甚句の系譜

甚句相撲甚句民謡民謡の源流 
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北前船
 
踊念仏と盆踊り  口説き盆踊り歌  江戸の街道 

雑学の世界・補考   

甚句

甚句(じんく)は日本の伝統的な歌謡の一形式である。詳細は不明だが江戸時代に発生したと見られる。歌詞が7、7、7、5で1コーラスを構成するのが特徴。様々な歌詞が生み出された。5、7、7、7、5となる場合もある。全国各地の民謡にこの形式が多い。囃子言葉が挿入されたり前後に付く場合が多い。有名曲は次の通り。花笠音頭、木更津甚句、箱根八里、越中おわら節。正調博多節、鹿児島おはら節、茅ヶ崎甚句 、郡上甚句。  
 
日本民謡の曲種。甚九とも。詩型はふつう七七七五調の26文字。宴席の三味線伴奏による騒ぎ歌の型が多いが、盆踊などに歌う甚句もある。全国各地に広く分布するが、東日本に多く、秋田甚句、米山甚句、新潟甚句などがある。  
 
民謡の一。多く七・七・七・五の4句形式で、節は地方によって異なる。江戸末期から流行。越後甚句・米山(よねやま)甚句・名古屋甚句・博多甚句・相撲甚句など。「地(じ)の句」「神供(じんく)」の意からとも、また、越後国の甚九という人名からともいうが未詳。  
 
日本の民謡の種類。民謡の中には「米山甚句」「両津甚句」「木更津甚句」など、甚句を曲名にするものが数多くある。甚句は〈地ン句〉であり、〈地の句〉すなわち土地土地に発生した歌であるという説や 、神に供える歌という意味の〈神供〉説もある。また江戸時代に流行した 「兵庫口説(くどき)」の中に「長崎えびや甚九」があり、〈こんど長崎海老屋の甚九 親の代から小間物売りで……〉と、長崎の商人海老屋甚九郎を歌った歌が流行して、「海老屋節 」や「甚九郎節」になり、それが各地に広まって甚句あるいは甚九として定着したとする説もある。  
 
日本民謡分類上の一種目であり、また曲名そのものにもなっている。「甚句」という文字は当て字で、文字そのものにはまったく意味はなく、必要なのは「ジンク」ということばである。「ジンク」ということばについては、(1)「地ン句」のことで、土地土地で歌われている唄(うた)、(2)「神句」の意で、神に供える唄、(3)「海老屋(えびや)甚九」で、海老屋の甚九郎が歌い始めたのによる、といった諸説もあるが、そうではない。まだ定説にはなっていないが、有力なものを掲げておく。  
東北地方にはいまなお「ジンコ」という名の唄が各地に点々と残っている。東北弁では、名詞の後に「コ」の字を加えたがる傾向が強いから、「ジンコ」は「ジン」+「コ」ということになり、問題になるのは「ジン」ということばだけということになる。ところで「甚句」ということばは、「音頭と甚句」というぐあいに対句として用いられることが多い。この対句は演唱形式がそのまま曲名になったもので、「音頭」は、1人の人が唄の一部を独唱すると、他の人々が他の部分を声をそろえて斉唱する演唱形式の唄である。これに対して「甚句」すなわち「ジン」は次のように考えられる。秋田、岩手、青森3県の山間部の古風な盆踊りをみると、歌垣(うたがき)的な性格を色濃く残している。すなわち、男女が手拭(てぬぐい)でほおかぶりをし、輪になって踊りながら、そのうちの1人が思う相手に問いかけるようにして歌うと、異性がこれをうけて返歌を歌うという形式である。こうして一晩中踊りが続いていくだけに、「ジン」は「順番」の「順」ではないかと考察される。これに「コ」の字を加えて「順コ」、それが「ジンコ」となまり、江戸時代末期に「甚句」の文字があてられて、以後急激に東日本に広まっていったとするものである。その「甚句」は、七七七五調26音を基本とする詞型で、曲は旧南部領(青森県東部と岩手県の大半)の 「ナニャトヤラ」を母体にして派生、「秋田甚句」や「越後(えちご)甚句」が中心になって、その多様化したものが東日本一円に広まり、盆踊り唄、酒盛り唄にと利用されている。そして新潟県糸魚川(いといがわ)から長野県松本、さらに静岡県浜松を結ぶ線以東に集中し、西日本では飛び火のような感じで存在するにとどまっている。  
 
「潮来甚句」「長岡甚句」など日本民謡に多い曲名の“甚句”の由来については諸説あるが、いまだ定説はない。その主なる説をあげると、  
1 昔、越後の石地の浦(刈羽郡)の甚九という男が大坂に出て成金となり、遊女を身請けして世を驚かし、「四十だ四十だと今朝まで思うた三十九じゃものソーレ花じゃもの」と歌えば、かの遊女「甚九甚九は越後の甚九 越後甚九はソーレ世界の花じゃ」と和し、ここに〔越後甚句〕が生まれ、やがて各地に「甚句」ができた。  
2 甚句は「地ン句」のあて字で、各土地の郷土色ある唄をさす。  
3 甚句は“神供”で神前に奉納した歌舞の意。  
4 三陸海岸の甚句類のごとく、宴席用の二上り調の騒ぎ唄など。  
しかし 1 の「四十だ四十だ」の類歌は但馬豊岡付近の盆踊唄集「延享五年小歌しゃぅが集」にもあるし、2-4 は皆、甚句の語源・定義として漠然としすぎているので首肯し難い。  
現在もっとも有力視されるのは国文学者藤田徳太郎の説で、それによると、甚句は越後が本場でいわゆる「越後甚句」が広まるにつれて各地にその名を流布させたとする。すなわち「越後甚句」は宝永・正徳・享保(1704〜 36)から関西で流行した踊音頭(都音頭の末流)の「兵庫口説」から変化したもので、とくに「兵庫口説」の代表的な歌曲である「えびや甚九」、詳しくいえば「兵庫口説甚九節」という長崎の豪商えび屋甚九郎のことを歌った叙事歌謡が、越後地方の盆踊唄に流用されるに及んで、「甚九(句)」は一般に盆踊唄の異称にもなり、各地に「××甚句」とよぶ民謡を普及させた。  
都音頭というのは元禄時代より三十数年前の明暦・万治(1655〜 61)頃、京都の友甫という人が創始したもので、元禄時代には三味線や胡弓・笛などの鳴物を入れてさかんに囃し立てたもの。明和・安永・天明(1764 〜 89)以後には、この音頭に都びた村落の民謡調が漂ってきたといわれる。  
「えびや甚九郎」の甚句節を摘記すると、「今度長崎えびやの甚九親の代から小物売で とんと小間物売屋をやめて今は大阪へ糸物だてよ帆に七反二の手新造荷物調へ今日吉日と 帆をば巻き上げせび口つめて 周防灘めも首尾よく渡り(下略)」。  
なお一説には他の踊音頭と同じく、海老屋何某という者が歌いはじめた節かとか、「ゑいや」という歌い出しの拍子によった名称で、それを海老屋に付会したものといわれる。  
「越後甚句」(越後節)のことは近世の諸書に散見するが、たいてい終わりに「やとさのせ」とか「ダンゴシャレシャレ」「ダンボサンサン」という囃子詞の他に、「ジャジャジャンジャン」の三味線がつき、また冒頭の歌い出しが「殿さエ」で始まる例が多いのが特色である。  
その他、「越志風俗部・歌曲」(天保九年写)に「岩室甚句」「新潟甚句」のことを「岩室盆踊甚九郎ふし」「新潟盆踊甚九郎ふし」と記し、民謡研究家武田忠一郎も、東北に多い「じんく踊の始まる時は……じんく踊らば三十が盛り……」などの歌詞から、「じんく」は踊の名として考えてみる必要があることを力説している。  
ただし藤田の説に対して町田佳聲は、主として音楽性の面から次のごとく反論する。  
1 現在、新潟県下に「兵庫口説」系の民謡の遺存するものが極めて少なく、甚九節とも口説節とも呼ばない。  
2 藤田説の「越後甚句」の元唄は「本調子甚句」と呼ばれる酒席の騒ぎ唄で盆踊唄ではない。むしろ秋田県の「じんく」の方がこの「騒ぎ甚句」より古態と思われる。  
3 いわゆる「越後甚句」(殿さ節・ヤンレ節)は越後の瞽女歌「新保広大寺」の変化したもので、「兵庫口説甚九郎節」とは無関係である。
「兵庫口説(くぜつ)」  
「元禄年間(1688〜1703)に流行した大坂の盆踊り「ゑびや節」の流行を受けて誕生したとされる。七七調を基本に各国の名所や歴史上の人物を紹介。享保(1716〜35)の頃から、「義経千本桜」などの浄瑠璃を題材とした「兵庫口説」が竹本座・豊竹座で宣伝に使われ、西日本一帯に広まった」  
徳川幕府は歌舞伎等の心中物を禁じた。徳川の直轄地の佐渡でも御前(佐渡奉行所前。奉行の見てる前)で心中物などは、綱紀を引き締める上から断じて許されなかったであろう。源氏を祖とする徳川家であるから、源平戦記物が好まれて当然。そこで相川音頭に、源平軍談が創作されなければならない必要性があった。  
相川音頭の有名な出だしの部分「どっと笑うて 立浪風の ・・・」で、佐渡の民謡になぜ義経が出て来るかについて、以上の背景があった。  
その源平軍談は、他の相川音頭同様 佐渡で作られ佐渡にしかないものであろう。その元となったものは、平家物語や源平盛衰記など。それぞれの一場面が、能の謡本や浄瑠璃の語り本などにあり、とっつぁん(富裕層・上流層)たちは、文化面に関心があって互いに交流し合い、話の筋は知っている。そして、作る人が出た。おっさん(普通の大人の男性)やあんちゃん・あねさんたち(若い衆)には、心中物などが好まれるかもしれないが、子供が能や浄瑠璃に接し、百姓が謡いを行う環境・風土であるから、歴史物も自然に受け入れられ、それを物にすることができた。そういう基盤がない限り、唄い継がれていかない。  
明治39年(1906)に来島した俳人の河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)は、紀行文「三千里」の中で相川音頭について、次のように記している。  
「盆踊りの歌は相川が主で、相川音頭という。節は単調であるが、文句は浄瑠璃(じょうるり)めいたもので、他の卑猥(ひわい)な俗歌とは違っている。相川で、これを聞いた」「曲は単調」は 七七調が延々と続くこと、「文句は浄瑠璃めいたもの」は 七七の調で語る物語ということである。   
 
「口説」とは歌謡の一種で、歌と語りの中間に位置する節のことです。もともとは物語形式の長編歌謡が発展したもので、その曲節や歌詞には一定の形式があります。また、音頭形式で歌われることが多いために「踊音頭」とも呼ばれます。「兵庫口説」は、元禄年間に流行した大阪の盆踊り歌「ゑびや節」の流れを受けて、摂津国兵庫地域で誕生したと考えられています。七七調を基本に、全国各地の名所や歴史上の人物を描き、その一つである「播磨名所づくし」には、高砂相生の松や姫路城といった播磨の名所がたくさん紹介されています。また、享保の頃から「義経千本桜」などの浄瑠璃を題材にした「兵庫口説」が、竹本座や豊竹座で宣伝に使われ、西日本一帯へと広まりました。「兵庫口説」の歌詞は各地の民謡に取り入れられ、越後甚句のルーツとなったとも言われています。  
「ゑびや節」と「兵庫口説」   
・・・前述の「郷土の歩み」の座談会の中て、松本氏や上田氏が、この村の盆おどりの起源について「西教寺の先祖がこちらへ来られたとき、三田の方からもって来られたちの」との伝承を述べられたことは、すでに書いた。この伝承の裏に何が隠されているのだろう。また、第三期「くどき」の始まりの時期を、この村ではどのあたりに置けばよいのであろう。前に引いた小寺融吉氏「郷土舞踊と盆踊」も、第四の「踊りくどきから始まった何々音頭」の時期を具体的には明示しないし、また成田守氏「盆踊りくどき」(一九七五)も「盆踊口説」発生の時期を明らかにしない。ただ成田氏が明らかにするとおり、「小唄形式は東日本から中部地方で歌われており、近畿地方から西日本にかけては小唄形式と□説形式の両方が共存する形で行われている」ということは、上方文化を基調として、それが西に伝播し、幕府の体制ならびに江戸文化はそれを寄せつけなかったというふうにも考えられると思う。上方文化の最盛期、藤田徳太郎氏が元禄十年前後から現れたという「ゑびや節」は、大坂を中心に流行し、数々の「くどき」を生み出して行った。近松は浄瑠璃の中にも、随所に「ゑびや節」をとり込んでいる。たとえば「冥途の飛脚」中之巻冒頭の「えいえい、烏がな烏がな、浮気烏が月夜も闇も、首尾を求めてあはうあはうとさ」のようなものであろう。元禄十年前後は、南王子の人びとが古屋敷から現在地へ独立移転した頃である。しかし、同じ大阪でも道頓堀から被差別部落南王子までの 、「くどき」の伝播には予想外の年月を要したと思う。というよりも、遊里を中心に流行した「えいえい烏がな」のような調子と内容は、おおよそ南王子の盆おどりにはなじまぬものである。藤田氏は同じ論文の中で「兵庫ロ説は「ゑびや節」の系統を引く」ものであるが、「「ゑびや節」よりも遙かに時代が下ることを言っている。大坂から始まった「くどき」は、まず兵庫にひろがって「兵庫ロ説」を生み、その一流が三田を経て南王子に流入した、とは考えられないか。むしろ大きな廻り道をし、その間地方的な変貌をとげながら、南王子に定着したものではないか。  
これはあくまでも仮説であり、検証は今後のフィールド・ワークにゆだねられる。来夏にでも実地に三田の盆おどりを見聞し、南王子のそれと比較考究したい。また西教寺の沿革についても教示を得たい。いずれにしても、私のいう南王子第三期の「くどき」の始期は、元禄よりも百年も遅れて、おそらくは文化・文政以降のことと思う。  
ところで現在信太山盆おどり保存会に伝承される音頭は「葛の葉子別れ」「天保水滸伝平手造酒」「鈴木主水」「阿波の鳴戸の子別れ」「小栗判官」などであるが、中田与惣蔵氏は昭和初期ごろの演目として、「葛の葉」「信大森子別れ」「小栗判官」の三つを挙げ、「この他踊りの気分又は踊り場の情況を歌ったのもある」として、具体的にいくつかの歌詞を挙げている。「葛の葉」にも二通りの歌詞があるが、それぞれの詞章の一部は、双方にわたって同一である。  
これら保存会伝承の音頭の中て「平手造酒」「鈴木主水」「阿波の鳴門」は、後世くどき音頭として各地に伝播したもののヴァリエーションで、南王子独自のものとは言い難いが、「葛の葉」と「小栗判官」は中田氏が言うように「村の伝説にちなむ」ものである。のみならず、それはいずれも中世の説経節「信太妻」「小栗判官」に源流を持っている。しかし、説経節「信太妻」を類推する手がかりである「しのたづまつりぎつね付あベノ清明出生」と対比してさえ、現在の音頭の歌詞との間には、重なる章句が認められない。わずかに「この山陰に住まいいたす、賎の女にて候」と「通りかかりし縁の糸は、賎の乙女の可憐な姿」との間にダブるものを見るだけである。保名が幼い者を抱き、信太の森にその子の母を尋ねてくる個処も、前者では「遠き野原の虫の声、秋風渡る葛の葉の」に対し、後者では「すすき尾花に月照りわたる、丘をわたりて」と、道具立てがまるで違う。まして「小栗判官」では、同名の説経節の中の有名な車引きの一語りでも「阿倍野五十町、引き過ぎて、住吉四社の大明神、堺の浜に、車着く。松は、植えねど、小松原、わたなべ、南部(みなべ)、引き過ぎて・・・」と、熊野湯の峯までの道中は、堺から紀州日高の小松原まで跳び、幸白頭に歌う「笠掛松」や「明坂」は出てこない。  
だから私がたとえば三田で調べたいことのひとつは、三田の「くどき」の中にも「葛の葉子別れ」や「小栗判官」があるか否か、ということである。もし三田にも類似のものがあれば、いまの信大山盆おどりの「葛の葉」や「小栗判官」は、説経節の流れをくむそれではなくて、兵庫くどきのそれが流れ込み、村の古格を消去したことになる。・・・  
「ゑびや節」 (えびやぶし)  
「えいや節」「大坂節」とも。「ゑびや節」は踊り口説の集で、唄い出しが「えいえいえい……」の囃子で始まる(普通は略)。また、その作すべてが「尽し唄」であるという点で異色である。出典の冒頭(のつけ)から「兄よめころし板づくし」「心中そね崎の松づくし」といった曲名が見られ、好奇心が刺激される。  
虫づくし  
来し方よりも、今の世迄も耐えせぬものは、恋と言ふ字の曲者(くせもの)なれや、げにも曲者此の一つより、無量無辺の色をば出(だ)せり、誰も迷ふは色里の路、黄金虫をば大分費(つか)ひ、親は勘当〓〓(きりぎりす)、鳴くや藻汐の寒(さぶ)かりし夜も、蠅ななりかや素紙(すかみ)衣(こ)一重、女郎蜘蛛にぞ会はんと思ひ、廓町へと来ごとは来たが、轡虫こそよに荒けなりや、それに遣手が蟷螂(かまきり)虫で、客の障りと蜂払ふよに、叩き出せど我が蓑虫を、恨めよよりかは鳴く〳〵蝉の、蝉の衣の縁薄くとも、時節松虫また蟋蟀(こほろぎ)よ、蝶か花かと世に大切な、遊女(よね)の姿を蚯蚓(みみず)と思ひ、身をば焦する蛍の虫よ、兎角恋には歌を出せさ。  
銭づくし  
それ世の中の、銭(ぜに)をおあしと言ふのも道理、世界国中をくる〳〵廻(めぐ)る、阿弥陀如来も銭ほど光る、兎角銭(ぜに)金(かね)持たねば済まぬ、憂きが中にも唯恋の道、誰もころりとする百の銭、君が姿をみせ銭よりも、心掛(かけ)銭端(ぜにはした)の銭が、積り積りて貫ざしの銭、恋をする身は形も要らぬ、みだけ銭にて紙ばら〳〵と、我が命は君故ならば、腐り銭とも身はならばなれ、文を投銭(なげぜに)恋仕掛銭、我と寝銭を頼みますると、書きし文章(ぶんしよ)はそりや口銭(こうせん)よ、今は互いに心を明かし、繋ぎとめたる駒牽(こまひき)銭(ぜに)よ、馴染(なじみ)重ねて青の銭、末の契は永楽銭(ぜに)と、交す新銭枕の数も、泣くや十四五すつとん〳〵と、とんとお腹に小銭が宿り、忍び逢ひにし二人が仲も、外(よそ)に洩れつゝ銀銭(しろがね)で、是は日銭と皆人言に、浮名立てよとそりや文(ぶん)の銭、誰も恋にはな身を知らぬさ。  
 
相撲甚句 

 

江戸時代から力士の間で歌われてきた。地方巡業などの取組前に、土俵上から独唱する七五調の囃(はや)し歌。「ドスコイ、ドスコイ」の合いの手が入る。相撲甚句の愛好家の集まりとして、全日本相撲甚句協会(本部・墨田区)のほか、元呼び出しの永男(のりお)さんこと福田永昌(のりまさ)さん(77)が会長を務める日本相撲甚句会(本部・墨田区)と、相撲写真資料館の工藤明さん(78)が幹事長を務める全国相撲甚句会(本部・墨田区)などがある。  
 
相撲甚句は江戸時代の享保年間に相撲取りが地方巡業や花相撲で唄ったのが起源で、いろいろな流行歌が混じって定着しました。一般的には甚句というと民謡の秋田甚句、米山甚句、木更津甚句等が有名です。一方、角力甚句は明治の初期に相撲甚句を聞いた名古屋の芸妓が三味線を付け、”芸者殺すに刃物はいらぬ、甚句止めたら皆殺し”と言われるほど花柳界で大流行しました。名古屋甚句もその流れだといわれています。お座敷で唄われているものを角力甚句として住み分けをしてきましたが、レコードを見てみると戦前は芸者出身の歌手がほとんどでした。しかし、昭和30年代になると大相撲も若乃花、千代の富士、栃錦、大鵬、柏戸といった人気力士が同士が優勝争いをするようになってテレビの普及とともに相撲人気も高まり、この頃からは森の里など相撲取りの唄う甚句になってきました。戦前は「角力甚句」ばかりだったのが、戦後はほとんど「相撲甚句」となり、角力→相撲と変わった点が目に付きます。このように相撲甚句とは単に相撲取りが花相撲とは、地方巡業で唄うだけではなく、日本各地の民謡との関わりが深いようです。  
お相撲さんが土俵の上で化粧回しをして唄っているものですが、独特の節回しと歌詞が相撲ファンに親しまれて伝わってきました。時代と共に土俵の上の甚句も変わり、最近ではのど自慢の力士が得意の声で唄い聞かせるようになってきました。近年では甚句独特の哀愁のある節回しが一般の人達にも受けて、全国に相撲甚句の会が結成され、北は北海道から南は九州まで、全国で約70団体1,000人以上の会員がおり、毎年全国大会も開催されています。  
 
甚句とは「七七七五調の俗謡の一種」で、相撲甚句とは花相撲や巡業相撲などの取組前に、土俵上から独唱する七五調の囃(はや)し歌のことを言います。地方の神前相撲やお祭りの相撲大会から大相撲まで、それらが開催される時に唄われていて、「一つ拍子」と「三つ拍子」があり、地方の神社などで行われる祭礼では唄にあわせて相撲踊りが行われたりします。また、相撲甚句は越後甚句の流れといわていて、力士が余興的に土俵でうたい、それに合わせて踊ったのでこの名が生まれ、江戸時代末期から始まったと言われています。  
横綱、大関の引退相撲には土俵歴、地方場所では土地の観光名所を織り込んだ新作が披露されることが多いのも特徴の1つ。力士が相撲甚句を歌いながら、円陣を組んで差す手・引く手、足を前後左右に運んで回るのは、元を正せば相撲の四十八手の型を表現していて、昔は甚句のことを型と呼んでいました。土俵の上で攻める型、守る型を見せながら唄っていたのですが、現在は化粧廻しを締め、手拍子・足の音頭に合わせて唄っていて近年はこの意味が薄れつつあるようです。  
現在では、相撲教習所の教養科目として必須科目に取り入れられており、幕下以下の力士が相撲甚句を披露する場合、大銀杏を結うことが許されています。  
そもそも「甚句」の出所には諸説あるのですが、最も有力だといわれているのが18世紀の初頭に関西地方で流行った「評語口説」の中に出てくるの長崎の呉服商・ゑびや甚九郎の物語をうたった 「ゑびや甚九」という歌謡が「甚九郎節」として瀬戸内海沿岸から日本海沿岸に広まって、やがて北前船の船乗りを通じて東北から日本全国に広まり、盆踊り唄の一種としての「甚句」へと発展したといわれています。「口説」とは同じことを何度も、くどいほど繰り返すことから言われ、短い節回しに歌の一節を何度も繰り返して歌われます。一言で言えば、甚句とは18世紀における流行歌といえるものです。  
 
相撲甚句とは、大相撲の力士らによって歌われる伝統的な民謡の一種。甚句と呼ばれる七七七五調の形式で、江戸時代から明治時代にかけて流行し、現在も歌われている。具体的には、地方巡業や引退相撲といった花相撲で、取組前や取組の合間などに披露される。また、宴席などでも披露される。土俵上の中心に相撲甚句を歌う力士が立ち、その周りを5、6人の力士が囲んで行われる。周りの力士たちは甚句に対して、「はぁー、どすこい、どすこい」などと声を掛け、土俵上を回りながら手拍子する。歌っている力士の甚句が終わると、次の力士が土俵の中心に移動して甚句を歌う。なお、相撲甚句は新入門の力士が相撲の実技や文化を学ぶ相撲教習所の科目にも採用されている。    
 
甚句の起源は、元禄時代にはやった<甚九郎節>から出たもの、<地ン句>となまったもの、神に捧げるうたの意味で<神供>のあて字とする説などがあるが定説はない。甚句の種類には、仕事うた(山甚句、ね草刈り甚句)、盆踊りうた(盆踊り甚句)、騒ぎうた(酒宴の席の騒ぎ甚句)などがあり、このほか甚句とは呼ばれなくても七五調の甚句の形式を備えているものを含めると、日本の民謡の約半数を占めている。  
甚句は江戸末期から明治にかけて、流行歌として定着した。  
角力甚句は、幕末から明治にかけて花柳界で流行した本調子甚句、二上がり甚句を相撲取りがお座敷で覚えて巡業ではやらせたもので、この角力甚句から、名古屋甚句、熊本甚句(おてもやん)、会津磐梯山、隠岐の島の相撲取り節、熊本のどっこいせ節(一名角力取り節)などが出ている。  
地方の神社などで行われる祭礼では唄にあわせて相撲踊りが行われたりする、また、土俵の上で攻める型、守る型(相撲の四十八手)を見せながら甚句を歌っていたが今ではこの形は行われていない。  
相撲甚句は単に相撲取りが花相撲の土俵で歌うだけのものではなく、日本各地の民謡と深いかかわりの中から生まれ、歌われ、これからも後世の人々に歌い継がれていく民族の歌の性格をもつものであるといえる。  
相撲甚句といえばドスコイ。ドスコイ、私が入った時にはもうそうなっていましたが、戦前はドッコイ、ドッコイだったんです、秋田民謡の酒屋唄にそんなのがあります。これがね「アー、ドスコイ。ドスコイ」こうなったのは、私は芸者がはやらしたんじゃないかと思っているんですけどね。出所は相撲内部よりも、粋筋の方でね、二上がり甚句の。「トコ、ドスコイドスコイ」いつの間にかお相撲さんまでこううたうようになっちゃったと、ね、私はそんなふうに考えています。でね、昔は甚句そのものを聞かせるというよりも、相撲四十八手。この型をみんなに披露する意味もあったようですね。あの、長崎、宮城、それから越後周辺、ここらあたりは今でも女相撲が盛んなんですが。そこで女力士が土俵の上で輪になって、ね。「ドスコイ、ドスコイ」やってるでしょう。見てみますとね、踊りなんです。ただ面白いのは、その一つ一つの仕草が、よく見ると四十八手の型になっているんです。真ん中に唄い手さんがいて、踊り手の方は突っ張り、押し、四股の型までやってますよ。甚句は長崎なら「長崎名所」を、ドスコイ、ドスコイとやってんですけどね。こうゆうのを見ると、昔の甚句は踊りが主流だったんだな、と素直に納得できます。それがいつ頃からか、前へ歩いて、後ろに下がって、パンパンと手を打つぐらいで、ね、今の相撲甚句はそれだけ崩れちゃったんですね。四十八手の型はおろか、踊りにもなっていません。踊りよりも、ホラ、ノド自慢。いつしか歌が主流になったと。これが今の甚句だと思います。   
 
民謡 

 

盆踊り、お祭り  
盆踊りには民謡がつきものです。日本のお祭りは民謡と直結しているものが多くあります。  
「北海盆唄」 (北海道)小樽市の高島地区で、越後より集団移住してきた人々が、故郷の盆踊り唄を唄っていたのが全道内に広がった  
「道南盆唄」 (北海道)函館市郊外の亀田町を中心に唄われた盆踊り唄  
「十三の砂山」 (青森県)十三湖地方の盆踊り唄  
「花笠音頭」 (山形県)8月の東北4大祭りの花笠踊りで踊られる  
「斎太郎節」 (宮城県)旧暦7月に松島の流灯会に唄うが、宮城県の海岸地区では誰でもうたっている  
「宮城野盆唄」 (宮城県)仙台市の盆踊り唄  
「会津磐梯山」 (福島県)会津地方の盆踊り唄  
「相馬盆唄」 (福島県)相馬、双葉地方の盆踊り唄  
「佐渡おけさ」 (新潟県)佐渡相川町の大山祇神社の祭りをはじめ、佐渡各地のお祭りで踊られる  
「三階節」 (新潟県)柏崎地方の盆踊り唄  
「越中おわら」 (富山県)9月の八尾の「風の盆」で唄い踊られる  
「秩父音頭」 (埼玉県)秩父地方の盆踊り唄  
「白浜音頭」 (千葉県)白浜町の盆踊り唄として作られた新民謡  
「東京音頭」 (東京都)西条八十作詩、中山晋平作曲の新作盆踊り唄  
「郡上踊り」 (岐阜県)7月中旬から9月初めまで約40日間、連日のように街のどこかで踊られる「郡上踊り」は郡上八幡の名物になっている  
「河内音頭」 (大阪府)北河内郡を中心に唄われる盆踊り唄  
「宮津節」 (京都府)宮津地方の盆踊りで踊られる  
「安来節」 (島根県)9月の大山神社の祭礼に踊られる。踊りは「どじょうすくい」と言われる  
「よさこい鳴子踊り」 (高知県)8月のよさこい祭りで踊られる。  
「阿波踊り」 (徳島県)8月の阿波踊り大会で踊られる  
「炭坑節」 (福岡県)戦後各地の盆踊りなどで広く唄い踊られている  
追分、馬子、牛追い  
追分も馬子唄もルーツは峠を往来する馬子たちが唄っていたものからきています。牛追い唄は放牧地で牛を追う時やセリ市に牛をつれて行く時に唄われたものです。馬方節と牛方節は馬や牛で荷物を運搬する時に唄われました。ゆったりとした唄が多いためほとんど尺八の伴奏で唄われます。伴奏に鈴が入ることもあります。  
「江差追分」 (北海道)北海道の代表的な民謡が日本を代表する民謡になっている  
「南部牛追い唄」 (岩手県)この唄の発祥は400年以上前  
「南部馬方節」 (岩手県)南部は昔から日本一の馬産地  
「小諸馬子唄」 (長野県)浅間山地方に伝わる馬子唄  
「箱根馬子唄」 (神奈川県)箱根八里を往来する旅人を運ぶ馬子が唄った  
「鈴鹿馬子唄」 (三重県)鈴鹿峠を超える馬子たちが唄った  
漁、舟、川舟  
漁をする時に唄われる唄、大漁で唄われる唄、海の船頭や川の船頭の唄など、海と川にまつわる唄はバラエティに富んでいます。北海道に漁の唄が多いのは、勇壮な漁から生まれたのでしょう。  
「ソーラン節」 (北海道)ニシン漁のヤン衆が沖上げ作業中唄った  
「鱈釣り節」 (北海道)古平町の漁師が作った唄  
「舟漕ぎ流し歌」 (北海道)ニシン舟を漕ぐときに唄った  
「秋田船方節」 (秋田県)北前船の船頭が唄った  
「最上川舟唄」 (山形県)最上川の物資の運搬にあたった船頭が唄った  
「遠島甚句」 (宮城県)牡鹿半島の漁師の櫓漕ぎ唄  
「帆柱起こし祝い唄」 (富山県)高岡市伏木港の船方衆によって伝えられた祝い唄  
「磯節」 (茨城県)もとは江戸時代に船頭たちが唄った櫓漕ぎ唄  
「銚子大漁節」 (千葉県)銚子の漁民たちが大漁祝に唄った  
「音戸の舟唄」 (広島県)音戸の瀬戸を舞台にした舟漕ぎ唄  
「貝殻節」 (鳥取県)ホタテ貝漁で漁師が唄った  
酒造り  
酒造りの唄は数多くあります。酒造りそのものを唄った唄と、日本酒を造る工程それぞれで唄った唄があります。杜氏は酒造りだけでなく民謡の名手でもあったのです。  
○ 酒造りを唄った唄です。  
「秋田酒屋唄」 (秋田県)  
「西条酒造唄」 (広島県)  
「筑後の酒造り唄」 (福岡県)  
次に酒造りの工程で唄った民謡です。工程順にご紹介しましょう。  
○ 道具洗い / 酒造りに入る前に容器や道具を洗います。  
「南部酒屋流し唄」 (岩手県)  
○ 米とぎ / 米を蒸す前によく洗います。  
「秋田米とぎ唄」 (秋田県)  
「酒屋米とぎ唄」 (山形県)  
「会津米とぎ唄」 (福島県)  
「隠岐おわら米とぎ唄」 (島根県)  
「おわら米とぎ唄」 (島根県)  
「西条米とぎ唄」 (広島県)  
「臼杵(うすき)米とぎ唄」 (大分県)  
○ もとすり / もとを作るとも言い、蒸米と麹とを摺りつぶし、半固体状の「なまもと」を作ります。  
「秋田酒屋酛すり唄」 (秋田県)  
「会津酒屋酛すり唄」 (福島県)  
「南部酒屋酛すり唄」 (岩手県)  
「灘の酒造り酛すり唄」 (兵庫県)  
○ 仕込 / 酛すりが終わると仕込みに入ります。  
「秋田酒屋仕込み唄」 (秋田県)  
「会津酒屋仕込み唄」 (福島県)  
騒ぎ唄、お座敷唄  
遊里やお座敷で三味線や太鼓で賑やかに唄った唄を騒ぎ唄と言います。お座敷唄にはしっとりとした唄もあります。  
「ナット節」 (北海道)同じメロディで道南ナットもある  
「津軽あいや節」 (青森県)津軽の代表的な民謡  
「津軽じょんから節」 (青森県)あいや節と並ぶ代表的な民謡。津軽三味線の曲弾もある  
「石投甚句」 (宮城県)宮城県の海岸地区で唄われた騒ぎ唄  
「岩室甚句」 (新潟県)岩室町での弥彦神社の参詣客相手の騒ぎ唄  
「鴨川やんざ節」 (千葉県)もとは鴨川漁港の地引網唄とも言われる  
「木更津甚句」 (千葉県)木更津の花柳界で唄われた  
「大島アンコ節」 (東京都)大島元町の花柳界で唄われた  
「ダンチョネ節」 (神奈川県)三浦岬で唄われた  
「米山甚句」 (新潟県)柏崎地方で唄われているお座敷唄  
「山中節」 (石川県)山中温泉で温泉客相手のお座敷唄  
「ノーエ節」 (静岡県)東海道の街道筋で唄われた  
「岡崎五万石」 (愛知県)三州岡崎のお座敷唄  
「伊勢音頭」 (三重県)伊勢神宮の門前町の花柳界で唄われた  
「尾鷲節」 (三重県)熊野灘の尾鷲港一帯で唄われた  
「淡海節」 (滋賀県)志賀廼家淡海が作ったお座敷唄  
「串本節」 (和歌山県)南紀州の港町串本町で唄われた酒盛り唄  
「関の五本松」 (島根県)美保関町の花街で唄われた  
「隠岐しげさ節」 (島根県)隠岐の島を代表する民謡  
「下津井節」 (岡山県)倉敷市下津井港のお座敷唄  
「男なら」 (山口県)萩市を中心に県下で唄われた  
「金比羅船々」 (香川県)琴平町を中心に唄われたお座敷唄  
「宇和島さんさ」 (愛媛県)宇和島地方を中心に唄われた  
「よさこい節」 (高知県)高知県の代表的民謡  
「黒田節」 (福岡県)黒田藩の武士たちが唄った  
「長崎ぶらぶら節」 (長崎県)丸山遊郭を中心に唄われた  
「おてもやん」 (熊本県)熊本の花柳界の酒席で唄われた  
「鹿児島おはら節」 (鹿児島県)鹿児島県を代表する民謡 
演劇・演芸 
色里 
 
民謡の源流 

 

「本調子甚句」  
甚句とは「七・七・七・五」の詩形を元に、軽快に歌う一種の騒ぎ歌。かつての花町や飲み屋街で盛んに歌われた。「本調子」とは、三味線の調弦の一つ。  
 
鯛も色々ある 逢ひ度い見度いに添ひ度い私  
一體全體あなたは 實にもつたいない  
醉ふた醉た醉た 五勺の酒に  
一合飮んだらなほ醉ふた  
「さつさ押せ押せ船頭もかこも」 押せば新潟が近くなる  
 
芸者堅気持ちゃ 箒はいらぬ 箒じゃそのまま ひとで掃く  
芸者芸者と 軽蔑するな 今の令夫人は 皆芸者  
うちのお方は 炬燵櫓の四本の柱 無けりゃならない あれば邪魔  
千両松 向う眺めりゃ 淀の川瀬の 水車   
あなたの手管に 乗せられましたよ 口車  
紅い顔して お酒を飲んで あとの勘定で 青くなる  
若い燕に 迷わぬ人は 木仏 金仏 石仏  
若い燕に 迷った上に 赤いおべべで ツケチョする  
「二上り甚句」  
本調子よりもさらに軽快な二上りの調弦で歌われる甚句。かつての花町で盛んに歌い、踊られた1曲で、堀内敬三によれば「浅い川なら、膝までまくり」という所では、酔客が踊る芸妓たちの裾を上げさせたという。夜遊びの文句の中に力士が登場し、別名「角力甚句」とも呼ばれる。  
 
淺い川なら膝までまくり 深くなるほど帶をとく  
烏啼きでも知れそなものよ 明暮あなたの事ばかり  
拙者此の町に用事は無いが 貴殿見たさにまかり越す  
角力に負けても怪我さへなけりや 晩に私が負けてやる  
やぐら太鼓にふと目をさまし 明日はどの手で投げてやろ  
「雲助唄」  
江戸時代、雲助が駕籠(かご)や荷物を担いでいく際に歌った唄。長持唄もその一種。  
 
里謡の一種。江戸時代、参勤交代の諸侯に随伴する街道雲助らがうたった往来歌である。これが駕篭かき連に伝播し、さらに又聞きした農民らの間に定着し祝儀唄などに分岐した。山々にこだまするような、間延びした節回しが特徴である。  
 
あいがなあーとほけりや おまへとなー ならぬなー  
今はなー うれしのなー 軒ならびなー  
 
信州信濃の新蕎麦よりも わたしやお前さんのそばがよい  
お前とならば何所までも さいかちばらのなかまでも  
 
雲のエー 雲助ャー 半纏育ち 長いエー 着物ニャー おはら 縁がない  
 アー ホイカゴホイカゴ  
俺がエー 殿(姫)様ァー お慈悲なお方暑さエー いとわず おはら お見廻り  
風はエー 吹け吹け 荒波ミャー さわげ 風がエー ないだら おはら 眠くなる  
雲のエー 雲助ャー けいべつするな 諸国エー 諸大名の おはら 命船  
「馬子唄」 (まごうた)  
民謡の一分類。馬追いが馬をひきながら唄う歌のことである。「馬追い歌」、「馬喰節」(ばくろうぶし・「博労節」)などとも言われる。歌詞は甚句形式が多い。一音多声のメリスマ型で一定のリズムを持たないので難しい方に入る。馬ではなく牛を追う場合は「牛追い唄(岩手県の 「南部牛追い唄」などが有名)」などと言われる。  
有名な馬子唄 / 箱根馬子唄(神奈川県)小諸馬子唄(長野県)鈴鹿馬子唄(三重県)追分馬子唄(長野県)室津郷馬子唄(高知県) 
「木遣」「木遣り」 (きやり)  
労働歌の一つ。1202年(建仁2年)に栄西上人が重いものを引き揚げる時に掛けさせた掛け声が起こりだとされる事がある。掛け声が時代の流れにより歌へ変化し、江戸鳶がだんだん数を増やした江戸風を広めていった。  
浜木遣り 祭礼の際小田原担ぎで唄われる。無形民俗文化財「山王原大漁木遣唄」  
鳶口 木遣り唄 / 鳶口を使って木材や丸太や原木などを動かすことを「木を遣り廻す」たんに「木遣り」ともいう。このことから仕事をこなすこと遣り回しともいい、鳶職や大工などが、主役であった祭りの山車などの移動操作なども遣り回しと言う。鳶口を使って木を遣り回す時に、唄われたものが木遣り唄になり、現在の鳶職に受け継がれている。  
西三ツ木ばやし 西三ツ木流木遣り  
海老江曳山祭 曳山木遣り / 元々各地に帆柱起し木遣り唄や網起し木遣り唄が伝承されているが、船の近代化、漁の機械化に伴ってこれらの唄も唄われなくなってきている。ここ海老江では現在も明治末期の木遣り唄が曳山木遣りとして伝承され、祭礼当日にからくり人形の実演とともに3箇所ほどで披露される。    
「木遣り」 (木遣り唄)  
字のごとく木を遣ることで、遣るとは他の場所に移すとか送るという意味。木曳(きひ)きと同意語です。木挽(こび)きではない。  
現在は木遣りと称して木遣り唄の意味となっているようです。そして木遣りは大きくて重い木や石などを大勢で運ぶときに全員の力を集結するために用いられ、作業で号令の役目を果たしたものと言われているようです。当然、木遣りは労働歌の意味合いが強かった訳ですが、寺社などの建築に関わるものだけに慶事(祝い唄)の意味を込めて唄われるようになったと思われます。  
起源  
京都に住んでいた禅僧栄西が、中国(宋)で見聞した寺院の建設作業を京都に持ち帰り、建仁寺新築で応用したものと「近代世時談」にあります。  
その後、戦国時代を経て多くの城や寺社が全国で建設する中で盛んになったものと思われます。そしてその多くは伊勢木遣り(伊勢音頭は伊勢木遣りから変化したもの)を伊勢参りの者達が全国に持ち帰ったと言われているようです。その結果、各地で伊勢音頭が唄われるようになりましたが、地域により、また伝えた人により独自に変化した木遣りとして伝えられるようになったと考えられます。しかし多くの変化しながら継承されたものも全て本物の伊勢音頭として認められているようです。  
江戸に入り木遣り唄(江戸木遣り)は鳶職人に継承されていますが、土木関係にあった鳶職と火消し職人の本芸となったようです。 
「小原節」「おはら節」「オハラ節」「オワラ節」 
民謡。オハラ(オワラ)節とよばれる民謡は、「津軽小原節」「秋田小原節」「越中おわら節」「鹿児島小原良節」など各地にみられるが、いずれも歌詞の最後の一句の前にオハ(ワ)ラというはやしことばを伴う。オハ(ワ)ラの語源は不詳。「会津磐梯山」の小原庄助なる人物の姓も、このはやしことばが人名に感じられたところから生まれたものかもしれない。これと似た形にはほかにヤッサ(宮崎県の「安久(やつさ)節」)やアレサがある。  
 
日本列島の沿岸部に点在する酒盛り唄(うた)の一種。源流は不明であるが、日本海側の、それも西日本方面の港町で、船乗り相手の女たちが酒席の騒ぎ唄として歌ってきたものと思われる。その発生は江戸時代後期の比較的早いころではないかと思われ、それも 「さんこ節」や「ハイヤ節」の流行以前ではないかと推測される。「オハラ節」という曲名は、七七七五調の26文字の詞型の歌詞のしまい五文字の前に「オハラ」とか「オワラ」のことばが挿入されるためである。「オハラ節」はのち帆船の船乗りたちによって諸国の港へ伝えられ、 「鹿児島オハラ節」「隠岐(おき)オハラ」「越中オワラ節」「丹波(たんば)節」「塩釜」「津軽オハラ節」などが生まれた。しかし歳月か、流行が何回かにわたったためか、西日本と東日本のものとの間には曲のうえでかなりの差がみられる。   
「おはら節」の由来  
おはら節の由来は定説的なものはないが、日向安久の安久節を起源とする説が有力である。  
島津家の琉球侵攻に従軍した日向安久(現在の宮崎県都城市安久)の郷士が陣中で士気を鼓舞するために唄った歌を、「原良」の郷士たちが帰国後歌詞を作って歌った。それが、鹿児島地方一帯に広がるに及んで、「原良」に「小」をつけて「小原良節」と呼ぶようになったという。昭和8、9年頃に鹿児島出身の新橋の芸者喜代三が「鹿児島小原良節」(中山晋平作曲)としてレコード化したのがヒットして全国に流行するようになり、今日に至っている。  
1.日向安久の安久節を起源とする説  
島津家の琉球侵攻に従軍した日向安久(現在の宮崎県都城市安久)の郷士が陣中を鼓舞するため、あるいは帰国の船中で勝利を祝って、後に「ヤッサ節」と呼ばれるようになる歌を歌った。「原良」等の郷士がその歌を聞き覚えて、帰国後歌詞を作って歌ったところ鹿児島地方一帯に広がり、「原良」に「小」をつけて「小原良節」を呼ばれるようになった。  
2.伊敷・原良の労作歌を元歌とする説  
伊敷・原良の娘たちが鹿児島城下に出稼ぎに行き、労働作業の合間に歌った歌が、後に座敷歌に変わり、明治の頃までに「原良節」と総称されるようになった。  
3.諸大名の参勤交代の荷役方である奴者から生まれた道中唄  
「ヤッサ節(奴者節)」を元歌とするもの。諸大名の参勤交代の荷役方を努めた農民奴者たちの道中唄「ヤッサ節(奴者節)」が農民の作業唄に変身して、「おはら節」と呼ばれるようになった。  
4.大隈半島の農民の唄  
古くから大隈半島一帯にあった農民の唄で、国分八幡の初牛祭を媒介として各地に広まった。  
「よされ節」  
東北地方に伝わる民謡。「よされ」という囃し言葉を含み、津軽三味線や太鼓などで演奏されるにぎやかな曲調が特徴。「津軽よされ節」「黒石よされ節」「南部よしゃれ節 」などの種類がある。「津軽よされ節」は「津軽じょんから節」「津軽あいや節」と並び「津軽三ツ物」と呼ばれる津軽民謡の代表曲のひとつとされている。起源は19世紀前半で、西日本のはやり歌が東北地方に伝わり、広まったとされる。  
「よされ」意味・語源の諸説  
○世去れ / 貧困や凶作の世は去れ、という意味。実際に漢字で「世去れ節」と書かれることもあり、この説がもっとも有力とされる。  
○「よしなさい」の意味  
○余去れ / 「余(私)は去る、後はよろしく」または、宴会に一部の人が残り、他の余った人たちは去れという意味。  
○寄され / 人が集まるように促す掛け声。  
○夜さり(「夜になるころ」または単に「夜」の意味) / 一説に、西日本のはやり歌で「夜さり」だったのが、東北地方に伝わった後「世去れ」の意味が込められたとも。また、「よされ」は「夜に近づく」という意味の古語「夜さる(よさる)」の命令形とも。  
かつて東北地方では凶作のため口減らしが行われたため、「人が世を去れ」や口減らしで「余った人は去れ」という意味だとする説も。また、三味線の音や泣くようす、雪が降るさまなどの、擬声語・擬態語として位置づけられることもあり、厳しい寒さが「世から去れ」と言っているように形容されているともいわれる。また、上記にあげた意味のうち複数を同時に表しているとする説もあり、飢饉などで苦しい時は「世去れ」、平時には「仕事はよして宴を楽しもう」という意味が込められているという見方もある。  
「黒石よされ」  
「津軽よされ節」は「津軽じょんから節」「津軽おはら節」とともに津軽の三つ物と呼ばれている。よされの起源伝説としては津軽為信の時代に、黒石付近の百姓与三郎が、豊年祝いの席で唄ったとか、やはり黒石の百姓親爺吾助が唄い始めたとか説かれている。  
たまたま領地視察の為下行した黒石の殿様と親しくなった吾助は、何年かして江戸にのぼる用事が出来、ついでにそば粉三升を土産に、殿様の江戸屋敷を訪ねたが、事情を知らない門番に追い払われそうになったときに、奥の殿様の耳に届けとばかりに、即興で歌ったのが始まりと伝えるもので、殿様がこの吾助の即興唄に「黒石よされ」と命名したとか。以来、そば粉をこねるときの作業唄になったとか、話が付け加わっている。  
こんな伝説もあって、よされ節は黒石南津軽郡(現在黒石市)が本場だと土地の人は信じており、現在でも「黒石よされ」は七七型の古調を保っている。この「黒石よされ」が、後に秋田県角館地方を経て、岩手県雫石地方に入ったのが「雫石よしゃれ」であると考えられている。一方、短詩型のよされ節も、青森県下で唄われている内に、北海道に渡って「北海よされ節」になった。このよされ節も「津軽」なり「南部」で生まれたものではなく、越後方面から、日本海を渡って流入したものと思われる。秋田県仙北地方に、よしゃれ節があり、新潟県北蒲原郡中条町に「柴橋よされ」が伝えられ、同じく新発田市付近の農村でもよされ節が歌われていた。 
酒屋唄  
酒造りのときに、種々の作業工程の時間やテンポに合わせて出稼ぎの杜氏や蔵人たちが唄うものです。現在、全国で民謡として唄われているものとして、「秋田酒屋唄」「会津酒屋唄」「湯沢酒屋唄」「喜多方酒屋唄」「灘酒屋唄」「北海酒屋唄」「川越酒屋唄」「越後酒屋唄」「伊予の酒屋唄」などがあります。工程で分類すると、米とぎ唄、もと摺り唄、仕込み唄、櫂入れ唄、桶洗い唄などがあり、また労を癒す酒盛り唄などの種類があります。冬場の100日に及ぶ苦しい酒造り作業をチームワークで進めるのに欠かせなかったのが酒屋唄なのです。              
「灘酒屋唄」 (兵庫)  
桶洗い唄  
(音頭)ハアー寒や北風 アーこう冷とては  
(合唱)長の冬中が 勤まろか  
丹波出るときァ涙が出たが 今は丹波の風もいや  
今日の寒いのに洗い場はどなた 可愛い殿さでなけりゃよい  
もと摺り唄  
山おろし唄(以下音頭・合唱省略)  
あなた川上わしゃ川下よ 書いて流しゃれ恋の文  
書いて流すはいと易けれど ぬれて破れて読まりゃせぬ  
もと掻き唄  
夜半起きしてもと掻く時は 親の家でのこと思う  
仕込み唄  
風呂上り唄  
酒に酔た酔た五勺の酒に 一合飲んだら由良之助  
酒は諸白肴は小鯛 殊にお酌は忍び妻  
酒と煙草を一度にのめば 思い出したり忘れたり  
酒を飲む人心から可愛い 酔うて管巻きゃなお可愛い・・・  
三本櫂唄  
お伊勢参りて何と言て拝む とかく殿様まめなよに  
見たか見てきたか 大阪の城を 前は淀川舟がつく  
留唄  
お日が暮れたら明かりをつけて 親の名づけの妻を持つ  
親の名づけた妻さえあれば 私もこの様にゃ見は捨てぬ  
仕舞うて去にゃるか有馬の駕籠衆 おだて河原をたよたよと  
「秋田酒屋もとすり唄」  
ハァーもとすりはサァヨーイ  
楽だと見せて楽じゃない(オヤ何仕事も)  
サァヨーイ仕事に 楽あるものか  
(コラヨイサニソーラエ サノナーヨーイ)  
   ハァ 燕がサァヨーイ  
   酒屋の破風に巣をかけて(オヤなんと鳴く)  
   サァヨーイ酒かせ売れと さえずるよ  
   (コラヨイサニソーラエ サノナーヨーイ)  
ハァ この米でサァヨーイ  
造りし酒は秋田酒(オヤ秋田酒)  
サァヨーイ誰名をくれた 佐竹様  
(コラヨイサニソーラエ サノナーヨーイ)  
「米とぎ唄」 (新潟)  
新潟は酒処として知られていますが、酒を造る技術を持った、杜氏を中心とした酒男集団が越後には多かったようです。有名な「頼まれれば越後から米搗きに」という言葉が知られていますが、越後には酒男集団だけでなく出稼ぎをする人々が多かったといいます。越後杜氏は、出身地別に頸城杜氏、刈羽杜氏、越路杜氏、野積杜氏などが知られていますが、それぞれに独特な酒造りのための唄が歌われてきました。「唄半給金」という言葉があります。これは、酒造りの給金の半分は唄のためという意味で、今でこそ機械やコンピュータが導入され、時計による計時も当たり前ですが、かつては唄には、計時、酒男達の気持の緊張や向上、動きを合わせる、桶数の確認などといった目的があったようです。たまたま、野積杜氏(新潟県長岡市寺泊野積)の方に、酒造のお話や唄をお聞きする機会がありました。野積杜氏の唄としては、《洗場唄》《米とぎ唄》《もとすり唄》《仕込み唄》《二番櫂》の5曲。他の地区の杜氏の唄にも同系統の唄や野積にはない唄などさまざまです。また、全国的にも同様の唄があるようです。  
洗場唄 / 仕込みのための道具を洗うときの唄。リズミカルな唄ではなく、非拍節的に朗々と歌われる(いわゆる追分様式)もの。  
米とぎ唄 / 文字通り米をとぐ時の唄で大変リズミカルです。米のとぎ方は、桶に入って縁を手で持って、足を使ってとぐもので重労働であったようです。  
(アートゲトゲ)  
イヤ荒しナーヨー畑のヤ(アートゲトゲ)千茅(ちかや)と出逢うた   
 (イヤ俺もナーヨー負けまい(アートゲトゲ)アラ糸すすき)  
イヤ若い衆ナーヨーとげとげヤ 東が白む イヤ館ナーヨー館にヤ アラ鳥が鳴く  
イヤ鳥がナーヨー鳴こともヤ 夜が明けよとも イヤ明けりゃナーヨー知らせのヤ アラ鐘が鳴る  
イヤ若い衆ナーヨーとげとげヤこれどき煙草 イヤ煙草ナーヨー吸わせるヤ アラ長々と  
(チョイマカシテオナゲダヨ ヨーイヨイ)  
もとすり唄 / 半切(はんぎり)という桶に「もと=酒母」を入れ、櫂棒でかきまぜながら歌われたものです。  
仕込み唄 / できた酒母に蒸米、水を入れて仕込んでいきます。大きな桶の上の縁に立ち、長い櫂棒でかき混ぜるときの唄です。  
二番櫂 / 桶の中の醪(もろみ)の温度を均一にするために攪拌するときの唄です。  
「小倉酒屋米とぎ唄」 (新潟)  
朝のナーヨー暗いのに酒水くめば 足もナーヨー軽々とありゃ米をとぐ  
俺とナーヨーお前はよ酒倉男 意気でナーヨー張り切るよアリャ造り込み  
とげやナーヨーとげとげよ今とぐ米は酒にナーヨー造りてよアリャ送り出す  
酒盛り歌・お立ち歌  
全国に酒盛り歌は数多くあるようで、その地域に古くからある曲節に、祝歌系の歌詞や即興詞を付けたものが多いという。宴席で歌を掛け合ったり、次々と歌い継いで宴が盛り上がるのです。立ち歌は婚礼に招かれた客などが宴席を立ち去るときに、門口や庭先で最後の盃を交わし、無事を祈り、去りがたい思いを唄うもので、哀愁を帯びた節回しが去る客の心情を打つのです。    
酒盛り唄 (福島県郡山市)  
酒はよいもの 気を勇ませて 酔った心は 由良之助  
酒は呑むなと いわれてきたが 少し呑まなきゃ 座がもてぬ  
歌え歌えと 歌せめられて 歌は出もせで 汗ばかり  
酒呑み座敷唄 (山梨県鳴沢村)    
アー お酒ょ呑ませーて 酔わせておーいて アイヨー   
胸にあるーこと 言わせたい  コラサッサー ヨイサッサットー  
アー 酒はもとよーり 好きでは呑―まぬ アイヨー   
金の辛―さで やけで呑む  コラサッサー ヨイサッサットー    
お立ち酒 (宮城県ほか東北)  
お前お立ちか お名残り惜しい 名残り情の くくみ酒  
めでたうれしや 思うこと叶うた 末は鶴亀 五葉の松  
またも来るから 身を大切に はやり風邪など 引かぬように 
「盆口説き」「踊口説き」  
民謡においては長編の叙事的な歌を〈口説〉というが、盆踊歌として用いられることが多く、この場合は〈踊口説〉とよばれる。謡曲や平曲、義太夫節などにも〈クドキ〉と呼ばれる部分があるが、民謡の口説の叙事的な歌詞は、門付の芸能者の伝えた〈語り物〉の系譜である。盆踊の場合は主として音頭取が独演し、踊手ははやしことばを唱和する形式で語られる。「河内(かわち)音頭」「江州(ごうしゆう)音頭」など〈何々音頭〉という曲目名でよばれることが多く、「八木節」も音頭取中心の演唱形式で、前記2曲とともに踊口説の代表的なものである。 
盂蘭盆会  
盆踊りは盂蘭盆に踊られる一連の盆会の行事の一つです。娯楽の少なかった戦前までは、 盆は正月と共に民間年中行事の双璧であり、遠地に働きに出ている人も、この時には墓参に故郷に帰る楽しい行事の一つでありました。  
盂蘭盆の起源は、(梵)から転化したウランバーナを音訳した語ともいわれています。ウランバーナは倒懸(さかさ吊り)という意味で、 釈迦の弟子の目蓮の母が、餓鬼道におちて倒懸の苦を受けていたので、目蓮は仏陀にこれを救う法を請うた。仏陀は「七月十五日に百味の飲食で 衆僧を供養すれば、七世の父母の苦難を救う。」と教えた。という盂蘭盆経の説などに由来するといわれています。  
わが国では、盂蘭盆会は古く から行われ、日本書記の推古天皇十四年(606年)の条に「是年より初めて寺毎に四月の八日、七月の十五日に設斎す。」とあります。このこと がわが国における灌仏会、盂蘭盆会のはじまりとされています。  
盆踊り  
盆踊りは、盂蘭盆会におどられ、通常十三日から十六日にかけて、 寺の境内や町村の広場、辻などで老若男女が大勢参加して、他界から帰って来る精霊を迎え祭り、再び送るための踊りであります。  
近年は、 その宗教的要素の薄れたものが多いが全国各地に見られ、最も大衆性の高い民族芸能であるといえます。  
盆踊りは、記録的には「春日権現神主師淳記」 の明応六年七月十五日の条に「南都中、近年の盆おどり、異類・異形一興」と見えるのが最古と思われます。  
盆踊りの源流は、もともと 盂蘭盆会に行われた念仏踊りであり、風流(浮立)であったことは「看聞御記」を見ると明らかで、その初見は応永二十三年(1416年)の「念仏拍物」 であります。  
これは平安時代に始められた空也上人の踊躍念仏が、一遍の念仏踊りに引き継がれ、やがて時宗の活躍と共に民間に広められたとされていますが、流行の風流踊りを適宜に取り入れ、室町時代には風流拍物に念仏を加えて、念仏拍物となりました。  
江戸時代初期には、伊勢踊りや小町踊りなどの影響を 受けたといわれています。盆には供養される精霊だけでなく、無縁の亡霊もやって来ると信じ、これは踊りの陽気なにぎわいの中に、上手にさそい出して村外 へ送り出す必要があったようです。  
この外小歌・組歌・口説節などの歌の発展も盆踊りの発展に寄与しました。江戸時代中期の民謡集で「諸国盆踊唱歌」 とも「山家鳥虫歌」ともよばれるものには、健康な農民の労働歌や恋歌などがみられます。特定の作者をもたず、盆踊りなどの行事を通して創作されたものと 思われます。  
念仏や和讃を唱えて踊る地方もあるが、近世以後、太鼓や笛の伴奏で七七七五調の民謡、あるいは即興的にうたって踊る場合が多く、また江戸時代 には口説が用いられ口説節が流行しました。  
櫓の上で音頭取りが長々とうたえば踊り手は囃子言葉を入れて踊る。この形式が広く行われるようになったものです。  歌詞は、五七五句形、七七七五句形や七五句を反復するものがあります。五七五句形は少なく、七七七五句形は「揃うた、揃うたよ、踊り子が揃うた、秋の出穂より、 よく揃うた」などと、非常に数が多いようです。  
また七七句の反復は、口説の「花のお江戸の、そのかたわらに、さても珍し、心中話」という形のもので、豊前地区 で最も多い句形です。  盆踊りに使用する楽器は(一)唄だけのもの(二)唄に太鼓を加えたもの(三)唄と太鼓に篠笛や鉦を加えたもの(この形式は非常に 多いようです。)(四)酒樽を主要楽器とするもの(五)音頭取りが酒樽をたたきながら拍子を取り、伴奏は別に篠笛、鉦、太鼓などが入っているもの(八木節) (六)三味線を入れたもの(佐渡の相川音頭・おけさ踊り、岐阜の郡上踊り、大分の鶴崎踊り)(七)胡弓を加えるもの(富士のおわら節)等があるようです。  
盆踊りは寺の境内や広場などに櫓を設け、提灯をさげ、音頭取りがその上で傘をさして太鼓の伴奏等で唄い、踊り手がこの櫓を取り巻いて、櫓を廻りながら踊るのが 普通であり、このほかに流し・ぞめき・盆やっしなど称して、徳島の阿波踊りのように行列をなして、町を群舞して浮かれ歩くものもあります。  
音頭取りが傘を持って立ったり、櫓や屋台を建てたりするのは、精霊迎えの意味があり、行列して群舞するのは精霊送りの意味があるといわれています。また初盆 の家で踊るところもあります。  
服装(葬)は各自まちまちであるのが普通ですが、所によっては花笠・編み笠・頬冠り・頭巾などをかむって踊るところもあります。 特に棒踊りも一部であるようです。(日田方面)  盆踊りの振りは、最も簡単なもので行進の振りに僅かにしなをつけたものが多く、手拍子を打つのを境に、ほとんど 数拍ないし十数拍を出ない、しかしその踊り姿はなかなか美しいものであります。また、踊り子は、うちわ・タオル等を持つことが多いようです。  
「二上り新内」  
「新内は本調子ですから、新内風のというような」「いわゆる新内節とは違います」、新内の香りのする曲である。文政の時代から江戸後期、そして明治から大正にかけて再び流行したとある。明治22年刊行で獄堂野史氏の「二上り新内」にいろんな歌詞が収録されている。いただいた譜面は二種類で、一つは「来るとそのまま 喧嘩して」から始まり、「火の用心さっしゃりやしょう」の台詞が入るもの。もう一つは、「悪止めせずとも そこ離せ」から始まり、おけさがあんこに入るものだった。収録されている全ての歌詞には目を通していないが、「無理留 不為 此放(悪止めせずとも ここはなせ)」は収録されていた。 
「追分節」  
民謡の一。中山道と北国街道の分岐点であった信州追分の宿(長野県軽井沢町)の飯盛り女たちが、碓水(うすい)峠を往来する馬子(まご)のうたう馬子唄に三味線の手をつけたものが馬方三下がりまたは追分節(信濃追分)とよばれて、東日本を中心に各地に伝わったもの。一般に声を緩やかにのばし、旋律は哀調を帯びる。越後追分・江差(えさし)追分などが有名。  
 
広義では全国各地で「追分」の名で歌われている酒盛歌、狭義に北海道の「江差追分」をさす。元来、「追分」の地名は街道の分岐点で各地にある。信州浅間山麓の宿駅、信濃追分の宿で飯盛(めしもり)女が酒席の座興に歌い出した三味線伴奏の騒ぎ歌が「追分節 」であり、「小室(こむろ)節(小諸節)」というこの付近の馬子歌の節を母胎としたもの。現行の「信濃追分」の原調である。これが越後に伝わって「越後追分」となり、さらに日本海沿岸を北上して、その間に「酒田追分」(山形県)、「本荘(ほんじよう)追分」(秋田県)など各種の節回しの追分節を生み、ついに天保(1830‐44)のころに北海道に定着して「松前追分」「江差追分」となった。  
 
日本民謡の人気曲で中心的存在の唄。源流は、岩手県を中心とする旧南部領の博労(ばくろう)の「馬子唄」で、それが東北地方一円に広まり、のち関東、中部地方の主要街道の駄賃付け馬子の「馬子唄」になった。その「馬子唄」が中山道(なかせんどう)でも歌われていた。中山道と北国(ほっこく)街道が分かれる長野県軽井沢町追分の宿場にいた飯盛り女たちは、この「馬子唄」に銚子の袴(はかま)でひづめの音を出しながら、旅人相手の酒席の唄にした。そのうちに三味線の手もつけられ、調弦が三下りだったことから「馬方三下り」とよばれた。今日青森県や北海道に残る 「南部馬方三下り」「津軽三下り」「江差三下り」などがそれである。その後、追分宿で「嫌な追分身の毛もよだつ 身の毛どころか髪の毛も」という歌詞が生まれて人気を集めると、歌い出しの文句をとって「追分節」とよばれるようになった。それは天明(てんめい)年間(1781〜89)ごろと思われる。  
この「信濃追分」が、飯盛り女の鞍替え、瞽女や座頭による持ち回り、旅人の国土産(くにみやげ)で広まり始め、各地で流行唄(はやりうた)として歌われるようになった。 「北海道追分」を除く「本荘追分」(秋田県)などがそれである。そのなかの一つが新潟市の古町(ふるまち)、西堀、東堀の花柳界に入り、お座敷唄として歌われているうち、花柳界通いの人たちによってその道中に歌う「投節(なげぶし)」的に使われ始め、しだいに節が伸びていった。それがふたたび花柳界のお座敷にあがって三味線の伴奏がつけられたとき、曲名は 「松前節」に変わった。これは千石船の船乗りと遊女の別れの唄「蝦夷(えぞ)や松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい」の文句の一部をとったのである。この「松前節」が今日の 「越後追分」である。「松前節」を瞽女が歌いはやらせると、長編の口説節を得意とする遊芸人だけに長編化を考え、長崎県平戸市の櫓漕(ろこ)ぎ唄「エンヤラヤ」を「合の手」の名のもとに後ろへ加えた。そして、それまでの「馬子唄」部分を「本唄」とよぶようにした。その「本唄―合の手」からなる組曲 「松前節」が北海道江差町の花柳界へも持ち込まれ、ここで「忍路(おしょろ)高島及びもないが せめて歌棄磯谷(うたすついそや)まで」という、「ヤン衆」と女の別れの歌詞が生まれた。明治末ごろになると、江差以外の所で「合の手」を「本唄」の前に加えることを考え出した人が現れ、大正初め三浦為七郎によって「前唄」―「本唄」―「合の手改め後唄」からなる3曲からの組唄が完成され、芸者が「追分節」の三味線を弾けなくなったことから生じた代用品の尺八による伴奏で、今日の 「江差追分」がまとめあげられていった。そして江差では、別れの唄として、またかつての港の繁栄の証(あかし)として、哀調せつせつと歌う部分が肥大していったのである。 
「よしこの」「よしこの節」  
江戸末期から明治初年にかけての流行歌であるが、基本的な旋律は不明。「守貞漫稿」(もりさだまんこう)には「よしこの一変してどゞいつ節(ぶし)となる」とあり、両者のふしは似通っていたという。元歌は「ままよ三度笠(さんどがさ)よこちょにかむり、たびは道づれ世はなさけ」で、1820、21年(文政3、4)ごろから江戸、京都、大坂で歌われた。名古屋の歌を記録した 「小歌志彙集」(こうたしいしゅう)によると、22年流行の「三千世界」や30年(天保1)の歌「わが恋」も「よしこの」だという。しかし両曲の詞型は、元歌とは違って七七七五調ではない。ことに前者は端唄(はうた)の名曲としていまも歌われ、後者は花街のお座付(ざつき)唄として残っているが、旋律に類似性はない。阿波(あわ)踊の歌も「よしこの」というが、この曲節もまったく異なる。時代を経たとはいえ、このように詞型も曲節も相違する歌が「よしこの」と総称されたのは、民衆歌謡の種類が少なかったころだけに、はやり歌の代名詞として「よしこの」の名が用いられたのではないかという推測を可能にさせる。  
 
江戸時代の流行歌(はやりうた)。文政(1818‐30)の初めごろ、江戸の街を流していた飴売(あめうり)が潮来節(いたこぶし)を歌い、終りに〈コリャマタヨシコノ ベコシャラベコシャラ ヨシコノヨシコノ〉と囃したてた。それを変化させて、二上りの三味線で歌いだしたのが「よしこの節」の起りになっている。まもなく本調子に変わって、その旋律が清元の「子守」(1823)のなかに入り〈わたしゃどうでもこうでもあの人ばかりはあきらめられぬ じゃによって讃岐の金比羅さんへ願でもかけましょか〉と、いまも歌い継がれている。 
「都々逸」  
江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804-1852)によって大成された口語による定型詩。七・七・七・五の音数律に従う。元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。 主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる。七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある。  
扇歌が当時上方を中心に流行っていた「よしこの節」を元に、「名古屋節」の合の手「どどいつどどいつ」(もしくは「どどいつどいどい」)を取入れたという説が有力である。名古屋節は、名古屋の熱田で生まれた神戸節(ごうどぶし)が関東に流れたもので、音律数も同じであることから、この神戸節を都々逸の起源・原形と考えるむきもある。実際、名古屋市熱田区の伝馬町には「都々逸発祥の地」碑がある。都々逸が広まったのは、扇歌自身が優れた演じ手であっただけでなく、その節回しが比較的簡単であったことが大きい。扇歌の時代の江戸の人々は生来の唄好きであったため、誰でも歌える都々逸が江戸庶民に受け入れられ、いわば大衆娯楽として広まった。  
今では、七・七・七・五という音律数自体が都々逸を指すほどだが、都々逸がこの形式のオリジナルというわけではない。都々逸節の元になったよしこの節や名古屋節の他にも、潮来節(いたこぶし)、投節(なげぶし)、弄斎節(ろうさいぶし)などの甚句形式の全国各種の民謡があげられる。都々逸はこれらの古い唄や他の民謡の文句を取り込みながら全国に広まった。七・七・七・五はさらに(三・四)・(四・三)・(三・四)・五という音律数に分けられることが多い。この構成だと、最初と真中に休符を入れて四拍子の自然なリズムで読み下せる。 
「さのさ節」  
俗謡。法界節の変化したもので、明治30年ころから流行。一節の最後に「さのさ」という囃子詞(はやしことば)がつく。  
 
支那楽「九連環」から変化した法界節は月琴を携えた門付けによって歌われ明治26年頃から32年頃まで流行。その後「サノサ」という囃詞を取り入れ、明治32年頃から粗野な調べが時好に投じてよく歌われました。夏目漱石の小説「坊っちゃん」の中にもサノサ節の文句が出てきます。  
 
俗曲の代表である、いい曲なので替え歌の歌詞もたくさんあるようだ。人前では唄えないような歌詞もあるらしい。「花づくし」で始まる有名な歌詞の中に「万年青(おもと)のことなら南天、菊の花」というフレーズがあるが、これは「おぬしのことなら何でも聞きましょう」を花に掛けた歌詞だとか。何とも粋。そもそも「さのさ節」というのは、法界屋が月琴を弾きながら歌っていた法界節が花柳界に取り上げられ、三味線の手がつくうちに「さのさ節」になったと言われている。三味線の方は休符がたくさん入るのでリズムを取るのが難しく、撥皮に当てずにやわらかく弾く部分とはっきり弾く部分が混在しているので大変だ。  
 
←「法界節」  
 
花づくし 山茶花桜に水仙花 寒に咲くのは梅の花  
牡丹芍薬ネ百合の花 おもとの事なら南天菊の花 サノサ  
   人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上  
   遙かに皇居をネ伏し拝み 落つる涙は加茂の水 サノサ  
一年や 二年三年待ったとて 添い遂げられりゃなんのその  
曽我の兄弟ネ十八年目で 本望遂げたじゃないかいな サノサ  
「法界節」  
明治中期の流行歌。幕末以来流行した清楽の「九連環」が変形したもの。歌詞に「ホーカイ」の語があるのでこの名が出た。月琴をひきながらこの歌を歌う流しの芸人法界屋も当時多く現れた。  
 
明治の流行歌。作詞・作曲者未詳。江戸末期に長崎へ伝わった明清楽(みんしんがく)は、1870年代の後半から日本各地へ広まった。月琴(げっきん)や明笛(みんてき)は若者の間にもてはやされ、これらを伴奏に新しい歌が生まれてくる。なかでも「ホウカイ」を囃子詞(はやしことば)とする曲は、1890年代の初めに『法界節』と名づけられ、大流行した。2、3人ずつが一組となった若者は、月琴や胡弓(こきゅう)を奏でながら流して歩くので、いつのほどにか法界屋とよばれた。日清戦争を境に、明清楽は敵国の音楽だという理由で衰退に向かうが、剣舞をも取り入れた流しは増加する一方で、法界屋は婦女子のあこがれの的となり、流しのあとを追う者が長い列をなしたという。そのため1900年(明治33)のころには、風俗問題や交通妨害が起こってくる。さらに、芸能を愛好する若者が厳しく指弾されたため、法界屋はしだいに姿を消し、『法界節』も運命をともにした。  
清楽  
中国の清代の音楽が日本に伝来したもの。月琴・胡琴・三弦・琵琶・清笛・洞簫(どうしょう)・木琴・太鼓などの17種の楽器を用いる歌曲や合奏曲。文政年間(1818〜1830)に伝わり流行したが、明治中期以後に衰微。  
明清楽・・・「温柔和暢」の風格に異国情緒も伴って上流社会に入れられ明治中期まで流行し、箏曲に影響を与え邦楽も奏し替歌まで生まれた。「九連環」は最も有名で法界節の「ほうかい」や落語「らくだ」の「かんかんのう」もこれより出ている。中国音で歌うため詞に片仮名をつけ伴奏に工尺譜を用いる楽譜は独得で、中国近世音楽の貴重な資料でもある。 
ピョンコ節  
ピョンコ節(ぴょんこぶし)は、4分の2拍子または4分の4拍子の曲で、1拍を付点8分音符+16分音符で表される飛び跳ねているような、あるいはスキップしているような、タンタ|タンタ|タンタというリズム、およびそのリズムを中心に構成されている楽曲のことである。すなわち1拍のなかのふたつの8分音符を前の音が長くなるように不均等に分割する。作曲者によっては、8分音符の連続で表記し、「はずみをつけて」「はずんで」などの曲想標語でそれを指示することもある。  
由来は、野口雨情作詞・中山晋平作曲の童謡「蛙(かはづ)の夜まはり」のリフレインにある「ガッコ ガッコ ガ ハ ピョンコ ピョンコ ピョン」から。  
合唱サークルやアマチュアバンドなどで、一種の符牒として用いられていた。信頼できる書物でこの語が使われているのは、藍川由美著「これでいいのか、にっぽんのうた」が唯一のものと思われる。  
七五調とピョンコ節  
もっとも古いピョンコ節は、戊辰戦争を歌った「宮さん宮さん」(トコトンヤレ節)とされている。民謡では、「鹿児島おはら節」と「金比羅ふねふね」がそうだが、これらのメロディーは比較的新しいものと思われる。  
明治時代になると、唱歌や軍歌を中心に非常に増える。これは日本語の歌詞として七五調が定着し、それを速く歌うようにすると、ピョンコ節が一番自然で覚えやすくなるからのようである。歌誌の節数の多い、鉄道唱歌や電車唱歌、散歩唱歌などはすべてこれである。
地口(じぐち)  
駄洒落の一種と見なすことができる言葉遊びである。発音が似た単語を用いるため、駄洒落よりも創造性に富み、作成するのも比較的容易であり、また、形態も多様化している。  
語呂合わせと同様に扱われるが、例えば円周率のπを「産医師異国に向こう」と憶えるような側面はこの地口にはなく、意味する範囲は語呂合わせより狭い。落語においてもくすぐりとしてしばしば使われる。話の終わりを地口で締めるのを地口落ちという。これは、話の最後の方で登場人物が何か言った言葉に駄洒落を返して終わるものである。どんな話にもつなげられる利便性があるが、反面安易であって取って付けたような終わり方になりやすいため、落ちの種類としては低いものと見なされる。初午祭に、行灯に地口とそれに合わせた絵を描いた「地口行灯」を飾る稲荷神社もある。  
 
江戸の言語遊戯の一種。庶民の口頭戯としての秀句の一種で、上方(かみがた)でいう「口合(くちあ)い」と同じである。享保(1716〜36)の中ごろから流行した。初めは文句中の二重語義化をねらった素朴単純なものであったが、のちには語呂(ごろ)合せと同じく、一つの文句が語勢で他の文句と通い合うものをもいった。「両替屋」という題に「一分(いちぶ)(秩父(ちちぶ))の庄司重忠」とつけるような地口付けに始まり、「九月朔日(ついたち)命はおしし(ふぐは食いたし命は惜しし)」「いなかざむらい茶みせにあぐら(死なざ止むまい三味線まくら)」のように、一文句全体として一貫した意味のある語句が、他の意義の文句の口吻(こうふん)にそのまま似ているものに変化した。地口遊戯の流行は、絵と関連させた絵地口や謎地口の流行を生み、明治まで及んだ。  
有名な文句をもじったもの  
「舌切り雀」をもじって、「着たきり娘」  
「いずくも同じ秋の夕暮れ」をもじって「水汲む親父秋の夕暮れ」  
「お前百までわしゃ九十九まで」をもじって「お前掃くまでわしゃ屑熊手」  
「しづ心無く花の散るらむ」をもじって「しづ心無く髪の散るらむ」  
「沖の暗いのに白帆が見える」をもじって「年の若いのに白髪が見える」  
韻を踏むことによってリズムをつけるだけで、特に意味のないもの  
美味かった(馬勝った)、牛負けた  
美味しかった(大石勝った)、吉良負けた  
驚き、桃の木、山椒の木、狸に電気に蓄音機  
おっかさんの落下傘  
いないないばあさん  
結構毛だらけ猫灰だらけ、けつのまわりは糞だらけ  
 (映画「男はつらいよ」の寅さんの的屋のセリフ(啖呵売)で有名。)  
何か用か(七日八日)九日十日  
言わぬが花の吉野山  
見上げたもんだよ屋根屋のふんどし  
アイムソーリーヒゲソリー、髭を剃るならカミソリー  
何のこっちゃ、抹茶に紅茶  
草加、越谷、千住の先よ  
 これを受けて「幸手、栗橋、まだ先よ」と続くこともある。  
願ったり叶ったり、晴れたり曇ったり  
あたりき車力  
 「あたりき」とは「当たり前」のぞんざい語。さらに後ろに以下のように続けたりもする。  
 あたりき車力、車引き / あたりき車力のこんこんちき  
掛詞の技法を使い、後に意味のない言葉をつなげたもの(「むだ口」という)  
すみま千円(「すみません」と「千円」)  
あたり前田のクラッカー(「当たり前だ」と「前田のクラッカー」)  
そうはいかのキンタマ(「そうは行かない」と「烏賊の金玉」)  
その手は桑名の焼き蛤(「その手は喰わない」と「桑名名物の焼き蛤」)  
恐れ入谷の鬼子母神(「恐れ入りました」と「入谷の鬼子母神」)  
びっくり下谷の広徳寺(「びっくりした」と「下谷の広徳寺」)  
嘘を築地の御門跡(「うそをつく」と「築地門跡 」)  
志やれの内のお祖師様 (「洒落る」と「妙法寺」)  
情け有馬の水天宮(「情けあり」と「(久留米藩主有馬家の藩邸内にあった事から)有馬の水天宮」)  
いやじゃ有馬の水天宮(「いやじゃありませんか」と「有馬の水天宮」)  
どうぞかなえて暮の鐘(「どうぞかなえてくれ」と「暮の鐘」)  
申し訳有馬温泉(「申し訳ありません」と「有馬温泉」)  
結構毛だらけ猫灰だらけ  
田へしたもんだ蛙のしょんべん (皮肉として、大したもんだ、蛙のしょんべん程度の価値だ)  
見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし  
 (映画「男はつらいよ」の寅さんの的屋のセリフ(啖呵売)で有名。)  
蟻が鯛(アリガタイ)なら芋虫は鯨(イモムシはクジラ) 
 
甚句の系譜関係 
 
   「 / 」 同系統の唄  
   「←」 元歌・源流と思われる唄 
   「→」 この歌が元歌となり生まれたと思われる唄
 
北海道 

 

北海道東北関東中部近畿中国四国九州 
北海道青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県 

北海道  
「ソーラン節」 (「沖揚げ音頭」) 
北海道渡島半島の民謡、鰊漁の歌として有名。「船こぎ音頭」「つなお越し音頭」「子たたき音頭」等の中にある「沖揚げ音頭」の別称。板子一枚隔てた下は冬の荒海、眠気や疲労を吹き飛ばすために「ソーラン、ソーラン」と掛け声をかけ、励まし合い作業をした。もとは青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」とされる。原曲は、江戸中期のはやり歌説をとる。当時の御船歌と呼ばれる儀礼の歌や小禾集という俗謡集にゃ「沖のかごめに」と言う一節に酷似した歌詞があり、その流行り歌がやん衆とともに、北海道にわたったという。   
 
ソーラン節は、鰊の魚影を追い続けたヤン衆たちのドラマの中で生まれた。ソーラン節はどこで生まれた唄か、さまざまな説があるが、有力な場所として知られているのが積丹町。北海道の中でも古い歴史を持つ町である。 
積丹町の開基は江戸時代中期、1706年で、松前の福山城が築城された1600年から100年余り後と歴史がある。当時、積丹半島の日本海沿岸は毎年3月下旬から5月にかけて海が盛り上がる程に 鰊が押しよせていたと云われている。松前藩時代は鰊は身欠き鰊、塩数の子として将軍家に献上していた。鰊、サケ、昆布は蝦夷(エゾ)の三品として全国に知られるようになり、貴重なものとして数多く取り引きされていた。松前藩は江戸中期の享保年間(1716-1735年)ごろまで蝦夷交易は知行主(藩士の交易権持ち主)が行っていたが、それ以降蝦夷交易は商人によって請け負うようになった。この商人を場所請負人と言った。商人から徴収するお金を「運上金」、交易する場所を「運上家」と言った。 
積丹の交易権(場所)は宝永3年(1706年)に初めて置かれた。場所請負人が置かれたのは天明6年(1786年)で知行主「藤倉八十八」、請負人「福島屋金兵衛」だった。その後文政年間(1818年)から明治8年(1875年)ごろまでは松前商人「岩田金蔵」が請負人となっていた。岩田金蔵は現在地に脇本陣としてみごとな 鰊漁場の建物を建てた。運上家制度は岩田金蔵の時代で廃止となったようだ。 
慶長年間(1596-1625)に美国場所と積丹場所(後の入舸・余別村)が設けられ、知行主は美国が近藤家、積丹は藤倉家が世襲していた。天明年間(1781-1789)には運上屋、 鰊小屋、番屋などが美国で29軒、積丹で17軒も数えたという。大正の末期まで鰊の千石場所として大いに繁栄し、当時の番屋、トンネル、旧街道などが保存されている。 
その歴史を語るにあたって忘れてはいけないのが、北海道の厳しい海にひるむことなく、鰊の大群を追い続けた「ヤン衆」たちの生き様だ。厳しい環境だからこそ生まれた数々のドラマ。そんなドラマの主人公であるヤン衆たちが、鰊で溢れた網を引き揚げる時に、自然に口ずさんだ「力入れ」の唄、それが「ソーラン節」だったのだ。今では北海道を代表する民謡となったソーラン節だが、実はこの唄、 四編から構成されている「正調鰊場音頭」の内の一編分、沖揚げ音頭だった。  
 
ソーラン節は北海道渡島半島の民謡。ニシン漁の歌として有名。 
かつて北海道の日本海沿岸には、春になるとニシンが産卵のために、大群となって押し寄せてきた。メスが卵を産み、オスが一斉に放精する。そのありさまは、海が白く染まるほどだったという。江戸時代後期から昭和の初期にかけて、群がる鰊を目当てにした漁で日本海沿岸は大いに賑わった。毎年、春の漁期が近づけば、東北地方や北海道各地から「ヤン衆」と呼ばれる出稼ぎ漁師が一攫千金を求めて、西海岸の漁場に続々と集まってくる。彼らは宿舎を兼ねた網元の大邸宅「鰊御殿」に集結し、船頭による統制の元でニシンの「群来」(くき、と読む)を待ち続けるが、やがて群来の一報が入るや、一斉に船を漕ぎ出し、網でニシンを獲る。獲られたニシンは浜に揚げられ、一部を食用としての干物「身欠き鰊」に加工する以外はすべて大釜で炊いて魚油を搾り出し、搾りかすを「鰊粕」に加工する。鰊粕は北前舟貿易で西日本に移出され、現地でのミカンやアイ(植物)、ワタ栽培の高級肥料として評判を博した。一連の漁期がひと段落した5月の北海道西海岸はニシン製品の売買や、帰郷前に歓楽街へ繰り出す漁師達の喧騒で「江戸にも無い」といわれるほどの賑わいに包まれたという。 
ソーラン節は、その一連のニシン漁の際に唄われた「鰊場作業唄」の一節、「沖揚げ音頭」が独自に変化したものである。 鰊場作業唄は「船漕ぎ音頭」・「網起こし音頭」・「沖揚げ音頭」・「子叩き音頭」の四部から構成されている。 
港から漁場まで、「オーシコー、エンヤーァエー、オーシコー」の掛け声で「船漕ぎ音頭」を唄いながら艪を漕いで船を進める。仕掛けた網には大量の鰊が追い込まれているので、「ヤーセィ、ヤサホイ」の掛け声の「網起こし音頭」で調子を合わせて網を持ち上げ、「枠網」の中にニシンを移し換える。移し変えた網の中のニシンを巨大なタモ網で「ソーラン、ソーラン」と掛け声をかけて汲み出すのが「沖揚げ音頭」。そして最後に、「アリャリャンコリャリャンヨーイトナー」の掛け声で、網に産み付けられたニシンの卵(カズノコ)を竹の棒で打って落とすのが「子叩き音頭」である。 
春とはいえ、冷え切った北海道の海の上。単調で辛い肉体労働をこなすには、大勢で掛け声を唱和する必要があった。時には即興で卑猥な歌詞を歌い上げ、場に笑いを誘う。 
この「沖揚げ音頭」が鰊場作業唄から分化し、「ソーランソーラン」囃し言葉にちなんで「ソーラン節」と呼ばれるようになった。 
なお、「子叩き音頭」もやはり分化し、締めの囃し言葉「アライヤサカサッサ」にちなんで「イヤサカ音頭」と呼ばれ、北海道民謡の一つとして独立している。 
もとは青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」とされる。原曲については、國學院大學民族歌謡文学の須藤豊彦名誉教授によると、江戸中期のはやり歌説をとる。当時の御船歌と呼ばれる儀礼の歌や小禾集という俗謡集に"沖のかごめに"と言う一節に酷似した歌詞があり、その流行歌がやん衆とともに、北海道にわたったという。
ソーラン節
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/  鰊場作業唄「船漕ぎ音頭」「網起こし音頭」「沖揚げ音頭(ソーラン節)」「子叩き音頭」 
←「荷揚げ木遣り唄」(青森県野辺地町周辺)   
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ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン(ハイハイ) 
にしん来たかと 鴎に問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ 
ヤサ エーエンヤーサーノドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ) 
ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン (ハイハイ) 
沖の鴎に 潮どき問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ 
ヤサ エーエンヤーサーノ ドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ) 
ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン (ハイハイ) 
男度胸なら 五尺のからだ どんと乗り出せ 波の上 チョイ 
ヤサ エーエンヤーサーノ ドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ) 
ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン (ハイハイ) 
躍る銀鱗 鴎の唄に お浜大漁の 陽がのぼる チョイ 
ヤサ エーエンヤーサーノ ドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ) 
 
鰊来たかと かもめに問えば 私しゃ立つ鳥 波に聞け 
沖の鴎に 潮時聞けば 私しゃ立つ鳥 浪に聞け  
男度胸なら 五尺の身体 どんと乗出せ 浪の上  
沖で鴎の 鳴く声聞けば 船乗り稼業は やめられぬ  
波の瀬のせで どんと打つ波は 可愛い船頭衆の 度胸だめし  
今宵一夜は どんすの枕 あすは出船の 波枕  
玉の素肌が 飛沫に濡れりゃ 浮気鴎が 見てさわぐ
「いやさか音頭」 (「子叩き音頭」) 
囃し言葉から命名。別名「子叩(たた)き音頭」。子叩きとは、漁が終わり、浜で網をかたずける前に、鰊(にしん)漁に使う建網に産卵した鰊の卵を棒で叩き落とすことを言う。青森県鯵ヶ沢(あじがさわ)港付近で唄われていた「鯵ヶ沢甚句」が、弘前近辺に移入されて「どだればち」になり、北海道に移入されて「いやさか音頭」となった。  
 
「いやさか音頭」というのは北海道におけるニシン漁が盛んだった時代、鰊場(にしんば)で唄われた作業唄の一つで、「ソーラン節」もその中の一つ。北海道区水産研究所が刊行していた「魚と卵」の1968年12月号に、近藤賢蔵氏が著した「魚と夢物語」という文献がある。近藤氏は余市町の鰊場生れで、幼い頃からずっと見続け、そして消え去ろうとしているニシン漁への夢を語っているが、その中で鰊場の作業唄について語った部分を紹介したい。ソーラン節はもともとニシンの枠船から汲み船へニシンを移す時、大きな「タモ」で汲み上げるのであるが、一人や二人ではどうにもならないので四・五人が1グループとなって作業やるのであるが、その時一つのリズムをつけ力を出し合って能率をあげる時の作業唄である。グループの中の美声のものが音頭をとって即興的に文句を作り唄うので節があってないようなものである。今日北海道の代表的歌のような節では作業にはならず、いわゆるお座敷ソングで段々と変形俗化してしまった。また「子たたき音頭」と称されるものは、網につけられた数の子を落す時、1メートル位の根曲り竹を持って網を張り、たたいて落す時に歌ったもので、もとは東北地方の盆踊唄である。当時の漁夫は主として青森、秋田県の人が多かったので、遠く故郷をしのんで歌ったものである。一名「イヤサカ音頭」と云っているが歌の文句の中に「イヤサカサッサ」なるはやし言葉があるのでその名がつけられたものと思う。戦後、観光宣伝のために音頭なる名称をつけているが、はじめからあったものでない。このほかに「キヤリ」「舟コギ」もあるが、みな漁場の作業歌である 。  
 
←「鯵ヶ沢甚句」  
 
姉ここちゃ向け かんざし落ちる  (アーイヤサカサッサ)  
かんざし落ちないナ 顔見たい  
アリャ顔見たい 落ちないナ 顔見たい  (アーイヤサカサッサ)  
   来いちゃ来いちゃで 二度だまされた   
   又も来いちゃでナ だます気か  
十七八(じゅうしちはち)なら 山さもやるな  
山にゃ人さすナ 虫がいる   
   お前行くなら わしゃどこまでも  
   蝦夷や千島(ちしま)のナ 果てまでも
「江差甚句」 (「じんこ」) 
鰊漁の根拠地・江差は、ヤン衆たちで大いに賑わい、盆踊りはおらが国さの自慢の唄を披露する場であった。鰊が北の海に去り、江差の町がさびれてしまうと、盆踊りもいつしかすたれてしまった。「江差甚句」は、盆踊り唄のなかで残ったものの一つ。昭和14-15年頃までは、太鼓の伴奏で踊られていた。曲の名は”じんこの架けた橋 渡らねで落ちた 架けた大工さんの顔見たい”と唄う歌詞から「じんこ」と呼ばれた。  
 
(サンドッコイショ ドッコイショ)  
江差船頭衆に どこよて惚れた  
(サンドッコイショ ドッコイショ)  
汐でみがいた チョイト男ぶり  
(サンドッコイショ ドッコイショ)  
あれは奥尻 大島小島  
浮かぶ白帆が チョイトなつかしや  
   沖を行くのは ありゃ何処の船  
   声をかけたい チョイト鴎島  
雪がつもれば 未練もつもる  
別れ湯けむり チョイト五里沢  
   江差なまりで 甚句をうたう  
   可愛いあの娘の チョイトたばね髪
「チョイサ節」 
函館が鰊漁の根拠地として栄えていた頃、漁師たちが酒盛り唄に唄っていた。上の句と下の句の間にチョイサと囃し、下の句の後に、さらにチョイサチョイサと囃す。曲は甚句の一種で、四句目を二度繰り返す。 
 
大漁手ぬぐい きりりと締めて どんと起こせば 百万両 
飲めや大黒 歌えや恵比須 仲をとりもつ 福の神
「函館甚句」  
函館に住む三味線の田原賢声は、昭和38-39年頃、北洋船団出漁のさまを唄にした。  
 
ともえ港よ 花咲く春に またも沸き立つ あの北洋船
「江差追分」  
北海道の民謡。渡島半島の日本海沿岸に位置する桧山郡江差町が発祥の地である。江戸時代中期以降に発生したとされている。信濃の追分節に起源があるとするのが定説のようである。北海道指定の無形民俗文化財。「姥神大神宮渡御祭と江差追分」として北海道遺産に選定されている。  
信濃国追分宿の馬子唄が、北前船の船頭たちによって伝わったものと、越後「松坂くずし」が「謙良節」として唄われていたものが融合されたとされている。今の江差追分の原形として大成させたのは、寛永年間、南部国の出身で、謙良節の名手であった座頭の佐之市によるものであると云われている。その後、歌い継がれる間に幾多の変遷を経て、 「浜小屋節」や「新地節」など多くの流派が発生した。明治41年に、追分節の統一を図る動きが生まれ、追分節正調研究会が発足し、各派の師匠たちが論議を重ねた結果、正調追分節の基礎が固まった。   
 
民謡の曲名。北海道江差町の人たちが酒席で歌ってきたもの。「松前追分」ともいう。その源流は、長野県軽井沢町追分に端を発する酒席の騒ぎ唄(うた)で、のちに新潟市の港町の花柳界を経由して海路北海道へ持ち込まれたものであるが、これには2種類の用いられ方があった。一つは、新地とよばれる高級料亭街で、芸者衆がお座敷唄として三味線の伴奏をつけて歌ったもの。もう一つは、浜小屋とよばれる下級飲食店を中心にして、「ヤン衆」や下級船員たちが「投節(なげぶし)」的に、野外などで歩きながら無伴奏で歌ったりしたもの。ところが交通の中心が鉄道に移り、ニシン漁も北の海へ移ると江差は廃れ始めた。そこで明治44年かつての江差の繁栄を示すものとして 「江差追分」の保存運動がおこり、詰木石(づみきいし)町のそば屋久保田リセ宅で「研究会」が旗上げした。ところがこのころから「江差追分」は新地芸者が減ったこともあって、「浜小屋節」一色になり、伴奏楽器も三味線から尺八にかわって、今日の形に整えられ、さらに三浦為七郎の出現で、大正初めに今日の形式が完成した。  
 
江差追分は「鰊場(にしんば)」で歌われた。鰊沖揚音頭(ソーラン節)とともに、北海道の代表的な民謡だ。  
   かもめの鳴く音に ふと目を覚まし  
   あれが蝦夷地の山かいな [本唄]  
信州の山国で産まれた馬子唄「信濃追分」が海辺の土地へ出て「越後追分」となり、船乗りたちに歌い継がれ、船で越後から北海道江差まで運ばれたと言う。一方、伊勢松坂の民謡「松阪節」が越後に入って祝い唄となり、「越後松坂くずし」としてうたわれていた。天明年聞(1781〜88)に、越後の座頭松崎謙良(けんりょう)が松前に渡り、松前藩の重臣のもとに寄寓するあいだ酒席で祝い唄を巧みに歌いまわしたので、評判をとって「謙良節」と呼ばれるようになった。その後、天保年間(1830〜43)に南部盛岡の琵琶師の座頭佐之市が江差へ渡り、謙良節を元に越後追分を加えて編曲し、作詞をして「二上がり」の調子で歌った。これが「江差追分」の興りである。「恋の道にも追分あらばこんな迷いはせまいもの」という佐之市の作詞に馬子唄の名ごりが見える。  
江差追分の歌い方はふたとおりあった。一つは、浜小屋と称する娼家で酌婦らと戯れる漁夫や舟子たちが歌う酒盛り唄で、彼らは荒々しい情念をこめて思いの丈を歌った。もう一つはニシン場の親方や北前船の船頭衆が茶屋と呼ぶ山の手の小料理屋の座敷で三味線や踊りをつけて歌う節回しの江差追分で、これは艶節(つやぶし)あるいは新地節と呼ばれた。粗野な浜小屋節は江差のノド自慢たちによって長短、高低、抑揚や止め方を練り上げられ、また船に乗り、船乗りたちによって西へ運ばれていった。加賀の「山中節」や隠岐の島の「どっさり節」は、江差追分の血筋をひくと言われる。  
 
/ 「浜小屋節」「新地節」 
←「信濃追分」 「追分馬子唄」「松坂くずし」「謙良節」 
 
(前唄) 
国を離れて 蝦夷地が島に  幾夜寝覚めの 波枕   
朝な夕なに 聞こゆるものは 友呼ぶ鴎と 波の音  
(本唄)  
鴎の鳴く音にふと目を覚まし あれが蝦夷地の 山かいな  
(後唄) 
月をかすめて 千鳥が鳴けば 波もむせぶか 蝦夷の海  
   荒い波風 もとより覚悟 乗り出す船は 浮世丸  
   西か東か 身は白波の 漂う海原 涯もない  
   泣いたとて どうせ行く人 やらねばならぬ せめて波風 穏やかに  
   泣くに泣かれず 飛んでも行けず 心墨絵の 浜千鳥  
蝦夷や松前 やらずの雨は 荒れて別れの 風が吹く  
泣くも笑うも 今宵が限り 明日は出船か 波の上  
山背風 別れの風だよ 諦めしゃんせ いつまた逢うやら 逢わぬやら  
心細さに ホロリと涙 名残惜しやと 千鳥鳴く  
   波は磯辺に 寄せては返す 沖はしけだよ 船頭さん  
   今宵一夜で 話は尽きぬ 明日の出船を 延ばしゃんせ  
   泣いたとて どうせ行く人 やらねばならぬ せめて波風 穏やかに  
   泣くなと言われりゃ なおせき上げて 泣かずにおらりょか 浜千鳥  
大島小島の 間(あい)通る船は 江差通いか 懐かしや  
北山おろしで 行く先曇る 面舵頼むよ 船頭さん  
鴎の鳴く音に ふと目を覚まし あれが蝦夷地の 山かいな  
何を夢見て 鳴くかよ千鳥 ここは江差の 仮の宿  
   大島小島の 間通る船は 江差通いか 懐かしや  
   北山おろしで 行く先曇る 面舵頼むよ 船頭さん  
   忍路高島 及びもないが せめて波風 おだやかに  
   主は奥場所 わしゃ中場所で 別れ別れの 風が吹く  
松前江差の 津花の浜で 好いた同志の 泣き別れ  
連れて行く気は 山々なれど 女通さぬ 場所がある  
忍路(おしょろ)高島 及びもないが せめて歌棄(うたすつ) 磯谷まで  
蝦夷は雪国 さぞ寒かろよ 早くご無事で 帰りゃんせ  
   松前江差の 津花の浜で 好いた同志の 泣き別れ  
   連れて行く気は 山々なれど 女通さぬ 場所がある  
   忍路高島 及びもないが せめて歌棄 磯谷まで  
   蝦夷地海路の お神威(たもい)様は なぜに女の 足止める  
浮世の荒波 漕ぎ出てみれば 仇やおろかに 過ごされぬ  
浮くも沈むも みなその人の 舵の取りよと 風次第  
荒い波でも やさしく受けて こころ動かぬ 沖の石  
波に映りし 月影さえも 乱れながらも 丸くなる  
   波の上飛ぶ 鴎を眺め 目には思わず ひとしずく  
   翼あるなら あの山越えて 飛んで行きたい 主の側  
   音に名高い お神威様は なぜに女の 足止めた  
   出船入り船 数ある中にネー わしの待つ船 ただ一つ  
波路遙かに 想いをかけて 泣けば飛沫も 濡れかかる  
巡る年月 待つ身もやせて 磯の松風 一人聞く  
沖の鴎よ 流れる雲よ せめて伝えよ この心  
主の船唄 夜毎に聞いて 共に暮らすは 何時じゃやら  
   けむる渚に 日はたそがれて 沖にいさりの 火が灯る  
   江差よいとこ 寝覚めの床に 通う千鳥の 鳴く音聞く  
   松前江差の 鴎の島は 地から生えたか 浮島か  
   月をかすめて 千鳥が鳴けば 波もむせぶか 蝦夷の海  
浮世の苦労も 荒波枕 月を抱き寝の 浜千鳥  
明日はいずこの 大海原で 荒い波風 しのぐやら  
船底の枕外して 聞く浜千鳥 寒いじゃないかえ 波の上  
辛い想いに 泣くのじゃないが 月が泣かせる 浜千鳥  
   波は千鳥に 千鳥は波に 後を追うたり 追われたり  
   一夜泊まりの 船頭衆に惚れて ついちゃ行かれず 泣き別れ  
   沖を眺めて ホロリと涙 空飛ぶ鴎が 懐かしや  
   空飛ぶ鴎が もの言うならば 便り聞きたい 聞かせたい  
大島子島は めおとの島よ なぜに奥尻 はなれ島  
吹くな夜風 片帆に持たせ 月に棹さす 筏舟  
雪の空より ほのぼの明けて 雲のかなたに 蝦夷が島  
今宵入り船 江差の港 遙かに見えるは かもめ島  
   浮世離れて 奥山住まい 月雪花をば 友として  
   岩に砕ける 水音聞けば 過ぎし昔が しのばれる  
   波の音聞くが嫌さに 山家に住めば またも聞こゆる 鹿の声  
   秋が来たかと 紅葉に問えば 鹿と相談 せにゃならぬ  
蝦夷の前浜 鰊が群来て いさむ舟子の 大漁節  
曳けや浜から 黄金が上がる 黄金千石 二千石  
江差の五月は 江戸にもないと 誇る鰊の 春の海  
姥が神代の 昔も今も 土地の花なり かもめ島  
   今宵一夜は 緞子の枕 明日は出船の 波枕  
   昨日西風 今日南風 明日は浮名の 辰巳風  
   櫓も櫂も 立たぬ千尋の 深みにはまり 綱も碇も届きゃせぬ  
   底の知れない 心の海に うかと碇は おろされぬ  
北かと思えば まただしの風 風まで恋路の 邪魔をする  
昨日西風 今日南風 明日は浮名の 辰巳風  
北(あいの)風別れの風だよ あきらめしゃんせ   
いつまた逢うやら 逢えぬやら  
船を出しゃらば 夜深に出しゃれ 帆影見るさえ 気にかかる  
   船は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭衆の 心意気  
   飲めよ騒げよ 今宵が限り 明日は出船の 波枕  
   板一枚下が地獄の 船よりも 下の二枚が おそろしや  
   風は吹かねど こころの波に 舵の取りよが むずかしい  
蝦夷へ行くときゃ 涙がこぼる 帰るものやら 別れやら  
情けないぞや 今朝降る雪は 主の出船を 見せもせず  
泣いてくれるな 出船のときは 綱も碇も 手につかぬ  
ならばこの身を 鴎に変えて 後を追いたい 主の船  
   想いあまりて 磯辺に立てば 哀れさびしき 波の音  
   沖の漁り火 かすかに燃えて 遠く寄せ来る 暮れの色  
   月は照る照る 夜は更け渡る 磯の波音 高くなる  
   浜の真砂に 想いを書けば 憎や来て消す 夜半の波  
空を眺めて ホロリと涙 あの星あたりが主の宿  
逢いたい診たいは 山々なれど 悲しや浮世は ままならぬ  
胸に千把の 萱焚くとても 煙たたせにゃ 人知らぬ  
主を待つ夜は 悲しさまさる 泣いてくれるな 浜千鳥  
   切れて今更 未練はないが 主はいずこで 暮らすやら  
   雨の降る夜も 風吹く夜も 思い出しては しのび泣き  
   主は今頃 起きてか寝てか 思い出してか 忘れてか  
   波の飛沫に 磯浜千鳥 濡れて明け暮れ 泣くばかり  
風のたよりは 松吹くばかり 君は姿を なぜ見せぬ  
波は寄せても 砕くるばかり 岩もこの身も やせ細る  
人頼みせねば逢われぬ 身を持ちながら 逢えば愚痴やら 涙やら  
巡る浮世に はかない縁 いつまた逢うやら 逢えぬやら  
   一筆書いては ホロリと涙 どう書きゃまことが 届くやら  
   雲に架け橋 かすみに千鳥 及びないのに 恋をする  
   雨垂れの音と知りつつ もしやと思い 幾度枕を あげたやら  
   磯の鮑を 九つ寄せてネー これも苦界の 片思い  
芦の入り江は 霞にくれて 灯影ゆらめく 岸の宿  
暑さ知らずの 蝦夷地でさえも 夏は来て飛ぶ 蛍虫  
人は涼しと いう川岸に なぜに蛍が 身を焦がす  
空にゃ上がれず 水にはとけず 闇に迷うて いるばかり  
   国を出る時ゃ 涙で出たが 岬かわせば 先ゃ急ぐ  
   吹くな夜嵐 片帆に持たせ 吹くな抱き寝の 波枕  
   蝦夷は寒かろ 来て行かしゃんせ わしが手縫いの この上衣  
   粉雪さらさら 松前船を 泣いて送るか 浜千鳥  
逢いに北見を 主白糠で 狸根室で 釧路向き  
酒に与市か 高島いびき 何を聞いても 岩見沢  
宗谷そわずに 別るるならば 私ゃ美国と なるわいな  
声が高島 静かに忍路 忍ぶ小樽の 仲じゃもの  
   今宵目出度く この家の庭に 晴れて見交わす めおと松  
   春はなおさら 緑も深く 操正しき 松の色  
   荒海の波にもまれて 生えたる昆布は 主と祝儀の 契り草  
   生えてうれしや 二葉の松は 家の柱と なるばかり 
「江差追分」考1  
「江差追分」の起源は明治30年以降、川竹駒吉・森野小桃・村田弥六・岡田健蔵・高橋掬太郎・三木如蜂・阿部たつを・白石武臣等の追分研究者がその著書で述べているが、定説として決定的にできるものはない。  
特に、発生年代となると江戸時代中期以降とするだけで、確定的なものは出ていない。 民謡や民俗芸能は本来長い年月のなかで郷土に溶けこみ定型化するもので、自然発生的要素が多いものであり、江差追分も古い時代に江差の風土と結合し郷土の先人が育て、唄い伝えてきたもので、その発生過程を明らかにできないのは、むしろ民謡としての本質によるものであろう。  
特に渡海者の移住によって発生した北海道の郷土文化は、本州各地から運ばれたものが複合され環境に土着した生活慣習も、その中から生まれたものであり、「江差追分」もその例にもれるものではない。  
言い伝えや研究者の著述の中で、「江差追分」の起源を信州小諸付近の追分節が、越後に伝わり、「越後追分」となって船で蝦夷地に渡り、一方それより先、越後から「松坂くずし 」が伝わり、「謙良節」として唄われていたものとが結合して「江差追分」になったとする説がほとんど定説となっている。即ち信州北佐久郡長倉村追分付近の街道を上下する馬子たちによって唄われていた馬子唄(馬方節・信濃追分)が参勤交代の北陸武士や旅人瞽女(ごぜ)等によって越後に伝わり蹄の音が波の音、即ち山野のメロディーが海辺のメロディーに変化して越後追分(古くは松前、または松前節と呼ばれた)となり、船乗りに唄われ北前船によって蝦夷地に伝わり謙良節と合流し、蝦夷地という辺境の荒い波濤の中で哀調を加え、「江差追分」が生まれたという。  
この過程で追分の原型に近く哀愁をおびて唄い伝えられたのが「江差三下り」であり、謙良節と合流し地味で悲哀の感情をこめ「二上り」の調子に変わって唄い継がれたのが「江差追分」である。何れにせよ信州地方の追分節を母体に、その原型を堅持したのが「江差三下り」であり、調子を二上りに変え、比類なく曲節を練り上げたものが「江差追分」である。  
さて、「江差追分」の源流を信濃追分に求めるのは定説であるが、この信濃追分の発生についても異説が多い。岡田健蔵氏は、伊勢伊賀の馬子唄が東海道から中仙道を経て木曽路に入り、木曽馬方節となり信州小諸に伝わって追分節になったとし、柳田国男氏は信州追分のメロディーにイタコの神おろし唄と共通なものがあるとして古い時代の追分調メロディーの普遍性を指摘している。また、近年メロディーの近似性から蒙古民謡に源流を求め、貢馬とともに信州に入り、馬子の唄として成立したという説もある。  
発生の古いものほど異説も多く、このことは民謡のもつ本質のひとつであろうと思われる。 一方いまひとつ「江差追分」の父といわれる古い型の謙良節は、現在では唄う人もなく消えうせているが、伊勢松坂の民謡「松坂節」が越後に入って祝唄の越後松坂となり、のちに「松坂くずし」として唄われていたものらしい。天明(1781〜1788年)の頃、越後新発田(または新津出身ともいう)の松崎謙良(座頭)が松前に渡り、松前家の重臣下国季寿のもとに寄寓し越後松坂くずしを巧みに唄っていたので謙艮節と呼ばれるようになったという。  
また、寛政の頃(一説には天保年間)に南部盛岡の琵琶師の座頭佐之屋市之丞こと佐之市(一節に長崎生まれ、船頭の息子)が江差に渡り、酒席をとりもち美声で唄う謙良節が評判になったという。「あやこ(酌婦)よければ 座敷がもめる、もめる座敷は謙良節」という歌詞が残っている。こうして江差で唄われていた謙良節をもとに、越後追分を加えて編曲し、作詞して「二上り」の調子で唄いひろめたのが佐之市であると伝えられている。「追分はじめは佐之市坊主で 芸者のはじめは蔦屋のかめ子」と唄われ佐之市の作詞とされるものに「恋の道にも追分あらば こんな迷いはせまいもの」という追分の歌詞が伝えられている。もちろん楽譜もない時代で佐之市の唄がどんなものであったか知るすべもないが、「江差追分」成立の過程として無視することはできないであろう。  
「江差追分」は謙良節を父とし、越後追分を母として海浜に生きる江差地方の風土に溶け込み、特色ある生活環境や、労働形態の中で幾多の変遷を経ながら育まれたものである。以上定説とされるもののほか、アイヌ唄から発生したという異説もある。  
即ち、村田弥六師が説くその唄というのはメノコが丸木舟に乗って車櫂を操りながら、波の間に間に悲しい調べで唄うもので、和人がこれを聞きアイヌ語を翻訳して唄ったのが追分節であるというものであるが、高橋掬太郎氏等はこれを否定している。 また、義経伝説にからむアイヌ首長の娘「チャレンカ(或いはフミキ)」との悲話から片恋に死んだ哀れなメノコの霊を弔う悲しい調べが「江差追分」を発生させたとする説を、森野小桃氏等が述べているが、この義経伝説にまつわる江差追分発祥説は明冶期の創作伝説と考えられる。  
ともあれ「江差追分」の発生に、こうした異説が多くあるということは、この唄がそれだけ世人の好尚に叶い、関心を集めている証左であろう。謙良節を父に、越後追分を母として、ふたつの唄の持つ要素が「江差追分」を生んだとしても、それは母胎であってその他各地から運ばれた種々の唄の特徴が加わり、時にはメノコの唄うアイヌの唄の調子等も加わったということも考えられる。ともあれ江差は有カな漁場及び商港として蝦夷地という当時の辺境のなかで、「江差追分」を独特の情緒をもつ唄として完成したものであろう。  
この「江差追分」の発生年代は、明和〜寛政(1764〜1800)年代にあたる松前13代藩主道広の頃とされている。この時代は藩政の頽廃期にあたり、よくいえば優雅風流、悪くいえば浮華淫靡で有カな座敷唄が生まれる温床として好適な時代であり、「江差追分」は一面そのような背景のもとに育ったのであろう。  
 
日本を代表する民謡の一つに数えられる「江差追分」。この起源については文献も無く成立年代も不明ですが、信州の馬子唄と伊勢松坂節の二つに起源があると考えられています。  
信州中仙道の馬子唄がまず越後に伝えられ、海の調べに変わり舟唄となって、越後追分が生まれました。これが蝦夷地通いの船頭衆や船子たちによって江差に運ばれ、浜子屋の中で商家の旦那衆、ニシン大尽、船頭衆が、酒と女の遊びの中で唄い伝えられてきました。  
一方、「伊勢松坂節」は、松崎兼良によって編曲されて「松坂くづし」となり、越後での祝い事のとき「兼良節」として唄われるようになりました。これが民衆に唄い込まれるようになって江差に入ってきました。  
この二つの唄を母体とし、それに北前船で運ばれた様々な唄の要素が加わって、江差の漁場と商港という環境の中で独特の情緒を持った「江差追分」として育ったものだろうと考えられています。  
「江差追分」の成立に重要な働きをしたのが琵琶師の座頭佐野屋市之丞こと佐之市で、「追分のはじめは佐之市坊主で、芸者のはじめは蔦屋のカメ子」と唄われています。佐之市は寛政年間(1789-1801)、盛岡から来た琵琶師で、その作という「色の道にも追分あらば、こんな迷いはせまいもの」という詩が残されています。東本願寺の境内には佐之市の碑があり、江差追分全国大会の前日に、佐之市の法要が行われます。  
さて、「江差追分」には前唄、本唄、後唄がありますが、本体はあくまで本唄です。明治23年、南部水沢の虚無僧、大島大二郎が越後で修得した舟唄を追分の前唄とし、その後、大正10年、神戸の琴古流尺八の内田秀堂師が来遊して後唄を付けたといいます。  
さまざまな流派のあった「江差追分」が「正調江差追分」として、現在の形に定着したのは、明治41年、平野源三郎(正鴎軒)が各師匠に「江差追分」の統一を働きかけ、江差追分正調研究会が発足したのがきっかけです。  
平野源三郎は、小桝のばあさんと呼ばれた三味線の名手の弟子で、この小桝のばあさんの唄が「正調江差追分」の元祖とされています。ばあさんから教えを受けた平野源三郎は、明治20年代の末頃に正調江差追分平野派を創設し、普及につとめるとともに音譜化の研究をはじめました。その後、平野源三郎師匠を中心に標準の曲譜を作るために努力が続けられ、明治44年、現在の7線による独自の曲譜ができあがり、平野源三郎師が東京で正調江差追分節発表会を開いた際、公表して定型化に成功したのでした。  
正調江差追分本唄は、7節を2分20秒から2分25秒までに唄い終わるものとされ、1節は大波の上より次第に海底へ沈む思いを唄い、2節は沈んだ思いより次第に浮き上がる感じを表し、3節はその浮き上がった思いより、逆に海底に引き込まれるような感じをもち、4節はより悲哀の調子となり、5節は骨子となるところで、情熱に血を吐く思いという感じを出し、6節で3節の海底に引き込まれる思いと同じくし、7節は4節の哀愁の情緒を持って唄い終わるものとされます。  
 
今日の「江差追分」と幾分、曲節の異る違う座敷唄系の追分節が松前町に伝承されており、これを「松前追分」と呼称している。古くは江差地方に唄われている追分節も、松前の国の追分節という意昧から、「松前追分」とか、「松前」などと一般的に呼称されていたのであった。松前藩政期には和人地(態石から亀田まで)が松前地であり、藩内行政地名には福山という地名はあったが松前という地名は存在しなかった。戦後の町村統合によって新しい松前町が発足したものである。その意味で「松前追分」は古典追分の古称であって、松前町の追分という意味とは異質のものである。「松前追分」として今日伝承されているものは、古典追分の一派である艶節の一系統が残り伝えられているもので、大方の追分節の曲調が統一されてしまった観のある今日なお独自の曲調を伝承しているものである。 
「江差追分」考2  
江差の街は、海を見下ろしている。かわらぶきの屋根、土蔵づくりがそこ、ここに残る街並みは、海岸からゆるやかに丘へとつらなる。江差の街は、海へせり出している。かもめ島を前におき、南から北へ、視界いっぱいに広がる日本海。この港から、どれほど多くの人びとが船出したことだろうか。早朝。江差の海は凪いでいた。風ひとつ吹いていない。カモメだけが、あァ、あァとせわしなく鳴く。ここ、江差に港が開かれたのは鎌倉、室町時代――歴史をさかのぼること450年から630年前という。江戸時代・松前藩政期には、北海道最大の商業都市として港は交易船で埋め尽され、その繁栄を背景に生み出された豊かな民俗文化は、いまなお、街の人びとのくらしに根づき、大切に伝承されている。道内の民俗文化財は、国、道から指定されているものが10件。そのうち7件が江差町にある。まさに、北海道の民俗文化のふるさとといえる。なかでもひときわ知られているのが「江差追分」である。独特の小節(こぶし)、深い情緒と哀調を帯びながらも、格調高く、はりつめた緊張感につらぬかれて唄われる「江差追分」。「いまや、日本を代表する民謡」と、北海道の民謡研究を積み重ねてきた須藤恭央氏(NHK札幌)は高く評価している。この唄を、二百数十年の歳月をかけてつくり出し、伝え、育て上げてきたのは、どのような人びとだったのだろうか。その姿と心をまず、江差の街に求めてみた。  
 
「この江差町は、ニシンを中心とする交易で栄えた港町なんです。ニシン漁場で栄えたとよく誤解されるんですがね」と町史編纂委員の宮下正司氏。豊富な蝦夷地の水産資源、とりわけニシンは松前藩、藩財政の基礎であった。そして、ニシン漁の多くを担ったのは、大商人である場所請負人のいわば下請け、“二八取り”とよばれ、江差とその周辺に居住する中小漁業経営者たちであった。海が明け、ニシン漁が近づくと、“二八取り”は、雇い入れる漁夫・ヤン衆たちへの給金、漁具・資材、食料などを自己資金では賄いきれないため、江差の問屋、回船屋からの“仕込み”をうけて、奥蝦夷地へ向かった。“仕込み”はとれたニシンで決済された。ニシン漁前には“仕込み”で。漁が終わると奥蝦夷地から運び込まれるおびただしい量のニシン、その買い付けに集まる北前船。さらには懐が重くなったヤン衆たちも上陸して帰国の船を待つ。江差の浜は、ふくれにふくれ上った。これが「江差の5月は江戸にもない」と歌われた賑わいだったのである。  
 
江差の春は賜わった。しかし、その繁栄を支えた人――船頭、舟夫、漁夫や、地元に住む漁民、職人、商人たちは、必ずしも、蝦夷地へ望んできた人ばかりではない。出稼ぎにいくしか食べていけない農家の二、三男たち…郷里に帰っても仕事のめどが立たない人たち…。津軽、南部地方が飢饅の年には、蝦夷地に、どっと人が流れ込んだという。蝦夷地のくらしも、決して楽なものではなかった。仕事は危険をともない、ニシン漁は昨年大漁にわいたかと思うとことしは不漁に泣いた。蝦夷地の冬は寒く、日本海から吹きつける風は厳しかった。労働が激しければ激しいだけ、異郷の地の気候風土が厳しければ厳しいだけ、人びとは、遥かな故郷をしのび、唄にその心をたくしたのではあるまいか。“ニシンの春”の賑わいと繁栄、一方ではきびしい生活とのたたかい―その中で、いくつかの、すぐれた唄が、民俗文化が育まれ伝承されていったのである。  
宮下氏はいう。「江差追分の代表的なものに、"かもめの鳴く音にふと目をさまし あれが蝦夷地の 山かいな" というのがあります。これは、仕事や新天地を求めて、北海道へ渡ってきた人たちの心情を歌った唄なんですね。故郷をはなれ、とうとう、こんなに遠くまで来てしまった。ああ、あれが蝦夷地だ。もう、なにがなんでもここで生きていくしかないんだという期待や不安がこめられているんです。"忍路、高島およびもないが せめて歌棄 磯谷まで" 当時、神威岬以北は女人禁制であったため、女房、あるいは馴染みの女たちは、ニシン漁に男一人を送り出さねばならなかった。これは、その苦しさ、辛さを歌った唄です。せめて歌棄、磯谷まででもいいから一緒に行きたいという気持がこめられているんですね」  
「追分」というのは、そもそも道が左右に別れている所、分岐点の地名から由来している。そして、「追う」という言葉には「親しいものに追いつく、従っていきたい」と願う気持ちの意味があり、追分節は無数の人々の惜別の情を歌いあげた唄なのだ。この港町も、ただ、人が集まるだけではなく、また、別れの場所でもあった。  
 
北海道指定民俗文化財の「横山家」を守り、古き良き時代の江差商家の生活を伝えている人がいる。横山家の女主人である横山けいさんだ。「いま思えば申し訳ないことですが、追分を歌うことにも昔は階級がございました。働きにきた人たちが歌う唄でしたのでね。私ども、主人側は聴くだけで歌いませんでした。」 けいさんが子供のころはもう、ニシン景気は去っていた。しかし、なにか宴があると追分が歌われていた。そのほとんどが別れの宴であったために、子供心にも追分という唄は悲しい唄なのだと記隠しているという。「ランプの光の下でお酒を飲みながら、大人たちが涙で頬を光らせて歌う唄は、せつせつともの哀しい唄でした。"泣いたとて どうせ行く人 やらねばならぬ せめて波風 おだやかに" この歌声はもう忘れることができません」そうした中で、みんなが追分節を大事にし、それぞれ、自分が愛する唄・歌詞を自分の持ち唄として持っていた。別れの席や大きな仕事がすんだという時に歌った。その時に唄に込められた情感には、どれほどのものがあったであろう。「当時の追分は今のように、何分間で歌うなどといった決まりもなく、もっと情緒があったように思います。唄が長い人もおりましたし、息のつぎかたもそれぞれ違っておりました。今の方が音楽的には完成しているのでしょうけれど、子供のころに聴いた追分は、もっと悲しいといいますか、エレジーだったように思います」  
江差の問屋、回船屋の旦那衆はよく宴の座敷で追分を歌わせたという。賑やかであるはずの酒の席でなぜ、こんなにもの哀しい唄を、と不思議だった。しかし、思い返してみると、彼らにしても追分にこめられた心は、決して他人事ではなかったのである。いまでこそ繁栄の中心に座を占めているとはいえ、ほんの一昔前、あるいは数代前のわが身はどうであったか当時の心情をしのび、追分の歌声にわが心を重ね合わせていたのではあるまいか。江差の商人たちは、蝦夷地に住みつく在郷商人が中心であった。その点では、城下町福山や幕府直轄支配地・箱館の商人が、本店を近江など本州出身地に置く出張(ではり・出店)商人であったのとは大きく性格が異っていた。農家の二、三男に生まれ、商家の奉公人、手代となり、蝦夷地で店を任され、やがて独立という道をたどった人が多かった。このような商人たちであったからこそ、追分の心をしのび、江差の地に豊かな民俗文化を育てる担い手の一員となりえたのであろう。  
 
北前船(きたまえせん)と呼ばれる交易船は、冬に大阪湾を出て、春に瀬戸内海を回って塩を乗せ、日本海へ出て若狭、北陸、奥羽を経て米や酒を積み、蝦夷地へと北上した。そして、こうした生活物資とともに、船頭、舟子たちを通じて、各港から見聞きしたさまざまな文化を運んだ。「江差追分」の種子もそのひとつであった。  
「江差追分」の起源は諸説あるが、長野県の北佐久地方を中心とした馬子唄にはじまるというのが定説になっている。中仙道の追分宿で歌われた馬子唄が、旅人や飯盛り女たちによって越後に伝えられ、山の唄が海のしらべをおび「越後追分」が生まれ、やがて船頭衆や舟子たちに歌いこまれて蝦夷地に運ばれ「江差三下がり」となって歌われるようになった。一方、伊勢の「松坂くずし」が越後に入り、松崎謙良が編曲し広めたといわれる「ケンリョ節」が江差に伝わり、この二つの唄を母体として、さらに北海の荒い波濤や愛別離苦などが加わって、独特の情緒、哀調をもった「追分節」が作られていったのだろうと考えられている。  
始祖といわれているのは、当時(1680年代)江差の町を門付けして歩いた美声の佐ノ市と伝えられている。"追分のはじめは 佐ノ市坊主 芸者のはじめは 蔦屋のカメ子" と古謡にもうたわれているが、佐ノ市については琵琶法師であるとか、隠密であるとか諸説あり、実在の人物なのかどうかも確証はないが、「江差追分」誕生の重要な役割を果しているのは否定できない。  
やがて追分節は江差の繁栄とともに、ひとつは浜唄、浜小屋派となり、漁夫の浜流し唄として、もうひとつは座敷唄、詰木石派、新地派として船頭・親方衆に歌われ発達した。また、花柳界では艶節を加えたものを芸者節と称して流行していく。これらは古調追分節といわれ、現在の正調追分節の元唄になっている。  
 
繁栄を誇った江差も、交通機関、とりわけ動力船の発達から、小樽、函館、札幌へその座を明け渡していく。近郷のニシン漁も、明治30年に入ってから、ぱたりととだえる。経済の衰退、その中で沈滞していく人びとの心に新風をおこそう、郷土の誇り・「江差追分」を見直そうという人びとが出てくる。三味線の師匠で詰木石派に属した小枡ばあさんに師事した平野源三郎、尺八の小路豊太郎らである。明治42年、「正調江差追分節研究会」が結成された。五節の古調が七節歌いに創作され、「正調追分節」の形が整えられる。伴奏もそれまでは三味線が主流だったのが尺八の幽愁の音色へと代わり、この感傷的な竹の音がさらに追分の性格を浮き立たせた。「この時、それまでの江差追分から芸術的に練り上げられた完成度の高い歌、もはや民謡というよりむしろ、大衆的芸術的歌曲に創作されたといえるでしょう」と北海道教育大学・音楽科の谷本一之教授はいう。  
古調と正調の追分節を聞き比べると、古調追分節は正調の元唄とは思えないほど、なだらかで、まさしく山の唄であった。正調の方は、海の動、激しさである。高低起伏に富み、哀調が土地の自然、風土ととけあっている、谷本教授によれば、一つの民謡がこれだけの変遷を一気にとげるのは例がないという。追分節の実演も聞いてみた。紋付、袴姿で立つ姿には格式がある。両手を握りしめて、顔からは汗が流れていた、高い緊張感が聞き手にも伝わってくる。目を閉じていると、打ち寄せてくる波、引いていくさまなどが浮かび、なるほど、海の唄だった。  
 
〈前歌〉  
国を離れて蝦夷地ヶ島ヘヤンサノエー 幾夜寝覚めの浪まくら  
朝な夕なにきこゆるものはネ 友よぶかもめと浪の音  
〈本唄〉  
かもめの鳴く音にふと目をさまし あれが蝦夷地の 山かいな  
〈後唄〉  
沖でかもめのなく声きけばネ 船乗り稼業がやめられぬ  
   〈以下前唄、後唄は省略〉  
忍路高島及びもないが せめて歌棄 磯谷まで  
荒い波でもやさしくうけて 心うごかぬ 沖の岩  
泣いたとてどうせ行く人やらねばならぬ せめて波風おだやかに  
恨みあるぞえお神威さまよ なぜに女の足とめる  
櫓も櫂も波にとられて身は捨小舟 どこにとりつく島もない  
蝦夷は雪国さぞ寒かろう 早く御無事で帰りゃんせ  
松前江差の鷗の島は 地から生えたか 浮島か  
紫の紐にからまるあの鷹さえも 落つりや蝦夷地の藪に住む  
恋の道にも追分あらば こんな迷いは せまいもの  
雪にたたかれ嵐にもまれ 苦労して咲く寒つばき  
板一板 下が地獄のアノ船よりも 舌の二枚がおそろしや  
江差の5月は江戸にもないと 誇る鰊の春の海
「北海謙良節」  
越後の「松坂」が変化したもので、「松坂」は新潟県新発田市生まれの松波検校(まつなみけんぎょう)が作ったといわれている。越後の瞽女(ごぜ)や座頭(ざとう)、船人たちが「松坂」を各地へ持ち回ったため、日本海側の各県で唄われている。秋田、青森、北海道の一部では、検校が「松坂」を唄ったために「検校節」と呼ばれる。「検校節」の名が、なまって「けんりょう節」になり、松波謙良の名から「謙良節」となった。  
■ 
←「松坂」「検校節」 
→「江差追分」 
 
さてもめでたい 松前様は 割びし御紋は あや錦  
前に大漁の 海原や 岳の千軒 黄金湧く  
城は栄えて 千代八千代 中は鶴亀 五葉の松  
枝も栄えて 葉も繁る ああ鶴々と ああ明ける国 
「ナット節」  
北海道の民謡。特に千島、樺太で働く人足たちに歌われた労作唄。缶詰工場の工員たちによって歌われて「缶詰所節」「女工節」となり、さらに山形に伝わって「真室川音頭」になったとされる。1965年に「道南ナット節」が作られ、特に広く歌われている。  
囃し言葉から命名された。明治から大正にかけて、北海道や樺太(からふと)の土木人足の間で盛んに唄われた。歌詞が非情に多い。七五調四句の今様形式をもつ明治の流行歌で、後に北海道のカニ缶工場の女工さん達も盛んに唄うようになった。  
 
明治のころに北海道を中心に盛んに歌われていて、千島、樺太の缶詰工場で働く女工さんたちに歌われた労作唄。労作唄とは日本の民謡のなかで労働と結びついて歌われる唄で、共同作業を行う時や、全体の統一をはかるためだったり、単調な作業の時の気分転換のために歌われた唄のことをいいます。「ナット節」の元唄になっているのが「カムチャッカ小唄」ですが、「ナット節」も「缶詰所節」や「女工節」、「真室川音頭」の元唄だと言われています。労作唄として唄われていたのが、お座敷唄となって、合いの手で「ナット ナット!」と囃すことから「ナット節」と呼ばれるようになったそうです。ナット節でも、1965年に作られた杵渕一郎さん作詞、初代浜田喜一さん編曲 の「道南ナット節」が特に親しまれています。  
■ 
←(労作唄) 
→「缶詰所節」「女工節」「真室川音頭」 
 
裏の畑に 蕎播いて そのまた隣に 粟播いて  
そのまた隣に 黍播いて そば通ってあわなきゃ きびわるい  
   会いたい見たいが 籠の鳥 もしもこの身が 飛べるなら  
   番屋の屋根に 巣をつくり 焦がれ鳴く声 聞かせたい  
一輪咲いても 花は花 一夜の嵐に 散るはイヤ  
たとえ草履の 鼻緒でも 切れて気持ちの よいものか  
   一度咲く花 二度までも 咲かせたいとは 思えども  
   月にむら雲 花に風 浮世はままに ならぬもの  
「道南ナット節」  
(ハーナットナット)  
波の花散る北海を 思い出したら又来てね  
木彫りの小熊を共にして アリャご無事で内地へ 戻りゃんせ(ハーナットナット)  
   誰に買われて行くのやら おばここけしが片えくぼ  
   知らぬ他国でふるさとの アリャ夢見て泣くだろう 明け暮れに  
連絡船のドラが鳴る 函館港は涙雨  
逢うは別れと知りながら アリャなんで又鴎が なくのやら  
   来年来るやら来ないやら 来ても又逢うやら逢えぬやら  
   わたしゃ深山の水車 アリャ花咲く春まで くるくると
「根室女工節」  
明治40年に公布された日露漁業条約により、カムチャッカと沿海州沿岸のロシア領漁業が本格化するとほぼ同時に、北千島漁業も本格化し、根室の網元が共同出資した千島漁業合資会社も北千島に出漁してタラ漁業をはじめました。たまたまタラの延縄にかかったタラバガニが蟹缶詰業を発展させ、函館の日魯漁業などが北千島に缶詰工場を建設します。そして大正から昭和にかけての深刻な不況と凶作によって、多くの若い女性たちが道南や東北地方からこのタラバガニ缶詰工場に出稼ぎにきたのですね。その労働は、「昼夜二交代制十六時間連続労働の連日強行、魚群襲来時には連日十八〜二十時間労働」という「タコ」なみの厳しさだったそうです。ただ農山村民の共同出稼ぎであるため、タコ部屋にはない家族主義的恩情で結ばれていました。この女工節も、そうした雰囲気の中、励まし合い語らい合うための唄として生まれたのでしょう。しかしこの家族主義は、国策的漁業会社による母船式カニ漁業の労働強化がはじまると解体し、小林多喜二の「蟹工船」に見られる海上罷業となり、昭和4年の日本漁業労働組合の指導による日魯漁夫争議へと発展していきました。  
根室女工節は、古くから根室や北方四島にある缶詰工場の隆盛を支える大きな力となった女工さん達が、遠く故郷を離れて出稼ぎし幾夜もいつ果てるとも知れぬ苛酷な作業に耐えながらお互いを励ましあい、生産のよろこびや、つのる故郷への切々な思いを口ずさんだ歌詞であり、哀愁漂う調べは深く人々の胸を打つものがあります。  
 
女工女工とみさげるな 女工のつめたる缶詰は  
横浜検査で合格し アラ女工さんの手柄は外国までも  
   工場の窓から沖見れば 白波分けて旗たてて  
   又も積んできた蟹の山 アラ可愛い女工さんまた夜業  
故郷離れて来ておれば 文の来るのを待つばかり  
千島がよいの便り船 アラ今日も来るやら来ないやら 
「艪漕ぎ唄」  
 
オスコエー エー オスコエー エンヤーサー  
オスコー エー オスコエーンヤー  
沖でカモメが啼くその時は 浜は大量の花が咲く  
オスコエー オスコエー オスコエー エンヤーサー  
エスコエー エー オスコエーンヤー  
押せや押せ押せ 二丁櫓(にちょうろ)で押せや 押せば港が 近くなる  
オスコエー エー オスコエー エアンヤーサー  
オスコエー エー オスコエーンヤー  
泣いてくれるな出船の時は 泣けば艪櫂(ろかじ)が手がつかぬ  
オスコエー エー オスコエー エアンヤーサー  
オスコエー エー オスコエーンヤー 
「北海タント節」 
元は炭坑で働く人々によって歌われた労働歌「北海炭坑節」が変化したもの。“タント”“あいこのじょうさく”“そのわけだんよ”などのフレーズは、「津軽タント節」「秋田タント節」「山形タント節」にも見ることができ、この唄にも北海道の入植の歴史を感じることが出来る。  
 
ハアー 一つ日の本北海道に 生きるこの身の 有り難や 有り難や  
蝦夷はよいとこ 野も山も 昇る朝日に うろこ波  
黄金白銀 タントタント あいこのじょうさく そんわけだんよ  
   ハアー 二つ二人の 共稼ぎなら 荒い波風 いとやせぬ いとやせぬ  
   逢いに北見の鴻の舞(こうのまい) 拓北原野(たくほくげんや)の 真ん中も  
   共に手を取り タントタント あいこのじょうさく そのわけだんよ  
ハアー 三つ港や 入船出船 あいの連絡 宝船 宝船  
花の函館 夜知らぬ なぞは手宮の 古代文字  
思案顔して タントタント あいこのじょうさく そのわけだんよ  
   ハアー 四つ夜明けの 鐘鳴り渡る 都札幌 人通り  
   遠い流れの 石狩川に 可愛い鈴蘭 ういて来る  
   秋は秋味 タントタント あいこのじょうさく そのわけだんよ  
ハアー 十に豊栄 お国の宝庫 拓け山から 港から  
日本はせまいと 言うけれど 見せたい我等の 北海道  
海の幸山の幸 タントタント あいこのじょうさく そのわけだんよ 
「北海荷方節」  
唄の源流は新潟県新発田市で生まれた「松阪」という唄で、「新潟松阪」が訛った結果「にかた節」呼ぶようになり、瞽女(こぜ)と呼ばれる目の不自由な旅芸人の十八番(おはこ)でもあったこの曲は、諸国で歌われ、秋田県など東北地方にも「にかた節」として存在しています。北海道では小樽(おたる)で主に歌われ、酒の席へ招かれた瞽女(こぜ)さんたちが三味線の曲弾きと合わせて披露したと言われています。“曲弾き”とは、三味線や琴等を特殊な技巧で弾いたり、非常に速く弾くことで、そのたたずまいは圧巻です。  
■ 
←「松阪」 
 
荷方 寺町 花売り婆さま 花は売らずに 油売る  
荷方うきみに 真があらば 丸い玉子も 角となる  
丸い玉子も 切りよで四角 ものは言いよで 角が立つ 
「北海よされ節」  
「北海よされ節」は、現在唄われる盆踊り会場が少ないとはいえ、使用範囲が全道に渡っているという点で、「北海盆唄」と並ぶ北海道の二大盆唄だと言える(なお、子供向けの盆唄としては、「子供盆おどり唄」が北海道の多くの地域で採用されている)。  
北海よされ節の系譜  
「よされ」の語源は定かでないが、越後方面から日本海を通って東北地方に流入したものと考えられている。津軽に入ったよされ節は、「黒石よされ」を生み、それが秋田、岩手へ伝わり「花輪よされ」、「雫石よしゃれ(南部よしゃれ)」などと、少しずつ変化していった。津軽平野にとどまったものは、口説風の長編物になって今日の「津軽よされ節」となった。  
北海道によされ節が入ったのは明治の半ばと言われ、津軽よされ節が長編化する前のもの、ちょうど黒石よされと津軽よされ節の中間程度のものが、津軽出身者によって持ち込まれ「よされ盆唄」として唄われたらしい。かつて北海道全域で圧倒的な人気を集めていた盆踊り唄であるという。  
よされ盆唄は七七七五調であったが、上の七七と下の七五の間に、字余り部分として七五を4回繰り返すものであった。その4回繰り返すところがまったく同じ節で、唄が単調になることから、今井篁山が4回の繰り返しを2回に減らしてすっきりさせたのが「北海よされ節」である。その成立年代は北海盆唄と同じく昭和20年前後と思われる。そして、NHKやHBCが公募により歌詞を選定するに及んで全道に普及したものと考えられる。  
文献によっては、北海よされ節は昭和30年代から40年代にかけて、道内の盆唄の主流をなしたとしているものもあるが、それが北海盆唄を凌ぐほどのものであったかどうかはわからない。平成に入ってからは札幌で「北海よされ節全国大会」が開かれたこともあった。  
北海よされ節が採用されている地域  
道内の盆踊りで使用されている盆唄については、調査など行われていないと思われ、全貌は不明である。2013年現在、これまでに現地を確認した約70箇所の盆踊り会場のうち、現地歌唱で北海よされ節が唄われていたのは、札幌の大通公園で行われる盆踊りと、江別市民まつりの一環で行われる江別地区と野幌地区の盆踊りである。これらの会場では、北海盆唄と併用して北海よされ節が唄われていた。なお、北海盆唄と北海よされ節は、囃子、踊りとも共通しており、唄い手は自在に両者を行ったり来たりしながら盆踊りを続けることが可能である。また、これら3か所の会場は、北海盆唄がI型という、全道的に見れば少数派に分類される唄い方を採用している点でも共通している。  
このほか、北海盆唄と北海よされ節が入った現地歌唱の録音テープが使用されている事例があり、うりゅう暑寒フェスタ竜のおどり(雨竜町)、第17回ひばりが丘・旭町納涼夏まつり(札幌市)、第21回第二桜台町内会納涼盆踊り大会(札幌市)(いずれも2007年)は、同じ音源を使用していた。  
さらに、2013年の佐呂間町若佐地区の盆踊りは、太鼓のみで唄なしの盆踊りだったが、途中で飛び入りの唄い手があり、北海よされ節のみが唄われた。終了後にお話を伺うと、遠軽の人であったが、遠軽、湧別方面では、北海盆唄を主としながらも、北海よされ節が唄われることもあるという。有名なところでは、中標津の盆踊りが、もっぱら北海よされ節で行われるといい、道東地方で比較的北海よされ節が多く採用されているのは、道東の大陸的な風土には北海よされ節のほうがよりなじみやすかったからではないとか思われる。  
 
