寺公經)(藤原公経)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。小倉百人一首では入道前太政大臣。
治承3年(1179年)従五位上、養和元年(1181年)侍従、寿永2年(1183年)正五位下、文治元年(1185年)越前権介、左少将、同2年(1186年)備前介、同3年(1187年)従四位下、同5年(1189年)讃岐権介、建久元年(1190年)正四位下、同4年(1193年)左中将、同7年(1196年)蔵人頭と昇進。同9年(1198年)、従三位参議に就き公卿に列する。正治2年(1200年)兼越前権守、建仁元年(1201年)正三位、同2年(1202年)権中納言、同3年(1203年)従二位、右衛門督、左衛門督、元久3年(1206年)中納言、建永2年(1207年)正二位権大納言、承元5年(1211年)兼中宮大夫(同年辞す)、建保6年(1218年)大納言となり、東宮大夫を兼ねる。
源頼朝の姉妹・坊門姫とその夫一条能保の間にできた全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから、鎌倉幕府とは親しく、承久元年(1219年)に3代将軍実朝が暗殺された後は、外孫にあたる藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。同年右大将、右馬寮御監。同3年(1221年)、承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されるが、事前に乱の情報を幕府に知らせ幕府の勝利に貢献した。
乱後は、幕府との結びつきを強め、内大臣(51歳)、貞応元年(1222年)に太政大臣、翌貞応2年(1223年)には従一位に昇進し(同年太政大臣辞任)、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。また、関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。道家の外孫である四条天皇が崩じると、公経の孫(嫡男実氏の娘)姞子を後嵯峨天皇の中宮とし、姞子所生の久仁親王(後の後深草天皇)を皇太子とした。以後、西園寺家から中宮を出す慣例の先駆となるとともに、持明院統(後深草天皇の系譜)が幕府と近い関係を持つきっかけとなった。
晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり、公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。
寛元2年(1244年)8月29日に死去。享年74。
処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く 、その死にのぞんで平経高も「世の奸臣」と日記に記している。
なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった。 
2
西園寺公経 承安元〜寛元二(1171-1244)通称:一条相国・西園寺入道前太政大臣など
太政大臣公季の裔。内大臣実宗の子。母は持明院基家女(平頼盛の外孫女)。子に綸子(九条道家室)・西園寺実氏(太政大臣)・実有(権大納言)・実雄(左大臣)ほかがいる。源頼朝の妹婿一条能保のむすめ全子を娶り、鎌倉幕府と強固な絆で結ばれた。また九条良経(妻の姉妹の夫)・定家(姉の夫)とも姻戚関係にあった。家集を残す西園寺実材母(さねきのはは)は晩年の妾である。治承三年(1179)、叙爵。養和元年(1181)十二月、侍従。左少将・左中将などを経て、建久七年(1196)、源通親による政変に際し、蔵人頭に抜擢される。同九年正月、土御門天皇が即位すると、引き続き蔵人頭に補され、また後鳥羽上皇の御厩別当となる。同月、参議に就任。同年十一月、従三位。しかし翌正治元年(1199)、頼朝が没すると出仕を停められ、院別当を罷免され籠居を命ぜられる。同年十一月には許されて復帰した。その後は順調に昇進を重ね、建仁二年(1202)七月、権中納言。建永元年(1206)三月、中納言。承元元年(1207)には正二位権大納言に、建保六年(1218)十月には大納言に進む。この間、鎌倉と密接な関係を保ち続けた。承久元年(1219)、三代将軍実朝が暗殺されると、幕府の要望にこたえ、外孫にあたる九条道家の第三子三寅(みとら)を後継将軍として鎌倉に下らせた。同三年、院の倒幕計画を事前に察知し、弓場殿に拘禁されたが、その直前、鎌倉方に院の計画を牒報、幕府の勝利に貢献した。乱終結後は時局の収拾にあたり、後継の上皇に後高倉院を擁立。幕府の信頼を背景に、関東申次として京都政界で絶大の権勢をふるった。同年閏十月、内大臣。貞応元年(1222)八月、太政大臣に昇る。貞応二年(1223)正月、従一位。同年四月、太政大臣を辞任。寛喜三年(1231)十二月、出家。法名は覚勝。その後も前大相国として実権を掌握し続け、女婿道家を後援して天皇外祖父の地位を与えた。仁治三年(1242)、後嵯峨天皇が即位すると孫娘を入内・立后させ、自ら皇室外戚の地位を占める。寛元二年(1244)八月二十九日、病により薨去。七十四歳。晩年、北山にかまえた豪邸の有様は『増鏡』の「内野の雪」に詳しい。権力を恣にしたその振舞は「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」(『明月記』)、あるいは「世の奸臣」(『平戸記』)と評された。多芸多才で、琵琶や書にも秀でた。歌人としては正治二年(1200)の「石清水若宮歌合」、建仁元年(1201)の「新宮撰歌合」、建仁二年(1202)の「千五百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」、貞永元年(1232)以前の「洞院摂政家百首」などに出詠。新古今集初出(十首)。新勅撰集には三十首を採られ、入集数第四位。新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。
春 / 道助法親王家の五十首の歌の中に、初春
たちそむる霞の衣うすけれどはるきて見ゆる四方の山の端(続後撰13)
(立ち始めたばかりの霞はまだうっすらとかかっているだけだが、四方の山々の、空との境目はぼうっとして、いかにも春の衣をまとっているように見える。春が来たのだなあ。)
建仁元年三月歌合に、霞隔遠樹といふことを
高瀬さす六田むつだの淀の柳原みどりもふかく霞む春かな(新古72)
(浅瀬に棹さしてゆく六田の淀――河原の柳は芽吹き、緑の色が濃く霞みわたる春の景色だなあ。)
千五百番歌合に
ほのぼのと花の横雲あけそめて桜にしらむみ吉野の山(玉葉194)
(春の曙――花の色合をした横雲がうっすらと明るくなり始め、吉野山は全山埋め尽くす桜によって白じらと姿を現してくる。)
建保六年内裏歌合、春歌
うらむべき方こそなけれ春風のやどりさだめぬ花のふるさと(新勅撰116)
(恨みたくても、文句を言うあてがない。春風が一ところに定まることなく吹いている、花の降る古里よ。)
暮山のこころを
今はとて桜ながるる吉野川水の春さへせくかたもなし(玉葉274)
(今はもう春の暮だとて、桜の散った花びらが浮かんで流れる吉野川――陸(おか)の上だけではない、水の上の春もまた、堰き止める方法はないのだ。)
西園寺にて三十首歌よみ侍りける春歌
山ざくら峰にも尾にも植ゑおかむ見ぬ世の春を人やしのぶと(新勅撰1040)
(山桜の若木を、山の頂きにも尾根にも植えておこう。私は見ることが出来ないが、満開に咲き誇る春を、後の世の人々が賞美するだろうかと。)
家に三十首歌よみ侍りけるに、花歌
白雲のやへ山桜咲きにけりところもさらぬ春のあけぼの(新勅撰61)
(八重山桜が白雲のたなびくように咲いた。この美しい「春の曙」は、その場からいつまでも立ち去ることがないのだ。)
夏 / 千五百番歌合に (二首)
時鳥なほ疎うとまれぬ心かな汝なが鳴く里のよその夕ぐれ(新古216)
(ほととぎすよ、古い歌には「おまえが鳴く里はたくさんあるので、疎ましい」と言うが、この夕暮、どこか別の里で鳴いているとしても、やはり私は疎ましく思えない気持なのだ。)
露すがる庭の玉笹うちなびきひとむらすぎぬ夕立の雲(新古265)
(雨の雫がたくさん取り着いている、庭の笹の葉――それが風になびき、夕立を降らせたひとむらの雲が過ぎて行った。)
秋 / 七夕の心を
星逢のゆふべすずしき天の川もみぢの橋をわたる秋風(新古323)
(二つの星が出逢う七夕の夕べ、天の川も涼しげだ――鵲の渡すという紅葉の橋を、秋風が渡ってゆく。)
長月の頃、水無瀬に日頃侍りけるに、嵐の山の紅葉、涙にたぐふよし、申し遣はして侍りける人の返り事に
もみぢ葉をさこそ嵐のはらふらめこの山もとも雨と降るなり(新古543)
(「嵐山」というだけあって、紅葉をそれほど嵐が払い落とすのでしょう。この水無瀬の山麓にも、紅葉は雨と降り、私も涙を誘われています。)
九月尽によみ侍りける
明日よりのなごりをなににかこたまし相も思はぬ秋の別れ路(新勅撰360)
(冬になる明日から、秋がどんなに名残惜しく思えることだろう。その不満を何に訴えればよいのか。私は去ってゆく季節をこんなに悲しんでいるのに、秋の方は、すげなく別れてゆく今日…。)
冬 / 建保五年四月庚申に、冬夕を
山の端の雪のひかりに暮れやらで冬の日ながし岡のべの里(風雅835)
(山の端を覆う雪の反射する光の明るさに、いつまでも暮れきらず、冬の日も長く感じられる、岡のほとりの里であるよ。)
建保六年内裏歌合、冬歌
つま木こる山路もいまやたえぬらむ里だにふかき今朝の白雪(新勅撰430)
(山人が妻木を伐って通る山道も、今頃は途絶しているのではないか。里でさえ深く積もっているよ、今朝の雪は。)
恋 / 建仁元年三月歌合に、逢不遇恋のこころを
あはれなる心の闇のゆかりとも見し夜の夢をたれかさだめむ(新古1300)
(あの人との逢瀬は、一夜の夢だった――あれはやはり悲しい心の闇のゆかり…分別をなくし混迷した心の生み出したものにすぎないのだろうか。私には判らない。誰に判るというのだろう。)
雑 / 道助法親王家五十首歌の中に野旅
草枕かりねの庵いほのほのぼのと尾花をばなが末に明くるしののめ(玉葉1159)
(旅先で、草を刈ってこしらえた小屋で仮寝して――いちめんススキの生えた野の彼方に、ほのぼのと明けてくる東雲(しののめ)の空。)
建保百首歌奉りける時
いかばかり昔をとほくへだてきぬそのかみ山にかかる白雲(続拾遺1094)
(どれほどの年月を遥かな昔から遠く隔ててきたのだろう。往時の神山にもこのように掛かっていたであろう、白雲よ。)
落花をよみ侍りける
花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものは我が身なりけり(新勅撰1052)
(嵐が花を誘って散らし、庭に雪と降らせる――その降りゆくさまを見るにつけ、衰え、この世を去ってゆくのは、花よりも我が身のほうではないかと思い知るのだ。) 
3
金閣寺
金閣寺の正式名称は臨済宗相国寺派鹿苑寺となります。金閣寺の名称は、中心となる建築物である舎利殿が金箔で覆われていることから、「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称されます。また鹿苑寺の「鹿苑」は足利義満の法名から取ってあります。
現在金閣寺がある当たりは元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいました。勝原道長が営んだ法成寺をしのぐ壮大な伽藍が造営されました。公経の造営した北山殿は、寝殿を始めとする建物や滝と池を配した広大な庭園がありましたが、本堂や五大堂など多くの仏舎もあって、寺にウエイトを置いて西園寺と呼ばれるようになりました。この名称にちなんで、藤原北家の流れをくむ公経より後のこの家柄を西園寺家と呼び、公経を西園寺公経と呼んでいる。公経がこのような壮大な庭園を持てるようになったのは、承久の乱の際、公経が朝廷側の情報を幕府に伝えていました。このこともあって公経は息子の実氏と共に上皇側に逮捕・拘禁されています。しかし乱が幕府側の勝利に終わると、公経の地位は躍進して、乱の翌年には太政大臣になります。乱の三年後に公経は北山殿の造営をします。
その後公経は関東申次という要職につき、さらに西園寺家が世襲することになりました。このことは公経に膨大な富をもたらしました。西園寺家は多くの荘園を持つことができたからです。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまいます。そのため南北朝時代になると西園寺家は衰退し、境内も次第に修理が及ばず荒れていきます。応永4年(1397年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、自身は将軍の地位を譲りながら、太政大臣として強大な権力を握っていた義満は、可能な限りの贅を尽くし、各地の守護大名たちからは白山石、赤松石、細川石などの名石を献上させました。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれました。
金閣寺邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約されました。応永9年(1402年)に明(中国)皇帝から送られた、「爾日本国王…」と綴られた国書をうけ取ったのもこの場所だったといわれます。応永15年(1408年)に義満は急死しますがその後は遺言により、夢窓国師を勧請開山として禅宗寺院に改められます。鹿苑寺の寺号は、義満の戒名である鹿苑院殿にちなんで命名されました。当時から壮麗な舎利殿(金閣)は話題になり、金閣寺の通称はこの頃から用いられていたようです。応仁の乱では西軍の陣となり、多くの建物を焼失し、また多数の仏像が他所へ持ち去られるという災難に遭いますが、金閣は兵火を免れ、室町末〜江戸前期には伽藍の再建も進み、ほぼ現在の寺観となりました。昭和25年には学僧の放火によって金閣を焼失するという事件が起きますが、昭和30年に再建されて創建時の輝きを取り戻し、平成6年に古都京都の文化財として世界文化遺産に登録されました。
○ 金閣寺桃の魔よけ / 金閣寺の玄関で見かける桃を模した瓦は「古事記」の中に伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が悪魔に追いつめられ、桃を投げると、悪魔を退散した話から来ている魔よけのしるし。 
 
97.権中納言定家 (ごんちゅなごんさだいえ)  

 

来(こ)ぬ人(ひと)を 松帆(まつほ)の浦(うら)の 夕(ゆふ)なぎに
焼(や)くや藻塩(もしほ)の 身(み)もこがれつつ  
いくら待っても来ない人を待ち続けて、松帆の浦の夕凪のころに焼く藻塩が焦げるように、私の身もいつまでも恋こがれています。 / 待っても来ない人を待つ私は、松帆の浦の浜辺で焼いている藻塩の煙がなびいているが、この身も恋の思いにこがれていく、そんな気持ちなのだ。 / いつまでも来ないあなたを待つわたしは、あの松帆の浦(現在の淡路島の北端の岩屋海岸)で、夕方に海が凪いでいる頃に塩を作るために焼く藻塩のように、身を焼かれるように恋焦がれていることです。 / どれほど待っても来ない人を待ち焦がれているのは、松帆の浦の夕凪のころに焼かれる藻塩のように、わが身も恋い焦がれて苦しいものだ。
○ 来ぬ人を / 「来(こ)」は、カ変の動詞「来(く)」の未然形。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。
○ まつほの浦の / 「まつ」は、上を受けて「待つ」、下に続いて「松帆の浦」となる掛詞。
○ 夕なぎに / 夕方に海風から陸風にかわるときに起きる無風状態。
○ 焼くや藻塩の / 「や」は、詠嘆を表す間投助詞。「藻塩」は、海水を滲みこませた海藻を焼き、水に溶かして煮詰め、精製した塩。「まつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の」は、「こがれ」の序詞。
○ 身もこがれつつ / 「こがれ」は、「藻塩」が焼け焦げることと、「(わが)身」が、恋い焦がれることを掛けている。「つつ」は、反復の接続助詞。「焼く」、「藻塩」、「こがれ」は、縁語。 
やまとうた / 定家
藤原定家 (ふじわらのさだいえ[ていか]) 1162〜1241 鎌倉初期の歌人。俊成の子。父俊成の幽玄体を発展させた有心体を提唱し、新古今調の和歌を大成した。『新古今和歌集』の撰者の一人であり、後に単独で『新勅撰和歌集』を撰進。『小倉百人一首』の撰者。歌論書『近代秀歌』『毎月抄』、日記『明月記』
 
98.従二位家隆 (じゅにいいえたか)  

 

風(かぜ)そよぐ 楢(なら)の小川(おがは)の 夕暮(ゆふぐれ)は
御禊(みそぎ)ぞ夏(なつ)の しるしなりける  
風がそよそよと楢の葉に吹く、ならの小川[上賀茂神社の御手洗川]の夕暮れは、すっかり秋めいているが、六月祓のみそぎだけが夏のしるしなのだった。 / 楢の葉を揺らすそよ風が吹き、夕暮れは秋のように涼しい。しかし、上賀茂神社の境内を流れる御手洗川で行われるみそぎの光景を見ると、やはりまだ夏なのだなあ。 / 風がそよそよと、楢(なら)の葉に吹きそよぐ、楢の小川(上賀茂神社の前を流れる参拝人が手口を清める御手洗川(みたらしがわ)。現在の京都市にある)の夕暮れは、もう秋のような気配だけれど、ただ、夏越の祓(なごしのはらえ)のために行なわれている禊(みそぎ)が、いまは夏なのだ、というしるしなんだなぁ。 / 風がそよそよと楢(なら)の葉を吹きわたるこの奈良(なら)の小川の夕方は、(もうすっかりと秋のような気配だが) 川辺の禊祓(みそぎはらい)を見ると、まだ夏であるのだなぁ。
○ 風そよぐ / 「そよぐ」は、そよそよと音がすること。
○ ならの小川 / 上加茂神社の御手洗川。枕詞。また、「なら」は、「楢」との掛詞。「奈良」ではない。
○ みそぎぞ夏のしるしなりける / 「ぞ」と「ける」は、係り結び。「みそぎ」は、「禊」で、川で身を洗い、罪や穢れをはらうこと。ここでは、六月禊をさす。「ぞ」は、強意の係助詞。「しるし」は、証拠。「ける」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、「ぞ」の結び。
※ 本歌取。「みそぎする ならの小川の 川風に 祈りぞわたる 下に絶えじと」と「夏山の ならの葉そよぐ 夕暮れは ことしも秋の 心地こそすれ」が、本歌。 
1
藤原家隆(ふじわらのいえたか、保元3年(1158年) - 嘉禎3年4月9日(1237年5月5日))は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名は顕隆。法名は仏性。壬生二位と号する。中納言・藤原兼輔の末裔で、権中納言・藤原光隆の次男。官位は従二位・宮内卿。『新古今和歌集』の撰者の一人。小倉百人一首では従二位家隆「風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 御禊ぞ夏の しるしなりける」。
安元元年(1175年)叙爵、安元3年(1177年)侍従。阿波介・越中守の地方官を併任し、建久4年(1193年)正月に侍従を辞任、正五位下に昇叙。正治3年(1201年)正月に従四位下。元久3年(1206年)宮内卿。承久3年(1220年)まで宮内卿を務め、辞任ののちに正三位に叙せられた。嘉禎元年(1235年)従二位。嘉禎2年12月(1237年1月)病を得て79歳で出家した。出家後は摂津国四天王寺に入り、夕陽丘より見える「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、その彼方にある極楽へいくことを望んだ。現在の大阪市天王寺区夕陽丘町5に家隆塚(伝藤原家隆墓)がある。

和歌を藤原俊成に学んだ。寂蓮の婿だったという説もある。歌人としては晩成型であったが、『六百番歌合』『正治百首』などに参加して、やがて同時代の藤原定家と並び称される歌人として、御子左家と双璧と評価されるに至った。
『古今著聞集』によると後鳥羽上皇が和歌を学びはじめたころ、藤原良経(後京極殿)に「和歌を学ぼうと思っているのだが誰を師としたらよいだろうか」と尋ね、良経は家隆を推薦した。院歌壇の中心メンバーであり、後鳥羽院が承久の乱で隠岐に流された後も、遠所から題を賜って和歌を送ったりしている。歌風は平明で幽寂な趣きと評価される。また、晩年になってからも作歌意欲はいっこうに衰えず、その多作ぶりは有名で、生涯に詠んだ歌は六万首もあったと言われている。
歌集の『壬二集(みにしゅう)』は六家集の一つ。『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に281首が採録されており、『新勅撰和歌集』には最多の43首が収められている。息子の藤原隆祐と娘の土御門院(承明門院)小宰相も歌人。 
2
藤原家隆 保元三〜嘉禎三(1158-1237) 号:壬生二品(みぶのにほん)・壬生二位
良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」、同三年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」を詠む。同四年の千載集には四首の歌が入集した。建久二年(1191)頃の『玄玉和歌集』には二十一首が撰入されている。建久四年(1193)の「六百番歌合」、同六年の「経房卿家歌合」、同八年の「堀河題百首」、同九年頃の「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇に迎えられ、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」「仙洞十人歌合」、建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」などに出詠した。同年七月、新古今集撰修のための和歌所が設置されると寄人となり、同年十一月には撰者に任ぜられる。同二年、「三体和歌」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。元久元年(1204)の「春日社歌合」「北野宮歌合」、同二年の「元久詩歌合」、建永二年(1207)の「卿相侍臣歌合」「最勝四天王院障子和歌」を詠む。建暦二年(1212)、順徳院主催の「内裏詩歌合」、同年の「五人百首」、建保二年(1214)の「秋十五首乱歌合」、同三年の「内大臣道家家百首」「内裏名所百首」、承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、同二年の「道助法親王家五十首歌合」に出詠。承久三年(1221)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(1226)には「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めた。寛喜元年(1229)の「女御入内屏風和歌」「為家卿家百首」を詠む。貞永元年(1232)、「光明峯寺摂政家歌合」「洞院摂政家百首」「九条前関白内大臣家百首」を詠む。嘉禎二年(1236)、隠岐の後鳥羽院主催「遠島御歌合」に詠進した。藤原俊成を師とし、藤原定家と並び称された。後鳥羽院は「秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり」と賞讃し(御口伝)、九条良経は「末代の人丸」と称揚したと伝わる(古今著聞集)。千載集初出。新勅撰集では最多入集歌人。勅撰入集計二百八十四首。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。新三十六歌仙。百人一首にも歌を採られている。『京極中納言相語』などに歌論が断片的に窺える。また『古今著聞集』などに多くの逸話が伝わる。
「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院御口伝)。
「風体たけたかく、やさしく艶あるさまにて、また昔おもひ出でらるるふしも侍り。末の世にありがたき程の事にや」(続歌仙落書)。
「かの卿(引用者注:家隆のこと)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加はり、重代の達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじき事なり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰ありける比、後京極殿(引用者注:九条良経を指す)に申し合せまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、『家隆は末代の人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし』と申させ給ひける」(古今著聞集)。
「家隆は詞ききて颯々としたる風骨をよまれし也。定家も執しおもはれけるにや、新勅撰には家隆の哥をおほく入れられ侍れば、家隆の集のやう也。但少し亡室の躰有て、子孫の久しかるまじき哥ざま也とて、おそれ給ひし也」(正徹物語)。
「妖艷の彩を洗い落とした後の冷やかな覚醒、鬼拉の技の入り込む隙もない端正なしかもただならぬ詩法、それは俊成を師とした彼と、俊成を父とした定家の相肖つつ相分つ微妙な特質であった」(恂{邦雄『藤原俊成・藤原良経』)。
春 / 六百番歌合に、春氷
春風に下ゆく波のかずみえてのこるともなきうす氷かな(風雅35)
(春風が吹くと、氷の張った下を流れてゆく水にさざ波が立つ――その数が透けて見えるほどで、もう残っているとも言えないほどの薄い氷である。)
百首歌たてまつりし時
谷川のうちいづる波も声たてつ鶯さそへ春の山風(新古17)
(谷川の解けた氷の隙間からほとばしり出た波も、春めいた音をたてた。もっと吹いて、まだ谷間から出て来ない鶯を誘い出してくれ、春の山風よ。)
若草
花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草のはるを見せばや(壬二集)
(花の咲くのばかり待っている人に、山里の残雪の間に萌え出る、若草の春を見せてやりたいものだ。)
摂政太政大臣家百首歌合に、春の曙といふ心をよみ侍りける
霞たつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空(新古37)
(霞がたちこめる末に見える、末の松山――「末の松山波も越えなむ」というが、ちょうど棚引く霞が波のように山を浸している。そこへ、ほのぼのと夜が明けてゆくとともに、横雲もおぼろに霞みつつ、あたかも海上の波を離れるかのように、曙の空を立ち昇ってゆく。)
題しらず
いく里か月の光もにほふらむ梅さく山のみねの春風(新勅撰40)
(月明かりの夜、梅の花咲く山の頂に、春風が吹きつける。花ばかりか、月の光も、幾里までほのぼのと香っていることだろう。)
守覚法親王家五十首 建久九年夏 春
すむ人もうつればかはる古郷の昔ににほふ軒の梅が枝(壬二集)
(時が移れば、住む人も変る古里であるが――軒端の梅は、さながら昔を偲ばせるように匂っている。)
百首歌たてまつりし時
梅が香に昔をとへば春の月こたへぬ影ぞ袖にうつれる(新古45)
(梅の香に遠い記憶を呼びさまされ、春の月に向かって昔のことを尋ねてみたが、答えてはくれず、私の袖に月明かりを反映させるばかりだ。)
摂政太政大臣家百首歌合に、野遊のこころを
思ふどちそこともいはず行き暮れぬ花の宿かせ野べの鶯(新古82)
(気の合った同士、どことも決めずに遊び歩いているうちに、春の日も暮れてしまった。今夜は、おまえが泊る花の宿を貸してくれよ、野辺のうぐいす。)
建保四年百首に
桜花咲きぬるときはかづらきの山のすがたにかかる白雲(続古今90)
(桜の花が咲いたときは、葛城山には山の姿そのままに白雲がかかっている。)
関花
逢坂あふさかや明ぼのしるき花の色におのれ夜ぶかき関の杉むら(壬二集)
(逢坂の峠で迎えた夜明け――花の色はありありと曙を感じさせるのに、ひとり関の杉木立だけは、まだ夜深い様子で、暗い色に沈んでいる。)
遠所にて十首歌合侍りし、山花
などてかく思ひそめけむ桜花山とし高くなりはつるまで(壬二集)
(どうしてこれほど桜の花に思い入れるようになったのだろうか。思いが積もり積もった果て、山となって高くなってしまうまで。)
華暁鐘
鐘のおとも明けゆく空に匂ふなり今日もやありて花を見るべき(壬二集)
(明るくなって行く空に、鐘の音もほのぼのと香りたつかのようだ。今日も生きて花を見ることができるだろうか。)
五十首歌たてまつりし時
桜花夢かうつつか白雲のたえてつれなき嶺の春風(新古139)
(あの桜の花は夢だったのか、現実だったのか。どちらとも知れないが、山にかかっていた美しい白雲は消えてしまって、何も知らぬ気(げ)な春風が峰を吹き渡っている。)
百首歌奉りし時
吉野川岸の山吹咲きにけり嶺の桜は散りはてぬらむ(新古158)
(吉野川の岸の山吹が咲いたなあ。山の高いところの桜は、散り切ってしまっただろうか。)
江上暮春
蘆鴨あしがもの跡もさわがぬ水の江になほすみがたく春やゆくらむ(壬二集)
(蘆辺に群がっていた鴨は、とうに飛び去ってしまった――その騒がしい跡もなく、静かな入江に、それでも安住は出来なくて、春は去ってゆくのだろうか。)
夏 / 題しらず
いかにせむ来ぬ夜あまたのほととぎす待たじと思へばむら雨の空(新古214)
(さてどうしよう。幾晩も幾晩も、姿をあらわさない時鳥――もう待つまいと思う折しも、村雨の降り出したこの空。)
日吉奉納五十首 夏
ちかき音ねもほのかに聞くぞ哀れなる我が世ふけゆく山ほととぎす(壬二集)
(程近い声も、ほのかに聞こえるのが哀れだ。老けゆく我が耳に聴く、更け行く夜の山ほととぎすよ。)
老若歌合五十首 夏
むら雨の風にぞなびくあふひ草向ふ日かげはうすぐもりつつ(壬二集)
(村雨を吹き寄せる風になびく、葵草。その花が顔を向けている太陽の光は、雨雲にうっすらと覆われてゆく。)
院百首 建保四年、于時宮内卿従三位正月五日叙之 夏
むば玉の闇のうつつの鵜飼舟月のさかりや夢もみるべき(壬二集)
(闇夜を徹しておこなわれる鵜飼舟――鵜飼を渡世とする者たちにとっては、闇こそがこの世の現実なのだろう。月の明るい晩には、やすらかに寝て夢を見ることもあるのだろうか。)

山里は門田の稲葉見わたせば一穂出でたる夏の朝露(壬二集)
(夏の朝、山里にいて、門田の稲葉を見わたすと、一本だけ穂を出している稲があって、朝露に光っている。)

蝉の羽のうすき衣のひとへ山青葉涼しき風の色かな(壬二集)
(蝉の羽のように薄い単(ひとえ)の衣と同じ名をもつ一重山は、青葉が繁っているが、そこを吹いて来る風も緑に染まって、涼しげな色をしているなあ。)
寛喜元年女御入内屏風
風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける(新勅撰192)
(風にそよぐ楢の葉、その下を流れる楢の小川の涼しげな夕暮どきにあっては、皆が川に入って六月みなづき祓ばらえのみそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだった。)
秋 / 百首歌よみ侍りける中に
昨日だにとはむと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり(新古289)
(幾たびも行こうと思い、昨日ですら、訪れようと思った摂津の国の生田の森――今日、ついにやって来たところ、古歌の通りに秋の初風が吹いた。待ちかねた秋になったのだ。)
守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに
明けぬるか衣手さむし菅原やふしみの里の秋の初風(新古292)
(夜が明けたのか。袖がすうすうして寒い。宿に臥していて、目が覚めたのだ。ああ、菅原の伏見の里の、秋の初風よ。)
花も葉ももろく散り行く萩が枝にむら雨かかる秋の夕ぐれ(両卿撰歌合)
(ただでさえ花も葉ももろく散ってゆく萩――その枝に驟雨が降りそそぐ、秋の夕暮よ。)
夕荻
軒ちかき山の下荻こゑたてて夕日がくれに秋風ぞふく(壬二集)
(我が庵の軒先に迫っている山――その麓に生える荻をざわめかせながら、夕日のあたらないところを寒々と秋風が吹いてゆく。)

露や花はなや露なる秋くれば野原にさきて風にちるらむ(壬二集)
(露と見えるのは花だろうか。花と見えるのは露だろうか。いずれにしても秋が来たので野原に咲き、いま風に散っているのだろう。)
院百首 建保四年、于時宮内卿従三位正月五日叙之 秋
暮れぬまに山の端とほくなりにけり空よりいづる秋の夜の月(壬二集)
(まだ日が暮れないうちから、山の端は遥か遠くに隔たってしまったよ。夕空にあらわれた秋の夜の月に、山里が煌々と照らされて…。)
浦月
をとめごが玉裳のすそに満つ潮のひかりをよする浦の月かげ(自歌合)
(漁をする海人の娘たちの、美しい裳裾に満ちてくる潮――それがさやかな光を寄せて来るのだ、入江に射す月が波に映じた光を。)
院百首 千五百番歌合是也、建仁元年 恋
はつせ山ふる川のべも霧はれて月にぞたてる二もとの杉(壬二集)
(初瀬山のふもとを流れる、布留川――山の霧が晴れ、その河辺も霧が晴れて、月光の中に、二本の杉が立っているのが、くっきりと姿を現わした。昔、恋人たちが逢うための目印としたという杉が…。)
和歌所歌合に、湖辺月といふことを
にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(新古389)
(琵琶湖の水面に月の光が映れば、秋は無縁と言われた波の花にも、秋の気色は見えるのだった。)
百首歌中に
海のはて空のかぎりも秋の夜の月の光のうちにぞありける(玉葉686)
(海の果て、空の極みまでも、見わたす限り、秋の夜の月の光のうちに包まれてあるのだ。)
日吉奉納五十首 秋
しるべせよおくる心の帰るさも月の道吹く秋の山風(壬二集)
(道案内してくれよ。友が帰って行くのを送った心が、引き返してくる間も。月に照らされた道を吹き渡る、秋の山風よ。)
建保二年内裏の十五首の歌合に
雁がねの聞こゆる空や明けぬらむ枕にうすき窓の月かげ(続古今461)
(雁の鳴き声が聞こえる空――もう夜が明けたのだろうか。枕もとにうっすらと射す、窓からの月明かり。)
入道二品親王家に五十首歌よみ侍りけるに、山家月
松の戸をおしあけがたの山風に雲もかからぬ月を見るかな(新勅撰267)
(松の戸を押し明けると、明け方の空を山風が吹き、雲一つかからない月を見るのだ。)
題しらず
ながめつつ思ふもさびし久かたの月の都の明けがたの空(新古392)
(じっと夜空を眺めながら、かの伝説の月の都に思いを馳せていると、物寂しいことよ――やがて夜が明けかかり、今にも消えそうな、有明の月が浮かんでいる空……。)
秋歌とて
玉島やおちくる鮎の河柳下葉うちちり秋風ぞふく(風雅513)
(鮎が流れを下ってくる玉島川よ――その川沿いの柳の下葉を散らせて、秋風が吹く。)
和歌所にて、をのこども歌よみ侍りしに、夕べの鹿といふことを
下紅葉かつ散る山の夕時雨ぬれてやひとり鹿のなくらむ(新古437)
(山の夕暮れ時、時雨が降っては、黄葉した萩の下葉が散ってゆく――その雨に濡れて、妻を恋う鹿はひとり鳴いているのだろうか。)
遠所にて十首歌合侍りし、夜鹿
天の川秋の一夜のちぎりだに交野に鹿のねをや鳴くらむ(壬二集)
(天の川を渡って逢う、一年に一度の秋の夜の契りでさえ、遂げるのは難しいのだろうか、それで鹿は交野で声をあげて鳴いているのだろうか。)
野鹿といふことを
さを鹿の夜はの草ぶし明けぬれどかへる山なき武蔵野の原(新拾遺469)
(牡鹿は夜を草の上に臥して過ごし、朝になれば山へ帰ると聞くが――広大な武蔵野の原に棲む鹿は、夜が明けても、帰るべき山がないのだ。)
寄野秋
鹿のねはなほ遠き野に吹きすててひとり空行く秋の夕風(壬二集)
(遠くで鹿が鳴く――その声を、さらに遠くの野へと運び去ったのちも、空の彼方をひとり吹きわたる、秋の夕風よ。)
守覚法親王家五十首歌中に
むしの音もながき夜あかぬ故郷になほ思ひそふ松風ぞふく(新古473)
(虫の音も秋の長夜を鳴き通しているこの故郷に、いっそう物思いを添える松風の音が聞こえる。)
西園寺入道前太政大臣家卅首歌よみ侍りけるに、秋歌
朝日さす高嶺のみ雪空はれて立ちもおよばぬ富士の川霧(続後撰316)
(朝日がさしのぼる富士の高嶺――頂の雪は白じらと輝く。空は晴れわたって、富士川から朝霧がたちのぼるが、到底山頂に届くことはない。)
千五百番歌合に
露しぐれもる山かげの下紅葉ぬるとも折らむ秋のかたみに(新古537)
(露・時雨が絶えず洩れ落ちる、守山の山陰の下紅葉――濡れようとも、折り取ろう。過ぎ行く秋の思い出のよすがとして。)
冬 / 時雨
淡路島はるかに見つる浮雲も須磨の関屋にしぐれきにけり(玉葉855)
(さっきまで淡路島の上空遥かに見えていた浮雲も、みるみる須磨の関に近づいて、関屋の板廂に音立てて時雨を降らせたのだった。)
和歌所にて、六首の歌たてまつりしに、冬歌
ながめつつ幾たび袖にくもるらむ時雨にふくる有明の月(新古595)
(しぐれたり晴れたりしながら、更けてゆく夜――空を眺めて過す私の袖に映った有明の月の光も、幾たび曇ることだろう。)
題しらず
ふるさとの庭の日かげもさえくれて桐の落葉にあられふるなり(新勅撰393)
(荒れ果てた里の庭に射す日影も、暮れるとともに冷たく冴えて、桐の落葉に霰が叩き付ける音がする。)
摂政太政大臣家歌合に、湖上冬月
志賀の浦や遠ざかりゆく波間より氷りて出づる有明の月(新古639)
(志賀の浦よ、夜が更けるにつれて、沖へと遠ざかってゆく波打ち際――その波の間から、氷って現われ出る、有明の月。)
建保五年内裏歌合、冬山霜
かささぎのわたすやいづこ夕霜の雲ゐにしろき峰のかけ橋(新勅撰375)
(鵲が渡すという橋はどこか。空に聳える峰の、夕霜に覆われて白じらとした梯(かけはし)――あれがそうなのだろうか。)
冬歌とてよみ侍りける
明けわたる雲まの星のひかりまで山の端さむし峰の白雪(新勅撰424)
(しだいに明けてゆく空――雲間に見える星の光まで、山の端に寒々と輝いている。山の頂には雪……。)
恋 / 院百首 千五百番歌合是也、建仁元年 恋
ほのみてし君にはしかじ春霞たなびく山の桜なりとも(壬二集)
(ほのかに見たあなたには及ばない。春霞がたなびく山の桜であろうとも。)
摂政太政大臣家百首歌合に
富士の嶺の煙もなほぞ立ちのぼる上なき物は思ひなりけり(新古1132)
(あんなに高い富士山の煙でも、さらに上へ立ちのぼろうとする。どこまでも昇ることをやめないものとは、恋の思いの火だったのだ。)
院百首 千五百番歌合是也、建仁元年 恋
入るまでに月はながめつ稲妻のひかりの間にも物思ふ身の(壬二集)
(山の端に入るまで、ずっと物思いに耽って月を眺めていた。稲妻の光がひらめく一瞬の間でさえ、あなたを忘れず思う我が身なので。)
題しらず
おもひ河身をはやながら水の泡のきえてもあはむ波のまもがな(新勅撰707)
(思い川の水脈(みお)は速いので水が泡立つ――そんな水の泡のように消えてもよいから、我が身も早くあの人に逢いたい。束の間でも逢える時間があったらなあ。)
院百首 建保四年、于時宮内卿従三位正月五日叙之 恋
とこはあれぬいたくな吹きそ秋風の目にみぬ人を夢にだにみむ(壬二集)
(寝屋の床は荒れてしまった。ひどく吹かないでおくれ、秋風よ。風のように目に見ることのできない人を、せめて夢にでも見ようから。)
夢かとぞなほたどらるるさ夜衣うらみなれたる袖をかさねて(三百六十番歌合)
(これは夢ではないかと、なお手探りせずにはいられない。恨むことにばかり馴れてしまった人と、何度も裏を返すことに馴れてしまった小夜衣の袖を重ねて……。)
建保四年百首に
くもれけふ入相の鐘も程とほしたのめてかへる春の明ぼの(続古今1165)
(いっそ今日は曇って、一日中雨になってしまえ。夕暮は程遠く、入相の鐘までとても待ちきれない。「また今夜」と期待させてあの人が帰ってゆく、春の曙の空よ――。)
題しらず
忘るなよ今は心のかはるともなれしその夜の有明の月(新古1279)
(忘れないでよ。今は心変わりがしてしまったとしても、睦まじく過したあの夜々の、いつも二人で眺めた有明の月は。)
院百首 千五百番歌合是也、建仁元年 恋
おのづからたのむ夢路はむなしくていつかうつつの恋はさむべき(壬二集)
(せめて夢でと、おのずから期待せずにはいられないが、眠ってもあの人には逢えず、夢路は空しい。いつになったらこの現実の辛い恋は冷め、私は恋の迷いから目覚めることができるのだろう。)
千五百番歌合に
思ひ出でよ誰がかねごとの末ならむ昨日の雲のあとの山風(新古1294)
(思い出してもみよ。こんな空しい結果を招いたのは、誰の口約束の果てなのか。昨日かかっていた雲が、今朝は払われて跡形もなく、ただ山風がつれなく吹いているばかり――。そんなふうにあなたは素知らぬふりをしているけれど。)
深山恋
さてもなほとはれぬ秋のゆふは山雲吹く風も峰にみゆらむ(新古1316)
(それでもやはり、あなたは来てくれないのか――私に飽きたのでしょうか。秋の夕暮のゆふは山にかかる雲を、無情な風が吹き払うのが見えるでしょう――そんなふうにつらい仕打ちに悲しんでいる、私の気持も分かってほしい。私もあの雲のように、あなたに弄ばれ、最後は見捨てられるというのでしょうか。)
春恋
恨みても心づからの思ひかなうつろふ花に春の夕暮(水無瀬恋十五首歌合)
(あの人をいくら恨んだところで、私の心から始まった思いなのだから、どうしようもないかなあ。散る桜の花に、そんな思いがする、春の夕暮だことよ。)
秋恋
思ひ入る身は深草の秋の露たのめし末や木枯しの風(新古1337)
(恋に深く心を沈めた我が身は、深草に宿る秋の露のようなものだ。期待させたあの人は、私に飽きたのだろう、とうとう来てくれず、果ては露が木枯しの風に吹き散らされるように、私はあの人の酷い態度のために、はかなくこの世から消えてしまうのだろうか。)
羇中恋
篠原やしらぬ野中のかり枕まつもひとりの秋風の声(水無瀬恋十五首歌合)
(ああ、篠ばかり生える、見知らぬ野原の真ん中、松の根もとで野宿する。松も一本寂しげに立っているが、私も独りぽっちで、待つ人もなしに、わびしく聞くばかりだ、松の梢を吹く秋風の音を。)
院百首 千五百番歌合是也、建仁元年 恋
おもへども人の心のあさぢふに置きまよふ霜のあへず消けぬべし(壬二集)
(いくら私が深く思っても、相手の心は浅く、浅茅原にあるかなきかに置いた霜がはかなく消えてしまうように、私もこの恋に迷った末こらえ切れず死んでしまうにちがいない。)
百首歌たてまつりしに
逢ふとみてことぞともなく明けぬなりはかなの夢の忘れがたみや(新古1387)
(逢えたと思ったら、なんということもなく、夜は明けてしまったようだ。はかない夢だった。あんな夢が忘れ形見になろうとは。)
内大臣家百首
時すぎて小野の浅茅にたつ煙知りぬや今も思ひありとは(自歌合)
(炭焼の季節は過ぎたのに、小野の浅茅原に煙が立っている――そのように、あなたに逢えぬまま時が過ぎた今も、私の心はまだ燃えているのです。そのことを知ってくれましたか。)
雑 / 守覚法親王家に、五十首歌よませ侍りける、旅歌
野辺の露うらわの波をかこちても行くへもしらぬ袖の月かげ(新古935)
(野辺を分け、入江のほとりを行き、濡れたのは露や波のせいだとごまかしたところで、つらい旅は行方も知れずに続くのだ――実は涙で濡れた袖に、月の光もあてどなく宿って…。)
羇旅を
をりしかむひまこそなけれ沖つ風夕たつ波のあらき浜荻(新拾遺843)
(夕暮、伊勢の浜辺で寝床をこしらえようとするが――沖からの風が激しく吹き、ひっきりなしに荒波が打ち寄せて、葦を折り敷くいとまもない。)
前内大臣家三十首歌に、旅宿を
かへすとも雲の衣はうらもあらじ一夜夢かせ岑の木がらし(雲葉集)
(峰をわたる木枯しよ、そんなに激しく吹いて雲の衣を返そうとでもいうのか。返したところで、裏などあるまい。吹き止んで、静かな眠りをくれ。そして一夜の夢を見せてくれ。)
五十首の歌たてまつりし時
明けばまた越ゆべき山の峰なれや空行く月の末のしら雲(新古939)
(夜が明ければ、また越えなければならない山の頂きなのか、空をわたる月が行き着く末の、白雲の見えるあたりは。)
旅の歌とてよめる
故郷にききし嵐のこゑも似ず忘れね人をさやの中山(新古954)
(さやの中山では、嵐の音も故郷で聞いたのとは似ていない。都の人のことは忘れてしまいな、我が心よ。)
百首歌たてまつりし時、旅歌
ちぎらねど一夜はすぎぬ清見がた波にわかるるあかつきの雲(新古969)
(清見潟のほとりに旅寝して――海の上に浮かぶ雲と契りを交わしたわけではないが、ともに一夜を過した。暁になり、雲は波と別れるように立ちのぼってゆく。さて、私も朝発ちして旅を続けるのだ。)
最勝四天王院障子に、あぶくま河かきたる所
君が代にあふくま川のむもれ木も氷の下に春をまちけり(新古1579)
(我が君の聖代に生まれ合わせて、阿武隈川の底に沈む埋れ木のような我が身も、氷の下で春の訪れを待っているのですねえ。)
鳥羽
君すみてとはにみるべき宿なれば田の面もはるかに松風ぞふく(壬二集)
(あなたがお住みになり未来永劫管理されるだろう離宮ですから、田の面はるかに祝意を表するように松風が吹いています。)
いにしへの幾世の花に春暮れて奈良の都のうつろひにけむ(日吉社撰歌合)
(遠い昔、奈良に都が築かれ、移ろうまでに、幾度春は訪れ、花に暮れていったことだろう。)
西行法師、百首歌すすめてよませ侍りけるに
いつかわれ苔の袂に露おきてしらぬ山ぢの月を見るべき(新古1664)
出家
いとひてもなほ故郷を思ふかな槙のを山の夕霧の空(壬二集)
百首歌たてまつりしに
滝の音松の嵐もなれぬればうちぬるほどの夢はみせけり(新古1624)
(滝の音や松を吹く嵐の音によく眠れず、夢も見ない夜々が続いたが、近頃はようやく馴れて、ふっとした微睡み程度の夢は見せてくれるようになったなあ。)
前大僧正の報恩講の次に、仏前祝
神垣やもとの光を尋ねきてみねにも君をなほいのるかな(壬二集)
舎利講の心を
つたへきて残る光ぞあはれなる春のけぶりに消えし夜の月(玉葉2725)
建暦二年内裏詩歌合、水郷秋夕
春日山おどろの道も中たえぬ身をうぢばしの秋の夕暮(壬二集)
(春日山のいばらの道――藤原氏の出として、公卿へと至る道――は、私の代で絶えてしまった。宇治橋に佇んで、身を憂く思う、秋の夕暮……。)
和歌所にて、述懐の心を (三首)
おほかたの秋の寝ざめの長き夜も君をぞ祈る身を思ふとて(新古1760)
(秋の夜は、たいてい途中で寝覚めしてしまうものですが、そんな長い夜の間も我が君のことをお祈りしています。御恵みに浴する我が身の幸をありがたく思って。)
和歌の浦やおきつしほあひにうかび出づるあはれ我が身のよるべ知らせよ(新古1761)
(和歌の浦よ、沖の潮合に浮かび出る泡ではないが、ああそのようにはかない我が身を寄せるべき所を教えてくれ。)
その山とちぎらぬ月も秋風もすすむる袖に露こぼれつつ(新古1762)
(月の光は袖に映り、そこへ秋風はあわれ深く吹き付ける――どこそこの山に一緒に入ろうと約束しているわけでもないのに、月も秋風も、早く世を捨てよと私に勧め、私の袖には涙の露がこぼれ続ける。)
承久三年七月以後、遠所へ読みて奉り侍りし時
寝覚してきかぬを聞きてかなしきは荒礒波の暁のこゑ(壬二集)
(明け方、ふと目が覚めて、聞こえないのに聞いた気がして悲しいのは、荒磯に打ち寄せる波の音です。)
遠所にて御歌合侍りしに、山家
さびしさはまだ見ぬ島の山里を思ひやるにもすむ心ちして(壬二集)
(寂しいことです、まだ見たこともない島の山里を、想像しただけでも、そこに住んでいるような気持がして。)
壬生の二位家隆卿、八十にて天王寺にてをはり給ひける時、七首の歌を詠みてぞ回向せられける。臨終正念にて、その志むなしからざりけり。かの七首の内に
契りあれば難波の里にやどりきて波の入日を拝みけるかな(古今著聞集)
(前世からの因縁があったので、こうして難波の里に宿りに来て、西方浄土を念じつつ西海の果てに沈む入日を拝んだのだった。) 
3
藤原家隆
大阪市民の愛着の深い地名「夕陽丘」は、『新古今和歌集』撰者の一人藤原家隆が、当地に「夕陽庵(あん)」を設け居住したのにちなむ。
彼は保元三(一一五八)年、京の藤原光隆の次男に生まれた。二十前後でまだ侍従という遅い出世だが、和歌の才能は卓越、幼いころ「霜月に霜の降るこそ道理なれど十月に十は降らぬぞ」と詠んだのを、後白河院が大笑いして神童だと褒めたエピソードがある。
歌壇の第一人者藤原俊成もひときわ目をかける。俊成には正妻と何人かの側室がいたが、どうしたわけか男子に恵まれず、弟で出家していた醍醐寺の僧俊海の子で十二歳の藤原定長を養子に迎える。ところが応保二(一一六二)年、側室加賀が長男を出産し大騒ぎとなった。この子が後の大歌人で冷泉家の祖藤原定家である。
加賀は鳥羽天皇皇后美福門院に仕えた才媛の女房で、夫の藤原為経との間に一子隆信(画家)があったが、為信は政争に巻き込まれ失脚。妻を離縁し出家遁世(とんせい)した。加賀は宮中でも評判の美貌(びぼう)だったため多くの求婚者が現れるが、なんと彼女が再婚した相手は四十七歳になる老人藤原俊成で、これには誰もがびっくりした。俊成もよほどうれしかったのか、加賀一人を溺愛(できあい)するうちに、定家が生まれたのである。
時に二十三歳になっていた養子定長は、俊成の後継者になれば定家と必ず敵対するであろうと恐れ、従五位中務(なかつかさ)小輔の地位も捨て出家、西行とつきあい河内や大和を放浪、歌枕を訪ねて出雲や鎌倉まで足を延ばし、歌僧として生きる道を選ぶ。この定長が有名な三夕(さんせき)の一つ「村雨の霧もまだひぬ真木(まき)の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮」を詠んだ寂蓮(じゃくれん)法師である。
一方、定家は成長するに従って、異常な才能を見せはじめた。保守的な歌壇からは達磨(だるま)歌(けったいな歌の意味)だと異端視されるが、前衛的な芸術を評価した後鳥羽院のお気に入りとなり、宮中の仙洞御所歌会の指導者に出世する。院は十八歳で土御門天皇に譲位した後、二十三年間も院政を行った実力者で、学問・芸術から武道にまで通じた異色の天皇である。狷介固陋(けんかいころう)(頑固で人と折り合わぬ)といわれた定家とどこでウマが合ったかは分からぬが、定家を重用、正治三(一二〇一)年、定家を中心に源通具・藤原有家・藤原雅経・藤原家隆の五人に、『新古今和歌集』の編纂(へんさん)を命じた。
この時、家隆は四十八歳、四つ年上の定家をよく支え、実質的には二人で同集をまとめている。しかし、編集過程で院と定家は何度も激突した。定家の草稿に院は真っ赤になるほど朱を入れる。院はまだ二十代前半だから血気盛んで、やたらと高飛車に出る。円満で情に厚く謙虚な人柄だった家隆は、懸命に両者の融合に努めた。やがて好き嫌いの激しい院は、定家を無視して家隆をひいきにし、あの「水無瀬(みなせ)歌会」まで家隆に委ね、官位も正五位、従四位下と昇進させていった。
ところが人生は、何がどうなるかは分からない。承久三(一二二一)年、院は鎌倉幕府の討伐を図り合戦となるが、武力で武士集団に勝てるはずはなく、あっけなく敗れて隠岐島に流されてしまう。朝廷勢力が衰退し武家政治が確立される「承久の変」である。院に庇護(ひご)された家隆は没落、嫌われた家定は鎌倉幕府に厚遇され、宮廷の実権は家定の妻の弟の西園寺公経が握る。
幕府三代将軍源実朝は歌人としても知られる。彼は家定を師と仰いで尊敬したから家定は歌壇のトップに君臨し、位階も正二位、権中納言に任じられ、父俊成をはるかにしのいだ。一方、家隆はあくまでも隠岐の院に忠誠を尽くし、幕府の目を恐れず秀歌を届けて慰め続けている。

承久三(一二二一)年、「承久の変」で敗れた後鳥羽院は隠岐島に流され、院に重用された藤原家隆は、鎌倉幕府から嫌われる。一方、家隆の師匠藤原俊成の嫡子家定は幕府のおぼえめでたく、正二位権中納言に昇進、宮廷歌壇の頂点に立った。
個性派で偏屈な定家だが、かつて院の勅命で『新古今和歌集』を編纂(へんさん)したとき、片腕になって働いてくれた家隆には同情し、彼の「幾里か月の光も匂(にお)ふらむ梅咲く山の峰の春風」という詠歌を、「古今稀(まれ)な絶唱なり」と高く評価し、自分が編んだ『新勅撰和歌集』に誰よりも多く家隆の作歌を収録している。
定家は官位に執着したが、家隆はあまり関心を示さなかった。四十九歳でやっと「宮内卿」に任官されたとき、知人の源家長が祝歌を届けるまで知らなかったという。歌風は『続歌仙落書』に「気高くやさしく艶(えん)なるさま」、『正徹物語』に「詞利きて気骨を詠む」と記されているように、平明だが気品の漂うものであった。また、頓阿(とんあ)(二条家歌学を再興した歌僧)の『井蛙抄(せいあしょう)』には「家隆詠歌六万程」とあり、驚くほど多作の歌人でもある。
ある日、親しい西行は「貴殿の歌はいいが見聞が狭い。日常生活ばかりが題材で惜しまれる。そうだ、旅に出ないか」と誘うと、「いつか我苔(われこけ)のたもとに露おきて知らぬ山路の月を見るべき」と答えている。身辺雑詠ばかりの自作を恥じていたのかもしれぬ。
そんな家隆が後に幽玄体と呼ばれる芸術的香気を放つ名歌を詠みだしたのは、古希に達してからだ。なかでも寛喜元(一二二九)年、後堀河天皇に入内(じゅだい)した藻壁門院(そうへきもんいん)(関白藤原道家女(むすめ))の依頼に応じた屏風(びょうぶ)歌「風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける」は、朝廷の大評判となった。上賀茂神社の御手洗(みたらし)川で行われる六月祓(みなづきばらえ)(晩夏に身体を水で浄(きよ)め汚れを除く神事)のさわやかな風情がたくみに表現され、今も「百人一首」で愛誦(あいしょう)される秀歌である。
嘉禎元(一二三五)年、従二位に昇進した家隆は、七十七歳という稀な高齢を自覚、翌二年すべてを捨てて出家、仏性と号し「日想観」を修めるため難波に移る。初めての旅だ。日想観とは海に沈む夕陽(ゆうひ)を拝みながら、浄土極楽往生を願う修行である。
この時代は厳しい階級制度と戦乱による秩序の崩壊で社会矛盾は強まり、人々は現世を嫌忌し彼岸に設けたユートピア極楽に、ひたすら往生を願おうとした。西方浄土というからには極楽は西の方だと想定し、夕陽を追って移動する「極楽まいり」が流行する。
そんな人たちは海岸線が来ていた四天王寺(大阪市天王寺区)あたりの上町台地から、水平線に沈んでいく夕陽を見て荘厳さに驚嘆した。海を知らなかった都人はその地に座り込み、念仏を唱えて仏に浄土往生を願う。これが日想観で、法然や親鸞、日蓮たちも当地で日想観を修している。
家隆はとある小丘に「夕陽庵(あん)」という小庵を構え、飲食も制限して夕陽を見つめながら合掌し、念仏を唱え続けた。『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』によれば、「契りあれば難波(なにわ)の里に宿りきて波の入日を拝みつるかな」「難波海を雲井になして拝むれば遠くも見えず弥陀の御国は」「かくばかり契りまします阿弥陀仏(あみだぶつ)を知らで悲しき年を経にける」などの七首を詠じ、同三年四月八日酉刻(とりのこく)(午後六時ごろ)、念願通り夕陽を拝みながら静かに息をひきとった。享年七十九。
家隆が埋葬されたと伝える小墳丘(同市天王寺区夕陽丘町)は「家隆(かりゅう)塚」と呼ばれ、享保六年、彼を敬う僧盛順が顕彰碑を建立した。碑文は風化して判読困難だが、『大阪府全志』や『大阪訪碑録』に全文が出ている。家隆塚は長い間荒れていたが、近年美しく整備された。 
 
99.後鳥羽院 (ごとばいん)  

 

人(ひと)も惜(を)し 人(ひと)も恨(うら)めし あぢきなく
世(よ)を思(おも)ふゆゑに 物思(ものおも)ふ身(み)は  
人をいとおしく思うこともあれば、人を恨めしく思うこともある。思うにまかせず、苦々しくこの世を思うがゆえに、あれこれと思い煩うこの私は。 / ある時は人々を愛しく思い、またある時は恨めしいとも思う。この世はどうにかならないものだろうが、それゆえに物思いをする私であるよ。 / ひとを愛しくも思い、恨めしくも思うのです。思うとおりにならなくてつまらないと、世の中を思うから、いろいろと思い悩むのですよ。 / 人が愛しくも思われ、また恨めしく思われたりするのは、(歎かわしいことではあるが) この世をつまらなく思う、もの思いをする自分にあるのだなぁ。
○ 人も惜し人も恨めし / 「人も惜し」と「人も恨めし」は、並列。「惜し」は、いとおしい。両方の「人」を同一人物とする説と別人とする説がある。
○ あぢきなく / 思うようにならない気持ちを表すク活用の形容詞、「あぢきなし」の連用形で、「思う」にかかる。
○ 世を思ふゆゑに / 字余り。「世」は、この世。「に」は、原因・理由を表す格助詞。
○ 物思う身は / 意味上、ここから初句に続く倒置法。「物思う」は、思い煩うこと。「身」は、自分自身。「は」は、強意の係助詞。 
鎌倉・室町時代概観
1
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。
「神器なき即位」
寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題や政務の停滞を解消するために安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果を漸く得たという。法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例がある(「継体天皇先例説」、ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)と勅答している(『玉葉』寿永2年8月6日条)。10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、神器無き新帝践祚を肯定する内容となっている。新帝の候補者として義仲は北陸宮を推挙したが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させる事に決めた。丹後局の進言があったという。8月20日、後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例に倣って実施された。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、同様に神器のないままに実施された。
安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)まで在位期間が2年間重複している。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだまま遂に回収されることが無かった。文治3年(1187年)9月27日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上断念された。以後も建久元年(1190年)1月3日に行われた天皇の元服の儀なども神器が揃わないまま行われた。承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、既に上皇になっていた後鳥羽天皇は奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなすこととした。だが、後鳥羽天皇はその2年後の建暦2年(1212年)になって検非違使であった藤原秀能を西国に派遣して宝剣探索にあたらせている。
伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた。 また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった。 後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある。
治世
建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いた。後白河院の死後は関白・九条兼実が朝廷を指導した。兼実は後白河法皇が忌避した源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、頼朝の娘の入内問題から関係が疎遠となった。これは土御門通親の策謀によるといわれる。建久7年(1196年)、通親の娘に皇子が産まれた事を機に政変(建久七年の政変)が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ宮中から追われた。この政変には頼朝の同意があったとも言う。
院政
建久9年(1198年)1月11日、土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と承久3年(1221年)まで、3代23年間に亘り上皇として院政を敷く。上皇になると土御門通親をも排し、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採り、正治元年(1199年)の頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採った。
建仁2年(1202年)に九条兼実が出家し、土御門通親が急死した。既に後白河法皇・源頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。翌年の除目は上皇主導で行われ、藤原定家は「除目偏出自叡慮云々」と記している(『明月記』建久3年1月13日条)。また、公事の再興・故実の整備にも積極的に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。その厳しさを定家は「近代事踏虎尾耳」(『明月記』建暦元年8月6日条)と評している。その後、源千幡が3代将軍になると、上皇が自ら「実朝」の名乗りを定め(『猪隈関白記』建仁3年9月7日条)、実朝を取りこむことで幕府内部への影響力拡大を図り、幕府側も子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる「宮将軍」の構想を打ち出してきたことから、朝幕関係は一時安定期を迎えるが、実朝が甥の公暁に暗殺されたことでこの関係にも終止符が打たれ、宮将軍も上皇の拒絶にあった。
承久元年(1219年)、内裏守護である源頼茂が西面武士に襲われて内裏の仁寿殿に籠って討死を遂げ、その際の火災によって仁寿殿ばかりか宜陽殿・校書殿など、内裏内の多くの施設が焼失した。この原因については頼茂が将軍の地位を狙ったとする説や頼茂が上皇の討幕の意図を知ったからなど諸説ある。このため、上皇は堀川通具を上卿として内裏再建を進め、全国に対して造内裏役を一国平均役として賦課した。だが、東国の地頭たちはこれを拒絶したため、最終的には西国からの費用で再建されることになった(ただし、その背景として朝幕関係の悪化があったのか、朝廷や幕府に強制的に徴収する力がなかったのか、については不明である)。この再建が承久の乱以前に完成したのか、乱によって中絶したのかについては定かではないものの、この内裏再建が朝廷主導による内裏造営の最後のものとなった。
承久の乱
承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗。わずか2ヶ月あとの7月9日、19万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男・泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流された。父の計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流された。さらに、在位わずか3ヶ月足らずの仲恭天皇(当時4歳)も廃され、代わりに高倉院の孫、茂仁王が皇位に就き、その父で皇位を踏んでいない後高倉院が院政をみることになった。
崩御
後鳥羽院は隠岐に流される直前に出家して法皇となった。『明月記』の記録によると、文暦2年(1235年)の春頃には摂政・九条道家が後鳥羽院と順徳院の還京を提案したが、北条泰時は受け入れなかった。
四条天皇代の延応元年(1239年)2月20日、配所にて崩御した。同年5月、「顕徳院」と諡号が贈られた。『平戸記』によると泰時が死亡した仁治3年(1242年)の6月に、九条道家が追号を改めることを提案し、あらためて「後鳥羽院」の追号を贈ることとなった。後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3年(1242年)7月には正式に院号が「後鳥羽院」とされた。
歌人
後鳥羽院(ごとばいん/ごとばの いん)は中世屈指の歌人であり、その歌作は後代にまで大きな影響を与えている。
院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年(1198年)1月の譲位、ならびに同8月の熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり、正治元年(1199年)以降盛んに歌会・歌合などを行うようになった。院は当初から、当時新儀非拠達磨歌と毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、ことにその中心人物だった藤原定家の歌風に憧憬の念を抱いていたらしく、正治2年(1200年)7月に主宰した正治初度百首和歌では、式子内親王・九条良経・藤原俊成・慈円・寂蓮・藤原定家・藤原家隆ら、九条家歌壇の御子左家系の歌人に詠進を求めている。この百首歌を機に、院は藤原俊成に師事し、定家の作風の影響を受けるようになり、その歌作は急速に進歩してゆく。同年8月以降、正治後度百首和歌を召す。対象となった歌人は飛鳥井雅経・源具親・鴨長明・後鳥羽院宮内卿ら院の近臣を中心とする新人。この時期、院は熱心に新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせており、これが後に九条家歌壇、御子左家の歌人らとともに代表的な新古今歌人として成長する院近臣一派の基盤となる。
二度の百首歌を経ていよいよ和歌に志を深めた院はついに勅撰集の撰進を思い立ち、建仁元年(1201年)七月には和歌所を再興する。寄人は藤原良経、慈円、土御門通親、源通具、釈阿(俊成)、藤原定家、寂蓮、藤原家隆、藤原隆信、藤原有家(六条藤家)、源具親、藤原雅経、鴨長明、藤原秀能の14名(最後の3名は後に追加)、開闔(かいこう)は源家長である。またこれより以前に未曾有の歌合千五百番歌合を主宰。当代の主要歌人30人に百首歌を召してこれを結番し、歌合形式で判詞を加えるという空前絶後の企画だったが、この歌合は、新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長などの面から見ても日本文学史上大きな価値を持つ。さらにこのような大規模な企画を経て、同年11月にはついに藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』撰進がはじまった。同集の編集にあたっては、『明月記』そのほかの記録から、院自身が撰歌、配列などに深く関与し、実質的に後鳥羽院が撰者の一人であったことも明らかになっている。
また、室町時代の皇族貞成親王(後花園天皇実父)が著した日記『看聞日記』応永31年2月29日条(高松宮家旧蔵本)には後鳥羽院の宸記(日記)のうち、建保3年5月15日・19日および11月11日条の一部が引用されている。そこには、院が御忍びで地下連歌の席に出向いて、当時自らが出していた銭禁令(宋銭禁止令)に反して銭を賭けて勝利したこと、後日このことを「見苦し」としながらも再び連歌で賭け事をしたことが記されている。
後世の評価
後白河法皇の崩御後は自ら親政及び院政を行ったが、治天の君として土御門天皇を退かせて寵愛する順徳天皇を立てその子孫に皇位継承させた事には貴族社会からは勿論、他の親王達からの不満を買った。また三種の神器を欠いた即位の経緯も不評を買った。専制的な暴政や無謀な討幕計画に対しては院の側近以外の貴族達は冷ややかな対応に終始した。このため、承久の乱後においては、幕府の政治的影響力の拡大を差し引いても後鳥羽院に同情的な意見は少なく、『愚管抄』・『六代勝事記』・『神皇正統記』などは、いずれも院が覇道的な政策を追求した結果が招いた自業自得の最期であったと手厳しいものがあった。
寛元2年(1244年)には後鳥羽上皇の追善八講が公家沙汰(朝廷主催の行事)に格上され、宝治2年(1248年)には後嵯峨上皇が後鳥羽上皇が定制化したものの承久の乱で中絶した院御所最勝講を先例として復活させた。これは、土御門天皇系の後嵯峨天皇(上皇)が皇位継承を巡って緊張関係にあった順徳天皇系の忠成王(仲恭天皇の弟)に対抗するために土御門系が後鳥羽天皇の正統な後継者であることを主張する必要があり、その前提として後鳥羽上皇の名誉回復を進める必要があったためである。これは、忠成王支持派を抑えて後嵯峨天皇即位を強行した鎌倉幕府の暗黙の了承の上での行為であった。
これに対して、鎌倉幕府滅亡後には歌人としての後鳥羽院を再評価しようとする動きも高まった。『増鏡』における後鳥羽院はこうした和歌をはじめとする「宮廷文化の擁護者」としての側面をより強調している。
怨霊としての後鳥羽院
配流後の嘉禎3年(1237年)に後鳥羽院は「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との置文を記した。また同時代の公家平経高の日記『平戸記』には三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊が原因とする記述があり、怨霊と化したと見られていた。
御所焼・菊紋
刀を打つことを好み、備前一文字派の則宗をはじめとして諸国から鍛冶を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられる。また自らも焼刃を入れそれに十六弁の菊紋を毛彫りしたという。これを「御所焼」「菊御作」などと呼ぶ。天皇家の菊紋のはじまりである。 
2
後鳥羽院 治承四〜延応一(1180〜1239) 諱:尊成(たかひら)
治承四年七月十四日(一説に十五日)、源平争乱のさなか、高倉天皇の第四皇子として生まれる。母は藤原信隆女、七条院殖子。子に昇子内親王・為仁親王(土御門天皇)・道助法親王・守成親王(順徳天皇)・覚仁親王・雅成親王・礼子内親王・道覚法親王・尊快法親王。寿永二年(1183)、平氏は安徳天皇を奉じて西国へ下り、玉座が空白となると、祖父後白河院の院宣により践祚。翌元暦元年(1184)七月二十八日、五歳にして即位(第八十二代後鳥羽天皇)。翌文治元年三月、安徳天皇は西海に入水し、平氏は滅亡。文治二年(1186)、九条兼実を摂政太政大臣とする。建久元年(1190)、元服。兼実の息女任子が入内し、中宮となる(のち宜秋門院を号す)。同三年三月、後白河院は崩御。七月、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。建久九年(十九歳)一月、為仁親王に譲位し、以後は院政を布く。同年八月、最初の熊野御幸。翌正治元年(1199)、源頼朝が死去すると、鎌倉の実権は北条氏に移り、幕府との関係は次第に軋轢を増してゆく。またこの頃から和歌に執心し、たびたび歌会や歌合を催す。正治二年(1200)七月、初度百首和歌を召す(作者は院のほか式子内親王・良経・俊成・慈円・寂蓮・定家・家隆ら)。同年八月以降には第二度百首和歌を召す(作者は院のほか雅経・具親・家長・長明・宮内卿ら)。建仁元年(1201)七月、院御所に和歌所を再興。またこれ以前に「千五百番歌合」の百首歌を召し、詠進が始まる。同年十一月、藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる。同歌集の編纂には自ら深く関与し、四年後の元久二年(1205)に一応の完成をみたのちも、「切継」と呼ばれる改訂作業を続けた。同二年十二月、良経を摂政とする。元久二年(1205)、白河に最勝四天王院を造営する。承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺され、幕府との対立は荘園をめぐる紛争などを契機として尖鋭化し、承久三年五月、院はついに北条義時追討の兵を挙げるに至るが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北、七月に出家して隠岐に配流された。以後、崩御までの十九年間を配所に過ごす。この間、隠岐本新古今集を選定し、「詠五百首和歌」「遠島御百首」「時代不同歌合」などを残した。また嘉禄二年(1226)には自歌合を編み、家隆に判を請う。嘉禎二年(1236)、遠島御歌合を催し、在京の歌人の歌を召して自ら判詞を書く。延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。六十歳。刈田山中で火葬に付された。御骨は藤原能茂が京都に持ち帰り、大原西林院に安置した。同年五月顕徳院の号が奉られたが、仁治三年(1242)七月、後鳥羽院に改められた。歌論書に「後鳥羽院御口伝」がある。新古今集初出。

ほのぼのと春こそ空にきにけらし天のかぐ山霞たなびく
いつしかと霞める空のけしきにてゆくすゑ遠しけさの初春
鶯のなけどもいまだふる雪に杉の葉しろきあふ坂の山
見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけん
春ゆけば霞のうへに霞みして月に果つらし小野の山みち
を泊瀬や宿やはわかん吹きにほふ風の上ゆく花の白雲
桜咲く遠山鳥のしだり尾のなかながし日もあかぬ色かな
吉野山さくらにかかる夕がすみ花もおぼろの色はありけり
吹く風もをさまれる世のうれしきは花みる時ぞまづおぼえける
われならで見し世の春の人ぞなきわきてもにほへ雲の上の花
春はただ軒端の花をながめつついづち忘るる雲の上かな
春雨も花のとだえぞ袖にもる桜つづきの山の下道
み吉野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春の明けぼの
治めけんふるきにかへる風ならば花散るとても厭はざらまし
風は吹くとしづかに匂へ乙女子が袖ふる山に花の散る頃

なにとなく過ぎこしかたの恋しきにこころともなふ遅桜かな
あやめふく萱が軒端に風すぎてしどろに落つる村雨の露
難波江やあまのたくなは燃えわびて煙にしめる五月雨のころ
ほととぎす雲ゐのよそに過ぎぬなり晴れぬ思ひの五月雨のころ
神山にゆふかけてなくほととぎす椎柴がくれしばし語らへ
夕立のはれゆく峰の雲間より入日すずしき露の玉笹
呉竹の葉ずゑかたよりふる雨にあつさひまある水無月の空
見るからにかたへ涼しき夏衣日も夕暮のやまとなでしこ

秋の露やたもとにいたくむすぶらん長き夜あかずやどる月かな
露は袖に物おもふ頃はさぞなおくかならず秋のならひならねど
野原より露のゆかりを尋ねきてわが衣手に秋風ぞふく
ものや思ふ雲のはたての夕暮に天つ空なる初雁の声
はつ雁のとばたの暮の秋風におのれとうすき山の端の雲
いにしへの千世のふる道年へてもなほ跡ありや嵯峨の山風
里のあまのたくものけぶり心せよ月のでしほの空晴れにけり
うす雲のただよふ空の月かげはさやけきよりもあはれなりけり
秋の雲千里をかけて消えぬらし行くこと遅き夜半の月かな
ひさかたの桂のかげになく鹿はひかりをかけて声ぞさやけき
さびしさはみ山の秋の朝ぐもり霧にしをるる真木の下露
秋ふけぬ鳴けや霜夜のきりぎりすややかげ寒しよもぎふの月
山の蝉なきて秋こそふけにけれ木々の梢の色まさりゆく
思ひ入る色は木の葉にあらはれてふかき山路の有明の月
山もとの里のしるべの薄紅葉よそにもをしき夕嵐かな
月ぞ今はもる山道の夕時雨のこる下葉も嵐吹くなり
鈴鹿河ふかき木の葉に日数へて山田の原の時雨をぞきく
深緑あらそひかねていかならむ間なく時雨のふるの神杉
水無瀬山木の葉あらはになるままに尾上の鐘の声ぞちかづく

わたつ海の浪の花をば染めかねて八十島とほく雲ぞ時雨るる
物おもへばしらぬ山路にいらねどもうき身にそふは時雨なりけり
をしねほす伏見のくろにたつ鴫の羽音さびしき朝霜の空
橋姫のかたしき衣さむしろに待つ夜むなしき宇治の明けぼの
この比は花も紅葉も枝になししばしな消えそ松のしら雪
思ひかねなほ妹がりとゆきもよにわが友千鳥空に鳴くなり
雪つもる民の家ゐに立つ煙これも世にふる道や苦しき
冬の夜のしののめの空は明けやらでおのれぞ白き山の端の雪

我が恋は真木の下葉にもるしぐれぬるとも袖の色に出でめや
たのめずは人をまつちの山なりと寝なましものをいざよひの月
思ひつつ経にける年のかひやなきただあらましの夕暮の空
袖の中に人の名残をとどめおきて心もゆかぬしののめの道
風の音のそれかとまがふ夕暮の心のうちをとふ人もがな
袖の露もあらぬ色にぞきえかへるうつればかはる歎せしまに
里は荒れぬ尾上の宮のおのづから待ちこし宵も昔なりけり
思ふことそなたの雲となけれども生駒の山の雨の夕暮
わくらばにとひこし比におもなれてさぞあらましの庭の松風

哀傷
十月ばかりに水無瀬に侍りしころ、前大僧正慈円のもとへ、ぬれてしぐれのなど申し遣はして、次の年の神無月に無常の歌あまたよみて遣はし侍りし中に
思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に
なき人のかたみの雲やしをるらん夕の雨に色は見えねど
羇旅
見わたせば村の朝けぞ霞みゆく民のかまども春にあふ頃
さびしさをいつより馴れてながむらんまだ見ぬ山の秋の夕暮
熊野へまかり侍りしに、旅の心を
見るままに山風あらくしぐるめり都も今は夜寒なるらむ
神祇
社頭述懐
みづがきやわが世のはじめ契りおきしそのことのはを神やうけけん
伊勢
ながめばや神路の山に雲きえて夕べの空を出でん月かげ
神風や豊みてぐらになびくしでかけて仰ぐといふもかしこし
万代の末もはるかに見ゆるかなみもすそ川の春の明けぼの
熊野
岩にむす苔ふみならす三熊野の山のかひある行末もがな
くまの川くだす早瀬のみなれざをさすがみなれぬ波の通ひ路
ちぎりあればうれしきかかる折にあひぬ忘るな神も行末の空
釈教
おしなべて空しき空のうすみどり迷へばふかきよものむら雲
法性のそら元来清浄なれども、妄想の雲おほひぬれば正因仏性ありともしらず、このことわりをして仏になることかたし、即ち一微塵のうちに法界ことごとくをさまる、況や三十一字の間に実相のことわりきはまれり
述懐
大空にちぎる思ひの年もへぬ月日もうけよ行末の空
思ふべし下りはてたる世なれども神の誓ひぞなほも朽ちせぬ
昔には神も仏もかはらぬを下れる世とは人のこころぞ
いにしへの人のこころにゐし堰はいづれの世より跡絶えにけん
見ず知らぬ昔の人の恋しきはこの世を嘆くあまりなりけり
よそにては恨むべしとも見えじ世を袖しをれつつ嘆きこしかな
人ごころ恨みわびぬる袖のうへをあはれとや思ふ山の端の月
人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
大方のうつつは夢になしはてつぬるがうちには何をかも見ん
夏山のしげみにはへる青つづら苦しやうき世わが身ひとつに
ながめのみしづのをだまきくりかへし昔を今の夕暮の空
奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人にしらせむ
遠島百首より
かすみゆく高嶺を出づる朝日影さすがに春の色をみるかな
遠山路いくへもかすめさらずとてをちかた人のとふもなければ
古郷をしのぶの軒に風すぎて苔のたもとににほふたち花
おなじくは桐の落葉もふりしけなはらふ人なき秋のまがきに
見し世にもあらぬ袂のあはれとやおのれしをれてとふ時雨かな
冬ごもるさびしさ思ふ朝な朝なつま木の道をうづむ白雪
とへかしな雲の上より来し雁のひとり友なき浦になく音を
浪間よりおきの湊に入る舟の我ぞこがるる絶えぬ思ひに
里とほみきねが神楽の音すみておのれも更くる窓の灯
暁の夢をはかなみまどろめばいやはかななる松風ぞ吹く
過ぎにける年月さへぞ恨めしき今しもかかる物思ふ身は
夕月夜入江に塩や満ちぬらん芦のうら葉のたづのもろ声
ことづてむ都までもし誘はればあなしの風にまがふ村雲
われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ
なびかずは又やは神に手向くべき思へば悲し和歌の浦浪 
3
後鳥羽上皇の熊野御幸
後鳥羽天皇像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵) 建久3年(1192)、34回もの熊野御幸を行った後白河上皇が没し、源頼朝は征夷大将軍に任命され、時代は鎌倉時代へと入っていきましたが、熊野御幸は終焉を迎えませんでした。鎌倉に武家政権ができたといっても、京都には天皇・上皇を中心とする公家政権が変わらず存続し、後白河上皇没後も、後鳥羽上皇が院政を引き継ぎ、熊野御幸をも継承しました。
後鳥羽上皇(1180〜1239)は高倉天皇の第4皇子。平家一門が安徳天皇を伴って都落ちしたことを受けて、寿永2年(1183)、祖父・後白河法皇の意向で4歳で即位しました。15年の在位の後、建久9年(1198)に19歳で譲位、院政を開始し、土御門・順徳・仲恭の三代に渡って院政を行いました。
後鳥羽上皇は、譲位したその年にさっそく熊野御幸を行うほど、熊野信仰に熱心でした。その熱心さは生涯に34回もの熊野御幸を行った後白河上皇をも凌ぐということができるかもしれません。後白河上皇は35年の在院期間のうちに34回の熊野御幸を行ったのに対し、後鳥羽上皇は24年の在院期間のうちに28回。往復におよそ1ヶ月費やす熊野御幸を後鳥羽上皇はおよそ10ヶ月に1回という驚異的なペースで行いました。
鎌倉幕府の干渉を嫌った後鳥羽上皇は自ら弓馬などの武芸を好み、これまでの北面の武士に加え、西面の武士を置き、また諸国の武士を招くなどして、幕府の配下にない軍事力の掌握に務めました。したがって、後鳥羽上皇の度重なる熊野御幸には、熊野を味方につけるという政治的な意味合いも強かったものと思われます。
後鳥羽上皇の熊野御幸で特徴的なのは、道中のところどころの王子社などで、和歌会(わかえ)が催されたことです。熊野詣の途上、王子社などでは、神仏を楽しませる法楽として、白拍子・馴子舞・里神楽・相撲など、様々な芸能が演じられましたが、和歌に熱心だった後鳥羽上皇の熊野御幸では神仏を楽しませるために和歌の会が催されました。
28回の後鳥羽上皇の熊野御幸のうち、史料的に和歌会が催されたことが確認できるのは、3回目の正治2年(1200)の御幸と4回目の建仁元年(1201)の御幸の2回のみ。そのうち、建仁元年の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』に記していて、それによると、住吉社・厩戸王子・湯浅宿・切部王子・滝尻王子・近露宿・本宮・新宮・那智の9ケ所で和歌の会が催されていることがわかります。『新古今和歌集』編纂の院宣が下されたのは、この建仁元年の熊野御幸から帰京して数日後のことでした。

鎌倉時代の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には後鳥羽上皇の熊野御幸にまつわるこんな話が記されています。
後鳥羽院が御熊野詣なさるのに、陰陽の頭(陰陽寮の長官)在継(ありつぐ。賀茂在継。造暦・文章博士・大膳大夫)を召してお連れになったときのこと。後鳥羽院は毎日、御日課として千手経を読誦なさっていた。件の御経を御経箱に入れられていたのを取り出しになろうとしたが、その御経が見えない。どんなに探しても見つからなかったので、在継をお呼びになって占わせられたところ、けっしてなくなってはいないということを申して、「もっとよくよくお探しになってください。手違いでいまだ箱の中にございますので」と申した。その後、またお探しになったところ、御経箱のふたに御経の軸が詰まって付いていたのを見逃していたのであった。後鳥羽院は御関心なさって、在継に御衣をお与えになったという。
上皇や女院、貴族が熊野参詣を行う場合、陰陽師に占わせ、参詣の日程を決定しました。熊野参詣に限らず、平安時代の皇族・貴族たちは陰陽師の占いによって行動の指針を得ていました。
陰陽道は、中国の自然哲学「陰陽五行思想」に基づいて天体を観測して、暦を作り、吉凶を占う占星術のようなものです。飛鳥時代に陰陽寮という政府機関が設置されて以降、国家を運営する上で重要な役割を陰陽道は果たしましましたが、平安時代になると、陰陽道は貴族の間で大流行し、貴族の日常の行動にまで指針を与えるようになりました。
平安末期の熊野信仰の隆盛には少なからず陰陽道の影響があったものと考えられます。陰陽道の占いによって行動の指針を得ていたのですから、陰陽師の支持なしに上皇や貴族の熊野参詣が可能であったとは考えられません。
陰陽道と熊野との関わりはよくわかりませんが、陰陽師と熊野修験者との間には何らかの交流があったのだと思います。神社のお札は陰陽道の符呪を元とするそうで、熊野牛王宝印も陰陽師と熊野修験者との交流のなかに生まれたものなのかもしれません。熊野信仰は古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立った、ある意味「何でもあり」の宗教ですから、陰陽道をもためらいもなく取り入れたのではないかと思います。
史上最高の陰陽師安倍晴明も那智の滝で修業したと伝えられますし、熊野九十九王子のひとつであった安倍王子神社は境外末社として安倍晴明神社をもち、篠田王子は、聖(ひじり)神社という陰陽師の神を祀る神社や葛ノ葉稲荷神社(信太の森神社)の近くにありました。また東京都葛飾区立石の熊野神社は陰陽師安部春明により勧請され創建されたと伝わります(安部春明は安倍晴明にもじって付けられた架空の陰陽師の名前でしょうか)。
しかし、熊野のこういう「何でもあり」のところが、神道国教化政策を進める明治政府には気に入らなかったのでしょうね。熊野の神社の8割から9割が廃滅されたといいますし。記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々は熊野では大方滅ぼされてしまいました。

