弘法大師 (空海) 修行の旅

民話伝承名 / 東北関東中部近畿中国四国九州  
民話伝承 / 東北関東中部近畿中国四国九州  
弘法水 / 東北関東中部近畿中国四国九州  
温泉 / 東北関東中部近畿中国四国九州  
いぼとり神仏 / 東北関東中部近畿中国四国九州  
修行の旅 /  
 青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県 
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修行の年譜 / 唐より帰朝-入京四国遍路満濃池修築栃木県高野七口弘法大師 年譜1年譜2年譜3年譜4
 
関連諸説  空海  最澄 

雑学の世界・補考   

民話伝承名

 
   ●大師関連寺院 一般寺院 民話伝承 湧水 温泉 ご利益 
北海道・東北
北海道  
「郷芳寺の大師」「阿吽寺の不動明王」「景雲寺の霊鐘」  
 
青森県  
「ならずの柿」「食べられないトコロ」「桃石」「駒込の大師」「疫病除けの呪」「水なし」「水無川」「さるけ」「宇會利山中の温泉」  
 
岩手県  
「甘蕨」「甘蕨」「逆びわ」「手打胡桃」「山口柿」「杖銀杏」「草餅石」「井戸横丁」「弘法水」「弘法清水」「白水井戸」「弘法の授け井戸」「水無川」「水なしの話」「松山寺の十三仏」「大興寺の十六羅漢」「東禅寺の法華経」「長根寺の不動像」「永福寺」「大師講」  
 
宮城県  
「三度(みたび)栗」「夫婦石」「飯盛井戸」「山下清水」「独鈷水」「弘法水と蚊封じ」「山上清水」「錫杖ケ淵」「白鹿堂」「瑞巌寺の般若心経」「宝性院の大黒天・毘沙門天」「菎峰(こんぽう)寺の稲荷明神」「正楽寺の阿弥陀仏」「神宮寺の曼荼羅」「薬真(ルビやくしん)寺」「弘誓(ぐぜい)寺」「蛭がいない田」「弘法水」「湯ノ原の湯」「蕃山」「信行堂山」  
 
秋田県  
「甘蕨」「突塩」「弘法授けの蕪」「弘法大師山の蕨」「箸の杉」「中俣堀切の銀杏」「お手植銀杏」「大師逆杖の銀杏」「縞石の浜」「弘法と鱒」「ウラツブ」「弘法お授け水」「弘法スズ(清泉)」「弘法発見の泉」「手習い石」「田村根子」「正(しょう)念寺の観世音」「台蓮寺の地蔵菩薩」「禅林寺の不動明王」「七座観音堂」「真形」「百宅(ももやけ)部落」「またぎ縁起」  
 
山形県  
「弘法清水」「大師の井戸」「大梵字川」「温海温泉」「吾妻温泉」「弘法の杖」「大聖寺の四社明神」「称名寺の不動明王」「恩徳寺の如意宝珠」「幸徳院の両界曼荼羅」「聖徳寺」「にがくない蕨」「大平の石芋」「独鈷の捻れ杉」「椿と山ノ芋の生えない土地」「弘法の注連縄(#「縄」は旧字)」「宮沢の寄木」「弘法水」「弘法水」「弘法清水」「柳清水」「弘法井戸」「弘法井戸」「塩野」「大梵字川」「狩籠の池」「白水」「弘法の舟岩」「材木岩」「心経石」「物見岩と河童淵」「出塩の弘法神社」「弘法洞窟」「御積(おしやく)島」「湯殿山」「中津川の大師講」「袖浦」  
 
福島県  
「甘蕨」「弘法蕨」「弘法蕨」「弘法蕨」「甘蕨」「かべ豆と弘法大師」「石芋」「うまんづら」「石芋」「枝垂栗」「笠岩」「独鈷水」「弘法水」「弘法大師行人清水」「弘法清水」「弘法清水」「独鈷水」「真野のはた織り」「水無し川原」「水無川」「水がなくなる」「井戸無し」「塩の井」「念仏池」「茨木童子」「湖のはじめ」「足長手長」「福満虚空蔵」「弁天様」「一夜のかけ橋」「観音堂」「冷泉寺の冷泉・不動」「相応寺」「宝聚院」「光照寺の大師御影画」「真浄院」「円蔵寺」「恵隆寺」「竜福寺の馬頭観音像」「観音寺」「観音寺」「観音寺の聖観音」「薬師寺の薬師如来」「医王寺の大日・薬師」「徳善院」「満願寺の五智宝冠」「護国寺の五鈷」「恵日寺」「能満寺」「大蔵院」「長(ちょうこく)谷寺」「石芋」「弘法清水」「霊山寺」「仏具山の護摩坦」
 
関東

 

栃木県  
「石の芋」「片葉葦」「芋森神社」「杖欅」「弘法大師の加持水」「弘法水」「弘法の水」「弘法大師の水」「水無し」「大師河原」「弘法の井戸」「弘法水」「猿岩と猿臂の滝」「材木岩」「土塔の羽虫」「日光」「塩原温泉」「滝尾権現」「清滝権現」「寂光権現」「風穴羅刹窟」「鶏足寺」「浄因寺」「出流山」「弁天さま」「大谷の先手観音」「水竜の霊水」「独鈷沢と五十里(いかり)」「弘法泉」「一ッ石」「福寿院の草書心経」「興生寺の画像」「開雲寺の五大明王・愛染明王」「浄光寺の門額」「金剛定寺の五字梵文」「観音寺の観音」「西明寺の十二坊」「清滝寺」「光琳寺」「大谷(おおや)寺」「輪王寺」「成就院」「成願寺」「金松樹」「八水」「酒の泉」「弘法清水」「湯宮」「人数計りの桝」「影向石」「六字名号」「大日堂」「女体社」「独鈷山」「四条寺旧跡」「般若寺旧跡」「寂光寺」「木叉寺旧跡」「九十九谷」「大猛(おおだけ)丸」「追分地蔵」  
 
群馬県  
「石芋」「芋の森」「石芋」「諏訪町の桃」「逆杉」「大師の腰掛石」「大師石」「弘法井戸」「いろは井戸」「渇き井」「川場の湯(一)」「川場の湯(二)」「川場の湯(三)」「鍋割の峰」「海老瀬」「嫗が懐」「俎(まないた)の名号」「日輪寺の観世音」「蚊封じ」「弘法井戸」「弘法滝」「浄法寺の浪切不動」「善導寺の利剣名号」「平等寺の掛軸」「大信寺の薬師」「大重院の弁財天」「玄太(げんたい)寺の観音」「医光寺の薬師」「退魔寺の不動」「東禅寺の毘沙門・馬頭」「金剛院の阿弥陀」「如意寺」「円満寺と鷲ヶ峰」「弘法さん」「柏」「石芋」「石芋」「三度栗」「弘法大根」「茶無村」「梓と葛藤」「鰻橋」「弘法の水」「弘法の水」「弘法の水」「一杯水」「弘法慈悲の水」「独鈷の井」「硯水」「弘法清水」「千貴松峠の清水」「弘法清水」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法井戸」「七つ井戸」「弘法がいと」「駒寄せ井戸」「中井戸」「御手洗の井戸」「萩原悪井水」「法師温泉」「大塩の水無し」「音無川」「柏池」「弘法ケ池」「船尾滝」「爪引き不動」「足跡石」「弘法石」「弘法の足跡」「弘法の割り石」「鬼石」「正法寺と弘法様の井戸」「不動尊像」「渋沢薬師」「夫婦薬師」「そうりん塔の台石」「石山の観音」「十一面観世音(金剛寺)」「厄除観世音」「石上寺」「光明寺の地蔵」「爪彫り地蔵」「金剛寺と地蔵菩薩」「不動明王像」「弁天堂の弁才天」「弁天像」「多聞天王」「興禅寺の大黒天」「袈裟丸山」「十二の森」「九十九谷」「四十八石」「上白井の弘法」  
 
茨城県  
「ちばひめ」「護摩担岩」「泉の観音さま」「板橋の不動三尊」「阿弥陀寺の六字名号」「安福寺の般若心経」「宝薗寺」「観音寺の不動尊」「法鷲院」「大山寺」「如宝寺の般若心経」「広幢院の心経」「文殊院の文殊曼荼羅」「全宗寺の不動」「不動院の不動」「愛染院の弁財天」「慈雲寺」「小松寺の如意輪観世音」「報国寺の弁財天」「報恩寺」「法泉寺の不動」「願成山の百体観音」「地蔵菩薩」「蓮光院の三宝荒神・腹籠り不動」「金剛院の不動明王」「延命院」「長竜寺」「虚空蔵堂」「徳蔵寺」(第3巻)「筑波山」「石饅頭」「投げ筆の軸」「大御堂」「日輪寺」「徳蔵姫」  
 
埼玉県  
「毛芋」「石芋」「萎(しなび)竹」「菩提樹」「弘法の松」「杖銀杏」「二度栗山」「弘法谷と弘法井戸」「弘法清水」「掘抜の滝」「三ツ井戸」「願い水」「疣(いぼ)水」「弘法井戸」「弘法井」「水がなくなる」「弘法山」「九十九(つくも)谷」「九十九谷」「九十九谷」「聖観音」「護摩修法」「杖銀杏」「ガッカラ薬師」「三井戸」「第六番観音の撫石」「妙光寺の宝号」「般若心経と法華経」「心経」「能護寺」「般若院の大般若経」「三十二番観音の大般若経」「長久院の両界曼荼羅」「大師自画像」「大応寺」「延命院の地蔵」「不動画像と大師自画像」「高山不動」「不動像不動画像愛染画像」「不動画像と自画像」「不動画像」「長興寺の不動」「智善寺の不動」「熊谷寺」「真光寺」「大日如来」「西光庵の大日如来」「瑞光寺の大日如来」「大日如来」「大日像」「法養寺の大日と薬師」「善光寺」「弥陀」「金仙寺」「弥陀立像」「聖天社の弥陀」「称名寺の弥陀三尊」「秩父第一番の弥陀」「光明寺の弥陀と不動」「薬師」「薬師」「薬師と弥陀」「薬師寺の薬師」「医王院の薬師」「東曜寺の薬師」「薬師」「薬師」「定勝寺」「薬師」「薬師如来」「地福寺の薬師」「十六番の薬師」「真性寺の薬師」「興禅院の正観音」「常福寺の正観音像」「正観音坐像」「観音と大日」「光勝院の正観音」「正観音坐像」「西蔵院の正観音」「雲中出現の観音」「如意輪観音」「如意輪観音」「最勝院の十一面観音」「知足院の十一面観音」「十一面観音」「三峯山の十一面観音」「千手観音」「滝泉寺の観音」「正覚院の千手観音と六字名号」「十九番観音の千手観音」「天龍寺の千手観音・大日」「馬頭観音」「土観音」「廿八番観音・護摩坦」「十三番の子安観音」「観音坐像」「北川の観音」「十一番の観音」「実正寺の地蔵」「玉蔵院の地蔵菩薩」「浄念寺の地蔵」「地蔵像」「延命地蔵」「香最寺の延命地蔵」「灯明寺の地蔵」「観音院の地蔵」「寿徳寺の地蔵」「延命寺の地蔵」「地蔵木像」「地蔵」「成就院の地蔵」「爪彫り地蔵」「宝積寺の地蔵」「総持寺の文殊」「彦倉の虚空蔵さまと延命院縁起」「虚空蔵」「洞昌院の虚空蔵」「不動立像」「不動」「不動立像」「竜蔵院の不動」「不動尊」「正谷院の不動」「法蔵寺の不動明王」「宝聖寺の不動」「観福寺の不動」「不動」「光明寺の不動」「不動岡の不動」「桜本坊の不動」「岩殿観音の爪かき不動」「不動坐像」「不動木像」「不動立像と十一面観音」「不動と薬師」「五大明王」「岩井堂の波功(#「功」は底本のママ)り不動と護摩坦石」「明王院の不動」「青毛の弁天」「子安弁天」「円福寺」「龍花院の弁天と聖天」「寄居の聖天」「行蔵寺の毘沙門」「善福寺」「牛伏の毘沙門」「十輪寺の仁王」「蔵王権現」「十万八千仏」「永福寺と弁天・毘沙門」「徳星寺」「金乗院」「山口観音」「観音寺」「円照寺」「弘光寺」「日向不動」「護摩坦石岩」「我空堂」「般若寺」「西福寺の聖観音」「栄福寺の聖観音」「瑠璃光寺の観音」「法性寺奥の院の観音」「勝林寺稲荷の十一面観音」「深井寺の御腹籠」「鎮守弥左衛門稲荷」「薬師堂」「藤田聖天宮」「円福寺」「総持寺」「円通寺」  
 
千葉県  
「灰汁無蕨」「渋無蕨」「甘蕨」「石芋」「石芋大師」「弘法大師の芋井戸」「片葉葦」「逆銀杏」「弘法水」「独鈷水」「独鈷水」「塩の井」「成田不動尊」「犬の足は三本」「飯沼観音」「新善光寺の榧」「円静寺護摩堂の棟札」「弘法寺の額」「龍善寺の不動明王」「川(せん)福寺の弥陀名号軸」「かくれ座頭」「円蔵院の仏像」「顕実寺の弁財天」「称念寺の大黒天」「東福寺の薬師」「源心寺の不動」「不動院の不動」「地蔵院の延命地蔵」「遍智院」「大日寺」「大師の袈裟」「本国寺」「東海寺」「竜鑑寺」「本法寺」「八蔵坊」「観福寺」「橘禅寺」「小網寺」「石芋」「石芋」「弘法水」「弘法水」「弘法水」「加賀清水」「藍染の池」「宝寿院の地蔵堂」「円福寺」「山倉大六天の鮭」「花島山」「大仏頂寺」  
 
東京都  
「清水稲荷」「水無瀬川」「般若心経」「弥陀八幡」「木彫り地蔵」「自作の木像」「寺島大師」「大日如来」「腹帯地蔵」「無量寿院の本尊」「御行松」「楊枝杉」「善福寺」「弘法大師刷毛書名号」「楊柳水」「善福寺の毘沙門天・観音・五大力明王」「独鈷滝」「護摩坦岩」「行光寺の般若心経」「明王院の鼠心経」「西福寺の心経」「心経一巻」「祗園寺の心経」「宝幢院の仏画」「自画像」「自画像」「大師画像」「重林寺の不動」「吾妻権現社の不動画像」「不動明王画像」「不動画像」「波切不動画像」「妙光院の虚空蔵画像・観音画像」「西福寺の弁財天」「斟珠(しんゆう)寺の弁財天」「大師筆八幡宮軸」「厳正寺の九字名号」「高勝寺」「玉姫稲荷の稲荷像」「まないた大師」「日曜寺の大師像」「南蔵院の大師像」「大師自作の像」「持宝院の大師像」「総持寺の大師」「弘法大師自刻木像」「長谷寺の阿弥陀」「善光寺如来」「慈眼寺の弥陀」「延命寺の弥陀三尊」「弥陀と八幡」「西光寺」「安養寺の薬師如来」「蓮光寺の薬師如来」「薬師立像」「善徳寺の薬師」「鉦冠薬師」「鼓薬師」「円徳寺の薬師」「炎天寺の薬師」「薬師・不動」「薬師像」「薬師木像」「薬師」「明王院の観音」「東海寺の観音」「正観音と水月観音」「法禅寺の観音」「氷川明神社の十一面観世音・宇加神像」「宗参寺の正観音・弁財天」「馬頭観音」「十一面観音」「十一面観音」「亀高稲荷の十一面観音」「観音」「観音寺の十一面観音」「十一面観音」「正観音鉄仏」「正観音」「雲龍寺の千手観音」「如意輪観音」「正観音坐像」「如意輪観音・正観音」「高幢寺の地蔵堂」「海晏寺の地蔵」「常行寺の地蔵尊」「来福寺の経読地蔵」「湖雲寺の地蔵」「霊雲寺の地蔵」「与楽寺の地蔵」「地蔵古碑」「入谷の地蔵」「西念寺の目洗地蔵」「地蔵院の地蔵」「西光寺の地蔵」「地蔵尊」「地蔵尊」「地蔵木仏」「普門寺の虚空蔵」「大聖堂」「東福寺の不動」「神体不動」「東福寺の不動」「目白不動」「不動立像」「本尊不動」「不動坐像・不動影向石・弁財天」「無量寺の不動尊」「不動尊」「不動尊」「喜宝院の不動」「宝性寺の不動」「正福寺の本尊」「不動坐像」「不動像」「金剛寺と不動・宝印」「妙光院の不動」「不動木像」「不動坐像」「安楽寺の愛染明王」「宝仙寺(四尊合体像)」「弁天像」「安養寺の弁財天ならびに十五童子」「青松寺の弁財天」「羽田弁天」「弁天」「弁天社の神体」「藁苞弁天」「弁財天」「弁天」「寿昌院の弁財天」「梅洞寺の弁財天」「弁財天」「弁財天」「弁天塑像」「弁天像」「吉祥院の印子聖天と日輪弘法大師像」「毘沙門」「万福寺の韋駝天」「金王八幡」「僧形八幡」「八幡神」「筑土八幡の応神天皇像」「神体応仁天皇」「宝寿大明神社」「淡島の像」「三囲稲荷社」「円泉寺の太子堂」「龍生院」「弁天堂」「安楽寺」「真福寺」「薬師と六字名号」「茶ノ木稲荷」「動かない船」「長命寺」「護持院」「高野山宿寺」「九品山浄真寺」「瑠璃光如来」「牛頭天王社」「薬王寺の薬師如来」「万徳院の観音」「聖観音」「騰雲山明覚寺の正観音」「十一面観世音」「補陀落山養福寺」「三国伝来千手観音」「松樹山明王院」「普門院の身代観音」「多聞院の地蔵」「延命読経地蔵」「東覚寺の不動」「観蔵院の不動、愛染、毘沙門」「弁財天」「州崎弁財天」「水晶弁天」「霊亀山慶養寺」「蛭子・大黒」「誕生八幡宮」「橋本稲荷」  
 
神奈川県  
「石イモ井戸」「サトイモと大師」「臼井戸」「真言で湯をさます」「弘法大師と水無川」「お夏石」「川崎大師」「身代わり地蔵」「弘法硯水」「加持水」「赤井」「米嚼」「大師穴」「芋石」「田螺石」「長浦の女夫石」「護摩坦石」「弘法大師護摩坦石」「覚園寺の弘法大師護摩坦蹟」「弘法石」「宝生寺の画像」「竜源寺」「英勝寺の両界曼荼羅・大字絵名号」「最明寺の星曼荼羅・自画像」「徳恩寺の金剛薩〔タ〕(#〔タ〕は文字番号5190)画像」「長徳寺の観音画像」「地蔵画像・赤不動画像」「東漸寺の五大尊画像」「光明寺の不動画」「天然寺の不動画像」「千蔵寺の不動画像」「宝金剛寺の不動画像・多聞天」「広福寺の不動画像と地蔵」「金龍寺の不動及び八祖の書像」「増徳院の五大尊像」「愛染画像」「浄光明寺の三千仏画像・八幡画像」「宝前院の六字名号」「光明寺の六字大名号」「三宝寺の利剣六字名号」「宝蔵院」「大運寺の心経・地蔵・護摩坦跡」「薬王寺」「心経一巻」「清浄光寺の阿弥陀経・宇賀神」「称名寺」「鶴岡八幡宮の大般若経一巻」「松石寺」「東明院の弘法大師像」「弘法座像石」「川崎大師の五大尊像・弥陀経・六字名号心経・弁財天」「鶴岡八幡宮の〔サ〕(#「サ」は文字番号40770)大師」「極楽寺の弘法大師像・千体地蔵像」「行定院の大日」「善了寺の大日如来像」「証菩提寺の大日」「蓮上院の大日・地蔵・自画像」「宝珠院の銅仏」「徳泉寺の弥陀」「弥陀仏」「阿弥陀三尊」「安養寺の弥陀・弁財天」「三宝寺の薬師」「蓮乗寺の薬師」「東円寺の薬師」「浄円寺の薬師」「薬師」「薬師」「保福寺の薬師」「薬師」「米穀寺の薬師」「福田寺の薬師と十二神」「光永寺の薬師」「遍照寺の薬師」「正円寺の薬師」「鎖雲庵の薬師」「東光院の胎籠薬師」「東照薬師」「薬師石仏」「釈迦像」「称往院の正観音」「珠明寺の正観音」「正観音」「正観音」「正観音」「西念寺の聖観音」「正観音像」「聖観音銅像」「大師一夜爪彫の観音」「安楽寺の観音」「観音」「随流院の観音」「正観寺の観音」「観音」「如意輪観音」「香林寺の十一面観世音」「醍醐院の十一面観音」「観蔵院の十一面観音」「滝門寺の観音・不動・毘沙門」「円融院の千手観音」「久翁寺の千手観音」「薬師院の愛染観音」「長泉寺の腹籠観音」「胎籠観音・薬師」「龍長院の地蔵」「清岩寺の地蔵」「光明寺の地蔵」「地蔵菩薩」「浄源寺の地蔵」「善福寺の地蔵」「円蔵院の地蔵」「雲居寺の地蔵・弁財天」「宝泉寺の地蔵」「観音寺の地蔵」「長松寺の地蔵」「本瑞寺の地蔵」「地蔵像」「宝蔵寺の地蔵」「地蔵」「六道地蔵」「黒地蔵・白地蔵」「住吉社の爪切地蔵」「地蔵石像」「清龍寺の地蔵石像」「自得寺の地蔵石像」「東観寺の文珠像」「鶴岡八幡宮の弥勒像」「称名寺」「二十五菩薩」「西立寺の不動」「不動・愛染」「城光院の不動」「本地不動」「不動尊」「泉蔵院の本尊不動」「満蔵院の不動と二童子」「不動」「円光寺の不動」「満福寺の不動・十一面観音・薬師」「成就院の不動」「浄泉寺と不動・四神画像」「青蓮寺の不動」「大光院の不動」「越前寺の不動」「稲荷青竜権現神明合社」「青蓮寺の愛染明王」「善応寺の愛染一?」「三会寺の愛染像」「香象院の愛染明王」「鶴岡八幡官の愛染像・弁天像」「清浄堂の威徳明王」「滝沢寺の弁財天」「江の島の弁財天」「玉宝寺の弁財天・毘沙門天」「弁財天」「新長谷寺の弁天像」「浄智寺の弁天像」「阿弥陀寺の弁天像」「観行院の弁天」「了義寺の弁天」「円光院の弁財天」「多門院の毘沙門」「毘沙門・心経」「上ノ坊の毘沙門」「岩本院の刀八毘沙門」「量覚院の歓喜天」「福田寺の閻魔と千手観音」「籠数珠・法華経」「延命寺」「八幡神」「神体座像」「神体・本地仏正観音」「姥神」「お前立」「青蓮寺」「称名寺」「不動堂」「成就院」「善勝寺」「金剛寺」「不動院」「千光寺」「西明寺」「千手院」「妙法寺」「弘明寺」「不動と地蔵」「飯山寺」「本蓮寺」「弘法山」「弘法水」「十六井」「棟立井」「江の島弁天の岩屋鳥居」「大般若教」「竜華寺」「光明寺の地蔵」「増徳院の五大尊軸」「爪彫地蔵」「巡行地蔵」「千日堂の地蔵」「元西河原石地蔵」「横浜弁天」「弁財天十五童子」「箱根山」「観福寿寺」  
 
中部

 

山梨県  
「石芋」「大師杉」「弘法神水」「弘法様の万年ばた」「牧洞寺の薬師・不動」「円福寺の観音」「雲岸寺の観音」「円通寺の観音」「福昌寺の延命地蔵」「蔵前(ぞうぜん)院の虚空蔵」「玄法院の不動・四社明神」「真蔵院の不動」「竜雲寺の不動」「竜華院の聖天」「羅漢寺の五百羅漢」「宗泉院」「法善寺」「蓮華寺」「弘法栗」「弘法栗」「弘法水」「弘法杖の水」「独鈷の水」「竜宮井泉」「団子石」「長者が原」「饅頭峠」「妙体石と牛石」「梵字石」「大師自筆の経」「不動院の不動」「万蔵院の不動」「向嶽寺」「広厳寺の薬師」「薬王寺の薬師」「真福寺の薬師」「光台寺の薬師」「円照寺の千手観音」「浄光寺の観音三尊」「慈眼寺の観音」「真豊院の馬頭観音」「三体の地蔵」「東光寺」「塩沢寺」「宝寿院」「石雲寺の不動」「長谷寺」「正法寺の不動」「光善寺の不動」「明王院」「大聖寺の不動」「薬王寺の不動」「不動寺」「雨乞い弁天」「玉泉寺の弁天」「無量寺の弁財天」「大城寺の毘沙門天」「放光寺の大黒天堂」「大善寺の大黒天」「華光院の三宝荒神」「宝生寺の役の行者」「西光寺の虚空蔵」「長谷寺」「安養寺」「竜登院」「石灯籠」「弘法様の衣」  
 
静岡県  
「再(ふたたび)栗(一)」「ふたたび栗(二)」「三度栗」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法水」「水がなくなる」「水がなくなる」「修善寺(一)」「修善寺(二)」「鯖大師」「富貴野山宝蔵院」「船原山宝蔵院」「油山寺」「館山寺」「弘法山」「万勝寺の薬師」「玉井(ぎょくせい)寺の聖観音」「雨地蔵」「蔵珠寺の地蔵」「厄除地蔵」「霊光院の延命地蔵」「大福寺の文珠」「向陽院の虚空蔵と地蔵」「温泉寺」「高山寺」「般若院」「連福寺」「曹洞院」「御霊杉」「逆さ高野槇」「桂の樹」「弘法水」「弘法石」「カハゴ石」「経の字島」「蛇石」「歌岩」「走湯山」「顔がきれいになった女中」  
 
長野県  
「灰汁(あく)なし蕨」「弘法菜」「石芋」「弘法栗」「逆さ栗」「逆さ銀杏」「乳銀杏」「笠松」「袈裟かけ松」「箸杉」「抛石」「焼餅石」「硯石」「手形石」「休(やすみ)石」「犬石」「蛇石」「弘法水」「弘法様の井戸」「弘法水」「弘法清水」「弘法井戸」「弘法大師の清水」「弘法清水」「弘法池」「八徳水」「弘法清水」「弘法清水」「弘法の田」「弘法井戸」「弘法清水」「ざる水」「硯水」「千巻清水」「筆清水」「塩の井」「苗忌竹(なえみたけ)」「でんぼ隠しの雪」「独鈷山(とっこさん)」「九十九谷」「九十九谷」「弘法桜・千手観音」「清水(せいすい)寺」「専照寺」「勝楽寺の名号」「泉福寺の高野明神」「真慶寺の聖観音」「呈蓮寺の十一面観音」「松厳寺の厄除地蔵」「不動寺の不動」「光前寺」「竜勝寺の羅漢と弁財天」「高厳(こうごん)寺の弁財天」「長勝寺」「仏法紹隆寺」「大師講」「名号岩」「弘法の八の字」「ちがい石」「元木の地蔵」「袈裟供養」  
 
新潟県  
「石芋」「石芋」「弘法大師の小豆と唐キビの種」「石胡桃」「片葉葦」「芽白杉」「ねじり杉」「鉢伏の杉」「弘法大師おはしの木」「栃木の割石」「梵字岩」「弘法大師の塩水井戸」「塩の井戸」「出戸の弘法井」「黒滝のつかのきの泉」「シンナナ清水としゃくなげ場」「弘法清水」「子は清水」「弘法清水」「弘法清水」「弘法清水」「弘法井戸」「横根の水」「弘法大師の霊泉」「瀬戸口の湯」「水無瀬橋」「馬づら女房」「宝手拭(弘法様の手拭)」「大師講の跡かくし」「不動滝の不動像」「峠の薬師如来」「石抱地蔵」「新保の観音さま」「城之古(たてのこし)観音」「水保の観音堂」「鮭と弘法大師」「弘法様の足形石」「千蔵院の両部曼荼羅」「国分寺の曼荼羅」「泉盛(せんじょう)寺の如意輪観音」「海岸寺の不動明王・八大童子画像」「金剛光寺の大日如来」「常泉寺の大日如来」「安養寺の弥陀」「真福寺の薬師」「竜穏院の馬頭観音」「徳昌寺の千手観音」「白木の観音」「宝蔵寺の観音」「延命寺の延命地蔵」「徳聖寺の延命地蔵」「弘法大師延命爪引地蔵」「長恩寺の地蔵尊」「耕田寺の子育地蔵」「西願寺の不動」「真城院の不動明王・千手観音」「宝光院の不動」「善導寺の弁財天」「椿沢寺の弁財天」「来迎寺のびんずる」「本誓寺」「乗福寺」「五頭山華報寺」「円蔵寺」「寛益寺」「長谷寺」「蓮華峰寺」「出湯の九十九谷」「大師講箸」「石芋」「ニタリ柿」「馬の毛の井戸」「弘法の授け湯」「膳棚岩」「三尺下の塩」「弘法様の米畑」「立竦如来」「小比叡の地蔵尊」「湯殿山」「弘法様のあしあと」「大師講」「大師講」「大師講」「大師講の雪」「山中の旦那様」  
 
愛知県  
「弘法栗」「榧(かや)の木弘法」「杖銀杏」「杖桜」「逆桜」「腰掛石」「休石」「足跡石」「弘法水」「八ツ井戸」「弘法井」「錫杖井戸」「いろは水」「弘法水」「甲かけ清水」「三つ井戸」「錫杖井戸」「知多新四国霊場」「檜椿」「枝垂松・連理の椿」「七井」「水弘法」「清水弘法」「弘法の井」「伊藤村」「蓮華寺の大師像」「見返弘法」「大喜寺の大日」「栄善寺の大日」「宗厳寺の大日如来」「薬師寺の薬師」「宝昌寺の薬師」「歯守薬師」「有合薬師」「安楽寺の薬師」「正泉寺の釈迦如来」「報恩寺の千手観音」「観音寺の千手観音」「長栄寺の観音」「法持寺の延命地蔵」「宝泉寺の地蔵尊」「発汗(あせかき)地蔵尊」「財賀寺の不動三尊」「洞雲寺の不動明王」「流汗不動」「正法院の四大明王」「赤岩寺の弁財天・五鈷」「清涼寺の弁天像」「高照寺の弁財天立像」「城宝寺弁財天」「新福寺の弁財天・三宝荒神・額」「三面大黒天」「性海寺」「岩屋寺」「今水寺」「岡山」「まんのひあひ」「犬御堂」「熱田の龍神社」「真清田神社の龍神」「とどろきの井」「大御堂寺」「冬至弘法縁起」「熱田宮の楠」「神木の桜」「西漸寺」「清水の井」「弘法の井」「豊川」「明星井」「医王寺」「腰掛石」「座禅石」「円福寺」「熱田宮」「東界寺の心経」「長隆寺の大般若経」「妙楽寺」「法海寺」「性徳院の大師」「地蔵院」「竜泉寺」「正覚寺の薬師」「真福寺の観音」「大泉寺の観音」「岩屋寺」「観音寺の聖観音」「正福寺の観音」「喜見寺」「竜音寺の観音」「誓願寺の地蔵」「西来寺」「甚目寺の愛染明王」「神宮寺」「七ツ寺の弁財天」「法応寺の毘沙門」「聖徳太子像」「万徳寺」「性海寺」「竜泉寺」「桜井寺」「高隆寺」「宗興」  
 
岐阜県  
「大栗の小栗」「八房梅」「板井」「根方(ごんぼう)の大清水」「姿見の池」「ダケ石」「杖石」「材木石」「尻高石」「腰かけ石」「手なし嫁」「冬至弘法」「旧十二月二十三日」「大師荒れ」「大師様の跡かくし」「大師講」「大師講」「大師講」「爪切地蔵」「来振(きぶる)寺の自画像」「日輪峰寺の般若心経」「宗猷(そうゆう)寺の心経」「乙津(しん)寺の大師像」「延算寺の盥の薬師」「法華寺の聖観音」「海印寺の子安地蔵」「弘誓(ぐぜい)寺の延命地蔵」「円鏡寺の不動明王」「明星輪寺」「光泉寺」「西光寺」「弘法のイボ水」「沓井」「弘法の雪」「石爪」  
 
石川県  
「泣桜」「硯石」「明星岩」「打越の井戸なし」「弘法大師の清水」「吉原の赤脛(あかすね)」「不使(つかえず)の水」「清水なし」「大師の湧水」「弘法水」「弘法井」「古和(こわ)清水」「濁り水」「濁り水」「釜池」「花阪の弘法池」「明泉寺」「見付島」「須會の鮭」「そうめん地蔵」「宝集寺の不動」「法住寺の心経・五鈷」「持明院の不動・蓮」「不動寺の不動」「正永寺の太師像」「勝林寺」「長楽寺」「広済寺」  
 
富山県  
「繋榧(つなぎがや)」「四季絶えない菜」「弘法水」「心蓮坊の心経」「海禅寺の聖観音」「吉祥寺の聖観世音」「西円寺の観音」「自得寺の延命地蔵」「毎朝煙立てず」  
 
福井県  
「不喰桃」「女夫杉」「御衣掛石」「亀石」「弁天岩」「渇き井」「清水池」「弘法水」「水無川」「関屋川原(かわら)」「三方の石観音」「妙楽寺」「善妙寺の名号」「万徳寺の弥勒」「光照寺の阿弥陀・観音」「海安寺の地蔵」「瑞源寺の抹香仏」「紫石硯」「芳春寺」  
 
近畿

 

三重県  
「辛い藷」「弘法栗」「弘法柿」「半しぶ柿」「昨夜(ゆうべ)柿」「半渋柿」「甘柿」「こばな」「足跡石」「弘法大師の護摩石」「大島の弘法石」「弘法井戸」「弘法さんの井戸」「弘法井戸」「弘法井」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法井」「渇き井」「弘法井戸」「清水井」「弘法井戸」「井戸世古の二(ふた)つ井」「子安の井」「弘法井戸」「弘法水」「弘法水神とアマンジャク石」「弘法大師杖跡水」「弘法水」「弘法井戸」「朝日の井戸」「子安井戸」「弘法水」「弘法井戸と弘法師川」「もぐらは住まぬ」「舟木地蔵」「野田の石地蔵」「金剛証寺」「神宮寺の大師像」「長隆寺の大日如来」「妙華(けい)寺の三尊仏」「石薬師寺の薬師」「金胎寺の千手観音」「常福寺の観音」「朝田寺の延命地蔵」「勝因寺の虚空蔵」「徳蓮寺の虚空蔵」「継松寺の不動・毘沙門」「無道寺の不動」「青龍寺の弁財天」「神宮寺の多聞天」「滝(りゅう)仙寺の大威徳明王」「龍泉寺」「庫(こう)蔵寺」「太江(たいこう)寺」「船板名号」「仲福寺」「福満寺」「不動寺の不動」「大福田寺」「不動院」「専蔵院」「新大仏寺」「不動院」「光明寺」「福善寺」「宝厳寺」「善福寺」「国分寺」  
 
奈良県  
「再栗」「再栗」「二度柿」「三度栗」「箸柳」「箸杉」「お衣掛松」「狼石」「鏡岩」「休石」「大塩」「弘法泉」「弘法井戸」「桜井戸」「音無川」「片足大師」「しばし寺」「吉祥寺の毘沙門天と一刀三礼石」「魚養(うおかい)塚」「渋なつめ」「麦のふんどし」「不鳴の蛙」「不鳴の蛙」「金鶏のなく井戸」「杖つき泉」「隅寺の毘沙門天」「西大寺の十二天」「唐招提寺の薬師・地蔵」「宝生寺の釈迦如来」「観音寺の十一面観音」「徳融寺の子安観音」「空海寺の地蔵」「十輪院の地蔵」「高樋の虚空蔵さん」「北僧坊の虚空蔵」「雲幻寺の弁財天」「多門院の毘沙門天」「松尾寺の大黒天」「弘福寺の十二神将」「長岳寺の五智堂・鐘楼門」「大蔵寺の愛染明王」「般若寺」「遍照院」「満嶋(まんとう)山」「岡寺」「橘寺」「大野寺」「宝山寺」「柳の森」「椚(くぬぎ)町」「大蔵寺の木」「猿塚」「沽間(うるま)の清水」「二条町の弘法井戸」「真言院の弘法井戸」「水間の井戸」「大井戸」「タル井」「薬水井」「鳴川」「宝生の竜穴」「雨乞い地蔵尊」「霊安寺」「子安地蔵」「虚空蔵寺」「滝蔵神社」「春日社」「天野河の弁天」「栄山寺」「チマキを作らない町」  
 
和歌山県  
「筆拭草」「沙羅双樹」「三度栗」「渋揚梅」「腰掛桜」「杖竹」「杖竹」「逆〔カシ〕(#「カシ」は文字番号15843)」「橋杭岩」「捻石」「弘法井」「弘法の泉」「姥石」「弘法水」「渇き水」「弘法井」「姥(うば)滝」「大師のお衣替え」「高野山開創」「妙法山」「慈尊院」「船中湧現観音像」「波切不動尊」「三鈷の松」「三度栗」「三度栗」「三度栗」「志古のカユモチ」「閼伽井」「弥勒仏」「大明王院」「高室院の威徳明王」「正智院の善女竜王」「勤操大徳画像」「蓮花院の十一面観音」「宝亀院の十一面観音」「普賢菩薩」「常行寺の地蔵」「恵光院の不動と五大力明王」「柿不動」「持明院の地蔵と不動」「善徳寺の不動」「円通寺の千体不動」「粉河寺の爪彫り不動」「不動寺の不動」「福琳寺の不動」「遍明院の毘沙門天」「法輪寺の聖天」「明王院の大黒天」「三宝院の五大力明王」「成福院の五大力菩薩」「北室院の五大力菩薩」「松虫鈴と九鈷杵」「遍照尊院」「巴陵院」「竜泉院」「田辺大師」「安養寺」「成就寺」「妙心寺」「宝大師」「晒松」「幡掛松」「棺掛桜」「対面桜」「蛇柳」「榧木山」「密柑」「麦」「犬の四足」「犬塚」「蛇原」「雨の魚」「花坂村」「弘法井」「大師井」「大師井」「弘法井戸」「影うつし井」「葵ノ井」「菖蒲井」「実相院の閼伽井」「硯水井」「妙法尼と流れ井戸」「三井」「弘法大師加持井」「加持水」「加持水」「大師の加持水」「大師の加持水」「大師加持水・寐岩・眼笹」「大師硯水」「〔 〕(#「 」は大漢和に文字なし)字水」「姥滝」「玉川」「玉川」「御影淵」「一心院谷の沼」「息処石」「梵字岩」「弥勒石」「岩不動」「岩不動」「中不動」「不動石」「水漉の不動」「琵琶ケ甲」「仏ノ尾」「押揚石」「対面石」「御座石」「杖跡岩」「護摩石」「護摩谷」「護摩鉢石」「大師護摩石」「護摩坦」「護摩坦」「平岩」「袈裟掛石」「腰掛石」「大師腰掛石」「弘法大師腰掛岩と杖の梅」「大師枕石」「狼石」「榧蒔石」「四寸岩」「無量寿院」「宝性院の六字名号」「金剛寺の薬師本願経」「東南院」「明泉院の日輪大師」「蓮花寺の弘法大師影」「中性院の弘法大師影」「五坊の両界曼荼羅」「養寿院の種子曼荼羅」「報恩院の種子曼荼羅」「西方院の浄土曼荼羅」「慈氏寺坦」「安養院の薬師如来」「康徳院の功徳天・観音」「威徳院」「北室院の五大力」「大聖院の不動」「親王院」「円満院の愛染明王」「金蔵院の大威徳明王」「成慶院の五大明王・威徳明王」「赤松院の弁財天」「妙法院の弁財天」「如意輪寺の米字多聞天」「福生院の十二天」「舟板八幡」「松雲院の荒神」「厄除大師堂」「高祖院」「大師像」「成就寺の厄除大師」「大師寺の大師像」「那智山末」「高山寺の大師像」「遍照尊院」「大塔の仏」「普門院」「安養寺成仏院の大日」「密厳院の大日」「大鏡院の大日」「勧学院道場の大日」「妙楽寺の大日」「覚智院」「蓮花寺の弥陀」「如来寺の阿弥陀」「金堂本尊薬師如来」「三蔵院」「随心院の薬師」「西生院の薬師」「医王院の薬師」「実相院の薬師」「薬師山」「医竜寺」「薬師如来」「定福寺の薬師」「医王寺の薬師」「南福寺の薬師」「薬師寺の薬師」「准胝堂の准胝仏母」「勝利寺」「十一面観音」「増福院の十一面観音」「世尊院の十一面観音」「大徳院」「持宝院の十一面観音」「大楽院」「宝蓮院の十一面観音」「観音寺の千手観音」「補陀洛院」「千手堂」「南蔵院の観音」「厄除観音」「千蔵院の勢至」「地蔵堂」「仏心院殿の地蔵」「上智院の地蔵」「上蔵院の地蔵」「東善院の地蔵」「勧学院の地蔵」「景勝院の地蔵」「長福院の地蔵」「石地蔵」「光明院」「上池院の地蔵」「引導地蔵」「心王院」「花王院の地蔵」「汗流地蔵」「地蔵堂」「阿弥陀地蔵」「遍明院の文殊菩薩」「弥勒院の弥勒」「慈光院の弥勒」「宝積院の弥勒・五大明王」「泰雲院の竜猛菩薩像」「大滝の不動」「鎌不動」「増長院の不動」「智荘厳院の不動」「法雲院の不動」「不動院の不動」「誓願院の不動」「常住光院の不動」「西明院の柿不動」「照明院の不動」「正覚院の不動」「安住院の不動」「柁執不動」「錐揉不動」「不動堂」「蓮華定院の不動」「聖徳院の不動」「柿不動」「円徳院の不動」「妙雲院の不動・愛染」「護摩院の不動」「不動院の不動」「南室院の不動」「安楽院の不動」「幣振不動」「不動寺の不動」「本覚院の愛染」「宝瓶院の愛染」「愛染院の愛染明王」「三蔵院の愛染」「平等院の愛染像」「染王院の愛染」「金剛頂院」「両頭愛染明王」「阿弥陀院の愛染」「若山輪番所」「金光院の愛染」「蓮明院の威徳明王」「五大尊堂」「明王院」「善集院の五大明王」「妙音院」「御供所の大黒・弁財」「浄真院の八臂弁財天」「門出弁財天」「仏誓寺の弁財天」「清涼院の弁財天」「玉蔵院の弁財天」「高室院の弁財天」「弁財天像」「阿吽院の毘沙門」「竜泉院の毘沙門天」「金剛院の毘沙門」「不動寺」「毘沙門院の毘沙門」「多聞院」「天徳院」「古堂観音の多聞天」「巡寺大黒天」「宝塔院の大黒天」「寂静院」「上珠院の大黒天」「出世児大黒天」「正智院」「大福寺」「千福寺」「霊剣・経軸・輪壺」「龍光院」「常喜院の五鈷」「蓮華三昧院」「悉地院」「如意輪寺」「弥勒院」「清浄心院」「西南院」「極楽堂」「大師堂」「大峯」「笠石山」「芳養谷」「稲荷神と会う」「お月峠」「九度山」「高野山」「丹生狩場明神」「嫌物」「オカイ」「遠井」  
 