○ 姉と妹に 紫着せて どちらが姉やら 妹やら 姉は山々 山桜  
 妹吉野の 糸柳 よされソーラヨーイ  
○ あの娘十八 村一番の 踊り上手で よく稼ぐ 嫁にやるのか 婿とるか  
 月の十五夜 気にかゝる よされソーラヨーイ  
○ あの娘十八 村一番の 踊り上手で よく稼ぐ 嫁にゆくのか 婿とるか  
 月の十五夜 気にかゝる よされソーラヨーイ  
○ あの娘よい娘だ 村一番の 踊り上手で よく稼ぐ 嫁にやるのか 婿とるか  
 月の十五夜 気にかかる よされソーラヨーイ  
○ 唄で自慢の 北海道は 雪の中から 唄声もれる 踊りなされや お囃子なされ  
 老いも若きも 皆踊る よされソーラヨーイ  
○ 蝦夷地よいとこ 一度はござれ 北は米蔵 千両箱 波に黄金の 花が咲く  
 祝う大漁の ○○し唄 よされソーラヨーイ  
○ 蝦夷地よいとこ 一度はござれ 北は米蔵 千両箱 波に黄金の 花が咲く  
 唄う大漁の 祝い唄 よされソーラヨーイ  
○ 蝦夷の海辺に ながれる唄は 岩にくだけて 寄せ返る 追分まじりの 波しぶき  
 沖の鴎も 舞い踊る よされソーラヨーイ  
○ 音頭とるのは 小粋な若衆 踊るあの娘の 方えくぼ 仲をとりもつ よされ節  
 添わせ見せたや 花同志 よされソーラヨーイ  
○ 熊とマリモと 追分節は 自慢話の 種になる 国の名物 数あれど  
 わけて盆唄 よされ節 よされソーラヨーイ  
○ そよぐ夜風に 誘いの太鼓 いつか知らずに やぐら下 心も踊る 盆唄に  
 昼の疲れも どこへやら よされソーラヨーイ  
○ 揃い浴衣に ちりめん帯が ぐるり輪になりゃ チョイと可愛い こよい十三日 盆踊り  
 さす手引く手に 花が咲く よされソーラヨーイ  
○ 揃い浴衣に ちりめん帯が ぐるり輪になりゃ チョイと可愛い こよいお盆だ 盆踊り  
 さす手引く手に 花が咲く よされソーラヨーイ  
○ 揃た揃たよ 踊り子が揃た 手足引く手に しなつけて 歌が揃えば 気も揃う  
 みんな揃って よされ節 よされソーラヨーイ  
○ 揃た揃たよ 踊り子が揃た 出足引く手に しなつけて 歌が揃えば 気もそろう  
 みんな揃って よされ節 よされソーラヨーイ  
○ 揃た揃たよ 踊り手が揃た 手足引く手に しなつけて 歌が揃えば 気もそろう  
 みんな揃って よされ節 よされソーラヨーイ  
○ 揃た揃たよ 踊り手が揃た 出足引く手に しなつけて 歌が揃えば 気もそろう  
 みんな揃って よされ節 よされソーラヨーイ  
○ 電信柱に ツバメがとまる 停車場停車場に 汽車止まる 港港に 船泊まる  
 ○○す○○○の ○○とまる よされソーラヨーイ  
○ 盆の踊りに 化粧はいらぬ たすき花笠 なおいらぬ 心も明るく 輪になって  
 ○○○○○○○ それ踊れ よされソーラヨーイ  
○ 盆の踊りに 化粧はいらぬ たすき花笠 なおいらぬ 心も明るく 輪になって  
 親も子も来い 孫も来い よされソーラヨーイ  
○ 盆の踊りを 踊らぬ者は 当世不向きの おくれもの 品のよしあし いゝじゃないか  
 下駄のへる程 踊りゃんせ よされソーラヨーイ  
○ 盆の踊りを 踊らぬやつは 出世不向きの おくれもの しなのよしあし いいじゃないか  
 下駄の減る程 踊りゃんせ よされソーラヨーイ  
○ 盆の踊りを 踊らぬやつは どうせ不向きの おくれもの 姿(しな)のよしあし いいじゃないか  
 下駄の減る程 踊りゃんせ よされソーラヨーイ  
○ 盆の十六日ゃ 地獄も祭り エンマ様さえ 踊るそな じゝもおばゝも それ踊れ  
 今宵お盆だ 夜明かしだ よされソーラヨーイ  
○ 山で啼く啼く あのきりぎりす 草と刈られて 丸められ 八百屋お七じゃ ないけれど  
 馬の背で啼く その声あわれ ソーラヨーイ  
○ 炭鉱(やま)の男は 陽気なものさ 地下は千尺 深いもの 掘れば○○○る 黒ダイヤ  
 可愛いあの娘の 気にかかる よされソーラヨーイ 
「蝦夷甚句」
北海道の民謡  
毎年6月中旬、威勢のよい「ソーラン節」のかけ声とリズミカルな鳴子を打ち鳴らして踊りまくる「YOSAKOIソーラン祭り」は、札幌の夏のビッグイベントに成長しました。一方、今年3月に締め切られたNHKの「あなたが選ぶ日本の民謡・心に残る100曲」の第1位に「江差追分」が選ばれました。しかし、北海道の民謡はこれだけではありません。和人渡来の歴史は浅いながらも、きびしい風土と暮らしの中で、喜びにつけ哀しみにつけ歌われてきた民謡がたくさん残っているのです。函館市在住の佐々木基晴さん(73歳)は、そんな、ともすれば埋もれがちな民謡を発掘・普及し、海外にも紹介する演奏活動をつづけています。  
海の民謡のほか、内陸地にも労働歌などが数多く伝わる  
「北海道には民謡文化がないって言われてるんですよ。たしかに北海道発祥の民謡はないけど、200年も前や、明治になって人の往来や入植者がぐーんと増えてきたころになると、その人たちは、本州の民謡をそのまま持ってきて歌っていたんですね。それがいまは本州の方にはないけど、北海道には残っているんですよ。それだけでないのさ。北海道には本州の元唄がいろいろに変化した民謡(うた)がたくさんあるんですよ」と話すのは、1960年(昭和35)から函館市湯浜町で民謡道場「基声会」を開設しているキングレコード専属歌手の佐々木さんです。  
「函館の人は、いまでも長万部から東の方を奥地と言います。北海道が蝦夷地といわれていたころは、松前を中心に函館、恵山など渡島半島の東側を下海岸、上ノ国、江差など西側を上海岸と呼んでいた。人がたくさんいて、開けていたのはそこまで。だから、渡島地方にはたくさん民謡が残ってるんです。それより奥は、アイヌの人たちの住んでいる土地くらいに思っていたんです。じゃあ、そこには民謡がないかといえば、そんなことはない、あるんですよ。まずアイヌ古謡がありますよね。明治になって開拓が進みだすと、樺戸集治監などの受刑者が道路開削などの土方(どかた)(工夫)として働かされていた。そこで歌われていたのが「バッサバサ節」で、「監獄節」とか「監獄囃子(ばやし)」といわれる民謡なんですよ」。  
佐々木さんは、1952年(昭和27)ごろから北海道の民謡の掘り起こしと普及・保存をはじめました。かれこれ半世紀前のことになります。  
「NHK函館放送局の故高井重治ディレクターが、道南地方のお年寄りの歌の録音盤を持ってきたんですよ。放送用に集めた郷土民謡の資料なんですね。わたしは5歳の時から民謡を歌ってたもんだから、懐かしい歌がいっぱいあるんですよ。すっかり興味がわきましたね。ちょうど市立図書館の郷土史研究会が道南の民謡を調べてたもんだから、誘われて活動をはじめたんです。高井さんとわたしは、電波の届かない道内の郡部にまで足を伸ばし、「演芸の夕べ」なんかを無料で開いてね。1958年(昭和33)ごろのことだから、若いもんの初任給の2倍もする高価な“デンスケ”(携帯録音機)を買って、その地方のお年寄りを訪ねて行き、古くから伝承されてる民謡を聴かせてもらったんですよ。ヤミの合成酒なんかをぶら下げて行ったりしてね」と笑います。しかし、そのときの掘り起こしが、のちの調査にもおおいに役立ったのです。  
「“歌は世につれ、世は歌につれ”と言いますが、だれ歌うともなく民衆の中に生まれた民謡(うた)は、その時代に生きた人びとの思いが込められてるんですよ。その心を残してやりたくてね。」と、佐々木さんは伝承民謡収集の苦労話を語ります。  
「北海道の民謡は、とかく道南から後志地方の海岸線に伝承されているのが目立つけど、道央、道東、道北などの内陸地にも、海岸地帯にはないような労働歌がたくさん残ってるんですよ。石狩地方には「北海土方節」「道床つき固め音頭」、札幌や白糠、日高・三石などには「もんきつき唄」。空知地方では伐採した木材を山から運びだすときの「薮(やぶ)出し歌」や、各地の造材現場で木挽(こびき)職人によって歌われた「北海山子(やまご)唄」「北海山唄」、上川町や陸別町の「木遣(きやり)音頭」、日高・三石町の「手落とし木遣唄」などがあるんです。また農村地帯の「田植え歌」、炭鉱地帯の「北海炭坑節」(のちに「北海タント節」)。紋別・鴻之舞鉱山の「チンカラ節」(のちに「北海金掘り唄」)「金山節」、そして釧路、根室の缶詰工場で歌われた「女工節」。そのほか、小樽を経由して炭鉱地帯や農村部の各地に定着した「北海盆唄」なども収穫祈願と慰安を託して歌い継がれてるんです」。  
アイヌ古謡から松前神楽、そして沖揚げ音頭、江差追分へ  
「それにしても、北海道の民謡の宝庫は、圧倒的に渡島沿岸から積丹、小樽に至る海岸部ですね。「江差沖揚げ音頭」はニシン漁場労働の実際の姿を忠実に、素朴に伝承している歌で、「出船―網起こし―切り声―ニシン沖揚げ―子たたき―帰り船」にまとめられてます。このなかの「網起こし」は「松前木遣」と呼び、ニシンが豊漁のときは網が起こしきれなくなり、船頭が「切り声音頭」で舟子(せこ)の士気を奮い立たせるんです。そして、枠網の中で銀鱗を躍らせるニシンを沖合で汲み上げるとき、拍子を取りながら歌う「沖揚げ音頭」が積丹半島の美国などの漁港に持ち込まれて、あの勇壮な「ソーラン節」となったんですよ」。  
「「江差追分」 は、信州中仙道・北佐久地方の馬子歌が宿場の飯盛り女や、瞽女(ごぜ)と呼ばれる盲目の旅芸人などが三味線にのせて歌うようになり、それが「越後追分」となって馬子唄から海唄になり、さらに北前船で松前へ渡って、「松前節」となって根を下ろしたんです。それは、いまからほぼ250年前の宝暦年間のことなんですね。天明年代(1780年代)になると、北前船の発着地となった江差が繁栄に向かい、旅芸人も盛んに渡ってくるようになりましたね。そんな人たちのなかに美声の評判が高い、佐之市という座頭(ざとう)がいて、すでに歌われていた「松前謙良節(けんりょうぶし)」や「松前三下がり」などの口説節(くどきぶし)と合体させて、北海の荒波を思わせる情緒豊かな「江差追分」に大成させたといわれてます」。佐々木さんが江差追分会の師匠の免許を取得したのは1971年(昭和46)のことです。  
函館や江差の繁栄を映す瞽女歌の「口説節」  
「座頭さんや瞽女さんたちは、プロの歌い手です。そのプロが歌う民謡が「口説節(くどきぶし)」なんですよ」と佐々木さんは言います。そして1960年ごろから道内に埋もれていた口説節を数多く発掘し、乱れていた歌詞や節を整え直したのです。  
「口説節」とは長編の物語歌のことで、よく知られているのに上州の侠客(きょうかく)・国定忠治の行状を歌い込んだ「八木節」があります。また、江戸時代の天保年間、新宿で起きた遊女白糸と武士・鈴木主水(もんど)の心中事件や、八百屋お七の物語を歌って、各地に流行した瞽女歌などがあります。  
佐々木さんが掘り起こした「道南口説」も、初期は「下海岸口説」などと呼ばれて、そんな物語が歌われていました。そのうちに、恵山から函館までの名所名物を歌い込んだ歌詞が生まれました。 
「道南口説」 (口説節・祝福芸の歌)  
オイヤ 私しゃこの地の荒浜育ち 声の悪いのは親ゆずりだよ  
節の悪いのは師匠ないゆえに ひとつ歌いましょ はばかりながら  
オイヤ 上で言うなら矢越の岬よ 下で言うなら恵山のお山  
登り一里で下りも一里 恵山お山の権現様よ  
オイヤ わずか下がれば湯茶屋がござる 草鞋腰に付け椴法華通りゃ  
恋の根田内 情けの古武井 思いかけたる あの尻岸内  
   (中略)  
オイヤ 着いたところは湯の川村よ さても恐ろし鮫川ござる  
おまえ砂盛り わしゃ高盛りよ ついに見えたよ 函館の街  
今夜の宿りは新川茶屋で宿る  
自費と、多くの人の協力で「道南口説節の碑」を建立  
「やっぱり、いちばん苦労したのが「道南口説」だね。母の実家の近くの巫女(みこ)さんだった、ばっちゃんから聴いたのが、あの語り物だったのさ。ぜんぶ聴いたら30分もかかるんだよ。40種類くらいあって、整理がつかないほどさ。恵山から函館まで、目の不自由な女の人が、漁村を門付けしながら旅をして、景気のいい人、苦労している人の心を慰めていく。そんな情景が浮かんできてね。その人たちの思いを、長く伝え残したいと思ったのさ」と佐々木さん。佐々木さんが全道各地で発掘したり、整理した民謡は30数曲になるといいます。その曲への思いのすべてを込めるようにして、1998年10月、函館空港の近くに「道南口説節の碑」を建立したのです。  
「瞽女歌のなかに「道南ナット節」というのがあります。歌詞を聴いてください、カッコーいいんだから」と佐々木さんは、もうひと節、熱を込めて歌ってみせます。  
「道南ナット節」 (口説節)  
(ハア ナットナット)  
浪の花散る北海を 思い出したらまたきてね  
木彫の子熊を伴にして アリャ ご無事で内地へ戻りゃんせ  
誰に買われて行くのやら おばここけしが片えくぼ  
知らぬ他国でふるさとの アリャ 夢見て泣くだろ あけくれに  
来年来るやら来ないやら 来てもまた逢うやら逢えぬやら  
私ゃ深山の水車 アリャ 花咲く春まで くるくると  
当時の和船では最高といわれた、千五百石積みの辰悦丸を持ち船にして函館で回船業を営んでいた高田屋嘉兵衛が、エトロフ航路を開いた1802年(享和二)ごろ、幕府は東蝦夷地を直轄したことで経済の中Sは函館に移りました。それからのほぼ30年間、造船業をはじめ、北洋漁場の経営、蝦夷地産物売捌方(うりさばきかた)として繁栄を極め、豪商の地位を不動のものにしていました。  
「高田屋嘉兵衛は、家のお父(とっ)ちゃんが一人で出稼ぎに来ていると、お母(か)ちゃんや子どもも呼び寄せ、なにがしかの働きをさせて給金を払ってやったんだとさ。だから、みんな景気良くて、ますます人が集まり、たいへんな繁栄だったって言うよ」と佐々木さん。  
その高田屋嘉兵衛は、1833年(天保4)、ロシア船との幟合わせの罪で持ち船を没収されて故郷に追われ、漁業と海運業の繁栄は江差港に移ります。1840年(弘化年間)ごろ、出船3千、入り船3千、船主たちは一航海2千8百両といわれる大商いを競っていました。当然、船頭をはじめ、船方(せこ)たちの実入りも大きく、港に船が着くと、船頭が若い衆に小判の詰まった銭箱を担がせて花街に繰り出したといいます。その座敷に招かれて、酒宴をいっそう盛り立てるのが瞽女や座頭など旅芸人の洗練された芸だったのです。  
「瞽女さんは室町時代からの芸人で、文字が示すように、鼓を打って「曽我物語」などを語って聴かせてたらしいんですね。江戸時代になると、新潟県などには諸国を巡業させて金品を稼ぐ大きな組織ができたんですよ。函館はそんな芸人のいい稼ぎ場所だったんですね。巡業を終えて郷里の瞽女宿に帰ると、持ち帰った金品を親方がぜんぶ集め、そこからそれぞれに給金を払う。もちろん、自分もがっぽり懐に入れ、残った一部を上納金として殿様におさめるんです。加賀藩では鑑札を発行して「天下御免」で巡業ができるようにしたり、瞽女屋敷を与えるなどして保護に努めたということですね」と佐々木さん。  
「瞽女さんたちは、小(ちい)っちゃいうちから修業に出されて、きびしく仕込まれんだって。それは、からだに障害のある女性が自活していくための修業でもあったんでしょうね。だから、その芸はすごくレベルが高く、しかも哀調を帯びてるんですよ。それが、人の心をうつんですよ」  
当時、見果てぬ蝦夷地に渡ってくるのは、一獲千金の夢に賭ける人、郷里では分け与えられる田畑もなくて自分なりに生きる道を見い出さなければならない人、田植えが始まる前のニシン漁で出面賃(日雇い給料)を稼ごうとするやん衆、それらの下働きや女仕事につくためにやって来る女性たちなど、さまざまです。海を渡る船は大小ありますが、日本海や津軽海峡の荒波を枕に眠ってしまい、ふとカモメの鳴く声に目覚めて彼方を見ると、大千軒岳の山影が目に入るのです。新しい働き場所への期待と不安、郷里や家族と遠く離れた望郷の想いが胸を締めつける―。だれもが、いちどはそんな想いを抱いたことがあるだけに、瞽女の歌う口説節はいっそう身にしみる想いで聴き入ったのでしょう。  
大漁祈願、恋の駆け引き、過酷な労働への嘆き節  
北海道の民謡には、切々たる恋歌やユーモラスなラブコールの歌、粋な艶歌もたくさんあります。とくに「江差追分」には、町内の津花町に住む船頭や漁師によって歌われた「浜小屋節」や、詰木石(つみきいし)地区に住む職人や馬方などによって歌われた「詰木石節」とともに、花街の芸妓たちによって三味線、太鼓、鼓、尺八、琴なども伴奏にして歌われた「新地節」があります。2千種以上もあるといわれる歌詞のなかには、それぞれに荒い海の仕事に生きる男女の心を寄せ合う詞がちりばめられているのです。  
「江差追分」 (一節から)  
(前唄)  
松前江差の津花の浜で 好いたどうし泣き別れ  
連れて行く気はやまやまなれど 女通さぬ場所がある  
(本唄)  
蝦夷地海路にお神威なくば 連れて行きたい場所までも  
(後唄)  
うらみあるかよお神威さまよ なぜに女の足とめる  
*お神威さま=積丹・神威岬のこと。かつてここから奥地へは女人禁制とされていた  
*場所=初期はアイヌの人たちとの交易の場所。のちにはニシンなどの漁場のことに。  
「いやさか音頭」 (漁網に着いた数の子をたたき落とすときの唄)  
姉こ こちゃ向け かんざし落ちる (ハア イヤサカサッサ)  
かんざし落ちない ナア顔見たい アリャ顔見たい 落ちないナア  
顔見たい(ハア イヤサカサッサ)  
来いちゃ恋ちゃで 二度だまされた (ハア イヤサカサッサ)  
またも来いちゃで ナアだますのか アリャだますのか 来いちゃでナア   
だますのか(ハアイヤサカサッサ)  
また、豊漁を祈願して、威勢よく歌う民謡もあります。  
「チョイサ節」 (祭り・祝い歌)  
大漁手拭いきりりと締めて どんと起こせば百万両  
飲めや大黒 歌えや恵比須 仲をとりもつ福の神  
その一方で、過酷な労働と待遇の悪さを嘆く歌も多いのです。その代表的な歌が、函館に残る数え歌「雇い口説」です。その歌詞は「うそで丸めた雇いの口説」で始まり、「実のあるみそ汁も食わせず、夜昼なく働かせ、定めた9対1の分け前も、ろくに勘定をしてくれない。悔しい雇いの身分よ、憎らしいこの屋の雇い主よ」と恨みの限りを歌い、一座はドッと笑い転げるのでしょう。  
「だけど、明治末ごろから、根室のカニ缶詰工場の女子従業員たちが、「ナット節」を元唄にして歌ってた「女工節」は、とても笑って聴き流せない」と佐々木さんの顔が曇ります。  
「缶詰所節」 (女工節)  
朝は三時から起こされて 夜は十二時まで夜業する  
足が痛いやら眠いやら 思えば工場がいやになる  
   高い山から工場を見れば 工場の様子は良いけれど  
   三度の食事はお決まりで わかめに切り干し菜っ葉汁  
ブラジルをはじめ世界の国々に北海道の民謡を伝えて  
佐々木さんは、北海道の民謡を海外に紹介する活動にも熱を込めています。ブラジル、アメリカ、スペイン、ドイツ、ロシア、中国、モンゴル…、歌があれば世界は一つなのです。佐々木さんが初めてブラジルに行ったのは、日本人移民60周年を翌年に控えた1978年のことでした。  
「夜の1時まで歌い、仮眠して何百キロもバスで移動して次の公演地へ急ぐ。そうやって7都市回ったんですよ。5千人の聴衆で膨れあがった公会堂は、3時間半の公演中、拍手が鳴りやまないんですよ。老人ホームでの慰問のときも、「江差追分」を歌うと一世のお年寄りのあいだから号泣する声が聞こえるんです。最初の移民を運んだ笠戸丸が入港したサントスの街では、お年寄りが言うんですよ。「日本が恋しくなると港の海水に手を浸して“この水が日本につづいているんだ”と思って泣いた」って言うんですよ。わたしの歌は、このときから変わりましたね」と言い切ります。  
「歌という言葉は“訴える”からきてるって言います。わたしは信仰心は薄いが、民謡を歌っているとわかるんです。神というか、人の知恵を超えた神秘というか、自然に対する尊敬の思いを歌う民謡は、神に近い言葉でうたう歌なんだと。いまの民謡は、コンクールで順位を競うための歌になっていて、声の良し悪しや節回しのテクニックにこだわりすぎてます。母親がわが子に語りかけるように、聴く人の心にノックをするように心を込めて語る、そのとき、言葉は民謡になるんですよ」と、佐々木さんは語るのです。「佐々木基晴民謡連合」家元、日本民謡協会名人位。地元・函館市文化賞、芸術祭賞優秀賞(大衆芸能部門)、江差追分ブラジル支部結成に力を貸し、ブラジル最高文化勲章も受けています。  
新しくて古い北海道の民謡  
吉田昭穂さん / 北海道教育大学名誉教授  
北海道教育委員会は、1987年から2年間にわたって北海道の民謡を調査、私も調査委員の一人として参加させてもらいました。北海道にはアイヌの人々が伝承するアイヌ民謡と和人の間に歌われて民謡があります。そのひとつ、通常、北海道の民謡と呼ばれるものは、やん衆などの出稼ぎ者や移住者、旅芸人などによって、故郷の唄、本州各地で歌われていた唄が持ち込まれ、熟成されたものといえます。  
北海道は、近世になって昆布やニシン、サケ・マス、俵物(いりこ、干しあわびなどの輸出品)の海産物や毛皮、鷹、木材、金山などの豊かな資源にめぐまれ、北前船などによって往来や移住が盛んになりました。「人の集まるところ必ず歌がある」の言葉どおり、豊漁や商いの成功の時は祝い唄や座礁の唄に喜びを爆発させたのです。また、「松前、江差の春は江戸にもない」といわれたように景気がよくなれば座頭や瞽女などの旅芸人がやってくるようにもなりました。その人たちは江戸などで流行している「ラッパ節」や新潟その他の地で歌われていた「口説節」などを持ち込むようにもなるのです。南茅部町に伝わる「鱈釣り唄」は、明治期に座頭が伝えたと町史に記述されていますし、「越中小原節」(富山)や「ホッチョセイ節」(岐阜)や九州の民謡などは瞽女さんが残しています。  
その一方、過酷な北辺の地で生きることの苦しみをこらえる心の支えとなったのは、子どもの時から聴き、歌い親しんできた故郷の歌です。私が道内の民謡を集める調査をしていたとき、80歳くらいのおばあさんが「こんな北海道の厳しいところに一攫千金を夢見てやって来た。そして、ひと旗揚げたら帰ろう。錦を飾って帰ろうと思い、気がついたらこんな年齢ですわ」と言って大笑いしていました。洪水、冷害、昆虫の大発生などに痛めつけられる開拓者を勇気付けたのは、ふるさとの歌であり、獅子舞などの郷土芸能だったのです。そうした厳しい自然や激しい労働と望郷の思いの中で歌われ洗練されたのが、世界的カンタータといわれる「江差追分」であり、豪壮な労働歌「ソーラン節」なのです。  
一方、「十勝馬子唄」「秋あじ大漁節」「北海道酒屋歌」「船漕ぎ流し唄」など北海道の新民謡といわれる唄もたくさん誕生しています。また、「北海盆唄」「北海よされ節」などのように、故今井篁山その他の人が編曲したものもあります。  
半面、本家の淡路島南淡町では失われた「五尺節」が日高・三石町に残っているなど、北海道の民謡は新しくて古いという特徴を持っています。少しでも多くの人が北海道の民謡を歌ったり耳を傾けながら、その時代に命を張って生きた先人の心に触れてほしいと思っています。 
 
 
 
 

東北

 

北海道東北関東中部近畿中国四国九州 
北海道青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県

青森県  
「鯵ヶ沢甚句」  
北前船は、大阪方面から瀬戸内海を通って下関を回り、日本海を北上して松前へ通う。その寄港地として栄えた鯵ヶ沢は、津軽半島の西側、七里長浜の砂丘のつきたところにある。明治以後は鉄道が敷設され、港としての輝きを失った。越後方面から「八社五社(やしゃごしゃ)」が船人によって鯵ヶ沢に移入。移入当時は七七七七の口説き形式の盆踊り唄で、太鼓の伴奏だけの静かな唄だった。後に七七七五調の「鯵ヶ沢甚句」となり、津軽各地へ広がっていく。「津軽甚句」や「嘉瀬の奴踊り」と同系統。「八社五社」は、新潟県頚城(くびき)地方に古くから唄い継がれている盆踊り唄で、延喜式内社が頚城地方を流れる関川の川西に七社、川東に五社あったことにちなむ名といわれている。  
 
/ 「ドダレバチ(津軽甚句)」「木造甚句」「五所川原甚句」「猿賀甚句」「嘉瀬の奴踊り」「いやさか音頭」  
←「八社五社」  
→「いやさか音頭」(「子叩き音頭」)「津軽甚句」(「どだればち」)  
 
西の八幡 港を守る(ア ヤットセ)  
主の留守居は ノォー嬶(かか)守る  
ソリャ嬶守る 留守居は ノォー嬶守る  
(ヤーアトセー ヤーアトセー)  
   鯵ケ沢育ちで 色こそ黒いが  
   味は大和の ノォー吊し柿  
   ソリャ吊し柿 大和の ノォー吊し柿  
七里長浜 高山稲荷  
松の屏風に ノォー潮煙  
ソリャ潮煙 屏風に ノォー潮煙  
   浜は大漁で 陸また繁盛  
   出船入船 ノォー賑やかさ  
   ソリャ賑やかさ 入船 ノォー賑やかさ  
 
鯵ヶ沢育ちで 色こそ黒いが  
味は大和のノー つるし柿  
ソリャ つるし柿 大和のノー つるし柿  
(ハー イヤサカ サッサト)  
   七里長浜 高山稲荷  
   松の屏風にノー 潮煙  
   ソリヤ 潮煙 屏風にノー 潮煙  
西の八幡 港を守る  
主の留守居はノー かか守る  
ソリヤ かか守る 留守居はノー かか守る
「五所川原甚句」 
「鯵ヶ沢甚句」が五所川原方面に伝わり、呼び名が変わった。  
 
今から約300年前(寛文5年頃)、五所川原周辺は凶作続きで農民は非常に苦しみ、やむを得ず男達は西郡深浦鉱山に働き(出稼)に行かねばならず、働いて得た少しの金を持ち帰り田畑を作ったところ、その年は大豊作になり、農民たちはあまりの嬉しさに笠のまわりに稲の穂をつるして踊りまくったことが起源で、後に振付され、お盆の踊りとしてまちの人にも親しまれ、五所川原甚句と称されて今日まで受けつがれています〔「芸能西北五編」(昭和50年 西北五民俗芸能保存会)より〕。旋律から見ると、鯵ヶ沢くどき、鯵ヶ沢甚句(普及型)に強い関連性が見られ、囃子詞について見ると、その第一は音高の定まった「ヤーアドセー」というもので、鯵ヶ沢くどき、鯵ヶ沢甚句(普及型)、木造甚句に用いられています。鯵ヶ沢くどきとその編曲である普及型鯵ヶ沢甚句、そして五所川原甚句には密接な関係があり、おそらくは嘉瀬奴踊り、稲垣で採集された中里の盆踊り歌、どだればちとも何らかの関係が推定されています。  
 
「「鯵ヶ沢甚句」は鯵ヶ沢地方に行われたからその名があるので同じ曲節で五所川原附近で諷われているものは 「五所川原甚句」と呼んでいる」  
「(鯵ヶ沢甚句は)明治初年頃までは、深浦で盆踊りにうたったもので深浦のマンガン鉱山でよくうたわれたものという。西郡では十三港、小泊港、木造町、北郡では五所川原、金木、嘉瀬、中里等までもうたわれている。」  
「「鯵ヶ沢甚句」が弘前方面につたわって「ドダレバチ(津軽甚句)」となり、「木造甚句」「五所川原甚句」と呼び名が変わり、さらに奥地に入って「猿賀甚句」となり、その後様相を変えて 「嘉瀬の奴踊り」になったといわれる」  
「この歌(鯵ヶ沢甚句)は、津軽地方の盆唄にいろいろ派生し、五所川原の「五所川原甚句」や金木の「嘉瀬の奴踊り」が生まれている。」  
 
/ 「鯵ヶ沢甚句」 
 
ひとつ唄いましょ 五所川原甚句 唄の文句は わしゃ数知らぬ  
声はかれても 身はやつれても 声の限りで わしゃ口説きましょ
「嘉瀬の奴踊り」  
津軽半島のほぼ中央にある北津軽郡金木町嘉瀬(かせ)に伝わる盆踊り唄。曲は西津軽郡の「鯵ヶ沢甚句」と同系統で、鯵ヶ沢方面からの移入とみられる。南北朝時代、南朝側の武士は追討の手を逃れて各地へ身を隠した。嘉瀬に逃れた鳴海伝之丞もそうした一人であった。下僕の徳助は、悶々とした日々を送る主人をなぐさめるためにこの唄を唄い、踊りを踊って慰めたという。 
 
今を去ること約320年前、津軽四代藩主信政公は領内の開墾に力を注ぎ、藩士を投入して新田を開発し、米の増収を図ろうとしました。藩士たちは藩公の仰せとはいえ、武士としてはずかしめにあったように思い、新田開発の希望者は少なかったそうです。しかし、鳴海伝右衛門は、妻子と奴徳助をつれて嘉瀬に住み、近隣の百姓たちと共に藩主の命令に従い、開墾に熱意をもち、昼夜の別なく総力をあげ、数年後には三石町歩の良田を造成することに成功しました。しかし、ある年、期限に遅れて金木御蔵に年貢米を納めに行った際、かつて同僚であった者が金木御蔵の役人として出世しており、伝右衛門を見る目が意外にも冷たく、腰抜け武士の典型よと冷笑されてしまいます。伝右衛門は次第に懐疑的になり、日がたつにつれて沈みがちになっていきます。主人思いの奴徳助はこのさまをみて、恵まれない主人をなぐさめようとして思いついたのが、次の歌詞でした。  
嘉瀬と金木の間の川コ、石コ流れて木の葉コ沈む  
自分で節をつけ、振りつけもし、秋の取り入れの振舞酒の席や、月見の夜など自ら踊り、主人の不遇をなぐさめました。この奴徳助の心遣いに、伝右衛門は心から喜んで、自分でもこれを唄って踊りました。これが藩主の知るところとなり、やがて二人を弘前のお城に呼び、御前で唄い踊らせたところ、ことのほか喜ばれて賞讃されたと伝えられています。それからは、村人も踊りを習い、お祭りやお盆には村をあげて踊り、今日に及んでいます。  
 
/  「鯵ヶ沢甚句」 
 
さぁさこれから嘉瀬の奴踊り踊る さぁさこれから奴踊り踊る  
(ソラ ヨイヤナカ サッサ)  
嘉瀬と金木の 間の川コ 小石流れる 木の葉コ沈む  
嘉瀬はよいとこ お米の出どこ 嘉瀬の奴踊り お国の自慢  
稲妻ピカピカ 雷ゴロゴロ   
意気地なしオヤジ 薔薇株サ ひかかって 千両箱ひろた  
竹の切り口 シコタンコタンの  
ナミナミたっぷり  
溜まりし水は 飲めば甘露のコリャ味がする  
 
(ソラ ヨイヤナカ サッサ)  
嘉瀬と金木の 間の川コ 小石流れて 木の葉コしずむ  
(ソラ ヨイヤナカ サッサ)  
盆の十六日 二度あるならば お墓参りも 二、三度するよ  
稲妻ゼカピカ 雷ゴロゴロ  
いくじなしおやじ ばら株さ ぶっちゃさって 千両箱ひろった  
雨が降るのに よくきた姉コ 傘にひとひら ぬれてる落葉  
どうせ踊るなら 二、三度まわれ 奴踊りなら あの夜明けまで  
月が出たのに 何故出て逢わぬ お前はがくれ アノキリギリス
「南部手踊り」  
南部手踊りは、名川地区が発祥の地とされ、数百年以上も前から郷土に引き継がれてきた民舞踊です。  
「南部甚句(なんぶ じんく)」「南部あいや節(なんぶ あいやぶし)」「南部よされ節(なんぶ よされぶし)」「南部馬方三下り(なんぶ うまかた さんさがり)」「南部追分(なんぶ おいわけ)」「南部荷方節(なんぶ にかたぶし)」「南部都々逸(なんぶ どどいつ)」の七つの踊りがあり、“南部七踊り”とも呼ばれています。  
南部手踊りは、もともと宴会などで座興的に楽しんでいた踊りでした。その踊りに「ともえ うのこ」という女の旅芸人から、歌舞伎の見得をきる動作等を取り入れて「楽しむ踊り」から「見せる踊り」、つまり舞台用の踊り(現在の南部手踊りの原型)に創りあげたのが明治初期の栗山由太郎(くりやま よしたろう)といわれています。  
栗山由太郎の踊る“南部七踊り”は圧巻で、別名「剣吉踊り」とも呼ばれ、地域住民に愛され多くの弟子たちに踊り継がれていきました。  
大正に入ってから、栗山翁の弟子で「七踊り四天王」といわれた舘松榮源次郎(たてまつ えいげんじろう・斗賀)・木村勘藏(きむら かんぞう・小泉)、工藤徳次郎(くどう とくじろう・大向)、大村輔保(おおむら すけやす・五戸町浅水)らは、師匠のあみ出した踊りにさらに磨きをかけ、一つ一つの踊りを完成させた人物として知られています。  
昭和に入ると、一世を風びした舘松榮源次郎一座の普及活動がたいへん盛んになり、北は青森県下北半島、南は岩手県盛岡地方まで及んでいきました。その後、時代の進展とともに全国的に広がりをみせ、現在は多くの芸人から親しまれるようになりました。  
「南部甚句」 
「八戸甚句」ともいわれ、「塩釜甚句」が移入されたものであるが、当地方では、専ら「塩釜」とか、「浜の町」といった。主に酒席用の唄としてうたわれたが、比較的新しい唄といえる。  
 
南部手踊りの基本とされる踊りで、素手のみで踊ります。この地方の「南部あいや節」が宮城県塩釜に伝えられ「塩釜甚句」となり、それが逆移入されたため「塩釜甚句」と呼んでいました。その後「八戸甚句」と呼ばれるようになり、昭和30年代に入ってから「南部甚句」として定着しました。   
■ 
春の初めに ハァ〆縄張りて 折り目節目に ハァーサー金がなる  
鮫で飲む茶は ハァ渋茶も甘い 鮫は水がら ハァーサー心がら  
浜の松から ハァ塩釜見れば  お客もてなす ハァーサー茶屋のかがぁ  
鮫の蕪島 ハァ回れや一里  鴎くるくる ハァーサー日が暮れる  
新地裏町 ハァ夜明けに通れば 太鼓つづみで ハァーサー夜が明ける  
寄せてくだんせ ハァ戻りの節は 一夜なれども ハァーサー鮫浦へ  
 
浜の町から塩釜見れば お客もてなす茶屋のかが  
門に立てたる祝の松は かかる白雲皆黄金  
さーさ出た出た三日月様よ 暮にちらりと見たばかり  
小夜の中山日暮れに通れば 霧のかからぬ山はない  
新地袈町夜明けに通れば 太鼓つづみで夜が明ける  
沖の鴎が嫁とる時は いわし姶にさばのすし  
花の八戸十和田の紅葉 鮫でかぶ島かもめ飛ぶ  
「南部あいや節」  
九州の「平戸はいや」又は、島根県あたりの「はいや節」が北上し、南部に来て「南部あいや節」になりました。  
「南部あいや節」 は 「ハイヤ節」 と同型で、昔、南の方から 「北前舟」 によって運ばれ普及していったと伝えられています。もともと 「ハイヤ節」 の発祥は、九州 「熊本県の牛深」 (牛深ハイヤ節)とも 「長崎県の田助」 (田助ハイヤ節)とも言われており、江戸時代から明治にかけて各地の産物を運んだ 「北前船」 が、日本海を北上し、島根県の 「浜田節」、更に京都府の 「宮津アイヤエ踊」 などに変わり普及。越後の国、新潟県の佐渡に渡って 「佐渡おけさ」 を生み、山形県の酒田港では 「庄内ハエヤ節」 に変わり、青森県津軽の十三湊や鰺ヶ沢港からは 「津軽あいや節」 として入っていきました。更に、津軽海峡を渡り、八戸港から 「馬淵川」 をさかのぼり普及したのが 「南部あいや節」 であるとされ、「南部あいや節」 の歌い出しの[アイヤ〜]と 「ハイヤ節」 の歌い出しの「ハイヤ〜」は同類。二上がりのテンポの良い賑やかなリズムは、当時の船頭衆が各港で芸者達と酒盛りしながら騒いだ 「お座敷唄」 である事が偲ばれます。  
 
アイヤー あいの山にはお杉とお玉 お杉三味ひくヤレハア玉踊る  
アイヤー 鮎は瀬に着く鳥ゃ木に止まる 私や貴方のヤレハァ目に止まる  
アイヤー あいはもやくや煙草の煙 次第次第にヤレハァ薄くなる  
アイヤー 長く咲く花胡桃の花よ 末を案じてヤレハァ丸くなる  
アイヤー 竹の切り口シコタンコタンと なみなみたっぷり溜まりし水は  
飲めば甘露のヤレハァ味がする  
アイヤー 竹に雀が あちらの山からこちらの山へと  
チュンチュンパタパタ 小羽をそろえて  
仲良く止まるヤレ 私や貴方のヤレハァ気に止まる  
「南部よされ節」  
座敷踊りから発生したため女踊りが多く、素手で品良く踊ります。よされの語源については、"やませ"の影響で凶作に苦しんだ人々が「いやな世は早く去れ」と念じたのがはじまりとされ、「黒石よされ」や「南部よしゃれ」と同系です。  
 
よされ駒下駄の 鼻緒が切れたヨサレサァヨサエー  
 誰がたてたか ヨサ又切れたヨサレサァヨサエー  
何をくよくよ 川端柳ヨサレサァヨサエー  
 水の流れを ヨサ見て暮らすヨサレサァヨサエー  
声の良いのに 唄せて聞けばヨサレサァヨサエー  
 松の林の ヨサ蝉の声ヨサレサァヨサエー  
よされ茶屋のかがぁ 花染めのたすきヨサレサァヨサエー  
 肩に掛からねで ヨサ気に掛かるヨサレサァヨサエー  
よされ茶屋のかがぁ お客を設けたヨサレサァヨサエー  
 客と思えや ヨサ福の神ヨサレサァヨサエー  
「南部馬方三下り」  
信州の「小諸馬小唄」から派生した、「道中馬方節」に三下り調の三味線伴奏がついて、この地に流れ着いたといわれます。  
 
朝の ハァ出がけに ハァ山々見れば 霧の ハァ掛からぬ山も無い  
南部 ハァ良いとこ ハァ名馬の出所 一度 ハァお出でよ駒買いに  
袖と ハァ袖とに ハァ手を入れかけて これが ハァ博労の幕の内  
辛い ハァものだよ ハァ博労の夜道 七日 ハァ七夜の七手綱  
かがよ ハァ今来た ハァ味噌米あるな なんの ハァ味噌米塩も無い  
おらも ハァ成りたや ハァ博労のかがぁに いつも ハァ葦毛の駒に乗る  
あねこ ハァ起きろよ ハァ浅草刈りに 朝の ハァそよ風身の薬  
「南部追分」  
発生は北国街道と中仙道の間の追分宿で飯盛り女たちが唄ったものがはじまりとされています。全国唯一の三味線伴奏の追分節です。  
 
西は ハァ追分 ハァ東は関所 関所 ハァ番所でままならぬ  
忍路 ハァ高島 ハァ及びもないが せめて ハァ歌棄磯谷まで  
沖を ハァ眺めて ハァほろりと涙 空飛ぶ ハァ鴎がままならぬ  
逢いたい ハァ見たいは ハァ山々なれど 悲しや ハァ浮世はままならぬ  
今宵 ハァ一夜で ハァ峠を越せや さぞや ハァ妻子が待ちかねる  
「南部荷方節」  
盛岡周辺から北上川に沿い花巻市大迫町に至る大迫街道筋で唄われる祝い唄。祝い唄には「新潟節」「酒田」のように日本海側の地方の名前がつくものが多く、時代や土地により「荷方節」または「なかおくに」として伝えられている。福島県や山形県、宮城県の「松阪」や青森県の「謙良節」とともに古くから歌われた「新潟節」が「荷方節」と同系統と考えられ、のちに歌詞を変えた「なかおくに」が生まれたと思われる。  
 
にがた ハァ出てから ハァ昨日今日で七日 七日ハァなれども ハァまだ会わぬ  
傘を ハァ忘れた ハァ敦賀の茶屋に 雨のハァ降るたび ハァ思い出す  
傘を ハァ手に持ち ハァ暇を願い かさねハァがさねの ハァ暇ごい  
佐渡で ハァ蕾持ち ハァ新潟で開く とかくハァ新潟 ハァ花どころ  
にがた ハァ出てから ハァまだ帯解けぬ 帯はハァ解けぬに ハァ気はとける  
にがた ハァ出てから ハァ青島沖に 船はハァ出船で ハァままならぬ  
「南部都々逸」  
天保時代に江戸の都々逸坊扇歌が「潮来節」「よしこの節」を作詞作曲して唄ったのが始まりで、それが流れてこの地に入ったといわれます。  
 
都々逸は 下手でも やりくり上手 今朝も質屋で褒められた  
白鷺は 小首かしげて 二の脚踏んで やつれ姿に水鏡  
韓信は 股を潜るも 時世と時節 踏まれし草にも花が咲く  
大海の 水を飲んでも鰯は鰯 泥水飲んでも鯉は鯉  
朝顔は 馬鹿な花だよ 根の無い竹に 命捧げて絡みつく  
「白銀ころばし」 (「南部甚句」) 
八戸市周辺の唄。魚売りの女達が、鮫(さめ)の遊郭へ魚を売りに行く道すがら唄い歩いた。三味線の手が付いて座敷の騒ぎ唄になり、独特の趣をもつようになった。「ころばし」は、玉をころがすような美声の意味で「白金ころし」ともいう。美声で人を悩殺するという意味。  
 
←「塩釜甚句」  
 
鮫と湊の 間の狐 わしも二三度 だまされた  
 
おばばどごさ行げァ二升樽下げで 嫁の在所に孫抱ぎに   
来たがちょーさん待ってだね  
おらも行きたいあの山こえて 娘ァ来たかといわれたい  
鮫で呑む茶は渋茶もうまい 鮫は水柄所がら  
鮫の蕪島まわれば一旦 鴎しぶしぶ日が暮れる  
白銀そだちで色こそ黒い 味は大和のつるし柿  
島の鴎さ嫁取る時は いわし胎にさばのすし
「津軽おはら節」 (「津軽小原節」) 
熊本県牛深市の港町で生まれた「ハイヤ節」は、日本海を北上する北前船で各地の港に伝えられた。越後で「おけさ」、津軽で「津軽あいや節」を生み出す。「ハイヤ節」は津軽海峡を通って更に南下、宮城県の塩釜(しおがま)港で「塩釜甚句」を生む。この「塩釜甚句」が逆に北上、青森県八戸(はちのへ)あたりに移入されて「塩釜」になる。「塩釜」は、漁師や船頭相手の女たちが唄う酒席の騒ぎ唄で、七七七五調の四句目の前に「オハラ」と入るところから「おはら節」と呼ばれる。七七七五調二十六文字では、唄がすぐに終わり、座がもたないので、瞽女や座頭たちは字余りの口説きにした。明治20年代のこととされる。大正年間、成田雲竹が命名。  
 
もとは「塩釜」と呼ばれる酒盛り唄であったといいます。これと同系統の唄は、「おはら節」というもので、よく知られているのは「鹿児島おはら節」(鹿児島県)、「隠岐おわら米とぎ唄」(島根県)、「越中おわら節」(富山県)などが知られます。それが青森でも「津軽塩釜甚句」(「塩釜小原節」とも)として現在でも歌われていますが、この「塩釜」を、嘉瀬の桃太郎と呼ばれた黒川桃太郎という芸人が、元々7775調であった「塩釜」の上の句と下の句の間に75調の「あんこ」を挿入して、長編化した「口説節」タイプのものを編み出します。すると、口説に移るときに「調子代わりの塩釜甚句」とか「またも出したがヨイヤー」と前置きをして歌い出します。それが今日の「おはら節」です。  
 
「津軽おはら節」または「津軽小原節」と名づけられたのは、昭和5年頃歌われていた「津軽塩釜甚句」を元唄として、それに「オハラ」という囃子言葉が最後についたので「おはら節」と呼ぶようになったものであるようです。真意の程は定かではないのですが、昭和9年頃「鹿児島小原節」が大流行し、それにあやかろうと「津軽塩釜甚句」を「塩釜小原節」という曲名に変えてしまったとも言われ、後に「津軽小原節」へと変化していったという説もあるようです。この唄もよされ節同様にたくさんの歌詞が存在します。唄い手の持ち歌として作られた歌詞が多いのもおもしろい特徴ではないでしょうか。  
 
遊芸人達が門付けや舞台などで歌ってきた唄です。その源流ははっきりしていませんが、本州の日本海側の港町で、酒席の唄として生まれたものと言われています。歌詞に「オワラ」の言葉が挿入されているところから「オワラ節」と呼ばれてきました。「じょんがら節」「オワラ節」「ヨサレ節」を「津軽三つもの」と呼びます。 
 
/ 「鹿児島おはら節」「隠岐おわら米とぎ唄」「越中おわら節」    
←「南部あいや節」「塩釜甚句」 
 
お山晴れたよ 朝霧晴れた 裾の桔梗も 花盛り 谷の向こうで まぐさ刈り  
 
(サァーハァサァー ダシタガーハァヨイヤー)  
ハァー春は桜の 弘前城 夏は緑の岩木山  
秋は十和田の 紅葉狩り 冬は大鰐 湯の香り  
   ハァー津軽富士の そよ風に 岩木の川の せせらぎに  
   恵み豊かな 山川の 情けに育つ 津軽唄  
ハァー唄のひと節 三味の音に のせて女の 心意気  
思いかよわす 小原節 津軽よいとこ オハラ 唄どころ  
 
サ アーアア サア出したがよいやー  
アー津軽名物あの七不思議 世にも珍し不思議なことよ   
西海岸は北金ヶ沢 ここの銘木銀杏の幹は  
幾星霜の今の世に 神の御授けお乳が出るよ   
同じ郡の十三村は 夏冬通して雪囲い  
雨が降っても草履はく 北の郡は金木町   
嘉瀬と金木の間の川コ小石流れて木の葉が沈む  
ここの隣りの長富堤 春秋変わらぬ浮島ござる   
葦に節なし黄金葦 一度来てみよオハラ四方の君
「津軽塩釜甚句」  
元唄は「南部あいや節」で、明治の半ば過ぎまで、宮城県の塩釜では「塩釜甚句」を「あいや節」と呼んでいた。これが逆輸入の形で八戸の鮫港に上陸して「津軽塩釜甚句」になり、「津軽おはら節」になった。  
 
←「南部あいや節」「塩釜甚句」 
 
蒸気ァ出ていく 煙は残る  
残る煙は オワラ 癩のたね ハー オワラナ オワラナト  
   裸島さえ 潮風ァいやだ  
   まして茂浦は オワラ 潮煙 ハー オワラナ オワラナト  
野内ざる石 あわびのでどこ  
お湯の浅虫 オワラ 貝ばかり ハー オワラナ オワラナト  
   塩釜たてた なんというてたてた  
   釜さ水汲んで 牛さ柴つけた ハー オワラナ オワラナト  
茂浦よいとこ 来てみりゃわかる  
前は茂浦島 オワラ 狐島 ハー オワラナ オワラナト
「津軽甚句」 (「どだればち」) 
弘前市一帯の盆踊り唄。もとは「どだればち」と呼んだ。津軽方言を巧みに交えて唄う。津軽半島の西側、七里長浜の砂丘のつきたところにある港町・鯵ヶ沢の盆踊り唄「鯵ヶ沢甚句」が、弘前方面に移入して「津軽甚句」になり、北海道に渡ると「いやさか音頭」になった。  
 
・・・「天保頃になると彼の庄内節が盛に流入して来て津軽唄界に一大革命を起した。その大部分は卑俗極まるものであるけれども一年中の最大歓楽として夜明けまで毎夜踊り抜く男女に興奮を与へたのはこの卑俗の歌詞であり素晴らしく歓迎せられたのである。現在伝わる津軽盆踊の歌詞がかうした傾向を持って居るのは庄内節の影響である。」とあり、この唄が相当卑俗な歌詞を持つ騒ぎ唄であったことが忍ばれます。 「奥々民族旋律集成」中で、「どだればち」(津軽盆唄)の元唄として、「庄内節」をあげ、「庄内節は、大の坂の流れをくむもの」とも書いているのです。話は複雑になりますが、この「大の坂」というのは、秋田県鹿角地方に伝わる「毛馬内盆踊り」の古曲でもあり、何と新潟県南魚沼郡堀之内町の盆踊り「大の阪」でもあるのです。そして、この堀之内町の「大の阪」は、小国の隣り、十日町市の信濃川流域にも「ダイノシャカ」として伝承されているのですから、研究者ならずとも、その伝播のありよう、関連の仕方に興味をもたれると思います。 ・・・ 
 
←「鯵ヶ沢甚句」「庄内節」 
 
高い山コから 田の中〈なが〉みれば(ホーイホイ)  
見れば田の中 稲〈いにゃ〉よく萌でる(ホーイホイ)  
   どだば むけのなみゃ 口ねな どだば  
   口も手もある から骨〈ぼにゃ〉やめる  
どだば 家〈え〉コのてでゃ 雨降る中を  
笠もかぶらねで けらこも着ねで  
   唄は良いもの 仕事コァ出来る  
   話ゃわるいもの その手がとまる  
カラス啼く啼く お宮の屋根で  
カラスその日の ありゃ 役で啼く  
   夫婦二人で 田の草取れば  
   広い一町田も ありゃ せまくなる  
今年ゃ豊年だよ 雀こさわぐ  
せがれいそいで 案山子を立てろ  
   どだば見事だば 津軽のりんご  
   色コばりでねじゃ この味みなが
「津軽ばやし」  
新潟県の村上方面へ出稼ぎに行った津軽の人々が、村上の盆踊り唄を持ち帰った。酒席の酒盛り唄である「村上甚句」が津軽化したもので、戦前は津軽芸人の一団が各地を巡業するとき、最初に客寄せに唄っていた。それには「津軽あいや節」の傘踊りが付き物であった。当初「越後甚句」と呼ばれていたが、昭和20年代に入って「津軽ばやし」と呼ばれるようになった。  
 
←「村上甚句」「越後甚句」 
 
嶽(だけ)の白雪 朝日で溶ける 溶けて流れて 郷(さと)に出る
「津軽よされ節」  
これは西日本からの流行唄で、  
よしゃれおかしゃれその手は食わぬ その手食うよな野暮じゃない  
といったものが元であったといいます。これが東北に流行って岩手・雫石では「南部よしゃれ」などといい、青森・黒石では「黒石よされ節」として今でも歌われています。津軽では「旧節」の「よされ節」は、「黒石よされ節」のようなもので、  
よされ駒下駄の 緒コ切れた たてて間もなく また切れた   
といった7775調の曲です。それに嘉瀬の桃太郎・黒川桃太郎により、上の句と下の句にの間に「あんこ入り」として「新内」を入れたタイプのものを編み出します。それが単純に字余り形式に仕立て、「口説節」 系の「新節」として定着していったのが今日の「よされ節」です。  
 
/ 「黒石よされ節」「南部よしゃれ」 
←(西日本のはやり歌) 
 
アー調子替わりのよされ節 ヨサレソラヨイヤー  
アー恋し懐かし 我が家を離れ  
アー私深山で炭を焼く 山小屋暮らしも幾月ぞ 指折り数えて早六月  
アー空行く雲の色見ても 谷間流れる水見ても 秋の深さを思わせる  
アー里は今頃何してる 稲やりんごの取り入れか 吾が子思えば寝もやらず  
一人眺める 峰の月 ヨサレソラヨイヤー  
   津軽よいとこ おいらの国よ  
   春は桜の弘前に 盃片手に眺むれば 霞に浮かぶ津軽富士  
   夏はそよ風波静か 大渡瀬(おおどせ)深浦浅虫よ 中でも際立つ十和田湖や  
   黒石在は秋の頃 続くりんごの紅園に 流れる乙女の 国の唄  
   冬はスキーの阿闇羅山 日本一の名も高い 麓に大鰐湯の町よ  
   右も左も よされ節 ヨサレソラヨイヤー  
浜の松風 夜毎に聞いて  
待てど来ぬ人焦がれ船 どこの港に居るのやら 山背吹き出しゃ寝付かれぬ  
私ゃおきざり鴎鳥 夢の通い路白波に 未練月夜に濡れて泣く  
逢うが別れの運命(さだめ)なら いつか逢う日も巡りくる 船は潮路の風次第  
早く聞きたや 舟唄を ヨサレソラヨイヤー  
   おらが津軽に 一度はござれ  
   どこの村にも湯の煙 一度入れば雪の肌 どんな女も惚れてくる  
   米は名代の津軽米 粘り強くて艶ようて 津軽ならでは味わえぬ  
   津軽りんごの味のよさ 一度食べたら忘られぬ 袈裟や衣の坊主でも  
   色と香りで 迷わせる ヨサレソラヨイヤー  
右に下北 左に津軽  
中に抱かれた陸奥の海 前に鴎が舞い遊ぶ 出船入船大漁船  
遠く霞むは恐山 山の麓に立つ煙 あれは炭焼く煙かや  
青函航路は波静か 明日は小樽か札幌か   
夢も楽しい 波枕 ヨサレソラヨイヤー  
   父は高嶺の津軽の富士よ  
   母は岩木の川水よ 中に生まれて色づいた りんご娘の紺絣  
   色のつくのを待ちかねて 母の膝からもぎ取られ 泣く泣く箱に入れられて  
   知らぬ他国で皮剥かれ 味のある内しゃぶられて 芯が細れば捨てられる  
   津軽の夢見て 泣いている ヨサレソラヨイヤー  
花が咲いたり燕が来たり  
春を待つやら水車 水の飛沫に濡れながら 日にち毎日くるくると  
巡る浮世のはかなさよ 水音瀬音に夢のせて 誰の思いで廻るやら  
道行く車は輪が二つ 夫婦車ではなれない 水車あわれや輪が一つ  
一人暮らしで 世を送る ヨサレソラヨイヤー  
   酒は天下の 宝の水よ  
   汗を流した一日は 熱いお酒の一杯は 喉を通ればついホロリ  
   祝儀の酒なら格別よ 重ねるごとに気が踊る 弾む手拍子唄がとぶ  
   踊るよされの晴れ姿 じょんがら節よあいや節 座敷賑わう酒の味  
   酒の善し悪し 飲み次第 ヨサレソラヨイヤー  
深山育ちの 藪鶯が  
花に誘われ谷を出て 里の一声よされ節 声の調べも乱れがち  
まだ春浅きひなどりの 親に抱かれてホーホケキョ 唄もこの世にままならぬ  
海山越えて旅の空 遠くきらめく一つ星 故郷(ふるさと)恋しや父恋し  
夜は枕に 母の夢 ヨサレソラヨイヤー  
   りんご畑で 別れてきたが  
   顔が夜空にちらついて 思い切る気を迷わせる 未練月夜は薄曇り  
   意地は女のうわべだけ 胸に涙のやるせなさ 呼べど帰らぬ恋の夢  
   渡り鳥でもまた戻る 春は過ぎてもまた巡る 二度と帰らぬ人の春  
   夜毎夜毎に すすり泣き ヨサレソラヨイヤー  
津軽よいとこ 一度はござれ  
四季に見あかぬ津軽富士 花は弘前おうよう園 港青森人の波  
若い娘コの紅の袖 波止場あたりにチラチラと 誰を待つやらもの思い  
一夜泊まりの旅の衆 煙残して行く船も 津軽恋しゅうてまた戻る   
住めば人情の 厚いとこ ヨサレソラヨイヤー  
   津軽よいとこ 住みよいところ  
   厚い人情のあるところ 旅の鳥でも一休み 一夜泊まりが七八日(ななようか)  
   四方(よも)の山々花盛り 招く姉コは片えくぼ 心あかした薄化粧  
   りんご見たさに来た人が りんご作りや子を作り 末は津軽の人となる  
   一度来てみよ 俺が国 ヨサレソラヨイヤー  
故郷偲んで りんごを唄う  
わしの生まれは弘前よ 津軽民謡を口ずさみ りんご畑を見て育つ  
岩木高嶺の雪解けりゃ 桜とお城に 人がよい まもなくりんご 咲き誇る  
津軽娘が手入れして 人工交配袋掛け 枝もたわわに実を結ぶ  
色つや味良く 世界一 ヨサレソラヨイヤー  
   土堤にあやめの花咲く頃は  
   村の社の宵祭り 朝から聞こえる笛太鼓 若い娘の胸躍る  
   今夜踊ろよ盆踊り 派手な浴衣に帯締めて 月にほんのり白い雲  
   あふれるような晴れ姿 お月様さえだまされる 私もあの娘にだまされた  
   情け豊かな 村娘 ヨサレソラヨイヤー  
さても見事な揃いの衣装  
津軽リンゴの染め模様 方に大中玉かんよ 腰にデリシャスゴールデンよ  
裾に千成雪の下 お国自慢の新柄で 可愛いあの娘によく似合う  
リンゴ祭りのお祝いに 津軽乙女の意気見せて 踊る連中の身を飾る  
揃い衣装の はなやかさヨサレソラヨイヤー  
   父は高嶺の津軽の富士よ  
   母は岩木の川水よ 中に生まれて色づいた りんご娘の紺絣  
   色のつくのを待ちかねて 母の膝からもぎ取られ 泣く泣く箱に入れられて  
   知らぬ他国で川むかれ 味のあるうちしゃぶられて 芯が細れば捨てられる  
   津軽の夢見て 泣いているヨサレソラヨイヤー  
東下りの左衛門殿が  
腰掛け茶屋にて腰おろし こんにゃく肴で酒飲んで こんにゃく刺をば喉にさす  
申しそこ通る姐さんよ 刺取る薬を知らないか 刺取る薬を教えましょう  
浜辺に生えた竹の子と 山家深山の蛤と 六月土用に降る雪と 三品煎じて飲んだなら  
どんな刺でも すぐ取れるヨサレソラヨイヤー 
「黒石よされ節」  
青森県のほぼ中央に位置する黒石市は、弘前藩2代藩主津軽信牧の二男津軽信英が、分地して黒石城を築き城下町を作りました。八甲田山と岩木山を眺めることができる風光明媚な土地であるといいます。また「日本の道百選」に選ばれた「こみせ(小見世)通り」は、昔のアーケード。藩政時代からそのままの形で今に残っているといいます。また市内を流れる浅瀬石川の上川原には「津軽じょんがら節発祥の地」の碑があるそうです。また有名な「黒石ねぷた」は、青森のような人形ねぶたと弘前のような扇ねぷたの両方を備えたという独特なねぷただそうです。そんな歴史と文化の香りの残る黒石で、大変よく知られた民謡に「黒石よされ節」があります。  
「よされ節」と聞くと、津軽五大民謡の「津軽よされ節」を思い浮かべますが、「黒石よされ節」は現在の新節以前の旧節と同系等の7775調の唄です。「よされ」の意味は、「世去れ節」で、貧困や凶作の世は去れ!とするもの、「余去れ節」で、余は去る!後はよろしく!とするもの、「よしゃれ」つまり「およしなさい!」の意味とするもの…いろいろな説があるようです。また、津軽為信の時代に、黒石の百姓・与三郎が豊年祝いの席で歌い始めた、黒石の百姓・吾助が歌ったものだ…等、いろいろな言い伝えがあるようです。  
また、西日本からの流行唄で、  
   よしゃれおかしゃれその手は食わぬ その手食うよな野暮じゃない  
といったものが元であったといいます。これが東北に流行って岩手・雫石では「南部よしゃれ」などといって流行った唄のようです。  
黒石の盆踊りが盛んになったのは、天明年間、境形右衛門という家老が、付近の農村から城下に人を集めるために力を入れたためであるといいます。また、幕末の頃黒石の盆踊りは、「分銅組若者日記」に、「〜つつみ・太鼓・三味線その数知らず」という記述があるといい、古くから賑わった踊りであったようです。この 「黒石よされ節」は、大変リズミカルで明るい節回しで、賑やかな「エッチャホーエッチャホー」の掛け声が特徴です。伴奏は、普通の津軽民謡のように三味線と太鼓、そして特徴的に鼓が加わります。  
 
/ 「津軽よされ節」「南部よしゃれ」 
←(西日本のはやり歌) 
 
黒石よされ節 どこにもないよサーアンヨ(ハ エッチャホーエッチャホー)  
歌って見しゃんせ 味がある ヨサレサーアンヨ(ハ エッチャホーエッチャホー)   
十和田帰りに 車をとめてサーアンヨ お湯の温湯(ぬるゆ)で 一休み  
見たか黒石 聞いたかよされサーアンヨ 盆の踊りは 日本一  
岩木眺めて 踊ろじゃないかサーアンヨ 秋はりんごと 米の山  
よされこま 下駄の緒こ切れたサーアンヨ たてて間もなく 又切れた  
踊り踊るなら 愛宕の庭(つぼ)でサーアンヨ 深くなるほど 御堂のかげ  
そこのあんさま 頬被り嘘だサーアンヨ おらと馴染まば 教えてやる  
温湯板留(いたどめ) 鰹節ゃいらぬサーアンヨ 中野お不動様 だしになる  
行けば板留 帰れば温湯サーアンヨ 思い中野で 気はもみじ  
踊るも跳ねるも 今夜ばりだサーアンヨ 明日は田圃で 稲刈だ  
姉コかわエく無いな 坊様と連れてサーアンヨ   
 かわエベァかわエく無エベァ 好きだからどせばサーアンヨ  
サヨ子コラコラ 泣かねでさべろサーアンヨ 泣けば話コ くどくなる  
今夜一夜は 浦島太郎よサーアンヨ 明けてくやしや 玉手箱  
馴染持てから 二三日たてばサーアンヨ 金の千両も 持た心  
一夜二夜なら わしゃ帯解かねァサーアンヨ 長く馴染むなら 帯も解く  
親父持てから 一升飯ゃ足れねァサーアンヨ 食ったり食ねァだり 腹へらし  
馴染ゃ買てけだ 赤い緒の下駄コサーアンヨ はけば世間の 人ァ騒ぐ  
話ししたとて ケヤグになたらサーアンヨ 俺ほ若い衆は 皆ケヤグ  
馴染ゃ唄コを 水産前で聞けばサーアンヨ 掛けた襷も ゆるくなる  
馴染ゃ持つなら 二十四か五六サーアンヨ 十九 二十は 色ばかり  
思い切ろたケヤ 飴鉢投げたサーアンヨ  思い切るのか 粘るのか  
好きと好きなら 野原で寝てもサーアンヨ  離れ座敷で 寝た心  
行げばじょうしきだじゃ中野のお松と 歌えばサーアンヨ  
 お松じょうしきだば おら嬶いらぬ  
めらし居だかと 窓からみればサーアンヨ  親父ゃ横座で 縄なてら  
旦那様でも 惚れれば馴染みサーアンヨ 不調法ながらも 足あげる  
よされよされは どこでもはやるサーアンヨ まして黒石 なおはやる 
「黒石甚句」  
起源は、山岳宗教が盛んであった500年から600年前で、盆踊りの時の男女の恋の掛け合い唄であったといわれています。黒石の盆踊りが盛んになったのは、1781〜1789年時の家老、 境形右衛門が城下町に人を集める商工振興対策として力をいれてから、今に受け継がれています。幕末の頃の黒石の盆踊りは「つづみ、太鼓、三味線、その数を知らず」とあり、その盛況さがうかがわれます。  
 
サァーアー キタコラサッサ ハイハイ  
乙女心を 紅葉に染めて アキタコラサッサ  
燃えて流れる中野川 チョイサッサーハイハイ  
温湯 板留かつぶしいらぬ 中野もみじをだしにとる  
嫁に来るなら 白粉いらぬ 黒石湯の町 肌光る  
宿の二階に疲れを解けば お湯の板留河鹿鳴く  
いで湯あちこち浅瀬石川よ ちょいと登れば十和田湖よ  
住まば黒石清水の里に 今日も平和なお湯が湧く  
着いた湯の町紅葉の山よ 窓に眺める二人連れ  
米とりんごに命をかけて 明日の黒石築く夢  
「虎丈さま」「虎女さま」 (とらじょさま)  
旧盛岡藩領に伝わる陽気な盆唄で、元唄は「ナニャドヤラ」、岩手県二戸市〜青森県七戸町の広い範囲にわたって分布しています。「とらじょ」は「虎蔵」がなまったもののようで、地域によっては「虎女さま」とも言われます。  
 
←「ナニャドヤラ(なにゃどやら)」 
 
南部 よいとこ 粟めし稗めし のどさひっからまる 干菜汁(チョイサ チョイサ)  
南部殿様 ぼた餅好きで ゆうべ七皿 今朝八皿(チョイサ チョイサ)  
雨コは降る降る 白粉コは落ちる 唐傘コ買ってけろや とらじょ様(チョイサ チョイサ)  
とらじょ様から なに買って貰った 白粉七色 蛇の目傘(チョイサ チョイサ)  
   田名部横町の 川の水飲めば 八十ばあさまも 若くなる  
   八十ばあさまが若くもなれば 焼いた魚が 泳ぎだす  
   おやじ貰ってけだ おかだ娘は欲しくない ならば天間の みよ子欲しい  
   みよ子欲しいたって およびもないし ならば妹の みえ子でも  
なにも知らない なされ節ひとつ なにゃとなされの なにゃとやら
「ナニャドヤラ(なにゃどやら)」 
(キリスト祭り)  
ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ  
ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ  
ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャドヤラヨー  
ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド  
(一戸)  
にゃにゃとやらよ にゃにゃとなされてさえ なにやらどやら  
にゃにゃとなされてさえ にゃにゃとやらよ    
(七戸天間林)  
なにゃ ハ はどやら ヨーイ なにゃ ハ はどなされダ ありゃ サーエ  
なーにゃ ハ はどやら ヨーイ (タショ− ヤーレショ)  
(八戸)  
ニャニャトヤレャリャ ニャニャトナサレノー ニャニャトヤレャリャ  
「津軽じょんから節」  
津軽民謡の代名詞のようなものですが、元は新潟・十日町市の「新保広大寺」といわれています。これは広大寺の和尚・白岩亮端の時代に起きた農地の耕作権をめぐる土地争いが原因で、広大寺の和尚を追い出すために歌った「悪口唄」でした。それが越後で大流行し、やがて越後瞽女のレパートリーとなります。瞽女の演目としては「あんこ入り」で長編化させて歌うのが得意であり、それが全国に流行するのですが、それが津軽化したものが「じょんがら節」です。  
この唄については、次のような伝説があります。慶長2年(1597)、南津軽郡浅瀬石城主・千徳政氏が、大浦為信に滅ぼされるのですが、政氏の死後も為信は追討をやめず、ついに為信の墓まで暴こうとします。その戦いで炎上した千徳氏の菩提寺・神宗寺の僧・常椽は、それを抗議する意味をこめて本尊を背負って、上川原に身を投げたといいます。 
こうした悲劇を歌った口説節が、じょんがら節であるといいます。すなわち、「じょんがら」とは「常椽河原」説、あるいは「上川原」説が生まれました。また浪花節の前身のような「ちょんがれ」といった唄、あるいは冗談のような滑稽なものを表すことばとして曲名になったともいいます。  
古い「じょんがら節」は、「広大寺節」の特徴である「口説」で、「南部じょんがら節」のように、最後に「サーエー」をつけていたようですが、やがてそれらを取って今日のような形に仕上げていったようです。更に、この唄はテンポの速い「旧節」、テンポを落としてゆるやかな弾みの「中節」、ややテンポをあげて朗々と歌い上げる「新節」、過渡期の「新旧節」などがあります。  
 
民謡の起源・発生に関する説は数多くあり、どれも定説として断定することは難しいのですが、より一般的な説を取り上げて研究していきます。民謡は、元々は「はやり唄」と呼ばれていました。その変遷は、旋律(メロディー)を基礎にして見ることができます。地方に持ち込まれた「はやり唄」は、時を経てその土地の訛り(なまり)言葉に置き換えられていくことで、自ずと節回しも変化していきます。なんとなく元になっていた旋律の名残りはあるけれど、最終的には旋律も歌詞も原形をとどめない唄になっていくものも多く、それがその土地の民謡として歌い継がれてきたわけです。日本民謡の源流のひとつに「新潟・新保広大寺節(しんぽこうだいじ節)」があります。「新保広大寺節」は、三味線と唄で村々を回り生活していた盲目の女性芸人衆越後瞽女(えちごごぜ)によって全国へ広まっていきました。越後瞽女が各地へ持ち込んだ新保広大寺節は、やがて「新保広大寺くずし」へと発展し、口説節(くどき節)としてその土地に馴染んでいきます。 
江戸へ向かって唄い歩いた越後瞽女の新保広大寺くずしが、群馬・栃木の八木節(やぎ節)の元唄になり、越中-越前-近畿地方、さらには中国地方へと向かった越後瞽女によって「古代神」・「古代臣」・「こだいじ踊」・「こだいず踊」などの踊り唄が生まれました。またこれらの民謡のタイトルは「こうだいじ」が訛って、後に「こだいじん」や「こだいじ」になったと伝えられています。越後から北に向かった越後瞽女は、山形-秋田と唄い歩き、その土地の唄に影響を与えていきます。そして、青森に持ち込まれた新保広大寺くずしが津軽の土地に馴染み、唄いはやされ、それが津軽じょんから節の旋律へと発展していきました。越後瞽女の唄の旅の始まりは、江戸時代とも室町時代とも言われています。青森の津軽じょんから節の起源が越後にあったなんて驚きですね。東北地方の村々を唄い歩き、青森に辿りつくまでにどれくらいの年月がかかったのでしょう。 
「じょんから」って何?-常縁和尚にまつわる伝説- 
青森県南津軽郡浅瀬石村には、ある伝説があります。それは慶長(1596年-)の頃、津軽地方の領土統一を巡り争われていた時代です。大浦城主で初代津軽藩主であった「津軽為信」は、2500余の兵をもって南津軽へ進軍し、浅瀬石城城主「千徳政氏」を追い詰め、千徳家を滅ぼしました。その後も為信は追討の手をゆるめず、千徳家の墓所までもあばこうとしたのです。千徳家代々の菩提寺である神宗寺の「常縁和尚(じょうえん和尚)」は、これに激しく抗議しました。しかし、受け入れられることもなく為信の怒りにふれ、常縁和尚は追われる身となります。そしてついに、厳しい追手を受けた常縁和尚は、千徳家の位牌と共に浅瀬石川へ身を投じてしまいました。村人たちは、千徳家と常縁和尚の霊を慰めるために、この地での争いの悲劇を唄にしました。そして、常縁和尚が身を投げた河原を「常縁河原(じょうえんがわら)」と名付け、唄の名も「常縁河原節(じょうえんがわら節)」となり、時を経て「上川原節(じょうがわら節)」と呼ばれるようになりました。それがいつしか「じょんから節」になったと伝えられています。常縁和尚にまつわる伝説から、元々は慰霊鎮魂の歌だったのかもしれません。曲名は「津軽じょんから節」とからを濁らずに表記されるのが一般的ですが、言葉の由来や訛りもあることから、曲中では「じょんがら」と唄っていることが多いようです。 
もうひとつの「じょんから」 
「ちょんがれ」という言葉をご存知ですか?これは、江戸時代に願人坊主とよばれる僧たちが村々を歩き回り、鉦(かね)や太鼓を叩きながら踊り半分に冗談などを口早に歌った芸のことで、その芸の中で唄われた節回しが「ちょんがれ節」と呼ばれています。願人坊主をはじめ、商人や芸人達によって日本各地に広められ、特に北陸・能登半島全域では、この土地に馴染んだちょんがれ節が数え唄調などに変化していき、盆踊唄「ちょんがり節」として今でも盛んに唄い囃されていています。これらはバリエーションが多彩で、その地域によって歌い出しやお囃子に違いがあります。関西方面に伝わったちょんがれ節は、のちの「浪花節」へと発展していくのですが、関東・北陸・甲信越では、ちょんがれ節の節回しと津軽じょんから節の起源である新保広大寺の特徴的な詞形が融合し、発展しながら各地へ広まっていきました。そしてこの「ちょんがれ」と「じょんから」という言葉が何となく似ていることから、じょんからという言葉の由来は、ちょんがれが訛ってできたという説もあります。これらのことから、各地域の言葉の訛りなどもあいまって、この組み合わせの民謡を総じて「じょんから」と呼ぶようになったとも言われています。全国に散らばる「じょんから」の歌心。それは越後瞽女たちが実際に足を踏み入れていない土地にも、しっかりと伝わっていったのですね。 
 
じょんから節は上川原節ともいわれ、津軽民謡の三大節(じょんから節、よされ節、津軽小原節)の一つである。その由来をたずねると、今から四百三年前の慶長二年(一五九七年)二月二十日より浅石城主十一代の千徳安芸之助政保が、西根賀田の城主大浦為信の大軍に攻められ、十日間にあたって悪戦苦闘を続けたが、多勢に無勢のため遂いに、二十八日の早朝、城後にまわった敵将森岡金吾、木村越後等の一隊に火をかけられ、城主政保は近侍十五名と共に討死し家中五百余軒、農家八百軒の浅石城は仁治元年(一二四〇年)千徳伊予守行重以来十一代、約三百五十余年間、東の山根に繁栄した千徳家は減亡し、浅石文化も落城と共に焼失した。  
この落城の哀話として「じょんから節」が発祥したと伝えられている。  
当時、浅石城下には天台宗の神宗寺外に真言宗の高賀山大善院、法華宗の妙経寺等があり、その一坊として辻堂があった。  
現在上浅瀬石の田圃の中に大きな一本杉があるが、そこが辻堂の跡と伝えられ石名坂道への別れ道になっていた。  
慶長二年二月二十八日の早朝に役僧の常椽(じょうえん)和尚は、前夜の戦況より味方の不利を察知したが、主家の必勝を祈願し、神仏の加護を信じて熱祷を捧げて、時の経つのも忘れていた。夜明けと同時に大浦勢は喚声を挙げて辻堂にも乱入し、手当り次第に仏像をこわし、墓をあばく乱暴を働いた。常椽和尚は覚悟をきめて山伏姿となり薙刀を突き立て「汝等犬ざむらいめ!!ここは千徳家累代の墓所なるに、仏像をこわし、墓をあばく人非人ども。人は死すとも霊魂は不滅なり。仏を恐れぬ畜生共の子々孫々まで祟りあらん」と、先祖代々の位牌を背負い、群がらる軍勢に薙刀を揮い、 一方に血路を開いて東の山恨をさして逃げのびた。ところが途中で浅石城を振向いた時には本城は火炎に包まれ、市街も城内も阿鼻叫喚の巷と化している状況を察した。追いすがる敵勢を斬り倒し、孤軍奮闘したが、遂いに捕えられそうになったので、白岩の断崖の頂上から浅瀬石川の濁流に飛込んでその一生を終った。  
数年後の夏に村の子供等が川原で砂遊びをしていると、砂の中から変り果てた常椽和尚の屍体があらわれた。子供等の騒ぎに村人が駆けつけ、相談の結果、その場所に墓を作り、手厚く葬って、常椽の墓と名ずけたので、この辺一帯を常椽川原(じょうえんかわら)と称した。それから毎年お盆になると村人はこの墓所に集って供養をなし、千徳家全盛時代の昔を偲び、城主をはじめ先祖代々の霊を慰める盆踊りを行った。これが「じょんから節」である。  
その頃、津軽家は重臣を遺わして村人を監視すると同時に浅石城を破壊し、市街地を開拓させたので、落人達は武器を土中に埋めて農業に従事するようになったが、村人等は厳重な取締りの下に農作業をしながらも、音を偲ぶ唄を吟んだようである。  
じょんから節は「くどき節」の一種であつて、当時の歌詞はいつの間にか伝わらず、時代と共に変化し、替歌となり、その調子も変って現在の観光的な歌詞となり、三味線.大鼓の伴奏となって一般に普及されるようになった。昭和二十九年に浅瀬石と石名坂の間を流れる浅瀬石川に橋か架けられ「じょんから橋」上川原橋と命名されたが「じょんかわら」の地名にちなんだ事は、まことに意義深いことてぁる。  
津軽じょんから節には、テンポの速い「旧節」、ゆるやかな「中節」、やや速度を上げて歌い上げる「新節」、いちばんの盛り上がりとなる「新旧節」などがあります。歌の前には、津軽三味線による前奏が演奏されます。また、津軽じょんから節には、曲弾きといわれる、歌の入らない津軽三味線の演奏だけによるものもあります。  
 
旧津軽領の芸人たちが舞台で唄ってきたもの。この唄の源流は、越後瞽女が門付唄としてうたっていた「こうといな」。その替え唄として新潟県十日町に現存する禅寺“広大寺”での土地争いをめぐる和尚のスキャンダル話を説いた「新保広大寺」の長編口説節を短くまとめた「広大寺くずし」が流行唄として各地に広まり、津軽へも伝わった。津軽三味線の伴奏とともに発展し、旧節、中節、新節と時代によって分けられる。また“じょんがら”は、北陸方面から近畿地方にかけて呼ばれている口説節 “ちょんがれ” の訛り。  
■ 
←「新保広大寺」 
 
ハアーお国自慢の じょんから節よ 若衆唄って 主人の囃子 娘踊れば 稲穂もおどる  
ハアーお山かけたよ いい山かけた 岩木山からよくよく 見たら 馴染窓コで お化粧の最中  
ハアー津軽よいとこ お山が高く 水がきれいで 女がよくて 声が自慢のじょんから節よ  
ハアー津軽よいとこ りんごで踊る 岩木お山は 男で飾る   
■ 
ハアーさぁさこれから読み上げまする 津軽浅瀬石じょんから節よ さてもあわれな落城のはなし  
ハアー今は昔の七百年前 南部行重城主となりて 伝えつたえて十代あまり  
ハアー頃は慶長二年の春に 大浦為信大軍率い 城主政保討死いたす  
ハアー時に辻堂常椽和尚 先祖代々位牌を背負い 高い崖から濁流めがけ  
ハアーゃがて春過ぎ真夏となりて 村の子供等水浴びすれば 砂の中からあわれな姿  
ハアー村の人達手厚く葬り 盆の供養をすました後は 昔しのんでじょんから節よ  
ハァー春は城山りんごの花よ 秋の田の面は黄金の波コ 村は繁昌て家内の笑顔  
「津軽あいや節」  
九州・熊本県の「牛深ハイヤ節」が源流であるといいます。「ハイヤ節」は全国の港町を中心に流行するのですが、青森でも「ハイヤ」が「アイヤ」に転訛したものです。「ハイヤ節」というと出だしの「ハイヤエー」と高音で歌い出し、下の4句目の直前に「サーマ」といったリフレインが特徴ですが、「アイヤ節」でも「アイヤーナー」をたっぷり歌い、後半には「ソレモヨイヤ」といったリフレインが残っています。「あいや節」の「旧節」はかなり素朴で、  
あいや新潟の川真ん中で あやめ咲くとはソレモヨイヤ しおらしや  
といったものでした。節も「おけさ」の雰囲気を残します。それに技巧的な三味線をつけたのが梅田豊月で、唄も技巧的に仕上げ、傘踊りを取り入れた人気の曲になりました。  
 
←「牛深ハイヤ節」 
 
アイーヤーアーナー  
アイヤ雨にうたせず 風にもあてず 育てあげたる それもよいや  一つ花  
アイヤ今宵(こよい)めでたい 花嫁姿 親も見とれて それもよいや うれし泣き  
アイヤ歌が流れる お国の歌が よされじょんがる それもよいや アイヤ節      
アイヤ破れ障子に 鶯書いて さむさこらえて それもよいや 春を待つ 
「謙良節」  
 
さてもエー みごとな 岩木富士   
冬はまっ白く 春青く 夏は墨染め 秋錦  
アー 衣エー がえする あざやかさ  
さてもエー めでたい 正月様よ  
年の始めに 千代八千代 鶴の一声 祝わなん  
若水汲んで とそ酒を 一富士 二鷹 三なすび  
アー 明けてエー うれしや 初夢で  
 
さてもー 目出度い 正月さんよ  
かどに立てたる ごかいマツ松 風がそよそよ 雪ほろけ  
降りくる雪は 黄金なり 庭にはいずる 亀の舞  
アー くるくると うたうはねつるべ  
   さてもー 珍し この家の座敷  
   奥の座敷は 涼み座敷 六尺びょうを 立て流し  
   折り目折り目に 鷹を描く 鷹はさえずる なんと聴く  
   アー 福々と アー 福をよぶ  
さてもー 目出度い 正月様よ  
年の始めに 千代千代と 鶴の一声 祝わなん  
若水汲んで とそ酒を 一富士 二鷹 三なすび  
アー 明けてうれしや 初夢で  
「津軽音頭」 (「秋田節」) 
成田雲竹が祖父の膝で遊んでいたころ、秋田からやってくる門付け芸人(秋田坊)が、三味線を弾きながら「秋田節」を唄っていた。大正になって、雲竹が津軽三味線の名手・梅田豊月の伴奏でこの唄を初放送した際に「津軽音頭」と改名。曲は音頭でなく、甚句の一種。  
 
西の鯵ヶ沢の 茶屋の 茶屋の娘は 蛇の姿
「沖揚げ音頭」  
沖揚げ音頭とは、「鰊場作業唄(にしんばさぎょううた)」とも言われ、鰊漁に従事する漁業者たちによって唄われた一連の作業歌の事です。「船漕ぎ音頭」「網起こし音頭」「沖揚げ音頭」「子叩き音頭」の4つの作業唄で構成され、これら一連の唄を総称して沖揚げ音頭といいます。荒海で厳しい寒気と眠気と闘い、潮水と銀輪にまみれながら苦しみに耐え、船頭の波音で(はおい)で漁夫の意気を一つにする為に唄われた作業歌ですので力強い男唄となっています。  
明治から、昭和20年の終わり頃まで、南部・津軽・秋田の人々が、北海道の鰊漁場へ仕事を求め出かけました。北海道の日本海沿岸は春先になると鰊が大量に押し寄せて産卵をするので、鰊漁が大変賑わっていました。各地から集まってくる漁師を束ねる網元の家は「鰊御殿」とも言われ、当時の活況ぶりを思わせるものとなっています。野辺地町からも多くの人々が出稼ぎ漁師として、北海道の鰊漁へ出かけていました。鰊漁最盛期に働きに行った人達がこの沖揚げ音頭を持ち帰り「祝い歌」として歌い継がれ、現在では、「のへじ祇園まつり」の中でその一部を聞くことができます。  
野辺地町とソーラン節  
今では全国的に有名な「ソーラン節」ですが、もとをただせば沖揚げ音頭の一部から変化した唄とされています。その発祥の地(北海道内5ヶ所程が発祥の地と云われている)北海道積丹(しゃこたん)町の町史には、『民謡研究家町田佳声が昭和12年に青森県上北郡野辺地町で収集したという「荷上げ木遣り歌」はソーラン節の原歌だといわれている。この説はかなり有力なものであって、鰊漁業の最盛期に集団出稼ぎに渡道した若い衆たちによって運ばれて定着したものだといわれている』との資料が残っていました。  
沖揚げ音頭  
本体は仕事歌であるが、現在では民謡として知られるソーラン節の元になったといわれる沖揚げ音頭が野辺地に伝わる。獲った鰊を船から運搬用の船に移すときに歌った、網おこしの歌で、北海道での鰊漁帰りの出稼ぎ者が、野辺地に戻ったときに歌い始めたという。  
■ 
→「ソーラン節」 
 
(音)ヨートコセノーコリャー  
(多勢)ヨーイ  
(音)ヨーイヤーサー  
(囃子)アーヨイヤー  
ヤサノーヨーイサー  
エーノーヤーサー  
ヨートコナー  
アーリャーエンヤーアリャリャー  
ドッコイ ヨーイトーコー  
ヨーイトー コーナ  
ヨーリャエー  
ヤートコセ  
ワーラーノ山にー居たー  
アーヨイトコーナー  
アーリャエンヤ アリャリャー  
ドッコイヨートイ ヨーヨーイトコナー  
アーラーエー沖の鷗がヤーエー  
ヤートコセー ヨーイヤサー  
ワーリャもの言うならばあ  
ヨーイトコーナ  
ワーリャエンヤー  
ドッコイヨーイト コーヨーイトコーナ  
オーリャーエ.ー便り聞いたりーヨーイー  
ヤートコセーヨーイヤー  
オーリャーエー聞かせたりょう  
ヨーイトナー  
アーリャ エンヤ アーリャ ドッコイ  
ヨーイトナー コーヨーイトコナ  
オーリャエ 水が鏡と ヤーエ  
ヤートコセ  
「荷揚げ木遣り唄」   
■ 
→「ソーラン節」
「道中馬方節」 (青森)  
 
矢立エー ハーエ 峠をエー  
ハーエ 夜風をエー ハー 受けてヨーエ  
ハーエ あきたエー ハーエ 夜長をエー  
ハー あとにするヨーエ ハイ ハイハイト  
   ここはエー ハーエ どこよとエー  
   ハーエ 尋ねてエー ハー 聞けばヨーエ  
   ハーエ ここはエー ハーエ 津軽のエー  
   ハー 関の橋ヨーエ ハイ ハイハイト  
 

関東中部近畿中国四国九州 
北海道青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県

岩手県

 

「ナニャドヤラ」1 (なにゃどやら)  
青森県南部から岩手県北部にかけての地域及び秋田県鹿角地方の旧南部藩領内に伝わる盆踊り。盆踊りでの「はやし歌」の歌詞からとられた名称。「ナニャトヤラ」とも言われる。踊りに定型はなく、地域によって、あるいはひとつの地域に何種類も伝わっている。南部地方以外の人にはニャンニャンと聞こえたため、「南部の猫唄」とよばれていた。土地の老若男女が夜を徹して踊りながら歌い、この晩だけは普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げることを許されていたという。  
長い間、さまざまに解釈されてきた歌詞は、歌の中でのはやし言葉として現れる。また地域によってもばらつきがあり、研究者が方言を聞き取って表記したため、さまざまな文献によって表記が異なる。現在行われている「ナニャドヤラ大会」で見られる歌詞は以下の通り。  
   ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ  
   ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ  
   ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー  
   ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド  
 
さて、ナニャドヤラという言葉だけが前面に出ますが、この後に多種多様な甚句が続くことが多いです。多いですと言うのは、古くから土着のものが統一されないまま放置されているので、形態の違うナニャドヤラが各地に伝わっており、どれが本流とも言えない状況になっているのです。むしろこの多様性を楽しむのがナニャドヤラの味わいでもあります。歌詞も違うし、節もいろいろなものがあります。  
ナニャドヤラ〜だけを繰り返してもまあ成立しますし、確かにそういうタイプのナニャドヤラも存在するのですが、多くのナニャドヤラには共通する面白い歌詞がたくさんあります。  
「わたしゃ音頭とって 踊らせるから 夜明け烏の渡るまで」  
「踊り踊るなら 前より後ろ 後ろ姿は誰も見る」などなど  
そして終わるとき、あるいは踊り手の交代の時には  
「あまり長いと 踊り手も飽きる ここがいいとこ替わらせろ」  
という歌詞で終了を促すようになっています。575だけを繰り返すタイプのナニャドヤラでも「替わらせろ ここがいいとこ 替わらせろ」といって終了する場合が多い。とかく意味不明な踊りという第一印象と違い、ちゃんと日本語の歌詞が登場するし、わりとフリーダムであることも押さえておきたいところです。その分布は、青森の津軽南部から、岩手の県北域、そして秋田の鹿角にまで広がるといわれます。
「ナニャドヤラ」2  
歴史  
「ナニャドヤラ」は旧南部領であった青森県八戸、野辺地、戸来、五戸、三戸、岩手県では二戸郡、九戸郡、岩手郡など、いわゆる県北の南部領一帯に伝わる盆踊りの唄となっている。この「ナニャドヤラ」ほど、その地方に徹底してゆきわたった唄はあまり類がないといわれている。祭典があれば祭りに、平時は野や山に畑に、或いは屋内の作業にも唄われてきた。日ごろ労働に追われ娯楽の少なかった昔、盆踊りはこの上ない楽しみであった。盆踊り唄にあるとおり、夜明けまで踊りあかすこともあり、翌晩は近隣の地まで出かけて踊ったそうである。  
起源・由来  
起源・由来の詳細はよく知られておらず、その歌詞の意味も長い間不明とされてきた。戦後の1956年に刊行された、岩手県一戸町出身の神学博士である川守田英二氏の著書『日本へブル詩歌の研究』上巻では、「ナギアトヤーラーヨー ナギアドナサレダーデ サーデ サーイエ ナガアッイウドヤーラヨー」というのは「エホバ進み給え 前方にダビデ 仇を払わんとすイダ族の先頭にエホバ進み給え」という意味のヘブライ語で、この民謡は聖典歴史が日本歴史に移行している事実を物語る重要な証拠であると解釈されている。また、これとは別に、言語学者の金田一京助氏は、「ニヤニヤトヤラー」は方言のくずれたもので、その意味は「なんでもやりましょう。そうすれば、なんでもできるものだ。わかりました。なんでも大いにやろう。」とする中里義美氏の説を支持されている。この他にも古代の軍歌説、唄の始まりの試声とするもの、あるいは女子が「どうなりとなされかし」と男を誘っているとする説まであって、それぞれに意味深長な解釈がなされている。さらに、民俗学者の柳田国男氏の「農民の哀歌」だとする説があって、傾聴すべき点が多いように思われる。余談であるが、土地に残る歌詞の中に「ナニガナサレテ ナニヤラドヤラ ナニヤドナサレデ ナニャドヤラ」というのがある。この歌詞からみると「何がなされているのか、何やらどうなっているのかさっぱり分からない。何がどうなされたか、何が何やら分からない世の中だ」とも受け取られる。地方には、やませに由来する凶令、旧南部藩の圧政による百姓一揆が多く、時の権力者の政治に対するやり場のない百姓の不満と諦観が秘められていることになる。  
歌詞の種類  
この唄の歌詞は地域によって「ニャニャトヤラ」あるいは「ナギャトヤラ」とも発音されるらしい。旧大野村では「ナニャドヤラ」または「ナニャトヤラ」と発音されることが多い。二つの踊り方があり、一つは「ナニャドナサレノナニャドヤラ」と伸ばさず淡々と唄い続けるもの。もう一つは、上の句ともいうべき歌詞を頭につけて唄い出す。たとえば、音頭取りが「盆の十六日、正月から待った 待った十六日今夜ばかり」と唄い出すと、踊り手たちは後の言葉を受けて「今夜ばかり待った十六日、今夜ばかり」と唄う。そして唄の文句が変わるまでこれを繰り返すのである。  
曲の種類  
旧大野村に伝承されている盆踊り唄「ナニャドヤラ」には、 一つ甚句、二つ甚句、 三つ甚句、四つ甚句の四種がある。特に二つ甚句は、盆踊りの中心的役割を果たしている。かけ声は「いやさかさっさと」、「ちょいさっさ、こらさ」、また、踊りの最中に嬌声に似た声をはりあげ踊っているところもある。 
「ナニャドヤラ」3 
ナニャドヤラ ナニャド ナサレデ ナニャドヤラ  
これは旧南部藩で歌われた盆踊りの歌詞(はやしことば)である。  
民謡研究家の町田嘉章氏の「日本民謡集」には「一名南部の猫唄とも呼ばれるこの唄は、岩手の二戸、九戸、岩手、青森の上北、三戸の諸郡にある極めて古風な異色な盆踊り唄で、元唄は一種の呪文的な盲詞を主とする」とある。  
その由来については、「アイヌ語説」「木やり唄の一種」「旧南部家の軍歌説」「梵語説」など諸説ある。  
昭和20年代には「ヘブライ語説」が、青森の旧戸来村(現新郷村)などに残る、キリスト教的とされる遺習と結びつけられ、大いに論議されたこともある。この説は、一戸町出身の神学博士・川守田英二氏が大正時代に唱えたもので、歌詞の由来は「カルデア系ヘブライ民族」の詩歌という。  
49年、宮中に学士院会員が招かれた際、キリスト教史を研究されている三笠宮殿下が、金田一京助氏に対して「ナニャドヤラ」について質問された。金田一氏は「なせばなる、なさねばならぬ何事も」のいわゆる道歌が、南部地方の方言によって今の形になったもの、と説明された。  
このことが新聞報道されると、当時サンフランシスコの教会の牧師であった川守田氏が、あくまでも「ヘブル詩歌」説の立場で反論を「東京新聞」に寄せ、研究論文を各方面に配布したのだった。  
現在、この盆踊りは、洋野町大野で「ナニャドヤラ大会」として毎年、開催されているが、その歌詞と踊りの種類をあげると次のようになる。  
[一ツ甚句]ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド  
[二ツ甚句] ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ  
[三ツ甚句] ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ  
[十二足踊り] ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー  
もっとも、これらはいずれもはやし詞で、本歌は、  
浅い川ならひざきりまくり  深くなるほど帯をとく  
踊り踊らば姿態よく踊れ  姿態のよいのはわしあ嫁に  
といった、26字詩型の歌詞で踊る。このはやし詞の元詞をめぐっては、前述のように、ヘブライ語説、方言崩れ説、その他が大いに論議されたのであった。 
「相拳節」 (「相子節」「あいこ節」) 
「あいこ節」とも呼ばれる。陸中川尻から和賀川に沿って上ると、万治年間(1658-61)に開かれた岩手湯本温泉がある。県下最深雪地区でもある湯本温泉で、湯治客と芸者が酒席で拳遊びの唄として賑やかに唄っていた。湯本のほかに、秋田県の横手や湯沢方面の花柳界でも、拳遊びの唄として一時流行。どこで生まれたかは不明だが、騒ぎ甚句の一種。  
 
江戸時代末期の花柳界ではやった、三味線、太鼓、お囃子つきの「藤八拳」という「じゃんけん」の一種のお囃子唄。全国でも珍しいもの。曲調は「アイヤ節」調だが歌詞が他所に似たものがなく、おそらく明治以後にこの地に入ってきたものと考えられる。地元には唄は伝わっているが、拳の遊び方は伝わっていない。別名「相子節」とも呼ばれる。  
■ 
←「藤八拳」(江戸) 
 
ハァヨイコラ〜ヨーイトセ ハァドンドンスメスメシャーントセ  
ハァまたもきてはシャーントセ  
相けん相けんと 勝負はつかぬ 勝負わからぬ 夜明けまで  
相けん踊りなら 負けてもよいが 真剣勝負なら 負けられぬ  
浮世離れた 牧場の小屋で 牛と添い寝の 草枕  
けんかに負けても 酒さえのめば さほど恥には なりゃしない  
来たて顔みせ 帰るて泣かせ ほんに貴方は 罪な人  
折れぬ花とは そは思えども 一枝折りたや あの花を
「江刺甚句」  
東北本線の水沢と北上のほぼ中間、北上川の東側に開けた江刺市周辺の農山村で、酒席の騒ぎ唄として唄われている甚句の一種。南部の「なにゃとやら」から派生した「秋田甚句」の素朴なものが南部領に再移入、江刺に入ったものが「江刺甚句」になった。この唄を全国に紹介したのは赤坂小梅で、この地を訪れて甚句を覚え「江刺甚句」の名でレコードに吹き込んだ。 
 
奥州市江刺区の中心市街地である岩谷堂地区は、享保16年(1731)の岩谷堂大火から明治39年までに7度の大火災にあったことから、人心は町の復興と火災防止を祈願し、貞観16年(874)開祖の秋葉神社例祭を火防祭(ひぶせまつり)としました。これを起源に祭りは華々しく行われるようになり、明治期は地上15mの大山祭り、大正期は仮装行列、昭和期は門付け踊り、昭和25年に42歳厄年連初参加、昭和35年から25歳、42歳厄年連が共に参加する祭りとなり、昭和49年に「見るまつりから参加するまつりへ」をキャッチフレーズに「市民総参加のまつり」へと生まれ変わり、毎年5月3日〜4日に開催されている今日の「江刺甚句まつり」が誕生しました。  
11世紀の平安末期に奥州藤原氏の祖藤原経清、初代藤原清衡は37〜38歳頃まで奥州藤原家の本拠地として岩谷堂の豊田舘に居を構えていました。藤原氏滅亡後は江刺氏が統治し、さらに江戸時代まで伊達藩の統治下にあり、藩の最北端の要地として城下町が形成され、北上川の舟運による物資の集散地として明治中期まで繁栄しました。かつて岩谷堂地区は、大火に見舞われることが多く、多くの商人が蓄財を守るため、争って蔵を建てた歴史があります。物資の輸送には、牛とともに馬産地東北として大いに馬を用い「江刺追分」と称する馬小唄が盛んに唄われました。現在この歌は当地区では絶滅しましたが「江刺甚句」は現在でも唄い踊り継がれています。  
 
←「秋田甚句」←「なにゃとやら」 
 
甚句踊りは かどまで来たや (チョイサノサッサ チョイサノサッサ)  
 じいさま出てみろ アリャ孫つれて (チョイサノサッサ チョイサノサッサ)  
この家座敷は めでたい座敷 鶴と亀とが アリャ舞い遊ぶ  
甚句踊らば 品良く踊れ 品の良いのを アリャ嫁にとる  
めでたうれしや 思ふことかのうた 四つのすみから アリャ黄金わく  
甚句踊りの 江刺の里は 味がじまんの アリャ米どころ
沢内「さんさ踊り」  
早いテンポの盆踊り唄。唄の終わりにサンサヨーと囃す。盛岡市を中心に、南は和賀郡、北は岩手郡にかけて広く分布。毎年、盆になると、花笠をかぶった一団が家々を順に踊り歩き、死者の霊を供養するという古風な形式を伝える盆踊り。土地によって少しずつ節回しが異り、地名を冠して区別している。「さんさ踊り」は「なにゃとやら」が変化した古調の「秋田甚句」の系統をひく。  
 
「さんさ(参差)踊」は盛岡市周辺に伝わる盆踊りで、三ツ石神社の羅刹鬼(鬼の手形)伝説がその起源といわれる。本来は灯火も衣裳も不要の踊りだったが、江戸時代の文化・文政期に盛岡藩主の命で踊りが統一され、三本柳(盛岡市)に巻物とともに伝授された。以降「伝統」をかたくなに守り、他所にそのまま教えなかったため、現在でも地域によって踊りや衣裳が大きく異なる。  
 
由来 / 藩政時代より踊り受け継がれてきた"さんさ踊り"の起源は、三ツ石伝説に由来しています。その昔、南部盛岡城下に羅刹鬼(らせつき)という鬼が現れ、悪さをして暴れておりました。困り果てた里人たちは、三ツ石神社の神様に悪鬼の退治を祈願しました。その願いを聞き入れた神様は悪鬼たちをとらえ、二度と悪さをしないよう誓いの証として、境内の大きな三ツ石に鬼の手形を押させました。鬼の退散を喜んだ里人たちは、三ツ石のまわりを「さんささんさ」と踊ったのが"さんさ踊り"の始まりだと言われています。 (岩に手形…これが"岩手"の名の由来だとも言われています。)  
 
←「秋田甚句」←「なにゃとやら」 
 
さんさ踊らば品良く踊れ 品の良いのをサンサ嫁に取る  
さんさ踊りの始まる時は へらも杓子もサンサ手につかぬ  
馬コ売ったとて渡されよか手綱 振向く馬コはサンサ涙声  
馬に惚れても馬喰さんに惚れな 縞の財布がサンサからになる  
銭コ取たとて渡されよか手綱 振り向く馬コはサンサ涙声  
盆の十三日法会する晩だ あずきこわめしサンサ豆もやし  
私しゃ音頭取って踊らせるから 夜明がらすのサンサ渡る迄  
こよい踊りにあの子を招く 明けりゃ黄金のサンサ穂が招く  
揃うた〜よ踊り子が揃うた 秋の出穂よりサンサ良く揃た  
「沢内甚句」  
陸中川尻から和賀川に沿って上ったところに、和賀郡沢内村がある。お米のでどこ・沢内盆地で、酒盛りの席で手拍子にあわせて唄われていた。「秋田甚句」が母体のようで、それが沢内化したようである。明治から大正にかけて、湯本温泉の芸妓衆が盛んに唄うようになると、三味線の手が付くようになった。  
 
藩政時代の盛岡藩の隠し田の地・沢内で、飢饉の際に年貢米減免のために庄屋の娘・よねを藩に差し出した。その悲しみを唄った盆踊り唄。もとは太鼓と手拍子だけで唄われる素朴な唄だったが、昭和の始めに三味線の伴奏つきでレコード発売されたことから全国に広がった。原曲は県北地方の「ナニャドヤラ」といわれ、低音から唄い始めるものと、中音、高音からのものという三つの様式があり、甚句の形式としても完璧な曲である。  
 
沢内三千石 お米の出どこ 桝(ます)ではからねで コリャ 箕(み)ではかる  
盛岡から南西へ約六〇キロ、秋田県境に近い沢内村に伝わる盆踊り唄だ。このあたりは藩政時代、南部藩の隠し田だった。良質な米がとれた。「桝で量らないで箕で量る」ほどの美田だったというわけである。字面を追う限り、喜ばしいことを寿ぐ唄といえる。しかし、この唄が醸し出す雰囲気はなんとももの哀しい。というのも、この唄、実は哀歌だからである。芸者さんは「この唄のほんとうの意味はこういうことなのよ」と言って、歌詞を言い換えて唄ってくれた。発音は同じだから、耳で聞いただけでは同じだ。  
沢内三千石 およねの出どこ 枡ではからねで 身ではかる   
岩手の人たちによれば、沢内は名うての豪雪地帯。そのうえ、岩手県北部の三陸海岸から県内部に向かって初夏に吹く冷たい風、やませの風下にあたる。このため、冷害、凶作に見舞われることがあった。が、年貢米の取り立ては豊凶にかかわりなく厳しかった。困り果てた農民たちは年貢の代わりに、「およね」という娘を藩に差し出した。およねはなかなかの美人で、彼女のおかげで村は救われたという。いわば人身御供の悲しみをうたった唄なのだ。  
 
←「秋田甚句」 
正調沢内甚句  
沢内三千石 お米の出どこ (ハイハイトキタサ)  
つけて納めた コリャお蔵米 (ハイハイトキタサ)  
大信田歯朶の中 貝沢野中 まして大木原 嶽の下  
沢内三千石 お米の出どこ 桝ではからねで 箕ではかる(身で代る)  
月の夜でさえ 送られました 一人帰らりょか この闇に  
沢内三千石 所の習慣 姉が妹の 仲人する  
甚句踊の 始まる時は へらも杓子も手につかぬ  
甚句踊るより 泣く子をあやせ 親じゃなければ あやされぬ  
踊り踊るべと けえもち鍋まけた へらでさらねで 手でさらた  
(和賀郡沢内村)  
沢内三千石お米(こめ)の出処(でどこ) (ハイハイトー キタサ)  
つけて納めたコリャお蔵米 (ハイハイトー キタサ)  
大志田歯朶(しだ)の中 貝沢野中 (ハイハイトー キタサ)  
まして大木原(おぎわら) コリャ岳の下 (ハイハイトー キタサ)  
   沢内三千石お米(よね)の出処(でどこ) 升で量らねで箕で量る  
   月の夜でさえ送られました 一人帰さりょかこの闇に  
沢内三千石所の習い 姉が妹の仲人する  
甚句踊りの始まる時は 箆(へら)も杓子も手につかぬ  
   沢内三千石冷水がかり まけて給れやご検見殿(けみどの)  
   折れぬ花とはそは思わねど 一枝折りたやあの花を  
沢内おばこの焼いたる炭は 赤くなるほど熱が出る  
浮世離れた牧場の小屋で 牛に添え寝の草枕 
「およね物語」  
沢内三千石お米の出どこ 枡ではからないで箕ではかる  
このよく知られた「沢内甚句」の歌詞の、お米はおよね、箕は身であるとされる解釈が有名で、凶作にかかわる村の娘「およね」の悲哀の物語が語り継がれて います。  
「沢内年代記」によると、天保の大飢饉のときの凶作は甚大で、生活は窮乏を極めた凄まじいものだったと伝えられています。ホシナ(大根葉の乾燥したも の)と根花(ワラビのでんぷん)で命をつないだ者はまだ良い方で、わらを食べ、雪解けを待って草の根を掘って食べるという悲惨なものだったのです。  
そのため、お倉米(納税)を納めることができなかったのは言うまでもないことですが、それにもかかわらず殿様からは上納の厳しいお達しがたびたびあっ て、沢内通りの名主たちは、いかにしてこの苦難から逃れようかと日々相談に明け暮れ、納米の減額や免除を嘆願したのでした。  
そんな中、あるときの集まりに、当時沢内通りに駐在していた代官が、次のように言ったのでした。「近年のケカジ(凶作)続きは沢内通りばかりでなく、奥州から関東にかけての大飢饉なのだから、なかなか免除の許しなどは出ないことである。当藩内のこ とではないが、農民たちは殿様に誠意を示すために、娘を上げ申したということがある」  
何か暗示を与えるようなことを聞かされて、一同は帰りました。  
やがて十一月に入り、その年も俵探しの役人がお米のありそうなところを回って調べました。見つかれば強制的に没収されてしまいます。困っている人たちに 分けてやる余裕もありませんでした。冬を迎えてさらに生活は厳しくなり、名主たちも、納米の督促どころか、自分の郷の餓死者を防ぐために懸命なのでした。  
しかし代官所からの厳しい通達に困り果てた名主たちは、ついに最後の相談をすることとなり、そして、代官が言った娘を差し上げることのほかないという結 論に達したのでありました。  
「背に腹は代えられない。この方法よりほかに道がないとすれば、沢内通りの農民を救うために一つ代官様にお伺いをしてみようではないか」  
そして新町の代官所を訪れて、結果交渉はうまくいき、ほっと胸をなでおろしたのですが、名主たちは、次に、その殿様に上げ申す娘は何処にあるだろうかと 真剣に考え探すことになりました。  
「代官所の近くであれば、なじな者でもあるべし、都合もいかべなァ」  
「んにゃ、えおなごというのは上の方にかぐれだとこにいると思うんでごァし」  
この頃、沢内通りは太田を中心に二分しており、南北に分けて探すことにしましたが、結局その娘というのは、どうしても北部からであるという結論に達した のでした。  
そして度重なる集まりの末、川舟村に候補者が二、三人あるということにしぼられて、貝沢、新山、川舟の三部落から一人ずつ見つけようということとなりま す。 さて、郷の同心二人が新山を回り、話を聞いていたとき。橋を渡ってすぐの家の爺が言うには、「こごえら(この辺)でだら、吉右ェ門どこの娘っこよりえお なごァねァがべなし」、と。これを聞いて二人の目は光りました。挨拶もそこそこにしてこの家を飛び出していきました。  
吉右ェ門の家は旧家で、六十余年前、田掻き馬が狂乱し、岩手山麓で立ち往生して蒼前様に祀られたという伝説のある家でありました。  
同心が急ぎこの家を訪れると、年の頃十六、十七かと思われる、背の高い面長の美しい娘が挨拶に出てきました。二人はしばらく休んでいる間に、この娘の立 ち居や動作にすっかり惚れ込んだのでしたが、突然に件の話も言い出せず、ひとまず帰ったのでした。  
名主たちの集まりに報告がなされ、正式に吉右ェ門の家に交渉することになりました。  
何の不自由もない総本家のの娘が殿様に上げられるという話が伝わると、遠方の分家や親戚などから猛烈な反対の火の手が上がりました。もちろん、本人も両 親も容易に首を縦に振らなかったのは無理もないこと、、。たとえどんな理屈を付けようとも、年貢米の代わりになる人質にほかならないのです。  
連日矢のように攻められ、連日連夜にわたり相談は続けられ、その娘、およねもまた悩み、考えるのでした。  
冬が過ぎて春の彼岸の中日のこと。  
「殿様に仕えるごどはありがでえが、お倉米の代わりなど人身供養だから、本家の大恥だ。だれァ何たって承知こがね」「それも考え方だ。おら本家の娘こァ沢内を救ったとなれば、分家の爺だって肩身広く道路あるぐごとにもなるべ」  
そんなやりとりを聞いていたおよねは、元気に満ちた、そして晴れ晴れとした声で言い出したのでした。  
「おらァ思い切ったでァ。えぐ(行く)気になった。人ァ一度ァ死ぬんだォなに」  
誰一人、何も言える者はいませんでした。大きないろりには薪がどんどん燃えて、車座に座っている人たちの顔を照らしていました。彼岸の頃のかくしの吹雪 が時々窓に吹きつける音のみで、深夜のいろり端には、咳一つする者はなかった。そして、かしき座の隅に座っていたおよねの母のかすかなすすり泣きの声が、 人々の胸を強く痛めるのでありました。  
軒を埋めた雪が次第に消え去ると、沢内には急に春が訪れるのでした。屋根吹き替えの手伝いに集う男たちの間でもおよねの噂で持ちきりです。村の困窮を救 う女傑と誉める者、同情と義憤の気持ちで慰める者など、いずれこの狭い沢内から殿様のお城に上るという開びゃく以来の出来事だけに、村の話題を総ざらいに 七十五日間続くのでありました。  
そんな噂をよそに、吉右ェ門の家では娘の出発が近づくにつれ、仕事も手につかない毎日を送っていました。  
田打ちが始まった頃のある夜、新山には村中の人が集まって、感謝の酒宴で大騒ぎでした。いまさらながらおよねの美しさを口々に褒めそやしていました。座 敷では飲めや歌え、そして沢内甚句を歌い始めるのでした。およねは一人、家の西にある檜の古木の下に立ち、蛙の鳴き声を聞きながら、懐かしい友だちのこと を思い浮かべていました。自分の行く末に不安な気持ちは頭から離れることはありませんでした。  
とやかくするうちに、その日はやってきました。お嫁さんのような髪、着たこともない矢絣の袷、黒朱子の帯をしめて正装したおよねの姿は高貴で、微塵も田 舎娘などではありませんでした。多くの村人たちに見送られて、およねは住み慣れた家を、そして村を後にしたのでした。  
「んだらえってくる」それだけの言葉を残して、、。  
かよわい女の身で一村を救うけなげなおよねは、こうして寂しげな微笑を一同に見せながら、悄然と出かけるのでありました。 
「どどさい節」  
「ドンドンサイサイ ドドサイサイ」の囃し言葉から名がある。岩手郡雫石(しずくいし)方面で、酒席の騒ぎ唄として唄われていた。曲は南部の「なにゃとやら」から派生した素朴な「秋田甚句」が雫石地方へ移入。太鼓の拍子を言葉で代用しているうちに、いつかそれが囃し言葉になり、「どどさい節」が生まれた。後に秋田に逆移入されて「ドンパン節」になる。  
 
盛岡城築城の際に秋田県仙北郡から移り住んだ人々が唄った「仙北サイサイ」(秋田甚句の元唄)が雫石地方に伝えられたもので、囃子言葉の「ドンドンサイ」から「どどさい節」に転化ししたと思われる。戦後に流行した「ドンパン節」(今造甚句)の元唄になった。  
 
←「秋田甚句」 
→「ドンパン節」 
 
惚れた〜と 川端柳 水に押されて 根が掘れた  
 ドン〜サイ〜ドドサイサイ ドン〜サイ〜サーイ  
惚れたからとて 毎晩来るな 月に二度とか 三度来い  
一度二度なら あわねばよかった 心見られて 後口惜し  
一夜でもよい あわせておくれ わしの願いは そればかり  
上り七坂 下りは八坂  一つ一つは 恋の坂  
来いと言うたとて 笹山越えて 笹の小露で 袖ぬらす
「南部木挽き唄」  
大正の末頃まで、木挽き職人は山に小屋をかけ、きこりが切り出した原木を板にひいていた。職人は、その多くが農閑期を利用した農民の副業(地元木挽き)であった。特に南部(岩手と秋田・青森県の一部)出身の南部木挽きは腕がよく、樺太(からふと)から近畿地方まで、各地の山へ招かれて、次第に木挽きを専業とする渡り木挽きとなった。木挽き唄は、職人の孤独感をまぎらわせたり、単調な作業に飽きないように、鋸の手に合わせて唄う。南部木挽きが唄を全国各地に持ち回ったため、各地の木挽き唄は大同小異である。中国以西は広島木挽きの勢力下のため、唄も広島木挽きの唄となっている。曲はともに甚句が変化したもの。  
 
/ (木挽き唄) 
 
ハァー木挽居たよだ ハァあの沢奥にヨ  
ハァ今朝もやすりの オヤサハァ音がするヨ  
何の因果で木挽にほれた 木挽半年山暮らし  
大工さんより木挽がにくい 仲のよいとこ引き分ける  
親方金借せ鋸の目が欠けた 鋸は嘘だよ逢いに行く  
わたしゃ南部の奥山育ち 朝は早よから木挽き唄よ  
木挽因果なもの女と堅木 日に一度もあわれない  
木挽さんより大工さん可愛い 縁のない木を組み立てる  
南部木挽舞唄  
花のお江戸のサーエー 糸屋の娘ヨー   
姉は二十一サーエ 妹は二十ヨー  
   妹ほしさにサーエー 御立願をかけたとセー   
   伊勢にゃ七度サーエー 熊野にゃ三度ヨー  
おらやふく板サーエー 吹きたまりのないようにヨー   
背割り背割りとサーエー 吹き下すは上木挽
「南部相撲甚句」 (南部相撲取甚句) 
盛岡市の祭礼で演じられる女相撲の力士たちが、手数入りのときに土俵を囲み、手拍子に合わせながら唄った。普通、相撲取りが唄う「相撲甚句」は、「おてもやん」や「名古屋甚句」のような「本調子甚句」が一般的。本格派の「本調子甚句」に対して「二上り甚句」を「相撲甚句くずし」と呼んで、一段軽いものにみた。花柳界と結びつきが多い相撲取りが、酒席のお座敷唄を覚え、土俵入りに利用するようになったもの。  
 
/ (相撲甚句) 
 
南部名所を 甚句に説けば   
北上川に 抱かれて 高くそびえる 岩手富士  
ちゃぐちゃぐ馬っコも 賑やかに  
二十万石もこずかたの 栄(さか)る人出の 城下町  
春は桜の 石割で 牛馬も肥ゆる 小岩井に  
お茶を飲むなら 南部鉄 唄は名高い 外山で  
沢内甚句は 米所 あれは花巻 獅子踊り  
昔 源義経や 弁慶 最後は衣川  
詩人 石川啄木や 宮沢賢治に 原敬と  
相撲で先代 柏戸に 弓取り式なら 太田山  
小兵ながらも 前田川 今じゃ人気も 花光
「南部囃子甚句」  
盛岡藩お抱え遊芸師グループの流れをくむ大迫町の人形遣いの太夫が、大正時代に興行して廻ったとき、人形劇の出囃子として唄ったもの。通常の「甚句」には必ず踊りがつくが、この甚句では人形が踊る。  
 
押せや押せ押せ 一関までも 押せば都が コラサッサ 近くなる  
(コラサッサー)  
城下盛岡 すみよい所 南部片富士 コラサッサ 黄金わく  
鶴の一声 雲間に響く はやし甚句が コラサッサ 世に響く 
「南部一つ甚句」 (「ヤライ節」) 
「ヤライ節」とも呼ばれ、盛岡藩の伝統的な盆踊りの一つである「ナニャドヤラ」と「甚句踊」、「ナニャドヤラ」と「久慈盆踊」など他の盆踊りと交互に踊られる地方に伝わっている。本来「ナニャドヤラ」は拍手のない踊りであるが、「甚句踊」「参差踊」には拍手が入るので、それが混じり、拍手の入る数で「一ツ甚句」とか「三ツ甚句」または「三ツ踊」などと区分されている。  
 
/ 「ナニャドヤラ」 
 
一ッ甚句踊りの始まる ノオコリャ時は  
へらもしゃくしもありゃ 手にノオコリャつかぬ  
ナニャトヤーラ ヨオイヤナ ナニャトナサレテノオコリャ ヨオイヤナ  
村のはんずれの地蔵様も 踊り見てノオコリャ動き出す  
老も若きも嫁も姑も ノオコリャ出て踊る  
唄えや踊れ夜明けまで 夜明けがらすが ノオコリャ鳴くまで  
「南部甚句」  
 
春の初めに ハァ〆縄張りて 折り目節目に ハァーサー金がなる  
鮫で飲む茶は ハァ渋茶も甘い 鮫は水がら ハァーサー心がら  
浜の松から ハァ塩釜見れば お客もてなす ハァーサー茶屋のかがぁ  
鮫の蕪島 ハァ回れや一里 鴎くるくる ハァーサー日が暮れる  
新地裏町 ハァ夜明けに通れば 太鼓つづみで ハァーサー夜が明ける  
寄せてくだんせ ハァ戻りの節は 一夜なれども ハァーサー鮫浦へ  
「南部あいや節」  
手拭いを使って踊ります。七踊りの中では一番テンポが速く、威勢のよい踊りです。九州の「平戸はいや」または島根県あたりの「はいや節」が北上し、南部に来て「南部あいや節」になりました。  
 
←「はいや節」 
 
アイヤー あいの山にはお杉とお玉 お杉三味ひくヤレハア玉踊る  
アイヤー 鮎は瀬に着く鳥ゃ木に止まる 私や貴方のヤレハァ目に止まる  
アイヤー あいはもやくや煙草の煙 次第次第にヤレハァ薄くなる  
アイヤー 長く咲く花胡桃の花よ 末を案じてヤレハァ丸くなる  
アイヤー 竹の切り口シコタンコタンと なみなみたっぷり溜まりし水は  
飲めば甘露のヤレハァ味がする  
アイヤー 竹に雀が  あちらの山からこちらの山へと  
チュンチュンパタパタ 小羽をそろえて  
仲良く止まるヤレ 私や貴方のヤレハァ気に止まる  
「南部馬方節」  
全国各地では一般的に「馬子節」として唄われているが、岩手県(旧盛岡藩)では「馬方節」と呼んでいる。曲調、歌詞とも「草刈唄」「萩刈唄」系統で、夏の朝、草刈り作業を終えて我が家に戻る農民が、ゆったりした気分で唄ったものといわれる。  
 
ハアアーア アアーアーエ 朝の出がけにハアアーエ  
山々見ればアーヨー (ハイーハイ)ハアアーエ  
霧のオエハアーエかからぬ ウーエハア 山も無い (ハイハイ)  
   南部片富士 裾野の原は  
   西も東も 馬ばかり  
さても見事な 馬喰さんの浴衣  
肩に鹿毛駒 裾栗毛  
   朝の出がけに 山々見れば  
   黄金まじりの 霧が降る  
ひとり淋しや 馬喰の夜ひき  
明日は南部の 馬の市  
   一夜五両でも 馬方いやだ  
   七日七夜の 露を踏む  
妾もなりたや 馬喰の嬶に  
いつの芦毛の 駒に乗る  
   心細いよ 馬喰の夜道  
   何時も轡の音ばかり  
「南部馬方三下り」  
わらじを履いて、馬の手網を意味する長い紐を肩にかけ笠を使って踊ります。馬方とは駄馬に荷物を積んで運ぶ人のことをいいます。信州の「小諸馬子唄」から派生した「道中馬方節」に三下り調の三味線伴奏がついて、この地に流れ着いたといわれます。  
 
←「小諸馬子唄」 
 
朝の ハァ出がけに ハァ山々見れば 霧の ハァ掛からぬ山も無い  
南部 ハァ良いとこ ハァ名馬の出所 一度 ハァお出でよ駒買いに  
袖と ハァ袖とに ハァ手を入れかけて これが ハァ博労の幕の内  
辛い ハァものだよ ハァ博労の夜道 七日 ハァ七夜の七手綱  
かがよ ハァ今来た ハァ味噌米あるな なんの ハァ味噌米塩も無い  
おらも ハァ成りたや ハァ博労のかがぁに いつも ハァ葦毛の駒に乗る  
あねこ ハァ起きろよ ハァ浅草刈りに 朝の ハァそよ風身の薬  
「南部駒引唄」  
元禄4(1691)年に盛岡城内で馬喰たちが唄ったという記録が残る歴史の古い唄。御用馬喰の仲間同士が座敷などで掛け合いで唄ったため一般にはあまり普及していなかったが、昭和の初めに採譜されてから普及したといわれる。  
 
ハァー今日は天気もよいし 日もよいし ドンドとひき出せホーイホイ  
目出度エ 目出度エのヨー(ヤー) 若松様ヨー(ホー)  
枝もナーエー 栄えるヨー 葉も茂る(ヤー)  
栄える枝も(ホー) 枝もナーエ 栄えるヨー葉も茂る  
ハァー荒ごもけだてて じみちにのりだせ 天下の御用だホーイホイ  
言うなエ語るなヨー お駒の池をヨー そこにナーエ清水のヨー  
あることを 清水にそこにそこにナーエ 清水のヨーあることを  
ハァーともぐつはらってドンドと 追い込め三十五両千疋ホーイホイ 
「南部道中馬方節」  
馬市でセリ落とされた馬を曳くときに唄われたもので、馴れない若駒をつないで曳くので日中を避け、主に夜間に曳くことが多かった。このため、馬に声をかけて気を静めさせ、同時に自分の眠気をさますために唄われた。  
 
矢立エハァ峠のエハアエ夜風をエ ハァうけてヨーエ  
ハアエ秋田エハア夜長をエ ハァー後にするヨ  
   こころ淋しや 馬喰の夜道よ  
   鳴るはくつわの 音ばかり  
一夜五両でも 馬方いやだ  
馬の手綱で 日を暮らす  
   さても見事な 馬喰のゆかた  
   肩に鹿毛駒 裾栗毛  
ここはどこよと たずねて見れば  
ここは津軽の 関の橋よ 
「南部追分」  
素手だけの踊りと、手拭いを持った踊りの2種類あります。発生は北国街道と中仙道の間の追分宿で飯盛り女たちが唄ったものがはじまりとされています。全国でも珍しい三味線伴奏の追分節です。  
 
←「追分節」 
 
西は ハァ追分 ハァ東は関所 関所 ハァ番所でままならぬ  
忍路 ハァ高島 ハァ及びもないが せめて ハァ歌棄磯谷まで  
沖を ハァ眺めて ハァほろりと涙 空飛ぶ ハァ鴎がままならぬ  
逢いたい ハァ見たいは ハァ山々なれど 悲しや ハァ浮世はままならぬ  
今宵 ハァ一夜で ハァ峠を越せや さぞや ハァ妻子が待ちかねる  
「南部荷方節」  
番傘をたくみに使って踊ります。剣吉地区は昔、馬淵川をさかのぼった商港として栄え、船着き場は雑穀や木材等物資の集散地としてにぎわいました。傘を手に持ち踊る姿から往時がしのばれます。もともとは新潟節と呼ばれていました。新潟から海を北上し、やがて馬淵川を往来する船頭衆により伝えられたといいます。  
 
←「荷方節」 
 
にがた ハァ出てから ハァ昨日今日で七日  
七日ハァなれども ハァまだ会わぬ  
傘を ハァ忘れた ハァ敦賀の茶屋に  
雨のハァ降るたび ハァ思い出す  
傘を ハァ手に持ち ハァ暇を願い  
かさねハァがさねの ハァ暇ごい  
佐渡で ハァ蕾持ち ハァ新潟で開く  
とかくハァ新潟 ハァ花どころ  
にがた ハァ出てから ハァまだ帯解けぬ  
帯はハァ解けぬに ハァ気はとける  
にがた ハァ出てから ハァ青島沖に  
船はハァ出船で ハァままならぬ  
「南部長持唄」  
盛岡藩領内の典型的な長持唄で、婚礼の際などに唄われる。本来「長持唄」は旧仙台藩領のものだが、旧盛岡藩領内に伝わるものは曲調は似ているものの、唄う場所、場面によって別々に唄う「決まり」があり、独特のものである。例えば嫁御の里からの出発のとき、嫁の受け渡しのときと、「嫁方」「婿方」で異なる歌詞でやりとりする。  
■ 
/ (長持唄) 
 
ハァ今日はナァーハーエ 日も良いしナァー  
ハァ天気も良いしナァヨー 結びナァーハエー  
合せてナァー ハァヤレヤレ 縁となるナァーヨー  
目出度〜の 若松様だ 枝も栄える 葉も茂る  
蝶よ花よと 育てた娘 今日は他人の 手に渡す  
「南部都々逸」  
もともとほおかぶりをして素手で踊られていましたが、それを舘松榮源次郎氏が独特な「カツラ」「番傘」「二段返し(引き抜き)」の工夫をし、今の踊りに創作しました。天保時代に江戸の都々逸坊扇歌が「潮来節」「よしこの節」を作詞改曲して唄ったのがはじまりで、それが流れてこの地に入ったといわれます。  
 
都々逸は 下手でも やりくり上手 今朝も質屋で褒められた  
白鷺は 小首かしげて 二の脚踏んで やつれ姿に水鏡  
韓信は 股を潜るも 時世と時節 踏まれし草にも花が咲く  
大海の 水を飲んでも鰯は鰯 泥水飲んでも鯉は鯉  
朝顔は 馬鹿な花だよ 根の無い竹に 命捧げて絡みつく  
「気仙甚句」  
気仙地域に伝わっている数少ない民謡の一つ。「遠島甚句」の同類で、古い姿のものは最初に「ハァー」をつけず、囃子言葉もなく、すぐ唄いだす。祝い唄として唄われているものもあるが、詞型は七・七・七・五で、終わりの五に「ホニ」を入れ、七にして唄う甚句の定型である。  
■ 
/ 「遠島甚句」 
 
ハァー気仙甚句の (ハ、コリャ〜)  
コラ始まる時は 天の岩戸も アレサ押し開く (ハ、ヨイト〜)  
気仙よいとこ 寒九の雨に 赤い椿の 花が咲く  
気仙名所は 数々あれど 広田根崎の椿島  
花は咲いても 実のなるまでは どうせ妾も 一苦労  
五葉山の白雪 朝日でとける 島田娘は 寝てとける  
沖で三十日 港で二十日 思った大船渡に たゞ七日  
「なにゃとやら」 (南部盆唄、「虎女さま」)  
青森県の旧南部領一帯から二戸(にのへ)郡、九戸(くのへ)郡、下閉伊(しもへい)郡北部一円にかけての盆踊り唄。「なにゃとやら」の名で知られる。「ナニャトヤラ ナニャトナサレノ ナニャトヤラ」といった歌詞を繰り返し唄う。現存する盆踊り唄の中では大変に古いもので、後に東北の広くに分布する「甚句」の母体である「秋田甚句」を生む。意味不明の歌詞に加え、さまざまな歌詞が作られるようになり、「虎女さま唐笠買ってけろ」などの歌詞から「虎女さま」と呼ばれるようになった。  
 
旧盛岡藩領に伝わる陽気な盆唄で、元唄は「ナニャドヤラ」。「とらじょ」は「虎蔵」がなまったもののようで、唄に出てくる女性・天間のみよ子は明治24年生まれの実在の人物、評判の美人だったといわれる。  
 
←「ナニャドヤラ」 
→「秋田甚句」 
 
ナニャトヤラエ ナニャトナサレタ ナニャトヤラ  
とらじょさまから なに買ってもらた お白粉七色蛇の目傘  
雨コバラバラ お白粉落ちる 傘コ買ってけろ とらじょさま  
親父もらってけだ おがだコばほしぐね ならば天間の美代子ほし  
美代子ほしたて およびもないよ いまじゃ坪の元めァかが  
美代子美代子と 呼ぶとぎァよがった 美代子嫁に呉で事ァ欠けだ  
親父ァなんても 兄貴ァなんても わたしや平間の美代子よい  
南部殿さま ボタ餅好きで 夕べ七皿 今朝八皿  
南部よいとこ 粟めし稗めし のどにひっからまる干菜汁  
「南部よしゃれ」  
天正年間(1573〜92)、南部信直が雫石城攻略の際に西山村(雫石町)の「五輪茶屋」(よしゃれ茶屋)で見せた「雫石女」の貞節と心意気を唄ったものといわれ、「南部牛追唄」と並ぶ岩手の代表的民謡の一つ。踊りが完成したのは藩政末期といわれるが、昭和の始めごろに現在の形に手直しされ、現在でも祝い事の宴席や舞台などでは紋付で踊られる格調高い民謡である。  
 
/ 「津軽よされ節」「黒石よされ節」 
 
ハァよしゃれ茶屋のかかサー 花染めのたすき  
サーハーンヨー (チョイサノサッサ)  
肩にかからねでサー気にかかる  
ヨーシャレサーハーンヨー (チョサノサッサト  チョイサノサッサ)  
よしゃれおかしゃれ その手はくわぬ その手くうよな 野慕じゃない  
よしゃれ駒下駄の 鼻緒が切れた 誰がたてたか また切れた  
南部〜と 皆様おしゃる 南部あねコと 馬がよい  
よしゃれ〜は どこでもはやる まして南部の 雫石  
一ッ出します 憚りながら 唄の違いは ご免なされ  
おらも若い時 こちゃ来と言われた 今じゃ秋の水 よけられる   
 
よされ駒下駄の 鼻緒が切れたヨサレサァヨサエー  
誰がたてたか ヨサ又切れたヨサレサァヨサエー  
何をくよくよ 川端柳ヨサレサァヨサエー  
水の流れを ヨサ見て暮らすヨサレサァヨサエー  
声の良いのに 唄せて聞けばヨサレサァヨサエー  
松の林の ヨサ蝉の声ヨサレサァヨサエー  
よされ茶屋のかがぁ 花染めのたすきヨサレサァヨサエー  
肩に掛からねで ヨサ気に掛かるヨサレサァヨサエー  
よされ茶屋のかがぁ お客を設けたヨサレサァヨサエー  
客と思えや ヨサ福の神ヨサレサァヨサエー  
「南部茶屋節」  
明治から大正にかけて唄われた「騒ぎ唄」で、発祥地は釜石・山田・大槌地方といわれている。現在ではむしろ盛岡市周辺や遠野市などで唄われている。系統は北九州の平戸島田助港で生まれた「ハイヤ節」の流れをくむものと思われる。  
 
←「牛深ハイヤ節」 
 
(チョイサッサコラサッサ〜)  
ハァ目出度目出度の この家の座敷 (チョイサッサコラサッサ)  
茶屋節しょて来る 鶴と亀 (チョイサッサコラサッサ〜)  
ハァ声はすれども 姿は見えぬ 藪に鶯 声ばかり  
踊れ踊れと 茶屋節せめる 踊りゃ出ぬので 汗が出る  
目出度目出度の 若松よりも 盛るお山の 黄金花  
唄も出来たし 踊りも出来た 狭いお庭も 広くなる  
「外山節」  
「外山節」は「石川啄木」の生地として知られる玉山村の外山という地区に伝わる民謡だ。明治時代にここにつくられた御料牧場の作業員たちが唄った草刈り唄が起源という。「ほだ」とは、いろりやかまどにくべる薪、あるいは掘り起こした木の根や樹木の切れはしのことである。こちらも、なんともわびしい響きだ。岩手の民謡の基調は「貧しさ」ではないか。  
「外山節」「正調外山節」  
明治時代に外山につくられた御料牧場の作業員たちが唄った「草刈唄」がその起源。牧場の閉鎖とともに一時忘れ去られたが、昭和初期に2種類の元唄が発掘され全国に広がった。レコードで「現代版外山節」が普及したため、「正調」はあまり知られていない。  
 
←(草刈唄) 
 
外山街道に 笠松名所 名所越えれば 行在所  
あんこ行かねか あの山越えて わしと二人で わらびとり  
わたしゃ外山の ひかげのわらび たれも折らぬで ほだとなる  
おれと行かねか あの山かげで 駒コそだてる はぎかりに  
南部外山 山中なれど 駒を買うなら 外山に   
 
わたしゃ外山の 日蔭のわらび (ハイハイ)  
誰も折らぬで ほだとなる (コラサーノサンサ コラサーノサンサ)  
わしと行かねか あの山蔭さ 駒コ育てる 萩刈りに  
わたしゃ外山の 野に咲く桔梗 折らば折らんせ 今のうち  
外山育ちでも 駒コに劣る 駒コ千両で 買われゆく  
外山街道に 笠松名所 名所越えれば 行在所  
日の戸越えれば からかさ松よ 外山牧場の お関所よ  
わらび折り〜 貯めたる銭コ 駒コ買うとて 皆つかった  
あねこ行かねか あの山越えて わしと二人で わらひとり  
「正調外山節」  
わたしゃ外山の 日蔭のわらび  
誰も折らぬで ほだとなる ほだとなる 誰も折らぬで ほだとなる  
(ヤーンコーリャサンサ ヤーンコーリャサンサ)  
   外山育ちで 色こそ黒い  
   味は自慢の 手打そば 手打そば 味は自慢の 手打そば  
南部外山は 駒コの出どこ  
駒コ買うなら 外山に 外山に 駒コ買うなら 外山に  
   俺と行かぬか あの山越えて  
   駒コ育てる 萩刈りに 萩刈りに 駒コ育てる 萩刈りに
「南部牛追い唄」  
のびやかで勇壮な民謡である。南部の国(岩手のこと、岩手の北半分は南部藩の領地だったのでこう呼ばれた)は古来から馬の産地として知られたが、南部牛もまた特産品の一つだった。牛を放牧場からセリ市に連れてくる途中で唄われたのがこの唄という。朗々と唄われるこの唄に耳を傾けていると、岩手の広大な風土と農牧民の喜びが伝わってくる。  
「南部牛追唄」「南部牛方節」  
下閉伊郡や上閉伊郡、九戸郡から南部牛を放牧場からセリ市につれて来る途中に唄われたのが「牛追唄」。鹿角から盛岡へ、沢内から黒沢尻(北上市)の藩の米蔵へ、内陸地方から沿岸部へなど、物資輸送の牛方が唄ったのが「牛方節」で、江戸時代初期から伝わる、岩手を代表する民謡の一つ。現在唄われている「牛追唄」は最も美しい旋律をもっているといわれる沢内地方のもので、戦前から唄われている。 (岩手郡小本街道沿線 西和賀町沢内 遠野市 )  
 
←(牛方節) 
「南部牛追唄」  
田舎なれどもサーハーエ 南部の国はサー  
 西も東もサーハーエ 金の山コーラサンサエー  
沢内三千石 お米の出どこ つけて納めた お蔵米  
さても見事な 牛方浴衣 肩に籠角 裾小ぶち  
今度来るとき 持って来てたもれ 奥のみ山の ナギの葉を  
肥えたべこコに 曲木の鞍コ 金の成る木を 横づけに  
江刈葛巻 牛方の出どこ いつも春出て 秋もどる  
「南部牛方節」  
(キヤホ〜パーパーパー) 田舎なれども 南部の国はサー  
 西も東も 金の山 (コラサンサエー キヤホーパーバーバー)  
つらいものだよ 牛方の旅は 七日七夜の 長の旅  
牛よつらかろ いまひと辛抱 辛抱する木に 金がなる  
待っていろよ 牛方のかかさん 帰り土産に 金の小判  
藪川街道に 深野沢がなけりゃ 通る牛方に 宿がない  
赤も良い〜 高白も良い 中の背赤が なお可愛い  
さんさしだの中 萱野のうさぎ 親がはれば 子もはねる
「萩刈り唄」  
草刈り唄の一種で、馬の越冬用の飼料となる乾し草を蓄える際に、ススキなどの他に栄養価の高い葛の蔓や萩をいっしょに刈り込んだことに由来すると考えられている。  
 
(ハイ)おれと (ハイ)行かねか ナーハー あの山越えて  
(ハイ)わらと (ハイ)鎌持って ナーハー アリャ 萩刈りに  
萩を刈り刈り お山の上で 里の馬っコを 思い出す  
萩は外山 馬コは南部 日本一だよ おらが牛  
「気仙坂」  
大勢の人達の動作を合わせたり、集団で声を揃えるときの唄として、岩手県陸前高田市気仙町の辺りで歌われていたものが、東北一円に広まったものです。元々は木遣(きやり)唄に分類される民謡ですが、現在では祝唄として歌われます。  
■ 
/ (木遣り唄) 
→「斉太郎節」  
 
気仙坂 ヤーハエ 七坂八坂 九坂  
十坂目に ヤーハエ 鉋を掛けて 平らめた  
それは 嘘よ ヤーハエ 御人足をかけて 平らめた  
ヨイト ソーリャ サーノーナー ヨーホエ  
どこの旦那様(えなさま) ヤーハエ 今朝の寒(しば)れに どこさ行く  
姉コ騙しの 帯買いに 帯コ買うならば ヤーハエ   
地(ぢよ)よく幅よく 丈長く 結ぶところは 鶴と亀  
鶴と亀 ヤーハエ 下がるところは 下がり藤  
目出度いところは 祝い松
「やら節」「七之助節」  
注釈遠野物語拾遺 / 「やら節」遠野に伝わる、「七之助節」の事。現在は祝い唄で、元々は土搗き唄。  
■ 
岩手県の民謡。盛岡市、遠野市で歌われる祝唄。土搗唄として歌われていたものが祝唄となった。「七之助節」は現在では「祝い唄」として上棟式や落成式の宴席などで唄われているが、もとは土搗き唄。ある部分を固める際、3本櫓を組み、滑車を利用して搗棒を上下するときに唄われるもので、唄一節で4、5回しか上がらず、土の固い場合は搗棒を高く上げるため、手綱を二度、三度繰るので「二丁揚げ」「三丁揚げ」とそれぞれ唄があった。築城するとき「木遣唄」として唄われたといわれる。  
 
←(土搗き唄)  
 
目出度〜の若松様よ (ハドッコイサット) 枝も栄えるアレサ葉も茂るナ   
エノヤァーンアーレー サノヨーエサ ヨンヤラサノエーエヤレコノセ   
 ヤァーレーエコレワサヨー エノヤーレー  
この家旦那様の床の惘の掛図 鶴と亀とが舞い遊ぶ  
目出度嬉しや音頭をもろうたネ 酒と肴とお酌まで揃えて  
声もつきたし文句もつきた ここはよいとこ納め置くぞえ  
土方すれゃこそ色コが黒い 土方やめればタマゴ肌  
 
目出度うれしや 思うこと叶うた   
旦那大黒チョーコチョイ おかみさんは恵比寿ネー  
ハーヨンヤラセー  
ござる若い衆は チョーコチョイ 福の神  
セーノヤーハレ サノヨーエサヨンヤラ  
セェーノヤレコノセー ヤハーセエー ヨイ〜  
あまり長けれゃ 皆様あきるネー  
ハーヨンヤラセー  
ここらあたりで シャシャンをたのむぞ  
 

関東中部近畿中国四国九州 
北海道青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県

宮城県

 

「秋の山唄」 (「草刈り唄」) 
夏の朝、まだ暗いうちから近くの山で草を刈り、刈った草を馬の背に積んで戻ってくる。その往来に唄った。後藤桃水は、これまで「草刈り唄」と呼ばれていた「山甚句」を、昭和17-18年頃に「秋の山唄」と改名。本来は、秋の雑木伐りの時に唄う「木伐り唄」で、仙台の北、宮城、黒川、桃生(ものう)郡あたりで広く唄われていた。  
 
/ 「草刈り唄」(「山甚句」)「木伐り唄」 
 
ハァー 奥州涌谷の箆岳(ののだけ)様はヨー 樵夫(やまご)繁盛の ハァー守り神ヨー  
気になる気になる お山の狐 これほど待つのに なぜコンと鳴く  
山に木の数 野に萱の数 黄金たんぽぽ はぜの数  
木樵山家の 小屋には住めど まさか木の実は 食べやせぬ  
おれと行かねか あの山越えて 縄と鎌持って 木を伐りに  
声がよく似た 来るはずないが わしの心が 迷うたか  
よくも似た声 あなたの声は 小杉林の 蝉の声 
「石投げ甚句」 (「笠浜甚句」「帆走り甚句」) 
県南部の伊具や亘理(わたり)方面で広く唄われている酒席の騒ぎ唄。福島県の相馬地方と接する亘理郡山元(やまもと)町一帯の、太平洋に面した笠浜の漁師たちが唄う。これは県の海岸部一帯で唄われる「浜甚句」の一種で、「遠島(としま)甚句」とは兄弟の関係。土地では「笠浜甚句」と呼び、網の中に魚を追い込むときに小石を投げながら唄うところから名がある。「帆走り甚句」ともいう。 
 
/ 「浜甚句」「遠島甚句」  
 
船は出て行く 朝日は昇る(ハットセ)  
 かもめ飛び立つ アノ にぎやかさ (ハットセ ハットセ)  
さぁさやっこらさと 出て行く船は どこの港に 着いたやら  
朝の出掛けの 艪櫂の音で 磯の千鳥も 目を覚ます  
さぁさ歌えや 石投甚句 いつも大漁が 続く様(よ)に  
お前来るかと 浜まで出たが 浜は松風 音ばかり  
さぁさかっぽり出せ 五尺の袖を ここで振らねで どこで振る  
唄の掛合い するではないか 唄でご返事 貰いたい  
浜はよい処(とこ) 一度はござれ 魚食(か)食せ 面倒みる  
歌は袂に 山ほどあるが 心初心で 歌われる 
「小野田甚句」  
藩政時代の宿場町・加美郡小野田町の酒席の騒ぎ唄。小野田町は、古くから馬の産地として知られ、馬市が開かれて諸国から博労たちが集まった。塩釜や石巻の遊郭で唄われた甚句が、この地に持ち込まれて変化した。  
 
沖の鴎に潮時聞けばわたしゃ立つ鳥ササ波に聞け  
 (チョイチョイチョイナ)  
沖の小舟は帆かけて走る舟は帆まかせササ帆は風まかせ  
船は出て行く朝日は登る鴎飛び立つササ賑やかさ  
可愛い殿御の声する時は水も湯となれササ風吹くな  
踊れ踊れと踊らせおいて品のよい娘をササ嫁にもろ  
さあさ出た出たもろこし船よ浪に揺られてササ岸による  
田舎なれども一度は御座れ小野田馬の市ササ盛り場に 
「斉太郎節」  
岩手県の「気仙坂」が変化したもの。松島沿岸の漁師たちが鰹漁に出る折り、海の神に大漁を願って唄う。大漁の際には湾内に漕ぎ戻る時に唄った。歳徳神を祭る祝い唄として用いられる「サイトクシン節」が「サイタラ節」になり、「サイタラ」がストライキを指導した銭吹き職人・斉太郎の伝説と結び付いて「斉太郎節」になる。昭和の初め、「東北民謡の父」と称された後藤桃水が、桃生(ものう)郡雄勝(おがつ)町の漁師が唄う「斉太郎節」を聴いて唄を工夫。前唄に祭文部分の「どや節」、後唄に「遠島(としま)甚句」を付けて「大漁唄い込み」とした。  
 
←「気仙坂」 
 
松島の サーヨー 瑞巌寺ほどの 寺もない トーエー  
アレワエーエエ エイト ソーリャー 大漁だエ  
   前は海 サーヨー 後ろは山で 小松原 トーエー  
   アレワエーエエ エイト ソーリャー 大漁だエ  
石の巻 其の名も高い 日和山トエー 西東 松島 遠島 目の下に  
富山は 高さも高い 名所山 見渡せば 八百八島 目の下に  
塩釜様の 御門の前 八重桜 咲き乱れ 浮名たつみ 西の町  
汐汲みが 織り来る波に 桶取られ 桶返せ 戻せや沖の 白波よ  
「大漁唄い込み」  
(斉太郎節) 松島の 瑞巌寺ほどの 寺もない  
(遠島甚句) 三十五反の 帆を巻き上げて 行くよ仙台 石巻
「大漁唄い込み」 
 
←「斎太郎節」「遠島甚句」 
■ 
(斎太郎節)  
(エンヤー ドット エンヤー ドット)  
松島の サーヨー 瑞巌寺ほどの (ハァ ソレソレ)  
寺もない トーエー (アレワエー エイトソーリャ)  
(ハァ ドッコド) 大漁だエー  
前は海 サーヨー 後ろは山で (ハァ ソレソレ)  
小松原 トーエー (アレワエー エイトソーリャ)  
(ハァ ドッコド) 大漁だエー  
石巻 その名も高い 日和山 西東 松島遠島 一眺め  
富山は 高さも高い 名所山 見渡せば 八百八島 眼の下に  
塩釜様の 御門の前の 八重桜 咲き乱れ 浮名も辰巳 西の町  
(遠島甚句)  
リャ リャ リャ リャ (ハァ ヨイヨイ ヨイトナ)  
ハァ 三十五反の (ハァ ヨイトサッサ) ハァ 帆を巻き上げて  
 行くよ仙台 (ハァ コラサノ サッサ) オヤサ 石巻 (ハ ヨーイヨーイ ヨーイトナ)  
押せや押せ押せ 二挺艪で押せや 押せば港が 近くなる  
遠島どこよと かもめに聞けば 黄金花咲く 金華山  
沖でかもめの 鳴く声聞けば 船乗り稼業は 止められぬ  
ぜひに一度は 来て見やしゃんせ わしが国さの 松島へ  
泣いてくれるな 出船の時に 沖で艪櫂が 手につかぬ  
船は出てゆく 朝日が昇る かもめ飛び立つ にぎやかさ  
南風(みなみ)吹かせて 船下らせて 元の千石 積ませたい 
「嵯峨立甚句」  
登米(とめ)郡錦織(にしこおり)村(現・東和町)の一村落・嵯峨立は北上川の港町。出船、入船でおおいに賑わった。北西から吹き降ろす風を”さが”と呼び、帆船はさがが立つ日に出港していった。船乗りたちが、塩釜や石巻の甚句を持ち込んだもの。  
 
←(塩釜、石巻の甚句) 
 
うたいなされや 声はり上げて(チョイサ)  
うたは仕事のホンニ はずみもの (チョイ 〜 チョイサ)  
   昔なじみと つまづく石は  
   にくいながらも 振りかえる  
金のなる木は 無いとはうそよ  
辛棒する木に 金が成る  
   音に聞えた 嵯峨立薪(まき)は  
   広い世間で ままとなる
「塩釜甚句」  
奥州一の塩釜神社がある塩釜は、門前町、漁港として賑わい、遊廓が神社坂の下から西町本町まで並んでいた。仙台伊達家三代・綱宗は、江戸新吉原三浦屋の遊女・高尾を身請けするなどの不行跡があったため、在職わずか二年で二歳の亀千代に跡目を譲り、仙台では遊廓を作ることが禁じられた。城下の人々は塩釜街道を四里歩いて塩釜の遊廓へ通った。その遊廓で漁師や船頭相手の遊女が酒席で唄っていた騒ぎ唄。九州天草の牛深で生まれた「ハイヤ節」が、船人によって各地の港へ持ち回られ、青森の八戸あたりの港へ移入されて「南部アイヤ節」となり、更に南下して、塩釜で「塩釜甚句」となった。  
 
「塩釜甚句」は、明朗闊達な郷土の民謡で、ハットセという掛声が踊りの間拍子に入り、その掛声がにぎやかなので「ハットセ節」とも呼ばれています。伊達四代藩主綱村の元禄九年(1696)に鹽竈神社の社殿等造営に着手し、元禄の末頃に落慶の祝典を挙げた際、余興として文人粋客らに歌謡を作らせ、これに当時海岸地方に流行していた「アイヤ節」の歌曲を変曲して、塩竈の芸妓に謡わしめたとされ、これが塩釜甚句のはじめであると伝えられています。そうして、船乗りの人々や民間人の間で広く歌われるようになりました。「塩釜(ハットセ)街道に白菊植えて、(ハットセ)何をきくきく(アリャ)便り聞く(ハッハッ ハットセ)」等はその代表的な歌詞です。  
 
←「牛深ハイヤ節」 
→「南部甚句」「八戸甚句」「津軽おはら節」「津軽塩釜甚句」「潮来甚句」  
 
(ア ハットセ)  
塩釜(ア ハットセ) 街道(かいど)に 白菊植えて(ア ハットセ)  
 何を聞く聞く アリャ 便り聞く (ハッ ハッ ハットセ)  
千賀の浦風 身にしみじみと 語り合(お)う夜の 友千鳥  
千賀の浦風 片帆に受けりゃ 可愛いかもめが 後や先  
末の松山 末かけまくも 神の始めし 海の幸  
塩釜西町 鳴いて通る烏 銭も持たずに 買お買おと  
さぁさやっこらさと 乗り出す船は 命帆を上げ 波枕  
塩釜出る時ゃ 大手振(おおてんぶり)よ 奏社の宮から 胸勘定  
塩釜港に 錨はいらぬ 三味や太鼓で 船つなぐ  
押せや押せ押せ 塩釜までも 押せば雄島が近くなる
塩釜甚句の変遷  
神津島の塩釜甚句  
トサーハットショイ  
可愛い男は ソレ 塩釜参り トサーハットショイ  
道中たのむよー ソーレー おぎの浜 トサーハットショイ  
塩釜参りに えび屋を通りゃ えび屋女郎衆に とめられた  
ゆこか えび屋へ 戻ろか故郷へ 心二つで 身は一つ  
えび屋出るときゃ よい気で出たが 長の道中 胸勘定  
よせばよかった 舌切りすずめ ちょっと呑んだが 身のつまり  
塩釜街道に 白菊うえて 何をきく菊 便りきく  
天明年間の頃(1772〜1788)  
塩釜ハットセ 街道に 白菊植えて ハットセ  
何を聞く聞く アリャ便り聞く ハ ハ ハットセ  
塩釜出る時ゃ 大手振りよ 奏社の宮から胸勘定  
千賀ノ浦風 身にしみじみと 語り合う夜の 友千鳥  
さあさやっこらさと 乗り出す船は 命帆にかけ 波枕  
末の松山 末かけまくも 神のはじめし 海の幸  
ハットセの掛声は陸中・宮古・山田・釜石の漁港で唄われた「ハットサササ」が転訛したものだという。  
天明年間の頃(1830〜1844)  
船はいなり丸 船頭衆はきつね 中のお客は 皆たぬき  
たこの嫁とる いかの仲人 かにの御酌で はさまれた  
幕末・大正初期(1850〜1915)  
千賀の浦風 片帆に受けて かわいい鴎が あとやさき  
はるか向うに 飛び交う千鳥 波の花散る 金華山  
塩釜近くなれ 岸浅くなれ もはや港も 近くなる  
明治時代の頃(1870〜1910)  
沖の大船 いかりでとめる とめてとまらぬ 塩釜のみちよ  
沖に30日 港に20日 おもふた塩釜に ただ一夜  
さあさ出た出た 宝の船よ 船はいなり丸 船頭衆はきつね  
わしが国さで 見せたいものは むかし谷風 いま伊達もよう  
ゆかしなつかし 宮城野しのぶ 浮かれまいぞや 松島ほとり   
下記の歌詞と類似する唄が神津島にある。伝統民謡として島の人たちに唄い継がれている。「塩釜西町」の歌詞はそのまま残っている。太平洋を南下し、中継港の神津港に塩釜甚句が定着したらしい。  
塩釜西町 沼やら田やら たつにたたれぬ 羽抜け鳥  
塩釜西町 啼いて通る鴉 銭もないのに買う買うと  
塩釜甚句の唄は皆様が ご承知の通り全国でも有名な唄であります。陸続きで情報が入りやすい塩釜と、当時、伊豆諸島の神津島は外部の交流が少ない海上に所在したため当時の唄い方が、現在まで残ったのかと推測されます。神津島の塩釜甚句を聞きますと、素朴で力強く、何故か懐かしさを感じられます。
「十三浜甚句」 (じゅうさんはま) 
金華山の北方、宮城県桃生(ものう)郡雄勝(おがつ)町の名振湾に面した十三浜地方に伝わる。同地の漁師が酒席の騒ぎ唄として唄っていた。唄は三陸沿岸一帯で広く唄われている「浜甚句」の一種で「遠島甚句」などと同系統。「遠島甚句」は「浜甚句」の中で最も洗練されているが、「大漁唄い込み」の付随曲となり、汐の香が失われつつある。この唄には、まだ漁師の酒盛り唄としての野生味が残っている。  
 
/ 「遠島甚句」「浜甚句」 
 
ソリャ 一つ歌うちゃ ハァ 遠慮もするが  
歌い始まりゃ オヤサ 幕ひかぬ  
   ソリャ なんと吹く風 ハァ 昨日今日で二日  
   明日の入り船 オヤサ 気にかかる  
ソリャ そばにも寄られぬ ハァ バラ株さえも  
さわりたいよな オヤサ 花が咲く  
   ソリャ 一つ歌います ハァ 十三浜甚句  
   地なし節なし オヤサ ところ節  
ソリャ 浜でなんだれ ハァ 手拭帯に  
いつも大漁か オヤサ 締めどおし 
「遠島甚句」  
牡鹿半島突端にある金華山付近には、大小十の島々があって、これを俗に十島と呼ぶ。この十島にいつしか遠島の字があてられる。金華山の漁場では、県沿岸部一円の漁村で酒盛り唄として唄われてきた「浜甚句」が艪漕ぎ唄として唄われていたが、その唄を「遠島甚句」と呼んだ。「本吉甚句」「十三浜甚句」「石投げ甚句」など、一連の唄の中で最も洗練された美しい節回しの唄。「大漁唄い込み」の「後唄」として唄われる。  
 
/ 「浜甚句」 
 
(ハヨーイヨーイヨーイトサ)  
ハアー 押せや押せ押せ(ハーヨーイトサッサ)  
ア ニ挺艪で押せや  
押せば港が (ア コラサノサッサ)  
アレサ近くなる (ハーヨーイヨーイヨーイトサ)  
   ハアー 三十五反の ハア 帆を巻き上げて  
   行くよ仙台 アレサ石巻  
ハアー 泣いてくれるな ハア 出船のときは  
沖で艪櫂が アレサ手につかぬ  
   ハアー沖を流るる ハア 炭すごさえも  
   鴎に一夜の アレサ宿を貸す  
ハアーぜひに一度は ハア きてみやしゃんせ  
わしが国さの アレサ松島  
「夏の山唄」 (「草刈り唄」「かくま刈り唄」) 
黒川・桃生(ものう)郡の農山村で、薪にする雑木切り(かくま刈り)の時に唄う。酒盛り唄の甚句が野外で唄われるうち、のんびりとした節回しになった。松島北方の品井沼で、菱取りが行われていた明治の末頃まで「菱取り唄」としても唄われており、野外作業で広く口ずさまれていた。昭和17-18年頃、後藤桃水が「かくま刈り唄」を改名してこの曲名とする。戦前は「草刈り唄」と呼ばれていた。宮城、桃生、黒川郡方面の農村で、夏草刈りの往来に唄われていた「草刈り馬子唄」の一種である。  
 
/ 「草刈り馬子唄」 
 
鳴くなちゃぼ鳥 まだ夜が明けぬ 明けりゃお山の 鐘が鳴る
「浜甚句」 (「唐桑浜甚句」) 
気仙沼地方一帯で唄われる甚句。茨城県那珂湊(なかみなと)の「網のし唄」の元唄。  
 
唐桑町で歌われる大漁唄のひとつで、大漁祈願や大漁を祝うものです。海よりも、陸で漁師が宴会をするときに、みんなで盛り上がるための余興として歌われてきたものだと言われており、7、7、7、5調の節にのせられた唄には、昔の漁師さんたちの生活の様子や、想いが込められている。  
 
昔、江戸の街で粉挽きとして働く女衆の労苦の慰めと、又、仕事の調子を取るために歌い出された作業唄が始めとされ、それを、宝歴10年(1760年)頃歌集として出されたものが、全国に広まったと伝えられる。こうして流布されたものが、次第にその地方の特色ある節回しに生まれかわり、訛言葉が加わり、地方色豊かな唄になったものと察する。当地方で歌われる浜甚句も唐桑町独特のものがあり、かけあい漫才の様な表現に興味深いものがある。この甚句は、大漁祝い等の宴席で座敷唄として歌われ、宴席の座を盛り上げる唄でもある。民謡文化の七・七・七・五節の浜甚句には百近くの歌詞があり、女性が男性に恋した詩も多く見られ奥深い歴史を感ずる。  
 
→「網のし唄」  
 
目出度目出度(めでためでた)の若松様ヨ 枝も栄えて葉も茂る  
唄いなされやお唄いなされ 唄で器量が下がりゃせぬ  
気仙気仙沼のイカ釣り船は イカも釣らずにあねこ釣る  
お崎さんまで見送りました さあさこれから神頼み  
あまり長いのは皆様困る ここらで一休み  
 
(ヨイヨイヨイトサ)  
アードーギめでたや(アヨイトサッサ)  
ドーギやドーギ こんどくだれば(アヨイトサッサ)  
ドントここのドーギ(アヨイヨイヨイトサッサ)  
ドントここのドーギ(アヨイヨイヨイトサ)  
色は黒くとも釣竿もてば 沖びゃ鰹の色男   
唄いなされ 唄で御器量はさがりゃせぬ  
   めでためでたの重なる時は 天の岩戸も押しひらく   
   思う殿御の鰹釣る姿 枕屏風の絵に欲しい   
思う殿御に萬祝着着せて 赤い手拭かぶせたい   
南風吹かせて船くだらせて くだり土産にゃ紺がすり   
   明日は出船かお名残りおしや 雨の十日も降ればよい   
   鰹になりたい大灘沖で 思う殿御に抱かれたい   
唄え唄えと唄責められて 唄は出ないで汗ばかり   
あまり長いは手ばたき困る ここらあたりで一と休み   
 
はぁーあぁあー 
船は出て行く ありゃ朝陽が昇る かもめ飛び立つ あれいっさ賑やかさ 
 (よいよいよいとさっさ)  
沖を流れる ありゃ炭俵(すみすご)さいも かもめに一夜の あれいっさ宿を貸す  
呑めや騒げや ありゃ今宵が限り 明日は出船だ あれいっさ波枕 
年に一度の ありゃ正月二十日 笛や太鼓で あれいっさ獅子踊り 
唄が下手でも あれや出す奴上手 出さぬ船には あれいっさ乗れまいか  
一つ召(あが)ってけろ ありゃ何も無いけど 俺の心は あれいっさ酒魚  
唄い唄いと ありゃ歌責められて 唄もせず あれいっさ汗ばかり 
揃った揃ったよ ありゃ手叩き揃った 秋の出穂より あれいっさ尚揃った  
必ず必ず ありゃ口には出すな 胸で解かせよ あれいっさ屋根の雪 
この家座敷は あれや目出たい座敷 鶴と亀が あれいっさ舞い遊ぶ
「文字甚句」  
栗駒山東南麓の旧文字地方に伝えられている。明るくはずんだ騒ぎ甚句。秋田県仙北地方の「秋田甚句」が移入されて変化したもの。  
 
文字は、秋田と宮城の物流の要所として藩政時代から明治時代半ばまでに仙北街道またの名を羽後岐街道と言われ、背負子や旅人たちが行き交っていました。文字甚句は、そうした中、秋田県仙北地方の秋田甚句が伝わり、変化したものといわれています。文字甚句は、農村の娯楽として祭事などで広く親しまれていましたが、戦時中に三味線や太鼓などの伴奏者がいなくなったことなどから途絶えていた時期がありました。地域の文化を絶やしたくないと、主婦を集め県内のみならず隣県を巡業して歩き、今では、文字小学校の全校児童が運動会で踊り、町の祭りである山車まつりで町内各地の婦人が一同に会し練り歩くようになっています。  
 
旧文字村には古くから南部神楽系の文字神楽があり、上文字の菅原信一氏ら若い人たちがうけ継いでさかんなころ、秋田県から芸人が来て、「おいとこ」「秋田おはこ」「秋田音頭」「甚句」などの民踊を神楽師たちに教えたのが、文字甚句のそもそもの発祥であった。いまから四十五年くらい前だったと記憶する。  
お神楽の終った後の一幕には、必ず所望されてこれらの踊りを踊って見せ大変によろこばれたものである。お神楽のおまけ分に踊るばかりでなく、菅原信一氏が指導者となり、「文字おどり」と称して地元はもちろん近郷近在の娘たちに伝授したのが大いにうけられ好評を博した。  
その中の「甚句」が文字村の山あいの純朴な環境で、「文字甚句」となって美しく育ち、独特なあじのある民謡とその踊りが、郷土色ゆたかに成長したものということができる。  
「文字甚句」はもともと秋田から移ってきたので、曲調は猿倉人形芝居の囃子に似ており、また別な秋田の盆踊唄が元唄かもしれない。しかし、こちらの方は「アラ」で一節の中を分けて唄うのが特徴で、節々になんともいわれないニュアンスをかもし、素朴な土の匂いがぷんぷんと出てくるようである。このごろ各レコード会社で売り出しているレコードや、テレビ放送の「文字甚句」をきくと地元の唄とはいろいろ変ってきている。たとえば適当に前奏をつけたとか、「ハイハイハイハイチョイサ」の間奏を取ってしまったり、節回しにも一寸した変化があるが、唄そのものはききよくなっている。だが昔からの味はなるたけ残しておきたいものである。歌詞も最初は  
   甚句アラおどりのはじまるときは 野でもアラ山でもサアサ甚句ぶし  
   花とアラもみじはどちらも色よ 花はアラほころぶもみじは染る  
   姉もアラしめたし妹もしめた おなじアラ博多のサアサ帯しめた  
などであったが、観光栗駒と文字地区の人情に合せた、または座敷踊りに適した歌詞を新しく作って唄っているのもよいことだと思う。  
   川のみなもと栗駒山に 残る白雪駒すがた  
   わたし文字の山中生れ 山で生れて沢育ち  
   文字奥山沢中さえも 住めば都の風が吹く  
   甚句でたでた座敷がせまい せまい座敷も広くなる  
   甚句踊り子お嫁にほしい わけて文字のおどり手を  
 