承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺されて源氏の将軍が絶えると、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との対立が先鋭化し、承久三年(1221)5月、後鳥羽上皇はついに北条義時追討のために挙兵。承久の乱が起こりました。
承久の乱が起こる3ヶ月前に、後鳥羽上皇は28回めの熊野御幸を行っており、熊野で鎌倉幕府打倒の密談が行われた可能性もあります。熊野三山検校であった長厳(ちょうげん)の勧めのより上皇が挙兵した可能性は高く、熊野は上皇方の兵力として期待され、上皇のもとには熊野の衆徒たちが多く駆けつけましたが、短期決戦に出た鎌倉軍に京都は瞬く間に制圧されてしまいました。上皇方に参加した熊野権別当・小松法印快実(かいじつ)とその子・千王禅師(せんのうぜんじ)も討ち死にしてしまいました。
敗れた後鳥羽上皇は、院政の経済的基盤である全国3000ケ所に及ぶ荘園を鎌倉幕府に没収され、隠岐(島根県)に配流されてしまいます。熊野御幸を準国家的行事として営んできた院政政権はこの乱の敗北により崩壊し、熊野御幸は終焉に向かいます。承久の乱後は、わずかに後嵯峨上皇が2回、亀山上皇が1回詣でているのみです。
隠岐に流された後鳥羽上皇は終生許されることなく、19年にわたる配所生活の後、60歳で崩御しました。 
4
後白河上皇と後鳥羽上皇
現役の天皇が次の天皇を意中のひとに継がせるため、早めに天皇を辞して上皇となり、若き天皇が育つまで後ろから操る傀儡政権の仕組みを、院政と呼ぶ。院とは上皇のこと。したがって院政をしいて権力を振るう上皇は「治天の君」と呼ばれた。最高権力者の意である。上皇のなかでもとくにその名をとどめるのが後白河上皇とその孫、後鳥羽上皇である。ともに異色の上皇といっていい。
後白河上皇は平安末期のひとで、朝廷にあった政治権力が武士に剥奪される熾烈な時代を生きた。歴代天皇のなかで最も過酷な運命のひとりといえる。ただ若き日の彼に天皇の目はなく、それもあってか政治に無頓着で破天荒な生活に明け暮れた。
宮中のしきたりを無視して、傀儡、白拍子、巫女など下層芸人を手元に招き入れ、今様を楽しむ。そのうち、乙前(おとまえ)という傀儡の老女に師事し、免許皆伝をうけるまで上達した。今様とは平安時代に流行った七五調の民謡である。さらには白拍子を囲って周囲のひんしゅくを買った。当然ながら父や兄からも、天皇の器量なしと、烙印を押されていた。
宮中の冷ややかな目をよそに、後白河は彼らを通して全国の歌謡を集め、梁塵秘抄の選者となった。隣の儒教国・中国や朝鮮では、士大夫が身分の低い芸人と接することはありえず、最高権力者が歌謡の編集に携わることも考えられない。儒教社会では、芸を卑しいものとみなし、身分の高いものが手を出すことはなかったからである。我が国は中国から律令を取り入れても、儒教国家にはなっていなかったことを示している。
今様に明け暮れていた後白河に、政争の間隙をぬって突如、ショートリリーフの役が飛び込んできたのである。こうして腰掛けの約束で天皇の地位についた後白河であったが、まったく予想外の長期政権を手にすることになる。
保元の乱で義兄・崇徳上皇の勢力に勝利した後白河天皇は、わずか3年で約束通り息子の二条天皇に地位を譲り、上皇となる。しかしその後、二条天皇を擁する勢力と対立するようになり、平治の乱が勃発する。いずれも朝廷貴族や武士勢力を巻き込んだ政争であり、後白河はこの戦いにも勝利するが、実権を掌握したのは武力集団の長・平清盛である。
以後、後白河上皇は武力を背景に無理難題を迫る清盛と、つばぜり合いの日々を送るのである。そして二条天皇亡き後、本格的に院政を敷いて藤原摂関家や寺社勢力を牽制。その後、出家して法皇となり密かに平家討伐の密談をすすめるも露見し、計画は失敗に終わる(鹿ヶ谷の陰謀)。このため清盛によって幽閉され、院政も停止の憂き目に遭う。
しかし後白河はこれを耐え忍び、清盛が死去するとふたたび政治の表舞台に返り咲き、平家討伐を影から操るのである。そして安徳天皇が平家に連れ去られた後、後白河院は安徳天皇の異母弟・後鳥羽天皇を強引に即位させたのである。そして新たなライバルとなった源氏との神経戦に入っていく。
後白河は政治に疎い義経を検非違使に任じて、頼朝・義経兄弟の対立を引き出し、策略にかかった義経を利用して頼朝討伐の院宣を出した。だが、頼朝はしたたかであった。平氏滅亡後北条時政を上洛させ、義経逮捕を名目に守護・地頭の設置を強行し、一気に全国の政治的、経済的権益を掌握しようとした。この敏速な行動には後白河法皇もなすすべがなく、事実上、鎌倉武家政権が実現するのである。ただし、鎌倉政権が守護、地頭をおいて権力を掌握できたのは東国であって、西国は依然として朝廷の力が強く、しばらくは幕府と朝廷の二頭政治が続くことになった。こうして頼朝は、義経と奥州藤原氏を滅ぼした翌年初めて上洛し、後白河法皇に謁見した。このとき頼朝は征夷大将軍を望んだが、後白河はこれ以上武士に権力を持たせまいとして、頑として首を縦に振らなかった。結局、頼朝が征夷大将軍を拝命したのは、その2年後、後白河が66歳の生涯を閉じた後である。
後白河院は権謀術数を駆使し、保元、平治の乱をはじめ、源義仲への平氏追討、源頼朝の追討、源義経の追討など目障りな存在があると、その都度対立勢力を利用して討伐させ、朝廷権力を保持した。
全盛を誇った平清盛を幾度となく激怒させ、失脚の憂き目に遭っても、そのたび不死鳥の如く蘇り、源頼朝には「日本国第一の大天狗」と唸らせた傑物であった。宮中の抵抗勢力や源平武家勢力からみれば誠に厄介な存在であったに相違ない。こうして頼朝上洛により朝廷と鎌倉の関係は修復され、30年後の承久の乱までかろうじて保たれるのである。

後鳥羽天皇は、後白河のあと4代を経て僅か4歳で天皇となった。後白河法皇お気に入りの孫である。木曾義仲に追われた平家一門が安徳天皇を連れて都落ちしたため、京に天皇が不在となり、急遽白羽の矢が立ったのである。
後鳥羽天皇は幼少より利発で気性が激しく、和歌、管弦、書画に堪能であるばかりか、弓道・相撲・水練など武芸にも通じ、刀剣の鍛造も自らおこなった。また自身の持ち物に菊の御紋をつけさせたため、以後これが皇室のシンボルマークとなった。1198年、後鳥羽は長男・土御門に天皇の位を譲り、以後、土御門、順徳、仲恭と天皇3代23年間にわたり、上皇として院政をしいた。
彼は後白河が苦手とした和歌に堪能で、和歌所を復活させて、藤原定家らに勅撰和歌集「新古今和歌集」の制作を命じる一方、武芸に優れた者を集めて西面の武士を設置し、北面の武士とともに鎌倉に向き合った。
そのうち鎌倉では源氏将軍がわずか三代で途絶え、幕府は執権北条氏が実権を握るようになった。幕府は皇族を将軍に迎えようと後鳥羽上皇に打診したが、拒否されたため、頼朝の妹の曾孫である当時2歳の九条頼経が鎌倉に迎え入れられた。頼経は、摂関家トップ九条兼実の曾孫でもあり、兼実の弟慈円(天台座主)は頼経が将軍として鎌倉に赴くのを、公武協調の切り札と考え期待を寄せた。しかしこの経緯を通して、朝廷と幕府の間にはしこりが残った。
もともと後鳥羽院は、鎌倉が政権を朝廷から奪い取ったことに対して強い憤りを持っており、隙あれば倒幕を窺っていた。しかも内裏の建造費用や、後鳥羽院の寵姫(ちょうき)の所領問題など、自分をないがしろにする幕府の態度に業を煮やしていたのである。そうしたなか、内裏守護の源頼茂が西面の武士に殺害される事件がおこる。頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を察知したためと噂された。朝幕間には不穏な空気が漂い、緊張は次第に高まっていた。そうした中、慈円は朝幕関係を壊そうとする朝廷側の挙兵に反対し、道理をもって日本史を論述した「愚管抄」を著し後鳥羽上皇を諫めようとしたが、徒労に終わった。
1221年、後鳥羽院は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の武士を招集し、そのまま挙兵。北条義時追討の院宣を発した。後鳥羽院は自らの威光で、全国の武士は朝廷につくだろうと楽観視していたが、目算は狂った。人生最大の誤算といえる。頼朝の妻・北条政子の演説で一致団結した鎌倉武士団に諸国の武士が合流し、20万もの大軍となって京へ攻め入り、わずか1ヶ月で朝廷方は完敗した。いわゆる承久の乱である。
乱後、首謀者・後鳥羽上皇は隠岐島、3男順徳上皇は佐渡島に配流された。以後、後鳥羽院に拘束されていた西園寺公経が内大臣となり、幕府の意向を受けて朝廷を主導することとなった。
後鳥羽上皇は隠岐へ流罪となる直前、出家した。そして20年に及ぶ配流生活を失意のうちに送り、60歳の生涯を閉じた。ただ終生攻撃的な性格は変わらず、強気な和歌作りに勤しんだと言われる。
「われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」
その激しい語気が、今も彼の無念を彷彿とさせる。 
 
100.順徳院 (じゅんとくいん)  

 

百敷(ももしき)や 古(ふる)き軒端(のきば)の しのぶにも
なほ余(あま)りある 昔(むかし)なりけり  
宮中の古い軒端の忍ぶ草を見るにつけても、偲んでも偲びつくせないものは、昔のよき(天皇親政の)時代であるよ。 / 宮中よ、時代を経て古びてしまった建物の軒の端に、しのぶ草が生い茂っている。それを見るにつけ、朝廷が栄えた昔のよき時代がしのばれて懐かしく思われることだ。 / 荒れ果てた御所の、古い軒端に生えるしのぶ草のシダの葉を見るにつけて、昔の御所の華やかさ、栄えていたことが、しみじみと偲ばれて、偲んでも偲んでも、まだ偲びきれません。昔の天皇を中心に秩序ただしく治められていた御代のことは。 / いくら偲んでも偲びきれないことだ。
○ ももしきや / 「ももしき」は、宮中。「や」は、詠嘆の間投助詞。
○ 古き軒端の / 「軒端」は、軒のはし。
○ しのぶにも / 「しのぶ」は、「偲ぶ」と「忍ぶ草」の掛詞。「偲ぶ」は、懐かしく思う。「忍ぶ草」は、シダ類の植物で、荒廃を象徴する草。
○ なほあまりある / 「なほ」は、やはり。「あまりある」は、いくら偲んでも偲びきれないの意。
○ 昔なりけり / 「昔は」は、天皇に権威があった過去の時代。「けり」は、初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞。 
1
順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日))。諱は守成(もりなり)。後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。
後鳥羽天皇と、寵妃藤原重子(修明門院)の皇子として生まれる。正治元年(1199年)1月に親王宣下。正治2年(1200年)4月に土御門天皇の皇太弟となる。穏和な土御門天皇とは対照的に激しい気性の持ち主だと言われていて、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたためである。摂政である九条良経が自分の娘(立子)を土御門天皇に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそれを中止して東宮(順徳天皇)の妃にするように命じ(『愚管抄』巻6)、更に長年朝廷に大きな影響を与えてきた後白河法皇の皇女で歌人として名高かった式子内親王を東宮の准母にしようとして彼女の急死によって失敗に終わると、その代わりとして上皇自身の准母であった殷富門院(式子の姉)を准母として(『猪隈関白記』建仁元年12月18日条)、上皇の後継者としての地位強化が図られている。さらに承元2年(1208年)8月、莫大な八条院領を相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とし、建暦元年(1211年)11月の昇子内親王の死後には八条院領を相続した。
承元4年(1210年)11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚。譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による院政が継続される。即位後の内裏は閑院であった。天皇の治世に関して、『増鏡』は「この御世には、いと掲焉なる事おほく、所々の行幸しげく、好ましきさまなり」と評しているが、このように世人の注目を引く華々しい行動が多かったのは、鎌倉幕府に対する皇権の示威行為の一端と考えられ、おそらく父上皇の意図によるところが大きい。
直接政務に与らない天皇は、王朝時代の有職故実研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『禁秘抄』を著した。これは天皇自身に関わる故実作法の希少な書物として、後世永く珍重された。また、父の影響で和歌や詩にも熱心で、藤原定家に師事して歌才を磨き、藤原俊成女や藤原為家とも親交があった。家集としては『順徳院御集』(紫禁和歌草)があり、歌論書には、当時の歌論を集大成した『八雲御抄』が知られる。『続後撰集』以下の勅撰集には159首が入る。
父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御した。病気は重くなかったが、還京の望みがない以上の存命は無益として、断食を行った後、最期は自らの頭に焼石を乗せて亡くなったと伝えられる。なお、在島中の詠歌として、貞永元年(1232年)の『順徳院御百首』が残されている。配流後は佐渡院と称されていたが、建長元年(1249年)7月20日順徳院と諡された。
藤原定家は幕府への配慮から、『新勅撰和歌集』に順徳天皇の御製を採らなかったが、『小倉百人一首』には以下の1首を採録した。
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院)
角田文衞は、順徳天皇に反幕府の意識が強かったのは、平家の生き残りである祖母平教子の元で育ち、周囲には平家の関係者が多かったことに一因があるのではないかと見ている。 
2
順徳院 建久八年〜仁治三年(1197-1242) 諱:守成
後鳥羽天皇の第三皇子。母は贈左大臣高倉範季女、修明門院重子。姉の昇子内親王(春華門院)を准母とする。土御門天皇・道助法親王の弟。雅成親王の同母兄。子に天台座主尊覚法親王、仲恭天皇、岩倉宮忠成王ほか。建久八年(1197)九月十日、誕生。正治元年(1199)十二月、親王となり、同二年四月、兄土御門天皇の皇太弟となる。承元二年(1208)十二月、元服。同三年、故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所とした。同四年(1210)十一月、兄帝の譲位を受けて践祚(第八十四代天皇)。父の院と共に宮廷の儀礼の復興に努め、また内裏での歌会を盛んに催した。建保六年(1218)十一月、中宮立子との間にもうけた懐成親王(即位して仲恭天皇)を皇太子とする。承久三年(1221)四月二十日、譲位し、翌月、後鳥羽院とともに討幕を企図して承久の変をおこしたが、敗北し、佐渡に配流される。以後、同地で二十一年を過ごし、仁治三年(1242)九月十三日(十二日とも)、崩御。四十六歳。絶食の果ての自殺と伝わる。佐渡の真野陵に葬られたが、翌寛元元年(1243)、遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。建長元年(1249)、順徳院の諡号を贈られる(それ以前は佐渡院と通称されていた)。幼少期から藤原定家を和歌の師とし、詠作にはきわめて熱心であった。その息子為家も近習・歌友として深い仲であった。俊成卿女とも親しく、建保三年(1215)、俊成卿女出家の際などに歌を贈答している。建暦二年(1212)の内裏詩歌合をはじめとして、建保二年(1214)の当座禁裏歌会、同三年の内裏名所百首、同四年の百番歌合、同五年の四十番歌合・中殿和歌御会、承久元年(1219)の内裏百番歌合など、頻繁に歌合・歌会を主催した。配流後の貞永元年(1232)には、佐渡で百首歌(「順徳院御百首」)を詠じ、定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請うた。嘉禎三年(1237)、定家はこの百首に評語を添えて進上している。著作に、宮廷故実の古典的名著『禁秘抄』、平安歌学の集大成『八雲御抄』、日記『順徳院御記』がある(建暦元年-1211-から承久三年-1221-まで残存)。続後撰集初出(十七首)、以下勅撰集に計百五十九首入集。自撰の『順徳院御集』(紫禁和歌草とも)がある。新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。
春 / 題しらず
あら玉の年の明けゆく山かづら霞をかけて春は来にけり(続千載7)
(新年が明けてゆく暁の空――山の頂きに、美しい鬘(かづら)のような霞をかけて、春はやって来たのだ。)
百首御歌の中に
ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰の白雪(風雅36)
(千曲川を春、流れてゆく水は澄み切っているのだった。消えて何日も経っていない、峰の雪――その雪解け水だからなのだ。)
早春のこころをよませ給うける
風吹けば峰のときは木露おちて空より消ゆる春のあは雪(新拾遺1532)
(暖かい春の風が吹くと、峯の常緑樹からは露が落ちて――そうか、地面に届く前に、空の上のほうで消えてしまうのだ、春の淡雪は。)
佐保姫の染めゆく野べはみどり子の袖もあらはに若菜つむらし(御集)
(春の女神である佐保姫が緑に染めてゆく野辺は、幼い娘たちが袖から腕もあらわにして、若菜を摘んでいるらしい。)
題しらず
難波がた月のでしほの夕なぎに春の霞のかぎりをぞ知る(新後撰34)
(難波潟は、月の出とともに潮が満ちて、夕凪となった――穏やかな海に月の光がいちめん射して、たちこめる春霞がどこまで続いているか、その果てまで見極めることができるのだ。)
建保四年内裏百番歌合に
ふる雪にいづれを花とわきもこが折る袖にほふ春の梅が枝(続後撰27)
(降りしきる雪に、どれが花だろうかと見分けがたいが、なんとか目当てをつけて、愛しいあの娘(こ)が手を伸ばして枝を折る――その袖が匂う、春の梅だよ。)
夢さめてまだ巻きあげぬ玉だれのひま求めてもにほふ梅が香(御百首)
(夢から覚め、まだ玉簾を巻き上げていないうちから――わずかな隙間を求めて匂ってくる梅の薫り。)
題しらず
秋風にまたこそとはめ津の国の生田の森の春のあけぼの(続古今1501)
(秋風の頃、きっとまた訪れよう。摂津の国の生田の森の春の曙の素晴らしさに、幾たびもまた行くことを誓ったのだ。)
題しらず
春よりも花はいく日かもなきものをしひても惜しめ鶯の声(新後撰114)
(春にくらべ、梅の花の咲いている日は何日もないのだよ。がんばって、花を惜しみ声高く鳴いてくれ、鶯よ。)
題しらず
花鳥はなとりのほかにも春のありがほに霞みてかかる山の端の月(続後撰144)
(なにも花や鳥だけではない。ほかにも春の風情はあるのだと言いたげな顔で、朧ろに霞み、山の端に懸かっている月――。)
建保三年名所百首歌めしける次によませ給うける
玉島や河瀬の波のおとはして霞にうかぶ春の月かげ(新続古今95)
春山といふことを
白雲や花よりうへにかかるらむ桜ぞたかき葛城の山(続古今91)
(白雲が花よりも上に懸かっているのだろうか、見分けはつかないが、桜が高々と咲いている、葛城の山よ。)
建保二年二月廿四日、南殿にいでさせ給うて、翫花といへることをよませたまうける
ももしきや花も昔の香をとめてふるき梢に春風ぞ吹く(新千載102)
(内裏では、花も昔の香りが慕わしい。春風はそれを求めて、桜の古木の梢に吹いているのだ。)
百首歌めされし次に
花の色になほ折しらぬかざしかな三輪の檜原の春の夕暮(新後拾遺104)
(檜の中に交じって咲いている桜の花のあまりの美しさに、枝を折って季節知らずの挿頭をしてしまうなあ。三輪のヒノキ林での、春の夕暮時――。)
宇津山
駿河なる宇津の山べにちる花よ夢のうちにもたれ惜しめとて(御集)
(駿河の宇津の山のほとりで散る花よ。誰か夢の中でも惜しんでくれと、このように夢うつつともわかぬ様に散るのか…)

蝉の羽はのうすくれなゐの遅桜をるとはすれど花もたまらず(御集)
(蝉の羽のように薄い、微かに紅色を帯びた、遅桜。手に折り取ろうとするけれども、花びらはとどまらず、枝から散り落ちてしまう。)
早苗を
峰の松入日すずしき山かげの裾野のを田に早苗とるなり(続後撰196)
(峰の松に日が沈む頃、涼しい山陰の裾野の小さな田では、早苗とりをしているのだ。)
題しらず
今来むといはぬばかりぞ郭公ありあけの月のむら雲の空(続後撰187)
(「すぐ行くよ」と口では言わないだけだよ、ホトトギス。有明の月が出ている、叢雲の空。その景色を眺めたら、おまえの声が聞きたくてたまらない気持なのだ。)
承久元年十首歌合に、暁時鳥といふことをよませ給うける
暁と思はでしもやほととぎすまだ半天なかぞらの月に鳴くらむ(新拾遺218)
(暁になったと思わないからだろうか、ホトトギスは、まだ月が中空に残っている空に鳴いている。)
五月雨のはれまも青き大空にやすらひ出づる夏の夜の月(御集)
(梅雨の晴間の真っ青な夜空に、ためらいつつ出て来る、夏の夜の月よ。)
夏歌の中に
夕立のなごりばかりの庭たづみ日頃もきかぬかはづ鳴くなり(玉葉409)
(日照りが続いた後、久々に一雨あった。夕立のなごりを留め、庭にできた水たまり――この頃聞くことのなかったカエルが出てきて鳴いているなあ。)
夏の日の木の間もりくる庭の面おもにかげまでみゆる松のひとしほ(御百首)
(夏の陽射しが木の間を漏れてくる庭の地面――そこに、影までもうっすらと緑に染めて見える、松の一入(ひとしお)染めよ。)
六月祓を
みなと川夏のゆくては知らねども流れてはやき瀬々のゆふしで(風雅445)
(湊川での六月祓――夏がどこへ去ってゆくのかは知らないけれども、時が過ぎ去るのは早く、瀬ごとにたむけた白木綿も、瞬く間に流れ去ってゆく。)
秋 / 百首御歌のなかに
かぎりあれば昨日にまさる露もなし軒のしのぶの秋の初風(続古今285)
(秋は露の多い季節というが、ものにも限度があるので、昨日にまさるほどの露は落ちてこない。古家の軒に繁ったしのぶ草を吹く、秋の初風よ。)
百首御歌のなかに
人ならぬ石木いはきもさらにかなしきはみつの小島の秋の夕暮(続古今1578)
(人ならば「見つ」と語りかけようものを、人ならぬ石や木があるばかりで、さらに悲しみを催させるのは、みつの小島の秋の夕暮だよ。)
題しらず
秋風の枝吹きしをる木の間よりかつがつ見ゆる山の端の月(新後撰341)
(秋風が枝に吹きつけ、撓ませる――その木の間から、かろうじて見える、山の端の月。)
秋御歌の中に
つま木こる遠山人は帰るなり里までおくれ秋の三日月(玉葉636)
(一日薪用の小枝を樵り集めていた山人は、住み家のある遠くの山里へと帰ってゆくようだ。集落まで送って行ってやれ、秋の三日月よ。)
題しらず
秋の日の山の端とほくなるままに麓の松のかげぞすくなき(新後撰1317)
(東の山から出た秋の陽が、山の端を遠ざかってゆくにつれ、麓の松の影は少なくなったことだ。)
百首御歌の中に 
霧はれば明日も来てみむ鶉鳴く石田いはたの小野は紅葉しぬらむ(続古今1603)
(この霧が晴れたら、明日も来てみよう。ウズラが鳴く石田(いわた)の小野は、木々が紅葉しているだろう。)
風になびく雲のゆくてに時雨れけりむらむら青き木々の紅葉ば(御百首)
(風に靡く雲の進む方向に、時雨が降っていった。紅葉し始めた木々は、まだらに青葉が残っている。)
ひとめ見しとをちの村のはじ紅葉またも時雨れて秋風ぞ吹く(御百首)
(雲の切れ目に、一瞬見えた、遠くの十市の村の櫨紅葉(はぜもみじ)――またも時雨が降り秋風が吹いて、見えなくなってしまった。鮮やかな紅葉をもっとよく見たかったのに。)
谷ふかき八峰やつをの椿いく秋の時雨にもれて年の経ぬらむ(御百首)
(峡谷深い峰々の椿は、幾秋の時雨にも色を変えず、美しい緑のまま年を経てきたことだろう。)
冬 / 夕残菊
天あまつ星光をそへよ夕暮の菊は籬にうつろひぬとも(御集)
(空の星よ、光を添えてくれ。夕暮時の菊は、垣根で色を失ってゆくとしても。)
冬風
紅葉ばをあるかなきかに吹き捨てて梢にたかき冬の木枯し(御集)
(紅く色づいた葉をほとんど残さないほど吹き散らして、梢高く聞こえる、冬の木枯しよ。)
冬の色よそれとも見えぬささ島の磯こす浪に千鳥たつなり(御集)
(冬らしい景色は、どこと言って見えない小竹島の磯――そこに打ちつける波に、千鳥が立つのが聞こえる。その悲しげな鳴き声だけは、冬の風情を感じさせる。)
交野
夕狩の交野の真柴むらむらにまだひとへなる初雪の空(名所百首)
(交野での夕狩――雑木の茂みに、雪がまだらに積もっている。まだ重なることなく、一重にうっすらと覆うばかりの初雪を降らせる、夕暮れ時の空…。)
里わかぬ春の隣となりにけり雪まの梅の花の夕風(御百首)
(どの里も、春は間近となったなあ。雪間に咲いた梅の花を吹く、香りよい夕方の風よ。)
恋 / 名所百首歌人々に召しけるとき
神なびの磐瀬いはせの森の初時雨しのびし色は秋風ぞ吹く(続古今991)
(岩瀬の森に初時雨が降って、色づいた木々の葉を秋風が吹き散らす――そのように、初めてこの想いを口に出し、忍んでいた恋情を洩らしてしまった。)
題しらず
明日もまたおなじ夕べの空や見む憂きにたへたる心ながさは(続後拾遺805)
(明日もまた、今日のようにあの人に逢えず、同じ夕べの空を眺めるのだろうか。ずっとつれなさに耐えてきた、私の心の辛抱強さは、まあ…。)
秋恋
忘ればや風は昔の秋の露ありしにも似ぬ人の心に(建保二年内裏歌合)
(忘れてしまいたい。風は昔の秋と変わらず、袖に露を置くけれども、あの人の心は往時とはすっかり変わってしまったのだから。)
建保二年七月内裏歌合に、羈中恋といへる事をよませ給うける
命やはあだの大野の草枕はかなき夢も惜しからぬ身を(新続古今1331)
(命なんて露のようにはかないではないか、野に草枕を結び、はかない契りを交わした、あの一夜の夢にかえても、惜しくなどない我が身なのに。)
名所百首歌めしける時
菅原や伏見の里のささ枕ゆめもいくよの人目よくらむ(続後撰730)
(菅原の伏見の里で、笹を枕に臥す――そうして見る夢でも、幾晩、人目を避けてあの人のもとに通うのだろう。)
題しらず
ことの葉もわが身時雨の袖の上にたれをしのぶの森の木枯し(続拾遺1016)
(時雨が降って木の葉の色が変わったところへ、木枯しの風が吹き付ける――ちょうどそのように、あの人の約束の言葉が変わってしまって、私は袖に涙をそそぎ――その上なお、身を焦がして人を恋い偲んでいるのだ。あの人の心はうつろってしまったというのに、一体誰を偲んでいるというのか。)
月もなほ見し面影はかはりけり泣きふるしてし袖の涙に(御百首)
(月は恋人の面影をとどめるというけれど、その月までもが、昔の面影とは変わってしまった。ずっと泣き続けてきた私の袖はもうぼろぼろで、涙に映る月の面影も、以前とはすっかり見違えてしまったのだ。)
暮をだになほ待ちわびし有明のふかきわかれになりにけるかな(御百首)
(あまりの悲しさに、再び夕暮が来るのを待つ気力さえなくしてしまった、有明――深い別れになってしまったものだ。)
雑 / 百首御歌の中に
夕づく日山のあなたになるままに雲のはたてぞ色かはりゆく(風雅1651)
羈中夕
暮れぬともなほ行末は空の雲何をかぎりの山路なるらむ(御集)
(日が暮れてしまっても、なお行き先は遥か雲の彼方だ。何を区切りとして目指してゆけばいいのだろう、この山路をゆく旅は。)
江上霞
難波江の潮干のかたや霞むらん蘆間に遠きあまのいさり火(御集)
(これは、難波江の潮が引き、干潟があらわれたのか――それが霞んでいるのだろうか。葦の間に、遠く漁師の灯す篝火が見える。)
憂しとても身をばいづくにおくの海の鵜のゐる岩も波はかからむ(御集)
(生きるのが辛いと言っても、この身をどこに置けばいいというのか。沖の海の、鵜のとまっている離れ岩にだって、波はかかるだろう。そのように、いくら遠くへ去ろうと、憂いの涙から逃れることはできないのだ。)
社頭風
神垣のよもの木陰を頼むかなはげしき頃の嵐なりとも(御集)
(神垣の四方の木陰に身を寄せるように、ひたすら神の恵みを頼むことだ。嵐がどんなに激しく吹く頃であっても。)
後鳥羽院かくれさせ給うて、御なげきの比、月を御覧じて
同じ世の別れはなほぞしのばるる空行く月のよそのかたみに(新拾遺918)
(隠岐と佐渡と、はるか遠くの国に離れていても同じこの世には生きておりましたのに、今や父帝とは今生(こんじょう)の世でもお別れすることとなり、いっそう思慕されてなりません。空をゆく月はたった一つ、それを父帝の面影と偲んでおりましたが、御身はこの世の外へ逝かれ、もはや月を形見と眺めるばかりでございます。)
題しらず
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(続後撰1205)
(大宮の古び荒れた軒端の忍草――いくら偲んでも、なお偲び尽くせない昔の御代なのであった。) 
3
真野宮 (佐渡市真野)
順徳天皇を奉祀し、菅原道真・日野資朝を配祀しています。
真野宮はもと真輪寺といって、国分寺末寺であったため御火葬塚の直接の管理をしていました。明治元年廃仏毀釈により寺僧は神職となり、本堂を改修し宮とし、明治7年県社に認められ「真野宮」と改称しました。
現在の社殿は大正9年の竣工で、昭和17年の700年祭には、鳥居、神橋、神門、社務所を新設して参道を広げ神域が拡張されました。
社宝として、順徳天皇御遺品と伝える短刀、硯、扇子、釣花生などが残っています。
承久の乱は、鎌倉幕府は、実朝が殺され源氏の血統は絶えたにもかかわらず、北条氏は幼少の将軍を立てて執権となっていたので、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣が下されました。そこで順徳天皇は承久3年(1221)に位を皇太子懐成親王(仲恭天皇)に譲り、父後鳥羽上皇と北条義時追討の兵を挙げましたが敗れ、24歳の若さで佐渡に配流となりました。在島22年、ついに帰京の願いはかなわず、46歳の時絶食して真輪寺(現在の真野宮)「阿弥陀堂」で崩御されたと伝えられています。
真野御陵
順徳天皇火葬塚です。御陵と同じ取り扱いで宮内庁書陵部が管理しています。
順徳上皇は「承久の乱」に失敗し佐渡へ配流となり、在島22年、ついに都へ帰る望みも絶え、絶食のはて仁治3年(1242)9月12日、46歳で崩御されました。翌13日ここでご火葬にされ、そのあとに松と桜を植えて目印とし、ご遺骨は翌年京都へ帰るまでここに埋められ、大原の法華堂、後鳥羽天皇御陵の傍に納められたと伝えられています。
現在に残る立派な玉垣が整備されています。しかし御陵のなかの火葬塚は荒れているよいうに見受けられました。
古墳などの宮内庁管理の御陵の傍には、必ず管理事務所のような建物がありますが、人は見たことがありませんでした。順徳天皇火葬塚の管理事務所には、珍しく人が座っておられました。
火葬塚は、ご遷幸当時行在所であった国分寺が管理し、末寺の真輪寺が別当として直接に奉仕していましたが、応仁の乱後、諸国粉乱の余波をうけて大変荒廃したため、江戸時代になって国分寺の賢教と真輪寺の賢照が連名で、時の佐渡奉行曾根五郎兵衛に修築を願い出て完成したのが現在の火葬塚だそうです。 
4
都忘れ
花屋で見かけた、紫色をした可憐な「都忘れ」の花。この「都忘れ」という寂しげな名前は、鎌倉時代に「承久の乱」にて倒幕計画に失敗した第84代天皇「順徳天皇」が名付けたものだとか・・・・・。
戦に破れた順徳天皇は佐渡へ流刑となってしまいます。その荒れ果てた流刑地の庭で、紫色をした野菊を見つけ「紫といえば京の都を代表する美しい色だったが、私はもうすべてをあきらめている。花よ、いつまでも私のそばで咲いていておくれ。都での出来事が忘れられるかもしれない。お前の名を今日から都忘れ と呼ぶことにしよう」と言ったとか言わないとか・・・・・・まァ、諸説あるようですが。
順徳天皇といったら百人一首の100番目の歌にある
百敷や ふるき軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
の歌が知られております。「宮中の古びた軒から下がっている忍ぶ草を見ていても、偲んでも偲びつくせないほど思い慕われてくるのは、古きよき時代のことよ。」
佐渡に流刑になった順徳天皇は21年後、流刑地の佐渡で崩御します。流刑地では還京の望みもなく、これ以上の存命は無益として、断食を行ったそうです。よほど無念であったのでしょう。紫色をした可憐な「都忘れ」の花には、そんな順徳天皇の想いがこもっております。 
 
『百人一首』歌集以外の用途

 

教材
たとえば中学や高校では、古典の入門として生徒に『百人一首』を紹介し、これを暗記させることがよくある。これは、それぞれが和歌(5・7・5・7・7の31文字)なので暗唱しやすく、また、後述するように正月に遊戯として触れることも多いので、生徒にとってなじみがあるからである。また、短い和歌の中に掛詞などさまざまな修辞技巧が用いられ、副詞の呼応などの文法の例も含まれることから、古典の入門として適した教材だといえる。
かるた
『百人一首』は現在では歌集としてよりもかるたとしてのほうが知名度が高く、特に正月の風物詩としてなじみが深い。『百人一首』のかるたは歌がるたとも呼ばれるもので、現在では一般に以下のような形態を持つ。
百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計二百枚から成る。読み札と取り札はともに花札のように紙を張り重ねてつくられており、大きさは74×53mm程度であることが一般的である。札の構造、材質、裏面などは読み札と取り札では区別がない。読み札の表面には大和絵ふうの歌人の肖像(これは歌仙絵巻などの意匠によるもの)と作者の名、和歌が記されており、取り札にはすべて仮名書きで下の句だけが書かれている。読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が大きく異なる。
かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である任天堂、大石天狗堂、田村将軍堂で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。
江戸期までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかった。これは元来歌がるたが百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期ごろまでは歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。また、現在でも北海道では、「下の句かるた」というやや特殊な百人一首が行われている。この「下の句かるた」に用いられるかるたでは、上の句は読まれず下の句だけが読まれ、取り札は厚みのある木でできており、表面に古風な崩し字で下の句が書いてある。江戸期の面影を残したかるたであると言える。
歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由があるわけではなく、もともとさまざまな折子供や若者が集まって遊ぶ際に百人一首がよく用いられたことによるものである。そのなかでも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことをゆるされていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。  
 
『百人一首』を用いた遊び

 

散らし取り(お散らし)
古くから行われた遊びかたのひとつで、あまり競争意識ははたらかない。以下のようなルールに従う。
読み手を選ぶ(ふつうは一人)。
読み札をまとめて読み手に渡し、取り札は百枚すべてを畳の上などに散らして並べる。
取り手は何人でもOK。みなで取り札のまわりを囲む。このとき不平等にならないように、取り札の頭はそれぞればらばらな方を向いているようにならなければならない。
読み手が読み札を適当に混ぜてから、札の順に歌を読み上げる。
歌が読み始められたら、取り手は取り札を探して取ってかまわない。
同時に何人もが同じ札をおさえた場合には、手がいちばん下にある人がこれを取る権利を持つ。
間違った札を取った場合(お手つき)には何らかの罰則が行われるが、源平のようにしっかりとした決まりごとはない。
百枚目を取ったところで終了。最も多くの札を取った人が勝ちである。
本来は読み札には上の句しか書いてなかったために、この遊びかたは百人一首を覚えるうえでも、札の取り合いとしても、それなりの意味があったのだが、現在では読み札に一首すべて書いてあるために、本来の意図は見失われている。ただし大人数で同時に遊ぶためには都合のいい遊びかたで、かつてのかるた会などではたいていこの方法に片寄っていた。
お散らしに限らず、江戸時代までは読み手は作者の名前から順に読み上げ、上の句が終わったところで読むことをやめるのが常であったようだ。現在では作者名をはぶき、最後まで読んでしまう(なかなか取り手が取れない場合には下の句を繰りかえす)。読みかたに関しては上の句と下の句のあいだで間をもたせすぎるのはよくないとされるが、本来の遊び方からすればナンセンスな問題ともいえる。
逆さまかるた
本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、下の句札(取り札)が読み札となるもの。このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札には漢字が混じるため視覚からくる思わぬ錯覚なども加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。
源平合戦
源平とは源氏と平氏のこと。二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。
1.散らし取り同様に絵札と字札を分け、読み手を一人選ぶ。
2.百枚の字札を五十枚ずつに分け、それぞれのチームに渡す。両チームはそれを3段に整列して並べる。
3.散らし取り同様に読まれた首の字札を取る。このとき相手のチームの札を取ったときは、自分のチームの札を一枚相手チームに渡す。これを「送り札」という。
4.先に札のなくなったチームの勝ちとなる。
北海道地方で行われる下の句かるた大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。
リレーかるた
源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られたとき、10枚読まれたときなど。
競技かるた
社団法人全日本かるた協会の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。毎年1月の上旬に滋賀県大津市にある近江神宮で名人戦・クイーン戦が開催される。名人戦は男子の日本一決定戦であり、クイーン戦は女子の日本一決定戦である。NHKBSで毎年生中継される。また、7月下旬には全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会が行われている。そのほか、全国各地でいろいろな大会が開催されている。
坊主めくり
上記の遊び方とは異なり、坊主めくりをする際には首は読まない。使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。
男性が描かれた札を引いた場合は、そのまま自分の手札とする。
坊主(ハゲと呼ぶこともまれにある)の描かれた札を引いた場合には、引いた人の手元の札を全て山札の横に置く。
女性の札(姫)を引いた場合には、引いた人がそれまでに山札の横に置かれていた札を全てもらう。
蝉丸の札を引いた場合、引いた人は一回休み。
裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。さまざまな地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。
山札の横に札が無い場合に、姫を引いた場合はもう1枚札をめくることができる。
天皇札(台座に縞模様がある札)を引いた際には、数枚引ける。
天皇を引いた際には、山札とその横の札を除き、すべての札が引いた人の手札となる。
段に人が乗っている札を引いた際、もう一枚めくることができる。
蝉丸が出た場合、全員の札を供託に置く。
坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでなく、江戸時代の文献には現われないことから、明治以降に成立したものと考えられている。
青冠
坊主めくりと同様、首は読まず、読み札のみを使用し取り札は使用しない。4人で行い、全員に配られた札を向かい合った二人が協力して札をなくしていく。書かれた絵柄で、青冠、縦烏帽子、横烏帽子、矢五郎、坊主、姫となる。ただし、天智天皇と持統天皇は特殊で、天智天皇は全ての札に勝ち、また持統天皇は天智天皇以外に勝つ。絵の書いた人、時期によって、100枚のうちの絵柄の構成が変わるゲームである。
1.100枚の札を4人に全て配る。
2.最初の人を決めそのひとが右隣の人に対して1枚手札から出す。
3.出された人は、同じ絵柄の札か、持統天皇、天智天皇の札を出して受ける(天智天皇はどの札も受けられないし、持統天皇は天智天皇のみで受けられる)。
4.受けることが出来た場合、受けた人が、右隣に1枚手札から出す。以下同様に続けていく。
5.受けることが出来なかった場合、何も出せずに右隣の人に順番が移る(最初に出した人の向かい側の人が出す)。
この手順を続け、最初に手札を無くした人のいるペアの勝ち。これを何回か行い勝敗を決める。  
 
異種百人一首

 

小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首。以下に代表的なものを挙げる。
『新百人一首』
足利義尚撰。小倉百人一首に採られなかった歌人の作を選定しているが、91番「従二位成忠女」は小倉の54番・儀同三司母(高階貴子)と同一人物。また、『百人秀歌』に見える権中納言国信も64番に入首(百人秀歌とは別の歌)。
『武家百人一首』
同名の物が複数ある。
1.17世紀半ばの成立と見られている。平安時代から室町時代にかけての武人による和歌を採録。寛文6年(1666年)刊。榊原式部大輔忠次の撰とされるが、本自体にはその旨の記述はなく、後に尾崎雅嘉が『群書一覧』で比定したものである。また寛文12年(1672年)、菱川師宣の挿絵、和歌は東月南周の筆で再刊された。菱川師宣の署名した絵入り本の最初とされ、絵師菱川吉兵衛と署名されている。
2.安政5年(1858年)刊。賞月堂主人の著。1.のものと比べると、23人が別人の歌に置き換えられている。
3.明治42年(1909年)刊。富田良穂撰。神代から幕末までの武将・大名・夫人等の和歌を採録。
『新撰武家百人一首』
18世紀成立。伊達吉村撰。室町時代から江戸中期にかけての武将・大名による和歌を採録している。
『後撰百人一首』
19世紀初頭に成立。序文によれば二条良基の撰、中院関白顕実の補作とするが、後者の存在が疑わしいため成立年代は未定である。勅撰集だけでなく、『続詞花集』などの私撰集からも採録しているのが特徴。
『源氏百人一首』
天保10年(1839年)刊。黒沢翁満編。『源氏物語』に登場する人物の和歌を採録しているが、その数は123人。肖像をいれ、人物略伝、和歌の略注をのせる。和歌は松軒由靖、絵は棔斉清福の筆。
『英雄百人一首』
天保15年(1844年)刊。緑亭川柳撰。神代から室町期までの武人の和歌を採録。
『烈女百人一首』
弘化4年(1847年)刊。緑亭川柳撰。英雄百人一首に対し、著名な女性の和歌を採録。
『続英雄百人一首』
嘉永2年(1849年)刊。緑亭川柳撰。英雄百人一首の続編で、平安から安土桃山時代までの武将・大名の和歌を採録。
『義烈百人一首』
嘉永3年(1850年)刊。緑亭川柳撰。平安から江戸初期までの武将やその夫人等の和歌を採録。
『女百人一首』
嘉永4年(1851年)成立。平安・鎌倉期の女流歌人の和歌を採録。
『義烈回天百首』
明治7年(1874年)刊。染崎延房編。幕末の志士等の和歌を採録。
『愛国百人一首』
第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)に選定・発表された。恋歌の多い小倉百人一首に代わって「愛国の精神が表現された」名歌を採録。
『平成新選百人一首』
平成14年(2002年)刊。小倉百人一首、愛国百人一首と重複しないように和歌を採録。明成社から旧かなづかい、文藝春秋社から新かなづかいで出版という企画が巧妙。
『今昔秀歌百撰』
平成24年(2012年)刊。小倉百人一首、愛国百人一首、平成新選百人一首と重複しないように和歌を、一選者一歌人で101首採録。当初は寄贈だけで販売せず。 
 
歌よみに與ふる書 / 正岡子規

 

歌よみに與ふる書
仰おほせの如く近來和歌は一向に振ひ不申まをさず候。正直に申し候へば萬葉以來實朝以來一向に振ひ不申候。實朝といふ人は三十にも足らでいざ是からといふ處にてあへなき最期を遂げられ誠に殘念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を澤山殘したかも知れ不申候。兎に角に第一流の歌人と存候。強あながち人丸赤人の餘唾よだを舐ねぶるでも無く固もとより貫之定家の糟粕さうはくをしやぶるでも無く自己の本量ママ屹然として山嶽と高きを爭ひ日月と光を競ふ處實に畏るべく尊むべく覺えず膝を屈するの思ひ有之候。古來凡庸の人と評し來りしは必ず誤なるべく北條氏を憚りて韜晦たうくわいせし人かさらずば大器晩成の人なりしかと覺え候。人の上に立つ人にて文學技藝に達したらん者は人間としては下等の地に居るが通例なれども實朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに實朝の歌は只器用といふのでは無く力量あり見識あり威勢あり時流に染まず世間に媚びざる處例の物數奇連中や死に歌よみの公卿達と迚とても同日には論じ難く人間として立派な見識のある人間ならでは實朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。眞淵は力を極めて實朝をほめた人なれども眞淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。眞淵は實朝の歌の妙味の半面を知りて他の半面を知らざりし故に可有之これあるべく候。
眞淵は歌に就きては近世の達見家にて萬葉崇拜のところ抔など當時に在りて實にえらいものに有之候へども生等の眼より見れば猶萬葉をも褒め足らぬ心地致候。眞淵が萬葉にも善き調あり惡き調ありといふことをいたく氣にして繰り返し申し候は世人が萬葉中の佶屈きつくつなる歌を取りて「これだから萬葉はだめだ」などゝ攻撃するを恐れたるかと相見え申候。固より眞淵自身もそれらを善き歌とは思はざりし故に弱みもいで候ひけん。併しながら世人が佶屈と申す萬葉の歌や眞淵が惡き調と申す萬葉の歌の中には生の最も好む歌も有之と存ぜられ候。そを如何にといふに他の人は言ふ迄も無く眞淵の歌にも生が好む所の萬葉調といふ者は一向に見當不申候。(尤もつとも此邊の論は短歌に就きての論と御承知可被下候)眞淵の家集を見て眞淵は存外に萬葉の分らぬ人と呆れ申候。斯く申し候とて全く眞淵をけなす譯にては無之候。楫取魚彦かとりなひこは萬葉を模したる歌を多く詠みいでたれど猶これと思ふ者は極めて少く候。左程に古調は擬し難きにやと疑ひ居り候處近來生等の相知れる人の中に歌よみにはあらで却て古調を巧に模する人少からぬことを知り申候。是に由りて觀れば昔の歌よみの歌は今の歌よみならぬ人の歌よりも遙に劣り候やらんと心細く相成申候。さて今の歌よみの歌は昔の歌よみの歌よりも更に劣り候はんには如何申すべき。
長歌のみは稍やや短歌と異なり申候。古今集の長歌などは箸にも棒にもかゝらず候へども箇樣かやうな長歌は古今集時代にも後世にも餘り流行はやらざりしこそもつけの幸と存ぜられ候なれ。されば後世にても長歌を詠む者には直に萬葉を師とする者多く從つて可なりの作を見受け申候。今日とても長歌を好んで作る者は短歌に比すれば多少手際善く出來申候。(御歌會派の氣まぐれに作る長歌などは端唄はうたにも劣り申候)併し或る人は難じて長歌が萬葉の模型を離るゝ能はざるを笑ひ申候。それも尤には候へども歌よみにそんなむつかしい事を注文致し候はゞ古今以後殆ど新しい歌が無いと申さねば相成間敷まじく候。猶ほいろ/\申し殘したる事は後鴻こうこうに讓り申候。不具。 
再び歌よみに與ふる書
貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拜するは誠に氣の知れぬことなどと申すものゝ實は斯く申す生も數年前迄は古今集崇拜の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拜する氣味合は能く存申候。崇拜して居る間は誠に歌といふものは優美にて古今集は殊に其粹を拔きたる者とのみ存候ひしも三年の戀一朝にさめて見ればあんな意氣地の無い女に今迄ばかされて居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候。先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直に「去年こぞとやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て來る實に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外國人との合の子を日本人とや申さん外國人とや申さんとしやれたると同じ事にてしやれにもならぬつまらぬ歌に候。此外の歌とても大同小異にて佗ママ洒落か理窟ッぽい者のみに有之候。それでも強ひて古今集をほめて言はゞつまらぬ歌ながら萬葉以外に一風を成したる處は取餌ママにて如何なる者にても始めての者は珍らしく覺え申候。只之を眞似るをのみ藝とする後世の奴こそ氣の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事なら兎も角も二百年たつても三百年たつても其糟粕を嘗なめて居る不見識には驚き入候。何代集の彼ン代集のと申しても皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。
貫之とても同じ事に候。歌らしき歌は一首も相見え不申候。嘗かつて或る人に斯く申し候處其人が「川風寒く千鳥鳴くなり」の歌は如何にやと申され閉口致候。此歌ばかりは趣味ある面白き歌に候。併し外にはこれ位のもの一首もあるまじく候。「空に知られぬ雪」とは佗洒落にて候。「人はいざ心もしらず」とは淺はかなる言ひざまと存候。但貫之は始めて箇樣な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候。詩にて申候へば古今集時代は宋時代にもたぐへ申すべく俗氣紛々と致し居候處は迚も唐詩とくらぶべくも無之候得共さりとて其を宋の特色として見れば全體の上より變化あるも面白く宋はそれにてよろしく候ひなん。それを本尊にして人の短所を眞似る寛政以後の詩人は善き笑ひ者に御座候。
古今集以後にては新古今稍すぐれたりと相見え候。古今よりも善き歌を見かけ申候。併し其善き歌と申すも指折りて數へる程の事に有之候。定家といふ人は上手か下手か譯の分らぬ人にて新古今の撰定を見れば少しは譯の分つて居るのかと思へば自分の歌にはろくな者無之「駒とめて袖うちはらふ」「見わたせば花も紅葉も」抔が人にもてはやさるゝ位の者に有之候。定家を狩野派の畫師に比すれば探幽と善く相似たるかと存候。定家に傑作無く探幽にも傑作無し。併し定家も探幽も相當に練磨の力はありて如何なる場合にも可なりにやりこなし申候。兩人の名譽は相如しく程の位置に居りて〈定〉家以後歌の門閥を生じ探幽以後畫の門閥を生じ兩家とも門閥を生じたる後は歌も畫も全く腐敗致候。いつの代如何なる技藝にても歌の格畫の格などゝいふやうな格がきまつたら最早進歩致す間敷候。
香川景樹かがはかげきは古今貫之崇拜にて見識の低きことは今更申す迄も無之候。俗な歌の多き事も無論に候。併し景樹には善き歌も有之候。自己が崇拜する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ只景樹時代には貫之時代よりも進歩して居る點があるといふ事は相違無ければ從て景樹に貫之よりも善き歌が出來るといふも自然の事と存候。景樹の歌がひどく玉石混淆である處は俳人でいふと蓼太れうたに比するが適當と被思おもはれ候。蓼太は雅俗巧拙の兩極端を具へた男で其句に兩極端が現れ居候。且滿身の覇氣でもつて世人を籠絡ろうらくし全國に夥おびただしき門派の末流をもつて居た處なども善く似て居るかと存候。景樹を學ぶなら善き處を學ばねば甚だしき邪路に陷り可申今の景樹派などゝ申すは景樹の俗な處を學びて景樹よりも下手につらね申候。ちゞれ毛の人が束髮に結びしを善き事と思ひて束髮にいふ人はわざ/\毛をちゞらしたらんが如き趣有之候。こゝの處よく/\濶眼くわつがんを開いて御判別可有候。古今上下東西の文學など能く比較して御覽可被成なさるべくくだらぬ歌書許り見て居つては容易に自己の迷を醒まし難く見る所狹ければ自分の※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車の動くのを知らで隣の※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車が動くやうに覺ゆる者に御座候。不盡。 
三たび歌よみに與ふる書
前略。歌よみの如く馬鹿なのんきなものはまたと無之候。歌よみのいふ事を聞き候へば和歌程善き者は他に無き由いつでも誇り申候へども歌よみは歌より外の者は何も知らぬ故に歌が一番善きやうに自惚うぬぼれ候次第に有之候。彼等は歌に尤も近き俳句すら少しも解せず十七字でさへあれば川柳も俳句も同じと思ふ程ののんきさ加減なれば、況まして支那の詩を研究するでも無く西洋には詩といふものが有るやら無いやらそれも分らぬ文盲淺學、況して小説や院本も和歌と同じく文學といふ者に屬すと聞かば定めて目を剥むいて驚き可申候。斯く申さば讒謗ざんばう罵詈ばり禮を知らぬしれ者と思ふ人もあるべけれど實際なれば致方無之候。若し生の言が誤れりと思さば所謂歌よみの中より只の一人にても俳句を解する人を御指名可被下候。生は歌よみに向ひて何の恨も持たぬに斯く罵詈がましき言を放たねばならぬやうに相成候心の程御察被下度候。
歌を一番善いと申すは固より理窟も無き事にて一番善い譯は毫がうも無之候。俳句には俳句の長所あり、支那の詩には支那の詩の長所あり、西洋の詩には西洋の詩の長所あり、戲曲院本には戲曲院本の長所あり、其長所は固より和歌の及ぶ所にあらず候。理窟は別とした處で一體歌よみは和歌を一番善い者と考へた上でどうする積りにや、歌が一番善い者ならばどうでもかうでも上手でも下手でも三十一文字並べさへすりや天下第一の者であつて秀逸と稱せらるゝ俳句にも漢詩にも洋詩にも優りたる者と思ひ候者にや其量見が聞きたく候。最も下手な歌も最も善き俳句漢詩等に優り候程ならば誰も俳句漢詩等に骨折る馬鹿はあるまじく候。若し又俳句漢詩等にも和歌より善き者あり和歌にも俳句漢詩等より惡き者ありといふならば和歌ばかりが一番善きにてもあるまじく候。歌よみの淺見には今更のやうに呆れ申候。
俳句には調が無くて和歌には調がある、故に和歌は俳句に勝れりとある人は申し候。これは強ち一人の論では無く歌よみ仲間には箇樣な説を抱く者多き事と存候。歌よみどもはいたく調といふ事を誤解致居候。調にはなだらかなる調も有之、迫りたる調も有之候。平和な長閑のどかな樣を歌ふにはなだらかなる長き調を用うべく悲哀とか慷慨かうがいとかにて情の迫りたる時又は天然にても人事にても景象の活動甚だしく變化の急なる時之を歌ふには迫りたる短き調を用うべきは論ずる迄も無く候。然るに歌よみは調は總てなだらかなる者とのみ心得候と相見え申候。斯かかる誤を來すも畢竟從來の和歌がなだらかなる調子のみを取り來りしに因る者にて、俳句も漢詩も見ず歌集ばかり讀みたる歌よみには爾しか思はるゝも無理ならぬ事と存候。さて/\困つた者に御座候。なだらかなる調が和歌の長所ならば迫りたる調が俳句の長所なる事は分り申さゞるやらん。併し迫りたる調強き調などいふ調の味は所謂歌よみには到底分り申す間敷まじきか。眞淵は雄々しく強き歌を好み候へどもさて其歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、實朝の歌の雄々しく強きが如きは眞淵には一首も見あたらず候。「飛ぶ鷲の翼もたわに」などいへるは眞淵集中の佳什かじふにて強き方の歌なれども意味ばかり強くて調子は弱く感ぜられ候。實朝をして此意匠を詠ましめば箇樣な調子には詠むまじく候。「ものゝふの矢なみつくろふ」の歌の如き鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど調子の強き事は並ぶ者無く此歌を誦しようすれば霰あられの音を聞くが如き心地致候。眞淵既に然りとせば眞淵以下の歌よみは申す迄も無く候。斯る歌よみに蕪村派の俳句集か盛唐の詩集か讀ませたく存候へども驕おごりきつたる歌よみどもは宗旨以外の書を讀むことは承知致すまじく勸めるだけが野暮やぼにや候べき。
御承知の如く生は歌よみよりは局外者とか素人とかいはるゝ身に有之從つて詳しき歌の學問は致さず格が何だか文法が何だか少しも承知致さず候へども大體の趣味如何に於ては自ら信ずる所あり此點に就きて却かへつて專門の歌よみが不注意を責むる者に御座候。箇樣に惡口をつき申さば生を彌次馬連と同樣に見る人もあるべけれど生の彌次馬連なるか否かは貴兄は御承知の事と存候。異論の人あらば何人にても來訪あるやう貴兄より御傳へ被下度三日三夜なりともつゞけさまに議論可致候。熱心の點に於ては決して普通の歌よみどもには負け不申候。情激し筆走り候まゝ失禮の語も多かるべく御海容可被下候。拜具。 
四たび歌よみに與ふる書
拜啓。空論ばかりにては傍人に解し難く實例に就きて評せよとの御言葉御尤と存候。實例と申しても際限も無き事にていづれを取りて評すべきやらんと惑ひ候へども成るべく名高き者より試み可申候。御思ひあたりの歌ども御知らせ被下度候。さて人丸の歌にかありけん
ものゝふの八十氏川やそうぢがはの網代木あじろぎに
   いざよふ波のゆくへ知らずも
といふが屡※(二の字点、1-2-22)引きあひに出されるやうに存候。此歌萬葉時代に流行せる一氣呵成かせいの調にて少しも野卑なる處は無く字句もしまり居り候へども全體の上より見れば上三句は贅物ぜいぶつに屬し候。「足引の山鳥の尾の」といふ歌も前置の詞多けれどあれは前置の詞長きために夜の長き樣を感ぜられ候。これは又上三句全く役に立ち不申候。此歌を名所の歌の手本に引くは大たわけに御座候。總じて名所の歌といふは其の地の特色なくては叶はず此歌の如く意味無き名所の歌は名所の歌になり不申候。併し此歌を後世の俗氣紛々たる歌に比ぶれば勝ること萬々に候。且つ此種の歌は眞似すべきにはあらねど多き中に一首二首あるは面白く候。
月見れば千々に物こそ悲しけれ
   我身一つの秋にはあらねど
といふ歌は最も人の賞する歌なり。上三句はすらりとして難無けれども下二句は理窟なり蛇足なりと存候。歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。此歌下二句が理窟なる事は消極的に言ひたるにても知れ可申、若し我身一つの秋と思ふと詠むならば感情的なれども秋ではないがと當り前の事をいはゞ理窟に陷り申候。箇樣な歌を善しと思ふは其人が理窟を得離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず今の所謂歌よみどもは多く理窟を並べて樂み居候。嚴格に言はゞ此等は歌でも無く歌よみでも無く候。
芳野山霞の奧は知らねども
   見ゆる限りは櫻なりけり
八田知紀はつたとものりの名歌とか申候。知紀の家集はいまだ讀まねどこれが名歌ならば大概底も見え透き候。此も前のと同じく「霞の奧は知らねども」と消極的に言ひたるが理窟に陷り申候。既に見ゆる限りはといふ上は見えぬ處は分らぬがといふ意味は其の裏に籠り居り候ものをわざ/\知らねどもとことわりたる、これが下手と申すものに候。且つ此歌の姿、見ゆる限りは櫻なりけりなどいへるも極めて拙つたなく野卑なり、前の千里の歌は理窟こそ惡けれ姿は遙に立ちまさり居候。序に申さんに消極的に言へば理窟になると申しゝ事いつでもしかなりといふに非ず、客觀的の景色を連想していふ場合は消極にても理窟にならず、例へば「駒とめて袖うち拂ふ影もなし」といへるが如きは客觀の景色を連想したる迄にて斯くいはねば感情を現す能はざる者なれば無論理窟にては無之候。又全體が理窟めきたる歌あり(釋教の歌の類)これらは却て言ひ樣にて多少の趣味を添ふべけれど、此芳野山の歌の如く全體が客觀的即ち景色なるに其中に主觀的理窟の句がまじりては殺風景いはん方無く候。又同人の歌にかありけん
うつせみの我世の限り見るべきは
   嵐の山の櫻なりけり
といふが有之候由さて/\驚き入つたる理窟的の歌にては候よ。嵐山の櫻のうつくしいと申すは無論客觀的の事なるにそれを此歌は理窟的に現したり、此歌の句法は全體理窟的の趣向の時に用うべき者にして、此趣向の如く客觀的にいはざるべからざる處に用ゐたるは大俗のしわざと相見え候。「べきは」と係かけて「なりけり」と結びたるが最理窟的殺風景の處に有之候。一生嵐山の櫻を見やうといふも變なくだらぬ趣向なり、此歌全く取所無之候。猶手當り次第可申上候也。 
五たび歌よみに與ふる書
心あてに見し白雲は麓にて
   思はぬ空に晴るゝ不盡の嶺
といふは春海はるみのなりしやに覺え候。これは不盡ふじの裾より見上げし時の即興なるべく生も實際に斯く感じたる事あれば面白き歌と一時は思ひしが今ま見れば拙き歌に有之候。第一、麓といふ語如何や、心あてに見し處は少くも半腹位の高さなるべきをそれを麓といふべきや疑はしく候。第二、それは善しとするも「麓にて」の一句理窟ぽくなつて面白からず、只心あてに見し雲よりは上にありしとばかり言はねばならぬ處に候。第三、不盡の高く壯さかんなる樣を詠まんとならば今少し力強き歌ならざるべからず、此歌の姿弱くして到底不盡に副そひ申さず候。几董きとうの俳句に「晴るゝ日や雲を貫く雪の不盡」といふがあり、極めて尋常に敍し去りたれども不盡の趣は却て善く現れ申候。
もしほ燒く難波の浦の八重霞
   一重はあまのしわざなりけり
契冲の歌にて俗人の傳稱する者に有之候へども此歌の品下りたる事は稍心ある人は承知致居事と存候。此歌の傳稱せらるゝはいふ迄も無く八重一重の掛合にあるべけれど余の攻撃點も亦此處に外ならず、總じて同一の歌にて極めてほめる處と他の人の極めて誹そしる處とは同じ點に在る者に候。八重霞といふもの固より八段に分れて霞みたるにあらねば一重といふこと一向に利き不申、又初に「藻汐もしほ焚く」と置きし故後に煙とも言ひかねて「あまのしわざ」と主觀的に置きたる處いよ/\俗に墮ち申候。こんな風に詠まずとも、霞の上に藻汐焚く煙のなびく由尋常に詠まばつまらぬ迄も斯る厭味は出來申間敷候。
心あてに折らはや折らむ初霜の
   置きまとはせる白菊の花
此躬恒みつねの歌百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。此歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる氣遣無之候。趣向嘘なれば趣も絲瓜も有之不申、蓋しそれはつまらぬ嘘なるからにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。例へば「鵲かささぎのわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」面白く候。躬恒のは瑣細ささいな事を矢鱈やたらに仰山に述べたのみなれば無趣味なれども家持のは全く無い事を空想で現はして見せたる故面白く被感候。嘘を詠むなら全く無い事とてつもなき嘘を詠むべし、然らざれば有の儘に正直に詠むが宜しく候。雀が舌剪きられたとか狸が婆に化けたなどの嘘は面白く候。今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと眞面目らしく人を欺く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。「露の落つる音」とか「梅の月が匂ふ」とかいふ事をいふて樂む歌よみが多く候へども是等も面白からぬ嘘に候。總て嘘といふものは一二度は善けれどたび/\詠まれては面白き嘘も面白からず相成申候。況して面白からぬ嘘はいふ迄も無く候。「露の音」「月の匂」「風の色」などは最早十分なれば今後の歌には再び現れぬやう致したく候。「花の匂」などいふも大方は嘘なり、櫻などには格別の匂は無之、「梅の匂」でも古今以後の歌よみの詠むやうに匂ひ不申候。
春の夜の闇はあやなし梅の花
   色こそ見えね香やは隱るゝ
「梅闇に匂ふ」とこれだけで濟む事を三十一文字に引きのばしたる御苦勞加減は恐れ入つた者なれどこれも此頃には珍らしき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめに被成ては如何や。闇の梅に限らず普通の梅の香も古今集だけにて十餘りもありそれより今日迄の代々の歌よみがよみし梅の香はおびたゞしく數へられもせぬ程なるにこれも善い加減に打ちとめて香水香料に御用ひ被成なされ候は格別其外歌には一切之を入れぬ事とし鼻つまりの歌人と嘲らるゝ程に御遠ざけ被成ては如何や。小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候。 
六たび歌よみに與ふる書
御書面を見るに愚意を誤解被致候。殊に變なるは御書面中四五行の間に撞著どうちやく有之候。初に「客觀的景色に重きを措きて詠むべし」とあり次に「客觀的にのみ詠むべきものとも思はれず」云々とあるは如何。生は客觀的にのみ歌を詠めと申したる事は無之候。客觀に重きを置けと申したる事も無けれど此方は愚意に近きやう覺え候。「皇國の歌は感情を本として」云々とは何の事に候や。詩歌に限らず總ての文學が感情を本とする事は古今東西相違あるべくも無之、若し感情を本とせずして理窟を本としたる者あらばそれは歌にても文學にてもあるまじく候。故ことさらに皇國の歌はなど言はるゝは例の歌より外に何物も知らぬ歌よみの言かと被怪候。「何れの世に何れの人が理窟を讀みては歌にあらずと定め候哉」とは驚きたる御問に有之候。理窟が文學に非ずとは古今の人東西の人盡ことごとく一致したる定義にて、若し理窟をも文學なりと申す人あらばそれは大方日本の歌よみならんと存候。
客觀主觀感情理窟の語に就きて或は愚意を誤解被致居にや。全く客觀的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を竢またず。例へば橋の袂に柳が一本風に吹かれて居るといふことを其儘歌にせんには其歌は客觀的なれども、元と此歌を作るといふは此客觀的景色を美なりと思ひし結果なれば感情に本づく事は勿論にて只うつくしいとか奇麗とかうれしいとか樂しいとかいふ語を著くると著けぬとの相違に候。又主觀的と申す内にも感情と理窟との區別有之、生が排斥するは主觀中の理窟の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主觀の歌は客觀の歌と比して此主客兩觀の相違の點より優劣をいふべきにあらず、されば生は客觀に重きを置く者にても無之候。但和歌俳句の如き短き者には主觀的佳句よりも客觀的佳句多しと信じ居候へば客觀に重きを置くといふも此處の事を意味すると見れば差支無之候。又主觀客觀の區別、感情理窟の限界は實際判然したる者に非ずとの御論は御尤に候。それ故に善惡可否巧拙と評するも固より劃然たる區別あるに非ず巧の極端と拙の極端とは毫がうも紛るゝ處あらねど巧と拙との中間に在る者は巧とも拙とも申し兼候。感情と理窟の中間に在る者は此場合に當り申候。
「同じ用語同じ花月にても其れに對する吾人の觀念と古人のと相違する事珍しからざる事にて」云々それは勿論の事なれどそんな事は生の論ずることゝ毫も關係無之候。今は古人の心を忖度そんたくするの必要無之、只此處にては古今東西に通ずる文學の標準(自ら斯く信じ居る標準なり)を以て文學を論評する者に有之候。昔は風帆船が早かつた時代もありしかど蒸氣船を知りて居る眼より見れば風帆船は遲しと申すが至當の理に有之貫之は貫之時代の歌の上手とするも前後の歌よみを比較して貫之より上手の者外に澤山有之と思はゞ貫之を下手と評すること亦至當に候。歴史的に貫之を褒めるならば生も強ち反對にては無之候へども只今の論は歴史的に其人物を評するにあらず、文學的に其歌を評するが目的に有之候。
「日本文學の城壁とも謂ふべき國歌」云々とは何事ぞ。代々の勅撰集の如き者が日本文學の城壁ならば實に頼み少き城壁にて此の如き薄ッぺらな城壁は大砲一發にて滅茶滅茶に碎け可申候。生は國歌を破壞し盡すの考にては無之日本文學の城壁を今少し堅固に致し度外國の髯づらどもが大砲を發はなたうが地雷火を仕掛けうがびくとも致さぬ程の城壁に致し度心願有之、しかも生を助けて此心願を成就せしめんとする大檀那は天下一人も無く數年來鬱積沈滯せる者頃日けいじつ漸く出口を得たる事とて前後錯雜序次倫無く大言疾呼我ながら狂せるかと存候程の次第に御座候。傍人より見なば定めて狂人の言とさげすまるゝ事と存候。猶此度新聞の餘白を借り傳へたるを機とし思ふ樣愚考も述べたく、それ丈にては愚意分りかね候に付愚作をも連ねて御評願ひ度存居候へども或は先輩諸氏の怒に觸れて差止めらるゝやうな事は無きかとそれのみ心配罷在候。心配、恐懼、喜悦、感慨、希望等に惱まされて從來の病體益※(二の字点、1-2-22)神經の過敏を致し日來ひごろ睡眠に不足を生じ候次第愚とも狂とも御笑ひ可被下候。
從來の和歌を以て日本文學の基礎とし城壁と爲さんとするは弓矢劍槍けんさうを以て戰はんとすると同じ事にて明治時代に行はるべき事にては無之候。今日軍艦を購あがなひ大砲を購ひ巨額の金を外國に出すも畢竟日本國を固むるに外ならず、されば僅少の金額にて購ひ得べき外國の文學思想抔は續々輸入して日本文學の城壁を固めたく存候。生は和歌に就きても舊思想を破壞して新思想を注文するの考にて隨つて用語は雅語俗語漢語洋語必要次第用うる積りに候。委細後便。
追て伊勢の神風、宇佐の神勅云々の語あれども文學には合理非合理を論ずべき者にては無之、從つて非合理は文學に非ずと申したる事無之候。非合理の事にて文學的には面白き事不少候。生の寫實と申すは合理非合理事實非事實の謂にては無之候。油畫師は必ず寫生に依り候へどもそれで神や妖怪やあられもなき事を面白く書き申候。併し神や妖怪を畫くにも勿論寫生に依るものにて、只有の儘を寫生すると一部々々の寫生を集めるとの相違に有之、生の寫實も同樣の事に候。是等は大誤解に候。 
七たび歌よみに與ふる書
前便に言ひ殘し候事今少し申上候。宗匠的俳句と言へば直ちに俗氣を聯想するが如く和歌といへば直ちに陳腐を聯想致候が年來の習慣にてはては和歌といふ字は陳腐といふ意味の字の如く思はれ申候。斯く感ずる者和歌社會には無之と存候へど歌人ならぬ人は大方箇樣の感を抱き候やに承り候。をり/\は和歌を誹そしる人に向ひてさて和歌は如何樣に改良すべきかと尋ね候へば其人が首をふつていやとよ和歌は腐敗し盡したるにいかでか改良の手だてあるべき置きね/\など言ひはなし候樣は恰あたかも名醫が匙を投げたる死際の病人に對するが如き感を持ち居候者と相見え申候。實にも歌は色青ざめ呼吸絶えんとする病人の如くにも有之候よ。さりながら愚考はいたく異なり、和歌の精神こそ衰へたれ形骸は猶保つべし、今にして精神を入れ替へなば再び健全なる和歌となりて文壇に馳驅するを得べき事を保證致候。こはいはでもの事なるを或る人がはやこと切れたる病人と一般に見做なし候は如何にも和歌の腐敗の甚しきに呆れて一見して抛棄したる者にや候べき。和歌の腐敗の甚しさもこれにて大方知れ可申候。
此腐敗と申すは趣向の變化せざるが原因にて、又趣向の變化せざるは用語の少きが原因と被存候。故に趣向の變化を望まば是非とも用語の區域を廣くせざるべからず、用語多くなれば從つて趣向も變化可致候。ある人が生を目して和歌の區域を狹くする者と申し候は誤解にて少しにても廣くするが生の目的に御座候。とはいへ如何に區域を廣くするとも非文學的思想は容いれ不申、非文學的思想とは理窟の事に有之候。
外國の語も用ゐよ外國に行はるゝ文學思想も取れよと申す事に就きて日本文學を破壞する者と思惟する人も有之げに候へどもそれは既に根本に於て誤り居候。たとひ漢語の詩を作るとも洋語の詩を作るとも將はたサンスクリツトの詩を作るとも日本人が作りたる上は日本の文學に相違無之候。唐制に摸して位階も定め服色も定め年號も定め置き唐ぶりたる冠衣を著け候とも日本人が組織したる政府は日本政府と可申候。英國の軍艦を買ひ獨國の大砲を買ひそれで戰に勝ちたりとも運用したる人にして日本人ならば日本の勝と可申候。併し外國の物を用うるは如何にも殘念なれば日本固有の物を用ゐんとの考ならば其志には贊成致候へども迚も日本の物ばかりでは物の用に立つまじく候。文學にても馬、梅、蝶、菊、文等の語をはじめ一切の漢語を除き候はゞ如何なる者が出來候べき。源氏物語枕草子以下漢語を用ゐたる物を排斥致し候はゞ日本文學は幾何か殘り候べき。それでも痩我慢に歌ばかりは日本固有の語にて作らんと決心したる人あらばそは御勝手次第ながら其を以て他人を律するは無用の事に候。日本人が皆日本固有の語を用うるに至らば日本は成り立つまじく日本文學者が皆日本固有の語を用ゐたらば日本文學は破滅可致候。
或は姑息にも馬、梅、蝶、菊、文等の語はいと古き代より用ゐ來りたれば日本語と見做すべしなどいふ人も可有之候へどいと古き代の人は其頃新しく輸入したる語を用ゐたる者にて此姑息論者が當時に生れ居らばそれをも排斥致し候ひけん。いと笑ふ可き撞着に御座候。假に姑息論者に一歩を借して古き世に使ひし語をのみ用うるとして、若し王朝時代に用ゐし漢語だけにても十分に之を用ゐなば猶和歌の變化すべき餘地は多少可有之候。されど歌の詞ことばと物語の詞とは自ら別なり物語などにある詞にて歌には用ゐられぬが多きなど例の歌よみは可申候。何たる笑ふ可き事には候ぞや。如何なる詞にても美の意を運ぶに足るべき者は皆歌の詞と可申之を外にして歌の詞といふ者は無之候。漢語にても洋語にても文學的に用ゐられなば皆歌の詞と可申候。 
八たび歌よみに與ふる書
惡あしき歌の例を前に擧げたれば善き歌の例をこゝに擧げ可申候。惡き歌といひ善き歌といふも四つや五つばかりを擧げたりとて愚意を盡すべくも候はねど無きには勝りてんと聊いささか列つらね申候。先づ金槐和歌集などより始め申さんか。
武士の矢並つくろふ小手の上に霰たはしる那須の篠原
といふ歌は萬口一齊に歎賞するやうに聞き候へば今更取りいでゝいはでもの事ながら猶御氣のつかれざる事もやと存候まゝ一應申上候。此歌の趣味は誰しも面白しと思ふべく又此の如き趣向が和歌には極めて珍しき事も知らぬ者はあるまじく又此歌が強き歌なる事も分り居り候へども、此種の句法が殆ど此歌に限る程の特色を爲し居るとは知らぬ人ぞ多く候べき。普通に歌はなり、けり、らん、かな、けれ抔の如き助辭を以て斡旋せらるゝにて名詞の少きが常なるに、此歌に限りては名詞極めて多く「てにをは」は「の」の字三、「に」の字一、二個の動詞も現在になり(動詞の最短き形)居候。此の如く必要なる材料を以て充實したる歌は實に少く候。新古今の中には材料の充實したる句法の緊密なる稍此歌に似たる者あれど猶此歌の如くは語々活動せざるを覺え候。萬葉の歌は材料極めて少く簡單を以て勝る者、實朝一方には此萬葉を擬し一方には此の如く破天荒の歌を爲す、其力量實に測るべからざる者有之候。又晴を祈る歌に
時によりすくれは民のなけきなり八大龍王雨やめたまへ
といふがあり恐らくは世人の好まざる所と存候へどもこは生の好きで/\たまらぬ歌に御座候。此の如く勢強き恐ろしき歌はまたと有之間敷、八大龍王を叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)する處龍王も懾伏せふふく致すべき勢相現れ申候。八大龍王と八字の漢語を用ゐたる處雨やめたまへと四三の調を用ゐたる處皆此歌の勢を強めたる所にて候。初三句は極めて拙き句なれども其一直線に言ひ下して拙き處却て其眞率僞りなきを示して祈晴きせいの歌などには最も適當致居候。實朝は固より善き歌作らんとて之を作りしにもあらざるべく只眞心より詠み出でたらんがなか/\に善き歌とは相成り候ひしやらん。こゝらは手のさきの器用を弄し言葉のあやつりにのみ拘こだはる歌よみどもの思ひ至らぬ場所に候。三句切の事は猶他日詳つまびらかに可申候へども三句切の歌にぶつゝかり候故一言致置候。三句の歌詠むべからずなどいふは守株しゆしゆの〈論〉にて論ずるに足らず候へども三句切の歌は尻輕くなるの弊有之候。此弊を救ふために下二句の内を字餘りにする事屡有之此歌も其一にて(前に擧げたる大江千里の月見ればの歌も此例。猶其外にも數へ盡すべからず)候。此歌の如く下を字餘りにする時は三句切にしたる方却て勢強く相成申候。取りも直さず此歌は三句切の必要を示したる者に有之候。又
物いはぬよものけたものすらたにもあはれなるかなや親の子を思ふ
の如き何も別にめづらしき趣向もなく候へども一氣呵成の處却て眞心を現して餘りあり候。序に字餘りの事一寸申候。此歌は第五句字餘り故に面白く候。或る人は字餘りとは餘儀なくする者と心得候へどもさにあらず、字餘りには凡およそ三種あり、第一、字餘りにしたるがために面白き者、第二、字餘りにしたるがため惡き者、第三、字餘りにするともせずとも可なる者と相分れ申候。其中にも此歌は字餘りにしたるがため面白き者に有之候。若し「思ふ」といふ〈を〉つめて「もふ」など吟じ候はんには興味索然と致し候。こゝは必ず八字に讀むべきにて候。又此歌の最後の句にのみ力を入れて「親の子を思ふ」とつめしは情の切なるを現す者にて、若し「親の」の語を第四句に入れ最後の句を「子を思ふかな」「子や思ふらん」など致し候はゞ例のやさしき調となりて切なる情は現れ不申、從つて平凡なる歌と相成可申候。歌よみは古來助辭を濫用致し候樣宋人の虚字を用ゐて弱き詩を作るに一般に御座候。實朝の如きは實に千古の一人と存候。
前日來生は客觀詩をのみ取る者と誤解被致候ひしも其然らざるは右の例にて相分り可申那須の歌は純客觀、後の二首は純主觀にて共に愛誦する所に有之候。併し此三首ばかりにては強き方に偏し居候へば或は又強き歌をのみ好むかと被考かんがへられ候はん。猶多少の例歌を擧ぐるを御待可被下候。 
九たび歌よみに與ふる書
一々に論ぜんもうるさければ只二三首を擧げ置きて金槐集以外に遷うつり候べく候。
山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも
箱根路をわか越え來れは伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ
世の中はつねにもかもななきさ漕く海人あまの小舟の綱手かなしも
大海のいそもとゝろによする波われてくたけてさけて散るかも
箱根路の歌極めて面白けれども斯る想は今古に通じたる想なれば實朝が之を作りたりとて驚くにも足らず只世の中はの歌の如く古意古調なる者が萬葉以後に於てしかも華麗を競ふたる新古今時代に於て作られたる技量には驚かざるを得ざる譯にて實朝の造詣の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌實朝のはじめたる句法にや候はん。
新古今に移りて二三首を擧げんに
なこの海の霞のまよりなかむれは入日を洗ふ沖つ白波 (實定)
此歌の如く客觀的に景色を善く寫したる者は新古今以前にはあらざるべくこれらも此集の特色として見るべき者に候。惜むらくは「霞のまより」といふ句が疵きずにて候。一面にたなびきたる霞に間といふも可笑しく、縱よし間ありともそれは此趣向に必要ならず候。入日も海も霞みながらに見ゆるこそ趣は候なれ。
ほの/\と有明の月の月影は紅葉吹きおろす山おろしの風 (信明)
これも客觀的の歌にてけしきも淋しく艶なるに語を疊みかけて調子取りたる處いとめづらかに覺え候。
さひしさに堪へたる人のまたもあれな庵いほを並へん冬の山里 (西行)
西行の心はこの歌に現れ居候。「心なき身にも哀れは知られけり」などいふ露骨的の歌が世にもてはやされて此歌などは却て知る人少きも口惜く候。庵を並べんといふが如き斬新にして趣味ある趣向は西行ならでは得言はざるべく特に「冬の」と置きたるも亦尋常歌よみの手段にあらずと存候。後年芭蕉が新に俳諧を興せしも寂は「庵を並べん」などより悟入し季の結び方は「冬の山里」などより悟入したるに非ざるかと被思候。
閨ねやの上にかたえさしおほひ外面なる葉廣柏に霰ふるなり (能因)
これも客觀的の歌に候。上三句複雜なる趣を現さんとて稍※(二の字点、1-2-22)混雜に陷りたれど葉廣柏に霰のはぢく趣は極めて面白く候。
岡の邊の里のあるしを尋ぬれは人は答へす山おろしの風 (慈圓)
趣味ありて句法もしつかりと致し居候。此種の歌の第四句を「答へで」などいふが如く下に連續する句法となさば何の面白味も無之候。
さゝ波や比良山風の海吹けは釣する蜑あまの袖かへる見ゆ (讀人しらず)
實景を其儘に寫し些の巧を弄ばぬ所却て興多く候。
神風や玉串の葉をとりかさし内外うちとの宮に君をこそ祈れ (俊惠)
神祇の歌といへば千代の八千代のと定文句を並ぶるが常なるに此歌はすつぱりと言ひはなしたるなか/\に神の御心にかなふべく覺え候。句のしまりたる所半ば客觀的に敍したる所など注意すべく神風やの五字も譯なきやうなれど極めて善く響き居候。
阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみやくさんぼだいの佛たちわか立つ杣そまに冥加あらせたまへ (傳教)
いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にてこれを詠みたる人もさすがなれど此歌を勅選集に加へたる勇氣も稱するに足るべくと存候。第二句十字の長句ながら成語なれば左迄口にたまらず、第五句九字にしたるはことさらとにもあらざるべけれど此所はことさらにも九字位にする必要有之、若し七字句などを以て止めたらんには上の十字句に對して釣合取れ不申候。初めの方に字餘りの句あるがために後にも字餘りの句を置かねばならぬ場合は屡※(二の字点、1-2-22)有之候。若し字餘りの句は一句にても少きが善しなどいふ人は字餘りの趣味を解せざるものにや候べき。 
十たび歌よみに與ふる書
先輩崇拜といふことは何れの社會にも有之候。それも年長者に對し元勳に對し相當の敬禮を盡すの意ならば至當の事なれどもそれと同時に何かは知らず其人の力量技術を崇拜するに至りては愚の至りに御座候。田舍の者などは御歌所といへばえらい歌人の集り、御歌所長といへば天下第一の歌よみの樣に考へ、從つて其人の歌と聞けば讀まぬ内からはや善き者と定め居るなどありうちの事にて生も昔は其仲間の一人に候ひき。今より追想すれば赤面する程の事に候。御歌所とてえらい人が集まる筈も無く御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐るにもあらざるべく候。今日は歌よみなる者皆無の時なれどそれでも御歌所連より上手なる歌よみならば民間に可有之候。田舍の者が元勳を崇拜し大臣をえらい者に思ひ政治上の力量も識見も元勳大臣が一番に位する者と迷信致候結果、新聞記者などが大臣を誹そしるを見て「いくら新聞屋が法螺ほら吹いたとて、大臣は親任官、新聞屋は素寒貧、月と泥龜すつぽん程の違ひだ」などゝ罵ののしり申候。少し眼のある者は元勳がどれ位無能力かといふ事大臣は廻り持にて新聞記者より大臣に上りし實例ある事位は承知致し説き聞かせ候へども田舍の先生は一向無頓着にて不相變元勳崇拜なるも腹立たしき譯に候。あれ程民間にてやかましくいふ政治の上猶然りとすれば今迄隱居したる歌社會に老人崇拜の田舍者多きも怪むに足らねども此老人崇拜の弊を改めねば歌は進歩不可致候。歌は平等無差別なり、歌の上に老少も貴賤も無之候。歌よまんとする少年あらば老人抔にかまはず勝手に歌を詠むが善かるべくと御傳言可被下候。明治の漢詩壇が振ひたるは老人そちのけにして青年の詩人が出たる故に候。俳句の觀を改めたるも月並連に構はず思ふ通りを述べたる結果に外ならず候。
縁語を多く用うるは和歌の弊なり、縁語も場合によりては善けれど普通には縁語かけ合せなどあればそれがために歌の趣を損ずる者に候。縱よし言ひおほせたりとて此種の美は美の中の下等なる者と存候。無暗に縁語を入れたがる歌よみは無暗に地口ぢぐち駄洒落を並べたがる半可通と同じく御當人は大得意なれども側より見れば品の惡き事夥しく候。縁語に巧を弄せんよりは眞率に言ひながしたるが餘程上品に相見え申候。
歌といふといつでも言葉の論が出るには困り候。歌では「ぼたん」とは言はず「ふかみぐさ」と詠むが正當なりとか、此詞は斯うは言はず必ず斯ういふしきたりの者ぞなど言はるゝ人有之候へどもそれは根本に於て已に愚考と異り居候。愚考は古人のいふた通りに言はんとするにても無く、しきたりに倣はんとするにても無く只自己が美と感じたる趣味を成るべく善く分るやうに現すが本來の主意に御座候。故に俗語を用ゐたる方其美感を現すに適せりと思はゞ雅語を捨てゝ俗語を用ゐ可申、又古來のしきたりの通りに詠むことも有之候へどそれはしきたりなるが故に其を守りたるにては無之其方が美感を現すに適せるがために之を用ゐたる迄に候。古人のしきたりなど申せども其古人は自分が新に用ゐたるぞ多く候べき。
牡丹と深見草ふかみぐさとの區別を申さんに生等には深見草といふよりも牡丹といふ方が牡丹の幻影早く著いちじるく現れ申候。且つ「ぼたん」といふ音の方が強くして、實際の牡丹の花の大きく凛としたる所に善く副そひ申候。故に客觀的に牡丹の美を現さんとすれば牡丹と詠むが善き場合多かるべく候。
新奇なる事を詠めといふと※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車、鐵道などいふ所謂文明の器械を持ち出す人あれど大に量見が間違ひ居り候。文明の器械は多く不風流なる者にて歌に入り難く候へども若しこれを詠まんとならば他に趣味ある者を配合するの外無之候。それを何の配合物も無く「レールの上に風が吹く」などゝやられては殺風景の極に候。せめてはレールの傍に菫が咲いて居るとか、又は※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車の過ぎた後で罌粟けしが散るとか薄がそよぐとか言ふやうに他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。又殺風景なる者は遠望する方宜しく候。菜の花の向ふに※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車が見ゆるとか、夏草の野末を※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車が走るとかするが如きも殺風景を消す一手段かと存候。 いろ/\言ひたき儘取り集めて申上候。猶ほ他日詳かに申上ぐる機會も可有之候。以上。
 