滋賀県  
「腰掛石」「弘法井戸」「聖衆来迎寺の曼荼羅」「蓮乗寺の阿弥陀・毘沙門」「西照寺の阿弥陀・観音」「松雲禅寺の観音」「西岸寺の地蔵」「酒(さ)波寺の地蔵」「石馬(いしば)寺の威徳明王」「舎那院の愛染明王」「菅山寺の毘沙門天」「西照寺」「真光寺」「安養寺」「石山寺」「竹生島」「高野槇」「弘法水」「甲南温泉」「梵字石」「鹿跳(ししとび)」「弘法大師剃髪(そりがみ)名号」「大音(おとを)神社」「磨針(すりはり)峠」  
 
京都府  
「硯石」「座禅石」「弘法水」「水無し」「水無し」「唐池」「濁り水」「五智水」「神泉苑」「太秦牛祭」「染殿地蔵尊」「矢取り地蔵」「薬師如来像」「智福院」「菩提樹」「弘法清水」「弘法清水」「犬打川」「上ノ井戸・下ノ井戸」「弘法清水」「弘法清水」「弘法清水」「独鈷水」「明王院の虚空蔵」「上の弘法さん」「張子大師」「今里の弘法さん」「地蔵寺の薬師」「浄福寺の阿弥陀」「観音寺の十一面観音」「頂法寺の鞘仏」「星見(ほしみ)地蔵」「蓮光寺の地蔵」「染殿(そめどの)安産地蔵」「仏陀寺の地蔵」「釘抜地蔵」「嵯峨虚空蔵」「明王院の不動」「松原不動」「法厳寺不動と多聞天」「真如堂の不動明王」「金閣寺の石不動」「志明院の不動」「東寺の五大明王」「大覚寺の五大明王」「愛染明王」「愛染明王」「中書島の弁天さん」「勝明寺の弁財天・毘沙門天」「正覚寺の弁財天」「地蔵院の毘沙門天」「知恩寺の毘沙門天」「山崎聖天」「鎮宅霊符神」「三宝荒神」「十六善神」「泉湧寺」「六道珍皇寺」「愛宕念仏寺」「念仏寺」「源空寺」「大黒寺」「善光寺」「千手寺」「金輪寺」「縁城寺」「九品寺」「金胎寺」「東寺の三鈷松」「古御旅所」「高雄寺」「蚊塚」「独鈷水」「岩清水」「亀井」「大師井戸と十大王」「不思議な井戸」「文覚池」「弘法腰掛石」「法貴坂」「下馬石」「竜王石」「菜切石」「川越の額」「皇嘉門の額」「雨宝」「鈴の宮」「神光院の大師像」「上品蓮台寺」「仁和寺の大師像」「宗安寺の大日如来」「弘法大師像」「大日如来」「阿弥陀仏」「阿弥陀仏」「新善光寺御影堂」「虎薬師」「仲源寺の薬師」「薬師仏」「福勝寺の薬師・不動」「石薬師」「三体土仏」「七観音」「三鈷寺」「一音寺の十一面観音」「十一面観音」「遍照寺の十一面観音・赤不動」「寂照院の千手観音」「広隆寺の地蔵」「協(かなえの)地蔵」「西福寺」「玉結の地蔵尊」「竹が鼻地蔵寺」「成就院の不動尊」「金峰寺の不動」「鼠突不動尊」「石不動」「東寺の不動尊」「石不動」「住心院の愛染明王」「五大堂」「遍照心院の弁財天」「粟穂弁財天」「歓喜天」「月橋院の毘沙門天」「毘沙門天」「普門寺の帝釈天」「化野の焔魔王」「稲荷神」「善能寺の稲荷神」「三尊寺」「安禅寺の愛染」「烟除仏舎利」「摩耶夫人像」「長岡天満宮」「寂光院」「念仏寺」「清滝権現」「平岡の八幡宮」「船」「青竜寺へ水をおくる」「壮衰記」  
 
大阪府  
「竜王硯石」「岩清水」「古市の井戸」「姥桜」「杖立て松」「弘法井戸」「腰掛け石」「大念寺の弥陀三尊画」「みかえり地蔵」「撫(なで)地蔵」「大融寺の地蔵」「延命寺の地蔵尊」「瑞光寺の毘沙門天」「大阿弥陀経寺の毘沙門天」「来迎寺の弁財天」「源光寺のマンダラ」「光明寺」「一運寺」「金剛寺」「紫手水」「犢」「弘法水」「大師の水」「竜泉寺」「西林寺」「四天王寺」「蘇生の呪」「藤田」  
 
兵庫県  
「抛石」「腰掛石」「竪岩清水」「渇き水」「独鈷水」「山の井戸」「繋岩」「円融寺の心経及び愛染明王」「引摂寺」「達身寺の薬師」「十善寺の観音」「福海寺の十一面観音」「勝福寺の聖観音」「神呪(かんのう)寺の観音」「広厳寺の毘沙門天」「妙光院の歓喜天」「園田聖天」「帝釈寺の四天王」「仏母摩耶夫人像」「転法輪寺」「再度(ふたたび)山」「百代寺」「十輪寺」「月照寺」「浄光寺」「泉寺」「金剛城寺」「金蔵寺」「菜食わずの祭り」「和(かにが)坂」「花川の水」「脇川の念仏水」「甘地」「白水寺」「金剛寺」「太山寺」「箕覆山箕覆寺」「宝珠山妙見寺」「留満寺」「坂上寺」「法幢寺」「光明寺」「大蔵谷」 
 
中国

 

岡山県  
「大師芋」「ならずの桃」「大師松」「腰掛石」「衣掛け岩」「大師池」「アサガラの芋」「二度栗」「三度栗」「大師のお足跡」「六字名号」「弘法大師像」「阿弥陀・不動」「薬師如来」「薬師・十二神将・不動」「心鏡寺」「千手観音と牛頭天王」「延命地蔵」「善徳寺の地蔵」「勇山(いざやま)寺の不動」「住心院の不動」「高山寺の不動」「吉祥寺の毘沙門天」「明星寺の毘沙門天・観音」「多門寺の歓喜天(#「歓」は旧字)」「安養寺」「宝琳寺」「慈眼院」「安楽院」「円福寺」「等覚寺」「下くら」「木山(きやま)寺」「宇南寺」「新善光寺」「金竜井」「真福寺」「金谷寺」「弘法寺」「宝光寺」「捧沢寺」「清水(せいすい)寺」「福泉寺」「極楽寺」「大聖寺」「観音寺の聖観音」「喰わず芋」「お大師様の松」「唐杉」「はだか茅」「古井」「弘法加持水」「水無川」「土川」「白谷」「明星池」「株池」「弘法池」「衣岩」「弘法大師の足跡岩」「弘法大師の足跡石」「立岩」「畳岩」「土仏塚」「大師ケ乢野山」「弘法大師の名号」「東光寺」「岩倉寺の大般若経と不動像」「薬王寺の弘法影」「清眼寺の真影」「釈迦画像と不動画像」「弘法大師の書」「空海書」「弘法大師の書」「万福寺の大日如来」「随泉寺の薬師」「観音院」「願成寺の正観音」「正観音」「正覚院の十一面観音」「遍照寺の千手観音」「五穀寺の如意輪観音」「十福院の本尊地蔵」「八方にらみの地蔵・黒岩大師」「宝福禅寺」「密厳寺の不動明王」「不動院の不動」「華蔵寺の不動・多聞天」「薬水寺の不動明王」「延寿院の毘沙門天」「医王山仏教寺の脇士十二神」「正雲寺の聖徳太子」「金剛頂寺」「二上山両山寺」「宝寿山円通寺」「能満寺」「霊仙寺」「宝妙寺」「覚〔 〕(#「 」は大漢和に文字なし)山雲南寺」「祥雲寺跡」「栄徳寺」「墨池山青竜寺」  
 
広島県  
「錫杖梅」「烏帽子岩」「弘法水」「ひらぐり」「栗柄(栗殻)」「弘法芋」「逆さ梅」「犬の後足」「正月餅をつかぬ家」「蛭封じ」「弘法大師と蚊竜」「赤子の足跡」「弘法水」「杖立水」「水無川」「尻無川」「渡れぬ川」「日の郷のうなぎ」「弘法石」「弘法の衣掛岩」「袈裟掛石」「九十九谷」「福成寺の額」「薬王寺の六字の名号」「ねずみ心経」「仏通寺の法華経」「法恩寺と五大明王画像」「西国寺の薬師如来」「大願寺の薬師」「長建寺の十一面観音」「竹林寺の観音画像」「金縛り不動」「福王寺の不動」「福光寺」「明王院」「長尾寺」「吉祥院」「城福寺」「広山寺」「弥山(みせん)大聖院」「宝蔵寺」「裏見の滝」「法身院」「弘法松」「道後山には竹が生えない」「有頭(ありとう)」「観音石と不動石」「以呂波石」「石風炉」「竜窟」「大鳥居の額」「八幡宮の鳥居の額」「大慈寺の心経」「癈長楽寺の大日経」「地蔵尊書像・弥陀書像」「不動尊」「具利迦羅不動」「大願寺の本尊と什宝」「薬師堂」「十一面観音」「十一面観音」「脇仕不動」「不動尊」「不動尊」「不動尊」「弁財天」「毘沙門」「弥山」「今高野山竜華寺」「円明寺」「廃先福寺」「廃遍照寺」「極楽寺」「厳島」「塩焼寺」「厳島」  
 
鳥取県  
「杖衝井戸」「そばと小麦」「三度栗」「神馬桃」「八百八十八谷」「九十九谷」「九十九谷」「弘法さんの寺」「不動院の不動明王」「愛染不動・三宝荒神」「多宝寺の弁財天」「関金温泉のえぐ芋」「関金温泉」  
 
島根県  
「莢ばかりの大豆」「竜雲寺の十三仏」「巌倉寺」「東泉寺の文殊菩薩」「自性院の不動」「普門院の不動」「弘法寺」「高野寺の聖観音」「岩屋寺」「成相寺」「いろは歌」「甘南(かんなみ)備寺」  
山口県  
 
「孫が栗」「弘法水」「岩崎(かんき)寺の千手観音」「御汗観音石仏・弁財天」「不動明王」「不動・毘沙門」「岩屋寺」「福楽寺」「普慶寺」「快友寺」「原江寺」 
 
四国

 

愛媛県  
「石芋」「三度栗」「杖椿」「曼荼羅寺と不老の松」「いざり松」「いざり松」「弘法水」「杖の淵」「清水池」「吉祥寺と柴の井」「八幡河原」「蟹淵」「宝判」「星が森」「のぎ取りの五左衛門さん」「護摩の峰」「稲荷寺」「竜光寺」「仏木寺(一)」「仏木寺(二)」「子安大師」「仙竜寺の本尊」「西林寺」「南光坊」「泰山寺と不忘の松」「栄福寺」「観自在寺と願成寺」「札かけ大師の堂」「岩屋寺」「泰山寺」「十夜が橋」「犬神よけ大師」「庚申堂と子安地蔵」「八塚と石手寺」「(片耳の地蔵)生木の地蔵」「久万(くま)の町」「九島九十九谷」「九十九王」「いざり松」「片目の鮒」「極楽寺の無量寿・弁財天」「福楽寺の薬師」「三宝寺の観音」「宝寿寺」「法隆寺」「東光寺の不動」「円福寺の不動」「本願寺」「理正院」「香積寺」「入仏寺」「惣持寺」「出石寺」「大宝寺」「仙竜寺」「横峰寺」「久妙寺」「栄福寺」「仙遊寺」「浄瑠璃寺」「八坂寺」「三角寺」「椿堂」「円福寺」「延命寺」「善宝寺」「円明寺」「三間のおいなりさん」「犬神」 
  
徳島県  
「石芋」「長命杉」「灯明杉」「杖杉」「一本杉」「名なし木」「お手植えの杉」「逆杉」「弘法水」「平等寺と白水の井戸」「法輪寺と小豆洗大師」「黄金の泉」「井戸寺」「柳水庵」「大師水」「お大師水」「お大師水」「柳水」「不動の神杉」「大師の森」「久保の毘沙門さま」「霜月二十四日」「お衣がえ」「種蒔大師」「焼山寺の大蛇」「鯖大師」「種まき大師」「生木の地蔵」「禅定の窟」「太竜寺」「薬王寺と肺大師」「藤井寺」「大日寺」「常楽寺」「釈迦堂」「取星寺と星谷寺」「鶴林寺」「太竜寺」「大日寺」「地蔵寺」「安楽寺」「十楽寺」「熊谷寺」「雲辺寺」「太興寺と大樟」「長戸庵」「祖谷の葛(かずら)橋」「切幡寺」「九十九谷」「多美山」「京柱峠」「薬王寺」「爪形地蔵」「鶏足山の洞穴」「逆さ松」「宝蔵寺の曼荼羅」「金泉寺」「箸蔵寺」「長谷寺」「神宮寺と仏画」「大日寺の絹本掛軸」「一宿寺の薬師」「童学寺の薬師」「法輪寺」「滝寺の観音」「観音寺」「常楽寺」「明王院の不動と六地蔵」「報恩寺」「長善寺」「神宮寺と弁天像」「東福寺」「吉祥寺」「長福寺」「建治(こんじ)寺」「密厳寺」「恩山寺」「高越(つ)寺」「熊谷(くまだに)寺」「大滝寺」「霊山(りょうぜん)寺」「オカイ」  
 
香川県  
「食わずの梨」「食わずの梨」「片葉の葦」「弘法大師のお手植えの松」「船石」「石の塔」「奥の坊の井戸」「杖立ての井戸」「つっとり堀」「加持の水」「綾子踊り」「花折のお姫さん」「瀬居島の八十八箇所」「手なし娘」「あずけのカメ」「十四(とよつ)橋」「御住(みすみ)屋敷」「弘法大師の足跡」「法泉寺」「我拝師山」「仙遊ケ原」「大師産湯の井戸」「菩提樹」「無念道越え」「八栗寺」「一夜建立のお堂」「護摩山」「七仏寺」「本山寺」「おもかげの池」「出釈迦寺」「善通寺」「仏母院」「観音寺」「甲山寺」「高照院」「根香寺」「寄り竹」「法専寺の六字名号」「観音寺の大師像」「法然寺の弥陀」「高照院の三尊仏」「甲山寺の薬師」「善通寺の薬師」「大窪寺の薬師」「三谷(みたに)寺の薬師」「道隆寺の薬師」「大興寺の薬師」「一宮寺の聖観音」「釈王寺の聖観音」「国分寺の十一面千手観音」「聖(しょう)通寺の千手観音」「香西寺の地蔵」「萩原寺と不動」「観音寺の八幡本地仏」「屋島寺」「正大寺」「白峰(しろみね)寺」「観智院」「曼荼羅寺」「興昌寺」「霊芝寺」「若王(にゃくおう)寺」「極楽寺」「西光寺」「願成寺」「不動護国寺」「妙音寺」「正覚院」「出(しゆつ)釈迦寺」「長尾寺」「光貴寺」「海岸寺」「弥谷寺」「江洞(こうどう)の弁天」「塩峯」「善通寺の額」「白峯寺」「湧出の嶽」「剣の御山」  
 
高知県  
「筆草」「ヘクサンボ」「食わずの芋」「岩本寺の三度栗」「子安桜」「喰わずの貝」「御室(おむろ)の桜貝」「口無し蛭」「伊与木川の蜷貝」「犬供養」「不鳴蛙」「鳥居の石」「亀よび場と不動岩」「大師のゆるぎ石」「弘法大師修行の洞窟」「お大師井戸」「弘法釣井(つるい)」「弘法の清水」「大師の杖の跡」「大師の行水池」「大師の目洗池」「小豆粥」「西寺の大釜」「金林寺」「一夜建立の塔」「国分寺」「浪切不動と青竜寺」「金剛福寺」「最御崎寺」「津照寺」「金剛頂寺」「安楽寺」「禅師峰寺」「雪蹊寺」「種間寺」「観音寺の三度栗」「くわず芋」「弘法水」「乗台寺」「高岡のお大師さん」「金剛福寺の千手観音」「津照寺の楫取地蔵」「宗安寺」「竹林寺」「青竜寺の独鈷杵」「石見寺」「大日寺」「延光寺」「神峰(こうのみね)寺」「梯」「御乞食」「御厨戸明神」 
 
九州

 

福岡県  
「弘法水」「不鳴池」「大根川」「九十九谷」「芦の葉の魚」「東長寺の千字文」「鎮国寺の大日・不動」「正覚寺の阿弥陀」「衣掛けの松」「弘法水」「独鈷水」「弘法井戸」「大根川」「鉢伏せ岩」「観世音寺」  
 
佐賀県  
「妙覚寺」「海蔵寺」「円応寺」「弘法井戸」「坐禅岩」「弘法大師の足跡」「いわやの石仏」「黒髪山」「九千部岳」  
 
大分県  
「不喰芋」「不喰大根」「水無川」「杖曳き川」「円通寺の地蔵」「御無想湯の石」「大師まつり」  
 
長崎県  
「ならずの大豆」「御衣掛石」「六角川」「大智院」「円福寺」「清岩寺」「最教寺」「大豆の不作」「石梨」「弘法さんの水」「福田の霊泉」  
 
熊本県  
「杖立井戸」「湯の池」「金剛乗寺」「麦の話」「底なし井戸」「杖立井戸」「杖立温泉」「天の神水」「腰掛岩」「独鈷山」「指の不具者」  
 
宮崎県  
「杖立の泉」「大根川」「大根川」  
 
鹿児島県  
「大師芋」「大師芋」「弘法井戸」「弘法井」「水無し」「大根川」「水無川」  
 
中国  
「五筆和尚」 
 
民話・伝承

 

 
北海道
阿吽寺の不動明王 / 北海道  
松前で当寺を開いた空海が本尊として刻んだ霊像だという。
 
東北
青森県
大蛇 / 三戸郡南郷村  
茅の箸でご飯を食べてはいけない。出羽三山では絶対にしない。弘法大師が高野山に登ったとき、茅の箸で昼飯を食べてから登った。帰り道で大蛇に遭った。呪文を唱えたら大蛇は消え、茅の箸になった。箸の間の飯一粒が大蛇になっていた。 
 
岩手県
甘蕨 / 岩手県  
空海はある家で蕨汁を供された。その面倒な調理法を聞き、あく抜きせずにすむ蕨を授けた。
杖銀杏 / 岩手県  
空海の刺した杖が大銀杏に成長。祈ると乳の出が良くなるという。
 
宮城県
弘法の噴水 (阿武隈川の岩にまつわる伝説)  
昔、弘法大師が諸国行脚の途中にこの地を通りかかりました。  
この年は、阿武隈川も干上がるような大干魃に見舞われていました。  
炎天下を旅してきた大師は喉が渇いてしまい、村人に水を所望しました。  
飲み水さえなかった村人でしたが、水瓶の底に僅かに残っていた水を大師に差し上げました。  
渇きをいやすことができた大師は「お礼がしたい」と言い、  
川岸の大岩(廻り石)へ行き、真言を唱え、持っていた錫杖で岩を突きました。  
そして、「私が去った後、この岩から枯れることのない水が出てくるだろう」と言い残して去って行きました。  
暫くすると、大師が錫杖で岩を突いた所から、本当に水が噴き出したと言います。  
村人達は大喜びして、この水を「弘法の噴水」と呼びました。  
廻り石 (阿武隈川の岩にまつわる伝説)  
阿武隈川が県境の激流を越え穏やかな流れになった地点の右岸に、巨大な岩が川に迫り出すようにしています。  
昔、この大岩の対岸の村に船頭をしている一人の若者が住んでいました。 若者は貧しかったがまじめな働き者で、篠笛が上手でした。  
若者は仕事の合間に大岩へ舟を漕ぎ出し、笛を奏でるのを楽しみにしていました。 若者は村の対岸の村の大きな農家の娘のことが好きでした。  
二人は人目を忍んで日が暮れてから大岩で逢瀬を楽しんでいました。 将来を誓い合っていた二人ではありましたが、反対する娘の両親は娘を奥座敷に閉じこめました。  
ある夜、娘は座敷を抜け出し、逢瀬を楽しんでいた大岩まで行き、大川に身を投げて死んでしまいました。  
このことを知った若者は、深い悲しみから笛も吹くのを忘れ、終日大川の流れを見つめていました。  
ある夜、娘が身を投じた大岩に行き、娘の好きだった笛を吹くと、不思議にも突然娘が現れ、じっと聞き入ってにっこりと微笑みました。  
若者はいつまでも笛を吹き続け、毎晩幻の逢瀬を楽しんでいたといいます。  
しかし、ある日を境に若者の姿は見えなくなり、死んだともどこかへ行ったとも伝えられましたが、誰にもわかりませんでした。  
二人が逢瀬を楽しんだ大岩はその後、廻り(めぐり)石といわれ、若者たちの悲恋も語り継がれています。
 
阿武隈川  
那須岳の1つ三本槍岳のすぐ北に位置する福島県西白河郡西郷村の甲子旭岳に源を発し東へ流れる。白河市に入り西白河郡中島村付近で北に流れを変えると、須賀川市・郡山市・福島市と福島県中通りを縦貫して北に流れる。福島県と宮城県の境界付近では、阿武隈高地の渓谷を抜ける。この区間を並走する国道349号は、待避所のある1車線の険しい道路となっている。宮城県伊具郡丸森町で角田盆地に入り、角田市を流れて仙台平野に出る。現在は岩沼市と亘理町の境で太平洋に注ぐが、古代の旧河口は現在の鳥の海である。旧北上川河口から松島湾を経て阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約60kmに及ぶ日本最長の運河・貞山運河が延びている。この運河により、岩手県の北上川水系、宮城県の仙台平野のすべての水系、および、福島県の阿武隈川水系はつながっている。勾配がゆるやかな川で穏やかな印象があるが、増水時にはあふれやすく洪水被害の絶えない暴れ川でもある。1986年には台風による増水で大規模な洪水が起こっているほか、2011年には津波の逆流により大規模な海嘯が発生している。  
阿武隈川の名前  
阿武隈川は、平安時代には「あぶくまがわ」と呼ばれており、歌枕にもなっていました。  
阿武隈川は古来より、いろいろな呼び方や書き方をされてきており、「あぶくまがわ」や「おおくまがわ」と呼ばれ、阿武隈川、大熊川、大隈川、合曲川と書かれています。  
阿武隈川の語源は、福島県白川郡の西甲子岳の山中に住んでいた、大熊(青熊・生態)に由来すると言う説がありますが、これは定かではありません。  
阿武隈川の「隈(クマ・曲)」とは、川が蛇行すること言われていて、確かに阿武隈川の中流から下流にかけて、「隈(蛇行箇所)」がたくさんあります。  
また「隈」と言う字が使われている名称、地名などは、大隈川・大隈橋・亘理町大隈など、福島県から宮城県にかけて、阿武隈川流域に点在しています。  
阿武隈川流域の水に関する地名  
阿武隈川は古来より、沿岸流域に住む人々との生活の総ての面に大きな影響を与えてきました。  
川と接することにより、その特徴・特質をよくとらえ、その土地土地に恐れ・驚き・感謝・愛着・祈り等の感情をこめ、率直で適切で相応しい地名を残しています。  
例えば丸森橋から上流部は、岩を砕くような激流であるため、「滝」や「巻」と呼ばれる地名や箇所が多数あります。  
これは激流になっている所の川の流れは非常に変化や特徴があること、そしてこの表現は漁撈(ぎょろう)のため、川の様子や状態をよく知る必要があることから生まれ名付けられたものと考えられています。  
たとえば…伊具郡丸森町字滝ノ上、伊具郡丸森町字大巻北、字大巻南、字岡巻  
逆に川の流れが穏やかになる丸森橋から下流部は、上流部のような名称は少なくなり、「川前」「川原」「島」「土手」「谷地」などの地名が多くなります。 
 