←「秋田甚句」 
■ 
甚句 アラ出た出た 座敷がせまい (チョイサー)   
せまい アラ 座敷も サアサ 広くなる (ハイハイハイハイチョイサ)  
花と アラ もみじは どちらも色よ 花は アラ ほころぶ もみじは染まる  
わしも アラ なりたや 栗駒山に 文字 アラ 花山 サアサ 目の下に  
川の アラ 源 栗駒山に 残る アラ 白雪 サアサ 駒姿  
わしと アラ お前は 焼野のわらび わらび焼けても サアサ 根が残る  
 
文字 アラ よいとこ 栗駒山と (ハイハイハイハイチョイサ)  
細倉 アラ 鉱山 サアサ その合いの里 (ハイハイハイハイチョイサ)  
川の アラ 源 栗駒山に 残る アラ 白雪 サアサ 駒姿  
音に アラ 名高き 栗駒山の 下を アラ 流れる 迫川  
西も アラ 東も 山また山に 煙 アラ なびくよ 炭窯の  
文字 アラ 名物 何よと問えば 炭に アラ お米に 甚句節  
私 アラ 文字の 山中生まれ 山で アラ 生まれて 沢育ち  
文字 アラ 奥山 沢中さえも 住めば アラ 都の 風が吹く  
文字 アラ 春駒 娘がひいて 山の アラ 奥から 炭運ぶ  
お嫁 アラ とるなら 文字の娘 里の アラ 土産に 二歳駒  
甚句 アラ 踊り子 お嫁にほしい わけて アラ 文字の 踊り手を  
伊達の アラ 家老の 綱元様は おらが アラ 文字を 生んだ人  
踊れ アラ 今夜の 月出るまでも 明日は アラ 働け 星出るまでも  
「さんさ時雨」  
1589年、伊達政宗は会津地方の戦国大名、蘆名氏を、「摺上原の戦い」で撃破した。この戦いにより、蘆名氏は滅亡した。「さんさ時雨」は、伊達軍による勝ち戦の直後、伊達軍の将兵によって作られ、歌われたとされる民謡のこと。  
また、一方で以下の記録も残されている。昭和5年、仙台協賛会発行「わしが国さ」には、藤原非想庵(藤原相之助)が非想生という著名で「さんさしぐれの研究」を投稿している。この研究では、この民謡は「地方の民謡」ではなく、中央から全国的に唄われていた小曲で、それが奥州で残っていた、というのである。発生時代は室町の頃であり、東北に伝達されたのも室町時代の末を下らない、と断言している。蘆名氏時代の会津若松でも唄われた形跡があり、伊達軍の将兵が作ったことを否定している。当時と現在(昭和5年)では唄い方も曲風も大きく変わり、原形を留めていないのを嘆いている。 また、一番の歌詞の説明もこれに続く号に載せており、「時雨」と「濡れかかる」は一体的なもので、男女の濡れ場を表したものであるという。それ故、ご祝儀での祝い唄ということになったとも言っている。  
祝い歌  
「さんさ時雨(しぐれ)」とは、宮城県に伝わる古い民謡。結婚式(祝言)や新築祝いなど、おめでたい席で歌われる祝い歌として現代まで歌い継がれている。宮城県といえば、仙台藩初代藩主を務めた戦国大名・伊達政宗(1567-1636)が有名だが、一説によれば、この「さんさ時雨」の由来も伊達氏との関わりがあるという。1589年(天正17年)、伊達政宗軍は磐梯山裾野の摺上原(すりあげはら)で会津の蘆名(あしな)氏と合戦し大勝した。この「摺上原の戦い」において、伊達軍の将兵が即興で詠った句を伊達政宗が気に入り、後に歌詞を整えてを付けさせたのが「さんさ時雨」のルーツとする説が広く知られている。  
長男秀宗と宇和島藩経由で流入 
ただ、伊達政宗を「さんさ時雨」のルーツとする説については異論もある。一説によれば、江戸中期に瀬戸内海沿岸で広まっていた恋の流行唄が、伊達政宗の長男秀宗が治める宇和島藩経由で伝わったという。1614年(慶長19年)、大坂の役(冬の陣)における功労で、伊達軍は伊予(現在の愛媛県)宇和郡に領地を賜り、伊達政宗の長男(庶長子)である秀宗(ひでむね)が宇和島藩(うわじまはん)の初代藩主となった。政宗と秀宗は一時期は仲違いもあったが、政宗の晩年は親子として親密な関係を保ち、和歌を交歓したり、茶道具が政宗から秀宗に贈られるなど、両藩で文化的な交流がなされた。果たして本当に「さんさ時雨」のルーツとなる曲が宇和島藩から仙台藩へ伝わったのかについては確かめようがないが、伊達家の交流があったことは事実であり、その流れにおいて、民謡のルーツが伝播した可能性は少なからずあるように思われる。  
さんさの意味  
「さんさ時雨」の曲名や歌詞にある「さんさ」の意味については、「さっさ」と同じく、時雨(しぐれ)の降る音からきた言葉であると一般的に説明されている。ちなみに、富山県民謡「こきりこ節」にも「さんさ」という語句が用いられているが、宮城県民謡「さんさ時雨」との関係性は明らかではない。岩手県の伝統行事「盛岡さんさ踊り」にも同様の囃子言葉・掛け言葉が使われている 。  
ショウガイナの意味  
「さんさ時雨」の歌詞で各節の最後に必ず歌われる「ショウガイナ」の意味については、発音だけみれば「しょうがないな(仕方がないな)」が一番近い言葉として思い浮かぶが、どうやら「ああそうかいな」「それからどうした」といった軽い合いの手としての意味合いが強いようだ。他の民謡では「ションガイナ」として用いられることが多く、山梨県民謡「縁故節」、愛知県民謡「岡崎五万石」、愛媛県民謡「宇和島さんさ」、江戸端唄「梅は咲いたか」などでその使用例が見られる。  
 
さんさ時雨か萱野の雨か 音もせで来て濡れかかる ショウガイナ  
さんさふれ〜五尺の袖を 今宵ふらぬで何時のよに  
武蔵あぶみに紫手綱 かけて乗りたや春駒に  
門に門松 祝に小松 かかる白雲 みな黄金  
この家お庭の三蓋小松 鶴が黄金の巣をかけた  
この家座敷は芽出度い座敷 鶴と亀とが舞い遊ぶ  
芽出度嬉しや思うこと叶うた 末は鶴亀 五葉の松  
扇芽出度や末広がりで 重ね〜の お喜び  
雉子のめんどり 小松の下で 夫を呼ぶ声 千代々々と 
「長持唄」  
日本民謡の一種で、嫁入道具の長持を運んでいくときに唄った祝唄です。長持自体はふたのある長方形の大形の箱で衣類・調度を入れるのに用いました。  
花嫁の行列の後から嫁方の人が若衆を頼んで箪笥や長持を担がせ聟方の村の入口まで運び、聟方の若衆と担ぎ役を交代させる。そのとき、荷を渡すから後をよろしくと嫁方の担ぎ手が唄う。待っていた聟方の担ぎ手は確かに受け取りました御安心下さいと唄う。こうして聟の家に花嫁が到着すると嫁の親や仲人が嫁をよろしくお願いしますと唄う。これを受けて聟の親の方が今日から私共の娘として大事にしますと唄う。これらの唄のやりとりは同じ長持唄の節で行うものでした。宮城県仙北地方の長持唄がとくに知られています。このもと唄は街道で駕篭や荷を担いだ雲助たちが唄っていた雲助唄で、これを参勤交代の大名行列の人足として長持を担がされたときにおぼえた農村の人々が村にもち帰り、婚礼の荷物運びのときに唄ったことから広められ長持唄となりました。  
 
仲人を先頭に、花嫁の箪笥や長持ちを担ぐ人たちが、道中杖で荷物を支えておいて唄った。村境では婿方の出迎え人も唄い、会話代わりに唄でやりとりをする。もとは街道の雲助たちが唄う「雲助唄」で、参勤交代の人足に駆り出された農民が覚え帰ったもの。日本全国の長持唄はほとんどが同系統である。仙台の北、黒川郡や桃生(ものう)郡で唄われる「仙北長持唄」は最も美しいもの。  
 
「長持唄」は、嫁入りの際の様々な場面での挨拶を唄にしています。花嫁が実家を去る時、道中で見物人から祝儀が出たり花嫁を誉められたりした時、村境で花嫁道具の担い手が婿側の人達と替る時、相手方の門口をくぐる時、庭から座敷へ荷物を入れる時、出迎えの相手方の親達の挨拶と、本来は言葉で挨拶すべきところを、「長持唄」の節を借りて歌っていたものです。元々は即興で、後には適当な歌詞で歌われました。  
 
/ 「仙北長持唄」「秋田長持唄」  
←(雲助唄) 
 
ハアー 今日はナー 日も良し ハアー 天気も良いし  
結びナー合わせてヨー ハアー 縁となるナーエー  
   ハアー 蝶よナー 花よとヨー ハアー 育てた娘ー  
   今日はナー 晴れてのヨー ハアー お嫁入りだーエー  
ハアー さあさナー お立ちだヨー ハアー お名残り惜しやー  
今度ナー 来る時ャヨー ハアー 孫連れてナーエー  
 
(里方を出る時)  
ハァー 笠をナー 手に持ちヨー ハァー さらばと言うて  
重ねナー 重ねのヨー ハァー 暇乞いナァーエー  
両手ついては 両親(ふたおや)様よ 永のお世話に なりましたぞえ  
さあさお立ちだ お名残惜しや 今度来る時ゃ 孫連れて  
(途中のめぼしい所で)  
私ゃ嫁(ゆ)きます あの山越えて 花の故郷 後に見て  
(婚家に近づいて)  
今日は日もよし 天気もよいし 結び合わせて 縁となる  
蝶よ花よと 育てた娘 今日は晴れての お嫁入り  
(婚家について)  
箪笥長持 嫁諸共に 二度と返すな 故郷に  
故郷恋しと 思うな娘 故郷当座の 仮の宿  
「秋田長持唄」  
蝶よナーヨー 花よとヨー 育てた娘   
 今日はナーヨー 他人のヨー オヤ 手に渡すナーエー  
さあさお立ちだ お名残おしや 今度来る時ゃ 孫つれて  
傘を手に持ち さらばと言うて 重ね重ねの いとまごい  
故郷恋しと 思うな娘 故郷当座の 仮の宿  
箪笥長持 七棹八棹 あとの荷物は 馬で来る  
「定義節」 (じょうぎぶし)  
宮城県仙台市の民謡、定義如来(西方寺)の縁日で歌われたもの。仙台市の北西、大倉川の支流・湯川渓谷にのぞむ定義(じょうげ)温泉は、三階滝や材木岩などの景勝があり、近くに定義如来がある。もとは山唄。  
 
定義如来の由来 / 開祖ともいうべき、肥後守平貞能公は、平重盛公(内大臣、小松殿)の重臣でした。貞能公は、平家が、壇ノ浦の戦いに敗れた後も、平重盛公より託された阿弥陀如来の御霊像をまもり、源氏の追討をのがれて、この地に隠れました。ここにおいて貞能公は、なおも世をはばかり、名を「定義」と改めました。この地を「定義」、阿弥陀如来様を「定義如来」と呼ばれる由縁です。貞能公は、建久9年(1198)、御年60歳を以てお隠れになり、そこで従臣達は貞能公の遺命を奉じ、公の墓上に小堂を建て如来様の宝軸を安置し守りました宝永3年(1706)、従臣の後裔早坂源兵衛が、自ら出家し「観蓮社良念」と称し、「極楽山西方寺」を開創されました。  
 
ござれ七月 六日の晩に 二人揃うて 縁結び 縁結び  
「定義如来参詣道中唄」 (明治初年頃の唄)  
時は旧七月六日のことよ 定義詣りと二人連れ  
八幡町を後にして 落ち合茶屋にて腰をかけ  
これこれ花ちゃん これから定義に幾里ある  
そこで花ちゃんの申すには 定義様まで五里と半  
それでは花ちゃん”さようなら” 竹は無くても大竹よ  
急げば早くも二本松 赤坂小阪もひと登り  
青の木茶屋でひと休み 日も西山に傾いた  
八枚たんぼを下に見て 昼もさびしい夜盗沢  
新道隧道通り抜け 見上げて見えるは高柵よ  
大倉日向の切払い 天狗橋より天狗茶屋  
小田や石子や石名窪 とぜんで通るは山ぎわよ  
海老沼 曲戸に栗生坂 地蔵菩薩を伏し拝み  
年は古いが若林 千本杉とは此処なるか  
夏も涼しいひゃっこ沢 何時もどんどと滝ノ上  
はや高森に登りけり 小手をかざして眺むれば  
矢籠部落に大原よ うしろは獅子込みおうとどよ  
地蔵平の賽の河原 一の鳥居は高見沢  
定義の里に着きにけり 五三のキザハシ登りつめ  
二人で揃うて手を合わせ これこれ申し如来様  
この縁結んで賜れと 二度も三度も伏し拝む  
アリヤラン コレハノセイ ササヤレ サンノセイ 
「笠野浜甚句」  
山元町笠野浜で、古くから歌われている海の匂いのする生活の唄。「塩釜甚句」や「閖上げ大漁節」等の元唄になったとの説であるが、確証はない。ただ、一部節調の違う「石投げ甚句」よりも古くから有るようである。花柳界で流行した「石投げ甚句」に対して、「笠野浜甚句」は、ひなびた節回しに民謡としての味が多分にある。  
 
→(「塩釜甚句」「閖上げ大漁節」) 
 
笠を忘れた 笠野の茶屋で (ハートセ)  
 雨の降るたび コリャ思い出す (ハートセ ハートセ)  
可愛い笠野に 天皇様なけりゃ 土用の六月 コリャ誰稼ぐ  
ござれ六月 笠野の浜に 来てみりゃ帰りが コリャ嫌になる  
赤い帯締め 浜辺の子供 千鳥啼く音に コリャ昼寝する  
 

関東中部近畿中国四国九州 
北海道青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県

秋田県

 

「秋田甚句」 (「仙北甚句」) 
唄の母体は旧南部領の「なにゃとやら」。もとは上の句と下の句が同じの「甚句」とか「サイサイ」と呼ばれる素朴なものだった。仙北郡角館(かくのだて)にある神明社の祭礼で演じられる「桟敷踊り」に取り上げられると、三味線、笛、太鼓の伴奏で、賑やかな囃しと娘の手踊りで唄われるようになる。この唄を大正期に神代村の「秋田おばこ」の名人・佐藤貞子が各地で唄い歩くうち、神へ供える「神供踊り」の神供に「甚句」の文字を当てて曲名とした。 
 
優れた民謡の多い仙北地方でも、秋田甚句は最も多くの人に愛好された唄で、囃子や踊りの華やかなことでは、その右に出るものがないといわれてきた。この唄は大正年代まで「仙北甚句」と呼ばれ、土地の人は「さいさい」とも呼んでいた。これがプロの歌い手によってレコードに吹き込まれたり、旅興行の舞台で歌われ始めてから、秋田甚句が通称となった。  
この唄の元唄は、南部のどどさい節だといわれている。もともと秋田と岩手の間には、奥羽山脈を越えて民謡の交流をした形跡が残っており、秋田甚句とどどさい節の間にも、唄の後に囃し言葉のつく形式や、節の抑揚などに似通ったところがあり、お互いの関わり合いを伺わせるものが多い。  
民謡の中には、他の唄から歌詞だけ取リ込んだものが少くない。秋田甚句にも「可愛(かあい)勝五郎車に乗せて」という茨城県の田植唄や「相(あい)の坂でお松にお玉」という伊勢音頭の歌詞などが、今もそのまま歌われている。  
甚句という唄は、全国的に歌い残されているが、唄の起源にもいろいろな説があリ、その系統や伝承経路など判っていないことが多い。秋田の場合は県南や県北地域に、盆踊リ唄として歌い継がれている。いずれもメロディーに共通な感じが残っていて、同類のものという推測はできるが、なぜか秋田甚句だけがひと際振手(きわはで)な唄になっている。長い年代の間にそれなりの土地柄、人柄が歌い込められて、一つの地域色となったものであろうか。  
秋田甚句の囃子には、多くの伴奏楽器が使われて、多彩な音響効果が、壮観なムードを盛り上げている。中でも横笛の明るく鋭い音色や「綾(あや)太鼓」の振手(はで)な撥捌(ばちさば)きに連れて、娘達の踊る身振り手振りの鮮かさなど、みる者の心を浮き立たせる。氏神の夏祭りなどで、境内の舞台から甚句の囃子が流れると帰りかけた人が皆戻ってくるほど、見どころ、聞きどころの豊富な唄である。  
 
←「なにゃとやら」 
→「江刺甚句」「どどさい節」「沢内さんさ踊り」「沢内甚句」「文字甚句」  
 
甚句踊らば 三十が盛り  
(ハー オイサカサッサ キタサカサイサイ キタカ コリャコリャ キタサカサッサ)  
三十過ぎれば その子が踊る  
甚句踊らば 姿よくおどれ  
姿よい娘を ササ嫁にとる  
 
甚旬踊らば しなよく踊れ  
(きたかさいさい きたさかさいさい きったかさいさい きたさかさっさ)  
しなのよい娘を さっさぁ嫁にとる  
相性見たれば 柳とやなぎ  
同じ沢目の さっさぁ糸柳  
「ドンパン節」 (「円満蔵甚句」) 
岩手県盛岡市から秋田市へ通ずる秋田街道の仙岩峠西側に、田沢湖町生保内の宿場がある。そこで酒席の騒ぎ唄として唄われていた。雫石から伝えられた「ドドサイ節」が生保内化して、当初は「ドンサイ節」と呼ばれていた。昭和の初め、仙北郡中仙町の大工で、指物師でもあった円満蔵(本名・高橋市蔵)は、この唄を得意にしていた。その円満蔵を称えて「円満蔵甚句」と呼ばれる。太鼓の打ち方を囃し言葉にしたため「ドンドンパンパン」と呼ばれるようになった。  
 
この唄は明治の中期に作られ、秋田県南の仙北地方で唄われ、作者の名前を付けて「円満蔵甚句」と呼ばれていたと言う。元唄は南部の「どどさい節」とも言われ、また「仙北甚句」をアレンジしたものだとも。  
 
←「どどさい節」「仙北甚句」 
 
ドンドンパンパン ドンパンパン  
ドンドンパンパン ドンパンパン  
ドドパパ ドドパパ ドンパンパン  
踊りやるなら おらうたう 太鼓たたいて 景気よく  
ほんとにそうだよ その意気で 手拍子そろえて ひと踊り  
   唄コで夜明けたわが国は 天(あま)の岩戸のはじめより  
   尺八 三味線 笛 太鼓 忘れちゃならない 国の唄  
秋田は米の国 酒の国 女のよいのは 日本一  
小野の小町の出たところ お嫁さん貰うなら 皆おいで  
   笑ってくれるな おら言葉 あのせ このせに そだなんす  
   言うめと思っても すぐに出る おらが秋田の国なまり  
酒飲む人は 可愛いね 飲んでくだまきゃ なお可愛い  
ふらりふらりと 九人連れ 右に左に 四人連れ  
   自慢コ言うなら 負けないぞ 米コ本場で 酒本場  
   秋田のふきなら 日本一 小野の小町の出たところ  
 
姉山さ行くか 行かねがや 今蕨っコ さかりだ  
酒屋の本当の え〜どころ 一ふくベッコ しょっかけて  
   自慢コ言うなら 負けないぞ 米コが本場で 酒本場  
   秋田の蕗なら 日本一 小野の小町の 出たところ  
唄コ聞くなら 黙って聞け 上手もあれば 下手もある  
お前方こさ来て唄ってみれ なかなか思うようにゃ いかねもだ  
   朝まに起きれば 飲みたがる 戸棚の隅ッコさ 手コ入れて  
   あっちこっち見ながら 笑い顔  茶わんで五六杯も 知らぬ顔  
おら家のオヤジは ハゲ頭 隣のオヤジも ハゲ頭  
ハゲとハゲが喧嘩して どちらも毛が(怪我)無く 良かったな  
 
お酒のむ人 かわいいね 飲んでくだ巻きゃ 尚かわい  
ぶらりぶらりと 九人連れ 右に左に 四人連れ  
   唄コ聞くなら だまって聞け 上手もあれば 下手もある  
   みんなもここへ来て 唄って見れ なかなか思うように いかねもんだ  
自慢コ言うなら 負けないぞ 米コが本場で 酒本場  
秋田のふきなら 日本一 小野小町の 出たところ  
   いつ来て見ても 井戸端に きれいに咲くのは あやめ花  
   秋田おばこに よく似てる かわいい花だよ 皆おいで
「西馬音内(にしもない)盆踊り唄」「ガンケ」  
秋田県雄勝(おがち)郡羽後町の西馬音内で、賑やかに踊られる盆踊り唄。一日市(ひといち)、毛馬内(けまない)の盆踊りと共に、秋田三大盆踊りのひとつ。宵のうちに踊る秋田音頭と、夜更けに踊る甚句の二種があり、甚句の方を「ガンケ」と呼んでいる。ガンケの意味については、雁の形をした踊りから、あるいは仏教語の願生・化生(願化)の意味ともいうが、詳細は不明。踊りの起源についても、正応年間(1288-92)に豊作祈願のため、蔵王権現(御岳神社)で踊り始めたとか、戦国時代末期、西馬音内で自刃した矢島城主・大井満安の慰霊のために踊りが催されたなどという説がある。夜が更けると、賑やかなお囃しで彦三(ひこさ)頭巾や編み笠をかぶった男女が、広口の袖に赤の裏を付けた派手な浴衣や、端縫(はぬ)いといわれる古布を縫い合わせて作った着物を着て、風に揺れる稲穂を思わせる流麗で優雅な美しい踊りを見せる。  
 
秋田県雄勝郡羽後町西馬音内(にしもない)に伝わるもので、郡上おどり(岐阜県郡上市)、 佐渡おけさ(新潟県佐渡)と並び日本三大盆踊りの1つに数えられ、毎年8月16-18日に催される。西馬音内はアイヌ語で「雲の湧く谷」を意味する。起源は定かではないが、1288年頃から豊年祈願として踊りが始まり、室町時代には盆踊りとして定着したものといわれている。 「黒百合姫祭文」という山伏祭文があり、戦国の世に西馬音内城が自焼落城した時の悲劇を伝えているのだが、この盆踊りはその時に出た死者達の供養として毎年行われてきたという。篝火が焚かれる中、「輪踊り」形式の踊り手の女達の端縫(はぬい)と呼ばれる風雅な着物、編笠、彦三頭巾(ひこさずきん)の姿に風流な趣がある。彦三頭巾をすっぽり被り顔を覆った姿は亡者を模したものといわれ、供養踊としての伝承の面影を今に伝えている。 
囃子は笛・大太鼓・小太鼓・鼓・鉦・三味線などで、特設屋台(櫓)の上で賑やかに演奏され、宵のうちは秋田音頭と同じ「地口」、夜が更けるにつれて「甚句」で囃される。甚句の踊りは「がんげ踊」「亡者踊」とも呼ばれ、快活で賑やかな囃子でありながら洗練された流麗優雅な踊り・振りが際立って美しい。数ある盆踊の中でも傑出したものと評価が高く、盆踊の一典型としての価値も高いといわれている。 
 
西馬音内盆踊りの起源・沿革については記録されたものが全くないため、全て言い伝えによるものです。 正応年間(1288〜93)に源親という修行僧が、蔵王権現(現在の西馬音内御嶽神社)を勧請し、ここの境内で豊年祈願として踊らせたものという説があります。 これが、慶長6年(1601)西馬音内城主小野寺茂道一族が滅び、土着した遺臣たちが君主を偲び、旧盆の16〜20日までの5日間、宝泉寺(西馬音内寺町)境内で行われた亡者踊りと合流しました。そして天明年間(1781〜1789)に現在の本町通りに移り、現在まで継承されてきたものと伝えられます。  
野性的な囃子に対し、優雅で流れるような上方風の美しい踊りの対照が西馬音内盆踊りの特徴です。踊りには音頭とがんけがあり、がんけは、月光の夜を飛ぶ雁の姿を踊りから連想した「雁形」、仏教伝来の「観化」、現世の悲恋を痛み、来世の幸運を願う「願生化生祭り」がつまって「願化踊り」と呼ばれたとの諸説があります。がんけの歌詞、節回しには哀調が漂い、本来、娯楽の踊りでなかった事を物語るのではないでしょうか。  
音頭  
手の振り、足さばきとも静かで優雅な動きをします。手指を大きく反らすことがアクセントとなっています。寄せ太鼓に続いて「ヤートーセー ヨイワナ セッチャ」 という掛け声で囃子が始まり、朴とつな地口(歌詞)に囃され、 踊ります。「とり音頭」も踊りは音頭と同じですが、囃子の主役は笛になります。  
(地口)  
時勢はどうでも 世間はなんでも 踊りこ踊たんせ  
日本開闢 天の岩戸も 踊りで夜が明けた  
   おら家のお多福あ めったにない事 びんとで髪ゆった  
   お寺さ行ぐどて そば屋さひかかって みんなに笑われた  
隣の娘さ 踊りこ教えだば ふんどし礼にもらた  
さっそく持てきて 嬶どさ見せだば 横面なぐられた  
   大太鼓小太鼓 笛に三味線 鼓に鉦鼓ツコ  
   五拍子揃えて 音頭を掛けたば 江戸中鳴り響(ひび)だ  
西馬音内女ごは どこさえたたて 目に立つはずだんす   
手つき見てたんせ 足つき見てたんせ 腰つき見てたんせ  
   名物踊りは 数ある中にも 西馬音内あ一番だ   
   嫁こも踊るし 姑も踊る 息子はなお踊る  
地口という奴ア 口から出放題 音頭の拍子です   
言われて悪いやつア 後ろへ廻って 五升樽ぶら下げれ  
   地口櫓で 地口を言うのは 俺らよな馬鹿ばかり   
   気の利いたあんちゃは ぐりっと廻って 二三度やったころんだ  
よい事悪いこと 地口櫓で あんまりしゃべてけな  
隣のあねこは 何とか言われて 其の晩ぼだされた  
   仲のよいのは おら家の爺さまと 隣の独り婆  
   盆参りするどて 蕎麦屋さ引掛って 御布施で酒飲んだ  
嫁コと 三度呼ばたば 漸く返事した   
きのう結った勝山 左サぶ曲げて おがわコ持って来た  
   踊るて跳ねるて 若いうちだよ 俺らよに年行げば  
   なんぼ上手に 踊って見せても 誰も見る人ねエ  
貧乏たらたら 一升買いするたて 寝酒コやめられねエ  
褌質やて 半杯買た酒 板の間みななめた  
   ええとこ見つけた 間男見つけた 七両二分よこせ  
   七両二分なら いつでもやるから そなたの嬶よこせ  
なんだで事ねエく 嬶どこ叩エだば 寝てから動ぎゃがねエ  
今度のことア 御免してこれから うんとて動け嬶ア  
   お寺の和尚(のの)さん まるめろ畑サ まるめろもぎに行った  
   長い棹コで ボッキリつづだば 同役が落ちて来た  
文福茶釜を ドッサリ投げたば バッサリ毛が生えた  
和尚も長老も 閑居も小僧も これ見てたんまげた  
   五徳という奴ア 小首をかしげて 囲炉裏の隅にいる  
   鍋コ乗せろか 釜コ乗せろか 此処らが思案どこ  
鍋コも種類は 飯鍋汁鍋 あるいわ貝焼鍋  
世間の口鍋 俺ら嬶焼なべ てでアどさ むしりつく  
   豊年だ万作だ これアまた良い秋だ  
   面白まぎれに 一ツ踊ったば あば腹ア万作だ  
わたしという奴ア わたしといえども お前の手に渡り  
焼けばはなれる 焼かねばこげつく 中々こわい奴  
   貧乏というのものア あさましものだよ 夜討ちの忠臣蔵  
   朝食うて伴内(ばんない)米櫃アお軽で からだは由良之助  
何にも知らない 振りして居るのは 大星由良之助  
毎日毎日 島原かよいも 心にすきがない  
   大高源吾は 小雪の降る時 煤払い竹たぎゃて  
   あした待たるる 宝船とは コリャまた橋の上  
岩永左エ門 阿古屋を責めるに 胡弓と琴三味線  
俺らえのバッチャア おれどご責めるに 火箸と灰ならし  
   お前達お前達 踊コ見るたて あんまり口あくな   
   今だばええども 春先などだば 雀コア巣コかける  
囲炉裏の炭の火ア どっさりおぎだば おらてでア喜んだ  
大胡坐ぶかえて 腹あぶりしながら どぶろくまぐらてだ  
   あこ行くあねさん 斯うなるからには よっぱど金アかがた  
   上から下まで 膏薬だらけで 麝香の匂いアする  
囲炉裏の鉄漿(かね)がめ カネ出す時には 臭いと嫌がられ  
それでもあねさんの 口まで吸われて 鏡で身を照らす  
   囲炉裏の木のひりア 一本になったら 火箸を取よせて  
   いぶるのけぶるの つつたりほったり ぶったりたたいたり  
お前の子だから 口ききアがな 乳の子サリャ投げた  
朝間に泣かれ 夜中に泣かれ かがアどさ手をさげた  
   ぎっちもち それ ぎっちもち 板敷ぎっちもち  
   なんだと思って 押さえて見たりば 隣の夜べア男  
津軽のはてから 長門の浦まで 踊コおどて来た  
花コ貰った 巾着見たりば 一両二歩這入(ひゃ)てだ  
   玄米一升で 桃コ買ったら 三つ四つまけられた  
   揚句のはてには 袋を忘れて 親父にぼだされた  
俺ら家の嫁コ 俺ら家さ来てから 万作つづきです  
万作つづきも 困ったものだよ 年子さ二た子もた  
   俺ら家のあんこアだ 嫁コを取てから 夜遊びさねエぐなた  
   夜遊びどころか 嫁コが大事で 座敷さかざて置く  
今年ア豊年 踊らにやなるまい 婆から童(わらし)まで  
親父が踊って 狭いどてよせたば 息子が文句言う  
   八ツにやかまし 親父を持ったので 仲間さ義理アかける  
   朝まに起きれ 昼寝はやめれ 夜遊びするひまねヤ  
とおに年寄りの 踊コよいとて みんなにほめられた  
のし紙貰って 家(え)さ行(え)て見たりば 小半紙二枚入ャてだ  
   居催足つけたて 掛取り来たたて 盆ア踊アやめられねヤ  
   したべでアお前また 踊コやめれば 上作取りはずす  
一杯気嫌で 踊コ踊ったば みんなにほめられた  
いい気になりアがて 頬被り取たれば 息子にどやされた  
   コラ豊年だ 万作だ 命の洗濯だ  
   洗濯ついでに 踊コあるうち 毎晩踊に来い  
所名物 行ったら見て来い 西馬音内盆踊  
嫁コも姑コも 拍子につられて 其のまま踊りだす  
   今年の踊子 揃いも揃うた ほんとによく揃うた  
   手つき足つき 品よく踊れば 嫁コに世話するぞ  
兄さん兄さん 嫁コをとるなら 俺アどこ貰らたんせ  
踊も踊るし 唄コも唄うし お産も軽えから  
   今年の皐月は 程よぐ雨降って 水引ア楽であった  
   向のあねコも 俺ら家(え)のあねコも お蔭で万作だ  
名物踊は 数ある中にも 西馬音内ア一番だ  
嫁コも踊る 姑も踊る 利息はなお踊る  
   西馬音内おなごは 何処さ行(え)たたて 目に立つ筈だんす  
   手つき見てたんせ 足つき見てたんせ 腰つき見てたんせ  
兄んちゃん兄んちゃん あんまり見たくねヤ よだれコ拭いてけれ  
見いねア振りして 踊てるあねさん 横目でにらんでる  
   豊年だ 万作だ コリャ又よい秋だ  
   面白まぎれに 田さ行(え)て見たれば 案山子のずぶくぐり  
お髭をつくって 侍さんなら俺ら家(え)に 一人居(え)だ  
おどどし生まれた 虎まの斑コで ギャンギャ猫振りアえエ  
   五十六十は 若いものだよ 昔の娘達  
   踊り狂うて 腰コが痛けりゃ ボサマコ頬ん置く  
三月かかって 踊コ習たば 漸くものになた  
踊ったお蔭で 腰あびゃええとて 嫁コに貰われた  
   俺ら家のあんこと 隣のあねこと 竹の子取りに行た  
   竹の子取らねヤで 昼寝コしったば なんだかおがてきた  
秋田の町から 西馬音内まちサ 不思議な商人ア来た  
けつのダンゴ 脱けらば脱けれ 刻み昆布です  
   なんでもないのに 小理屈言う奴 俺だば大嫌い  
   サッサと纏めて 踊コ踊れば それこそ大好きだ  
子供の踊は 無邪気なものだよ 拍子はなんでもええ  
ドロンの太鼓で お手てをひろげて 一足出はてゆく  
   俺ら家の娘コ 嫁コやるから 踊コ教せてけれ  
   踊も教せるし うめアもの食わせるし うんとて稼でけれ  
振袖姿の 踊子見たれば 不思議に若くなる  
拍子に浮かれて 二足三足 知らずに踊ってた  
   高い櫓の 絵灯篭がともって 音頭が湧き出せば  
   川原田の方から 月が出て来て 雲から覗いてる  
見れば見るほど 優しい踊で 拍子もおだやかだ  
天下太平 豊作万作 百姓大当たり  
   蚕(とどこ)で種とる 馬コで仔コとる 女郎衆はお客とる  
   町でア盆踊 人々集めて 色々人気とる  
踊りの上手も 見目のよいのも 土地柄血筋柄  
なんでもかんでも 嫁コを欲しがら 此処から貰らたんせ  
   出雲の神様 盆踊見でアどて はるばるやって来た  
   上手に踊れば 手帳に控えて 嫁コに早くやる  
盆踊見るなら 西馬音内目ざして 必ず来てたんせ  
篝火囲んだ 踊子数えりゃ かれこれ五百人  
   川原田の池には 緋鯉に真鯉 じょろじょろ遊んでる たまには木陰に   
   ガサゴソめかして 浴衣の鯉もいる  
西馬音内よい町 中町本町 裏町桜井町 橋場に寺町  
連込(おつれ)み小路に 横町間(あわエ)コ道  
   酒コはよいもの 不景気景気か 泣面笑い顔  
   うんとて飲んで 皆出て踊れ へべれけすとどごどん  
旱天(ひでり)に旱天 毎年旱天で 鹿内さ堤築(つつみつ)だ  
堤の御利益 叶ったせいやら 今年は上作だ  
   何処さ行(え)っても 不景気話は せっぺアに聞飽きた  
   三味線太鼓の 踊の拍子で 不景気ぼってやれ  
ドンと響いた 櫓の太鼓に 集まる踊子は  
馬音の流れに 産湯を使った 奇麗な嬢コ達  
   コンクリートの 文化住宅 には誰がいる  
   丈は三尺 廻りも三尺 小松の才の神  
隣りの嬢コ 舞鶴公園さ つつじコ見に行った  
どこかのアンコに 袂を引張られ お顔も赤つつじ  
   田圃の百姓に 舞鶴公園 どこだと聞いたれば  
   なんたら解らねヤ 三里も手前から つつじで真赤です  
時勢はどうでも 世間はなんでも 踊コ踊ったんせ  
日本開闢 天の岩戸も 踊で夜が明けた  
   信渕先生 生まれた西馬音内 名物沢山だ  
   米コに繭コ 酒コに蕎麦コ 箸コに炭コです  
稲作不足は 何処の話か 西馬音内万作だ  
それも其筈 百姓の神様 信渕誕生地  
   豊年満作 今年も上作 御嶽のお護りだ  
   あげるお神酒は 松の緑に 鶴の若返り  
西馬音内名物 酒コを飲んだれば 呆れた事ア出来た  
皺コはのるやら 腰コはのるやら 夜あがり遅くなた  
   桜は川原田 つつじは原狐(はらこ)で お酒は若返り  
   一杯機嫌で 弥助そばだよ 土産は蕎麦饅頭  
猫コがオダケて 桜の花咲きゃ 川原田大賑ゃか  
ゆしぎのおさんは 花より団子で 戸棚のつまみ食い  
   田沢の田ゴ作 芋作茂作は 橋場の橋見てだ  
   どんがり踏んで見て 鉄筋コンクリーて やっぱり硬エもんだ  
雄勝鉄道の 電車に乗ったら これだは気持ちよい  
雄物の川越え 稲穂の波わけ 鳥海雲に見る  
   西馬音内名物 踊コ見るなら 電車で来てたんせ  
   送り迎えは 特別仕立てで 踊コただだんす  
月はかくれて 篝火消えて 電灯も消えればエ  
皆が逃げたら ボロット二人で ウントテ踊るベしゃ  
がんけ  
「亡者踊り」の側面を持っていることから、 甚句の歌詞や節回しには哀調が漂います。踊りは音頭に比べてテンポが速く、回転する動きが入ります。一番と二番があり、二番では、人さし指を立てた左手で たもとを握り、一段としなやかな振りとなります。名前の由来には 
1 飛ぶ雁の姿を踊りから連想した「雁形」  
2 仏教からきた「勧化」 
3 現世の悲運を悼み、 来世の幸運を願う「願生化生の踊り」が詰まった 
などがあります。  
(甚句)  
お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子 なお恋し  
月は更けゆく 踊りは冴える 雲井はるかに 雁の声  
押せや押せ押せ 下関までも 押せば港が 近くなる  
踊る姿にゃ 一目でほれた 彦三頭巾で 顔しらぬ  
今宵ひと夜は まけずに踊れ オジャレ篝火 消えゆるまで  
今宵ひと夜は 力のかぎり 踊れ東の しらむまで  
踊れ踊れよ 夜が明けるまで ひびく太鼓に 月がさす  
がんけ踊って 知らねでいたば 夜明け烏が 阿呆というた  
踊ってみたさに 盆踊り習った ヤッと覚えたば 盆がすぎた  
揃うた揃うたよ 踊り子揃うた 稲の出穂より なお揃うた  
踊り踊らば 三十が盛り 三十過ぎれば その子が踊る  
お前百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の 生えるまで 
「お山コ三里」 (おやまこさんりん)  
 
お山コ三里 どこからはやる 秋田の仙北 角館  
くるかくるかと 待たせておいて よそにそれたか はぐれ雲  
おまえ吹く風 わたしゃ飛ぶ木の葉 どこへ落ちるも 風次第  
ぬしは牡丹で わたしは蝶々 花にうかれて 日を暮らす  
おまえ思えば 照る日も曇る ひく三味線も 手につかぬ  
お山越えれば また山つづき いつか我が家に 帰るやら  
「秋田音頭」 (「御国音頭」) 
秋田を代表する踊り歌。もとは「御国音頭」と呼ばれ、久保田城下で流行していた手踊りが始まりといわれている。 ほとんど地口で構成され、風刺や滑稽、時には卑猥な歌詞を即興で歌い込むのが特徴で、「日本のラップ」ともいわれる。最もよく知られているのは「秋田名物八森ハタハタ〜」と名物を歌い込んだ歌詞。土崎神明社祭の曳山行事や西馬音内盆祭りなど、様々な祭り行事で歌われている。  
 
秋田県内の一円で歌い踊られる遊び唄。「地口音頭」「仙北音頭」「トル音頭」とも言われる。二代目藩主佐竹義隆(1609〜1671)に上覧の際、家臣が柔術の手を加味したのに始まり、御国音頭と呼ばれた。三味線、笛、太鼓、摺鉦(すりがね)を伴奏に社会風刺や滑稽な表現の地口を軽妙に展開させる。西馬音内の盆踊りや角館祭礼の桟敷踊にも歌われ、秋田音頭の名で全国的に知れわたっている。  
 
/ 「地口音頭」「仙北音頭」「トル音頭」 
 
ヤートセー コラ 秋田音頭です   
ハイ キタカサッサ コイサッサ コイナー  
コラ いずれこれより御免なこうむり   
音頭の無駄を言う アーソレソレ   
当たり障りもあろうけれども  
サッサと出しかける ハイ キタカサッサ   
コイサッサ コイナー   
   秋田名物 八森鰰々(ハタハタ) 男鹿で男鹿ブリコ   
   能代春慶 桧山納豆 大館曲わっぱ  
太平山から 四方の景色を 覗いて見たならば   
船は沢山 大漁万作 秋田は大繁盛  
   秋田の国では 雨が降っても 唐傘などいらぬ  
   手頃な蕗の葉 さらりとさしかけ サッサと出て行かえ  
秋田よいとこ 名物たくさん 東北一番だ   
金山木山に 花咲く公園 美人が舞い踊る  
   秋田の女ご 何してきれいだと 聞くだけ野暮だんす  
   小野小町の 生まれ在所 おめはん知らねのげ  
何につけでも 一杯呑まねば 物事はかどらね  
呑めば呑むほど 気持ちコ開けて 踊りコなど出はる  
   秋田名物 コの字づくしを つまんで言うならば  
   坊ッコにガッコ 笠コに小皿コ 酢ッコに醤油ッコ  
時勢はどうでも 世間は何でも 踊りコ踊らんせ  
日本開闢(かいびゃく) 天の岩戸も 踊りで夜が明けた  
   おら家(え)の兄貴 生意気こきゃがって 月賦で車買った  
   ちょすもちょせねで 免許も取れねで あばァなんとせばえ  
隣の爺さま 物好ぎたげで 月賦でバイク買った  
運転するしび 全然知らねで ババァなんとせばえ  
   おめ達おめ達 踊りコ見るなら あんまり口開ぐな  
   今だばええども 春先などだば 雀コ巣コかける  
嬶はお多福 女中は床拭く 目腐れまなぐ拭ぐ  
鉱山山師は 大きたホラ吹く 聞ぐ人泡を吹く  
   新婚当時は 優しいもんだよ 花チャン御飯まだ  
   二、三年もしまえば ガラッと変わって お多福酒買ってけ  
巡査が来たたて 消防衆来たたて ちっともおっかなぐね  
えーごどしねたて 悪いごどさねば でっきりおっかなぐね  
   汽車も速いし 電車も速い 電信なお速い   
   何でもかんでも 速いどこいったば 足袋はで足洗った  
妻君ある人 秋田に来るなら 心コ固く持て  
小野小町の 生まれ在所 美人がうようよだ  
   奥州仙台 白石城下で 女の敵討ち  
   姉は宮城野 妹は信夫 団七首落とす  
いろはにほへと ちるぬるをわかは 昔のたとえごと   
今の人達ゃ 見識高くて サンキュウ ベルマッチョ  
   おら家のお多福 めったにないこと 鬢取って髪結った  
   お寺さ行ぐどて 蕎麦やさひかがて みんなに笑われた  
お寺の和尚さん 法事さ行くのに にわとり貝焼食た  
ナムカラタンノ トラヤノヤッたば 頭さ羽根おえだ  
   秋田のおばこ 蕗刈る姿 みんなさ見へでもだ  
   赤い襷に あねさん被り 本当に惚れ惚れす  
秋田の名所 海では男鹿島 山では鳥海山  
田沢の緑に 十和田の紅葉 絵描きも筆投げた  
 
他人(ひと)の嬶ァすりゃ 忙しいもんだと きたもんだ  
湯文字紐とく 褌はずす 入れる もちゃげる  
気をやる いく 抜く 拭く 下駄めっけるやら 逃げるやら  
   俺ほの笛吹き 六十になたども まだまだ聞が若い  
   夜這いに行ぐどて 二階(にげ)から落ちだば ケッペの骨折だた  
折だれた品物 ブラブラ下げて 骨接ぎ医者さ行た  
医者どの骨接ぎ ヘノコに骨ねェ とってもヤじゃねでャ  
   白玉喰(け)にあべ 白玉喰にあべ 白玉喰に行たば  
   上から白玉 下から金玉 腹なか 玉だらけ  
お前(め)と別れて 何度もヤッタども お前より うめガモね  
何度も何度も 言うよで悪りども 本当に アンベえがた  
   お前がた お前がた 踊りコ見るたて あんまり立て見るな  
   立っていいのは 電信柱と あんちゃのガモばかり  
急ぐな急ぐな あんまり急ぐな 決して急ぐでネ  
あんまり急げば 本物はずして 畳のへりつつく  
   十四の時から 商売すれども こたガモ見たことネ  
   太くて長くて 先がでかくて 痛くてはまらない    
ようやく騙して 一番やったれば 拭く紙持たねがし  
着物のほころび ムリッと切らして 綿コで用立てた  
   女というもの 卑しいものだよ ガモコを鵜呑みする  
   男というもの 馬鹿ケなものだよ 呑まれて鼻ならす  
去年も不作 今年も不作 その後何とする  
米買った残りで ズロースこ買わねば 穴から穴出はる  
   停車場の隅コで 立ちベッコしてたば 枕木飛んできた  
   どでんびっくり ググッと抜いたば ボヤッと湯気上がた  
俺えの姉ちゃ 滅多にないこと 縁側さ昼寝した  
春風吹くたび 腰巻きヒラヒラ 黒猫顔出した  
   俺えの嬶ァ 難産したどて やらねど抜かしゃがた  
   三日もあけずに ムリッと入れたば こいだば死んでもエ  
女というもの 尋常な面して 鬼よりまだ怖い  
生なヘノゴを 生でまくらて 似たよなガキこしゃだ  
   一助 二助 隣の三助 お前(め)まだ 何だけナ  
   人が骨折って 開けた穴コさ 何しにガモ入れた  
爺ちゃと婆ちゃ この世の名残りと 一発ブッ始めた  
行くの来るのと バルチック艦隊 とうとう夜が明けた  
   物に例えて 申そうならば 青菜の茹で上げだ  
   入れる前だば シャキッとしてでも 出せばグンニャグニャ  
俺ほの踊り子 十八なたども 腰巻きたった一枚(いちめ)  
あんまり踊たば 腰巻き破れて 穴から穴出はた  
   俺ほの親方 脚気の妙薬 女のアンペ舐めた  
   女ゴも女ゴ 親父も親父 舐めたし 舐めさせた 
「秋田おばこ」  
仙北地方を発祥地とし、素朴な中に艶美と哀愁をたたえた曲で、秋田民謡の代表作。山形県庄内地方の「庄内おばこ」となった「庄内ぶし」が源流とされ、仙北地方を往来する馬喰(ばくろう)たちの歌が根をおろしたとされる。村々によって節回しが異なる歌となり、村の名称をつけた「田沢おばこ」などと呼ばれるようになる。やがてこれらをまとめて「仙北おばこ」とも呼ばれた。角館の飾山(おやま)ばやしに奉納される「神代おばこ」などを佐藤貞子が歌って、「貞子調のおばこ節」として広めていった。大正11年、貞子は平和記念東京大博覧会・全国芸能競演会においてこの歌で優勝する。レコード録音や全国巡業によって全国的に広まり、山形のおばこ節「庄内おばこ」に対して、秋田のおばこ節として「秋田おばこ」と呼ばれるようになる。  
 
「秋田おばこ節」は元唄が山形県の「庄内おばこ」で、馬産地を巡り歩いた庄内馬喰が運び込んだとされている。昔唄は雄物川の支流玉川沿いの地域を上流から「玉川おばこ」「田沢おばこ」「生保内おばこ」、玉川の支流桧木内川沿いに「桧木内おばこ」「西明寺おばこ」とと呼ばれ乍ら平野部に入って「仙代おばこ」となり、この地出身の歌い手佐藤貞子がそれを一部改作して全国に唄い広めたのが、今の「秋田おばこ」の元唄である。この唄も他の「仙北民謡」と呼ばれる唄と同様に、踊りを見せる為に唄われた唄だったから、昔唄が改作されて所謂「貞子節」になってからも、唄い手の気っぷそのままに早いテンポで弾んだ唄い方をした。  
■ 
/ 「田沢おばこ」「仙北おばこ」「神代おばこ」「玉川おばこ」「生保内おばこ」「桧木内おばこ」「西明寺おばこ」「仙代おばこ」 
←「庄内おばこ」「庄内節」  
 
おばこナーハイ ハイ  
何んぼになるハイ ハイ  
此の年暮らせば 十と七つ  
 ハァーオイサカサッサー オバコダ オバコダ  
十七ナー おばこなら 何しに花コなど 咲かねどな  
咲けばナー 実もやなる 咲かねば日陰の 色もみじ  
おばこナー どこさ行く 裏の小山コさ ほんなこ折りに  
ほなコナー 若いとて こだしコ枕コに 沢なりに  
おばこナー 居るかやと 裏の小窓から のぞいて見たば  
おばこナー居もやせで 用のない婆様など 糸車
「本荘追分」  
秋田県の西南部、日本海に面した本荘市は、かつて古木(ふるき。古雪とも)港の港町、また六郷氏2万石の城下町であったところで、かつては花柳界もあって賑わった場所でした。ここに秋田民謡の代表曲の1つ、そして東北に残される「追分節」の名曲「本荘追分」が歌われてきました。これは信州・追分宿で歌われていた追分節が、越後から北海道へ北上する折りに、秋田にも伝えられ歌われるようになったものです。古くは、  
立石堂 立石堂の坂で ホロと泣いたり 泣かせたり  
というような古い歌詞で歌われていたようです。これは「信濃追分」などで歌われる、  
追分桝形の茶屋で ホロと泣いたが 忘らりょか  
の歌詞の変形であることははっきりしています。  
かつて信州の「追分節」は三下りで弾かれていましたが、東北では本調子となって、華やかさを増しています。そんな曲弾き風な華やかな前奏に始まり、高調子の「ハァー」で始まる今日の「本荘追分」は、決して楽な唄ではありません。そして一見華やかなお座敷唄のようですが、やはりどこか「追分節」特有の、哀愁感のようなものが漂っています。  
 
秋田県由利本荘市の古雪湊は、明治の中頃まで北前船の千石船が碇泊する港として賑わい、日本海沿岸屈指の良港と言われていた。各地の民謡が、船乗りたちによって日本海を北上しつつ、その寄航する港町に伝えられていき、「本荘追分」も例外ではない。信州追分宿の、もとは馬子唄であった「信濃追分」も、越後に伝わり、そこから海路をはるばる北海道松前方面まで運ばれた。その途中、本荘にも上陸し、古雪の遊郭などで唄われるうちに独自の変化をとげ、土地の唄として根をおろしたものが「本荘追分」で、早間の三味線にのった陽気なお座敷唄と変わった。1番で唄われる蕨は、山焼きで焼けてなくなっても、土の中にはしっかりと根が残っていて春には芽を出すように、二人の仲も根深いと言うことを、表現している。本来の道中歌、山の歌から酒盛歌、座敷歌に変化をとげ、歌詞も多様になり、旋律・拍子も明るく、はずむ調子が大きな特徴となっており、江差追分あるいは越後追分式の、リズムのはっきりしないゆっくりと伸ばす歌い方ではなく、追分宿で広まった騒ぎ唄で本荘追分のルーツと言われている信濃追分の「馬方三下り」型である。  
本荘追分と信濃の追分  
由利と信濃(長野)  
昔より関係が深く、記録に残るものでも、建保元年(1213)、「由利を大弐局に賜う」(吾妻鏡)とあり、この大弐の局は、源頼朝の側室、信濃小笠原長清の妹で大井朝光の叔母に当る。更に応仁元年(1467)「由利十二頭信州より下る」(由利十二頭記)によると、その一人仁賀保氏の先祖は信州佐久郡大室住の大室氏であり矢島に下った大井氏の祖は同郡長土呂で共に「信濃追分」(岩村田追分)の生まれた岩村田の近くである。以後江戸時代に入って、六郷(本荘)生駒(矢島)、岩城(亀田)藩政になってからも、善光寺、伊勢、熊野参り、京大阪への往来に同地に立寄り旧交を暖め民謡なども持ち帰ったことであろう。  
歌詞の比較  
古い歌詞は似たものを挙げてみると  
(本荘) 主は浮気の田毎の月よ どこに誠を照らすやら  
(信濃) 君の心は田無の月よ どこに誠を照らすやら  
由利の奥地山合の棚田と信州のそれとよく似ている、昔は水田で、今では杉など植林されているが、田形だげは残っている。  
(本荘) 立石堂立石堂の坂で ホロと泣いたり泣かせたり  
(信濃) 確氷桝方の茶屋で ホロと泣いたが忘らりょか  
矢島立石より東由利に通ずる立石峠。近くに、「立石観音」がある。又本荘石沢地域で東由利に通ずる峠とする説もある。「信濃追分」も、もとは北佐久郡大井村(現佐久市)岩村田地方の歌で、大正14年この歌を復活し、長野市における県大会発表以来「岩村田追分」を「信濃追分」と呼ぶようにしたという。本荘の場合も由利の各地で歌われていた「追分」を古雪芸妓達が、「本荘名物焼山のわらび焼げば焼くほど太くなる」…と歌い出して「本荘追分」となったと思われる。  
歌曲の比較  
「信濃追分」は「本荘追分」よりややゆっくり、しっとりとした座敷歌であるが次に示すように合いの手、三味線も本調子と全く同じである。「確氷峠の(ア、キタホイ)エー権限様はヨー(キタホイキタホイ) 主のためには(ア、キタホイ)、守り神(ア、キタホイ)」  
最近の研究では「信濃追分」より古く、「追分馬子唄」に近いという研究も発表されている。  
本荘名物焼山のわらび 焼けば焼く程太くなる  
本荘名物焼山のわらび 小首かしげて思案する  
現在歌われている最も代表的歌詞の「焼山」は特定の地名か否か、昔は採草地を山焼きをした。その灰を肥料として太いわらびが育った。特定の地とすれば、本荘古雪港に最も近いわらぴの産地とする石沢日住山麓、地名としてはっきりとは出ていないが石沢川そして子吉川(矢島川ともいった)を下って古雪港へ、又矢島領になるが、矢島から西馬音内に通ずる鳥海町八木山、幕末には「焼山」といった時があり、枯木(カレボク)といったあたりはわらびの名産地といわれた。いずれ山菜漬物の王者「わらび」が「本荘名物」となって、京、大阪、江戸まで運ばれたことは明らかである。又酒盛歌でもあるので次のような艶のある歌詞も生れた。  
しかと抱きしめあの大木に 腰でなかせる夏の蝉  
思いかけたらはずすな男 かけてはずすは樋の水  
わしとお前はくね木の桜 結われながらも咲いている  
いくら通うても青山もみじ 色のつくまで待ちてくれ  
興ずるに従い掛合い、他からの流用(七七七五調)、即興的な歌詞も生まれたであろう。  
歌う口もて歌わぬ者は 誰に口止めされたやら  
誰に口止めされたじゃないが、実なし胡桃で口あかぬ  
歌え歌えとわしだげ責める わたし歌えば誰せめる  
色の道にも追分あらば こんな迷いはせぬものを  
お酒飲む人花ならつぼみ 今目も咲け咲け明目も咲け  
お酒飲む人万年生きる そこで酒飲み亀という  
酒はもとより好きでは飲まぬ 会えぬ辛さにやけて飲む  
お前さんなら命もやろか よその方なら気もやらぬ  
今宵会うとは夢さえ知らぬ これも優曇華の花じゃもの  
酒と煙草を一度に飲めば 思い出したり忘れたり  
咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る  
三味に歌わせ胡弓に問わせ 琴の調べてしんとする  
布団着たよな日住の山に 帯こ解いたよな子吉川  
梅のかおりを桜にもたせ しだれ柳に咲かせたい  
又住時は祝歌としても歌われ、「老松」「伊予節」「荷方節」に続いて、「本荘追分」がよく歌われた。  
この家座敦は目出度い座致 上に大黒下恵比須  
めでたうれしや思うこと叶う お山繁昌のげこ祝い  
めでためでたの重なる時は 天の岩戸もおし開く  
面白や面白や酒のみ座敷 せまい心も広くなる  
めでためでたの若松様よ 枝も栄えて葉も茂る  
お前百までわしゃ九十九まで 共に白髪の生えるまで  
この家お庭に藤一本生えた つると思ったば金のつる  
 
←「信濃追分」 「追分馬子唄」 
 
(キターサー キターサ)  
ハァー本荘(ハイハイ) ハァー名物(ハイハイ)   
ハァー焼山の(ハイハイ) ハァー蕨ヨー(キターサー キターサ)  
焼けば焼くほど(ハイハイ) ハァー太くなる(キターサーキターサ)  
本荘名物 焼山の蕨 首をかたげて 思案する  
あちらこちらに 野火つく頃は 梅も桜もともに咲く  
出羽の富士見て 流るる筏 着けば本荘の 上がり酒  
江戸で関とる 本荘の米は おらが在所の 田で育つ  
お酒飲む人 花ならつぼみ 今日もさけさけ 明日も酒  
お酒飲む人 万年生きる そこで酒飲み 亀という  
布団着たよな 日住の山に 帯コ解いたよな 子吉川  
流す筏に 御神酒を乗せて 下る子吉の 春の川  
花は咲く咲く 御手作堤 心一重の 花が咲く  
本荘よいとこ 海辺の町よ 山の宝を 船で出す  
本荘追分 聞かせておいて 生きた魚を 喰わせたい  
本荘古雪 三筋の町よ 出船入船 引き留める   
立石堂の 立石堂の坂で ホロと泣いたり 泣かせたり  
「秋田人形甚句」  
猿倉人形芝居  
猿倉人形芝居は、明治期に鳥海山麓の池田与八により工夫創始された人形芝居で、明治末期から昭和初期までは、全国を巡業するほど人気を博した。人形の操法は、人差し指と中指の間に首を挾み、左右の手で二体の人形を操る形式の指人形で、人形のセリフも人形遣いがこなす独得の様式である。演目は、講談などを元にした「段物」や、猿倉独自の「鑑鉄和尚(がんてつおしよう)」や「三番叟」などがあり、いずれも人形甚句と呼ばれる民謡風の囃子にのせ、秋田弁の軽妙なセリフと曲芸的な演技を特徴とする。以上のように猿倉人形芝居は、地域的特色を有するとともに、近代の各地の観客の嗜好に合わせてその芸態を発展させたものであり、芸能史的にも貴重である。  
 
(キタカサッサー アエー)  
囃子 はずめば(ハイハイ) 浮かれて 踊る  
(キタカサッサー アエー)  
踊る人形の(ハイハイ) キタカサッサー 品の良さ  
   どこになびくか あの糸柳  
   風の吹くたび キタカサッサー 気にかかる  
好きになったら 惚れてもみるが  
惚れてふられりゃ キタカサッサー 恥ずかしい  
   黄金花咲く 秋田の里の  
   人形甚句の キタカサッサー 程の良さ 
「秋田草刈り唄」  
秋田草刈唄は、主に県南の仙北、平鹿、由利地方でうたわれ、刈り草を運搬するのに馬を使ったことから、馬方節や馬子唄などの一連の馬曳き唄と関連しており、歌詞も共通のムードがありお互いが身近な関係にあったことは推測される。 昭和28年この元唄を発掘した由利郡象潟町(現在:にかほ市象潟)の故 今野 健さんが新しくアレンジし「秋田草刈唄」と名付けた。 歌詞に「草もないない アリャ七めぐり」とありますが、これは、昔は部落協同の草刈場があって、朝早く草刈場に行かないと他の方に草を刈られてしまい、草が集まらない、7箇所の場所を回って草を集めなければならない。俺とお前は草刈仲間ではあるが、朝早く行かないと良い草は刈られてしまう・・・と唄った歌詞だそうです。  
 
/ (草刈唄)  
 
朝の出かけに どの山見ても 霧のかからぬ アリャ山はない  
俺とお前は 草刈り仲間 草もないない アリャ七めぐり  
田舎なれども 俺が里は 西も東も アリャ金の山  
峰の白百合 揺れたと見たら 草刈るおばこの アリャ頬かむり  
馬よ喜べ どの山見ても 今年ゃ馬草の アリャ当たり年  
 
馬に鞍おき砥や鎌つけて 引き出す馬子衆のいさましや  
白根の山坂のぼりて見れば 霧のかからぬ山はない  
砥ぎし鎌にてあつめた草は 葛とすすきと萩ばかり  
馬につけてもゆさゆさと 早くみせたい両親(ふたおや)に  
「秋田長持唄」  
婚礼の時に唄ほれる祝い唄である。「長持唄」は婚礼と言うめでたい行事の祝い唄であるにも係わらず。嫁の門出が「暇乞い」という「惜別の情」を唄う哀調の唄になり過ぎたのは一考を要することで、唄それぞれの持つ内容に従って唄い分ける方がいいと思う。 ここに記載した歌詞は、嫁が家を出るときの歌詞で、長持ち唄の代表的な歌詞として唄われているが、この他にも、行列が通る途中の「道中唄」や嫁家に着いた時の「納めの唄」「箪笥担ぎ唄」などいろいろあって、その場その場の歌詞で唄う。  
 
日本民謡の分類上、祝い唄のなかの一種目。嫁入りの花嫁道具の代表格、箪笥(たんす)長持を運ぶおりの唄の総称。その源流は東海道、箱根峠あたりの雲助が歌っていた「雲助唄」であるが、それを、参勤交替の大名行列の人足に助郷(すけごう)として駆り出された農民が覚え、それぞれの村へ持ち帰ると、花嫁行列を大名行列に見立て、箪笥長持担ぎの唄として用い始めたのである。なお、この唄は担いで歩きながら歌うのではなく、柄を息杖(いきづえ)で支えておいて、花嫁や荷物を褒めたたえた文句を歌ったり、担ぎ手の交代の場合などの問答歌として利用されてきた。節回しは全国各地大同小異であるが、宮城県仙台市以北のものがもっとも美しい。  
 
/ (長持唄)  
←(雲助唄) 
 
蝶よナーヨー 花よとヨー 育てた娘   
 今日はナーヨー 他人のヨー オヤ 手に渡すナーエー  
さあさお立ちだ お名残おしや 今度来る時ゃ 孫つれて  
傘を手に持ち さらばと言うて 重ね重ねの いとまごい  
故郷恋しと 思うな娘 故郷当座の 仮の宿  
箪笥長持 七棹八棹 あとの荷物は 馬で来る  
 
蝶ヨなーヨー 花ヨとヨー あーヤレヤレ  
育てた娘 今日はなーヨー 他人のヨー あーヤレヤレ 手にわたす   
   「今日のとうさんいい顔してる 思い出してるお前のことを  
   お前を初めて見たときに 同じ顔して見つめていたヨ あーヤレヤレ 可愛い娘」  
故郷をなーヨー 恋しとヨー あーヤレヤレ  
思うな娘 故郷をなーヨー 当座のヨー あーヤレヤレ 仮の宿  
   「かあさん上手に言えないが からだを大事にいい嫁になれ  
   涙で言葉になりません どうぞ娘をたのみます  
   あーヤレヤレ どうぞ娘をたのみます」  
   「まゆから飛び立つ蝶は あーヤレヤレ 嫁に出る  
   今日はなーヨー 一番キレイダヨー あーヤレヤレ あーヤレヤレ あーヤレヤレ」  
(鹿角)  
蝶よナーハーエ 花よとナーハーヨ  
育てた娘ナーハーエ 今度ナーハーエ  
あなたにナーハーヨ 揃えてナーハーヨ  
   なんぼナーハーエ 貰てもナーハーヨ  
   粗末にしないナーハーエ 孫子ナーハーエ  
   代までナーハーヨ 宝よとナーハーエ  
(宮城)  
ハアー 今日はナー 日も良し ハアー 天気も良いし  
結びナー合わせてヨー ハアー 縁となるナーエー  
   ハアー 蝶よナー 花よとヨー ハアー 育てた娘ー  
   今日はナー 晴れてのヨー ハアー お嫁入りだーエー  
ハアー さあさナー お立ちだヨー ハアー お名残り惜しやー  
今度ナー 来る時ャヨー ハアー 孫連れてナーエー 
「馬子節」  
馬子節は、出立の歌・道中の歌・嫁迎えの歌の三部作になっている。この形式は、秋田市や川辺郡・平鹿郡の古い長持歌(箪笥担ぎ歌)にもあるが、鹿角では現在もよく歌われ ている。  
 
/ (長持歌)  
 
(出立の歌)  
お立ちなハーエ お立ちとなハーヨ 首尾よくお立ちなハーエ  
めでたなハーエ めでたのなハーエ 若松様よなハーエ 枝も栄えてなハーヨ  
その葉も広くなハーエ お立ちなハーエ お立ちとなハーヨ  
わしばかりお立ちなハーエ 残るなハーヨ お客はなハーエ みな福の神なハーヨ  
(道中の歌)  
とろりなハーエ とろりとなハーヨ この村通ればハーエ 村は良い村なハーヨ  
その基盤のなハーエ 福寿村ハーヨ わたしゃなハーエ この道なハーヨ  
やめらりゃこまるなハーエ 早く行かぬとなハーヨ みな日がなハーエ 暮れるなハーヨ  
(嫁迎えの歌)  
入るぞよなハーエ 入ればなハーヨ この女じょの都なハーエ  
この家なハーエ ご亭主になハーヨ その納めますなハーヨ  
親父なハーエ たんすを渡すなハーヨ 開けてなハーエ 見やんせ中黄金ハーヨ  
 
(出立ちの歌)  
お立ちナーハーエ お立ちどナーハーヨ 首尾よくお立ちンナーハーエ  
めでたナーハーエ めでたのンナーハーヨ  
若松様よンナーハーエ 枝も栄えてナーハーヨ その葉も広くンナーハーエ  
お立ちンナーハーエ お立ちとなナーハーヨ  
わしばりお立ちナーハーエ 後に残るナーハーヨ   
お客はナーハーエ みな福の神ナーハーヨ  
(道中での歌)  
とろりナーとろりとナーエ この村通ればナーハーヨ  
村は良い村ナーハーエ その碁盤のナ福寿村ハーエ  
わたしゃナーこの道ハーエ やめらりゃ困るナーハーヨ  
早く行かねとナーハーエ みな日が暮れるナーハーヨ  
(嫁迎えの歌)  
入るぞナーハーエ 入るぞナーヨ  
この家にナーハーエ 中にナー入ればヨー この嬢の都のナーハーエ  
おやじナーハーエ 今来たナーヨ  
箪笥をナーハーエ 渡すナーエ   
開けて見ゃんせナー 中黄金ナーハーエ  
 
(里家出立の歌)  
お立ちナーハエ お立ちとナーハーヨー 皆様お立ちナーハーヨー  
後にナーハエ 残るはナーハーヨー 皆福の神ナーハーヨー  
後のナーハエ 座敷でナーハーヨー お祝いなされナーハーヨー  
(里家の庭にて)  
この家館の お屋敷見れば 屋根は小判でソノ こけら葺き  
(道中の歌)  
とろりとろりと この村通れば さても良い村ソノ 福寿村  
(到着の歌)  
この家館の ご門を見れば 柱白銀ソノ ヌキ(貫)黄金  
この家館の お庭を見れば 前と後ろにソノ 蔵七つ  
中に入れば このジョゥ(嬢)の都 箪笥長持ソノ 七棹八棹  
ここのご亭主にソノ 納めおく  
 
蝶や花よと 育てた娘 今は他人のソノ 手に渡す  
たとえ貰ったて 粗末にしない 奥の一と間にソノ 控えおく  
立ちハィ(盃)頂き 目出度くお辞儀 後に残る客ソノ 皆福の神  
この家館の お庭を見れば 前と後ろにソノ 蔵七つ  
とろりとろりと この村通れば 無乱碁盤でソノ 福々と  
入るぞ入るぞな 里家のご門 中に入ればソノ この嬢の都  
目出度目出度と 若旦那様よ ご事業益々ソノ 五万石  
諸国宝を 納めまいらす この家ご亭主にソノ 納めおく 
「秋田馬子唄」  
 
(ハイーハイ)はぁ あべや(ハイ)はぁ  この馬(ハイ) 急げや唐毛〈からげ〉(ハイーハイ)  
 はぁ 西の(ハイ)はぁ お山に(ハイ) ありゃ陽が暮れる(ハイーハイ)  
辛いものだよ 馬喰〈ばくろう〉の夜道 七日七夜の ありゃ長手綱  
一人寂しや 馬喰の夜道 後に轡〈くつわ〉の ありゃ音ばかり  
さらば行くよと 手綱を曳けば 馬も嘶く〈いななく〉 ありゃ鈴も鳴る  
峠三里の 山坂道を 青馬〈あお〉よ辛かろ ありゃ重たかろ 
「秋田馬方節」  
馬方節は博労(はくろう)の道中唄だったといわれているが、他の地域の唄と関り合って紛らわしくなると、題名の頭に地域の名前がついたりする場合が多く、「秋田馬方節」なども、その例外ではなさそうである。  
馬曳きに関係のある唄は、この外にも馬子唄を始め駒曳き唄、馬喰節、道中馬方節などがある。こうした唄が特に東北に多いのは、この地方は古くから馬産地として知られ、馬市が立つたびに各地から博労が集まってきて、競り落した馬を次の市場に出したり、客を探して売りつけたりするために、その馬を良き回して歩いた時の唄がいろいろな名前の馬曳き唄になっている。特に馬市では数頭もの馬を競り落とす者もいて、こんな時には馬の手綱を繋ぎ合わせ、連れ曳きをしたという。その風景を「七つ八つ曳く親方よりも、一人手曳きの主がよい」と歌ったものだろう。  
こんな時の馬曳きは、ほとんど夜行われた。一般の人の通行を妨げないためである。遠い所まで行く者は、山坂越えて何日も続く道中の疲労や、馬を相手の孤独な旅の慰めに道中唄が歌われた。「辛いものだよ馬喰の夜道、七日七夜の長手綱」などの唄には、当時の人の生活実感が籠っている。  
そのころ、東北の馬産地といえば、三春駒の福島、小国駒の山形、南部駒の岩手が有名で、この地域には会津馬方節、村山馬喰節、南部馬方節が歌い残されている。当時の馬の値段は素人には見当もつかないので、博労同志が妥協して「二両で買った馬十両で売れた。八両儲(もうけ)た初馬喰」の唄を地で行くような商いも現実にあったらしい。  
秋田も知られた馬産地であったというが、地元では現地で馬曳きの道中唄を聞くような機会も少なく、こうした唄がそんなに広く歌い囃された形跡は見当たらない。当時秋田の馬産事情は、文化年間藩主義和公が領内巡視の際、おのは山本郡鶴形村を適地として御野馬牧場を設けさせたというが、天保五年にそこわせのの跡を仙北郡田沢湖町玉川の小和瀬野に移し、最盛期には百数十頭の牧馬を飼育したという。その成果を「秋田栗毛は田沢の育ち、羽が無けれど日に千里」と歌い残している。  
   
一人淋しや馬喰の夜道 闇(やみ)にくつわの音ばかり  
今宵一夜で峠を越すか さぞや妻子が待ち兼ねろ  
見目のよい子に馬曳(ひ)きさせて 七里七浜 唄で通る  
   
ハアーエ 朝の出がけにエ  
ハアエ東を見ればョ ハーアエ黄金  
ハアエまじりのエ ハーエ霧が振る  
   ハアーエ 博労さん晩の泊りはエ  
   ハアエどこよときけばョ ハアエ泊りはエ  
   ハアエ秋田のエ ハーエ本所町よ 
「牛方節」 (うしかたぶし)  
鹿角の牛方節を伝承している歌い手に成田長吉(小平)や戸館広治(石鳥谷)らがいた。小平では毎年春、放牧前に小平沢で、伝統の闘牛が行われている。  
   
春の追ぼえ出しさあハエ 七疋追えばセー  
どれが先やら 後だやら コラサンサヨー  
さんさしだれ斑さぁハエ 歩けでぁ黒こぶちセー  
早く行かねば 日が暮れる コラサンサヨー  
 
金の牛べごコに 曲木の鞍コサーエ  
金の成る木コ 横につけてサーエ コラサンサヤエト  
あべやかしぶち 急げや赤毛サーエ  
高いお山に 陽が暮れるサーエ コラサンサヤエト  
金の牛コに 錦の手綱サーエ  
おらも引きたや 引かせたやサーエ コラサンサヤエト  
春の初めに 七疋追ぼえばサーエ  
どれが先やら 後だやらサーエ コラサンサヤエト  
 
可愛い牛方のサーハエ 浴衣コ見ねかセー  
肩にかご牛 裾小斑 コラサンサエー  
さんさ下り藤サーハエ 下がってもいるしセー  
わしのベココが それさ往く コラサンサエー  
わしの赤斑サーハエ などばりいるしセー  
ひたすらまゝばり 掘っているね コラサンサエー  
あべやかし斑サーハエ 急げや赤毛セー  
高いお山に 陽が暮れる コラサンサエー  
肥えたベココにサーハエ 曲木の鞍コセー  
金の成る木を 横コにつけて コラサンサエー 
「毛馬内の盆踊」 
秋田県鹿角市十和田毛馬内(けまない)に伝わるもので、毎年8月21-23日に催される。起源は定かではないが、少なくとも江戸時代中期から行われていたとされ、一時中断したが戦後復活した。揃いの半纏(はんてん)姿の若者たちが奏でる「呼び太鼓」の音により、踊り子が篝火を囲んで輪を作る「輪踊り」形式で踊る。 
祖先供養の意味を持つといわれる「大の坂踊り」と、娯楽的な「甚句踊り」の2つがあり、先に「大の坂踊り」、次いで「甚句踊り」を踊るのが恒例で、現在はその後「鹿角じょんがら」というじょんがら節を余興として締めに踊る。「大の坂踊り」は歌を有したが、近代は次第に歌われなくなり、戦後は太鼓・笛のみで踊る現在になった。 
踊り手の衣装には決まりがあり、男性は黒紋付の裾をはしょり、その下に水色の蹴出(けだし)を付け、胴〆めを締めて飾りとしてしごきを結び、白足袋に雪駄・下駄を履く。女性は紋付・江戸褄・訪問着などの裾をはしょり、その下に鴇色の蹴出を着け、帯を太鼓結びにし、帯の下腰にしごきを結び、白足袋に草履を履く。男女とも豆絞りの手拭いで額を隠すように頭を覆い、前に折り返して口元を隠し顎の下で結ぶ頬被りは、独特の、特徴的なものである。  
「毛馬内よしこの」 (本調子よしこの)  
毛馬内よしこの どこでも流行る ましてこの町(ちょう) なお流行る  
浅い川なら ひざまでまくる 深くなるほど 帯も解く  
逢えば気もよい 心もよいし 重き頭も 軽くなる  
「花輪よしこの」 (二上り)  
花輪よしこの どこでも流行る ましてこの町(チョウ)は なお流行る  
踊りおどらば 姿(シナ)よく踊れ 姿にほれても 嫁にとる  
揃ろたそろたよ 踊りッ子そろた 稲の出穂より よくそろた  
「鹿角甚句」  
この鹿角甚句は、鹿角を代表する盆踊歌である。以前は夜明けまで踊ったと云われる だけあって、歌の文句も多い。踊りの様は、一つ甚句・二つ甚句と、地区毎に違っている。 因みに鹿角の一つ甚句は拍手(はくしゅ)、二つ甚句は二拍手である。他に三拍手の花輪甚句がある。  
 
さぁはぁアァア…甚句おどりのァ 始まるときは  
ヘラも杓子もサァ 手につかぬ サカヤッセ  
さぁはぁアァア…歌っておどるもァ 三十がさかり  
三十こければサァ 子がおどる サカヤッセ  
 
盆と正月と一度に来れば 小豆こわめし豆もやし  
そろたそろたよ稲の穂そろった 早生も中生もよくそろた  
歌て踊ってどもこの子がじゃまだ 早くとてけろ出て踊ら  
掘れた横目コ糸より細い りんきまなぐに角がたつ  
さても似た声来る筈ねがきや わしの心コ通ったのか  
夕べな出た星今夜も出はた とかくあの星色の星  
一人ひとりと離れた仲が 今はめでたい二人連れ  
三味の糸さえ切れれば結ぶ わしとあなたは結ばれぬ  
青い竹なら割っても見せたい 中にくまりのない私  
さてもよい腰そなたの腰は カラス田の畔渡るよだ  
(一ツ甚句)  
サーア 甚句踊りの始まるときは トコヤッセ 篦も杓子もサァ手につかぬ  
田舎なれども鹿角の里は 西も東もサァ金の山  
踊りおどらば品よく踊れ 品に惚れてもサァ嫁に取る  
この家お庭に入るが初め 履いた下駄緒のサァ切れるまで  
姉コ見るより田の水見れば 親父喜ぶサァ稲もてる  
千歳昔の錦木塚よ 姫の機織るサァオサ(筬)の音  
盆の十六日闇の夜でくれろ 嫁も姑もサァ出て踊る  
狭いようでも鹿角の里は 西も東もサァカネ(黄金)の山  
踊り来るくるお庭コ狭い もっと広がれサァ太鼓打ち  
朝は朝星夜は夜星 昼は野端のサァ水を汲み  
小坂七村井の水飲めば 七十年寄りもサァ若くなる  
米のなる木で作りし草鞋 歩めば小判のサァ型がつく  
揃ろた揃ろたよ踊り子揃ろた 秋の出穂よりサァよく揃ろた  
踊りおどらば品よく踊れ 品の好いのをサァ嫁に取る  
お前百までわしゃ九十九まで 共に白髪のサァ生えるまで  
声はこの通り聞くどこねども 歌コ好きだばサァやめられぬ  
月はまんまん夜はほのぼのと 渡るカリガネぅサァうらめしや  
夕べ出た星今夜も出はた とかくあの星サァ色の星  
親子妻とも田植えてしまえ 神は千歳のサァ種を待つ  
秋の黄金の稲穂を眺め 心ゆくまでサァ踊る夜や  
ここのお庭にいつ来て見ても 鶴と亀とのサァお酒盛り  
千に咲くたってなる実は一つ あとに咲くのはサァ無駄の花  
酒を上があがらば中見て上がれ 酒の中にもサァ文がある  
お前紺染めわしゃ浅黄染め 末は夫婦にサァなる見そめ  
声の立つ程我が身が立てば 声をしずめてサァ身を立てる  
音に聞こえし来満越りゃ 八戸通いもサァ近くなる  
踊りおどらば三十が盛り 三十こければサァ子が踊る  
声コァこの通り聞くどこねども 歌コ好きだばサァやめられぬ  
姉と妹に紫着せて どれが姉やらサァ妹やら  
裏の石橋板ならよかろ ドーンと踏んだらサァ悟るよぅに  
山で白いは山百合の花 里で白いはサァ蕎麦の花  
甚句さ中に誰茄子投げた 茄子の棘やらサァ手に刺さる  
咲いた桜に何故駒繋ぐ 駒が勇めばサァ花が散る  
俺ぁも若いとき山さも寝たけ カノカ(芝草)寝敷にサァ柴枕  
山で伐る木は数々あれど 思い切る気はサァ更にない  
お前その気で変らば変われ 私しゃ変わらぬサァ松の色  
夏は木の下寒中は炬燵 離れがたいやサァジャジャの側  
声の好いのに歌わせ聞けば 小松林のサァ蝉の声  
一人娘に桜とつけた 桜咲くたびサァ咲かせたい  
深く掘れ掘れ金山田畑 深く掘るほどサァ実る世や  
小坂七村井戸の水飲めば 八十年寄りもサァ若くなる  
来たり来ねだり夏の堰水 どうせ来ねならサァ来ねばよい  
障子開ければこの家の座敷 風がそよそよサァ吹きまくる  
七つ八つからイロハを習い ハの字忘れてサァイロばかり  
盆が来たのに踊らぬ者は 木仏金仏サァ石仏  
月は満々夜はほのぼのと 心細さよサァ秋の空  
俺も若いときススキに尾花 今はやつれてサァ炭俵  
盆が来た来た山越え野越え 稔る稲穂のサァ峰越えて  
(二ツ甚句)  
サーァハァー 甚句踊りのァ始まる時は   
 サカヤッセー 箆(ヘラ)も杓子もサァ手につかぬ  
盆の十六日ァ木の葉も踊る 嫁も姑もサァ出て踊れ  
俺も若い時ァすすきに尾花 今はやつれてサァ炭俵  
空の雲ないァ秋晴々と わしが心こサァいつ晴れる  
白い黒いとァ争いするな 白い黒いもサァ墨が書く  
ここのお庭にァいつ来てみても 鶴と亀とがサァ舞い遊ぶ  
盆が来たきたァ山越え野越え 実る稲穂のサァ峰越えて  
来るか来るかとァ上下みてた 用ない鴉がサァ啼いている  
人のお方とァ枯木の枝は 登りつめればサァ命がけ  
一つうたいますァ憚りながら 声ここの通りサァ聞くどこねども  
踊りおどらばァ三十が盛り 三十こければサァ子が踊る  
歌って下んせァこの座の若衆 歌ってご器量こサァ下りゃせぬ  
流れ小川のァ川底みれば 小石小砂こサァみな黄金  
お前その気でァ変らば変れ わたしゃ変らぬサァ松の色  
歌の先生もァおるかもしれぬ 仮名の違いはサァごめんなれ  
たまに吹く風ァ雨降るとても よそのなびくなサァ糸柳  
白い白いよァ雪より白い わしが心こサァ面白い  
馴染みよいものァ親より子より 親父とってけだサァお方より  
盆の十六日ァ正月から待ちた 待ちを十六日サァ今来たか  
好きとすきならァ泥田の水も 飲めば甘露のサァ味がする  
来いと書くとてァ来るなと書いた 筆のあやまりサァ今悔し  
切れてしまえばァ又たてる 控えまするよサァ三味の糸  
惚れてならないァ他国の人に 末は鴉のサァ泣き別れ  
小坂七村ァ井戸の水飲めば 八十年寄りもサァ若くなる  
わしとお前はァ枯葉の松よ どこへ落ちるもサァ二人づれ  
ちょいと抱きしめァ手枕させて 指であいとるサァ三味の糸  
行く度来る度ァくどきたてならぬ わたし一人のサァ身ではなし  
唄コうたってァ通るを聞けば 針も鋏もサァ手につかぬ  
ここのお庭にァ入るが初め 松にからまるサァ藤の花  
立てば芍薬ァ座れば牡丹 踊る姿はサァ百合の花  
あちらたてればァこちらが立たぬ 両方立てればサァわしゃ立たぬ  
わすれていたのにァまだ顔みせた 二度の思いをサァさせる気か  
鹿角よいとこァ十和田に小坂 大湯尾去沢サァ湯瀬小真木  
踊りおどらばァ前より後ろ 後ろ姿はサァ誰もみる  
お前好きだてァ親投げらりょか 金で買われぬサァ親じゃもの  
川の鳴瀬にァ布旗立てて 波に織らせてサァ岩に着せ  
お前吹く風ァわしゃ飛ぶ木の葉 どこへ落ちるもサァ風次第  
信州信濃のァ新蕎麦よりも わたしゃあなたのサァ側がよい  
ほれたほれたよァ川端柳 水にうたれてサァ根がほれた  
来るかくるかとァ待たせておいて よそにそれたかサァまぐれ雪  
夏は木の下ァ寒中は炬燵 離れがたいサァぢゃぢゃのそば  
花と言われてァ咲かねも恥だ 咲けば実もなるサァ重くなる  
惚れた横目こァ糸より細い りんきまなぐにサァ角がたつ  
聞いて見事なァ南部の歌コ もとは鹿角のサァ山の歌
「花輪町踊り」 (鹿角市花輪)  
花輪の町踊りは、8月下旬から中秋の名月頃まで、秋の気配が深まる花輪の町通りで篝火を囲みながら踊りが繰り広げられる。町踊りの由緒・起源は定かではないが、三味線、太鼓の囃子と歌につれての洗練された踊りの所作、足の運びは男舞と考えられ、振りは手数が多くテンポも軽快であり、優雅な手振りは緩急の変化に富み、粋でいなせな江戸情緒を今に伝えている。伝承曲は、「甚句」「花輪よされ」「おやまこ」「花輪よしこの」「塩釜」「毛馬内よしこの」「ぎんじがい」「あいやぶし」「おいと」「どっこいしょ」「豊年満作」「ちょうし」の12曲がある。  
「甚句」  
鹿角地方に古くから伝わる盆踊唄の鹿角甚句は、季節を歌いこむことによって神をたたえる古い民謡形式のもので、荘重なしらべであるが、町踊りの甚句は軽快で、各曲のなかでは比較的やさしい。  
 
甚句おどりの始まるときは へらも杓子も さぁ 手につかぬ  
踊り出た出たお庭が狭い さっと拡げろ さぁ 太鼓打ち  
踊り踊らば三十がさかり 三十過ぎれば さぁ 子がおどる  
「花輪よされ」  
踊りは甚句と同じく、高低の差のはげしい振り付け。  
■ 
よされサァ よされ駒下駄緒が切れた よされサァァ…  
誰が立てたやら又切れた よされサァァ…  
円い玉子でも 切りよで四角 物も言いよで 角が立つ よされサァァ…  
「おやまこ」  
オヤマコは江戸期における吉原や芝居茶屋で用いられた隠語で、三人連れの客のこと。この唄は町唄ながら農村部にも広く分布し、歌詞も多く存在している。  
■ 
おやまこしゃんりん どこから流行た 江戸の吉原 仲の茶屋  
どうせ買うなら 二足のわらじ 共にはいたり はかせたり  
どてらじゃ寒かろ 着てゆかしゃんせ うらの木小屋に着がえある  
「花輪よしこの」  
幕末ごろ、葛飾の飴売りの唄に発したヨシコノは江戸の盛の場のヒットソングとなり爆発的に全国に流行。今も各地にヨシコノの名のつく唄が残されている。  
■ 
花輪よしこの どこでも流行る ましてこの町はなお流行る  
踊り踊らば しなよく踊れ しなに惚れても 嫁による  
揃たそろたよ踊り子そろた 稲の出穂より よくそろた  
「塩釜」  
町おどりには港の名を冠した曲が銚子、新潟、塩釜と三曲あります。おどりの曲の中では、塩釜が一番長時間演奏されます。  
■ 
花輪町から 塩釜見れば お客もてなす四ツ手駕籠  
末の松山 浪越すとても かわるまいぞえ 胸と胸  
月はまんまる 夜はほのぼのと 心ぼそきよ 秋の空  
「毛馬内よしこの」 
三弦の糸が本調子だから本調子よしこのと言われたこともあるといいます。ヨシコノが二曲あるので、江戸時代、花輪通り、毛馬内通りの二つの行政区に分割されていたことに由来し、一つに花輪、いま一つに毛馬内の名を冠したものと思われます。  
■ 
毛馬内よしこの どこまで流行る ましてこの町はなお流行る  
浅い川なら 膝までまくる 深くなるほど帯もとく  
逢えば気もよい 心もよいし おもきあたまも軽くなる  
「ぎんじがい」  
笛のメロディーがしっとりとして哀調に富み情緒がある曲です。笛のメロディーの品の良さや、運指法からすれば、花輪ばやしの古い曲からの転化ではないかと言われています。  
■ 
おおさえ おおさえ喜びあれや よそへはやらじといだきしめ  
今日は いかなる吉日なるぞ 苦界はらして身の祝い  
「あいやぶし」  
唄が軽快なら踊りのテンポも早く、いなせでなかなか忙しい踊り。  
■ 
あいや 花輪の川まんなかに アヤメ咲くとは しおらしや  
鮎は瀬につく 鳥ァ木の枝に 人は情けの下に住む  
あいやそれ 枕がかわる かわる枕に とがはない  
「おいと」  
毛馬内よしこのと同じく、豊年万作の振り付けと似通った踊り。  
■ 
おいと おいとの勝負は見えぬ 勝負わからぬ 西東  
おいと おいとの将棋の駒よ さしつさされつ夜明けまで  
赤坂五丁目の やぐらの太鼓 打てやかけだせ 二部の消防  
「どっこいしょ」  
毛馬内よしこのと同じく、豊年万作の振り付けと似通った踊り。  
■ 
どっこいしょ どっこいしょの勝負は見えぬ 勝負わからぬ 西東  
どっこいしょ どっこいしょの将棋の駒よ さしつさされつ夜明けまで  
赤坂五丁目の やぐらの太鼓 打てやかけだせ 二部の消防  
「豊年万作」  
舞扇を用いる華やかで賑々しい踊り。歌詞の五番に男山、剣菱という清酒の銘柄が歌いこまれている。  
■ 
いち富士 二鷹 三なすび タネトッテ 千歳万作 浜大漁 今年ァ豊年万作だ  
ふたつにふた節 穂を出して イソガシヤ 五尺あまりの稲のたけ 今年ァ豊年万作だ  
みっつ 見事な 稲の花 オサマリテ ごふくじゅうのじゅんきこう 今年ァ豊年万作だ  
よっつ せなかは 納まりて アリガタヤ どこの家でもニコカコと 今年ァ豊年万作だ  
いつつ 泉の男山 納まりて ケンビシヤ 飲んで足もとゆらゆらと 今年ァ豊年万作だ  
「ちょうし」  
昔踊られていて、今踊られていないものには新潟、カイナ節、銚子の三曲がある。銚子は唄と三味線の記録があり、復元することができた。  
■ 
銚子 そろえて お酌のないは 店に番頭のない如し  
銚子 そろえて 盃コァいらぬ 主とわしとの口でのむ  
おせば気もゆく 押さなきゃいかぬ おせば気もゆく 屋形舟
「鹿角検校節」  
検校(けんぎょう)とは、中世から平曲・三弦・筝曲・鍼灸・按摩などに携わる盲人のことで、座頭 など幾つかの格式がある中での最高位である。天明年間(1781〜88)、盛岡の琵琶師佐 野屋市之丞(佐の市)によって伝えられて松坂節が、この歌の元歌と伝えられる。別の説では、けんりょう節とも呼ばれる越後の祝歌、越後松坂くずしが、青森・北海道へと伝播し、秋田へは荷方(新潟)節の名で伝わったと云う。因みに鹿角では「検 校節」と呼ぶ。およそ三十ほどある歌詞は全てが長詩型であるが、演唱者により歌詞が異なる。家 建てと婚礼を中心として祝歌であ。  
 
←「松坂節」「荷方(新潟)節」 
   
さてもめでたい この家のますは  
銭ます金ます宝ます そこで身上が上がります  
ハアしんしょうが ますます上がります ハア栄えます  
 
さても目出度い この家のご亭主 一の座敷に 御祝儀する   
二の座敷に 孫もうけ 三の座敷に 倉をたて   
五穀倉をば 二十と四つ 金銀倉をば 二十と四つ   
四十八字の いろは倉 大坂下りの 鍵を取る   
倉の番頭は 誰だれか 一に大黒 二に恵比寿   
三の鍵取り 福の神 宇着のように 末広く  
団扇の如く まん丸く 柳のように 末長く  
この家ご亭主は 果報な人 末にゃ長者と なるわいな  
さても目出度い この家のご亭主  
朝に早起き 門開く 朝に入るは 朝恵比寿  
昼に入るは 福の神 夜は大黒 笑ッて来る  
右の手に持つ 倉の鍵 左の手に持つ 宝槌  
金のなる木を 庭に植え 家内辛抱で 金がなる  
金がこぼれて 長者となる 大枡小枡で 金はかる  
又も積みおく 千両箱 千と重ねて 万となる  
万と重ねて 億となる 億も目出度い 今日となる  
諸国ちょうする 長者となる  
 
盃を三合ひかえて 海老と鰯で祝い申す  
春の初めに筆取り持ちて この家ご亭主は長者となる  
さても目出度いこの家のご亭主 今年初めて家を建て  
如何なる大工の建てた家 飛騨の匠の建てた家  
柱白金ヌキ(貫)黄金 屋根は小判のこけら葺き  
東切り窓銭すのこ 銭のすのこに朝日さす  
朝日かがやく長者となる  
さても目出度いこの家のご亭主 一の座敷にご祝儀する  
二の座敷に孫をもうけ 三の屋敷に蔵を建て  
五穀蔵をば二十と四つ 金銀蔵をば二十と四つ  
四十八字のイロハ蔵 大坂下りの鍵を取る  
蔵の番とは誰々か 一に大黒二に恵比寿  
三の鍵取り福の神 扇のように末広く  
打ち出の如くまん丸く 柳のように末長く  
この家ご亭主は果報な人 末代までも栄えるように  
末に長者となるわいな  
さても目出度いこの家のご亭主 朝に早起き門開く  
朝に入るは朝恵比寿 昼に入るは福の神  
夜は大黒笑って入る 右の手に持つ蔵の鍵  
左の手に持つ宝槌 金の成る木を庭に植え  
家内辛抱で金が成る 金がこぼれて長者となる  
大升小枡で金はかる 又も積みおく千両箱  
千と重ねて万となる 万と重ねて億となる  
億も目出度いチョウ(今日)となる 諸国ちょうする長者となる 
「松坂くずし」  
 
さてもめでたい 鶯小鳥 今年初めて 伊勢参り  
伊勢より広い 国はないけれど 一夜の宿を とりかねて  
浜辺の小松の この枝に 柴刈り集めて 巣を組んで  
十二の卵を 生みそろえ 十二もろとも 立つ時は  
銀の銚子に 泉酒 
「おこさ節」  
発祥は秋田県だといわれているが、定かではない。昭和22〜23年頃にうたいだされ、またたく間に広まり、全国を風靡した。新作ではあるが、作詞・作曲者は不明。方言関連の資料に「おこさ」の記述は無い。「戦時中の時局言葉に[人民作興]があった。津軽民謡の名手・成田雲竹が[作興]をひっくり返して「おこさ」とし、新しく作りあげた民謡。」との記述もあるが、引用文献等の記述が無く定かでない。  
「おこさ節」は鹿角から全国に広まったとされ、その伝播については幾つかの説がある。  
 
鳴くな鶏 まだ夜が明けぬよ アラオコサノサー  
明けりゃお寺の こらやのや こら鐘が鳴るよ おこさでおこさで本当だネ  
それは全くだよ 鶏はだしだ アラオコサノサー  
鶏ァ裸足でも こらやのや こら嬶持ッてらよ おこさでおこさで本当だよ  
お前来るかと 一升買って待ってたよ アラオコサノサー  
あまり来ないので こらやのや こら飲んで待ってたよ おこさでおこさで本当だよ  
お前来るなら 一升買って持って来い アラオコサノサー  
こちら山奥 こらやのや こら水ばかり おこさでおこさで本当だネ  
 
お前来るかと 一升買って待ってたヨ アラ オコサノサ  
あんまり来ないので コラヤノ ヤッコラ 飲んで待ってたヨ オコサデ オコサデ ホントダネ  
わしとお前は 火ばしにおとるよ アラ オコサノサ  
火ばし夜昼 コラヤノ ヤッコラ 二人ずれ オコサデ オコサデ ホントダネ  
風に灯りを 消させておいてネ アラ オコサノサ  
忍び込むのが コラヤノ ヤッコラ 窓の月ネ オコサデ オコサデ ホントダネ  
恋の古傷 お医者はないかネ アラ オコサノサ  
なぜか今夜は コラヤノ ヤッコラ また痛むネ オコサデ オコサデ ホントダネ  
啼くな鶏 まだ夜が明けぬネ アラ オコサノサ  
明けりゃお寺の コラヤノ ヤッコラ 鐘が鳴るネ オコサデ オコサデ ホントダネ 
「からめ節」金山踊り  
銅が有用な鉱石として位置付けられなかった当時は、もっぱら砂金の採取が行われていた。そのときの重要な道具がザル(篩い)であった。砂金とりの人々にとっては、ザルの扱い方が、そこで働く人々の貧富を左右したにちがいない。したがって、この「からめ節金山踊り」の淵源は、この砂金採取に求められると考えられる。 
「その昔、鹿角は黄金の里としての歴史を有していた」  
(一)わが国で最初に金を産出したのは、鹿角であり、その中で、白根〜尾去沢〜真金山あたりが有力である。  
(二)最初の金は、砂金であった。そして、「からめ節金山踊り」のときのザルは、砂金採りにその淵源を認めることができる。  
(三)過去数千年にわたって、鹿角及びその周辺において、砂金の採取と掘り尽くしが繰り返された。  
鉱山において掘り出された鉱石を選ぶこと、すなわち選鉱するときの女性たちの唄が「からめ節」で、鉱石を掘る鉱夫たちの唄が「石刀節」である。石刀節は、瀬戸内地方の石切場で歌われていた「石切り唄」が元唄となり、全国的に広まったとされている。この石切り節が元唄となって、からめ節が出来上がったものといわれている。  
また、砂金などのザルですくって選別するときの唄である「ざるあげ節」も、からめ節の元唄といわれている。  
このように、「からめ節」は「石刀節」から派生したものであるため、「からめ節」と「石刀節」との歌詞には、ほぼ共通するものがある。つまり「石刀節」の歌詞がそのまま「からめ節」に採用されいてたり、また、その逆もあるなど、両者はそれぞれに関係が深かったことがうかがわれる。また、踊りについても、ザルを扱う所作は、砂金とりのそれを基本とするが、鉱石を打ち砕く所作も重要な部分を占めている。  
 
←「石刀節」「石切り唄」「ざるあげ節」 
 
諸話 / 「からめ節」
「石刀節」 (「石頭節」 せっとうぶし)  
 
一に稲荷の鳥居は赤い まして直利の金赤い  
向う通るは鉱夫さんではないか 金はこぼれる袂から  
直った直ったと皆坑内すきの数 銀は金場に富士の山  
鉱夫さんとは名がよけれども 行けば山奥坑内あなの中  
発破かければ切羽がのびる のびる切羽が金となる  
(はやし言葉)  
一寸掘ってもあの子のためだよ 鍋釜売っても よいかかもたせろ  
 
ハァー鉱夫さんとは 名はよけれども 行けば山奥穴の中  
ハァー向こう通るは 鉱夫じゃないか カネ(金)がこぼれる袂から  
ハァー発破かければ 切羽が進む 進む切羽が金となる  
ハァー朝の出がけに 鉱山見れば 黄金混じりの霧が降る  
ハァー愛宕山から 吹き来る風は お山繁昌と吹いて来る  
「鉱山節」 (石刀節の一種)  
坑夫さんとは名は良いけれど 夜も昼をもコラー 穴の中  
土方やめらせ坑夫さんにさせて わしの穴をも掘らせたい  
土方殺すにゃ鉈鎌いらぬ 雨の十日も降れば死ぬ  
朝の門出に鉱山見れば 黄金混じりの霧が降る  
「鉱山唄」 (石刀節の一種)  
ハアー 黄金花さく尾去沢の山、掘れば掘るほど黄金ある  
ハアー 押せや押せ々々下の関までも、押せば港が近くなる  
ハアー 愛宕山から吹いて来る風は、お山繁昌と吹いとくれ 
「鹿角アイヤ節」  
 
アエーヤアサエー   
鮎は瀬につく 鳥ァ木に止まる 人は情けのサエー 下に住む  
情けないのは 煙草の煙 次第次第に薄くなる  
あえや能代の 川真中で アヤメ咲くとは しおらしや  
あの娘見染めた 去年の四月 これも桜の 花見どき  
酒は好いもの 気が勇むもの 飲んだ心が 富士の山 
「塩釜」  
 
花輪町から 塩釜見れば お客もてなす 四ツ手駕籠  
末の松山 波越すとても 変わるまいぞえ 胸と胸  
月はまんまる 夜はほのぼのと 心ぼそさよ 秋の空  
さァさ出たでた もろこし舟が 波に押されて 岸に寄る  
 
雨の降るときヤエ 松原通れば 松の露やらササ 涙やら  
岳の白雪ヤエ 朝日でとける 姉コ島田はササ 寝てとける  
月は満々ヤエ 夜はほのぼのと 心細さよササ 秋の風 
「生保内節」  
「生保内節」は、戦前まで土地から外へは余りでなかった。その頃は生保内<おほないぁ>だしと呼んで、今よりずっと素朴さをおびた唄だった。生保内は昔から岩手や鹿角に通う道筋の宿場だったので、いろいろな唄に何かの関わり合いが無かったものかどうか、古い歌詞には他所からの借物らしい気配が落いので、地元発生説もこのまま素直に受け止められているようだ。  
 
吹けや生保内東風 七日も八日もハイ ハイ  
 吹けば宝風 ノオ稲みのる ハイーキターサッサーキターサ  
吹けや生保内東風 秋吹くならば 黄金波打つ ノオ前田圃  
生保内東風なら ひがたの風よ そよりそよりと ノオ湯のかおり  
わしとお前は 田沢の潟よ 深さ知れない ノオ御座の石  
とろりとろりと 沖行く舟は 十七招けば ノオ岸による  
前の田沢湖 鏡において 雪で化粧する ノオ駒ヶ岳  
風の模様で 別れていても 末にまとまる ノオ糸柳  
上を見てさえ 限りはないと 下を見て咲く ノオ藤の花
「正調生保内節」  
「正調」と名ずけた生保内節が歌い出されたのは、昭和40年代のことで,秋田民謡が一応唄い尽くされたと思われ始めた時、プロの歌い手が生保内地方の保存会で唄っている昔唄を真似「正調生保内節」と名付けて唄い広めた事による。昔唄は戦前までは、「生保内だし<おぼないぁだし>」と呼ばれ、民間では酒盛りの時の手叩き節、夏祭りなどでは鳴り物と一処に手踊りの伴奏唄だった。   
 
吹けや生保内東風 七日も八日もハイ ハイ  
 吹けば宝風ノオ稲みのる コイ コイ コイ コイト  
ドドと鳴る瀬に 絹機織立てて 波に織らせてノオ瀬にきせる  
雨はどんどと 雨戸にさわる 心まよわすノオ南風  
生保内乗り出し 角館越えて 駒よ急げよノオ久保田まで  
一度二度なら 褄折り笠よ 三度笠ならノオ深くなる  
葦を束ねて 降るよな雨に 通い来るのをノオ帰さりょか
「秋田荷方節」  
「秋田荷方節」は、秋田県下で、かつて芸人達がステージで歌ってきた名曲の一つです。曲弾きを思わせるような華麗な三味線に乗せて、朗々とかつ艶やかに歌い上げられます。  
この「荷方」という文字を見ると、物資を運搬でもする人足のことか?と思ってしまいますが、実は「にかた節」と言うよりは「にがた節」の方が正しいと言えます。それは、唄の出だしの「にーがーたー」が曲名になっただけの話。詞としては「新潟〜」と歌っているので「新潟節」であったといいます。それが「にがた節」となり、やがて「荷方節」の文字が当てはめられたようです。  
その「新潟節」の源流は何であったか?これは新潟県新発田市で発生したという、祝い唄の「松坂」であったといいます。この「松坂」は、瞽女や座頭といった芸人達によって好んで歌われ、東北地方へもかなり広まっていきました。  
中でも、北海道は小樽あたりで歌われていたものを、昭和27(1952)年、巡業に来ていた秋田の永沢定治と三味線の浅野梅若が覚えて、秋田風にまとめてレパートリーにしました。現在でも、北海道民謡として「北海荷方節」はよく歌われています。  
なおこの華麗な「秋田荷方節」の他に、「仙北荷方節」があります。仙北地方で歌われるものですが、前奏に三味線がつくものの、唄の部分になると三味線が止まり、無伴奏になります。この方が、越後の「松坂」の雰囲気が残っている感じもします。なお秋田県下では、横手市金沢八幡神社や仙北郡六郷町熊野神社などでは、即興で歌詞を作って歌い競い合う、「かけ唄」という行事が残されており、現在ではこの「仙北荷方節」が歌われています。  
なお、この「秋田荷方節」「仙北荷方節」以外では、男鹿市北浦の「北浦荷方節」という素朴な感じのものも残されています。また青森県南部地方では「南部荷方節」などが知られます。  
また、この越後の「松坂」が北陸・富山へ伝わる中で、富山県下にも「富山荷方節」「なき荷方節」といった数々の「荷方節」が残されています。  
わたくしがいわゆる秋田民謡を聴いたのが、民謡番組で出演されていた浅野梅若門下の皆さんの演奏でした。浅野梅若師の弾く「秋田荷方節」は、カッコイイ!と思ったものでした。ちなみに浅野梅若師は、津軽三味線の梅田豊月の弟子であって「梅」の字をもらったといいます。そして津軽三味線の木田林松栄師とは兄弟弟子でした。  
■ 
秋田民謡全国大会三味線部門のコンクール曲に取り上げられた、『秋田荷方節』(あきたにかたぶし)を少し考えて見たい。津軽三味線の様に豪快な迫力こそ無いが、繊細で技術的にも非常に難しく、秋田三味線を代表する名曲である。  
元々この曲は、秋田県が生んだ三味線名人位、故『浅野梅若』師匠が、北海道の北海荷方を参考に纏めあげたものだと言う。秋田荷方節その物は三味線唄と言うよりも、むしろ曲の流れを聴くと尺八唄の様な気がする。現に尺八は唄のフレーズ通りにメロディーを追って行くが三味線はそうでは無い。一見、唄と合って無い様に聞こえるが、メロディー通りに弾かなくても、あまり違和感の無いところがこの曲の面白さかも知れない。  
故、浅野梅若師匠の三味線は繊細かつ巧妙で一瞬の狂い無く、言わゆる隙の無い三味線だった。現在弾かれている秋田荷方節の三味線は、大会を見ても大まかに3通りに分けられる。その1は、正統派梅若流。その2は、現秋田県民謡協会理事長の、佐々木實師匠の睦実流奏法。その3はそれ以外 。 
昨年優勝した、二代目小田島徳旺氏とその門下、小田島会の弾き方は、亡き初代が、佐々木實師匠の弟子だった事を見ると、ほぼ一緒である。その3は1、2を合わせた物、或は解釈の違う物なので、ここではその1と、その2を比較してみたい。  
両者の大きく違うところは二つある。専門的に成るが、1つ目は曲頭の部分から3の糸の10のツボに行く前までの3と4の細かに弾く部分で、睦実流の方が梅若流よりも『すくい撥』が少なく、すくう代わりに『はじき』を使っている。よって、睦実流の方がややソフトに聴こえる。3の糸10からは、ほぼ同じで、上がって行った、3と4のかましの所が先程と一緒で違う。  
2つ目は、唄の伴奏部分。歌詞の、(にいがあ〜あ〜たあー)の、た、の部分が梅若流は14のツボで合わせるのに対して、睦実流はオクターブ下の4のツボで合わせる。次に違うのが、歌詞、(ば〜あさ〜まー)の部分と、(花も〜うらあ〜ずに〜)の弾き方は、言わゆる『手』が違う。どの奏法が良いかは、聴く人の判断だが、大事なのは、梅若師匠の原曲を基本にし、大きく逸脱しない事であると考える。  
 
この曲のルーツ、実は新潟にあり、それは荷方という言葉に表れています。元々新潟節だったのが訛って、にかた節となり、荷方という字が当てられたとのこと。原曲は越後松坂で、越後新発田の検校・松波謙良が各地に伝え歩き、遠く江差追分にも関連してくるそうです。津軽の謙良節は、その名の通りで、秋田や富山などに伝えられる荷方節と同じ系統に入るようです。一方、新潟、福島、宮城では松坂の名のまま伝わっていたり、検校が広めたことから検校節の名で広まっている地方もあるそうで、民謡の伝承、伝播の面白さを感じさせるエピソードです。  
 
新潟寺町の 花売り婆様 花も売らずに 油売る  
高いお山の 御殿の桜 枝は七枝 八重に咲く
「二ッ井甚句」  
二ツ井町(ふたついまち) / 秋田県の北部に位置していた町。2006年に能代市と合併し、新たに能代市となったため廃止した。 南北に細長い形状、北は世界遺産の白神山地に接している。合併後も能代市二ツ井町として地名が残る。  
「船方節」  
「船方節」は港の騒ぎ唄です。船乗りが各地の港の酒席で覚えたものを、舵をとりながら口ずさんだことから船方節と呼ばれるようになりました。  
 
(アー ヤッショーヤッショー) ハアー(アー イヤサカサッサ)  
三十五反のエー(アーイヤサカサッサア) 帆を巻きあげて(アー ヤッショーヤッショー)  
鳥も通わぬ沖走る その時時化に逢うたならエー(アー ヤッショマカショ)  
網も錨も手につかぬ 今度船乗りやめよかと(アー ヤッショーヤッショー)  
とは思えども港入り あがりてあの娘の顔みれば(アー イヤサカサッサ)  
辛い船乗り 一生末代 孫子の代まで やめさせぬ(アー ヤッショーヤッショー)  
沖の小舟と漁師の船は 今日も一日波の上  
波はついたり曳く網大漁 船足重いぞ 船頭さん
「秋田小原節」  
 
ハァーサーサダシタガ アヨーエ  
ハァー野越え山越え 深山越え  
あの山越えれば紅葉山  
紅葉の下には鹿がおる  
鹿がホロホロ 泣いておる  
鹿さん鹿さん 何故なくの  
   ハァー私の泣くのは ほかじゃない  
   はるか向こうの 木の陰に  
   六尺あまりの狩人が  
   五尺二寸の鉄砲かつぎ  
   前には赤毛の 犬をつれ  
   後ろに黒毛の 犬つれて  
ハァーあれにうたれて 死んだなら  
死ぬるこの身はいとはねど  
後に残りし 妻や子が  
どうして月日を送るやら  
思えば涙が おはら先にたつ  
 
 

関東中部近畿中国四国九州 
北海道青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県

山形県

 

「かくま刈り唄」  
宮城県宮城郡にある定義薬師では、信者がお籠りの夜、徹夜で「定義節」を唄い競った。その定義節が移入。唄は下の一句五文字を二度繰り返す「二上り甚句」の一種で、東北各地に広く分布する。福島県の「相馬二遍返し」なども同系統。かくまは雑木の小木のことで、東村山郡谷沢あたりでは、雑木の細いものを薪にする。山の行き帰りや、仕事の気晴らしに口ずさんだ。 
 
/ 「相馬二遍返し」 
←「二上り甚句」「定義節」  
 
ハアー 山は深いし かくまは延びた  
お山繁昌と ハアー 烏啼く 烏啼く  
ハアー 山で赤いのは 躑躅か椿  
お稲荷様の ハアー 鳥居か 鳥居か 
「酒田甚句」  
幕末から明治にかけての酒田港の繁盛を背景にした花柳界の酒席の騒ぎ唄。江戸で流行した「そうじゃおまへんか節」が定着したもの。酒田は庄内平野と最上川流域の米の集散地で、米穀倉庫群が有名。酒田港は室町時代から開け、寛文12(1672)年、河村瑞賢が貯米場「瑞賢蔵」を建設して、西廻船航路の寄港地となる。江戸時代に入ってから米の積み出し港として栄え、年間二千五百隻以上の北前船で賑わったという。港の北側にある日和山公園には、明治28年築造といわれる日本最古の木造燈台がある。  
 
←「そうじゃおまへんか節」(江戸) 
 
日和山 沖に飛島 朝日に白帆  
月も浮かるる 最上川  
船はどんどん えらい景気  
今町舟場町〈いままちふなばちょ〉 興屋〈こや〉の浜 毎晩お客は  
どんどん シャンシャン  
シャン酒田は よい港 繁盛じゃおまへんか  
   海原や 仰ぐ鳥海 あの峰高し  
   間〈あい〉を流るる 最上川  
   船はどんどん えらい繁盛  
   さすが酒田は大港 千石万石 横づけだんよ  
   ほんまに酒田はよい港 繁盛じゃおまへんか  
庄内の 酒田名物 何よと問えば  
お米にお酒に おばこ節  
あらまぁ ほんに すてき  
港音頭で 大陽気 毎晩お客は  
どんどん シャンシャン  
シャン酒田は よい港 繁盛じゃおまへんか
「新庄節」  
酒席の騒ぎ唄で甚句の一種。明治6年にできた万場町の遊廓で唄い始められた。草刈りの往来に唄っていた「草刈り馬子唄(羽根沢節)」が徐々に変化。万場町に持ち込まれたものは、お座敷唄として磨き上げられていった。大正3年、新庄三吉座のこけら落しに来演した尾上多賀之丞に改作を頼み、踊りの振り付けも作ってもらって、今日の「新庄節」が完成したという。野暮で小粋で、そして哀切な味わいがある唄。  
 
←「草刈り馬子唄」(「羽根沢節」) 
 
ハアー あの山高くて 新庄が 見えぬキタサッ 新庄恋しや 山憎や  
ハアー 猿羽根山越え 舟形 越えてキタサッ 会いに来たぞえ 万場町に  
ハアー 猿羽根の地蔵さん あらたな 神よキタサッ 一度かければ 二度叶う  
ハアー 新庄習いか 間味屋の 作法かキタサッ いつも仕切が 前勘定  
ハアー 花の万場町 上がれば 下がるキタサッ 金の足駄も たまらない  
ハアー 親の意見を 俵に つめてキタサッ 万場町通いの 道普請  
「羽根沢節」  
山形県の民謡。最上郡鮭川村で歌われる。最上郡鮭川村にある羽根沢温泉は、鮭川に注ぐ曲川(まがりかわ)支流の渓谷にあり、奥羽山脈の山間の静かなところで湯の量も多い。草刈り唄が、お座敷唄になった。  
 
→「新庄節」 
 
たとえ鮭川の 橋ゃ流れても 羽根沢通いは 止められぬ 
「花笠音頭」 花笠まつり  
スゲ笠に赤い花飾りをつけた花笠を手にし、「花笠音頭」にあわせて街を踊り練りあるく日本の祭である。山形県内など数か所で開催されているが、例年8月に山形市で行なわれる「山形花笠まつり」が広く知られている。戦前から行われている東北三大祭りに戦後から始まり広まった「山形花笠まつり」と「盛岡さんさ踊り」を加えた5つの祭りを東北五大祭りと呼ばれる事もある。  
花笠まつりで歌われる「花笠音頭」の起源は諸説あるが、大正中期に尾花沢で土木作業時の調子あわせに歌われた土突き歌が起源といわれており、昭和初期にこれが民謡化され「花笠音頭」(またの名を「花笠踊り唄」といわれる)となった。また踊りについては、菅で編んだ笠に赤く染めた紙で花飾りをつけたものを景気づけに振ったり回したりしたのが発祥といわれている。  
 
←(土突き歌) 
 
目出度目出度の 若松様よ  
枝も (チョイチョイ) 栄えて葉も茂る  
(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)  
   わしがお国で 自慢なものは  
   茄子と (チョイチョイ) 胡瓜と笠踊  
裏の石橋坂 ならよかろう  
とんと (チョイチョイ) 踏んだら悟るよに  
   米のなる木で 作りし草鞋  
   踏めば (チョイチョイ) 小判の跡がつく  
俺が在所に来て 見やしゃんせ  
米の (チョイチョイ) なる木がお辞儀する  
   花の山形紅葉の 天童  
   雪を (チョイチョイ) 眺むる尾花沢   
(花笠踊り) 
花の山形 紅葉の天童  雪を (チョイチョイ)  
 眺むる 尾花沢 (ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)  
おらが在所に 来て見やしゃんせ 米の なる木が おじぎする  
雪の舟形 情に厚い 呼べば とけそな やさすがた  
娘盛りを なじょして暮らす 雪に 埋もれて 針仕事  
長い 長もち 唄かけながら 可愛い おばこが 嫁にくる  
おばこなぼになる 十三七つ 百合の 花コに にてめごい
「正調花笠音頭」  
「おばねの花笠音頭」由来 / 「花笠音頭」は大正8年に尾花沢・大石田両市町の開田230町歩の感慨用水として、徳良湖築堤工事の際に唄われた「土搗き唄」が元唄と言われています。20年ほど前までは尾花沢近郊で家を建てる際、土台石を固める作業唄としてこの「土搗き唄」が唄われ歌詞も即興的で卑猥なものもあり、現在伝わっている歌詞は150番にもおよんでいます。  
 
←(土突き歌) 
 
揃ろた揃ろたよ 笠踊り揃ろた 秋の出穂より  
 まだ揃ろた ヤッショウマカショ  
花の山形 紅葉の天童 雪をながむる尾花沢  
おらが在所へ来てみてしゃんせ 米のなる木が おじぎする  
朝の六時から弁当さげて 徳良通いは 楽じゃない  
ついて固めて でかしたつつみ 水も漏らさぬ深い仲  
おらが国で自慢なもの なすときゅうりと笠踊り  
「真室川音頭」  
山形県も北部・最上郡真室川町で酒席の歌として知られてきたのが「真室川音頭」です。この源流は明治時代の流行歌「ラッパ節」という歌で、日露戦争の頃から歌われたもので、各地に流行して、替え歌も作られました。そして特に人気があったのが、九州の炭坑夫と北海道の女工であったといいます。北海道から樺太ではカニ缶の缶詰工場で働く女工が歌った「女工節」とか「カンヅメショ節」といった歌は今でも聴くことができますが、それがさらに「ナット節」として流行していました。  
一方、大正時代に山形県尾花沢町でのダム建設のために各地から労働者が集まってきた時、「ナット節」が尾花沢でも流行ったといいます。また、その後昭和7年に、真室川に軍用飛行場建設のために労働者が大量に集まってきた時にも「ナット節」が歌われたといいます。ここでは「真室川花電車」といい、猥雑な歌詞で歌われていたようです・  
一方、真室川出身で宮城県女川漁港の料亭で働いていたという近岡仲江が、やはり北海道生まれの船乗りから「ナット節」を覚え、真室川鉱山全盛時代に真室川へ戻って「山水小唄」として歌っていたといいます。  
このようにして「真室川花電車」「山水小唄」といった形に変えられた「ナット節」を基調にして、真室川の料亭「紅屋」の女将・お春(本名・佐藤ハル)が歌詞を整え、三味線の手付けをして「真室川音頭」として広まっていくようになったといいます。  
 
←「真室川花電車」「山水小唄」←「ナット節」 
 
私ゃ真室川の 梅の花 コーリャ 貴方マタ この町の鶯よ  
(ハコリャコリャ)  
花の咲くのを待ち兼ねて コーリャ 蕾の中から通って来る  
(ハ ドントコイドントコイ)  
   蕾のうちから 通っては見たが 開らかぬ花とて 気がもめる  
   早く時節が 来たならば 一枝ぐらいは折ってみたい  
私ゃ真室川の 山桜 貴方マタ浮気な 春の風  
咲かせてくれたは よいけれど 一夜で散れとは 憎らしや  
   花の山形 紅葉の天童 雪をマタ眺むる尾花沢  
   声ものどかな 新庄節 庄内鶴岡 米の里  
山を越え川を越え はるばると 真室川見たさに 故郷(くに)を出た  
深山がくれの 百合の花 そっとマタ手折れば 香に迷う  
   今日は日もよし 天気もよし 恵比須マタ 大黒浜遊び  
   大鯛小鯛を釣り上げて 釣り竿かついで踊りこむ  
貴方は御殿の八重桜 私ゃマタ垣根の朝顔よ  
いくら程よく 咲いたとて 御殿の桜にゃ およばない(届かない)  
   遠く離れて 何を待つ 頼りとするのは 文ばかり  
   たとえお金が かかろとも お手紙のやりとり位は しておくれ  
夢を見た 夢を見た 夢を見た 貴方と添うとこ 夢に見た  
三三九度の盃を いただくところで 目が覚めた  
   裏から回れば 垣根コあるし 表から回れば 犬吠える  
   鳴くな騒ぐな 泥棒じゃないよ この家の娘の 色男  
真室川よいとこ 新庄を受けて 娘マタ美人で 唄どころ  
上り下りに ちょいと足とめて 聞いてマタお帰りこの音頭  
   鏡見るたび 思い出す 両親(ふたおや)恨むじゃ ないけれど  
   も少し器量よく 生まれたら どんなマタ男も 迷わせる  
お山のお山の 山鴉 可愛いと鳴いたが なぜ悪い  
今見ただけでも 好きは好き 十年添うても 嫌やは嫌や  
   花が咲いた 花が咲いた 花咲いた 娘マタ十八 花咲いた  
   いずれ散る花 一枝位 あなたのことなら あげまする  
広い田んぼに 出てみれば さらしマタ手拭い 頬被り  
紅い襷にもんぺはき 稲刈るおばこの 艶姿  
   あの時逢わねば ただの人 逢うても惚れなきゃ ただの人  
   惚れて添わなきゃ ただの人 添うても別れりゃ ただの人  
添わせておくれと 願掛けて 添わせてくれたは よいけれど  
それからどうしてよいのやら 神様教えてくれなんだ 
「百目木甚句」 (どうめきじんく) 
最上川が左沢楯山城の真下で直角にカーブする付近に清水屋、通称「百目木茶屋」といわれる大きな料亭があった。明治17年に建てられたという元所有者の証言がある。現在は道路拡張のため取り壊され、その跡地から100 mほど西、「最上川舟唄発祥の地」と記された碑のそばに「百目木茶屋趾」の碑が建立されている。この百目木と呼ばれる場所は、江戸時代から2つの簗場が作られたことでも知られていた。「百目木茶屋唄」の歌詞にあるように、後年、この簗場で捕れる鮎をはじめとする川魚を料理して提供する場として百目木茶屋が作られて、賑わいを示したのであろう。  
2009年、橋上地区の柏倉清助氏(昭和6年生まれ)からの聞き書き調査では、百目木茶屋はたいそう大きな建物であり、落ち鮎がとても美味しかった記憶があるという話を聞くことができた。鉄道が通る以前の明治時代中・後期頃まで最上川舟運はまだその使命を終えておらず、左沢を起点に上り下りする船頭衆たちにとって百目木茶屋は疲れた体を休めて飲食できる憩いの場所だったと思われる。  
この茶屋の飯盛女たちが歌い始めたのが「百目木甚句」であり、酒田甚句とも共通で熊本県の民謡「おてもやん」の節を織り込んだ賑やかな唄だという。 以下で「百目木茶屋唄」と「百目木甚句」の歌詞についてみてゆきたい。  
 
/ 「酒田甚句」「おてもやん」 
「百目木茶屋唄」  
茶屋は百目木(どうめき) 二階の景色 前を流るる 最上川  
夏は清水 てんを浮かして 見事に咲かせた かきつばた   
上り下りの 船のかずかず 夕暮涼しき 中河原  
梁にござれや どんどん 鱒でも鯉でも とれ次第   
ちょいとあがらんせ  
この歌詞からは茶屋は二階建てであり、カーブを大きく描いて流れる最上川の絶景を楽しむことができる位置にあったようである。「上り下りの船のかずかず」とあって、まだまだ舟運が活躍していた時代とその情景がうかがわれる。「梁にござれやどんどん」とあるので、簗漁でとれた鮎はもちろん鱒、鯉などの料理が客に提供された様子で、簗場と一体となって百目木茶屋は発展したのであろう。  
「百目木甚句」  
ハァー 左沢(あてらざわ)  
御日市(おまち)帰りに百目木の茶屋で 一ぱい飲んで眺むる最上川  
向こうに見えるは何じゃいな 上杉さんのお米蔵  
どんと積んで下すは酒田船  
ハァー 左沢(あてらざわ)  
お米山と積んで帆を巻きあげて 今日も下るぞ酒田船  
いつごろお帰り 風次第 荷物は何々 松前の  
にしん こんぶに たら かすべ 京の友禅 博多帯   
おみやげ話は たんとたんと  
この歌詞で「上杉さんのお米蔵」とあるのは、江戸時代から旧最上橋のたもとに作られた米沢藩左沢陣屋(舟屋敷)のことである。舟運の歴史的な事実を盛り込んで描写している。「お米山と積んで帆を巻き上げて下る酒田船」というのもじつにリアルに歌い込んでいる。「松前のにしん、こんぶ、たら、かすべ、京の友禅、博多帯」と品々を並べているが、帰り荷として北前船が北海道に向かったときの商品と、上方へ上ったときの商品を区分けしながら的確に歌い上げている。そして「おみやげ話」を「たんとたんと」と最後に挿入して、船乗衆の帰りを待つ飯盛女たちの心情をさりげなく吐露している。まさに最上川舟運時代の左沢の繁栄ぶりの一端を歌い上げたみごとな座敷唄である。  
そして「百目木甚句」は、米沢や酒田のほか松前、京、博多と全国的な地名を織り込みながら、左沢における最上川舟運の景観を描きだしており、内陸の左沢においても舟運を通じて全国規模のスケールの流通・往来が認知された様子がうかがえる。  
なお、百目木付近の最上川には「柏瀞」と呼ばれる場所がある。左沢対岸の崖の傾斜した地層が、最上川に映った様子が柏の葉のようなので、この名前がついたという。  
百目木の景観については、近世以降の記録にもみることができる。  
昭和以降では、「山形縣西村山郡左澤町勢一覧」で「百目木柏瀞」が名所として紹介されている。昭和34年の「左沢町 町勢のしおり」の「観光」「名所」では、「日本一公園」とともに、「対岸に百目木茶屋があり景勝と川魚の味覚をもって往時より知られている」と紹介されており、百目木と柏瀞が左沢の名所として認識されていたことが分かる。  
このように、百目木甚句を通した認知は舟運時代の往来のスケールを伝えるとともに、百目木そのものも各時代の景観認知に欠かせない要素である。百目木茶屋は昭和40年に、百目木簗は昭和37年に解体された。現在、最上川の岩盤には、簗の跡と考えられる柱穴列が残されている。百目木で最上川が大きく曲がる様子は現在も変わらないが、柏瀞は崖を樹木がおおっており、水面に映った柏の葉のような景観は見ることができない。
左沢 [あてらざわ]の地名の由来
大江町の中心地は左沢と書いて「あてらざわ」と読む珍しい地名です。その読みの難しさから「JR左沢駅」は鉄道マニアの間でも知る人ぞ知る最難読駅の一つです。左沢の地名については古くからいろんな説があります。
江戸時代の「出羽国風土略記(でわのくにふうどりゃっき)」には最上川を基準にして「あちらの沢」「こちらの沢」といったことから「あちらの沢」=「あてらざわ」になったという説があります。ここでなぜ「こちら=右側」で、「あちら=左側」で定着したのかについては更に諸説あります。寒河江荘の領主大江氏が長岡山に登って西の方を見たときに平野山の左方に見える山谷を指して「あちの沢」と呼んだことが起こりだとする説や、大江町富沢の西にある山岳信仰の山である日光山で、東から昇る太陽を礼拝した時に左に見える沢を「あてらざわ」呼んだとする説があります。
「あてら」の「あて」は植物の「アテの木」で、それに接尾語がついたとする説があります。アテの木とはヒバ(アスナロ)のことで、石川県能登半島での呼び名です。
アイヌ語では「ア(支流の)」「テイラ(森林のある低地)」や「アツテイラ(ニレの森林の低地)」があり、また「アツテ(絶壁)ラサワ」で「東岸は絶壁で、西岸は低い」とする考え方もあります。(ただしこの説はもっと内容を吟味する必要がありとのこと)
「庄内おばこ節」  
「庄内おばこ節」東北地方各地で歌われている民謡です。旅の商人と村娘の逢瀬を村人がはやした唄だと言われています。  
 
山形県庄内地方の民謡。農家の縄ない歌として近世初期に生まれたという。酒田を中心とした庄内平野の農村部で、酒席の踊り唄として唄われてきた。「おばこ」は若い娘さんのこと。正月などに、豊年祝いにやってくる門付け芸人の一団が唄っていた。はじめは「出羽節」と呼ばれていた。歌詞は上の句と下の句が対話形式になっている珍しいもので、これが秋田へ移入されて「秋田おばこ」になった。曲節にさびがあって、リズム感、メロディーともに優れた唄。  
 
文政年間(1818〜1829)のある晩秋の嵐の夜、冷たい雨にうたれた旅の商人が、疲労して一軒の農家に一夜の宿をとった。たまたま、この家に「梢」という娘がおり、板倉を仮の住まいとし、親切に看護したのが縁となり愛し合うようになりました。旅の商人が訪れるたびに、二人 は板倉や田んぼの外れで逢う瀬を楽しんでいましたが、梢の 両親は旅の商人との恋を許しませんでした。  
このことを知った村人たびは 「おばこいたかやと 裏の小窓からのぞいてみれば おばこいもぜで 用のない婆さまなど糸車」 とはやすように歌われたのが始まりと伝えられております。梢の生家(三郎兵エ)には 囲炉裏をきった板倉が有りましたが、戦後の改築に逢って今はない。  
■ 
←「庄内節」「出羽節」 
→「秋田おばこ」 
 
おばこ来るかやと(アコリャコリャ) 田ん圃のはんずれまで出てみたば 
(アコバエテコバエテ)  
おばこ来もせで(アコリャコリャ) 用のないたんばこ売りなどふれて来る 
(アコバエテコバエテ)  
おばこ居たかやと 裏の小窓から覗いて見たば  
おばこ居もせで 用のない姿さまなど糸車  
酒田山王山で 海老コと鰍コと相撲とった  
海老コなんして マタ腰ァ曲がった   
鰍コと相撲とって 投げられて それで腰ァまがった 
「庄内節」  
永見老の話 / 子供のとき、田掻きでマンガを押しながら大人がうたっているので覚えたとかで(大正10年ころ?)、一名「夜遊び唄」とも言い、今まで誰にも教えなかったのだと笑うのです。大人になってから、もうその時はこの唄をうたう人はいなかったそうですが、村の長老にうたって聞かせて、そのとうりだと「保証」されたということです。  
昭和初期ころまでうたわれていたのでしょうか、この唄が「庄内節」というのだということに、わたしは驚きを禁じえなかったのです。なぜなら、即興の文句を掛け合いながら踊ったという津軽の盆踊り唄「ドダレバチ」は、「庄内節」の流れという説を知っていたからです。しかるに、現在では、その「庄内節」を特定することも容易でなく、まして曲節を聞くことも不可能になっていますから。まるで長年求めていた恋人に巡り会ったような気がしたのでした。他の歌詞(わたしが直接聞いたもので、上記以外のものです。)  
「庄内節」の流行の記録は、あまり見つかりません。「東北の民謡」「津軽盆唄」の項に、「天保頃になると彼の庄内節が盛に流入して来て津軽唄界に一大革命を起した。その大部分は卑俗極まるものであるけれども一年中の最大歓楽として夜明けまで毎夜踊り抜く男女に興奮を与へたのはこの卑俗の歌詞であり素晴らしく歓迎せられたのである。現在伝わる津軽盆踊の歌詞がかうした傾向を持って居るのは庄内節の影響である。」とあり、この唄が相当卑俗な歌詞を持つ騒ぎ唄であったことが忍ばれます。 「奥々民族旋律集成」中で、「どだればち」(津軽盆唄)の元唄として、「庄内節」をあげ、「庄内節は、大の坂の流れをくむもの」とも書いているのです。話は複雑になりますが、この「大の坂」というのは、秋田県鹿角地方に伝わる「毛馬内盆踊り」の古曲でもあり、何と新潟県南魚沼郡堀之内町の盆踊り「大の阪」でもあるのです。そして、この堀之内町の「大の阪」は、小国の隣り、十日町市の信濃川流域にも「ダイノシャカ」として伝承されているのですから、研究者ならずとも、その伝播のありよう、関連の仕方に興味をもたれると思います。  
「東北民謡集」に「庄内節」が二か所出てきます。ひとつは、山形篇「庄内ハエヤ節」の項で、その解説に、“ハイヤ節”が(中略)加茂の船着場の騒ぎ唄としてうたわれて居た。津軽方面では之を“庄内節”と呼んでいる。“津軽よしゃれ節”に変化し(以下略)とあります。これによれば、「庄内節」は、あの有名な「ハンヤ節」大流行の一変形ということになりましょうか。しかし、これもはっきりしません。「ハンヤ節」系の唄なら、どこかに「ハンヤ」という言葉が挿入されていたり、リズムに似たところがあるはずです。しかるに、「庄内ハエヤ節」は、「アエヤ出羽の三山宝の山よ」と唄い出したりしますので、明らかに「ハンヤ節」系のものですが、「庄内節」でそう歌ったという確証が示されていないからです。わたしは、「庄内節」と「庄内ハエヤ節」は、別の流行になるのではないかと思っています。もうひとつは、福島篇の会津地方の祝儀唄「庄内節」で、出羽で庄内、最上じゃ上の山、此処は会津の東山と、うたうところから「庄内節」と言われたのであって、「庄内地方から移入されたのでこのながあるわけでは」ないとの解説がついています。しかし、ここでもなぜそう言えるのかの論証がありません。もし歌い出しの名称なら、「出羽節」ではないのでしょうか。  
新潟県魚沼郡の水落氏は、この「庄内節」の元は、新潟県岩船郡朝日村の「はごね節」ではないか、とのことでした。「はごね節」は、山形県との県境での「うるしかき」の労作唄だった由で、これがあの有名な祝い唄「松坂」を生む母体だったとのことです。そして、その流れで「魚沼松坂」があるとのことで、これは永見老の唄う「庄内節」と類同性があるといわれます。  
比較の基準が明らかでないので、わたしには何とも言えませんが、一方では、夜這いに適した粋な文句の恋唄、単純な田かき等の農作業を癒す作業唄だったのに、もう一方では、めでたい座敷の祝い唄であることが、面白く思われるのです。色恋の唄が即ち祝い唄であることは、民謡の世界ではごく普通のことなのです。  
■ 
←「ハンヤ節」「はごね節」 
→「庄内おばこ節」「秋田おばこ」「津軽甚句」(「どだればち」)  
 
ハァ〜想って通いば千里も一里 逢わずに帰いればただの一里も又千里  
眉毛(マユゲ)おとして鉄漿(オハグロ)染て 主と苦労がして見たい  
辛抱してくれ今しばらくは 長く白歯にしておかぬ  
恋に焦(コガレ)て鳴く蝉(セミ)よりも 泣かぬホタルが身を焦がす  
きみは鳴いても暮れ六つばかり 唄うかわいや夜明けまで  
泣いたからとて許すな心 きみは泣き泣き気をうつす 
「村山馬喰節」 (「山形馬喰節」)  
村山馬喰節は、村山地方の馬喰たちが、馬市への往来などに、何十頭もの馬を曳いて、夜道を歩く時、馬の子守唄がわりに、また孤独をまぎらすために唄って来ました。左沢(あてらざわ)の詩人、渡辺国俊さんが昭和30年頃、羽柴重見さんに教え、羽柴さんが上京後、昭和42年にレコード化し広く知られるようになりました。  
 
(ハーイハイドー)  
ハァーエードーエ (ハーイ)  
竿灯にナーヨーエ (ハーイ)  
登りのナーエ (ハーイ)  
小坂の茶屋でナー (ハーイハイドー)  
最上のナーヨーエ (ハーイ)  
馬喰さんヨーナーエ (ハーイ)  
お帰りの際にはナー (ハーイハイドー)  
お寄り下しゃんせヨー (ハーイ)  
ほんにナーヨーエ (ハーイ)  
ほんにナーエ (ハーイ)  
 待ちておるヨー (ハーイハイドー)  
ハアーエードーエ 二両でナーヨーエ  
買ったる馬ッコーエ 売りにかけたならヨー  
十両で売れた 儲けをナーヨーエ  
見たならヨーエ 八両儲けた  
今年のナーヨーエ 年のナーエ  
アーアリャアーエ 初馬喰ド 
「山形盆唄」  
山形県西部の村山、置賜両郡にかけて広く唄われている盆踊り唄。新潟県から阿賀野川沿いに福島県会津地方へ移入された「ヤレサ型盆踊り唄」(「越後甚句」が変化したもの)が、県南部に広まったもの。「相馬盆踊り唄」や「高田盆踊り唄」など、ヤレサ型の盆踊り唄は、四句目にヤレサと入る。昭和6年、山形新聞が歌詞を募集。節は山形市飯塚町あたりのものをもとに、同地の民謡家・加藤桃菊がまとめあげた。  
 
←「越後甚句」 
 
盆が来た来た 山越え野越え 黄金花咲く 波越えて
 
 
 

関東中部近畿中国四国九州 
北海道青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県

福島県

 

「会津磐梯山」  
会津玄如節の歌詞を借用。明治初年、新潟県の五ケ浜から会津若松にきた油締めの職人が、故郷・越後の甚句で阿弥陀寺境内で踊ったのが始まりという。会津若松周辺では、一時、気違い踊りの意味で「かんしょ踊り」と呼ばれたほど、熱狂的に唄い踊られた。昭和10年頃、この歌を小唄勝太郎が唄い”小原庄助さん、なんで身上つぶした……”の囃し言葉とともに全国に広まった。 
 
←(越後の甚句)  
 
エイヤー 会津磐梯山は 宝の コラ 山よ  
笹に黄金(こがね)が エーマタ なり下がる  
   エイヤー 東山から 日日(ひにち)の コラ 便り  
   行かざなるまい エーマタ 顔見せに  
エイヤー 主(ぬし)が唄えば 踊りが コラ しまる  
やぐら太鼓(だいこ)の エーマタ 音(ね)もしまる  
   エイヤー 会津盆地の みどりの コラ 夏よ  
   風もほがらに エーマタ 鶴ケ城
「浜甚句」  
この唄は、手拍子にあわせてうたう賑やかな唄「遠島甚句」など、宮城県内の「甚句」と歌詞が共通しており、節廻しも似ています。 
 
/ 「遠島甚句」「浜甚句」  
 
ハ アー 三十五反の コラ帆を捲きあげて 行く仙台ホンニ石の巻  
沖に三十日港に二十日 着いた原釜にただ七日  
サアサヤッコラサと漕ぎ出す船は 命帆にあげ浪枕  
船は千来る万来る中に わしの待つ船まだ見えぬ  
南風吹かせて船下らせて 元の千石積ませたい  
船は出て行く朝日は昇る 鴎飛び立つ賑やかさ 
「いわき浜甚句」  
いわき市小名浜の漁師たちの酒盛り唄。  
 
船は一番だ いわきの沖に 招く大漁の 船おろし
「壁塗甚句」  
元歌は、福島県民謡の「相馬甚句」です。この中に、壁塗り作業に似たしぐさがある事から、「壁塗甚句」とも呼ばれるようになった。  
 
←「相馬甚句」 
「相馬甚句」  
ハァ〜相馬中村の 新開楼が焼けたナ〜 ナンダヨー  
ハ イッチャ イッチャ イッチャナット  
焼けたその名で サイショ 花が咲くナ〜 ナンダヨー  
ハ イヤサカ サッサ  
相馬相馬と 木茅もなびく なびく木茅に 花が咲く  
相馬中村は 石屋根ばかり 瓦ないので 人が好く  
飛んで行きたい あの山越えて 恋し相馬の 中村に  
私ゃ竹の子 まだ親掛かり 止めたい雀も 止められぬ  
お前そうまで 想うてくれりゃ 嬉し涙が 流れ山  
 
ハァー相馬中村の 新開楼が焼けた ナァーナンダヨー  
焼けたその名で サイショ 花が咲く ナァーナンダヨー  
ハ イヤサカサッサト  
   ハァー相馬相馬と 木茅もなびく  
   なびく木茅に サイショ 花が咲く  
ハァー相馬中村 石屋根ばかり  
かわらないので サイショ 人が好く  
   ハァー来るか来るかと 上下見れば  
   水の流れの サイショ 音ばかり  
ハァー見にくいけれども 相馬の柚子は  
みより可愛いと サイショ 人が言う  
   ハァーわたしゃ竹の子 まだ親がかり  
   とめたい雀も サイショ とめられぬ  
ハァー来いと一声 来るなと三声  
お前梶原 サイショ ふた心  
 
ハアー 相馬中村の新開楼が焼けたナ  
ナンダヨー ア イッチャイッチャ イッチャナ  
焼けたその名で サイショ 花が咲くナ ナンダョー  
ア アシチャイッチャ イッチャナ  
相馬中村は 石屋根ばかり かわらないので 人が好く  
来るか来るかと 上下見れば 水の流れの 音ばかり  
飛んで行きたい あの山越えて 恋し相馬の 中村に  
好きで気ままで こうなるからは 誰に恨みの ないわたし  
心せけども 今この身では 時節待つより ほかはない  
帰りゃしゃんせや 港が白む 隣り近所の 鶏(とり)もなく  
鶏が鳴こうが わたしは泣かぬ 泣けば帰りの じゃまとなる  
 
ハァー 朝も早よから 弁当下げて ナンダネ  
ハ イッチャ イッチャ イッチャネ  
日がな一日 サイショ 壁を塗る ナンダネ  
ハ イッチャ イッチャ イッチャネ  
   ハァー 裸一貫 ヘラしかないが ナンダネ  
   親父ゆずりの サイショ 心意気 ナンダネ  
ハァー 力いっぱい 一の字書いて ナンダネ  
正直もんだよ サイショ 壁ぬりは ナンダネ  
   ハァー 物は高うなる 手間賃は安い ナンダネ  
   土産まんじゅうの サイショ 数が減る ナンダネ  
ハァー ねってねられて こね上げられて ナンダネ  
シャンと立ってる サイショ 一文字 ナンダネ  
   ハァー 立った白壁 見上げる空に ナンダネ  
   今日も夕陽あ サイショ あかあかと ナンダネ
「相馬節」 (「壁ぬり甚句」)  
踊りの手付きが、壁塗りのようであるところから、別名を「壁ぬり甚句」という。こうした曲名は鳥取県の「壁ぬりさんこ節」にも見られる。客に背を向け、腰を扇情的に動かす踊りは、港の騒ぎ唄によく見られる。城下町・相馬中村に、江戸時代末頃まであった新開楼を中心とした遊廓で、遊び客相手の女たちが酒席の騒ぎ唄に唄っていた。相馬地方の港で唄われていた「二上り甚句」が農村部へ移入されたものか。  
 
酒盛りなどで歌われている一種の祝い歌である。今日では、一般に「相馬節」といえば、「イッチャイッチャ イッチャナ」の囃子ことばで知られた「相馬壁ぬり甚句」をさすが、元来「相馬節」は別にある。  
この歌は、古くは「羽黒節」でふれた、宮城県伊具郡と相馬市の境にある霊場羽黒山の毎月十七日の夜ごもりに、「羽黒節」などと共に歌われたという。旋律線は、歌い出しの「ハアー」と、中間の「ナンダコラョー」を取り除くと、「羽黒節」のそれと類似している。「羽黒節」から派生したといってよいであろう。これはやがて、草刈りなどによく歌われるようになって、「相馬の草刈り歌」を生み、さらに鈴木正夫によって「新相馬節」へと発展した。ところが本来のこの「相馬節」は、古風なだけにすっかり陰をひそめ、今では祝宴などに、わずかに歌われる程度になった。  
 
←「二上り甚句」「羽黒節」  
 
ハアー なんだ大郎七 豆腐は豆だ ナンダコラョー  
あやめ団子はナ 米の粉 ナソダコラョー  
雨は天から 横には降らぬ 風のたよりで 横に降る  
雨の降るとき 天気が悪い 親父おれより 年は上  
歌の歌いそめ 暦の見そめ もろた手ぬぐい かぶりそめ  
心せけども 今この身では 時節待つより ほかはない  
見にくいけれども 相馬の柚子は みよりかわいと 人がいう  
お前の姿と 雷様めは なりもよければ ふりもよい  
お前来るかと 浜まで出たに 浜は松風 音ばかり
「相馬甚句」  
所によっては「草刈り唄」「壁塗り甚句」を指すこともあったが、別のもので、越後の甚句の影響を受けている。旋律は宮城県の文字甚句と同系統で、調子のよいヨイトナの囃し言葉が受けて、かつてはよく唄われた。 
 
/ 「文字甚句」 
←(越後の甚句)  
 
赤いたすこの 姉さんは歌で ア ヨイトナヨイトナ  
ご仕法たんぼの ササ稲を刈る ア ヨイトナヨイトナ  
甚句さ中に 誰が茄子投げた 茄子のとげやら 手に刺さる  
親の意見と なすびの花は 千にひとつの 無駄もない  
どんとどんとと 鳴る瀬はどこだ あれはみやまの 滝の音  
参らんしょ相馬の お妙見様に あれは田畑の 守り神  
おらが相馬に 二宮標が まいてくれたよ 楽の種  
瀬戸入り船 原釜出船 七里七浜 真帆片帆  
お国自慢の あのざ流れ山 聞きさおんなれ 見さござれ
「新相馬節」  
戦後、初代鈴木政夫が唄い初めて全国に知られ、福島県の代表的民謡となる。鈴木正夫の師匠・相馬市中村の堀内秀之進 が作った新民謡。宮城の「石投げ甚句」のハアーと、相馬の「草刈り唄」、酒盛り唄の「相馬節」を合成。戦後、金の鈴と呼ばれる美声の鈴木正夫が改良を加え、唄い出しのハアーに人気が集まった。これに尺八の名手・榎本秀水が三味線の手を付けたり、民謡歌手の峰村利子が手を加えたりして今日の形になった。  
 
福島県相馬地方の民謡。比較的最近に、相馬地方に伝わる従来の民謡を合わせて作られたものである。第二次世界大戦後、相馬市の堀内秀之進が、「相馬草刈唄」を基礎に、宮城県から福島県にかけて伝わる「石投げ甚句」を加えて編曲し、鈴木正夫が独特の節回しで歌ったものが全国的に知られるようになった。相馬地方は数多くの民謡を生んだ土地であるが、「羽黒節」などいくつかの民謡が新相馬節の土台となったと考えられている。  
 
←「石投げ甚句」「草刈り唄」「相馬節」 
 
ハアー はるか彼方は 相馬の空かョ  
ナンダコラヨー卜 ア チョーイ チョイ  
相馬恋しや なつかしや ナンダコラヨート ア チョーイ チョイ  
情けないぞや 今朝降る雪は 主の出船も 見えがくれ  
秋の夜長に 針の手とめて 主の安否を 思いやる  
ほろり涙で 風呂たく嫁ご けむいばかりじゃ ないらしい  
待つ夜の長さを 四、五尺つめて 逢うたその夜に 伸ばしたい  
当座の花なら なぜこのように かたいわたしを 迷わせた  
わすれな草とて 植えてはみたが 思い出すような 花が咲く
「相馬二遍返し」 (南方)  
宮城と福島の県境の羽黒神社で祭礼の際に歌われていた唄が、山から下りて、相馬郡下の農村の酒盛唄になり、「二遍返し」の名がつけられました。「相馬節二遍返し」の唄は、旧来の節を「南方」、新節を「北方」と呼びますが、収録されたこの唄は「南方」です。  
 
福島県相馬市の民謡。羽黒山神社の月例祭で歌われた「羽黒節」が転じたもの。古くから歌われるものを「南方二遍返し」、改作されたものを「北方二遍返し」とよぶ。  
 
←「羽黒節」 
 
(ハー イッサイコレワイ パラットセ)  
ハァー 二遍返しで 済まないならば(ハァコラヤノヤ)  
お国自慢の 流れ山  
 (ハー イッサイコレワイ パラットセ)  
伊達と相馬の 境の桜 花は相馬で 実は伊達に  
相馬相馬と 木萱もなびく なびく木萱に 花が咲く  
相馬恋しや お妙見様よ 離れまいとの つなぎ駒  
誰か来た様だ 垣根の外に 鳴いた鈴虫 音を止めた  
駒に跨り 両手に手綱 野馬追い帰りの 程のよさ  
相馬中村 石屋根ばかり かわらないので 人が好く  
二遍返しは ままにもなるが 三度返しは ままならぬ  
(ハー イッサイコレワイ パラットセ ハ 大難沖まで パラットセ)  
 
ハアー 相馬相馬と木萱もなびく(ア コラヤノヤ)  
 なびく木萱に花が咲く 花が咲く(ハアー イッサイ コレワイ パラットセ)  
駒にまたがり両手に手綱 野馬追い帰りの程の良さ  
伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に  
みにくいなれども相馬のゆずは 実より皮いい(可愛い)と人が言う  
 
ハアー 相馬相馬と木萱(きかや)もなびく ァ コラヤノヤット   
なびく木萱に花が咲く 花が咲く ハア イッサイコレワイパラットセ   
 大灘沖(だいなんき)まで パラットセ  
相馬恋しお妙見(みょうけん)さまよ 離れまいとの繫(つな)ぎ駒  
駒にまたがり両手にて綱 野馬追(のまおい)帰りの程(ほど)のよさ  
伊達と相馬の境の桜 花は相馬で実は伊達に  
相馬名物駒焼(こまやき)茶碗 又も名物流れ山  
相馬名物石屋根ばかり 瓦ないので人が好く  
鮎(あゆ)は瀬にすむ鳥ァ木にとまる 人は情の下による  
竹に雀は仙台さんの御紋 相馬六万石九曜(よう)の星  
二遍返しで済まないならば 又も名物お野馬追い  
二遍返しはままにもなるが 三度返しはままならぬ  
二遍返しで三編目には 義理と人情の板ばさみ  
 
ハアー 相馬相馬と 木萱もなびく  
なびく木萱に 花が咲く 花が咲く  
ハ イッサイコレワイ パラットセ 大囃沖(だいなんおき)まで パラットセ  
伊達と相馬の 境の桜 花は相馬に 実は伊達に  
相馬名物 駒焼茶碗 またも名物 流れ山  
二遍返しで すまないならば お国自慢の 流れ山  
二遍返しは ままにもなるが 三度返しは ままならぬ  
二遍返して 三遍目には 義理と人情の 板ばさみ  
炊いたお米は ままにもなるが 二遍返しは ままならぬ  
相馬恋しや お妙見様よ 離れまいとの つなぎ駒  
(北方)  
ハアー あゆは瀬につく 鳥ゃ木にとまる ハイ ハイ  
人は情の下に住む 下に住む ハイー ハイ ハイ  
あそび暮せば 身にしむ寒さ かせげば凍らぬ 水車  
煙草一葉に 思わく書いて 心きざんで すわせたい  
蝉はなけども 暮六つかぎり 蛍可愛いや 夜明けまで  
会われないから 来るなというに 来ては泣いたり 泣かせたり  
帰りしゃんすか 夜はまた夜中 月は廊下の 屋根の上  
義理と人情の 花咲くうちは 相馬通いは やめられぬ
「羽黒節」  
相馬市と宮城県伊具郡の境に、標高三四四メートルの羽黒山がある。歌詞に「羽黒山のようなぼた餅ほしや」とあるように、どこから見ても円く、旅人のよい目じるしであった。この山は古くから山岳信仰の霊地であったが、延喜五年(九○五)に、相馬氏の祖平良文が夷賊を平定する勅命を奉じて、奥州に下向したとき、羽黒大権現に戦勝を祈願したところ、霊験あらたかであったというので、のち福島、越後の村上とともに、ここにも出羽の羽黒大権現の分霊を勧請した。それ以後格式が高くなるとともに修験者の集まりも多くなり、祭りもいっそう盛大になった。  
ここの祭りは毎月十七日で、前夜から近村の老若男女が集まり、夜を徹して掛け歌に興じた。それがこの「羽黒節」であった。明治三十年代生まれの古老でも、夜ごもりは話に聞いただけというから、その風習は、幕末か明治のごく初期でなくなってしまったのであろう。しかし、祭りの様子を伝える歌詞は残っており、縁結びのよい機会ともなっていたことがよく分る。山は古代の歌垣の風習を伝えたところと言われている。  
また、これと同系統のものば、宮城県にもありへ福島の信夫山でも歌われていた。いずれも民謡としては古いもので、相馬のは「相馬節」や「相馬二遍返し」を、福島のは「瀬上節」を派生した。  
 
