浮雲

「浮雲」 / はしがき1怪しの人2風変りな恋上3風変りな恋下4胸の中5見一無法は難題6ちくらが沖7団子坂の観菊上8団子坂の観菊下9すわらぬ肚10負るが勝11取付く島12いすかの嘴第13回第14回第15回第16回第17回第18回第19回
二葉亭四迷を語る
二葉亭四迷・遺稿を整理して
二葉亭四迷の一生 / 1生いたちから青年まで2春廼舎との握手3「浮雲」 その時代の生活4「あいびき」「めぐりあい」5「浮雲」時代の失意煩悶6官報局出仕7官報局及び雌伏時代8放浪時代から語学校教授9哈爾賓行10北京時代11朝日新聞社に入る12「其面影 」と「平凡」13第二期の失意煩悶14露国の亡命客15露都行及びその最後
二葉亭追録 / 1存命だったら2実は旧人3長生きしても終生煩悶の人4失敗の英雄
二葉亭余談 / 1二葉亭との初対面2津の守の女の写真屋3食道楽と無頓着4俗曲趣味5犬と猫6文章癖7田端の月夜8大海戦の二日後9破壊力10風丰人品
 

雑学の世界・補考

「浮雲」

はしがき
薔薇(ばら)の花は頭(かしら)に咲て活人は絵となる世の中独り文章|而已(のみ)は黴(かび)の生えた陳奮翰(ちんぷんかん)の四角張りたるに頬返(ほおがえ)しを附けかね又は舌足らずの物言(ものいい)を学びて口に涎(よだれ)を流すは拙(つたな)しこれはどうでも言文|一途(いっと)の事だと思立ては矢も楯(たて)もなく文明の風改良の熱一度に寄せ来るどさくさ紛れお先|真闇(まっくら)三宝荒神(さんぽうこうじん)さまと春のや先生を頼み奉(たてまつ)り欠硯(かけすずり)に朧(おぼろ)の月の雫(しずく)を受けて墨|摺流(すりなが)す空のきおい夕立の雨の一しきりさらさらさっと書流せばアラ無情(うたて)始末にゆかぬ浮雲めが艶(やさ)しき月の面影を思い懸(がけ)なく閉籠(とじこめ)て黒白(あやめ)も分かぬ烏夜玉(うばたま)のやみらみっちゃな小説が出来しぞやと我ながら肝を潰(つぶ)してこの書の巻端に序するものは
  明治|丁亥(ひのとい)初夏   二葉亭四迷  
 
第一篇 序

 

古代の未(いま)だ曾(かつ)て称揚せざる耳馴(みみな)れぬ文句を笑うべきものと思い又は大体を評し得ずして枝葉の瑕瑾(かきん)のみをあげつらうは批評家の学識の浅薄なるとその雅想なきを示すものなりと誰人にやありけん古人がいいぬ今や我国の文壇を見るに雅運日に月に進みたればにや評論家ここかしこに現われたれど多くは感情の奴隷にして我好む所を褒(ほ)め我|嫌(きら)うところを貶(おと)すその評判の塩梅(あんばい)たる上戸(じょうご)の酒を称し下戸の牡丹餅(ぼたもち)をもてはやすに異ならず淡味家はアライを可とし濃味家は口取を佳とす共に真味を知る者にあらず争(いか)でか料理通の言なりというべき就中(なかんずく)小説の如(ごと)きは元来その種類さまざまありて辛酸甘苦いろいろなるを五味を愛憎する心をもて頭(アタマ)くだしに評し去るは豈(あに)に心なきの極ならずや我友二葉亭の大人(うし)このたび思い寄る所ありて浮雲という小説を綴(つづ)りはじめて数ならぬ主人にも一臂(いっぴ)をかすべしとの頼みありき頼まれ甲斐(がい)のあるべくもあらねど一言二言の忠告など思いつくままに申し述べてかくて後大人の縦横なる筆力もて全く綴られしを一閲するにその文章の巧(たくみ)なる勿論(もちろん)主人などの及ぶところにあらず小説文壇に新しき光彩を添なんものは蓋(けだ)しこの冊子にあるべけれと感じて甚(はなは)だ僭越(せんえつ)の振舞にはあれど只(ただ)所々片言|隻句(せっく)の穩かならぬふしを刪正(さんせい)して竟(つい)に公にすることとなりぬ合作の名はあれどもその実四迷大人の筆に成りぬ文章の巧なる所趣向の面白き所は総(すべ)て四迷大人の骨折なり主人の負うところはひとり僭越の咎(とが)のみ読人|乞(こ)うその心してみそなわせ序(ついで)ながら彼の八犬伝|水滸伝(すいこでん)の如き規摸の目ざましきを喜べる目をもてこの小冊子を評したまう事のなからんには主人は兎(と)も角(かく)も二葉亭の大人否小説の霊が喜ぶべしと云爾
  第二十年夏   春の屋主人

第一編

 

第一回 アアラ怪しの人の挙動(ふるまい)  
千早振(ちはやふ)る神無月(かみなづき)ももはや跡|二日(ふつか)の余波(なごり)となッた二十八日の午後三時頃に、神田見附(かんだみつけ)の内より、塗渡(とわた)る蟻(あり)、散る蜘蛛(くも)の子とうようよぞよぞよ沸出(わきい)でて来るのは、孰(いず)れも顋(おとがい)を気にし給(たま)う方々。しかし熟々(つらつら)見て篤(とく)と点※[てへん+僉](てんけん)すると、これにも種々(さまざま)種類のあるもので、まず髭(ひげ)から書立てれば、口髭、頬髯(ほおひげ)、顋(あご)の鬚(ひげ)、暴(やけ)に興起(おや)した拿破崙髭(ナポレオンひげ)に、狆(チン)の口めいた比斯馬克髭(ビスマルクひげ)、そのほか矮鶏髭(ちゃぼひげ)、貉髭(むじなひげ)、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡(うす)くもいろいろに生分(はえわか)る。髭に続いて差(ちが)いのあるのは服飾(みなり)。白木屋(しろきや)仕込みの黒物(くろいもの)ずくめには仏蘭西(フランス)皮の靴(くつ)の配偶(めおと)はありうち、これを召す方様(かたさま)の鼻毛は延びて蜻蛉(とんぼ)をも釣(つ)るべしという。これより降(くだ)っては、背皺(せじわ)よると枕詞(まくらことば)の付く「スコッチ」の背広にゴリゴリするほどの牛の毛皮靴、そこで踵(かかと)にお飾を絶(たや)さぬところから泥(どろ)に尾を曳(ひ)く亀甲洋袴(かめのこズボン)、いずれも釣(つる)しんぼうの苦患(くげん)を今に脱せぬ貌付(かおつき)。デモ持主は得意なもので、髭あり服あり我また奚(なに)をか※[不/見](もと)めんと済した顔色(がんしょく)で、火をくれた木頭(もくず)と反身(そっくりかえ)ッてお帰り遊ばす、イヤお羨(うらやま)しいことだ。その後(あと)より続いて出てお出でなさるは孰(いず)れも胡麻塩(ごましお)頭、弓と曲げても張の弱い腰に無残や空(から)弁当を振垂(ぶらさ)げてヨタヨタものでお帰りなさる。さては老朽してもさすがはまだ職に堪(た)えるものか、しかし日本服でも勤められるお手軽なお身の上、さりとはまたお気の毒な。
途上|人影(ひとけ)の稀(ま)れに成った頃、同じ見附の内より両人(ふたり)の少年(わかもの)が話しながら出て参った。一人は年齢(ねんぱい)二十二三の男、顔色は蒼味(あおみ)七分に土気三分、どうも宜(よろ)しくないが、秀(ひいで)た眉(まゆ)に儼然(きっ)とした眼付で、ズーと押徹(おしとお)った鼻筋、唯(ただ)惜(おしい)かな口元が些(ち)と尋常でないばかり。しかし締(しまり)はよさそうゆえ、絵草紙屋の前に立っても、パックリ開(あ)くなどという気遣(きづか)いは有るまいが、とにかく顋が尖(とが)って頬骨が露(あらわ)れ、非道(ひど)く※[やまいだれ+瞿](やつ)れている故(せい)か顔の造作がとげとげしていて、愛嬌気(あいきょうげ)といったら微塵(みじん)もなし。醜くはないが何処(どこ)ともなくケンがある。背(せい)はスラリとしているばかりで左而已(さのみ)高いという程でもないが、痩肉(やせじし)ゆえ、半鐘なんとやらという人聞の悪い渾名(あだな)に縁が有りそうで、年数物ながら摺畳皺(たたみじわ)の存じた霜降(しもふり)「スコッチ」の服を身に纏(まと)ッて、組紐(くみひも)を盤帯(はちまき)にした帽檐広(つばびろ)な黒|羅紗(ラシャ)の帽子を戴(いただ)いてい、今一人は、前の男より二ツ三ツ兄らしく、中肉中背で色白の丸顔、口元の尋常な所から眼付のパッチリとした所は仲々の好男子ながら、顔立がひねてこせこせしているので、何となく品格のない男。黒羅紗の半「フロックコート」に同じ色の「チョッキ」、洋袴は何か乙な縞(しま)羅紗で、リュウとした衣裳附(いしょうづけ)、縁(ふち)の巻上ッた釜底形(かまぞこがた)の黒の帽子を眉深(まぶか)に冠(かぶ)り、左の手を隠袋(かくし)へ差入れ、右の手で細々とした杖(つえ)を玩物(おもちゃ)にしながら、高い男に向い、
「しかしネー、若(も)し果して課長が我輩を信用しているなら、蓋(けだ)し已(や)むを得ざるに出(い)でたんだ。何故(なぜ)と言ッて見給え、局員四十有余名と言やア大層のようだけれども、皆(みんな)腰の曲ッた老爺(じいさん)に非(あら)ざれば気の利(き)かない奴(やつ)ばかりだろう。その内で、こう言やア可笑(おか)しい様だけれども、若手でサ、原書も些(ちっ)たア噛(かじ)っていてサ、そうして事務を取らせて捗(はか)の往(い)く者と言ったら、マア我輩二三人だ。だから若し果して信用しているのなら、已(やむ)を得ないのサ」
「けれども山口を見給え、事務を取らせたらあの男程捗の往く者はあるまいけれども、やっぱり免を喰(く)ったじゃアないか」
「彼奴(あいつ)はいかん、彼奴は馬鹿だからいかん」
「何故」
「何故と言って、彼奴は馬鹿だ、課長に向って此間(こないだ)のような事を言う所を見りゃア、弥(いよいよ)馬鹿だ」
「あれは全体課長が悪いサ、自分が不条理な事を言付けながら、何にもあんなに頭ごなしにいうこともない」
「それは課長の方が或は不条理かも知れぬが、しかし苟(いやしく)も長官たる者に向って抵抗を試みるなぞというなア、馬鹿の骨頂だ。まず考えて見給え、山口は何んだ、属吏じゃアないか。属吏ならば、仮令(たと)い課長の言付を条理と思ったにしろ思わぬにしろ、ハイハイ言ってその通り処弁(しょべん)して往きゃア、職分は尽きてるじゃアないか。然(しか)るに彼奴のように、苟も課長たる者に向ってあんな差図がましい事を……」
「イヤあれは指図じゃアない、注意サ」
「フム乙(おつ)う山口を弁護するネ、やっぱり同病|相憐(あいあわ)れむのか、アハアハアハ」
高い男は中背の男の顔を尻眼(しりめ)にかけて口を鉗(つぐ)んでしまッたので談話(はなし)がすこし中絶(とぎ)れる。錦町(にしきちょう)へ曲り込んで二ツ目の横町の角まで参った時、中背の男は不図(ふと)立止って、
「ダガ君の免を喰(くっ)たのは、弔すべくまた賀すべしだぜ」
「何故」
「何故と言って、君、これからは朝から晩まで情婦(いろ)の側(そば)にへばり付いている事が出来らアネ。アハアハアハ」
「フフフン、馬鹿を言給うな」
ト高い男は顔に似気(にげ)なく微笑を含み、さて失敬の挨拶(あいさつ)も手軽るく、別れて独り小川町(おがわまち)の方へ参る。顔の微笑が一かわ一かわ消え往くにつれ、足取も次第々々に緩(ゆるや)かになって、終(つい)には虫の這(は)う様になり、悄然(しょんぼり)と頭(こうべ)をうな垂れて二三町程も参ッた頃、不図(ふと)立止りて四辺(あたり)を回顧(みまわ)し、駭然(がいぜん)として二足三足立戻ッて、トある横町へ曲り込んで、角から三軒目の格子戸(こうしど)作りの二階家へ這入(はい)る。一所(いっしょ)に這入ッて見よう。
高い男は玄関を通り抜けて縁側へ立出(たちいで)ると、傍(かたわら)の坐舗(ざしき)の障子がスラリ開(あ)いて、年頃十八九の婦人の首、チョンボリとした摘(つまみ)ッ鼻(ぱな)と、日の丸の紋を染抜いたムックリとした頬とで、その持主の身分が知れるという奴が、ヌット出る。
「お帰(かいん)なさいまし」
トいって、何故か口舐(くちなめ)ずりをする。
「叔母さんは」
「先程(さっき)お嬢さまと何処(どち)らへか」
「そう」
ト言捨てて高い男は縁側を伝(つたわ)って参り、突当りの段梯子(だんばしご)を登ッて二階へ上る。ここは六畳の小坐舗(こざしき)、一間の床(とこ)に三尺の押入れ付、三方は壁で唯南ばかりが障子になッている。床に掛けた軸は隅々(すみずみ)も既に虫喰(むしば)んで、床花瓶(とこばないけ)に投入れた二本三本(ふたもとみもと)の蝦夷菊(えぞぎく)は、うら枯れて枯葉がち。坐舗の一隅(いちぐう)を顧みると古びた机が一脚|据(す)え付けてあッて、筆、ペン、楊枝(ようじ)などを掴挿(つかみざ)しにした筆立一個に、歯磨(はみがき)の函(はこ)と肩を比(なら)べた赤間(あかま)の硯(すずり)が一面載せてある。机の側(かたわら)に押立たは二本|立(だち)の書函(ほんばこ)、これには小形の爛缶(ランプ)が載せてある。机の下に差入れたは縁(ふち)の欠けた火入、これには摺附木(すりつけぎ)の死体(しがい)が横(よこたわ)ッている。その外坐舗一杯に敷詰めた毛団(ケット)、衣紋竹(えもんだけ)に釣るした袷衣(あわせ)、柱の釘(くぎ)に懸けた手拭(てぬぐい)、いずれを見ても皆年数物、その証拠には手擦(てず)れていて古色|蒼然(そうぜん)たり。だが自(おのずか)ら秩然と取旁付(とりかたづい)ている。
高い男は徐(しず)かに和服に着替え、脱棄てた服を畳みかけて見て、舌鼓(したつづみ)を撃ちながらそのまま押入へへし込んでしまう。ところへトパクサと上ッて来たは例の日の丸の紋を染抜いた首の持主、横幅(よこはば)の広い筋骨の逞(たくま)しい、ズングリ、ムックリとした生理学上の美人で、持ッて来た郵便を高い男の前に差置いて、
「アノー先刻(さっき)この郵便が」
「ア、そう、何処から来たんだ」
ト郵便を手に取って見て、
「ウー、国からか」
「アノネ貴君(あなた)、今日のお嬢さまのお服飾(なり)は、ほんとにお目に懸けたいようでしたヨ。まずネ、お下着が格子縞の黄八丈(きはちじょう)で、お上着はパッとした|宜引縞(いいしま)の糸織で、お髪(ぐし)は何時(いつ)ものイボジリ捲きでしたがネ、お掻頭(かんざし)は此間(こないだ)出雲屋(いずもや)からお取んなすったこんな」
と故意々々(わざわざ)手で形を拵(こし)らえて見せ、
「薔薇(ばら)の花掻頭(はなかんざし)でネ、それはそれはお美しゅう御座いましたヨ……私もあんな帯留が一ツ欲しいけれども……」
ト些(すこ)し塞(ふさ)いで、
「お嬢さまはお化粧なんぞはしないと仰(おっ)しゃるけれども、今日はなんでも内々で薄化粧なすッたに違いありませんヨ。だってなんぼ色がお白(しろい)ッてあんなに……私(わたくし)も家(うち)にいる時分はこれでもヘタクタ施(つ)けたもんでしたがネ、此家(こちら)へ上ッてからお正月ばかりにして不断は施けないの、施けてもいいけれども御新造(ごしんぞ)さまの悪口が厭(いや)ですワ、だッて何時(いつう)かもお客様のいらッしゃる前で、『鍋(なべ)のお白粉(しろい)を施けたとこは全然(まるで)炭団(たどん)へ霜が降ッたようで御座います』ッて……余(あんま)りじゃア有りませんか、ネー貴君、なんぼ私が不器量だッて余りじゃアありませんか」
ト敵手(あいて)が傍(そば)にでもいるように、真黒になってまくしかける。高い男は先程より、手紙を把(と)ッては読かけ読かけてはまた下へ措(お)きなどして、さも迷惑な体(てい)。この時も唯「フム」と鼻を鳴らした而已(のみ)で更に取合わぬゆえ、生理学上の美人はさなくとも罅壊(えみわ)れそうな両頬(りょうきょう)をいとど膨脹(ふく)らして、ツンとして二階を降りる。その後姿を目送(みおく)ッて高い男はホット顔、また手早く手紙を取上げて読下す。その文言(もんごん)に
一筆(ひとふで)示し※[「参らせ候」のくずし字](まいらせそろ)、さても時こうがら日増しにお寒う相成り候(そうら)えども御無事にお勤め被成(なされ)候や、それのみあんじくらし※[「参らせ候」のくずし字]、母事(ははこと)もこの頃はめっきり年をとり、髪の毛も大方は白髪(しらが)になるにつき心まで愚痴に相成候と見え、今年の晩(くれ)には御地(おんち)へ参られるとは知りつつも、何とのう待遠にて、毎日ひにち指のみ折暮らし※[「参らせ候」のくずし字]、どうぞどうぞ一日も早うお引取下されたく念じ※[「参らせ候」のくずし字]、さる二十四日は父上の……
と読みさして覚えずも手紙を取落し、腕を組んでホット溜息(ためいき)。  
 
第二回 風変りな恋の初峯入(はつみねいり) 上 

 

高い男と仮に名乗らせた男は、本名を内海文三(うつみぶんぞう)と言ッて静岡県の者で、父親は旧幕府に仕えて俸禄(ほうろく)を食(はん)だ者で有ッたが、幕府倒れて王政|古(いにしえ)に復(かえ)り時津風(ときつかぜ)に靡(なび)かぬ民草(たみぐさ)もない明治の御世(みよ)に成ッてからは、旧里静岡に蟄居(ちっきょ)して暫(しば)らくは偸食(とうしょく)の民となり、為(な)すこともなく昨日(きのう)と送り今日と暮らす内、坐して食(くら)えば山も空(むな)しの諺(ことわざ)に漏(も)れず、次第々々に貯蓄(たくわえ)の手薄になるところから足掻(あが)き出したが、さて木から落ちた猿猴(さる)の身というものは意久地の無い者で、腕は真陰流に固ッていても鋤鍬(すきくわ)は使えず、口は左様(さよう)然(しか)らばと重く成ッていて見れば急にはヘイの音(ね)も出されず、といって天秤(てんびん)を肩へ当るも家名の汚(けが)れ外聞が見ッとも宜(よ)くないというので、足を擂木(すりこぎ)に駈廻(かけまわ)ッて辛(から)くして静岡藩の史生に住込み、ヤレ嬉(うれ)しやと言ッたところが腰弁当の境界(きょうがい)、なかなか浮み上る程には参らぬが、デモ感心には多(おおく)も無い資本を吝(おし)まずして一子文三に学問を仕込む。まず朝|勃然(むっくり)起る、弁当を背負(しょ)わせて学校へ出(だし)て遣(や)る、帰ッて来る、直ちに傍近の私塾へ通わせると言うのだから、あけしい間がない。とても余所外(よそほか)の小供では続かないが、其処(そこ)は文三、性質が内端(うちば)だけに学問には向くと見えて、余りしぶりもせずして出て参る。尤(もっと)も途(みち)に蜻蛉(とんぼ)を追う友を見てフト気まぐれて遊び暮らし、悄然(しょんぼり)として裏口から立戻ッて来る事も無いではないが、それは邂逅(たまさか)の事で、ママ大方は勉強する。その内に学問の味も出て来る、サア面白くなるから、昨日(きのう)までは督責(とくせき)されなければ取出さなかッた書物をも今日は我から繙(ひもと)くようになり、随(したが)ッて学業も進歩するので、人も賞讃(ほめそや)せば両親も喜ばしく、子の生長(そだち)にその身の老(おゆ)るを忘れて春を送り秋を迎える内、文三の十四という春、待(まち)に待た卒業も首尾よく済だのでヤレ嬉しやという間もなく、父親は不図感染した風邪(ふうじゃ)から余病を引出し、年比(としごろ)の心労も手伝てドット床に就(つ)く。薬餌(やくじ)、呪(まじない)、加持祈祷(かじきとう)と人の善いと言う程の事を為尽(しつく)して見たが、さて験(げん)も見えず、次第々々に頼み少なに成て、遂(つい)に文三の事を言い死(じに)にはかなく成てしまう。生残た妻子の愁傷は実に比喩(たとえ)を取るに言葉もなくばかり、「嗟矣(ああ)幾程(いくら)歎いても仕方がない」トいう口の下からツイ袖(そで)に置くは泪(なみだ)の露、漸(ようや)くの事で空しき骸(から)を菩提所(ぼだいしょ)へ送りて荼毘(だび)一片の烟(けぶり)と立上らせてしまう。さて※[てへん+爭]人(かせぎにん)が没してから家計は一方ならぬ困難、薬礼(やくれい)と葬式の雑用(ぞうよう)とに多(おおく)もない貯叢(たくわえ)をゲッソリ遣い減らして、今は残り少なになる。デモ母親は男勝(おとこまさ)りの気丈者、貧苦にめげない煮焚(にたき)の業(わざ)の片手間に一枚三厘の襯衣(シャツ)を縫(く)けて、身を粉(こ)にして※[てへん+爭]了(かせ)ぐに追付く貧乏もないか、どうかこうか湯なり粥(かゆ)なりを啜(すすっ)て、公債の利の細い烟(けぶり)を立てている。文三は父親の存生中(ぞんじょうちゅう)より、家計の困難に心附かぬでは無いが、何と言てもまだ幼少の事、何時(いつ)までもそれで居られるような心地がされて、親思いの心から、今に坊がああしてこうしてと、年齢(とし)には増せた事を言い出しては両親に袂(たもと)を絞らせた事は有(あっ)ても、又|何処(どこ)ともなく他愛(たわい)のない所も有て、浪(なみ)に漂う浮艸(うきぐさ)の、うかうかとして月日を重ねたが、父の死後|便(たより)のない母親の辛苦心労を見るに付け聞くに付け、小供心にも心細くもまた悲しく、始めて浮世の塩が身に浸(し)みて、夢の覚たような心地。これからは給事なりともして、母親の手足(たそく)にはならずとも責めて我口だけはとおもう由(よし)をも母に告げて相談をしていると、捨る神あれば助(たすく)る神ありで、文三だけは東京(とうけい)に居る叔父の許(もと)へ引取られる事になり、泣(なき)の泪(なみだ)で静岡を発足(ほっそく)して叔父を便(たよ)って出京したは明治十一年、文三が十五に成た春の事とか。
叔父は園田孫兵衛(そのだまごべえ)と言いて、文三の亡父の為めには実弟に当る男、慈悲深く、憐(あわれ)ッぽく、しかも律義(りちぎ)真当(まっとう)の気質ゆえ人の望(う)けも宜いが、惜(おしい)かな些(ち)と気が弱すぎる。維新後は両刀を矢立(やたて)に替えて、朝夕|算盤(そろばん)を弾(はじ)いては見たが、慣れぬ事とて初の内は損毛(そんもう)ばかり、今日に明日(あす)にと喰込(くいこん)で、果は借金の淵(ふち)に陥(は)まり、どうしようこうしようと足掻(あが)き※[足へん+宛](もが)いている内、不図した事から浮み上(あがっ)て当今では些とは資本も出来、地面をも買い小金をも貸付けて、家を東京に持ちながら、その身は浜のさる茶店(さてん)の支配人をしている事なれば、左而已(さのみ)富貴(ふっき)と言うでもないが、まず融通(ゆとり)のある活計(くらし)。留守を守る女房のお政(まさ)は、お摩(さす)りからずるずるの後配(のちぞい)、歴(れっき)とした士族の娘と自分ではいうが……チト考え物。しかしとにかく如才のない、世辞のよい、地代から貸金の催促まで家事一切|独(ひとり)で切って廻る程あって、万事に抜目のない婦人。疵瑕(きず)と言ッては唯(ただ)大酒飲みで、浮気で、しかも針を持つ事がキツイ嫌(きら)いというばかり。さしたる事もないが、人事はよく言いたがらぬが世の習い、「あの婦人(おんな)は裾張蛇(すそっぱりじゃ)の変生(へんしょう)だろう」ト近辺の者は影人形を使うとか言う。夫婦の間に二人の子がある。姉をお勢(せい)と言ッて、その頃はまだ十二の蕾(つぼみ)、弟(おとと)を勇(いさみ)と言ッて、これもまた袖で鼻汁(はな)拭(ふ)く湾泊盛(わんぱくざか)り(これは当今は某校に入舎していて宅には居らぬので)、トいう家内ゆえ、叔母一人の機(き)に入ればイザコザは無いが、さて文三には人の機嫌(きげん)気褄(きづま)を取るなどという事は出来ぬ。唯心ばかりは主(しゅう)とも親とも思ッて善く事(つか)えるが、気が利(き)かぬと言ッては睨付(ねめつ)けられる事何時も何時も、その度ごとに親の難有(ありがた)サが身に染(し)み骨に耐(こた)えて、袖に露を置くことは有りながら、常に自ら叱(しか)ッてジット辛抱、使歩行(つかいある)きをする暇(いとま)には近辺の私塾へ通学して、暫(しばら)らく悲しい月日を送ッている。ト或る時、某学校で生徒の召募があると塾での評判取り取り、聞けば給費だという。何も試しだと文三が試験を受けて見たところ、幸いにして及第する、入舎する、ソレ給費が貰(もら)える。昨日(きのう)までは叔父の家とは言いながら食客(いそうろう)の悲しさには、追使われたうえ気兼苦労|而已(のみ)をしていたのが、今日は外(ほか)に掣肘(ひかれ)る所もなく、心一杯に勉強の出来る身の上となったから、ヤ喜んだの喜ばないのと、それはそれは雀躍(こおどり)までして喜んだが、しかし書生と言ッてもこれもまた一苦界(ひとくがい)。固(もと)より余所(よそ)外(ほか)のおぼッちゃま方とは違い、親から仕送りなどという洒落(しゃれ)はないから、無駄遣(むだづか)いとては一銭もならず、また為(し)ようとも思わずして、唯(ただ)一心に、便(たより)のない一人の母親の心を安めねばならぬ、世話になった叔父へも報恩(おんがえし)をせねばならぬ、と思う心より、寸陰を惜んでの刻苦勉強に学業の進みも著るしく、何時の試験にも一番と言ッて二番とは下(さが)らぬ程ゆえ、得難い書生と教員も感心する。サアそうなると傍(はた)が喧(やか)ましい。放蕩(ほうとう)と懶惰(らんだ)とを経緯(たてぬき)の糸にして織上(おりあがっ)たおぼッちゃま方が、不負魂(まけじだましい)の妬(ねた)み嫉(そね)みからおむずかり遊ばすけれども、文三はそれ等の事には頓着(とんじゃく)せず、独りネビッチョ除(の)け物と成ッて朝夕勉強|三昧(ざんまい)に歳月を消磨する内、遂に多年|蛍雪(けいせつ)の功が現われて一片の卒業証書を懐(いだ)き、再び叔父の家を東道(あるじ)とするように成ッたからまず一安心と、それより手を替え品を替え種々(さまざま)にして仕官の口を探すが、さて探すとなると無いもので、心ならずも小半年ばかり燻(くすぶ)ッている。その間始終叔母にいぶされる辛らさ苦しさ、初(はじめ)は叔母も自分ながらけぶそうな貌(かお)をして、やわやわ吹付けていたからまず宜(よか)ッたが、次第にいぶし方に念が入ッて来て、果は生松葉(なままつば)に蕃椒(とうがらし)をくべるように成ッたから、そのけぶいことこの上なし。文三も暫らくは鼻をも潰(つぶ)していたれ、竟(つい)には余りのけぶさに堪え兼て噎返(むせかえ)る胸を押鎮(おししず)めかねた事も有ッたが、イヤイヤこれも自分が不甲斐(ふがい)ないからだと、思い返してジット辛抱。そういうところゆえ、その後或人の周旋で某省の准(じゅん)判任御用係となッた時は天へも昇る心地がされて、ホッと一息|吐(つ)きは吐いたが、始て出勤した時は異(おつ)な感じがした。まず取調物を受取って我坐になおり、さて落着て居廻りを視回(みまわ)すと、仔細(しさい)らしく頸(くび)を傾(かたぶ)けて書物(かきもの)をするもの、蚤取眼(のみとりまなこ)になって校合(きょうごう)をするもの、筆を啣(くわ)えて忙(いそがわ)し気に帳簿を繰るものと種々さまざま有る中に、ちょうど文三の真向うに八字の浪を額に寄せ、忙(いそがわ)しく眼をしばたたきながら間断(たゆみ)もなく算盤を弾(はじ)いていた年配五十前後の老人が、不図手を止(とど)めて珠へ指ざしをしながら、「エー六五七十の二……でもなしとエー六五」ト天下の安危この一挙に在りと言ッた様な、さも心配そうな顔を振揚げて、その癖口をアンゴリ開いて、眼鏡(めがね)越しにジット文三の顔を見守(みつ)め、「ウー八十の二か」ト一越(いちおつ)調子高な声を振立ててまた一心不乱に弾き出す。余りの可笑(おか)しさに堪えかねて、文三は覚えずも微笑したが、考えて見れば笑う我と笑われる人と余り懸隔のない身の上。アア曾(かつ)て身の油に根気の心(しん)を浸し、眠い眼を睡(ね)ずして得た学力(がくりき)を、こんなはかない馬鹿気た事に使うのかと、思えば悲しく情なく、我になくホット太息(といき)を吐(つ)いて、暫らくは唯|茫然(ぼうぜん)としてつまらぬ者でいたが、イヤイヤこれではならぬと心を取直して、その日より事務に取懸(とりかく)る。当座四五日は例の老人の顔を見る毎に嘆息|而已(のみ)していたが、それも向う境界(きょうがい)に移る習いとかで、日を経る随(まま)に苦にもならなく成る。この月より国許の老母へは月々仕送をすれば母親も悦(よろこ)び、叔父へは月賦で借金|済(な)しをすれば叔母も機嫌を直す。その年の暮に一等進んで本官になり、昨年の暑中には久々にて帰省するなど、いろいろ喜ばしき事が重なれば、眉(まゆ)の皺(しわ)も自ら伸び、どうやら寿命も長くなったように思われる。ここにチト艶(なまめ)いた一条のお噺(はなし)があるが、これを記(しる)す前に、チョッピリ孫兵衛の長女お勢の小伝を伺いましょう。
お勢の生立(おいたち)の有様、生来(しょうらい)子煩悩(こぼんのう)の孫兵衛を父に持ち、他人には薄情でも我子には眼の無いお政を母に持ッた事ゆえ、幼少の折より挿頭(かざし)の花、衣(きぬ)の裏の玉と撫(な)で愛(いつくし)まれ、何でもかでも言成(いいなり)次第にオイソレと仕付けられたのが癖と成ッて、首尾よくやんちゃ娘に成果(なりおお)せた。紐解(ひもとき)の賀の済(すん)だ頃より、父親の望みで小学校へ通い、母親の好みで清元(きよもと)の稽古(けいこ)、生得(うまれえ)て才(さい)溌(はじけ)の一徳には生覚(なまおぼ)えながら飲込みも早く、学問、遊芸、両(ふたつ)ながら出来のよいように思われるから、母親は眼も口も一ツにして大驩(おおよろこ)び、尋ねぬ人にまで風聴(ふいちょう)する娘自慢の手前|味噌(みそ)、切(しき)りに涎(よだれ)を垂らしていた。その頃|新(あらた)に隣家へ引移ッて参ッた官員は家内四人|活計(ぐらし)で、細君もあれば娘もある。隣ずからの寒暄(かんけん)の挨拶が喰付きで、親々が心安く成るにつれ娘同志も親しくなり、毎日のように訪(とい)つ訪(とわ)れつした。隣家の娘というはお勢よりは二ツ三ツ年層(としかさ)で、優しく温藉(しとやか)で、父親が儒者のなれの果だけ有ッて、小供ながらも学問が好(すき)こそ物の上手で出来る。いけ年を仕(つかまつっ)てもとかく人|真似(まね)は輟(や)められぬもの、況(まし)てや小供という中(うち)にもお勢は根生(ねおい)の軽躁者(おいそれもの)なれば尚更(なおさら)、※[「倏」の「犬」に代えて「火」]忽(たちまち)その娘に薫陶(かぶ)れて、起居挙動(たちいふるまい)から物の言いざままでそれに似せ、急に三味線(しゃみせん)を擲却(ほうりだ)して、唐机(とうづくえ)の上に孔雀(くじゃく)の羽を押立る。お政は学問などという正坐(かしこま)ッた事は虫が好かぬが、愛(いと)し娘の為(し)たいと思ッて為(す)る事と、そのままに打棄てて置く内、お勢が小学校を卒業した頃、隣家の娘は芝辺のさる私塾へ入塾することに成ッた。サアそう成るとお勢は矢も楯(たて)も堪(たま)らず、急に入塾が仕たくなる。何でもかでもと親を責(せ)がむ、寝言にまで言ッて責がむ。トいってまだ年端(としは)も往かぬに、殊(こと)にはなまよみの甲斐なき婦人(おんな)の身でいながら、入塾などとは以(もって)の外、トサ一旦(いったん)は親の威光で叱り付けては見たが、例の絶食に腹を空(すか)せ、「入塾が出来ない位なら生ている甲斐がない」ト溜息(ためいき)噛雑(かみま)ぜの愁訴、萎(しお)れ返ッて見せるに両親も我を折り、それ程までに思うならばと、万事を隣家の娘に托(たく)して、覚束(おぼつか)なくも入塾させたは今より二年|前(ぜん)の事で。
お勢の入塾した塾の塾頭をしている婦人は、新聞の受売からグット思い上りをした女丈夫(じょじょうぶ)、しかも気を使ッて一飯の恩は酬(むく)いぬがちでも、睚眥(がいさい)の怨(えん)は必ず報ずるという蚰蜒魂(げじげじだましい)で、気に入らぬ者と見れば何かにつけて真綿に針のチクチク責をするが性分。親の前でこそ蛤貝(はまぐりがい)と反身(そっくりかえ)れ、他人の前では蜆貝(しじみがい)と縮まるお勢の事ゆえ、責(さいな)まれるのが辛らさにこの女丈夫に取入ッて卑屈を働らく。固より根がお茶ッぴいゆえ、その風には染り易いか、忽(たちまち)の中に見違えるほど容子(ようす)が変り、何時しか隣家の娘とは疎々(うとうと)しくなッた。その後英学を初めてからは、悪足掻(わるあがき)もまた一段で、襦袢(じゅばん)がシャツになれば唐人髷(とうじんわげ)も束髪に化け、ハンケチで咽喉(のど)を緊(し)め、鬱陶(うっとう)しいを耐(こら)えて眼鏡を掛け、独(ひとり)よがりの人笑わせ、天晴(あっぱれ)一個のキャッキャとなり済ました。然るに去年の暮、例の女丈夫は教師に雇われたとかで退塾してしまい、その手に属したお茶ッぴい連も一人去り二人|去(さり)して残少(のこりずく)なになるにつけ、お勢も何となく我宿恋しく成ッたなれど、まさかそうとも言い難(か)ねたか、漢学は荒方(あらかた)出来たと拵(こし)らえて、退塾して宿所へ帰ッたは今年の春の暮、桜の花の散る頃の事で。
既に記した如く、文三の出京した頃はお勢はまだ十二の蕾、幅の狭(せば)い帯を締めて姉様(あねさま)を荷|厄介(やっかい)にしていたなれど、こましゃくれた心から、「あの人はお前の御亭主さんに貰(もら)ッたのだヨ」ト坐興に言ッた言葉の露を実(まこと)と汲(くん)だか、初の内ははにかんでばかりいたが、小供の馴(なじ)むは早いもので、間もなく菓子|一(ひとつ)を二ツに割ッて喰べる程|睦(むつ)み合ッたも今は一昔。文三が某校へ入舎してからは相逢(あいあ)う事すら稀(まれ)なれば、況(まし)て一(ひとつ)に居た事は半日もなし。唯今年の冬期休暇にお勢が帰宅した時|而已(のみ)、十日ばかりも朝夕顔を見合わしていたなれど、小供の時とは違い、年頃が年頃だけに文三もよろずに遠慮勝でよそよそしく待遇(もてな)して、更に打解けて物など言ッた事なし。その癖お勢が帰塾した当坐両三日は、百年の相識に別れた如く何(なに)となく心|淋(さび)しかッたが……それも日数(ひかず)を経(ふ)る随(まま)に忘れてしまッたのに、今また思い懸けなく一ッ家に起臥(おきふし)して、折節は狎々(なれなれ)しく物など言いかけられて見れば、嬉しくもないが一|月(げつ)が復(ま)た来たようで、何にとなく賑(にぎや)かな心地がした。人一人殖えた事ゆえ、これはさもあるべき事ながら、唯怪しむ可(べ)きはお勢と席を同(おなじゅう)した時の文三の感情で、何時も可笑しく気が改まり、円めていた脊(せ)を引伸して頸を据え、異(おつ)う済して変に片付る。魂が裳抜(もぬけ)れば一心に主(しゅう)とする所なく、居廻りに在る程のもの悉(ことごと)く薄烟(うすけぶり)に包れて虚有縹緲(きょうひょうびょう)の中(うち)に漂い、有るかと思えばあり、無いかと想(おも)えばない中(なか)に、唯|一物(あるもの)ばかりは見ないでも見えるが、この感情は未(ま)だ何とも名(なづ)け難い。夏の初より頼まれてお勢に英語を教授するように成ッてから、文三も些(すこ)しく打解け出して、折節は日本婦人の有様、束髪の利害、さては男女交際の得失などを論ずるように成ると、不思議や今まで文三を男臭いとも思わず太平楽を並べ大風呂敷を拡(ひろ)げていたお勢が、文三の前では何時からともなく口数を聞かなく成ッて、何処ともなく落着て、優しく女性(にょしょう)らしく成ッたように見えた。或|一日(いちじつ)、お勢の何時になく眼鏡を外して頸巾(くびまき)を取ッているを怪んで文三が尋ぬれば、「それでも貴君(あなた)が、健康な者には却(かえっ)て害になると仰(おっしゃ)ッたものヲ」トいう。文三は覚えずも莞然(にっこり)、「それは至極|好(い)い事(こつ)だ」ト言ッてまた莞然。
お勢の落着たに引替え、文三は何かそわそわし出して、出勤して事務を執りながらもお勢の事を思い続けに思い、退省の時刻を待詫(まちわ)びる。帰宅したとてもお勢の顔を見ればよし、さも無ければ落脱(がっかり)力抜けがする。「彼女(あれ)に何したのじゃアないのかしらぬ」ト或時我を疑(うたぐ)ッて、覚えずも顔を※[赤+報のつくり](あか)らめた。
お勢の帰宅した初より、自分には気が付かぬでも文三の胸には虫が生(わい)た。なれどもその頃はまだ小さく場(ば)取らず、胸に在ッても邪魔に成らぬ而已(のみ)か、そのムズムズと蠢動(うごめ)く時は世界中が一所(ひとところ)に集る如く、又この世から極楽浄土へ往生する如く、又春の日に瓊葩綉葉(けいはしゅうよう)の間、和気(かき)香風の中(うち)に、臥榻(がとう)を据えてその上に臥(ね)そべり、次第に遠(とおざか)り往く虻(あぶ)の声を聞きながら、眠(ねぶ)るでもなく眠らぬでもなく、唯ウトウトとしているが如く、何ともかとも言様なく愉快(こころよか)ッたが、虫|奴(め)は何時の間にか太く逞(たくま)しく成ッて、「何したのじゃアないか」ト疑ッた頃には、既に「添(そい)たいの蛇(じゃ)」という蛇(へび)に成ッて這廻(はいまわ)ッていた……寧(むし)ろ難面(つれな)くされたならば、食すべき「たのみ」の餌(えさ)がないから、蛇奴も餓死(うえじに)に死んでしまいもしようが、憖(なまじい)に卯(う)の花くだし五月雨(さみだれ)のふるでもなくふらぬでもなく、生殺(なまごろ)しにされるだけに蛇奴も苦しさに堪え難(か)ねてか、のたうち廻ッて腸(はらわた)を噛断(かみちぎ)る……初の快さに引替えて、文三も今は苦しくなッて来たから、窃(ひそ)かに叔母の顔色(がんしょく)を伺ッて見れば、気の所為(せい)か粋(すい)を通して見て見ぬ風をしているらしい。「若(も)しそうなればもう叔母の許(ゆるし)を受けたも同前……チョッ寧(いっ)そ打附(うちつ)けに……」ト思ッた事は屡々(しばしば)有ッたが、「イヤイヤ滅多な事を言出して取着かれぬ返答をされては」ト思い直してジット意馬(いば)の絆(たづな)を引緊(ひきし)め、藻(も)に住む虫の我から苦んでいた……これからが肝腎|要(かなめ)、回を改めて伺いましょう。 
 
第三回 余程|風変(ふうがわり)な恋の初峯入 下 

 

今年の仲の夏、或一|夜(や)、文三が散歩より帰ッて見れば、叔母のお政は夕暮より所用あッて出たまま未(ま)だ帰宅せず、下女のお鍋(なべ)も入湯にでも参ッたものか、これも留守、唯(ただ)お勢の子舎(へや)に而已(のみ)光明(あかり)が射(さ)している。文三|初(はじめ)は何心なく二階の梯子段(はしごだん)を二段三段|登(あが)ッたが、不図立止まり、何か切(しき)りに考えながら、一段降りてまた立止まり、また考えてまた降りる……俄(にわ)かに気を取直して、将(まさ)に再び二階へ登らんとする時、忽(たちま)ちお勢の子舎の中(うち)に声がして、
「誰方(どなた)」
トいう。
「私(わたくし)」
ト返答をして文三は肩を縮(すく)める。
「オヤ誰方かと思ッたら文さん……淋(さみ)しくッてならないから些(ちっ)とお噺(はな)しにいらッしゃいな」
「エ多謝(ありがと)う、だがもう些(ちっ)と後(のち)にしましょう」
「何か御用が有るの」
「イヤ何も用はないが……」
「それじゃア宜(いい)じゃア有りませんか、ネーいらッしゃいヨ」
文三は些(すこ)し躊躇(ためらっ)て梯子段を降果てお勢の子舎の入口まで参りは参ッたが、中(うち)へとては立入らず、唯|鵠立(たたずん)でいる。
「お這入(はいん)なさいな」
「エ、エー……」
ト言ッたまま文三は尚(な)お鵠立(たたずん)でモジモジしている、何か這入りたくもあり這入りたくもなしといった様な容子(ようす)。
「何故(なぜ)貴君(あなた)、今夜に限ッてそう遠慮なさるの」
「デモ貴嬢(あなた)お一人ッきりじゃア……なんだか……」
「オヤマア貴君にも似合わない……アノ何時(いつ)か、気が弱くッちゃア主義の実行は到底覚束ないと仰(おっ)しゃッたのは何人(どなた)だッけ」
ト※[虫+秦](しん)の首を斜(ななめ)に傾(か)しげて嫣然(えんぜん)片頬(かたほ)に含んだお勢の微笑に釣(つ)られて、文三は部屋へ這入り込み坐に着きながら、
「そう言われちゃア一言もないが、しかし……」
「些とお遣いなさいまし」
トお勢は団扇(うちわ)を取出(とりいだ)して文三に勧め、
「しかしどうしましたと」
「エ、ナニサ影口がどうも五月蠅(うるさく)ッて」
「それはネ、どうせ些とは何とか言いますのサ。また何とか言ッたッて宜じゃア有りませんか、若(も)しお相互(たがい)に潔白なら。どうせ貴君、二千年来の習慣を破るんですものヲ、多少の艱苦(かんく)は免(のが)れッこは有りませんワ」
「トハ思ッているようなものの、まさか影口が耳に入ると厭(いや)なものサ」
「それはそうですヨネー。この間もネ貴君、鍋が生意気に可笑(おか)しな事を言ッて私にからかうのですよ。それからネ私が余(あんま)り五月蠅なッたから、到底解るまいとはおもいましたけれども試(こころみ)に男女交際論を説て見たのですヨ。そうしたらネ、アノなんですッて、私の言葉には漢語が雑(ま)ざるから全然(まるっきり)何を言ッたのだか解りませんて……真個(ほんと)に教育のないという者は仕様のないもんですネー」
「アハハハ其奴(そいつ)は大笑いだ……しかし可笑しく思ッているのは鍋ばかりじゃア有りますまい、必(きっ)と母親(おっか)さんも……」
「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから始終可笑しな事を言ッちゃアからかいますのサ。それでもネ、そのたんびに私が辱(はずか)しめ辱しめ為(し)い為いしたら、あれでも些とは耻(は)じたと見えてネ、この頃じゃアそんなに言わなくなりましたよ」
「ヘーからかう、どんな事を仰しゃッて」
「アノーなんですッて、そんなに親しくする位なら寧(むし)ろ貴君と……(すこしもじもじして言かねて)結婚してしまえッて……」
ト聞くと等しく文三は駭然(ぎょっ)としてお勢の顔を目守(みつめ)る。されど此方(こなた)は平気の躰(てい)で
「ですがネ、教育のない者ばかりを責める訳にもいけませんヨネー。私の朋友(ほうゆう)なんぞは、教育の有ると言う程有りゃアしませんがネ、それでもマア普通の教育は享(う)けているんですよ、それでいて貴君、西洋主義の解るものは、二十五人の内に僅(たった)四人(よったり)しかないの。その四人(よったり)もネ、塾にいるうちだけで、外(ほか)へ出てからはネ、口程にもなく両親に圧制せられて、みんなお嫁に往(い)ッたりお婿(むこ)を取ッたりしてしまいましたの。だから今までこんな事を言ッてるものは私ばッかりだとおもうと、何だか心細(こころぼそく)ッて心細ッてなりません。でしたがネ、この頃は貴君という親友が出来たから、アノー大変気丈夫になりましたわ」
文三はチョイと一礼して
「お世辞にもしろ嬉(うれ)しい」
「アラお世辞じゃア有りませんよ、真実(ほんとう)ですよ」
「真実なら尚お嬉しいが、しかし私にゃア貴嬢(あなた)と親友の交際は到底出来ない」
「オヤ何故ですエ、何故親友の交際が出来ませんエ」
「何故といえば、私には貴嬢が解からず、また貴嬢には私が解からないから、どうも親友の交際は……」
「そうですか、それでも私には貴君はよく解ッている積りですよ。貴君の学識が有ッて、品行が方正で、親に孝行で……」
「だから貴嬢には私が解らないというのです。貴嬢は私を親に孝行だと仰しゃるけれども、孝行じゃア有りません。私には……親より……大切な者があります……」
ト吃(どもり)ながら言ッて文三は差俯向(さしうつむ)いてしまう。お勢は不思議そうに文三の容子を眺(なが)めながら
「親より大切な者……親より……大切な……者……親より大切な者は私にも有りますワ」
文三はうな垂れた頸(くび)を振揚げて
「エ、貴嬢にも有りますと」
「ハア有りますワ」
「誰(だ)……誰れが」
「人じゃアないの、アノ真理」
「真理」
ト文三は慄然(ぶるぶる)と胴震(どうぶるい)をして唇(くちびる)を喰(く)いしめたまま暫(しば)らく無言(だんまり)、稍(やや)あッて俄(にわか)に喟然(きぜん)として歎息して、
「アア、貴嬢は清浄なものだ潔白なものだ……親より大切なものは真理……アア潔白なものだ……しかし感情という者は実に妙なものだナ、人を愚(ぐ)にしたり、人を泣かせたり笑わせたり、人をあえだり揉(もん)だりして玩弄(がんろう)する。玩弄されると薄々気が附きながらそれを制することが出来ない。アア自分ながら……」
ト些(すこ)し考えて、稍ありて熱気(やっき)となり、
「ダガ思い切れない……どう有ッても思い切れない……お勢さん、貴嬢は御自分が潔白だからこんな事を言ッてもお解りがないかも知れんが、私には真理よりか……真理よりか大切な者があります。去年の暮から全半歳(まるはんとし)、その者の為(た)めに感情を支配せられて、寐(ね)ても寤(さ)めても忘らればこそ、死ぬより辛(つら)いおもいをしていても、先では毫(すこ)しも汲んでくれない。寧ろ強顔(つれ)なくされたならば、また思い切りようも有ろうけれども……」
ト些し声をかすませて、
「なまじい力におもうの親友だのといわれて見れば私は……どうも……どう有ッても思い……」
「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっと御覧なさいヨ」
庭の一隅(いちぐう)に栽込(うえこ)んだ十竿(ともと)ばかりの繊竹(なよたけ)の、葉を分けて出る月のすずしさ。月夜見の神の力の測りなくて、断雲一片の翳(かげ)だもない、蒼空(あおぞら)一面にてりわたる清光素色、唯|亭々皎々(ていていきょうきょう)として雫(しずく)も滴(した)たるばかり。初は隣家の隔ての竹垣に遮(さえぎ)られて庭を半(なかば)より這初(はいはじ)め、中頃は縁側へ上(のぼ)ッて座舗(ざしき)へ這込み、稗蒔(ひえまき)の水に流れては金瀲※[さんずい+艶](きんれんえん)、簷馬(ふうりん)の玻璃(はり)に透(とお)りては玉(ぎょく)玲瓏(れいろう)、座賞の人に影を添えて孤燈一|穂(すい)の光を奪い、終(つい)に間(あわい)の壁へ這上(はいのぼ)る。涼風一陣吹到る毎(ごと)に、ませ籬(がき)によろぼい懸る夕顔の影法師が婆娑(ばさ)として舞い出し、さてわ百合(ゆり)の葉末にすがる露の珠(たま)が、忽ち蛍(ほたる)と成ッて飛迷う。艸花(くさばな)立樹(たちき)の風に揉(も)まれる音の颯々(ざわざわ)とするにつれて、しばしは人の心も騒ぎ立つとも、須臾(しゅゆ)にして風が吹罷(ふきや)めば、また四辺(あたり)蕭然(ひっそ)となって、軒の下艸(したぐさ)に集(すだ)く虫の音(ね)のみ独り高く聞える。眼に見る景色はあわれに面白い。とはいえ心に物ある両人(ふたり)の者の眼には止まらず、唯お勢が口ばかりで
「アア佳(いい)こと」
トいって何故(なにゆえ)ともなく莞然(にっこり)と笑い、仰向いて月に観惚(みと)れる風(ふり)をする。その半面(よこがお)を文三が窃(ぬす)むが如く眺め遣(や)れば、眼鼻口の美しさは常に異(かわ)ッたこともないが、月の光を受けて些し蒼味を帯(お)んだ瓜実顔(うりざねがお)にほつれ掛ッたいたずら髪、二筋三筋|扇頭(せんとう)の微風に戦(そよ)いで頬(ほお)の辺(あたり)を往来するところは、慄然(ぞっ)とするほど凄味(すごみ)が有る。暫らく文三がシケジケと眺めているト、やがて凄味のある半面(よこがお)が次第々々に此方(こちら)へ捻(ねじ)れて……パッチリとした涼しい眼がジロリと動き出して……見とれていた眼とピッタリ出逢(であ)う。螺(さざい)の壺々口(つぼつぼぐち)に莞然(にっこ)と含んだ微笑を、細根大根に白魚(しらうお)を五本並べたような手が持ていた団扇で隠蔽(かく)して、耻(はず)かしそうなしこなし。文三の眼は俄に光り出す。
「お勢さん」
但(ただ)し震声(ふるいごえ)で。
「ハイ」
但し小声で。
「お勢さん、貴嬢(あなた)もあんまりだ、余(あんま)り……残酷だ、私がこれ……これ程までに……」
トいいさして文三は顔に手を宛(あ)てて黙ッてしまう。意(こころ)を注(とど)めて能(よ)く見れば、壁に写ッた影法師が、慄然(ぶるぶる)とばかり震えている。今|一言(ひとこと)……今一言の言葉の関を、踰(こ)えれば先は妹背山(いもせやま)、蘆垣(あしがき)の間近き人を恋い初(そ)めてより、昼は終日(ひねもす)夜は終夜(よもすがら)、唯その人の面影(おもかげ)而已(のみ)常に眼前(めさき)にちらついて、砧(きぬた)に映る軒の月の、払ッてもまた去りかねていながら、人の心を測りかねて、末摘花(すえつむはな)の色にも出さず、岩堰水(いわせくみず)の音にも立てず、独りクヨクヨ物をおもう、胸のうやもや、もだくだを、払うも払わぬも今一言の言葉の綾(あや)……今一言……僅(たった)一言……その一言をまだ言わぬ……折柄(おりから)ガラガラと表の格子戸(こうしど)の開(あ)く音がする……吃驚(びっくり)して文三はお勢と顔を見合わせる、蹶然(むっく)と起上(たちあが)る、転げるように部屋を駆出る。但しその晩はこれきりの事で別段にお話しなし。
翌朝に至りて両人(ふたり)の者は始めて顔を合わせる。文三はお勢よりは気まりを悪がッて口数をきかず、この夏の事務の鞅掌(いそがし)さ、暑中休暇も取れぬので匆々(そうそう)に出勤する。十二時頃に帰宅する。下坐舗(したざしき)で昼食(ちゅうじき)を済して二階の居間へ戻り、「アア熱かッた」ト風を納(い)れている所へ梯子バタバタでお勢が上(あが)ッて参り、二ツ三ツ英語の不審を質問する。質問してしまえばもはや用の無い筈(はず)だが、何かモジモジして交野(かたの)の鶉(うずら)を極めている。やがて差俯向いたままで鉛筆を玩弄(おもちゃ)にしながら
「アノー昨夕(ゆうべ)は貴君どうなすったの」
返答なし。
「何だか私が残酷だッて大変|憤(おこ)ッていらしったが、何が残酷ですの」
ト笑顔(えがお)を擡(もた)げて文三の顔を窺(のぞ)くと、文三は狼狽(あわて)て彼方(あちら)を向いてしまい
「大抵察していながらそんな事を」
「アラそれでも私にゃ何だか解りませんものヲ」
「解らなければ解らないでよう御座んす」
「オヤ可笑しな」
それから後は文三と差向いになる毎に、お勢は例の事を種にして乙(おつ)うからんだ水向け文句、やいのやいのと責め立てて、終(つい)には「仰しゃらぬとくすぐりますヨ」とまで迫ッたが、石地蔵と生れ付たしょうがには、情談のどさくさ紛れにチョックリチョイといって除(の)ける事の出来ない文三、然(しか)らばという口付からまず重くろしく折目正しく居すまッて、しかつべらしく思いのたけを言い出だそうとすれば、お勢はツイと彼方(あちら)を向いて「アラ鳶(とんび)が飛でますヨ」と知らぬ顔の半兵衛|模擬(もどき)、さればといって手を引けば、また意(こころ)あり気な色目遣い、トこうじらされて文三は些(ち)とウロが来たが、ともかくも触らば散ろうという下心の自(おのずか)ら素振りに現われるに「ハハア」と気が附て見れば嬉しく難有(ありがた)く辱(かたじ)けなく、罪も報(むくい)も忘れ果てて命もトントいらぬ顔付。臍(へそ)の下を住家として魂が何時の間にか有頂天外へ宿替をすれば、静かには坐ッてもいられず、ウロウロ座舗を徘徊(まごつ)いて、舌を吐たり肩を縮(すく)めたり思い出し笑いをしたり、又は変ぽうらいな手附きを為たりなど、よろずに瘋癲(きちがい)じみるまで喜びは喜んだが、しかしお勢の前ではいつも四角四面に喰いしばって猥褻(みだり)がましい挙動(ふるまい)はしない。尤(もっと)も曾(かつ)てじゃらくらが高じてどやぐやと成ッた時、今まで※[りっしんべん+喜](うれ)しそうに笑ッていた文三が俄かに両眼を閉じて静まり返えり何と言ッても口をきかぬので、お勢が笑らいながら「そんなに真面目(まじめ)にお成(なん)なさるとこう成(す)るからいい」とくすぐりに懸ッたその手頭(てさき)を払らい除けて文三が熱気(やっき)となり、「アア我々の感情はまだ習慣の奴隷だ。お勢さん下へ降りて下さい」といった為めにお勢に憤られたこともあッたが……しかしお勢も日を経(ふ)るままに草臥(くたび)れたか、余りじゃらくらもしなくなって、高笑らいを罷(や)めて静かになッて、この頃では折々物思いをするようには成ッたが、文三に向ッてはともすればぞんざいな言葉遣いをするところを見れば、泣寐入りに寐入ッたのでもない光景(ようす)。
アア偶々(たまたま)咲懸ッた恋の蕾(つぼみ)も、事情というおもわぬ沍(いて)にかじけて、可笑しく葛藤(もつ)れた縁(えにし)の糸のすじりもじった間柄、海へも附かず河へも附かぬ中ぶらりん、月下翁(むすぶのかみ)の悪戯(たわむれ)か、それにしても余程風変りな恋の初峯入り。
文三の某省へ奉職したは昨日(きのう)今日のように思う間に既に二年近くになる。年頃節倹の功が現われてこの頃では些(すこ)しは貯金(たくわえ)も出来た事ゆえ、老※[「者」の「日」に代えて「至」](としよ)ッたお袋に何時までも一人住(ひとりずみ)の不自由をさせて置くも不孝の沙汰(さた)、今年の暮には東京(こっち)へ迎えて一家を成して、そうして……と思う旨(むね)を半分|報知(しら)せてやれば母親は大悦(おおよろこ)び、文三にはお勢という心宛(こころあて)が出来たことは知らぬが仏のような慈悲心から、「早く相応な者を宛(あて)がって初孫(ういまご)の顔を見たいとおもうは親の私としてもこうなれど、其地(そっち)へ往ッて一軒の家を成(なす)ようになれば家の大黒柱とて無くて叶(かな)わぬは妻、到底(どうせ)貰(もら)う事なら親類|某(なにがし)の次女お何(なに)どのは内端(うちば)で温順(おとなし)く器量も十人|并(なみ)で私には至極|機(き)に入ッたが、この娘(こ)を迎えて妻(さい)としては」と写真まで添えての相談に、文三はハット当惑の眉(まゆ)を顰(ひそ)めて、物の序(ついで)に云々(しかじか)と叔母のお政に話せばこれもまた当惑の躰(てい)。初めお勢が退塾して家に帰ッた頃「勇(いさみ)という嗣子(あととり)があッて見ればお勢は到底(どうせ)嫁に遣らなければならぬが、どうだ文三に配偶(めあわ)せては」と孫兵衛に相談をかけられた事も有ッたが、その頃はお政も左様(さよう)さネと生返事、何方(どっち)附かずに綾(あや)なして月日を送る内、お勢の甚(はなは)だ文三に親しむを見てお政も遂(つい)にその気になり、当今では孫兵衛が「ああ仲が好(よい)のは仕合わせなようなものの、両方とも若い者同志だからそうでもない心得違いが有ッてはならぬから、お前が始終|看張(みは)ッていなくッてはなりませぬぜ」といっても、お政は「ナアニ大丈夫ですよ、また些(ちっ)とやそッとの事なら有ッたッて好う御座んさアネ、到底(どうせ)早かれ晩(おそ)かれ一所にしようと思ッてるとこですものヲ」ト、ズット粋(すい)を通し顔でいるところゆえ、今文三の説話(はなし)を听(きい)て当惑をしたもその筈の事で。「お袋の申通り家(うち)を有(も)つようになれば到底(とうてい)妻(さい)を貰わずに置けますまいが、しかし気心も解らぬ者を無暗(むやみ)に貰うのは余りドットしませぬから、この縁談はまず辞(ことわ)ッてやろうかと思います」ト常に異(かわ)ッた文三の決心を聞いてお政は漸(ようや)く眉を開いて切(しき)りに点頭(うなず)き、「そうともネそうともネ、幾程(いくら)母親(おっか)さんの機に入ッたからッて肝腎のお前さんの機に入らなきゃア不熟の基(もと)だ。しかしよくお話しだッた。実はネお前さんのお嫁の事に就(つい)ちゃア些(ち)イと良人(うち)でも考えてる事があるんだから、これから先き母親さんがどんな事を言ッておよこしでも、チョイと私に耳打してから返事を出すようにしておくんなさいヨ。いずれ良人(うち)でお話し申すだろうが、些イと考えてる事があるんだから……それはそうと母親さんの貰いたいとお言いのはどんなお子だか、チョイとその写真をお見せナ」といわれて文三はさもきまりの悪るそうに、「エ写真ですか、写真は……私の所には有りません、先刻(さっき)アノ何が……お勢さんが何です……持ッて往ッておしまいなすった……」
トいう光景(ありさま)で、母親も叔父夫婦の者も宛(あて)とする所は思い思いながら一様に今年の晩(く)れるを待詫(まちわ)びている矢端(やさき)、誰れの望みも彼れの望みも一ツにからげて背負ッて立つ文三が(話を第一回に戻して)今日思懸けなくも……諭旨免職となった。さても星煞(まわりあわせ)というものは是非のないもの、トサ昔気質(むかしかたぎ)の人ならば言うところでも有ろうか。 
 
第四回 言うに言われぬ胸の中(うち) 

 

さてその日も漸(ようや)く暮れるに間もない五時頃に成っても、叔母もお勢も更に帰宅する光景(ようす)も見えず、何時(いつ)まで待っても果てしのない事ゆえ、文三は独り夜食を済まして、二階の縁端(えんさき)に端居(はしい)しながら、身を丁字(ていじ)欄干に寄せかけて暮行く空を眺(なが)めている。この時日は既に万家(ばんか)の棟(むね)に没しても、尚(な)お余残(なごり)の影を留(とど)めて、西の半天を薄紅梅に染(そめ)た。顧みて東方(とうぼう)の半天を眺むれば、淡々(あっさり)とあがった水色、諦視(ながめつめ)たら宵星(よいぼし)の一つ二つは鑿(ほじ)り出せそうな空合(そらあい)。幽(かす)かに聞える伝通院(でんずういん)の暮鐘(ぼしょう)の音(ね)に誘われて、塒(ねぐら)へ急ぐ夕鴉(ゆうがらす)の声が、彼処此処(あちこち)に聞えて喧(やか)ましい。既にして日はパッタリ暮れる、四辺(あたり)はほの暗くなる。仰向(あおむい)て瞻(み)る蒼空(あおぞら)には、余残(なごり)の色も何時しか消え失(う)せて、今は一面の青海原、星さえ所斑(ところまだら)に燦(きらめ)き出(い)でて殆(と)んと交睫(まばたき)をするような真似(まね)をしている。今しがたまで見えた隣家の前栽(せんざい)も、蒼然(そうぜん)たる夜色に偸(ぬす)まれて、そよ吹く小夜嵐(さよあらし)に立樹の所在(ありか)を知るほどの闇(くら)さ。デモ土蔵の白壁はさすがに白(しろい)だけに、見透かせば見透かされる……サッと軒端(のきば)近くに羽音がする、回首(ふりかえ)ッて観る……何も眼(まなこ)に遮(さえぎ)るものとてはなく、唯(ただ)もう薄闇(うすぐら)い而已(のみ)。
心ない身も秋の夕暮には哀(あわれ)を知るが習い、況(ま)して文三は糸目の切れた奴凧(やっこだこ)の身の上、その時々の風次第で落着先(おちつくさき)は籬(まがき)の梅か物干の竿(さお)か、見極めの附かぬところが浮世とは言いながら、父親が没してから全(まる)十年、生死(いきじに)の海のうやつらやの高波に揺られ揺られて辛(かろう)じて泳出(およぎいだ)した官海もやはり波風の静まる間がないことゆえ、どうせ一度は捨小舟(すておぶね)の寄辺ない身に成ろうも知れぬと兼て覚悟をして見ても、其処(そこ)が凡夫(ぼんぶ)のかなしさで、危(あやうき)に慣れて見れば苦にもならず宛(あて)に成らぬ事を宛にして、文三は今歳の暮にはお袋を引取ッて、チト老楽(おいらく)をさせずばなるまい、国へ帰えると言ッてもまさかに素手でも往(い)かれまい、親類の所への土産は何にしよう、「ムキ」にしようか品物にしようかと、胸で弾(はじ)いた算盤(そろばん)の桁(けた)は合いながらも、とかく合いかねるは人の身のつばめ、今まで見ていた廬生(ろせい)の夢も一|炊(すい)の間に覚め果てて「アアまた情ない身の上になッたかナア……」
俄(にわか)にパッと西の方(かた)が明るくなッた。見懸けた夢をそのままに、文三が振返ッて視遣(みや)る向うは隣家の二階、戸を繰り忘れたものか、まだ障子のままで人影が射(さ)している……スルトその人影が見る間にムクムクと膨れ出して、好加減(よいかげん)の怪物となる……パッと消失せてしまッた跡はまた常闇(とこやみ)。文三はホッと吐息を吻(つい)て、顧みて我家(わがいえ)の中庭を瞰下(みお)ろせば、所狭(ところせ)きまで植駢(うえなら)べた艸花(くさばな)立樹(たちき)なぞが、詫(わび)し気に啼(な)く虫の音を包んで、黯黒(くらやみ)の中(うち)からヌッと半身を捉出(ぬきだ)して、硝子張(ガラスばり)の障子を漏れる火影(ほかげ)を受けているところは、家内(やうち)を覘(うかが)う曲者かと怪まれる……ザワザワと庭の樹立(こだち)を揉(も)む夜風の余りに顔を吹かれて、文三は慄然(ぶるぶる)と身震をして起揚(たちあが)り、居間へ這入(はい)ッて手探りで洋燈(ランプ)を点(とぼ)し、立膝(たてひざ)の上に両手を重ねて、何をともなく目守(みつめ)たまま暫(しば)らくは唯|茫然(ぼんやり)……不図手近かに在ッた薬鑵(やかん)の白湯(さゆ)を茶碗(ちゃわん)に汲取(くみと)りて、一息にグッと飲乾し、肘(ひじ)を枕(まくら)に横に倒れて、天井に円く映る洋燈(ランプ)の火燈(ほかげ)を目守めながら、莞爾(にっこ)と片頬(かたほ)に微笑(えみ)を含んだが、開(あい)た口が結ばって前歯が姿を隠すに連れ、何処(いずく)からともなくまた愁(うれい)の色が顔に顕(あら)われて参ッた。
「それはそうとどうしようかしらん、到底言わずには置けん事(こっ)たから、今夜にも帰ッたら、断念(おもいき)ッて言ッてしまおうかしらん。さぞ叔母が厭(いや)な面(かお)をする事(こっ)たろうナア……眼に見えるようだ……しかしそんな事を苦にしていた分には埒(らち)が明かない、何にもこれが金銭を借りようというではなし、毫(すこ)しも耻(はず)かしい事はない、チョッ今夜言ッてしまおう……だが……お勢がいては言い難(にく)いナ。若しヒョット彼(あれ)の前で厭味なんぞを言われちゃア困る。これは何んでも居ない時を見て言う事(こっ)た。いない……時を……見……何故(なぜ)、何故言難い、苟(いやしく)も男児たる者が零落したのを耻ずるとは何んだ、そんな小胆な、糞(くそ)ッ今夜言ッてしまおう。それは勿論(もちろん)彼娘(あれ)だッて口へ出してこそ言わないが何んでも来年の春を楽しみにしているらしいから、今|唐突(だしぬけ)に免職になッたと聞いたら定めて落胆するだろう。しかし落胆したからと言ッて心変りをするようなそんな浮薄な婦人(おんな)じゃアなし、かつ通常の婦女子と違ッて教育も有ることだから、大丈夫そんな気遣いはない。それは決(け)してないが、叔母だて……ハテナ叔母だて。叔母はああいう人だから、我(おれ)が免職になッたと聞たら急にお勢をくれるのが厭になッて、無理に彼娘(あれ)を他(た)へかたづけまいとも言われない。そうなったからと言ッて此方(こっち)は何も確(かた)い約束がして有るんでないから、否(いや)そうは成りませんとも言われない……嗚呼(ああ)つまらんつまらん、幾程(いくら)おもい直してもつまらん。全躰(ぜんたい)何故|我(おれ)を免職にしたんだろう、解らんナ、自惚(うぬぼれ)じゃアないが我(おれ)だッて何も役に立たないという方でもなし、また残された者だッて何も別段役に立つという方でもなし、して見ればやっぱり課長におべッからなかったからそれで免職にされたのかな……実に課長は失敬な奴だ、課長も課長だが残された奴等もまた卑屈極まる。僅(わず)かの月給の為めに腰を折ッて、奴隷(どれい)同様な真似をするなんぞッて実に卑屈極まる……しかし……待(まて)よ……しかし今まで免官に成ッて程なく復職した者がないでも無いから、ヒョッとして明日(あした)にも召喚状が……イヤ……来ない、召喚状なんぞが来て耐(たま)るものか、よし来たからと言ッて今度(こんだ)は此方(こっち)から辞してしまう、誰が何と言おうト関(かま)わない、断然辞してしまう。しかしそれも短気かナ、やっぱり召喚状が来たら復職するかナ……馬鹿|奴(め)、それだから我(おれ)は馬鹿だ、そんな架空な事を宛にして心配するとは何んだ馬鹿奴。それよりかまず差当りエート何んだッけ……そうそう免職の事を叔母に咄(はな)して……さぞ厭な顔をするこッたろうナ……しかし咄さずにも置かれないから思切ッて今夜にも叔母に咄して……ダガお勢のいる前では……チョッいる前でも関(かま)わん、叔母に咄して……ダガ若し彼娘(あれ)のいる前で口汚たなくでも言われたら……チョッ関わん、お勢に咄して、イヤ……お勢じゃない叔母に咄して……さぞ……厭な顔……厭な顔を咄して……口……口汚なく咄(はな)……して……アア頭が乱れた……」
ト、ブルブルと頭(かしら)を左右へ打振る。
轟然(ごうぜん)と駆て来た車の音が、家の前でパッタリ止まる。ガラガラと格子戸(こうしど)が開(あ)く、ガヤガヤと人声がする。ソリャコソと文三が、まず起直ッて突胸(とむね)をついた。両手を杖(つえ)に起(たた)んとしてはまた坐り、坐らんとしてはまた起(た)つ。腰の蝶番(ちょうつがい)は満足でも、胸の蝶番が「言ッてしまおうか」「言難いナ」と離れ離れに成ッているから、急には起揚(たちあが)られぬ……俄に蹶然(むっく)と起揚ッて梯子段(はしごだん)の下口(おりぐち)まで参ッたが、不図立止まり、些(すこ)し躊躇(ためら)ッていて、「チョッ言ッてしまおう」と独言(ひとりごと)を言いながら、急足(あしばや)に二階を降りて奥坐舗(おくざしき)へ立入る。
奥坐舗の長手の火鉢(ひばち)の傍(かたわら)に年配四十|恰好(がっこう)の年増(としま)、些し痩肉(やせぎす)で色が浅黒いが、小股(こまた)の切上(きりあが)ッた、垢抜(あかぬ)けのした、何処ともでんぼう肌(はだ)の、萎(すが)れてもまだ見所のある花。櫛巻(くしま)きとかいうものに髪を取上げて、小弁慶(こべんけい)の糸織の袷衣(あわせ)と養老の浴衣(ゆかた)とを重ねた奴を素肌に着て、黒繻子(くろじゅす)と八段(はったん)の腹合わせの帯をヒッカケに結び、微酔機嫌(ほろえいきげん)の啣楊枝(くわえようじ)でいびつに坐ッていたのはお政で。文三の挨拶(あいさつ)するを見て、
「ハイ只今(ただいま)、大層遅かッたろうネ」
「全体|今日(こんち)は何方(どちら)へ」
「今日はネ、須賀町(すがちょう)から三筋町(みすじまち)へ廻わろうと思ッて家(うち)を出たんだアネ。そうするとネ、須賀町へ往ッたらツイ近所に、あれはエート芸人……なんとか言ッたッけ、芸人……」
「親睦(しんぼく)会」
「それそれその親睦会が有るから一所に往こうッてネお浜さんが勧めきるんサ。私は新富座(しんとみざ)か二丁目ならともかくも、そんな珍木会(ちんぼくかい)とか親睦会とかいう者(もん)なんざア七里々(しちりしちり)けぱいだけれども、お勢(せ)……ウーイプー……お勢が往(いき)たいというもんだから仕様事(しようこと)なしのお交際(つきやい)で往(いっ)て見たがネ、思ッたよりはサ。私はまた親睦会というから大方演じゅつ会のような種(たち)のもんかしらとおもったら、なアにやっぱり品(しん)の好い寄席(よせ)だネ。此度(こんだ)文さんも往ッて御覧な、木戸は五十銭だヨ」
「ハアそうですか、それでは孰(いず)れまた」
説話(はなし)が些し断絶(とぎ)れる。文三は肚(はら)の裏(うち)に「おなじ言うのならお勢の居ない時だ、チョッ今言ッてしまおう」ト思い決(さだ)めて今|将(まさ)に口を開かんとする……折しも縁側にパタパタと跫音(あしおと)がして、スラリと背後(うしろ)の障子が開(あ)く、振反(ふりかえ)ッて見れば……お勢で。年は鬼もという十八の娘盛り、瓜実顔(うりざねがお)で富士額、生死(いきしに)を含む眼元の塩にピンとはねた眉(まゆ)で力味(りきみ)を付け、壺々口(つぼつぼぐち)の緊笑(しめわら)いにも愛嬌(あいきょう)をくくんで無暗(むやみ)には滴(こぼ)さぬほどのさび、背(せい)はスラリとして風に揺(ゆら)めく女郎花(おみなえし)の、一時をくねる細腰もしんなりとしてなよやか、慾にはもうすこし生際(はえぎわ)と襟足(えりあし)とを善くして貰(もら)いたいが、何(な)にしても七難を隠くすという雪白の羽二重肌、浅黒い親には似ぬ鬼子(おにっこ)でない天人娘。艶(つや)やかな黒髪を惜気もなくグッと引詰(ひっつ)めての束髪、薔薇(ばら)の花挿頭(はなかんざし)を※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](さ)したばかりで臙脂(べに)も甞(な)めねば鉛華(おしろい)も施(つ)けず、衣服(みなり)とても糸織の袷衣(あわせ)に友禅と紫繻子の腹合せの帯か何かでさして取繕いもせぬが、故意(わざ)とならぬ眺(ながめ)はまた格別なもので、火をくれて枝を撓(た)わめた作花(つくりばな)の厭味(いやみ)のある色の及ぶところでない。衣透姫(そとおりひめ)に小町の衣(ころも)を懸けたという文三の品題(みたて)は、それは惚(ほ)れた慾眼の贔負沙汰(ひいきざた)かも知れないが、とにもかくにも十人並優れて美くしい。坐舗へ這入りざまに文三と顔を見合わして莞然(にっこり)、チョイと会釈をして摺足(すりあし)でズーと火鉢の側(そば)まで参り、温藉(しとやか)に坐に着く。
お勢と顔を見合わせると文三は不思議にもガラリ気が変ッて、咽元(のどもと)まで込み上げた免職の二字を鵜呑(うの)みにして何|喰(く)わぬ顔色(がんしょく)、肚の裏(うち)で「もうすこし経(た)ッてから」
「母親(おっか)さん、咽が涸(かわ)いていけないから、お茶を一杯入れて下さいナ」
「アイヨ」
トいってお政は茶箪笥(ちゃだんす)を覗(のぞ)き、
「オヤオヤ茶碗が皆(みんな)汚れてる……鍋」
ト呼ばれて出て来た者を見れば例の日の丸の紋を染抜いた首の持主で、空嘯(そらうそぶ)いた鼻の端(さき)へ突出された汚穢物(よごれもの)を受取り、振栄(ふりばえ)のあるお尻(いど)を振立てて却退(ひきさが)る。やがて洗ッて持ッて来る、茶を入れる、サアそれからが今日聞いて来た歌曲の噂(うわさ)で、母子(おやこ)二(ふたつ)の口が結ばる暇なし。免職の事を吹聴(ふいちょう)したくも言出す潮(しお)がないので、文三は余儀なく聴きたくもない咄(はなし)を聞て空(むな)しく時刻を移す内、説話(はなし)は漸くに清元(きよもと)長唄(ながうた)の優劣論に移る。
「母親さんは自分が清元が出来るもんだからそんな事をお言いだけれども、長唄の方が好(いい)サ」
「長唄も岡安(おかやす)ならまんざらでもないけれども、松永は唯つッこむばかりで面白くもなんとも有りゃアしない。それよりか清元の事サ、どうも意気でいいワ。『四谷(よつや)で始めて逢(お)うた時、すいたらしいと思うたが、因果な縁の糸車』」
ト中音で口癖の清元を唄(うた)ッてケロリとして
「いいワ」
「その通り品格がないから嫌(きら)い」
「また始まッた、ヘン跳馬(じゃじゃうま)じゃアあるまいし、万古に品々(しんしん)も五月蠅(うるさ)い」
「だッて人間は品格が第一ですワ」
「ヘンそんなにお人柄(しとがら)なら、煮込(にこ)みのおでんなんぞを喰(たべ)たいといわないがいい」
「オヤ何時私がそんな事を言ました」
「ハイ一昨日(おとつい)の晩いいました」
「嘘(うそ)ばっかし」
トハ言ッたが大(おおき)にへこんだので大笑いとなる。不図お政は文三の方を振向いて
「アノ今日出懸けに母親さんの所(とこ)から郵便が着たッけが、お落掌(うけとり)か」
「ア真(ほん)にそうでしたッけ、さっぱり忘却(わすれ)ていました……エー母からもこの度は別段に手紙を差上げませんが宜(よろ)しく申上げろと申ことで」
「ハアそうですか、それは。それでも母親さんは何時(いつ)もお異(かわん)なすったことも無くッて」
「ハイ、お蔭(かげ)さまと丈夫だそうで」
「それはマア何よりの事(こっ)た。さぞ今年の暮を楽しみにしておよこしなすったろうネ」
「ハイ、指ばかり屈(おっ)ていると申てよこしましたが……」
「そうだろうてネ、可愛(かわい)い息子さんの側へ来るんだものヲ。それをネー何処(どこ)かの人(しと)みたように親を馬鹿にしてサ、一口(しとくち)いう二口目には直(じき)に揚足を取るようだと義理にも可愛いと言われないけれど、文さんは親思いだから母親さんの恋しいのもまた一倍サ」
トお勢を尻目(しりめ)にかけてからみ文句で宛(あて)る。お勢はまた始まッたという顔色(かおつき)をして彼方(あちら)を向てしまう、文三は余儀なさそうにエヘヘ笑いをする。
「それからアノー例の事ネ、あの事をまた何とか言ッてお遣(よこ)しなすッたかい」
「ハイ、また言ッてよこしました」
「なんッてネ」
「ソノー気心が解らんから厭だというなら、エー今年の暮帰省した時に、逢ッてよく気心を洞察(みぬい)た上で極めたら好かろうといって遣しましたが、しかし……」
「なに、母親さん」
「エ、ナニサ、アノ、ソラお前にもこの間話したアネ、文さんの……」
お勢は独り切(しき)りに点頭(うなず)く。
「ヘーそんな事を言ッておよこしなすッたかい、ヘーそうかい……それに附けても早く内で帰ッて来れば好(いい)が……イエネ此間(こないだ)もお咄し申た通りお前さんのお嫁の事に付ちゃア内でも些(ちい)と考えてる事も有るんだから……尤(もっと)も私も聞て知てる事(こっ)たから今咄してしまってもいいけれども……」
ト些し考えて
「何時返事をお出しだ」
「返事はもう出しました」
「エ、モー出したの、今日」
「ハイ」
「オヤマア文さんでもない、私になんとか一言(しとこと)咄してからお出しならいいのに」
「デスガ……」
「それはマアともかくも、何と言ッてお上げだ」
「エー今は仲々婚姻どころじゃアないから……」
「アラそんな事を言ッてお上げじゃア母親さんが尚(な)お心配なさらアネ。それよりか……」
「イエまだお咄し申さぬから何ですが……」
「マアサ私の言事(いうこと)をお聞きヨ。それよりかアノ叔父も何だか考えがあるというからいずれ篤(とっく)りと相談した上でとか、さもなきゃア此地(こっち)に心当りがあるから……」
「母親(おっかア)さん、そんな事を仰(おっ)しゃるけれど、文さんは此地(こっち)に何(なん)か心当りがお有(あん)なさるの」
「マアサ有ッても無くッても、そう言ッてお上げだと母親さんが安心なさらアネ……イエネ、親の身に成ッて見なくッちゃア解らぬ事(こっ)たけれども、子供一人身を固めさせようというのはどんなに苦労なもんだろう。だからお勢みたようなこんな親不孝な者(もん)でもそう何時までもお懐中(ぽっぽ)で遊(あす)ばせても置(おけ)ないと思うと私は苦労で苦労でならないから、此間(こないだ)も私(あたし)がネ、『お前ももう押付(おっつけ)お嫁に往かなくッちゃアならないんだから、ソノーなんだとネー、何時までもそんなに小供の様な心持でいちゃアなりませんと、それも母親さんのようにこんな気楽な家へお嫁に往かれりゃアともかくもネー、若(も)しヒョッと先に姑(しゅうとめ)でもある所(とこ)へ往(いく)んで御覧、なかなかこんなに我儘(わがまま)気儘をしちゃアいられないから、今の内に些(ちっ)と覚悟をして置かなくッちゃアなりませんヨ』と私が先へ寄ッて苦労させるのが可憐(かわい)そうだから為をおもって言ッて遣りゃアネ文さん、マア聞ておくれ、こうだ。『ハイ私(わたくし)にゃア私の了簡が有ります、ハイ、お嫁に往こうと往くまいと私の勝手で御座います』というんだヨ、それからネ私が『オヤそれじゃアお前はお嫁に往かない気かエ』と聞たらネ、『ハイ私は生一本(きいっぽん)で通します』ッて……マア呆(あき)れかえるじゃアないかネー文さん、何処の国にお前、尼じゃアあるまいし、亭主(ていし)持たずに一生暮すもんが有る者(もん)かネ」
これは万更(まんざら)形のないお噺(はなし)でもない。四五日|前(ぜん)何かの小言序(こごとついで)にお政が尖(とが)り声で「ほんとにサ戯談(じょうだん)じゃアない、何歳(いくつ)になるとお思いだ、十八じゃアないか。十八にも成ッてサ、好頃(いいころ)嫁にでも往こうという身でいながら、なんぼなんだッて余(あんま)り勘弁がなさすぎらア。アアアア早く嫁にでも遣りたい、嫁に往ッて小喧(こやかま)しい姑でも持ッたら、些たア親の難有味(ありがたみ)が解るだろう」
ト言ッたのが原因(もと)で些(ちと)ばかりいじり合をした事が有ッたが、お政の言ッたのは全くその作替(つくりかえ)で、
「トいうが畢竟(つま)るとこ、これが奥だからの事(こつ)サ。私共がこの位の時分にゃア、チョイとお洒落(しゃらく)をしてサ、小色(こいろ)の一ツも※[てへん+爭]了(かせい)だもんだけれども……」
「また猥褻(わいせつ)」
トお勢は顔を皺(しか)める。
「オホオホオホほんとにサ、仲々|小悪戯(こいたずら)をしたもんだけれども、この娘(こ)はズー体(たい)ばかり大くッても一向しきなお懐(ぽっぽ)だもんだから、それで何時まで経ッても世話ばッかり焼けてなりゃアしないんだヨ」
「だから母親さんは厭ヨ、些(ちい)とばかりお酒に酔うと直(じき)に親子の差合いもなくそんな事をお言いだものヲ」
「ヘーヘー恐れ煎豆(いりまめ)はじけ豆ッ、あべこべに御意見か。ヘン、親の謗(そしり)はしりよりか些と自分の頭の蠅(はえ)でも逐(お)うがいいや、面白くもない」
「エヘヘヘヘ」
「イエネこの通り親を馬鹿にしていて、何を言ッてもとても私共の言事(いうこと)を用いるようなそんな素直なお嬢さまじゃアないんだから、此度(こんだ)文さんヨーク腹に落ちるように言ッて聞かせておくんなさい、これでもお前さんの言事なら、些(ちっ)たア聞くかも知れないから」
トお政は又もお勢を尻目に懸ける。折しも紙襖(ふすま)一ツ隔ててお鍋の声として、
「あんな帯留め……どめ……を……」
此方(こなた)の三人は吃驚(びっくり)して顔を見合わせ「オヤ鍋の寐言(ねごと)だヨ」と果ては大笑いになる。お政は仰向いて柱時計を眺(なが)め、
「オヤもう十一時になるヨ、鍋の寐言を言うのも無理はない、サアサア寝ましょう寝ましょう、あんまり夜深しをするとまた翌日(あした)の朝がつらい。それじゃア文さん、先刻(さっき)の事はいずれまた翌日(あした)にも緩(ゆっく)りお咄しましょう」
「ハイ私も……私も是非お咄し申さなければならん事が有りますが、いずれまた明日(みょうにち)……それではお休み」
ト挨拶(あいさつ)をして文三は座舗(ざしき)を立出(たちい)で梯子段(はしごだん)の下(もと)まで来ると、後(うしろ)より、
「文さん、貴君(あなた)の所(とこ)に今日の新聞が有りますか」
「ハイ有ります」
「もうお読みなすッたの」
「読みました」
「それじゃア拝借」
トお勢は文三の跡に従(つ)いて二階へ上る。文三が机上に載せた新聞を取ッてお勢に渡すと、
「文さん」
「エ」
返答はせずしてお勢は唯(ただ)笑ッている。
「何です」
「何時(いつう)か頂戴(ちょうだい)した写真を今夜だけお返し申ましょうか」
「何故(なぜ)」
「それでもお淋(さみ)しかろうとおもって、オホオホ」
ト笑いながら逃ぐるが如く二階を駆下りる。そのお勢の後姿を見送ッて文三は吻(ほっ)と溜息(ためいき)を吐(つ)いて、
「ますます言難(いいにく)い」
一時間程を経て文三は漸(ようや)く寐支度をして褥(とこ)へは這入(はい)ッたが、さて眠られぬ。眠られぬままに過去(こしかた)将来(ゆくすえ)を思い回(めぐ)らせば回らすほど、尚お気が冴(さえ)て眼も合わず、これではならぬと気を取直し緊(きび)しく両眼を閉じて眠入(ねい)ッた風(ふり)をして見ても自ら欺(あざむ)くことも出来ず、余儀なく寐返りを打ち溜息を吻(つ)きながら眠らずして夢を見ている内に、一番|鶏(どり)が唱(うた)い二番鶏が唱い、漸く暁(あけがた)近くなる。
「寧(いっ)そ今夜(こよい)はこのままで」トおもう頃に漸く眼がしょぼついて来て額(あたま)が乱れだして、今まで眼前に隠見(ちらつい)ていた母親の白髪首(しらがくび)に斑(まばら)な黒髯(くろひげ)が生えて……課長の首になる、そのまた恐(こわ)らしい髯首が暫(しば)らくの間眼まぐろしく水車(みずぐるま)の如くに廻転(まわっ)ている内に次第々々に小いさく成ッて……やがて相恰(そうごう)が変ッて……何時の間にか薔薇(ばら)の花掻頭(はなかんざし)を挿(さ)して……お勢の……首……に……な…… 
 