秋田県
弘法の井戸 / 秋田県男鹿半島・入道崎(畠)  
昔、弘法大師が入道崎の畠(はたけ)部落を訪れ、 水を飲ませてほしいとたのんだところ、その家の人は 「ここは水が不自由なのでその米のとぎ汁でよければ」とこたえた。  
すると、弘法大師は、地面に四角を書き、ここに井戸を掘ればよいと言った。  
教えられた所に掘った井戸は夏でも水が涸(か)れることがなく、「中の井戸」と呼ばれた。  
部落の中で立ち話をしていた男の人に井戸のことを聞くと、 「弘法大師の井戸の水を飲んでいるから、長生きできて、俺が168歳で、こいつが170歳だ。」と教えてくれた。  
井戸の水ではなく「米の汁」を飲んで元気だったようである。  
富山県や福井県には、米のとぎ汁を弘法大師に飲ませたために、そこの水は白く濁ってしまったという「弘法の濁り水伝説」がある。 米のとぎ汁の話は、富山県の方から伝わってきたのだろうが、正反対の結果になっている。
弘法大師と石芋 / 秋田県仙北郡美郷町[旧千畑町]  
昔、昔の話なんしけど。  
ある夏も終わりに近い頃、一人の坊さんが、千畑の大屋敷というところまでやってきた。  
ああ、腹がへったな、と寂しそうに歩いていた。  
ふと、道端を見ると旨そうな芋の子がいっぱい植わっていた。  
その人は、持ち主の家に行って頼んだ。  
「芋の子が旨そうに見えたし、自分は腹が減って仕方がない。ちょっと煮て食わせてくれないだろうか?(おれよ、その芋のこ、旨そうに見えだし、腹も減ってひじねくてな、何とかその芋の子よ、さっと煮て、食へてきねべか?)」  
「手数をかけないでもいいから、何とか頼みます(手数かけねでもよ、何とか頼むんシ〜)」と、手を合わせて願った。  
しかし、その家の女の人は、ちょうど晩方で忙しい夕げ時分だったので、こう言って断わった。  
「そうだ、そうだ。この芋の子は、石芋の子だから食べられないんだよ(んだ、んだ。この芋のこよ、何と固くてよ、石芋の子だもの、食れねでや)」  
「そうですか。一つ食べたかったな(んだが、んだが。一つ食[く]でがったな)」  
残念そうにそう言って、とぼとぼとどこへ行くのか肩を落として立ち去った。  
秋になった。  
女の家では、「あ〜あ、芋の子も旨くなったな、掘ってきてみんなして食ってみるか」と、芋の子を掘ってきた。  
まな板においた芋の子に包丁を入れようとした。  
・・・何と固い! いつもの芋の子と違うな。  
別のを掘ってきてやってみたが、・・・おかしいな、どうしてこんなもの(こんたらもん)に、なったべな。  
・・・包丁のかからねえ、石芋の子ばかりだっ。  
その次の年も次の年も、固くて食べられない芋の子が採れた。  
いくら植えても、石芋の子だった。  
それから何年もして、あのみすぼらしい、芋の子を食べたいと願った坊主は、実は、何と弘法大師だった、ということが分かった。  
・・・あの時、ちょっと食べさせてあげたら、何事もなかった。  
と、後悔したが後の祭りだ。  
それからというもの弘法大師の歩いた道筋の畑には、柔らかな芋の子はどうしても採れなくなった。  
みんな、石芋の子になる。  
今もなお、固くて食えたものではないので、もう誰も芋の子を植えなくなってしまった。 
田根森根っこ(たねもりねっこ)/ 横手市  
秋の寒い日、汚い衣の坊様が何か食べさせてくれと言って金持ちの家に行った。金持ちの家では芋を煮ていたが、石芋で煮えない芋だから別の家へ行ってくれと断る。隣の親切な家でご飯を食べさせてもらう。その家では薪がなかったが、坊様が寒いだろうとあらかた焚いてやる。坊様は弘法大師で、礼に「困ったら裏の土を掘ってみなさい」と言って立ち去った。その土は燃える土で「田根森根っこ」と呼ばれた。金持ちの家ではそれから石芋しか取れなかった。だから乞食でも粗末にするものでない。  
弘法の泉 / 手市  
黒衣の旅僧が農家で一杯の水を請うたが、機織りをしていた娘は、手を休めず断った。次々と断られ村はずれの最後の家に願うと、わざわざ遠くまで水を汲みに行って手向けてくれた。旅僧は大変感謝し、持っていた杖で地面を突き、きれいな清水を授けてくれた。  
弘法の水 / 手市  
平鹿郡田村野に行脚僧が訪れ、一軒家の婦人に一杯の水を乞うた。婦人は半里も離れたところからわざわざ水を汲んで来て、この僧に飲ませた。僧は感謝し、錫杖を地に立て、念仏を唱え、錫杖を抜くとそこから清水がこんこんと湧き出た。  
田根森根っコ / 横手市大雄  
田根森の人達は、薪が少なく難儀していた。ある寒い日坊主が一杯の飯を頼んだが、その家の親爺が石芋でなかなか煮れないと断り、次の家では、雑炊を食べさせた。親爺はたきぎが少なく困っていると話しながらも、暖まる程燃やし、次の朝、坊主はもてなしに礼を言って去った。春になり、親爺は荒れ地の開墾を続けたが、黒い土ばかりでたき火を始めると土が燃えた。燃える土だと喜んで、その家では寒い時も暖かく暮らした。芋を煮た家では、いつも石のように固く芋は煮れなかった。坊主は弘法大師だった。  
弘法の泉(こうぼうのいずみ) / 手市  
黒衣の旅僧が農家で一杯の水を請うたが、機織りをしていた娘は、手を休めず断った。次々と断られ村はずれの最後の家に願うと、わざわざ遠くまで水を汲みに行って手向けてくれた。旅僧は大変感謝し、持っていた杖で地面を突き、きれいな清水を授けてくれた。  
田根森根っこの話(たねもりねっこのはなし) / 手市  
弘法大師が田根森に来て、一軒の家に食べ物を分けてくれるよう願った。そこの家では芋を煮ていたのだが「なかなか煮えない石芋だ」と言って追い払われた。隣の家で願うと、粥飯を御馳走してくれたが、あまり寒いので、柴を焚いてくれるよう願った。残り少ない柴を焚いてくれ、温めてくれた。弘法大師は「春になったら裏の荒れ地を掘ってみるように」と言い残して立ち去った。春になって土を掘ってみるとそれは燃える土だった。  
弘法さん / 手市  
昔弘法さんが雲水になって廻っていた。六郷で坂本三郎兵衛という処に泊めて貰った。三郎兵衛は貧乏だったが、よくもてなしてくれたので、俺に小児の虫薬の作り方を教えた。三郎兵衛はそれを売って栄えるようになる。 またあるとき水を一杯欲しいと女性に頼むと、女性は馬にあげる桶から水を寄越した。すると女性の顔は馬のように長い顔になってしまった。長信太村の川口の骨継ぎの薬も、大曲の川岸から大根が採れるのも弘法さんのおかげだ、と岩崎の虫薬爺が聴かせた。  
無題 / 横手市  
平鹿十文字(現、横手市十文字町)には、弘法清水(すづ)というのがある。ある日、石川治兵衛の家にみすぼらしい格好の老人が来て、一杯の水を所望した。石川家の嫁は「雑水(汚い水)を飲め」と言った。老人は外へ出て行き杖を地面に立てた。するとそこから清水が湧いて来た。老人は嫁に「道に欅(けやき)が落ちているから拾え」というので、嫁が拾うと蛇になった。それからその家には水が出なくなった。  
無題 / 男鹿市  
北浦町字畠の伊藤家に弘法大師が訪ねてきた。家の人は泊めることはできるが、米をとぐ水がないというと、弘法大師が杖を突き立てて抜いたところ、水の枯れない井戸になったという。
弘法大師の水 / 男鹿市  
大倉村に昔弘法大師が訪ねてきた。ある家で水をもらおうとしたところ、その家のおばあさんが、家の井戸の水が悪いので時々タツノヒゲ(堰)から汲んできている。こんな水でも良かったら飲んでくれと言った。そこで弘法大師が杖を突き立てて抜くと、水がわき出て枯れることがなかった。この井戸は大倉の三島神社の登り口のところにある。  
弘法大師の水 / 男鹿市  
羽立の比詰という村に弘法大師が来て、水をもらおうとしたところ、そこのおばあさんは「川で飲め」と言って水をあげなかった。弘法大師は川で水を飲み、念仏を唱えながら去っていった。それから比詰川の水がだんだん不足になったという。それからこの村で八幡神社を観請し、付近から清水が出るようになったという。  
アクのないわらび / 男鹿市  
ある日、老婆がワラビを煮ていると旅の僧が来て、何か食べ物はないかと所望する。老婆は「何もない。ワラビは茹でたが、一晩灰汁につけないと食べられない」と言う。僧は「そのワラビを少しください」と言っておいしそうに食べる。老婆がびっくりしていると僧は「お婆さんがやさしい人だから、仏さんがアクのないワラビを作ってくれたのです。これからはアクのないワラビが生えますよ」と言って立ち去った。その坊さんは弘法大師で、西黒沢の一角にはアクのないワラビが生えるようになったそうだ。  
弘法清水(こうぼうしみず) / 男鹿市  
入道崎には、「弘法を親切にもてなし、湧水を得た」という弘法伝説が残っている。  
弘法大師と水 / 男鹿市  
羽立の比詰という村に弘法大師が来て、水をもらおうとしたところ、そこのおばあさんは「川で飲め」と言って水をあげなかった。弘法大師は川で水を飲み、念仏を唱えながら去っていった。それから比詰川の水がだんだん不足になったという。それからこの村で八幡神社を観請し、付近から清水が出るようになったという。  
西黒沢の縞石(にしくろさわのしまいし) / 男鹿市  
弘法大師が男鹿に修行に来たおり、立ち寄った民家に食べ物を乞うたところ、芋を石ころだと言ったら芋が石ころに変わった。また小浜でハマグリを拾っている女に「何を拾っている」と聞くと「しま石」と答えたので、ハマグリはみんな縞石になった。  
縞石のある部落(しまいしのあるぶらく) / 男鹿市  
昔、西黒沢の村にみすぼらしい姿の旅の僧侶が立ち寄った。疲れて空腹だった旅の僧は、かまどの煙に誘われ一軒の婆さまの家に入った。食べる物をお願いしたが「貧乏で何にもない」という。「かまどに煮ている物を少しでもいいから」と言うと、老婆は「これは食いものではない。浜の石ころだ」と言って追い払う。旅の僧侶は悲しげに立ち去る。芋も煮えたころだと思って老婆が食べようとすると、芋は石ころに変わっていた。それから西黒沢の海辺には珍しい縞模様の小石が見つかるようになった。旅の僧侶は弘法大師だったそうだ。  
弘法大師から授かった井戸 / 男鹿市  
昔、弘法大師が畠(入道崎)に来て、ある家に立ち寄り水を所望した。その家では「ここは水の不自由な所で、米の研ぎ汁でよかったら」と言われた。大師は地面に四角を書き「ここを掘れば水が出る」と教えてくれた。この井戸が「中の井戸」と呼ばれ、夏でも水が枯れることがない。畠では中の井戸を弘法大師が授けてくれた井戸と言って、今でも大事にしている。  
藤の井戸 / 男鹿市  
弘法大師が船川港金川姫ケ沢にさしかかったころノドが渇いた。民家に行き「水を一杯恵んでください」と頼んだ。ところがその家の人は「乞貧法師に飲ませる水はない。飲みたいならそれを飲め」と泥水を指差した。大師は錫杖でかき回してそこの家の井戸を泥水にした。次の家では、少しばかり出る井戸の水を布でこして「あまりいい水ではないが」と飲ませてくれた。大師はその家の井戸をコンコンと湧き出る良質な水にして立ち去った。いつのころからか井戸の周りに藤が植えられ、見事な花をさかせるので「藤の井戸」と呼ばれるようになった。旱魃にも枯れず汲むほどによくでる井戸という。  
弘法大師と水 / 男鹿市  
大倉村に昔弘法大師が訪ねてきた。ある家で水をもらおうとしたところ、その家のおばあさんが、家の井戸の水が悪いので時々タツノヒゲ(堰)から汲んできている。こんな水でも良かったら飲んでくれと言った。そこで弘法大師が杖を突き立てて抜くと、水がわき出て枯れることがなかった。この井戸は大倉の三島神社の登り口のところにある。  
無題 / 男鹿市  
黒崎の白蕨。昔、ある法師に宿をかした女が、海が荒れてわかめをとることができず、何を汁の実にして旅の僧をもてなそうかと思案していた。すると、その僧が、山道にあった蕨を採ってくるように言った。女が、蕨はあく抜きをしなくてはいけないと言ったが、僧は山に出かけて行き、一つかみほどの蕨を採ってきた。そのまま鍋に入れて火にかけ、やがて食膳にだしたところ、味もたいそうよかった。これは空海(弘法大師)がこの世に現れて教えられたのであろうと、人びとはもっぱら語っている。今の世になっても、汁菜(しるくさ)にするくらいの量の、灰につけないでもよい蕨が萌えでるという。  
無題 / 男鹿市  
男鹿島でも水が多く出る所と、水不足で悪い水の出る所と二分されているという。それは、弘法大師が男鹿を巡回したときのこと。村々に入って必ず一杯の水を求めて歩いたが、快く飲ませた村では杖を土中に突いて良い水を出してやり「堰の水でも飲め」と言った村では悪い水にした。特に比詰村のある婆さんが弘法大師にそう言ったため、この村では年がら年中悪い水を飲んでおり、夏には小川も乾いて飲む水もなくなるそうだ。 
無題 / 男鹿市  
北浦町字畠の伊藤家に弘法大師が訪ねてきた。家の人は泊めることはできるが、米をとぐ水がないというと、弘法大師が杖を突き立てて抜いたところ、水の枯れない井戸になったという。  
無題 / 男鹿市  
カクレ里に入る手前に硯石がある。大きな石に小さな穴が掘ってあり、水が溜まっている。昔、弘法大師が男鹿に来たときに石に穴を掘り、石から水を湧かせて自分の硯石にしたと言われている。そのためどんな旱魃の時でも水が無くなる事はなく、汲み取ってもすぐ水は満ちるとの事である。積み重ねられた石の一番高い所には、何かが書かれた石碑が建てられているが、これも弘法大師が書いたものだそうだ。
法体の滝(ほったいのたき) / 由利本荘市  
弘法大師が巡行して、しばらくの間滝に打たれて修業した時、この滝の美しいのに感じて、「法体の滝」と名づけたという。  
沿革と信仰(えんかくとしんこう) / 由利本荘市  
矢島町に九日町以外町と名の付く所がなかった頃、一人の女が毎年マダ布(シナの木の繊維の織物)を売りに来た。ある男が、女を尾行し夫婦になり、その地を開いたのが今の中村だという。小野定一さんの氏神堂に安置されている山の神の像は、その女の姿を刻んだものだという。弘法大師様がお出でになったころ、家は六戸で柴沢村と呼ばれていた。弘法様が「この村は百戸まで暮らせる」と言ったのが、百宅の名の起こりだといわれる。  
弘法清水(こうぼうしみず) / 由利本荘市  
昔は雪車町のように、井戸を掘っても水が出ない土地、というものがあった。ところが、その後ろに白山様という神社があり、そこに祇園様の井戸と呼ばれる井戸がある。この辺りで水が出ない理由は、昔弘法様がある家に水を貰いに行くと、水を汲みに行くのが面倒な家人は馬の水を飲ませた。それ以来この辺りでは水が出ない。  
百宅の七不思議(ももやけのななふしぎ) / 由利本荘市  
法体の滝というところで弘法大師が修行をした。  
弘法の洞窟という所がある。法体の滝へ行く前、弘法大師がここで休んだという。  
翁畑(おうはた)というところで、弘法大師が村人と立ち話をした。  
猫が虱で苦しんでいたので、弘法大師がとってやった。以来百宅の猫には虱がいないという。  
田んぼにドロオイ虫(ガツギ虫)がたくさんついていたので、弘法大師がとってやった。以来下百宅には虱がいない。上百宅にはいる。  
弘法大師が足を洗おうと川に入ると、ツブ(タニシ)が足を刺した。子供が刺されたら大変ということで、弘法大師がツブの尻をかいた。以来百宅のツブは先がとがっていない。  
弘法大師が高野台に行った時、若い男たちが鱒を捕っていた。弘法大師はやめるように言ったが、若者たちは鱒にツタの蔓を通してジサキという木につけ、弘法大師に背負わせた。以来その川には魚がいなくなり、ツタもジサキも生えなくなった。  
百宅の一番鶏は鳴かない。そこで弘法大師が衣を干したと言われる。  
百宅はもとは芝沢村と呼ばれていたが、弘法大師が来た際、百軒住める可能性があると言い、百宅(ももやけ)と言われるようになった。  
弘法の葛(こうぼうのくず) / 由利本荘市鳥海町  
百宅(ももやけ)には葛が生えないと言われている。それは百宅の人達が葛のツルで弘法さまに松を背負わせたからだと言われている。弘法さまは葛が嫌いだったので、葛が生えないようにしたという。百宅には弘法の七不思議というものが伝わっているという。   
弘法大師と井戸水 / 由利本荘市  
暑い夏の日、坊さんの姿をした弘法大師が歩いていると、水を持った婆さんと若い女の二人連れに行き合った。水を飲ませて欲しいと頼むと、婆さんは断ったが、若い女は水をたくさん飲ませてくれた。家の井戸からは悪い水しかでないときいた坊さんは、きっといい水がでるたろうといい、拝んで去って行った。その翌日女と家並みが同じ側の井戸からきれいな水がでるようになった。  
弘法大師と喰われずの大根 / 由利本荘市  
みすぼらしい坊さんの姿をした弘法大師が婆さんに大根をくれるよう頼んだが、婆さんは固いからだめだと断った。坊さんがいなくなった後、洗っていた大根や畑にある大根がすべて石のように固くなってしまったので、婆さんは畑を親切なよい爺さんに売った。畑が爺さんの手に渡るとよい大根ができていた。それから婆さんは心を入れ替えてよい婆さんになった。  
無題 / 由利本荘市  
百宅の苗代にオドロイ虫がいないのも、大師が穂のありさまを見て、かわいそうに思い、法力を発揮し虫を絶滅させたためで、鶏が羽ばたかないのも、鶏が羽ばたいて、大師の衣に土ぼこりをかけたので、「鶏よ、歌を歌っても、羽ばたきするな」と教えたからだと言われている。  
無題 / 由利本荘市  
百宅の小川のウラツブは、その尻がとがってないと言われるが、これも大師の足にウラツブが刺さったからで、人を苦しめる部分を法力をもってなくしてしまったから、と言われている。 
無題 / 由利本荘市  
百宅の地名は、いつ頃ついたかは判明しない。古伝によると弘法大師が名付けたと言われている。古くはこの集落を柴笹村と呼んでいた。しかし、弘法大師が集落のありさまを見て、「柴笹村とはあまりに寂しい。平地広く地味もゆたか、百戸の人達が住めるから百宅村と改めよ」と村人に教え、この地名が生まれた。
弘法伝説(大根) / 大仙市  
弘法大師さまが村に来て「大根をくれ」と願った。この村の大根は全部殿様に年貢で納めるのであったが、股っか大根を裂いてくれた。この村では優秀な大根が採れる。  
弘法伝説(水枯れ) / 大仙市  
弘法大師さまが婆に水をくれるよう頼んだが、婆はくれなかった。その後この集落には水は絶対出ない。  
弘法伝説(石小豆)(いしあずき) / 大仙市  
三本扇子今宿の畑に、石のような小豆がある。  
炭焼きと弘法大師 / 大仙市  
昔、協和村稲沢の炭焼き小屋に、坊さんが来て、炭焼きの仕事を見ていた。炭焼きは坊さんに関係せず、窯から真っ赤に燃えている炭を出していた。坊さんは窯の中に木を積むにはどんなふうにするものかと尋ねると、炭焼きはからかい半分に火を焚いてから、木の中に積むものだといった。炭を窯から出してしまったら、坊さんは木を積むのを私にやらせてほしいといったかと思うと窯の中に入り、残って燃えている炭の上に木をどんどん積んでこんな具合でよいのかというので、炭焼きはただびっくり動天しおろおろするばかりだっだ。これを聞いた人達は弘法様だろうといいあい、以来その沢では、炭を焼いても木に火がつかなくて炭焼きができなかったという。西木村檜木内にも同じ伝説があるが省く。  
犬を飼わない部落 / 大仙市  
弘法大師が犬嫌いなので、逢田集落の人達は信者なので犬を飼わない。  
弘法授けの水 / 大仙市  
船沢の清水は弘法大師が授けてくれた。惣左衞門水と呼ばれ、「流灌頂」の風習があったところだ。  
馬になった姉 /大仙市  
ある家の姉(妻)がはた織りをしている所に「水を飲ませてください」と乞食坊主がやってきた。あまりに汚い坊主なので妻は雑水桶の水を飲ませた。坊主は礼を言って出て行った。そこに兄(夫)が帰ってきた。妻は首から上が馬の顔になっているのも気づかずはたを織っていた。驚いた夫が訳を聞き、罰が当たったのだろうと坊主を追いかけあやまると、坊主は「この杖で尻を叩け」と杖を一本夫に渡した。夫が尻を叩くと妻は馬になっていなくなった。乞食坊主は弘法大師であった。だから乞食坊主でも粗末に扱ってはならない。  
炭焼きと弘法大師 / 大仙市  
昔、協和の稲沢の炭焼き小屋に一人の坊さんが来て、炭焼きの様子を黙って見ていた。やがて坊さんは、炭焼きに「釜の中へ木を積むにはどんなふうにするのか」と尋ねた。炭焼きの男はからかい半分で「火を焚いてから釜の中に積むものだ」といった。坊さんは「それでは私にやらせて欲しい」と言って、燃えている炭の上に木をどんどん積んだ。この話を聞いた村人は、弘法大師様だったろうと言いあった。それ以来、稲沢で炭を焼いても木に火がつかないので、炭焼きが出来なくなったという。  
庄内の清水(しょうないのしみず) / 大仙市  
庄内集落には湧水が多くあり、多助の清水は弘法大師の授け水、如露香清水は聖徳太子の水として知られ、そばに如露杉が生い茂り、この杉から不思議な魔の鳥が飛び去ったという。
水無(みずなし) / 湯沢市  
水無には水がなかったが、婆が遠くの清水まで行って、弘法大師に水をご馳走したため、弘法大師が杖で岩を叩いて清水を作った。  
阿保原地蔵(あほはらじぞう) / 湯沢市  
湯仙寺境内にあり、弘法大師の作と伝えられているが、昔、白石噺の主人公、宮城野、信乃の姉妹が、仇討ちの祈願をして首尾よく本懐をとげた地蔵尊で、白石三沢村阿保原円福寺より、この地に移したものだという。  
飯田村の「みの けら」の由来 / 湯沢市  
千二百年ほど前、飯田村は貧乏な村だった。弘法様が現れ、百姓達を山へ連れて行く。途中、大嵐になり、谷川が増水し、橋まで流されてしまう。弘法様が呪文を唱え祈願すると、水は地下に潜ってしまう。それから、すげが生えている場所に案内し、みんなに刈り取らせる。持ち帰ったすげを夏日で干し、冬の農閑期になったらみのやけらを作って、生活の足しにするようにと、教えてくれた。地下に潜った水は、隣集落の羽竜との境30mほど離れた所に今も湧き出ている。  
無題 / 湯沢市高松  
相の山の中腹を弘法さまが通りかかった時、村人が親切にもてなした。そのお返しに錫杖でついて水が湧き出るようにしてくれた。その水を飲むと、頭が良くなり、字が上手になるといわれている。
高野派(こうやは) / 北秋田市  
三人のマタギが高野山に行き、弘法大師様を訪ねた。すると弘法様から「呪いの言葉、呪言を知っているか」と問われ、「知らない、知りたいものだ」と答えた。続けて「それでは三人のうち一人を生涯俺に奉公させるか」と問われ、マタギたちは「承知した」と答えた。三人は、仲間の一人を弘法様に奉公させて呪言を授かった。高野派は、これが起こりだとされている。  
又鬼と空海上人(またぎとくうかいしょうにん) / 北秋田市  
又鬼の祖先、万事万三郎が、弘法大師空海とは知らずに衣を剥ぎ金を奪った。「生き物を獲る者は七代七流れの罪になる」と諭され、「お前達は人間に害する悪鬼を退治する者、鬼のまた鬼だから又鬼と称しなさい。後日又鬼の秘法を遣わす」と告げられる。万事万三郎は高野山に空海上人を訪れて、生き物を獲った罪の祓い方、獲物の供養法、危険を避ける法、身の潔め方、犬縄の長さなど数々の秘法を伝授された。 
弘法大師 / 北秋田市  
弘法大師が鷹巣に来た時、婆に薬の作り方を教えた。婆は八十二歳で、他の人が作った薬はきかない。  
弘法大師 / 北秋田市阿仁荒瀬  
弘法大師は日本の国内を見るということで、何年も歩いた。比内の味噌内というところで味噌つきをやっていた若者は「糞つきをやっている」とあくたれ口をきいた。罰が当たったものか味噌をつけば全部糞くさくて食われなくなり、村は味噌内という名前が付いてしまった。山の中の幽霊が出る寺では弘法様が幽霊の問答に句をつけると幽霊が出なくなった。弘法様に砂糖味噌つけたんぽを食べさせなかった家は火事で焼け、餅を半分しか馳走しなかった婆様は隠していたのを見やぶられた。  
弘法大師お授けの水 /北秋田市阿仁荒瀬  
弘法大師は偉くなって日本国中歩くようになった。夏の暑い日、女たちが4、5人田の草取りをしていると、大師が冷たい水のあるところはないかと聞いた。向かいの村まで行かなければ冷たい水がないと言うと、杖であちこちを差している。田の畔で水を飲んでいた大師は女たちにこの水は本当にいい水だから、村中にせきを通して田んぼに使えばいいと教えてくれた。次に天に向かって呪文を唱えると雨が落ちてきた。今でも弘法大師お授けの水として使われている。
弘法伝説(かぶ) / 美郷町  
野荒町に弘法大師が回って来て、婆にかぶが欲しいと願うと婆は「悪いかぶだがこれでよければ」と快く呉れた。翌年から、野荒町は良質のかぶが採れ、かぶの産地になった。  
大屋敷の石芋(おおやしきのいしいも) / 美郷町  
千屋字大屋敷の某家に旅の僧が来て、空腹で困っているが、畑の里芋を分けていただけないかと言った。家婦は縁先で機を織っていたため、面倒くさがって、家の芋は石芋なので、煮ても焼いても食べられないから他の家に行くようにと追い返した。僧は何も言わず立ち去った。ある日里芋を掘ったところ、やはり石芋になっていて、食べることができなかった。翌年また同じ畑に里芋を作ったところ、やはり石芋よりできなかったという。僧は諸国行脚中の弘法大師であったという。  
石芋(いしいも) / 美郷町  
弘法さまが「火にあたらせてくれ」と婆に願ったが、断られた。それ以来弘法大師の杖をついた場所の里芋は硬くて喰えない。  
タムラネッコ / 美郷町  
弘法様が「火にあたらせてくれ」と願うと「焚き物がない」と答えた。弘法様は土を掘ってタムラネッコを出し、「これを焚け」と言った。
大師倒杖の公孫樹 / 仙北市  
西木村西明寺の真山堂宇直前に、周囲二十余尺の銀杏が生えているが、弘法大師が杖にしてきた木を記念に植えたら成育したという。名を大師倒丈の公孫樹と呼ばれ有名である。乳の出ぬ人は、木綿袋に米を入れて樹の前に供え祈願すると出るようになるという。婦人の参詣人が多く、路のほとりに冷泉があるが、大師の喉を潤した「お授けの水」といわれている。ここの公孫樹が一時に葉を落とす年は、豊年満作くであるという。  
弘法の公孫樹(こうぼうのいちょう) / 仙北市西木町  
西明寺の真山堂の前に銀杏の大樹がある。これは弘法大師が、巡行の折に、杖にしてきた木を記念に植えたら、根が生じて成育したもので、弘法大師倒杖の公孫樹とよばれている。乳の出ない女が、三角の木綿袋に米をいれてこの大樹に供えて祈願するとかなえられるという。またこの大樹が一時に落葉する年は豊作だと信じられている。
山塩井山 / 能代市二ツ井町  
西山の麓に、弘法大師の法力によって湧出したという塩泉がある。はじめは白塩であったが、野とに塩水に変わったという。魚や野菜の貯蔵に村人が利用した。「世渡りのからきを汲みてしほ井やこの山本に湧き初めにけり」(茂木知教の作)の歌碑が残っており、弘法の突き塩と伝えられている。  
切石の塩水 / 能代市二ツ井町  
日照り続きの年、村人は渇水に苦しみ雨乞いしていた。乞食のような坊さんが訪れ、一杯の水一片の食物を求めて歩いたが与える人はいなかった。ある貧しい家で、母親が欠けた椀に水を入れ「大きく欠けた所は夫が飲む所、次に大きい所は私が飲む所、小さく欠けた所は子が飲む所。欠けていない所で飲め」と差し出した。坊さんが、お礼に水涸れした井戸を錫杖で叩くと塩水が湧き出た。塩は貴重品。坊さんは弘法大師だったと言われる。
弘法大師 / 上小阿仁村  
弘法大師は手足が不自由だったので、雪が降るとワラジにツマゴを編んで足を隠して歩いた。  
弘法大師 / 上小阿仁村  
昔、弘法大師が三治郎宅に泊まった時、病気の娘のために薬の調合を教えてくれた。
弘法伝説 / 鹿角市  
弘法大師が行ったらきれいな娘が菜っ葉を洗っていたがとてもいじわるだった。弘法大師は長旅でよごれるし、ホイドのかっこうになっていた。「ごはん一つ恵んでくれ。水でもいいからいっぱい。菜っ葉でもいいから、ひとつかみ下さい。」「なにもねえ。」弘法大師はこれは処置なしと思ったか、錫杖で逆さにアホッてついた。この女の子どもがぱっと死んで、水がなくなって、秋の漬物の時になれば、水が切れることもあるそうだ。  
善徳の不思議なわらび / 由利本荘東由利  
善徳川から大石沢へ登っていった所に植わっているワラビは、あく抜きをしなくても食べられる。昔、お坊さんが朝ご飯の支度をしていた老婆に、食べ物を乞うた。老婆が、おかずがないというと、お坊さんはわらびを採ってきて茹でて欲しいと言った。そのとおりにしたところ、ワラビはあく抜きをしなくても美味しかった。このお坊さんは弘法大師だったという。  
引法様と下町 / 大館市  
大館の下町では弘法様が訪れたときどこの家でも一杯の水もさし上げなかったため、いくら掘っても水が出ず、下町の人々はみんな水汲みに苦労したという。  
穏政坊の井戸(おんせいぼうのいど) / 潟上市  
真形集落の旧家平野清蔵氏の祖先に穏政坊という者があった。彼は、弘法大師の弟子となり、天竺等を巡遊し、彼の地に真形国なる地名があるところから帰ってきて、その地に真形と命名したという。同家の屋敷内に井戸があり、そばに四百年も前の松といわれる古木が枝をたれている。この井戸は穏政坊が作ったものと伝えられている。かつて、この古木の枝を伐ったものがあったが、そのものは百日間病気にかかったといわれている  
普門寺 / 秋田市  
金輪山普門寺は真言宗で、本尊は日本弘法の一と称している。弘法大師が四十二歳の厄除けのために、三体の首を自ら刻んで海に流したという。一つは難波の浜に着き天王寺に納まり、一つは鎌倉の浜に着き川崎大師となり、一つは秋田の浦に漂着した。後に旅の僧がきて、体躯を彫刻して全身を完成して、この寺に移して本尊とした。今も厄除け弘法大師として信仰されている。  
授けられた塩 / 能代市二ツ井町  
切石の助左エ門という家に、粗末な衣を着た坊さんが食べ物を求めて毎日訪れた。婆は握り飯を与えていたが、あるとき塩を付けない握り飯を与えた。塩さえない貧しい暮らしを知った坊さんは、庭の片隅を錫杖で突き岩塩を授け「切石より下の人に与えてはいけない」と伝えた。婆が、切石より下の富根に嫁いだ娘に塩を与えたところ、岩塩は塩水に変わった。今も塩水が湧き、坊さんは弘法大師だったと言い伝えられ祭られている。
蚶満寺 / 秋田県にかほ市象潟町象潟島  
この寺には、七不思議の伝説が残る。  
弘法投杉 / かつて、参道入り口左側の老松のてっぺんの一枝がだれが見ても杉に見えることから、弘法大師の霊験によるものといわれ、「弘法投杉」と呼ばれていた老松が太平洋戦争の終わり近くまであった。現在は残っていない。  
夜泣き椿 / 樹齢700年の椿で、寺に異変があるときは夜泣きするという。  
あがらずの沢 / 小さな太鼓橋があり、この辺は昔深い沢で、ここに人が落ちると泥が深い為あがることが出来ない人取沢であったといわれている。  
咲かずのツツジ / 北条時頼が植えたと伝えられる二株のツツジのうち一株は普段は花が咲かない。寺に異変がある年に限り咲くという。  
木登り地蔵 / 本堂裏手のモチの巨木の、上方の幹が分かれた間にちょこんと地蔵様がある。ある時地蔵様を木の根元に下ろしたが、翌朝にはまた元の所に登っていたと伝えられる。  
姿見の井戸 / 平安初期の三十六歌仙の一人の猿丸太夫が、象潟に来た時この井戸に自分の姿を映して自らの行く末を占ったとされている。夜半だれにも知られず井戸に参り自分の姿を映せば、将来の姿が現れるといわれている。  
血脈授与の木 / ある時、入棺の際に血脈(戒名を書いたお守り)を入れるのを忘れた葬列がこの前までくると、忘れたはずの血脈が、ケヤキの枝につり下がっていたといわれ、それ以来このケヤキの古木は血脈授与の霊木といわれるようになった。 
 
山形県
 
福島県
猪苗代湖の始まり  
むかしむかし、会津(あいづ→福島県)の磐梯山(ばんだいさん)のふもとを歩いていた旅のお坊さんが、機織り(はたおり)の音がする家へ水をわけてもらいに行きました。  
機(はた)を織(お)っていたのは美しい女の人でしたが、水をわけてほしいとお願いするお坊さんを見ようともせずに、「あっちへ行きな。他人に飲ませる水など、一滴もないよ」と、冷たく言って、機を織り続けました。  
「・・・そうですか」  
お坊さんはあきらめると、今度は家の前でお米をといでいる、人の好さそうな奥さんに頼みました。  
「喉が渇いて、困っております。その米のとぎ汁でもかまわないので、一杯飲ませてほしいのです」すると奥さんはにっこり笑って、手桶(ておけ)に残ったきれいな水をお坊さんに差し出しました。  
「さあ、これをどうぞ」そして、おいしそうに水を飲み干すお坊さんに、頭を下げて言いました。  
「このあたりは、飲み水に不自由しております。お疲れなのに十分の水を差し上げられず、申し訳ありません」  
「いやいや。こんなにうまい水は、初めてです。ありがとうございました」お坊さんは礼を言うと、ぐるりと辺りを見渡して言いました。  
「大丈夫。明日の朝になれば、きっといい事がありますよ」  
さて、翌朝の事です。  
あの心優しい奥さんは、家の外へ出てびっくり。  
なんと家の前には、水を満面にたたえた湖が広がっていたのです。  
「これは・・・」  
奥さんは、ふと気がつきました。  
「あのお坊さま、あのお坊さまが、湖を作ってくれたのだわ。ありがたい、ありがたい」  
奥さんが手を合わせて感謝していると、湖のまん中から助けを呼ぶ女の叫び声が聞こえてきました。  
見てみると、あの意地悪な機織り女の家だけが、湖の中にとり残されていたのです。  
こうして出来た湖が今の猪苗代湖で、意地悪な機織り女が取り残された小島が扇島(おおぎしま)と呼ばれています。 
足長手長  
むかしむかし、会津(あいず→福島県)の盆地(ぼんち)に、どこからともなく恐ろしい魔物(まもの)が現れました。  
その怪物は、足長手長(あしながてなが)という夫婦の魔物です。  
夫の足長はその名の通りとても足が長く、どんなに遠くても足を伸ばせば届きます。  
妻の手長はとても手が長く、どんな遠いところの物でも、座ったままでヒョイとつかむ事が出来ました。  
この足長手長の夫婦は、なぜか会津の土地が気に入ったようです。  
妻の手長は磐梯山(ばんだいさん→福島県の北部、猪苗代湖の北にそびえる活火山。標高1819m)の頂上(ちょうじょう)に座り、夫の足長は会津盆地をひとまたぎしています。  
「手長よ、そろそろ始めるか」  
「はいよ、足長」  
二人の魔物は声をかけあうと、足長の足がグングンと伸びて、あちこちの雲をつかんでは会津盆地の上に集めます。  
雲は畑仕事をしている人たちの頭の上をおおい、みるみるうちにあたりは暗くなっていきました。  
「今度はおめえだ、手長」  
「はいよ、足長」  
今度は手長が長い手で、猪苗代湖(いなわしろこ→福島県の中央部、湖面標高514m。最大深度94m。周囲63キロm。面積103平方キロm)の水をすくってばらまきます。  
それは大粒の雨となって、畑仕事をする人々の上に降りかかりました。  
「あっはっはっは、見てみろ、あのあわてぶり!」  
「ゆかいだね、足長」  
足長と手長のせいで、会津は暗い雨の日が続きました。  
村人たちは、ほとほと困りました。  
「このまま、おてんとさまが出なければ、家のダイコンが枯れてしまうぞ」  
「このまま作物が枯れてしまったら、おらたちはどうなるだ?」  
「そりゃあ、飢え死にしかねえ」  
「何とか、ならねえか」  
「何とかと言っても、相手があんな魔物では」  
こんな村人たちを見て、足長手長は大喜びです。  
そんなある日の事、ボロボロの衣をまとった弘法大師(こうぼうだいし)というお坊さんが、この会津の村にやって来ました。  
「これはひどい」  
荒れ果てた村の様子に驚いた弘法大師は、村人たちに話を聞きました。  
「よし、その魔物をこらしめてやろう」  
弘法大師はそう言うと、すぐに磐梯山の頂上に登りました。  
そして頂上から、大声で言いました。  
「足長手長! わしはここを通りかかった旅の僧じゃ。姿を見せんか!」  
弘法大師の声に、足長と手長が現れました。  
「わっはっはっは、何じゃ、人間の坊主か」  
「人間にしては、大声な声を出しよるわ」  
「足長手長。わしの言う事をよく聞け! お前らは、どんな事でも出来ると思っとるだろうが、どんなに頑張っても出来ん事があるぞ」  
「何を言うか。この世の中に、わしらに出来ぬ事など何一つないわ」  
「そうか、ならばわしの言う通りにやってみろ。もし出来なければ、お前たちはすぐにこの会津の土地を出て行くのだ」  
「よし、わかった。どんな事か、言ってみろ。ただし、それが出来たらお前を食ってやるからな」  
弘法大師は、ふところから小さなつぼを取り出して言いました。  
「足長手長よ。お前らは、ずいぶんと大きい。だから二人一緒に、こんな小さなつぼに入る事は出来んじゃろう?どうじゃ、まいったか。わっはっはっは!」  
「何だ、そんな簡単な事か。ではいくぞ、手長」  
「あいよ、足長」  
二人は声をかけあうと、みるみるうちに小さくなってつぼの中へ入ってしまいました。  
すると弘法大師はニヤリと笑って、つぼのふたをきゅっと閉めました。  
突然ふたを閉められて、足長と手長はびっくりです。  
「こら! ここから出せ! 早くふたを開けろー! 開けねばつぼを壊してやるぞ!」  
つぼの中で足長と手長が暴れますが、つぼはびくともしません。  
「馬鹿者! 人々を苦しめたばつとして、お前ら二人は永遠につぼの中に入っておれ!」  
弘法大師はそのつぼを磐梯山の頂上に埋めると、上に大きな石を乗せて二度と出て来られない様にしました。  
「ちくしょう、このつぼは、何で壊れないんだー!」  
つぼには弘法大師の法力がかかっているので、足長や手長の力では決して壊れません。  
やがて二人はあきらめたのか、静かになりました。  
すると弘法大師が、つぼの中の足長と手長に言いました。  
「お前たちを山の守り神として祭ってやるから、村人たちの為につくすがよいぞ」  
こうして足長と手長は、弘法大師によって退治されたのです。 
イヌの足  
昔、弘法大師さまがあるとき、「わらう」という字を作ろうとして筆を持ったが、どうしても書けませんでした。  
どのように書けばいいかと考えていたら、表で子供たちの笑う声が聞こえてきました。  
ちょっと障子を開けてみると、子供たちが子イヌに籠(かご)をかぶせて遊んでいました。  
籠がきつくてどうしても取れないので、子イヌがはねているのが面白くて笑っていました。  
大師さまはそれを見て、犬という字に竹をかぶせてみたら、本当に笑っているように見えたので、それから「笑」と言う字ができたそうです。  
それで大師さまはイヌに恩返しをしようと思いました。  
むかしは、イヌは三本足でした。  
大師さまは三本足では不自由だろうから、一本ふやして四本にしてやろうと、五徳から一本取ってイヌに付けてやりました。  
五徳は四本足でしたが、それから三本足になったそうです。  
イヌは喜んで大師様にもらった足に、しょんべんなどかけたら罰が当たると思い、そのたびにその足を持ち上げてするようになったそうです。  
(※五徳・・・火鉢や囲炉裏などに置いて、鉄びんなどをかける鉄製の道具。) 
わらび / いわき市  
昔弘法大師がここを通った時に、村人にわらびを食べたいと言ったところ、村人は、わらびは取ってもすぐには食べられないと言った。それでは不便だろうと読経すると、不思議にもそのまま食べても苦くないわらびになった。それ以来3、4ヘクタールの地内のわらびはあまわらびと称して、とってそのまま食べられるようになった。 
弘法大師 / 安達郡  
ここには昔から井戸が無く、弘法大師が独鈷で掘ったといわれている独鈷水を村中で使っているが、この用水のあたりに蛇が出ると凶事があるといわれている 
布引山の蛇 / 郡山市湖南町  
昔、今の湖南町に雨ばかり降って稲が実らないことがあった。これは布引山の蛇が雨を降らせているということで弘法大師が山頂で何日も祈って蛇を穴へもどした。 
蛇 / 郡山市湖南町  
高井原山を蛇が飲もうとしていたが、弘法大師が護摩をたいて追い出した。その蛇が福良のコエタ坂にのべっていた。殿様がそれを見苦しいといったら、穴に入って尻尾だけ出して死んでいた。そこを穴尾という。 
猪苗代湖 / 福島県  
ある娘が少ない水を空海に全部与えたところ、次の朝、磐梯山の麓が湖になり水が豊かになった。
只見川の地名由来  
その1 むかし、弘法大師が仏教の教えを広めるため、全国を行脚するうち奥会津に入り、お寺を建てるいい場所はないかと、まだ名もない只見川筋を歩いていた。なにしろ両岸の切り立つ岩肌をぬって流れる急峻な川で、弘法大師は川の流れにばかり気を取られ、川ばかり見て歩いたという。だから、ただ見る川、つまり、只見川になったと言われている。  
その2 弘法大師は上流を歩くとき、川の近くには人家もなかったので、「ここは布教の必要はない、ただ見て通るだけでよい」と川筋を下ったから、ただ見る川、只見川になったとも言われている。  
[ 群馬県と福島県の境界にある尾瀬沼に源を発し尾瀬を西へ流れる。いくつかの滝を経て新潟県と福島県の県境を北へ流れ、福島県南会津郡只見町の田子倉に至り北東へ向きを変える。わずかながらの平地を作りながら伊南川、野尻川、滝谷川を合わせ、柳津只見県立自然公園の中を流れ、福島県喜多方市山都町三津合で阿賀川(阿賀野川)に合流する。] 
 
関東

 

栃木県
「日光」という地名の由来  
空海が二荒山(男体山)に登った際に、「二荒(ふたら)の文字がよくない」というのでこれを「にこう」と音読し、それに「日光」の字をあててに改名したとされる。
「名草の弁天様」と「名草」地名の由来 
伝説は、弘法大師が天女のお告げにより江ノ島(神奈川県)で堂を建て修行していたということから始まる。護摩を焚き、その灰で弁天像を三対つくり、それぞれ三箇所に安置したそうだ。その場所は江ノ島、琵琶湖の武生島、そして足利の大勝寺。  
いつしか足利の弁天像が行方不明となってしまった。弘法大師は自らその探索に赴くことにした。この地に入ると、とても香りのよい風が吹いてきた。香りのもとへと足を向け、そのもとが草であることに気付く。これは名草(めいそう)だということで、地名の由来になったという。  
さらに山中をさまようと、突如現れたのが白蛇だった。弘法大師は弁天様の使いに違いないと思い、白蛇の導き通り後を追っていった。すると巨大な岩の前に出た。白蛇は岩の穴に入り、出てこなくなってしまう。弘法大師はこの地に霊示を感じ、この場所こそ弁天様を祀るにふさわしいとして、経文を唱えた。水源の守りに弁財天を勧請し、祠が建てられることになった。
石芋 / 足利市南大町 
平安朝時代、弘法大師(こうぼうだいし)が諸国を巡歴しておりました。たまたま南大町(当時大町村)の森の中から湧き出る泉のほとりに老婆がちょうど昼の仕事で里芋を洗っているところに出会い大師は、食べるものなく空腹を覚えましたので芋を少々恵んでくれと頼みましたところ、老婆は「この芋は石芋といって云って煮ても焼いても食べられない、と云って差し上げませんでした。大師は心よしとせず「それなら石芋にしてあげよう」と口中に呪文を唱え立ち去りました。老婆は早速芋を煮て食べようとしたところ、不思議に固くなってたべられず、そっくり前の泉に投げ捨ててしまいました。其の芋が、後になって芽を出し、今でも毎年しげっていると傳えられています。  
 
群馬県
川場温泉 / 群馬県川場村  
昔、昔。川場の村は、水に不自由をしていました。  
ある日のこと、お婆さんが洗い物をしていると、ひとりのお坊さんが訪ねてきて言いました。  
「水を一杯、くださるまいか」でも飲み水は、遠い沢からくんで来なければなりません。  
それでもお婆さんは、困っているお坊さんを放っておけず、親切に沢まで行って水を運んできて、さし上げました。  
「お婆さん、このあたりは水が不自由なのかな?」  
「はい、水もさることながら、もしお湯が湧いたら、どんなによろしいでしょう。このあたりには、脚気(かっけ)の病人が多うございます。脚気には、お湯がいいと聞いております」  
「なるほど」と、うまそうに水を飲み終わったお坊さんは、やがて持っていた錫杖の先でガチンと大地を突きました。すると不思議なことに、そこから湯けむりが上がり、こんこんとお湯が湧き出したといいます。〜  
このお坊さんが、有名な弘法大師だと知った村人たちは、この湯に「弘法の湯」と名付け、 今でも湧出地には弘法大師堂を祀っています。  
これが、昔から川場温泉が「脚気川場」といわれるゆえんです。
俎の名号 / 群馬県  
空海が俎の裏に六字の名号を阿弥陀の形に書き親切な農夫の家に置いて行った。  
大蛇 / みどり市東町  
弘法大師空海上人が第二の高野山を捜して袈裟丸山に登ったが、千谷は見つからなかった。尾根伝いに歩いてさいの河原まできたとき、白い大蛇が大師を呑もうと襲い掛かってきたので、経文を唱えたら大蛇は去った。大師は夢で川の中に仏像があることを知り、村人とともに捜してお祀りした。そのときの庚申様がある大沢寺は、大蛇と戦ったいわれがあるので山号が竜宝山。
袈裟丸山・賽の河原 / 群馬県みどり市  
黒く焼けたような色の火山岩が付近一帯に転がっている賽の河原とよばれる、袈裟丸山の中腹に開ける異様な世界だ。  
大師が、夜、ここを通ったときのこと、赤鬼・青鬼に責められながら、数人の子供たちが石を積み上げていた。弘法大師はこれを見て、三夜看径して済度したという。  
赤城周辺には「死者の魂は赤城にのぼる」「旧4月8日に赤城山に登ると死者に会える」という言い伝えがあった。袈裟丸山にも「その年に子どもを亡くした人が賽の河原に行くと死者に会える」という言い伝えがあり、寝釈迦に参拝した後で賽の河原に登って石を積んだという。
間野の弘法井戸 / 高崎市  
弘法大師が間野に立ち寄り水を貰う。間野は高台に有る為、水汲みが大変という村民の嘆きを聞き井戸を掘る。  
石芋伝承 / 高崎市  
烏川対岸の室田村では弘法大師が所望する芋を渡すのを惜しんだため、付近の芋が法力で食べられなくなる。 
弘法大師 / 群馬県利根郡片品村  
むかし戸倉の玉城屋の先祖が、目の暮れ方に門口に立っていると、ひとりの旅の僧が通りかかり、一夜の宿をもとめられたので、「どこからおいでになったか」と聞くと、「けさ若松をたって来ました」という。会津若松から三十六里の道を、一日で歩いて来たとは、(これはただ人ではない)と思って、ていねいに部屋へ通すと、「人助けになるまじないを教える」と僧はいう。ちょうどその時、手つたいに来ていた年老いた女が、「私も信心して居ります。どうか私にも教えてくだされ」とたのんだが、僧は「そなたの心がげは、まだまだよろしくない」といって、その女には教えなかった。  
あくる朝出立の時に、僧のわらじをはく姿を、みんな見たが、出てゆく姿はだれにも見えなかった、とったえられている。これは弘法大師の化身に違いないというので、以来玉城屋では、代々の当主が、必ず一生のうち数回は高野山参りを怠らず、それは今日につづいている。  
同じく弘法大師のこと  
大同二年のこと、弘法大師は諸国巡錫中、土井出の庄古伸に立ち寄られ、ここに安楽寿院を建立されたという。 
 
茨城県
龍 / 猿島郡総和町  
猿島郡総和町を弘法大師が通りかかった時、橋が無くて川を渡れず困っていると、老人が出現し、柳の枝を折って橋とした。老人は龍と化して昇天したという。 
ちばひめ / 茨城県  
僧がある家に宿を乞うたが主人は拒絶。あとで空海だとわかり欅の大木に登って大声で呼んでいるうちに「ちばひめ」という蝉になった。
駒の足跡 / 泊崎地方  
駒に乗って弘法大師がこの地を訪れ、小川に架かる石橋を渡ったときに駒のひづめの跡が石に残ったと伝えられている。  
木瓜(ほけ) / 泊崎地方  
弘法大師がこの地を訪れたとき、通った山道の木瓜は、それ以後実をつけなくなってしまったと伝えられている。  
逆松 / 泊崎地方  
弘法大師がこの地を訪れたとき、持ってきた松の枝を挿したものが根づいて地をはうように見えることから、逆松と伝えられている。  
独鈷藤(とつふじ) / 泊崎地方  
弘法大師堂地にあった藤の節々が独鈷に似ていることから独鈷藤と名づけられたと、伝えられている。  
硯水 / 泊崎地方  
弘法大師がこの地を訪れたとき、字を書くのに湧水を使って墨をすったと伝えられ、この水を使って字を練習すると上達するといわれている。  
五葉の杉 / 泊崎地方  
弘法大師堂地にあった杉の葉が、五枚の葉を付けていたことから、五葉の杉と名づけられたと、伝えられている。  
法越(のつこし) / 泊崎地方  
弘法大師がこの地で千座護摩の行を修めた後、他の地へ移動するとき馬に乗って川を渡った場所が法越と名づけられ、法越には藻が生えなかったと伝えられている。  
弁天像 / 泊崎地方  
弘法大師がこの地で千座護摩の行を修めた時、炊いた護摩の灰を固めて三体の弁天像を作った。日照が続き困った時、村の若者がこの弁天像を抱いて牛久沼に入り雨乞いをすると雨が降った。  
弘法大師の使い / 泊崎地方  
牛久沼のほとりで鎌を研いでいると小さな蛇が寄ってきた。鎌に引っ掛けて投げ捨てようとすると大蛇に変身した。この大蛇は弘法大師の使いと伝えられている。  
師付の田井 / かすみがうら市中志筑  
尾花散る師付の田井(田居)(しづくのたい)  
「万葉集」に登場する常陸国府の役人であった高橋虫麻呂は、筑波山を数多く歌にしました。「筑波山に登る歌」と題する歌に登場する「師付の田居」は、かすみがうら市中志筑(なかしづく)の水田地帯にあり、田圃の真ん中にその碑が建てられています。場所は旧志筑藩の藩主本堂氏の墓所である五百羅漢で有名な「長興寺」の横の道を山側に下ったところにひろがった一面の田の中にあり、石碑へ行くには田圃のあぜ道を通るしか道はありません。石碑の脇には古来からの湧き水が現在でも枯れることなく湧出しています。写真に見える丘は風土記の丘の裏手にある宮平遺跡の発見された台地であり、紀元前よりここに人が住んでいたところです。この丘の手前は恋瀬川であり、万葉のころは「信筑川」「表川」などと呼ばれていました。歌にあるように尾花(ススキ)散る時期にまた訊ねて見たいと思います。石岡(旧府中)に残された井戸「六井の泉」の中の鈴負井(宮部地区)も川の向こう側の田の中に噴出している井戸であったことから、昔からかなり貴重な水源であったものと推察されます。また、この看板の位置からは筑波山は頭の先が少し見えるかどうかですが、田圃の半ばまでいくと左手にその雄姿を見ることができます。  
師付(志筑)の田井に伝わる昔話  
師付の田井のあたりは戦前まで湿地帯でもあり、不断に泉の湧く井戸があった。この井戸は、弘法大師(空海)が巡錫の途中、この地に来られ、錫杖を使って地面を突くと清烈な水が湧き出し、長らく付近の稲作におおいに役立ち、村人にたいへん喜ばれているそうである。またこの志筑の田井は遠く鹿島神宮の御手洗池と地下でつながっているという。このように弘法大師によって湧き出した泉の例は、弘法井とか、御大師様水とかいわれ、全国いたるところに見ることができる。この他、弘法大師の足跡として近くの閑居山では金堀穴の前面にある大石の上に静座され瞑想にふけっていると、妙な音楽とともに阿弥陀如来のお姿が現れ、立派な経巻を残されて姿を消した。、大師はこれは如来の賜物であると、前面が平滑で数メートルの高さの岩の下部にある穴に納めて、石で蓋をして後世の人の手にふれないようにした。この大岩を聖教石といった。また、高倉の湯ケ作山に、阿弥陀宝蔵寺の跡があるが、弘法大師がここを通りかかった時に、大変疲れており、手にした杖を大地に突き立てると、その杖の下から温泉が湧き出し、この温泉で疲れを癒したと言い伝えられている。 
 