藤原忠平物語

 

1
藤原忠平を悪く言う人はいない。
聡明にして寛大な性格は誰からも愛され、その死は全ての人に計り知れない悲しみをもたらしたと歴史書は伝えている。
兄である藤原時平の死から四〇年に渡って権力を握り続けただけでなく、藤原氏の権力の系譜も忠平から生まれている。太政大臣や摂政・関白を制度として確立し、武家社会の到来で形骸化するとはいえ明治維新までの九〇〇年を数える長期体制を構築したのだからその政治家としての手腕も高いものがあったというしかない。
しかし、この人が権力を握っている間の日本はどうであったか?
これは褒められるようなものではなかった。
東北では蝦夷が反乱を起こした。
関東では平将門が反乱を起こした。
瀬戸内では藤原純友が反乱を起こした。
そのほかの小さな反乱を加えると、最盛期には京都の権力の及ばぬ地域が日本の半分以上を占めるという異常事態となったのである。平安京を中心とする中央集権が維持できなくなり、各地では自分の身を守る必要が増して、武士団がより強固となった。
これに加え、菅原道真の祟りと総称された相次ぐ天候不順と凶作、そして、伝染病。苦しい暮らしと死が日常の光景となり、日常は絶望の日々となった。
良い意味で捉えれば、藤原忠平は絶望の日々の中に光るただ一つの希望であったろう。辛く苦しい日々が続いているが、忠平が最後の最後で支えてくれているのだと考えることで、その当時の人は現状を納得させることが出来たのかも知れない。
また、この当時の中国は五代十国の混乱、朝鮮半島は後三国時代の内乱、渤海は滅亡と、海の向こうも三分五裂の状態にあり、混乱は日本国内だけではなく、この世界の全てで起こっているのだとも当時の人たちは考えた。何しろ、権勢を誇った唐ですら今やその痕跡も残さず地上から消滅しているのである。国家滅亡が日常と化している海外に比べれば、忠平が支えてくれるおかげで国家滅亡の危機を回避できている日本はまだマシなのだと考えることが、この時代の人たちの寄って立つただ一つの心の拠り所だったのだ。
この時代の記録のどこを見ても、素晴らしい時代であると記した記録は見当たらない。社会に対する苦痛も不満も渦巻いていて、実際、各地で反乱も起こっている。それなのに、忠平個人に対する反感の記録は残っていない。最悪な日々だったのに、最高権力者である忠平は批判を受けていないのである。しかもこの人は言論の弾圧をしていない。天下国家を批判する意見を出す自由がありながら、藤原忠平個人は何ら批判を受けていないのだ。それが自主規制によるものであったとしても、忠平に対する批判がないことは評価するしかない。
とは言え、惨状は惨状なのだ。確かに、この時代の苦悩の中には天災や国外問題もあるから忠平一人に責任を負わせるわけにはいかないだろうが、四〇年も政権を握っていながらこの惨状なのは忠平の責任も軽いものではない。執政者としての評価基準を、「何をしたか」ではなく「どうなったか」で置くと、悪評を千年以上受け続けてきた藤原時平や陽成上皇を再評価したのは真逆の視線で藤原忠平を眺めざるをえないのである。

兄の服(ぶく)にて、一条にまかりて
春の夜の夢のなかにも思ひきや君なき宿をゆきて見むとは(後撰和歌集)
はなかく短いという春の夢の中でさえ、思っただろうか。あなた(藤原時平)のいないこの邸宅に来てみようとは。
 
藤原忠平はかつて関白太政大臣を務めた今は亡き藤原基経の四男である。長兄の時平からは九歳下、次兄の仲平からも五歳下であり、時平が不慮の死を迎えるまでは藤原氏の権力を引き受けることになるとは誰も想像せずにいた。
藤原北家の権力の最たるものはその権力の連続性である。藤原冬嗣は後継者に藤原良房を指名したが、良房が貴族として勢力を築く前に冬嗣が他界してしまったために、藤原北家の権力は一度中断し、良房が権力を手に入れるまでに長期間を要することとなった。しかし、良房の後継者である基経、そして、基経の後継者である時平と、その政策と権力は何の問題なく連携されてきていたのである。時平が左大臣として権力を掴んだところまでは計算通りであり、あとは時平が子の保忠に権力を受け継げば継承は無事に続くはずだったのである。
そう、あくまでも「はず」であった。
しかし、その時平が延喜九(九〇九)年四月四日に四〇歳にもならない若さで亡くなってしまったことが全ての予定を狂わせてしまった。このとき、時平の後継者と目されていた保忠はまだ一九歳。貴族の一員ではあるがその他大勢の一人であり、左大臣藤原時平の子という以外に特色のない若者でしかなかった。
これまでの藤原氏の貴族たちと同様に、保忠にも帝王教育は施している。しかし、教育を施していることと実際に帝王になれることとは必ずしも一致しない。一般的には、帝王教育を施した後に実地訓練を重ね、権力を一つずつ継承して権力者になるものである。
時平の死が藤原北家に与えた衝撃は、四代に渡って構築してきた藤原北家の歴史の中断を意味した。これは、一個人の問題ではない。国にとっては政策の不連続であり、家系にとっては権力の不連続であるという、公私ともの危機であった。
危機においてなお予定を守るような者は、だいたいがその危機に飲み込まれて沈没する。沈没を避けたければ予定のほうを変えなければならない。
時平の葬儀に集った藤原北家の面々でどのような話し合いがなされたかは記録に残っていない。
しかし、結果だけは判明している。
原点回帰。
 
彼らが原点と考えるのは藤原良房であった。特に、良房が権力を掴みとるまでの課程であった。
それは、財力を藤原長良が、権力を藤原良房が引き継ぎ、長良が良房をサポートして良房の権力を確固たるものとするという仕組みである。権力を掴みとるためには良房個人が新しい支持基盤を構築することが不可欠であるが、それは既存勢力の不満を絶対に生む。その既存勢力の不満の前に立ちはだかり、弟の権力構築を全力で支えたのが長良の生涯であった。これは長良が生涯を弟の影に徹することを宣言したから実現できたことであり、結果として、長良は出世街道を進むことができなかった。
出世することなく下位の役職に甘んじるというは当時の貴族にとってはあまりにも大きな人生の損失であったが、この損失を長良が引き受けることを承諾したからこそ、良房は権力を掴み、ひいては藤原北家の権力構築に成功したのである。
同じ仕組みでスタートしたはずの藤原基経の場合、長良の役を務めるはずであった叔父の良世は長良よりも出世したが、長良ほどの評判を獲得できなかった。良世個人としては成功でも、仕組みとしては失敗である。それでも結果を残せたのは基経個人の能力と、源能有という最高の右腕が活躍したからに他ならない。時平の場合はその源能有が長良の役を果たしたが、能有がいかに藤原氏と縁戚関係を結んでいても、能有は藤原氏ではない。能有亡き後は菅原道真が能有のポジションに就いたが、こちらもまた、能力は問題ないが長良の役割を果たす人間ではない。基経も時平も権力継承そのものは何ら支障がなかったから問題がなかったかのように見えるが、権力継承が万全ではないとしたら、その途中で命運つきることとなっても何らおかしくなかったのである。
藤原北家が置かれている状況は冬嗣亡き後の藤原北家に似ていた。権力を維持するためには誰かが盾となって立ちはだからねばならないのである。
忠平が兄仲平に長良の役を果たすよう要請したのは、流れとしてはおかしなことではない。
だが、仲平は長良ではなかった。兄の死後、藤原北家の権力を継承するのは自分だと考えていたのである。
この兄弟の争いは藤原氏全体を巻き込む論争となり、結論を出すのに五日間を空費した。
そして、やっと結論が出た。
政務は忠平が継承し、藤原氏の財は仲平が受け持つ。かつての長良の再来を仲平が受け持つこととなったのである。
この時点では。
 
この時代は必ずしも長男が後を継ぐとは限られてはいない。長男であるかどうかではなく、後継者候補の中から最も相応しいと思われる者を後継者に選ぶのが通常で、時平が基経の後継者になったのも、長男だからではなく、他の兄弟たちより優れていると基経が考えたからである。
実際、仲平も、忠平も、常に優秀な兄と比べられ、見劣りしていると判断され続けていた。学問にしても、貴族としての思考にしても行動にしても、時平は弟たちより群を抜いていたのである。それは時平の弟たちだけではない。時平の子の保忠もまた、有能な父と比べ凡庸な息子という見なされ方をされていた。
今の状況では誰を就けても時平に見劣りするし、時平と比べられてしまう。予定通り時平の子の保忠を後継者にしても比べられることに違いはなく解決策にはならない。
だが、一つだけ時平と比べられる見劣りを隠す方法がある。
それは、時平を否定すること。
時平と弟たちとの兄弟間の関係が悪かったという記録はない。しかし、今はそう考えられている。
なぜか。
時平を否定し、良房から基経へとつながった権力が空白期間を経て継承されたとすればどうにかなるのである。時平の政策も、時平の一人の人間としての行動もともに否定し、基経の時代からの継承を打ち出すことで、時平と比べられるという事態そのものを防げるのだった。
そして、時平の否定には絶好の材料があった。
菅原道真の処遇である。
時平の否定の材料として右大臣であった道真を太宰府に追放したとする噂を利用できたのだ。その上で、時平の功績を否定し、天災にしろ人災にしろ災害を大きく取り上げ、その責任を菅原道真の祟りと規定することで、悪人である時平の時代を終わらせ、新しい時代を作り出すのだと訴えることも可能であった。
 
そして、時平の否定に賛成する勢力が二つあった。
一つは宗教。
もう一つは大規模荘園の所有者。
どちらも時平によって、これまで所持していた権力を奪われていた勢力である。よりわかりやすく書けば、脱税ができなくなり税を課せられるようになっていた勢力である。
時平の財政政策は単純明快であり、かつ、成果を上げやすいものでもあった。これまで重税を課せられていたところの負担を減らし、その代わりに、重税から逃れている者に税を課すのである。この時代はタックスヘブンなどという考えはないし、企業の海外流出という概念もない。裕福な者に税を課したら、その裕福な者が財を持ったまま国外に逃れてしまい、増収どころか減収になってしまったなどと言う、現在の日本で起こっている現象は起こり得なかった。これまで脱税に成功していた寺院や神社、そして荘園の所有者も、時平の貸した税から逃れることはできなかったのである。
税を課せられた側がこれを快く思うわけはなかった。
荘園というものはいかにして税を払わずに済ませられるかを考えてできあがった仕組みである。税を払うようでは荘園ではない。その荘園に税を課したことで、時平は財政を立て直すことに成功したのだが、敵を多く作ってしまった。
裏を返せば、時平を否定することで時平の敵を味方とすることができるということである。ただし、それは、脱税を復活させるということでもあった。
今に残る記録の多くは、和歌を除けば、記録を残せるだけの環境にある者が残した記録であり、それは高等教育を受けた者、すなわち、恵まれた者に偏る。寺院や大規模荘園の所有者といった面々がその恵まれた者に該当するが、それは同時に、時平の進めた税制で負担をさせられ、忠平によって脱税を復活させてもらえた面々でもある。
目に見える負担を押しつけた者と、その負担を無くした者、これでは時平の評価と忠平の評価がどうなるか決まってしまう。 
2
藤原冬嗣は律令制の一貴族にすぎなかったしその政策も律令に沿ったものであるが、その後継者である良房は律令を否定し、より現実に沿った政策を進めた。荘園はその結果であり、問題も出てきた政策であるが、良房の時代では失業を解決するために必要な政策であった。その政策を基経は引き継ぎ、基経の政策を時平は引き継いだ。ただし、荘園への課税という祖父の政策に対する否定をしている。それでいて、現実に合わせた政策の実施という点では、時平は良房の系譜を間違いなく引いている。
ここで時平を否定し良房と基経の時代に回帰するということは、良房の打ち立てた反律令を推進するということでもある。ただし、良房の時代では反律令というのが現実主義に則った行動であったのだが、時代を経るにつれ、反律令のイデオロギー化、つまり、非現実になってしまうのである。良房は現実を正すために反律令を掲げたが、時平亡き今は、現実と関係なく反律令を掲げるようになってしまい、そして、反律令が現実に対立する命題になってしまったのだ。
そう、反律令という命題の意味するところが時代を経て変わってしまったのである。良房の頃は現在の法律を否定してでも現在の問題を解決することが反律令であったのに、今では現実と反律令とが離れてしまっている。反律令の政治が続いて、反律令に基づく現実の暮らしの方に支障が出始めてしまった結果を踏まえた時平が、現実に対処すべく為した政策は律令に近いものとなってしまった。これは反律令を掲げた良房の政治とかけ離れている、つまり、命題から離れてしまっている。現実への対処という側面は無視され、ただ、反律令ではないがゆえに良房の政治の後継者ではないとされてしまった。
時平が生涯をかけて為した政策は、その死とともに終わりを告げた。と同時に、現実に則った政策を為すという藤原家の政治も終わってしまったのだ。後に残っていたのは、ただ前例を踏襲するだけという政治。藤原氏の摂関政治を前期と後期に分けるときは時平以前と忠平以後に分けるのが普通だが、それは、政策が現実主義に基づくか、イデオロギーに基づくかの違いでもあるのだ。
 
時平の死の時点における太政官の構成は以下の通りである。
右大臣、従二位源光。
大納言、空席。
中納言、従三位源湛。源湛はこの年の一月より陸奥出羽按察使を兼任しており、中納言筆頭の地位にあった。
中納言、従三位平惟範。
中納言、従三位源昇
参議、正三位藤原有実。この人は良房の母親違いの弟の一人である藤原良仁の次男で、このときすでに六一歳と高齢であった。
参議、正四位下十世王。
参議、正四位下藤原清経。この人は長良の息子の一人で、基経の同母弟にあたる。ただし、基経は良房の養子になったのに対し、清経は養子になっていない。この人もまた、このとき六一歳になっている。
参議、正四位下在原友于。この人は菅原道真亡きあとの太宰権帥でもあり、太宰府で対外政策の総指揮を司る、現在で言うところの外務大臣のような立場であった。もっとも、菅原道真は右大臣としての権威と権力を持った状態で太宰権帥となったが、在原友于の場合は右大臣より三段階下の参議の権威と権力しかなかったため、道真ほどの結果を残せずにもいた。
参議、正四位下藤原仲平。近江国司を兼任しており、京都から日本海に出るときの交通ルートの維持も職務の一つであった。また、近江国司は首都の東部を守る仕事もあり、首都の治安を維持するための武力も所持していた。
参議、正四位下紀長谷雄。左大弁を兼任。現在で言う法務大臣にあたる。
参議、従四位上藤原忠平。春宮大夫と左兵衛督を兼任。皇太子保明親王の補佐役であり、また、検非違使の別当も兼ねているため京都の治安維持のための武力も持っていた。
この面々を見ると、藤原氏は言うほど権威を独占できていない。
左大臣藤原時平は別格であったが、その下の右大臣、大納言、中納言の中に藤原氏はいない。その下の参議になってやっと藤原氏が登場するが、藤原有実と藤原清経は年齢相応かあるいは年齢に比べれば遅い出世であり、当時の人も、藤原氏だから優遇されたのではなく、地道に実績を積み上げた結果、特別扱いされず還暦を過ぎて参議になったと考えていた。
一方、時平の弟の二人は明らかに情実人事である。とは言え、それほど高い地位ではなく、一点を除いて特に注視するところはない。
ただし、その一点が問題であった。
軍事力を握っているということである。
制度上は左近衛大将が国の軍事のトップであり、近江国司は一地方官、左兵衛督も検非違使別当も軍事組織の中の一文官でしかない。しかし、藤原良相の死を最後に、文武双方を司れる者がいなくなり、軍事のトップである左近衛大将ですら文官の一職務でしかなくなっていた。しかし、実際に武力を指揮するのは現場の者である。仲平も忠平もこの武力を握っていた。時平が開始した「滝口の武士」を活用したのである。
 
時平の死から五日間を経た延喜九(九〇九)年四月九日、新たな人事が発表された。
参議藤原忠平、権中納言就任。同時に、藤氏長者の地位も継承されると醍醐天皇より発表された。
仲平にとって、そして日本中の人にとってこれは寝耳に水の発表であった。
仲平も忠平もともに参議である。ただし、仲平を含め、一人を除く全員が正四位下であるのに対し、その除かれる一人である忠平は従四位上と、他の参議より一段低い地位にある。
その忠平が他の参議たちをさしおいて権中納言の地位に上ったのは、仲平を含む他の参議たちにとって全くの想定外であったと言うしかない。仲平自身もかつての長良の役割を引き受けることは承諾していたし、それは他の貴族たちにも共通認識となっていたが、一段下の参議である忠平が自分たちを追い抜くことまでは想定していなかったのである。
その上、仲平にはもう一つ想定外があった。
忠平が兄である自分にかつての藤原長良の役目を押しつけようとしていることは知っていたし、最後は仕方なしという感じであるがそれを引き受けることは承諾したが、長良の役目にさせられることとなることとなっても、藤原氏のトップを譲るつもりは毛頭なかったのである。
良房の体制を再現するために出世を犠牲にして長良の役目を担うことになった場合、藤氏長者は仲平でなければならない。実際、良房が権力を握る課程で長良に犠牲を求めたとき、長良には見返りに藤原氏の財を委ねた。この、藤原の財を手にしている者のことを「藤氏長者」という。いかに良房が権力を手にしようと、「藤氏長者」は長良であり、仮に長良が首を横に振ったら、銭一枚、米一粒たりとも良房は藤原の財を使えなかったのである。このバランスを保ったからこそ、権力を握るまでの良房は藤原氏を一枚岩とすることができたのだ。
良房の頃は「藤氏長者」という言葉はなかったが、概念ならばあった。長良の死後は自然と良房の元に藤原の財が移り、それは基経、時平と継承されてきた。「藤氏長者」という呼び名は正式な役職名ではなく、基経の頃に呼ばれ始めた通称であろうと推定されている。
通称であり正式な役職名ではなくても、時平までは何の問題もなかった。既に貴族としてのトップの地位にあり、また、藤原氏全体を見ても誰一人として基経や時平に匹敵できる人物はいなかったからである。
時平の死で、その「藤氏長者」の地位が不明瞭なものとなってしまったのはやむを得ない話である。だが、醍醐天皇が「藤氏長者は忠平である」と明言し、地位を明瞭化したことでかえっておかしくなってしまった。
仲平は約束が違うと訴えたが、既に決まったこととして仲平の訴えは拒絶された。
藤原氏のトップは藤原忠平であり、貴族としての地位も忠平のほうが上である。これが醍醐天皇の宣言であり、これでは仲平が長良の役割を担うなどできない話であった。
 
その上、四月九日にはもう一つ人事の発表があった。藤原道明と藤原定方の二人が参議に加わったのである。
藤原道明はこのとき五四歳。藤原氏にしては珍しい大学出身で、道真の後押しで貴族入りをしていた人材でもある。道真亡き後の時平政権下でもその実務能力を買われ右大弁と勘解由長官を兼任していたが、あくまでも実務畑一本であり、参議になれずにいたことには変わりない。
つまり、道真によって採用され、時平下で冷遇された者を、忠平が引き上げたというアピールはできるのである。また、五四歳という年齢もアピールポイントとして重要だった。冷遇され、年齢を重ねることとなってしまった有能な人材というのは、前政権の否定として実に分かりやすいシンボルであった。
ただし、参議の役職は兼任である。右大弁と勘解由長官としての職務からは外さないというのは、なんと言ってもその実務能力の高さからであり、ここで参議にさせることはアピール以外にあまりメリットのないことであった。
今の会社でも見られることだが、能力がある人間だと評価して高い地位の役職を与えることで、かえってその人が職務を発揮できなくさせてしまうことがある。中間管理職として、あるいはトップクラスの経営層にまで出世させたとしても、その人が中間管理職として、あるいは経営層として優秀な結果を出すとは限らず、むしろ、それまで得ていた結果を出せず、ただ苦労のみを背負い込んで、組織にも個人にも不幸な結果を生んでしまうことがある。現在の日本企業の苦悩も、第一線としては優秀でも、管理職としては優秀ではない人間を、第一線の評価だけで管理職にさせてしまっているところにある。
時平はそのあたりをわかっていた。参議にしないというのは、道明のベストパフォーマンスを発揮させるのに最適なポジションを選んだだけで、何も冷遇したわけではなかったのである。それを、シンボルのために参議にさせたことは、忠平のアピール以外何のメリットもなかった。
同タイミングで参議になった藤原定方は明らかに仲平のバックアップである。基経の従弟であり、仲平が長良の役を引き受けなかった場合、定方が長良の役を引き受けるというメッセージであった。
藤原氏の貴族としてごく普通の出世街道を歩んでおり、各地の国司を歴任した後に中央に戻って、三五歳で参議に就任という、出世街道としては順当と言える人生を歩んでいたが、それまではあまり目立つことのなかった凡庸な人と見られていた。しかし、この後の定方の人生を見ると、この人は忠平の忠実な右腕であったことが伺える。言うなれば、良房政権下に置ける左大臣源常のような立場を担う人間でもあったのである。 
3
さらにその一ヶ月後、忠平はさらなる権力の向上を図る。
延喜九(九〇九)年五月一一日、藤原忠平、蔵人所別当に就任。
蔵人は天皇の秘書役を務める職務であり、蔵人所は蔵人を束ねる部署で大企業における秘書課に相当する。この蔵人所のトップは本来蔵人頭であるが、蔵人頭は天皇の秘書を務める職務であり、これから貴族になろうとする若者の出世の第一歩の職務でもあった。
既に権中納言である忠平は格下の職務である蔵人頭に就く資格がない。だが、蔵人頭は天皇の第一の側近であり、天皇に対する強い影響を発揮しうる立場にある。実際、蔵人頭を経験した後で出世街道を進むというのは出世の王道である。
ところが、忠平にはこの出世の王道がなかった。
そして考え出されたのが蔵人所別当への就任である。先に蔵人所のトップは蔵人頭であると記したが、それは事実上のことであって理論上のことではない。律令の上では、蔵人所の最高責任者として「別当」職が存在しており、別当の元では蔵人頭も部下の一人に過ぎなかった。しかし、この蔵人所別当は理論上の職務に過ぎず、通常は空席で、まれに空席でないことがあっても他の職務との兼任で、名目上の職務になるのが普通である。
その別当の地位に忠平は就いた。
空席であった上に、位階に応じた職務に就任するのだから、律令に照らしあわせても何らおかしなことをしているわけではない。しかし、天皇と深く接する職務として活用することを考えたらどうか。
この時点まで、藤原忠平が醍醐天皇に対して強い影響力を発揮できたという記録はない。時平の死まで、忠平は時平の弟たちの一人にすぎなかったのだから、醍醐天皇としても時平の弟の一人であること以外に特色のない貴族の一人としか認識していなかったであろう。藤氏長者に任命したのも、まず先に藤原氏内部での決定があり、醍醐天皇は事後承諾をしただけである。
しかし、この蔵人所別当就任をきっかけに忠平は醍醐天皇に対して強い影響を与えることとなるのである。
 
政治家としての評価は庶民の生活がいかに良くなったかだけで決まる。
そしてこれは、常に後世からの評価となる。なぜなら、生活が良いかどうかを計るのは他人の生活と比べてのことであり、自分より恵まれた暮らしをしている者が一人でもいれば、いや、自分が仮にその一人であったとしても、今の自分は生活苦であると評価するのが人間の常。今の暮らしがどんなに満たされていようと現在の政治家の評価とはならない。そして、数年の時を経て、過去はいい暮らしをしていたのだと思い返すようになり、かつて批判されていた政治家の復権へとつながる。
政治家の復権は、政権を降りた直後の時もあるし、政治家が亡くなった後の再評価の時もあるし、時代を経てからの名誉回復の時もある。いずれにせよ、現役の政治家が庶民から高い支持を受けていたとしてもそれは政治家の評価とはならないし、逆に猛烈な批判を受けていても政治家として失格であるという評価とはならない。
延喜九(九〇九)年七月一日、下総国で騒乱が発生したとの知らせが届いた。この時代の情報伝達なら一ヶ月はかかっていたであろうから、騒乱の発生は遅くとも六月初頭であろう。
史料では「騒乱」と記されているが、現在の感覚で行くと反政府デモである。政権に対する不満に生活苦が加われば、暮らしの不満を解消するための行動が起こるのはおかしなことではない。
恐らく、時平政権が終わり、増税が課されるようになったことに加え、不作による食糧難が追い討ちをかけたのであろう。時平を批判するということは、時平のもとでなんとか暮らせていた庶民にとっては生活を破壊されるに等しい行為であったのだから。
忠平は、自らの権力を安定させるために上流階級の有力者の意を汲んだ。それは同時に、良房、基経、そして時平と三代に渡って構築してきた支持基盤を破壊する行為でもあったのだ。
これに慌てたのか、七月八日にコメの物価を引き下げるよう命令を出した。だが、物価は命令では決まらない。需要と供給のバランスを壊す命令は、市場からコメをはじめとする物品が姿を消すのを加速させるだけであった。

黄巣の乱を最後に唐が首都とその周辺しか勢力下に置けなくなったが、それでも日本人の意識の中には西方の大国であり、見本とすべき国家である唐が存在していた。その唐が名目上も滅亡したのはこのときから見て二年前。朱全忠が皇帝となり、国号は「梁」となり、唐の存在は歴史から消えたが、唐が三〇〇年に渡って日本人の意識の中で大国として君臨しており、唐がなくなっても西方の国の名は「唐」であるという意識は強かった。
延喜九(九〇九)年閏八月九日に、中国の戦乱を逃れて日本へとやってきた唐人の荷物を検診するための使者派遣をやめて太宰府に行わせるとの命令が出たが、それはあくまでも「唐人」であり「梁人」ではない。二年前に滅んだ唐の人間などいるわけはないのだが、そこにいるのは、話す言葉も、着ている服も、持っている物も、何もかもが見慣れた唐のものであるという人たち。これでは「唐人」とどうしても見てしまう。
現在の日本人にその感覚はわからないであろう。だから、想像するしかないのだが、もしアメリカが滅び、ニューヨークやワシントンDCが陥落し、ホワイトハウスから星条旗が外されるようになり、国名が変わっても、サンフランシスコやボストンからやってくる英語を話す人たちのことを我々は「アメリカ人」と見るのではないだろうか。日本とアメリカの歴史は一五〇年程度しかない。日本と唐の歴史はその倍の三〇〇年間である。今のアメリカとの関係の倍以上の期間に渡って接触を持ち強い影響を受けた国のことが、国家滅亡という事態を迎えたからといって脳裏からそう簡単に消えるわけはないであろう。
ただし、意識から唐が消えなかったとしても、実際問題、国としての対応に問題が出ることがある。
建国されたばかりの梁といかに接するかという問題は簡単ではない。梁が建国されたといってもその勢力は中国全土ではなく首都とその周辺であり、首都から離れた地域には梁を良しとしない人が数多くいる。日本に逃れてきた人たちもそういう人たちで、自分たちのことを「唐人」とは名乗っても「梁人」とは名乗っていない。だから、戦乱から逃れてきた人たちを日本としてかくまった場合、梁と敵対することとなる。ここで明確な態度に出るということは、建国直後の混乱にある梁に対し、海の向こうの日本を敵国として認識させてしまうおそれがある。

混乱にあるとき、その混乱を収拾するのに最も単純明快な方法は共通な敵を作ること。それが手出しできない敵であるときはまだ問題ないが、手出しできる敵になってしまった場合、戦乱に巻き込まれてしまうのだ。こちらが平和を訴えようが、攻め込もうとする側は関係ない。国内の混乱を収めるために戦争をするのであり、攻め込まれる側の平和が破壊されようとそれは知ったことではないのである。
そして、このときの日本は攻め込むに絶好な条件が揃っていた。
不作であったとは言え、中国本土や朝鮮半島に比べればまだ食料に恵まれている。
治安に難ありとなっていても内乱が起こっているわけではないため国民の生活水準が高い。
金銀をはじめとする価値ある物資が多い。
そして、武士の存在はあるが、国家として構えている軍事力が乏しい。
攻め込もうという時にこんな最高のターゲットを見逃すはずがない。特にこの最後は攻め込もうと判断するときに大きなウェイトを占める。
一見逆説的であるが、実は歴史が証明していることの一つに、平和を求めれば求めるほど平和から遠ざかるというのがある。第二次大戦が終わってから、日本は戦争を全く経験しないできたが、それは日本が平和を追求したからではなく、日本を守る勢力があったからである。自衛隊が軍隊でないと主張しようと、在日米軍が問題になろうと、その軍事力は日本を守ってきた。何しろ日本に攻め込むということはそうした軍事力と真正面に向かい合わなければならないということ。話し合いの通用しない非文明人であろうと、殴り合いで勝てるかどうかならわかるものである。
殴り合いで勝てると判断されたら相当な可能性で攻め込まれる。それも、まず戦争という目的があり、次に略奪という目的がある戦乱になる。それは、攻め込んで、奪って、殺して、犯すだけの、武装強盗集団に狙われるということであった。
権力を握るということは、豪奢な暮らしを手にすることでもあるが、同時に責任も降りかかる。特に、日々の安全な暮らしを維持するという極めて重要な責任を背負わなければならなくなる。時平を批判することで時平の手のつけた改革を否定した忠平だが、時平の時代に始まった「武士の活用」による「武力の増強」についてはそのままでいる。ただし、時平は左大臣という人臣最高位の権威を以て武力の増強を果たしていたが、権中納言である忠平はそこまでできない。そこで、忠平はまず、延喜九(九〇九)年九月二七日に右近衛大将の兼任を発表した。左近衛大将は右大臣源光が兼任しており、源光はこの職務を大臣ゆえに引き受けなければならない兼務職程度にしか認識していなかったから、国の軍事力は事実上、忠平の元に全面移管されたようなものである。
通常、近衛大将に就任した者は検非違使の権力を手放すものであるが、一〇月二二日、忠平がこれまで通り検非違使の別当を勤め続けることが明言された。これで、忠平は、軍事力と警察権力の両方を握ったこととなる。

時平の批判によりスタートした忠平の政権だが、時平の政策をそのまま継承したのが二点ある。一点は既に述べた軍事。そして、もう一点が法律である。
時平の手でスタートした延喜格式のうち、延喜格が完成したのが二年前。前年一二月には施行が命じられていたが、あくまでも「延喜格を使用せよ」という命令だけであり、国として正式に施行されたわけではない。
その延喜格に国として正当性が付与されたのが、延喜九(九〇九)年一〇月二三日のこと。この日、醍醐天皇の手によって延喜格に捺印され、延喜格が正式な法律として認証されることとなった。
ただし、なかなか広まらなかった。
不便だからである。
律令というものは、まず修正されない。このあたりは現在の日本の憲法に似ている。ただし、律令は必ずしも時代に即しているとは限らないので、時代に合わせた修正が必要になり次第、律令の部分的な手直しが必要となる。「格」というのは律令の手直しのために律令に追加される条文であり、「式」というのは律令を手直しせず律令の施行細則を定めるものである。つまり、ただ単に「律令」と言っても、律令の条文に加え格式の条文を参照することではじめて法として運用できることとなる。
さて、この延喜格であるが、実際に法を使う立場からすると使いづらいことこの上ない格であった。
まず、延喜格が出る前に公布されていた「弘仁格」「貞観格」と重複する部分は削除されている。
次に、延喜格編纂前に廃止されていた条文も削除されている。
つまり、格を格として使うためには、まず律令を読み、それから弘仁格と貞観格を読み、その上で延喜格を読まなければならないのだが、それだけでは不充分で、廃止されていないことを確認しなければ格として利用できない。
これは不便なことこの上ない。
既に律令格式の条文が頭の中に入っていて、何が廃止されたのかを暗記していれば問題ないのだろうが、人間の頭はそう便利にはできていない。
要は、格としての出来が低いのである。
その結果どうなったか?
一一〇〇年を経た現在、延喜格が残っていないという状況になった。他の資料から類推すればどんな条文であったのか推し量ることができるのだが、原文が残っていない以上、「こうであったろう」という程度でしかわからないのである。
延喜格の編纂責任者は藤原時平であったとされているが、時平自身は名義のみで、実際の編集は文章博士の三善清行であったと推測されている。
延喜格のこの責任をとらせるためか、三善清行は翌年一月に文章博士を辞任させられている。終生ライバルと考えていた菅原道真は文章博士を円満卒業したのに対し、三善清行は本人の最も望まない形での文章博士終了となってしまったのだ。
これは、三善清行の心情に忠平への反発心を抱かせるのに充分であった。 
4
年明けの延喜一〇(九一〇)年一月一三日、藤原忠平が中納言に昇格。後任の権中納言には紀長谷雄が就任した。紀長谷雄は同時に従三位に昇叙している。
紀長谷雄は菅原道真と同い年の貴族であり、この年六五歳になっている。学問に自らの活路を見いだし、文章生となり、文章得業生となり、方略試に受かっての貴族入りという道真と全く同じ道を歩んでいた。ただし、道真が早熟の天才として、二六歳という当時としては史上最年少の若さで方略試に合格したのに対し、紀長谷雄は三八歳での合格と、ごく普通の年数をかけている。ちなみに、三善清行は道真や紀長谷雄より二歳下だから、この三人は全く同時代に生きたと言っても良い。
それでいて、この三人の学者の運命は三者三様である。
早熟の天才として早々と出世をし、右大臣にまでなり、新羅からの侵略をくい止めるために九州に赴き、死後は神とまで評されるようになった菅原道真。
二歳上の道真を一方的にライバル視し、道真への反発を隠すことなく論陣を張ったが、その学者としての能力を発揮すべく全力を尽くした延喜格が全く評価されず、結果として遅い出世となった三善清行。
方略試に合格する才能を持ち、幻となった最後の遣唐使では遣唐副使に任命されるほどの評価を得て、ゆっくりと、しかし着実に、何ら波風を立てることなく順風満帆な人生を送ってきた紀長谷雄。
この三人の生き方は明らかに違う。そこに優劣はない。ただ単に生き方が違うというだけである。
その生き方の違いは紀長谷雄に一つの幸運と一つの不運をもたらした。幸運とは、既に記したとおり、順風満帆な人生を過ごせたという一点であり、それがどれほど恵まれたものかは人類の歴史の至る所で見られるだろう。ただ一度の失敗や不幸が自分の人生を破滅に導き、死ぬまで、いや、死してもなお汚名を浴びせられ続けるというのは歴史上何度も存在する。時に歴史家が再評価することもあるが、その幸運に恵まれた者は一握りの例外に過ぎない。しかし、それは同時に不運の元でもある。順風満帆な人生は人々の記憶に残らない。評伝も残らないし、伝記も記されない。あるとすれば同時代人の伝記に脇役として登場できるかどうかというレベルである。
紀長谷雄は、道真にも三善清行にも劣らぬ知性の持ち主であった。だが、紀長谷雄は時代の主役となれなかった。波風を立てず、順風満帆な貴族生活を過ごした代償である。

紀長谷雄が権中納言になった日、紀氏から一人、歴史の舞台に姿を現す者が現れた。生年は不明なので延喜一〇(九一〇)年は三〇代後半であったろうと推測されている。
この日にはじめて歴史の舞台に登場したというわけでもない。この人は五年前にも歴史の舞台に登場しているので、より厳密に言えば再登場と言うところか。
その人の名前は紀貫之。
伝記が乏しいので紀貫之の人生を追うことは難しく、五年前の記録というのも古今和歌集の選者の一人として名前が残っているというだけである。また、このとき紀貫之が任命されたのは少内記であり、文才を認められて就任した職務ではあっても貴族としての能力で判断された職務ではない。何しろ、少内記とは貴族ではなく役人が就く職務なのである。三〇代後半の紀貫之がこの地位でしかなかったのは応天門炎上事件で紀氏が追放された影響で紀氏である紀貫之の出世が遅れていたからだという説もあるが、その説が正しければ紀貫之以外の紀氏もことごとく追放され、あるいは冷遇され、出世街道から遠ざかっていなければならない。だが、紀長谷雄の例にもあるとおり、紀氏だからという理由でことごとく冷遇されているというようなことはない。それよりも、役人としての能力そのものに対する評価の結果と見るべきであろう。

承和の変、応天門の変、そして道真追放と至る過程は、藤原北家が権力を独占する課程であると歴史の教科書に記されてはいる。
だが、それならば、菅原道真を追放した藤原時平の政権では藤原北家による権力独占が行われていなければならない。ところが、史料に従うと実状は真逆で、藤原北家は厚遇どころか冷遇されている。左大臣藤原時平以外に内裏に名を連ねる藤原氏は、時平の弟の仲平と忠平の二人と、高齢の参議二人しかいない。高齢の参議二人は順当な出世街道とするしかない以上、藤原氏厚遇は亡き太政大臣藤原基経の実子二人のみ。これでは藤原氏の権力独占などととてもではないが言えず、藤原氏は過半数どころか少数派閥になっている。それでも政治に支障を来さなかったのは、時平が左大臣として圧倒的存在感とともに君臨していたからに他ならない。
ところが、時平が亡くなってから一年と経たずに、構図は激変するのである。一般にイメージされる藤原氏の権力独占の構図が早くも成立したのだ。
右大臣源光はそのまま、大納言は空席、中納言は三名中一名が藤原北家だから良いが、その下の参議になると八名中六名が藤原北家となったのだ。議員内閣制の現在では内閣の全員が一つの政党で占められているというのは何ら珍しい話ではないが、この時代は選挙のある時代ではなく、いわば連立政権が当たり前の時代である。前年は亡き時平を含めて五名だったのに、いまや七名が藤原北家。序列があるので簡単には言えないが、内閣の過半数を藤原北家という政党が占めたようなものなのである。これを見た世間の人は、忠平による藤原氏独裁が始まるのだと感じ取った。ここでもまた、時平の改革は消滅したのである。

独裁政治がイコール悪であるなら単純に弾劾できるが、独裁は時に、民主主義や共和主義では時間がかる決断を一瞬で済ませることができるという利点を持っている。個人の力量に依存することとなるが、即断即決により時に民主主義を上回る結果を出すことがある以上、独裁政治がなくなることはない。
ただし、それが結果を出すならば、という条件付きである。ここで言う結果とは、何度も繰り返すが、庶民生活の向上のことである。
忠平をトップとする藤原北家の独裁が始まったのは、ただ単に藤原北家独裁をくい止める勢力がなかったからである。そして、藤原北家に独裁を決意させたのは、自分たちがいま持っている権威と権力を手放したくないという、消極的理由によるものであり、明確な政治信条によるものではなかった。
消極的理由であろうと結果を出したのならば問題はなかったのだが、結果は出なかった。
資料はこの年の貧困の理由を干害のせいであるとしている。実際、延喜一〇(九一〇)年七月一〇日には、干害対策としての奉幣と大赦が行われている。
だが、自然災害に貧困の責任を押しつけて自らは責任がないとする態度はあまりにも無責任すぎる。コメの絶対数が少ない以上、市場からコメが消えるのはやむを得ないことであるが、それをそのまま放置する、あるいはコメ不足を利用してさらに儲けようとする態度は権力者のそれにあるまじき行為であった。
二一世紀の現在の暮らしにおけるコメはスーパーマーケットで売られている単なる食料品の一種であるが、この時代のコメは金銭以上の価値を持っていた。物を買うのも銭よりコメの方が喜ばれたし、財産の大小もコメの多さで測れた。税の基本もコメであり、いかにコメの収穫があげられるかで土地の価値も決まった。
市場からコメが消えたことは、田畑を持たずコメを買うしかない首都京都の都市住民を激怒させる出来事であったが、同時に、田畑を持ちコメを持つ者にとっては莫大な財産を築くチャンスでもあった。それまではコメ二升を用意しなければ買えなかった品が、今ではコメ一升で買えるようになったのである。しかも放っておけばコメの値段が上がっていく。ついこの間までは二升出さなければならなかったのに、今や一升を出さなくてもその半分の五合で、さらには三合で買えるようになっているのだ。これでは、食べる以上のコメは、溜め込む対象になってしまう。
市場からはコメが消えているのに、蔵の中にはコメが満ちあふれているという事態が発生した。今の社会では莫大な資産を持つ高齢者が銀行の預金口座で財産を塩漬けしてカネを使わずにいるが、それと同じ現象が発生したのである。干害によるコメの不足が、ただでさえ少なくなっているコメを蔵にためこませ、市場からよりいっそう消してしまう効果を生んだことで、飢餓を招き、餓死者をも生んだ。それでも動きは止まらなかった。コメを溜め込んでいる者は、コメがないせいで飢饉に苦しむ人がいることを知識としては知っていても、それで自分の財産を減らそうなどとは考えもしなかったのである。
供給が需要を満たさないとき、物の価格は上がる。現在の我々は一ドルや一ユーロがいくらになるかをニュースで見るが、そこでの円高や円安も、理論上は需要と供給のバランスの結果である。この時代のコメと銭の関係も似たようなもので、コメ一升に対して銭が何枚必要かという相場が成立している。
しかし、現在の為替が投機による結果であり需要と供給のバランスによるものではないのと同様、この時代のコメと銭の関係も需要と供給のバランスの結果ではなかった。コメを持つ者がコメの価格を投機的に吊り上げていたのである。それも、他でもない権力者自身が。 
5
延喜格が施行されたものの、使用されてはいない。
理屈はわかる。他の資料も参考しなければ法の運用として成立しないものをわざわざ使うなんて面倒くさいにも程がある。サラリーマンの仕事でも「この手順を加えればより品質が上がるはずだ」という理由で上層部からの指示による手順が増やされことはよくあるが、それで品質の向上につながったという話は少ない。理論上はそれを実践すれば品質が上がるのだろうが、その手順をやる時間があまりにもかかりすぎると、手順を踏むことによって時間をかけすぎてしまい品質が下がるか、あるいは、手順を無視することによって現状維持の品質に留まるかのどちらかである。
醍醐天皇もそれがわからないわけではなかった。長い期間をかけて編纂し公布した延喜格が使用されていないのは、それが延喜格に対する評価だからである。その低評価の法典を無理矢理使わせても、想定していた結果が出るわけはない。
かといって、法体系が整わないというのは問題である。律令と格式だけで法の運用が可能となるようにしなければ、法の運用が一部の専門家だけのものになってしまうのだ。現在は、弁護士という法のスペシャリストである職業があり、また、裁判も法のスペシャリストによって執り行われるが、平安時代はそうではない。明法道のように法のスペシャリストならばいるにはいるが、裁判を行うのも、検事や弁護士の役を務めるのも、行政官僚であって法のスペシャリストではない。つまり、法で規定されていないのに勝手に法を運用して罪にならない罪をでっち上げる可能性であって存在するのだ。法治国家という言葉はこの時代ないし、律令の批判が藤原良房以来続いている藤原氏の基本政策であるが、それでも機能しているのは、良房、基経、時平と、律令を把握しているがゆえに律令制を批判し、ときには批判しているはずの律令を活用する者が続いていたからである。だが、これでは個人の資質に依存しすぎてしまう。
個人の資質に依存しないためにも、藤原氏の基本政策と反すること覚悟の上で、法体系を明確化させる必要があった。律令が現状に即していないとして律令を批判した良房であったし、その後を受けた基経も良房と同じ考えであったが、法律そのものを無くそうなどとはしていない。重要なのは律令を信奉する一派の反発も覚悟の上で現実の問題への対処であって、法という概念そのものへの批判ではなかった。
それを踏まえた上で出された延喜格の評判が最悪だった。これは国の威信以前に、法の運用に関わる問題となってしまったのだ。
しかし、一つだけ救いがあった。それは格式のうち「式」がまだ完成していないこと。「延喜式」となるその法典に全てをそそぎ込み、延喜式一つで法典として成立させてしまえばどうにかなるのである。格式の両方を公布してもその両方を使わなければならないわけではなく、どちらか一方だけ使えればいい。つまり、延喜格が低評価で使われなかったとしても、残った延喜式の評判が高ければ、国家事業である格式の作成と公布は成り立つし、法の運用も成立するのである。
延喜一一(九一一)年二月一日、醍醐天皇は藤原忠平らに延喜式の編集を催促するよう命じた。ただし、それを忠平は受け入れたが明確な回答をしてはいない。「急いで作れ」と命じたわけであるが、それに加えてより高品質の法典にしろという命令である。急がせられれば急がせられるほど仕事の品質が下がるのもサラリーマンならば理解できるであろう。

藤原氏の権力独占を目の当たりにし、数多くの貴族が意欲を失っていた。
しかし、チャンスを捨てたわけではなかった。忠平をはじめとする藤原氏が権力を握ったのは時平死後のここ二年のこと。現状は異常態であって通常態ではない。そう考えた者たちにとって、通常態に戻った瞬間にどこにいるかというのは人生を決定する大問題であった。要は、地方官に任命されても赴任せず、京都に留まってチャンスを伺おうとする者が多かったのである。
忠平は彼らをそのままにしておいた。特に地方統治に支障が出ないと考えたからである。しかし、支障が出ると考えたら相応の対処をした。
延喜一一(九一一)年二月二五日、源悦が太宰大弐に任命された。太宰府のナンバー2であり、国外との交渉を担う重職である。この職務は、国を背負う任務に意欲あふれる者にとっては垂涎の的であった上、任期を終えて戻ってきたらかなりの可能性で参議になれるというメリットもあった。そして、深く追求されない程度にとどめておけば、そこいらの地方官には足元にも及ばない一財産を築けるという旨味もあった。
ところが、源悦が太宰府に赴任しないのである。いつまでも京都に留まり続け、何度催促しても空返事が返ってくるのみであった。これは前代未聞の出来事であった。菅原道真が太宰府に向かったのを道真追放と考え、自分もその追放刑に処される身になったと考えたのかもしれない。あるいは、単に地方に発つのがいやだっただけかもしれない。いずれにせよ、九州に行っていなければならない人間がいつまでも京都に留まり続けるという事態は変わらなかった。
他の地方官ならいざ知らず、太宰府である。しかも、国外は唐の滅亡に朝鮮半島の分裂という動乱の中にある。太宰大弐はその動乱の嵐に日本が巻き込まれないようにしなければならないようにするのを受け持つ重職であった。その重職にある者が京都に留まり続けたのである。
何度催促しても動き続けずにいたことから、四月一日、忠平は検非違使別当の地位でもあることを利用して、源悦を逮捕し、裁判にかけた。
源悦が自分に対するこの処遇をどう思ったのかを伝える記録はない。しかし、裁判の結果は残っている。貴族の地位の剥奪。
この処遇には多くの貴族が驚いたが、それで貴族の地方赴任が活性化したわけではなかった。相変わらず貴族たちは京都に留まり続け、地方官としてのメリットだけを享受し続けたのである。この地方に対する関心の薄さもまた、二〇年後の大動乱のきっかけの一つになった。

現在に生きる我々は、道真の怨念とされる天変地異のことも知っているし、平将門や藤原純友が起こした反乱のことも知っているが、この時代の人たちは近未来にそういう大動乱があることなど、当然ながら知らない。そして、その大動乱のきっかけがこの時期にはもう芽生えていることなど知る由もない。バブルの最中に、今の失われた二〇年があることや、財政危機、年金問題、少子化問題、高齢者問題など誰も考えなかったのと同じである。
この時代の人も道真の怨霊の噂は知っていたし、祟りがあるのではないかという思いを抱いた人もそれなりにいた。もっとも、それは一部の人たちしか考えないオカルティックな考えであり、一般認識となっていたわけではない。言うなれば、平成二三(二〇一一)年三月一一日より前の原発反対派のようなものである。
延喜一一(九一一)年五月一〇日、大安寺で大火が発生し、講堂と坊舎を消失する事態となったことを、この時代の人たちは特に怨霊だのとは考えなかった。寺院に火災があり、建物が燃えたというだけで、その出来事と道真とをつなげて考える人はごく一部しかいなかったとしても良い。
決して満ち足りた生活ではなかったが、この頃はまだ生活に余裕があったのである。確かに、いい時代に生まれたとは考えなかったであろう。しかし、明日は必ずやってくるし、苦境もいつかは終わるという希望だって抱けた。国境の外では、国が無くなったり、国が分裂して戦争を繰り広げていたりするのに、日本はまだ平和だと感じることだってできた。生活は苦しいけど、誰もがその苦しさに耐えることならばできていたのである。
当時の記録のどこを探しても、これから二〇年後に起こる大動乱のことなど記されていない。良くない時代になっているという思いを抱いた者はいたであろうが、それでもいつもと変わらぬ日常が続くと誰もが思っていたし、武士の登場を記録に記していても、それが権力を持つようになるとは誰もが考えていなかった。
そんな中、一人の貴族が命を落とす。延喜一二(九一二)年二月一〇日、紀長谷雄、死去。これで、内裏における藤原氏独占の構図はさらに高くなった。

延喜一二(九一二)年一二月一五日、京都で大規模な火災が発生した。多くの家屋が焼け落ち、数多くの京都市民が寒風吹き荒ぶ京都の路上に投げ出される事態となった。忠平は直ちに被災者に対するコメの支給を決定。それも、国庫からの支給ではなく藤原氏の私財の供出を表明した。これは食料の支給であるだけではない。市場で通貨としての価値を持つコメを支給することは、今で言う義捐金の配分にも相当する。
普段は忠平を批判することの多かった京都市民も、このときの迅速な対応には感謝した。良房の頃から続いている藤原氏の伝統がなおも残っているということもあり、良房や基経が自然災害のたびに身銭を切って被災者の救済に当たったことを思い出させ、忠平がその後継者であることを印象づける役割を果たした。
と同時に、藤原氏だけがこの災害にあって動けたことを印象づける効果も生んだ。他の有力貴族がこの災害にあって何をしたのか。藤原氏は確かに貴族として飛び抜けている。だが、理論上は数多くの貴族のうちの一つに過ぎず、その権威も、事実上はともかく、理論上は藤原氏だからという理由で手に入れた権威ではない。この災害に藤原氏であることを前面に掲げて被災者の救援にあたることは、藤原氏の権威が特権ではなく行為や行動の積み重ねによるものであることを、そして、今現在、藤原氏が内裏で絶大な権力を持っているのも、市民を救うために奮闘する実績によるものであることを印象づけたのである。
普段は藤原独裁を激しく非難する者ですら、藤原氏以外は誰も助けに来なかったではないかという追求には言い逃れできなかった。

忠平はこの空気を利用した。
年の明けた延喜一三(九一三)年、貴族たちに意見封事を奏上させたのである。
意見封事(いけんふうじ)というのは現在の政治に対する意見とそれに対する政策を上奏させることであり、社長が社員からの意見を広く募るよう定期的に意見を述べさせる企業があるが、意見封事もそれに似ている。理論上は封印された状態での意見提出なので匿名での意見ということになるのだが、事実上は誰の意見なのかが明言されているようなものなので、発言に対する責任がつきまとうこととなる。
こういう発言の機会を得ると、嬉々として活躍する者はいつの時代にもいる。
いわゆる評論家タイプ。
物事を批判するのは極めて得意だし、現実味の少ないアイデアを出すのも得意だが、実現可能なアイデアを出すことは少ない。また、自分が実践する立場になることも少なく、表明する意見が多くの人の支持を集めることも少ない。少なくとも現在の日本において評論家として名を馳せている人間のうち、現場に入ってもなお活躍できているのは、一部の経済評論家と野球評論家ぐらいなものである。活躍の定義を広げても、少なくとも政治評論家が政治家として活躍しているという例はない。
この時代の評論家タイプの者となると、何と言っても三善清行につきる。延喜格の失敗と責任を果たす意味での文章博士解任という過去がありながら、得意げになって現在の政治の問題点とその対策を長文にしたため早々に提出してきた。
そのほかの貴族も、清行とまではいかなくても、嬉々として意見を表明したことに違いはない。何しろ醍醐天皇が直接読むのである。うまくいけば藤原氏独裁の間を縫って自分の出世が待っていると考えた者は多かった。
考えた者は多かったが、その考えが満たされることはなかった。
意見封事が提出されたが、その意見が政治に影響を与えることはなかったのである。
藤原氏独裁はなおも続いているし、紀長谷雄亡き後を埋めるように橘澄清が参議となったが、それ以外の太政官は相変わらず藤原氏か源氏である。 
6
そんな中、一つのニュースが飛び込んできた。
延喜一三(九一三)年三月一二日、時平亡き後ただ一人の大臣として君臨していた右大臣源光が死去したのである。享年六八歳。
この源光に対する評伝は乏しい。大臣にまでなった人間でありながら評伝が乏しいのには理由があり、大臣としての功績自体が乏しいのである。時平の時代は時平の忠実な右腕として活躍したが、時平亡き後は部下であるはずの忠平に下克上を食らい続ける政治家人生であった。
この人の数少ない逸話は死に関する評伝である。
趣味の鷹狩りに出かけた際、誤って泥沼の中に転落してしまい溺死したとある。泥沼の中にはまってしまっただけでなく遺体が発見されなかったことから、これを道真の祟りではないかと考える人もいた。何しろ、この人が右大臣になったのは道真が太宰府に向かったからなのである。
そこで、世間の人はこのように評するようになったと伝えられている。
「源光は菅原道真と政治的に対立していて、道真が太宰府に向かったのは源光が道真を太宰府に追放したからだ。道真の後を受けて右大臣になった源光のことを太宰府の地で亡くなった道真は許さず、道真は怨霊となって源光を泥沼に突き落としたのだ。」
だが、同時代の記録にそのような記録はない。道真の祟りのせいで亡くなったとする噂が登場したのは事実であるが、それはもう少し後のことである。源光の死に対して確実なことは、鷹狩り中の事故死という一点のみ。

なお、この年、それまで影を潜めていた二人が久し振りに表舞台に姿を見せた。
宇多法皇と陽成上皇の二人である。
まずは宇多法皇が先に名を記した。
三月一三日、宇多法皇主催で亭子院歌合が開催されたのである。歌合とは題材を挙げて和歌を詠ませるイベントで、亭子院歌合には当代最高の文化人たちが集められた。このときの歌合の記録は女流歌人の伊勢の手によって残されており、現存する最古の女性の手による日記でもあるため現在でも追うことが可能である。記録に残っている者を挙げると藤原興風、凡河内躬恒、坂上是則、紀貫之、伊勢、そして宇多法皇自身となる。なお、紀貫之は和歌だけでなく屏風画も残したと言われているがその屏風画は残っていない。
しかし、この時代の文化人を挙げるのであれば当然含まれていなければならない者が一人、亭子院歌合に招かれていない。
それが陽成上皇である。
親友の藤原時平亡き後の陽成上皇の記録は極めて乏しい。道真の死、時平の死と、陽成上皇は内裏とのつながりが乏しくなっていたのである。政治的権威は喪失し、一人の文化人として生きるしかなくなっていたとするしかない。
しかし、宇多法皇との対立が消えたわけではない。それは宇多法皇も同じことで、いくら当代トップクラスの文化人であろうと、陽成上皇と宇多法皇が接点を持つなどあり得ない話であった。
亭子院歌合の評判は高く、国境の外では戦乱が渦巻いているのに日本国内は文化的で平和な日々が展開されているという印象を与えることが出来た。
それが陽成上皇には不快に感じた。かといって、評判の高い亭子院歌合を否定するわけにはいかない。その答えが亭子院歌合に対抗する歌合である。九月九日、陽成院で歌合が開催された。半年の間を置いているのは、春に開催された亭子院歌合に対抗するには秋に開催するのが最良であったし、半年の準備期間もあれば陽成上皇なら宇多法皇を上回る歌合を開催できたから。
ただ、残念ながら、陽成上皇の開催した歌合の様子の詳細は残っていない。歌合そのものの規模は亭子院歌合を上回っていたと考えられたが、世間的な評判としては二番煎じのそしりを免れないものがあった。そのため、歌そのものの評判は得たものの、歌合の記録は残されていないのが現状である。

延喜一三(九一三)年の意見封事で味をしめたのか、募集もかけていないのに勝手に三善清行が意見封事を送りつけてくるという事件があったのが延喜一四(九一四)年四月二八日。その六日前の二二日には、清行が役人の人事を取り仕切る式部大輔に選ばれている。清行のようなキャリアを積んできた人間が式部大輔になること自体はおかしくないのだが、清行はそれを、必要以上に高らかに考えてしまったようである。
このとき清行が提出した意見封事を「意見封事十二箇条」という。意見封事の全文が現存する数少ない例であるが、どういう意見の文章であったかが残っているのは、意見の内容が広く注目を集めるものであったからである。ただし、それは意見の素晴らしさから評判となったからではない。清行自身が素晴らしい内容であると自画自賛し、単に上奏しただけでなく、意見封事の中身を公表したことから注目を集め、一一〇〇年を経た現在でも残っているのである。それまでの意見封事は天皇をはじめとする一部の人しか目にできない書状であったため、どのような意見が提出されたのかを知ることができるのは政策化されたあとになってからであるが、このときは政策化される以前に誰もが清行の意見を知ることができた。
この国の問題を解決するのが自分の使命であり、役人の人事を司るのはその職務の一つに過ぎないのだとでも考えたのだろう、四月二八日に提出された意見封事に式部大輔としての職務に関わる部分はない。
中を見て感じるのは、新聞の社説にも記されていそうないかにもな正論である。問題点が適切に記され、その解決方法の提案もなされている。この提案が受け入れられれば問題の解決も可能であろうとは理解できる。
理解できるのは二一世紀に住む我々だけではなく、一一〇〇年前の人々だって理解できたのである。ただし、理解することと同意することは同じではない。

清行はまず、税収の落ち込みによる国家財政の危機を問題視する。そして、税収の落ち込みは納税が正しく行われていないからだと結論づけている。ここに自然を原因とする不作という考えはなく、その代わりにあるのが、脱税である。
脱税の手段として、清行は、戸籍を偽造して男性なのに女性と登録する者が多いことと、勝手に僧侶となっている者が多いことを挙げている。僧侶ではない成人男性だけが納税の対象者だから、対象者とならなければ納税から逃れられる。また、清行は、女性と偽った者はともかく、勝手に僧侶となった者の多くは僧侶としての役割を果たさず、厳禁であるはずの肉食もし、女人禁制のはずなのに女性と事実婚の関係を持つ者も多いとしている。その上、盗賊となったり偽金作りで財産を築いたりする者もいる以上、僧侶に対しては厳罰を以て取り締まらなければならないと結んでいる。
さらに、持ち主が逃亡してしまい荒れてしまっている田畑のことが記されている。人の手の入らなくなった田畑は荒れ地となり、墾田永年私財法により荒れ地を開墾した者の私有地となっている。こうした私有地が荘園となって日本各地に広がり、荘園からの納税がないために税収はさらなる落ち込みを見せている。
この問題を解決するための方法として、清行は律令制による班田収受の復活を挙げている。人口を再調査し、正確に口分田を分け与え、余った土地は朝廷の直轄地として借地とし、借地からの収益を国家財政の穴埋めに利用しようというのである。
人々は清行のこの意見を理解したのである。

理解はしたが同意はしなかった。
民衆が税から逃れようとすることも、荘園が大規模に展開されていることも、それらは全て、一人一人が各々いい暮らしをしようとあの手この手で考え抜いた結果である。清行は、それらを全否定して増税を命じるだけでなく、潤されるのは国家財政だけで個人の生活ではないと見抜いたのだ。
国家財政が危機であり、財政難から貧しい人を救えずにいるというのは知識としてならば理解できるが、そのために自分の負担を増やすつもりはなかった。清行の主張が実現したとき、負担が増えるのは荘園を持つ大貴族や大寺院だけではない。清行は荘園制度を否定し再び口分田の配布による班田収受の復活を意図しているが、それは、荘園で暮らす平穏な日々を過ごす人々にとっても負担の増える問題であり、いかにそれが「国家のため」であろうと受け入れられる内容ではなかったのだ。
確かに律令は田畑の分配と安い税を謳っている。しかし、そこで分配される田畑を自分で決めることはできない。田畑に手入れを施して豊かな収穫をあげられる土地に改良したとしても、数年後には自分の元から離れ他人の手に渡ることとなる。奈良時代、土地の開墾を命じる命令は無視されたのに、三世一身法や墾田永年私財法は歓迎されたのも、土地を自分のものとできる、つまり、自分の手を加えた土地を自分や子孫で使い続けることができるという一点が認められたからである。
清行の言うように、全ての土地を国のものとする班田収受は土地の分配を平等にする施策である。だが、土地の平等の分配というのは、その土地が自分のものではなく国からの借り物、つまり、赤の他人のものとする感覚を抱かせる。土地の改良をどんなに続けても、それは自分のものにならないのだ。
田畑から上がる収穫を自分のものとし続けようとするのは、それが自分たちの、そして、子孫の生活をより安定させるための行動だからであるし、自ら進んで荘園の農民となろうとするのも生活の安定のための行動だからである。しかも、荘園に加われば税を安く抑えることができるのだ。とは言え、誰もが荘園に加われるわけではない。荘園に加われない農民は納税から逃れることはできないし、班田収受が止まっていて口分田のやり直しも行われなくなっていたとは言え、自分の田畑は国のもので自分のものではない事に変わりはない。
その上、荘園からの税収が期待できなくなった穴埋めとして、口分田に対する増税が行われていた。荘園であろうと口分田であろうと税は逃れえぬものとして受け入れなければならないが、荘園ならば荘園領主への安い年貢で済むのに対し、口分田は国の必要に伴う税が課される。そして、その税は年々増えている。全ては国家財政を潤すために。
清行は国家財政の窮乏を訴えるべく、律令の精神に立ち返って班田を復活させることを企画したが、既に重い負担を引き受けさせされている人たちを救うこと、つまり、減税については一言も口にしていない。

普通の国であれば、国家財政を越える資産などない。国家財政が国の資産の過半数を占めるというのは異常事態だが、国よりも金持ちの私人がいるというのは、ゼロではないにせよ珍しい。
その、普通の国における国家最大の資産が国家財政だが、入ってくる額が多い分、出て行く額も多い。国家財政は税を払っている国民のために使われなければならない宿命を持っているが、国民が求める支出を国家財政だけでまかなうなどできない以上、使われ方も考えなければならない。たとえば、現在の日本国の国家財政は年間八〇兆円にも及ぶが、国民一人当たりの金額にすると七二万円。これでは国家財政だけで国民全員が生きていくなど不可能である。
平安時代に話を戻すと、現在の日本におけるような高齢化社会の問題などないし、そもそも今のような手厚い福祉などないし、それ以前に国債による税収不足の穴埋めなどという考えがないから、予算そのものは今よりもむしろ健全であると言える。とは言え、国民の生活を守るという宿命があるのは今と変わりなく、天災や人災への対処もまた、国家財政によらなければならない。かつての藤原良房のようにロイヤルデューティーに期待するもいいがそれとて限界はある。地震や火災はいつ起こるかわからないし、この国際情勢では戦争の危険性だって無視できないものがあるのだから、予算の使い方を考えなければならない。
ここまでは国民の同意を得られるのである。
だが、そのための方法が提案されても、負担が増える提案になると、国民の同意など考えるだけ無駄となる。有能な政治家は国民の同意を得られるよう努力するし、もっと有能な政治家は国民の同意を求める前に行動に移し既成事実化する。清行はそのあたりがわかっていなかった。行動ではなく、ただ単に理詰めで同意を求めようとしたのだから。
なら、忠平はわかっていたのか。
わかってはいた。
わかってはいたが、圧倒的な知力による画期的なアイデアを生み出せるわけではなく、同意を得ようと苦労した。 
7
収入が厳しいときの方法は二つしかない。支出を減らすか、収入を増やすかである。
そのどちらも国民の不評を得ること間違いなしの施策である以上、同意を得ようとすると、窮屈で、かつ、効果の少ないものに留まる。
延喜一四(九一四)年六月一日、貴族たちに対し、美服や深紅色の衣服を着用することを禁じる命令が出た。貴族の贅沢を抑えて支出を減らそうという考えである。これは貴族たちに限定するものであるが、貴族の流行はそのまま金持ちの一般市民の流行にもつながるので、上流階級をねらい打ちする施策となる。これは大多数の国民とは無関係の世界の話なので、国民の同意は大部分得られた。
二ヶ月ほど経た延喜一四(九一四)年八月八日には、太政官厨家に納入する地子稲を確保するため、祖田への地子田混合の禁止や地子交易法など、地子稲に関する雑事五ヶ条を定めた。これも朝廷直轄の田畑の運営に関する規定であり、国民の不評を得ない施策となった。
だが、それらの施策が結果を出たのだろうかと考えると疑問を抱かざるを得ない。
上流階級の贅沢を禁じることと国家財政とは、極論すれば何の関係もない。贅沢を禁じようと推進しようと、貴族は国から給与を得るし、上流階級は自分の田畑からの収穫を得ている。贅沢をさせないというのはそうした収入の使い方を一つ減らすということであり、使い方を減らしたら、それが他の使い方に流れるという保証はどこにもない。いや、相当な可能性で、贅沢品に使われることで多少なりとも社会に環流していた資産が、社会に戻ることなく蔵にしまわれるようになったであろう。
地子というのは口分田として配布して余った田畑のことで、所有権はあくまでも国衙などの公共の団体にある。この地子を貸して、その代わりに収穫の二〇パーセントを納めさせる制度が地子稲であり、これは出挙の崩壊したこの時代にあって律令で認められた地方の財源として重要視されていた。忠平はこれを国のものとしようとしたのである。実際に田畑を耕す側からすれば何の変化もない。納める先が地方ではなく国になるだけで税率が代わるわけではないのだから生活に変化はない。だが、地方公共団体たる国衙としてはたまったものではなかった。現在の感覚で行くと、県に納められるべき租税を国が持って行ってしまうようなものである。それでいて、国からの地方交付金が増えるわけではない。ただ単に、国の財政が厳しいから地方の取り分を減らして国に持って行くということである。
納税者にとっては痛くも痒くもない政策であったろうから不満の声も出なかったであろう。
だが、これもまた、二〇年後に起こる動乱のきっかけの一つとなるのである。

延喜一四(九一四)年八月二五日、藤原忠平が右大臣となる。左大臣は時平の死後空席、右大臣も前年の源光の死により空席であったため、この時点でただ一人の大臣となる。時平の死からわずか五年で参議から右大臣へと進むスピード出世であった。
忠平の右大臣就任に伴う玉突き人事があったが、藤原氏独占の構図は変わらない。一六名から構成される太政官のうち、藤原氏が一一名を独占している他は、源氏が二名、それと皇族である十世王、橘氏である橘澄清という異様な構図である。
時平の突然の死がもたらした政界の混迷への恐れも、五年も経てば安定する。だが、安定は良いが、ここまで藤原氏の一極集中となると独裁の弊害が絶対に発生する。
独裁政治が絶対悪であるとは断言できない。独裁者の力量が素晴らしければ民主主義など足下にも及ばない成果を出すのだから、独裁であるという理由で批判するのは間違いである。ただし、それは結果を出したならばという条件がつく。
忠平をはじめとする藤原氏の政権は結果を出していると言えない。藤原時平という卓越した存在がいた頃は結果を出していたのに、今は政権の安定だけを考えて小手先だけで対処しようとしている。それがもたらしたのは政権の安定だけ。それ以外に何も幸福な要素は無かった。
それは希望を失わせることでもあった。
人は希望があれば生きていける。それがどんなに馬鹿げたものでも、どんなに図々しいものでも、未来に起こるであろう出来事に希望を託せば生きていける。しかし、藤原独裁は希望を失わせた。
庶民からは生活を、
役人からは出世を、
貴族からは栄光を、
奪い去ったのが藤原独裁だった。
努力しても成果は得られず、努力しても結果は伴わず、努力しても何も残らない未来が待っていると知って、人は未来を生きようとするだろうか。
忠平は言うだろう。政権を安定させなければ国境の外で起こっているような惨劇が日本にも襲いかかるであろうと。だが、未来に生きる我々は知っている。政権を安定させるという忠平のその行動が、国境の外で起こっているのと変わらない惨劇を日本にもたらしたことを。

翌延喜一五(九一五)年一月、忠平の子である藤原実頼が貴族デビュー。
忠平にとっては喜びであるこの瞬間も、惨劇の予兆は記録に刻まれていた。信濃国から関東地方での異変をもたらす連絡が届いたのである。
内容は、上野国司の藤原厚載が上野国の百姓上毛野基宗らに殺害されたという事件である。「百姓」というのは、この時代の一般庶民という意味であるが、単に官職を持っていない者というだけで、地域では相当な権力を持っていたであろう。おそらく、地域の武士団の頭領といったところか。
国司を殺害したというのだからただ事ではない。前代未聞の大事件だとしてもよい。しかも、その連絡が届いたのは信濃国からであり、事件の起こった上野国からではない。つまり、国司殺害という大事件なだけではなく、上野国の国衙が機能しなくなってしまったのだ。現在でいうと、群馬県庁、そして群馬県全域が国の把握しうる地ではなくなったということである。
朝廷にその報告が届いたのは延喜一五(九一五)年二月一〇日だから、おそらく、事件そのものは年末年始のあたりに起きたであろうと考えられる。
殺害に荷担した者の名は上毛野基宗の他に二人残されており、一人は上毛野貞並、もう一人は藤原連江。ここまでは判明している。
ところが、これに対する朝廷からのアクションが全く見られない。
なんたる不祥事かと誰もが考えた。しかし、誰も何も出来なかった。
国司殺害に至るということは何かあったのだろう。ただ、それが何なのかわからない。
誰もが考えたのは、武士団が武力を頼りに国司を襲ったのであろうということ。武士団というのは国の組織ではないから、国家権力で制御できるものではない。かといって、その武士団を制圧できる武力など今の朝廷にはない。
誰もが朝廷の無力を感じ、誰もが未来への絶望を感じた。武士団が国の力で制御できなくなってしまったのだ。このままでは遅かれ早かれ、武士団が日本中で独自の権力を作り上げることとなる。それは良くないことだと誰もが考えている。だが、その良くない事への対処を誰がするのか?