→「相馬節」「相馬二遍返し」「瀬上節」 
 
ハアー 昔節では さかずきや来ない 〔チョイ チョイ〕  
 今のはやりの 羽黒節 羽黒節 〔チョイ チョイ チョイ〕  
羽黒さんのような ぼた餅ほしい くるりくるりと 食いまわる  
羽黒さんさえ 登れば降りる わたしやあなたに とろのぼせ  
忘れらりょうか お羽黒様 一の鳥居の 左わき  
月に一度は お羽黒様へ ご利生あるなら 来月も  
羽黒節では さかずき来ない 今のはやりの 相馬節  
わたしや初野の 羽山(羽黒)の下で 生水飲むせいか 気がさくい  
月にお羽黒さま 二度あるならば こんな苦労は せまいもの  
ほれたのぼせた 髪毛までも いれたかもじの 中までも 
「相馬草刈り唄」  
朝草刈りの往来や、草刈り仕事に唄った。もとは酒席の騒ぎ唄である「相馬甚句」が変化したもの。酒席の唄を野良で唄ったのだから、当然、ゆっくりした唄になり、囃し言葉もナンダコラヨートとなった。この唄が後に「新相馬節」を生む土台となる。  
 
←「相馬甚句」  
 
ハァー俺と行かねか 朝草刈りにとナンダコラヨー   
(ハァー チョイ チョイ)  
いつも変らぬ あの土手の陰にとナンダコラヨー  
(ハァー チョイ チョイ)  
   ハァー粋な小唄で 草刈る娘とナンダコラヨー  
   お顔見たさに あの廻り道とナンダコラヨー  
ハァー見たか見て来たか 相馬の城下とナンダコラヨー  
焼けて世に出た 駒焼茶碗と あの新開楼とナンダコラヨー  
   ハァー俺と行かねか ヤンガン堤の土手にとナンダコラヨー  
   籠と鎌持って もみの木の 小枝に絡まる あのアケビ採りとナンダコラヨー  
 
ハアー おれといかねか 朝草刈りに卜 ナンダコラョー 〔ア チョーイチョイ〕  
 いつも変わらぬ アノ土手のかげに ナンダコラョー 〔ア チョーイチョイ〕  
いぎな小歌で 草刈る娘 お顔見たさに回り道  
奥山育ちの わさびでさえも 縁ありゃ肴の つまとなる  
寝ても寝むたい 宵から寝ても 朝の朝草 夢で刈る  
街道歌で通る 流しで聞けば ある水なげても 汲みに出る  
草を刈られた あのきりぎりす 鳴き鳴き小馬に 乗せられる  
馬コ踏むなよ 蛍の虫を 螢可愛いや 闇照らす  
井戸のかわずは 空うちながめ 四角なものだと 議論する 
「田の草取り歌」  
 
腰の痛さに この田の長さ 〔トカイ− トカイー〕  
暑い盛りの 日の長さ 〔トカイー トカイー〕  
わたしやおもだか 田の中育ち 稲の元ばり 見て暮らす  
二番取り上げ 三番が盛り 今日の上がりは 日が高い  
天気よいせか こんなにもてた ことしや豊年 大当り  
じやまだじゃまだと 青田にぴるも たんぼ取っても 取り切れぬ  
早くこの田や 草取り上げて 晩に行くぺや 歌聞きに 
「船のり甚句」  
 
船は出てゆく 朝日は昇るネ 〔ヨイトサー ヨイトサー〕  
かもめ飛び出す ヤレ にぎやかさネ 〔ヨイトサー ヨイトサー〕  
浅間山では わしやないけれど 胸にけむりは 絶えはせぬ  
沖の暗いのに 白帆が見える あれは紀の国 みかん船  
船は新造船 船頭さんは若い 万事たのむぞ おやじどの  
竹になるなら お山の竹に 新造小船の しるし竹  
船は小さくとも 藁であてしても 漁で負けまい おやじどの  
沖の大船 錨でとめる わたしや情の きにとまる 
「土突き歌」「相馬土搗唄」(そうまどつきうた)  
地搗歌 / …地搗き作業は地盤を固める目的のほかに、強力な霊力を土中に搗き込める信仰的な色彩があり、それは地搗きの動作や歌詞の中に残っている。また家を建てるめでたさを歌うが、たとえば福島県《相馬土搗唄》の〈ここは大事な大黒柱 頼みますぞえ皆様に〉の歌詞などに祝歌の性格がうかがえる。歌は音頭取りの歌に、綱子たちがはやしことばを唱和する形で歌われる。…  
土搗き作業の道具は、「土搗石」という。重い石です。石の周辺を放射状にロープで縛り、数人で輪になって「よいしょ!」と放り上げ石の重力によって地面に落とし土を踏み固めます。「花笠音頭」「花笠おどり」は「土搗き唄」からうまれた。  
 
←(土突き歌) 
 
ハァー Iここは大事な 大黒柱  
たのみますぞえ コラ皆様に  
エーンヤーレ サノ ヨーイサ ヨイヤラサ エエンヤレコノセ  
 ヤアノエ エエンヤ コレワサ エーヤーレ  
上げるもやげる 天竺までも 天の川原の 果てまでも  
ここは大事な 大黒柱 爺さん出て見ろ 孫つれて  
ここは大事な 戌亥の柱 頼みますぞえ 綱の人  
この家旦那の お名前何と 蔵は九つ 蔵之助  
さんよ土突棒は 上がるようで上がらぬ 米の水でも 飲みてえか  
ここらでどうだか おら辺ではやる お昼休みに 酒さかな  
 
ハァ〜ここは大事な 大黒柱(チョイ チョイ)  
頼みますぞえ コラ 皆様に  
エーエンヤーレ サノヨーイサ ヨンヤラサーノー  
エー ヤレコノセー(チョイチョイ チョイド)  
 ヤーハモーエンヤ コレワサエーエンヤーレ (ハァ ヨイショ ヨイショ)  
ここは大事な 大黒柱 小石砕けろと 突いてたもれ  
上げろ持ちゃげろ 天竺までも 天の川原の 果てまでも  
この家旦那は お名前何と 蔵は九つ 蔵之助  
金の柱に 黄金の垂木 屋根は小判の 鱗葺き  
さんよ胴突き棒は 上がるようで上がらぬ 米の水でも 飲みてえか  
ここは大事な 乾の柱 頼みますぞえ 綱元様よ 
「相馬流れ山」  
 
相馬流れ山ナー ナーエ (スイー)  
習いたかござれナーエ (スイースイ)  
五月中の申(さる)ナー ナーエ (スイー)  
アーノサお野馬追いナーエ (スイースイ)  
枝垂(しだ)小柳 なぜ寄りかかる いとど心の 乱るるに  
相馬恋しや お妙見さまよ 離れまいとの つなぎ駒  
手綱さばきも ひときわめだつ 主の陣笠 陣羽織  
野止め駒止め 在郷も町も 今日は破軍の 星祭り  
向い小山の がんけのつつじ およびなければ 見て暮らす  
国見かくれに まだ帆が見えぬ ととを思うて 頬ぬらす  
花を見たくぱ 横川入りに 猿が烏帽子の 岩つつじ 
「相馬盆唄」 (「豊年踊り」)  
福島県の代表的な盆踊り唄。「日光和楽踊り」や「秩父音頭」などと同系統。もとは夏から秋にかけて、「豊年踊り」の名で、田の神さまに感謝しながら唄い踊ったもの。夏から秋にかけて踊るところから、いつしか盆踊り唄に。七七七五調の五文字の前にヤレサの言葉が入るところから「ヤレサ型盆踊り唄」と呼ばれ、山形、福島から茨城、埼玉、群馬にかけて広く分布する。初代鈴木正夫が、唄の節を巧みに改良。「鈴木正夫節」ともいうべき「相馬盆唄」が全国に知られるようになると、古い唄い方はほとんどすたってしまう。  
 
/ 「日光和楽踊り」「秩父音頭」  
 
(ハアヨーイヨーイ ヨーイトナ)  
ハアーイヨー 今年ゃ豊年だよ (ハアー コーリャコリャ)  
穂に穂が 咲いてヨー (コラショー)  
ハアー 道の小草にも  ヤレサー米がなるヨー  
   ハアーイヨー そろたそろたヨ 踊子がそろたヨー  
   ハアー 秋の出穂より  ヤレサーよくそろたヨー  
ハアーイヨー 踊り疲れて 寝てみたもののヨー  
ハアー 遠音ばやしで ヤレサー 寝つかれぬヨー 
「高田甚句」  
会津若松市の西に会津高田町がある。ここに有名な伊佐須美神社が鎮座していて、毎年お盆になると、櫓を囲んで夜を徹して踊り明かす。新潟県下の「越後甚句」が阿賀野川を上り、会津地方に移入され、会津高田町でも唄われた。東隣の町・本郷町に伝わる「本郷甚句」などと同系統。賑やかな笛と太鼓の伴奏が付いていて、その感じは「新潟甚句」などと同じ。  
 
/ 「本郷甚句」  
←「越後甚句」  
 
高田恋しや伊佐須美様よ 森が見えますほのぼのと  
高田下町の石箱清水 飲めば甘露の味がする  
高田永井野の相田(境)の欅(ケヤキ)枝は永井野では根は高田  
わたしゃ高田のあやめの花よ 咲いて気をもむ主の胸  
高田伊佐須美薄墨桜 心堅気で薄化粧  
高田宮川千本桜 八重と一重の水鏡  
高田よいとこ朝日を受けて 北に新鶴舞遊ぶ  
踊りや疲れりゃ高天ケ原よ 草を枕に寝てあかせ  
顔は見えぬど編笠ごしに 主を見初めた盆踊  
花は色々五色に咲けど 主に見かす花はない  
なるかならぬかならないまでも ならぬササギ(ササゲ)に手をくれた  
豆は木になるササギは蔓(ツル)に わたしゃあなたのすきになる  
花が咲いても実のなるまでは どうせこの身も一苦労  
咲いた花より咲く花よりも 咲いてつぼんだ花がよい  
鳴くなちゃぼ鶏まだ夜は明けぬ 明けりゃお山の鐘がなる  
姉もさすなら妹もしゃしゃれ 同じ蛇の目のからかさを  
花の風情をおぼろの月に せめて一差し舞扇  
唄の文句で気を引きながら 文句忘れて袖を引く  
西は追分東は関所 せめて峠の茶屋までも  
笠を忘れた峠の茶屋で 西が曇れば笠恋し  
竹に雀は品よいけれど 切れれば仇のえさし竿  
土手の桜は嵐にもめる わたしゃお前さんで気がもめる  
咲いた花でも嵐がなけりゃ 実る苦労も梨の花  
声もかれたし身もやつれた 皆お前さんの為じゃもの  
串を刺したり化粧をしたり 人に好かれる吊るし柿  
山に木の数野に萱の数 黄金タンポポはせの道  
積もる思いと里への土産 袖に湯花の花が咲く  
ほれているのにまだ気がつかぬ 色気ないのかあほかいな  
主は牡丹でわたしは蝶々 花にうかうか日を暮らす  
蝉と蛍を両手に包み 焦がされり鳴かせたり  
王手飛車手といわれぬうちに 負ける覚悟をするがよい  
先のでようで鬼にも蛇にも なるに神とも仏とも  
炬燵(カガリタツ)やぐらに裃(カミシモ)着せて 四角張ったる旦那さん  
十二単の窮屈よりも 寝巻一つの主がよい 
「本郷甚句」  
江戸時代、本郷(会津本郷町)に鶴川というお酒をつくる業者がありました。年々生産がふえ、新潟方面から酒づくりの人をやとい入れていました。時々、その酒屋の土蔵の中から、越後の人々が歌うにぎやかなおどりの歌が聞こえてくるので、本郷の人はこれをだんだんまねるようになった、というのが本郷甚句のはじまりです。  
 
/ 「高田甚句」  
 
本郷やー 瀬戸やの瀬戸を焼く煙は  
 白くやー焼けてもコーリャァ 黒く立つ  
本郷花瓶に稲穂をさせば 今年しゃ豊年 瀬戸の町 
「青津甚句」  
青津甚句は毎年8月14日に青津・浄泉寺境内で仏の供養として唄い踊られている。かなり古くから伝わるというが、その由来は定かではない。今は保存会の努力で唄や囃子が子供達に伝えられている。甚句とは、江戸時代に始まったとされ、歌詞が7・7−7・5の短詩形をとって1コーラスとなる盆踊り唄や、酒盛り唄のことである。   
 
会津の地名は、3世紀頃、四道将軍の大彦命(オオヒコのみこと)が北陸道から、子の建沼河別命(タケヌナカワワケのみこと)は東山道から遠征して出会ったところが「相津」というと『古事記』に記載されている。「相津」→「会津」→「青津」と考えて見るとあるいは青津が四道将軍の出会ったところは青津だったのかもしれない。  
江戸時代に集落西の丈助橋のたもとに、大きな菜種油の搾油場を作り、その油を鶴沼川から舟や馬で越後に送り、大阪・江戸までも届けた豪商小池丈助のことも忘れることが出来ません。江戸時代、菜種油は灯火の油としてとても大事なものだった。今も丈助の名は鶴沼川にかかる丈助橋や小池野の地名に残っています。  
 
揃たそろたよ おどり子が揃た 稲の出穂より よくそろた  
青津館から 横前見れば つなぎそろえた お米舟  
嫁に来るなら 青津をやめろ 藍とからしで 殺される  
踊りおどらば しなよくおどれ しなのよい娘を 嫁にとる  
音頭とる奴が 橋からおちた 流れながらに 音頭とる  
来り来ないだり 夏堰の水 いっそ来ないなら 来ぬが良い  
月はまんまる 踊りもまるい ぬしとわたしも まるい仲  
月の出会いと 定めて来たが 月は早よ出て 森の中  
「牛沢甚句」  
牛沢甚句は、旧暦7月16日に大徳寺(だいとくじ)境内で仏の供養として歌い踊られてきたが、現在では9月9日に若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)神社境内で行われている。嘉永元年に大徳寺が焼失した際、お寺を再建するために越後から来た棟梁や人工(にんく)によって、越後の甚句がもたらされたといわれている。  
 
←(越後の甚句) 
 
松を見たけりや 牛沢においで 五智の如来の 五本松  
あせとあぶらの しぼりの浴衣 着せて喜ぶ 親心  
いろで迷わす すいかでさえも 中に苦労の たねがある  
恋しなつかし わが出た里は 朝の煙りも なつかしや  
月のまるさと 恋路の道は どこもいづこも 皆同じ  
締めて鳴るのは 太鼓やつづみ いくらしめても わしゃ鳴らぬ  
牛沢よいとこ 豊かな村よ 嫁と姑で 盆踊り  
そろたそろたよ 踊り子がそろた 稲の出穂より よくそろた
「三春盆唄」 (「三春甚句」)  
福島県郡山市の東、田村郡三春町に伝わる盆踊り唄。別名「三春甚句」。サンヤーと唄い始めるこの種の盆踊り唄は、いわき地方に広く分布している盆踊り唄。曲は越後の甚句が会津を通っていわき地方へ移入されたもののようで、三春では盆踊り唄や酒席の騒ぎ唄として、盛んに唄われている。  
 
三春という町名は「梅・桃・桜の花が一度に咲き、三つの春が同時に来るから三春と呼ばれるようになった」と、一般に言われている。また、南北朝時代に「御春」と書いた記録があるとのこと。  
三春盆踊り  
三春の盆踊りは、県内でも特に盛んで、かつては盆の期間中はもとより、八月を盆の月として、十三夜盆・二十日盆・二十三夜盆・地蔵盆・晦日盆等々約半月に渡り三春各地で盆踊りが盛大に繰り広げられてと伝わっています。三春盆踊りが、もっとも盛んだったのは大正期で、時間の規制などなく朝方まで踊り明かしたと伝えられ、宗教的要素よりは、娯楽として三春町民の楽しみであったといいます。  
三春盆踊りの起源は、室町期の時衆念仏踊り説や参勤交代で三春藩士が江戸で習い覚えた説など、はっきりしていません。大正期が最盛期というのは、三春経済の発展や遊郭の遊女や芸者の参加、そして若い男女の出会いの場などの要因が重なり合って盛り上がったと考えられています。唄は七七七五調で、かつての三春甚句音頭取りは、熟練の強者が多く居まして、その場その場で即興唄を作り上げ、音頭取りと踊り手の掛け合いで踊りがおこなわれたといわれます。  
旧暦のお盆十四日から十六日が新町と八幡町、十七日が北町、二十日が荒町、二十四日が新町一時地蔵等、月末まで連日盆踊りが開催されていましたが、社会情勢の変化、娯楽の多様、観光化による失敗、各若連の統率不足など紆余曲折の中で縮小傾向にあります。現在は三春観光盆踊りとして、各地区太鼓保存会を組織して、帰省客の帰り足となる8月15日16日に、大町お祭り広場で開催されています。山郷の盆踊りも青年団の解散などで、澤石・斉藤地区など一部を除いて消滅して仕舞いました。  
最盛期、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。同じ、地蔵盆では、州傳寺の「一時地蔵尊祭」と天澤寺の「身代わり地蔵尊祭」と重なって近郷近在からたくさんの踊り子が来場しました。また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。  
 
←(越後の甚句)  
 
サンヤー私ゃ三春町 (ハ ヨイヨイ)  
五万石育ち (チョイサット)  
サンヤお国自慢の (ハ ヨイヨイ)  
アラホンニナー盆踊り (チョイサー チョイサト)  
   サンヤー月の灯りに 山道越えて  
   サンヤ唄で三春に アラホンニナー駒買いに  
サンヤー晴れた夜空に 太鼓が響く  
サンヤ三春娘の アラホンニナー盆踊り  
   サンヤーお月様さえ 雲からのぞく  
   サンヤ三春甚句の アラホンニナー笛太鼓
「長持歌」  
 
これでナ別れか お名残り惜しいョ ながのナお世話に なりましたョ  
たんす七棹(さお) 長持八棹 持たせてやるぞ 花嫁ご  
たんす長持 持たせてやるに 帰るものとは 思うなよ  
さらば行きます ふた親様よ あどを頼みます 兄姉様よ (門おくり)  
今日は日もよい 天気もよいし 結び合わせて 縁となる (途中)  
受けとりましたよ この長持を 二度と返さぬ 里方へ  
このや長持 受けとるからは 台場石腐るとも 返しゃせぬ (ご門迎え) 
「麦つき歌」  
 
麦もつけたし 寝ごろも来たし 卜ー卜  
うちの親たちや コリャ 寝る寝ろと トートット  
   思い直して 〔コラショット〕  
   添う気はないかョ 〔コラショット〕  
   鳥も枯木に 〔コラショット〕  
   アノ ニ度とまるナ 〔コラショット〕  
麦をつくるなら 七日八日 三日四日は 誰もつく  
麦をつくなら 男とつきゃれ 男力で 麦の皮むける  
ついてお手伝い する気で来たか つかぬ気ならば そばにも寄るな  
相馬よいとこ 女の夜なぺ 男極楽 寝て待ちる  
夜麦つきして なにとくとれる 朝寝するだけ とくをする  
麦つぎ帰りに 東を見れば ほんにすごいこっちゃ 鶏の声  
からみついても 油断はならぬ 若木枯らして またよそに  
南はずれの 色白リンゴ ひとつ落として 味みたい  
思って三年 見染めて四年 文のやりとり 去年から  
うちのとうちゃん かぼちゃの性で 隣りの分まで 手を伸べる  
おめらほではやんねが おらほではやる 麦つき帰りの 杵枕  
今夜の麦つき だまり虫揃うた よくも集めた こちのかかあ 
「神長老林節」  
 
オーイ おらが相馬の ホイ  
カンチョロリン節はヨー  
おごらの舟 かんちょろりん  
和子らのノーノサイ かんちょろりん トッテンチロリン チンチロリンノ  
シャーン シャン ホーイホイ  
とんび山で鳴け からすは浜でヨ 里でにわとり 時つくれヨ  
お前とんびか 烏でないかヨ 共に社の 森で鳴けヨ  
なくな烏コ さわぐなとんびヨ おらやのわらしこ 目をさますヨ  
お前とんびに 油揚さられヨ 私ゃからすに 餅取られるヨ  
「伊達甚句」  
 
ハァ東雲山西吾妻山北に黄金の半田山半田山  
 (寄らんしょナイ来らんしょナイそうだナイ本当にナイまた来てくなんしょナイ)  
ハァ伊達の梁川と保原の街道万に一つの坂もない坂もない  
ハァあなた飯坂わしゃ湯の町よ仲をとりもつ十綱橋十綱橋  
ハァ伊達の霊山すすきが招く昔しのんで紅葉狩紅葉狩 
「相馬酒盛り甚句」
「相馬さんさ時雨」
「相馬浜甚句」
「安積甚句」「安積守屋甚句」 (あさかもりやじんく)   
福島県の民謡。郡山市安積周辺で歌われる盆踊唄。安積守屋甚句に言い伝えがある。時は天正年間のこと、当時集落内には一軒の掛け茶屋があった。そこには「おさよ」と呼ばれる一人娘が住んでいた。おさよは稀に見る美人で気立てもよく、旧長沼街道を通る旅人達に唄を聞かせたり、村の若者達に伝授したりしていた。そんな折、舘主の奥方が急死する。悲嘆にくれた舘主はおさよと村人達を集め、一晩中お棺の周りで踊り、心を込めて野辺に送り埋葬した。それ以降、仏を供養する行事として、今日まで永く受け継がれてきた。  
 
宗泰は通夜の晩に領内の踊り上手の娘や村人を多数呼びだし、一晩中棺の周りで歌い踊らせながら嫁を見送った。この時に踊った踊りは守屋甚句と呼ばれておったが、現在は「安積甚句」と呼ばれ伝承されておる  
   (安積甚句の一節)  
   会津磐梯山は おらの方の山よ よそでみるより器量よい 
「瀬上節」 (「瀬上甚句」)  
 
←「羽黒節」  
 
 
 

北海道青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県

関東

 

日光街道 (日光道中)  
日光道中が正式名です。古代の東山道は陸奥国の多賀城が終点であった。(仙台市東方)しかし秋田までの連絡道が通っており、秋田までの道路は開発されていた。奥州街道としては中世には江戸城をから三ノ輪、隅田川を越して千住へ出ていた道があった。江戸時代には千住大橋ができたが、千住から現在より東方の八潮市、八条から柿の木、大相模から越谷宿へ入っていたとのことである。日光東照宮ができた頃ほぼ日光道中の道筋が確立した。元和3年(1617)東照宮完成により宇都宮から日光に至る道を日光道中と呼び宇都宮から白河に至る道が奥州道中と呼ばれるようになった。白河から先は幕府の管轄でなく各大名の管轄の道とした。日光街道には例幣使街道、御成街道、壬生道など脇街道がある。総延長 日本橋から鉢石まで36里3町2間 (141.6km)。  
[日本橋]〜千住宿〜草加宿〜越谷宿〜粕壁宿〜杉戸宿〜幸手宿〜栗橋宿〜中田宿〜古河宿〜野木宿〜間々田宿〜小山宿〜新田宿〜小金井宿〜石橋宿〜雀宮宿〜宇都宮宿〜徳次郎宿〜大沢宿〜今市宿〜鉢石宿〜[日光]  
日光壬生道  
日光街道(道中)を小山の喜沢の追分で分岐し、壬生、楡木、鹿沼、文挾、などを経由して今市で再び日光街道と合流する道です。小山宿から今市宿まで12里27町(約50km)と、日光街道より1里10町(5km)ほど短くてすむことから日光に行く人には大いに利用されていました。慶安4年(1651)に亡くなった三代将軍徳川家光の遺骸を江戸から日光に改葬するときはこの壬生道を通ったこともあって、道中奉行の管轄下に置かれるようになった。公式の将軍の日光社参は、往路は日光街道を使用し、帰路はこの壬生道を通ったという。そして日光街道の西を通ることから日光西街道とも呼ばれた。宿場は 飯塚、壬生、楡木、奈佐原、鹿沼、文挟、板橋の7宿あった。  
[日光街道・小山宿(喜沢追分)]〜飯塚宿〜壬生宿〜楡木宿〜奈佐原宿〜鹿沼宿〜文挟宿〜板橋宿〜[日光街道・今市宿] 
日光御成街道 (岩槻街道)  
日光街道の脇街道。将軍が日光に詣でるときは、町民が通る日本橋を避け江戸城大手門を出て、途中で中山道に合流し、本郷追分から分岐し幸手宿で日光街道と合流する。岩槻街道ともいう。中世以来の鎌倉中道を利用しており、江戸時代に将軍の通る重要な街道として整備された。岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻の各宿を通り幸手宿までの13里30町(約51km)の距離。  
[中山道・本郷追分]〜岩淵宿〜川口宿〜鳩ヶ谷宿〜大門宿〜岩槻宿〜[日光街道・幸手宿] 
日光例幣使街道  
徳川家康の没後、朝廷は日光東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)を使わした。その例幣使が通った街道をいう。京から中山道を通り、倉賀野宿で中山道と分岐し、楡木(にれぎ)宿にて壬生街道(日光西街道)と合流して日光へと至る。 楡木より今市までは壬生街道と共通の道を通る。この間に宿場として楡木まで、玉村、五料、柴、木崎、太田、八木、梁田、天明、犬伏、富田、栃木、合戦場、金崎 の13宿が置かれた。距離は約90km。  
[中山道・倉賀野宿]〜玉村宿〜五料宿〜柴宿〜木崎宿〜太田宿〜八木宿〜梁田宿〜天明宿〜犬伏宿〜富田宿〜栃木宿〜合戦場宿〜金崎宿〜[壬生街道・楡木宿] 
奥州街道  
天正18年(1590)八朔の月江戸に家康が入るが、そのころの江戸の状態は、葦が高く茂り田畑も多くなく、奥州街道は江戸の館の前を通って上野動物園から三ノ輪の方へ通じていた。文禄3年(1594)千住大橋が架かり日光東照宮が完成した頃、日光道中が成立し日本橋から宇都宮を経由し日光に至る街道が日光道中と呼ばれ、宇都宮から先白河に至る道だけが奥州街道と呼ばれるようになった。白河までは幕府が管轄し、白河から先は各大名の管轄であった。総延長宇都宮から白河まで21里18町14間半(85.1km)。  
[日光道中・宇都宮宿]〜白沢宿〜氏家宿〜喜連川宿〜佐久山宿〜大田原宿〜鍋掛宿〜越堀宿〜芦野宿〜白坂宿〜[白河宿] 
 

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「日光和楽踊り」  
大正2年、大正天皇、皇后両陛下が日光へ御幸されたときに、それまでの盆踊唄を「日光和楽踊り」と名前を変えて天覧に供したのが始まりとされる。なぜ、名称を変えたか・・・「盆踊」は風俗的なものとして禁止されていたので、それを陛下がご覧になるわけに行かず、名称を変えたとか。  
 
日光和楽踊りは、古河電気工業日光事業所の中で行われます。この事業所は、古河鉱業日光電気精銅所として明治39年に創業開始。和楽踊りで「日光よいとこ お宮と滝の中は 和楽の精銅所」という唄が示すとおり、場所は有名な東照宮と華厳の滝の間に位置しています。  
日光には、大正天皇の静養のために建てられた田母沢御用邸があり、天皇家とゆかりがありました。そして、大正2年9月6日、精銅所は、天皇行幸の誉れを得ます。これは、当時の民間工場としては、前例のないことであり、日光町の散髪屋をすべて動員して工員の散髪を行い、作業着のみならず下着まで新しいものを交付する念の入れようでその日を待ったといいます。御前操業には100名が選ばれましたが、あまりの緊張にいつご覧になられたかも気がつかなかったそうです。翌、9月7日には突如の皇后行啓も実施されました。  
そんな緊張感に満ち満ちた行幸啓も無事に終了。その夜、当時の鈴木恒三郎所長が、玉座となった事務j所の裏の小庭園に、所員一同を集めて、祝宴を開きました。その宴もたけなわの折、感極まって「踊ろうではないか」という者があり、それに応じて1名の老婆がいい声をはりあげて、音頭をとり、皆はそれにあわせて踊りだしたといいます。これがそもそもの始まりです。  
翌年、記念祭を企画を任された佐竹経理課長は、前年の夜のできごとを思い出し、踊りを取り入れることを発案します。ところが、当時県では、「盆踊りは風紀上好ましくない」と厳禁していました。今では、考えられないことですが、盆踊りは、男女が入り乱れて集団となることや、歌詞が卑猥などの理由から室町時代以来、江戸、明治を通じて何度も禁令をうけてます。  
そんな反対意見があるなか、鈴木所長は「精銅所の名誉にかけても模範的な健全娯楽にしてみせると」知事に約束し、普通の盆踊りと区別するために「和楽踊り」と名づけて、ついに踊りが実施されました。  
和楽とは、当時の精銅所精神の3項目のうちの1つ、「協同和楽の精神」からとられています。これは、理念先行で作られたというより、創業以来の積み重ねてきたよい点を、集約したものということで、そこで謳われている和の精神が、踊りの命名にもこめられています。  
 
/ 「相馬盆唄」「秩父音頭」  
 
はぁえ 日光名所は 朱塗りの橋よ  
下を流るる (コラショ) ヤレサヨー 大谷川〈だいやがわ〉  
(ハァ ヨーイヨーイヨイトナ)  
   はぁえ 日光街道の 並木を行けば  
   風がそよそよ ヤレサヨー 夏知らず  
はぁえ 一目見せたや 故郷の親に  
和楽踊りの ヤレサヨー 伊達姿  
   はぁえ 和楽踊りに 娘を連れて  
   力こぶある ヤレサヨー 婿えらみ  
はぁえ 北は男体〈なんたい〉 南は筑波  
中をとりもつ ヤレサヨー 宇都宮  
   はぁえ 八汐つづじは 春咲く花よ  
   和楽踊りは ヤレサヨー 夏の花  
はぁえ 日光名物 数々あれど  
和楽踊りは ヤレサヨー 日本一  
   はぁえ チラリチラリと 並木の杉の  
   渡り鳥かよ ヤレサヨー 暁の空  
はぁえ 山はしぐれる 河原は暮れる  
朱の紙橋が ヤレサヨー ほのぼのと  
   はぁえ 主が情けで 深山の雪も  
   解けて流れて ヤレサヨー 幸の湖〈さちのうみ〉  
はぁえ 山は男体 水清滝の  
和楽踊りは ヤレサヨー 精銅所  
   はぁえ 親子兄弟 皆出て踊れ  
   家じゃ猫めが ヤレサヨー 留守居する  
はぁえ 踊りつかれて 堤に休みゃ  
櫓太鼓が ヤレサヨー また誘う  
   はぁえ 踊りは下手でも 仕事は上手  
   下手で職工さんが ヤレサヨー 勤まるか  
はぁえ 丹勢山から 精銅所を見れば  
銅〈かね〉積む電車が ヤレサヨー 行き来する  
   はぁえ 踊り踊れよ たたけよ太鼓  
   月の世界に ヤレサヨー とどくまで  
はぁえ 日光街道を シャンシャン鈴音  
馬子〈まご〉は嫁頃 ヤレサヨー 紅緒笠〈べにおがさ〉  
   はぁえ 汽てき鳴るのに 隣じゃ起きぬ  
   起きぬはずだよ ヤレサヨー 新所帯 
「花づくし」(「神輿甚句」)  
真岡の夏まつり / 「花づくし」「花ごのみ」などの名で各地で歌われている。歌詞は1月〜11月の花の名前が入っており、これは「花札」の絵柄通りになっています。最後の”小野どうふうじゃないけれど、蛙見つめりゃ切がない”は、小野道風「(おののみちかぜ/とうふう(平安時代の貴族・能書家」が絵柄になっている人物でした。自分の才能のなさに自己嫌悪に陥り、書道をやめようかと真剣に悩んでいた時に、ある雨の日散歩に出かけていて、柳に蛙が飛びつこうと何度も挑戦している蛙を見て「蛙はバカだ。いくら飛んでも柳に飛びつけるわけないのに」とバカにしていた時、偶然にも強い風が吹き発心し、柳がしなり見事に飛び移れたそうです。これを見た道風は「バカは自分だ。蛙は一生懸命努力をして偶然を自分のものとしたのに、自分はそれほどの努力をしていない」と目が覚めるような思いをして、その後血を滲むほどの努力をするきっかけになったということだそうです。  
 
せぇ〜 さてはこの場の 皆様方よ  
年の初めの新玉の  
松を楽しむ正月や  
二月に咲いたる梅の花  
三月盛りの八重桜  
四月上から下がり藤  
五月の梅雨に咲く花は  
菖蒲名代に杜若(かきつばた)  
六月牡丹に蝶が舞う  
七月野原に咲く萩に  
照らす八月たもと脱ぎ  
心地よく見る九月菊  
十月紅葉に鳴く鹿の  
十一月の垂れ柳  
小野道風じゃないけれど  
蛙見つめりゃ切りがない  
「野門甚句」  
栃木県日光市大字野門(のかど) / 平家落人の伝説と温泉で知られる栗山村の9つの集落には、寄棟、茅葺屋根の農家が分布している。とくに野門地区はわずか18戸であるが、道の両側に典型的栗山農家が軒を連ねる。軒を出桁で支え、土間上部の構造を三重梁とするのがこの地方の農家の特色である。  
「篠井草刈り唄」  
宇都宮市の北端にある篠井。榛名山を望む眺望が美しく、宇都宮市内とは思えないほどのどかな景色が広がる農村地帯です。今も昔とさほど景色は変わらないと聞きましたが農家の人々の営みは戦後大きく変化しました。たとえば、昔この地域は水の便が悪く、梅雨期の6月でないと 天水が確保できなかったため、田植えも6月頃だったそうですが昭和30年代中頃になると、電力で揚水できるようになり田植えの時期も早くなりました。そして、もうひとつ大きく変わったものそれは、農業機械の登場です。ここに限らず、戦後あたりまで農村部では馬が大事な労働力でした。今のように農耕機械はありませんでしたから、田の代掻きには馬に器具を引かせたり、荷物の運搬にも利用したりと、人の暮らしに馬は欠かせなかったのです。よく古い集落に馬頭観音や勝善神などの石像が見られますが大切な馬を手厚く供養したことが伺えますね。戦前までの農家は、家の一角に馬のスペースがあって人々と馬は一つ屋根の下で暮らしていたといいます。その頃、春から夏にかけて人々は草刈りにいそしみました。この草刈りは、今のように邪魔な雑草を刈るというものではなく、大切な馬の飼料であり、畑の堆肥に使うための草の調達でした。だから、皆先を競うように朝早くから山へ草を刈りに行ったのです。人々は馬を連れて行き、帰りには馬の背に刈った草を積んでいきました。その道中に馬を引きながら人々が唄った道中唄、それが「草刈り唄」です。 人々がきままに、思いつくままに口ずさんだもの、きちんとした歌詞やメロディがあったわけではありません。 
金堀唄はかつてこの地域で金が掘られていた時期があって、当時新潟あたりから鉱山技師の人々がやってきたと伝えられています。金堀唄もそうした土地の歴史を伝える唄です。 
 
くもりゃくもらんせ がんがら山よ どうせ篠井は見えやせぬ  
わしと行かぬか 朝草刈りによ 草のない山七めぐり  
いくらかよても 青葉の山よ 色のつく木はさらにない  
朝の出がけに どの山見ても 霧のかからぬ山はない  
馬の背にのり 朝草刈りによ 唄で山路を越えて行く  
いきな小唄で 草刈る主よ お顔見たさにまわり道  
草刈り負けたら 七ぼら八ぼら それで負けたら鎌を研げ  
篠井山なか 三軒屋でも 住めば都で花が咲く  
嫁に行きたや 篠井の里によ 夫婦そろうて共がせき  
娘十八 篠井の育ち 腕におぼいの手うちそば  
お前百まで わしゃ九十九まで 共に白髪の生えるまで  
「篠井の金堀唄」  
ハ ハッパかければ切羽がのびる 延びる切羽が金となる ハーチンチン  
ハ 曇るがんがら宝の山よ 星に黄金が流れ出る ハーチンチン  
ハ 佐竹奉行は己等の主よ 恵みあつきで精が出る ハーチンチン  
ハ 右に鎚持ち左に打金 一つ打つ度火花散る ハーチンチン  
ハ 抗夫さんなら来ないでおくれ 一人娘の気をそそる ハーチンチン  
ハ 夫婦揃って黄金掘れば 女房笑顔で背負い出す ハーチンチン
「馬方節」 (那須塩原)  
 
/ (作業唄) 
 
ハァー 奥のばくろうさん どこで夜が明けた  
ハァー どってばかけだす うわきなたしょだよ ハィーハィー  
ハァー 二十三坂 七曲り  
ハァー もらった馬でも 関東に引き出しゃ 十五両二分だよ ハィーハィー  
ハァー うすい峠のごんげん様よ わしのためには守り神  
ハァー 七ツ八ツ引く親方よりも 一つ手引きがわしゃかわい  
ハァー 馬よ泣くなよもう家ゃ近い 森の中から火が見える  
 
 
 
 
 

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「木崎節」 (「木崎音頭」)  
木崎音頭、戦前は木崎節と言われ、夏の盆踊りに唄われました。手ぬぐいで頬かぶりし、うちわで顔をかくし、「雨が3年日照りが四年」と囃子に合わせて唄われ、一節歌うことに一廻りして次の文句を歌う流調な節回しでした。日光例幣使道通行の際に大勢の若者が宿泊を余儀なくされ、旅籠屋ができ遊興の地となり、越後から多くの子女が奉公という名目で身売りされ飯売女として苛酷な生活をしいられました。彼女たちはこのさびしさから、故郷や家族をしのび、宴席で子供の頃覚えた歌を歌ったのが木崎節の始まりと言われています。当時の歌詞は卑俗でしたが、戦後東京音頭が全国にヒットしたことから音頭と付く歌がはやり、その流れで木崎音頭へと変わり、踊りの振り付けや歌詞も昔からの節廻しを失ってしまいました。  
八木宿で生まれた堀込源太は木崎節を風土に合わせた威勢のよい節に替えて、生地の八木をとって八木節としたと伝えられています。源太は「源太一座」を組織し、周辺各地で興業し好評を博したといわれています。木崎節が八木節の元唄であることは、多くの民謡研究家にも認められています。  
 
「木崎木の中、山の中、八木と梁田を向こうに廻し、音に聞こえし女郎屋宿」  
例幣使街道屈指の宿場町であった木崎の宿は、明治の初め頃まで、女郎(遊女)屋の街として有名だった。遊女たちの多くは、年期で売られてきた越後生まれの若い女性達で、「格子なき牢獄」といわれた遊郭に身を沈めて、時として望郷の念に誘われて歌ったのが、かつて慣れ親しんだ故郷の盆踊歌の越後口説きであった。それがいつの間にか遊郭に遊ぶ馬子や旦那衆、職人、若者といった土地の人に伝えられて歌い踊られるようになって、やがて木崎音頭となったのだという。口説き節の起源は死者を供養するための盆歌であり、特有の湿っぽいリズムを持ち、テンポは遅く、踊りも単純でほとんど手踊りが多かったというが、上州に入って南下するにつれ、テンポが速まり、高低の差が付けられ、威勢のよい祭り歌になり、玉村の「横樽音頭」、境の「赤椀節」「木崎音頭」を経て、「八木節」を生んだというのである。ちなみに「八木宿」を中心に歌われた口説き節が八木節の原型だが、八木宿というのは太田と梁田のあいだにあった宿で、現在の足利市福井町であるという。宿の入り口と出口の両側に2本ずつ8本の松があったので八木宿と呼ばれたのだという。  
 
古い木崎音頭は猥褻な歌詞である。  
いずれも、哀れな女郎(遊女・飯盛り女)が、身の不運を歌った恨み節と受け取られそうだが、実際は、女郎の境遇を外側から揶揄しているように思われる点から判断すると、むしろ女郎の境遇に同情的でない男性が、色街の祭りのために歌った春歌の類であったと考えるのが正しいと思う。表面上は女郎達の悲惨な状況を語っているように思われるが、その実、女郎達を蔑み、と同時に、卑猥な言葉を多用することによって、祭りに性的な雰囲気を付与し、禁欲であれと要求する儒教道徳のくびきから自らを解放することを狙っていたのではなかったか、そんな気がする。  
穢れを押しつけられて流される雛人形を見送るように、女郎達の悲惨な境遇が歌われるのを聞くことで、おそらく村娘達は女郎に自らの不幸を押し付け、厄除けをしたような晴れ晴れした気分になって、祭りに参加するできたに違いない。この歌を聴き、女郎に生まれなかった自らの幸せをかみ締めながら、踊りを踊っているうちに、村娘たちの体に情欲の炎が点り、次第に、現実を受け入れ、男達を受け入れる用意ができたのだろう。歌の持つ猥雑さは、そのまま生きている者たちの本能の猥雑さであり、祭りはその猥雑さを引き受け、高らかに歌い上げる事で、生命の祭りへと転化する。祭りは、生の解放であると同時に、謂うまでもなく、性の解放であった。  
木崎音頭は、女郎の悲惨な境遇を歌ったものではあっても、その境遇に同情してエールを送ろうとしているものではなかった。「2朱や3朱でだき寝をされ」る遊女は、たとえ『夢の心地』でいようとも、『針の山』以外に行き先を持たない哀れな存在であるというように、女郎達を断罪し、侮蔑しようとする魂胆が見え隠れしているのである。遊女が性を提供しなければならなかったように、村の女性の多くは労働力の提供者でなければならなかった。どちらがより幸福か、という問題の答えは決して単純ではなかったに違いない。同じように哀れだとはいえ、性を商品として提供している以上、遊女の哀れさは農村女性と同じではなかった。白粉を塗り、紅をさし、労働を免除され、多少なりとましな着物を着ることができた女郎は、村人達にとっては、侮蔑の対象である以上に、妬みの対象であったろう。従って、村人達が、自らの現実を受け入れ、寿ぐためには、女郎を徹底的に不幸だと考える必要があった。  
女郎たちは嫌々ながら性を売っているのだ、彼女達の性行為は自分達の性行為とは異なり、苦役でなければならないはずだ。歌の目的は、露骨な言葉で若者達の本能をくすぐるという一面を持つだけでなく、色街で行われている金にまみれた性を徹底的に否定することで、売淫ではない村人たちの垢抜けしない性の肯定、言い換えれば自分達の真っ当だと信じた生活を肯定しようとしたのだろう。外見の悲惨さにも拘わらず、金と太鼓と横笛の囃子でにぎやかに飾られた木崎音頭は物語性を持ち、女郎達の生きた現実との乖離は著しい。  
実際、悲惨なのは女郎ではない。当時、人々は許されていた唯一の愉楽であった性の交わりを管理・支配しようとする儒教道徳に漸く屈し、貞節という観念に寄りかかることなく性の愉楽を享受することができなくなるほど窮迫し、弱体化していたのだろうか。女郎達に対する過度の侮蔑や敵意に満ちた言葉をはかなければならなかった裏側には、彼女達に対するどうしようもない羨望がへばり付いていたのである。本当に悲惨なのは、自分を何とか納得させるために、こうした自虐的な歌を歌わなければならなかった屈折した村人の心であったはずである。  
■ 
←「新保広大寺くずし」 
→「八木節」 
 
蒲原郡柏崎在で 小名をもうせばあかざの村よ 
雨が三年ひでりが四年 都合あわせて七年困窮 
新発田さまへの年貢に迫り 姉を売ろうか妹を売ろか 
姉ははジャンカで金にはならん 妹を売ろうと相談なさる 
妹売るにはまだ年若し 年が若くば年期を長く 
五年五ヶ月五五二十五両 売られ来たのが木崎の宿よ 
売られてきたのはいといはせねど 顔も所も知らない方に 
足をからむの手をさしこめの  
五尺体の五寸のなかでもくりもくりとされるがつらい・・・  
 
木崎街道の三方の辻に  
お立ちなされし色地蔵さまは  
男通ればにっこり笑う  
女通れば石とって投げる  
(国は)越後蒲原ドス蒲原で  
雨が三年、日照りが四年  
出入り七年困窮となりて  
新発田様へは御上納ができぬ  
田地売ろかや子供を売ろか  
田地は小作で手がつけられぬ  
姉はジャンカ(不器量)で金にはならぬ  
妹売ろとの御相談きまる  
妾しゃ上州へ行ってくるほどに  
さらばさらばよお父さんさらば  
さらばさらばお母さんさらば  
新潟女衒にお手々をひかれ  
三国峠のあの山の中  
雨はしょぼしょぼ雉るん鳥や啼くし  
やっと着いたが木崎の宿よ  
木崎宿にてその名も高き  
青木女郎屋というその家で  
五年五か月五二十五両  
永の年季を一枚紙に  
封じられたはくやしはないか
(越後口説) 
アーエー木崎音頭を読み上げまする 
越後蒲原郡柏崎在で 雨が三年日照が四年 
都合合わせて七年困窮 新発田様への年貢に困り 
娘売ろうか田地を売ろうか 田地は子作で手がつけられぬ 
娘売ろうとの相談きまる 姉にしようか妹にしよううか 
姉はじゃんかで金にはならぬ 妹売ろうとの相談きまる 
五年五ヶ月五五二十五両で 明日は売られて行く身のつらさ 
さらばととさん かかさんさらば さらば近所の皆さんたちよ 
売られ売られて木崎の宿へ 
音に聞こえた江州屋とて あまた女郎衆の数あるなかに 
器量よければ皆客さんが われもわれもと名ざしてあがる 
どこの野郎か知らない野郎に 毎夜毎夜の抱き寝のつらさ 
つらさこらえて ごりょうがんかける 
お願いかけますお地蔵さんへ このや地蔵さんの由来を問えば 
木崎宿には名所がござる 上の町から読み上げまする 
上の町にはお薬師様よ 中の町には金毘羅様よ 下の町には明神様よ 
木崎街道の三本の辻に お立ちなされた色地蔵様は 
男通れば石持って投げる 女通ればにこにこ笑う 
年増通れば横むいてござる 娘通れば袖ひきなさる 
これがやあ ほんとの色地蔵様か ヤーエー  
「木崎音頭」 
(旧謡) 
北に赤城峰南に利根よ ひかえおります木崎の宿よ 
此のや街道の三方の辻に お立ちなされし石地蔵様は 
男通れば石を取って投げる 女通ればにこにこ笑う 
これがほんとの色地蔵様よ 色に迷って木崎の宿に 
通う通うが度かさなれば 持った田地も皆売払い 
娘売ろとの相談となる 姉を売ろうか妹を売ろか 
姉はあばたで金にはならぬ 妹売ろとの相談きまる 
売られ買われて木崎の宿は 仲の町なる内林様へ 
五年五ヶ月五五二十五両 つとめする身はさてつらいもの 
夜毎夜毎にまくらをかわし 今日は田島の主さん相手 
明日はいずくの主さんなるや 返事悪けりゃあのばあさんが 
こわい顔してまたきめつける 泣いてみたとて聞いてはくれず 
客をだましてその身を売って 情けかけぬが商売上手 
わたしゃ貧乏人の娘に生まれ かけし望みも皆水の泡 
金が仇の此の世の中に 金がほしいよお金がほしや 
二朱や三朱で抱寝をされて いやな務もみな親の為 
上る段梯子もあの針の山  ・・・ 
金が仇のこの世の中よ 金が欲しいよお金が欲しい 
二朱や三朱でだき寝をされて 歯くそだらけの口すいつけて 
足をからめの手をさしこめと 組んだ腰をゆりうごかして 
夢の心地に一人いる 上る段梯子は針の山  
 
ハアーエ御免こうむり読み上げまする 雨が三年日照りが四年 
雨が三年日照りが四年 都合ききんが七年続き 
田地売ろうか娘を売ろうか 田地は小作で売るこたてきぬ 
田地は小作で売るこたできぬ 娘売ろうと相談かけりゃ 
姉を売ろうか妹を売ろか 姉はあばたで金にはならぬ 
姉はあばたで金にはならぬ 妹売ろとの相談きまる 
売られ買われて木崎の宿の 仲の町なる内林さまへ 
仲の町なる内林さま 五年年季で五五二十五両 
つとめする身はさてつらいもの つとめする身はさてつらいもの 
夜毎夜毎に枕をかわし 今日は田島の主さん相手 
明日はいずくの主さんなるや 返事わるけりゃあのばあさんに 
返事わるけりゃあのばあさんが こわい目をしてまたきめつける 
泣いてみたとて聞いてはくれぬ 客をだましてお金を取って 
客をだまして娘を取って 情けかけぬが商売上手 
わたしゃ貧乏人の娘に生まれ かけし願いもみな水の泡 
かけし望みもみな木の泡 金が仇の此の世の中に 
金が欲しいやお金がほしや 二朱や三朱で抱き寝をされて 
上るやー段梯子もあの針の山だーやー  
 
北に赤城峰 南に利根よ ひかえおります木崎の宿よ 
此のや 街道の三方の辻に お立ちなされしお地蔵さまは 
男 通れば石 とって投げる 女通れば ニッコと笑う 
これが ホントの色地蔵さまよ 
色に迷って木崎の宿に 通う通うが度重なれば 
もった田地もみな売り払い 娘売ろとの相談となる 
姉を売ろうか妹を売ろか 姉はあばたで金にはならぬ 
妹売ろとの相談決まる 
売られ買われて木崎の宿は 中の町なる内林様よ 
五年五ヶ月五五二十五両 務めする身はさて辛いもの 
夜毎夜毎に枕をかわし 今日は田島の主さん相手 
明日はいずくの主さんなるや 
返事悪けりゃあの婆さんが こわい顔してまたきめつける 
泣いてみたとて聞いてはくれぬ 客をだましてその身を売って 
情けかけぬが商売上手 わたしゃ貧乏人の娘に生まれ 
かけし願いもみな水の泡 
金が仇のこの世の中で 金が欲しいやお金が欲しや 
二朱や三朱で抱き寝をされて いやな務めもみな親のため 
上がるや〜段梯子もあの針の山だが〜や〜 
「八木節」  
栃木・群馬・埼玉県の民謡で、盆踊り唄。新潟県の「新保広大寺」が醤油職人たちによって例幣使街道の宿場に伝えられたもの。八木節は、栃木県足利市、群馬県桐生市・太田市を中心とした地域で生まれ、育まれた民謡である。 
八木節の発祥については諸説あるが、通説は現在の栃木県足利市にあった八木宿において、初代堀込源太(本名渡辺源太郎)が歌っていた歌がそのルーツであると考えられている。八木節の名称は、八木宿にちなむ。当初は渡辺の名から「源太節」と呼ばれてきたが、1914年(1913年説あり)に日本蓄音機商会でレコーディングされる際に命名された。 
群馬県側では、八木節の起源は八木宿と同じ例幣使街道にある木崎宿で歌われてきた木崎節であるという。「日本民謡集」(町田嘉章、浅野建二)はこの説をとっている。このほか、江戸時代末期に流行した口説き節が起源という説もある。 
一方、郷土史家の台一雄は、八木節の起源は古くから八木宿の近くの集落で古くから使われていた盆踊り歌の神子節で、これに他地域の民謡(木崎節も含む)の特徴が若干混ざったものだと主張した。台は著書「八木節その源流をさぐる」で、従来の木崎節起源説と口説き節起源説を否定している。  
 
徳川幕府時代(天保4年三代将軍家光時代)朝廷より日光東照宮に幣帛(へいはく/供物)が送られるようになりました。この例弊使一行が木曽街道から碓氷峠を下って高崎市倉賀野で中仙道と分かれて、玉村町より五料、柴、木崎から太田市を過ぎると栃木県足利市(八木宿)に入り金崎までの92kmを日光例幣使街道といい、日光裏街道に合流して東照宮に向かいました。この日光例幣使街道は13の宿場からなり、国別に分けると上州(群馬県)5宿、野州(栃木県)8宿に分かれていました。この街道の各々の宿場には本陣という宿泊・休憩所があり、格式の高い公卿・大名は皆この本陣に泊まることになっていました(太田宿は橋本家)。 
三代将軍家光の代に参勤交代制度が定められ、江戸屋敷での勤務が終わると、日光東照宮へ参詣して帰国する諸大名が多くなり、この日光例幣使街道も関東以西の諸大名が利用するようになり、街道筋の各宿場は自ずと活気に満ちてきました。 
太田宿の西の各宿場で働く人々の中には、遠く越後の柏崎・出雲崎方面から女衒(ぜげん)達によって出稼ぎに来た人々がたくさんいました。江戸中期1680年頃、太田宿の西隣にあった木崎宿にも30数件の旅籠(妓楼)があり、そこに働いていた越後の遊女「さよ」という美声の女性が故郷を偲んで歌った「くどき節」が土地の人々に好かれ、愛されて盆踊り歌(後の木崎節/現在の木崎音頭)となり、木崎宿を中心に各地、各宿場で盛大に唄われるようになりました(「さよ」という女性については確たる資料はありませんが、広大寺くずしと推測しており、木崎節の元唄としています)。 
この他に新保広大寺くどき節を各地に伝播したのは、何といっても「越後ごぜ」の方たちです。三国峠を越え、上州で唄われた越後節が、石投音頭、横樽音頭、木崎音頭から八木節へと唄い変えられてきたのです。 
西へ向かった彼女たちは、親不知を通り抜け富山県下に入り、盆踊り唄として唄い踊られた新川古代神、それから庄川をさかのぼり五固山古代、岐阜の白川小大臣となって現代も唄われています。 
上州地方一帯の盆唄は、その歴史の古さと広がりからみて、上州の東南一帯・野州の八木宿から常陸(茨城県)の古河から武蔵(埼玉県)の利根川沿いの一帯の地方にそれぞれの特色を織り込んで盛んに唄われるようになりました。 
明治初期、八木宿の近くの朝倉で運送業を営む清三が八木宿から太田宿を経て木崎宿の間を往来しながら馬のひづめの足音を伴奏に唄った盆唄が、いつしかテンポが速く、切れ味の良い馬方節調に変わっていきました。 
美声で調子の良い清三の馬方節は街道筋の評判となり、宿場の人たちは彼の音頭を聞くのを唯一の楽しみにしていたといいます。やがて清三に教えを受ける者も次第に多くなり、新しい盆踊り唄の流行をみるようになりました。 
清三から何人かの人脈を経て明治後半、この馬方節を現在の八木節に至らしめたのは、堀米源太(渡辺源太郎/明治5年足利郡山田村堀込生まれ)と矢場勝(久保秀三丸/初代コロンビア・ローズの祖父、明治9年山田郡矢場川村藤本生まれ)達です。 
彼らは互いに隣村どおしであり、大の盆踊り好きでした。矢場勝の唄は曲節において、源太の唄は音量において、また、繊細な踊りは喜樂家というようにそれぞれの長所を創意工夫して、酒樽に笛、鐘、鼓を配し、高座にて踊るにつれて素踊りから菅笠、日傘等をたずさえて、野育ちでありながら、威勢の良い盆踊りを創り上げたのでした。 
大正の初め、矢場勝・源太は東京に進出し、上州人気質のからっとした歯切れの良い、明るい賑やかな節回しが東京の人々に受け入れられるとともに、レコード化により全国的に知られるようになりました。  
 
八木節は、現在は郷土芸能的側面を強く打ち出しているが、大正年代から昭和初年代には全国的な流行が(安来節同様に)あり、寄席芸能であった。発祥については諸説あるが、通説は現在の栃木県足利市にあった八木宿において、初代堀込源太(本名、渡辺源太郎)が歌っていた歌がそのルーツであると考えられている。八木節の名称は、八木宿にちなむ。当初は渡辺の名から「源太節」と呼ばれていたが、1914年(1913年説もあり)に日本蓄音機商会でレコーディングされる際に命名された。  
群馬県側では、八木節の起源は八木宿と同じ例幣使街道にある木崎宿で歌われてきた木崎節であるとされる。「日本民謡集」(町田嘉章、浅野建二)はこの説をとっている。このほか、江戸時代末期に流行した口説節が起源という説もある。  
群馬県佐波郡境町在中島(現群馬県伊勢崎市境中島)の桶職だった柿沼庄平が、商売でしきりに八木宿方面に出ていて源太を知り、庄平の世話で中島村の尾島長松の家に百姓番頭に来た。養蚕の日雇い稼ぎが主で、毎年夏場半年ぐらいは、中島村で働いていたが、それから10年ほど、源太の中島村時代があったわけである。源太は、一時馬方などやっていたが、生来の唄好きで、よく馬子唄などを唄っていたが、中島村に来てからは、その唄好きによって口説きを唄い出したが、もって生まれた美声と、抑揚に富んだ節調の上手は抜群で、毎晩のように村々の盆踊りに出かけたり、呼ばれて唄って歩いたが、中島村の囃子連中と出場すると必ず入賞で一反流しを手にし、「中島村の源太」として大いに名を上げた。これは源太が30歳から35歳の頃のことで、源太の口説きは大変な評判になった。  
ところが源太は、間延びした口説きの唄い方を、自分で創意工夫して調子のよい唄い方に変えた。それは軽いリズムに乗ったもので、その調子のよさは、一度に聞くものを圧倒させたのである。その軽い節調により、上州人特有の好奇心を見事に捉え、大いに評判になり「源太節」と呼ばれ、盛行することになった。しかし、源太節のはじめは、囃子方がなかったが、源太と一緒にいた小林半七の話には、はじめはただひとりで、囃子なしで唄ったのだが、しばらくして中島村の連中が工夫して、樽やカネ、笛をこれに合わせて囃子方をつくると、源太節は一世を風靡することになる。いわゆるチャカポコ、チャカポコという軽いリズムの囃子方は中島村の連中がつくったわけである。  
もともと源太は、いわゆる粋な男で、源太一座の髪床師で一緒に興行して歩いていた。桜井という老婆の話では、とても男前のよい芸人肌だったので、どこへ行っても女が付きまとったという。八木節はますます盛んになったが、その八木節の発祥は境町在中島村(現群馬県伊勢崎市境中島)である。その囃子方も中島村人によって創意工夫され、ここで10年間ほど唄われた「源太節」がもとになったわけで、八木節は上州に生まれたのであるが、八木節の名称によって、発祥の地がわからなくなってしまったのである。その元流は口説き節で、元禄の頃からの遺物である。木崎村には木崎節、境村(現群馬県伊勢崎市境)では「赤わん節」と呼ばれ、玉村(現群馬県佐波郡玉村町)には「横樽音頭」などと呼ばれ、今でも唄い続けている。上州の口説き節が、越後から伝わったのは間違いなく、明治初年、前橋民政局の達しに「古来より盆踊りと申事、当国に於ては右様賎敷き風俗無之筈の処、近来越後辺より云々」とある。  
なお、中島村は江戸時代のはじめ、慶長6年に稲垣平左衛門の領地となり、元和2年、前橋酒井雅楽頭領、寛永14年酒井忠能が分家領有して伊勢崎領、寛文2年3月また前橋領、天和2年ふたたび伊勢崎酒井忠寛が領有して、明治にいたるまで伊勢崎藩が領有していた。明治元年4月、明治政府のもとに伊勢崎藩となり、翌2年伊勢崎県の支配、同4年10月伊勢崎県を廃して群馬県の支配となった。ついで熊谷県となり、明治9年また群馬県となった。中島は大名領一給地で、古くから柿沼弥右衛門が名主を世襲していた。今の柿沼十二家だが、寛政6年に名主年番制を定めた。村役人は名主が1人、組頭2人で、3人の村役人が、その以後は1年交替で名主と組頭を、勤めるわけである。村役人源右衛門は柿沼了三家である。天和2年の時の家数は42軒、人数は217人で、慶応元年には家数67軒、人数344人、昔から農業もさかんだったが、舟頭稼業が多かった。  
また、中島河岸から伊勢崎へ通じる道を駄賃馬道と呼んでいる。男が舟頭渡世だったので、馬子には女が多く、姉さんかぶりの女馬子がいい声で馬子唄を唄いながら馬を曳いたと古老が伝えている。明治8年、村内薬師堂に中島小学校が開校され、町田金十郎が初代校長となった。明治12年4月、中島村、小此木村、境町の聯合戸長役場となる。そして明治22年4月の剛志村合併となり、その後昭和30年、境町と合併となる。  
以上のことから、八木節の発祥は境町在中島村(現群馬県伊勢崎市境中島)で、源太と関わりのあった方々の墓石もあり、また、子孫も健在で検証することができ、柿沼、尾島家の家系も正確であることから、従来の木崎節起源説と口説節起源説とは矛盾が少なく妥当で正確な近世歴史の証となる。  
 
馬方(まかた)説は、八木節の父である初代堀込源太こと渡邉源太氏が少年時代に朝倉清三氏に習っていた「馬方唄」に、幼年時代に聞き憶えた「瞽女(こぜ)唄」と八木宿・木崎宿(今の足利市福居町付近・太田市新田木崎町付近)に越後から来た飯盛女が唄った「越後口説(くど)き」をアレンジとして加えて出来たとする説です。神子節説は、足利市の久保田町に古くから伝わる神子節を八木節の母体だとする説です。少年時代の源太氏が神子節の石井芳平氏を囲む盆踊りグループに所属していたことを根拠とする説です。  
 
民謡で、栃木県足利市の八木から出た名称です。もとは越後の「新保広大寺くずし」の口説節が土着したもので、堀込源太という、美声の馬方が広めたとも言われています。  
はじめは樽を縦において、その天面や胴を叩き篠笛などで伴奏していましたが、後に大鼓(おおかわ)や鉦(かね)も加えて賑やかで陽気なものになりました軽快なリズムと、独特の節回しの「口上」と、様々にアレンジされた踊り手たちによるこの三位一体の民謡は、すでに全国ネームになりました。  
その原型になったごぜ唄「へそ穴口説・新保広大寺節」。  
   あわれなるかや へそ穴くどき 国はどこよと 尋ねて聞けば  
   国は内股 ふんどし郡(ごおり) だんべ村にて ちんぼというて  
   おそれおおくも もったいなくも 天の岩戸の 穴よりはじめ  
   亭主大事に こもらせ給い ふじの人穴 大仏殿の  
   柱穴にも いわれがござる 人の五体に 数ある穴に  
   わけてあわれや へそ穴くどき 帯やふんどしに 締めつけられて  
   音(ね)でも息でも 出すことならぬ 仁義ごとにも 出ることならぬ  
   夏の暑さに じつないことよ ほんに体も とけるよでござる  
   日の目おがまず 夜昼しらず よその穴ショの 楽しみ聞くに  
   春は花見に 夏蛍見に 秋は月見に 冬雪見とて  
   耳はおお聞く 琴三味線の 鼻は香(こう)買い蘭麝(らんじゃ)の香り  
   口は三度の 食事のほかに 酒や魚や 茶菓子というて  
   うまいものには 鼻ふくらしゃる ・・・ 
越後ごぜ達が唄い広めた「新保広大寺節」は、江戸時代の五大流行唄の筆頭ともいわれました。北上した越後ごぜは、山形、秋田、青森、北海道へと唄い歩き、そして「津軽じょんがら節」、「口説節」、「道南口説」、「北海道鱈つり唄」などに流れ継がれていくのです。関東方面に上京した越後ごぜによって、このザレ歌は上州風土に合う「木崎音頭」や「八木節」へと変じていったといわれています。南下した越後ごぜは、信州路から甲州路や中仙道へと唄い歩き、「古代神」、「麦わら節」に変化や影響を与えます。  
このようにごぜ唄は、三国峠を越えて「八木節」や「船屋唄」のルーツとなり、北へ向かって秋田民謡に影響を与え、青森では「津軽じょんがら節」を生みだし、更に西へ向かっては、中国地方の民謡「古代神」の元唄ともなり、全国各地の「口説」節や歌の源流になりました。  
江戸時代の末期、日光街道例幣使街道の宿場として栄えた上州新田郡の木崎宿へ越後より売られてきた遊女「おさよ・おゆき」という女たちが望郷に駆られて歌ったのが「木崎節」や、「木崎音頭」です。のちにこれが、八木節の原型になったという説もあります。  
「あぁー、さても一座の皆さま方よ、わしのようなる三角野郎が、 四角四面の櫓(やぐら)の上で音頭取るとははばかりながら、しばし御免を蒙りまして何か一言読み上げまする・・・」ではじまるのが、八木節音頭です。  
上州の土地柄から、任侠や人情物がよく歌われます中でも不動の人気を誇るのが任侠の「国定忠治」です。このアウトローを時代のヒーローに演出したのが、忠治の最後の愛人、菊池徳という女性です。実際の国定忠治は博徒であり、対立する博徒たちを次々と殺害したあげく関所を破り、そのことを咎められて磔にされて最期を遂げます。徳と言う女性は、上州の茶屋の娘として生まれ若い時から茶屋の看板娘として活躍し、読み書きも堪能で、その勝ち気でテキパキとした切り盛りの中で自らの力で女侠としての素質を育て上げました。41歳の夏に中風(脳溢血)で倒れた忠治を自分の屋敷にかくまい岡っ引きなどを追い払い、守り続けますが、1850年に徳とともに囚われます勇敢に磔の刑を受けたというのは物語の上であって、実際の忠治は完全に怖気づいていたといいます  
この死に際をプロデュースして、忠治を説得し1500人の観衆の中潔く死ぬというストーリーを演出したのが、ほかならぬ徳でした。最後の愛人で鉄火肌のこの才女は、博徒の最後を任侠道をまっとうしたヒーローの最後ととして完全に演出しきったのです。忠治の本名は「長岡」で、国定は生れ在所の地名です  
 
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「国定忠治」 (口説き) 
今度珍し侠客口説き 国を詳しく尋ねて聞けば 
国は上州吾妻郡 音に聞こえし国定村よ 
そのや村にて一二と言われ 地面屋敷も相応なもので 
親は忠兵衛という百姓で 二番息子に忠次というて 
力自慢で武術が好きで 人に勝れし剣術なれば 
親は見限り是非ないことと 近所親類相談いたし 
地頭役所へお願いなさる 殿の御威光で無宿となりて 
近所近辺さまよい歩き ついに博徒の親分株よ 
子分子方もその数知れず 一の子分は日光無宿 
両刀遣いの円蔵というて 二番子分は甲州無宿 
甲斐の丘とて日の出の男 それに続いて朝おき源五 
またも名高き坂東安二 これが忠次の子分の中で 
四天王とて呼ばれし男 頃は弘化の丙の午の 
秋の頃より大小屋かけて 夜の昼のも分かちはなくて 
博打渡世で月日を送る 余り悪事が増長ゆえに 
今はお上のお耳に入りて 数多お手先その数知れじ 
上意上意とその声高く 今は忠次も身も置き所 
是非に及ばず覚悟を決めて 子分子方も同意の覚悟 
鉄砲かついで長脇差で 種子島へと火縄をつけて 
三ツ木山にて捕手に向かい 命限りの働きなどと 
忠次付き添う女房のお町 後に続いて妾のお鶴 
どれも劣らぬ力量なものよ 髪は下髪長刀持って 
今を限りと戦うなれど 子分四五人召し取られては 
今は忠次も早たまらじと 危うけれども覚悟を極め 
越後信濃の山越えしよと いずくともなく逃げよとすれど 
後に付き添う二人の女 命限りに逃げ行くほどに 
今度忠次の逃げ行く先は 国はいずこと尋ねて聞けば 
これも東国上州なれど 赤城山とて高山ござる 
駒も通わぬ鶯谷の 野田の森にと篭りて住めば 
またも役人不思議なことに 手先手先をお集めなされ 
頭忠次を召し捕らえんと 最寄最寄へ番小屋かける 
今は国定途方に暮れて 女房お町と妾に向かい 
たとえお上へ召し捕らわれて 重い刑罰厭いはせぬが 
残るこなたが不愍なままに さらばこれより国越えせんと 
残る子分の二人を連れて 音に聞こえし大戸の関所 
忍び忍びて信濃の国へ 忍び隠れて八年余り 
鬼も欺く国定なれど 運のつきかや病気が出でて 
今は是非なく故郷へ戻る 隣村にて五名井の村の 
後家のお徳に看病頼む この家お徳の以前というは 
日光道中玉村宿で 数多お客の勤めをすれど 
忠次さんには恩あるゆえに たとえこの身は何なるとても 
何ぞ病気を本復させて 元の体にひだててやろと 
神や仏に願望かけて 雨の降る日も風吹く夜も 
裸足参詣を致されまして 茶断ち塩断ち水垢離とって 
一所懸命祈ったけれど 天の罰かやお上に知れて 
御取り締まりのお手先衆は 上意上意の声かけられて 
女房妾や忠次にお徳 それに続いて子分に名主 
以上七人召し捕らわれて ついにこれらは軍鶏篭よ 
支度できたで厳しく守り 花のお江戸へ差し立てられる 
音に聞こえし国定忠次 江戸の役所でご詮議受けて 
余り吟味が厳しいゆえに 殊に病気の最中なれば 
是非に及ばず一つの悪事 これを白状致したゆえに 
関所破りのその咎めやら 木曽の道中臼井のうちで 
大戸ばんしの狼谷で 重いお仕置きかけられました 
これを見る人聞く人さんよ 男女子供の戒めよ  
「国定忠治」 (八木節) 
ハァーまたも出ました三角野郎が 四角四面の櫓の上で  
音頭取るとはお恐れながら 国の訛りや言葉の違い 
お許しなさればオオイサネー  
さてもお聞きの皆様方へ チョイト一言読み上げまする  
お国自慢は数々あれど 義理と人情に命をかけて 
今が世までもその名を残す 男忠治のその生い立ちを 
 不弁ながらも読み上げまするが オオイサネー 
国は上州佐位郡にて 音に聞こえた国定村の  
博徒忠治の生い立ちこそは 親の代には名主をつとめ 
人に知られた大身なるが 大事息子が即ち忠冶  
蝶よ花よと育てるうちに 
幼なけれども剣術柔 今はようやく十五の年で  
人に優れて目録以上 明けて十六春頃よりも 
ちよっと博奕を張り始めから 今日も明日も明日も今日も  
日にち毎日博奕渡世 
負ける事なく勝負に強く 勝って兜の大じめありと  
二十才あまりの売り出し男 背は六尺肉付き太く 
器量骨柄万人優れ 男伊達にて真実の美男  
一の子分が三つ木の文蔵 
鬼の喜助によめどの権太 それに続いて板割浅太  
これが忠治の子分の中で 四天王とは彼らのことよ 
後に続いた数多の子分 子分小方を持ったと言えど  
人に情は慈悲善根の 
感じ入ったる若親方は 今は日の出に魔がさしたるか  
二十五才の厄年なれば すべて万事に大事をとれど 
丁度その頃無宿の頭 音に聞こえた島村勇  
彼と争うその始まりは 
かすり場につき三度も四度も 恥をかいたが遺恨のもとで  
そこで忠治は小首をかしげ さらばこれから喧嘩の用意 
いずれ頼むとつわ者ばかり 頃は午年七月二日  
鎖かたびら着込を着し 
さらばこれから喧嘩の用意 いずれ頼むとつわ者揃い  
頃は午年七月二日 鎖かたびら着込を着し 
手勢揃えて境の町で 様子窺う忍びの人数  
それと知らずに勇親方は 
それと知らずに勇親方は 五人連れにて馴染みの茶屋で  
酒を注がせる銚子の口が もげて盃みじんに砕け 
けちな事よと顔色変えて 虫が知らせかこの世の不思議  
酒手払ってお茶昼を出れば 
酒手払ってお茶屋を出れぱ いつに変ったこの胸騒ぎ  
さても今宵は安心ならぬ 左右前後に守護する子分 
道に目配ばせよく気を付けて 目釘しめして小山へかかる  
気性はげしき大親方は 
気性はげしき大親方は およそ身の丈け六尺二寸  
音に聞こえし怪力無双 運のつきかや今宵のかぎり 
あわれ命はもくずのこやし しかもその夜は雨しんしんと  
闇を幸い国定組は 
今は忠治は大音声で 名乗り掛ければ勇親方は  
聞いてニッコリ健気な奴ら 命知らずの蛆虫めらと 
互い互いに段平物を 抜いて目覚す剣の光り  
右で打ち込む左で受ける 
秋の木の葉の飛び散る如く 上よ下よと戦う内に  
運のつきかや勇親方は 胸をつかれて急所の痛手 
ひるむ所へつけ込む忠治 首をかっ切り勝鬨あげて  
しめたしめたの声諸共だが オオイサネー 
「継子三次」 (八木節)  
ころは安政 元年成るが 国は武蔵で 秩父が郡  
真門村にと 百姓いたし 元は良し有る 大百姓で  
親の代から 零落いたし 田地田畑 みな売りつくし  
今じゃ小作の ひょうをとりて   
送る月日も 貧苦にせまる 今年又候 北アメリカの  
異国騒動 品川沖は 新規つきたけ 台場の普請  
それを聞いたる 百姓の喜八 土をかついで お金をためて  
それを土産に もどらんものと  
支度ととのえ わが家を出でる あとは喜八が 後添おたく  
継子三次と 明暮れ共に 惨く育てりゃ 横しま邪険  
辛くあたれど 三次郎こそは 親に孝行素直 な生まれ  
産みの親より 育ての親と  
機嫌とりとり 後かたずけて 母の詰め置く 弁当もって  
草紙かかえて 寺にと急ぐ 急ぐ間もなく 寺屋であれば  
三次精出し 手習いしょうと 恥を書く子や 絵を書くこども  
いろは書くのは 三次が一人  
習い浅れど もう昼時よ 皆も弁当 三次も共に  
弁当開いて 食べようとしたら 飯にたかった あまたの蝿が  
ころりころりと 皆死に落ちる それと見るより お師匠さんは  
三次その飯 しばらく待ちな  
蝿が死ぬのは ただ事ならぬ 犬に食べさせ 試して見よと  
犬はその飯 食うより早く 倒れ苦しみ 血へどを吐いて  
すぐにその場に 命を捨てた さては三次の 毒弁当は  
たしかおたくの 仕業であろうと  
胸におさえて これ三次郎 今夜こちらへ 泊まってゆきな  
言えば三次は ありがた涙 親の恥をば 話すじゃないが  
家に残りし 妹達は 赤いべこ着て 毎日あそぶ  
夜はおこたへ ねんねをしたり  
おんぶされたり だっこをしたり お乳飲んだり 甘えるけれど  
このや私は 打ちたたかれて 三度三度の 食事もみんな  
母や妹が 食べたる残り 寒い寒中 雪降る日にも  
やぶれひとえに 足袋さえはけず  
わしの身体は これこの様に 顔や手足は ひびあかぎれよ  
ほんに辛いよ 継母さんは なんで非道な 事するのかと  
湯屋で評判 世間でうわさ 聞いて師匠は びっくり致し  
それじゃなおさら 泊まっていきな  
言えば三次は 涙をはらい 今夜泊まると あの母さんに  
打たれたたかれ 責め苦がつらい 帰りますよと 師匠に別れ  
家に帰れば 継母おたく 今日の弁当 食べたか三次  
はい、と三次の 言葉はにごる  
聞いて継母 角をばはやし 弁当食べたは まっかな嘘だ  
誠いわなきゃ こうしてやると そばにあったる 薪振り上げて  
力いっぱい 打ち伏せまする どうか堪忍 して下しゃんせ  
実は弁当 食べようとしたら  
それをみるより お師匠さんが ほかの弁当 食べさせました  
泣いて詫びるを 耳にも入れず 土間にふせたる あの大釜よ  
煮立つ湯玉は 焦熱地獄 三次身体に 荒縄かけて  
中へ無残と 押し込みまする   
かかるところへ 三次の身をば 案じましたる 手習い師匠  
家の三次は どうした事と 言えばおたくは 何くわぬ顔  
家の三次は どうした事か 帰り道草 なまけていると  
どうかお師匠 お叱りませと  
言えば師匠は 不思議に思い あちらこちらを 見回したるに  
土間にふせたる あの大釜よ これはいよいよ 怪しきものと  
煙草つけんと いたせばおたく お火はこちらへ 取ります程に  
言えど師匠は 耳にもいれず  
おたく突きのけ あの大釜よ 蓋を取りのけ 仰天いたす  
見るも無惨な この有様に すぐに師匠は 検視を願う  
前に来たれば おたくはうしろ 裏の田んぼに 追い詰められて  
憎いおたくは 張りつけ柱  
七日七夜の あのさらしもの さって一座の 皆様方よ  
継子もったる その人々の お気に召さぬか 知れないけれど  
このや口説きは 何より手本 わが子継子の 隔てをせずに  
育てたまえよ 皆さん方よ  
「五郎正宗」 (八木節)  
国は相州 鎌倉おもて 雪の下にと 住居をなさる  
刀かじやの 行光こそは 玄関かまえの建物造り  
さても立派な かじやであれば 弟子は日増にふえ行くばかり  
今日はお盆の 十六日で  
盆の休みで 弟子達どもは ひまを貰って 我家に行けば  
後に残るは五郎が一人 そこで行幸 五郎を呼んで  
今日は幸い 皆んなが留守よ 是非に聞きたい そなたの身上  
つつみかくさず 話しておくれ  
言えば五郎は 目にもつ涙 聞いて下さい 親方様よ  
家のはじを 話すじゃないが 国は京都の三条通り  
宿屋家業で 暮らしていたが つもる災難 さて是非もない  
火事のためにて 焼け出され  
わしと母親 乞食も同じ 九尺二間の裏店ずまい  
母は縫針 洗濯仕事 わたしゃ近所のお使いなどで  
細い煙りで 暮らしてきたが ある日近所の使いの帰り  
悪い子供が 大勢よって  
五郎さんには 父親がない 父のない子は ててなし子じゃと  
言われましたよ のう母様よ わしに父親 ある事なれば  
どうか合わせ 下さるようと 泣いて頼めば 母親言うに  
父は関東で 刀剣家じゃ  
さほど会いたきゃ 会わせてやろと 家の道具は 皆売り払い  
わずかばかりの 路用をもって なれぬ旅路は東をさして  
下る道にて 箱根の山で 持ったお金はぞくにととられ  
母は持病のさしこみが来て  
手に手をつくした そのかいもなく 遂にはかない あの世の旅路  
母がいまわに この短刀を 父のかたみと私にくれた  
母に別れてどうしょうぞいと 西も東も 分らぬ故に  
死がい取りつき なげいていたら  
通りかかった 桶やの爺が わしを助けて 下さいました  
恩は決して 忘れはしない 父に逢いたい 桶屋をやめて  
刀かじやに なりましたのじゃ 訳と言うのは こう言う訳よ  
聞いて行先 不思議に思い  
五郎もつたる 短刀とりて なかみあらため びっくりいたす  
五郎引き寄せ 顔打ちながら さては我子で あったか五郎  
親はなくとも 子供は育つ そちの尋ねる 父親こそは  
わしじゃ藤六 行光なるぞ  
思いがけない 親子のなのり 様子立聞くまま母お秋  
障子おしあけ とびこみきたり やいのやいのと 胸なぐらとれば  
これさ待たれよ これこれ女房 われの云う事 よく聞きゃしゃんせ  
実はしかじか こう云うわけと  
一部始終の 話しをすれば その日そのまま すんだるけれど  
思い出して お秋のやつが じゃまになるのは 五郎が一人  
今にどうする 覚えて居れと くやしくやしが 病気となって  
日増し日増しに病気はつのる  
軽くなるのは 三度の食事 そこで五郎は心配いたし  
生みの親より 育ての親と 子供ながらも 利口のもので  
親の病気をなおさんために 夜の夜中に 人目を忍び  
そっとぬけ出て 井戸にと行けば  
二十一日 願かけいたす 或る夜お秋が かわやに起きて  
手水つかおと 雨戸を開けりゃ いつの間にやら 降り積む雪に  
風がもてくる 水あびる音 何んの音かと すかして見れば  
水をあびるは 孝子の五郎  
寒さこらえて あの雪の上 上に座って 両手合わせ  
京都伏見の お稲荷様よ 母の病気を治しておくれ  
もしも病気が 治らぬなれば 五郎命を 差し上げまする  
どうか治して 下さいませと  
井戸のつるべに しっかとすがり またも汲み上げ ざぶんとあびる  
様子見て居た まま母お秋 胸に一もつ その夜は休む  
朝は早くも 起きたる五郎 母の居間にと あいさつ行けば  
母のお秋は ふとんにもたれ  
いつに変った 猫なで声で そこは寒いよ こっちへお出で  
ハイと寄り来る 五郎のたぶさ たぶさつかんで 手元によせて  
夕べお前は 何していたの 雪の降るのに 水などあびて  
にくいまま母 神にと祈り  
祈り殺すか ありゃおそろしや 鬼か天魔か 親不幸者め  
枕振り上げ 打たんとすれば 五郎はその手にしっかりすがり  
それは母さん 了見違い どうかゆるして 下さいませと  
ないてわびるも 耳にも入れず  
そばにあったる 煎薬土びん 五郎目がけて なげつけまする  
額あたって 流れる血しお わっとなき出す その声聞いて  
弟子はその場に かけ込みきたり 五郎助けて 別間に行けば  
これを見て居た 行光こそは  
おのれにっくい お秋の奴め いまにどうする覚えておれと  
思いましたが いやまてしばし 彼のためにて 日本一の  
刀かじにと なったるなれば 心落ちつけ 胸なでおろし  
そっと五郎を蔭にと呼んで  
さぞやつらかろ がまんをしたよ  
家の後とりゃ お前であると 父のやさしい 言葉を聞いて  
なおも続けて 願かけ通す 五郎一心 神にと通じ  
お秋病気も 全快いたす されどこの後 どうなりますか  
後の機会に伺いまする  
「乃木将軍と辻占売り」 (八木節)  
明治三十七・八年の 日露戦争 開戦以来  
苦戦悪戦 致されまして 我が子二人が 戦死をすれど  
倦まずたゆまず 奮闘致し 遂に落城 致されまして  
御旗旅順に ひるがえされた   
群の指揮官 乃木将軍は 戦死なされた 我が兵卒の  
遺族訪問 致されまして 謝罪なされた その一席は  
時は二月の 如月月よ 氏の育ちの 乃木将軍は  
何処へ行くにも質素な支度  
今日は穏やか 散歩をしよと 我が家出掛けて 梅林にて  
そこにゃ立派な 売店ありて 腰を下ろして 眺めを致す  
梅の香りは また格別と 日ごろたいしなむ 俳諧などで  
遂に夜更けて 十一時頃  
通りかかった 両国橋の 水の面に 月ありありと  
波に揺られる その風景に 寒さ忘れて 佇むおりに  
二人連れなる 辻占売りが 破れ袷を 身にまとわれて  
赤い提灯 片手に下げて  
弟手を引き 寒げな声で 恋の辻占 あの早わかり  
買ってください 皆様方と 客を呼ぶ声 さも愛らしや  
なぜか今夜は 少しも売れぬ 兄は一人で 心配いたし  
そんな事とは 弟知らず  
これさ兄ちゃん 寒くてならぬ 早く帰って 母ちゃんのそばで  
抱っこ致して ねんねがしたい それを聞くより 兄 伝太郎は  
涙声して 弟に向かい 兄の言うこと よく聞かしゃんせ  
今宵持ったる この辻占は  
売っていかなきゃ お米が買えぬ それに婆やの 薬も買えぬ  
さぞや辛かろ 我慢をしなと 兄は弟 いたわりながら  
涙声して 客呼ぶ声に 乃木は近寄り 子供に向かい  
お前兄弟 いずこの者で  
歳はいくつで 名は何と言う 言えば子供は 涙を拭いて  
聞いてください のうおじちゃんよ 訳を言わなきゃ 理が判らない  
私しゃ十二で 弟五つ 林 伝太郎 弟勇夫  
父は伝吉 母親お里  
それに一人の 老婆がありて 一家五人で 仲むつまじく  
蝶よ花よと 暮らしていたが 父が戦争に 行かれた後は  
今だ一度も 便りがないよ どうか様子が 聞きたいものと  
思う折から お役場よりも  
林伝吉 名誉の戦死 これ聞くより 私の婆は  
力落として 病気となりて 熱に浮かされ うわごとばかり  
そこで母さん 途方に暮れて 日にち毎日 ただ泣くばかり  
私しゃこうして 辻占売りで  
学校休んで 近所の人の 使い致して 僅かな銭を  
あちらこちらで 恵んでもらい 聞いて将軍 びっくり致し  
わしは乃木じゃが お前の家に 用があるから 同伴いたせ  
言えば子供は 涙をぬぐい  
勇、行こうと 弟連れて 急ぎ来たのが 浅草田町  
九尺二間の裏店住まい 家は曲がって 瓦は落ちて  
月はさし込み 風吹き通す 見るも哀れな 生活なれば  
お待ちください 雨戸をあけて  
坊は只今 帰られました 聞いて母親 ニッコと笑い  
そこで子供の申する事に 何の御用か 知らないけれど  
乃木の将軍 参られました 言えば母親 ビックリ致す  
奥で寝ていた 老婆が聞いて  
乃木と聞いては 恨めしそうに 床の中から はい出しながら  
可愛い倅を 殺した乃木に たとえ恨みの一言なりと  
言ってやろうと 座を改めて 婆やごめんと 腰うちつけて  
どういう訳にて かたきとなるか  
人に話して 良い事ならば 一部始終を 聞かせておくれ  
言えば老婆は 涙に暮れて 聞いてください 私の話  
わしは一人の 倅があれて 徴兵検査に 合格いたし  
しかも陸軍 歩兵となりて  
満期除隊も めでたく済んで 嫁をもらって 二人の仲に  
可愛い子供が 二人となりて 嬉し喜び 僅かな間  
日露戦争に 参加を致し 旅順港なる 苦戦にあって  
決死隊にと 志願を致し  
恐れ多くも 御国のために 死する命は 惜しまぬけれど  
後に残った 二人の孫が 父のない子と 遊んでくれぬ  
わしはよいけど 二人が不憫 こんな時には 倅がいたら  
こんな苦労は させまいものと  
金鵄勲章 二人で抱いて ワッと泣き出す そのありさまを  
そばで見ている 私は辛い 胸に釘をば 打たれる思い  
どうかお察し 下さいませと 聞いて将軍 涙をぬぐい  
何も言うまい これこの通り  
片手拝みの 懐中よりも 紙に包んだ 僅かな金す  
これは本当の 香典代わり 可愛い倅に 手向けておくれ  
あげて将軍 我が家へ帰るが オーイサネー 
盆踊りから八木節へ  
この盆踊り唄は、室町時代1560年(永禄3年)越後の上杉謙信が関東を政略した時、住民鎮撫の政策として猛蘭盆(それまで個々に活動していた僧侶たちが一定期間、一カ所に集まって修行する最後の日に父母や祖霊を供養し、非常に苦しい苦を救うということ)に盆踊りを奨励した。その盆踊り唄を例弊使街道の宿場、上州、新田郡木崎宿に居た越後生まれの「サヨ」、又は「ユキ」という遊女が越後(現十日町市)の「新保広大寺くずし」という口説節を歌いはじめた。それが木崎音頭となり、八木節へと変化して行くのである。また一方「広大寺くずし」が伝承されたのは、木崎より二つ先の宿場である野州八木宿でも遊女を中心に歌い踊られたと言われている。  
「新保広大寺くずし」とは、新潟圏中魚沼郡下条村新保、さて事の始まりは、信濃州沿いの中州の耕作権問題の争いである。はじめは広大和尚の力を借りた寺島新田側が優位に立ったが、上の島新田の農民は、十日町のちぢみ問屋の最上屋、上村藤右衛門邦好を抱きこみ争ったのである。この争いは、いつしか寺と最上屋の争いに変ってしまった。広大寺14代目の白岩亮端和尚を追い出してしまわねばならない、そこで最上屋は農民たちに和尚の悪口唄を歌いはやらせた。さてそうなると最上屋は、ちぢみの取引相手が江戸には沢山いることから江戸中にはやらせた。  
天明年間には「新保広大寺」と呼ばれる唄が大流行した。女、子どもまで口ずさみ、種々の本まで次々に発刊されたのである。結局争いは寺側が破れ、和尚は自殺、最上屋も発狂して一族が絶えてしまった。  
この唄がこれだけ流行すると瞽(ごぜ)女達、遊芸人、物売り、出稼ぎの人々が九州を除く日本の四大はやりうたとなり、「追分」「ハイヤ節」「松坂」と並んで日本中を駆け巡ったのである。したがってこの唄は遊女だけでなく、通行人の多かった日光例弊使街道の宿場にも流行したのである。  
さて、八木節のもと唄となった木崎節であるが、この木崎の遊女達は越後出身者が多く、望郷の思いをこめてうたった唄が遊びにきていた馬方衆に伝えられ、いつしか木崎盆踊りの唄となったものが木崎節(木崎音頭)そして、この馬方衆にその後渡辺源太郎が加わり八木節へと変化していったのである。  
二つ目説は、まさに籠から鳥が放たれるように遊女は解放され故郷を思いながら「新保広大寺くずし」を唄って踊ったことであろう…これが、遊治郎達(酒や女遊びにふける男)の人気を呼び次第に変曲され木崎音頭になったと言い伝えられている。  
現在八木節というと掘込源太、本名渡辺源太郎、明治5年1月29日栃木県足利郡山辺町掘込(現足利市)に生まれる。しかし木崎音頭よけ、八木節へと写り変っていく中で見落とすことのできない人々が数名いる。それは上州、野州の馬方、三羽鳥といわれた人々である、丸山清三郎、中村芳太郎、中村常吉、源太の先輩であり源太との年齢差は25才位であった。この三羽鳥と源太は同じ馬方で例弊使街道を往復したばかりでなく足利、小泉街道も頻繁に往復したらしい、米、麦の運搬にかぎらず佐野市に近い赤見から産する石灰も運送した。いずれにせよ、清三郎を中心とする先輩の後をつぎ木崎節の越後色を脱却した現在の八木節調の上州色が源太らによって、次第に醸成されていったと考えられる。  
掘込源太は、変曲しようと意識しての変曲ではなく、仲間と歌っているうちにいつしか、上州、野州人好みの曲に変っていったのではないか生来の美声と唄好きの馬方源太は、求められるがままに飼葉桶(かいばおけ)をたたいて、長い文句(くどき)を編み出していったのである。大正四年、1915年レコード会社からの依頼を受け、館林の栗田平次郎と一座をくみ、レコード吹込みに成功。歯切れのよい節まわしが大衆にうけ飛ぶようにレコードは売れた。その後東京(浅草)へ進出するが大正9年、1920年浅草を引きあげた。栗田一座とはわかれ、矢場勝(本名新井勝三郎)と一座を組み後進の指導にあたった。  
木崎宿  
木崎宿は日光東照宮に京都の朝廷から例幣使が参拝する為に寛永19年(1642)に開削された日光例幣使街道の宿場町です。街道は中山道の倉賀野宿から日光街道の楡木宿までで、その間15の宿場が設けられ、例幣使の宿泊や休息に利用されました。中でも木崎宿は文化元年の旅籠の数は27軒程でしたが後に63軒となり日光例幣使街道最大の宿場町となりました。又、木崎宿は多くの飯盛女を抱える旅籠が軒を連ねた宿場町として知られ、弘化2年(1845)には260人以上の飯盛女がいたそうです。現在に伝わる木崎音頭(木崎節)は越後から飯盛女として売られた女性が伝えたとされ、そこで唄われた色地蔵は現在でも長命寺境内前にある小堂に祀られています。日光例幣使街道と足尾銅山に続く銅街道の分岐点でもあり、追分には新しい道標「東 太田宿 日光」「西 柴宿 京都」「北 大通寺 銅山道」「南 前島 利根川 」が建立されています。  
「太田甚句」 
 
私ゃ太田の金山育ち 願い金山鉱泉宿で  
わたしゃ太田の金山育ち ほかに気(木)はない待つ(松)ばかり  
太田子育て呑龍様へ 可愛い坊やの願掛けに 
「草津節」 (「正調草津節」「ドッコイショ節」)  
日本一有名な「草津の湯」、長くて平たい幅のある木の板でお湯をかき回す、「湯もみ」の際に唄われた作業唄です。この唄のほかにも「湯もみ唄」「草津小唄」があります(草津の三つ物と言う)。  
 
←「土羽打ちのならし唄」「岡山節(ならし打ち)」 
 
草津よいとこ 一度はおいで (ハァ ドッコイショ)  
 お湯の中にもこりゃ 花が咲くよ (チョイナ チョイナ)  
春はうれしや 降る淡雪に 浮いた姿がこりゃ 目に残るよ  
草津よいとこ もみじの名所 紅の流るるこりゃ お湯の川よ  
明けりゃ湯煙 暮れれば湯もや 草津の町こりゃ 湯のかおりよ  
朝の湯煙 夕べの湯もや 草津は湯の町こりゃ 夢の町よ  
草津恋しと 幾山こえて 合いに来たかよこりゃ 山ツバメよ  
錦織り成す 野末をみれば 晴れた浅間にこりゃ 煙り立つよ  
忘れしゃんすな 草津の道を 南浅間にこりゃ 西白根よ  
草津名物 もみじにつつじ 可愛いすずらんこりゃ ホトトギスよ  
お医者様でも 草津の湯でも ほれた病はこりゃ 治りゃせぬよ  
ほれた病も 治せば治る 好いたお方とこりゃ 添やなおるよ   
 
草津よいとこ 一度はおいで (ア ドッコイショ)  
 お湯の中にもコーリャ 花が咲くヨ (チョイナ チョイナ)  
草津よいとこ 里への土産 袖に湯花のコーリャ 香が残るヨ  
草津よいとこ 白根の麓 暑さ知らずのコーリャ 風が吹くヨ  
春はうれしや 降る淡雪に 浮いた姿がコーリャ 目に残るヨ  
草津よいとこ 夏来てみれば 軒端近くにコーリャ 四季の花ヨ  
草津よいとこ 紅葉の名所 虹の流るるコーリャ お湯の川ヨ  
積もる思いと 草津の雪は とける後からコーリャ 花が咲くヨ  
積もる話の つきない内に 憎や時間湯のコーリャ 鐘が鳴るヨ  
お医者様でも 草津の湯でも 惚れた病はコーリャ 治りゃせぬヨ  
惚れた病も 治せば治る 好いたお方とコーリャ 添や治るヨ  
明けりゃ 湯煙 暮れれば湯もや 草津湯の町コーリャ 湯の香りヨ  
チョイナチョイナは 何処から流行る 草津温泉コーリャ 湯もみからヨ  
チョイナチョイナで 草津は明けて もんだもんだでコーリャ 日が暮れるヨ  
忘れしゃんすな 草津の道を 南浅間にコーリャ 西白根ヨ  
馬子の追分 浅間は焼けて 暮れる草津にコーリャ 湯の煙ヨ  
浅間高原 六里を越せば 草津平がコーリャ 四里四方ヨ  
浅間山ほど 胸をば焼けど 主は白根のコーリャ 峰の雪ヨ  
湯もみ馴染みか 妹山背山 松の木(こ)の間をコーリャ わらび狩りヨ  
草津よいとこ 紅葉の名所 紅の流るるコーリャ お湯の川ヨ  
朝の湯煙 夕べの湯もや 草津湯の町コーリャ 夢の町ヨ  
錦織りなす 草津の広野 浅間の煙もコーリャ あかね染めヨ  
「草津湯もみ唄」  
草津恋しやヨーホホイ あの湯煙にヨ (ハヨイヨイ)  
 浮いた姿がヨーホホイ 目に残るトカヨー (ハドッコイセ ハヨイヨイ)  
湯もみ馴染みかヨーホホイ 妹山背山ヨ 松の木(こ)の間をヨーホホイ わらび狩りトカヨー  
馬子の追分ヨーホホイ 浅間は焼けてヨ 暮れる草津にヨーホホイ 湯の煙トカヨー  
草津よいとこヨーホホイ 夏来てみればヨ 軒端近くにヨーホホイ 四季の花トカヨー  
草津よいとこヨーホホイ 里への土産ヨ 袖に湯花のヨーホホイ 香が残るトカヨー  
暑さ白根のヨーホホイ 山風受けてヨ 草津娘のヨーホホイ 夕涼みトカヨー  
朝の湯煙ヨーホホイ 夕べの湯もやヨ 草津湯の町ヨーホホイ 夢の町トカヨー  
草津よいとこヨーホホイ スキーの名所ヨ 自慢話もヨーホホイ お湯の中とかヨー  
錦織りなすヨーホホイ 野末を見ればヨ 晴れた浅間にヨーホホイ 煙立つトカヨー  
草津電車にヨーホホイ 飛び込む蛍ヨ 燃ゆる思いをヨーホホイ のせて行くトカヨー  
白根登ればヨーホホイ お花の畑ヨ 草津町にはヨーホホイ 湯の畑トカヨー  
草津伊香保はヨーホホイ 手の先届くヨ なぜに届かぬヨーホホイ 我が思いトカヨー  
忘れしゃんすなヨーホホイ 草津の道をヨ 南浅間にヨーホホイ 西白根トカヨー  
湯もみ見たけりゃヨーホホイ 草津へおいでヨ 旅の疲れもヨーホホイ もんでやるトカヨー  
「草津小唄」  
(サテ) 朝の湯けむり ゆうべの湯もや ヨイトサノサ  
(ハキタサ) 草津ァ湯の町 サァサヨイトサノ夢の町  
 ヤァレ モンダ モンダ ヨイトコリャセ (サテ)  
浅間おろしに 木萱もなびく ヨイトサノサ 草津恋しと サァサヨイトサノ いうてなびく  
梅雨はらはら 草津の宿で ヨイトサノサ ひとり寝て聞く  サァサヨイトサノ 湯もみ唄  
つもる思いと 草津の雪はヨイトサノサ とけるあとから  サァサヨイトサノ 花が咲く  
草津恋しや 白根の山のヨイトサノサ 雪の消えまの サァサヨイトサノ お駒草
 

北海道東北中部近畿中国四国九州 
栃木県群馬県茨城県埼玉県千葉県東京都神奈川県

茨城県

 

「網のし唄」 (「網延唄」)  
三陸一帯の漁師たちの酒席の騒ぎ唄。櫓をこぎながら唄う「舟甚句」や「浜甚句」が次第に南下して茨城県に入り、三浜の漁師たちが大目網を締める時に唄う唄となった。三浜地方とは、那珂湊、平磯、大洗を言う。大目網は鮪漁に使われる。網を濡らしてから十人ぐらいが引っ張り合い、網の目を締める。この作業も、鮪が近寄らなくなってすたった。  
 
←「舟甚句」「浜甚句」 
 
沖の瀬の瀬で どんと打つ波は  
みんな貴方の アレサ 度胸定め  
   ハァ 延せや延せ延せ 大目の目延し  
   延せば延すほど アレサ 目が締まる  
ハァ 一丈五尺の 艪を押す腕に  
濡れて花咲く アレサ 波しぶき  
   船は新造で 船頭さんは若い  
   大漁させたや アレサ お船さま  
沖でちらちら アラ 灯が見える  
あれは平磯の アレサ さんま船   
 
(ハ ヨーイ延(ノ)せ ヨイーヤ延せ)  
延せや 延せ延せ(コラショ) 大目の目延し  
(ハ ヨーイ延(ノ)せ ヨイーヤ延せ)  
延せば 延すほど(コラショ) アレサ 目が締まる  
(ハ ヨーイ延(ノ)せ ヨイーヤ延せ)  
私ゃ湊の 荒浜育ち 波も荒いが 気も荒い  
沖の瀬の瀬で どんと打つ波は 皆(みんな)あなたも 度胸定め  
一丈五尺の 艪を押す腕に 濡れて花咲く 波しぶき  
小間(こま)の十四も 大目の網も 切れりゃ網師の 手に掛かる  
船は新造で 船頭さんは若い 大漁されたや お船主  
磯の小岩に どんと来る波は 出船見送る 胸を打つ
「磯節」  
三陸海岸一帯で漁師が唄っていた酒盛りの騒ぎ唄「浜甚句」が南下。那珂湊では「網のし唄」になり、大洗では花柳界に入って「磯節」となる。磯浜生まれの盲人・関根安中は、花柳界の節になる前の「磯節」を唄っていた。明治36年(1903)に横綱となった常陸山谷右衛門は、安中を非常に可愛がり、東京方面にまで連れ歩いて「磯節」を唄わせた。これが大評判となり、明治から大正にかけて全国的に流行する。栃木県出身の佐藤松子(1909-1998)は、お座敷唄民謡を唄わせれば当代一。幼い頃から一座の座長として各地を巡業。それが唄の味わいを深くしている。  
 
茨城県の東、那珂川の河口の大洗、那珂湊あたりで歌われてきた座敷唄です。大洗町で生まれ、那珂湊で育ったともいうべきこの民謡は、東日本の座敷唄の代表格と言っても過言ではない名曲です。この唄の元は「イッチャ節」という酒盛り唄であるとも、大洗あたりの海岸の漁師が歌っていた「艪漕ぎ唄」ともいいます。それが那珂湊あたりの花柳界で歌われ、また大洗の祝町の渡辺精作(竹楽房)という俳句の宗匠が、今日の形に近いものをまとめたといいます。  
磯で曲り松 湊で女松(めまつ) 中の祝町 男松  
と歌われている大洗・祝町は、願入寺の寺領が開放され、海の男相手の花街になったところといいます。更に、那珂湊の置屋の藪木萬吉(ゲタ萬)が今日のものにし、三味線の手も編み出したようです。その娘、水戸の花柳界の金太が歌う節回しが、現在よく知られているもののようです。現在よく耳にするものよりも、ややテンポが遅く、しっとりとした唄でした。  
一方、「磯節」を広めた関根安中も忘れられません。彼は明治10年生まれで、大洗で鍼医をしていました。ところが、水戸出身の横綱・常陸山に見いだされ、彼は安中をたいこもちとして、各地の巡業に連れて歩き、先々で「磯節」を歌わせたといいます。なお関根安中の歌う「磯節」は、割合野性的な唄でした。  
なお、はじめてレコード吹き込みをしたのは大正4年、吉原〆治でした。また大正14年には関根安中がNHKから放送をしたといいます。大洗町と那珂湊とは那珂川を挟んで、向かい合っている場所です。「磯で名所は大洗様の…」と歌われた大洗様とは、大洗海岸を見下ろす場所にまします大洗磯前神社です。  
「磯節」と「大洗甚句」「五島磯節」  
「磯節」というのは日本三大民謡の一つと聞いた。じゃあ、三大民謡の残りの二つは何かと気になるところであるが、実は三大民謡の定義は曖昧のようで、「磯節」の他にも三大民謡として挙げられるものには「山中節」「江差追分」「博多節」「阿波踊り」「郡上おどり」「花笠踊り」など、諸説あるようだ。先生からお手本として「磯節」を弾いていただいたのだが、三大民謡にしては、さほど抑揚もなく、終始落ち着いた趣の曲だ。ただ、大きく波が寄せる感じの箇所と、波がさぁっと引いていく感じの箇所を三味線の音の強弱により表現するところは、「五島さのさ」や「串木野さのさ」に相通じるところがある。  
この「磯節」は元々は「大洗甚句」から生まれたものと教わったが、それを文献の類で確認できたものは殆どなく、唯一、「縁かいな 由縁し尋ぬるいろいろ端唄」(中村三津紫明著)による「大洗甚句」の説明で、元は千葉県下辺りの「イッチャ節」か、その変形の「相馬甚句」ぐらいのものが、海を伝わって那珂湊へ入ったとされたいたものが、後に「磯節」になったと記されていた。「日本の民謡(曲目解説)」では、今日では「磯節」のあとに「字余り磯節」といった感じで唄われているために、忘れられた存在になっていると寂しい解説がされている。しかし、後に述べる関根安中は「大洗甚句」を好んで唄ったそうで、安中のレコードの裏面にも吹き込まれている。  
「磯節」は、「日本民謡集」によれば、江戸時代から行われた常陸海岸の舟唄(櫓漕唄)を基にして作られたもので、那珂湊で芸妓置屋をしていた矢吹万助(通称芸多(げた)満)の娘ハルなどが明治二十年代に編曲したものだとされている。しかし、この説明はかなり途中の史実が略されている。万助のよし、ハル、秋子の3女が磯節の名人と言われたり、万助が芸者衆を連れて東京や大阪の寄席や大衆演芸場で披露したのは、かなり後になってからのことである。「磯節」の歴史をなるべく正確に把握しようと、大洗みなと賑わい推進会が大洗本場磯節保存会と協力して作成された「磯節の紹介」を視聴してみた。「磯節」の起源は明らかではないが、1855年頃の安政年間には漁師たちの間で唄われていたとしている。「磯節の紹介」で時系列的に整理されている歴史とも合致するが、大洗の観光情報センターの裏に建てられている「磯節発祥の地碑」には、古くから地方の舟唄として唄われていたものを、明治の初期に祝町の引手茶屋の主人である渡辺竹楽房が(三味線の手を工夫して)音律を整えたとある。磯節が普及したきっかけとなったのは、矢吹万助によるものではなく、こちらが最初だろう。祝町は当時水戸藩内随一の遊郭街だったようで、磯坂に掲示してある磯節の由来には、「ハアー テヤテヤ イササカリンリン スカレチャドンドン ハアーサイショネー」という囃子は、「どんなに遠くても、好きになったら磯坂を越えてどんどんかよって欲しい。最初に来てほしい。」という遊女たちの願いを表現したのだと記されている。譜面では、「磯節」ではなく「大洗甚句」にこの囃子が出てくるが、現存している磯節や各地の磯節に多用されている「ハアーサイショネー」という囃子が遊女たちの願いの声だと思うと、何とも面白い。  
「磯節」の起源が明らかではないというのは誰しも認めるころだろうが、舟唄をもとにしたものかどうかについては論争があるようだ。昭和38年から39年末にかけて水戸市の週刊「てんおん」誌上に連載された磯節の成立をめぐる諸家の試論を整理・編集した「磯節のはなし」を読んでみると、湯浅五郎氏が、「磯節」は浜の漁師の間でうたわれ生まれたものではなく、生みの親は他国の航海人船頭衆であるとした論調に、多くの人が異論を唱えつつも、どちらが正しいかの決定的な証拠はなさそうだ。  
「磯節」を流行させたのが、本町生まれの盲人関根安中(本名:丑太郎)である点は疑問の余地はない。水戸出身の後の第19代横綱常陸山(後の角聖)が大関時代に帰郷し、大洗の馴染みの宿「金波楼」で按摩を頼んだのが関根丑太郎で、元は漁師だった丑太郎の力強い按摩を気に入ったそうだ。常陸山に勧められて呑んだ酒にまかせて唄った丑太郎の「磯節」にほれ込んだ常陸山が安中という芸名を与えて全国巡業に連れて行き、安中の独創的な節回しや唄声が全国的に評判になったらしい。大正5年頃には安中の「磯節」がレコード化され、常陸山は巡業のたびにレコードを配り、全国普及に拍車がかかったそうだ。「日本民謡集」には興味深い一節が紹介されている。安中が同席していた芸妓の下手な磯節に対して、「わたしの磯節東の果てよ、銚子外(はず)れて水戸もない、調子はずれでイソおおあらい」と皮肉ったとか。  
「大洗甚句」も「磯節」も波が打ち寄せ、引いていく様を三味線で表現するのは容易ではないが、弾き唄いはさらに一段も二段もレベルが上がる。何せ「磯節」は、「江差追分」「博多節」とともに日本三大「難解」民謡とも評されるレベルで、茨城に駐在する人が3〜4年かけて唄を習得しようと試みても、ようやく唄えるようになる頃にはまた転勤しなければならないため、「転勤節」とも言われるほど唄うのが難しいのだ。  
「磯節」が流行してからは、「新磯節」ができ、明治中期に東京の寄席などに持ち込まれて大流行し、それが各地で土地化したそうだ。「五島磯節」はその一つで、他にも「南部磯節」「隠岐磯節」などが伝わっているようだ。  
 
←「浜甚句」「イッチャ節」「艪漕ぎ唄」
 
(ハーサイショネ)  
磯で名所は 大洗様よ(ハーサイショネ)  
松が見えます ほのぼのと (松がネ)  
見えますイソ ほのぼのと    
   荒い波風 やさしく受けて(ハーサイショネ)   
   心動かぬ 沖の石 (心ネ)  
   動かぬイソ 沖の石  
三十五反の 帆を捲き上げて(ハーサイショネ)  
行くよ仙台 石巻 (行くよネ)  
仙台イソ 石巻  
 
磯で名所は 大洗様よ(ハーサイショネ) 松が見えます ほのぼのと  
「松がネ」見えます イソ ほのぼのと (ハーサイショネ)  
ゆらりゆらりと 寄せては返す 波の瀬に乗る 秋の月  
「波のネ」瀬にのる イソ秋の月  
水戸をはなれて 東へ三里 波の花散る 大洗  
「波のネ」花散る イソ 大洗  
三十五反の 帆を巻き上げて ゆくよ仙台 石の巻  
「行くよネ」仙台 イソ 石の巻  
泣いてくれるな 出船の時にゃ 沖で艪かいも 手につかぬ  
「沖でネ」艪かいも イソ 手につかぬ  
潮風吹こうが 波荒かろが 操かえない 浜の松  
「操ネ」かえない イソ 浜の松  
 
(ハーサイショネ)  
磯で名所は 大洗様よ (ハーサイショネ) 
 松が見えます ほのぼのと (松がネ)見えますイソ ほのぼのと  
三十五反の 帆を捲き上げて 行くよ仙台 石巻  (行くよネ)仙台イソ 石巻  
船はちゃんころでも 炭薪ゃ積まぬ 積んだ荷物は 米と酒 (積んだネ)荷物はイソ 米と酒  
荒い波風 やさしく受けて 心動かぬ 沖の石 (心ネ)動かぬイソ 沖の石  
ゆらりゆらりと 寄せては返す 波の背に乗る 秋の月 (波のネ)背に乗る 秋の月  
葵の御紋に 輝朝日かげ 薫も床しい 梅の花 (薫もネ)床しいイソ 梅の花  
あれは大洗 大洗松よ 鹿島立ちして 見る姿 (鹿島ネ)立ちしてイソ 見る姿  
あまの小舟の わしゃ一筋に 主を頼みの 力綱 (主をネ)頼みのイソ 力綱  
当たって砕けて 別れてみたが 未練でまた逢う 岩と波 (未練でネ)また逢うイソ 岩と波  
朝日昇るよ 神磯上へ 降りて鎮まる 大洗 (降りてネ)鎮まるイソ 大洗  
磯や湊の 東雲鴉 来ては泣いたり 泣かせたり (来てはネ)泣いたりイソ 泣かせたり  
磯で曲り松 湊で女松(めまつ) 中の祝町 男松 (中のネ)祝町イソ 男松  
磯の鮑を 九つ寄せて これが九貝(苦界)の 片想い (これがネ)九貝のイソ 片想い  
行こか祝町 帰ろか湊 ここが思案の 橋の上 (ここがネ)思案のイソ 橋の上  
色は真っ黒でも 釣竿持てば 沖じゃ鰹の 色男 (沖じゃネ)鰹のイソ 色男  
岩に寄りつく 青海苔さえも 好かれりゃ焼いたり 焼かせたり (好かれりゃネ)焼いたりイソ 焼かせたり  
羨ましいぞえ あの碇綱 みずにおれども 切れやせぬ (みずにネ)おれどもイソ 切れやせぬ  
沖にチラチラ 白帆が見ゆる あれは湊の 鰹船 (あれはネ)湊のイソ 鰹船  
沖の漁火 三つ四つ五つ 月の出潮に 見え隠れ (月のネ)出潮にイソ 見え隠れ  
沖の暗いのに 苫とれ苫を 苫は濡れ苫 とまとれぬ (苫はネ)濡れ苫イソ とまとれぬ  
沖の瀬の瀬の 瀬で打つ浪は みんなあなたの 度胸さだめ (みんなネ)あなたのイソ 度胸さだめ  
沖の瀬の瀬の 瀬の瀬の鮑 主さんが取らなきゃ 誰が取る (主さんがネ)取らなきゃイソ 誰が取る  
沖に見ゆるは 大亀磯よ 鶴も舞い来る 真帆片帆 (鶴もネ)舞い来るイソ 真帆片帆  
沖の鴎に 汐どき聞けば 私ゃ立つ鳥 波に聞け (私ゃネ)立つ鳥イソ 波に聞け  
沖の鴎と 芸者のつとめ 浮いちゃおれども 身は苦界 (浮いちゃネ)おれどもイソ 身は苦界  
沖で鰹の 瀬の立つ時は 四寸厚みの 櫓がしなう (四寸ネ)厚みのイソ 櫓がしなう  
思い重ねて 波打つ胸に 春の南東風(いなさ)が 肌をさす (春のネ)南東風がイソ 肌をさす  
親のない子と 浜辺の千鳥 日さえ暮れれば しをしをと (日さえネ)暮れればイソ しをしをと   
海門橋とは 誰が岩船の 恋の浮名も 辰の口 (恋のネ)浮名もイソ 辰の口  
君と別れて 松原行けば 松の露やら 涙やら (松のネ)露やらイソ 涙やら  
君を松虫 涼みの蚊帳に 更けて差し込む 窓の月 (更けてネ)差し込むイソ 窓の月   
恋の那珂川 渡しを止して 向こうへ想いを 架ける橋 (向こうへネ)想いをイソ 架ける橋  
心残して 湊の出船 揚がる碇に すがる蟹 (揚がるネ)碇にイソ すがる蟹  
心寄せても さきゃ白波の 磯の鮑の 片想い (磯のネ)鮑のイソ 片想い  
咲いてみしょとて 磯には咲けぬ 私ゃ湊の 浜の菊 (私ゃネ)湊のイソ 浜の菊  
実の平磯 情けの湊 男伊達なる 磯の浜 (男ネ)伊達なるイソ 磯の浜  
白む沖から 朝霧分けて 夜網上げくる 流し船 (夜網ネ)上げくるイソ 流し船  
潮風吹こうが 波たたこうが 操かえない 浜の松 (操ネ)かえないイソ 浜の松  
汐どきゃいつかと 千鳥に聞けば 私ゃ立つ鳥 波に聞け (私ゃネ)立つ鳥イソ 波に聞け  
汐は満ち来る 想いはつのる 千鳥ばかりにゃ 泣かしゃせぬ (千鳥ネ)ばかりにゃイソ 泣かしゃせぬ  
すがりついても 主ゃ白波の 磯の鮑で 片想い (磯のネ)鮑でイソ 片想い  
底の知れない 千尋の海に 何で碇が おろさりょか (何でネ)碇がイソ おろさりょか  
浪が打ち寄る 磯辺の月に 泣くは千鳥と わしばかり (泣くはネ)千鳥とイソ わしばかり  
涙隠して 寝る夜はともに 浜で千鳥が 泣き明かす (浜でネ)千鳥がイソ 泣き明かす   
泣いてくれるな 出船の時にゃ 沖じゃ櫓櫂が 手につかぬ (沖じゃネ)櫓櫂がイソ 手につかぬ  
西は広浦 東は那珂よ 漁る蓑着に 水焔る (漁るネ)蓑着にイソ 水焔る  
原山並木が 何恐かろう 惚れりゃ三途の 川も越す (惚れりゃネ)三途のイソ 川も越す  
平磯沖から 帆を巻き上げて 那珂の川口 走り込む (那珂のネ)川口イソ 走り込む  
人の前浜 何怖かろう 入道山さえ 越えて行く (入道ネ)山さえイソ 越えて行く  
更けて琴弾く 浜松風に 鼓打ち合う 浪の音 (鼓ネ)打ち合うイソ 浪の音  
船の戻りが 何故遅かろう ちょうど東南風の 送り風 (ちょうどネ)東南風のイソ 送り風  
船は千来る 万来る中で わしの待つ船 まだ来ない (わしのネ)待つ船イソ まだ来ない  
船底枕で 寝る浜千鳥 寒いじゃないかい 波の上 (寒いじゃネ)ないかいイソ 波の上  
湊とまりに 入り来る船は 夢も静かな 舵枕 (夢もネ)静かなイソ 舵枕  
水戸を離れて 東へ三里 波の花散る 大洗 (波のネ)花散るイソ 大洗  
水戸の梅が香 どこまで香る 雪の桜田 御門まで (雪のネ)桜田イソ 御門まで   
山で赤いのは 躑躅に椿 咲いて絡まる 藤の花 (咲いてネ)絡まるイソ 藤の花  
私ゃ平磯 荒浜育ち 波も荒いが 気も荒い (波もネ)荒いがイソ 気も荒い  
私とあなたは 酒列磯よ 世間並みには 添われない (世間ネ)並みにはイソ 添われない  
春の曙 見渡す船は 浪も静かに 帆を上げて (来るよネ)鮪のイソ 大漁船  
夏の夕暮れ 千船の帰帆 釣った鰹は 朝鰯 (あれはネ)湊のイソ 大漁船  
秋は広浦 船行く空も 晴れて嬉しき 月今宵 (招くネ)尾花をイソ 女郎花  
冬枯れ寒さに 彩る浪は どこに群がる 大鰯 (獲ってネ)五反のイソ 萬祝  
水戸で名所は 偕楽園よ 梅と躑躅に 萩の花 (月のネ)眺めはイソ 千波沼  
月の姿に ついほだされて 鳴くや千波の 渡り鳥 (鳴くやネ)千波のイソ 渡り鳥  
深き思いの あの那珂川に 水に焦がれて のぼる鮭 (恋はネ)浮名をイソ 流し網  
平磯名所は 磯崎岬 君が建てたる 観濤所 (下にネ)護摩壇イソ 神楽岩  
浪に浮かれた 鰯の色は 沖で鴎が 立ち騒ぐ (舟でネ)鴎がイソ 立ち騒ぐ  
昇る朝日に 白帆が見ゆる あれは函館 鰊船 (摘んだネ)荷物はイソ 那珂湊  
春の出初めに 白帆が三艘 初め大黒 なか恵比須 (あとのネ)白帆はイソ よろずよし  
新艘おろして 七福神が 大漁祝いも 初日の出 (鶴とネ)亀とがイソ 舵を取る  
もしや来るかと わが胸騒ぎ 惚れりゃ風にも だまされる (憎やネ)嵐がイソ 戸を叩く
「大洗甚句」  
大洗町の花柳界のお座敷唄。曲は「おてもやん」や「名古屋甚句」などと同系統の「本調子甚句」が大洗化したもの。「本調子甚句」は、江戸時代末から明治にかけて、各地の花柳界で大流行しているから、その頃に伝えられたと考えられる。今日では「磯節」のあとに「字余り磯節」といった感じで唄われているために、忘れられた存在になっている。  
 
/ 「おてもやん」「名古屋甚句」     
←「本調子甚句」 
 
(テヤ テヤテヤテヤ イササカリンリン スカレチャドンドン サイショネ)  
私に逢いたけりゃ 音に聞こえし大洗下の (サイショネ)  
大きな石をかきのけて(ソレ)  
小ちゃな石をかきわけて(ソレ) 細か 
い小砂利を 紙に包んで 三尺小窓 小屏風の陰から  
パラリパラリと 投げしゃんせ(ソレ)  
その時ゃ私が 推量して  
雨が降ってきたとイソ 逢いに出る  
(テヤ テヤテヤテヤ イササカリンリン スカレチャドンドン サイショネ)  
私と行かぬか あの海原へ(オヤ 何しにネ)  
船を漕ぎ漕ぎ 語り合い (嬉しいネ)漕ぎ漕ぎイソ お楽しみ  
「潮来節」  
江戸中期の流行唄(はやりうた)。江戸時代の水郷潮来(茨城県)は、東北地方の米を江戸へ送る集積地であり、また鹿島、香取両神宮への参拝客でにぎわった。そのため、舟唄とも遊女の舟遊び唄ともいわれるこの歌は、明和(1764-72)の末にはお座敷化して江戸へ伝わり、文化(1804-18)にかけて大流行した。7775の26文字からなるこの詞型は、日本全域で愛唱された初めての民衆歌謡といえよう。やがて江戸では新内や祭文(さいもん)の旋律が加えられ、大坂では「よしこの」の母胎になるなど、歌い崩されて本来の旋律は失われてしまい、現代では端唄(はうた)「潮来出島」、民謡「潮来音頭」「潮来甚句(じんく)」として残っているにすぎない。 
 
潮来出島のまこもの中に、あやめ咲くとはしほらしや。  
潮来出島のまこもの中に、あやめ咲くとはつゆしらず。  
潮来節は、常陸国の潮来村から起こり、江戸時代後期に全国的に歌われた俗謡で、この2首がその元歌であるとするのが通説です。起源は、利根川の船頭唄。あるいは遊女の「梓の唄」であったものが、しだいに花柳界に入ってお座敷唄に変質し、終いには流行歌となって全国的にひろまり、江戸後期のほぼ1世紀にわたって流行しました。『利根川図志』に見える潮来竹枝の元祖といわれる服部南郭や十返舎一九・小林一茶などの作品に「潮来」や「いたこ」とあるのは潮来節の代名詞で、地名は「板久」と書いて区別しており、「いたこをやらかす」といえば潮来節を歌うことでした。それが全国各地の盆踊りや田植え歌などにとりいれられて、近年まで残っています。  
潮来節より派生したもの、「徳島阿波おどり(よしこの節)」「潮来節(親節)」「愛媛伊予いたこ節」「愛知神戸節」「よしこの節」「新潟板子」「越後いたこ」「佐渡おけさ」「鳥取嫁入いたこ」「本調子いたこ」「富山嫁入いたこ」「東京深川いたこ」「吉原いたこ」「品川いたこ都々逸」「潮来出島(長唄藤娘)」など。  
 
→「よしこの」「潮来出島(端唄)」「潮来音頭」「潮来甚句」
「潮来音頭」 (「潮来節」)  
銚子から利根川をさかのぼると、行方(なめかた)郡潮来(いたこ)町がある。ここは、東回りの船の寄港地として、香取、鹿島、息栖(いきす)の水郷三社の中間地として賑わいをみせていた。船頭や参詣人相手の遊廓ができ、全盛時には妓楼九軒、引き手茶屋四十余軒が浜一丁目に軒を連ねたという。花柳界の座敷唄として唄われたのが「潮来音頭」と「潮来甚句」。「潮来音頭」はションガイの囃し言葉をもち、当初は「潮来節」と呼ばれていたようだが、前身は不明。  
 
上の句を音頭が歌い、下の句を他の人が歌い、更に返しを付けるといった歌い方をすることから「音頭」といわれているようです。ただ最後に「ションガイー」を付けるところから「ションガイ節」とか「潮来節」と呼ばれる唄であったようです。利根川流域で「浄観節」といった同種の盆踊り唄があるといいますし、「越後いたこ」といった盆踊り唄が新潟県に残っていることから、この「潮来音頭」も、もともとは盆踊り唄であったようです。  
 
/ 「ションガイ節」「潮来節」「浄観節」 
 
揃うた揃うたよ 踊り子が揃うた(アリャサー) [または(アリャセー)]  
秋の出穂より よく揃うたションガイー  
(よく揃うた)秋の出穂より よく揃うたションガイー  
潮来出島の 真菰の中に あやめ咲くとは しおらしやションガイー  
(しおらしや)あやめ咲くとは しおらしやションガイー  
私ゃ潮来の あやめの花よ 咲いて気をもむ 主の胸ションガイー  
(主の胸)咲いて気をもむ 主の胸ションガイー  
花を一本(ひともと) 忘れてきたが あとで咲くやら 開くやらションガイー  
(開くやら)あとで咲くやら 開くやらションガイー  
此処は前川(加藤洲) 十二の橋よ 行こか戻ろか 思案橋ションガイー  
(思案橋)行こうか戻ろうか 思案橋ションガイー  
潮来出てから 牛堀までは 雨も降らぬに 袖しぼるションガイー  
(袖しぼる)雨も降らぬに 袖しぼるションガイー  
向こう通るは 清十郎じゃないか 笠がよう似た 清十郎笠ションガイー  
(清十郎笠)笠がよう似た 清十郎笠ションガイー   
主と別れて 松原行けば 松の露やら 涙やらションガイー  
(涙やら)松の露やら 涙やらションガイー  
並ぶ灯しは 潮来の曲輪(くるわ) 月は朧の 十二橋(きょう)ションガイー  
(十二橋)月は朧の 十二橋ションガイー  
さらばこれより ションガイ節(音頭を)やめて 次の甚句に 移りましょションガイー    
船頭小唄  
己(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき) 同じお前も 枯れ芒  
どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れ芒  
   死ぬも生きるも ねえお前 水の流れに 何(なに)變(かわ)ろ  
   己もお前も 利根川の 船の船頭で 暮そうよ  
枯れた眞菰(まこも)に 照らしてる 潮來出島の お月さん  
わたしやこれから 利根川の 船の船頭で 暮すのよ  
   なぜに冷たい 吹く風が 枯た芒の 二人ゆえ  
   熱い涙の 出た時は 汲でお呉れよ お月さん  
「潮来出島」とは、潮来の町の南に広がるデルタ地帯のことで、この地域ならではの水郷(水路)とあやめの花と、船頭という風物詩は、江戸時代から長唄の「藤娘」や端唄などでよく使われていた。 「潮来節」という、江戸の花町で洗練された色恋の歌がそれだが、雨情は「船頭小唄」でそのイメージを払拭しようとしている。  
「眞菰(まこも)」とは、湿地帯に生えるイネの仲間で、しめ縄やむしろなどを編むのにも用いられる多年草である。  
「潮来甚句」  
潮来の花柳界で、酒席の騒ぎ唄として唄われてきた。宮城県の「塩釜甚句」が変化したもの。江戸は明暦3年(1657)の大火以後、人口が著しく増えたため、幕府は奥州各藩から米を買付けた。伊達藩の千石船は、石巻を出ると銚子から利根川を上り、潮来までくると米を高瀬船に積み替え、関宿から逆に江戸川を下って、江戸に米を運んだ。回り道をしたのは、当時の船で房総半島を回り、東京湾に入るのは大変に危険だったからである。潮来には米倉が建ち並び、仙台河岸と呼ばれて、「塩釜甚句」もおおいに唄われていた。  
 
これは牛深ハイヤ節を源流とする「ハイヤ節」が元であるといいます。潮来は、奥州仙台藩から江戸へ送る米を千石船に積んで送られてきた場所であって、宮城県の騒ぎ唄である「塩釜甚句」が潮来にも持ち込まれ、潮来化したものと言われます。本来の「ハイヤ節」のような「ハイヤー」という歌い出しは失われていますが、もともとの威勢よさや、賑やかな唄ばやしがつくあたりは、「ハイヤ節」の名残は伝わっています。これらの「潮来音頭」と「潮来甚句」はそれぞれ別に歌われることが多いのですが、続けて組唄のように演奏される場合、「潮来あやめ踊り」として演奏されます。その場合、「潮来音頭」の最後の歌詞を、  
さらばこれよりションガイ節(音頭)をやめて 次の甚句に移りましょ  
として、返しを付けずに甚句に移ります。また、三味線の調子は「潮来音頭」が二上りで、「潮来甚句」が本調子ですので、音頭が終わると途中で、三味線の調子を変えて続けて演奏します。どちらも潮来ならではの雰囲気を醸し出す唄に仕上げられ、しかも個性ある音頭と甚句を続けることで、音楽的にも面白い構成となっています。  
 
←「牛深ハイヤ節」「塩釜甚句」「潮来節」 
 
揃うた揃うたよ 足拍子手拍子(アラヨイヨイサー) 秋の出穂より ヤレよく揃うた  
潮来出島の 真菰の中に あやめ咲くとは ヤレしおらしや  
潮来出島の ざんざら真菰 誰が刈るやら ヤレ薄くなる  
私ゃ潮来の あやめの花よ 咲いて気をもむ ヤレ主の胸  
ここは加藤洲 十二の橋よ 行こか戻ろか ヤレ思案橋  
潮来出てから 牛堀までは 雨も降らぬに ヤレ袖しぼる  
姐さどこ行く サッパ舟漕いで 潮来一丁目に ヤレ紅買いに  
からりからりと 細棹さして 島の姐らは ヤレ会いに来る  
出島よいとこ 真菰のかげに 紅い襷が ヤレひらひらと  
潮来出島の 十二の橋を 往きつ戻りつ ヤレ夜が明ける  
泣いて別れた 出島の田圃 風に真菰が ヤレさらさらと  
筑波颪を 片帆にかけて 潮来出島へ ヤレひと走り  
潮来崩しと 頭で知れる 藁で束ねた ヤレ投げ島田  
どうせやるなら 大きな事おやり 奈良の大仏 ヤレ蟻が引く  
潮来姐やの 投げ盃は 親の意見じゃ ヤレ止められぬ
「古河甚句」 (「中田音頭」「中田節」)  
古河市中田は日光街道の宿場町として栄えたところで、昭和初めまで花街(遊廓)があり、この辺りでは随一の歓楽街として栄えた。田山花袋の名作「田舎教師」にも登場する。中田盆踊り大会は中田の鎮守、八幡神社境内で行われる。かつて中田の盆踊りは中田宿の鎮守、八幡神社や寺の境内で行われており、近在から大変多くの人々が集まり大いに賑わったという。そのためか口説節の盆踊りのことを「中田音頭」とか「中田節」と呼んでいる所が近在に多い(埼玉県北川辺町、茨城県水海道市上花島・山口など)  
中田恋しや 八幡さまの 森が見えます ほのぼのと  
と歌われた中田八幡宮は、明治後期〜大正初期に行われた利根川の改修工事に伴い、中田宿の大部分が河川敷になることになり移転した。以前は埼玉側の栗橋から、川の向うにほのぼのと八幡の森が見えたのだろう。  
栗宿と中田宿の間には船橋がかけられていた。「古河甚句」はもと中田音頭、中田節と呼ばれた口説節の改名曲で、「古河甚句」と名を改めたときに作られた、古河名所づくしの文句の音頭に合わせ踊り子が踊る。伴奏は大太鼓一つに一斗樽二つ、鼓三人、笛・鉦が一人ずつ。  
昭和30年代、キングレコードにこの唄を吹き込むにあたり、「中田節」ではどこの唄かわからないため「古河甚句」と名付けたという。本来ならば甚句は七七七五調の短詞型のものを指すので「古河音頭」と名付けるべきだが、すでに「古河音頭」という新民謡が存在していたため、やむをえず「古河甚句」と名付けたのが真相だという。  
 
←(口説節) 
 
はぁ〜 西に富士山 東を見れば〜 めおと姿の筑波の峰よ  
北は日光で また南には〜 花の都のお江戸がござる  
日光街道の緑の松に〜 城のやぐらが目に映るよ〜な〜  
土井の殿様 八万石の〜 古河は名高い城下の町よ  
   昔懐かし 花街ゆけば〜 粋なねぇさん 招くじゃないか〜  
   男大利根、渡良瀬川に〜 思川ならそわせてやろ〜と〜  
   かけて結んだあの三国橋〜 眺め千両の見晴らしどころ〜  
   街にゃ名物、名勝はあれど〜 今じゃ甚句が土産の一つ  
   聞いてお帰り この古河甚句をえ〜  
「茨城船甚句」  
明治時代に那珂湊の漁業が盛んになり、漁師が和船に乗り組み櫓(ろ)をこぐ時のこぎ唄として生まれました。「おせよおせおせ、九丁櫓でおせよ、こげば港が近くなる」というように、帰港の時など力いっぱい櫓をこぎながら唄われました。この船甚句は、宮城県一帯の遠島甚句と系統が同じものと考えられています。  
 
押せや 押せ押せ八丁櫓で押せ 押せば湊が近くなる  
これは、大漁船が湊へ戻ってくる際に、櫓を漕ぐ手に合わせて勇壮に唄われたものだ。「八丁櫓」がいつ解禁になったのか、解禁後に作詞されたのならば問題は起こらないだろう。あるいは、那珂湊(茨城県の漁港)と荒波の太平洋(鹿島灘)を行き来するには「八丁櫓」が必要だった、「禁」を承知で船を造り、唄も作られたのか。  
千葉県民謡の「押込甚句」には、同じような歌詞だが「八丁櫓」が「船頭さんも水夫(かこ)も」となる。房総半島東側の漁師町・夷隅(いすみ)郡大原町で唄われていた。九十九里海岸での漁では「八丁櫓」は必要なかったのだろう。  
押せや 押せ押せ船頭さんも水夫も 押せば港が近くなる   
 
/ 「遠島甚句」
「常磐炭坑節」  
福島県南部の磐城地域から茨城県北部の常陸地域にまたがる常磐炭坑は、江戸時代後期に発掘された、大炭田です。京浜工業地帯に近く、最盛期には15,000人あまりの抗夫たちが働いていたそうです。そうした抗夫たちの酒盛り唄として、あるいは水戸を中心とした花柳界で歌われてきたのが「常磐炭坑節」です。もともとは、いわき市あたりで歌われていた「草刈り唄」であったといい、唄ばやしは「野郎刈ったナイ」だったそうです。これが炭坑夫の男たちや、選鉱作業の女工たちによって歌われるようになったのが明治時代初期のことです。全国的にもこうした「鉱山唄」はよく歌われていました。それが湯元温泉あたりの花柳界で歌われるようになって、三味線の手も付けられ、昭和初期には「炭坑節」と呼ばれるようになったようです。これが、茨城県水戸の花柳界に「磐城炭坑節」として持ち込まれ、本来の荒々しい感じではなく、唄ばやしも「ヤロヤッタナ」といった感じになって、つやっぽく歌われました。こうして、福島〜茨城両県で広く歌われることとなったのだそうです。  
戦後、西日本では、北九州の筑豊炭坑で「北九州炭坑節」が流行ります。すると東日本でも、この曲が脚光を浴び、「常磐炭坑節」として、相馬民謡界の鈴木正夫のレコーディングで注目され、音丸、日本橋きみ栄といった歌手によるレコード化によって、流行っていきます。唄ばやしも「ヤロヤッタナイ」とか「ヨイショヨイショヨイショヨイショ」といった元気なものになっていきました。一方、茨城側では日立市の煙山喜八郎が歌い、那珂湊の谷井法童を中心に、弟子の福田佑子によって広く歌われると、すっかり茨城民謡になっていきます。経緯からすると、「常磐炭坑節」は福島で生まれて、茨城で育てられ、流行った唄という感じでしょうか。  
 
←(草刈り唄) 
 
ハァー朝も早よからヨ カンテラ下げてナイ(ハヤロヤッタナイ)  
または(ハヨイショヨイショ ヨイショヨイショ)  
坑内通いもヨードント 主のためナイ(ハヤロヤッタナイ)  
 または(ハヨイショヨイショ ヨイショヨイショ)  
遠く離れてヨ 逢いたいときはナイ 月が鏡とヨードント なればよいナイ  
逢えばさほどのヨ 話もないがナイ 逢わなきゃその日がヨードント 過ごされぬナイ  
おらが炭坑でヨ 見せたいものはナイ 男純情とヨードント よい女ナイ  
おらが炭坑にヨ 一度はござれナイ 義理と人情のヨードント 花が咲くナイ  
義理と人情のヨ 花咲くときはナイ 炭坑通いはヨードント やめられぬナイ  
ここの炭坑のヨ 姐さん被りナイ 指に輝くヨードント 黒ダイヤナイ  
可愛いあの娘のヨ 指見ておくれナイ 指に輝くヨードント 黒ダイヤナイ  
竪坑三千尺ヨ 下れば地獄ナイ 回る車はヨードント 右左ナイ  
竪坑三千尺ヨ 下れば地獄ナイ 死ねば(末は)廃抗のヨードント 土となるナイ  
娘可愛いやヨ 選鉱場の陰でナイ 月を眺めてヨードント 涙拭くナイ  
娘よく聞けヨ 坑夫の嬶はナイ 岩がドンとくりゃヨードント 若後家だナイ  
発破かければヨ 切端が残るナイ 残る切端がヨードント 金となるナイ  
だみね山からヨ 飛んでくるカラスナイ 金もないのにヨードント カオカオとナイ  
坑夫さんにはヨ どこがよくて惚れたナイ 飯場通いのヨードント 程のよさ  
向こう通るはヨ 坑夫さんじゃないかナイ 金がこぼれるヨードント 袂からナイ  
お前選鉱場にヨ おいらは切端ナイ 思い通わすヨードント トロ車ナイ  
山の帰りがヨ 噂のもとでナイ 今じゃ噂でヨードント 過ごされぬナイ  
手拭片手にヨ カンテラ片手ナイ 主にまた会うヨードント 坑夫風呂ナイ
「土搗き唄」 (波崎町)  
 
←(土突き歌) 
 
めでためでたが重なりまして (ハヨイヨイ)  
エー門に七重の ヤハレしめを張る  
(アリャヨーイヨーイ ヨーイヤセ) (ハコリャリャ ハコリャリャサーヨイトネ)  
鯉の滝のぼりは何とてのぼる (ハヨイヨイ)  
アー命限りと ヤハレいうてのぼる  
(アリャヨーイヨーイ ヨーイヤネ) (ハコリャリャ ハコリャリャサーヨイトネ)  
ヤーハノエー かわりますぞやヤーハノヘー  
(ヤットコセー ヨーイヤナ)  
オヤかわりますぞや 蕎麦屋の丼 ヨホイトネ  
(アリャアリャノリャ ヨーイトコヨイトコネ)  
この娘よいこだぼたもち顔で (ハヨイヨイ)  
エーきな粉つければ なおよかろ ヤーイヤラ  
(ハヨーイショ ヨンヤラサノセー ヤイコラサ) (ヤレノサーイ アレワサエーンヤーラ)  
咲いだ桜へなぜ駒つなぐ (ハヨイヨイ)  
エー駒が勇めばコリャ 花が散る ヤーイヤラ  
(ハヨーイショ ヨンヤラサノセー ヤイコラサ) (ヤレノサーイ アレワサエーンヤーラ) 
「龍ヶ崎神輿(宮元)甚句」  
龍ヶ崎八坂祭  
「久慈浜神輿甚句」  
大甕神社例大祭 「今日は日も良し 天気も良し ・・・ 繁盛繁盛の明治屋様〜 今日の繁盛でアレサ 蔵が建つよ」  
 

北海道東北中部近畿中国四国九州 
栃木県群馬県茨城県埼玉県千葉県東京都神奈川県

埼玉県

 

「秩父音頭」 
埼玉県西部の秩父一円で歌われてきた盆踊り唄が「秩父音頭」です。  
この唄はいわゆる七七七五調の甚句形式ですが、下の句の第4句目の前に「アレサ」が挿入されるところから、「アレサ型盆踊り唄」とか「ヤレサ式盆踊り唄」と呼ばれます。同系統のものには「相馬盆唄」「いわき盆唄」(福島県)、「三浜盆唄」(茨城県)、「日光和楽踊り」「宮の盆唄」(栃木県)、「北海盆唄」(北海道)などがあります。源流は新潟の「越後甚句」と言われています。  
秩父では8月始めの稲の花の咲く頃に、田の神様にもう一度豊年を祈る「豊年踊り」という風習があって、それにこの唄を使ったといいますが、やがて盆踊りに利用するようになったそうです。  
昭和初期、こうした盆踊り唄が廃れていくので、保存しようと立ち上がったのが皆野町の金子病院の院長・金子元春(号:伊昔紅)で、それまでの猥雑な歌詞でなく一般募集したり、自ら作詞、更に節にも手を加え、今日の形にしたといいます。更に、金子病院の作男・吉岡儀作らに覚えさせてレコーディングしたといいます。  
こうした地元の歌い方の「秩父音頭」は、「秩父屋台囃子」の手を取り入れたもので、笛、大太鼓、小太鼓、鉦の伴奏で歌われます。一方で、ステージ民謡の世界では、その笛のメロディをなぞったような三味線伴奏で、「日光和楽踊り」風な歌い方で演奏されます。  
また、忘れられないのは、地元・埼玉出身の民謡歌手・小沢千月師。この「千月節」ともいえる「秩父音頭」は、ステージ風の伴奏ではありますが、地元独特の唄ばやしをふんだんに取り入れ、大変馴染みやすく歌い上げておられます。「秩父音頭」を愛し、広めたという点で功績が大きいと思います。  
 
/ 「相馬盆唄」「いわき盆唄」「三浜盆唄」「日光和楽踊り」「宮の盆唄」「北海盆唄」     
←「越後甚句」 
 
ハアーハエー 花の長瀞 アノ岩だたみ  
花の長瀞 アノ岩だたみ  
誰れをナー ハーエ  
誰を待つやら アレサおぼろ月  (ハア ヨイヨイ ヨーイヤサ)  
   夏は山吹 つつじの花よ 夏は山吹 つつじの花よ  
   秩父ナ 秩父銘仙 織どころ  
秋蚕(あきご)しもうて 麦まき終えて 秋蚕しもうて 麦まき終えて  
秩父ナ 秩父夜祭り 待つばかり  
   月がやぐらの ま上に来れば 月がやぐらの ま上に来れば  
   踊りナ 踊り組む輪の十重二十重  
盆の踊りに つい見染められ 盆の踊りに つい見染められ  
嫁にナ嫁にくれとは はづかしや  
   鳥も渡るか あの山越えて 鳥も渡るか あの山越えて  
   雲のナ 雲のさわたつ 奥秩父  
秩父名物 三峰山よ 秩父名物 三峰山よ  
一にナ 一に長瀞 二に秩父縞    
 
鳥も渡るか あの山越えて 鳥も渡るか あの山越えて  
雲のナァーエ 雲のさわ立つ アレサ奥秩父  
   咲くは山吹 躑躅の花よ 咲くは山吹 躑躅の花よ   
   秩父ナァーエ 秩父銘仙 アレサ機(はた)どころ  
花の長瀞 あの岩畳 花の長瀞 あの岩畳   
誰をナァーエ 誰を待つやら アレサ朧月  
   三十四ヶ所の 観音巡り 三十四ヶ所の 観音巡り   
   娘ナァーエ 娘十九の アレサ厄落とし  
一目千本 万本咲いて 一目千本 万本咲いて   
霞むナァーエ 霞む美の山 アレサ花の山  
   霧に濡れてか 踊りの汗か 霧に濡れてか 踊りの汗か   
   月にナァーエ 月にかざした アレサ手が光る  
主のためなら賃機(ちんばた)夜機(よばた) 主のためなら賃機夜機   
たまにゃナァーエ たまにゃ寝酒も アレサ買うておく  
   今宵一夜は 三峯泊まり 今宵一夜は 三峯泊まり   
   明日はナァーエ 明日は雁坂 アレサ十文字  
遠く聞こゆる あの笛太鼓 遠く聞こゆる あの笛太鼓   
あれはナァーエ あれは秩父の アレサ盆踊り  
   桑の葉影に 流るる太鼓 桑の葉影に 流るる太鼓   
   武甲ナァーエ 武甲二子(ふたご)の アレサ月明かり  
燃ゆる紅葉を 谷間の水に 燃ゆる紅葉を 谷間の水に   
乗せてナァーエ 乗せて荒川 アレサ都まで  
   炭の俵を 編む手にひびが 炭の俵を 編む手にひびが   
   切れりゃナァーエ 切れりゃ雁坂 アレサ雪化粧  
秋蚕(あきご)仕舞うて 麦蒔き終えて 秋蚕仕舞うて 麦蒔き終えて   
秩父ナァーエ 秩父夜祭り アレサ待つばかり 
「吾野機織り唄」  
秩父の養蚕は古い伝統を持つ。飯能市吾野生まれの民謡家・小沢千月がこの唄を掘り起こし、伝承に努めている。  
 
わたしゃ 吾野の機屋の娘 思い(ハァ イッタン)  
思い一筋 恋の糸 トーカナンダイ  
   機が織れない 機神様よ どうか  
   どうかこの手の あがるよに  
待てど帰らぬお方と知りつ 今日も  
今日もくるくる 糸車  
   川の流れと 吾野の機は くめど  
   くめど尽きせぬ 情がある  
糸は千本 切れても継なぐ 切れた  
切れた情けは つながれぬ  
   泣いて心が 晴れますならば わしも  
   わしも泣きたいことがある  
泣いて暮らせば 月日も長い 唄で  
唄で暮らせば 夢のようだ  
■ 
山は紫 鶯鳴いて(コノザーンザ)  
秩父よいとこ まったく機どころ(コリャ トモ ヨーホホイ)  
   もずが高鳴く 秋晴れ日和  
   庭の夜具地〈やぐち〉が またっくよく乾く  
青い月夜に すいとが鳴いて  
夜機〈よばた〉織ってる まったく筬の音  
   一杼一筬 心を込めて  
   主に着せたい まったく秩父縞  
秩父よいとこ 山紫に  
匂う谷間で まったく布晒し
「狭山茶作り唄」  
狭山茶処で手もみ茶を作る際に、唄われてきた仕事唄です。  
 
(アヨリコメヨリコメ アヨリコメヨリコメ アヨリコメヨリコメ)   
狭山よいとこ、(アヨリコメヨリコメ) エエーお茶場でえ名所 (アヨリコメヨリコメ)  
娘やりたや ヨオ エエエー婿ほしや (アヨリコメヨリコメ)  
狭山じゃ名代よ、アヨリコメヨリコメ エエー捨てては、おけぬ (アヨリコメヨリコメ)  
聞いてお帰り ヨオ エエエー狭山節 (アヨリコメヨリコメ)  
(チャキットヨリナヨ サヤマノオチャシヨ アヨリコメヨリコメ)  
   宇治の銘茶と エエー狭山の濃茶 出会いますぞえ ヨオ エエエー横浜で  
   狭山よいとこ エエー北山晴れて 南西風 ヨオ エエエーそよそよと  
   キリリトヨリナヨ サヤマノオチャシヨ アヨリコメヨリコメ  
狭山街道は エエー箒はいらぬ 茶摘み茶よりの ヨオ エエエー裾で掃く  
お茶師お茶師と エエー名はよいけれど 朝も早よから ヨオ エエエー丸裸  
ヨラネバナラヌカ サヤマノオチャデモ アヨリコメヨリコメ  
   お茶の茶の茶の エエー茶の木の陰で お茶も摘まずに ヨオ エエエー色ばなし  
   八十八夜も エエー通わせおいて 別れ霜とは ヨオ エエエー情けない  
   チャキットヨリナヨ サヤマノオチャシヨ アヨリコメヨリコメ  
五月来たかよ エエー狭山の茶場へ 娘若い衆 ヨオ エエエーいさみ立つ  
若手揃いで エエーもんだるお茶は 色の良いので ヨオ エエエー主が好く  
キリリトヨリナヨ サヤマノオチャシヨ アヨリコメヨリコメ  
   姿悪くも エエー色香は深い 狭山銘茶の ヨオ エエエー味の良さ  
   嫁もお茶師へ エエー来たのが因果 いつかもまれて ヨオ エエエー渋くなる  
   ヨラネバナラヌカ サヤマノオチャデモ アヨリコメヨリコメ  
お茶を摘む子の エエー笑顔がとけて 色も狭山の ヨオ エエエー色に出る  
ぬるいお茶でも エエーお前の手から ついでもらえば ヨオ エエエー熱くなる  
チャキットヨリナヨ サヤマノオチャシヨ アヨリコメヨリコメ  
   お茶師殺すにゃ エエー刃物はらぬ 八十八夜の ヨオ エエエー別れ霜  
   宇治の新茶と エエー狭山の濃茶が 四つに組んだよ ヨオ エエエー両国で  
   キリリトヨリナヨ サヤマノオチャシヨ アヨリコメヨリコメ  
五月なかばに エエー狭山を通りゃ 電車の中まで ヨオ エエエー茶の香り  
お茶は終えるし エエーお茶師は帰る ホイロ眺めて ヨオ エエエー目に泪  
ヨラネバナラヌカ サヤマノオチャデモ アヨリコメヨリコメ  
   あれやこれやと エエー迷うて見たが 何と云っても ヨオ エエエー茶は狭山  
   色は静岡 エエー香りは宇治よ 味は狭山で ヨオ エエエー止めさす  
   チャキットヨリナヨ サヤマノオチャシヨ アヨリコメヨリコメ   
   アヨリコメヨリコメ アヨリコメヨリコメ 
「吉川甚句」  
吉川市八坂祭り  
 
吉川の八坂祭りが二度あるならば 可愛いあの娘と二度会える  
一日会えなきゃ 二日三日四日五日六日七日・八日 九日十日も逢えぬように  
浅い川ならひざまで捲る 深くなるほど帯を解く  
櫓太鼓にふと目を覚まし 今日はどの手で投げてやろ  
入れてお呉れよ 痒くてならぬ 私一人が蚊帳の外  
「川越舟唄」 (「千住甚句」) 
1638年(寛永15)の川越大火で、川越仙波東照宮が消失した時、その再建資材を江戸から新河岸川を利用して運んだのが、新河岸川舟運の始まりである。翌1639年、川越藩主になった松平信綱が、1647年(正保4)に河港を開設、領内の伊佐沼から流れる川に多くの屈曲をつけ、舟の運行に適すよう水量保持の工事をし、当初は藩米を江戸へ運び出すのを主目的にした。  
川越は小江戸≠ニ称され江戸との交流はまことに緊密だった。川越からは米、木材、茶、繭、鋳物などが、江戸からは肥料、油、石灰、酒、小間物など日用雑貨が運ばれ、天保のころ(1830〜44)から乗客を扱うようになった。当時は川越を午後3時ごろに出発すると、翌日の昼下りに着くという気の長い舟運であったが、東上鉄道が開通すると積荷を鉄道に奪われ、次第に衰微して行った。  
川越から江戸へ物資を運ぶ高瀬舟は、7、80石の積載量で米なら350俵(1俵は16貫、約60キロ)積めた。新河岸川水路から荒川を経て江戸の浅草花川戸に至る九十九曲がり、36里(144キロ)の水路を通った。「川越舟唄」は、この往来の乗客にせがまれたり、眠気覚ましに歌われた「新河岸川舟唄」のことで、艪を漕いでいる二人の船頭は、一人が歌えばもう一人が合の手を入れ、艪の軋む音に合わせてゆったり続けられた。  
この舟唄は「千住甚句」とも呼ばれ、千住宿(現足立区千住)の遊廓の酒席で歌われた二上り甚句の騒ぎ唄で、それだけに埼玉の特色は薄く、小江戸的で粋な味がある。  
江戸時代の千住は日光街道を中心として奥羽地方に通ずる起点の宿場であり、荒川舟運の船着場でもあったので遊廓も大いににぎわった。  
 
←「千住節」 
 
押せや押せ押せ 二挺艪で押せや 押せば千住が 近くなる  
九十九曲がり 仇では越せぬ  通い船路の 三十里  
千住出てから 巻の野までは  竿も艪櫂も 手につかぬ  
船は千来る 万来る中で  わしの待つ船 まだ来ない  
追風吹かせて 早や登らせて  今度下りは 待つわいな  
川越辺りを 夜更けて走りゃ  可愛いあの娘の 声がない  
主が竿さしゃ 私は艫で  舵をとりとり 艪をば押す   
(東京都「千住節」)  
九十九曲りあだでは越せぬ 通い舟路の三十里    
押せよ押せ押せ二挺櫓で押せよ 押せば千住が近くなる    
舟は帆まかせ舵まかせ 私はあなたに身をまかせ    
主が棹さしや私は艫で 舵をとりとり櫓をば押す    
舟は帆かけて南を待ちる 可愛い女房は主待ちる    
舟は千来る万来るなかで 私の待つ舟まだ来ない    
泣いてくれるな出舟のときや なくと出舟が遅くなる    
舟はチャンコロでも炭薪や積まぬ 積んだ荷物は米と酒    
いくら秩父の材木屋でも お金やらなきや木はやらぬ    
私の財布は横浜仕掛け 七分通りはカラ(唐)で持つ    
千住橋戸は錨か綱か 登り下りの舟とめる    
水の流れは堰すりやとまる 止めて止まらぬ世のならい    
男伊達ならこの新河岸川の 水の流れを止めてみな  
「見沼通船舟唄」  
見沼通船堀は江戸時代中期の享保16年(1731年)に開通 した「閘門式」(「閘門」とは水位の差の激しいところに水門を造って、水位 を調節して通船をする施設のこと。)運河で国指定史跡にもなっています。 さいたま市の東南に位 置する芝川と見沼代用水の3mの水位の差を結んでいます。よくパナマ運河と比較されますが、パナマ運河は1914年の完成なので見沼通船堀はパナマ運河よりも183年も前にできていたことになります。勿論規模の大きさについては比べ物になりませんが、着想の斬新さや工法の優秀さは現在でも高い評価を受けています。 この運河の開通によって江戸との産業交流はおおいに発展しました。見沼通船は、江戸時代においては、幕府直営で運用されていましたが、明治時代にもかなりの盛況でした。しかしその後陸上交通 の発達に伴い、大正末頃にはとだえてしまいました 。  
この通船堀の船頭たちが歌った舟唄も伝えられています。七七七五調で、歌詞は20種以上あるそうです。  
千住出てから まきのやまでは 竿も櫓櫂も手につかぬ  
 