埼玉県
しなび山のしなび竹 / 埼玉県行田市  
昔々、弘法大師が諸国をめぐられ、衆生を済度されたことがあった。武州若小玉村にこられたときのこと、暑い日盛りを砂ぼこりを浴びながら、とぼとぼと大師はいなか道を歩んでいかれた。  
ある家に立ち寄られて、「杖にしたいから一本竹を恵んでくれ」といわれた。農夫の与八の家であった。ところがこの与八、すこぶるけちん坊であった。よせばよいのに「この山の竹はみんなしなびていて杖にはなりません」といって、ていよく断ってしまった。ふしぎなことに与八の竹山の竹は、その後みんなしなびて生えてきたという。  
弘法大師は、しかたなく同じ村の千蔵という農家にいって竹を所望した。千蔵は心よく手ごろの竹を切って杖にして差し上げたという。大師は大喜びされて、懐中からふくさを出し、一首の和歌を書いてくださった。「忍名所図絵」の著者は、そのふくさを見たいと思って、その家の主人にたのんだが、「今はもうふくさが朽ち果ててしまって、文字も見えないから」といって見せてくれなかったと書いている。昔々、弘法大師のころのふくさである。  
ところで、このしなび竹のあるところは「忍名所図絵」の著者が細かに記入している。「若小玉村に入って一町ばかりの所に一つの塚があり、青石塔婆がある。この塚の中腹に竹薮があり、それがしなび竹である。竹は真竹で、肉に厚い薄いがあり、太いものは七.八寸を上回る。花器にすればおもしろい」と書いている。この種の竹は東京文京区小石川の植物園にもあり、皺竹という珍種である。 
 
千葉県
塩井戸  
安房国(千葉県の南部)の山深い神余(かなまり)という土地に、一人の旅の僧がやってきました。その村には、夫に先立たれた女が、その霊を弔(とむら)いながら一人で貧しい暮らしをしていました。その家を、僧が訪ねたのです。  
心優しい女は、小豆粥(あずきがゆ)を作り、僧をもてなしました。  
「いただきます」と言って、僧はお椀を手にして小豆粥を食べました。  
ところが、まったく塩味がしないのです。  
これでは、せっかくの小豆粥もおいしいはずがありません。  
「どうして塩味がしないのですか」と僧はたずねました。  
すると女は、「余りにも生活が貧しく、塩を買うこともできません」と答えたのです。  
山里での暮らしの大変さを知った僧は、すぐに家の外へ出ました。  
そして、近くを流れる川の岸へ下ると、地面に杖(つえ)を突き立て祈願(きがん)したのです。  
それから、杖を引き抜くと、不思議なことにブクブクと塩辛い水が噴き出すではありませんか。その旅の僧こそ、諸国をめぐっていた弘法大師でした。  
この井戸は『塩井戸』と呼ばれ、海から離れた山里の人々に、貴重な塩を与え続けたことでしょう。『塩井戸』は、今でもはっきりとわかる円形の井戸で保存され、『神余の弘法井戸』として県指定有形民俗文化財でもあります。 
石芋  
811年(弘仁2)の秋のことでした。ある村の女が、道端の井戸で畑から取った芋を洗っていました。すると、旅の僧が通りかかり、「その芋を一つくれないかね」と声をかけたのです。  
女はジロッと僧を見て「これは石芋だ。煮ても焼いても固くて食えねえよ」と答えたのです。  
その言葉を聞いた僧は、黙って立ち去りました。  
さて、家に戻った女は、芋を食べようとかまどの鍋でグツグツと煮たのです。  
ところが、いくら煮ても固くて石のようです。「こりゃ、とても食べられねえ」。  
女は芋を井戸へ捨てたのですが、「どうしてこんな不思議なことが起こるんだ?」と考えました。そして、「もしや、あの坊さんは弘法大師さまではなかったのか」と思いました。  
「そうか、私のような欲深い者を、正しく導くために旅をしているのだ」と女は、深く後悔(こうかい)したのでした。  
それから月日が流れ、井戸では女が捨てた芋が芽を出しました。芋は、夏の炎天下にも枯れず、冬の寒さにも耐えて育ち続け、青あおと葉を茂らせたのです。  
その話は広く人々の耳に届き、各地から多くの人がお参りに訪れるようになりました。江戸時代になってから、井戸の側にお堂が建てられました。多古町のバス停・井戸山の前に建つ小さなお堂が『大師堂』です。境内には、『石芋大師の井戸』が残り、今でも芋が緑の葉を茂らせています。芋の種類は、サトイモのようです。 
安房国八十八ヶ所巡拝 
むかし、安房国の弘法大師八十八ヶ所の札所が開帳になりますと、「南無大師偏照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と大師の名号を唱え、御詠歌を詠じて巡拝する人が大勢おりました。  
伝説によりますと、この巡拝は天正十年(一五八二)に頼長上人(らいちょうしょうにん)という高僧が、遠方の四国八十八ヶ所霊場を巡拝できない老若男女の、後世安楽を願う希望にこたえ、安房国に移し、始めたというのです。  
しかし、安房国の八十八ヶ所の開帳は、五十年に一度ですから、大方の人は一生に一度しか巡拝できないことになります。過ぎた開帳の年は、弘法大師千百五十年御遠忌に当たる、昭和五十九年(一六八四)十月でしたから、次の開帳は平成四十六年(二〇三四)になるのです。  
安房国内の札所は全市町村に分布し、一番の紫雲寺(白浜町滝口)から、八十八番の法界寺(白浜町島崎)まで続いています。富浦町では、深名(ふかな)の常光寺と南無谷(なむや)の海光寺が札所です。なお、江戸時代までは深名の文珠堂が、二十六番の札所だったのですが、何時の頃か廃寺となり、常光寺がそれに代りました。 
熊野(ゆや)の清水 / 千葉県長生郡長南町  
「弘法大師の霊泉」ともいわれ、昔から霊験あらたかな健康の泉として人々から親しまれてきた。弘法大師が布教のため、諸国を行脚された折、たまたま立ち寄った当地は、水不足で、農民たちが困っているのを見て、法力によって清水を湧き出たせたという伝説がある。この湧き水は、こんこんとあふれ、どんな日照りにも涸れたことがないといい、当時の住民は、大師の遺徳を讃え、その座像をこの清水の上の龍動寺に祀ったという。
羅漢の井 / 市川市  
里見公園の南下の台地斜面にある。弘法大師(空海)が東国へ布教のとき、この地を訪れ、当地の里人が飲み水に困っていたため、羅漢を祀って念仏を唱え、錫杖を突いたところ、清水が湧き出たという。また、戦国時代、里見氏が国府台に陣を構えたとき、飲み水として使用したともいわれている。
雨乞い祈祷の絵馬 / 千葉県八千代市  
印旛沼周辺には昔から水害が多くあり、そのため水神が各所に多く祀られ、また雨乞いの伝承なども多数みられます。この萱田の飯綱神社にある絵馬はその願いを表したものです。手前に護摩壇で龍王に向かって祈祷する僧侶と、後方に祈願者である公家風の人物がそれぞれ色彩豊かに描かれています。  
「今昔物語集」の中の、日本国中が旱魃(かんばつ)のとき弘法大師が雨乞いのため請雨経の法を行っているうちに空が曇り、雨が降ってきたという話(「弘法大師修請雨経法降雨語」)を題材にしているのかもしれません。大きさは、縦112cm、横167cmの大きさです。制作年代や作者は不明ですが、江戸時代後期のものと推定されます。 
 
東京都
清水稲荷 / 東京都  
台東区下谷で病気の子供をもった親が空海に懇願した。空海は独鈷で地を突き病を治す霊水を湧かせた。
多摩の二度栗 / 山の根地方  
昔、武州多摩郡の山の根の村には、たいそうできのよい大型の栗がたくさん取れたそうだ。ある秋のこと、腹をすかせた旅の乞食坊主が、ふらふらとやってきておいしそうに栗を食い散らかしている村の子供たちに「栗を一粒めぐんでくれ」とたのんだそうだ。子供たちはそのみすぼらしい乞食坊主をみて「いいとも食え」といって空の食い残しの殻をほおったそうだ。その乞食坊主は悲しい顔をして次に村の中にある大きなお屋敷にきたそうだ。そこでは大人たちが縁側に腰掛けて栗を食べていたそうだ。乞食坊主は大人達に声をかけて「栗をひとつめぐんでくれ」といったが、大人たちは「いいとも食え」といって空の食い残しの殻を投げつけたそうだ。乞食坊主はたいそう悲しい顔をして村の外れにあるそれは見るからに貧しい小屋にやってきたそうだ。小屋には17才ほどの若者を頭に弟妹が4人住んでいたそうだ。父母はとうに死んでこの若者がみんなを養っていたようだ。そこにこの乞食坊主がやってきた。この坊主はもう空腹で目もみえなくなっていたそうだ。「どうか栗を一粒でもいいからめぐんでくれ」と頼んだそうだが、この小屋にとっては一粒が一家の全部の栗だった。しかし見ればかわいそうに飢えやつれた坊様である。若者は弟妹に「いいな」と見まわした。弟妹は兄の心の優しさに気持ちよく応えた。「たった一粒ですがどうぞ食べてください」乞食坊主はたいそう喜んでこれを食べたそうだ。するとどうだろう。 とたんに乞食坊主は元気になり、「ありがとう、みんなの優しい心が天に通じ、裏山に天の恵みをうけることだろう」と言い残し達者な足取りで村を出ていったそうだ。その後、不思議なことに、若者の裏山の栗林には、大型で美味な栗が、春と秋の二度なったそうだ。村人はこれを多摩の二度栗と呼んで大切に扱ったという。若者達はそれから幸せな生活を送ったという。この乞食坊主が実は弘法大師だったのです。
飯盛杉(箸立杉) / 山の根地方  
昭和39年に都の天延記念物に指定された樹齢700年の杉の大木は、薬王院の門前の茶屋を左の方に下ったところにあります。弘法大師が高尾の参道を登ってこられると、杉の木達は枝を震わせたり、葉を鳴らしたりして騒ぎはじめた。ところが途中の並木の1本が枯れ木となっていたのです。弘法大師は傍らの杉の木にたずねたところ、この間の落雷に打たれてしまったとのこと「千年を共にし弘法大師様のおこしを待っていたのですが非常に哀れです」と別の杉が言ったところ、弘法大師は、1枚の飯盛りの杓子を取り出すと、枯れ木の跡に突き立てた。するとあれよあれよと見る間に、ぐんぐん杉の木が伸びはじめ、枯れ木がよみがえって見事な千年杉となりました。
岩屋大師 / 山の根地方  
弘法大師が高尾山にやってきたところ折からの雨が、嵐と変わり、大師に容赦なく襲いかかってきました。ともかく山を下り始めたもののこのままでは体が冷え切ってしまいます。岸壁ばかりの小道を行くと大岩の影に、ずぶぬれの姿でうづくまってい母子がいました。気の毒にと近づいてみると母の方は病気でその子でもが懸命に介抱しているではありませんか。なんとかこの子のために雨宿りが欲しいものよと大師が合掌すると、突然、目の前の岩屋が音を立てて崩れ始め、ぽっかりと洞穴があいてしまったのです。大師はそこで母子の冷えた体を温め、嵐の通り過ぎるのを待ったということです。岩屋の中は外の嵐から完全に遮断されて暖かく、見る間にこの母は回復していったということです。この洞穴は、「岩屋大師」と呼ばれる様になったと言う事です。
石芋1 / 葛飾地方  
昔、弘法大師が諸国遍歴の時、川で芋を洗っている老婆に出逢いました。お腹をすかせたお大師さまは、その芋をぜひ一つ頂きたい、といったところ、老婆は貪慾な心の持ち主で、この芋は石芋で堅くて食えないといって与えませんでした。お大師さまは「それなら仕方がない」といって行き過ぎました。・・・が、後で老婆がその芋を煮て見ると、不思議なことに堅くてとても食べることができなくなっていました。そこで老婆はこれを川へ捨てたところ、その芋から年々青い葉を生じて絶えないのだといいます。
石芋2 / 葛飾地方  
昔、弘法大師が日暮になってきたので、ある家に立寄り宿を借りようとしたところ、老女が一人いましたが、宿を貸してくれませんでした。お大師さまはそばに植えてあった芋を石にしてしまいました。その後、その老女が芋を掘出して食べようとすると、石となった芋は食べることはできません。やがて芋は棄てることになり、腐ることなく年々葉が出てくるようになりました。  この石芋の物語は、実際に昭和二十八、九年頃まではその芋が残っていたといいます。ここを旅行して実際にこの芋を見た方の記した『成田道の記』には以下のようにあります。『成田道の記』(文政十三年)海神村の右に田あり。中に木の鳥居を建つ。左りに田二丁ほどを隔て山岸に竜神の社あり。二間半四面、前に拝殿あり、榎の古木八九本境内を廻れり。石の鳥居を建たり。傍に二坪にたらざる小池有。端高く水至て低し。水草繁き中に青からの芋六七茎生たり。これを土人石いもと呼り。昔弘法大師廻国してここに来りしに、老たる婆々芋を煮ゐたりしかば、見て、壱つ給はれと言ふに、心悪きものなれば、石いもと言ひてかたしといろふ。大師たち去りて後食せんとせしに、石と化て歯もたたざりし故、この池へ投捨たり。其より年々芽を生じ今に至りて絶えずと。余児と来り見しに疑はしきまま二三株を抜て見るに、石にはあらず、ただの芋なり。案内せる小女顔色をかへて恐懼し神罪を蒙らんと言ひたるまま、もとの如く栽へ置たり。芋は水に生じぬものと思ふに、一種水に生じる物有にや。年々旧根より芽を出しぬるも珍らし。或書には是をいも神と言へり。
片葉の蘆 / 葛飾地方  
片葉の蘆というのは、葉が片方にだけある蘆で、昔は龍神社の傍の田の中に残っていたといいます。これも弘法大師が杖で片葉を払ったから生じたのだと伝えています。今も石に掲げた小池の傍には弘化四年に建てた小碑があり、「弘法大師加持石芋片葉蘆之碑」と刻してあります。
「西新井」の地名 / 足立区  
西新井には、「西新井大師」もあります。『西新井大師(にしあらいだいし)』は、東京都足立区にある真言宗豊山派の寺院です。正式名は「五智山遍照院持寺(ごちさんへんじょういんそうじじ)」。平安時代初期の天長の時代、弘法大師(空海)が関東巡錫(じゅんしゃく=僧が各地を巡り歩いて教えを広めること)の折に当地を訪れ、悪疫流行に悩む村人たちを救おうと観音を造り、祈祷を行ったところ、枯れ井戸から水が湧き病が治ったといい、その井戸がお堂の西側にあったことから「西新井」の地名ができたと伝えられています。 
竜燈 / 江東区  
寛永5年に弘法大師の霊示があり、永代島にて高野山の両門主をはじめとする東国一派の真言僧が集まって法談が開かれた。また別に弘法大師の御影堂を建てて真言三密の秘講を行ったところ、神前に竜燈と呼ばれる火光が現れるという。 
麻布七不思議・柳の井戸 / 東京都港区  
善福寺惣門を入って参道右手にある井戸。境内の「逆さいちょう」と共に麻布七不思議の一つにも数えられています。柳の井戸は正式には「楊柳水」といい、井戸の脇には「楊柳水銘」と書かれた石碑がある。この石碑は明和二(1765)年に建てられたようで、江戸名所図会によると弘法大師が常陸の鹿島明神に願って得た阿伽井(あかい)であるということで「鹿島清水」ともいわれる。碑文の最後には「葛辰書」とあるのでおそらく麻布東町生まれで服部南郭に学んだ、あの松下君岳(烏石)の揮毫と思われます。  
楊柳水銘  
彼石泉 盈科而流 空海所呪 其霊永留 阿那楊柳 水中影浮 飲者治疾 徳潤千秋  
明和二年乙酉歳中秋前一日 藤公縄義篆 藤定vチ 葛辰書  
また「柳」とは、井戸の横に「うなり柳」とも呼ばれる柳の木があるため。「続江戸砂子」は、「うなり柳」について、「麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。」としており、江戸名所図会では、「鹿島の清水。総門と中門との間いあり。往古弘法大師常陸国鹿島明神に乞得給いひし阿伽井なりと。又土人云く。鹿島の地に七井と称する霊泉あれども其一つは空水といへり。昔は其側に柳樹ありしかば。一名を楊柳水とも唱へ侍ると云々。此柳をうなりやなぎという由。来歴詳ならず。」とあります。  
弘法大師が、鹿島大明神に祈願して手に持った杖を突き立てたところ、たちまち湧き出したと言われる井戸で常陸の鹿島神社にある七つの井戸は、一つをここによこしたため、空井戸になっているといわれています。関東大震災や昭和20年4月、5月の空襲時にはこの井戸が多くの人に水を与えましたが、現在は保健所の指導によりそのまま飲むことは出来ないそうです。  
柳の井戸  
自然に地下から湧き出る清水である。東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。 
 
神奈川県
弘法山 / 神奈川県秦野市  
弘法様がまだ名も知られない旅の僧であったころ、秦野の山野に行き暮れて、百姓仁左衛門の家に一晩の宿を頼みました。そうしたところ、仁左衛門夫婦は快く迎えてくれました。  
ある日、弘法様から近くの山で修業をするということを聞いた仁左衛門は村人たちの助けを借りて山の上に小屋をつくりました。その小屋で弘法様は、しばらくの間、修業をしました。  
あるとき、弘法様の予言が当たり村に火事が起こったので、村人は弘法様が火をつけたと思い、追い出そうとしました。しかし、その夜、弘法様が村人にいった通り嵐になり、何件かの家が川に流されたり、風に吹き飛ばされたりしました。それからは、村人たちは弘法様のいうことを信じるとともに尊敬するようになりました。弘法様が去った後、人々は小屋のあった山を「弘法山」と呼ぶようになったということです。  
また、弘法山には「乳の井戸」と呼ばれる井戸があります。  
この井戸からは白く濁り、乳の香りを漂わせた水が湧き出ていたそうです。赤ちゃんを持つ母親がこの水を飲むと、乳の出がよくなると伝えられていました。
弘法の清水(臼井戸) / 神奈川県秦野市  
昔、修業のため全国を歩いていた弘法様が、ある農家に立ち寄り、一杯の水をたのみました。しかし、その農家では、あいにく水をきらしていてありませんでした。  
この付近には井戸も水もないので、娘さんが「しばらく待っていて下さい。」といって、遠くまで水をくみに行きました。弘法様が待ちわびていると、娘さんが水の入った手おけを重そうに下げてやってきて、ひしゃくに水を入れ差し出すと、弘法様はおいしそうに水を飲みました。  
そのあと、この村が水に困っていることを娘さんから聞いた弘法様は、庭の真ん中に行って杖をつき立てました。そこを娘さんが桑で掘ると、不思議にも清水がこんこんと湧き出しました。  
そこで、この清水は「弘法の清水」(臼井戸)と呼ばれるようになりました。 
水無川 / 神奈川県秦野市  
神奈川県秦野市を流れる金目川水系の二級河川である。  
盆地扇端部で流量の大部分が地下に伏流するため、以前はその名のとおり盆地内を流れる「水無」川だった。戦後、流域に工場や住宅が増えるにつれ、そこから流入する水(排水や浄化処理された水)が流れるようになり、流量は安定した。それでも時期と場所によってはほとんど水が流れていない事もしばしばある。秦野市内にある戸川という地名はこの川の別称「砥川」(砥石のような石が河原に多かったため)の転じたものである。  
川から水がなくなった由来に言及した御伽噺の一つとして、弘法大師が登場する伝説がある。弘法大師は「心の優しい人がこの辺りにはいないものか」と思い、わざと貧しい身なりをしてこの川の流域の住民に水を求めた。水を求められた住民はその人が弘法大師とは知らず、貧しい身なりをしていたので水を与えなかった。「人の身なりで人を判断するとは何たる事だ」と怒った弘法大師は、この住民たちの生活用水である川の水を涸らしてしまった。その川に水が無くなってしまった事から、「水無川」と言う名称が付いたというのである。 
蛭沼の鰻 / 神奈川県海老名市  
海老名耕地には沼が多かったが、いずれも古い相模川の跡で、国分の尼寺下にも蛭沼という沼があって、夏になるとその名のように蛭が繁殖して、いつも水面をうねうねと泳ぎ回っていた。  
沼全体が浅く、危険な所がなかったので、子供が集まりよくぶってで雑魚すくいをしていたが、沼へ一歩足を入れると寒気がするほど蛭がうようよ集まって吸いついた。  
水蛭は扁平で細長く、体の前端と後端に吸盤があって吸いついてしまうと離れないし、取ろうとしてもぬるぬるとしてつまみにくいうえに、引っ張るとゴムのように伸びてなかなか取れないので、子供たちは草をむしり取り、束子(たわし)のように丸めてこすり落としていたが、吸いついた傷口から流れる血は、なかなか止まらなかった。  
修業の旅をしていた弘法大師が通りかかり、これを見て「どうしたのか」と尋ねると、子供たちは口をそろえて、  
「蛭んぼが吸いついたんだ!」  
と答えたが、血をたくさん吸って、ほうずきのように膨らんだ蛭が踝(かかと)の陰にぶら下がったままの子供もいた。  
弘法大師が呪文を唱えると蛭はぽろりと落ちたが、真っ赤な血が後から後から流れ出るので、道端の草を摘み取り  
「これは血止め草と言って、この葉をこうして貼るとすぐに止まるよ」  
と、その銭形の葉で傷を押さえた。子供たちが先を争ってその葉を摘み取り、それぞれの傷口に貼ると、出血はみんなぴたりと止まった。  
この草は人家近くの湿地などに自生するセリ科の多年草で、農村では今でもこれを血止め草と呼び、揉んで血止めに使う。  
大師が魚籠の中のたくさんの鰻を見て「鰻を売ってくれないか」というと子供たちはびっくりして、「坊さんが鰻を食うのかい?」と聞き返した。  
「食うのではない」  
「では、どうするの?」  
「鰻に頼むことがあるのだ」  
「何を頼むの?」  
「この沼には蛭が多過ぎるので、それを食ってくれるように頼むのだ」  
「そんな頼みごと鰻に通じるかなあ」  
子供たちはがやがや騒いでいたが、金をもらって鰻を渡すと、ちりぢりに帰っていった。  
大師は子供たちから買い取った鰻にいちいち呪文を唱えて沼へ放したが、なおしばらく沼のほとりに立って読経を続けていた。  
うようよ泳ぎ回っていた蛭沼の蛭は、その後めっきり少なくなり、雑魚すくいをする子供たちが足から血を流している姿はあまり見掛けなくなったが、その後ここでとれる鰻はみんな蛭を腹いっぱい食っていた。  
村人たちは旅の坊さんの願いによって、鰻が蛭を食ってくれるものと信じていたが、全く蛭が姿を消してしまった訳ではなく、夏になるとなお多少の蛭が泳いでいた。  
これは腫れ物の治療に膿を吸わせるという目的のための配慮だからだったと言い伝えられていた。これが血吸蛭(注1)で、悪血を吸い取らせて病気を治す医療は、古くから民間療法として用いられているが、弘法大師が伝えたものだとされている。  
血吸蛭は一度人間の毒血を存分に吸うと以後は人間には吸い付かず、ドジョウのように大きく肥えて一生を終わると言われ、それが馬蛭(注2)だと信じられている。  
もしそのとおりならば、人間も悪い血を吸い取ってもらって病気が治りありがたいことだが、蛭もたとえ毒血であっても一度存分に吸えば、二度と人間の血を吸わないで丸々と肥えて一生を終えるということになり、人間も蛭も共ども幸せなことである。  
爪楊枝のような細い蛭に吸いつかれても、出血が止まらなかったり痒かったりで大変なのに、ぞっとするような超大型の馬蛭に吸いつかれたらどうなることかと思うが、馬蛭が人間に吸いついた話は聞いたことがない。  
海老名耕地が湿田だったころは、沼や小溝でも鰻がよくとれたが、そのころ鰻を料理したことのある人は、蛭をたくさん食べていたことを知っているはずである。  
もともと浅かった蛭沼は、度々の洪水で埋まってしまったので、弘法大師の伝説は消えてしまったが、その名だけは地名となって残っている。  
この話は、蛭沼の水田を代々耕していたという旧家の言い伝えである。秦野には水無川や弘法山の伝説があり、海老名の上今泉には三日月井戸と亀島の水イモの言い伝えがあるが、川崎市の麻生区高石にも弘法の松の話が伝えられている。これらの土地をつないだ線が、弘法大師が旅をした道筋だったのだろう。  
(注1)血吸蛭・・中国には古くから蛭に悪血を吸わせるという治療があったので、空海が留学中に学んできたものと思われる。漢方では、蛭の分泌物には局所を麻酔状態にさせ、血液の凝固を防ぎ、血管を拡張させるなどの作用があるとされている。  
(注2)馬蛭・・・普通の蛭とは異種の蛭で、動物の血は吸わず植物質を栄養源としている。 
落語「大師の杵」 / 神奈川県  
三遊亭円楽の噺、「大師の杵」によると。  
空海上人、空白の約7年間と言われた23〜29歳のこの時期空海の足跡が解っていない。しかし、落語家だけがその事実を知っていた。  
空海上人23歳の時、武蔵の国・橘郡(たちばなごおり)平間村、今の神奈川県川崎に来た時、名主の源左衛門宅に宿をとって布教した。美しく学徳もあり、若い空海に信者も増えていった。宿の娘”おもよ”さんは村きっての絶世の美人であった。最近、そのおもよさんが痩せてきた。婆やさんが話を聞いてみると、「御上人様のことが好きで・・・」と恋の病をうち明けた。ご主人源左衛門が上人に掛け合って当家に入って欲しいと懇願したが、仏道の修行中の身と言って断られてしまった。この事を娘に言う訳にもゆかないので、おもよさんに「若い僧なので今夜綺麗に化粧して彼の寝床に忍び込んできなさい」とけしかけた。  
おもよさんが寝室に忍び込んでみると、 部屋の中はもぬけの殻であった。布団に手を入れると餅つきの杵(きね)が置いてあった。これは上人が残した何かのナゾではないかと思った。一人娘と出家の身だから「想い杵(キレ)」と言うのかしら、はたまた「ついてこい、付いて来い」と言っているのか解らなかった。しかし惚れた弱み、上人を追いかけた。  
六郷の渡しに来てみると一刻(とき)前に上人を渡したと船頭から聞いた。今の時間で2時間前では女の身では追いつく事も出来ない。悲観のあまり多摩川に身を投げてしまった。上人は変な胸騒ぎがするので引き返してみると、夜も白々と明ける頃、村人に囲まれた冷たいおもよさんの骸(むくろ)に対面した。その死を悲しみ、名主の源左衛門宅に戻り、おもよさんの菩提を毎日弔った。近隣の人がそれを見て庵を造り、その名を「おもよ堂」。それが徐々に大きくなって、今の川崎大師になった。  
伝説では、大師堂の奥には今も「弘法身代わりの杵」が安置されていると言う。  
円楽がその真偽を確かめに川崎大師で尋ねると、「その話は臼(うす)だ!」。 
 
中部

 

山梨県
弘法の衣(弘法大師) / 山梨県の民話  
むかしむかし、外見だけで人を判断する、とても心のせまいお金持ちの主人がいました。  
ある日の事、みすぼらしい姿のお坊さんが、このお金持ちの家へ托鉢(たくはつ)にやって来たのです。  
お坊さんがお金持ちの大きな家の前に立って鐘を鳴らしてお経を読み始めると、家の中から主人が出て来て、お坊さんをじろりと見て言いました。  
「ふん、乞食坊主(こじきぼうず)が。いくらお経を読んでも、お前みたいな汚らしい奴にやる物はないぞ。とっとと、出て行け!」  
「・・・・・・」  
お坊さんは黙って頭を下げると、そのまま立ち去りました。  
さて次の日、同じ家に今度は立派な袈裟衣(けさごろも)を着たお坊さんが立って、鐘を鳴らしてお経を読み始めました。  
すると、それを見た家の主人はびっくりして、  
「これはこれは、お坊さま。あなたの様な立派なお方が、こんなところではもったいのうございます。ささ、どうぞ家に上って下され」と、お坊さんを家の中へ通したのです。  
主人は家の者に山の様なぼた餅を用意させると、お坊さんの前に差し出しました。  
「大した物は用意出来ませんが、どうぞ、お召し上がり下さい」  
すると、お坊さんは、「これはこれは、どうもご親切に」と、言いながら、そのぼた餅を手に取って、キラキラと光る袈裟衣へベタベタとなすりつけました。  
それを見た主人は、びっくりして言いました。  
「お坊さま。せっかくのぼた餅を、何ともったいない。その上、その立派なお衣まで汚されてしまうとは」  
するとお坊さんは、すました顔で言いました。  
「ご主人は覚えていないかもしれませんが、わしが昨日来た時、あなたはわしのみすぼらしい姿を見て、わしを追い返されました。そして今日はわしのこの衣を見て、この様にごちそうまでしてくださる。昨日のわしも、今日のわしも、同じわしじゃ。ただ違うのは、身にまとうておる衣だけ。とすると、家に上げてぼた餅を出してくれたのは中身のわしではなくて、わしが着ているこの衣ではないのか?そこでわしは、このぼた餅を衣に食わせてやったのじゃ。では、これにて失礼する」  
お坊さんはそう言うと、そのまま旅に出てしまいました。  
後になってお金持ちの主人は、このお坊さんが有名な弘法大師だった事を知ると、人を外見だけで判断する自分を深く反省しました。  
そしてそれからは誰にでも優しく接する、とても心優しい主人になったと言う事です。 
弘法のすずり田 / 山梨県南アルプス市  
地表が黒色のため、書家の大家であった弘法大師が毎日墨を洗った場所と伝えられる水田。 
弘法大師と石芋 / 山梨県甲府市(羽黒地区民の話)  
弘法大師(空海)が諸国を巡行中、羽黒の里、(現在、甲府市羽黒町)に立ち寄ったときの話です。  
弘法大師は朝から何も食べていなかったので、腹がへっていた。  
ふと、弘法大師は川を見ると、お婆さんがたくさんの芋を洗っていた。  
弘法大師は、お婆さんに、「その芋を少しでいいから施してくれませんか。」と頼んだ。しかし、そのお婆さんは近所でも有名なりんしょく家なので、「この芋は誰にもやれん。」と簡単に断わった。その芋があまりにもうまそうなので弘法大師は、また頼んだ。  
しかし、そのお婆さんは、「お坊さん、この芋は石芋といって硬くて食べられん。だから、お坊さんにあげられんのです。」と嘘を言った。  
弘法大師は、嘘を見抜いたが怒らず静かに加持祈とうをして去って行った。  
お婆さんは、芋を洗い終えると家にいそいで帰った。さっそく芋を蒸して食べようとしたが、なかなか芋が柔らかくならない。よく見るといつのまにか石のように硬くなってしまっていた。  
それ以来、その食べられなくなってしまった芋を石芋と呼ぶようになりました。  
今でも、その石芋は羽黒町の竜源寺付近にあるそうです。 
鷲の湯・弘法湯 / 山梨県  
今の湯村が昔、志麻といわれていて、葦の茂った湿地だったころの話です。  
ある時、傷ついた鷲が来て葦の茂みに入り、しばらくして、巣の方にかえる。翌日もまた来て、しばらくして帰る。三、四日通ってくるうちに鷲の傷はすっかり治ったらしく勢いよく舞い上がって帰ってしまいました。  
村人は不思議に思い、その場所に行って見るとお湯が涌いているのをみつけました。  
それで、そこを深く堀り、浴槽をつくり入浴してみますと傷にもおできにもよくきくことが分かりました。この湯が鷲温泉となり現在まで続いています。  
また、弘法湯といわれている温泉は、昔、弘法大師がこの地に来られたおり、杖を立てた所からお湯が涌いたので弘法の杖の湯と言われています。 
弘法杉 / 山梨県(西山梨郡志)  
愛宕山の頂上に直径4尺(約一m二十cm)の老杉があり、その根元には小さな池があります。昔より、この池の水はどんなに晴れた天気が続いても、水が涸れたことがないという不思議な池でした。  
弘法大師は、この池を見付け、杖を水辺に挿し、その側で昼食をとった。食事が終わり、今まで突いてきた杖を置いて、旅立ってしまった。やがて、その杖から根が張り芽吹いて今の大木になったといいます。人はこの杉の木を弘法杉と呼びます。 
弘法栗 / 山梨県・八ヶ岳  
むかしむかし・・・八ヶ岳・清里村の小倉池でこどもが集まり、大きな栗の木の下で栗の実を拾っていました。  
するとそこへ一人のお坊さんが通りかかりました。  
お坊さんはこどもたちが栗の実をかんたんに採れるようにと低い木に実がなるようにしてその場を立ち去りました。  
その後、ここには高さ二、三尺(60〜100cm)にして栗がみごとに実るようになりました。  
お坊さんは弘法大師といわれる偉いお坊さんであったため、称して「弘法栗」といわれるようになったとされています。 
饅頭峠の「饅頭石」 / 山梨県韮崎市・北杜市  
饅頭峠の名の由来 『 昔、甲斐の国を巡杖した弘法大師が峠の茶屋の老婆にマンジュウを所望したところ、「これは石のマンジュウだから食べられない」、と偽った。大師が立ち去った後、マンジュウを見ると、みんな石ころに変わっていた、と言う 』  
饅頭峠は、山梨県韮崎市と北杜市明野(旧明野町)の境界にある。  
饅頭石 / 近江の国(現在の滋賀県)、木内石亭の「雲根志」には、「饅頭石」の項がありいくつかの産地の先頭に、甲斐国荒井沢山[山梨県荒井沢山饅頭峠のこと]の名があり、その産状、形態を次のように書き記している。『甲斐国巨麻郡荒井近(沢)山にあり 土饅頭(つちまんじゅう)と云う。山の麓に多くあり、うす赤く少し黄なり。石中は軟らかく土より堅し。石中は黒き膏薬(こうやく)のごとき土あり』 
 
静岡県
修善寺 / 静岡県  
修善寺町の桂川上流で空海が岩盤を独鈷で打つと加持された熱湯が湧き薬湯になった。
独鈷の湯 / 伊豆市修善寺  
独鈷とは仏具の一つですが、弘法大師がこの地で、独鈷で川原を突いたらお湯が出て来たという言い伝えから独鈷の湯と言われています。以前は、公衆浴場だったようですが、今では、川原の真ん中にあずま屋があり、足湯になっています。修善寺温泉のシンボル的な存在です。 
三度栗 / 静岡県・小笠郡菊川町  
むかしむかし、秋のある日小笠郡菊川町の三沢の村に弘法大師がこられました。  
その時村の子供たち4,5人が山で拾ってきた栗の実をおいしそうに食べていました。  
弘法大師はそれを見ると「私にもひとつくれませんか」と言いました。  
村の子供たちは素直に「はい、どうぞ。」と大師さま掌の上にごろごろっとのせてあげました。  
「これはこれは、なんとよい子たちだ・・・」と大師さまは一緒になっておいしそうに栗の実を食べてから、「このお礼にはこれからこの村に栗の実が一年に三度実るようにしてあげましょう。」といって子供たちの頭を撫でて行ってしまわれました。  
その後この三沢の村には一年に三度栗が実るようになったといわれています。  
今でも「三度栗」は遠州の七不思議の一つに数えられています。 
蛇 / 賀茂郡松崎町  
弘法様が来た時に、山の登り口の池に蛇がいたが、杖で池の水を下に出したら蛇がいなくなり、この山をふきの山と名づけた。 
夜啼き石 / 静岡県  
妊婦が大岩の近くで山賊に殺されて以来、岩の上で胎児の夜啼きがやまないので空海が祈祷したところ子授けの岩になった。
 