第五回 胸算(むなさん)違いから見一無法(けんいちむほう)は難題 

 

枕頭(まくらもと)で喚覚(よびさ)ます下女の声に見果てぬ夢を驚かされて、文三が狼狽(うろたえ)た顔を振揚げて向うを見れば、はや障子には朝日影が斜めに射(さ)している。「ヤレ寐過(ねすご)したか……」と思う間もなく引続いてムクムクと浮み上ッた「免職」の二字で狭い胸がまず塞(ふさ)がる……※[くさかんむり/不]苢(おんばこ)を振掛けられた死蟇(しにがいる)の身で、躍上(おどりあが)り、衣服を更(あらた)めて、夜の物を揚げあえず楊枝(ようじ)を口へ頬張(ほおば)り故手拭(ふるてぬぐい)を前帯に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](はさ)んで、周章(あわて)て二階を降りる。その足音を聞きつけてか、奥の間で「文さん疾(はや)く為(し)ないと遅くなるヨ」トいうお政の声に圭角(かど)はないが、文三の胸にはぎっくり応(こた)えて返答にも迷惑(まごつ)く。そこで頬張ッていた楊枝をこれ幸いと、我にも解らぬ出鱈目(でたらめ)を句籠勝(くごもりがち)に言ッてまず一寸遁(いっすんのが)れ、匆々(そこそこ)に顔を洗ッて朝飯(あさはん)の膳(ぜん)に向ッたが、胸のみ塞がッて箸(はし)の歩みも止まりがち、三膳の飯を二膳で済まして、何時(いつ)もならグッと突出す膳もソッと片寄せるほどの心遣い、身体(からだ)まで俄(にわか)に小いさくなったように思われる。
文三が食事を済まして縁側を廻わり窃(ひそ)かに奥の間を覗(のぞ)いて見れば、お政ばかりでお勢の姿は見えぬ。お勢は近属(ちかごろ)早朝より駿河台辺(するがだいへん)へ英語の稽古(けいこ)に参るようになッたことゆえ、さては今日ももう出かけたのかと恐々(おそるおそる)座舗(ざしき)へ這入(はい)ッて来る。その文三の顔を見て今まで火鉢(ひばち)の琢磨(すりみがき)をしていたお政が、俄かに光沢布巾(つやぶきん)の手を止(とど)めて不思議そうな顔をしたもその筈(はず)、この時の文三の顔色(がんしょく)がツイ一通りの顔色でない。蒼(あお)ざめていて力なさそうで、悲しそうで恨めしそうで耻(はず)かしそうで、イヤハヤ何とも言様がない。
「文さんどうかお為(し)か、大変顔色がわりいヨ」
「イエどうも為ませぬが……」
「それじゃア疾(はや)くお為ヨ。ソレ御覧な、モウ八時にならアネ」
「エーまだお話し……申しませんでしたが……実は、ス、さくじつ……め……め……」
息気(いき)はつまる、冷汗は流れる、顔は※[赤+報のつくり](あか)くなる、如何(いか)にしても言切れぬ。暫(しば)らく無言でいて、更らに出直おして、
「ム、めん職になりました」
ト一思いに言放ッて、ハッと差俯向(さしうつむ)いてしまう。聞くと等しくお政は手に持ッていた光沢布巾(つやぶきん)を宙に釣(つ)るして、「オヤ」と一|声(せい)叫んで身を反らしたまま一句も出(い)でばこそ、暫らくは唯(ただ)茫然(ぼうぜん)として文三の貌(かお)を目守(みつ)めていたが、稍(やや)あッて忙(いそが)わしく布巾を擲却(ほう)り出して小膝(こひざ)を進ませ、
「エ御免にお成りだとエ……オヤマどうしてマア」
「ど、ど、どうしてだか……私(わたくし)にも解りませんが……大方……ひ、人減(ひとべ)らしで……」
「オーヤオーヤ仕様がないネー、マア御免になってサ。ほんとに仕様がないネー」
ト落胆した容子(ようす)。須臾(しばらく)あッて、
「マアそれはそうと、これからはどうして往(い)く積(つもり)だエ」
「どうも仕様が有りませんから、母親(おふくろ)にはもう些(すこ)し国に居て貰(もら)ッて、私はまた官員の口でも探そうかと思います」
「官員の口てッたッてチョックラチョイと有りゃアよし、無かろうもんならまた何時(いつう)かのような憂(つら)い思いをしなくッちゃアならないやアネ……だから私(あたし)が言わない事(こっ)ちゃアないんだ、些(ち)イと課長さんの所(とこ)へも御機嫌(ごきげん)伺いにお出でお出でと口の酸ぱくなるほど言ッても強情張ッてお出ででなかッたもんだから、それでこんな事になったんだヨ」
「まさかそういう訳でもありますまいが……」
「イイエ必(きっ)とそうに違いないヨ。デなくッて成程(なんぼ)人減(しとへ)らしだッて罪も咎(とが)もない者をそう無暗(むやみ)に御免になさる筈がないやアネ……それとも何か御免になっても仕様がないようなわりい事をした覚えがお有りか」
「イエ何にも悪い事をした覚えは有りませんが……」
「ソレ御覧なネ」
両人とも暫らく無言。
「アノ本田さんは(この男の事は第六回にくわしく)どうだッたエ」
「かの男はよう御座んした」
「オヤ善かッたかい、そうかい、運の善方(いいかた)は何方(どっち)へ廻ッても善(いい)んだネー。それというが全躰(ぜんたい)あの方は如才がなくッて発明で、ハキハキしてお出でなさるからだヨ。それに聞けば課長さんの所(とこ)へも常不断(じょうふだん)御機嫌伺いにお出でなさるという事(こっ)たから、必(きっ)とそれで此度(こんど)も善かッたのに違いないヨ。だからお前さんも私の言事(いうこと)を聴いて、課長さんに取り入ッて置きゃア今度もやっぱり善かッたのかも知れないけれども、人の言事をお聴きでなかッたもんだからそれでこんな事になっちまッたんだ」
「それはそうかも知れませんが、しかし幾程(いくら)免職になるのが恐(こわ)いと言ッて、私にはそんな鄙劣(ひれつ)な事は……」
「出来ないとお言いのか……フン※[やまいだれ+瞿]我慢(やせがまん)をお言いでない、そんな了簡方だから課長さんにも睨(ねめ)られたんだ。マアヨーク考えて御覧、本田さんのようなあんな方でさえ御免になってはならないと思(おもい)なさるもんだから、手間暇かいで課長さんに取り入ろうとなさるんじゃアないか、ましてお前さんなんざアそう言ッちゃアなんだけれども、本田さんから見りゃア……なんだから、尚更(なおさら)の事だ。それもネー、これがお前さん一人の事なら風見(かざみ)の烏(からす)みたように高くばッかり止まッて、食うや食わずにいようといまいとそりゃアもうどうなりと御勝手次第サ、けれどもお前さんには母親(おっか)さんというものが有るじゃアないかエ」
母親と聞いて文三の萎(しお)れ返るを見て、お政は好い責(せめ)道具を視付(みつ)けたという顔付、長羅宇(ながらう)の烟管(きせる)で席(たたみ)を叩(たた)くをキッカケに、
「イエサ母親さんがお可愛(かわい)そうじゃアないかエ、マア篤(とっく)り胸に手を宛(あ)てて考えて御覧。母親さんだッて父親(おとっ)さんには早くお別れなさるし、今じゃ便りにするなアお前さんばっかりだから、どんなにか心細いか知れない。なにもああしてお国で一人暮しの不自由な思いをしてお出でなさりたくもあるまいけれども、それもこれも皆(みんな)お前さんの立身するばッかりを楽(たのしみ)にして辛抱してお出でなさるんだヨ。そこを些(すこ)しでも汲分(くみわ)けてお出でなら、仮令(たと)えどんな辛いと思う事が有ッても厭(いや)だと思う事があッても我慢をしてサ、石に噛付(かじりつい)ても出世をしなくッちゃアならないと心懸なければならないとこだ。それをお前さんのように、ヤ人の機嫌を取るのは厭だの、ヤそんな鄙劣(しれつ)な事は出来ないのとそんな我儘|気随(きまま)を言ッて母親さんまで路頭に迷わしちゃア、今日(こんにち)冥利(みょうり)がわりいじゃないか。それゃアモウお前さんは自分の勝手で苦労するんだから関(かま)うまいけれども、それじゃア母親さんがお可愛そうじゃアないかい」
ト層(かさ)にかかッて極付(きめつけ)れど、文三は差俯向いたままで返答をしない。
「アアアア母親さんもあんなに今年の暮を楽しみにしてお出でなさるとこだから、今度(こんだ)御免にお成りだとお聞きなすったらさぞマア落胆(がっかり)なさる事だろうが、年を寄(と)ッて御苦労なさるのを見ると真個(ほんと)にお痛(いたわ)しいようだ」
「実に母親(おふくろ)には面目(めんぼく)が御座んせん」
「当然(あたりまえ)サ、二十三にも成ッて母親さん一人さえ楽に養(すご)す事が出来ないんだものヲ。フフン面目が無くッてサ」
ト、ツンと済まして空嘯(そらうそぶ)き、烟草(たばこ)を環(わ)に吹(ふい)ている。そのお政の半面(よこがお)を文三は畏(こわ)らしい顔をして佶(きっ)と睨付(ねめつ)け、何事をか言わんとしたが……気を取直して莞爾(にっこり)微笑した積(つもり)でも顔へ顕(あら)われたところは苦笑い、震声(ふるいごえ)とも附かず笑声(わらいごえ)とも附かぬ声で、
「ヘヘヘヘ面目は御座んせんが、しかし……出……出来た事なら……仕様が有りません」
「何だとエ」
トいいながら徐(しず)かに此方(こなた)を振向いたお政の顔を見れば、何時しか額に芋※[虫+蜀](いもむし)ほどの青筋を張らせ、肝癪(かんしゃく)の眥(まなじり)を釣上げて唇(くちびる)をヒン曲げている。
「イエサ何とお言いだ。出来た事なら仕様が有りませんと……誰れが出来(でか)した事(こっ)たエ、誰れが御免になるように仕向けたんだエ、皆自分の頑固(かたいじ)から起ッた事(こっ)じゃアないか。それも傍(はた)で気を附けぬ事か、さんざッぱら人(しと)に世話を焼かして置て、今更御免になりながら面目ないとも思わないで、出来た事なら仕様が有ませんとは何の事(こっ)たエ。それはお前さんあんまりというもんだ、余(あんま)り人(しと)を踏付けにすると言う者(もん)だ。全躰マア人(しと)を何だと思ッてお出(い)でだ、そりゃアお前さんの事(こっ)たから鬼老婆(おにばばあ)とか糞老婆(くそばばあ)とか言ッて他人にしてお出でかも知れないが、私ア何処(どこ)までも叔母の積だヨ。ナアニこれが他人で見るがいい、お前さんが御免になッたッて成らなくッたッて此方(こっち)にゃア痛くも痒(かい)くも何とも無い事(こっ)たから、何で世話を焼くもんですか。けれども血は繋(つなが)らずとも縁あッて叔母となり甥(おい)となりして見れば、そうしたもんじゃア有りません。ましてお前さんは十四の春ポッと出の山出しの時から、長の年月(としつき)、この私が婦人(おんな)の手一ツで頭から足の爪頭(つまさき)までの事を世話アしたから、私はお前さんを御迷惑かは知らないが血を分けた子息(むすこ)同様に思ッてます。ああやッてお勢や勇という子供が有ッても、些しも陰陽(かげしなた)なくしている事がお前さんにゃア解らないかエ。今までだッてもそうだ、何卒(どうぞ)マア文さんも首尾よく立身して、早く母親(おっか)さんを此地(こっち)へお呼び申すようにして上げたいもんだと思わない事は唯の一日も有ません。そんなに思ッてるとこだものヲ、お前さんが御免にお成りだと聞いちゃア私(あたし)は愉快(いいこころもち)はしないよ、愉快(いいこころもち)はしないからアア困ッた事に成ッたと思ッて、ヤレこれからはどうして往く積だ、ヤレお前さんの身になったらさぞ母親さんに面目があるまいと、人事(しとごと)にしないで歎(なげ)いたり悔(くやん)だりして心配してるとこだから、全躰なら『叔母さんの了簡に就(つ)かなくッて、こう御免になって実(まこと)に面目が有りません』とか何とか詫言(わびこと)の一言でも言う筈のとこだけれど、それも言わないでもよし聞たくもないが、人(しと)の言事を取上げなくッて御免になりながら、糞落着に落着払ッて、出来た事なら仕様が有りませんとは何の事(こっ)たエ。マ何処を押せばそんな音(ね)が出ます……アアアアつまらない心配をした、此方ではどこまでも実の甥と思ッて心を附けたり世話を焼たりして信切を尽していても、先様じゃア屁(へ)とも思召(おぼしめ)さない」
「イヤ決してそう言う訳じゃア有りませんが、御存知の通り口不調法なので、心には存じながらツイ……」
「イイエそんな言訳は聞きません。なんでも私(あたし)を他人にしてお出でに違いない、糞老婆(くそばばあ)と思ッてお出でに違いない……此方はそんな不実な心意気の人(しと)と知らないから、文さんも何時までもああやッて一人(しとり)でもいられまいから、来年母親さんがお出でなすったら篤(とっく)り御相談申して、誰と言ッて宛(あて)もないけれども相応なのが有ッたら一人(しとり)授けたいもんだ、それにしても外人(ほかびと)と違ッて文さんがお嫁をお貰いの事たから黙ッてもいられない、何かしら祝ッて上げなくッちゃアなるまいからッて、この頃じゃア、アノ博多(はかた)の帯をくけ直おさして、コノお召|縮緬(ちりめん)の小袖(こそで)を仕立直おさして、あれをこうしてこれをこうしてと、毎日々々|勘(かんが)えてばッかいたんだ。そうしたら案外で、御免になるもいいけれども、面目ないとも思わないで、出来た事なら仕様が有りませぬと済まアしてお出でなさる……アアアアもういうまいいうまい、幾程(いくら)言ッても他人にしてお出(いで)じゃア無駄(むだ)だ」
ト厭味文句を並べて始終肝癪の思入(おもいいれ)。暫らく有ッて、
「それもそうだが、全躰その位なら昨夕(ゆうべ)の中(うち)に、実はこれこれで御免になりましたと一言(しとこと)位言ッたッてよさそうなもんだ。お話しでないもんだから此方(こっち)はそんな事とは夢にも知らず、お弁当のお菜(かず)も毎日おんなじ物(もん)ばッかりでもお倦(あ)きだろう、アアして勉強してお勤にお出の事たからその位な事は此方で気を附けて上げなくッちゃアならないと思ッて、今日のお弁当のお菜(かず)は玉子焼にして上げようと思ッても鍋には出来ず、余儀所(よんどころ)ないから私が面倒な思いをして拵(こし)らえて附けましたアネ……アアアア偶(たま)に人(しと)が気を利(き)かせればこんな事(こ)ッた……しかし飛んだ余計なお世話でしたヨネー、誰れも頼みもしないのに……鍋」
「ハイ」
「文さんのお弁当は打開(ぶちあ)けておしまい」
お鍋|女郎(じょろう)は襖(ふすま)の彼方(あなた)から横幅(よこはば)の広い顔を差出(さしいだ)して、「ヘー」とモッケな顔付。
「アノネ、内の文さんは昨日(きのう)御免にお成りだッサ」
「ヘーそれは」
「どうしても働のある人(しと)は、フフン違ッたもんだヨ」
ト半(なかば)まで言切らぬ内、文三は血相を変てツと身を起し、ツカツカと座舗(ざしき)を立出でて我|子舎(へや)へ戻り、机の前にブッ座ッて歯を噛切(くいしば)ッての悔涙(くやしなみだ)、ハラハラと膝へ濫(こぼ)した。暫(しば)らく有ッて文三は、はふり落ちる涙の雨をハンカチーフで拭止(ぬぐいと)めた……がさて拭ッても取れないのは沸返える胸のムシャクシャ、熟々(つらつら)と思廻(おもいめぐ)らせば廻らすほど、悔しくも又|口惜(くちお)しくなる。免職と聞くより早くガラリと変る人の心のさもしさは、道理(もっとも)らしい愚痴の蓋(ふた)で隠蔽(かく)そうとしても看透(みす)かされる。とはいえそれは忍ぼうと思えば忍びもなろうが、面(まの)あたりに意久地なしと言わぬばかりのからみ文句、人を見括(みくび)ッた一言(いちごん)ばかりは、如何(いか)にしても腹に据(す)えかねる。何故(なぜ)意久地がないとて叔母がああ嘲(あざけ)り辱(はずかし)めたか、其処(そこ)まで思い廻らす暇がない、唯もう腸(はらわた)が断(ちぎ)れるばかりに悔しく口惜しく、恨めしく腹立たしい。文三は憤然として「ヨシ先がその気なら此方(こっち)もその気だ、畢竟(ひっきょう)姨(おば)と思えばこそ甥と思えばこそ、言たい放題をも言わして置くのだ。ナニ縁を断(き)ッてしまえば赤の他人、他人に遠慮も糸瓜(へちま)もいらぬ事だ……糞ッ、面宛(つらあて)半分に下宿をしてくれよう……」ト肚(はら)の裏(うち)で独言(ひとりごと)をいうと、不思議やお勢の姿が目前にちらつく。「ハテそうしては彼娘(あれ)が……」ト文三は少しく萎(しお)れたが……不図又叔母の悪々(にくにく)しい者面(しゃっつら)を憶出(おもいいだ)して、又|憤然(やっき)となり、「糞ッ止めても止まらぬぞ」ト何時(いつ)にない断念(おもいきり)のよさ。こう腹を定(き)めて見ると、サアモウ一刻も居るのが厭になる、借住居かとおもえば子舎(へや)が気に喰わなくなる、我物でないかと思えば縁(ふち)の欠けた火入まで気色(きしょく)に障わる。時計を見れば早十一時、今から荷物を取旁付(とりかたづ)けて是非とも今日中には下宿を為よう、と思えば心までいそがれ、「糞ッ止めても止まらぬぞ」ト口癖のように言いながら、熱気(やっき)となって其処らを取旁付けにかかり、何か探そうとして机の抽斗(ひきだし)を開け、中(うち)に納(い)れてあッた年頃五十の上をゆく白髪たる老婦の写真にフト眼を注(と)めて、我にもなく熟々(つらつら)と眺(なが)め入ッた。これは老母の写真で。御存知の通り文三は生得(しょうとく)の親おもい、母親の写真を視て、我が辛苦を甞(な)め艱難(かんなん)を忍びながら定めない浮世に存生(なが)らえていたる、自分|一個(ひとり)の為(ため)而已(のみ)でない事を想出(おもいいだ)し、我と我を叱(しか)りもし又励しもする事何時も何時も。今も今母親の写真を見て文三は日頃|喰付(たべつ)けの感情をおこし覚えずも悄然(しょうぜん)と萎れ返ッたが、又|悪々(にくにく)しい叔母の者面(しゃっつら)を憶出して又|熱気(やっき)となり、拳(こぶし)を握り歯を喰切(くいしば)り、「糞ッ止めて止まらぬぞ」ト独言(ひとりごと)を言いながら再び将(まさ)に取旁付(とりかたづけ)に懸らんとすると、二階の上り口で「お飯(まんま)で御座いますヨ」ト下女の呼ぶ声がする。故(ことさ)らに二三度呼ばして返事にも勿躰(もったい)をつけ、しぶしぶ二階を降りて、気むずかしい苦り切ッた怖(おそ)ろしい顔色をして奥坐舗(おくざしき)の障子を開けると……お勢がいるお勢が……今まで残念口惜しいと而已(のみ)一途に思詰めていた事ゆえ、お勢の事は思出したばかりで心にも止めず忘れるともなく忘れていたが、今突然可愛らしい眼と眼を看合わせ、しおらしい口元で嫣然(にっこり)笑われて見ると……淡雪(あわゆき)の日の眼に逢(あ)ッて解けるが如く、胸の鬱結(むすぼれ)も解けてムシャクシャも消え消えになり、今までの我を怪しむばかり、心の変動、心底(むなそこ)に沈んでいた嬉(うれ)しみ有難みが思い懸けなくもニッコリ顔へ浮み出し懸ッた……が、グッと飲込んでしまい、心では笑いながら顔ではフテテ膳に向ッた。さて食事も済む。二階へ立戻ッて文三が再び取旁付に懸ろうとして見たが、何となく拍子抜(ひょうしぬ)けがして以前のような気力が出ない。ソッと小声で「大丈夫」と言ッて見たがどうも気が引立(ひった)たぬ。依(よっ)て更に出直して「大丈夫」ト熱気(やっき)とした風(ふり)をして見て、歯を喰切(くいしば)ッて見て、「一旦思い定めた事を変(へん)がえるという事が有るものか……しらん、止めても止まらんぞ」
と言ッて出て往(ゆ)けば、彼娘(あれ)を捨てなければならぬかと落胆したおもむき。今更未練が出てお勢を捨るなどという事は勿躰(もったい)なくて出来ず、と言ッて叔母に詫言(わびごと)を言うも無念、あれも厭(いや)なりこれも厭なりで思案の糸筋が乱(もつ)れ出し、肚の裏(うち)では上を下へとゴッタ返えすが、この時より既にどうやら人が止めずとも遂(つい)には我から止まりそうな心地がせられた。「マアともかくも」ト取旁付に懸りは懸ッたが、考えながらするので思の外暇取り、二時頃までかかって漸(ようや)く旁付終りホッと一息吐いていると、ミシリミシリと梯子段(はしごだん)を登る人の跫音(あしおと)がする。跫音を聞たばかりで姿を見ずとも文三にはそれと解ッた者か、先刻飲込んだニッコリを改めて顔へ現わして其方(そなた)を振向く。上ッて来た者はお勢で、文三の顔を見てこれもまたニッコリして、さて坐舗を見廻わし、
「オヤ大変片付たこと」
「余りヒッ散らかっていたから」
ト我知らず言ッて文三は我を怪んだ。何故|虚言(そらごと)を言ッたか自分にも解りかねる。お勢は座に着きながら、さして吃驚(びっくり)した様子もなく、
「アノ今母親さんがお噺(はな)しだッたが、文さん免職におなりなすったとネ」
「昨日(きのう)免職になりました」
ト文三も今朝とはうって反(かわ)ッて、今は其処どころで無いと言ッたような顔付。
「実に面目は有りませんが、しかし幾程(いくら)悔んでも出来た事は仕様が無いと思ッて今朝母親さんに御風聴(ごふいちょう)申したが……叱られました」
トいって歯を囓切(くいしば)ッて差俯向(さしうつむ)く。
「そうでしたとネー、だけれども……」
「二十三にも成ッて親一人楽に過す事の出来ない意久地なし、と言わないばかりに仰(おっ)しゃッた」
「そうでしたとネー、だけれども……」
「成程私は意久地なしだ、意久地なしに違いないが、しかしなんぼ叔母甥の間柄(あいだがら)だと言ッて面と向ッて意久地なしだと言われては、腹も立たないが余(あんま)り……」
「だけれどもあれは母親さんの方が不条理ですワ。今もネ母親さんが得意になってお話しだったから、私が議論したのですよ。議論したけれども母親さんには私の言事(いうこと)が解らないと見えてネ、唯(ただ)腹ばッかり立てているのだから、教育の無い者は仕様がないのネー」
ト極り文句。文三は垂れていた頭(こうべ)をフッと振挙げて、
「エ、母親さんと議論を成(な)すった」
「ハア」
「僕の為めに」
「ハア、君の為めに弁護したの」
「アア」
ト言ッて文三は差俯向いてしまう。何(なん)だか膝(ひざ)の上へボッタリ落ちた物が有る。
「どうかしたの、文さん」
トいわれて文三は漸く頭(こうべ)を擡(もた)げ、莞爾(にっこり)笑い、その癖|※[目+匡](まぶち)を湿(うる)ませながら、
「どうもしないが……実に……実に嬉れしい……母親さんの仰しゃる通り、二十三にも成ッてお袋一人さえ過しかねるそんな不甲斐(ふがい)ない私をかばって母親さんと議論をなすったと、実に……」
「条理を説ても解らない癖に腹ばかり立てているから仕様がないの」
ト少し得意の躰(てい)。
「アアそれ程までに私(わたくし)を……思ッて下さるとは知らずして、貴嬢(あなた)に向ッて匿立(かくしだ)てをしたのが今更|耻(はず)かしい、アア耻かしい。モウこうなれば打散(ぶちま)けてお話してしまおう、実はこれから下宿をしようかと思ッていました」
「下宿を」
「サ為(し)ようかと思ッていたんだが、しかしもう出来ない。他人同様の私をかばって実の母親さんと議論をなすった、その貴嬢の御信切を聞ちゃ、しろと仰しゃッてももう出来ない……がそうすると、母親さんにお詫(わび)を申さなければならないが……」
「打遣(うっちゃ)ッてお置きなさいヨ。あんな教育の無い者が何と言ッたッて好う御座んさアネ」
「イヤそうでない、それでは済まない、是非お詫を申そう。がしかしお勢さん、お志は嬉しいが、もう母親さんと議論をすることは罷(や)めて下さい、私の為めに貴嬢を不孝の子にしては済まないから」
「お勢」
ト下坐舗の方でお政の呼ぶ声がする。
「アラ母親さんが呼んでお出でなさる」
「ナアニ用も何にも有るんじゃアないの」
「お勢」
「マア返事を為(な)さいヨ」
「お勢お勢」
「ハアイ……チョッ五月蠅(うるさい)こと」
ト起揚(たちあが)る。
「今話した事は皆(みんな)母親さんにはコレですよ」
ト文三が手頭(てくび)を振ッて見せる。お勢は唯|点頭(うなずい)た而已(のみ)で言葉はなく、二階を降りて奥坐舗へ参ッた。
先程より疳癪(かんしゃく)の眥(まなじり)を釣(つ)り上げて手ぐすね引て待ッていた母親のお政は、お勢の顔を見るより早く、込み上げて来る小言を一時にさらけ出しての大怒鳴(おおがなり)。
「お……お……お勢、あれ程呼ぶのがお前には聞えなかッたかエ、聾者(つんぼ)じゃアあるまいし、人(しと)が呼んだら好加減に返事をするがいい……全躰マア何の用が有ッて二階へお出でだ、エ、何の用が有ッてだエ」
ト逆上(のぼせ)あがッて極(き)め付けても、此方(こなた)は一向平気なもので、
「何(な)にも用は有りゃアしないけれども……」
「用がないのに何故お出でだ。先刻(さっき)あれほど、もうこれからは今までのようにヘタクタ二階へ往ッてはならないと言ッたのがお前にはまだ解らないかエ。さかりの附た犬じゃアあるまいし、間(ま)がな透(すき)がな文三の傍(そば)へばッかし往きたがるよ」
「今までは二階へ往ッても善くッてこれからは悪いなんぞッて、そんな不条理な」
「チョッ解らないネー、今までの文三と文三が違います。お前にゃア免職になった事が解らないかエ」
「オヤ免職に成ッてどうしたの、文さんが人を見ると咬付(かみつ)きでもする様になったの、ヘーそう」
「な、な、な、なんだと、何とお言いだ……コレお勢、それはお前あんまりと言うもんだ、余(あんま)り親をば、ば、ば、馬鹿にすると言うもんだ」
「ば、ば、ば、馬鹿にはしません。ヘー私は条理のある所を主張するので御座います」
ト唇を反らしていうを聞くや否(いな)や、お政は忽(たちま)ち顔色を変えて手に持ッていた長羅宇(ながらう)の烟管(きせる)を席(たたみ)へ放り付け、
「エーくやしい」
ト歯を喰切(くいしば)ッて口惜(くちお)しがる。その顔を横眼でジロリと見たばかりで、お勢はすまアし切ッて座舗を立出でてしまッた。
しかしながらこれを親子|喧嘩(げんか)と思うと女丈夫の本意に負(そむ)く。どうしてどうして親子喧嘩……そんな不道徳な者でない。これはこれ辱(かたじけ)なくも難有(ありがた)くも日本文明の一原素ともなるべき新主義と時代|後(おく)れの旧主義と衝突をするところ、よくお眼を止めて御覧あられましょう。
その夜文三は断念(おもいき)ッて叔母に詫言をもうしたが、ヤ梃(てこ)ずったの梃ずらないのと言てそれはそれは……まずお政が今朝言ッた厭味に輪を懸け枝を添えて百|万陀羅(まんだら)并(なら)べ立てた上句(あげく)、お勢の親を麁末(そまつ)にするのまでを文三の罪にして難題を言懸ける。されども文三が死だ気になって諸事お容(ゆ)るされてで持切ッているに、お政もスコだれの拍子抜けという光景(きみ)で厭味の音締(ねじめ)をするように成ッたから、まず好しと思う間もなく、不図又文三の言葉|尻(じり)から燃出して以前にも立優(たちまさ)る火勢、黒烟(くろけぶり)焔々(えんえん)と顔に漲(みなぎ)るところを見てはとても鎮火しそうも無かッたのも、文三が済(すみ)ませぬの水を斟尽(くみつく)して澆(そそ)ぎかけたので次第々々に下火になって、プスプス燻(いぶり)になって、遂に不精々々に鎮火(しめ)る。文三は吻(ほっ)と一息、寸善|尺魔(せきま)の世の習い、またもや御意の変らぬ内にと、挨拶(あいさつ)も匆々(そこそこ)に起ッて坐敷を立出で二三歩すると、後(うしろ)の方(かた)でお政がさも聞えよがしの独語(ひとりごと)、
「アアアア今度(こんだ)こそは厄介(やっかい)払いかと思ッたらまた背負(しょい)込みか」 
 
第六回 どちら着(つか)ずのちくらが沖 

 

秋の日影も稍(やや)傾(かたぶ)いて庭の梧桐(ごとう)の影法師が背丈を伸ばす三時頃、お政は独り徒然(つくねん)と長手の火鉢(ひばち)に凭(もた)れ懸ッて、斜(ななめ)に坐りながら、火箸(ひばし)を執(とっ)て灰へ書く、楽書(いたずらがき)も倭文字(やまともじ)、牛の角文字いろいろに、心に物を思えばか、怏々(おうおう)たる顔の色、動(ややと)もすれば太息(といき)を吐いている折しも、表の格子戸(こうしど)をガラリト開けて、案内もせず這入(はい)ッて来て、隔(へだて)の障子の彼方(あなた)からヌット顔を差出して、
「今日(こんち)は」
ト挨拶(あいさつ)をした男を見れば、何処(どこ)かで見たような顔と思うも道理、文三の免職になった当日、打連れて神田見附の裏(うち)より出て来た、ソレ中背の男と言ッたその男で。今日は退省後と見えて不断着の秩父縞(ちちぶじま)の袷衣(あわせ)の上へ南部の羽織をはおり、チト疲労(くたび)れた博多の帯に袂(たもと)時計の紐(ひも)を捲付(まきつ)けて、手に土耳斯(トルコ)形の帽子を携えている。
「オヤ何人(どなた)かと思ッたらお珍らしいこと、此間(こないだ)はさっぱりお見限りですネ。マアお這入(はいん)なさいナ、それとも老婆(ばばア)ばかりじゃアお厭(いや)かネ、オホホホホホ」
「イヤ結構……結構も可笑(おか)しい、アハハハハハ。トキニ何は、内海(うつみ)は居ますか」
「ハア居ますヨ」
「それじゃちょいと逢(あっ)て来てからそれからこの間の復讐(かたきうち)だ、覚悟をしてお置きなさい」
「返討(かえりうち)じゃアないかネ」
「違いない」
ト何か判(わか)らぬ事を言ッて、中背の男は二階へ上ッてしまッた。
帰ッて来ぬ間(ま)にチョッピリこの男の小伝をと言う可(べ)きところなれども、何者の子でどんな教育を享(う)けどんな境界(きょうがい)を渡ッて来た事か、過去ッた事は山媛(やまひめ)の霞(かすみ)に籠(こも)ッておぼろおぼろ、トント判らぬ事|而已(のみ)。風聞に拠(よ)れば総角(そうかく)の頃に早く怙恃(こじ)を喪(うしな)い、寄辺渚(よるべなぎさ)の棚(たな)なし小舟(おぶね)では無く宿無小僧となり、彼処(あすこ)の親戚(しんせき)此処(ここ)の知己(しるべ)と流れ渡ッている内、曾(かつ)て侍奉公までした事が有るといいイヤ無いという、紛々たる人の噂(うわさ)は滅多に宛(あて)になら坂(ざか)や児手柏(このでがしわ)の上露(うわつゆ)よりももろいものと旁付(かたづけ)て置いて、さて正味の確実(たしか)なところを掻摘(かいつま)んで誌(しる)せば、産(うまれ)は東京(とうけい)で、水道の水臭い士族の一人(かたわれ)だと履歴書を見た者の噺(はな)し、こればかりは偽(うそ)でない。本田|昇(のぼる)と言ッて、文三より二年|前(ぜん)に某省の等外を拝命した以来(このかた)、吹小歇(ふきおやみ)のない仕合(しあわせ)の風にグットのした出来星(できぼし)判任、当時は六等属の独身(ひとりみ)ではまず楽な身の上。
昇は所謂(いわゆる)才子で、頗(すこぶ)る智慧(ちま)才覚が有ッてまた能(よ)く智慧才覚を鼻に懸ける。弁舌は縦横無尽、大道に出る豆蔵(まめぞう)の塁を摩して雄を争うも可なりという程では有るが、竪板(たていた)の水の流を堰(せき)かねて折節は覚えず法螺(ほら)を吹く事もある。また小奇用(こぎよう)で、何一ツ知らぬという事の無い代り、これ一ツ卓絶(すぐれ)て出来るという芸もない、怠(ずるけ)るが性分で倦(あき)るが病だといえばそれもその筈(はず)か。
昇はまた頗る愛嬌(あいきょう)に富でいて、極(きわめ)て世辞がよい。殊(こと)に初対面の人にはチヤホヤもまた一段で、婦人にもあれ老人にもあれ、それ相応に調子を合せて曾てそらすという事なし。唯(ただ)不思議な事には、親しくなるに随(したが)い次第に愛想(あいそ)が無くなり、鼻の頭(さき)で待遇(あしらっ)て折に触れては気に障る事を言うか、さなくば厭(いや)におひゃらかす。それを憤(いか)りて喰(くっ)て懸れば、手に合う者はその場で捻返(ねじかえ)し、手に合わぬ者は一|時(じ)笑ッて済まして後(のち)、必ず讐(あだ)を酬(むく)ゆる……尾籠(びろう)ながら、犬の糞(くそ)で横面(そっぽう)を打曲(はりま)げる。
とはいうものの昇は才子で、能く課長殿に事(つか)える。この課長殿というお方は、曾て西欧の水を飲まれた事のあるだけに「殿様風」という事がキツイお嫌(きら)いと見えて、常に口を極めて御同僚方の尊大の風を御|誹謗(ひぼう)遊ばすが、御自分は評判の気むずかし屋で、御意(ぎょい)に叶(かな)わぬとなると瑣細(ささい)の事にまで眼を剥出(むきだ)して御立腹遊ばす、言わば自由主義の圧制家という御方だから、哀れや属官の人々は御機嫌(ごきげん)の取様に迷(まごつ)いてウロウロする中に、独り昇は迷(まごつ)かぬ。まず課長殿の身態(みぶり)声音(こわいろ)はおろか、咳払(せきばら)いの様子から嚔(くさめ)の仕方まで真似(まね)たものだ。ヤそのまた真似の巧(たくみ)な事というものは、あたかもその人が其処(そこ)に居て云為(うんい)するが如くでそっくりそのまま、唯相違と言ッては、課長殿は誰の前でもアハハハとお笑い遊ばすが、昇は人に依ッてエヘヘ笑いをする而已(のみ)。また課長殿に物など言懸けられた時は、まず忙わしく席を離れ、仔細(しさい)らしく小首を傾けて謹(つつしん)で承り、承り終ッてさて莞爾(にっこり)微笑して恭(うやうや)しく御返答申上る。要するに昇は長官を敬すると言ッても遠ざけるには至らず、狎(な)れるといっても涜(けが)すには至らず、諸事万事御意の随意々々(まにまに)曾て抵抗した事なく、しかのみならず……此処が肝賢|要(かなめ)……他の課長の遺行を数(かぞえ)て暗に盛徳を称揚する事も折節はあるので、課長殿は「見所のある奴じゃ」ト御意遊ばして御贔負(ごひいき)に遊ばすが、同僚の者は善く言わぬ。昇の考では皆|法界悋気(ほうかいりんき)で善く言わぬのだという。
ともかくも昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務に懸けては頗る活溌(かっぱつ)で、他人の一日分|沢山(たっぷり)の事を半日で済ましても平気孫左衛門、難渋そうな顔色(かおつき)もせぬが、大方は見せかけの勉強|態(ぶり)、小使給事などを叱散(しかりち)らして済まして置く。退省(ひけ)て下宿へ帰る、衣服を着更(きかえ)る、直ぐ何処(いずれ)へか遊びに出懸けて、落着て在宿していた事は稀(まれ)だという。日曜日には、御機嫌伺いと号して課長殿の私邸へ伺候し、囲碁のお相手をもすれば御私用をも達(た)す。先頃もお手飼に狆(ちん)が欲しいと夫人の御意、聞(きく)よりも早飲込み、日ならずして何処で貰(もら)ッて来た事か、狆の子一|疋(ぴき)を携えて御覧に供える。件(くだん)の狆を御覧じて課長殿が「此奴(こいつ)妙な貌(かお)をしているじゃアないか、ウー」ト御意遊ばすと、昇も「左様で御座います、チト妙な貌をしております」ト申上げ、夫人が傍(かたわら)から「それでも狆はこんなに貌のしゃくんだ方が好いのだと申ます」ト仰(おっ)しゃると、昇も「成程|夫人(おくさま)の仰(おおせ)の通り狆はこんなに貌のしゃくんだ方が好いのだと申ます」ト申上げて、御愛嬌にチョイト狆の頭を撫(な)でて見たとか。しかし永い間には取外(とりはず)しも有ると見えて、曾て何かの事で些(すこ)しばかり課長殿の御機嫌を損ねた時は、昇はその当坐|一両日(いちりょうにち)の間、胸が閉塞(つかえ)て食事が進まなかッたとかいうが、程なく夫人のお癪(しゃく)から揉(もみ)やわらげて、殿さまの御肝癖も療治し、果は自分の胸の痞(つかえ)も押さげたという、なかなか小腕のきく男で。
下宿が眼と鼻の間の所為(せい)か、昇は屡々(しばしば)文三の所へ遊びに来る。お勢が帰宅してからは、一段足繁くなって、三日にあげず遊びに来る。初とは違い、近頃は文三に対しては気に障わる事|而已(のみ)を言散らすか、さもなければ同僚の非を数えて「乃公(おれ)は」との自負自讃、「人間|地道(じみち)に事をするようじゃ役に立たぬ」などと勝手な熱を吐散らすが、それは邂逅(たまさか)の事で、大方は下坐敷でお政を相手に無駄(むだ)口を叩(たた)き、或る時は花合せとかいうものを手中に弄(ろう)して、如何(いかが)な真似をした上句(あげく)、寿司(すし)などを取寄せて奢散(おごりち)らす。勿論(もちろん)お政には殊(こと)の外気に入ッてチヤホヤされる、気に入り過ぎはしないかと岡焼をする者も有るが、まさか四十|面(づら)をさげて……お勢には……シッ跫音(あしおと)がする、昇ではないか……当ッた。
「トキニ内海はどうも飛だ事で、実に気の毒な、今も往(いっ)て慰めて来たが塞切(ふさぎき)ッている」
「放擲(うっちゃっ)てお置きなさいヨ。身から出た錆(さび)だもの、些(ちっ)とは塞ぐも好(いい)のサ」
「そう言えばそんなような者だが、しかし何しろ気の毒だ。こういう事になろうと疾(はや)くから知ていたらまたどうにか仕様も有たろうけれども、何しても……」
「何とか言ッてましたろうネ」
「何を」
「私の事をサ」
「イヤ何とも」
「フム貴君(あなた)も頼もしくないネ、あんな者(もん)を朋友(ともだち)にして同類(ぐる)にお成んなさる」
「同類(ぐる)にも何にも成りゃアしないが、真実(ほんとう)に」
「そう」
ト談話(はなし)の内に茶を入れ、地袋の菓子を取出して昇に侑(すす)め、またお鍋を以(もっ)てお勢を召(よ)ばせる。何時(いつ)もならば文三にもと言うところを今日は八|分(ぶ)したゆえ、お鍋が不審に思い、「お二階へは」ト尋ねると、「ナニ茶がカッ食(くら)いたきゃア……言(いわ)ないでも宜(いい)ヨ」ト答えた。これを名(なづ)けて Woman's(ウーマンス) revenge(レヴェンジ)(婦人の復讐(ふくしゅう))という。
「どうしたんです、鬩(いじ)り合いでもしたのかネ」
「鬩合(いじりあ)いなら宜がいじめられたの、文三にいじめられたの……」
「それはまたどうした理由(わけ)で」
「マア本田さん、聞ておくんなさい、こうなんですヨ」
ト昨日(きのう)文三にいじめられた事を、おまけにおまけを附着(つけ)てベチャクチャと饒舌(しゃべ)り出しては止度(とめど)なく、滔々蕩々(とうとうとうとう)として勢い百川(ひゃくせん)の一時に決した如くで、言損じがなければ委(たる)みもなく、多年の揣摩(ずいま)一時の宏弁(こうべん)、自然に備わる抑揚|頓挫(とんざ)、或(あるい)は開き或は闔(と)じて縦横自在に言廻わせば、鷺(さぎ)も烏(からす)に成らずには置かぬ。哀(あわれ)むべし文三は竟(つい)に世にも怖(おそ)ろしい悪棍(わるもの)と成り切ッた所へ、お勢は手に一部の女学雑誌を把持(も)ち、立(たち)ながら読み読み坐舗(ざしき)へ這入て来て、チョイト昇に一礼したのみで嫣然(にっこり)ともせず、饒舌(しゃべり)ながら母親が汲(くん)で出す茶碗(ちゃわん)を憚(はばか)りとも言わずに受取りて、一口飲で下へ差措(さしおい)たまま、済まアし切ッて再(また)復(ふたた)び読みさした雑誌を取り上げて眺(なが)め詰めた、昇と同席の時は何時でもこうで。
「トいう訳でツイそれなり鳧(けり)にしてしまいましたがネ、マア本田さん、貴君(あなた)は何方(どっち)が理屈だとお思なさる」
「それは勿論内海が悪い」
「そのまた悪(わり)い文三の肩を持ッてサ、私(あたし)に喰ッて懸ッた者があると思召(おぼしめ)せ」
「アラ喰ッて懸りはしませんワ」
「喰ッて懸らなくッてサ……私はもうもう腹が立て腹が立て堪(たま)らなかッたけれども、何してもこの通り気が弱いシ、それに先には文三という荒神(こうじん)様が附てるからとても叶(かな)う事(こっ)ちゃア無いとおもって、虫を殺ろして噤黙(だまっ)てましたがネ……」
「アラあんな虚言(うそ)ばッかり言ッて」
「虚言じゃないワ真実(ほんと)だワ……マなんぼなんだッて呆(あき)れ返るじゃ有りませんか。ネー貴君、何処の国にか他人の肩を持ッてサ、シシババの世話をしてくれた現在の親に喰ッて懸るという者(もん)が有るもんですかネ。ネー本田さん、そうじゃア有りませんか。ギャット産れてからこれまでにするにア仇(あだ)や疎(おろそ)かな事(こっ)じゃア有りません。子を持てば七十五|度(たび)泣くというけれども、この娘(こ)の事(こっ)てはこれまで何百度泣たか知れやアしない。そんなにして養育(そだて)て貰ッても露程も有難いと思ッてないそうで、この頃じゃ一口いう二口目にゃ速(す)ぐ悪たれ口だ。マなんたら因果でこんな邪見な子を持ッたかと思うとシミジミ悲しくなりますワ」
「人が黙ッていれば好気(いいき)になってあんな事を言ッて、余(あんま)りだから宜(いい)ワ。私は三歳の小児じゃないから親の恩位は知ていますワ。知ていますけれども条理……」
「アアモウ解ッた解ッた、何にも宣(のたも)うナ。よろしいヨ、解ッたヨ」
ト昇は憤然(やっき)と成ッて饒舌り懸けたお勢の火の手を手頸(てくび)で煽(あお)り消して、さてお政に向い、
「しかし叔母さん、此奴(こいつ)は一番|失策(しくじ)ッたネ、平生の粋(すい)にも似合わないなされ方、チトお恨みだ。マア考えて御覧(ごろう)じろ、内海といじり合いが有ッて見ればネ、ソレ……という訳が有るからお勢さんも黙ッては見ていられないやアネ、アハハハハ」
ト相手のない高笑い。お勢は額(ひたえ)で昇を睨(にら)めたまま何(なに)とも言わぬ、お政も苦笑いをした而已(のみ)でこれも黙然(だんまり)、些(ち)と席がしらけた趣き。
「それは戯談(じょうだん)だがネ、全体叔母さん余り慾が深過るヨ、お勢さんの様なこんな上出来な娘を持ちながら……」
「なにが上出来なもんですか……」
「イヤ上出来サ。上出来でないと思うなら、まず世間の娘子(むすめっこ)を御覧なさい。お勢さん位の年|恰好(かっこう)でこんなに縹致(きりょう)がよくッて見ると、学問や何かは其方退(そっちの)けで是非色狂いとか何とか碌(ろく)な真似はしたがらぬものだけれども、お勢さんはさすがは叔母さんの仕込みだけ有ッて、縹致は好くッても品行は方正で、曾て浮気らしい真似をした事はなく、唯一心に勉強してお出でなさるから漢学は勿論出来るシ、英学も……今何を稽古(けいこ)してお出でなさる」
「『ナショナル』の『フォース』に列国史(スイントン)に……」
「フウ、『ナショナル』の『フォース』、『ナショナル』の『フォース』と言えば、なかなか難(むつか)しい書物だ、男子でも読(よめ)ない者は幾程(いくら)も有る。それを芳紀(とし)も若くッてかつ婦人の身でいながら稽古してお出でなさる、感心な者だ。だからこの近辺じゃアこう言やア失敬のようだけれども、鳶(とび)が鷹(たか)とはあの事だと言ッて評判していますゼ。ソレ御覧、色狂いして親の顔に泥(どろ)を塗(ぬ)ッても仕様がないところを、お勢さんが出来が宜いばっかりに叔母さんまで人に羨(うらや)まれる。ネ、何も足腰|按(さす)るばかりが孝行じゃアない、親を人に善く言わせるのも孝行サ。だから全体なら叔母さんは喜んでいなくッちゃアならぬところを、それをまだ不足に思ッてとやこういうのは慾サ、慾が深過ぎるのサ」
「ナニ些(ち)とばかりなら人様(しとさま)に悪く言われても宜(いい)からもう些(すこ)し優しくしてくれると宜(いいん)だけれども、邪慳(じゃけん)で親を親臭いとも思ッていないから悪(にく)くッて成りゃアしません」
ト眼を細くして娘の方を顧視(みかえ)る。こういう眺(にら)め方も有るものと見える。
「喜び叙(ついで)にもう一ツ喜んで下さい。我輩今日一等進みました」
「エ」
トお政は此方(こなた)を振向き、吃驚(びっくり)した様子で暫(しば)らく昇の顔を目守(みつ)めて、
「御結構が有ッたの……ヘエエー……それはマア何してもお芽出度(めでとう)御座いました」
ト鄭重(ていちょう)に一礼して、さて改めて頭(こうべ)を振揚げ、
「ヘー御結構が有ッたの……」
お勢もまた昇が「御結構が有ッた」と聞くと等しく吃驚した顔色(かおつき)をして些(すこ)し顔を※[赤+報のつくり](あか)らめた。咄々(とつとつ)怪事もあるもので。
「一等お上(あがん)なすッたと言うと、月給は」
「僅(たった)五円違いサ」
「オヤ五円違いだッて結構ですワ。こうッ今までが三十円だッたから五円殖えて……」
「何ですネー母親(おっか)さん、他人の収入を……」
「マアサ五円殖えて三十五円、結構ですワ、結構でなくッてサ。貴君(あなた)どうして今時高利貸したッて月三十五円取ろうと言うなア容易な事(こっ)ちゃア有りませんヨ……三十五円……どうしても働らき者(もん)は違ッたもんだネー。だからこの娘(こ)とも常不断(じょうふだん)そう言ッてます事サ、アノー本田さんは何だと、内の文三や何(なん)かとは違ッてまだ若くッてお出(い)でなさるけれども、利口で気働らきが有ッて、如才が無くッて……」
「談話(はなし)も艶消(つやけ)しにして貰(もらい)たいネ」
「艶じゃア無い、真個(ほんと)にサ。如才が無くッてお世辞がよくッて男振も好けれども、唯|物喰(ものぐ)いの悪(わり)いのが可惜(あったら)瑜(たま)に疵(きず)だッて、オホホホホ」
「アハハハハ、貧乏人の質(しち)で上げ下げが怖ろしい」
「それはそうと、孰(いず)れ御結構振舞いが有りましょうネ。新富(しんとみ)かネ、但(ただ)しは市村(いちむら)かネ」
「何処(いずれ)へなりとも、但し負(おん)ぶで」
「オヤそれは難有(ありがた)くも何ともないこと」
トまた口を揃(そろ)えて高笑い。
「それは戯談(じょうだん)だがネ、芝居はマア芝居として、どうです、明後日(あさって)団子坂(だんござか)へ菊見という奴は」
「菊見、さようさネ、菊見にも依りけりサ。犬川(いぬかわ)じゃア、マア願い下げだネ」
「其処にはまた異(おつ)な寸法も有ろうサ」
「笹(ささ)の雪じゃアないかネ」
「まさか」
「真個(ほんと)に往きましょうか」
「お出でなさいお出でなさい」
「お勢、お前もお出ででないか」
「菊見に」
「アア」
お勢は生得の出遊(である)き好き、下地は好きなり御意(ぎょい)はよし、菊見の催(もよおし)頗(すこぶ)る妙だが、オイソレというも不見識と思ッたか、手弱く辞退して直ちに同意してしまう。十分ばかりを経て昇が立帰ッた跡で、お政は独言(ひとりごと)のように、
「真個(ほんと)に本田さんは感心なもんだナ、未(ま)だ年齢(とし)も若いのに三十五円月給取るように成んなすった。それから思うと内の文三なんざア盆暗(ぼんくら)の意久地なしだッちゃアない、二十三にも成ッて親を養(すご)すどこか自分の居所(いど)立所(たちど)にさえ迷惑(まごつい)てるんだ。なんぼ何だッて愛想(あいそ)が尽きらア」
「だけれども本田さんは学問は出来ないようだワ」
「フム学問々々とお言いだけれども、立身出世すればこそ学問だ。居所(いど)立所(たちど)に迷惑(まごつ)くようじゃア、些(ちっ)とばかし書物(ほん)が読めたッてねっから難有味(ありがたみ)がない」
「それは不運だから仕様がないワ」
トいう娘の顔をお政は熟々(しけじけ)目守(みつ)めて、
「お勢、真個(ほんと)にお前は文三と何にも約束した覚えはないかえ。エ、有るなら有ると言ておしまい、隠立(かくしだて)をすると却(かえっ)てお前の為にならないヨ」
「またあんな事を言ッて……昨日(きのう)あれ程そんな覚えは無いと言ッたのが母親(おっか)さんには未だ解らないの、エ、まだ解らないの」
「チョッ、また始まッた。覚えが無いなら無いで好やアネ、何にもそんなに熱くならなくッたッて」
「だッて人をお疑(うたぐ)りだものヲ」
暫らく談話(はなし)が断絶(とぎ)れる、母親も娘も何か思案顔。
「母親(おっか)さん、明後日(あさって)は何を衣(き)て行こうネ」
「何なりとも」
「エート、下着は何時(いつ)ものアレにしてト、それから上着は何衣(どれ)にしようかしら、やッぱり何時もの黄八丈(きはちじょう)にして置こうかしら……」
「もう一ツのお召|縮緬(ちりめん)の方にお為(し)ヨ、彼方(あのほう)がお前にゃア似合うヨ」
「デモあれは品が悪いものヲ」
「品(しん)が悪(わり)いてッたッて」
「アアこんな時にア洋服が有ると好のだけれどもナ……」
「働き者(もん)を亭主(ていし)に持ッて、洋服なとなんなと拵(こせ)えて貰うのサ」
トいう母親の顔をお勢はジット目守(みつ)めて不審顔。 
 
第二編 

 