かつては八丁河岸に多くの船頭が居住し、現在も八丁橋の脇にある水神社(すいじんじゃ)は水難防止を祈願して祀られたものである。市の無形民俗文化財にも指定されている「見沼通船舟歌」は、船頭が江戸との往復の際に、船の操作に合わせて口ずさんで歌った仕事歌である。地元の地名などが織り込まれ、船頭やその家族の暮らしぶりがうかがえる。  
 
千住でてからまきのやままでは、竿も櫨かいも手につかぬ  
千住じまいは牛若丸よ こいを抱いたりかかえたり  
会えばさほどの話もないが 会わなきゃ苦労で寝られない  
船は千くる万くるなかで わしの待つ船まだこない  
押せよ押せ押せ二丁櫨で押せよ 押せば港が近くなる  
船乗り稼業はもうやめしゃんせ 苦労するのをやめるよう  
船が着いたよ八丁の河岸に 早く出て取れおもて綱  
八丁山口は船頭でくらす かかあふもとでしらみとり  
八丁出るときや涙もでたが どうぞご無事で帰りゃんせ  
船は新しい船頭さんは若い 積んだ荷物は米と酒  
まいど若いときは袖褄引かれ 今は孫子に手を引かれ 
「土羽打ち唄」 (「岡山節」) 
「土羽打ちのならし唄」 土手普請の唄。土羽打ちの初めと〆めに行なう「ならし」の唄。「岡山節」ともいう。  
 
細い丸太の棒で堤防の法面(斜面)をたたいて固める仕事です。重ねた土をまず軽くたたいて落ち着かせるのが「ならし」という作業です。体を前に折って、土羽棒を連続的打ちます。これに対し、土羽棒を肩の上まで振り上げて、力いっぱいに打ち固める作業を「本打ち」といいいます。本打ち作業では、音頭取りが唄をうたっている間は足踏みで土を固め、ヤ声のところで棒を肩まで持ち上げて本格的に力を入れて打ちます。反対に音頭取りは、音頭のところで力一杯うたい、ヤ声のところで呼吸を休めます。このインターバル方式によって、音頭取りも、作業員も長時間働けることになります。なお唄の一節中に本打ちを一回するものを「一つ打ち」、二度続けてするものを「二つ打ち」といっています。利根川流域の土羽打ち唄は、地域によって、歌詞も節にも違いがあります。  
作業歌 (埼玉県富士見市)  
日本の唄(民謡)には、広い意味の作業唄が多いことが特色の一つとされているが、これを唄によって作業の能率を早め、あるいは気分転換を図ることとも関係があり、唄と労働が密接に結びついていたことを表している。  
概して作業唄は単純なリズムで難しいものは少なく、口から口へと、耳から耳へと伝えられてきたものであり、またリズム、歌詞、ハヤシ言葉が労働に合わせて作られたものであるため、たいへん地域性の豊かなものとなっている。しかし近年の生活変化の著しい中では過去のものとして忘れ去られようとしている。  
郷土色豊かな唄は、今も古老の口からかすかに聞かれ、そのいくつかを挙げることにする。  
   ■新河岸川舟唄  
   ハァ−主が棹さしゃ私はともで 御飯焚き焚き舵をとる。  
   ハァ−千住出てから牧の野(や)までは 棹も櫓かいも手にのらぬ。  
松平伊豆守が正保四年(1647)川越と江戸との船運を開いた後、天保のころから早舟が定期の貨客船となった。午後三時新河岸を出帆して新河岸川を下り、外川(荒川)の戸田付近から棹おしが櫓に変わる。このころに船頭が眠気覚しに歌った唄が新河岸川舟唄(千住節)で、櫓の鉄環のカタンカタンと鳴る拍子に合わせて歌われた情緒的なものであった。  
   ■棒打ち唄(麦打ち唄)  
   大山先から雲が出た あの雲はいかにも雨か嵐か。  
   岩殿山で鳴く鳥は 声もよし音(ね)もよし岩のひびきで。  
六月の下旬から七月にかけて、刈り取った麦を庭一面に広げ「クルリ棒」でたたいて粒を落とす脱穀作業の際に歌われた作業唄である。10人から20人の男女が向い合い交互にクルリ棒の先にて麦を打つため、拍子合わせの役目も兼ね作業促進をうながした。  
   ■たこつき唄(土羽打ち唄の内)  
   青いナァヨ−コラ 松原ナァヨ−  
   あれ見やしゃんせ ア−イヤサ−コラサ−。  
   枯れてナァヨ−コラ 落ちてもナァヨ−  
   ありゃ二人連れ ア−イヤサ−コラサ−。  
   ■土羽打ち唄  
   手子、ヨイトヤマータア−コラサ−ノソ−ライ  
   音戸とり、大工さんよりマ−タ−木びきは恐いよソ−ライ  
   手子、ヨイトヤマータア−コラサ−ノソ−ライ  
   音戸とり、仲の良い木をマ−タ切り分けるよソ−ライ  
   ■ならし唄(土羽打ち唄の内)  
   ならせならせよコラショ− 土羽棒でならせよ−ホイ  
   ならせ無ければ土羽じゃないよコラショ−  
この土羽打ち唄は、大正十一年(1922)ごろより新河岸の土手作りのときに多く歌われていた。  
川が氾濫し堤防決壊による復旧工事のときや、新河岸川の改修時にも土手作りに働く人びとの中で歌われた唄である。  
たこつき唄は、臼のような石の回りに何本もの縄をつけた道具で、周囲からいっせいに縄を引っ張って宙に浮かせ、「ドスンドスン」と落として土を固めるなかで歌われた作業唄である。次は土手の斜面を多くの人が横一列に並んで「どは棒」という握りのところを削った身の丈より少し短い丸太棒で、斜面の上を打ち固める作業にも歌われたもので、このときは唄だけ歌う「音頭とり」と打ち手「手子」とに分かれた。これをどば打ち唄という。  
それから後、斜面と上面をならす作業のときに、ならし唄が歌われた。またならし唄はモチつき前の「練り」のときにも同じ節で歌われた。このように多くの作業唄を生んだ堤防工事の一日の賃金は、女七七銭から八八銭、男一円から一円五○銭で、報われることの少ない労働であった。  
このほか、臼ひき唄、機織り唄、お茶もみ唄、産業組合の歌などがあり、作業唄のほか  
では、とのさ節、ラッパ節、相撲甚句、むじなの数え歌などもある。  
利根地固め唄 
利根川は現在の江戸川を経て東京湾に流れ込んでいたが、徳川幕府によって、埼玉県羽生市付近から今の利根川に付け替えられた。利根地固め唄は、この利根川東遷工事など、利根川の堤防や護岸工事の仕事唄。利根川流域、下総国に伝わる仕事唄とはどんなものか、それはどこで生まれたのか。利根川の仕事唄は大きく分けて「土羽打ち」「杭打ち」「たこ打ち」の3種類がある。  
先ず、「たこ打ち唄」の一つ、「おばば節」。8本の綱がついた丸い石をめいめいが引っ張ると石が持ち上がり、はなすと石が地面におちて地固めとなる。これを唄いながら続けるというわけだ。実際にやってみてこそ、仕事唄を実感できる。黙々とやるよりは、唄いながらの方が疲れが少ないような気がする。この唄のルーツは岐阜県にある。というのは、江戸の寛文のころ、加納久右衛門という人が岐阜から利根川に来て河川工事にあったためだという。なお、この加納氏の子孫はその後、利根町の町長を務められたという。  
次いで、「土羽打ち唄」の一つ、「岡山節(ならし打ち)」。えっ? 何で利根川に遠く離れた岡山ゆかりの唄が残されているの? 江戸時代前半、下総国布川に配された松平氏の子孫が下総古河に転じ、そこで藩主自ら熊沢蕃山に学んだ。岡山藩に仕えた熊沢蕃山は自ら仕事唄も作り、藩の土木工事携わった。そんな経緯があるという。長い棒を持って地面を打って、ノリ面を固めるときに唄う。「岡山節(本打ち)」も合わせて紹介された。「草津よいとこ...」で知られる「草津節」も「ならし打ち」の仕事唄。唄が利根川を遡って「草津節」になった。  
さて、最後に「杭打ち唄」。杭打ちのために高い三角ヤグラをたて、綱を手繰りながら杭打ちの作業をする。手繰る数で「ひとつ打ち」とか「ふたつ打ち」と呼ぶそうだ。  
 
→「草津節」 
 
初めかけますぞ ナーハンソラソラ  
お手をそろえて エーヨー  
アリャともどもに オモシロク  
エートモサー ヨイトモサ  
   初めかけて頼む ナーハンソラソラ  
   お手をそろえて エーヨー  
   アリャともどもに オモシロク  
   ヨイトモサー ヨイトモサ  
ソラー何と みなさまヨーイ  
やりましょじゃないか ナーハンソラソラ  
お手をそろえて エーヨー  
アリャともどもに オモシロク  
エートモサー エートモサ  
ハー ドッコイショー ドッコイショ  
   ソーラーヨー 私ゃ 太田のヨーエ 金山育ち ナーハンソラソラ  
   お手をそろえて エーヨー  
   アリャともどもに オモシロク  
   エートモサー ヨイトモサ  
(小貝川と利根川の合流付近でうたわれていた唄) 
ならしならし  
ならしなーよ ならせよだーよ (ソーレ ソラドッコイショ)  
あれさよー 土羽ならせよ (ヤッサノ コラサ)  
さくらなーよ さくらがだーよ (ソーレ ソラドッコイショ)  
あれさヨー 花ひらくよ (ヤッサノ コラサ)  
ならしなーよ ならせよだーよ (ソーレ ソラドッコイショ)  
一つ打ち  
ヨーホイト コラサー (ヨイトヤ コラサヨー)  
おそろいなったじゃ ないかいだーよ (ヨーホイト コラサー)  
ヨーホイト コラサー (ヨイトヤ コラサヨー)  
おたのみしますよ みなさんにだーよ (ヨーホイト コラサー)  
ヨーホイト コラサー (ヨイトヤ コラサヨー)  
きめこめしめこめ どなたもだーよ (ヨーホイト コラサー)  
ニつ打ち  
ヤーレン ハイカラさんなら まーたー こないでおくれ ソーラーイ  
 (ヤーレン ヨイトヤ ナンダイマータ コレハサノソーライ)  
ヤーレン かわいい娘の まーたー なんと気をもます ソーラーイ  
ヤーレン お染めの宅より まーたー 来いとのたより ソーラーイ  
ヤーレン お上手なものだよ まーたー どなたにだれ泣く ソーラーイ  
(大利根町琴寄の唄)  
土羽打ち唄 / 土手普請の唄。土手の側面を棒で叩いてならすときに謡う。  
さあさナーハイ皆さま やりましょじゃないかヨー  
ドッコイ ドッコイ  
お角力ナーハエ甚句でもソーレ ホントニしょこばでもヨー  
ハ ヨイコラ ヨイコラ  
杭打ち唄 / 櫓を組んで杭を打つときの唄。土手普請唄の一つ。  
ソーレそのなり ヨーイヤーレヤーレー  
コラショで飲んだ酒 ヨーイヤーレヤーレー  
まだ酔い醒めぬだ ヨーイヤーレヤーレー  
醒めぬはずだ ヨーイヤーレヤーレー  
あの娘の酌だぞ ヨーイヤーレヤーレー  
土羽打ちのならし唄 / 土手普請の唄。土羽打ちの初めと〆めに行なう「ならし」の唄。「岡山音頭」ともいう。  
初めかけますぞ ナーハンソラソラ お手をそろえて エーヨー  
アリャともどもに オモシロク  エートモサー ヨイトモサ  
   初めかけて頼む ナーハンソラソラ  お手をそろえて エーヨー  
   アリャともどもに オモシロク ヨイトモサー ヨイトモサ  
ソラー何と みなさまヨーイ   
やりましょじゃないか ナーハンソラソラ お手をそろえて エーヨー   
アリャともどもに オモシロク エートモサー エートモサ  
ハー ドッコイショー ドッコイショ  
   ソーラーヨー私ゃ 太田のヨーエ  
   金山育ち ナーハンソラソラ  お手をそろえて エーヨー  
   アリャともどもに オモシロク エートモサー ヨイトモサ  
たこ搗き唄 / 土手普請唄の一つ。亀石を八人くらいで曳いて、搗き固めるときの唄。  
ソーレ ヨーホイヤー コーラサ  
その気でマタ やりましょだよ  
麦打ち唄  
お江戸今朝出て 春日部泊り  
ハー ドシコメ ドシコメ  
小山泊りじゃ まだ日が高いヨー  
間々田流して ホントニ古河泊りヨー  
ハー ヤッショメ ヤッショメ  
ハー コンナレ コンナレ こなしてどうする  
団子に丸めて お江戸にころがせ グルーリ グルーリ  
伊勢音頭 / 酒席などに踊った。万作踊りの一つでもある。  
伊勢はナーハエ 津で持つィ 津は伊勢で持つヨイ  
尾張名古屋は 城でもつ 家の身上は かかでもつ  
かかのふんどしゃ ひもでもつ ひもの虱は 皺でもつ  
サー ヤレトコセー ヨーイトナノ ア アリャリャイ  
ころがったかー 起きたらよかんべが サーハイ  
角力甚句  
お角力さん 角力にゃ負けても 怪我さえなけりゃ  
晩にゃわたしが 負けてやるエー  
アー スットコスットコ ヨーイトサ  
ハアー 大川(たいかわ)で 土手が切れても  
わたしとお前さん まだ切れやせず  
ハアー 豆腐に鎹(かすがい) 戸板に豆だよ  
みなさん 御意見なんか 無駄だことェ  
ヨーイヨーイ ヨーイトサ  
数え唄  
一つとサーノーホーエ 柄杓に笈摺 菅の笠  
巡礼姿や 父母を たずにょかいな  
オヤ チリント ドッコイショ 
 

北海道東北中部近畿中国四国九州 
栃木県群馬県茨城県埼玉県千葉県東京都神奈川県

千葉県

 

「押込甚句」  
房総半島東側の漁師町・夷隅(いすみ)郡大原町の唄。大漁船が港へ漕ぎ戻ってくる際に、櫓を漕ぐ手に合わせて勇壮に唄われてきた。押し込みとは、船が港へ押し込んでくるさまをいう。宮城県下の松島湾沿岸を中心とする漁村で口ずさまれていた「浜甚句」が大原に持ち込まれ、鰯漁大漁の祝い唄を兼ねた艪漕ぎ唄となった。「浜甚句」は、酒盛り唄や、櫓を押すときに唄われていて、宮城県の「遠島甚句」などと同系統。  
 
/ 「遠島甚句」     
←「浜甚句」 
 
押せや 押せ押せ 船頭さんも 水夫(かこ)も 押せば 港が 近くなる
「木更津甚句」 (「木更津節」)  
酒席の騒ぎ唄。全国各地で見られる「二上り甚句」が変化したもの。江戸時代、木更津は潮来方面からくる船の関所として大きな権力を持ち、出船入船でおおいに栄えた。木更津生まれの落語家・木更津亭柳勢が、幕末の頃、江戸で唄って大評判になる。後、すたれていたのを大正年間に木更津生まれの芸妓・若福が、新橋の烏森のお座敷で唄って再び大流行。”木更津照るとも”で上がる東京風と、下がる地元風の唄い方がある。  
 
千葉県木更津市に伝わる民謡(甚句形式)で、別名を「木更津節」とも言う。由来は江戸期に江戸−木更津間の海運を司る木更津船の船頭が往来の際に唄っていた船唄が元であると言われている。幕末(安政年間)にその船唄を元に木更津出身の噺家、木更津亭柳勢が江戸の高座で唄い江戸界隈で流行したと伝えられている。それからしばらく時が経つに連れだんだん廃れていったが、大正時代に木更津から上京した芸妓・小野きくが「若福」という芸名で新橋のお座敷に出ていた折に「木更津甚句」を披露して東京花柳界で再び流行し全国に広まる。  
 
←「二上り甚句」 
 
ハアー 木更津照るとも 東京は曇れ  
可愛いお方が ヤッサイ モッサイ  
ヤレコリャ ドッコイ コリャコーリャ 日に焼ける  
(サテ シタコリャ シタコリャ シタコリャサ)  
   ハアー 沖の州崎に 茶屋町たてて  
   上り下りの ヤッサイ モッサイ  
   ヤレコリャ ドッコイ コリャコーリャ 船を待つ  
ハアー 船は千来る 万来る中に  
わしの待つ船 ヤッサイ モッサイ  
ヤレコリャ ドッコイ コリャコーリャ まだ見えぬ  
   ハアー たぬき可愛や 証城寺の庭で  
   月に浮かれて ヤッサイ モッサイ  
   ヤレコリャ ドッコイ コリャコーリャ 腹つづみ
「東浪見甚句」  
千葉県長生郡一宮町の民謡。東浪見(とらみ)地区に伝わる酒盛唄。  
九十九里浜の南端、太東岬をひかえた東浪見では、江戸時代初期から盛んになった地曳き網漁が人々の生活を支えてきた。ときに豊漁を喜び、ときに不漁を嘆き、神参りや祈願の行事などがしばしば行われたが、こうした寄り合うなかで、歌い継がれた「二上り甚句」という唄が、「東浪見甚句」の起源といわれている。当地に古くから伝わる民謡の一つで、特に大漁のときなど、祝いの席では、よく披露されたといわれている。  
この唄は、漁師の気風を伝え、威勢よく、また、それにともなう踊りは、漁の唄にふさわしくおおらかで、力強い動きを芯にしている。騒ぎ唄としての甚句にあって、柔らかさをも込めるという基本があり、きびきびとした動きがその特徴となっている。  
 
←「二上り甚句」  
 
えなさ沖から飛んでくるかもめ 明日も大漁と飛んでくる  
かもめ来て鳴け東浪見が浜へ 今日も大漁の旗の波 
「イッチャイッチャ節」  
千葉県でも下総地方を中心に歌われた酒盛り歌です。かつて女相撲の興行で「相撲甚句」として歌われたことがあり、千葉県を中心に福島・山形あたりまで歌われていたようです。ほとんど同じ歌が千葉県に「行徳音頭」の名で歌われています。この唄には「イッチャイッチャイッチャナ」という囃子ことばは入っていませんが、この唄にその囃子ことばをつけると「イッチャイッチャ節」になります。また同系の唄には福島県の「壁塗り甚句」があり、曲調はよく似ています。   
「行徳音頭」  
ハァー主は沖へ出てまたわたしはたんぼナーエ夫婦揃ってイッチャサト共稼ぎナーエ  
 (ハイッチャイッチャイッチャサ)  
ハァー私ゃ行徳塩浜育ち色の黒いは親ゆずり  
ハァー行徳名物自慢はないが塩に新のり塩浜踊り  
ハァー行徳名物あののりさえも好いた上なら身を焦がす  
ハァー行徳よいとこ名所のところ昇る朝日に波が散る 
「銚子大漁節」  
元治元年(1864)の春、銚子港は未曽有の豊漁で、港は鰯の銀りんで埋めつくされました。この豊漁を祝うため、川口明神で大漁祭を催すことになり、飯貝根浦の網元網代久三郎と飯沼浦の松本旭江と俳諧師石毛利兵衛の三人が、松本家の離れ座敷「夏蔭庵(なつかげのいおり)」(夏蔭書屋ともいい現存)に集って歌詞を合作し、常磐津師匠遊蝶が作曲し、清元師匠きん子が振付したものを、この祭礼で歌い踊ったのが起こりといわれています。  
 
一つとせ 一番ずつに積み立てて川口押し込む大矢声 この大漁船  
二つとせ 二間の沖から外川まで続いて寄り来る大鰯 この大漁船  
三つとせ 皆一同に招をあげ通わせ船の賑やかさ この大漁船  
四つとせ 夜昼焚いても焚き余る三杯一丁の大鰯 この大漁船  
五つとせ いつ来てみても干鰯場はあき間もすき間も更になし この大漁船  
六つとせ 六つから六つまで粕割が大割小割で手に追われ この大漁船  
七つとせ 名高き利根川高瀬船粕や油を積み送る この大漁船  
八つとせ 八手の沖合若衆が万祝揃えて宮参り この大漁船  
九つとせ この浦守る川口の明神ご利益あらわせる この大漁船  
十とせ  十を重ねて百となり千を飛びこす万漁年 この大漁船  
十一とせ 十一日は潮がわり鯵鯖まじりの大鰯 この大漁船  
十二とせ 十二のお船玉いさましく明日も三ぞう積むように この大漁船  
十三とせ 十三、四つの小野郎奴メンパで鰯を通わせる この大漁船  
十四とせ 十四の生網、船新造、あらすの艪櫂で漕き回る この大漁船  
十五とせ 十五夜お月様夜に余る八手の鰯は昼あがる この大漁船  
十六とせ 十六ササギは花ざかり八手の鰯は色ざかり この大漁船  
十七とせ 十七・八の小娘があかねのたすきで塩はかる この大漁船  
十八とせ 旗は白地を染めちらしこれこそ八手の大漁旗 この大漁船  
十九とせ 九十九里浜から銚子浦粕たく煙が絶えやせぬ この大漁船  
二十とせ この職大漁で来る職もまたも大漁するように この大漁船  
 
一つとせ 一番船に 積み込んで 川口押込む 大矢声 浜大漁だネ   
二つとせ 二葉の沖から 戸川まで 続いて寄せ来る大鰯 浜大漁だネ  
三つとせ 皆一同に まねを上げ 通わせ船の賑やかさ 浜大漁だネ  
四つとせ 夜ひる焚いても たきあまる 三ばい 一挺の大鰯 浜大漁だネ  
五つとせ 何時来ても 干鰯場は  あき間も 隙間も 更にない 浜大漁だネ  
六つとせ 六つから六つまで 粕割が 大割 小割で 手にあまる 浜大漁だネ  
七つとせ 名高き利根川 高瀬船 粕や油を積送る 浜大漁だね 
八つとせ 八つだの沖から 若い衆が 万祝衣 揃えて 宮参り 浜大漁だネ  
九つとせ この浦守る川口の 明神 ご利益 あらわせり 浜大漁だネ  
十とせ 十が重なりゃ 百となる 千両 飛びこす 万両船 浜大漁だネ  
 
 
 
 

北海道東北中部近畿中国四国九州 
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東京都   

 

「大森甚句」  
大森は東京都大田区東南部の商工業地域。「鉄道唱歌」に「梅に名を得し大森」と歌われ、昭和初期まで「浅草のり」の名産地であった。現在では、埋め立てと海水の汚染でのりは絶滅している。  
 
「大森甚句」は海苔で有名な東京・大森で盛んに歌われた民謡です。今から200年くらい前から漁業が盛んであったこの地域は、多摩川の淡水と海水が混ざり合い大変美味しい海苔が採れたとの事、ただ、「大森海苔」では売れなかったのでこれを浅草へと運び「浅草海苔」として売られて有名になったそうです。  
ここで唄われている鳶凧については、漁業が盛んで浜で魚を干すうちに、カラスがとても増え、カラス除けに大きな鳶凧を上げて追い払っていた事に由来するそうですよ。甚句ですのでどちらかと言えばお座敷での遊び唄風シャレた雰囲気が似合う様な唄なのです。  
 
鳶凧ならヨ 糸目を付けて 手繰り寄せます膝元にヨ  
六郷鳶とヨ 大森衆は 海苔に離れりゃヨ 揚がりゃせぬよ  
大森良いとこ 来てみやしゃんせ 海苔で黄金のヨ 花が咲くヨ
「二上り甚句」 (「品川甚句」「角力甚句」)  
本調子よりもさらに軽快な二上りの調弦で歌われる甚句。かつての花町で盛んに歌い、踊られた1曲で、堀内敬三によれば「浅い川なら、膝までまくり」という所では、酔客が踊る芸妓たちの裾を上げさせたという。夜遊びの文句の中に力士が登場し、別名「角力甚句」とも呼ばれる。  
「二上り甚句」と「品川甚句」 
「二上り甚句」の「二上り」というのは本調子・二上り・三下りという基本的な三味線の調弦の一つで、2の糸を一音上げることをいう。賑やかで派手な曲調に用いるそうだ。「甚句」というのは例えば「潮来出島の 真菰の中に 菖蒲咲くとは しおらしや」のように基本は七七七五の韻律に基づく口説きなどを音楽に乗せて唄うもので江戸中期頃から座敷唄として流行ったという。品川宿は江戸四宿の中でも東海道の最初の宿場として最も栄えた宿場町で、百軒を超える旅籠を始め水茶屋、料理屋などが軒を連ね、旅籠の大半が飯盛女(遊女)を抱えていたという。そんな品川宿で盛んに歌い踊られたのが「二上り甚句」。そしてそれはいろんなバリエーションを加えながら、いつの頃からか「品川甚句」とも呼ばれるようになっていったのだろう。  
 
「二上り甚句」はかつての花街で盛んに唄われていたようだ。譜面にはないが、「浅い川なら膝までまくり、深くなるほど帯をとく」という甚句の七七七五調の歌詞もあり、昔は酔客が芸妓たちの裾を上げさせたらしい。流行した「二上り甚句」は、変調して全国各地に伝承されていったようだ。「三崎甚句」「木更津甚句」「下田節」「品川甚句」など一部面影を残す曲も多い。当時の品川は東海道の1番宿として栄えた街で、百軒を超える旅籠を初め、水茶屋、料理屋などが軒を連ね、旅籠の大半が飯盛女(遊女)を抱えていたという。江戸時代には紅葉の名所として知られた海晏寺に行くと称して、妓楼で遊んだ輩も多かったようだ。  
 
/ 「三崎甚句」「木更津甚句」「下田節」「品川甚句」 
 
淺い川なら 膝までまくり 深くなるほど 帶をとく  
烏啼きでも 知れそなものよ 明暮あなたの 事ばかり  
拙者此の町に 用事は無いが 貴殿見たさに まかり越す  
角力に負けても 怪我さへなけりや 晩に私が 負けてやる  
やぐら太鼓に ふと目をさまし 明日はどの手で 投げてやろ  
 
花が蝶々か 蝶々が花か きてははらはら 迷わせる  
送りましょうか 送られましょうか せめてあの町(ちょう)の 角までも  
こぼれ松葉を 手でかきよせて 主の帰りを たいて待つ  
花に来た夜が 迷いのはじめ 日毎曇らす 胸の中  
「角力甚句」 
お相撲さんには どこがよて惚れた 稽古帰りの 乱れ髪  
相撲じゃ陣幕 男じゃ不知火 ほどのよいのが 鬼面山  
櫓太鼓の 音を聞くたびに 今日はどの手で 投げてやろ  
稽古相撲なら 負けてもやろが 明日は初日で 負けられぬ  
「品川甚句」  
小窓あくれば 品川沖よ 鴨八百羽 小鴨が八百羽  
入船八百艘 荷船が八百艘 帆柱八百本 あるよあるよ  
朝来て昼来て 晩に来て 来てこんとは いつわりな  
来たしょうこにゃ 目が一寸だれちょる 酒飲んだ だれよとだれとが  
違がちょる ハッハッ違ちょる違ちょる 切株 土手背負って  
恋ちょろ ちょろね 船は出て行く 煙は残る  
残る煙が アイタタタタ しゃくのたね  
「本調子甚句」  
甚句とは「七・七・七・五」の詩形を元に、軽快に歌う一種の騒ぎ歌。かつての花町や飲み屋街で盛んに歌われた。「本調子」とは、三味線の調弦の一つ。  
 
鯛も色々ある 逢ひ度い見度いに添ひ度い私  
一體全體あなたは 實にもつたいない  
   醉ふた醉た醉た 五勺の酒に  
   一合飮んだらなほ醉ふた 「さつさ押せ押せ船頭もかこも」  
   押せば新潟が近くなる  
(騒ぎ唄)  
ソラソラソレ ハア コリャコリャソレ ソラソラソラ  
芸者堅気持ちゃ 箒はいらぬ  
 箒じゃそのまま ひとで掃く ソリャサ  
芸者芸者と 軽蔑するな  
 今の令夫人は 皆芸者 ソリャサ ハア コリャコリャコレ  
うちのお方は 炬燵櫓の四本の柱  
 無けりゃならない あれば邪魔 コリャサ  
千両松 向う眺めりゃ淀の川瀬の水車  
 あなたの手管に乗せられましたよ 口車 ソリャサ  
紅い顔して お酒を飲んで  
 あとの勘定で 青くなる コリャサ  
若い燕に 迷わぬ人は  
 木仏、金仏、石仏 コリャサ  
若い燕に 迷った上に  
 赤いおべべで ツケチョする コリャサ  
1番に出てくる「箒」は、最初意味がわからなかったが、女性をなで切りにするという花柳界の隠語が「箒」との由。女色家で有名であった明治の元勲で、初代内閣総理大臣の伊藤博文のあだ名は、「箒の御前」だったという。2番の「今の令夫人は 皆芸者」という文句も、明治の元勲など高官の夫人には、芸者上がりの女性が多かったということを指しているのか? 伊藤博文の2度目の妻も元芸妓の梅子であった。3番の「うちのお方」とは、山の神のことと思う。7番の赤いおべべでの後は「ツケチョ」と聴こえるが、意味不明。 
「千住節」 
江戸時代から大正時代まで、川越から江戸・浅草まで行き来する川越夜舟がありました。野菜、魚、材木、肥料などたくさんのものが運ばれました。川越を午後出て次の昼頃浅草に着くというのが多かったようで、一晩中漕いでくることになります。大きな帆をつけた舟もあり、帆には番号がついていました。ここで船頭たちに歌われたのが千住節です。途中には千住の宿場があります。帰りは寄り道? いや空模様が悪いと雨宿りします。 
■ 
→「川越舟唄(千住甚句)」  
 
九十九曲りあだでは越せぬ 通い舟路の三十里    
押せよ押せ押せ二挺櫓で押せよ 押せば千住が近くなる    
舟は帆まかせ舵まかせ 私はあなたに身をまかせ    
主が棹さしや私は艫で 舵をとりとり櫓をば押す    
舟は帆かけて南を待ちる 可愛い女房は主待ちる    
舟は千来る万来るなかで 私の待つ舟まだ来ない    
泣いてくれるな出舟のときや なくと出舟が遅くなる    
舟はチャンコロでも炭薪や積まぬ 積んだ荷物は米と酒    
いくら秩父の材木屋でも お金やらなきや木はやらぬ    
私の財布は横浜仕掛け 七分通りはカラ(唐)で持つ    
千住橋戸は錨か綱か 登り下りの舟とめる    
水の流れは堰すりやとまる 止めて止まらぬ世のならい    
男伊達ならこの新河岸川の 水の流れを止めてみな    
千住出てから牧の野までは 棹も櫓舵も手につかぬ  
(埼玉県「川越舟唄(千住甚句)」)  
押せや押せ押せ 二挺艪で押せや 押せば千住が 近くなる  
九十九曲がり 仇では越せぬ 通い船路の 三十里  
千住出てから 巻の野までは 竿も艪櫂も 手につかぬ  
船は千来る 万来る中で わしの待つ船 まだ来ない  
追風吹かせて 早や登らせて 今度下りは 待つわいな  
川越辺りを 夜更けて走りゃ 可愛いあの娘の 声がない  
主が竿さしゃ 私は艫で 舵をとりとり 艪をば押す  
「佃島盆踊り」 
佃島の由来  
佃島念仏踊りのはじまりは江戸時代、佃島の歴史と深くかかわります。そもそも佃島は「徳川家康が江戸入城に際し、摂津多田の廟や住吉神社への参詣のおり、摂津西成郡佃島の漁師が漁船で家康の一行を渡したのが起縁で、天正年間(1573〜1591)に、名主の森孫右衛門以下三十四人の漁師たちがこの隅田の中州、佃島に移り住んだのが始まり」といわれ、この由来のため江戸時代には佃島の人たちは「大変な羽振りであった」ようです。また別の説では、「徳川家康入府の際、兵糧運搬の功により土地と漁業権を与えられた」ともいわれています。これらの伝承から、大阪佃島の漁民を中心とする初期移住者が、江戸幕府との良好な関係を持ちつつ佃島に新しいコミュニティを形成していった様子がうかがわれます。  
佃島念仏踊りと本願寺教団  
これら佃島への初期移住者集団は、また本願寺教団の信徒でもあり、佃島への念仏踊りの伝達に重要な役割を果たしたと考えられています。佃島念仏踊りは、「京都本願寺の「チンバ踊り」を伝えたものという伝承がある」、「念仏踊りに歌われる歌も京都の本願寺のチンバ踊を移したもの」というように、歌・踊りとも京都本願寺から移植したという言い伝えが残っています。ちなみに、「チンバ踊り」は、すでに京都本願寺には伝承されていません。  
佃島における念仏踊り開始のきっかけについては、築地本願寺の落成に関わるより直接的な伝承があります。「佃島盆踊りについて」によると、明暦(1657)の大火(振袖火事)によって当時中央区日本橋浜町にあった西本願寺(別院)が焼失したため、佃島の名主忠兵衛が佃島に近い海際への移築に奔走、幕府の許可を得て佃島住民一統が埋め立て工事に貢献し、「築地」とよばれる埋め立て地を完成しました。続いて延宝8年(1680)には、築地本願寺御堂を無事再建に導いたとのことです。このときに始められたのが現在の盆踊りの始まりと伝え、その様子は「信仰に厚い漁民は祖先の例を祀る行事として、七月の盂蘭盆の頃には河岸の欄干場に提灯を連ねて、声自慢の若者達が、単調な太鼓の音につれ川風に美声をのせて音頭をとり其の周囲を老若男女が踊り明かして祖先の霊を慰めました」と記されています。  
本願寺教団との関係は、踊り方についての伝承からもうかがうことができます。  
遠く滋賀県に伝承される「顕教踊」(滋賀県坂田郡伊吹町神津原)は、一名「チンバ踊り」とも呼ばれていますが、その由来は「大阪木津の合戦で傷を受けた長浜出身の鈴木孫六という武士がビッコで踊ったその所作を取り入れた」というものです。これとよく似た話が佃島にもあります。「江戸時代の初期、石山某という坊さまがいた時、門徒講が二分されて争い、一方の鈴木飛騨守が勝って、その勝ち名のりの動作を踊に表したのが初めで、その時、足が傷ついていたので、その右足を引く動作が盆踊りの振りになった」というものです。これらは、チンバ踊りの由来を説明した伝承ですが、離れた土地にありながら共通性の高い情報を含んでおり、京・大阪の本願寺門徒集団にかかわりのある共通の情報源の存在を想定させるものです。  
これらの伝承が示すように、佃島念仏踊りは近世における本願寺教団との密接な関係の中で成立したものと考えられます。  
記録にみる昔の念仏踊り  
本願寺との縁もあり、佃島の人たちは「盆には江戸市中を廻って寄進をいただき、本願寺へ奉納して踊りを演じ」てきました。このような江戸時代の佃島盆踊りの姿は、いくつかのふるいエッセイに記録されています。   
「江戸府内絵本風俗往来」 / 「佃踊りは十三日夜より十五日まで毎夜出づ、これは佃島なる老爺、老婆十人、さては八〜九人一組となり、佃島と書きたる提燈をともし、鉦打ち鳴らし、ヤアトセ、ヤアトセと囃しては念仏を節にて唱えて、京橋より日本橋の辺りを廻る。招く門にて称名を唱え、鉦うちならして踊るなり。功徳の施物若干を受けて、又他の招きに応ず、無邪気にして見るに面白かりし」  
「新選東京名所図絵」(明治34年) / 「盆踊り、むかしは江戸市中にも行はれしが、ひさしく絶えてなし、唯佃島のみに猶その古風を存し、今に至るまで特許を得て之を行へり。蓋し摂津国佃村より伝へ来りし縁故あるに由る。毎年七月十二日より十六日まで毎夕之を始め、十一時を以て終わるものとす」  
これらの記録から、当時の佃島盆踊りは佃島の中心部(現:一丁目付近)での地域共同体の踊りと同時に、江戸市中を巡回・歴訪しつつ勧進する「移動型」の踊りもあわせ持っていたことがわかります。このように、地域の拠点を巡回・歴訪して踊る芸能は、各地の念仏踊りや盆踊りに多く残されており、盆踊りや念仏踊りの古い姿を示しています。ちなみに、佃島との共通性が指摘される白石盆踊りにおいても、やはり新盆の家を訪問するタイプの盆踊り行事が残されています。記録によると、こうした巡回型の踊りは高齢者10人程度を中心とするもので、また「鉦」を使う点でも現在の佃島盆踊りとは異なっています。その姿は、むしろ現在各地で見られる「念仏講」に近い形であるように思われます。  
こうした「市中廻り」の踊りは、天保2年(1831)町奉行遠山左右衛門尉の改革により中止となり、そのあとは「佃島及び周辺の浜辺や網干場のような空地で踊るようになった」ということです。また同様の念仏踊りが、「明治までは築地や鉄砲洲でも踊られていた」という指摘もあります。  
民謡の移動から      
民謡の全国的な分布からも、佃島盆踊りの起源についての手がかりを得ることが出来ます。佃島と同種の曲調のうたは、岡山県白石島など「瀬戸内海をはさんだ中国・四国両地方の沿岸部や島々」や、「山陰から九州の大分県のこれまた沿岸部」など、瀬戸内海を中心とする西日本の沿岸部に点在しています。たしかに、「白石踊り」の曲調は、佃島念仏踊りのそれとよく似ています。このことから、この種の唄が「発祥地は不詳ながらも、海路広まり、それがはるばる佃島にも伝えられた」と考えられています。普及の時期や状況を具体的に示す史料はありませんが、瀬戸内海を拠点とする近世漁民が佃島へのへのうたの普及に一役買っていた可能性が高いようです。  
 
←(瀬戸内海を拠点とする近世漁民) 
「秋の七草」 
人も草木も  盛りが花よ (繰り返し)  
心しぼまず  勇んで踊れ  
思ひ草なら  信夫(しのぶ)ではやせ  
招く薄(すすき)に  気もかかるかやと  
明日の朝顔  宵から化粧  
つぼみゃ紅筆  咲きゃ紅ちょこ(猪口)よ  
恋に桔梗は  色よい仲よ  
萩はねみだれて  錦の床よ  
おみなへしで  風くねるまで  
花のしこし草  ああ恐ろしや  
善に導け  観音草よ  
若い芙蓉も  おきなの草も  
秋の野分は  無常の風よ  
散れば残らず  皆土となる  
悟り開けば  草木も国土  
仏頼めよ  南無阿弥陀仏   
「仏供養」 
踊れ人々  供養のためじゃ  
五穀実りて  大風もなし  
天のめぐみぞ  佛の音頭  
恩を思えば  信心しやれ  
一に一世の  災難逃れ  
二には日夜に  気もやはらぎて  
三に三毒  消滅するぞ  
四には自然と  家富さかへ  
五には後生の  うたがいはれて  
六に六親  仲むつまじく  
七に七福  其の身に備え  
八に「八大  地獄」へ落ちず  
九には九品(くぼん)の  浄土に生まれ  
十で十方  成仏たすけ  
忘れまいどへ  朝夕ともに  
信の一家が  ただ肝要で  
座臥(ざが)に唱へよ  南無阿弥陀仏  
「お江戸日本橋」 (「こちゃえ節」) 
これはもともと童謡ではなく、幕末〜明治に流行した俗謡で、江戸の日本橋から京までの東海道を歌いこんだ「こちゃえ節」という歌でした。子供向きの歌だとおもうと歌詞が意味不明ですが、じつは大人向けの歌なのです。東海道の宿場には、かならず女郎屋がありました。旅の男にとって、土地々々の女を買うのも大きな楽しみだったのです。「こちゃえ、こちゃえ」というのは、「こちらへどうぞー!」と女郎が客を呼び込むかけ声なのです。明治か大正になって、子供向けの歌に書き改められたのですが、女郎が客を引く「こちゃえ」だけはそのまま残ってしまったわけです。  
 
/ 「こちゃえ節」 
 
お江戸日本橋七つ立ち 初上り 行列揃えて あれわいさのさ  
 こちや 高輪 夜明けの提灯消す こちゃえ こちゃえ  
恋の品川女郎衆に 袖ひかれ のりかけお馬の鈴が森 こちや 大森細工の松茸を  
六郷あたりで川崎の まんねんや 鶴と亀との米まんじゆう こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ  
痴話で口説は信濃坂 戸塚まあえ 藤沢寺の門前で こちや とどめし車そ綱でひく  
馬入りわたりて平塚の 女郎衆は 大磯小磯の客をひく こちや 小田原評議で熱くなる  
登る箱根のお関所で ちょいと捲り 若衆のものとは受取れぬ こちや 新造じゃぢゃないよと ちょいと三島  
酒もぬまずに原つづみ 吉原の 富士の山川 白酒を こちや 姐さん出しかけ蒲原へ  
愚痴を由井だす(さった)坂 馬鹿らしや 絡んだ口説きも興津川 こりや 欺まして寝かして恋の坂  
江尻つかれてきは府中 はま鞠子 どらをうつのかどうらんこ こりや 岡部で笑はば笑わんせ  
藤枝娘のしをらしや 投げ島田 大井川いと抱きしめて こちや いやでもおうでも金谷せぬ  
小夜の中山 夜泣石 日坂の 名物わらびの餅を焼く こちや いそいで通れや掛川へ  
袋井通りで見附けられ 浜松の 木陰で舞坂まくり上げ こちや 渡舟(わたし)に乗るのは新井宿  
お前と白須賀 二タ川の 吉田やの 二階の隅ではつの御油 こちや お顔は赤坂 藤川へ  
岡崎女郎衆は ちん池鯉鮒 よくそろい 鳴海絞りは宮の舟 こちや 焼蛤をちょいと桑名  
四日市から石薬師 願をかけ 庄野悪さをなおさんと こちや 亀薬師を伏し拝み  
互いに手を取り急ぐ旅 心関 坂の下から見上ぐれば こちや 土山つつじで日を暮らす  
水口びるに紅をさし 玉揃ひ どんな石部のお方でも こちや 色にまようてぐにやぐにやと  
お前と私は草津縁 ぱちやぱちやと 夜毎に搗いたる姥ヶ餅 こちや 矢橋で大津の都入り  
(「はねだ節」 遊び歌・元唄)  
お前まちまち蚊帳の外 蚊に食はれ  
七つの鐘のなる迄は こちやかまやせぬ かまやせぬ  
「こちゃえ節」 
「こちやぶし」「こちややれぶし」「こちゃえいぶし」「こちやのばきぶし」あるいは「はねだぶし」などなど、呼称も賑やかだ。明治初年、爆発的人気を獲得したはやり唄(替歌)で、それまでにも何度か同題別歌が派生するなど人気筋であった。「 こちゃえ節」は駅次唄でもあり、各宿駅がらみの洒落も売りである。しかしながら類歌濫造の結果、歌詞もどれが正統なのか判別が困難である。広く知られる「お江戸日本橋」もそのうちの抄出改変作の一つである。  
 
題名としては、今では「お江戸日本橋」のほうが有名である。天保期の「はねだ節」を元にした歌と言われ、日本橋を早朝4時に出発して東海道の旅に出る道行の歌。各宿場の特色を折り込んで、長いものでは40番ほどのものもある。特に遊郭関係の紹介には熱心で、こちらへ、こちらえどうぞ、と誘うリフレインがあることからも、これがかつての男たちの旅の「ガイド・マップ」、遊び歌だったことがわかる。  
 
天保(1830〜1844)のころに流行した俗謡。甲斐の盆踊り歌が江戸にはいったものという。各節の終わりに「コチャエ、コチャエ」の囃子詞(はやしことば)がつく。はねだ節。  
 
明治4年頃、江戸で流行った唄で、本唄の「はねだ節」は以下のような歌詞だったそうです。「おまえ待ち待ち 蚊帳の外 蚊に食はれ 七つの鐘の鳴るまでも コチャカマヤセヌ コチャカマヤセヌ」  
 
/ 「お江戸日本橋」 
←「はねだ節」 
→「尾鷲節」「備前太鼓唄」  
「はねだ節」 (天保2年)  
おまへまち〳〵蚊屋の外、蚊に食はれ、七つの鐘のなるまでも、コチヤカマヤセヌ、〳〵。  
「こちゃえ節」 (明治4年流行)  
お江戸日本橋七つ立ち、初上り、行列揃へてあれはいさのさ、こちや高輪夜明けの提灯消す、こちゃえ〳〵。  
恋の品川女郎衆に袖ひかれ、乗掛(のりかけ)お馬の鈴ケ森、こちや大森細工の松茸を、こちゃえこちゃえ。  
六郷渡りて川崎の万年屋、鶴と亀との米(よね)饅頭(まんじう)、こちや神奈川急いで程ヶ谷へ、こちゃえ〳〵。  
痴話で口舌(くぜつ)は信濃坂戸塚前、藤沢寺の門前で、こちや止めし車は綱でひく、こちゃえこちゃえ。  
馬入(ばにふ)渉りて平塚の女郎衆は、大磯小磯の客を引く、こちや小田原評議であつくなる、こちゃえ〳〵。  
登る箱根のお関所で鳥渡(ちよと)まくり、若衆のものでは受け取らぬ、こちや新造ぢやないかと鳥渡三島、こちゃえ〳〵。  
酒は沼津に腹鼓吉原で、富士の山川白酒を、こちや姉さんだしかけ蒲原へ、こちゃえこちゃえ。  
愚痴を由比(ゆひ)出す薩陲坂(さつたざか)馬鹿らしや、搦(から)んだ口舌も興津(おきつ)川、こちや念じて恋名坂、こちゃえ〳〵。  
江尻まで来て気は府中、それからは、泊りの宿も此処ときめ、こちや岡部で笑はゞ笑はんせ、こちゃえ〳〵。  
藤枝(ふぢえだ)娘のしほらしや投島田、大井川へと抱きしめて、こちやいやでもおうでも金谷(かねや)せぬ、こちゃえ〳〵。  
小夜(さよ)の中山夜泣石、日阪(につさか)の、名物蕨の餅を焼く、こちやだまして喰して掛川へ、こちゃえ〳〵。  
袋井通りて見附られ、浜松の、木陰で舞坂まくりあげ、こちや渡しに乗るのは新井宿、こちゃえ〳〵。  
御前(おまへ)と白須賀(しらすか)二川(ふたかは)の、吉田屋の、二階の隅で初(はつ)小袖、こちや互にお顔を赤阪藤川へ、こちゃえ〳〵。  
岡崎女郎集のちん地鯉鮒(ちりふ)、よくお手の、鳴海染着て宮の浜、こちや焼蛤ぢやと鳥渡桑名、こちゃえ〳〵。  
四日市には石薬師願をかけ、庄野(しようの)悪さを直さんと、こちや亀山薬師をふし拝む、こちゃえ〳〵。  
互に手をとり急ぐ旅、こゝろ関、坂の下から見あぐれば、こちや土山躑躅で日を暮らす、こちゃえこちゃえ〳〵。  
水口(みなくち)びるに紅をつけ玉揃ひ、どんな石部のお方でも、こちやたあぼに迷うでぐにや〳〵と、こちゃえ〳〵。  
お前と私は草津縁ばちや〳〵と、夜の間に搗いたる姥(うば)が餅、こちや矢走(やばせ)大津で都入り、こちゃえ〳〵。  
お前をまち〳〵夕暮れに、格子先、十時の時計の鳴る迄も、こちや辛いこと、待ちどほな、こちゃえ〳〵。  
曇らば曇れ箱根山、晴れたとて、お江戸が見えるぢやあるまいし、こちやお江戸が見ゆるぢやあるまいし、こちゃえ〳〵。  
お前はどんであんどんで、若いしゆに、かきたてられてとぼされて、こちやかきたてられてとぼされた、こちゃえ〳〵。  
「こちゃえ節」替え (明治27年頃流行 駅次唄・替歌)  
お前は浜のお奉公(ほうこ)さん、潮風に吹かれてお色が真黒(まつくろ)け、コチヤ構やせぬコチヤエコチヤエ。  
ゆうべ舞子と添寝して、夜を明石(あかし)、けさの別れの悲しさに、アレ大久保駅に後を見る、コチヤエコチヤエ。 
「さかなづくしこちやぶし」  
この冊子は「さかなづくし こちやぶし 上」と「肴尽こちやぶし 下」の合本です。江戸時代末期に流行した俗謡「こちゃえ節」の歌詞を魚や水産動物の名に入れ替えた替え歌集です。魚や水産動物に替えた部分は白抜き文字になっています。「こちゃえ節」の元歌は「お前を待ち待ち蚊帳の外、蚊にくわれ、七つの鐘のなるまでも、こちゃえ、七つの鐘のなるまでも、こちゃえ、かまやせぬ」と「こちゃえ」という囃子詞がはいっている歌でした。明治時代にはこの節回しで「お江戸日本橋」の替え歌も作られています。上巻表紙には「仙女香」の文字が見えます。仙女香は白粉で、文政期から天保期にかけて浮世絵や絵草紙に描き込まれることがよくありました。表紙の鯛や海老がお化粧しているように色づけされています。この替え歌集の作成年は不明ですが、仙女香が流行していた時代と同時代と推測できます。  
 
/ 「こちゃえ節」 
替え歌例 (釈文と元歌)  
○ おまへをますますはやのそと、かにくはれ、なまづのかにのなるまでも、コチヤ、なまづのかにのなるまでも、コチヤ、かまやせぬ  
(お前を待ち待ち蚊帳の外、蚊にくわれ、七つの鐘のなるまでも、こちゃえ、七つの鐘のなるまでも、こちゃえ、かまやせぬ)  
○ 今でのたてものゑび蔵にきす五郎、いか井のくめさにはも四郎、コチヤ、ばん東いちのむつ五郎、コチヤ、かまやせぬ  
(今での立て者 海老蔵に菊五郎、岩井の粂三(郎)に半四郎、コチヤ、坂東一の三津五郎、コチヤ、かまやせぬ)  
○ くどうたいもんますもとの、このしろう、五郎はゑび蔵で十郎は、コチヤ、うぐいのばいこうで、おゝあさり、コチヤ、[鎌の絵][羽矢の絵]せぬ  
(工藤左衛門 松本の幸四郎、五郎は海老蔵で十郎は、コチヤ、尾上の梅幸で、大当たり、コチヤ、かまやせぬ)  
「かっぽれ」  
「かっぽれ」に「沖の暗いのに 白帆が見ゆる」と出てくる紀伊国屋文左衛門は、正月前に蜜柑が不足していた江戸へ、荒れ狂う海を嫌がる船乗りたちに金で説得して無事に紀州から辿りつき、大金持ちになったリスクテーカーである。蜜柑だけじゃなく、帰りに塩鮭を江戸で調達して、「流行り病には塩鮭が効く」という噂を上方で流して売りさばいたそうで。その元手で材木問屋になり、吉原を借り切って大門を閉めさせたとか、ないとか。究極のお大尽遊びである。徳川綱吉が寺院や橋梁の建設などに大金を使った元禄バブルに乗じて、奈良屋茂左衛門(奈良茂)とともに歴史に残る豪商であったらしい。  
「かっぽれ」という言葉自体も、江戸城の堀をつくる労働者が土を「かっぽる(掘る)」ところから来たとか、労働者の疲労回復に甘茶を出したとか。いや、片思いを表す「岡(傍)惚れ」がつまった言葉だとか。天保期に流行した「鳥羽節」の囃子言葉から来たとか。よく分からないらしい。   
 
「かっぽれ」の起源には諸説ありますが、江戸時代後期に大阪の住吉大社で五穀豊穣を願った「住吉踊り」に始まり、伊勢参りに訪れる大勢の人を相手に街道で大道芸として踊られていたようです。  
”かっぽれ、かっぽれ!”という活気のある囃子言葉はその20年くらい前に流行った志摩の国の鳥羽節の囃子言葉からきていると考えられています。「かっぽれ」は明治時代になって庶民の間で爆発的に流行し、浅草寺の境内でも踊られていたそうですが、その後大道芸は廃止されることに。その芸は寄席と幇間芸になって残りました。  
かっぽれの歴史1  
文化・文政年間(1804〜1830)  
無形文化財の住吉踊りがかっぽれのルーツといわれています。住吉大社では毎年6月14日「住吉の御田」として知られる御田植祭りがあり、無形文化財の「住吉踊り」が奉納されます。江戸の願人坊主(がんにんぼうず)たちがこの踊りのバリエーションを始めたといわれます。住吉踊りには「御連中」という一座があり、それは広重の浮世絵江戸百景の中にも描かれています。  
大道芸 願人坊主  
「かっぽれ」は願人坊主が始めた踊りの一種で、歌舞伎舞踊の中に残っています。原曲は常磐津(ときわづ)の「願人坊主」で、文化8年(1811年)3月、江戸市村座で上演された七変化舞踊「七枚続花の姿絵」の中の一つです。これを六代目尾上菊五郎が清元に直し、「浮かれ坊主」と題して、昭和4年6月に東京歌舞伎座で踊りました。この舞踊曲の中に願人坊主の生態が描かれています。この願人坊主の本業は、頼んだ者に代わって神仏への代参をしたり、代垢離(だいごり)をとったり、また守礼、神礼を頒布することでした。  
明治・大正(1868〜1925)  
初代豊年斎梅坊主  
初代豊年斎梅坊主は信州松本在の代々名主を勤めた家柄で祖父の名は松本幸四郎。その子息に二人の兄弟があり、兄は佐吉、弟は亀吉。この佐吉が初代豊年斎梅坊主の父にあたります。佐吉は江戸に出て、町内廻りの髪結になり、つたという女性と結婚しました。安政元年(1854年)1月元日に梅吉が生まれました。梅吉が二歳の時、安政の大地震があり、その翌年は水害で家を流され無一物になってしまいます。母のつたは病死し、七歳の時には父は火事のために失明してしまいます。梅吉は当時流行っていた阿呆蛇羅経(あほだらきょう)を覚えて、門付けをして生活を支えていました。江戸が明治に変わる頃は大道芸が盛んで、講釈師や茶番などの芸人が下谷や神田、芝などの空き地でパフォーマンスをするようになりました。なかでも梅坊主一座の「かっぽれ」は人気がありました。梅坊主という名は、名前が梅吉で頭が丸坊主でしたので付けられたのです。梅坊主が座頭になって活躍した頃は先輩に初坊主、猫豊、ハッカケ重、クシ面辰、宇の丸などの親方がいましたが、次第に権利を梅坊主に譲るようになりました。豊年斎梅坊主は「かっぽれ」の名人といわれ、当時の政治家黒田清隆や西園寺公望は屋敷に呼んで贔屓にしていました。彼らがパトロンとなって、初代豊年斎梅坊主はアメリカで公演もしています。昭和2年2月14日、バレンタインの日に74歳で亡くなりました。松本家の墓は谷中の長運寺にあります。  
歌舞伎舞踊「初霞空住吉」(はつがすみそらもすみよし)  
「初霞空住吉」は明治19年(1886年)1月の新富座で初演されたものですが、それまでに文政10年(1827年)の「栄華の夢全盛遊」や明治8年(1875年)の「娯浮世機関」などがあります。しかし、現在舞台で上演される「かっぽれ」というと、もっぱらこの「初霞空住吉」となっています。当時九代目団十郎は歌舞伎の革新に熱中していて、活歴と呼ばれた高尚な歴史劇ばかり上演していましたが、これに不満の客席から、「かっぽれでも踊れ」といったヤジが飛んだそうです。(東京絵入新聞に投書が出た、という説もあります)。これを聞いた団十郎が「そりゃおもしろい」とさっそく取り上げたというエピソードがあります。団十郎はかっぽれを歌舞伎舞踊化するために、その踊りを初坊主と梅坊主に習ったといわれています。浅草の浅草寺を舞台に、かっぽれ升坊主の団十郎とかっぽれ島蔵の左団次の軽妙なやりとりが見物人を笑わせました。そのほか、かっぽれ海老八に八代目市川海老蔵、かっぽれ鶴松に市川鶴蔵、かっぽれ高吉に市川小団次、官員に市川団右衛門、芸者小むらに沢村源之助、舟宿の女房お調に坂東秀調、かっぽれの女房おれんに市川喜知六、かっぽれ鈴八に市川升蔵、かっぽれの女房おきつに市村橘次などが出演しています。作詞は河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)で作曲は五世岸澤式佐(きしざわしきさ)です。天下の名優団十郎以下全員が素顔に浴衣がけスタイルで、ぐっとくだけた踊りを披露しましたから、観客はびっくりしたり喜んだりで大変だったといいます。一種の観客サービスだったともいえますが、かっぽれそのものが歌舞伎の檜舞台に初めて上がったのです。  
昭和(1925〜1988)  
大芸道  
豊年斎一輪こと豊年斎二代目梅坊主、 豊年斎梅太郎こと豊年斎三代目梅坊主(二代目実子)。二代目を継いだのは初代の次男の豊年斎一輪でした。一輪は浅草十二階の演芸場で初舞台を踏み、初代と一緒に仕事をしていました。初代は亡くなる前に「時代が変わったから、芸人の道はあきらめて、堅気の道に進め」と一輪に遺言したそうですが、石谷勝や久保田万太郎は、「どうしても二代目を継げ」と膝詰め談判をしました。こうして一輪は二代目を継ぎましたが、昭和の時代には「かっぽれ」の芸だけでは観客を集めることはできませんでした。第二次世界大戦が勃発して、二代目は神奈川県伊勢原市へ疎開し、芸の世界とは疎遠になってしまいます。昭和37年7月19日に横浜市磯子の自宅で亡くなりました。三代目の梅太郎は二代目の遺言を守ってサラリーマンになってしまいました。  
かっぽれの歴史2  
「かっぽれ」の起源につきましては、「かっぽれ」の名で記事がでた元治2年の頃と思われますが、「かっぽれ」が踊りとして完成されたこの頃が「かっぽれ元年」といえるかもしれません。  
明治時代となり、「かっぽれ」は爆発的な流行となりましたが、歴史的な経緯もあり、社会的な地位も低く、歌舞伎などと異なり公的に認められたものではありませんでした。  
例えば、明治17年5月3日付の東京日日新聞によれば、その筋から3日間にわたって「かっぽれ」の調査があったので、「かっぽれ」の関係者は「過日の角力同様、恐れある方様の御覧にも備わる訳かと一同にも相触れ、銘々その心得にて借金ども致し、衣服道具とも新調せし仕儀なるに、」謝礼は酒肴料だけということであったので、「就いてはこの金子は頂戴に及ばず、ただただ前条の願意を聞き届けられ、カッポレ社会の栄誉を、同業子孫万世に伝うるよう御取り計らい下されたし」と職業の栄誉を訴えたが、この願は叶えられなかった、と報道されています。   
このように、「かっぽれ」を公(おおやけ)に認めてもらいたいとの願いは、「かっぽれ」誕生以来、特に明治維新以後「かっぽれ」を愛する人々の悲願でございました。昨年梅后流かっぽれが文部大臣賞を受賞いたしましたことは、たんに、梅后流「江戸芸かっぽれ」が「かっぽれ」の伝承普及に功績があったということを意味するにとどまるものではなく、その前提としての「かっぽれ」そのものが、文化行政の主務官庁である文部省から、伝統芸能としての位置付けを書面によって、公に明確にされたことを意味し、この受賞により「かっぽれ」は、「新生かっぽれ元年」を迎えることができたと思います。  
元治2年といえば、西暦1865年で、4月7日からは慶応元年と改元いたしました年でございます。逆算すると平坊主23歳の時ということになります。仮に、平坊主が20歳(数え年)のとき「かっぽれ」を作ったとしても、今から136年前ということになります。  
「かっぽれ」を作るきっかけとなりましたのは、天保の改革に際し、天保13年(1842)11月、願人坊主の住吉踊が禁止されたことにあると思われます。願人坊主の住吉踊については、弘化4年(1847)7月にも取締(『市中取締類集』)があり、この時は、願人坊主ではなく乞胸が、住吉踊ではなく豊年踊を踊ったものと弁明しています。このような状況のもとで、住吉踊以外の踊りが必要とされ、天保年間(1830〜1844)に流行った志摩の国の鳥羽節の囃子言葉を、囃子言葉にした「かっぽれ」ができたものと思われます。  
平坊主の実弟が、明治・大正時代を通じて「かっぽれ」の名手として名高い初代豊年斎梅坊主で、大正13年11月には帝国ホテル演芸場で盛大に一世一代を行いました。  
初代豊年斎梅坊主は、大正末期には太平坊と改名して、息子さんに二代目をゆずりましたが、昭和2年2月13日、74歳で亡くなりました。お墓は台東区谷中の長運寺にあります。  
「かっぽれ」の語源  
「かっぽれ」は「岡(傍)惚れ」がつまった言葉ともいわれています。岡は囲碁の岡目八目の「岡目」からでた言葉で、かたわらとかわきという意味ですが、他人にはわからない、ひそかにという意味も含んでいるとか。  
  岡惚れも三年すれば情人の内  
  相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ  
の故事にもありますが、いわゆる片思いです。また、顔に惚れる、という意味もあります。いきなり顔に惚れるとは言い難いので、岡惚れとしゃれたとも。ただ、同じおかぼれでも「おかっぽれ」→「かっぽれる」と強調していうと、激しく恋慕するという意味となります。  
江戸時代にはこの囲碁用語<岡目八目(傍目八目)>の「岡(傍)」はかなり広範囲に使われていたようで、いわゆる岡場所、岡っ引きなどもこの岡目八目を語源としています。岡目の岡とは「傍(ほか)」という言葉が転じた言葉で、局外、部外者という意味です。囲碁で「岡目八目」といえば、実際の対局者より傍らで見ている局外者の方が先を読めるということです。これが転じて、当事者より傍観者の方が物事の真相や利害得失がはっきり解ることのたとえです。  
   成程岡目八目とはいふが、自分の事は自分では知れねえもの   
    (人情・恋の若竹-初)  
因みに 岡場所とは、正規に認められた吉原以外の遊郭を指しています。岡っ引きも奉行−与力−同心という組織外の者で同心から鑑札(免許証)と十手をあずかっている、いわば私設警察とでもいいましょうか。  
 
←「住吉踊り」 (鳥羽節の囃子言葉) 
■ 
(かっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ)  
沖の暗いのに 白帆がぇ〜あ〜ェ見ゆる(ヨイトコリャサ)  
あれは紀伊の国 ヤレコノコレワイサ(ヨイトサッサッサ)  
エーみかん船じゃえ(あ〜みかん船) みかん船じゃサーえ 見ゆる(ヨイトコリャサ)  
あれは紀伊の国 ヤレコノコレワイノサ(ヨイトサッサッサ) エーみかん船じゃえ  
(かっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ)  
沖じゃわしがこと 鴎と云うがサ ヨ〜イヤサ(ヨイトコリャサ)  
墨田川では ヤレコノコレワイサノサ(ヨイトサッサッサ) 都鳥(あ〜みやこどり)  
都鳥サ ヨイヤサ(ヨイトコリャサ)  
墨田川では ヤレコノコレワイサノサ(ヨイトサッサッサ) 都鳥  
(サテかっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ)  
ここはどこぞと 船頭しゅうに問えばサ ヨイヤサ(ヨイトコリャサ)  
ここは屋島の ヤレコノコレワイノサ(ヨイトサッサッサ) 壇ノ浦じゃえ(あ〜壇ノ浦)  
壇ノ浦じゃえ ヨイヤサ(ヨイトコリャサ)  
ここは屋島のヤレコノコレワイノサ(ヨイトサッサッサ) 壇ノ浦じゃえ  
 
かっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ  
沖の 暗いのに 白帆が サー 見ゆる ヨイトコラサ  
あれは 紀伊の国 ヤレコノ コレワイノサ ヨイトサッサッサ  
蜜柑船じゃえ サテ 蜜柑船 蜜柑船じゃ サー 見ゆる ヨイトコラサ  
あれは 紀伊の国 ヤレコノ コレワイノサ ヨイトサッサッサ  
蜜柑船じゃえ サテ 豊作じゃ 満作じゃ 明日は 旦那の稲刈りで  
小束に絡げて ちょいと投げた 投げた セッセ 枕に 投げた枕に  
とがは無い オセセノ コレワイサ 尾花に 穂が咲いた この妙かいな  
ねんねこせー ねんねこせ ねんねの お守りは 何処へ行った  
あの山越えて 里へ行った 里のお土産(おみや)に 何もろた  
でんでん太鼓に 笙の苗 寝ろてばよ 寝ろてばよ  
寝ろてば 寝ないのか この子はよー 
「住吉踊り」と「かっぽれ」  
「住吉踊り」は、現在では世間から忘れられた存在だが、広重の『名所江戸百景』(安政三〜五年(1856-1858)刊。日本橋通一丁目略図)の画材に取り上げられたほど、江戸庶民には馴染みが深かった。  
発祥は、大坂住吉神宮寺(=住吉神社別当寺。明治初年(慶応四年)神仏混淆禁止令により廃寺となり、現在は神社のみ存続・住吉大社と称す)の田植祭で踊られる。伝説によると、(神宮寺の僧侶が)神功皇后(?〜269年?)が三韓征伐から凱旋帰国して来たのを祝って、泉州七道浜(=堺市堺区七道)の住民が傘を被って吉師舞(きしまい)を舞ったのが始めとされる。  
踊りの扮装について『守貞漫稿』は、「住吉踊りの扮装は、衣服や手甲(てっこう)、股引(ももひき)や脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)とも、必ず白木綿(しろもめん)を用い、茜木綿(あかねもめん)の前垂(まえだれ)をかけ、右手に団扇(うちわ)を持ち、帯の後にも一本挟む。また茜布(あかねぬの)を周りに垂(た)らして飾った菅笠をかぶり、草鞋(わらじ)を履く。五六人が同じ扮装をし、その中の一人は、茜布を垂らした大傘を中央に立てて片手で持つ。残った方の片手には叩き竹を持ち、大傘の柄をたたきながら唄う。最後には、「住吉さんま(様)の岸の姫、松(まづ)目出たさよ」と唄い納める。その間ほかの者は、大傘の周りを踊りながら廻る。如何にも古風のままである。(中略)また、江戸にも住吉踊りがあるけれど、決まった扮装などはない」と。  
江戸の住吉踊りは伝わってからまだ日が浅いのか、決まった扮装はない、としている。だが、当初は願人が、後には乞胸が中心となって爆発的に流行らせたのは、むしろ江戸でである。  
天保十三年(1842)十一月に幕府は禁止令を出したが、さほど効き目がなかったようである。五年足らず後の弘化四年(1847)七月には、禁止中の住吉踊りを踊った廉(かど)により、取り調べも行われた。だが、この時は願人坊主ではなく乞胸が、住吉踊りではなく豊年踊りを踊ったものであると弁明し、注意後保釈されている。  
「しかし、この取調べは住吉踊りに相当な打撃を与えた。そこで代用として、天保年間に志摩(=三重県)で流行(はや)っていた鳥羽節に飛びついた。囃子言葉(はやしことば)の「わたしゃ おまえにかっ惚れた」が、人々の心を捉(とら)えたからである。そのため「かっぽれ」が名前になった」と云うのが、現在「かっぽれ」をしている人たちの共通認識のようである。  
処が、この説には今ひとつ納得できないものがある。何故と云うに「鳥羽節」が流行ったとされる天保年間は、禁止令が効かないほど「住吉踊り」も流行っていた時期と重なるからである。全盛の「住吉踊り」を捨てて、わざわざほかのものに目を向けるだろうか? 仮に「鳥羽節」が「住吉踊り」に影響を与えたとしても、最盛期を過ぎた弘化四年以降のことと思う。そもそも「鳥羽節」とはどんなものであったか調べてみたが、全く手に負えなかった。「わたしゃお前にかっぽれた」以外の歌詞はどこにも見つからなかった。不思議なことである。「鳥羽節」なるものは本当にあったのだろうか? と、疑問を持つ。反面、初代梅坊主の前口上と伝わる「紀文大尽(だいじん)宝の入(いり)船(ふね)、志州鳥羽節かっぽれ踊りの始まり始まり」に依るらしい事がわかった。梅坊主が何に因って口上を作ったか今更知りようもないが、何時の日か「鳥羽節」の歌詞が、発見されないとも限らない。それまでお預けとする。  
外にも「かっぽれ」語源説に次のようなものがある。江戸初期に「江戸城の堀を掘削する際、人足たちが「かっ掘れ、かっ掘れ」と景気づけに云った言葉」と云う説。イタリア語で「酒を飲んで踊ろう」を意味する、「アンマチャ・デ・カプリオーレ」(=甘茶でかっぽれ)からきている等と云うのも、話としては面白いが、お笑い番組にでもありそうな話である。何れにしても「かっぽれ」は、「住吉踊り」から発祥し、親をも凌ぐ成長をした踊りである。それがいつ頃であるか、明治三十七年(1904)発行の雑誌『文芸界』一月号は、次の話を載せる。  
《住吉踊りは、彼の「ヤートコセエ」と称するもので、傘の柄を叩いて同勢七八人も打ち揃ひて市中を廻り、活惚(かっぽれ)や茶番を大道に演じる気楽らしい恍(とぼ)けた芸人で、芸妓屋街(げいしゃやまち)を上得意としたが、これも三味線弾きの女の二人ぐらゐは連れて歩く大掛かり故、五十銭一円と与(や)らねば、真の芸を見ることは出来ず、随(したがっ)て今は衰へてしまったが、専門だけあって活惚は皆巧いものだ》  
明治三十七年になっても、「活惚(かっぽれ)」はまだ住吉踊りを構成する踊りの一つでしかなかったのである。今、かっぽれの創始者とされる平坊主(へいぼうず)の後、初代を名乗る梅坊主(うめぼうず)(一八五四〜一九二七)にしても「住吉踊り(活惚を含む)」では生活できなかった。それ故、《松本講四郎一座といふ俄(にわか)(=茶番狂言)のやうなものを組織して、芝居の空小屋(あきごや)に滑稽芝居(こっけいしばい)を興行するに至った。松本は梅坊主の本姓である処から講四郎などと洒落のめしたのである》(『文芸界』) これが大正七年(一九一八)頃になると、だいぶ粉飾が進む。当初(幕末)から「活惚(かっぽれ)一座」を名乗っていたような書き方をしている。同年発行の雑誌『うきよ』第六五号〜六七号(一月〜三月)に掲載の「梅坊主数奇伝」は、記す。  
「梅坊主数奇伝」  
今の梅坊主の親父といふのは元は春木春道と呼れた和尚であつて、願人中の頭目(とうもく)と推された男、文筆にも長じ易学にも達して、蔵前の八幡社内に出張所を設けて吉凶禍福(きっきょうかふく)を占ふて居たのでございます。春道の倅(せがれ)を平太郎といひ、次男を梅八と呼んで、目下公園の御園座に妙芸を御覧に入れてゐるのが梅坊主その者でございます。その頃兄の平太郎は一寸小唄も出来る、手踊りもやれるといふので、同気相集つて、所謂暢気者の一団は道化芝居を組立て大いに江戸八百八町の暢気(のんき)社会を驚かしてやらうといふ相談を取極(とりき)めました、乃(すな)はち是れが、『かつぽれ一座』の元祖(はじまり)でございます。  
当時の一座の顔触れを記して見ますと、興行元とも謂ふべきは平坊主の平次郎、次に座頭ともいふべきは太閤の藤吉、首筆(かきだし)どころは初坊主の滑稽役者、中軸(なかじく)どころは八卦(はつかけ)の重吉、次はけし面の藤吉、南京米の米吉、和藤内の鬼松、これに地方(ぢかた)としておきんとおせをといふ汚(きた)なごしらへの年増女の三味線弾きを加へて総勢八人、これが一芸団と成て毎朝八時過るころには、挿絵の写生絵のやうな住吉傘の萬燈の柄を打ち鳴して『アヽやイとこせイ、よいやな、ありやりやこれわいせー、さゝよいやさア』と鬨(とき)の声を揚げて繰込んでまゐります、先づの序(じょ)びらきとして、『住吉さまの岸の姫松お目出度や』と平坊主(へいぼうず)が唄ひ出すと、一同これに和して、萬燈傘の柄を叩いて、手に反故張(ほごばり)の渋団(しぶう)扇(ちは)を以て拍子をとつて、暢気に囃子立(はやしたて)る、彼等のは挿絵に見るやうに白木綿のに紺の腰衣(こしぎぬ)をつけて、豆絞(しぼ)りの手拭(てぬぐい)で鉢巻きして、四ツ竹拍子を合して面白く囃す、これが即はち住吉踊りの元祖(はじめ)であつて、昔し住吉神社で蟲追祭(むしおひまつり)といふ神事が、毎年一回づゝ此儀式を行ひ、土地の若者どもが皆な白無垢に腰衣を着けこの蟲追踊りを踊つたのが此の濫觴(らんしょう)だといふことであるが、或る一説には、彼の紀伊国屋文左衛門が紀州から蜜柑(みかん)を江戸へ送る海上、鳥羽浦にて難風邪に逢ひ多勢の舟子等は九死の中に一生を得た欣喜(よろこび)の余り、江戸へ着いた時、酒を祝つて、唄ひつ踊りつ興じたのが、即ちこのかつぽれ節で、平坊主らが之れに倣(なろ)ふて、住吉大明神の萬燈傘を作り、坊主姿に擬して、終には深川節、道化芝居などの滑稽芝居を演ずるやうに成つたのだと申します。  
さてその手をどりと道化芝居の種類を挙げて見ますと、第一が住吉踊、豊年をどり、深川をどり、桃太郎、棒づくし、かつぽれをどり、道化芝居はおもちやの鬘を冠り、紙張りの大小をさして、神機妙変一同抱腹絶倒のこしらへを為(し)て、縦横無尽に大滑稽の喜劇をいたすのでございます、彼等は是れをピンと称してをる、其の名題は、化地蔵、三人猫、宝蔵やぶり、夏祭り、二人奴、日高川、梅ヶ枝、お半長右衛門、出家のよし原通ひ、弥次喜太忠臣蔵、二人隠し芸、羽織の隠し芸等で、一人で、踊るのを一人踊り、二人で踊るのを相惚れ、三人で踊るのを三足、四人で踊るのを四羽雀、五人で踊るのを五葉の松、六人で踊るのを陰陽(かげひなた)といひ、又た一人をどりの中に石投げ、車返し、もぢり、友返し、などゝいふ難しい芸がございました。  
 
明治三十七年(1904)頃の梅坊主は、次のようである。  
本姓が松本であったから、歌舞伎の名門・松本幸四郎にあやかって、松本講四郎と名乗り、かろうじて糊口を凌いでいた。家族関係などもよくわからない。  
これが大正七年(1918)になると、左のように変わる。  
春木春道(願人頭目・易)ーーー平太郎(平次郎?平坊主) ーー梅八(梅坊主)  
更に現在、豊年齊五代目家元を名乗る櫻川ぴん助は次のように書く。  
松本幸四郎(信州 名主)ーーー佐吉(髪結い)ーーー梅吉(梅坊主)  
元々氏素性(うじすじょう)のはっきりしない、と云うより必要とされなかったのが願人坊主である。だから「住吉踊り」を営業種目に取り入れたときも、人々から関心を持たれることはなかった。まして、そんな住吉踊りの一部でしかなかった「かっぽれ」においておや、である。個別に氏素性を尋ねられたり興味を持たれるなどなかった。  
処が時代が進み、「かっぽれ」総本家としての地位が確立されるにつれ、「何処の馬の骨かわからない」ようでは困るようになったのだろう。明治、大正、平成と、僅かの間に、家系が整えられた。  
傑作なのは松本講四郎である。苗字が同じだったから、同姓の著名人・松本幸四郎にあやかりつつも、一歩退(ひ)いた名前であった。処がいつの間にか、講四郎ではなく幸四郎が、梅坊主ではなく祖父の名前として取り入れられている。それだけではない。先祖代々信州の名主であったとまで出世している。  
願人坊主は、当初は寺社奉行の配下にあった。しかし後には町奉行配下に変更された。宗教者としての実態がなくなったからである。また江戸での「住吉踊り」は、願人よりも乞胸が担うようになってから爆発的に流行ったのである。非人配下にある乞胸は、身分的には最下層であった。  
明治になって身分制度が廃止されたが、習慣や意識はすぐには変わらない。名主の子供が髪結いになることならあっただろう。しかし大道芸人(乞食芸人)になど、なったりするであろうか。大いに疑問である。 
「奴さん」  
端唄。人に代わって願掛けや、水垢離(みずごり)をするところから、”願人坊主”と呼ばれた僧が、街頭で囃して 最後に エ〜 ヤッコさんどちら行く・・・とお定りの様に唄った。それが寄席や花柳界に広まって、独立。大衆に大いにウケ、端唄(俗曲)と言えば、”奴さん”と思われるほどになった。  
 
ハア コリャコリャ  
エー 奴さん どちらに行く ハア コリャコリャ  
旦那 お迎えに さても 寒いのに 供揃い  
雪の降る夜も 風の夜も サテ お供は辛いね  
いつも 奴さんは 高端折 アリャセ コリャセ  
それも そうかいな エー  
ハア マダマダ  
エー 姐さん ほんかいな ハア コリャコリャ  
きぬぎぬの 言葉も 交わさず 明日の夜は  
裏の窓には 私独り サテ 合図はよいか  
首尾をようして 逢いに来たわいな アリャセ コリャセ  
そうも そうかいな エー ハアコリャ コリャ 
「二上り新内」  
端唄。文化、文政(1804年〜1830年)の頃に、もっとも盛んに唄われた唄で、新内に似た 哀愁を帯びた 旋律を持っている。  
 
悪止め せずとも そこを離せ 明日の月日が 無いじゃなし  
止める そなたの心より 帰るこの身は  
エー まぁ どんなに 辛かろう  
来ると そのまま 喧嘩して 背中合わせの 泣寝入り  
「火の用心 さしゃりあしょう」  
鉄棒(かなぼ)の音に目を覚まし 人の知らない    
エー まぁ 仲直りすりゃ 明けの鐘 
「縁かいな」  
端唄。明治23年頃に地唄、筝曲を修行していた徳永里朝が寄席の高座で俗曲を唄い、文久(1860年)の頃に作られたであろう”四季”という唄を復活させ、多くの人が唄うようになった。  
 
夏の納涼(すずみ)は両国の 出船 入船 屋形船  
揚がる流星 星降り(くだり) 玉屋が取り持つ 縁かいな  
   春の眺めは 吉野山 峰も谷間も爛漫と 一目 千本 二千本  
   んー 花が取り持つ 縁かいな  
秋の夜長を ながながと 痴話が昂じて 背中と背中(せなとせな)  
晴れて 差し込むあげ障子 んー 月が取り持つ 縁かいな 
「松づくし」  
端唄。松の名所を並べた歌詞で ”松尽大黒舞”として 地歌で唄われるようになった。それが、江戸に入って大衆的な流行曲となり、寄席などでは曲技とも言える振りを付けて唄われている。  
 
唄い囃せや 大黒 一本目には 池の松 二本目には 庭の松  
三本目には 下がり松 四本目には 志賀の松 五本目には 五葉の松  
六つ昔は 高砂の 尾上の松や 曽根の松 七本目には 姫小松   
八本目には 浜の松 九つ 小松を植え並べ 十で 豊久能の伊勢の松  
この松は 芙蓉の松にて なさけ有馬の 松ヶ枝に 口説けば なびく  
相生の松 また いついつの約束を 日を松 時松 暮れを松  
連理の松に契りをこめて 福大黒をみさいな 
「木遣くずし」  
俗曲。木遣りとは 材木を 掛け声をかけながら運ぶ事で その時に唄うのが”木遣り”。それが 祭りの山車をひく時や 祝儀の際にも唄われる様になった。”くずし”とは調子を変えて陽気に演奏する事で、この曲は幕末の頃、寄席で三升家勝次郎が唄い始めたと伝えられている。  
 
格子造りに ご神燈下げて 兄きゃ家かと 姐御に 問えば  
兄きゃ 二階で木遣りの稽古 音頭取るのは アリャ 家の人  
 (エンヤラヤ サノヨーイサ エンヤラヤ エンヤラヤレコノセー  
  サノセー アレワサ エンヤラヤー)  
つねりゃ紫 食いつきゃ紅よ 色で仕上げた 私の身体  
目出度 目出度の 若松様よ 枝も栄えて アリャ 葉も繁る 
「深川」  
 
猪牙で行くのは深川通い  
わたる桟橋の アレワイサノサ いそいそと  
客の心は うわの空  
飛んで行きたい アレワイサノサ 主のそば  
坊さま二人で よし町通い  
揚がるお茶屋は アレワイサノサ いそいそと  
隣り座敷を眺むれば  
差しつ押さえつ アレワイサノサ 狐けん 
「お座附三下り」  
こういう三味線の手を軽妙洒脱というらしい。現代では軽妙洒脱というとチャライというような用語と同義であると勘違いされそうであるが、粋な人にしか軽妙洒脱という意味は分からないのであろう。歌詞は切実とした女心を唄ったものであるが、軽妙洒脱な手なので、お座敷遊びの最初にはもってこいなのだろう。吉原では、「お座附き」のことを「おざつけ」といったらしいが、お座敷で芸者衆がご祝儀に最初に披露する曲のことである。「お座附三下り」に続いて「三下りさわぎ」がよくセットで演奏されることもあるようだが、本来は別の曲なので、お座敷で続いて演奏されたとは限らないらしい。「三下りさわぎ」は座敷が盛り上がったところで弾かれた曲と思われるので、花街で続いて演奏されることはなかったのではないだろうか。 
「三下がりさわぎ」  
「さわぎ」が吉原発祥のものであり、他所土地(よそとこ)でやるには吉原の許可が必要だったという。最後の吉原芸者であったみな子姐さんのこの話しは映画だけではなく、みな子姐さんの生い立ちや吉原芸者の生き様が描かれている「華より花」にも書いてあった。吉原芸者はもうこの世にはいないし、「さわぎ」にまつわるお作法など吉原のしきたりも伝承されなくなっている。いわゆる新吉原の街も今や地名から消え失せ、台東区千束になっている。吉原大門の交差点や、当初からとは場所が移動したらしい見返り柳や、仲之町通りと書いてある街灯や、吉原神社くらいがかろうじて面影を残すくらいになっている。 
「五宿甚句」  
「羽村甚句(多摩甚句)」  
「藤八拳」 (とうはちけん・東八拳)  
藤八五文薬の売り声から、あるいは幇間(ほうかん)藤八からという拳の一。二人が相対し、両手を開いて耳のあたりに上げるのを狐、ひざの上に置くのを庄屋、左手を前に突き出すのを鉄砲(または狩人)と定め、狐は庄屋に、庄屋は鉄砲に、鉄砲は狐にそれぞれ勝つ。狐拳(きつねけん)。庄屋拳。  
 
新富町の幇間、櫻川善平師によれば、豊臣秀吉、朝鮮侵攻の時、九州名護屋に、数年間在陣中の折、京都高台寺の住僧、端翁和尚が曽呂利新左衛門とともに、陣中見舞いに参じ兵士のつりづれを慰めるために、三すくみの狐拳を考案した。また、江戸新吉原の幇間、藤八がこの狐拳・庄屋拳を行っていたので「藤八拳」と云うようになった。「藤八五文薬」この薬は、本家は長崎・綿屋藤八、弘所は駿府の伊豆屋藤吉という者が、全国に売り子を出して五文で売ったという。江戸に現れたのは、文政八年(1825)頃で、一人ないし五人の売り子が蛇の目の紋の柳行李の薬箱を背負い「とう八五もん」と書いた菅笠をかぶり、腰には、小さな道中差し手には丸に「藤」の字の扇子を持ち、脚絆草履ばき、雨の時は桐油の出たち、一方が「トーハチ」と呼ぶと他方が「ゴーモン」と応じ、双方相対して「キミョー」と合唱したといいます。と、諸説有ります。後年、狐拳・庄屋拳の三拳連続、一番勝負のルールが出来ますと「いち、にノ、さん」という掛け声を「藤八、五文、奇妙」と掛けるのが流行り、以後、藤八拳というようになったといいます。  
狐拳 (きつねけん)  
じゃんけんなどと類似の、狐・猟師・庄屋の三すくみの関係を用いた拳遊びの一種である。藤八拳(とうはちけん)、庄屋拳(しょうやけん)、在郷拳(ざいきょうけん)とも呼ばれる。  
狐は猟師に鉄砲で撃たれ、猟師は庄屋に頭が上がらず、庄屋は狐に化かされる、という三すくみの関係を、腕を用いた動作で合わせて勝負を決する。  
通常は二人が向かい合い、正座して行なう。それぞれの手の姿勢は次のとおり。狐 / 掌を広げ、指を揃えて頭の上に相手に向けて添え、狐の耳を模する。猟師 / 両手で握り拳を作り、鉄砲を構えるように前後をずらして胸の前に構える。庄屋 / 正座した膝の上に手を添える。互いに思う手を出し合い、猟師は狐に勝ち、狐は庄屋に勝ち、庄屋は猟師に勝ちとなる。また狐拳には「狐、猟師、鉄砲」のバージョンもある。狐拳が登場する有名な作品として、十返舎一九の東海道中膝栗毛などがある。  
藤八拳 / 狐拳の一種。続けて3度勝つと勝者となる。天保時代に花村藤八という売薬商人が「藤八 − 五文 − 奇妙」という呼び声で客引きをしていたのを、通人が狐拳のかけ声に使い始めたという。また、吉原の幇間・藤八が創始したともいう。  
藤八拳(正拳)の遊び方  
1.双方正座して向き合い、両手を体の前で合わせる。(絞りと呼ぶ)  
2.「ヨイヨイヨイ」の発声と共に、手を3回叩く(実際に叩くのは3回目のみ)。  
3.双方、狐の形を作る。(合い拳と呼ぶ。「最初はグー」のようなもの)  
4.「ハッ」の発声に次いで、3種類の形のうちいずれかを作る。  
5.4を繰り返し、3回連続して勝ったら、両手を叩いて動作を終了する。  
6.試合のときは行事が正しく3回連続して勝ったかを判定する。  
7.正式な試合のときは3本勝負とし、2本先取した方が勝ちである。 
「金来節」  
囃子言葉が曲名になっている調子の良い俗曲で、明治21年頃寄席で芝楽という落語家が唄い出してから花柳界でも流行る。  
 
すり鉢を 伏せて眺めりゃ 三国一の 味噌を駿河の 富士の山  
 キビス ガンガン イガイ ドンス キンモクネンスノ スクネッポ  
 スッチャン マンマン カンマンカイノ オッペラポーの金来来  
 そうじゃおまへんか あほらしいじゃおまへんか (くり返し)  
早撮りの ガラス写真を 裏から見れば 胸にゃ 浮気の虫がいる  
浦里が 忍び泣きすりゃ みどリも共に もらい泣きする 明烏  
千両箱 富士の山ほど 積んではみたが 冥土の土産にゃ なりゃしない  
「大島節」  
大島節は、明治初期、伊豆大島の野増(のまし)村(現大島町)で、人々が茶もみの労作唄(うた)として歌い出した「野増節」が原型といわれる。この「野増節」に、横浜市あたりで歌われていた、お茶の火入れ再製作業の労作唄 「お茶場節」が取り入れられ、現在の大島節のメロディの基となったといわれる。昭和5〜6年頃まで、大島節は手拍子だけで歌う形であった。経年を経て、観光客向けや料亭座敷向けに三味線の手や、あんこ娘の踊りが入るお座敷唄バージョンも完成されたが、大島地元の人達は、常に手拍子だけで歌っている。 大島節は、本来冠婚葬祭の席で、島人達が車座になり、その催事に適した即興詩を詠い回してゆく伝承民謡である。従い歌詞は不定形で無限。 
 
←「野増節」「お茶場節」 
 
私しゃ大島 御神火育ち(ヨ) 胸に煙は(ナ) 絶えやせぬ(ヨ)  
つつじ椿は 御山(みやま)を照らす 殿の御船(みふね)は 灘照らす  
男伊達なら 茅ヶ崎沖の 潮の早いを 止めてみろ  
潮の早いは 止めよで止まる 止めて止まらぬ 色の道  
乳ヶ崎沖まじゃ 見送りましょが それから先は 神だのみ  
私しゃ大島 荒浜育ち 色の黒いは 親譲り  
私しゃ大島 荒浜育ち 浪も荒いが 気も荒い  
うつつ心で 柱にもたれて 起きていながら 主(ぬし)の夢  
夢はよいもの 逢わせてくれる 夢でなければ 逢えやせぬ  
胸に千把(せんば)の 茅(かや)焚くとても 煙出さなきゃ 主ゃ知らぬ  
私しゃ大島 一重の桜 八重に咲く気は さらにない  
今日のうれしさ 障子に書いて 開け閉(た)てするたび 思い出す  
相模灘をば 両手で拝む 可愛い旦那ツ子の 乗るうちは  
杉の若萌 みたよな殿御 人にとられて なるものか  
私の人(男)でも ないのだけれど 誰かの人(男)にも したくない  
強い お強い 為朝様も 島のあん娘(こ)にゃ 負けたもの  
別れつらくも 帆を巻く朝は 涙流すな 波が立つ  
いやなお方の 親切よりも 好いたお方の 無理がよい  
客は千来る 万来る中で 私の待つ人 ただひとり  
名こそ差さねど あの町にひとり 命かけたい 主(にし)がいる  
沖を通るは ありゃどれ丸だ 外じゃあるまい 主(ぬし)の船  
さくら丸には 用事はないが 乗ってる旦那っ子に 用がある  
千両箱をば 山に積んでも いやなお方は 私しゃいやだ  
はだかはだしで 一文無しでも 主(ぬし)が良い  
竹の一本橋ゃ 細くて長くて しなしな しのうて(しなって)危ないけど 
 私とあなたと 二人で渡るにゃ 怖かない  
お江戸離れて 南え三十六里(みそろくり) 潮の花散る 椿島   
お江戸恋しや 島なつかしや 橋をかけても 渡りたい  
来てはとんとん 雨戸をたたく 心迷わす 西の風  
九尺二間の 雨戸一枚と 私の心 あちら閉(た)てれば こちらが立たない  
 こちら閉てれば あちらが立たない 両方閉てれば 身が立たぬ  
男心と 茶釜の水は 沸くも早いが 冷めやすい  
お月さま たったひと言教えておくれ 主(ぬし)の夕べの 居どころを  
野増村から 来い(恋)との手紙 行かじゃなるまい ひと先ずは  
岡田みなとで ドンと打つ浪は 可愛い旦那ッ子の 度胸だめし  
西も東も 南もいらぬ わたしゃあなたの 北(来た)がよい  
「北も南も 東もいらぬ わたしゃやっぱり 西(主=にし)がよい」  
なくて七癖 わたしのクセは 逢えば帰すが イヤなクセ  
好きで通えば 千里も一里 いやで通えば 一里も千里  
アワイ大浜 登りがなけりゃ 野増通いも 苦にゃならぬ  
アンコ出て見ろ 三原の煙り いやなお方にゃ なびきゃせぬ  
波浮と差木地じゃ 一里のちがい 主(ぬし)と私は 三つ違い  
ほれた「ほ」の字は どう書きなさる まよった「ま」の字に ヘン(偏)がつく  
逢えばさほどの 話しはないが 逢わなきゃ話しは 富士の山  
逢った嬉しさ 別れのつらさ 逢って別れが なけりゃあよい  
ガタガタ落としの つるべでさえも 水に合わなきゃ 返りゃせぬ  
恋のつるべが 返らぬゆえに あなたの心が 汲みにくい  
私の心が 竹なら木なら 割って見せたい 四つ割りに  
小石(恋し)九つ 重石(想いし)一つ ままにならぬは 主(ぬし)ひとり  
遠く離れて 逢いたい時は 月が鏡に なればよい  
来てはくれるな ない名が立つに 来なきゃある名も 立ちゃせぬ  
末の取り膳 たのしむよりも 当座抱き寝が してみたい  
三原下ろしの 雪風よりも 主のひと言が 身にしみる  
返事しかねて いろりの灰に 火箸で判らぬ 文字を書く  
手紙千本 やりとりよりも 逢ってひと言 話したい  
遠く離れりゃ 手紙が便り(頼り) どこの配達も 目にとまる  
思い出すよじゃ 惚れよが薄い 思い出さずに 忘れずに  
思い出させて 泣かせておいて どこにそれたか 今朝の風  
思い出さでは 泣き暮らさでは いやで別れた 仲じゃない  
思い出しては 写真を眺め なぜに写真は もの言わぬ  
添われないから 来るなと言うても 来れば泣いたり 泣かせたり  
親もよく聞け さて叔父叔母も いやな方とは 添われない  
恋の病いを 親達ゃ知らず いやな薬を 飲め飲めと  
東京育ちの 学生よりも 山で炭焼く 主(にし)がよい  
船長さまより 機関長よりも 炊事(カシキ)あがりの 主(ぬし)がよい  
親がくれなきゃ 逃げよじゃないか 逃げて添うのも 粋なもの  
連れてゆくから 髪結いなおせ 世間島田で 渡られぬ  
連れて逃げれば 戸籍がもめる 死ねば新聞 笑い草  
思っちゃ見ちゃ泣き 見ちゃ思っちゃ泣き 葉書き四つ折り 書いちゃ泣き  
キリギリス羽根で鳴くかよ セミや腹で鳴く わたしゃ主(にし)ゆえ 胸で泣く  
島のアンコに 想いをかけて 月に三度の 島通い  
髪の長さに つい魅かされて 誰も寄り来る 大島え   
島でなければ 鉄道架けて 一夜通いが してみたい  
波浮の港は 巾着みなと 惜しいことには ひもがない  
島と名がつきゃ どの島も可愛い 分けて利島(年増)は なお可愛い  
お酒飲む人 しんから可愛い 飲んでくだ巻きゃ なお可愛い  
三原御神火 名所のひとつ 野増村では 竜の口  
明日はお立ちか お名残惜しや せめて波風 おだやかに  
明日はお立ちか お名残惜しや 西の十日も 吹けばよいに  
沖の荒波 風ゆえもめる わたしゃ主ゆえ 気がもめる  
船がかすむと 磯から言えば 磯がかすむと 船で言う  
義理に迫れば ウグイスさえも 梅を離れて ヤブで啼く  
浮気ウグイス 梅をば捨てて 隣り屋敷の ヤブで鳴く  
金のなる木を 庭木に植えて 可愛いあの子に ゆずりたい  
松になりたや 乳ヶ崎松に 出船入船を 見て暮らす  
松になりたや 岡田の松に 枯れて落ちても 二人連れ  
松という字は 木ヘンに公(きみ)だ 君(公)に気(木)がなきゃ 待つ(松)じゃない  
沖のかもめが もの言うならば 便り聞いたり 聞かせたり  
椿花散りゃ 桜が笑う 次はつつじが 気を燃やす  
島のアンコと 椿の花は そっとしておけ 手にとるな  
山の椿は 真っ赤に燃えて 主の情けを 待つばかり  
去年の今夜は 知らないお人 今年の今夜は 家の人  
きょうは嬉しや 皆さんと一座 明日もこの手で 願います  
きょうは嬉しや 皆さんと一緒 明日はどなたと 語るやら  
飲んでおくれよ 騒いでおくれ きょうは我が家の 身の祝い  
目出度めでたの 若松さまよ 枝も栄えて 葉も茂る  
ここのお家は 目出度いお家 鶴と亀とが 舞い遊ぶ  
ここのお屋根に ウグイスとめて 繁盛繁盛と 鳴かせたい  
ここの座敷は 六畳め八畳 九畳(苦情)がないので 来ておくれよ  
丸い卵も 切りよで四角 ものも言いよで 角が立つ  
「殻も白身も オヘソもいらぬ 私しゃやっぱり 黄身(君)がよい」  
唄を願います ○○ さんとやらに お気に召さずと 是非ひとつ  
唄え十七 唄わず置いて 後で悔やむな 年老いて  
唄いなされよ お唄いなされ 唄で器量は 下がりゃせぬ  
唄え唄えと 攻めたてられて 唄は出ないで 汗が出る  
主は百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の 生えるまで  
七転び八起きの浮世に 心配するな 牡丹もコモ着て 冬ごもる  
お酒飲む人 花ならつぼみ 今日も咲け咲け 明日も酒  
私しゃ大島 雨水育ち 胸にぼうふらは 絶えやせぬ  
置いてゆくだな つぼみの私 後で咲くとも 主(にし)や知らぬ  
花の大島 岡田の港 椿咲くぞえ 実も結ぶ  
年は寄り来る 山道や茂る 人の情けも 薄くなる   
沖にちらちら 航海ランプ 主(ぬし)もいるずら あの船に  
色で迷わす 西瓜でさえも 中にゃ黒(苦労)の タネがある  
月を眺めて ほろりと涙 あの星あたりが 主(ぬし)の空よ  
月が出たなら 私と思え 私しゃ主(ぬし)だと 手で拝む  
沖を流れる 炭スゴさえも 鳥に一夜の 宿を貸す  
今年ゃこれきり また来年も 都合つけては 逢いにくる  
心意気さえ 届いていれば 逢うにゃ五年に 一度でも  
苦労する身は 細書きに いのちゃお前に かけすずり  
行って来いやい 四合の山に せめて十日も いたらこい  
先の出ようで 鬼とも蛇とも なるよ神とも 仏とも  
私ゃローソク 芯から燃える あなたランプで 口ばかり  
主(ぬし)を待つ待つ 月日を忘れ うぐいす鳴くから 春じゃやら 
江戸時代劇の大川 (隅田川) 
東京人 
お大尽 
色里 
振袖火事 
 
 
 
 
 
 
 

北海道東北中部近畿中国四国九州 
栃木県群馬県茨城県埼玉県千葉県東京都神奈川県

神奈川県

 

「三崎甚句」  
三崎港は、東に東京湾、西が相模湾の三浦半島突端にあり、近海漁業の中心となっている。ここに集まる船頭衆や漁師相手の港の女が、酒席の騒ぎ唄として唄っていた。全国各地に分布する「二上り甚句」が変化したもので、特に後囃しに特色がある。この後囃しも、千葉県安房郡一帯で唄われている「安房節」と共通しているから、三浦半島、房総半島の両方で唄われていたようである。  
 
三浦半島の先端にある三浦市の三崎漁港は、江戸時代には浦賀とともに、江戸への海の関門として知られ、栄えました。南方の城ヶ島により自然の防波堤となっており、古来より避難港、風待港としての機能をもち、またマグロ漁の拠点として知られてきました。こうした港町の花街で歌われてきた騒ぎ唄が「三崎甚句」です。  
曲の源流は江戸期に流行した「二上り甚句」です。この唄は、日光例幣使街道の宿場・千住宿で流行した「千住節」という唄で、各地の花街や座敷で好んで歌われてきたようです。現行の「三崎甚句」の三味線の手付きも、よく「二上り甚句」の足あとを残しています。  
各唄の後につく「長ばやし」が特徴的です。同様なものに千葉県館山市布良港の「安房節」、静岡県下田市下田港の「下田節」等が知られます。これらは「ハイヤ節」と同系統ではなく、「三崎甚句」と同様の甚句系の唄でと考えられます。また太平洋岸地域に歌われる「浜甚句」などとの影響もあるといわれています。  
こうして各港で歌われてきた楽しい甚句の1つといえます。港町の花街での座敷唄は、おそらく大変賑やかなものであったことと思います。歌詞も座敷唄らしく、おおらかなものが多いようです。  
「長ばやし」もおもしろいのです。三崎独特のもの、なかなか意味深長なもの等があります。  
 トコ ラットの帆前船 エー上はデッキで すべくるヨーエ  
という横文字入りがおもしろいです。「トコ」は拍子詞、「ラット」とは舵輪(だりん)=ラッダーのことで、洋式の新造船を見た驚きをあらわすのだそうです。  
よく聴くものは、テンポが割合ゆったりとした演奏が多いです。しっとりとした雰囲気にまとめられています。ここのところ、「古調三崎甚句」として、ややはずみの多い感じの歌い方のものも聴くことが多くなりました。現行の歌い方は昭和に入ってからのもので、古くは「二上り甚句」そのものであったようです。  
三崎港といえば、  
三浦三崎にドンと打つ波はヨ 可愛いお方のサ 度胸だめしダンチョネ  
と歌われる「ダンチョネ節」も有名です。  
 
/ 「安房節」「下田節」     
←「二上り甚句」 
 
(キタサーエ)  
エー三浦三崎に (アイヨーエ) ドンと打つ波は (エーソダヨーエ)  
可愛いお方の 度胸定め (エーソダヨーエ)  
(三崎の港に菊植えて エー根も菊 葉も菊 枝も菊 エー晩にゃあなたの便り聞くーエ キタサーエ)  
三浦三崎に 錨はいらぬ 三味や太鼓で 船つなぐ  
三崎城ヶ島は 見事な島よ 根から生えたか 浮島か  
わたしゃ三崎の 荒浜育ち 色の黒いのは 親譲り  
三浦三崎は 女の夜針(または 夜這い) 男後生楽 寝て待ちる  
海の宝を 山ほど積んで 三崎港は 東洋一  
烏賊になりたい 島下の烏賊に 浜の若い衆に 釣られたい  
鯛になりたや 城ヶ島の鯛に 島の若い衆に 釣られたい  
松になりたや 三崎の松に 上り下りの 船を待つ  
三崎城ヶ島に 灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ  
 
エー三崎みなとに (アイヨーエ) 錨はいらぬ (エーソーダヨーエ)  
三味や太鼓で 船つなぐ (エーソーダヨーエ)  
「トコラットの帆前船 コラ 上は デッキですべくるヨーエ キタサーエ」  
   エー三浦三崎に どんと打つ波は 可愛いお方の 度胸さだめ  
   「三崎港に菊植えて 根もきく葉もきく 枝もきく 晩にゃあなたの 便りきく」  
エー私ゃ 三崎の 荒浜育ち 色の黒いのは 親譲り  
「姐さん持って来た 烏賊なます  おいらも一杯 食べたいよう」 
「相州神輿甚句」  
「細の提灯 南湖と染めて 平塚通いの ほどの良さ」好きな甚句の一つである。甚句は仕事唄とも言われているが、冒頭の細の提灯や、「白鷺見たよなお方に惚れて」などからは、艶っぽい都都逸も連想され、三味の音にも合うような文句でもあり、遊び唄とも思える。 ひと仕事終えて、日が落ちた頃合、細の提灯に火を灯し、ほろ酔い機嫌で三々五々、川向こうへ通って行く男達の姿が思い浮かんでくるような甚句だ。 昔は酒席などでも唄われたが、最近ではもっぱら神輿を担ぎながら唄う甚句である。相撲甚句や相馬甚句のようにメジャーではないが、茅ヶ崎、須賀、大磯辺りを中心に唄われる。神輿を担ぎながら唄うのは、いつ頃からのことか定かではないが、今ではかなり広範囲に唄われている。 
 
甚句というのは、五七の組み合わせの詩である都々逸にメロディをつけたもので、相撲甚句などが有名だろう。相州神輿を担ぐのに合わせて歌い手が歌う。神輿の担ぎ手が所々に合いの手を入れるのだが、相撲甚句の場合「はあーどすこい」などの合いの手のところ、相州神輿だと「あーよいしょ」「よいよい」などあって、最後に「どっこいどっこいどっこいそーりゃ」に戻る。  
甚句の歌の内容は、艶めかしいものや、神社の数え歌(「一で相州一宮〜」など)、ご当地紹介物など。総称して湘南甚句という言い方も特にあるけれど、茅ヶ崎甚句とか相州大磯甚句とか須賀甚句とか、やはりご当地ではご当地名で呼ばれている。  
大磯の高来神社の場合、小田原担ぎの特徴である木遣りも歌われるそうだが、これは御船祭の山車とセットになっているもので、神輿にはやはり甚句がセットになっている。 湘南神輿あるいは相州神輿は、結構色々な地方の祭に輸出されているようだが、甚句と「どっこい」の掛け声の組み合わせがあれば、これを湘南神輿と呼んでいるのではないかと思う。 
 
/ 「湘南甚句」「茅ヶ崎甚句」「相州大磯甚句」「須賀甚句」「湘南神輿」 
 
私ゃ茅ケ崎 荒波育ち  波も荒けりゃ 気も荒い  
注いだ盃  中見てお呑み 中にゃ鶴亀 五葉の松  
惚れて通えば 相模の橋も 長い廊下と 諦める  
白鷺みたよな お方に惚れて 烏みたいに 苦労する  
娘十七・八 蝶々がとまる とまるはずじゃよ 華じゃもの  
花が蝶々か  蝶々が花か 咲いてチラチラ 迷わせる  
神輿担ぐような  いなせな いなせな 姉さんと ともに苦労がしてみたい  
色で売り出す 西瓜でさえも 中にゃ苦労の 種がある  
信州信濃の 新蕎麦よりも 私ゃあなたの 側がいい  
神仏 
好いた御方と 添えたい為に  
一で相州一之宮    
二で日光の東照宮さん  
三で讃岐の金毘羅さん    
四また信濃の善光寺  
五つ出雲の大社  
六つ村村鎮守様  
七つ成田の御不動さん  
八つ八幡の八幡さん  
九つ高野の弘法さん  
十で東京で名高い招魂社  
これだけ心願かけたのに 好いた御方と添えぬなら 神や仏はいらぬもの  
嫁入り 
娘十七・八  嫁入りざかり 箪笥・長持・鋏箱  
これだけ持たせてやるからにゃ 二度と戻ると思うなよ  
そこで娘の言うことにゃ   
父(とと)さん母(かか)さんそりゃ無理よ まして私は嫁じゃもの  
縁があったら戻らぬが 西が曇れば雨とやら 東が曇れば風とやら  
千石積んだる船でさえ 港出る時ゃまともでも 波風荒けりゃ又戻る  
 
娘十七、十八嫁入りざかり タンス長持ちハサミ箱  
これだけ持たせてやるからにゃ 二度と戻ると思うなよ  
父さん母さんそりゃ無理だ   
西が曇れば雨とやら 東が曇れば風とやら  
千石積んだる舟でさえ 波風荒けりゃヨー また戻る  
坂田山心中 
大磯名代は 春は花咲く坂田山  秋は紅葉のその中で   
聞いてくだされ皆様よ 五郎さんと八重子さんの物語   
東京静岡その中で なるほど遠い仲なれど  
汽車の線路じゃあるまいし 恋と言う字を墨で書き   
愛と言う字は筆で書く たとえ両親(ふたおや)許さぬも   
神や仏が許すもの 死んで花実が咲くものか  
 
春に花咲く坂田山 秋は紅葉のその中で   
聞いて下さい皆様よ 五郎さんと花子さんの物語   
東京静岡その中で いかにも遠い仲なれど  
愛という字は筆で書き 恋という字は墨で書く  
例え両親許さずも 二人の心があったなら  
神や仏が許すのも 死んでー花見がヨー咲くじゃなし  
 
赤羽根山から  近場を見れば 西に大山一のもん   
東のお方を眺めれば  相模の海に江ノ島と 遥か遠くに大島と  一際目立つ烏帽子岩  
西の大空見てやれば 日本一の富士の山 眺めよければ実も多い  
義理と人情の厚いとこ これぞおいらの故郷の村  
 
頃は六月  頃は六月田植え時  
姉は妹に負けまいと 妹は姉に負けまいと   
一生懸命に田植えする  
すると遥か向こうの彼方より 一羽の穴蜂飛んできて    
妹のおそそにチョイト留まる  
姉さん穴蜂とってくれ 穴蜂取るは良いけれど   
昔偉人の言うことにゃ 穴蜂ゃ他人の手にかかる  
 
頃六月田植え時 姉と妹が田植えする  
姉は妹な負けまいと 一生懸命バチ飛んできて  
妹のオツムにちょいと止まる 姉ちゃん姉ちゃん取ってくれ  
取ってやるのは良いけれど   
昔の偉人の言うことにゃ 穴バチゃー他人の手にかわる  
 
惚れた病を  惚れた病を治すには    
六畳一間の真中に 六枚屏風を立て並べ  
二つ枕に三つ布団 スイッと入れたるその時にゃ   
貴方上から下がり富士 私ゃ谷間の百合の花  
足は絡ませ藤の蔓 お手手しっかり抱き茗荷 口は水仙よ玉椿   
エッサホイサの掛け声で  一汗かかねば治りゃせぬ  
 
惚れた病を治すには  
六畳一間の真中で 六枚屏風を立て並べ  
二つ枕に三つ布団  
好いて入れたるその時は 足でからめて膝のつる  
お手手ぴったり抱きしめて 汗は水仙玉椿  
エッサホイサのかけ声で ひと汗かかねばヨー なおりゃせぬ  
 
相州茅ケ崎 茅ケ崎名物 左富士 上り下りの東海道  
松の緑に吹く風は 昔も今も変わらねど  
富士の高嶺と男伊達 相模おのこの晴れ姿  
 
思い寄せても  届かぬ恋は  
たかが漁師の子倅が 及ばぬ恋の滝登り  
私ゃ浮気で言うじゃない ほんに貴方がすきなのよ  
 
どこで染めたか 船頭衆の浴衣  
せなに帆を上げ裾に波 錨という字の紋をつけ どこの質屋に入れたやら  
相模の川へ流すとも 錨おろせばながりゃせぬ  
 
さてはこの場の 皆様方よ  
年の初めの新玉の 松を楽しむ正月や  
二月に咲いたる梅の花  
三月盛りの八重桜  
四月上より下がり藤  
五月の梅雨に咲く花は 菖蒲名代に杜若  
六月牡丹に蝶が舞う  
七月野原に咲く萩に   
照らす八月たもと脱ぎ  
心地よく見る九月菊  
十月紅葉に鳴く鹿の  
十一月の垂れ柳  
小野道風じゃないけれど  蛙見つめりゃ切りがない    
 
年の初めの新玉や 松を楽しむ正月や  
二月に咲いたる梅の花  
三月盛りの八重桜  
四月は上から下がり藤  
五月の梅雨に咲く花は あやめの名代にかきつばた  
六月牡丹に蝶が舞う  
七月空に咲く藪に  
八月蜂刺すタンコ切り  
今年よく見る九月菊  
十月紅葉に鳴く鹿の  
十一月の枯れ山に  
踊る坊主じゃないけれど ほんにめでたや皆の衆  
 
恵比寿大国福の神  
睦月祝って鶴が舞う  
梅に鶯如月の  
弥生桜に酒の汲み  
卯月踊る若鮎が  
流れに挑む伊達姿  
八十八夜の五月晴れ  
芍薬牡丹に水無月の  
蛍飛び交う文月の  
葉月日照りに雨乞いの  
長月実りの秋祭り  
月が招く神無月  
傘させ裾させ霜月よ  
藪の富士の伊達姿  
松を恋しとよ雪化粧
「茅ヶ崎甚句」  
茅ヶ崎甚句は江戸時代、若い衆の粋のよさを示す遊び歌であった。茅ヶ崎独特の旋律に民謡、歌曲を歌いこんで、即興的にアレンジした。禊祭(みそぎ)が近ずくと、新町の藤川屋(仕立て屋)は、半纏(はんてん)を店頭に掛けておく。そこへほとんど毎晩のように、稲岡栄さん、吉野さんたちは地回りになっていて、襦袢は半纏はと、押しかけて甚句をうなる。藤川屋のすぐ前が天又という料理屋で、女中が始終3〜4人いて、甚句に興味を示す。女を酔わせる男歌だ。それが楽しみで新町へ行く。茅ヶ崎甚句は茅ヶ崎一円で発祥した。茅ヶ崎甚句は茅ヶ崎だけに残る文化だ。  
 
/ 「湘南甚句」「相州大磯甚句」「須賀甚句」「相模甚句」「湘南神輿」「相州神輿甚句」  
 
私しゃ茅ヶ崎荒波育ち 波も荒けりゃ気も荒い  
茅ヶ崎名物茅ヶ崎名物 左富士   
上り下りの東海道 松の緑と吹く風は  
昔も今も変わらねど 富士の高根と男伊達  
相模おのこの晴れ姿  
好いた お方と 添いたいために  
一で相州一ノ宮  
二で日光の東照宮  
三で讃岐の金毘羅さん  
四又 信濃の善光寺さん  
五つ出雲の大社  
六つ村々鎮守さま  
七つ成田のお不動さん  
八つ八幡の八幡さん  
九つ高野の弘法さん  
十で東京の名高い招魂社  
これだけ神願掛けたのに 好いたお方と  
添えぬなら 神や仏は要らぬもの
「箱根馬子唄」  
箱根街道筋の馬子の道中唄で、「箱根八里は」の歌詞で有名である。「箱根御番所に荒井がなけりゃ」の荒井とは浜名湖のそばにあった関所で、「今切の渡」ともいっていた。  
 
普通の東海道の宿と宿の間が二、三里であったのに対して、箱根の峠は、東の小田原宿までが四里八丁、西の三島宿まで三里二十八丁あり、いわゆる箱根八里の道のりがありました。この峠を越えるための交通機関として登場したのが馬と駕篭。「箱根馬子唄」はそうした往時をしのばせるものの一つです。唄の源流は、旧南部領で、博労たちがうたっていた南部馬方節。これを関東の馬子たちが真似て口ずさんだものです。   
 
←「南部馬方節」 
 
箱根八里は(ハイハイ)馬でも越すが(ハイハイ)越すに越されぬ大井川(ハイハイ)  
めでためでたのこの盃は 鶴が酌して亀が飲む  
関所通ればまた関所 せめて関所の茶屋迄も  
お前百までわしゃ九十九まで 共に白髪の生えるまで  
 
(ハイハイ)  
箱根(ハイハイ)八里は(ハイハイ)  
馬でも越すが(ハイハイ)越すに越されぬ 大井川(ハイハイ)  
箱根御番所に 矢倉沢なけりゃ 連れて逃げましょ お江戸まで  
三島照る照る 小田原曇る 間〈あい〉の関所は 雨が降る  
松になりたや 箱根の松に 諸国大名の 日除け松  
雲か山かと 眺めた峰も 今じゃわしらの 眠り床  
箱根番所と 新井がなけりゃ 連れて行きましょ 上方へ  
尾上 高砂 千歳の松は 千代も変わらぬ 深緑 
「箱根八里」  
明治34年に発行された「中学唱歌」に初出の唱歌である。鳥居忱(とりいまこと)の作詞、滝廉太郎の作曲による。  
題名の箱根八里とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたもの。東海道では大井川とともに難所として知られていた。箱根馬子唄でも「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれる(この唄を指して「箱根八里」と呼ぶこともある)。  
歌詞は2連で1番に「昔の箱根」、2番に「いまの箱根」の副題がつけられている。広く知られている歌ではあるものの、李白の漢詩「蜀道難」の一節「一夫當關 萬夫莫開」が歌詞に織り込まれるなど、漢籍にみられる故事や古典、歴史に由来する事項が多く盛り込まれており、21世紀の日本人の多くにとっては比較的難解である。  
歌詞に登場する「函谷関」は中国の長安と洛陽の間、長安のある関中の地への入り口を扼する関所で王朝の死命を制する要衝として有名であり、「史記」における漢の劉邦と楚の項羽の攻防や孟嘗君の故事などで知られ、また「蜀の桟道」は蜀の地、すなわち四川盆地を守るに堅い要害としている山中の難所でやはり劉邦の天下取りへの備えとなった故事がある。いずれも箱根の関所のある山道の険しさを、漢籍古典になだたる難所要害にたとえているものである。  
曲はヨナ抜き音階で書かれリズムはピョンコ節あり三連符ありでバラエティーに富んでいるが、歌詞にマッチした勇ましい行進曲調のものである。  
 
箱根の山は、天下の嶮(けん)  
函谷關(かんこくかん)も ものならず  
萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷  
前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ  
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす  
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木  
羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は苔(こけ)滑らか  
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし  
天下に旅する剛氣の武士(もののふ)  
大刀腰に足駄がけ  
八里の碞根(いはね)踏みならす、  
かくこそありしか、往時の武士  
   箱根の山は天下の岨  
   蜀の桟道數ならず  
   萬丈の山、千仞の谷  
   前に聳え、後方にささふ  
   雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす  
   昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木  
   羊腸の小徑は、苔滑らか  
   一夫關にあたるや、萬夫も開くなし  
   山野に狩りする剛毅のますらを(益荒男)  
   猟銃肩に草鞋(わらぢ)がけ  
   八里の碞根踏み破る  
   かくこそありけれ、近時のますらを 
「野毛節」「野毛山節」「ノーエ節」  
神奈川県横浜市の民謡。「野毛山節」、あるいは「ノーエ節」などとも呼ばれる。幕末に始まったお座敷歌で、関内の外国人や兵隊の(当時の日本人から見ると珍奇な)様子を野毛山から眺めた歌詞となっている。作者不詳で、曲調は行進曲を摸したものとも言われる。旋律や「ノーエ」の掛け声を同じくする民謡は全国にあり、中でも静岡県三島市の「農兵節」が有名である。野毛節がこれらの元祖とも言われているが、定かではない。(代官山節ともいわれる)  
 
→「農兵節」  
 
代官山からノーエ 代官山からノーエ 代官サイサイ  
山から異人館をみれば  
ラシャメンと二人でノーエ ラシャメンと二人でノーエ ラシャメンサイサイ  
抱えて 赤いズボン  
   代官山からノーエ 代官山からノーエ 代官サイサイ  
   山から蒸気船をみれば  
   太い煙突ノーエ 黒い煙りがノーエ 黒いサイサイ  
   煙りが 横に出てる  
秋の演習はノーエ 秋の演習はノーエ 秋のサイサイ  
演習は白黒二軍  
白黒二軍はノーエ 白黒二軍はノーエ 白黒 サイサイ  
二軍は 演習が終わる  
   野毛の山からノーエ 野毛の山からノーエ 野毛のサイサイ  
   山から異人館を見れば  
   鉄砲かついでノーエ 鉄砲かついでノーエ お鉄砲 サイサイ  
   かついで 小隊進め  
オッピキヒャラリコノーエ オッピキヒャラリコノーエ オッピキサイサイ  
ヒャラリコ 小隊進め  
チーチーガタガッテノーエ チーチーガタガッテノーエ チーチーガ サイサイ  
ガタガッテ 小隊進め  
「お茶場節」  
神奈川県の民謡。明治時代に横浜の製茶工場で歌われた労作唄。  
初めてのストライキ / 官営工場を中心に日本は殖産興業の育成策によって、とにかく欧米の先進諸国に追いつこうとしました。明治政府は一方に不平等条約の難問題をかかえながら、貧弱な国力をもって必死に努力していましたが、外国商館の敵ではありませんでした。そのころ領事裁判制度によって守られた居留地内の企業の横浜製茶工場でストライキが起こりまし。明治22年6月21日のことです。このストライキは、県下で初めてのものとして注目され、また商館側が労働者の締め出しという日本初のロック・アウトで対抗したことでよく知られています。このお茶は、横浜開港当初より明治30年前後の全盛期にかけて、生糸につぐ重要な輸出品でした。当時のお茶場唄に次のようなものがあります。  
 
→「大島節」  
 
野毛山の鐘がゴンとなりゃ ガス灯が消える  
早くゆかなきゃ カマがありません。  
 
朝は早くから弁当箱さげて お茶場通いも意気なもの  
お茶場やっこらせで稼いだ天保  
みんなお前でチャッチャムチャ  
鬼の三番仏の五番 なさけ知らずの六〇番  
 
 
 
 
 

栃木県群馬県茨城県埼玉県千葉県東京都神奈川県

中部

 

中山道  
中山道は歴史が古く、その前身は五畿七道を通る東山道と呼ばれ、日本の背骨を貫く大変重要な道であった。五畿七道のうち、近江、美濃、飛騨、信濃、武蔵、下野、上野、陸奥、出羽が属し、宝亀2年(771)武蔵国が東海道に編入されている。当初は東海道より通行が多く重要視された。しかし東海道が渡し船、橋の架橋等の条件整備が進み、気候温暖の為もあったりして通行量が増えていき、東山道も自然が厳しく、通行が難しくもあり、しだいに東海道の裏街道的な役割に甘んじるようになっていった。戦国時代に入ると、北条氏が倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井田・坂本の六宿を創設、また下諏訪・塩尻・洗馬・贄川・奈良井・薮原・福島の七宿は武田氏が伝馬の継立を行っているなど、宿駅が設けられ始めていた。江戸時代に入り五街道の一つとして中山道が置かれた。 東海道のように河留めの多い大井川、あるいは浜名の渡し、桑名の渡しなど水による困難がほとんどない故に女性の道中に好まれることも多かった。日本橋から京都まで、69次 135里24丁8間(約533km)。  
[日本橋]〜板橋宿〜蕨宿〜浦和宿〜大宮宿〜上尾宿〜桶川宿〜鴻巣宿〜熊谷宿〜深谷宿〜本庄宿〜新町宿〜倉賀野宿〜高崎宿〜板鼻宿〜安中宿〜松井田宿〜坂本宿〜[碓氷峠]〜軽井沢宿〜沓掛宿〜追分宿〜小田井宿〜岩村田宿〜塩名田宿〜八幡宿〜望月宿〜芦田宿〜長久保宿〜和田宿〜[和田峠]〜下諏訪宿〜塩尻宿〜洗馬宿〜本山宿〜贄川宿〜奈良井宿〜薮原宿〜宮ノ越宿〜福島宿〜上松宿〜須原宿〜野尻宿〜三留野宿〜妻籠宿〜馬籠宿〜落合宿〜中津川宿〜大井宿〜大湫宿〜細久手宿〜御嶽宿〜伏見宿〜太田宿〜鵜沼宿〜加納宿〜河渡宿〜美江寺宿〜赤坂宿〜垂井宿〜関ヶ原宿〜今須宿〜柏原宿〜醒ヶ井宿〜番場宿〜鳥居本宿〜高宮宿〜愛知川宿〜武佐宿〜守山宿〜草津宿〜大津宿〜[京都]  
甲州街道  
江戸幕府を始めた家康は甲斐の国を支配下に置いた。ここを重視した家康は江戸から交付に至る甲州道中を開き幕府の管理下に置いた。ここを重視した理由としては、甲斐の金山を重視したとか、甲府城を拠点化したとかの理由がある。一般的には江戸城の避難所としての性格ももつと言われる。半蔵門からすぐが甲州道中であり、八王子には千人同心がいたりする。しかしここを参勤交代で使用する藩は3つだけで他の街道に比べ繁盛したとは言えなく、各宿の経営は楽ではなかった。日本橋から下諏訪まで53里24町(約208km)。   
[日本橋]〜内藤新宿〜高井戸宿(下高井戸宿/上高井戸宿)〜布田五宿〜府中宿〜日野宿〜八王子宿〜駒木野宿〜小仏宿〜小原宿〜与瀬宿〜吉野宿〜関野宿〜上野原宿〜鶴川宿〜野田尻宿〜犬目宿〜鳥沢宿〜猿橋宿〜駒橋宿〜大月宿〜花咲宿〜下初狩宿〜中初狩宿〜白野宿〜阿弥陀海道宿〜黒野田宿〜[笹子峠]〜駒飼宿〜鶴瀬宿〜勝沼宿〜栗原宿〜石和宿〜甲府宿〜韮崎宿〜台ヶ原宿〜教来石宿〜蔦木宿〜金沢宿〜上諏訪宿〜[中山道・下諏訪宿]  
東海道  
東海道は律令時代から成立しており、昔も現在も日本の大動脈としての役割は変わらない。古代は駅伝馬制、宿場は鎌倉時代から形成され、家康は幕府を開くより前慶長6年(1601)の定書きを出して宿場制を確立させた。日本橋から京都三条大橋まで53次、126里6町1間(約495.5km)大津から分岐して大阪まで4次足され、538.5kmであった。東海道は海岸に沿った街道だけに大きな川があり、交通の障害になった。浜名湖、尾張、伊勢間は渡し船で通った。厳しい関所もあり女性などは中山道の方を好んだようです。  
[日本橋]〜品川宿〜川崎宿〜神奈川宿〜保土ヶ谷宿〜戸塚宿〜藤沢宿〜平塚宿〜大磯宿〜小田原宿〜箱根宿〜三島宿〜沼津宿〜原宿〜吉原宿〜蒲原宿〜由比宿〜興津宿〜江尻宿〜府中宿〜丸子宿〜岡部宿〜藤枝宿〜島田宿〜金谷宿〜日坂宿〜掛川宿〜袋井宿〜見付宿〜浜松宿〜舞阪宿〜新居宿〜白須賀宿〜二川宿〜吉田宿〜御油宿〜赤坂宿〜藤川宿〜岡崎宿〜知立宿〜鳴海宿〜宮宿〜桑名宿〜四日市宿〜石薬師宿〜庄野宿〜亀山宿〜関宿〜坂下宿〜土山宿〜水口宿〜石部宿〜草津宿〜大津宿〜[京都]  (京街道・4宿) [山科追分]〜伏見宿〜淀宿〜枚方宿〜守口宿〜[大阪]  
 

北海道東北関東中部近畿中国四国九州 
山梨県静岡県長野県新潟県愛知県岐阜県石川県富山県福井県

山梨県

 

「秋山甚句」  
上野原市秋山に伝わる座興歌。宴席などで歌われ踊りもついている。かねや締太鼓入りのにぎやかな歌で、二上り甚句を大体そのまま受けている。  
「ハーア 出たよ出ました 踊り子さんが あれは秋山の 色男」  
神奈川県津久井郡藤野町の「吉野甚句」に「甲州街道吉野がなけりゃ 縞の財布が重くなる」があり、これと同系統の歌と思われる。道志、秋山はかつて相模国に属したことが「日本後記」にみえており、この地方と神奈川県との関連を物語るものである。 県内の「道志甚句」や鳴沢の「さわぎ唄」も同系統の歌と思われる。  
 
/ 「吉野甚句」「道志甚句」     
←「二上り甚句」 
 
ハー 出たよ出ましたよ 踊り子さんが出たよ あれが秋山の 色男  
ねじり鉢巻 誰にも似せる わけてあなたにゃ なお似せる  
今夜この座は めでたい座敷 鶴が酌して 亀が飲む  
わたしゃ野に咲く 一重の桜 八重に咲く気は さらにない  
咲いた桜に なぜ駒つなぐ 駒が勇めば 花が散る  
咲いた花より 咲く花よりも わたしゃあなたを 花と見る  
「吉野甚句」 
吉野宿と勝瀬  
甲州街道の11番目の宿場であった吉野宿は本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は数軒という小規模なものでした。一方でこの地には遊郭5〜6軒建ち、濃艶な遊女の数、百をかぞえたとも言われています。この地に何故、これだけの遊郭が立ち並んだのかは不明ですが、街道を行き交う旅人だけでなく、近在の若者達も挙って遊びに出掛けたそうです。そんな遊郭通いの人々のことを謡ったものとして、 「吉野甚句」というものがあります。言い伝えのなかで出てきた「勝瀬河原に大蛇が住もうが吉野通いは止められぬ・・・」というのも「吉野甚句」の一つでした。明治29年に起きた大火により旧来の建物や主要な施設の多くが焼失しており、当時の姿を留めるものは僅かとなっています。輿瀬宿より吉野宿までの甲州街道は、相模川左岸の山中を進むこととなりますが険しい山道であったそうです。このため、街道本道とあわせて南にある日蓮村勝瀬(相模原市緑区、現在は相模湖に水没)を経る道すじも用いられました。勝瀬を通るルートは、二瀬越とも言われ相模川を二度渡るものでした。船の渡し賃がかかるものの距離的にもこちらのほうが近いことから、二瀬越を抜ける旅人も多かったそうです。また、牧野村や名倉村、日蓮村の杉地区(現在、全て相模原市緑区)、宮が瀬村(現・清川村)から甲州街道へ向かう唯一の道すじもここより延びていました。吉野通いの若者たちを白蛇たちが勝瀬河原で諌めたエピソードがあるのも、この地が重要な経由地であったことをうかがわせます。  
白蛇弁天の謂れ (相模湖周辺に残る白蛇の言い伝え)  
相模湖の東側、国道413号線の嵐山洞門の近くの湖上に小島の一つ浮かんでいます。この小島、辺りを湖水に囲まれる前は「丸山」という小山でした。  
相模湖ができる前、この丸山の近くの相模川には、岩塊が突き出したようなところがあって、そこを「蛇岩」と呼んでいたそうです。昔、その蛇岩に雌雄2匹の白蛇が現れて、夏は水浴びを、冬は日向ぼっこをしていたそうで、土地の人々はこの白蛇は弁天様の化身か使いだろうと考え、「白蛇弁天」「白岩弁天」と呼んでいました。弁天さま自身は、この2匹の白蛇が住んでいたという“さねがさわ”というところに祀られていました。  
この白蛇、人間に化けて道行く人に親切にしたり、吉野宿の遊郭に行こうとする若者に説教していたりしていたといいます。地元には以下の甚句もあったとか。 “さねがさわ”に祀られていた弁天さまは、明治40年の洪水で流出後、昭和8年に文字碑として再建され丸山の山頂に安置されましたが、相模湖が造成された際に湖畔へ移設されました。  
 
/ 「秋山甚句」  
■  
勝瀬河原に 大蛇が住もうが 吉野通いは 止められぬ 
吉野通いを 止めよとすれば おいで来なよの 文がくる
「縁故節」  
韮崎でつくられた盆踊り、座興唄。昭和三年東京中央放送局(現NHK)で山梨の代表民謡に選ばれ、一躍有名になった。  
 
「縁故節」は、富岡地方で盆踊りの際にうたわれていた「えぐえぐ節」をもじって「えご節」とか「えんこ節」と呼ばれた民謡です。これに「縁故節」の文字をあてるようになり、花柳界で座敷唄として三味線入りでうたわれるようになって韮崎から県下に広まっていきました。  
「えぐえぐ節」  
明和のころ、馬鈴薯を作り始めた時「じゃがたらいもはえぐいね」と歌った「えぐえぐ節」を昭和初期韮崎市の有志が伴奏や踊りをつけ編集し、「縁故節」と改めた。えぐえぐ節は、労作唄の最たるもので縁故節の元歌なのです。  
 
/ (労作唄) 
←「えぐえぐ節」  
 
サーサえごえごサーサ 
えごえごじゃがたら芋ァえごいね(アラセ コラセ)  
 土のかからぬことァ 土のかからぬとこァ もっとえごいションガイナ  
うたう乙女に刈りこめられて 馬の背で鳴くきりぎりす  
かじかほろほろ釜無川だよ かねがなります七黒岩  
白須白菊台ケ原小菊 三吹とっぱずれのばらの花  
来たら寄っとくれよ穂坂の村に 今は米麦繭の場所  
 
縁で添うとも 縁で添うとも 柳沢いやだョ (アリャセー コリャセー)  
女が木を切る 女が木を切る 茅を刈る ションガイナー  
河鹿ほろほろ 釜無下りゃョ 鐘が鳴ります 七里岩  
駒の深山で 炭焼く主は 今日も無事だと 白煙  
主は釜無 わしゃ塩川よ 末は富士川 深い中   
歌う乙女に 刈り込められて 馬の背で泣く キリギリス  
甲州名物 水晶にぶどう 南瓜ぼうとうに あらんかかあだ   
香りゃスズラン 色ならツツジ 甲州初夏 甘利山   
 
縁で添うとも 縁で添うとも柳沢およしヨ アリャセコリャセ   
女が木を伐る 女が木を伐る萱を刈る ションガイナ  
   縁の切れ目に 縁の切れ目にこのボコできて アリャセコリャセ   
   このボコ異なボコ このボコ異なボコ縁つなぎ ションガイナ  
甲州出がけの 甲州出がけの吸付煙草 アリャセコリャセ   
涙湿りで 涙しめりで火がつかぬ ションガイナ  
   うたう乙女に うたう乙女に刈こめられて アリャセコリャセ   
   馬の背で鳴く 馬の背で鳴くきりぎりす ションガイナ  
■ 
縁で添うとも 縁で添うとも 柳沢いやだョ (アリャセーコリャセー)  
女が木を切る 女が木を切る 茅を刈る ションガイナー (アリャセーコリャセー)  
河鹿ほろほろ 河鹿ほろほろ 釜無下りゃョ (アリャセーコリャセー)  
鐘が鳴ります 七里岩 ションガイナー (アリャセーコリャセー)  
駒の深山で 駒の深山で 炭焼く主は (アリャセーコリャセー)  
今日も無事だと 白煙 ションガイナー (アリャセーコリャセー)  
主は釜無 主は釜無 わしゃ塩川よ (アリャセーコリャセー)  
末は富士川 深い中 ションガイナー (アリャセーコリャセー)  
歌う乙女に 歌う乙女に 刈り込められて (アリャセーコリャセー)  
馬の背で泣く キリギリス ションガイナー (アリャセーコリャセー)  
甲州名物 甲州名物 水晶にぶどう (アリャセーコリャセー)  
南瓜ぼうとうに あらんかかあだ ションガイナー (アリャセーコリャセー)  
香りゃスズラン 香りゃスズラン (アリャセーコリャセー)  
色ならツツジ 甲州初夏 甘利山ションガイナー (アリャセーコリャセー)  
「えぐえぐ節」  
サーサえごえご サーサえごえご じゃがたら芋ァえごいね (アラセコラセ)  
土のかからぬことァ 土のかからぬとこァ もっとえごい (ションガイナ)  
うたう乙女に うたう乙女に 刈りこめられて (アラセコラセ)  
馬の背で鳴く 馬の背で鳴く きりぎりす (ションガイナ)  
かじかほろほろ かじかほろほろ 釜無川よ (アラセコラセ)  
かねがなります かねがなります 七黒岩 (ションガイナ)  
白須白菊 白須白菊 台ケ原小菊 (アラセコラセ)  
三吹とっぱずれの 三吹とっぱずれの ばらの花 (ションガイナ)  
来たら寄っとくれよ 来たら寄っとくれよ 穂坂の村に (アラセコラセ)  
今は米麦 今は米麦 繭の場所 (ションガイナ)  
「えぐえぐ節」  
アー エグエグエグ   
さあさえぐえぐ じゃがたらいもは えぐいね アリャセ〜コリャセ〜  
土のかからんとかあ もっとえぐい ションガイネー  
アーもっとえぐい 土のかからんとかあもっとえぐい ションガイネー  
アー エグエグエグ  
切れてくりょなら 切れてもやるが アリャセ〜コリャセ〜  
それえじゃ苦労した 甲斐もない ションガイネー  
アー甲斐が無いそれじゃ苦労した 甲斐がな〜い ションガイネ〜  
アーエグエグエグ   
お月ちょろり出て 山の峰照らす アリャセ〜コリャセ〜  
娘十八里照らす ションガイネー  
あー里照らす娘十八里照らす ションガイネ〜 
「どっこいしょ節」  
東山梨郡・牧丘町 / 江戸時代末から明治・大正にかけて大流行した盆踊り唄。この地方を支配した安田三郎義定が源頼朝の怒りに触れて、小田野城に幽閉された時、農民がこの唄で義定を慰めたという説と安田義定が小田野城を築いた時に農民と一緒に踊った農兵踊りという説がある。  
 
←(農兵踊り)  
 
どっこいどっこい節ゃ どこから流行る   
西部中牧にしぶなかまき 諏訪三富すわみとみ どっこいしょ  
(そうだまったくだよ 嘘じゃない どっこいしょ)  
来たら寄っとくれんけ 大獄山だいたけさんのふもと わしの生まれは 赤の浦  
わしの心と 塩山山えんざんやまは ほかに木はない 松ばかり  
ここが安田の 義定公よしさだこうの 建てた普門寺ふもんじ 薬師寺やくしでら  
落としやしたよ 八幡やわたの橋に 水に桔梗ききょうの 手ぬぐいを  
踊り踊って もらい手がなけりゃ 行きやす奥仙丈おくせんじょうの 炭背負すみしょいに 
「楮(かぞ)ち唄」  
西八代郡・市川大門町 / 和紙の製造工程の一つ、楮(こうぞ)の樹皮を煮て、臼でつく時の作業唄で市川大門の製紙工場で歌われた。甲州における製紙の歴史は古く、十世紀初めで、近世では百姓の農閑期の稼ぎとして各地で紙漉きが行なわれた。特に市川大門では肌吉(はだよし)という上質和紙が製造され、御用品として幕府に献上された。その上質和紙の原料として用いられたのが楮の樹皮であった。  
 
/ (作業唄) 
 
楮草打ちに たのまれて 打つもいや 打たぬも義理の わるさや  
オーヤレヤレヤレヤレ ソウダヨ ソウダヨ ハ ドッコイサノサ ト  
紙屋で楽は 何が楽 糊すりと 楮草引きが一楽  
芦川土手が 切れたなら 市川じゃ 紙漉き船で 漕ぎ出す  
七月過ぎて 盆過ぎて 市川の 花火の場所で 会いやしょ  
漉いた肌吉 送る時ゃ 小口印 御用御用で 江戸まで 
「西島の紙漉き唄」 
中富町 / 中富町西島地方に伝わる紙漉き作業唄。西島は市川大門と共に紙漉きの歴史は古く、1571年、武田の時代から始まっていた。  
 
/ (作業唄) 
 
ハー 紙はョ大切 紙商売はョ 神にはなれず (マタホイ エへへ オホホ)   
紙を漉くョ (シャリンシャリン)  
今朝の一槽や じゃみじゃみしたが 次の槽から とろとろと  
可愛い男に 紙漉きさせて そばで紙はり してみたい  
紙漉きさんだと 言うから惚れた 後で聞いたら 下回り  
男振りより 紙漉き振りに 惚れて来るのが 福の神  
世辞じゃないけど あなたのま紙は お手をたたけば パラパラと  
お里自慢を するのじゃないが 西島よいとこ 紙(神)の里 
「奈良田麦搗き唄」  
早川町 / 早川町奈良田に伝わる麦搗き作業唄。富士川の支流・早川の上流で、3000m級の山々に囲まれた奈良田は、隔絶された世界の中で独特の風土、文化を保ってきた。山梨の秘境とも呼ばれ、平地がなく焼畑農業にたよっていたので、かつては麦、稗(ひえ)、粟、黍(きび)などが常食であった。これらの脱穀、精白のとき、昼間の山の作業を終えた若者が集まって庭に臼を出し、男たちが杵で搗き、女たちは周りでこの唄を歌って励ました。  
 
/ (作業唄) 
 
なんぼ搗いても この麦ゃむけぬ (ハイハイ) これはお蔵の 下積みよ   
お蔵のこれは これはお蔵の 下積みよ (ハイハイハイ)  
早くこの麦ょ 搗きあげてたもれ (ハイハイ) 忍び夜夫が 門に立つ  
忍び夜夫が 忍び夜夫が 門に立つ (ハイハイハイ)  
会えば左程の 話もないが (ハイハイ) かげの思いを 知らせたい  
かげの思いを かげの思いを 知らせたい (ハイハイハイ) 
「忍野草刈り唄」  
南都留郡忍野むらに伝わる草刈りの作業唄である。甲府盆地一帯で歌われた「田植え唄」や「田の草取り」と同系の唄と考えられている。昔化学肥料が未だ普及しない頃、作物の肥料として、また家畜の飼料としての草刈りは、男たちの夏場の重要な作業であった。明けの早い夏、未明のうちに起きだして、朝露を踏んでの山に行き、終日草刈り作業に励み、夕方刈り草を束ねてうまの背につけて帰る。こんな昔日の光景が浮かんでくる。  
 
/ (草刈り唄) 
 
ハアーナー 朝草刈れば ハアー  
殿やせる 鎌切れろ 刈らずとたまれ ハアー 寄せ草  
ハアーナー 夕べの茶屋の ハアー  
てご娘 ハアー 花ならば 一枝折りて ハアー 土産に  
ハアーナー 思わば切れろ ハアー  
桶のたが いま一度 呼びたい江戸の ハアー 桶屋  
「長沢音頭」 
高根町 / 高根町長沢に伝わる盆踊り唄。長沢生まれの修験の道者・長田実道によって伝えられた。江戸時代、甲州街道韮崎宿と中仙道・岩村田宿を結ぶ佐久往還は、脇街道ではあるが甲州と東信佐久を結ぶ街道として、物資の交流や人の往来に重要な役割を果たしてきた。長沢宿は平沢口を固める口留番所がおかれ問屋や本陣もおかれて一般の農村に見られない賑わいをみせた。  
 
連れて逃げてもョ 長沢越せぬ ドッコイサー  
手形なければョ 関所破り ドッコイサ ドッコイサ ドッコイサノサ  
佐久へ越すなら 長沢泊まり 行けば広野で たそがるる  
花に紅葉に 眺めのあかね 甲斐と信濃の 国境  
里に菜種の 花咲くころも 雪にうもるる 八ヶ岳  
主は馬方 信州通い 案じられます 念場ヶ原  
主は西から 私ゃ東から 会えてうれしや 須玉川 
「中道追分節」  
東八代郡・中道町 / 中道往還を往来した馬方によって歌われた。中道往還とは甲府・駿河を結ぶ三条の道路のうち若彦路と河内路の中間にあった路で またの名を左右口(うばぐち)路という。       
 
西は追分 東は関所 せめて関所の 茶屋までも  
富士のすそのは 時雨れておれど 甲府の空は 晴れている  
この生魚も まだ女坂よ 右左口(うばぐち)の坂の 難場を越えて  
明日は甲府へ 着かなきゃならぬ 急げよ青馬(あお)よ  急げよ青馬よ  
「御坂馬子唄」  
東八代郡・御坂町 / 御坂峠を人や荷物をつけて往来する馬方によって歌われた馬子唄。御坂路は甲州と他国を結ぶ最も重要な交通路であった。  
 
御坂夜道は 何やらこわい (ハイー ハイ) 早く音を出せ ホトトギス (ハイ― ハイ)  
今日の寒さに 主さんは御坂 お手に手綱が 凍りつく  
松になりたや 御坂の松に 上り下りの 手かけ松  
御坂三里は 海ならよかろ かわいいあなたと 船で越す  
好いた馬方 やめろじゃないが 御坂夜道は よさせたい 
中道往還 (なかみちおうかん)  
甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ街道のひとつ。駿州往還(河内路)と若彦路の中間に位置することから「中道」と呼ばれる(『甲斐国志』による)。山梨県甲府市の右左口宿(うばくち、姥口)を通過することから、右左口路とも呼ばれる。「中道往還」は甲州側からの呼称であり、静岡方面からは甲駿街道や甲州街道の呼称が使われる。  
甲府において駿州往還とともに甲州街道から分かれて南下し、落合町で笛吹川を渡河する。右左口宿を経て右左口峠(迦葉坂、かしょうざか)を越え、間宿のある古関、精進湖から本栖湖東岸から駿河国へ入り、根原、人穴宿を経て、上井出宿では若彦路とも合流。さらに大宮を経て東海道へ合流して吉原宿(静岡県富士市)へ至る。また、精進や本栖からは河内や郡内方面へも通じる。  
甲府 - 右左口 - 柏尾坂 - 女坂 - 精進 - 本栖 - 根原 - 大宮 - 厚原 - 吉原湊  
 
山梨と海とを結ぶ中道往還は、魚介類などの物資の運搬や文化の交流に欠かせない生活道でした。そして中道地区は、古くから交通の要衝として栄え、周辺には銚子塚古墳などの古墳時代前期の大型古墳などがあります。  
甲府から駿河までを最短距離で結んだ中道往還は、軍事用道路として武田信玄も使用し、武田家滅亡後は織田信長の入甲の際に、徳川家康によって整備され、家康自身も甲斐国に来る際にはこの道を利用しました。  
右左口宿(現在の右左口(う ばぐち)町)は中道往還の代表的な宿場町で、現在も当時の面影を数多く残しています。  
道の幅は4.5m、1軒の間口が4間2尺(約7.8m)に分けられ、宿場町特有の玄関先に馬などを留めておく三角地をもつ家のつくりを見ることができます。そのほかにも、ふるさとを生涯思い続けた日本を代表する歌人、山崎方代の生家跡や歌碑、それぞれが向かい合って右左口宿を守っていると伝えられる上宿 と下宿の厄除地蔵など多くの見どころがあります。  
魚の流通の主要経路であった中道往還は、「魚の道」ともいわれます。甲府は四方を山に囲まれ海がない土地ですが、この道を通じて、夏でも新鮮な魚を食べることができました。  
駿河湾でとれた魚は、沼津(現在の静岡県沼津市)の魚問屋から吉原へ運ばれました。そこで待機していた馬方(馬で荷を運ぶ人)たちは、午後4時ごろ甲府へ向けて出発し、途中の右左口峠付近で夜明けを迎えて午前7時には甲府の問屋に届けました。甲府の商人は荷が到着すると、争って買い付けました。  
鮮魚を運ぶ馬を「イサバ」といい、30貫(約113 kg)ほどの魚を背負いました。明治時代には、馬子(馬を引く人)は中道往還に約80人、馬は100頭以上いました。  
海産物流通の拠点であった魚町(現在の中央2丁目から5丁目)を南下し、住吉神社東側を通る「魚町街道」と呼ばれた道は、中道往還の古道であり、魚のきた道でした。現在も「魚町通り」の愛称で親しまれています。  
甲府のマグロ消費量は全国第2位ですが、昔から新鮮な魚を食べることができたことが下地になっているのかもしれません。  
物資・文化の供給路として、多様なものをもたらした中道往還ですが、中央本線・身延線の開通などによって次第に使われなくなっていきました。
「煮貝」 山国で生まれた海の味  
「中道追分節」 
この生魚もまだ女坂よ  
左右口の坂の難場を越えて  
あすは甲府に着かなきゃならぬ  
急げよ青馬よ急げ青馬  
 
富士山西ろくから沼津へ抜ける中道往還を往来した馬方によって歌われた「中道追分節」の一節。山梨県と静岡県を最短距離で結ぶこの古道は、江戸時代に"魚の道"としても栄え、「煮貝」の誕生に一役買ったと言われている。  
江戸時代末期のことだ。沼津港(静岡)の魚問屋小松屋主人が伊豆七島産の生アワビをしょうゆで味付けし、たる詰めにして山国甲州へ送り込んだ。中道往還で馬に揺られ、熟成した味をつくり出した。海で捕れるアワビの煮貝が、海を持たない山梨で生まれた由来として語られているエピソードだ。名産となったことにももっともらしい言い伝えがある。甲州勤番の武士や文人墨客が「江戸にない味覚」と賛美し、甲州土産として江戸へもたらした。  
が、煮貝の歴史は、いまだにはっきりしない。加工法を考えたのは南伊豆の吉田豊蔵だという説もある。戦国武将・武田信玄も由来の中に登場する。信玄はアワビの栄養価に目を付け、戦場での保存食とした。  
煮貝の起源や製造を記した古文書は発見されていない。1850(嘉永3)年に編された甲州の風俗や年中行事などを記した「甲斐廼手振(かいのてぶり)」には、「夏向は塩物多し」として幾つかの食品を挙げ、その中に「煮貝」の文字が残っている。しかしそれ以上の記載はない。  
東八代群石和町の篠原家が所蔵していた1829(文政12)年の「御用其外日記(ごようそのほかにっき)」は、煮貝が登場する最も古い文献だという。東油川村(石和町)の公的支出を書き留めていて、5月20日夜に、酒1升と「にがい」3杯を買ったとある。  
酒と一緒に買っているから酒席に出したのだろう。今の季節で言えば蒸し暑いころ。酒を楽しみ暑さを忘れ、煮貝に舌鼓を打ったのか。役人のために酒宴を開いた、今で言う役人接待だったのか。塩漬けとは異なるしょうゆが染み含んだふくよかな味。魚介が貴重な時代。庶民の食卓と縁が遠い高級品だったはずだ。 
 

北海道東北関東近畿中国四国九州 
山梨県静岡県長野県新潟県愛知県岐阜県石川県富山県福井県

静岡県

 

「下田節」  
酒席の騒ぎ唄。下田港は、江戸と上方を結ぶ東回り航路の要港として栄え、漁季になると諸国の漁船が寄港して大いに賑わった。酒席では漁師や船頭相手に、女たちが騒ぎ唄を唄って座を盛り上げた。千葉県の「安房節」や神奈川の「三崎甚句」などと一連のもので、「二上り甚句」が港の騒ぎ唄風になったもの。  
■ 
/ 「安房節」「三崎甚句」 
←「二上り甚句」 
 
伊豆の下田に長居はおよし 縞の財布が輕くなる  
下田の沖にPが四つ 思ひ切るPに切らぬPに   
取るPに遣るPが ないわいな  
   相模東北風で石廊崎や西風よ  
   間の下田が南の風 千日千夜逢わずとも  
   先さえ心が変わらなきゃ なんで私が変わろうぞ  
   日々に思いが ますわいな 
「ちゃっきり節」  
北原白秋作詞。昭和2年、静岡鉄道は、沿線に孤ケ崎遊園を開園。その中に人工温泉つきの料亭兼旅館・翠紅園を建てた。ここに来るお客さんに聞かせる三味線唄を北原白秋に注文した。白秋は曲のイメージがつかめず、作詞は大幅に遅れた。ある朝、宿の女中さんが雨戸を開けながら言った「蛙(きゃーる)がなくんで雨ずらよ」の言葉にひらめいた白秋が、一気に詞を書き上げたという。  
 
唄はちゃっきり節 男は次郎長 花は橘 夏はたちばな 茶のかおり  
(囃子)「ちゃっきりちゃっきり ちゃっきりよ きゃーるがなくんで 雨づらよ」  
茶山茶所 茶は緑どころ ねぇね いかずか やあれ行かずかお茶つみに  
さあさ行こ行こ 茶山のはらに 日本平の 山の平の お茶つみに  
お山見れ見れあの笠ぐもを ねぇね 来て出や 今朝は着て出や 菅の笠  
「農兵節」  
幕末の頃、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門は、三島に調練場を作り、近郷の青年たちを集めて軍事訓練を行った。砲術を教える時、「農兵節」を作って唄わせたが、それを鼓笛隊が行進曲風にアレンジして「ノーエ節」にしたという。実際は、横浜あたりで唄われていた「ノーエ節」系統の唄が、三島あたりでも唄われ「ノーエ」に「農平」の文字を当てたらしく、農兵の訓練唄ではないというのが真相のようである。  
 
「富士の白雪ァノーエ」の文句で知られる三島農兵節の起源は比較的に新しく、その元歌は嘉永年間(1848〜1854)すでに三島地方の盆踊り唄や、地唄として唄われていたとされています。節まわしは、幕末の韮山代官江川担庵が幕府の許可を得て調練した農兵の唄に採用したものであるといわれています。  
農兵節の起源には諸説あります。幕末、韮山代官の江川英龍(坦庵公)が三島で洋式農兵調練を行った際に、長崎伝習から帰った家臣・柏木総蔵が伝えた音律が坦庵公の耳にとまり、行進曲として唄い始められたという説、三島宿の人々が当時唄っていた田草取歌が盆踊り歌に発展し、その後尻取り歌「ノーエ節」として流行したのが始まりという説、文久2年(1862)に横浜で作られた 「野毛山節(ノーエ節)」が三島に伝わり農兵節になったという説など諸説様々ですが、いずれにしても、大正末期頃に三島で歌われていたノーエ節を洗練し、三島民謡として全国に宣伝を始めたのが平井源太郎と矢田孝之の二人でした。  
 