朝廷としては、上野国にかかりきりになれなかったであろう事は推測される。
延喜一五(九一五)年という年は干害と疫病に悩まされた一年だったからである。
干害にしろ疫病にしろ、国として何らかのアクションを起こさなければならない大問題であり、ここで上野国に専念する政治はできないという言い訳ならできる。
しかし、その言い訳を受け入れられるわけはない。
上野国が朝廷の管轄を離れてしまっている。それは住民の生活にも影響を与えることであり、捨てておくようでは統治者として失格とするしかない。
ここは、どんな手段を使ってでも、上野国を朝廷のもとにつなぎとどめておくべきだったのだ。忠平をはじめとする藤原氏の貴族の面々は誰一人として軍勢を指揮したことがない。だが、この問題で、貴族自身が軍勢を指揮する必要はどこにもない。軍勢を集めようと思えば自分の荘園で雇っている武士団から選抜して軍勢をまとめればいいのだ。それが国の権威に関わるというのなら、近衛府も衛門府も兵衛府も検非違使もある。そうした軍勢を指揮する事は貴族たる者の使命であるし、その役職にだって就いているのだから、この一大事に一兵も動かすことなく京都に留まって何もしないでいるというのは、職務怠慢どころではない大失態である。
それなのに忠平は何もしなかった。何もしなかったのは忠平だけではなく藤原氏の貴族全員が何もしなかった。彼らがしたのは干害と疫病が沈静化するよう、大極殿で臨時御読経を行わせたことのみ。上野国は捨てられたのだ。
これで忠平の支持率は悪化しなかったのだろか?
どうやら悪化はしなかったらしい。
しかし、積極的支持はなかった。
上野国の場合、朝廷が動かないことも問題であるが、最も大きな問題は国司殺害という犯罪そのものである。犯罪者を逮捕できないでいることに対して警察を批判するというのは現在でも見られる構図であるが、犯罪者そのものを支持するという構図はない。それに、今でもそう考える人は多いが、犯罪者は警察が捕まえてくれるものという考えは強い。犯罪が起きてもしばらくは犯人が捕まらないでいることは珍しくないし、犯人逮捕に向けての警察の動きなど公表しないのが普通だから、この時代の人たちは犯罪者逮捕に向けて忠平が動いていると思ってしまったのだ。
今に生きる我々は、このときの犯罪者が警察権力でどうこうなるものではないこと、どうにかするには警察ではなく軍の出動が必要であることを知っておきながら軍を出動させなかった忠平を批判できるが、この当時の人に後付けの結果論を持ち出しても意味はないということか。

これに輪をかける大災害が発生したのが延喜一五(九一五)年七月一三日。十和田湖火山が大噴火を起こしたとの連絡が朝廷に届いたのである。
この大噴火に関する記録は乏しい。その乏しい記録によれば十和田湖からの火砕流や泥流で北東北地方全域が未曾有の自然災害となったというが、どれだけの死者が出たのか、どれだけの人が住まいを失ったのかという記録は残されていない。研究者によっては、このときの噴火の記録の乏しさを理由に、元慶の乱は蝦夷の勝利であり、秋田を中心とする北東北全体が朝廷から独立した地域になっていたとする人さえいる。
北東北が朝廷から独立していたかどうかはわからないが、秋田城をはじめとする被災地域に対し、朝廷は何もできなかったことは明らかになっている。
噴火が大問題であることは認識していた。ただ、このときの朝廷には被災者の支援に回る余力がなかったのだ。
なぜならこのときまさに、天然痘の猛威が日本中を襲っていたからである。
首都京都でも毎日どこかで天然痘患者が現れ、国に救いを求めていた。
荘園という荘園では農民が天然痘に倒れ、田畑が耕されることなく放置されるようになってしまった。
国に仕える役人も、国を操る貴族も、そして勢力を伸ばしつつあった武士もまた、天然痘の猛威から逃れることができずにいた。
延喜一五(九一五)年一〇月一六日、天然痘の大流行を鎮めるため、大赦を行い、延喜一〇(九一〇)年以前の未納税と、今年の労働義務の半分を免除するとの決定が下った。
大赦というのは大規模な恩赦のことで、殺人や国家転覆などの重犯罪者を除く収監者や流刑者がここで刑を終わったり、終わらなくても刑期が短くなったりするなどの恩恵を得られた。これは天皇の仁政を天に訴えることで天からの思し召しがあると考えられていた時代ゆえの行動である。無論、これは天然痘対策に何の役も果たしていない。
しかし、同時に決定した減税は大きな役割を果たした。天然痘で産業人口が減ってしまっている状況下で、減る前の産業人口に基づく税制を貫くわけにはいかない以上、税負担を減らすことは、天然痘そのものの流行をくい止める効果はなかったものの、経済の悪化をくい止める効果ならばあったのである。 
8
延喜一六(九一六)年二月二八日、藤原忠平が従二位に昇格する。これにより、大臣に相応する位に昇ったこととなる。
忠平が大臣として充分な実績を残しているとは言い難いが、大臣は忠平しかいないし、忠平以外に大臣の役割を果たせる人材がいないのもまた事実ではあった。
前年、すなわち延喜一五(九一五)年が国難の多い一年であったことは誰もが共通認識として持っていた。そして、その国難は年が変わったところでリセットされるものでないことも理解していた。国難のさなかにあっても、少なくとも朝廷内は平穏であり政情の安定はしていたのも、良房、基経と続いてきた藤原氏の政権が現在も続いていることが理由。藤原氏の独裁政権に対する批判はあったものの、この安定についてだけは評価されていた。
ただし、権威は薄れてきていた。延喜一六(九一六)年八月一二日、下野国の罪人藤原秀郷ら一八人を配流するとの命令がなされた。しかし、藤原秀郷はこの命令に従わず下野国に滞在し続けたのである。前年に隣国で発生した上野国の国司殺害についても特別なアクションがなかったことから、朝廷にはもはや地方を統治する能力がないと考えたのかもしれない。しかし、皮肉なことに、この藤原秀郷は、これから二〇年後に起こる地方の動乱を抑える立場に立つのである。
理論上、朝廷とて地方の統治をないがしろにしていたわけではない。実際、前年の上野国国司殺害事件の犯人の一人である藤原連江を捕らえ、流刑に処している。記録にはその他にも流刑に処したことが記されているが、その効力のほどは疑わしいものがある。何しろ、延喜一六(九一六)年一二月八日には、出雲国に配流した上毛良友ら七人が逃亡したとあり、その捜索にあたったことが記されているのだから。
ただし、同じ一二月に日本の政局が安定していることを実感させられる事件も国外から届いていた。律令制下の日本で最大の同盟国であった渤海国の動きが日本に伝わったのである。
渤海国が衰退していることは日本の目にも見て取れた。貿易で扱う製品の品質は低下し、日本へと派遣された渤海使たちが伝える文書も友好ではなく支援になっている。そして、渤海から難民が流出しているという情報まで届くとなるとただ事では済まない。それまで渤海は新羅からの難民を受け入れる側であったのに、今や渤海から朝鮮半島へと難民が出ているというのである。
渤海からの難民を迎え入れている国は新羅ではない。復活した高句麗である。渤海は元々、朝鮮半島三国時代の高句麗の継承国家として誕生した歴史を持っている。その渤海を無視して新たな高句麗国が誕生し、その新しい高句麗が渤海国の難民を受け入れるという状況になってしまった。
では、なぜ渤海から難民が出るようになったのか。
それは、渤海の西に耶律阿保機が遼(当時の国号は大契丹国)を建国したからである。この新興国が渤海を西から攻めており、日本海へと追いやる勢いであったのだ。
国が無くなり国が生まれる。まさにその瞬間を見ている以上、そのような動きとは無縁であるだけでも日本は安定を感じることができた。

延喜一七(九一七)年一月二九日、忠平の手によって二人の貴族が参議に抜擢された。二人とも藤原氏ではないため藤原独占のイメージを軽くできただけでなく、今の朝廷に求められる能力を持った人材でもあったことから、忠平の人事に関する悪評は出なかった。
抜擢された二人のうちの一人は、今や数少ない律令派の重鎮と見なされていた三善清行。
もう一人は、良峯衆樹。
三善清行の参議就任はこれまでのキャリアからして当然と考えられたが、良峯衆樹の参議就任は意外と感じる者が多かった。しかし、この人のキャリアを追いかけていくと、忠平がどういう人間を求めていたのか理解できる気がする。
良峯衆樹は歴史ある名門貴族の人間ではない。先祖をたどれば桓武天皇に行き着くから名家ではある。だが、皇族から離脱して良峯姓を名乗るようになってからまだ一〇〇年も経っていない上に、これまでの先祖もこれと言って目立った人間を排出していない。貴族ではあるのだからその日の食事にも事欠くような貧困生活ではなかったろうが、血筋以外に誇れるものがない三流貴族の出身というハンディキャップを負った上での貴族生活の開始であった。
良峯衆樹が自分の栄達の手段として選んだのは二つ。地方官と武官である。蔵人頭を終えてからのキャリアは地方と武官職とを行ったり来たりで、他の多くの貴族の望んでいたような中央に留まっての文官としての出世には手を出していない。興味を示さなかったというより、興味を示そうにもライバルが多すぎて望みを果たせなかったからであろう。
このとき五六歳という高齢になっていた良峯衆樹だが、振り返ると、地方を熟知しているのみならず、武官として武力のこともわかっている人材になっていた。武将であるとは言えないが、武官のキャリアを積み重ねてきたことで、他の貴族よりは武力について詳しくなっていた。
忠平の考えで行けば、この良峯衆樹の活躍により日本国内外の治安問題が解決できる、はずであった。
だが、その想定は早くも瓦解する。
良峯衆樹が武官のキャリアを積んだのは、ライバルの少なさゆえのこと。地方官を勤めたのも自らの財産構築のためであり地方統治の関心の深さによるものではなかった。忠平は地方を知り武力を知る者として参議に抜擢したがが、そこにいたのは忠平の望んでいたあるべき姿とは全くかけ離れた、どこにでもいるごく普通の貴族だったのである。武力についても仕事としてやってきたからどのような業務内容なのかは理解していたが、それは京都に留まって、役人の一職務でしかなくなった武官を率いる年中行事の過ごし方に留まってしまい、武力を率いて戦場を駆けめぐることは全く考えになかったのだ。
延喜一七(九一七)年九月八日、対馬に海賊船接近したという連絡が来た。しかし、良峯衆樹は全く動かなかった。忠平の期待していた前線に立っての抵抗など、良峯衆樹は全く考えもしなかったのである。

延喜一七(九一七)年一二月一日、奈良から東大寺で大火が発生したとの情報が届いた。講堂と僧坊の焼失は大きな損害となった。
それは例外ではなかった。
この年の冬、異常気象が日本を、特に近畿一帯を襲ったのである。
冬の乾燥は日本の太平洋岸の気候ならば珍しくない。それは京都も同様で、京都は琵琶湖を通じれば日本海に出られる立地条件であるとは言え、東、北、西の三方が山に囲まれているため、日本海からの気候は山で一度リセットされる。そのため、冬に北から風が吹くとすれば、その風はだいたい乾いた風である。
しかし、いくら乾いた風であろうとそれには限度がある。
この冬は雪も雨も降らなかったのだ。乾燥は井戸水の枯渇を招き、生活用水の枯渇を招いた。京都は東西に鴨川と桂川の流れる地形であるが、川の水がそのまま飲み水とはならないことぐらいこの時代の人だってわかる。誰が糞尿と死体の溢れる川の水を飲もうとするか。
その上、季節は冬。電気ストーブや電気カーペット、携帯用カイロなどないこの時代の暖は火を使うものしかないところに加え、乾燥しきっているのである。これは火災の危険性を招いた。しかも、火災を消すべき水がないのだ。
平安時代の平均気温は他の時代よりも高い。つまり、夏は暑く、計測地点によっては夏場の気温が四〇度を超えることも珍しくなかったであろうと考えられている反面、冬の寒さはそれまでの時代よりマシであった。それは家の構造にも現れていて、およそ一万年以上日本中で当たり前の光景となっていた竪穴式住居が平安時代にだんだんと消えていったのも、竪穴式住居のデメリット、つまり、夏の暑さが耐えきれないものとなったからである。その代わりに登場したのが夏でも涼しい高床式の住居。これだと夏の暑さはある程度耐えられるし、冬の寒さだって奈良時代までのような厳しいものではなくなったし、寒かったら重ね着をすればいいではないかという考えにもなっていたから、この時代の建物は暑さ対策を前提にした家屋になったのである。
だが、それとて限度がある。一二月にもなったのに何の暖もとらずにいられるわけはなかった。
延喜一七(九一七)年一二月一九日、干天続きでの渇水のため、冷然院・神泉苑の水を提供することが定められた。公共施設の池の水まで手を出さなければならなくなったということである。
だが、それも焼け石に水。直ちに渇水対策をしなければならないというのは貴族たちの共通理解となり、一二月二五日には、三善清行から、火災頻発と紅花の価格高騰を理由に、深紅色の衣服を禁止すべきとの意見が出された。なお、深紅色と火災とがどう関係あるのかはわからない。
深紅色と火災の関係は不明でも、紅花の価格高騰とわかりやすい形での財政引き締めは明白である。貴族として身につける服は言わば制服のようなものなのだから、そのために要する費用を抑えるということは、税の無駄遣いを減らすというアピールにもなる。たとえそれがどんなに実際の効果を持たないものであっても、「我々貴族だってこの財政危機に対処している」と訴えることだってできるのだ。
それに、貴族たちは深紅色の衣服に魅力を感じなくなってきていた。
貴族の身につける衣服の最上位は紫色と決まっていたが、それを打破したのが時平である。 
濃い紫になればなるほど高価になり、黒と見紛うばかりの紫色の服が最上位とされている中、時平は黒い服を着て参内した。いくら黒に近ければ近いほど高価とされていようと、墨のような真っ黒な服は安物というしかない。これをとっても、時平は贅沢と無縁の暮らしであったと評価するしかない。
しかし、時をきらめく左大臣が安物の黒い服を着たとなると話は変わる。時平の着た黒い服が宮中で流行したのだ。安物の黒い服を着ることが貴族としてのステータスになり、律令で定められた位階に応じた色の服は流行遅れになった。
しかも、深紅色の服は四位から五位の貴族に義務づけられていた服であり、深紅色である間は太政官の中枢に入れないという意識が広まるようになっていた。黒い服は流行であって律令ではない。そして、律令を守らないでいいとする反律令派の政権になっている。こうなると、誰が好き好んで深紅色の服を着るというのか。気がつけば宮廷内のほとんどが黒い服になってしまっていた。それまでは着ている服の色で誰が高い身分の人なのかわかるようになっていたのに、今では誰もが同じ服装になってしまっていて上下関係がわからない。
深紅色の服を着続けたのは、今では少数派となった律令派の貴族だけであった。そして、その代表格が参議の三善清行であった。彼は実直なまでに律令を守り、一人、深紅色の服を着続けていたのである。だが、それでも考えたのであろう。律令違反とならずに深紅色から離れるにはどうすべきか。
それが、価格高騰を理由に挙げての深紅色の衣服の禁止要請であった。
宮中でそれを主張し続けていたのも、事実上、三善清行ただ一人であった。当然だ。他の人は、安く、しかも高い身分を気取れる黒い服を着ており、深紅色の服を着ていないのだから。
延喜一八(九一八)年三月一九日、深紅色の衣服の着用禁止を命令。運用開始は四月一日からと決まった。そして、その四月一日に三善清行が早速、他の貴族と同じ黒い服を着て宮中に現れた。周囲は笑ったが、三善清行にとっては真剣な問題だったのであろう。 
9
しかし、たかが服の色のことでああでもないこうでもないと揉めているのも、傍目には何とも気楽に見えたであろう。海の向こうでは、朝鮮半島が三分割され、そのうちの一つ高句麗では王建(ワン・ゴン)が後高句麗国の国王に就任し国号を高麗と改めていた。渤海は西から契丹に、南からは高麗に侵略され、国が滅ぶかどうかの瀬戸際に立たされていた。中国では唐の後を受けた梁も中国を統一するどころか五代十国と呼ばれる非統一の状態にある。そして、日本国内の地方部に目を向ければ、武士団が成長して朝廷権力ですら太刀打ちできない勢力となっていたのである。
延喜一八(九一八)年五月二三日、武蔵国から、前権介である源任が官物を奪い、国府を襲撃したという報告が届いた。ついこの前は下野の藤原秀郷が朝廷の命令に服さず、さらにその前は上野国で国司殺害。そして、今回は武蔵国で国府襲撃と、少なくとも関東地方における朝廷権力は見るも無惨なものになってきていたのである。代わりに権力をのばしてきたのが武士団で、武士たちは自らの武力でもって、自分たちと、自分たちの支配下にある人たちを守る集団になっていったのである。
しかも、このときの武士団のトップの名を見ると、「藤原」「源」「平」と、名門貴族中の名門貴族の姓が当たり前のように散見される。政権の安定の名のもと、藤原北家独占の政治体制を構築したことで、その輪に入ることのできなかった貴族たちが地方に下り、その地域の武士団のトップとして名を挙げるようになっていた。武士団にとっては自分たちを権威づけるトップであり、地方に下った貴族にとっては中央では夢見ることもできなかった権力の獲得である。
その権力を掴んだ結果が、より高いレベルでの自治であった。自分たちの暮らしは自分たちで守る。自分たちの予算は自分たちで稼ぎ出す。自分たちの生活は自分たちで作り上げる。他からの侵略に対して守るのは朝廷からの権力ではなく武士団であり、苦しくなった生活を支えてくれるのも朝廷からの援助でなく武士団である。田畑を耕して年貢を納めるが、それは武士団への貢納であり、かつ、納めた税が自分たちの暮らしのために使われるのを実感できている。こうした社会になると、遠く離れた京都の朝廷ではなく、すぐ近くに屋敷を構える武士団が自分たちの上に立つ存在であると庶民たちに意識させるに充分であった。
これは京都の朝廷にとって危機とするしかない。それなのに、京都でやっていることは貴族の服の色はいかにあるべきかという不毛な議論。自分たちのために汗を流してくれる武士団と、遠く離れたところでどうでもいいことを議論している朝廷とを比べ、朝廷のほうに自らの帰属意識を持ったとしたらその方がおかしい。
記録には、朝廷もそれなりに対応していることが残っている。税の過不足をどうするかとか、地方の役人を減らすとか、納められていない税をどう徴収するかとか、議論はしているし公表もしているのである。だが、それと、失われつつあった地方の帰属意識の回復とがつながることはなかった。徹頭徹尾、国家財政の回復に主眼が置かれていて、庶民の暮らしの向上には何一つ繋がらないのだから。

遣唐使の正式廃止から四分の一世紀を数えていたが、国外との民間交易は続いていたし、渤海使の来日も定例行事として存在はしていた。ただし、かつてのように平和で友好的なものではなく、一歩間違えると全てが壊れてしまう危険なゲームになっていた。
危険なゲームになっていたのは一にも二にも政情不安という問題がある。戦争という最大の政情不安のまっただ中にある国との交流はこれ以上なく危険であるが、だからといって全てを絶つのもできないことであった。
それに、日本がいくら国交を閉ざそうとしたところで、海の向こうが日本を必要としていたのである。唐を滅ぼして新たに建国された梁は、理論上こそ唐の継承国家であるが、実際の支配領域は唐の最盛期と比べることもできない小国になってしまっている。梁にとっては一つでも敵を少なくとどめることが何よりも重要であり、海の向こうの安定国家と見られていた日本を敵に回すことは梁にとって得策ではなかった。それは、新羅からの侵略を一〇〇年間に四度も受けていながらその全てを撃退したのみならず、島一つ奪われることなく平和を維持できていたという実績も手伝っていた。これまでは侵略してこなかっただけで、いつでも中国に攻め込めるだけの軍事力を持つ国であると認識されていたのである。しかし、梁は最盛期の唐と違って国内産業が徹底的に破壊されている。つまり、交易をきっかけとして日本と手を結びたいが、梁は日本から輸入をすることはできても、梁から日本に輸出できる物品がない。
こういうとき、国内産業ではなく、国内の自然に頼るのは珍しくなく、その結果として珍しい動物が献上されることもよくある話である。
今のパンダと同じような感覚で梁から孔雀が贈られてきたのが、延喜一八(九一八)年七月一六日。そういう名前の鳥がいることは知識として知ってはしても実際に見たことはなかった孔雀が京都に届いたとき、京都はちょっとした孔雀フィーバーが巻き起こった。
一方、建国直後でありまだ小国であるがこれから歴史が始まるという国である梁と違い、西からは契丹が、南からは高麗が攻め込んできている渤海は、今まさに国が終わるかもしれないという切羽詰まった事態であった。しかも、それまで渤海が有していたかつての高句麗の継承国家であるという正当性も、高麗の成立により不明瞭なものとなってしまったのである。現在の感覚からすれば高句麗の継承国家であることのメリットなどないと思われるが、当時は充分意味のあることだった。
何と言っても、最盛期の高句麗が有していた領土に対する所有権を主張できるのである。それが侵略であったとしても、かつての高句麗の領土再復という旗印を掲げれば正当性を持てるのだ。ところが、ここに来て高麗の成立、つまり、高句麗の継承国家としての地位の消失である。これは領土保有どころか、自分たちのほうが侵略者扱いされ攻め込まれるという身になるということであった。ここで、建国以来最大の同盟国であり続けた日本との関係を絶つわけには行かなかった。
日本もその事情を理解していたのか、渤海使供応役に任命したのは、このときすでに当代随一の文化人と評され、後に、藤原佐理、藤原行成とともに「三蹟」と称されるようになる小野道風(おののとうふう)であった。そして、供応役に小野道風が選ばれたことを、渤海も最大級の賛辞で歓迎した。
小野道風はこのときわずか二三歳であり、また、その位階も貴族ではない低さであったが、他のベテランの貴族を選ぶよりも、二三歳の役の低い若者を選ぶ方が渤海からの感謝が得られた。というのも、小野道風は小野篁の孫、つまり、小野妹子から続く外交のプロフェッショナルの家系に生まれ育つと同時に、一流の文化人の家系に生まれ育ち、そのため、若くして文化人としての評判を残すようになっていたからである。当代随一の文化人が選ばれる渤海使供応役として指名されたのも、小野道風が国外にまで評判を届けていたからに他ならない。
だが、本来なら、いくら国外にまで名声を届けているとは言え、役職のない二三歳の若者を渤海使供応役に任命しなければならないほどの人手不足にはなかったのである。宮中を見渡せば、三善清行という実績も能力も申し分ない文化人がいたのだ。しかも、今の渤海は国家滅亡の危機にある国であり、外交交渉もただ単に友好を深めれば済むという話ではない。それにも関わらず三善清行が選ばれなかったのは、三善清行がこのとき病に倒れていたからである。何しろこのとき七〇歳を超える高齢。現在でこそ平均寿命に届かない年齢だが、この当時は平均寿命をはるかに上回る年齢の老人が倒れたというのは、いつ何が起こってもおかしくないと考える方が普通である。
そこで出番となった小野道風であるが、この人には一つ欠点があった。文化人としての業績は名高く国外にも名声が轟いているほどであったが、この人は気性が荒い。書道の達人で、多くの貴族が本来ならば自筆でなければならない書状の代筆を小野道風に頼んだという記録も残っているし、小野道風の書が貴族社会の中で流行することとなるのだが、気難しい上に敵が多く作る性格であった。
有名なところでは、伝説となるまでに名声を残していた空海を平然と批判して空海の書のコレクターを激怒させたばかりか、その激怒を真正面から受け止めたのみならず、空海の書を崇め奉るのは愚か者であると言い放っている。良く言えば頑固な職人気質というところだが、今で言うアスペルガー障害であったのかもしれない。
それでも、渤海使供応役をつとめる文化人としての責務はこなせたのであろう、この年に来日した渤海使に対する記録は平穏無事なものであった。国家滅亡の危機にある国との交渉を無事につとめたのだから、これは充分に評価できることと言えよう。
その評価を耳にしたか、それとも、もう聞こえなくなっていたか、延喜一八(九一八)年一二月七日、三善清行が亡くなった。享年七二歳。

三善清之が亡くなったことで、太政官における藤原以外の人材は一人減った。
ただし、翌延喜一九(九一九)年の太政官を見てみると、藤原氏の人員は九人に減っている。なお、橘氏から二人が入っている一方で、源氏は一人だけとなっている。そして、その他としては良峯衆樹がいるのみ。
藤原氏に言わせれば、割合を一三人中九人までに減らしたのだから何かと批判の多い藤原独占を緩めたということになるであろう。何しろ、二桁を切ったのだ。しかし、他の貴族に言わせれば冗談ではない話である。藤原氏が減って他の貴族が増えたなら藤原独占はゆるんだと言えるが、他の貴族の数は増えていない。つまり、朝廷が地方に求めた地方の役人の削減と同じ理屈で太政官の人員を減らしたのであり、藤原氏独占の体制は何ら変わってない。
すでに顕著になっていた人材の地方への流出も止めることはできなかった。流出を止めるには能力に応じた地位を用意しなければならなかったが、そうした地位は藤原北家が独占している。地方流出を食い止めるために、地方に渡った者の子弟うち貴族に列せられる資格のある者を中央に招くことが頻繁に見られるようになったが、それはあくまでも有力貴族に私的に仕える身分であり、中央での地位は無いか、あったとしても低い地位に留まっている。しかも、私的に仕えるときに最も重視されたのが武人としての能力であり、絵巻物を見ても貴族の私的なボディーガードとして下級貴族が武装した姿で描かれている。この時代の下級貴族の経歴をみると中央と地方を行き来する生涯を送ってきた者が多く、平将門は藤原忠平の、平貞盛は藤原定方のボディーガードをスタートとして中央に名を残している。
藤原独裁が結果を出しているならまだいいが、結果は何も生んでいない。庶民の暮らしも貴族の暮らしも、時平の頃と比べて目に見えて悪化しているし、未来に対する希望も失われている。いい思いをしているのは藤原北家の面々だけで、そうでない者は自分よりも劣る能力しか示せない者の下に留まらなければならないのである。これでは有能な人材がただ藤原北家の者でないというだけで能力に応じた地位を得られないままであり、雇い主に対する忠誠心ならばともかく、朝廷に対する忠誠心を減らすに充分であった。
地方から上がってくる税が減っているという報告はもはや通例になっていたし、税を納めるようにという通達も通常の光景になっていたが、その通達の力は乏しいものになっていた。
当然だ。税を納めさせるだけ納めさせておきながら、その税の行き先が藤原北家の蔵を満たすだけで、納めた本人の利益としては帰ってこないのだから。その上、税を納めないことに対する厳しい罰則があるなら仕方なしに納めようとも考えるが、税を納めなかったところでお咎めなしというのが実状である。かつては税の滞納が発覚したら税の追徴に加え鞭打ちの刑が待っていたのに、今や税を取り立てに来た役人の前に武士が立ちはだかり、実力で役人を排除するようになった。その武士に対する年貢は支払うが、それは朝廷に納める税より安いし、何より、納めた税が自分たちの利益に帰ってくるのを目の当たりにできているのである。これで誰が好き好んで、恩も義理もない藤原北家に税を払うというのか。 
10
それでもこの時代の日本は、名目上だけではあるが政情安定となっている。国外の混乱から見れば、醍醐天皇の帝位は安泰で、貴族たちが繰り広げている出世競争も所詮は宮廷内の争いであって軍を率いてのクーデターではない。地方に対する朝廷の権威が落ちているとは言え、日本の政権とはイコール京都の朝廷権力であり、その権力は長期に渡って連綿と存在し続けている安定を持っており、国外からの外交も京都の朝廷権力だけを相手にしている。
延喜一八(九一八)年から延喜二二(九二二)までの五年間は、残されている記録そのものの量が少ない。これは何も記録を残す者の怠慢ではなく、この五年間が平和の時代であったと評価できるからである。外交も普通に行われて友好のまま終わるし、人事についても順当とするしかない。飢饉や、疫病の流行といった大問題でもあればニュースとなるが、この五年間はそれすらない。つまり、ニュースとなるべき事件がない。醍醐天皇の治世を「延喜の治」と呼び、それを後世が手本とすべき天皇親政の時代であるとした者は多いが、それはひとえに、この平和な五年間にある。
記録だけを見れば、この五年間、忠平は何もしなかったとも言える。何の政策を示さず、ただ先例に則って政務を進めるのみという消極的な政治に終始するようになったのだ。国家財政は厳しいままであったし、荘園は朝廷の統制が利かない存在になり、地方の武士団は独自の権力を築き上げている。この、明らかに過去より悪化している社会情勢に対し忠平は何の手も打っていない。数少ない記録の中には、延喜一九(九一九)年に、忠平の兄の仲平を太宰府に派遣し、天満宮の社殿を造営させたとあるが、それが数少ない忠平の行動である。
ところが、それゆえに評価できてしまうのである。
政治にしろ、企業にしろ、あるいはスポーツにしろ、優秀な特定個人の能力に依存するようでは安定を生まない。誰がその役割を担うこととなっても一定以上の成果を出せるような仕組みを作るところは、爆発的な好結果を残すことが少ない反面、目を覆うばかりの惨状を生み出すことも少ない。この仕組みのことをシステムという。サッカーのフォーメーションのことをシステムと言うこともあるし、コンピュータを利用した業務の向上のことをシステムと言うこともあるが、いずれも意味は、特定個人に由来しない安定した仕組みのことに他ならない。
忠平はこのシステムを作ったのだ。
天皇の下に藤原氏があり、藤原氏の面々が次々と入れ替わることで特定個人の能力に依存しない太政官の運営とさせる。良房、基経と続く反律令の政務を継続するということは、綿密に定められたマニュアルでもある律令を利用できない政務を継続させなければならないということでもあるが、忠平はこれを、先例に則って政務を進めれば誰でも一定以上の成果を出せるように作り上げたのである。
藤原氏の貴族たちは藤原氏専用の教育機関である勧学院の出身者であるのが当たり前であり、勧学院では一定レベル以上の教育を施しているので貴族の質は維持できる。これは藤原氏が存続し続けること、そして、藤原氏以外は全て無視することを前提としたシステムではあるが、一定レベル以上の人材による政局運営を維持できるというメリットがあった。システムに問題も多くあったが、国外の混乱を目の当たりにしている以上、このメリットは見過ごすことのできない要素なのである。

これを一般庶民の目から見るとどうなるか。これは特に困ったことにはなっていなかったのではないかと推測できる。何しろ、京都からの納税命令がもう届かないのだ。年貢は存在するが、年貢を納める先である荘園領主や武士団は朝廷のような無茶を言ってこない。膨大な額の税を要求するわけでも、無償強制労働を命じるわけでもないのだから生産性も上がったであろう。それに、この時代は自然災害の記録もない。となれば、土地につぎ込んだ労働量がそのまま収穫に跳ね返る。つまり、働けば働くほど豊かになる。
目に見えて豊かになれるし、身の安全も実感できているのだから、これは記録に残らないであろう。
そこで政治家としての藤原忠平に評価を下すとなると、少なくともこの時代の忠平は満点をつけられる。確かに忠平は何もしていない。ただ一人の大臣として朝廷で絶大な権力を持つようになっていたし、藤原北家の過剰な優遇により、政局の安定と引き替えに人事の硬直化を招いている。それでも、政治家の唯一の評価基準、すなわち、庶民の生活向上という点では満点とするしかないのである。
ただ、それは内部に大きな爆弾を抱え込んだ満点であった。
武士団が地方で跋扈して朝廷の権威の届かない存在になってきているというのは、治安問題を考えた上で大問題であった。豊作の時はいい。武士団の内部で需要を満たせるから。だが、凶作になったらどうか? 武士団は武力を持った集団であるが、その武力はあくまでも守るための武力である。とは言うが、武士団の抱える人たちを守るための行動が、相手にとっては他の武士団からの侵略になることだってある。武士団が守るのは自分たちであって国全体ではない。自分たちが生きていくために他の武士団の領域に手を出さなければならないとしたら、それは武士団同士の激突、つまり内乱となる。
また、国外からの侵略がないというのも偶然でしかない。三分裂した朝鮮半島が統一されたら、あるいは、渤海が侵略に抵抗しきれず契丹の元に屈したとしたら、これはいつ侵略を受けるかわからない。何しろ、かつては存在していた国の武力も今や期待できないのだ。武士という武力集団ならばあるが、今や朝廷は武士団に命令をすることができない立場になってしまったのである。侵略に対して自分たちを守るのが武士団であるが、自分たちを守るための決断が「侵略を受け入れ、侵略者の下で生きること」だったら、この国はいったいどうなってしまうのか。
見える人には見えていたのだ。
それが太宰府への仲平の派遣だった。太宰府に派遣された仲平は醍醐天皇の命令として太宰府天満宮を建立した。そして、天満宮には道真が奉られるともした。太宰府は対外交渉の最前線であり、同時に、外からの侵略の最大のターゲットでもあった。そして、その太宰府に赴任してこの国を守り亡くなった菅原道真は時を経て伝説となっていた。それが忠平の決断なのか、それとも醍醐天皇の意志なのかはわからないが、このときの朝廷は道真の権威を利用しようとした。そのためには、道真が太宰府に追放されて非業の死を遂げたという噂を残してもためらわなかった。国の軍事力も期待できず、国の権威も期待できないとき、宗教だろうと、オカルトだろうと、朝廷に従わぬ者を従わせることのできるなら利用したのだ。
オカルト頼みは道真に留まらない。延喜二一(九二一)年一〇月二七日、空海に対して弘法大師の号を与えるとしたのも、伝説の僧侶である空海の権威を利用しようとした結果である。なお、この延喜二一(九二一)年という年は安倍晴明が誕生した年でもあるがこれは単なる偶然である。

この平穏が破れたのは延喜二二(九二二)年になってから。
日本国内は平穏であっても、国外まで平穏であるわけではない。むしろ、日本国内の平穏の方がこの時代の東アジアの中で例外だったのである。
それでも、年を経ることで国外の情勢は答えが見えるようになっていた。
朝鮮半島では新羅の命運は風前の灯火であり、いつ滅んでもおかしくない、いや、未だに滅んでいないことの方がおかしいことであった。あとは百済と高麗の二強の争いであり、情勢は高麗に有利に傾いてきていた。高麗優勢の状況を打破すべく百済の王である甄萱(キョンフォン)は日本に援助を求めたこともあったが、日本からの回答はなかった。また、同タイミングで甄萱は中国を統べる梁への朝貢もしたが、梁から百済に対する援助は引き出せなかった。
いつ滅んでもおかしくないのは渤海も同じで、西の契丹からの侵略の前に国土が狭まってきており、この傷口に塩を塗るかのように南西の高麗からの侵略まで受けるようになっていた。しかも、渤海はかつての高句麗の継承国家であることを国家の大前提としている国であり、同じく高句麗の継承国家を宣言する高麗との戦闘は、国家としてのアイデンティティに関わる大問題でもあった。
中国に目を向けると唐の継承国である梁はかつての唐のような勢いなど見る影もなく、皇帝を名乗ってはいても、その版図は中国で群雄割拠する勢力の一つでしかなくなっていた。
こうなると近い未来の答えは以下の通りである。
朝鮮半島は高麗と百済に分裂し、新羅は滅亡する。あとに待っているのは朝鮮半島を二分する戦闘であり、戦乱から逃れる難民が押し寄せることで、戦闘の余波はかなりの割合で日本に波及する。
中国は多くの国がしのぎを削る戦乱の大地となり、中国との通商は途絶え、交易で生きる者が失業するのみならず、日本の市場が狭まってしまう。それに、こちらもまた終わりの見えない戦闘の連続。朝鮮半島からだけではなく中国からも日本への難民が生じる。
だが、この二カ所は難民だからまだいい。問題は渤海。渤海は近い未来に契丹に攻められて滅びる。こうなると、契丹が日本海に顔を出すようになり、海の向こうの日本にまで矛先を向けてもおかしくない事態となる。朝鮮半島からも中国からもやってくるのは生活を求める難民だが、契丹の場合は侵略しに来る軍勢なのだ。これは生活が破壊されるなどというレベルでは済まない大災害となる。
この現状に立ち向かわなければならなくなった忠平が選んだのが、鎖国。国境を閉ざすことを忠平は考えたのである。市場が狭まるとか、難民に対する人道的支援とか、そんな考えよりも安全を選んだのだ。そして、忠平のこの姿勢を国民は支持した。
延喜二二(九二二)年六月五日、朝鮮半島の戦乱から逃れようとして対馬に漂着した新羅人を入国させず、朝鮮半島に返すよう指令が飛んだ。ついこの間まで戦争をしていた、そして、事実上は戦闘がなくても名目上は日本と新羅はまだ戦争中であり、戦争相手国の国民を受け入れることはできないというのが忠平の掲げた理由であった。
延喜二二(九二二)年九月二日、渤海使が越前国に漂着。これに対しては通例に従った渤海使の歓待としたが、相手はまもなく滅びようとしている国からの使者であり、これまでのような安穏とした折衝とはならなかった。何しろ、渤海が日本に使者を派遣したのは日本からの援軍を求めてのことなのである。しかし、日本からの回答はNO。日本には渤海に援軍を派遣できる余力がないという回答を持たせて帰国させたのである。
これらは嘘ではない。日本は新羅と戦争をしており、講和条約が結ばれたわけではない以上、新羅とは名目上戦争中という関係である。また、日本のオフィシャルな軍事力も減ってきており、国外に派遣できるだけの余力はないのも事実である。だから、新羅も、渤海も、忠平の掲げた名目に対する反論は全くできなかった。しかし、自分たちは今まさに滅びようとしているのである。そして、新羅はともかく、渤海は、建国からこれまでずっと日本を同盟国としており、日本と新羅が戦争をしているさなかも日本への支援を表明し続けた国である。その国に対し忠平は、「余力なし」として問答無用に支援を打ち切ったのだ。
日本への支援を求めた人たちは日本の冷たい態度に失望したであろう。そしてもっと彼らが悔しく感じるであろうことに、忠平のこの態度はこの時代の東アジアを考えれば正解とするしかない態度であったのである。滅びようとしている国に延命手術を施しても、滅亡が先送りになるだけでその国の運命は変わらないし、下手すれば自国の平和だって脅かされてしまうのだ。他国の滅亡の巻き添えを食らうことなく、国家を存続させて平和を維持しようとするならば、それが非人道的と言われようと、それが運命をともにした長年の同盟国であろうと、関係を断ち切らなければならないのだから。 
 

 

11
延喜二二(九二二)年の国外からの支援要請は災害がまだ対岸の火事だと考えて日本は安穏としていられたが、年が変わった延喜二三(九二三)年、災害が海を越えて日本に押し寄せてきた。
年が変わってすぐに咳逆病大流行の記録が登場する。咳逆病というのは現在のインフルエンザのことで、医学の進歩した現在でもインフルエンザに罹患しては平然としていられないし、命を落とす人だって大勢いる。それでも薬は日々発展しているし、インフルエンザのメカニズムも、その予防法もわかっている。だから、インフルエンザは、苦しい病ではあるが死を意識させる病ではないが、平安時代に視線を戻すと、医学水準も、メカニズムも、予防法も現在とは比べものにならない低水準のこの時代のインフルエンザは死に直結する大病であった。
ある日突然高熱に襲われ、ある日突然息苦しくなり、ある日突然命を落とす。
身分の差も、貧富の差も、年齢も性別も関係なく病は襲いかかる。
これは人々に絶望を呼び寄せた。前年までの五年間が平穏であったと考えるのは後になって振り返ってみての感想であって、実際にその五年間を過ごしていた人たちにとっては、国内も国外も安定しない、貧しさも変わらない、豊作だと言われても実感できない、不満の多い五年間だったのである。その五年間を突然終わらせたのが、情け容赦なく命を奪い去っている伝染用の大流行であった。
そして人々は考えた。これは何かの祟りなのではないかと。
祟りについて言えば、以前から菅原道真が噂として挙がっていた。ただ、それは怪しげなオカルティックな話であり、全ての人に受け入れられていた話ではなかった。
この噂を忠平は利用した。元々、兄時平の政策を否定するところから忠平の政権は作られているのである。ここで亡き時平に汚名を着せようと政権に傷つくおそれなどなかったし、伝染病の大流行にあって何の対策も打てない現状では、人々の心情を安定させる何らかの手段も必要であった。
今はまさに伝染病の大流行のさなかであり、バタバタと人が死んでいくのを誰もが目の当たりにしている。今の惨状に対する何かしらの理由づけを求める人々、不安と不満をそらせる必要のある執政者、この二つが重なって、道真の怨霊伝説が公式なものとなった。
亡き時平が道真を「追放」したことは話の一つとして伝わっていたが、あくまでも噂であり、そうではないと考える人も多かった。しかし、忠平は、道真の太宰府赴任が道真の追放であったと正式に表明。その怨念が現在の伝染病の理由であるという国の見解を出したのである。
その上、延喜二三(九二三)年三月二一日には、醍醐天皇の第二皇子で皇太子でもあった保明親王が咳逆病で亡くなった。いかに伝染病が身分の差に関係なく襲いかかるとは言え、皇位継承者の死は大きなニュースとなって日本中に轟いた。
ためらいを感じていた人たちも、皇太子の死を目の当たりにして伝染病の理由を受け入れた。亡き道真の不遇が現在の苦悩の理由であると考えたのである。
ここまでくると、道真の不遇を解消することは伝染病の沈静化をもたらすと考えるようになるのは目と鼻の先のこと。延喜二三(九二三)年四月二〇日、道真の「追放」は正式に解除され、太宰府に行く前の役職であった右大臣への「復帰」を宣言し、正二位を追贈することが定められた。
人々はこれで伝染病が沈静化すると考えたのである。

しかし、伝染病の猛威は、一死者の名誉回復で一瞬にして収まってはくれなかった。
咳逆病の流行は史上はじめてのことではなく、これまでに何度も起こっている。治療法も、有効な薬も、予防法も知らないこの時代であっても、季節に合わせた流行であることは知っていたのだ。これまでの歴史に従えば、冬が終わり春になれば、少なくとも四月にもなれば咳逆病は沈静化したのである。忠平もそれを見込んでいた。冬の咳逆病は大問題だが、暖かくなれば沈静化し、春になれば何もかもなかったことになると考えたのである。その終わるであろうタイミングに合わせて道真の復権を謳ったセレモニーを開催することで、朝廷主導の咳逆病の沈静化を図ったのだった。
ところか、季節が春になり、夏になっても、伝染病の猛威は衰えなかったのである。冬と変わらぬ猛威は続き、数多くの人がこの病で苦しみ、数多くの人がこの病で命を落とした。
これは全ての予定を狂わせた。
醍醐天皇はまだ三八歳の若さであっただけでなく、子にも恵まれていたから皇統が途絶えることを憂慮する必要はないと、それまでは考えていた。しかし、後継者に考えていた保明親王が二〇歳の若さで命を落としてしまったことを考えると安穏としてはいられなくなった。いつ、どこで、誰が亡くなるかわからないし、それが自分である可能性だって否定できない。皇統の安定を考えた醍醐天皇は、延喜二三(九二三)年四月二九日、保明親王の長男でこのときわずか二歳の慶頼王を皇太子としたが、これは醍醐天皇の焦りを周囲に見せる効果しかなかった。
その上、五月に入ってからもう一つとんでもないニュースが飛び込んできた。
亡き道真の名誉回復から五日を経た四月二五日に、海の向こうで梁が滅亡したとのニュースが飛び込んできたのである。継承国家として唐が復活したが、この中国の混乱のニュースを目の当たりにした人々は、世界を包み込む混乱は沈静化するどころかかえって悪化していると考えたのだ。そして、中国で起こったこの政変までも道真の怨霊のせいだと考えるようになってしまったのだ。
鎮まることのない道真の祟りを恐れる声が高まり、対処を求める市民の声が連日届くようになった。
それは、忠平にも、醍醐天皇にも、どうにもならないことだった。道真の怨霊に責任を押しつけることで人心の安定化を図り、安定化に成功したところまではよかったのだが、季節が春になることで沈静化するはずだったインフルエンザが今もなお猛威を振るっているし、国外からは想定のはるか上をいく混迷のニュースが届いてくる。つまり、事態は前よりも悪化してしまったのだ。
道真の復権という手段を使ってしまった朝廷に残された手段は一つしかなかった。延喜二三(九二三)年閏四月一日、二三年の長きに渡って使われ続けてきた元号である「延喜」の終了と、新元号「延長」の使用開始が決定されたのである。改元は、吉事ならばそれを祝い、凶事ならば凶事をリセットする意味で行われるものである。それでも通例ならば無理してでも吉事を見つけだして吉事を祝しての改元という体裁を取り繕うものであるが、このときは無理する手間も惜しんでいきなり改元している。
この瞬間、後世から醍醐天皇の理想の治世の時代と評価される「延喜の治」は終了した。

混乱を目の当たりにした人は、何よりもまず、より確かな安定を求めるようになる。何より忠平が安定を考えるようになった。
これまでの政権は、忠平がただ一人の大臣であり、醍醐天皇がその上に立って腕を振るう天皇親政の政権であった。そして、それが安定を生んでいた。しかし、今までの安定を維持してきた体制と同じだと、これからは混乱が続くのである。
このときの忠平に残されていた選択肢は、皮肉にも、自分が否定し続けていた兄時平の政治体制だけであった。律令に従って左右の大臣が天皇の脇を固め、左大臣をトップ、右大臣がその補佐とする時平の政治体制を、忠平は律令的、すなわち、良房、基経と続いてきた反律令政権の否定であると批判し、自分が右大臣に留まることで反律令政権の継続をアピールしてきたのだが、今はそんな悠長なことを言っていられる状態ではなくなっていたのだ。
延長二(九二四)年一月七日、藤原忠平が正二位に昇格。
延長二(九二四)年一月二二日、藤原忠平が左大臣に昇進。後任の右大臣には藤原定方が就任した。
これで時平のときと全く同じ、つまり、律令制に則った政治体制が確立された。傍目には肩書きが変わるだけで人員は変わらないのだから今までと同じではないかと考えるが、忠平にとっては、自分一人だけが大臣でその他の貴族は最高でも大納言止まりとする体制が重要なのであり、自分にとって変わる存在、つまり、もう一人大臣がいるという体制をこれまでは容認できなかったのである。だから、これは忠平にとって相当な妥協なのだ。
また、咳逆病の猛威は収まったものの、その影響は随所に現れていた。これが忠平をより確かな安定化、忠平の立場にすればさらなる妥協に走らせる理由となった。
まず、人口が減ってしまった。人口の減少は耕作者の減少を生み、耕作者の減少は収穫の減少を生む。収穫の減少は貧困を招き、貧困は犯罪を招く。安定した五年間は減っていた犯罪が、咳逆病以後目に見えて増えるようになってしまった。
さらに、上がってくる税収も減った。咳逆病の被害の穴埋めのために地方が捻出しなければならない予算は測り知れず、それは中央へ上げるべき税をも使い込むという結果を招いていた。咳逆病で親を失った子、夫を失った妻、息子夫婦を失った高齢者、こうした一家の働き手を失い生活の目途が立たなくなってしまった人たちの支援は従来から地方の責任とされており、地方で対処できないときは中央が援助するという仕組みであったが、地方からの支援要請の多さに忠平は地方に責任を押しつけたままにしたのである。
これで地方官のなり手が減った。有能な国司であればあるほどその国の庶民の被害は少なく抑えられたのだが、それは国司の資産持ち出しによるものであった。その地の庶民から絶賛を浴びれば浴びるほど、国司は貧困に陥ることとなったのである。少し前まで一期四年を勤め上げれば一生分の財産が築けると言われていた国司という職が、咳逆病の影響でかえって財産の持ち出しによる貧乏を招く職になってしまったのだ。今の国司は一刻も早く任期が終わり京都に帰れる、つまり、財産の持ち出しを終わらせられることを待ち望んでいたが、新しく国司に任命された者がなかなか任国に向かわないという現象まで生じてしまった。
忠平は、延長二(九二四)年三月二二日に、国司の赴任遅延による国務の停滞を防ぐため、国司に任命した月から新たな国司がその国に対する責任を持つと定めた。新しい国司が任命されたという連絡が届いた瞬間に国司の任務は終了し、財産持ち出しの責任からも逃れられるのだ。これは現役の国司から賞賛されたし、忠平も善意からこの政策を打ち出したのであろう。だが、善意ある政策が必ずしも良い結果を出すとは限らない。なぜなら、この命令は地方に対し国司不在という悪影響をもたらしたからである。財産を減らせと命じられて、誰がその命令を快く引き受けるであろうか。地方に向かうよう命令されても、のらりくらりと命令をやり過ごし、いつまでたっても京都から離れない国司が続出した。任国からは一刻も早く赴任するよう要請が来るが、肝心の国司からの返答は、罹かってもいない病気だの、居もしない家族の不幸だの、あの手この手を駆使しての着任拒否。それでいて、国司として受け取れる収入は京都まで届けるようにという命令は出しているのである。これで、誰がその国司を尊敬するであろうか。 
12
安定の五年間は気にしないでいられた治安の悪化も、咳逆病以後は復活した。
特に、京都に流れ込んでくる人たちが治安を悪くさせた。
しかも、時代の移り変わりがここにも現れていた。良房や基経の頃は、ただ単に地方から逃れてくる人がその日の生活のために犯罪者へと転じていたが、今はそれですら牧歌的な光景に見えてしまうようになってしまった。何しろ、地方から逃れてくる者は武装しているのだ。武士団同士の争いに敗れた者が武装したまま捲土重来を狙い京都へと流れてくる。そして、貴族に向かって自分を雇えと言ってくる。すでに基経の頃には武士が家臣として存在し、その武士が五位の位を持つ貴族の一人に列せられるようにすらなっていたから、貴族の家臣に武士が居るのは珍しい光景ではなくなっていたのだが、いかに裕福な貴族と言えど、雇える武士の人員は限られている。それに、京都に流れ込んできたのは戦いに敗れた武士。つまり、武士としての能力が低い武士である。どうせ雇うのなら能力の高い武士を選ぶのが普通な流れなのだから、敗北者に目を向ける貴族は少ない。
これでは京都に流れてきた武士に居場所などない。かといって、武士であることを捨てて一人の農民となって農地を耕そうと考えた者は少数派である。このときの武士の大部分は貴族の血を引いている。地方に赴任した貴族の子孫であったり、在地の郡司とその子孫であったりと、その出自は一定ではないが高い身分であることでは共通している。
自分を上流階級と考える者はたとえ生活が悪化することとなってもその身分を落とそうとは考えない。それがいくら貧困から逃れる手段であろうと、自分より劣る身分の者の中にとけ込もうなど、断じて考えないものである。いかに荘園領主に雇われる立場であろうと、貴族の血を引く者としてその地に住む者の暮らしと命を守るという役目は自分の上流階級としての矜持を維持できるし、農民に働かせて貢がせた年貢で生活するというのも上流階級としての誇りを維持できるのだ。
京都に出向いて貴族に雇われる立場になればそのプライドを維持できるが、それを拒否されたらプライドが傷つけられてしまう。だからといってプライドを捨てることはできない。その思考の結果が、強盗集団。
同じ立場の者を集めて暴れ回る、彼らに言わせれば自らの誇りに応じた暮らしをする、そうした集団が京都とその周辺に誕生した。
延長二(九二四)年五月三〇日、京都の強盗を捕らえるために道守屋(ちもりや)を作らせることを命じたが、その程度で治安の安定を呼び込むことはなかった。
考えてみてほしい。現在の学生の就職難を。「仕事なんて選べばいくらでもある」などと言えるのは無責任な第三者であって、学生の就職難を解決する方法はただ一つ、学生が望むような大企業が学生を大量に雇い、バブル世代の体験していたような安定と毎年の昇給を保証することである。仕事があるなどと言われてもそれはやりたい仕事ではないし、やりたくない仕事に就職したら最後、奴隷労働の日々が待っている。それに、プライドだって大いに傷つけられてしまうのだ。経済情勢がそれを許さないのが今の現実だが、だからといってプライドを捨てろなどと命じることはできない。なぜならそれは、学生たちがこれまで歩んできた人生を、そしてこれからの人生を全否定する行為なのだ。
学生たちがデモをするのと、この時代の強盗集団と、行なっている行動は違うが動機は同じである。自らのプライドを維持するため、そして、これまでとこれからの人生を肯定するためである。そしてもう一つ同じことがあった。プライドに対する共感を得られないことである。既に恵まれた暮らしをしている者にとって、そうでない他人のプライドは何ら気に止めるものではない。

利用できるものは何でも利用しようとする忠平の姿勢は、この国の外を取り巻く危機と、この国の安定を国民にアピールするのに役立った。
延長二(九二四)年一一月一二日、復活なった唐が日本に使者を派遣し、かつての大帝国である唐が復活したのだから、遣唐使の派遣も再開しても構わないとの国書と、皇帝から天皇へ進物を上奏してきた。これまでの唐の意識では、日本のトップの称号が天皇であると認めてはいても、天皇の地位は皇帝より下であるとしてきたのである。しかし、復活なった唐はそれを覆した。天皇と皇帝を同格であると認めたのである。唐にとっては、東アジアの混乱にあってただ一ヶ国安定を保っている、しかも、千年をはるかに超える歴史を持つ日本の天皇家の権威は充分利用可能な権威であり、その日本が復活なった唐を国家として承認するということは、群雄割拠する中国大陸における唐の権威を強めるものであった。
この唐の姿勢は忠平にとって非常にありがたい姿勢であった。唐からの使者を内裏で醍醐天皇が謁見するのである。それも、中国の皇帝、実際には皇帝代理の使者であるが、唐の者が天皇の権威を認め、国書と進物を「上納」してきた。かつては絶大な権威を持ち東アジアの盟主として君臨してきた唐が、今や日本を格上として扱い跪いたのである。国難にあるとき、外交でポイント稼いで政権支持率を上げることがよくあるが、このときの唐の姿勢は醍醐天皇と左大臣である忠平への支持を急激に高め、これまでを思い返させることにも成功した。国外の混乱と比較しての日本の安定は、日本に対する誇りを持たせ、支持率を上げさせるのに充分であったのである。
この勢いで、延長二(九二四)年一一月一五日に、忠平が延喜式の撰集完了を宣言した。以前から撰集が行われていた延喜式であるが、期待が高かった反面、式というものは撰集に時間がかかることが以前から知れ渡っており、できあがるのはしばらく先と思われていたのである。しかも、忠平の政権というのは律令を否定する反律令の政権である。律令を補完する式の作成に熱心であるとは思われておらず、結局は絶ち消えになるとさえ思われていたのであった。
このタイミングで延喜式の撰集完了を宣言したのはインパクトが大きかった。特に、未だ残る律令派の面々にとっては、待ち望んでいた式がついに完成したのだという感動をもたらすものであった。
ところが、いつまでたっても延喜式が公開されない。完成したという宣言だけが届き、完成した中身が公開されないのだ。そのため、実際の条文が公開されないことで忠平に疑念を持つ者も現れた。
一方、多くの者にとって、法律の条文というものは縁遠いものである。法律が作られたというニュースは何度も目にするが、その法律の中身まで踏み込む者は少ない。そのためか、外交でポイント稼いだ忠平に対し、以前から撰集が進められていながら完成せずにいた延喜式を完成させたということでさらなる支持を高める者は多く、条文が公開されないことは大したニュースとならなかった。

道真の怨霊の噂は一度沈静化していた。咳逆病が収まってきたからである。また、唐からの使者や、待ち望まれていた新しい法典である延喜式の完成は、未来の暮らしに希望をもたせるものであった。現状を苦しめる怨霊というのは、現在の絶望に対する合理的な説明を求めた結果が生んだ噂である。この噂が沈静化するには、より合理的な説明が生まれるか、現在の絶望が解消されるかのどちらかが起こればいい。だから、延長二(九二四)の一一月の出来事は二つとも未来への希望となって現在の絶望をかき消す効果を持ったと同時に、怨霊の噂を消す効果もあったのである。
しかし、半年を経た延長三(九二五)年六月一九日、道真の怨霊の噂が復活した。
藤原時平の孫で、皇太子となっていた慶頼王が五歳という幼さで亡くなったのだ。死因については記録に残っていない。
皇位継承者が亡くなるというのは天皇家の系統に影響を与えるが、このときはそんな軽い影響では済まなかった。慶頼王は時平の孫である。そして、時平は道真を追放した人間であるとされている。この二つが合わされば、慶頼王の死と道真の怨霊が結びつくのも自然な流れであった。人々は思いだしたかのように道真の怨霊に恐れおののき、未来に再び絶望した。
怨霊の結果が伝染病の流行であるなら伝染病が沈静化すれば怨霊の噂も沈静化するが、今回の事件は慶頼王の死。一度亡くなった人間が蘇ることなどありえない以上、生じた噂も簡単には晴れない。忠平が思い描いていた以上に道真の怨霊の噂が人々に受け入れられてしまうようになったのだ。
何か良くないことがあればそれは道真の怨霊のせい、思い描いていない結果になってもそれは道算の怨霊のせい、風邪をひいたら、道で転んだら、ひどいのになるとひげ剃りに失敗して血が流れただけで道真の怨霊のせいになってしまった。そして、道真の怨霊に対する責任を求めるようになってしまった。
このようなとき、人は自分の責任を絶対に認めない。認めたとしても充分に悔い改めているから、自分にはこれ以上道真の怨霊が覆い被さらないと考える。それでもなお怨霊が続くのは、自分に責任があるからでも、自分の悔い改めが不充分であるからでもなく、他人が道真の祟りを招いているからだと考える。そして、その他人に怨霊の責任をとらせようとする。中世ヨーロッパの魔女裁判も似たようなもので、不具合な現実のスケープゴートとして他と違う誰かに責任を持たせようとする。その者に責任をとらせれば不具合な現実は改善されると考えているし、その者の人権など、自分の被っている不具合な現実に比べればどうということのない軽微なものであると考える。
では、中世ヨーロッパにおける魔女の役割を、この時代の日本は誰が担うこととなったのか。
時平とその関係者である。
時平自身はもうとっくに亡くなっているが、時平の血を引く者は数多くいるし、時平とともに仕事をした者も数多くいる。そうした者が魔女にさせられたのだ。ちなみに、魔女という言葉を使ったが、このときのスケープゴートの圧倒的大多数は、中世ヨーロッパにおける魔女裁判と同様、性別に限定などなく、男もいれば女もいる。年齢も性別も社会的地位も関係なく、時平と関係があると考えられた人に何かあるとそれは道真の祟りであり、祟りを受ける人間が悔い改めをしないから、そのとばっちりが自分にまで飛び火すると考えたのである。 
13
皇太子の死に伴う帝位の空白は避けなければならないというのがこの時代の貴族たちの共通認識になっていたが、それにも関わらず行動を起こせていない。
行動を起こせていないのは新たな皇太子の任命だけではない。道真の噂が隆盛を極めるようになって以後、貴族たちの全ての行動がためらわれるようになってしまったのだ。今ここにいるほとんどの者は何らかの形で時平との接点を持っている以上、何かするとそこに道真の怨霊の噂がつきまとってしまう。ゆえに、噂の立たぬように、と言えば聞こえはいいが、実際には事なかれの消極的な姿勢を貫いたのである。それが身の安全を守る手段だった。
醍醐天皇はこの現状を苦々しく思ったが、醍醐天皇自身もまた時平と接点を持っている。何しろ、道真に太宰府に向かうよう命じたのは醍醐天皇なのだ。だからか、醍醐天皇は、貴族たちとは逆に、何か吹っ切れたように積極的に行動するようになった。本人から望んだわけではないが、左大臣藤原忠平ですら消極的になっている以上、天皇親政しかこの窮地をどうにもできなかったのである。それにしても、「延喜の治」として絶賛される天皇親政の時代には、実際には天皇親政どころか忠平の独裁だったのに、延喜の治の栄光が終わった時になって天皇親政というのは、幾許かの皮肉を感じずにはいられない。
忠平という人間は元からしてアクティブな人間ではない。それに輪をかけるように、あらゆる行動を抑える社会風潮が広まっている。こうなると、元から消極的な人間はもっと消極的になってしまう。延長三(九二五)年八月一日に、醍醐天皇は、完成を宣言しておきながら未公開となっている延喜式の完成を忠平に対して要請している。完成を忠平が宣言してから一〇ヶ月も経っているのに延喜式の完成を要請するということは、誰もが想像したとおりであるが、延喜式は完成していないということである。忠平は前年の完成の宣言を取り消すことはしなかったが、命令には従った。命令には従ったが消極的なものに留まった。
醍醐天皇はさらに、慶頼王の死から四ヶ月を経た延長三(九二五)年一〇月二一日に、醍醐天皇の皇子、寛明親王(ゆたあきらのみこ)を皇太子とすると宣言した。これに対する批判や反論だけではなく、賛意すら出なかった。ゆえに、寛明親王の皇太子就任に関する問題は起きなかった。しかし、左大臣ともあろう忠平が皇太子一人決めるアクションを起こさないのは異常とするしかない。それも、醍醐天皇の皇子という誰が見ても皇太子に相応しいとするしかない人物を皇太子に任命するだけのことである。貴族たちの消極さ、そして、道真の噂の恐ろしさは、もはや誰にも制御できぬものになってしまった。
この噂は、延長三(九二五)年一一月一〇日、興福寺で大火が発生し、僧坊が喪失したことでさらに悪化する。

オカルティックな噂による政務の停滞と社会の消極化を解決するには、そのオカルティックな噂を打ち消す何かが必要である。ただ、何かとは言うものの、それが何であるかは一定していない。「こんな方法で?」と思わせる些細な方法で噂が打ち消されることもあれば、「ここまでしても駄目なのか!」と思わせる大規模な手段でも無駄に終わることもある。
何しろ二〇年以上前に亡くなった人間の怨霊の噂である。しかも、噂の根拠というのが、日常生活を送る上で当たり前に発生する不幸なのだから、これはどうにもならない。人災ならばどうにかなっても、天災、特に地震や雷、天候不順などとなると、これは神の領域の話で人間がどうこうできる話ではないのである。それでも根本的な解決が成されるとすれば、道真が実は生きていて、自分は怨霊になどなんかに成っていないと証言してもらうしかない。当然ながらそんなものは無茶なわけで、朝廷の取り得る方法としては、オカルティックな何かをかぶせるというのは一つの手段ではある。
延長四(九二六)年五月二一日に、火災が発生して僧坊が喪失した興福寺の僧侶である寛建を唐に派遣することが決まったのもその延長線上である。より正確に言えば、唐に渡りたいという許可を寛建が求めてきたので、その許可を朝廷として与えたということなのだが、国が許可した海外渡航であり遣唐使というわけではないものの、国の許可を得ている以上、一個人の渡航となるわけもなかった。
これは複合的な要因が絡まっている。
まず、オカルティックな問題での社会の停滞である以上、オカルティックな領域にも対応できると一般的には思われている宗教界の人物が何らかのアクションを起こすのは有効な手段である。そしてそれは、道真の怨霊によって火災が発生し、僧坊が焼け落ちたと噂されている興福寺の僧侶である方が望ましい。
次に、唐からの外交樹立を求める要請を無かったことにするわけにはいかない以上、日本国として何らかのアクションが必要であったのに、今なおアクションが起こせずにいたことが挙げられる。唐が復活なったと言ってもかつての大唐帝国の復活ではなく、首都開封とその周辺を支配する地方の一勢力に留まってしまっている以上、正式な国交を樹立すべく遣唐使を派遣したら、その他の地方勢力を日本は敵に回してしまうのだ。しかし、復活した唐が中国全土を統べる国家として蘇る可能性も残っているため、何のアクションも起こさずにいると、それはそれで未来の外交に影響を与えることとなってしまう。
また、遣唐使を派遣しようにも唐に渡らせる人材を選べなくなっていた。かつては唐に渡って帰ってくれば出世の道も待っているため、未来に野心を抱く役人や貴族が大挙して遣唐使になるべく自己推薦してきたのだが、今や唐に渡ろうが国内に留まろうが出世は変わらない時代になっている。これでは五人のうち三人しか生きて帰ることのできない危険な航海をしようと名乗り出る者など現れるわけがない。遣唐使が危険な航海となる理由は豪華であるが安全性の低い遣唐使船を使うからで、遣唐使船を使わなければ安全性は高まるのだが、遣唐使船以外の船で遣唐使を派遣するわけにいかないという事情もあった。遣唐使船だけが国の認める正式な外交使節を乗せる船であり、それ以外の船の外交は断じて認められないのである。国の正式な役人ではない民間人ならば安全な船を使えるのだが、無位無冠の者に国の許可を与えるわけにもいかないのだ。この概念を打ち破るには、これから二〇〇年を経た平清盛を待たねばならない。
僧侶というのは、当時の概念におけるギリギリの妥協点であり、全くの民間人ではないが無位無冠でもあるので安全な船にも乗れる。しかも、渡航目的はあくまでも仏教を学ぶためであるので唐以外の中国の地方勢力も何も言えない。また、いくら群雄割拠する中国とは言え、唐は文化水準が他より抜きん出ていることに変わりなく、日本を代表する文化人としての派遣は有意義でもあった。しかも、小野道風の書や、紀長谷雄・橘広相・都良香といった歴代の文化人の残した詩集だけでなく、菅原道真の詩集も持たせている。これは、菅原道真を、日本を代表する文化人であると国が認めたということでもあり、そのことで怨霊の噂を弱める効果もあると考えられた。
そして、寛建の渡航の瞬間は一瞬ではあるが怨霊の噂が止んだのである。
だが、その沈静化も、延長四(九二六)年七月一一日の西大寺の大塔への落雷で元に戻った。落雷による大塔の焼失は道真の怨霊が雷となって祟りとなっているという噂へと、いとも簡単に昇華したのである。

もはや何をしても道真の怨霊のせいになってしまう。
醍醐天皇は諦めの境地に達したのか、道真の怨霊など無かったかのように振る舞い始めた。忠平の干渉がないと悟った醍醐天皇は、歴代の天皇が望んでいながら果たせずにいた天皇親政を大々的に開始したのである。この一〇〇年間、冬嗣、良房、基経、時平と藤原北家の大臣が政務のトップに君臨している、あるいは藤原緒嗣や橘広相と対立して存在感を示しているという光景が広がっていて、それが正常な政治体制であった。この体制を維持するために強引なまでに藤原独裁を固めたのに、その藤原北家の忠平も、忠平の兄の仲平も、その他の藤原氏の面々もおとなしくなってしまっているのだ。もしかしたら、それが最大の道真の怨霊かも知れない。
幸いなことに、醍醐天皇の執政者としての能力は高いものがあった。父である宇多法皇こと定省親王が臣籍降下して源定省となっていたため、醍醐天皇は生後間もなく源氏であった。しかし、父が後続に復帰し定省親王となったことで醍醐天皇は皇族に復帰できた。もしそのまま源氏であったら、醍醐天皇は源氏に属する有能な一貴族として政界に存在していたであろう。
その有能な一貴族となる可能性のあった者が皇族に戻って皇位に就いていたのは日本にとっては幸運なことであった。頼れるのは醍醐天皇しかいないのだ。そして、醍醐天皇はこの国の危機を一人で背負う気概を見せるようになっていた。
藤原氏が高位の官職を独占し、左右の大臣とも藤原氏であるという状況は確かに政務の安定を生んでいる。だが、少なくともこの時点では結果を生んでいないと考えられていた。後世から判断すれば政務の安定が安定した成長へとつながり、貧困の縮小と生活の安定を生んでもいたのだが、このときは、大臣たちは何もせず結果を生んでいないと考えられていた。かといって、大臣を取り替えるわけにもいかなかった。大臣を交代しようにも後釜に据える人材が居ないし、何より、現時点の状況であれば天皇親政が可能なのである。無能な大臣が君臨しているのはやむを得ない必要経費とでも考えて放置しておけばいいと考えた醍醐天皇は矢継ぎ早に命令を出した。
延長四(九二六)年一〇月、百済軍が新羅の首都である金城を占領し、新羅の景哀王を自殺させたという連絡が入ってきた。新羅の新しい王として金傅が即位したが、百済王である甄萱(キョン・フォン)の傀儡政権であり、新羅滅亡は目前であると考えた醍醐天皇は、朝鮮半島の戦乱が日本に波及しないよう、対馬、壱岐、そして玄界灘周辺の警備強化を命じた。ただし、この新羅滅亡寸前という考えは実現しなかった。後に高麗王となる王建(ワン・ゴン)率いる高麗軍が新羅の救援に赴き、一二月、王建と甄萱の間での停戦交渉が始まったからである。 
14
朝鮮半島からひとまずの安静の情報を入手した醍醐天皇は、延長四(九二六)年一二月八日、任命した職務に就かない者、特に地方への着任を拒否する者を処罰すると発した。処罰が下ると、軽くても降格、重い場合は官位剥奪となる。その上、任命から処罰当日までに支払われた給与の全額返還を命じた。
同日、遅刻や無断欠勤が多い者など、勤務態度不良の官僚を免職するとした。道真の祟りという名目で出勤せずにいた者が続出していたからである。道真の祟りは実に便利に利用されていたと見え、休暇理由に道真の祟りをあげ、出勤すると祟りが悪化するから祟りが鎮まるまで休ませてほしいという願いまであったのだ。しかも、祟りによる休暇は有給休暇にしなければより祟りが悪化するとまで付け加えているのだから図々しいにも程がある。
役人の図々しさを一刀両断した醍醐天皇が次に手を着けたのは、国外からの難民の受け入れ、特に渤海からの難民の受け入れである。新羅の滅亡も目前であったが、渤海が契丹に滅ぼされるのはより近い未来に感じられていた。と同時に、渤海では契丹の侵略に対する激しい抵抗も続いていた。どんなに平和的であろうと、血の流れない侵略はない。ましてや渤海国民は命を懸けて抵抗しているのである。その抵抗が終わったときに待っているのはこれまで通りの安定した暮らしではなく、復讐である。
少なくない数の渤海人が国境を越えて高麗に亡命したり、日本海を南下して日本に逃れてきたりした。
醍醐天皇は彼らを受け入れることとしたが、一つだけ条件があった。
日本人となること。
日本人として暮らし、日本人として働き、日本に税を納めるのを条件として受け入れることとした。多くの渤海人はこの命令を受け入れたが、少なくない数の渤海人がこの命令を拒否し、風土と気候が故郷に近い北海道に移住した。
文屋綿麻呂による本州統一で縄文時代が終わったが、北海道では続縄文時代が続いていた。その北海道で続縄文時代が終わったのは、このときの渤海人の大量移住による。ついでに言えば、現在のアイヌ語と日本語は互いに意志の疎通が不可能なまでに分かれてしまっているが、この時代までは、ある程度までなら意志の疎通が可能な似た言語であった。日本語もアイヌ語も同じ縄文語から分かれた言語だから似通っているのは当然で、現在の感覚でいくと、ゲルマン系諸語から分かれた英語とドイツ語のような近さであった。それが意志の疎通が不可能なまでに分かれたのはこのときの渤海人の大量移住による。渤海人の大量移住により、北海道で話されていた縄文語、平安時代の呼び名で言うなら蝦夷語と、渤海人の持ち込んだ渤海語が融合して生まれたのが現在のアイヌ語である。

一方、渤海に残った渤海人も多数いた。月日は不明だが、延長四(九二六)年に契丹が渤海の首都である上京竜泉府(現在の黒竜江省牡丹江市)を陥落させ渤海王を捕虜としたことで、契丹は渤海国を滅亡させることに成功したが、渤海の遺民による抵抗運動は激しく、契丹の領土として併合することに失敗していたほどである。
契丹皇帝の耶律阿保機は、契丹による直接統治が現時点では不可能と判断し、渤海の領地に渤海の継承国家である東丹国を建国させ、長子で皇太子でもあった耶律倍を上京竜泉府に派遣して東丹王に任じた。ただし、忽汗城と呼ばれていた上京竜泉府の城郭部分は天福城と改名させている。
東丹国は渤海の継承国家であり、渤海の対外関係は東丹国がそのまま継承、渤海国の国民もそのまま東丹国の国民となるという宣言をしたが、東丹国内では渤海人による反乱が続出していた。
この情報を日本は掴んでいた。ただし、醍醐天皇も、忠平も、東丹国を渤海の継承国家として承認することはなく、渤海国はまだ滅んでいないという体裁をとった。とは言え、渤海の抵抗勢力への支援は行なっていない。日本の軍事力にそこまでの能力はなかったからである。日本にできたのは、契丹への抵抗を断念し国外に逃れてくる渤海人を受け入れることと、契丹からの侵略に対処すべく日本海沿岸の警備を命じたことだけである。
この日本の行動に対する契丹からの抗議の姿勢はなかった。より正確に言えばそれどころではなかったと言う方が正しい。契丹建国の英雄である耶律阿保機が亡くなったからである。皇帝位が空白になったこと、また、渤海の遺民たちの抵抗運動の激しさから、東丹国王で契丹の皇太子でもあった耶律倍は旧渤海の捕虜たちを連れて契丹の首都である扶余城へ凱旋。しかし、皇帝位に就いたのは耶律阿保機の次男の耶律堯骨であった。ここに契丹を二分する一触即発の緊張が発生した。
契丹との関係はこれで時間稼ぎ可能と考えた醍醐天皇は、続いて、忠平に対し延喜式の公開を命令する。言を左右にして公開を渋っていた忠平であったが、およそ一〇ヶ月にも及ぶ督促の末に公開に踏み切らざるを得なくなり、延長五(九二七)年一二月二六日、延喜式が奏進された。
公開された延喜式を見た醍醐天皇は唖然とした。なるほど確かに完成はしている。しかし、精度が低すぎる。これまでの律令や格式の全てを補完する完全なる式であると大々的に公表されていたのに、いざ見てみると、使えなくはないものの、延喜式だけで全てが片づくというほどのものではなかった。
醍醐天皇は、公開した延喜式は不完全であると宣言し、時間をかけてでも完全なものとすることを命じた。と同時に、延喜式は公開するが、その使用は一時中断するともした。それまでは現在存在する格式で代行するようにとのことである。

延長六(九二八)年に入ると、渤海からの亡命が目に見えて減るようになってきた。これには二つの理由がある。
一つは、渤海の遺民が上京竜泉府を奪還し、東丹国や契丹の勢力の及ばない事実上の独立地帯とすることに成功したことが挙げられる。上京竜泉府の周辺では渤海の国号が復活し、契丹に抵抗する勢力として旧渤海の人たちを集めるようになっていた。日本に逃れてきた渤海人や北海道に渡った渤海人の中には、このニュースを聞きつけて再び海を渡って故国に帰る者も続出した。 
もう一つは東丹国の渤海懐柔政策である。東丹国は契丹の支配を感じさせない二重構造による統治を徹底した。使用言語も渤海語で通し、税の値上げもいっさいなし。契丹への反抗以外の自由は全て保証するというのが契丹の政策であった。それまで渤海の役人であった者のうち、希望する者はそのまま東丹の役人として採用されたし、事実上はともかく理論上は東丹と契丹は別の国であるということで、契丹人の東丹国の入国に制限が掛けられた。これにより、一般庶民が契丹人と接触する回数はかなり減った。
また、当初は上京竜泉府を首都とした東丹国であるが、上京竜泉府から撤退させられた後、遼東半島にある東平郡(現在の遼寧省遼陽)を東京遼陽城に改名し、東丹国の首都とした。契丹に帰順を誓った渤海人の多くはこのとき以後東京遼陽城に移り住むようになった。東京遼陽城は契丹本国から遠く、話される言葉も渤海語、文化も渤海であり、契丹とは違う独自の文化圏を築いた。
契丹にとっては、渤海侵略そのものが、いったい何のための行動であったのかと思わずにいられない愚策であった。渤海の税を期待してみれば渤海からの収奪どころか旧渤海地域への税の投入となる。東の国境の平和を期待してみれば渤海人の激しい抵抗により平和どころか契丹の支配地のどこよりも政情不安な地帯となっている。長期間かけた侵略が終わってみれば、侵略によって得られると考えられていた豊かさと平和の両方が、侵略によって失われたのである。

一方、首都を攻め落とされた新羅は滅亡が目前であり、新羅人たちは二つの選択肢を迫られるようになっていた。抵抗と逃亡である。抵抗を選んだ者は高麗や百済の前に倒れ、逃亡を選んだ者は高麗、百済、契丹、そして日本へと逃れようとした。
延長七(九二九)年一月一三日にはそうした新羅人に対する日本側の対応が記録に残っている。対馬に漂着した新羅人たちに対し、食料を与えた上で母国に帰還するよう命じたのである。
渤海からの亡命者は受け入れたのに新羅からの亡命者を受け入れないというのはダブルスタンダードではないかという抗議もあったが、そもそも新羅と渤海では事情が違う。
日本と新羅は五〇〇年以上もの長きに渡って対立した国同士という関係であったのに対し、渤海と日本は、渤海が建国されてから滅亡するまで一貫して同盟国であり続けた関係であった。
さらに、渤海からの亡命人の受け入れは過去にほとんど例がなく、ゆえに、日本人の一般庶民に渤海人との共生に対する懸念は無かったのに対し、新羅からの亡命者受け入れは歴史上何度もあったことであり、その亡命新羅人が日本国内で犯罪者と化し、反乱を起こしたことも一度や二度で済む話ではなかったことから、多くの日本人は新羅からの亡命者受け入れに拒否反応を示していたほどである。
その上、渤海からの亡命者に対しては、本州以南に住むなら日本人になること、これまで通りの生活をするなら北海道に行くことという命令を出せたし、渤海からの亡命者も、北海道への移住は生まれ育った故郷と似通った気候の土地への移住であり、特に不具合を感じなかったという事情がある。これに対し、新羅からの亡命者に対して、日本人にならないなら他の土地へ行けという命令は出せなかった。渤海人に対する北海道に相当する土地はないのだ。 
15
亡命新羅人を帰国させた直後、今度は百済からの支援要請が日本に届いた。これで二度目の救援要請である。
百済は昌泰三(九〇〇)年にかつての百済王国の復活を旗印に成立した国であり、現在では、かつての百済王国と区別するために「後百済」と呼ばれているが、当時は当然ながら「後」など付けずに単に「百済」と称しており、その歴史は古代百済王国からつながっていることを明言している。しかし、事実上はともかく名目上は、白村江の戦いで敗れた百済の王権は日本に亡命し、日本の天皇に仕える一貴族としての「百済王氏」として存在していた。百済を復活させた甄萱がその事情を知らないわけではない。それどころか、日本が百済王室を継続してくれていたおかげで百済の復活を宣言できているのである。甄萱は残忍な性質の男手はあったが、歴史観の欠けた無能な男ではなかった。
また、百済にとって日本は重要なファクターであった。日本との国交を樹立させ、かつての日本と百済の同盟関係を復活させることで高麗に対抗できると考えたのである。唐への朝貢に失敗した以上、日本以外に外交を構築できる相手がなかったと言えばそれまででもあるが、甄萱は日本に朝貢してきたのである。派遣した船は正式な大使の乗った船であり、その手順も当時の東アジアの礼儀に則ったものであった。
ところが日本側の回答は甄萱の予想を裏切るものであった。新羅からの亡命者と同様に扱ったのである。すなわち、食料を与えた上での国外退去を命じたのだ。これは使者を使者として認めず、ただの漂流者として扱ったということであり、国の体面をこれ以上なく傷つけるものであった。
日本からすれば甄萱は扱いづらい相手であった。百済が新羅を滅ぼすことは目前に迫っているが、朝鮮半島に統一国家を築くとは言いづらい。高麗の勢力の方が強いのだ。個々の戦闘では百済が高麗に勝っているのに、戦争全体で見ると高麗が百済の勢力を上回り、朝鮮半島の大部分を高麗が領土としているのである。百済は、うまくすれば朝鮮半島の南半分に勢力を築くぐらいはできるがそれは日本からの援助があり続ければという条件つきであり、日本からの援助があっても朝鮮半島に統一国家を築くのは難しかった。また、朝鮮半島南部を領有する国家を築けたとしても、日本にとってはメリットのある話ではなかった。より北に強大な敵が存在し、百済が日本との防衛線を担うのであれば援助に対するメリットもあるが、そのような状況はなかった。
また、甄萱は残忍で冷徹な男ではあったが、信頼できる男ではなかった。そして、百済はこの甄萱という個人の力量で国家を成り立たせていた。甄萱が王朝を築ければ百済は永続的な国家となれるが、それが失敗すれば百済は瓦解するのである。政治家の能力の一つである組織の永続性の構築についても、また人としての信頼についても、百済の甄萱より高麗の王建のほうが上である。大和時代や飛鳥時代の百済が日本の友好国であったのは事実にしても、甄萱の百済は国号以外につながりの持たない全く別の国であり、ここで百済に深入りすることは日本として得策ではなかった。
醍醐天皇はこのときすでに朝鮮半島に対する姿勢を決めていた。すなわち、高麗の朝鮮半島統一を前提とした姿勢である。滅亡寸前の新羅は放っておけばいいが、建国間もない百済もすぐに瓦解すると見越して相手にしない姿勢をとったのだ。建国間もない国が滅ぶことは、ついこの間まで中国を支配していた梁という前例があった。しかも、唐の統治を継承できた梁ですらすぐに滅んだ。そのような継承のない百済はもっと簡単に消滅すると見込んだのである。

また、朝廷の財源確保も醍醐天皇の前には厳しい現実としてのしかかっていた。時平が成功させた宗教法人への課税と大規模荘園の制限による財源確保も、忠平政権によって白紙に戻され、それが厳しい財政となってのしかかっていた。
ただ、朝廷の財源は厳しかったが、個々人の財政が厳しくなっていたわけではない。特に大規模荘園を持つ貴族や寺社は豊かな資産のもとで裕福な暮らしを送っていた。本音を言えばその資産に手をつけたかったのである。だが、その法的根拠はどこにもなかった。荘園を制限する法はなく、荘園を制限する法のほうが廃法になったのである。犯罪に対する責任をとらせることで貴族の位を奪いその資産を没収することは法的に可能だが、藤原北家独裁、そして、道真の怨霊を前面に掲げての消極的な姿勢は、貴族の犯罪を起こさせる気力まで失わせていた。
その一方で、庶民の生活は年々厳しくなっていた。特に地方からは武士団同士の争いによる戦乱の日常化と流民の増加、田畑の放棄、これらの結果による犯罪の増加のニュースが届いていた。届いていたが、その庶民を救う手段を醍醐天皇は持ち合わせていなかった。財政が許さないのだ。
この上、延長七(九二九)年という一年には天災も加わる。七月にゲリラ雷雨が頻発し、京都の都市機能は幾度となく麻痺し、その都度残り少ない国家財政の中から支援に当たらなければならなかったのである。貴族たちを支援にかり出そうとしても無駄であった。「それは道真の祟り」という理由づけはともかく「道真の祟りに逆らうとより大きな祟りがある」と言い訳した上で、自分の抱え込んでいる財産の消費を拒否するのだから。
醍醐天皇は仕方ないと言った感じで、伊勢国など六ヶ国の雑田三六一町あまりを朝廷直轄の田畑とし、その収穫を国家財政に組み込むとしたが、このような対処では焼け石に水であった。

延長七(九二九)年一二月二四日、醍醐天皇の頭痛の種をさらに増やす問題が起きた。
丹後国竹野浜(現・兵庫県豊岡市)に渤海使がやってきたのである。それも、大使はかつての渤海大使であった。これまでであれば同盟国からの使者として迎え入れるごく普通の使節であったが、契丹に滅ぼされた後となると話は変わる。
この渤海使は東丹国が送ってきた渤海使であった。
大使にかつての渤海大使を任命したのも、東丹国が渤海国の継承国家であると宣言するためであり、日本とのつながりを手に入れることで、旧渤海地域の統治を優位に進めようとしたのである。
ところが、この渤海大使が曲者であった。東丹国王からの国書を渡さず、渤海国の状況をまとめた書状を渡したのである。渤海国が契丹に侵略され、首都は一度占領されて数多くの市民が虐殺され、国王は拉致され行方不明となっている。渤海の遺民がかつての首都である上京竜泉府を中心に抵抗運動をしているので、日本もこの抵抗運動の援助をしてもらいたいとの書状を送ってきたのだ。
この書状を受け取った朝廷は意見が真っ二つに割れた。契丹の非道を責める者は多く、援軍の派兵を求める意見も挙がった。ただし、派遣するだけの軍事力はないとの意見で派兵の意見は消沈した。
それに、誰もが気づいていた。渤海国の復興は不可能であろうということである。今は契丹に抵抗しているが、軍事力の差が違いすぎる。上京竜泉府を中心とする小さな地域での抵抗勢力を維持させることはできても、契丹を西に追い返してかつての渤海国を復興することは出来ないというのが誰もが認めた意見であった。
上京竜泉府を中心とする抵抗勢力も、早々に瓦解して契丹に飲み込まれるであろう。しかし、幸いなことに契丹には海軍力がないことが判明した。海軍力がないからかつての渤海の遺産を利用するのであり、自前の海軍力があればとっくに契丹独自の使者派遣としているが、それがないということは、海を隔てている日本が契丹との関係を遠距離に置くこと可能ということでもあった。
醍醐天皇の下した結論は、援軍の派遣は不可。渤海国の滅亡は事実であるとして認めるが、契丹が日本の同盟国である渤海を侵略し、数多くの渤海人を殺戮したことに対する正式な抗議をした上で、契丹との国交断絶を宣言。以後、一切の使節受け入れを拒否するとするものであった。これは契丹を怒らせる日本の返答であったが、海軍力を持たない契丹に海の向こうの日本に対する侵略は出来ない話であった。