第七回 団子坂(だんござか)の観菊(きくみ) 上 
日曜日は近頃に無い天下晴れ、風も穏かで塵(ちり)も起(た)たず、暦を繰(くっ)て見れば、旧暦で菊月初旬(きくづきはじめ)という十一月二日の事ゆえ、物観遊山(ものみゆさん)には持(もっ)て来いと云う日和(ひより)。
園田|一家(いっけ)の者は朝から観菊行(きくみゆき)の支度(したく)とりどり。晴衣(はれぎ)の亘長(ゆきたけ)を気にしてのお勢のじれこみがお政の肝癪(かんしゃく)と成て、廻りの髪結の来ようの遅いのがお鍋の落度となり、究竟(はて)は万古の茶瓶(きゅうす)が生れも付かぬ欠口(いぐち)になるやら、架棚(たな)の擂鉢(すりばち)が独手(ひとりで)に駈出(かけだ)すやら、ヤッサモッサ捏返(こねかえ)している所へ生憎(あやにく)な来客、しかも名打(なうて)の長尻(ながっちり)で、アノ只今(ただいま)から団子坂へ参ろうと存じて、という言葉にまで力瘤(ちからこぶ)を入れて見ても、まや薬ほども利(き)かず、平気で済まして便々とお神輿(みこし)を据(す)えていられる。そのじれッたさ、もどかしさ。それでも宜(よ)くしたもので、案じるより産むが易く、客もその内に帰れば髪結も来る、ソコデ、ソレ支度も調い、十一時頃には家内も漸(ようや)く静まッて、折節には高笑がするようになッた。
文三は拓落失路(たくらくしつろ)の人、仲々|以(もっ)て観菊などという空(そら)は無い。それに昇は花で言えば今を春辺(はるべ)と咲誇る桜の身、此方(こっち)は日蔭(ひかげ)の枯尾花、到頭(どうせ)楯突(たてつ)く事が出来ぬ位なら打たせられに行くでも無いと、境界(きょうがい)に随(つ)れて僻(ひが)みを起し、一昨日(おとつい)昇に誘引(さそわれ)た時既にキッパリ辞(ことわ)ッて行かぬと決心したからは、人が騒ごうが騒ぐまいが隣家(となり)の疝気(せんき)で関繋(かけかまい)のない噺(はなし)、ズット澄していられそうなもののさて居られぬ。嬉(うれ)しそうに人のそわつくを見るに付け聞くに付け、またしても昨日(きのう)の我が憶出(おもいいだ)されて、五月雨(さみだれ)頃の空と湿める、嘆息もする、面白くも無い。
ヤ面白からぬ。文三には昨日お勢が「貴君(あなた)もお出(いで)なさるか」ト尋ねた時、行かぬと答えたら、「ヘーそうですか」ト平気で澄まして落着払ッていたのが面白からぬ。文三の心持では、成ろう事なら、行けと勧めて貰(もら)いたかッた。それでも尚(な)お強情を張ッて行かなければ、「貴君と御一所でなきゃア私も罷(よ)しましょう」とか何とか言て貰いたかッた……
「シカシこりゃア嫉妬(しっと)じゃアない……」
と不図何か憶出(おもいだ)して我と我に分疏(いいわけ)を言て見たが、まだ何処(どこ)かくすぐられるようで……不安心で。
行くも厭(いや)なり留(とど)まるも厭なりで、気がムシャクシャとして肝癪が起る。誰と云て取留めた相手は無いが腹が立つ。何か火急の要事が有るようでまた無いようで、無いようでまた有るようで、立てもいられず坐(すわっ)てもいられず、どうしてもこうしても落着かれない。
落着かれぬままに文三がチト読書でもしたら紛れようかと、書函(ほんばこ)の書物を手当放題に取出して読みかけて見たが、いッかな争(いか)な紛れる事でない。小むずかしい面相(かおつき)をして書物と疾視競(にらめくら)したところはまず宜(よかっ)たが、開巻第一章の一行目を反覆読過して見ても、更にその意義を解(げ)し得ない。その癖|下坐舗(したざしき)でのお勢の笑声(わらいごえ)は意地悪くも善く聞えて、一回(ひとたび)聞けば則(すなわ)ち耳の洞(ほら)の主人(あるじ)と成ッて、暫(しば)らくは立去らぬ。舌鼓(したつづみ)を打ちながら文三が腹立しそうに書物を擲却(ほうりだ)して、腹立しそうに机に靠着(もたれかか)ッて、腹立しそうに頬杖(ほおづえ)を杖(つ)き、腹立しそうに何処ともなく凝視(みつ)めて……フトまた起直ッて、蘇生(よみがえ)ッたような顔色(かおつき)をして、
「モシ罷めになッたら……」
ト取外(とりはず)して言いかけて倏忽(たちまち)ハッと心附き、周章(あわて)て口を鉗(つぐ)んで、吃驚(びっくり)して、狼狽(ろうばい)して、遂(つい)に憤然(やっき)となッて、「畜生」と言いざま拳(こぶし)を振挙げて我と我を威(おど)して見たが、悪戯(いたずら)な虫|奴(め)は心の底でまだ……やはり……
シカシ生憎(あいにく)故障も無かッたと見えて昇は一時頃に参ッた。今日は故意(わざ)と日本服で、茶の糸織の一ツ小袖(こそで)に黒七子(くろななこ)の羽織、帯も何か乙なもので、相変らず立(りゅう)とした服飾(こしらえ)。梯子段(はしごだん)を踏轟(ふみとどろ)かして上ッて来て、挨拶(あいさつ)をもせずに突如(いきなり)まず大胡坐(おおあぐら)。我鼻を視るのかと怪しまれる程の下眼を遣ッて文三の顔を視ながら、
「どうした、土左(どざ)的宜しくという顔色(がんしょく)だぜ」
「些(すこ)し頭痛がするから」
「そうか、尼御台(あまみだい)に油を取られたのでもなかッたか、アハハハハ」
チョイと云う事からしてまず気(き)に障わる。文三も怫然(むっ)とはしたが、其処(そこ)は内気だけに何とも言わなかった。
「どうだ、どうしても往(い)かんか」
「まずよそう」
「剛情だな……ゴジョウだからお出(いで)なさいよじゃ無いか、アハハハ。ト独りで笑うほかまず仕様が無い、何を云ッても先様にゃお通じなしだ、アハハハ」
戯言(ぎげん)とも附かず罵詈(ばり)とも附かぬ曖昧(あいまい)なお饒舌(しゃべり)に暫らく時刻を移していると、忽(たちま)ち梯子段の下にお勢の声がして、
「本田さん」
「何です」
「アノ車が参りましたから、よろしくば」
「出懸けましょう」
「それではお早く」
「チョイとお勢さん」
「ハイ」
「貴嬢(あなた)と合乗(あいのり)なら行ても宜(いい)というのがお一方(ひとかた)出来たが承知ですかネ」
返答は無く、唯(ただ)バタバタと駆出す足音がした。
「アハハハ、何にも言わずに逃出すなぞは未(ま)だしおらしいネ」
ト言ったのが文三への挨拶で、昇はそのまま起上(たちあが)ッて二階を降りて往った。跡を目送(みおく)りながら文三が、さもさも苦々しそうに口の中(うち)で、
「馬鹿|奴(め)……」
ト言ったその声が未だ中有(ちゅうう)に徘徊(さまよ)ッている内に、フト今年の春|向島(むこうじま)へ観桜(さくらみ)に往った時のお勢の姿を憶出し、どういう心計(つもり)か蹶然(むっく)と起上り、キョロキョロと四辺(あたり)を環視(みまわ)して火入(ひいれ)に眼を注(つ)けたが、おもい直おして旧(もと)の座になおり、また苦々しそうに、
「馬鹿奴」
これは自(みずか)ら叱責(しか)ったので。
午後はチト風が出たがますます上天気、殊(こと)には日曜と云うので団子坂近傍は花観る人が道去り敢(あ)えぬばかり。イヤ出たぞ出たぞ、束髪も出た島田も出た、銀杏返(いちょうがえ)しも出た丸髷(まるまげ)も出た、蝶々(ちょうちょう)髷も出たおケシも出た。○○(なになに)会幹事、実は古猫の怪という、鍋島(なべしま)騒動を生(しょう)で見るような「マダム」某(なにがし)も出た。芥子(けし)の実ほどの眇少(かわいら)しい智慧(ちえ)を両足に打込んで、飛だり跳(はね)たりを夢にまで見る「ミス」某も出た。お乳母も出たお爨婢(さんどん)も出た。ぞろりとした半元服、一夫数妻(いっぷすさい)論の未だ行われる証拠に上りそうな婦人も出た。イヤ出たぞ出たぞ、坊主も出た散髪(ざんぎり)も出た、五分刈も出たチョン髷も出た。天帝の愛子(あいし)、運命の寵臣(ちょうしん)、人の中(うち)の人、男の中(なか)の男と世の人の尊重の的、健羨(けんせん)の府となる昔|所謂(いわゆる)お役人様、今の所謂官員さま、後の世になれば社会の公僕とか何とか名告(なの)るべき方々も出た。商賈(しょうこ)も出た負販(ふはん)の徒も出た。人の横面(そっぽう)を打曲(はりま)げるが主義で、身を忘れ家を忘れて拘留の辱(はずかしめ)に逢(あ)いそうな毛臑(けずね)暴出(さらけだ)しの政治家も出た。猫も出た杓子(しゃくし)も出た。人様々の顔の相好(すまい)、おもいおもいの結髪風姿(かみかたち)、聞覩(ぶんと)に聚(あつ)まる衣香襟影(いこうきんえい)は紛然雑然として千態|万状(ばんじょう)、ナッカなか以て一々枚挙するに遑(いとま)あらずで、それにこの辺は道幅(みちはば)が狭隘(せばい)ので尚お一段と雑沓(ざっとう)する。そのまた中を合乗で乗切る心無し奴(め)も有難(ありがた)の君が代に、その日|活計(ぐらし)の土地の者が摺附木(マッチ)の函(はこ)を張りながら、往来の花観る人をのみ眺(なが)めて遂に真(まこと)の花を観ずにしまうかと、おもえば実に浮世はいろいろさまざま。
さてまた団子坂の景況は、例の招牌(かんばん)から釣込む植木屋は家々の招きの旗幟(はた)を翩翻(へんぽん)と金風(あきかぜ)に飄(ひるがえ)し、木戸々々で客を呼ぶ声はかれこれからみ合て乱合(みだれあっ)て、入我我入(にゅうががにゅう)でメッチャラコ、唯|逆上(のぼせあが)ッた木戸番の口だらけにした面(かお)が見える而已(のみ)で、何時(いつ)見ても変ッた事もなし。中へ這入(はい)ッて見てもやはりその通りで。
一体全体菊というものは、一本(ひともと)の淋(さび)しきにもあれ千本八千本(ちもとやちもと)の賑(にぎわ)しきにもあれ、自然のままに生茂(おいしげ)ッてこそ見所の有ろう者を、それをこの辺の菊のようにこう無残々々(むざむざ)と作られては、興も明日(あす)も覚めるてや。百草の花のとじめと律義(りちぎ)にも衆芳に後(おく)れて折角咲いた黄菊白菊を、何でも御座れに寄集めて小児騙欺(こどもだまし)の木偶(でく)の衣裳(べべ)、洗張りに糊(のり)が過ぎてか何処へ触ッてもゴソゴソとしてギゴチ無さそうな風姿(とりなり)も、小言いッて観る者は千人に一人か二人、十人が十人まず花より団子と思詰めた顔色(がんしょく)、去りとはまた苦々しい。ト何処かの隠居が、菊細工を観ながら愚痴を滴(こぼ)したと思食(おぼしめ)せ。(看官)何だ、つまらない。
閑話|不題(ふうだい)。
轟然(ごうぜん)と飛ぶが如くに駆来(かけきた)ッた二台の腕車(くるま)がピッタリと停止(とま)る。車を下りる男女三人の者はお馴染(なじみ)の昇とお勢|母子(おやこ)の者で。
昇の服装(みなり)は前文にある通り。
お政は鼠微塵(ねずみみじん)の糸織の一ツ小袖に黒の唐繻子(とうじゅす)の丸帯、襦袢(じゅばん)の半襟(はんえり)も黒|縮緬(ちりめん)に金糸でパラリと縫の入(い)ッた奴か何かで、まず気の利いた服飾(こしらえ)。
お勢は黄八丈の一ツ小袖に藍鼠金入繻珍(あいねずみきんいりしゅちん)の丸帯、勿論(もちろん)下にはお定(さだま)りの緋縮緬(ひぢりめん)の等身(ついたけ)襦袢、此奴(こいつ)も金糸で縫の入(い)ッた水浅黄(みずあさぎ)縮緬の半襟をかけた奴で、帯上はアレハ時色(ときいろ)縮緬、統括(ひっくる)めて云えばまず上品なこしらえ。
シカシ人足(ひとあし)の留まるは衣裳附(いしょうづけ)よりは寧(むし)ろその態度で、髪も例(いつも)の束髪ながら何とか結びとかいう手のこんだ束ね方で、大形の薔薇(ばら)の花挿頭(はなかんざし)を挿(さ)し、本化粧は自然に背(そむ)くとか云ッて薄化粧の清楚(せいそ)な作り、風格|丰神(ぼうしん)共に優美で。
「色だ、ナニ夫婦サ」と法界悋気(ほうかいりんき)の岡焼連が目引袖引(めひきそでひき)取々に評判するを漏聞く毎(ごと)に、昇は得々として機嫌(きげん)顔、これ見よがしに母子(おやこ)の者を其処茲処(そこここ)と植木屋を引廻わしながらも片時と黙してはいない。人の傍聞(かたえぎき)するにも関(かま)わず例の無駄(むだ)口をのべつに並べ立てた。
お勢も今日は取分け気の晴れた面相(かおつき)で、宛然(さながら)籠(かご)を出た小鳥の如くに、言葉は勿論|歩風(あるきぶり)身体(からだ)のこなしにまで何処ともなく活々(いきいき)としたところが有ッて冴(さえ)が見える。昇の無駄を聞ては可笑(おか)しがッて絶えず笑うが、それもそうで、強(あなが)ち昇の言事(いうこと)が可笑しいからではなく、黙ッていても自然(おのず)と可笑しいからそれで笑うようで。
お政は菊細工には甚(はなは)だ冷淡なもので、唯「綺麗だことネー」ト云ッてツラリと見亘(みわた)すのみ。さして眼を注(と)める様子もないが、その代りお勢と同年配頃の娘に逢えば、叮嚀(ていねい)にその顔貌風姿(かおかたち)を研窮(けんきゅう)する。まず最初に容貌(かおだち)を視て、次に衣服(なり)を視て、帯を視て爪端(つまさき)を視て、行過ぎてからズーと後姿(うしろつき)を一|瞥(べつ)して、また帯を視て髪を視て、その跡でチョイとお勢を横目で視て、そして澄ましてしまう。妙な癖も有れば有るもので。
昇等三人の者は最後に坂下の植木屋へ立寄ッて、次第々々に見物して、とある小舎(こや)の前に立止ッた。其処に飾付(かざりつけ)て在ッた木像(にんぎょう)の顔が文三の欠伸(あくび)をした面相(かおつき)に酷(よ)く肖(に)ているとか昇の云ッたのが可笑しいといって、お勢が嬌面(かお)に袖を加(あ)てて、勾欄(てすり)におッ被(かぶ)さッて笑い出したので、傍(かたわら)に鵠立(たたずん)でいた書生|体(てい)の男が、俄(にわか)に此方(こちら)を振向いて愕然(がくぜん)として眼鏡越しにお勢を凝視(みつ)めた。「みッともないよ」ト母親ですら小言を言ッた位で。
漸くの事で笑いを留(とど)めて、お勢がまだ莞爾々々(にこにこ)と微笑のこびり付ている貌(かお)を擡(もた)げて傍(そば)を視ると、昇は居ない。「オヤ」ト云ッてキョロキョロと四辺(あたり)を環視(みま)わして、お勢は忽ち真面目(まじめ)な貌をした。
と見れば後(あと)の小舎(こや)の前で、昇が磬折(けいせつ)という風に腰を屈(かが)めて、其処に鵠立(たたずん)でいた洋装紳士の背(せなか)に向ッて荐(しき)りに礼拝していた。されども紳士は一向心附かぬ容子(ようす)で、尚お彼方(あちら)を向いて鵠立(たたずん)でいたが、再三再四|虚辞儀(からじぎ)をさしてから、漸くにムシャクシャと頬鬚(ほおひげ)の生弘(はえひろが)ッた気むずかしい貌を此方(こちら)へ振向けて、昇の貌を眺め、莞然(にっこり)ともせず帽子も被ッたままで唯|鷹揚(おうよう)に点頭(てんとう)すると、昇は忽ち平身低頭、何事をか喃々(くどくど)と言いながら続けさまに二ツ三ツ礼拝した。
紳士の随伴(つれ)と見える両人(ふたり)の婦人は、一人は今様おはつとか称(とな)える突兀(とっこつ)たる大丸髷、今一人は落雪(ぼっとり)とした妙齢の束髪頭、孰(いず)れも水際(みずぎわ)の立つ玉|揃(ぞろ)い、面相(かおつき)といい風姿(ふうつき)といい、どうも姉妹(きょうだい)らしく見える。昇はまず丸髷の婦人に一礼して次に束髪の令嬢に及ぶと、令嬢は狼狽(あわて)て卒方(そっぽう)を向いて礼を返えして、サット顔を※[赤+報のつくり](あから)めた。
暫らく立在(たたずん)での談話(はなし)、間(あわい)が隔離(かけはな)れているに四辺(あたり)が騒がしいのでその言事は能(よ)く解らないが、なにしても昇は絶えず口角(くちもと)に微笑を含んで、折節に手真似をしながら何事をか喋々(ちょうちょう)と饒舌り立てていた。その内に、何か可笑しな事でも言ッたと見えて、紳士は俄然(がぜん)大口を開(あ)いて肩を揺ッてハッハッと笑い出し、丸髷の夫人も口頭(くちもと)に皺(しわ)を寄せて笑い出し、束髪の令嬢もまた莞爾(にっこり)笑いかけて、急に袖で口を掩(おお)い、額越(ひたえごし)に昇の貌を眺めて眼元で笑った。身に余る面目に昇は得々として満面に笑いを含ませ、紳士の笑い罷(や)むを待ッてまた何か饒舌り出した。お勢|母子(おやこ)の待ッている事は全く忘れているらしい。
お勢は紳士にも貴婦人にも眼を注(と)めぬ代り、束髪の令嬢を穴の開く程|目守(みつ)めて一心不乱、傍目(わきめ)を触らなかった、呼吸(いき)をも吻(つ)かなかッた、母親が物を言懸けても返答もしなかった。
その内に紳士の一行がドロドロと此方(こちら)を指して来る容子を見て、お政は茫然(ぼうぜん)としていたお勢の袖を匆(いそが)わしく曳揺(ひきうご)かして疾歩(あしばや)に外面(おもて)へ立出で、路傍(みちばた)に鵠在(たたずん)で待合わせていると、暫らくして昇も紳士の後(しりえ)に随って出て参り、木戸口の所でまた更に小腰を屈(かが)めて皆それぞれに分袂(わかれ)の挨拶(あいさつ)、叮嚀に慇懃(いんぎん)に喋々しく陳(の)べ立てて、さて別れて独り此方(こちら)へ両三歩来て、フト何か憶出したような面相をしてキョロキョロと四辺(あたり)を環視(みま)わした。
「本田さん、此処だよ」
ト云うお政の声を聞付けて、昇は急足(あしばや)に傍(そば)へ歩寄(あゆみよ)り、
「ヤ大(おおき)にお待遠う」
「今の方は」
「アレガ課長です」
ト云ってどうした理由(わけ)か莞爾々々(にこにこ)と笑い、
「今日来る筈(はず)じゃ無かッたんだが……」
「アノ丸髷に結(い)ッた方は、あれは夫人(おくさま)ですか」
「そうです」
「束髪の方は」
「アレですか、ありゃ……」
ト言かけて後を振返って見て、
「妻君の妹です……内で見たよりか余程(よっぽど)別嬪(べっぴん)に見える」
「別嬪も別嬪だけれども、好いお服飾(こしらえ)ですことネー」
「ナニ今日はあんなお嬢様然とした風をしているけれども、家(うち)にいる時は疎末(そまつ)な衣服(なり)で、侍婢(こしもと)がわりに使われているのです」
「学問は出来ますか」
ト突然お勢が尋ねたので、昇は愕然として、
「エ学問……出来るという噺(はなし)も聞かんが……それとも出来るかしらん。この間から課長の所に来ているのだから、我輩もまだ深くは情実(ようす)を知らないのです」
ト聞くとお勢は忽ち眼元に冷笑の気を含ませて、振反って、今|将(まさ)に坂の半腹(ちゅうと)の植木屋へ這入ろうとする令嬢の後姿を目送(みおく)ッて、チョイと我帯を撫(な)でてそしてズーと澄ましてしまッた。
坂下(さかじた)に待たせて置た車に乗ッて三人の者はこれより上野の方へと参ッた。
車に乗ッてからお政がお勢に向い、
「お勢、お前も今のお娘(こ)さんのように、本化粧にして来りゃア宜かッたのにネー」
「厭(いや)サ、あんな本化粧は」
「オヤ何故(なぜ)え」
「だッて厭味ッたらしいもの」
「ナニお前十代の内なら秋毫(ちっと)も厭味なこたア有りゃしないわネ。アノ方が幾程(いくら)宜か知れない、引立(ひッたち)が好くッて」
「フフンそんなに宜きゃア慈母(おッか)さんお做(し)なさいな。人が厭だというものを好々(いいいい)ッて、可笑しな慈母さんだよ」
「好と思ッたから唯好じゃ無いかと云ッたばかしだアネ、それをそんな事いうッて真個(ほんと)にこの娘は可笑しな娘だよ」
お勢はもはや弁難攻撃は不必要と認めたと見えて、何とも言わずに黙してしまッた。それからと云うものは、塞(ふさ)ぐのでもなく萎(しお)れるのでもなく、唯何となく沈んでしまッて、母親が再び談話(はなし)の墜緒(ついしょ)を紹(つご)うと試みても相手にもならず、どうも乙な塩梅(あんばい)であったが、シカシ上野公園に来着いた頃にはまた口をきき出して、また旧(もと)のお勢に立戻ッた。
上野公園の秋景色、彼方此方(かなたこなた)にむらむらと立|駢(なら)ぶ老松奇檜(ろうしょうきかい)は、柯(えだ)を交じえ葉を折重ねて鬱蒼(うっそう)として翠(みどり)も深く、観る者の心までが蒼(あお)く染りそうなに引替え、桜杏桃李(おうきょうとうり)の雑木(ざつぼく)は、老木(おいき)稚木(わかぎ)も押なべて一様に枯葉勝な立姿、見るからがまずみすぼらしい。遠近(おちこち)の木間(このま)隠れに立つ山茶花(さざんか)の一本(ひともと)は、枝一杯に花を持ッてはいれど、㷀々(けいけい)として友欲し気に見える。楓(もみじ)は既に紅葉したのも有り、まだしないのも有る。鳥の音(ね)も時節に連れて哀れに聞える、淋しい……ソラ風が吹通る、一重桜は戦栗(みぶるい)をして病葉(びょうよう)を震い落し、芝生の上に散布(ちりし)いた落葉は魂の有る如くに立上りて、友葉(ともば)を追って舞い歩き、フトまた云合せたように一斉(いっせい)にパラパラと伏(ふさ)ッてしまう。満眸(まんぼう)の秋色|蕭条(しょうじょう)として却々(なかなか)春のきおいに似るべくも無いが、シカシさびた眺望(ながめ)で、また一種の趣味が有る。団子坂へ行く者|皈(かえ)る者が茲処(ここ)で落合うので、処々に人影(ひとかげ)が見える、若い女の笑い動揺(どよ)めく声も聞える。
お勢が散歩したいと云い出したので、三人の者は教育博物館の前で車を降りて、ブラブラ行きながら、石橋を渡りて動物園の前へ出(い)で、車夫には「先へ往ッて観音堂の下辺(したあたり)に待ッていろ」ト命じて其処から車に離れ、真直(まっすぐ)に行ッて、矗立千尺(ちくりゅうせんせき)、空(くう)を摩(な)でそうな杉の樹立の間を通抜けて、東照宮の側面(よこて)へ出た。
折しも其処の裏門より Let(レット) us(アス) go(ゴー) on(オン)(行こう)ト「日本の」と冠詞の付く英語を叫びながらピョッコリ飛出した者が有る。と見れば軍艦|羅紗(ラシャ)の洋服を着て、金鍍金(きんめっき)の徽章(きしょう)を附けた大黒帽子を仰向けざまに被(かぶ)った、年の頃十四歳ばかりの、栗虫のように肥(ふと)った少年で、同遊(つれ)と見える同じ服装(でたち)の少年を顧みて、
「ダガ何か食(くい)たくなったなア」
「食たくなった」
「食たくなってもか……」
ト愚痴ッぽく言懸けて、フトお政と顔を視合わせ、
「ヤ……」
「オヤ勇(いさみ)が……」
ト云う間もなく少年は駈(かけ)出して来て、狼狽(あわ)てて昇に三ツ四ツ辞儀をして、サッと赤面して、
「母親(おっか)さん」
「何を狼狽(あわ)てているんだネー」
「家(うち)へ往ったら……鍋に聞いたら、文さんばッかだッてッたから、僕ア……それだから……」
「お前、モウ試験は済んだのかえ」
「ア済んだ」
「どうだッたえ」
「そんな事よりか、些(すこ)し用が有るから……母親さん……」
ト心有気(こころありげ)に母親の顔を凝視(みつ)めた。
「用が有るなら茲処(ここ)でお言いな」
少年は横目で昇の顔をジロリと視て、
「チョイと此方(こっち)へ来ておくれッてば」
「フンお前の用なら大抵知れたもんだ、また『小遣いが無い』だろう」
「ナニそんな事(こっ)ちゃない」
ト云ッてまた昇の顔を横眼で視て、サッと赤面して、調子外れな高笑いをして、無理矢理に母親を引張ッて、彼方(あちら)の杉の樹の下(もと)へ連れて参ッた。
昇とお勢はブラブラと歩き出して、来るともなく往(ゆ)くともなしに宮の背後(うしろ)に出た。折柄(おりから)四時頃の事とて日影も大分|傾(かたぶ)いた塩梅、立駢(たちなら)んだ樹立の影は古廟(こびょう)の築墻(ついじ)を斑(まだら)に染めて、不忍(しのばず)の池水は大魚の鱗(うろこ)かなぞのように燦(きら)めく。ツイ眼下に、瓦葺(かわらぶき)の大家根(おおやね)の翼然(よくぜん)として峙(そばだ)ッているのが視下される。アレハ大方|馬見所(ばけんじょ)の家根で、土手に隠れて形は見えないが車馬の声が轆々(ろくろく)として聞える。
お勢は大榎(おおえのき)の根方(ねがた)の所で立止まり、翳(さ)していた蝙蝠傘(こうもりがさ)をつぼめてズイと一通り四辺(あたり)を見亘(みわた)し、嫣然(えんぜん)一笑しながら昇の顔を窺(のぞ)き込んで、唐突に、
「先刻(さっき)の方は余程(よっぽど)別嬪でしたネー」
「エ、先刻の方とは」
「ソラ、課長さんの令妹とか仰(おっ)しゃッた」
「ウー誰の事かと思ッたら……そうですネ、随分別嬪ですネ」
「そして家で視たよりか美しくッてネ。それだもんだから……ネ……貴君(あなた)もネ……」
ト眼元と口元に一杯笑いを溜(た)めてジッと昇の貌を凝視(みつ)めて、さてオホホホと吹溢(ふきこ)ぼした。
「アッ失策(しま)ッた、不意を討たれた。ヤどうもおそろ感心、手は二本きりかと思ッたらこれだもの、油断も隙(すき)もなりゃしない」
「それにあの嬢(かた)も、オホホホ何だと見えて、お辞儀する度(たんび)に顔を真赤にして、オホホホホホ」
「トたたみかけて意地目(いじめ)つけるネ、よろしい、覚えてお出でなさい」
「だッて実際の事ですもの」
「シカシあの娘が幾程(いくら)美しいと云ッたッても、何処かの人にゃア……とても……」
「アラ、よう御座んすよ」
「だッて実際の事ですもの」
「オホホホ直ぐ復讐(ふくしゅう)して」
「真(しん)に戯談(じょうだん)は除(の)けて……」
ト言懸ける折しも、官員風の男が十(とお)ばかりになる女の子の手を引いて来蒐(きかか)ッて、両人(ふたり)の容子を不思議そうにジロジロ視ながら行過ぎてしまッた。昇は再び言葉を続(つ)いで、
「戯談は除けて、幾程美しいと云ッたッてあんな娘にゃア、先方(さき)もそうだろうけれども此方(こッち)も気が無い」
「気が無いから横目なんぞ遣いはなさらなかッたのネー」
「マアサお聞きなさい。あの娘ばかりには限らない、どんな美しいのを視たッても気移りはしない。我輩には『アイドル』(本尊)が一人有るから」
「オヤそう、それはお芽出度う」
「ところが一向お芽出度く無い事サ、所謂(いわゆる)鮑(あわび)の片思いでネ。此方(こっち)はその『アイドル』の顔が視たいばかりで、気まりの悪いのも堪(こら)えて毎日々々その家へ遊びに往けば、先方(さき)じゃ五月蠅(うるさい)と云ッたような顔をして口も碌々(ろくろく)きかない」
トあじな眼付をしてお勢の貌をジッと凝視(みつ)めた。その意を暁(さと)ッたか暁らないか、お勢は唯ニッコリして、
「厭な『アイドル』ですネ、オホホホ」
「シカシ考えて見れば此方(こっち)が無理サ、先方(さき)には隠然亭主と云ッたような者が有るのだから。それに……」
「モウ何時でしょう」
「それに想(おもい)を懸けるは宜く無い宜く無いと思いながら、因果とまた思い断(き)る事が出来ない。この頃じゃ夢にまで見る」
「オヤ厭だ……モウ些(ちっ)と彼地(あっち)の方へ行て見ようじゃ有りませんか」
「漸(ようや)くの思いで一所に物観遊山に出るとまでは漕付(こぎつけ)は漕付たけれども、それもほんの一所に歩く而已(のみ)で、慈母(おっか)さんと云うものが始終|傍(そば)に附ていて見れば思う様に談話(はなし)もならず」
「慈母さんと云えば何を做(し)ているんだろうネー」
ト背後(うしろ)を振返ッて観た。
「偶(たまたま)好機会が有ッて言出せば、その通りとぼけておしまいなさるし、考えて見ればつまらんナ」
ト愚痴ッぽくいッた。
「厭ですよ、そんな戯談を仰しゃッちゃ」
ト云ッてお勢が莞爾々々(にこにこ)と笑いながら此方(こちら)を振向いて視て、些(すこ)し真面目(まじめ)な顔をした。昇は萎(しお)れ返ッている。
「戯談と聞かれちゃ填(う)まらない、こう言出すまでにはどの位苦しんだと思いなさる」
ト昇は歎息した。お勢は眼睛(め)を地上に注いで、黙然(もくねん)として一語をも吐かなかッた。
「こう言出したと云ッて、何にも貴嬢(あなた)に義理を欠かして私(わたくし)の望(のぞみ)を遂げようと云うのじゃア無いが、唯貴嬢の口から僅(たッた)一言、『断念(あきら)めろ』と云ッて戴(いただ)きたい。そうすりゃア私もそれを力に断然思い切ッて、今日ぎりでもう貴嬢にもお眼に懸るまい……ネーお勢さん」
お勢は尚お黙然としていて返答をしない。
「お勢さん」
ト云いながら昇が項垂(うなだ)れていた首を振揚げてジッとお勢の顔を窺(のぞ)き込めば、お勢は周章狼狽(どぎまぎ)してサッと顔を※[赤+報のつくり](あか)らめ、漸く聞えるか聞えぬ程の小声で、
「虚言(うそ)ばッかり」
ト云ッて全く差俯向(さしうつむ)いてしまッた。
「アハハハハハ」
ト突如(だしぬけ)に昇が轟然(ごうぜん)と一大笑を発したので、お勢は吃驚(びっくり)して顔を振揚げて視て、
「オヤ厭だ……アラ厭だ……憎らしい本田さんだネー、真面目くさッて人を威(おど)かして……」
ト云ッて悔しそうにでもなく恨めしそうにでもなく、謂(い)わば気まりが悪るそうに莞爾(にっこり)笑ッた。
「お巫山戯(ふざけ)でない」
ト云う声が忽然(こつぜん)背後(うしろ)に聞えたのでお勢が喫驚(びっくり)して振返ッて視ると、母親が帯の間へ紙入を挿(はさ)みながら来る。
「大分(だいぶ)談判が難(むずかし)かッたと見えますネ」
「大きにお待ち遠うさま」
ト云ッてお勢の顔を視て、
「お前、どうしたんだえ、顔を真赤にして」
ト咎(とが)められてお勢は尚お顔を赤くして、
「オヤそう、歩いたら暖(あった)かに成ッたもんだから……」
「マア本田さん聞ておくんなさい、真個(ほんと)にあの児の銭遣(ぜにづか)いの荒いのにも困りますよ。此間(こないだ)ネ試験の始まる前に来て、一円前借して持ッてッたんですよ。それを十日も経たない内にもう使用(つか)ッちまって、またくれろサ。宿所(うち)ならこだわりを附けてやるんだけれども……」
「あんな事を云ッて虚言(うそ)ですよ、慈母(おっか)さんが小遣いを遣りたがるのよ、オホホホ」
ト無理に押出したような高笑をした。
「黙ッてお出で、お前の知ッた事(こっ)ちゃない……こだわりを附けて遣るんだけれども、途中だからと思ッてネ黙ッて五十銭出して遣ッたら、それんばかじゃ足らないから一円くれろと云うんですよ。そうそうは方図が無いと思ッてどうしても遣らなかッたらネ、不承々々に五十銭取ッてしまッてネ、それからまた今度は、明後日(あさって)お友達同志寄ッて飛鳥山(あすかやま)で饂飩会(うどんかい)とかを……」
「オホホホ」
この度(たび)は真に可笑しそうにお勢が笑い出した。昇は荐(しき)りに点頭(うなず)いて、
「運動会」
「そのうんどうかいとか蕎麦(そば)買いとかをするからもう五十銭くれろッてネ、明日(あした)取りにお出でと云ッても何と云ッても聞かずに持ッて往きましたがネ。それも宜いが、憎い事を云うじゃ有りませんか。私(あたし)が『明日お出でか』ト聞いたらネ、『これさえ貰えばもう用は無い、また無くなってから行く』ッて……」
「慈母さん、書生の運動会なら会費と云ッても高が十銭か二十銭位なもんですよ」
「エ、十銭か二十銭……オヤそれじゃ三十銭足駄を履かれたんだよ……」
ト云ッて昇の顔を凝視(みつ)めた。とぼけた顔であッたと見えて、昇もお勢も同時に
「オホホホ」
「アハハハ」 
 
第八回 団子坂の観菊 下 

 

お勢|母子(ぼし)の者の出向いた後(のち)、文三は漸(ようや)く些(すこ)し沈着(おちつい)て、徒然(つくねん)と机の辺(ほとり)に蹲踞(うずくま)ッたまま腕を拱(く)み顋(あご)を襟(えり)に埋めて懊悩(おうのう)たる物思いに沈んだ。
どうも気に懸る、お勢の事が気に懸る。こんな区々たる事は苦に病むだけが損だ損だと思いながら、ツイどうも気に懸ってならぬ。
凡(およ)そ相愛(あいあい)する二ツの心は、一体分身で孤立する者でもなく、又仕ようとて出来るものでもない。故(ゆえ)に一方(かたかた)の心が歓ぶ時には他方(かたかた)の心も共に歓び、一方(かたかた)の心が悲しむ時には他方(かたかた)の心も共に悲しみ、一方(かたかた)の心が楽しむ時には他方(かたかた)の心も共に楽み、一方(かたかた)の心が苦しむ時には他方(かたかた)の心も共に苦しみ、嬉笑(きしょう)にも相感じ怒罵(どば)にも相感じ、愉快適悦、不平|煩悶(はんもん)にも相感じ、気が気に通じ心が心を喚起(よびおこ)し決して齟齬(そご)し扞格(かんかく)する者で無い、と今日が日まで文三は思っていたに、今文三の痛痒(つうよう)をお勢の感ぜぬはどうしたものだろう。
どうも気が知れぬ、文三には平気で澄ましているお勢の心意気が呑込(のみこ)めぬ。
若(も)し相愛(あいあい)していなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉遣いを改め起居動作(たちいふるまい)を変え、蓮葉(はすは)を罷(や)めて優に艶(やさ)しく女性(にょしょう)らしく成る筈(はず)もなし、又今年の夏|一夕(いっせき)の情話に、我から隔(へだて)の関を取除(とりの)け、乙な眼遣(めづかい)をし麁匆(ぞんざい)な言葉を遣って、折節に物思いをする理由(いわれ)もない。
若し相愛(あいあい)していなければ、婚姻(こんいん)の相談が有った時、お勢が戯談(じょうだん)に托辞(かこつ)けてそれとなく文三の肚(はら)を探る筈もなし、また叔母と悶着(もんちゃく)をした時、他人|同前(どうぜん)の文三を庇護(かば)って真実の母親と抗論する理由(いわれ)もない。
「イヤ妄想(ぼうそう)じゃ無い、おれを思っているに違いない……ガ……そのまた思ッているお勢が、そのまた死なば同穴と心に誓った形の影が、そのまた共に感じ共に思慮し共に呼吸生息する身の片割が、従兄弟(いとこ)なり親友なり未来の……夫ともなる文三の鬱々(うつうつ)として楽まぬのを余所(よそ)に見て、行(ゆ)かぬと云ッても勧めもせず、平気で澄まして不知顔(しらぬかお)でいる而已(のみ)か、文三と意気(そり)が合わねばこそ自家(じぶん)も常居(つね)から嫌(きら)いだと云ッている昇如き者に伴われて、物観遊山(ものみゆさん)に出懸けて行く……
「解らないナ、どうしても解らん」
解らぬままに文三が、想像弁別の両刀を執ッて、種々(さまざま)にしてこの気懸りなお勢の冷淡を解剖して見るに、何か物が有ってその中(うち)に籠(こも)っているように思われる、イヤ籠っているに相違ない。が、何だか地体は更に解らぬ。依てさらに又勇気を振起して唯この一点に注意を集め、傍目(わきめ)も触らさず一心不乱に茲処(ここ)を先途(せんど)と解剖して見るが、歌人の所謂(いわゆる)箒木(ははきぎ)で有りとは見えて、どうも解らぬ。文三は徐々(そろそろ)ジレ出した。スルト悪戯(いたずら)な妄想奴(ぼうそうめ)が野次馬に飛出して来て、アアでは無いかこうでは無いかと、真赤な贋物(にせもの)、宛事(あてこと)も無い邪推を掴(つか)ませる。贋物だ邪推だと必ずしも見透かしているでもなく、又必ずしも居ないでもなく、ウカウカと文三が掴(つか)ませられるままに掴んで、あえだり揉(もん)だり円めたり、また引延ばしたりして骨を折て事実(もの)にしてしまい、今目前にその事が出来(しゅったい)したように足掻(あが)きつ※[足へん+宛](もが)きつ四苦八苦の苦楚(くるしみ)を甞(な)め、然(しか)る後フト正眼(せいがん)を得てさて観ずれば、何の事だ、皆夢だ邪推だ取越苦労だ。腹立紛れに贋物を取ッて骨灰微塵(こっぱいみじん)と打砕き、ホッと一息|吐(つ)き敢えずまた穿鑿(せんさく)に取懸り、また贋物を掴ませられてまた事実(もの)にしてまた打砕き、打砕いてはまた掴み、掴んではまた打砕くと、何時(いつ)まで経(た)っても果(はて)しも附かず、始終同じ所に而已(のみ)止ッていて、前へも進まず後へも退(しりぞ)かぬ。そして退いて能(よ)く視(み)れば、尚お何物だか冷淡の中(うち)に在ッて朦朧(もうろう)として見透かされる。
文三ホッと精を尽かした。今はもう進んで穿鑿する気力も竭(つ)き勇気も沮(はば)んだ。乃(すなわ)ち眼を閉じ頭顱(かしら)を抱えて其処(そこ)へ横に倒れたまま、五官を馬鹿にし七情の守(まもり)を解いて、是非も曲直も栄辱も窮達も叔母もお勢も我の吾(われ)たるをも何もかも忘れてしまって、一瞬時なりともこの苦悩この煩悶を解脱(のが)れようと力(つと)め、良(やや)暫(しば)らくの間というものは身動もせず息気(いき)をも吐かず死人の如くに成っていたが、倏忽(たちまち)勃然(むっく)と跳起(はねお)きて、
「もしや本田に……」
ト言い懸けて敢て言い詰めず、宛然(さながら)何か捜索(さがし)でもするように愕然(がくぜん)として四辺(あたり)を環視(みまわ)した。
それにしてもこの疑念は何処(どこ)から生じたもので有ろう。天より降ッたか地より沸いたか、抑(そもそ)もまた文三の僻(ひが)みから出た蜃楼海市(しんろうかいし)か、忽然(こつぜん)として生じて思わずして来(きた)り、恍々惚々(こうこうこつこつ)としてその来所(らいしょ)を知るに由(よ)しなしといえど、何にもせよ、あれ程までに足掻(あが)きつ※[足へん+宛](もが)きつして穿鑿しても解らなかった所謂(いわゆる)冷淡中の一|物(ぶつ)を、今訳もなく造作もなくツイチョット突留めたらしい心持がして、文三覚えず身の毛が弥立(よだ)ッた。
とは云うものの心持は未(いま)だ事実でない。事実から出た心持で無ければウカとは信を措(お)き難い。依て今までのお勢の挙動(そぶり)を憶出(おもいいだ)して熟思審察して見るに、さらにそんな気色(けしき)は見えない。成程お勢はまだ若い、血気も未(いま)だ定らない、志操も或(あるい)は根強く有るまい。が、栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)から馨(こう)ばしく、蛇(じゃ)は一寸にして人を呑む気が有る。文三の眼より見る時はお勢は所謂|女豪(じょごう)の萌芽(めばえ)だ。見識も高尚(こうしょう)で気韻も高く、洒々落々(しゃしゃらくらく)として愛すべく尊(たっと)ぶべき少女であって見れば、仮令(よし)道徳を飾物にする偽君子(ぎくんし)、磊落(らいらく)を粧(よそお)う似而非(えせ)豪傑には、或は欺(あざむ)かれもしよう迷いもしようが、昇如きあんな卑屈な軽薄な犬畜生にも劣った奴に、怪我にも迷う筈はない。さればこそ常から文三には信切でも昇には冷淡で、文三をば推尊していても昇をば軽蔑(けいべつ)している。相愛は相敬の隣に棲(す)む、軽蔑しつつ迷うというは、我輩人間の能く了解し得る事でない。
「シテ見れば大丈夫かしら……ガ……」
トまた引懸りが有る、まだ決徹(さっぱり)しない。文三|周章(あわ)ててブルブルと首を振ッて見たが、それでも未(ま)だ散りそうにもしない。この「ガ」奴(め)が、藕糸孔中(ぐうしこうちゅう)蚊睫(ぶんしょう)の間にも這入(はい)りそうなこの眇然(びょうぜん)たる一小「ガ」奴(め)が、眼の中(うち)の星よりも邪魔になり、地平線上に現われた砲車一片の雲よりも畏(おそ)ろしい。
然り畏ろしい。この「ガ」の先にはどんな不了簡(ふりょうけん)が竊(ひそ)まッているかも知れぬと思えば、文三畏ろしい。物にならぬ内に一刻も早く散らしてしまいたい。シカシ散らしてしまいたいと思うほど尚お散り難(かね)る。しかも時刻の移るに随(したが)ッて枝雲は出来る、砲車雲(もとぐも)は拡(ひろ)がる、今にも一大|颶風(ぐふう)が吹起りそうに見える。気が気で無い……
国|許(もと)より郵便が参ッた。散らし薬には崛竟(くっきょう)の物が参ッた。飢えた蒼鷹(くまだか)が小鳥を抓(つか)むのはこんな塩梅(あんばい)で有ろうかと思う程に文三が手紙を引掴(ひっつか)んで、封目(ふうじめ)を押切ッて、故意(わざ)と声高(こわだか)に読み出したが、中頃に至ッて……フト黙して考えて……また読出して……また黙して……また考えて……遂(つい)に天を仰いで轟然(ごうぜん)と一大笑を発した。何を云うかと思えば、
「お勢を疑うなんぞと云ッて我(おれ)も余程(よっぽど)どうかしている、アハハハハ。帰ッて来たら全然(すっかり)咄(はな)して笑ッてしまおう、お勢を疑うなんぞと云ッて、アハハハハ」
この最後の大笑で砲車雲(ほうしゃうん)は全く打払ッたが、その代り手紙は何を読んだのだか皆無(かいむ)判(わか)らない。
ハッと気を取直おして文三が真面目(まじめ)に成ッて落着いて、さて再び母の手紙を読んで見ると、免職を知らせた手紙のその返辞で、老耋(としよって)の悪い耳、愚痴を溢(こぼ)したり薄命を歎(なげ)いたりしそうなものの、文(ふみ)の面(おもて)を見ればそんなけびらいは露程もなく、何もかも因縁(いんねん)ずくと断念(あきら)めた思切りのよい文言(もんごん)。シカシさすがに心細いと見えて、返えす書(がき)に、跡で憶出して書加えたように薄墨で、
こう申せばそなたはお笑い被成候(なされそうろう)かは存じ不申(もうさず)候えども、手紙の着きし当日より一日も早く旧(もと)のようにお成り被成(なされ)候ように○○(どこそこ)のお祖師さまへ茶断(ちゃだち)して願掛け致しおり候まま、そなたもその積りにて油断なく御奉公口をお尋ね被成度(なされたく)念じ※[「参らせ候」のくずし字](まいらせそろ)。
文三は手紙を下に措(お)いて、黙然(もくぜん)として腕を拱(く)んだ。
叔母ですら愛想(あいそ)を尽かすに、親なればこそ子なればこそ、ふがいないと云ッて愚痴をも溢さず茶断までして子を励ます、その親心を汲分(くみわ)けては難有泪(ありがたなみだ)に暮れそうなもの、トサ文三自分にも思ッたが、どうしたものか感涙も流れず、唯|何(なに)となくお勢の帰りが待遠しい。
「畜生、慈母(おっか)さんがこれ程までに思ッて下さるのに、お勢なんぞの事を……不孝極まる」
ト熱気(やっき)として自ら叱責(しか)ッて、お勢の貌(かお)を視るまでは外出(そとで)などを做(し)たく無いが、故意(わざ)と意地悪く、
「これから往って頼んで来よう」
ト口に言って、「お勢の帰って来ない内に」ト内心で言足しをして、憤々(ぷんぷん)しながら晩餐(ばんさん)を喫して宿所を立出(たちい)で、疾足(あしばや)に番町(ばんちょう)へ参って知己を尋ねた。
知己と云うは石田|某(なにがし)と云って某学校の英語の教師で、文三とは師弟の間繋(あいだがら)、曾(かつ)て某省へ奉職したのも実はこの男の周旋で。
この男は曾て英国に留学した事が有るとかで英語は一通り出来る。当人の噺(はなし)に拠(よ)れば彼地(あちら)では経済学を修めて随分上出来の方で有ったと云う事で、帰朝後も経済学で立派に押廻わされるところでは有るが、少々|仔細(しさい)有ッて当分の内(七八年来の当分の内で)、唯の英語の教師をしていると云う事で。
英国の学者社会に多人数(たにんず)知己が有る中に、かの有名の「ハルベルト・スペンセル」とも曾て半面の識が有るが、シカシもう七八年も以前の事ゆえ、今面会したら恐らくは互に面忘(おもわす)れをしているだろうと云う、これも当人の噺(はなし)で。
ともかくもさすがは留学しただけ有りて、英国の事情、即(すなわ)ち上下(じょうか)議院の宏壮(こうそう)、竜動府(ロンドンふ)市街の繁昌、車馬の華美、料理の献立、衣服|杖履(じょうり)、日用諸雑品の名称等、凡(すべ)て閭巷猥瑣(りょこうわいさ)の事には能(よ)く通暁(つうぎょう)していて、骨牌(かるた)を弄(もてあそ)ぶ事も出来、紅茶の好悪(よしあし)を飲別ける事も出来、指頭で紙巻烟草(シガレット)を製する事も出来、片手で鼻汁(はな)を拭(ふ)く事も出来るが、その代り日本の事情は皆無解らない。
日本の事情は皆無解らないが当人は一向苦にしない。啻(ただ)苦にしないのみならず、凡そ一切の事一切の物を「日本の」トさえ冠詞が附けば則(すなわ)ち鼻息でフムと吹飛ばしてしまって、そして平気で済ましている。
まだ中年の癖に、この男はあだかも老人の如くに過去の追想|而已(のみ)で生活している。人に逢(あ)えば必ず先(ま)ず留学していた頃の手柄噺(てがらばなし)を咄(はな)し出す。尤(もっと)もこれを封じてはさらに談話(はなし)の出来ない男で。
知己の者はこの男の事を種々(さまざま)に評判する。或(あるい)は「懶惰(らんだ)だ」ト云い、或は「鉄面皮(てつめんぴ)だ」ト云い、或は「自惚(うぬぼれ)だ」ト云い、或は「法螺吹(ほらふ)きだ」と云う。この最後の説だけには新知故交|統括(ひっくる)めて総起立、薬種屋の丁稚(でっち)が熱に浮かされたように「そうだ」トいう。
「シカシ、毒が無くッて宜(いい)」と誰だか評した者が有ッたが、これは極めて確評で、恐らくは毒が無いから懶惰で鉄面皮で自惚で法螺を吹くので、ト云ッたら或は「イヤ懶惰で鉄面皮で自惚で法螺を吹くから、それで毒が無いように見えるのだ」ト云う説も出ようが、ともかくも文三はそう信じているので。
尋ねて見ると幸い在宿、乃(すなわ)ち面会して委細を咄して依頼すると、「よろしい承知した」ト手軽な挨拶(あいさつ)。文三は肚(はら)の裏(うち)で、「毒がないから安請合をするが、その代り身を入れて周旋はしてくれまい」と思ッて私(ひそか)に嘆息した。
「これが英国だと君一人位どうでもなるんだが、日本だからいかん。我輩こう見えても英国にいた頃は随分知己が有ったものだ。まず『タイムス』新聞の社員で某(それがし)サ、それから……」
ト記憶に存した知己の名を一々言い立てての噺、屡々(しばしば)聞いて耳にタコが入(い)ッている程では有るが、イエそのお噺ならもう承りましたとも言兼ねて、文三も始めて聞くような面相(かおつき)をして耳を借している。そのジレッタサもどかしさ、モジモジしながらトウトウ二時間ばかりというもの無間断(のべつ)に受けさせられた。その受賃という訳でも有るまいが帰り際(ぎわ)になって、
「新聞の翻訳物が有るから周旋しよう。明後日(あさって)午後に来給(きたま)え、取寄せて置こう」
トいうから文三は喜びを述べた。
「フン新聞か……日本の新聞は英国の新聞から見りゃ全(まる)で小児(こども)の新聞だ、見られたものじゃない……」
文三は狼狽(あわ)てて告別(わかれ)の挨拶を做直(しな)おして梶X(そこそこ)に戸外(おもて)へ立出で、ホッと一息|溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
早くお勢に逢いたい、早くつまらぬ心配をした事を咄してしまいたい、早く心の清い所を見せてやりたい、ト一心に思詰めながら文三がいそいそ帰宅して見るとお勢はいない。お鍋に聞けば、一旦(いったん)帰ってまた入湯に往ったという。文三|些(すこ)し拍子抜(ひょうしぬ)けがした。
居間へ戻ッて燈火を点じ、臥(ね)て見たり起きて見たり、立て見たり坐ッて見たりして、今か今かと文三が一刻千秋の思いをして頸(くび)を延ばして待構えていると、頓(やが)て格子戸(こうしど)の開く音がして、縁側に優しい声がして、梯子段(はしごだん)を上る跫音(あしおと)がして、お勢が目前に現われた。と見れば常さえ艶(つや)やかな緑の黒髪は、水気(すいき)を含んで天鵞絨(びろうど)をも欺むくばかり、玉と透徹る肌(はだえ)は塩引の色を帯びて、眼元にはホンノリと紅(こう)を潮(ちょう)した塩梅(あんばい)、何処やらが悪戯(いたずら)らしく見えるが、ニッコリとした口元の塩らしいところを見ては是非を論ずる遑(いとま)がない。文三は何もかも忘れてしまッて、だらしも無くニタニタと笑いながら、
「お皈(かえん)なさい。どうでした団子坂は」
「非常に雑沓(ざっとう)しましたよ、お天気が宜(いい)のに日曜だッたもんだから」
ト言いながら膝(ひざ)から先へベッタリ坐ッて、お勢は両手で嬌面(かお)を掩(おお)い、
「アアせつない、厭(いや)だと云うのに本田さんが無理にお酒を飲まして」
「母親(おっか)さんは」
ト文三が尋ねた、お勢が何を言ッたのだかトント解らないようで。
「お湯から買物に回ッて……そしてネ自家(じぶん)もモウ好加減に酔てる癖に、私が飲めないと云うとネ、助(す)けて遣(や)るッてガブガブそれこそ牛飲(ぎゅういん)したもんだから、究竟(しまい)にはグデングデンに酔てしまッて」
ト聞いて文三は満面の笑を半(なかば)引込ませた。
「それからネ、私共を家へ送込んでから、仕様が無いんですものヲ、巫山戯(ふざけ)て巫山戯て。それに慈母(おっか)さんも悪いのよ、今夜だけは大眼に看て置くなんぞッて云うもんだから好気(いいき)になって尚お巫山戯て……オホホホ」
ト思出し笑をして、
「真個(ほんと)に失敬な人だよ」
文三は全く笑を引込ませてしまッて腹立しそうに、
「そりゃさぞ面白かッたでしょう」
ト云ッて顔を皺(しか)めたが、お勢はさらに気が附かぬ様子。暫(しば)らく黙然として何か考えていたが、頓(やが)てまた思出し笑をして、
「真個に失敬な人だよ」
つまらぬ心配をした事を全然(すっぱり)咄(はな)して、快よく一笑に付して、心の清いところを見せて、お勢に……お勢に……感信させて、そして自家(じぶん)も安心しようという文三の胸算用は、ここに至ッてガラリ外れた。昇が酒を強(し)いた、飲めぬと云ッたら助(す)けた、何でも無い事。送り込んでから巫山戯(ふざけ)た……道学先生に聞かせたら巫山戯させて置くのが悪いと云うかも知れぬが、シカシこれとても酒の上の事、一時の戯(たわむれ)ならそう立腹する訳にもいかなかッたろう。要するにお勢の噺(はなし)に於(おい)て深く咎(とが)むべき節も無い。がシカシ文三には気に喰わぬ、お勢の言様(いいよう)が気に喰わぬ。「昇如き犬畜生にも劣ッた奴の事を、そう嬉(うれ)しそうに『本田さん本田さん』ト噂(うわさ)をしなくても宜さそうなものだ」トおもえばまた不平に成ッて、また面白く無くなッて、またお勢の心意気が呑込(のみこ)めなく成ッた。文三は差俯向(さしうつむ)いたままで黙然(もくねん)として考えている。
「何をそんなに塞(ふさ)いでお出でなさるの」
「何も塞いじゃいません」
「そう、私はまたお留(とめ)さん(大方老母が文三の嫁に欲しいと云ッた娘の名で)とかの事を懐出(おもいだ)して、それで塞いでお出でなさるのかと思ッたら、オホホホ」
文三は愕然としてお勢の貌を暫らく凝視(みつ)めて、ホッと溜息を吐いた。
「オホホホ溜息をして。やっぱり当ッたんでしょう、ネそうでしょう、オホホホ。当ッたもんだから黙ッてしまッて」
「そんな気楽じゃ有りません。今日母の所から郵便が来たから読(よん)で見れば、私のこういう身に成ッたを心配して、この頃じゃ茶断して願掛けしているそうだシ……」
「茶断して、慈母さんが、オホホホ。慈母さんもまだ旧弊だ事ネー」
文三はジロリとお勢を尻眼(しりめ)に懸けて、恨めしそうに、
「貴嬢(あなた)にゃ可笑(おか)しいか知らんが私(わたくし)にゃさっぱり可笑しく無い。薄命とは云いながら私の身が定(きま)らんばかりで、老耋(としよ)ッた母にまで心配掛けるかと思えば、随分……耐(たま)らない。それに慈母さんも……」
「また何とか云いましたか」
「イヤ何とも仰(おっ)しゃりはしないが、アレ以来始終|気不味(きまず)い顔ばかりしていて打解けては下さらんシ……それに……それに……」
「貴嬢(あなた)も」ト口頭(くちさき)まで出たが、どうも鉄面皮(あつかま)しく嫉妬(じんすけ)も言いかねて思い返してしまい、
「ともかくも一日も早く身を定(き)めなければ成らぬと思ッて、今も石田の所へ往ッて頼んでは来ましたが、シカシこれとても宛にはならんシ、実に……弱りました。唯私一人苦しむのなら何でもないが、私の身が定(きま)らぬ為めに『方々(ほうぼう)』が我他彼此(がたぴし)するので誠に困る」
ト萎(しお)れ返ッた。
「そうですネー」
ト今まで冴(さ)えに冴えていたお勢もトウトウ引込まれて、共に気をめいらしてしまい、暫らくの間黙然としてつまらぬものでいたが、やがて小さな欠伸(あくび)をして、
「アア寐(ね)むく成ッた、ドレもう往ッて寐ましょう。お休みなさいまし」
ト会釈(えしゃく)をして起上(たちあが)ッてフト立止まり、
「アそうだッけ……文さん、貴君はアノー課長さんの令妹(おいもとご)を御存知」
「知りません」
「そう、今日ネ、団子坂でお眼に懸ッたの。年紀(とし)は十六七でネ、随分|別品(べっぴん)は……別品だッたけれども、束髪の癖にヘゲル程|白粉(おしろい)を施(つ)けて……薄化粧なら宜けれども、あんなに施けちゃア厭味ッたらしくッてネー……オヤ好気なもんだ、また噺込(はなしこ)んでいる積りだと見えるよ。お休みなさいまし」
ト再び会釈してお勢は二階を降りてしまッた。
縁側で唯今帰ッたばかりの母親に出逢ッた。
「お勢」
「エ」
「エじゃないよ、またお前二階へ上ッてたネ」
また始まッたと云ッたような面相(かおつき)をして、お勢は返答をもせずそのまま子舎(へや)へ這入(はい)ッてしまッた。
さて子舎へ這入ッてからお勢は手疾(てばや)く寐衣(ねまき)に着替えて床へ這入り、暫らくの間|臥(ね)ながら今日の新聞を覧(み)ていたが……フト新聞を取落した。寐入ッたのかと思えばそうでもなく、眼はパッチリ視開(みひら)いている、その癖静まり返ッていて身動きをもしない。やがて、
「何故(なぜ)アア不活溌(ふかっぱつ)だろう」
ト口へ出して考えて、フト両足(りょうそく)を蹈延(ふみの)ばして莞然(にっこり)笑い、狼狽(あわ)てて起揚(おきあが)ッて枕頭(まくらもと)の洋燈(ランプ)を吹消してしまい、枕に就いて二三度|臥反(ねかえ)りを打ッたかと思うと間も無くスヤスヤと寐入ッた。 
 
第九回 すわらぬ肚(はら) 

 

今日は十一月四日、打続いての快晴で空は余残(なごり)なく晴渡ッてはいるが、憂愁(うれい)ある身の心は曇る。文三は朝から一室(ひとま)に垂籠(たれこ)めて、独り屈托(くったく)の頭(こうべ)を疾(や)ましていた。実は昨日(きのう)朝飯(あさはん)の時、文三が叔母に対(むかっ)て、一昨日(おととい)教師を番町に訪うて身の振方を依頼して来た趣を縷々(るる)咄(はな)し出したが、叔母は木然(ぼくぜん)として情|寡(すくな)き者の如く、「ヘー」ト余所事(よそごと)に聞流していてさらに取合わなかッた、それが未(いま)だに気になって気になってならないので。
一時頃に勇(いさみ)が帰宅したとて遊びに参ッた。浮世の塩を踏まぬ身の気散じさ、腕押、坐相撲(すわりずもう)の噺(はなし)、体操、音楽の噂(うわさ)、取締との議論、賄方(まかないかた)征討の義挙から、試験の模様、落第の分疏(いいわけ)に至るまで、凡(およ)そ偶然に懐(むね)に浮んだ事は、月足らずの水子(みずこ)思想、まだ完成(まとまっ)ていなかろうがどうだろうがそんな事に頓着(とんじゃく)はない、訥弁(とつべん)ながらやたら無性に陳(なら)べ立てて返答などは更に聞ていぬ。文三も最初こそ相手にも成ていたれ、遂(つい)にはホッと精を尽かしてしまい、勇には随意に空気を鼓動さして置いて、自分は自分で余所事(よそごと)を、と云たところがお勢の上や身の成行で、熟思黙想しながら、折々|間外(まはず)れな溜息(ためいき)噛交(かみま)ぜの返答をしていると、フトお勢が階子段(はしごだん)を上(のぼ)ッて来て、中途から貌(かお)而已(のみ)を差出して、
「勇」
「だから僕(ぼか)ア議論して遣(や)ッたんだ。ダッテ君、失敬じゃないか。『ボート』の順番を『クラッス』(級)の順番で……」
「勇と云えば。お前の耳は木くらげかい」
「だから何だと云ッてるじゃ無いか」
「綻(ほころび)を縫てやるからシャツをお脱ぎとよ」
勇はシャツを脱ぎながら、
「『クラッス』の順番で定(き)めると云うんだもの、『ボート』の順番を『クラッス』の順番で定めちゃア、僕ア何だと思うな、僕ア失敬だと思うな。だって君、『ボート』は……」
「さッさとお脱ぎで無いかネー、人が待ているじゃ無いか」
「そんなに急がなくッたッて宜(いい)やアネ、失敬な」
「誰方(どっち)が失敬だ……アラあんな事言ッたら尚(な)お故意(わざ)と愚頭々々(ぐずぐず)しているよ。チョッ、ジレッタイネー、早々(さっさ)としないと姉さん知らないから宜(い)い」
「そんな事云うなら Bridle(ブライドル) path(パッス) と云う字を知てるか、I(アイ) was(ウォズ) at(エット) our(アワー) uncle's(アンクルス) ト云う事知てるか、I(アイ) will(ウィル) keep(キープ) your(ユアー)……」
「チョイとお黙り……」
ト口早に制して、お勢が耳を聳(そばだ)てて何か聞済まして、忽(たちま)ち満面に笑(わらい)を含んでさも嬉(うれ)しそうに、
「必(きっ)と本田さんだよ」
ト言いながら狼狽(あわ)てて梯子段(はしごだん)を駈下(かけお)りてしまッた。
「オイオイ姉さん、シャツを持ッてッとくれッてば……オイ……ヤ失敬な、モウ往(いっ)ちまッた。渠奴(あいつ)近頃生意気になっていかん。先刻(さっき)も僕ア喧嘩(けんか)して遣たんだ。婦人(おんな)の癖に園田勢子と云う名刺(なふだ)を拵(こし)らえるッてッたから、お勢ッ子で沢山だッてッたら、非常に憤(おこ)ッたッけ」
「アハハハハ」
ト今まで黙想していた文三が突然無茶苦茶に高笑を做出(しだ)したが、勿論(もちろん)秋毫(すこし)も可笑(おか)しそうでは無かッた。シカシ少年の議論家は称讃(しょうさん)されたのかと思ッたと見えて、
「お勢ッ子で沢山だ、婦人の癖にいかん、生意気で」
ト云いながら得々として二階を降りて往た。跡で文三は暫(しば)らくの間また腕を拱(く)んで黙想していたが、フト何か憶出(おもいだ)したような面相(かおつき)をして、起上(たちあが)ッて羽織だけを着替えて、帽子を片手に二階を降りた。
奥の間の障子を開けて見ると、果して昇が遊(あそび)に来ていた。しかも傲然(ごうぜん)と火鉢(ひばち)の側(かたわら)に大胡坐(おおあぐら)をかいていた。その傍(そば)にお勢がベッタリ坐ッて、何かツベコベと端手(はした)なく囀(さえず)ッていた。少年の議論家は素肌(すはだ)の上に上衣(うわぎ)を羽織ッて、仔細(しさい)らしく首を傾(かし)げて、ふかし甘薯(いも)の皮を剥(む)いてい、お政は囂々(ぎょうぎょう)しく針箱を前に控えて、覚束(おぼつか)ない手振りでシャツの綻(ほころび)を縫合わせていた。
文三の顔を視(み)ると、昇が顔で電光(いなびかり)を光らせた、蓋(けだ)し挨拶(あいさつ)の積(つもり)で。お勢もまた後方(うしろ)を振反ッて顧(み)は顧たが、「誰かと思ッたら」ト云わぬばかりの索然とした情味の無い面相(かおつき)をして、急にまた彼方(あちら)を向いてしまッて、
「真個(ほんとう)」
ト云いながら、首を傾げてチョイと昇の顔を凝視(みつ)めた光景(ようす)。
「真個さ」
「虚言(うそ)だと聴きませんよ」
アノ筋の解らない他人の談話(はなし)と云う者は、聞いて余り快くは無いもので。
「チョイと番町まで」ト文三が叔母に会釈(えしゃく)をして起上(たちあが)ろうとすると、昇が、
「オイ内海、些(すこ)し噺が有る」
「些(ち)と急ぐから……」
「此方(こっち)も急ぐんだ」
文三はグット視下ろす、昇は視上げる、眼と眼を疾視合(にらみあ)わした、何だか異(おつ)な塩梅(あんばい)で。それでも文三は渋々ながら坐舗(ざしき)へ這入(はい)ッて坐に着いた。
「他の事でも無いんだが」
ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。スルトお政はフト針仕事の手を止(とど)めて不思議そうに昇の貌(かお)を凝視(みつ)めた。
「今日役所での評判に、この間免職に成た者の中(うち)で二三人復職する者が出来るだろうと云う事だ。そう云やア課長の談話に些し思当る事も有るから、或(あるい)は実説だろうかと思うんだ。ところで我輩考えて見るに、君が免職になったので叔母さんは勿論お勢さんも……」
ト云懸けてお勢を尻眼(しりめ)に懸けてニヤリと笑ッた。お勢はお勢で可笑(おか)しく下唇(したくちびる)を突出して、ムッと口を結んで、額(ひたえ)で昇を疾視付(にらみつ)けた。イヤ疾視付ける真似(まね)をした。
「お勢さんも非常に心配してお出(い)でなさるシ、かつ君だッてもナニモ遊(あす)んでいて食えると云う身分でも有るまいシするから、若(も)し復職が出来ればこの上も無いと云ッたようなもんだろう。ソコデ若し果してそうならば、宜(よろ)しく人の定(きま)らぬ内に課長に呑込(のみこ)ませて置く可(べ)しだ。がシカシ君の事(こっ)たから今更|直付(じかづ)けに往(い)き難(にく)いとでも思うなら、我輩一|臂(ぴ)の力を仮しても宜しい、橋渡(はしわたし)をしても宜しいが、どうだお思食(ぼしめし)は」
「それは御信切……難有(ありがた)いが……」
ト言懸けて文三は黙してしまった。迷惑は匿(かく)しても匿し切れない、自(おのずか)ら顔色(がんしょく)に現われている。モジ付く文三の光景(ようす)を視て昇は早くもそれと悟ッたか、
「厭(いや)かネ、ナニ厭なものを無理に頼んで周旋しようと云うんじゃ無いから、そりゃどうとも君の随意サ、ダガシカシ……痩(やせ)我慢なら大抵にして置く方が宜かろうぜ」
文三は血相を変えた……
「そんな事|仰(おっ)しゃるが無駄(むだ)だよ」
トお政が横合から嘴(くちばし)を容(い)れた。
「内の文さんはグッと気位が立上ってお出でだから、そんな卑劣(しれつ)な事ア出来ないッサ」
「ハハアそうかネ、それは至極お立派な事(こっ)た。ヤこれは飛(とん)だ失敬を申し上げました、アハハハ」
ト聞くと等しく文三は真青(まっさお)に成ッて、慄然(ぶるぶる)と震え出して、拳(こぶし)を握ッて歯を喰切(くいしば)ッて、昇の半面をグッと疾視付(にらみつ)けて、今にもむしゃぶり付きそうな顔色をした……が、ハッと心を取直して、
「エヘヘヘヘ」
何となく席がしらけた。誰も口をきかない。勇がふかし甘薯(いも)を頬張(ほおば)ッて、右の頬を脹(ふく)らませながら、モッケな顔をして文三を凝視(みつ)めた。お勢もまた不思議そうに文三を凝視めた。
「お勢が顔を視ている……このままで阿容々々(おめおめ)と退(しりぞ)くは残念、何か云ッて遣りたい、何かコウ品の好(い)い悪口雑言、一|言(ごん)の下(もと)に昇を気死(きし)させる程の事を云ッて、アノ鼻頭(はなづら)をヒッ擦(こす)ッて、アノ者面(しゃッつら)を※[赤+報のつくり](あか)らめて……」トあせるばかりで凄(すご)み文句は以上見附からず、そしてお勢を視れば、尚(な)お文三の顔を凝視めている……文三は周章狼狽(どぎまぎ)とした……
「モウそ……それッきりかネ」
ト覚えず取外して云って、我ながら我音声の変ッているのに吃驚(びっくり)した。
「何が」
またやられた。蒼(あお)ざめた顔をサッと※[赤+報のつくり]らめて文三が、
「用事は……」
「ナニ用事……ウー用事か、用事と云うから判(わか)らない……さよう、これッきりだ」
モウ席にも堪えかねる。黙礼するや否(いな)や文三が蹶然(けつぜん)起上(たちあが)ッて坐舗を出て二三歩すると、後(うしろ)の方でドッと口を揃(そろ)えて高笑いをする声がした。文三また慄然(ぶるぶる)と震えてまた蒼ざめて、口惜(くちお)しそうに奥の間の方を睨詰(にらみつ)めたまま、暫らくの間|釘付(くぎづ)けに逢(あ)ッたように立在(たたずん)でいたが、やがてまた気を取直おして悄々(すごすご)と出て参ッた。
が文三無念で残念で口惜しくて、堪え切れぬ憤怒の気がカッとばかりに激昂(げっこう)したのをば無理無体に圧着(おしつ)けた為めに、発しこじれて内攻して胸中に磅礴(ほうはく)鬱積する、胸板が張裂ける、腸(はらわた)が断絶(ちぎ)れる。
無念々々、文三は耻辱(ちじょく)を取ッた。ツイ近属(ちかごろ)と云ッて二三日前までは、官等に些(ち)とばかりに高下は有るとも同じ一課の局員で、優(まさ)り劣りが無ければ押しも押されもしなかッた昇如き犬自物(いぬじもの)の為めに耻辱を取ッた、然(しか)り耻辱を取ッた。シカシ何の遺恨が有ッて、如何(いか)なる原因が有ッて。
想(おも)うに文三、昇にこそ怨(うらみ)はあれ、昇に怨みられる覚えは更にない。然るに昇は何の道理も無く何の理由も無く、あたかも人を辱(はずかし)める特権でも有(もっ)ているように、文三を土芥(どかい)の如くに蔑視(みくだ)して、犬猫の如くに待遇(とりあつか)ッて、剰(あまつさ)え叔母やお勢の居る前で嘲笑(ちょうしょう)した、侮辱した。
復職する者が有ると云う役所の評判も、課長の言葉に思当る事が有ると云うも、昇の云う事なら宛(あて)にはならぬ。仮令(よし)それ等は実説にもしろ、人の痛いのなら百年も我慢すると云う昇が、自家(じぶん)の利益を賭物(かけもの)にして他人の為めに周旋しようと云う、まずそれからが呑込めぬ。
仮りに一歩を譲ッて、全く朋友(ほうゆう)の信実心からあの様な事を言出したとしたところで、それならそれで言様(いいよう)が有る。それを昇は、官途を離れて零丁孤苦(れいていこく)、みすぼらしい身に成ッたと云ッて文三を見括(みくび)ッて、失敬にも無礼にも、復職が出来たらこの上が無かろうト云ッた。
それも宜しいが、課長は昇の為めに課長なら、文三の為めにもまた課長だ。それを昇は、あだかも自家(うぬ)一個(ひとり)の課長のように、課長々々とひけらかして、頼みもせぬに「一|臂(び)の力を仮してやろう、橋渡しをしてやろう」と云ッた。
疑いも無く昇は、課長の信用、三文不通の信用、主人が奴僕(ぬぼく)に措く如き信用を得ていると云ッて、それを鼻に掛けているに相違ない。それも己(うぬ)一個(ひとり)で鼻に掛けて、己(うぬ)一個(ひとり)でひけらかして、己(うぬ)と己(うぬ)が愚(ぐ)を披露(ひろう)している分の事なら空家で棒を振ッたばかり、当り触りが無ければ文三も黙ッてもいよう、立腹もすまいが、その三文信用を挟(さしはさ)んで人に臨んで、人を軽蔑して、人を嘲弄(ちょうろう)して、人を侮辱するに至ッては文三腹に据(す)えかねる。
面と向ッて図(ず)大柄(おおへい)に、「痩我慢なら大抵にしろ」と昇は云ッた。
痩我慢々々々、誰が痩我慢していると云ッた、また何を痩我慢していると云ッた。
俗務をおッつくねて、課長の顔色を承(う)けて、強(しい)て笑ッたり諛言(ゆげん)を呈したり、四(よつ)ン這(ばい)に這廻わッたり、乞食(こつじき)にも劣る真似をして漸(ようや)くの事で三十五円の慈恵金(じえきん)に有附いた……それが何処(どこ)が栄誉になる。頼まれても文三にはそんな卑屈な真似は出来ぬ。それを昇は、お政如き愚痴無知の婦人に持長(もちちょう)じられると云ッて、我程(おれほど)働き者はないと自惚(うぬぼれ)てしまい、しかも廉潔(れんけつ)な心から文三が手を下げて頼まぬと云えば、嫉(ねた)み妬(そね)みから負惜しみをすると臆測(おくそく)を逞(たくましゅ)うして、人も有ろうにお勢の前で、
「痩我慢なら大抵にしろ」
口惜しい、腹が立つ。余(よ)の事はともかくも、お勢の目前で辱められたのが口惜しい。
「しかも辱められるままに辱められていて、手出(てだし)もしなかッた」
ト何処でか異(おつ)な声が聞えた。
「手出がならなかッたのだ、手出がなっても為得(しえ)なかッたのじゃない」
ト文三|憤然(やっき)として分疏(いいわけ)を為出(しだ)した。
「我(おれ)だッて男児だ、虫も有る胆気も有る。昇なんぞは蚊蜻蛉(かとんぼ)とも思ッていぬが、シカシあの時|憖(なま)じ此方(こっち)から手出をしては益々向うの思う坪に陥(はま)ッて玩弄(がんろう)されるばかりだシ、かつ婦人の前でも有ッたから、為難(しにく)い我慢もして遣ッたんだ」
トは知らずしてお勢が、怜悧(れいり)に見えても未惚女(おぼこ)の事なら、蟻(あり)とも螻(けら)とも糞中(ふんちゅう)の蛆(うじ)とも云いようのない人非人、利の為(た)めにならば人糞をさえ甞(な)めかねぬ廉耻(れんち)知らず、昇如き者の為めに文三が嘲笑されたり玩弄されたり侮辱されたりしても手出をもせず阿容々々(おめおめ)として退(しりぞ)いたのを視て、或(あるい)は不甲斐(ふがい)ない意久地が無いと思いはしなかッたか……仮令(よし)お勢は何とも思わぬにしろ、文三はお勢の手前面目ない、耻(はず)かしい……
「ト云うも昇、貴様から起ッた事だぞ、ウヌどうするか見やがれ」
ト憤然(やっき)として文三が拳を握ッて歯を喰切(くいしば)ッて、ハッタとばかりに疾視付(にらみつ)けた。疾視付けられた者は通りすがりの巡査で、巡査は立止ッて不思議そうに文三の背長(せたけ)を眼分量に見積ッていたが、それでも何とも言わずにまた彼方(あちら)の方へと巡行して往ッた。
愕然(がくぜん)として文三が、夢の覚めたような面相(かおつき)をしてキョロキョロと四辺(あたり)を環視(みま)わして見れば、何時(いつ)の間にか靖国(やすくに)神社の華表際(とりいぎわ)に鵠立(たたずん)でいる。考えて見ると、成程|俎橋(まないたばし)を渡ッて九段坂を上ッた覚えが微(かすか)に残ッている。
乃(すなわ)ち社内へ進入(すすみい)ッて、左手の方の杪枯(うらが)れた桜の樹の植込みの間へ這入ッて、両手を背後に合わせながら、顔を皺(しか)めて其処此処(そこここ)と徘徊(うろつ)き出した。蓋(けだ)し、尋ねようと云う石田の宿所は後門(うらもん)を抜ければツイ其処では有るが、何分にも胸に燃す修羅苦羅(しゅらくら)の火の手が盛(さかん)なので、暫らく散歩して余熱(ほとぼり)を冷ます積りで。
「シカシ考えて見ればお勢も恨みだ」
ト文三が徘徊(うろつ)きながら愚痴を溢(こぼ)し出した。
「現在自分の……我(おれ)が、本田のような畜生に辱められるのを傍観していながら、悔しそうな顔もしなかッた……平気で人の顔を視ていた……」
「しかも立際に一所に成ッて高笑いをした」ト無慈悲な記臆が用捨なく言足(いいたし)をした。
「そうだ高笑いをした……シテ見れば弥々(いよいよ)心変りがしているかしらん……」
ト思いながら文三が力無さそうに、とある桜の樹の下(もと)に据え付けてあッたペンキ塗りの腰掛へ腰を掛ける、と云うよりは寧(むし)ろ尻餅(しりもち)を搗(つ)いた。暫らくの間は腕を拱(く)んで、顋(あご)を襟(えり)に埋(うず)めて、身動きをもせずに静(しずま)り返ッて黙想していたが、忽(たちま)ちフッと首を振揚げて、
「ヒョットしたらお勢に愛想(あいそ)を尽かさして……そして自家(じぶん)の方に靡(な)びかそうと思ッて……それで故意(わざ)と我(おれ)を……お勢のいる処で我を……そういえばアノ言様(いいざま)、アノ……お勢を視た眼付き……コ、コ、コリャこのままには措けん……」
ト云ッて文三は血相を変えて突起上(つったちあが)ッた。
がどうしたもので有ろう。
何かコウ非常な手段を用いて、非常な豪胆を示して、「文三は男児だ、虫も胆気もこの通り有る、今まで何と言われても笑ッて済ましていたのはな、全く恢量大度(かいりょうたいど)だからだぞ、無気力だからでは無いぞ」ト口で言わんでも行為(ぎょうい)で見付(みせつ)けて、昇の胆(たん)を褫(うば)ッて、叔母の睡(ねぶり)を覚まして、若し愛想を尽かしているならばお勢の信用をも買戻して、そして……そして……自分も実に胆気が有ると……確信して見たいが、どうしたもので有ろう。
思うさま言ッて言ッて言いまくッて、そして断然絶交する……イヤイヤ昇も仲々|口強馬(くちごわうま)、舌戦は文三の得策でない。と云ッてまさか腕力に訴える事も出来ず、
「ハテどうしてくれよう」
ト殆(ほと)んど口へ出して云いながら、文三がまた旧(もと)の腰掛に尻餅を搗いて熟々(つくづく)と考込んだまま、一時間ばかりと云うものは静まり返ッていて身動きをもしなかッた。
「オイ内海君」
ト云う声が頭上(とうじょう)に響いて、誰だか肩を叩(たた)く者が有る。吃驚(びっくり)して文三がフッと貌(かお)を振揚げて見ると、手摺(てず)れて垢光(あかびか)りに光ッた洋服、しかも二三カ所|手痍(てきず)を負うた奴を着た壮年の男が、余程|酩酊(めいてい)していると見えて、鼻持のならぬ程の熟柿(じゅくし)臭い香(におい)をさせながら、何時の間にか目前に突立ッていた。これは旧(も)と同僚で有ッた山口|某(なにがし)という男で、第一回にチョイト噂(うわさ)をして置いたアノ山口と同人で、やはり踏外し連の一人。
「ヤ誰かと思ッたら一別以来だネ」
「ハハハ一別以来か」
「大分|御機嫌(ごきげん)のようだネ」
「然り御機嫌だ。シカシ酒でも飲まんじゃー堪(たま)らん。アレ以来今日で五日になるが、毎日酒浸しだ」
ト云ッてその証拠立の為めにか、胸で妙な間投詞を発して聞かせた。
「何故(なぜ)またそう Despair(デスペヤ) を起したもんだネ」
「Despair じゃー無いが、シカシ君面白く無いじゃーないか。何等の不都合が有ッて我々共を追出したんだろう、また何等の取得が有ッてあんな庸劣(やくざ)な奴ばかりを撰(えら)んで残したのだろう、その理由が聞いて見たいネ」
ト真黒に成ッてまくし立てた。その貌を見て、傍(そば)を通りすがッた黒衣の園丁らしい男が冷笑した。文三は些(すこ)し気まりが悪くなり出した。
「君もそうだが、僕だッても事務にかけちゃー……」
「些し小いさな声で咄(はな)し給(たま)え、人に聞える」
ト気を附けられて俄(にわか)に声を低めて、
「事務に懸けちゃこう云やア可笑(おか)しいけれども、跡に残ッた奴等に敢(あえ)て多くは譲らん積りだ。そうじゃないか」
「そうとも」
「そうだろう」
ト乗地(のりじ)に成ッて、
「然るに唯(ただ)一種事務外の事務を勉励しないと云ッて我々共を追出した、面白く無いじゃないか」
「面白く無いけれども、シカシ幾程(いくら)云ッても仕様が無いサ」
「仕様が無いけれども面白く無いじゃないか」
「トキニ、本田の云事だから宛にはならんが、復職する者が二三人出来るだろうと云う事だが、君はそんな評判を聞いたか」
「イヤ聞かない。ヘー復職する者が二三人」
「二三人」
山口は俄に口を鉗(つぐ)んで何か黙考していたが、やがてスコシ絶望気味(やけぎみ)で、
「復職する者が有ッても僕じゃ無い、僕はいかん、課長に憎まれているからもう駄目だ」
ト云ッてまた暫らく黙考して、
「本田は一等上ッたと云うじゃないか」
「そうだそうだ」
「どうしても事務外の事務の巧(たくみ)なものは違ッたものだネ、僕のような愚直なものにはとてもアノ真似は出来ない」
「誰にも出来ない」
「奴の事だからさぞ得意でいるだろうネ」
「得意も宜いけれども、人に対(むか)ッて失敬な事を云うから腹が立つ」
ト云ッてしまッてからアア悪い事を云ッたと気が附いたが、モウ取返しは附かない。
「エ失敬な事を、どんな事をどんな事を」
「エ、ナニ些し……」
「どんな事を」
「ナニネ、本田が今日僕に或人の所へ往ッてお髯(ひげ)の塵(ちり)を払わないかと云ッたから、失敬な事を云うと思ッてピッタリ跳付(はねつ)けてやッたら、痩我慢と云わんばかりに云やアがッた」
「それで君、黙ッていたか」
ト山口は憤然として眼睛(ひとみ)を据えて、文三の貌を凝視(みつ)めた。
「余程(よっぽど)やッつけて遣ろうかと思ッたけれども、シカシあんな奴の云う事を取上げるも大人気(おとなげ)ないト思ッて、赦(ゆる)して置てやッた」
「そ、そ、それだから不可(いかん)、そう君は内気だから不可」
ト苦々しそうに冷笑(あざわら)ッたかと思うと、忽ちまた憤然として文三の貌を疾視(にら)んで、
「僕なら直ぐその場でブン打(なぐ)ッてしまう」
「打(な)ぐろうと思えば訳は無いけれども、シカシそんな疎暴(そぼう)な事も出来ない」
「疎暴だッて関(かま)わんサ、あんな奴(やつ)は時々|打(な)ぐッてやらんと癖になっていかん。君だから何だけれども、僕なら直ぐブン打ッてしまう」
文三は黙してしまッてもはや弁駁(べんばく)をしなかッたが、暫らくして、
「トキニ君は、何だと云ッて此方(こっち)の方へ来たのだ」
山口は俄かに何か思い出したような面相(かおつき)をして、
「アそうだッけ……一番町に親類が有るから、この勢でこれから其処へ往ッて金を借りて来ようと云うのだ。それじゃこれで別れよう、些(ち)と遊びに遣ッて来給え。失敬」
ト自己(おの)が云う事だけを饒舌(しゃべ)り立てて、人の挨拶(あいさつ)は耳にも懸けず急歩(あしばや)に通用門の方へと行く。その後姿を目送(みおく)りて文三が肚の裏(うち)で、
「彼奴(あいつ)まで我(おれ)の事を、意久地なしと云わんばかりに云やアがる」 
 
第十回 負るが勝 

 