←「野毛山節」「ノーエ節」  
 
富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ 富士のサイサイ 白雪ゃ 朝日でとける  
溶けて流れてノーエ 溶けて流れてノーエ 溶けてサイサイ 流れて 三島にそそぐ  
三島女衆はノーエ 三島女衆はノーエ 三島サイサイ 女郎衆は お化粧が長い  
お化粧長けりゃノーエ お化粧長けりゃノーエ お化粧サイサイ 長けりゃ お客が困る  
お客困ればノーエ お客困ればノーエ お客サイサイ 困れば 石の地蔵さん  
石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ 地蔵さんは 頭が丸い  
「徳山の盆踊」 (とくやまのぼんおどり)   
静岡県榛原郡中川根町徳山に伝わるもので、毎年8月15日の夜に催されており、風流踊と狂言から成る。夜、清めの踊りの後、一同行列になり徳山浅間神社の境内に設営した舞堂で、「鹿ん舞(しかんまい)」「ヒーヤイ」「狂言」の3つで構成された芸能を演じる。 ヒーヤイは元は男性が女装して踊るものだったが、現在は菅笠に扇子と綾棒を手に踊る、少女達の優雅で美しい小歌踊であり、「神すずしめ」「桜花」「牡丹」「かぼちゃ」等の演目がある。ヒーヤイという囃詞から名が付いたとされる。鹿ん舞は、古来、作物を荒らす鹿など獣を払い、豊作祈願をしたことから始まったとされ、鹿に扮した若者が屈んだまま飛び跳ねる動物仮装の踊りで、露祓い・神輿・雄鹿一頭・雌鹿二頭・百姓役数頭・囃子方の一団で構成される。狂言の演目は「頼光」「昆布売」「新曽我」等がある。小歌踊と狂言を交互に演じるという特色を有する形態は、古歌舞伎踊の初期の構成を伝承するものであり、また地方的特色にも富み、芸能史上貴重とされる。 
「有東木の盆踊」 (うとうぎのぼんおどり)   
静岡県有東木に伝わるもので、毎年8月14、15日の夕刻から夜中の12時頃まで、東雲寺の境内を会場として催される。起源は定かではないが、江戸時代中期以前から伝承していると考えられている。男踊りと女踊りに分かれており、曲・振りも異なり、男女が混じって踊ることはないが、いずれも締太鼓を伴奏に、踊り手も歌いながら「輪踊り」形式で踊る。男踊りに始まり女踊りと交互に演じられ、現在の踊りは、男踊りが10種、女踊りが13種の合計23種ある。扇・コキリコ・ササラ・小さな長刀(なぎなた)を持つものや、踊りの輪にトウロウ・ハリガサと呼ばれる飾り灯籠を頭上にかざした踊り手が繰り込む「中踊り」があるなど、多様な内容を持つ。中踊りの灯籠は、中世に京都を中心に流行した風流(ふりゅう)の灯籠踊の姿をうかがわせ、また盆踊の最後に、行列して集落の境などへ行き、切子灯籠などを燃やすなど、当時の盆行事を今に伝えているため重要なものであるが、現在は娯楽より芸能保存の動きが必要となるなど、後継者となる若者の意識改革に重点が置かれているようだ。 
「平野の盆踊」  
有東木と同じ大河内地区内にある平野にも、古風な盆踊りが伝えられています。平野の盆踊も男踊り、女踊り、中踊り、送り出しなどで構成され、有東木と同系統の盆踊りですが、詞章や踊りの所作に少しずつ違いが見られます。また、平野には享保7年(1722)の墨書のある太鼓、近世後期に記された盆踊りに関する帳面や詞章本など、盆踊りの歴史を物語る貴重な史料も残されています。現在伝承している演目は、男踊り、女踊りともに6演目ずつです。今でこそ、静岡市の伝統的な盆踊りといえば、有東木、平野の盆踊りのみとなってしまいましたが、梅ヶ島や井川でも明治・大正期ころまでは同系統の盆踊りが行われていました。また、大川や清沢でも、有東木、平野とは異なる特徴的な盆踊りが伝えられていたようです。大川には、甚句系の短い詞章を思いつくままに次々と歌っていく男女入り混じりの輪踊りが伝承されていました。一方、清沢の盆踊りは男女入り混じって輪を作り、口説歌の「志賀団七」を延々と歌い踊って最後に寺か川原へ送り出すという内容だったようです。いずれも昭和初め頃までに途絶えてしまったようで、今では、わずかに詞章本が残っているのみとなってしまいました。  
「妻良の盆踊り」 (妻良海岸)  
静岡県の無形民俗文化財に指定された、伝統の盆踊り。海岸にやぐらを組み、そこから張り渡した綱に大漁旗を吊るして華やかに飾り立て、太鼓やはやし手、踊り子は花笠をかぶり、輪になって踊ります。身ぶり手ぶりに一種独特の優雅さが見られ、踊り手の動きが合掌態であることや、歌の調子が念仏調であることから、室町時代のゆったりした文化の流れを受け継いでいるともいわれます。古くは 「白井権八(ごんぱち)」などの口説きによって踊られましたが、近年では口説きは失われ、三味線と太鼓の伴奏による甚句系の踊りが主流となりました。  
「三下り甚句」  
熱海の小唄  
 

北海道東北関東近畿中国四国九州 
山梨県静岡県長野県新潟県愛知県岐阜県石川県富山県福井県

長野県

 

「木曽甚句」 (「中津甚句」) 
木曽福島地方で古くから歌い継がれ踊られて来た踊り唄。踊りがリズミカルなので戦前は木曽節よりよく踊られていたという。 新開黒川地区では、中津甚句と言い、中津川の民謡ボッチョセに似ているが、それより節回しが悠長で、素朴で哀調を帯びて、囃子ことばは、ついていないという。 上松町吉野部落で唄われている草刈り唄も同様の歌い方である。  
 
/ 「吉野の草刈り唄」 
←「農兵節」「野毛山節」 
 
木曽のナー御岳 夏でも寒い ヨイソレ 袷しょやりたや足袋そえて  
私しゃナー奥山 一重のさくら 八重に咲く気は更にない   
木曽のヤー名木 ヒノキにサワラ ネズやにスヒに コウヤマキ  
木曽のヤー山寺 今鳴る鐘は 昔乍の初夜の鐘  
お前ナー百まで 私しゃ九十九まで 共に白髪の生えるまで  
月はナー傾く 夜は深々と 館やかたで鳥が啼く  
 
盆がエー 来たぞエ お寺の庭の ヨイソレ 石の燈籠に火があかる  
来いと七声 来るなと八声 後の一声きにかかる  
思いこんだよ 添わせておくれ 神も仏も親様も  
神も仏も 添わせるというに 添わせないのよ両親が  
出せよと云われて ぶらりと出した それでないのよ唄だもの  
心なあ意気さえ 描いておれば 逢うは五年に一度でも  
心細いよ 木曽路の旅は 笠に木の葉が舞かかる  
男伊達なら この木曽川の 流れくる水止めて見ろ   
流れくる水 とめても見しょうが 止めて止まらぬ色の道  
親の意見と なすびの花は 千に一つの無駄はない  
三里笹山 二里まつばやし 嫁ごよく来た五里の道  
お月や傾く 夜はしんしんと 館々にとりがなく  
日暮れ草刈り 寂しゅうてならぬ 鳴けよ草野のきりぎりす  
草を刈るとも ききょうは残せ ききょう女子の緑の花  
「木曽節」 
長野県木曾地方の盆踊歌。 木曽川の流れの音と相和して、この木曽路のどこか明るい中に桧山のうちに住み着いている、山住まいの男の寂しさがしみ通っているような歌の調べ。素朴な和やかな手振りで踊るその盆踊り。まさに木曽路の芸能の代表というに相応しい。 古文書「木曽考」によると、永享年間(1428-鎌倉時代)木曽家12代目木曽信道が、福島の地に城を築き、興禅寺を復旧し木曽義仲の菩提寺とした。このとき倶利伽羅峠の戦勝を記念した霊祭が行われ、風流陣の踊りがなされたとある。このときの武者踊りが「木曽踊」の起こりと考えられている。その後民衆に伝わり盆踊りとして根を下ろした。 大正4年、木曾福島町で木曾踊の復活をはかり、「なかのりさん節」を元歌に、現在の「木曾節」やその踊りを作った。当時の町長伊藤淳が先頭にたって「木曾節」を宣伝し、その充実発展につとめた結果、人気が高まり、一般に知られるようになった。  
「なかのりさん」の由来  
木曽のナア〜なかのりさん 木曽の御嶽ナンチャラホイ 夏でも寒いヨイヨイヨイ  
「木曽のナア〜なかのりさん」と唄われる、木曽に古くから伝わり愛される民謡「木曽節」。ここに登場する"なかのりさん"はいったい何者なのか、それには3つの説があります。  
1 木材を木曽川で運搬した際、真ん中のいかだに乗った人のこと。先頭を「舳(へ)乗り」・後ろを「艫(とも)乗り」真ん中を「中乗り」といった  
2 馬の鞍の中央に乗った人を真ん中に乗るという意味で「中乗りさん」といった  
3 木曽御嶽山の信仰宗教である、御嶽教の神のお告げを信者に伝える「中座」と呼ばれた人のこと  
この中で一番有力なのが、一つ目の「いかだ乗り」の説です。  
木曽は天然ひのきを始めとする良材の産地として知られ、たいへん栄えました。 その木曽の深山で伐採された木は木曽川の川幅が狭く流れが早かったためいかだが組めず、1本1本ばらばらにして木曽川を流し、岐阜県の錦織まで運ばれました。これは「木曽式伐木運搬法」と呼ばれる独特の方法で、明治44年にJR中央線が開通し、鉄道で材木を運搬するようになるまで、300年もの間続けられた伝統の運搬方法です。なかのりさんは前後左右に飛び移りながらいかだを器用に操り、ばらばらの木材をうまく運んでいったといわれています。  
「木曽節」の3番は「木曽のナア〜なかのりさん 木曽の名木 ナンチャラホイ ひのきにさわらヨイヨイヨイ」と歌われています。 やっぱりなかのりさんは「いかだ乗り」のことのようです。親しみやすく愛らしい「なかのりさん」という愛称は、民謡「木曽節」の唄いことばとして、木曽で愛され続けています。  
 
←「なかのりさん節」  
 
木曽のナー 中乗りさん 木曽の御岳 ナンジャラホーイ  
夏でも寒い ヨイヨイヨイ ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ  
袷よナー 中乗りさん あわしょやりたや ナンジャラホーイ  
足袋よそえて ヨイヨイヨイ  
   心ナー 中乗りさん 心細いよ ナンジャラホーイ  
   木曽路の旅は ヨイヨイヨイ ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイイ  
   笠にナー 中乗りさん 笠に木の葉が ナンジャラホーイ  
   舞かかるよ ヨイヨイヨイ  
木曽の桟太田の渡し 鳥井峠が無けりゃ良い  
   木曽のナー 中乗りさん 木曽の名木 ナンジャラホーイ  
   ヒノキにサワラ  ヨイヨイヨイ ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ  
   ネズにー 中乗りさん ネズやにスヒに ナンジャラホーイ  
   コウヤマキ ヨイヨイヨイ  
木曽の名物 お六の櫛は 解きし前髪 止めにさす    
 
木曽のナー ナカノリサン  
木曽の御嶽さんは ナンジャラホイ  
夏でも寒い ヨイヨイヨイ  
袷ナー ナカノリサン  
あわせやりたや ナンジャラホイ  
足袋を添えて ヨイヨイヨイ (ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ)  
   袷ナー ナカノリサン  
   袷ばかりは ナンジャラホイ  
   やられもせまい ヨイヨイヨイ  
   襦袢ナー ナカノリサン  
   襦袢仕立てて ナンジャラホイ  
   足袋を添えて ヨイヨイヨイ  
木曽はナー ナカノリサン  
木曽はよいとこ ナンジャラホイ  
よいとこづくで ヨイヨイヨイ  
梅はナー ナカノリサン  
梅はにおいよ ナンジャラホイ  
桜は色よ ヨイヨイヨイ    
 
木曽の御岳夏でも寒い 袷しょやりたや足袋よそえて     
心細いよ木曽路の旅は 笠に木の葉が舞かかるよ  
木曽の名木ヒノキにサワラ ネズやにスヒに コウヤマキ     
踊りませうず踊りませうず 月の山端にかぎるまで  
君が田と股吾が田とならぶ 同じ田の水 蛙ならび        
木曽の名所は桟寝覚め 山で高いのは御嶽山(みたけやま)  
三里笹山二里まつばやし 嫁ごよく来た五里の道        
木曽の深(ミ)山に伐る木はあれど 思い切る木(気)は、更に無い  
月は傾く夜は深々と 館やかたで鳥が啼く         
木曽の桟太田の渡し 鳥井峠が無けりゃ良い  
男伊達ならこの木曽川の 流れくる水止めて見ろ        
主に分かれて松原行けば 松の露やら涙やら  
私しゃ奥山一重のさくら 八重に咲く気は更にない       
主のこころとおんたけ山の 峰の氷はいつ溶ける  
   
こぼれ松葉を手でかき寄せて 主のおいでを焚いて待つ       
女乍もまさかの時にゃ 主にかわりて玉だすき  
木曽の山寺今鳴る鐘は 昔乍の初夜の鐘           
盆が来たぞえお寺の庭の 石の燈籠に火が灯る  
木曽で生まれた中乗りさんが 可愛がられて都まで         
主を慕うて此の木曽川に 浮き名流した事もある  
臼の軽さよ相手のよさよ 相手変わるないつまでも       
泣くな嘆くな日影の紅葉 いくら泣いても陽(ヒ)はささぬ  
好いた主さと夏吹く風を ちょいと入れたや我が部屋に     
木曽へ木曽へと風ふくしまの 夏はよいとこ住みよかろ  
人に情けと冬田の水は 末を思わばかけて置け        
声はすれども姿は見えぬ あれは草場のキリギリス  
来いと云われて行くその夜さの 足の軽さよそのうれしさよ      
行けば初夜なる帰れば森の 明けの烏が啼いて立つ 
「伊那節」  
長野県南部の伊那地方で歌われてきた民謡で、「木曽節」とともに古くから知られているのが「伊那節」です。酒盛りに、盆踊りにと広く愛唱されてきました。この曲の源流は「御岳」「おんたけ」「御嶽山」「おんたけ節」「おんたけ山節」等と呼ばれるもので、  
御岳山の 峰の氷は 峰の氷は いつとける  
という歌詞の唄です。木曽の霊峰・御嶽山(3062m)を歌ったもので、もともとはもともとは木曽地方で歌われたもののようです。いわゆる七七七五調ではなく、1句目を欠く七七五調が元唄で、下の句の七文字を2回繰り返す特徴があります。2番以降は、近世歌謡調で七七七五が続きます。  
この「おんたけ」という唄は、長野県の木曽地方や伊那地方をはじめ、岐阜、山梨、静岡、愛知でも広く歌われてきました。現在でも、三遠南信地域の古い盆踊りの唄として残されています。  
伊那と木曽を結ぶルートとして、江戸時代、木曽・日義村の古畑権兵衛が道を切り開き「権兵衛峠」として使われるようになります。それ以来、宿場や茶屋における酒席の唄として、この「おんたけ」が歌われるようになったようです。そして権兵衛峠越えの馬子たちも歌うようになり、あいさつ替わりに「ソリャコイ アバヨ」といった囃子詞が生まれたといいます。  
その後、明治41年に長野市の共進会の余興として、「おんたけ山節」を権堂芸者に覚えさせて披露したことから始まり、各地で歌われるようになっていきます。同年、東京で紹介されるとき、伊那の唄なのに「おんたけ山節」というネーミングのため、木曽のイメージになってしまうということから、「伊那節」と改名されたのだそうです。  
大正時代に入ると、飯島派、普及会派、花柳界派といった会派により分化もあったようです。大正5年には、飯田市で「伊那風景探勝会」主催、「伊那節俗謡募集」により、歌詞を公募します。この時の1等が、小笠原晃の  
天竜下れば しぶきに濡れる 持たせやりたや 持たせやりたや 桧笠  
でした。そして飯田市の南信新聞が天竜下りを観光宣伝する際に、この歌詞を使ったのでした。  
レコード化としては昭和5年に伊那芸妓連、同10年には松本市浅間温泉出身の市丸のレコーディングにより、全国的に知られていくことになります。  
市丸はじめ、花柳界風なものは、「二上り甚句」の三味線の手付けがされ、華やかで艶やかな雰囲気になりました。ちなみに市丸の伴奏の三味線・静子は、実妹です。  
なお「天竜下れば しぶきに濡れる」の歌詞について、市丸さんは「濡れる」の部分の語感を変え、「しぶきがかかる」にして歌うようになったそうです。地元では「しぶきに濡れる」、普及しているレコードでは「しぶきがかかる」になっています。ちなみに新民謡「天竜下れば」も同様です。地元ではいくつかの歌い方によって伝承されています。  
「正調伊那節」 伊那市を中心として歌われている節回し。荒井区にある老舗割烹・海老屋の2代目・鈴木繁重氏が保存会を結成し、初代会長になり、現在にいたります。もっとも広く知られているもので、三味線は上記の通り、「二上り甚句」の手によります。その他、鳴り物が入ります。歌詞の冒頭に「ハァー」をつけて歌われます(市丸は「サァー」で歌い出します)。囃子詞は「ソリャコイ アバヨ」で統一されています。  
「与地伊那節」 伊那市西部、権兵衛峠の麓・与地(よち)地区で伝承されている節廻し。ゆったりとしたリズム感で、素朴さが漂います。三味線と太鼓の伴奏が付けられています。囃子詞は「ソレコイ アバヨ」となっています。  
「富県伊那節」 伊那市東部の天竜川の河岸段丘上、高烏谷山に抱かれた富県(とみがた)地区で伝承されている節廻し。全体的には与地の節廻しと同系統で、ゆったりとしたリズム感です。メロディラインの微妙な上がり下がりに、特徴があります。冒頭には「ハァー」がありません。囃子詞は「ソレコイ アバヨ」となっています。  
この他に、上伊那郡宮田村の「おんたけやま」、同郡南箕輪村大泉では「大泉御嶽山」、伊那市高遠では「高遠おんたけ」、また飯田市では「正統伊那節」として、またひと味ちがった節回しがあります。県外では、愛知県北設楽郡設楽町の「津具の伊那節」として、伊藤陽扇師による録音があります。また新潟県堀之内町あたりの祭礼の屋台ばやしのなかに、「伊那節」として取り込まれていますので、明治から大正にかけて、かなり流行したものと思われます。  
なお、この曲の特徴として、第3句目の7文字の繰り返しがありますが、長野県の民謡をよく探すと、同系統の曲があります。  
木曽地方の「お十五夜様」といった盆踊りがそれです。木曽郡大桑村では「須原ばねそ」の「竹の切り株」という盆踊り唄が、  
ハァー竹の切り株 溜まりし水は 澄まず濁らず 澄まず濁らず 出ず入らず コラショイ  
という歌詞で、似た感じがします。同じようなものには、木曽郡王滝村の「盆踊り唄」や、塩尻市平沢の「平沢節」などがあります。  
そして松本地方では、入山辺の「つっこめ節」、北安曇郡小谷村の「チョコサイ節」といった踊り唄が同系で、これが、「安曇節」の母体となりました。  
そして同じ伊那には「ソレコイ」という囃子詞の「伊那の盆唄」という踊り唄があります。  
ハァー盆にゃおいでよ 祭りにゃ来でも 死んだ仏も 死んだ仏も 盆にゃ来る ソレコイ  
という形です。こちらは、「おんたけ」よりも新しい雰囲気をもち、旋律的には「安曇節」に近い感じがします。こうしてみると、「伊那節」とソレコイの「盆唄」は遠い親戚みたいな関係で、「安曇節」とは、兄弟のような曲だと考えられます。  
 
/ 「つっこめ節」「(小谷)チョコサイ節」  
←「御岳」「おんたけ」「御嶽山」「おんたけ節」「おんたけ山節」  
(正調伊那節)  
天竜下れば しぶきに濡れる 持たせやりたや 持たせやりたや 桧笠  
木曽へ木曽へと つけ出す米は 伊那や高遠の 伊那や高遠の お蔵米  
木曽へ木曽へと つけ出す米は 伊那や高遠の 伊那や高遠の 涙米  
涙米とは そりゃ情けない 伊那や高遠の 伊那や高遠の 余り米  
桑の中から 小唄がもれる 小唄聞きたや 小唄聞きたや 顔見たや  
わしが在所の 伊那路の春は 峰に白雪 峰に白雪 里に花  
私ゃ伊那の里 谷間の娘 蚕こわがる 蚕こわがる 子は生まぬ  
東仙丈 西駒ヶ岳 間を流れる 間を流れる 天竜川  
東ゃ赤石 西駒ヶ岳 間を流れる 間を流れる 天竜川  
遥か向こうの 赤石岳に 雪が見えます 雪が見えます ほのぼのと  
伊那は夕焼け 高遠は小焼け 明日は日和か 明日は日和か 繭売ろか  
見たか聞いたか 聞いたか見たか 伊那の伊那節 伊那の伊那節 手踊りを  
諏訪の湖水を 鏡にかけて 雪で化粧する 雪で化粧する お月さん  
心細いよ 木曽路の旅は 笠に木の葉が 笠に木の葉が 舞いかかる  
天竜二十五里 紅葉のなかを 舟がぬうぞえ 舟がぬうぞえ 糸のせて  
秋がすんだら 呼ばれていかず 嫁の見立ての 嫁の見立ての 村祭り  
わしが心と 御岳山の 胸の氷は 胸の氷は いつとける  
胸の氷は 朝日でとける 娘島田は  娘島田は 寝てとける  
一の枝より 二の枝よりも 三の小枝が 三の小枝が 陰をなす  
遠い道だに よく来てくれた さぞや濡れつら さぞや濡れつら 豆の葉で  
嫁はニコニコ 夕げの支度 掻いたお繭に 掻いたお繭に 月がさす  
信州名物 数ある中に 忘れしゃんすな 忘れしゃんすな 伊那節を  
(与地の伊那節)  
権兵衛峠の 馬子唄聞けば 過ぎし(オヤ)昔が 過ぎし昔が 偲ばれる  
権兵衛峠は 怖くはないが 木曽の番所が 木曽の番所が わしゃ怖い  
高遠城址の 桜が散れば 鳴くよいろくの 鳴くよいろくの ホトトギス  
松になりたや 峠の松に 上り下りの 上り下りの 手掛け松  
こぼれ松葉を 手でかき寄せて 主のおいでを 主のお出でを 焚いて待つ  
(富県伊那節)  
目出度目出度の 若松様よ 枝(オヤ)も栄える 枝も栄える 葉も茂る  
東ゃ高烏谷(たかずや) 西ゃ駒ヶ岳 間を流れる 間を流れる 天竜川  
伊那の名所は 高烏谷山よ 春は鈴蘭 春は鈴蘭 秋は萩  
伊那はよいとこ いつ来てみても 三味や太鼓の 三味や太鼓の 音がする  
花の名所は 尾花が崎よ 月は円山 月は円山 常円寺 
「御岳」「おんたけ節」「御岳山節」  
「御岳」「おんたけ節」「御岳山節」などと呼ばれ、やがて「伊那節」の母体となっていくのだ。しかも木曽の御岳の割に、「御岳」という唄は、木曽地方よりも伊那地方で歌われてきたのがおもしろい。  
■ 
→「伊那節」 
 
御岳山の 峰の氷は 峰の氷は いつ溶ける ソリャコイ  
峰の氷は 朝日で溶ける 娘島田は 娘島田は 寝て解ける ソリャコイ  
娘島田に 嫁勝山に 姑婆さは 姑婆さは いぼ髷に ソリャコイ  
木曽の御岳 夏でも寒い 袷ょやりたや 袷ょやりたや 足袋ょ添えて ソリャコイ 
「絵島」 (遠山郷盆踊り歌)  
信州のかっての秘境遠山郷に残されている数々の盆踊り唄のうち、絵島踊りは、扇子を持って歌い踊る悠長で雅やかな静かな踊り。踊りなれた人に好まれる。唄は江戸時代七代将軍家継の頃、高遠藩にお預けになった奥女中絵島を偲ぶ内容で、はじめ高遠で唄われた歌が、杖突・秋葉街道を往来する馬子達によって上村へ伝わった。今では地元高遠にはこの歌は、何故か残っていないと言う。  
江戸時代七代将軍家継の頃、江戸城大奥の大年寄(女中頭)絵島と役者生島の情事が明らかになり、生島は三宅島へ遠流、絵島は、高遠藩内藤家にお預けになり、幽閉された。というのが、芝居や小説に出てくる絵島生島の悲恋の物語である。が、実際の流罪の原因は、徳川幕府の権力争い、並びに大奥改革の犠牲になったものと伝えられる。このとき、死罪二人、流罪十人を含む約千五百人に及ぶ罪人が出たという。  
実際絵島が、高遠藩に連れてこられたのは、正徳四年(1717)絵島二十三歳の時だったという。以来六十一歳までの二十七年間、朝夕一汁一菜魚類を断ち、読経写経の精進の日々を送り、一度も家の外の空気を吸うこともなく、寛保元年(1741)桜の花の下でその波乱に満ちた生涯を閉じた。 高遠町には、絵島囲み屋敷と絵島の墓が残されている。  
 
信州遠山郷は、天竜川支流遠山川の上流、南アルプスの西斜面にある秘境と呼ばれた郷で、今の上村と南信濃村を合わせた地域をいう。 山麓を直線で通ずる一本の道は、秋葉街道と呼ばれ、秋葉神社への信仰の道として賑わった。またこの道、南北朝時代 宗永親王の、戦国時代 武田信玄の戦の道、塩を運んだ生活の道、今も残る芸能を伝えた伝承の道であった。 信州遠山郷は、民俗芸能の宝庫。毎年12月には古式を残す湯立神楽「霜月祭」(重要無形民俗文化財)が行われる。また、古くから伝わる唄と踊りは豊かに残されている。盆踊り歌は数々あり、いずれも念仏調の歌で楽器を用いない。絵島踊りと横婆々踊りは、扇を右手に持って踊る。その他は手だけで踊る。新暦のの8月、14日から16日まで、特に16日は翌朝まで輪になって踊り抜く。  
 
サエノ ヤレー  
絵島ゆえにこそ 門に立ち暮らす 見せてたもれよ 面影を  
雁が渡るに 出て見よ絵島 今日は便りが 来はせぬか  
花の絵島が 唐糸ならば たぐりよせたやこの島へ  
風もないのに 高遠の里の 花がち散るぞえ うば桜  
恋のとが人 絵島の墓の 里に来て鳴け 秋の虫  
「長久保甚句」 (「長窪甚句」) 
本調子甚句。かつては「長窪甚句」と書かれた。中山道有数の宿場・長久保(小県郡長門町)の騒ぎ唄。  
 
長久保は、今の長野県小県郡長門町。 戦国時代は、甲斐の武田信玄の東信濃攻略の棒道大門街道沿いの町。 江戸時代中山道佐久路の宿場町として賑わったところ。 江戸日本橋から中山道を来て碓氷峠を越え信州にはいると、軽井沢・沓掛・追分・小田井・岩村田・塩名田・八幡・望月・芦田・笠取り峠越え、長久保宿・和田宿・和田峠越え・下諏訪宿と続く。長久保は、信州入りして10番目・江戸日本橋から27番目の宿場であった。 今では殆ど見かけなくなったが、信州では、つい最近まで、板葺きの屋根に石を載せている家が多かった。 風で飛ばされない工夫と考えられる。  
 
←「本調子甚句」 
 
長久保よいとこ いつ来て見ても ア エッサー  
 嬶天下に屋根の石 ア エッササー  
和田の峠が 海なら良かろ 可愛主さんと 船かせぎ  
青葉がくれに 浅間が見ゆる 笠取り越えゆく 馬子の唄  
長い長久保 流れて焼けど 可愛あの娘が 残りゃ良い  
川は浅いが 情けは深い 覗いてごらんよ スノコ橋  
長久保良いとこ 板屋根造り 変わら(瓦)ないから 来ておくれ
「坂木甚句」 (長野県埴科郡坂城町)  
埴科郡坂城町は、長野県東部、上田市の西側に位置します。町内には千曲川が流れ、古くから工業の町として発展したところ。戦国期には二度にわたって甲斐の武田信玄を打ち破った名将・村上義清の出生の地、また居城・葛尾城跡も残されています。ここで歌われてきた民謡に 「坂木甚句」があります。現在は「坂城」と標記されますが、かつては「坂木」と書かれていました。また江戸期には天領となり、その支配のための陣屋が置かれました。また中山道・追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町)から越後・出雲崎(新潟県三島郡出雲崎町)へ続く北国街道の宿場としては、慶長8年(1630)に指定され、本陣、脇本陣、問屋が置かれました。  
また宿場の繁栄として、旅籠屋が軒を連ねたといい、安永2年(1733)には102軒も数えたといいます。また、代官により、旅籠屋1軒につき、飯売女2名以内を置くこと、飯売女と遊女を区別し、遊女屋が営まれました。このように坂木宿の旅籠屋は、北国街道沿線の宿場の中でも盛況でしたが、明治期に至り、飯売女も自由な立場になれる中で、遊郭設置の動きが起こり、明治16年から坂木遊郭の営業が開始されました。坂木遊郭の芸妓は厳しい修行を重ね、芸達者ということで定評があったといい、長唄や端唄、座付物などの芸を身につけ、試験を受けて一本立ちしていったのだそうです。こうした芸所・坂木で歌われてきたのが 「坂木甚句」です。  
この「坂木甚句」の源流は、「二上り甚句」です。特に、日光例幣使街道の宿場・千住で歌い始められた「千住節」が知られ、聞き比べるとよく似ています。各地の民謡では、 「三崎甚句」「茅ヶ崎甚句」(神奈川県民謡)、「石下酒盛り唄」(茨城県民謡)、「川越舟唄」「見沼通船堀舟唄」(埼玉県民謡)、「南部茶屋節」(岩手県)、「郡上踊り」〜「さわぎ」(岐阜県民謡)等、たくさんあります。  
長野県内では佐久市塩名田の「塩名田甚句」とよく似ています。「坂木甚句」が音源として知られるのは、昭和52年の「信濃路の抒情」(創土社)のLPレコードです。この時の録音は、唄・関鶴吉、三味線・中村トキエ、太鼓・前田三平でした。  
唄の関鶴吉は、郷土の歴史や芸事について造詣が深く、四ツ屋地区に居住、「坂木甚句」の歌詞の「せめて四ツ屋の清水まで」と歌われてる甘泉という名水の湧くところで、京染物屋を営業していました。 「坂木甚句」を残すべく、唄を覚えていた人からメロディを習い、坂城出身で戸倉上山田温泉の花柳界に出ていた中村トキエを連れてきて、三味線を入れ、また太鼓は町内の前田三平に叩かせて、レコード録音にのぞんだのだそうです。  
関鶴吉の没後、「坂木甚句」の伝承者は途絶えています。「二上り甚句」の特徴と、関鶴吉がまとめあげた坂城らしさのあるいい民謡です。  
 
←「二上り甚句」 
 
ハァー坂木よいとこ(ヨーヨー)  御天領育ち(サッサーイ)  
 昔ゃお品で 長羽織 (キタサッサ ヨイサッサ)  
坂木よいとこ いつ来てみて  三味線や太鼓の 音ばかり  
浅い川なら 膝までまくる  深くなるほど 股を出す  
あなた百まで わしゃ九十九まで  ともに白髪の 生えるまで  
惚れて通えば 千里も一里  会わずに帰れば また千里  
お嬶とってくれよ 朝草刈りに  一駄ン刈る草 二駄ン刈る  
この家屋形は 目出度い屋形  鶴と亀とが 舞い遊ぶ  
さあさ皆さま お歌いなされ  唄で御器量が 下がりゃせぬ  
この家座敷で 歌わぬ人は  男よいのか 気取るのか  
一夜一夜に 枕が変わる  枕変わらぬ 床欲しや  
昨夜したせいか 頭が痛い  二度とやるまい 箱枕  
無銭客(おけら)返せば また来るおけら  今年ゃおけらの 大当り  
烏鳴け鳴け あの町の屋根で  嫁に行かずに 婿にしず  
坂木照る照る 追分曇る 花のお江戸は 雨が降る  
わたしの心と 横吹山は  外に木(気)はない 松(待つ)ばかり  
送りましょうか 送らせましょか  せめて四ツ屋の 清水まで  
坂木出抜けて 四ツ屋の清水  飲んで別れた こともある  
千曲川さえ 竿さしゃ届く  なぜに届かぬ 我が思い  
坂木坂木と 来てみれば 西も東も 山ばかり  
坂木よいとこ 昔は宿場  加賀のお槍の 通り道  
坂木よいとこ 汽車さえ停まる  若い衆泊まるも 無理はない  
ここは御天領 宿場の町よ  加賀のお槍の 通り道  
葛尾山見りゃ 恋してならぬ  ことにあの娘が いるじゃもの  
坂木遊郭 なれどやでも あの娘ひとりは 残したい  
北に葛尾 西には千曲 中に栄ゆる 坂木里  
北に聳ゆる 葛尾山は  昔村上 お城跡  
昔御天領で 栄えた宿は  今も甚句で 賑わしや  
昔御天領 坂木の里は  肩で風切る 長羽織  
山じゃ葛尾 川では千曲  里の坂木は 蚕処  
坂木よいとこ お蚕処 娘やりたい 桑摘みに  
遊郭の 梯子段をば ストトントンと  登る心地で 暮らしたい  
あの声で とかげ食うかや 山時鳥  人は見かけに よらぬもの  
ひやかしが 雨に降られて 梯子に座り  煙草つけろと ぬかしゃがる  
「吉野の草刈り唄」 
長野県木曽郡上松町吉野に伝わる作業歌。馬の飼料となる夏草を刈り採るときに歌った。木曽谷は古来の木曽馬の産地。 この唄は、同じ木曽の福島で「木曽甚句」、上伊那で 「田の草取り野良唄」、岡谷・諏訪地方で「ヨーエ節」「天屋節」として歌われている。  
 
/ 「木曽甚句」「田の草取り野良唄」「ヨーエ節」「天屋節」 
 
草を刈るなら吉野の山で どうぞまじりの嵐草(あらしぐさ)  
草を刈るなら桔梗花残せ 桔梗は女の縁の花  
花は蝶々か蝶々が花か  さてはちらちら迷わせる  
「天屋節」  
信濃諏訪地方。羊羹など和菓子を作るのに欠かせない寒天はところてん(原料のテングサ・ヒダグサを、ヒダグサを水に浸してアクを除き、木のウスでつき、煮沸抽出液を凝固させたもの)を、約二週間、凍結溶解乾燥を繰り返し乾燥させて作られ、最後に繊維質とグルテンのみからなるる白い海藻加工品である。諏訪湖の御神渡りに代表される冬の寒さの厳しいる諏訪盆地は、天然寒天の製造に適した土地柄であり、この時期平均2℃〜最低-15℃の寒冷地茅野市が主要産地として、全国一の特産地である。寒天製造は、12月から3月(今では2月)の厳冬期に、出稼ぎ労働者によって行われれ、この労働者を天屋と呼んだ。この歌は、きねつきや、夜間の寒さしのぎなどに歌われた労働歌で、原曲は田植え歌である。寒天は、約三百年前京都で、たまたま夜戸外にうち捨てて置いた「ところてん」が、寒さにあって発見したという謂れを持つ。  
 
/ 「吉野の草刈り唄」 
←(田植え歌)  
 
アー 天屋わかいしょに 逢うならよかろ ア ヨイヨイ 花の三月 泣き別れ  
搗けや若いしゅ 気を出して ア ヨイヨイ 唄はやめまい 夜明けまで  
天屋さまとは 知らずと惚れた ア ヨイヨイ 花の三月 泣き別れ  
花の三月 泣き別れでも ア ヨイヨイ またも逢います 十二月  
聞いておくれよ 昔も今も ア ヨイヨイ お国自慢の 天屋節  
 
ハア〜 寒い風だよ 武川の風は イヨーヨト  
ひやりひやりと ヨー 身に沁みる ハア〜 ドッコイ ドーダイ  
   天屋商売 乞食にゃ劣る イヨーヨト  
   乞食ゃ夜寝て 昼稼ぐ ハア〜 ドッコイ ドーダイ  
零下十五度 草つく杵の イヨーヨト  
音も凍るよ 天屋節 ハア〜 ドッコイ ドーダイ  
   天屋小僧に 惚れるな女子 イヨーヨト  
   花の三月 泣き別れ ハア〜 ドッコイ ドーダイ  
天屋小僧と 軽蔑するな イヨーヨト  
家に帰れば 若旦那 ハア〜 ドッコイ ドーダイ  
   暑い寒いも 気の迷い イヨーヨト  
   寒中河鹿は 水の中 ハア〜 ドッコイ ドーダイ  
「塩名田節」「塩名田甚句」  
佐久市塩名田は旧浅科村。中山道69宿、岩村田宿と八幡宿の間、塩名田宿として栄えました。街道の途中には千曲川が流れ、渡し場としても栄えました。また、千曲川の釣り場、米穀の集散地としても栄えたといいます。かつては助郷人足が常駐し、また飯盛り女も置かれたといい、かなり賑わいを見せた宿場であったそうです。この宿場で歌われてきた民謡に「塩名田節」と「塩名田甚句」があります。  
「塩名田節」 / かつての旅籠や茶屋は、中山道の宿駅廃止後に芸妓屋に転業したといいます。特に塩名田は、北佐久地方でも芸妓が多い土地であったようです。こうした宿場には、各地の流行歌が賑やかに歌われてきましたが、その一つとして、この唄が歌われてきました。一説には「トコトン節」が発展したものともいいます。歌詞の一つ一つは、七五調を4回重ねた四十八字からなります。二上りの三味線伴奏、鳴り物は太鼓に小鼓、テンポはゆっくりめで、都節音階によるしっとりとした曲調です。塩名田の風情を巧みに歌い込んだ歌詞が、大変魅力です。  
「塩名田甚句」 / こちらはテンポが速く、賑やかです。こちらは全国的に流行した「二上り甚句」です。これは日光例幣使街道・千住宿で歌われた「千住節」が大元であったようです。江戸末期から明治期に大流行したもので、各地に同様に定着し、「○○甚句」あるいは「茶屋節」、「○○舟唄」といった形で民謡化しています。県内では埴科郡坂城町の「坂木甚句」がよく似ています。歌詞は七七七五調の甚句型、二上り調子の三味線伴奏が付きます。 
 
←「トコトン節」「二上り甚句」「千住節」 
(塩名田節)  
塩名田名所は千曲川 次に名所は滝の水 
駒形様の厄落とし 涼味豊かな中津橋  
   浅間の煙が絶ゆるとも 千曲の流れが涸るるとも  
   わたしとあなたは青松葉 枯れて落ちても二人連れ  
秋の日脚は御牧ヶ原 落ちて夕焼けほのぼのと  
織るか紅葉にお滝の水は 心浮き立つ黄金色  
   千曲ほとりの塩名田は 雪月花を友として  
   暮らせど夜半のねやさびし 鳴いてくれるなほととぎす  
北浅間南蓼科八ヶ岳 合いを流るる千曲川  
山と川との気を受けて 進めよ勇め佐久男児  
   塩名田名所を数うれば 簗場筏場滝明神  
   厄除け駒形色稲荷 涼み月見の中津橋  
塩名田帰りの千鳥足 もはや我が家が近くなる  
女房起きろよ戸を開けろ 開けなきゃ塩名田へ逆戻り  
(塩名田甚句)  
昔ゃ塩名田 関所と同じ 手形で通す 筏越し  
お滝出口の お不動様は 主と私の 守り神  
千曲河原の あの月見草 晩の疲れで 昼寝する  
塩名田見せたい 都の人に いつも島田の 花盛り  
私の心と 浅間の山は 胸に煙の 絶えがない  
千曲川さえ 竿さしゃ届く なぜに届かぬ 我が思い  
男伊達なら 川止めさせて 流速しやんせ 塩名田で  
筏着くまで 女郎衆が招く 降りちゃまた乗る 口車  
宇治の先陣 為遂げた馬は おらが里から 納た駒  
山が高うて 塩名田が見えぬ 塩名田恋しや 山憎や  
こぼれ松葉を 手でかき寄せて 主のお出でを 焚いて待つ  
花が蝶々か 蝶々が花か 来てはチラチラ 迷わせる  
行こか塩名田 帰ろか家へ ここが思案の 中津橋  
「安曇節」  
長野県も西部、北安曇郡から南安曇郡一帯の安曇(あずみ)平で広く歌われているのが「安曇節」です。これは北安曇郡松川村の医師・榛葉太生による新しい民謡です。とは言え、全くの創作ではないです。榛葉師は出原処士と号し、安曇平に残る「安曇代唄」「安曇田の草取り唄」といった「仕事唄」や、「三つのたたき」「サンコロリンサ」「チョコサイ節」などといった「盆踊り唄」などが次第に歌われなくなっていくことを嘆き、こうした唄を採集して新しくまとめ上げ、大正12年の夏にまとめあげたのがこの「安曇節」です。  
「安曇節」の特徴は、歌詞は基本的に七七七五調の歌謡形式ですが、第3句目の七文字を2回繰り返すこと、最後の五文字を都合3回繰り返し、最後に「チョコサイ コラコイ」がつくことです。この唄をまとめるのに、特にその母体となったのは松本〜安曇平でよく歌われていた「チョコサイ節」であったようです。例えば南安曇郡三郷村の「七日市場盆踊り唄」は、  
音頭とりましょ仰せとあらば 声は悪くも 声は悪くも 歌いましょ チョコサイ コラコイ  
というものです。他にもこのような唄は歌われていました。松本市入山辺地区の「山辺唄」の「つっこめ節」、北安曇郡小谷村の「小谷チョコサイ」など、同系統の民謡は残されています。また少し南の木曽地方では、木曽郡楢川村奈良井の「お十五夜様」といった「盆踊り唄」が残ります。木曽では最後の「チョコサイコラコイ」はないものの、第3句の繰り返しは残されており、よく似ています。同様の曲は、木曽郡王滝村の「王滝盆踊り唄」、同郡大桑村の「須原ばねそ」の「竹の切り株」があります。こうした広い範囲で歌われていた第3句を繰り返すタイプの盆踊り唄に、「三つのたたき」に見られる最後の五文字の繰り返しを用いて、今日の「安曇節」を作り上げました。  
 
/ 「つっこめ節」「小谷チョコサイ」     
←「チョコサイ節」 
 
サァー寄れや安曇の踊り 田から町から 田から町から 野山から   
 [ 野山から 野山から チョコサイコラコイ ]  
音頭とりましょ 仰せとあれば 岳の峰まで(西の山まで) 響くほど  
花に焦がれて 白馬登り 残る白雪 踏み分ける  
もとはアルプス 雪消のしずく 末は越後の 海となる  
白馬七月 残りの雪の 間に咲き出す 花の数  
白馬八月 残りの雪を 割りて咲き出す 花の数  
誰か行かぬか 高瀬の奥(いり)に 独活(うど)や蕨の 芽を摘みに  
岳の黒百合 咲き出す頃は 安曇娘も 日に焼ける  
槍を下れば 梓(あずさ)の谷に 宮居涼しき 神垣内(かみこうち)  
夏も涼しや 木崎湖行けば 岳(たけ)の白雪 舟で越す  
日本アルプス どの山見ても 冬の姿で 夏となる  
安曇六月 まだ風寒い 田植布子に 雪袴  
何か思案の 有明山に 小首かしげて 出たわらび  
秋の安曇野 月かげ落ちて 鳴くは鈴虫 夜明けまで  
まめで逢いましょ また来る年の 踊る輪の中 月の夜に  
登る常念 豊科口の 一の沢辺は 夏桜  
一夜穂高の 山葵となりて 京の小町を 泣かせたや  
月と一茶で 名の出た信濃 今じゃアルプス 上高地  
安曇大町 借馬市場 証もとらずに 馬貸せる  
安曇名物 穂高の山葵 黄金白銀 砂に湧く  
安曇踊りと 三日月様は 次第次第に 丸くなる  
槍で別れた 梓と高瀬 めぐり逢うのが 押野崎  
聞いて恐ろし 見て美しや 五月野に咲く 鬼つつじ  
小梨平でひらいた 恋は 花のお江戸で 実を結ぶ  
山の奥でも 真夏の頃は 訪ね生きたや 上高地  
嬉し恥ずかし 大町リンゴ 紅い顔して 主を待つ  
穂波豊かに 黄金の風が 安曇十五里 吹き渡る  
ござれ紅葉の 色づく頃は お湯をたずねて 高瀬谷  
昨日四谷で 今日黒菱で 明日は五竜か不帰岳か  
岩魚釣る子に 山路を問えば 雲の彼方を 竿で指す  
ザイルかついで 穂高の山に 明日は男の 明日は男の 度胸試し  
鳥も止まらぬ 滝谷尾根で 若き情熱を 燃やしけり  
 
安曇名物 穂高のわさび こがねしろがね こがねしろがね すなにわく 
すなにわく すなにわく チョコラサイ コラサイ チョコサイ コラサイ  
   日本アルプス どの山見ても 冬の姿で 冬の姿で 夏となる   
   夏となる 夏となる チョコラサイ コラサイ チョコサイ コラサイ   
一夜穂高の わさびとなりて 今日の小町を 今日の小町を 泣かせたや  
泣かせたや 泣かせたや チョコラサイ コラサイ チョコサイ コラサイ   
   何かの思案の 有明山に 小首かしげて 小首かしげて 出た蕨  
   出た蕨 出た蕨 チョコラサイ コラサイ チョコサイ コラサイ   
まめで逢いましょ また来る年に 踊る輪の中 踊る輪の中 月の夜に 
月の夜に 月の夜に チョコラサイ コラサイ チョコサイ コラサイ  
「信濃追分」 「追分馬子唄」  
民謡の王様と呼ばれた「江差追分」。その源流は、信州の中山道と北国街道の分岐点である追分の宿で唄われたものであるといいます。その元は何であったのか?単純に碓氷峠を越え行く「馬子唄」が「追分」になったとよく云われます。もう少し補足すると「馬方節」「夜曳き唄」等と呼ばれる「博労節」(「馬喰節」)であったようです。これらが追分の宿に伝わって、酒席で唄われるようになり、それが「追分節」と呼ばれるようになりました。もともと追分宿は、飯盛女と呼ばれる女性達がたくさんいたといい、座敷で唄は三味線の伴奏をつけて唄うようになったといいます。  
ただこの時の三味線は「あしらい」程度のもので、本調子であったり、三下りであったりしたようです。それが、中でも三下りによるものが、粋に聞こえ、「馬方節」に「三下り」の調子がつけられたということで「馬方三下り」というタイトルで、流行ったようです。  
これが北国街道を北上し、越後に伝わると、新潟港あたりでは、  
蝦夷や松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい  
といった歌詞で唄われると、「松前節」などと呼ばれ、北前船の船乗り達が港町に伝え、やがて北海道・江差まで運ばれます。またこの「松前節」とか「松前」と呼ばれた唄は、新潟でも魚沼あたりには多く残り、「松前」または「松舞」などといった曲名で唄われています。また越後では、各種の流行唄を伝えた瞽女がおり、これもまたレパートリーのひとつとして、各地へ伝えたようです。  
ところで、追分宿で唄われてきた「追分節」のメロディというのは、これ1曲というものではなかったようです。客が唄う「馬方節」に、あしらいの三味線も飯盛女によって違っていたようでした。  
碓氷峠には、信州・上州の国境をまたぐように建てられた熊野皇大神社があり、「碓氷峠の権現様」として、「追分節」に唄われました。  
碓氷峠の 権現様は 主のためには 守り神  
また、この神社境内には、一対の石の風車があります(本来は、風車ではないそうですが)。これも、  
碓氷峠の あの風車(石車) 誰を待つやら くるくると  
と唄われています。  
かつての宿場には、枡形という作りの場所がありました。宿場の入口で、追分宿にも存在しました。その場所に「茶屋」がいくつか商売をしていたといい、これもまた「枡形の茶屋」として唄われてきました。  
追分 枡形の茶屋で ホロと泣いたが 忘らりょか  
また、いわゆる追分の分岐点は「分か去れ」には、現在、古い道標や道祖神、常夜燈しか残っていません。その中に、「更級は右 み吉野は左にて 月と花とを 追分の宿」という字の入った石造物があります。これに因んだ、  
右は更級 左は吉野 月と花との ここが追分  
という歌詞も唄われています。   
さて、「追分宿」の「追分節」、いわゆる「信濃追分」とされるメロディはいくつか存在します。  
「信濃追分」  
追分宿は、明治26年の信越本線の開通によって、さびれていきます。そこで、追分からは当時の中心地であった岩村田(現・佐久市岩村田)へ集団で移り、遊郭を始めたといいます。そして追分で唄っていた「追分節」を大々的に宣伝してから「信濃追分」として広まっていったのでした。  
「追分馬子唄」  
追分宿の脇本陣・油屋の主人・小川誠一郎が伝えていた「追分節」があります。こちらは油屋の飯盛女・おのぶから大正時代頃に習い、覚えたものでした。こちらは、かつては三味線も入っていたようでしたが、こちらでははずして、唄ばやしも「ハイーハイー」にしています。  
「正調信濃追分」  
「追分節」の源流を、モンゴル帰化人の唄との関連と朝廷へ献上する「貢馬の道唄」とする「小室節」(小諸市)とする説があります。その「小室節」の伝承者が唄う「正調信濃追分」があります。簾田じょうの節よりも、三味線がやや早間で、唄ばやしも「オーサソーダソーダ」とかけるなど、若干の差違があります。「正調」とは、歌い方を統一した、といったような意味かと思われます。  
 
現在、「信濃追分」と「追分馬子唄」は全く別な曲として存在しており、またいわゆる民謡歌手による「信濃追分」も簾田じょうによるものとやや異なります。いろいろな節があって、共存するようなものがよく、「正調」と固定しないで唄われていくことが望まれます。  
ところで、追分宿の「追分節」の元唄は周辺の「博労節」であったようですが、「小諸馬子唄」が追分節の元唄だという言い方をよく耳にします。この唄は昭和12年の新作ですので、これは明らかに間違いと言わざるを得ません。  
「追分節」発祥の地  
しなの鉄道 信濃追分駅の北西 約1km。 浅間神社の境内、 本殿手前の東側(郷土資料館下)に 大きな自然石でつくられた 「追分節発祥の地」碑が建っている。近くには 芭蕉の句碑 もある。江差追分・松前追分・本荘追分・南部追分・秋田追分・越後追分・・・などなど 全国各地に「追分」と呼ばれる民謡がある。これらの源流は 信州追分宿で生まれた 「追分節(信濃追分)」だと言われる。中山道・北国街道で唄われた「馬子唄」が追分の宿において酒席で唄われるようになり、 「追分節」と呼ばれるようになった。 これが全国に伝わり変化して その土地ごとの 独特の歌詞と三味線がついたものである。  
   碓氷峠の 権現様は わしが為には 守り神  
   浅間山さん なぜ焼けしやんす 裾に三宿を 持ちながら  
江戸初期 軽井沢は関東・信濃・北陸方面を結ぶ玄関口として 重要視され、 中山道が整備改修されると、 東海道と共に江戸と 京都を結ぶ重要幹線として、 街道の様相も一変してきた。慶長9年(1604) 宿駅が制定され、 軽井沢・沓掛・追分の三宿 が設けられ、 更に寛永12年(1635) 参勤交代制度と共に 三宿は諸国の大名通過などで繁栄をきわめた。なかでも、 追分宿は中山道と北国街道の分岐点として栄えた。軽井沢は 浅間根越の三宿として名高く かつ関東・上州方面への物資や 旅客輸送の為、 東信一帯の中馬や馬子衆の一大集結となった。 かかる歴史的・地理的条件からして 必然的に労働歌的馬子唄 が生まれ□□素地が□□□□にあった。  
「碓氷峠の権現様は わしがためには 守り神」  
浅間山の自然や碓氷峠の熊野権現を、 馬子たちは自分の 守り神として畏敬の念を持って歌っていた。その馬子唄に□軽井沢三宿の飯盛女達が、 一上り・三下り・本調子の三味線伴奏 の手を工夫した元歌と思われる馬子唄時代の代表的な歌詞 「わしがためには」の部分を諸客に対する語として「主のために は」と替えたり、 新作歌詞や囃子詞も付け「追分節」が完成された。 なかでも三下り調の追分節(馬子唄詞・座敷唄詞)は、 その主流となって 諸国に広く伝承伝播され、 特に関東以北では 新潟県の越後 三下り(越後追分の母体)、 秋田県の本荘追分になり、 更に北海道 に渡って 江差三下り(江差追分の母体)などに発展していった とされている。かかる点から「追分節」は諸国にある追分節の源泉といわれ それが今日の定説となっている。  
 
←「博労節」(「馬喰節」「小諸馬方節」「小諸馬子唄」「夜曳き唄」) 
→「追分」「松前節」→「江差追分」 
 
(アキタホイ) 浅間根越しの (アキタホイ) 焼野の中でヨー (アキタホイホイ)   
 あやめ (アキタホイ) 咲くとは (アキタホイ) しおらしや (アキタホイ)  
小諸出てみろ 浅間の山に 今朝も煙が 三筋立つ  
碓氷峠の あの石車 誰を待つやら くるくると  
浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 持ちながら  
追分 枡形の茶屋で ホロと泣いたが 忘らりょか  
吹き飛ばす石も 浅間の野分けと詠んで 芭蕉翁は 江戸へ去る  
一に追分 二に軽井沢 三に坂本 ままならぬ  
あのや追分 沼やら田やら 行くに行かれず 一足も  
浅間山では わしゃないけれど 胸に煙が 絶えやせぬ  
追分一丁二丁 三丁四丁五丁ある宿で 中の三丁目が ままならぬ  
高砂の こいを聞かねば 日陰の妻 早く聞きたい 四海波  
右は更科 左は吉野 月と花との ここが追分  
更科の 月は田毎に映るといえど 私ゃ外へは 移りゃせぬ  
碓氷峠の 権現様は 主のためには 守り神  
あの山木陰の わしゃほととぎす 人こそ知らねど 鳴き明かす  
七里八里の 恋路を踏んでー 衣紋繕う 笑い坂  
送りましょうか 送られましょか せめて桝形の 茶屋までも  
離れ離れの 村雲さえも 逢いは口説(くぜつ)の 雨が降る  
さらばと言う間に はや森の陰 かすかに見ゆるは 菅の笠  
苦労する墨 身は細筆 命ゃお前に かけ硯  
さぞやさぞさぞ さぞ今頃は さぞや焦がれて いるであろ  
西は追分 東は関所 関所越えれば 旅の空  
西は追分 東は関所 せめて峠の 茶屋までも  
人が言うなら 言わせておきな 屋根に降る雪 胸でとく  
浅間押せ押せ 六里ケ原を 押せば追分 近くなる  
月も届かぬ 柳のかげに もるる蛍の ともあかり  
浅間山から 追分見れば 桃や桜の 花盛り  
煙ふいて 千歳百歳 ひるまぬ意気が ゆかし尊し 浅間山  
枝は折るまい 折らせもすまい 心置きなく 行かしゃんせ  
浅間山から 出てくる水は 雨も降らぬに ささ濁り  
宵は月にも 紛れてすむが 更ける鐘には 袖絞る  
君の心は 田毎の月よ どこに誠が 照らすやら  
雪に叩かれ 嵐にもまれ 苦労して咲く 寒椿  
色の道にも 追分あらば こんな迷いは せまいもの  
私ゃ野に咲く 一重の桜 八重に咲く気は 更にない  
嘘も誠も 売る身の勤め そこが買い手の 上手下手  
まとまるものなら まとめて欲しい 思いは同じ 恋の道  
神代この方 変わらぬものは 水の流れと 恋の道  
なるとならぬは 目元で知れる 今朝の目元は なる目元  
四書を読め読め 追分通え 曰くは格子(孔子)の中にある  
早く逢いたい お顔が見たい 話聞きたい 聞かせたい  
苦労させたり しもするからは 末にゃとやこう 言わしゃせぬ  
逢うて戻れば 千里も一里 逢わで戻れば また千里  
離れ離れの あの雲見れば 明日の別れが 思われる  
何とぞ何とぞ 叶わせ給え お礼参りは 二人連れ  
浅間の煙に 文ことづけて 主のお庭へ 落としたい  
信濃追分 ラヂオにかけて 広く世間に 聞かせたい  
浅間根腰の あやめが今は 飯縄下町で 花盛り  
浅間の煙と 追分節は 千代を契りて 絶えはせぬ  
石に立つ矢の 例えもあるに 思い切るとは 気が弱い  
浅間颪の 北風よりも 主の一言 身にしみる  
佐久の夕暮れ どこから暮れる 桑摘み乙女の 手元から  
昼はしおれて 夜にはなおる 千曲河原の 月見草  
馬に横乗り 浅間を眺め 草刈りつらい 目に涙  
浅間山から 坂本見れば 女郎が化粧して 客を待つ  
西は追分 東は関所 関所越ゆれば 旅の空  
西は追分 東は関所 せめて峠の 茶屋までも  
送りましょうか 送られましょか せめて峠の 茶屋までも  
さらし手拭い ちょいと肩にかけ 悪所通いも 粋なもの  
浅間山から 鬼ゃ出たものを 今は世が世で 鬼が出る  
心よくても 追分女郎衆 浅間山から 鬼が出る  
一夜五両でも 妻持ちゃ嫌やだ 妻の思いが 恐ろしや  
浅間山から 鬼ゃけつ出して 鎌でかっ切るような 屁をたれた  
追分油屋の 掛け行燈に 浮気御免と 書いてある  
追分宿の 掛け行燈に 浮気御免と 書いちゃない  
追分宿の 掛け行燈に 冷やかし御免と 書いてある  
五里も六里も 山坂越えて 逢いに来たもの 帰さりょか  
浅間山から 飛んできた鴉 金もないのに かうかうと  
浅間根越の 小砂利の桔梗 花は咲けども 実はならぬ  
小諸出なけりゃ 四ッ谷の清水ー 飲んで追分 一駆けに  
坂木照る照る 追分曇るー 花の松代 雨が降る  
様の来ぬ夜は 雲場の草で 刈る人もなし 一人寝る  
朝咲いて 四ツにしおるる 朝顔さえも 思い思いの 花が咲く  
鳥ならば 近き森にと 巣を掛け置いて 焦がれて鳴く声 聞かせたい  
(長ばやし)  
来たよで戸が鳴る 出てみりゃ風だよ オーサドンドン  
来たよで来ぬよで 面影立つよで オーサドンドン  
行くよで来るよで 面影さすよだ オーサドンドン  
山ある川ある お前さんに気がある たにしがどんとある  
ハッサキ砂山 下駄はいてヨジヨジ オーサドンドン  
「追分馬子唄」  
追分桝形の エー茶屋でヨー ホロと鳴いたが アリャ忘らりょか (ハイーハイー)  
浅間山さん エーなぜ焼け エーしゃんすヨー 裾に三宿 エー持ちながらヨー  
小諸出てみりゃ エー浅間の エー山にヨー 今朝も煙が エー三筋立つ 
碓氷峠の エー権現 エー様は 主のためには エー守り神  
浅間山では エーわしゃない エーけれど 胸に煙りが エー絶えやせぬ 
浅間根越の エー小砂利の エー中で あやめ咲くとは エーしおらしや  
西は追分 エー東は エー関所ヨー 関所越ゆれば エー旅の空
「正調信濃追分」  
(アキタホイ) 浅間山さん (サホイ) エなぜ焼けしゃんすヨー 
(アキタホイ) 裾に エ三宿 (サホイ) 持ちながら  
「ハ 来たよで戸が鳴る 出てみりゃ風だよ オーサソーダソーダ」  
   右は更科 エ左は吉野ヨー 月と エ花との ここが追分  
   「ハ 行くよで来るよで 面影さすよだ オーサソーダソーダ」  
追分桝形の エ茶屋でヨー ホロと エ泣いたが 忘らりょか  
「ハ 来たよで戸が鳴る 出てみりゃ風だよ オーサソーダソーダ」  
   さらばと云う間に エはや森の陰ヨー かすかに エ見ゆるは 菅の笠  
   「ハ 行くよで来るよで 面影さすよだ オーサソーダソーダ」  
小室出て見よ エ浅間の山にヨー 今朝も エ三筋の 煙立つ  
「ハ八坂砂山 下駄はいてヨジヨジ オーサソーダソーダ」 
「小諸馬子唄」 (「信濃追分」) 
荷駄を摘んだ馬を曳く馬子が街道の景観を見ながらゆったり美声で歌う声が聞こえてくるような情感が伝わってくる。浅間根越しの三宿といわれた軽井沢・沓掛・追分や小諸あたりは駄馬の交通が盛んであった。この小諸馬子唄は、このあたりの馬子衆が歌い出した唄で、追分宿の飯盛女の三味線によって「信濃追分」と命名されるようになったという。この信濃追分は、江差追分など各地の追分節の元祖となって伝わったという。  
江戸から中山道を京に・金沢にのぼるとき碓氷峠を越え信州入り、軽井沢・沓掛・追分の三宿を過ぎると、諏訪・木曽方面へ抜け京に通ずる中山道と北国越後の高田・加賀の金沢へ抜ける北国街道がありまた、沓掛からは、短いが険しい荷駄の道「草津道・大笹街道」が、北国街道福島宿へ通じていた。これらの街道は、大名行列・善光寺参り・佐渡の金や、海で採れた塩など牛馬で運んだ賑やかな道であったに違いない。 小諸は、「北国街道」の宿場町で、江戸時代旧牧野氏1万6千石城下町でもあった。今でも城趾は「懐古園」と呼ばれ、春は桜の名所として知られ、場内には、島崎藤村の「千曲川旅情のうた」や藤村記念館があり、見晴台からは千曲川を見下ろせる絶景の地であり、休日には市民や観光客の足が絶えない。浅間山は、佐久平野からはどこからでも見られる代表的な活火山である。そのまろやかな優美な姿は、文学に、絵の画材に芸術の対象として、島崎藤村の詩に、堀辰雄の文学に、 梅原龍三郎や地元の画家小山敬三の油絵(懐古園に小山敬三美医術館がある)などに盛んに描かれている。ただ優しげな姿も時々噴火をを繰り返ていて、鬼押し出しにみる膨大な凝結溶岩の山は、天明3年(1783)の浅間山大爆の痕跡を今に伝えていて、当時の惨事を彿させる。  
 
/ 「信濃追分」 
→「江差追分」「ほっちょせ」(「中津川甚句」)  
 
小諸でぬけりゃ 浅間の山にヨー 今朝も三筋の  煙立つ ハイハイ  
浅間根腰の 焼野の中に 菖蒲咲くとは しおらしや ハイハイ  
ここはどこだと 馬子衆に問えば ここは信州 中山道 ハイハイ  
浅間山から 出てくる水は 雨も降らぬに 笹にごり ハイハイ  
黒馬(あお)よ啼くなよ もう家(うち)や近い  
森の中から 灯が見える ハイハイ 
「小室節」 (小諸節・こむろぶし)  
平安時代の初め頃から、朝廷に献上する貢馬の牧場として、小諸の周辺には、望月の牧、長倉の牧、塩野の牧、菱野の牧などの官牧があった。  
長尾真道氏の研究によると、小室(諸)節の元歌といわれるものは、祝詞調の祭礼唄で、そこに牧の中で生まれた駒ひきの唄が混成されたものと言われている。そして、それがやがて若干の変化をしながら、多くの旅人に愛唱され各地に伝播し、越後に北海道にと渡ったということである。特に、中山道と北国街道の分岐点の追分宿で、飯盛女等により唄われたのが、信濃追分節という座敷唄である。  
江戸時代には、小諸の祇園祭でも歌われていた記録が残され、また、広く知られていたことは、松尾芭蕉の「春の日や 茶の木の中の 小室節」、小林一茶の「江戸口や まめで出代る 小室節」という句からもうかがうことができる。  
長尾氏は、「追分節の源流となったのは正調小室(諸)節である」と結び、その著「追分節の源流 正調小室(諸)節集成」の中で、正調小室(諸)節の伝承を願われている。  
 
小諸でて見りゃ浅間の山に 今朝も三筋の  煙立つ 
小諸出抜けてからまつ行けば 松の露やら 涙やら 
田舎田舎と都衆は言えど しなのよいのが 小室節 
さても見事やおつづら馬よ 馬子の小唄に 小室節
追分宿 
中山道六十九次のうち江戸から数えて二十番目の宿場。現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200〜270人もいたとされるほど栄えた。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地である。旧脇本陣の油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説「菜穂子」「ふるさとびと」に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。  
「追分節」  
中山道を往来する幾多の旅人を乗せて馬の手綱をとりながら口ずさんだ馬子唄は、追分節となってここに生まれた。行き交う人々に歌い継がれ、中山道を通り、北国街道を横切り、各地に流れ流れて遠く北海道に渡って「松前追分」「江刺追分」となった。悠長な節回しの中に宿場の哀感がこもっている。  
   追分枡形の茶屋で ほろと泣いたが忘らりょか 〜〜〜はい〜〜はい  
この追分節の伝承伝播地区一覧表が展示され、新潟県をはじめ各県の歌が記されております。  
例えば、新潟県の「小千谷追分」、岩手県の「南部三下がり」、富山県の「五箇山追分」や奈良県の「初瀬追分」など数多くありますが、この中に甲斐国の唄も2曲ございました。  
「奈良田追分」と「河口湖追分」です。  
山梨県の民謡の第一人者でいらっしゃる望月真光さんにこの追分について伺いました。  
「奈良田追分はいつ頃からかよく解りませんけども、通説ではね長野県の追分宿の追分馬子唄からきたもんじゃないかと云うんですけども、異った意見のあるんです。」「例えばこちらが本家じゃないかって意見も」「唄が古い感じがするんですよ。聞いてみるとわかるんですけどね」「河口湖追分ですか。河口湖追分っていう名前では、私たちの調査ではでていないんですけどもねぇ。ただ峠が御坂山塊に三通りありましてね、一番中心がここの鎌倉往還今の御坂峠ですね。もう一つは右左口峠、中道往還っていいます。もう一つは笹子ですよね。そこに各々馬子唄が残っているんですよね。その御坂馬子唄をあるいは河口湖追分といったかどうか解りませんけども。」  
その「御坂馬子唄」、聞かせていただきました。昭和16年に録音されたもので、当時は録音機も二人がかりで持たなければならないほど大きなもので、ロー板に録音したのだそうです。唄っているKさんは、当時60〜70歳くらいで、実際に馬の手綱をとってお仕事をしていらした方と伺いました。  
   御坂夜道はなにやら恐い(ハイハイ)  
   早く音を出せほととぎす(ハイハイ)  
「奈良田追分」の方は昭和42年に録音されたもので、唄は奈良田のHさん、当時60歳くらいの方だったそうです。  
   ドッコイドッコイドッコイショット  
   世間渡るにゃ豆腐で渡れ  
   ドッコイドッコイドッコイショット  
   まめで四角でやわらかで  
こちらは、踊りだしたくなるような、賑やかな唄です。 
「大豆島甚句」  
大豆島(まめじま)は、長野県長野市東部郊外に広がる地域。当地域は長野市内では数少ない、夏(旧盆)に成人式を行う地域の一つである。また、祭りに際して歌い踊られる「大豆島甚句」は、かつて善光寺平一帯に伝わっていた甚句の江戸時代の歌詞を、唯一完全な形で唄い継いでいるものである。  
 
この地区は古来から千曲川と犀川に浸食されることから、小字名にも島・河原がつく名が多い。大豆島(まめじま)の名は大豆を二升まけば二石二斗二升とれたとの言い伝えによるが、土地の肥沃さを意味するものだろう。また蚕の本場でもあった。甚句は「神供」または「甚九」など種々説があり、神に供える踊りの名として起こったものだという。その歌詞は現在大豆島だけに残されているが、かつては川中島平一帯に共通したもののようで、野良着のすそをはしょり、手拭(ぬぐ)いのほおかぶりに蓑(みの)笠(かさ)をつけて踊ったという。大正初めごろまでは有志が元方となって継承しており、のちに満20歳になった若者が元方となって、前の元方は古役に退いた。毎年の盆踊りには十重(とえ)二十重(はたえ)の踊りの輪となって、笛や太鼓の音とともに神社の境内はにぎやかだったものである。「ままよまめじま、かいこのほんば」と歌えば、踊り子が「むすめやりたやくわつみに」とつけ、その返しとして音頭取りが「やりたややりたやむすめ」と歌う。返しがあるのが特徴で、七七七五調の仕事唄である。  
 
/ (仕事唄) (「甚句」「甚九」「神供」神に供える踊り) 
 
ままよ大豆島 蚕の本場 娘やりたい 桑摘みに   
 やりたい やりたい 娘 娘やりたい 桑摘みに  
鳩になりたい 善光寺さんの鳩に 飛んで行きたい 大豆島に  
天気ゃよければ 松代様の 城の太鼓の 音のよさ  
主は犀川 わしゃ千曲川 共に会いましょ 大豆島で  
信濃善光寺さんは 三国一よ おらが甚句は 日本一  
早く盆にして お宮の庭で 殿さ音頭で 踊りたい  
さあさ踊れや 大豆島甚句 しなのよい娘を 嫁にする  
ドンとドンと 鳴る瀬はどこだ 犀と千曲の 水の音  
蚕飼ったり 桑つみしたり 主に木綿は 着せられぬ  
大豆島恋しや 権現様の 森が見えます ほのぼのと  
主は桑摘み 私は蚕飼い 昼に分かれて 晩に逢う  
蚕疲れで 身はやせたけど 獲れた繭には 肉がある 
「塩尻甚句」  
塩尻は信濃国における花柳界・歌舞音曲の町を形成していたことと、中山道の宿駅であったため、塩尻遊郭の繁盛に伴い、塩尻甚句の元となったと思われる塩尻節が流行したものと思われる。全盛期は明治27・8年。  
善光寺街道分去れ(わかされ)  
近世になってから塩尻には多くの街道が交差し分岐するようになった。「善光寺街道分去れ」は、中山道から善光寺への道が分れる地点を指していう。「分去れ」とは、本来「分家すること」「わかれ」の意味であるが、それを街道の分岐点にも当てはめるようになった。道が左右に分れる所を「追分け」ともいう。「追分節」は、それに因んだ唄。哀調を帯びた追分節は、全国各地に広められている。「塩尻甚句」にも「行こか塩尻帰ろか洗馬へ ここが思案の桔梗ヶ原」と唄われている。  
■ 
/ (「追分節」) 
←「塩尻節」 
 
行こか塩尻、戻ろか洗馬へ ここが思案の桔梗が原 
「古間甚句」「古間音頭」  
古間の里(現・信濃町古間)は、その昔”北国街道”のとして開けたところです。加賀百万石の前田侯が参勤交代の折行き来したところから、別名”加賀街道”とも呼ばれたこの街道にあって、古間は「商人の宿場」として発達しました。遊女が客を呼び、”ごまのはえ”がうろついたという当時の古間宿のにぎわいは、長野から越後路の高田まで最も活気のある宿場として知られていました。この宿場盆踊りの歴史は古く、しかしその起源については資料がなくよくわかっていません。慶弔14年(1609)当時、京都の旅人「成田五郎左衛門忠明」と名乗る人が、この古間の地に宿を取った際、あたかも当地の氏神様の秋祭りで賑わい、見物に出かけたその旅人がこの地の若人衆をお宮の境内に集めて 「奉賛踊り」を教えたのが、そもそもこの古間音頭の始まりだと伝えられています。  
以来、この宿場の若い衆によって受け継がれてきました。節回しは悠長で素朴ですが、哀愁をたたえたこの踊りが、農民や宿場の人たちの気持ちにふさわしかったのでしょう。踊りには古間音頭、いわゆる「おけさ踊りと甚句」の2つからなっており、彼の百万石の領主加賀の殿様が江戸への参勤交代の道すがら、大名諸侯や旅人達が疲れを忘れてこの宿場の人たちと交わり一夜を踊り明かしたといいます。特産の鎌を打つ音が通りに鳴り響いて、にぎわう街道を一層活気づけたそうです。大正9年、当時の警察のお達しにより、歌詞にいかがわしい点があるので、変えなければ踊り一切はまかりならぬとの命に従い、新たに一般住民から歌詞を募集し、従来のおけさ踊りを古間音頭に改名したそうでです。この頃(大正末期)から、近くの野尻湖に外国人の別荘ができ始め、秘書に来た外国人も踊りに交わり、「フルマボンダンス」と親しまれるようになり、国際色豊かな盆踊りの風景になったそうです。  
また信濃町町史によりますと、年代は定かではありませんが、古間鎌の開祖は、越後三条からきた某と呼ぶ若衆だと言われています。その若衆が鍛冶場で鞴を噴かしながら口ずさんだ歌が古間音頭の発祥だとも伝えられています。昔から口伝えで歌われてきたので、人によって節回しが多少異なっていました。それが昭和2年夏、野尻湖へ避暑に来た外国人音楽教師のカリーさんが規則だった楽譜を作ってくれたので謂ば正調な曲が完成しました。  
甚句とは地の句(その土地の歌)と越後の国の甚九という人が始めたと言う2つの説があります。古間音頭と古間甚句は節回しは全く違うのですが、歌詞は両方とも同じです。歌詞は七・七・七・五の四句から成り立っています。 
 
←「奉賛踊り」 
 
人情こまやか古間の里は 鎌と酒とで名が高い  
古間よいとこうちわはいらぬ 都殿御の夏すゞみ  
西は黒姫東は斑尾 おあいに美し鳥居川  
鳥居水上戸隠水は 古間田んぼの稲の母  
起きて行かんせ朝草刈に 鳥が鳴きます芝山に  
今宵一夜は浦島太郎よ 開けて悔しや玉手箱  
揃うた揃うた踊り子が揃うた 稲の出穂よりゃよく揃うた  
今年や豊年だよ穂に穂が咲いて 枡はいらない箕ではかる  
誰か来たよだ流しの外で 鳴いた松虫や音を止めた  
・・・ 
明日は旦那の稲刈りだ 小束に丸めてちょいと投げる 
「芋井甚句」  
この甚句の起源を示す物証はないが、農作業に伴う労作歌が人々の交流と共に上ヶ屋地区にも伝わり、踊り唄として盆踊りに常時歌われるようになり今に伝えられてきたものと考えられる。現在ではお盆や運動会時に芋井地区公民館及び学校で行われている。言い伝えでは、殿様・幸貫のとき、御本陣の庭で踊り、お褒めの言葉をいただいたといわれていることから江戸時代後期、甚句は踊りと一体となっていたことが窺(うかが)われる。歌詞は、当初のころは各地の民謡を 「上ヶ屋甚句」(明治22年芋井村が誕生するに及んで芋井甚句となる)の調子で歌うとか、音頭取りが即興的に歌っていたが、昭和3年に桜青年会が、昭和50年には保存会が歌詞の募集を行い、この甚句の普及に努めた。この甚句は、緊張感の強い篠笛の伴奏で、唄、笛太鼓の合奏形態を持ち、反復句と笛と唄との音の高さの違いによる副旋律の要素を持つ。また、唄の休みの間に華やかで力強い笛や太鼓の音を聞くようになっているなどの高い音楽性と、誰でも踊れるゆったりした稲の葉や稲穂が風にそよぐ様や田の草を取る様など素朴な甚句踊りで、地方的特色を今日まで永々と保存し続けてきた貴重な甚句である。 
「伊折甚句」   
江戸中期から唄い、松代藩の領民が我が殿へ祝意都賞賛の気持ちから歌い継がれてきた。伊折虫倉神社から松代周辺が見える場所に藩主幸貫公より大鳥居が寄贈され、繰り返して唄われた。  
「木遣り唄」 諏訪大社  
御柱の曳行にかかせないものに、木遣りがあります。声自慢の唄い手達が、揃いのハッピ姿に鉢巻もりりしく、長いオンベを高くかざして唄う木遣り唄には大きい目的があります。それは、数千人の曳き子の皆さんに曳きどころを伝達するために、たとえ男の唄い手であっても曳き子の先頭まで届く、独特の高くて大きな声の発声を要求されています。 曳き子はその唄声を受けてヨイサ・ヨイサと意気を合わせて曳き綱を曳くことによって御柱は前へと進むことができます。先頭へ届かない木遣りでは曳き子の息が合わず御柱を動かすことはできません。 この木遣り唄の歌詞もその調子も、上社側と下社側では、多少の相違があって、それぞれの特色を今日に伝えています。  
「上社の御柱木遣り唄」  
(御柱の曳行始まり)  
御小屋の 山の縦の木は 里へくだりて 神となる  
山の神様 御乗立て 御双方 御手打 綱渡り工ー  
男綱女綱の 綱渡り工ー 御双方様 ご無事でお願いだー  
綱渡りだでー お願いだー  
本(もと)から 末(うら)まで お願いだー  
ここは木落し お願いだー  
ここは宮川川越しだ どうでもこうでも お願いだー  
(安国寺御柱屋敷到着)  
山の神様 お帰りだー 皆様ご無事で おめでとう  
ここは前宮ーの 坂テコ方衆 やれお願いだー  
卸双方 御手打ち お引取りー  
(本宮境内に近づく)  
ここはきざはし お願いだー  
もうー息だでー おねがいだー  
どうでもこうでも おねがいだー  
(本宮到着)  
山の神様お帰りだー 皆様ご無事で おめでとうー  
卸双方 御手打ち お引取りー  
千秋落だでー おめでとうー  
「下社の御柱木遣唄」  
(御柱の曳行始まり)  
奥山の大木 里へくだりて 神となる ヨーイサ  
綱渡りヨーイサ  
男綱女綱の 綱渡り ヨーイサ  
本(もと〉から 末(うら)まで 綱渡り ヨーイサ  
伊勢神明 天照皇大神宮 八幡大菩薩 春日大明神  
山の神が 先立ちて 花の都へ 曳きっける ヨーイサ  
ここは木落し お願いだー  
本から末まで お願いだー  
もうー息だでー お願いだー  
(御柱が動き出し)  
ヨイサ ヨイサ ヨイサ オイサ コーレハサンノーエ ヨイショ ヨイショ  
(御柱が止まれば)  
テコかっとくれ ヤレ ヨイトコショ    
アラ ヨイトコショ ヤレ ヨイトコショ    
アレハサンノーウェー コレハサンノーウェー  
「長持唄」 諏訪大社  
御柱見物の楽しみのひとつとして無くてはならない長持連がある。長い棹(さお)に重い長持をつけユッサユッサと息を合わせ、上下に揺らせながら諏訪大社周辺を練り歩く長持姿は実にかっこの良いものである。御柱長持の元来、御柱の曳行にあたって曳き綱を運んだり、警護の武士や徒士の荷を運んだり、御柱奉仕者の荷物をまとめて運んだりしたものと伝わるが、その形態は時代とともに段々と形を整え、単に荷物を運ぶことを超え、担ぐ所作に長持唄を加え、各地区独自の形態を整えることにより、御柱に乗ったり曳いたりへの参加ができなかった女性など街道に集まる見物人を楽しませるものに変化していった。その他、長持箱をつけずに直接諏訪大社への献上米俵をつけて運ぶ、長持も下社方面では見ることができる。今では、御柱祭には欠くことのできない催し物のひとつである。  
 
諏訪にナー 名高きヤレヤレ 御柱祭の 今日はナー 山出し 登りかけナーヨー  
諏訪のナー 御御柱ヤレヤレ 申寅の年 今年やナー 寅(申)年 お目出度いナーヨー  
祭り祭りと 数あるけれど 諏訪の 御柱 日本一  
男見るなら 七年一度 諏訪の木落し 坂落し  
どうせ乗るなら 木落しお乗り 諏訪の男の 度胸だめし  
ござる長持や 御柱御用 かつぐ若衆は 諏訪の花  
御小屋出て見りゃ 明神様の 森が見えます ぽのぼの  
「新野の盆踊」 (「おさま甚句」)  
長野県下伊那郡阿南町新野(にいの)に伝わるもので、毎年8月14-16日、24日の各日の夜から翌朝にかけて催され、太鼓・笛・三味線など囃子を一切伴わない古風な踊りが特徴である。17日の早朝、鉦・太鼓を打ちながら精霊を送り出す儀礼を行う。音頭台と呼ばれる櫓を組み、その上に音頭取り5、6名が上がり、踊り手は音頭台を中心に細長い輪を作る「輪踊り」形式で、音頭取りの歌を受け、続く歌詞を歌い返し、踊りつつ進む。  
「すくいさ」「音頭」「高い山」「おさま(甚句)」「十六」「おやま」「能登」の7種の踊りがあり、いずれもゆっくりとしたものである。右手に扇を持って踊るもの、踊る方向が逆回りに進むものなどもある。「市神様」「お太子様」の和賛(わさん)、「百八タイ」と呼ばれる小さな木片を燃やす「タイとぼし」、精霊送り、切子灯籠など、盆行事との関わりが深く、祭祀的要素が強い。 
500年以上も続く静かな盆踊り / 盆踊りといえば、楽器に合わせた踊りが一般的ですが、新野の盆踊りは三味線、笛、太鼓といった鳴り物を一切使いません。櫓の上にいる音頭取りの「音頭出し」と、その下で踊る踊り子の「返し」の声だけで踊りが進められる、素朴な盆踊りです。新野の盆踊りのはじまりは、定かではありませんが、室町時代の末期、享録2年瑞光院建立の折、入仏式に三州振草下田の人々来て踊った「おさま」を村の人たちが習ったのがはじまりといわれています。踊りの種類は、扇子を持って踊る「すくいさ」「音頭」「おさま甚句」「おやま」と手踊りの「高い山」「十六」「能登」の7つ。このうち、「能登」は17日の朝方「踊り神送りの式」の間だけけ踊られ、それ以外の時間帯は、他の踊りを適当に変えながら踊りますが、毎晩最初に踊るのは、「すくいさ」と決まっています。「ひだるけりゃこそ すくいさにきたに たんとたもれや ひとすくい」昔は、お盆に庄屋さんの家で米を振る舞い、それを「たくさんすくいなさい」という、食糧の確保が困難だった時代の農民の願いが、「すくいさ」の歌い出しの句にこめられているといわれています。踊りの開始時間は午後9時からで、15日と16日の朝は午前6時で終了し、17日の明け方に踊り神送りの式が行われます。  
踊り神送りの式 / 踊り神送りは、信仰と結びついた新野の盆踊りの特徴のひとつです。17日の明け方、市神様の神前で御嶽行者の先立ちで和讃を唱えます。このときに踊るのが「能登」です。櫓から切り子灯籠が下ろされ、太鼓を叩いて行列を作り、瑞光院とは反対側の「太子堂」まで行き、そこでまた和讃を唱えます。行列が瑞光院参道脇の広場まで行くために戻って来て、その先頭が市神様を通り過ぎると「能登」をやめなければいけない決まりになっています。しかし、盆踊りが終わってしまうのを惜しむ踊り子たちは、行列の進行を阻止しようと小さな輪を作って踊り続けます。踊りをやめさせようとする行列とのやりとりが新野の盆踊りのクライマックスです。広場まで来ると、切り子灯籠を積み重ね、その前で行者が呪文を唱え九字を切り、刀を抜いて道切りの式をします。花火の合図で切り子灯籠に火が点けられ、一同振りむかずに秋歌を歌いながら帰ります。  
新野の盆踊りと信仰 / 神仏混合の独自の盆踊りは、神迎え、神送りが1年の区切りという考え方に基づいて行われます。1年の前半が麦の月、後半が稲の月とし、1月の雪まつりで神々が祝福のために新野に訪れ、7月には祖先の霊が帰ります。盆踊りには精霊迎えの行事と踊り、神送りの古い信仰の形が残されています。  
「すくいさ」  
ひだるけりゃこそすくいさに来たに たんとたもれよひとすくい   
新野泊まりで 一度はおいで 雪の祭りに盆踊り   
新野新野と 皆行きたがる 新野住みよい水が良い   
盆にゃおいでよ 七月はおいで 死んだ仏も盆にや来る   
踊らまいかよ 踊らせまいか 年に一度の盆じゃもの   
今年初めて 我が子が踊る 褒めておくれよお月様   
久しぶりだよ故郷の月で 夫婦揃って盆踊り   
思い出したら また来ておくれ 新野 千石 盆踊り   
田植えざかりに 泣く子をほしや 畦に腰ょかけ乳添える   
腰の痛さよ この田の広さ 四月五月の日の長さ   
木曽へ木曽へと付け出す米は 伊那や高遠のあまり米   
月と一度にではでたけれど お月ゃ山端にわしゃここに   
月は丸いと定めちゃあれど 角に差し込む窓の月   
私ゃ伊那の谷 谷間の娘 蚕怖がる子は生まぬ   
新野泊まりで一度と言わず 二度も三度も来ておくれ   
夏が短い千石平 熱く燃えるは盆踊り   
あまり踊りが退屈したに 踊りょ変えますご連中に   
「高い山」  
高い山から谷底見れば 瓜やなすびの花ざかり   
行者山から新野を見れば 人は丸いが田は四角   
高い峠のあの風車 何をたよりにくるくると   
唄えお十七声張り上げて 唄でご器量は下がりゃせぬ   
唄いなされよお唄いなされ 声の立つ時ゃ若い時   
唄でご器量がもしさがりたら 時の相場で上げてやる   
松になりたや峠の松に 上り下りの客を待つ   
松と言う字は木偏に公よ 君に気がなきゃ待つじゃない   
松に下がり藤ゃ見事のものよ おらも下がりたや松に藤   
松と付けまい我が子の名をば 待つは憂いもの辛いもの   
姉の霧島妹のさつき さつき負けるな霧島に   
年に一度の楽しい祭り 雪の祭りに盆踊り   
あし毛子馬の中荷が過ぎて 登りかねたよ治部坂を   
馬が七匹 馬方一人 案じまするぞよけ合いを   
急げ馬方はよ漕げ船頭 西の黒雲雨となる   
盆よ盆よと春から待ちて 盆が過ぎたら何を待ちる   
盆が来たとてうれしゅもないに おらは去年の古肌着   
さあさ皆様しおれちゃだめだ 二度としおれりゃ悟られる   
あまり踊りが退屈したに 踊りょ変えますご連中に   
「音頭」  
音頭とる子の声なら欲しや 深山ならしの 蝉の声   
音頭とる子が橋から落ちて 橋の下でも音頭とる   
新野泊まりで一度はおいで 雪の祭りに盆踊り   
新野良いとこ千石平 嫁にやりたや婿欲しや   
揃ろた揃ろたよ踊り子が揃た 稲の出穂よりゃまだ揃ろた   
稲の出穂には出むらがあるが 今宵踊りにゃむらがない   
稲は穂に出て畦よりかかる 私ゃあなたに寄りかかる   
遠い空から踊り子照らす 月も踊るよ盆踊り   
ちょいと来てくれ新野の盆に 人が集まりゃ輪ができる   
娘島田に嫁ゃ勝山に 姑ばばさはいぼまげに   
娘島田にちょうちょが止まる 止まるはずだよ花じゃもの   
天竜下ればしぶきにぬれる もたせやりたや桧笠   
はるか向こうの赤石山に 雪が見えます初雪が   
あまり踊りが退屈したに 踊りょ変えますご連中に   
「おさま甚句」  
おさま甚句はどこからはよた 三州振草下田から   
三州振草で安いものは煙草 一両二歩出しゃ五段買う   
三州振草の芋田楽は 親もさせるが子もさせる   
信州信濃の新ソバよりも 私ゃあなたのそばが良い   
心細いぞ木曽路の旅は 肩に木の葉が舞いかかる   
木曽の御嶽ゃ夏でも寒い あわせやりたや足袋添えて   
あわせばかりでやらせもせまい 襦袢したてて足袋添えて   
天気良ければ大垣様の 城の太鼓の音の良さ   
尾張名物宮重大根 金のシャチホコ雨ざらし   
お伊勢参りで飲んだか酒を 天の岩戸の菊酒を   
天の岩戸の菊酒さえも 銭が無ければ見て通る   
伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ   
酒の肴にうどんかそばか 少しゃ切れてもそばがよい   
酒に寄た寄た五勺の酒に 一合飲んだら由良之助   
お手が鳴りたら調子と悟れ 又も鳴りたら煙草盆   
親の意見と茄子びの花は 千に一つの無駄がない   
お寺ご問堂に蜂が巣をかけて 坊主出りゃ刺す入りゃ刺す   
お寺和尚様栃餅が好きで 昨夜九つ今朝七つ   
あまり踊りが退屈したに 踊ょ変えますご連中に   
「十六」  
新野十六習いたきゃござれ 金の四 五両も持てござれ   
金の四 五両もいることなれば 新野十六まずやめだ   
今年ゃ十六ささげの年で 誰に摘ませる初なりを   
良くも染めたよ博労さの浴衣 肩にゃ影馬すそ栗毛   
新野にくればはっぴに浴衣 扇子片手に盆踊り   
夏に輪になり櫓を囲み 盆の踊りに里帰り   
こぼれ松葉を手でかきよせて 主の来る夜をたいて待つ   
松の小枝でクルミをたいて まつにくるみのうれしさよ   
桜三月アヤメは五月 菊は九月の末に咲く   
咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る   
色気づいたに気をつけしゃんせ 裏の畑のほおずきが   
姉もさしたに妹もおさし 同じ蛇の目のからかさを   
死なば夏死ねアボ・カも鳴くに 蝉がお経読む木の裏で   
声が枯れたら馬のケツねぶれ 馬のケツからこえが出る   
唄につまずきゃありそなものよ 私ゃ話につまずいた   
あまり踊りがそくばくするに 調子ょ揃えて手をたたけ   
揃ろた揃ろたよ踊り子が揃ろた 稲の出穂よりゃまだ揃ろた   
稲の出穂には出むらがあるが 今宵踊りにゃむらがない   
今宵一夜は浦島太郎 開けて悔しや玉手箱   
あまり踊りが退屈したに 踊りょ変えますご連中に   
「おやま」  
おやま買う金 私におくれ わしがおやまの代をする   
いじゃよ友達 朝草刈りに 千鳥は山で鳥が鳴く   
千鳥は山の 鳥がなくままよ 何の草やら一 二駄ん   
新野泊まりで一度はおいで 雪の祭りに盆踊り   
新野新野と皆行きたがる 新野住みよい水がよい   
盆よ盆よと春から待ちて 盆が過ぎたら何ょ待ちる   
あまり踊りが退屈したに 踊りょ変えますご連中に  
「土搗節」  
もとは、家を建てるときの基礎の地固めや、開田のときの地形造りに唄われた唄だが、酒盛り唄としても広く唄われ、殊に 婚礼の席では「高い山」と共に欠くことの出来ない唄であった。福島・新開で広く唄われていて、開田村の唄と全く同じで、地搗節とも云う。  
 
今日は日も好し石場が坐る 石場坐ればコリャ   
 酒が出る オモシロヤー サーヨッサイ アーモッサイ  
三の石場は火伏せのご祈とう お家火難は ないとつく  
ここのお家は目出度い お家いつも どんどと唄の声  
ここのお背戸にみょうがとふきと みょうが 目出度や富貴繁盛  
土手のもぐらもちゃまだ年若い どんな石でも 持ちゃげます  
嫁と婿とは石臼育ち 入れて まわせば粉ができる  
ここは乾か乾の隅か おつき納めて お目出度い  
小谷民謡六曲 (北安曇郡小谷村)  
「小谷松坂」「小谷おけさ」「酒造り唄」「小谷馬方節元唄・小谷馬方節」「小谷甚句」「夜叉武者」の6曲  
小谷松坂(座敷唄)  
目出度かろうぞ世はいつまでも 鶴がご門に巣をかけた  
鶴がご門に巣をかけますりゃ 亀がお庭で舞を舞う  
小谷おけさ(座敷唄)  
おけさ踊るなら板の間で踊れ 板のひびきで三味ゃいらぬ  
あいも見もせにゃこがれもせまい 雉子もなかずばうたれまい  
唄は理に積む鳥ゃ木に止まる 人は情けの下に住む 
「小木曽甚句」 
「末川甚句」 
「柏原甚句」 
 
 
 
 
 
 
 
 

北海道東北関東近畿中国四国九州 
山梨県静岡県長野県新潟県愛知県岐阜県石川県富山県福井県

新潟県

 

「岩室甚句」  
芸妓衆のお座敷の騒ぎ唄。昭和7-8年頃、岩室の鴬芸者・小竜と初江が中心となり、三味線の手と太鼓を工夫、今日の「岩室甚句」を作り上げた。母体になっているのは、近郷の農民たちが盆踊りに唄う「越後甚句」の一種であり「新潟甚句」や「長岡甚句」などと同系統のものである。新潟や長岡のような派手な芸風とは対照的に、素朴な温泉場の唄らしい野暮さがある。岩室温泉は、昔、一羽の雁が舞い降り、傷をいやしていたのを村人が見たのが始まりとされ、一名「霊雁の湯」という。弥彦神社参詣の人々の宿場として栄えた。  
 
新潟県のほぼ中央、越後平野の西側に聳える霊峰・弥彦山(638m)の山懐に抱かれたところに、越後一の宮弥彦神社があります。そこから更に5qほど北上した北陸街道沿いに、名湯岩室温泉があります。この弥彦詣りの客で賑わった岩室の御座敷で歌われてきたのが《岩室甚句》です。記録では、『北越月令』(嘉永2年)に「七月盆踊の唱歌」のなかに、「岩室甚九郎ぶし」として「石瀬通いが病(やまい)となりて、今は岩室湯もきかぬ」といった歌詞で6首が掲載されているといいます。こうしたことから、かつては岩室あたりの盆踊り唄として歌われていたようです。新潟は「越後甚句」として、同系統の曲が各地に伝わっていますが、そうした甚句の1つであったと思われます。こうした素朴な甚句だった唄に、昭和7〜8年頃、岩室の名芸妓・小竜と初枝の両人が三味線の手をつけ、太鼓も入れ、今日のような座敷唄に仕立てたといいます。唄は七七七五調を基本としますが、字余りも多く、歌詞の内容も越後なまりの楽しいもので、ほのぼのとした感じです。テンポは他の「越後甚句」よりもテンポをゆったりとさせ、湯上がりのけだるさのただよう唄になっています。  
 
/ 「越後甚句」「新潟甚句」「長岡甚句」  
 
(ヨシタヤーヨシタヤー) 
おらがヤー若い時 弥彦詣りをしたればナー (ヨシタヤーヨシタヤー) 
なじょが見付けて 寄りなれというたども 
嬶が居たれば 返事がならぬ (アーヨシタヤーヨシタヤー)  
蝸牛ャー蝸牛 角出せ蝸牛  
角を出さぬと 曽根の代官所へ 申し上げるがいいか蝸牛  
村の子供と良寛さまは 日暮れて忘れて隠れんぼ
「佐渡甚句」 
相川方面の酒盛り唄。もとは佐渡各地の甚句の意味であったが、戦後、「相川二上り甚句」を改めて「佐渡甚句」と呼ぶようになった。下の句を反復して唄うのが特徴。  
 
/ 「相川二上り甚句」「さし踊り」「相川甚句」 
 
来いと言うたとて 行かりょか佐渡へ  
佐渡は四十九里 波の上  佐渡は四十九里 波の上
「相川甚句」 (「相川二上り甚句」「さし踊り」) 
相川甚句は盆踊りうたです。古くは「相川二上り甚句」、「さし踊り」ともよばれ、寛永のころうたわれていたらしい。この甚句は、歌い手がまず歌うと、踊り手が、ハアシャンシャン、とあいのてを入れる。そして歌い手が一節歌い終わると、7、7、7、5調の7と5を繰り返し踊り手が唱和する。この踊りはおけさや音頭と違い右回りに進み、簡単で踊りやすい。  
 
佐渡は相川の佐渡甚句である。大正時代まで相川甚句と呼ばれていた。相川在来の盆踊り歌で、古くは「相川二上り甚句・さし踊り」といい、昭和20、30 年代、東京などでは「佐渡甚句」として知られた。歌詞は佐渡おけさと同じ。元歌は「都々逸」から取り入れられたものが多い。寛永(1624 − 1643)の頃より唄われていたらしい。音頭とりが最初に唄い、踊り手が第二節だけを繰り返し唱和し、第一節のあとにシャンシャンといれる囃子と同じように、この第二節の繰り返し唱和のあとも、ハァーシャンシャンと囃子をいれる。踊りは「おけさ」や「音頭」と異なり右まわりで平易で踊りやすい。   
 
相川在来の盆踊り歌で、古くは「相川二上り甚句・さし踊り」といい、昭和20、30 年代、東京などでは「佐渡甚句」として知られた。歌詞は佐渡おけさと同じ。元歌は「都々逸」から取り入れられたものが多い。寛永(1624 − 1643)の頃より唄われていたらしい。音頭とりが最初に唄い、踊り手が第二節だけを繰り返し唱和し、第一節のあとにシャンシャンといれる囃子と同じように、この第二節の繰り返し唱和のあとも、ハァーシャンシャンと囃子をいれる。踊りは「おけさ」や「音頭」と異なり右まわりで平易で踊りやすい。  
○ 下の句を繰り返すのは金井町新保の「佐渡盆踊、古甚句」と同じ。「相川二上がり甚句」とも言い、幕末には江戸でもかなり流行した。  
○ 太鼓は、昔は三味線だけで時々鼓を間に入れる位で小太鼓を使用したことがあるが野踊りでは何もなかった。そこで座敷踊りの時はあまりに淋しいので「おけさ」に使う大小二個の太鼓を使って間の打ち方を作曲して伴奏とした。  
○ 中川雀子「紅葉山人おけさを踊るー佐渡の甚句と両津」に、「大正の頃東京では「平和節」と称して書生節となったようです」とある。  
○ 相川甚句は新潟・長野両県下に広く分布する盆踊り唄の「えーよー節」が相川化したもの。  
○ さし踊りと言われ、相川音頭と共に江戸時代から佐渡で行われた盆踊りの一番古いもの。「さし踊り」は踊り始めに輪の中心に向かって足を差し出すもの。  
○ 立浪会の「佐渡おけさ」が全国的に有名になったのと同時に副産物としてこの唄も知られたと町田佳聲は「日本民謡大観」の中部編(北陸地方)(NHK :昭和30 年発行)に書き、加えて、元来「甚句」は陽旋風の節廻しだが、この曲は陰旋風で、おまけに「甚句」には7775 以外にほとんど繰り返しがないのにこの曲は75 の下の句が歌詞も曲折もそのまま反復されるとも書く。  
 
←(都々逸)
「おけさ節」  
新潟県の代表的民謡。九州の「ハイヤ節」が海路を経て越後にはいってから、土地の「おけさ」と歌い出す歌や甚句と結び付いてできたといわれる。「佐渡おけさ」は佐渡相川の金山の鉱夫たちが歌うようになった「相川おけさ」が1926年に「佐渡おけさ」としてレコード化し、普及した。  
 
民謡。「おけさ」「おけさ節」という曲名は各地に散在するが、新潟県佐渡島の踊唄である「佐渡おけさ」がとくに有名。お桂(けい)という新潟の芸妓が歌い出したので「お桂さん節」がなまって「おけさ節」となったとする説もあるが、現在は佐渡が発祥の地と考えられている。新旧の2種類があり、現今のものは村田文三を中心に相川の立浪会が大正末から保存、研究、普及に努めたもの。旧おけさはもっとテンポの早いものであり、地元の人はこれを「ハイ(ン)ヤ節」と呼んでいたという。  
 
日本民謡の一つ。「おけさ見るとて葦(よし)で眼(め)をついた」とか「おけさ正直なら」といった歌詞があり、「おけさ」とは、江戸時代後期に新潟県出雲崎(いずもざき)町あたりにいた船乗り相手の酌婦の名前である。その「おけさ」なる女性を詠んだ歌詞で歌う越後(えちご)の「おけさ節」は、地元の甚句(じんく)の節にのせて歌うものであった。ところが江戸後期、九州・天草の熊本県牛深(うしぶか)(天草市)生まれの酒盛り唄「ハイヤ節」が船乗りたちによって諸国の港へ持ち回られ、越後では新潟や出雲崎の港へ伝えられた。すると越後の人たちは、在来の「おけさ節」の歌詞はそのまま生かし、節のほうを流行の「ハイヤ節」に取り替えてしまった。言い換えれば、「ハイヤ節」の歌詞が不足しているので、在来の「おけさ節」の歌詞を利用したのである。それが越後の花柳界で育てられ、「新潟おけさ」「寺泊(てらどまり)おけさ」「出雲崎おけさ」「三条おけさ」「柏崎(かしわざき)おけさ」など多種多様の「おけさ節」に発展していった。なお「おけさ」というとすぐ佐渡(さど)島の「佐渡おけさ」を思い浮かべることが多いが、これは1906年(明治39)ごろ越後側の「おけさ」の人気にあやかって改名したもので、「おけさ」の本場は越後側である。 
「佐渡おけさ」  
新潟県佐渡市(佐渡国)に伝わる「おけさ節」の1つである。現在では佐渡を代表する民謡として全国に知られている。おけさの歴史は、熊本県天草市の牛深港(旧牛深市)に伝わる酒席の騒ぎ唄である牛深ハイヤ節が、北前船の船乗り達によって小木港(旧佐渡郡小木町)に伝わり、「小木おけさ」として広まり、それが相川(旧佐渡郡相川町)の佐渡金山の鉱夫達に広まって、「選鉱場節」として哀愁漂うメロディとなったとされている。また、赤泊港(旧佐渡郡赤泊村)の「山田のハンヤ」(佐渡ハンヤ節)が小木に伝わったとの説もある。  
「選鉱節」が明治39年「相川おけさ」となり、大正10年に開催された「第二回全国民謡大会」において初めて「佐渡おけさ」として発表された。大正15年「青化選鉱場」に勤務していた村田文蔵が日蓄レコードより「佐渡おけさ」を発売し、山田耕筰・藤原義江に絶賛され、ビクターレコードの専属歌手に転職、全国はもとより、南樺太、満州国、台湾、朝鮮などでコンサートを開催し、佐渡おけさを普及させた。昭和6年、浪曲師の寿々木米若が民話「佐渡情話」をアレンジし中に「佐渡おけさ」を取り入れ発売し、大ヒットとなり、再び「佐渡おけさ」が脚光を浴びた。  
「相川おけさ」 
相川で発達した「おけさ」で大正10 年に「佐渡おけさ」呼称が出来て後も「相川おけさ」名称は残り、大正15 年NHK に出演した際に「相川おけさ」を「佐渡おけさ」呼称と名乗った。相川にはその他に「選鉱場おけさ」や遊郭で唄われた「水金おけさ」もあった。  
「此ノおけさ節ハ編者ノ幼時(六十余年前)ニ聞キタル時ニモ小木ノ節トハ頗ル異ナリタリシニ今ノ節ハ亦其時トハ大ニ異ナレタレハ昔ノ小木ノ節トハ更ニ大ニ異ナル然ルニ今ハ小木ニテ相川節ヲ真似テ却テ同クナリシモ亦一奇ナリ」  
 
/ 「相川おけさ」「新潟おけさ」「寺泊おけさ」「出雲崎おけさ」「三条おけさ」「柏崎おけさ」 
←「牛深ハイヤ節」「おけさ節」  
 
ハアー 佐渡へ (ハ アリャサ)  佐渡へと草木もなびくヨ (ハ アリャアリャアリャサ)  
 佐渡は居よいか 住みよいか (ハ アリャサ サッサ)  
佐渡へ 八里のさざ波こえてヨ 鐘が開える 寺泊  
雪の 新潟吹雪にくれてヨ 佐渡は寢たかよ 灯も見えぬ  
佐渡へ 来てみよ 夏冬なしにヨ 山にゃ黄金の 花が咲く  
來いと ゆたとて行かりよか佐渡へヨ 佐渡は四十九里 波の上  
波の 上でもござるならござれヨ 船にゃ櫓もある 櫂もある  
佐渡の 金北山はお洒落な山だヨ いつも加茂湖で 水鏡  
霞む 相川夕日に染めてヨ 波の綾織る 春日崎  
夏の 相川夕焼け雲にヨ 金波銀波の 春日崎  
真野の 御陵(みささぎ)松風冴えてヨ 袖に涙の 村時雨  
おけさ 踊りについうかうかとヨ 月も踊るよ 佐渡の夏  
おけさ 踊るなら板の間で踊れヨ 板の響きで 三味いらぬ  
佐渡と 越後は竿さしや届くヨ 橋をかけたや 船橋を  
佐渡と 柏崎ゃ竿差しゃ届くよヨ 何故に届かぬ 我が思い  
佐渡の 三崎の四所御所櫻ヨ 枝は越後に 葉は佐渡に  
佐渡の 土産は数々あれどヨ おけさばかりは 荷にゃならぬ  
月は 傾く東は白むヨ おけさ連中は ちらほらと  
おけさ 正直なら傍にも寢しよがヨ おけさ猫の性で じやれたがる  
来いちゃ 来いちゃで二度だまされたヨ またも来いちゃで だますのか  
来いちゃ 来いちゃでおけさは招くヨ 佐渡は踊りに 唄の国  
佐渡の おけさかおけさの佐渡かヨ 渡る船さえ おけさ丸  
居よい 住みよい噂の佐渡へヨ 連れて行く気は ないものか  
度胸 定めて乗り出すからはヨ 後へ返さぬ 帆かけ船  
山が 掘れたら黄金が出るにヨ 主に惚れたら 何が出る  
泣いて くれるな都が恋しヨ 啼くな八幡の ほととぎす  
花に 誘われ雲雀にゃ呼ばれヨ 今日も出て行く 春の山  
明日は お発ちかお名残惜しやヨ せめて波風穏やかに  
島の 乙女の黒髪恋しヨ またも行きたや 花の佐渡  
おけさ 連中と名を立てられてヨ おけさやめても 名は残る  
沖の 漁り火涼しく更けてヨ 夢を見るよな 佐渡ケ島  
沖の(遠い) 漁り火夜になく鴎ヨ 波は静かに 更けていく  
二見 夕焼け三崎は霞むヨ 真野の入り江に 立つ鴎  
小木は 間で持つ相川山でヨ 夷(えびす)港は 漁で持つ  
あなた 百までわしゃ九十九までヨ 共に白髪の 生えるまで  
咲いた 桜になぜ駒繋ぐヨ 駒が勇めば 花が散る  
佐渡で 唄えば越後ではやすヨ 踊る鴎は 波の上  
海じゃ 漁する鉱山じゃあてるヨ 佐渡は住みよい 暮らしよい  
佐渡の おけさと日蓮様はヨ 今じゃ知らない 人はない  
仇し 仇波寄せては返すヨ 寄せて返して また寄せる  
仇し 情けをたもとに包みヨ 愛はゆるがぬ 襷がけ  
浅黄 手拭鯉の滝登りヨ どこの紺屋で 染めたやら  
三味や 太鼓で忘れるようなヨ 浅い思案の わしじゃない  
浅い 川なら膝までまくるヨ 深くなるほど 帯をとく  
押せや 押せ押せ船頭も舵子もヨ 押せば港が 近くなる  
お国 恋しや海山千里ヨ みんなご無事か 佐渡島  
追えば 追うほどまた来る雀ヨ 引けば鳴子の 綱が鳴く  
矢島 経島小舟で漕げばヨ 波にチラチラ 御所桜  
待つに 甲斐ない今宵の雨はヨ 家におれども 袖濡らす  
嫌な お客の座敷を離れヨ 丸い月見る 主のそば  
思い 出すなと言うて別れたに 思い出すよな ことばかり  
恋に 焦がれて鳴く蝉よりもヨ 鳴かぬ蛍に 身を焦がす  
浪に 浮島浮名は立てどヨ 恋に沈んだ 音羽池  
伊勢は 朝日よ佐渡では夕日ヨ 海の二股 またがやく  
西行 法師は山見て勇むヨ わたしゃ主見て 気が勇む  
酒の 相手に遊びの相手ヨ 苦労しとげて 茶の相手  
花か 蝶々か蝶々が花かヨ 来てはチラホラ迷わせる  
水も 漏らさぬ二人の仲をヨ どうして浮名が 漏れたやら  
泣くな 嘆くな今別れてもヨ 死ぬる身じゃなし また会える  
固い ようでも油断はならぬヨ 解けて流るる 雪だるま  
遠く 離れて逢いたいときはヨ 月が鏡に なればよい  
望み ある身は谷間の清水ヨ しばし木の葉の 下くぐる  
咲いた 花なら散らねばならぬヨ 恨むまいぞえ 小夜嵐  
花も 実もない枯木の枝にヨ 止まる鳥こそ 真の鳥  
佐渡の 海府は夏よいところヨ 冬は四海の 波が立つ  
佐渡の 二見の二股見やれヨ 伊勢も及ばぬ この景色  
梅の 匂いを桜にこめてヨ しだれ柳に 咲かせたい  
新潟 名物朝市見やれヨ 一にイチジク 二に人参ヨ 三にサンド豆 四にシイタケ  
五にゴボウで 六大根 七つ南蛮売りナス売り菜売り 八つ山の芋 九に栗クワイ  
十でとうなすカボチャが売り切れた  
来いと 云うたとて ちょっこらちょいと隣の酒屋へ徳利持って  
1合や2合の酒買いに行くよなわけには 行かりょか佐渡はヨ 佐渡は四十九里波の上  
(ぞめき)  
(ざわめくの意味で テンポを速めて 賑やかさを出して唄う 歌詞は佐渡おけさと同じ)  
北は 北は 大佐渡 南は小佐渡ヨ 間(あい)の国仲 米どころ  
行こか 行こか 佐渡が島歸ろか越後ヨ 中に冴えたる 秋の月  
泣いて 泣いて くれるな出船の時はヨ 綱も碇も 手につかぬ  
「選鉱場おけさ」  
ハー 朝もナー (ハ アリャサ)早よから   
カンテラ下げてナーヨ (ハ アリャアリャアリャサ)  
 高任(たかとう)通いの 程のよさ (ハ アリャサ サッサ)  
鶴がナー 舞います高任(たかとう)[ 鶴子(つるし)]の山にナーヨ お山繁昌と舞い遊ぶ  
嫁もナー 姑も手をうち鳴らしナーヨ 五十三里を 輪に踊る  
燕ナー 可愛や千里の海をナーヨ 恋いの翼で 飛んでくる  
ピントナー 心に錠前掛けてナーヨ 合い鍵や互いの 胸に置く  
佐渡のナー 金山この世の地獄ナーヨ 登る梯子が 針の山 
「松坂」  
1 越後を中心に東北地方に分布する祝い歌。土地により「松坂節」「荷方(にがた)節」「謙良(けんりょう)節」などとよばれる。  
2 北陸から九州地方まで広く分布する盆踊り歌。1 が広まって変化したものとも、伊勢の古市で行われた伊勢節が広まったものともいう。松坂音頭。松坂踊り。  
 
日本民謡の分類上、祝い唄(うた)のなかの一種目。婚礼などの祝い座敷で歌われる唄で、それがまた曲目分類上の一種目にもなっている。その源流は不明であるが、「新発田(しばた)五万石枯らそとままよ」あたりの歌詞から「新発田」とよばれ、また「松坂越えて坂越えて」から「松坂」ともよばれ、現在の新潟県新発田市を中心に江戸時代中期以降に流行をみたようである。ところがその後「新潟松坂習いたかござれ」の歌詞が生まれると、歌い出しの文句をとって『新潟節』、それがなまって『にかた節』ともよばれるようになった。この「松坂」、別名「にかた節」は越後瞽女(えちごごぜ)や座頭によって諸国に持ち回られると、本来は流行(はやり)唄だったものが、いつか座敷での祝い唄となっていった。おそらく祝い座敷の流行唄が定着して祝い唄に昇格してしまったのであろう。なお青森県に残る『けんりょう節』は、座頭の最高位の検校(けんぎょう)が伝えてくれた唄ということで『検校節』と命名したのがなまったものである。  
 
/ 「松坂節」「荷方(にがた)節」「謙良(けんりょう)節」
「新発田甚句」  
越後甚句の一連の盆踊り唄。保存会も結成されている。溝口藩十万石の城下町・新発田市は、加治川と新発田川が町中を流れる。越後平野東部の農産物集散地として栄え、鉄鋼産業、製糸、酒造りの町としても知られている。地名については、アイヌ語で鮭の獲れるところという意味である「シビタ」、潟湖に接する意の洲端(すばた)、新開発新田の転訛などといった説がある。  
 
/ 「越後甚句」 
 
新発田よいとこ 東も西も 北も南も 黄金色
「長岡甚句」  
長岡は天和4(1684)年、牧野忠成が七万石で封ぜられ、以後、城下町として、信濃川の水運の要所として栄えてきた。毎年、盆になると、町のあちこちで笛・太鼓・鉦も賑やかに唄い踊られる。今では観光資源の一つとして、人々が町の目抜き通りを流して歩く。盆踊り唄と、芸妓衆の唄うお座敷唄の二通りある。新潟県から福島県会津地方にかけて広く分布する甚句の一種で、各地ともあまり変化はみせていない。「新潟甚句」「新発田甚句」と同系統。 
 
/ 「新潟甚句」「新発田甚句」  
 
(ハァーエーヤー) 長岡 柏の御紋 (ハァヨシタヨシタヨシタヨシタ)  
七万余石の (アリャ) 城下町  
 (イヤーサー余石の アリャ 城下町 ハァヨシタヨシタヨシタヨシタ) 
お前だか 左近の土手で 背中ぼんこにして 豆の草取りゃる  
お山の 千本桜 花は千咲く 成る実は一つ  
流れます 細谷川よ 重ね箪笥が 七棹八棹  
川西 わしゃ川東 中を取り持つ アノ長生橋  
揃たよ 踊り子が揃た 稲の出穂より アリャよく揃た  
踊りも 太鼓打つ人は 昔ならした アノ腕の冴え   
夜はよし しのびにゃ出たが 夕立村雨 片袖しぼる  
三夜の 三日月様は 宵にチラリと アリャ出たばかり  
百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の アリャ生えるまで  
お前さんの 声だと聞けば 眠い目も冴え その気も勇む 
「七浦甚句」 (「南部節」) 
真野湾の北に突き出た大佐渡の二見、米郷、稲鯨(いなくじら)、橘、高瀬、大浦、虎伏の七集落の総称が七浦で、善知鳥(うとう)七浦と呼ばれる七浦海岸は、それぞれが特色ある美しい海岸である。ここで酒席の騒ぎ唄として唄われていた。もとは「南部節」と呼ばれたが、これは岩手から青森の旧南部領に出稼ぎに行った人が持ち帰ったためである。曲は盆踊り唄の「なにゃとやら」が変化したもので「道南盆唄」などと同系統。  
 
囃子言葉は現在では「どっこいどっこいどーんとこい」であるが、昭和30年に岩崎文二が初めて吹き込んだレコードでは「どすこいどすこいドーンと来い」である。元々の歌詞は下北南部地方のものであったが、岩崎文二が二見を歌い込む歌詞を作った。レコード発表をしたその10年後、文二と同郷の同年の友人稲鯨出身で実業家で歌人であった若松健三氏が二見の名所、人情、風俗などを巧みに歌い込んだ新作を加えてよく歌われるようになった。多くの「佐渡おけさ」歌詞も含まれており、長い間に「七浦甚句」独特の歌詞のようになってしまったものもある。  
 
/ 「道南盆唄」     
←「なにゃとやら」 
 
浅い川なら膝までまくる深くなるほど帯を解く  
あの子こち向けかんざしゃ落ちるかんざしゃ落ちない顔見たい  
雨の降る時ゃ佐渡家と言われ佐渡家かさまら傘いらぬ  
一夜泊りで覚えた甚句今朝は別れの唄となる  
嫌で幸い好かれちゃ困るわしもこの頃他にある  
今じゃ磯辺の鴎でさえも乙女なかよく暮らす波  
   色でしくじる紺屋(こうや)の娘紺とあさぎを染め違い  
   歌を切らすななぜ歌切らす歌で求めたこの踊り  
   海は夕凪釘名(くいな)の浜を通る磯船主の舟  
梅に鶯鳴かないけれどやけに昼来て夜帰る  
江戸で吉原南部で宮古宮古まさりの鍬ヶ崎  
   逢(お)うてやまやま語ろとすれど逢えばうれしゅうて語れない  
   おかか騒ぐな盆だこそ踊る秋の八日だりゃ踊る  
   沖の敷島(引き島)灯りが揺れる可愛いあの子のさざえとり  
   沖は(海は)夕凪釘名(くいな)の浜を通る磯船主の船  
沖は小波漁火映えて殿は烏賊場か夜もすがら  
踊りたいけど身は振りづらい前のやや子(抱き子)が邪魔になる  
踊り疲れて浜辺に出れば沖の漁火ちらちらと  
踊る七浦甚句に明けて漁に暮れるか漁火が  
   お前夜叉水わしゃ奥山の谷の落ち水あわですむ  
   思い出しては写真を眺め眺め写真はもの言わぬ  
   思い出すより惚れよが薄い思い出さずに忘れずに  
   おらちゃ若い時ゃ砂原まで通た三幅前掛け帆にかけて  
   帰らしゃんすかまだ夜は夜中月が廊下の窓をさす  
かかを可愛い時ゃ子のないうちだかかに子がありゃ子が可愛い  
角に立つなよ足に血が下るお前好いてもわしゃすかん  
鴎泣く音にふと目を覚ましあれが蝦夷地の山かいな  
かわいがられて寝た夜もあるが泣いて別れた夜もござる  
子供連れ添た夫婦の岩に赤い入り陽がほのぼのと  
   佐渡の二見の二股見やれ伊勢も及ばぬこの景色  
   島のようなる絵にかく佐渡を歌で流すか帆かけ舟  
   しんぼしてくれ年なら五年せめてこの子が五つまで  
   そのまた柱を杖につき富士の山にも腰かけて  
タライ舟にて敷島通いサザエアワビの鳴きどころ  
月も仲間に甚句がはずむ踊り太鼓が空渡る  
出船かわいや入り船よりも見えた帆がさが早見えぬ  
どうせこうなりゃ二足のわらじ共に履いたり履かせたり  
どうせ行く人やらねばならぬせめて波風穏やかに  
どんと当たれば砕けて散らす波のしぶきの双ツ岩  
 
どんと打ち寄せ砕けて散らす波のしぶきの二つ岩  
泣いてくれるな出船の時にゃ綱も錨も手につかぬ  
泣くな嘆くな今別れてもいつかどこかで会える身だ  
長手岬から磯長々と波が音頭とりゃ岩踊る  
波は磯辺に寄せては返す明日は時化だよ船頭さん  
南部一番北田(喜太郎)の豊子反で二枚の着物着る  
南部津軽のあわ飯へ飯のどにつかえてしゃくとなる  
南部出る時ゃ涙で出たが今じゃ南部の沙汰もいや(ない)  
 
南部よいとこ女のよばえ男寝て待つ極楽だ  
晩ね行くぞやどの手が枕明日は追手の風枕  
吹いてくれるな夜中の嵐主は今夜も沖泊まり  
二見夕焼け静かに暮れりゃ人もうらやむ夫婦岩  
二見夕焼け静かに暮れりゃ月の笑顔に銀の波  
二見夕焼け三崎はかすむ真野の入り江にたつ鴎(藤紫)  
   
惚れた顔すりゃあの馬鹿野郎が雨の降る夜も通てくる  
惚れたからとて毎晩来てはダメだ月に二度とか三度とか  
盆の十六日ゃ第三日だ踊る子供の縁日だ  
夫婦岩から岬を見れば月の光で岩踊る  
目もきく歯もきくえらもきく明日は殿ごの便り聞く  
夕べ見た夢めでたい夢ださかづき台に菊植えて  
夕べ見た夢でんぽげな夢だ千石船を下駄にはく  
別れ惜しむなおかもいさまよ何故に女の足止めに  
わたしゃ磯辺の鴎となりてついて行きたいどこまでも
「新潟甚句」  
新潟市は日本海沿岸最大の港町で、明治維新の海港令では五港の1つでした。信濃川河口に開けた新潟の町は、西廻り航路の北前船の寄港地としても知られ、賑わった場所です。その新潟で歌われてきたのが「新潟甚句」です。もともと、信濃川河口の左岸の新潟町を中心に踊られてきた「新潟盆踊り」であるといいます。江戸期では、文化14(1817)年、長岡藩の儒者・秋山明信による 「越後長岡領風俗問状答」には、「おけさ」「やしゃこしゃ」等とともに「甚句ぶし」が踊られていた趣旨の記述があるといいます。その後、新潟町が長岡藩領から幕府直轄領になり、嘉永5(1852)年、新潟奉行・川村修就(かわむらながたか)が著した 「蜑の手振り(あまのてぶり)」という、新潟の風俗を描いた絵と叙述のなかに、「盆踊りの画」があり、当時の様子を知ることができるといいます。その当時から、樽を叩いているといい、樽に合わせて踊られていたのではないかとされています。  
その後、かなり自由奔放に歌い踊られていた「新潟盆踊り」の時代が続くのですが、昭和初期、東伏見宮大妃殿下が新潟を訪れたとき、唄と踊りを整えたのが、新潟民謡界の大御所・鈴木節美でした。そして、「新潟甚句」として知られるようになっていくのでした。  
一方、古町の花柳界でも、芸妓の盆踊りとしての伝統がありました。一般に歌い踊られるものとはやや異なり、節も粋な雰囲気、唄ばやしは一般に「アリャサアリャサ」であるのに対して、花柳界では「アリャアリャアリャアリャ」となっています。  
「新潟甚句」は、甚句の本場、新潟で広く伝承される「越後甚句」の流れの1つです。統一されたものは、七七七五調で、下の句の途中に「イヨ」が入ります。一方の花柳界のお座敷調のものは、かつて歌われてきた自由奔放な盆踊り唄の詩型に近く、最初の3文字欠落の四七七五調が見られます。  
 
←「越後甚句」 
 
ハァー新潟恋しや 白山様の (ハアリャサ アリャサ)   
 松が見えます イヨ ほのぼのと (ハアリャサ アリャサ)  
新潟恋しや 五月雨時(さみだれどき)に 蜿ャ路を イヨ 蛇の目傘  
碇下おろせば 早や気が勇む 花の新潟に イヨ 樽の音  
新潟砂山 米なら良かろ 可愛い船頭さんに イヨ 積ませたい  
押せや押せ押せ 下関までも 押せば新潟が イヨ 近くなる  
越後新潟の 川真ん中に あやめ咲くとは イヨ しおらしい  
樽を叩けば 佐渡まで響く 夏は寄居の イヨ 浜踊り  
夜の白山 踊りに更けて 樽の砧が イヨ 冴え渡る  
新潟来てみよ 日本一の 流し踊りの イヨ  人の波  
新潟砂山 小松を育て 鶴を呼びましょ イヨ 夫婦鶴  
月の出潮と 約束したが 月は早よ出て イヨ 杜の陰  
佐渡で餅搗いて 越後へ投げた 佐渡と越後は イヨ 一粘り  
松の露散る ときわが岡に 昔偲ぶか イヨ 虫も鳴く  
仇しあだ波 寄せては返す 寄せて返して イヨ また寄せる  
樽の響きにゃ 心も弾む 気がつきゃ踊りの イヨ 輪の中に  
字余り  
しょんで来たよ 梅の実に 紫蘇の葉 中の種まで 真っ赤で鉄火で しょんで来た  
盆だてがんに 茄子の皮の雑炊だ あまりてっこ盛りで 鼻のてっぺん 焼いたとさ  
古調  
新潟の 川真ん中に あやめ咲くとは イヨ しおらしい  
押せ押せ 下関までも 押せば新潟が イヨ 近くなる  
寺の婆 名主の嬶も 襷掛けやれ イヨ 秋三月  
何たら 長い五月雨(さずい)だ 爺様あくびに イヨ 黴はえた  
でんでらでんの でっかい嬶持てば 二百十日の イヨ 風除けだ  
ござい堀から 白山までに しんの話が イヨ まだ尽きぬ  
下の新地の 道楽稲荷 おれもニ三度 イヨ だまされた  
行かんせんか かんせんか かんか林の イヨ 茅刈りに
「古調新潟甚句」  
 
新潟恋しや 白山様の 松が見えます ほのぼのと
「米山甚句」  
柏崎の西方、中頚城(くびき)郡と刈羽郡の境にそびえる米山(993m)は、頂上に泰澄大師創立と伝える薬師堂がある。これが雨乞いに霊験があるといわれる真義真言宗豊山派の米山薬師である。一説に、江戸時代末、刈羽郡荒浜村出身の力士・米山は「甚句」を得意としていた。いつしか米山が唄う「甚句」は、米山甚句と呼ばれるようになったというが、力士の米山は記録にない。唄い出しから「米山甚句」になったものか。明治から大正にかけ、俗謡として全国で愛唱された。  
 
行こか 参らんしょか 米山ぁの薬 ウウウウウウ師  
ひとつぁ身のため ササ 主のた アアアアアアめ  
   主の たーめなら 米山ぁさぁま アアアアアアへ  
   はだし参りも ササ いとやせ エエエエエエぬ  
頸城 見おさめ 米山ぁ三 ンンンンンン里  
峠越えれば ササ 柏ざ(崎) アアアアアアき  
   つげの 横櫛 伊達にはぁささ アアアアアアぬ  
   切れし前髪 ササ 止めにさ アアアアアアす  
切りし 前髪 淡島ぁさま  アアアアアアへ  
あげて願うも ササ 主のた アアアアアアめ  
   相撲は 打ち出し 関取はかえ エエエエエエる  
   あとに残るは ササ 土俵とす(砂) ウウウウウウな  
お山 登れば 柏ざき(崎)ひと オオオオオオ目  
思うおひとは ササ なぜ見え エエエエエエぬ  
   真の 闇夜に桜を削り  
「天勾践をむなしゅうするなかれ 時に范蠡なきにしもあらず」  
   赤きこころを ササ 墨で書 アアアアアアく  
「両津甚句」  
加茂湖の水が海に注ぐ狭い水路に欄干橋がかかり、この水路を境に夷(えびす)と湊の二つの村落に分かれていた。明治34(1901)年、両村落が合併して両津となる。「両津甚句」は「甚句流し」とも呼び、盆になると町の人々は鼓を打ちながら、路地から路地へと唄い踊って歩いた。当初の「両津甚句」は、上の句と下の句を一息で唄う難曲だったため、佐渡の民謡家・松元丈一が上の句を二息で唄うようにした。  
 
この甚句は昔、夷(えびす)にあった”夷甚句”と湊(みなと)にあった”湊甚句”が大正の頃折衷(せっちゅう)整理されて、現在日本一美しい旋律を持った甚句である”両津甚句”が生れた。佐渡では甚句と名のつくものに、相川甚句、海府甚句、七浦甚句などがあるが、両津甚句が有名でその代表としてある。   
 
←「夷甚句」「湊甚句」 
 
アーエ 両津欄干橋(らんかんばし) 真ん中から折(お)りょうと (コラ サッサ)    
船で通うても (ヨンヤー) やめりゃせぬ (ハア リャントウ リャントウ リャントウ)  
   アーエ 思うて来たかよ 思わで来(こ)りょか  
   三沢四沢(みさわよさわ)の 沢越えて  
アーエ 松になりたや 御番所の松に  
枯れて落ちても 離りゃせぬ  
   アーエ 烏賊場(いがば)漁師は 心(しん)から可愛い  
   命(いのち)帆(ほ)にかけ 浪まくら  
アーエ しんと更けたる 世はこわござる  
烏賊(いか)が啼(な)きます 船底で  
   アーエ 両津橋から 木崎が見える  
   見える木崎の 森りゃ恋し  
 
はぁえぇ 両津欄干橋やエー 真ん中から折りよと (コラサッサ)  
舟で通うても (ヨンヤァ) やめりゃせぬ   
(ハァ リャント リャント リャント)  
   松になりたや 御番所の松に   
   枯れて落ちても 離りゃせぬ  
松になりたや 御番所の松に   
枯れて落ちても 双葉づれ  
   両津橋から 木崎が見える   
   見える木崎の 森恋し  
烏賊場漁師は 心から可愛い   
命帆にかけ 浪枕  
   いとしお方を 乗せて出船   
   今朝はにくいよ おけさ丸  
両津港に 朝立つ虹は   
主をやらずの 雨となる  
   思うて来たかよ 思わで来りょか   
   三沢四沢(みさわよさわ)の 沢越えて  
しんと更けたる 世はこわござる  
烏賊が啼きます 船底で  
   いやだいやだよ 御番所は   
   掃部お松が 出て招く  
水も好くよな 加茂湖の月よ   
誰が投げたか 空にある  
   佐渡の金北山は おしゃれの山よ  
   いつも加茂湖に 水鏡
「村上甚句 」  
村上大祭 / (7月6・7日/新潟県村上市/西奈弥羽黒神社) 6日は宵祭。7日の本祭は、未明に町中を巡る先太鼓の音から始まる。「お旅神事」は、庄内町の笠鉾と小学生が扮する荒馬14騎が先導し、「イヤハーイ」とかけ声を上げながら進む。四神旗や稚児などが続き、その後を神輿3基が粛々と巡行。そしてオシャギリ19台が村上甚句を響かせながら賑やかに曳き廻される。各町から繰り出される19台の屋台はオシャギリと呼ばれ、囃車、シャギリ車、にわか車の3種に分類される。何れも屋形造二輪で、囃車は主に白木造りで楽屋があり、乗子は裃を着て囃子を奏でる。シャギリ車は堆朱・堆黒工芸の粋をこらした豪華なもので、着物を着た子どもが囃子を奏する。にわか車は簡素な白木造りで、ほかの屋台に比べ車輪が小さく小回りがきくため、威勢よく練る。  
 
→「津軽ばやし」  
 
諦めて 酒でも呑んで 白川夜船で 寝たも良い  
赤い切れかけ 島田のうちは 何で心が定まろうや  
諦めて 酒でも呑んで 白川夜船で 寝たも良い  
あまりつらさに 出て山見れば 雲のかからぬ山はない  
現れまして 首渡しょとも しかけた間男 止められぬ  
いつも来もせぬ この綾錦 丈がないので 結ばれぬ  
今も鳴る 正午の鐘は 古い城下を 思わせる  
唄えと 責めたてられた 唄が出ないで 汗がでる  
唄の出処は 大町小町 唄うて流すは 下小町  
梅は岡本 桜は吉野 蜜柑紀伊国 栗丹波  
大きな魚 おらが釣り上げた 川原柳の 下流れ  
大町衆にゃ 限るではないが お酒の呑む人 どなたでも  
裏の三度豆 筍入れて 落とし玉子は なおよかろ  
和尚様に 帯買うてもろた 品がようて 柄がようて 勿体のうて 締められぬ  
和尚様に ゆもじ買うてもろた 幅がようて 模様がようて 勿体のうて 締められぬ  
押せ押せ 村上の船頭 押せば瀬波が 近くなる  
押せ押せ 新潟の船頭 押せば新潟ヤも 近くなる  
お茶は水がら 子は育てがら 下女とはさみは 使いがら  
お寺の前で 音頭取ったおなご 年は若いが 唄上手  
男情なし この博多帯 とかく丈がない 切れたがる  
踊らば 今夜限り 明日の晩から 踊りゃせぬ  
踊りくたびれた 藁草履切れた 明日の朝草 なじょにしょや  
踊り子 何故足袋履かぬ 履けばよごれて 底切れる  
踊らば 今夜だに踊れ 明日の晩から 踊られぬ  
お前様に 七分通り惚れた あとの三分は 想うてくれ  
お前さんに 限るではないが お金のあるひと どなたでも  
お前さんに 何言われたとても 水に浮き草 根に持たぬ  
思うて通えば 千里も一里 逢はで戻れば また千里  
面白うて 足が地に着かぬ イヤお狐コンコンでも ついたやら  
親の意見と なすびの花は 百に一つも 無駄はない  
お城山から 粟島眺め 心浮き橋かけて見る  
俺とお前は 御門の扉 朝に別れて 夕に合う  
鍛冶町から 鍾馗さま出ても 肴町通いは 止められぬ  
上総ヤは 木綿の出処 兎角丈がないで切れやすい  
鐘を叩いて 仏様であれば 鍛冶町若い衆は みな仏  
髪は本田に 結うてはみれど 心島田に 結いたがる  
通うてくれ 霜枯れ三月 花の三月 誰も来る  
河内様 よく聞き分けて 二度と頼まぬ 今一度  
可愛うて良うて 目が離されぬ これが他人だと 思われぬ  
かわら毛だとて 御諸願掛けた お鎌で刈るよな 毛が生えた  
雲に架け橋 霞みに千鳥 お呼びないこと おしゃんすな  
来るかやと 上下ながめ 川原柳の 音ばかり  
下渡羽下の淵 どこの在郷だと思うな 村上五万石 目の下に  
下渡山に お振り袖着せて 奈良の大仏様 婿にとる  
来いとおじゃれば 身はどこまでも 下は南部の はてまでも  
鯉の滝のぼり 何と云うてのぼる つらいつらいと 云うてのぼる  
郷内おんちゃ 曲がりがね呑んだ のどにはばけないで よく呑んだ  
声の枯れるのも 身のやつれるも みんなお前の ためだもの  
声の出ないとき 馬の尻ツビなめれ 馬の尻ツビから スコタンコタンと コエがでる  
心急けども 今この身では 時節待つより 他はない  
腰にひょうたん下げ 相の風吹けば 飛んで行きたや お滝様  
こぼれ松 手でかきよせて お前来るかと 焚いて待つ  
下がりの藤 手は届けども 人の花なら 見たばかり  
鷺の首 べらぼのように長うて おまえさんと寝た夜の 短かさよ  
五月節句は 蓬に菖蒲(あやめ) わしは御前に のぼる鯉  
山辺里橋 真ん中から折れた 今にどの橋 渡ろやら  
してもしたがる 十六七娘 親もさせたがる 繻子(しゅす)の帯  
島田まげ 蝶々が止まる 止まるはずだよ 花だもの  
しゃきとしゃあれ のげはばたしゃたと あじなものだよ きせるさし  
しょったれ嬶 鍋でけっつあろた いけとっつあ魂消て おはちで褌あろた  
白と黒との 碁盤の上で せきを争う 浜千鳥  
城山から 大川みれば 流れまかせの いかだ乗り  
城山から 川口見れば お滝不動 鉄の橋  
城山から 下見下ろせば 茶摘み桑摘み たのしげに  
城山の あの頂へ 金のしゃちほこ かざりたや  
せめて雀の 片羽欲しや 飛んで行きたや お滝様  
雪下駄の 裏打ち金よ なるもならぬも 金次第  
千松山 そよ吹く風は 流れ流れて 滝不動  
大工さんとは 名はよけれども 真の心は 曲がりがね  
大仏様 横抱きにして お乳呑ませた 親みたや  
出せ出せ 出さねば破る 娘出さねば 壁破る  
出せとは俺から言わぬ お前こころに あればこそ  
例え胸に 千把ャの 萱焚くとても 煙ださねば 人知らぬ  
月は傾く 東は白む 踊り連中も ちらほらと  
出た出た 今朝出た舟は 波に押されて 磯廻る  
出て行く 煙が残る 残る煙が 癪となる  
寺の前で 音頭取った女御 なりは小さいども 唄上手  
天守のやぐらの お羽黒様は 七日祭の十日の湯立 親にかいても 見にござれ  
どうでもしやんせ どうにでもなる私 お前任せたこの身  
どんどうと 鳴る瀬は 何処よ あれは瀬波の お滝様  
どんぶり鉢 落とせば割れる 娘島田は 寝て割れる  
バカ長い町だ 足駄カンコで通うた 金の足駄も たまりゃせぬ  
並べておいて 縦縞きせて どれが姉ちゃやら おばちゃやら  
並べておいて 縦縞着せりゃ どれが姉やら妹やら  
縄帯締めて 腰には矢立 瀬波通いは 止められぬ  
新潟ャの 川真ん中で あやめ咲くとは しおらしや  
主と別れて 松の下通れば 松の露やら 涙やら  
寝むられないと 夜中さなかに起きて 人目忍んで 神頼み  
羽黒様から お滝様見れば 出舟入舟 帆掛け舟  
花のようなる 宝光寺様に 朝日さすまで 寝てみたや  
一夜は緞子(どんす)の枕 あすは浮き舟 波枕  
踏め踏め踏め 角力取るときは 土俵へこむまで ドンと踏め  
ぼっこれても 骨離れても わたしゃ要で 止めておく  
惚れて見るせいか 乱れし髪も 金の瓔珞(ようらく)下げたよだ  
盆だてのんに 何着て踊る 笹の葉でも着て 踊りガサモサと  
盆の十六日 暇くれと願うた ササゲ和え物鉢 取って投げた  
盆も過ぎれば 十五夜も過ぎる 露に放れた きりぎりす  
待ってくりゃんせ 血が出て困る 紙でも夾めましょ 草鞋くい  
ままよ滝田や 高雄でさえも お呼びやせぬぞえ 紅葉狩り  
三面川 水晶のような流れ 玉の瀬の音 さらさらと  
三面川 宝の蔵よ あれを見やんせ 鮭の群  
三日月様 何故細々と 細いはずだよ 病みあがり  
むすめ 島田に 蝶々が止まる 止まるはずだよ 花だもの  
むすめ 十六七 抱き頃寝頃 おっちょこちょいとまくれば 会わせ頃  
むすめ 十六七 渡し場の船よ 早く乗ってくりゃんせ 水が出る  
娘十六 ササギの年よ 親もさせたがる 針仕事  
村上 色香の町よ 堆朱堆黒 茶の香り  
村上だよ 良い茶の出どこ ならび鮭川 山辺里織り  
村上は 良い茶の出どこ 娘やりたや お茶摘みに  
村上は 良い茶の出どこで のぼれば葡萄の ぶどう酒(さけ)と   
下れば松山温泉だ ならび鮭川 山辺里織り  
もっくらがして 親衆に見せた 親衆ぶったまげて 嫁捜す  
もっともだよ 御行様さえも おやま掛け掛け めろめろと  
揉めや揉め 揉まねばならぬ 揉めば茶となるお茶となる  
踊ろうば 今夜だに踊れ 明日の晩から 踊られぬ  
面白うて 足が地につかぬ イヤおきつねコンコンでもついたか見てくれとのさ  
鍛冶町から 鐘馗様出ても イヤ肴町通いは やめられぬ  
河内様 よく聞きわけて 二度と頼まぬ 今一度  
下渡山に お振袖着せて 奈良の大仏様 婿にとる  
ごんないおんさ 曲金(まがりがね)飲んだ 喉にはばけないで よく飲んだ  
こぼれ松 手でかきよせて お前来るかと 焚いて待つ  
山辺里(さべり)の橋 真中から折れる 今にどの橋 渡るやら  
三度豆に 筍(たけのこ)入れて 落とし玉子は なおよかろ  
せけども 今この身では 時節待つより ほかはない  
出た出た 今朝出た舟は 波に押されて 磯廻る  
どんぶり鉢 落とせば割れる 娘島田は 寝て割れる  
長い町(ちょう)だ 足駄でかよた 鉄(かね)の足駄も たまりゃせぬ  
ねむられないと 夜中に起きて 人目忍んで 神頼み  
瓢箪(ひょうたん)下げ あいの風吹けば とんで行たや お滝様  
○○衆に 限るではないが イヤお酒の飲む人 どなたでも  
三面川(みおもてがわ) 宝の蔵よ あれを見やんせ 鮭の群れ  
三日月様 やけに細々と 細いはずだよ 病み上がり  
村上は 良い茶のでどこ ならび鮭川 山辺里織(さべりおり)  
酔(ゆ)うたが酔(ゆ)うた 五勺の酒に 一合飲んだら なおよかろ  
良いとこだよ 北西(きたにし)晴れて 東山風(ひがしやまかぜ) そよそよと  
「越後甚句」   
兵庫口説 / 「口説」とは歌謡の一種で、歌と語りの中間に位置する節のことです。もともとは物語形式の長編歌謡が発展したもので、その曲節や歌詞には一定の形式があります。また、音頭形式で歌われることが多いために「踊音頭」とも呼ばれます。「兵庫口説」は、元禄年間に流行した大阪の盆踊り歌「ゑびや節」の流れを受けて、摂津国兵庫地域で誕生したと考えられています。七七調を基本に、全国各地の名所や歴史上の人物を描き、その一つである「播磨名所づくし」には、高砂相生の松や姫路城といった播磨の名所がたくさん紹介されています。また、享保の頃から「義経千本桜」などの浄瑠璃を題材にした「兵庫口説」が、竹本座や豊竹座で宣伝に使われ、西日本一帯へと広まりました。「兵庫口説」の歌詞は各地の民謡に取り入れられ、越後甚句のルーツとなったとも言われています。  
 
ハイヤ節 / 日本民謡の分類上、酒盛り唄(うた)のなかの一種目。「ハイヤエー」(「アイヤ」および「おけさ」はその変形)と歌い出す唄の総称で、また曲名分類上の一種目にもなっている。その源流は不明であるが、「越後甚句」あたりが原調になっているようである。それが帆船の船乗りによって熊本県牛深(うしぶか)の港へ持ち込まれたおり、船乗り相手の女たちが「ハイヤハイヤで今朝出た(出した)船はどこの港へサーマ着いた(入れた)やら」の歌詞をつくって歌い始めた。「ハイヤ」とは南風(はえ)のことであり、この歌い出しの文句をとって「ハイヤ節」とよばれた。これが船乗りの酒盛り唄となって日本中の港町へ持ち回られたが、船乗りは歌詞と節だけを運んだため、伴奏はそれぞれの土地でつけられ、したがって多種多様の「ハイヤ節」が生まれることとなった。なお「アイヤ節」はハがアになまったもので、京都府宮津市あたりで生まれ、東へ広まっていった。  
川柳 / 甚九・おけさ  
「越後獅子」文化八年『辛苦甚九もおけさぶし』と唄われているように、この両者は越後の代表的の民謡であった。  
「越後甚九」はまた越後節ともいわれ、その由来は越後国石地浦の人甚九という者か大阪で相場を試み、本国に帰る時に廓の酒宴に唄ったという『四十だ四十だと今朝まで思うた、三十九じゃもの花じゃもの』の唄に始まるという。また甚九は神供(ジンク)の歌『今年や満作、穂に穂がさがる、かかしょ喜べ揃ふてお年が取られるぞ』に始まるともいわれる。そして甚九は諸国にもあるが越後甚句がその祖であるという(江戸語辞典)。  
▽「鯨声(カチドキ)に甚九の交る越後勢」天保四。  
▽「越後から出ると左の甚九郎」天保五。  
▽「女湯で甚九を唄ふ越後下女」天保九。  
第一句。「カチドキ」勝鬨は勝ち軍の時いっせいにあげるときの声。凱歌。第二句。「左甚五郎」は有名た彫物師。名が似ているのを洒落れた。  
「おけさ節」か江戸で流行したのは天保初期で「春色辰己園」天保五年刊『我等(ワタイラ)なんぞの時分にやァ、おけさ正直ならで済んだもんだが』。その由来をたずねるに新潟の猫が飼主の窮乏を救うために、おけさという芸妓となって唄い出したものといわれ『おけさ正直なら側にも寝しょが、おけさ猫の性でじやれたがる』はそれを唄ったものという。「おけさ節」の根源は遠く九州のハンヤ節にさかのぼるが、越後では出雲崎・柏崎辺を発生の地と  
され、それが新潟へも広がり、更に佐渡へ渡ったものが「佐渡おけさ」となったとされている。  
▽「生鮮(ナマョイ)の比丘尼(ビクニ)ふざけておけさ節」嘉永一。  
▽「寺泊おけさで洒落る坊主客」川大典。  
第一句。「生酔」は泥酔の意。「比丘尼」は尼の姿で売色した下級の私娼。第二句。「寺・袈裟・坊主」の縁語仕立ての句。  
 
←「兵庫口説」←「ゑびや節」 
→「ハイヤ節」(「アイヤ節」) 
 
でんがらでんの 大(でつか)いかゝ持てば 二百十日のそりや風よけだア  
今年や満作ぢや 穂に穂がさがる かかアしよ喜べ 揃ふてお年が取られるぞ  
佐渡で餅ついて越後へ投げた 佐渡と越後がそりや一粘り  
奈良の大仏さんは木だんべえか あれは金からかんの仏さま 
「亀田甚句」  
民謡流し、樽たたきで名高い。亀田甚句は昔、300年前より亀田郷民の豊年にちなんで毎年お盆には盛大に唄いはやされ、若き男女は踊り明かしていました。新発田10万石の城主溝口侯も、踊った人々に手ぬぐいを贈り見物したと伝えられています。  
 
越後亀田の稲葉の山に あやめ咲くとは えーよ〜え しおらしい  
わたしゃ亀田の機織り娘 糸が切れても えーよ〜え   
わしゃ切れぬ ちょぃやさー ちょやさっと 
「長岡甚句」  
南北に長い新潟県の中程、中越地域の中心地・長岡市。市の中心は、日本一の大河・信濃川が流れています。そして東西はなだらかな丘陵地帯で、広々とした田園地帯を見ることができます。長岡の歴史は、有名な火焔土器で知られるように縄文時代の遺跡によって偲ばれます。そして長岡藩は、牧野公7万4千石の城下町として長く栄えます。しかし、幕末には河井継之助率いる長岡藩は、北越戊辰戦争へと突入。中立を目指すものの全面戦争となり、最終的には敗北、町はほとんど焼失したといいます。かろうじて再興した長岡藩の窮状を見かねた、支藩・三根山藩からの救援米の配分について、小林虎三郎は、食べてしまうのではなく、米を売ってその金で学校を建て、教育をすすめようと説得する。この「米百俵」の故事は、あまりにも有名。  
 
ハァーエーヤー長岡 柏の御紋 (ハァヨシタヨシタヨシタヨシタ)  
七万余石の アリャ 城下町  
イヤーサー余石の アリャ 城下町 (ハァヨシタヨシタヨシタヨシタ) 
ハァーエーヤーお前だか 左近の土手で 背中ぼんこにして 豆の草取りゃる  
ハァーエーヤーお山の 千本桜 花は千咲く 成る実は一つ  
ハァーエーヤー流れます 細谷川よ 重ね箪笥が 七棹八棹  
お前ーヤー川西 わしゃ川東 中を取り持つ アノ長生橋  
ハァーエーヤー揃たよ 踊り子が揃た 稲の出穂より アリャよく揃た  
ハァーエーヤー踊りも 太鼓打つ人は 昔ならした アノ腕の冴え   
ハァーエーヤー夜はよし しのびにゃ出たが 夕立村雨 片袖しぼる  
ハァーエーヤー三夜の 三日月様は 宵にチラリと アリャ出たばかり  
お前ーヤー百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の アリャ生えるまで  
ハァーエーヤーお前さんの 声だと聞けば 眠い目も冴え その気も勇む  
余りーヤー長いは 踊り子が大儀 先ずはここいらで アリャ打ち止めだ 
「相川音頭」 / 源平軍談  
金山で知られる佐渡・相川は、江戸時代初期に金山が発見され、金の採掘が行われていました。その相川で歌い踊られていた盆踊り唄が「相川音頭」です。七七調を延々と歌い綴っていく長編のものを「踊口説」、「口説音頭」等と呼ばれ、関西方面からの移入といわれています。佐渡島内には同様の「踊口説」の音頭として、「国仲音頭」、「駒坂音頭」、「鷲崎音頭」、「真野音頭」等があるといいます。徳川幕府の天領とされた相川には、奉行所が設けられ、金山奉行が江戸から迎えられていました。その金山奉行の前で、「踊口説」が上覧されたといい、特に奉行の前の広場で踊られたということで「御前音頭」とか「御前踊」等と呼ばれていたといいます。また、奉行の前で顔を出すのをはばかって、編笠を被って踊ったものといいます。歌詞内容は、各地の「踊口説」にあるように様々なジャンルのものが残されています。特に多かったのが「心中物」や「恋物語」で、地元で起こった事件を取材した「おさん 仙次郎 心中濃茶染」、「医師の佑庵 さくらのお菊 糸花桜の白酒」、「水金女郎 名寄 黄金花咲く郭の全盛」、「番匠松蔵 機織お竹 春の夜の夢物語」等といったものがあります。他にも時事を扱ったものとして「佐渡天地 天保地震くどき」、「享和地震 いろはくどき」、「越後地震 瞽女くどき」、「信濃地震 善光寺くどき」、全国的にも知られた「主水(もんど)くどき」、謡曲の盛んであった佐渡ならではの「謡曲百番くずし」、地名を読み込んだ「佐渡道中音頭」、「相川道中記」などさまざまが多かったといいます。また、奉行所では人々の心を引き締める意味で、現在もっともよく歌われる「源平軍談」のような軍記物が奨励され、作られたといいます。  
源平軍談  
源平合戦を題材にしたものであり、今日「相川音頭」でもっともよく歌われているものです。作者は文政年間に佐渡奉行所に勤めていた山田良範であるとも、中川赤水であるともいわれています。五段からなり、初段は「宇治川先陣 佐々木の功名」、二段目は「粟津の合戦 巴がはたらき」、三段目は「那須与一 弓矢の功名」、四段目は「嗣信が身替り 熊谷が菩提心」、五段目が「景清が錏引 義経の弓流し 稀代の名馬 知盛の碇かつぎ」となっています。もっとも有名な「どっと笑うて立波風の…」は、「義経弓流しに一節は五段目の途中です。  
相川音頭諸説  
新潟県相川町(現佐渡市)の民謡で、盆踊り唄。源流は「盆踊りくどき」。歌詞の多くは心中物であったが、天保年間(1830 − 1844)、山田良範(または中川赤水)が「源平軍談」を作った。  
 
新潟県佐渡郡相川町地方の盆蹄唄。(佐渡おけさ)とならぶ佐渡の代表的な唄である。佐渡の相川金山が江戸幕府の直轄地であった頃、金山奉行の上上覧にそなえるため踊られたもので(御前踊)と呼ばれていたが、いまは相川地方の盆踊として踊られるようになった。唄は口説形式の長篇で謡曲百番くずし)や(おさん仙次郎心中濃茶染)など数多くうたわれていたことが文献上知られるが、現在最もよくうたわれるのが「どっと笑うて……」という〈源平軍準の(義経弓流し)〉のくだりである。(源平軍談五段)は相川の山田艮範作といわれていて、初段(宇治川先陣)二段(巴の勇戦)三段(那須与市扇の的)四段(継信の死)第五段が(義経弓流し)で「どっと笑うて立浪風の……」の部分は第五段の途中に当たる歌詞である。もとはただ(音頚)と呼ばれていたが大正末期、相川町の有志が(おけさ)と(音頭)の普及のため団体を結成し「どっと笑うて立浪風の」の歌詞からとって“立浪会”と名づけ、レコードに吹き込む時、単に(おけさ)(音頭)では他との区別がつかないので地名を冠して(佐渡おけさ)(相川音頭)とした。(相川音頭)踊り編笠をかぶるので有名であるが、これは(御前踊)の際、奉行に顔を見せる失礼を避けるため笠をかぶり、まわりに垂れをつけたり覆面したりした名ごりだと説明しているが、おそらく他所の古風な盆踊と共通した一種の扮装で、盆踊が異郷より釆た亡霊(祖霊)の群行であったことの淡いなごりの一端と思われる。  
 