長野県
弘法大師のさかさ杖 / 長野県小県郡東部町新張山  
幹周3.77m 樹高17m 樹齢不明  
弘法大師諸国行脚の際、この地で休んだ折りに地面に刺したシナノキの杖が根付いたものとされている。こういった伝承は各地に残るが、真意のほどは定かでないものがほとんどであろう。長野県の名前の由来でもあるシナノキ、かつてはこのあたりも一面にシナノキが成長していたのだろうか。かつては交通量も少なく、のんびりと過ごしてきたこの樹も、現在では週末ともなると多くの車の排気ガスにさらされ、おまけに大型ダンプまで根元を走る劣悪な環境にさらされ始めているのは気がかりだ。一般にはこの樹の名称は「大師の逆さ杖シナノキ」と呼ばれているが、林野庁の森の巨人たち100選は、名称が違っていることが多い。  
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ここは古くから、長野県と群馬県鹿沢の湯への峠道で、東部町新張地籍一番観音を基点として、群馬県旧鹿沢温泉までの沿道に百体の観音石像が安置されている。その五十番、馬頭観音像を守るかのように、この大木シナノキがある。このシナノキは別名、「弘法大師のさかさ杖」とも呼ばれている。平安の昔、嵯峨天皇の御代に弘法大師諸国行脚の折、大師がこの峠にさしかかり、この地で休まれた。その時、手にしていた梨の木の杖を大地にさしたところその杖がさかさに根付き、このシナノキの大木となったと伝えられている。また、他の伝説には「義仲雨宿りしな」とも伝えられ、この付近に木曽義仲の駒返しという場所がある。所沢川の一渓沢の平坦地に生え、樹相根本より、二つにわかれ、樹齢三百年以上(推定)、周囲三、七m、高さ十七m、枝張り十八m余もあり、シナノキとしてのこれだけの大木は珍しく、林野庁による、「森の巨人たち百選」にも選定されている。 
青木村の石芋伝説 / 長野県小県郡青木村  
(青木村では野生里芋を石芋又は弘法芋と呼んでいます)  
昔、旅で沓掛村を訪れた弘法大師が、川で美味しそうな里芋を洗っているお婆さんに出会いました。お腹を空かしていた弘法大師がお婆さんに「2、3個恵んでください」と頼んだところ、お婆さんは「この里芋は、石のようにかたくて食べられない」と断わりました。 お婆さんが家に帰り夕食に食べようとしたところ、里芋は本当の石のようにかたくなり食べることができなくなっていました。それからこの里芋は石芋・弘法芋とも呼ばれています。 
塩の井 / 長野県  
下伊那で貧しい村の民を哀れみ銀杏の杖で岩の根元を突き塩水を湧き出させた。
念仏池 / 長野市戸隠越水  
池の底から水が湧き出す池。弘法大師が念仏を唱え、杖をこの地にさしたところ、湧き水が出てきたとされている。水辺には黄色い花をつけるリュウキンカや水芭蕉が茂り、多くのトンボや両生類が生息している。 
黒姫弁財天 / 信濃民話  
黒姫弁財天 むかしむかし、大悟羅月上人というえらいお坊さんがいました。善光寺の方から越後に行こうとして柏原を通りかかりましたが、とっぷりと日が暮れてしまいました。「仕方あるまい。この松の下で野宿でもしよう。」  
あたりは山桜が満開。春ほんばんの気持ちのよい夜です。月もおぼろに上がってきました。疲れきっているお坊さんは、まもなくうとうとと眠りに入りました。  
しばらくすると金色の雲に乗って、美しい女の人が金銀宝石を捧げて現われました。「私はこの山に住んでいる弁財天です。仏様のおいいつけで、貧しい人や苦しんでいる人達に、幸せや豊かさを施すようにやってきました。私に願をかければ、必ずかなえてあげましょう。」  
「あなた様が・・・・・・本当ですか。」  
「上人よ、このことを日本国中の人達にに伝えて、悩みや苦しみ、そして欲望からもぬけ出し、仏様のしあわせに気づかせるようにしなさい。」  
そう言って、金銀宝石を上人のふところに入れようととしたとたん、上人ははっと目が覚めました。お坊さんは弁財天のお告げに感動し、全国を廻ろうとかたい決心をしました。  
ある年のこと、ある大名がお山に(現在の黒姫山)四天王寺という山寺をつくりました。ちょうどその頃、日本各地に弁財天のお告げを広めていた大悟羅月上人が、ひょっこり柏原へ帰ってきました。山寺を建てた大名は上人に山寺の住職になってもらいました。上人の話を聞いた全国の善男善女は、弁財天のご利益にあずかろうと、日夜押すな押すなと山寺に集まりました。  
さて何年かたったある日、弘法大師が奥信濃に美しい山があると聞いておりましたので、一度ぜひ見たいとこの山寺を訪れました。  
「ほうー聞きしにまさる、温かいたたづまいの山だ。」と言って、見とれておりましたが、それにしても、この山深い寺に毎日沢山の人達が集まってくるのはどうしてかな、とても不思議に思ったので、お詣の人にたずねました。  
「どこからいらしたのかな。」  
「はい、私どもは上州から・・・・・。」  
「私は越中からきました。」  
「ふむ、なにかよい事でもあるのかな。」  
「弁財天の御利益にさずかりたくて、上人様のお話しを聞きにきたのでございます。」  
黒姫弁財天参道「ほう弁財天のね。」  
そこで弘法大師は、上人に、「弁財天の御利益とどんなことかね。」と、お聞きになりましたら、「じつは、夢枕に弁財天が立ちまして・・・・・。」  
坊さんは、弁財天のお告げを一部始終を話しました。弘法大師は目をつぶって聞いておりましたが、「その尊いお姿を私が刻みましょう。」と、いって、精根こめて彫ってくださいました。やがてみごとなお像が生まれました。  
「これを山寺に安置して財宝や幸せの仏にしなさい。」  
大師はそうおっしゃって、ふたたび遠い旅へとおたちになりました。  
年月は流れ、大悟羅月上人もこの世を去りましたが、山寺はその御利益のためかますます栄えました。さらに280年ほどたって、お山の中心地点(今は大滝といわれている)に立派なお寺を建てて、弁財天にちなんで山を姫獄、山寺を宝慶寺と改めました。全国から、「弁財天の御利益にさずかりたい。」「私も、あなたも、みんなさずかりたい。」と、寺の周りには仏徳をしたって人家ができてきました。もろもろの願いごとがすべてかなったのでした。  
けれども、大きな山崩れがあり、寺はすべて埋ってしまいました。(現在ときどきその時の物が出土するそうです)しかし、不思議なことに弁財天だけは助かりました。  
そこで今度は赤渋という所へ寺を建てたのです。けれど弘化四年の大地震でまたまた寺の建物が、全部こわれてしまうという被害にあいました。でも信心ぶかい人々の協力で、長い年月をかけて再建されましたのが、今の真言宗雲龍寺だと伝えられています。  
弁財天は寺の何回かの災害にもかかわらず、奇跡的に助かり、寺と共に移転して、今では黒姫弁財天といわれ、雲龍寺の本堂に安置され信仰を集めています。 
鹿塩温泉 / 長野県下伊那郡大鹿村鹿塩  
(かしおおんせん) 建御名方神が鹿狩りをしている時に鹿が塩水を舐めているのを見て発見したとか、弘法大師がこの地を訪れた時に村人が塩に困窮していることを知り持っていた杖で地面を突いたところそこから塩水が湧出したとの伝説があり、相当古い時代からこの塩水が利用されてきたことがわかる。  
南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地に入り、南朝方の拠点とできたのも、塩があったからだといわれている。  
1875年、旧徳島藩士・黒部銑次郎が岩塩を求めて塩泉の採掘を始め、大掛かりな製塩場を設置し、食塩製造を行った。岩塩は結局発見することができず、塩水が湧出する理由は未だに謎である。
黒部銑次郎物語  
 岩塩を追いかけた男たち 
日本には岩塩はないといわれている。事実、日本で岩塩が産出したという史料は見当たらない。塩井については、前回このコーナーで南東北地域の史料を紹介したが、今回は岩塩掘削に一生をかけた旧藩士の物語を紹介しよう。  
まずは「白い鉱山師(やまし)」から。阿波徳島藩士黒部銑次郎が主人公である。徳島といえば江戸時代から斉田塩で有名な塩の産地。斉田塩は大阪をはじめ東海から関東まで販路をひろげ、阿波の特産品のひとつで、藍(あい)とともに藩の重要財源であった。その塩浜を見て育った銑次郎が藩の英学校の授業中に地理書のなかで「Salt Mine」という単語を発見する。銑次郎の疑問はここから始まる。  
(これらの諸外国では、食料に供する塩を『ソウルト・マイン』から採る…)休憩時間銑次郎は教授に聞く、「ソウルト・マインとは如何なるものでございますか。」教授は答える、「ソウルトは塩、マインは鉱山じゃ。よって、塩の鉱山とでも解釈すべきかな。」「塩の鉱山と申しますか。」「うむ、その通りじゃ、この地理書には、そのようにしか書いていないが。」「塩の鉱山が、この世の中にあるものでございましょうか。先生!」「難しい質問じゃ。世のたとえに、木に依って魚を求むという言葉があるが、これは真実であろう。彼の国には山を掘って塩を造っている地方があるのであろうな。」…(まことに、山間から塩が採れるものであろうか、まさか…)  
時代は幕末、江戸から帰国した藩士たちから西欧の話を聞きながら、銑次郎も江戸に出て広い世界の情報を直接聞き勉強がしたくなり、早速父親に相談し江戸に向かうこととする。江戸では福沢諭吉の塾(後の慶応義塾)に入門する。ここの塾生の紹介で信州高遠藩の旧藩士に会い、伊那の山中に塩水が湧き出ていることを聞く。明治5年文明開化の大変革時のなかで銑次郎は慶応義塾を終了し、6年に藩用で国に帰ることになったが、ひそかに心に決めていた製塩事業をおこす夢を実現するために国許から暇願いを送り信州に向かった。  
むかし弘法大師の教えにしたがって里人が岩脈を掘ったという大鹿村の塩泉は、塩河の流れのそばにあり、深さ6尺ほどの小さい洞窟であった。たまり水は2石あまり。ひやりとする液体を両手にすくって、祈るように口にふくむと強い鹹味が舌から喉に広がった。「からい!」部落の世話人は銑次郎らの驚くさまに満足そうにうなずいた。「どうです。その塩水は遠い昔から汲んでも汲んでも尽きないのですから、また不思議です。」  
明治8年12月に長野県庁に鹿塩塩泉の利用および岩塩掘削の願書を提出する。翌9年2月いよいよ岩塩坑掘削の開始である。まずは横坑の試験的掘削。「あの岩山を切って塩を採るんだっとのう」「ふうん。あの固い岩盤をなあ・・・」「まるで弘法大師さまの再来じゃの」鹿塩の村人は素朴な畏敬や、疑惑をこめた眼差しをして銑次郎の行う起工の式を見ようと集まってきた。・・・(銑次郎は)右手の槌に力をこめて鏨(たがね)の柄頭に打ち込む・・・。岩肌から固い手応えがあった。  
起工から半年たったとき、かねて依頼してあった塩水分析報告書が東京から届けられた。工部省御雇イギリス人ゴット・フレーからのものであった。訳書も付いていた。「信濃国伊奈郡大鹿村塩河耕地塩坑ヨリ湧出スル塩水分析之報告」と題して「この塩水の残留物は1,000分の13、塩化曹達 92.57%・・・」と付記されている。銑次郎は海水の濃度と見比べ、この岩塩掘削事業に自信をえる。このとき横坑は3間ほど掘り進み鋼鉄のような岩盤に突き当たっているところであった。「伊那山系・・・鹿塩には塩井がある、その源を掘りすすめると岩塩鉱がある」これが銑次郎の不変の信念であった。「しかし、地下鉱脈を求めることに気がとられすぎたかなあ」彼の心の中には葛藤があった。「とりあえず、地下塩水から試製塩を製造し、いささかでも利益をあげながら事業を広げていこう」早速煮詰釜の準備に入った。  
明治12年3月銑次郎は鹿塩村の旅館に資金援助の協力者を集め、新しい製塩施設建設の説明を行った。その内容は、枝条架を利用した立体的塩水濃縮装置の建設とスイス製の大型鉄製結晶釜の設置工事であった。協力者には地元有力者が加わった。流れ者の他国旧藩士のイカサマ山師とみられがちな銑次郎たちには絶好のチャンスであった。しかし濃縮装置にしても外国製の結晶釜にしても地元の人たちには初めて聞く言葉ばかりであった。「そのう・・・立体的塩水濃縮装置というのは如何なる機械ですかのう」「これは枝条架製塩装置と申しまして、私たちが考案設計しましたのは、・・・」「なるほど・・・」聞く人にとってはあまりにも斬新過ぎて、説明というよりも解説であった。  
明治15年4月旅館の大広間には、給金の支払日に大勢の現場の職人が集まっている。鹿塩の坑道掘削は2ヶ所あり深さは20間あまりになっていたが、岩塩層はまだ発見されなかった。しかし岩の割れ目から滴下する地下水には塩気の濃いものもあった。枝条架の設備はすでに完成し塩水濃縮装置の到着を待つばかりであった。「今年の重陽の節句までにはみごとな白塩を焚きだしたいものだね」銑次郎たちは経営者としての夢をふくらまして話をしていた。「ただいまから過月分の給銀が下される・・・」職人たちはかしこまって頭を低くした。小半時をかけて給銀は職人たちに逐次渡される。・・・葵二郎の「白い鉱山師」は事業が一番盛況のなか、岩塩発見の夢を残したまま終わっている。  
 
物語の後半は「赤石嶽より」から紹介しよう。縦坑からの塩泉を原料に製塩をおこなう一方で、横坑も掘り進め37間にも達していたが、「塩の鉱山」には突き当たらなかった。ついに資金は底をついてくる。そのうち見切りをつけた同士は徐々に脱退し、最後は工藤欣八と2人になる。掘削はタガネとゲンノウに大鉄鎚を使った完全な手作業、一日にわずか5分ぐらいしか進まなかったときもあった。・・・ふたりの苦労もついに報われることはなかった。昭和31年の塩河の大水ですべての施設は跡形もなく流されてしまった。  
地元の平瀬理太郎氏の協力で事業は小規模ながら継続されたが、明治38年塩専売制施行により政府に買収される。2人は飯田塩務支局の製造担当をまかせられ生産を続けるが、明治43年製塩地整理により鹿塩の製塩事業は廃止される。岩塩の存在については神保博士他の学者から否定されるが、黒部銑次郎は「塩がすべて海水から出来ると決めつけるのはおかしい。掘削した坑道の周辺数十箇所からは昔と変わらず塩水が出つづけている、この塩水は海水と含有物質が違う」と反論し、ボーリング調査を行うことを主張したが、その機会もなく銑次郎は明治45年5月持病が悪化し他界する。  
鹿塩温泉街はいまでも登山客や湯治客でにぎわっているそうである。銑次郎に協力をした平瀬理太郎氏のひ孫にあたる貞雄氏に問い合わせたところ、彼らが掘った坑道の一部はいまでも残っており、塩泉もいまだに絶えることなく湧き出しているとのことで、平瀬家が経営する旅館山塩館には銑次郎の肖像画やゴットフレーの塩泉分析表が保存されているとのことであった。神保博士発表以来岩塩はないと結論が出ているが、湧き出る塩水のもとは地中奥深くどのように溜まっているのであろうか。  
安原正也氏(産業技術総合研究所)から最近「塩井−その分布・利用・起源について−」という論文発表の概要書が塩業資料室に送られてきた。日本における塩井の分布から分析して、塩水の起源としては油田・ガス田付随水、古海水起源の停滞水、深部起源水などが考えられるとのことで、今後各地の試料分析を行い塩水の起源の解明、淡水に比べ比重の重い塩水がどのように地表に出てくるかなど、水文地質学的に検討していくとのことであった。 
鰻橋・弘法の井戸 / 安中市・上間仁田字鰻橋  
信濃国(長野県)を遍歴した真言宗の祖 空海(弘法大師)は、碓氷峠を越えて上野国(群馬県)に入った。空海は病んだ者に薬を施し、皆に仏教を説いた。ある日、この地を通ったおり、大雨により川の水があふれ困り果てていると、川の中から耳の生えた大きな鰻が現れ、鰻が橋の代わりとなり川を渡ることができた。空海は鰻が干ばつでも困らぬようにと錫状を地面に突き立てて抜くと、水が湧き出し井戸となった。これからこの橋を「鰻橋」といい、村の名前も「鰻橋」といい、井戸は弘法の井戸と呼ばれている。 
弘法大師のさかさ杖 / 長野県東御市祢津新張五十番  
東御市新張(みはり)から群馬県吾妻郡嬬恋村の鹿沢温泉へ向かう地蔵峠は、湯道として知られ、新張から鹿沢まで100体の石仏の観音像が道標として造られました。その50番目、馬頭観音の脇に、このシナノキがあります。ここにはかつて茶屋があったといい、弘法大師が休憩したときに、持っていた杖を差したものが育って大木となったという伝説があり、「弘法大師のさかさ杖」とも呼ばれています。ちなみにシナノキは、長野県の旧称「信濃国」の語源だといいます。 
 
新潟県
宝手拭 / 新潟県  
老夫婦が空海に宿を提供して、その礼に貰った1本の手拭いで顔を洗うと若返り、他人に貸したらその人は猿になった。
弘法の授け湯 / 新潟県十日町市西田尻辛  
「清津峡」は、昭和24年に国立公園(上信越高原)に指定され、その豪壮 雄大なる閃緑ひん岩の巌礁美と柱状節理の荘厳さ は日本三大渓谷の一つに数えられています。清津峡には、碧雲・黒岩 ・銚子滝・屏風岩・臥龍峡・足尾沢滝・満寿山・鹿飛橋 等の偉観があり、訪れる人の胸を打っています。また清津峡は、狐・狸・熊・むささび等獣の棲息、フクロウ・みみずく・仏法僧・鷹等数十種類の野鳥、 高山植物・渓谷植物等、学術的資料の宝庫でもあります。  
清津峡温泉瀬戸口の湯  
清津峡の入口の温泉。弱食塩泉で、神経痛、胃腸病、リュウマチなどによく効くといわれています。この温泉は「弘法の授け湯」とも呼ばれ、弘法大師が沸出させたとのいい伝えがあります。その伝説とは…山奥の山村を托鉢(たくはつ) に歩いていた旅のお坊さん(弘法大師)が、一晩泊めてもらった農家の主人にお礼として授けたもので、この温泉に入った妻はたちどころに病気が治り、他の村人も病苦を逃れた-----というものです。現在もそのゆつぼが残っています。  
ねじり杉  
角間集落の観音様の境内にある杉は、幹全体がねじれ、「弘法さまのねじり杉」と呼ばれています。昔、昔、夏の暑い盛りに村を通りかかったお坊さん(弘法大師)が水を頼んだが、信仰心を持たない村人はとうとう水をあげなかった。悲しんだお坊さんは小さな杉の木をねじって、「このまま伸びよ」といいつけて仏の力を教えた、という弘法さまにまつわる伝説もあります。 
片葉の葦  
越後七不思議に数えられている「片葉の葦(かたはのあし)」。一方向にだけ葉が出る不思議なアシです。「片葉の葦」は越後七不思議のひとつで、葉が片方側だけに生えるアシです。上越の居多ヶ浜や居多神社周辺に自生しています。片葉の葦にまつわる伝説は、大きく分けて2つあります。ひとつは現在、越後七不思議として語られている親鸞聖人由来の伝説。もうひとつは弘法大師(空海)由来の伝説です。  
親鸞聖人由来の伝説1  
居多ヶ浜に上陸した親鸞聖人は、最初に居多神社を参拝しました。ここで聖人は「末遠く 法をまもらせ 居多の神 弥陀と衆生の あらむ限りはすえとおく ほうをまもらせ こたのかみ みだとしゅじょうの あらむかぎりは」と詠みました。この親鸞聖人の教えに感化されて、葉が片方だけを向いてなびいたそうです。  
親鸞聖人由来の伝説2  
流罪となり越後国府に流された親鸞聖人は居多ヶ浜周辺で布教しましたが、罪人であるとして話を聞く者がいませんでした。そこで聖人は「結びおく 片葉の葦の 後の世に わがあと慕う 小道しるべにむすびおく かたばのあしの のちのよに わがあとしたう こみちしるべに」という歌を詠んで、傍らの葦の葉をちぎりました。その後、このあたりの葦はすべて片葉になってしまいました。  
親鸞聖人由来の伝説3  
親鸞と一緒になって手を合わせたから、葦が親鸞との別れを惜しんで合掌したから。  
弘法大師由来の伝説1  
とある僧がこの地をおとずれ、村の家々に水を所望して回りました。しかし、この地では水が貴重であったため、どの家からも断られてしまいました。水をあきらめた僧は、砂丘に立って読経を始めました。すると、激しい雨が降り、足下に小さな池が出来ました。僧がその池に自分の姿を映して仏像を刻んでいると、どこからか女が現れ、草笛で美しい音色を奏でました。女は僧を手招きしますが、僧は邪念を払って仏像を刻み続け、明け方には完成させました。そして、仏像を草庵に安置し、どこへともなく去っていきました。村人達は残された仏像に「空海刻」と彫られているのを見て、あの僧が弘法大師であったことを知り、それから熱心な仏教徒になったそうです。  
弘法大師由来の伝説2  
女が草笛を作るために葦の葉の片方を全部ちぎり取ってしまったため、この池に生える葦は全て片葉になったそうです。 
 
愛知県
悪病退散祈願の供饌菓子(くせんかし) / 愛知県津島神社  
弘法大師が愛知県津島神社に伝えたのは、薬師如来信仰だけではなかった。悪病退散の祈願を込めて神前に供え、参詣した人々にも分けたという菓子が、津島神社の供饌菓子として伝えられたのだ。それが、直系1.5cmほどの小粒の揚げた米団子「あかだ」である。  
かつて門前をにぎわしていた「あかだ」「くつわ」の店も、今では神社の東の鳥居前に3軒が残るのみである。伝統製法の「あかだ」と「くつわ」は恐ろしく硬く、そして香しい。津島神社鳥居前に並ぶ専門店で作られる「あかだ」「くつわ」はまさに類まれな銘菓(迷菓)としての個性がうかがえる。 
弘法さまの二つのいぼ塚 / 愛知県豊田市  
上のいぼ塚〜愛知県豊田市保見町  
下のいぼ塚〜愛知県豊田市伊保町  
昭和45年に下伊保が伊保町に、上伊保が保見町に変更されたそうで、伊保川・伊保橋・伊保小学校の名前は残っています。  
下のいぼ塚は県道58号線の伊保町的場交差点から大清水町交差点方向へ300mほど南下した伊保川にかかる向山橋手前の東側道路脇にありました。昔はいぼ塚のまわりの泥を採っていぼに塗って祈ったとのことですが、昭和59年7月に伊保町有志一同により元の位置から移築されてきれいに整備されていています。  
愛知環状鉄道の保見駅近くの県道58号線沿いの理容店で尋ねたら上のいぼ塚はすぐ見つかりました。上のいぼ塚は保見駅の近くの伊保小学校の東側の加納宅の敷地内にありました。上のいぼ塚の地主である加納様の奥様の話ではすぐ近くの田んぼから昭和63年に現在の位置に移動したとのことでした。上のいぼ塚は塚前の窪みの中から泥は採ることが可能で、今でもいぼとり祈願に訪れる方がいるそうです。  
二つのいぼ塚ははるか昔からあるようで、いぼ塚にまつわる民話が残っています。送って頂いた資料の「とよた風土記」(豊田市区長会発行)によると弘法大師信仰によるものと言われています。「とよた風土記」の「下伊保のいぼ塚」には次のようなお話が掲載されています。むかし、天長年間(824〜834)伊保の里に、全身いぼの出来ていた娘がいました。娘は醜い我が身を悲しんで、毎日昼間は外出もできずに暗い日々を送っていました。里の人々も皆哀れんでいました。ある秋の夕暮れ時に笠を深くかぶった身の丈よりも長い杖を持った墨染めの衣の一人の旅の僧が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と重みのある念仏をとなえながら、娘の家の前で報謝を求めて立ちどまりました。娘は顔を手拭いでかくし、手は前掛けでかくし、皿に持ったお米を差し出すと、僧はありがたく受け取って首に掛けた袋にいれ皿を返しながら「娘さん、いぼで大変おこまりの様子、前にこられや」と言って、手を合わせておがむ娘の上半身を杖で静かに力をこめてさすりながら、「南無大師遍照金剛」と、何度も何度もとなえ、上半身の疣を一枚の紙に封じて「上のいぼ塚にお納めなさい。」と言いました。さらに杖で下半身をくまなくさすり「南無大師遍照金剛」と何度もとなえ、最後に一枚の紙に下半身の疣を封じ「下伊保のいぼ塚へおさめなさい」と言い残し娘が深く頭をさげてお礼を申しているうちに姿を消しました。旅の僧の言葉どうりに、上のいぼ塚と、下伊保のいぼ塚へ納めて、一心に念仏をとなえて祈っていたら、いつの間にか全身のいぼは取れて、もとのきれいな娘となり、幸せな日々の生涯送ったそうです。古老のお話では、その時の僧は弘法大師ではないかと言い伝えられています。 
錫杖井戸 / 愛知県豊川市 
昔、高野山金剛峯寺を建てられた弘法大師(空海)という偉いお坊さんが、旅の途中、徳城寺に立ち寄りました。のどがかわいた大師は「水を一杯ください」と寺僧に頼みました。「しばらくお待ちください」と、寺僧は答えたが、なかなか水を持って現れませんでした。  
やっとのことで、水のいっぱい入った手おけを持った寺僧が出てきました。寺僧が持ってきたその水は、冷たくとてもおいしかった。  
聞くところによると、寺僧は、大師に一杯の水を頼まれたものの汲み置きの水がなかったので、急いで崖下の清水まで水を汲みに行っていたことがわかったのです。  
大師は、この辺りは井戸がなく、飲み水にたいへん不便をしていることを知り、そこで「ここを掘れば、水が出ます」と、錫杖で地面を示されました。そこを掘るときれいな水が出てきたのです。これよりこの井戸から絶えず水がわき出し、いくら汲んでも水のなくなることはありませんでした。  
人々は、この井戸を「錫杖井戸」と呼びました。  
徳城寺  
豊川進雄神社に沿った道の南側にあるのが徳城寺の境内です。大きなケヤキが数本茂った一隅に小さなお堂が建てられ、その中に深さ1mほどの井戸があります。洪積台地の豊川町では、粘土層にたまった水を得るこのような浅い井戸はとてもめずらしいです。人々は、不思議な自然現象のこの井戸を弘法大師の掘った「錫杖井戸」として大切にしてきました。  
浦島太郎の故郷 / 愛知県知多郡武豊町  
武豊町に伝わる昔話には、この町が浦島太郎の故郷であると書かれています。武豊町にある富貴は「ふき」と読みますが、この読みは昔の「負亀(おぶかめ)」という地名から生まれたものです。負亀の音読みは「ふき」です。また、この地には現在も「浦之島」というような地名があります。  
・・・まず、わしが話を聞いてもらいたいもんじゃ。  
おまえさまは、富貴村の東大高の、知里付神社という神さんの東南に、『負亀(おぶがめ)』という土地があることを知っとりなさるだろうか。この土地には、浦島屋敷と呼んでいる一画もありますのじゃ。浦島太郎が、助けた亀の背に負ぶさって、ここから出かけたから、負亀というているんで、りっぱな証拠ではござんせんか。富貴(ふき)のことを、いろんなふうに言っとるようだが、この負亀を音で読みなさってごろうじろ。それ、フキと読めますじゃろうが。これが富貴という村の本当の意味と言えますまいか。 そればかりではござんせんよ。浦島川だとか浦ノ島という土地もありますのじゃ。この浦ノ島へは、海亀がたくさんやってきて産卵したもんだと、うちのじいさんに聞いたこともある。この郷の氏神さんは知里付さんというて、近郷にも名高いお社じゃが、第11代垂仁天皇さまの26年菊月に建てられなさったという言い伝えじゃから、浦島太郎が故郷へ帰った天長2年よりも、ずうっと昔のお社じゃ。宮司さんに聞いた話じゃ、このお社には、浦島太郎の玉手箱がちゃんとしまってあるそうな。わしも覚えとるが、前のお社の棟瓦(むながわら)は亀の姿をしておったと思うがのう。おまえさん、富貴の南の海岸に、四海波(しかいなみ)というとこがあるのを知っとりなさるか。昔はこの辺は海のきれいなとこで、富貴では、終戦後も長い間、海水浴で大にぎわいしたもんだが、この四海波は、殊に景色がええところで、名古屋の金持ちの別荘が並んどったが、あすこの堤防で、じっと海を眺めてごらんなされ。波の形が変わっとるんで、昔の人は、竜宮城の入口だと言っとった。わしがじいさんの話だと、あの浜辺は「うめきの浜」というて、浦島太郎が、玉手箱を開けたため、白髪(しらが)になってしもうて、くやしくてうめいた所じゃということだった。 この浜から一丁くらい西には、翁塚(おきなづか)という古い塚もあるし、浦島観音さんもまつられておる。 東大高の真楽寺というお寺さんには、ちゃんと亀のお墓が残されていますのじゃ。  
昔、弘法大師さんが、こちらへおいでんさったとき、ああ、ここは浦島太郎の出生地だと言われて、燕子花(かきつばた)と松と竹を植えなさったのだが、燕子花は四季咲きになり、大正天皇さまが皇太子さんのとき、ご覧になりましたのさ。枯れてしもうたが、松は斑入(ふいり)になり、竹は年中筍(たけのこ)が出たそうな。富貴の市場には『竜宮神社』という神さんがあって、富貴の浜が海水浴でにぎわったころ、ようお参りがあったものだったが・・・。とにかく、これだけ証拠がそろっとっても、浦島太郎の土地じゃないと言われますかの。  
 
岐阜県
手なし嫁 / 岐阜県  
むかしむかし、飛騨の国(岐阜県)の吉城郡(よしきごおり)のある村に、吉右衛門という長者がいました。  
長者には先妻の子どもで、おすみという美しい娘と、後妻の子どもで、お玉というみにくい娘がいました。  
さて、ある日の事、隣村の長者の太郎兵衛から使いの者が来て、「ぜひとも、おすみさまを嫁にほしいのです」と、言ってきたのです。  
それを知った継母は、自分の子どものお玉を長者の嫁にやりたいと思う気持ちから、おすみを殺してしまおうと考えたのです。  
(おすみさえいなれけば、隣村の長者は、きっと、お玉を嫁にもらってくれるはず。なにしろ他の家の嫁では、つり合いが取れないからね)  
そこでまま母は長者が旅に出たのを見計らって、数人の男に山でおすみを殺すよう命じたのです。  
男たちは嫌がるおすみを山へ連れて行くと、まずは両手を切り落としました。  
すると、おすみが、「どうか、命だけはお助けてください。もう二度と、家へは帰らないと約束しますから」と、泣いてすがったのです。  
男たちも、おすみに恨みがあったわけではないので、おすみを殺さずに帰っていきました。  
両手を失ったおすみは、その場でしばらく泣いていましたが、ふとおすみの耳に、こんな声が聞こえてきたのです。  
「仏さまは、あなたを見捨ててはいません。幸せになりたいのなら、旅に出なさい」  
それを聞いたおすみは、その声が弘法大師の声だと確信しました。  
「お大師さま、お導きをありがとうございます」  
おすみは泣くのをやめて立ち上がると、四国八十八ヶ所へ遍路(へんろ)に出ることにしたのです。  
両手をなくしたおすみには大変な旅でしたが、おすみは弱音一つ吐かずに頑張りました。  
そして旅を続けて数日が過ぎた頃、おすみは山の中で猟犬に吠え立てられました。  
そしてその猟犬の後から、立派な若者が出てきました。  
この若者こそ、おすみを嫁にほしいといった長者の息子だったのです。  
長者の息子は、おすみの継母におすみが死んだと聞かされてがっかりしていたのですが、悲しい気持ちを紛らわす為に、猟犬を連れてこの山に猟に来ていたのです。  
息子がおすみを家につれて帰ると、娘は今までの出来事を語りました。  
それを聞いた息子も長者も、びっくりしましたが、「何事も、縁が大事。あなたに嫁に来て欲しいと言ったのも、ここでこうして出会ったのも、お互いに深い縁があったからでしょう。手がなくてもかまわないから、どうか息子の嫁になってくだされ」と、言ってくれたのです。  
そして立派な祝言をあげると、二人はめでたく夫婦になり、間もなく玉のような男の子も授かりました。  
そんなある日の事、おすみは手が生えるように願をかけて、再び四国八十八ヶ所へ遍路に行きたいと言い出したのです。  
長者も息子も心配しましたが、おすみの決心は固くて止める事が出来ませんでした。  
おすみは子どもをおぶって四国巡りを始めましたが、背負われた子どもがひもじがって泣くので、お乳をあげようと子どもを下ろそうとした時です。  
おすみはうっかり、子どもを背中から落としてしまいました。  
「あっ、いけない!」  
おすみはとっさに無くなったはずの手を伸ばして、子どもを受け止めました。  
そして子どもを受け止めてから、自分に手がある事を知ってびっくりです。  
「て、手が、わたしの手がある!」  
いつの間にかおすみの両肩から、両手が生えていたのです。  
「ああ、お大師さま。ありがとうございます」  
おすみが涙をこぼして喜んでいるところへ、心配した長者の息子が追いかけて来ました。  
二人は大喜びで大師に感謝して家に帰ると、それから仲良く幸せに暮らしました。  
その一方、おすみに両手が生えたその日、継母の両手が突然に無くなったという事です。 
ダケ石 / 岐阜県  
空海が杖をついてできた石。これに触ると怪我をする。
 
石川県
弘法池 / 石川県石川郡鳥越村字釜清水  
地名の由来は弘法大師にちなんだもので、「その昔、暑い夏の盛りに、弘法大師が行脚のためこの村に立ち寄られた。大師は庄屋の家で休まれ、その家の老婆に水を所望されたが、村には飲料水が近くになく、老婆は手取川まで険しい谷道を下りて汲んできて差し上げた。大師は老婆の親切を大変喜ばれそしていたく感動された。大師は持っていた錫杖を岩に突き刺しえぐると、不思議なことに穴の底から清水が湧き出してきた。村人たちは喜び、この水を弘法様の水として大切に守り、飲料水にした。  
弘法の水 / 石川県鹿島郡田鶴浜町字大津  
約1200年前日照りが続いた時の事、村人たちは飲料水もなく悪疫が流行し大変困っていた。そこへ訪れたみすぼらしい旅の姿のお坊さんが、一生懸命に泉を掘ってくれた。村人たちは、ほどなくその旅のお坊さんが弘法大師だとわかり、御恩報謝のお堂を建てた。  
龍燈 / 河北郡津幡町  
弘法大師が岩動山を越えたとき龍燈が老松にかかり大日如来の尊容が奇雲の間に現れた。よって大師はここに二年とどまり大日尊と聖徳太子二歳の像を安置した。津幡町領家の広済寺である。 
ガン、大蛇 / 鳳至郡柳田村  
男は干上がった田に水を張ってくれた大蛇に娘を嫁がせる約束をした。蟹(ガン)が大蛇を退治するが、今度はそのガンが童(ワロ)に化けて人を食べるようになり、弘法大師が雨乞いの神として祀った。 
不使の水 / 石川県  
能美で村人が水を惜しみ与えなかったため空海は怒り村のどこを掘っても鉄気のある水にした。
 
富山県
弥陀ケ原の弘法清水 / 富山県  
むかしむかし、弘法大師(こうぼうたいし)と言うお坊さんが、立山(富山県の南東部)にこもって修行をしていた時の事です。その当時の弥陀ヶ原(みだがはら)は、行けども行けども一滴のわき水もありませんでした。その為に立山に登る人たちは、苦しい思いをしていました。  
これを知った弘法大師が、「水は、生きていく上でもっとも大切な物。それがないとは、不便な事じゃ」と、持っていた錫杖(しゃくじょう、修行する人が持ち歩くつえ)で軽く地面を叩いたのです。すると錫杖は深く地面に突き刺さり、弘法大師が錫杖を引き抜くと、そこから水がこんこんとわき出てきたのです。  
人々はこのわき水を、弘法清水(こうぼうしみず)と名付けました。今でも弘法清水はわき出ており、この弘法清水でわかしたお茶を飲むと元気が出ると言われています。 
 
福井県
三方の石観音 / 福井県  
空海が御影石に彫った観音。右の手首ひとつのこして夜明けになったのでノミを置いて下山した。それ故、本尊には右手首がない。
 
近畿

 

三重県
弘法井戸 / 三重県四日市  
青龍寺を東に下った所に、弘法井戸がある。昔、この地に長い間雨が降らず、水がかれて、飲み水もままならない時があった。村人達が大変困惑していたとき、弘法大師が諸国を巡られている途中、このあたりに立ち寄られて、水を求められた。村人は大師に水はさしあけたいが、飲み水もなく、さしあげることができないと申し上げると、大師は不憫に思われて、もっていた錫杖で、ドンと地面を突きさした。そうすると、そこから、こんこんと清水が湧きだし、井戸のようになった。村人達は大喜びで、それ以後、この地を「弘法井戸」と呼び、弘法大師の遺徳を称えている。今日に至るも、この井戸の水は、かれたことがない。こんこんと湧き出る清水は、周辺の住民の使い水として、特に重宝がられており、現在も生活用水として、付近の人々に活用されている。足見田神社の沿革によれば「正安三年(1301)正月七日足見田神社の神託によって、地神社と天神社の間一町会(120m)その中間に「真名井」(真ん中の井という意味)あり、空海法師(弘法大師)の封賜う、霊水なりというと書かれている。 
弘法杉 / 三重県四日市  
こんもりとした大きな杉の木がある。現在は周囲が茶畑であるが、昭和五十年(1975)ごろまでは全部水田であった。田んぼの中の杉の木、これが弘法杉である。昔、弘法大師が諸国を巡られた時、このあたりで昼時となり、大師は杉の技で作った箸で昼飯を召し上がった。その後で、箸を泉のほとりの地面に突きさしておかれたが、やがて、その杉の箸に根がついて芽が吹き、大きな木に成長したもので、土地の人々は「弘法杉」と呼んでいる。このように伝説のある弘法杉の木には、いまだに誰も登ったことがないし、もちろん技を切ったりすることもなく、こんもりと茂っている。しかし、鈴鹿おろしのきびしい風に吹かれて、近年東寄りにやや傾く気配に、心ある人の発案により、地区の人々が平成四年(1992)正月、杉の木の周囲を石垣で囲み、傾かないように補強をして、保存に努めている。 
大蛇 / 桑名郡多度町  
大淀というところに大きな松があり、その根元に大蛇がいた。人に悪さをすることはなかったが、見るだけで怖い。弘法大師が退治し、寺の本堂に頭だけ安置した。 
古木の血 / 三重県  
むかしむかし、三重のある村の長者が庭に出て涼んでいると、西の空が明るく光り輝いているのが見えました。  
「はて。あれは、何の光じゃろうか?」  
不思議に思った長者が行ってみると、となり村とのさかいにある小さな湖に枯れ木が浮いていて、それがまばゆい光を放っているのでした。  
「これは湖の底にあるという、竜宮御殿に使われている木の一部にちがいない」  
長者が枯れ木を湖から引き上げると木は光らなくなりましたが、長者はそれを家に持って帰って大切にしました。  
それからしばらくたったある日、旅の途中の弘法大師(こうぼうだいし)が、この村を通りかかりました。  
大師が来たことを知った長者は、大師を自分の屋敷に招いてもてなすと、あの光る枯れ木の話をしました。  
すると大師は、床の間に置かれていた枯れ木をじっと見つめて言いました。  
「確かに、この木からは、ただならぬ力を感じる。  
もしよろしければ、この木で地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の像を彫りたいと思うが、いかがであろうか」  
「それはそれは、まことにありがたいことで」  
有名な大師が彫ってくれるというので、長者は大喜びです。  
大師は長者から一本のノミを借りると、菩薩像の頭から彫っていきました。  
カーン、カーン。  
大師がひとノミ入れるたびに、枯れ木は不思議な光を放ちます。  
さすがの大師も、少し興奮気味です。  
ところが一心に刻んでいって、菩薩像を腰のあたりを彫り進んだとき、突然枯れ木から真っ赤な血が流れ出たのです。  
これには大師も驚いて、「ぬぬっ。この木は、生身の菩薩じゃ。わたしの様な未熟者では、これ以上木を刻む事は出来ません」と、言うと、がっくりと肩を落として彫るのをやめてしまいました。  
こうして腰から下が未完成の菩薩像は村のお寺へと移されて、お寺の本尊としてまつられたという事です。 
弘法井戸 / 三重県  
むかしむかし、惣松(そうまつ)という人が、村人たちと伊勢参宮(いせさんぐう)に行きました。  
そしてその帰り道に舟で二見が浦(ふたみがうら)の近くの飛島(とびしま)まで来たのですが、突然空に小さな白龍(はくりゅう)が現れて、惣松の着物の中に飛び込んできたのです。  
惣松をはじめ、村人たちはビックリしましたが、「これは、幸運を知らせる神さまのお告げじゃ」と、喜んで白龍を村へ持ち帰りました。  
家に白龍を持ち帰った惣松は白龍を床の間に置きましたが、白龍は床の間から出て行くと神棚(かみだな)の中に入ってしまったのです。  
惣松は、「神棚とは、この白龍は福の神に違いない。きっと、良い事がおこるぞ」と、神棚へだんごやお酒などをたくさんおそなえしました。  
すると惣松の家だけでなく村中が幸運続きで、村はどんどん栄えていきました。  
そんなある日の事、惣松は神棚にそなえただんごを一口食べると、「ぺっぺっ! くさっていやがる! こんな物、食えるか!」と、吐き出してしまったのです。  
するとそのとたんに白龍が神棚から飛び出して、森の中へかくれてしまいました。  
おかげで村はしだいに、貧しくなっていきました。  
それから数年後、旅の途中の弘法大使(こうぼうたいし)が村へやって来ました。  
弘法大師は村中を歩き回ると、村人にたずねました。  
「この近くに大きな力を感じるが、この村には何かあるのか?」  
「はい、お坊さま。実はこの村に一匹の白龍がいたのですが、森の中へ逃げてしまいました。それいらい、村は不運続きです。どうか白龍を、連れもどして下さい」  
村人の言葉に、弘法大使は、「白龍は水が好きだから、井戸をほってあげよう」と、持っていた杖(つえ)を、地面に突き刺しました。  
すると不思議な事に、そこから水がこんこんとわき出したのです。  
それからは毎日のように白龍がこの水を飲みに来るようになり、村は前のように栄えていったそうです。おしまい 
弘法牡蠣伝説 / 三重県南部紀北町  
渡利牡蠣は弘法牡蠣とも言われています。なぜ、弘法牡蠣と言われるようになったかというと、ある日、この村を通りかかったお坊さんが隣の村では何も頂けず憔悴して托鉢を行っていました。  
白石湖で、漁をしながら暮らす一軒の漁師の家で立ち止まりました。「お坊さま、見てのとうりの貧乏な家です。何もお出しするものはありませんが、私達が今晩食べるご飯でよければどうぞ」とおにぎりにして差し出しました。このお坊さんは、差し出されたおにぎりを湖に投げ入れお経を唱えると、おにぎりが牡蠣に代わりました。  
この村の人たちは飢饉のときはこの牡蠣で飢えをしのいだと言われ、後で、このお坊さんは弘法大師だったことが分かり、この地で獲れる牡蠣を弘法牡蠣と呼ぶようになったと言うことです。  
 
三重県南部紀北町に周囲がわずか4キロと小さな汽水湖が在り、これが白石湖です。この小さい湖で、美味しい渡利牡蠣は育てられています。全国でも1,2を争う多雨地帯として知られる大台ケ原のふもとにある、小さな湖が白石湖です。この大台ケ原から流れれる澄んだ川の清水と黒潮が洗う熊野灘の栄養豊富な海水が入り混じった汽水湖で育つ牡蠣が渡利牡蠣です。 
足跡石 / 三重県  
空海の足跡を2ヶ所残した岩で、触れると仏罰があたる。
 