知己を番町の家に訪えば主人(あるじ)は不在、留守居の者より翻訳物を受取ッて、文三が旧(も)と来た路(みち)を引返して俎橋(まないたばし)まで来た頃はモウ点火(ひとも)し頃で、町家では皆|店頭洋燈(みせランプ)を点(とも)している。「免職に成ッて懐淋(ふところざみ)しいから、今頃帰るに食事をもせずに来た」ト思われるも残念と、つまらぬ所に力瘤(ちからこぶ)を入れて、文三はトある牛店へ立寄ッた。
この牛店は開店してまだ間もないと見えて見掛けは至極よかッたが、裏(なか)へ這入(はい)ッて見ると大違い、尤(もっと)も客も相応にあッたが、給事の婢(おんな)が不慣れなので迷惑(まごつ)く程には手が廻わらず、帳場でも間違えれば出し物も後(おく)れる。酒を命じ肉を命じて、文三が待てど暮らせど持て来ない、催促をしても持て来ない、また催促をしてもまた持て来ない、偶々(たまたま)持て来れば後から来た客の所へ置いて行く。さすがの文三も遂(つい)には肝癪(かんしゃく)を起して、厳しく談じ付けて、不愉快不平な思いをして漸(ようや)くの事で食事を済まして、勘定を済まして、「毎度|難有(ありがとう)御座い」の声を聞流して戸外(おもて)へ出た時には、厄落(やくおと)しでもしたような心地がした。
両側の夜見世(よみせ)を窺(のぞ)きながら、文三がブラブラと神保町(じんぼうちょう)の通りを通行した頃には、胸のモヤクヤも漸く絶え絶えに成ッて、どうやら酒を飲んだらしく思われて、昇に辱(はずかし)められた事も忘れ、お勢の高笑いをした事をも忘れ、山口の言葉の気に障ッたのも忘れ、牛店の不快をも忘れて、唯(ただ)※[酉+它]顔(かお)に当る夜風の涼味をのみ感じたが、シカシ長持はしなかッた。
宿所へ来た。何心なく文三が格子戸(こうしど)を開けて裏(うち)へ這入ると、奥坐舗(おくざしき)の方でワッワッと云う高笑いの声がする。耳を聳(そばだ)てて能(よ)く聞けば、昇の声もその中(うち)に聞える……まだ居ると見える。文三は覚えず立止ッた。「若(も)しまた無礼を加えたら、モウその時は破れかぶれ」ト思えば荐(しき)りに胸が浪(なみ)だつ。暫(しば)らく鵠立(たたずん)でいて、度胸を据(す)えて、戦争が初まる前の軍人の如くに思切ッた顔色(がんしょく)をして、文三は縁側へ廻(めぐ)り出た。
奥坐舗を窺いて見ると、杯盤狼藉(はいばんろうぜき)と取散らしてある中に、昇が背なかに円(まろ)く切抜いた白紙(しらかみ)を張られてウロウロとして立ている、その傍(そば)にお勢とお鍋が腹を抱えて絶倒している、が、お政の姿はカイモク見えない。顔を見合わしても「帰ッたか」ト云う者もなく、「叔母さんは」ト尋ねても返答をする者もないので、文三が憤々(ぷりぷり)しながらそのままにして行過ぎてしまうと、忽(たちま)ち後(うしろ)の方で、
(昇)「オヤこんな悪戯(いたずら)をしたネ」
(勢)「アラ私じゃ有りませんよ、アラ鍋ですよ、オホホホホ」
(鍋)「アラお嬢さまですよ、オホホホホ」
(昇)「誰も彼も無い、二人共|敵手(あいて)だ。ドレまずこの肥満奴(ふとっちょ)から」
(鍋)「アラ私(わたくし)じゃ有りませんよ、オホホホホ。アラ厭(いや)ですよ……アラー御新造(ごしんぞ)さアん引」
ト大声を揚げさせての騒動、ドタバタと云う足音も聞えた、オホホホと云う笑声も聞えた、お勢の荐(しき)りに「引掻(ひっかい)てお遣(や)りよ、引掻て」ト叫喚(わめ)く声もまた聞えた。
騒動(さわぎ)に気を取られて、文三が覚えず立止りて後方(うしろ)を振向く途端に、バタバタと跫音(あしおと)がして、避ける間もなく誰だかトンと文三に衝当(つきあた)ッた。狼狽(あわて)た声でお政の声で、
「オー危ない……誰だネーこんな所(とこ)に黙ッて突立ッてて」
「ヤ、コリャ失敬……文三です……何処(どこ)ぞ痛めはしませんでしたか」
お政は何とも言わずにツイと奥坐舗へ這入りて跡ピッシャリ。恨めしそうに跡を目送(みおく)ッて文三は暫らく立在(たたずん)でいたが、やがて二階へ上ッて来て、まず手探りで洋燈(ランプ)を点じて机辺(つくえのほとり)に蹲踞(そんこ)してから、さて、
「実に淫哇(みだら)だ。叔母や本田は論ずるに足らんが、お勢が、品格々々と口癖に云ッているお勢が、あんな猥褻(わいせつ)な席に連(つらな)ッている……しかも一所に成ッて巫山戯(ふざけ)ている……平生の持論は何処へ遣ッた、何の為(た)めに学問をした、|先自侮而後人侮[レ]之(まずみずからあなどるしこうしてのちひとこれをあなどる)、その位の事は承知しているだろう、それでいてあんな真似を……実に淫哇(みだら)だ。叔父の留守に不取締(ふとりしまり)が有ッちゃ我(おれ)が済まん、明日(あした)厳しく叔母に……」
トまでは調子に連れて黙想したが、ここに至ッてフト今の我身を省みてグンニャリと萎(しお)れてしまい、暫らくしてから「まずともかくも」ト気を替えて、懐中して来た翻訳物を取出して読み初めた。
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical party. For over fifty years the party……
ドッと下坐舗でする高笑いの声に流読の腰を折られて、文三はフト口を鉗(つぐ)んで、
「チョッ失敬極まる。我(おれ)の帰ッたのを知ッていながら、何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も本田一人の相手に成ッてチヤホヤしていて、飯を喰ッて来たかと云う者も無い……アまた笑ッた、アリャお勢だ……弥々(いよいよ)心変りがしたならしたと云うが宜(いい)、切れてやらんとは云わん。何の糞(くそ)、我(おれ)だッて男児だ、心変(こころがわり)のした者に……」
ハッと心附(こころづい)て、また一|越(おつ)調子高に、
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political……
フト格子戸の開く音がして笑い声がピッタリ止ッた。文三は耳を聳(そばだ)てた。(いそが)わしく縁側を通る人の足音がして、暫らくすると梯子段(はしごだん)の下で洋燈をどうとかこうとか云うお鍋の声がしたが、それから後は粛然(ひっそ)として音沙汰(おとさた)をしなくなった。何となく来客でもある容子(ようす)。
高笑いの声がする内は何をしている位は大抵想像が附たからまず宜かッたが、こう静(しずま)ッて見るとサア容子が解らない。文三|些(すこ)し不安心に成ッて来た。「客の相手に叔母は坐舗へ出ている。お鍋も用がなければ可(よ)し、有れば傍に附てはいない。シテ見ると……」文三は起ッたり居たり。
キット思付いた、イヤ憶出(おもいいだ)した事が有る。今初まッた事では無いが、先刻から酔醒めの気味で咽喉(のど)が渇く。水を飲めば渇(かわき)が歇(と)まるが、シカシ水は台所より外には無い。しこうして台所は二階には附いていない。故(ゆえ)に若し水を飲まんと欲せば、是非とも下坐舗へ降りざるを得ず。「折が悪いから何となく何だけれども、シカシ我慢しているも馬鹿気ている」ト種々(さまざま)に分疏(いいわけ)をして、文三は遂(つい)に二階を降りた。
台所へ来て見ると、小洋燈(こランプ)が点(とぼ)しては有るがお鍋は居ない。皿|小鉢(こばち)の洗い懸けたままで打捨てて有るところを見れば、急に用が出来て遣(つかい)にでも往たものか。「奥坐舗は」と聞耳を引立てれば、ヒソヒソと私語(ささや)く声が聞える。全身の注意を耳一ツに集めて見たが、どうも聞取れない。ソコで竊(ぬす)むが如くに水を飲んで、抜足をして台所を出ようとすると、忽ち奥坐舗の障子がサッと開いた。文三は振反(ふりかい)ッて見て覚えず立止ッた。お勢が開懸(あけか)けた障子に掴(つか)まッて、出るでも無く出ないでもなく、唯|此方(こっち)へ背を向けて立在(たたず)んだままで坐舗の裏(うち)を窺(のぞ)き込んでいる。
「チョイと茲処(ここ)へお出(い)で」
ト云うは慥(たしか)に昇の声。お勢はだらしもなく頭振(かぶ)りを振りながら、
「厭サ、あんな事をなさるから」
「モウ悪戯(いたずら)しないからお出でと云えば」
「厭」
「ヨーシ厭と云ッたネ」
「真個(ほんと)か、其処(そこ)へ往(い)きましょうか」
ト、チョイと首を傾(かし)げた。
「ア、お出で、サア……サア……」
「何方(どっち)の眼で」
「コイツメ」
ト確に起上(たちあが)る真似。
オホホホと笑いを溢(こぼ)しながら、お勢は狼狽(あわ)てて駈出して来て危(あやう)く文三に衝当ろうとして立止ッた。
「オヤ誰……文さん……何時(いつ)帰ッたの」
文三は何にも言わず、ツンとして二階へ上ッてしまッた。
その後(あと)からお勢も続いて上ッて来て、遠慮会釈も無く文三の傍にベッタリ坐ッて、常よりは馴々(なれなれ)しく、しかも顔を皺(しか)めて可笑(おか)しく身体(からだ)を揺りながら、
「本田さんが巫山戯(ふざけ)て巫山戯て仕様がないんだもの」
ト鼻を鳴らした。
文三は恐ろしい顔色(がんしょく)をしてお勢の柳眉(りゅうび)を顰(ひそ)めた嬌面(かお)を疾視付(にらみつ)けたが、恋は曲物(くせもの)、こう疾視付けた時でも尚(な)お「美は美だ」と思わない訳にはいかなかッた。折角の相好(そうごう)もどうやら崩れそうに成ッた……が、はッと心附いて、故意(わざ)と苦々しそうに冷笑(あざわら)いながら率方(そっぽう)を向いてしまッた。
折柄(おりから)梯子段を踏轟(ふみとどろ)かして昇が上ッて来た。ジロリと両人(ふたり)の光景(ようす)を見るや否(いな)や、忽ちウッと身を反らして、さも業山(ぎょうさん)そうに、
「これだもの……大切なお客様を置去りにしておいて」
「だッて貴君(あなた)があんな事をなさるもの」
「どんな事を」
ト言いながら昇は坐ッた。
「どんな事ッて、あんな事を」
「ハハハ、此奴(こいつ)ア宜い。それじゃーあんな事ッてどんな事を、ソラいいたちこッこだ」
「そんなら云ッてもよう御座んすか」
「宜しいとも」
「ヨーシ宜しいと仰(おッ)しゃッたネ、そんなら云ッてしまうから宜い。アノネ文さん、今ネ、本田さんが……」
ト言懸けて昇の顔を凝視(みつ)めて、
「オホホホ、マアかにして上げましょう」
「ハハハ言えないのか、それじゃー我輩が代ッて噺(はな)そう。『今ネ本田さんがネ……』」
「本田さん」
「私の……」
「アラ本田さん、仰しゃりゃー承知しないから宜い」
「ハハハ、自分から言出して置きながら、そうも亭主と云うものは恐(こわ)いものかネ」
「恐かア無いけれども私の不名誉になりますもの」
「何故(なぜ)」
「何故と云ッて、貴君に凌辱(りょうじょく)されたんだもの」
「ヤこれは飛でも無いことを云いなさる、唯チョイと……」
「チョイとチョイと本田さん、敢て一問を呈す、オホホホ。貴方は何ですネ、口には同権論者だ同権論者だと仰しゃるけれども、虚言(うそ)ですネ」
「同権論者でなければ何だと云うんでゲス」
「非同権論者でしょう」
「非同権論者なら」
「絶交してしまいます」
「エ、絶交してしまう、アラ恐ろしの決心じゃなアじゃないか、アハハハ。どうしてどうして我輩程熱心な同権論者は恐らくは有るまいと思う」
「虚言(うそ)仰しゃい。譬(たと)えばネ熱心でも、貴君のような同権論者は私ア大嫌(だいきら)い」
「これは御挨拶(ごあいさつ)。大嫌いとは情ない事を仰しゃるネ。そんならどういう同権論者がお好き」
「どう云うッてアノー、僕の好きな同権論者はネ、アノー……」
ト横眼で天井を眺(なが)めた。
昇が小声で、
「文さんのような」
お勢も小声で、
「Yes(イエス)……」
ト微(かす)かに云ッて、可笑しな身振りをして、両手を貌(かお)に宛(あ)てて笑い出した。文三は愕然(がくぜん)としてお勢を凝視(みつ)めていたが、見る間に顔色を変えてしまッた。
「イヨー妬(やけ)ます引羨(うらや)ましいぞ引。どうだ内海、エ、今の御託宣は。『文さんのような人が好きッ』アッ堪(たま)らぬ堪らぬ、モウ今夜|家(うち)にゃ寝られん」
「オホホホホそんな事仰しゃるけれども、文さんのような同権論者が好きと云ッたばかりで、文さんが好きと云わないから宜いじゃ有りませんか」
「その分疏(いいわけ)闇(くら)い闇い。文さんのような人が好きも文さんが好きも同じ事で御座います」
「オホホホホそんならばネ……アこうですこうです。私はネ文さんが好きだけれども、文さんは私が嫌いだから宜(いい)じゃ有りませんか。ネー文さん、そうですネー」
「ヘン嫌いどころか好きも好き、足駄(あしだ)穿(は)いて首ッ丈と云う念の入ッた落(おッ)こちようだ。些(すこ)し水層(みずかさ)が増そうものならブクブク往生しようと云うんだ。ナア内海」
文三はムッとしていて莞爾(にっこり)ともしない。その貌をお勢はチョイと横眼で視て、
「あんまり貴君が戯談(じょうだん)仰しゃるものだから、文さん憤(おこ)ッてしまいなすッたよ」
「ナニまさか嬉(うれ)しいとも云えないもんだから、それであんな貌をしているのサ。シカシ、アア澄ましたところは内海も仲々好男子だネ、苦味ばしッていて。モウ些しあの顋(あご)がつまると申分がないんだけれども、アハハハハ」
「オホホホ」
ト笑いながらお勢はまた文三の貌を横眼で視た。
「シカシそうは云うものの内海は果報者だよ。まずお勢さんのようなこんな」
ト、チョイとお勢の膝(ひざ)を叩(たた)いて、
「頗(すこぶ)る付きの別品、しかも実の有るのに想(おも)い附かれて、叔母さんに油を取られたと云ッては保護(ほうご)して貰(もら)い、ヤ何だと云ッては保護して貰う、実に羨ましいネ。明治年代の丹治(たんじ)と云うのはこの男の事だ。焼(やい)て粉(こ)にして飲んでしまおうか、そうしたら些(ちっ)とはあやかるかも知れん、アハハハハ」
「オホホホ」
「オイ好男子、そう苦虫を喰潰(くいつぶ)していずと、些(ちっ)と此方(こっち)を向いてのろけ給(たま)え。コレサ丹治君。これはしたり、御返答が無い」
「オホホホホ」
トお勢はまた作笑いをして、また横眼でムッとしている文三の貌を視て、
「アー可笑しいこと。余(あんま)り笑ッたもんだから咽喉が渇いて来た。本田さん、下へ往ッてお茶を入れましょう」
「マアもう些と御亭主さんの傍(そば)に居て顔を視せてお上げなさい」
「厭(いや)だネー御亭主さんなんぞッて。そんなら入れて茲処(ここ)へ持ッて来ましょうか」
「茶を入れて持て来る実が有るなら寧(いっ)そ水を持ッて来て貰いたいネ」
「水を、お砂糖入れて」
「イヤ砂糖の無い方が宜い」
「そんならレモン入れて来ましょうか」
「レモンが這入(はい)るなら砂糖|気(け)がチョッピリ有ッても宜いネ」
「何だネーいろんな事云ッて」
ト云いながらお勢は起上(たちあが)ッて、二階を降りてしまッた。跡には両人(ふたり)の者が、暫(しば)らく手持|無沙汰(ぶさた)と云う気味で黙然(もくぜん)としていたが、やがて文三は厭に落着いた声で、
「本田」
「エ」
「君は酒に酔ッているか」
「イイヤ」
「それじゃア些(すこ)し聞く事が有るが、朋友(ほうゆう)の交(まじわり)と云うものは互に尊敬していなければ出来るものじゃ有るまいネ」
「何だ、可笑しな事を言出したな。さよう、尊敬していなければ出来ない」
「それじゃア……」
ト云懸けて黙していたが、思切ッて些し声を震わせて、
「君とは暫らく交際していたが、モウ今夜ぎりで……絶交して貰いたい」
「ナニ絶交して貰いたいと……何だ、唐突千万な。何だと云ッて絶交しようと云うんだ」
「その理由は君の胸に聞て貰おう」
「可笑しく云うな、我輩少しも絶交しられる覚えは無い」
「フン覚えは無い、あれ程人を侮辱して置きながら」
「人を侮辱して置きながら。誰が、何時、何と云ッて」
「フフン仕様が無いな」
「君がか」
文三は黙然(もくねん)として暫らく昇の顔を凝視(みつ)めていたが、やがて些し声高(こわだか)に、
「何にもそうとぼけなくッたッて宜いじゃ無いか。君みたようなものでも人間と思うからして、即(すなわ)ち廉耻(れんち)を知ッている動物と思うからして、人間らしく美しく絶交してしまおうとすれば、君は一度ならず二度までも人を侮辱して置きながら……」
「オイオイオイ、人に物を云うならモウ些(ちっ)と解るように云って貰いたいネ。君一人位友人を失ッたと云ッてそんなに悲しくも無いから、絶交するならしても宜しいが、シカシその理由も説明せずして唯(ただ)無暗(むやみ)に人を侮辱した侮辱したと云うばかりじゃ、ハアそうかとは云ッておられんじゃないか」
「それじゃ何故|先刻(さっき)叔母や|お勢(カズン)のいる前で、僕に『痩(やせ)我慢なら大抵にしろ』と云ッた」
「それがそんなに気に障ッたのか」
「当前(あたりまえ)サ……何故今また僕の事を明治年代の丹治即ち意久地なしと云ッた」
「アハハハ弥々(いよいよ)腹筋(はらすじ)だ。それから」
「事に大小は有ッても理に巨細(こさい)は無い。痩我慢と云ッて侮辱したも丹治と云ッて侮辱したも、帰するところは唯(ただ)一の軽蔑(けいべつ)からだ。既に軽蔑心が有る以上は朋友の交際は出来ないものと認めたからして絶交を申出(プロポーズ)したのだ。解ッているじゃないか」
「それから」
「但(ただ)しこうは云うようなものの、園田の家と絶交してくれとは云わん。からして今までのように毎日遊びに来て、叔母と骨牌(かるた)を取ろうが」
ト云ッて文三冷笑した。
「|お勢(カズン)を芸娼妓(げいしょうぎ)の如く弄(もてあす)ぼうが」
ト云ッてまた冷笑した。
「僕の関係した事でないから、僕は何とも云うまい。だから君もそう落胆イヤ|狼狽(ろうばい)して遁辞(とんじ)を設ける必要も有るまい」
「フフウ|嫉妬(しっと)の原素も雑(まざ)ッている。それから」
「モウこれより外に言う事も無い。また君も何にも言う必要も有るまいから、このまま下へ降りて貰いたい」
「イヤ言う必要が有る。冤罪(えんざい)を被(こうぶ)ッてはこれを弁解する必要が有る。だからこのまま下へ降りる事は出来ない。何故痩我慢なら大抵にしろと『忠告』したのが侮辱になる。成程親友でないものにそう直言したならば侮辱したと云われても仕様が無いが、シカシ君と我輩とは親友の関繋(かんけい)じゃ無いか」
「親友の間にも礼義は有る。然(しか)るに君は面と向ッて僕に『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッた。無礼じゃないか」
「何が無礼だ。『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッたッけか、『大抵にした方がよかろうぜ』と云ッたッけか、何方(どっち)だッたかモウ忘れてしまッたが、シカシ|何方(どっち)にしろ忠告だ。凡(およ)そ忠告と云う者は――君にかぶれて哲学者振るのじゃアないが――忠告と云う者は、人の所行を非と認めるから云うもので、是(ぜ)と認めて忠告を試みる者は無い。故(ゆえ)に若(も)し非を非と直言したのが侮辱になれば、総(すべて)の忠告と云う者は皆君の所謂(いわゆる)無礼なものだ。若しそれで君が我輩の忠告を怒(いか)るのならば、我輩一言もない、謹(つつしん)で罪を謝そう。がそうか」
「忠告なら僕は却(かえっ)て聞く事を好む。シカシ君の言ッた事は忠告じゃない、侮辱だ」
「何故」
「若し忠告なら何故人のいる前で言ッた」
「叔母さんやお勢さんは内輪の人じゃないか」
「そりゃ内輪の者サ……内輪の者サ……けれども……しかしながら……」
文三は狼狽した。昇はその光景(ようす)を見て私(ひそ)かに冷笑した。
「内輪な者だけれども、シカシ何にもアア口汚く言わなくッても好じゃないか」
「どうも種々に論鋒(ろんぽう)が変化するから君の趣意が解りかねるが、それじゃア何か、我輩の言方即ち忠告の Manner(マンナア) が気に喰(く)わんと云うのか」
「勿論(もちろん) Manner も気に喰(くわ)んサ」
「Manner が気に喰わないのなら改めてお断り申そう。君には侮辱と聞えたかも知れんが我輩は忠告の積りで言ッたのだ、それで宜かろう。それならモウ絶交する必要も有るまい、アハハハ」
文三は何と駁(ばく)して宜いか解らなくなッた、唯ムシャクシャと腹が立つ。風が宜ければさほどにも思うまいが、風が悪いので尚お一層腹が立つ。油汗を鼻頭(はなさき)ににじませて、下唇(したくちびる)を喰締めながら、暫らくの間|口惜(くちお)しそうに昇の馬鹿笑いをする顔を疾視(にら)んで黙然としていた。
お勢が溢(こぼ)れるばかりに水を盛ッた「コップ」を盆に載せて持ッて参ッた。
「ハイ本田さん」
「これはお待遠うさま」
「何ですと」
「エ」
「アノとぼけた顔」
「アハハハハ、シカシ余り遅かッたじゃないか」
「だッて用が有ッたんですもの」
「浮気でもしていやアしなかッたか」
「貴君(あなた)じゃ有るまいシ」
「我輩がそんなに浮気に見えるかネ……ドッコイ『課長さんの令妹』と云いたそうな口付をする。云えば此方(こっち)にも『文さん』ト云う武器が有るから直ぐ返討だ」
「厭な人だネー、人が何にも言わないのに邪推を廻わして」
「邪推を廻わしてと云えば」
ト文三の方を向いて、
「どうだ隊長、まだ胸に落んか」
「君の云う事は皆|遁辞(とんじ)だ」
「何故」
「そりゃ説明するに及ばん、Self(セルフ)-evident(エヴィデント) truth(ツルース) だ」
「アハハハ、とうとう Self-evident truth にまで達したか」
「どうしたの」
「マア聞いて御覧なさい、余程面白い議論が有るから」
ト云ッてまた文三の方を向いて、
「それじゃその方の口はまず片が附たと。それからしてもう一口の方は何だッけ……そうそう丹治丹治、アハハハ何故丹治と云ッたのが侮辱になるネ、それもやはり Self-evident truth かネ」
「どうしたの」
「ナニネ、先刻(さっき)我輩が明治年代の丹治と云ッたのが御気色(みけしき)に障ッたと云ッて、この通り顔色まで変えて御立腹だ。貴嬢(あなた)の情夫(いろ)にしちゃア些(ち)と野暮天すぎるネ」
「本田」
昇は飲かけた「コップ」を下に置いて、
「何でゲス」
「人を侮辱して置きながら、咎(とが)められたと云ッて遁辞を設けて逃るような破廉耻(はれんち)的の人間と舌戦は無益と認める。からしてモウ僕は何にも言うまいが、シカシ最初の『プロポーザル』(申出)より一歩も引く事は出来んから、モウ降りてくれ給え」
「まだそんな事を云ッてるのか、ヤどうも君も驚く可(べ)き負惜しみだな」
「何だと」
「負惜しみじゃないか、君にももう自分の悪かッた事は解ッているだろう」
「失敬な事を云うな、降りろと云ッたら降りたが宜じゃないか」
「モウお罷(よ)しなさいよ」
「ハハハお勢さんが心配し出した。シカシ真(しん)にそうだネ、モウ罷した方が宜い。オイ内海、笑ッてしまおう。マア考えて見給え、馬鹿気切ッているじゃないか。忠告の仕方が気に喰わないの、丹治と云ッたが癪(しゃく)に障るのと云ッて絶交する、全(まる)で子供の喧嘩(けんか)のようで、人に対して噺(はな)しも出来ないじゃないか。ネ、オイ笑ッてしまおう」
文三は黙ッている。
「不承知か、困ッたもんだネ。それじゃ宜ろしい、こうしよう、我輩が謝まろう。全くそうした深い考(かんがえ)が有ッて云ッた訳じゃないから、お気に障ッたら真平(まっぴら)御免下さい。それでよかろう」
文三はモウ堪え切れない憤(いか)りの声を振上げて、
「降りろと云ッたら降りないか」
「それでもまだ承知が出来ないのか。それじゃ仕様がない、降りよう。今何を言ッても解らない、逆上(のぼせあが)ッているから」
「何だと」
「イヤ此方の事だ。ドレ」
ト起上(たちあが)る。
「馬鹿」
昇も些しムッとした趣きで、立止ッて暫らく文三を疾視付(にらみつ)けていたが、やがてニヤリと冷笑(あざわら)ッて、
「フフン、前後忘却の体(てい)か」
ト云いながら二階を降りてしまッた。お勢も続いて起上ッて、不思議そうに文三の容子(ようす)を振反ッて観ながら、これも二階を降りてしまッた。
跡で文三は悔しそうに歯を喰切(くいしば)ッて、拳(こぶし)を振揚げて机を撃ッて、
「畜生ッ」
梯子段(はしごだん)の下あたりで昇とお勢のドッと笑う声が聞えた。 
 
第十一回 取付く島 

 

翌朝朝飯の時、家内の者が顔を合わせた。お政は始終顔を皺(しか)めていて口も碌々(ろくろく)聞かず、文三もその通り。独りお勢|而已(のみ)はソワソワしていて更らに沈着(おちつ)かず、端手(はした)なく囀(さえず)ッて他愛(たわい)もなく笑う。かと思うとフト口を鉗(つぐ)んで真面目(まじめ)に成ッて、憶出(おもいだ)したように額越(ひたえご)しに文三の顔を眺(なが)めて、笑うでも無く笑わぬでもなく、不思議そうな剣呑(けんのん)そうな奇々妙々な顔色(がんしょく)をする。
食事が済む。お勢がまず起上(たちあが)ッて坐舗(ざしき)を出て、縁側でお鍋に戯(たわぶ)れて高笑をしたかと思う間も無く、忽(たちま)ち部屋の方で低声(ていせい)に詩吟をする声が聞えた。
益々顔を皺めながら文三が続いて起上ろうとして、叔母に呼留められて又|坐直(すわりなお)して、不思議そうに恐々(おそるおそる)叔母の顔色を窺(うかが)ッて見てウンザリした。思做(おもいなし)かして叔母の顔は尖(とが)ッている。
人を呼留めながら叔母は悠々(ゆうゆう)としたもので、まず煙草(たばこ)を環(わ)に吹くこと五六ぷく、お鍋の膳(ぜん)を引終るを見済ましてさて漸(ようや)くに、
「他の事でも有りませんがネ、昨日(きのう)私がマア傍(そば)で聞てれば――また余計なお世話だッて叱(しか)られるかも知れないけれども――本田さんがアアやッて信切に言ておくんなさるものを、お前さんはキッパリ断ッておしまいなすッたが、ソリャモウお前さんの事(こっ)たから、いずれ先に何とか確乎(たしか)な見当(みあて)が無くッてあんな事をお言いなさりゃアすまいネ」
「イヤ何にも見当(みあて)が有ッてのどうのと云う訳じゃ有りませんが、唯(ただ)……」
「ヘー、見当も有りもしないのに無暗(むやみ)に辞(ことわ)ッておしまいなすッたの」
「目的なしに断わると云ッては或(あるい)は無考(むかんがえ)のように聞えるかも知れませんが、シカシ本田の言ッた事でもホンノ風評と云うだけで、ナニモ確に……」
縁側を通る人の跫音(あしおと)がした。多分お勢が英語の稽古(けいこ)に出懸(でかけ)るので。改ッて外出をする時を除くの外は、お勢は大抵母親に挨拶(あいさつ)をせずして出懸る、それが習慣で。
「確にそうとも……」
「それじゃ何ですか、弥々(いよいよ)となりゃ御布告にでもなりますか」
「イヤそんな、布告なんぞになる気遣いは有りませんが」
「それじゃマア人の噂(うわさ)を宛(あて)にするほか仕様が無いと云ッたようなもんですネ」
「デスガ、それはそうですが、シカシ……本田なぞの言事は……」
「宛にならない」
「イヤそ、そ、そう云う訳でも有りませんが……ウー……シカシ……幾程(いくら)苦しいと云ッて……課長の所へ……」
「何ですとえ、幾程(いくら)苦しいと云ッて課長さんの所(とこ)へは往(い)けないとえ。まだお前さんはそんな気楽な事を言てお出(い)でなさるのかえ」
トお政が層(かさ)に懸ッて極付(きめつ)けかけたので、文三は狼狽(あわ)てて、
「そ、そ、そればかりじゃ有りません……仮令(たとえ)今課長に依頼して復職が出来たと云ッても、とても私(わたくし)のような者は永くは続きませんから、寧(むし)ろ官員はモウ思切ろうかと思います」
「官員はモウ思切る、フン何が何だか理由(わけ)が解りゃしない。この間お前さん何とお言いだ。私がこれからどうして行く積だと聞いたら、また官員の口でも探そうかと思ッてますとお言いじゃなかッたか。それを今と成ッて、モウ官員は思切る……左様(さよう)サ、親の口は干上ッても関(かま)わないから、モウ官員はお罷(や)めなさるが宜いのサ」
「イヤ親の口が干上ッても関わないと云う訳じゃ有りませんが、シカシ官員ばかりが職業でも有りませんから、教師に成ッても親一人位は養えますから……」
「だから誰もそうはならないとは申しませんよ。そりゃお前さんの勝手だから、教師になと車夫(くるまひき)になと何になとお成(なん)なさるが宜いのサ」
「デスガそう御立腹なすッちゃ私(わたくし)も実に……」
「誰が腹を立(たっ)てると云いました。ナニお前さんがどうしようと此方(こっち)に関繋(くいあい)の無い事だから誰も腹も背も立ちゃしないけれども、唯本田さんがアアやッて信切に言ッておくンなさるもんだから、周旋(とりもっ)て貰(もら)ッて課長さんに取入ッて置きゃア、仮令(よし)んば今度の復職とやらは出来ないでも、また先へよって何ぞれ角(か)ぞれお世話アして下さるまいものでも無いトネー、そうすりゃ、お前さんばかしか慈母(おっか)さんも御安心なさる事(こっ)たシ、それに……何だから『三方四方』円く納まる事(こっ)たから(この時文三はフット顔を振揚げて、不思議そうに叔母を凝視(みつ)めた)ト思ッて、チョイとお聞き申したばかしさ。けれども、ナニお前さんがそうした了簡方(りょうけんかた)ならそれまでの事サ」
両人共|暫(しば)らく無言。
「鍋」
「ハイ」
トお鍋が襖(ふすま)を開けて顔のみを出した。見れば口をモゴ付かせている。
「まだ御膳(ごぜん)を仕舞わないのかえ」
「ハイ、まだ」
「それじゃ仕舞ッてからで宜(い)いからネ、何時(いつ)もの車屋へ往ッて一人乗|一挺(いっちょう)誂(あつ)らえて来ておくれ、浜町(はまちょう)まで上下(じょうげ)」
「ハイ、それでは只今(ただいま)直(じき)に」
ト云ッてお鍋が襖を閉切(たてき)るを待兼ねていた文三が、また改めて叔母に向って、
「段々と承ッて見ますと、叔母さんの仰(おっ)しゃる事は一々|御尤(ごもっとも)のようでも有るシ、かつ私(わたくし)一個(ひとり)の強情から、母親(おふくろ)は勿論(もちろん)叔母さんにまで種々(いろいろ)御心配を懸けまして甚(はなは)だ恐入りますから、今一応|篤(とく)と考えて見まして」
「今一応も二応も無いじゃ有りませんか、お前さんがモウ官員にゃならないと決めてお出でなさるんだから」
「そ、それはそうですが、シカシ……事に寄ッたら……思い直おすかも知れませんから……」
お政は冷笑しながら、
「そんならマア考えて御覧なさい。だがナニモ何ですよ、お前さんが官員に成ッておくんなさらなきゃア私どもが立往かないと云うんじゃ無いから、無理に何ですよ、勧めはしませんよ」
「ハイ」
「それから序(ついで)だから言ッときますがネ、聞けば昨夕(ゆうべ)本田さんと何だか入組みなすったそうだけれども、そんな事が有ッちゃ誠に迷惑しますネ。本田さんはお前さんのお朋友(ともだち)とは云いじょう、今じゃア家(うち)のお客も同前の方だから」
「ハイ」
トは云ッたが、文三実は叔母が何を言ッたのだかよくは解らなかッた、些(すこ)し考え事が有るので。
「そりゃアア云う胸の広(しろ)い方だから、そんな事が有ッたと云ッてそれを根葉に有(も)ッて周旋(とりもち)をしないとはお言いなさりゃすまいけれども、全体なら……マアそれは今言ッても無駄(むだ)だ、お前さんが腹を極(き)めてからの事にしよう」
ト自家|撲滅(ぼくめつ)、文三はフト首を振揚げて、
「ハイ」
「イエネ、またの事にしましょう、と云う事サ」
「ハイ」
何だかトンチンカンで。
叔母に一礼して文三が起上ッて、そこそこに部屋へ戻ッて、室(しつ)の中央に突立(つった)ッたままで坐りもせず、良(やや)暫くの間と云うものは造付(つくりつ)けの木偶(にんぎょう)の如くに黙然としていたが、やがて溜息(ためいき)と共に、
「どうしたものだろう」
ト云ッて、宛然(さながら)雪|達磨(だるま)が日の眼に逢(あ)ッて解けるように、グズグズと崩れながらに坐に着いた。
何故(なぜ)「どうしたものだろう」かとその理由(ことわけ)を繹(たず)ねて見ると、概略(あらまし)はまず箇様(こう)で。
先頃免職が種で油を取られた時は、文三は一途(いちず)に叔母を薄情な婦人と思詰めて恨みもし立腹もした事では有るが、その後|沈着(おちつ)いて考えて見るとどうやら叔母の心意気が飲込めなくなり出した。
成程叔母は賢婦でも無い、烈女でもない、文三の感情、思想を忖度(そんたく)し得ないのも勿論の事では有るが、シカシ菽麦(しゅくばく)を弁ぜぬ程の痴女子(ちじょし)でもなければ自家独得の識見をも保着(ほうちゃく)している、論事矩(ロジック)をも保着している、処世の法をも保着している。それでいて何故アア何の道理も無く何の理由もなく、唯文三が免職に成ッたと云うばかりで、自身も恐らくは無理と知り宛(つつ)無理を陳(なら)べて一人で立腹して、また一人で立腹したとてまた一人で立腹して、罪も咎(とが)も無い文三に手を杖(つ)かして謝罪(わび)さしたので有ろう。お勢を嫁(か)するのが厭(いや)になってと或時(あのとき)は思いはしたようなものの、考えて見ればそれも可笑(おか)しい。二三|分時(ぷんじ)前までは文三は我女(わがむすめ)の夫、我女は文三の妻と思詰めていた者が、免職と聞くより早くガラリ気が渝(かわ)ッて、俄(にわか)に配合(めあわ)せるのが厭に成ッて、急拵(きゅうごしらえ)の愛想尽(あいそづ)かしを陳立(ならべた)てて、故意に文三に立腹さしてそして娘と手を切らせようとした……どうも可笑しい。
こうした疑念が起ッたので、文三がまた叔母の言草、悔しそうな言様、ジレッタそうな顔色を一々漏らさず憶起(おもいおこ)して、さらに出直おして思惟(しゆい)して見て、文三は遂(つい)に昨日(きのう)の非を覚(さと)ッた。
叔母の心事を察するに、叔母はお勢の身の固まるのを楽みにしていたに相違ない。来年の春を心待に待ていたに相違ない。アノ帯をアアしてコノ衣服をこうしてと私(ひそか)に胸算用をしていたに相違ない。それが文三が免職に成ッたばかりでガラリト宛(あて)が外れたので、それで失望したに相違ない。凡(およ)そ失望は落胆を生み落胆は愚痴を生む。「叔母の言艸(いいぐさ)を愛想尽(あいそづ)かしと聞取ッたのは全く此方(こちら)の僻耳(ひがみみ)で、或は愚痴で有ッたかも知れん」ト云う所に文三気が附いた。
こう気が附(つい)て見ると文三は幾分か恨(うらみ)が晴れた。叔母がそう憎くはなくなった、イヤ寧(むし)ろ叔母に対して気の毒に成ッて来た。文三の今我(こんが)は故吾(こご)でない、シカシお政の故吾も今我でない。
悶着(もんちゃく)以来まだ五日にもならぬに、お政はガラリその容子(ようす)を一変した。勿論以前とてもナニモ非常に文三を親愛していた、手車に乗せて下へも措かぬようにしていたト云うでは無いが、ともかくも以前は、チョイと顔を見る眼元、チョイと物を云う口元に、真似て真似のならぬ一種の和気を帯びていたが、この頃は眼中には雲を懸けて口元には苦笑(にがわらい)を含んでいる。以前は言事がさらさらとしていて厭味気(いやみけ)が無かッたが、この頃は言葉に針を含めば聞て耳が痛くなる。以前は人我(にんが)の隔歴が無かッたが、この頃は全く他人にする。霽顔(せいがん)を見せた事も無い、温語をきいた事も無い。物を言懸ければ聞えぬ風(ふり)をする事も有り、気に喰わぬ事が有れば目を側(そばだ)てて疾視付(にらみつ)ける事も有り、要するに可笑しな処置振りをして見せる。免職が種の悶着はここに至ッて、沍(い)ててかじけて凝結し出した。
文三は篤実温厚な男、仮令(よし)その人と為(な)りはどう有ろうとも叔母は叔母、有恩(うおん)の人に相違ないから、尊尚親愛して水乳(すいにゅう)の如くシックリと和合したいとこそ願え、決して乖背(かいはい)し※[目+癸]離(きり)したいとは願わないようなものの、心は境に随(したが)ッてその相を顕(げん)ずるとかで、叔母にこう仕向けられて見ると万更好い心地もしない。好い心地もしなければツイ不吉な顔もしたくなる。が其処(そこ)は篤実温厚だけに、何時も思返してジッと辛抱している。蓋(けだ)し文三の身が極まらなければお勢の身も極まらぬ道理、親の事ならそれも苦労になろう。人世の困難に遭遇(であっ)て、独りで苦悩して独りで切抜けると云うは俊傑(すぐれもの)の為(す)る事、並(なみ)や通途(つうず)の者ならばそうはいかぬがち。自心に苦悩が有る時は、必ずその由来する所を自身に求めずして他人に求める。求めて得なければ天命に帰してしまい、求めて得(う)れば則(すなわ)ちその人を※[女+瑁のつくり]嫉(ぼうしつ)する。そうでもしなければ自(みずか)ら慰める事が出来ない。「叔母もそれでこう辛(つら)く当るのだな」トその心を汲分(くみわ)けて、どんな可笑しな処置振りをされても文三は眼を閉(ねむ)ッて黙ッている。
「が若(も)し叔母が慈母(おふくろ)のように我(おれ)の心を噛分(かみわ)けてくれたら、若し叔母が心を和(やわら)げて共に困厄(こんやく)に安んずる事が出来たら、我(おれ)ほど世に幸福な者は有るまいに」ト思ッて文三|屡々(しばしば)嘆息した。依(よっ)て至誠は天をも感ずるとか云う古賢(こげん)の格言を力にして、折さえ有れば力(つと)めて叔母の機嫌(きげん)を取ッて見るが、お政は油紙に水を注ぐように、跳付(はねつ)けて而已(のみ)いてさらに取合わず、そして独りでジレている。文三は針の筵(むしろ)に坐ッたような心地。
シカシまだまだこれしきの事なら忍んで忍ばれぬ事も無いが、茲処(ここ)に尤も心配で心配で耐(たえ)られぬ事が一ツ有る。他(ほか)でも無い、この頃叔母がお勢と文三との間を関(せく)ような容子が徐々(そろそろ)見え出した一|事(じ)で。尤も、今の内は唯お勢を戒めて今までのように文三と親しくさせないのみで、さして思切ッた処置もしないからまず差迫ッた事では無いが、シカシこのままにして捨置けば将来|何等(どん)な傷心恨(かなしい)事が出来(しゅったい)するかも測られぬ。一念ここに至る毎(ごと)に、文三は我(が)も折れ気も挫(く)じけてそして胸膈(むね)も塞(ふさ)がる。
こう云う矢端(やさき)には得て疑心も起りたがる。縄麻(じょうま)に蛇相(じゃそう)も生じたがる、株杭(しゅこう)に人想(にんそう)の起りたがる。実在の苦境(くぎょう)の外に文三が別に妄念(もうねん)から一|苦界(くがい)を産み出して、求めてその中(うち)に沈淪(ちんりん)して、あせッて※[足へん+宛](もが)いて極大(ごくだい)苦悩を甞(な)めている今日この頃、我慢|勝他(しょうた)が性質(もちまえ)の叔母のお政が、よくせきの事なればこそ我から折れて出て、「お前さんさえ我(が)を折れば、三方四方円く納まる」ト穏便をおもって言ッてくれる。それを無面目にも言破ッて立腹をさせて、我から我他彼此(がたびし)の種子(たね)を蒔(ま)く……文三そうは為(し)たく無い。成ろう事なら叔母の言状を立ててその心を慰めて、お勢の縁をも繋(つな)ぎ留めて、老母の心をも安めて、そして自分も安心したい。それで文三は先刻も言葉を濁して来たので、それで文三は今又|屈托(くったく)の人と為(な)ッているので。
「どうしたものだろう」
ト文三再び我と我に相談を懸けた。
「寧(いっ)そ叔母の意見に就いて、廉耻も良心も棄ててしまッて、課長の所へ往ッて見ようかしらん。依頼さえして置けば、仮令(たと)えば今が今どうならんと云ッても、叔母の気が安まる。そうすれば、お勢さえ心変りがしなければまず大丈夫と云うものだ。かつ慈母(おッか)さんもこの頃じゃア茶断(ちゃだち)して心配してお出でなさるところだから、こればかりで犠牲(ヴィクチーム)に成ッたと云ッても敢て小胆とは言われまい。コリャ寧(いッ)そ叔母の意見に……」
が猛然として省思すれば、叔母の意見に就こうとすれば厭でも昇に親まなければならぬ。昇とあのままにして置いて独り課長に而已(のみ)取入ろうとすれば、渠奴(きゃつ)必ず邪魔を入れるに相違ない。からして厭でも昇に親まなければならぬ。老母の為お勢の為めなら、或は良心を傷(きずつ)けて自重の気を拉(とりひし)いで課長の鼻息を窺(うかが)い得るかも知れぬが、如何(いか)に窮したればと云ッて苦しいと云ッて、昇に、面と向ッて図(ず)大柄(おおへい)に「痩我慢なら大抵にしろ」ト云ッた昇に、昨夜も昨夜とて小児の如くに人を愚弄して、陽(あらわ)に負けて陰(ひそか)に復(かえ)り討に逢わした昇に、不倶戴天(ふぐたいてん)の讎敵(あだ)、生ながらその肉を啖(くら)わなければこの熱腸が冷されぬと怨みに思ッている昇に、今更手を杖(つ)いて一|着(ちゃく)を輸(ゆ)する事は、文三には死しても出来ぬ。課長に取入るも昇に上手を遣(つか)うも、その趣きは同じかろうが同じく有るまいが、そんな事に頓着(とんじゃく)はない。唯是もなく非もなく、利もなく害もなく、昇に一着を輸する事は文三には死しても出来ぬ。
ト決心して見れば叔母の意見に負(そむ)かなければならず、叔母の意見に負くまいとすれば昇に一着を輸さなければならぬ。それも厭なりこれも厭なりで、二時間ばかりと云うものは黙坐して腕を拱(く)んで、沈吟して嘆息して、千思万考、審念熟慮して屈托して見たが、詮(せん)ずる所は旧(もと)の木阿弥(もくあみ)。
「ハテどうしたものだろう」
物皆終あれば古筵(ふるむしろ)も鳶(とび)にはなりけり。久しく苦しんでいる内に文三の屈托も遂にその極度に達して、忽ち一ツの思案を形作ッた。所謂(いわゆる)思案とは、お勢に相談して見ようと云う思案で。
蓋し文三が叔母の意見に負きたくないと思うも、叔母の心を汲分けて見れば道理(もっとも)な所もあるからと云い、叔母の苦(にが)り切ッた顔を見るも心苦しいからと云うは少分(しょうぶん)で、その多分は、全くそれが原因(もと)でお勢の事を断念(おもいき)らねばならぬように成行きはすまいかと危ぶむからで。故(ゆえ)に若しお勢さえ、天は荒れても地は老ても、海は枯(か)れても石は爛(ただ)れても、文三がこの上どんなに零落しても、母親がこの後どんな言(こと)を云い出しても、決してその初(はじめ)の志を悛(あらた)めないと定(きま)ッていれば、叔母が面(つら)を脹(ふく)らしても眼を剥出(むきだ)しても、それしきの事なら忍びもなる。文三は叔母の意見に背(そむ)く事が出来る。既に叔母の意見に背く事が出来れば、モウ昇に一着を輸する必要もない。「かつ窮して乱するは大丈夫の為(す)るを愧(はず)る所だ」
そうだそうだ、文三の病原はお勢の心に在る。お勢の心一ツで進退去就を決しさえすればイサクサは無い。何故最初から其処に心附かなかッたか、今と成ッて考えて見ると文三我ながら我が怪しまれる。
お勢に相談する、極めて上策。恐らくはこれに越す思案も有るまい。若しお勢が、小挫折に逢ッたと云ッてその節を移さずして、尚お未(いま)だに文三の智識で考えて、文三の感情で感じて、文三の息気(いき)で呼吸して、文三を愛しているならば、文三に厭な事はお勢にもまた厭に相違は有るまい。文三が昇に一着を輸する事を屑(いさぎよし)と思わぬなら、お勢もまた文三に、昇に一着を輸させたくは有るまい。相談を懸けたら飛だ手軽ろく「母が何と云おうと関(かま)やアしませんやアネ、本田なんぞに頼む事はお罷(よ)しなさいよ」ト云ッてくれるかも知れぬ。またこの後(ご)の所を念を押したら、恨めしそうに、「貴君(あなた)は私をそんな浮薄なものだと思ッてお出でなさるの」ト云ッてくれるかも知れぬ。お勢がそうさえ云ッてくれれば、モウ文三天下に懼(おそ)るる者はない。火にも這入(はい)れる、水にも飛込める。況(いわ)んや叔母の意見に負く位の事は朝飯前の仕事、お茶の子さいさいとも思わない。
「そうだ、それが宜い」
ト云ッて文三|起上(たちあが)ッたが、また立止ッて、
「がこの頃の挙動(そぶり)と云い容子(ようす)と云い、ヒョッとしたら本田に……何してはいないかしらん……チョッ関わん、若しそうならばモウそれまでの事だ。ナニ我(おれ)だッて男子だ、心渝(こころがわり)のした者に未練は残らん。断然手を切ッてしまッて、今度こそは思い切ッて非常な事をして、非常な豪胆を示して、本田を拉(とりひ)しいで、そしてお勢にも……お勢にも後悔さして、そして……そして……そして……」
ト思いながら二階を降りた。
が此処が妙で、観菊行(きくみゆき)の時同感せぬお勢の心を疑ッたにも拘(かかわ)らず、その夜帰宅してからのお勢の挙動(そぶり)を怪んだのにも拘らず、また昨日(きのう)の高笑い昨夜(ゆうべ)のしだらを今|以(もっ)て面白からず思ッているにも拘らず、文三は内心の内心では尚おまだお勢に於て心変りするなどと云うそんな水臭い事は無いと信じていた。尚おまだ相談を懸ければ文三の思う通りな事を云って、文三を励ますに相違ないと信じていた。こう信ずる理由が有るからこう信じていたのでは無くて、こう信じたいからこう信じていたので。 
 
第十二回 いすかの嘴(はし) 

 

文三が二階を降りて、ソットお勢の部屋の障子を開けるその途端(とたん)に、今まで机に頼杖(ほおづえ)をついて何事か物思いをしていたお勢が、吃驚(びっくり)した面相(かおつき)をして些(すこ)し飛上ッて居住居(いずまい)を直おした。顔に手の痕(あと)の赤く残ッている所を観ると、久しく頬杖をついていたものと見える。
「お邪魔じゃ有りませんか」
「イイエ」
「それじゃア」
ト云いながら文三は部屋へ這入(はい)ッて坐に着いて
「昨夜(さくや)は大(おおき)に失敬しました」
「私(わたくし)こそ」
「実に面目が無い、貴嬢(あなた)の前をも憚(はばか)らずして……今朝その事で慈母(おっか)さんに小言を聞きました。アハハハハ」
「そう、オホホホ」
ト無理に押出したような笑い。何となく冷淡(つめた)い、今朝のお勢とは全で他人のようで。
「トキニ些し貴嬢に御相談が有る。他の事でも無いが、今朝慈母さんの仰(おっ)しゃるには……シカシもうお聞きなすッたか」
「イイエ」
「成程そうだ、御存知ない筈(はず)だ……慈母さんの仰しゃるには、本田がアア信切に云ッてくれるものだから、橋渡しをして貰(もら)ッて課長の所へ往(い)ッたらばどうだと仰しゃるのです。そりゃ成程慈母さんの仰しゃる通り今|茲処(ここ)で私さえ我(が)を折れば私の身も極(き)まるシ、老母も安心するシ、『三方四方』(ト言葉に力瘤(ちからこぶ)を入れて)円く納まる事だから、私も出来る事ならそうしたいが、シカシそう為(し)ようとするには良心を締殺(しめころ)さなければならん。課長の鼻息(びそく)を窺(うかが)わなければならん。そんな事は我々には出来んじゃ有りませんか」
「出来なければそれまでじゃ有りませんか」
「サ其処(そこ)です。私には出来ないが、シカシそうしなければ慈母さんがまた悪い顔をなさるかも知れん」
「母が悪い顔をしたッてそんな事は何だけれども……」
「エ、関(かま)わんと仰しゃるのですか」
ト文三はニコニコと笑いながら問懸けた。
「だッてそうじゃ有りません。貴君(あなた)が貴君の考どおりに進退して良心に対して毫(すこ)しも耻(はず)る所が無ければ、人がどんな貌(かお)をしたッて宜(い)いじゃ有りませんか」
文三は笑いを停(とど)めて、
「デスガ唯(ただ)慈母さんが悪い顔をなさるばかりならまだ宜いが、或(あるい)はそれが原因と成ッて……貴嬢にはどうかはしらんが……私の為(た)めには尤(もっと)も忌(い)むべき尤も哀(かなし)む可(べ)き結果が生じはしないかと危ぶまれるから、それで私も困まるのです……尤もそんな結果が生ずると生じないとは貴嬢の……貴嬢の……」
ト云懸けて黙してしまッたが、やがて聞えるか聞えぬ程の小声で、
「心一ツに在る事だけれども……」
ト云ッて差俯向(さしうつむ)いた、文三の懸けた謎々(なぞなぞ)が解けても解けない風(ふり)をするのか、それともどうだか其所(そこ)は判然しないが、ともかくもお勢は頗(すこぶ)る無頓着な容子(ようす)で、
「私にはまだ貴君の仰しゃる事がよく解りませんよ。何故(なぜ)そう課長さんの所へ往(ゆく)のがお厭(いや)だろう。石田さんの所へ往てお頼みなさるも課長さんの所へ往てお頼みなさるも、その趣は同一じゃ有りませんか」
「イヤ違います」
ト云ッて文三は首を振揚げた。
「非常な差が有る、石田は私を知ているけれど課長は私を知らないから……」
「そりゃどうだか解りゃしませんやアネ、往て見ない内は」
「イヤそりゃ今までの経験で解ります、そりゃ掩(おお)う可(べか)らざる事実だから何だけれども……それに課長の所へ往こうとすれば、是非とも先(ま)ず本田に依頼をしなければなりません、勿論(もちろん)課長は私も知らない人じゃないけれども……」
「宜いじゃ有りませんか、本田さんに依頼したッて」
「エ、本田に依頼をしろと」
ト云ッた時は文三はモウ今までの文三でない、顔色(がんしょく)が些し変ッていた。
「命令するのじゃ有りませんがネ、唯依頼したッて宜いじゃ有りませんか、と云うの」
「本田に」
ト文三はあたかも我耳を信じないように再び尋ねた。
「ハア」
「あんな卑屈な奴に……課長の腰巾着(こしぎんちゃく)……奴隷(どれい)……」
「そんな……」
「奴隷と云われても耻とも思わんような、犬……犬……犬猫同前な奴に手を杖(つ)いて頼めと仰しゃるのですか」
ト云ッてジッとお勢の顔を凝視(みつ)めた。
「昨夜(ゆうべ)の事が有るからそれで貴君はそんなに仰しゃるんだろうけれども、本田さんだッてそんなに卑屈な人じゃ有りませんワ」
「フフン卑屈でない、本田を卑屈でない」
ト云ッてさも苦々しそうに冷笑(あざわら)いながら顔を背(そむ)けたが、忽(たちま)ちまたキッとお勢の方を振向いて、
「何時(いつ)か貴嬢何と仰しゃッた、本田が貴嬢に対(むか)ッて失敬な情談を言ッた時に……」
「そりゃあの時には厭な感じも起ッたけれども、能(よ)く交際して見ればそんなに貴君のお言いなさるように破廉耻(はれんち)の人じゃ有りませんワ」
文三は黙然(もくねん)としてお勢の顔を凝視めていた、但(ただ)し宜(よろ)しくない徴候で。
「昨夜(ゆうべ)もアレから下へ降りて、本田さんがアノー『慈母(おっか)さんが聞(きく)と必(きっ)と喧(やか)ましく言出すに違いない、そうすると僕は何だけれどもアノ内海が困るだろうから黙ッていてくれろ』と口止めしたから、私は何とも言わなかッたけれども鍋がツイ饒舌(しゃべ)ッて……」
「古狸奴(ふるだぬきめ)、そんな事を言やアがッたか」
「またあんな事を云ッて……そりゃ文さん、貴君が悪いよ。あれ程貴君に罵詈(ばり)されても腹も立てずにやっぱり貴君の利益を思ッて云う者を、それをそんな古狸なんぞッて……そりゃ貴君は温順だのに本田さんは活溌(かっぱつ)だから気が合わないかも知れないけれども、貴君と気の合わないものは皆(みんな)破廉耻と極(きま)ッてもいないから……それを無暗(むやみ)に罵詈して……そんな失敬な事ッて……」
ト些し顔を※[赤+報のつくり](あか)めて口早に云ッた。文三は益々腹立しそうな面相(かおつき)をして、
「それでは何ですか、本田は貴嬢の気に入ッたと云うんですか」
「気に入るも入らないも無いけれども、貴君の云うようなそんな破廉耻な人じゃ有りませんワ……それを古狸なんぞッて無暗に人を罵詈して……」
「イヤ、まず私の聞く事に返答して下さい。弥々(いよいよ)本田が気に入ッたと云うんですか」
言様が些し烈(はげ)しかッた。お勢はムッとして暫(しば)らく文三の容子をジロリジロリと視(み)ていたが、やがて、
「そんな事を聞いて何になさる。本田さんが私の気に入ろうと入るまいと、貴君の関係した事は無いじゃ有りませんか」
「有るから聞くのです」
「そんならどんな関係が有ります」
「どんな関係でもよろしい、それを今説明する必要は無い」
「そんなら私も貴君の問に答える必要は有りません」
「それじゃア宜ろしい、聞かなくッても」
ト云ッて文三はまた顔を背けて、さも苦々しそうに独語(ひとりごと)のように、
「人に問詰められて逃るなんぞと云ッて、実にひ、ひ、卑劣極まる」
「何ですと、卑劣極まると……宜う御座んす、そんな事お言いなさるなら匿(かく)したッて仕様がない、言てしまいます……言てしまいますとも……」
ト云ッてスコシ胸を突立(つきだ)して、儼然(きッ)として、
「ハイ本田さんは私の気に入りました……それがどうしました」
ト聞くと文三は慄然(ぶるぶる)と震えた、真蒼(まッさお)に成ッた……暫らくの間は言葉はなくて、唯恨めしそうにジッとお勢の澄ました顔を凝視(みつ)めていた、その眼縁(まぶち)が見る見るうるみ出した……が忽ちはッと気を取直おして、儼然(きッ)と容(かたち)を改めて、震声(ふるえごえ)で、
「それじゃ……それじゃこうしましょう、今までの事は全然(すッかり)……水に……」
言切れない、胸が一杯に成て。暫らく杜絶(とぎ)れていたが思い切ッて、
「水に流してしまいましょう……」
「何です、今までの事とは」
「この場に成てそうとぼけなくッても宜いじゃ有りませんか。寧(いッ)そ別れるものなら……綺麗(きれい)に……別れようじゃ……有りませんか……」
「誰がとぼけています、誰が誰に別れようと云うのです」
文三はムラムラとした。些し声高(こわだか)に成ッて、
「とぼけるのも好加減になさい、誰が誰に別れるのだとは何の事です。今までさんざ人の感情を弄(もてあそ)んで置きながら、今と成て……本田なぞに見返えるさえ有るに、人が穏かに出れば附上(つけあが)ッて、誰が誰に別れるのだとは何の事です」
「何ですと、人の感情を弄んで置きながら……誰が人の感情を弄びました……誰が人の感情を弄びましたよ」
ト云った時はお勢もうるみ眼に成っていた。文三はグッとお勢の顔を疾視付(にらみつ)けている而已(のみ)で、一語をも発しなかった。
「余(あんまり)だから宜(い)い……人の感情を弄んだの本田に見返ったのといろんな事を云って讒謗(ざんぼう)して……自分の己惚(うぬぼれ)でどんな夢を見ていたって、人の知た事(こッ)ちゃ有りゃしない……」
トまだ言終らぬ内に文三はスックと起上(たちあが)って、お勢を疾視付(にらみつ)けて、
「モウ言う事も無い聞く事も無い。モウこれが口のきき納めだからそう思ってお出(い)でなさい」
「そう思いますとも」
「沢山……浮気をなさい」
「何ですと」
ト云った時にはモウ文三は部屋には居なかった。
「畜生……馬鹿……口なんぞ聞いてくれなくッたッて些(ちッ)とも困りゃしないぞ……馬鹿……」
ト跡でお勢が敵手(あいて)も無いに独りで熱気(やッき)となって悪口(あっこう)を並べ立てているところへ、何時の間に帰宅したかフと母親が這入って来た。
「どうしたんだえ」
「畜生……」
「どうしたんだと云えば」
「文三と喧嘩(けんか)したんだよ……文三の畜生と……」
「どうして」
「先刻(さっき)突然(いきなり)這入ッて来て、今朝|慈母(おッか)さんがこうこう言ッたがどうしようと相談するから、それから昨夜(ゆうべ)慈母さんが言た通りに……」
「コレサ、静かにお言い」
「慈母さんの言た通りに云て勧めたら腹を立てやアがッて、人の事をいろんな事を云ッて」
ト手短かに勿論自分に不利な所はしッかい取除いて次第を咄(はな)して、
「慈母さん、私ア口惜(くや)しくッて口惜しくッてならないよ」
ト云ッて襦袢(じゅばん)の袖口(そでぐち)で泪(なみだ)を拭(ふ)いた。
「フウそうかえ、そんな事を云ッたかえ。それじゃもうそれまでの事だ。あんな者(もん)でも家大人(おとッさん)の血統(ちすじ)だから今と成てかれこれ言出しちゃ面倒臭(めんどくさ)いと思ッて、此方(こッち)から折れて出て遣(や)れば附上ッて、そんな我儘(わがまま)勝手を云う……モウ勘弁がならない」
ト云ッて些し考えていたが、やがてまた娘の方を向いて一段声を低めて、
「実はネ、お前にはまだ内々でいたけれども、家大人(おとッさん)はネ、行々はお前を文三に配合(めあわ)せる積りでお出でなさるんだが、お前は……厭だろうネ」
「厭サ厭サ、誰があんな奴に……」
「必(きっ)とそうかえ」
「誰があんな奴(や)つに……乞食(こじき)したッてあんな奴のお嫁に成るもんか」
「その一言(いちごん)をお忘れでないよ。お前が弥々(いよいよ)その気なら慈母さんも了簡が有るから」
「慈母さん、今日から私を下宿さしておくんなさいな」
「なんだネこの娘(こ)は、藪(やぶ)から棒に」
「だッて私ア、モウ文さんの顔を見るのも厭だもの」
「そんな事言ッたッて仕様が無いやアネ。マアもう些と辛抱してお出で、その内にゃ慈母さんが宜いようにして上るから」
この時はお勢は黙していた、何か考えているようで。
「これからは真個(ほんとう)に慈母さんの言事を聴いて、モウ余(あんま)り文三と口なんぞお聞きでないよ」
「誰が聞てやるもんか」
「文三ばかりじゃ無い、本田さんにだッてもそうだよ。あんなに昨夜(ゆうべ)のように遠慮の無い事をお言いでないよ。ソリャお前の事だからまさかそんな……不埒(ふらち)なんぞはお為(し)じゃ有るまいけれども、今が嫁入前で一番大事な時だから」
「慈母さんまでそんな事を云ッて……そんならモウこれから本田さんが来たッて口もきかないから宜い」
「口を聞くなじゃ無いが、唯|昨夜(ゆうべ)のように……」
「イイエイイエ、モウ口も聞かない聞かない」
「そうじゃ無いと云えばネ」
「イイエ、モウ口も聞かない聞かない」
ト頭振(かぶ)りを振る娘の顔を視て、母親は、
「全(まる)で狂気(きちがい)だ。チョイと人が一言いえば直(すぐ)に腹を立(たっ)てしまッて、手も附けられやアしない」
ト云い捨てて起上(たちあが)ッて、部屋を出てしまッた。 
 
第三編 

 

浮雲第三篇ハ都合に依ッて此雜誌へ載せる事にしました。
固(も)と此小説ハつまらぬ事を種に作ッたものゆえ、人物も事実も皆つまらぬもののみでしょうが、それは作者も承知の事です。
只々(ただ)作者にハつまらぬ事にハつまらぬという面白味が有るように思われたからそれで筆を執ッてみた計りです。  
第十三回  
心理の上から観(み)れば、智愚の別なく人|咸(ことごと)く面白味は有る。内海文三の心状を観れば、それは解ろう。
前回参看※[白ゴマ点]文三は既にお勢に窘(たしな)められて、憤然として部屋へ駈戻(かけもど)ッた。さてそれからは独り演劇(しばい)、泡(あわ)を噛(かん)だり、拳(こぶし)を握ッたり。どう考えて見ても心外でたまらぬ。「本田さんが気に入りました」それは一時の激語、も承知しているでもなく、又いないでも無い。から、強(あなが)ちそればかりを怒ッた訳でもないが、只(ただ)腹が立つ、まだ何か他(た)の事で、おそろしくお勢に欺(あざむ)かれたような心地がして、訳もなく腹が立つ。
腹の立つまま、遂(つい)に下宿と決心して宿所を出た。ではお勢の事は既にすッぱり思切ッているか、というに、そうではない、思切ッてはいない。思切ッてはいないが、思切らぬ訳にもゆかぬから、そこで悶々(むしゃくしゃ)する。利害得喪、今はそのような事に頓着無い。只|己(おの)れに逆らッてみたい、己れの望まない事をして見たい。鴆毒(ちんどく)? 持ッて来い。甞(な)めてこの一生をむちゃくちゃにして見せよう!……
そこで宿所を出た。同じ下宿するなら、遠方がよいというので、本郷辺へ往(い)ッて尋ねてみたが、どうも無かッた。から、彼地(あれ)から小石川へ下りて、其処此処(そこここ)と尋廻(たずねまわ)るうちに、ふと水道町(すいどうちょう)で一軒見当てた。宿料も廉(れん)、その割には坐舗(ざしき)も清潔、下宿をするなら、まず此所等(ここら)と定めなければならぬ……となると文三急に考え出した。「いずれ考えてから、またそのうちに……」言葉を濁してその家(うち)を出た。
「お勢と諍論(いいあ)ッて家を出た――叔父が聞いたら、さぞ心持を悪くするだろうなア……」と歩きながら徐々(そろそろ)畏縮(いじけ)だした。「と云ッて、どうもこのままには済まされん……思切ッて今の家に下宿しようか?……」
今更心が動く、どうしてよいか訳がわからない。時計を見れば、まだ漸(ようや)く三時半すこし廻わッたばかり。今から帰るも何となく気が進まぬ。から、彼所(あれ)から牛込見附(うしごめみつけ)へ懸ッて、腹の屈托(くったく)を口へ出して、折々往来の人を驚かしながら、いつ来るともなく番町へ来て、例の教師の家を訪問(おとずれ)てみた。
折善くもう学校から帰ッていたので、すぐ面会した。が、授業の模様、旧生徒の噂(うわさ)、留学、竜動(ロンドン)、「たいむす」、はッばァと、すぺんさあー――相変らぬ噺(はなし)で、おもしろくも何ともない。「私……事に寄ると……この頃に下宿するかも知れません」、唐突に宛(あて)もない事を云ッてみたが、先生少しも驚かず、何故(なにゆえ)かふむと鼻を鳴らして、只「羨(うらや)ましいな。もう一度そんな身になってみたい」とばかり。とんと方角が違う。面白くないから、また辞して教師の宅をも出てしまッた。
出た時の勢(いきおい)に引替えて、すごすご帰宅したは八時ごろの事で有ッたろう。まず眼を配ッてお勢を探す。見えない、お勢が……棄てた者に用も何もないが、それでも、文三に云わせると、人情というものは妙なもので、何となく気に懸るから、火を持ッて上ッて来たお鍋にこッそり聞いてみると、お嬢さまは気分が悪いと仰(おっ)しゃッて、御膳(ごぜん)も碌(ろく)に召上らずに、モウお休みなさいました、という。
「御膳も碌に?……」
「御膳も碌に召しやがらずに」
確められて文三急に萎(しお)れかけた……が、ふと気をかえて、「ヘ、ヘ、ヘ、御膳も召上らずに……今に鍋焼饂飩(なべやきうどん)でも喰(くい)たくなるだろう」
おかしな事をいうとは思ッたが、使に出ていて今朝の騒動を知らないから、お鍋はそのまま降りてしまう。
と、独りになる。「ヘ、ヘ、ヘ」とまた思出して冷笑(あざわら)ッた……が、ふと心附いてみれば、今はそんな、つまらぬ、くだらぬ、薬袋(やくたい)も無い事に拘(かかわ)ッている時ではない。「叔父の手前何と云ッて出たものだろう?」と改めて首を捻(ひね)ッて見たが、もウ何となく馬鹿気ていて、真面目(まじめ)になって考えられない。「何と云ッて出たものだろう?」と強(し)いて考えてみても、心|奴(め)がいう事を聴かず、それとは全く関繋(かんけい)もない余所事(よそごと)を何時(いつ)からともなく思ッてしまう。いろいろに紛れようとしてみても、どうも紛れられない、意地悪くもその余所事が気に懸ッて、気に懸ッて、どうもならない。怺(こら)えに、怺えに、怺えて見たが、とうどう怺え切れなくなッて、「して見ると、同じように苦しんでいるかしらん」、はッと云ッても追付かず、こう思うと、急におそろしく気の毒になッて来て、文三は狼狽(あわ)てて後悔をしてしまッた。
叱(しか)るよりは謝罪(あやま)る方が文三には似合うと誰やらが云ッたが、そうかも知れない。  
 
第十四回 

 

「気の毒気の毒」と思い寐(ね)にうとうととして眼を覚まして見れば、烏(からす)の啼声(なきごえ)、雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶(つるべ)を軋(きし)らせる響(ひびき)。少し眠足(ねた)りないが、無理に起きて下坐舗へ降りてみれば、只お鍋が睡むそうな顔をして釜(かま)の下を焚付(たきつ)けているばかり。誰も起きていない。
朝寐が持前のお勢、まだ臥(ね)ているは当然の事、とは思いながらも、何となく物足らぬ心地がする。
早く顔が視(み)たい、如何様(どん)な顔をしているか。顔を視れば、どうせ好い心地がしないは知れていれど、それでいて只早く顔が視たい。
三十分たち、一時間たつ。今に起きて来るか、と思えば、肉癢(こそば)ゆい。髪の寐乱れた、顔の蒼(あお)ざめた、腫瞼(はれまぶち)の美人が始終|眼前(めさき)にちらつく。
「昨日(きのう)下宿しようと騒いだは誰で有ッたろう」と云ッたような顔色(かおつき)……
朝飯(あさはん)がすむ。文三は奥坐舗を出ようとする、お勢はその頃になッて漸々(ようよう)起きて来て、入ろうとする、――縁側でぴッたり出会ッた……はッと狼狽(うろた)えた文三は、予(かね)て期(ご)した事ながら、それに引替えて、お勢の澄ましようは、じろりと文三を尻眼(しりめ)に懸けたまま、奥坐舗へツイとも云わず入ッてしまッた。只それだけの事で有ッた。
が、それだけで十分。そのじろりと視た眼付が眼の底に染付(しみつ)いて忘れようとしても忘れられない。胸は痞(つか)えた。気は結ぼれる。搗(か)てて加えて、朝の薄曇りが昼少し下(さが)る頃より雨となッて、びしょびしょと降り出したので、気も消えるばかり。
お勢は気分の悪いを口実(いいだて)にして英語の稽古(けいこ)にも往かず、只一間に籠(こも)ッたぎり、音沙汰(おとさた)なし。昼飯(ひるはん)の時、顔を合わしたが、お勢は成りたけ文三の顔を見ぬようにしている。偶々(たまたま)眼を視合わせれば、すぐ首を据(す)えて可笑(おか)しく澄ます。それが睨付(にらみつけ)られるより文三には辛(つら)い。雨は歇(や)まず、お勢は済まぬ顔、家内も湿り切ッて誰とて口を聞く者も無し。文三果は泣出したくなッた。
心苦しいその日も暮れてやや雨はあがる。昇が遊びに来たか、門口で華やかな声。お鍋のけたたましく笑う声が聞える。お勢はその時奥坐舗に居たが、それを聞くと、狼狽(うろた)えて起上ろうとしたが間に合わず、――気軽(きがろ)に入ッて来る昇に視られて、さも余義なさそうに又坐ッた。
何も知らぬから、昇、例の如く、好もしそうな眼付をしてお勢の顔を視て、挨拶(あいさつ)よりまず戯言(ざれごと)をいう、お勢は莞爾(にっこり)ともせず、真面目な挨拶をする、――かれこれ齟齬(くいちが)う。から、昇も怪訝(けげん)な顔色(かおつき)をして何か云おうとしたが、突然お政が、三日も物を云わずにいたように、たてつけて饒舌(しゃべ)り懸けたので、つい紛(はぐ)らされてその方を向く。その間(ま)にお勢はこッそり起上ッて坐舗を滑り出ようとして……見附けられた。
「何処(どこ)へ、勢ちゃん?」
けれども、聞えませんから返答を致しませんと云わぬばかりで、お勢は坐舗を出てしまッた。
部屋は真の闇(やみ)。手探りで摺附木(マッチ)だけは探り当てたが、洋燈(ランプ)が見附らない。大方お鍋が忘れてまだ持ッて来ないので有ろう。「鍋や」と呼んで少し待ッてみて又「鍋や……」、返答をしない。「鍋、鍋、鍋」たてつけて呼んでも返答をしない。焦燥(じれ)きッていると、気の抜けたころに、間の抜けた声で、
「お呼びなさいましたか?」
「知らないよ……そんな……呼んでも呼んでも、返答もしないンだものを」
「だッてお奥で御用をしていたンですものを」
「用をしていると返答は出来なくッて?」
「御免遊ばせ……何か御用?」
「用が無くッて呼びはしないよ……そンな……人を……くらみ(暗黒)でるのがわかッ(分ら)なッかえッ?」
二三度聞直して漸く分ッて洋燈(ランプ)は持ッて来たが、心無し奴(め)が跡をも閉めずして出て往ッた。
「ばか」
顔に似合わぬ悪体を吐(つ)きながら、起上(たちあが)ッて邪慳(じゃけん)に障子を〆(しめ)切り、再び机の辺(ほとり)に坐る間もなく、折角〆た障子をまた開けて……己(おの)れ、やれ、もう堪忍(かんにん)が……と振り反ッてみれば、案外な母親。お勢は急に他所(よそ)を向く。
「お勢」と小声ながらに力瘤(ちからこぶ)を込めて、お政は呼ぶ。此方(こちら)はなに返答をするものかと力身(りきん)だ面相(かおつき)。
「何だと云ッて、あんなおかしな処置振りをお為(し)だ? 本田さんが何とか思いなさらアね。彼方(あっち)へお出でよ」
と暫(しば)らく待ッていてみたが、動きそうにも無いので、又声を励まして、
「よ、お出でと云ッたら、お出でよ」
「その位ならあんな事云わないがいい……」
 と差俯向(さしうつむ)く、その顔を窺(のぞ)けば、おやおや泪(なみだ)ぐんで……
「ま呆(あき)れけえッちまわア!」と母親はあきれけエッちまッた。「たンとお脹(ふく)れ」
とは云ッたが、又折れて、
「世話ア焼かせずと、お出でよ」
返答なし。
「ええ、も、じれッたい! 勝手にするがいい!」
そのまま母親は奥坐舗へ還(かえ)ってしまった。
これで坐舗へ還る綱も截(き)れた。求めて截ッて置きながら今更惜しいような、じれッたいような、おかしな顔をして暫く待ッていてみても、誰も呼びに来てもくれない。また呼びに来たとて、おめおめ還られもしない。それに奥坐舗では想像(おもいやり)のない者共が打揃(うちそろ)ッて、噺(はな)すやら、笑うやら……肝癪(かんしゃく)紛れにお勢は色鉛筆を執ッて、まだ真新しなすういんとんの文典の表紙をごしごし擦(こす)り初めた。不運なはすういんとんの文典!
表紙が大方真青になッたころ、ふと縁側に足音……耳を聳(そばだ)てて、お勢ははッと狼狽(うろた)えた……手ばしこく文典を開けて、倒(さか)しまになッているとも心附かで、ぴッたり眼で喰込んだ、とんと先刻から書見していたような面相(かおつき)をして。
すらりと障子が開(あ)く。文典を凝視(みつ)めたままで、お勢は少し震えた。遠慮気もなく無造作に入ッて来た者は云わでと知れた昇。華美(はで)な、軽い調子で、「遁(に)げたね、好男子(いろおとこ)が来たと思ッて」
と云わして置いて、お勢は漸く重そうに首を矯(あ)げて、世にも落着いた声で、さもにべなく、
「あの失礼ですが、まだ明日(あした)の支度(したく)をしませんから……」
けれども、敵手(あいて)が敵手だから、一向|利(き)かない。
「明日(あした)の支度? 明日の支度なぞはどうでも宜いさ」
と昇はお勢の傍(そば)に陣を取ッた。
「本統にまだ……」
「何をそう拗捩(すね)たンだろう? 令慈(おっかさん)に叱(しか)られたね? え、そうでない。はてな」
と首を傾(かたぶ)けるより早く横手を拍(う)ッて、
「あ、ああわかッた。成(な)、成(な)、それで……それならそうと早く一言云えばいいのに……なンだろう大方かく申す拙者|奴(め)に……ウ……ウと云ッたような訳なンだろう? 大蛤(おおはまぐり)の前じゃア口が開(あ)きかねる、――これやア尤(もっとも)だ。そこで釣寄(つりよ)せて置いて……ほんありがた山の蜀魂(ほととぎす)、一声漏らそうとは嬉(うれ)しいぞえ嬉しいぞえ」
と妙な身振りをして、
「それなら、実は此方(こっち)も疾(とう)からその気ありだから、それ白痴(こけ)が出来合|靴(ぐつ)を買うのじゃないが、しッくり嵌(は)まるというもンだ。嵌まると云えば、邪魔の入らない内だ。ちょッくり抱(だ)ッこのぐい極(ぎ)めと往きやしょう」
と白らけた声を出して、手を出しながら、摺寄(すりよ)ッて来る。
「明日の支度が……」
とお勢は泣声を出して身を縮ませた。
「ほい間違ッたか。失敗、々々」
何を云ッても敵手(あいて)にならぬのみか、この上手を附けたら雨になりそうなので、さすがの本田も少し持あぐねたところへ、お鍋が呼びに来たから、それを幸いにして奥坐舗へ還ッてしまッた。
文三は昇が来たから安心を失(な)くして、起ッて見たり坐ッて見たり。我他彼此(がたびし)するのが薄々分るので、弥以(いよいよもって)堪(たま)らず、無い用を拵(こしら)えて、この時二階を降りてお勢の部屋の前を通りかけたが、ふと耳を聳て、抜足をして障子の間隙(ひずみ)から内を窺(のぞい)てはッと顔※[白ゴマ点]お勢が伏臥(うつぶし)になッて泣……い……て……
「Explanation(エキスプラネーション)(示談(はなしあい))」と一時に胸で破裂した……  
 
第十五回 

 

Explanation(エキスプラネーション)(示談(はなしあい))、と肚(はら)を極めてみると、大きに胸が透いた。己れの打解けた心で推測(おしはか)るゆえ、さほどに難事とも思えない。もウ些(すこ)しの辛抱、と、哀(かなし)む可(べ)し、文三は眠らでとも知らず夢を見ていた。
機会(おり)を窺(み)ている二日目の朝、見知り越しの金貸が来てお政を連出して行く。時機到来……今日こそは、と領(えり)を延ばしているとも知らずして帰ッて来たか、下女部屋の入口で「慈母(おッか)さんは?」と優しい声。
その声を聞くと均(ひと)しく、文三|起上(たちあが)りは起上ッたが、据(す)えた胸も率(いざ)となれば躍る。前へ一歩(ひとあし)、後(うしろ)へ一歩(ひとあし)、躊躇(ためらい)ながら二階を降りて、ふいと縁を廻わッて見れば、部屋にとばかり思ッていたお勢が入口に柱に靠着(もた)れて、空を向上(みあ)げて物思い顔……はッと思ッて、文三立ち止まッた。お勢も何心なく振り反ッてみて、急に顔を曇らせる……ツと部屋へ入ッて跡ぴッしゃり。障子は柱と額合(はちあ)わせをして、二三寸跳ね返ッた。
跳ね返ッた障子を文三は恨めしそうに凝視(みつ)めていたが、やがて思い切りわるく二歩三歩(ふたあしみあし)。わななく手頭(てさき)を引手へ懸けて、胸と共に障子を躍らしながら開けてみれば、お勢は机の前に端坐(かしこま)ッて、一心に壁と睨(にら)め競(くら)。
「お勢さん」
と瀬蹈(せぶみ)をしてみれば、愛度気(あどけ)なく返答をしない。危きに慣れて縮めた胆(きも)を少し太くして、また、
「お勢さん」
また返答をしない。
この分なら、と文三は取越して安心をして、莞爾々々(にこにこ)しながら部屋へ入り、好き程の所に坐を占めて、
「少しお噺(はなし)が……」
この時になッてお勢は初めて、首の筋でも蹙(つま)ッたように、徐々(そろそろ)顔を此方(こちら)へ向け、可愛(かわい)らしい眼に角を立てて、文三の様子を見ながら、何か云いたそうな口付をした。
今打とうと振上げた拳(こぶし)の下に立ッたように、文三はひやりとして、思わず一生懸命にお勢の顔を凝視(みつ)めた。けれども、お勢は何とも云わず、また向うを向いてしまッたので、やや顔を霽(は)らして、極(きま)りわるそうに莞爾々々(にこにこ)しながら、
「この間は誠にどう……」
もと云い切らぬうち、つと起き上ッたお勢の体が……不意を打たれて、ぎょッとする、女帯が、友禅(ゆうぜん)染の、眼前(めさき)にちらちら……はッと心附く……我を忘れて、しッかり捉(とら)えたお勢の袂(たもと)を……
「何をなさるンです?」
と慳貪(けんどん)に云う。
「少しお噺し……お……」
「今用が有ります」
邪慳(じゃけん)に袂を振払ッて、ついと部屋を出(でて)しまッた。
その跡を眺(なが)めて文三は呆(あき)れた顔……「この期(ご)を外(はず)しては……」と心附いて起ち上りてはみたが、まさか跡を慕ッて往(い)かれもせず、萎(しお)れて二階へ狐鼠々々(こそこそ)と帰ッた。
「失敗(しま)ッた」と口へ出して後悔して後(おく)れ馳(ば)せに赤面。「今にお袋が帰ッて来る。『慈母さんこれこれの次第……』失敗(しま)ッた、失策(しくじ)ッた」
千悔、万悔、臍(ほぞ)を噬(か)んでいる胸元を貫くような午砲(ごほう)の響(ひびき)。それと同時に「御膳(ごぜん)で御座いますよ」。けれど、ほいきたと云ッて降りられもしない。二三度呼ばれて拠(よん)どころ無く、薄気味わるわる降りてみれば、お政はもウ帰ッていて、娘と取膳(とりぜん)で今食事最中。文三は黙礼をして膳に向ッた。「もウ咄したか、まだ咄さぬか」と思えば胸も落着かず、臆病(おくびょう)で好事(ものずき)な眼を額越(ひたえごし)にそッと親子へ注いでみればお勢は澄ました顔、お政は意味の無い顔、……咄したとも付かず、咄さぬとも付かぬ。
寿命を縮めながら、食事をしていた。
「そらそら、気をお付けなね。小供じゃア有るまいし」
ふと轟(とどろ)いたお政の声に、怖気(おじけ)の附いた文三ゆえ、吃驚(びっくり)して首を矯(あ)げてみて、安心した※[白ゴマ点]お勢が誤まッて茶を膝(ひざ)に滴(こぼ)したので有ッた。
気を附けられたからと云うえこじな顔をして、お勢は澄ましている。拭(ふ)きもしない。「早くお拭きなね」と母親は叱(しか)ッた。「膝の上へ茶を滴(こぼ)して、ぽかんと見てえる奴が有るもんか。三歳児(みつご)じゃア有るまいし、意久地の無いにも方図(ほうず)が有ッたもンだ」
もはやこう成ッては穏(おだやか)に収まりそうもない。黙ッても視(み)ていられなくなッたから、お鍋は一とかたけ煩張(ほおば)ッた飯を鵜呑(うのみ)にして、「はッ、はッ」と笑ッた。同じ心に文三も「ヘ、ヘ」と笑ッた。
するとお勢は佶(きっ)と振向いて、可畏(こわ)らしい眼付をして文三を睨(ね)め出した。その容子(ようす)が常で無いから、お鍋はふと笑い罷(や)んでもッけな顔をする。文三は色を失ッた……
「どうせ私は意久地が有りませんのさ」とお勢はじぶくりだした、誰に向ッて云うともなく。
「笑いたきゃア沢山(たんと)お笑いなさい……失敬な。人の叱られるのが何処(どこ)が可笑(おか)しいンだろう? げたげたげたげた」
「何だよ、やかましい! 言艸(いいぐさ)云わずと、早々(さっさ)と拭いておしまい」
と母親は火鉢の布巾(ふきん)を放(な)げ出す。けれども、お勢は手にだも触れず、
「意久地がなくッたッて、まだ自分が云ッたことを忘れるほど盲録(もうろく)はしません。余計なお世話だ。人の事よりか自分の事を考えてみるがいい。男の口からもう口も開(き)かないなンぞッて云ッて置きながら……」
「お勢!」
と一句に力を籠(こ)めて制する母親、その声ももウこう成ッては耳には入らない。文三を尻眼(しりめ)に懸けながらお勢は切歯(はぎし)りをして、
「まだ三日も経(た)たないうちに、人の部屋へ……」
「これ、どうしたもンだ」
「だッて私ア腹が立つものを。人の事を浮気者(うわきもん)だなンぞッて罵(ののし)ッて置きながら、三日も経たないうちに、人の部屋へつかつか入ッて来て……人の袂なンぞ捉(つかま)えて、咄(はなし)が有るだの、何だの、種々(いろいろ)な事を云ッて……なんぼ何だッて余(あんま)り人を軽蔑(けいべつ)した……云う事が有るなら、茲処(ここ)でいうがいい、慈母さんの前で云えるなら、云ッてみるがいい……」
留めれば留めるほど、尚(な)お喚(わめ)く。散々喚かして置いて、もう好い時分と成ッてから、お政が「彼方(あッち)へ」と顋(あご)でしゃくる。しゃくられて、放心して人の顔ばかり視ていたお鍋は初めて心附き、倉皇(あわてて)箸(はし)を棄ててお勢の傍(そば)へ飛んで来て、いろいろに賺(す)かして連れて行こうとするが、仲々素直に連れて行かれない。
「いいえ、放擲(うっちゃ)ッといとくれ。何だか云う事が有(ある)ッていうンだから、それを……聞かないうちは……いいえ、私(わた)しゃ……あンまり人を軽蔑した……いいえ、其処(そこ)お放しよ……お放しッてッたら、お放しよッ……」
けれども、お鍋の腕力には敵(かな)わない。無理無体に引立られ、がやがや喚きながらも坐舗(ざしき)を連れ出されて、稍々(やや)部屋へ収まッたようす。
となッて、文三始めて人心地が付いた。
いずれ宛擦(あてこす)りぐらいは有ろうとは思ッていたが、こうまでとは思い掛けなかッた。晴天の霹靂(へきれき)、思いの外なのに度肝(どぎも)を抜かれて、腹を立てる遑(いとま)も無い。脳は乱れ、神経は荒れ、心神(しんじん)錯乱して是非の分別も付かない。只(ただ)さしあたッた面目なさに消えも入りたく思うばかり。叔母を観れば、薄気味わるくにやりとしている。このままにも置かれない、……から、余義なく叔母の方へ膝を押向け、おろおろしながら、
「実に……どうもす、す、済まんことをしました……まだお咄はいたしませんでしたが……一昨日|阿勢(おせい)さんに……」
と云いかねる。
「その事なら、ちらと聞きました」と叔母が受取ッてくれた。「それはああした我儘者ですから、定めしお気に障るような事もいいましたろうから……」
「いや、決してお勢さんが……」
「それゃアもう」と一越(いちおつ)調子高に云ッて、文三を云い消してしまい、また声を並に落して、「お叱んなさるも、あれの身の為めだから、いいけれども、只まだ婚嫁前(よめいりまえ)の事(こっ)てすから、あんな者(もん)でもね、余(あんま)り身体(からだ)に疵(きず)の……」
「いや、私は決して……そんな……」
「だからさ、お云いなすッたとは云わないけれども、これからも有る事(こっ)たから、おねがい申して置くンですよ。わるくお聞きなすッちゃアいけないよ」
ぴッたり釘(くぎ)を打たれて、ぐッとも云えず、文三は只|口惜(くちお)しそうに叔母の顔を視詰めるばかり。
「子を持ッてみなければ、分らない事(こっ)たけれども、女の子というものは嫁(かたづ)けるまでが心配なものさ。それゃア、人さまにゃアあんな者(もん)をどうなッてもよさそうに思われるだろうけれども、親馬鹿とは旨(うま)く云ッたもンで、あんな者(もん)でも子だと思えば、有りもしねえ悪名(あくみょう)つけられて、ひょッと縁遠くでもなると、厭(いや)なものさ。それに誰にしろ、踏付られれゃア、あンまり好い心持もしないものさ、ねえ、文さん」
もウ文三|堪(たま)りかねた。
「す、す、それじゃ何ですか……私が……私がお勢さんを踏付たと仰ッしゃるンですかッ?」
「可畏(こわ)い事をお云いなさるねえ」とお政はおそろしい顔になッた。「お前さんがお勢を踏付たと誰が云いました? 私ア自分にも覚えが有るから、只の世間咄に踏付られたと思うと厭なもンだと云ッたばかしだよ。それをそんな云いもしない事をいって……ああ、なんだね、お前さん云い掛りをいうンだね? 女だと思ッて、そんな事を云ッて、人を困らせる気だね?」
と層(かさ)に懸ッて極付(きめつけ)る。
「ああわるう御座ンした……」と文三は狼狽(あわ)てて謝罪(あやま)ッたが、口惜(くちお)し涙が承知をせず、両眼に一杯|溜(たま)るので、顔を揚げていられない。差俯向(さしうつむ)いて「私が……わるう御座ンした……」
「そうお云いなさると、さも私が難題でもいいだしたように聞こゆるけれども、なにもそう遁(に)げなくッてもいいじゃないか? そんな事を云い出すからにゃア、お前さんだッて、何か訳が無(なく)ッちゃア、お云いなさりもすまい?」
「私がわるう御座ンした……」と差俯向いたままで重ねて謝罪(あやまっ)た。「全くそんな気で申した訳じゃア有りませんが……お、お、思違いをして……つい……失礼を申しました……」
こう云われては、さすがのお政ももう噛付(かみつ)きようが無いと見えて、無言で少選(しばらく)文三を睨(ね)めるように視ていたが、やがて、
「ああ厭だ厭だ」と顔を皺(しか)めて、「こんな厭な思いをするも皆(みんな)彼奴(あいつ)のお蔭(かげ)だ。どれ」と起ち上ッて、「往ッて土性骨(どしょうぼね)を打挫(ぶっくじ)いてやりましょう」
お政は坐舗を出てしまッた。
お政が坐舗を出るや否(いな)や、文三は今までの溜涙(ためなみだ)を一時にはらはらと落した。ただそのまま、さしうつむいたままで、良(やや)久(しば)らくの間、起ちも上がらず、身動きもせず、黙念として坐ッていた。が、そのうちにお鍋が帰ッて来たので、文三も、余義なく、うつむいたままで、力無さそうに起ち上り、悄々(すごすご)我部屋へ戻ろうとして梯子段(はしごだん)の下まで来ると、お勢の部屋で、さも意地張ッた声で、
「私ゃアもう家(うち)に居るのは厭だ厭だ」 
 
第十六回 

 

あれほどまでにお勢|母子(おやこ)の者に辱(はずかし)められても、文三はまだ園田の家を去る気になれない。但(た)だ、そのかわり、火の消えたように、鎮(しず)まッてしまい、いとど無口が一層口を開(き)かなくなッて、呼んでも捗々(はかばか)しく返答をもしない。用事が無ければ下へも降りて来ず、只(ただ)一|間(ま)にのみ垂れ籠(こ)めている。余り静かなので、つい居ることを忘れて、お鍋が洋燈(ランプ)の油を注がずに置いても、それを吩咐(いいつ)けて注がせるでもなく、油が無ければ無いで、真闇(まっくら)な坐舗(ざしき)に悄然(しょんぼり)として、始終何事をか考えている。
けれど、こう静まッているは表相(うわべ)のみで、乞の胸臆(きょうおく)の中(うち)へ立入ッてみれば、実に一方(ひとかた)ならぬ変動。あたかも心が顛動(てんどう)した如くに、昨日(きのう)好いと思ッた事も今日は悪く、今日悪いと思う事も昨日は好いとのみ思ッていた。情慾の曇が取れて心の鏡が明かになり、睡入(ねい)ッていた智慧(ちえ)は俄(にわか)に眼を覚まして決然として断案を下し出す。眼に見えぬ処(ところ)、幽妙の処で、文三は――全くとは云わず――稍々(やや)変生(うまれかわ)ッた。
眼を改めてみれば、今まで為(し)て来た事は夢か将(は)た現(うつつ)か……と怪しまれる。
お政の浮薄、今更いうまでも無い。が、過(あや)まッた文三は、――実に今まではお勢を見謬(みあや)まッていた。今となッて考えてみれば、お勢はさほど高潔でも無(ない)。移気、開豁(はで)、軽躁(かるはずみ)、それを高潔と取違えて、意味も無い外部の美、それを内部のと混同して、愧(はず)かしいかな、文三はお勢に心を奪われていた。
我に心を動かしていると思ッたがあれが抑(そもそ)も誤まりの緒(いとぐち)。苟(かりそ)めにも人を愛するというからには、必ず先(ま)ず互いに天性気質を知りあわねばならぬ。けれども、お勢は初(はじめ)より文三の人と為(な)りを知ッていねば、よし多少文三に心を動かした如き形迹(けいせき)が有(あれ)ばとて、それは真に心を動かしていたではなく、只ほんの一時|感染(かぶ)れていたので有ッたろう。
感受の力の勝つ者は誰しも同じ事ながら、お勢は眼前に移り行く事や物やのうち少しでも新奇な物が有れば、眼早くそれを視て取ッて、直ちに心に思い染(し)める。けれども、惜しいかな、殆(ほとん)ど見たままで、別に烹煉(ほうれん)を加うるということをせずに、無造作にその物その事の見解を作ッてしまうから、自(おのずか)ら真相を看破(あきら)めるというには至らずして、動(やや)もすれば浅膚(せんぷ)の見(けん)に陥いる。それゆえ、その物に感染(かぶ)れて、眼色(めいろ)を変えて、狂い騒ぐ時を見れば、如何(いか)にも熱心そうに見えるものの、固(もと)より一時の浮想ゆえ、まだ真味を味(あじわ)わぬうちに、早くも熱が冷めて、厭気になッて惜し気もなく打棄ててしまう。感染(かぶ)れる事の早い代りに、飽きる事も早く、得る事に熱心な代りに、既に得た物を失うことには無頓着(むとんじゃく)。書物を買うにしても、そうで、買いたいとなると、矢も楯(たて)もなく買いたがるが、買ッてしまえば、余り読みもしない。英語の稽古(けいこ)を初めた時も、またその通りで、初めるまでは一|日(じつ)をも争ッたが、初めてみれば、さほどに勉強もしない。万事そうした気風で有てみれば、お勢の文三に感染(かぶ)れたも、また厭(あ)いたも、その間にからまる事情を棄てて、単にその心状をのみ繹(たず)ねてみたら、恐らくはその様な事で有ろう。
かつお勢は開豁(はで)な気質、文三は朴茂(じみ)な気質。開豁が朴茂に感染れたから、何処(どこ)か仮衣(かりぎ)をしたように、恰当(そぐ)わぬ所が有ッて、落着(おちつき)が悪かッたろう。悪ければ良くしようというが人の常情で有ッてみれば、仮令(たと)え免職、窮愁、耻辱(ちじょく)などという外部の激因が無いにしても、お勢の文三に対する感情は早晩一変せずにはいなかッたろう。
お勢は実に軽躁(かるはずみ)で有る。けれども、軽躁で無い者が軽躁な事を為(し)ようとて為得ぬが如く、軽躁な者は軽躁な事を為まいと思ッたとて、なかなか為(し)ずにはおられまい。軽躁と自(みずか)ら認めている者すら、尚おこうしたもので有ッてみれば、況(ま)してお勢の如き、まだ我をも知らぬ、罪の無い処女が己(おのれ)の気質に克(か)ち得ぬとて、強(あなが)ちにそれを無理とも云えぬ。若(も)しお勢を深く尤(とが)む可(べ)き者なら、較(くら)べて云えば、稍々(やや)学問あり智識ありながら、尚お軽躁(けいそう)を免がれぬ、譬(たと)えば、文三の如き者は(はれやれ、文三の如き者は?)何としたもので有ろう?
人事(ひとごと)で無い。お勢も悪るかッたが、文三もよろしく無かッた。「人の頭の蠅(はえ)を逐(お)うよりは先ず我頭のを逐え」――聞旧(ききふる)した諺(ことわざ)も今は耳新しく身に染(し)みて聞かれる。から、何事につけても、己(おのれ)一人(いちにん)をのみ責めて敢(あえ)て叨(みだ)りにお勢を尤(とが)めなかッた。が、如何に贔負眼(ひいきめ)にみても、文三の既に得た所謂(いわゆる)識認というものをお勢が得ているとはどうしても見えない。軽躁(けいそう)と心附かねばこそ、身を軽躁に持崩しながら、それを憂(う)しとも思わぬ様子※[白ゴマ点]|醜穢(しゅうかい)と認めねばこそ、身を不潔な境に処(お)きながら、それを何とも思わぬ顔色(かおつき)。これが文三の近来最も傷心な事、半夜夢覚めて燈(ともしび)冷(ひやや)かなる時、想(おも)うてこの事に到れば、毎(つね)に悵然(ちょうぜん)として太息(たいそく)せられる。
して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみが甞(な)め足りぬそうな! 
 