延長八(九三〇)年、醍醐天皇の決断が正しかったことが判明する。
東丹国王耶律倍が唐の首都である開封に亡命。契丹皇帝耶律堯骨による旧渤海領地の直接統治が始まったのである。直接統治と書けばまだ格好は付くが、実際のところは契丹の旧渤海領地に対する大規模攻撃であり、渤海の遺民たちは絶望的な抵抗を見せた後、生き残った者は亡命するか奴隷となって売り飛ばされるかという悲劇が待っていた。その後も名目上は東丹国が存在したが、もはや渤海国をイメージさせる地域ではなくなった。
戦闘では高麗王の王建に勝っていた百済王甄萱も、この年になると敗北を重ねるようになる。得意としていた戦闘で高麗軍に敗れたのである。それまでは戦闘以外の外交や民政で後れをとることで、戦闘で勝っても戦争に負けていた百済であったが、この年を契機に戦闘でも戦争でも負けるようになったのである。その上、甄萱は甄氏を王統とする世襲制の王朝を築こうと画策していたが、長男の甄神剣、次男の甄良剣、三男の甄龍剣の三人が父とそりが合わず、四男の甄金剛を王位継承者とするなど、宮廷内部の統制に失敗していた。
渤海、新羅、そして百済と、戦闘の末に国が滅びるのを目の当たりにしている醍醐天皇は、その余波が日本国内に及ばないことを念頭に置いた外交を展開し、それは成功した。
ところが、国内統治を見ると大問題が待っていた。
道真の怨霊の噂である。より正確に言えば、道真の怨霊を名目に掲げての政務ボイコットである。
醍醐天皇ただ一人が宮中で奮闘し、左大臣藤原忠平をはじめとする貴族たちは最低限の政務しか行わないという日常が展開されていた。醍醐天皇からのトップダウンだから政治そのものはスピーディーに展開されるが、一個人にかかる負担が大きすぎる。本来ならば左右の大臣や、大納言、中納言、参議といった貴族たちが政務のサポートをするべきなのに、道真の怨霊を前面に掲げて何もせずにいる。それでいて、私財を増やすことには熱心になっている。道真の怨霊は何とも都合良く解釈されるものであった。
その道真の怨霊の噂は民衆の間にも広まっていて、風邪の流行も、地震も、雷も、雨が降らないことでさえも道真の怨霊のせいになっており、その怨霊が晴れない理由はどこかにあるのだと考える者は多かった。ただし、それが誰なのかを特定できた者はいなかった。特定の個人名の挙がらぬ、漠然としたイメージでの「貴族の誰か」というのが、このときの民衆に広まっていた道真の怨霊の犯人像であった。 
16
その雨が降らないことへの対策を開いていた延長八(九三〇)年六月二六日、道真の怨霊の噂がピークを迎える事件が起こった。
干害に対する雨乞を行うべきか否かについての会議を清涼殿で開催するという連絡はこの前日までには行き届いており、貴族たちは清涼殿に集っていた。通常、貴族の政務というのは午前中に集中しているので、こうした臨時会議は午後に開催される。
ところが、この日の午後、現在の時制に直すと午後一時頃より愛宕山上空から黒雲が広がり、平安京を真っ暗にしただけでなく、それまでの干害が嘘であるかのようなゲリラ雷雨となった。
ゲリラ雷雨は京都市内に激しい雨を降らせただけでなく、各地に雷を落とした。その落雷した場所がよりによって清涼殿の南西にある第一柱。その衝撃は清涼殿にいた貴族や役人を巻き込み、大納言で民部卿の藤原清貫が即死。さらに藤原清貫の衣服が焼けて周囲に飛び火し、右中弁で内蔵頭の平希世も炎に包まれた。平希世の炎は何とか鎮火したものの顔は大ヤケドを負っており身動きできない状態となっていた。清貫の遺体は陽明門から運び出され、重傷を負った希世も修明門から車に乗せられて秘かに外に運び出されたが、車中で死亡が確認された。
雷は清涼殿の隣にある紫宸殿にも落ち、右兵衛佐美努忠包が烏帽子と髪を、紀蔭連が腹を、安曇宗仁が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も二名死亡。清涼殿にいて難を逃れた貴族や役人は大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難した。
天皇がいる清涼殿に落雷しただけでなく、最低でも七名が亡くなるという惨事に京都市民は恐怖に陥り、道真の呪いはもはや取り返しのつかない大問題になっていると誰もが考えるようになった。そして、最初に亡くなった藤原清貫は、道真が太宰府にいたときに太宰府に派遣されたことがあったのだが、道真の要請による対新羅の警備のサポートであったはずの太宰府派遣が、時平の命令による道真の監視のための太宰府派遣になり、道真が亡くなったときにはもう京都に戻っていたのに、道真を殺したのは藤原清貫だということにされた。
そして、この恐懼は醍醐天皇へも飛び火した。
道真を追放したのは醍醐天皇であり、醍醐天皇が帝位にいる限り道真の呪いは終わらないという噂がまことしやかに話されるようになり、道真は雷を操る天神になったのだという噂が広まった。

清涼殿への落雷は醍醐天皇の心中を穏やかならざるものにさせた。何の前触れもなく目の前で二人が即死し、隣で五人が亡くなったのである。丁重な葬儀を命じるとともに、京都市中に広まる動揺を抑えるために道真の怨念の全てを藤原清貫に押しつけ、藤原清貫が亡くなったことで怨念は全て晴らされたという公式声明を出すこととなった。
ところが、まさにその公式声明を出したタイミングで京都市中に疫病が広まったのである。どのような疫病かは記録に残っていないが、ゲリラ雷雨が水害を招き、水害が収まったと同時に疫病が流行るというのはよくある図式である。ただ、よくある図式であってもタイミングが最悪すぎた。ただでさえ道真の怨念で動揺しているというのに、その最中に疫病が広まったのである。この疫病もまた怨念であるという考えが広まるのに時間はかからなかった。
その上、醍醐天皇がその疫病に罹かったのである。醍醐天皇は床に倒れて身動きできなくなり、命の危険さえ噂されるようになった。それでもおよそ二ヶ月は病床にあって政務を遂行したのである。ただし、責任感あふれるその行為も、醍醐天皇の体調には悪影響しかもたらさなかった。
延長八(九三〇)年九月二二日、醍醐天皇は退位を表明。わずか七歳の皇太子寛明親王への譲位を発表し、新天皇の伯父である藤原忠平の摂政就任を命じた。朱雀天皇の在位はこの日より始まり、藤原基経の死去から三九年を経て摂関政治の復活が決まった。
それから七日を経た延長八(九三〇)年九月二九日、醍醐上皇崩御。享年四六歳。
京都市民は道真の怨霊がこれで鎮まると考えた。だが、醍醐天皇の死はこれから始まる地獄の日常のスタートでもあった。

朱雀天皇の治世と藤原忠平の生涯を追いかけるとき、絶対に欠かすことの出来ない人物が一人いる。
より正確に言えば、その人の時代であることを説明するとき、京都で一番勢力を持っていた貴族の名が藤原忠平であり、そのときの天皇が朱雀天皇であるという説明の成されることが普通である。
その人物の名は、平将門。
多くの歴史書では道真の死の後すぐに平将門を描く。もしくは、道真の怨念を描いてから平将門を描く。つまり、この二つの事件を連続して描くことが多いが、今回の作品ではそのようなスタンスをとっていない。それは、この二つの事件が連続していないからである。何しろ道真の死からここまで四半世紀もの時間差があるのだ。
前作「左大臣時平」で菅原道真の死から五年後の時平の死までを扱い、今回の作品では時平の死後の日本を描いている。その四半世紀も描いているため、連続させたくてもできないのが実状である。
その四半世紀の間に出てくる平将門の記録は極めて少ない。延喜一八(九一八)年から一〇年間、藤原忠平のもとに仕える武人であったことが記録に残っているが、その一〇年間は将門が何歳から何歳までの一〇年間のことであったのかの記録が残っていないのである。
将門の記録が登場するようになるのは延長八(九三〇)年になってからで、この年、将門は忠平の元を去って故郷の下総に帰郷したとある。忠平のボディーガードをしていた頃、将門は忠平に対して幾度か朝廷のオフィシャルな武人としての地位を求めたようであるが、忠平からの返答は無かった。藤原北家独占の例を見ても忠平は人事に巧みな人物であるとは言い切れず、このときの将門に対する処遇が将門の反乱の遠因になったとする説もある。
忠平の元を去ったのは中央での官職を得られなかったからでもあるが、年齢的なものもあると推測されている。この時代、地方の貴族の子弟が京都の貴族に仕える武士となるのは一五歳頃からで、三〇歳になるかどうかという年齢になると退職金をもらって故郷に帰るのが通例であった。将門は桓武天皇の五世孫という血筋であるが、同様の血筋の貴族の子弟は珍しくない。
将門が一般的な武士と同様に一〇代後半から二〇代にかけての日々を忠平に仕える武士として過ごしたとすると、将門の生年を延喜三(九〇三)年とする説はかなり有力な説となる。とすると、このときの将門は二七歳となり、中央に上った貴族の子弟が地方に帰郷する一般的な年齢となる。なお、延喜三(九〇三)年生まれとするのは将門が道真の生まれ変わりであることを宣伝するための意図的な計算であるとし、実際には元慶八(八八四)年頃ではないかとする説もある。ただ、そうすると将門はこの時点で四六歳となってしまい、それだと年齢が高すぎてしまう。ここはやはり、延喜三(九〇三)年生まれかどうかはともかく、延長八(九三〇)年時点の平将門は三〇歳になるかならないかという年齢であったと考えるべきであろう。
下総に帰った翌年である延長九(九三一)年にはすでに、将門は「女論」によって伯父である平国香や平良兼と不和になったとされている。将門の生涯を記した『将門記』には「女論」とあるだけでその詳細は伝わってないが、他の資料によると、前常陸大掾であり常陸に広大な荘園を所有していた源護(みなもとのまもる)の娘、もしくは良兼の娘を巡る争いであったと考えられている。
源護には三人の娘があり、それぞれ将門の伯父である平国香、同じく将門の伯父の平良兼、将門の叔父の良正に嫁いでいるのは記録に残っているが、その三人姉妹のうち誰か一人を将門の妻とすることを願っていたのに、三人とも自分の妻に出来なかったという争いではないかというのが、現在考えられている最も有力な平将門の「女論」である。三人姉妹の誰でもいいというのはいい加減極まりない話と思われるが、それは恋愛結婚を前提と考えているからいい加減に感じるのであって、源護の持つ所領の相続を考えるのであれば、三人姉妹の誰かと結婚することで所領は獲得できるのであり、そこに恋愛の介在する余地はない。そして、この、所領の獲得を望みながら所領を獲得できなかったことが原因となって将門は父の兄弟たちと対立したと考えられている。
将門の父である平良将は高望王の三男であり、長男の平国香や次男の平良兼を差し置いて従四位下鎮守府将軍となるなど、一族の中で最も出世していた。下総国で大規模な農園の開拓も行い荘園を獲得するなど所領を増やしていたが、将門が中央にいる間にその所領を国香や良兼らに奪われるようになっていた。一説によると将門が京都にいる間に良将は亡くなったという。長子相伝が確立されていないこの時代、所領をはじめとする死者の財産は息子ではなく兄弟の手に渡ることは珍しくない。また、忠平は故郷に帰る将門に対し、左大臣として相応しいだけの退職金を与えているのも、父の所領の相続ではなく、新たな所領の開墾を意図してのものである。
しかし、新たな所領を開拓するより、すでに存在する所領を相続するほうがより容易である。
将門にしてみれば、父が労力をつぎ込んで開拓した荘園を伯父たちに奪われたのみならず、新たな所領を手にするチャンスも伯父たちに奪われたのである。これは簡単に飲み下せる現状ではなかった。
平国香や平良兼が将門のこの感情を知らないわけはなかった。そのため、京都から下総に戻る将門を途中で迎え撃つという事件も起こった。このときは将門と、将門の叔父の一人である平良文が協力して対抗することで、将門は伯父二人を打倒し、良兼は人質として娘を将門に差し出した。将門は女系による領地相続を確認した後に良兼の娘を妻とした。これは、良兼の立場からすれば、娘を人質に取られた上に自分の所領を将門に奪われるということでもある。 
17
中央に目を向けると、忠平の統治能力の低さが如実に現れていた。
醍醐天皇の退位と同時に摂政となった忠平は、理論上、天皇と同じだけの大権を手にしているはずである。だから、醍醐天皇の政務を継承すれば少なくとも安定は出来るはずであった。そして、政権の安定ということならば忠平は実績もあった。醍醐天皇の治世の最盛期には忠平も左大臣として辣腕を振るっていたし、忠平は何と言っても現実主義を前面に掲げる良房と基経の後継者なのだから、現在の日本に必要な施策を実施してくれるはずという期待があった。
ところが、忠平は亡き醍醐天皇のその期待を裏切ってしまったのである。
政治家の評価は庶民生活の良し悪しで決まるが、その中の指標の一つとなるのが、治安。襲われる心配なく街中を歩けるというのは当然のことであり、それができない政治家は政治家失格であると言うしかない。そして、忠平はその指標において政治家失格とするしかないのだ。
京都に強盗集団が多発したのも、前年の落雷をピークとする道真の怨霊の噂によるパニックというのは言い訳にしかならない。生活に対する不満と未来に対する不安、そして、失業という現実が合わさって治安の悪化を生んでいるのに、治安の悪化に対する対処が不充分だったのがこのときの忠平であった。
治安を良くするには二つの方法を実践するしかない。未来に安心を持てる職業を用意して失業を減らすことと、犯罪者を徹底的に処罰することの二つである。延長九(九三一)年二月八日、近衛府、衛門府、検非違使らに夜警させるよう命じたのは、二つの方法のうちの後者であるから、これはごく普通の対策と言える。
一方、前者に対する政策は全くなかった。これについては現在の日本を考えてもらえば理解できるであろう。コンクリートから人へとか、グローバリゼーションとか、いろいろな言葉を掲げてはいるが、結局は勤労者を減らし、勤労者一人当たりの作業時間を増やし、給与は据え置くか以前より下がっているという現実があるのに、どうやって将来への安心を感じられようか。その上、新しく仕事を興そうにも失敗する可能性は極めて高く、仕事を興して失敗したら、莫大な負債を抱えてホームレス生活になるという現実がある。貧困ゆえに仕事を興す初期費用も用意できないし、成功したところで待っているのは世界一の利率である法人税。働いても働いても税に持って行かれるだけだというのでは意欲など湧くわけがない。挑戦を消極的にさせる上に敗者復活の機会を用意しないのだから、これでは経済がますます消極化し、失業率は悪化し、仕事を手に入れたとしてもそれは過労死と隣り合わせの仕事になってしまう。
この時代もそれは同じだった。この時代の職業と言えば何といっても農地であるが、農地の新規開拓は進まず、進んだとしても治安の悪化により農村に安心して住めなくなっているのだから、人災による国の基幹産業の衰退と言うしかない。基幹産業の衰退を呼んだのは天候不順もあるから必ずしも人災だけが原因であるとは言い切れないが、労働に対する収穫量が乏しく、農村に残ったとしても生活できないという社会になってしまっているのは充分に人災である。
この人災があるから生きるために都市に人が流れてくるのだが、都市に行ってもそんなに職業があるわけではない。貨幣経済は破綻し、コメや布を中心とする物々交換の経済が当たり前となっているのだから、手元にコメも布もない以上、何か仕事を新しく始めようにもスタートの段階で初期投資費用がないという現実がある。そして、成功したらしたで膨大な税が課せられるようになってしまっていた。
今が豊かであればこれからも豊かでいられるが、豊かでない者が豊かになるチャンスはほとんどない。このような社会で豊かになっているのは、現時点で税から逃れられる荘園を持つ貴族や寺社とその荘園で働く農民だけで、それ以外の多くの日本人は、未来を手にするなら過労死を、過労死を逃れるなら失業を運命として受け入れなくてはならなかった。
そのどちらも受け入れられないことへの結果が治安の悪化だったのだ。

治安の悪化に対処するべく、忠平は、延長九(九三一)年四月二六日、承平に改元すると宣言した。また、五月一一日には常平所の穀物を売却することを定め、京都市内に穀物が安値で供給された。
だが、そのどちらも問題の解決にはつながらなかった。改元は何の効果ももたらさなかったし、穀物の安値の供給も、供給が尽きたらそこで終わり。終わった後に待っているのは、貧しい者でも穀物を買えたには買えたが、豊かな者はもっと穀物を買うことができ、終わってみれば貧富の差がさらに拡大したという現実だけである。
忠平はこのあたりを理解していたのかどうか怪しい。
良房は大規模な農園を自費で開拓し失業者を救済した。
基経は養父のこの政策を受け継いだだけでなく、イベントを頻繁に開催することで人為的な好景気を生んでいた。
忠平にはこの両方がない。すでにある荘園を維持することには苦心するが、新たな荘園を開墾することはなく、失業者の救済もなかった。すでにあるイベントは例年通りに開催するが、新たなイベントを創造することはなく、人為的な好景気も生み出さなかった。
全ては前例なのである。新しく何かを始めることに恐怖を感じてでもいるのか、忠平の生涯に新たな施策はない。新たな問題が起こっても既存の制度や既存の法で対処しようとしている。これは紛れもなく律令派の思考であり、律令派の行動である。だが、忠平は反律令を掲げた良房や基経の政策を継承していると考えていたし、現実主義を打ち出した時平の政策を、律令的ゆえに良房や基経の政策から逸脱していると考えて批判したのである。
これは何たる矛盾であることか。
そして、何たる不幸であることか。
この時代の日本人にとっても、忠平個人にとっても。
忠平が律令派の一員として、何であれ律令に従うのであれば論理矛盾は起きなかったのに、何であれ律令に従おうとする律令派の貴族を批判しながら、自分は前例に固執し、新たな施策を打とうとしなかったのである。
延長九=承平元(九三一)年に起こった大規模な治安悪化も、突き詰めれば忠平の無策が原因だとするしかない。その芽は醍醐天皇の治世にはすでに芽生えていたというのは言い訳にしかならない。芽生えていても摘み取ってしまえば犯罪はなくなるのに、忠平は摘み取ろうとする政策を打っていない。失業を減らそうともしていないし、貧困を無くそうともしていない。ただ、現状を維持し、現状の豊かさを手放そうとしない人に手を着けることなく、失業者を切り捨てて貧困を増やしただけである。
豊かな者が貧しくなることが少ない代わりに、貧しい者が豊かになることも少ない社会は、明らかに異常である。だが、これは不満を抑えられる。豊かな者は財産を守れるのだから批判しない。貧しい者は誰もが豊かになれないのだから嫉妬しようがない。
当時の人は忠平を悪く言わなかったという記録は嘘ではない。だが、現状に満足していたかと言えばその答えは断じて否である。
承平元(九三一)年七月一九日、宇多法皇没。享年六五歳。宇多法皇が息子の死を、そして、現実世界の混乱をどのように眺めていたのかを伝える史料はない。道真の死後は政治の表舞台から距離を置くようになり、道真の怨霊の噂にも何ら声明を出すことなく、ただただ、仏教に自らの救いを求め、何ら手をさしのべることなく寺院に籠もっていただけである。

この承平元(九三一)年という年は、一二月二日、群盗横行に対処するべく、さらなる警護の増強を命じたという記録を持って終わる。
ただ、この群盗はそれまでのものとは明らかに規模が違っていた。
京都の外から群を成して市中に押し寄せただけでなく、亡き藤原菅根の邸宅に押し入って立てこもり、検非違使や六衛府の武官たちと互角の市街戦を演じたのである。邸宅からは矢が雨のように降りかかり、死傷者も数多く現れた。籠城は丸一日続き、最後は群盗が武器を投げ出して降伏したが、京都市民は、これはむしろ幸運なのだと考えられた。
なぜなら、群盗のほうが勝ってしまうことが珍しくなくなってしまっていたのだから。
いったい群盗は何人いるのかわからない。捕まえても捕まえても次から次へ現れる。京都の外からやってくることも多いということで、山崎などの京都の手前の地点の警備を強化してもみたが、それでもいつの間にか京都に奴らはやってきてしまうのだ。そして、暴れ回って、盗み回る。京都の路上を強盗が風を切って歩くのが当たり前になり、取り締まらねばならない側は我が身を守るのに精一杯で市民を守ることもできなくなってしまった。その上、どんな重い罪を犯しても死刑になることはない。牢獄に閉じこめるか、はるか遠くに追放するかしか処罰がなくなり、牢獄に閉じこめられた者はいつの間にか脱獄し、遠くへ追放された者は追放先を抜け出していつの間にか京都に戻っていた。
たしかに犯罪者を捕らえよという命令は下った。だが、命令が下ったことと犯罪者を捕らえることができるかどうかは別問題であった。また、犯罪者を捕らえることに成功しても、犯罪者に刑罰を下せるだけの社会システムは出来ていなかった。
年が変われば凶事もリセットされると考える人は多いし、現実の悪夢も年が変われば無かったことになると考える人も多い。そんなささやかな希望を持って、多くの人は承平元(九三一)年という年を諦め、新年を待ち望んだ。承平元(九三一)年の終わりが地獄の日々の終わりであると考えたのだ。
しかし、地獄はまだ始まったばかりであることを気づいてはいなかった。

承平二(九三二)年、ついにその知らせが届いた。
海賊が瀬戸内海を荒らし回っているという知らせである。規模の大小はあれど海賊自体は前から存在しているから、海賊の知らせが京都に届くことは珍しくもなく、当初はいつも通りの知らせだと考えた。
だが、すぐに、今回の知らせはこれまでの知らせと完全に異なることを悟らなければならなくなった。
海賊が瀬戸内海を制圧してしまい、京都と九州を結ぶ連絡網が遮断されたのである。連絡網と言っても古代ローマ帝国のように街道を網の目のように張り巡らせているわけではなく、メインとなるのは瀬戸内海と山陽道の二つで、補佐として山陰道と四国を横断する南海道があるだけだが、メインとなる瀬戸内海と山陽道の両方が海賊の横行で機能しなくなってしまったのである。
忠平は海賊を捕らえるよう命令を出した。
この命令を受けた一人が藤原純友である。純友は、藤原基経の兄の藤原遠経の子である藤原良範の三男だから藤原北家の一員でもあり、藤原北家を優遇する忠平の人事政策に乗って出世していなければならない人間なのだが、どういうわけか記録には全く姿を見せていない。生年には様々な説があるため確定していないが、もっとも有力である寛平五(八九三)年の生まれとする説に従うと、承平二(九三二)年時点ではもうすぐ四〇歳になろうかという年齢になっている。
藤原北家の人間でありながら四〇歳になるまで何の記録も残していないのは異常事態である。そのため、藤原基経の兄の孫であるという主張は箔を付けるための捏造であり、実像を表していないのではないかとする説まである。
だが、こうも考えられる。
出来が悪かったのではないか、と。
藤原北家の人間だという理由だけで無条件に高い地位が与えられるわけではない。藤原北家のうち、藤原家専用の教育機関である勧学院での成績が優秀な者だけが大臣への進む道を与えられ、そうでない者は自己の運命によらねばならない。確かに他の貴族よりは優位なポジションからスタートできるが、そこから先は実力になのである。
四〇歳になってやっと従五位下の位階が与えられて海賊鎮圧のために伊予国へ派遣されたというのだから、貴族としての藤原純友の能力も知れてしまう。後の歴史を見れば、この人には確かにリーダーシップならばあったが、教養とか、政治家としての手腕とか、統治者として必要な素養とかが欠けている。言い方は悪いが、もっともケンカが強いためギャング集団のボスに君臨できているものの、暴れ回って近隣住民に迷惑をかけるしか脳のないチンピラと同じだったのだ。
瀬戸内海に派遣されたのも、少なくともケンカは強いのだから殴り合いなら役に立つというだけのことで、貴族としての使命感などは二の次とするしかない。
忠平にしてみれば出来の悪い親戚を都合良く追い出すことに成功したというところだが、この判断は最低最悪の結果を生んでしまった。 
18
最悪の結果を生んだのは忠平の親戚に対する処遇だけではなかった。この年、再び伝染病が猛威を振るい始めたのである。
承平二(九三二)年の四月より伝染病が大流行し、多くの市民が病に倒れ、命を失った。そしてこれもまた道真の呪いだという噂が広まった。
治安の悪化、海賊の跋扈、天候不順、失業の増大、貧富の差の拡大、再チャレンジのない社会とただでさえ未来を絶望させる状況であるところに加わった伝染病の流行は、未来への希望をますます無くすのに役立つだけだった。
医学水準が現在と比べものにならないこの時代では伝染病の流行に対処できる手段だってたかが知れているが、それでも統治者が未来への希望を抱かせる政策を打てば市民の動揺はどうにかなる。それなのに、忠平はこの状況でも全くの無策であった。忠平の成した政策と言えば、自分を従一位に昇格させたことと、従一位にして摂政であり左大臣である者、すなわち忠平自身は牛車に乗ったまま内裏に入ることが許されるという特権を作っただけであった。
伝染病の猛威は季節が変わってもなお続き、八月四日、伝染病は宮中にも押し入って、右大臣藤原定方の命を奪った。これまでの功績を評価するとして亡き右大臣に従一位を贈ったが、それが景気を良くするわけでも、治安を回復するわけでもなかった。

治安の悪化は年が変わっても収束することなく、承平三(九三三)年一月二三日、忠平は京都の警備体制の再構築を命じた。再構築と言えば聞こえはいいのだが、一人当たりの勤務時間と管轄を増やすと同時に定期的に割り振られている休暇を減らしたのである。その上、給与はそのまま据え置かれ、出世も極めて数少ない例外しか見られなかった一方で、勤務態度不良を理由に降格される武官が大量に発生した。
インセンティブもなく、バックアップもなく、ただただ働けと命じる忠平の姿勢にやる気を失う武官が続出し、再構築したはずの治安維持体制が早々に破綻した。
こんな命令を出した理由は単純で、国家財政の破綻。税収が需要に全く足らないのだ。今と違って国家財政の赤字を国際で充填するという考えはないから、税収だけが国家財政である。だけど治安悪化の対策は欠かせないから、いまの人員に無茶をさせるしか出来ない。今もよく見られる最悪の人事政策である。
忠平の立場に立てば、予算が限られている以上、今の状況で治安を回復させなければならないとなるのだろうが、実際に受け持つ立場にとってそれは、理屈として受け入れることは出来ても、感情として受け入れることなど出来ないことだった。懸命に働いても全く評価されず、一度の懸命な努力が前例となってノルマ化され、全力疾走を続けさせられているのは理屈でどうこうなる話ではないのだ。
この予算不足に眉をひそめた女性が一人いた。忠平の五歳下の妹で、醍醐天皇の妻でもあった藤原穏子(ふじわらのやすこ)である。彼女は皇太后として得ている給与の四分の一の返上を申し出た。皇太后である自分が給与の返上を申し出れば兄をはじめとする貴族たちも給与返上を申し出て国家財政が多少なりとも改善されるのではないかとの思いがあったのである。
だが、妹の思いに兄は応えなかった。国家財政の緊迫も、その結果である治安の悪化もそのままにしておきながら、自分の財産を減らそうとは全く考えなかったのである。荘園は相変わらず安泰で、閉ざされた世界を形成していた。荘園の持ち主である貴族たちも豊かな暮らしを維持しており、その豊かさは増やすものであって削るものではなかった。穏子が期待を寄せたもう一人の兄である仲平も、前年に亡くなった藤原定方の後を受けて右大臣になり、右大臣に合わせた待遇と報酬を求めた。
この苦境にあっても、富める者は誰一人として、荘園の外に置かれている人たちを助け出そうとする意欲を見せなかったのだ。

地方から、特に瀬戸内海沿岸の諸国から、海賊が暴れ回り生活が破壊されているという悲痛な叫びが届いていたが、朝廷は、神頼みと、海賊拿捕の命令だけをして、神頼みのための予算も、海賊拿捕のための予算も割かなかった。
特にやっかいなのは、瀬戸内の海賊が新羅の海賊の残党と手を結んでいることであった。操船術に長けた新羅人は、攻め込まれる側にとってはやっかいな海賊として手に負えない存在だが、暴れ回る側に立つと頼れる味方となる。その上、新羅人の多くは故郷を失っている。新羅はもはや風前の灯火であり、故郷に戻ってもその土地は別の国の領地になってしまっている以上、帰るべき場所などない。その彼らの居場所となったのが瀬戸内海の海賊だった。
ひどいケースになると、海賊集団が新羅人のみから構成されるというケースまで発生した。一〇〇年間に渡って日本への侵略を試みては失敗し続けた新羅が、皮肉なことに、国家滅亡の最期の瞬間に日本へ侵入することに成功したのだ。
承平四(九三四)年五月九日には、山陽道、南海道の諸国に対し、海賊が平定するように神に祈れという命令が出された。祈願のための予算は各国の負担であり、京都からは出ていない。
承平四(九三四)年七月二六日には、海賊を捕らえるために在原相安(ありはらのすけやす)に武士を率いさせて瀬戸内海に行くよう命令が下ったが、そのための国からの予算はゼロではないにしても乏しいものであり、在原相安は軍勢のためにかなりの自己負担を強いられている。
既に述べたように朝廷の財政はとっくに底をついていた。何しろ貴族や役人に与えられる給与まで目減りしてきていたのだ。その代わり、貴族や役人が既に手にしている資産については、何ら手を着けられることなく保護されている。
給与の目減りの仕組みは巧妙であるが単純な方法でもあった。新たな採用を削り、出世を抑えたのである。これだと、既に地位を掴んでいる者は現状維持が保証されるし、医学の発達している時代ではないからある程度の年齢になると自然死が多くなる。よって、時とともに給与を受け取る立場の者が減り、結果として人件費の抑制となる。
だが、これを喜ぶ者がいるだろうか。努力しても、結果を出しても、評価は良くて現状維持で、そうでなければ下がるだけ。役人となり貴族となるための努力をどれだけこなしても、貴族になる道はおろか役人になる道が閉ざされる始末である。
税の支出を見直すときに公務員の人件費を減らせというのはよく言われる主張であるが、その主張を実現するために公務員の人件費総額を削ると、待っているのは公務員になることを目指しながら公務員になれなかった高学歴失業者と、働いても働いても給与が上がらない末端の公務員、そして、公務員と同じ仕事をしながらパートタイムジョブの契約しかできない身分も給与も不安定なワーキングプア、そうした人々の増加であり、主張が本来求めていたこと、すなわち、ろくに仕事もしていないのに高い給与を貰っている恵まれた公務員の削減となることは少ない。
それでも公務員の人件費を減らすという主張を実現させたというのならば嘘ではないのである。忠平が実行したのは今の日本で起こっているのと同じことであり、忠平も、今の日本の都道府県知事や市町村長も、公務員の人件費削減という目的ならば達成したのだ。ただし、それは最悪の結果を伴って。
恵まれた者だけが恵まれた暮らしを過ごす。そうでない者は恵まれた者となれない。これで未来に希望が生まれ、治安が良くなったとすればそのほうがおかしい。忠平だってそこまで愚かではない。だが、忠平の立場で言えば「国の予算が底をついているという現実がある以上、仕方のないことではないか」となる。
そう、全ては「仕方のないこと」なのだ。「あれもしなければならない」「これもしなければならない」のはわかっているが、「だけど予算が残ってない」という現実があるのだから、「仕方がない」と、口にする。
しかし、「仕方がない」という言葉は政治家が絶対に口にしてはならない言葉でもあるのだ。仕方がないからと自己が背負わねばならない責任を放棄し、自己弁護を優先して現実の困難を放っておくようでは政治家失格と言うしかない。なぜなら、政治というのは、現在起こっている問題を力ずくで解決することなのだから。だから政治家にはそれだけの権力が与えられているのだし、庶民は力ずくで問題を解決させるために税を払っている。それを、「仕方がない」という口上で逃げるのは、「自分は能力が低いから現状では問題を解決できない」と言うのと同じである。これではわざわざ税を払ってやる意味などないし、税を受け取る資格もない。
このときの忠平は明らかに政治家失格であった。

確かにこのときの日本は、並の政治家であれば「仕方がない」で逃げだしたくなる状況が続いていた。
陸奥国分寺や東大寺では落雷による火災が発生し、伝染病はなおも続き、治安は悪化して田畑は放棄され、海賊は瀬戸内海を荒らし回っている。
国外に目を向ければ、旧渤海の領域では契丹による大量殺戮により多くの渤海人が殺され、朝鮮半島では高麗が百済の領域に進行し、百済北部の三〇城を占領して数多くの百済人が難民となった。
また、滅亡寸前の新羅から逃れてきた者が瀬戸内海の海賊に加わり日本国内で暴れ回っている。
国の内側も外側も滅茶苦茶な状況になってしまっているというのがこのときの京都の貴族たちの心情であろう。「少し前までは安定と平和があったのに、今は動乱の日常が続いている。自分たちは何と不幸な時代に生きているのか」と。それはあくまでも自分が時代の被害者であると考え、与えられた権力を生かそうとしない受け身の姿勢であった。
承平四(九三四)年一二月に、瀬戸内海の海賊が伊予国喜多郡の不動穀三〇〇〇石あまりを奪うという知らせを聞き、その海賊の首謀者がかつて忠平の命令によって瀬戸内海に派遣した藤原純友であると知ったときも、貴族たちは世の不幸を嘆くだけで何もしなかった。
ちなみに、後のかな文学のスタートとして位置づけられる紀貫之の「土佐日記」であるが、この作品は承平四(九三四)年一二月二一日をスタートとしており、紀貫之は可能な限り瀬戸内海を避ける道程を選んでいることが見てとれる。土佐国から阿波国へ向かうルートも可能な限り瀬戸内海から遠くなるように行動し、四国から本州へと向かうとき、通常ならば船で一気に難波津(現在の大阪港)へと向かうのに、紀貫之は淡路島の南端に上陸し、可能な限り陸路を選んで、海の上が最短距離となるようなルートを選んだのち、和泉国へ上陸している。土佐から京都への帰還の日程のうち、海の上にいたと考えられるのはわずか二日だけという当時としては異例なルートであったのも、海の上の海賊を恐れたからであろう。
一二月二一日に土佐国府を出発した紀貫之が京都に戻ってきたのは承平五(九三五)年二月一六日のこと。およそ二ヶ月間の移動距離というのも異例である。いくら交通が発達していないこの時代でも、土佐から京都に移動するには二〇日もあれば充分であったにも関わらずその三倍近い日数を要しているのは、最短時間を選んだ場合の身の危険を考えてのことであった。そしてそれは、紀貫之一人だけの特別な選択ではなく、この時代のごく一般的な考えとなってしまっていた。貴族の移動ですら安全を保障できない、いや、貴族であるがゆえに安全を保障できない、そんな治安の悪い日常になってしまったのである。
そしてこの承平五(九三五)年二月というのが、日本国中に走る激震のスタートとなる月でもあったのだ。 
19
京都にはまだ情報が届いていなかったが、承平五(九三五)年二月四日、後に「平将門の乱」とも「承平・天慶の乱」とも称されることとなる内乱が始まったのである。
記録によればその日、源扶、源隆、源繁の三兄弟が常陸国野本に陣を敷いて将門を待ち伏せ、合戦となったとある。合戦となるぐらいだから、手ぶらで歩いていたところに襲いかかるような光景ではなかったであろう。
戦闘の状況について、将門側の記録は「望んでいた戦闘ではなかったが、前後とも囲まれ身動きできない状態になってしまい、やむを得ず戦闘となった。神の加護があったために我々の弓矢は風に恵まれて敵陣に向かい予想通りに矢が命中した。激しい戦闘となったが三兄弟は敗れた」と残している。
一方、三兄弟側の記録はより凄惨である。
「常陸国の野本、石田、大串、取木などの地域にあった三兄弟の領地のみならず、三兄弟の味方をした地域の民衆の住宅まで将門は全て焼き払った。将門の焦土作戦から逃れようとする人々の多くは、炎から逃れたら将門の軍勢の弓矢の標的にされることを知り、やむを得ず炎の中へと戻った。この焦土作戦でこの地域の収穫も倉庫も全て灰になった。将門はさらに、筑波、真壁、新治の三郡にも襲いかかり、奪えるものを全て奪っただけでなく、およそ五〇〇戸の家屋を燃やし、多くの人が焼け死んだ。将門の炎は寺社であっても逃れられず、山王神社は焼け落ちた。常陸国衙の役人も、常陸の一般市民も、この悲劇に泣き悲しみ、子が親と、妻が夫と死に別れる悲劇が各地で起きた。」
そして、この将門側の蛮行のさなかに、将門の伯父で、この時点の関東地方における平氏のトップと目されていた平国香が亡くなっている。戦死なのか自害なのかを史料は伝えてくれない。しかし、将門が略奪のかぎりを尽くした地域はまさに平国香の領地である。その領地で暴れ回り、人家を荒野にしたことは、平氏における将門の立場を孤立させるに充分であった。
図式は単純化した。平将門とそれ以外の人たちである。源氏も、藤原氏も、そして、血を分けた平氏の面々でさえも、将門と敵対する存在となったのだ。
その中でも強硬な反将門となったのは源護である。将門に襲いかかって戦死した三兄弟は源護の三人の息子である。三人の息子が揃って亡くなったことは源護を深い悲しみに沈ませただけでなく、激しい復讐心を抱かせた。源護は、当時としては異例のスピードで、この戦闘の記録を京都に送り届けたのである。
このような不祥事は当事者からではなく国司からの定期連絡によるのが普通なこの時代にあって、当事者である源護が記録を京都に届けたというのは異例であったが、源護としては自分で送り届けるより他はなかったのである。何しろ、三人の息子と将門の戦闘、そして、戦闘後の将門の蹂躙、これはどちらも常陸国府の目と鼻の先の場所で展開した出来事であるにも関わらず国司は動かなかったのだから。
京都でこの知らせを受け取った平貞盛はこのとき左馬允の地位にあり、将来にかすかな展望を見ていた。左馬允は地方出身の貴族としては異例の出世であり、周囲の人も、平貞盛は近い将来、中央で勢力を築くようになるであろうと見ていた。しかし、貞盛は知らせを受けると直ちに辞表を提出し、一個人として常陸へと戻っていった。義兄弟が三人も殺され、父の平国香も亡くなり、義父の源護も命の危険にある。また、連絡によれば少なくとも千名以上の人が将門によって殺されているはずである。これは捨てておける事態ではなかった。
とは言え、今の貞盛の手に軍事力はない。よって、急ぎ帰還はするが、直ちに報復に打って出るという選択肢はなかった。直ちに故郷へと戻るのも、軍事力を整えるのに時間をかけなければならないと知っての上での行動であった。

関東で武士団が暴れている。それも、かつて忠平の元に仕えていた平将門が暴れている。
西では海賊が暴れている。それも、忠平が海賊鎮圧のために派遣した藤原純友が海賊のトップになって暴れている。
忠平は、自分の親戚と、かつての部下という二人が、国の東西で暴れていることに心痛めた。ただ、心を痛めただけで何らかのアクションを起こすことはなかった。
武士団同士の戦闘は割と多く聞こえてくるニュースであったし、海賊が暴れ回るのも頻繁に耳にするニュースであった。その当事者が自分の関係者であることは心苦しく感じるものの、暴れ回ることそのものについてはもはや日常の光景となってしまっていたのだ。
日常の光景となってしまった人災は戦乱だけではない。承平五(九三五)年三月六日には、延暦寺で火災が発生し、四〇あまりの建物を焼失する騒ぎとなった。
その上、朝鮮半島からは、新羅が完全に滅亡したとの連絡も届いた。かつて日本に戦争を仕掛け、海賊となって日本海沿岸を襲い、奪い、日本人を拉致していった国が滅んだことに対する感慨はなかった。
かつての新羅は海を隔てた野蛮人であり、日本に迷惑をかける存在であり、日本人は日本人であることに誇りを抱いて野蛮人に対決し、そして常に勝っていた。
だが、今や日本人が日本国内で暴れる事態となってしまったのだ。
そこに誇りはなかった。
この危機に存在感を見せるようになったのが寺社であった。神仏に祈願することでこの苦境を逃れられると訴え、時には布施を、時には田畑を、さらには人そのものを要求するようになっていた。
寺社にとって現状はありがたい光景であった。何であれ道真の噂に転嫁できるのだ。豊作を祈り、その願いが叶えられたら神仏に祈祷した寺院のおかげ、叶えられなかったら道真の怨霊のせい。これでは寺社が肥えて行くばかりである。
その結果何が起こったか。
寺社が、武士団とはまた違った勢力集団へと成長してしまったのだ。寺社の勢力を巡って他の寺社と争い、寺社の雇った武人や、時には僧侶自らが武器を手にして争いに参加するまでになった。寺社自身や周囲の人たちを護るために武器を持つ寺社は珍しくなかったが、今やその護るための武器が攻撃のための武器へと変わってしまったのである。延暦寺が焼けたのも、元を正せば寺社同士の争いの結果に他ならない。
忠平はこの状況を苦々しく思っており、対処も少しではあるが実行した。承平五(九三五)年六月三日に、検非違使に対して、東大寺や興福寺の関係者の乱行を取り締まらせよう命じたのがそれである。ただ、そこで取り締まりの対象となったのはあくまでも関係者であって寺社そのものではない。寺社の持っていた免税を否定して宗教法人への課税を平然と行なった時平と違い、忠平は寺社勢力に手をつけていないのである。
手をつけていない理由は二つ。一つは時平の政策の否定が忠平政権の大前提であり、時平の政策を繰り返すということは、自分の支持基盤を失うことにつながるからであった。もう一つは、ここで寺社に手をつけることが得策ではなかったということ。寺社を苦々しく思っているのは庶民も同じであったが、庶民は道真の怨霊への恐怖があり、寺社はそうした怨霊に対抗できる存在だと認識していたのである。寺社を苦々しく思っていても、寺社に手をつけてしまうと道真の怨霊がさらに恐ろしい形で生活の上に覆い被さると考える者は多く、忠平は、寺社の関係者を取り締まるよう命じるという形でしかこの状況への対策をとれなかったのである。
六月三日の命令が遂行された可能性は低い。というのも、承平五(九三五)年六月二八日に、海賊平定を祈るという名目で大々的な祈祷が行なわれたからである。祈祷するよう命じるのではなく国が祈祷するのだから、こうした祈祷に要する費用は国が負担するのが通常なのであるが、国の負担は祈祷に要する費用だけではない。あれやこれやと名目をつけて国の負担を増やし、祈祷の名目で寺社が収入を増やすという行為は普通に見られるのである。国の命じる祈祷が行なわれたということは、宗教法人に対する国の政策を中止し、政策によって生じた宗教法人の負債を税で相殺すると宣言するようなものである。つまり、忠平は寺社からの圧力に負けたのだ。

関東で起こった戦乱はさらに急展開を迎えた。
承平五(九三五)年一〇月二一日、平将門率いる軍勢と、源護・平良正連合軍とが常陸国の新治郡川曲(かわわ)村で対決した。
三人の息子を平将門に殺された源護の怒りは激しいものがあった。また、将門の叔父の平良正は、兄を亡くし、妻を通じて義兄弟であった三兄弟の死を嘆き悲しんでいた。そこで一計を画して、平国香と、源護の三人の子の仇討ちに立ち上がったのである。
ただ、このときの行動は二人ともまっとうすぎる行動であった。平将門を打倒することを宣言し、そのための軍勢を集めることを公言したのである。情報というのは、関係する人間が多ければ多いほど、その情報をもっとも知られてはならない人間の元に届きやすくなる。打倒される立場になった将門は源護と平良正の挑戦を迎え撃つと宣言。将門もまた軍勢を集め、二人の元に向けて軍勢を進めていった。
その二つの軍勢がぶつかったのが川曲村である。
戦闘がどのような状況で展開されたのかはわからない。
しかし、結果ならばわかっている。
将門の圧勝。平良正も源護も、自らに従う兵を率いて自領へと戻っていった。
ただ不可解なところが一点ある。それは戦死者の数で、わずか六〇人。何かの記録の間違いではないかと思い少し考えた結果、ある結論たどり着いた。将門はどうやら、意図して兵を殺さなかったのではないか、と。
二月四日の戦闘で将門の軍勢は大量殺戮を行なった。それは民衆の間に反将門感情を広めるのに充分だった。結果は、将門の領地からの大量逃亡者である。将門の元で生活したくないと考える人が大量に生じ、将門の領地の田畑は耕す者のいない荒れ地となってしまった。
将門は感じたのではないだろうか。状況はどう考えても将門が不利なのである。領地も、権威も、権力も将門は劣っているのである。それは集められる軍勢の差となって現れていた。かなり無茶をしても一〇〇〇名の兵士を集めることが出来るかどうかというのが将門の軍事力の現実だったのだ。この数を増やすには自領を広げるだけでなく自領に住む人の数を増やさなければならない。もっとも手っ取り早いのは自分の元に人を連れてくることであり、それも、強引な拉致ではなく自発的な移住のほうがありがたかった。
将門の元に行けば豊かな暮らしが過ごせるという評判を広め、自分のもとから人が出て行くのではなく、自分のもとへ人が流れ込むようにしなければならない。これに成功すれば、自領と自領の人口を増やし、兵を増やすだけでなく、相手の勢力を弱めることにも成功するのだ。
それに、源護も、平良正も、職業軍人を率いて戦闘に訴え出たわけではない。この時代の武士は農民の兼業であり、戦うときだけが武士で普段は農民であった。つまり、ここで敵兵ということで殺してしまったら、将門は農民を平気で殺すという評判が立ち、将門はますます関東地方の中で孤立する。逆に、生かした上で無罪放免とすれば、将門は敵兵を殺さずに生かして返してくれたという評判が立つ。何しろ、源護も、平良正も、かなり強引に兵士を募集しているのである。収穫が終わったあとだからいいものの、兵士たちは望んで戦場に出向いたわけではなく、領主の命令だからと無理矢理武器を持たされて戦場に駆り出されたのだ。
強引に戦場に駆り出された挙げ句、駆り出した当の本人は二人とも逃亡。残された俺たちはどうなるのかと不安に刈られ動揺しているところで出た将門からの無罪放免の指令。これは敗残兵たちを狂喜乱舞させた。
関東地方に戻っていた平貞盛は、将門の勢力が武力でどうこうなるものではない規模にまで成長したこと、親族である平氏を敵に回してもその勢いが衰えないことを目の当たりにし、平将門に対処するのは困難なことになると考えた。
平貞盛は当初、将門の勢力を認めた上での講和を考えていた。少し前であれば、講和とは対等な勢力同士が無駄な戦闘を控えるように誓い合う紳士協定となり得たであろう。しかし、今や、将門に対する講和とは、将門の敵が将門に降伏することを意味するまでになってしまったのだ。 
20
命を取り留めた源護は、今回の争乱を朝廷に訴え出た。
この年の争乱に平将門は全く責任がないなどと言えない反面、源護は被害者であると訴えることはできるのだ。将門から仕掛けられなければならない状況に源護のほうから追い込んだのは事実にせよ、将門の側から仕掛けての戦闘であり、源護は好き好んで戦闘をしたわけではないという理屈は成り立つ。二月は攻められたから護っただけであり、一〇月は息子三人の仇討ちである。死者が出ているのだから現在の法に照らせばさすがに源護を無罪判決とするわけはないが、この時代の考えでいけば源護は無罪である。
無論、将門にも言い分はある。将門にすれば父である平良将の領地を取り返しただけのことであり、それをどうのこうの言われる筋合いはない。だが、この時代の掟では将門の主張は受け入れられない主張である。現時点で領地を持っている側のほうに正当性があり、いかに息子とは言え故人を持ち出しての領有権の主張は認められないのだ。
源護は自分が犯罪の被害者であるという前提で、朝廷に対し、法のもとでの解決を求めたのである。源護の訴えを受け入れる形で、承平五(九三五)年一二月二九日、平将門に対する出頭命令が出された。
この訴えと前後して、太宰府から新羅人殺害事件の情報が届いた。
新羅は、北から高麗に、西から百済に攻め込まれて勢力を衰えさせられた結果、この年、新羅王国最後の国王である敬順王が高麗に降伏したことで、国家として終了している。しかし、国家終了と民族終了とは必ずしも一致しない。国家が亡くなってもその国家の国民であることを意識する人は残るし、自分のアイデンティティを国家存続に寄せる人もいる。国王が高麗に降伏しても、また、西からいくら百済に攻め込まれようと、伝説を入れれば一〇〇〇年間続いた国家の意識が消えることはない。ましてや、新羅人の意識は、高麗や百済は新羅より劣った存在であり、その劣った存在のもとに降りるなど断じて認められないというものであった。
その結果が、亡命のようなもの、つまり、日本に逃れるという決断であった。
ただ、それは亡命のようなものであるが、亡命ではない。国外に逃れるという意味では亡命なのだが、他国の保護のもとで生きるのではなく、他国を侵略して自分たちの勢力を作り上げようというのだから、これは亡命と呼べない。普通に考えればそんなものを歓迎するわけなどなく、上陸させるさせないで争いとなり、終わってみれば新羅人殺害という結末になった。
朝廷は直ちに、高麗に対して新羅人殺害事件があったことを報告。ただし、今の日本政府と違って弱腰ではなかった。新羅人を殺害する事件があったがそれは犯罪に対する抵抗の結果であり、今後日本に対して侵略することがあれば同じ結果をもたらすということを突きつけたのである。

朝廷から出された将門の出頭命令は関東になかなか届かなかった。何しろ、一二月末に出された命令が将門のもとに届いたのは翌年九月になってからである。当時の情報通信レベルがいかに稚拙なものであったと言い訳をしようと、これは異常なまでの遅さとするしかない。
将門は自分に出頭命令が届いているなど想像だにしていなかった。将門はあくまでも自領を広げ、自領の人口を増やすことに専念していたのである。
そのために将門が用いたのはタックスヘブンであった。他の荘園より税率を下げ、田畑の所有者の名義を将門に変えさせるように促したのである。見返りとして戦時の従軍を求めたが、ここでいう戦時というのは田畑の防衛のこと、つまり自分の耕している田畑の収益は将門に払う年貢以外の全てを自分のものに出来るという生活を維持するための防衛であり、また、田畑に襲いかかってくる盗賊からの防衛を将門が保証するという契約であった。
将門が領地を拡大し人口を増やしているということは、周囲からすれば領地を減らされ人口を奪われているということに他ならない。しかも、延長八(九三〇)年に帰郷してからわずか六年での急成長である。これが三〇年ぐらいの長期間であれば子供がたくさん産まれたのだという考えで済むが、わずか六年では移住以外に成人人口が増えるなどあり得ない。WIN−WINの関係ではなく、パイの奪い合いになるのだ。
これは奪われた側にとってはたまったものではない。
奪われた資産を奪い返し、同時に仇討ちも果たす計画が持ち上がった。
ただし、繰り返し書くが、この時代の武士は職業軍人ではない。あくまでも本業は農民であり、戦闘のときだけ武器を手にする武士となるのである。優先順位は何よりもまず農業であって、攻められて抵抗するのならばともかく、攻め込もうというとき農地を捨ててまで戦闘に打って出るわけではないし、そのようなことを命令したら、命令不服従どころか、一斉蜂起を招きかねない。農地と農民を護るのが荘園領主の役目であり、荘園領主を護るために農民がいるのではないのである。
よって、戦闘は農作業の手が多少は空いたときという条件が付けられる。
この条件がある以上、戦闘に向いた時期がいつであるのかは将門のほうも把握できる。それが事前通告のない奇襲攻撃であっても、攻めてくる可能性が高い時期は農民にも多少の暇ができるので兵を整えるぐらいは可能になるから、奇襲が奇襲として成功するとは限らなくなる。

将門のもとに出頭命令が届くのは承平六年(九三六年)九月になってからなので、それまでの将門は、自分の敵と向かうあうことだけを考えていられた。
それは将門の敵も同じことで、収穫の時期を迎える前に片づける必要があった。
将門は関東地方で有数の勢力を持つまでになっていた。ただし、将門が関東地方の大部分を掌握したわけではない。将門の敵は、一つ一つの勢力ならば将門に劣るが、将門の敵が一致団結することがあれば将門は手も足も出なくなるのである。
ゆえに、反将門感情を旗印に将門を打倒すべき集団と束ねる必要があった。その音頭をとったのが平良正である。
平良正はまず、下総国司であった兄の平良兼に連絡をとった。公的地位を持つ平良兼はむやみやたらに任国を離れるわけにはいかない。しかし、平国香亡き現在、関東地方の平氏のトップの地位は平良兼のもとにあり、良兼にとっては兄、将門にとっては伯父にあたる平国香を死にいたらしめたこと、源護の三人の子を殺害したこと、そして、千名を越える被害者を生んだ殺戮を行なったことなど、将門の蛮行を見過ごすことは出来なかった。
それに、将門の影響は平良兼の本拠地でもある上総国にも至っていたのである。上総国の荘園の者がよりよい暮らしを求めて将門のもとへと向かっていく光景が日常化しており、その流れをくい止めるのは荘園領主としての役目であった。平良兼は軍勢の派遣を承諾したのみならず、根拠地である上総国から任国である下総国に兵を呼び寄せ、自ら兵を率いて常陸国へ向かったのである。
次に平良正が招いたのは平国香の子である平貞盛であった。平貞盛は平国香の領地を相続していたが、その領地は将門の蛮行によって灰燼に帰しており、復旧作業に追われていた。そこに軍勢派遣の要請がきたのだが、その態度は消極的なものとなっている。本音を言えば叔父の誘いを断りたかったのであろう。史料によれば親族同士の争いを避けることを主張したとなっているが、実際のところはこのまま戦いとなっても将門に負けると考えてのことではなかったか。
過去二回の戦いで将門はどのように戦ったか。
二回とも将門は攻め込まれたにも関わらず、将門の本拠地である下総国豊田郡は全くの無傷。それどころか、攻め込んだ側の根拠地が戦場となり被害を被っている。普通ではあり得ないこの光景が将門の戦闘では現実となっているのは、将門が情報収集能力に長けていたからとするしかない。いつ、どこで、誰が自分に対して攻め込もうとしているのかを事前に読めているから、より本拠地から遠いところで敵を迎え撃ち、戦闘に勝利している。これは純粋に武将としての能力の差であり、叔父二人も、そして平貞盛本人にもそのような能力はない。
この状況下で上総国司が軍勢を派遣した。その数は不明だが、平良兼の勢力があれば二〇〇〇名以上の兵士を集めて派遣することが出来たであろう。
ただ、それだけの数の兵士を誰にも知られずに派遣できるなどありえない話であるし、将門の軍勢が劣勢となるのは将門の敵が連合したときであり、連合する前ならば将門の軍勢のほうが優勢なのだ。この優位を活かすことなく敵の合流を許すなど、普通の武人なら絶対にしない。
貞盛は自ら軍勢を派遣したにはした。ただ、叔父二人のような意気軒昂とした出陣にはなれなかった。

承平六(九三六)年六月二六日、良兼自らの率いる軍勢が下総国香取郡の神崎にたどり着き、川を渡って常陸国にたどり着いた。軍勢は遠征のゴールだけではなくこの争乱そのもののゴールが間近に迫っているという高揚感に包まれた。
ところが、将門はここで奇襲を仕掛けたのである。船で川を渡って野営をしている途中の奇襲に兵士たちは驚き、戦闘に打って出る前に逃走を始めた。平良兼も兵士たちを率いて西へと逃走、将門はその後ろを追いかけるようになった。将門はここでも意図的に敵兵たちを殺していない。この奇襲での死者は多く見積もっても八〇名という少なさである。
西へと逃げていった平良兼の軍勢は下総国衙へ落ち延びた。戦国時代や江戸時代は容易に攻め落とせない城が日本各地に作られていたが、この時代、そのような城郭は東北地方の一部にあるだけ。四方を塀に囲まれ、門には衛兵が控える国衙は、後の時代ではごく普通の建造物だが、この時代では堅固な要塞であった。平良正はその要塞に立てこもって抗戦の構えを見せたのである。
軍勢にやってこられた下総国衙はいい迷惑である。隣国の現役の国司が軍勢を率いてやってきて、何の断りもなく建物を要塞として扱い、塀の向こうの軍勢と向かい合っているのだ。
下野国司の藤原弘雅は以下の条件で両軍の仲裁を図った。
将門は平良兼とその軍勢の帰郷を認めること。
良兼は将門の荘園領有権を認めること。
下野国司を仲介とする停戦は実現し、下野国衙を包囲していた将門は部下たちに包囲を開放するように命令した。
この戦いにより将門の評判は確立された。戦えば勝つ。勝つだけではなく敗者を許す。敗者を許すばかりか自らの荘園に招き入れて生活を保証してくれる。ついこの間の大量殺戮を忘れなかった者は多かったが、それでも多くの庶民は将門を選んだのである。 
 

 

21
関東地方で平氏同士の争いが展開されているというニュースは京都にも届いていた。届いていたが、京都に届いたとき、そのニュースはその他大勢のニュースの一つに紛れ込んだ。
ではそのとき、京都にはどのようなニュースが届いていたのか。
圧倒的な割合で話題を占めていたのは、何といっても瀬戸内海の海賊である。特に、伊予国の藤原純友の率いる海賊が最大の問題であった。瀬戸内海と山陽道という当時の二大幹線を制圧しただけでなく、四国北部もまた海賊の支配下に入ってしまったからである。
そして、関東地方からは戦乱のニュースが届くだけだが、瀬戸内からは海賊が暴れ回っているというニュースだけでなく、数多くの民衆が殺害され、家を失い、田畑を失い、難民となっているという知らせも届いていた。また、海賊に襲われ殺害されるだけでなく、奴隷として船を漕がされ、あるいは国内外に売り飛ばされているというニュースも届いていた。
このあたりが平将門と藤原純友の違いである。全くの同時代の人間でありながら、荘園領主として数多くの庶民を護る立場になった平将門と比べ、庶民のことなど全く考えない藤原純友の評伝は少ない。多くの歴史書でも藤原純友は平将門の時代に瀬戸内海で暴れていた海賊という記され方をするのみであり、藤原純友を単体で取り扱うことはほとんどない。ついでに言えば、後世、怨霊だの、呪いだのという形で語り継がれているのも将門だけであり、藤原純友はオカルトの分野にも顔を見せていない。つまり、重要度では将門は純友を凌駕しているのである。
しかし、この時代の評価は完全に逆であった。最重要問題は瀬戸内の海賊対策であり、関東地方の争乱など大して被害者も出ていない些事だったのである。研究者によっては、遠く離れた関東地方の争乱より、目と鼻の先の瀬戸内海の争乱のほうを京都では重要視していたからだとする人もいるが、私はそうは考えない。何と言っても被害者の数が違いすぎるのだ。
忠平が最優先政策に掲げたのも海賊対策であり、海賊討伐のための人事を何度となく発令している。また、神仏に祈りを捧げるのも争乱の鎮圧ではなく海賊の鎮圧である。

この海賊のニュースの中に紛れるように、朝鮮半島から一つのニュースが飛び込んできた。
朝鮮半島の戦乱が終了したのである。
この前年、百済国王の甄萱が、自分の息子である神剣、良剣、龍剣の三人に幽閉され、甄萱の後継者とされていた金剛が殺害されるという事件が起きた。甄萱の子は、長男の神剣、次男の良剣、三男の龍剣、そして、四男の金剛という構成である。三人の兄を差し置いての四男の後継者就任はそれだけでも家督争いを混乱させるものがあるが、この混乱にはさらに続きがある。
幽閉されていた甄萱が脱走しただけでなく、高麗のもとに亡命したのである。その上で、自分の三人の息子を打倒するための軍勢派遣を高麗王の王建に依頼したのだ。百済王国はこの瞬間に滅亡したと言ってもよい。甄萱の要請により軍勢を派遣した王建は、戦闘の末に神剣を破り、良剣と龍剣を拿捕した。捕らえられた良剣と龍剣は流刑となり、高麗王国によって朝鮮半島は統一された。
王建は自らの国家を古代高句麗王国の継承国家であると宣言し、同じく高句麗の継承国家である渤海の領域は全て高麗王国の領土であると主張。渤海を滅ぼした契丹は高麗のこの主張に激しく反発し、一触即発の事態となった。
王建は日本に対し、旧渤海と結んでいたのと同様の同盟関係を申し出たが、京都からの返答は関係拒絶。いくら高麗が高句麗の継承国家であると宣言しようと、当時の日本の感覚では、一〇〇〇年間もの長きに渡って敵国であり続けた新羅の継承国家でもあるのだ。日本の高麗に対する態度も、渤海に対する友好的な態度ではなく新羅に対する敵対感情になるのもやむを得ないことであった。

承平六(九三六)年七月一三日、太宰府より、呉越国から使者が日本にやってきたことの連絡が届いた。呉越国は長江の河口流域に成立していた国で、唐から王権を認められた中国の地方政権の一つであった。日本の公式な見解としては、中国の国家はあくまでも唐であり、いかに独立性を持った国家として存在していても、唐ではない以上それは単なる地方勢力である。その国から使者が派遣されたということは、一地方政権を国家として承認し、対等な国交を持つということになる。
当然ながら、呉越国からの使者の受け入れを反対する声が続出した。地方政権と国交を持つのは国の威信に傷がつくというのである。
しかし、承平六(九三六)年八月二日、忠平は摂政の名目で呉越王に書状を送る。天皇の名は出さなかったが、天皇に匹敵する権威を持つ摂政が正式な書状を呉越国へ送るというのは、正式な国交を結んだも同然であった。
批判に対する忠平の意見は確かに間違ってはいなかった。かつての大唐帝国は既に無く、唐を滅ぼした梁も、梁を滅ぼして復活した唐も、中国の地に存在する地方政権の一つにすぎない。中国の地は統一された国家ではなく、複数の国家が群雄割拠する地となっており、海を隔てて隣接している呉越国との折衝は国の安全を守るために不可欠だという意見である。
確かに忠平の言うとおりであろう。だが、摂政として書状を送ったのは政治的に失敗であった。天皇は王ではないし、天皇家は王家ではない。外交において天皇が対等に接するのは皇帝のみであり、皇帝より格下の国王と対等に接するのは断じて許されない話である。
かといって、左大臣では相手に対する失礼になると考えたのであろう。天皇の権威は国王より上だが、国王の権威は大臣より上なのだ。
それへの回答が太政大臣であった。太政大臣は他国の国王と同等の存在と扱われる。承平六(九三六)年八月一九日、左大臣藤原忠平が太政大臣に昇格。藤原基経の死去から四五年を経て太政大臣が復活した。これ以後、国外との折衝は、摂政藤原忠平ではなく、太政大臣藤原忠平の名が使われることとなる。
そして、このときの太政大臣就任は忠平の政権運営に二つのメリットを与えた。
一つは政権の正当性である。摂政にして太政大臣であるという先例は過去に二度ある。清和天皇の時代の藤原良房と、陽成天皇の時代の藤原基経の二度である。ここで忠平が太政大臣に就いたということは、良房、基経と続いてきた政権の正当性が確立されたということでもあった。
二つ目は太政大臣に与えられている権力の大きさである。このときの国内外の混乱を考えたとき、いかに摂政であるといえど、左大臣というレギュラーな官職では対処しきれなかった。左大臣は人臣最高の位であり、その発言にはかなりの権威が付随するが、それはあくまでも重要な意見であり、最終決定となる意見ではない。左大臣一人が賛成しても他の貴族が反対ならば、それは反対になるのだ。
だが、太政大臣は違う。他の貴族と協調することなく独裁権力を振るえるのである。他の貴族がいかに反対しようと太政大臣が賛成したらそれは賛成になるのだ。
それまでにも忠平は独裁を展開したことがある。ただしそれは摂政としての権威を利用してのものであり権力によるものではない。つまり、正当性が薄いのだ。摂政の権威に基づく政策展開は忠平という一個人の力量に寄るため、忠平が亡くなったらその瞬間に政策が頓挫する。
だが、太政大臣となると話は変わる。忠平の身に何かあっても、誰かが忠平の政策を頓挫させようという意図的な行動を起こさない限り、政策は頓挫しない。

承平六(九三六)年九月七日、源護の訴えに基づく召集命令が、平将門と平真樹、そして源護へ届いた。
将門はこの召集命令を全く予期していなかったと史料は伝える。ちなみに、この召集命令の宛先は、個人ではなく、常陸、下総、そして下野の三ヶ国の国衙である。京都から国衙に飛んだ命令の内容は、国司の責任で京都まで連れてくることという内容であった。
この命令を受けた将門は、当時としては異例のスピードで京都に向かっている。九月七日に命令が届いて、一〇月初旬には京都に着いたというのだから、相当な強行軍であったろうと推測される。
京都に着いた将門が向かったのは忠平の住まいであった。かつての主君の邸宅であり、かつ、かつての自分の職場でもあるのだから、京都でもっとも慣れ親しんだ場所であると言っても良い。
自分の邸宅を訪問した将門と面会した忠平は、将門からの主張を聞き入れたと史料にはある。面会の詳細な様子は伝わっていないのでどのような会話が成されたのかはわからないが、推測は可能である。
まず、この時点で京都に届いている情報は源護から出された訴えと、実際に戦闘があった地域からの定期連絡の二種類しかない。そして、源護の訴えはともかく、戦闘地域からの連絡も将門側にとっては不利な内容であったと推測される。
将門と戦闘をした平良兼は現役の下総国司である。業務だから連絡をするが、敗戦の連絡を嬉々としてするわけはない。敗戦は事実だから書かねばならないが、戦闘に至るまでの経緯は相当な割合で将門を貶す内容であったろうし、将門の悪行ゆえに戦闘をしなければならなかったという自己弁護も繰り広げられているであろう。平良兼からの定期連絡には、今は正義が成されていない状態であり、朝廷の力で正義が成されることを求めることが記してあったと推測できる。
また、その他の国司からの定期連絡も似たようなものであった。何しろ将門は人と農地を奪っているのである。それは国司にとって税収の減少となって跳ね返る。税収の減った地方自治体の運営は厳しくなったであろうし、この時代、国司を一期勤めれば一生生活できるだけの収入を得られたとも言われているが、その収入源は税収であったから、税収減は国司の獲得できる私財の減少にもつながる。公人としては地方統治を困難にさせた将門への怒り、私人としては儲けを減らした将門への怒り、こうした怒りが定期連絡に記してあったはずである。
もっとも、書状のトーンには違いがあったとも考えられる。息子三人を殺された源護からの連絡は将門をこれ以上ない大悪人に仕立て上げたものであったろうが、国司からの定期連絡はもう少しトーンの落ちたものであった。
この後の展開はそうでなければ説明ができないのだ。 
22
将門への査問は承平六(九三六)年一〇月一七日に始まった。
将門を問いただすのは検非違使庁である。つまり、将門は犯罪者として査問を受けることとなったのである。
ところがその問いただしの口調が弱いのである。まるでその査問自体が何かのセレモニーであるかのようにあっさりとしたものであり、将門の行動は無罪ではないにしてもせいぜい微罪に留まるとされ、刑罰はごくわずかしか下らなかった。裏で忠平が手を引いていたからだとする説もあるほどで、これではいったい何のための査問であったのかというほどであった。ちなみに、訴え出た側である源護のほうは何らお咎めなしである。
京都では、これで関東の争乱が収まったと考えた者が多かった。何しろ将門は現状維持以上を要求しなかったのである。現時点で勢力を掴んでいる地域を保持する宣言はしたものの、それ以上の拡張は求めなかったし、攻め込まれたら抵抗はするが将門からは攻め込まないと宣言したのである。これが守られれば平和になると誰もが考えたのだ。
将門にとってこれはありがたい決定であった。将門の現在の勢力を朝廷が承認したという事でもあり、将門の敵の行動はこの判決によって大幅に制限されることとなる。
この上で、将門は自分が帰郷する前に、その判決を関東地方に届けたのである。
判決を受け取った関東地方では絶望が漂った。将門の勢力が朝廷によって保証されただけでなく、ついこの間まで自分の勢力であった地域を奪い返そうとする行為が朝廷の意向に逆らうこととなるのである。
この報せを受け取った平良兼は将門への対抗のための即時の行動は不可能であると判断した。とは言え、行動を諦めたわけではない。将門の誓約は絶対のものではなく、何と言っても、将門は攻めてこない限りは戦わないと言ったのであって、何があっても攻め込まないとは言っていないのである。ということは、将門を挑発して将門の側から攻め込ませる状況にしてしまえば誓約は終了し、堂々と将門の側へ攻めていくことが可能となるのである。
平良兼は上総国を中心に兵を集め、将門へ対抗する軍勢を作りつつあった。
一方、その間、将門は京都に留まって量刑に服していた。ちなみに、将門がどのような刑罰を受けていたのかという記録はないが、牢に入れられるようなことはなく、京都市中を色々と出歩いている記録がある。
ただし、一部に語り継がれているように、将門がこのときに藤原純友と直接会って互いの今後の方針を確認したという記録はない。忠平の親族である藤原純友と、忠平のもとに仕えていた平将門とが、互いに全く面識がないということはなかったであろうが、ただ単にたまたま同時期に戦乱を起こしたというだけで、互いに打ち合わせをした上での行動というわけではなかった。それに、将門は全くの無位無冠の武人であったのに対し、藤原純友は、藤原北家の人間でありながら貴族になれなかったという境遇ではあるにせよ、従七位下伊予掾という地位は得ている。これは海賊鎮圧のために与えた特別の権威であるが、それでも、いかに桓武天皇の血を引く身であろうと理論上は全くの無位無冠の庶民でしかない平将門とは比べものにならない身分の差が存在する。
戦乱を起こした後の将門の生涯を追うことができるのは将門の半生を記した同時代史料が存在するからで、同時期に戦乱を起こした藤原純友の生涯を追うのが困難であるのは純友をメインに据えた同時代史料が存在しないからである。ゆえに、純友の行動の行動は他の史料の積み重ねによるしかない。
その積み重ねの結果であるが、一概に海賊と言ってもその構成は一般的な海賊と一般的ではない海賊の二種類があり、純友の軍勢は一般的ではないほうの海賊であったことが判明している。
一般的な海賊というのは、生活苦を原因としている。生きていくために襲って奪うことを選んだ結果の海賊行為であり、瀬戸内海に海賊が続発していたのも、瀬戸内海がこの時代の大幹線航路であったからである。
貧困ゆえにその日の食べ物にも困る暮らしを強いられているのに、物資を山積みにした船が途切れることなく東西へと航行している。「目の前の船の荷物を手に入れることができたならば」と考え、実行したらどうなるか? その答えが海賊であった。
さらに、奪うことのできる資源は船だけではない。船から荷物を降ろしたところを狙ったらどうなるか? あるいは、収穫に恵まれた農地に襲いかかっていって収穫を奪ったらどうなるか? 人間を拉致して奴隷商人に売れば利益になると知った海賊が奪う物が何もない貧しい村落に襲いかかっていったらどうなるか?
それが瀬戸内海に多発した一般的な海賊であった。
しかし、効率的ではない。
一般的な海賊は自分たちの今の生活だけを考える。他の者のことも考えないし、自分たちの未来のことも考えない。ただただ、現在の欲望を満たすことだけを考えて行動する。既に存在するものに襲いかかって奪うだけであり、何かを生み出すということがないのだ。村を襲った結果、その村は灰燼に帰してしまい、誰一人住まない無人の荒野になったらもう襲えない。まともな感覚の持ち主ならばただ一度の略奪ではなく、支配下に置いて生産を続けさせ恒常的な収奪を続けることを考えるが、海賊は後のことなど考えないから一度の略奪で何もかも奪ってしまい、後のことは考えない。それに、海賊があまりにも頻発すると、被害を受ける側は海賊から身を守る手段を考えるものである。海賊に近寄らないという手段をとることもあるし、あるいは海賊に抵抗するだけの武力を手に入れるという手段を選ぶこともある。そうなったら海賊はビジネスとして失敗である。生きていくための海賊行為なのに、励めば励むほど生きにくくなるのだ。
実際、一般的な海賊は年々減ってきていたのである。
だが、一般的ではない海賊が増えてしまったのだ。
一般的ではない海賊とはどういう存在か?
純友率いる海賊集団の構成は純日本人ではない。かなりの割合で新羅人が混ざっており、船団の中で使われていた言葉は日本語だけではなく新羅の言葉も混ざっていた。船によっては新羅語が公用語で日本語は使われないケースまであった。だが、構成員の全てが新羅人というわけではなく日本人もいた。それも、意外なほど血筋の良い者が散見された。藤原北家の一員である純友自身をはじめ、他の藤原氏も、平氏も、源氏も混ざっているのだ。ただし、血を引いてはいても中央での地位は低いか、あるいは、持っていない。血筋の良さだけならそこいらの役人には手も足も出ないものがあるのに、社会的地位が低く、役人のほうが格上になっているのである。
忠平の推進した藤原独裁の結果、中央での出世を諦めて地方に活路を見いだすことにした貴族は多く、荘園経営で莫大な資産を築く貴族も多かったが、その資産が子供や孫の代まで残っているとは限らなかった。財産分与があれば一人当たりの資産は経るし、経営に失敗しても資産は減る。誇りは高いから一般庶民に混ざるつもりはないが、地位も低く生活も苦しいという現実がある。
特に問題なのは、地方官として京都から赴任してきた者が、自分より血筋の良くない者や、自分と能力の変わらぬ、あるいは自分より劣る能力の者であるときであった。「なぜ自分がこんな奴の支配を受けなければならないのか」という疑念を抱いた結果の反抗が、一般的ではない海賊であった。
一般的ではない海賊というのは実に良く組織化されている。生活苦の穴埋めも目的の一つではあるが、より重要な目的は反乱を起こしている行為そのものであり、彼らに言わせれば「不公正な統治」からの脱却を目的としていた。そして、海賊集団の外は「不公正な統治」が続いているので、海賊集団の外に対しては何をしても良いが、海賊集団の内部は「正当な統治」として秩序だった社会が形成されていたのである。
簡単に言えば、海賊の一員になり、海賊行為に貢献すれば、生活を保証するということであった。
一般的な海賊は、個人や家族、もう少し広げても集落単位のことしか考えず、明日のことは明日考えるという無秩序無計画な集団であったが、一般的ではない海賊は、集団全体のことを考えるし、明日のことも、未来のことも考える。しかも組織化されている。一般的な海賊ではどうあがいても襲うことのできなかった武装集落にも襲いかかることができるし、通常は土着の武士が守りを固める官公庁にだって襲いかかれる。それに、他の海賊集団だって襲いかかる対象にできるのだ。
一般的な海賊は文字通りの犯罪集団であり現在では警察の取り締まりの対象であるが、一般的ではない海賊は単なる犯罪集団とは言い表せない反国家分子であり、現在だと、よほど武装を固めた機動隊とか、あるいは自衛隊でなければ太刀打ちできない集団になってしまっていた。
このあたりが将門と純友の違いである。将門も純友も自軍の拡張を図ったが、将門は内部に庶民を抱え込んで庶民の暮らしを保護したのに対し、純友は自分たちの集団を増やすことには熱心になっても周囲の庶民は襲う対象にすぎず、暮らしを護ろうなどという意欲すらなかったのである。
それでも、純友率いる海賊集団は、伊予国日振島を根拠地として一〇〇〇艘もの海賊船を所有する大集団となっていた。海賊に襲われない手段は三つある。一つは海賊から遠ざかること。一つは海賊に抵抗できる武力を手に入れること。そして最後の一つが、自分も海賊集団の一員になってしまうことである。純友にとって、海賊でも何でもない庶民は略奪の対象でしかなかったが、少なくとも海賊の一員であれば保護の対象になったのである。ただし、良心の呵責はかなりあったと見えて、後に集団が瓦解するきっかけにもなっている。

承平六(九三六)年一一月一四日、中国に一つの動きがあった。
契丹の援助により晋(後晋)が唐(後唐)を滅亡させたのである。晋は援助の見返りとして、契丹に燕雲一六州を割譲した。復活なった唐はわずか一三年の命であった。最後までかつての大唐帝国の復活は実現せず、滅ぼした晋も領土割譲を余儀なくされるなど、正当性以外を持たない小規模国家に留まることとなった。中国は完全に、後に五代十国と称される群雄割拠の世界となったのである。
群雄割拠の中国と入れ替わるように統一を見せたのが朝鮮半島である。この年、高麗が百済を滅亡させて朝鮮半島の統一に成功した。高麗国王の王建は、高麗が旧高句麗だけでなく、旧新羅と旧渤海の双方の継承国家であることを宣言するが、渤海の領土の多くは契丹の領地となっており、事実上新羅だけの継承国家に留まった。
かつての渤海の領域での渤海の遺民の抵抗も気がつけば消えてしまっていた。そして、この勢いは国の外へと広がっていた。
晋からの領土割譲に成功した契丹であるが、それで動きを留めるつもりはなかった。二方向に向けての侵略を開始したのである。一つは南の晋、もう一つは南東の高麗。
朝鮮半島を統一した高麗も、統一したからと安堵はできなかった。南から日本が攻めてくることはなかったが、北から契丹が何度も攻めてくるのである。契丹の言い分としては、高句麗の継承国家が渤海であり、渤海の継承国家が契丹である以上、同じく高句麗の継承国家を自認する高麗は契丹の一部でなければならないとする言い分である。何とも無茶苦茶な言いがかりであるが、国家の正当性を歴史に求めると何とでも言いがかりをつけられるというのは今に始まった話ではない。今との違いを挙げるとすれば、現在は言いがかりをつけているほうが、この時代は言いがかりをつけられているほうだという点か。
契丹からの侵略に対し、高麗は日本の支援を求めてきた。しかし、日本からの回答はなかった。契丹の侵略を批判する声明は出したが、高麗に援軍を派遣して高麗を護るという回答は最後まで出さなかったのである。海外に兵を出せる余力があるなら、関東や瀬戸内海の戦乱を鎮圧できている。それに、契丹は高麗への侵略はしていても日本へは侵略していないし、日本と契丹との間は、民間の交易ならばあるが国としての正式な折衝があるわけではない。現状のままで何の問題もないのに、ここで高麗の支援を表明することは契丹からの侵略を受ける可能性を増やしてしまうのだ。これでは契丹による高麗侵略が人道的に問題だと感じても動くに動けない。 
23
承平七(九三七)年一月一日、東海道、東山道、山陽道などの追捕使に藤原忠舒(ふじわらのただのぶ)・小野維幹・小野好古など一五人を任命した。
現在は関東地方と一括するが、当時の概念では、上野国と下野国、現在で言う群馬県と栃木県は東山道であり、その他の国が東海道である。いかに文化的な近さがあっても行政区分としては全く別であり、人を任命するにも道を単位としていた。そのため、下野、下総、常陸の三ヶ国の国境付近で起こっている問題を鎮圧するにも、下野国が属する東山道と、下総国と常陸国が属する東海道の二つの担当者を派遣しなければならなかったのである。
元日に追捕使の任命をしたのは忠平の意欲の現れではあるのだが、根本解決に向けては動いていない。承平七(九三七)年一月二二日、右大臣藤原仲平が左大臣に昇格し、後任の右大臣に藤原恒佐が就任したのである。藤原独裁はますます強まったのだ。
どういう理由で東西の戦乱が起こったのか理解していなかったとするしかない。藤原独裁を強め、藤原氏だけで上級の官職を独占し、そうでない者はことごとく除外してきた結果が現在の戦乱なのである。
氏族に関わらない実力による人事登用をしておけば、少なくとも地方にくすぶって未来を絶望視し、今を生きるために法の定めを越え、戦乱に訴えるまでに成長することはなかったのである。忠平は言うだろう。全ては政局の安定のためだと。だが、忠平ほど徹底しなくても政局は安定できたのである。冬嗣も、良房も、基経も、時平も、藤原氏だけで権力を独占するなど考えもしなかった。自分の意に添う人材であるかどうかは判断基準にしたが、藤原氏であるかどうかを判断基準にすることはなかったのである。
それに、いかに国外は国が滅ぶかどうかという混迷にあったとは言え、忠平のように徹底した安定を求めるとかえって環境の変化に耐えられなくなる。戦後の日本だって、天下りとか、談合とか、自民党の長期政権とか、この国を発展させるのに適したシステムを作り上げたが、時代のほうが変わってしまってそのどれもが否定されてしまっている。時代に合わせた最良のシステムを作っても、時代のほうが変わってしまったらシステムはメリットよりデメリットのほうが強くなるのだ。
だから、時代に合わせたシステムの変化が求められる。つまり、改革である。改革というのは、題目としては仰々しいが、要は時代とシステムの乖離が激しくなったとき、システムのほうを手直しして時代に合わせることに過ぎない。安定した五年間の忠平の行動により、藤原独裁のシステムはより強固なものとなっただけでなく、誰が携わっても一定の結果を残せるようになった。これは忠平の手による時代に合わせた改革である。だが、一度改革を成し遂げシステムを作り上げた人間に、「今のシステムでは時代に合わないからシステムを壊して新しいシステムを作り上げなさい」と命じてうまく行くことは極めて珍しい。多くの場合は改革することそのものを拒むし、改革したとしても中途半端なものにとどまって結果を出さない。
なぜか?
それは一度成功しているからである。一度成功した者は、その成功を否定することを認めない。どんなに時代に合わなくなったとしても、本人は時代に合わなくなったことを認めないか、認めたとしても少々の手直しに留まって抜本的な手直しをしない。
アメリカという国に対する意見には賛否両論あるが、大統領が最低でも四年間の任期を保証されるだけでなく、最長でも八年の任期しか持てないというのは評価されるべきことである。日本のように毎年首相が替わるというのは論外だが、長期政権は自己改革が難しい。大規模な改革は政権発足当初に集中し、あとはシステムの現状維持というのが一般的な形であり、システムが安定して稼働している間は国が発展して経済も向上し生活も良くなるが、時間の流れとともに発展も向上も鈍化し、次第に下降線をたどるようになる。そうなる前にシステムを改善できる仕組みを用意できているというアメリカの仕組みは見習うべきところがある。
そして、もう一つ見習うべきところがある。それは、権力から離れた者は権力に固執することが少ないという一点である。元大統領というのはアメリカにとって、あるいは政党にとって重要なカードであり、外交などで表舞台に立つことも多々あるが、基本的にはホワイトハウスを去ればただの人であり、次の政権に口出しをすることはない。
逆に、過去の成功者が権力にしがみつく、あるいは、権力からは離れたのだが影響力は持ち続け、口出しも止まらないというとき、システムの改革は絶対に失敗する。かつては隆盛を極めた企業であったのに、時代とともに衰え、今では見る影もなくなってしまった企業はたくさんあるが、それらの企業に共通しているのは、OB会の強さ。現場の第一線から去ったのに、過去の成功体験にしがみついて、退職してもなお現場に口出しするようになるとその企業は絶対に失速する。
この時代も同じだった。忠平は一時代を築いた過去の人であり、もはや改革は望めない人材になってしまっていたのだ。成功体験に加え、揺るぎない長期政権。しかも、改革どころか逆行している。優秀な人材を埋もれさせ、地方の問題の解決にも動けていない。これで暮らしが良くなるとしたらそのほうがおかしい。