奈良県
大師像の下あごの傷 / 奈良県  
千代の八条に本光明寺があります。本堂には弘法大師の座像がまつってあります。  
昔、庄屋がある日、ヘビを殺そうとしました。そこへ旅の僧がとおりかかって、「そんな殺生はおやめなさった方がよい」といましめました。庄屋は立腹して僧の下あごを鎌で切りつけました。  
旅の僧は「お前のしわざは七代までたたるぞ。」、八代目にはじめて罪が消えるだろう」と言って、どこかへ姿を消してしまいました。  
そこで大師堂へ行ってお祈りをすると、本尊の大師像の下あごから血が流れていました。さては大師さまが化けておられたのかと、それから一生懸命に信仰をするようになったということです。  
現に安置されている木造大師像の下あごには傷があります。
梵字(ぼんじ)の池 / 奈良県  
むかし、弘法大師が高野山から京都の東寺へ通われたとき、田原本町秦庄(はたのしょう)の秦楽寺(じんらくじ)に泊まられて、池のほとりの部屋で『三教指帰(さんごうしいき)』という本をお書きになりました。そのときカエルの声がやかましくて邪魔になるので、大師はおしかりになりました。それ以来カエルは池の中で鳴かなくなりました。  
そこで大師は、池をア字の梵字形でつくらせ、池の中に「三教島」をつくりました。バンの梵字池は百済寺(くだらじ)の境内に掘らせました。ウンの梵字池は与楽寺(よらくじ)の境内に掘らせました。百済寺と与楽寺はいまの広陵町にあります。これらの池はア・バン・ウンの三池といって有名で、ともに三教指帰を説き述べられています。  
ところが二百年ほど前に百済寺の住職が、この寺の領主多武峰(とうのみね)寺の三坊にお願いして百済寺の梵字池のバンの字は、頭に「、」が抜けていたので「、」を付けて誤りを正すことをゆるされたといいます。「弘法も筆の誤り」ということわざがあります。  
アは胎蔵界(たいぞうかい)、バンは金剛界(こんごうかい)、ウンは蘇悉地(そしつち)のことです。  
弘法大師はいまの田原本町千代(ちしろ)の勝楽寺(しょうらくじ)(現在は本光明寺(ほんこうみょうじ)に自分で四十二体の像を刻み、寺を建て、境内に梵字池をつくり、秦楽寺のア字池、与楽寺のウン池とともに大和の三楽の池と言っています。  
※千代の本光明寺にまつられている木造弘法大師坐像は、像高60.2cmで玉眼の古色。  
寄木造で室町時代前期の作です。毎年二月二十一日には初大師の法要が営まれます。本光明寺はもと勝楽寺といい、重要文化財の木造十一面観音立像をまつっています。  
※弘法大師(七七四〜八三五)名を「空海(くうかい)」といい、諡号(いみな)を弘法大師といいます。讃岐(香川県)に生まれた平安時代初期の僧で、真言宗(しんごんしゅう)の開祖(かいそ)です。  
十八歳の時に大学で外典を学びましたが、儒・仏・道教のうち仏道が最も優れているとして家出しました。804年(延歴23年)の入唐、806年(大同一)に帰朝しました。  
東寺を賜って真言道場とし、816年(弘仁七)高野山に金剛峰寺を開き、真言密教の高揚に努めました。また各地で灌漑用の池や井戸を掘ったといわれています。田原本町内でも同じ伝説が二三のこっています。  
弘法大師は書道でも三筆(嵯峨天皇、橘逸勢(はやなり)僧空海)の一人として有名です。
つえが大樹になった話 / 奈良県  
秦楽寺の春日神社にいまも菩提樹の木があります。  
むかし弘法大師が杖をさされて水をかけられると、そこから根が生えて大きくなったということです。
秦楽寺の七不思議 / 奈良県  
秦楽寺の池は弘法大師が造られたという話はすでに書きましたが、ほかに七つの不思議なことがあるとの言い伝えがあります。  
一、阿字池はいずれの方向から見ても地形の全部が見られず、ひとすみだけは見えないということです。  
二、阿字池は百日の干ばつでも、水が絶えてかれたことがないそうです。  
三、池中には藻や浮草が生じないということです。  
四、木の葉が浮かばないそうです。  
五、ヒルが住まないといわれます。  
六、かえるが鳴かないそうです。弘法大師が修行中やかましいので、鳴くことを封じたといいます。  
七、池水が田の水より少し目方が軽いそうです。  
みなさんも一度現地を訪れて試してみてはいかがでしょう。
弘法井戸 / 奈良県  
田原本の楽田寺の山門をくぐると、右手に井戸を見ることができます。この井戸は弘法大師が高野山へ行かれる途中に、楽田寺へ寄られた時に、干ばつに苦しむ農民の訴えを聞いてここに井戸を掘られたということです。それでこの井戸を弘法井戸と呼んでいます。  
水は常にわいて、昔は田んぼの用水にも利用されていたそうです。水は弘法水と呼ばれています。  
この楽田寺は古くから雨ごいの寺としても知られています。お寺には絹本著色善女龍王図がのこり、明治にいたるまで雨ごい祈とうの本尊として用いられていました。弘法大師が京都の神泉苑で祈雨の法験があって以来、東密の秘法として相承された請雨法の本尊は「善女龍王」であり、高野山金剛峯寺蔵本は国宝として有名です。このことから弘法大師と楽田寺とのかかわりは相当深かったと思われます。いまこの「善女龍王図」は、奈良県指定の文化財(絵画)になっています。  
さらに下ツ道(中街道)沿道の奏楽寺、本光明寺などは、大師の通行路に接していて、大師にまつわる話が遺されて、これらの話は伝説というだけではなさそうです。  
弘法大師は書道の三大家の一人に数えられていることは前回にのべましたが、ことわざに「弘法筆を択(えら)ばず」があります。「能書不レ択レ筆」という中国の語句を、日本の民衆の知識のなかに翻訳したのだそうです。  
また「弘法も筆の誤り」は応天門の額を書いて点を書き落としたところから出たものです。  
その点を筆を投げ上げて直したところから「弘法の投げ筆」になりました。「猿も木から落ちる」や「上手の手から水がもれる」などのことわざと同じ意味でつかわれます。  
さて、点を書き落としたという話は、先の話の百済寺のバンの梵字池をつくったときに、点がぬけていたという話ともよくにています。話はおそらく共通のものであったのかも知れません。
なつめが原 / 奈良県  
桜井市江包(えっつみ)を流れる初瀬川の観音橋の上流、つなかけばし付近から西の一帯を、昔から「なつめが原」と呼んでいます。  
このあたりは桜井市になりますが、田原本町笠形や蔵堂(くらんど)と接していて、江包から流れる水路を「なつめ川」と呼んで、「この辺は嫁入りの通ったらあかんとこ」と伝えられています。  
このなつめが原の話を、江包の植田明夫さんから、植田さんの田んぼで聞きました。 
なつめが原。わしとこのこの田のこの辺を言うてます。  
昔この辺にはな、なつめの木がぎょうさんあって、実がようなったそうや。あるとき子どもらがな、その木に上ってなつめの実をとって食べとったらな、きたない格好の疲れ果てた坊さんが通りかかって、「腹が空いてんので一つくれんか」言うて、木の上の子らに声かけやはったそうや。  
子らは「お前にやるようなもんは一つもあらひん」言うて、 虫の食たのや熟したらひん実を坊さんに投げよったそうや。  
そしたら坊さんおこってな、「そんな人にやれんようななつめやったら、次の年から絶対実のならんようにしたる」言うて、消えてしもたそうや。子らはびっくりして家へとんで帰りよった。  
そんなことがあってな、次の年からは実はならんようになったというこっちゃ。その旅の坊さんこそ、あのお大師(だいっ)さん(弘法大師)やってんと。  
なつめ川に沿うた道はな、いまも嫁はんの荷や婚礼のタクシーは心得たもんで、めったにとうらへん。  
なつめの木はなぁ、今はもう一本もあらひん。わしが中学校卒業したじぶんやから、もう四十年も前かなぁ。百姓しはじめたころには、わしの地(じ)に一本だけ生えとった。その木の下でいっぷくする人が多かってんが、こんな木あるさかい嫁はんも通らひんと、よう言われたもんやさかい、切ってしもたった。いま残しといたらよかってんなぁと思うこともある。せやけどそのなつめ、こんなちっちゃなもんで、キンカンをちっそしたような実で、リンゴみたいな味もしてんが、酸やらしぶいやらで、一つも食べられんかった。木切ってしもたんも、その辺もありまんねわ。
魔よけのザクロの木 / 奈良県磯城郡田原本町  
古い農家などには、今もザクロ(柘榴)の木が植えられているのを見かけます。これは昔から魔よけとして植えられたものが多いようです。法貴寺の農家で次のような話を聞きました。  
「私(わし)の家の裏にあるザクロの木は、昔先祖が植えとかったもんや。昔の母はたいがい子供(こ)を七人も八人も産んだもんやが、私の先祖は子がでけよると、その子はじっきに死んでしまおったそうや。そんで、せやったら魔よけにザクロの木植えたらええというので、植えたんがこの木やそうや。おかげさんで、そっから産まれてくる子はみな元気でな育ってんがな。そやから私はこの世に居んねわ」という話です。  
この話に出てくるザクロは、田原本町方面では「ジャクロ」ともいいます。ザクロは仏語では「吉祥果(きちようか)」といい、人肉に似た味がすると言われています。律宗や日蓮宗寺院で主にまつられている「鬼子母神(きしぼじん)」が、このザクロの実を手に持っています。  
この仏は、梵語ではハリーティーといい、漢語で鬼子母神、音訳して訶梨帝母(かりていも)と呼ばれ、吉祥天(きっしょうてん)の母といわれます。  
この鬼子母神は千人の子供を産みました。しかし性質は邪悪で常に他人の幼児を食らう夜叉女(やしゃめ)でありましたから仏に一番末の子を鉢底に隠されてしまいました。鬼子母神は泣き悲しみ、子供を獲(と)られた親の苦しみを知って、改心したというのです。仏は今までの悪行を戒め、吉祥果を与えました。鬼子母神は以後仏教に帰依し、安産と幼児を守る神になったのです。  
鬼子母神信仰は奈良時代からひろまったようです。ふつう天女形で右手にザクロを持ち、懐(ふところ)に幼児を抱く姿で現されます。田原本町の寺院では三カ寺に四躯の木造鬼子母神がまつられていますが、いずれも江戸時代の作になるものです。  
今回の魔よけのザクロの木の話は、こうした鬼子母神信仰から生まれた話なのでしょう。  
晩秋、モズが鳴くころともなると、熟したザクロの実は不規則に裂けて、うす赤い種子を露出させます。甘酸っぱい味のする実を以前こどもたちはよく口にしたものですが、今では鳥の餌となってしまうのが多いようです。根は回虫、なかでもサナダムシの駆除薬として使われていました。
薬井の井戸 / 奈良県北葛城郡河合町  
石の井筒を施した掘り抜き井戸。むかし、この村に行脚でやってきた弘法大師が掘ったと伝えられている井戸で、眼の病気にもよく効く薬水とも言われてきた言い伝えがあります。  
むかし、弘法大師がこの地に来られたとき、眼を患う人に会い、気の毒に思われた大師は「ここを掘り湧き出す水で眼を洗いなさい」と教えられたので素直に教えられた所を掘ると水がどんどん湧き出し眼を患う人が近村からこの水をいただきにきたという。水は今も湧き出ており、井戸の片隅には「薬井水」と刻んだ古い石が立ててある。
 
和歌山県
大きな蛇 / 伊都郡かつらぎ町  
昔、大きな蛇が出て村の人々を悩ませていた。そこで弘法大師がその蛇を封じこめた。その時、梵字岩の字が消えたらそこから出てきてもよいと、弘法大師が言ったという。 
橋杭(はしぐい)岩 / 熊野古道大辺路  
昔々、弘法大師(こうぼうだいし)と天(あま)の邪鬼(じゃく)(人の邪魔ばかりする悪者)が熊野地方を旅して串本までやって来ました。大島の人々が不便でたいそう困っているのを聞いた弘法大師は、「人に見られないように一晩の内に海に橋を架(か)けてやろう」と思い、天の邪鬼にも手伝ってもらうことにしました。しかし、天の邪鬼はいつも人の反対ばかりする上、偉い弘法大師には引け目を感じていましたので、何とかして弘法大師を困らせたいと思っていました。  
夜になると、いよいよ二人は橋をかけ始めました。天の邪鬼はふだんから働いたことがなかったので、すぐ疲れてきました。それであまり手伝おうとしませんでした。いっぽう、弘法大師は山から何万貫(がん)もある大きな岩を担(かつ)いできてひょいと海中に立ててどんどん橋杭を立てていきました。「この調子で橋を作ると朝までには立派な橋ができ上ってしまう。何とか邪魔をする方法はないものだろうか」と天の邪鬼は考えました。そこで弘法大師が人に見られぬように夜のうちに橋をかけてしまいたい」と言っていたのを思い出して鼻をつまんで「コケコッコー夜が明ける〜」と鶏(にわとり)の鳴きまねをしました。弘法大師は「まだ夜が明けるはずはない」と耳を疑いましたが、もう一度天の邪鬼が「コケコッコー」と鳴きまねをすると夜が明けてしまったと勘違(かんちが)いしてあわてて工事を止めてしまいました。それで今でも橋杭岩は海の中ほどまでしか続いていません。この珍しい岩は、大正十三年に国の天然記念物に指定されました。 
与門三郎(よもんさぶろう) / 桃山町  
秋晴(あきば)れの、高くすみきった空に、チリンチリンと鈴の音(ね)をひびかせて、ある屋敷の門前(もんぜん)に、一人の僧が立ち止まりました。衣の色もうすくなり、すげがさも重たそうで旅の僧は大変つかれているように見えました。  
「巡礼(じゅんれい)に、なにぶんの御報謝(ごほうしゃ)を。」  
の声に、出て来たのは当家の主人、安楽川(あらかわ)近郷(きんごう)の領主(りょうしゅ)、与門三郎(よもんさぶろう)でした。領内を見回るため、数名の家来(けらい)を引き連れて、ものものしく出て来たところでした。  
しかし、なに思ったか、家来に命じて旅僧(たびそう)を追いはらい、ゆうゆうと出て行くのでした。旅僧はしかたなく立ち去って行きました。  
それから数日後、旅僧は、ふたたび門前に現われ、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と熱心にお念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えていました。これを見た与門三郎は、手にしていたつえをふり上げて、僧が持っていた、托鉢(たくはつ)の椀(わん)をたたき落としてしまいました。椀は地面に落ち、八つに割れて散らばってしまいました。  
そのことがあってから、与門三郎の八人の子どもたちは、毎日毎日一人ずつ、原因のわからぬ病気で死んでいきました。  
最後の一人を看病(かんびょう)しているとき、ある晩、うたた寝のまくらもとに現われたのは、いつぞやの旅僧でした。与門三郎は「はっ」と眼がさめて、自分が今まで仏を信仰(しんこう)しなかったことを、深く後悔(こうかい)しました。  
八人の子どもたちをなくした与門三郎は、狂人(きょうじん)のようになって、家も領地も捨てて大急ぎで、先日の旅僧を追って行きました。しかし、どこをたずねても、旅の僧は見当らず、つかれきった体で四国にわたり、八十八か所めぐりを始めました。  
すると、まもなくあるお寺で、弘法大師(こうぼうたいし)にお会いすることが出来ました。与門三郎は、今までの自分の行ないを後悔し、「仏につかえたい。」と、涙を流してお願いしました。  
大師は、じっと聞いておられましたが、「そなたの志(こころざし)は大変よろしい。けれど、人間みんなが僧になる必要はない。それぞれ、自分の仕事をまじめにすることが、やがて、仏の教を守ることになる。」と言い聞かせ、家に帰るようにすすめました。  
与門三郎は、大師の教えを守って領地に帰り、よく領地をおさめ、一生けんめい仏を信仰し、一生をおくったということです。  
今はさびれて、ほとんどなくなってしまいましたが、桃の名所、段新田(だんしんでん)の南の山に新四国八十八か所がつくられたことがありました。そのとき、新四国第十二番に、この与門三郎をおまつりしたということです。 
弘法大師伝説 / 熊野  
本宮町の大瀬(おおぜ)という集落にはこんなお話が。  
昔、大瀬の山上の馬頭観音の傍らにある家のおばあさんのところに弘法大師がやってきて、一晩の宿を所望した。おばあさんは食べさせるものがなかったため、やむを得ず、種にとっていたソバ種3合を臼でひいて食べさせた。大師は感謝して、「そのソバ殻をその辺りに放っておけば自然にソバが生えてくるようになる」とおばあさんに教えた。おばあさんは不思議なことを言う坊さんだと思ったが、言われた通りにしてみるとソバが生えてきたという。それ以後、毎年、種を蒔かなくても、自然にソバが生えてくるようになった。  
大瀬の馬頭観音の境内には蕎麦大師が祭られています。  
本宮町上大野では、  
実相寺の近くにオカメというおばあさんが住んでいた。そこへ弘法大師が訪れ、昼食を食べようとしてお茶を所望した。おばあさんにお茶をもらうと、大師は昼食をとった。食事には榊(サカキ)の箸を使ったが、食事が終わると、その箸を地面に突き立て、「これが大きく成長した折には、この村には天然痘が一切ないようにしてやろう」とおばあさんに約束して立ち去った。榊の箸は根付き、成長し、それ以後、村には天然痘がおこらなくなったという。  
また、村の東方に天然痘が流行すると、榊の東側の葉に黒い斑点がつき、西方に天然痘が流行すると、榊の西側の葉に黒い斑点ができて、村の人々に代わって天然痘を患ってくれるという。   
また、大塔山という本宮町の山の麓の林道脇に「弘法杉」と呼ばれる2本の杉の巨木がありますが、その杉は、弘法大師が杉の箸を地面に突き立てたところ、根付いて育ったものなのだそうです。  
この2本の杉の巨木は、全国・国有林の巨樹・巨木百選に選ばれています。  
1997年の調査によると、林道に立って向かって右側のほうが胸高周囲5.66m、樹高45m、立木材積41†G。向かって左側のほうが胸高周囲6.10m、樹高43m、立木材積37†G。  
樹齢は450年〜500年生くらいと推定されています(とすると、弘法大師とは年代が合わない(^-^;A)。  
育つはずのないものが育つという奇跡を起こす弘法大師。  
それとは逆に、成るべきものを成らなくさせる呪術をかけることも。  
秋に「ガシャガシャ」と大きな声で鳴くクツワムシ。本宮町桧葉(ひば)では鳴かないそうです。  
昔、弘法大師が桧葉で勉強していたところ、クツワムシが「ガシャガシャ」と鳴いてあまりにやかましい。そこで、大師はクツワムシに「黙っておれ」と言い、それ以後、桧葉ではクツワムシは鳴かなくなったとか。  
これは『本宮つれづれ』のまことさんに教えていただいたお話ですが、まことさんによると、本当に全然「ガシャガシャ」という鳴き声を耳にしないそうです。  
熊野地方には現在、2種類のクツワムシがいるそうです。普通のクツワムシとタイワンクツワムシです。  
タイワンクツワムシは熱帯系の昆虫で、かつては本州では稀な昆虫だったらしいですが、現在は地球温暖化の影響で生息範囲を広め、熊野では全域に生息し、クツワムシと生活圏を奪い合っているようです。  
タイワンクツワムシは体長は5〜 7.5cmくらい。体長5cmくらいのクツワムシよりもひとまわり大きくて細長いです。問題の鳴き声ですが、「ガシャガシャ」とは鳴かないで、「グワッ・グワッ・グワッ・ギュルルルルル・・・・・」と鳴きます。  
桧葉に生息しているのはこのタイワンクツワムシなのでは。  
弘法大師のお話に戻って、熊野川町志古(しこ)では、  
弘法大師が志古のある家に来たとき、ちょうどその家ではモチ米を蒸していた。そこで、大師は餅を所望したが、家の者は「これは餅ではなく粥だ」と嘘をついて餅を与えなかった。それ以後、志古では、いくら餅をついても固まらなくなってしまった。それで、餅をつかなくなったという。  
西牟婁郡上富田町朝来(あっそ)では、  
大師にエンドウ豆の喜捨を乞われたが、一粒も与えなかったので、その罰としてエンドウ豆を作ると、サヤに穴もないのに必ず虫が入るようになったという。そのため、エンドウ豆を作らなくなった。  
弘法大師空海。日本の山岳宗教を中国で学んだ密教により体系化し、真言宗を開いた日本史上最大の宗教家。  
空海は、その「空と海」というスケールの大きな名に相応しい、巨大な人物でした。空海には様々な顔があります。  
密教の思想家であり、山々を駈ける山岳宗教者であり、「弘法筆を択ばず」ということわざを生んだほどのすぐれた書家であり、当代一流の詩人であり、権力操作に長けた政治家であり・・・  
また、日本初の庶民のための総合大学「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」を開いたり、土木・建築・鉱業・自然科学・医療と驚くほどの才能を様々な分野で発揮しています。  
そうした様々な空海の顔のなかで、とくに庶民に親しまれてきたのが、土木技術者としての空海でしょう。  
空海は820年、四国・讃岐の満濃池(香川県仲多度郡満濃町)の修築工事の指揮をしています。  
現在の満濃池は周囲二十キロに及ぶ日本最大の溜め池(平安時代にはもっと小さかったと思われますが)。この池が大決壊。朝廷は築池使を派遣して、3年の月日をかけて修築工事を進めさせましたが、うまくいきません。そこで、空海を派遣。空海の指揮のもと、修築工事が再開されると、地元の農民の協力もあって、わずか3ヶ月でその難工事は完成しました。  
空海は、この工事で、堤防をアーチ型に設計しました。アーチ型にすると、水圧が分散され、直線のものよりはるかに高い水圧に耐えられるようになるそうです。  
また、満水時の放流の際の堤防決壊を防ぐために岩盤をくりぬく工事も行われたといいます。現在でも通用する合理的な工事が、空海によってなされたのです。  
池をつくる専門科であるはずの築池使が3年かけてできなかったことを、空海は3ヶ月で行ってしまいました。土木技術者としての空海の実力をまざまざと世に知らしめた修築工事でした。  
西牟婁郡上富田町朝来(あっそ)には、こんな伝説が。  
昔、弘法大師が熊野詣の途上、咽が乾き、村びとに水を所望したところ、村びとは遠くまで汲みに行って与えた。それを感謝した大師は「この土地は水に不自由のようだから、水の便をはかってやろう」と祈祷を始めた。すると、乾いた土地から清水が湧き出てきたという。  
いわゆる「弘法井戸」の伝説です。  
本宮町内にある熊野九十九王子のひとつ、水呑(みずのみ)王子も、弘法大師が地面に杖を突き立てて、清水を沸き出させた場所だそうです。  
弘法大師が杖を立てた所に、清水が湧き出てきた。そのような類いの伝説は全国各地にありますが、これら「弘法井戸」の伝説も、この空海の土木技術者としての能力の高さが生み出したものなのだと思われます。  
また、西牟婁郡串本町の海岸に林立する奇岩群、国の名勝・天然記念物に指定されている橋杭岩にはこんな伝説が。  
弘法大師と天の邪鬼とが一晩で大島まで橋を架ける競争をしたが、負けそうになった天邪鬼が鶏の鳴きまねをして夜が明けたと思わせたため、弘法大師が作業を止め、橋を完成させることなく杭だけで終わったという。  
やはりこれも空海の土木技術者としての実力が生み出した伝説のようです。  
 
音無川 / 弘法大師が奥吉野(十津川あたり?)を歩いていたところ、せせらぎの音があまりにうるさい川があったので水面に石を投げると川が静まり、それ以来その川は音無川と呼ばれるようになったそうな。  
妙法山阿弥陀寺 / 弘法大師は高野山開創の前年(815)、那智の地を訪れ、那智の滝で行をし、妙法山の山頂に卒塔婆を立てたといいます。さらに阿弥陀如来像を彫られたとも。阿弥陀如来像(阿弥陀寺の本尊)は惜しくも1980年代、火災で焼失しましたが平安時代の作と伝えられます。※ただし、弘法大師が熊野に来たかどうかの史実の真偽はわかりません。熊野年代記などにもその記載がありますが、歴史書によって年代が大きく違うようなのであくまで伝説としてお伝えしておきます。  
このほか、和歌山県内の熊野古道には「弘法の井戸」(湯浅町)「弘法の爪書き地蔵」(有田市)などおびただしい数の伝説が残っています。
姥石 / 和歌山県  
捻じれた形をした岩。空海の母親が高野山の結界を越えられず、恨んで足ずりした跡だという。
石芋、弘法大師 [紀州俗伝]  
郷研の「石芋」に、寛延2年青山某の葛飾記下に西海神村の内、阿取坊明神社(あすはみょうじんしゃ)の入り口に石芋がある。弘法大師がある家に宿を求めたが、媼は貸さず大師は怒って、傍らに植え設けていた芋を石に加持し、以後食うことができず、みなここへ捨てたので、今も四時ともに腐らず、年々葉を生ず。同社の傍らの田の中に、片葉の蘆がある。同じく大師の加持というと載っている。なぜ加持して片葉としたのか、書いてはないが、先は怒らずに気慰めにやったものと見える。  
大師はよほど腹黒い癇癪の強い芋好きだったと見えて、越後下総の外土佐の幡多郡にも食わず芋というのがある。野生した根を村人が抜いて来て横切りにして、四国巡拝の輩に安値で売る。その影を茶碗の水に映し、大師の名号を唱えて用いれば、種々の病を治すと言う。植物書を見ると、食用の芋と別物で、本来食えない物だ。  
甲斐国の団子山の石はみな団子である。大師が通ったとき、1人の老女が団子を作っているのを見て、乞うたが与えず、怒って印を結び、団子を石に化したと、柳里恭の『ひとりね』に見える。  
紀州西牟婁郡の朝来(あっそ)・新庄の2村の境、新庄峠を朝来へ下る坂の側に弘法井戸がある。泉の水は常に満ちながら溢れず、たぐいまれな清水だ。大師がここの貧家で水を乞うと遠方へ汲みに行ってくれた。その報いに祈って出したんだそうな。  
この峠から富田坂に至る、数里の間は平原で、耕作によいが、豌豆を作らない。これを植えると、必ず穴が少しもないさやの中に、自ずと虫が生ずる。近隣諸村には絶えてそのことがない。件の平原の住民らは大師に豌豆を乞われて一粒も与えなかった罰だと言う。  
またこの辺りで伝えることに、油桃はどことは知らないが、大師が桃を乞うたとき、「これは椿の実じゃ、食ってはならない」と偽って与えず、大師はこれを呪って、果皮が毛を失い、椿の実のようになったので、椿桃(つばいもも)と呼ぶと。  
『和漢三才図会』にこの物は、和名都波木桃(つばきもも)、俗に豆波以桃(とばいもも)と出ている。『十訓抄』に徳大寺左大臣が蔵人の高近に、大きな「つばいもも」の木を、内侍所に参らせたことがある。『大英類典』21巻に、尋常の桃が今日も油桃を生じ、甚だしい場合はひとつの桃の実で一部は普通の桃、一部は油桃になることもあるから、油桃は桃が変成したものに疑いないと出ている。大師の一件は法螺話だが、桃が油桃になったという俗伝は事実に違いはない。  
四国の食わず蛤は、蛤類の化石で、それにも同様の伝説がある。芋や蛤が石になっては人が困るが、桃が油桃になっても一向にかまわない。また四国札所五十二番とかの大師堂の後ろの山に苞毬にとげがない栗を生ずる。大師がこの山の栗を食おうとして、とげが多いのを憎み、咒したのだそうな。  
また四国にも、紀州日高郡龍神村、西牟婁郡近野村などにも三度栗がある。いずれも大師が食べてみて、素敵にうまかったので、年に3度なれと命じたとのこと。『紀伊続風土記』77巻に「西牟婁郡西垣内村に三度栗が多い。持山を年に1度宛焼く。焼いた林より出る新芽に実るのだ。8月の彼岸より10月末頃までに本中末と3度に熟す」とある。そうであれば名前ほど珍しくない。  
キリストも弘法流の心の狭い意地悪だったものか、ベツレヘム辺りで、ひよこ豆の形をした石が多い野がある。土地の人が言うには、キリストがここを通り、豆を蒔く男に何を蒔いているのかと問うと、石を蒔くのだと答えた。キリストは、汝は石を収穫するだろうと言った。果たして石の豆ばかり生じたと(バートン夫人の『西里亜巴列斯丁及聖地内情』1875年版巻2、178頁)。ピエロッチの『巴列斯丁風俗口碑記』(1864年)79頁には、キリストでなく聖母が豆を石に変じたとある。  
またカルメル山のエリアスの甜瓜(まくわうり)畑の言い伝えを記していうには、この予言者がこの地を通り、喉が渇いたので、瓜畑の番人にひとつ乞うたが、かの者は石であると言って与えなかった。エリアスは彼に向かい石と言った果実は石になるぞと言って去る。それより瓜が石となるというが、じつは石灰質で、甜瓜の形をした中空な饅頭石だと。  
また死海の近所にアブラハム池がある。その底に石灰質の決勝が満布する。伝えていうには、アブラハムがある日、ヘブロンよりここに来て、塩を求めたが、住民が塩はないと偽る。アブラハムは怒って、この後、この地よりヘブロンへの道はなくなり、塩もなくなるだろうと言うと果たしてそうなったと。  
大師が己れに情が厚かった者に、相応以上の返礼をした例は、上述の弘法井の他に、東牟婁郡四村、大字大瀬近所に寺があり、その辺りに蒔かずの蕎麦といって名高いのがある。昔、大師がここの家に食を乞うと、何もなかったが亭主は憐れみ深くて畑に蒔こうと貯めて置いた蕎麦をある限り施したので、大師は例の石になれの咒もならず、亭主に向かい、この蕎麦の殻を蒔けと命ずる。その通りすると、殻から蕎麦が生え大いに殖え、以来毎年蒔かずに生い茂るとは有り難い。  
予はその辺りを毎度通るが今だ寺近くに行かないから、実物を見ない。しかし大瀬から2里ばかり歩いて、西牟婁郡野中にかかる小広峠から西、数町の間は、畑地道傍所を選ばず、蕎麦に恰好で、人手を借りずに続生していくと見える。  
コラン・ド・ブランチーの『遺宝霊像評彙』(1821〜2)巻2の202頁に、メートル尊者は、4世紀に宗旨に殉じて殺されたが、葡萄を守護すると信じられる。あるとき、メートル尊者が土地の人の許可なしにそこの葡萄を食い、咎められて初めて気が付き、弁償のため、やたらにその土地の人の葡萄を殖や遺したからだと載っている。(以下略) 南方熊楠 
 
滋賀県
弘法杉 / 滋賀県湖南市吉永  
旧街道を見守り続けた、樹齢750年の巨木  
大沙川隧道の上に根を生やしているのが、樹高約26m、樹齢約750年、地元では「弘法杉」と呼ばれている大杉。その昔、弘法大師がここを通りかかった際に、この場所で食事をとり、その時使った杉箸を刺したところ、成長してこのような大杉になったという言い伝えからこの名がつけられました。過去には2本並んで立っていたことから二本杉ともいわれましたが、現在は1本だけが残りました。悠然と立つその姿は、街道を行く旅人たちを見守っているかのようです。 
摺針峠(すりはりとうげ) / 滋賀県彦根市  
(中山道・鳥居本宿場町) 摺針峠には、弘法大師にちなむ逸話が残されています。  
「道はなほ学ぶることの 難(かた)からむ 斧を針とせし人もこそあれ」  
その昔、まだ修行中の弘法大師がこの峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会います。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったの で、斧をこうして磨いて針にするといいます。そのとき、ハッと悟った大師は、自分の修行の未熟さを恥じ、修行に励んだと言います。  
その後、再びこの峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え、杉の若木を植え、この一首を詠んだと伝えます。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになりました。  
望湖堂  
峠の傍らにたたずむ望湖堂からは、往時は琵琶湖が一望できたようで、中山道随一の名勝と言われていました。かって、この茶屋の名物は、弘法大師が供えた 栃餅が受けつがれ、旅人たちにもてはやされていました。また江戸時代後期には「皇女和宮」が休憩されたというエピソードも残っています。   
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峠を越える、峠を引き返す。いずれにしても断固たる決意が必要な時代があった。  
摺針峠は、中山道、番場宿(米原市)と鳥居本宿(彦根市鳥居本町)の間にある峠だ。  
修行中の弘法大師(空海)がこの峠にさしかかった時、白髪の老婆が石で斧を磨いでいた。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧を磨いて針にするのだという。大師はその時、自分の修行の未熟さを恥じた。その後、再びこの峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え、杉の若木を植え、「道はなほ学ぶることの難からむ 斧を針とせし人もこそあれ」と一首を詠んだ。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになったという。  
江戸時代、峠から琵琶湖を望む風景は中山道随一といわれ、広重の絵には、峠の茶屋「望湖堂」、入り江内湖、その向こうに琵琶湖と対岸の山々が描かれている。望湖堂には参勤交代の大名や朝鮮通信使も立ち寄り、江戸時代後期には、皇女和宮降嫁の際にも休憩されたという。  
安永2年(1773)、釣鐘を四輪の大八車に載せ、江戸から摺針峠を越え鳥居本宿上品寺(じょうぼんじ)まで帰ってきた僧がいた。名を法海坊という。  
法海坊は、江州彦根在鳥居本宿上品寺第六世祐海の子で、了海が本名である。法海坊と称して全国を行脚し、多くの衆生を教化した名僧であった。江戸での高徳の名が近隣に聞こえ、吉原遊廓万字屋の花扇とその妹分の花里が、女身の罪業を嘆き、深く帰依し、仏果を得しめ給えと袖にすがると、法海坊は、百八煩悩の迷いをさます釣鐘を献ぜよと教化した。花扇・花里は、同じ苦界の遊女を勧化し、釣鐘鋳造の寄進を募った。 勧化とは仏の教えを説き、信心を勧めることをいう。  
江戸の町で釣鐘造立の勧進をして歩く法海坊の姿はよほど印象的だったのだろう、法海坊は「破戒僧法界坊」として『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)』という歌舞伎のモデルになった。天明4年(1784)の初演で主役法界坊の悪と滑稽さが喜ばれ人気を博したという。  
明和6年(1769)に釣鐘はできあがるが、花里はその釣鐘を見ることなく病で亡くなっており、釣鐘造立の初志は花扇が貫いた。中山道を下る時、花扇は、花里のために彼女がいつも着ていた花魁の打掛を鐘に着せたという。  
花魁の打ち掛けを着せられた釣鐘が摺針峠を越える。哀しくも美しい……。法海坊は、花里の心を汲んで、その打掛を袈裟に仕立てかえ、鐘の供養法要に着用した。そして、釣鐘に刻まれた吉原の遊女百八人の名は、法界坊自らがたがねをとって数ヶ月にわたって彫刻したものであるという。法海坊は文政12年(1829)正月、82歳で入寂。上品寺には、鐘を載せて曳いてきた大八車の他、錫杖など数々の品が遺されている。  
法海坊の釣鐘は、第二次世界大戦の供出を免れ、今も鳥居本の上品寺にあり、法海・花扇・花里の名を見つけることができる。
大根洗いの泉 / 滋賀県東近江市清水町  
滋賀県東近江市清水町にある清水神社の裏には、以前は清水川に注ぐ湧水が出ていた。今では水が湧かなくなってしまい、人口の川になっているが、この湧水は夏には手が切れるように冷たく、冬には温泉のように暖かかった。  
昔、初冬の頃、瑞々しい大きな大根を漬物にしようと、老婆が清水川で洗っていた。老婆の側には大根が山のように積まれてあった。そこへ一人の旅の僧が通り掛った。その容姿は、草鞋の緒も擦り切れそうで、黒染めの衣もボロボロであった。僧は「大根を一本くれないか」と、老婆に頼んだ。老婆は僧のみすぼらしい姿を見て、「この大根は不味くて、食べられない」と断った。「では、何故食べられない大根を洗っているのですか?」と言って、僧は立ち去った。再び、老婆が大根を洗おうとすると、湧水はピタッと止まり、川はみるみる干上がってしまった。  
慌てて、老婆は大根を1本持って、僧の後を追った。そして、「どうぞ、貰ってください」と、僧に大根を差し出した。「今後、困っている人には善行しなさい」と、僧は老婆を諭したのであった。旅の僧は弘法大師だった。  
一年後のこと、老婆が清水川で大根を洗っていた。すると、背後からみすぼらしい身形の女が現れた。「3日前から何も食べていません。大根を1本頂けませんか?」と、女老婆に頼んだ。「この大根は不味くて、食べられない」と断り、老婆はプイッと横を向いた。女は何も言わずに、その場をそっと立ち去った。再び、老婆が大根を洗おうとすると、また湧水はピタッと止まり、川はみるみる干上がってしまった。ビックリした老婆は、昨年、弘法さまに諭されたことを思い 出した。「とんでもないことをしてしまった」と、大根を1本持って、女の後を追ったが、女の姿はその辺りには見当たらなかった。  
その晩のこと、老婆の夢枕に弘法さまが現れ、「困っている人には善行しなさいと教えたはずです。二度と、このことを忘れないように、大根を洗う時期には湧水を止めることにします」と告げた。それ以後、初冬の頃になると、湧水はピタッと止まり、清水川の水が枯れるようになったという。 
弘法の井戸 / 滋賀県甲賀市  
多羅尾からおとぎ峠へのぼる道ばたに、「弘法の井戸」とよばれていろ井戸があります。むかし、弘法大師というえらいお坊さんが峠のあたりに立派な寺を建てようと村のあちこちを歩いておられました。お坊さんは、とてものどがかわいたので水が飲みたくなりました。  
ところが、このころずっとつづいた日でりで水がありませんでした。  
どこの家へたのんでも水を飲ませてくれません。しかたなくお坊さんは、おとぎ峠へにさしかかる道ばたに大きな岩をひっくりかえして穴をほりました。  
すると、穴からこんこんと水がわき出てくるではありませんか。お坊さんはやっとのことで水を飲み、からからにかわいたのどをうるおすことができました。  
お坊さんはだれでもいつでも飲みたい時に水が飲めるように、石をきずいて井戸を作りました。この井戸は、長い日でりがつづいて村じゅうの水がなくなっても、いつもこんこんと水がわき出てかれることはありませんでした。村の人や村の人たちから、「弘法さんの井戸」と名づけられて、峠を通る人たちののどをうるおし、かんしゃされたということです。
 
京都府
弘法大師の霊泉 / 京都府綴喜郡宇治田原町高尾  
こんなお話が伝わっています。  
その昔、高尾(こうの)のある農家に立ち寄り水を所望した僧がありました。  
留守番の老婆は快く返事をしましたが、なかなか水を運んで来てくれませんので、旅僧は縁側でうとうとと寝てしまいました。  
老婆はずいぶんたってから水を運んで勧めましたが、僧は老婆に「この村の水場はどこですか」と尋ねたので、老婆は「この下の田原川で汲んできますのじゃ。  
ご覧の通り高い所で、井戸が無く谷川も無いので。」と言うと、僧は老婆の親切に深く感激し「ありがとう、ありがとう」と言いながら水を飲みました。  
そして旅僧は弘法大師で村人に水の出るところを教えたと云われる井戸。  
実際に現地に行ってみると判りますが、こんな山の高い場所なのに湧水が出ることが不思議です。  
この水源は村の人にとっては非常に大切な命を繋ぐ井戸だったのが良く判ります。  
村の人たちは弘法大師の霊泉として守っています。  
今も、たえずこんこんと冷たい清水が湧き出ており、地域の人々の大切な場所です。 
九条ねぎの歴史  
九条葱の歴史は様々な諸説がありますが「葱」はユリ科の植物で、中国西部地域が原産地と言われております。  
紀元前より中国で栽培されていた原種が朝鮮半島を経て渡来し、古くは「日本書紀」にその記述が見られます。そして浪速(大阪)から平安建都以前の和銅四年(711)、稲荷神社が建立されたときに京都で栽培が始まったという口伝えがあり、平安前期の「続・日本後紀」には九条村(現・京都市南区九条)で「水葱」を栽培したと記録があり、また、伝承によると、弘法大師(空海)が昔、東寺(教王護国寺)の近くで大蛇に追われて逃げ場を失い、葱畑に隠れて難を逃れたことがあり東寺の五重塔の上には、葱坊主(葱の花のつぼみ)がつけられたとも言われています。  
また、平安時代から京の主要野菜であったらしく、延喜式(927)にも栽培法が記され、江戸時代の雍州府誌(1684)には、東寺の付近から東南の地域一帯の葱の品質が良いと書かれております。  
平安京の郊外(碁盤の目の外)の洛南一帯は低湿地で養分豊かな土壌が条件に適した上に、熱心な農家によって作りこまれ、改良されたことから「九条葱」の名が生まれたとされています。明治時代に入り、牛肉の普及が進むにつれ栽培も一層盛んになり、京都の産業の発展も重なったことで、産地は南に、そして徐々に郊外にすすみ、今日、京都府下で作られています。  
冬の気候が比較的温暖な関西では、霜に浴びながら柔らかい緑葉が育ち、甘味を増す九条系品種があり、これを大きく分けると葉葱(青葱)と根深葱(白葱)とに分けられます。  
京都では、普通葱と言えば、葉葱の代表の九条葱を指し、根深葱を関東葱と呼びます。 
 