第十七回 

 

お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、凡(およ)そ二時間ばかりも、何か諄々(くどくど)と教誨(いいきか)せていたが、爾後(それから)は、どうしたものか、急に母子(おやこ)の折合が好(よく)なッて来た。取分けてお勢が母親に孝順(やさしく)する、折節には機嫌(きげん)を取るのかと思われるほどの事をも云う。親も子も睨(ね)める敵(かたき)は同じ文三ゆえ、こう比周(したしみあ)うもその筈(はず)ながら、動静(ようす)を窺(み)るに、只(ただ)そればかりでも無さそうで。
昇はその後ふッつり遊びに来ない。顔を視(み)れば鬩(いが)み合う事にしていた母子ゆえ、折合が付いてみれば、咄(はなし)も無く、文三の影口も今は道尽(いいつく)す、――家内が何時(いつ)からと無く湿ッて来た。
「ああ辛気(しんき)だこと!」と一夜(あるよ)お勢が欠(あく)びまじりに云ッて泪(なみだ)ぐンだ。
新聞を拾読(ひろいよみ)していたお政は眼鏡越しに娘を見遣(みや)ッて、「欠びをして徒然(つくねん)としていることは無(ない)やアね。本でも出して来てお復習(さらい)なさい」
「復習(さらえ)ッて」とお勢は鼻声になッて眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。
「明日(あした)の支度(したく)はもう済してしまッたものを」
「済ましッちまッたッて」
お政は復(また)新聞に取掛ッた。
「慈母(おっか)さん」とお勢は何をか憶出して事有り気に云ッた。「本田さんは何故(なぜ)来ないンだろう?」
「何故だか」
「憤(おこ)ッているのじゃないのだろうか?」
「そうかも知れない」
何を云ッても取合わぬゆえ、お勢も仕方なく口を箝(つぐ)んで、少(しばら)く物思わし気に洋燈(ランプ)を凝視(みつめ)ていたが、それでもまだ気に懸ると見えて、「慈母さん」
「何だよ?」と蒼蠅(うるさ)そうにお政は起直ッた。
「真個(ほんとう)に本田さんは憤ッて来ないのだろうか?」
「何を?」
「何をッて」と少し気を得て、「そら、この間来た時、私が構わなかったから……」
と母の顔を凝視た。
「なに人(ひと)」とお政は莞爾(にっこり)した、何と云ッてもまだおぼだなと云いたそうで。「お前に構ッて貰(もら)いたいンで来なさるンじゃ有るまいシ」
「あら、そうじゃ無いンだけれどもさ……」
と愧(はず)かしそうに自分も莞爾(にっこり)。
おほんという罪を作ッているとは知らぬから、昇が、例の通り、平気な顔をしてふいと遣ッて来た。
「おや、ま、噂(うわさ)をすれば影とやらだよ」とお政が顔を見るより饒舌(しゃべ)り付けた。「今|貴君(あなた)の噂をしていた所(とこ)さ。え? 勿論(もちろん)さ、義理にも善くは云えないッさ……ははははは。それは情談だが、きついお見限りですね。何処(どこ)か穴でも出来たンじゃないかね? 出来たとえ? そらそら、それだもの、だから鰻男(うなぎおとこ)だということさ。ええ鰌(どじょう)で無くッてお仕合せ? 鰌とはえ? ……あ、ほンに鰌と云えば、向う横町に出来た鰻屋ね、ちょいと異(おつ)ですッさ。久し振りだッて、奢(おご)らなくッてもいいよ。はははは」
皺延(しわの)ばしの太平楽、聞くに堪えぬというは平日の事、今宵(こよい)はちと情実(わけ)が有るから、お勢は顔を皺(しか)めるはさて置き、昇の顔を横眼でみながら、追蒐(おっか)け引蒐(ひっか)けて高笑い。てれ隠(かく)しか、嬉(うれ)しさの溢(こぼ)れか当人に聞いてみねば、とんと分からず。
「今夜は大分御機嫌だが」と昇も心附いたか、お勢を調戯(なぶり)だす。「この間はどうしたもンだッた? 何を云ッても、『まだ明日(あした)の支度をしませんから』はッ、はッ、はッ、憶出すと可笑(おか)しくなる」
「だッて、気分が悪かッたンですものを」と淫哇(いやら)しい、形容も出来ない身振り。
「何が何だか、訳が解りゃアしません」
少ししらけた席の穴を填(うめ)るためか、昇が俄(にわ)かに問われもせぬ無沙汰(ぶさた)の分疏(いいわけ)をしだして、近ごろは頼まれて、一|夜(よ)はざめに課長の所へ往(いっ)て、細君と妹に英語の下稽古をしてやる、という。「いや、迷惑な」と言葉を足す。
と聞いて、お政にも似合わぬ、正直な、まうけに受けて、その不心得を諭(さと)す、これが立身の踏台になるかも知れぬと云ッて。けれども、御弟子が御弟子ゆえ、飛だ事まで教えはすまいかと思うと心配だと高く笑う。
お勢は昇が課長の所へ英語を教えに往くと聞くより、どうしたものか、俄かに萎(しお)れだしたが、この時母親に釣(つ)られて淋(さび)しい顔で莞爾(にっこり)して、「令妹の名は何というの?」
「花とか耳とか云ッたッけ」
「余程出来るの?」
「英語かね? なアに、から駄目だ。Thank(サンク) you(ユー) for(フォア) your(ユアー) kind(カインド) だから、まだまだ」
お勢は冷笑の気味で、「それじゃアア……」
 I(アイ) will(ウィル) ask(アスク) to(ツー) you(ユー) と云ッて今日教師に叱(しか)られた、それはこの時忘れていたのだから、仕方が無い。
「ときに、これは」と昇はお政の方を向いて親指を出してみせて、「どうしました、その後?」
「居ますよまだ」とお政は思い切りて顔を皺(しか)めた。
「ずうずうしいと思ッてねえ!」
「それも宜(いい)が、また何かお勢に云いましたッさ」
「お勢さんに?」
「はア」
「どんな事を?」
おッとまかせと饒舌(しゃべ)り出した、文三のお勢の部屋へ忍び込むから段々と順を逐(お)ッて、剰(あま)さず漏さず、おまけまでつけて。昇は顋(あご)を撫(な)でてそれを聴いていたが、お勢が悪たれた一段となると、不意に声を放ッて、大笑に笑ッて、「そいつア痛かッたろう」
「なにそン時こそ些(ちっと)ばかし可怪(おかし)な顔をしたッけが、半日も経(た)てば、また平気なものさ。なンと、本田さん、ずうずうしいじゃア有りませんか!」
「そうしてね、まだ私の事を浮気者だなンぞッて」
「ほんとにそんな事も云たそうですがね、なにも、そんなに腹がたつなら、此所(ここ)の家に居ないが宜じゃ有りませんか。私ならすぐ下宿か何かしてしまいまさア。それを、そんな事を云ッて置きながら、ずうずうしく、のべんくらりと、大飯を食らッて……ているとは何所(どこ)まで押(おし)が重(おもた)いンだか数(すう)が知れないと思ッて」
昇は苦笑いをしていた。暫時(しばらく)して返答とはなく、ただ、「何しても困ッたもンだね」
「ほんとに困ッちまいますよ」
困ッている所へ勝手口で、「梅本でござい」。梅本というは近処の料理屋。「おや家(うち)では……」とお政は怪しむ、その顔も忽(たちま)ち莞爾々々(にこにこ)となッた、昇の吩咐(いいつけ)とわかッて。
「それだからこの息子は可愛(かわい)いよ」。片腹痛い言(こと)まで云ッてやがて下女が持込む岡持の蓋(ふた)を取ッて見るよりまた意地の汚い言(こと)をいう。それを、今夜に限(かぎっ)て、平気で聞いているお勢どのの心持が解らない、と怪しんでいる間も有ればこそ、それッと炭を継(つ)ぐ、吹く、起こす、燗(かん)をつけるやら、鍋(なべ)を懸けるやら、瞬(またた)く間に酒となッた。
あいのおさえのという蒼蠅(うるさ)い事の無(ない)代(かわ)り、洒落(しゃれ)、担(かつ)ぎ合い、大口、高笑、都々逸(どどいつ)の素(す)じぶくり、替歌の伝受|等(など)、いろいろの事が有ッたが、蒼蠅(うるさ)いからそれは略す。
刺身は調味(つま)のみになッて噎(おくび)で応答(うけこたえ)をするころになッて、お政は、例の所へでも往きたくなッたか、ふと起(た)ッて坐舗(ざしき)を出た。
と両人(ふたり)差向いになッた。顔を視合わせるとも無く視合わして、お勢はくすくすと吹出したが、急に真面目になッてちんと澄ます。
「これアおかしい。何がくすくすだろう?」
「何でも無いの」
「のぼる源氏のお顔を拝んで嬉しいか?」
「呆(あき)れてしまわア、ひょッとこ面(づら)の癖に」
「何だと?」
「綺麗(きれい)なお顔で御座いますということ」
昇は例の黙ッてお勢を睨(ね)め出す。
「綺麗なお顔だというンだから、ほほほ」と用心しながら退却(あとすざり)をして、「いいじゃア……おッ……」
ツと寄ッた昇がお勢の傍(そば)へ……空(くう)で手と手が閃(ひらめ)く、からまる……と鎮(しず)まッた所をみれば、お勢は何時(いつ)か手を握られていた。
「これがどうしたの?」と平気な顔。
「どうもしないが、こうまず俘虜(いけどり)にしておいてどッこい……」と振放そうとする手を握りしめる。
「あちちち」と顔を皺(しか)めて、「痛い事をなさるねえ!」
「ちッとは痛いのさ」
「放して頂戴(ちょうだい)よ。よう。放さないとこの手に喰付(くいつき)ますよ」
「喰付たいほど思えども……」と平気で鼻歌。
お勢はおそろしく顔を皺(しか)めて、甘たるい声で、「よう、放して頂戴と云えばねえ……声を立てますよ」
「お立てなさいとも」
と云われて一段声を低めて、「あら引本田さんが引手なんぞ握ッて引ほほほ、いけません、ほほほ」
「それはさぞ引お困りで御座いましょう引」
「本統に放して頂戴よ」
「何故(なぜ)? 内海に知れると悪いか?」
「なにあんな奴に知れたッて……」
「じゃ、ちッとこうしてい給(たま)え。大丈夫だよ、淫褻(いたずら)なぞする本田にあらずだ……が、ちょッと……」と何やら小声で云ッて、「……位(ぐら)いは宜かろう?」
するとお勢は、どうしてか、急に心から真面目になッて、「あたしゃア知らないからいい……私(わた)しゃア……そんな失敬な事ッて……」
昇は面白そうにお勢の真面目くさッた顔を眺(なが)めて莞爾々々(にこにこ)しながら、「いいじゃないか? ただちょいと……」
「厭(いや)ですよ、そんな……よッ、放して頂戴と云えばねえッ」
一生懸命に振放そうとする、放させまいとする、暫時争ッていると、縁側に足音がする、それを聞くと、昇は我からお勢の手を放(はなし)て大笑に笑い出した。
ずッとお政が入ッて来た。
「叔母さん叔母さん、お勢さんを放飼(はなしがい)はいけないよ。今も人を捉(つかま)えて口説(くど)いて口説いて困らせ抜いた」
「あらあらあんな虚言(うそ)を吐(つ)いて……非道(ひど)い人だこと!……」
昇は天井を仰向いて、「はッ、はッ、はッ」 
 
第十八回 

 

一週間と経(た)ち、二週間と経つ。昇は、相かわらず、繁々(しげしげ)遊びに来る。そこで、お勢も益々親しくなる。
けれど、その親しみ方が、文三の時とは、大きに違う。かの時は華美(はで)から野暮(じみ)へと感染(かぶ)れたが、この度(たび)は、その反対で、野暮の上塗が次第に剥(は)げて漸(ようや)く木地(きじ)の華美(はで)に戻る。両人とも顔を合わせれば、只(ただ)戯(たわ)ぶれるばかり、落着いて談話(はなし)などした事更に無し。それも、お勢に云わせれば、昇が宜しく無いので、此方(こちら)で真面目(まじめ)にしているものを、とぼけた顔をし、剽軽(ひょうきん)な事を云い、軽く、気無しに、調子を浮かせてあやなしかける。それ故(ゆえ)、念に掛けて笑うまいとはしながら、おかしくて、おかしくて、どうも堪(たま)らず、唇を噛締(かみし)め、眉(まゆ)を釣上(つりあ)げ、真赤になッても耐(こら)え切れず、つい吹出して大事の大事の品格を落してしまう。果は、何を云われんでも、顔さえ見れば、可笑(おか)しくなる。「本当に本田さんはいけないよ、人を笑わしてばかりいて」。お勢は絶えず昇を憎がッた。
こうお勢に対(むか)うと、昇は戯(たわぶ)れ散らすが、お政には無遠慮といううちにも、何処(どこ)かしっとりした所が有ッて、戯言(たわごと)を云わせれば、云いもするが、また落着く時には落着いて、随分真面目な談話(はなし)もする。勿論(もちろん)、真面目な談話と云ッたところで、金利公債の話、家屋敷の売買(うりかい)の噂(うわさ)、さもなくば、借家人が更らに家賃(たなちん)を納(い)れぬ苦情――皆つまらぬ事ばかり。一つとしてお勢の耳には面白くも聞こえないが、それでいて、両人(ふたり)の話している所を聞けば、何か、談話(はなし)の筋の外に、男女交際、婦人|矯風(きょうふう)の議論よりは、遥(はるか)に優(まさ)りて面白い所が有ッて、それを眼顔(めかお)で話合ッて娯(たの)しんでいるらしいが、お勢にはさっぱり解らん。が、余程面白いと見えて、その様な談話(はなし)が始まると、お政は勿論、昇までが平生の愛嬌(あいきょう)は何処へやら遣(や)ッて、お勢の方は見向もせず、一心になッて、或(あるい)は公債を書替える極(ごく)簡略な法、或は誰も知ッている銀行の内幕、またはお得意(はこ)の課長の生計の大した事を喋々(ちょうちょう)と話す。お勢は退屈で退屈で、欠(あく)びばかり出る。起上(たちあが)ッて部屋へ帰ろうとは思いながら、つい起(たち)そそくれて潮合(しおあい)を失い、まじりまじり思慮の無い顔をして面白(おもしろく)もない談話(はなし)を聞いているうちに、いつしか眼が曇り両人(ふたり)の顔がかすんで話声もやや遠く籠(こも)ッて聞こえる……「なに、十円さ」と突然|鼓膜(こまく)を破る昇の声に駭(おどろ)かされ、震え上る拍子(ひょうし)に眼を看開(みひら)いて、忙わしく両人(ふたり)の顔を窺(うかが)えば、心附かぬ様子、まずよかッたと安心し、何喰わぬ顔をしてまた両人の話を聞出すと、また眼の皮がたるみ、引入れられるような、快(よ)い心地になッて、睡(ねむ)るともなく、つい正体を失う……誰かに手暴(てあら)く揺ぶられてまた愕然(がくぜん)として眼を覚ませば、耳元にどっと高笑(たかわらい)の声。お勢もさすがに莞爾(にッこり)して、「それでも睡いんだものを」と睡そうに分疏(いいわけ)をいう。またこういう事も有る※[白ゴマ点]前のように慾張ッた談話(はなし)で両人は夢中になッている※[白ゴマ点]お勢は退屈やら、手持|無沙汰(ぶさた)やら、いびつに坐りてみたり、危坐(かしこま)ッてみたり。耳を借していては際限もなし、そのうちにはまた睡気(ねむけ)がさしそうになる、から、ちと談話(はなし)の仲間入りをしてみようとは思うが、一人が口を箝(つぐ)めば、一人が舌を揮(ふる)い、喋々として両(ふた)つの口が結ばるという事が無ければ、嘴(くちば)しを容(い)れたいにも、更にその間隙(すきま)が見附からない。その見附からない間隙を漸やく見附けて、此処(ここ)ぞと思えば、さて肝心のいうことが見附からず迷(まご)つくうちにはや人に取られてしまう。経験が知識を生んで、今度(このたび)はいうべき事も予(かね)て用意して、じれッたそうに挿頭(かんざし)で髪を掻(か)きながら、漸くの思(おもい)で間隙(すき)を見附け、「公債は今|幾何(いくら)なの?」と嘴(くちばし)を挿(は)さんでみれば、さて我ながら唐突千万! 無理では無いが、昇も、母親も、胆(きも)を潰(つぶ)して顔を視合(みあ)わせて、大笑に笑い出す。――今のは半襟(はんえり)の間違いだろう。――なに、人形の首だッさ。――違(ちげ)えねえ。またしても口を揃(そろ)えて高笑い。――あんまりだから、いい! とお勢は膨れる。けれど、膨れたとて、機嫌(きげん)を取られれば、それだけ畢竟(つまり)安目にされる道理。どうしても、こうしても、敵(かな)わない。
お勢はこの事を不平に思ッて、或は口を聞かぬと云い、或は絶交すると云ッて、恐喝(おど)してみたが、昇は一向平気なもの、なかなかそんな甘手ではいかん。圧制家(デスポト)、利己論者(イゴイスト)と口では呪(のろ)いながら、お勢もついその不届者と親しんで、玩(もてあそ)ばれると知りつつ、玩ばれ、調戯(なぶ)られると知りつつ、調戯(なぶ)られている。けれど、そうはいうものの、戯(ふざ)けるも満更でも無いと見えて、偶々(たまたま)昇が、お勢の望む通り、真面目にしていれば、さてどうも物足りぬ様子で、此方(こちら)から、遠方から、危うがりながら、ちょッかいを出してみる。相手にならねば、甚(はなはだ)機嫌がわるい※[白ゴマ点]から、余義なくその手を押さえそうにすれば、忽(たちま)ちきゃッきゃッと軽忽(きょうこつ)な声を発し、高く笑い、遠方へ迯(に)げ、例の睚(まぶち)の裏を返して、ベベベーという。総(すべ)てなぶられても厭(いや)だが、なぶられぬも厭、どうしましょう、といいたそうな様子。
母親は見ぬ風(ふり)をして見落しなく見ておくから、歯癢(はが)ゆくてたまらん。老功の者の眼から観れば、年若の者のする事は、総てしだらなく、手緩(てぬ)るくて更に埒(らち)が明かん。そこで耐(こら)え兼て、娘に向い、厳(おごそ)かに云い聞かせる、娘の時の心掛を。どのような事かと云えば、皆多年の実験から出た交際の規則で、男、取分けて若い男という者はこうこういう性質のもので有るから、若(も)し情談をいいかけられたら、こう、花を持たせられたら、こう、弄(なぶ)られたら、こう待遇(あしら)うものだ、など、いう事であるが、親の心子知らずで、こう利益(ため)を思ッて、云い聞かせるものを、それをお勢は、生意気な、まだ世の態(さま)も見知らぬ癖に、明治生れの婦人は芸娼妓(げいしょうぎ)で無いから、男子に接するにそんな手管(てくだ)はいらないとて、鼻の頭(さき)で待遇(あしら)ッていて、更に用いようともしない。手管では無い、これが娘の時の心掛というものだと云い聞かせても、その様な深遠な道理はまだ青いお勢には解らない。そんな事は女大学にだッて書いて無いと強情を張る。勝手にしなと肝癪(かんしゃく)を起こせば、勝手にしなくッてと口答(くちごたえ)をする。どうにも、こうにも、なッた奴じゃない!
けれど、母親が気を揉(も)むまでも無く、幾程(いくほど)もなくお勢は我から自然に様子を変えた。まずその初(はじめ)を云えば、こうで。
この物語の首(はじめ)にちょいと噂をした事の有るお政の知己(しりびと)「須賀町(すがちょう)のお浜」という婦人が、近頃に娘をさる商家へ縁付るとて、それを風聴(ふいちょう)かたがたその娘を伴(つ)れて、或日お政を尋ねて来た。娘というはお勢に一ツ年下で、姿色(きりょう)は少し劣る代り、遊芸は一通り出来て、それでいて、おとなしく、愛想(あいそ)がよくて、お政に云わせれば、如才の無い娘(こ)で、お勢に云わせれば、旧弊な娘(むすめ)、お勢は大嫌(だいきら)い、母親が贔負(ひいき)にするだけに、尚(な)お一層この娘を嫌う※[白ゴマ点]|但(ただ)しこれは普通の勝心(しょうしん)のさせる業(わざ)ばかりではなく、この娘の蔭(かげ)で、おりおり高い鼻を擦(こす)られる事も有るからで。縁付ると聞いて、お政は羨(うらや)ましいと思う心を、少しも匿(かく)さず、顔はおろか、口へまで出して、事々しく慶(よろこ)びを陳(の)べる。娘の親も親で、慶びを陳べられて、一層得意になり、さも誇貌(ほこりが)に婿(むこ)の財産を数え、または支度(したく)に費(つか)ッた金額の総計から内訳まで細々(こまごま)と計算をして聞かせれば、聞く事|毎(ごと)にお政はかつ驚き、かつ羨やんで、果は、どうしてか、婚姻の原因を娘の行状に見出(みいだ)して、これというも平生の心掛がいいからだと、口を極(きわ)めて賞(ほ)める、嫁(よめい)る事が何故(なぜ)そんなに手柄(てがら)であろうか、お勢は猫が鼠(ねずみ)を捕(と)ッた程にも思ッていないのに! それをその娘は、耻(はず)かしそうに俯向(うつむ)きは俯向きながら、己れも仕合と思い顔で高慢は自(おのずか)ら小鼻に現われている。見ていられぬ程に醜態を極める! お勢は固(もと)より羨ましくも、妬(ねた)ましくも有るまいが、ただ己れ一人でそう思ッているばかりでは満足が出来んと見えて、おりおりさも苦々しそうに冷笑(あざわら)ッてみせるが、生憎(あやにく)誰も心附かん。そのうちに母親が人の身の上を羨やむにつけて、我身の薄命を歎(かこ)ち、「何処かの人」が親を蔑(ないがし)ろにしてさらにいうことを用いず、何時(いつ)身を極(き)めるという考も無いとて、苦情をならべ出すと、娘の親は失礼な、なにこの娘(こ)の姿色(きりょう)なら、ゆくゆくは「立派な官員さん」でも夫に持ッて親に安楽をさせることで有ろうと云ッて、嘲(あざ)けるように高く笑う。見よう見真似に娘までが、お勢の方を顧みて、これもまた嘲けるようにほほと笑う。お勢はおそろしく赤面してさも面目なげに俯向いたが、十分も経(たた)ぬうちに座舗(ざしき)を出てしまッた。我部屋へ戻りてから、始めて、後馳(おくればせ)に憤然(やッき)となッて「一生お嫁になんぞ行くもんか」と奮激した。
客は一日打くつろいで話して夜(よ)に入(い)ッてから帰ッた。帰ッた後に、お政はまた人の幸福(しあわせ)をいいだして羨やむので、お勢はもはや勘弁がならず、胸に積る昼間からの鬱憤(うっぷん)を一時に霽(はら)そうという意気込で、言葉鋭く云いまくッてみると、母の方にも存外な道理が有ッて、ついにはお勢も成程と思ッたか、少し受大刀(うけだち)になッた。が、負けじ魂から、滅多には屈服せず、尚おかれこれと諍論(いいあらそ)ッている。そのうちにお政は、何か妙案を思い浮べたように、俄(にわか)に顔色(がんしょく)を和げ、今にも笑い出しそうな眼付をして、「そんな事をお云いだけれども、本田さんなら、どうだえ? 本田さんでも、お嫁に行くのは厭かえ?」という。「厭なこった」、と云ッて、お勢は今まで顔へ出していた思慮を尽(ことごと)く内へ引込ましてしまう。「おや、何故だろう。本田さんなら、いいじゃないか、ちょいと気が利(き)いていて、小金も少(ちっ)とは持ッていなさりそうだし、それに第一男が好くッて」「厭なこッた」「でも、若し本田さんがくれろと云ッたら、何と云おう?」、と云われて、お勢は少し躊躇(たゆた)ッたが、狼狽(うろた)えて、「い……いやなこッた」。お政はじろりとその様子をみて、何を思ッてか、高く笑ッたばかりで、再び娘を詰(なじ)らなかッた。その後(のち)はお勢は故(ことさ)らに何喰わぬ顔を作ッてみても、どうも旨(うま)くいかぬようすで、動(やや)もすれば沈んで、眼を細くして何処か遠方を凝視(みつ)め、恍惚(うっとり)として、夢現(ゆめうつつ)の境に迷うように見えたことも有ッた。「十一時になるよ」と母親に気を附けられたときは、夢の覚めたような顔をして溜息(ためいき)さえ吐(つ)いた。
部屋へ戻ッても、尚お気が確かにならず、何心なく寐衣(ねまき)に着代えて、力無さそうにベッたり、床の上へ坐ッたまま、身動もしない。何を思ッているのか? 母の端(はし)なく云ッた一言(ひとこと)の答を求めて求め得んのか? 夢のように、過ぎこした昔へ心を引戻して、これまで文三如き者に拘(かかずら)ッて、良縁をも求めず、徒(いたずら)に歳月(としつき)を送ッたを惜しい事に思ッているのか? 或は母の言葉の放ッた光りに我身を縈(めぐ)る暗黒(やみ)を破られ、始めて今が浮沈の潮界(しおざかい)、一生の運の定まる時と心附いたのか? 抑(そもそも)また狂い出す妄想(ぼうそう)につれられて、我知らず心を華やかな、娯(たの)しい未来へ走らし、望みを事実にし、現(うつつ)に夢を見て、嬉しく、畏(おそ)ろしい思をしているのか? 恍惚(うっとり)とした顔に映る内の想(おもい)が無いから、何を思ッていることかすこしも解らないが、とにかく良(やや)久(しば)らくの間は身動をもしなかッた、そのままで十分ばかり経ったころ、忽然(こつぜん)として眼が嬉しそうに光り出すかと思う間に、見る見る耐(こら)えようにも耐え切れなさそうな微笑が口頭(くちもと)に浮び出て、頬(ほお)さえいつしか紅(べに)を潮(さ)す。閉じた胸の一時に開けた為め、天成の美も一段の光を添えて、艶(えん)なうちにも、何処か豁然(からり)と晴やかに快さそうな所も有りて、宛然(さながら)蓮(はす)の花の開くを観るように、見る眼も覚めるばかりで有ッた。突然お勢は跳ね起きて、嬉しさがこみあげて、徒(ただ)は坐ッていられぬように、そして柱に懸けた薄暗い姿見に対(むか)い、糢糊(ぼんやり)写る己(おの)が笑顔を覗(のぞ)き込んで、あやすような真似をして、片足浮かせて床の上でぐるりと回り、舞踏でもするような運歩(あしどり)で部屋の中(うち)を跳ね廻ッて、また床の上へ来るとそのまま、其処(そこ)へ臥倒(ねたお)れる拍子に手ばしこく、枕(まくら)を取ッて頭(かしら)に宛(あて)がい、渾身(みうち)を揺りながら、締殺ろしたような声を漏らして笑い出して。
この狂気(きちがい)じみた事の有ッた当坐は、昇が来ると、お勢は臆(おく)するでもなく耻(はじ)らうでもなく只何となく落着が悪いようで有ッた。何か心に持ッているそれを悟られまいため、やはり今までどおり、おさなく、愛度気(あどけ)なく待遇(あしらお)うと、影では思うが、いざ昇と顔を合せると、どうももうそうはいかないと云いそうな調子で。いう事にさしたる変りも無いが、それをいう調子に何処か今までに無いところが有ッて、濁ッて、厭味を含む。用も無いに坐舗を出たり、はいッたり、おかしくも無いことに高く笑ッたり、誰やらに顔を見られているなと心附きながら、それを故意(わざ)と心附かぬ風(ふり)をして、磊落(らいらく)に母親に物をいッたりするはまだな事、昇と眼を見合わして、狼狽(うろたえ)て横へ外らしたことさえ度々(たびたび)有ッた。総(すべ)て今までとは様子が違う、それを昇の居る前で母親に怪しまれた時はお勢もぱッと顔を※[赤+報のつくり](あか)めて、如何(いか)にも極(きま)りが悪そうに見えた。が、その極り悪そうなもいつしか失(う)せて、その後は、昇に飽いたのか、珍らしくなくなったのか、それとも何か争(いさか)いでもしたのか、どうしたのか解らないが、とにかく昇が来ないとても、もウ心配もせず、来たとて、一向構わなくなッた。以前は鬱々としている時でも、昇が来れば、すぐ冴(さ)えたものを、今は、その反対で、冴えている時でも、昇の顔を見れば、すぐ顔を曇らして、冷淡になって、余り口数もきかず、総て仲のわるい従兄妹(いとこ)同士のように、遠慮気なく余所々々(よそよそ)しく待遇(もてな)す。昇はさして変らず、尚お折節には戯言(ざれごと)など云い掛けてみるが、云ッても、もウお勢が相手にならず、勿論嬉しそうにも無く、ただ「知りませんよ」と彼方(あちら)向くばかり。それ故(ゆえ)に、昇の戯(ざれ)ばみも鋒尖(ほこさき)が鈍ッて、大抵は、泣眠入(なきねい)るように、眠入ッてしまう。こうまで昇を冷遇する。その代り、昇の来ていない時は、おそろしい冴えようで、誰彼の見さかいなく戯(たわぶ)れかかッて、詩吟するやら、唱歌するやら、いやがる下女をとらえて舞踏の真似をするやら、飛だり、跳ねたり、高笑をしたり、さまざまに騒ぎ散らす。が、こう冴えている時でも、昇の顔さえ見れば、不意にまた眼の中(うち)を曇らして、落着いて、冷淡になッて、しまう。
けれど、母親には大層やさしくなッて、騒いで叱られたとて、鎮(しず)まりもしないが、悪(にく)まれ口もきかず、却(かえ)ッて憎気なく母親にまでだれかかるので、母親も初のうちは苦い顔を作ッていたものの、竟(つい)には、どうかこうか釣込まれて、叱る声を崩して笑ッてしまう。但し朝起される時だけはそれは例外で、その時ばかりは少し頬を脹(ふく)らせる※[白ゴマ点]が、それもその程が過ぎれば、我から機嫌を直して、華やいで、時には母親に媚(こ)びるのかと思うほどの事をもいう。初の程はお政も不審顔をしていたが、慣れれば、それも常となッてか、後には何とも思わぬ様子で有ッた。
そのうちにお勢が編物の夜稽古(よげいこ)に通いたいといいだす。編物よりか、心|易(やす)い者に日本の裁縫を教える者が有るから、昼間|其所(そこ)へ通えと、母親のいうを押反して、幾度(いくたび)か幾度か、掌(て)を合せぬばかりにして是非に編物をと頼む。西洋の処女なら、今にも母の首にしがみ付いて頬の辺(あたり)に接吻(せっぷん)しそうに、あまえた強請(ねだ)るような眼付で顔をのぞかれ、やいやいとせがまれて、母親は意久地なく、「ええ、うるさい! どうなと勝手におし」と賺(すか)されてしまッた。
編物の稽古は、英語よりも、面白いとみえて、隔晩の稽古を楽しみにして通う。お勢は、全体、本化粧が嫌いで、これまで、外出(そとで)するにも、薄化粧ばかりしていたが、編物の稽古を初めてからは、「皆(みんな)が大層作ッて来るから、私一人なにしない……」と咎(とが)める者も無いに、我から分疏(いいわけ)をいいいい、こッてりと、人品(じんぴん)を落すほどに粧(つく)ッて、衣服も成(なり)たけ美(よ)いのを撰(えら)んで着て行く。夜だから、此方(こちら)ので宜いじゃないかと、美くない衣服を出されれば、それを厭とは拒みはしないが、何となく機嫌がわるい。
お政はそわそわして出て行く娘の後姿を何時も請難(うけに)くそうに目送(みおく)る……
昇は何時からともなく足を遠くしてしまッた。 
 
第十九回

 

お勢は一旦(いったん)は文三を仂(はした)なく辱(はずかし)めはしたものの、心にはさほどにも思わんか、その後はただ冷淡なばかりで、さして辛(つら)くも当らん※[白ゴマ点]が、それに引替えて、お政はますます文三を憎んで、始終出て行けがしに待遇(もてな)す。何か用事が有りて下座敷へ降りれば、家内中|寄集(よりこぞ)りて、口を解(ほど)いて面白そうに雑談(ぞうだん)などしている時でも、皆云い合したように、ふと口を箝(つぐ)んで顔を曇らせる、といううちにも取分けてお政は不機嫌(ふきげん)な体(てい)で、少し文三の出ようが遅ければ、何を愚頭々々(ぐずぐず)していると云わぬばかりに、此方(こちら)を睨(ね)めつけ、時には気を焦(いら)ッて、聞えよがしに舌鼓(したつづみ)など鳴らして聞かせる事も有る。文三とても、白痴でもなく、瘋癲(ふうてん)でもなければ、それほどにされんでも、今ここで身を退(ひ)けば眉(まゆ)を伸べて喜ぶ者がそこらに沢山あることに心附かんでも無いから、心苦しいことは口に云えぬほどで有る、けれど、尚(な)お園田の家を辞し去ろうとは思わん。何故(なにゆえ)にそれほどまでに園田の家を去りたくないのか、因循な心から、あれほどにされても、尚おそのような角立った事は出来んか、それほどになっても、まだお勢に心が残るか、抑(そもそ)もまた、文三の位置では陥り易(やす)い謬(あやまり)、お勢との関繋(かんけい)がこのままになってしまッたとは情談らしくてそうは思えんのか? 総(すべ)てこれ等の事は多少は文三の羞(はじ)を忍んで尚お園田の家に居る原因となったに相違ないが、しかし、重な原因ではない。重な原因というは即(すなわ)ち人情の二字、この二字に覊絆(しばら)れて文三は心ならずも尚お園田の家に顔を皺(しか)めながら留(とどま)ッている。
心を留(とど)めて視(み)なくとも、今の家内の調子がむかしとは大(おおい)に相違するは文三にも解る。以前まだ文三がこの調子を成す一つの要素で有ッて、人々が眼を見合しては微笑し、幸福といわずして幸福を楽んでいたころは家内全体に生温(なまぬる)い春風が吹渡ッたように、総て穏(おだやか)に、和いで、沈着(おちつ)いて、見る事聞く事が尽(ことごと)く自然に適(かな)ッていたように思われた。そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の影を楽しむ幸福で、我も人も皆何か不足を感じながら、強(あなが)ちにそれを足そうともせず、却(かえ)って今は足らぬが当然と思っていたように、急(せ)かず、騒がず、優游(ゆうゆう)として時機の熟するを竢(ま)っていた、その心の長閑(のどか)さ、寛(ゆるやか)さ、今|憶(おも)い出しても、閉じた眉が開くばかりな……そのころは人々の心が期せずして自(おのずか)ら一致し、同じ事を念(おも)い、同じ事を楽んで、強(あなが)ちそれを匿(か)くそうともせず、また匿くすまいともせず※[白ゴマ点]胸に城郭を設けぬからとて、言って花の散るような事は云わず、また聞こうともせず、まだ妻でない妻、夫でない夫、親で無い親、――も、こう三人集ッたところに、誰が作り出すともなく、自らに清く、穏な、優しい調子を作り出して、それに随(つ)れて物を言い、事をしたから、人々があたかも平生の我よりは優(まさ)ったようで、お政のような婦人でさえ、尚お何処(どこ)か頼もし気な所が有ったのみならず、却ってこれが間に介(はさ)まらねば、余り両人(ふたり)の間が接近しすぎて穏さを欠くので、お政は文三等の幸福を成すに無(なく)て叶(かな)わぬ人物とさえ思われた。が、その温(あたたか)な愛念も、幸福な境界(きょうがい)も、優しい調子も、嬉(うれ)しそうに笑う眼元も口元も、文三が免職になッてから、取分けて昇が全く家内へ立入ったから、皆突然に色が褪(さ)め、気が抜けだして、遂(つい)に今日この頃のこの有様となった……
今の家内の有様を見れば、もはや以前のような和いだ所も無ければ、沈着(おちつ)いた所もなく、放心(なげやり)に見渡せば、総て華(はなや)かに、賑(にぎや)かで、心配もなく、気あつかいも無く、浮々(うかうか)として面白そうに見えるものの、熟々(つらつら)視れば、それは皆|衣物(きもの)で、※[身+果]体(はだかみ)にすれば、見るも汚(けがら)わしい私欲、貪婪(どんらん)、淫褻(いんせつ)、不義、無情の塊(かたまり)で有る。以前人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢(あか)を洗った愛念もなく、人々|己(おのれ)一個の私(わたくし)をのみ思ッて、己(おの)が自恣(じし)に物を言い、己が自恣に挙動(たちふるま)う※[白ゴマ点]|欺(あざむ)いたり、欺かれたり、戯言(ぎげん)に託して人の意(こころ)を測ッてみたり、二つ意味の有る言(こと)を云ってみたり、疑ッてみたり、信じてみたり、――いろいろさまざまに不徳を尽す。
お政は、いうまでもなく、死灰(しかい)の再び燃えぬうちに、早く娘を昇に合せて多年の胸の塊を一時におろしてしまいたいが、娘が、思うように、如才なくたちまわらんので、それで歯癢(はがゆ)がって気を揉(も)み散らす。昇はそれを承知しているゆえ、後(のち)の面倒を慮(おも)って迂濶(うかつ)に手は出さんが、罠(わな)のと知りつつ、油鼠(あぶらねずみ)の側(そば)を去られん老狐(ふるぎつね)の如くに、遅疑しながらも、尚おお勢の身辺を廻って、横眼で睨(にら)んでは舌舐(したねぶ)りをする(文三は何故か昇の妻となる者は必ず愚(おろか)で醜い代り、権貴な人を親に持った、身柄(みがら)の善い婦人とのみ思いこんでいる)。お政は昇の意(こころ)を見抜いてい、昇もまたお政の意を見抜いている※[白ゴマ点]しかも互に見抜れていると略(ほ)ぼ心附いている。それゆえに、故(ことさ)らに無心な顔を作り、思慮の無い言(こと)を云い、互に瞞着(まんちゃく)しようと力(つと)めあうものの、しかし、双方共力は牛角(ごかく)のしたたかものゆえ、優(まさり)もせず、劣(おとり)もせず、挑(いど)み疲れて今はすこし睨合(にらみあい)の姿となった。総てこれ等の動静(ようす)は文三も略(ほ)ぼ察している。それを察しているから、お勢がこのような危い境に身を処(お)きながら、それには少しも心附かず、私欲と淫欲とが爍(れき)して出来(でか)した、軽く、浮いた、汚(けがら)わしい家内の調子に乗せられて、何心なく物を言っては高笑(たかわらい)をする、その様子を見ると、手を束(つか)ねて安座していられなくなる。
お勢は今|甚(はなは)だしく迷っている、豕(いのこ)を抱(いだ)いて臭きを知らずとかで、境界(きょうがい)の臭みに居ても、おそらくは、その臭味がわかるまい。今の心の状(さま)を察するに、譬(たと)えば酒に酔ッた如くで、気は暴(あれ)ていても、心は妙に昧(くら)んでいるゆえ、見る程の物聞く程の事が眼や耳やへ入ッても底の認識までは届かず、皆中途で立消をしてしまうであろう※[白ゴマ点]また徒(た)だ外界と縁遠くなったのみならず、我内界とも疎(うと)くなったようで、我心ながら我心の心地はせず、始終何か本体の得知れぬ、一種不思議な力に誘(いざな)われて言動|作息(さそく)するから、我(われ)にも我が判然とは分るまい、今のお勢の眼には宇宙は鮮(あざや)いで見え、万物は美しく見え、人は皆|我一人(われいちにん)を愛して我一人のために働いているように見えよう※[白ゴマ点]|若(も)し顔を皺(しか)めて溜息(ためいき)を吐(つ)く者が有れば、この世はこれほど住みよいに、何故人はそう住み憂(う)く思うか、殆(ほとん)どその意(こころ)を解し得まい※[白ゴマ点]また人の老やすく、色の衰え易いことを忘れて、今の若さ、美しさは永劫(えいごう)続くように心得て未来の事などは全く思うまい、よし思ッたところで、華かな、耀(かがや)いた未来の外は夢にも想像に浮ぶまい。昇に狎(な)れ親んでから、お勢は故(もと)の吾を亡(な)くした、が、それには自分も心附くまい※[白ゴマ点]お勢は昇を愛しているようで、実は愛してはいず、只昇に限らず、総て男子に、取分けて、若い、美しい男子に慕われるのが何(なに)となく快いので有ろうが、それにもまた自分は心附いていまい。これを要するに、お勢の病(やまい)は外(ほか)から来たばかりではなく、内からも発したので、文三に感染(かぶ)れて少し畏縮(いじけ)た血気が今外界の刺激を受けて一時に暴(あ)れだし、理性の口をも閉じ、認識の眼を眩(くら)ませて、おそろしい力を以(もっ)て、さまざまの醜態に奮見するので有ろう。若しそうなれば、今がお勢の一生中で尤(もっと)も大切な時※[白ゴマ点]|能(よ)く今の境界を渡り課(おお)せれば、この一時(ひととき)にさまざまの経験を得て、己の人と為(な)りをも知り、所謂(いわゆる)放心を求め得て始て心でこの世を渡るようになろうが、若し躓(つまず)けばもうそれまで、倒(たおれ)たままで、再び起上る事も出来まい。物のうちの人となるもこの一時(ひととき)、人の中(うち)の物となるもまたこの一時※[白ゴマ点]今が浮沈の潮界(しおざかい)、尤も大切な時で有るに、お勢はこの危い境を放心(うっかり)して渡ッていて何時(いつ)眼が覚めようとも見えん。
このままにしては置けん。早く、手遅れにならんうちに、お勢の眠(ねぶ)った本心を覚まさなければならん、が、しかし誰がお勢のためにこの事に当ろう?
見渡したところ、孫兵衛は留守、仮令(たとい)居たとて役にも立たず、お政は、あの如く、娘を愛する心は有りても、その道を知らんから、娘の道心を縊殺(しめころ)そうとしていながら、しかも得意顔(したりがお)でいるほどゆえ、固(もと)よりこれは妨(さまたげ)になるばかり、ただ文三のみは、愚昧(ぐまい)ながらも、まだお勢よりは少しは智識も有り、経験も有れば、若しお勢の眼を覚ます者が必要なら、文三を措いて誰(たれ)がなろう?
と、こうお勢を見棄(みすて)たくないばかりでなく、見棄ては寧(むし)ろ義理に背(そむ)くと思えば、凝性(こりしょう)の文三ゆえ、もウ余事は思ッていられん、朝夕只この事ばかりに心を苦めて悶苦(もだえくるし)んでいるから、あたかも感覚が鈍くなったようで、お政が顔を皺(しか)めたとて、舌鼓を鳴らしたとて、その時ばかり少し居辛(いづら)くおもうのみで、久しくそれに拘(かかずら)ってはいられん。それでこう邪魔にされると知りつつ、園田の家を去る気にもなれず、いまに六畳の小座舗(こざしき)に気を詰らして始終壁に対(むか)ッて歎息(たんそく)のみしているので。
歎息のみしているので、何故なればお勢を救おうという志は有っても、その道を求めかねるから。「どうしたものだろう?」という問は日に幾度(いくたび)となく胸に浮ぶが、いつも浮ぶばかりで、答を得ずして消えてしまい、その跡に残るものは只不満足の三字。その不満足の苦を脱(のが)れようと気をあせるから、健康(すこやか)な智識は縮んで、出過た妄想(ぼうそう)が我から荒出(あれだ)し、抑えても抑え切れなくなッて、遂にはまだどうしてという手順をも思附き得ぬうちに、早くもお勢を救い得た後(のち)の楽しい光景(ありさま)が眼前(めさき)に隠現(ちらつ)き、払っても去らん事が度々有る。
しかし、始終空想ばかりに耽(ふけ)ッているでも無い※[白ゴマ点]多く考えるうちには少しは稍々(やや)行われそうな工夫を付ける、そのうちでまず上策というは、この頃の家内(かない)の動静(ようす)を詳く叔父の耳へ入れて父親の口から篤(とく)とお勢に云い聞かせる、という一策で有る。そうしたら、或はお勢も眼が覚めようかと思われる。が、また思い返せば、他人の身の上なればともかくも、我と入組んだ関繋の有るお勢の身の上をかれこれ心配してその親の叔父に告げると何(なに)となく後めだくてそうも出来ん。仮使(たとい)思い切ッてそうしたところで、叔父はお勢を諭(さと)し得ても、我儘(わがまま)なお政は説き伏せるをさて置き、却(かえ)ッて反対にいいくるめられるも知れん、と思えば、なるべくは叔父に告げずして事を収めたい。叔父に告げずして事を収めようと思えば、今一度お勢の袖(そで)を扣(ひか)えて打附(うちつ)けに掻口説(かきくど)く外、他に仕方もないが、しかし、今の如くに、こう齟齬(くいちが)ッていては言ったとて聴きもすまいし、また毛を吹いて疵(きず)を求めるようではと思えば、こうと思い定めぬうちに、まず気が畏縮(いじ)けて、どうもその気にもなれん。から、また思い詰めた心を解(ほご)して、更に他にさまざまの手段を思い浮べ、いろいろに考え散してみるが、一つとして行われそうなのも見当らず、回(めぐ)り回ッてまた旧(もと)の思案に戻って苦しみ悶(もだ)えるうちに、ふと又例の妄想(もうそう)が働きだして無益な事を思わせられる。時としては妙な気になッて、総てこの頃の事は皆一|時(じ)の戯(たわぶれ)で、お勢は心から文三に背(そむ)いたのでは無くて、只背いた風(ふり)をして文三を試ているので、その証拠には今にお勢が上って来て、例の華かな高笑で今までの葛藤(もだくだ)を笑い消してしまおうと思われる事が有る※[白ゴマ点]が、固より永くは続かん※[白ゴマ点]無慈悲な記憶が働きだしてこの頃あくたれた時のお勢の顔を憶い出させ、瞬息の間(ま)にその快い夢を破ってしまう。またこういう事も有る※[白ゴマ点]ふと気が渝(かわ)って、今こう零落していながら、この様な薬袋(やくたい)も無い事に拘(かかずら)ッて徒(いたずら)に日を送るを極(きわめ)て愚(ぐ)のように思われ、もうお勢の事は思うまいと、少時(しばらく)思の道を絶ッてまじまじとしていてみるが、それではどうも大切な用事を仕懸けて罷(や)めたようで心が落居(おちい)ず、狼狽(うろたえ)てまたお勢の事に立戻って悶え苦しむ。
人の心というものは同一の事を間断なく思ッていると、遂に考え草臥(くたびれ)て思弁力の弱るもので。文三もその通り、始終お勢の事を心配しているうちに、何時からともなく注意が散って一事(ひとこと)には集らぬようになり、おりおり互に何の関係をも持たぬ零々砕々(ちぎれちぎれ)の事を取締(とりしめ)もなく思う事も有った。曾(か)つて両手を頭(かしら)に敷き、仰向けに臥(ふ)しながら天井を凝視(みつ)めて初は例の如くお勢の事をかれこれと思っていたが、その中(うち)にふと天井の木目(もくめ)が眼に入って突然妙な事を思った※[白ゴマ点]「こう見たところは水の流れた痕(あと)のようだな」、こう思うと同時にお勢の事は全く忘れてしまった、そして尚お熟々(つくづく)とその木目に視入って、「心の取り方に依っては高低(たかびく)が有るようにも見えるな。ふふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」。ふと文三等に物理を教えた外国教師の立派な髯(ひげ)の生えた顔を憶い出すと、それと同時にまた木目の事は忘れてしまった。続いて眼前(めさき)に七八人の学生が現われて来たと視れば、皆同学の生徒等で、或は鉛筆を耳に挿(はさ)んでいる者も有れば、或は書物を抱えている者も有り又は開いて視ている者も有る。能く視れば、どうか文三もその中(うち)に雑(まじ)っているように思われる。今|越歴(エレキ)の講義が終ッて試験に掛る所で、皆「えれくとりある、ましん」の周囲(まわり)に集って、何事とも解らんが、何か頻(しき)りに云い争いながら騒いでいるかと思うと、忽(たちま)ちその「ましん」も生徒も烟(けぶり)の如く痕迹(あとかた)もなく消え失(う)せて、ふとまた木目が眼に入った。「ふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」と云って、何故(なにゆえ)ともなく莞爾(にっこり)した。「『いるりゅうじょん』と云えば、今まで読だ書物の中でさるれえの「いるりゅうじょんす」ほど面白く思ったものは無いな。二日一晩に読切ってしまったっけ。あれほどの頭にはどうしたらなるだろう。余程組織が緻密(ちみつ)に違いない……」。さるれえの脳髄とお勢とは何の関係も無さそうだが、この時突然お勢の事が、噴水の迸(ほとばし)る如くに、胸を突いて騰(あが)る。と、文三は腫物(はれもの)にでも触(さわ)られたように、あっと叫びながら、跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もうその事は忘れてしまッた、何のために跳ね起きたとも解らん。久く考えていて、「あ、お勢の事か」と辛(から)くして憶い出しは憶い出しても、宛然(さながら)世を隔てた事の如くで、面白くも可笑(おかしく)も無く、そのままに思い棄てた、暫(しばら)くは惘然(ぼうぜん)として気の抜けた顔をしていた。
こう心の乱れるまでに心配するが、しかし只心配するばかりで、事実には少しも益が無いから、自然は己(おの)が為(す)べき事をさっさっとして行ってお勢は益々深味へ陥る。その様子を視て、さすがの文三も今は殆ど志を挫(くじ)き、とても我力にも及ばんと投首(なげくび)をした。
が、その内にふと嬉しく思い惑う事に出遇(であ)ッた。というは他の事でも無い、お勢が俄(にわか)に昇と疎々(うとうと)しくなった、その事で。それまではお勢の言動に一々目を注(つ)けて、その狂う意(こころ)の跟(あと)を随(した)いながら、我も意(こころ)を狂わしていた文三もここに至って忽(たちま)ち道を失って暫く思念の歩(あゆみ)を留(とど)めた。あれ程までにからんだ両人(ふたり)の関繋が故なくして解(ほつ)れてしまう筈(はず)は無いから、早まって安心はならん。けれど、喜ぶまいとしても、喜ばずにはいられんはお勢の文三に対する感情の変動で、その頃までは、お政程には無くとも、文三に対して一種の敵意を挟(さしはさ)んでいたお勢が俄に様子を変えて、顔を※[赤+報のつくり](あか)らめ合(あっ)た事は全く忘れたようになり、眉(まゆ)を皺(しか)め眼の中(うち)を曇らせる事はさて置き、下女と戯(たわぶ)れて笑い興じている所へ行きがかりでもすれば、文三を顧みて快気(こころよげ)に笑う事さえ有る。この分なら、若し文三が物を言いかけたら、快く返答するかと思われる。四辺(あたり)に人眼が無い折などには、文三も数々(しばしば)話しかけてみようかとは思ったが、万一(ばんいち)に危む心から、暫く差控ていた――差控ているは寧(む)しろ愚に近いとは思いながら、尚お差控ていた。
編物を始めた四五日後の事で有った、或日の夕暮、何か用事が有って文三は奥座敷へ行(ゆ)こうとて、二階を降りてと見ると、お勢が此方(こちら)へ背を向けて縁端(えんばな)に佇立(たたず)んでいる。少しうなだれて何か一心に為(し)ていたところ、編物かと思われる。珍らしいうちゆえと思いながら、文三は何心なくお勢の背後(うしろ)を通り抜けようとすると、お勢が彼方(あちら)向いたままで、突然「まだかえ?」という。勿論|人違(ひとたがえ)と見える。が、この数週(すしゅう)の間|妄想(ぼうそう)でなければ言葉を交(まじ)えた事の無いお勢に今思い掛なくやさしく物を言いかけられたので、文三ははっと当惑して我にも無く立留る、お勢も返答の無いを不思議に思ってか、ふと此方(こちら)を振向く途端に、文三と顔を相視(みあわ)しておッと云って驚いた、しかし驚きは驚いても、狼狽(うろたえ)はせず、徒(ただ)莞爾(にっこり)したばかりで、また彼方(あちら)向いて、そして編物に取掛ッた。文三は酒に酔った心地、どう仕ようという方角もなく、只|茫然(ぼうぜん)として殆ど無想の境に彷徨(さまよ)ッているうちに、ふと心附いた、は今日お政が留守の事。またと無い上首尾。思い切って物を言ってみようか……と思い掛けてまたそれと思い定めぬうちに、下女部屋の紙障(しょうじ)がさらりと開く、その音を聞くと文三は我にも無く突(つ)と奥座敷へ入ッてしまった――我にも無く、殆ど見られては不可(わるい)とも思わずして。奥座敷へ入ッて聞いていると、やがてお鍋がお勢の側(そば)まで来て、ちょいと立留ッた光景(けはい)で「お待遠うさま」という声が聞えた。お勢は返答をせず、只何か口疾(くちばや)に囁(ささや)いた様子で、忍音(しのびね)に笑う声が漏れて聞えると、お鍋の調子|外(はずれ)の声で「ほんとに内海(うつ)……」「しッ!……まだ其所(そこ)に」と小声ながら聞取れるほどに「居るんだよ」。お鍋も小声になりて「ほんとう?」「ほんとうだよ」
こう成(なっ)て見ると、もう潜(ひそまッ)ているも何となく極(きまり)が悪くなって来たから、文三が素知らぬ顔をしてふッと奥座敷を出る、その顔をお鍋は不思議そうに眺(なが)めながら、小腰を屈(ひく)めて「ちょいとお湯へ」と云ッてから、ふと何か思い出して、肝(きも)を潰(つぶ)した顔をして周章(あわて)て、「それから、あの、若し御新造(ごしんぞ)さまがお帰(かえん)なすって御膳(ごぜん)を召上(めしやが)ると仰(おッしゃ)ッたら、お膳立をしてあの戸棚(とだな)へ入れときましたから、どうぞ……お嬢さま、もう直(すぐ)宜(よ)うござんすか? それじゃア行ってまいります」。お勢は笑い出しそうな眼元でじろり文三の顔を掠(かす)めながら、手ばしこく手で持っていた編物を奥座敷へ投入れ、何やらお鍋に云って笑いながら、面白そうに打連れて出て行った。主従とは云いながら、同程(おなじほど)の年頃ゆえ、双方とも心持は朋友(ほうゆう)で、尤(もっと)もこれは近頃こうなッたので、以前はお勢の心が高ぶっていたから、下女などには容易に言葉をもかけなかった。
出て行くお勢の後姿を目送(みおく)って、文三は莞爾(にっこり)した。どうしてこう様子が渝(かわ)ったのか、それを疑っているに遑(いとま)なく、ただ何となく心嬉しくなって、莞爾(にっこり)した。それからは例の妄想(もうそう)が勃然(ぼつぜん)と首を擡(もた)げて抑えても抑え切れぬようになり、種々(さまざま)の取留(とりとめ)も無い事が続々胸に浮んで、遂には総(すべ)てこの頃の事は皆文三の疑心から出た暗鬼で、実際はさして心配する程の事でも無かったかとまで思い込んだ。が、また心を取直して考えてみれば、故無くして文三を辱(はずかし)めたといい、母親に忤(さから)いながら、何時しかそのいうなりに成ったといい、それほどまで親かった昇と俄に疏々(うとうと)しくなったといい、――どうも常事(ただごと)でなくも思われる。と思えば、喜んで宜いものか、悲んで宜いものか、殆ど我にも胡乱(うろん)になって来たので、あたかも遠方から撩(こそぐ)る真似をされたように、思い切っては笑う事も出来ず、泣く事も出来ず、快と不快との間に心を迷せながら、暫く縁側を往きつ戻りつしていた。が、とにかく物を云ったら、聞いていそうゆえ、今にも帰ッて来たら、今一度運を試して聴かれたらその通り、若し聴かれん時にはその時こそ断然叔父の家を辞し去ろうと、遂にこう決心して、そして一(ひ)と先(まず)二階へ戻った。 
 
二葉亭四迷を語る

 

二葉亭四迷・遺稿を整理して / 内田魯庵 
二葉亭四迷の全集が完結してその追悼会が故人の友人に由て開かれたについて、全集編纂者の一人としてその遺編を整理した我らは今更に感慨の念に堪えない。二葉亭が一生自ら「文人に非ず」と称したについてはその内容の意味は種々あろうが、要するに、「文学には常に必ず多少の遊戯分子を伴うゆえに文学ではドウシテも死身になれない」と或る席上で故人自ら明言したのがその有力なる理由の一つであろう。が、文学には果して常に必ず遊戯的分子を伴うものであろう乎。およそ文学に限らず、如何(いか)なる職業でも学術でも既に興味を以て従う以上はソコに必ず快楽を伴う。この快楽を目して遊戯的分子というならば、発明家の苦辛(くしん)にも政治家の経営にもまた必ず若干の遊戯的分子を存するはずで、国事に奔走する憂国の志士の心事も――無論少数の除外はあるが――後世の伝記家が痛烈なる文字を陳(つら)ねて形容する如き朝から晩まで真剣勝負のマジメなものではないであろう。あるいはまた真剣勝負であってもこの真剣勝負が一つの快楽であって、その中に必ず多少の遊戯的分子を含んでおるだろう。
が、二葉亭のいうのは恐らくこの意味ではないので、二葉亭は能(よ)く西欧文人の生涯、殊(こと)に露国の真率かつ痛烈なる文人生涯に熟していたが、それ以上に東洋の軽浮な、空虚な、ヴォラプチュアスな、廃頽(はいたい)した文学を能く知りかつその気分に襯染(しんせん)していた。一言すれば二葉亭は能く外国思想に熟していたが、同時にやはり幼時から染込んだ東洋思想を全く擺脱(はいだつ)する事が出来ないで、この相背馳(あいはいち)した二つの思想の※[足へん+堂]着(とうちゃく)が常に頭脳に絶えなかったであろう。二葉亭が遊戯分子というは西鶴や其蹟、三馬や京伝の文学ばかりを指すのではない、支那の屈原や司馬長卿、降って六朝は本(もと)より唐宋以下の内容の空虚な、貧弱な、美くしい文字ばかりを聯(なら)べた文学に慊(あきた)らなかった。それ故に外国文学に対してもまた、十分|渠(かれ)らの文学に従う意味を理解しつつもなお、東洋文芸に対する先入の不満が累をなしてこの同じ見方からして、その晩年にあってはかつて随喜したツルゲーネフをも詩人の空想と軽侮し、トルストイの如きは老人の寝言だと嘲っていた。独り他人を軽侮し冷笑するのみならず、この東洋文人を一串する通弊に自ずから襯染していた自家の文学的態度をも危ぶみかつ飽足らず思うて而して「文学には必ず遊戯的分子がある、文学ではドウシテモ死身になれない」という。近代思想を十分理解しながら近代人になり切れない二葉亭の葛藤は必ず爰(ここ)にも在ったろう。
二葉亭に限らず、総て我々年輩のものは誰でも児供の時から吹込まれた儒教思想が何時まで経っても頭脳の隅のドコかにこびり着いていて容易に抜け切れないものだ。坪内博士がイブセンにもショオにもストリンドベルヒにも如何なるものにも少しも影響されないで益々自家の塁を固うするはやはり同じ性質の思想が累をなすのである。最も近代人的態度を持する島村抱月君もまた恐らくこの種の葛藤を属々繰返されるだろう。
この殆んど第二の天性となった東洋的思想の傾向と近代思想の理解との衝突は啻(ただ)に文学に対してのみならず総ての日常の問題に触れて必ず生ずる。啻に文人――東洋風の――たるを屑(いさぎよ)しとしないのみならず、東洋的の政治家、東洋的の実業家、東洋的の家庭の主人、東洋的の生活者たるを欲しない。一言すれば東洋的の生活の総てに不満であって、その不満に堪えられない。そんならその不満を破壊する決心を有するかというと、決心を有さないではないが、常にその決心を鈍らす因襲の思想が頭脳のドコかで囁やいて制肘する。二葉亭の一生はこの葛藤の歴史であって、独り文人たるを屑しとしなかったばかりでなく、政治的方面にも実業的方面にもちょっと首を突込で見て直ぐイヤになった。この方面では二葉亭の手腕がまだ少しも認められないで政治家だとも実業家だとも誰にもいわれなかったゆえ、「我は政治家に非ず、実業家に非ず」と一度も言わなかったは、二葉亭は日本の政治家にも実業家にも慊らなかったのだ。朝日新聞記者として永眠して死後なお朝日新聞社の好意に浴しているが、「新聞記者はイヤだ、」といった事は決して一度や二度でなかった。ただ独り職業ばかりではない。その家庭に対してすら不満が少くなかった。(家庭が不和であったという意味ではない。)更にまた一歩を進めていうと、二葉亭は生活の総てに対して不満であったが、何よりも彼よりもこの不満を如何ともする能わざる自己に対する不満が不満中の最大不満であったろう。言換えると二葉亭は周囲のもの一切が不満であるよりはこの不満をドウスル事も出来ないのが毎日の堪えざる苦痛であって、この苦痛を紛らすための方法を求めるに常に焦って悶えていた。文学もかつてその排悶手段の一つであったが、文学では終に紛らし切れなくなったので政治となり外交となったのである。二葉亭が「文学では死身になれない」というは、取りも直さず文学のような生柔(なまやさ)しい事ではとても自分の最大苦悶を紛らす事が出来ないという意味にも解釈される。
世の中には行詰った生活とか生の悶えとか言うヴォヤビュラリーをのみ陳列して生活の苦痛を叫んでるものは多いが、その大多数は自己一身に対しては満足して蝸殻の小天地に安息しておる。懐疑といい疑惑というもその議論は総てドグマの城壁を固めて而してドグマを以て徹底した思想とし安心し切っておる。二葉亭が苦悶を以て一生を終ったに比較して渠(かれ)らは大いなる幸福者である。
明治の文人中、国木田独歩君の生涯は面白かった。北村透谷君の一生もまた極めて興味がある。が、二葉亭の一生はこれらの二君に比べると更に一層意味のある近代的の悶えと艱(なや)みの歴史であった。 
 
二葉亭四迷の一生 / 内田魯庵

 

二葉亭(ふたばてい)の歿後(ぼつご)、坪内(つぼうち)、西本両氏と謀(はか)って故人の語学校時代の友人及び故人と多少の交誼(こうぎ)ある文壇諸名家の追憶または感想を乞(こ)い、集めて一冊として故人の遺霊に手向(たむ)けた。その折諸君のまちまちの憶出(おもいで)を補うために故人の一生の輪廓を描いて巻後に附載したが、草卒の際序述しばしば先後し、かつ故人を追懐する感慨に失して無用の冗句を累(かさ)ね、故人の肖像のデッサンとして頗(すこぶ)る不十分であった。即ち煩冗を去り補修を施こし、かつ更に若干の遺漏を書足(かきた)して再び爰(ここ)に収録するは二葉亭|四迷(しめい)の如何(いか)なる人であるかを世に紹介するためであって、肖像画家としての私の技術を示すためではない。かつ私が二葉亭と最も深く往来交互したのは『浮雲(うきぐも)』発行後数年を過ぎた官報局時代であって幼時及び青年期を知らず、更に加うるに晩年期には互いに俗事に累(わずら)わされて往来|漸(ようや)く疎(うと)く、臂(ひじ)を把(と)って深く語るの機会を多く持たなかったから、二葉亭の親友の一人ではあるが、そのボスウェルとなるには最も親密に交際した期間が限られていた。
かつこの一篇は初めからデッサンのつもりで書いたゆえ、如何に改竄(かいざん)補修を加えてもデッサンは終(つい)にデッサンたるを免がれない。勿論(もちちん)二葉亭の文学や事業を批評したのではなく、いわば履歴書に註釈加えたに過ぎないので、平板なる記実にもし幾分たりとも故人の人物を想到せしむるを得たならこの一篇の目的は達せられている。更に進んで故人の肉を描き血を流動せしめて全人格を躍動せしめようとするには勢い内面生活の細事にまでも深く突入しなければならないから、生前の知友としてはかえって能(よ)くしがたい私情がある。故人の瑜瑕(ゆか)並び蔽(おお)わざる全的生活は他日再び伝うる機会があるかも知れないが、今日はマダその時機でない。かつ自(おの)ずから別に伝うる人があろう。本篇はただ僅(わず)かに故人の一生の輪廓を彷彿(ほうふつ)せしむるためのデッサンたるに過ぎないのである。下記は大正四年八月の旧稿を改竄補修をしたもので、全く新たに書直し、あるいは書足した箇処もあるが、大体は惣(すべ)て旧稿に由(よ)る。 
 
一 生いたちから青年まで 

 