承平七(九三七)年四月七日、朱雀天皇の元服に伴い、将門に下されていた処罰の中止が決まった。
将門は直ちに京都を離れ故郷へと戻っていった。四月七日に恩赦が決まって京都から解放されたのだが、五月一一日にはもう根拠地に戻ったというのだから、これまた異例のスピードとするしかない。
このスピードだと、おそらく、恩赦が決まったというニュースが関東に届く前に将門が根拠地に到着していたであろう。古代ローマのカエサルは情報収集力に加え行動の早さでも敵を圧倒しており、軍勢出発のニュースが敵地に届く前に軍勢を敵地に集結させることも始終であったと言うが、将門もこういうタイプの人間であったのだ。
これは、平良兼にとって想定外の事態であったとするしかない。
出頭命令のニュースを聞いたとき、将門はもう京都に向かっていた。将門不在のタイミングを見計らって行動しようと考えたときには、現状維持を命じる朝廷からの命令が届いた。そして、査問の結果、将門が有罪となったとのニュースが届いたと思ったら、恩赦になって京都に戻ったという知らせが届く前に、将門自身が根拠地に戻ったというニュースが届いた。
これでもかと裏をかく将門に対抗するには、良兼のほうも裏をかくしかないと考えたのだろう。情報がいつの間にか将門の元に届いてしまうのだから、情報を知る人自体を少なくしなければならない。ゆえに、これ以上なく極秘の計画が立った。
農作業の忙しい最中に兵を集めることは困難である以上、農作業の手の空いたタイミングを見計らっての軍勢集結を余儀なくされる。とはいえ、丸一日田畑を離れることが許されない日が続くというわけでもないし、目的地はそれほど遠距離というわけでもない。つまり多少は無茶できるのである。
その結果が八月初頭の突然の軍勢集結命令であった。命令を受けた農民も驚きを隠せなかったが、数日のみであることに加え、軍勢に参加すれば年貢を軽くするという通達もあり、突然の命令であるにも関わらず良兼は軍勢集結に成功した。
もはや明白であった。良兼は朝廷の命令を無視するつもりなのだ。将門が武力を使って手にした領地を朝廷が認めたなら、良兼が武力で取り戻した領地だって朝廷は認めなければならない。もっともそれは後付けの理屈であって、理屈なんか無視して武力で行動するというのがこのときの良兼の意志であった。

承平七(九三七)年八月六日、良兼率いる軍勢は、下総国と常陸国の境にある子飼(史料にっては「小貝」や「蚕養」とも記されている。読みはいずれも「こかい」)の渡しに押し寄せた。
いかに平将門が情報収集能力に長けていようと、この時期のこのタイミング、しかも平良兼がこれ以上無い隠密行動をとったとなると、さすがに劣勢になってしまう。それでも平将門は、平良兼の軍勢集結の情報を入手し、満足行く人数ではないにせよ軍勢を率いて対峙はできた。だから、全くの無抵抗とはならなかった。
しかし、良兼の軍勢の先頭については将門の情報収集能力でも読めなかった。
良兼は、将門の祖父であり良兼の父でもある高望王と、良兼の弟で将門の父である平良将の像を陣頭におし立てて攻め寄せたのだ。この像は現存しておらず、また、史料によってばらつきがあるので断定はできない。木彫りの像であったとする史料もあれば、掛け軸に描かれた肖像画であるという史料もある。
この像の前に将門の軍勢は押し黙ってしまった。人間でも何でもないただの像ではないかと考えるのは現在の考えであって、この時代の人間にとって、亡き父や先祖の像に対して弓矢を向け、刃を向けるのは断じて許されぬ行為であった。将門は良兼を卑怯千万と罵ったが、戦闘というのは卑怯だろうと何だろうと勝てばいい。そして、この戦闘で良兼は勝った。戦う前に将門が負けていたというほうが正しい。
また、像があって意気消沈していたこともあるが、将門が敗れた最も大きな理由は満足な軍勢を集結できなかったことである。平良兼が攻め込んでくるという情報を掴んでからの時間が足らなすぎた。将門が集めることの出来た軍勢だけでは良兼の軍勢に抵抗できず、身を守るのに精一杯だったのである。
そのため、平将門が選んだのは逃走だった。
最終的な勝利を手にするならば、良兼はここで将門を追撃するべきであった。それなのに、良兼の軍勢が行ったのは略奪と暴行であった。将門の元で暮らしていた人たちの家を襲い、倉の食料を奪い、女性はレイプされ男性は殺され、そして、建物も田畑も全て燃やし尽くしたのである。
逃げ延びた将門は伯父の蛮行に怒り狂ったと伝えられている。そして、逃げ延びた者を集めて軍勢とし、伯父への復讐戦を誓った。
将門のこの行動は良兼の予期するところであった。そして、良兼は将門よりも先に軍勢を集め、出来合いの将門の軍勢と大方郷の堀越で向かい合った。史料によれば、このとき将門は足の病に倒れていたとある。一方、良兼の軍勢が高望王や平良将の像を掲げたという記録はない。
戦闘の様子の詳細は伝わっていないが、戦闘の結果は判明している。将門は再び敗れ敗走する羽目になっただけでなく、将門の妻と子が良兼の手に捕らえられたのである。病に倒れて身動きできなかったから戦闘に敗れたとするのが現在まで伝わる将門の主張である。 
24
この二連敗は将門にとってきわめて大きな痛手であった。そして、一度目は良兼の卑怯千万な戦術の前に敗れ、二度目は病のせいで身動きできなかったから敗れたとするのが将門側の主張であるが、これはむしろ怪しい。一度目も二度目も将門は戦術の前に敗れ去っているのである。それは軍人としての能力での敗北であり、卑怯だの病だのというのは後付けの言い逃れにしか聞こえない。
実際、この二連敗で将門の威信はかなり落ち、将門の元を離れる農民が続出したのだ。守ってくれると約束したはずの将門が我が身大事で逃げ出しただけでなく、庶民はおろか、自分の妻も子も捨てて逃走したというのは信用をなくすのに充分である。
普通に考えれば将門の命運はここに尽きて、平良兼が勝者にならなければならない。ところが、この二連勝を平良兼は活かしていないのである。ここで一気に将門を叩くこともせず、追撃一つしていない。
将門の本拠地である豊田の人たちは将門を見捨てた。しかし、良兼の元に下ることもなかった。当然であろう。誰が自分たちの生活を灰にした人間の元に下るか。豊田に住む者は将門からも良兼からも独立する勢力となったのである。
将門はそれまでの本拠地を失う身となった。そして、将門が新たな本拠地に定めたのが常陸国の猿島(さしま)郡の石井(いわい)である。

将門は敗走した。民衆を見捨て、妻子を見捨てた将門であるが、武具は健在である。ゆえに、再度の武装に要する時間は短縮できる。新たな本拠地とした猿島で将門は良兼打倒の軍勢を整え始めた。
一方、良兼の元に捕らえられた将門の妻子がどのようになっていたかを伝える史料はない。一説によると、このとき捕らえられた将門の妻は良兼の娘であるという。だとすれば、この時代の戦闘で捕らえられた女性の人質に一般に見られたような運命、つまり、レイプの対象とされることはなかったのではないかとする説がある。とはいえ、将門側の史料にはレイプされそうになったときに自死を覚悟したため、貞節を守ることができたとあるから、未遂にしろ似たようなことはあったのであろう。
実の娘や孫であっても、良兼にとっては将門との決戦に対し重要なカードであるはずだった。ところが、その重要なカードであるはずの将門の妻子は捕らえられてから一ヶ月を経つことなく脱走に成功し、九月一〇日には将門の元に戻っているのである。実の娘と孫のことを思ってわざと逃がしたとする説もあるが、これは将門からの回答とするしかない。
良兼のことを卑怯千万と罵ったことで、将門は理論を手にした。卑怯千万な良兼は悪であり、その悪のもとに妻と子が捕らえられているので正義を持って救出することに成功したと宣伝したのである。

承平七(九三七)年九月一九日、良兼のほうが動き出した。状況は良兼有利であったのに、良兼のほうから動き出したというのは不可解である。もしかしたら、有効なカードである将門の妻子の脱走に慌てたのかも知れない。あるいは、過去二回の戦闘で勝利を収めていることから、ここで将門に勝利すれば、良兼は相当な可能性で将門にとどめを刺すことができると考えたのかも知れない。
だが、このときは将門のほうも軍勢を整えることに成功していたのである。良兼の軍勢は将門を攻めるどころかかえって迎撃され、筑波山に逃げ延びることとなった。逃走し、筑波山に追い込まれた平良兼は筑波山に陣を構え、それを見た将門は筑波山を包囲した。
ここで四日間の包囲戦が展開された。
通常、包囲戦というものは数日で終わるものではない。敵の消耗を図るべく、短くても一ヶ月、長いときは数年間に渡って敵陣を囲み、時間をかけて敵陣を兵糧不足に追い込むものである。包囲戦を仕掛けられると事前にわかっている場合は、兵糧不足にならぬよう前もって大量の物資を用意し、完全に孤立しないよう補給路を確保した上で、しばらくは籠城に耐えられるよう準備を整えておくものであるが、戦闘の末に追いつめられ包囲されたとなると、手持ちの物資しか使えないから包囲された場合の消耗度はより厳しいものがある。つまり、意図せず包囲されることとなった平良兼はかなり不利な状況にあった。
ところが、この包囲戦は四日で終わったのである。四日というのは通常の包囲戦と比べて異常なまでの短さというしかない。
この「弓袋山の対陣」について、将門側の史料は昼夜を問わず矢を放ち続けたとあるからずっと攻撃し続けていたのであろうが、これは包囲戦でもっともやってはいけない方法である。包囲戦は通常、包囲される側が高地に、包囲する側が低地に陣を構える。そして、攻撃というのは高地であればそれだけで優位になる。逆に言えば、低地からの攻撃は平面での攻撃より劣る結果しか残せない。矢の届く距離だって、高地から低地へは平面より長くなるが、低地から高地へは大した距離にならない。
だから、包囲戦で包囲する側になった者は、通常であれば攻撃などしない。長時間かけて相手が消耗するのをただ待つだけである。攻撃するのは相手の消耗が確認できたときであり、それまでの間は、包囲された側が包囲から脱出すべく繰り出す攻撃を受け止めるのに専念しなければならない。
それなのに、将門は圧倒的優位の局面を活かすことなく、低地からの攻撃を展開した。それも連続して展開した。これでは包囲している側が消耗するだけになってしまう。
将門側の史料は、この年が豊作であったために平良兼の陣に大量の物資があり、包囲戦を諦めざるを得なかったとある。だが、これも言い訳でしかない。この戦闘は明らかに将門の作戦ミスであり、先の二連敗も含めると、平将門の武人としての能力に疑問を抱かざるを得ない。もしかしたら、このあたりが、一〇年以上も藤原忠平に仕えながら最後まで位階を獲得できなかった理由かもしれない。
わずか四日で包囲戦を諦めた将門は、猿島へと戻る途中、平良兼の領地の農村に襲いかかって家や田畑に火を放ったとある。

戦闘を諦めた将門は朝廷の権威を頼ることとした。
かつての主君である藤原忠平に書状を送り、平良兼と源護、そして、その周囲の者が朝廷に対して反抗していると訴えたのである。
将門からの書状に対する朝廷内の議論の記録は残っていない。だが、朝廷が出した公式の通達ならば記録に残っている。
承平七(九三七)年一一月五日、平良兼と源護に加え、平貞盛をはじめとする合計六人が常陸国で内乱を起こしているという公式通達が出され、武蔵、上総、常陸、下野、安房などの国々に対して内乱の首謀者拿捕を命じたのである。そして、将門の軍勢は内乱を鎮圧する軍勢であるという了承も出された。将門の軍勢は朝廷のオフィシャルな武力ではないが、その行動は朝廷の意に合うものであるという宣言である。何とも中途半端なものであるが、このときの朝廷にとっての最優先課題は戦乱の沈静化であり、そのためには将門に御墨付きを与えるのが最も手っ取り早いと考えたのであろう。
だが、朝廷のこの宣言は完全に失敗であった。関東地方の各国の国司の元には確かに「反乱を起こした平良兼らを逮捕せよ」という朝廷からの命令が届いたが、一ヶ国としてその命令に従った国はなかったのである。
さらに、自分のほうが反乱者であると認定された平良兼もその命令にひるむ素振りすら見せなかった。
将門を打倒すれば全ては解決すると考え、次なる戦闘に向けて軍勢を整え始めた平良兼は、将門の新たな本拠地である猿島に向けてスパイを送り込んだ。
このときのスパイの名が子春丸であることは記録に残っている。子春丸はもともと将門の領地に住む農民であったともされ、猿島に出入りすることを誰も気に止めなかった。このときも、子春丸は炭を運び込んできた農民の一人であるとして将門の屋敷に入り、屋敷の周囲と内部構造、勤めている使用人の数、武具の置き場や馬の飼育場の位置とその規模、さらに、将門の寝室の位置も確認した。

この頃、朝廷では関東地方の戦乱を完全に忘れさせる大ニュースの対応に追われていた。
承平七(九三七)年一一月一七日、富士山が噴火したのだ。甲斐国から、富士山が噴火し溶岩が海にまで届いたと連絡が京都に届いたのである。
現在の富士山の北側には本栖湖、精進湖、西湖、河口湖、山中湖の五つの湖があり、この五つを総称して「富士五湖」と言うが、この富士五湖の名称は昭和二(一九二七)年に決まったもので、平安時代にはその呼び名がない。呼び名がないのは当然で、富士山の北部には複数の湖があること自体は知られていたが、その数は噴火の都度、さらには雨が降るか降らないかでも増減するから、総称に「五湖」と統一できるわけはなかったのである。
承平七(九三七)年の噴火で溶岩が海に届いたという連絡が京都には届いたが、駿河湾にも相模湾も溶岩は届いていない。溶岩が届いたのは「御船湖」である。だが、この御船湖は山梨県や静岡県の地図をどんなに探しても出てこない。出てこないのは当然で、このときの噴火で湖そのものが埋没してしまったからである。
この時代の感覚で行けば、天災とは時の統治者に対して天から下したサインである。良くない統治者であるから新しい統治者に変えよというサインであり、天災をきっかけとした政権交代は珍しくもない。
それ以前に、関東での戦乱と瀬戸内での海賊の跋扈は、これ以上無い政権交代の材料なのだが、この時代の京都では誰一人そのような行動を起こしていない。
考えてみれば、忠平にはライバルと呼べる人材がいない。強いて挙げれば兄の仲平ということになるが、時平の死の直後こそ忠平に対抗しうる存在であったものの、今では忠平政権を支える人間の一人になってしまっている。
忠平の政権はこれ以上無く盤石だった。より正確に言えば、忠平に対抗しうる存在が誰一人おらず、また、現代の選挙のように政権交代を実現するシステムもなかった。政権安定が全てにおいて優先され、人材も政権安定を前提として配置する。優秀な人間も政権安定に関係ないとなれば放逐されるし、優秀でない人間はもっと放逐される。こうなると京都内部で自浄作用は働かない。
自浄作用のシステムがないのに政権が変わるとすれば、ゼロから新しい勢力が生まれるしかないが、その新しい勢力を生み出す土壌もなかった。全国規模で組織化された集団などなく、中央からの支配を受け入れない自分たちの生活を守るための地方勢力を築くことはできても、その勢力を拡大させて中央にまで影響を与える勢力となることは無かったのである。自分たちの生活を守るために武士団を形作ることはあったが、あくまでも自分たちの生活を守るのが大前提で、いかに名を馳せようと所詮は地方の小さな勢力。国全体を動かすような勢力にはなれなかった。 
25
承平七(九三七)年一二月一四日、平良兼が、将門の新本拠地である常陸国猿島郡石井に夜襲をかけた。大規模な軍勢で襲いかかるのではなく、およそ八〇騎の兵士を厳選しての襲撃であった。
将門はこれまでの戦闘で何度か、相手の襲撃を事前に察知して迎え撃っている。迎え撃っているということは、攻め込む側からすれば、自分たちの行動が事前に読まれただけでなく、行動に時間をかけてしまっているため迎え撃つための準備の時間を将門に与えてしまっているということである。
ゆえに、将門への襲撃をするならば、事前に軍事行動を察知される可能性のない少人数での行動とし、同時に、計画立案から遂行まで、さらに遂行そのものにかける時間も短くする必要がある。その結果が、少人数での将門の邸宅の襲撃であった。
しかも、事前にスパイを放って将門の屋敷の様子を把握している。普通に考えれば平良兼はかなりの可能性で夜襲に成功していなければならない。
ところが、この夜襲は失敗したのである。しかも、このとき将門の屋敷にいたのは多く見積もってもせいぜい二〇人、うち、武器を持って戦える者となると一〇名が精一杯という状況であった。
失敗した理由は二つ。一つは、将門のほうも良兼の軍勢の中にスパイを紛れ込ませるのに成功していたことである。同じスパイでも、良兼は将門の邸宅の内情視察に留まったのに対し、将門は良兼の軍勢そのものの情報を掴めていたのである。実際、夜襲の情報を聞きつけた将門は夜襲への対処を命令している。しかも、このスパイは良兼の軍勢の行動を意図して遅くすることに成功していた。夜襲そのものの中止はできなかったが、軍勢の歩みを遅らせ、良兼の軍勢が将門の屋敷に着いたときには朝日が射し込む時刻となるまでになっていたのである。
もう一つの失敗の理由は、将門が自分の情報をスパイに盗まれたと知ったことである。スパイが屋敷の情報を掴んだことを知った将門は、屋敷の内外の改造を行い、容易に攻め込ませないよう要塞化させたのである。
この二つの理由のうちの後者は将門の軍勢の現状を考えた末の結果でもあった。
繰り返すが、この時代の武士は職業軍人ではない。本業はあくまでも農民であり、武装して戦場に出るのはあくまでも緊急時のみ。将門の元に集って戦闘に参加する武士たちも、平時は将門の領地に住む領民であり、領民にはそれぞれの生活がある。平良兼らとの戦闘が続いていて、いつ攻めこまれるかわからないのは事実であるが、領地の人々を住まいから切り離し、常に武装させて将門の屋敷内に留め置くことは、領民の生活を破壊することとなるのだ。
事前に攻め込まれることがわかっている上に、夜襲かと思っていたら攻め込んできた側の行動が遅れ、朝を迎えたおかげで攻撃を目視できる明るさになっている。歴史家はこの戦いを「石井の迎撃戦」と呼ぶが、ここで展開されたのは、戦闘と言うには憚られるほどの小競り合い、あるいは、将門側からの一方的な攻撃であった。
将門側の被害の様子は伝わっていないが、平良兼はこの戦闘でおよそ四〇名の部下を失っている。少数精鋭で臨んだら、その精鋭の半分が命を落としたのだ。また、残りの兵士たちも隊を整えての退却ではなくバラバラな敗走になった。
平良兼が送り込んだスパイの子春丸は、この戦闘に参加し命を取り留めて敗走したものの、翌年の一月三日に捕らえられた。捕らえるときに殺されたか、それとも、引き出されて殺されたかはわからない。史料には天罰が下り、捕らえられて殺されたとだけ記されている。

夜襲失敗は平良兼にとって大誤算だったが、良兼の元に身を置く平貞盛にとっても大誤算であった。
朝廷から敵と扱われ、失地を挽回すべく将門に戦闘を挑むも敗れ、多くの精鋭を失っている。自分たちは、正当性もなければ人望もなく、未来への希望も乏しい集団になってしまったのだ。
貞盛がこの状況を打開すべく選んだのは、京都に向かうことであった。京都に向かって関東地方における混乱を述べ、将門の書状だけから判断された現在の状況、すなわち、将門の行動のほうが朝廷の行動であり、将門に対抗する自分たちは朝廷の敵であるという状況を逆転させれば、立場は好転する。
それに、将門がいかに太政大臣藤原忠平とつながりを持っていようと、理論上、将門は無位無冠の一庶民に過ぎない。一方、貞盛には朝廷の公的な地位がある。地方の状況を自ら伝えるのは職務として何ら不都合はないどころか、それを妨害することのほうが律令違反となるのだ。
これは将門の立場からすれば大問題であった。将門は朝廷の権威を利用して領地と領民を増やしていたのである。今までの生活を捨てて将門の元に向かうことにためらいがある者も、今までの生活のほうが朝廷に逆らう生活であり、朝廷に従う生活にするためには将門の元に向かうことだというお墨付きがあればためらいも薄らぐのだ。
将門が利用してきたこの法的根拠を全否定する貞盛の行動は、将門にとって許せるものではなかった。そのため妨害に打って出ることとした。
通常、常陸国から京都に向かうには東海道を通る。ゆえに、将門も東海道で貞盛を待ち構えて京都行きを阻止することにした。
しかし、将門の思惑は失敗した。その道は二つの点で問題があったのである。
第一に、貞盛の方も将門が東海道で待ち構えているぐらいわかっている。戦闘で自分を負かせた相手が待ち構えているのに誰が好きこのんでその道を選ぶか。
第二に、前年末の富士山の噴火があり東海道は通行止めになっている。これではますます東海道を選びようがない。将門はもしかしたら富士山噴火が東海道を通行止めとさせたことを知らなかったのかも知れない。
東海道で待ち構えているのに貞盛がやってこないので、調べてみたら貞盛は東海道ではなく東山道を選んでいたのだ。上野国から碓氷峠を経て信濃国へ向かうルートを選んでいたのである。
碓氷峠は大和時代にはすでに交通の要衝として存在しており、東海道の足柄峠とともに、これより東を「板東」とし、太宰府を中心とする西国の警備に当たる防人の供給地として定義されていた。この時代の碓井関の周辺は、豊かな農民が武装して一大勢力を築いていたという記録もあり、それらの勢力の中には京都へ送り届ける税を着服し、あるいは奪いに来る集団も発生していたため、昌泰二(八九九)年には碓氷峠に関所を設置したほどである。
軍勢の移動スピードの早さで何度も戦闘を優位に勧めてきていた将門はこのとき、碓氷峠に先回りをし、難攻不落の要塞とも言われていた碓井関に陣を構えて平貞盛を迎え撃つことを計画した。だが、いかにスピードに定評があろうと、山岳地帯の移動は容易ではなく、碓氷峠に着いたときにはすでに貞盛が碓井関を通過して信濃国に入った後だったのである。将門のプランはこれで大きく崩れた。
それでも将門は信濃国内に軍勢を進め貞盛を追撃したのである。それも、一〇〇騎の騎馬を厳選しての、スピード優先の追撃であった。
承平八(九三八)年二月二九日、将門の軍勢はついに貞盛に追いついた。場所は信濃国小県郡の国分寺付近である。ここで貞盛の一行と将門の軍勢との戦闘が起こった。これを「信濃千曲川の戦い」と歴史書は記している。将門側の軍勢は一〇〇騎ほど、貞盛はもう少し少ない軍勢であるから、大軍が入り乱れての戦闘というわけではない。だが、人数は少なくとも、戦闘は激しいものがあった。
この戦いで、貞盛の側近の一人で、貞盛とともに京都に向かっていた他田(おさだ)真樹が戦死。一方、将門側も文屋好立が重傷を負った。
戦況は一進一退となったが、気づけば貞盛がいなくなっていた。戦闘の激しさから数名の者が戦地に倒れ、何人かの武士が馬で戦場を離脱したが、その中の一人が貞盛だったのである。
これは貞盛のプランでもあった。真正面から将門とぶつかって勝てる見込みは少ない。そして、現時点で優先すべきは京都に向かうことであり、将門と戦闘することではない。ゆえに、将門の追撃から逃れるために戦闘に打っては出るが、自分は敵前逃亡する脱走兵のふりをして一路京都に向かうというのが貞盛のプランであった。
戦闘を優位に進めながらも、気がつけば戦闘の目的である貞盛が姿を消しており、本拠地を遠く離れた信濃国内では孤立無援も同然。もはや追撃も不可能という事態になったことを悟った将門は大いに悔しがったという。 
26
その頃の朝廷はどういう状況であったか。
先に藤原忠平には政治上のライバルがおらず、その政権は安定を保っていたと記したが、もしライバルがいたとしても、現状の問題を見ると政権交代は得策ではない。
何しろ問題がこれ以上なく山積みなのだ。
一つは、天災が連なっていたこと。前年の富士山噴火に加え、承平八(九三八)年四月一五日、京都でマグニチュード七の大地震が発生した。地震は京都をはじめとする各地で大勢の死者を生じ、特に高野山では多くの建物が損壊する被害を生んだ。その後も余震が多発し、市民の間に動揺が広がっていた。
二つ目は、人災が連なっていたこと。その中でも最たるものは瀬戸内海を荒らし回っている藤原純友である。以前から純友の暴れまわる様子は京都に伝わっていたが、この年は純友だけでなく、各地で反朝廷の報告が上がるようになっていたのだ。朝廷に対する反発は税収の不足となって現れ、京都市中に出回るコメの量が激減した。
それらの結果、地震からの復興のために各地から義援金を求めるようなシチュエーションであったにもかかわらず、義援金どころか京都から資産が減っていったのである。
富士山噴火からの復旧はまだ進んでいない。
京都には東西から反乱の知らせが届いてきている。関東は武士団同士の争い、瀬戸内海は海賊の跋扈。
その上、この年は不作で、餓死するという知らせも届いたし、収穫できなかった田畑を捨てて、生きていくために京都に数多くの失業者が流れ込んできているという知らせも届いていた。
平和とは縁遠く、豊かな暮らしともかけ離れている。国家財政はとっくの昔に底をついたが、財政を立て直そうと税を集めようとすると、豊かな荘園からは徴税できず、徴税できる田畑に対しては法外な税率となってしまう。
誰もが現実の政治に絶望していたが、少なくとも京都では、新たな権力者を求めた者はいなかった。それは何も忠平を支持したからではない。忠平にとって替わる勢力が無かったのだ。多少成りとも国政に携われる人間は、忠平の元で働く一人となるしか国を指揮するという使命を果たせないと考えていた。誰もが政権交代など考えなかったのである。その政権の生み出した人災でもありながら、その政権を倒す方法がない。政権交代に対する規定もなければ慣習もなく、政権交代可能な受け皿もないのがこの時代である。
政権の安定を求め、長期政権を築き上げる。それは政策の連続というメリットがあるが、現実のほうが政策に合致しないときに政策を改めさせる要素を持ち合わせていないままの長期政権は、ボロボロの状態で立ち続けなければならないという宿命がある。倒れた後で交代する新たな政権がない以上、いかにボロボロであろうと、今の政権が維持し続けるのは宿命とするしかない。
色々言われようと二大政党制で国政を成り立たせている国が多いのも、選挙での焦点として、新しい政策ではなく、これまでの政策の継続にYESがNOかを突きつけられるところにある。YESならば政権は続くし、NOならば政権は交代する。民主党に政権を担う能力がないことが露呈した以上、これからの日本で二大政党制が成り立つかは怪しいところがあるが、少なくとも制度としては政権交代が可能である仕組みが存在している。
一方、この時代の藤原独裁には二大政党制の欠片も見えない。権力を握るのは藤原氏とその周辺だけであり、藤原氏に抵抗する勢力がないのだ。かつて一大勢力を築いていた律令派は今や影も形もなく対抗勢力とはなりえない。対抗勢力をあえて探すとすれば反乱をしている関東の平将門や瀬戸内の藤原純友ということになるのだが、この時代の京都の人たちにとって、後者は無論、瀬戸内で暴れ回っているただの海賊。そして前者は、関東で暴れ回っている山賊である。ここに期待など抱けない。
朝廷はどうにかしようとしたのだ。だが、朝廷にはもはやどうこうできる余力もなくなっていた。
承平八(九三八)年五月五日、右大臣の藤原恒佐が死去。六〇歳での死である。
承平八(九三八)年五月二二日には改元を実施。新元号は「天慶(てんぎょう)」。どうにもならない混乱を抑えるために残された数少ない手段であったが、これもまた、混乱を抑える効果はなかった。それどころか改元の情報も届かず、地方ではかなり長い間「承平」の元号が使われ続けたほどである。ちなみに、このときの改元を挟んでいるため、平将門や藤原純友の起こしたことを「承平・天慶の乱」という。
人々は現実に嫌悪感を抱き、精神世界へと逃げ出すようになった。天慶元(九三八)年八月六日には京都で大きな余震が起こり、復旧中の工事現場で倒壊が相次いで再び多くの死者を生じさせている。このときの京都の人たちの救いとなっていたのが、神仏とは寺院や神社だけのものではなく、この世の全てを救う存在であると説き、念仏を唱えれば救われるとの教えを広めた空也である。空也の存在が京都市内で確認できるようになったのも天慶元(九三八)年のことであった。

私の作品では一貫して「国司」という書き方をしているし、当時の人もそう考えていたのだが、「国司」には二種類ある。
一つは「守(かみ)」。本来の意味での国司はこちらで、その人の役職が武蔵守なら武蔵の国のトップはその人であるし、その国に対する全責任もその人のところに行き着く。
しかし、国が大きいときは一人で統治しきれない。そのため、大きな国であると判断される国に、「守」のサポート役として派遣されるのが「介(すけ)」で、その日本語の読みからもわかるとおり、本来は「守」の補佐をすることが職務である。本来の意味で行けば「介」は国司でなく副国司となるところだが、その国の「守」が名誉職のため「介」が事実上のトップである国や、「守」が京都からやってこない、あるいは体調の問題などで動けないなど、「介」が国の統治を引き受けなければならないときは「介」が国司となる。
武蔵国は「守」と「介」の二人の国司がいる国であった。
そして、年の明けた天慶二(九三九)年一月には武蔵国特有の問題が起こっていたのである。
武蔵国というのは、現在の東京都と埼玉県、そして、神奈川県の川崎市と横浜市の大部分を占めており、現在ではこの地域だけで日本の人口の四分の一を占めるという都市部中の都市部である。この時代はさすがにそこまでの人口などなかったし、そもそも東京という都市など無かったから都市部ですらなかったのだが、それでも有数の面積と人口を有する国ではあった。そして、武蔵国の国府は現在の東京都府中市に存在していた。
地図だけで見れば府中は確かに武蔵国の中央あたりである。だが、人口を考えれば西に寄りすぎている。これは、武蔵国東部に住む人々にとって見れば、自分の知らぬ土地に住む二人の国司が自分たちの税金を吸い上げているという感覚を生むのに充分であった。
この反発感情を押しとどめていたのが、武蔵国で最大の人口と経済力を有する足立郡の郡司である武蔵武芝(むさしのたけしば)であった。正式な武蔵守は空席であり、武蔵介源経基とともに武蔵国の統治も引き受けていたのが、この武蔵武芝なのである。「守」がトップで、「介」が次席とするなら、武芝の地位は武蔵国のナンバー3というところか。
足立郡は現在の東京都足立区だけでなく、埼玉県鴻巣市から東京都中央区に至る南北に細長い地域の郡である。現在の感覚で行けば高崎線や京浜東北線沿線の一帯と考えればいい。この足立郡の郡司が国司代行として武蔵国全体の統治をすることは、それまで遠く離れた国司に一方的に税を奪われるだけと考えていた人たちにとって、自分の意を受けてくれる人が統治するようになったことを意味する。さらに、隣国の戦乱の影響を最小限に押しとどめ、公平な税の徴収と治安安定で実績を残していることもあり、足立郡の住民からだけでなく、武蔵国全体で武蔵武芝は高い支持を受けていた。
ただし、郡司の身分で国司としての職務を果たしているというのはイレギュラーな事態であり、朝廷としては、正式な武蔵守を任命する前の臨時の武蔵守を任命する必要があった。そこで、皇族でもある興世王が武蔵権守として武蔵国に赴任することとなった。
ここまでは問題なかった。
ところが、武蔵権守興世王から武蔵国に指令が飛んだのである。自分宛への税を納めよという指令である。武芝はこれを拒否。これまでの高率の税に対し、脱税をしてでも生活を守ってきた武芝にとって、税を納めさせよという命令は受け入れがたいものがあった。ただし、興世王の側にも言い分はある。法は法であり、その法に則っての税を納めていないのが武蔵国である。法に基づいた税を納めなければ武蔵国の財政、ひいては国家財政にも大きな影響を与えてしまう。
興世王の出自はよくわからないが、興世親王ではなく興世王であることからも、皇族ではあるのだが皇族としてのランクは高くないことが読みとれる。つまり、自動的に記録に名を残せる身ではなく、自分から行動を起こさないと記録に名を残せない立場であり、名を残せない程度の活躍に留まっていたがゆえに出自がよくわからないという結果になっている。
皇族には三つのランクがある。最上位に来るのは天皇と天皇に準ずる皇后、皇太后、太皇太后、そして、上皇。次に来るのは、天皇になる資格を持つ親王。皇太子は正式な地位ではあるが天皇ではないと判断されるので、あくまでも皇族のランクとしては上から二番目の親王に留まる。これは男性に限らず、女性であっても天皇になる資格があれば、内親王として上から二番目に叙せられる。そして、天皇になる資格を持たないただの「王」が来る。「親王」ではなく「王」となると、皇族といっても一般の貴族と同様の扱いを受けることが多く、その運命も皇族としての特別扱いではなく朝廷に仕える一個人としての才能に寄ることとなる。
ちなみに、外国の最高権力者も「王」として認識されており、国外から日本に使節が派遣された際も、天皇と同等の者からの使者ではなく、天皇より2ランク低い者からの使者として扱われる。
話が逸れたので元に戻すと、興世王にとっての武蔵国赴任は、自分の人生に転がり込んできた一世一代のビッグチャンスであった。武蔵国からの税収の乏しさは以前から知られており、ここで、法に基づく徴税ができれば、興世王はその他大勢の皇族から、目を向けられる皇族へ、さらには一つ上のランクの親王になれるチャンスなのである。仮に皇族から離脱しなければならなくなったとしても、王のままでは「平」の姓を名乗らなければならなくなるが、親王になれば「源」の姓を名乗れるのだ。
このビッグチャンスに興世王は全力で向かった、いや、向かいすぎてしまったのだ。武力を用いての強制的な徴税が始まったのである。
武蔵国の人たちは武芝に支援を求めたが、武芝は迎え撃たなかった。武芝が武人であったという記録はないが、この時代の常として、自領を守る軍勢はいつでも組織できているはずである。そして、武芝のもとには興世王に対してならばいつでも戦えると意気込む、強制徴税の被害者たちがいたのだ。
しかし、ここで迎え撃つのは最悪の結果をもたらすことになる。武蔵国は隣国の常陸や下総で起きている争乱から逃れることに成功していたのである。それはひとえに武芝が戦乱の芽をかなり早い段階で摘んでいたからであり、おかげで、隣国では血なまぐさい戦闘が日常の光景となっていても、武蔵国では平和な日常を展開できたのだ。今の武芝の集めることのできる軍勢は興世王の軍勢とほぼ等しい。これでは戦闘に打って出た場合、膠着状態となり、武蔵国を下総や常陸と同様の終わることのない戦乱の大地にしてしまう。 
27
平和というのは、経済を発展させる最重要要素である。もっと言えば、他の国が戦争をやっているのを後目に平和を満喫する環境というのは、経済をめまぐるしく発展させる。このときの武蔵国はまさにその状態であった。隣国が戦争をしていて生活が困窮している。そして、武蔵国は脱税をしているおかげで生産に余裕があり、物が余る。つまり、武蔵国で生産した物品を、戦乱に明け暮れる下総や常陸に売れば相当に儲かるのだ。それが、武蔵国のさらなる経済的発展を呼び、武蔵国の人たちはこの一〇年、目に見えて自分の暮らしが良くなってきたことを実感できたのである。これが武芝の功績であった。
それが、興世王によって瓦解した。興世王は法に基づく税を求め、払えないと言う者は、家財道具も、着ているものも、さらには家そのものも情け容赦なく没収したのである。無論、倉に蓄えたコメなどは真っ先に没収している。武芝にとっては、正義の名を盾に税を取りまくる興世王がこれ以上なく目障りな存在であったろう。そして、自分の元に逃げてくる者が日に日に増えているという現実もあった。
武芝はなんとしても戦乱をくい止める必要があった。そのために将門への接近を図ったのである。
貞盛を捕らえることができず、本拠地へと戻っていく将門の元に武蔵武芝からの書状が届いた。

興世王は良かれと思って税を集めたが、待っていたのは領民からの激しい反発であった。国府の前に興世王を非難する匿名の手紙が置かれていたことは、興世王のプライドを大きく傷つけた。そして、武芝の元に多くの領民が詰めかけて一大勢力を築いているだけでなく、武蔵武芝が近頃名を馳せている平将門と接近したという知らせまで届いた。
この状況でなお徴税を進めるほど、興世王は愚かな男ではなかった。興世王は武芝との和睦に応じたのである。
それにしても奇妙な光景である。国司である興世王が、郡司である武蔵武芝と対立して戦闘状態寸前に至ったのみならず、この二者を仲介したのが、無位無冠の一庶民でしかないはずの、しかも、武蔵国の住人ですらない平将門である。
興世王も、武芝も、戦闘をしたくないという思いでは一致している。この状況では和睦も実に簡単に結べるはずであったし、実際、和睦は成立寸前にまで至ったのである。
ところが、この和睦を乱す行動に出た者が一人いた。
武蔵介の源経基であった。武芝が武蔵国のナンバー3として武蔵国の統治をしていたのはすでに記したとおりであるが、ナンバー2である源経基の記録はほとんど残っていない。京都から武蔵国にナンバー2として派遣された直後は活躍する気に満ちていても、先祖代々武蔵国に住み、足立郡司の職務を世襲してきた武蔵武芝が武蔵国を統治しているという現実の前には黙り込むしかなかったのだ。そして発生した興世王の赴任と、興世王と武芝の対立。経基は興世王の側に立って徴税に励んだ、記録によっては興世王以上に徴税に励んだとあるが、気がつけば自分の知らぬところで興世王が武芝と和睦を結ぼうとしている。そこには自分への相談など一言もない。いつでも戦乱に打って出るという準備をしておき、武士を集めて軍陣を敷いていたところで耳にした和睦交渉開始の知らせは、経基を絶望させた。自分はいったい何をしてきたのか、何のために興世王の側に立ったのか、どうして自分だけが軍勢を率いて陣を敷いているのか、と。
源経基は、軍勢を率いて行動を開始した。ただし、戦闘に打って出たのではない。一路京都へと向かったのだ。狙いは一つ。武蔵武芝が平将門と組んで反乱を起こしたと訴え出るためである。これで和睦は破談となった。ただし、興世王も、武蔵武芝も、戦闘どころではない大事態となったと判断したため、和睦宣言は出なかったものの戦闘状態はひとまずの落ち着きを見せた。

前年の平貞盛に加え、源経基も京都に向かった。二人とも将門の反乱を訴えるための上洛である。
偶然が重なった不運であるが、将門にとっての不運はこの他に二つあった。天災と人災の連続である。
以前から悪化している天災も人災も、沈静化どころか前より悪化している。前々年には富士山も噴火したことで、人々は終わることのない絶望が続いていると考えるようになってしまった。このような状況下で将門の反乱の知らせが届いたのである。平時では慎重な吟味がなされる状況であろうが、これでは慎重な吟味など期待するほうがおかしい。
ただ、この情報が伝わった後の行動が不可解である。摂政藤原忠平は、軍勢を指揮するのではなく、神社や仏閣に対し平穏を祈るように命じたのだ。これは京都の軍事力の限界でもあった。各地から京都目指して強盗団が押し寄せている中、検非違使をはじめとする京都の武力は、そうした強盗団から京都を守るために京都の外の関所にかり出され、かえって京都市中から武人の姿が減ったほどである。それでも、強盗団はいつの間にか京都市中に押し入り、各地で強盗を繰り広げるに至った。
強盗が広まったのは京都とその周辺だけではない。天慶二(九三九)年四月一七日に出羽国の秋田で俘囚が反乱を起こし、秋田城の軍と交戦したことが届いたのである。連絡が届いた直後に反乱を鎮圧するよう指令が飛び、そのときの京都で取り得る最大限の軍事行動を展開した。もっとも、京都の治安維持のための軍勢を関所に配置してかえって京都市中の治安を悪化させたぐらいであるから、最大限の軍事行動と言ってもその規模はたかがしれている。なお、史料によれば、このときの反乱には俘囚だけではなく「異類」の一隊がいたという。この「異類」が日本海の向こうからやってきた異民族とする説や北海道のアイヌであるとする説もあるが、その詳細はわからない。

京都で朝廷が自分を反乱軍と規定したことを将門はまだ知らない。しかし、想像は容易に出来る。かなりの可能性で平貞盛と源経基が自分の反乱を訴え、その主張を聞き入れた朝廷が将門を反乱軍と断定し、自分に対する何らかの処罰を下したであろう。
これに対する将門の反応は天慶二(九三九)年五月二日に現れる。常陸、下総、下野、上野、そして武蔵の五ヶ国の解文を入手し、将門の行為は反乱ではないという国司からの報告を送り出すことに成功したのである。その上で、将門自身も今までと同様朝廷への忠誠を誓うことを宣言した。
しかし、この時代の情報の届くスピードは現在と比べものにならない遅さである。五月二日に将門が朝廷への忠誠を誓う書状を発送したとしても、京都に届くのは早くても月末になってから。
将門からの書状が届く前に京都に届いた情報は、平貞盛と源経基からの、将門反乱の情報だけである。しかも、臨時の武蔵守である興世王が、反乱の首謀者である武蔵武芝と和睦を結ぼうとしただけでなく、無位無冠の庶民である平将門を和睦の仲介者としたのである。これは朝廷権力そのものの否定になるのだ。
この情報を耳にした藤原忠平は、五月一七日、武蔵守に百済王貞連を任命した。久しぶりに公式記録に百済王の名が記された例でもある。
百済王貞連と興世王は全くの見ず知らずの関係ではない。婚姻関係により親族であったと記録に残っているから、お互いがお互いのことをわかっている間柄ではあったろう。その百済王貞連が新しく正式な武蔵守として武蔵国に赴任することを知った興世王は動揺を見せた。
六月に入り、新しく武蔵守となった百済王貞連から、武蔵守に対する指令が飛び込んできた。興世王を罷免し、武蔵国内の全ての者は興世王との関係を絶つようにという指令である。これで興世王の動揺はさらに高まった。百済王貞連が自分のことを知っているといっても、それは和気藹々とする関係ではなく、緊張をみなぎらせる関係であった。百済王氏は貴族としての地位こそ低いが、対外的な名目では、百済王と、親王ではない皇族とは同列である。普通の者であればただただ黙り込むしかない皇族であっても、百済王だけは対等の関係となりうる。ただし、それはあくまでも名目上であり、実際の百済王は三流貴族とするしかない。つまり、対等であるはずの興世王が自分より目上であるという鬱屈した感情が百済王貞連にはあったのだ。
それが今や、自分が正式な国司で、興世王は反乱者と手を結んだ朝廷の敵である。これは百済王貞連にとって、これまでの鬱屈した感情を一気に爆発させ解消できるチャンスを手にしたということである。実際、百済王貞連からの命令の第二報は、犯罪者興世王に対する出頭命令である。
これで興世王の決意は決まった。京都の敵と見なされてしまった以上、その汚名を晴らすまで何らかの手を打たなければならない。それが平将門の元に身を寄せることであった。それまで武蔵国に対する影響をほとんど持っていなかった将門であるが、評判は高かったのだ。常陸の猿島の平将門こそ、関東随一の武将であるという評判が。それにしても、ついこの間までの平将門は、興世王にとって敵の味方であるがゆえに敵であったのだ。その敵に身を寄せるというのだから、興世王の決意は相当なものがあったであろう。
一方、頼られた将門のほうは困惑した。ついこの間、朝廷への忠誠を誓う書状を送ったばかりである。それなのに、朝廷の敵とされた興世王が自分を頼ってきたのだから、ここで受け入れてしまうと朝廷への忠誠のほうが偽りになってしまう。ところが、世論を考えると興世王を突き放つなどできなかった。一触即発であったはずの武蔵国の平和を維持したことに加え、武蔵国の生活再建に成功したことで、興世王はそれなりの支持を獲得したからである。
強引なまでの徴税も、その税を朝廷に向けて送るのではなく、ましてや興世王の私財としてため込むのでもなく、武蔵国の領民の生活支援に使ったことで、徴税に対する理解も獲得できたのだ。親を失った子も、夫を失った妻も、それまでは自己責任の名の下に突き放されていたのに、今では興世王からの援助で人間らしい暮らしを送れるようになっている。この現実を目の前にしたら、厳しすぎる徴税ではあったが、その徴税に耐えたことも無駄ではなかったと、そして、自分の納めた税が役に立っていると実感できる。平和も維持できたし、和睦は成立しなかったがそれは武蔵介の源経基のせいであり、興世王も武蔵武芝も、そして平将門も世論の支持を獲得できていたのだ。
その興世王を朝廷の敵として召還するという命令を受け入れるなど世論が許さなかった。 
28
将門は板挟みになっていた。このまま朝廷の敵であるという状況を受け入れた場合、待っているのは身の破滅である。現状のまま放置しても問題を先送りにするだけで何の解決も見ない。かといって、朝廷の命令を受け入れるのでは自分の存在理由が失われる。藤原忠平に仕えていた名も無き武人の平将門はもういない。ここにいるのは、領地を支配し、領民の平和と暮らしを守る地方の荘園領主である。
しかも、領地こそ常陸国の猿島とその周辺に留まるが、自分を頼る者は下総からも、下野からも、そして武蔵からもやってくる。現状を打破する希望の存在として将門は存在するようになってしまっているのに、その全てを断ち切って朝廷に仕える一官人となるのは、単なる裏切りではなく自己の存在理由を否定することになってしまう。
この苦悩にさらに拍車をかけたのが、天慶二(九三九)年六月の平良兼の死去である。
六月に入り自らの体調不良を感じた平良兼は、髪を切り落とし、僧籍に入って時を迎え、そして、死を迎えた。夜襲の失敗を最後に直接的な行動を起こさなくなったとは言え、死の直前まで良兼は将門の敵であり続けた。死に臨んでも将門打倒を訴え続け、臨終を看取った息子たちに将門を討ち滅ぼすよう遺言を残したのである。
本来ならば平良兼の死で将門に対抗する平氏の勢力はいなくなるはずであった。色々と評判はあろうと良兼は集団をまとめるリーダーとしての能力を持っており、良兼の元に武士たちは結集していたのである。単なる将門打倒だけで武士たちがまとまるわけはない。良兼が集団として武士たちをまとめ上げ、武士たちの日々を保証し、領地を保証したからこそ集団として維持できたのである。その良兼が亡くなったのだから軍勢は瓦解すると考えるのが通常である。しかし、良兼側の平氏たちにとって、将門の元に下るという選択肢はあり得なかった。これまで将門に対して抵抗し続けてきて、今になって主君を裏切って将門の元に下るなどあり得ない話である。それに、将門が領地と領民をいかに良く統治していようと、将門はこれまでの戦闘で数多くの人を殺し、家を焼き、田畑を荒れさせている。そうした人たちにとっての将門は不倶戴天の敵であり、将門に逆らう良兼のほうこそ正義であった。
誰かが言い出したわけではない。だが、良兼の臨終を目の当たりにした誰もが、京都にいる平貞盛をリーダーとする集団としてこれからも自分たちを存続させることを誓い合った。
良兼の死を聞いた将門に安堵の表情などなかった。敵は敵で存在し続けていると感じ、これからもなお争いが続くことを改めて実感した。

天慶二(九三九)年六月二一日、陸奥国に兵士を移送するよう解状が奏せられる。秋田での反乱に対する朝廷からの指令である。
天慶二(九三九)年七月一八日には出羽国あての官符が二枚発せられ、国庫の武器や防具を軍士に与えること、正税穀を兵糧とすること、兵士を鍛え上げ反乱軍を殲滅すること、練兵し賊徒を追討すること、秋田城介源嘉生は今回の責任をとるために譴責処分を下すことが指示された。
この二つの命令は、このときの朝廷の優先事項が見て取れる。
最優先は明確な反乱となっている秋田の俘囚であり、瀬戸内の海賊も、関東地方の争乱も、優先順位は低い。
これは、戦争か、犯罪かという違いである。
平将門も、藤原純友も、所詮は犯罪者なのである。今もなお名の残る人物であり、その影響も決して小さなものではないが、やっていることは犯罪なのだ。戦争を名乗るから人殺しも放火も略奪もあるが、戦争ではなくただ単に強盗集団が暴れているだけと考えれば、それは迷惑千万であっても優先度の高い案件ではなくなる。何しろ秋田で起こっていることは国家に対する反逆なのに対し、関東や瀬戸内で起こっていることは武士同士の争い。民間人の被害者もいるが、今の感覚で行けばヤクザ同士が銃や刀を持って暴れ回っているのと同じである。
ただ、藤原純友も平将門も、自分をそのように考えてはいない。純友は国家に対する対抗であると考えていたし、将門は自分のほうこそ朝廷の意に基づく行動をする者であって、自分に敵対する者のほうが朝廷の敵だと考えている。どちらも自分を単なる犯罪者であると客観的に考えるわけはなかった。
藤原純友のこのときの行動は史料の不備が多く不明なところが多い。しかし、将門のほうはある程度記録が残っている。
将門自身は認めたくなかったが、周囲は将門のほうを反朝廷の勢力と考えるようになり、朝廷に睨まれた者が将門を頼るようになったのだ。図式は単純化したのである。平貞盛を中心とする勢力は朝廷側の勢力であり、平将門を中心とする勢力は朝廷の敵である、と。
一方、貞盛は厳しい状況にあった。いかに自分の勢力が関東にあり、それが朝廷の信任を得た勢力であるといっても、一大勢力となりつつある将門の軍勢の前には歯が立たないと実感していたのだ。
平貞盛がいつ領地に戻ったのかの記録はないが、天慶二(九三九)年六月の平良兼の死には立ち会っていないから、戻ったのは早くても天慶二(九三九)年六月末、普通に考えれば七月ぐらいと推定される。
そして、貞盛はそれから四ヶ月間に渡って姿を消すのである。将門は貞盛を捕らえようと常陸国内に何度も手勢を派遣しているが、その全てから逃れるのに成功している。かといって、一カ所に留まっていたわけではない。貞盛が次に記録に登場するのは天慶二(九三九)年一〇月になってからだが、その場所は何と下野国府。新たに陸奥国司に任命された平維扶(たいらのこれすけ)とともに陸奥へと向かう集団の中に平貞盛がいたのである。将門の情報収集能力は、下野国府を出て陸奥へと向かう平維扶の集団の中にも延びたが、将門の元に返ってきたのは、平貞盛が集団を離脱し、その所在が不明になったという記録である。このあたりの将門と貞盛の行動は下手なスパイアクション映画の上を行っている。

朝廷の敵と断定された将門と手を結ぶこととなったのが、常陸国で広大な荘園を経営していた藤原玄明(ふじわらのはるあきら)である。朝廷側の史料には、朝廷の命にも、常陸国司にも従わず、広大な領地に住む領民から高い税を徴収して私財を肥やした極悪犯罪者と記されているが、本当のところはわからない。また、常陸国に広大な荘園を所有していたという記録はあるが、それが常陸国のどこなのかもわからない。
藤原玄明が将門を頼ることにしたのは、常陸国でも武蔵国で興世王が行ったのと同じことが起きていたからであった。新しく常陸介に任命された藤原維幾(ふじわらのこれちか)は法に基づく税を納めさせようとし、それまで納税を拒否してきた藤原玄明は武力でもって徴税しようとする藤原維幾の軍勢の前に戦闘を諦め、手勢を率いて将門の元にやってきたのである。なお、将門の元にやってくる途中で郡の倉庫を襲ってコメをはじめとする物資を略奪してきており、朝廷の記録にある極悪犯罪者という記述はあながち嘘とは思えない。
将門は、深く考えてこのときの行動を起こしたとは考えられない。この人の人生を追いかけていくと、行き当たりばったりで短絡的、長期的なビジョンもなくただただ現状だけを考えて行動しているとしか言えない。ゆえに、このとき、将門が藤原玄明の側に立って軍勢を動かしたのも、単に頼られたからであり、それがどのような意味を持つのか間ではわかっていなかったのではないかと思われる。
天慶二(九三九)年一一月二一日、将門、常陸国府を攻める。
将門率いる一〇〇〇名の軍勢の前に常陸国司藤原維幾の軍勢は退却をし、国衙に戻った。将門側の史料には将門側の兵士一〇〇〇名に対し藤原維幾の軍勢は三〇〇〇名であると記しているが、これは、将門の武勇を脚色するための数字の改竄であろう。多くても将門の軍勢と同数、おそらくは将門より少ない軍勢しか集められなかったと思われる。三〇〇〇名の兵士が国衙に戻り、国衙に陣取ったと記録にあるが、いくら大きな建物と言え、国衙に三〇〇〇名の兵士を収容できるような空間はない。
人数は不明だが、藤原維幾が将門に抵抗しようとし、将門のほうも藤原維幾に対する包囲を敷いたのであるが、これは軍事的にはともかく政治的には大きな失敗であった。常陸国司藤原維幾は朝廷の任命した国司であり、その周囲の軍勢も国と国司を守る軍勢である。その軍勢に対して攻撃を仕掛けたのみならず、国府を包囲した。その上、藤原維幾を降伏に追い込んだのみならず国府の印璽を差し出させたのである。印璽とは単なる印鑑ではない。常陸国の統治を示すシンボルであり、この印璽を差し出すということは、一個人として平将門に降伏するのでなく、常陸国全体が平将門の軍勢に降伏することを意味するのだ。
この瞬間、将門は正式に反乱軍となった。
藤原維幾を降伏に追い込んだことに気を良くした将門も、その結果の大きさに愕然とし、将門を常陸国府周辺の略奪へと走らせた。もはや取り返しのつかないところまできたとの諦めか、それとも、それが平将門という男の本性なのか。
この常陸国衙攻略には、被害者側の記録も残っている。要は朝廷側の記録である。
常陸国衙を包囲するとき、将門は国衙の建物だけでなく、国衙周辺に展開していた街そのものを包囲している。現在の感覚で行けば地方の小さな街だが、この時代の感覚で行けば、地域の大都会である。その街そのものを、将門は包囲した。
藤原維幾の降伏の後、将門の軍勢は常陸国府の街で略奪を働いた。国衙の倉庫だけが略奪の対象となったのではない。国衙周辺に展開している街の一軒々々が略奪の対象となったのだ。貨幣経済の破綻したこの時代、略奪の最初のターゲットとなるのは何と言っても穀物と布地、特に、コメと絹である。当然のことながらコメも絹も将門の軍勢の手に落ち、将門の配下の武士の所有物となった。
金銀や宝石は無論、皿や壷など、どの民家にもある日用品もまた略奪の対象となった。
奪われるものが何もない貧乏な者も安心はできなかった。女性はことごとくレイプされ、男性はただ楽しみのためだけに殺された。殺されたのは民間人だけではない。僧侶もまた、男性ならば殺害の、女性ならばレイプの対象になった。常陸国衙に勤務する役人のうち何人かは泥の上に膝を屈して命乞いをしたが、少なくない役人が辱めを受けたとある。
そして、将門の軍勢が去った後、常陸国衙とその周辺は灰燼に帰していた。 
29
これまでの日本の歴史で、蝦夷との戦闘で前線の城が敵の手に落ちたことはあるが、国衙が反乱軍の手に落ちたことはない。その歴史にないことが、異民族どころか、天皇の血を引く高貴な者の手によって実現してしまったのだ。将門は理論上こそ無位無冠の一般庶民ではあるが、その姓は「平」であり、その血筋は名君の誉れ高い桓武天皇につながる。その桓武天皇の子孫が反乱を起こし国衙を攻め落としたのだから、当時の人たちに大きなショックとなって広まった。
将門はいくら自らを反乱軍と認めないとしても、朝廷は将門を反乱軍と見ているし、世間もそのように見ている。自分の手で常陸国衙を攻め落としたというのは隠しようのない事実であり、反乱としか呼びようのない自らの所行に大きなショックを受けていた。常陸国衙を落としたのは天慶二(九三九)年一一月二一日。それから一一月二九日までの間、将門がどこで何をしていたのかの詳しい記録はない。
しかし、その間に、将門が身の振り方を考えたということは記録に残っている。常陸国府を攻め落とした以上、自分たちはどうあっても反乱軍である。しかも、これまでの歴史で誰も実行したことのない国衙攻め落としを実現し、国府の印璽まで手にしてしまった以上、朝廷から反逆者として討伐される運命が待っている。
将門は人生の終わりを感じていたのだ。
この将門の相談相手となったのが興世王である。興世王もまた、取り返しのつかないところまで来てしまったという認識を持っていた。そして、考えを重ねた末の結論であったであろう、興世王のアドバイスは、将門の思いを越えた、そして、日本建国からこれまで誰一人として考えもしなかった内容であった。
すでに一国の国衙を攻め落とした以上、もはや朝廷の敵であることを否定することなどできない。だが、秋田の反乱に加えて瀬戸内の海賊の横行に追われる朝廷に、関東地方を統治する能力はない。であるならば、関東地方全域に勢力を広げて事実上の独立勢力を築くのもありではないか、朝廷からの反逆者となったのなら、朝廷に対して最後まで徹底的に抵抗するのもありではないか、というのが興世王のアイデアである。
常陸国府の印璽を手にした以上、常陸国の統治権は将門のもとにある。関東地方の残りの国府にも攻め込み、印璽を入手し、関東平野一帯を将門の統治する一帯にしてしまう。関東地方の生産性の高さを考えれば、関東地方だけで独立した地域として自給自足で存続することも不可能ではない。
海の向こうでは、唐も、新羅も、渤海も無くなり新たな国が生まれている。新たな国の創設者となったのは必ずしも高位高官の者ではない。それどころか、それまでであれば無位無冠の一般庶民でしかなかった者が、混乱のどさくさに紛れて国家元首となって国を統べる身になるのも珍しくない。その珍しくないことを日本で起こそうというのだ。

天慶二(九三九)年一二月一一日、将門は正式に関東地方制圧のための行動を開始した。隣国である下野国府へと軍勢を進め国衙を包囲。下野国司の藤原弘雅は将門の軍勢の前に抵抗することなく、国司自ら将門の前に跪いて印鎰を頭上に捧げた。下野国府の無条件降伏である。将門は降伏の意を示した藤原弘雅を京都への追放に処すとした。
京都から着任してまもなくのうちに将門に攻め込まれ、京都へと戻らなければならなくなった藤原弘雅は、嬉々として京都に戻っていったわけではない。当然だ。ただでさえ国司という職務は任官希望者が多く、藤原弘雅も待って待って待ち続けてやっと手にした国司の地位である。道真の怨霊の噂が下火になったこの時期、満期まで迎えれば一生分の財産も稼げたし、下野国司としての実績次第では中央での出世も夢ではない希望に満ちた職に戻っていた。その希望を将門は奪い取ったのである。
京都から下野に向かうときは、藤原弘雅自身だけでなく、妻も子も、高官の者の移動として豪華絢爛な旅路となるのが普通。ゆえに、下野への往路は豪華絢爛なものであったと考えられる。そして、任期を終えて京に戻るときもまた、国司に見合った豪華絢爛であるべきところでなければならない。だが、藤原弘雅の京都帰還は、冬の雪の吹きすさぶ山道を歩いての移動になるしかなかった。この惨めな帰還は屈辱としか形容できなかった。
一方、下野を落とした将門の軍勢は、勢いそのままに上野国へ向かった。
四日後の天慶二(九三九)年一二月一五日、将門の軍勢は上野国府の前にあった。
上野国司であった藤原尚範に与えられた未来も同じであった。将門の前に跪き、印璽を捧げて無条件降伏したのである。降伏に対する将門からの命令は、こちらもまた京都への追放だけである。
同日、将門から朝廷に対して書状が送られている。宛先はかつての主君である藤原忠平。内容を見る限り、このときには既に、将門の決意は決まっていたことが読みとれる。ただし、妥協点を見いだそうとする姿勢は見せており、朝廷との交渉を探ってもいることもまた読みとれる。
書状ではまず、将門が源護に訴えられて上京したことを述べている。その後、故郷に帰ることができ、平和な日々を過ごしていたところで平良兼が将門を攻め込んできたこと、そして、平良兼のために受けた被害の大きさを述べている。平良兼を捕らえよと言う命令が出たので安心していたら、今度は平貞盛が将門を召喚するという官符を手に常陸国にやってきたことを記す。さらに、武蔵介である源経基の訴えが通って将門を裁くべきとの意見が出たことについて述べ、それでもなお平和裏に解決しようとしたところ、常陸介の藤原維幾の子である藤原為憲が平貞盛と手を組んで将門を攻め立て、庶民の命を守るためにやむなく戦闘に訴え出て、常陸介の藤原維幾が謝罪のために降伏したとしている。
書状に記したこれまでの経緯の一つ一つは嘘ではない。だが、自らの攻撃については全く記していないし、与えた被害についても沈黙を保っている。
書状ではその後に、本意ではないが一国を攻め落としてしまった以上、自らに課せられた罪科は軽くないとした上で、自らは桓武天皇の血を引いており、また、日本書紀から日本後紀にかけての時代には天皇家が武力で国土を統一したことを記し、自分には天より授けられた武力の才能があり、かつ、自分以上の武力の才能のある者はいないとした上で、関東地方の制圧を述べている。
そして、書状の末尾には、かつての主君である藤原忠平に対する感謝の言葉が述べられている。

この書状が京都に届く前に、将門は大胆な行為に出た。
天慶二(九三九)年一二月一九日、平将門、新皇(しんのう)就任を宣言。関東地方は日本から独立した地域であると宣言し、京都の朝廷の権威の及ばぬ地域であると正式に宣言した。歴史上唯一の、日本からの独立運動である。
史料によれば、巫女の託宣が将門に対してあり、将門はその託宣に乗ったのだという。後先考えずに突っ走るところのある将門だから、このときの託宣に気を良くして先のことも考えずに帝位を称したとも考えられるが、新たな天皇を名乗るという、それまでの歴史にも、そして、それからの歴史にも存在しない大胆な行為を、将門の弟の平将平や、将門の側に仕えている伊和員経らは止めようとしたが、結局、周囲の者はつき従ったという。
おそらく、彼らもまた、引き返すことのできないところにまで来てしまったのだと考えていたのであろう。また、海の向こうでは、それまで無位無冠の一般庶民であった者がいきなり王座に就き、さらには帝位に登るという光景が日常化している。かつては存在するのが当たり前であった、唐も、渤海も、新羅も、今や地図のどこを探しても見つからなくなっている。どうして日本だけが例外であろうか。
それに、京都の朝廷の権威は過去の話とするしかない。東北では反乱が起こり、瀬戸内では海賊が暴れ回っているというのに、朝廷は何もできずにいるのだ。
遠く離れた京都の朝廷など頼ることもできないが、恐れるほどの存在でもない。
そう考えた結果の大胆な行動であった。
その上、平将門の反乱は亡き菅原道真の意思でもあるという託宣まであった。そして、平将門は菅原道真の生まれ変わりであり、非業の死を遂げた菅原道真の怨念を晴らすべく行動するのであって、妨害する者には道真の怨霊がつきまとうとの宣言まで出た。ついこの間まで日本中を席巻していた道真の怨霊の噂を利用できたことは大きく、将門はこれ以後、「右大臣正二位菅原朝臣霊魂」を旗印に戦場に姿を見せるようになった。

将門はこの日、関東地方のうち八ヶ国の国司を独自に任命している。
下野守、平将門の弟である平将頼(まさより)。
上野守、多治経明(たじのつねあきら)。
常陸介、藤原玄茂(はるもち)。
上総介、興世王。武蔵権守と兼任。
安房守、文屋好立(ぶんやのよしたち)。
相模守、平将文(まさふみ)。
伊豆守、平将武(まさたけ)。
下総守、平将為(まさため)。
武蔵国に関しては興世王が元々武蔵権守であるため、改めて誰かを任命してはいない。ただ、朝廷の権威に替わる新たな権威であることを示すために、上総国司との兼任としている。
ここで注目すべきは上総、常陸、上野の三ヶ国である。この三ヶ国の守は親王が就任することが定められており、実際には赴任しない守に替わって介が任命されて現地に赴任するのが慣習となっている。しかし、将門は三ヶ国のうち上野国だけに関しては介ではなく守を任命している。
将門が朝廷からの独立を宣言するならば、朝廷の権威を前提とする上総守や常陸守を任命したって構わない。朝廷と接点を持ちたいのなら三ヶ国とも介でなければならない。慣例を守るか慣例を破るか、このあたりは中途半端である。
また、将門の任命はあくまでも関東地方のうち八ヶ国に限定しており、その外の国に対しては何も任命していない。このときの国司任命は、今までであれば国司になるなど夢でしかなかった者に希望を与えるものであったが、同時に、関東地方だけが将門の領国であり、将門の独立国はその外に手を出さないというアピールにもなった。

こうした急増の独立国に見られることであるが、制度の一切を旧統治国のマネすることが多い。将門の国家も同様で、「新皇」という天皇に相当する新しい称号の国家元首をアピールをしたが、その他の制度はそっくりそのまま京都の朝廷の制度のままである。新皇を支える臣下として左大臣と右大臣がおり、その下に大納言がいて中納言がいて、参議がいて文武の官僚がいる。さらに、首都として下総国の亭南に都を築くことを宣言し、南西に橋のある地を「山崎」、東の港のある地を「大津」と名付けるなど、徹底した京都の模倣が展開された。
将門のこうした発案の全てが将門自身によるものか、それとも、周囲の者と協議を重ねた末のものであるのかだが、これはおそらく後者であろう。
新たな国を作り上げたが、その制度は旧来の国の制度をそのまま適用する。そして、周囲の者を新たな国の重職に任命する。するとどういうことが起こるか。これまでの人生では到底望むことのできなかった大臣の地位や貴族の位を手にできるのだ。中央に上って大臣となるには遠く及ばない者だって大臣を名乗ることができるし、役人になるにも一苦労で公的な地位を手に入れられなかった者だって貴族になれるのだ。
学生運動やオウム真理教にも言えるが、自分たちだけの国を作り、自分たちの国に閉じこもって満足する者は、自分たちの国の中で分不相応な壮大な名をつける。書記長だの大臣だの長官だのと名乗り、自分たちのトップは現実世界のトップと等しいか、あるいは自分たちの小さな国のほうが正当な国家で外の世界のほうが打倒すべき敵であるという認識を持つ。
将門の独立宣言は確かに驚天動地の宣言であったろう。だが、やっていることは現在でもよく見られることである。武力を持って暴れているから大問題になるし、軍事力で鎮圧しなければならない大事態であるが、結局は反政府テロなだけなのだ。しかも、最初から熟慮なんかしないからか、すでに存在する制度を利用して国家ごっこをする。
やっている本人は真剣なのだろうが、後世から評価すると幼稚とするしかない。 
30
将門からの書状はまだ京都に届いていない。しかし、噂話のスピードというものは正式な書状よりも速い。そのためか、将門が関東で朝廷からの独立を宣言したというのは噂話となって京都に届いていた。
この噂は、普通ならば笑い飛ばすか、悪質なデマであると考えるであろう。だが、このときは誰もが悪質なデマと考えることも、笑い飛ばすこともできなかった。
平将門が反乱を起こしたとの噂話が伝わったとほぼ同時に、摂津国の須岐駅に藤原純友の部下である部下の藤原文元の率いる軍勢が襲いかかり、備前介藤原子高(さねたか)と播磨介島田惟幹、そして、彼らの妻や子らを拉致したという知らせである。第一報によると藤原子高は鼻が削がれ、妻たちは海賊達にレイプされ、子供達は殺されたという。
備前介藤原子高は藤原文元と、播磨介島田惟幹は三善文公と以前より対立していた。そして、藤原文元も三善文公も、中央での出世を断念して地方に流れてきて海賊化し、藤原純友の家臣の一人となった者であった。海賊集団であると言っても藤原純友は平将門と同様に地域の紛争に首を突っ込んでいたのである。
対立の理由についての詳細な記録は残っていないが、おそらく、国司が徴税をしようとしたのが理由であろう。中央での出世を諦めて地方に進出し、地方で荘園を展開し、合法・非合法を含めて財産を築き上げたところ、徴税しようとする国司がやってきた。税を納めさせようとすること自体は国司としての本来あるべき業務なのであるが、納めさせられる側にとっては不当な略奪になる。不当な略奪に抵抗する手段の一つとして藤原純友を頼るようになり、彼らは次第に海賊の一員となり純友の部下となっていった。そして、藤原純友は部下の要請を受け入れて軍勢を率い攻めるようになった。備前介の藤原子高も播磨介の島田惟幹も純友の軍勢が攻めて来るという知らせを聞きつけて慌てて京都に戻ろうとし、その途中に襲撃されたのであった。
このニュースと将門反乱の噂話が同時に京都に届いたのだ。
以前からゴタゴタしていた関東と瀬戸内が同タイミングでさらに悪化したという知らせを聞いた京都の人たちは、将門と純友が共謀して反乱を起こしたと考えた。実際にはただの偶然なのだが、そう考える人はいない。
純友が摂津国の須岐駅を襲撃したという第一報が届いたのが天慶二(九三九)年一二月二〇日、その翌日には摂津など七ヶ国に藤原純友召還の官符が出されたというのだから、これは異例のスピードとするしかない。ただし、命令を出すスピードは速かったが、命令を実現するための方策となると、具体策がない。捕らえよという命令だけで、捕らえるための人員派遣もなければ、物資の支援もない。
さすがにそれでは問題だと感じたのか、翌天慶三(九四〇)年一月一日、小野好古(おのよしふる)を山陽道の追捕凶賊使に任命し、藤原純友を捕らえるよう命令した。
小野好古は小野篁の孫で、三蹟の一人でもある小野道風の兄にあたる。弟が書の達人として名をはせていたのに対し、小野好古は順当な貴族として中央と地方を行き来する生涯を歩んでいる。ただ、このタイミングで海賊討伐に任命された理由は不明。後に武人として名を馳せることになる以上このときの選択として間違ってはいなかったのだが、これまでの小野好古のキャリアは文人としてのもののみであり、武力を発揮する局面はどこにもなかった。

将門反乱の噂は届いていたが、正式な情報として届いていたわけではない。ただし、誰もがその情報を事実として受け入れており、反乱鎮圧を祈るための祈祷が年明け早々に展開された。
将門が反乱を起こしたという正式な情報が京都に届いたのは天慶三(九四〇)年一月九日。すでに届いていた藤原純友の襲撃の情報と合わさり、さらに秋田の反乱の情報も加わって、少なくない数の者が、唐や新羅や渤海が迎えたのと同じことが日本でも起こると考えた。そんな中、将門謀反の報告を最初に告げた源経基が、情報の第一報を伝えたことの報償として従五位下に叙されるという場面もあった。
天慶三(九四〇)年一月一一日、東海道と東山道に将門を捕らえるよう命令が下る。
翌一月一二日、兵士を京都市中に配備。平安京に住む人は、いつ、東から、あるいは西から反乱軍がやってきて京都を破壊するかわからないという恐怖感情があった。その感情を沈静化するためにも、武装した兵士が京都市内の各地に配備されている光景を展開し続ける必要があった。
天慶三(九四〇)年一月一九日、参議の藤原忠文を征東大将軍に任じ、反乱の首謀者である平将門を拿捕するよう命令が下った。
同日、藤原純友の軍勢が備中国に侵攻。国府に配備されている軍勢はなすすべなく撤退し、備中国府は灰燼に帰した。備中国府はこのときを最後に歴史の闇に消えてしまい、現在では遺跡すら発掘されていない。国府が賀夜郡にあったことは記録に残っており、現在の総社市金井戸付近が国府のあった場所らしいこと、総社市金井戸周辺に住む人の苗字や周辺の地名にかつて国府があったことを忍ばせる名が残っていることまでしかわからず、備中国府がどこにあったのかを断定する記録はどこにもない有様である。
一月二〇日、比叡山延暦寺で大火。惣持院が焼け落ちる。反乱鎮圧を祈祷しているさなかに起こったこの惨事に京都の人たちは茫然自失とした。

比叡山延暦寺の大火があった翌日である天慶三(九四〇)年一月二一日、藤原純友が一つの行動を起こした。自分と異なる海賊集団のトップである藤原三辰を捕らえただけでなく、その首を朝廷に献上したのだ。
犯罪者の首を献上すること自体は普通に見られる行為ではある。だが、藤原仲成の死刑が大同五(八一〇)年に執行されてから一三〇年、一度も死刑の執行が行われたことがない。つまり、人の死を目の当たりにすることはあっても、誰かの手で殺され、その首が送り届けられるという光景などあり得ないことであった。
そのあり得ないことが起こった。
藤原三辰は朝廷から拿捕命令の出ていた海賊である。そして、その海賊が捕らえられた。首を朝廷に送り届けるというセンセーショナルな対応であったが、海賊拿捕は海賊拿捕。だが、その海賊の首を持ってきたのが今まさに瀬戸内で暴れ回っている藤原純友である。これはとても難しい判断に迫られることとなった。
朝廷の命令に従って海賊を拿捕したのが、まさにその海賊の一人である藤原純友である。この処遇をいかにすべきかで議論は噴出したが、純友の懐柔は不可能ではないと察知した朝廷は、天慶三(九四〇)年一月三〇日、藤原純友に従五位下の位を与えると決めた。ただし、純友は従五位下の位を手にしたものの、それで海賊行為を止めようという意思を示さなかった。
瀬戸内の、そして関東の争乱は各地にも飛び火し、天慶三(九四〇)年一月末には駿河国で「群賊」「凶党」が騒擾を起こしているとの情報が飛び込んできている。

京都で自分に対する処罰命令が出たという連絡は将門のもとに届いていない。
ただし、関東地方を自らの領国とする決意はしたものの関東全域を実効支配しているわけではない。特に問題なのは、平将門への反旗を平然と称する平貞盛であった。
天慶三(九四〇)年一月中旬。将門は五〇〇〇名の兵を率いて常陸国へ出陣し、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。ここでも平貞盛は自らの姿を隠すことに成功しており、将門の捜索の手を離れることに成功している。しかし、貞盛の妻と源扶の妻は捕らえられ、将門の兵士達の慰みものとなった。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて元の住まいに戻し、レイプに参加した兵士達は解雇して住まいに強制送還した。この部下の蛮行にショックを受けたのか将門自身も下総の本拠へ帰っている。
これが独立国としたことへの現状であった。将門に仕えていた兵たちは、将門の一員である自分はこの国の支配者であり、敵に対しては何をしてもいいと考えるようになったのだ。権力を握った過激派は、必要以上に自分の権力を誇示する。これは将門に大きな失望を与えた。
これではいったい何のために新皇となったのか? 国を作るどころか国を壊しているのが現状だった。それも、将門が信頼する兵士達が国を壊す存在となっていた。将門の兵により殺された者も、レイプされた者も続出した。将門は彼らを処罰したが、その処罰は国の軍事力を弱めることにもつながった。
関東地方の制圧を宣言するも、関東地方の全域が将門の支配地となったわけではない。将門に反発する者もいるし、朝廷に忠誠を誓い将門を敵視する者もいる。そうした面々を一つ一つ従えていくのがこのときの将門の実施していたことなのであるが、絨毯爆撃は思いのような成果を残せずにいた。
天慶三(九四〇)年二月一日には、平貞盛が下野国の押領使である藤原秀郷と力をあわせて四〇〇〇の兵士を集めているとの報告が入った。一方の将門の手許には一〇〇〇人足らずの軍勢しか残っていない。将門には犯罪者となった兵士を再び自分の兵士として呼び戻すという考えがなかった。いや、それは許されなかった。以前の将門であればそれも考えたであろうが、今の将門は統治者である。いかに我が身を守るためであろうと犯罪者の刑罰を中断して軍勢に組み入れることは許されないことであった。
その結果が一〇〇〇名しか集められないという現実だった。それでも将門はこの人数で勝機があると見て出陣した。だが、将門の軍勢の先陣を率いていた藤原玄茂の軍勢は貞盛と秀郷の率いる軍勢の前に撃破され、先陣の敗北を見た将門は狼狽した。しかも、平貞盛は自分の妻が将門の兵士達にレイプされており、その復讐心に燃えてもいる。実際にレイプした兵士本人は将門の命令によって解雇されているため参加していないが、そんなことはどうでも良かった。ただ将門の兵士であるというだけで貞盛にとっては復讐の対象となり、最後まで戦う者は戦死し、命乞いをする者は無慈悲に殺された。
この勢いに乗って、貞盛と秀郷は下総国川口へと進撃するまでになった。将門は戦闘になっても敗北となると考え、総退却を決断した。

従五位下となり貴族の一員となれた藤原純友であるが、それで海賊行為を止めようという気はしなかった。天慶三(九四〇)年二月五日、純友は淡路国の武器庫を襲撃して兵器を奪っている。公的な地位を手に入れた以上、公的な武具や食料も自由に扱えるというのが純友の理屈である。
一方、この頃は京都の各所で放火が頻発しており、さらなる政情不安を募らせている。純友を拿捕すべき立場にある小野好古からも、「純友は舟に乗り、京都に向かって船を漕ぎ上りつつある」と報告している。
天慶三(九四〇)年二月九日、太神宮に奉幣し、東賊平将門、西賊純友の余党の追討祈願。朝廷としては派遣した者が無事に反乱を鎮圧してくれることを願うのみであった。 
 

 

31
天慶三(九四〇)年二月一三日、貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、将門の本拠地である猿島郡石井に攻め寄せ火を放った。将門は兵を召集するが形勢が悪くて兵が集まらず、このとき集めることができた兵士はわずか四〇〇名である。この少なさでは敵軍と向かい合うどころか、将門一人の命を守るだけでも困難とするしかない。
将門は屋敷も捨てて退却。将門は王城完成前の仮の住まいとした屋敷が灰に消えるのを眺めるしかなかった。
将門が屋敷を捨てて逃走し、将門の屋敷が炎上したという知らせは瞬く間に広まり、翌天慶三(九四〇)年二月一四日、貞盛と秀郷の軍に藤原為憲も加わった連合軍が将門に挑んできだ。
荒れ狂った天候は当初こそ将門に味方していたが、風向きが変わった瞬間、将門軍は瓦解した。連合軍から打ち込まれた一本の矢が将門の額に命中したのである。
馬に乗って前線で奮闘していた将門が馬から崩れ落ちるのを見た誰もが沈黙し、しばしの静寂の後、将門の遺体はそのまま放置され、将門の兵士達は四方八方へと逃走した。
前年一二月に独立国を立ち上げてから三ヶ月を経ることもなく全てが終わったのだ。
将門の死で、将門とともに行動をしていた全て者がその地位を失った。将門の任命した国司たちはその地位を失い、てんでばらばらに逃走を始めた。
一方、将門によって地位を奪われていた者たちは次々と地位を取り戻していった。
将門が亡くなった翌日の二月一五日には、常陸介の藤原維幾がはやくも常陸国府に戻っている。
一方、藤原玄茂と、将門の兄の平将頼の二人は相模国まで逃亡したところで発見され、その場で殺害される。また、将門を新皇にするよう勧めた興世王は上総国で発見され殺害される。坂上遂高、藤原玄明といった将門の部下たちも常陸国で斬られる。
藤原仲成の死刑を最後に死刑は中止になっているが、ここでは死刑ではないものの明白な死が展開されたのであった。

京都はきわめて絶妙なタイミングで救われることとなった。
天慶三(九四〇)年二月二二日、追捕使の小野好古から、純友率いる軍勢が京都に向かって進軍しているという情報が届いたのである。純友は自分が従五位下に任じられたことを最大限利用しようとした。自分に地位を与えてくれたことへの感謝の報告をするという名目で軍勢を率いて京都に向かおうとしたのである。
このニュースを聞きつけた藤原忠平は慌てて外に飛び出し神々に祈りを捧げたと記録に残っている。承平天慶の乱そのものには平然を装っていた忠平も、いざ京都が戦場になるかという事態を目の当たりにして冷静さを失ったと見える。
ところが、その三日後である二月二五日、将門の死を伝える連絡が京都に届いた。この知らせに宮中は狂喜乱舞し、一方、京都に向かっていた藤原純友は落胆して日振島に引き返していった。
このとき、純友が以外と簡単に京都に向けて進軍している事実から、純友の勢力は単に瀬戸内の海賊を束ねただけのものではなく、近畿地方の盗賊達にも勢力を伸ばせていたのではないかと考えられている。将門よりも瀬戸内の海賊対策にかなりの時間と労力をつぎ込んでいたのも、瀬戸内の海賊のほうが京都にとってより驚異となる存在であったからだというしかない。

天慶三(九四〇)年三月九日、将門追討の功により、武蔵介の源経基を従五位下、常陸掾の平貞盛を正五位上、押領使の藤原秀郷を従四位下に叙す。
この中に、征東大将軍藤原忠文の名はない。
名はないのは当然で、平将門を打倒すべく関東へ向かっている途中で将門が討ち取られたから。何もしていないのに将門追討の功など得られるわけがない。ただし、この処遇がよほど不満であったらしく、老体に鞭打って行動したのに恩賞もないとは何事かと激怒して辞表をたたきつけたとある。
一方、将門の残党は髪を切り落として寺院に隠れるなど、あの手この手で逃げようとしていた。天慶三(九四〇)年四月八日の記録に、将門の残党狩りをする藤原忠舒らが下総に入り、将門の残党の捜索をはじめたが、将門の弟ら七人から八人は各地を逃げ回ったとある。
史料に不確定部分が多いこの部分にあって、詳細な部分を伝えてくれているのが将門の死を京都に連絡する方法である。天慶三(九四〇)年四月二五日、藤原秀郷が平将門の首を進上したのであった。将門の首はさらし首として数ヶ月に渡って見世物とされた。場所は現在の京都市下京区新釜座町とされており、民家の建ち並ぶ中に「天慶年間平将門ノ首ヲ晒シタ所也」と記した祠が建てられている。
と、正式な記録に残っているのはそこまでなのだが、将門の伝承はかなり尾ひれがついて広まっていて、京都で数ヶ月間さらし首になっている間にも腐ることなく目を見開いていたとか、首が自分の胴を探して関東へ向かって飛んでいったとか、胴に向かう途中で霊力がつきて落ちたとか、首の落ちた地が神社になったとか言い伝えがあるが、言い伝えを全部本当のこととすると平将門の首がいったいいくつ必要になるのかと言いたくなる不整合が起こってしまう。
将門の伝承で著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚である。ここは将門の首が落ちた地の一つとされており、この首塚に移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。