大阪府
弘法大師空海の惣井戸伝説 / 大阪府松原市・高見の里3丁目  
高見村の信田喜右衛門が清水の湧く井戸を掘る  
今年は弘法大師空海が延暦23年(804)に中国・唐へ修行に渡って1200年になります。これを記念して、空海が開いた高野山真言宗総本山の金剛峰寺(和歌山県)は展覧会を開いたり、高野山をユネスコの世界遺産に登録するための運動を行ったりしています。  
現在、多くの人々が空海ゆかりの四国八十八カ所を巡るなど、大師信仰は現代人の心をやすらげる原点となっているかもしれません。  
この大師信仰から、各地には空海と結びついた数々の伝承が残っています。本市にも、高野街道が南北に通っていることもあり、空海の惣井戸伝説が伝えられているのです。  
高見の里3丁目の高見神社の南、住宅地の一角に井戸が残されています。地表の井桁は整形された花崗岩で、凸状につくられた4枚を上下交互に組み合わせています。北面と東面に「天保8年9月 高見村惣井戸十三忌志 釈浄恵 施主信田喜右衛門」と刻まれています。江戸時代後期の天保8年(1837)、高見村の信田氏が村人の共同井戸としてつくったことがわかります。  
地表下の井筒は、もともとは円形に瓦で囲っていましたが、いまではコンクリートで補修されています。地面も石敷で丁寧に覆われ、飲み水や炊事などの利用と共に、村人の寄りあいの空間でもあったでしょう。  
もっとも、いつのころからか高見村の人々はこの井戸は天保年間に掘られたのではなく、遠く平安時代初期に空海がつくったと伝えるようになりました。  
各地に足跡を残す空海が高見村にも来たというのです。この時、空海はのどがかわいたので何軒かの家に入り、飲み水を所望しました。しかし、家人たちは身なりの貧しい僧侶の姿を見て断りました。しかたなく、空海は畑の中にあった井戸を探しだしましたが、ひどい悪水でした。ところが、空海がその井戸水を飲むと甘露な清水に変わったといいます。これが伝説の惣井戸です。反対に、水を飲ませなかった農家の井戸は赤茶色のかなけ水になってしまいました。  
また、別の伝承によると高見村は水の便が悪く、飲み水に困っていました。空海はこれを哀れみ、携えた錫杖で地面をついたところ、清水が湧き出したともいわれています。  
弘法井・弘法清水説話は、空海伝承の中でもポピュラーなものです。荒唐無稽なものが多いのですが、空海の多彩な社会事業が裏づけとなって伝承化されたものでしょう。  
惣井戸を寄進した信田喜右衛門の旧宅は、いまの高見の里3丁目の高見会館のところにありました。また、喜右衛門の墓は一族の墓石とともに、西除川沿いの高見墓地に祀られています。 
小蛇 / 岸和田市  
正直者の男が、取石池から現れた男に、久米田池の女に手紙を渡してくれるように頼まれた。それは男を呑めという手紙だったが、弘法大師が手紙を書き換えてくれた。男は池から現れた女に歓迎され、竜宮に連れて行ってもらい、3日過ごした。女は土産に酢が湧き出る酢壷をくれた。家に帰ってみると、3年が過ぎていた。 
悪龍 / 富田林市  
推古天皇2年、蘇我馬子らが神呪を誦して悪龍を封じた。ところが、悪龍の執念は深く、その後も度々旱天をもたらしては人々を困らせた。弘法大師がこの地を踏んだ際、龍王を祀ったため悪龍も感じ入り、地下から清水が湧き出して周辺の土地は元通り潤った。 
 
兵庫県
弘法大師の水 / 兵庫県篠山市  
弘法大師の水衣は破れ、ひげは伸び放題という見るからに、みすぼらしいお坊さんです。  
「ああ、今日もよいお天気じゃ。こんなに日和続きじゃお百姓が困るわい。」と、つぶやきながらよぼよぼと歩いていきました。よほど疲れていると見えて、大きなけやきの木陰に腰を下ろし、「ああ、のどがかわいた、おばあさんや、まことにすまんが水を一杯くださらないかな。」  
見ると、あまりにもみすぼらしいお坊さんなので  
「水かいな、わしの家で使うだけで精いっぱいやでお前さんなんかにやる水はこれっぽっちもないわ。」  
すげなくことわられて、お坊さんは仕方なく味間南を指して歩いていきました。村の入り口でせっせと草を刈っていたおじいさんに、  
「すまんが、水を一杯だけくださらんかな。」  
「はいはい、おやすいことで。」  
お坊さんはくみたての水を飲み干しました。  
「ああ、おいしい水じゃ、これで生き返った。どうもありがとう。」  
何回も何回もお礼を言いながら山すその草むらに行って持っていた杖を突きさして、  
「ここは、きれいな水のわくとこじゃ。掘ってみなさるがよい。」  
と、言い残して、どこともなく立ち去っていきました。村人たちは教えられた通り、掘ってみると、きれいな水がわき出てきました。それが、弘法大師だったとは、誰も気がつきませんでした。  
今でも、そこには、きれいな水がわき出ているそうです。
石井の清水・弘法大師の井戸 / 兵庫県加古川市西神吉町  
石井の清水は、弘法大師が杖でつついたら突然きれいな水が湧いてきたといわれる清水で、弘法大師の井戸とも呼ばれています。石井の清水の名称は、方3尺許の石の井戸枠に直径1尺2寸の井筒が置いてあることから由来していると伝えられており、7世紀ころの創建とされる中西廃寺の露盤と同筒状の刹(土)が使われているといわれています。
独鈷の滝 (どっこのたき) / 兵庫県丹波市氷上町  
弘法大師伝説の残る、岩山と四季の景観が美しい渓谷。落差約18mの滝で、傍らの大きな洞窟には不動明王が祀られています。滝の名前は、岩龍寺を開基した弘法大師が、独鈷を投げ、突き刺さった場所からこの滝が湧き出たという伝説に由来(独鈷を投げて大蛇を倒したという説もあります)。断層崖が連なる一帯の渓谷は氷上町の文化財に指定され、シダ・コケ類の珍しい植生やサワガニなどの姿を見ることができます。また、寛永上覧試合に出場した浅山一伝はこの地で修行を積み、一伝流不動剣を編み出しました。香良口バス停の上手の『浅山一伝流兵法根元地』と刻まれた石碑が、剣豪の偉業を現在に伝えています。
弘法の井戸 / 神戸市須磨区妙法寺字谷野  
妙法寺谷野にある、弘法の井戸です。夏のある暑い日、妙法寺村に立ち寄られた弘法大師が、村人に水を所望しましたが、妙法寺村には湧き水の出るようなところがなく、飲み水に困っていました。その話を聞いた弘法大師はたいへん心を痛めて、手にした杖でトントンと大地をついたところ、きれいな水が湧き出てきたと言われています。  
弘法の井戸の伝説は各地に点在していますが、この井戸は、現在も土地の人々から大切にされています。
鯖大師 / 神戸市須磨区須磨寺町 須磨寺内  
一ノ谷町2丁目にあった貞照寺の本尊、弘法大師木像は右手に鯖を一尾さげているので俗に鯖大師の名で呼ばれています。修行途上の弘法大師が、塩鯖を運んでいた馬子にそれを一尾所望しましたが、馬子が断ったところ、急に馬が腹痛を起こしました。大師がお加持して水を飲ませるとたちどころに治ったので、馬子は深く感謝し、その後庵を建て、鯖を持った弘法大師を祀ったという伝説があります。 
渇き水 / 兵庫県  
淡路島で村人が空海に水を与えなかったので水が涸れた。
兵庫伝説紀行  
空海と弘法伝説  
空海(くうかい)は、平安時代の僧である。唐(とう)へ留学した後、京都の高尾山寺(たかおさんじ)へ入って真言宗を広めるとともに、高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を建設。さらには東寺(とうじ)を下賜されて、真言宗の根本道場としている。835年に62歳で死去し、921年に醍醐天皇(だいごてんのう)から「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号(しごう)が贈られた。  
空海は、単なる「唐へ留学したインテリ」だったわけではない。香川県にある日本最大の農業用ため池、満濃池(まんのういけ)を改修する際には、その責任者として当時の最新技術を駆使した工事を成功させていることを見ても、彼が唐で学んだことの幅広さがわかる。そういう活躍が、いつの間にか人々の間で、伝説を産む元になったのだろうか。  
伝説の中には、「空海」という名は出てこない。出てくるのはすべて弘法大師である。死後90年近く経って贈られた名の方が、生前の名よりもはるかに広く語られ、人々の間に定着したのは、どうしてなのだろう。弘法伝説を読むたびに、疑問が浮かぶ。もしかすると民衆にとっては、生きた人としての空海よりも、霊としての弘法大師こそ、信じ求めるものだったのだろうか。  
すりこぎかくしの世界  
但馬(たじま)は雪深い土地である。一晩に何十cmも積もることも、珍しくはない。雪深い土地であればなおのこと、暮らしには厳しいものがあっただろう。「すりこぎかくし」は、そんな世界に住む貧しい、生まじめな老女の小さな悪事―自分ではなく他人のために働いた行為―を、弘法大師がそっと隠してやるという物語である。お大師様は、貧しくてもまじめな者の味方をしてくれる。そんな素朴な思いが込められた物語なのだ。  
但馬には、豊岡市(とよおかし)の東楽寺(とうらくじ)、養父市(やぶし)の日光院(にっこういん)、養父市別宮(べっくう)の大カツラなど、空海にゆかりの場所がいくつかある。しかし伝説が伝わる新温泉町(しんおんせんちょう)内では、「空海開基」の寺をみつけることができなかった。ここでは空海は、文字通り伝説上の「弘法大師」として生きているのだろうか。古いお寺をめぐって、そんなことを考えた。   
相応峰寺  
相応峰寺(そうおうぶじ)は、岸田川(きしだがわ)が日本海に注ぐ河口のすぐ東、浜坂町清富(はまさかちょうきよどめ)の観音山(かんのんざん)にある天台宗の寺である。岸田川に沿った心地よい道を海へとたどり、河口の手前で川を東へ渡ると、左手に見える小高い山が観音山。そのすそに、寺の里坊が見える。  
この寺は、奈良時代に行基(ぎょうき)が開いたとされる。弘法大師と同じように民衆に慕われ、菩薩(ぼさつ)と呼ばれた行基は、但馬でも同じように人々を救ったのだろう。坊のわきには、眼病や流行病に効くという金水・銀水がわく。  
里坊のわきから、山道を登る。道に沿って石仏が並び、登る人を頂上へと導いてくれる。息を切らせながら20分も登ったろうか。ようやく鐘楼の姿が見え、その奥に本堂の円通殿がある。高い杉木立に囲まれた、静かな場所だ。  
本堂の裏手からさらに登ると、観音山の山頂である。芝生広場になっている山頂からは、日本海の雄大な景色が180度広がる。はるかに下の岩場に砕ける波頭が見えるが、波音は聞こえない。遠くかすむ海にしばし見とれて、足の疲れも忘れてしまった。  
山頂のすぐ下には、高いポールが立つ。毎年ここに大きな鯉のぼりが泳ぐそうなので、いつか是非見てみたいと思う。  
正福寺  
湯村温泉のまん中にあるのが、平安時代前期、湯村温泉(ゆむらおんせん)を発見した慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が開いた正福寺(しょうふくじ)である。国道9号線から離れて春来川(はるきがわ)を渡り、川に沿った細い道を温泉の中心街へ向かうと、その途中に本堂への長い階段があった。  
日の出直前の時間だというのに、もうゆかた姿の人が道を歩き、足湯に浸っている人もいる。川沿いに上がる湯気が、いかにも温泉場らしい。  
階段の上に、堂々とした門がそびえる。本尊は県の文化財に指定されている、平安時代後期の木造不動明王像で、この像は21年ごとに開帳される秘仏である。前回の公開は2004年だったそうだから、次は2025年になるのだろうか。  
秘仏は滅多に見ることはかなわないが、境内のまん中にある桜は、毎年花を見せてくれる。この木は、ヤマザクラとキンキマメザクラが自然交雑して生まれたもので、植物学者牧野富太郎(まきのとみたろう)によって発見、命名されたという歴史をもつ。現在のところ兵庫県固有のもののようで、正福寺桜の名で親しまれ、町の天然記念物にも指定されている。  
独鈷の滝と岩瀧寺  
丹波にも弘法大師の伝説がある。その地のひとつ、氷上町(ひかみちょう)の香良(こうら)を訪ねた。加古川(かこがわ)が佐治川(さじがわ)と名を変える上流部である。  
丹波山地の広い谷筋にできあがった、緩やかな斜面に沿って香良の村がある。伝説が伝わる独鈷の滝は、その谷奥、山腹に露頭した荒々しい岩盤を流れ落ちている。道が山すそにかかると周囲は一気に森へと変わり、車から降りると、湿気を含んだ空気が体を包む。独特の、森の香気を含んだ空気である。  
そこから山道を詰めてゆくと、間もなく高く切り立つ岩盤が目に入る。ところが激しい水音は聞こえているのに、滝は見えない。不思議に思いながら滝壺の前まで小径を行くと、ようやく、岩の壁の裏側を、えぐるように流れ落ちる滝を目にすることができた。  
高くはないけれど、美しい滝だ。流れ落ちる水は、上の方では日の光を浴び、淡い木陰へと落ちてゆく。滝壺の手前にはモミジの木が何本か伸びていて、紅葉の時は、きっと素晴らしいコントラストを見せてくれるに違いない。人を呑むほどの大蛇がいたにしてはつつましい滝壺からは、清らかな水が流れ出していた。  
滝のすぐ下手には、岩瀧寺(がんりゅうじ)がある。  
岩瀧寺は、平安時代の初め頃、嵯峨天皇(さがてんのう)が空海に命じて建立した寺だと伝えられている。弘仁年間(809〜823)のことだというから、空海が40代のころだろうか。七堂伽藍(しちどうがらん)を備えた大寺だったというが、戦国時代の兵火によって焼失して、かつての伽藍は残っていない。現在の堂は、近世に再建されたものとのことである。  
小さいながら風格がある門や、檜皮葺(ひわだぶ)きの本堂が、背後の山や高い木々と相まって、落ち着いた、しかし明るい雰囲気を作っている。滝から境内は紅葉の名所とのことだし、寺の案内にある雪景色は、山水画のような美しさであるが、まだ見る機会がない。  
こんな美しい場所に、どうして恐ろしい大蛇の伝説ができ、それが弘法大師と結びついたのだろうか。あるいはそれは、時に人知が及ばないほど猛り狂う水を治めたいという願いが生んだ伝説なのだろうか。  
水分かれ  
氷上には、もうひとつ水に関わる大切な場所がある。それが水分かれである。加古川は、氷上町に入ると佐治川と名を変え、ちょうどそこで一本の支流が分岐し、東へと向かう。これが高谷川(たかたにがわ)である。高谷川は、まもなく氷上町石生(いそう)の谷ふところへと入ってゆくが、この谷へはもう一本の川―黒井川(くろいがわ)―も源をもっている。  
黒井川は高谷川とは反対に、谷を下ると東へ流れ、由良川上流部の竹田川に合流する。つまりこの谷から流れ出た水は、加古川と由良川(ゆらがわ)、瀬戸内海と日本海に流れる二つの川へと注ぐのである。本州の中で最も低高度の中央分水界であるこの地は、古くから「水分かれ(みわかれ)」と呼ばれた。  
水分かれの重要性は、単に「最も低い分水界」という地形学的なものだけではない。瀬戸内側から日本海側へと抜けようとすると、兵庫県の場合必ず中国山地の峠を越えなくてはならないが、水分かれの谷を経由して加古川から由良川へ抜ける道は、峠越えの必要がないのである。そのため古代から、このルートを通って人と物の交流がおこなわれていたと考えられているのだ。  
最近水分かれのあたりは、ずいぶんきれいに整備されて公園となっている。川もコンクリートや石垣で固められて、日本海と瀬戸内海への分岐部分も人工的な流路になってしまった。周辺の桜並木は美しいだろうけれど、これではホタルも住めないだろうと少し残念である。 
 
中国

 

岡山県
三度栗 / 岡山県・勝山町  
むかしむかし・・・この村で小さな子供が食べるものがなくて、お腹を空かして泣いていました。  
そこへ弘法大師が通りかかりました。弘法大師は子供のために湧き水をこしらえてあげました。  
その小さな子供のまま親が、食べるものがなくても子供が痩せもしないし、元気なので不思議におもいました。  
子供の飲んでいる水を飲んでみるとそれはとても美味しいお酒でした。  
まま親はその泉で足を洗ってしまいました。それ以来おいしいお酒はわいてこなくなりました。  
それから数年が経ち再び弘法大師がこの地に立ち寄りました。泉がかれてしまった事情をお大師さまは知り、子供がお腹を空かさないように今度は年に三回実をつける栗を土地に残し、去っていきました。  
現在でもこの地には5月・7月・9月に三回イガをだす不思議な芝栗があるといわれています。 
腰掛け石 / 岡山県  
空海が座って休み、その重さでへこんだ跡が残る岩。
 
広島県
さば大師 / 広島県因島  
暑い夏の日、魚をかついだ魚屋が威勢よく通りを歩いていた。  
オケの中は新鮮なサバがいっぱい。  
さあ稼ぎまくるぞ、と魚屋は張り切っていた。  
と、ボロボロの袈裟をきたみすぼらしく汚い僧が寄ってきて、「もう何日も食べていません。どうか魚を一匹、分けてくださらぬか」と、かぼそい声で頼みこむ。  
魚屋は顔をしかめると、「この魚は全部腐っていて食べられないよ」とウソをつき、何も分けてやらずに走り去った。  
ところが市場でオケのフタを開けてみると、何と、サバは本当に全て腐って、ウジがわいていた。  
「しまった。あれはえらいお坊さまだったに違いない」  
おびえた魚屋は謝ろうと引き返したが、もうどこにも僧の姿はなかった。  
このお坊さまは、かの弘法大師さまだったと言われている。
弘法大師と豆  
山のふもとでね、百姓の女房が、家の前で豆を煮ていたんだね。そしたら、山から修験者が下りてきて、「実は、この山で、飲まず食わずの行をしていたんじゃが、見ればおいしそうな匂いがする。その豆を一皿功徳してくれないか」って、たのんだんだね。ところが、女房は豆をあげるのが惜しいんだね。  
「せっかく来られたんだが、この豆は人間の食べるものじゃない。実は、これ馬が食べる豆なんじゃ。馬に喰わすために炊きよるんだから、あんたにゃあげられんよ」と、こう言うて、にべもなく断ったんだねぇ。すると修験者は、「では、しかたがない」と、とぼとぼ立ち去った。そこへその亭主が戻ってきて、「ああ、野良仕事をしてお腹がすいた。おお、おいしそうな豆だ。食べさしてくれぇ」と言って、パクパクその豆を食べたんだね。  
すると、その亭主は馬になっちゃったんだねぇ。女房がびっくりして、これは今の修験者の祟りだ。これだけの霊験をあらわすのは、あれは、弘法大師様だ、と女房が悟って、今からでも行ってお詫びして来う、追っかけよう、っていうんで、もう何もかも放ったらがしておいて走って行ったら、お腹の空いた弘法大師がボソボソと歩きよる。で、前へ回って、もう平身低頭して謝って、  
「悪うございました」 ってお詫びしたらね、  
「ああ悪いと思えばそれでいい。豆はあんたのもの。豆を欲しがったのはわしの方だから、それでいいんだよ」と言って、スタスタとね、笑って何とも気にかけないで行こうとするのを、  
「待ってください、お大師様。そのように大らかに許して下さるのならば、どうぞもう一度戻ってください。こんどは私が心ゆくばかりのおとき(お食事)を差し上げますから」と女房が引き止めたら、「そのようにしてくれるなら、わしもお腹が空いてるんだから・・・」  
って言って、ついて帰って、それでまぁ丁重におとき(お食事)を揃えて差し上げてね、  
「ああ満足した。おかげで満腹したから、このお礼に、亭主殿を馬にしてしもうたが悪かった。もとのとおり戻してあげよう」っていうんでね、それでその馬の頭をこう手でなでながらね、何か呪文かお経を誦みはじめたんだそうですよ。  
すると、だんだんその長い馬の顔が人間の顔に、もとの亭主の顔になるんだそうです。それから今度は、首の方をまたお経を誦みながらなでるとね、その長い馬の首も短くなって人間の首になって、それから肩も弘法大師がなでてお経を誦むと、自然に人間の肩になり、手になり、すっかり胸から腹から・・・・なでるほど人間のもとの亭主の姿に戻ってきて、おヘソの下くらいまでなでていったら、そうしたら女房が  
「お大師様、待ってくだされ。そこから下はそのままでようございます」 
弘法大師のクリ / 甲山  
今高野山は弘法大師が開基したといわれるがその昔、弘法大師が諸国遍歴の際、この地に来て、隣の久井町との境にある宇根山で7日7夜道に迷ったそうな。  
やっと山を出た時、道のそばで子供がクリを取っているのを見つけ、「1つそのクリを私にもらえんかね」と言われたそうな。子供たちは快くクリを差し上げたところ、大師はたいそう喜ばれ、お礼に「手の届く背の低い木にクリの実を実らせてあげよう」と告げ、立ち去ったそうな。  
その後、近くの山では毎年2尺(60cm)くらいの高さのクリの木にシバグリが実るようになったげな。クリで飢えをしのいだ大師は山を下りた時に「今は楽なり」と言われ、山のふもとには「京楽」という地名が今も残っておるんじゃ。  
 
鳥取県
 
島根県
 
山口県
滑と弘法大師(なめらとこうぼうだいし) / 山口市徳地  
平安時代の初め(今から約1200年前)頃、四国・讃岐(さぬき 今の香川県)の生まれである弘法大師が、諸国へ教えを説いて歩かれたことは名高く、いろいろな地方に伝説として残っています。  
ある時の秋、弘法大師は、柚木(ゆのき 山口市徳地)地区の巣垣(すがき)というところから山越えで八坂(やさか)に出られました。  
巣垣の方から険しい山道を歩かれた大師は、とある谷川にたどりつかれました。  
あたりは、紅葉した木々がせせらぎの冷たい流れに影を落とし、木陰からもれる日の光が、優しくからだを包んでくれました。  
この美しさにほっとして腰を下ろした大師は、ふと、足元の流れの中に、赤い色をしたとても滑らかな石を見つけられました。  
「おお、なんとも良い滑らかさじゃ。これからは、このあたりを滑(なめら)と呼ぶとよかろう。」と言われました。  
大師は腰を上げ、足を進められました。  
しばらく行くと、入り口も出口もわかりにくいようなところに行きつきました。  
「ここは身を隠すのに都合のよいところじゃ。出口も入り口もないないようなところだから、ここを口無(くちなし)と呼ぼう。」と言われました。  
また歩いて行かれました。  
すると、秋の午後の陽射しを受けて、柿の実が三つ、美しい色に照り映えていました。  
「ああ、見事じゃ。きれいな柿じゃ。それも三つなっている。ここは三成(みつなりじゃ。」と名づけられました。  
大師は疲れた足をさらに進められましたが、つるべ落としといわれる秋の日は短く、山は特に早く日が落ちて足元もおぼつかなくありました。  
すっかり日が落ちてしまった時、「ここを日暮(ひぐれ)と呼ぼう。」と言われました。  
ほどなく、広い広い野原にさしかかりました。  
その時、「これより広い山の上はあるまい。ここを山の上と呼ぼう。」と言われました。  
その広い野原を通り抜けてまもなく、山のかなたから、明るいお月様が登って来ました。  
ちょうど、満月の宵だったのでしょうか。そのお月様は、「手を伸ばせば届きそうなほど大きなお月様でした。  
「まことに見事。このように素晴らしい月が登る地は、ここをおいて他にはなかろう。ここを大月(おおつき)と名づけよう。」と言われました。  
こうして大師がつけられた地名は、今もそのまま残っています。 
孫が栗 / 山口県  
孫のために栗を採ろうとして苦労する老婆を見て村一帯に栗の実を沢山生らせた。
 
四国

 

愛媛県
七不思議 / 松山市  
松山の七不思議。松山城の内堀に住む蛙は鳴かない。8月の末になると長曾我部元親に敗れた伊予勢の怨霊が打つ陣太鼓の音がする。紫井戸という水が紫色の水溜りがある。里人が片身を焼いた鮒を弘法大師が放して蘇生させた。そのため片目である。弘法大師が芋を石に変えた。龍隠寺境内の木立で霧のような水気が降る。8月に討死した霊が怪火となって出る。 
十夜ヶ橋の縁起 / 大洲市東大洲  
今を去ること一千二百有余年の昔、弘法大師は衆生済度大願のため四国の各地を行脚し給い、当大洲地方をも御巡錫になりました。そして当時、宿も民家も近辺には無く、ご修行中の身であったため、橋の下で一晩お休みになられました。その時お大師様は詩を詠まれました。  
それは『行き悩む浮世の人を渡さずば、一夜も十夜の橋とおもほゆ』という詩でありました。この歌の意味は『行き悩む浮世の人』というのは、日々の生活を過ごすので精一杯で、自分のことを考える時間も無く、悟りを得ることもできず、まよい悩みの世界にいる我われのことです。『渡さずば』悟りの世界にいけるようにするには、日々充実した生活を、心安らかな生活を送ってもらうためには、どうしたら良いのだろうか。どのような方法があるのだろうか。という意味であり、『一夜も十夜の橋とおもほゆ』とは、この事(衆生済度)を考えていると、一晩が十日ほども長く感じたと詠まれたのです。  
お大師様は人々が充実し明るい気持ちで生きていくにはどうしたらよいかと考えていたら、長い長い夜であったと歌を詠まれたわけです。それより十夜ヶ橋という名が起こったと伝えられています。  
大洲の人はこの詩を通じて、自分たちのことを考えていて下さったお大師様に感謝して、橋の下に横になって休まれているお大師様をお祭りし、今に到っているのです。  
お遍路さんが橋の上を通る時、杖をつかないという風習はお大師様を「上から杖でつかない、杖の音で起こさない」という思いから起こったものです。 
弘法大師と衛門三郎 / 愛媛県松山市・文殊院徳盛寺  
昔、弘法大師が巡錫の折、伊予の国上浮穴郡荏原(現在の愛媛県松山市恵原町へ立ち寄られた時、1人の童子が弘法大師の前に現れ、  
「ここに罪深い人が住んでおります。改心させて来世の鑑(先達)にしてはいかがですか」と告げると何処となく去って行きました。  
すると豪雨になり、弘法大師は徳盛寺に宿を請われました。  
弘法大師が本堂でお経を唱えておりますと、文殊菩薩さまが現れました。  
先程の童子は文殊菩薩さまの化身で、私を導き教えを下さったと弘法大師は悟られました。  
その後、徳盛寺を文殊院と呼ぶようになりました。  
この村には、衛門三郎という強欲な長者が住んでおりました。  
弘法大師は、衛門三郎の門前で托鉢の修行を、数回、7日間行いましたが欲深い衛門三郎は、追い帰しました。  
そしてある時、衛門三郎が竹箒で弘法大師をたたくと、弘法大師が手に持っていました鉄鉢に当たって八つに割れてしまいました。  
すると、八つの欠片は光明を放ちながら南の空に飛んでいき、南の山々の中腹から雲が湧き出てきました。  
弘法大師は不思議に思い、山に登ってみますと、八つの窪みが出来ておりました。  
三鈷でご祈念すると、1番目の窪みからは風が吹き、2番目、3番目のくぼみから水が湧き出て来ました。  
この水は八降山八窪弘法大師御加持水として涸れることなく、いまも文珠院の山中に湧いています。  
衛門三郎には、男の子5人と女の子3人おりましたが、弘法大師をたたいた翌日、長男が熱を出して病気になり、亡くなってしまいました。  
その後も、八日の間に8人の子供達が次々と亡くなってしまいました。  
衛門三郎は毎日毎日泣き暮らしておりました。  
弘法大師は罪の無い子供達を不憫に思い、山の麓に行き手に持っております錫杖で土を跳ねますと、その夜、土が大空高く飛んで行き、お墓の上に積み重なっていきました。(このお墓が八塚と呼ばれ、今も文殊院の境外地に松山市の文化財に指定され残っています。)  
そして、衛門三郎8人の子供菩提供養の為に、延命子育地蔵菩薩さまと自分の姿を刻み供養をしました。  
又、法華経一字一石を写され、5番目の子供の塚に埋め、子供の供養を行なって文殊院を後に旅立ちました。  
旅の僧を弘法大師と知り、前非を悔いた衛門三郎は子供のお位牌の前で、奥さんに、「お大師さまに会って罪を許していただくまでは家には帰って来ません」と別れの水盃をいたしました。  
白衣に身を包み、手には手っ甲、足には脚絆、頭には魔除けの笠をかぶり、右の手に金剛杖を持って我が家を後に旅立ちました。  
この姿が、お遍路さんの姿の始まりといわれています。  
衛門三郎は、文殊院に弘法大師を訪ねましたが、旅立ったあとでした。  
紙に自分の住所、氏名、年月日を書き、弘法大師がこの札を見ると衛門三郎がお参りした事がわかりますようにと、お札をお堂に張りました。  
(このお札を「せば札」といい、現在のお納札のもとといわれています)  
やがて、8年の歳月がたちました。  
その間、衛門三郎は四国寺院を20回巡りましたが、弘法大師には巡り会えませんでした。  
832年(閏年)、徳島の切幡寺から逆に巡るとお大師さまに会えると思い逆回り(逆打)を始めました。しかし、阿波の国(徳島県)の焼山寺の麓へ差し掛かると足腰立たず、衛門三郎は倒れてしまいました。  
すると、死を目前にした衛門三郎の前に弘法大師が姿を現し、「よくここまで歩んで来ましたね、今までの罪はもう無くなっています。しかし、貴殿の生命はもう尽きようとしています。何か願い事が有るならば1つだけ、叶えてあげましょう」と言われました。  
衛門三郎は「できる事でしたら、故郷伊予の国主河野さまの嫡男に生まれ変わらして下さい」とたのみました。  
弘法大師が、小石に「衛門三郎再来」と書き手に握らせますと、衛門三郎は亡くなりました。  
弘法大師は、衛門三郎が持っていました金剛杖をお墓の上に逆に立て供養しました。  
後に、この杖から芽が出てきて大きな杉の木になりました。  
(現在杖杉庵に2代目の杉の木が生えています)  
また弘法大師は、文殊院に衛門三郎のお位牌を持って来られ、子供のお位牌と一緒に本堂で衛門三郎家の悪い先祖の因縁を切るために、因縁切りの法を権修しました。  
その後、伊予の領主・河野伊予守左右衛門介越智息利に玉のような男の子(息方君)が誕生しましたが、その子の片手が開きません。  
若君3歳の春の事、桜の花見の席で南(文殊院)に向かって両手を合せ、南無大師遍照金剛とさんべんお唱えになりました。すると、手がぱっと開き、その手の中から小さな玉の石が出て来ました。家臣が拾って見ますと、「衛門三郎再来」と書かれていました。  
その石を安養寺へ持って行って納めました。以来、安養寺を石手寺と改めました。  
若君は、衛門三郎の話を聞き、民、百姓に喜ばれる政(まつりごと)をしました。 
衛門三郎物語 / 愛媛県松山市  
衛門三郎の子供のものといわれる、こんもりと盛り上がった群集古墳(八つ塚)が松山市恵原町 にある。愛媛県内に多く残る空海伝説で、衛門三郎物語はとりわけ有名だ。この物語は、有名であると同時に、子供が次々に死ぬという特異さでも目を引く。多くの伝承があり、細かな点で幾つかの相違があるものの、文殊院(松山市恵原町)に伝わる「遍路開祖衛門三郎四行記」によると、大筋はこのようなものになっている。 衛門三郎は、伊予の国荏原に住む庄屋。強欲非道で、私利私欲をむさぼり富を増やしていた。ある日、一人の僧がたく鉢に来た。その僧は、この地に立ち寄った弘法大師空海だった。三郎は追い返したが、翌日も、その翌日も空海はやって来た。三郎は立腹し鉄鉢を竹ぼうきでたたき割り、追い返してしまった。鉄鉢は八つに割れ、翌日から僧の姿も見えなくなった。三郎には八人の子があったが、毎日一人ずつ、八日のうちに次々に亡くなった。三郎は、空海が諸国を巡歴しているという話を耳にし、高僧を打った罪深さに戦りつする。ざんげの心が芽生えた三郎は、会って謝罪しようと遍路の旅に出た。二十度巡っても会えず、旅路の疲れで阿波の焼山寺のふもとで病になる。そこへ空海が現れ、三郎は涙を流して罪をわび、「来世は国司の家に」の望みを残してこの世を去る。空海は道端の石を三郎に握らせた。翌年、この地の領主河野家で男児が生まれたが、左手を固く握り、開こうとしない。三歳の時に南方に手を合わせ南無大師遍照金剛と両手を合わせた拍子に、手の中から「衛門三郎」の文字が刻まれた石が転がり落ちた。 衛門三郎の屋敷跡だった場所は文殊院となっているが、ここに戒名も位牌も残っているところから、三郎が実在したと考えられる。近くには子供を祭ったといわれる群集古墳(八ツ塚)が点在し、南方の山には鉄鉢が八つに飛び散ってできたくぼみが八つ(現在は三つ)あり、湧き出る水は「お加持水」と呼ばれ、今も枯れることがない。
のぎよけ大師 / 愛媛県  
むかしむかし、ある浜辺に、関五左衛門(せきござえもん)という、貧乏な男が住んでいました。  
その五左衛門の家に、旅の途中のお坊さんがやってきたのです。  
「すみませんが、今夜一晩、あなたの家に泊めてくださいませんか?」  
すると五左衛門は、ニッコリ笑い、「これはこれは、お坊さま。貧乏で大したもてなしも出来ませんが、どうぞお泊まりください」と、こころよくお坊さんを家の中に入れると、自分が食べるはずのご飯でお坊さんをもてなしました。  
さて、それから数日後の事です。  
晩ごはんを食べていた五左衛門の息子が、魚の骨をのどに刺して苦しみ出したのです。  
「しっかりしろ、大丈夫か?!」  
五左衛門が息子ののどを見てみても、骨はどこにも見あたりません。  
しかし息子は苦しさのあまり、ぐったりしてしまいました。  
「どうすれば、どうすればいいのだ?!」  
五左衛門がおろおろしているところへ、この前のお坊さんが突然現れました。  
「何やら良くない気配を感じて戻ってきたが、息子さんがのどに骨を刺しているのか。よしよし、わたしがおまじないをしてあげよう。すまないが、水をくんで来てくださらんか」  
「はっ、はい」  
五左衛門が言われた通り手おけに水を入れてくると、お坊さんは持っていたおわんに水をそそいで、その上に、はしを十文字に置いたのです。  
そしてお経の様なものを唱えながら、息子の口へそのはしの間から水を注いで飲ませました。  
すると不思議な事に、ぐったりしていた息子が『ごほん』とせきをして、のどに刺さっていた大きな骨がポロリと出てきたのです。  
のどに刺さっていた骨が取れた息子は、すぐに元気になりました。  
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」  
何度も何度もお礼を言う五左衛門に、お坊さんはにっこり微笑んで言いました。  
「五左衛門さん。こちらこそいつかのご親切を、まことにありがたく思っています。そのお礼に、この木像と、のぎよけのおまじないを教えましょう」  
そう言ってお坊さんは五左衛門に木像を渡し、のぎよけのおまじないを詳しく教えてくれました。そしてお坊さんはみんなが見ている前で川の飛び石に飛び乗り、そのまま煙のように姿を消したのです。  
「あのお坊さまは、きっと弘法大師さまじゃ」  
心を打たれた五左衛門さんは、この村に大師堂を建てると、もらった木像をおまつりしました。  
そして、のどに小骨が刺さった人や目にのぎ(→イネ科の植物の花にある針のような突起)が入った人がいると、五左衛門はこのお堂で教えてもらったのぎよけのおまじないをしてやり、多くの人を助けたそうです。  
やがて村人たちは、弘法大師のことを『のぎよけ大師』と呼ぶようになりました。  
そして弘法大師が足をかけて姿を消した石が『大師ふみどめの石』として、今でもお堂の中に残っているそうです。 
 
徳島県
弘法の蛇封じ / 徳島県三好市池田町  
あくまでざっと見ではだが、竜蛇譚の極端に少ない土地がある。阿波だ。『大系』には表題話は二話しかないのじゃないか。しかも内一話(「十三塚」)は実質平家の落人譚である。無論地域史・誌レベルではそんなこともないのだろうけれど、『大系』上そんなであるのも故のないことではない。タイトル通り、この土地の竜蛇は皆弘法大師に「シメられ」ちゃったので、「弘法の蛇封じ」の一系にまとまってしまうのである。  
 
昔、弘法大師が祖谷の方へ行こうと出合まで来ると、千足の衆が大勢集まって、ガヤガヤと騒いでいた。大師が訳を訊いてみると、「ここから千足へ渡るのに橋を架けるんじゃが、川の水が出るたびごとに白い大蛇が出て来て橋を流してしまうんで困っとるんじゃ」と言う。  
そこで大師は「わしがその大蛇を封じ込んでやろう」と言い、経文をあげた。すると間もなく川底から白い大蛇が浮き上がって来た。即座に大師が印を結んで喝を入れると、大蛇はたちまち白い岩になってしまった。  
大師はこれで良いと言い、後はこの岩の首に葛を巻いて橋を架けなさいと教えた。それからこの岩は橋架け岩と呼ばれるようになった。  
 
池田から祖谷の方といえば「祖谷かずら橋」が有名だが、昔はこのような橋がもっと沢山架けられていたそうで、出合(大利)の話の最後の描写も同様の橋を架けたことを言っているのだろう。  
それで類話として阿南市の大竜寺の竜が封じられ、勝浦郡の福川の竜が封じられ、那賀町の黒竜寺の竜が得度させられ、神山町の竜王山の竜は小童の姿にされる。皆弘法大師に。「弘法大師」と括らなければもともとそれぞれ別の竜蛇であり、各々の物語をもっていたのだろうから、少し考えどころではある。  
竜蛇伝説を追うという観点からは、ひとまず弘法大師という括りを脇にやった方が良さそうだ。目次だけ見て「阿波は竜蛇譚がない」と印象を持つのはやはりまずいのである。それぞれを竜蛇譚としてまずひとつひとつ扱い、その上で弘法大師によって封じられた竜蛇を語る土地、とするのが良いだろう。  
ところで「類話」の中に、現在の海陽町で大師が大鰻を封じた話があるのだが、ちょっと面白モチーフがあるので引いておこう。  
● 
弘法が通りかかると、娘がひしゃくで川の水をかい出している。尋ねると母が母川の大鰻にさらわれたので仇を討ってやろうとしていると言う。弘法が鰻を岩の中に封じ込めてやった。が、鰻は成長するので、とうとう岩に裂け目を作った。これがせり割り岩。  
封じられた鰻がさらに成長するので岩が割れてくる、のだ。で、検索してみたら「鰻が出てきた」とある。弘法大師の封印を破ったのか。ま、何にせよ封じられたモノが中で成長するので岩に裂け目ができる、という発想は他所でもありそうだ。
サバ大師 / 徳島県  
徳島県南部の八坂山鯖瀬大師堂(やさかざんさばせだいしどう)という寺には、右手にサバを持った弘法大師の石像があるそうです。これは、それにまつわるお話です。  
むかしむかし、旅の途中の弘法大師が歩いていると、向こうから馬のたずなを引いた男がやって来ました。  
馬の背中のかごには、たくさんのサバが乗せてあります。  
それを見た大師は、馬方に頼みました。  
「馬方さん。すまないが、わしにサバを一匹だけでも分けてくださらんか」  
そう言われた馬方は、大師をジロリとにらんで言いました。  
「なに! ただでサバをくれと言うのか!? なんと図々しい生臭坊主じゃ! このサバが食いたいのなら、金を出せ。そうすりゃあ、いくらでも売ってやろう」  
「いやいや、わしは仏に仕える身。サバを食べるつもりはない」  
「なら、どうしてサバが欲しいんじゃ」  
「それは、ただ一匹のサバでもよいから海へ戻してやる心によって、亡き人々の菩提(ぼだい→死後の冥福)をお願いしたいと思ったからじゃ」  
「ふん! うまい事をぬかす坊主じゃ。だがどっちにしろ、金を出さんのならサバは一匹たりともやらん!」  
馬方は舌うちをして、通り過ぎようとしました。  
するとその後姿を見ながら、大師がこんな歌をよみました。  
  おおさかや(大阪や)  
  やさかさかなか(八坂坂中)  
  さばひとつ(サバ一つ)  
  たいしにくれで(大師にくれて)  
  うまのはらやむ(馬の腹病む)  
すると不思議な事に、馬方の馬が腹痛を起こして動けなくなったのです。  
馬方は立ち去る大師の姿を振り返り、じっと考えました。  
「さては、あの坊さん。とても偉いお坊さんでは。・・・お大師さま? そうじゃ、確かにお大師さまじゃ!」  
馬方は大師の前まで駆け戻ると、サバを差し出して言いました。  
「お坊さまは、お大師さまでございましょう。先ほどは、わしが悪うございました。どうか許して下さい。馬が動けんでは、わしは明日から食べていけません」  
すると大師はニッコリ笑って、また歌をよみました。  
  おおさかや(大阪や)  
  やさかさかなか(八坂坂中)  
  さばひとつ(サバ一つ)  
  たいしにくれて(大師にくれて)  
  うまのはらやむ(馬の腹止め)  
大師の歌を聞いた馬方は、先ほどの歌と今の歌が同じに聞こえたので、あわてて言いました。  
「お大師さま、どうか許して下さい! サバは全部差し上げますので! さっきと同じ歌では、馬が死んでしまいます!」  
すると大師は、首を振りました。  
「いやいや、決して同じ歌ではないぞ。その証拠に、馬を見てみなさい」  
馬方が馬を見ると、さっきまで苦しんでいた馬が立ちあがり、元気にいなないたのです。  
「お大師さま、ありがとうございます! 約束通り、サバは全部差し上げます」  
「いや、それでは馬方さんも生活が困るだろう。サバは一匹でよい」  
「はい、重ねてありがとうございます」  
大師に一匹のサバを差し出した馬方は、大師に何度も頭を下げながら馬のたずなを引いて立ち去りました。  
そして大師が馬方にもらったサバを海に投げ込むと、死んでいたサバが生きかえって海を泳いで行ったのです。  
こんな事があって、鯖瀬の大師堂の像はサバを持っているのです。 
 