二葉亭が明治二十二年頃自ら手録した生いたちの記がある。未完成の断片であるが、その幼時を知るにはこれに如(し)くものはなかろう。曰(いわ)く、
余は元治元年二月二十八日を以(もっ)て江戸|市ヶ谷(いちがや)合羽坂(かっぱざか)尾州(びしゅう)分邸に生れたり。父にておはせし人はその頃年三十を越え給はず、また母にておはせし人もなほ若かりしかば、さのみは愛し給ひしとも聞かざれど、祖母なる人のいとめでいつくしみ給ひて、父の叱(しか)り給ふ時は機嫌よろしからぬほどなれば、おのづから気随におひたてり。されど小児の時余の尤(もっと)もおそれたるは父と家に蔵する鍾馗(しょうき)の画像なりしとぞ。
幼なかりしころより叨(みだ)りに他人に親(したし)まず、いはゆる人みしりをせしが、親しくゆきかよへる人などにはいと打解けてませたる世辞などいひしと叔母(おば)なる人常にの給ひき。
六歳のころ父なる人自ら手本をものして取らし給ひつ。されど習字よりは画を好みて、夜は常に木偶(でく)の形など書き散らして楽みしが、ただみづから画くのみならで、絵巻物(註、錦絵の事なり)など殊(こと)の外よろこびて常に玩(あそ)べりとか。
画の外余の尤(もっと)も好みしは昔物語りにて、夜に入ればいつも祖母なる人の袖引きゆるがして舌切雀(したきりすずめ)のはなしし玉へとせがみしといふ。
されどこれらは幼き時のことなれば今は覚えなし。ただ祖母なる人の物語り給ひしを記せるのみなり。
上野戦争後諸藩引払ひの時余の一家は皆尾州へおもむきたれど、ただ父なる人のみはなほ留(とど)まりて江戸の邸を守り給へり。
尾州に到(いた)りてのちに初めて学に就(つ)けり。組外れに漢学塾ありたりしが、その門に入りて漢学を修めり。また余の叔父(おじ)なる人にも就きて素読(そどく)を修めり。藩に学あり、英仏両語を教授す。余またこれに入りて仏語を修めり。
余は常に学校に行くを楽(たのし)みとせしが、学問するが面白きにはあらで、学校にて衆童と遊戯|嬉笑(きしょう)するが面白きゆゑなりき。
余のすめる近傍の児童は皆余の朋友なりき。但し何人も経験したる事ならんが、余の朋友中|年(とし)たけたるもの二人ありたり。件(くだん)の両人相親しむ時は余らは皆その麾下(きか)に属してさまざまなる悪戯をして戯れしが両人|仲違(なかたが)ひしたる時は余らもまた仲間割れをせり。余は到つて臆病なりしかばかかる時は常に両人中余の尤も懼(おそ)るる方に附き随(したが)ひて媚(こび)を献じてその機嫌を取れり。
余はかくの如く他人に対して臆病なりしかど、家人に対して大胆にていはゆる湾泊(わんぱく)を極めたりき。余は甚(はなは)だしき疳性(かんしょう)にて毎朝衣服を母なる人に着せてもらひしが、常に一度にては済まず、何処(どこ)か気持|悪(あ)しければ二、三度も着かへるを常とせるをもて、これに由(よ)りて母なる人を苦(くるし)めたる事もありき。
概していへば当時の余の心状は卑劣なりしなり。
以上はその全文である。取出でていうほどの奇はないが、二葉亭の一生を貫徹した潔癖、俗にいう気難(きむず)かし屋の気象と天才|肌(はだ)の「シャイ」、俗にいう羞恥(はにか)み屋の面影(おもかげ)が児供(こども)の時から仄(ほの)見えておる。かつこの自伝の断片は明治二十二年ごろの手記であるが、自ら「当時の余の心状は卑劣なりしなり」と明らさまに書く処に二葉亭の一生|鞭撻(べんたつ)してやまなかった心の艱(なや)みが見えておる。
尾州から父に伴われて父の任地島根に行き、殆(ほと)んど幼時の大部分を島根に暮した。その頃の父の同僚であって叔姪(しゅくてつ)同様に親しくした鈴木老人その他の話に由ると、頗(すこぶ)る持余(もてあま)しの茶目であったそうだ。軍人志頤で、陸軍大将を終生の希望とし、乱暴して放屁(ほうひ)するを豪(えら)いように思っていたと、二葉亭自身の口から聞いた。
二葉亭の伯父(おじ)で今なお名古屋に健在する後藤老人は西南の役に招集されて、後に内相として辣腕(らつわん)を揮(ふる)った大浦兼武(おおうらかねたけ)(当時軍曹)の配下となって戦った人だが、西郷贔負(さいごうびいき)の二葉亭はこの伯父さんが官軍だというのが気に喰(く)わないで、度々(たびたび)伯父さんを捉(つか)まえては大議論をしたそうだ。二葉亭の東方問題の抱負は西郷の征韓論あたりから胚胎(はいたい)したらしい。こんな塩梅(あんばい)に児供の時分から少し変っていたので、二葉亭を可愛がっていた祖母(おばあ)さんは「この子は金鍔(きんつば)指(さ)すか薦(こも)被(き)るかだ、」と能く人に語ったそうだ。(金鍔指すか薦被るかというは大名となるか乞丐(こじき)となるかという意味の名古屋附近に行われる諺。)
十五歳の時、島根から上京して四谷の忍原横町(おしはらよこちょう)の親戚(しんせき)の家に寄食した。その時分もヤンチャン小僧で、竹馬の友たる山田|美妙(びみょう)の追懐談に由ると、お神楽(かぐら)の馬鹿踊(ばかおどり)が頗る得意であって、児供同士が集まると直ぐトッピキピを初めてヤンヤといわせたそうだ。間もなく芝の愛宕(あたご)下(した)の高谷(たかたに)塾に入塾した。高谷塾というは『日本全史』というかなり浩澣(こうかん)な大著述をしたその頃の一と癖ある漢学者高谷龍洲の家塾であって、かなり多数の書生を集めて東京の重なる私塾の一つに数えられていた。大阪朝日の旧社員の土屋大作や、今は故人となった帝劇の座付作者の右田寅彦(みぎたのぶひこ)兄弟も同塾であったそうだ。然(しか)るにイタズラ小僧の茶目の二葉亭は高谷塾に入塾すると不思議に俄(にわか)に打って変った謹直家となって真面目(まじめ)に勉強するようになった。知らない顔の他人の中へ突き出されて、持前(もちまえ)の羞恥(はにか)み屋から小さくなったのでもあろうが、一つは今なら中学程度に当る東京の私塾の書生となったので、俄に豪くなって大人(おとな)びたのでもあろう。
その時代、一番親しくしたは二葉亭の易簀(えきさく)当時|暹羅(シャム)公使をしていた西源四郎と陸軍大尉で早世した永見松太郎の二人であった。殊に永見は同時に上京した同郷人であるし、同じ軍人志願であったからなお更深く交際した。然るに永見は首尾よく陸軍の試験に合格したが、二葉亭はその頃からの強度の近視眼のため不合格となった。(永見はその後参謀部の有数な秀才と歌われていたが、惜しい事に大尉で若死(わかじ)にしてしまった。福島大将と同時代であったそうだ。)二葉亭は運悪く最初の首途(かどで)に失敗(やりそこ)なってしまったが、首尾よく合格して軍人となっても狷介(けんかい)不覊(ふき)の性質が累(わずらい)をなして到底長く軍閥に寄食していられなかったろう。
その頃二葉亭は既に東亜の形勢を観望して遠大の志を立て、他日の極東の風雲を予期して舞台の役者の一人となろうとしていた。陸軍を志願したのも、幼時は左(と)に右(か)くその頃では最早(もはや)ただ軍服が着たいというような幼い希望ではなかった。それ故に軍人志望が空(むな)しくなると同時に外交官を志ざして旧外国語学校の露語科に入学した。その頃高谷塾以来の莫逆(ばくげき)たる西源四郎も同じ語学校の支那語科に在籍していたので、西は当時の露語科の教師古川常一郎の義弟であったからなお更|益々(ますます)交誼を厚くした。その後間もなく西が外務の留学生となって渡支してからも山海数千里を距(へだ)てて二人は片時(かたとき)も往復の書信を絶やさなかった。その頃の二葉亭の同窓から聞くと、暇さえあると西へ遣(や)る手紙を書いていたそうで、その手紙がイツデモ国際問題に関する侃々諤々(かんかんがくがく)の大議論で、折々は得意になって友人に読んで聞かせたそうだ。二葉亭の露西亜(ロシア)語は日露の衝突を予想しての国家存亡の場合に活躍するための準備として修められたのだから、「君は支那公使となれ、我は露国公使とならん」というが二人の青年の燃ゆる如き抱負で、殆んど天下の英雄は使君(しくん)と操とのみの意気込であった。二葉亭が死ぬまでも国際問題を口にしたのは決して偶然ではないので、マダ二十歳(はたち)になるかならぬかの青年時代から血を湧(わ)かした希望であったのだ。(二葉亭の歿後、或人が西を訪問してその頃の二葉亭の遺事を聞きたいといったところが、西は頗(すこぶ)る冷然として二葉亭とはホンの同窓というだけの通り一遍の浅い関係だからその頃の事は大抵忘れてしまったといういたって率気(そっけ)ない挨拶(あいさつ)だったそうだ。御当人がそういう健忘性だから世間からも西という公使があったかなかったか今では全く忘れられている。)
明治十八年の秋、旧外国語学校が閉鎖され、一ツ橋の校舎には東京商業学校が木挽町(こびきちょう)から引越して来て、仏独語科の学生は高等中学校に、露清韓語科は商業学校に編入される事になった。当時の東京商業学校というは本(も)と商法講習所と称し、主として商家の子弟を収容した今の乙種商業学校程度の頗る低級な学校だったから、士族|気質(かたぎ)のマダ失(う)せない大多数の語学校学生は突然の廃校命令に不平を勃発(ぼっぱつ)して、何の丁稚(でっち)学校がという勢いで商業学校側を睥睨(へいげい)した。今ならこんな専制的命令が行われるはずもなく、そういう場合学生は聯合して示威運動でもする処だが、当時の学生は尚(ま)だそういう政治運動をする考がなく、硬骨連が各自(てんで)に思い思いに退校届を学校へ叩(たた)きつけて飛出してしまった。二葉亭もまたその一人で、一時は商業学校に学籍を転じたが、翌十九年一月、とうとう辛抱(がまん)が仕切れないで怫然(ふつぜん)袂(たもと)を払って退学してしまった。最(も)う二、三月辛抱すれば卒業出来るのだし、二葉亭は同学中の秀才だったから、そのまま欠席して試験を受けないでも免状を与えようという校長の内諭もあったが、気に喰わない学校の卒業証書を恩恵的に貰(もら)う必要はないと、キビキビ跳付(はねつ)けてプイと退学してしまった。
が、この頓挫(とんざ)が二葉亭の生涯の行程をこじらす基(もと)いとなったは争われない。当時の商業学校の校長矢野次郎は二葉亭の才能を惜(おし)んで度々校長室に招いて慰諭し、いよいよ学校を退学してからも身分上の心配をしてやろうとまで厚意を持ってくれた。が、不平で学校を飛出しながら校長の恩に縋(すが)るような所為(まね)は餓死(うえじに)しても二葉亭には出来なかった。かつ露語科に入った当初の志望こそ外交官であったが、語学の研究のため露西亜文学を渉猟し初(だ)してから何時(いつ)の間(ま)にか露国思想の感化を受けると同時に、それまで潜在していた文学的興味、芸術的意識が俄に頭を擡上(もちあ)げて来て当初の外交官熱が次第に冷め、その時分は最早以前の東方策士|形気(かたぎ)でなくなっていたから、矢野の厚意に縋って官界なり実業界なりに飛込む気にはなれなかった。元来が軍人志願の漢学仕込で、岳武穆(がくぶぼく)や陸宣公に鍛(きた)えられていた上に、ヘルチェンやビェリンスキーの自由思想に傾倒して意気|欝勃(うつぼつ)としていたから、一から十までが干渉好きの親分肌の矢野次郎の実業|一天張(いってんばり)の方針と相容(あいい)れるはずはなかった。算盤玉(そろばんだま)から弾(はじ)き出したら矢野のいう通りに温和(おとな)しくなってる方が得策であったかも知れないが、矢野が世話を焼けば焼くほど、世話になるが利益と思えば思うほど益々反抗して、折角の矢野の厚意をピタリと跳付けて後足(あとあし)で蹴(け)ってしまった。無論、学校を飛出してから何をするという恃(あて)はなかったが、この場合是非分別を考える遑(いとま)もなくて、一図に血気に任して意地を貫いてしまった。 
 
二 春廼舎との握手 

 

あたかもその頃であった。坪内逍遥の処女作『書生気質(しょせいかたぎ)』が発行されて文学士|春廼舎朧(はるのやおぼろ)の名が俄(にわか)に隆々として高くなったのは。(『書生気質』は初め清朝四号|刷(ずり)の半紙十二、三枚ほどの小冊として神田明神下(かんだみょうじんした)の晩青堂という書肆(しょし)から隔週一冊ずつ続刊されたので、第一冊の発行は明治十八年八月二十四日であった。)丁度政治が数年後の国会開設を公約されて休息期に入って民心が文学に傾き、リットンやスコットの飜訳小説が続出して歓迎され、政治家の創作が頻(しき)りに流行して新らしい機運に向いていた時であったから、今の博士よりも遥(はるか)にヨリ以上重視された文学士の肩書を署した春廼舎の新作は忽(たちま)ち空前の人気を沸騰し、堂々たる文学士が指を小説に染めたという事は従来戯作視した小説の文学的位置を重くもし、世間の好奇心を一層|喚(よ)びもした。その頃までは青年の青雲の希望は政治に限られ、下宿屋から直ちに参議となって太政官(だじょうかん)に乗込もうというのが青年の理想であった時代であったから、天下の最高学府の出身者が春廼舎朧という粋(いき)な雅号で戯作の真似(まね)をするというは弁護士の娘が女優になったり、華族の冷飯(ひやめし)がキネマの興行師となるよりも一層意外で、『書生気質』が天下を騒がしたのはその芸術的効果よりも実は文学士の肩書の威力であった。
それ故世間は半信半疑で、初めはやはり政治家の小説と同じ一時の流行カブレで、堂々たる学士がマジメに小説家になろうとは誰も思わなかった。ところが高田半峰(たかだはんぽう)が長々しい批評を書き、春廼舎もまた矢継早(やつぎばや)に『小説神髄』(この頃『書生気質』と『小説神髄』とドッチが先きだろうという疑問が若い読書子間にあるらしいが、『神髄』はタシカ早稲田(わせだ)の機関誌の『中央学術雑誌』に初め連載されたのが後に単行本となったので、『書生気質』以後であった。)から続いて『妹(いも)と背(せ)鏡(かがみ)』を発表し、スモレット、フィールディング、ディッケンス、サッカレー等の英国小説家が大文豪として紹介され、戯作の低位から小説が一足飛びに文明に寄与する重大要素、堂々たる学者の使命としても恥かしくない立派な事業に跳上ってしまった。それまで政治以外に青雲の道がないように思っていた天下の青年はこの新らしい世界を発見し、俄に目覚めたように翕然(きゅうぜん)として皆文学に奔(はし)った。美妙や紅葉(こうよう)が文学を以て生命とする志を立てたのも、動機は春廼舎の成功に衝動されたのだ。
二葉亭はこれより先き語学校の科目としてゴンチャローフやゴーゴリやレルモントフやドストエフスキー等の大文学を研究し、進んでビェリンスキー、ドブロリューボフ、ヘルチェン等の論文集を耽読(たんどく)し、殊に深くビェリンスキーに傾倒していた。尤(もっと)も半ば語学研究の必要のために外ならなかったが、当時の語学校の教師グレーというがなかなかな文学家であって、その露文学を講ずるや微に入り細に渉(わた)って批評し、かつエロキューションに極めて巧妙で、身振(みぶり)声色(こわいろ)交(まじ)りに手を振り足を動かし眼を剥(む)き首を掉(ふ)ってゴンチャローフやドストエフスキーを朗読して聞かしたのが作中のシーンを眼前に彷彿せしめて、一(ひ)ト度(たび)グレーの講義を聞くものは皆語学の範囲を超(こ)えてその芸術的妙趣を感得し、露西亜文学の熱心なる信者とならずにはいられなかった。二葉亭もまたこの一種の天才ある教師の指導を受けて何時(いつ)とはなしに芸術的興味を長じ、進んで専門文人となるまでの断乎(だんこ)たる決心は少しもなかったが、知らず識(し)らずに偶然文人の素地を作っていた。時も時、学校を罷(や)めて何をするという方角もなく、満腔(まんこう)の不平を抱いて放浪していた時、卒然としてこの文学勃興の機運に際会したは全く何かの因縁であったろう。
当時の春廼舎朧の声望は旭日(きょくじつ)昇天の勢いで、世間の『書生気質』を感歎するやあたかも凱旋(がいせん)将軍を迎うる如くであった。が、世間が驚嘆したのは実は威力ある肩書のためであって、その実質は生残りの戯作者流に比べて多少の新味はあっても決して余り多く価値するに足らなかったのは少しく鑑賞眼あるものは皆認めた。ましてや偉大なる露国文学の一とわたりを究(きわ)めた二葉亭が何条肩書に嚇(おど)かされよう。世間が『書生気質』や『妹と背鏡』や『小説神髄』を感嘆する幼稚さを呆(あき)れると同時に、文学上の野心が俄にムズムズして来た。尤も進んで春廼舎と競争しようというほど燃上ったのではなかったが、左(と)に右(か)く春廼舎の技巧や思想の歯癢(はがゆ)さに堪えられなくなった結果が『小説神髄』の疑問の箇処々々に不審紙を貼(は)ったのを携えて突然春廼舎の門を叩いた。語学校を罷めてから間もなくであった。
二葉亭が春廼舎を訪問したのは、昔の武者修行が道場破りをするツモリで他流試合を申込むと多少似通った意気込がないではなかった。が、二葉亭は極めて狷介な負け嫌いであると同時にまた極めて謙遜(けんそん)であって、如何(いか)なる人に対しても必ず先ず謙虚して教(おしえ)を待つの礼を疎(おろそ)かにしなかった。春廼舎を慊(あきた)らなく思っていたには違いないが、訪問したのは先輩を折伏(しゃくぶく)して快を取るよりは疑問を晴らして益を享(う)くるツモリであったのだ。が、ビェリンスキーに傾倒しゴンチャローフ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー等に飽満した二葉亭が『書生気質』の著者たる当時の春廼舎に教えられる事が余り多くなかったのは明(あきら)かに想像し得られる。
が、それ以後しばしば往来して文学上の思想を交換すると共に文壇の野心を鼓吹(インスパヤ)された事は決して尋常(ひととおり)でなかった。矢崎鎮四郎(やざきしんしろう)を春廼舎に紹介したのもやはり二葉亭であった。矢崎は明治十九年の十月には処女作『守銭奴(しゅせんど)の肚(はら)』を公けにし、続いて同じ年の暮れに『ひとよぎり』を出版し、二葉亭に先んじて逸早(いちはや)く嵯峨(さが)の屋(や)お室(むろ)の文名を成した。
二葉亭の初めての試みはゴーゴリの飜訳であった。が、世間には発表しなかった。その発表しなかった理由は不明であるが、多分性来の自重心が軽々しく公けにするを欲しなかったのであろう。その時分またビェリンスキーの美論の一部を飜訳した事があった。尤もこの飜訳は春廼舎を初めビェリンスキーを知らない友人に示すためであって、公けにするツモリはなかったのであるが、その中の一部分が飜訳後|暫(しば)らく経(た)ってから冷々亭主人の名で前記した早稲田(わせだ)の機関誌の『中央学術雑誌』に掲載された。が、ビェリンスキーの美論は当時の読書界には少し高尚過ぎたから、誰にも碌々(ろくろく)読まれず、殆(ほと)んど注意されずに終ったが、今から三十年前にこういう深邃(しんすい)な美学論が飜訳されたというは恐らく今の若い人たちの思掛けない事であろう。その時分二葉亭は冷々亭|杏雨(きょうう)、率性堂、または翕々亭(きゅうきゅうてい)と称していた。
その頃二葉亭は学校を罷めてしまって、これから先きどうでも一本立ちにならねばならない場合であった。親代々家禄で衣食した士族|出(で)の官吏の家では官吏を最上の階級とし、官吏と名が附けば腰弁(こしべん)でも一廉(いつかど)の身分があるように思っていたから、両親初め周囲のものは皆二葉亭の仕官を希望していた。が、二葉亭は決然袂を揮って退学した余勇がなお勃々としていた処へ、春廼舎からは盛んに文学を煽(あお)り立てられ、弟分(おととぶん)に等しい矢崎ですらが忽ち文名を揚(あ)ぐるを見ては食指動くの感に堪えないで、周囲の仕官の希望を無視して、砂を噛(か)んでも文学をやると意気込んでいた。その時分の文学的|覇心(はしん)は殆んど天に冲(ちゅう)する勢いであった。 
 
三 『浮雲』及びその時代の生活 

 

『浮雲』の第一編が発行されたは明治二十年七月であった。この第一編は今も昔も変らぬ書肆(しょし)の商略から表紙にも扉(タイトルページ)にも春廼舎朧著と署して二葉亭の名は序文に見えるだけだから、世間は春廼舎をのみ嘖々(さくさく)して二葉亭の存在を少しも認めなかった。二葉亭の名が一般読書人に知られて来たは公然その名を署した第二編の発行以後である。が、それすら世間は春廼舎の別号あるいは傀儡(かいらい)である如く信じて二葉亭の存在を認めるものは殆んど稀(ま)れであった。
尤も第一編は春廼舎の加筆がかなり多かったから多分の春廼舎臭味があった。世間が二葉亭を無視して春廼舎の影法師と早呑込(はやのみこ)みしたのも万更(まんざら)無理ではなかった。が、誰でも処女作を発表する時は臆病で、著作の経験上一日の長ある先輩の教えを聞くは珍らしくない。ましてや謙遜な二葉亭は文章の造詣(ぞうけい)では遥に春廼舎に及ばないのを認めていたから、己(おの)れを空(むなしゅ)うして春廼舎の加筆を仰いだ。春廼舎臭くなったのも止むを得なかった。が、一端発表して後は自信を強くし、第二編には思う存分に大胆な言文一致を試みて自個の天地を開き、具眼の読書子をして初めて春廼舎以外に二葉亭あるを承認せしめた。
言文一致の創始者としては山田美妙が多年名誉を独占し、今では美妙と言文一致とは離るべからざるものの如く思われておる。が、美妙の『夏木立』は明治二十一年八月の出版で、『浮雲』第一編よりは一年遅れてる。尤も『夏木立』中の「武蔵野」は初め『読売新聞』に載ったのであるが、やはり『浮雲』の方が先んじていた。あるいは『浮雲』第一編は厳密な意味の言文一致でないという人があるかも知れぬが、「武蔵野」もまた頗(すこぶ)る雅文臭いもので、時代の先後をいったら二葉亭の方が当然その試みに率先した名誉を荷(にな)うべきはずである。不思議な事には美妙と二葉亭とは親たちが同じ役所の同僚であって、児供(こども)の時からの朋友であった。尤も竹馬の友というだけで、中ごろは交際が絶え、相談したのでも申合わしたのでもなかったが、相期せずして幼友達(おさなともだち)同士のこの二人が言文一致体を創(はじ)めたというは頗る不思議な因縁であった。尤もこれより以前、漢字廃止を高調した仮名の会の創立当時から言文一致は識者の間に主張され、極めて簡単な記事文や論説を言文一致で試みた者もあった。同時にこれより三、四年前に発明された速記術がその頃|漸(ようや)く実際に応用されて若林|※[王+甘]蔵(かんぞう)の速記した円朝(えんちょう)の『牡丹燈籠(ぼたんどうろう)』が出版されて活(い)きた口話の実例を示したのが俄に言文一致の機運を早めたのは争えない。美妙も二葉亭もこの円朝の口話の速記に負う処が多かったのは想像するに余りがある。明治の文章史を作る者は円朝の『牡丹燈籠』と速記者若林※[王+甘]蔵の功労とを無視する事は出来ない。
かつまた美妙と二葉亭との文体は等しく言文一致であっても著るしい語系の差異がある。美妙は本(も)とが韻文家であって韻語に長じ、兼ねて戯文の才があったから、それだけ従来の国文型が抜け切れない処があった。二葉亭も院本(いんぽん)や小説に沈潜して好んで馬琴(ばきん)や近松(ちかまつ)の真似をしたが、根が漢学育ちで国文よりはむしろ漢文を喜び、かつ深く露西亜文に親(したし)んでいたから、容易に国文の因襲を脱して思切って大胆なる言文一致を試みる事が出来た。春廼舎の加筆した『浮雲』第一編は別として、第二編となると全然従来の文章型を無視した全く新らしい文体を創(はじ)めた。二葉亭の直話に由(よ)ると、いよいよ行詰(ゆきづま)って筆が動かなくなると露文で書いてから飜訳したそうだ。二葉亭の露文は学生時代からグレエ教師が感嘆したという位で、後にダンチェンコが来朝して能見物に案内した時、ダン君に示すための当日の能の筋書を前夜の中(うち)に露訳したというほどの腕達者だから、露文で書いて邦訳したというのも強(あなが)ち英雄人を欺くの放言だとは思われない。ゴンチャローフの真似をして出来損(できそこ)なったとは二葉亭が能(よ)く人に話した謙遜のような自得のような追懐であった。『浮雲』の文章に往々多少の露臭(ろしゅう)があるのはこれがためであろうが、そこが在来の文章型を破った独創の貴とさである。美妙のは花やかにコッテリして故(わざ)とらしい厭味(いやみ)のある欧文の模倣に充(み)ちていた。丁度油をコテコテ塗(なす)って鬘(かつら)のように美くしく結上(ゆいあ)げた束髪(そくはつ)が如何にも日本臭いと同様の臭味があった。二葉亭のは根本から欧文に醇化(じゅんか)され、極めて楽に日常用語を消化して全く文章離れがしていたが、美妙のはマダ在来の文章型を脱し切れない未成品であった。美妙の功労を十分認めるとしても、また創始者たる名誉は二人の中のドッチとも定められないとしても、今日の言文一致の宗とするは美妙よりはむしろ二葉亭である。
さてこの『浮雲』の構案であるが、一体この構案を何処(どこ)から得て来たかは不明である。二葉亭は自分の性格の一部を極端に誇張したもの(即ち文三)を中心として両親や周囲の人物の性格を同じく極端に延長したものを配して新旧思想の衝突を描いたのであると、極めて漠然(ばくぜん)たる話をした事があった。大雑駁(おおざっぱ)にいえばツルゲーネフ等に倣(なら)って時代の葛藤(かっとう)を描こうとしたのは争われないが、多少なりともこれに類した事実が作者の視聴内にあった乎(か)否乎は二葉亭はかつて明言しなかった。ただその頃の作家は自分の体験をありのままに書き周囲の人物をモデルとするような事は余り做(し)なかったから、『浮雲』のモデルや事実は先ずなかったろうと信ずる。
二葉亭から直接聞いた咄(はなし)に、二葉亭の家の直ぐ近所にA・Nというその頃若い書生間に評判な新らしい女が住んでいたが、強(しい)ていえばこの女が『浮雲』のお勢のモデルであったそうだ。女学生ではあるが学校へは行かないで弟と二人で世帯を持って、国から送る学費で気随|気儘(きまま)に暮していた。少(ちっ)とばかり洋書が読めて多少の新らしい趣味を解し、時偶(ときたま)は洋服を着る当時の新らしい女で、男とばかり交際していた。その頃は今より一層|甚(はなは)だしい欧化熱の頂上に登り詰めた時代であって、青年男女の交際が盛んに鼓舞され、本郷(ほんごう)神田辺の学生間に□□会、△△|倶楽部(クラブ)などと称する男女交際を唯一の目的とする、今なら不良扱いされる青年の団体がイクツもあった。Nはこういう団体の何処へでも顔を出して跳廻(はねまわ)っていたから、御面相は頗る振わなかったが若い男の中には顔が売れていた。当時のチャキチャキの新らしい男たる硯友社(けんゆうしゃ)の中にもこの女と親しいものがあったはずである。その上にこの女は弟と二人ぎりの気随気儘の暮しをしていて、遠慮|気兼(きがね)をする者が一人もいなかったから、若い男は好(い)い遊び場にして間断(しっきり)なしに出入(でいり)して、毎晩十二時一時ごろまでもキャッキャッと騒いでいた。小説家となるツモリになっていても志士気質の失(う)せない二葉亭は、女と交際するような事は決してなかったが、ツイ眼と鼻の間だから近所の評判となってるこの女の噂(うわさ)を聞いていたので、いよいよ小説を立案するに方(あた)って偶然|憶付(おもいつ)いたのがこの女であった。そこでこの女をモデルとして当時の新らしい女を描こうとし、この目的のためにしばしばこの女の住居(すまい)の近所を徘徊(はいかい)して容子(ようす)を瞥見(べっけん)し、或る晩は軒下(のきした)に忍んで障子に映る姿を見たり、戸外に洩(も)れる声を窃(ぬす)み聴(き)いたりして、この女の態度から起居振舞(たちいふるまい)、口吻(こうふん)までをソックリそのままに写したのがお勢であるそうだ。無論外形の一部分をモデルとしたので、全体を描いたのではなかった。第一、この女は随分マズイ御面相で、お勢のような美人でなかった。かつお勢よりもお転婆(てんば)であり引摺(ひきずり)であった。その上に御面相の振わないのを自覚していた為(せい)であろうが、男と交際していてもお勢のような coquettish な容子は少しもなかった。仮にこの女と本田と取組ましたなら、お勢のように本田の翫弄(なぶりもの)にならないでかえって本田を翫弄にしたかも知れない。恐らくこの女は当時の世評嘖々たる『浮雲』を読んだに違いないが、自分がお勢のモデルであるとは気が附かなかったであろう。お政にも昇(のぼる)にもモデルがあるといって、誰それであろうと揣摩(しま)する人もあるが、作者自身の口からは絶えてソンナ咄を聞かなかった。勿論、文三が作者自身の性格の一部を極端に誇張して作為したのが争われないと同様に、作者に近接する人物の性格の一部をモデルとしたに違いなかろうが、二葉亭はお政や昇については何にも咄さなかった。
全体として評すれば『浮雲』の文章及び構作は共に未成品たるを免かれない。が、『浮雲』を評するものは今より殆んど四十年前の作、二十四歳の青年の作である事を記憶せねばならない。これより以後多くの文人が続出して、代る代るに文壇を開拓して仏露の自然主義まで漕付(こぎつ)けるにおよそ二十年を費やしている。少くも『浮雲』の作者は二十年、時代に先んじた先駈者(せんくしゃ)であるといわねばなるまい。単に文章の一事だけでも、今日行われてる小説文体の基礎を築いた功労者であるといわねばなるまい。どの道、春廼舎の『書生気質』や硯友社連の諸作と比べて『浮雲』が一頭(いっとう)地(ち)を挺(ぬき)んずる新興文芸の第一の曙光(しょこう)であるは争う事は出来ない。中には文学史上の著名の傑作が時代という考を去るとしばしば価値が乏しくなる幾多の例から推して、『浮雲』をもまた時代の産物以上の価値がないもののように軽視するものがあるが、外国の名著と比べたらあるいは余り多くを価値する事が出来ないかも知れないが、日本のとなら同時代のものはさて置き、今日嘖々される諸作と比べても決して軒輊(けんち)する処がない。但し『浮雲』は二葉亭の思想動揺の過程に跨(また)がって作られてるから、第一編と第二編と第三編と、各々箇立していて一貫する脈絡を欠いている。が、各々独立した箇々の作として見ても現代屈指の名作たるを少しも妨げない。強(しい)て評価すれば、第一編はマダ未熟であり、第三編は脂(あぶら)が抜けて少しくタルミがあるが、第二編に到っては全部が緊張していて、一語々々が活き活きと生動しておる。未成品であっても明治の文学史に燦爛(さんらん)たる頁を作るエポック・メーキングの名著である。 
 
四 『あいびき』及び『めぐりあい』 

 

丁度同時代であった。徳富蘇峰(とくとみそほう)は『将来之日本』を挈(ひっさ)げて故山から上って帝都の論壇に突入し、続いて『国民之友』を創刊して文名隆々天下を圧する勢いがあった。当時の青年は皆その風を望んで蘇峰に傾倒し、『国民之友』は殆(ほと)んど天下の思想界に号令する観があった。二葉亭もまた蘇峰が高調した平民主義に共鳴し、臂(ひじ)を把(と)って共に語る友と思込んで、辞を低うし礼を尽して蘇峰を往訪した。が、熱烈なる天才肌の二葉亭と冷静なる政治家気質の蘇峰と相契合するには余りに距離があり過ぎたから、応酬接見数回を重ねた後はイツとなく疎遠となってしまった。が、天下の英才を集めて『国民之友』を賑(にぎ)わすのを片時も怠らなかった蘇峰はこの間に二葉亭のツルゲーネフの飜訳を紙面に紹介して読書界の耳目を聳動(しょうどう)した。『浮雲』は初め春廼舎の作として迎えられ、二葉亭の名が漸(ようや)く知られて来てからもやはり春廼舎の影武者であるかのように思われていた。二葉亭の存在が初めて確実に世間に認められたのは『浮雲』よりはむしろ『国民之友』で紹介された翻訳の『あいびき』であった。
その頃の飜訳は皆筋書であった。大体の筋さえ通れば勝手に省略したり刪潤(さんじゅん)したり、甚だしきは全く原文を離れて梗概(こうがい)を祖述したものであった。かつ飜訳家の多くは邦文の造詣に貧しいただの語学者であったから、飜訳文なるものは大抵ゴツゴツした漢文|崩(くず)しやあるいは舌足らずの直訳やあるいは半熟の馬琴調であって、西文の面影を偲(しの)ぶに足らないは魯(おろ)か邦文としてもまた読むに堪えないものばかりだった。この非芸術的濫訳横行の中にあって、二葉亭の『あいびき』は殆んど原作の一字一句をも等閑(なおざり)にしない飜訳文の新らしい模範を与えた。後年盛んに飜訳し出した頃二葉亭は『あいびき』時代を追懐して、「あの時分はツルゲーネフを崇拝して句々皆神聖視していたから一字一句どころか言語の排列までも原文に違(たが)えまいと一語三礼の苦辛(くしん)をした、あんな馬鹿|骨折(ほねおり)は最(も)う出来ない、今ならドシドシ直してやる、」と笑った事があった。『あいびき』の訳文の価値は人に由(よっ)て区々の議論があろうが、苦辛|惨澹(さんたん)は実に尋常一様でなかった。
が、余り原文に忠実であり過ぎたため、外国文章の句法辞法に熟する人でなくてはとても理解されない難かしいものとなった。尤(もっと)も当時のタワイない低級小説ばかり読んでる読者に対して一足飛びにツルゲーネフの鑑賞を要求するは豚に真珠を投げるに等しい無謀であって、大抵な読者は最初の五、六行から消化し切れないで降参してしまった。この難解の訳文を平易に評釈して世間に示し、口を極めて原作と訳文との妙味を嘖々(さくさく)激称したは石橋忍月(いしばしにんげつ)であった。当時の一般読者が『あいびき』の価値をほぼ了解してツルゲーネフを知り、かつ二葉亭の訳文の妙を確認したは忍月|居士(こじ)の批評が与(あず)かって大(おおい)に力があった。
続いて『都之花』の発刊と共に『めぐりあい』が五号に渉って連載された。『あいびき』に由てツルゲーネフの偉大と二葉亭の訳筆の価値とを確認した読者は崑山(こんざん)の明珠を迎うる如くに珍重愛惜し、細(つぶ)さに一字一句を翫味研究して盛んに嘖々した。が、普通読者間にはやはり豚に真珠であって、当時にあってこの二篇の価値を承認したものは真に寥々(りょうりょう)晨星(しんせい)であった。が、同時にこの二篇に由て初めて崇高なる文学の意義を了解し、堅実なる新らしい文学の基礎を固め、もしくは感激して新文芸の開拓を志すに至ったものは決して少くなかった。国木田独歩(くにきだどっぽ)の如きは実にその一人であって、独歩一派の自然主義運動は実にこの『あいびき』と『めぐりあい』とに発途しておる。短かい飜訳であるが啻(た)だ飜訳界の新生面を開いたばかりでなくて、新らしい文芸の路を照すの光輝ともなった。その文壇に与えた効果は『浮雲』よりもかえって偉大であったかも知れない。時代の先駈者としての二葉亭の名誉は今から三十余年前にツルゲーネフを飜訳した功績だけでも十分承認しなければなるまい。 
 
五 『浮雲』時代の失意煩悶 

 

『浮雲』著作当時の二葉亭は覇気(はき)欝勃(うつぼつ)として、僅(わずか)に春廼舎を友とする外は眼中人なく、文学を以てしては殆んど天下無敵の概があった。が、一面から見れば得意時代であったが、その得意というは周囲及び社会を白眼|傲睨(ごうげい)する意気であって、境遇上の満足でもまた精神上の安心でもまた思想上の矜持(きょうじ)でもなかった。
その頃の二葉亭は生活上の必要と文芸的興味の旺盛(おうせい)と周囲の圧迫に対する反抗とからして文学を一生の生命とする熱火の如き意気込があった。が、二葉亭の文学というは人生に基礎を置く文学であって、単なる芸術一天張の享楽主義や遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)や人情趣味の文学ではなかった。即ちビェリンスキーの文学、ゴンチャローフの文学、ドストエフスキーの文学、ツルゲーネフの文学であって、京伝(きょうでん)の文学、春水(しゅんすい)の文学、三馬(さんば)の文学ではなかった。
然るに当時の文壇は文芸革命家をもて他(ひと)も許し自らも任ずる春廼舎主人の所説ですらが根本の問題に少しも触れていない修辞論であって、人生問題の如きは全く文学と交渉しないものと思われていた。例えば『浮雲』に対する世評の如き、口を揃(そろ)えて嘖々(さくさく)称讃したが、渠(かれ)らの称讃は皆見当違いあるいは枝葉|末梢(まっしょう)であって、凡近卑小の材を捉(とら)えて人生の機微を描こうとした作者の観照的態度に対して批判を加えた者は殆んど一人もなかった。尤もこの二葉亭の目的は失敗していたが、その失敗を認めて考察の足りないのを痛切に感じたのは作者自身であって、世間一般の読者は(文壇の審判官たる批評家でさえも)作者が油汗を流した人生の観照には全く無関心没交渉であった。如何に感嘆されても称讃されても藪睨(やぶにら)みの感嘆や色盲的の称讃では甘受する事が出来ないで、先ず出発の門出(かどで)からして不満足を感ぜざるを得なかった。
加之(しかのみ)ならず、初めは覇心欝勃として直ちに西欧大家の塁を衝(つ)こうとする意気込であったが、いよいよ着手するとなると第一に遭逢したのは文章上の困難であった。如何に因襲の旧型を根本的に破壊するツモリであっても、日本文で書く以上は日本の在来の文章語や俗談口語の一と通りを究めねばならなかった。二葉亭は漢学仕込で魏叔子(ぎしゅくし)や壮悔堂を愛読し、国文俗文の一と通りにも通じていたが、いよいよ文学を生命とするとなると、それまでは閑余の漫読に過ぎなかった群書の渉猟にヨリ一層進んで深く造詣しなければならぬから骨が折れた。然るに二葉亭の志ざす文学は道楽気分の遊戯でなくして真剣命掛けであったから、如何に文章を研究するためでも、日本の在来の遊戯文章を真面目(まじめ)になって研究する馬鹿々々しさに堪えられなかった。二葉亭の当時の日記に、「我れ今まで薬袋(やくたい)もなき小説を油汗にひたりて書き来りしが、これよりは将(は)た如何にすべき、我が筆は誠に稚(おさ)なし、もしこれよりも小説を書きて世を渡らんとせば先づ文を属する事を習はざるべからす、迷惑がらるるを目をねぶつてこらへ、人の蔵書を借りて読まざるべからず、その書は如何なる類(たぐ)ひかといへば、粋とか通とかいひてこの世を遊び暮せし人々の食はうがため呼吸をしやうがために書散らしたるありても益なくなくとも不自由にもなきつまらぬ書物のみなり、かかる書類に眼を労(つか)らせ肩をはらし命を※[てへん+劣](むし)り取られて一世を送るも豈(あに)心外ならずや」云々とあるは当時の心事を洩(も)らした述懐であって、二葉亭はこの文章上の困難に一と通りならない苦辛をみた。とりわけ自己を批判するに極めて苛酷(かこく)な人の癖として十目の見る処『浮雲』が文章としてもまた当時の諸作に一頭(いっとう)地(ち)を挺(ぬき)んずるにもかかわらず、深く自ら恥じかつ懼(おそ)れて「自分には小説は書けない、自分は文人たる資格がない」とまで気を腐らせてしまった。
かつまた二葉亭のためには文学それ自身よりは根本の人生問題の方が重大であった。ツマリ人生のための文学というが、そもそも人生をどうしようというの乎(か)。人生の帰趣とか目的とかいうものが果してあるのだろう乎。安心とか信仰とかいうものが果して得られるのだろう乎。知識で究めるのは果(はて)しが着かないというなら、科学や哲学に何の権威がある乎。科学や哲学で究めても解らないものなら文学や宗教でどうして満足出来る乎。そんな疑問が推究すれば推究するほど後(あと)から後から後からと生じて終(つい)には文学その物の価値までが危(あぶ)なっかしくなり、ツルゲーネフやドストエフスキーの後光が段々薄くなり出すと、これらの文豪に比べて遥に天分薄い日本の文人亜流――自分もその一人として――の文学三昧は小児の飯事(ままごと)同様の遊戯であって、人生のための文学などとは片腹痛い心地がして堪えられなかった。
然るにまた一方には物質上の逼迫(ひっぱく)がヒシヒシと日に益々加わって来た。尤もその頃二葉亭はマダ部屋住(へやずみ)であって、一家の事情は二葉亭の自活または扶養を要求するほど切迫しているとは岡目には見えなかった。左(と)に右(か)く土蔵附きの持家(もちいえ)に住(すま)っていた。シカモ余り広くはなかったが、木口(きぐち)を選んだシッカリした普請で、家財道具も小奇麗に整然(きちん)と行届いていた。親子三人ぎりの家族で、誰が目にも窮しているどころか、むしろ気楽そうに見えていた。が、その頃の――恐らくは今でも――惣(すべ)ての人の親は、家に資産があると否とを問わず一家の運命希望を我が子の立身出世に繋(つな)いでるから、滞りなく無事に学校を卒業してドコへか就職してくれなければ安心もし満足もしなかった。折角卒業の間際(まぎわ)まで漕付けながら袴(はかま)を脱ぐ如く暢気(のんき)に学校を罷(や)めてしまい、シカモ罷めてしまって後に何をする見当もなく、何にもしないで懐手(ふところで)をしてブラブラ遊んでいると外(ほか)思われない二葉亭の態度や心持を慊(あきた)らなく思うは普通の人の親としての当然の人情であった。昔の士族気質から唯一の登龍門と信ずる官吏となるのを嫌って、碌(ろく)でもない小説三昧に耽(ふけ)るは昔者(むかしもの)の両親の目から見れば苦々(にがにが)しくて黙っていられなかった。
尤も『浮雲』に由て一躍|大家数(たいかすう)に入った二葉亭の成功については老親初め周囲のものは皆驚嘆もし満足もした。丁度ドストエフスキーの『虐(しいた)げられた人々』中のイユメニエフという老人が青年作家たる若い甥(おい)の評判高い処女作を読んで意外な作才に驚くと同一の趣きがあった。が、文名の齎(もた)らし来る収入はというといくばくもなかったので、感嘆も満足もただの一時(いっとき)であった。加之(のみ)ならず、二葉亭は一足飛びに大家班に入ったにかかわらず、文学を職業とする気があるかないか解らぬくらいノンキであって、文名の籍甚(せきじん)に乗じて文壇に躍(おど)り出すでもなく、そうかといって他に相当な生活の道を求める手段を講ずる気振(けぶり)もなかったから、一図(いちず)に我が子の出世に希望を繋ぐ親心(おやごころ)からは歯痒(はがゆ)くも思い呆(あき)れもして不満たらざるを得なかった。
搗(か)てて加えて一家の実際の事情は岡目で見るほど決して気楽でなかった。気楽どころかむしろ逼迫していた。これより二、三年前、二葉亭の先人は官を罷めて聊(いささ)かの恩給に衣食し、二葉亭の毎月の学費も最後の一、二年は蓄財を割(さ)いて支弁しつつ万事の希望を二葉亭の卒業後の栄達に期していたのである。であるから二葉亭は卒業するとしないとに論なく、学校を罷めたその日から直ぐ一家を背負って立たねばならない実際上の責任があった。二葉亭の日記に由ると、父の恩給高は十一円であったそうだ。如何に物価の安い四十年前でもまた如何に小人数(こにんず)でも十一円で一家を維持するというは容易でなかったから、岡目から見るように気楽でなかったのは想像されるので、この窮状を子として拱手(こうしゅ)して知らぬふりする事は出来なかった。尤も公債もあり蓄財もあり、家屋も自分の所有であって、正味十一円こっきりの身代ではなかったが、割合に気楽な官吏の生活を送ったものが多年倹約して剰(あま)した蓄財を日に日に減らして行くは、骨を削り肉を刻むに等しい堪えがたい苦痛であるのが当然で、何かにつけて愚痴の出るのも無理ではなかった。かつあたかも少年時代から友達同士の山田美妙が同じ文壇に立って名声籍甚し、『以良都女(いらつめ)』や『都之花』の主筆として収入もまた豊かであるのを見ては、二葉亭の生活上の煮え切らない態度が戻(もど)かしくなって、何かにつけては「山田の武さんを御覧」と云(い)い云いした。
二葉亭がもし「山田の武さん」の真似をするツモリなら、生活問題の如きは造作もなく解決されたのである。が、二葉亭の文学というは満身に力瘤(ちからこぶ)を入れて大上段(おおじょうだん)に振りかぶる真剣勝負であって、矢声(やごえ)ばかりを壮(さか)んにする小手先(こてさき)剣術の見せ物試合でなかったから、美妙や紅葉と共に轡(くつわ)を駢(なら)べて小手先きの芸頭を競争するような真似は二葉亭には出来なかった。文学の立場は各々(めいめい)違ってるから、一概に美妙や紅葉の取った道を間違ってると軽断するではないが、二葉亭にいわしむれば生活の血の滲(にじ)まない製作は文学を冒涜(ぼうとく)する罪悪であったのだ。「あんな器用な真似は出来ない、自分には才がない」と二葉亭は謙遜していたが、出来る出来ない、才のあるなしよりは自分の信奉するツルゲーネフやドストエフスキーやゴンチャローフの態度と違った行き方をして生活の方便とするを内心|窃(ひそか)に爪弾(つまはじ)きしていた。その頃、二葉亭の交際した或る文人が或る雑誌に頼まれて寄稿した小説が頗(すこぶ)る意に満たないツマラヌ作であるを頻(しき)りに慚愧(ざんき)しながらも、原稿料を請取ると大いに満足して直ぐ何処(どこ)へか旅行しようと得意になる心のさもしさを賤(かろ)んじて日記に罵(ののし)っている。自信のない作を与えて報酬を請取るを罪悪の一つとしていた二葉亭は、これではとても文学でパンを得る事は覚束(おぼつか)ないと将来(ゆくすえ)を掛念(けねん)したばかりでなく、実は『浮雲』で多少の収入を得たをさえ恥じていた。文壇的野心の欝勃としていた当初は左(と)も右(か)く、自分の文学的才能を危ぶみ出してからは唯一の生活手段とするつもりの文学に全く絶望して、父の渋面、母の愚痴、人生問題の紛糾疑惑、心の隅(すみ)の何処(どこ)かに尚(ま)だ残ってる政治的野心の余燼(よじん)等の不平やら未練やら慚愧やら悔恨やら疑惑やらが三方四方から押寄せて来て、あたかも稲麻(とうま)竹葦(ちくい)と包囲された中に籠城(ろうじょう)する如くに抜差(ぬきさし)ならない煩悶(はんもん)苦吟に苛(さいな)まれていた。
二葉亭の日記の数節を引いて、その当時の煩悶焦慮を二葉亭自身をして語らしめよう。
「白石(はくせき)先生の『折焚柴(おりたくしば)の記(き)』を読みて坐(そぞ)ろに感ずる所あり、先生が若かりし日、人のさかしらに仕を罷めて浪人の身となりさがりたる時、老いたる父母を養ひかねて心苦しく思ふを人も哀れと見て、あるいは富家の女婿になれと勧められ、あるいは医を学びて生業を求めよといさめらる、並々の人ならましかば、老いたる父母の貧しうくらすを看過(みすご)しがたしとて志も挫(くじ)け気の衰ふるにつけ、我に便よき説をも案じ出して、かかる折なほ独善の道を守らば弥々(いよいよ)道に背(そむ)かんなど自らも思ひ人にもいひて節を折るべきに、さはなくてあくまでも道を守りてその節を渝(か)へず、父なる人も並々の武士にはあらで却(かえ)りてこれを嬉(うれ)しと思ひたり、アアこの父にしてこの子あり、新井(あらい)父子の如きは今の世には得がたし、われ顧みてうら恥かしく思ふ。」
「ああ我が気力は衰へたる哉(かな)、学校を出(い)でしより以来一日として心の霽(は)るる事なければ楽しとおもひたることもなし、今の我が身の上をひしひしと思ひつむる時、生きてかかる憂目(うきめ)見んより死してこの苦を免かるる方はるかに勝(まさ)るべしなど思ひたるは幾度もありたれど、その頃はまだ気力衰へたれど※[さんずい+斯]滅(しめつ)するには到らざりしをもて、筆を執りて文を草することも出来しなり、されどこのごろは筆を執るも慵(ものう)くてただおもひくづをれてのみくらす、誠にはかなきことにこそあれ。」
「反訳叢書(ほんやくそうしょ)は本月うちに発兌(はつだ)せんといひしを如何にせしやらん、今においてその事なし、この雑誌には余も頼まれて露文を反訳せしにより、その飜訳料をもて本月の費用にあてんと思ひをりしに今は空だのめとなりしか、人事|齟齬(そご)多し、覚えず一歎を発す。」
「この頃は新聞紙を読みて、何某は剛毅(ごうき)なり薄志弱行の徒は慚死すべしなどいふ所に到れば何となく我を誹(そし)りたるやうにおもはれて、さまざまに言訳(いいわけ)めきたる事を思ふなり、かくまでに零落したる乎。」
当時の二葉亭の煩悶はこの数節に由るも明(あきら)かであろう。進んで小説家たる覚悟も勇気もなく、さればとて退いて欲するままに静かに読書研究するをも許されない境涯であった。二葉亭の日記に、「公債を買ひたい買ひたいといふゆゑ周旋していよいよとなるといやになり、借家を買ひたい買ひたいといふゆゑ周旋していよいよとなるとこれもまた二の足を踏む人は周旋人が迷惑すとかやいひたり、旨(うま)き事をいひたるものなり、」とあるは当時の二葉亭が右すべきや左すべきやと迷った心状を自ら罵った冷嘲(れいちょう)であろう。二葉亭は人のする事が何でも面白くなって常に気が変るを到底事を成すに堪えざる性格として同じ日記中に自ら嘆息しているが、こういう性格も多少は手伝ったのであろうが、当時の境遇上処世の方向に迷ったのは無理もなかった。
その間に試みたのがツルゲーネフの『あいびき』の飜訳であった。が、この飜訳は前にビェリンスキーを飜訳したと同じく、自ら傾倒するツルゲーネフを紹介して公衆に興味を頒(わか)とうとしたので、原稿料を取るためではなかった。勿論、民友社は報酬を支払ったが、その報酬は何ほどのものでもないから生活を補う資にはならなかった。
今の女子学院の前身の桜井女学校に聘(へい)されて文学を講述したのもこの時代であった。ツイ先頃|欧羅巴(ヨーロッパ)から帰朝する早々|脳栓塞(のうせんそく)で急死した著名の英語学者|長谷川喜多子(はせがわきたこ)女史や女子学院の学監|三谷民子(みたにたみこ)女史はタシカ当時の聴講生であったと思う。が、ビェリンスキーやドブロリューボフを祖述する二葉亭の文学論は当時の女学生の耳には(恐らくは今の女学生にも)余りに高遠|深邃(しんすい)であって、満堂殆んど耳を傾くるものが一人もないのに失望していくばくもなく罷(や)めた。が、これもまた生活のためではなかったので、自分の信奉する説を一人にだも多く――うら若い婦人に対してすらも――講演して新らしい思想を鼓吹する機会を得たのを喜んで応じたのであるから、この窮乏の間に処(お)りながら初めから報酬を辞して受けなかった。 
 
六 『浮雲』第三篇及び官報局出仕 

 

『浮雲』第三篇の発表されたのはこれより少し後であった。この三篇を書いていた時はあたかも胸中の悶々に堪えなくて努力も功名も消えてしまった真最中(まっさいちゅう)であった。日記に、「余は今日に到るまで小説家にて世を送る望みなしといひつつもなほ小説家とならんことをのみつとめり、他より見ればをかしく見ゆべし」とあるは毎月|書肆(しょし)から若干ずつ資給されていた義理合上余儀なくされて渋りがちなる筆を呵(か)しつつ拠(よんどこ)ろなしに机に向っていた消息を洩らしたのであろう。
二葉亭は何をするにも真剣勝負であった。襷(たすき)鉢巻(はちまき)に股立(ももだち)取って、満身に力瘤(ちからこぶ)を入れつつ起上(たちあが)って、右からも左からも打込む隙(すき)がない身構えをしてから、曳(えい)やッと気合(きあい)を掛けて打込む命掛けの勝負であった。追取刀(おっとりがたな)でオイ来たと起上る小器用な才に乏しかった。「間に合わせ」とか「好い加減」とかいう事が嫌いであったし、また出来ない人であった。談話するにさえ一言一句を考え考え腹の底から搾出(しぼりだ)し、口先きでお上手(じょうず)や胡麻化(ごまか)しをいう事が決して出来なかった。それ故、文芸上の興味が冷め、生活上の苦労に苛(さいな)まれていても一夜漬(いちやづ)けの書流(かきなが)しで好い加減に鳧(けり)をつけて肩を抜いてしまうという事は出来ないで、イヤイヤながらもやはり同じ苦辛(くしん)を重ねていた。が、実は最(も)う小説どころでなかった。根本の人生の大問題が頭の中で渦(うず)を巻いていた。身に迫る生活上の苦労がヒシヒシと押寄せて来た。惰力で筆を執っていてもイツマデ経(た)っても油が乗って来なかった。イクラ悶(もだ)いても焦(あせ)っても少しも緊張して来なかった。真剣勝負でなければ何にも出来ない人がどうしても真剣勝負の意気込になれなかった。
『浮雲』第三篇は作者の日記の端に書留めた腹案に由ると、お勢の堕落と文三の絶望とに終るのだが、発表されたものを見ると、腹案の半ばにも達しないで中途から尻切(しりきり)とんぼに打切られておる。恐らくはマダ発表するを欲しない未定稿であったろうと思う。尤もこの悶々の場合にこれより以上に玉成(ぎょくせい)する事はとても出来なかったろう。かつ、二葉亭の性質として決して好い加減に書擲(かきなぐ)ったものではないだろうが、三方四方の不平不満が一時に殺到する心的葛藤に忙殺されていては、虚心|坦懐(たんかい)に沈着(おちつ)いて推敲(すいこう)鍜練(たんれん)していられないのが当然であった。恐らく書肆に対する義理合上拠ろなしに自分でも満足しない未成の原稿をイヤイヤながら引渡したに違いないのは前後の事情から明瞭に推断される。
二葉亭の日記に由ると、第三篇の発表された『都之花』を請取った時は手がブルブル慄(ふる)えて、歩きながら読んで行く中(うち)に忽(たちま)ち顔色が変って、「これほど拙(つた)ないとは思わなかった、印刷して見ると我ながら拙なくて読むに堪えない」と、読終った時は心が早鐘(はやがね)を突く如くワクワクして容易に沈着いていられなかったとある。
なるほど、前にもいった通り、第三篇は油の十分乗った第二篇に比べると全部に弛(たる)みがあって気が抜けておる。が、同じ時代の他の作家の作と比べて決して見劣りしなかったが、己れの疵瑕(しか)を感ずるに余りに鋭敏な作者は、丁度神経過敏家が卯(う)の毛で突いたほどの負傷でも血を見ると直ぐ気絶するように、自分の作が意に満たないと坐(い)ても起(た)ってもいられなかったらしい。聡明(そうめい)に過ぐるものは自信を欠くと昔からいうが、二葉亭の如きはその適切な一例であった。自分を局外に置いて見る時は群小作家皆豆粒よりも小さかったが、自分をその中の一人として比較する時は豆粒よりも小さく思う人よりも更に一層自分が小さく思われて堪えられなかったようだ。その時の日記にも「今までは某々らの作る小説は拙なくして読むにたへずと思ひつるが、余の作に比ぶれば彼らの作は遥に勝れり、余は元来小説家にも非(あら)ず、また小説家とならんとも思はず、」云々とあるように、これより以前から文学に絶望して衣食の道を他に求めるべく考えていたのがこの不快な絶望にいよいよ益々|沮喪(そそう)して断然文学を思切るべく決心した。
だが、世間は作者自身が失望する如くにこの第三篇にも失望しないで、文人は交を求め書肆は原稿を乞うて益々やまなかったので、文学を思切った二葉亭はこれらの文人|交際(づきあい)や本屋の応接に堪えられなかった。日記の一節に曰く、「吉岡書店よりまた『新著百種』をおくりこす、こは第三巻なり、かう発刊の都度々々におくりこすは予にも筆を執らせんとの下心(したごころ)あればなるべし、そを知りつつ取り置くは愚なり、辞(いな)みやらんとは思へどもさすがに打付けにさいはんも何となく気の毒にてそのままに打過ごす、余はかほどまで果断なき乎、歎ずべき事の第一なり、」と。また曰く、「書肆某来りて四方山(よもやま)の物語をす、余はかかる射利の徒と交はるだも心苦しけれどもこれも交際と思ひ返してよきほどにあしらへり、もし心に任せたる世ならましかば彼ら如き輩を謝して明窓|浄几(じょうき)の下に静(しずか)に書を読むべきを、」と。二葉亭が全く文壇から遠ざかろうとして苦悶していたはこれを見ても明かである。
この決心は第三篇の執筆中から萌(きざ)していた。あくまでも自分の天分を否定し、文学ではとても生活する能力はないものと断念(あきら)め、生中(なまなか)天分の乏しいのを知りつつも文学三昧に沈湎(ちんめん)するは文学を冒涜する罪悪であると思詰め、何とかして他に生活の道を求めて学問才芸を潰(つぶ)しに投売(なげうり)しても一家の経済を背負って立とうと覚悟した。が、この覚悟はありながら、一面には極めて狷介で人に下るを好まないと同時に、一面には人に対して頗る臆病であって、伝(つて)を求めて権門|貴戚(きせき)に伺候するは魯(おろ)か、先輩朋友の間をすらも奔走して頼んで廻るような小利口な真似は生得(しょうとく)出来得なかった。どうにかしなければならないと思いつつもどうにもする事が出来ないで独(ひと)りで窘窮(きんきゅう)煩悶していた。この苦境を見るに見兼ねて、もし仕官する希望でもあるならと片肌抜(かたはだぬ)いでくれたのが語学校の旧師の古川常一郎であった。二葉亭はこの間の消息を日記に洩らして、官吏は元来心に染まぬが今の場合|聊(いささ)かなりとも俸銭を得て一家を支(ささ)える事が出来るなら幸いであると古川に頼んで、さてそのあとで、「何となくうら恥かしきやうに心落ちゐず。白石先生の事など憶出せば背(そびら)に冷汗(ひやあせ)を流す」と書いておる。二葉亭の自卑自屈を余儀なくされる窘窮煩悶の状がこの二、三行の文字に見えるようである。
が、結局古川の斡旋(あっせん)で、古川部下の飜訳官として官報局に出仕したのが明治二十二年の夏であって、これから以後の数年は生活の保障に漸く安心して暫らく官途に韜晦(とうかい)し、文壇からは全く縁を絶って読書に没頭する事が出来た。 
 
七 官報局及び雌伏時代 

 

( 露語の両川・高橋時代の官報局・精神心理の研究・罪悪心理と下層研究・最初の家庭生活の失敗・『片恋』・官報局を去る )
二葉亭の仕官を説く前に先ずその恩師古川常一郎を語らねばならない。古川は今から十四、五年前に不遇の中に易簀(えきさく)してしまったが、今でもなお健在であるはずの市川文吉と聯(なら)んで露語学界の二大先輩であった。この両川に二葉亭即ち長谷川を加えて露語の三川と称されておる。不思議な事には両川とも功名心が薄く、各々数年露国に留学して帰朝した後、しばしば先進の大官から重要の椅子(いす)を薦(すす)められても決して肯(がえ)んじないで、一は終生微官に安んじ、一は早くから仕官を辞して、功名栄達を白眼冷笑していた。殊に古川は留学前は大隈(おおくま)侯の書生であって、義弟西源四郎は伊藤公の知遇を受けて終に公の※[馬+付]馬(ふば)となった浅からぬ縁故があったから、もし些(いささ)かでも野心があったらドンナ方面にでも活躍出来たのである。が、富貴顕栄を見る土芥(どかい)に等しく、旧外国語学校廃止後は官報局の一属僚を甘んじて世の栄達を冷笑していた。市川文吉は多少の資産があったからでもあろうが、早くから官途を退隠して釣道楽に韜晦していた。二葉亭はこの両川の薫陶を受けたが、就中(なかんずく)古川に親近して古川門下の顔淵子路(がんえんしろ)を任じていた。その性格の一部が古川に由(よっ)て作られたのは争われない。
当時の官報局は頗る異彩があった。局長が官界の逸民たる高橋健三で、翻訳課長が学界の隠者たる浜田健次郎、その下に古川常一郎、陸実(くがみのる)等、いずれも聞ゆる曲者(くせもの)が顔を列(なら)べ、而(しか)して表玄関の受附には明治の初年に海外旅行免状を二番目に請取って露国の脳脊髄系を縦断した大旅行家の嵯峨寿安(さがじゅあん)が控えていた。揃(そろ)いも揃って気骨(きこつ)稜々(りょうりょう)たる不遇の高材逸足の集合であって、大隈侯等の維新の当時の築地(つきじ)の梁山泊(りょうざんぱく)知らず、吏臭紛々たる明治の官界史にあっては恐らく当時の官報局ぐらい自由の空気の横流していたはけだし類を絶しているだろう。
高橋健三は官報局の局長室に坐している時でも従五位勲何等の局長閣下でなくて一個の処士|自恃庵(しじあん)主人であった。浜田は簡樸質素の学究、古川は卓落|不覊(ふき)の逸民、陸は狷介気を吐く野客であった。而して玄関番は高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)、幸太夫に継いでの露国探険者たる一代の奇矯児(ききょうじ)寿安老人であった。局長といい課長といい属官というは職員録の紙の上の空名であって、堂々たる公衙(こうが)はあたかも自大相下らざる書生放談の下宿屋の如く、局長閣下の左右一人として吏臭あるものはなく、煩瑣(はんさ)なる吏務を執るよりはむしろ詩を品し画を評し道徳を説き政治を談じ、大は世界の形勢より小は折花|攀柳(はんりゅう)の韻事まで高談放論珍説|贅議(ぜいぎ)を闘(たたか)わすに日も足らずであった。
二葉亭はこの中に投じた。虚文虚礼|便佞(べんねい)諂諛(てんゆ)を賤(いや)しとして仕官するを欲しなかった二葉亭もこの意外なる自由の空気に満足して、局長閣下と盛んに人生問題を論じて大得意であった。左(と)に右(か)くこの間は衣食の安定を得たので、思想を追究するあたかも餓(う)ゆるが如き二葉亭は安心して盛んに読書に没頭した。殊にダーウィン、スペンサー等の英国進化論を専ら研究したが、本来ヘーゲルの流れを汲(く)む露国の思想に養われていたから、到底これらの唯物論だけでは満足出来ないで、終にコントに走って爰(ここ)に初めて一道の曙光に接する感があった。恐らく二葉亭の思想の根本基礎を作って終生を支配したのはコントのポジティヴィズムであったろう。
この時代の愛読書であって、二葉亭の思想を豊かにし根柢を固くしたのはモーズレーの著述であった。殊にその“Pathology of Mind”は最も熱心に反覆翫味して巨細(こさい)に研究した。この時分の二葉亭の議論の最後の審判官は何時(いつ)でもモーズレーであって、何かにつけてはモーズレーを引合に出した。『浮雲』に二箇処まで見えるサリーやペインも愛読書であって、サリーの所説はしばしば議論の典拠となったが、殊に傾倒していたのはモーズレーの研究法であった。
が、二葉亭は如何なる場合にも批評家であった。科学を除いては総(すべ)ての研究は空理であるといいつつも科学にもまた不満足であって、科学に偏するスペンサーの哲学の如きも或る程度以上は決して推服していなかった。かつ常に曰く、「科学となると全然無識だから、勢い兜(かぶと)を脱いで降参しなけりゃならぬが、例えば22が4というは欺くべからざる確実の数理であっても、科学者が天体を観測するに方(あた)って毫釐(ごうり)の違算がしばしば何千万億の錯誤を来(きた)すと同様に、眼前の研究にもまた同じ誤算がないとは限らない。数その物は確実であっても数を算出する運算の方式は必ずしも正しいとは信じられない、」と。この理由からして科学者の説を有力な参考としていても或る程度以上はやはり余り信仰しなかった。「科学者というものは枝ぶりや花ばかりを気にして根を枯らすを忘れる素人(しろうと)植木屋のようなものだ、」といっていた。
呉秀三(くれしゅうぞう)博士の『精神啓微』や『精神病者の書態』を愛読して、親しく呉博士を訪(おとの)うて蘊蓄(うんちく)を叩(たた)いたのはやはりその頃であった。続いてロンブロゾ一派の著書を捜(さぐ)って、白痴教育、感化事業、刑事人類学等に興味を持ち、日本の現時の教育家や宗教家がこれらの科学的知識を欠くため渠(かれ)らの手に成る救済事業が往々無用の徒労に終るを遺憾とし、自ら感化院を創(はじ)めて不良少年の陶冶(とうや)や罪人の矯正をしようという計画を立てた事もあった。
無論書斎の空想で、実行する意(つもり)があったとも思われなかったが、計画は頗る科学的であった。当時の二葉亭の説を簡単に掻摘(かいつま)むと、善といい悪というは精神の健全不健全の謂(いい)で、いわゆる敗徳者、堕落者、悪人、罪人等は皆精神の欠陥を有する病人である、その根本の病因を医(いや)さないで訓誡、懲罰、刑辟(けいへき)を加えても何の効があるはずがない。今日の感化院が科学の教養のない道学先生に経営され、今日の監獄が牛頭馬頭(ごずめず)に等しい無智なる司獄官に一任される間は百年|河清(かせい)を待つも悪人や罪人の根を絶やす事は決して出来ない。それよりも先ず一種の特殊精神病院を建設していわゆる不良少年や罪人を収容し、最新科学の研究を応用して渠らの感覚欠如や精神欠陥を精査し、根本の病因を究めてこれを医療するのが科学的でもありかつ有効でもある。尤も今日の科学はマダ研究が足りないから、罪人や不良少年に対する根本的精神療法もマダ十分に攻究されていないが、先ず一つの実験所を作るツモリで科学的手段を応用する感化院や監獄を設置し、あたかも病人に対する医者の態度で渠らの犯罪や悪癖に対する対症療法を研究するが社会政策上最も急務である。これまでのいわゆる哲学や宗教や道徳や法律は皆この根本の人間の疾患に立到(たちいた)らない空理空文である。もしこの精神的欠陥に対する心理療法が完成したなら古今の聖賢の教訓は総(すべ)て皆廃紙となってしまうというのがその頃の二葉亭の説であった。
この説はモーズレーやロンブロゾから得たので、二葉亭自身の創見ではなかった。かつ近世心理学の片端(かたはし)をだも噛(かじ)ってるものなら誰でも心得てる格別目新らしくもない説であるし、今ではこの一派の学説は古臭くなってる。が、二葉亭は総てこの見地から人を見ていた。例えば下層社会の低劣な品性の如きも教育の不備よりはむしろ精神欠陥に帰し、一時好んで下層社会に出入するやライフの研究者を任ずると共に下層社会に共通する悪俗汚習の病因たる精神欠陥を救うの教師を自任し、細(つぶ)さに下級の生活状態を究めて種々の自己流の精神医療の方法を案出して試みた。尤もこの試みは大抵失敗して、傍観者からは頗る滑稽(こっけい)に思われた事もあったが、当人自身は一生懸命で、この失敗を来す所以(ゆえん)は畢竟(ひっきょう)科学の素養を欠くから応病与薬の適切な方法を案出する事が出来ないのだと考えて益々研究に深入した。一時はその手段の一つとしての禅の研究を思い附き、『禅門法語集』や『白隠(はくいん)全集』を頻(しき)りに精読し、禅宗の雑誌まで購読し、熱心鋭意して禅の工風(くふう)に耽(ふけ)っていた。が、衛養療法や静座法を研究する意(つもり)で千家(せんけ)の茶事を学ぶに等しい二葉亭の態度では禅に満足出来るはずがないのが当然で、結局禅には全く失望した。禅は思想上のキューリオ、精神上の催眠剤であって、今日の紛糾錯綜入乱れた文化の葛藤を解決し制馭(せいぎょ)する威力のないものであるというのが二葉亭の禅に対する断案で、何かの茶咄(ちゃばなし)のついでに一休(いっきゅう)は売僧(まいす)、白隠は落語家、桃水(とうすい)和尚はモーズレーの研究資料だと茶かした事があった。
結局書斎の研究ばかりでは満足出来ないで、学者の畑水練(はたけすいれん)は何の役にも立たぬからと、実際に人事の紛糾に触れて人生を味(あじわ)おうとし、この好奇心に煽(あお)られてしばしば社会の暗黒面に出入した。役所に遠いのを仮托(かこつけ)に、猿楽町(さるがくちょう)の親の家を離れて四谷(よつや)の津(つ)の守(かみ)の女の写真屋の二階に下宿した事もあった。神田の皆川町(みながわちょう)の桶屋(おけや)の二階に同居した事もあった。奇妙な風体(ふうてい)をして――例えば洋服の上に羽織を引掛けて肩から瓢箪(ひょうたん)を提(さ)げるというような変梃(へんてこ)な扮装(なり)をして田舎(いなか)の達磨茶屋(だるまぢゃや)を遊び廻ったり、印袢纏(しるしばんてん)に弥蔵(やぞう)をきめ込んで職人の仲間へ入って見たり、そうかと思うと洋服に高帽子で居酒屋に飛込んで見たり、垢染(あかじ)みた綿服の尻からげか何かで立派な料理屋へ澄まして入って見たり、大袈裟(おおげさ)に威張(いばり)散らして一文も祝儀をやらなかったり、わざと思切って吝(しみ)ったれな真似をした挙句(あげく)に過分な茶代を気張って見たり、シンネリムッツリと仏頂面(ぶっちょうづら)をして置いて急に噪(はしゃ)ぎ出して騒いで見たり、故更(ことさら)に桁(けた)を外(はず)れた馬鹿々々しい種々雑多な真似をして一々その経験を味(あじわ)って見て、これが人生(ジーズニ)だよと喜んでいた。
殊にその頃は好んで下層社会に出入し、旅行をする時も立派な旅館よりは商人宿や達磨茶屋に泊ったり、東京にいても居酒屋や屋台店(やたいみせ)へ飛込んで八(はっ)さん熊(くま)さんと列(なら)んで醤油樽(しょうゆだる)に腰を掛けて酒盃(さかずき)の献酬(とりやり)をしたりして、人間の美くしい天真はお化粧をして綾羅(りょうら)に包まれてる高等社会には決して現われないで、垢面襤褸(こうめんらんる)の下層者にかえって真のヒューマニチイを見る事が出来るといっていた。この断案の中に真理がない事はないが、この偏寄(かたよ)った下層興味にしばしば誤まられて、例えば婦人を観察するに方(あた)っても、英語の出来るお嬢さんや女学校出の若い奥さんは人形同様で何の役にも立たないと頭から蔑(けな)しつけ、下等女の阿婆摺(あばずれ)を活動力に富んでると感服したり、貧乏人の娘が汚ない扮装(なり)をして怯(お)めず臆せず平気な顔をしているのを虚栄に俘(とら)われない天真爛漫と解釈したり、飛んでもない見当違いをする事が度々(たびたび)であった。
同じ見当違いからして罪人や堕落漢や敗徳者に極端に同情し、時としては同情を通り越してやたらと讃美し、あたかも渠らの総てが皆ショーペンハワーやニーチェのような天才であって、社会の圧迫に余儀なくされ、あるいは求めて反抗して誤まって岐路に奔(はし)った気の毒な犠牲であるように考えていた。少くも渠らが世間の道徳に背(そむ)いたには疚(やま)しくも恥かしくもない立派な哲学的根拠があるように思っていた。この考察も万更(まんざら)見当違いでなく、世には確かに二葉亭の信ずるような拠(よんどこ)ろない境遇の犠牲となって堕落した天才や、立派な主張を持ってる敗徳者もあるにはあるが、二葉亭は一切の罪人や堕落者の罪悪を強(しい)て肯定する気味合があった。殊に貧民に対しては異常な同感を払って、もし人間から学問技芸等のお化粧を奪って裸一貫の露出(むきだ)しとしたなら、貧乏人の人格の方が遥(はる)かに高等社会に勝(まさ)っていると常にいっていた。この説もまた必ずしも見当違いでなく、無知文盲なる貧民階級に往々|縉紳(しんしん)貴族に勝るの立派な人格者を見出す事も稀(まれ)にはあるが二葉亭は強てイリュージョンを作って総ての貧民を理想化して見ていた。
この見地からして二葉亭は無知なる腹掛股引(はらがけももひき)の職人を紳士と見て交際し、白粉(おしろい)を塗った淪落(りんらく)の女を貴夫人同様に待遇し、渠らに恩恵を施しつつ道徳を説き、渠らを罪悪の淵(ふち)から救うて真人たらしむべく種々の手段を講じた。が、実行については全く失敗した。晩年或る時、この時代の誤解や失敗の経験を語って曰く、「あの時代、むやみと下層社会が恋しかったのは、やはり露国の小説に誤まられたのだ。スラヴ人は元来空想に耽(ふけ)る国民性だから、無教育者の中にも意外な推理力や想像力を蓄えて人生をフィロソファイズするものがある。露西亜は階級制度の厳重な国だから立派な学問権識があっても下層に生れたものは終生下層に沈淪しておらねばならない。その結果が意外な根柢ある革命的|煽動(せんどう)が下層社会に初まったり、美くしいヒューマニチーが貧民の間に発現されたりする。露国の小説にはこの間の消息がしばしば洩らされて下層社会のために気を吐いている。こういう小説に読耽ったもんだから自然下層社会に興味を持つようになったが、日本の下層社会は根本から駄目だ。精神の欠乏が物質の不足以上だから、何を説いても空々寂々で少しも理解しない。倫理も哲学もあったもんじゃない、根柢からして腐敗し切っていて到底救うべからずだ――」と日本の下級者の無知無恥に愛想を尽かしていた。こういう見当違いをしたのはツマリ理想負けがしたので、二葉亭の面目はこういう失敗にかえって躍如しておる。
官報局に出仕する間もなく二葉亭は家庭を作って両親と別居した。初めは仲猿楽町に新居を構えたが、その後|真砂町(まさごちょう)、皆川町、飯田町(いいだまち)、東片町(ひがしかたまち)としばしば転居した。皆川町から飯田町時代は児供が二人となった上に細君(先妻)の妹を二人までも引取り、両親にも仕送っていたから、家計は常に不足がちであった。その上に二葉亭は、ドチラかというと浪費家であって、衣服(きもの)や道具には無頓着(むとんちゃく)であったが食物(くいもの)にはかなりな贅沢(ぜいたく)をした。加之(しかのみ)ならず、その頃の先妻は家政を料理する才が欠けていて、二人が二人とも揃(そろ)って経済に無茶であったから、さらぬだに不足がちの家計が一層|紊乱(びんらん)して、内証は岡目に解らぬほどの不如意(ふにょい)を極めていた。
かつ加うるに夫婦の間が始終折合わないで、沈黙の衝突が度々繰返された。その間の紛糾(いりく)んだ事情は余り深く立入る必要はないが、左(と)に右(か)く夫妻の身分教養が著るしく懸隔して、互に相理解し相融合するには余りに距離があり過ぎたのが原因であった。公平に見たなら二葉亭の方が暴君で、細君の方は極めて柔順な奴隷であったろうが、夫婦の間が暴君と奴隷との関係では互に満足出来るはずがないから、あたかも利刃を揮(ふる)って泥土を斬(き)るに等しい何らの手答えのない葛藤を何年か続けた後に、二葉亭は終に力負け根(こん)負けがして草臥(くたび)れてしまった。二葉亭のためにも勿論不幸であったが、細君の方にも同情すべき気の毒な事情があった。とうとう最後が破縁となって、善後の処分をするために二葉亭は金を作らねばならなくなった。
その時分、文壇の機運はいよいよ益々爛熟し、紅露は相対塁(あいたいるい)して互に覇(は)を称し、鴎外(おうがい)は千朶(せんだ)山房に群賢を集めて獅子吼(ししく)し、逍遥は門下の才俊を率いて早稲田に威武を張り、樗牛(ちょぎゅう)は新たに起(た)って旗幟(きし)を振い、四方の英才|俊髦(しゅんぼう)一時に崛起(くっき)して雄を競うていた。二葉亭は『浮雲』以後全く韜晦(とうかい)してこの文壇の気運を白眼冷視し、一時|莫逆(ばくげき)を結んだ逍遥とも音信を絶していたが、丁度その頃より少し以前、逍遥と二葉亭とは偶然私の家で邂逅(かいこう)して久闊(きゅうかつ)を叙し、それから再び往来するようになっていた。その頃『早稲田文学』を根城(ねじろ)として専ら新劇の鼓吹に腐心していた逍遥は頻りに二葉亭の再起を促がしつつあったが、折も折、時なる哉(かな)、二葉亭はこの一家の葛藤の善後処分を逍遥に謀(はか)った結果、終に再び筆を操(と)るべく余儀なくされたのがツルゲーネフの『アーシャ』即ち『片恋』の飜訳であった。
その時は明治二十九年の十二月、即ち『浮雲』第三篇発表後八年目であった。世間はあたかも暫らく消息不明であった遠征将軍が万里の旅から凱旋したのを迎えるように歓呼した。が、二葉亭自身は一時の経済上の必要のため拠ろなく筆を操ったので、再び文壇に帰るツモリは毫(すこ)しもなかった。文学に対する態度もまた随(したが)って以前とは全く違って、一生の使命とするというような意気込も理想や抱負も全(まる)で失(な)くなっていた。以前は重く感じた責任をも感じなくなって、「自分は文人でない」と文学とは絶縁した意(つもり)でいたから、ツルゲーネフを訳したのも唯(ほん)の一時の融通のための拠ろないドラッジェリーで、官報局で外字新聞を翻訳した時と同じ心持であった。尤も二葉亭は外字新聞を翻訳するにもやはり相当な苦辛をした。如何にドラッジェリーのツモリでもツルゲーネフを外字新聞|並(なみ)に片附ける事は二葉亭の性分(しょうぶん)として出来得なかった。が、その心持は以前と違って遥かに気楽であった。それゆえ『片恋』一冊ぎりで再び彗星(すいせい)の如く隠れてしまう意(つもり)であったが、財政上の必要が『片恋』一冊の原稿料では充(み)たすに足りなかったので、あたかも凱旋将軍を迎える如くに争い集まる書肆(しょし)の要求を無下(むげ)に斥(しりぞ)ける事も出来なかった。
折からあたかも官報局長は更任して、卓落|不覊(ふき)なる処士高橋自恃庵は去って、晨亭(しんてい)門下の叔孫通(しゅくそんつう)たる奥田義人(おくだよしんど)が代ってその椅子に坐した。奥田は東京市の名市長として最後の光栄を柩(ひつぎ)に飾ったが、本来官僚の寵児(ちょうじ)で、礼儀三千威儀三百の官人|気質(かたぎ)の権化(ごんげ)であったから、豪放|洒脱(しゃだつ)な官界の逸人高橋自恃庵が作った放縦自由な空気は忽(たちま)ち一掃されて吏臭紛々たる官場と化してしまった。陸(くが)や浜田は早くも去って古川一人が自恃庵の残塁に拠(よ)っていたが、区々たる官僚の規矩(きく)を守るを屑(いさぎ)よくしないスラヴの変形たる老書生が官人気質の小叔孫通と容(い)れるはずがないから、暫らく無言の睨(にら)み合いをした後終に引退してしまった。二葉亭は本来|狷介(けんかい)不覊なる性質として迎合屈従を一要件とする俗吏を甘んじていられないのが当然であって、八年の長い間を官報局吏として辛抱していたのは、上に自由なる高橋健三を戴(いただ)いて、恩師古川の下に吏務に服していたからであった。高橋が去り古川が罷(や)める以上はイツマデ腰弁を甘んずる義理も興味もないので、古川が罷めると間もなく自分も辞職してしまった。二葉亭の一生中、その位置に満足して※[石+乞]々(こつこつ)として職務を楽(たのし)んでいたは官報局の雌伏時代のみであった。 
 
八 放浪時代から語学校教授 

 