踊りに用いる歌謡を、一般に音頭と読んだ。「音頭取り」といえば、盆踊りなどの歌いつぎをリードする役目で、相川音頭はもともと盆踊りの歌謡として生まれたと思われる。その歌詞は、羽田清次の 「佐渡歌謡集」(昭和十三年)で早くから紹介され、山本修之助の「相川音頭集成」(昭和三十年)によって、詳細にまとめられた。ほとんどが江戸時代の中期以降にできたと思われ、内容を大きく分けると、  
[1]「謡曲百番くづし」や「源平軍談」のような、古典趣味的なもの  
[2]お上の掟(倹約令)や地震・地名など、時事に托したものや、「鼠口説」「徳利口説」といった滑稽なもの  
[3]現実にこの島で起った男女の相対死を扱った「兵十郎・花世心中妹背の虫づくし」「おさん・仙次郎心中濃茶染」などの、艶ものなどである。  
いずれも「うめにうぐいす、やなぎにつばめ」といった七・七調の韻文形式で、結びが「ないてうきよへ、つげわたる」と、七・五調で納めてある。この単純な七・七・七の繰返しが、口説といわれる音頭の特色だが、長編の歌物語にもなっていて、主として化政期(文化・文政)に、相川などで町人の間で大流行し、盆踊りだけでなく、毛筆書きの音頭本が店頭でも売られたりした。作者は多くはわからないが、地役人の辻守遊・同山田良範、町人で吹分所職人だった中川赤水などが知られている。謡曲の題名をちりばめた 「謡曲百番くづし」、源平盛衰記に取材した「源平軍談」の二つは、奉行の面前での御前踊りに歌われ、心中ものでは中川赤水の「小川心中ー番匠松蔵・機織お竹春の夜の夢物語 」など、一連の作品が傑作と評されている。踊りの風景は、文政四年(一八二一)奉納の音頭絵馬にも描かれ、相川の「立浪会」では、無地濃紺の紋付・元禄袖・博多帯・白足袋・折編笠でアレンジした、凛とした感じの男踊りとして、いまに伝えている。  
 
新潟県佐渡(さど)市北西部、旧相川町を中心に歌われてきた民謡。江戸時代の寛文(かんぶん)末期(1670ころ)におこった盆踊り唄(うた)で、初めは「謡曲(うたい)百番くずし 」といい、謡曲の曲名を懸詞(かけことば)にしたり、「おさん仙次郎心中濃茶染(こいちゃぞめ)」のように、心中物や恋物語をテーマにして歌い込んだりしていた。約140年のちの文政(ぶんせい)・天保(てんぽう)年間(1818〜1844)になると、尚武の世相の影響で勇ましい歌詞が喜ばれるようになり、現在歌われている源平合戦を描写した5段の口説(くどき)調となった。初段「宇治川先陣」、2段「巴(ともえ)の勇戦」、3段「那須与市扇(なすのよいちおうぎ)の的(まと)」、4段「継信(つぐのぶ)の死」、そして5段の途中からがよく歌われている「どっと笑うて立つ浪風(なみかぜ)の 荒き折節(おりふし)義経(よしつね)公は……」のくだりの「義経弓流し」である。相川金山に江戸幕府の奉行所が置かれたころ、毎年7月15日の盆に、その奉行所の前でこの 「相川音頭」が踊られたことから「御前踊り」とよばれるようになった。「佐渡おけさ」とともに佐渡の代表的な唄である。  
 
新潟県佐渡が島「盆踊唄」というより、今は全国的に愛好される民謡の一つです。歌詞および口訳では後半部分を略しましたが、この話の中心はむしろ後半にあって、弓をとりかえして無事に戻った義経公に対し、家来が、たとえ秘蔵の弓にしても命にかえられようかといって、その軽率な行動をいさめます。ところが義経は、弓を惜しむのでほない、敵に弓をとられて、この弱い弓が源氏の大将九郎義経のものだといわれるのが無念であるから、命にかえて取りかえしたのだ、と言ったので、家来たちも感じ入ったというのです。この話は、義経の「弓流し」といって、 「平家物語」などにも載せられています。このような、「相川音頭」の「源平軍談」は、初段「宇治川の先陣」、二段「巴の勇戦」、三段「那須与一扇の的」、四段「継信の死」、五段「義経弓流し」で、「どっと笑ぅて立つ浪夙の……」の部分は第五段の途中に当たります。現在ではこの部分が、「相川音頭」の代表的な歌詞になっています。  
この「源平軍談」ほ相川の山田良範の、文政ごろの作といわれていますが、題材になっている五つの話はいずれも平曲(へいきょく)の著名な話で、したがって「平家物語 」にも採録されていることにもなるわけです。つまりは、中世末期から近世にかけて、琵琶を伴奏に平曲を語り歩いた琵琶法師たちから得た源平合戦の知識は、思いがけず広い地域における庶民の知識でもありました。  
もちろん佐渡という土地にも平曲は伝播され、その知識は普及していたものと思われます。琵琶法師たちの広い足跡は、当然佐渡が島にも及んでいたことでしょう。そんな土台もありましたから、いわゆる日本人の「判官びいき」ほ根強いもので、それもこの「相川音頭」の人気にまんざら無縁でもなかったともいえるでしょう。  
かつては「相川音頭」には「源平軍談」以外にもいろいろの口説(くどき)がうたわれたようです。近世、佐渡の相川金山を管理する金山奉行の上覧にそなえるため、毎年七月十五日の夜に踊られたので、「御前踊」などともよばれていました。相川音頭の踊は、今も浅黄の着流しに角帯を締め、編笠をかぶりますが、この編笠については、「御前踊」のとき奉行に顔を見せる失礼をさけるため笠をかぶり、まわりに垂れをつけたり覆面したりしたなごりであると説明しています。しかし、こういう仮装した盆踊りの姿は、ほかの土地の古風な盆踊りにも共通した、一種の大中大事な扮装のなごりであって、盆踊りが異郷から釆た祖霊(亡霊)の群行であったという考え方の淡いなごりの一端なのでしょう。こんなふうにして、唄や踊りは古いものですが、「相川音頭」という曲目名は決して古いものではありません。もとはただ「音頭」とよばれていたのですが、大正末期のころ、相川町の有志が「おけさ」や「音頭」の普及のため団体を結成し「どっと笑うて立浪風の」の歌詞からとって「立浪会」と名づけ、レコードに吹きこむとき、単に「おけさ」や「音頭」ではほかの土地のものと区別がつきにくいというので、地名を冠して「佐渡おけさ」とか「相川音頭」という名をつけたものです。  
同じ佐渡の唄でも、「相川音頭」は「佐渡おけさ」のもつ味とはまた違って、力強く、明るく、男性的な感じがあり、「おけさ」とともに根強い人気を持ちつづけている曲です。  
徳川幕肝の台所を支える相川金山とはいっても、盆踊りとなれば男女の恋の相手探しの場だけに、歌われる盆踊り唄の歌詞は、心中ものが多かった。そこで文政年間(1818-1830)に佐渡奉行所に勤める役人、山田良範が、それまでのものに替って、格調高く、品位のある、勇壮なものということで、「源平軍談」の戦記ものの歌詞を作る。更に、天保十年(1829)には、中川赤水も「源平軍談」を作るというから、何回かに渡って、何人もによって作られているようである。  
 
←(踊口説、口説音頭)
初段 宇治川先陣 佐々木の功名  
嘉肴あれども 食らわずしては(ハイハイハイ)    
酸いも甘いも その味知らず(ハイハイハイ)  
武勇ありても 治まる世には(ハイハイハイ)    
忠も義心も その聞えなし(ハイハイハイ)   
ここにいにしえ 元暦の頃 旭将軍 木曾義仲は  
四方(よも)にその名を 照り輝きて 野辺の草木も 靡かぬはなし  
されば威勢に 驕(おご)りが添いて 日々に悪逆 いや憎しければ  
木曾が逆徒を 討ち鎮めよと 綸旨(りんし)院宣(いんぜん) 蒙りたれば  
お受け申して 頼朝公は 時を移さば 悪しかりなんと  
蒲の範頼 大手へまわし 九郎義経 搦手(からめて)よりも  
二万五千騎 二手に分かる 時に義経 下知(げじ)して曰く  
佐々木梶原 この両人は 宇治の川越え 先陣せよと  
下知を蒙り すわわれ一と 進む心は 咲く花の春  
頃は睦月の 早末つかた 四方の山々 長閑(のど)けくなりて  
川のほとりは 柳の糸の 枝を侵(した)せる 雪代水に  
源太景季(かげすえ) 先陣をして 末の世までも 名を残さんと  
君の賜いし 磨墨(するすみ)という 馬にうち乗り 駆け出しければ  
後に続いて 佐々木の四郎 馬におとらぬ 池月んれば  
いでや源太に 乗り勝たんとて 扇開いて うち招きつつ  
いかに梶原景季殿と 呼べば源太は 誰なるらんと  
思うおりしも 佐々木が曰く 馬の腹帯(はらび)の のび候ぞ  
鞍をかえされ 怪我召さるなと 聞いて景季 そはあやうしと  
口に弓弦(ゆんづる) ひっくわえつつ 馬の腹帯に 諸手をかけて  
ずっっと揺りあげ 締めかけるまに 佐々木得たりと うちよろこんで  
馬にひと鞭 はっしとあてて 先の源太に 乗り越えつつも  
川にのぞみて 深みへ入れば 水の底には 大綱小綱  
綱のごとくに 引き張り廻し 馬の足並 あやうく見えし  
川の向こうは 逆茂木(さかもぎ)高く 鎧(よろ)うたる武者 六千ばかり  
川を渡さば 射落とすべしと 鏃(やじり)揃えて 待ちかけいたり  
佐々木もとより 勇士の誉 末の世までも 名も高綱は  
宇治の川瀬の 深みに張りし 綱を残らず 切り流しつつ  
馬を泳がせ 向こうの岸へ さっと駆けつけ 大音(だいおん)あげて  
宇多の天皇 九代の後の 近江源氏の その嫡流に  
われは佐々木の 高綱なりと 蜘蛛手(くもで)加久縄(かぐなわ) また十文字  
敵の陣中 人なきごとく 斬って廻りし その勢いに  
敵も味方も 目を驚かし 褒めぬ者こそ なかりけれ
二段目 粟津の合戦 巴がはたらき  
かくて宇治川 先陣佐々木 二陣景季 なお続きしは  
秩父足利 三浦の一家(いっけ) われもわれもと 川うち渡り  
勇み進んで 戦いければ 防ぐ手だても 新手の勢に  
備えくずれて 乱るる中に 楯の六郎 根の井の小弥太  
二人ともはや 討死にすれば これを見るより ちりちりばっと  
風に吹き散る 木の葉のごとく 落ちて四方へ 逃げ行く敵を  
追うて近江の 粟津が原に 木曾の軍勢 敗北すれば  
鬨(とき)をあげたる 鎌倉勢に 巴御前は この勝鬨(かちどき)に  
敵か味方か おぼつかなしと 駒をひかえて ためろうところ  
返せ戻せと 五十騎ばかり あとを慕うて 追い来る敵(かたき)  
巴すわやと 駒たてなおし 好む薙刀 振り回しつつ  
木曾の身内に 巴と呼ばる 女武者ぞと 名乗りもあえず  
群れる敵の 多勢が中を 蹴立て踏み立て 駈け散じつつ  
とんぼ返しや 飛鳥(ひちょう)の翔(かけ)り 女一人に 斬り立てられて  
崩れかかりし 鎌倉勢の 中を進んで 勝武者一騎  
声を張り上げ 巴が武術 男勝りと 聞きおよびたり  
われは板東 一騎の勇士 秩父重忠 見参せんと  
むずと鎧の 草摺りを取り 引けば巴は にっこと笑い  
男勝りと 名を立てられて 強み見するは 恥ずかしけれど  
板東一なる 勇士と聞けば われを手柄に 落としてみよと  
云うに重忠 心に怒り おのれ巴を 引き落とさんと  
さては馬とも 揉みつぶさんと 声を力に えいやと引けど  
巴少しも 身動きせねば ついに鎧の 草摺り切れて  
どっと重忠 しりえに倒る 内田家吉 これ見るよりも  
手柄功名 抜け駆けせんと みんな戦の 習いとあらば  
御免候えと 重忠殿と 手綱かいぐり 駈け来る馬は  
これや名におう 足疾鬼(そくしつき)とて 虎にまさりて 足早かりし  
巴御前が 乗りたる馬は 名さえ長閑けき 春風なれや  
いずれ劣らぬ 名馬と名馬 空を飛ぶやら 地を走るやら  
追いつまくりつ 戦いけるが 内田ひらりと 太刀投げ捨てて  
馬を駈けよと 巴をむずと 組んでかかれば あらやさしやと  
巴薙刀 小脇に挟み 内田次郎が 乗りたる馬の  
鞍の前輪に 押し当てつつも 力任せに 締め付けければ  
動くものとて 目の玉ばかり 娑婆のいとまを 今とらすると  
首を引き抜き 群がる敵の 中へ礫(つぶて)に 投げ入れければ  
さても凄まじ あの勇力(ゆうりき)は 男勝りと 恐れをなして  
逃ぐる中より 一人の勇士 和田の義盛 馬進ませて  
手柄功名 相手によると 生うる並木の 手ごろの松を  
根よりそのまま 引き抜き持ちて 馬の双脛(もろずね) なぎ倒しつつ  
搦(から)め取らんと 駈け来たるにぞ 巴御前は 馬乗り廻し  
敵を蹄に 駈け倒さんと 熊の子渡し 燕の捩(もじ)り  
獅子の洞入り 手綱の秘密 馬の四足(しそく)も 地に着かばこそ  
いずれ劣らぬ 馬上の達者 かかる折しも 敵の方に  
旭将軍 木曾義仲を 石田次郎が 討ち取ったりと  
木曾の郎党 今井の四郎 馬の上にて 太刀くわえつつ  
落ちて自害と 呼ばわる声に 巴たちまち 力を落とし  
ひるむところを 得たりと和田は 馬の双足(もろあし) 力にまかせ  
横に薙(な)ぐれば たまりもあえず 前に打つ伏し 足折る馬の  
上にかなわで 真っ逆さまに 落つる巴に 折り重なりて  
縄を打ちかけ 鎌倉殿へ 引いて行くこそ ゆゆしけれ
三段目 那須与一 弓矢の功名  
蛇は蛙(かわず)を 呑み食らえども 蛇を害する なめくじりあり  
旭将軍 木曾義仲も ついに蜉蝣(ふゆう)の ひと時ならん  
滅び給いて 鎌倉殿の 威勢旭の 昇るがごとし  
されば源氏の そのいにしえの 仇を報わん 今この時と  
平家追悼 綸旨(りんし)をうけて 蒲の範頼 義経二将  
仰せ蒙り 西国がたへ 時を移さず 押し寄せ給う  
武蔵相模は 一二の備え かくて奥州 十万余騎は  
大手搦手(からめて) 二手に分かる 風にたなびく 旗差物は  
雲か桜か げに白妙の 中にひらめく 太刀打物は  
野辺に乱るる 薄のごとく ここぞ源平 分け目のいくさ  
進め者ども 功名せよと 総の大勝 軍配あれば  
ここの分捕り かしこの手柄 多き中にも 那須の与一  
末の世までの 誉れといっぱ 四国讃岐の 屋島の浦で  
平家がたでは 沖なる舟に 的に扇を 立てられければ  
九郎判官 これ御覧じて いかに味方の 与一は居ぬか  
与一与一と 宣(のたま)いければ 与一御前に 頭(かしら)を下げて  
何の御用と うかがいければ 汝召すこと 余の儀にあらず  
あれに立てたる 扇の的を 早く射とれと 下知し給えば  
畏まりしと 御受け申し 弓矢とる身の 面目なりと  
与一心に 喜びつつも やがて御前を 立ち退いて  
与一その日の 晴れ装束は 肌に綾織 小桜縅(おどし)  
二領重ねて ざっくと着なし 五枚冑の 緒を引き締めて  
誉田(こんだ)栗毛という かの駒に 梨地浮絵の 鞍おかせつつ  
その身軽気(かろげ)に ゆらりと乗りて 風も激しく 浪高けれど  
的も矢頃に 駒泳がせて 浪に響ける 大音あげて  
われは生国 下野の国 今年生年 十九歳にて  
なりは小兵に 生まれを得たる 那須与一が 手並みのほどを  
いでや見せんと 云うより早く 家に伝えし 重籐(しげとう)の弓  
鷹の白羽の 鏑箭(かぶらや)一つ 取ってつがえて 目をふさぎつつ  
南無や八幡大菩薩 那須の示現(じげん)の 大明神も  
われに力を 添え給われと まこと心に 祈念をこめて  
眼(まなこ)開けば 浪静まりて 的も据われば あらうれしやと  
こぶし固めて ねらいをきわめ 的の要を はっしと射切る  
骨は乱れて ばらばら散れば 平家がたでは 舷(ふなばた)叩き  
源氏がたでは 箙(えびら)をならし 敵も味方も みな一同に 褒めぬ者こそ なかりけれ
四段目 嗣信が身替り 熊谷が菩提心  
さても屋島の その戦いは 源氏平家と 入り乱れつつ  
海と陸(くが)との 竜虎の挑み 時に平家の 兵船(へいせん)ひとつ  
汀(みぎわ)間近く 漕ぎ寄せつつも 船の舳先に 突っ立ちあがり  
これは平家の 大将軍に 能登の守(かみ)名は 教経(つねのり)なるが  
率爾(そつじ)ながらも 義経公へ お目にかからん 験(しるし)のために  
腕に覚えの 中差(なかざし)ひとつ 受けて見給え いざ参らすと  
聞いて義経 はや陣頭に 駒を駈けすえ あら物々し  
能登が弓勢(ゆんぜい) 関東までも かくれなければ その矢を受けて  
哀れ九郎が 鎧の実(さね)を 試しみんとて 胸指さして  
ここが所望と 宣いければ すわや源平 両大将の  
安否ここぞと 固唾をのんで 敵も味方も 控えしところ  
桜縅(さくらおどし)の 黒鹿毛(くろかげ)の駒 真一文字に 味方の陣を  
さっと乗り分け 矢面に立ち われは源氏の 股肱(ここう)の家臣  
佐藤嗣信 教教公の 望むその矢を われ受けてみん  
君と箭坪(やつぼ)は 同然なれば 不肖ながらも はや射給えと  
にこと笑うて たち控ゆれば 能登も智仁(ちじん)の 大将ゆえに  
さすが感じて 射給わざるを 菊王しきりに 進むるゆえに  
今はげにもと 思われけるが 五人張りにて 十五束なる  
弓は三五の 月より丸(まろ)く 征矢(そや)をつがえて 引き絞りつつ  
しばしねらいて 声もろともに がばと立つ矢に 血煙り立てど  
佐藤兵衛も 弓うちつがい 当の矢返し 放たんものと  
四五度しけれど 眼(まなこ)もくらみ 息も絶え絶え 左手(ゆんで)の鐙(あぶみ)  
踏みも堪えず 急所の傷手(いたで) 右手(めて)へかっぱと 落ちけるところ  
菊王すかさず 汀におりて 首を取らんと 駈け来るところ  
佐藤忠信 射て放つ矢に 右手の膝皿 いとおしければ  
どうと倒るる 菊王丸を 能登は飛び下り 上帯つかみ  
舟へはるかに 投げ入れければ 間なく舟にて 空しくなれり  
されば平家の 一門はみな 舟に飛び乗り 波間に浮かむ  
ここに哀れは 無官の太夫 歳は二八の 初陣なるが  
駒の手綱も まだ若桜 花に露持つ 見目形をば  
美人草とも 稚児桜とも たぐい稀なる 御装いや  
すわや出船か 乗り遅れじと 手綱かい繰り 汀に寄れば  
舟ははるかに 漕ぎいだしつつ ぜひも渚に ためろうところ  
馬を飛ばして 源氏の勇士 扇開いて さし招きつつ  
われは熊谷直実なるぞ 返せ返せと 呼ばわりければ  
さすが敵に 声かけられて 駒の手綱を また引っ返し  
波の打物 するりと抜いて 三打ち四打ちは 打ち合いけるが  
馬の上にて むんずと組んで もとの渚に 組み落ちけるを  
取って押さえて 熊谷次郎 見れば蕾の まだ若桜  
花の御髪(みぐし)を かきあげしより 猛き武勇の 心も砕け  
ついに髻(もとどり) ふっつと切れて 思いとまらぬ 世を捨衣  
墨に染めなす 身は烏羽玉(うばたま)の 数をつらぬく 数珠つま繰りて  
同じ蓮(はちす)の 蓮生(れんじょう)法師 菩提信心 新黒谷へ ともに仏道 成りにける
五段目 景清が錏引義経の弓流し 稀代の名馬 知盛の碇かつぎ  
かくて源氏の その勢いは 風にうそぶく 猛虎のごとく  
雲を望める 臥竜(がりゅう)にひとし 天魔鬼神も おそれをなして  
仰ぎ敬う 大将軍は 藤の裾濃(すそご)の おん着長(きせなが)に  
赤地錦の 垂衣(ひたたれ)を召し さすが美々しく 出で立ち給う  
時に平家の 大将軍は 勢を集めて 語りて曰く  
去年播磨の 室山はじめ 備州水嶋 鵯(ひよどり)越えや  
数度(すど)の合戦に 味方の利なし これはひとえに 源氏の九郎  
智謀武略の 弓ひきゆえぞ どうぞ九郎を 討つべき智略  
あらまほしやと 宣い給う 時に景清 座を進みいで  
よしや義経 鬼神(おにがみ)とても 命捨てなば 易かりなんと  
能登に最期の 暇を告げて 陸(くが)にあがれば 源氏の勢は  
逃すまじとて 喚(おめ)いてかかる それを見るより 悪七兵衛  
物々しやと 夕日の影に 波の打物 ひらめかしつつ  
刃向いたる武者 四方へぱっと 逃ぐる仇(かたき)を 手取りにせんと  
あんの打物 小脇に挟み 遠き者には 音にも聞けよ  
近き者には 仰いでも見よ われは平家の 身内において  
悪七兵衛 景清なりと 名乗りかけつつ 追い行く敵の  
中に遅れじ 美尾屋(みおのや)四郎 あわい間近く なりたりければ  
走りかかって 手取りにせんと 敵の冑の 錏(しころ)をつかみ  
足を踏みしめ えいやと引けば 命限りと 美尾屋も引く  
引きつ引かれつ 冑の錏 切れて兵衛が 手にとどまれば  
敵は逃げ延び また立ち返り さてもゆゆしき 腕(かいな)の 強さ  
腕(うで)の強さと 褒めたちければ 景清はまた 美尾屋殿の 頚の骨こそ 強かりけると   
どっと笑うて 立浪風の 荒き折節 義経公は  
いかがしつらん 弓取り落とし しかも引潮 矢よりも早く  
浪に揺られて はるかに遠き 弓を敵に 渡さじものと  
駒を波間に 打ち入れ給い 泳ぎ泳がせ 敵前近く  
流れ寄る弓 取らんとすれば 敵は見るより 舟さし(漕ぎ)寄せて  
熊手取りのべ 打ちかかるにぞ すでに危うく 見え給いしが  
されど(すぐに)熊手を 切り払いつつ 遂に波間の 弓取り返し 
(遂に弓をば 御手に取りて)  
元の汀(渚)に あがらせ給う 時に兼房 御前に出でて  
さても拙き 御振舞や たとえ秘蔵の 御弓とても  
千々の黄金を のべたりとても 君の命が 千万金に  
代えらりょうやと 涙を流し 申しあぐれば 否とよそれは  
弓を惜しむと 思うは愚か もしや敵に 弓取られなば  
末の世までも 義経こそは 不覚者ぞと 名を汚さんは  
無念至極ぞ よしそれ故に 討たれ死なんは 運命なりと  
語り給えば 兼房はじめ 諸軍勢みな 鎧の袖を  
濡らすばかりに 感嘆しけり さても哀れを 世にとどめしは  
ここに相国 新中納言 おん子知章(ともあき) 監物(けんもつ)太郎  
主従三騎に 打ちなされけり さらば冥途の 土産のために  
命限りと 戦いければ 親を討たせて かなわじものと  
子息知章 駈けふさがりて 父を救いて 勇気もついに  
哀れはかなき 二八の花の 盛り給いし 御装いも  
ついに討死 さて知盛の 召され給いし 井上黒は  
二十余町の 沖なる舟へ 泳ぎ渡りて 主君を助け  
陸(くが)にあがりて 舟影を見て 四足縮めて 高いななしき  
主の別れを 慕いしことは 古今稀なる 名馬といわん  
かかるところへ 敵船二艘 安芸の小太郎 同じく次郎  
能登は何処ぞ 教経(のりつね)いぬか 勝負決して 冑を脱げと  
呼べば 能登殿  あらやさしやと 二騎を射てに 戦いけるを  
よそに見なして 知盛公は もはや味方の 運尽きぬれば  
とても勝つべき 戦にあらず かくてながらえ 名にかはせんと  
大臣(おとど)殿へも お暇申し 冑二刎(ふたはね) 鎧も二領  
取って重ねて ざっくと着なし 能登に代わりて 面を広げ  
安芸の小太郎 左手(ゆんで)に挟み おのれ冥土の 案内せよと  
右手(めて)に弟の 次郎を挟み なおもその身を 重からせんと  
舁(かつ)ぐ碇は 十八貫目 海へかっぱと 身を沈めつつ  
浮かむたよりも 如渡得船(にょどとくせん)の 舟も弘誓(ぐせい)の 舵取り直し  
到り給えや 疾くかの岸へ 浪も音なく 風静まりて  
国も治まり 民安全に 髪と君との 恵みもひろき 千代の春こそ めでたけれ  
「お六甚句」 六日町  
英雄の誕生  
弘治元年(1555年)、当時は戦国時代で、今からおよそ450年も前、 日本全国各地で争いが続いていました。特に、下剋上といって、 身分の下の者が身分の上の者をたおしてその地位を奪うことが盛んに行われていました。 そんな中で、ここ上田庄坂戸城では、城主に一人の男の子が生まれました。 名前は卯之松、大きくなって喜平次顕景といい、さらに後には、上杉景勝となるこの物語の 主人公の一人です。父は名門長尾家の血すじを引く坂戸城主長尾政景です。 そして、母は上杉謙信の姉仙洞院です。当時は、代々男子が家を継ぐことになっており、 なにごとも「お家のため」というくらい、家の血すじを大切にしていた時代でしたので、 男子が生まれたことはなによりの喜びでした。 当時、上田庄というのは、ほぼ現在の南魚沼郡のことです。 人々はみんな、「お殿様に男の子ができたそうだ。めでたいことだ。」と大喜びでした。  
永禄三年(1560年)、同じ上田庄坂戸城下の樋口家にも一人の男子が生まれました。 小さい時の名前を与六といいました。後に名将直江兼続となって景勝とともに名声を 天下に響かせることになるのです。 父は坂戸城主長尾政景の家臣で、樋口惣右衛門兼豊といい、まきやたき木などをあつかう、 身分はあまり高くない武士であったといわれており、与六は、そこの長男として生まれました。 このころは、武士と農民との身分のちがいがはっきりしている者は少なく、ふだんは農業 をしていて、いざ戦いとなると武士になって弓矢を持って出かける者が多いころでした。 ですから、与六も当然、幼い時から田畑へ出て農業の手伝いをしていました。 喜平次の父政景は、喜平次(景勝)が生まれる4年ほど前の天文20年(1551年) には、長尾景虎(謙信)と争い、弟を人質にさし出して仲直りをしています。 また、喜平次が2才の時には、父は上田庄の武士をひきつれて信濃(長野県)へせめて行って、 武田軍とも戦っています。 一方、与六(兼続)が生まれた年の5月には、織田信長が桶狭間で今川義元の大軍をやぶっていますし、 謙信は沼田城をおとしいれ、厩橋城(前橋市)へせめ入っています。 また、よく年の永禄4年(1567年)には、有名な、上杉謙信と武田信玄の川中島の合戦がありました。 このような戦乱の世に生まれ、その中で育っていった二人ですから、武士としての強さ やたくましさが身についていったのも当然のことといえるでしょう。  
ふたりの幼少時代  
喜平次は幼い時から、たびたび、父政景の出陣を母とともに見送りました。 そして、その勇ましい姿に小さな胸をときめかしていました。 城へ帰って来た時はまた、母と一緒に、日焼けした父のたくましい姿を見て、 無事を喜ぶと同時に、武将としてのおおしさを感じたものでした。 また、母仙洞院が、留守を守る城主の妻として、出陣した武士たちの留守家族に、 なにくれとなく心をくばり、はげましてやっているすがたも見てきました。 それらのことが、知らず知らずの間に、景勝の名将としての人柄をつくり上けて 行ったのかもしれません。当時、田畑の仕事は、すべて人や牛や馬のカにたより、 今の機械化された農業とはくらべものにならないほど重労働だったのです。 ですから、男の子も、7・8才になると、もう大事な働き手として仕事にたずさわる ようになりました。 与六も7・8才ごろから、一生懸命で農作業にたずさわってきました。 馬のはなっとりや田植えをはじめ、畑の草取り、秋のいねかり、冬の道ふみと、 短い期間ではありましたが、一通りの経験をしてきました。 農業に詳しくなり、農民をいつくしみ、大切にする政治をするようになったのも、 この体験がもとになったのではないかと言われています。 たとえば、米の飯で作った大人の頭ほどもあるようなおにぎりにかぶりついたことや、 女の人のおにぎりには米だけでなくて「かて」(量をふやすために野菜などを入れる)が まじっていたことなど、よほど印象深かったのでしょう。 与六は、背が高く、度胸もあり、話すことも上手でした。その上、男ぶりもよく、頭もよく、 くらべるものもないほどすばらしい少年だったと言われています。 父につれられて、与六はしばしばお城へも出入りすることがあったのでしょう。 いち早く、この少年のなみなみならぬ才能を見こんだのは、景勝の母の山洞院でした。 喜平次が15・6才、与六が9才か10才ごろのことです。 こうして与六は喜平次の小姓(主君のそばにつかえて用事をする子供)として お城へあがることになったのです。  
一方、喜平次は、城主の若君ではあっても、与大の利ロでりりしい若者ぶりに好感をいだき、 かわいい弟に対するような気持ちで接し、与六は家臣であり小姓という身分ではあっても、 いつしか、慕わしい兄に対するような気持ちをいだくようになっていきました。 主君と家臣の間柄でありながら兄弟のような深い信頼感にささえられた、 しょうがい変わることのない固いむすびつきは、この時からめばえていったのでしょう。 喜平次には二人の女のきょうだいがいました。母君といっしょにくらしていましたが、 時には、喜平次のもとへも訪ねていくことがありました。そして、そんな時には当然、 小姓与六に合うこともあったでしょう。 だれからも好感を持たれる与六ですから、姫君たちの目にも、感じのいい少年として うつったにちがいありません。  
当時のようすを想像しながら、六日町民謡(「お六甚句」)では妹に見立てて、次のように歌っています。 与六をお六、姫君を桂姫と名づけています。  
血気さかんな少年たちが、お城の荒武者たちに武芸の技を仕こまれたにちがいありません。 時には魚野川で泳ぎ、時には坂戸山のふもとでけものを追いかけたこともあったでしょう。 また、読み書きを学び学問にはげんだことでしょう。 こうした日々を過ごし、二人の信頼の気持ちはますます深くなっていったのです。  
坂戸城の歴史  
景勝、兼続が少年時代をすごした坂戸城は、上田庄をおさめていた長尾氏が城造りを始めた といわれています。このころ坂戸城の近くには六万騎・寺尾・君帰(六日町)、 樺野沢(塩沢町)などに山城があり、また、その地をおさめていた豪族の館もありました。 これらは、越後と関東をむすぶ道すじにあり、 関東方面からせめられた時、越後の守リロとして大事な役目を持っていた場所なのです。 なかでも坂戸城は、上田庄をおさめる中心として政治を行い、戦いの時には本城として 大きなカをめしてきました。 このころ(中世)の城は、戦いの時敵のようすを見わたすため、 低い山の頂上や峰に見張り所を作り、戦の時は、そこにたてこもりました。 ふだんは山の・ふもとの舘に住んでいるものでした。 天守閣のある城はもっと後の世のことです。  
天文二十年(1551年)、坂戸城主長尾政景が上杉謙信にしたがうようになり、 政景の死後、景勝が謙信の養子になって春日山城に入ると、坂戸城は謙信の家来の武将たちが 代わって城を守りました。 謙信が死んでそのすぐ後に起きた「御館の乱」の時には、その坂戸城を中心にして 上田衆(上田庄の武士)がカを合わせて景勝をささえ、はげしく戦いぬいて 景勝方を勝利にみちびいたのです。  
慶長三年(1598年)、景勝が豊臣秀吉の命令によって会津にうつされると、 代わって越前(福井県)から、堀直寄という武将がきて上田庄をおさめるようになりまLた。 12年後に直寄が飯山にうつると、坂戸城は廃城になってしまいました。 坂戸城は、関東からせめよせられた大きな戦いだけでも何回もあり、城の造りなおしや 修理を繰り返しながら、約200年余りも続いた戦国時代を代表する山城です。 坂戸城は昭和54年(1979年)に国の史跡に指定され、六日町が保存や整備の仕事をしています。  
坂戸城の由来  
坂戸城は南北朝時代(十六世紀後半)越後新田氏が築いたものでその後上杉氏の属城となり、上田長尾が興ってからはその本城となった。永禄七年(一五六四年)城主長尾政景の死去によりその子景勝が、上杉謙信の後嗣ぎとして春日山城に移った。上杉氏の番城であったこの城は慶長三年(一五九八年)景勝が会津に移ってからは堀氏の支城となり、直寄が在城し慶長一五年(一六一〇年)まで二六〇年間名城としてその名をはせた。 坂戸山山頂(海抜六三四メートル)の本丸、上屋敷、中腹の中屋敷、山麓の城主館、家臣屋敷の後などが完全に残されている。尾根を利用した大小の曲輪や壕跡が多く雄大な規模を持つ山城として日本でも有数である。城主館跡は南北一二〇メートル東西一八〇メートルの長方形で土畳や石垣をめぐらし南北に門跡があり、堅固不落の城として有名である。御館の乱での北条氏の攻撃、天正10年(1582)の織田信長の進攻にも屈しなかった。馬屋敷跡といわれる中腹の一本杉には上杉景勝と直江兼嗣の生誕の碑がある。  
 
送りましょうか 送られましょうか 寺が鼻まで 時雨にぬれて  
昔やお六と 昔やお六と桂姫 月が出たぞえ 木影に入ろか  
ままよ渡ろか 坂戸の橋を お六甚句で お六甚句で水鏡  
吹雪く窓なりゃ 届かぬ想い 心細かな 縮のあやを  
織って着せたや 織って着せた主が肩 百姓大名じゃ 兼続様は  
尻をからげて 田草もとりゃる 峰にゃ松風 峰にゃ松風玉日和   
「八社五社」 (やしゃごしゃ)  
「八社五社」は、式内社(しきないしゃ)の称号をおくられた、上越地方の13の神社のことを言います。これらの神社は、上越市の中心をながれる関川をはさんで西に8社、東に5社あったようです。また、くわしく調べてみると、それぞれの神社には流れがあり、出雲の流れをくむ神社が8社、大和の流れをくむ神社が5社あったようです。これらのことから「八社五社」と呼ばれたのではないかと言われています。  
民謡「八社五社」は、これら13社が式内社の称号をおくられたことを祝い歌ったものと伝えられており、 式内社を民謡としているところは、全国でもめずらしいと言われています。式内社の称号をおくられたことで人々は神社に集まり、「よかったなあ、よかったなあ」と喜び祝い、歌いおどったと言い伝えられています。その「よかったなあ、よかったなあ」がなまって、「ヨイヤアナー、ヨイヤアナー」となったと言われています。その後、豊作をいのっておどったり、行事のしめくくりとしておどったりして今に伝えられてきました。  
 
→「鯵ヶ沢甚句」  
 
ヨイヤアナー ヨイヤアナー  
ヨイヤアナーのハヤシは シャンと高く ハア、アリャサイ、ヤッサイ  
ヨイヤアナーのおどりは シャンとおどれ ヨイヤアナー ヨイヤアナー  
そろそろ調子が そろたなら ポツポツ文句にとりかかる  
ころは古(えに)しの事なるが 河内(かわち)の国にかくれなき  
河内の国にかくれなき 足柄山(あしがらやま)のふもとなる  
足柄山のふもとなる 小滝(こたき)の里と申するに  
信義長者(のぶよしちょうじゃ)と申しては しまもろこしの果(は)て迄(まで)も  
しまもろこしの果て迄も 大万長者(だいまんちょうじゃ)と呼ばわれる  
大万長者と呼ばわれる 郷土一人(きょうどひとり)おわしける  
郷土一人おわしける 信義長者の惣領(そうりょう)に  
「新保広大寺」 (口説き) 
「松坂」「広大寺」「追分」「おけさ」を日本の民謡の四大源流といいます。「広大寺」は、十日町市下組新保にある広大寺の住職が、門前の豆腐屋の若後家お市に恋慕したのを歌いはやしたもので、天明の飢饉の年に江戸まで大流行しました。これが各地に伝わって上州の「八木節」、越中の「古代神」、近畿の「高大寺」などの民謡になりました。瞽女もこの伝播に一役買ってきました。 
 
「新保広大寺」とは、新保の広大寺、すなわち新潟県十日町房下組字新保の広大禅寺のことである。それが曲名になったのは、次の事件がおこったためである。1782-83年(天明2-3)ごろ、広大寺14代目白岩亮端和尚の時代、前の信濃川の中洲の耕作権をめぐって、近郷の上ノ島(かみのしま)と寺島新田の農民が争った。ところが上ノ島側についた豪商上村藤右衛門邦好は、寺島新田側についている広大寺の和尚を追い出すことを考え、和尚悪口唄をつくって歌わせた。〈新保広大寺ガメクリこいて負けた 袈裟も衣も質に置く〉などの歌詞がそれで、その歌い出しの文句をとって「新保広大寺」と呼ぶようになった。ところで「新保広大寺」の曲は、瞽女の門付け唄「こうといな」らしい。ところが、のちに瞽女たちは、その「新保広大寺」を長篇の字あまり化した「広大寺くずし」と呼ぶ口説節(くどきぶし)を編み出した。それがのちの「津軽じょんがら節」などである。 
 
そもそもこの唄は、かつての住職・廓文和尚が門前の豆腐屋の娘・お市との馴れ初め、その恋の評判が唄になって流行したという伝説があります。しかし、そのきっかけは、寛永6年(1629)に起こった信濃川の洪水で地形の変わったことから、その中洲の土地をめぐって、寺島新田と上ノ島新田の農民によって始まった、耕作権争いといわれます。上ノ島新田側には大地主・最上屋がつき、寺島新田側にはその中洲が広大寺の寺領であったことから、14代白岩亮端和尚を後押しに加わったといいます。また白岩和尚と最上屋はもともと仲が悪かったそうな。そこで、最上屋は、和尚を追い出す作戦を考え、白岩和尚乱行を唄に作って世間に歌わせたというのでした。内容は活字に出来ないほどの悪口唄であったそうです。ところで、唄の歌詞は作ったものの、メロディのほうは甚句であったようです。それを得意とした瞽女達が、歌い広めたといいます。また、瞽女は、もともと長編の物語を歌うことが主であって、7775調の歌詞では短いということで、「あんこ」入りの字余り形式のものを作り上げ、「新保広大寺くずし」を作り上げていきます。 
それはやがて口説節となっていきます。それが、読売り、飴売りといった遊芸人によって広められていきます。一つには、先の越後瞽女でした。「離れ瞽女」として北へ北へと向かった者は、やがて青森の津軽じょんがら節、北海道の道南口説、鱈釣り唄を生み出します。関東に向かえば殿さ節、やがて八木節になっていきます。また、飴屋が取り入れて、ヨカヨカ飴屋唄、チャンチキ飴屋が小念仏、そして白桝粉屋等々の唄になっていきます。西に向かえば、広大寺が古代神・古大神・古大臣、さらに隠岐に渡ってどっさり節を生み出すそうな。もう一つ忘れられないのが大神楽の神楽衆でした。大神楽は獅子を奉じ、神事舞としての「悪魔払い」の芸の後、余興芸として「端踊り」という手踊りのナンバーが用意されていますが、その中に新保広大寺が取り入れられます。しかも、伊勢の「天照皇太神宮」の音から皇太神と訛って伝えられていくケースもあります。神楽の中に取り入れられたものには、寡聞では、十日町市の赤倉神楽、西頸城郡青海町大沢の青澤神楽の手踊りの中の新保サなどがあります。  
 
越後ごぜ達が唄い広めた「新保広大寺節」は、江戸時代の五大流行唄の筆頭ともいわれた。北上した越後ごぜは、山形、秋田、青森、北海道と唄い歩き、そして「津軽じょんがら節」「口説節」「道南口説」「北海道鱈つり唄」などに流れ継がれていった。関東方面に上京した越後ごぜによって、このザレ歌は上州風土に合う「木崎音頭」「八木節」へと変じていったといわれる。南下した越後ごぜは、信州路から甲州路や中仙道へと唄い歩き、「古代神」「麦わら節」に変化や影響を与えた。また、三国峠を越えて「八木節」や「船屋唄」のルーツとなり、北へ向かって秋田民謡に影響を与え、青森で「津軽じょんがら節」を生み、更に西へ向かっては、中国地方の民謡「古代神」の元唄となり、全国各地の「口説」の源流となっている。  
 
→「八木節」「古代神」「高大寺」 
 
新保さえ 広大寺は ありゃ何処から出たやれ 和尚だなぁ 
新保新田から出たやれ 和尚ださえ 
ほらなんきん たおだか ほねつくようだよ 
戸板に豆だよ ごろつくようだよ 
へんへんてばなっちょなこんだよ 
  新保さえ 広大寺は ありゃなんで 気がやれそれた 
  お市迷うて そんで気がそれた 
  サァ来なさい 来なさい 晩にも来なさい 
  おじいさんお留守で ばぁちゃんツンボで 
  だれでも知らない そろりと来なさい 
  へんへんてばなっちょなこんだよ 
切れたな 切れた切れたよ 一思いにやれ切れたな 
水に浮草根がやれ 切れたさえ 
新潟街道で イナゴがつるんで 三石六斗の 
あぜ豆倒して ハァイナゴで幸せ 
人間ごとなら そうどうのもとだよ 
へんへんてばなっちょなこんだよ 
 
新保 ナーエ コリャ 広大寺かめくり(花札ばくち)こいて 
コリャ 負けた ナーエ 袈裟も衣も ヤーレ みなさえ コリャ 取られた ナーエ  
(囃し) 
ああいいとも いいとも 一時こうなりゃ 手間でも取るかい ナーエ 
あとでもへるかい いいこと知らずの 損とりづらめが いいとも そらこい 
新保広大寺に 産屋が出来た お市案ずるな 小僧にするぞ ナーエ 
桔梗の 手拭いが 縁つなぐなら おらも染めましょ 桔梗の型てば ナーエ  
(囃し) 
そうとも素麺 下地が大事だ こいてばコンニャク きんには大事だ 
もっとも麦飯 とろろが大事だ おらカカそれより まんこが大事だ  いいとも そらこい 
さほど目に立つ お方じゃないが どうやら私の 虫やが好くてば ナーエ  
(囃し) 
新潟街道の スイカの皮でも 抱いたら離すな 十七島田に 乗ったら降りるな 
きっきとこいだら ほっぺに吸い付け いいとも そらこい 
新保広大寺が ねぎ喰って死んだ 見れば泣けます ねぎのはたけ ナーエー 
殿さ殿さと ゆすぶりおこせば 殿さ砂地の 芋で無いぞ ナーエー  
 
あわれなるかや へそ穴くどき 国はどこよと 尋ねて聞けば  
国は内股 ふんどし郡(ごおり) だんべ村にて ちんぼというて  
おそれおおくも もったいなくも 天の岩戸の 穴よりはじめ  
亭主大事に こもらせ給い ふじの人穴 大仏殿の  
柱穴にも いわれがござる 人の五体に 数ある穴に  
わけてあわれや へそ穴くどき 帯やふんどしに 締めつけられて  
音(ね)でも息でも 出すことならぬ 仁義ごとにも 出ることならぬ  
夏の暑さに じつないことよ ほんに体も とけるよでござる  
日の目おがまず 夜昼しらず よその穴ショの 楽しみ聞くに  
春は花見に 夏蛍見に 秋は月見に 冬雪見とて  
耳はおお聞く 琴三味線の 鼻は香(こう)買い蘭麝(らんじゃ)の香り  
口は三度の 食事のほかに 酒や魚や 茶菓子というて  
うまいものには 鼻ふくらしゃる 
「三階節」 (「三界節」「三回節」「ヤラシャレ節」)  
柏崎地方の民謡。盆踊り歌。三味線伴奏の座敷歌と「野良三階節」ともいわれる盆踊歌がある。曲名は歌詞の終りの句を三回くり返すことから、「三回節」→「三階節」とする説と、元歌の内容による 仏教の三界から説がある。  
 
「ヤラシャレ節」ともいい、新潟県柏崎地方の古い盆踊歌。現在は花柳界のお座敷歌もある。元歌〈しげさしげさと声にしやる しげさの御勧化(ごかんけ) 山坂越えても参りたや〉から「三界節」と記す説もあるが、記録「柏崎文庫」によれば、同一歌詞を3度くり返すところからの命名と思われる。また1828年(文政11)ころ、三都に流行した「ヤッショメ節」と「三階節」との先後関係は明らかでないが、曲型からは柏崎に近い刈羽(かりわ)郡黒姫村(現、柏崎市)に遺存する「おいな」もしくは中魚沼郡仙田村(現、川西町)の「しゅげさ」という盆踊歌が原調らしく、「三階節」はその変化と思われる。  
 
柏崎地方の花柳界ではお座敷唄、農村では盆踊り唄として歌われてきた。この唄の源流は、江戸時代の文政年間(1818〜30)江戸や京都、大坂などで流行した「ヤッショメ節」だといわれている。囃子詞に「ヤラシャレ」と入るので「ヤリャシャレ節」、あるいは唄の文句の一つに「しゅげさ」とあるので「シュゲサ」ともよばれることがあった。いまの題名の「三階節」は、この唄が坊さんの勧化(かんげ)を歌っているのだから仏教語の「三界」からきているという説と、同じ文句を3回繰り返すところがあるので三階の字をあてたという説がある。  
 
←「ヤッショメ節」「おいな」「しゅげさ」 
 
米山さんから雲が出た 今に夕立が来るやら  
ピッカラ チャッカラ ドンガラリンと音がする  
アー 音がする 今に夕立が来るやら  
ピッカラ チャッカラ ドンガラリンと音がする  
(ハァ ヤラシャレ ヤラシャレ)  
   柏崎から椎谷まで 間に荒浜 荒砂 悪田の渡しが なきゃよかろ  
   アー なきゃよかろ 間に荒浜 荒砂 悪田の渡しが なきゃよかろ  
せまい小路でちょいと出会うた 話せ話せや語れや 胸うちあること みな話せ  
アー みな話せ 話せ話せや語れや 胸うちあること みな話せ  
 
米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら   
ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする  
ドンカラリンと 音がする いまに夕立ちがくるやら  
ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする  
   柏崎から椎谷まで 会いに荒浜荒砂 悪田の渡しが 無きゃよかろ  
   渡しが 無きゃよかろ 会いに荒浜荒砂 悪田の渡しが 無きゃよかろ  
可愛がられた竹の子が 今じゃ切られて割られて 桶のたがに掛けられて 締められた  
掛けられて 締められた 今じゃ切られて割られて 桶のたがに掛けられて 締められた  
   蝶々トンボや キリギリス お山お山でさえずる まつ虫 鈴虫 くつわ虫  
   鈴虫くつわ虫 お山お山でさえずる まつ虫 鈴虫 くつわ虫  
明けたよ夜が明けた 寺の鐘打つ坊主や お前のおかげで 夜が明けた  
おかげで 夜が明けた 寺の鐘打つ坊主や お前のおかげで 夜が明けた 
「越後追分」  
信州に端を発すると言われる「越後追分」。同じ越後追分節でも、場所によって歌詞も曲調も異なります。追分節は次のような特徴をもつ民謡です。  
○ 明確な拍節を持っていない(調子よくパンパンと手拍子を打てない)  
○ 音域が広い(高い声から低い声まで出さなければいけない歌が多い)  
○ 母音を伸ばす(一音多声型。歌詞等の一文字を長く伸ばす場合が多い。)  
越後追分の起源について、確かなことはわかりませんが、碓氷峠の「馬小唄(馬追が馬を引きながら歌う歌)」が、浅間三宿の女達の唄う三味線唄の「追分節」となり、これが参勤交代の北陸武士や瞽女(ごぜ)等によって越後に伝わって越後追分となった、というのが現在の定説となっているようです。一口に「越後追分」といっても、新潟の越後追分と寺泊のそれとは、歌詞も曲調も異なります。なぜ歌詞も曲調も異なるのか、詳しいことはやはりよく分かっていないようです。  
 
「追分」といえば「江差追分」をイメージしますが、源流は信州の中山道と北国街道の分岐点の「追分宿」(長野県北佐久郡軽井沢町)で歌われた「追分節」とされています。これは「馬方節」に三下りの三味線の伴奏がつけられて歌われ「馬方三下り」と呼ばれ、これが「追分節」として、全国を駆けめぐったといいます。新潟にも各地に伝承されていますが、寺泊でも座敷唄として伝承されてきました。単純に「越後追分」というと、新潟市の鈴木節美師によるものと、この月子師のものが浮かびます。鈴木節美師の歌われてきたのは尺八伴奏で「江差追分」のようなスタイルのもの、月子師のものは民謡研究の竹内勉氏がともに復元されたものです。三味線は本調子で、波を思わせるようなスィング感のオスティナート。 
 
←「信濃追分」 「追分馬子唄」  
(寺泊) 
ハーソイ ソイソイソイ  
櫓も櫂も ソイ 波にとられて ソイ  
ハー身は捨て ソイ 小舟ヨ  
ハーソイ ソイソイソイ  
どこへ ソイ アーとりつく ソイ 島もない  
ハーソイ ソイソイソイ  
(送り唄)  
よくも染めたよ 船頭さんの厚司 ヤラサノエー  
腰には大船 裾に波 背なに錨の 紋所をネー  
質には入れても 流りゃせぬ  
ハーソイ ソイソイソイ  
(新潟) 
ハアー荒い ソイ 風にも ソイ  
あてない ソイ 主を アーソイソイ  
やろか ソイ えぞ地の ソイ  
荒海へ ソイ ソイソイ  
(合の手)  
船は出て行く 港の沖に  
エンヤラサーノサー  
思い偲んで 見送れど  
誰も知らない 私の胸の中  
沖の鴎が 知るばかり  
佐渡へ八里の 荒波越えて  
鐘が聞こゆる 寺泊  
(合の手)  
立山しぐれて 越後は雨よ  
かすかに見ゆるは 佐渡島  
佐渡と越後の境のさくら  
花は越後へ 実は佐渡へ 
しげさのごかんげ  
(三階節しげさの民話。ごかんげというは、お説教のことです。)  
昔、柏崎の専福寺に、しげさというお坊さんがいました。しがさというお坊さんは、大変お説教がじょうずでした。  
「どうか、おらたちの村に来てくらっしゃれ(お出でください)。」「私たちの村に、ごかんげに来てくだされ。」とあっちの村から、こっちの里から、頼みにきました。  
しげさは頼まれる、つとめて村々をまわって、仏様のありがたさや、人間に生まれた幸福などを、説教して歩きました。しげさのごかんげを聞いていると、美しい花が咲き競い、美しい鳥たちが鳴き遊ぶ極楽浄土にいるように思われ、仏様のお慈悲深いお心や、人間に生まれてきた幸せがつくづく思われて  
「ありがたや、ありがたや」と涙を流して、お礼を申し上げるのでした。  
母親を困らしてばかりいた加造どんの、あんにゃ(長男)は、しげさのごかんげを聞いてからは、見違えるほど、親孝行になりました。のめしこき(怠け者)の台べえどん、しげさのお説教を聞いてからは、村一番の働き者になりました。  
しげさは、酒が大好きでした。ごかんげがおわると「さあ、おとき(お説教の後に出す食事)」と村人たちは、しげさに酒をすすめました。  
「ホホウ、これは、これは。」としげさは、にこにこしながら酒をごちそうになるのでした。しげさは、酒を飲むときまって「ひとつ、おどろうや。」とひょうきんなかっこうをして踊るのでした。  
しげさと酒のめば しげさ しげさが一升のんで 私が五合のんでようたよた   
皆は、手を叩いて、賑やかに、はやしたてました。酒もりは、いつまでもいつまでも続きました。こんなわけで、村の人たちは、「専福寺、しげさは、こんだ(今度)、いつ来られるのか。」と指を折って、待ち焦がれるようになりました。  
「隣の村で、しげさのごかんげがあるそうだ。」とうい話が伝わりますと、どんな山坂が険しかろうが、どんなに遠い村であろうが、年寄りであろうが、若者であろうが、お説教に集まりました。  
この村人たちは  
しげさしげさと こえにする しげさ しげさのごかんげ 山坂越えても まいりたや  
と歌を口ずさんでいました。しげさが死んだ後も村人たちは、お盆になると、村のお寺に集まって、この歌を歌い、夜の更けるまで踊りました。  
私どもの三階節は、こうしてはじまったといいます。 
「佐渡船方節」  
出雲国から出た船歌なので「出雲節」、船顕が唄ったので「船方節」とも言い、幕末頃から全国に流行して流行歌的存在となる。佐渡では、二見地区等の祝宴などで老人が唄う。  
歌詞。扇地がみに池掘り初めて、他のまわりに田を掘りて、十七八なる姉さんが、今年初めて田を植えた そのまた稲の出来ぶりが…これは昭和34年、相川町五十浦平越きみ(60)さんの唄ったもの。「新潟県の民謡」に佐和田町のもの、「佐渡相川の歴史」に相川、北片辺、矢柄で歌われたもの、「加茂村史」に「内の海府二十四ケ村づくし」、「佐渡の海村風土記−片野尾誌−」にも載る。又、「羽茂ふるさと探訪(続)」「近現代の羽茂」に歌詞が多く載るが、元々は海の歌であり山里の大崎地区で多く採集されたところが面白い。海府地区では祝儀唄として一般的に歌われ、地名を読みこむ等佐渡独特の歌詞が出来ている。  
 
←「出雲節」「舟方節」  
 
外の海府は二十四ケ村でこれを集めて恋話  
小川生まれで身は達者姫津育ちでしょさがよい  
   いつもにこにこ北狄ちょっと見染めて恋心  
   人目の中に戸地られて戸中で話も出来かねる  
恋の細々認(したた)めて文は片辺のかた便り  
たとへ石花と別れても影や姿は後尾むき  
   河内と云ふてすがれども男は立嶋返事なし  
   たとへ不評があったとて入川見せてくだしゃんせ  
返事がなければこがれ死に文は千本送れども  
たとへ高下ではなれても田ノ浦廻りでかけつける  
   小野見心でくどけども男は石名で小田いなか  
   大倉走りで死するともいくらいやがられたとても  
人目の関は五十浦で岩谷の口で逢いませう  
それともあなたが御不評なら真更川へと身を投げて  
   この身は鵜島で果てよとも色よき返事を願います  
   佐渡で名所は数ある中で霞たなびく北山に  
咲いてうるわし石楠花の花の面影うつしたる  
ふもとの両津くるわ町出船入船真帆片帆  
   沖で鴎がなくわいな明日はなぎやら時化じゃやら  
   両津女は碇か綱か今朝も出船を二そとめた  
「越後舟方節」 
入船したなら 教えておくれ 便り渚の 身は捨て小船  
お主のご無事を 祈るゆえ 雪の降る日も 風の夜も  
身はしみじみと 眠られぬ わしの待つ身に ならしゃんせ  
火のない火鉢を 引き寄せて 灰掻きならして 紙として  
手に持つ火箸を 筆として 思うあなたの 頭字を  
書いて眺めて 夜を更かす  
「寺泊船方節」  
(ハァヨッショイ マカショ)  
入り船したなら (ハァヨッショイ マカショ) 知らせておくれ (ハァイヤサカサッサ)  
家で待つ身にならしゃんせ 雨の降る夜も 風の夜も  
強い嵐でも 吹いたなら 案じ暮らして 夜の目もちっとも 眠られぬ   
 (ハァヨッショイ マカショ)   
といちが来たのに なぜ戸が開かぬ 何でこの戸が開けらりょう 父と母との相寝して  
枕元には おばが寝る 庭石山の 竹の子よ 卵の中なるひよこ鳥 誰を頼りに トコ兄ちゃん 通うて来る  
(寺泊七軒町・山の町遊郭 / 唄い込み)  
越路で名高い 港がござる 錨降ろさぬ船はない その名も高き 七軒町  
客を守りの十二様 朝よしお顔は 美和楼で 風のまにまに 柳楼 いつしか浮名の立田楼  
再び思うが 再思楼 清き流れの 住川楼 いつも青々 松葉楼  
私と貴方は トコ兄ちゃん 千歳楼で
「小木大津絵」  
「佐渡では、宴会の席で小木出身者の芸妓によって、必ずといってよいほど、この「小木大津絵」を唄そして踊ったものであった。  
○ 田辺尚雄氏は「この大津絵は、端唄の大津絵と違っていて、古風の説経節の道行きのようで、それが幾分佐渡化したような節まわしである。非常に優雅な感じがした」と言い、「小木の名所を詠い込んだものが有名である。」として 下記の歌詞を紹介する。  
○ 明治末年頃からだんだん消えて行き、今では歌えるものは3、4 人の老人か、中年の芸者くらいになってしまった。  
○ 小木花街の騒ぎ歌で小木出身の芸妓によって佐渡各地の宴席で「小木大津絵節」が唄われ踊られた。  
○ 「新潟県の民謡」に小木の中川シズ(大正7年生)、中川ヨシ子(大正10年生)、伊藤和子(大正14年生)の「小木大津絵」が載る、歌詞もあり。  
○ 「加茂村史」に「加茂村づくし」が載る。以下の歌詞が残る。  
 
←(説経節) 
 
小木の澗(ま)の春の夕景色 風も匂うや御所桜  
城山のおぼろ月 見はる向うの越の雪  
沖のはせ舟 霞がくれに真帆片帆  
内と外とのかかり舟 向うの岸の弁財天  
矢島経島 若やぐ木崎のさがり松  
三島・向島・中の島 四方(よも)もを見はらす日和山
「新津甚句」
「やかた甚句」
 

北海道東北関東近畿中国四国九州 
山梨県静岡県長野県新潟県愛知県岐阜県石川県富山県福井県

愛知県

 

「名古屋甚句」   
東海道五十三次の宿・宮(熱田)の花柳界で酒席の騒ぎ唄として唄われた。各地に分布する「本調子甚句」が名古屋に根を下ろしたもの。同系統は熊本の「おてもやん」、山形の「酒田甚句」、金沢の「金沢なまり」などがある。その土地のなまりを面白く読み込んだところに特徴がある。明治初期、名古屋在住の新内語り・岡本美根太夫が唄って流行、有名になった。  
 
愛知県の県庁所在地・名古屋市は、徳川御三家の一つ・尾張藩六十二万石の城下町です。名古屋甚句は、この名古屋の花柳界で歌われてきたものでした。曲は本調子の三味線伴奏に乗って歌われます。その源流は「そうじゃおまへんか節」であるといい、「おてもやん(熊本甚句)」(熊本県)、「酒田甚句」(山形県)、「宮津節」(京都府)などと同系統の唄といえます。また「相撲甚句」に新しい歌詞をつけたものともいいます。名古屋では明治期に、新内の岡本美根太夫が「源氏節」を編み出して、これを下座にして「源氏芝居」を興行したといいます。その時にこの「名古屋甚句」を幕間に歌ったことから、大流行したといいます。また明治中期には、大須観音裏の福田屋の名妓・かぎが登場、美声で知られるようになり、「名古屋甚句」の「かぎ」ということで、「甚鍵」と呼ばれ、評判となり、現在の「名古屋甚句」の芸風は、この「甚鍵」の流れが定着しているということです。いずれにしても民謡の世界以外にも、端唄・俗曲のジャンルに入れらることもあり、また「安来節」などではあんこに用いられています。また、現在は聴かれなくなりましたが、長野県飯田市では「飯田名古屋甚句」として、太棹で歌われていたといいます。  
名古屋甚句と相撲甚句  
名古屋甚句にもいろいろな唄い方がある。名古屋甚句も「前唄」の 恋のヤ〜 こいのこいの 鯉の滝のぼりゃなんというて登るエ〜 山を川にしょうと こりゃ言うてエ〜登るエ〜から本唄にはいったが さらばエ〜は略してやっている。  
本唄も、定番である   
   宮の熱田の二十五丁橋でエ〜  
   花の名古屋の碁盤割りはエ〜  
   ままになるなら横綱はらせエ〜  
   尾張大納言さんの金の鯱鉾言うこと聞けばエ〜   
相撲甚句の元唄は名古屋甚句だ、いや相撲甚句が元で名古屋甚句が後だとも云われているが、真偽のほどはわからない。民謡関係の資料によると・・・名古屋甚句は愛知県名古屋地方で唄われている。民謡というより、俗曲、端唄に近い。曲調からいえば江戸期に始まった相撲甚句に新しい歌詞をつけたもの。  
 
「甚句」は日本の伝統的な歌謡の一形式。佐藤成裕著「中陵漫録」(1826、文政9年序)巻十四「踏歌」に「越後の甚じん九く 踊の如き盛なるはなし」とあり、一般に盆踊歌の異称、もしくは七・七・七・五形、二上り調の酒席の騒ぎ歌の称にもいうとのこと。 「東海道中膝栗毛」(文化元年〜 6 年刊、十返舎一九)の弥次郎兵衛・北八は熱田宮の宿に泊った晩、北八が呼んだあんまが「わしがじんくを、旦那がたへきかせたい……ジヤジ ジヤン ジヤン ヱヱヱヱヱよふたよたよた五しやくの酒に、壱合のんだらさままたよかろ」と甚句を聞かせる場面がある。このあんまの唄う甚句は越後甚句だが、文化年間に熱田宿で甚句が唄われていた。当時の東海道は宮から七里の渡しで桑名へ行くので、 「東海道中膝栗毛」の本編に名古屋の記事はない。近世、熱田と名古屋は別々の町であった。「甚句」が同じころ名古屋でも唄われていたことは、この弥次郎兵衛・北八が名古屋見物をしたという設定で書かれた、1815(文化12) 年の 「四編の綴足」(名古屋静観堂版、東花元成著、名古屋叢書+四巻所収)にねぼけ眼で朝帰りのおかめ(遊女)を見た弥次が、「なるほどうつくしいものだ。しかしあたまをみなせへ。筑摩祭の鍋といふ。見立も古いから、烏が二三羽。あたまのうへで、じんくを踊つているよふだ」などと言っていることから知られる。  
「甚句」は江戸時代後期には名古屋大須観音辺りの遊廓で唄われ始め、幕末には「芸者殺すにや刃物はいらぬ 甚句止めれば皆殺し」とまで言われるほど芸者やその贔屓の客の間に大流行した。熱田や名古屋では、遊女や芸妓を中心に「甚句」が盛んに唄われていたから、 「東海道中膝栗毛」本編や「四編の綴足」にも書かれたと考えられる。  
名古屋では幕末から明治初期にかけて、大阪から来名を繰り返した岡本美根太夫が新内節に説経浄瑠璃の節を加えて新しい節を語り出し、これを説教源氏節と名付けた。同門の岡本松鳶斎はこの説教源氏節と人形を、また岡本美狭松は女芝居と結びつけて流行させた。現在は甚目寺の「もくもく座」に人形芝居が復活、伝承されている。  
また明治中期、大須観音裏の福田屋の名妓・かぎは美声で知られ、「名古屋甚句」の「かぎ」で「甚鍵」と呼ばれて評判となり、現在の「名古屋甚句」の芸風はこの「甚鍵」の流れが定着したものと言われている。  
 
/ 「おてもやん」「酒田甚句」「金沢なまり」    
←「本調子甚句」「そうじゃおまへんか節」  
■ 
まくら唄 
ハァーエ鯉のや鯉の鯉の滝登りゃ何というて上るエー  
   山を川にしょうとコリャいうて上るエー  
アーさらばエーこれから甚句を変えてエー  
   今のヤー流行のストトコ節でも エー聞いておくれエー  
本唄  
ハァ〜宮の熱田の二十五丁橋でヨー アー西行法師が腰をかけ  
   東西南北見渡して これほど涼しいこの宮を  
   誰が熱田とヨーホホイ アー名をつけたエー  
   トコドッコイ ドッコイショ  
明治10年頃名古屋地方では「芸者殺すに刃物はいらぬ、甚句とめたら皆殺し」いわれたほど流行した。最後に太鼓の伴奏でトコドッコイドッコイショとはやし立てたことから大流行した。花街では三味線にのせて「本調子甚句」「二上り甚句」がある。  
 
前唄 
アーエ恋のヤー こいのこいの鯉の滝昇りゃ 何と言うて登るエー  山をヤー 川にしょうと コリャ 言うて登るエー  
アーエさらばヤー これから甚句を変えてエー 今のヤー 流行のストトコ節でも エー 聞いておくれエー  
本唄 
アーエ宮の熱田の 二十五丁橋でエー アー西行法師が腰をかけ   
東西南北見渡して これほど涼しいこの宮を  
誰が熱田とヨーホホ アー名を付けたエー トコドッコイドッコイショ  
アーエ花の名古屋の 碁盤割りはエー アー都に負けない京町や   
竜宮浄土の魚の棚 七珍万宝詰め込みし   
大黒殿の袋町 広小路から見渡せば なかなか届かぬ鉄砲町   
次第次第に末広の 家並みは続く門前町  
さても名古屋のヨーホホ アー繁盛ぶりエー トコドッコイドッコイショ  
アーエ尾張大納言さんの 金の鯱鉾の 言うこと聞けばエー  
アー文明開化の世となりて 高い城から下ろされて   
咎(とが)ないわたしに縄をかけ 離れ離れの箱の内  
蒸気船にと乗せられて 東京までも送られて   
博覧会にさらされて こんなに悔しいことはない  
いっそ死んだがましかいな 一人で死ぬのはよけれども お前と一緒に死んだなら  
人が真鍮(心中)じゃとヨーホホ アー言うであろうエー トコドッコイドッコイショ  
(名人づくし) 
アーエ尾張名古屋は ありゃ芸どころエー  
アー名古屋三山の昔より 名優名手は数あれど 花のお江戸で名をあげし   
初代中村勘三郎 尾上梅幸は立女形 市川中車に沢村訥子 千両役者は宗十郎   
地役者ながらも東西に その人ありと知られたる 中山喜楽は芸の人   
萩野検校は平家琵琶 豊竹呂昇は義太夫で 踊りは西川鯉三郎   
名古屋甚句は甚鍵と 岡本美代治が名をとどむ  
かく言う私も民謡に ただ一筋に打ち込んで 歌い続けておりまする   
皆々様には及ばねど 精魂かたむけつとめます  
よろしゅうご贔屓ヨーホホ アー頼みまするエー トコドッコイドッコイショ  
(名古屋甚句)  
名古屋名物みやしげ大根(だいこ) きんのしやちほこ雨ざらし  
宮のあつたの明神様へ とほざかれとは祈りやせぬ  
宮をはなれてかさ寺越えて なるみ八丁で袖しぼる  
(名古屋甚句くずし)  
娘十七八は嫁入り盛りネエ 箪笥長持はさみ箱   
これ程持たせてやるからは 必ず戻ろと思ふなよ  
もうし母(かか)さんそりや無理ぢや 西が曇れば雨となり  
東が曇れば風となる 千石積んでる船でさへ  
追手(おひて)がかはればネエ 出てもどる  
   田舎育ちの藪鶯がねえ 初めて吾妻(あづま)へくだるとき  
   一夜のやどりをとりわすれ 西を向いても宿はなし  
   梅の木小枝を宿として 花の莟を枕とし   
   落つる木の葉を夜具として 月星拝んでねえ 法華経を読むエヽ  
私の近所へ芋屋が出来た お芋の看板十三里  
川越本場の赤芋で 栗より甘味(うま)いと云ふことだ  
いゑ〜私の食べたのは 十里のお芋でありました  
そりやまた何うした事であろ 芋が生(なま)焼(やけ)でようほゝエヽ ごり〜エヽ  
「恋の鯉」  
アーエ恋のやァー 鯉のこいの鯉の滝上りゃなっと言うて上るエ 山をやァァ川にしようとォ コリァいうて上るゥゥエ  
「宮の熱田」 
アー宮の熱田の二五丁橋でエェェ アー西行法師が腰をかけ 束西南北見渡して これ程涼しいこの宮を たれが熱田と ヨーォホホ アー名を付けたァァエ トコドッコイドッコイトショ  
「名古屋名物」  
名古屋名物 おいてちょうだもにすかたらんにおきゃあせ ちょっともだちゃかんとぐざるぜえも そうきゃもそうきゃもなんだァも いきゃすかおきゃすかどうしゃあす おみゃはまこの頃どうしゃあた 何処ぞに姫でも出来せんか 出来たら出来たといや あせも私もかんこがあるうゃ ああもおそぎゃあぜえも
「名古屋名物」 (「名古屋甚句」) 
宮(熱田)宿の花柳界で唄われていた。各地に分布する「本調子甚句」が名古屋化したもの。「おてもやん」や「酒田甚句」などと同系統。明治の初め、名古屋在住の新内語り・岡本美根太夫が「源氏芝居」を興行して回った折り、その幕間に「名古屋甚句」を訛りも面白く唄い、大流行させた。今日の「名古屋甚句」は、明治の中頃、名古屋花柳界に「かぎ」と呼ぶ美声の名妓が現れ、その人の唄い方がいまも生き続けている。  
 
/ 「おてもやん」「酒田甚句」     
←「本調子甚句」  
 
名古屋名物 お(止)いてちょうでぁ(頂戴)もに 好かんたらんに おきゃぁせ  
ちょっとも だち(埒)ゃかんと 叱るぜぇも そうきゃも そうきゃも何でゃぁも  
行きゃすか おきゃすか どうしゃぁす おめ(前)ゃさま この頃 どうしゃぁた  
どこぞに 姫でも出来せんか 出来たら 出来たら 言やぁせも  
私も勘考(かんこ)が あるぎゃぁも 恐(おそ)ぎゃぁぜぇも
「名古屋甚句」概観  
名古屋甚句は、「旧名古屋甚句」と「正調名古屋甚句」の2つに分けて考えられます。  
旧名古屋甚句  
「旧名古屋甚句」は、文化12年(1815年)の「東海道中膝栗毛補遺」の中に「芸者殺すには刃物はいらぬ、甚句止めれば皆殺し」と、城下町から宮の宿にかけて巷で唄われていたとあり、明治10年(1877年)頃が最盛期であったようで、福田屋の「甚鍵」が有名であったと記されている。  
一説には、名古屋枇杷島あたりから、新内節と説教祭文を組合せた「説教源氏節身振手踊芝居元祖」と称したものが出来、一般には「源氏節芝居」と呼ばれ、二代目小唄錦春の後見、錦春寿氏が語ったと書いている。  
そこに岡本美代治という美声の女弟子がいて、明治8〜9年頃、芸者として出ており「名古屋甚句」が上手いとの評判で、甚鍵とともに人気があった。その後間もなく芸者をやめて「源氏節芝居」に戻り、幕間にこの「名古屋甚句」を唄い、それが大受けし全国的に流行したのは、日清戦争後の明治28年以降であった。しかし甚鍵の死とともに、明治末期ごろ衰退した。  
後に服部悦夫氏は、昭和27年、当地の俗曲の大家「湯浅升人」の話として、明治10年〜24年ごろまでは「相撲甚句」ばかりで「名古屋甚句」は聞かれなく、聞かれるようになったのは明治27〜28年ごろからであり、甚鍵、荒ふくが創始者という説は定かでないとも語っている。  
この「名古屋甚句」は、三味線を本調子で弾いているため、一般的には「本調子系の甚句」と思われているが、古い資料や旋律の構成、それに詞形から考察すると、二上り甚句が旋律的変遷して、本調子化したものと考えられる。江戸を中心として流行した「二上り甚句」が各地に伝承するに従い、三味線伴奏から離れて歌われていた時代に旋律的変遷を起したり、「相撲取甚句」や「そうじゃおまへんか系」の影響を受けて本調子化したと、千藤幸蔵は「じんくの系譜」で書いている。  
また、荒岩関のレコードを聞いても、旋律は二上り甚句であり、題名が「名古屋甚句」であったことから推察すると、元々は力士が土俵などで歌う素語りの唄に、名古屋の芸者が本調子の伴奏を付けたことになる。  
「名古屋甚句」命名については、明治6年(1873年)、当時幕内力士の高砂が角界革新を志したが、そのトラブルで破門となり、同士を集めて名古屋にこもったことがある。その中に、美声力士がいて「相撲甚句」をお座敷で歌い、それが芸どころ名古屋の芸者衆により、三味線唄にアレンジされ、「名古屋甚句(尾張甚句)」となったものだという。  
正調名古屋甚句  
先に記した、岡本美代治が評判を呼んだのは、明治10年ごろである。高砂一行が東京に引き揚げたのもこの頃であり、この「相撲甚句」が後の「正調名古屋甚句」の曲想に影響を与えていると考えられる。  
「正調名古屋甚句」については、昭和27年、名古屋市文化財調査保存委員会により、名妓連の登代子(三味線 きぬ)(「とよさま」と呼ばれた)の唄で、「前唄二節」「本唄一節」「名物一節」をビクターで録音している。  
後に「正調名古屋甚句保存会」を組織したのは、昭和39年、名古屋邦楽協会理事長の高木栄一郎氏である。発会に際し、当時花柳界以外の者には教えなかった「名古屋甚句」を一般に開放した。その弟子第一号として「甚光」長屋光子が、昭和50年に「甚登代」の声に合わせ、キーを下げ歌い放送された。  
この唄についは、歌詞、順序が厳しく制限されていた。出は「伊勢音頭」、次いで「前唄」、「本唄三題」、最後は「名古屋名物」で終わるのであるが、前唄の「さらばやぁ・・」を抜いたのは実におかしい。甚登代さんが「甚鍵さんは、私が芸者になったときには、もう亡くなっておられましたが、太りじしの方で、相撲のまわしを付けて 「名古屋甚句」を歌われたそうです」といわれ、「相撲甚句」を調べてみると「伊勢音頭」に当るものが「寄せ太鼓」で、「前唄」は「まくら唄」として二題あり、「さらばやぁ・・・」もあったという。  
このように「旧名古屋甚句」と「正調名古屋甚句」の経緯を見ると、「二上り甚句」くずれの「本調子さわぎ唄」が明治の後期に衰退し、昭和に入り名妓連により、お座敷に相応しい組唄風「名古屋甚句」を正調として、現在に至っている。ひとつの唄がいろいろな唄と融合しながら整理され、一般に受け入れやすい唄に仕上げられてきたというのが実状のようである。 
「正調名古屋甚句」  
正調名古屋甚句の発祥は明らかではないですが、江戸時代後期の文化12年(1815年)版の東海道中膝栗毛四編の補遺に、名古屋甚句が城下町から宮の宿(現在の熱田区)にかけて唄われていたと書かれていますから、既にその頃に流行していたものらしい。  
「芸者殺すには刃物はいらぬ、甚句とめれば皆殺し」と言われるように花街に幅をきかせていたことが伺われます。幕末から明治にかけ、名古屋甚句は一般大衆に親しまれ盛んに唄われたものらしい。   
 
←「本調子甚句」  
 
前唄 
恋のやァー こいのこいの鯉の滝登りァ ナット言うて登るエー  
山をヤア 川にしようと コリャ言うて登るエー  
さらばヤア これから甚句を変えて 今のヤアー  
はやりのストトコ節でも エーエ エーエ 来ておくれ  
本唄  
アーア 宮の熱田の二十五丁橋で アー 西行法師が腰を掛け   
東西南北見渡して これ程涼しい此の宮を   
たれが熱田と ヨーホホホ アーア 名を付けた  
アーアエー トコドッコイ ドッコイショ  
アーア 花の名古屋の碁盤割は 都に負けない京町や   
竜宮浄土の魚の棚 七珍万宝詰め込みし   
大黒殿の袋町 広小路から見渡せば なかなかとどかぬ鉄砲町  
次第次第に末廣の 家並みは続く門前町   
さても名古屋のヨーホホホ 繁盛振り  
アーア 尾張大納言さんの 金の鯱ほこの 言うこと聞けば  
アーア 文明開化の世となりて 高い城からおろされて   
咎無い私に縄をかけ 離れ離れの箱の内   
蒸気船にと乗せられて 東京までも送られて  
博覧会にさらされて 幾十万の人々に 鯱じゃ鯱じゃと指差され  
こんなにくやしいことはない いっそ死んだがましかいな  
一人で死ぬのはよけれども お前と一緒に死んだなら、  
人が心中(真鍮)じゃと言うであろう トコドッコイ ドッコイショ  
名古屋名物  
名古屋名物 おいて頂戴やもに すかたらんに おきゃあせ  
ちょっとも だちゃかんと ぐざるぜえも  
そうきゃあも そうきゃあも なんだあも いきゃすか おきゃすか どうしゃあす  
おみゃさま この頃どうしゃあた どこぞに姫でもできせんか  
出来たらできたと いやあせも わたしも かんこうがあるわあも おそぎゃあぜえも 
「おさま甚句」  
東栄町および三遠南信一帯の盆踊りでよく唄われているのが、「おさま甚句」です。古戸盆踊りの起源にかかわる一つの手がかりとして、まずこの「おさま甚句」にからむ伝承と歴史が注目されます。長野県阿南町新野には、同町も伝わる盆踊り歌「おさま甚句」と瑞光院の由来として、以下のような伝承が伝わっています。「享禄2年(1529) 仙寿山全久院二世光国舜玉和尚が開き、本尊を聖観世音菩薩とし庵号を改め「祥雲山瑞光院」とし、この開山のお祝いに下田の人達が「おさま甚句」の踊りを寺の庭でおどった。それよりこの踊りが続いている。」  
東栄町誌伝統芸能編」によると、「おさま」とは「おっさま(和尚さま)」に由来するもので、古戸にも近い三州振草下田・長養院の「光国舜玉(こうこくしゅんぎょく)和尚」がこのおさま甚句を始めたと言われています。  
光国舜玉は実在の禅僧で、延徳元年(1489)在地の豪族伊藤氏の菩提寺である下田長養院を曹洞宗に改宗開山するなど、三州・信州一帯で活躍した人物です。下田長養院の盆踊りでは、現在も7種類ほどの手踊り曲を伝承しますが、その中で「おさま甚句」は必ず最初に踊られる特別な曲となっています。  
中世の禅宗・禅僧の中には念仏や真言などを兼修し、また庶民芸能にも深くかかわる者も少なくありませんでした。光国和尚も系譜のはっきりした立派な僧侶ですが、あるいはそのような芸能に理解のある人物であったのかもしれません。  
このことと関連して注目されるのが、東栄町に残る天保3年(1831)の古文書「差出申一札之事」です。この文書から、江戸時代の天保年間前後には、長養院で「ほうか踊り」が行われていたことがわかります。  
「ほうか踊り」は、大きな団扇を背にして踊る念仏芸能の一種で、奥三河地方はその主要な分布地となっています。この芸能を伝えた人々は「放下僧」(ほうかそう)と呼ばれ、やはり禅宗系の遊行者なのです。「ほうか踊り」は、古戸の「はねこみ」とはまた異なる系譜の念仏芸能ですが、中世から近世にかけて、東栄町一帯で念仏芸能が盛んであった様子がうかがわれます。   
伊勢音頭系の歌伝承  
踊り歌の方からもう一つ興味深いのは、町内に分布する「数え歌」です。「東栄町誌」によると、これは伊勢音頭と関係する音頭と分類されていますが、同じ伊勢音頭系の踊り歌である和歌山県の「川崎踊り」ときわめて近い内容なのです。  
○ 和歌山県「川崎踊り」  
一つとせ サヨノーエイヤ  
一つ熊野のおんだ町 ソーレ米屋の娘にお瑠璃とて この じょうかいなー  
ハリョーイ、ハリョーイ  
○ 東栄町「数え歌」  
一つとセーイノサーノエ  
一つ本町桑名町 米屋の娘がおるよとて ササソノ、ジョウカイナ  
岐阜県の郡上踊り・白鳥踊りでも「かわさき」踊りは人気ですが、これも系譜的には同じ伊勢音頭系の踊り歌です。伊勢音頭系の踊り歌は、江戸時代の伊勢参宮をきっかけに広く全国に普及した流行歌謡でした。こうした歌詞の比較により、東栄町にも江戸期の流行歌謡が波及していった様子が窺われます。  
寺院と神社に見るムラの歴史  
三州振草・古戸は、中世にさかのぼる歴史をもつ古い集落です。このことは、東栄町周辺に残る歴史的建造物からも知ることができます。「北設楽郡史」によると「諏訪南宮神社」(東栄町本郷)の神像銘に「正長二年(1429)九月吉日三河国振草郷古戸村夏目九郎右衛門実清作之」とあり、15世紀には古戸の村名と信仰心のある有力者が存在したことが明らかです。古戸朴木沢にある「白山神社」の阿弥陀像も古く、「寛正四癸未年(1463)」の銘があります。京聖が加賀白山より分霊したという伝承も興味深いものです。16世紀に入ると、享禄二年(1529)四月十日に、古戸の氏神である「八幡神社」が創建されています。ちなみにこれは新野瑞光院の創建と同じ年であり、16世紀前半に周辺地域の信仰の盛り上がりがあったのかもしれません。八幡神社は、盆踊り・念仏踊りのほか鹿打ち・神楽なども行われ、現在も古戸の民俗芸能の舞台として重要な役割を果たしています。  
古戸盆踊り・念仏踊りのもう一つの主要会場である普光寺は、江戸時代にできた近世寺院であり、宗門帖も扱う古戸住民の菩提寺です。開山は元禄七年(1694)とされていますが、遠州浜名郡浜北町竜泉寺の末寺となっています。やはり念仏芸能が盛んな遠州との関わりを彷彿とさせ、いっそうの調査が期待されます。  
 
早川孝太郎「盆踊りと盆狂言」では、かつて古戸では盆の入りに近い七月九日に「神主念仏」(こうぬしねんぶつ)という念仏が行われていたことを紹介しています。神主は、村の柴切り(しばきり=開発先祖)で、美濃から落ちてきた兄弟の年長者と言い伝えられています。中世のムラの開発史にかかわる典型的な伝承のパターンです。この神主念仏には村内の旧家だけが参加し、神主の家に集まって念仏を上げたとのことです。中世のムラの開発領主のイエの氏神がムラの鎮守となり、その神主(かんぬし)=祭祀者には領主の一族の者があたる、というのは広く見られるパターンです。明治以前はムラの社の祭祀は特別な神職によらず、こうしたイエと共同体が管理することが多かったようです。また、明治以前はわが国では神仏習合が一般的ですから、古戸に見られるように盆踊りなどの念仏芸能も、神社でごく普通に開催されていたのでした。 
 
←(念仏踊り) 
 
おさま甚句はどこからはよた 三州振草下田から  
三州振草で安いものは煙草 一両二歩出しゃ五段買う  
三州振草の芋田楽は 親もさせるが子もさせる  
信州信濃の新ソバよりも 私ゃあなたのそばが良い  
心細いぞ木曽路の旅は 肩に木の葉が舞いかかる  
木曽の御嶽ゃ夏でも寒い あわせやりたや足袋添えて  
あわせばかりでやらせもせまい 襦袢したてて足袋添えて  
天気良ければ大垣様の 城の太鼓の音の良さ  
尾張名物宮重大根 金のシャチホコ雨ざらし  
お伊勢参りで飲んだか酒を 天の岩戸の菊酒を  
天の岩戸の菊酒さえも 銭が無ければ見て通る  
伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ  
酒の肴にうどんかそばか 少しゃ切れてもそばがよい  
酒に寄た寄た五勺の酒に 一合飲んだら由良之助  
お手が鳴りたら調子と悟れ 又も鳴りたら煙草盆  
親の意見と茄子びの花は 千に一つの無駄がない  
お寺ご問堂に蜂が巣をかけて 坊主出りゃ刺す入りゃ刺す  
お寺和尚様栃餅が好きで 昨夜九つ今朝七つ  
あまり踊りが退屈したに 踊ょ変えますご連中に  
「綾渡の夜念仏と盆踊」  
愛知県東加茂郡足助町綾渡(あやど)に伝わるもので、毎年8月10、15日の夜、平勝寺の境内を中心に催される。平笠を被り、浴衣に角帯、腰に白扇を差し、白足袋に下駄の姿で行列を作り、鉦を打ち念仏を唱和する夜念仏と、それに続いて行われる、三味線や太鼓などの楽器を使わない古風な歌だけの盆踊である。  
先頭と末尾に切子灯籠を持つ「折子」が立ち、先頭の折子の次に全体の統率者である、香炉を両手で捧げ持つ「香焚」が並び、その後ろに鉦、撞木を持つ「側衆」が並ぶ。先頭の灯籠には極楽、最後の灯籠には地獄の様子が描かれている。夜念仏は詳略し、盆踊についてのみ詳述するが、折子灯籠を中心に輪になる「輪踊り」形式で盆踊が行われるもので、「音頭とり」の歌に合わせ、踊り手も「囃詞」を歌いながら踊る。  
楽器類が一切無いので、下駄が境内の砂地を荒らす音が、唯一の伴奏である。「越後甚句(えちごじんく)」「御嶽扇子踊」「高い山」「娘づくし」「東京踊り」「ヨサコイ」「十六踊り」「御岳手踊り」「笠づくし」「甚句踊り(足助綾度踊り)」など10曲の踊りが伝えられている。 
「熱田神戸節」  
「熱田神戸節」「こうべ」ではなく「ごうど」と読む。これは都々逸の元になった唄と呼ばれていて、熱田神宮のある熱田にあった花街の神戸町で唄われていたものです。有名な都々一坊扇歌がこの唄を元に関東で都々逸を広めたと言われています。  
都々一坊扇歌の生まれは現在の常陸太田市磯部町。都々逸の母体は潮来節とされているが、潮来節が尾張で都々逸になり、それが上方化して関西風のよしこの節となり、江戸化して江戸都々一となったのではないかと記されている。いずれにしても扇歌が生まれる4年ほど前から熱田神宮の門前町であった宮宿(現在は名古屋市熱田区)で都々逸節は発生していたようだ。現在の伝馬町から神戸町にかけて宿場があったようで、籠屋が248軒、飯盛り女も数百人いたそうである。その中で「お亀」というのが、とある鶏飯屋(唐のきびを煮て、その汁を用い、これで飯を炊いて、鶏飯らしく見せかけて売る店)という茶屋では一番人気だったそうで、その「お亀」というのが個人名ではなく、遊女たちの総称となったそうだ。その「お亀」が「熱田神戸節」に登場する。「おかめ買う奴ゃ 頭で知れる 油つけずの 二つ折り」。二つ折りとは丁髷のことだ。「そいつはどいつだ どどいつどいどい 浮世はサクサク」という節は今の都々逸とはあまり似ているようには思わないが、この言葉が変形したのだろう。   
 
神戸節は享和二年(1802年)頃、熱田の宮の宿の花街の一つ、神戸(ごうど)で創唱された古態「どどいつ」である。後に「どどいつ又は都々逸」の別名を生じたのは、その囃し言葉”其奴はどいつじゃ”からである。現在のいわゆる「都々逸」は天保九年(1832年)に都々逸扇歌が全国的に流行の神戸節の騒ぎ歌の逆効果をねらって、三絃整調を本調子として改曲したところ、これまた意外の長年月にわたって脚光を浴びることになったのである。「音曲神戸節」の稿本は、大正末に江戸軟文学研究家・郷土史家尾崎久弥氏が入手、次いで昭和十三年に「神戸節付潮来」と云う古譜写本をも入手され、当時の「文化研究」誌に載せて、この古譜の解明研究者を求めたが、応答は得れなかった。尾崎氏から筆者がこの研究の依頼を亨けたのは昭和二十七年の春で、翌二十八年五月に名古屋国風音楽講習所で発表、CBC並にNHKが全国放送した。昭和三十年十一月十日付で名古屋市無形文化財に指定された。なお、尾崎氏自筆の「神戸節歌詞(五百四十五首)は桃山流にその保存を依嘱されている。大正時代に詩人大使の愛称で有名なポール・クローデル氏は、その自著のうち「ドドイツ」の歌詞を多数訳載されているし、「都々逸」の名はヨーロッパにまで知られているわけである。  
お亀の茶屋  
お亀の茶屋について、高力猿喉庵の『矢立墨』に絵入りで説明がでている。  
「宮の宿のはたごやなる飯盛女を、おかめと呼ぶことハ、寛政十二申のとしの秋、熱田の築出の町はづれに、大なる茶屋ありて、蜆汁をうりたり。元は府下にて鶏飯のうつしを仕出せしが、此地にうつりて、茶屋を初む、其故に鶏飯が店と呼しなり。此うち下女をおかめといふ、此女かの茶屋の庭に、とこだいを出して、茶菓子などをうりしが、いつとなく、おかめが店とて流行せり。何故とならば、此本店の座敷へ上れば、余程物が入事なれど、かのとこだいに休ミても、庭の物好など風流なるさまをながめる楽ミは、同じければ、おかめが店へ銭安にたのしむ人々が多かりし。是より呼初て、当所の飯盛の惣名とはなれりとぞ。此鶏飯より繁昌弥益(いやまし)になりて、新長屋の茶店つづき、出女の店つきなどもありて、賑々しく見へしが、かの鶏飯も栄へ久しからずして、海市蜃楼の跡なき類ひとなれり。其全盛の時を爰に畫きぬ」  
猿喉庵は天保二年(1831)に七十六才で没したというから宝暦六年(1756)の生まれである。従って、猿喉庵は玉晁より約半世紀以前の人物ということになる。玉晁はお亀の茶屋が出来た頃の生まれだが、猿喉庵はその頃、四十代の半ばで、実際に遊びに行ったこともあっただろう。以下は、尾崎久弥氏の解説。  
「ちょうどこの頃に名古屋から宮へかけて潮来節に似たような唄が流行った。その唄というのは、  
   おかめ買う奴あたまで知れる 油つけずの二ツ折れ   
   そいつは どいつじゃ そいつは、どいつじゃ  
この終いの囃子の「そいつは、どいつじゃ」の繰り返しが、「ドドイツ、ドイドイ」と変わり、「ドドイツ、ドイドイ、浮世はサクサク」と繰り返して囃すようになり、誰いうとなく、この新しく生まれた唄をドドイツと云い始めた。このドドイツが新しい節の名になったのは享和の後の文化の頃と思われる」  
さて、このドドイツを唄い出したのは、鶏飯屋の女中で宮の須賀生まれのお仲という女で、彼女が後にドドイツといわれるようになった唄を流行らせ、当時の宮の遊女をはじめ一般にも広く唄われるようになった。このお仲という女性は一種の傑物、成功者で、後に神戸町第一等の遊女屋、鯛屋の女房になったとも、仲居だったともいわれている。  
十九世紀の初頭、文化の前の享和の頃、名古屋では、  
   神戸伝馬町箒はいらぬ 鯛屋のお仲の裾で掃く  
という唄が流行ったというが、この唄からお仲の人気の程が知れる。  
このドドイツは別名として、お亀の唄とも又、神戸節ともいったが、後には名古屋節といわれるようになった。元唄は三下りという調子だったが、江戸へ移って二上りになり、江戸で大流行して名古屋へ逆輸入された。『守貞漫稿』の「名古屋節」のところに、江戸では三下りドドイツという、と注が出ている。尾崎久弥氏はドドイツは潮来節から出たものとしているが、『守貞漫稿』では、「よしこの一変してドドイツ節となる也」とある。ジェラルド・グローマー著『幕末のはやり唄』でも、ドドイツは潮来節から変化して出来た「よしこの節」から生まれたものとして、神戸節は元々、名古屋周辺で唄われた「よしこの節」の替え唄ではなかったか、といっている。  
潮来節は安永(1772〜1780)の頃から江戸で唄われるようになり、次第に流行した。そのピークは、十八世紀末から十九世紀の初頭、寛政末から享和へかけてだったという。その潮来節が変化して出来た「よしこの節」は名古屋や京、大坂では持て囃されたようだが、江戸ではあまり流行らなかった。『守貞漫稿』では、「よしこの節」について、「文政三、四年(1820〜1821)頃より行われ三都ともに専ら之を唄う」とある。  
尾崎氏は、ドドイツが新しい節の名となったのは文化頃としているので、文政に流行った「よしこの節」ではなく、潮来節から出たものとしているのである。潮来節も、「よしこの節」も、江戸小唄に僅かに残っている。  
「潮来出島の真菰の中であやめ咲くとはしおらしや」という唄は三下りである。今の「潮来出島」の唄は、潮来節がそのまま残ったのではなく、どうやら歌沢節に入っていたものを小唄にとり入れたものらしく、元の潮来節がどれ程残っているのか、よく分からない。  
一方、「よしこの節」は、「三千世界にたった一人の主さんを人にとられてわしが身は又どこで立つ」という小唄や阿波をどりの伴奏の唄がそうだといわれている。又、ドドイツ節は、元唄は三下りだったが、江戸へ来て二上りとなり、今では専ら本調子で唄われている。  
これらを聞き合わせてみると、夫々に似ているところもあり、似ていないところもあって、ドドイツ節がどちらから生まれたものか、音楽的に判断することは難しいようだ。  
ただ、二つの音曲の流行の時期からみると、ドドイツ節は潮来節を母体として生まれたという尾崎説の方が有力と思われる。  
昭和の初めに、三田村鳶魚などの著名な江戸研究者が参加して発刊された『彗星』という雑誌の昭和二年二月号に、森沢瑞香という人が「こしかたばなし」と題して書いているが、その中に「おかめ駕篭」という項があって、「旧幕府時代には名古屋の城下では遊女を置くことを許さなかった、大須の新地は明治五、六年頃に出来たもので、それ以前の名古屋人の青楼遊びは、多くは熱田の宮駅まで行ったものである。それへ通う駕篭をおかめ駕篭と稱し、広小路辺に、おかめの面を書いた下に「かご」と書いた看板の行燈が明治五、六年頃まで出ていた」とある。  
 
→(都々逸)  
(いろは)  
いろの恋のと扨やかましい 人のせぬ事するじやなし  
いちごそをふと二世迄かけて てうしあわする三下り  
今のおきやくに誠があれば たてしはしらに花が咲  
ろうかづたへにぬけてはきたが こすにこされぬかべひとへ  
六十むくにでそわれぬ時は 唐へいてなとそふてみしよ  
花といふじでさかぬもくやし さけばみがなるはづかしや  
はらが立つかへ是しき事に かほにもみじをまきちらす  
橋のうへから文とりおとし 水にふたりが名をながす 
岡崎「五万石」  
「五万石」の発生時期は不明であるが、曲調は「ヨイコノサンセ」という木遣り唄を巧みに三味線化したもので、幕末から唄われ始めたものと思われる。一説に矢作川を上下する船頭の舟唄に始まるともいわれるが、この田舎唄は幕末江戸に於いて江戸端歌として行われた。岡崎さまとは岡崎城主のことで、家康の出生地である城であるため、代々徳川譜代の臣が選ばれたが、ここでは本田家のこと。「お城下まで舟」が着く」は岡崎城の下の太平川に船着場があって、矢作川から回米、木綿、石材、塩などが揚げ下ろしされた。特に三河湾で出来た塩はここに揚げて、足助街道を通って馬で信州へ送ったという。五万石の小藩ではあるが、特に「天守閣」を許され、城下まで舟が着くことが、町民の自慢の種であったという意味である。江戸小唄「五万石」は江戸端唄から採ったものである。  
 
←(木遣り唄) 
 
五万石でも岡崎様は アヨイコノサンセー  
お城下まで船が着く ションガイナ  
ア ヤレコノ船が着く お城下まで船が着く  
ションガイナアヨーイヨーイ ヨイコノサンセ (マダマダ ハヤソー)  
花は桜木 人なら武士よ 武士といやれば 三河武士  
私の心は 矧の白帆 行方白波 水のまま  
見たか聞いたか 岡崎様の お馬じるしの 三つ団子  
「ザンザ節」  
「ザンザ節」は長野県の伊那市長谷に伝わる歌だけと思っていました。同じ「ザンザ節」が浜松にありました。天竜川の橋杭を打地込む時に歌われていたようです。杭打ちの方法は、サル(サルというのは、杭を打つ櫓についた錘(おもり)のこと)を綱で引いてサルを落し、杭を打つ。このとき音頭とりが「ザンザ節」などを歌って心を合わせる。  
豊田橋  
昨年の台風15号の豪雨の影響で磐田市池田の天竜川河川敷に、明治期に架けられた木製橋「池田橋」とされる橋脚の一部が地上に現れた。直径約20センチの木柱が30本以上並んでいたと報道にあった。池田橋は1883(明治16年)〜1933年まで幅2.7m、全長約780mで、現在の磐田市池田と浜松市東区中野町を結んでいた。対岸で栄えた笠井の織物市などへのルートとして庶民に利用された橋であった。  
浜松市立豊西小の児童が、浜松市側で「豊田橋」(1883〜1889年)の橋脚とみられる丸太3本を発見した。この明治期の橋脚発見に、私もこの事実を確認しようと文化財の説明会に参加して現場に立ってみた。思い返せば自分の子供のころにはよく見た光景であった。いずれの橋も明治22年の洪水により流失したと郷土史では伝えている。  
遺跡として甦った木橋「豊田橋」の完成を祝って十湖が詠んだ句がある。  
明治5年、対岸へ行くにはさらに南下して池田の渡しを利用するしかなかった時代である。もっと近くで渡してもらえぬかと、他でもない若き日の十湖(当時は松島吉平24才)が浜松県へ何度も足を運び願い出た。その回数や40回にも及ぶ。その労あってかやっとの思いで天竜川の対岸匂坂村への渡船が許可され実現した。  
それから10年後、既に渡船の時代を過ぎ、下流に架かった天竜川橋を見るにつけ、橋の必要性を感じていた。明治15年9月14日十湖(35歳)が発起人となり、天竜川両岸の有識者と連携し架橋の運動を展開したところ、翌16年2月18日早いもので資本金も集まり完成に至ったのだった。  
橋は長さ1470m幅3.6m、豊田郡末島村(現在の豊西町)川岸から対岸の豊田郡匂坂村(現匂坂中)に架けられた。有料の橋で「豊田橋」と名づけられた。当時の橋つくりの工法は人力で川の中に杭を打っていくもので1本の杭を打つのに綱を引く綱子衆30人から40人が関わった。今に残る天竜側の歌に「ザンザ節」というものが伝えられているが完成までの間、この歌が風に乗って十湖の耳にも届いたのではないだろうか。  
   春風もふき渡るなり橋新た  
 
→「岳の新太郎さん」  
 
天竜川原で昼寝をしたら(ヤレザンザ、チョイトザンザ)  
鮎に瀬上り夢に見た(ドッコイショ)  
お茶はお茶でも見付のお茶は(ヤレザンザ、チョイトザンザ)  
海を渡ってアメリカへ(ドッコイショ)  
芋がうまいと褒めてはみたが(ヤレザンザ、チョイトザンザ)  
三っ日続けばママほしい(ドッコイショ) 
「東雲節」「ストライキ節」  
明治後期の流行歌。名古屋の娼妓(しょうぎ)東雲の脱走事件を風刺したものとも、名古屋旭新地の東雲楼の娼妓のストライキから生まれたともいわれ、演歌師によって全国に広まった。  
 
明治33年頃から流行したはやり唄。源流は演歌師の鉄石・不知山人の「ストライキ節」。名古屋の娼妓(しようぎ)東雲が米人宣教師の助力で退楼した事件によるという。  
 
明治の流行歌。作詞・作曲者未詳。歌詞のなかで「東雲のストライキ」と歌うため、「ストライキ節」ともいう。明治33年に救世軍による廃娼(はいしょう)運動が盛り上がり、大審院の判決や内務省の取締規則によって、娼妓(しょうぎ)の自由廃業は支持された。そのころ、東雲と名のる名古屋の娼妓がアメリカ人宣教師モルフィの援助により、楼主に勝って自由解放の身となった。この一件が歌に託されたといわれている。「何をくよくよ川端柳」と歌い出す歌詞は、都々逸(どどいつ)でも周知のポピュラーなもので、 「鉄道唱歌」の後を受け、明治33年から日本各地で流行した。  
 
なにをくよくよ 川端柳 焦がるる なんとしょ  
川の流れを 見て暮らす 東雲の ストライキ  
さりとはつらいね てなこと おっしゃいましたかね  
   自由廃業で 廓は出たが それから なんとしょ  
   行き場がないので 屑拾い 浮かれ女の ストライキ  
   さりとはつらいね てなこと おっしゃいましたかね  
三十三間堂 柳のお柳 焦がるる なんとしょ  
可愛みどりが 綱をひく 住吉の 街道筋  
よいよいよいとな てなこと おっしゃいましたかね  
( 三番のお話 / あるところに、お柳という美しい娘がおりました。だんな様(平太郎)との間に緑丸という子供もおり、幸せに暮らしていました。あるとき、三十三間堂を建てるのに、その棟として使うため、熊野の山奥にある柳の大木を切る話が出ましたが、実は、お柳はこの大柳の精だったのです。お柳は泣く泣く夫と子と別れます。いよいよ柳は切られ、運ばれるのですが、あるところからぱったり動かなくなってしまいます。そこに、緑丸がやってきてそっと柳の木に触れると、今までの重さが嘘のように、軽々と柳が動き出し、京へ向かって運ばれていくのでした。) 
愛知県民謡の概観  
愛知県には、どれくらい民謡があったかははっきり分からないが、2,600曲ほどが確認されています。私は、恵まれた自然環境の中で育まれてきた多くの民謡を、このまま埋もれさせてよいものかと思っています。その気になると、案外、珍しい曲に出会うことがあります。  
愛知県と一口にいっても、昔は大きな川によって地域が分かれ、文化も異なっていました。木曽川は濃尾平野、矢作川は西三河平野、豊川は東三河平野、そして天竜川の三河山地に大きく分けることが出来ます。  
濃尾平野の南部一帯は低湿地帯で、江戸時代には、築堤、分流、干拓工事が進められ新田村が作られました。このような工事には「地固め唄」「地搗唄」が歌われていたと思われます。また尾張西部では、機織などに関する民謡が一つの特徴であり、「糸紡唄」などが伝承されています。  
もともと名古屋は、慶長14年、徳川家康の指示による清洲城の移転で、尾張那古野の築城と町の建設によって出来た都市であり、その運搬の作業の中で歌われたのが「木遣り唄」で、築城木遣りとして伝承しています。さらに名古屋周辺では、「笠踊り」「手拭踊り」「扇子踊り」など踊りの小道具が、呼名の唄として残っています。  
「酒造り唄」は、昔から酒造りが盛んだった半田市周辺と蒲郡周辺で、酒造りの工程に伴う「米洗い」「仕込み唄」などとして数曲ほどあります。  
岡崎市は三河花火の製造が伝承産業であり、その製造過程で歌われていた唄が、知多半島の知多市、半田市、東海市、阿久比町などにも伝承され、「花火唄」は行事や祭礼に花火が使用されるときに歌われている。岡崎市の「花火道行唄」、豊田市、足助の下山村では「花火おねり唄」、常滑市では「祝い花火の唄」があります。また岡崎市を中心とする西三河では、三河木綿などが知られており、明治以降はガラ紡績の発達が顕著となり「機織唄」が集中して伝承されています。  
「馬方節」は、北設楽郡津具村に伝えられています。稲武町名倉を中心に名倉馬が数多く保有され、江戸中期から後期にかけて、飯田街道、金指街道などで賃稼ぎの馬方が海岸や平野部から信州などの山間部に物資を往来させる中馬の制度が盛んで、中馬街道という呼名があったように、その拠点は津具村でありました。また北設楽郡の町村では、現在も盆行事が行われ、「念仏踊り」等の伝統が伝承されております。名古屋周辺でも名東区高針で、加藤政次氏の調査によると昭和30年代に収録されていたことがわかり、江戸時代の長久手の合戦では150頭の馬が徴収された報告がある。  
県内全域に「田植唄」「麦打唄」「麦刈唄」「粉碾唄」「米搗唄」「臼挽唄」「餅搗唄」「綿打唄」「茶摘唄」などがあり、平野部の稲作の多い地域では「田の草取唄」が多く分布しています。  
「漁労唄」は、「艪漕唄」や「地曳網唄」などが、知多半島や渥美半島に残されています。  
珍しい唄では、「雨乞い唄」が広範囲にあり、当時の農民にとって、雨は生死を左右する自然の恵みであったことがうかがえます。  
信仰の唄としては、「山の神唄」が北設楽郡から南設楽郡に多く伝承されています。この唄と表裏をなす山の講にまつわる唄が西三河の知立市で見出されています。また豊作祈願と虫害の排除を願う唄も、尾西市や阿久比町にあります。  
まとめとして、私たちの愛知県では、水系による芸能分布、民謡分布はとても重要な問題であり、念仏踊りの系譜は、天竜川水系を直上する地域の分布が特徴的です。民謡を大きく分けると、伊勢音頭の系統の「ザンザ節」「伊勢木遣唄」と、御獄山唄の潮流の「馬方節」「秋唄」「木遣唄」に見出されると思われます。
 
 

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岐阜県

 

「郡上踊り」 (「郡上節」) 
郡上(ぐじょう)は長良川の上流、岐阜県の中央部にあり、大部分が山地で、美濃南部と越前・飛騨の接点に位置する。郡上郡の中心・八幡町(はちまんちょう)は、古くから交通の要地であった。郡上八幡の藩主は、お盆になると、士農工商の別なく共に楽しむ踊りを保護、奨励したという。7月16日の天王祭から9月10日まで踊られている。郡上踊りには「川崎」「三百」「甚句」「春駒」「松坂」など九種類あり、最も有名なのは川崎。その名は「川崎音頭(伊勢音頭の一種)」の名が残ったらしく、前奏の三味線の手は「川崎音頭」をそのまま用いている。  
 
岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り、日本三大民謡(郡上節)に数えられる。 
中世の「念仏踊り」や「風流踊り」の流れを汲むと考えられている。盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦ため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758-)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。 
享保13年(1728)から17年間飛騨国の代官であった長谷川忠崇が徳川吉宗の命を受けて著した「濃州志」の巻第七踏歌の中で、「転木麿歌(するまうた)」と題して「本土ノ民家於イテ籾オヒク礱也其時ウタフ歌也、郡上ノ八幡出テ来ルトキハ雨ハ降ラネトミノ恋シ(按スルニ濃州郡上ニ八幡町アリ飛州ノ隣国タリ)」と記している。 
これは飛騨の地で八幡の事を歌ったもので、郡上の八幡出て行く時は雨も降らぬに袖しぼる-の替え歌と思われ、これが書かれた以前より郡上でこの歌が歌われていたことを物語っている。尚、この歌が踊り歌として歌われていたかは不明である。 
天保11年(1840)に書かれた郷中盛衰記によると「享年時代(1744-1747)までは神社の拝殿が九頭宮(くずのみや)と祖師野(そしの)だけにあって盆中は氏子がその拝殿で夜明かしして踊った」と書かれており、この時代より以前から郡上の盆踊りが徹夜で行われていた様である。 
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郡上おどりは岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り、日本三大民謡(郡上節)に数えられる。中世の「念仏踊り」や「風流踊り」の流れを汲むと考えられている。盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦ため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758-)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。 
江戸時代中期 / 享保13年(1728年)から17年間飛騨国の代官であった長谷川忠崇が徳川吉宗の命を受けて著した「濃州志」の巻第七踏歌の中で、「転木麿歌(するまうた)」と題して「本土ノ民家於イテ籾オヒク礱也其時ウタフ歌也、郡上ノ八幡出テ来ルトキハ雨ハ降ラネトミノ恋シ(按スルニ濃州郡上ニ八幡町アリ飛州ノ隣国タリ)」と記している。 
これは飛騨の地で八幡の事を歌ったもので、郡上の八幡出て行く時は雨も降らぬに袖しぼる〜の替え歌と思われ、これが書かれた以前より郡上でこの歌が歌われていたことを物語っている。 
尚、この歌が踊り歌として歌われていたかは不明である。 
天保11年(1840年)に書かれた郷中盛衰記によると「享年時代(1744〜1747年)までは神社の拝殿が九頭宮(くずのみや)と祖師野(そしの)だけにあって盆中は氏子がその拝殿で夜明かしして踊った」と書かれており、この時代より以前から郡上の盆踊りが徹夜で行われていた様である。 
1820年 / 郡上藩庁より触書「城番年中行事」で「盆中は踊り場所へ御家中末々まで妻子並びに召使いなど出かけていくことはならないと前々より禁じているから、固く心得て決して出かけていってはならない。今後年々この触れを出すことはやめておくが、違反のないように心得ておくこと。」と言う意味の禁令(条令と御法度の覚書)が発せられた記録がある。これにより当時の武士やその家族の者たちが禁止されているにも関わらず、藩主や役人にこっそり隠れて踊りの輪に加わろうとしていたことが推察できる。 
江戸時代後期 / 江戸時代後期において城下の盆踊りは、七大縁日が定められて行われていた。七大縁日とは7月16日の天王祭り(八坂神社)・8月1日の三十番神祭(大乗寺)・8月7日の弁天七夕祭り(洞泉寺)・8月14日〜16日の盂蘭盆会・8月24日の枡形地蔵祭り(枡形町)である。 
1874年 / 明治政府により、禁止令が出される。神仏分離政策か近代化政策かの影響と思われる(顛末不明)。 
1923年 / 大正12年郡上踊保存会発足。初代会長は坪井房次郎。 
1929年 / 昭和4年8月に保存会16名で松坂屋に於いて東京初公演を行う。 
1931年 / 昭和6年5月21日東久邇宮殿下が御来町になり、愛宕公園に於いて郡上踊りの実演を台覧された。この時保存会員十数名は「三百」「かわさき」を踊り、特に三百踊りは所望により二度踊った。 
1934年 / 昭和9年、名古屋の新聞社であった新愛知(中日新聞の前身)により読者の投票による「郷土芸術十傑」の懸賞募集があった。当時、保存会の人々は踊りを発展させるため、出場資格を得る票数を獲得しようと努力し郡上郡内で約四万票、更に郡外で約十万票を集め出場資格を得た。翌昭和10年の名古屋公演は非常に好評であったという。この時2日間の公演の演目は「川崎」「さば」「やっちく」「三百」であった。その様子は名古屋放送局で放送された(11月20日)。この様にして郡上踊りは地元の人々以外にも次第に知られるようになっていった。 
第二次世界大戦中 / 毎年8月15日のみ開催を許されていた。1945年8月15日の終戦日にも開催された。終戦日には官憲からの中止勧告があったとの証言があるが、「英霊を慰める」などの理由の下に中止は免れたという。(保存会の事業経過報告書によれば15日は「終戦ノ玉音放送ノ為盆踊休止」となっているので、この日は住民が自然発生的に踊ったものと思われる。) 
1952年 / 踊り種目「さば」が「春駒」と改称。 
踊りの概要 / 郡上節を演奏する囃子の一団が乗る屋形を中心に、自由に輪を作り時計回りに周回しながら踊る。会場が街路の場合もあるので、輪は円形とは限らない。踊りには曲ごとに定型がある。振り付けの基本は簡素なので、初心者や観光客でも見様見真似で踊ることができるようになる。装束は男女とも浴衣に下駄履きが標準的だが強制ではない。踊りへの参加は完全に自由で、飛び入りや離脱に規制はない。通常、見物人よりも踊り手の方が圧倒的に多数である。 郡上おどりの際に演奏される囃子を総称して郡上節と言う。 「かわさき」「春駒」「三百」「ヤッチク」「古調かわさき」「げんげんばらばら」「猫の子」「さわぎ」「甚句」「まつざか」の10曲。対応する踊りは、それぞれ異なる。 踊る曲の順番は日によって違う。ただし、「まつざか」は必ず最後に踊る曲になっている。これは、「まつざか」は拍子木と歌のみを伴奏にして踊る曲で終わった後は拍子木を懐に入れて帰って行くことが出来、片付けの手間がない為に「まつざか」が最後に踊る曲となっている。 
 
←(念仏踊り、風流踊り)
「かわさき」  
郡上のナー八幡 出ていく時は 雨も降らぬに 袖しぼる 
(袖しぼるノー袖しぼる)アソンレンセ(雨も降らぬに袖しぼる)  
天のナーお月様 ツン丸こて丸て 丸て角のて そいよかろ 
郡上のナー殿様 自慢なものは 金の弩標(どひょう)に 七家老 
心中ナーしたげな 宗門橋(そうもんばし)で 小駄良(こだら)才平(さいべい)と 酒樽と 
金がナー出る出る 畑佐の山で 銀と鉛と 赤がねと 
向(むかい)ナー小駄良の 牛の子を見やれ 親が黒けりゃ 子も黒い 
唄もナー続くが 踊りも続く 月の明るい 夜も続く 
日照りナーしたとて 乙姫様の 滝の白糸 切れはせぬ 
郡上はナー馬どこ あの磨墨(するすみ)の 名馬出したも 気良(けら)の里 
泣いてナー分かれて 松原行けば 松の露やら 涙やら 
忘れナーまいぞえ 愛宕の桜 縁を結んだ 花じゃもの 
駒はナー売られて いななき交わす 土用七日の 毛附け市 
白いナー黒いで 自慢なものは おらが在所の 繭と炭 
東殿(とうど)ナー山から 覗いた月を 写す鏡は 吉田川 
雪のナー降る夜は 来ないでおくれ かくし切れない 下駄の跡 
咲いたナー桜に なぜ駒つなぐ 駒が勇めば 花が散る 
郡上のナー八幡 出ていく時は 三度見返(かや)す 枡形を 
天のナーお月様 かかぁ盗まれて 雲の間(あい)から かかぁかかぁと 
私ゃナー郡上の 山奥育ち 主と駒曳く 糸も引く 
嫁をナーおくれよ 戒仏(かいぶつ)薬師 小駄良三里に 無い嫁を 
思いナー出しては くれるか様も わしも忘れる ひまがない 
お国ナー自慢にゃ 肩身が広い 郡上踊りに 鮎の魚 
泣いてナー分かれて いつ逢いましょか 愛(いと)し貴方は 旅のかた 
安久田(あくだ)ナー蒟蒻(こんにゃく) 名皿部(なさらべ)牛蒡(ごんぼ) 五町大根(だいこ)に 小野茄子(なすび) 
今夜ナー逢いましょ 宮ケ瀬橋で 月の出る頃 上がる頃 
見たかナー聞いたか 阿弥陀ケ滝の 滝の高さと あの音を 
郡上にナー過ぎたは 長滝講堂 飛騨に過ぎたは 一の宮 
音頭ナー取る娘の 可愛い声で 月も踊りも 冴えてくる 
盆にゃナーおいでよ 愛(う)い孫連れて 郡上踊りも 見るように 
祭りナー見るなら 祖師野(そしの)の宮よ 人を見るなら 九頭の宮 
踊らナーまいかよ 祖師野の宮で 四本柱を 中にして 
宇山ナー通るとて 会笹(かいざき)見れば 森屋おりんが 化粧する 
愛宕ナー三月 桜で曇る 曇る桜に 人が酔う 
散るとナー心に 合点はしても 花の色香に つい迷う 
鐘がナー鳴るのか 撞木が鳴るか 鐘と撞木と 合うて鳴る 
愛宕ナー山から 吉田の流れ 眺め見飽かぬ 宮瀬橋 
西もナー東も 南もいらぬ わたしゃあなたの 北がよい 
別れナー別れて 歩いておれど いつか重なる 影法師 
花のナー愛宕に 秋葉の紅葉 月がのぞくか 吉田川 
わしがナー出しても 合わまいけれど 合わぬところは ごめなさりょ 
唄もナー続くが 踊りも続く 月の明るい 夜も続く 
娘ナー島田に 蝶々がとまる とまるはずだよ 花じゃもの 
歌いナーなされよ 向かいのお方 唄で御器量は 下がりゃせぬ 
唄でナー御器量が もしいち下がりゃ 時の相場を 上げて 
もはやナーかわさきゃ やめてもよかろ 天の川原は 西東
「古調かわさき」 
郡上のナー八幡 コラ出ていく時は 三度見かやす枡形(ますがた)を 
(枡形をノー枡形を)アソンレンセ(三度見かやす枡形を) 
天のナーお月様 コラかか盗まれて 雲の間(あい)から かかァかかァと 
どんなナーことにも コラよう別れんと 様も一口ゃ 言うておくれ 
踊りナーつかれて コラはや夜が明けた 何の話も できなんだ 
わしのナー殿まは コラこの川上の 水の流れを 見て暮らす 
婆さナー枕元 コラ箱根の番所 通り抜けたも 知らなんだ 
思いナー出しては コラくれるか様も わしも忘れる 暇がない 
夜明けナーましたら コラ起こしておくれ お前頼りで いるわいな 
今年ゃナーこうでも コラまた来年は こうもあろまい なよ殿ま 
声のナー良い衆は コラその身の徳じゃ 諸国諸人に 思われる 
昔ゃナー 侍 コラ今世に落ちて 小笹まざりの 草を刈る 
盆のナー十四日にゃ コラ蓮の葉となりて 一夜もまれて 捨てられた 
何がナー何でも コラお前さでなけりゃ 東ゃ切れても 夜は明けぬ 
桑もナーよく咲け コラお蚕も良かれ 若い糸引きょ 頼まずに 
坊主ナー山道 コラ破れし衣 行きも帰りも 木にかかる 
今宵ナー一夜は コラ浦島太郎 明けて悔しや 玉手箱 
親のナーない子の コラ髪結うてやれば 親が喜ぶ 極楽で 
おらがナー若い時ゃ 五尺の袖で 道の小草も なびかせた 
二十ナー五日は コラ天神祭 ござれ小瀬子の 茶屋で待つ 
天気ナー良ければ コラ大垣様の 城の太鼓の 音の良さよ 
天のナー星ほど コラ夜妻あれど 月と守るは 主一人 
思うナーようなら コラ竹どよかけて 水で便りが してみたい 
咲いてナー悔しや コラ千本桜 鳥も通わぬ 奥山に 
泣いてナー別れて コラ松原行けば 松の露やら 涙やら 
泣いてナー別れて コラいつ逢いましょか いとしあなたは 旅の人 
明日はナーお発ちか コラお名残惜しや 雨の十日も 降ればよい 
高いナー山には コラ霞がかかる 若い娘にゃ 気がかかる 
郡上はナーよいとこ コラよい茶ができる 娘やりたや お茶摘みに 
お前ナー二十一 コラわたしは十九 四十仲良く 暮らしたい 
植えてナーおくれよ コラ畦にも田にも 畦はかかまの しんがいに 
今日のナー田植えは コラ春三月の 桜花かよ ちらちらと 
那比のナー字留良や コラのう亀尾島も 住めば都じゃ のや殿ま 
泥でナー咲かした コラこのかきつばた 活けて根じめが 見てほしい 
気だてナーよけりゃと コラ言うたことぁ言うたが されどご器量が 気にかかる 
人をナー泣かせりゃ コラまた泣かされる ともに泣いたり 泣かせたり 
歌はナー唄やれ コラ話はおきゃれ 話ゃ仕事の 邪魔になる 
わしとナーあなたと コラ草刈る山に 藪や茨が なけりゃよい 
藪やナー茨が コラありゃこそよかれ 藪の木陰も のや殿ま 
もはやナーかわさきゃ コラやめてもよかろ 天の川原は 西東 
天のナー川原は コラ西東でも 今宵一夜は 夜明けまで 
「げんげんばらばら」  
げんげんばらばら何事じゃ 親もないが子もないが 
一人貰うた男の児 鷹に取られて今日七日 
七日と思えば四十九日 四十九日の墓参り  
叔母所(おばんところ)へ一寸寄りて 
羽織と袴を貸しとくれ あるものないとて貸せなんだ 
おっぱら立ちや腹立ちや 腹立ち川へ水汲みに 
上ではとんびがつつくやら 下ではからすがつつくやら 助けておくれよ長兵衛さん 
助けてあげるが何くれる 千でも万でもあげまする 
    私ゃ紀の国みかんの性(たち)よ 青いうちから見初められ 
    赤くなるのを待ちかねて かきおとされて拾われて 
    小さな箱へと入れられて 千石船に乗せられて  
    遠い他国に送られて 肴や店にて晒されて  
    近所あたりの子ども衆に 一文二文と買い取られ  
    爪たてられて皮むかれ 甘いかすいかと味みられ わしほど因果なものはない 
立つ立つづくしで申すなら 一月門には松が立つ 
二月初午稲荷で幟立つ 三月節句に雛が立つ  
四月八日に釈迦が立つ 五月節句に幟立つ 
六月祇園で祭り立つ 七月郡上で踊り立つ 
八月九月のことなれば 秋風吹いてほこり立つ 
十月出雲で神が立つ 十一月のことなれば 
こたつが立ってまらが立つ 十二月のことなれば 
借金とりが門に立つ 余り催促厳ししゅうて 内のかかあ腹が立つ 
    駕篭で行くのはお軽じゃないか 私ゃ売られていくわいな 
    主のためならいとやせぬ しのび泣く音は加茂川か 
    花の祇園は涙雨 金が仇(かたき)の世の中か 
    縞の財布に五十両 先へとぼとぼ与市兵衛 
    後からつけ行く定九郎 提灯バッサリ闇の中 
    山崎街道の夜の嵐 勘平鉄砲は二つ玉  
器量がよいとてけん高ぶるな 男がようて金持ちで 
それで女が惚れるなら 奥州仙台陸奥の守 
陸奥の守の若殿に なぜに高尾が惚れなんだ 
    田舎育ちの鶯が初めて東へ下るとき 一夜の宿をとりそこね  
    西を向いても宿はなし 東を向いても宿はなし 梅のこずえを宿として 
    花の蕾を枕として落つる木の葉を夜具として 月星眺めて法華経読む 
おぼこ育ちのいとしさは しめた帯からたすきから 
ほんのりこぼれる紅の色 燃える想いの恋心 
かわいがられた片えくぼ 恥ずかしいやらうれしいやら 
うっとり貴男の眼の中で 私ゃ夢見るすねてみる 
    びんのほつれをかきあげながら 涙でうるむふるい声 
    私ゃお前があるがゆえ ほうばい衆や親方に 
    いらぬ気兼ねや憂き苦労 それもいとわず忍び逢い 
    無理に工面もしようもの 横に車を押さずとも 
    いやならいやじゃと言やしゃんせ 相談づくのことなれば 切れても愛想はつかしゃせぬ 
    酒じゃあるまいその無理は 外に言わせる人がある 
髪は文金高島田 私ゃ花嫁器量よし 赤いてがらはよいけれど 物が言えない差し向かい 
貴男と呼ぶも口の内 皆さん覗いちゃ嫌ですよ 
    十四の春から通わせおいて 今更嫌とは何事じゃ 
    東が切りょか夜が明けようが お寺の坊さん鐘撞こうが 
    向かいのでっちが庭掃こが 隣のばあさん火を焚こうが 枕屏風に陽はさそが 
    家から親たちゃ連れにこが そのわけ聞かねばいのきゃせぬ 
娘十八嫁入り盛り 箪笥長持はさみ箱  
これほど持たせてやるからは 必ず帰ると思うなよ 申しかかさんそりゃ無理よ 
西が曇れば雨となり 東が曇れば風となる  
千石積んだ船でさえ 追い手が変われば出て戻る 
    筑紫の国からはるばると 父を訪ねて紀伊の国  
    石童丸はただ一人 母の仰せを被りて かむろの宿で名も高き 
    玉屋与平を宿として 九百九十の寺々を  
    訪ねさがせど分からない それほど恋しい父上を 
    墨染め衣にしてくれた ぜんたい高野が分からない 
郡上八幡かいしょう社 十七、八の小娘が 
晒しの手拭い肩にかけ こぬか袋を手に持ちて 
風呂屋はどこよとたずねたら 風呂屋の番頭の言うことにゃ 風呂はただ今抜きました 
抜かれたあなたは良いけれど 抜かれたわたしの身が立たぬ 
「騒ぎ」  
呑めよ騒げよ一寸先ゃ闇よ(コラサ) 今朝も裸の下戸が来た 
花が蝶々か蝶々が花か 来てはちらちら迷わせる 
水させ水させ薄くはならぬ 煎じつめたる仲じゃもの 
さいた盃中見てあがれ 中にゃ鶴亀五葉の松 
私ゃ唄好き 念仏嫌い 死出の山路は唄で越す 
若い娘と新木(あらき)の船は 人が見たがる乗るたがる 
今年ゃうろ年うろたえました 腹におる子の親がない 
鶯鳥でも初音はよいに 様と初寝はなおよかろ 
向かい小山に 日はさいたれど 嫁の朝寝は起こしゃせぬ 
一夜寝てみて寝肌がよけりゃ 妻となされよいつまでも 
泣いて別れて松原行けば 松の露やら涙やら 
今宵一夜は浦島太郎 開けて口惜しや玉手箱 
思い出いてはくれるか様も わしも忘れる暇がない 
明日はお立ちかお名残惜しや 雨の十日も降ればよい 
親の意見と茄子の花は 千に一つの無駄がない 
へちまの野郎がめっぽう太り 育てた垣根を突き倒す 
無理になびけと言うのは野暮よ 柳と女は風次第 
姉は破れ笠させそでさせん 妹日傘で昼させる 
若い内じゃも一度や二度は 親も目長にしておくれ 
梅の匂いを桜に持たせ 枝垂れ柳に咲かせたい 
梅も嫌いよ桜も嫌だ 桃とももとの合いが好き 
色の小白い別嬪さん惚れて 烏みたよな苦労する 
ついておいでよこの提灯に 消して苦労はさせはせぬ 
三味の糸ほどキュックラキューと締めて 撥の当たるほど寝てみたい 
鶯でさえ初音はよいが あなたと初寝はなおよかろ 
月のあかりで山道越えて 唄で郡上へ駒買いに 
様はよい声細谷川の 鶯の声面白い 
惚れてくれるなわしゃ弟じゃに 連れて行くにも家がない 
西も嫌いよ東も嫌だ わたしゃあなたの北がよい 
浮気男と茶釜の水は わくも早いがさめやすい 
惚れていれども好かれておらず 磯の鮑の片思い 
今夜寝にくる寝床はどこじゃ 東枕に窓の下 
東枕に窓とは言うたが どちが西やら東やら 
字余り 
竹に雀は あちらの藪からこちらの藪まで チュンチュンバタバタ羽交を揃えて 
品よくとまる 止めて止まらぬ色の道 
娘島田を 根っからボックリ切って 男のへそにたたきつけ  
それでも浮気の止まない時には 
宗十郎の芝居じゃないが 行灯の陰から ヒューヒュラヒュッと化けて出る 
雨はしょぼしょぼ降る 蛇の目の唐傘 小田原提灯  
ガラガラピッシャンドッコイ姉さんこんばんは 誰かと思ったら主さんが  
竹の一本橋 すべりそうでころがりそうで危ないけれど 蛇の目の唐傘 
お手手をつないで 主となら渡る 落ちて死んでも二人連れ 
竹になりたや 大阪天満の天神様の お庭の竹に 
元は尺八中は笛 裏は大阪天満の天神様の文を書く 法名を書く筆の軸 
摺り鉢を伏せ眺める三国一の 味噌をするのが富士の山 
ござるたんびに ぼた餅かい餅うどんにそうめんそば切りやないで 
なすび漬け喰ってお茶まいれ 
郡上八幡 来年来るやら又来ないやら 来ても逢えるやら逢えぬやら 
竹の切り株に なみなみたっぷり溜まりし水は 澄まず濁らず出ず入らず 
瀬田の唐橋 膳所(ぜぜ)の鍛冶屋と大津の鍛冶屋が 
朝から晩まで飲まずに食わずにトッテンカッテン 叩いて伸ばして 
持って来てかぶせた唐金擬宝珠(ぎぼし) それに映るは膳所の城 
朝顔の花の 花によく似たこの杯は 今日もさけさけ 明日もさけ 
十二本梯子を 一挺二挺三挺四挺五六挺かけても 届かぬ様は  
お天道様じゃとあきらめた 
あまりしたさに 前に鏡立て中よく見れば 中は紺ちゃん黒茶のエリマキシャーリング  
らしややしょじょひの立烏帽子 
声が出ない時ゃ 干支じゃないけど ネウシトラウタツミの隣のどん馬のけつを  
ギュッギュらくわえてチュッチュラチュとすやれ 馬のけつから声が出る 
「三百」  
ハア揃えてござれ(ホイ)小豆ょかすよに ごしょごしょと 
(ごしょごしょとノーごしょごしょと)ホイ小豆ょかすよに ごしょごしょと 
ハアヨーオイヨイコリャー 
今年はじめて三百踊り(ホイ) おかしからずよ 他所の衆が 
(他所の衆がノー他所の衆が)ホイ(おかしからずよ 他所の衆が) 
誰もどなたも 揃えてござれ 小豆ょかすよに ごしょごしょと 
おらが若い時ゃ チョチョラメてチョメて やかんかけるとて 魚籠(びく)かけた 
越前歩荷(ぼっか)の荷なら そこに下すな 鯖くさい 
今の音頭さは どんまいとこはねた おらもそこらと 思ていた 
何もかも仲間 なすび汁煮りゃ なお仲間 
買うておくれよ 朝鮮ベッコウのかんざしを 村でささぬは わしゃ一人 
泥鰌(どじょう)すいてきたに おかかなすびの ほぞとりゃれ 
どっこいしょと 堀越を越えて 行けば宮代 一夜とる 
寝たか寝なんだか まくらに問やれ まくら正直 寝たと言うた 
思い出しては くれるか様も わしも忘れる 暇がない 
切れてしまえば バラバラ扇子 風のたよりも 更にない 
土京(どきょう)鹿倉(かくら)のどんびき踊り 一つとんでは 目をくます 
てっかりてっかりてっかりと 金のようらく 下げたよな 
竹の切り株ちゃ 酒呑童子の小便桶(しょんべんけ) 澄まず濁らず 出ずいらず 
猫がねずみ取りゃ いたちが笑う いたち笑うな われも取る 
禿げた頭を やかんじゃと思て 番茶つまんで 叱られた 
後家とやもめと 座頭(ざっと)の子と瞽女と 禅宗坊様と お比丘尼と 
暑い寒いの 挨拶よりも 味噌の百匁も くれりゃよい 
泣いて別れて 清水橋越えて 五町のせば岩で けつ叩く 
今年ゃ何でもかんでも 嫁入りせにゃならぬ 同じすること 楽にする 
嫁入りしたけど しやわせわるて へそが出べそで 帰された 
川の瀬でさえ 七瀬も八瀬も 思い切る瀬も 切らぬ瀬も 
わしが出しても 合わまいけれど 合わぬところは 御免なさりょ 
盆が来たなら するぞえかかま 箱の宝の 繻子の帯 
面白い時ゃ お前さと二人 苦労する時ゃ わし一人 
田地買おうか 褌買うか どちらも倅の ためになる 
昔馴染みと 蹴つまずく石は 憎いながらも 後を見る 
様となら行く わしゃどこまでも 枝垂れ柳の 裏までも 
井戸の蛙と そしらばそしれ 花も散り込む 月も差す 
蕾が花よと 言うたは道理 開きゃ嵐に 誘われる 
よせばいいのに 舌切り雀 ちょっと舐めたが 身のつまり 
声がかれたに 水くりょと言うたら くんでくれたよ 砂糖水を 
恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす 
娘したがる 親させたがる 箱の宝の 繻子の帯 
お前二十一 私は十九 四十仲良く 暮らしたい 
姉がさすなら 妹もさしゃれ 同じ蛇の目の 唐傘を 
同じ蛇の目の 唐傘をさせば どちが姉やら 妹やら 
音頭取りめが 取りくだぶれて さいた刀を 杖につく 
「甚句」  
櫓ヨー太鼓に ふと目を覚まし 
明日はヨーどの手で コイツァ投げてやる 
角力(すもう)にゃエー負けても 怪我さえなけりゃ たまにゃヨー私も コイツァ負けてやる  
思うヨー様なら 竹よとかけて 水でヨー便りが コイツァして見たい 
角力にゃエー投げられ 女郎(おやま)さんにゃふられ どこでヨー立つ瀬が コイツァわしが身は 
夜明けヨーましたら 起こしておくれ お前ヨー頼りで コイツァ居るわいな 
角力ナー取りじゃの 道楽じゃのと 言うてヨー育てた コイツァ親はない 
今年ゃヨーこうでも また来年は こうもヨーあるまい コイツァなよ殿ま 
歌うてエー出たぞえ お庭の鳥が いつにヨー変わらぬ コイツァ良い声で 
嫁をエーおくれよ 戒仏薬師 小駄良ヨー三里に コイツァない嫁を 
白いヨー黒いで 自慢なものは おらがヨー在所の コイツァ繭と炭 
小田のエーかわずは 身にあやまりが あるかヨー両手を コイツァついて鳴く 
ついてヨー行きたい 送りに出たい せめてヨー御番の コイツァ札所まで 
どうせヨーこうなら 二足の草鞋 ともにヨー履いたり コイツァ履かせたり 
信州エー信濃の新蕎麦よりも わたしゃヨーあなたの コイツァそばがよい 
絞りヨー浴衣に かんざし添えて 毛付けヨー土産と コイツァ投げ込んだ 
馬じゃヨー摺墨(するすみ) 粥川鰻 響くヨー那留石 コイツァ宗祇水 
盆のエー十四日にゃ お寺の前で 切り子ヨー行燈を コイツァ中にして 
よそのエー若い衆か よう来てくれた 裾がヨー濡れつら コイツァ豆の葉で 
盆じゃヨー盆じゃと 待つ内ゃ盆よ 盆がヨーすんだら コイツァ何を待つ 
お前ヨー一人か 連れ衆はないか 連れ衆ヨーあとから コイツァ駕籠で来る 
小那比エー松茸 前谷山葵 気良じゃヨー馬のこ コイツァ坪佐炭 
天気エーよければ 天王様の 宮のヨー太鼓の コイツァ音のよさ 
ここのヨーお庭に 茗荷と蕗と 御冥加ヨー栄える コイツァ富貴繁盛 
お前ヨー松虫 わしゃきりぎりす 障子ヨー一重で コイツァ鳴き明かす 
八重のエー山吹 派手には咲けど 末はヨー実のない コイツァことばかり 
せかずとお待ちよ 時節がくれば 咲いてヨーみせます コイツァ床の梅 
上をエー思えば 限りがないと 下をヨー見て咲く コイツァ百合の花 
いやなエーお方の 親切よりも 好きなヨーお方の コイツァ野暮がよい 
惚れりゃエー千里も 一里じゃなどと 虎のヨー尾につく コイツァ古狐 
紺のヨー暖簾に 松葉の散らし まつにヨーこんとは コイツァ気にかかる 
ついてヨーおいでよ この提灯に けしてヨー苦労は コイツァさせはせぬ 
姉とヨー言うたれど 妹をおくれ 姉はヨー丙の コイツァ午の年 
姉はヨー丙の 午年なれど 妹ヨー庚の コイツァ申の年 
郡上はエーよいとこ 住みよいところ 水もヨー良ければ コイツァ人もよい  
野口雨情作詩 
踊りエー踊ろうとて 人さまよせて 一目ヨー逢いたい コイツァ人がある 
今夜エー逢いましょう 宮ケ瀬橋で 月のヨー出る頃 コイツァ昇る頃 
山にエー春雨 野に茅花(つばな) いねのヨー陰から コイツァつばくらめ 
青いエーすすきに 蛍の虫は 夜のヨー細道 コイツァ通て来る 
狸エー出てきて お月さんに化けな 今夜ヨー闇夜で コイツァ道ぁ暗い 
踊りエー踊るのに 下うつむいて 誰にヨー気兼ねを コイツァするのやら 
秋のエー夜長を 夜もすがら 空にヨーまんまる コイツァ月の影 
谷のエー木陰に 降る雪は 笹にヨーそばえて コイツァ夜を明かす 
雲のエー行き来に また山隠す 郡上はヨー山又 コイツァ山の中 
「春駒」  
(七両三分の春駒春駒) 
郡上は馬どこ あの磨墨の 名馬 出したも ササ気良の里(七両三分の春駒春駒) 
私ゃ郡上の 山奥育ち 主と馬曳く ササ糸も引く 
金の弩標(どひょう)は 馬術のほまれ 江戸じゃ赤鞘(あかざや) ササ郡上藩 
駒は売られて いななき交わす 土用七日の ササ毛附け市 
なんと若い衆よ 頼みがござる 今宵一夜は ササ夜明けまで 
日照りしたとて 乙姫様の 滝の白糸 ササ切れはせぬ 
村じゃ一番 お庄屋様の 小町娘の ササ器量のよさ 
踊り子が来た 大門先へ 繻子(しゅす)の帯して ササ浴衣着て 
二十五日は 天神祭り ござれ小瀬子の ササ茶屋で待つ 
東殿(とうど)山から 覗いた月を 映す鏡が ササ吉田川 
様が三夜の 三日月様を 宵にちらりと ササ見たばかり 
親のない子に 髪結うてやれば 親が喜ぶ ササ極楽で 
様が様なら 私じゃとても かわる私じゃ ササないわいな 
様は三夜の 三日月様よ 宵にちらりと ササ見たばかり 
親の意見と 茄子(なすび)の花は 千に一つの ササ無駄はない 
郡上の殿様 自慢なものは 金の弩標(どひょう)に ササ七家老 
揃た揃たよ 踊り子が揃た 二番すぐりの ササ麻の様に 
踊り上手で 身上持ちようて 赤い襷の ササ切れるまで 
踊り踊って 嫁の口なけりゃ 一生後家でも ササ構やせぬ 
踊り助平が 踊りの夢で 音頭寝言に ササ取っている 
踊り助平が 今来たわいな わしも仲間に ササしておくれ 
向かい小山に 日はさいたれど 嫁の朝寝は ササ起こしゃせぬ 
人は一代 名は末代と およしゃお城の ササ人柱 
馬は三才 馬方二十歳 着けたつづらの ササ品のよさ 
音頭取りめが 橋から落ちて 橋の下でも ササ音頭取る 
遠く離れて 咲く花待てば 散りはせぬかと ササ気は紅葉 
思うことさえ 言われぬ口で 嘘がつかれる ササはずがない 
島田娘と 白地の浴衣 ちょっとしたまに ササ色が着く 
からむ朝顔 ふり切りかねて 身をばまかせた ササ垣の竹 
肩を叩くは 孝行息子 すねをかじるは ササどら息子 
嫌な雪じゃと はね返しても 義理が積もれば ササ折れる竹 
花は咲いても わしゃ山吹の ほんに実になる ササ人はない 
愛宕山から 春風吹けば 花の郡上は ササちらほらと 
咲いた桜に なぜ駒つなぐ 駒が勇めば ササ花が散る 
今日は日がよて 朝からようて 思う殿まに ササ二度会うた 
声はすれども 姿は見えぬ 様は草場の ササきりぎりす 
様が草場の きりぎりすなら わたしゃ野山の ササほととぎす 
音頭取りめが 取りくだぶれて さいた刀を ササ杖につく 
「猫の子」  
ヤアヨーホーイヤーヨーイ 
猫の子がよかろ(猫の子がよかろ) 
猫でしやわせ コラねずみょ取る 
(ねずみょ取るノーねずみょ取る 猫でしやわせ コラねずみょ取る) 
猫がねずみ取りゃ いたちが笑う いたち笑うな コラわれも取る 
誰もどなたも 猫の子にしょうまいか 猫でしやわせ コラねずみょ取る 
てっかりてっかりてっかりと 金のようらく コラ下げた様な 
親の意見と茄子の花は 千に一つの コラ無駄がない 
よせばいいのに 舌切り雀 ちょいとなめたが コラ身のつまり 
坊主山道 破れし衣 行きも帰りも コラ気にかかる 
大笹原で 誰か寝たよな コラ跡がある 
寝たか寝なんだか 枕に問やれ 枕正直 コラ寝たと言うた 
婆さ枕元 箱根の番所 通り抜けたも コラ知らなんだ 
越前歩荷(ぼっか)の荷なら そこで下ろすな コラ鯖くさい 
破れ褌 将棋の駒よ 角と思えば コラ金が出た 
夕んべ夜這人(よばいにん)が 猫踏みころいた 猫で返しゃれ コラ熊笹で 
夕んべ夜這人(よばいと)が 二階から落ちて 猫の鳴き真似 コラして逃げた 
様と三日月ゃ 宵にばかござる いつかござれよ コラ有明に 
来るか来るかと 待つ夜は来ずに 待たぬ夜に来て コラ門に立つ 
門に立ったる 西国巡礼 住まい名乗れよ コラ婿に取る 
住まい名乗れば 恥ずかしょござる 旧の目とりの コラ子でござる 
坊主だまいて 金取ろまいか せんぶまんぶの コラお経の金 
鶯鳥でも 初音は良いに 様と初寝は コラなお良かろ 
様の親切 たばこの煙 次第次第に コラ薄くなる 
色で身を売る 西瓜でさえも 中にゃ苦労の コラ種がある 
元まで入れて 中で折れたら コラどうなさる 
一夜寝てみて 寝肌が良けりゃ 妻となされよ コラ末までも 
一夜ござれと 言いたいけれど まんだ嬶まの コラ傍で寝る 
何と若い衆よ じゃけらはおきゃれ じゃけらしてから コラ子ができた 
姉と言うたれど 妹をおくれ 姉は丙の コラ午の年 
夜は何時じゃ しのべ九つ コラ夜は七つ 
切れてしまえば バラバラ扇子 風の便りも コラ更にない 
昔馴染みと 蹴つまづいた石は 憎いながらも コラ後を見る 
小野の娘と 馴染みになれば 日焼けなすびを コラただくれる 
竹に雀は 品よく止まる 止めて止まらぬ コラ色の道 
よそへ踏み出し はばかりながら 音頭とります コラ御免なさりょ 
桑の中から 小唄がもれる 小唄聴きたや コラ顔見たや 
おもて四角で 心は丸い 人は見かけに コラよらぬもの 
けちで助平で 間抜けで馬鹿で お先煙草で コラ屁をたれる 
好きと嫌いと 一度に来たら 箒建てたり コラ倒したり 
腰のひねりで きが行くなれば 筏流しは コラ棹ささぬ 
よそで陽気な 三味線聞いて 内で陰気な コラ小言聞く 
金が持ちたい 持ちたい金が 持てば飲みたい コラ着てみたい 
よくもつけたよ 名を紙入れと ほんにあるのは コラ付けばかり 
思うて通えば 千里も一里 障子一重も コラ来にゃ遠い 
嫌と言うのに 無理押し込んで 入れて鳴かせる コラ籠の鳥 
どっこいしょと 堀越こえて 行けば宮代 コラ一夜とる 
一合の酒も 口で移せば コラ二合となる 
門に立ったる 西国巡礼 住まい名乗れよ コラ婿に取る 
住まい名乗れば 恥ずかしょござる 臼の目とりの コラ子でござる 
一つ事ばか 面白ないで 品を替えては コラやろまいか 
「松坂」  
ヨーホーイモヒトツショ 
合点と声がかかるなら これから文句に掛かりましょ 
すべてお寺は檀家(だんけ)から 痩せ畑作りはこやしから 
下手な音頭も囃しから お囃子頼む総輪様(そうわさま) 
名所案内 
鵜舟の篝火赤々と 世にも名高き長良川 
その水上(みなかみ)の越美線(えつみせん) 郡上八幡名にしおう 
三百年の昔より 士農工商おしなべて 
泰平祝う夏祭り 音頭手拍子面白く 
唄い楽しむ盆踊り 郡上の八幡出る時は 
雨も降らぬに袖しぼる これぞまことのにこの里の 
人の心をそのままに いつしか唄となりにかる 
山は秀でて水清く 春は桜の花に酔い 
秋はもみじ葉茸狩り 夏は緑の涼風や 
冬また雪の遊戯(たわむれ)と 名所の多き郡(こおり)とて 
訪ねる人の数々に いざや探らん道しるべ 
大日ケ岳仰ぎつつ 阿弥陀ケ滝をおとなえば 
六十丈の虹吐いて 夏よせつけぬ滝の音 
滝の白糸長々と 一千年の昔より 
由緒(いわれ)は深き長瀧に 今も睦月の六つの日を 
喜び菊の花祭り 人は浮かれてくるす野の 
宮居に匂う桜花 緑萌え出る楊柳寺(ようりゅうじ) 
のどかなる野の那留(なる)石の その名は高く世に響く 
宗祇の流れ今もなお 汲みてこそ知れ白雲(しらくも)の 
絶えせぬ水の末かけて 積もる翠(みどり)の山の上(え)に 
霞ケ城の天守閣 朝日に映る金の鯱(しゃち) 
昔を偲ぶ東殿(とうでん)の 山の端出づる月影に 
匂う愛宕のすみぞめや 彼岸桜や山桜 
訪(と)い来る人の絶え間なく 杖ひくからぬ稚児の峰 
卯山(うやま)おろしの風穴に いでそよそよと立ちし名の 
浮きて流るるあさが滝 深き思いを叶(かなえ)橋 
行き交う人は深草の 小町にちなむ小野の里 
契りはかたき石の面(も)に 写りまします管公(かんこう)の 
冠ならぬ烏帽子岳 麓続きの村里は 
寿永の名馬磨墨(するすみ)の 出し所と言い伝う 
名も高光にゆかりある 高賀の山の星の宮 
矢納ケ淵(やとがふち)や粥川に 振り返りつつ蓬莱の 
岩間流るる長良川 河鹿の声のおちこちに 
ひかれて舟に棹させば 浮世の塵もいつしかに 
洗い捨てたる心地する 水の都か花の里 
郡上の八幡出る時は 雨も降らぬに袖しぼる 
踊りと唄とで町の名も 広く聞こえて栄ゆく 
里の皆衆も他所の衆も 音頭手拍子うちそろえ 
これぞ真に総輪様 永く伝わるこの里の 
郡上おどりの誉をば 万代(よろずよ)までも伝えなん 
歌の殿様 
お聞きなされよ皆の衆 歌の殿様常縁(つねより)が 
歌で天下に名をあげて 歌でお城を取り戻す 
平和の里にふさわしき 歌の郡上の物語 
郡上のお城の始まりは 下総東氏(とうし)が功により 
山田の庄を加えられ 承久年間胤行(たねゆき)は 
剣 阿千葉に館して 郡上東家の開祖(もと)となる 
文武すぐれしわが東家 代々にすぐれし和歌の道 
勅撰集に名を連ね その名天下に聞こえたり 
戦乱続き消えかけし 足利時代の文学(ふみ)の道 
支えしちからはわが東家 五山文学あればこそ 
殊に七代常縁は 和歌に秀でし功により 
公家将軍の歌会(うたえ)にも 常に列して名は高し 
時に関東(あづま)に乱起こり ときの将軍義政は 
常縁公に命じてぞ 東庄回復はかりたる 
常縁郡上の兵連れて 関東に転戦十余年 
その頃京は応仁の 戦乱長くうち続き 
美濃の土岐氏は山名方 郡上の東家は細川に 
昨日の友は今日の敵 争いあうぞ是非もなき 
ついに土岐氏の家臣なる 斎藤妙椿(みょうちん)大挙して 
東氏本城篠脇の 城を襲いて奪いけり 
常縁関東にこれを聞き いたく嘆きて歌一首 
亡父追善法要に ちなみて無常歌いしに 
この歌郡上に伝わりて 聞く者胸をうたれけり 
妙椿これを伝え聞き 心は通う歌の道 
敵とはいえど常縁の ゆかしき心思いやり 
関東の空に歌だより ついに一矢(いっし)も交えずに 
十首の歌と引き換えに 郡上の領地返しけり 
かくて再び常縁の 徳にうるおう郡上領 
歌の真実(まこと)のふれあいに 恩讐こえて睦み合い 
戦わずして手に入りし 歌の花咲く郡上領 
げにもゆかしき和歌の徳 歌の真実の貴さよ 
歌で開けしわが郡上 歌でお城も守られて 
歌の郡上の名も高く 平和日本ともろともに 
栄えゆくこそうれしけれ 栄えゆくこそうれしけれ 
宗祇水 
歌の殿様常縁公 歌でお城を取り戻し 
いよいよ光る和歌の徳 その名天下にとどろきて 
時の帝(みかど)の召しにより 公卿将軍の師ともなり 
九十四年の生涯は ひたすら励む歌の道 
宗祇法師も都から 文明二年はるばると 
あこがれ訪い篠脇の 城に学びし古今集 
励む三年(みとせ)の功なりて ついに奥義の秘伝受け 
師弟もろとも杖をひく 郡上名所の歌の遺跡(あと) 
妙見社頭にいたりては 「神のみ山の花ざかり 
桜の匂う峰」を詠み 那比神宮に詣でては 
「神も幾世か杉の杜 みやいはなれぬほととぎす」 
文明五年秋すぎて 宗祇都に帰るとき 
常縁これを見送りて 別れを惜しむ小駄良川 
桜樹(おうじゅ)の下に憩いては 名残は尽きず「紅葉(もみじば)の 
流るる竜田白雲の 花のみよしの忘るな」と 
心を込めし餞(はなむけ)の 歌の真実は今もなお 
その名もゆかし宗祇水 清き泉はこんこんと 
平和の泉とこしえに 歌の聖のいさおしと 
奏で続けるうれしさよ 讃え続けるゆかしさよ 
およし物語 
およし稲荷の物語 昔の歌の文句にも 
きじも鳴かずば撃たれまい 父は長良の人柱 
ここは郡上の八幡の 霞ケ城を造る時 
お上の評定ありけるが あまた娘のある中に 
およしといえる娘あり 里の小町とうたわれて 
年は二八か二九からぬ 人にすぐれし器量よし 
ついに選ばる人柱 聞きたる親子の驚きは 
何に例えるものはなし 親子は思案にくれ果てて 
泣くばかりなる有様も お上の御用と聞くからは 
ことわるすべもなく涙 そこでおよしはけなげにも 
心を決めて殿様や お城のためや親のため 
死んで柱にならんとて 明日とは云わず今日ここに 
進んで死出の旅支度 白の綸子(りんず)の振袖に 
白の献上の帯をしめ 薄化粧なる髪かたち 
静かに立ちし姿こそ 霜におびえぬ白菊の 
神々しくも見えにける すでに覚悟の一念に 
西に向かいて手を合わせ 南無や西方弥陀如来 
後世を救わせ給えかし また父母にいとまごい 
先立つ不幸許してと あとは言葉も泣くばかり 
これが今生のお別れと 後ろ髪をばひかれつつ 
一足行っては振り返り 二足歩いて後戻り 
親子の絆切れもせず 親も泣く泣く見送りて 
どうぞ立派な最期をと 口には云えず胸の内 
ただ手を合わすばかりなり かくて時もうつるとて 
役人衆にせかれつつ およし一言父母と 
呼ばわる声もかすかなり 空には星の影もなく 
ただ一声のほととぎす 声を残して城山の 
露と消えゆく人柱 この世の哀れととどめける 
これぞおよしのいさおしと 伝え聞いたる人々は 
神に祈りて今もなお およし稲荷の物語
「やっちく」  
私がちょいと出てべんこそなけれど 私ゃ郡上の山中家(さんちゅうや)に住めば 
お見かけ通りの若輩なれば 声も立たぬがよ文句やも下手よ 
下手なながらも一つは口説く 口説くに先立ち頼みがござる 
とかくお寺は檀家衆が頼り やせ畑作りは肥やしが頼り 
村の娘達ゃ若い衆が頼り そして又若い衆は娘さんが頼り 
下手な音頭取りゃおはやし頼り ヤッチクヤッチクさとおはやし頼む 
調子揃えば文句やにかかる 
上の巻 
これは過ぎにしその物語 聞くも哀れな義民の話 
時は宝暦五年の春よ 所は濃州郡上の藩に 
領地三万八千石の その名金森出雲の守は 
時の幕府のお奏者役で 派手な勤めにその身を忘れ 
すべて政治は家老に任せ 今日も明日もと栄華にふける 
金が敵か浮世の習い お国家老の粥川仁兵衛 
お江戸家老と心を合わせ ここに悪事の企ていたす 
哀れなるかな民百姓は あれもこれもと課税が増える 
わけて年貢の取りたてこそは いやが上にも厳しい詮議 
下の難儀は一方ならず かかる難儀に甚助殿は 
上の噂をしたとの科で すぐに捕らわれ水牢の責め苦 
責めた挙げ句が穀見ケ原で 哀れなるかな仕置と決まる 
かくて苦しむ百姓衆を 見るに見かねた名主の者が 
名をば連ねて願い出すれど 叶うどころか詮議は荒く 
火責め水責め算盤責めに 悶え苦しむ七十余人 
餓え死にする者日に増すばかり 最早堪忍これまでなりと 
誰が出したか回状が廻る 廻る回状が何よと問えば 
北濃一なるアノ那留ケ野に 心ある衆皆集まれと 
事の次第が記してござる 
中の巻 
時が来かよ三千余人 蓆旗や竹槍下げて 
百姓ばかりが雲霞のごとく 既にお城へ寄せんず時に 
待った待ったと人押し分けて 中に立ったは明方村の 
気良じゃ名主の総代勤め 人に知られた善右衛門殿で 
江戸に下りて将軍様に 直訴駕籠訴を致さんものと 
皆に図れば大勢の衆が 我も我もと心は一つ 
わけて気強い三十余人 道の難所と日数を重ね 
やがてついたが品川面 されど哀れや御用の縄は 
疲れ果てたるその人々を 一人残らず獄舎に繋ぐ 
聞くも涙よ語るも涙 ここに哀れな孝女の話 
名主善右衛門に一人の娘 年は十七その名はおせき 
父はお江戸で牢屋の責め苦 助け出すのは親への孝行 
そっと忍んで家出をいたし 長の道中もか弱い身とて 
ごまの蠅やら悪者どもに 既に命も危ういところ 
通り合わした天下の力士 花も実もある松山関と 
江戸屋親分幸七殿が 力合わせて娘を助け 
江戸に連れ行き時節を待てば 神の力か仏の業か 
幸か不幸か牢屋が焼ける それに紛れて善右衛門殿は 
逃れ逃れて墨田の土手で 巡り会うのも親子の縁よ 
時節到来御老中様が 千代田城にと御登城と聞いて 
名主善右衛門はじめといたし 同じ願いに五人の者は 
芝で名代の将監橋で 恐れながらと駕籠訴いたす 
かくて五人はその場を去らず 不浄縄にといましめられて 
長井間の牢屋の住まい 待てど暮らせど吟味はあらず 
もはや最後の箱訴なりと 城下離れし市島村の 
庄屋孫兵衛一味の者は 江戸に下りて将軍様に 
箱訴なさんと出で立つ間際 
下の巻 
話かわりて孫兵衛宅の 妹お滝は利発な生まれ 
年は十六つぼみの花を 水仕奉公と事偽りて 
二年前から間者の苦労 今日も今日とて秘密を探り 
家老屋敷をこっそり抜けて 家へ戻って語るを聞けば 
下る道中太田の渡し そこに大勢待ち伏せなして 
一人残らず捕らえるたくみ そこで孫兵衛にっこり笑い 
でかした妹この後とても 秘密探りて知らせてくれよ 
言うてその夜に出立いたす 道の方角からりと変えて 
伊勢路回りで桑名の渡し 宮の宿から船にと乗りて 
江戸に着いたは三月半ば 桃の節句はのどかに晴れる 
四月三日に箱訴いたし すぐにお裁き難なく終わり 
悪政露見で金森様は ついにお家も断絶いたす 
それに連なる重役達も 重いお仕置きまた島流し 
名主お庄屋その他の者は 願い主とて皆打ち首と 
ここに騒動も一段落し 宝暦九年は青葉の頃に 
郡上藩へは丹後の宮津 宮津城主の青山様が 
御高四万八千石で 御入城とは夢見る心地 
政治万端天地の変わり 長の苦しみ一時に消えて 
いつものどかに郡上の里 
めでためでたの若松様か 枝も栄える葉も茂る 
これぞ義民の賜ぞとて ともに忘るなその勲しを 
ともに伝えん義民の誉れ 
「ほっちょせ」 (「中津川甚句」)  
囃し言葉からの曲名。「中津川甚句」ともいう。岐阜の花柳界で盛んに唄われている。上の句と下の句が同じ節で、単純な甚句の一種。一時は、かなり広く唄われていたようだが、木曽節の本場である長野県西筑摩郡福島町でも、大正の初め頃まで盆踊りに使われていた。馬篭(まごめ)から険しい山道が続く木曽路のホトトギスは、ホッチョカケタカと鳴く。その声がいつしかホッチョセとなり、囃し言葉になった。  
 