将門の行動を後先考えない短絡的な行動と一括否定するのが筆者の視点であるが、どうしても認めなければならない点がある。それは、生きていくことに苦労する人たちを助けたこと。遠く離れた京都の権威を維持するために苦痛を強いられている人たちの希望の星となったのが将門であり、少なくとも将門の支配下にあれば生活苦から逃れることができたのだ。
今の日本でもそのような人が出てこないという保証はどこにもない。戦乱に訴え出るのは論外にしても、地方に独自の権威を築き上げ、中央に頼らぬ生活再建を実施する。地方の上前をはねることで生活する縁もゆかりもない赤の他人のために苦労するのと、自分たちが生きていくための日々を過ごすのとどちらを選ぶのか。
将門は最終的に朝廷の敵となったが、途中までは朝廷の権威の一端を担っている気概があった。そこには反乱の意思などなく、偶然が積み重なっての反乱となった。もし偶然が重ならなかったら。
そう考えたときに浮かび上がったのが源平の争乱であり、太平記の時代であり、戦国時代である。中央から離れた独自の権威を地方で築き上げるという考えはこの時代にはもうすでに存在していたのだ。将門はあまりにも速すぎる行動をしたのだ。それも、平安時代という枠組みに縛られて。
大手町にある将門の首塚が単なる伝承であり迷信であると一括するのはたやすい。しかし、それが恐怖の念からスタートした感情であっても、将門の墓とされる場所に祈りを捧げるということは将門に感謝する人が居続けたということである。菅原道真にも言えるが、非業の死を遂げただけでは怨霊と呼ばれることもないし、その死を歴史として語り継ぐこともない。死を悲しむ人が居続けたから歴史として語り継がれるのである。
時代は平将門を悪人と判断した。
そして、将門を悪人と考える庶民は多かった。
だが、将門を認め、敬愛する者も多かったのだ。
そういえば、同時期に同タイミングで同様の行動をしていたはずなのに、藤原純友に将門のような伝承はない。これもまた、この二人の人物をその時代の人たちがどう見たか、そして未来の人たちがどう見つめてきたかということの答えであろう。

将門の反乱が終わったことで、朝廷は軍勢の大部分を西に向けることができるようになった。特に、五月中旬(詳細な日付は不明)に将門追討の軍勢が京都に凱旋してきたことは朝廷に余裕を生み出すこととなった。
天慶三(九四〇)年六月一〇日、朝廷は藤原純友追討を正式に決議。とは言え、藤原純友は従五位下の官職を得ている公人であると認定した以上、純友を直接裁くことはできない。そこで、純友の手下を犯罪者として認定し、指名手配したのである。純友本人がいかに海賊として荒らし回っていると言っても法に従えば純友を裁けないが、犯罪者をかくまっているとなると話は別である。犯罪者を部下として保護するか犯罪者として突き出すか、これは朝廷から仕掛けられた純友への罠であった。
この朝廷の命令に対する純友の判断は二ヶ月後に現れる。単に情報が届くのが遅かったからとは言い切れない。なぜなら、その間に太宰府から連絡が届いているのである。連絡の内容は、中国に群雄割拠する諸国の一つである呉越国から通商の使節がやってきたことを知らせる内容であり、朝廷からも左大臣藤原仲平の名で呉越国へ返信を出している。太宰府との往復の連絡がとれたのに、その間で勢力を伸ばしている藤原純友と連絡が付かないわけはない。おそらく、純友は悩んだであろう。関東では平将門が討ち取られ、その首が京都で晒し者になっている。これは遅くはない未来の自分の姿としか言えない。
悩んだ末の決断であるが、決断した後は素早かった。天慶三(九四〇)年八月一八日、藤原純友率いる四〇〇艘の軍勢が伊予国と讃岐国を襲ったのである。かつて菅原道真が京都に負けぬ大都市を目指して開発した讃岐国府もこの日を最後に歴史から姿を消した。それでも讃岐国府はどこにあったのかはわかるだけまだいい。伊予国府も襲撃を受けたのだが、こちらはどこに存在していたのか未だにわからないのである。それほどまでに純友の襲撃は凄まじく、また、徹底していた。
この藤原純友の回答に対し、朝廷はひるむことなく対抗策を打って出た。
まず、天慶三(九四〇)年八月二二日に、近江国の兵士一〇〇人を集め、阿波国の賊徒を討たせるよう命令。天慶三(九四〇)年八月二七日には、右近衛少将の小野好古を追捕山陽南海両道凶賊使に任命し、山陽道と南海道の諸国の一切の軍事力は小野好古の元にあると宣言された。瀬戸内海沿岸で小野好古に逆らう者は国家反逆者となったのである。いかに朝廷の官職を得ている藤原純友であっても、自分より上職にある者の指揮監督命令が発令されただけでなく、逆らっただけで反逆者として一刀両断される事態となったのだ。
しかし、純友はこの報告を知る前にさらなる攻勢を仕掛けていた。自分に対する朝廷の軍事攻勢を減らすべく、天慶三(九四〇)年八月二八日に備後国と備前国に襲撃をかけたのである。この二カ国では瀬戸内海の海賊平定を目的とした軍船が建造中であり、純友は自分を打倒すべく建造中の軍船に攻撃を仕掛けて一〇〇艘あまりを消失させることに成功した。
そして、山陽からの被害の報告が京都に届く前に、純友は襲撃の矛先を変える。軍船を焼き払った翌日の天慶三(九四〇)年八月二九日、紀伊国に襲撃を加えた。瀬戸内海から離れた紀伊国でも瀬戸内の海賊が跋扈するようになったことは、少なからぬ衝撃をもたらした。 
32
将門は新皇を名乗ってからわずか三ヶ月で自滅した。しかも、その戦闘は朝廷の派遣した軍勢ではなく、関東地方の軍勢同士の対決で決着している。短期間で、しかも自分たちだけで戦乱を解決できたことは、関東地方に意外とも言うべき平和と平穏をもたらした。何しろ、戦乱の被害を受けた地域より被害を受けていない地域のほうが多いのだ。そして、略奪は残虐ではあったが徹底した破壊ではない。ゆえに、復興も比較的早くできる。
しかし、純友はそうではない。戦い自体が長期間であるし、被害も大きい。そして、破壊も徹底している。これでは戦乱が終わってもなかなか復興できないし、この時点ではそもそも戦乱を終わらせることができるかどうか怪しいのである。
朝廷は何よりもまず戦乱を終わらせることを決意したが、結果は藤原純友との全面戦闘になってしまった。規模だけで言えば、独立を宣言した平将門より、朝廷の一官人として行動している藤原純友のほうがより大規模な戦闘をしているのである。
朝廷は純友に妥協するつもりなど無かった。徹底した殲滅を求めたのである。しかし、純友の軍勢は朝廷の軍勢に対抗できてしまうのだ。藤原純友のしていることはテロリストのテロ行為でしかない。ゆえに、法の処罰が下る罪である。だが、解決方法は戦争しかなかった。話し合いを理解する知性はない者でも殴り合いなら理解する。純友に通用するのは殴り合いだけである。
テロとの戦いと戦争がどう違うかなどという論争は平和なところで安全かつ快適な生活をしている者の暇つぶしでしかない。現実に被害を被っている者からすれば、テロリストであろうが、戦争を仕掛けてきた敵であろうが、力ずくでねじ伏せてくれればそれでいいのである。この当時の市民感情も同じで、平将門には多少なりとも親和感を抱いていた者は多かったが、藤原純友は明確な敵である。憎むべき敵であり、殲滅すべき敵であり、同情できない敵なのだ。
朝廷の軍勢派遣とともに、寺院や神社に詰めかける市民の姿が数多く見られるようになった。神や仏の力で藤原純友を討ち滅ぼしてくれることを願うのである。
この市民感情を一瞬ではあるが満たしてくれる報告が来たのは天慶三(九四〇)年九月二日。讃岐国から、藤原純友の手下で讃岐攻撃の指揮を執っていた紀文度を捕え京へ送るとの連絡がきたのである。この報告に京都の市民は狂喜乱舞した。
しかし、一ヶ月後、京都の市民を落胆させる報告が届く。

天慶三(九四〇)年一〇月二二日、太宰府の派遣した軍勢が純友軍の前に完全に敗れ去ったという連絡が届いたのだ。しかも、情報源は太宰府ではなく安芸国と周防国からの緊急連絡である。
九州最大の、そして、日本第三の大都市である太宰府が危機に立っているという認識は京都の市民を狼狽させるのに充分であった。そして、ただちに瀬戸内に軍勢を派遣するよう声を挙げるようになった。
平安京の市民の声を朝廷は無視したわけではない。しかし、朝廷ができることはもう限界までやっているのだ。財源もないし、物資もないし、指揮する人もいないのである。関東から武士を呼び寄せて瀬戸内に派遣するというアイデアも出たが、これまで陸戦しか経験してこなかった関東の武士は、船を操る純友の軍勢と対決できないとの判断から見送られた。
その後も純友の軍勢の情報は届いていた。
天慶三(九四〇)年一一月七日、純友の軍勢が周防国の鋳銭司を襲撃。建物を焼き払い、流通前の多額の現金を奪いとっている。
天慶三(九四〇)年一二月一九日、純友の軍勢はターゲットを土佐国八多郡に切り替え、突如として襲撃。このときは国府の軍勢と地域の武士の抵抗で純友の軍勢を押し返すことに成功するが、双方とも数多くの死者を生んだ。
年が変わっても純友の襲撃は変わることなく、一月になっても各地から被害の様子が届いてくる。しかし、ただ単に攻められるのではなく、攻め込まれても抵抗する様子が届いている。
天慶四(九四一)年一月二一日には、純友の軍勢の伊予国攻撃の指揮を執っていた前山城掾の藤原三辰の首が京都に届いた。

純友の軍勢は大胆な攻撃を仕掛けていたし、大きな戦果を残してもいたが、次第に朝廷の圧力の前に押し込まれ得るようになっていた。
天慶四(九四一)年二月九日には、純友軍の次将で讃岐国を攻めていた藤原恒利が朝廷軍に降伏した。これだけでも純友にとって痛手であったのだが、さらに痛手であったのが、藤原恒利の率いる軍勢がそのまま朝廷軍に編入されたことである。純友の本拠地の間取り図まで頭に入っている者が、手勢をそのままに朝廷軍に加わったのだ。
これを知った純友は手持ちの軍勢を率いて純友が本拠地としていた日振島に陣を敷くが、大した抵抗もすることなく西へと脱出。主のいなくなった日振島は朝廷軍の手に落ちることとなった。
ところが、本拠地を失ってもなお純友は強大であった。その上、前年一〇月には太宰府の軍勢を打ち破っているのである。藤原純友率いる軍勢は二月末に太宰府に攻撃を仕掛け、太宰府を占領することに成功したのだ。
それから三ヶ月間、日本第三の都市でもある太宰府の受けた惨状は筆舌に尽くせぬものがあった。ありとあらゆる破壊が行われ、ありとあらゆる略奪が行われ、ありとあらゆる暴行が行われた。あまりにも破壊しすぎて、このときを最後に太宰府の都市機能が終わってしまったほどである。
ただし、純友は太宰府にこもった状態でありその周囲には出ていない。より正確に言えば出ていけない状態にあったのである。純友は勢力を伸ばすべく弟の藤原純乗に軍勢を渡して柳川に侵攻させようとしたが、大宰権帥の橘公頼の軍の前に敗れ去ったのである。
太宰府は手に入れた純友も、太宰府を一歩出たらその勢力は保証されないと悟ったのである。しかも、太宰府は海から離れている。海の上で船を操って各地に襲撃していた藤原純友にとって、得意ではない陸戦を強要される現状では動くに動けないとするしかない。弟の藤原純乗を柳川に派遣したのも海を手に入れるためであるのだが、それは失敗している。
太宰府から最も近い港町の博多は考えるだけでも無理であった。博多港は朝廷軍によって制圧されているのだ。のこのこ出かけていったら得意の海戦を展開する前に海陸両方から挟み撃ちにあい純友は討ち取られる。それでも純友は博多港の近くまで自分の軍船を呼び寄せることに成功はしていた。あとは、自分たちの軍勢がどうやって包囲網をかいくぐって軍船に乗り込むかであった。

純友の太宰府略奪の知らせが京都に届いたのは天慶四(九四一)年五月一五日。朝廷は直ちに神仏への祈りを捧げ、凶賊の討滅を改めて宣言した。
その四日後の天慶四(九四一)年五月一九日、参議藤原忠文を征西大将軍とすることが決まった。参議を派遣するというのはその軍勢指揮力を考えてのことではない。軍事的に優位に進んでいる以上、九州に着いた頃には純友の軍勢が鎮圧されているか、あるいは、九州に着いて間もなく純友は討ち取られるであろう。だが、受けた被害が大きすぎる。純友の軍勢の鎮圧だけで万事OKというわけではなく、その後の復興が重要である。そこで参議の権限を持った貴族の派遣となる。現場に残って九州を復興させるために。
藤原忠文の派遣が純友鎮圧を前提としたものであるという朝廷の計画に狂いはなかった。派遣を決めた翌日である天慶四(九四一)年五月二〇日、小野好古率いる官軍が九州に到着し、ただちに藤原純友攻略を始めたのである。小野好古は陸路から、副将の大蔵春実は海路から攻撃した。太宰府に陣を敷いていた藤原純友も太宰府に留まっての抵抗は諦め、挟み撃ちになったとしても得意とする海戦しか活路はないと考え博多まで北上。そこで大蔵春実率いる朝廷軍と向かい合った。
戦闘は激戦となり純友軍は大敗。また、藤原純友が呼び寄せることに成功していた軍船八〇〇艘あまりが朝廷軍に奪われた。それでも純友は小舟に乗って伊予に逃れることに成功したが、それは軍勢の退却ではなく犯罪者の逃亡の姿であった。
「藤原純友敗れる」の知らせは瞬く間に瀬戸内海中に広まり、純友の派遣していた軍船の少なくない数が退却していき、それより多く数の軍船がその地で朝廷軍に降伏していった。
と同時に、藤原純友追撃の動きが瀬戸内海中に展開し、伊予国に逃れたとの知らせを聞きつけた朝廷軍が大挙して伊予国に押し寄せた。
そして、天慶四(九四一)年六月二〇日、息子の重太丸とともに潜伏していた藤原純友は、警固使として伊予国に派遣されていた橘遠保に捕らえられ、親子ともども獄中で斬首された。
天慶四(九四一)年六月二九日、伊予国から藤原純友の部下の一人である、藤原三辰の首が京都に届いた。と同時に警固使の橘遠保が藤原純友を捕らえ、斬首したとの連絡も京都に届いた。
天慶四(九四一)年七月七日、小野好古率いる軍勢が京都に凱旋。その中には、藤原純友を捕らえ首を切り落とした橘遠保の姿と、藤原純友の首、そして、純友の子である重太丸の首もあった。
ただし、いわゆる藤原純友の乱はこれで終わりではない。瀬戸内海各地に送っていた藤原純友の軍勢の残党が残っていたからである。とは言え、これもまた時間の問題ではあった。
天慶四(九四一)年八月一八日、日向国から、純友軍の残党である佐伯是基を捕らえたとの連絡が届いた。
天慶四(九四一)年九月六日、源経基が豊後国の佐伯院で残党の一人である桑原生行と戦い捕らえたとの連絡が届いた。
天慶四(九四一)年九月二二日、播磨国から石窟山(いわややま)で残党の一人である三善文公と戦い殺害したとの連絡が届いた。
天慶四(九四一)年一〇月一九日、残党の一人である藤原文元らが但馬国で殺されたとの連絡が届き、一〇月二六日には、但馬国から藤原文元と、もう一人の残党である藤原文用の首が届けられた。
天慶四(九四一)年一一月二九日、太宰府から、純友の残党の一人で、純友の次将の地位にあった佐伯基是の身柄が左衛門府に送られてきた。
これで藤原純友の乱は完全に終わった。 
33
藤原純友の残党狩りのさなか、朝廷内で一つの動きがあった。
天慶四(九四一)年一一月八日、藤原忠平が摂政でなくなったのである。とは言え、それは罷免とか、戦乱の責任をとらせたとかではない。朱雀天皇が元服したため、改めて関白に任命されたのである。
関白となった忠平が最初に行ったのは「何も無かったことにする」という決定であった。海賊も、平将門の反乱も、東北地方の反乱も、全て無かったことになった。鎮圧はなされたが過剰な制裁は行わず、戦乱の起こる前の状態に何もかもを戻すと決めたのである。
この時代の人たちは、各地で起こった戦乱に戦慄を覚え、その戦乱が終わったことに心の底から安心していた。だが、何も無かったことにするとできるほど温厚ではいられなかった。
猛然たる反発が巻き起こり、京都市民たちは、最低でも反乱首謀者を死刑にするよう内裏に向かって殺到したのである。現実には平将門も藤原純友も亡くなっている。つまり、死刑にするよう求められていても死刑にすることは当然ながらできない。だが、それで民衆は満足することはなかった。首謀者が死んだように、海賊も、関東の反乱参加者も、残さず死刑になるよう要請したのだ。
しかし、忠平は庶民のこの要請を拒否。その上で、天慶四(九四一)年一二月二九日、天下に大赦が行なった。名目は朱雀天皇の元服だが、誰もが戦乱を「無かったこととする」という忠平の意思なのだと理解した。
藤原独裁はもはや揺るがしようのない事実であり、それに対する叛旗を翻そうとしても鎮圧されるという結果が待っている。反感を抱いている人間が出来るのは陰で不満を口にしながらも、藤原独裁に食い込んで我が身の未来を形作ることのみ。
これをわかりやすく言えば、一党独裁の政治体制である。それも、複数政党制が形式的にしか認められていない国家での一党独裁。政権を握る政党のみが権力であり、それ以外は権力自体が認められない。法でいくら認められていても政権与党以外は何の価値もないのだ。
とは言え、藤原氏を政党として考えた場合、藤原良房以後連綿と権力を握り続けている。それがなぜ、忠平の代になっていきなり一党独裁となったのか?
これは戦後日本の自民党政権を考えるとわかりやすい。自民党は鳩山一郎以後連続して権力を握り続け、自民党総裁イコール内閣総理大臣という体制を作り上げていた。しかし、それは法により規定されているわけではない。法で定めているのは国民の意思によって選ばれた議会に基づいて内閣総理大臣を指名することであり、自民党は法に基づき国民の支持を獲得し続けて権力を握り続けてきた。国民が自民党を拒否しようと思えばできたのである。それをしなかったのは、自民党以外の政党が権力者として相応しくないと国民が考えたからである。
一方、忠平の代になると藤原氏以外の選択肢がなくなっている。身近な例で探すと共産主義諸国における共産党のようなもの。共産党だけが国家を指揮し、共産党以外の政党は存在しないか、あっても形だけのもの。選挙で民意を示そうにも選挙での選択肢は共産党しかなく、権力者になろうとしたら共産党に入る以外に方法はない。こんなことは自民党でも行わなかった。
同じ一党独裁でも、時平までは自民党の一党独裁、忠平からは共産党の一党独裁。一つの政党が連綿として政権を握り続けることでは同じでも、その中身は完全に真逆とするしかない。

天慶五(九四二)年三月一〇日、意見封事を提出させる。意見封事自体は藤原政権がよく行っていた政策であり、忠平がこのタイミングで実施するのもおかしな話ではない。名目はあくまでも幅広い意見を求めて政治に反映させることであるが、実際には役人や若手貴族に与えられた人生逆転のチャンスである。意見封事として提出した政策の内容次第では無名の役人や若手貴族が抜擢されることもあるし、抜擢とまではいかなくても後ろ盾のない若者が出世街道を歩むきっかけになることもある。
しかし、このときは意見封事を出させただけに留まり、その後はなかった。
これもまた、忠平の藤原独裁の弊害であった。
時平の頃までは、生まれに関係なく、より優れた教育を受け、より優れた実力を示した者が、中央で出世街道を歩むことができた。その道は確かに狭いが、名も無き一般市民が教育を受けて大学に入り、大学を出て役人となり、実績を示して貴族入りすることだって可能だったのである。名門貴族の子弟が出世するのでも、その者自身は充分な教育を受け充分な実力を示しているから、そこに文句はなかった。
だが、忠平の頃になるとその道は事実上閉ざされる。庶民が大学に入ること自体が珍しくなっただけでなく、大学を出て役人になっても出世することも難しくなったのだ。藤原氏の勧学院をはじめとする大学に相当する貴族専用の教育機関出身者が宮中にひしめき、大学を出た程度では見向きもされない。役に就けたとしてもその地位は低く給与も安い。何しろ上には自分と同様に大学を出た者がひしめいているのだ。
現在でも似たような問題は起こっていて、かつては大学そのものが超エリートであり、大学卒業は自動的に将来の安定を約束するものであったのに、現在では二人に一人が大学を出ている。そして、大学生の質はかつてと変わらないかむしろ上がっているが、かつての大学生が体感できたような将来の安定などどこにも約束されていない。大学生に相応する職業が少なく、数少ない職種をめぐって大学生たちが激しい争いを繰り広げ、争いに敗れた者は大学生としての素養を積みながら、大学を出たという記録だけ残して大学生に相応しくない未来を過ごさねばならないのが現状であり、それと同じ事が起きていたのが忠平の時代であった。
これで不満を感じないとすればそのほうがおかしい。
意見封事はその不満を解消する手段であった。ただし、不満の元凶である「出世できないこと」については解決していない。解決しようにも枠がないのだからどうしようもない。だから、「意見封事というチャンスを与えたのに活かさなかったのは君たちだ」という体裁を整えたのである。
もっともこれは以前からの流れがより鮮明化した結果であり、忠平個人の責任とはできない。貴族全体の数が増えたのに、対応するポストの数は以前のままなのである。増えた貴族全員に地位相応の待遇を与えるにはポストも予算も少ないが、かといって、貴族を減らすこともできない。

天慶五(九四二)年四月二九日、朱雀天皇、兵乱平定を謝し、加茂社に行幸した。これで平将門の乱も藤原純友の乱も正式に終了した。
もっとも、根本解決には至っていない。
増えすぎた貴族が地方にあふれ、より良い生活を求めて独自の権力を作り上げるのはもはや日常の光景となった。そして、中央の統制は地方に届かなくなった。
地方に派遣された国司は、その地域の統治で権力を持つことが減った。朝廷が国司に求めたのは予定分の納税を果たすことであり、予定以上の税を集め、国に納める分を除いた余りが国司の収入になるという図式になった。中には真面目にその国の統治を実施する国司もいたが、多くの国司はその国の統治に関心を示さなかった。
これが端的に現れたのは、道路行政。飛鳥時代に建設された道路は意外なほど広い。それも、かなり設備の整った道路である。両脇に側溝を構えた道幅一一メートルが標準で、目的地と目的地を最短距離で結んでいるため徹底した直線で敷かれており、舗装されていないから雨が降ればぬかるむぐらいはするが、地面を深く掘って排水をよくするなど、表面を舗装すればそのままローマ街道としてもおかしくないだけの道路を建設していたのである。それは奈良時代になっても残っていたが、平安時代になると道路は痕跡を消していく。
平城京が耕地となっていったように、道路もまた田畑へと変わっていったのだ。最高の場所にあり、滅多に人も通らず、メンテナンスもされなくなったから荒れ果てるようになった。そんな土地を田畑に組み込むなと命令するほうが無茶な話であった。それがいかに重要なインフラであると認識していても、自分の暮らしのほうが優先する。人通りの多い道であれば切り崩すなど全く考えなかったであろうが、今やほとんど人も通らず、通るとすれば武装した強盗集団のみ。そんな無益どころか有害しかなくなっただだっ広い道路より、作物を生み出す農地のほうが重要と考えたのだ。

全体の利益を考えず自分の権利だけを強く求める者は、店にとってはクレーマーであり、国にとってはプロ市民であり、一般庶民にとっては犯罪者である。そのいずれも迷惑千万であることに変わりはないが、そういう者のいない社会はあり得ない。もしそういう社会があるとすれば、それは二四時間三六五日監視し続けられる自由無き刑務所としか形容できない社会である。
迷惑千万が起こらないようにするために必要なのは、監視し続けることではなく、自分の権利を求めることと全体の利益とがつながるような社会を作ることであるが、それは理想であって現実ではない。社会が一度ガタガタになった後で再興しようというときは、自分の利益と全体の利益が合致するので自分の利益の追求は特に問題ないし、社会不安にもつながらない。だが、社会の発展が止まって下降線を迎えるようになると、全体の利益と個人の利益が相反するようになり、個人の利益を求める動きが犯罪へとつながってしまう。なぜなら、真面目に働けば豊かな生活をおくれるようになる時代ではなくなるから。上昇しているときは仕事もたくさんあるし、働けば働いただけの見返りが得られるが、下降すると仕事の数が減り、働いても得られる見返りが乏しくなる。これは現在の日本を見ればわかる。
この時代も現在の日本と同様、間違いなく下降線を歩んでいた。藤原良房の手によって始められたばかりの頃はどこかの荘園に参加すれば豊かな未来が待っていたが、今や荘園に参加すること自体も困難になってしまった。かといってその他に豊かになるチャンス方法などなく、同じだけ努力しても同じ成果は得られなくなり、未来に対する希望は減っていった。
その結果が治安の悪化である。後のことを考えず、今だけを考えて行動する者が続出したのだ。将門も、純友も、突き詰めていけば大規模な犯罪とするしかないが、それは社会問題が露見した結果でもあったのだ。将門や純友の反乱は鎮圧されたが社会問題の根本は解決していない以上、治安の悪化が食い止められるわけはない。このようなとき、通常であれば、犯罪を取り締まる公共の力が求められる。軍隊とか警察とかは弾圧や侵略のために存在するのではなく、暮らしの安全を守るために存在しているのだから、本来ならばここを強化するべきなのだ。
だが、この時代はこれらの公共の力が目に見えて弱まっていた。軍隊も、警察も、まともに機能しなくなってしまったのだ。
この状況で藤原忠平が目を付けたのは武士である。天慶五(九四二)年六月二九日、京都で多発する強盗に対抗するため、滝口の武士を中心とし、そこに諸衛府の文官や検非違使を混在させた一団を組織させ、二四時間体制の警察組織を作ったのである。忠平はさらに、この新しい警察組織のデモンストレーションとして、翌六月三〇日に、貢上調物を奪った罪により駿河国掾橘近保を捜索させることとした。ただし、それで成功したという記録はない。歴史的意義を探すとすれば、私的権力である武士が公的権力である検非違使の上に立ったという一点のみである。 
34
中国が五代十国の混乱にあること、渤海国が滅亡したことは既に記した。と同時に、三分裂していた朝鮮半島は王建の手で高麗国としてまとまったことも既に記した。
高麗国は理論上、かつての高句麗の継承国家であり、かつ、かつての統一新羅から禅譲を受けた国家であるということになっている。つまり、朝鮮半島の正当な権力は高麗にのみ存在するという理論である。しかし、それならば新羅から正当性だけではなく、ヒトも制度も引き継ぐべきであった。新羅である程度の権力を握っている者を高麗でもそのまま権力の側に就けさせれば、新しい国家のスタートはよりスムーズに展開できたのである。だが、高麗国王の王建はそれをしなかった。その代わりにしたのが、新羅色の一掃である。国家の正当性を除き、新羅は全てが否定された。新羅で権力を握っていた者は再底辺に落とされ、新羅の文化は否定され、新羅の制度は消滅させられたのである。それまでとは異なる新たな政権を樹立するときによくある現象であるとは言え、王建の指令は徹底した破壊であり、破壊に抵抗する者は命の危険に追いやられた。
その結果が、亡命である。
しかし、単に自分と家族の命を守るために逃げてきたというのであれば何の問題もなかった。問題は、亡命者が新羅の軍船で日本にやってきたことである。天慶五(九四二)年一一月一五日、隠岐から新羅軍の残党が漂着したとの連絡が届いた。
要望は日本への亡命であるが、相手は軍船である。現にこのときの軍船は、一瞬ではあるが竹島に上陸している。新羅と日本との間は、鬱領島と竹島の間を海の上の国境線とすることで合意していたし、それは高麗との間でも有効であった。ほとんど岩礁である竹島はともかく、人が住めるだけの広さのある鬱領島も無人島としてきたのも、それが日本海の洋上における安定を図るための、両国の暗黙の了解となっていた政策であったのである。それは新羅が一〇〇年に渡って侵略を続けていた間も守られており、高麗が朝鮮半島を統一してもやはり有効であった。
その取り決めを破って竹島に上陸しただけでなく、軍船を連れて隠岐にやってきた。これは対策を一歩間違えれば亡命どころか戦乱になるところであり、忠平は難しい決断を迫られていた。
討議を重ねた末ではあるが、忠平からの回答は、受け入れ拒否。
理由は、竹島に日本の許可なく不法に上陸したこと。これは宣戦布告に等しい行為であるとし、国境の外へ直ちに退去するよう命じたのであった。と同時に、新羅人の残党と称する一派が軍船を操って日本領である竹島に上陸し、隠岐にまでやってきたことを高麗に厳重に抗議した。この抗議に対する高麗の返答はなかったが、竹島が日本領であり、鬱領島が高麗領であり、その両方を無人島とすることは従来通りであるとの返答はあった。

誰の目にも藤原独裁は盤石なものに見えていた。
天慶五(九四二)年時点では以下の通りである。
関白にして太政大臣である藤原忠平がトップに君臨。
左大臣は忠平の実兄の藤原仲平で、右大臣は空席。
大納言は二人とも藤原氏。
中納言は四人中三人が藤原氏。
参議は五人中二人が藤原氏。
つまり、太政官一三人中九人が藤原氏であり、残る四人のうち三人は源氏だから、藤原氏でも源氏でもない一般の貴族は一人しか太政官に入れていないのである。
しかも、その一人である参議の伴保平はこのとき七六歳になっている。つまり、長期間の勤務に対する特別恩賞的な意味で、太政官の一番下の参議に加えてもらえているという状況である。
これで一般の貴族が意欲を見せるだろうか? 懸命に働いたことの評価が全くと言っていいほどないのだ。いくら藤原氏以外の者が太政官に入っていると言っても、皇室から分かれ出たばかりである源氏以外は、長年の功績に対する特別恩賞の高齢者が一人いるだけ。これでは意欲を減退させるに充分である。
その上、天慶五(九四二)年三月一〇日に提出を命じた意見封事は何の結果ももたらしていない。中には意欲的な書面を出した者もいたが、書類を出せと命じられたので儀礼的な内容を返信したか、そもそも意見封事を出さないかのどちらかの者が多かった。そして、結果から見れば意欲的な書面を出した方が負け組で、意欲を見せない儀礼的なもので済ませたか、あるいは、無視した者のほうが勝ち組になった。無駄な労力を費やさなかったという点で。
提出の程度があまりにも低いので、天慶六(九四三)年一二月一七日に意見封事を再度出すように命じたが、その回答も空回りだった。一年八ヶ月を経ての提出の督促だから、そもそも意見封事自体が意味をなしていたとは考えづらいものがある。
忠平も、意見封事そのものが全くの儀礼的なものであり、内容は伴っていないと認めていた。天慶七(九四四)年一月四日に、朱雀天皇の名で、意見封事は関白藤原忠平が全て目を通していると宣言する事態となったのも、命じる側と命じられる側の双方が、全くの儀礼的なもので実体を伴っていないと考えていたからである。

太政官に入るのをゴールに考えても、そのゴールははるかに遠く、また、現実的でもない。
この状況下で貴族たちが選んだのは、太政官に入る出世ではなく、自らの財を増やすことであった。出世は程々に済ませる代わりに、より豊かな暮らしを手に入れることに執着するようになったのだ。
こうなると、出世させることをエサとして一所懸命にさせるようにしてきた業務は、財に関係ないと判断したら手を抜く対象となる。出世を程々で済ませることを考えるようになった貴族たちが渇望するようになったのは地方官だが、その統治は手を抜くこととなったのだ。地方での善政が出世に関わる評価基準であったが、それが財を増やすのに関係ないとあれば、善政なんか放っておいて、ノルマぎりぎりを果たすことを考えるようになってしまった。
中には財に関心を持たず、誠心誠意、地方官としての職務を果たすことを考える者もいたが、そのような者が地方官になれるのは稀であった。貴族の数は増えているのにポストの数は増えていない。しかも、世の中は藤原氏であることが重要視され、それ以外の貴族はよほどのことがない限り抜擢されない。地方官のポストの空きが出そうだと聞きつければ、経験も実績も申し分ない貴族が大挙して自己推薦文を持参してやってくる。その地域の統治が困難なときは経験ある貴族が選ばれ、容易であるときは経験の乏しい若手貴族が選ばれるのが通常であるが、そのスタートの経験を積めるのが一部の有力貴族の子弟に独占されることとなった。無名の貴族の意欲ではなく、有力貴族の財を増やし続けることが優先されるようになったのだ。
財の有無が貴族としての評価を定めるとなれば、誰しも財を増やすことに執着するようになる。地方官に与えられたノルマとはその地方からの税収を中央に届けることであるが、その額を徹底的に削り、削った結果を自分の財としてため込むことを考えるようになった。さらに、あれこれと理由を付けて臨時の税を課し、その結果を自分の蔵へと届けさせるようにもなった。
名門貴族でない者が地方官の地位を手にするためには、それ相応のプレゼントが必要になった。良房も、基経も、叩けばホコリぐらいは出る。だが、忠平の元には良房や基経が聞いたら卒倒するであろう量のプレゼントが届いていた。贈るなと命じても無駄であった。財をはたいて忠平へのプレゼントを用意し、地方官の地位を手に入れ、はたいた以上の財を獲得することが、無名貴族の成功の最短ルートとなってしまったのだ。
さすがにこの現状は問題であると考え、天慶七(九四四)年一月六日には、地方官の評価基準の改定を打ち出したが、それで貴族たちの意欲を呼び起こすことはなかった。ノルマを変えただけでは何の意味もなさなかったのだ。
それが安定した政治体制としての藤原独裁の結果であった。

国境の外で起こっているような国家存亡の危機は乗り越えた。反乱はあっても鎮圧し、日本という国家は以前と同様に続いている。こんな現象は大陸のどこを見渡しても存在しない。そして、将門や純友の反乱による被害者はいるが、五代十国の動乱にある中国や、三国分裂の争いが繰り広げられた朝鮮半島、そして、国家そのものが地図から消えてしまった渤海国に比べれば、失われた命は少ない。
自浄作用の働かない政治。
腐りきった政治。
賄賂が横行する政治。
ボロボロとしか形容できない治安。
だが、犯罪で命の危機を感じることはあっても戦争で殺されることはない。
これが、海の向こうで起こっているような国家存亡の危機とは無縁の暮らしを手にした代償である。
よく、「政治家が『正義』という言葉を口に出したら終わり」と言われる。権力を握った者が、正義とは何か、悪とは何かを定義し、正義のために悪を滅ぼす事を言い出すと、いっさいの妥協も許さない重苦しい雰囲気に包まれるのだ。
忠平にこういう感覚はない。重苦しい雰囲気もなければ、正義だの悪だの定義することもない。もしかしたら自分がやっていることが悪であると考えたのかもしれない。腐りきった政治、自浄作用の働かない政治、能力ではなく家柄が全てを決める政治。これはどう考えても正義ではないが、その代わり、人間らしい暮らしは手にできる可能性がある。
前と比べれば明らかに暮らしぶりは悪いし、希望もない。治安の悪さがそれに輪をかける。自らが武器を手にして自分たちを守るか、あるいは武士に守ってもらわなければ命の保証はできない。だが、それでも海の向こうに比べればマシだった。言葉も通じない異民族に攻め込まれて、その地に住む者であるというだけで家族も住まいも田畑も命も奪われるのに比べれば。

藤原氏でなければ未来がない。
では、未来ある藤原氏にはどのような未来が待っているのか。
わかりやすいのが忠平の子である藤原実頼と藤原師輔の兄弟である。兄の実頼はこのとき四五歳、弟の師輔は三七歳。元服と同時に貴族入りし、天慶七(九四四)年一月時点では、実頼が大納言に、師輔が権中納言に出世している。
ここで兄弟のプロフィールをおさらいすると以下の通りとなる。
延喜一五(九一五)年一月二一日、藤原実頼が貴族デビュー。
延長元(九二三)年九月五日、藤原師輔が貴族デビュー。
延長八(九三〇)年八月二五日、藤原実頼が蔵人頭に就任。
延長九(九三一)年三月一三日、藤原実頼が参議に就任。太政官入りを果たす。
延長九(九三一)年閏五月一一日、藤原師輔が蔵人頭に就任。
承平四(九三四)年一二月二一日、藤原実頼が中納言に就任。
承平五(九三五)年二月二三日、藤原師輔が参議に就任。太政官入りを果たす。
天慶元(九三八)年六月二三日、藤原実頼が右近衛大将に就任。同日、藤原師輔が権中納言に就任。藤原師輔は七人抜きの出世。
天慶二(九三九)年八月二七日、藤原実頼が大納言に就任。
この兄弟の出世は藤原氏の典型的な出世パターンと同じである。
元服と同時に貴族デビューし、名目上の地方官の職務を経て財を築き、三〇歳になるかならないかで蔵人頭に就任して天皇の側近となり、参議に空きができたと同時に参議になって太政官の一翼を担う。蔵人頭を経験すれば自動的に参議になれるから手順としては律令違反ではないが、他の貴族にとっては異例な出世スピードで太政官入りするようにしか見えない。太政官というのは現在で言う内閣のようなものだから、当選五回から六回のベテラン議員に混じって、当選回数の少ない世襲議員が内閣の一員になるのと同じである。
あとは太政官の中での出世だが、それも他の貴族は苦労に苦労を重ねて地位を積み上げるのに対し、藤原氏の、それも藤原北家の本流と見なされた者は、苦労することなく簡単に地位を積み重ねる。
ただし、良房が基経を、基経が時平をそうであると指名したように、兄弟で誰か一人を後継者であると指名することはない。生年の違いによる差はあれど、兄弟は同じルートを歩ませる。そして、兄弟で切磋琢磨しあう。兄弟の中で誰が前任者の権威を継承するかは、その時点でもっとも政治力のある者とする。
このようにしたのは時平が若くして亡くなったのが理由であろう。若くして亡くなった時平は後継者を用意できなかった。つまり、藤原氏の権力継承に問題を残したまま世を去った。このときは時平の弟二人が立つことで問題を解決できたが、仲平も忠平も基経の後継者として考えられていなかったために、二人とも数多くの貴族のうちの一人にすぎず、それまでの政権の継続を保証する貴族ではなかったのである。
政権継続を保証するには、後継者一人では心細すぎる。時平のように何かあったらそのときに瓦解してしまうかもしれないのだ。これを解決するには、後継者を複数立てることである。その上、複数の後継者相互を争わせれば、結果として最も政治力の高い者が権力を手にすることとなり、執政者の質の確保も可能となる。
かつては全ての貴族が同一線上に並び、争いを繰り広げて大臣の地位を掴んだ。そして、それらの貴族は主義主張が雑多に分かれ、人が変われば政策も変わるのが通常であった。だが、藤原独裁の結果、政策は連綿とすることとなった。執政者の教育は勧学院が行い、勧学院で政策を学んだ後に貴族となり、政権に就き、勧学院の教育に基づく政策を行う。これが連綿とする。
これでは政策がブレない。長期的な政策であっても続くし、人が変わっても政策は続く。発展に欠かせない政策の連続はここに実現する。 
35
ただし、政策に対するチェックは入らない。政策が誤りであると主張したところでその者は権力を掴み取ることなどできないし、広く訴えることで自らの政策を受け入れさせることもできない。政策は藤原氏が連綿として受け継ぐものであり、その枠から外れたら、太政官の一人になる可能性はあっても、権力者となる可能性はなくなるのだ。
いかに優秀な者であっても、藤原氏でないというだけで権力から外される。逆に、藤原氏であれば多少能力の劣る者であっても権力の一翼を担える。実力主義は兄弟や従兄弟の間で繰り広げられる狭いものとなり、あとは家系によって職業が決まるようになった。
世襲にはメリットとデメリットがある。メリットは変わらないで受け継がれること。デメリットは変われないまま受け継がれてしまうこと。ある程度の能力がなければ受け継げないが、受け継ぐ対象が能力の劣る者であるとき、必要とする能力の水準を下げるか、他の者に受け継ぐ対象を切り替えるかで、世襲の価値は大きく変わることとなる。
わかりやすい例で言えば平家物語がある。平家物語と言っても物語そのものではなく、平家物語を語り継ぐ琵琶法師のほう。琵琶法師の語る平家物語は非常にゆっくりとしており、当時の人はこんなゆっくりとした語りを聞いていたのかと考える人がいるが、実はそうではない。誕生当時はもっと早く、語り終えるのに現在の三分の二ぐらいの時間で済んでいた。それがだんだんとゆっくりとなっていったのは、時間を長くすれば語り継ぐ者が劣っていてもどうにかなるから。能力の劣る者が途中に入ってしまったために作品のスピードが悪化し、それを「厳粛」とか「古風あふれる」とかと評価してしまっている人がいるために、元の品質に戻れずにいるのである。
平家物語に限らず伝統芸能に非常にゆっくりとしたものが多いのも、本来のスピードでは受け継げない者が途中にいたためにレベルを落としたからで、かつての人が非常にゆっくりしていたのではない。政治の世襲にも同じ事が言え、失政者に求められる要素が劣っている者が権力を受け継ぐ場合、すでに存在するマニュアルに基づいて政治を執り行うしかできないために政治の劣化が起こる。現状の問題に対応できなくなるし、生活水準の向上も図れなくなる。
世襲は必ずしも悪ではないのは、受け継いだ者が能力の高い者であれば、マニュアルに頼らず現状の問題に対処できる点にある。しかも、若くして権力を受け継げるために長期的なスパンで物事を考えることができる。世襲制をとっている国は時として大隆盛を見せることがあるが、そういうときは世襲で権力を掴んだ者が若く有能であることが多い。つまり、権力者自身がチェックの入れることのできる者である上に、現在の問題を解決できる権威と権力と能力を併せ持ち、かつ、長期的なスパンで物事を考えることができるという恵まれた環境がそこには存在するのである。

藤原独裁はもはや誰の目にも明らかな形で進行していった。
意見封事による人材の抜擢は空文に終わり、天慶七(九四四)年四月九日、藤原実頼が空席であった右大臣に就任したことで、忠平の後継者筆頭は長子の藤原実頼であり、その次に藤原師輔が来ると誰もが考えたのだ。
これは天慶七(九四四)年四月二二日に、朱雀天皇の弟である成明親王が皇太弟となったことでさらに固まった。成明親王が皇太弟となったことイコール、成明親王の教育係である藤原師輔の権力強化となる。それは、同日に藤原師輔が大納言となったことでより明確となった。
藤原忠平に対抗しうる可能性があるとすれば、それはただ一人、左大臣藤原仲平しかいない。だが、すでに七〇歳を迎えている仲平に忠平打倒を促す者など誰もいなかった。仲平と忠平の関係は、藤原長良と良房の関係に等しい。権威と権力を身につけている弟を影となって支え続ける兄という関係である。長良のように自ら進んで影になることを選んだわけではなかったが、藤原独裁による権力の安定という点では弟と意見を同じくする藤原仲平に、藤原独裁の安定を覆すような行動を促しても無駄であった。弟に先を越され続ける運命を屈辱と考えないのかと訴えても、自分は藤原長良の役割を担うのだと考えている者には届かなかった。本心から言えば悔しいに決まっているが、それとてプライドの寄って立つ最後の一点は崩せない。
当時の人も、停滞と衰退の時代に入っていることは感覚として悟れていたであろう。しかし、停滞を覆す方法も、衰退を反転させる方法も存在しない。全ての問題は現状で対処するしかないと考えた。
天慶七(九四四)年九月一日、左近衛府で火災が発生した。
天慶七(九四四)年九月二日、台風が吹き荒れ、京都市内の数多くの建物が損壊し、信濃国では信濃国司の紀文幹(きのふみもと)が国府の庁舎の下敷きとなり圧死した。
少し前であればこうした天変地異は天が指し示した執政者失格の烙印であり、反対勢力にとっては絶好の攻撃材料であったが、今やそのような攻撃をする者もおらず、執政者たる忠平をはじめとする藤原氏の面々は淡々と災害に対処できるようになった。

動乱の東アジア情勢にあって唯一安定を保っている日本は一目置かれる存在となっていた。特に、一つの統一国家ではなく様々な国家が三分五裂している中国では、日本と手を結ぶことが他の勢力より優位に立つ指標の一つであった。
五代十国の中で、領土こそ狭かったが、十国の盟主と位置付けられていたのが、現在の上海から杭州にかけての一帯を支配していた呉越国である。もっともこの時代の上海は東シナ海沿岸の一村にすぎず、呉越国の中心であったのは現在の杭州である西府。西府は混迷極める中国にあって数少ない発展を見せていた都市であった。
呉越国は承平六(九三六)年と天慶三(九四〇)年の二回、日本に通航を求める使者を派遣しており、日本も一回目は太政大臣藤原忠平の名で、二回目は左大臣藤原中平の名で返信を出している。また、西府と日本を往復する貿易商人も多く、西府に常駐する日本人もいた。
天慶八(九四五)年六月四日、呉越の船が肥前国松浦に到着。その報告が朝廷に届いたのは天慶八(九四五)年七月二六日になってからであり、すでに壊滅状態にあった太宰府の行政機能では、これだけの時間を経ることもやむを得ないことであった。
前回の例で行けば、左大臣藤原仲平が返礼を出すところである。だが、仲平はこのとき返礼を出さなかった。いや、出せなかった。
このとき七一歳になっていた左大臣藤原仲平が病に倒れ身動きできなくなっていたのである。
このときの日本の公的な見解では、呉越国は中国の一部を構成する一地域であり、国王が君臨してはいても、正式な国家ではないとするものである。ゆえに、天皇や天皇に匹敵する摂政関白の書状は出せない。太政大臣という妥協点もあるが、前回は左大臣藤原仲平を署名者とすることで回答としていた。
だが、今回はその手を使えない。
病状の仲平に署名させようかとする意見もあったが、最終的には却下された。
天慶八(九四五)年九月五日に左大臣藤原仲平が亡くなったからである。七一歳という享年は、この時代としては異例の長寿であった。
仲平がいなくなり左大臣が空席になったことで、呉越国への正式な返信が出せなくなった。そのため、天慶八(九四五)年一〇月二〇日に、呉越国を担当させる専門職である唐物交易使を定め、摂政を専門的にあたらせることとした。これは渤海国との折衝にも採用していたという先例があった。

この天慶八(九四五)年、何とも奇妙な流行が発生した。志多羅神(しだらじん)である。
記録の最初は天慶八(九四五)年七月二五日。摂津国河辺郡で「志多羅神」というそれまで全く聞いたことのない神を祭る神輿が三基、数百人の民衆によって担がれてきた。志多羅(しだら)とは「手拍子」のことで、神輿の周りを群衆が取り囲み、手拍子をたたいて騒いで踊りまくるという、何とも奇妙な人のうねりとなった。
このとき群衆の歌っていた歌は、これより二〇〇年後に編集の始まった歴史書である「本朝世紀」に残っている。

 月は笠着る 八幡は種蒔 いざ我等は荒田開かむ
しだら打てと 神は宣まふ 打つ我等が命千歳
 しだら米 早買はば 酒盛れば その酒 富める始めぞ
しだら打てば、牛は湧ききぬ 鞍打ち敷け 佐米を負わせむ

朝より 蔭は陰れど 雨やは降る 佐米こそ降れ
富は揺み来ぬ 富は鎖懸け 宅儲けよ さて我等は 千年栄えて

人の流れは時間とともに増していき、神輿もいつの間にか六基に増えていた。群衆の出身は摂津国に限らず、五畿諸国やその周囲の国々からも参加するに至り、七月二八日に摂津国河辺郡の昆陽寺でついに統制の効かない群衆となった。
群衆は昼夜徹して淀川沿いをさかのぼり、七月二九日は山城国山崎に到達。そのまま群衆は平安京に向かうかと思われた。しかし、群衆は平安京ではなく、歌にも残っているように山崎のそばにある石清水八幡宮に向かった。
石清水八幡宮は将門・純友の叛乱鎮圧を祈祷した実績があり、平安京から近いこともあり、身分に関係なく誰もが気軽に参詣できるお社(やしろ)として平安京だけでなく五畿一帯に名を馳せる身近な存在であった。その身近な存在に志多羅神の神輿を奉納したのである。この奉納で騒ぎはピークとなったが、ピークを過ぎたら群衆は自主的に解散した。
この事件の首謀者はわからない。そもそも首謀者がいるかどうかもわからない。
何とも奇妙な事件である。

天慶九(九四六)年四月二〇日、朱雀天皇が退位を表明した。皇太弟である成明親王が受禅し、臨時の天皇位に就く。同時に、朱雀天皇の側に侍る意味で関白であった藤原忠平はその地位を終えた。
この日が理論上の村上天皇の治世の始まりである。
七歳で即位してから一七年間の在位の間に、地震、洪水、富士山噴火、平将門の反乱、藤原純友の反乱と、ろくでもない日常が展開していた。その上、藤原実頼の娘を妻としていたが子宝に恵まれず、このままでは皇位継承も危ぶまれた。
朱雀天皇は自らの意思で帝位を降りたが、そこに忠平の意思が絡んだとも考えられる。天皇が藤原氏の女性を妻に迎え入れることは珍しくも何ともない。そして、藤原氏の血を引く皇子を設け、帝位に就くことも今や日常の出来事である。だが、朱雀天皇にそれはない。
政権の安定を目指して藤原独裁を構築した忠平が、政権を不安定にさせる要素である皇位継承に無頓着であるわけがない。
成明親王は夭折したとは言え、藤原師輔の娘との間に男児をもうけている。これは皇位継承権に期待できるということである。
天慶九(九四六)年四月二八日、村上天皇が正式に即位。同日、藤原忠平が関白に復帰することとなった。後に「天暦の治」と呼ばれることとなる村上天皇の治世も、そのスタートは関白を擁する通常の摂関政治であった。

前年に来着した呉越国からの使者に対する返信はまだ出せずにいた。ただし、これを呉越国からの使者が訝しがることはなかった。それどころではないと納得していたからである。
その理由というのは契丹情勢。
契丹が南に攻め込み、晋(後晋)を滅ぼしたのである。後継国家として漢(後漢)が成立するが、それは、契丹の影響を強く受けていた晋と、契丹への対抗を隠さないでいる漢の違いであり、同時に、民族アイデンティティをかけての争いの始まりであった。
唐の滅亡で梁が誕生し、梁の滅亡で唐が復活し、唐の滅亡で晋が誕生し、晋の滅亡で漢が誕生した。中国全土を統一する強大な国家というわけではないが、かつての唐の継承国家はこの時点では漢である。呉越国は継承国家の周辺に存在する地方勢力の一つであり、日本国として対等に接すべき国家ではない。
中国の正当な継承国家が混迷にあることは、理論上では漢の冊封体制下にある呉越国も外交を動かしづらい状況でもある。結果、待ちぼうけを食らうこととなったのもやむを得ないこととされた。 
36
なお、この頃、日本文化に一つの息吹が生まれていた。
伊勢物語がこの頃に成立したのである。
藤原独裁とは言うが、独裁政治によく見られるような言論弾圧はない。それどころか、この時代としては意外なまでの言論の自由がある。
社会が安定し、ある程度の言論の自由もあり、そして、文を書くだけの時間があれば文学作品は創作される。伊勢物語はその嚆矢だが、誰もが自分の意思を表せるかな文字の誕生もあり、文学作品が次々と生まれていくこととなる。

文学作品の登場という新たな時代の息吹もあるが、動乱あふれる時代というそれまでの時代の名残も見える。
天慶一〇(九四七)年二月一四日、伯耆国で藤原是助が兵卒を率い、百姓物部高茂を襲ったことを報告した。百姓というのは農民に限らず公的な役職に就いていない一般庶民全体を指す語で、物部高茂は農民ではなく、公的な繋がりを持たない地元の武士団のトップである可能性が高い。
さらに天慶一〇(九四七)年二月一八日、には鎮守府将軍平貞盛の使いが蝦夷の坂丸らに殺されたため、蝦夷を討伐するかを陸奥国に調査させるという報告が届いた。
そして、天慶一〇(九四七)年二月二六日には賀茂斎院に強盗が入った。
治安問題はどうにもならない現実であるが、将門や純友と比べると小物に感じる。小物に感じるのは現代の感覚だけではなく、当時の感覚でも同じであった。国を揺るがすような反乱ではなく、モノを奪い去っていくだけの強盗集団。しかも、その強盗集団に対処する武士という存在が確立されている。
ゆえに、現状存在する対処手段である武士を活用すれば治安問題の最後はどうにかなる。根本的な解決とはならないが、対処療法にはなる。
天慶一〇(九四七)年三月二八日、朱雀上皇が東西兵乱(東・平将門の乱 西・藤原純友の乱)による官軍賊軍戦没者を供養するため、延暦寺で法会を行うと同時に、五位以上の封禄を減らす事を表明。ここで貴族の給与を減らしたのは、五位以上の者、つまり、貴族の絶対数が増えてしまったためで、貴族への給与だけでも国家財政にとってかなりの負担になっていたからである。
藤原独裁に対する不満を抑えると同時に、社会的不安を抑える方法として、無意味な出世が用いられることが多かった。
インフレという言葉は、経済における物価上昇だけを意味するのではない。要件を満たす者が増えすぎてしまうために、モノの価値が相対的に上がってしまうこともまたインフレである。
ここで問題となっていたのは貴族のインフレであった。勤務実績に基づいて位階が上がるのが律令制における決まりであり、律令制批判を金科玉条とする藤原忠平でもこの一点は守っている。ただし、ここで問題なのは、勤務実績を正当に評価すると、想定している以上の出世の大盤振る舞いをしなければならないということ。
かつては、その人の能力に基づいて位階を授けていたし、ポストの空きを考えての昇格も考慮されていた。懸命に職務をこなしても出世しないことに不満が起こらなかったわけではないが、相対評価による実力主義に加え、律令派と藤原派という二大政党制による政権争いであったために、不満を吸い上げる存在が機能していた。しかし、今や藤原派の一党独裁になっており、不満を吸い上げる仕組みが存在しない。不満を放置したままではどうなるかは平将門や藤原純友という前例を見れば誰の目にも明らかであった。そのため、実力主義による相対評価ではなく、実績による絶対評価としなければならなくなった。これならば、どれだけの職務を果たせば上の位に行けるかが一目瞭然である。同じ位階の者が何人いようと、あるいは、上の位階の者が何人いようと、自分の実績に合わせた位階が手に入るのである。
律令制否定が金科玉条にも関わらず、律令制に基づいた正当な評価をしてしまったために貴族が増えすぎてしまうという問題が起こった。本来であれば従五位下であれば就ける職務に従四位上の貴族が就任するというのも、増えすぎた貴族全体に割り振れるだけのポストがないからである。ポストに空席ができたときより優先されるのはより位階が高い者。位だけあって職がない貴族が位階相応よりも低いポストに就くために自己推薦することなど珍しくもなかったのも、貴族の絶対数が増えてしまったからである。
その上、治安問題への対処として、武士に貴族の位を授けることも珍しくはなくなった。武士と言っても、源氏であったり、平氏であったり、藤原氏であったりと、血統だけ見ればごくごく普通の貴族であり、名目も血統による貴族任官である。だが、その実状は武士に対する報償であった。治安を守るために戦う武士を現行の制度に組み込み、その権力は私的な武力でなく公的な権威に基づくものであるとするために五位以上の位階を与えたのである。
武士にとっても位階を授けられることはメリットの多いことであった。まず、自らの権力のバックボーンができあがる。殴り合いで勝ったから権力を持っているのではなく、朝廷から認められた権威を持っているから権力を持っているのだとアピールできた。
さらに、位階には相応の給与が支払われる。位階だけあって役職のない立場であっても、五位以上の貴族となればそれだけで相応の報酬が得られるのだ。
この結果、貴族の数がやたらと増えてしまい、貴族に支払う給与が国家財政の大きなウェイトを占めるようになってしまったのだ。

増えすぎた貴族の数を整理する必要はあると誰もが考えていたが、それと藤原独裁を崩すこととは思考がつながらなかった。
天慶一〇(九四七)年四月二二日、天暦に改元。その四日後の天暦元(九四七)年四月二六日、右大臣の藤原実頼が左大臣に昇格し、空席となった右大臣に実頼の弟の藤原師輔が昇格した。兄弟が揃って左大臣・右大臣に昇進し、父の関白太政大臣である藤原忠平と共に太政官のトップを占めるようになった。これで、藤原独裁はより強固なものとなった。
藤原氏だけが権力の中枢にいられる。権力の中枢に至るまでに藤原氏内部での切磋琢磨はあるものの、必ずしも能力の高い者が権力を掴むとは限らない。
藤原氏に近ければ権力の中枢に近づくチャンスがあるが、そこでの評価基準も個人の能力とは限らない。
そうでない者はノルマに基づいて評価され、位階を手にできる。手にする位階については公正であり、文句の付けようはない。だが、位階に見合ったポストが手に入る保証はどこにもない。
安定と引き替えに何かが壊れ始めた、少なくとも非正義の社会になったと考えた者は多かったが、壊れていない正義の社会の実現を考えた者はいなかった。壊れていることも非正義であることも安定と引き替えなのだ。安定を崩してしまったときに待っているのは、朝鮮半島で起こったような、あるいは中国で起きているような動乱。いや、それならばまだいい。渤海のように国も民族も消えて無くなることだってあるのだ。
律令を否定したが安定は求めるというスタンスの結果、前例は率先して守るべきものとなった。そして、マニュアル化が進み、全ての政務は誰もがこなせるものになり、能力を発揮する局面そのものが減った。全ての判断基準は安定第一となった。安定を崩す者は否定され、安定を崩す出来事は、それがどんな些細なものであろうと芽のうちに摘まれることとなったのである。
天暦元(九四七)年六月、天然痘の流行が見られた。伝染病の発症については前例があるが、治癒した記録はどこにもない。だから、このような大事件に関しては前例にとらわれない政策が必要だったのに、忠平は前例に走った。伝染病対策の前例はなくても天災を押しつける絶好のターゲットならあったからである。天暦元(九四七)年六月九日、菅原道真の祠を北野に建立するとした。天然痘の流行は菅原道真の祟りというわけである。天災は失政者に対する天の裁きであるとする考えであったこの時代にあって、最近聞かなかった菅原道真の祟りの噂を流すことは、天然痘流行が天の裁きであるという声を消すのに有効であった。

藤原実頼が左大臣になったのは、前例の踏襲を前面に考える者にとってありがたい話であった。返事を出せずにいた呉越国への対応である。
この年、契丹が国号を遼としたが、それはただ単に国の名前を変えただけではない。契丹国のままであれば渤海国の継承である日本海沿岸の王国に過ぎなかったが、国号を変えたことで中国全土の支配を視野に含めた帝国へと発展させると宣言したのである。五代十国の混乱にある中国にとって、圧倒的軍事力を持つ契丹=遼は恐怖の存在であった。それは日本海の対岸の日本でも同じで、遼の存在はプレッシャーとなっていたのである。
使節訪問から二年を経た天暦元(九四七)年閏七月二七日に、左大臣藤原実頼が呉越王に書を送ることとなった。前回は左大臣藤原仲平からの返信であったから、新しい左大臣の藤原実頼からの返信にすれば、呉越国との国交は左大臣が行うという前例に則った政務となる。これで日本は、中国大陸にどうにか友好関係を築ける地域を持ったこととなる。
しかし、呉越国は渤海国ではない。かつて新羅を包囲するように強い同盟関係を結んでいた渤海国と違い、呉越国はただ友好関係にあるという国である。また、渤海国は日本との友好関係が国の死活問題となる国であったが、呉越国にとって日本は特別な国であるものの、死活問題とまではなっていない。呉越国は建国間もない高麗とも通好を結んでいたし、国号を変えたばかりの遼とも関係を持っていた。東アジアで特例的に安定している日本との関係は大きなアドバンテージであるものの、日本との友好関係が絶たれても国はやっていけるのである。そのため、使者の派遣は儀礼的なものになり、日本の回答も儀礼的なものとなった。
儀礼的なものとなったのは呉越国に対する日本の回答だけではない。高麗とも、遼とも、日本は正式な国交を結んでいない。
もっとも、これは日本だけの問題ではない。
高麗は国是として鎖国を掲げており、特に、旧渤海国の領土を巡って一触即発の状態にある遼との通商を徹底的に取り締まっていた。海外交易も首都開城から西へと向かう航路が黙認されていたのみであり、北の遼や南の日本へ向かう航路は取り締まりの対象となっていた。かつて日本海を荒らし回った新羅の海賊の姿もいまや風前の灯火であり、新羅海賊の残党が日本に逃れ瀬戸内の海賊になっていたほどである。
遼はもともと海に積極的に出る民族ではない。海運の伝統もないし、海に兵士を乗せて攻め込むという伝統もない。自分たちが攻め落とした渤海国が海の向こうの日本国と同盟関係を結んでいたのは知っていても、その関係を継承する意志は示していなかったし、外交関係を新たに結ぼうともしなかった。
そして、この時代は、格下の国が格上の国に使節を派遣するのが外交であるとなっている。軍事力は恐ろしくても海を出てこない遼も、地理的に近い高麗も、日本からすれば、呉越国のように使者を派遣するのであれば受け入れはするが、日本から使者を派遣する考えなど毛頭ない。
これでは日本が積極的に外交関係を結ぼうという動きをしない限り、外交などあり得ない。
呉越国との書簡のやりとりはあるし、民間交易も存在するが、この時代の日本は事実上の鎖国であった。 
37
前例を大前提とすると、一見すると前例のないことでも、他の前例を探し出して考え出さなければならなくなる。そして、前例の積み重なりで政務は硬直する。
硬直するのは政務だけではなく経済も同じ。
天暦元(九四七)年一一月一日、倹約の命令を出す。
天暦元(九四七)年一一月一一日、雑物の価格を減定する。
天暦元(九四七)年一一月一三日、衣服の奢侈や諸祭使の饗禄を禁じる。
この半月の間に立て続けに出た経済政策は、「以前はそうではなかった」という前例が経済に適用された結果でしかない。需要と供給のバランスという感覚はなく、ただ単に、前例にないという一点を経済に適用し、収穫が悪かったため穀物量が減っていることから起こる物価高は禁止されたのみならず、持てる者の消費まで抑えられることとなった。
前例第一で新しいことを認めず、現実を無視して理論を押し進め、失敗に対するチェックも入らず政権は無駄に安定している。人々は貧困に苦しみ、その日の生活を求めてさまよう。全ては生まれで決まり、能力を発揮する局面もなく、努力に対する成果もなく、未来に対する希望もない。
これで経済が好転したらその方がおかしい。これではまるで共産主義ではないか。
ただし、共産主義より一つだけマシなことが一点だけあった。それは表現の自由があったこと。
伊勢物語の登場にもあるように、文学が隆盛を極め始めるのは忠平の時代からである。表現者はその表現を認められ公開できたし、それを推奨されもした。文学の中では藤原氏を批判しようと完全に自由なのである。現実の停滞と反比例するかのように文学は隆盛し、同時代の他国では類を見ない文芸の隆盛が起こったのだ。散文を記すことのできるのは紙を手に入れることのできる裕福な者に限定されるとは言え、差別されることはなかった。特に男女間で差別されることなく、女性でも表現者となりうるのは、それまでの時代では考えられないことであった。
文芸は散文だけではない。和歌は完全に復権し、漢詩よりも格上に考えられるようになった。そして、和歌に身分はないという伝統は生きていた。この世の栄華を極める者も、その日の暮らしに苦しむ者も、和歌の世界では完全に同格に扱われる。そして、和歌の出来は作品としての素晴らしさだけが評価基準であり、詠み人の身分は関係ない。生活の苦しさを込めた歌であろうと、政権を批判する歌であろうと、和歌を詠む自由は認められていた。この時代より一〇〇年前の小野篁は、時の嵯峨上皇と藤原緒嗣を批判する漢詩を作ったために隠岐に追放されることとなったが、藤原忠平を批判する和歌を作った者が何かしらの刑罰を受けたということはない。
経済の原理原則を無視して、贅沢を禁止し、物価を定めたのも、藤原忠平が庶民の生活苦を認めたからであろう。それが自らの経済政策の失敗を理由とするものであるとは認めなかったが、経済が苦しいことは認めなければならなかったし、その不満を口にする自由を侵害することもなかった。ただし、不満を口にする自由は認めるが反乱は認めない。
藤原忠平を執政者としてみたとき、その政策に合格点を付けることはできない。だが、言論の自由を認めたという一点は評価しなければならない。

藤原忠平を執政者と見たときに合格点を付けることのできない最大の理由は、生活の苦しさである。
政治家の評価はただ一つ、庶民の暮らしが豊かになったかそうでないかだけで決まる。どんなに悪評を受けた政治家であろうと、どんなに無能と酷評された政治家であろうと、その政治家が権力を持っているときの庶民の暮らしが以前より良くなったら、政治家として合格である。それは独裁者であろうと、民主主義によって選ばれた権力者であろうと代わりはない。
藤原独裁は安定していたし、海の向こうのように国が滅びるかどうかという戦乱もなかった。
ただし、戦乱はないと言っても平和ではなかった。平将門や藤原純友の反乱はその代表であるが、大規模な反乱以外にも、治安を悪化させたのは数限りなく存在した。
日本の歴史を振り返ってみたとき、平安時代は最も治安が悪い時代である。その中でも、藤原忠平の時代は最も治安の悪い時代であったと言える。強盗が街中をうろつき、夜闇に乗じる盗賊は後を絶たず、平地では山賊が、沿岸部では海賊が跋扈している。それは最も治安の守られていなければならない場所においても例外ではなかった。
天暦二(九四八)年三月二七日、群盗が右近衛府曹司に進入。今や検非違使や武士にその地位を奪われたとは言え、近衛府と言えば国の武力を司る役所、今で言う防衛省の庁舎である。そこに強盗が忍び込んだというのだから尋常ではない。
さらに強盗はターゲットを移す。そのターゲットは、藤原氏専門の教育機関である勧学院。天暦二(九四八)年六月一日に群盗が勧学院に侵入したのだ。藤原氏ですら強盗のターゲットになるという事実に、首都京都の市民は愕然とした。
その九日後の天暦二(九四八)年六月九日には、右大臣藤原師輔の邸宅である桃園第で火災が発生した。自然発火なのか、それとも放火なのかはわからない。だが、当時の人は、犯行に失敗した強盗が放火したのだと噂した。
藤原氏をターゲットとする強盗にさすがに怒り心頭に達したのか、天暦二(九四八)年六月一六日、賑給を行う際の狼藉を防ぐためという名目で、武人を総動員しての盗賊捜索命令が出た。ただし、命令は出たが、結果がどうであったかの記録は残っていない。

人災だけではなく、天災もまた、生活を悪化させる要素である。
天暦二(九四八)年七月末、台風が上陸し日本列島各地に大ダメージを残した。京都市中の建物が大きく損壊したが、損壊は建物だけではない。最も問題になったのが田畑である。
台風によって田畑が破壊されて収穫を生まず、天暦二(九四八)年一一月九日、二五ヶ国で不作であることを認め、税の徴収を減免するとの布告を出さざるを得ないほどであった。
食べ物が少なく、生きていくために流浪する。流浪しても食べていけないから、食べていくために犯行に走る。犯行の被害にあって食べ物が奪われ、食べ物を探して流浪する。流浪しても食べていけないから、食べていくために犯行に走る。この負のスパイラルに対し、藤原独裁は無力であった。良房の頃であれば前例など関係なしに藤原の私財を開放して被害者の支援に当たっていたであろうが、そのような記録もない。ただただ治安悪化を嘆き、前例に基づく支援策を探して、万策尽きて何もしないで終わった。
人を救うための宗教も、一部の僧侶を除いては私欲に走ることに変わりなかった。年が変わった天暦三(九四九)年一月一六日、東大寺の法師らが別当寛救を訴えて入京したが、寄宿した賀陽真正邸で乱闘を起こし殺人事件に発展するという失態を生んだ。国家最大級の寺院の起こしたこの不祥事に、神仏の救いも今の世の中には存在しないのだと誰もが考え、そして絶望した。少し前、京都で絶大な支持を集めた空也も、今は比叡山にこもってしまっている。それは純粋に仏教を学ぶためであったのだが、あの空也ですら救いに来てくれないというのは絶望を生むこととなった。
安定の他には何もなかった。安定しているから国外よりはマシだというのは最後の希望であったが、その最後の拠り所である太政大臣藤原忠平も、すでに七〇歳になっている。息子二人を左大臣と右大臣とすることで権力の後継にも成功しているし、いつどこで何があってもおかしくない年齢なのにも関わらず、かつての良房のように隠居することもなくトップに君臨し続けているのも、忠平がただ一つの希望であったからである。
だが、その最後の希望は何の前触れもなく消えた。

藤原忠平の肖像画は残っている。ただし、同時代の史料ではなく後世の想像画である。その肖像画の載っているのは、小倉百人一首の第二六番の「貞信公」。この絵札の若者が藤原忠平の最も有名な肖像画である。
小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
小倉山の峰の紅葉よ。君に人の思いのわかる心があるならば、もう一度、天皇(醍醐天皇)がおいでになるまで、葉を散らさずに散らずに待っていてくれないか。

百人一首に載っている忠平の肖像画は若い。二〇代か三〇代の若さである。また、百人一首に残る和歌も、大鏡に残された忠平の逸話も、いずれも若き忠平の話である。
だが、この人は七〇歳まで生きたのである。しかも、ただの高齢者ではない。藤原時平の死から四〇年国政を一手に引き受け、右大臣就任後三五年に渡って大臣であり続けた高齢者である。数年前より体調を悪くし、政務を息子達に任せて自分は参内しないこともあった。理論上、太政大臣がいなくても、左大臣と右大臣が出席していれば政務は成立する。一説によると関白辞任を申し出たが村上天皇に却下されたとの逸話もあり、晩年の忠平は自分の年齢と体力を実感していたようである。
七〇歳を迎えた忠平は参内しない日が増えていった。良房のように隠居したわけではなく、あくまでも病欠だというだけであり、回復すれば直ちに政務に復帰するつもりであった。だが、病は回復ではなく終焉へと向かっていった。
天暦三(九四九)年八月一四日、藤原忠平死去。四〇年の長きに渡って政権を握り続けてきた独裁者の死にしては、その死の記録はあまりにも乏しい。その日に、邸宅である小一条第で亡くなったという記録があるだけである。死因も、死の前の姿も記録に残っていない。
天暦三(九四九)年八月一八日、亡き藤原忠平に正一位の位と「貞信公」の名が贈られた。

源能有も、菅原道真も、藤原時平も、宇多法王も、藤原仲平も、藤原忠平も亡くなった。宇多天皇の時代を彩った者は皆亡くなった。ただ一人を除いて。
そのただ一人である陽成上皇が亡くなったのは、忠平の死の翌月である天暦三(九四九)年九月二九日。上皇歴は実に六五年という長期間に及び、現在でもなお、二位の冷泉天皇を大きく凌ぐ第一位である。    −完− 
 
日本人と梅

 

梅は外来種です。その証拠に『古事記』・『日本書紀』に梅は描かれていません。漢詩集『懐風藻』にはじめて出ていることから、中国から伝来したことが察せられます。8世紀に中国との交易の中で、薬用の「烏梅(うばい)」(梅干の一種)が輸入されたのです。その際、梅の種や苗も輸入され、日本で栽培されたのでしょう。ですから『万葉集』では、最初に大宰府の梅が詠まれています。
ところでみなさん、「うめ」は訓読みで「ばい」は音読みと思っていませんか。実は両方とも梅の中国語読みから変化したものです。「うめ」は古語では「むめ」ですから、「ばい」とも近いのです。そのため「うめ」も音読みとする説もあります。要するに日本語に「梅」に当るものが存在しなかったのです(「菊」も同様です)。
いずれにしても舶来ということで、当時はとても高価かつ有用な植物でした。必然的に都の中に植えて管理されたようです。山桜が野生であるのに対して、梅は人間の手によって栽培されたのです。そのため『万葉集』において、梅は桜の3倍(119首)も歌に詠まれています。
その梅は薬用のみならず、あと二つの付加価値がありました。一つは春になると他の植物よりも早く花を咲かせることです(百花の魁(さきがけ))。そのため鶯と抱き合わせにされ、春の訪れを告げる花として尊ばれました。例えば『古今集』では、
春たてば花とや見らむ白雪のかかれる枝にうぐひすぞ鳴く(素性法師)
と歌われています。ただしこの歌では梅は咲いていません。ここでは一刻も早い春の訪れを願って、梅の枝に降り積もった白雪を、梅の開花に見立てて詠んでいるのです。これが紅梅だったらそうはいきません。この見立ては、当時の梅が白梅だったからこその技法といえます。
もう一つは馥郁(ふくいく)とした香りを放つことです。桜にそんな匂いはありませんから、「色の桜」・「香りの梅」ということになります。そのことは、
色よりも香こそあはれと思ほゆれたが袖触れし宿の梅ぞも(古今集)
という歌からも察せられます。もっとも平安時代に紅梅が入ってくると、それこそ、
君ならで誰にか見せん梅の花色をも香をも知る人ぞ知る(紀友則)
のように、色も香もある花として歌われるようになります。
この「香り」というのは、嗅覚(鼻)で感じるものですよね。ですから梅の場合は視覚が通用しない夜でも、
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる(古今集)
と闇夜の梅が詠まれます。というより、視覚がきかないからこそ嗅覚の機能が発揮されるわけです。
また「匂い」という語は、古語では視覚にも嗅覚にも用いられていました。たとえば百人一首で有名な伊勢大輔の歌では、
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな(詞花集)
と、桜の視覚美が歌われています。本居宣長も、
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
と歌っていましたね。これも朝日に照り輝くような視覚美です。
それに対して紀貫之の、
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける(古今集)
は、梅の花の匂いが歌われています。もっとも、貫之の歌には「花」とだけあって、一見すると何の花かわかりません。みなさんは平安時代に「花」といったら「桜」を指すと教わっていませんか。それも間違いではないのですが、ここでは「香に匂ふ」とあることに注目して下さい。普通桜は「匂ふ」であって、「香に匂ふ」とは言いません。要するに視覚の場合は「匂ふ」で、嗅覚の場合は「香に匂ふ」と使い分けられているのです。ですからここは桜ではなく梅ということになります。 
 
「桜」考 (櫻)

 