( 原稿生活・実業熱・海軍編修・語学校教授 )
官報局を罷めてから暫らく放浪していた。その間に海軍の編修書記ともなり陸軍の嘱托教師ともなったが、ドレもこれも一時の腰掛であって、初めからその椅子に安んずる意(つもり)は少しもなかったのだ。ツルゲーネフの『ルージン』を初めゴーゴリやガルシンの短篇の飜訳にクツクツとなって『新小説』や『太陽』や『文芸倶楽部』に寄稿したのはその時代であった。
が、文壇的活動は元来本志でなく、一時の方便として余儀なくされたのだから、その日その日を糊口(ここう)する外には何の野心もなかった。『浮雲』第三編が発表された『都の花』を請取った時は手が慄(ふる)えたというほどの神経質にも似合わず、この時代は文壇的には無関心であって世間の毀誉褒貶(きよほうへん)は全く風馬牛(ふうばぎゅう)であった。同じ翻訳をするにも『あいびき』や『めぐりあい』時代と違って余り原文には拘束されないで、自由|気儘(きまま)にグングン訳し、「昔のような糞(くそ)正直な所為(まね)はしない、拙(まず)い処はドンドン直してやる」と、しばしば豪語していた。が、興に乗じた気焔(きえん)の飛沫(とばしり)で豪(えら)そうな事をいっても、根が細心周密な神経質の二葉亭には勝手に原文を抜かしたり変えたりするような不誠実な所為(まね)は決して出来ないので、「むやみと訳しなぐるんだ」といいつつも世間の尋常翻訳と比べてはやはり忠実に原文に従っていた。
が、イクラ訳しなぐるツモリでいても、世間の賃訳(ちんやく)をするもののような無責任にはなれないのが二葉亭の性分であった。例えば『浮草(うきくさ)』の如き丁度関節炎を憂いて足腰(あしこし)が起(た)たないで臥(ね)ていた最中で、病床に腹這(はらんばい)になって病苦と闘いながらポツポツ訳し、三十枚四十枚と訳しおわると直ぐ読返しもしないで金に換えたものであるが、それでも二葉亭の飜訳としてはかなり不手際(ふてぎわ)であっても、英訳本と対照するにやはり擅(ほしいまま)に原文を抜いたり変えたりした箇処は少しもなかった。イクラ訳しなぐる意(つもり)でも二葉亭には訳しなぐる事は出来なかった。
二葉亭が官報局を罷めた直接の原因は局長の更任に続いて恩師古川の理由なき罷免に対する不満であったが、それ以外に何時(いつ)かは俗吏の圏内を脱して自由の天地に※[「皐+栩のつくり」の「白」に代えて「自」]翔(こうしょう)しようとする予(かね)ての志望が幇助(てつだ)っていた。本(も)と本と二葉亭は軍事であれ外交であれ、左(と)に右(か)く何であろうとも東亜の舞台に立って活動したいのが夙昔(しゅくせき)の志であった。軍人たらんと欲して失敗し、外交家たらんと願うてまた蹉躓(さち)し、拠ろなしに一時横道に外(そ)れて文学三昧に遊んでいたが、夙昔の志望は決して消磨したのではなかった。官報局に在職中、哲学や精神生理に頻りに興味を持って研究していたが、東亜の国際関係や産業等の調査はこれがために少しも怠たらないで継続していたので、一度は東亜の舞台に躍り出して一と芝居打とうとする念は片時も絶えなかった。官報局を罷めたのは偶然であるが、退職すると同時にこの野心が俄(にわか)に活火山の如く燃上って来た。
然(しか)るに野心を充たすための計画は浮んで来ても、何をするにも先立つ金を作るは決して容易でなかった。一家の葛藤を処理するための聊(いささ)かの金ですらが筆の稼(かせ)ぎでは手取早(てっとりばや)く調達しがたいのを染々(しみじみ)と感じた渠(かれ)は、「文学ではとても駄目だ。金儲(かねもう)け、金儲け!」と心の底から叫ぶようになった。加之(しかのみ)ならず、語学校時代の友人の多くは実業界に投じ、中には立派に成功して財界の頭株(あたまかぶ)に数えられてるものもあるので、折に触れて渠らと邂逅して渠らの辣手(らつしゅ)を振う経営ぶりを目のあたりに見る度毎(たんび)に自分の経済的手腕の実は余り頼りにならないのを内心|危(あぶ)なッかしく思いながらも脾肉(ひにく)に堪えられなかった。その度毎に独語して「金儲け、金儲け!」と呟(つぶや)きつつ金儲け専門の実業界に乗出そうとした。
その必要からして、官報局を罷めた後の二葉亭は俄に辺幅(へんぷく)を飾るようになった。一体|衣服(なり)には少しも頓着しない方で、親譲りの古ぼけた銘仙(めいせん)にメレンスの兵児帯(へこおび)で何処(どこ)へでも押掛けたのが、俄に美服を新調して着飾り出した。「これが資本だ、コンナ服装(なり)をしないと相手になってくれない」と常綺羅(じょうきら)で押出し、学校以来疎縁となった同窓の実業家連と盛んに交際し初めて、随分|待合(まちあい)入りまでもして渠(かれ)らと提携する金儲けの機会を覘(うかが)っていた。が、二葉亭の方は心の底から真剣であっても、対手(あいて)の方は少しもマジメに請取ってくれなかった。
「右の手に算盤(そろばん)を持って、左の手に剣を把(にぎ)り、背(うし)ろの壁に東亜図を掛けて、懐(ふとこ)ろには刑事人類学を入れて置く、これでなければ不可(いか)ん、」などと頻(しき)りに空想を談じていた。尤も座興の戯れで、如何に二葉亭が世間に暗くてもこれほど空想的では決してなかった。が、こういう座興の戯れが折角実業界へ飛込もうとするマジメな希望をどれほど妨げたかは解らなかった。かつまた、これほど空想的でなかったにしろ、極めて平凡な常識|一点張(いってんばり)の実業家気質から見れば二葉亭の実業論が非常な空想を加味していたのは争われなかった。第一、実業家の金儲けは金を儲けるための金儲けであって、金を以て始まり金を以て終るが、二葉亭の金儲けは何時(いつ)でも人道または国家の背景を背負っているのが不用意の座談の中にも現われていたから、実業界に飛込むマジメな志はあっても対手になって機会を与えてくれるものは一人もなかった。
加之(しかのみ)ならず、一方には生活上拠ろなしに続々翻訳し、心にもない文学上の談話が度々雑誌に載せられて文名が日に益々高くなるので実業界の友人からはいよいよ文人扱いされ、マジメに実業談を試みても一笑に附されてしまった。「小説なんぞを書いてちゃアとても駄目だ、全(まる)で対手にしてくれない、」と度々不平を洩(も)らしていた。
二葉亭を海軍編修書記に推薦したはやはり旧友の一人たる鈴木某(その頃海軍主計大監)の斡旋(あっせん)であった。鈴木は極めて粗放な軍人肌であって、二葉亭の人物や抱負を理解もしなければ理解しようとも思わず、ただ二葉亭が浪人しているのを気の毒がって斡旋してくれたので、「丁度君には適当の位置だ。こうして辛抱していれば追々高等官になれる、」と大いに兄貴ぶりを発揮して二葉亭に辛抱を勧告した。
「親切な好(い)い男だが、高等官になれば誰でも満足するものと思ってる、」と二葉亭は苦(にが)り切っていた。(鈴木は日露戦争後は海軍を引退して実業界の諸方面に頭を突込んでいたが、位階勲等を持ってる軍人だから、置き物に祭り上げられるだけで一向花々しい成功もしなかったようだ。今はドウしているかサッパリ消息を聞かない。)
語学校の教授となったのはそれから間もなく、明治三十二年の九月であった。高等官の教授を栄としたわけではないが、露語科の主任たる恩師古川の推挙を満足して喜んで就任した。古川はその後いくばくもなく病気のため辞職したので、二葉亭は代って主任の椅子に坐した。
教師としての二葉亭は極めて叮寧(ていねい)親切であって、諸生の頭に徹底するまで反覆教授して少しも倦(う)まなかった。だが、それよりもなおヨリ多く諸生を心服さしたのは二葉亭の鼓吹した学風であった。およそ語学は先ず民族の研究から初めなければならない必要と、日露の地理的関係から生ずる露語学者の特殊の使命というような事を語学を教授する傍(かたわ)ら常に怠たらず力説し、尋常語学の学習以上に露語学者としての特殊の気風を作るに少からず腐心した。同時に露語に交渉する各会社各事業から浦塩(ウラジオ)の商人にまで連絡をつけて卒業生の生活の便宜まで心配した。二葉亭が語学校に在任したは僅(わず)かに三年であったが、その人格はあまねく露語学生を薫化して、先進市川及び古川と聯(なら)んで露語の三川と仰がれるまで悦服された。日露戦争に参加して抜群の功績を挙げた露語通訳官の多くは二葉亭の薫陶を受けたものであった。 
 
九 哈爾賓行 

 

( 二葉亭独特の実業論・女郎屋論・哈爾賓の生活及び奇禍 )
が、二葉亭は長く語学校の椅子に安んずる事が出来なかった。本(も)と本と教職に就いたは恩師の推薦を徳としたためで、教育家を一生の仕事とするツモリはなかったのだから、暫らくすると一時鎮静した実業熱が再び沸熱して来た。
あたかもその時分、暫らく西比利亜(シベリア)に滞留していた旧同窓の佐波が浦塩から帰朝してしばしば二葉亭を訪問し、新たに薩哈連(サハリン)から浦塩へ渡航した一人の友人からも度々手紙が来て、浦塩方面の消息が頻りに耳に入るので、機会を待構えていた実業上の野心は忽ちムクムクと頭を擡上(もちあ)げて食指俄に動くの感に堪えなかった。
二葉亭の実業というは単なる金儲け一天張(いってんばり)ではなかった。実業側の友人から余り対手にされなかったはこれがためであったが、二葉亭の夙昔(しゅくせき)の希望からいえば一貫した国際的興味を有する問題であった。二葉亭にいわせると、日本人が浦塩あたりで盛んに商売するのは、当人自身は金儲けより外考えないでも、これが即ち日本の勢力を扶植する所以であるから、商売の種類は何であろうとも関(かま)わぬ、海外の金儲けは即ち国富の膨脹、国権の伸長、国威の宣揚である。極端な例を挙げれば、醜業婦の渡航を国辱である如く騒ぐは短見者流の島国的愛国論であって、醜業婦の行く処必ず日本の商品を伴い日本の商業を発達させ日本の地盤を固めて行く。東露に若干たりとも日本の商業を拡げる事が出来たのは全く醜業婦のお庇(かげ)である。露国は自国の商工業を保護するために外国貨物に重税を課し、例えば日本の燐寸(マッチ)の如き一本イクラに売らねばならぬほどの準禁止税を賦課している。が、こういう極端な保護政策を取って外国貨物を塗絶しようとしているが、独(ひと)り外国醜業婦の移入に限っては殖民政策の必要から非常に歓迎し、上陸後もまた頗(すこぶ)る好遇して営業の安全及び利益を隠然保護している。浦塩における日本の商売が盛んに発展しつつあるは畢竟醜業婦の背後に隠れて活動する結果であるから、この特恵に乗じていよいよ益々多数の醜業婦を輸出するは取(とり)も直さず益々日本の商業を振う所以である、というのがその頃しばしば二葉亭に力説された醜業婦論であった。
二葉亭の醜業婦論は一時交友間に有名であった。その頃二葉亭の家に出入したものは大抵一度は醜業婦論を聞かされた。二葉亭の説に由ると、日本の醜業婦の勢力は露人を風化して次第に日本雑貨の使用を促がし、例えば鰹節(かつおぶし)が極めて滋味あり衛養ある食料品として露人の間に珍重されて、近年俄に鰹節の輸出を激増したのは露人が日本の醜業婦に教えられた結果である。かつ日本の醜業婦の露人に落籍されるものが益々多く、中には案外なる上流階級の主婦となるものさえあって、これがために日本風の生活が露人間に流行し、日本品でなければ上等でないように思うものが段々|殖(ふ)えて来た。その結果が日本の商品の販路拡張となり、日露両国民の相互の理解となり、国際上の無言の勢力となるから、もし資本家の保護があれば国際上の最良政策としても浦塩へ行って女郎屋を初めるといっていた。この女郎屋論は座興の空談でなくして案外マジメな実行的基礎を持ってるらしかったが、余り突梯(とってい)だから誰もマジメに聞かなかった。二葉亭と実業というさえも大抵な人の耳には奇怪に響いた。ましてや二葉亭と女郎屋というに到っては小説の趣向を聞くと同じ興味を以て聞くより外なかった。
左(と)に右(か)く二葉亭の実業というは女郎屋に限らず、総(すべ)て単なる金儲けではなかった。金に逼迫(ひっぱく)していたから金も儲けたかったろうが、金を儲ける以外に大なる経綸(けいりん)があった。その経綸が実業家の眼から見るというべくして行うべからざる空想であったから、偶々(たまたま)その方面の有力者に話しても聞棄(ききず)てにされるばかりで話に乗ってくれなかった。
然るに浦塩の友なる佐波武雄が浦塩の商人徳永と一緒に帰朝して偶然二葉亭を訪問したのが二葉亭の希望を果す機会となった。佐波はそれまで二葉亭から度々浦塩渡航の希望を洩らされても、文人の性格と商売とは一致しないという理由から不理を説いていたが、どういうキッカケからか三人が相会して一夕の交歓を尽した席上、徳永商店の顧問として二葉亭を聘(へい)そうという相談が熱した。その頃浦塩で最も盛んに商売していたのは杉浦龍吉で、杉浦が露国における日本の商人を代表していた。徳永は新進であったが、杉浦と拮抗(きっこう)して大いに雄飛しようとし、あたかも哈爾賓(ハルビン)に手を伸ばして新たに支店を開こうとする際であったから、どういう方面に二葉亭の力を煩わす意(つもり)があったか知らぬが、哈爾賓の支店に遊び半分来てくれないかといった。二葉亭は徳永とは初対面であったが、徳永の人物を臂(ひじ)を把(と)って共に語るに足ると思込み、その報酬は漸(ようや)く東京の一家を支うに過ぎない位であったが、極めて束縛されない寛大な条件を徳として、予(かね)ての素志を貫ぬく足掛りには持って来いであると喜んで快諾した。かつあたかも語学校の校長|高楠(たかくす)と衝突して心中不愉快に堪えられなかった際だったから、決然語学校の椅子を抛棄(ほうき)して出掛ける気になった。多くの友人の中には折角足場の固くなり掛けた語学校の椅子を棄てるを惜(おし)んで切に忠告するものもあった。家族は前途を危ぶんで余り進まなかった。加之ならず語学校の僚友及び学生は留任を希望して嘆願した。が、二葉亭は宝の山へ入る如き希望を抱いて、三十五年の五月末に断然語学校を辞職すると直ちに東京を出発した。
この西比利亜行については色々な説がある。啻(ただ)に徳永商店の招聘に応じたばかりでなく、別に或筋からの使命を受けていたという説もある。が、恐らくは一個の想像説であろう。二葉亭は早くから国際的興味を有して或る場合には随分熱狂していた。が、秘密の使命を果すに適当な人物では決してなかった。二葉亭の人物を見立ててそんな使命を托する人もあるまいし、托せられて軽率に応ずる二葉亭でもなかった。かつもしそんな使命を受けていたなら、二葉亭は最少(もすこ)し豊かであるべきはずであったが、哈爾賓到着後は万事が予想と反して思うようにならなかったのみならず、財政上にもまた頗る窮乏して自分自身はなお更、留守宅への送金もまた予期の如くならざるほど頗る困迫していた。
東京を出発する前、二葉亭は暇乞(いとまご)いに来て、「何も特別の用務はないので、ただ来てさえくれれば宜(よ)いというのだ。露西亜では官憲の交渉が七面倒臭いから、多分そんな方面にでも向ける意(つもり)だろう。左(と)に右(か)く来いというから行って見るので、その中(うち)に面白い仕事が見付かったらそっちへ行ってしまうのサ、」と無造作にいった。
が、哈爾賓へ行って何をした? 縦令(たとい)聊かにもせよ旅費まで出して呼ぶからには必ず何かの思わくが徳永にあったに違いない。が、二葉亭が着くと間もなく哈爾賓では猛烈な虎疫(コレラ)が流行して毎日八百五十人という新患者を生じ、シカモ防疫設備が成っておらんので患者の大部分が斃(たお)れてしまうという騒ぎであったから、市民は驚慌して商売は殆(ほと)んど閉止してしまった。搗(か)てて加えてその頃から外国人、殊に日本人に対して厳しく警戒し、動(や)やともすると軍事探偵視して直ぐ逮捕した。或る日本人は馬車の中で寺院の写真を見ていた処を警吏に見咎(みとが)められて十日間抑留された。また他の或る日本人は或る工事を請負って職工を捜すため浦塩哈爾賓間を数度往復したので三カ月の禁錮(きんこ)に処された。日本人という日本人は皆こういう常識では理解されない無法な圧迫を受けたから手も足も出せなくなった。大いに発展するツモリの徳永商店も手を伸ばすどころか圧迫されて縮少しなければならなくなった。
搗てて加えて哈爾賓へ着く草々詰らぬ奇禍を買って拘留された。当時哈爾賓では畜犬|箝口令(かんこうれい)が布(し)かれ、箝口せざる犬は野犬と見做(みな)されて撲殺された。然るに徳永商店では教頭の飼犬の中の一頭だけ轡(くつわ)を施こして鎖で繋(つな)いだが、残りの何頭かは野犬として解放してしまった。すると或る日、その中の一頭が巡査に吠付(ほえつ)き、追われて元の飼主たる徳永商店に逃込んだのを巡査は追掛けて来て、店から引摺出(ひきずりだ)して店前で撲殺し、かつ徳永を飼主と認定するゆえ即時に始末書を警察へ出せと厳命した。丁度二葉亭は居合わしたので不法を詰(なじ)ってかれこれ押問答をすると、無法にも二、三人の巡査が一度に二葉亭に躍(おど)り蒐(かか)って戸外へ突飛ばし、四の五のいわさず拘引して留置|檻(かん)へ投げ込んでしまった。徳永店員を初め在留日本人はこの報を得て喫驚(びっくり)し、重立つものが数人警察署へ出頭して嘆願し、二葉亭が徳永店員でない事を証明したので一時間経たない中に放還され、同時に二葉亭の身分や位置が解ったので、その晩巡査部長がわざわざ来訪して全く部下の一時の誤解であったから何分穏便にしてくれと平詫(ひらあや)まりに陳謝して、事件は何でもなく容易に落着したが、詰らぬ事で飛んだ目に会った。二葉亭が軍事探偵の嫌疑で二タ月か三月(みつき)も拘禁されたように噂(うわさ)され、これに関聯して秘密の使命を受けていたかのような想像説まで生じたのは多分この事が訛伝(かでん)されたのであろう。事実は犬の間違であったのだ。
こんな咄(はなし)にもならない馬鹿々々しい目に会って二葉亭は幾分か気を腐らせた。もともと初めから徳永商店に長く粘(こび)り着いてる心持はなく、徳永を踏台(ふみだい)にして他の仕事を見付ける意(つもり)でいたのだから、日本人の仕事が一も二もなく抑(おさ)えつけられて手も足も出せない当時の哈爾賓の事情を見ては、この上永く沈着(おちつ)く気になれなくなった。そこで哈爾賓を中心として北満一帯東蒙古に到るの商工業、物産、貨物の集散、交通輸送の状況等を細(つぶ)さに調査した後、終(つい)に東清鉄道沿線の南満各地を視察しつつ大連、旅順から営口(えいこう)を経て北京(ペキン)へ行った。 
 
十 北京時代 

 

( 川島浪速と佐々木照山・提調時代の生活・衝突帰朝 )
北京へ行った目的は極東の舞台の中心たる北京の政情を視察する傍ら支那を知るための必要上、本場の支那語を勉強するツモリであったのである。幸い旧語学校の同窓の川島|浪速(なにわ)がその頃警務学堂監督として北京に在任して声望隆々日の出の勢いであったので、久しぶりで訪問して旧情を煖(あたた)めかたがた志望を打明けて相談したところが、一夕の歓談が忽ち肝胆相照らして終に川島の配下に学堂の提調に就任する事となった。
川島浪速の名は今では知らないものはない。満洲朝滅亡後北京の舞台を去って帰朝し、近年浅間の山荘に雌伏して静かに形勢を観望しているが、川島の名は粛親王(しゅくしんのう)の姻親として復辟(ふくへき)派の日本人の巨頭として嵎(ぐう)を負うの虎の如くに今でも恐れられておる。旧語学校の支那語科出身で、若い東方策士のグループの一人として二葉亭とは学校時代からの親交であった。旧語学校廃校後はさらでも需要の少ない支那語科の出身は皆窮乏していたが、殊に川島は『三国志』か『水滸伝(すいこでん)』からでも抜け出して来たような豪傑肌だったから他にも容れられず自らも求めようともしないで陋巷(ろうこう)に窮居し、一時は朝夕にも差支(さしつか)えて幼き弟妹が餓(うえ)に泣くほどのドン底に落ちた。団匪(だんぴ)事件の時、陸軍通訳として招集され、従軍中しばしば清廷の宗室大官と親近する中に計らずも粛親王の知遇を得たのが青雲の機縁となった。事件落着後清廷が目覚めて改革を行わんとするや、川島は粛親王府に厚聘されて警務学堂を創設し、毎期四百名の学生を養うて清国警察を補充し、啻(ただ)に学堂教務を統(す)ぶるのみならず学堂出身者の任命の詮衡(せんこう)及び進退|黜陟(ちゅっちょく)等総てを委任するという重い権限で監督に任じた。当時の(あるいは今でも)支那の軍制は極めて不備であって、各省兵勇はあたかも烏合(うごう)の無頼漢のようなものだったから、組織的に訓練された学堂出身の警吏は兵勇よりも信頼されて事実上軍務をも帯びていた。随(したが)ってこれを統率する川島の威権は我が警視総監以上であって、粛親王を背後の力として声威隆々中外を圧する勢いであった。
提調というは監督の下に総教習と聯び立つ学堂事務の総轄者であった。出納庶務から人事の一切を綜(す)べ、学堂の機密にも参じ外部の交渉にも当って、あたかも大蔵と内務と外務とを兼掌していたから、任務は頗る重くて極めて困難であった。二葉亭は生中(なまなか)文名が高く在留日本人間にも聞えていたので、就任の風説あるや学堂の面々は皆小説家の提調を迎うるを喜ばなかった。就中(なかんずく)、総教習稲田穣の如きは当初(のっけ)から不信任を公言して抗議を持出そうとした。然るにいよいよ新任提調として出頭するや、一同は皆|瀟洒(しょうしゃ)たる風流才人を見るべく想像していたに反して、意外にも状貌(じょうぼう)魁偉(かいい)なる重厚|沈毅(ちんき)の二葉亭を迎えて一見忽ち信服してしまった。
川島の妹婿たる佐々木照山も蒙古から帰りたての蛮骨稜々として北京に傲睨していた大元気から小説家二葉亭が学堂提調に任ぜられたと聞いて太(いた)く激昂(げっこう)し、虎髯(こぜん)逆立(さかだ)って川島公館に怒鳴り込んだ。「小説家を提調にしてどうする」と※[厂+萬]声(れいせい)川島に喰って蒐(かか)ると、「先(ま)ア左(と)も右(か)くも一度会って見るサ」といわれて川島の仲介で二葉亭と会見し、鼎座(ていざ)して相語って忽ち器識の凡ならざるに嘆服し、学堂のための良提調、川島のための好参謀を得たるを満足し、それから以来は度々往来して互に相披瀝して国事を談ずるを快としたそうだ。
二葉亭の提調生活は当時私に送った次の手紙に髣髴(ほうふつ)としておる。
「 拝啓、今日は支那の十二月二十八日にて学校も冬期休業中ゆゑいたって閑散なるべき理窟(りくつ)なれど小生の職務は学堂庶務会計一切の事宜を弁理するにありと支那流にては申す職掌ゆゑ日曜も祭日も滅茶苦茶に忙がしく、一昨夜なども徹夜していはゆる事宜を弁理候始末ほとほと閉口|致(いたし)候うちに自ら一種のおもしろみさすがになきにしもあらず、このおもしろみ読書の面白味にもあらず談理のおもしろみにもあらで一種|変梃(へんてこ)なおもしろみに候、小生|惟(おも)ふに学者の楽しむ所は理のおもしろみ、詩人の楽しむ所は情のおもしろみ、事務家の楽しむ所は action のおもしろみ、事の趣にあらんか、元来当学堂は表面は清国の一学堂なれど裏面は日本の勢力扶植の一機関たれば自ら志士集合所の如き趣ありて公使館あたりの純然たる官吏社会より観(み)れば頗る危険の分子を含みたる一団体の如く目さるる傾有之(かたむきこれあり)、ために随分迷惑を感じ候事も有之候へど、そこが即ち一種の面白味の存する所にて学堂の仕事常に必しも学堂らしからず、時ありて梁山泊の豪傑連が額を鳩(あつ)めて密(ひそか)に勢力拡張策を講ずるなど随分|変梃来(へんてこ)な事ありてその都度提調先生|私(ひそ)かに自ら当代の蕭何(しょうか)を以て処(お)るといふ、こんな学堂が世間にまたとあるべくも覚えず候、然れどもおもしろみのある所はまたくるしみの伏在する所にてその間一種いふべからざる苦痛も有之、この苦痛最初はいたって軽微なりしも仕事に深入すればするほど重かつ大になりゆきて時には殆んど耐へがたき事も有之候、小生の力|能(よ)くこの苦痛に克(か)ち四囲の困難を排除する事を得ば他日多少の事功を成就し得んも、この苦痛と困難とに打負くれば最早それまでにて滅茶々々に失敗致すべく、さうなつたら已(や)むを得ず日本へ遁帰(にげかえ)りて再び生命を一枝の筆に托せざるを得ざるべきも、先づそれまでは死力を尽して奮闘の覚悟に候、北京の町の汚なさお話になつたものにあらず、宮中|厠(かわや)と申候共同便所の如きもの往来の両側に処々散在すれども日本の共同便所と同日に談ずべくもなし、ただ大道上に一空地を劃し低き土壁を繞(めぐ)らしたるのみにて糞壺(くそつぼ)もなければ小便|溜(だめ)もなく皆|垂流(たれなが)しなり、然れども警察の取締皆無のため往来の人随所に垂流すが故に往来の少し引込みたる所などには必ず黄なるもの累々として堆(うずたか)く、黄なる水|湛(たん)として窪(くぼ)みに溜(たま)りをりて臭気紛々として人に逼(せま)る、そのくせ大通にあつては両側に櫛比(しっぴ)せる商戸金色|燦爛(さんらん)として遠目には頗る立派なれど近く視(み)れば皆芝居の書割然(かきわりぜん)たる建物にて誠に安ツぽきものに候、支那は爆竹(ばくちく)の国にて冠婚葬祭何事にもこれを用ゐ、毎夜殆んどパチパチポンの音を聞かざるはなし、日本の花火はこれが進化したるものにはあらざるべきか、その他衣食住において日本に類似せる点多く、さすが昔は東洋文明の卸元(おろしもと)たりし面影どこかに残りをり候―― 」
天晴(あっぱれ)東洋の舞台の大立物(おおだてもの)を任ずる水滸伝的豪傑が寄って集(たか)って天下を論じ、提調先生|昂然(こうぜん)として自ら蕭何を以て処るという得意の壇場が髣髴としてこの文字の表に現われておる。
真実、提調時代の二葉亭は一生の中最も得意の時であった。俸禄も厚く、信任も重く、細大の事務|尽(ことごと)く掌裡に帰して裁断を待ち、監督川島不在の時は処務を代理し、隠然副監督として仰がれていた。然るにこの得意の位置をどうして抛棄するようになった乎(か)、その原因が判然しないが、左(と)に右(か)く止むに止まれない或る事情があって、監督川島及び僚友が頻りに留任を勧告するをも固く謝して、決然辞任して帰朝した。この間の事情は当時の消息を知るものの間にも種々の説があって判然しないが、仮に川島あるいは僚友との間に多少の面白からぬ衝突があったとしても、その衝突は決して辞職に値いするほどの大事件ではなかったらしい。ツマリ二葉亭の持前(もちまえ)の極端な潔癖からしてそれほどでもない些細(ささい)な事件に殉じて身を潔くするためらしかった。二葉亭自身もこの事については余り多く語らなかった。「腹を立てるほどの事でもなかったので、少(ち)と早まり過ぎたのサ、」とばかり軽くいっていた。
間もなく日露の国交が破裂した。北京に在留中から露西亜の暴状を憤って、同志と共にしばしば公使館に詰掛けて本国政府の断乎たる決心を迫った事もあり、予(かね)てからこの大破裂の生ずべきを待設けて晴れの舞台の一役者たるを希望していたから、この国交断絶に際して早まって提調を辞して北京を去ったのを内心|窃(ひそ)かに残念に思っていたらしかった。「こう早く戦争が初まるなら最(も)う少し北京に辛抱しているのだった、」とは開戦当時私に洩らした述懐であった。 
 
十一 朝日新聞社に入る 

 

北京から帰朝したのは三十六年の七月で、帰ると間もなく脳貧血症に罹(かか)って田端(たばた)に閑居静養した。三十七年の春、日露戦争が初まると間もなく三月の初め内藤湖南(ないとうこなん)の紹介で大阪朝日新聞社に入社し、東京出張員として東露及び満州に関する調査と、露国新聞の最近情報の翻訳とを担任した。満洲及び北京から帰朝したての意気込もあり、豊富に資料も蓄えていたし、この調査には頗(すこぶ)る興味を持って大(おおい)に満足して職務を服した。
然るに新聞紙の材料は巧遅なるよりは拙速を重んじ、堂々たる大論文よりは新鮮なる零細の記事、深く考慮すべき含蓄ある説明よりは手取早く呑込む事の出来る記実、噛占(かみし)めて益々味の出るものよりは舌の先きで甞(な)めて直ぐ賞翫(しょうがん)されるものが読者に受ける。新聞紙の寿命はただ一日であって、各項記事に対する読者の興味を持つはただ二分間か三分間である。この二分間三分間の興味を持たしめるのが新聞記者の技倆であって、十日一水を描き五日一石を描く苦辛は新聞記事には無用の徒労である。この点において何事も深く考え細(つぶ)さに究め右から左から八方から見て一分の隙(すき)もないまでに作り上げた二葉亭の原稿は新聞材料としては勿体(もったい)なさ過ぎていた。折角苦辛|惨澹(さんたん)して拵(こしら)え上げた細密なる調査も、故|池辺三山(いけべさんざん)が二葉亭歿後に私に語った如く参謀本部向き外務省向きであって新聞紙向きではなかった。例えば当時『朝日新聞』に連掲された東露及び満洲輸送力の調査の如きは参謀本部の当局者をさえ驚嘆せしめたほどに周到細密を究めたが、読者には少しも受けないで誰も振向いても見なかった。新聞紙は一に読者の興味を標準として材料の価値を定めるゆえ、如何なる貴重の大論文でも読者の大多数が喜ばないものは編輯局もまた冷遇する。折角油汗を流して苦辛した二葉亭の通信がしばしば大阪の本社で冷遇されて往々没書となったのは、二葉亭の身にすれば苦辛を認められない不平は道理であるが、新聞記事としては止むを得なかったのだ。加うるに東京出張員とはいいながら東京に定住して滅多に大阪へ行かなかったから、自然大阪本社との意志の疎通を欠き、相互の間に面白からぬ感情の行違いを生じ、或時は断然辞職するとまで憤激した事もあった。この間に立って調停する楫取役(かじとりやく)を勤めたのは池辺三山であって、三山は力を尽して二葉亭を百方|慰撫(いぶ)するに努めた。が、二葉亭が自ら本領を任ずる国際または経済的方面の研究調査にはやはり少しも同感しないで、二葉亭の不平を融和する旁(かたわ)ら、機会あるごとに力を文学方面に伸ばさしめようと婉曲(えんきょく)に慫慂(しょうよう)した。二葉亭は厚誼(こうぎ)には感謝したが、同時に頗る慊(あきた)らなく思っていた。
が、三山の親切に対して強(しい)て争う事も出来ずに不愉快な日を暮す間に、大阪の本社とは日に乖離(かいり)するが東京の編輯局へは度々出入して自然|親(したし)みを増し、折々編輯を助けて意外な新聞記者的技倆を示した事もあった。ポーツマウスの条約に挙国の不平が沸騰した時に偶然東京朝日の編輯局で書いた「ひとりごと」と題する桂(かつら)首相の心理解剖の如きは前人未着手の試みで、頗る読者に受けたもんだ。(この一編は全集第四巻に載っておる。)あるいは前人未着手でないかも知れぬが、これほど巧みにこれほど小気味|能(よ)く窮所を穿(うが)ったものは恐らく先人未言であったろう。二葉亭の直覚力と洞察力(どうさつりょく)と政治的批評眼とがなければとても書けないものであった。あるいは不満足なる媾和(こうわ)に憤慨した余りの昂奮で筆が走ったので、平素の冷静な二葉亭ではかえって書けなかったかも知れない。こういう方面に専(もっぱ)ら力を注いだなら新聞記者としてもまた必ず前人未拓の領土を開き得たろうと、朝日の僚友は皆二葉亭が一度ぎりでこの種の試みをやめたのを惜んでいた。が、二葉亭はかえってこれを恥じて、「あんな軽佻(けいちょう)な真似(まね)をするんじゃなかったっけ、」と悔いていた。 
 
十二 『其面影』と『平凡』 

 

その中(うち)に戦争は熄(や)んだ。読者は最早露西亜や満洲の記事には飽き飽きした。二葉亭の熱心なる東露の産業の調査は益々新聞に向かなくなった。そこで三山初め有力なる朝日の社員は二葉亭をしていよいよ力を文学方面に伸ばさしめようと百方勧説した。その度毎(たんび)に苦い顔をされたが、何遍苦い顔をされても少しも尻込(しりごみ)しないで口を酸(す)くして諄々(じゅんじゅん)と説得するに努めたのは社中の弓削田秋江(ゆげたしゅうこう)であった。秋江は二葉亭の熱心なるアドマヤラーの一人として、朝日の忠実なる社員として、我儘(わがまま)な華族の殿様のお守りをするような気になって、気を長くして機嫌を取り取りとうとう退引(のっぴき)ならぬ義理ずくめに余儀なくさしたのが明治三十九年の秋から『朝日』に連載した『其面影(そのおもかげ)』であった。続いて翌年の十月は『平凡』を続載して二葉亭の最後の文藻(ぶんそう)を輝かした。この二篇の著わされたのは全く秋江の熱心なる努力の結果であった。
有体(ありてい)にいうと『其面影』も『平凡』も惰力的労作であった。勿論、何事にも真剣にならずにいられない性質だから、筆を操(と)れば前後を忘れるほどに熱中した。が、肝腎(かんじん)の芸術的興味が既(とっ)くの昔に去っていて、気の抜けた酒のような気分になっていたから、苦辛(くしん)したのは構造や文章の形式や外殻の修飾であって、根本の内容を組成する材料の採択、性格の描写、人生の観照等に到っては『浮雲』以後の進境を見る事が出来なかった。
殊に『其面影』は二十年ぶりの創作であったから、あたかも処女作を発表する場合と同じ疑懼心(ぎくしん)が手伝って、眼が窪み肉が瘠(や)せるほど苦辛(くしん)し、その間は全く訪客を謝絶し、家人が室に入るをすら禁じ、眼が血走り顔色が蒼(あお)くなるまで全力を傾注し、千鍜万練して日に幾十遍となく書き更(あらた)めた。それ故とかくに毎日の締切時間を遅らしがちなので、編輯局から容子を見届けに度々社員を派したが、苦辛惨憺する現状を見るものは誰でも気の毒になって催促し兼ねたそうだ。池辺三山が評して「造物主が天地万物を産出(うみだ)す時の苦(くるし)み」といったは当時の二葉亭の苦辛を能く語っておる。が、苦辛したのは外形の修辞だけであって肝腎の心棒が抜けていたから、二葉亭に多くを期待していたものは期待を裏切られて失望した。
『其面影』を発表するに先だちて二葉亭は新作の題名について相談して来た。「二(ふた)つ心(はあと)」とか「心(はあと)くずし」とか「新紋形二つ心(はあと)」とかいうような人情本臭い題名であって、シカモこの題名の上に二(ふた)ツ巴(どもえ)の紋を置くとか、あるいは「破(や)れウィオリノ」という題名として絃(いと)の切れたウィオリンの画の上に題名を書くというような鼻持ならない黴臭(かびくさ)い案だったから、即時にドレもこれも都々逸(どどいつ)文学の語であると遠慮なく貶(けな)しつけてやった。かれこれ往復二、三回もした、最後に『其面影』でモウ我慢してくれといって来た。この相談を受けた時、二葉亭の頭の隅(すみ)ッコにマダ三馬(さんば)か春水(しゅんすい)の血が残ってるんじゃないかと、内心成功を危ぶまずにはいられなかった。
いよいよ『其面影』が現れて、回一回と重ぬるに従って益々この懸念が濃くなった。『其面影』の妙処というは二十年前の『浮雲』で味(あじわ)わされたものよりもヨリ以上何物をも加えなかった。加之(しかのみ)ならず『浮雲』の若々しさに引換えて極めて老熟して来ただけそれだけ或る一種の臭みを帯びていた。言換えると『浮雲』の描写は直線的に極めて鋭どく、色彩や情趣に欠けている代りには露西亜の作風の新らしい匂(にお)いがあった。これに反して『其面影』の描写は婉曲に生温(なまぬる)く、花やかな情味に富んでる代りに新らしい生気を欠いていた。幸田露伴(こうだろはん)はかつて『浮雲』を評して地質の断面図を見るようだといったが、『其面影』は断面図の代りに横浜出来の輸出向きの美人画を憶出(おもいだ)させた。更に繰返すと『其面影』の面白味は近代人の命の遣取(やりとり)をする苦(くるし)みの面白味でなくて、渋い意気な俗曲的の面白味であった。
『平凡』は復活後の二度目の作であるだけ、『其面影』よりは筆が楽に伸んびりしておる。無論『其面影』と同じ洗錬を経たので、決して等閑(なおざり)に書きなぐったのではないが、『其面影』のような細かい斧鑿(ふさく)の跡が見えないで、自由に伸び伸びした作者の洒落(しゃらく)な江戸ッ子風の半面が能く現れておる。ツマリ『其面影』の時は「文人でない」といいつつも久しぶりでの試みに自(おの)ずと筆が固くなって、余りに細部の雕琢(ちょうたく)にコセコセしたのが意外の累(わずら)いをした。が、『平凡』の時は二度目の経験で筆が練れて来たと同時に「文学はドウでも宜(い)い」という気になって、技術の慾を離れて自由に思うままを発揮したから、前者に比べると荒削りではあるが活き活きした生気に富んでおる。文人としての二葉亭の最後を飾るに足る傑作である。
が、いずれも『浮雲』の惰力的労作であるは争われなかった。『浮雲』以後の精神的及び物質的苦悶に富んだ二葉亭の半世の生活からは最少(もすこ)し徹底した近代的悲痛が現れなければならないはずであったが、案に相違して極めて平板な不徹底な家常茶飯的葛藤しか描かれていなかったのは畢竟(ひっきょう)作者の根本の芸術的興味が去ってしまったからであろう。 
 
十三 第二期の失意煩悶 

 

( 朝日社内における葛藤不平・国際的危機・『平凡』前後・実際的抱負 )
が、それにもかかわらず、世間は盛んに嘖々(さくさく)して歓迎し、『東朝』編輯局は主筆から給仕(きゅうじ)に到るまでが挙(こぞ)って感歎した。前には満蒙に関する二葉亭の論策研究を虐待した『大朝』の編輯局が二葉亭の籍が大阪にあるを名として当然大阪の紙上にも載すべきものだと抗議を持出した。各文学雑誌は争って文学及び思想に関する論文または談話を請うて載せ、社会の公人としての名は益々文人として輝いた。
二葉亭は益々不平だった。半世の夙志(しゅくし)が総(すべ)て成らずに、望みもしない文人としての名がいよいよ輝くのが如何にも不愉快で堪(たま)らなかった。が、世間は如何に見ようとも、自分の使命は国際的舞台にあるをあくまでも任じて、少しも志望を曲げずに極東時局に関する内外の著書は得るに随(したが)って精読し、内外新聞の外交に関する事項は細(つぶ)さに究めて切抜きを保存し、殊に『外交時報』は隅から隅までを反覆細読していた。(二葉亭は『倫敦(ロンドン)タイムス』『ノーウ・オウレーミヤ』『モスコー・ウェドモスチ』等の英露及び支那日本の外字新聞数十種に常に眼を晒(さ)らしていた。『外交時報』は第一号から全部を取揃(とりそろ)えて少しも座右から離さなかった。)
かくの如く全力を傾倒して国際問題を鋭意研究したのは本(も)と本と青年時代からの夙志であったが、一時人生問題に没頭して全く忘れていたのが再燃したには自ずから淵源(えんげん)がある。日清戦争の三国干渉の時だった。或る晩慨然として私に語った。「日本はこれから先き世界を対手(あいて)として戦う覚悟がなけりゃアならん。東洋の片隅に小さくなって蹲踞(うずく)まってるなら知らず、聊(いささ)かでも頭角を出せば直ぐ列強の圧迫を受ける。白人聯合して日本に迫るというような事が今後ないとは限らん。それも圧迫を受けるだけなら、忍んで小さくなって辛抱(がまん)出来ない事もなかろうが、圧迫が進んで侮辱となり侵略となったらドウする。国際公法だの仲裁条約だのというはまさかの時には何の役にも立たない空理空文である。欧洲列強間の利害は各々|相扞格(あいかんかく)していても、根が同文同種同宗教の兄弟国だから、率(いざ)となれば平時の葛藤を忘れて共通の敵たる異人種異宗教の国に相結んで衝(あた)るは当然あり得べき事だ」と、人種競争の避くべからざる所以(ゆえん)を歴史的に説いて「この覚悟で国民の決心を固め、将来の国是(こくぜ)を定めないと、何十年後に亡国の恨みがないとも限らない、」と反覆痛言した事があった。二葉亭の青年時代の国際的興味が再び熱沸して来たのはその頃からで、この憂国の至誠から鋭意熱心に東洋問題の解決を研究するので、決して大言壮語を喜ぶ単純なる志士気質やあるいは国家を飯(めし)の種(たね)とする政治家肌からではなかった。二葉亭の文学方面をのみ知る人は政治を偏重する昔の士族気質から産出した気紛れのように思うが、決して※[研のつくり](そ)んな浮いた泡のような空想ではなかったので、牢乎(ろうこ)として抜くべからざる多年の根強い根柢があったのだ。今にして思うと、三十年前に人種競争の止むを得ざる結果から欧亜の大衝突の当然来るべきを切言した二葉亭の巨眼は推服すべきものであった。
明治四十年の六月、突然|急痾(きゅうあ)に犯されて殆(ほと)んど七十余日間|病牀(びょうしょう)の人となった。それから以後著るしく健康を損じて、平生|健啖(けんたん)であったのが俄(にわか)に食慾を減じ、或る時、見舞に行くと、「この頃は朝飯はお廃止(やめ)だ。一日に一杯ぐらいしか喰わない。夜もおちおち寝られない、」といった。「そりゃ不可(いか)ん。転地したらどうだい、神経衰弱なら転地が一番だ、」というと、「転地なんぞしたって癒(なお)るもんか。社の者も頻(しき)りと心配して旅行しろというが、海や山よりは町の方が好きだ。なアに、僕の病気は何でもない、小説を書かないでも済むようにさえしてくれたらその瞬間に直ぐ癒ってしまう、」といって淋しく笑った。
一体が負け嫌いの病気に勝つ方で、どんなに苦しくても滅多に弱音(よわね)を吹かなかった。官報局を罷めてから間もなく、関節炎に罹(かか)って腰が立たなかった時も元気は頗(すこぶ)る盛んで、談笑自如として少しも平生と変らなかった。その時から比べると、病気はそれほど重くも見えなかったが、元気は全(まる)で失(な)くなって頗る銷沈(しょうちん)していた。豈夫(まさ)かに嫌いな文学を強いられるばかりで病気になったとも思わなかったが、何となく境遇を気の毒に思って傷心に堪えなかった。
『平凡』の予告が現われた時、二葉亭が昔しから推奨したゴンチャローフの名作を憶い浮べて題名に興味を持ったので直ぐ手紙を送った。文句は忘れたが、意味はこうである。――『平凡』という題名が如何にも非凡で面白い、(というのは前にもいった通り『其面影』の題名に関して往復数回した事があったからで、)定めし面白いものであろうと楽(たのし)みにしておる、左(と)に右(か)く現に文学を以て生活しつつある以上は仮令(たとい)素志でなくても文学にもまた十分身を入れてもらいたい、人は必ずしも一方面でなければならないという理由はないから、文人であって政治家あるいは実業家を兼ねるのも妙であろう、政治あるいは外交に興味を有するが故に他の長所である文学を廃するというは少しも理由にならない、かついやしくも前途に平生口にする大抱負を有するなら努めて寛闊(かんかつ)なる襟度(きんど)を養わねばならない、例えば西園寺(さいおんじ)侯の招宴を辞する如きは時の宰相たり侯爵たるが故に謝絶する詩人的|狷介(けんかい)を示したもので政治家的または外交家的器度ではない――という、こういう意味の手紙であった。
無論この手紙を送ったのは二葉亭と議論する意(つもり)でも何でもなかった。ただ『平凡』の題名に興味を持った余りに筆を走らしたので、陶庵(とうあん)侯招宴一条の如きは二葉亭の性質として応じないのは百も二百も承知していて少しも不思議と思っていないから、二葉亭の気質を能く理解(のみこ)んでる私が更(あらた)めて争うような事は決して做(し)ない。無論また数行の手紙で二葉亭を反省させあるいは屈服する事が出来ようとも思っていなかった。
然るにこの位な揶揄(やゆ)弄言(ろうげん)は平生面と向って談笑の間に言合(いいあ)うにかかわらず、この手紙がイライラした神経によっぽど触(さわ)ったものと見えて平時(いつ)にない怒気紛々たる返事を直ぐ寄越(よこ)した。曰く、「平凡は平凡|也(なり)、それを強(しい)て非凡とおつしやるなら非凡でもよろし、されど平凡はやはり平凡也、首相の招待に応ぜざりしはいやであつから也、このいやといふ声は小生の存在を打てば響く声也、小生は是非を知らず、可否を知らず、ただこれが小生の本来の面目なるを知りたる而已(のみ)、」云々と。それから最後に、「いずれその中に行く」と私が書いたに対して、「謀面(ぼうめん)は今時機に非(あら)ず、やがて折あるべし、」と結んで、手もなく当分面会謝絶を通告して来た。私が二葉亭から請取った何十通の手紙の中でこれほど墨痕(ぼっこん)淋漓(りんり)とした痛快なものはない。青筋出して肝癪(かんしゃく)起した二葉亭の面貌(めんぼう)が文面及び筆勢にありあり彷彿して、当時の二葉亭のイライラした極度の興奮が想像された。が、腹の立ったありのままが少しも飾られないで表白されているだけに、二葉亭の面目が歴々(ありあり)と最も能く現われていた。このいやというが二葉亭の存在を打てば響く声であるといったは何よりも能く二葉亭を説明している。
二葉亭の文学嫌いは前にいったように単純な志士気質や政治家肌からではなかったが、それほどに懊悩(おうのう)してジリジリと興奮するまで文学を嫌い抜いていたのは、一つは「このいやという存在の声」が手伝っていたのである。二葉亭は何事についても右といえば左、左といえば右という一種の執拗な反抗癖があって、終局の帰着点が同一なのが明々白々に解っていても先ず反対に立って見るのが常癖であった。如何(いか)なる得意のものでも褒(ほ)められると苦(にが)い顔をして、如何なる不得意のものでも貶(けな)されると一生懸命になって弁明した。仮にもしその欲する如くに政治家または実業家として相当の位置を作らしめたなら、その時は恐らく余は政治家に非ず、実業家に非ずといったかも知れない。これが即ち長谷川辰之助(はせがわたつのすけ)の存在の声であったのだ。
尤も文学を嫌って実際界に志ざしたは強(あなが)ちこの一癖からばかりでなく、実際方面における抱負も或る人々の思うように万更(まんざら)詩人的空想から産出(うみだ)したユートピヤ的あるいは志士気質の自大放言ではなかった。ちょっと聞けば馬鹿々々しい浦塩の女郎屋論でも、底を叩くと統計やら報告やら頗る周到細密な数字的基礎があった。殊に北京から帰朝した後の説には鑿々(さくさく)傾聴すべき深い根柢があった。無論実際の舞台に立たせたなら直ぐ持前の詩人的狷介や道学的潔癖が飛出して累をなしたであろうが、それでももしいよいよその方面に驥足(きそく)を伸ぶる機会が与えられたら、強ち失敗に終るとも定(き)められなかった、あるいは意外の功を挙げないとも計られなかった。左(と)に右(か)く終に一回もこの自信ある手腕を試みる機会を与える事が出来ずにしまったのは、二葉亭自身の一生の恨事であったのみならず、二葉亭の知友としてもまた頗る遺憾であった。 
 
十四 露国の亡命客及びダンチェンコ

 

その頃|波蘭(ポーランド)の革命党員ピルスウツキーという男が日本へ逃げて来て二葉亭を訪(たず)ねて来た。その外にも二葉亭を頼(たよ)って来た露国の虚無党亡命客が二、三人あった。二葉亭は渠(かれ)らのために斡旋(あっせん)してあるいは思想上多少の連絡ある人士または政界の名士に紹介したり、あるいは渠らが長崎で発行する露文の機関雑誌を助成したり、渠らの資金を調達するために布哇(ハワイ)の耕地の買手を捜したり、あるいは文芸上の連絡を目的とする日波協会の設立を計画したりして渠らのために種々奔走をした。二葉亭はかつてヘルチェンやビェリンスキーに傾倒して虚無党思想についての多少の興味をも持っていたから、帝国主義を懐抱して日本の膨脹を夢見つつも頭の隅(すみ)の何処(どこ)かで渠らと契合していたかも知れぬが、それ以外に渠らを利用して国際的芝居を一と幕出そうとする野心が内々あったらしい。その頃北京時代の友人阿部精二へ送った手紙に、「西伯利(シベリア)より露国革命派続々逃込み、中には東京へ来るものも有之(これあり)候故、これらを相手に一と仕事と出懸(でか)けし処、相手がまるでお坊ちやんにて話にならず、たうとう骨折損(ほねおりぞん)となりたり、今も革命派の上京する者は必ず来つてあれこれと相談を掛け候へども最早相手にならない事に決し候、渠らは皆空論を以て事を成さんと欲する徒にて口舌以上の活動をせんといふ意なし、こんな事で何が出来るものかと愛想をつかしたる次第に候、実は最初は今度こそ一世一代の仕事といふ意気込で取掛けたれども右の次第にてこれもまた駄目となりたり、ああ心中の遺恨誰に向つて訴へん、この上は最早退隠の外なし、小説でも書いて一生を送るべく候、」とあるは多分この間の機微を洩らしたものであろう。が、露西亜の革命党員を相棒に何をするつもりであったろう。二葉亭は明石(あかし)中佐や花田中佐の日露戦役当時の在外運動を頻(しき)りに面白がっていたから、あるいはソンナ計画が心の底に萌(きざ)していたかも解らぬが、それよりはソンナ空想を燃やして儘(まま)にならない鬱憤を晴らしていたのだろう。公平に見て二葉亭が実行力に乏しいのを軽侮した露西亜の亡命客よりも二葉亭自身の方がヨリ一層実行力に乏しかった。二葉亭では明石中佐や花田中佐の真似(まね)はとても出来ないのを自ら知らないほどのウツケではないが、そんな空言を叩いて拠(よんどこ)ろなしの文学三昧に送る不愉快さを紛らすための空気焔(からきえん)を吐いたのであろう。
明治四十一年の春、ダンチェンコが来遊した。二葉亭は朝日を代表して東道の主人となって処々方々を案内して見せた。ダンチェンコは文人としては第二流であるが、新聞記者としては有繋(さすが)に露西亜有数の人物だけに興味も識見も頗る広く、日本の文人のような文学一天張の世間見ずではなかった。随って思想上に契合するものがあってもなくても、毎日々々諸方を案内しつつ互に宏博(こうはく)なる知見を交換したのは、あたかも籠(かご)の禽(とり)のように意気銷沈していた当時の二葉亭の憂悶不快を紛らす慰藉(いしゃ)となったらしかった。
ダンチェンコは深く二葉亭に服して頻りに露都への来遊を希望し、かつ池辺三山及び村山龍平(むらやまりゅうへい)に向(むかっ)て露都通信員の派遣を勧告し、その最適任者としての二葉亭の才能人物を盛んに推奨したので、朝日社長村山も終に動かされてその提案に同意した。耆婆扁鵲(ぎばへんじゃく)の神剤でもとても癒(なお)りそうもなかった二葉亭の数年前から持越しの神経衰弱は露都行という三十年来の希望の満足に拭(ぬぐ)うが如く忽ち掻消(かきけ)されて、あたかも籠の禽が俄に放されて九天に飛ばんとして羽叩(はばた)きするような大元気となった。その当座はまるで嫁入咄が定(きま)った少女のように浮き浮きと噪(はしゃ)いでいた。 
 
十五 露都行及びその最後

 

( 露都行の抱負・入露後の消息、発病・帰朝・終焉・葬儀 )
こう決定してからは一日も早く文学と終始した不愉快な日本の生活から遁(のが)れるべく俄に急(せ)き立って、入露の準備をするために殆(ほと)んど毎日、朝から晩まで朝野の名流を訪うて露国に関する外交上及び産業貿易上の意見を叩き、碌々(ろくろく)家人と語る暇がなかったほどに奔走した。
いよいよ新橋を出発したのが四十一年の六月十二日であった。十四日にあたかも露西亜から帰着した後藤男を敦賀(つるが)に迎え、その翌日は米原(まいばら)まで男爵と同車し、随行諸員を遠ざけて意見を交換したそうだ。如何(いか)なる意見が交換されたかは今なお不明であって、先年追悼会の席上後藤男自らの口からもその談話の内容を発表する事は出来ぬといわれたが、左(と)に右(か)くこの会見に由(よっ)て男爵の知遇を得、多年の夙志(しゅくし)が男爵の後援で遂げられそうな緒(いとぐち)を得たのは明らかであった。
米原で後藤男の一行と別れて神戸へ行き、神戸から乗船して大連を経て入露の行程に上った。その途上小村外相の帰朝を大連に、駐日露国大使マレウイチの来任を哈爾賓(ハルビン)に迎えて各々意見を交換した。これらの会見始末は精(くわ)しく三山に通信して来たそうだが、また国際上の機微に渉(わた)るが故に世間に発表出来ないと三山はいっていた。この三山も今では易簀(えきさく)してしまったが、手紙は多分三山の遺篋(いきょう)の中に残ってるかも知れない。
が、露国へ行って何をするツモリであった乎(か)は友人中の誰にも精しく話さなかったが、左(と)に右(か)く出発に先だって露国と交渉する名士を歴訪し、更にその途上わざわざ迂回(うかい)して後藤や小村やマレウイチと会見した事実から推しても二葉亭の抱負や目的をほぼ想像する事が出来る。出発前数日、文壇の知人が催おした送別会の卓上演説(テーブルスピイチ)は極めて抽象的であったが抱負の一端が現れておる。その要旨を掻摘(かいつま)むとこうである。
「自分は平生露西亜の新聞や雑誌を読んで論調を察するに、露西亜人の日本に対する睚眦(がいさい)の怨(うらみ)は結んでなかなか解けない。時来らば今|一(ひ)と戦争しようという意気込は十分見えている。けだし白人種の異人種を征服するは征服されるものから見れば領土の簒奪(さんだつ)であるが、白人種の立場からいえば、人類の幸福のための未開の土地の開発であって、露西亜の南下の如きも露西亜人は神の特別なる恩寵を受くるスラヴ人の当然の使命だと思ってもいるし、文明が野蛮に打勝つ自然の大法だとも信じている。それ故に露西亜人の眼から見て野蛮国たる日本に露西亜が負けたのは英人がブアに負けたのと同様、啻(ただ)に露西亜一国の不名誉ばかりじゃない、世界の文明国の前途のための由々(ゆゆ)しき一大事である。このままにもし済ましたなら、白人の文明はあるいは黄人の蛮力に蹂躙されて終には如何なる惨禍を世界に蒙むらすかも解らん。ツマリ黄人の勝利は文明の大破壊であるから、このまま指を啣(くわ)えて引込んでる事は世界の文明のために出来ない。勝誇った日本の羽翼いまだ十分ならざる内に二度と再び起つ事の出来ないまでに挫折(ぶっくじ)いて置かねばならんというのは単に露西亜一国のためばかりでなくて、世界の文明のため人道のためだというが露西亜人の腹の底の覚悟である。可也(よし)、そっちがその了簡ならこっちもそのツモリで最(も)う一度対手になろうといいたい処だが、一度の戦争は東洋問題を解決するため止むを得ないとしても、二度の戦争は残念ながら日本の国力が許さない。日本人としては日本の国力が十分|恢復(かいふく)出来るまでは何とかして二度の戦争はあらせたくないというのが当然の願いで、それには露西亜人がまだ知らない日本の文明の真相を理解させて、日本人はブア人のような未開人でないという事を十分会得させるが第一策だと思う。無論、そんな姑息(こそく)の方法では根深い誤解を除く事はとても出来ないかも知れんが、少くも彼我国際間の融和を計るには日本の文明を紹介するが有力なる一手段である。自分が露西亜に行くのは朝日の通信員としてであるが、この機会を与えられたを幸いとして、及ばずながらも尽して見たいと思うはこの方面の努力で、甚だ不完全であるが聊(いささ)かの経験ある露西亜語を利用して日露国民相互間の誤解を釈(と)き、再び不祥の戦争がなからしむるように最善の努力を尽したいと思う。自分の微力を以てしては精衛海を填(うず)むる世間の物笑いを免かれんかも知れんが、及ばずながらもこれが自分の抱懐の一つである、」云々。
果して二葉亭のいう如くその頃の日露国民間に暗雲が低迷していたか否かは別であるが、国家を憂うる赤誠はこの一場の卓上話の端にも十分現われておる。出発前暇乞いに訪ねてくれた時も、露国へ行けば日本に通信する傍ら露国の新聞にも頻々投書して日本の文明及び国情を紹介し、場合に由れば講演をも開く意(つもり)だから、ついては材料となるべき書籍を折々廻附してもらいたいといった。私は大いに同感を表して、取敢えず手許に有合わした『開国五十年史』を贈り、註文次第何でも送ると快諾したが、露西亜へ着いてから尚だ一回も註文を受ける間もない中に不起の病に取憑(とりつ)かれてしまった。朝日の通信員としてタイムスのブローウィツやマッケンジーを期すると同時に日本の平和のための福音使ともなろうとしたらしかったが、その抱負の一端だも実行の緒に就(つ)く遑(いとま)がない中に思わぬ病のために帰朝すべく余儀なくされた。
二葉亭は学生時代から呼吸器が弱かった。自分でも要慎(ようじん)して痰(たん)は必ず鼻紙へ取って決してやたらと棄(す)てなかった。殊に露西亜へ出発する前一年間は度々病気になって著るしく健康を損じていた。この懸念される容体で寒い露国へ行くのは険呑(けんのん)だから一応は健康診断を受けて見たらと口まで出掛ったが、幸いに何にも故障がなければだが、万一多少の故障があったからッてこれがために多年の夙望(しゅくぼう)を思留(おもいとどま)りそうもなし、折角意気の旺盛(おうせい)なる目出たい門出に曇影を与うるでもないと思って、多少は遠廻しに匂わして見たが、強ては余りに勧めなかった。だが、こんなに早く不起の病の牀(とこ)に就こうとも思わなかった。
露都へ着いたのが四十一年の七月十五日であって、着くと直ぐ、一と月経つか経たない中に神経衰弱に罹ってしまった。で、かれこれ半年近くも何にも做(し)ないで暮して、どうかこうか癒り掛けた翌(あく)る四十二年の二月十四日、ウラジーミル太公の葬儀を見送るべく、折からの降りしきる雪の中を行列筋の道端(みちばた)に立っていると、何しろ露西亜の冬の厳しい寒さの中を降りしきる雪に打たれたのだから、病上(やみあが)りの身の何とて堪えらるべき、忽ち迷眩して雪の上に卒倒した。同伴の日本人の誰彼れは驚いて介抱して直ぐ下宿に連れて戻ったが、これが病みつきとなって終に再び枕(まくら)が上らなくなってしまった。その果(はて)がとうとう露人の病院に入院して肺結核という診断を受け、暫らくオデッサあたりに転地するかさなくば断然帰朝した方が上分別(じょうふんべつ)であると、医師からも朋友からも切に忠告された。
この忠告を受けた時の二葉亭の胸中|万斛(ばんこく)の遺憾苦悶は想像するに余りがある。折角|爰(ここ)まで踏出しながら、何にもしないで手を空(むなしゅ)うしてオメオメとどうして帰られよう。このまま縦令(たとい)露西亜の土となろうとも生きて再び日本へは帰られないと駄々(だだ)を捏(こ)ねたは決して無理はなかった。が、このまま滞留すれば病気は益々重るばかりで、終には取返しが付かなくなるのが看(み)え透(す)いていながら万に一つ帰朝すれば恢復(かいふく)する望みがないとも限らないのを打棄(うっちゃ)って置くべきでないと、在留日本人の某々等は寄って集(たか)って帰朝を勧告した。初めは何といっても首を振って諾(き)かなかったが、剛情我慢の二葉亭も病には勝てず、散々|手古摺(てこず)らした挙句が拠(よんどこ)ろなく納得したので、病気がやや平らになったを見計らって大阪商船の末永支配人が附添い、四月五日在留日本人の某々らに送られて心淋しくも露都を出発し、伯林(ベルリン)を迂廻(うかい)して倫敦(ロンドン)に着し、郵船会社の加茂丸に便乗したのが四月九日であって、末永支配人に船まで送られて、包むに余る万斛の感慨を抱きつつ心細くも帰朝の途に就(つ)いた。
初めいよいよ帰朝と決するや、西比利亜(シベリア)線を帰る乎(か)、あるいは倫敦へ出て海路を取る乎というが友人間の問題となったそうだ。その結果が短距離の西比利亜線を棄ててわざわざ遠廻りの海路を択ぶに決したのは、寒い西比利亜線を行くよりは船で帰るが海気療法ともなるという意見が勝ったからだそうで、不思議に加茂丸へ移乗した時は担架で運ばれたほどの重態が出帆してから次第に元気を恢復して来た。末永大阪商船支配人の特別の依頼といい、朝日の記者、名誉ある文人としての名は事務長を初め船員が皆知っていたから、船医の外に特に一名の給仕を附添(つきそい)として手厚く看護し、この元気なら滞りなく無事に帰朝出来そうだと一同安心して大いに喜んでいた。然るにポルトセイドに着き、いよいよ熱帯圏に入ると、気候の激変から病が俄に革(あらた)まって、コロンボへ入港したころは最早|頼(たのみ)少(すく)なになって来た。
電報は櫛(くし)の歯を引く如く東京に発せられた。一電は一電よりも急を告げて、帰朝を待侘(まちわ)びる友人知己はその都度々々に胸を躍らした。
五月十日、船は印度洋に入った。世界に著(しる)き澎湃(ほうはい)たる怒濤が死ぬに死なれない多感の詩人の熱悶苦吟に和して悲壮なる死のマーチを奏する間に、あたかも夕陽(いりひ)に反映(てりか)えされて天も水も金色(こんじき)に彩(いろ)どられた午後五時十五分、船長事務長及び数百の乗客の限りなき哀悼悲痛の中に囲繞(とりま)かれて眠るが如くに最後の息を引取った。
五月十五日|新嘉坡(シンガポール)に着いた。近藤事務長は土地の有志と計りて、事務長以下十数人、遺骸(むくろ)を奉じて埠頭(ふとう)を去る三|哩(マイル)なるパセパンシャンの丘巓(きゅうてん)に仮の野辺送りをし、日本の在留僧釈梅仙を請じて慇(ねんご)ろに読経供養し、月白く露深き丘の上に遥(はる)かに印度洋の※[革+堂]鞳(とうとう)たる波濤を聞きつつ薪(まき)を組上げて荼毘(だび)に附した。一代の詩人の不幸なる最後にふさわしい極めて悲壮沈痛なる劇的光景であった。空しく壮図を抱いて中途にして幽冥(ゆうめい)に入る千秋の遺恨は死の瞬間までも悶(もだ)えて死切れなかったろうが、生中(なまなか)に小さい文壇の名を歌われて枯木(かれき)の如く畳の上に朽ち果てるよりは、遠くヒマラヤの雪巓を観望する丘の上に燃ゆるが如き壮志を包んだ遺骸を赤道直下の熱風に吹かれつつ荼毘に委したは誠に一代のヒーローに似合わしい終焉(しゅうえん)であった。
遺骨が新橋に帰着したは五月三十日で、越えて三日葬儀は染井(そめい)墓地の信照庵に営まれた。会葬するもの数百人。権門富貴の最後の儀式を飾る金冠|繍服(しゅうふく)の行列こそ見えなかったが、皆故人を尊敬し感嘆して心から慟哭(どうこく)し痛惜する友人門生のみであった。初夏(はつなつ)の夕映(ゆうばえ)の照り輝ける中に門生が誠意を籠(こ)めて捧(ささ)げた百日紅(ひゃくじつこう)樹下に淋しく立てる墓標は池辺三山の奔放|淋漓(りんり)たる筆蹟にて墨黒々と麗わしく二葉亭四迷之墓と勒(ろく)せられた。
三山は墓標に揮毫(きごう)するに方(あた)って幾度も筆を措いて躊躇(ちゅうちょ)した。この二葉亭四迷は故人の最も憎める名であった。この名を墓標に勒するは故人の本意でないかも知れぬので、三山は筆を持って暫らく沈吟(ちんぎん)したが、シカモこの名は日本の文学史に永久に朽ちざる輝きである。二葉亭は果して自ら任ずる如き実行の経綸家であった乎否かは永久の謎(なぞ)としても、自ら屑(いさぎ)よしとしない文学を以てすらもなおかつかくの如く永久朽ちざる事業を残したというは一層故人の材幹と功績の偉なるを伝うるに足るだろう。と、三山は終に意を決して二葉亭四迷と勒した。
以上はただ一生の輪廓を描いたに過ぎないが、人物と思想とは特に剖析細究しないでもほぼ知る事が出来よう。文人としての二葉亭の位置の如何なるやは暫らく世間の判断に任すとしても明治の文壇に類の少ない飛離れた人物であったはこの白描のデッサンを見てもおおよそ推測(おしはか)られよう。文人乎、非文人乎、英雄乎、俗人乎、二葉亭は終にその全人格を他(ひと)にも自分にも明白に示さないで、あたかも彗星の如く不思議の光芒(こうぼう)を残しつつ倏忽(しゅっこつ)として去ってしまった。渠(かれ)は小説家でなかったかも知れないが、渠れ自身の一生は実に小説であった。
   (明治四十二年六月記、大正十三年十月補修) 
 
二葉亭追録 / 内田魯庵

 

一 二葉亭が存命だったら 
二葉亭が存命だったら今頃ドウしているだろう? という問題が或る時二葉亭を知る同士が寄合(よりあ)った席上の話題となった。二葉亭はとても革命が勃発(ぼっぱつ)した頃まで露都に辛抱していなかったろうと思うが、仮に当時に居合わしたとしたら、ロマーノフ朝に味方したろう乎(か)、革命党に同感したろう乎、ドッチの肩を持ったろう? 多恨の詩人肌から亡朝の末路に薤露(かいろ)の悲歌を手向(たむ)けたろうが、ツァールの悲惨な運命を哀哭(あいこく)するには余りに深くロマーノフの罪悪史を知り過ぎていた。が、同時に入露以前から二、三の露国革命党員とも交際して渠(かれ)らの苦辛や心事に相応の理解を持っていても、双手(もろて)を挙げて渠らの革命の成功を祝するにはまた余りに多く渠らの陰謀史や虐殺史を知り過ぎていた。
二葉亭の頭は根が治国平天下の治者思想で叩(たた)き上げられ、一度は軍人をも志願した位だから、ヒューマニチーの福音を説きつつもなお権力の信仰を把持して、“Might is right”の信条を忘れなかった。貴族や富豪に虐げられる下層階級者に同情していても権力階級の存在は社会組織上止むを得ざるものと見做(みな)し、渠らに味方しないまでも呪咀(じゅそ)するほどに憎まなかった。
二葉亭はヘルチェンやバクーニンを初め近世社会主義の思想史にほぼ通じていた。就中(なかんずく)ヘルチェンは晩年までも座辺から全集を離さなかったほど反覆した。マルクスの思想をも一と通りは弁(わきま)えていた。が、畢竟(ひっきょう)は談理を好む論理遊戯から愛読したので、理解者であったが共鳴者でなかった。書斎の空想として興味を持っても実現出来るものともまた是非実現したいとも思っていなかった。かえってこういう空想を直ちに実現しようと猛進する革命党や無政府党の無謀無考慮無|経綸(けいりん)を馬鹿にし切っていた。露都へ行く前から露国の内政や社会の状勢については絶えず相応に研究して露国の暗流に良く通じていたが、露西亜の官民の断えざる衝突に対して当該政治家の手腕器度を称揚する事はあっても革命党に対してはトンと同感が稀(うす)く、渠らは空想にばかり俘(とら)われて夢遊病的に行動する駄々ッ子のようなものだから、時々は灸(きゅう)を据(す)えてやらんと取締りにならぬとまで、官憲の非違横暴を認めつつもとかくに官憲の肩を持つ看方(みかた)をした。
「露西亜は行詰っているが、革命党は空想ばかりで実行に掛けたらカラ成っていない。いくらヤキモキ騒いだって海千山千(うみせんやません)の老巧手だれの官僚には歯が立たない、」と二葉亭は常に革命党の無力を見縊(みくび)り切っていた。欧洲戦という意外の事件が突発したためという条、コンナに早く革命が開幕されて筋書通りに、トいうよりはむしろ筋書も何にもなくて無準備無計画で初めたのが勢いに引摺られてトントン拍子にバタバタ片附いてしまおうとは誰だって夢にだも想像しなかったのだから、二葉亭だってやはり、もし存生(ぞんじょう)だったら地震に遭逢(でっくわ)したと同様、暗黒(くらやみ)でイキナリ頭をドヤシ付けられたように感じたろう。
が、二葉亭は革命党の無力を見縊っていても、その無思慮な軽率なヤリ口に感服しなくてもまるきり革命が起るのを洞観しないじゃなかった。「露西亜は今噴火坑上に踊ってる。幸い革命党に人物がないから太平を粧(よそお)っていられるが、何年か後には必ず意外の機会から全露を大混乱に陥れる時がある」とはしばしば云(い)い云いした。「その時が日本の驥足(きそく)を伸ぶべき時、自分が一世一代の飛躍を試むべき時だ」と畑水練(はたけすいれん)の気焔(きえん)を良く挙げたもんだ。
果然革命は欧洲戦を導火線として突然爆発した。が、誰も多少予想していないじゃないが余り迅雷疾風的だったから誰も面喰(めんくら)ってしまった。その上、東京の地震の火事と同様、予想以上に大きくなったのでいよいよ面喰ってしまった。日本は二葉亭の注文通りにこの機会に乗じて驥足を伸べるどころか、火の子を恐れて縮こまって手も足も出ないでいる。偶々(たまたま)チョッカイを出しても火傷(やけど)をするだけで、動(や)やともすると野次馬(やじうま)扱いされて突飛ばされたりドヤされたりしている。これでは二葉亭が一世一代の芝居を打とうとしても出る幕がないだろう。
だが、実をいうと二葉亭は舞台監督が出来ても舞台で踊る柄(がら)ではなかった。縦令(たとい)舞台へ出る役割を振られてもいよいよとなったら二の足を踏むだろうし、踊って見ても板へは附くまい。が、寝言(ねごと)にまでもこの一大事の場合を歌っていたのだから、失敗(やりそこな)うまでもこの有史以来の大動揺の舞台に立たして見たかった。
ヨッフェが来た時、二葉亭が一枚会合に加わっていたらドウだったろう。あの会合は本尊が私設外務大臣で、双方が探り合いのダンマリのようなもんだったから、結局が百日鬘(ひゃくにちかずら)と青隈(あおぐま)の公卿悪(くげあく)の目を剥(む)く睨合(にらみあ)いの見得(みえ)で幕となったので、見物人はイイ気持に看惚(みと)れただけでよほどな看功者(みごうしゃ)でなければドッチが上手か下手か解らなかった。あアいう型に陥(はま)った大歌舞伎(おおかぶき)では型の心得のない素人(しろうと)役者では見得を切って大向(おおむこ)うをウナらせる事は出来ないから、まるきり型や振事(ふりごと)の心得のない二葉亭では舞台に飛出しても根ッから栄(は)えなかったろうが、沈惟敬(しんいけい)もどきの何とかいう男がクロンボを勤めてるよりも舞台を引緊めたであろう。
とは思うものの、二葉亭は舞台の役を振られて果して躍り出すだろう乎。空想はかなり大きく、談論は極めて鋭どかったが、率(い)ざ問題にブツかろうとするとカラキシ舞台度胸がなくて、存外|※[口+咨]咀(しそ)逡巡(しゅんじゅん)して容易に決行出来なかった。実行家となるには二葉亭は余りに思慮が細か過ぎた。右から左から縦から横から八方から只見(とみ)うこう見て卯(う)の毛で突いたほどの隙もないまでに考え詰めてからでないと何でも実行出来なかった。実行家の第一資格たる向う見ずに猪突(ちょとつ)する大胆を欠いていた。勢い躍り出すツモリでいても出遅れてしまう。機会は何度(なんたび)来ても出足が遅いのでイツモ機会を取逃がしてしまう。存命していても二葉亭はやはりとつおいつ千思万考しつつ出遅れて、可惜(あったら)多年一剣を磨した千載(せんざい)の好機を逸してしまうが落(おち)であるかも解らん。
が、それでも活(い)かして置きたかった。アレカラ先き当分露国に滞留して革命にも遭逢し、労農政府の明暗両方面をも目睹(もくと)したなら、その露国観は必ず一転回して刮目(かつもく)すべきものがあったであろう。舞台の正面を切る役者になるならぬは問題でなくして、左(と)に右(か)く二葉亭をしてこの余りに大き過ぎて何人にも予想出来なかった露西亜の大変動に直面せしめたかった。 
 
二 二葉亭は実は旧人

 

二葉亭は露国文化の注入者としては先駆者であった。プーシキンやゴンチャローフやドストエフスキーや露西亜の近代の巨星の名什(めいじゅう)を耽読(たんどく)したのが四十年前で、ツルゲーネフの断章を初めて日本に翻訳紹介したのが三十六年前であった。その頃は日本ばかりでなくて欧羅巴(ヨーロッパ)ですらが露西亜を北欧の半開民族視していたから、露西亜の文化なぞは問題とならなかった。露西亜の文学がポツポツ欧羅巴の大陸語に翻訳され出したのはやはり同じ頃からで、何一つ欧羅巴に遅れを取らないものはない日本の文化事業の中でただ一つ露西亜の文学の紹介に率先(縦令(たとい)その後を続けるものが暫らくなかったにしろ)したというは二葉亭あったがためであった。
が、新らしい露西亜の文芸の研究者、精通者、紹介者としては二葉亭は実に輝いた先駆者であったが、元来露西亜の思想なるものは極めてオーソドックスな官僚的階級差別心と頗る放縦なユートピヤ的空想とあるのみで、近代自由思想の糧とすべきものに乏しかったから、二葉亭は芸術的に露西亜の勝(すぐ)れた世界的大作に負う処があっても思想的に露西亜から学ぶべき何物をも与えられなかった。随(したが)って少年時代から魏叔子や陸宣公で培(つちか)われた頭は露西亜の文学の近代的気分に触れてもその中に盛られた自由思想を容れるには余りに偏固になり過ぎていた。
二葉亭が小説家型よりは国士型であるというは生前面識があった人は皆認める。この国士型というは維新前後から明治初期へ掛けての青年の通有であって、二葉亭に限らず同年配のものは皆国士を理想とした。本党の床次(とこなみ)、現閣の浜口、皆学校時代から国士を任じていた。当時の青年が政治に志ざしたのは皆国士を標的としたからで、坪内博士の如く初めから劇や小説を生涯の仕事とする決心で起(た)ったものは異数であった。徳冨蘆花(とくとみろか)が『ほととぎす』に名を成した後の或る時「我は小説家たるを恥とせず」とポーロ擬(もど)きに宣言したのはやはり文人としての国士的表現であった。町人宗の開山|福沢(ふくざわ)翁が富の福音を伝道しつつも士魂商才を叫んだ如く、当時の青年はコンパスや計算尺を持つ技師となっても、前垂掛(まえだれが)けで算盤(そろばん)を持っても、文芸に陶酔してペンを持っても、国士という桎梏(しっこく)から全く解放されたものは先ずなかった。身、欧羅巴の土を踏んで香水気分に浸ったものでも頭の中では上下(かみしも)を着て大小を佩(さ)していた。
二葉亭もやはり、夙(はや)くから露西亜の新らしい文芸の洗礼を受けていても頭の中では上下を着て大小を佩していた。聡明の人だから近代思想にも十分な理解を持っていたが、若い自由な思想に活きるよりはヨリ以上に国士的壮図の夢を見ていた。文学的天才に恵まれていながら文学に気乗りがせず、トルストイやドストエフスキーの偉大を認めつつも較(や)やもすれば軽侮する口気を洩(も)らし、文学の尊重を認めるという口の下から男子|畢世(ひっせい)の業とするに足るや否やを疑うという如きは皆国士の悪夢の囈語(うわごと)であった。
二葉亭は児供(こども)の時は陸軍大将を理想として士官学校を志願までした。不幸にして不合格となったので、軍人を断念して外交方面へ方向を転じたが、学校が思うようにならず、その上に一家の事情が纏綿(てんめん)して、三方四方が塞がったから仕方がなしに文学に趨(はし)ったので、初一念(しょいちねん)の国士の大望は決して衰えたのでも鈍ったのでもなかった。語学校に教授を執った時もタダの語学教師たるよりは露西亜を対照としての天下国家の経綸(けいりん)を鼓吹したので、松下村塾の吉田松陰を任じていた。それ故に同じ操觚(そうこ)でも天下の木鐸(ぼくたく)としての新聞記者を希望して、官報局を罹(や)めた時既に新聞記者たらんとして多少の運動をもした位だから、朝日の通信員として露西亜へ上途した時は半世の夙志(しゅくし)が初めて達せられる心地がして意気満盛、恐らくその心事に立入って見たら新聞通信員を踏台(ふみだい)として私設大使を任ずる心持であったろう。が、二葉亭の頭は活きた舞台に立つには余りに繊細|煩瑣(はんさ)に過ぎていた。北京(ペキン)に放浪して親友川島浪速の片腕となって亜細亜(アジア)の経綸を策した時代は恐らく一生の中の得意の絶頂であったろうが、余りに潔癖過ぎ詩人過ぎて、さしたる衝突もないのに僚友の引留むるを振払って帰朝してしまった。川島は満洲朝の滅亡と共に雄図|蹉※[足へん+它](さた)し、近くは直隷軍の惨敗の結果が宣統帝の尊号|褫奪(ちだつ)宮城明渡しとなって、時事日に非なりの感に堪えないで腕を扼(やく)しているだろうが、依然信州の山河に盤踞(ばんきょ)して嵎(ぐう)を負うの虎の如くに恐れられておる。渠は実に当世に珍らしい三国志的人物であるが、渠と義を結んで漢の天下を復する計を立つるには二葉亭は余りに近代的思想を持ち過ぎていた。シカモ近代人となるにはまた余りに古風な国士的風懐があり過ぎていた。この鳥にも獣にもドッチにもなり切る事が出来ない性格の矛盾が何をするにも二葉亭のキャリヤの障碍(しょうがい)となった。
二葉亭と交際した二十年間、或る時は殆(ほと)んど毎日往来した。終日あるいは夜を徹して語り明かした事もあった。が、お互いの打明けた談合の外は話題はイツデモ政治談や対外策、人生問題や社会問題に限られて滅多に文学に触れなかった。偶々文学談をしてもゴーゴリやツルゲーネフでなければ芭蕉や西行(さいぎょう)、京伝や三馬らの古人の批評で、時文や文壇の噂(うわさ)には余り興味を持たなかった。どうかすると紅葉や露伴や文壇人の噂をする事も時偶(ときたま)はあったが、舞台の役者を土間(どま)や桟敷(さじき)から見物するような心持でいた。
『浮雲』以後は暫らく韜晦(とうかい)して文壇との交渉を絶ち、文壇へ乗出す初めに提携した坪内博士とすら遠ざかっていた。が、再びポツポツ翻訳を初めてから新聞雑誌記者や文壇人が頻繁(ひんぱん)に出入し初めた。二葉亭が二度の文人生活を初めたのは全く糊口(ここう)のためで文壇的野心が再燃したわけでなく、ドコまでもシロウトの内職の心持であった。本職の文壇人として、舞台あるいは幕裏のあるいは楽屋(がくや)の人間として扱われるのを痛(ひど)くイヤがっていた。「文壇の名士が来てはツルゲーネフのトルストイのと持掛けられるにはクサクサする」と苦り切っていた。
『浮雲』を書いた時は真に血みどろの真剣勝負であった。『あいびき』や『めぐりあい』を訳した時は一刀三礼の心持で筆を執っていた。それにもかかわらず、後には若気(わかげ)の過失(あやまち)で後悔しているといった。自分には文学的天分がないと謙下(へりくだ)りながらもとかくに大天才と自分自身が認める文豪をさえ茶かすような語気があった。万更(まんざら)文学の尊重を認めないどころか、現代文化における文芸の位置を十分知り抜いているくせに、頭の隅のドコかで文学を遊戯視して男子畢世の業とするに足るか否かを疑っていた。二葉亭の理智の認める処を正直にいわせれば世界における文学芸術の位置なぞは問題ではないのだが、儒教や武家の教養から文芸を雕虫(ちょうちゅう)末技視して軽侮する思想が頭の隅のドコかに粘(へば)り着いていて一生文人として終るを何となく物足らなく思わした。ゴーゴリやツルゲーネフの洗礼を受けても魏叔子や陸宣公で鍜(きた)え上げた思想がイツマデも抜け切らないで、二葉亭の行くべき新らしい世界に眼を閉ざさした。二葉亭は近代思想の聡明な理解者であったが、心の底から近代人になれない旧人であったのだ。
 