「ホッチョセ」とは中津川に伝えられている民謡の曲名のことだが、初夏の頃に山や谷間で聞かれる山時鳥(やまほととぎす)の鳴き声が、この土地の人には「ホッチョカケタカ 」と聞こえ、これが短くなって、「ホッチョセ」になり、この曲名になったと言い伝えられている。民謡というものは、一般に民衆の生活の中で信仰、労働、娯楽などの目的で生まれ、生活習慣のように歌い継がれてきたものだが、文章化した記録は殆どなく、その源流を探ることは極めて困難な作業である。私は地域の民謡にも強い関心を持ってきたが、ある時、篠笛でいつも吹いていた「 小諸馬子唄」と中津川の「ホッチョセ」とが旋律的に極めて類似性が高いことに気づいた。音の比較を紙面ですることは困難だが、旋律のおよその骨組みを西洋音階で示すと、 小諸馬子唄は「ソ ラー ド レ− ド レ ミ− レミレドー レドラ・・・」であり、 ホッチョセは「ソ ララ レ− ド レミ レ ドレドラ」となっていて。曲のテンポを同じにして演奏してみると誰が聞いても同じような曲に聞こえる。最近では民謡の学問研究も進み、「奄美六調」を源流とする「佐渡おけさ」の系統と「 小諸馬子唄」を源流とする追分節の系統については、およその伝承経路がわかってきたことから、「ホッチョセ」が「小諸馬子唄」が変化して出来たものとすれば、ほかにも何か手ががりがあるいうに思えるのである。町田佳声氏の「民謡源流考」によれば、江戸時代に碓氷峠の追分宿には旅篭71戸、茶屋18戸があり、一茶の句に「三味線に道失うや落雲雀」があり、西鶴が「都を忘れるほどのにぎやかさ・・・」と書き残していることなどから、ここには、音楽的にも可成り専門的な技術をもった接客女性がおり、この地の馬子歌が三味線を伴った追分節に変化していく条件は十分備わっていたということである。もう30年も前に古い「ホッチョセ」の録音を聞いたことがあるが、メロディーに重ねて馬子歌と同じように尺八の演奏が重なり、メロディーを支える専門的な三味線の伴奏がついていた。ホッチョセは歌詞も旋律もなかなか味わい深く、格調高い民謡である。こうした歌詞を生み、メロディーを価値あるもに再創造した背景には、中山道や東山道の宿場町としての地理的条件に加えて、中津川の先人たちが、常に中央の優れた文芸をこの地に伝え、地域文化の向上に尽くしてきた歴史がある。  
碓氷峠の追分宿で、この土地の馬子歌が俗謡化し、ごぜの弾く三味線を伴って中津川に伝えられ、長い時間を経てこの土地の人々によって再創造され、新しい価値を生み出したのが「 ホッチョセ 」の民謡ではないかと考えるのである。この民謡も「佐渡おけさ」が全国に知られるいうになった大正時代の民謡ブームの頃には今の正調の民謡の形が整い、全国的に知られるようになったということである。最近読んだ地元の民俗芸能保存会の記念誌にも、 ホッチョセ の元の歌は馬子歌から来ているらしいという記述があった。  
「ほっちょせ」の由来  
文書等に残されている記録から類推されること。中津川に伝えられている民謡「ホッチョセ」は中山道経由でこの地に伝えられ、もうひとつの民謡「トコセ節」は長野県の伊那地方から伝えられ、中津川で歌詞が替え歌にされたものという記録がのこされていた。[日本の民謡 西日本編]の中に、この唄はもともと、木曽街道へ入ったら斧を知らない森林から「"ホッチョカケタカ ホッチョカケタカ"」と啼くホトトギスの声が、いつしか馬の背に揺られる旅人相手の街道を上り下りする馬子たちが歌った馬子歌となった。という記述があること。メロディーの類似性から類推されること。上記二つの記述も考慮して、メロディーの類似性を探ってみると、今から40数年前に聞いた「ホッチョセ」と「 小諸馬子唄」の冒頭が極めて近いことに気づくが、中山道の小諸宿場辺りで馬子たちが覚えた、この歌の頭の部分のメロディーが中津川に伝えられ、替え歌としての歌詞がこの地の人たちによって付けられた考えられる。尚、 小諸馬子唄を中津川の地に伝えた者として、越後を拠点とて「浄瑠璃」、歌舞伎の下座音楽、民謡等を広範囲に伝えた瞽女の動きも否定は出来ないが、東濃地方の瞽女の動きを詳細に調べた「岐阜県東濃地方の瞽女の仲」には中津川まで移動した記述はないが、信濃の国まで移動していた越後の瞽女と繋がりを持たない、恵那の久須美に拠点をお置く瞽女たちが中津川の千旦林まで移動していたという記述はある。  
「ホッチョセ」と源流と類推される「小諸馬子唄」について 「小諸出てみりゃ 浅間の山に 今朝も煙が 三筋立つ」 で知られるこの馬子歌のルーツは、中山道の追分宿の周辺に幾つかあった御用牧場で働いていたモンゴル人が後に日本に帰化し、彼らが歌い続けてきたモンゴルの民謡のメロディーに土地の人が日本語の歌詞を付けて唄ってきた正調「小室節」がこの民謡の原曲で、千曲川を下り、越後の国を経由し、日本海を北前舟で渡った北海道の地で「江差追」に変化したことは誰もが知ることだが、陸続きの中山道を経由して中津川の地に、この民謡の頭の部分が伝えられ、変化して定着したと考えても不自然ではないように思われる。 更にこの民謡の歴史を遡ってみると、奈良時代の桓武天皇の時代に、この天皇の皇后が百済王室の末裔であったこともあって、北部朝鮮半島より牡牝2頭の汗血馬(古代中国の歴史的名馬)を飼育人付で贈られ、飼い主のモンゴル人(後に日本に帰化している)の好む気象条件等を考慮して信濃の国の「追分宿」周辺の山地に、この馬の放牧場が作られたこと、この馬が此処で増やされ毎年、優れた馬が朝廷に献上されていたが、この献上馬が上方に向けて出発する際に歌われてきたモンゴル民謡(オルチンードゥーと思われる)が変化して「 小諸馬子唄」となったと伝えられている。ここで言う「汗血馬」は敦煌やウイグル地区で活躍していた千里を駆ける能力を持った「天馬」とも言われいた馬である。  
その他のこと 「ホッチョセ」の歌詞については、幕末から明治期の初期にかけて中津川の素封家たちが鎌倉の文人と交流していて、彼らの影響があると書いた記述を読んだ記憶があるが、この唄の歌詞をよく読んで見ると、あくまで民間レベルのもので、簡易な三味線伴奏を伴って座敷座敷として唄を歌っていた人たちの合作のように思われる。前述の[日本の民謡 西日本編]の中には、この唄は大正から昭和にかけて中津川から名古屋の花柳界にまで流れ、 粋な二上がりの三味線にのせられた座敷歌になり、それが名古屋を訪れる商人によって近隣に広まったこと。昭和35年に中津川に「ホッチョセ」保存会ができれから、再び「盆踊り唄」として元の形にもどった。この民謡の元歌と言われる「中津川甚句」と「ホッチョセ節」の歌詞を並べてみると同じ部分が多いが、旋律は幾分違っている。「ホッチョセ節」はテンポがゆっくりで、メリハリがはっきりしているが、中津川甚句」は芸者が宴席を盛り上げるために歌ったものがそのまま残っていて。はずんだ余興的な歌い方になっている。と記述されている。  
 
←「小諸馬子唄」 
 
ここはナ−山家じゃ お医者はないで ア ホッチョセ ホッチョセ  
 可愛い殿さを見殺しに ア ホッチョセ ホッチョセ  
樣とナ− 旅すりゃー 月日も忘れ 鴬が鳴く 春じゃそな  
遠いナ− 畦道 ようきてくれた 裾がぬれつら豆の葉で  
美濃のナ− 中津を出て行く時にゃ 三度見返す恵那の山 
「およし稲荷」  
郡上八幡城が火事や地震にもあわずに無事なのは、「およしさん」が守ってくれているお蔭なのです・・。お城の二の丸には「人柱およしの碑」があり、天守閣の前には「およしさん」の霊を祀る観音堂が。麓の善光寺には「およし稲荷」があり、8月3日には慰霊祭が欠かさず行われています。  
 
およし稲荷の物語 昔の歌の文句にも  
きじも鳴かずば撃たれまい 父は長良の人柱  
ここは郡上の八幡の 霞ケ城を造る時  
お上の評定ありけるが あまた娘のある中に  
およしといえる娘あり 里の小町とうたわれて  
年は二八か二九からぬ 人にすぐれし器量よし  
ついに選ばる人柱 聞きたる親子の驚きは  
何に例えるものはなし 親子は思案にくれ果てて  
泣くばかりなる有様も お上の御用と聞くからは  
ことわるすべもなく涙 そこでおよしはけなげにも  
心を決めて殿様や お城のためや親のため  
死んで柱にならんとて 明日とは云わず今日ここに  
進んで死出の旅支度 白の綸子の振袖に  
白の献上の帯をしめ 薄化粧なる髪かたち  
静かに立ちし姿こそ 霜におびえぬ白菊の  
神々しくも見えにける すでに覚悟の一念に  
西に向かいて手を合わせ 南無や西方弥陀如来  
後世を救わせ給えかし また父母にいとまごい  
先立つ不幸許してと あとは言葉も泣くばかり  
これが今生のお別れと 後ろ髪をばひかれつつ  
一足行っては振り返り 二足歩いて後戻り  
親子の絆切れもせず 親も泣く泣く見送りて  
どうぞ立派な最期をと 口には云えず胸の内  
ただ手を合わすばかりなり かくて時もうつるとて  
役人衆にせかれつつ およし一言父母と   
呼ばわる声もかすかなり 空には星の影もなく  
ただ一声のほととぎす 声を残して城山の  
露と消えゆく人柱 この世の哀れととどめける  
これぞおよしのいさおしと 伝え聞いたる人々は  
神に祈りて今もなお およし稲荷の物語  
 

北海道東北関東近畿中国四国九州 
山梨県静岡県長野県新潟県愛知県岐阜県石川県富山県福井県

石川県

 

「柏野じょんがら節」  
石川県松任市柏野の盆踊り唄。加賀の国に広く分布し「かんこ踊り」とともに石川県の二大盆踊りといわれている。青森県の「津軽じょんから節」との関係は不明。当初は「宮城野しのぶ」などの物語を、七七七七の四句を一単位とする口説きにして唄っていた。昭和38-39年頃、土地の茶山十六が柏野の宣伝臭の強い歌詞を作ったが、その時、口説きの歌詞を七七七五調26文字の甚句形式にしてしまった。本来、四句目が七字でなければならないから、アリャを補って字数を整え、囃し言葉もヨイコラショからドッコイセに替えた。節回しは中村晴悦が手を加え、今日の形に仕上げた。  
 
←(口説き唄) 
 
ハアここは加賀国柏の宿よ(ハアドッコイ)  
 昔ゃ宿場でその名も知れる(アードッコイセドッコイセー)  
ハア昔ゃ宿場でその名も知れる 今は踊りでその名も高い  
ハアあの娘じょんな娘じゃ わし見てわろた わしも見てやろ アリャわろてやろ  
ハア唄の村だよ柏野在所は 田植え草取り アリャ唄で取る 
「団七踊り」「娘仇討ち白石口説やんれ節」 (「柏野じょんがら」) 
    姉の宮城野薙刀(みやぎのなぎなた)持ちて 妹お信(のぶ)は陣鎌持ちて 
    右と左に身構え致す 中に立つのは志賀団七(しがだんしち)よ 
    二尺八寸の刀を持ちて そこで宮城野言葉をかけて 
    とても叶わぬ志賀団七よ 親の仇きぞ覚悟をしろと 
    言えば団七にっこと笑い 仇き呼ばわり小癪(こしゃく)な奴よ 
    返り討ちだぞ覚悟をしろと 言って団七刀を抜けば 
 
石川県松任市柏野地区(旧石川郡柏野村)に伝えられる「団七踊り」の音頭「娘仇討ち白石口説やんれ節」の一節である。樹齢数百年の欅(けやき)の大木がたちならぶ神社の境内にやぐらが組まれ、それをめぐって、幾重もの踊りの輪が出来る。津軽三味線に似た細かい撥さばきの三味線と、抑揚の少ない尺八、単調な太鼓が楽器のすべてだ。軽快さと悠長さをあわせもったような不思議な囃子にあわせて、甲高い音頭とりの歌がうたわれる。土地では、「柏野じょんがら」と呼んでいる。 
    そろたそろたよ踊り子がそろたそろた 踊り子が手をたたく 
    踊りゃしまらにゃ 若い衆のしょまじゃ たてておどらにゃ 娘のしょまじゃ 
これにあわせて四種類の踊りが同時に踊られる。「手踊り」「扇踊り」「笠松踊り」「団七踊り」がそれだ。「手踊り」は、いわゆる一般的な盆踊りである。浴衣に手ぬぐいのほほかむりをしたおもいおもいの服装で自由に踊る。ただ、未婚の娘たちだけが、赤い襦袢に黒繻子の帯を結び編み笠をかむったそろいの装束で列に加わり、踊り場に花をそえる。「扇踊り」は、若い衆の踊りである。浴衣の前に若の字を築けんたいめぬいた真紅の懸帯をつけ、二本の扇子をもって踊る闊達な踊りである。「笠松踊り」と「団七踊り」は、この踊りの輪の中にまじって踊られる仕組み踊りである。段物とも呼ばれている。「笠松踊り」は、二人で踊られる。奥州笠松峠にすんでいたという女賊鬼神のお松と、これに殺された父の仇きを討とうとする夏目仙太郎という武士のたちまわりが演ぜられる。 
「団七踊り」は、三人で踊られる。中央に旅網笠に紋付・袴・わらじばきの武士志賀団七が、二刀をふりかざし、右と左から手甲・脚絆に身を固めた巡礼姿の姉妹宮城野と信夫の二人が、それぞれ薙刀と鎖鎌をかざしてたちむかう。三人のたちまわりがいくつかの振りによって構成され、それが延々と続けられる。 
緩急渾然(かんきゅこんぜん)とした囃子と、甲高い音頭・歌と、そして四種類の踊りが、奇妙にまざりあって、不思議な興奮状態をかもしだす。人々は、踊りの輪の内と外にむしろをしいてすわり、次々と流れていく踊りに見とれながら、音頭の歌に恍惚として聞きほれるのである。 「団七踊り」の音頭として歌われる「娘仇討ち白石口説やんれ節」は、えんえん140節、全部をうたいあげるには数時間を要する。 
 
←(口説き唄) 
 
国は奥州白石郡(おうしゅうしらいしごうり) 坂田村(さかたむら)にて百姓の与太郎(よたろう) 
心正しき律儀(りちぎ)な者よ 与太郎女房をお小夜(さよ)と言うて 
二人みめよき娘がござる 姉はお宮よ妹はお信 
二人もろとも愛嬌者(あいきょうもの)で 器量(きりょう)よいこと人並みすぐれ 
殊(こと)に両親孝行(ふたおや)なさる 家内睦まじ繁盛(はんじよ)な暮らし 
奥州白石郡坂田村の百姓与太郎と女房のお小夜、それにお宮・お信の姉妹の四人は、貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。 
6月なかばのある日、与太郎と二人の娘たちは、うちそろって田の草取りをしていた。ところが、妹娘のお信が畦の小道へ投げ捨てた田の草が、折悪しくそこを通りかかった志賀団七という武士の足にあたってしまった。団七は、近郷近在の百姓たちから毛虫のように嫌われている悪役人である。かねて姉娘のお宮に恋慕して父与太郎から断わられ、遺恨に思っていた。与太郎は仰天して、笠をぬぎすてると畔道に手をついて、 
さても貴方と少しも知らず 無礼致した二人の娘 
どうぞ堪忍お許しなされ 
と死物狂いで許しを請うた。ところが団七は、 
おのれこあまに言い付けおいて わざと致した仕業であろう 
憎つくい奴らよ許しはせぬ 
と、腰の大刀を抜くよりはやく、いきなり与太郎を一刀のもとに切り殺してしまう。 
ととさん、のうととさん 
と取り残された母子三人は、与太郎の死骸にとりすがってただただ泣きくずれるばかりであった。かけつけた村人たちも、あまりのことにともども嘆き悲しむばかりでなすすべを知らない。と、庄屋太郎兵衛は、やがて心をとりなおし、 
これさお小夜や二人の娘 さぞや悲しく悔しくあろう 
いまにわれらに仇きを取らせ 恨み晴らしてくれようほどに 
心直し時節を待て 
と、かたい決意の上、母子をなぐさめるとともに、村人たちと相談した上、団七の仕業をくわしく書きしたためて、領主の所へ訴え出た。百姓たちからの訴えを聞いた領主は、大いに怒り、 
たとえ慮外を致したとても 国の宝の民百姓をば 
むざと手に掛け不届き者よ 殊によこしま非道を致し 
われが役目を権威にかけて 諸事をはからう大胆者よ 
とて、すぐに使者を遣わして団七に切腹を仰せつけた。この使いを受けると、団七はあわてて逃げ出し行方をくらましてしまう。泣く泣く葬式をすませ、四十九日の追善供養を営みおえると、巡礼姿に身をかためた母娘三人は、親類や村人たちのはげましに送られながら、仇討ちの旅にのぼる。路銀を使いはたした旅先の宿で母に死なれた後、さらに数々の苦労をなめた末、姉妹は、とうとう父の仇き志賀団七を討ちとる。 
さすが団七真陰流の その名聞こえし達人なれば 
すでに宮城野危うく見える そこで信夫は陣鎌持ちて 
鎖投げれば団七殿の 腕にからむを後へ引けば 
姉は突きこみききてを落とす そこで団七数所へ手疵 
とてもかなわぬ運命つきる 姉と妹は止めを刺して 
積もる思いの恨みも晴れて 本望遂げます二人の娘 
世にも稀なる仇討ちでござる 
 
これが、「娘仇討ち白石口説やんれ節」でうたわれる宮城野・信夫の仇討ち物語の概略である。 木版刷りの古びた音頭本に書きつづられた姉妹の仇討ち物語。百姓の娘姉妹が、武士に対して仇討ちをする、考えてみれば、不思議な話である。これはいったい何なのだろう。はたしてこんなことが本当にあったのだろうか。もしあったのだとしたら、遠い東北の地で起こった事件が、なぜ北陸の盆踊りの中で、歌い踊られるのであろうか。 
幾世代をかさねて歌い踊りつがれてきた「娘仇討ち白石口説」と「団七踊り」には、祖先たちのどんな想いがこめられているのであろうか。
「山中節」   
山中温泉の芸者たちが、お座敷唄として唄っていた。もとはこの地方の盆踊り唄で、米八などの名人が出て、今日の洗練された唄となった。山中温泉は、大聖寺川の左岸にあり、千二百年年ほど前、僧・行基が発見したという。初めは宿の中へ湯を引くことができず、湯座敷と呼ぶ共同風呂に、ユカタベーヤと呼ばれる小女が客を案内し、着物を持って外で待っていた。  
 
石川県と言えば加賀温泉郷。1200年も前に開かれた伝統ある温泉の山中温泉、そこに温泉情緒が漂う山中節がある。その昔、山中温泉のお客様の大半は附近の船頭さん達で古い唄に「山が赤なる木の葉が落ちるやがて船頭衆がござるやら」にもある通り、春から秋にかけて北海道附近に出稼ぎしていた船頭さん達は、冬が近づくと家に帰り一年の苦労を癒すため、この山中に来てゆっくり湯治をしたのである。この人達は山中に来れば少なくとも一週間、長い人は一ヶ月も滞在して湯に入り、身体を休めるのが何よりの楽しみだった。そこでのんびりした気持ちで出稼ぎ中に習い覚えた松前追分をお湯の中で唄っていた。それを外で聞いていた浴衣娘(ユカタベ)達が聞き惚れて山中訛でまねをしたため、何時とはなしにこうした唄となり、昔は“湯ざや節”とも言ったそうで、古く元禄の頃より唄っていたものだそうである。こうしてお湯の中から生まれた山中節こそは、生粋の温泉民謡なのである。 山中温泉の歴史は古く、通俗的な説には、1200年も前、有名な行基菩薩が開かれたとか、または、別の記録には700年くらい前、加賀の長谷部兵衛信蓮がこの辺りに鷹狩り来たとき、足を痛めた一羽の白鷺がこの辺りの谷間に湯気の立つ流れに足を付け、傷を癒しているのを見つけ、こ温かい泉の効力を考えて温泉町にしたとも言われている。 いずれにしても、古い伝統を持つ湯の町で、ここで生まれた湯の町らしい情緒豊かな調子を持った節回しに歌詞が誠に面白く、「山中は恐ろしいところ」とか「夜の夜中に獅子が出る」とか「獅子が髪結う」などと恐ろしいことを言ってその意味をねらっている。実際は獅子というのは、獣のししではなく、四四の十六で、十六の娘さんのことだの、島田や銀杏返しに結って客のサービスをする湯の町の女や芸者のことを指している。こうなると湯治客にとっては、夜中に出てくる獅子は、誠に嬉しい限りである。鉄砲を肩に山中で「獅子も撃たずに空戻り」などの文句も折角山中温泉で一つ良い娘を見つけようとしてきたが、残念ながら、なすことなさずにもどってしまったと、気の抜けた顔で期待を裏切られて帰る男客の様をよく描いている。このようにしてこの唄は、温泉に来る人々と相手の芸者がうたってきた唄である。また、湯煙から生まれたような、ゆっくりした唄あることから、北海道帰りの船頭が山中温泉で追分節を唄っているうちに、いつかできたとも言われている。  
 
/ (長持唄)  
←(追分節)  
 
ハアー わすれしゃんすな山中道を  
 東ゃ松山 西ゃ薬師 チョイ チョイ チョイ  
送りましょうか 送られましょうか せめて二天の橋迄も  
傘を忘れて二天の橋で 西が曇れば思い出す  
主のお傍とこおろぎ橋は 離れともない何時までも  
山が高うて山中見えぬ 山中恋しいや 山にくや  
薬師山から湯座屋をみれば ししが髪結うて 身をやつす  
とんで行きたやおの山中へ 思いかけたる ほととぎす    
 
ハアー 忘れしゃんすなー 山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師  
送りましょうか送られましょうか せめて二天の橋までも  
山が高うて山中見えぬ 山中恋し山にくや  
谷にゃ水音峰には嵐 あいの山中湯のにおい  
薬師山から湯座屋を見れば 獅子が髪結うて身をやつす  
薬師山から清水を見れば 獅子が水汲むほどのよさ  
桂清水で手拭きひろた これも山中湯の流れ  
桂地蔵さんにわしゃ恥ずかしい 別れ涙の顔見せた  
お前見染めた去年の五月  五月菖蒲(しょうぶ)の湯の中で  
飛んで行きたやこおろぎの茶屋 恋のかけ橋二人連れ  
谷にゃ水音峰には嵐 あいの山中湯の匂い  
浴衣肩にかけ戸板にもたれ 足でろの字をかくわいな  
山が赤なる木の葉が落ちる やがて船頭衆がござるやら  
笠を忘れて二天の橋で 西が曇れば思い出す  
恋のしがらみかわいやおつる  泣いて別れた二天橋
「加賀はいや節」  
石川県南部、石川郡白峰村の酒席の騒ぎ唄。地元では笠を持って踊るところから「笠踊りはいや」「白峰はいや」などと呼んでいた。昭和43年、金沢在住の中村晴悦が節回しに手を加え、曲名を白峰から加賀にして発表。早間の切れのよい踊りが人気を呼び、石川を代表する唄になった。九州天草牛深育ちの「ハイヤ節」は、北前船の船頭たちによって福井県の三国港に伝えられ、九頭竜川の川舟の船頭などが、内陸部の福井県大野市方面まで運んだ。それを大野市へ出稼ぎに行った白峰の人々が覚えて、故郷へ持ち帰ったもの。  
 
←「牛深ハイヤ節」 
 
ハイヤかわいや 今朝出た船はよ  アラヨイアラヨイ  
どこの港へソーレ 着いたらよ  アラヨイアラヨイ  
ここのかか様 朝起きゃ早いよ 表ひらいてソーレ 福を呼ぶよ  
来いと言伝て その行く夜さはよ 足のかるさはソーレ いつもよりよ  
三味や太鼓で 忘れるようなよ 浅い惚れよはソーレ せんがいよいよ  
「能登麦屋節」  
能登素麺(そうめん)は、輪島を中心として生産され、海路の敦賀から敦賀へ陸揚げ、さらに琵琶湖上 から大津を経て京都へ、そして公卿、僧呂、武士間の需要を充たしてきた。輪島素麺の生産は、400年以上も続き、様々な変遷を経ている。  
素麺は小麦を原料とし、これを生のまま臼に入れ、3人の娘たちが縦杵(きね)でリズミカルに搗(つ)いて粉にした。このリズムに唄い出された粉搗き唄が麦屋節である。この労働力は、輪島近郊の娘たちの筋力が頼りであった。娘たちは、それぞれ雇われ先の素麺屋のことを麦屋といった。麦屋では、粉を造る。ふるいにかける。こね鉢でこねる。これを細める。そして娘たちの軟かいな指先で細めながら乾燥して素麺ができあがる。元禄の頃から縦杵製粉から石臼製粉に変わってきた。これと同時に麦屋節は間伸びのある音律となり、アクセントも異なって物悲しい調子に変化していった。  
今日、七浦地区に残っている唄い方は、古い形のものである。越中五箇山に伝わる麦屋節は、元禄元禄以前のもので、間伸びの曲も三味の音に添えられ、引き締まった優れた曲となっている。現在の定説では、能登麦屋節が、越中の礪波平野を遡り、城端に入り、さらに五箇山へ入って、越中麦屋節、さらに飛騨白川に入って、白川輪島、になったものと考えられています。  
■ 
/ (粉搗き唄) 
→「越中麦屋節」「白川輪島」 
 
能登の七浦(しつら)でエエナ 竹切るイナー(チョイト)  
音はイナー三里聞こえてイナー(チョイト)  
五里サーイナー響くイヤー(アラチョイト五里響くヤイナー)  
 三里聞こえてイナー(チョイト)五里サーイナー響くヤー  
麦や小麦は 二年ではらむ 米やお六は 年ばらみ  
(アラチョイト年ばらみヤーイナ) 米はお六は 年ばらみ  
輪島麦屋は 七軒(ななやけ) 八軒(ややけ)  
(アラチョイト八軒ヤーイナ) 中の麦屋で 市が立つ  
竹の丸木橋ゃ滑って転んで危ないけれども 君となら渡る  
(アラチョイト君となら渡るヤーイナ) 落ちて死ぬとも 諸ともに  
 
能登の七浦で 竹切る イナ (チョイト)  
音はヤーイナ 三里きこえて イナ (チョイト)  
五里サヤー イナ ひびくやー  
アラチョイト 五里ひびくやーイナ  
三里きこえて イナ (チョイト)  
五里サヤー イナ ひびくやー  
麦や小麦はイナ 二年で イナ (チョイト)  
孕むヤーイナ 米屋お六は イナ (チョイト)  
年サヤー  イナ ばらみやー  
アラチョイト 年ばらみやーイナ  
米屋お六は イナ (チョイト)  
年サヤー イナ  
 
麦屋小麦はイナ 2年でイナ 腹はらむイナ 米はおろくでイナ  
年さやイナ ばらみや  
   能登の七浦でイナ 竹切るイナ 音サヤイナ 三里聞こえてイナ  
   五里サヤイナ 響くや  
竹の丸木橋や すべってころんで あぶないけれど 君となら  
渡るヤイナ 落ちて死ぬともイナ  
もろいサヤイナ ともにヤ アラチョイト もろともにヤイナ  
落ちて死ぬともイナ もろいサヤイナ  
(古謡)  
輪島み町の麦屋を(麦挽き)やめて いつか小伊勢の橋渡ろ  
輪島名所と連れては来たが 何が名所や麦挽きや  
麦は小麦2年で孕む 米はお禄で年ばらみ  
能登の志津良(七浦)で竹切る音は 三里聞こえて五里響く  
(富山県五箇山) 
(ジャーントコイ ジャーントコイ)  
麦や菜種はアイナー 2年でエイナー 刈るにゃーアイナー 麻が刈らりょか  
 アイナー 半土用にイナー (ジャーントコイ ジャーントコイ)  
心淋しや 落ちてゆく 道は 河の鳴る瀬と 鹿の声  
河の鳴る瀬に 絹機(きぬはた)たてて 波に織らせて岩に着しょ  
烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)脱ぎ打ち棄てて 今は越路の 杣(そま)刀  
(富山県五箇山・古謡) 
麦や菜種は2年で刈るが 麻が刈られうか半土用に  
浪の屋島をとく逃れて 薪樵るちょう深山辺に  
(岐阜県白川村・古謡) 
輪島出てから今年で4年 もとの輪島に帰りたい  
山と床とりや木の根が枕 落ちる木の葉が夜具となる 
「能登麦屋節」物語  
「能登麦屋節」 
輪島麦屋は 七軒(やけ)八軒(やけ)  
中の麦屋に 市が立つ  
輪島み町の 麦屋をやめて  
いつか小伊勢の 橋わたろ  
竹の丸木橋や すべってころんで  
危ないけれど 君となら渡る  
落ちて死ぬとも もろ共に  
能登麦屋節は、輪島素麺の生産に伴って生まれ育った粉挽歌です。  
「麦屋」という言葉は、素麺屋に雇われた娘達の間だけに通用した俗語で、素麺屋を指した言葉です。素麺造りは、生の小麦を臼に入れ、縦杵を使い挽いて、粉にします。手杵を持った3人の娘が、小麦の臼を囲んで、交互に挽く時に、この3本の間拍子に合わせて、麦屋節が歌い出されるようになりました。元禄年間、農家でも石の挽臼が手に入るようになり、粉挽き作業も一変しました。したがって、麦屋節も、石臼の差木の周りに合わせて歌い、歌い方も間延びした、哀感漂う歌に変わっていきました。  
麦屋の奉公人の中で、一際目立った美女がいました。  
彼女の名は、お小夜。  
お小夜の晩年は、悲劇に満ちたものでした。お小夜の悲劇は、彼女が麦屋での年季奉公を終えて、故郷に帰省したところから始まりました。  
寛文8年(西暦1668年)、お小夜は、能登国鳳至郡(現在の石川県輪島市)暮坂の農家で生まれました。お小夜が生きていた江戸時代、麦屋(素麺屋)における粉の挽き手は、輪島近郷の農家の娘達の労働力だけが頼りでした。お小夜は、成長すると、輪島の麦屋に年季奉公に出ました。お小夜は美貌と美声を兼ね備えたばかりか、歌も上手でした。  
過酷な労働の日々の中で習った麦屋節を、望郷の念を込めて、口ずさみました。  
輪島三町の麦挽きやめて いつか小伊勢の橋渡ろう  
望郷の念に明け暮れた歳月が過ぎ、年季奉公も明けて、故郷の暮坂に帰省しました。  
そんなお小夜を待ち構えていたのは、性根の曲がった商売人です。お小夜の美貌に目を付けた彼は、言葉巧みに彼女を誘惑しました。お小夜は遊女として、城下町金沢に売り飛ばされました。武士のお抱え女になった彼女は、無理矢理働かされました。元禄3年(1690)、風紀紊乱の罪を着せられた、金沢の遊女19人が、能登奥郡に流されました。ただ、お小夜だけは輪島出身だったので、越中国(現在の富山県)五箇山への流刑となりました。彼女はこの土地で、運命的な出会いを経験することになります。  
「お小夜節」 富山県民謡  
お小夜きりょうよし 声もよし   
峠細道 涙で越えて  
今は小原で わび住まい  
五箇の淋しさ 身にしみる  
庄の流れに 月夜の河鹿  
二人逢瀬の 女郎ヶ池  
五箇山に流されたお小夜は、小原の庄屋の家に預けられました。土地の人々は、お小夜を親切に持て成しました。お小夜は、当初、暗く沈んだ気持ちでいましたが、村人達に励まされ、元気を取り戻しました。彼女は、金沢時代に身に付けた芸を、惜しみなく披露しました。山里の若者達は、お小夜の芸達者ぶりに惹かれ、彼女に弟子入りを志願しました。お小夜は現地の若者達に、三味線や唄や踊りを伝授するようになりました。  
そのうちのひとり、隣村の吉間(きちま)と、お小夜は、師弟の枠を超えた、恋愛関係を結んでしまいました。しかし、お小夜は、いくら自由がきくと言っても、囚人という立場に変わりはありません。2人は人目を忍んで、池の辺で逢瀬を重ねました。その時が、お小夜にとって、至福の時でした。お小夜は吉間に抱かれた時、至上の温もりを感じました。その時だけ、厳しい現実を忘れることができました。  
夏真っ盛りの頃、お小夜は、子供を身ごもりました。(勿論、お腹の中の子供は、吉間の子であることは、改めて言うまでもありません。) このことが藩当局に知られたら、只では済まされなくなります。流刑人である自分は勿論の事、愛する吉間も同じ罪に問われることになります。今までお世話になった村人達にも、迷惑がかかります。お小夜は、色々と悩み抜いた末、全てを闇に葬るために、胎児と共に、庄川に身を投げました。元禄9年(1696)10月、お小夜は、29年の生涯を閉じました。  
お小夜が歌った麦屋節は、北陸地方の住民有志は勿論の事、全国各地の心ある人々によって、大切に歌い継がれています。  
「越中麦屋節」 富山県民謡  
屋島出るときや オイナー 涙でナー  
出たがヤーオイナー  
住めば都の オイナー 五箇の山 ナー  
心さびしや 落ちゆく道は  
河の成る瀬と 鹿の声 
「金沢なまり」  
金沢の茶屋街で「金沢なまり」というお座敷の歌が歌われている。これは古くから伝わる歌で、作詞、作曲者は不詳、東西の茶屋街で歌詞がちがっている。 
(にし茶屋街)  
金沢なまりは にゃーにゃ行ってらっし  
行ってこやいに おゆるっしゅ  
そうけそうけで ございみす  
あんやとあんやとヤァーヤ  
ついでにおばばに おゆるっしゅ  
もひとつおまけに へいろくな  
べやさ風呂行くまさんか さそうまさんか  
   金沢名物 友禅 兼六園に  
   つるべとられた 加賀の千代  
   そうけそうけで ございみす  
   西のお茶屋でヤァーヤ  
   ついでに犀川 浅野川  
   もひとつおまけに かぶら寿し  
   おあんさん香林坊へ 行くまはんか  
(ひがし茶屋街)  
金沢なまりは にゃーにゃ行ってらっし  
行ってこやいに おゆるっしゅ  
そうけそうけで ございみす  
あんやとあんやとヤァーヤ  
ついでにおばばに おゆるっしゅ  
もひとつおまけに へいろくな  
べやさ行くまさんか さそまさんか  
   金沢名物 加賀友禅  
   金箔漆器に 九谷焼  
   桐の工芸に 獅子頭  
   ごりとくるみの 佃煮に  
   お酒も色々 ありみっそ  
   も一つ自慢の 加賀料理  
   美人もちょっこり おりみっそ  
   まだまだたんと ございみす  
 
○ にゃーにゃ / 娘さん、奥さん  
○ 行ってらっし / 行ってらっしゃい  
○ おゆるっしゅ / よろしく  
○ そうけ / そうですか    
○ ございみす / ございます  
○ あんやと / ありがとう  
○ へいろくな / こっけいな  
○ べやさ / お手伝いさん  
○ まさんか / ませんか
 
 
 
 

北海道東北関東近畿中国四国九州 
山梨県静岡県長野県新潟県愛知県岐阜県石川県富山県福井県

富山県  

 

「越中おわら節」 
富山県富山市八尾地域で歌い継がれている民謡である。毎年多くの観光客が訪れるおわら風の盆では、この越中おわら節の旋律にのせて踊り手が踊りを披露する。  
この民謡の起源については諸説ある(「お笑い節」説、「大藁節」説、「小原村発祥説」など)。この唄はキーが高く息の長いことなどから、島根県出雲地方や熊本県天草市の「ハイヤ節」など、西日本の舟歌が源流になったものとの指摘があるが、長い年月を経るとともに洗練の度を高め、今日では日本の民謡のなかでも屈指の難曲とされている。  
明治30年代後半のレコード創成期以来、全国各地の俗謡が次々とレコードに吹き込まれるようになって、民謡の洗練化の動きは加速していった。同時に、各地で開催されるようになった民謡大会、さらにはその全国大会などによって、それまで一地方の俗謡にすぎなかった曲が、全国的に知られるようになっていった。おわら節も大正2年に初めてレコードに吹き込まれ、民謡大会でもよく知られる民謡となった。  
さらに、今日のおわら節が完成されていく過程で、さまざまな唄い手の名手がいたことを忘れてはならない。なかでも、「江尻調」といわれる今日のおわら節の節回しを完成した江尻豊治の功績は計り知れない。天性の美声、浄瑠璃仕込みの豊かな感情表現。おわら節の上の句と下の句をそれぞれ一息で歌い切る唱法は、江尻によって完成の域に高められたのである。  
 
富山市八尾(やつお)地域で歌われる民謡。江戸時代から伝わり、大正から昭和にかけて洗練された。伴奏に胡弓(こきゅう)が用いられる全国でも珍しい部類の民謡。富山県富山市生まれの作曲家・岩河三郎の編曲により合唱曲 「越中おわら」としても親しまれている。毎年9月に八尾で行われる盆踊り「おわら風の盆」では、この「越中おわら節」にのせて男女の踊り手たちが町内を練り歩き、毎年多くの観光客が訪れる。  
「おわら」の意味・由来については諸説あり、「お笑い」から転じたとする説、豊作を願う「大藁(おおわら)」とする説、八尾近郊の小原村(桐谷地区)の娘による歌から広まったとする説などあるが、確たる通説はないようだ。よく似た曲名の民謡として、青森県・津軽小原節、秋田小原節、鹿児島おはら節などがあるが、 「越中おわら節」との関連は不明。  
「越中おわら節」の歌詞は、7、7、7、5の26文字から構成される伝統的な甚句(じんく)スタイルを基本とする。数千にも及ぶ様々な創作歌詞が存在するが、まずは押さえておきたい代表的な甚句として、八尾の春夏秋冬を読んだ4首「八尾四季」をご紹介しよう。  
   揺らぐ吊り橋 手に手を取りて 渡る井田川 オワラ 春の風  
   富山あたりか あのともしびは 飛んでいきたや オワラ 灯とり虫  
   八尾坂道 別れてくれば 露か時雨(しぐれ)か オワラ ハラハラと  
   もしや来るかと 窓押し開けて 見れば立山 オワラ 雪ばかり  
合いの手(囃子言葉)について / 歌う際には、決まった合いの手・囃子言葉(はやしことば)が用いられる。まず歌い出しには、「唄われよ(歌われよ)、わしゃ囃す(はやす)」と伴奏者らによって囃子言葉が入る。歌い手の歌い出しのタイミングを整える役割も果たしているのだろう。次に、歌詞(甚句)の上の句と下の句の間に「キタサノサ ドッコイサノサ(サッサ)」の囃子言葉が入る。「八尾四季」の歌詞で言えば、「揺らぐ吊り橋 手に手を取りて」の後に「キタサノサ ドッコイサノサ」と入る。  
■ 
北陸は富山県(越中国)富山市八尾町(旧婦負郡八尾町)で歌い継がれている民謡。 
民謡の起源については諸説ある(「お笑い節」説「大藁節」説「小原村発祥説」など)。唄はキーが高く息の長いことなどから、島根県出雲地方や熊本県牛深市の「ハイヤ節」など、西日本の舟歌が源流になったものとの指摘があるが、長い年月を経るとともに洗練の度を高め、今日では日本の民謡のなかでも屈指の難曲とされている。明治30年代後半のレコード創成期以来、全国各地の俗謡が次々とレコードに吹き込まれるようになって、民謡の洗練化の動きは加速していった。同時に、各地で開催されるようになった民謡大会、さらにはその全国大会などによって、それまで一地方の俗謡にすぎなかった曲が、全国的に知られるようになっていった。おわら節も大正2年初めてレコードに吹き込まれ、民謡大会でもよく知られる民謡となった。さらに、今日のおわら節が完成されていく過程で、さまざまな唄い手の名手がいたことを忘れてはならない。なかでも、「江尻調」といわれる今日のおわら節の節回しを完成した江尻豊治(1890-1958)の功績は計り知れない。天性の美声、浄瑠璃仕込みの豊かな感情表現。おわら節の上の句と下の句をそれぞれ一息で歌い切る唱法は、江尻によって完成の域に高められた。 
おわらの歌詞 
歌詞の基本は、7、7、7、5の26文字で構成する甚句形式であること、最後の5文字の前に「オワラ」を入れることである。 
唄は26文字で構成される「正調おわら」(「平唄」ともいう)が基本だが、これ以外に、頭に5文字を加える「五文字冠り」、途中字句を余らせて、最後を5文字で結ぶ「字余り」があって、それを歌いこなす地方の唄い手にもかなりの技量を要する。 
これまで作成された歌詞は、大別すると、「おわら古謡」と「新作おわら」がある。おわら古謡は古くから伝わるもので、新作おわらは、野口雨情、佐藤惣之助、水田竹圃(~1958)、高浜虚子、長谷川伸、小杉放庵、小川千甕(~1971)、林秋路(~1973)ら、八尾を訪れた文人たちによって新しく作られたものである。 
また、これまで途中休止期間はあったものの、保存会では毎年おわら風の盆を前に「越中おわら新歌詞」を募集し、入選・佳作などを選んできたが、応募数が少なくなったため、2009年(平成21年)で休止する事になった[3]。 
その新作おわらについては、1928年(昭和3年)八尾を訪れた画家・小杉放庵がおわら節を聴いて思うところがあり、みずから作ったのが「八尾四季」で、これ以後、新しく作られたものを新作おわらとしている。なお、この八尾四季に振り付けをしたのが舞踏家・若柳吉三郎で、これが「新踊り」(後述)となっている。 
伴奏 
町流しでの唄い手(中列)と地方(左右列)おわら節の唄い手とともに、地方(じかた)としておわら風の盆の雰囲気を作り上げるのが、三味線、胡弓、太鼓の伴奏である。とくに胡弓が入るのは民謡ではややめずらしく、またこの楽器が悲しげな、むせぶような響きを加えることで、この民謡に独特の味わいをもたらしている。 
胡弓がおわら節に導入されたのは、明治40年代、松本勘玄によってである。また、当時八尾あたりまでを門付のエリアとしていた越後瞽女(ごぜ)の影響ではないかとも言われている。 
おわら踊り 
来歴 / かつてのおわら踊りがどのようなものであったかを伝える史料は少ないが、天保年間に活躍した浮世絵師・鈴木道栄が丸山焼の下絵として描いた絵図が残っている。そこでは満月を仰いで踊る5人の女性が描かれている。 
おわら風の盆の町流しの原型といわれる「町練り」については、もう少し以前にさかのぼり、元禄年間、町外に流出していた「町建御墨付文書」を町衆が取り戻したことを喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来するという(「越中婦負郡志」)。 
そのころは阿波踊り同様、おもしろおかしく踊っていたらしい(そのことから、阿波踊りと何らかの交流があったとする説もある)。後に、品格を高める、ということから現在の、おわら節を使うようになった、という説がある。 
豊年踊りと新踊り / おわらの踊りは「豊年踊り(旧踊り)」と「新踊り」に大別される。 
豊年踊りの所作は農作業をしている所を表した踊りで、老若男女を問わず、誰にとっても楽しむことのできる踊りである。市が観光客向けに行う「おわら講習会」や、富山県内の学校の運動会などで踊られているのも、この豊年踊りである。豊年踊りには唄と唄との間に踊る素踊りと、唄の上の句に入れる宙返り、下の句に入れる稲刈りの所作がある。ただし素踊りのみで踊ることもある。次に述べる新踊りが後に振付けられて「新踊り」と称されたことから、こちらの豊年踊りは「旧踊り」と呼ばれるようになっている。 
新踊りはさらに「男踊り(かかし踊り)」と「女踊り(四季踊り)」に分かれる。男踊りの所作は農作業を表現しており、所作の振りを大きく、勇猛に躍り、女踊りの所作は蛍狩りを表現しており、艶っぽく、上品に踊るのが良いとされる。その両者とも、新踊りは昭和初期に日本舞踊家・若柳吉三郎によって振付けられた、主に舞台演技用の踊りである。もともと女踊り(四季踊り)にだけ唄に合わせた四季の所作が入っていたが、近年では男女混合で踊るときに、ペアを組んで妖艶な所作を入れたりもしている。なお、この所作は八尾の各町内ごとにいろいろと改良工夫がなされており、おわら踊りの特徴の一つとなっている。 
衣装 / 法被姿の男性踊り手踊り手の衣装のデザインや色は、各町によって大きく異なるが、男性・女性ともに、編笠を深く被るのが特徴である。このように顔を隠すようにして編笠を被るのは、かつて手ぬぐいで顔を隠して踊っていたことの名残りである。 
男性の踊り手は股引に法被姿、女性の踊り手と地方は浴衣姿である。なお、これらの衣装はたいへん高価な素材で作られているため、雨天の場合、おわら風の盆の諸行事は中止となる。 
男性の踊り手が着て踊る半天(法被)は農作業着を模している。これは木綿ではなく絹の羽二重で作られており、各町それぞれ意匠を凝らした模様と背中には各町の紋章が入っている。帯は西新町以外は角帯である。 
女性の踊り手が着て踊る浴衣は、胴まわりや袖の部分に、おわら節の歌詞が染め抜かれている。ただし、東町・鏡町の女性の浴衣には歌詞は染められていない。 
女性の踊り手の衣装でひと際目立つ黒帯は、「お太鼓」に結ばれており、艶やかで大人びた印象を与える。この黒帯の由来については、かつてどの家庭にも冠婚葬祭用の黒帯があったので、踊り手たちが用意しやすかった、と伝えられている。なお、東町の女性の踊り手のみ、黒ではなく金銀の市松模様の帯を用いる。また、諏訪町と東新町以外では、黒帯(および東町の金銀の帯)に赤い帯〆をする。 
女性の踊り手の衣装は、各町年齢によって色やデザインが違う。 
小学生以下の踊り手は編笠はかぶらず、男の子は年長者と同様の法被姿だが、女の子は揃いの浴衣ではなく、各家庭で用意した普通の浴衣を着ている。ただし、東新町の小学生女子のみは、早乙女姿の浴衣に黒帯、黄色の帯〆という衣装で統一している。 
なお、おわら風の盆の浴衣姿は、同じく編笠をかぶる阿波踊りの衣装と似ているようにも捉えられがちであるが、阿波踊りのように手甲や見せるための蹴出しをつけることはなく、編笠と足袋を履く以外は基本的に普通の浴衣姿であり、履き物も下駄ではなく草履である。 
地方(じかた)は公式行事中(午後11時まで)は町内毎に決まった浴衣・草履姿だが、それ以降多くは各自思い思いの着流しに着替え、草履を履き町流しに出る。 
 
越中おわら節の本場は、300年余の歴史をもつ婦負郡八尾町である。 
その起源については、糸くり唄や海唄などの諸説があり、いずれとも定め難い。口伝として、元禄15年(1702)、八尾町の開祖米屋少兵衛の子孫が保管していた町建ての重要秘密文書の返済を得た喜びの祝いとして、3日間、唄、舞、音曲で町内を練り歩いたのが始まりとされ、この祭日3日が盂蘭盆(うらぼん)3日になり、やがて、二百十日の厄日に豊饒を祈る「風の盆」に変わったといわれている。 
唄は、叙情豊かで気品が高く、哀調の中に優雅さを秘めた詩的な曲調である。歌詞も美しく、胡弓の響きが旋律をひき立たせている。楽器は、三味線、胡弓、太鼓で演奏される。 
越中おわらの歴史的背景 
「糸くり唄」と関連づけられてきた「越中おわら」は、従来八尾町の孟蘭盆(うらぼん・7月)行事として「川崎おどり」の名で実施されてきた。元禄15年頃秋風盆に改めたと伝えられ、その後、町の芸達者の宮腰半四郎とその仲間たちが「大笑ひ節」と改作した。歌中に「おわらひ」との言葉を入れて大衆的なものとし、現在の風の盆の様式(9月当初3日間)とし、嘉永・安政の頃から「おわらひ」の「ひ」の字をとって、豊年満作を祈念する行事として、養蚕の町の「糸くり唄」として唄われ伝承されたとされる。元唄は、淫猥な文句が多く、歌も踊りも明治初年に致るまで度々禁止されるに及んで、一時は滅亡の危機に陥ったのだが、町の識者たちの肝入りで、東都より大槻如電翁を招き、新作歌詞を創り行事を復興させたと伝えられている。 
ところで「越中おわら」の名の由来だが僻(へき)地の小原村の名をとったとか、大笑ひ節の「ひ」の字をとって「おわら」としたとかの説がある。私は後者が正しいのでないかと思っているが、真偽の程はわからない。「越中おわら」を調べて気になるのは、文献にある「川崎おどり」「大笑ひ節」がいかなるものか、五箇山平村上梨で唄われたという「五箇山おわら」がどんな形態のものか、伝承する人も、その資料(曲譜)がどんなものか調べることが出来ず、残念至極である。 
「越中おわら」を他民謡と比較して考えると、従来「糸くり唄」との関連で考えられていた「越中おわら」は現在の唄と違って、平易で素朴な唄でなかったかと思われるのである。その理由は、当時富山湾には北前船の往来があり、他国の漁夫や商人が、日本海沿岸の漁港に立寄る機会も多くなり、土地の人たちとの交流が深まるにつれ、漁夫が唄った酒盛唄の「ハイヤ節」が影響を与え、改良され、あの高い唄いだしの「越中おわら」のモデルとなったとも考えられるのである。 
「越中おわら」のように、高音から唄いだされる民謡は、日本海側には出雲地方の「安来節」より例がなく、甲高い調子とその唄い方は「ハイヤ節系」でないかとする町田佳声説を私は支持するし、賛成する1人である。私は、それ故「越中おわら」は、糸くり唄とは関連なしと思っている。 
「越中おわら」の技巧的表現は、5文字冠り、字あまり、とされ、主歌と主歌の間に囃子として、次の句を挿入する場合もある。「越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ」(この種の囃子多々あり)と。現在唄われる「越中おわら」の曲節は、町の美声の持ち主だった故江尻豊治氏が完成定着させたもので、民謡界から高い評価を得ている。なお「越中おわら」が今日の隆昌を築いたかげには、故川崎順治、橋爪辰男両氏の好意ある援助のあったことを忘れてはならない。 
先にも触れたが、「越中おわら」が「ハイヤ節系」の唄だとすると、当時富山湾を航行した北前船が、各地の漁夫商人をともない能登七尾輪島を中心に、富山湾にそそぐ諸河川をさかのぼり、物資の交易事業に従事するかたわら、土地の人たちとの交流を深めた結果の所産とも思えるのであるが、「越中おわら」にしても、神通川、井田川をさかのぼり、商魂逞(たくま)しい人たちが、養蚕の町の八尾人が唄う素朴な「越中おわら」の原形と宥和(ゆうわ)定着させ、県が誇る「越中おわら」の完成へ役立ったのでないかと推測出来るのである。  
 
「おわら」は、ニ百十日の厄日の台風を払い鎮め、五穀豊穣を願う祭りです。語源については諸説ありますが、「おおわらい(大笑い)」の語が「おわら」に変わったという「お笑い節説」があります。文化年間、庶民生活の実態をダイレクトに唄った歌詞に改めた際、新しい詞の間に「おおわらい(大笑い)」の言葉を挟んで踊ったという説です。また、「大藁」の語が「おわら」に変化したという「大藁節説」もあります。この「大藁」とは、藁の束が成長する、すなわち豊作を祈願した言葉です。   
 
文化9年(1812)の秋、遊芸の達人たちが滑稽な変装をして新作の謡を唄いながら町練りを行い、謡のなかに、”おわらひ”という語をさし挟んで唄ったのが”おわら”に変わったという「お笑い節説」、豊年を祈り、藁の束が大きくなるようにとの思いから”大藁”が転じて”おわら”になったとの「大藁節説」、八尾近在の”小原村”出身の娘が女中奉公中に得意の美声で唄った子守歌が起源だとする「小原村説」等が語源とされています。  
 
←「牛深ハイヤ節」 (諸説「お笑い節」「大藁節」「小原村発祥説」)
 
歌われよーわしゃ囃す 
八尾よいとこ おわらの本場 キタサノサードッコイサノサ 
二百十日を オワラ 出て踊る 
来たる春風 氷が解ける うれしや気ままに 開く梅 
私ゃあなたに あげたいものは 金の成る木と 卵酒 
虎は千里の藪さえ越すに 障子一重が ままならぬ 
仇や愚かで 添われるならば 神にご苦労は かけやせぬ 
恋の病も なおしてくれる 粋な富山の 薬売り 
そっと打たんせ 踊りの太鼓 米の成る木の 花が散る 
見たさ逢いたさ 思いが募る 恋の八尾は 雪の中 
狭いようでも 広いは袂 海山書いたる 文の宿 
話するなら 小松原の下で 松の葉の様に こまごまと 
おわら踊りの 笠着てござれ 忍ぶ夜道は 月明かり 
お風邪召すなと 耳まで着せて 聞かせともなや 明けの鐘 
待てど出てこず 出る時ゃ会えず ほんにしんきな 蜃気楼 
蛍こいこい 八尾の盆に 夜の流しの 道照らせ 
鳴くなこおろぎ 淋しゅうてならぬ お前一人の 秋じゃなし 
私ゃ野山の 兎じゃないが 月夜月夜に 会いにくる 
手っ甲脚絆に 紅緒の襷 可愛いやな早乙女 風の盆 
唄で濡れたか 夜露を着鬢がほつれた 風の盆 
唄で知られた 八尾の町は 盆が二度来る 風の盆 
唄の町だよ 八尾の町は 唄で糸取る 桑も摘む 
花や紅葉は 時節で色む 私ゃ常盤の 松の色 
花も実もない 枯木の枝に とまる鳥こそ しんの鳥 
軒端雀が また来て覗く 今日も糸引きゃ 手につかぬ 
白歯染めさせ 又落とさせて わしが思いを 二度させた 
私ゃ朝顔 朝寝の人に 丸い笑顔は 見せやせぬ 
あなた今着て 早お帰りか 浅黄染めとは 藍足らぬ 
八尾おわらを しみじみ聞けば むかし山風 草の声 
鹿が鳴こうが 紅葉が散ろうが 私ゃあなたに 秋がない 
城ヶ島から 礫を投げた 恋の思案の 紙礫 
城ヶ島から 白帆が見える 白帆かくれて 松の風 
城ヶ島から 白帆が見える 二つ三つ四つ 有磯海 
お前来るかと 待たせておいて どこへそれたか 夏の雨 
来るか来るかと 待たせておいて 何処へそれたか 夏の雨 
八尾よいとこ 蚕の都 秋は野山も 唐錦 
八尾八尾と 皆行きたがる おわらよいとこ 唄の里 
烏勘三郎の 嫁さの供は 柿の提灯 下げてきた 
可愛い鳥だよ つぐみの鳥は 柿をつついて 紅つけた 
月が隠れりゃ また手をつなぐ 揺れる釣橋 恋の橋 
月は満月 夜はよいけれど 主に逢わなきゃ 真の闇 
月に焦がれる すすきの花は 枯れてしおれて また招く 
雪の立山 ほのぼの開けて 越の野山は 花盛り 
磨け磨けど ねは鉄のよう ついと浮気の 錆が出る 
針の穴から 浮名がもれる 逢うて逢われぬ 人の口 
粋な小唄で 桑摘む主の お顔見たさに 回り道 
別れが辛いと 小声で言えば しめる博多の 帯がなく 
仇な色香に 迷いはせねど 実と情けにゃ つい迷う 
瀬戸の桐山 烏のお宿 桐の枯葉を 着て泊まる 
古謡 
あいや可愛いや いつ来て見ても たすき投げやる 暇がない 
たすき投げやる 暇あるけれど あなた忘れる 暇がない 
調子替わりは いつでもよいが 心変りは いつも嫌 
姉ま何升目 三升目の釜 後の四升目で 日が暮れる 
姉まどこへ行く 三升樽下げて 嫁の在所へ 孫抱きに 
姉まどこへ行く 餅草摘みに 俺も行きたや びく下げて 
殿まと旅すりゃ 月日を忘れ 鶯鳴くそな 春じゃそな  
あなた百まで わしゃ九十九まで 共に白髪の 生えるまで 
おらっちゃ姉まの 山行き帰り 桐山焼き餅 三つ貰うた 
二百十日に 風さえ吹かにゃ 早稲の米喰うて 踊ります 
山へ登れば 茨が止める 茨離しゃれ 日が暮れる 
お前一人か 連衆はないか 連衆ぁ後から 駕籠で来る 
ホッと溜息 小枠を眺め こうも糸嵩 ないものか 
盆が近うなりゃ 紺屋へ急ぐ 盆の帷子 白で着しょう 
唄うて通るに なぜ出て会わぬ 常に聞く声 忘れたか 
常に聞く声 忘れはせねど 親の前では 籠の鳥 
咲いた桜に なぜ駒つなぐ 駒が勇めば 花が散る 
竹に雀は 品よくとまる とめてとまらぬ 恋の道 
向こう小坂の 仔牛を見れば 親も黒けりゃ 子も黒い 
飲めや大黒 踊れや恵比寿 亀の座敷に 鶴の声 
八尾四季 
揺らぐ吊り橋 手に手を取りて 渡る井田川 春の風 
富山あたりか あの灯火は 飛んでいきたや 灯とり虫 
八尾坂道 別れてくれば 露か時雨か ハラハラと 
もしや来るかと 窓押し開けて 見れば立山 雪ばかり 
鏡四季 
恋の礫か 窓打つ霰 明けりゃ身に染む 夜半の風 
積もる思いも 角間の雪よ 解けて嬉しい 梅の花 
主の心は あの釣橋よ 人に押されて ゆらゆらと 
八尾坂道 降り積む雪も 解けて流れる おわら節 
五文字冠り 
雁金の 翼欲しいや 海山越えて 私ゃ逢いたい 人がある 
桜山 桜咲さねば ありゃただの山 人は実がなきゃ ただの人 
菊水の 花は枯れても 香りは残る 清き流れの 湊川 
滝の水 岩に打たれて 一度は切れて 流れ行く末 また一つ 
隅田川 清き流れの 私の心 濁らすもそなたの 胸の中 
ポンと出た 別荘山から 出た出た月が おわら踊りに 浮かれ出た 
色に咲く あやめ切ろうとて 袂をくわえ 文を落とすな 水の上 
奥山の 滝に打たれて あの岩の穴 いつほれたともなく 深くなる 
白金の ひかり波立つ 海原遠く 里は黄金の 稲の波 
枯芝に 止まる蝶々は ありゃ二心 他に青葉を 持ちながら 
朝顔に 釣瓶とられて わしゃ貰い水 どうしてこの手を 放さりょか 
月の出の 坂を抜け行く 涼風夜風 盆が近いと 言うて吹く 
逢えば泣く逢わにゃなお泣く泣かせる人に何で泣くほど逢いたかろ 
色に咲く 菖蒲切ろうとて 袂をくわえ 文を落とすな 水の上 
長閑なる 春の夜道に 手を引き合うて 主に心を つくづくし 
露冴えて 野辺の千草に 色持つ頃は 月も焦がれて 夜を更かす 
十五夜のお月様でも あてにはならぬ 四五日逢わなきゃ角が立つ 
奥山の 一人米搗く あの水車 誰を待つやら くるくると 
久々で 逢うて嬉しや 別れの辛さ 逢うて別れが なけりゃよい 
ほのぼのと 磯に映りし あのお月様 深い仲だが とまりゃせん 
花咲いて 幾度眺めた あの海山の 色に迷わぬ 人はない 
元旦に 鶴の声する あの井戸の音 亀に組み込む 若の水 
諏訪様の 宮の立石 主かと思うて ものも言わずに 抱きついた 
唐傘の 骨はちらばら 紙はがれても 離れまいとの 千鳥がけ 
今返し 道の半丁も 行かない内に こうも逢いたく なるものか 
今しばし 闇を忍べよ 山ほととぎす 月の出るのを 楽しみに 
三味線の 一の糸から 二の糸かけて 三の糸から 唄が出る 
字余り 
梅干しの 種じゃからとて いやしましゃんすな 昔は花よ 鴬とめて鳴かせた こともある 
竹になりたや 茶の湯 座敷の柄杓の 柄の竹に 
いとし殿御に 持たれて汲まれて 一口 飲まれたや 
這えば立て 立てば歩めと育てたる 二親様を 忘れて殿御に 命がけ 
二間梯子を 一丁二丁三丁四丁五六丁掛けても 届かぬ主は 
どうせ天の星じゃと あきらめた 
綾錦 綸子 羽二重 塩瀬 縮緬 郡内緞子の重ね着よりも 
辛苦に仕上げたる 固い手織りの木綿は 末のため 
ふくら雀に 文ことづけて 道で落とすな 開いてみるな 可愛い殿御の 手に渡せ 
三十六 十八 三十八 二十四の 恋しい主と 共に前厄 案じます 
青海の波に浮かべし宝船には ありとあらゆる宝を積んで 
恵比寿 大黒 布袋に 毘沙門 弁天 寿老人 福禄寿 
硯引き寄せ 巻紙手に取り 細筆くわえてさてその次は 
どうしてどう書きゃ真実誠が届いていつまたどう返事が 来るのやら 
三越路の 中の越路で見せたいものは 黒部 立山 蜃気楼 
蛍烏賊 余所で聴けないものは 本場八尾のおわらの 節のあや 
常願寺 神通 片貝 黒部 早月 庄川 小矢部の 七つの川は 
ほんに電気の王国 お米の産地でその名も高い 富山県 
櫓太鼓の音に目覚まし 小首をかしげ 今日はどの手で 
スッテンコロリの ヨイヤさと投げるやら 投げられるやら 
ままになるなら 京の三十三間堂の 仏の数ほど手代や番頭を  
たくさんおいて そして三万三千三百三十三軒ほど 支店を設けて 暮らしたや 
竹の切り口 シコタンコタンや なみなみチョンボリ 
ちょいとたまり水 澄まず濁らず 出ず入らず 
橋になりたや 京で名高き 一条二条三条四条の次なる 
五条の橋に 牛若さんのよな 不思議な殿御を連れ行き 花見に 通わせる 
熊谷さんと敦盛さんと 組み討ちなされしところは何処よと 
尋ねてみたら 十(とお)九の八七六五の四の三の二の 一の谷 
いろにほへと ちりぬるを わかよたれそつねつねならむ 
うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせすん 
西新町(しんにゃしき)東新町(ひがししん)諏訪町 
上新町(かみしん)鏡町(しんだち)西町 東町 調子合わせて 
今町(なかまち)下新町(したまち)天満町(こくぼ) 
福島で 夜が明けた 
長ばやし 
越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山 三国一だよ 
春風吹こうが 秋風吹こうが おわらの恋風 身についてならない 
二百十日に 夜風邪をひいたやら 毎晩おわらの 夢見てならない 
あんたもそうなら 私もそうだよ 互いにそうなら 添わなきゃなるまい 
来たよで来ぬよで 面影立つそで 出て見りゃ風だよ 笹の葉にだまされた 
きたさで飲んだ酒ゃ まだ酔いが醒めない 醒めないはずだよ あの娘の酌だもの 
五箇山育ちの 百巻熊でも 木の実がなければ 八尾へ出てくる 
千世界の 松の木ゃ枯れても あんたと添わなきゃ 娑婆へ出た甲斐がない 
三味線が出を弾きゃ 太鼓がドンと鳴る 手拍子揃えて おわらにしょまいかいね 
手打ちにされても 八尾の蕎麦だよ ちょっとやそっとで なかなか切れない 
八尾よいとこ おわらの出たとこ 蕎麦は名物 良い紙たんと出る 
見送りましょうか 峠の茶屋まで 人目がなければ あなたの部屋まで 
おわらのご先生は あんたのことかいね その声聞かせて 私をどうする 
一人で差すときゃ 野暮だが番傘 二人で差すときゃ 蛇の目の唐傘 
しょまいかいね しょまいかいね 一服しょまいかいね  
一服してからそれからまたやろかいね 
雪の立山 ほのぼの夜明けだ 里は黄金の 稲穂の波立つ 
加賀では山中 佐渡ではおけさだ 越中のおわらは 実りの唄だよ 
駒形茂兵衛さん おわらで迷うたか 恋しやお蔦さんに 会いとうてならない 
提げても軽そな 蛍の提灯 石屋の引っ越しゃ 重くて嫌だよ 
じいさんばあさん おわらに出よまいか 今年も豊年 穂に穂が下がるよ 
茶釜と茶袋は よい仲なれども 仲に立つ柄杓が 水さいてならない 
瓢箪ブラブラ 糸瓜もブラブラ ブラブラしとれど 落ちそで落ちない 
どんどと流れる 水道の水でも いつかは世に出て 主さんの飯(まま)となる 
来られた来られた ようこそ来られた 来られたけれども わがままならない 
来られた来られた ようこそ来られた 来られぬ中から ようこそ来られた 
権兵衛が種蒔きゃ 烏がほじくる 三度に一度は 追わねばなるまい 
南蛮鉄のような 豪傑さんでも あんたにかけては 青菜に塩だよ 
七合と三合は どこでも一升だよ 一升と定まりゃ 五升枡はいらない 
焼けます焼けます 三百度の高熱(たかねつ) その熱冷ますにゃ 主さんに限るよ 
見捨てちゃ嫌だよ 助けておくれよ 貴方と添わなきゃ 娑婆に出た甲斐がない 
浮いたか瓢箪 軽そうに流れる 行く先ゃ知らねど あの身になりたや
「おわら風の盆」  
始まり  
八尾町の開祖・米屋少兵衛は、御収納銀請負を業としていました。定められた時期までに藩への御収納銀を収めることができない者には立て替えてやり、後日に利子を付けて取り立てるという業でした。だんだん貸し倒れが多くなり、四代目少兵衛の時には御収納銀請負業が困難になり、野積の水口村へ移ってしまいました。米屋少兵衛が加賀藩三代藩主・前田利常(1593-1658)から拝領した、八尾「町建て」の書類なども、すべて持っていきました。  
それから数十年後、八尾町役人から水口村の米屋へ「町建て」の書類の返済を求めましたが、貸していた金を返してくれるなら返すとして、返してもらえませんでした。そこで八尾町役人らは、1702(元禄15)年3月、花見だとして多くの酒肴と芸人を伴って水口村の米屋を訪ね、座敷を借りると大酒宴を開きました。宴に人の目を集めている間に、米屋の様子を知っている者に土蔵から「町建て」の書類を探し出させると、そのまま密かに持ち帰りました。  
その後、数日を経て八尾町役所から、「町建て」の書類を取り戻した祝いに、3月16日の例祭日を中日として三日間、歌舞音曲はもとより、いかなる賑わい事も咎めないから、面白く町内を練り回れという触れが出されました。八尾町の老若男女が浄瑠璃・仁和加・仮装行列など、三味線・太鼓・胡弓・尺八などの楽器で、3日間昼夜の別なく町内を練り回りました。  
それまでは7月の盂蘭盆の三日間は川崎踊りで賑わっていたのですが、この年から川崎踊りをやめ、3月に行ったような三味線・太鼓などで町内を練り回るようになりました。廻り盆です。  
富山藩が盆の三日間に町練りを許した背景には、無視することのできなくなった八尾町の財力があったように思います。  
八尾町内を練り回るのは1702(元禄15)年から始まり、全盛を極めたのは天保(1830年〜)の頃から明治(1868年〜)の初めまでだったようです。1874(明治7)年頃には、変装をして昼夜町内を騒ぎ回るのは風俗壊乱・安眠妨害だとして、警察から差し止められるようになり、回らないようになりました。  
八尾村と桐山村とで町建てを考えた少兵衛は、加賀藩の元勘定奉行・佐々木左近の助力を得て、桐山村の肝煎りの佐五右衛門との間で、両肝煎り家の息子と娘との婚儀を成立させ、八尾町建てへの下地をつくりました。1636(寛永13)年2月晦日には、加賀藩より町建許可が下り、少兵衛が八尾町肝煎り・町年寄となり、八尾町が成立しました。  
「おわら」の意味  
1812(文化9)年の秋、遊芸の宮腰屋半四郎・茶屋新助・石戸屋源右衛門らが、滑稽な風体で、歌に「おわらひ」という言葉を挟みながら、町練りを行いました。その後。「おわらひ」が省略されて「おわら」に変わったという、「おわらい」(お笑い)説があります。また、「おわら」の語源は、豊年を意味する「大藁」(おおわら)という説もあります。藁も大きくなり、稲もよく実ったというのです。歌の合間に「おわら」「おはら」という囃子句を入れる民謡は、青森県津軽の「小原節」、島根県隠岐島の「おわら節」、鹿児島県の「小原節」など、各地にあります。  
「風の盆」  
暴風を吹かせて農作物に災厄をもたらす悪霊を、「二百十日」に歌や踊りで鎮める行事というのが通説のようです。けれども、八尾町は風の被害がなく、養蚕や紙などの交易で栄えた商人と職人の町で、農作物に依存する割合は大きくありませんでした。二百十日の風害の厄を除き、豊作を願うというのは、風俗壊乱として警察から取り締まりの対象とされていた経緯、近隣の農村への配慮もあるのではないでしょうか。  
古くは「回り盆」と言っていたようです。歌や踊りで町を練り回るからです。「回り盆」といい、「風の盆」といい、「盆」という言葉を含んでいるのは、「盂蘭盆」(うらぼん)との関係があるからだと考えさせます。太陰暦の「盂蘭盆」は、太陽暦では8月7日から9月6日の間になります。「二百十日」は立春から数えて二百十日目で、太陽暦では9月1日(希に8月31日)になり、「盂蘭盆」と「二百十日」は時期的に重なります。また、「盂蘭盆」から続く魂祭の最後の行事が「風の盆」、という考えもあります。  
現在の「おわら風の盆」は、日本古来の祖先信仰の「魂祭」、中国の「盂蘭盆経」の「盂蘭盆会」、豊作祈願の「習俗」、それらが結合したものだと思います。若衆や娘たちの踊りが不文律のようになっているのも、地域共同体の宗教行事であった名残のように思います。 雪洞(ぼんぼり)の明かりだけだった諏訪町や、明かりもない裏道で体験した深夜の町流し。あの不思議な時間と空間を振り返ってみると、八尾町の坂を上り下りするというのは、気持ちに微妙な変化をもたらしているようです。坂は、別の世界を結び往来する、能舞台の橋掛かりに近いようにも思います。八尾町の旧町へ入るには橋を渡らなければならないことも、そう思わせる一因でしょうか。  
「雪洞」(ぼんぼり)と「万灯」(まんどう)  
「雪洞」が道の両側に立てられるようになったのは、昭和63年頃からだといいます。それまでは、通りの頭上に、長さ2mほどの横断幕のような提灯が下げられていたといいます。この横断幕のような提灯を、八尾町では「万灯」と書いて「まんど」と呼ぶようです。現在、「万灯」は落下の危険防止のために数を減らし、上新町に形を変えて少し残っていたものも無くなりました。  
 
「風の盆」は、おもしろおかしく町内を練り回ったことに始まりました。民衆の娯楽的要素が多かったのですが、それが社会的行事へと変化してきた底流には、宗教的感情があると思っています。「風の盆」には、大晦日の夜から元旦にかけて行われていた「魂祭(たままつり)」の名残りを感じます。その根底に流れるのは、仏教とも神道とも違う、日本古来の宗教的感情です。家ごとに仏檀を設け、家族で死者を祭るのは、比較的新しいことです。地域の人々が集まって、合同の先祖供養をするのが古くからの姿でした。死者の魂は、地域共同体に災いをもたらすこともあると考えられ、速く遠くへ去ってほしいものでした。魂祭は、いとしい故人の魂であっても去らしめなければならない、悲しい宗教的行事でもありました。それが、時代を経ると共に、去らしめられる魂に対する愛惜の情が増し、別離を悲しむ社会的行事へと変化したように思います。  
「後拾遺和歌集 第十 哀傷」で和泉式部が「十二月の晦の夜、よみ侍りける」歌に  
「なき人の来る夜と聞けど君もなしわが住む宿や魂なきの里」  
「徒然草 第十九段」で吉田兼好が次のように  
「亡き人のくる夜とて玉まつるわざは、この比都にはなきを、東のかなたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか」  
大晦日の夜から元旦にかけて、魂祭が行われていたことが分かります。  
「盆と正月」という言葉があります。七月(八月)も正月も魂祭、すなわち先祖をまつる神事であったのが、いつ頃からか、七月(八月)の魂祭のみが仏事の盆となりました。大晦日の方は、魂祭の色彩を薄めた神事の正月となりました。七月(八月)の方だけが中国伝来の盂蘭盆会と結合して仏事となったからだと思います。  
「風の盆」は、七月(八月)の魂祭だけでは何か足りない感情と経済的余裕から生まれたように思います。雪に埋もれて活動が制約される暦の上の正月ではなく、もの悲しい秋を感じる九月に行われるのも、いかにもふさわしく思われます。  
「風の盆」は、「浮いたか瓢箪 かるそに流るる 行先ァ知らねど あの身になりたや」の歌で終わります。浮いた瓢箪と共に「あの世」に流れて行くのは供養された魂であり、自分も死後は供養を受けたいという願望が込められているようにも思います。顔を隠すためだった踊り手の編み笠も、魂の依代のように感じます。盆は、ふだんは通うことのできない、あの世とこの世を結ぶ道が現出する季節です。その道は、山へ向かい、あるいは海へ向かいます。山裾の八尾町では、山は身近であるため他界という意識が薄く、井田川の川筋を通って彼方に繋がる海が他界(常世)と意識されたようにも思います。 
「筑子節」 (こきりこぶし)  
富山県南砺市五箇山地方(旧 東礪波郡平村、上平村、利賀村)に伝わる麦屋節とともに五箇山地方を代表する全国的に有名な古代民謡(古謡)である。  
こきりこ節は、「越の下草」や二十四輩順拝図絵「奇談北国順杖記」などの古文献にも記載される日本の民謡の中でもっとも古い民謡とされ、古くから上梨(かみなし)地区(旧 平村)にある白山宮の祭礼にて唄い継がれる五穀豊穣を祈り祝う大らかで素朴な民謡だが、大正末期から昭和の初めにかけて始まった電源開発によって、陸の孤島といわれ長い間外界と隔絶されていたこの地も、他地区への人の流出、また交流が始まるとともに完全に忘れさられる危機が訪れたが、昭和5年に西条八十が五箇山へこきりこ節の採譜のために訪れたことがきっかけとなり、昭和8年ころより五箇山民謡を採集していた地元小学校校長で郷土民謡研究家であり、のちに越中五箇山筑子唄保存会を設立、初代会長となる高桑敬親が、昭和26年上梨地区にて唄を覚えていた「山崎しい」という老母の演唱に採譜し発表したことで不伝承の危機を免れた。山崎しいは幼少のころ「コッケラコ」という唄を、中屋の太助という爺から教えられたといい、この爺はキセル2本をそれぞれ両手に持ち、指で回して打ち鳴らしながら唄ったという。  
 
「こきりこ」は、越中五箇山・上梨の山里を中心に伝承された全国的に有名な古代民謡。多くの民謡は起源や伝承の経緯がつまびらかでないのに比べ、この唄は 「越の下草」や二十四輩順挿図絵、「奇談北国巡杖記」などの古文献に記載されており、大化改新(約1400年前)の頃から田楽として歌い継がれてきたという。  
 
「こきりこ節」は、富山県・五箇山、上梨(かみなし)地方に伝わる古い日本の民謡。田植えや稲刈りの間に行われた日本の伝統芸能である田楽(でんがく)や田踊りとして発展した。囃子言葉の「マドのサンサはデデレコデン ハレのサンサもデデレコデン」が特に有名。 「越中おわら節」、「麦屋節(むぎやぶし)」と並び、富山県の三大民謡の一つとして親しまれている。  
こきりこ祭りでは、「しで踊り」と呼ばれる女性による奉納舞や、烏帽子に狩衣姿の男性が「ささら」を持って舞う「ささら踊り」などが唄に添えられる。  
「こきりこ」  
古い民謡だけあって、「こきりこ節」の歌詞には意味の分かりにくい難解な表現や単語が散見される。主なポイントについて簡単に解説してみたい。  
まず、曲名にもある「こきりこ」とは、2本の竹を使った打楽器で、漢字では「筑子」または「小切子」などと表記される。  
長さは歌詞にもあるように七寸五分(約23センチ)。あんまり長いと着物の袖にひっかかって「かなかい(邪魔)」となってしまう。  
「こきりこ」の名前の由来としては、飛鳥時代に発布された大化の改新(たいかのかいしん)において、豊作祈願のために山伏(やまぶし)が詠んだ「コケラ経」が訛ったとの説があるようだ。  
「コケラ経」は木片に書いたお経のことで、「こけら」とは木片を意味する。新築された劇場などで最初に行われる「こけら落し」の「こけら」も同様の意味。  
「サンサ」  
「窓のサンサ」および「ハレのサンサ」が何を意味しているのか。一般的には、歌の調子・リズムを整えるための囃子言葉(はやしことば)として説明されるようだが、それだけで終わらせてしまっては若干物足りない気もする。  
「サンサ」という言葉については、宮城県民謡「さんさ時雨(しぐれ)」、岩手県盛岡市の「盛岡さんさ踊り」などにも見られるが、こちらでも「さんさ」の意味は諸説入り乱れており、通説は定まっていないようだ。  
仮に「サンサ」が囃子言葉や掛け声、擬音などだったとしても、「窓」や「ハレ」まで同様に解釈してしまってもよいものだろうか?「マド」は「間戸」か?「ハレの日」(ハレとケの概念)との関係は?更なる研究の深化が望まれる。  
 
こきりこの竹は 七寸五分じゃ 長いは袖の かなかいじゃ  
窓のサンサは デデレコデン ハレのサンサも デデレコデン  
   向いの山を かづことすれば 荷縄(になわ)が切れて かづかれん  
   窓のサンサは デデレコデン ハレのサンサも デデレコデン  
向いの山に 鳴く鵯(ひよどり)は 鳴いては下がり 鳴いては上がり  
朝草刈りの 眼をさます 朝草刈りの 眼をさます  
   踊りたか踊れ 泣く子をいくせ ササラは窓の もとにある  
   烏帽子狩衣(かりぎぬ)ぬぎすてて 今は越路の 杣刀(そまがたな)  
向いの山に 光るもん何じゃ 星か蛍か 黄金の虫か  
今来る嫁の 松明(たいまつ)ならば 差し上げて点(とも)しゃれ 優男(やさおとこ)  
 
(囃子)窓のサンサもデデレコデン はれのサンサもデデレコデン  
筑子の竹は 七寸五分じゃ 長いは袖の カナカイじゃ  
踊りたか踊れ 泣く子をいくせ ササラは窓の 許にある  
向の山を 担(かず)ことすれば 荷縄が切れて かづかれん  
向の山に 啼く鵯(ひよどり)は 啼いては下がり 啼いては上がり  
朝草刈りの 目をばさます 朝草刈りの 目をさます  
月見て歌ふ放下(ほうか)のコキリコ 竹の夜声の 澄みわたる  
万のササイ放下(ほうげ)すれば 月は照るなり 霊(たま)祭  
波の屋島を 遁れ来て 薪樵るてふ 深(み)山辺に  
烏帽子狩衣 脱ぎ葉てて 今は越路の 杣刀  
娘十七八 大唐の藁じゃ 打たねど腰が しなやかな  
想いと恋と 笹舟にのせりゃ 想いは沈む 恋は浮く  
イロハの文字に 心が解けて 此身をせこに 任せつれ  
かぞいろ知らで 一人の処女(なじょ)が いつしかなして 岩田帯  
向いの山に 光るもんにゃ何んぢゃ 星か蛍か 黄金の虫か  
今来る嫁の 松明(たいまつ)ならば さしあげて 燃やしゃれやさ男  
漆千杯 朱千杯 黄金(きん)の鶏 一番(つがい)  
朝日かがやき 夕日さす 三つ葉うつ木の 樹の下に  
色は匂へど 散りぬるを 我世誰ぞ 常ならむ  
憂ゐの奥山 今日越えて 浅き夢みし 酔ひもせず   
 
一、筑子の竹は七寸五分じゃ 長いは袖のカナカイじゃ  
一、踊りたか踊れ泣く子をいくせ ササラは窓の許にある  
一、向の山を担(かず)ことすれば 荷縄が切れてかづかれん  
一、向の山に啼く鵯(ひよどり)は 啼いては下がり啼いては上がり  
 朝草刈りの目をばさます 朝草刈りの目をさます  
一、月見て歌ふ放下(ほうか)のコキリコ 竹の夜声の澄みわたる  
一、万(よろず)のササイ放下(ほうげ)すれば月は照るなり霊(たま)祭  
一、波の屋島を遁れ来て 薪樵るてふ深(み)山辺に  
 烏帽子狩衣脱ぎ棄てて 今は越路の柏刀(そまがたな)  
一、娘十七八大唐の藁じゃ 打たねど腰がしなやかな  
一、想いと恋と笹舟にのせりや 想いは沈む恋は浮く  
一、イロハの文字に心が解けて 此身をせこに任せつれ  
一、かぞいろ知らで一人の処女(なじょ)が いつしかなして岩田帯  
一、向いの山に光るもんにゃ何んぢゃ 星か蛍か黄金の虫か  
 今来る嫁の松明(たいまつ)ならば さしあげてもやしゃれやさ男  
一、漆干柿朱干杯黄金(きん)の鶏一番(つがい)  
 朝日かがやき夕日さす三つ葉うつ木の樹の下に  
一、色は匂へど散りぬるを 我世誰ぞ常ならむ  
 憂ゐの奥山今日越えて 浅き夢みし酔ひもせず  
(はやし)窓のサンサもデデレコデン はれのサンサもデデレコデン 
「麦屋節」 (「麦や節」・むぎやぶし)  
富山県南砺市五箇山地方(旧 東礪波郡平村、上平村、利賀村)に伝わる民謡。こきりこ節とともに五箇山地方を代表する五箇山民謡で、富山県の三大民謡(越中おわら節、こきりこ節)のひとつ。  
唄の歌詞には「波の屋島を遠くのがれ来て」「烏帽子狩衣脱ぎうちすてて」「心淋しや落ち行く道は」など落ち行く平家一門の姿を唄っているため、砺波山(倶利伽羅峠)での源平の合戦(倶利伽羅峠の戦い)に敗北した平家一門が落ちのびて庄川上流の五箇山に隠れ住み、絶望的な生活から刀や弓矢を持つ手を鍬や鋤(すき)に持ち替え、麦や菜種を育て安住の地とし、在りし日の栄華を偲んで農耕の際に唄ったのが麦屋節の発祥と伝えられ、平紋弥(もんや)が伝え教えた「もんや節」と呼ばれたものが、唄の出だしが「麦や菜種は」と唄われるため、麦屋節に変化したといわれているが、能登の「能登麦屋節」や祝儀唄である「まだら」が元唄で、商人や五箇山民謡の一つである「お小夜節」の主人公お小夜が伝えた説など諸説ある。  
麦屋節には、長麦屋節、麦屋節、早麦屋節の3種類があり、麦屋節が一般に良く知られているが元々は長麦屋節が元唄とされる。曲のテンポは長麦屋節は大変遅く麦屋節、早麦屋節の順に早くなる。また小谷(おたに)地区には、早麦屋節の元唄とされる小谷麦屋節が伝承されている。楽器は胡弓、三味線、締太鼓、横笛または尺八、四つ竹といわれる4枚に竹を切ったものが使用されるが、必ずしも横笛や尺八は使用されるわけではない。また南砺市城端地区(旧 東礪波郡城端町)にも麦屋節が伝承されているが、こちらは1926年(大正15年)に越中五箇山麦屋節保存会より伝授されたものであり、こきりこ節、四つ竹節などいくつかの五箇山民謡も五箇山地区より伝承されている。  
 
麦や節は、五箇山民謡の代表でもあり、全国的に知られています。歌詞のうたい出しが「麦や菜種は……」だったことから、「麦や節」と呼ばれるようになりました。  
麦や節の由来についてはいろいろな説があり、平家の落人によって創られたとする説、平家の落武者平紋弥(もんや)が教えたことから「もんや節」と呼んだところから起こったとする説、さらには「お小夜節」の主人公であるお小夜が教えたものとする説などさまざまです。  
しかし、やはり五箇山が平家の隠れ里であったことや、歌詞の内容から、麦や節と平家落人伝説を結びつけて伝承されてきたことがわかります。かつて「平家にあらざるものは人にあらず」と豪語した自分たちの悲しい運命を唄に託してうたい踊ったそうです。  
麦や節の元となる民謡は、九州の馬渡(まだら)島で発祥した「まだら」という漁師の唄でした。それが日本海の海岸線を北上し、石川県能登半島にたどり着いて、「輪島まだら」「七尾まだら」と呼ばれるようになりました。まだらのうたい出しが「めでためでたの……」だったことから、これらは「めでた節」とも呼ばれています。明治の中ごろまでは宴席の祝儀唄としてうたわれていましたが、それに振り付けをつけることで舞台芸能として登場し、現代民謡のひとつの形を作り上げました。  
黒の紋付袴で、白たすき、白足袋といういでたちで、一尺五寸の杣(そま)刀を差し、笠を持って踊ります。黒と白のシンプルな色づかいの中に緋色の杣刀が浮き上がり、それらが作り出す色の対比が体や手足の動きをはっきりと映し出します。また、笠を回転させたり、上下に動かしたりする中に一瞬の静止を入れることで、静と動の対比を強調し、洗練された踊りとして目を奪います。このように麦や節は、色の対比、動きの対比で、視覚的に楽しめる洗練された踊りとなっています。  
早いテンポの中に哀調ある歌詞。勇壮で力と活気に満ちた踊り。「麦や節」の中にはさまざまな対比があり、そしてそれらが調和することによって、心地よい緊張感ある空間を作り出します。  
 
←「能登麦屋節」「まだら」 
 
麦や菜種は二年で刈るが 麻が刈らりょか半土用に  
浪の屋島を遠くのがれて来て 薪こるてふ深山辺に  
烏帽子狩衣脱ぎうちすてて 今は越路の杣刀  
心淋しや落ち行くみちは 川の鳴瀬と鹿の声  
川の鳴瀬に布機たてて 波に織らせて岩に着しょう  
鮎は瀬につく鳥は木に止まる 人は情の下に住む    
(早麦屋節)  
小谷、高草嶺 ダイラの前で およきよび出すとりがなく  
 (囃子) 小谷峠の七曲り昼ねしょんならよいとこぢゃ 猪 豆くて オホホイノ ホイホイ  
岩に下り藤「トビツキ、ハエツキ しがらみついた」が見事なものじゃ よその花なら見たばかり  
 (囃子) 大野の権兵衛さんは色こそ黒けれ、名代の男ぢゃ オッソコ、ソコ、ソコ  
鳥が啼いても まだ夜は明けぬ 心豊かにねてこざれ  
 (囃子) 小谷峠の・・・  
きりょうがよいとて気が好いものか いばらぼたんの花をみよ  
 (囃子) 大野の権兵衛さんは・・・  
(文句入麦屋節)  
竹の切口「すこたんこたんなみなみちゃんぶり  
 ちょいと溜り水」澄ます濁らす出ず減らず  
昔芭蕉の葉に「一筆啓上仕り候そこもと御無事」と  
 書いたるけれど今は松の葉にただ一字  
竹に雀は「あちらの山からこちらの山へと  
 千羽や万羽の雀が  
 一度に一羽ものこらず  
 チンチンバタバタ羽うちそろえて  
 七竹や、八竹カラ竹 大みょう小枝のこぼそい  
 ところに片羽かたげて  
 片足もちやげて かわいらしい顔して」  
 しなやことまる  
 とめてとまらぬ イロのみち。  
もちの米なら「一、ニ斗、ニ、三斗、四、五斗、五、六斗」  
 アヅキ三斗ほしい山の「桜の小枝のこぼそいところに」手ぎねをみておいた  
江戸の歳福寺の「蔵の森サギの首は細くて  
 長くてまん中ほどで  
 ギックリ曲って」ナリ首長い、それでなければ  
 「江戸の歳福寺の蔵のきり窓へ」のぞかれん 
「五箇山追分節」  
その昔、五箇山は加賀藩の流刑地となっており、地形、気候の面からも周辺地域と隔離されていたため、交通の発達が非常に遅い地域となりました。町へ出るときは、標高1000mもある唐木峠、朴峠を通って約20km離れた城端町まで五箇山の物産(塩硝や生糸)を運び、そして日用品や米を牛の背中に負わせて往復していました。その道中、牛の歩くテンポと牛につけた鈴が鳴る音に合わせて唄ったのが、この「五箇山追分節」でした。  
村人たちは、町に出た牛方が戻ってくるのを今か今かと待ち、鈴の音と唄が聞こえると、こぞって出迎えたそうです。歌詞を見ると、軽快な鈴の音に合わせて唄う牛方と、鈴の音を頼りに牛方の帰りを待つ村人の様子がよくわかります。  
このような唄は「牛方節」と呼ばれ、坂道を登るときに唄うため、テンポも速く活気がありますが、現在では楽器の伴奏が多彩に加わり、鈴の音に合わせて唄っていた素朴な牛方節の原型はとどめていません。  
 
/ (牛方節、追分節)  
 
五斗俵かずいてもイナー 道若杉ぬイナー オッソコ ソコソコ  
 男だてなら二俵かずくイナー (お囃子)オッソコ ソコソコ  
五斗俵二俵 イナー 及びもないがイナー せめて楮(こうぞ)のいわいごいをイナー  
姿見えねど イナー 朝霧ついてイナー うたは追分鈴の音イナー  
牛の二俵は イナー 鈴の音高いイナー 追うは無駄ごとひかれづめイナー  
「お小夜節」  
お小夜節は、もともとは「まいまい」の唄と踊りでしたが、お小夜の出現によって「お小夜節」と呼ばれるようになりました。  
お小夜は、その昔五箇山小原(上平)に流されてきた遊女でした。元禄3年「加賀騒動」の首謀者・高崎半九郎ら4人と遊女20人が輪島(石川県)に流刑となりましたが、お小夜は輪島の出身だったため、それでは意味がないということで、小原に流されたのです。しかし、お小夜は流刑の身でありながらも、流刑小屋ではなく土地の庄屋へあずけられ、自由に外出することができました。また、美人で芸達者だったお小夜は、持ち前の芸を活かして村人たちに三味線や唄や踊りを教えたことから、たちまち村人たちの憧れの的となりました。  
やがてお小夜は、吉間という村の青年と恋仲となり、何度目かの夏、彼の子を身ごもってしまいました。お小夜は、罪人の身で妊娠したことが藩に知れると、吉間や村人に迷惑がかかると思い悩んだ末、庄川に身を投げてその一生を閉じました。小原地区には、五箇山民謡の恩人・お小夜を偲んで村人たちが建てた「お小夜塚」があり、お小夜と吉間の出逢いの場であった女郎ケ池(現・民謡の里)では、毎年おさよ祭りが行われています。  
 
←「まいまい」 
 
名をつけようなら お小夜につきゃれ お小夜きりょうよし 声もよし 声もよし 声もよし  
峠細道 涙で越えて 今は小原で 侘び住まい 侘び住まい 侘び住まい  
心細いよ 籠乗り渡り 五箇の淋しさ 身にしみる 身にしみる 身にしみる  
庄の流れに 月夜の河鹿(かじか) 二人逢う瀬の 女郎が池 女郎が池 女郎が池  
輪島出てから ことしで四年 もとの輪島へ 帰りたい 帰りたい 帰りたい  
「砺波夜高祭」 (となみよたかまつり)  
「夜高節」のオチャヤレの由来について。「御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花」松山から上京する正岡子規に夏目漱石はそう詠んだそうです。オチャヤレって御立ちやれの意味では?その意味でいくと(一升樽をひょいと担いで、急がないといけないだろう。盃が待ってるそうだから。)早く出発なさいよ! となります。また、オチャヤレは和歌山県串本市の「串本節」(オチャヤレ節)からきてるようですね。幕末に空からお札?が降ってきて、エエジャナイカと民衆が無礼講でおどりまわったという踊りの歌です。  
 
←「串本節」 
「米道踊り唄」  
永禄十一年(1568)、上段にあった池田城が越後の上杉謙信の攻略によって落城しました。この難を避けて米道村に住み着いた池田城の家臣 加野半右衛門は、歌舞音曲に長けた風流人でした。せっかく身につけた芸を、このまま朽ち果てさせてはと、いつしか池田城内で披露した踊りを村人たちに手ほどきしたのが、この米道踊のはじまりと伝えられています。善入寺の代々の住職も、盆や祭礼のときに境内や御堂を開放し、自ら音頭をとり、踊りや唄の指導と普及につとめたといいます。踊りは、先踊り、中踊り、川崎、ガラテン、甚句、おけま、追分、松坂の八種類の組み合わせからなっています。踊りにも、唄にも凛々とした気風があり、踊る者も見る者も襟を正すような雰囲気をかもし出すといわれています。
「立山節」  
堀内敬三によれば「越中立山、お岩の不動の縄が池、ええ富山船橋、渡しの無いのがよござんす、よござんす」が元歌であろうとしているが、この歌が明治の初めに流行った頃には、歌詞にローカル色は無くなっていたようだ。メロディも花街の三味線音楽特有の洒脱が聞ける。歌詞にある「四条河原に月影寒く…」は、岡本綺堂による歌舞伎「鳥辺山心中」(大正4年初演)をおり込んだもの。  
(元唄)  
浮世離れて奧山住ひ 戀も悋気も忘れて居たに 鹿のなく聲  
聞けば昔が戀しうてならぬ あの山見れば葛屋茸  
 
度胸定めて惚れたる主に いらぬ御世話ぢや水さす人に 見せてやりたい  
逢ふた其の夜の二人の仲を 切れろと云ふたとて切れはせぬ  
   四條河原に月影寒く 對の小袖も涙にぬれて 死出の旅路を  
   二人手に手を鳥邊の山へ 戀のほのほに煙立つ  
峯の白雪、麓の水 今は互に隔てゝ居れど やがて嬉しく  
とけて流れて添ふのぢやわいな アノ山越えて來いやんせ 
「五ヶ種チョンガレ踊り」 (ごかだね) 砺波市庄川町五ヶ  
チョンガレの由来は、念仏聖の願人坊主が鉦をたたき諸国を歩いた音曲ともいわれていますが、「ちょろける」「ちょうける」から来ているともいわれています。砺波地方には特に風刺即妙のチョンガレ節が多く残っています。五ヶ地区のチョンガレは俗に「種チョンガレ」といわれ、その五ヶ地区は庄川町種田にあり、種籾生産地として知られており、全国へ出荷されています。この地区の盆踊りには、決まって、この五ヶ種チョンガレが最初に歌われます。法正寺前と五ヶ神明宮との間の広場は、砺波地方の盆踊りの一大拠点として賑わったとされ、現在チョンガレの歌い手や踊り手は、そろいの「五ヶ種チョンガレ」と染め抜いた浴衣を着、子どもたちも「五ヶ種チョンガレ」と書かれた法被(はっぴ)を羽織って踊ります。ここで歌われる歌詞は古くから「特産五ヶ種もみ」を歌いこんだもので、しばらく忘れ去られようとしていましたが、昭和46年、古い歌詞が法正 寺に伝わる沿革史の中に「宝暦ノ昔、法正寺了恵法師ガ・・・」とあるのを発見し、その後、有志の努力により保存に努められてきました。  
 
越中五ヶ種天下ノ宝 昔其又昔 村ノオ寺ノ御法主様ガ 不作ヲ救ツタ稲ダネ元素 百姓助ケタ オ慈悲ナ方ジャ  
五ヶハ良イトコ種ドコロ 夜ハ宵カラ露切風ガ 今日モ川ノ瀬 地ヒビキナシテ 明ケリャ青空日本晴ジャイ 吹クワイ吹クワイ 五ヶ嵐  
オカカ出テミヨ隣ノ娘 今年十八ウリザネ顔デ 吹イテ寄セ来ル黄金ノ波ジャ チョイト笑ッテコチラヲ向イテ 今日ハダン那ノ稲刈リジャ  
蒔イタ稲ダネ六千倍ジャ 大地一面黄金波 豊年ャ〜〜万作ャ〜〜 年モ暮レヨカ鍬崎オロシ 寒イ嵐ガ身ニシミル  
娘出テミヨ嫁御モ見ヤレ セドノ小路へ加賀ノ人 サッキ八人今マタ九人 種替サンガクルワイナ 娘茶ノ間ニ火ヲ炊キャレ  
前ノアゼ道旅人姿 ジット吹カレテ五ヶ嵐 ドコノアタリガヨカラウト 風ニオモイヲ通ハセテ 思案ニクレテ立ッテイル
「泣き荷方節」  
高岡には、「泣き荷方節」という民謡が伝承されています。荷方節は、全国津々浦々にありますが、高岡の荷方節になぜ、「泣き」とついているのか、その理由は定かではありません。ひとつの由来譚として、次のような伝承が伝わっています。  
「むかし、金沢・高岡・富山の三町から、人夫を集めてお城の普請を行った時、前田のお殿様が普請の工事現場を視察されたので、お殿様をもてなそうと、人夫たちは町ごとに芸を披露することになった。皆、とびきり上等の芸を殿様に見てもらおうと思い、金沢のものは謡曲を、富山のものは浄瑠璃を披露したが、高岡のものたちは気の利いた芸が何もない。そこで、いつも歌っている仕事歌を歌ったら、まわりから「なんじゃ、その歌。まるで泣いているようではないか」と笑われ、高岡の一同は困りはて、本当に泣いてしまった。それからその仕事歌は、泣き荷方節と呼ばれるようになった」というのです。なんとも、格好の悪い、かわいそうな話でしょ。これによると、「泣いているようだから泣き荷方節」とのこと。  
泣いているような歌というと、フランスのシャンソンやポルトガルのファド、日本の演歌、韓国の怨歌等を思い出される方もあるかと思いますが、「泣き荷方節」とは、どのような歌なのでしょうか。今では、高岡でもなかなか聞くことの出来ない昔歌となっています。  
「泣き荷方節」は、小矢部川や千保川の水上輸送に携わる者達の作業唄として二上・木町・塩倉町・川原町で歌い継がれてきました。現在伝承されている「泣き荷方節」が、昔とそっくり同じ歌であるのかどうかは分かりませんが、「泣き荷方節」には、哀愁を帯びた独特の節回しがあります。「あー 」と大変に長くのばす、声で始まっており、これに悲しげな抑揚をつけますので、泣いているようにも聞こえます。泣き荷方節には幾つもの種類があります。歌詞も様々で仕事歌というよりも、お座敷やお祝儀向きの内容のものもありますが、出だしが「あー 」と長くのばす声で始まるのは共通しています。  
   あー こなたのお人の 路地には  うぐいす鳥が 来て止まる  
   どういうて鳴く  声聞けば ただ 京、京、と鳴くばいのう  
   京より広い 大阪を 逢坂越えて なんと島   
   唐と日本の そのあいを 船に宝を 積み上げて  
   こなたの館へ いそいそと   
   あー 富山の浄瑠璃 金沢の謡い あいの高岡 なきにがた  
かつては、小矢部川や千保川行き交う舟人たちが舟の櫂をきしませながら、また、岸辺で舟の荷物の積み下ろしをする大勢の荷方たちが重い荷を背負いながら、この唄を朗々と歌ったのです。そして、子どもが歌うことは許されず、元服酒の振舞いの儀を終えた成年男子のみが歌ったとのこと。泣き荷方節を歌うことは、一人前の男の証でもあったのです。  
前項でお話した「泣き石」とこの「泣き荷方節」。ともに「泣き」とついていますが、何か関連はあるのでしょうか。もしかすると、方広寺大仏殿での前田利長の石曳き部隊は、「泣き荷方節」のルーツとなるような歌を歌って石曳きをしていたのかも知れません。案外、それが「泣き石」の名の由来となったとは考えられないでしょうか。  
朝床に聞けば はるけし射水川 朝こぎしつつ 唄う舟人 [大伴家持] 
「古代神」「小代神」  
■ 
←「新保広大寺」 
(富山)  
おらあがさーはあよー  
おいやい  
これからこれわい  
なにごーと  
え何用とさてたずねりや  
春の角川 布子の谷じゃ  
山がかすめば 山菜摘みよ  
遠い歴史の 金山跡に  
流れ止めた さてダムの水  
山の肌さえ 素敵じゃないか  
影すあの娘の 目許が可愛い  
えさてこれから  
これさなーあにごと  
はいとさあはよーい  
(はやし)  
ジャントコイ ジャントコイ  
はりやその勢では これわい  
どうとこへんなは  
(はやし)  
ハ、アンリヤハイトサーハ  
ヨイヤコノショイ  
おらあがさーはあよー  
おいやい  
これからこれわい  
なにごーと  
え何用とさてたずねりや  
夏の潮風 水族館に  
魚津市の花 鹿乃子の百合よ  
十二なる里 心をつなぎ  
魚津まつりの 蝶六踊り  
夏の夜空に 流れる音頭  
君もあなたも お囃子たのむ  
えさてこれから  
これさなーあにごと  
はいとさあはよーい  
(はやし)  
ジャントコイ ジャントコイ  
はりやその勢では  
これわいどうとこへんなは  
(はやし)  
ハ、アンリヤハイトサーハ  
コイセコノショイ  
(ちょんがら)  
やーれやれ、やーれやれ  
一座の皆様方よ  
秋の味覚は 魚津のりんご  
早く開けた 天神遺跡  
お湯は金太郎 北山薬師  
五穀豊饒 稲穂の実り  
恵みふくらむ 魚津の里よ  
お国自慢は 蝶六踊り  
(はやし)  
ハ、ヨイトコヨイトコ  
はりやその勢では これわ  
いどうとこへんなは  
(はやし)  
ハ、アンリヤハイトサーハ  
ヨイヤコノショイ  
おらあがさーはあよーおいやい  
これからこれわいなにごーと  
え何用とさてたずねりや  
冬の僧ヶ岳 僧眠らせて  
魚津港よ 経田漁港  
海に乗り出す さて男伊達  
開け文化も 世界に伸びよ  
せり込み蝶六 みな出て踊れ  
踊るゆかしさ 香りを添える  
えさてこれから  
これさ なーあにごと  
はいとさあはよーい  
(はやし)  
ジャントコイ ジャントコイ  
(後唄)  
はい目出度 めええでええたあ  
ああーああの  
あの若の松さあああまああーあよーい  
枝も栄える 葉もしいげええるーい  
(はやし)  
ソリヤ 目出度い踊りじゃ  
イヤサカ サッサ  
 
布子谷 / 山合いを流れる角川を中心にして鹿熊村から出村までの田園の地下に、昔からなまあたたかい水が年中流れている。「すり鉢の底」と言われている。十二なる里 / 魚津市の校下。市内12校下がある。五穀 / 重要な穀物、米・麦・あわ・きび・豆の五種の事。豊饒 / 穀物がよく実ること。豊作。僧ヶ岳 / 魚津で2番目に高い山。僧ねむらせて / 冬の間、雪にとだえる事。  
「古代神」 (富山五箇山)  
私のサーヱ、殿マはほめるじゃないが、木工木挽や桶屋もなさる  
人が頼めば左官もなさる 人の頼まぬヱサシがすきで  
ヱサシでるときゃ衣裳からちがう 紺の股引ビロードのきゃはん  
浅黄こうかけ切り緒の草鞋 腰にモチ箱手に竿を持って  
向うの小山に登りて見れば 松の小枝に小鳥が一羽  
小鳥めがけて竿さし出せば 竿は短かし中次ぎもたず  
鳥の方から申すようには あなたヱサシか私はむづのとる鳥  
ご縁あるなら次にきて さしやれサーエ  
「小代神」 (富山五箇山)  
船のサーヱ 船頭さんに木綿三反もろた  
私が着ようか殿マに着せうか 殿マ着る時は染めねばならぬ  
白く染めれば兎のようなる 黒く染めれば鳥の様なる  
何に染めよと紺屋のおやじに問えば  
紺屋のおやじの思いつきいやる  
一に朝顔、二に杜若、三に下り藤、四に獅子牡丹  
五ツ伊山の千本桜、六ツ紫桔梗に染めて  
七ツ南天花 八ツ八重桜、  
九ツ小梅に小散しつけて、  
十オ殿マにこれをぬうて着せうかサーヱ 
「四つ竹節」 (富山五箇山)  
 
越中五箇山蚕の本場  
娘やりたやあの桑摘みに  
たからゆたかな麦屋がお郷  
   うたはうたでもめでたの麦屋  
   だてやじまんでうたうじゃないが  
   麦屋俺等が山家のものよ  
山は深うても紅葉のみやま  
御子や嫁さも麦屋で越すが  
越すにこされぬ細尾(峠)の吹雪 
「といちんさ節」 (富山五箇山)  
 
樋のサイチン機(はた)織る音に  
ア トイチン トイチン トイチンサー  
ヤーサレーチ トチレチ トイチンサ トイチンサ  
拍子そろえてサーサうたいだす  
ア やれかけはやせよ トイチンサ トイチンレチヤサレチ  
   わしがナー 若いときゃ 五尺の袖で  
   道のナー 小草も サーサなびかせた  
鳥がナーうたえば 早や夜も明けて  
紙屋ナーのぞきの サーサー窓もはる  
   声はナーかれても まだ木(気)は枯れぬ  
   藤のナー花咲く サーサほととぎす  
来いナーと言われて 手で招かれず  
笹のナー五笹(いささ)の サーサ葉で招く 
富山県民謡  
古い伝統と長い歴史の中で、土地風土に根差し歌い継がれてきた民謡は、私たちに郷愁を感じさせ、心に安らぎと生きる力を与えてくれる貴重な文化財産である。人と人との交流の中で、作曲者不詳のまま伝えられてきた民謡の正体は果たしてどんなものなのか、その不思議さに迫ろうとしても容易に解きほぐすことのでさないところに、「民謡」の真の魅力と生命が存在するのかも知れない。富山県には、優美な「越中おわら節」、力強い「麦や節」、素朴な「こきりこ」など、日本を代表する民謡をはじめ、数多くの種類の民謡が存在し、日本民謡の宝庫ともいわれている。  
ここに、「越中おわら節」「麦や節」「こきりこ」について紹介する。  
「越中おわら節」  
越中おわら節の本場は、300年余の歴史をもつ婦負郡八尾町である。その起源については、糸くり唄や海唄などの諸説があり、いずれとも定め難い。口伝として、元禄15年(1702)、八尾町の開祖米屋少兵衛の子孫が保管していた町建ての重要秘密文書の返済を得た喜びの祝いとして、3日間、唄、舞、音曲で町内を練り歩いたのが始まりとされ、この祭日3日が盂蘭盆(うらぼん)3日になり、やがて、二百十日の厄日に豊饒を祈る「風の盆」に変わったといわれている。唄は、叙情豊かで気品が高く、哀調の中に優雅さを秘めた詩的な曲調である。歌詞も美しく、胡弓の響きが旋律をひき立たせている。楽器は、三味線、胡弓、太鼓で演奏される。  
「麦や節」  
麦や節の本場は、平家の落人が定住したともいわれる東砺波郡平村である。これらの地域には、麦や節の元唄ともいわれる「長麦や」、形を変えた「早麦や」、そして周辺には「利賀麦や節」「城端麦や節」が存在する。その起源については、平家の落人が越中五箇山に安住の地を得て、弓矢取る手を、鍬を持つ手にかえ、生活の合間に唄い始めたとされているが、曲調からみて、後述する「まだら」系統の唄がその元唄であるともいわれている。唄は、どこかもの哀しい歌詞と格調の高い力強い旋律に支えられたリズミカルな動き、囃子ことば 「ジャントコイ、ジャントコイ」から引き出される旋律が唄全体を特徴付けている。楽器は、三味線、胡弓、四ッ竹、太鼓で演奏される。  
「こきりこ」  
こきりこの本場は、東砺波郡平村上梨である。こきりこ(筑子)とは、平安時代の田楽の替名であるが、宮永正運著の『越の下草』(1786)によれば、上梨白山宮に奉納される神事舞であり、唄は今様、踊りは白拍子に似ている。唄は、素朴であるが、上品な旋律で淡々と流れ、囃子ことば「マドのサンサはデデレコデン、ハレのサンサもデデレコデン」が印象的である。楽器は、鍬金、筑子竹、編竹、棒ざさら、編木子(板ざさら)、鼓、横笛、銅拍子で演奏される。  
民謡 
「民謡」は明治時代になってからの用語である。民謡とは、芸術歌曲に対して、民衆の間でうたわれている伝統的な歌の総称なのである。  
その特質として、1生活文化の中から自然発生し、個人の創作ではなく、また、創作者が問題にされない歌であること2楽譜を用いることなく、口承によって伝唱された歌であること 3目的や地域、演唱者によって、歌が固定化されず、交流や変遷が許される歌であること 4ある程度、伝唱されてきた時間的長さの伝統をもつ歌であること、などをあげることができる。民俗学的な立場からも、柳田国男は『民謡覚書』の中で、また、郡司正勝は『民俗辞典』の項で、民謡について、「平民の自ら作り、自ら歌っている歌」、「俚謡(りよう)、民俗歌謡、folk songと同じく、それぞれの民族の生活の中から自然発生した歌」と定義し、1の条件を強調している。従って、民謡は、郷土の民衆集団の間に自然発生し、その生活感情を素朴に反映し伝唱されてきた歌謡であり、そのうたわれる目的や機会は労作が中心であった。ここに、民謡発生の源を求めることができる。  
しかし、民謡には、「茶切節」のように、専門の作者による「新民謡」が生まれていることを特記しておかねばならない。  
分類  
民謡が採集されると、うたわれる目的にしたがい、うたを分類する必要がある。  
日本の伝統音楽に対して、発生系統や流派が確定していない民謡においては、その特質からみて、(1)音楽、ア 旋法、イ 音階、ウ リズム、エ 形式、オ 演奏形態(伴奏)、(2)文芸、ア 内容、イ 詞型、ウ 文体、(3)民俗、ア 附帯目的、イ 場所、ウ 人、の各側面からの分類法が分類基準として考えられる。  
そして、民謡は、単に創作民謡の純音楽的な作品や純文芸的な作品にはみられない民俗的な附帯目的や場所を伴うものであるので、ここでは、民俗学者、柳田国男が『民間伝承』(昭和11年)に発表した民謡分類法を紹介する。  
(1)田唄(田打唄、田植唄、馬使い唄など)、(2)庭唄(籾摺り唄、粉換唄、糸くり唄など)、(3)山唄、(4)海唄(網起し唄、舟唄など)、(5)業唄(舟方節、土方節、石かち唄、木挽唄、酒造り唄、鉱掘唄、鋳物唄、炭焼唄など)、(6)道唄(馬方唄、牛方唄、木遣り唄、道中唄、荷方節など)、(7)祝唄、(8)祭唄、(9)遊唄(鳥追唄、盆踊り唄など)、(10)童唄の10種類である。  
この分類法は、民俗学的視野に基礎をおき、現存する民謡の実状に即しているところから最も一般化されているものである。  
発生と伝承・伝播  
民謡は、発生の目的にふさわしい歌詞を伴い、メロディーとリズムの要素によって綴られた民衆の唄であり、いつもその時代、時代の人びとの共感を得、情緒に触れ、「音楽」となったものである。  
これらの民謡が現在、農漁山村に多く姿をとどめているのは江戸時代における芸術音楽の勃興、確立によるものである。  
江戸時代における基層文化は都市と農漁山村に分裂し、民衆の音楽は都会における芸術音楽と農漁山村における民謡・わらべ唄に分かれることになった。  
都会に残った基層文化も社会の急速な変動により、歌謡の一種である祝詞のような神楽歌を追い出し、祭囃子に変えるのである。一方、農漁山村に伝承された基層文化も明治時代の産業の発達に伴い、変容し、労作と結びついた「仕事唄」の多くはその目的を失い、すぐれたものは「祝唄」や「酒宴唄」として姿を変えるのである。しかしながら、農漁山村における社会生活が変化している以上、従来のような民謡の発達や創造的活動はなく、保存的性格の強い伝承がなされるのである。このように、人びとの心から湧き出た民謡も、時代を経過し、流れゆく場所によって、最初の目的を変え、生活様式に応じて、歌詞を改め、曲調を変えていくのである。そこに、民謡の交流と変遷があり、発達があるのである。  
これは民俗芸能の一般的性格として重要な意味をもつ浮動現象である。この浮動現象は、おおよそ二つの方向、或いは見方としてとらえることができる。即ち、民俗学で「伝承」と呼ばれるものを空間的に縦と横、つまり、「伝承」と「伝播」に分ける考え方である。前者は、変化なしに、歴史的に受け継がれる場合である。後者は、郷土的環境の異なる他の地方へ移動する場合で、一般的には本来の性質と新しい風土に伴う異質な要素とが混入して新しい性質を生むような伝わり方を意味し、目的観を変えることが多い。  
民謡はこのような経過をたどりながら、口承による伝わり方を主とし、郷土の文化財として受け継がれてきたものである。また、受け継がれることなく消滅していくことも少なくはない。これらがどのような交流と変遷によって伝承・伝播されてきたかは多くの場合、その定説をもたない。  
交流と変遷  
民謡の交流と変遷については、従来、歴史学的、民俗学的、文芸学的手法によって考察することが多かったが、これに音楽学的考察を加え、その解明に迫ろうとするものである。  
この音楽学的考察とは、小泉文夫の音階論とメルスマンやザックスの比較音楽的方法論に基軸をおいたものである。この手法の概略を述べると、民謡を形成している音階の中心となる核音が類似した二つの旋律でどのように重なり合うかを比較総譜を用いて調べることによって、その旋律の類似性を推察するものである。即ち、音階の核音や旋律の形成を比較することにより、民謡の系統性を推論するのである。  
この民謡研究の方法により、富山県には、「まだら」系統の唄が県下各地に分布していることがわかる。  
その唄は、「魚津まだら」、「布施谷節」、「岩瀬まだら」、「新湊めでた」(放生津まだら)、「福光めでた」、「長麦や」、「麦や節」、「早麦や」などである。  
富山県に分布する「まだら」は、九州地方に分布する「紀州まだら」(佐賀県)、「金のなる木」と「まだら節」(鹿児島県)、「五島列島まだら」(長崎県)、「諫早まだら」(長崎県)、「米搗(こめつき)まだら」と「下行まだら」(長崎県)、「豊崎まだら」(長崎県)、「対馬のまだらぶし」(長崎県)、「馬渡節」と「馬渡踊」(佐賀県)、「うぐいす」(佐賀県)、「伊万里まだら」(佐賀県)に端を発し、漁労関係者によって日本海を北上した。石川県にも伝えられ、「輪島まだら」、「七尾まだら」として現存している。また、「海士町まだら」が伝えられる海士町の漁労関係者の祖先は九州からの移住者であるといわれている。  
これらの唄が富山湾における漁港地の魚津、岩瀬、新湊にも伝わり、布施川を上り布施谷へ、庄川を上り福光、五箇山へと伝播し、前述の民謡となり、現在に残されているのである。  
ここに、唄の系統を研究するための比較総譜を「長麦や」、「早麦や」、「麦や節」を例として示すことにする。  
比較楽譜から、唄の類似性と系統性を考察してみるとき、音階、核音、終止、旋律などの点で関連性を保ちながら伝播し、推移していることがわかる。さらに、「長麦や」が「福光めでた」「新湊めでた」と関連をもち、それらが能登の「まだら」の影響を受けていることからも、「長麦や」が「まだら」の系統の唄であることは十分推論できるのである。  
特性と今後の課題  
民謡が音楽の一素材として取り上げられたのは、平安時代の「催馬楽」から近くは「長唄」などの中にもみられる。しかし、歴史学、文芸学、民俗学的な研究は明治時代以後のことであり、特に音楽学的側面からの考察はごく最近のことである。  
さて、音楽学的側面から民謡の特性や研究の視点をとらえるならば、(1)発声に関すること(2)リズムに関すること−拍節的リズム(八木節調)と無拍節的リズム(追分調)(3)旋律に関すること−反復と変化、メリスマと微小音程、こぶしと産み字 (4)音階に関すること−陽音階と陰音階 (5)拍子と間に関すること (6)速度に関すること (7)囃子詞と掛け声に関すること−意味のあることばと無意味なことば (8)曲想表現に関すること (9)歌詞に関すること−七五七五調(古代歌謡)と七七七五調(近世歌謡)(10)伴奏に関すること(11)舞踊に関すること、などをあげることができる。従来の民謡研究に加え、音楽学的調査研究と比較音楽論的研究を進めることによって、一層民謡の実態を明らかにすることができるであろう。  
いずれにしても、民謡の収集や分析的研究は複雑多岐であるが、昨今、わが国においても、文化財としての価値が認められてきているので、学問的内容を裏付けるためにも、研究のための組織や方法を確立し、歴史・文芸・民俗・芸能などとの接点で展開される民謡論を語りたいものである。  
 

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福井県

 

「三国節」  
福井県坂井市三国町に伝わる郷土芸能 「三国節」 は、今からおよそ250年前の1761年(宝暦11年)に、三国神社(例祭は北陸三大祭と云われている三国祭)の拡張工事を行う際、三国神社と深い関わりのある性海寺(通称おしょかいじ)の陽山上人という僧侶が、作業人夫の地突き唄として歌わせたのがその起こりと云われています。  
それが、商港として繁栄していた三国湊の沖仲仕たちの間に伝わり、運送の荷積作業唄として歌われるようになりました。  
沖仲仕たちによって歌われた三国節は、県内の敦賀港や、遠くは大阪・北海道など全国各地の港への出入りのたびに、各地の唄の良いところを歌詞に取り入れられたため、一般町民の間でも歌われるようになり、明治時代の終わり頃に歌詞が上品にまとめられて現在に至っています。  
民謡には、全国各地の唄を真似て作られたものが数多くありますが、三国節独特の歌詞は 「やしゃでやのしゃで やのしゃでやしゃで やしゃでやのしゃで こちゃしらぬ」 の一節です。 この歌詞の意味については諸説がありますが、いずれも定説となるには至っておらず、現在においてもその意味は判明していません。  
唄の形式は、まず七七七五調のもと唄を歌い、次に五七七五調のかえし唄を歌うかたちをとっています。歌詞を替えてこれを繰り返し、最後に前述の「やしゃで〜」を1回だけ歌い締めくくります。  
踊りができたのは、唄よりずっと遅れて明治時代の中頃です。その頃から大正時代の中頃まで、毎年旧盆の8月15・16日の2日間、三国海岸の砂浜で盆踊り大会が開催され、三国節が歌い踊られました。三国節は、各地の民謡に比べてそのテンポがあまりにもゆっくりしているため、歌ったり踊ったりする町民が徐々に減少し、昭和に入ってからは、三国芸妓の方たちが中心となって保存するかたちとなり、踊りも座敷踊りに振り付けられました。  
 
三国湊は北前船の寄港地、その花柳界での酒席で歌われてきたのが三国節。三国には寛永年間〔1624〜1645〕船問屋が57軒 軒を連ね、出村・上町・松ヶ下といった場所を中心に花街があり、三国の遊女は「三国小女郎」と呼ばれ、広く知られていたという。三国節の由来は、宝暦(1761)年三国神社を建てる際、性海寺〔しょうかいじ:現坂井市にある真言宗智山派寺院〕第30代陽山上人が作ったといい、敷地内の地固めの作業に集まっていた門徒達が歌った「土搗き唄」であるという。七七七五調の歌詞を基本に、最後の5文字を2回繰り返し、更に下の句を繰り返すパターンの古い甚句。  
 
←(土搗き唄、地突き唄) 
 
三国三国と 通う奴ぁ馬鹿よ 帯の幅ほど ある町を  
ある町を エエある町を 帯の幅ほど ある町を  
   やしゃでやのしゃで やのしゃでやしゃで やしゃでやのしゃで こちゃ知らぬ  
   こちゃ知らぬ エエこちゃ知らぬ やしゃでやのしゃで こちゃ知らぬ  
盆のお月さん まんまるこでまるて まるてまんまるこで かどがない  
かどがない エエかどがない まるてまんまるこで かどがない  
   新保砂浜 米ならよかろ いとし舟子にただ 積ましょ  
   沖に白帆が 百九十九はい わしの殿御は あの中に   
 
三国三国と 通う人あるが 帯の幅ほど ある町を  
三国祭りは めめんじゃこ祭り そうけ持って来い 掬くてやる  
掬くてやる 掬くてやる そうけ持って来い 掬くてやる  
岩が屏風か 屏風が岩か 海女の口笛 東尋坊  
東尋坊 東尋坊 海女の口笛 東尋坊  
 
酒は酒屋で 濃い茶は茶屋で 三国小女郎は 松ケ下  
姉と妹に 紫着せて どれが姉やら 妹やら  
西も東も みなみにきたか 三国瀧谷 糸桜  
主を待つ間の あの東尋坊 心とどろく 波の音  
さても見事な 安島の雄島 根からはえたか 浮島か  
佐渡で十九日 酒田で十日 思う三国で ただ一夜  
鷹巣くもれば 間もなく雨よ 急げ湊へ 沖の船  
玉屋蔵から 沖合見れば かくし帆待ちの 船見ゆる  
松になりたや 雄島の松に 上り下りの 船を待つ  
新保砂浜 米ならよかろう いとし船子に ただ積ましょ  
沖を走せ走せ 広野を見れば 娘かわいや 柴を刈る  
三国湊を 出てゆく船は 支那や朝鮮 ロシヤまでも  
主にもろうた 八尾の雪駄 七夜切れても まだ一夜  
江戸の吉原 三国の小女郎 初にむかえて できた里  
三国出村の 女郎衆の髪は 船頭さんには いかり綱  
小女郎一人に 新兵衛さんが二人 どうせ一人は 波のうえ  
三国小女郎の その昔より 真情づくなら まけはせぬ  
お前ら出ならんか 三国の浜へ 女浪男浪が さしまねく  
唄は上ハ町 情の出村 わずかにへだてて 地蔵坂  
流れ流れて 浮名の末も 三国湊や 九頭龍川  
金が降る降る 三国の出村 船が出るたび はいるたび  
三国湊へ 船のり入れな 積荷出村で からになる  
新保汐風 三国はあらし 出村吹く風 色の風  
愛宕山から 飛んでくる烏 銭も持たずに 買お買おと  
立った浮名の そのはじまりは 宿の浜辺の 踊りから  
出村思案橋 もどろかいこか 何の思案橋 ゆくがよい  
往こうかもどろか 恋路の闇に 心迷うた 思案橋  
行こうか岩崎 もどろか請地 ここが思案の 境橋  
三国女郎衆は 親よりましや 雨の降らんのに カサくれた  
三国女郎みて うちのかゝ見れば 山に住いなす 猿のよう  
三国生まれの 子飼いの女 お手に入れたは 主ひとり  
三国通いを 知らない人は 世にも憐れな 金の番  
三国湊を 抱えた沖の 雄島雌島の 夫婦島  
三国お山王 お猿子祭 山車を見せたや 旅の衆に  
三国祭は 申の日繰りて 山王祭と いうわいな  
三国祭は めめんじゃこ祭 そうけ持ってこい 掬てやる  
神のお庭の 静かにくれて 雨の音きく 桜谷  
空の曇りも あの青あらし 吹いてながして 日和山  
三国湊の お性海寺様の 椿みごとに 咲きみだれ  
三国名所で 名高いものは 千本桜の 瀧谷寺  
花がちるちる あの糸桜 鐘は入相 瀧谷寺  
三国三国と 通う奴馬鹿よ 帯の幅ほど ある町を  
鷹巣山見よ 夕焼けこやけ 積る白雪 黄金色  
汐見夜桜 その花かげで ちらと見初めた 主じゃもの  
島が桜か 桜が島か 三国向島 見にござれ  
三国名物 万寿に雲丹よ 下戸も上戸も にがしゃせぬ  
雄島亀島 夫婦の岩も はなればなれに 苦労する  
雄島西の空 夕空やける 烏なきなき かえる空  
三国よい所 雄島をうけて 鷹巣あらしが そよそよと  
岩の東尋坊 女松の新保 波止場かかえた みぎひだり  
わたしゃ新保の 瀬にいた鴎 あとも濁さで たつわいな  
お前ら来ならんか 新保の山へ 雄松雌松の 枝折りに  
お前ら見なんだか 新保の浜を 金の木ござらぬ 松ばかり  
わしの心と 新保の松は 枯れて落ちても 二人づれ  
三国新保の大川でさえ かけりゃかかるよ 長い橋  
主がくるかと お手てをかざし 長い新保の橋を見る  
袈裟を忘れた 新保の浜へ 酔いがさめれば 思い出す  
笙を忘れた 新保の茶屋へ 空が曇れば 思い出す  
誰がどう言うても 金津はざいご 三国や湊で船が立つ  
三国湊は 九頭龍川の 沿うて開らけた よい湊  
かわい殿御の 矢帆なし姿 枕屏風の絵にしたい  
沖に白帆が百九十はい わしの殿御もあの中に  
わたしゃ波止場の 役人ならば 今朝の出船を 手でとめる  
厚司なわ帯 腰には矢立 問屋通いの ほどのよさ  
姉にささせたら 妹にもささせ 同じ蛇の目の からかさを  
お前一人か 連れ衆はないか 連れ衆あとからかごでくる  
義理と誠に 二人を立てりゃ 合いで小女郎の 身がもたぬ  
お着せ申した 羽織の襟を かえすそれさえ つらい朝  
来いとおっしゃれば 妻ゃどこまでも 下は南部の はてまでも  
逢わぬ恨を 書いたはとがよ 逢えばやさしい 主じゃもの  
船は出い行く 帆かけて走る 女郎衆浜へ出て 袖しぼる  
娘いたかと 窓からのぞきゃ 親父横座で 縄のうてる  
主が主なら 私もわたし 気嫌とる気は さらにない  
好いてはまれば 泥田の水も 飲んで甘露の 味がする  
嫌と思えば 婆もかげも 歩く雪駄の音もいや  
街のまん中を 戻りつ行きつ 五銭白銅が 落ちている  
沖のど中に 絹機たてて 浪に織らせて 岩に着しょ  
米の生る木で 草履をつくり あるきゃ小判の あとがつく  
差いた盃 中見てあがれ 中は鶴亀 五葉の松  
波止の灯台 出船をてらす 恋の入り船 まだ見えぬ  
梅がいやじゃし 桜もいやじ 桃と桃との あいがよい  
浅い川なら 膝までまくる 深くなるほど 帯をとく  
宵の横どり 夜中の茶臼 今朝の別れに 本間取り  
姉のかわらけ 妹の毛武者 同じおそそに 裏おもて  
虎は千里を 走ると言えど 腰巻一重が ままならぬ  
盆のお月さんは まん丸こで丸て まるてまんまるこで 角がない  
盆の十六日 闇ならよかろ お手を引き合うて 音頭とり  
踊りたてたら こわいてはならぬ あけの烏が 鳴くまでは  
踊る人もなし 御見物ばかり 桶の底なし 側ばかり  
唄はうたいたし 唄の数知らず 一ツ唄うては 七かえし  
も早や踊りも やめたらよかろ 天の河原も西ひがし  
鯉の滝のぼり なんと言うて登る 山を滝にしよと 言うてのぼる  
伊勢の大神楽 京へのぼるやら 笛や太鼓の 音がする  
西も東も 南に北か 私しゃ他門から 逢いに来た  
いつも七月 盆ならよかろ 踊る○○○に会うまいか  
酒はのみたし 酒屋はねたし 起きてる酒屋にゃ 借りがある  
雨が降ってくる 洗たく物ぬれる ねんね泣きだす ままこげる  
おばばどこ行きゃる 三升樽さげて 嫁の在所へ 孫だきに  
やしゃでやのしゃで やのしゃでやしゃで やしゃでやのしゃで こちゃしらぬ
「越前馬子唄」  
 
(ハイハイ)  
笠を忘れた (ハイ) ハァー 敦賀の (ハイ)  
茶屋で (ハイハイ) 空が 曇れば (ハイ)  
ハァ 思い (ハイ) 出すョ (ハイハイ)  
わらで髪結うた 馬方なれど 女郎衆 待ちます 府中の宿で  
あなた一人が お連れがあるか お連れ後から 駕籠で来る  
今庄まで来た 府中まで五里じゃ 帰り馬なら 乗せてくれ  
二百十日に 風さえ吹かな 親子三人 寝て暮らす  
お月さんでさえ ごじゃれにじゃれて 日野の山から すきのぞき  
馬は豆好き 馬方酒が好き 乗った中乗りゃ 女郎が好き  
「芦原節」 (「葦原節」)  
坂井郡三国町から、九頭竜川を少し川に沿って上ったところに芦原(あわら)温泉がある。芦原温泉の芸妓が唄うお座敷唄。この温泉は、浴客の他に東尋坊見物の客も立ち寄る有名なところ。大正末、斎藤佳三が作詞・作曲した新民謡。  
 
花の (チョイトナ チョイチョイ) しずくか 芦原のいで湯 (チョイ チョイ) すいた  
 同志が桜色 ほんとうれしえわね (チョイ チョイ)   
一人生まれて 一人で死ぬに 何故に一人じゃ 暮されぬ ほんと暮されぬ  
銀の鏡か 芦原の出湯 深い情けの 色くらべ ほんとうれしわね  
打つな やねの戸 芦原は禁猟 夫婦鴨だよ 堀炬燵 ほんとうれしえわね 
「阿曽(あぞ)相撲甚句」    
300年以上前から続くとされる阿曽の相撲甚句は、敦賀市阿曽の利椋(とくら)八幡神社であった。即興の文句を入れた甚句に合わせ、男衆が独特の踊りを見せた。境内の土俵で子どもや大人の宮相撲が奉納され、化粧まわし姿の男衆10人が土俵入りした。行司さんら相撲甚句保存会の人が交代で甚句をうたった。輪になった男衆は「やすとこ、やすとこ、やすとこしょい」と低い声を上げ、力を誇示するように両拳(こぶし)を掲げて土俵を回った。テンポが遅い大踊りと少し急な小踊りを披露し、見物客から盛んな拍手が送られた。  
 
←(相撲甚句) 
(美浜町相撲甚句)  
(ハアー ドスコイドスコイ)  
とかく夫婦というものはヨー ハアーあだやおろかな縁じゃない  
知らぬ二人が結ばれて 三三九度は高砂や  
めでためでたの若松で 伊勢が浜から伊勢の海  
出羽の海にと船出すりゃ 金波銀波の片男波(かたおなみ)  
   新婚旅行は宮城野や 朝日山やら二所の関  
   三保が関をばはや過ぎて はるかかなたにゃ佐渡が獄  
   春日野あたりにマイホーム やがてかわいい二子山  
   二人の中には立浪も なくて一生花篭よ  
   井筒末まで添えとげる それが夫婦というものか  
   いうものよ(ハアー ドスコイドスコイ)
「やんしき」踊り  
「やんしき」の起源は伊勢地方の松坂で行なわれていた「松坂節」、または「松坂節」が越後地方に伝播してできた「越後松坂」が行商や旅芸人により福井に伝わり発生したものと考えられる。「やんしき」「やっしき」の名称の違いは、起源となった「松坂」が広まる際に、踊りの呼び名やハヤシ言葉などがなまったためと考えられる。県内での分布状況は、「やんしき」は福井市から敦賀市まで分布しており、特に丹南周辺に集中している。かつて、嶺北一帯で広く踊られていたが、昭和40年代を境に県内ではそのほとんどが途絶えてしまい、鯖江市周辺においてかろうじてその伝統を受け継いでいる。鯖江では元文3年(1738)から盆踊りが始まったと伝えられ、この段階で「やんしき」が踊られていた可能性が高い。  
 
←「松坂節」「越後松坂」 
「やんしき節」  
やぁ〜れ こうらいや やんしきやぁ〜れ こうらいやで  
福井朝立ち 今庄泊まり 中の府中が昼弁当  
越の大山すそとおり 白鬼女渡しに差し掛かる  
渡れば家久 大番町 三国通いの船溜り  
丹南一の貿易港 柳原とは家久の 街道沿いの宿場町  
宿屋お茶やが軒並べ しんこ団子が客を呼ぶ  
たけふ踊りのっなあ〜  
さてひなぶりちょいな〜  
やぁ〜んしき やんしき ドッコイ
 

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近畿

 

北海道東北関東中部近畿中国四国九州 
三重県奈良県和歌山県滋賀県京都府大阪府兵庫県

三重県  
「伊勢音頭」 (「川崎音頭」) 
伊勢神宮参拝の帰りに古市 (伊勢市)の遊郭へ上がった客らによって全国に広まった民謡。伊勢参りは、信心目的ばかりでなく江戸期には古市の遊郭や観光そのものが旅の目的ともなっていた。 「荷物にならない伊勢土産」とも言われ、伝えられた各地で作り替えられ普及した唄や踊りがある。主に祝い歌として歌われている事が多く、祭りなどの伝統行事、通過儀礼の席で歌われる事が多い。古市近くの川崎から生まれたことから川崎音頭とも呼ばれた。 
 
伊勢講というのは今でいう旅行の積み立てとはちょっと違って、皆で積み立てたお金で誰かが代表して伊勢参りをし、その順番がいずれは全ての人に回ってくるものが一般的だったようだ。今の貨幣価値にして1000万円ほどの散財を伊勢参りでするグループもあったそうで、日ごろはつつましく農作業をしているような連中も、伊勢参りを全国に広めた御師の家に宿泊し、夢のような歓待を受けていたそうだ。「一生に一度はお伊勢参り」というが、到底、現代社会で類似の行事を探すことはできない。自由に移動することが叶わない時代だったからこそ、栄えた面もあるのだろうか。伊勢音頭の踊りは、古市という遊郭にあった牛車楼とも呼ばれた備前屋が発祥らしい。遊郭での踊りは男に限らず楽しんだらしいので、さぞ、伊勢詣に参じた人々にとっては、夢のような賑やかな踊りであったろうと思われる。  
歌詞の「豊久野の銭掛け松」というのは、昔伊勢に向かう街道沿いに植わっていた松のことらしく(現存していない)、諸説あるようだが、伊勢に向かうものがここからどの程度日数がかかるのかを近くの男に聞いたところ、20日近くもかかるとの返答だったので、銭の束を末に掛けて、伊勢神宮に向かって拝み帰ろうとした際に、近くの男が銭を盗もうとしたら、銭の束が蛇に化けたとかいう話が伝わっているようだ。  
 
伊勢はナー 津でもつ 津は伊勢でもつ  
尾張名古屋はヤンレー 城でもつ  
伊勢のナー 豊久野 銭懸け松は  
今は枯れても 名は残る  
とろりナー とろりと 紅鉄漿つけて  
女子たらしの 化粧坂  
 
ことしや世がよい ほうねんどしょ  
ヨイトコセ コレハイナ  
米のやまやま ヤンデ 金の山      
ササ ヤアトコセイ コンヤナ アリャリャ コレハイナ コノナンデモセイ  
(正調伊勢音頭)  
伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ  
ヨイヨイ 尾張名古屋は ヤンレ 城で持つ  
コラコラ ヤアトコセイ ヨイヤナ アララ コレハイセ コノヨイトコセ  
 
伊勢はナァーァ 津でェ持ォつゥ 津はァー伊勢ェーで 持つ(ヨイヨイ)  
尾張りィ名古ーォ屋わァ ヤンレェエ 城ォで 持つ  
コラコラヤートコーオォー セェノオーヨイヤナーアーララァ コレワイセーエ コノーヨイトコセー  
伊勢え伊勢えと 芽の穂もなびく 伊勢は芽ぶき こけらぶこ  
伊勢は よいとこ 菜の花つづき 歌もなつかし 伊勢音頭  
伊勢に行きたい伊勢路が見たい せめて一生に一度でも  
紅い灯のつく 新古市で 心引かれた伊勢音頭    
(道中伊勢音頭)  
ア 〜 ア ヨオイナー  
伊勢は津で持つ ヨイヨイ  
津は伊勢で持つ アヨオイセーソコセ  
尾張なあ 名古屋は ヨーイソーレ  
城で持つ  
ササ ヤートコセーノ ヨーイヤナ アララ コレハイセー ソリャヨイトコセー  
(啓神の唄)  
アーアァヨオオナァーー  
西行法ォ師ィはァ(ヨイヨイ) お伊勢様へ参り(ァヨーイセーソーコセー)  
「何事のおはしますかは知らねども(アソレ) かたじけなさに涙こぼるる」と(アソレ)  
読んでナーァ拝んでヨォーイ みなさんよ すすり泣きィ  
ササヤートコセーエノ(彌長久) ヨーイヤナ(世怡彌成) アーララー(安楽楽)コレワイセー(是者伊勢)ソリヤ ヨーイトコイセー(善所伊勢) 
(本唄)  
アーアァヨオオイナァーァ  
伊勢に行きたい(ヨイヨイ) 伊勢路が見たい(アヨーイセーソーコセー)  
せめて一生に ヨォーイ みなさんよ 一度でも  
ササーヤートコセーエノ ヨーイヤナ アーアララーコレワイセー ソリヤ ヨーイトコイセー 
今年まいろよ お伊勢の宮へ 花の三月 半ば頃  
お伊勢よいとこ 菜の花つづき 歌もなつかし 伊勢音頭
「木遣り唄」 (「お木曳き木遣唄」「伊勢音頭」)  
伊勢神宮の20年ごとに行われる遷宮の際に、材木をひきながらうたう「木遣(きやり)唄」が三味線唄化したもの。(ヤートコセ)という囃子ことばはその掛声のなごりである。近世以降、伊勢参りの旅人や、願人(がんにん)坊主などの下級の宗教者的芸能者の手により全国に運ばれ、「津軽願人節」「隠岐祝い音頭」など伊勢音頭系統の唄の分布はきわめて広く、各地に定着して祝唄(祝儀唄)や土搗(つちつき)唄に転用されているものも多い。  
 
三重県伊勢市の民謡。伊勢神宮で、20年に一度行われる式年遷宮に、社殿建て替え用の御用材を氏子が曳(ひ)いて運ぶおりの「お木曳き木遣唄(きやりうた)」。源流は不明であるが、中世の「木遣口説(くどき)」あたりを母体にして、江戸時代に今日の七七五五調、26文字形式に整えられたと思われる。この「お木曳き木遣唄」、俗に囃子詞(はやしことば)をとった「ヤートコセー」は、伊勢神宮の門前町としてにぎわった古市(ふるいち)や川崎の花柳界に入り、お伊勢参りの人たちの酒席の唄になったことから、伊勢土産(みやげ)として日本中に広まっていった。ところが1796年(寛政8)5月4日、古市の「油屋」で、客の医師孫福斎宮(まごふくいつき)が酒のうえから9人を斬(き)る大事件を起こした。この事件はすぐ芝居に仕立てられ、大坂道頓堀(どうとんぼり)・角(かど)の芝居の立て作者近松徳三は、加害者を御師(おし)にし、9人斬りを10人斬りにし、殺人のおりの下座(げざ)囃子に「ヤートコセー」を用いた。そして外題も『伊勢音頭恋寝刃(こいのねたば)』としたため、以来「ヤートコセー」は『伊勢音頭』とよばれるようになった。  
 
←(木遣口説)  
 
(アァヨー オイナー エー) 竹に雀はー (アヨイヨイ) 品良く止まる (アァヨーイセーソーリャセ) 止めてなー止まらぬ (ヨイソーレーサー) 色の道  
(ソーラーヨーイトーコセー エーヨーイーヤーナー ソレ アレワイセーソレワイセーソーリャーヨーォイートセ) 又は (ホンマカイナヨードッコイセー エーヨーイーヤーナー ソレ アレワイセーソレワイセーソーリャヨーォイートセ 姉さんもせ ソラ 妹ともせ ソラ 母(かかぁ)は納戸で○ー○ーせー)  
めでためでたの 若松様よ 枝もな栄える 葉も茂る  
お伊勢参りして 飲んだか酒を 天のな岩との 菊酒を  
床の掛け軸眺むれば 上から鶴さん舞い下がる 下から亀さん舞い上がる 天と地との真ん中で 鶴となー亀とが 舞を舞う  
坂は輝る輝る 鈴鹿は曇る 愛のなー土山 雨となる  
伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張なー 名古屋は 城でもつ  
差した盃 中見て飲みゃれ 中は鶴亀 五葉の松  
真ん中づくしで申すなら 頭の真ん中ギリギリで お顔じゃお鼻が真ん中で 背中じゃ背筋が真ん中で おなかじゃおへそが真ん中で へそから三寸下がったら こんもり繁った森がある 一番お寺がケイガン寺 二番お寺がサネガン寺 三番お寺がアナガン寺 三つあわせてボボガン寺 朝も早よから坊さんが 出たり入ったり又出たり(X3以上) 有り難とて 有り難とて 有り難とて 白いなー涙が ポロポロと  
一かけニをかけ三をかけ 四かけて五かけて星をかけ 橋の欄干腰をかけ はるか向こうを眺むれば 十七・八なる姉さんが 石鹸片手にぬか袋 もしや姉さんどこ行きゃる どこえ行くとて知れたこと 風呂屋の風呂へ風呂入りに 風呂は沸いたか三助さん 風呂は只今抜きました 抜いたあなたは良いけれど 抜かれた私の 身のつらさ  
一合マス二合マス三合マス ソレ 四合マス五合マス六合マス ソレ 七合マス八合マス九合マス ソレ 貴方と私は一升マス 一升になったら 上げます 下げます 持上げます 持上げりゃ白酒こぼれます こぼれりゃ 布団が汚れます 汚れりゃ 布団を 洗います  
祭りお宮に 御神燈あげて 氏子なー揃えて 宮参り  
大福長者の音娘 今夜にせまる嫁入りに 箪笥長持ち 十二竿 琴に三味線笛つつみ これだけ揃えてやるきゃらな きっと帰るな戻されな そこで娘が申すには 父さん母さんそりゃ無理よ 東が曇れば雪とやりゃ 西が曇れば雨とやりゃ 一生連れ添う婿さんの お気になー めさなきゃ わしゃ帰る  
今年しゃうれしや ○○に毛がはえた はえた初○○ 誰に挿す  
イザリ勝五郎 車に乗せて やれ引け それ引け 初春に  
宮の拝殿 若者よ(たたり○○)そこへ神主(ゆきまろ)現れて おまえら二人は何をする 何をするとて知れたこと 宮の氏子を増やすため 氏子増やしも良いけれど 神をなー 粗末に してくれな  
うちの裏の竹薮で 十七・八なる姉さんが 何故かしくしく泣いている 何が悲して泣いている 父ちゃん無いのが悲しのか 母ちゃん無いのが悲しのか いいえそうではありません 私の○○○○に毛がないの 何か薬は無いでしょか あります あります あぁります 山で取れたる松茸(まったけ)と浜で取れたる蛤(ハマグリ)を焼いて粉にしてつけたなら 私の○○○○に毛がはえた 
「尾鷲節」  
三重県尾鷲市の港を中心にして歌われてきた民謡。もともと漁師たちの歌っていた舟唄(ふなうた)だったが、幕末に尾鷲の港町で歌われた流行(はやり)唄の「何故(なしょ)まま節 」が唄の支柱になっている。これが、2月上旬に行われる尾鷲神社の祭礼での神輿(みこし)の道中に笛や太鼓で歌われるようになってから、古い道中唄「こちゃえ節」を取り入れ、さらに新しい歌詞もつくられ、大正6年レコードの吹込み以後 「尾鷲節」とよばれるようになった。この民謡の特徴は、本唄が終わってから転調し「中村山のお灯明(とみょ)あげ 国市(くにいち)の 国市さまの夜ごもり」という道中唄の一節を取り入れた中唄が入っていることである。 
 
「尾鷲節」は、当時は「なしょま節」として船人相手の女たちが酒席の騒ぎ唄として唄ってい たものだとか。それが「こちゃえ節」になり、「御輿かつぎ唄」 となり、「のんのこ節」の囃し言葉が結び付いて出来た「尾鷲節」に、さらに同地に伝わる獅子舞神楽の道中囃し を前奏に加えたのが今日の「尾鷲節」らしい。譜面を見ると、本唄の合間に全く趣の異なる中唄というのが挟まっている。これを道中唄(多分、道中囃しのこと)といい、もともとは別の唄だったらしい。  
歌詞は尾鷲周辺の地理が頭に入っていないとその意味が取りずらい。「尾鷲よいとこ 朝日を受けてヨイソレ 浦で五丈の 網を曳くノンノコサイサイ」とあるが、沖合の佐波留(さばる)島と桃頭島(とがしま)の間に昇る朝日の美しさが尾鷲の自慢の一つだったことが唄われている。「ままになるなら あの八鬼山(やきやま)をヨイソレ 鍬でならして 通わせるノンノコサイサイ」は、西国一の難所と言われた八鬼山越えについて、尾鷲市向井側の若い大工と、三木里側の娘との悲恋の物語がその背景にあるとか。道中唄の「 中村山の お灯明上げ 国市の 国市様の夜籠り」の中