○ 一般に桜と呼ばれているものは、バラ科 Rosaceae(薔薇科) サクラ亜科 Prunoideae(梅亞科)に属する、広義のスモモ属(サクラ属) Prunus(梅屬)のうち、サクラ亜属 Cerasus(櫻桃亞屬)〔或は独立させてサクラ属 Cerasus〕の、主として落葉性の樹木の総称。日本の山野には、ヤマザクラ・オオヤマザクラ・カスミザクラ・オオシマザクラ・マメザクラ・エドヒガン・チョウジザクラ・ミヤマザクラ・タカネザクラなどが自生するほか、それらの変種・品種などをあわせて約100種類が野生する。
○ 山地に自生する山桜(やまざくら)にたいして、人里で栽培する桜を里桜(さとざくら)と汎称する。ただし植物学上は、サクラの栽培品のうち、オオシマザクラの特徴を持つものをサトザクラ Cerasus lannesiana として分類する。「厳密な意味の生物学的種ではなく、栽培品種のグループとして考えるべきである」(勝木俊雄『日本の桜』)。
○ 同じ広義のスモモ属 Prunus のうち、ウワミズザクラ亜属 Padus(稠李亞屬)〔或は独立させてウワミズザクラ属 Padus〕の樹木も桜と呼ばれるが、花の形は相当に異なる。 
○ 和名サクラの語源には諸説がある。1.木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ,『古事記』)または木花之開耶姫(このはなのさくやびめ,『日本書紀』巻2第9段)のサクヤの転訛とする説(本居宣長『古事記伝』)、2.幹の皮が横に裂けることから(榛原益軒)、3.咲映(さきはや)の転訛、などの説があり、定まらない。
○ 日本では、『万葉集』以来 サクラに桜(櫻)の字をあてるが、これは唐の文学に見られる櫻桃(桜桃,オウトウ,yingtao)を当てたものという。ただし、中国では 櫻桃はさくらんぼ(シナミザクラ P. pseudocerasus の実)またはその木を指す。また、ただ櫻といえば櫻桃を指し、ことさらにその花をいうときは、櫻花(オウカ,yinghua)という。
○ 源順『倭名類聚抄』(ca.934)に、桜は「和名佐久良」と、朱桜・桜桃は「和名波々加、一云迩波佐久良」と。
○ 欧米でも、cherry はさくらんぼであり、セイヨウミザクラ P. avium の果実(今日普通にサクランボの名で売られているもの)またはその木である。ことさらにその花をいうときは、cherry blossom という。
○ 中世以前の桜は、多くはヤマザクラであった。なお、古く奈良には八重ざきのサクラがあったことが知られているが、その実体は不明。今日ナラノヤエザクラと呼ぶものは、別物である。今日見られるような多くの品種が作られたのは、江戸時代のことである。野生種から作られた園芸品種をサトザクラと総称し、今日最も多く見るソメイヨシノを初め、200-300の品種があるとされる。 
○ 『日本書紀』によれば、神宮皇后の宮殿を稚桜宮(若桜宮、わかさくらのみや)、履中天皇の宮殿を磐余稚桜宮(いはれのわかさくらのみや)といった。
○ 『日本書紀』巻13に、允恭天皇は愛妃衣通姫(そとおりひめ)を、美しい桜の花にたとえる。
はな(花)ぐは(妙)し さくら(桜)のめ(愛)で こと(如此)め(愛)でば はや(早)くはめ(愛)でず わがめづるこ(子)ら
○ 桜の花は、『万葉集』には43首に詠われている(文藝譜「万葉集 サクラを詠む歌」を見よ)。数では梅の110首に及ばないが、当時の人々のサクラを愛した様子がうかがわれる。それによれば・・・サクラは、ツツジとともに、山の春を代表する花だった。
・・・ 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道(たつたぢ)の 岳邊(をかべ)の路に 丹(に)つつじの 薫(にほ)はむ時の 桜花 開きなむ時に ・・・ (高橋虫麿)
人々は、梅が終れば次は桜と、そのさくのを待ち焦がれた。
烏梅のはな さきてちりなば さくらばな つぎてさくべく なりにてあらずや (張氏福子)
鶯の 木伝ふ梅の 移ろへば 桜の花の 時片設(かたま)けぬ (読人知らず)
花の盛りには、人々は 山の桜を、また庭に植えた桜の花を観賞し、その下で宴を催し、花をかざ(挿頭)したりかずら(蘰)にしたりして遊んだ。
見渡せば 春日の野辺に 霞立ち 開き艶(にほ)へるは 桜花かも (読人知らず)
桜花 今そ盛りと 人は云へど 我はさぶしも きみ(君)としあらねば わがせこ(背子)が ふるきかきつ(垣内)の さくらばな いまだふふ(含)めり ひとめみにこね (大伴池主と大伴家持の贈答歌。家持は「兼ねて遷任せる旧宅の西北隅の桜樹を詠い云う」)
今日の為と 思ひて標(し)めし 足引の 峯の上の桜 かく開きにけり (大伴家持。自館に宴する歌)
をとめらの 挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)の 蘰(かづら)のためと
敷き座せる 国のはたてに 開きにける 桜の花の にほひはもあなに
反歌
去年の春 あへりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも (若宮年魚麿「桜花歌」)
雨風には桜を散らすなと願いつつも、散る桜をも愛でた。
春雨は 甚(いた)くな零(ふ)りそ 桜花 いまだ見なくに 散らまく惜しも (読人知らず)
足ひきの 山の間照らす 桜花 是の春雨に 散り去(ゆ)かむかも (読人知らず)
春雉(きぎし)鳴く 高円の邊の 桜花 散りて流らふ 見む人もがも (読人知らず)
また、折った枝に歌を添えて、贈りあった。
此の花の 一枝(ひとよ)の内に 百種(ももくさ)の 言そ隠(こも)れる おぼろかにすな
此の花の 一枝の内は 百種の 言持ちかねて 折らえけらずや (藤原広嗣と娘子の贈答歌)
そして、美しい女性を桜の花に擬え、異性を恋うる気持ちを桜の花に託した。
物念(おも)はず 道行く去(ゆ)くも 青山を 振り放(さ)け見れば
つつじ花 香(にほえ)未通女(をとめ) 櫻花 盛(さかえ)未通女
汝をそも 吾に依すと云ふ 吾をそも 汝に依すと云ふ ・・・ (読人知らず。また 柿本人麻呂)
たゆらきの 山の峰の上の 桜花 開かむ春べは 君し思(しの)はむ (播磨娘子)
春去らば 挿頭(かざし)に為むと 我が念ひし 桜の花は 散りにけるかも
妹が名に 繋(か)けたる桜 花開かば 常にや恋ひむ いや年のはに (両の壮士の、自殺した少女を悼んで)
いうまでもなく、『万葉集』時代に歌われた桜は、ヤマザクラである。
○ 平安時代に入ると、梅に替って桜が愛せられた。その象徴的事件は、仁明天皇(在位833-850)のとき紫宸殿(南殿)の前庭、御階の左に植えられていたウメが、ヤマザクラに替えられたことである(いわゆる「右近の橘、左近の桜」)。
○ 『古今集』には、桜を歌った歌が多い。いずれもヤマザクラであろうという。
山風に 桜吹まき みだれなむ 花のまぎれに たちとまるべく (僧正遍昭)
世中に たえて桜の なかりせば 春のこころは のどけからまし (在原業平『伊勢物語』)
みわたせば 柳桜を こきまぜて 宮こぞ春の 錦なりける (素性法師)
見てのみや 人にかたらむ 桜ばな てごとに折て 家づとにせむ (同)
桜花 ちらばちらなん ちらずとて ふるさと人の きても見なくに (惟喬親王)
春霞 たなびく山の 桜花 みれどもあかぬ 君にも有かな (紀友則)
桜花 ちりぬる風の なごりには 水なき空に 浪ぞ立ける (紀貫之『亭子院歌合』)
山桜 霞のまより ほのかにも みてし人こそ こひしかりけれ (同)
まてというに ちらでしとまる 物ならば 何を桜に 思まさまし (よみ人しらず)
しゐて行 人をとどめむ 桜花 いづれを道と まどふまでちれ (よみ人しらず)
さくら花 ちりかひくもれ おいらくの こむといふなる みちまがふがに
(在原業平「ほりかはのおほいまうちぎみの四十賀、九条の家にてしける時によめる」)
いたづらに すぐす月日は おもほえで 花みてくらす 春ぞすくなき
(藤原興風「さだやすのみこ(貞保親王)の きさいの宮(藤原高子)の五十の賀たてまつりける御屏風に、さくらの花のちるしたに、人の花みたるかた(形)かけるをよめる」)
山たかみ くもゐに見ゆる さくら花 心の行きて をらぬ日ぞなき
(素性法師「内侍のかみの 右大将藤原朝臣の四十雅しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた」)
別れをば 山のさくらに まかせてん とめむとめじは 花のまにまに
(幽仙法師「山にのぼりてかへりまうできて、人々わかれけるついでによめる」)
山かぜに さくらふきまき みだれなん 花のまぎれに 君とまるべく
(僧正遍昭「うりむゐんのみこの舎利会に 山にのぼりてかへりけるに、さくらの花のもとにてよめる」)
ことならば 君とまるべく にほはなん かへすは花の うきにやはあらぬ (幽仙法師)
しひて行く 人をとゞめむ さくら花 いづれをみちと まどふまでちれ (よみ人しらず)
こえぬまは よしのの山のさくら花 人づてにのみ きゝわたる哉
(紀貫之「やまとに侍りける人につかはしける」)
わがこひに くらぶの山の さくら花 まなくちるとも かずはまさらじ (坂上是則)
花よりも 人こそあだに なりにけれ いづれをさきに こひんとかみし
(紀茂行「さくらをうゑてありけるに、やうやく花さきぬべき時に、かのうゑむける人 身まかりにければ、その花をみてよめる」)
この時代よりのち、「花」とは桜の花となった。『古今集』に、
としふれば よはひはおいぬ しかはあれど 花をしみれば 物思ひもなし
(藤原良房「そめとののきさき(良房の娘にして文徳天皇の皇后明子)のおまへに 花がめにさくらの花をさゝせたまへるをみてよめる」)
けふこずば あすは雪とぞ ふりなまし きえずは有とも 花と見ましや (在原業平)
久かたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ (紀友則)
ひとはいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしのかににほひける (紀貫之)
花の色は うつりにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに (小野小町)
「花見」がすでに行われていたことも、『古今集』から知り得る。
我やどの 花みがてらに くる人は ちりなむのちぞ 恋しかるべき (凡河内躬恒)
『亭子院歌合』においては、
さかざらむ ものとはなしに 桜花 おもかげのみに まだきみゆらん (凡河内躬恒)
山桜 さきぬる時は つねよりも 峯の白雲 たちまさりけり (藤原興風)
ほどもなく 散りなんものを 桜花 こゝらひさしく またせつるかな (伊勢)
いそのかみ ふるのやしろの 桜花 こぞみし春の 色やのこれる (坂上是則)
春がすみ たちしかくせば 桜花 人しれずこそ 散りぬべらなれ (紀貫之)
はる風の 吹かぬよにだに あらませば 心のどかに 花は見てまし (宇多法王)
散りぬとも ありと頼まむ 桜花 春はすぎぬと 我にきかすな (紀貫之)
わが心 春の山べに あくがれて ながながし日を けふもくらしつ (凡河内躬恒)
桜散る このした風は さむからで 空にしられぬ 雪ぞふりける (紀貫之)
花桜 いかでか人の 折りてみぬ のちこそまさる 色もいでこめ (凡河内躬恒)
うたたねの 夢にやあるらん 桜花 はかなく見ても やみぬべきかな
さけりやと 花みにくれば 桜花 いとゞ霞の たちかくすらん (藤原興風)
いもやすく ねられざりけり 春の夜は 花のちるのみ 夢にみえつゝ (凡河内躬恒)
見てかへる 心あかねば 桜花 咲けるあたりに 宿やからまし (藤原興風)
しのゝめに 起きて見つれば 桜花 まだ夜ごめても 散りにけるかな (頼基)
うつゝをば 更にもいはじ 桜花 夢にも散ると みてばうからむ (凡河内躬恒)
花の色を うつしとゞめよ 鏡山 春のくれなん のちもみるべく (坂上是則)
めに見えて 風はふけども 青柳の なびくかたにぞ 花は散りける (凡河内躬恒)
散りてゆく かたをだに見む 春霞 花のあたりは たちもやらなむ
桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞたちける (紀貫之)
花見つゝ 惜しむかひなく 今日くれて ほかの春とや 明日はなりなむ (紀貫之)
今日のみと 春を思はぬ 時だにも たつことやすき 花のかげかは (凡河内躬恒)
そのほか、『八代集』等には、
いそのかみ ふるのやまべの さくら花 うゑけんときを しる人ぞなき
(僧正遍照「やまとの布留の山をまかるとて」。『後撰集』)
ひさしかれ あだにちるなと さくら花 かめにさせれど うつろひにけり
(紀貫之,「桜の花のかめにさせりけるが散けるを見て中務につかはしける」。『後撰集』)
春がすみ たちしかくせば 桜花 人しれずこそ 散りぬべらなれ
散りぬとも ありと頼まむ 桜花 春はすぎぬと 我にきかすな (紀貫之『亭子院歌合』)
きみゝよと たづねてをれる 山櫻 ふりにしいろと おもはざらなん (伊勢『後撰集』)
ほどもなく 散りなんものを 桜花 こゝらひさしく またせつるかな (伊勢『亭子院歌合』)
うちはへて 春はさばかり のどけきを 花のこゝろや なにいそぐらん (清原深養父『後撰集』)
いつのまに ちりはてぬらん 櫻花 おもかげにのみ いろを見せつつ (凡河内躬恒『後撰集』)
高砂の 尾上の桜 さきにけり 外山の霞 立たずもあらなむ (大江匡房『後拾遺集』『百人一首』)
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり (藤原公経『新勅撰集』『百人一首』)
○ 平安時代には桜を生け花としても観賞した。上記の藤原良房(804-872)の歌・紀貫之(ca.868-ca.945)の歌などを見よ。遅れて清少納言『枕草子』(ca.1008?)第4段には、「おもしろくさきたる桜をながく折りて、おほきなるかめ(瓶)にさ(挿)したるこそをかしけれ」とあり、また第23段には「こうらん(勾欄)のもとにあをきかめ(瓶)のおほきなるすゑて、さくらのいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、こうらん(勾欄)のと(外)まで咲きこぼれたる、云々」とある。
○ 旧暦三月三日には、モモ・ヤナギ・サクラを身につけて遊んだ。『枕草子』第9段に「三月三日、頭の辨の柳かづらせさせ、桃の花をかざしにささせ、桜腰にさしなどしてありかせ給ひしをり」云々とある。
○ 平安時代に既にあったかもしれないサクラの品種を推測させてくれる記事としては、次のようなものがある。藤原基経(836-891)が亡くなったとき、上野岑雄は次のように詠んだ。
深草の のべの桜し 心あらば ことしばかりは すみぞめ(墨染)にさけ (『古今集』巻16)
『詞花和歌集』巻一に、
いにしへの ならの都の やへざくら けふこゝのへに にほひぬるかな
(伊勢大輔「一条院御時 ならのやへ桜を 人の奉りけるを 其折御前に侍ければ 其花を題にて歌よめとおほせごとありければ」『小倉百人一首』にも)
○ 平安時代末期には、桜町の中納言とあだ名された藤原成範(1135-1187)が出た。数寄もので、町なかの屋敷にサクラを植え並べて、その中に住んだ。
また、西行(1118-1190)は23歳で出家し、生涯 桜を愛しんだ。
たぐひなき 花をし枝に さかすれば 桜にならぶ 木ぞなかりける
ねがはくは 花のもとにて 春しなん その二月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ
吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだみぬかたの 花を尋ねん
などなど、多くの名歌を残したが、その全貌は文芸譜(西行の桜の歌)を見よ。
○ 吉田兼好(1283?-1353?)『徒然草』139段に、「花はひとへなる、よし。八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたくねぢけたり。植ゑずともありなん。遅ざくら、またすさまじ。虫のつきたるもむつかし」と。
○ 宮崎安貞『農業全書』(1697)に、「桜は本朝の名物にて、唐其外の国々に稀なる物と見えたり。花の事は云ふに及ばず、山林に多くうへて材木、薪にもすぐれてよし。書籍をきざむ板(はん)にしては是にこゆる木なし。うゆる法、実のよく熟し落ちたるを拾ひあつめ置き、赤土にてもよく肥へたる少しねばる土地よし。畦作り菜畠のごとくこしらへ、取りて其まゝ五月蒔きたるよし。又来年二月早くまき、土を厚くおほひ糞水をそゝぎ、尤蒔く時粉糞に合せまきたるは尚よし。上を少し踐み付け置くべし。よく生ゆる物なり。肥地に蒔きて草かじめし、手入を用ゆれば、間一年にては二三尺もふとり、細根よく生ずるゆへ、盛長ことの外安き物なり。薪にしてよくもえ、火つよく、伐るもわるも快し。且又大かたの磽地(やせち)にても生長しふとりさかゆる事速かなり。又若木の時、上皮を剥ぎては、かばと云ひて檜物屋に多く用ひ、其外細工に用ゆる物なり。本木を伐りてもやがてかぶより若葉出でて、程なく栄ゆるなり。花を賞し材を用ゆ。多くうへて国用を助くる良木なり。殊に本朝の名木なれば、子を取り置きて必ずうゆべし。赤土、黒土に宜し。沙地を好まず。吉野、仁和寺、奈良何れも黒土なり。八重ざくらは異やうの物なりと兼好法師は書きたれども、今洛陽の名木奈良初瀬の花を見れば世塵を忘れ、忽に世の外に出でて仙境に遊べる心ちぞし侍る。されば、公武の貴人の弄べるはむべなり。神の社の前うしろ、寺院のほとりにまめやかに此木をつぎ種へなば、年を重ねて後何国の地にても大和洛陽の花の景色をうつすべし。其事を司れる人は必ず心を用ゆべし。今民用の事を記する序、はからず心にうかべるまゝ他のあざけりを忘れて、にげなき事を妄りにこゝに書(しる)すものなり」と。
○ 芭蕉の句に、
初桜折しもけふは能(よき)日なり
咲(さき)乱す桃の中より初桜
両の手に桃とさくらや草の餅
花の雲鐘は上野か浅草か
似あはしや豆の粉(こ)めしにさくら狩
木のもとに汁も膾(まなす)も桜かな
さまざまの事おもひ出す桜かな
しばらくは花の上なる月夜かな
桜がりきどくや日ゞに五里六里
花見にとさす船おそし柳原
よし野にて桜見せうぞ檜の木笠
花をやどにはじめをはりやはつかほど
花ざかり山は日ごろのあさぼらけ (芳野)
ゆふばれや桜に涼む波の花
奈良七重七堂伽藍八重ざくら
一里は皆花守の子孫かや
(「伊賀の国花垣の荘はそのかみ奈良の八重桜の料に付けられけると云伝へはんへれは」『猿蓑』)
声よくばうたはふものをさくら散(ちる)
散(ちる)花や鳥もおどろく琴の塵
としどしや桜をこやす花のちり
このほどを花に礼いふわかれ哉
小坊主や松にかくれて山さくら (其角「東叡山にあそふ」,『猿蓑』)(幸田露伴評釈に、「上野の境内、士庶賑はひ楽しめる花見の春のさまを、かくなつかしく云取れり。小坊主は丁稚なり、雛僧にはあらず」と)
蕪村(1716-1783)の句に、
花に来て花にいねぶるいとま哉
花守の身は弓矢なきかゞし哉
花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時
嵯峨ひと日閑院様のさくら哉
又平に逢ふや御室の花盛
花ざかり六波羅禿(かむろ)見ぬ日なき
なら道や当皈(たうき)ばたけの花一本(ひとき)
柏木のひろ葉見するや遅桜
木(こ)の下が蹄のかぜや散(ちる)さくら
花ちりて木間(このま)の寺と成にけり
葉ざくらや草鹿(くさじし)作る兵(つはもの)等
葉桜や碁気になりゆく奈良の京
また、
帰り花それにも敷かん筵切レ (其角,『猿蓑』)
○  
みわたせば、あをやなぎ、花桜、こきまぜて、みやこには、みちもせに春の錦ぞ。
さおひめの、おりなして、ふるあめに、そめにける。
柴田清煕作詞、J.J.ルソー作曲(メロディーは「結んで開いて」と同じ)。歌詞は、『古今集』所収の素性法師の歌を踏まえる。文部省音楽取調掛編『小学校唱歌集』(1881)より。この唱歌集は 近代日本の劈頭を飾ったもの、「蝶々」「蛍の光」なども含む。

ところで、古来江戸時代まで、花見の対象とされたものは おもにヤマザクラであった。吉野のサクラ・嵐山のサクラなど、みなこれである。幕末明治に作り出されたソメイヨシノは、20世紀前半には日本の象徴として、広く国内のみならず世界に植え広げられた。今日ほとんどの学校の庭にソメイヨシノが植えられて、入学式を飾っているのも、ソウル(京城)・タイペイ(台北)・チンタオ(青島)・ワシントンなど、世界各地にサクラの花の公園があるのも、この時代の産物である。
櫻紅葉なるべし峰に社見ゆ (碧梧桐)
桜、さくら、街のさくらに いと白く 塵埃(ほこり)吹きつけ けふも暮れにけり
静かなる 秋のけはひの つかれより 桜の霜葉 ちりそめにけむ (北原白秋『桐の花』) 土井晩翠「荒城の月」
○ 中国では、古来櫻とは櫻桃であり、中国種のさくらんぼ、ミザクラ(シナミザクラ・カラミザクラ)の果実を指し、引いてはその木を指した。その花は、しばしば観賞の対象とされたが、日本のように熱狂的に愛好されてはいない。中国では、春の盛りを代表する花はモモの花である。
○ 欧米では、サクラといえばセイヨウミザクラ、すなわちさくらんぼの木である。たとえば、有名なチェーホフの戯曲『桜の園』も、さくらんぼの果樹園を指している。これに対して、日本のサクラを欧米に紹介したのはケンペル(1651-1716)、1712年のことという。なかんづく、ワシントンのポトマック河畔の桜は、きわめて有名。
この事の起原は、明治四十二年(1909)ワシントン市に於いて、日本に関係深きシドモア女史主唱により日本に好意を有する人々が醵金して日本の桜をば、当時大統領タフト氏夫人の熱心の尽力せられてあるポトマック河畔の新設公園に植ゑて、日本人の精神を紹介しかねて両国民の交情をあつくせむと企てたりしに基づく。時に水野総領事この事を耳にし、そは寧ろわが国より寄贈せば、一層国交をあつくすべしと思ひ、高平全権大使に謀り、その賛同を得て、外務省を経て、東京市にその意を通じたれば、市長尾崎行雄はその事に賛し、東京市の名を以て、樹の苗木十種二千株を送りしが、当時わが国にては樹苗の病虫害につきての調査研究不十分なりし為、米国の農務省昆虫局の精細なる検査を受けたるに病気又害虫寄生等の事ありし為、法規によりて全部焼きすてらるることとなりぬ。この事は日米両国共に遺憾の事とせしが、已むを得ざる事なりき。
東京市はこれを遺憾とし直ちに農商務省農事試験場に委嘱し、桑名、恩田両技師の周到なる注意の下に桜の苗を育て、明治四十四年(1911)二月に染井吉野の苗一千株と、八重桜としては / 白雪 有明 御車返 福禄寿 一葉 関山 普賢象、香桜としては / 上香 瀧香 御衣黄、の十種二千株、総計三千株を得、これを翌年二月米国に送りしが、この度は厳重なる害虫検査にも合格してめでたくポトマック公園に植ゑ付くることとなりぬといふ。かくて、大正四年(1915)に至り米国より東京市に米国特有の花木「ハナミヅキ」の白花のものを贈り、翌年紅花ハナミヅキを贈り、大正七年(1918)にカルミヤを寄贈せり」(山田孝雄『桜史』)。  
 
音無川

 

音無川(おとなしがわ)
音無川 音無川は、和歌山県本宮町を流れ、熊野本宮大社旧社地近くで熊野川に注ぐ熊野川の一支流。熊野本宮大社は現在は高台にありますが、もともとは熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある中洲に鎮座していました。現在地に遷座したのは古いことではなく、明治24年(1891)のことです。明治22年(1889年)の大水害により被害を受けて近くの高台に遷座しました。かつての本宮大社は、熊野川と音無川に挟まれ、さながら大河に浮かぶ小島のようであったといわれます。熊野川は別名、尼連禅河といい、音無川は別名、密河といい、2つの川の間の中洲は新島ともいったそうです。中洲にある本宮へ入るには、音無川を徒歩で渡らなければなりません。江戸時代まで音無川には橋が架けられず、道者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければなりませんでした。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、道者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。精進潔斎を眼目としていた熊野詣の道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場にあたります。道者は音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づき、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。かつては熊野詣といえばその名が連想されるほど、音無川は名を知られた川だったのです。
『拾遺和歌集』
しのびて懸想し侍ける女のもとに遣はしける/元輔
音無の川とぞついに流(ながれ)ける 言はで物思(おもふ)人の涙は
(音無の川となってとうとう流れてしまった。口にすることもなく恋に物思う人の涙は。「音無の川」という名が音を立てないことを連想させる。)
三十六歌仙のひとり、清原元輔(きよはらのもとすけ。908〜990)の歌。清原元輔は清少納言の父で、娘の清少納言も『枕草子』五九段に音無川のことを、河は、飛鳥川、淵瀬も定めなく、今後どうなるのだろうかと趣がある。大井河。音無川。水無瀬川。と記しています。清原元輔の歌をもう1首。
熊野へまゐりける女、をとなし川よりかへされたてまつりてなくなくよみ侍(はべり)ける/元輔
音なしの川のながれは浅けれど つみの深きにえこそわたらね
(音無の川の流れは浅いけれど、罪の深さに渡ることができないのだ。)
本宮を目の前にして泣く泣く引き返さなければならなかったその女性が犯した罪とはいったい何だったのでしょうか。熊野詣の道中は精進潔斎に努めなければならなかったので、何らかの禁忌をその女性は破ってしまったのかもしれません。
『金葉和歌集』
卯の花をよめる/源盛清
卯の花を音無河の波かとてねたくも折らで過(すぎ)にけるかな
(卯の花を音をたてずに流れる音無川の波かと思って、腹立たしいことに折らずに通り過ぎてしまったよ。)
「音無し(音がない)」を懸詞とする歌。卯の花は、その白さから波に喩えられる。
『新古今和歌集』
都を出でて久しく修行し侍(はべり)けるに、問ふべき人の問はず侍ければ、熊野よりつかはしける/大僧正行尊
わくらばになどかは人の問はざらむ を〈お〉となし河に住む身なりとも
(どうしてたまには便りをくれないのだろう。いくら私が音無川の近くに住む身であるとしても。)
「おとなし」は「音無川」と音信が無いの意の「音なし」の掛詞。
『続古今和歌集』
題しらず/藤原忠資朝臣
名のみして岩波たかく聞ゆなり おとなし川の五月雨(さみだれ)の頃
(「音無」というのは名ばかりで岩に波がぶつかる音が高く聞こえるのだなあ。五月雨の頃の音無川は。)
『続拾遺和歌集』
紀貫之(きのつらゆき)の歌。紀貫之は『古今集』の撰者の中心人物。三十六歌仙のひとり。『土左日記』の作者。
君こふと人しれねはや 紀の国の音無川の音だにもせぬ
(私があなたを恋しく思っていることを人が・・・(「しれねはや」の部分の訳がわかりません。どなたかご教授を)。紀の国の音無川の音さえもしない。)
『夫木抄』:ふぼくしょう、鎌倉後期の私撰和歌集。
28回もの熊野御幸を行った後鳥羽院の歌。
はるばるとさかしき峯を分け過ぎて 音無川を今日見つるかな
(遥々と険しい峯を分け過ぎて音無川を今日見たことだ。)
音無川に出会った感動を詠んだ歌。
音無の里
おそらくは音無川の近くにあった里。
『拾遺和歌集』
恋(こひ)わびぬ音(ね)をだに泣かむ声立てていづこなるらん音無の里
(もう恋の思いを耐え忍ぶ気力も失せてしまった。せめて声を立てて泣こう。どこにあるのだろうか、音が聞こえないという「音無の里」は。)
「音無し(音がない)」を懸詞とする歌。声に出して泣くこともできない忍びの恋の歌。「音無」の恋、口に出すことができない恋とは、どんな恋なのでしょうか。想う相手が既婚者であったり、身分違いであったりということでしょうか。
音無の滝
かつて音無川にあった滝だという説があります。現在、それらしき滝は見当たりません。
『詞花和歌集』
家に歌合し侍〈はべり〉けるよめる/中納言俊忠
恋ひわびてひとり伏せ屋によもすがら落つるなみだや を〈お〉となしの滝
(恋しいのにどうしようもなくてひとり伏して寝ている粗末な家に一晩中流れる涙こそが、音無の滝なのではないか。)
これも「音無し(音がない)」を懸詞とする歌。
清少納言の『枕草子』五八段には、
滝は、音なしの滝。布留の滝は、法皇の御覧においでになったのがすばらしい。那智の滝は熊野にあると聞くのが趣がある。とどろきの滝はどんなにかしがましく、おそろしいのだろう。
と、数ある滝のなかで「音無の滝」の名を一番に挙げています。
音無の山
音無の山とは音無川が流れる周囲の山々のことでしょう。
『伊勢集』:三十六歌仙のひとり伊勢の家集
音無の山の下ゆくさゝら波 あなかま 我もおもふ心あり
(音無の山の木々の下をゆく音無川の小さな波。しっ、静かに。私もあの人を思う心はありますが、噂を立てられたら困るのです。)
「あなかま」は静かにと制する語。 
 
古歌に詠まれた「くりこま」 (栗駒山)

 

私歌集と大和物語
「くりこま」を詠んだ歌人で、年代を特定できるのは元良親王(890-943) と大中臣能宣(921-991) 、大中臣輔親(954-1038)の3人である。元良親王は当時随一の風流人で有名だったらしい。また能宣と輔親は親子で、代々伊勢祭主を勤めた家系に生まれた。
『元良集』(112)
みかりするくりこまやまのしかよりも ひとりぬる身ぞわびしかりける
『能宣集』三巻 (234)
もみじするくりこまやまのゆふかげを いざわがやどにうつしもからむ
『輔親集』(200)
くりこまのやまのさくらのちらざらん はるのうちにはかへらざらめや
村上天皇の頃(945-967) に成立したとされる『大和物語』は主として貴族を素材にし、和歌をつないで物語が構成されている。くりこまを詠んだ歌は第82段と第 140段であるが、後者は元良集からの引用である。
第八十二段 (116)
くりこまのやまにあさたつきじよりも かりにはあわじとおもひしものを
第百四十段 (222)
みかりするくりこまやまのしかよりも ひとりぬる身ぞわびしかりける
古今和歌六帖(8)(9)
ほぼ十世紀末に成立したといわれる『古今和歌六帖』は類題和歌集としては最も古い。その成立・編者等については定説がなく、現在残っている写本、印本についても、鎌倉期の数葉の古筆切を除いて中世極末期以降のものである。くりこまを詠んだ歌は3つある。最初の "雉" を詠んだ歌は大和物語のものによく似ていて、下の句が異なる。他の歌はこの和歌集ではじめて現れる。特に朴木枕を詠んだ歌は、陸奥にあるくりこま山と限定している点で他の歌と異なる。
第二 きし (雉) (360)
くりこまの山にあさたつきしよりも われをはかりにおもひけるかな
第五 まくら (712)
みちのくのくりこまやまのほほの木の まくらはあれと君かた枕
第六 ことなしくさ (315)
くりこまのまつにはいとと年ふれは ことなしくさそおひそはりける
夫木和歌抄(10)(11)
鎌倉後期の私撰類題和歌集。『夫木集』ともいう。撰者は遠江(トオトウミ、静岡県西部) の豪族、藤原 (勝田) 長清で1310年の成立とされている。万葉集以降の歌一万七千余首を四季・雑各18巻、計36巻に類題した膨大な歌集である。くりこまを詠んだ歌は7つある。このうち、大中臣能宣の歌が巻第15と巻第20で重複している。また、古今和歌六帖の3つがそのまま選ばれている。
巻第十五 秋部六 能宣朝臣
もみぢするくりこまやまの夕かげを いざ我がやどにうつしもたらん
巻第二十 山
もみぢするくりこまやまの夕かげを いざ我がやどにうつしもたらん
くり駒の山に朝たつきじよりも われをばかりに思いけるかな
くりこまの松にはいとどとしふれど ことなし草ぞおひそめにける
いかでわれくり駒山のもみぢ葉を 秋ははつとも色かへてみむ
巻第二十九 家集 藤原長能
たけくまにいづれたがへりくりこまの みあけのまへに松たてるをか
巻第三十二 枕 
みちのくのくりこま山のほうのきの まくらはあれど君が手まくら
イメージの中の「くりこま」
奥州経営のために設けられた多賀城府には奈良・平安時代にかけて、多くの都人が陸奥守や供奉として赴任してきた。その中には、『万葉集』の末期を代表する大伴家持や藤原実方などの歌人もいた。したがって、中央との交流の過程で彼らが直接、または伝え聞いた人々が間接的に詠んだ可能性もある。中央文化人にとって東北は憧憬の地でもあった。自然の一片にすぎなかった場所が歌に詠まれると、そこに人間の心情が加わり、憧れのイメージで別の歌が詠まれる。その場所には固定観念が生まれ、歌枕として定着していった。一方、和歌は専門の歌人らによって詠法が確立され流派の宗家が現れてくる。しだいに歌は技巧過多となり、形式的・遊戯的なものに堕落して、詩性や情熱を喪失する。結局、歌枕に詠まれた「みちのく」は、中央文化圏のなかに融和された「みちのく」の姿であって、本来の面影ではなかったのである。
「くりこま」を詠んだ和歌をいくつか拾ってみたが、現在の栗駒山のイメージとずいぶん違っているのは明らかだ。少なくとも神の鎮座する奥山ではない。彼らにとってもっと身近な「生駒山」(642m)のイメージに近いのではないだろうか。これらの「くりこま」を生駒山(伊駒山とも詠んでいる)に置き換えてもおかしくはない。とすれば、「みちのくの栗駒山」も陸奥の同じイメージの中にあった山かもしれない。 
 
「佐野の舟橋」

 

地名「佐野」の語源は普通名詞「狭野」であったようで、日本各地にその地名が残っている。例えば北関東においては栃木県の佐野市が圧倒的に有名だが、群馬の「佐野」という地名を聞いて直ちに所在地がわかる人は、必ずしも多くないだろう。今の高崎市、倉賀野駅近くの烏川沿いに、上佐野町・下佐野町・佐野窪町の名が辛うじて残っている。実はその佐野こそが、中古・中世の和歌の世界で、いやもっと広範に古典文学の世界で最も有名な群馬県内の地名だった、と思う。北条時頼が佐野源左衛門常世に宿を求めた、謡曲「鉢木」の舞台でもある、そう言えば少しは納得されるであろうか。
『万葉集』巻14の「上野国歌」の中で、この佐野の地名は以下の3首の歌に詠まれている。
上毛野佐野のくくたち折りはやし吾は待たむゑ今年来ずとも[万葉3425]
上毛野佐野田の苗のむら苗にことは定めつ今はいかにせも[万葉3437]
上毛野佐野の舟橋取り放し親はさくれど吾はさかるがへ[万葉3439]
数として多いわけでもないが、この中に平安時代以降の歌人達に甚だ強烈な印象を与えたらしい歌が1首あった。3439番である。「舟橋」というのは、川に舟や筏を並べて繋ぎ、その上に板を渡した仮の橋を言うが、そのいわばエキゾティックな情景が都の歌人達を大いに刺激したのではなかろうか。以下、この「佐野の舟橋」を中心にして述べていく。

平安時代中期、既にこの「佐野の舟橋」はある程度有名であったらしい。例えば『枕草子』に「橋は、あさむつの橋、長柄の橋、あまびこの橋、浜名の橋、一つ橋、うたたねの橋、佐野の舟橋(以下略)」と挙げられているし、『能因歌枕』にも「橋を詠まば、は(ママ)にはの橋、浜名の橋、佐野の舟橋とも詠むべし」とある。また、和泉国に佐野の地名がある事を知らされた和泉式部が
いつ見てかつげずは知らん東路と聞きこそわたれ佐野の舟橋[和泉式部続集350]
と詠んでいるのも、当時その存在や所在についての知識が歌人達の間に広まっていた事の証左となるであろう。但し、この頃の和歌にはまだ用例が多いわけではない。
東路の佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人のなさ[後撰619等]
東路の佐野の舟橋はじめより思ふ心ありいとひすな君[古今六帖2557]
後撰詠では初二句が「橋」の縁語「かけて」を導き、更に同じく縁語である「わたる」を連ねて、古今六帖詠では「舟橋」が同音の「はじめ」を導く。ともに序詞として用いられるのみであり、実体としての舟橋が詠まれているものではない。上掲万葉3439詠の初二句は序詞とも実景とも解せるため、構造的類似性を指摘する事は難しいが、しかし後撰詠・古今六帖詠ともに恋歌の中で用いられているあたりには、万葉詠との一脈の繋がりが感じられるようにも思う。
そして、数量的に増加し始める傾向を見せる平安時代後期になると、同時にその詠まれ方も多様性を示し始めるようだ。
いかがせん佐野の舟橋さのみやはふみだに見じと人のいふべき[永久百首・忠房]
「佐野」が同音で「さのみ」を導き「橋」の縁語「ふみ」と言う、技巧上の必要性から「佐野の舟橋」を引き合いに出しただけの、上記の用法の応用のような歌も引き続き詠まれる一方、「佐野の舟橋」を実体として詠む歌も多くなってくる。
東路の佐野の舟橋くちぬとも妹しさだめばかよはざらめや[堀河百首・顕季]
では、佐野の舟橋を恋人のもとへの通い路の途中に設定している。殊更に古風な口吻は、万葉歌との強い関係を想起させるであろう。
今更に恋路にまよふ身を持ちてなに渡りけん佐野の舟橋[堀河百首・師頼]
さらぬだに道ふみまどふくもる夜にいかで渡らん佐野の舟橋[田多民治集155]
「まよふ」「まどふ」とあるように、ここでは「佐野の舟橋」が単なる「橋」でなく「舟橋」であるが故の属性、つまり「不安定さ」が明確に意識されている。前者は、恋そのものの頼りなさ、はかなさを舟橋の不安定性で象徴しているようにも読め、ここまで殆ど「佐野の舟橋」が恋歌の中で詠まれてきた事実を考え合わせると、その象徴化が非常に興味深いが、「遇不逢恋(あひてあはざるこひ)」題で詠まれた事を踏まえれば、「舟橋」であるがために途絶えて、逢えなくなった事を表わすと考えておくのが穏当だろう。
夕霧に佐野の舟橋音すなり手なれの駒の帰りくるかも[詞花328俊雅母]
は場面を佐野の舟橋に設定した必然性が今一つわかりにくい歌だが、舟橋であるがために軋むような音を想定しているのだろうか。
五月雨に佐野の舟橋浮きぬればのりてぞ人はさし渡るらん[山家集223]
風吹けば佐野の舟橋波越すと見ゆるは葦の穂末なりけり[林葉集618]
は、ここまで見てきた例歌の中で最も叙景的な2首であろう。当然ながら佐野の舟橋が実体として詠まれており、それぞれの趣向、つまり川の増水のために浮く事も、風に靡く葦の穂に埋もれたように見える事も、やはり「舟橋」としての属性と深く関わっている。

中世になると佐野の舟橋を詠んだ例は更に増加する。
恋ひわたる佐野の舟橋影絶えて人やりならぬ音をのみぞなく[拾遺愚草79]
東路の佐野の舟橋白波の上にぞかよふ花の散るころ[秋篠月清集966]
東路の佐野の舟橋明日よりや暮れぬる春を恋ひわたるべき[後鳥羽院御集220]
よばふべき人もあらばや五月雨に浮きて流るる佐野の舟橋[千五百番歌合・越前]
等、新古今歌人達の和歌の中に佐野の舟橋は散見するが、とりわけ特筆すべきなのはまとめて12首もの歌が詠まれる機会となった、1215年の「内裏名所百首」であろう。順徳天皇内裏で行なわれた百首歌で、歌枕百を選んでそれを春夏秋冬恋雑の各部に振り分け、その歌枕を題として詠んだものであり、その百題の1つに佐野の舟橋が選ばれた。恋部にあてられたのは、ここまでの流れを辿れば当然の処置と言えるだろう。
かけてだに契りし仲はほど遠し思ひを絶えね佐野の舟橋[順徳院]
人知れぬ心をいそのかみつけやかけてもふりぬ佐野の舟橋[行意]
ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると[定家]
東路の佐野の舟橋霧こめてよそにのみやは思ひわたらん[家衡]
尋ねても渡らぬ仲の月日さへかげ絶えはつる佐野の舟橋[俊成卿女]
東路にかけては過ぎし中河の瀬絶えもつらし佐野の舟橋[兵衛内侍]
思ふ人波の遠方尋ぬべき佐野の舟橋えやはうごかん[家隆]
もらさばや波のよそにも三輪が崎佐野の舟橋かけじと思へど[忠定]
なかなかにかくる心も苦しきに絶えなば絶えね佐野の舟橋[知家]
かけて猶いく世か恋ひんよそにのみ聞きこそわたれ佐野の舟橋[範宗]
絶えねただうきにつれなき身なりともさのみは待たじ佐野の舟橋[行能]
東路や佐野の舟橋いたづらに渡りしころも袖やぬれなん[康光]
「かく」「わたる」といった「橋」の縁語、「佐野」「さのみ」の同音の繰り返しの技巧は既に見えたが、新たにやはり「橋」の縁語である「絶え」が5例も見える点は注目される。「舟橋」である事を意識したためであろうか。ところで、恋部に割り当てられた事もあってか、これらの中に実体を詠む歌はむしろ少ないのだが、かといって平安中期のように序詞で用いられているわけでもない。では佐野の舟橋は何かと言えば、はかない恋、頼りない恋路の比喩・象徴としか言いようがないのではなかろうか。もともとはかなく不安定な「舟橋」の属性を有し、その殆どが恋歌の中で詠まれるという歴史を経てきた、その必然的な結果がここに提示されているように思われるのである。

佐野を舞台とした謡曲として先に有名な「鉢木」を挙げたが、もう1つ「舟橋」がある。ある男が佐野の舟橋を渡って女のもとに通っていたが、それを厭う親が橋の板を外し、知らずに渡ってきた男は川に転落して溺死する。その邪淫の妄念故に地獄に落ちた魂が、旅の山伏によって救われる話であり、明らかに万葉3439詠を踏まえたものである(引用もされている)が、強い決意を歌う万葉歌と悲恋の謡曲を一直線に結んで済ませるのはやや唐突な気もする。下敷きにされた伝承が存在した可能性もあるが、それとともに、中古から中世にかけて和歌の世界で確立していく佐野の舟橋のイメージも、悲恋の謡曲の形成に幾許か関わっていたのではないだろうか。 
佐野の舟橋は他国にもあった
本説中に引用した和泉式部の歌をここでもう一度引いてみよう。
いつ見てかつげずは知らん東路と聞きこそわたれ佐野の舟橋[和泉式部続集350]
紹介したように、和泉国に佐野の地名がある事を知らされた時の歌で、簡単に言えば、佐野の舟橋は東国にあるものと聞き続けていたのに、と真新しい情報を聞いて驚いているのである。これを文字通り解するならば、和泉国にも佐野の舟橋があった事になるだろう。だが、念のために『和泉式部続集』の詞書を引用してみると、「和泉といふ所へ行きたるをとこのもとより、佐野の浦といふ所なんここにありけりと聞きたりや、といひたるに」とあるのみであって、佐野の舟橋があるとは書かれていない。となると、佐野の地名を聞いた和泉式部が連想的に佐野の舟橋を持ち出しただけである可能性も生じてくるだろう。この1首を根拠として、もう1つの佐野の舟橋の存在を想定する事はかなり大きな危険を孕んでいる。
試みに、ネットの検索で「佐野」の地名を求めてみると、多数ヒットする。因みに、上の例の詞書中の「佐野の浦」の地名は確認できなかったが、大阪湾に面している大阪府泉佐野市であろうか。普通名詞「狭野」に由来するのだとすれば、それだけ多くの「佐野」が存在する事も納得されるが、同じ地名であるがための混乱も多々あったのだろう。

本説の方では引用しなかったものであるが、平安時代後期の歌人行尊の家集『行尊大僧正集』の中にも佐野の舟橋の歌が1首登場している。
都にてとはずがたりに思ひ出でよ佐野の舟橋今日ぞ渡ると[行尊大僧正集32]
詞書には「佐野といふ所を過ぐる程に、思ひがけず知りたる殿上人のあひて侍りしに」とあり、「佐野」の地で詠まれた歌である事が知られるが、これが何れの「佐野」であったかの明記までは成されていないのだが、修行者行尊の行動範囲を考え合わせれば、少なくとも上野国の佐野でない事は確実だろう。この歌の前後の詠の詞書にも地名が見えるので、参考までに挙げておくと、30「熊野にさぶらひしに」、31「熊野よりまたほかへこもりに出で侍りしに」、そして32の「佐野といふ所」を挟んで、33「室といふ所にて」、34「和泉に、吹飯の浦と申す所にて」と続いている。この中では33の「室」の所在が定かでなく、「津の国の室のはやわせ」と詠まれたり「紀伊の国の室のはやわせ」と詠まれたりしているのだが、大雑把に言えば和歌山・大阪周辺の歌枕が集中しているという事になろうか。これらが一連のものである保証は実はないのだが、蓋然性が高そうなのは上述の和泉国の佐野、もしくは紀伊国の佐野(和歌山県新宮市。これも歌枕である)であろう。
さて、今度は和歌に「佐野の舟橋を渡った」とある。文字通り解せば、和泉或いは紀伊と思しいその地に佐野の舟橋があった事になろう。だが詞書には舟橋は登場しない。佐野という名の地で偶然に知人の殿上人に遭遇した事を、「佐野の舟橋を渡った」と洒落て表現した可能性をも考慮すべきではなかろうか。

鎌倉時代、藤原定家の子で定家を継いで歌壇を統率した藤原為家の家集には佐野の舟橋を詠んだ歌がいくつか見えるが、その1つに、
立ちわたり都をかけて忍べども程はるかなる佐野の舟橋[為家集1368]
という歌がある。詞書には「佐野の舟橋同五年十月」とあり、「同五年」は建長五年(1253)を表わしている。初句に本文異同があるが、『夫木抄』に載っている
恋ひわたる都をかけて忍べども程はるかなる佐野の舟橋[夫木抄9490為家]
と同一歌と見做して間違いないだろう。
ところで、その『夫木抄』の詞書に「毎日一首中」、左注に「この歌は、建長五年東へくだりけるに、足柄のふもとに佐野といふ所にてよめる歌、毎日一首中」と記されている。年次以外は『為家集』に見えない情報であるが、『夫木抄』が現存していない資料から多く為家詠を入集させている事は確かであり、この点を疑う必要はないだろう。『夫木抄』で「毎日一首中」とされるものには様々な年次のものが見え、その同じ建長五年の詠を拾っていくと、「東へくだりける道にて」(8437詠・8493詠・8622詠)、「東へくだるとて、駿河国にてよむ」(11320詠)等、一連の作品と思しいものが散見する。因みに『為家集』の建長5年10月・11月の注記が付された歌には、東国への道すがらの歌枕を詠む歌が多く見出される。また『為家集』に「旅時雨建長八年十一月鎌倉日吉別当尊家法印勧進」という詞書の歌があるが、『中院集』『中院詠草』に拠れば「八年」は「五年」の誤りである可能性が考えられ、だとすれば、この旅の目的地は鎌倉であったかもしれない。煩瑣になったが、当該1首は、これらの歌とともに、建長五年の冬の関東下向の折に詠まれたものと見做して良さそうだ。
さて、今度の「佐野」は足柄山の麓である。相模国であろうか。西側の、静岡県裾野市にも佐野の地名があるが、ここを足柄山の麓と呼ぶには無理がある。ではその相模国らしい佐野に佐野の舟橋があったのだろうか。上の和泉や紀伊と違って今度はまさしく「東路」ではあるが、よりによって歌道家出身の為家が、他に全く例が見えない相模の佐野に佐野の舟橋があると勘違いしたとはどうしても思えないのである。単に、佐野の地名に触発され、連想的に佐野の舟橋を詠んだに過ぎない、と見る事はできないだろうか。

一応ここまでは、他国の佐野の舟橋の存在について懐疑的な意見を述べてきたが、最後に、同じ名称のものが存在した可能性が高いと思われるものを挙げておこう。近江国のそれである。
永承元年(1046)、後冷泉天皇の大嘗会が行なわれた。その折に悠紀となったのは近江国、悠紀方の歌人を務めたのは藤原資業であったが、その屏風歌18首の中に「佐野船橋調物持運」と記された次のような歌が見えている。
古きあとにあひてぞ運ぶ貢ぎ物佐野の舟橋道も絶えせず
大嘗会屏風和歌は、悠紀・主基にあてられた国の名所を描いた屏風に添える和歌であり、「佐野船橋調物持運」は屏風のその面の絵柄の説明に当たるが、近江国の名所を詠んだ和歌が並ぶ中に佐野の舟橋の歌が含まれているのである。更に、大嘗会和歌で佐野の舟橋が詠まれたのはこの時だけではない。承保元年(1074)の白河天皇の大嘗会において大江匡房が悠紀方(やはり近江)の風俗和歌の「辰日楽急」として
山もとや佐野の舟橋長々と楽しきことを聞きわたるかな
と詠み、建久9年(1198)の土御門天皇の大嘗会での悠紀方(やはり近江)の屏風和歌の中にも、「佐野船橋運調人多往復」と記された、
貢ぎ物運ぶよほろぞさりもあへぬ佐野の船橋音もとどろに
という藤原光範の歌が見えている。
大嘗会という重大行事での和歌に3度も詠まれ、屏風の絵柄にその絵まで描かれていたこの佐野の舟橋は、やはり上の3例とは一線を画して考えられねばならないだろう。『夫木抄』が佐野の舟橋の所在を「近江又上野」とし、『歌枕名寄』が近江国の歌枕を列挙する中に佐野の舟橋を載せて「上野同名アリ」と注記するのも、故なしとしない。平安時代も半ばを過ぎた頃に急に和歌の世界に現われたこの佐野の舟橋は古くから伝わるものではなかったかもしれないが、そう呼ばれたものが当時の近江国に存在した事は最早疑い得ないと思うのである。
因みに、この近江国の佐野の舟橋と上野国のそれとの詠まれ方の大きな相違にも注目しておこう。大嘗会という機会に詠まれる歌であるから、当然歌の内容は祝儀性を伴う。例に挙げた3首のうち、資業詠と光範詠では繁栄が詠まれ、匡房詠では不安のない世が謳歌される如くである。そうした歌で詠まれる佐野の舟橋は、不安定で頼りないという舟橋の属性とは無縁でなければならない。つまり、本説で辿ったように恋の不安定性を象徴するに至る上野の佐野の舟橋とは、同名でありながらも全く路線を異にするものであった。 
佐野の舟橋と定家神社
佐野の舟橋の跡地とされる近く、高崎市下佐野町、上越新幹線の高架のすぐ端に定家神社がある。その近くには常世神社もあり、こちらが佐野の地を舞台とした「鉢木」に因んだものである事は明白であるが、何故この地に、藤原定家の名前を冠した神社があるのか。やはりそこには何かそれなりの「必然性」が潜んでいると考えねばなるまい。万が一それが客観的に見れば付会であったとしても、である。
定家は順徳天皇が主催した「内裏名所百首」の出詠メンバーの一員であるから、勿論そこで佐野の舟橋の歌を残しているし、和歌活動が本格化する最初期に詠んだ「初学百首」の中でも佐野の舟橋を詠んでいる。ともに本説で掲げた和歌であるが、再掲しておこう。
恋ひわたる佐野の舟橋影絶えて人やりならぬ音をのみぞなく[拾遺愚草79]
ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると[拾遺愚草1273]
その意味で確かに定家は佐野の舟橋と関わり合いを有すると言える事にもなろうが、上の2首は定家の和歌の中で周知されたものとはどうにも言い難い。極端な言い方になるが、それなら例えば「内裏名所百首」に出詠した歌人全員が神社に祀られる可能性があった事になる(無論、その全員が神格化するに足る歌人であったわけではないが)し、定家が詠んだ歌枕の数だけの「定家神社」が建てられた可能性もあった事にもならないだろうか。必然性というにはあまりにも脆弱に過ぎる。

さて、本説で「内裏名所百首」の歌を列挙したのだが、その中に実はいささか奇妙な歌が1首含まれている事にお気付きだっただろうか。
もらさばや波のよそにも三輪が崎佐野の舟橋かけじと思へど[忠定]
「三輪が崎」も地名であるが、佐野の舟橋と合わせて詠まれているからには、三輪が崎は佐野の舟橋の近隣に存在する地であるはずであろう。しかし佐野の舟橋の周辺には、三輪が崎或いはそれに類する地名は見当たらないのである。
だが、「三輪が崎」と同一であろう「三輪の崎」が「佐野の舟橋」でなく「佐野」とともに詠まれているかなり有名な和歌が、『万葉集』の中に見えている。
苦しくも降りくる雨か三輪の崎佐野の渡りに家もあらなくに[万葉267、新勅撰500]
そう、三輪の崎と佐野は確かに隣接しているのだ。無論、この「佐野」は群馬の佐野ではない。新宮市三輪崎と新宮市佐野、つまり紀伊国、補説1の中でも言及した和歌山県の佐野である。上の忠定詠はこの万葉歌を踏まえたものであろうが、紀伊国の歌枕と上野国の歌枕とを隣接させてしまったのである。それが作者忠定個人による「誤認」なのかどうかは今は措いておこう。

ところで、上に挙げた万葉歌が有名なのは、それを踏まえて詠まれた定家の和歌1首が有名であるせいでもあろう。
駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮[新古今671・定家]
では、この歌における「佐野」は一体どの佐野なのであろうか。上の万葉詠を踏まえ、同様に「佐野の渡り」という詞続きで詠まれた「佐野」は、やはり同じく和歌山県の佐野と考えるしかないだろう。むしろ南国的なイメージさえあるその土地が雪景色の中で詠まれる違和感をも承知した上で、そう認定せざるを得ないのである。だが、その認定が定家自身の認識と合致しているのかどうか。それに関する本人の発言が見当たらない以上、状況証拠的な資料から認識を推測する他ないのだが、平安時代後期に成立した藤原範兼『五代集歌枕』では、「みわのさき」の例歌の1つに前掲万葉歌を挙げ、「みわのさき」の注記として「大和御本云、越前歟」と記載する。当然、それに隣接する「佐野の渡り」も大和或いは越前でなければならないことになる。また順徳院の『八雲御抄』では「渡」の項に「さのゝ」、「崎」の項に「みわのさき」が挙げられ、ともに「大」の注記が付されており、大和国の歌枕として扱われているのである。これらに拠って想像する限り、「三輪」に引かれたせいであろうか、「三輪が(の)崎」は大和の地名とする認識が一般的であり、必然的に、それと隣接した「佐野の渡り」も大和の歌枕であると見做されたのであろう。
では、少し時代を下って成立した『歌枕名寄』ではどのように扱われているだろうか。大和国「三輪」の項の中に「崎并佐野渡」とあり、そこに万葉詠と定家詠とが配置されている。『五代集歌枕』以来の認識に沿った結果が伺われることになるが、実は同書の中にはもう1つ、2首が並んで配置された箇所が存する。上野国「佐野」の項に「渡神崎」の項目があり、そこに2首が重出しているのである。即ち、平安以来の大和国説とともに、「佐野の渡り」を上野国の歌枕と見做す異説が掲出されていることになる。
ここである意味で参考になりそうのが、先に挙げた「内裏名所百首」での忠定詠であろう。「三輪が崎」と「佐野の舟橋」を詠み入れたこの歌において、「佐野の舟橋」の「佐野」と「佐野の渡り」の「佐野」とが同一視されていたのだが、まさにその同一視、混同が上野国説を発生させた淵源であったであろうことは想像に難くない。「舟橋」「渡り」という、その「佐野」が水辺に所在することを表わす語が付随することも、両者の混同を促す一因になったであろう。忠定詠を上野国説の淵源と考えるわけではない。誤認されやすかったことを示唆する一例に過ぎない。
上掲『五代集歌枕』の注記に越前国説が見えたが、『歌枕名寄』の上野国「佐野」の「渡」の項には「或云大和国云云、仍範兼卿彼国載之了、或云近江或云丹後或云摂津、説説雖多管見在当国、仍重所載之也」とあり、同書成立当時には「佐野の渡り」の所在について多様な説が並存していたことが知られるが、その中で『歌枕名寄』編者は敢えて上野国説に拘り、大和国に挙げた2首を上野国で再掲出した。この編者の判断を一般化して、上野国説が大和国説に次いで有力であるかの如く考えることは危険であろうが、少なくとも中世においては、「佐野の渡り」を上野国の歌枕と見る説が存在していたことは確認された。

高崎の佐野の地に定家神社が存在する根拠は、おそらく「佐野の舟橋」の「佐野」と「佐野の渡り」の「佐野」とを混同して発生した、定家の「駒とめて」詠で有名な「佐野の渡り」を上野国の歌枕と見做す、中世歌学の一説にある、と考えたい。 
 
鹽竈神社

 

当社は古くから東北鎮護・陸奥国一之宮として、朝廷を始め庶民の崇敬を集めて今日に至りました。当神社創建の年代は詳らかではありませんが、平安時代初期、嵯峨天皇の御代に編纂された「弘仁式」に「鹽竈神を祭る料壱万束」と記され、厚い祭祀料を授かっていたことが知られます。つまり、奈良時代国府と鎮守府を兼ねた多賀城が当神社の西南5km余の小高い丘(現在の多賀城市市川)に設けられ、その精神的支えとなって信仰されたと考えられます。武家社会となってからは平泉の藤原氏・鎌倉幕府の留守職であった伊沢氏、そして特に伊達氏の崇敬が厚く、歴代藩主は大神主として務めてまいりました。現在の社殿は伊達家四代綱村公から五代吉村公に亘り9年の歳月をかけ宝永元年(1704)竣工されたものです。江戸時代以降は「式年遷宮の制」が行なわれ、氏子・崇敬者各位の赤誠により平成23年には第十八回の式年遷宮本殿遷座祭が斎行されました。
境内外の末社
境内には、神明社、八幡社、住吉社、稲荷社、また市内本町にはご祭神が塩を作ることを教えられたと伝わる御釜神社・牛石藤鞭社、新浜町には和歌の名所として知られる籬島に曲木神社をお祀りしています。
歴史
鹽竈神社の創建年代は明らかではありませんが、その起源は奈良時代以前にります。平安時代初期(820)に編纂された『弘仁式』主税帳逸文には「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、これが文献に現れた初見とされています。当時陸奥国運営のための財源に充てられていた正税が六十萬三千束の時代ですから、地方税の60分の1という破格の祭祀料を受けていた事が伺われます。しかし全国の各社を記載した『延喜式』(927年完成)の神名帳にはその名が無く、鹽竈神社は「式外社」ではありましたが中世以降、東北鎮護・海上守護の陸奥國一宮として重んじられ、奥州藤原氏や中世武家領主より厚い信仰を寄せられてきました。特に江戸時代にはいると伊達家の尊崇殊の外厚く、伊達政宗以降歴代の藩主は全て大神主として奉仕してまいりました。よって江戸時代の鹽竈神社には歴代の宮司家が存在せず、実質祭祀を行っていた禰宜家がおりました。
鹽竈神社が発展してきた大きな要因に鎮守府としての国府多賀城の存在が考えられます。多賀城の地に国府が置かれると、その東北方向つまり「鬼門」に位置し、蝦夷の地に接していた当社が国府の守護と蝦夷地平定の精神的支えとして都から赴任してきた政府の人々に篤く信仰されたものと考えられます。その流れが今度は武家社会に入ると陸奥國総鎮守として一層尊崇を集めてきたものでしょう。
歴史の謎
鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた事は前述しましたが、当時全国で祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社で共に『式内社』でありますが当社に比べ格段の差があり、国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか。
御祭神
鹽竈神社の御祭神は別宮に主祭神たる塩土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神をお祀りしておりますが、江戸時代以前はあまり判然とせず諸説があった様です。陸奥國最大の社として中古より崇敬された神社の御祭神がはっきりしないのは奇異な感じがしますが、呼称も鹽竈宮・鹽竈明神・鹽竈六所明神・或いは三社の神など様々あった様です。そこで伊達家4代綱村公は社殿の造営に際し、当時の名だたる学者を集めて研究せしめ現在の三神とし、又現在の別宮の地にあった貴船社と只州(糺)宮は現在の仙台市泉区の古内に遷座されました。
鹽土老翁神は『古事記』『日本書紀』の海幸彦・山幸彦の説話に、釣り針を失くして困っていた山幸彦に目無籠(隙間のない籠)の船を与えワダツミの宮へ案内した事で有名ですが、一方博識の神としても登場しています。
武甕槌神(茨城県鹿島神宮主祭神)・経津主神(千葉県香取神宮主祭神)は共に高天の原随一の武の神として国譲りに登場し、国土平定の業をなした神です。社伝によれば、東北地方を平定する役目を担った鹿島・香取の神を道案内されたのが鹽土老翁神の神であり、一説には神々は海路を亘り、七ヶ浜町花渕浜(現在の鼻節神社付近)からこの地に上陸されたと言われ、又鹽土老翁神はシャチに乗って海路を渡ってきたと言う伝えもあります。
やがて鹿島・香取の神は役目を果たし元の宮へ戻りましたが、鹽土老翁神は塩釜の地に残り、人々に製塩法を教えたとされています。塩釜の地名の起こりともなっております。
御祭神の伝承の異説
日本を代表する古社、奈良県の春日大社の縁起を伝える『春日権現験記』(1309)によりますと武甕槌神は陸奥国塩竈浦に天降り、やがて鹿島に遷ったとされる注目すべき記述があります。
社殿
鹽竈神社の社殿は幾度となく造営されてきた様ですが、残念ながら中世以前の境内の様子を伝える資料は現存しておりません。
現社殿はこの元禄期のもので元禄8年(1695)から9年の歳月をかけ宝永元年(1704)に竣功しました。平成16年で丁度300年を経た建物です。寛文の御造営からわずか30年程で大規模な御造営を為した背景には、謡曲やドラマで有名な寛文事件(伊達騒動)があり、綱村(幼名亀千代)はこの騒動で毒殺されかけ、わずか2歳で伊達家を継ぐ事になります。長じて17歳で仙台の地に戻った綱村は、自分の命と伊達家が続いたのは神仏の加護によるものと一層信心を厚くし、その証として大規模な造営に着手したとされています。
幕府から日光東照宮の改修を命ぜられた綱村は自らも現地に赴くなどして力を注ぎ、その事業が済むとその職人を呼び寄せ鹽竈神社の社殿以下の造営を行いました。建物の様式や彫刻は東照宮のそれと大変よく似ているのはそのためです。
本殿は素木造檜皮葺の三間社流造り、一方の拝殿は朱漆塗銅板葺入母屋造と好対照を見せており、又別宮は本殿一棟に拝殿一棟、左右宮は本殿二棟に拝殿一棟と特徴的な造りとなっております。この御造営以後鹽竈神社には伊勢の神宮と同じく二十年毎の式年遷宮(社殿の建て替えや修理をし更新する制度)が定められ、屋根替えや社殿の補修、漆の塗り替えや金具・調度品の修復等が行われ、平成23年に第18回式年遷宮が行われました。
社殿の不思議
◇通常の神社は鳥居ないし門を入った正面に主祭神を祀っておりますが、鹽竈神社は正面に左右宮(鹿島・香取の神)が南向きに、門を入って右手に主祭神たる塩土老翁神を祀る別宮が松島湾を背に西向きに立っております。→これは伊達家の守護神たる鹿島・香取の神を仙台城の方角に向けて建て、大神主たる藩主が城から遙拝出来る様に配し、海上守護の塩土老翁神には海難を背負って頂くよう海に背を向けているとも言われております。
◇主祭神を祀る宮がなぜ別宮というのでしょう。→この別とはメインに対するサブやセカンドという2番目の意味ではなく、特別(スペシャル)な社と言う意味です。
◇通常社殿は本殿を最重要に荘厳に造るのが通常なのに、鹽竈神社は本殿は素木なのに対して拝殿が総漆塗なのはなぜでしょう。→本殿が素木なのは全国の著名な神社の造りに沿ったものと思われます。特に鹽竈神社の本殿の様式である三間社流造はその代表である京都の賀茂社を参考にしたとされています。一方拝殿については、朱の色に魔除けの意味があるという考えも出来ますが江戸時代、鹽竈神社には神宮寺(神社を護る為の寺)たる法蓮寺があり、僧侶が塗りの拝殿で読経を、神職が本殿で祝詞を奏されていた為、僧侶の立ち入れる場所と神職の奉仕する場所を区分する為に分けたとされています。
◇別宮拝殿は丸柱・左右宮拝殿は角柱なのは何故でしょう。→元禄の御造営では全てが建て直された訳ではありません。両本殿は新築されました が左右宮拝殿は、それまでの拝殿を改造し再利用し、別宮拝殿は、それまでの本殿を移 築・改造して用いました。そのため間取りや柱が左右宮のそれとは違っているので す。左右宮本殿として残っている資料の寸法・間取りと現別宮拝殿のものとはぴった り一致している事も調査で明らかでこの説を裏付けています。
◇元禄の造営が9年もかかったのは何故→伊達家4代綱村が造営事業を計画し実行しようとした時期、折り悪しくも領内は天候不順による不作が続き、中断せざるを得なかった様です。更に仮殿が火災に遭う(御神体は無事だった)という大事件があり、45歳で隠居した綱村の代では完成を見ず、次代吉村に引き継いで竣工しました。その為9年の歳月を要しました。
信仰
鹽土老翁神は古くより航海・潮の満ち引き・海の成分を司る神、左右宮の御祭神は武運・国土平定の神として信仰されて来ました。
そこから海上安全・大漁満足・武運長久・国家安泰の信仰は早くからありましたが、やがて人の生死は潮の満ち引きに深い関係があり、又海が産みに通じるところから安産守護・延命長寿、また別宮の祭神は無事道案内をされ、左右宮の祭神は東北平定を終え凱旋(無事還った)した事から交通安全、必勝・成功(商売や営業の繁昌)等の信仰が盛んとなりました。更に当社が多賀城の鬼門の守護神であった事から厄除け・方除けの信仰も盛んとなりました。
しかし地元の方々はどんな祈願もすべて「しおがまさま」へと足を運びます。
都人の憧憬
京から離れる事1500里、まさに道の果て辺境の地であったこの地に国府多賀城の将として赴任してきた都人は、その美しさと珍しさに大いに詩情を抱き、また旅する人も少なくこの地の様子を語れる人も希であり、ますます都の人々の憧憬は膨らんみました。その為多くの歌が詠まれました。
○ みちのくは いずくはあれど 塩竈の うらこぐ舟の 綱手かなしも (古今和歌集・東歌)
○ 陸奥の ちがの塩竈 ちか乍ら 遙けくのみも 思ほゆる哉 (古今和歌集・六帖)
○ 塩がまの 浦ふくかぜに 霧晴て 八十島かけて すめる月影 (千載集・藤原清輔朝臣)
○ 見し人の けふりとなりし ゆうべより 名もむつまじき 塩がまの浦 (新古今集・紫式部)
○ ちかの浦に 踏違えたる 浜千鳥 思わぬ跡を 見しぞ嬉しき (清輔朝臣集)
○ されば 汐かぜこして みちのくの 野田の玉川 千鳥鳴くなり (新古今集・能因法師)
この他にも「まがき島」を題材にして詠まれた歌も伝わっています。
当時の塩竈とは今の塩竈松島一帯を指しておりました。そしてこのみちのくのイメージは西行を経て松尾芭蕉の『奥の細道』で日本人に定着することとなります。芭蕉は多賀城・鹽竈神社を経て曲木島を見、最大の目的であった松島の景色に感動し一句も読めなかった事は周知の事でしょう。
時代は前後しますが、忘れてはならないのは河原の左大臣と称された源朝臣融で謡曲『融』の主人公にもなりましたが、その別荘の一つが後の宇治平等院、一つは洛北嵯峨の現棲霞寺となっています。融は陸奥出羽按察使に任ぜられています(『三代実録』)が実際に赴任したかどうかは不詳です。しかし塩竈の浦に深く心を寄せ鴨川の辺に六条河原院を建て、『伊勢物語』に庭に塩竈の景色を再現して毎日難波より海水を汲ませてこれを焼かせつつ生涯を楽しんだことが見えます。今もこの付近には塩竈の地名が名残として残っております。 
 
和歌評定の時代

 


『六百番歌合』における衆議判の時に、寂蓮と顕昭が激しい議論を闘わせたというのは、有名な逸話となっている。後代、『井蛙抄』は、
左大将家六百番歌合の時、左右人数日々集まりて加二評定一て、左右申詞を被レ書けり。自余人数不参の日あれども、寂蓮顕昭は毎日に参りていさかひありけり。顕昭はひじりにて独鈷を持たりける。寂蓮は鎌首をも立てていさかひけり。殿中の女房、例の独鈷鎌首と名付けられけり。
と、寂蓮対顕昭の議論のようすを「独鈷鎌首」と諷して伝えている。現存本の『六百番歌合』判詞は、おおむね、きわめて簡潔、平板に記録するのみであるが、それでも一部の番にその一端は垣間見ることはできる。
一例として次の番をとりあげてみたい。顕昭が難義とされる「かひや」を詠み込んだ歌をめぐって議論が闘わされる。その顕昭歌は
次の歌である。相手の信定の歌は、議論の俎上に載せられず、ここでは省略する。
蛙二十二番左
山吹のにほふ井手をぽ外に見てかひやがしたもかはつ鳴くなり
次に難陳が続く。口語訳の形で示してみるが、細部の考証は省略し、議論の大要のみにとどめることとした。
右方 「かひやがした」を春歌に詠んだのは不審である。万葉集の例でも秋の部に入っている。
左方 蛙題は、古来春の題である。蛙題に「かひやがした」を詠んだことに、どんな難点があるというのか。
右方 蛙を春に詠んだことを非難しているのではない。「かひや」を春に詠んだことに疑問があるのだ。
左方 「かひや」にはさまざまの意味がある。蚕を飼う小屋を「飼屋」という。その下に蛙が蚕を食おうと集まってきているようすを詠んだものである。
右方 その意味でいうのなら、蚕を飼うのは四月になってからで、とすれば、やはり春の歌としては問題であろう。
左方 飼屋は、建造物としていつも設置してあり、春も夏も蛙が集まってきている。また、蚕を三月に飼うことはよく行われる。したがって、問題はない。
白熱した議論が再現できたかどうか、さらに延々と論争は続きそうな気配もあるが記録はここまでで、ともかくこんな調子である。この論議をふまえて、判者俊成は、「かひや」について「鹿火屋」の字を宛てる説を提示し、顕昭説に反論する。
次に、今度は寂蓮が、「寄煙恋」題のところで、「かひや」を「鹿火屋」の意で詠み込んだ歌を提出し、顕昭を挑発した。憤懣おさまらない顕昭は、後日『顕昭陳状』を著して、なお執拗に俊成や寂蓮に論駁を加えていく。それらの内容はここでは省略するが、彼らの説のいずれが妥当であるかはともかくとして、その議論の高騰白熱ぶりを改めて想像することができる。
顕昭は、この『六百番歌合』では「かひや」を始め、「そが菊」「かはやしろ」「海人のまくかた」など、難義とされる語句をあえて詠み込み、論争を意図的に仕掛けているように思われる。歌学的論議に持ち込むことによって、自身の豊富な知見を誇示しようとしているかのようである。
ここで注目したいのは、歌人たちをかくも熱くさせる「評定」なるものである。『井蛙抄』では、俊成判の前提として行われた論議(難陳)そのものを「評定」と呼んでいる。つまり、自由に討論を進めてゆく形式をとる批評の場のありようが「評定」なのである。顕昭も、陳状において、判の論議そのものをさして「評定」ということぽを使っている。『八雲御抄』には、「執柄家歌合」の次第を記述した中で、歌合判にあたる部分を「和歌評定」と書き記している(御稿本による)。歌合における、『六百番歌合』のような批評の場のありようをさして「和歌評定」ということぽは、一般的に用いられていた。 

和歌評定は、歌合の衆議判として古くから行われていたようであるが、頻繁に行われるようになったのは、やはり、『六百番歌合』以降の新古今の時代である。今、『明月記』から評定が行われた歌会・歌合を拾ってみると、最も多い正治二年(一二〇〇) には実に六度を数える。ただし、この数字には、定家が参加したことがわかる歌合のうち、『明月記』に「評定」が行われたと明記していないものは含まれない。これら現存歌合から衆議判が行われたものを拾って加えてみると、合計八度になる。同年に行われ定家が参加した歌会は十四回であるので、実に半数以上は評定が行われていたことになる。試みにそれを列記してみると、つぎのようになる(O印は『明月記』に「評定」が行われたと明記しているもの)。
○ 閏二月一日良経家十題撰歌合
○ 閏二月二十一日法性寺殿詩歌合
〇 九月三十日後鳥羽院当座二十四番歌合
  十月一日後鳥羽院小御所当座歌合
  九〜十月仙洞十人歌合(衆議判とするには異説あり)
〇 十一月七日新宮三首歌合
〇 十一月八日通親家影供歌合
〇 十二月九日法性寺殿詩歌合
正治二年は、秋に『後鳥羽院初度百首』が催行され、後鳥羽院歌壇が本格的に活動を始めた、記念すべき年である。この年に、このように頻繁に和歌評定が行われていたのである。同様の方法によって数えてみると、翌建仁元年には七度、次の建仁二年には四度の和歌評定が行われた記録がある。
このうち、正治二年九月三十日『後鳥羽院当座二十四番歌合』は、同歌合現存本文では「俊成判」となっているのだが、『明月記』によって、評定が行われたことが知られるのである。とすれば、ほかにも、歌合本文には「何某判」などとひとり(または複数) の判者による判であると書かれていても、実際の歌合の場では、評定が行われていた歌合があるはずである。たとえぽ、建仁二年九月十三日の『水無瀬殿恋十五首歌合』は、歌合本文には「俊成判」とあるのみだが、『明月記』には「被レ講二十五首恋歌合一、(中略)漸及二秉燭一之後評定了」と記録されており、判者俊成による判の前提として評定が行われていたことがわかる(俊成判詞も評定での発言を引用し、評定があったことがうかがえる)。ほかにもこの期の歌合には、明確な記録はなくとも、評定が行われていたものがあったろう、むしろ、ほとんどの歌合で評定があったと推測してよいのではないだろうか。
和歌評定は、歌合の衆議判のみをさすのではない。建仁元年八月十五日の『和歌所十五夜撰歌合』では、前日の十四日に歌合で披露するための撰歌が行われた。『明月記』には、そのようすを「今日可レ撰二定和歌一云々、(中略)右方可レ撰云々、予読レ之、座王内府評定給、雅経具親被二召加一、先三十首云々、重左方歌殊宜、五十首可二撰出一之由有二仰事こと書き残し、慈円と通親を中心とした撰歌を「評定」と呼んでいる。
また、『最勝四天王院障子和歌』の、名所と和歌の選定が和歌所でしぼしぼ行われたことが、『明月記』に記されているが、その選定作業を「評定」と称している。特に、承元元年(一二〇七) 九月二十四日には、「於二御所一評定已及二深更一」と、撰歌作業が深夜にまで及んだことを書き残している。名所にふさわしい秀歌を評価して選び出すことも「評定」であった。
本来、批評にさらされることを前提としない百首歌においても評定が行われることがあった。建保三年(一二一五)九月の『光明峯寺摂政家百首』では、披講後評定が行われた。「内大臣家百首多有二評定一」(『建保三年記』十月六日) と記録されている。
このように、この時期、頻繁に和歌評定が行われた。歌合を中心に、ほとんどの和歌行事において、披露前あるいは披講後に評定が行われていたといっても過言ではない。和歌にかける異常なほどの熱狂がおおっていた後鳥羽院歌壇の時代は、また和歌評定の時代でもある。 

和歌評定は、歌合においては、披講の後、主催老など貴人の促しによって始められることがあった。
大蔵卿講師参二御前一読二上之「。各可二評定一由雖レ有レ仰、下臈等不レ能レ申。内府大略評定。入道殿被レ定二申勝負一。 (『明月記』正治二年九月三十日、『後鳥羽院当座二十四番歌合』の記事)
後鳥羽院の仰せによって評定が行われようとしたが、「下臈等」は発言する勇気を持たず、内大臣通親が評定したという(しかし、実際はそうでなかったことは後述する)。ついで、その評定をふまえて俊成が判を加えた。同年閏二月一日の『良経家十題撰歌合』においても、「次相互可レ難由被レ仰、小々事各申レ之」(『明月記』同日) という記述があり、やはり良経の催促によって評定が始められ、各自が遠慮がちに批評したのである。
このように、和歌評定は、原則として貴人を前にして行われ、貴人の促しによって開始されることがあったように、公的な性格を持つ。それゆえに、自由、活発な批評を求められた各参加者も、発言ははぼかられたのであろう。建仁二年五月二十六日「鳥羽城南寺影供歌合」においても、やはり『明月記』に「如レ例読二上三題一、依二衆議評定一付二勝持字一、各成レ憚之間、甚久経二時刻一」と記録されており、各自が忌憚を感じて、発言が出てこず、いたずらに時が経過したのである。
前節にあげた、『和歌所十五夜撰歌合』と『最勝四天王院障子和歌』の撰歌も、いずれも後鳥羽院御所の和歌所で行われている。公の晴の場である。他の時代はともかくとしても、この後鳥羽院歌壇の時代の和歌評定は、公的な、晴の性格を持っていたのである。
「評定」とは、本来、政治用語から来たものであろう。政治史においては、貴族政治には公卿議定制があり、後に後嵯峨院政下に制度化される院評定制や、鎌倉幕府の評定所の設置など、合議によって政治的議決がなされた伝統がある。次元の違う問題であり短絡は許されないだろうが、和歌評定の公的、晴の性格も、政治上の評決の場と通底するところがあるものと思われる。
和歌をめぐって学説や意見を交換する場は、古くから存した。伝授、講釈、あるいは雑談(言談、和歌談)などと呼ぼれる多様な場があり、能因らの「歌論議」や歌林苑、院政期にも萌芽を見る古今伝授などは、そのような場の代表的な事例である。和歌評定がそれらと相違するのは、古歌の難義や詠歌の故実をめぐって歌学的知見を教授し、あるいは披瀝し合うのではなく、新作の歌の合評の場であるということである。『六百番歌合』などでは話題によっては歌学的な論争に発展することもあったが、基本的には新作歌の審美的批評の場である。また、一方的な教授、受講の関係ではなく、原則として自由な論議が許され、活発な意見交換が行われるというのも、この期の和歌評定の特質である。 

前節に指摘したように、正治二年九月三十日『後鳥羽院当座二十四番歌合』では、院の催促があっても「下臈等不能申」と、遠慮して意見を言うものは出てこなかった、と定家は記録している。建仁二年五月二十六日「鳥羽城南寺影供歌合」においても、発言が少なくて、重苦しい沈黙が支配したのである。貴顕を前にして、忌憚のない意見を自在に堂々と開陳するのはなかなかできないことで、身分社会に生きる者として当然のことではあろう。
しかし、実態はそうではなかった。右の正治二年九月三十日の歌合で「下臈等不能申」という重苦しい沈黙の状態であったと記している定家自身が、実は辛辣な意見を吐露していたのである。批判された側の鴨長明はこれを回想し、『無名抄』に次のような記事を書き残している。
また、御所の御歌合に、暁の鹿を詠み侍りしに、
今来んと妻や契りし長月の有明の月にを鹿鳴くなり
この歌は、「ことがら優し」とて勝ちにき。されど、定家朝臣、当座にて難ぜられき。「かの素性が歌に僅かに二句こそ変りて侍れ、かやうに多く似たる歌はその句を置きかへて、上の句を下になしなど、作り改めたるこそよけれ。これは、ただものと置き所にて、胸の句と結び句ばかり変れるは、難とすべし」となん侍し。
「下臈等不能申」という定家の記述は真実ではなく、実際には、談論風発とまではいかなかったにしても、ともかくこのような辛辣な意見は出たのである(この定家の発言については後述)。歌人たちは、勇を揮って考えを披露しようとしたのである。
むしろ、当時の評定は、談論風発であったと見たほうがよいだろう。『六百番歌合』での寂蓮と顕昭の激しい論争がその典型的な例である。建仁元年八月十五日の「撰歌合」に、評定の記録係を勤めた定家であるが、「予賜二紙硯一、又書二判評定詞一」、此役極難レ堪、評定之詞如レ流、不二暫停滞一」と、白熱する議論を書き留めることができず焦燥する。歌人たちは、公の場で、自身の和歌に関する見識と美的感受性を誇示する絶好のチャンスとばかり、大いに存在感を示そうとしたに相違ない。
評定の場の沸騰する議論の中で、それぞれの歌は相対化され批判にさらされて、厳しい評価を受けることになる。そこは、方法を鍛えことぽを磨き、互いに切磋琢磨し合って、歌道を向上させる場でもあった。
時代が後になるが、『正徹物語』には、評定の場に臨むことの教育的意義を指摘し、
了俊申されしは、歌よみどもあつめて、歌をぽよまずして、歌を沙汰あること、第一稽古なり。また、衆議判の歌合に、一度もあひぬれば、千度二千度の稽古にもますなり。非を沙汰し、是をあらはすゆゑに、人はさ心得たれども、我はさは心得ずなどいふことのあるなり。
と書かれている。いささか、教訓的な嫌味がないでもないが、「非を沙汰し、是をあらはすゆゑに、人はさ心得たれども、我はさは心得ずなどいふことのあるなり」という至言は、歌道に限らずどのような芸道、学問にも通ずる、稽古の人へのまことに適切な助言といえようが、ここではむしろ、完璧な表現を追求する過程で持つ意味の大きさのほうを重視したい。厳しい評定の場をくぐりぬけてこそ、優れたことば、美しい表現が生み出されるのである。
新古今時代には、和歌表現の追求にかける異常なほどの熱狂がおおっていた。同時に、それは、和歌評定の時代でもある。詠出された和歌はほとんど評定の場にさらされ、厳しい評定によって磨かれて、斬新な、あるいは独創的、前衛的な歌が詠出されていった。狂熱的な創作の裏付けとして、和歌評定という批評の場があり、創作と批評との相乗効果によって、和歌の熱狂を演出したのである。いつの時代にも文芸的な表現に批評が伴うのはある意味では必然的なことで、特に短詩型の韻文である和歌においては、表現の彫琢の必要から古くから意識化されてきたが、新古今の歌では殊にそれが顕著であるといえよう。詠作と批評とが表裏一体となって、新古今の歌々が創出されていったのである。
しかし、弊害も生じてくるだろうことも推測される。詠出された和歌がほとんど評定の俎上に載せられるということは、逆に、創作時にまで評定が意識され、評定の場を無事に通過するような表現を模索し、無難な表現ばかりが生み出される。表現が批評の場に囲い込まれて萎縮するのである。悪名高い、為家の制定になる制詞は、既にこの新古今の時代に兆している。
和歌評定が儀式化し形骸化してくることも予想される。建保二年二月三日『内裏詩歌合』では、「評二定詩和歌一、大略一人申レ之、又示二合家衡卿康光一出二狂言一、依二御気色一被レ定二勝負一了」(『明月記』同日)とあり、定家一人で評定せざるをえなかったり、共謀して「狂言」を吐く者たちがいたり、低調な、緊張感を欠いた評定が続けられた。
和歌評定も、斬新かつ完璧な表現の追求という、参画する歌人たちを熱狂させる共通のテーマが不可欠である。その意味でも、創作と批評が一体となった新古今時代は、稀有な時代であった。 

和歌評定の場において、各歌人が切磋琢磨し合っていると述べたが、必ずしも常に好意的、建設的な批評がなされてぽかりいなかったろうことも、容易に想像できる。
前にあげた、正治二年九月三十日『後鳥羽院当座二十四番歌合』では、長明歌に対し、定家が辛辣な評言を述べていたことを指摘した。しかし、判者である俊成は、
右歌、むげに同じさまに侍れど、左にはまさり侍らむ。と述べ、左の隆実歌に対し長明歌を勝ちと判じたと記されている。長明自身も、『無名抄』に「『ことがら優し』とて勝ち」という判定があったことを自ら書いている。これは、俊成の判者としての評価であるが、おそらく、衆議の場の雰囲気としても、番の相手の歌よりも優れているという評価だったのであろう。俊成は、衆議評定の趨勢を尊重するという判のしかたをする。それにもかかわらず、定家の批判はてきびしい。
定家の指摘は、本歌取歌としては技法的に不備がある点を衝いたもので、その意味では確かに当を得ている。しかし、衆議の趨勢に抗して辛辣な批判を放つ底には、「凡卑」と決めつけ軽蔑的に見ている、年長の長明に対する悪意を潜ませていると読むのは、穿ちすぎだろうか。長明自身もそれを感じたのだろうか、定家の発言を引いた次に「となん侍し」をのみ結んでコメントをさしひかえているが、含むところがあったのかもしれない。逆に、定家は、自身の日記に、自分自身が意見を述べたにもかかわらず「下臈等不能申」と記録するのみであったが、それにはどのような意味があったのだろうか。
和歌評定の場は、一方では、こうした誹謗中傷、足の引っ張り合いも盛んに行われたことと想像される。切磋琢磨し合う場であると同時に、陰湿な暗闇が繰り広げられる、俗悪な場でもあった。これも、複数の人間が集まれば当然のごとく行われることであって、貴族社会においてはなおさら陰険であったことであろう。
定家の悪意を含んだ発言は、俊成の歌合判詞には表されていない。「むげに同じさま」という部分が定家の意見であり、それを採り入れたことになるが、それでは、評定の場における底意は伝わってこない。判定の結果とその理由を簡潔に記すのみである。この場合は、悪意を浴びた長明自身が、評定の場で放たれた発言をそのまま(おそらく遺恨をこめて) 記録しているので、評定の場の臨場的な雰囲気が伝えられているのである。そのことによって、評定の場における、流動的かつ一回的な評価と、それをテキスト化した歌合判詞の評価との大きな齟齬が浮かび上がってくる。
歌合の評定の場で出てきた意見を、衆議判として、判詞の中に拾いあげて記録しようとする試みは、『六百番歌合』に典型的な例として見られる。冒頭にあげたように、議論のなりゆきはかなり再現されているように思われる。しかし、顕昭が、「評定の座には、右作者も『蚊』『鹿』混乱しげには侍りしを、この定に難をぽ仕り侍りき。その問答は不レ被二書載一、如何」(『顕昭陳状』) とテキストが忠実に問答を記録していないことに大いに不満を漏らしている。記録の中に正確に問答を再現してあれぽ、自説の正当性が認められ、この論争に勝利したかもしれないとの言い分である。
評定の過程が歌合判詞としてテキスト化されることによって、削ぎ落とされた部分、見えなくなってしまう部分がある。定家が、評定のことぽを筆記しようとした時に、物理的な困難を感じたことに、端的に見て取ることができよう。それは、勝敗を決定的にした評言や歌学的知見などではなく、印象批評そのほかの保存する必要のない発言や、あるいは、右の長明歌をめぐる批評のような、純粋な文芸的評価ではない、人間的な感情が割り込んできた部分である。それがここで問題となるのは、歌合という二首(一対一の歌人の歌)の相対的評価が、そのようなテキスト化された時に削ぎ落とした部分によって決まってしまうことが、往々にしてあろうと思われるからである。和歌評定の場は、なまなましい人間関係が露呈する場でもある。評定記録のテキストからは、いきいきとした場がなかなか再現されてこないのである。
和歌評定のような批評の場を復元してゆくことは、きわめて困難である。創作や発表の場よりもはるかに見えにくいであろう。しかし、それが、いわぽ事後批評にとどまるのではなく、表現のレベルにまで影響力を持つのであるから、看過することはできない。たとえば、事前の添削指導であったり、発表後の改作などの問題などがあげられる。新古今の歌々の詠作が厳しい批評に裏付けられているのを思う時、和歌評定の場は重要な問題性を持っているように思うのである。 
 

 

■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。