三 二葉亭は長生きしても終生煩悶の人

 

それなら二葉亭は旧人として小説を書くに方(あた)っても天下国家を揮廻(ふりまわ)しそうなもんだが、芸術となるとそうでない。二葉亭の対露問題は多年の深い研究とした夙昔(しゅくせき)の抱負であったし、西伯利(シベリア)から満洲を放浪し、北京では中心舞台に較(や)や乗出していたし、実行家としてこそさしたる手腕を示しもせず、また手腕がなかったかも知れぬが、頭の中の経綸は決して空疎でなかった。もし小説に仮托するなら矢野龍渓や東海散士の向うを張って中里介山(なかざとかいざん)と人気を争うぐらいは何でもなかったろう。二葉亭の頭と技術とを以て思う存分に筆を揮ったなら日本のデュマやユーゴーとなるのは決して困難でなかったろう。が、芸術となると二葉亭はこの国士的性格を離れ燕趙(えんちょう)悲歌的傾向を忘れて、天下国家的構想には少しも興味を持たないでやはり市井情事のデリケートな心理の葛藤(かっとう)を題目としている。何十年来シベリヤの空を睨(にら)んで悶々(もんもん)鬱勃(うつぼつ)した磊塊(らいかい)を小説に托して洩らそうとはしないで、家常茶飯的の平凡な人情の紛糾に人生の一臠(いちれん)を探して描き出そうとしている。二葉亭の作だけを読んで人間を知らないものは恐らく世間並の小説家以上には思わないだろうし、また人間だけを知ってその作を読まないものは、二葉亭を小説家であると聞いて必ず馬琴の作のようなものを聯想せずにはいられないだろう。
こうした根本の性格矛盾が始終二葉亭の足蹟に累を成していた。最(も)一つ二葉亭は洞察が余り鋭ど過ぎた、というよりも総(すべ)てのものを畸形的(きけいてき)立体式に、あるいは彎曲的|螺旋式(らせんしき)に見なければ気が済まない詩人哲学者通有の痼癖(こへき)があった。尤もこういう痼癖がしばしば大きな詩や哲学を作り出すのであるが、二葉亭もまたこの通有癖に累(わずら)いされ、直線に屈曲を見出し平面に凹凸を捜し出して苦(くるし)んだり悶いたりした。坦々(たんたん)砥(と)の如き何|間(げん)幅(はば)の大通路を行く時も二葉亭は木の根|岩角(いわかど)の凸凹(でこぼこ)した羊腸折(つづらおり)や、刃(やいば)を仰向けたような山の背を縦走する危険を聯想せずにはいられなかった。日常家庭生活においても二葉亭の家庭は実の親子夫婦の水不入(みずいらず)で、シカモ皆好人物|揃(ぞろ)いであったから面倒臭いイザコザが起るはずはなかったが、二葉亭を中心としての一家の小競合(こぜりあ)いは絶間(たえま)がなくてバンコと苦情を聴かされた。二葉亭の言分(いいぶん)を聞けば一々モットモで、大抵の場合は小競合いの敵手の方に非分があったが、実は何でもない日常の些事(さじ)をも一々解剖分析して前後表裏から考えて見なければ気が済まない二葉亭の性格が原因していた。一と口にいえば二葉亭は家庭の主人公としては人情もあり思遣(おもいやり)も深かったが、同時に我儘(わがまま)な気難(きむず)かし屋であった。が、二葉亭のこの我儘な気難かし屋は世間普通の手前勝手や肝癪(かんしゃく)から来るのではなくて、反覆熟慮して考え抜いた結果の我儘であり気難かし屋であったのだ。
二葉亭は一時哲学に耽(ふけ)った事があったが、その哲学の根柢は懐疑で、疑いがあるから哲学がある、疑いがなくて仮定の名の下に或る前提を定めて掛るなら最うドグマであって哲学でないといっていた。が、一切の前提を破壊してしまったならドコまで行っても思索は極まりなく、結局は出口のない八幡(やわた)知(し)らずへ踏込んだと同じく、一つ処をドウドウ廻(めぐ)りするより外はなくなる。それでは阿波(あわ)の鳴門(なると)の渦(うず)に巻込まれて底へ底へと沈むようなもんで、頭の疲れや苦痛に堪え切れなくなったので、最後に盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)のように取捉(とりつか)まえたのが即ちヒューマニチーであった。が、根柢に構(よこた)わってるのが懐疑だから、動(や)やともするとヒューマニチーはグラグラして、命の綱と頼むには手頼甲斐(たよりがい)がなかった。けれども大船(おおふね)に救い上げられたからッて安心する二葉亭ではないので、板子(いたご)一枚でも何千|噸(トン)何万噸の浮城(フローチング・キャッスル)でも、浪と風との前には五十歩百歩であるように思えて終に一生を浪のうねうねに浮きつ沈みつしていた。
政治や外交や二葉亭がいわゆる男子畢世の業とするに足ると自ら信じた仕事でも結局がやはり安住していられなくなるのは北京の前轍(ぜんてつ)に徴しても明(あきら)かである。最後のペテルスブルグ生活は到着早々|病臥(びょうが)して碌々見物もしなかったらしいが、仮に健康でユルユル観光もし名士との往来交歓もしたとしても二葉亭は果して満足して得意であったろう乎(か)。二葉亭は以前から露西亜を礼讃していたのではなかった。来て見れば予期以上にいよいよ幻滅を感じて、案外|与(くみ)しやすい独活(うど)の大木だとも思い、あるいは箍(たが)の弛(ゆる)んだ桶(おけ)、穴の明(あ)いた風船玉のような民族だと愛想を尽かしてしまうかも解らない。当座の中(うち)こそ訪問や見物に忙がしく、夙昔の志望たる日露の問題に気焔を吐きもしようし努力もするだろうが、暫らくしたら多年の抱懐や計画や野心や宿望が総(すべ)て石鹸玉(シャボンだま)の泡のように消えてしまって索然とするだろう。欧洲戦が初まる前までどころか、恐らく二、三年も露都に過ごしたらクサクサしてとても辛抱出来なくなるだろう。
所詮(しょせん)二葉亭は常に現状に満足出来ない人であった。絶間なく跡から跡からと煩悶を製造しては手玉に取ってオモチャにする人であった。二葉亭がかつて疑いがあるから哲学で、疑いがなくなったら哲学でなくなるといった通りに、悶えるのが二葉亭の存在であって、悶えがなくなったら二葉亭でなくなる。命のあらん限り悶えから悶えへと一生悶えを追って悶え抜くのが二葉亭である。『浮雲』の文三が二葉亭の性格の一部のパーソニフィケーションであるのは二葉亭自身から聴いていた。煩悶の内容こそ違え、二葉亭はあの文三と同じように疑いから疑いへ、苦(くるし)みから苦みへ、悶えから悶えへと絶間なく藻掻(もが)き通していた。これが即ち二葉亭の存在であって、長生きしたからって二葉亭の生涯には恐らく「満足」や「安心」や「解決」や「落着」は決して見出されなかったろう。 
 
四 二葉亭は失敗の英雄

 

二葉亭は失敗の英雄であった。小説家としては未成の巨人であった。事業家としてドレほどの手腕があったかは疑問であるが、事を侶(とも)にした人の憶出(おもいで)を綜合して見ると相当の策もあり腕もあったらしく、万更(まんざら)な講釈屋ばかりでもなかったようだ。実をいうと実務というものは台所の権助(ごんすけ)仕事で、馴れれば誰にも出来る。実務家が自から任ずるほどな難かしいものではない。ところが日本では昔から法科万能で、実務上には学者を疎(うと)んじ読書人を軽侮し、議論をしたり文章を書いたり読書に親(したし)んだりするとさも働きのない低能者であるかのように軽蔑(けいべつ)されあるいは敬遠される。二葉亭ばかりが志を得られなかったのではない。パデレフスキーも日本に生れたら大統領は魯(おろ)か文部の長官にだって選ばれそうもない。ダンヌンチオも日本だったら義兵を募る事も軍資を作る事も決して出来なかったろう。西洋では詩人や小説家の国務大臣や商売人は一向珍らしくないが、日本では詩人や小説家では頭から対手(あいて)にされないで、国務大臣は魯か代議士にだって選出される事は覚束(おぼつか)ない。こういう国に二葉亭の生れたのは不運だった。
小説家としても『浮雲』は時勢に先んじ過ぎていた。相当に売れもし評判にもなったが半ばは合著の名を仮した春廼舎(はるのや)の声望に由(よ)るので、二葉亭としては余りありがたくもなかった。数ある批評のどれもが感服しないのはなかったが、ドレもこれも窮所を外(はず)れて自分の思う坪に陥ったのが一つもなかったのは褒められても淋しかった。『其面影』や『平凡』は苦辛したといっても二葉亭としては米銭の方便であって真剣でなかった。褒められても貶(けな)されても余り深く関心しなかったろうし、自ら任ずるほどの作とも思っていなかった。
正直にいったら『浮雲』も『其面影』も『平凡』も皆未完成の出来損(できそこ)ないである。あの三作で文人としての名を残すのは仮令(たとい)文人たるを屑(いさぎよ)しとしなくてもまた遺憾であったろう。
結局二葉亭は日本には余り早く生れ過ぎた。もし欧羅巴だったら小説家としても相応に優遇され、二葉亭もまた文人たるを甘んずる事が出来たであろう。
   (大正十四年一月『女性』一部登載) 
 
二葉亭余談 / 内田魯庵

 

一 二葉亭との初対面 
私が初めて二葉亭と面会したのは明治二十二年の秋の末であった。この憶出(おもいで)を語る前に順序として私自身の事を少しくいわねばならない。
これより先き二葉亭の噂(うわさ)は巌本撫象(いわもとぶしょう)から度々聞いていた。巌本は頻(しき)りに二葉亭の人物を讃歎して、「二葉亭は哲学者である、シカモ輪廓の大なる人物である、」と激称していた。『浮雲』は私の当時の愛読書の一つで、『あいびき』や『めぐりあい』をも感嘆して何度も反覆していたから是非一度は面会したいと思いながらも機会を得なかった。
その頃私が往来していた文壇の人はいくばくもなかった。紅葉美妙以下硯友社諸氏の文品才藻には深く推服していたが、元来私の志していたのは経済であって、文学の如きは閑余の遊戯としか思っていなかった。平たくいうと、当時は硯友社中は勿論、文学革新を呼号した『小説神髄』の著者といえども今日のように芸術を深く考えていなかった。ましてや私の如きただの応援隊、文壇のドウスル連(れん)というようなものは最高文学に対する理解があるはずがなかった。面白ずくに三馬や京伝や其磧(きせき)や西鶴(さいかく)を偉人のように持上げても、内心ではこの輩が堂々たる国学または儒林の先賢と肩を列(なら)べる資格があるとは少しも思っていなかった。渠(かれ)らの人物がどうのこうのというよりはドダイ小説や戯曲を尊重する気がしなかった。坪内逍遥や高田半峰の文学論を読んでも、議論としては感服するが小説その物を重く見る気にはなれなかった。
私が初めて甚深(じんしん)の感動を与えられ、小説に対して敬虔(けいけん)な信念を持つようになったのはドストエフスキーの『罪と罰』であった。この『罪と罰』を読んだのは明治二十二年の夏、富士の裾野(すその)の或る旅宿に逗留(とうりゅう)していた時、行李(こうり)に携えたこの一冊を再三再四反覆して初めて露西亜小説の偉大なるを驚嘆した。
私は詞藻の才が乏しかったから、初めから文人になれようともまたなろうとも思わなかった。が、小説雑著は児供(こども)の時から好きでかなり広く渉猟していた。その頃は普通の貸本屋本は大抵読尽して聖堂図書館の八文字屋本を専ら漁(あさ)っていた。西洋の物も少しは読んでいた。それ故、文章を作らしたらカラ駄目で、とても硯友社の読者の靴(くつ)の紐(ひも)を結ぶにも足りなかったが、其磧以後の小説を一と通り漁り尽した私は硯友社諸君の器用な文才には敬服しても造詣(ぞうけい)の底は見え透いた気がして円朝の人情|噺(ばなし)以上に動かされなかった。古人の作や一知半解ながらも多少|窺(うかが)った外国小説(その頃ゾラやドウデも既に読んでいた)でも全幅を傾倒するほどの感に打たれるものには余り多く出会わなかったから、私の文学に対するその頃の直踏(ねぶみ)は余り高くはなかった。
然るに『罪と罰』を読んだ時、あたかも曠野(こうや)に落雷に会うて眼|眩(くら)めき耳|聾(し)いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。こういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。その時の私の心持は『罪と罰』を措いて直ちにドストエフスキーの偉大なる霊と相抱擁するような感に充(み)たされた。
それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった。それまでは文学を軽視し、内心「|時間潰し(キルタイム)」に過ぎない遊戯と思いながら面白半分の応援隊となっていたが、それ以来かくの如き態度は厳粛な文学に対する冒涜(ぼうとく)であると思い、同時に私のような貧しい思想と稀薄(きはく)な信念のものが遊戯的に文学を語るを空恐ろしく思った。
同時に私は二葉亭を憶出した。巌本撫象が二葉亭は哲学者であるといったのを奇異な感じを以て聞いていたが、ドストエフスキーの如き偉大な作家を産んだ露国の文学に造詣する二葉亭は如何なる人であろうと揣摩(しま)せずにはいられなかった。
これより先き、私はステップニャツクの『アンダーグラウンド・ラシヤ』を読んで露国の民族性及び思想に興味を持ち、この富士の裾野に旅した時も行李の中へ携えて来たが、『罪|与(と)罰』に感激すると同時にステップニャツクを想い起し、かつ二葉亭をも憶い浮べた。
今考えると、ステップニャツクと二葉亭とを結び付けるというは奇妙であるが、その時は同型でなくとも何処(どこ)かに遠い親類ぐらいの共通点があるように思っていた。ステップニャツクの肖像や伝記はその時分まだ知らなかったが、精悍(せいかん)剛愎(ごうふく)の気象が満身に張切(はりき)ってる人物らしく推断して、二葉亭をもまた巌本からしばしば「哲学者である」と聞いていた故、哲学者風の重厚|沈毅(ちんき)に加えて革命党風の精悍剛愎が眉宇(びう)に溢(あふ)れている状貌(じょうぼう)らしく考えていた。左(と)に右(か)く多くの二葉亭を知る人が会わない先きに風采閑雅な才子風の小説家型であると想像していたと反して、私は初めから爾(そ)うは思っていなかった。
秋の末に帰京すると、留守中の来訪者の名刺の中に意外にも長谷川辰之助の名を発見してあたかも酸(す)を懐(おも)うて梅実を見る如くに歓喜し、その翌々日の夕方初めて二葉亭を猿楽町に訪問した。
丁度日が暮れて間もなくであった。座敷の縁側を通り過ぎて陰気な重苦しい土蔵の中に案内されると、あたかも方頷(ほうがん)無髯(むぜん)の巨漢が高い卓子(テーブル)の上から薄暗いランプを移して、今まで腰を掛けていたらしい黒塗の箱の上の蒲団(ふとん)を跳退(はねの)けて代りに置く処だった。
一応初対面の挨拶(あいさつ)を済まして部屋の四周を見廻した。薄暗いランプの蔭に隠れて判然(はっきり)解(わか)らなかったが、ランプを置いた小汚ない本箱の外には装飾らしい装飾は一つもなく、粗末な卓子に附属する椅子さえなくして、本箱らしい黒塗の剥(は)げた頃合(ころあい)の高さの箱が腰掛ともなりランプ台ともなるらしかった。美妙斎や紅葉の書斎のゴタクサ書籍を積重ねた中に変梃(へんてこ)な画や翫弄物(おもちゃ)を列(なら)べたと反して、余りに簡単過ぎていた。
風采は私の想像と余りに違わなかった。沈毅な容貌に釣合う錆(さび)のある声で、極めて重々しく一語々々を腹の底から搾(しぼ)り出すように話した。口の先きで喋(しゃ)べる我々はその底力(そこぢから)のある音声を聞くと、自分の饒舌(じょうぜつ)が如何にも薄ッぺらで目方がないのを恥かしく思った。
何を咄(はな)したか忘れてしまったが、今でも頭脳に固く印しているのは、その時卓子の上に読半(よみさ)しの書籍が開いたまま置かれてあったのを何であると訊(き)くと、二葉亭は極めて面羞(おもはゆ)げな顔をして、「誠にお恥かしい事で、今時分(いまじぶん)漸(やっ)と『種原論(オリジン・オブ・スペシース)』を読んでるような始末で、あなた方(がた)英書をお読みになる方(かた)はこういう名著を早くから御覧になる事が出来るが、露西亜には文学書の外何にもないので三歳子(みつご)も知ってる名著に今時分漸とこさと噛(かじ)り付いているような次第で、」とさも恥入るという容子だった。それから三十年経った今でさえ尚(ま)だダアウィンを覗(のぞ)かない私は今でも憶出すと面目ないが、なお更その時は消え入りたいような気持がした。
その時私より三、四十分も遅れて大学の古典漢文科の出身だというYが来問した。この人の口から日本将来の文章という問題が提起された。その時の二葉亭の答が、今では発揮(はき)と覚えていないが、何でもこういう意味であった。「一体文章の目的は何である乎(か)。真理を発揮するのが文章の目的乎、人生を説明するのが文章の目的乎、この問題が決しない中(うち)は将来の文章を論ずる事は出来ない。この問題が定まれば乃(すなわ)ちその目的を達するに最も近い最も適する文章が自(おの)ずから将来の文体となるのである――」という趣旨であった。
この答には私は意外の感に打たれた。当時私はスペンサーの文体論を初め二、三の著名な文章説を読んでいたが、こういう意味の文章論をいわゆる小説家の口から聴こうとは夢にも思っていなかった。問題の提出者たる古典科出身のYは不可解な顔をして何ともいわなかった。
ドストエフスキーを読んで落雷に出会ったような心地のした私は更に二葉亭に接して千丈の飛瀑(ひばく)に打たれたような感があった。それまで実は小説その他のいわゆる軟文学をただの一時の遊戯に過ぎないとばかり思っていたのだが、朧(おぼ)ろ気(げ)ながらも人生と交渉する厳粛な森厳な意味を文学に認めるようになったのはこの初対面に由(よっ)て得た二葉亭の賜物であって、誰に会った時よりも二葉亭との初対面が最も深い印象を残した。
 
二 津の守の女の写真屋

 

たしか明治二十四年頃であった、二葉亭は四谷(よつや)の津(つ)の守(かみ)の女の写真屋の二階に下宿した事があった。写真屋というと気が利(き)いているが、宿場|外(はず)れの商人宿めいたガサガサした下等な家で、二葉亭の外にも下宿人があったらしく、写真屋が本業であった乎、下宿屋が本業であった乎、どちらとも解らない家であった。
秋の一夜偶然尋ねると、珍らしく微醺(びくん)を帯びた上機嫌であって、どういう話のキッカケからであったか平生(いつも)の話題とは全(まる)で見当違いの写真屋論をした。写真屋の資本の要(い)らない話、資本も労力も余り要らない割合には楽に儲(もう)けられる話、技術が極めて簡単だから女にでも、少し器用なら容易に覚えられる話、写真屋も商売となると技術よりは客扱いが肝腎だから、女の方がかえって愛嬌(あいきょう)があって客受けがイイという話、ここの写真屋の女主人(おんなあるじ)というは後家(ごけ)さんだそうだが相応に儲かるという咄(はなし)、そんな話を重ねた挙句(あげく)が、「官吏も面白くないから、女の写真屋でも初めて後見をやろうかと思う、」と取っても附かない事を言出した。
「女の写真屋は面白い。が、あるかネ、技師になる適当の女が?」というと、さもこそといわぬばかりに、「ある、ある、打って付けのお誂(あつら)え向きという女がある。技術はこれから教育(しこ)まにゃならんが、技術は何でもない。それよりは客扱い――髯(ひげ)の生(は)えた七難(しちむつ)かしい軍人でも、訳の解らない田舎の婆(ばあ)さんでも、一視同仁に手の中に丸め込む客扱いと、商売上の繰廻(くりまわ)しをグングン押切って奮闘する勝気(かちき)が必要なんだが、幸い人生の荒波の底を潜(くぐ)って活(い)きた学問をして来た女がある」と、それから今の女の教育が何の役にも立たない事、今の女の学問が紅白粉(べにおしろい)のお化粧同様である事、真の人間を作るには学問教育よりは人生の実際の塩辛い経験が大切である事、茶屋女とか芸者とかいうような下層に沈淪(ちんりん)した女が案外な道徳的感情に富んでいて、率(いざ)という場合|懐(ふとこ)ろ育ちのお嬢さんや女学生上りの奥さんよりも遥(はるか)に役に立つ事を諄々(じゅんじゅん)と説き、「女丈夫(じょじょうふ)というほどでなくとも、こういう人生の荒浪を潜り抜けて来た女でなくては男の真の片腕とするには足りない」と、何処の女であるか知らぬが近頃際会したという或る女の身の上咄をして、「境涯が境涯だから人にも賤(いや)しめられ侮られているが、世間を呑込(のみこ)んで少しも疑懼(ぎく)しない気象と、人情の機微に通ずる貴い同情と――女学校の教育では決して得られないものを持ってる。こういう女に多少の学問と独立出来る職業を与えたら、虚栄に憧(あこ)がれる今の女学校出の奥さんよりは遥に勝(まさ)った立派な女が出来る、」と意気込んで咄した。
この結論に達するまでの理路は極めて井然(せいぜん)としていたが、ツマリ泥水稼業(どろみずかぎょう)のものが素人(しろうと)よりは勝っているというが結論であるから、女の看方(みかた)について根本の立場を異にする私には一々承服する事が出来なかった。が、議論はともあれ、初めは微酔気味(ほろよいぎみ)であったのが段々真剣になって低い沈んだ調子でポツリポツリと話すのが淋しい秋の寂寞(せきばく)に浸(し)み入るような気がして、内心承服出来ない言葉の一つ一つをシンミリと味(あじわ)わせられた。
「その女をどうしようッてのだい?」
「どうする意(つもり)もないが、境遇のため眠ってるヒューマニチーの眼を覚まさせるため、真面目(まじめ)な職業なり学問なりを与えてやりたいのだ」と、女の咄から発して人生論となり、コントのポジティヴィズムに説き及ぼし、蜘蛛(くも)が巣を作るように段々と大きな網を広げて、終(つい)にはヒューマニチーの大哲学となった。女の写真屋を初めるというのも、一人の女に職業を与えるためというよりは、救世の大本願を抱く大聖が辻説法の道場を建てると同じような重大な意味があった。
が、その女は何者である乎、現在何処にいる乎と、切込んで質問すると、「唯(ほん)の通り一遍の知り合いだからマダ発表する時期にならない、」とばかりで明言しなかった。が、「一見して気象に惚(ほ)れ込んだ、共に人生を語るに足ると信じたのだ、」と深く思込んだ気色(けしき)だった。
折々――というよりは煩(うる)さく、多分下宿屋の女中であったろう、十二階下とでもいいそうな真白(まっしろ)に塗り立てた女が現われて来て、茶を汲(く)んだり炭をついだりしながら媚(なまめ)かしい容子(ようす)をして、何か調戯(からか)われて見たそうにモジモジしていた。沈毅な二葉亭の重々しい音声と、こうした真剣な話に伴うシンミリした気分とに極めて不調和な下司(げす)な女の軽い上調子(うわっちょうし)が虫唾(むしず)が走るほど堪(たま)らなく不愉快だった。
十二時近くこの白粉の女が来て、「最(も)う臥(ふ)せりますからお床(とこ)を伸べましょうか、」といった。遅いとは思ったが、初めて時間に気が付いて急いで座を起(た)とうとすると、尚(ま)だ余談が尽きないから泊って行けといいつつ、「お客様の床も持って来てくれ」と吩咐(いいつ)けた。
二葉亭は談話(はなし)が上手(じょうず)でもあったしかつ好きでもあった。が、この晩ぐらい興奮した事は珍らしかった。更(ふ)ければ更けるほど益々身が入って、今ではその咄の大部分を忘れてしまったが、平日(いつも)の冷やかな科学的批判とは全く違ったシンミリした人情の機微に入った話をした。二時となり三時となっても話は綿々として尽きないで、余(あんま)り遅くなるからと臥床(ねどこ)に横になって、蒲団の中に潜(もぐ)ずり込んでしまってもなおこのまま眠(ね)てしまうのが惜しそうであった。「寝よう乎」と寝返りしては復(ま)た暫らくして、「どうも寝られない」と向き直ってポツリポツリと話し出し、とうとう鶏(とり)の音(ね)が聞えて雨戸(あまど)の隙(すき)が白んで来たまでも語り続けた。明るくなったので最(も)う眠(ね)るでもないと床を離れて「それじゃア帰ろう」というと、まだ話が仕足りなさそうな容子で、「どうせ最う眠(ね)られんから運動がてら其辺(そこら)まで送って行こう」とムックリ起上って、そこそこに顔を洗ってから一緒に家を出で、津の守から坂町を下り、士官学校の前を市谷見附(いちがやみつけ)まで、シラシラ明けのマダ大抵な家の雨戸が下りてる中をブラブラと送って来た。八幡の鳥居の傍(そば)まで来て別れようとした時、何と思った乎、「イヤ、昨宵(ゆうべ)は馬鹿ッ話をした、女の写真屋の話は最う取消しだ、」とニヤリと笑いつつ、「飛んでもないお饒舌(しゃべり)をしてしまった!」

その晩の話を綜合して想像すると、境遇のため泥水稼業に堕(お)ちた可哀相な気の毒な女があって、これを泥の中から拾い上げて、中年からでも一人前になれる自活の道を与える意(つもり)で、色々考えた結果がココの女の写真屋の内弟子(うちでし)に住込ませて仕込んでもらってるらしかった。が、※[研のつくり](そ)んな女が果してあったかドウかは知(しら)ない。この晩度々見えた白粉の女がそうらしくも思われたが、マサカに二葉亭が「一見して気象に惚れ込んだ」というほど思い込んだ女があんな下司(げす)な引摺(ひきずり)だとは信じられなかった。女の写真屋の話はそれ切(ぎり)で、その後コッチから水を向けても「アレは空談サ」とばかり一笑に附してしまったから今|以(もっ)て不可解である。二葉亭は多情多恨で交友間に聞え、かなり艶聞(えんぶん)にも富んでいたらしいが、私は二葉亭に限らず誰とでも酒と女の話には余り立入らんから、この方面における二葉亭の消息については余り多く知らない。ただこの一夜を語り徹(あ)かした時の二葉亭の緊張した相貌や言語だけが今だに耳目の底に残ってる。

三 食道楽と無頓着

 

二葉亭には道楽というものがなかった。が、もし強(しい)て求めたなら食道楽であったろう。無論食通ではなかったが、始終(しじゅう)かなり厳(やか)ましい贅沢(ぜいたく)をいっていた。かつ頗(すこぶ)る健啖家であった。
私が猿楽町に下宿していた頃は、直ぐ近所だったので互に頻繁(ひんぱん)に往来し、二葉亭はいつでも夕方から来ては十二時近くまで咄(はな)した。その頃私は毎晩|夜更(よふ)かしをして二時三時まで仕事をするので十二時近くなると釜揚饂飩(かまあげうどん)を取るのが例となっていた。下宿屋の女中を呼んで、頤(あご)をしゃくッて「宜(い)いかい」というと直ぐに合点したもんだ。二葉亭も来る度毎(たんび)に必ずこの常例の釜揚を賞翫したが、一つでは足りないで二つまでペロリと平らげる事が度々(たびたび)であった。
二葉亭の恩師古川常一郎も交友間に聞えた食道楽であった。かつて或る暴風雨の日に俄(にわか)に鰻(うなぎ)が喰(く)いたくなって、その頃名代の金杉(かなすぎ)の松金(まつきん)へ風雨を犯して綱曳(つなひ)き跡押(あとおし)付(つ)きの俥(くるま)で駈付(かけつ)けた。ところが生憎(あいにく)不漁(しけ)で休みの札が掛っていたので、「折角|暴風雨(あらし)の中を遥々(はるばる)車を飛ばして来たのに残念だ」と、悄気返(しょげかえ)って頻(しきり)に愚痴ったので、帳場の主人が気の毒がって、「暫らくお待ち下さいまし」と奥へ相談に行き、「折角ですから一尾(いっぴき)でお宜(よろ)しければ……」といった。「一尾結構、」と古川先生大いに満足して一尾の鰻を十倍|旨(うま)く舌打して賞翫したという逸事がある。恩師の食道楽に感化された乎、将(は)た天禀(てんぴん)の食癖であった乎、二葉亭は食通ではなかったが食物(くいもの)の穿議(せんぎ)がかなり厳(やか)ましかった。或る時一緒に散策して某々知人を番町に尋ねた帰るさに靖国神社近くで夕景となったから、何処かで夕飯を喰おうというと、この近辺には喰うような家がないといって容易に承知しない。それから馬場を通り抜け、九段を下りて神保町(じんぼうちょう)をブラブラし、時刻は最う八時を過ぎて腹の虫がグウグウ鳴って来たが、なかなかそこらの牛肉屋へ入ろうといわない。とうとう明神下の神田川(かんだがわ)まで草臥(くたび)れ足を引摺って来たのが九時過ぎで、二階へ通って例の通りに待たされるのが常より一層待遠しかったが「こうして腹を空(す)かして置くのが美食法の秘訣だ、」と、やがて持って来た大串(おおぐし)の脂(あぶら)ッこい奴をペロペロと五皿(いつさら)平らげた。
私は食物(くいもの)には割合に無頓着(むとんちゃく)であって、何処でも腹が空けばその近所の飲食店で間に合わして置く方であるが、二葉亭はなかなか爾(そ)う行かなかった。いつでも散歩すると意見の衝突を来(きた)すは必ず食事であって、その度毎(たんび)に「食物(くいもの)では話せない」といった。電車の便利のない時分、向島(むこうじま)へ遊びに行って、夕飯を喰いにわざわざ日本橋まで俥を飛ばして行くという難(むず)かし屋であった。
その上に頗る多食家であって、親しい遠慮のない友達が来ると水菓子だの餅菓子だのと三種(みいろ)も四種(よいろ)も山盛りに積んだのを列べて、お客はそっちのけで片端からムシャムシャと間断(しっきり)なしに頬張(ほおば)りながら話をした。殊に蜜柑(みかん)と樽柿(たるがき)が好物で、見る間(ま)に皮や種子を山のように積上げ、「死骸を見るとさも沢山喰ったらしくて体裁が宜(よ)くない、」などと云(い)い云い普通の人が一つ二つを喰う間(あいだ)に五つも六つもペロペロと平らげた。
が、贅沢は食物だけであって、衣服や道具には極めて無頓着であった。私が初めて訪問した時にダーウィンの『種原論』が載っていた粗末な卓子(テーブル)がその後|脚(あし)を切られて、普通の机となって露西亜へ行くまで使用されていた。硯(すずり)も書生時代から持古るしたお粗末のものなら、墨も筆も少しも択ばなかった。机の上は勿論、床(とこ)の間(ま)にさえ原稿紙や手紙|殻(がら)や雑誌や書籍がダラシなくゴタクサ積重ねられ、装飾らしい装飾は一物もなかった。一と口にいうと、地方(いなか)からポッと出(で)の山出(やまだ)し書生の下宿|住(ずま)い同様であって、原稿紙からインキの色までを気にする文人らしい趣味や気分を少しも持たなかった。文房粧飾というようなそんな問題には極めて無頓着であって、或る時そんな咄が出た時、「百万両も儲かったら眼の玉の飛出るような立派な書斎を作るサ、」と事もなげに呵々(からから)と笑った。
衣服にもやはり無頓着であった。煙草(たばこ)が好きで、いつでも煙管(きせる)の羅宇(らお)の破(わ)れたのに紙を巻いてジウジウ吸っていたが、いよいよ烟脂(やに)が溜(たま)って吸口(すいくち)まで滲(にじ)み出して来ると、締めてるメレンスの帯を引裂いて掃除(そうじ)するのが癖で、段々引裂かれて半分近くまでも斜(はす)に削掛(けずりかけ)のように総(ふさ)が下(さが)ってる帯を平気で締めていた。実業熱が長(こう)じて待合入りを初めてから俄かにめかし出したが、或る時羽織を新調したから見てくれと斜子(ななこ)の紋付を出して見せた。かなり目方のある斜子であったが、絵甲斐機(えがいき)の胴裏(どううら)が如何にも貧弱で見窄(みすぼ)らしかったので、「この胴裏じゃ表が泣く、最少(もすこ)し気張(きば)れば宜(よ)かった」というと「何故(なぜ)、昔から羽織の裏は甲斐機に定(きま)ってるじゃないか、」と澄ました顔をしていた。それから、「この頃は二子(ふたこ)の裏にさえ甲斐機を付ける。斜子の羽織の胴裏が絵甲斐機じゃア郡役所の書記か小学校の先生|染(じ)みていて、待合入りをする旦那(だんな)の估券(こけん)に触(さわ)る。思切って緞子(どんす)か繻珍(しゅちん)に換え給え、」(その頃|羽二重(はぶたえ)はマダ流行(はや)らなかった。)というと、「緞子か繻珍?――そりゃア華族様の事(こ)ッた、」と頗る不平な顔をして取合わなかった。丁度同じ頃、その頃|流行(はや)った黒無地のセルに三紋(みつもん)を平縫(ひらぬ)いにした単羽織(ひとえばおり)を能(よ)く着ていたので、「大分渋いものを拵(こしら)えたネ、」と褒(ほ)めると、「この位なものは知ってるサ、」と頗る得々としていた。  
 
四 俗曲趣味

 

二葉亭は江戸ッ子肌であった。あの厳(いかめ)しい顔に似合わず、(野暮(やぼ)を任じていたが、)粋(いき)とか渋いとかいう好みにも興味を持っていて相応に遊蕩(ゆうとう)もした。そういう方面の交際を全く嫌った私の生野暮(きやぼ)を晒(さら)って、「遊蕩も少しはして見ないとホントウの人生が解らんものだ、一つ何処(どっ)かイイ処へ案内しようじゃないか、」と能(よ)く云(い)い云いした。
二葉亭のお父さんは尾州藩だったが、長い間の江戸|詰(づめ)で江戸の御家人(ごけにん)化(か)していた。お母さんも同じ藩の武家生れだったが、やはり江戸で育って江戸風に仕込まれた。両親共に三味線が好きで、殊(こと)にお母さんは常磐津(ときわず)が上手で、若い時には晩酌の微酔(ほろえい)にお母さんの絃(いと)でお父さんが一とくさり語るというような家庭だったそうだ(二葉亭の直話)。江戸の御家人にはこういう芸欲や道楽があって、大抵な無器用なものでも清元(きよもと)や常磐津の一とくさり位は唄(うた)ったもんだ。二葉亭のお父さんも晩酌の膳(ぜん)に端唄(はうた)の一つも唄うという嗜(たしな)みがあったのだから、若い時分には相応にこの方面の苦労をしたろうと思う。この享楽気分の血は二葉亭にもまた流れていた。
その頃の書生は今の青年がオペラやキネマへ入浸(いりびた)ると同様に盛んに寄席(よせ)へ通(かよ)ったもので、寄席芸人の物真似(ものまね)は書生の課外レスンの一つであった。二葉亭もまた無二の寄席党で、語学校の寄宿舎にいた頃は神保町の川竹(その頃は川竹とはいわなかったが)の常連であった。新内(しんない)の若辰(わかたつ)が大の贔負(ひいき)で、若辰の出る席へは千里を遠しとせず通い、寄宿舎の淋しい徒然(つれづれ)には錆(さび)のある声で若辰の節(ふし)を転(ころ)がして喝采(かっさい)を買ったもんだそうだ。二葉亭の若辰の身振(みぶり)声色(こわいろ)と矢崎嵯峨の屋の談志の物真似テケレッツのパアは寄宿舎の評判であった。嵯峨の屋は今は六十何歳の老年でマダ健在であるが、あのムッツリした朴々(ぼくぼく)たる君子がテケレッツのパアでステテコ気分を盛んに寄宿舎に溢(あふ)らしたもんだ。語学校の教授時代、学生を引率して修学旅行をした旅店の或る一夜、監督の各教師が学生に強要されて隠し芸を迫られた時、二葉亭は手拭(てぬぐい)を姉(あね)さん被(かぶ)りにして箒(ほうき)を抱(かか)え、俯向(うつむ)き加減に白い眼を剥(む)きつつ、「処(ところ)、青山百人町の、鈴木|主水(もんど)というお侍(さむら)いさんは……」と瞽女(ごぜ)の坊(ぼう)の身振りをして、平生(ひごろ)小六(こむず)かしい顔をしている先生の意外な珍芸にアッと感服さしたというのはやはり昔し取った杵柄(きねづか)の若辰の物真似であったろう。「謹厳」が洋服を着たような満面苦渋の長谷川辰之助先生がこういう意表な隠し芸を持っていようとは学生の誰もが想像しなかったから呆気(あっけ)に取られたのも無理はない。が、「謹厳」のお化(ばけ)のような先生は尾州人という条、江戸の藩邸で江戸の御家人化した父の子と生れた江戸ッ子であったのだ。
東片町に住(すま)った頃、近所に常磐津を上手に語る家があった。二葉亭は毎晩その刻限を覘(ねら)っては垣根越しに聞きに行った。艶(つや)ッぽい節廻(ふしまわ)しの身に沁(し)み入るようなのに聞惚(ききほ)れて、為永(ためなが)の中本(ちゅうほん)に出て来そうな仇(あだ)な中年増(ちゅうどしま)を想像しては能く噂(うわさ)をしていたが、或る時尋ねると、「時にアノ常磐津の本尊をとうとう突留めたところが、アンマリ見当|外(はず)れでビックリした。仇な年増どころか皺(しわ)だらけのイイ婆アさんサ。あの乾枯(ひから)びたシャモの頸(くび)のような咽喉(のど)からドウしてアンナ艶ッぽい声が出るか、声ばかり聞いてると身体(からだ)が融(と)けるようだが、顔を見るとウンザリする、」といった。が、顔を見るとウンザリしてもその声に陶酔した気持は忘れられないと見えて、その後も時々垣根の外へ聞きに行ったらしかった。『平凡』の一節に「新内でも清元でも上手の歌うのを聞いてると、何だかこう国民の精粋というようなものが髣髴(ほうふつ)としてイキな声や微妙の節廻しの上に現れて、わが心の底に潜む何かに触れて何かが想い出されて何ともいえぬ懐(なつ)かしい心持になる。私はこれを日本国民が二千年来この生を味(あじお)うて得た所のものが間接の思想の形式に由らず直ちに人の肉声に乗って無形のままで人心に来り迫るのだ」とあるは二葉亭のこの間の芸に魅入られた心境を説明しておる。だが、こういうと馬鹿に難かしく面倒臭くなるが、畢竟は二葉亭の頭の隅のドコかに江戸ッ子特有の廃頽(はいたい)気分が潜在して、同じデカダンの産物であるこういう俗曲に共鳴したのであろう。これを日本国民が二千年来この生を味うて得た所のものと国民性に結びつけて難かしく理窟をつける処に二葉亭の国士的|形気(かたぎ)が見える。
だが、同じ日本の俗曲でも、河東節(かとうぶし)の会へ一緒に聴きに行った事があるが、河東節には閉口したらしく、なるほど親類だけに二段聴きだ、アンナものは三味線の揺籃(ようらん)時代の産物だといって根っから感服しなかった。河東節の批評はほぼ同感であったが、私が日本の俗曲では何といっても長唄(ながうた)であると長唄礼讃を主張すると、長唄は奥さん向きの家庭音曲であると排斥して、何といっても隅田河原(すみだがわら)の霞(かすみ)を罩(こ)めた春の夕暮というような日本民族独特の淡い哀愁を誘って日本の民衆の腸(はらわた)に染込(しみこ)ませるものは常磐津か新内の外にはないと反対した。この俗曲論は日本の民族性の理解を基礎として立てた説であるが、一つは両親が常磐津が好きで、児供(こども)の時から聴き馴(な)れていたのと、最一つは下層階級に味方する持前(もちまえ)の平民的傾向から自然にこれらの平民的音曲に対する同感が深かったのであろう。
二葉亭は洋楽には一向趣味がなかった。折に触れて洋楽に対する私の興味を語ると、「洋楽はトッピキピのピだ」と一言に蔑(けな)しつけた。「洋楽にもかなりシンミリしたものがある、ヘイズンかシューベルトのセレナードでも聴いて見給え、かなりシンミリした情調が味える、かつシンミリしたものばかりが美くしい音楽ではないから……」と二、三度音楽会へ誘って見たが、「洋楽は真平(まっぴら)御免だ!」といって応じなかった。桜井女学校の講師をしていた時分、卒業式に招かれて臨席したが、中途にピアノの弾奏が初まったので不快になって即時に退席したと日記に書いてある。晩年にはそれほど偏意地(かたいじ)ではなかったが、左(と)に右(か)く洋楽は嫌いであった。この頃の洋楽流行時代に居合わして、いわゆる鋸(のこぎり)の目を立てるようなヴァイオリンやシャモの絞殺(しめころ)されるようなコロラチゥラ・ソプラノでもそこらここらで聴かされ、加之(おまけ)にラジオで放送までされたら二葉亭はとても助かるまい。苦虫(にがむし)潰(つぶ)しても居堪(いたた)まれないだろう。  
 
五 犬と猫

 

俗曲よりも好きだったのは犬と猫であった。俗曲と家畜を一緒にするのは変であるが二葉亭の趣味問題としていうと、俗曲の方には好き嫌いや註文があって、誰が何を語っても感服したのではなかったが、家畜の方は少しも択(え)り好みがなく、どんな犬でも猫でも平等に愛していた。『浮雲』時代の日記に、「常に馴れたる近隣の飼犬のこの頃は余を見ても尾を振りもせず跟(あと)をも追はず、その傍を打通れば鼻つらをさしのべて臭ひを嗅(か)ぐのみにて余所(よそ)を向く、この頃は※[肴+殳](さかな)を食する事|稀(まれ)なれば残りを食(は)まする事もしばしばあらざればと心の中に思ひたり、ただこう思ひたるばかりにてさして心に留めざりしかど何となく快からず」とあるは犬に与える残※[肴+殳](ざんこう)にだも不自由をして懐(なつ)いた犬に背(そむ)かれたのを心淋しく感じたのであろう。
『平凡』の中の犬の一節は二葉亭の作中屈指の評判物であるが、あれは仲猿楽町時代の飼犬の実話を書いたものである。あの行衛(ゆくえ)知れずになった犬というはポインターとブルテリヤの醜い処を搗交(つきま)ぜたような下等雑種であって、『平凡』にある通りに誰の目にも余り見っとも好(よ)くない厭(いや)な犬であった。『平凡』では棄てられてクンクン鳴いていた犬の子を拾って育て上げたように書いてあるが、事実は役所の帰途(かえりみち)に随(つ)いて来た野良犬(のらいぬ)をズルズルベッタリに飼犬としてしまったので、『平凡』にある通りな狐のような厭な犬であったから、家族は誰も嫌(いや)がって碌々(ろくろく)関(かま)いつけなかった。が、犬ぶりに由て愛憎を二つにしない二葉亭は不便(ふびん)がって面倒を見てやったから、犬の方でも懐いて、二葉亭が出る度毎(たんび)に跟を追って困るので、役所へ行く時は格子(こうし)の中に閉じ込めて何処へも出られないようにして置いた。その留守中は淋しそうにションボリして時々悲しい低い声を出して鳴いていたが、二葉亭が帰って来て格子を開(あ)けると嬉(うれ)しそうに飛付き、框(かまち)に腰を掛けて靴を脱ごうとする膝(ひざ)へ飛上って、前脚を肩へ掛けてはベロベロと頬(ほっ)ぺたを舐(な)めた。「こらこら、そんな所為(まね)をする勿(な)」と二葉亭は柔(やさ)しく制しながらも平気で舐めさしていた。時に由ると、嬉しくて堪らぬように踵(あと)から泥足(どろあし)のまま座敷まで追掛けて来てジャレ付いた。ジャレ付くのが可愛いような犬ではなかったが、二葉亭はホクホクしながら、「こらこら、畳の上が泥になる、」と細い眼をして叱(しか)りつけ、庭先きへ追出しては麺麭(パン)を投げてやった。これが一日の中の何よりの楽(たのし)みであった。『平凡』に「……ポチが私に対(むか)うと……犬でなくなる。それとも私が人間でなくなるのか?……どっちだかそれは解らんが、とにかく相互の熱情熱愛に人畜の差別を撥無(はつむ)して、渾然(こんぜん)として一如となる、」とあるはこの瞬間の心持をいったもんだ。
この犬が或る日、二葉亭が出勤した留守中、お客が来て格子を排(あ)けた途端に飛出し、何処へか逃げてしまってそれ切り帰らなかった。丁度一週間ほど訪(おとな)いも訪われもしないで或る夕方|偶(ふ)と尋ねると、いつでも定(きま)って飛付く犬がいないので、どうした犬はと訊(き)くと、潮垂(しおた)れ返った元気のない声で、「逃げたのか、取られたのか、いなくなってしまった」と、見えなくなった顛末(てんまつ)を語って吻(ほっ)と嘆息(ためいき)を吐(つ)いた。「まるきり踪跡(ゆくえ)が解らんのかい?」と重ねて訊くと、それ以来毎日役所から帰ると処々方々を捜しに歩くが皆目(かいもく)解らない、「多分最う殺されてしまったろう」と悄(しお)れ返っていた。「昨日(きのう)は酒屋の御用が来て、こちらさまのに善(よ)く似た犬の首玉に児供が縄を縛り付けて引摺(ひきず)って行くのを壱岐殿坂(いきどのざか)で見掛けたといったから、直ぐ飛んでって其処(そこ)ら中を訊(き)いて見たが、皆(かい)くれ解らなかった。児供に虐(いじ)め殺された乎、犬殺しの手に掛ったか、どの道モウいないものと断念(あきら)めにゃならない」と、自分の児供を喪(な)くした時でもこれほど落胆すまいと思うほどに弱り込んでいた。家庭の不幸でもあるなら悔みの言葉のいいようもあるが、犬では何と言って慰めて宜(い)いか見当が付かないので、「犬なんてものは何処(どっ)かへ行ってしまったと思うと、飛んでもない時分に戻って来るもんだ。今に必(きっ)と帰って来るよ、」といって見た。が、二葉亭は「イヤ、最う断念(あきら)めた!」と黙り込んでしまったので、この上最早言葉の接穂(つぎほ)がなかった。
その当座は犬の事ばかりに屈托して、得意の人生論や下層研究も余り口に出なかった。あたかも私の友人の家で純粋セッター種の仔(こ)が生れたので、或る時セッター種の深い長い艶々(つやつや)した天鵞絨(ビロード)よりも美くしい毛並(けなみ)と、性質が怜悧(りこう)で敏捷(すばし)こく、勇気に富みながら平生は沈着(おちつ)いて鷹揚(おうよう)である咄(はなし)をして、一匹仔犬を世話をしようかというと、苦々しい顔をして、「イヤ、貰(もら)う気はしない、先妻が死んで日柄(ひがら)が経たない中(うち)に、どんな美人があるからッて後妻を貰う気になれるかい、」と喪くなった醜い犬を追懐して惻々(そくそく)の情に堪えないようだった。
犬よりも最う一倍酷愛していたのは猫であった。皆川町時代から飯田町、東片町の家に出入したものは誰でも知ってる、白いムクムクと肥(ふと)った大きな牝猫(めねこ)が、いつでも二葉亭の膝(ひざ)の廻りを離れなかったものだ。東片町時代には大分|老耄(ろうもう)して居睡(いねむり)ばかりしていたが、この婆さん猫が時々二葉亭の膝へ這上(はいあが)って甘垂(あまった)れ声をして倦怠(けったる)そうに戯(じゃ)れていた。人間なら好(い)い齢(とし)をした梅干婆(うめぼしばあ)さんが十五、六の小娘(こむすめ)の嬌態(しな)を作って甘っ垂れるようなもんだから、小※[さんずい+搖のつくり](こいや)らしくて撲(は)り倒してやりたい処だが、猫だからそれほど妙にも見えないで、二葉亭はお祖父(じい)さんが孫を可愛がるようにホクホクして甘やかしていた。
この猫も本(も)とは皆川町時代に何処からか紛(まぐ)れ込んで来た迷い猫であって、毛並から面付(つらつき)までが余り宜(よ)くなかった。が、二葉亭は、「誰も褒(ほ)めてくれ手がなくても、大事な可愛いい娘だ、」と、猫を抱(かか)えて頬摺りしながら能く言ったもんだ。「人間の標準から見て、猫の容貌(きりょう)が好(い)いの悪いのというは間違ってる、この猫だって誰も褒めてくれ手がなくても猫同士が見たら案外な美人であるかも知れない、その証拠には交孳(さかり)の時には牡猫が多勢(おおぜい)張(は)りに来る、」と。
かつ曰く、「仮に容貌(きりょう)が悪いにしても、容貌の好悪(よしあし)で好き嫌いをするのは真に愛する所以(ゆえん)ではない。自分の娘が醜いからといって親の情愛に変りがないと同様に、猫にだってやはり同じ人情がなければならないはずだ。犬や猫の容貌が好(い)いの悪いのといって好いたり嫌ったりするは人間として実に恥かしい事だ、」と。
二葉亭の家では主人の次には猫が大切(だいじ)にされた。主人の留守に猫に粗※[米+慥のつくり](そそう)があっては大変だといって、家中(うちじゅう)がどれほど猫を荷厄介(にやっかい)にして心配したか知れない。出入(でいり)の八百屋(やおや)の女房が飛んで来て、「大変でござります、唯今こちらさまのお猫さんが横町の犬に追われて向うの路次(ろじ)に逃込みました、」と目の色変えて註進に及んだという珍談もあった。
※[肴+殳](さかな)を買うにも主人の次には猫の分を取った。残※[肴+殳](あまり)を当てがうような事は決してなかった。時々は「猫になりたい」という影口(かげぐち)もあった。下世話(げせわ)に、犬は貰われる時お子様方はお幾たりと尋ねるが猫は孩児(がき)は何匹だと訊(き)くという通りに、猫は犬と違って児供に弄(いじ)られるのを煩(うる)さがるものだが、二葉亭の家では猫は主人の寵幸(ちょうこう)であって児供が翫弄(おもちゃ)にするのを許さなかった。児供の方でも父の秘蔵を呑込んで、先年死んだ長男の玄太郎が五ツ六ツの悪戯盛(いたずらざか)りにも「あれは父(とう)ちゃんのおにゃん子」といって指一本も決して触れなかった。
この猫は主人の寵愛に馴れて頗る行儀が悪るかった。客が来て食物(くいもの)が出ると、必ず何処からかヌウッと現われ、ノソノソ食物の傍(そば)へ行って臭いを嗅(か)ぐ。世間の猫はコソコソ忍び足で近づいては、油断を見済まして引攫(ひっさら)うものだが、二葉亭の猫は叱られた事がないから恐(こわ)いという事を知らない。鷹揚にノソノソやって来て、自分の好きな塩煎餅(しおせんべい)か掻餅(かきもち)でもあろうもんなら、宛(さ)もこの家(や)のものは竈(かまど)の下の灰までが俺(おれ)の物だというような顔をして、平気で菓子鉢に顔を突込んではボリボリと喰べ初める。すると二葉亭は眼を細くして、「これこれ、復(ま)たそんな意地汚(いじきた)なをする」と静かに膝へ抱取(だきと)って掌上(てのひら)へ菓子を取って喰わせながら、「放任教育だから行儀が悪くて困る、」と猫の頭を撫(な)で撫で「が、本来猫に行儀を仕込むッてのが間違ってる、人間の道徳で猫を縛ろうとするのは人間の我儘(わがまま)で、猫に取っては迷惑千万な咄だ、」といった。けれどもお膳が出てから、生腥(なまぐさ)い臭いにいよいよ鼻をムクムクさして、お客のお膳であろうと一向お関いなしに顔を突出(つきだ)し、傍若無人にお先きへ失敬しようとする時は、いくら放任教育でも有繋(さすが)にお客の肴(さかな)を掠奪(りゃくだつ)するを打棄(うっちゃ)って置けないから、そういう時は自分の膝元へ引寄せてお椀(わん)の蓋(ふた)なり小皿(こざら)なりに肴を取分けて陪食させた。が、この腕白(わんぱく)猫めは頗(すこぶ)る健啖家で、少(ちっ)とやそっとのお裾分(すそわけ)では満足しなかった。刺身(さしみ)の一と皿位は独り占めにベロリと平らげてなお飽足らずに、首を伸ばして主人が箸(はし)に挿(はさ)んで口まで持って行こうとするのをやにわに横取りをする。すると二葉亭は眼を細くして、「ドウモ敏捷(すばしっ)こい奴(やつ)だ!」と莞爾々々(にこにこ)しながら悦に入ったもんだ。
二葉亭の猫におけるや、丁度若い母親が初めて産んだ子を甘やかすように、始終|懐(ふとこ)ろに入れたり肩へ載せたり、夜は抱いて寝て、チョッカイでも出せば溶(と)けるような顔をして頬摺(ほおずり)したり接吻(せっぷん)したりした。猫めの方でも大甘垂れに甘垂れて舌を出してはベロベロと二葉亭の顔を舐(な)めた。「接吻だけは止(よ)せというが、こうしずにはいられない」と状貌|魁偉(かいい)と形容しそうな相好(そうごう)を壊(くず)して、頤(あご)の下に猫を抱(かか)え込んでは小娘のように嬉しがって舐めたり撫(さす)ったりした。
飯田町にいた時分、或る日曜日の朝十時頃に尋ねると、今起きたばかりだといって眠そうな顔をしていた。なんぼ日曜日でも少(ち)と寝坊が過ぎるというと、「昨宵(ゆうべ)は猫のお産で到底寝られなかった、」といった。段々訊くと、予(かね)てから猫の産月(うみづき)が近づいたので、書斎の戸棚(とだな)に行李(こうり)を準備(ようい)し、小さい座蒲団を敷いて産所に充(あ)てていたところ、昨夜(ゆうべ)は宵(よい)から容子が変なので行李の産所へ入れるとは直ぐ飛出して息遣(いきづか)いも苦しそうに※[口+若]々(ニヤニヤ)啼(な)きながら頻りと身体(からだ)をこすりつけて変な容子をする。爰(ここ)で産落(うみおと)されては大変と、強(むり)に行李へ入れて押え付けつつ静かに背中から腰を撫(さす)ってやると、快(い)い気持そうに漸(やっ)と落付いて、暫らくしてから一匹産落し、とうとう払暁(あけがた)まで掛って九匹を取上げたと、猫のお産の話を事細やかに説明して、「お産の取上爺(とりあげじじい)となったのは弁慶と僕だけだろう。が、卿(きょう)の君(きみ)よりは猫の方がよっぽど豪(えら)かった、」と手柄顔(てがらがお)をした。それから以来習慣が付き、子を産む度毎(たんび)に必ず助産のお役を勤め、「犬猫の産科病院が出来ればさしずめ院長になれる経歴が出来た、」と大得意だった。
不思議な事にはこれほど大切に可愛がっていたが、この猫には名がなかった。家族(うちのもの)は便宜上「白」と呼んでいたが、二葉亭は決して名を呼ばなかった。「名なんかドウでも好い、なくても好い、猫に名なんか付けるのは人間の繁文縟礼(はんぶんじょくれい)で、猫は名を呼ばれたって決して喜ばない、」といっていた。こんな処にも空名虚誉を喜ばない二葉亭の面目が現れていた。
最一つ不思議な事は、この位に猫や犬を可愛がっていても、ツイぞ一度人から貰った事がない。「棄てられたり紛(まぐ)れたりして来たから拾って育ててやるので、犬や猫を飼うのは楽(たのし)みよりは苦(くるし)みである。わざわざ求めて飼うもんじゃ決してない、」といっていた。二葉亭の犬や猫に対するや人間の子を愛すると同じ心持であった。  
 
六 二葉亭の文章癖

 

二葉亭は始終文章を気にしていた。文人が文章に気を揉(も)むのは当然のようであるが、今日の偶像破壊時代の文人は過去の一切の文章型を無視して、同じ苦(くるし)むにしてもこれまでの文章論や美辞法からは全く離れて自由であるべきはずである。極端にいえば、思想さえ思う存分に発現する事が出来るなら方式や修辞は革命家の立場からはドウでも宜(よ)かるべきはずである。二葉亭も一つの文章論としては随分思切った放胆な議論をしていたが、率(い)ざ自分が筆を執る段となると仮名遣いから手爾於波(テニヲハ)、漢字の正訛(せいか)、熟語の撰択、若い文人が好い加減に創作した出鱈目(でたらめ)の造語の詮索(せんさく)から句読(くとう)の末までを一々精究して際限なく気にしていた。
二葉亭時代の人は大抵国漢文の秩序的教育を受けたから、国漢文の課題文章の習練にはかなり苦(くるし)まされて文学即文章の誤った考を吹込まれていた。当時の文章教育というのは古文の摸倣であって、山陽(さんよう)が項羽本紀(こううほんぎ)を数百遍反覆して一章一句を尽(ことごと)く暗記したというような教訓が根深く頭に染込(しみこ)んでいて、この根深い因襲を根本から剿絶(そうぜつ)する事が容易でなかった。二葉亭も根が漢学育ちで魏叔子や壮悔堂を毎日繰返し、同じ心持で清少納言や鴨長明(かものちょうめい)を読み、馬琴や京伝三馬の俗文学までも究(きわ)め、課題の文章を練習する意(つもり)で近松や馬琴の真似をしたり、あるいは俗文を漢訳したり漢文を俗訳したりした癖が抜け切れないで、文章を気にする文章家気質がいつまでも失(う)せなかった。一面には従来の文章型を根本から破壊した革命家であったが、同時に一面においてはまた極めて神経的な新らしい雕虫(ちょうちゅう)の技術家であった。
自分は小説家でないとか文人になれないとかいったには種々の複雑した意味があったが、自ら文章の才がないと断念(あきら)めたのもまた有力なる理由の一つであった。二葉亭の作を読んで文才を疑う者は恐らく決してなかろうと思うが、二葉亭自身は常に自己の文才を危(あやぶ)んで神経的に文章を気に病んでいた。文章上の理想が余り高過ぎたというよりも昔の文章家気質が失せなかったので、始終文章に屈托していた。ツルゲーネフを愛読したのも文章であって、晩年余りに感服しなくなってからもなお修辞上の精妙を嘖々(さくさく)し、ドストエフスキーの『罪と罰』の如きは露国の最大文学であるを確認しつつもなお、ドストエフスキーの文章はカラ下手(へた)くそで全(まる)で成っていないといってツルゲーネフの次位に置き、文学上の批判がともすれば文章の好悪に囚(とら)われていた。例えば現時の文学に対しても、露伴を第一人者であると推しながらも、座右に置いたのは紅葉全集であった。近松でも西鶴でも内的概念よりはヨリ多くデリケートな文章味を鑑賞して、この言葉の綾(あや)が面白いとかこの引掛けが巧みだとかいうような事を能く咄(はな)した。また紅葉の人生観照や性格描写を凡近浅薄と貶(けな)しながらもその文章を古今に匹儔(ひっちゅう)なき名文であると激賞して常に反覆細読していた。最も驚くべきは『新声』とか何々文壇とかいうような青年寄書雑誌をすらわざわざ購読して、中学を卒業したかそこらの無名の青年の文章まで一々批点を加えたり評語を施こしたりして細(つぶ)さに味わった。丁度植物学者が路傍の雑草にまで興味を持って精(くわ)しく研究すると同一の態度であった。
この点では私は全く反対であった。私は自分が悪文家であるからでもあろうが、夙(はや)くから文章を軽蔑(けいべつ)する極端なる非文章論を主張し、かつて紅葉から文壇の野獣視されて、君の文章論は狼(おおかみ)の遠吠(とおぼえ)だと罵(ののし)られた事があるくらい、文章上のアナーキストであったから、文章論では二葉亭とも度々衝突して、内心|窃(ひそか)に二葉亭の古い文章家気質を慊(あきた)らなく思っていた。が、自分のような鈍感者では到底|味(あじわ)う事の出来ない文章上の微妙な説を聞いて大いに発明した事もしばしばあったし、洗練|推敲(すいこう)肉|痩(や)せるまでも反覆|塗竄(とざん)何十遍するも決して飽きなかった大苦辛を見て衷心嘆服せずにはいられなかった。歿後(ぼつご)遺文を整理して偶然初度の原稿を検するに及んで、世間に発表した既成の製作と最始の書き卸しと文章の調子や匂いや味(あじわ)いがまるで別人であるように違ってるのを発見し、二葉亭の五分も隙(すき)がない一字の増減をすら許さない完璧(かんぺき)の文章は全く千鍜万錬の結果に外ならないのを知って、二葉亭の文章に対する苦辛感嘆をいよいよ益々深くした。
 
七 田端の月夜

 

三十六年、支那から帰朝すると間もなく脳貧血症を憂いて暫らく田端(たばた)に静養していた。病気見舞を兼ねて久しぶりで尋ねると、思ったほどに衰(やつ)れてもいなかったので、半日を閑談して夜るの九時頃となった。暇乞(いとまご)いして帰ろうとすると、停車場(ステーション)まで送ろうといって、たった二、三丁であるが隈(くま)なく霽(は)れた月の晩をブラブラ同行した。
満月ではなかったが、一点の曇りもない冴(さ)えた月夜で、丘の上から遠く望むと、見渡す果(はて)もなく一面に銀泥(ぎんでい)を刷(は)いたように白い光で包まれた得(え)もいわれない絶景であった。丁度秋の中頃の寒くも暑くもない快(こころよ)い晩で、余り景色が好いので二人は我知らず暫らく佇立(たちどま)って四辺(あたり)を眺めていた。二葉亭は忽(たちま)ち底力(そこぢから)のある声で「明月や……」と叫(うな)って、較(や)や暫らく考えた後、「……跡が出ない。が、爰(ここ)で名句が浮んで来るようでは文人の縁が切れない。絶句する処が頼もしいので、この塩梅(あんばい)ではマダ実業家の脈がある、」と呵然(かぜん)として笑った。
汽車の時間を計って出たにかかわらず、月に浮かれて余りブラブラしていたので、停車場(ステーション)でベルが鳴った。周章(あわ)てて急坂を駈下(かけお)りて転(ころ)がるように停車場に飛込みざま切符を買った処へ、終列車が地響き打って突進して来た。ブリッジを渡る暇もないのでレールを踏越えて、漸(やっ)とこさと乗込んでから顔を出すと、跡から追駈けて来た二葉亭は柵(さく)の外に立って、例の錆(さび)のある太い声で、「芭蕉(ばしょう)さまのお連れで危ない処だった」といった。その途端に列車は動き出し、窓からサヨナラを交換したが、狭い路を辿(たど)って帰る淋しい背影(うしろかげ)が月明りに霞(かす)んで見えた。二葉亭の健康の衰え初めたのはその頃からであった。 
 
八 対島沖の大海戦の二日後

 

最も元気だったのは日露戦争中であった。大阪朝日の待遇には余り平らかでなかったが、東京の編輯局には毎日あるいは隔日に出掛けて、海外電報や戦地の通信を瞬時も早く読むのを楽(たのし)みとしていた。
「砲声聞ゆ」という電報が朝の新聞に見え、いよいよ海戦が初まったとか、あるいはこれから初まるとかいう風説が世間を騒がした日の正午少し過ぎ、飄然(ひょっこり)やって来て、玄関から大きな声で、
「とうとうやったよ!」と叫(どな)った。
「やったか?」と私も奥から飛んで出で、「結果は?」
「マダ十分解らんが、勝利は確実だ。五隻か六隻は沈めたろう。電報は来ているが、海軍省が伏せてるから号外を出せないんだ、」とさも大本営か海軍省の幕僚(ばくりょう)でもあるような得意な顔をして、「昨夜(ゆうべ)はマンジリともしなかった。今朝(けさ)も早くから飛出して今まで社に詰めていた。結局はマダ解らんが、電報が来る度毎(たんび)に勝利の獲物が次第に殖(ふ)えるから愉快で堪(たま)らん。社では小使給仕までが有頂天(うちょうてん)だ。号外が最う刷れてるんだが、海軍省が沈黙しているから出す事が出来んで焦(じ)り焦りしている。尤も今日は多分夕方までには発表するだろうと思うが、近所まで用達しに来たから内々(ないない)密(そっ)と洩(も)らしに来た。」
と、いつも沈着(おちつ)いてる男が、跡から跡からと籠上(こみあげ)る嬉しさを包み切れないように満面を莞爾々々(にこにこ)さして、「何十年来の溜飲(りゅういん)が一時に下(さが)った。赤錆(あかさび)だらけの牡蠣殻(かきがら)だらけのボロ船が少しも恐ろしい事アないが、それでも逃がして浦塩(ウラジオ)へ追い込めると士気に関係する。これで先ず一段落が着いた。詳報は解らんが、何でもよっぽど旨く行ったらしい……」とちょっと考えて「事に由るとロスの奴、滅茶々々(めちゃめちゃ)かも解らん。今日の電報が楽(たのし)みだ。」
といいつつソソクサして、「こうしちゃおられん。これから復(ま)た社へ行く、」と茶も飲まないで直ぐ飛出し、「大勝利だ、今度こそロスの息の根を留めた、下戸(げこ)もシャンパンを祝うべしだネ!」と周章(あたふ)た格子を排(あ)けて、待たせて置いた車に飛乗りざま、「急げ、急げ!」
こんな周章(あわ)ただしい忙がしい面会は前後に二度となかった。「ロスの奴滅茶々々かも解らん」とあたかも軍令部長か参謀総長でもあるかのようなプライドが満面に漲(みなぎ)っていた。恐らくこの歓喜を一人で味(あじわ)ってられないで、周章てて飛んで来たのであろう。
 
九 二葉亭の破壊力

 

二葉亭に親近した或る男はいった。「二葉亭は破壊者であって、人の思想や信仰を滅茶々々に破壊するが、破壊したばかりでこれに代るの何物をも与えてくれない」と。思想や信仰は自ら作るもので人から与えるべきものでないから、求めるものの方が間違ってるが、左(と)に右(か)く二葉亭は八門|遁甲(とんこう)というような何処(どこ)から切込んでも切崩(きりくず)す事の出来ない論陣を張って、時々奇兵を放っては対手(あいて)を焦(じ)らしたり悩ましたりする擒縦(きんしょう)殺活自在の思弁に頗(すこぶ)る長じていた。
勿論、演壇または青天井の下で山犬のように吠立(ほえた)って憲政擁護を叫ぶ熱弁、若(もし)くは建板(たていた)に水を流すようにあるいは油紙に火を点(つ)けたようにペラペラ喋(しゃ)べり立てる達弁ではなかったが、丁度甲州流の戦法のように隙間(すきま)なく槍(やり)の穂尖(ほさき)を揃(そろ)えてジリジリと平押(ひらお)しに押寄せるというような論鋒(ろんぽう)は頗る目鮮(めざ)ましかった。加うるに肺腑を突き皮肉に入るの気鋒極めて鋭どく、一々の言葉に鉄槌(てっつい)のような力があって、触るる処の何物をも粉砕せずには置かなかった。二葉亭に接近してこの鋭どい万鈞(ばんきん)の重さのある鉄槌に思想や信仰を粉砕されて、茫乎(ぼうこ)として行く処を喪(うしな)ったものは決して一人や二人でなかったろう。
それがしの小説家が俄(にわか)に作才を鈍らして一時筆を絶ってしまったのも二葉亭の鉄槌を受けたためであった。それがしの天才が思想の昏迷(こんめい)を来(きた)して一時あらぬ狂名を歌われたのもまた二葉亭の鉄槌に虐(しいた)げられた結果であった。二葉亭に親近するものの多くは鉄槌の洗礼を受けて、精神的に路頭に迷うの浮浪人たらざるを得なかった。中には霊の飢餓を訴うるものがあっても、霊の空腹を充(み)たすの糧(かて)を与えられないで、かえって空腹を鉄槌の弄(なぶ)り物にされた。
二葉亭の窮理の鉄槌は啻(ただ)に他人の思想や信仰を破壊するのみならず自分の思想や信仰や計画や目的までも間断(しっきり)なしに破壊していた。で、破壊しては新たに建直し、建直しては復(ま)た破壊し丁度|児供(こども)が積木(つみき)を翫(もてあそ)ぶように一生を建てたり破(こわ)したりするに終った。
二葉亭は常にいった。フィロソフィーというは何処までも疑問を追究する論理であって、もし最後の疑問を決定してしまったならそれはドグマであってフィロソフィーでなくなってしまうと。また曰く、人生の興味は不可解である、この不可解に或る一定の解釈を与えて容易に安住するは「あきらめ」でなければイグノランスであると。かくの如くして二葉亭の鉄槌は軽便安直なドグマや「あきらめ」やイグノランスを破壊すべく常に揮(ふる)われたのである。
 
十 二葉亭の風丰(ふうぼう)人品

 

誰やらが二葉亭を評して山本|権兵衛(ごんべえ)を小説家にしたような男だといった。海軍問題以来山本伯の相場は大分下落し、漸(ようや)く復活して頭を擡上(もちあ)げ掛けると、忽(たちま)ち復(ま)た地震のためにピシャンコとなってしまったから、文壇の山本伯というは苔(こけ)の下の二葉亭も余りありがたくないだろうが、風丰(ふうぼう)が何処か似通(にかよ)っている。山本権兵衛と見立てたのは必ずしも不適評ではない。
が、骨相学や人相術が真理なら、風丰の似通っている二人は性格の上にもドコかに共通点がありそうなもんだが、事実は性格が全く相反対していた。二葉亭にもし山本伯の性格の一割でもあったら、アンナにヤキモキ悶(もだ)えたり焦々(いらいら)したりして神経衰弱などに罹(かか)らなかったろう。社会的にも最少(もすこ)し成功したろう。が、気の毒なる哉(かな)二葉亭は山本伯とは全く正反対に余りに内気(シャイ)であった、余りに謙遜であった、かつ余りに潔癖であった。切(せ)めて山本伯の九牛一毛(きゅうぎゅういちもう)なりとも功名心があり、粘着力があり、利慾心があり、かつその上に今少し鉄面皮(てつめんぴ)であったなら、恐らく二葉亭は二葉亭四迷だけで一生を終らなかったであろう。
が、方頷粗髯の山本権兵衛然たる魁偉(かいい)の状貌は文人を青瓢箪(あおびょうたん)の生白(なまっちら)けた柔弱男(にやけおとこ)のシノニムのように思う人たちをして意外の感あらしめた。二葉亭の歿後知人は皆申合わしたように二葉亭の風丰がいわゆる小説家型でなかった初対面の意外な印象を語っておる。その上に重厚沈毅な風丰に加えて、双眉の間に深い縦の皺(しわ)を刻みつつ緊(きっ)と結んだ口から考え考えポツリポツリと重苦しく語る応対ぶりは一見信頼するに足る人物と思わせずには置かなかった。かつ対談数刻に渉(わた)ってもかつて倦色(けんしょく)を示した事がなく、如何なる人に対しても少しも城府(じょうふ)を設けないで、己(おの)れの赤心(せきしん)を他人の腹中に置くというような話しぶりは益々(ますます)人をして心服せしめずには置かなかった。
二葉亭を何といったら宜(よ)かろう。小説家型というものを強(あなが)ち青瓢箪的のヒョロヒョロ男と限らないでも二葉亭は小説家型ではなかった。文人風の洒脱(しゃだつ)な風流|気(け)も通人(つうじん)気取(きどり)の嫌味(いやみ)な肌合(はだあい)もなかった。が、同時に政治家型の辺幅(へんぷく)や衒気(げんき)や倨傲(きょごう)やニコポンは薬にしたくもなかった。君子とすると覇気(はき)があり過ぎた。豪傑とすると神経過敏であった。実際家とするには理想が勝ち過ぎていた。道学先生とするには世間が解り過ぎていた。ツマリ二葉亭の風格は小説家とも政治家とも君子とも豪傑とも実際家とも道学先生とも何とも定(き)められなかった。
社交的応酬は余り上手でなかったが、慇懃(いんぎん)謙遜な言葉に誠意が滔(あふ)れて人を心服さした。弁舌は下手でも上手でもなかったが話術に長じていて、何でもない世間咄(せけんばなし)をも面白く味(あじわ)わせた。殊に小説の梗概(こうがい)でも語らせると、多少の身振(みぶり)声色(こわいろ)を交えて人物を眼前(めのまえ)に躍出(おどりだ)させるほど頗る巧みを究めた。二葉亭が人を心服さしたのは半ばこの巧妙なる座談の力があった。
二葉亭は極めて謙遜であった。が、同時に頗る負け嫌いであった。遠慮のない親友同士の間では人が右といえば必ず左というのが常癖で、結局同じ結論に達した場合「むむ、そうか、それなら同説だ、」といったもんだ。初めから同じ結論に達するのが解っていても故意に反対に立つ事が決して珍らしくなかった。かつこの反対の側から同じ結論に達する議論を組立てる手際(てぎわ)が頗る鮮(あざや)かであった。
負け嫌いの甚(はなは)だしいは、人に自分の腹を看透(みす)かされたと思うと一端決心した事でも直ぐ撤去して少しも未練を残さなかった。かつて二葉亭の一身上の或る重要な問題について坪内博士と談合した時、二葉亭の心の中は多分こうであろうと推断して博士に話した。すると間もなく二葉亭は博士を訪うて、果して私が憶測した通りな心持を打明けて相談したので、「内田君も今来て君の心持は多分そうであろうと話した」と、坪内博士が一と言いうと直ぐ一転して「そんな事も考えたが実は猶(ま)だ決定したのではない」と打消し、そこそこに博士の家を辞するや否、直ぐその足で私の許(もと)を訪い、「今、坪内君から聞いて来たが、君はこうこういったそうだ。飛んでもない誤解で、毛頭僕はそんな事を考えた事はない、」と弁明した。復た例(いつも)の癖が初まったナと思いつつも、二葉亭の権威を傷つけないように婉曲(えんきょく)に言い廻し、僕の推察は誤解であるとしても、そうした方が君のための幸福ではない乎(か)と意中の計画通りを実行させようとした。が、口を酸(す)くして何と説得しても「※[研のつくり](そ)ンな考は毛頭ない、」とばかり主張(いいは)って、相談はとうとうそれきりとなってしまった。現在自分の口から言出して置きながら、人に看透かされたと思うと直ぐコロリと一転下して、一端口外した自家意中の計画をさえも容易に放擲(ほうてき)して少しも惜(おし)まなかったのはちょっと類の少ない負け嫌いであった。こういう旋毛曲(つむじまが)りの「アマノジャク」は始終であって、一々記憶していないほど珍らしくなかった。
二葉亭はこういう人物であった。小説家であって一向小説家らしくなかった人、政治家を志ざしながら少しも政治家らしくなかった人、実業家を希望しながら企業心に乏しく金の欲望に淡泊な人、謙遜なくせに頗る負け嫌いであった人、ドグマが嫌いなくせに頑固(がんこ)に独断に執着した人、更に最(も)う一つ加えると極めて常識に富んだ非常識な人――こういう矛盾だらけな性格破産者であって、この矛盾のために竟(つい)に一生を破壊に終った人であった。
二葉亭の古い日記から二節を引いて以て二葉亭の面影と性格とを偲(しの)ぶの料としよう。
「この世を棄てんとおもひたる人にあらねばこの世の真の価値は知るべからず。」
「気の欝したる時は外出せば少しは紛るる事もあるべしと思へどもわざと引籠りて求めて煩悶するがかへつて心地よきやうにも覚ゆ。」
   (大正四年八月稿、同大正十三年十月補筆) 
 

 

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