香川県
満濃池 / 四国・讃岐  
空海は820年、四国・讃岐の満濃池(香川県仲多度郡満濃町)の修築工事の指揮をしています。現在の満濃池は周囲二十キロに及ぶ日本最大の溜め池(平安時代にはもっと小さかったと思われますが)。この池が大決壊。朝廷は築池使を派遣して、3年の月日をかけて修築工事を進めさせましたが、うまくいきません。そこで、空海を派遣。空海の指揮のもと、修築工事が再開されると、地元の農民の協力もあって、わずか3ヶ月でその難工事は完成しました。空海は、この工事で、堤防をアーチ型に設計しました。アーチ型にすると、水圧が分散され、直線のものよりはるかに高い水圧に耐えられるようになるそうです。また、満水時の放流の際の堤防決壊を防ぐために岩盤をくりぬく工事も行われたといいます。現在でも通用する合理的な工事が、空海によってなされたのです。池をつくる専門科であるはずの築池使が3年かけてできなかったことを、空海は3ヶ月で行ってしまいました。土木技術者としての空海の実力をまざまざと世に知らしめた修築工事でした。
さぬきうどん / 弘法大師が伝えた?  
讃岐うどんの歴史は、讃岐が生んだ弘法大師空海が、遠く中国から持ち帰ったのが始まりと伝えられています。空海は延暦804年31歳の時入唐。1年あまり長安に滞在して806年帰国しました。そのとき、持ち帰ったのが「うどん製法」「小麦」「唐菓子」のいずれかであったと言われています。以来、讃岐ではうどん作りが盛んになり約300年前からの江戸の元禄時代の頃、狩野休円清信が「金毘羅祭礼図」(屏風一双)に3軒のうどん屋が描かれており、早くも金毘羅さんで「うどん屋」が現れたことを証明されます。  
また、1712年ごろ「和漢三才図絵」という当時の百科事典があり、ここに「諸国皆有之 而讃州丸亀之産為之上 為饅頭色白」(諸国に皆これがあるが、讃岐丸亀の産を上とする 饅頭として色白し)とあり、上質の麦の産地であったことが分かります。「さぬきうどん」の発祥地は諸説あり、この絵から琴平町からと言う説もあり、また綾川中流の滝宮説など諸説があるが確たる証拠はありません。  
讃岐の地で盛んに「うどん」が作られたのは、上記のように昔から上質の小麦が生産されたこと、品質のよい「いりこ」が多く取れたこと、古代から塩の産地であり製塩が盛んであったこと、また小豆島は江戸時代から有数の醤油生産地であったことなど「うどん」作りに適した地であり、農家で代々受け継がれ磨かれてきたうどん打ちの技術があったためと思われます。  
もう一つ忘れてはならない事があると思います。讃岐地方は小作地が多く、それに加えて降雨量が少なく度々かんばつに悩まされ、水田で作られる米の安定的な生産が出来ない土地であった。そのため米は贅沢品であり代用食として麦で作った「うどん」は欠くべからざるものであった。そんな生活の中で必死に麦を作り、「うどん作りの技術」を伝え・磨いてきたのが「さぬきうどん」の源流であったともいえます。 
 
高知県
足摺の七不思議  
亀石 / 亀呼場(岬先端)から弘法大師が亀の背中にのって灯台の前の海中にある不動岩に渡ったといわれています。この亀石は、その『亀呼場』の方向に向かっています。  
汐の満干手水鉢  
突き出した岸壁の近く、岩の上に小さなくぼみがあり、汐が満ちているときは水が溜まり、汐がひいているときは水が無くなるといわれ、非常に不思議とされています。  
ゆるぎ石  
この石は弘法大師が金剛福寺を創立の時に発見された石で、この石の動揺の程度によって孝心をためすといわれています。  
不増不滅の手水鉢  
平安朝の中頃、賀登上人(カトウショウニン)とその弟子日円上人が補陀落渡海(観音様の世界)せんとしている時、弟子日円上人が先に渡海して行ったので非常に悲しみ、この岩に身を投げかけたそうです。その落ちる涙が不増不滅の水となったといわれます。  
大師一夜建立ならずの華表  
大師が一夜でとりいを作らせようとしたが、天邪気が鳥の鳴き声のまねをして大師は夜が明けたと思い、作るのをやめたといわれています。  
亀呼場  
弘法大師が前にある不動岩に亀の背中にのって渡り身体安全、海上安全の祈祷をされたといわれ、この所から亀を呼ぶとその亀が浮かび上がってきたといわれています。  
弘法大師の爪書き石  
この岩肌には大師が爪で「南無阿弥陀仏」と六字の名号を彫っています。  
地獄の穴  
この穴に銭を落とすとチリンチリンと音がして落ちていく。その穴は金剛福寺の本堂のすぐ下まで通じているといわれます。  
竜の駒と根笹  
竜の駒(まぼろしの駒)が来て、この地に生えている根笹を食べる。そのためか、この地の笹はこれ以上大きくならないと言われています。 
大師井戸 / 高知県安芸郡  
むかし、高知県室戸市の室戸岬(むろとみさき)の近くにある村には、ただ一つしか井戸がありませんでした。  
しかもその井戸は海に近いせいか、水が塩辛くて飲む事が出来ません。  
ある日、その村に旅のお坊さんが通りかかりました。  
お坊さんは長旅に疲れて、のどがカラカラです。  
そこでお坊さんは、井戸の前にいた村の娘たちに頼みました。  
「娘さん。この井戸の水を恵んでもらえないだろうか」  
それを聞いた娘たちは、申し訳なさそうに答えました。  
「お坊さま。お疲れのところすみませんが、この井戸の水は塩辛くて飲めた物ではありません」  
「塩辛いとな」  
お坊さんが井戸に顔を近づけてみると、確かにこの井戸水からは潮の香りがします。  
しかしお坊さんは、娘たちににっこり笑って言いました。  
「この井戸水は、きっとおいしく飲めるはず。まずは、わしが飲んでみましょう」  
お坊さんはそう言うと小声で何やらお経のようなものを唱え、そして井戸から水を汲みあげると、いかにもおいしそうにゴクリゴクリと飲んだではありませんか。  
「ああ、うまい水であった。さあ、娘さんたちも飲んでみるとよい」  
お坊さんはそう言うと、どこかへ歩き去ってしまいました。  
「本当に、飲めるのかしら?」  
娘たちは恐る恐る、井戸の水を飲んでみました。  
すると不思議な事に、今まで塩辛かった井戸の水が、おいしい真水へと変わっていたのです。  
その後、あのお坊さんが弘法大師だと知った村人たちは、大師への感謝を込めて、その井戸を『大師井戸』と呼ぶ事にしたのです。 
 
九州

 

福岡県
大根川(だいこんがわ) / 古賀市  
福岡県古賀市を流れ玄界灘に注ぐ二級河川。下流部は、花鶴川と呼ばれる。福岡県古賀市薦野の西山(鮎坂山)に源を発し西に流れる。古賀市花鶴丘で支流の谷山川と合流すると花鶴川と名を変え、古賀市古賀より玄界灘に注ぐ。  
名称の由来 / 平安時代に空海(弘法大師)諸国行脚の途中に筵内に寄った時に「南無阿弥陀仏」と唱えながら金剛杖をついた空海が大根川の上流に差し掛かり、空腹になったので橋の上から水面を眺めていたら、1人の老婆が大根を洗っていたので、分けて欲しいと頼んだが老婆は空海が偉い僧侶と知らず、またみすぼらしい格好だったので、怒って川の水を掛けた。空海は吃驚したが、もう1度頼んだ。しかし、老婆は顔を真っ赤にして石を投げ、その石が空海の顔に当たって血が流れた。空海は静かに「人面如夜叉」と唱え、杖を3度地面についた。空海は見た目だけで相手を判断して応対する態度に激怒し、戒めのために大根川の水を干上がらせてた。この逸話から「大根川」という名前がついた。それからの毎年大根を洗う季節になると筵内では老婆の戒めのために水が表面を流れなくなるという。 
釜蓋原の弘法大師(釜蓋) / 大野城市  
四王寺山の西の麓の集落釜蓋(かまぶた)というところは瓦田(かわらだ)村に属していました。戸数は僅かに十数戸しかありませんが、縄文・弥生・古墳時代の遠い昔から人々が住みついていたところです。村人は純朴で勤勉な人たちばかりで、田畑を耕し山林を育てて生計を営んでいました。  
稲の刈り入れも終わり年貢(ねんぐ)納入の準備も済んで冬支度にかかる十一月になると、村決めに従って一斉に四王寺山の共有林に入り、冬の間に使う薪と牛馬の秣(まぐさ:牛や馬の飼料となる草)を採りに行きます。  
今日も早朝から山支度を整えた村人たちは釜蓋原に集まり、長老の指図により山に入り、それぞれ指定された場所で薪を集め秣を刈ります。夕暮れ近くになりそれぞれに採取した薪や秣をまとめて、再び釜蓋原に集まってきました。この季節でも夕方になると山麓の台地は冷え込んできます。附近の草木を集めて焚き火をはじめました。  
みんな一日の疲れも忘れて楽しそうに焚き火にあたりながら輪になって、今年の米のでき具合や、働き者の嫁や可愛い孫の自慢話など、とりとめもない世間話に花を咲かせて、いつまでも焚き火の側を離れようとしません。  
そのとき「すみませんがちょっと焚き火にあたらせてくださいませんか」と、薄汚れた旅衣(たびごろも)をまとった1人の旅の僧が近づいて来ました。村人たちは気軽に「どうぞどうぞ」と言いながら、この旅の僧を焚き火の輪の中に入れてあげました。  
そして昼の残りの弁当とお茶を出して「こんなものでよかったらどうぞ召し上がりくださいませ」と差し出しました。旅の僧は喜んで弁当を食べながら、今まで廻ってきた諸国の風物や人情などについて話してくれました。村人たちも熱心に聞いておりました。その話の中にはたくさんの教訓も含まれていましたので、感心すると同時に心地よく温かいもので、胸がふくらむような気持ちになりました。  
それからしばらくは旅の僧を中心に話が弾みましたが、いよいよあたりが暗闇につつまれてきましたので、誰からともなく家に帰ろうということになり、焚き火に水をかけると白い煙が一面にたちこめて間もなく火は消えてました。  
村人たちはそれぞれの荷を背負って帰ろうとしてふと気がつくと、旅の僧の姿はありません。今まで旅の僧が居たところに一塊の石が残っています。折から雲間を出た月の明かりに照らされた石をよくよく見ると、それは一体の弘法大師(こうぼうたいし)の石像でありました。  
村人たちははじめて今の僧が弘法大師であったことを知り、今まで聞いていたお話を思い出し、これからもその教訓を守り仲良く仕事に精を出して、みんなで釜蓋の里を豊かで幸せな村にしようと誓い合いました。  
そしてこの地にお堂を建てて弘法大師の石像を安置して祀り始め、ここを大師原と呼ぶようにしました。 
「えつ」傳承記 / 大川市若津  
[弘法大師渡場跡] 九州第一の大河、筑後川の悠久の流れに「よしきり」がなきそめ、初夏の訪れとともに、「えつ」は故郷のこの地へ産卵のため群をなしてさかのぼってくる。「えつ」はわが國では、 筑後川下流と有明海にだけいる魚で、カタクチ鰯科に属し、その風味は、淡白で酒の肴など、珍重されている。この「えつ」には今なお語り継がれている傳説がある。  
遠い昔、一人の行脚僧がここから筑後川を渡ろうとして、船賃がなく困っていた。それをみかねた若い船頭が子舟をこいで、対岸まで渡してやったところ僧はそのお禮として、「もし暮らしにお困りの時はこの魚をおとり下さい。」と言って蘆の葉を取って、川の中に投げ入れた。すると、その蘆の葉は、忽ちに一匹の魚になって夕陽に銀鱗をかがやかして、水底深く消えた。  
その後、この魚は次第に殖え、若者の船頭は、これを捕らえて平和な一生を終えた。この魚が今日の「えつ」で行脚僧は弘法大師であったという。 
九十九谷 / 福岡県  
遠賀には百谷あるので最初、空海はここに霊場を造ろうとしたが妖狐が一谷を隠し九十九谷にみせたのでここを諦め高野山を開いたのです。
 
佐賀県
 
大分県
 
長崎県
飯盛町(いいもりちょう)の名称 / 長崎県諫早市飯盛町  
2村合併で誕生した飯盛町。旧江ノ浦村と旧田結村の丁度境界付近に、海抜292mの山がある。この山は、ご飯をあたかも山盛りに盛ったような形をしている。別名「飯盛山(めしもりやま)」と呼ばれることもあり、町の象徴の1つである。「飯盛山(めしもりやま)」の「飯盛(めしもり)」が転じて「飯盛(いいもり)」となり、本町の名称由来となった。
びょうびやの たぬき / 長崎県諫早市飯盛町  
びょうびや(びょうぶ岩)に伝わる 可愛い化け狸のおはなし  
ある月夜ん晩 おじさんは、江ノ浦まで長崎から歩いて帰りおったげなばい。  
田結までやっと来たとき、背中んいりこは重たかし、はよもどるごともあったけん、川下かい山ごえしゅうと思うたげな。  
山ん入り口まで来たとき、びわん木ん下にきれいか女ごん立っちょって、おじいさんば 身ちかいにっこりしたげなもん。  
おじさんは“だいな”とおもうち、よう見たらぜんぜん知らん女ごじゃったげな。  
おじさんは、“もしかかしたらびょうびやんたぬきばいね”ち思うて、「あんた、どこもんなとたずねたげな。  
そしたらそん女ごは、「びょうびやんもん」と、こまあか声でこたえたげな。  
たぬきと道づれも おもしろかと思うたおじさんは、「そうな、おいばここで、待っちょてくれたっちゃろ。」  
「おいも一人で山ばこすとはさびしかけん、すまんが家までついてきてくれんか。」と頼んだげな。  
そしたら 女にばけちょった たぬきは、正体ばあらわし、うれしそうに、おじさんの前になったり、後ろになったらりして歩きだしたげな。  
おかげで、おじさんも さびしゅうなかったげなもん。  
おじいさんは、家に帰り着くなり、  
「おいが さびしゅうなかごと、ずっとつきおうてくれた山んもんのおっけん、お礼に いりこば やっちくれ」と家の人に たのんだげな。家の人は皿にいりこば山もりして 庭にだしたげな。  
しばらくして、おじさんが庭にでて見ると、いりこは、きれいにのうなっとたげなばい。おじさんは、「よかった、よかった。かわいかたぬきばい」というて、山ん方に 手ばふったげな。  
次ん日の朝、おじさんが いりこの袋ば見たら、ふしぎなことに、そんふくろがどげんもなっちょらんやったげな。
香田のいたずらぎつね / 長崎県諫早市飯盛町  
むかしむかし、香田のうらん山に、きつねのいっぺえすんじょった。そいどんの中には、ばえんわるさばすっとのおって、いらんこつばっかいしては、村んもんば困らせておったげな。  
ある日んこつ、多助じいちゃんな、親せきん結婚式に呼ばれちかい、夜道ばひとりでふうらり、ふうらり、わが家さん帰っていきおらしたげな。  
はな歌どん歌いながら、香田ん坂まできたときばい。急に背中ん重とうならしたげな。じいちゃんな、「あん、いたずらぎつねばいね」と、すうぐにわからしたげな。  
そいでん、後ろばふりむいたり、きつねとしゃべったりせんじゃったら、ばかされんて知っちょたけん、いっちょんびっくりせんやった。  
しばらくしちかい、背中んきつねが、「トントン。」と、じいちゃんのかたばたたいたげなもん。  
結婚式のみやげば持っちょっとばしっちょってかい、食いもんばやれち、いいおっとたい。  
じいちゃんなだまって大根のにしめばきつねにやらしたげな。  
しばらくしち、また「トントン。」と、きつねがたたいたげなもん。こんどはごんぼばやらしたげな。  
「トントン。」魚をやらしたげな。  
「トントン。」赤飯ばやらしたげな。  
「トントン。」・・・・・・  
だんだんみやげんのうなっていくので、じいちゃんな腹ん立っしょんなかったげな。  
「トントン。」みやげがとうとうあぶらあげだけになってしもうたげな。  
あぶらあげは、じいちゃんの大好物で、こいだけはぜったいやっごとなかったげなもん。そいでん、きつねもあぶらあげば好いちょってから、はじめかい、こいばねろうちょっとたげな。  
「トントン。」  
「トントン。」  
じいちゃんが、聞こえんふりしてとぼけちょっとで、きつねは、何回でん、じいちゃんのかたばたたいたげな。  
きつねん、あんまいしつこかもんけん、じいちゃんな、もう、どげんもこらええんごとならして、  
「こら!いいかげんにしろ。」と、おめいてしもうたげな。  
きつねにしゃべったらようなかとに、おめいてしまった。  
じいちゃんな、なんもわからんごつなり、とうとうきつねにだまされてしもうたげなばい。  
山ん中でじいちゃんがみつかったときは、そいから三日してからんこつばい。  
そん時じいちゃんな、松葉やまつぼっくりば、「うまか、うまか。」ちいうてパクパク食いおらしたげな。  
そしてかい、助けにきた村んもんば見ちかい、「コーン。」と、きつねんごと鳴かしたとげな。
幻の唐比れんこんとそのルーツ / 長崎県諫早市森山町  
歯ごたえの良さと柔らかさを併せ持ち食感が実に絶妙!  
唐比れんこんは、大昔印度から唐へ伝わり、唐からこの地へともたらされたという。  
水晶観音さん(補陀林寺)にあるマンダラ(仏の国を説明する絵)は、この池(蓮池)に生えるれんこんの蓮糸で織ったという伝説があるほど、昔は、池一面に蓮が生い茂るっていたという。  
当時島原の殿さまが、この地の、いわゆる大名道を通って夏の日、長崎警固従来の際は、必ず休屋(唐比番所)で休憩、池一面に咲く蓮花を賞でたということであるが、今の上海蓮根と違い、昔からの地蓮根の花色は濃紅色で実に美しいものであった。  
今は、もう、この地蓮根(いわゆる唐比れんこん)を作っているのはまれであるという。これぞ幻の所以である。  
地れんこんの味はシャキシャキしていておいしい。今は、ほとんど上海蓮が作られ、戦後佐賀から移入されたものという。  
これは、味がポヤポヤしていて軟らかく泥の浅いでも育つが、地れんこんは深い所を好むようで作りにくいと伝われている。  
地蓮根には、蓮糸が多く、それも長くつながるので食べるのには、めんどうくさいところもある。  
本来、私達が蓮根と呼んでいる部分は、根ではなく地下茎である。この地下茎には、いくつもの穴があり、それは葉柄、花柄へと通じ、その穴の内側に蓮糸が密にラセン状に巻いており、葉柄のいくつかの導管の内側に巻きあがっている。  
ちょうど、紙提灯の内側を竹ヘゴで巻き、強さと伸縮を容易にしているのと同じ理由からであろう。  
これによって、根茎が水圧、泥圧でつぶれないようにしているものと思われる。  
花柄、葉柄も水圧、風圧に耐え易くする為のものであろう・・・。  
なお、地下茎(れんこん)の穴は、葉柄、花柄の穴と通じており呼吸をしている。  
地蓮根が泥の深い所でも息づけるのは、この蓮糸が多く、密で強いことと関係があるようである。  
昔れんこん堀りには、腰上まで泥にめりこんだものであったが、上海蓮を作るようになってからは、せいぜい、膝上、中股ぐらいまででよい。  
このことも上海蓮が重宝がられる理由である。  
村田家先代も蓮根掘りの名人であったので、深く掘り耕してこられた。それで、何とか地蓮根が伝承されたてきたのであろう。
伝説の美青年「岳の新太郎さん」と民謡「ざんざ節」 / 長崎県諫早市高来町  
多良岳は、佐賀県太良町と高来町の境にあるが、昔は両町ともおなじ諫早領で山上一帯の大山は領主の所領になっていた。  
その太良獄三社大権現は金泉寺が主祭して春秋の大祭をとり行い盛大なものであった。  
太良嶽大権現は、和銅年間(708年〜)に行基菩薩が、釈迦・弥陀・観音の三尊をまつり、創建されたと伝えられ、平安時代の初め、弘法大師が山上にとどまり、不動明王を刻んで本尊とされ、金泉寺をお建てになったといわれている。  
雲仙の満明寺とともに鎮西の名刹として僧坊30余、山麗の社寺はみなその支配下にあったという。その参道の表玄関が、湯江黒新田で猪塔の所に一の鳥居があり、金泉寺の別院が神津倉の医王寺である。  
唄の主人公「岳の新太郎さん」は、文化・文政(1804〜1829)頃の人で、原口新太郎といい、神津倉の生まれであるという。  
太良嶽の金泉寺は、弘法大師が建てた真言宗の寺で、高野山のように女人禁制の修錬場であった。寺は男ばかりで、長老たちの身の回りの世話は美しい男の子、即ち、稚児がしていた。  
新太郎はこの稚児あがりの寺侍で、大きくなるにつれ天性の美貌はいよいよ輝くばかりの美青年となった。時おり、神津倉の別院医王寺に下ってくると、類まれな彼の美貌を見ようと多くの女たちが待ちかまえていた。しかし、寺の戒律が厳しいので、新太郎は女たちには目もくれなかったという。  
それがますます女性たちのあこがれの的となり、その沿道には女たちが群集したといわれ、これをうたったのが、「岳の新太郎さん」である。  
 一、岳の新太郎さんの下らす道にゃ、ザーンザザンザ  
   金の千灯籠ないとんあかれかし  
   色者の枠者で気はザンザ  
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ  
新太郎が山を下ることがわかると、山麗の娘たちは、その道筋に灯籠をあかあかと照らして、その道筋に灯籠をあかあかと照らして、その顔を仰ぎ喜んで迎えたという。  
 二、岳の新太郎さんの登らす道にゃ、ザーンザザンザ  
   道にゃ水かけなめらかせ  
   色者の枠者で気はザンザ  
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ  
美男新太郎が下山して医王寺にくると、少しでもながくとどめようと、寺の西側の権現坂(新太郎さん坂)に水をかけて滑らせ、登られぬようにした女たちの新太郎への思慕の情をうたったものである。  
しかし、熱烈な女性たちの戦術にも、新太郎は迷わなかったといわれる。  
 三、岳の新太郎さんな高木の熟柿、ザーンザザンザ  
   竿じゃ届かぬ登りゃえぬ  
   色者の枠者で気はザンザ  
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ  
新太郎は、いつもきれいで若さに輝いており、山麗の全女性のあこがれの的であったが、彼女たちが近づけぬ身分であった。  
 四、岳の新太郎さんな山芋の古根、ザーンザザンザ  
   今年や去年より若ござる  
   色者の枠者で気はザンザ  
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ  
多良岳名産の自然藷、即ち、やまいもは毎年冬に枯れ、次の年にはまた新しく若々しいいもが できるものであるが、万年青年の新太郎もますます若がえって見えたという。  
 五、笠を忘れて山茶花の茶屋に、ザーンザザンザ  
   空がくもれば思い出す  
   色者の枠者で気はザンザ  
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ  
江戸時代の長崎はただ一つの貿易港で、これに通ずる陸路として長崎街道(多良岳の北の嬉野 回り)があり、そのわき道(近道)として多良岳の南麓を通る諫早街道があった。  
これは展望がすぐれていたが多良越の難所があった。その一番高い所にある山茶花峠は、標高350mで、佐賀・長崎両県の境の小長井にあって、付近は人家一つなく一町歩余の盆地の北側にきれいな清水がこんこんと湧き出る所に、一軒の茶屋があるだけであった。  
ここは、旅人の休憩所としては最適の場所で、茶屋の隣には、佐賀の殿様が長崎警固のため往復するときのカゴ立場があった。茶屋のそばに紅色の花をつける山茶花の老木があって、旅人の目を楽しませ、茶屋のとろろ汁は名物だとされていた。  
なお、この「岳の新太郎さん」の出生地について、諫早・高来・佐賀太良の三カ所の説があるが、金泉寺とその別院のある高来町湯江が最も有力であると言われている。 
 
熊本県
大師の高野槇1 (たいしのこうやまき) / 球磨郡多良木町下槻木  
みごとな自然が残る槻木(つきぎ)  
熊本県の南東側に位置する、ひょうたん型の多良木町。その広い町の中で、最南東の山奥に槻木という地域があります。多良木町の中心街からは、久米方面に車を走らせ、槻木峠を越えて行きます。バスの定期便はありません。自家用車で約40分の道のりを行くことになります。所々離合しにくい場所がありますが、周囲の山々(黒原山、花立山)の四季の景色を楽しみながらドライブできます。  
お大師(だいし)さんってよく聞くね!  
よく「お大師様」と聞きますが、弘法(こうぼう)大師のことをいいます。弘法大師は、お坊さんで、お寺を作るために九州各地を回ったという説があるようです。槻木のお大師様は40番目にあたるそうです。下槻木では、「お大師さん祭り」という祭りがあります。昔(戦前)は、太鼓踊りがあっていました。旧暦3月21日と8月21日に行われます。大師堂には、町の重要文化財の能面がまつられています。(この能面は年に1回しか見ることができないそうです。)  
大師堂と共に生きたコウヤマキ  
朝もやの中、静かな山奥にまっすぐにそびえ立つコウヤマキ。槻木大師堂の境内にあり、樹齢は600年くらいと言われています。幹の周りは約4m、木の高さは31.5mにもなります。根元には、ぽっこりと大きな空洞があったり、その横の切り株から別の木がはえたりしているのをみると、自然のゆったりとした流れを感じることができます。大師堂ができた時に、この大木は植えられたという説もあり、空洞に現れている年輪から計算すると、樹齢700年を越えるのではないかとも当時の村人たちは考えていたそうです。昭和44年3月20日に熊本県の指定天然記念物に指定されました。  
コウヤマキって何?  
イヌマキに対して、別名ホンマキとも言いますが、コウヤマキ科コウヤマキ属の常緑針葉高木で、1種しかありません。葉は、中央に深い溝があり、長さは8〜10cmになります。木の皮は赤褐色をしていて、少し灰色をおびています。雌雄同株で、雄花は黄褐色で、同じ場所に多数つきます。名前は、高野山に多いことからそう呼ばれているそうです。本州の一部の地域では、うら盆にはこの枝を仏に供えることもあるそうで、高野山では参拝者に売っています。木材は、ふろ桶として喜ばれ、近年は造園用として植裁されています。湿気に強いため、建築材としても使用されています。幼木の生長はやや遅いですが、30〜40mの高さになる木です。 
大師の高野槇2 
大師堂の歴史とともに生きてきた巨樹 / 熊本県球磨郡多良木町  
大師堂は、日向灘(ひゅうがなだ)に流れ出る大淀川の源流域にあたる槻木(つきぎ)の集落に、弘法大師が九州行脚のとき建立したと伝えられます。その境内に高く佇立するコウヤマキの巨樹。お堂とともに人々に大切にされ、現在まで生きてきた歴史の重さが感じられます。県指定天然記念物です。  
国道219号を多良木駅前から南の槻木方面へ。約20キロm山道を進み、下槻木の集落のはずれに大師堂がある。参道を登りきった本堂の前。  
大師の高野槇(たいしのこうやまき)  
自然の中でゆったりと生きてきたコウヤマキ  
多良木町の中心から南に約22キロm、人吉盆地の南にそびえる白髪岳や黒原山(くろばるやま)の東にある槻木峠(つきぎとうげ)を越え、槻木川沿いの山道を下って約1時間で下槻木の集落に着きます。ここは宮崎市を流れる大淀川の源流となる地域で、分水嶺よりはるか南までが熊本県です。県境などの大きな境界線は分水嶺と一致するのが普通ですが、ここ人吉盆地の南では境界線が分水嶺の向こう(宮崎県)側を通っているところが多いのが特徴で、長い歴史を反映した結果とはいえ興味深い現象です。  
下槻木の本村のすこし先に、大師(おだいし)という小字(こあざ)の集落があり、その左の小高いところに大師堂があります。大師堂への道は幹囲3、4mの老杉が立ち並ぶ苔むした石段で、それを上り詰めた左側にコウヤマキの老樹が立っています。  
県内稀に見る大木と古くから知られた名木ですが、幹囲4mで赤茶けた樹肌の存在感は圧倒的で、樹高は30mを超えていて頂を見上げると首が痛くなるほどの威容です。根元に空洞がありますが樹勢盛んで、豊かな自然の中で地域の人々に大切にされてきたことがわかります。長い距離を長時間かけて辿りついた道程と、途中に眺めてきた周囲の山々の景色で心の準備ができたのか、この樹から受ける神聖な印象とともに境内の樹木たちが醸し出している濃厚な山の霊気を強く感じます。  
弘法大師伝説と槻木(つきぎ)の歴史  
この樹の少し奥に大師堂があります。応永15年(1412)の創建なので、このコウヤマキも創建のころに植えられたと考えられています。現在の社殿は、平成18年(2006)に再建された銅板葺きの見事なものです。大師堂の本尊はヒノキの一木(いちぼく)造りの弘法大師座像で、台座に応永19年(1412)の墨書銘があり、県の重要文化財に指定されています。  
この大師堂は、弘法大師が八十八箇所のお寺を作るために九州各地を巡られ、40番目に造られたものと伝えられています。現代でこそ多良木町の中心から車で1時間ほどで到着できますが、お大師様の時代に槻木まで山を越え谷を渡って来るのは大変なことだったでしょう。それを実現した脚力と精神力にはほとほと感心します。  
下槻木では旧暦の3月21日と8月21日にお大師さん祭りが行われ、太鼓踊りが披露されています。  
大師堂の近くに四所(ししょ)神社があります。この神社の祭神は、真言宗の総本山である高野山の祭神、丹生都比売(にうつひめ)で、高野山信仰が南端のこの地まで根付いていたことがうかがえます。真言宗を保護した相良氏は、島津氏との領土争いの最前線として、ここ槻木で領土の安全と敵国降伏の祈願をして南の守りを固めたと伝えられます。そのため弘法大師伝説が、この地に根強く残ったといわれます。この神社には、年に一度、11月3日の大祭の日に見ることができる県の重要文化財や町の有形文化財に指定された神面が祀られていて、県内最古のものの1つです。  
また、大師堂境内のコウヤマキの隣りには、満月のように真ん丸い直径1.4mほどの大きな石が安置されています。平成18年7月の梅雨時の豪雨で林道の斜面が崩れ、その土砂の中から発見されました。隕石か、風化や浸食でできた自然石なのか、謎の石として大きな話題になりました。  
コウヤマキから30mくらいの場所に推定樹齢600年のイチョウの老樹があります。同じ頃に植えられたと考えられていますが、これは町の天然記念物に指定されています。また、町の天然記念物の「槻木の石櫧」も近くにあります。  
お大師様関連の場所は、槻木以外にも球磨郡湯前町(ゆのまえまち)に茅葺きの大師堂があり、安置されている大師坐像は県の重要文化財に指定されています。そのそばに姿の良い立派なクヌギがあります。そのほか、葦北(あしきた)郡芦北町(あしきたまち)佐敷(さしき)、阿蘇郡小国町(おぐにまち)杖立(つえたて)、阿蘇郡南小国町満願寺、上益城(かみましき)郡山都町(やまとちょう)柚木(ゆのき)などに弘法大師伝説が残されています。 
湯の池 / 熊本県  
下益城で、もとは温泉だったが空海の問いに老婆が水だと嘘をつくとただちに水の池になった。
 
宮崎県
お金ヶ浜とお倉ヶ浜 / 日向市  
昔々、岩脇(現在の日向市)の海沿いの郷に“お金”と“お倉”という二人の娘が住んでいました。  
“お金”は一人暮らし。  
ケチで意地悪な性格で村人たちから嫌われていました。  
一方、“お倉”は年老いた母親と二人暮らし。  
情け深く親孝行で評判の娘でした。  
二人は別々の浜辺で毎日ハマグリを採って暮らしていましたが、“お金”がいつも来ている浜はたくさん採れるのに対し、“お倉”がいつも来る浜はわずかしか採れませんでした。  
それでも“お倉”は母親のために一生懸命ハマグリを採り続けていました。  
そんなある晴れた日の事、“お金”と“お倉”がいつものように別々の浜辺でせっせとハマグリを採っていると、どこから来たのか、ボロをまとった見知らぬ行脚僧が“お金”の方へと近づいてきました。  
行脚僧は籠の中をのぞき込むと「ほほう、見事なハマグリじゃ。ワシにも少し恵んではくださらぬか?」と声をかけました。  
すると“お金”は行脚僧のみすぼらしい姿を見て(汚い坊さんだなあ。)と感じると「籠の中はハマグリではなく石ころだよ!」と言ってぷいっと横を向いてしまいました。  
行脚僧は仕方なくその場を立ち去りました。  
行脚僧が渚伝いに歩いて別の浜にたどり着くと、“お倉”が「お母さんのために沢山採らなくちゃ。」と言いながらハマグリを採っているのに出くわしました。  
行脚僧は“お倉”に向かって「あなたがとっているハマグリを少しいただけませんか?」と尋ねると、“お倉”は(可哀想なお坊さんだわ。)と思い「わずかしか採れませんけどお一つどうぞ。」と言って、特別に大きくて立派なハマグリを一個差し出しました。  
すると行脚僧は「これは誠にありがたい。何とお礼を申し上げていいやら…。」と言いながらそのハマグリを受け取ると、“お倉”に向かって「あなたは本当に優しい娘さんじゃ。そのうちきっといいことがあるじゃろう。ワシは、弘法大師空海である。」と名乗ると、静かに立ち去っていきました。  
“お倉”が家に帰って母親に弘法大師と出会い、ハマグリをあげた事を話すと、母親は「それは良いことをしました。」と “お倉”をほめました。  
次の日、“お倉”が自分がいつも来ている浜でハマグリを採ると、何と今までよりもたくさん採れるようになったのではありませんか。  
“お倉”と母親は、弘法大師に心から感謝しました。  
それ以来、“お倉”がハマグリ採りをしていた浜を『お倉ヶ浜』と呼び、ハマグリの名産地となりました。  
その頃、“お金”の方はと言うと、家に帰って「しめしめ。これで沢山のハマグリが食べられるわ。」と言いながら籠の中をのぞくと、何と籠の中のハマグリは石ころになっているのではありませんか。  
“お金”はビックリして「これはいったいどーなっているのよ!浜の方も見に行かなくちゃ。」と言いながら自分がいつも来ている浜へ行くと、浜は岩だらけとなり、たくさんあったハマグリも見当たらなくなっていました。  
“お金”は「ああ、坊さんを親切にしなかった罰が当たんだわ…。」と言って泣き出してしまいました。  
以来、“お金”がハマグリ採りをしていた浜は『お金ヶ浜』と呼び、その浜から一個もハマグリが採れなくなってしまったということです。 
大根川 / 宮崎県  
むかしむかし、旅の途中の弘法大師がお腹を空かせていると、川で女の人が大根を洗っていました。  
とてもみずみずしく、おいしそうな大根です。  
大師はていねいに頭を下げると、女の人にお願いしました。  
「すみません。長旅で、腹を空かせております。どうかその大根を、一本めぐんで頂けないでしょうか?」  
すると女の人は、みすぼらしい大師を見て鼻で笑うと、「はん。こじき坊主が」と、わざと洗っていない、土のついた小さな大根を大師に投げ渡したのです。  
「・・・・・・」  
大師がとまどっていると、女の人は冷たく言いました。  
「その大根は、土がついたまま食べるんだよ。いらないのなら、さっさと消えな」  
「・・・・・・」  
大師は無言で頭を下げると、その大根を拾わずに、そのままどこかへ行ってしまいました。  
「あはははは。こじき坊主にも、少しは意地があるんだね」  
その後姿にアカンベーをした女の人は、再び大根を洗おうと川の方を向いたのですが、不思議な事にさっきまで流れていた川の水が一滴もなかったのです。  
「そんな、どうして?」  
びっくりした女の人が、ふと足下を見てみると、足下に一枚の紙切れが落ちていました。拾い上げてみると、そこにはこう書かれてありました。《土のついた大根をそのまま食べるのなら、洗う水はいらぬだろう。空海》  
それ以来、この川の水は大根がとれる頃になると干上がったので、人々はこの川を『大根川』と呼ぶようになったそうです。 
 
鹿児島県
娘の寿命 / 鹿児島県  
むかしむかし、旅の途中の弘法大師が、川で洗濯をしている美しい娘に出会いました。  
娘は大師ににっこり微笑むと、「お坊さま、こんにちは」と、頭を下げました。  
「はい、こんにちは」大師も頭を下げると、ふと小さな声で、「可愛らしい娘さんじゃが、おしい事に、寿命はあと三年か」と、一人言を言ったのです。  
「えっ?」それを聞いた娘は、びっくりです。  
娘はあわてて家へ帰ると、お父さんとお母さんにその事を話しました。  
するとお父さんとお母さんは、青い顔で娘に言いました。  
「それは大変! 早くそのお坊さんを追いかけていって、『どうか寿命を、もっとのばして下さい』と、お頼みしてくるんだ!」  
そこで娘は、大師の後を追いかけてお願いしました。  
「もしもし、お坊さま! どうか、わたしの命をもう少しのばしてくださいませ!」  
すると大師は、困った顔で言いました。  
「うーむ、わたしもそうしてやりたいのだが、残念ながら今のわたしの力では、人の寿命を知る事は出来ても、それをのばす事は出来んのだ」  
これを聞いた娘は、悲しくなってポロポロと涙を流しました。  
「では、わたしはあと三年しか・・・」  
その涙に心を打たれた大師は、娘に言いました。  
「娘さん。うまくいくかどうかは分からんが、運命を変えられるかもしれん方法が一つある」  
「本当ですか!」  
「うむ、良く聞きなさい。ここから北へ十里(じゅうり→四十キロ)ほど行くと山が三つあり、その中の一番大きな山のふもとに大きな松が三本立っている。その三本の松の下で、三人の老人が碁(ご)をうっているはずだ。その老人たちに、お酒をすすめなさい。老人たちは碁に夢中だが、何度も何度もお酒をすすめるうちに、やがてあんたに気がつくだろう。老人たちがあんたに気づいたら、命の事を頼んでみなさい。その老人は人の寿命が書かれた帳面を持っているから、うまくいけば、あんたの寿命を書きかえてくれるかもしれん」  
これを聞いて、娘は大喜びです。娘はさっそくお酒の用意をすると、北の山をめざして出発しました。  
やがて娘が三本の松の木にたどり着くと、松の木の下には大師の言っていた通り三人の老人たちが座っていて、そのうちの二人は碁をうち、一人は帳面をつけていました。  
しかし三人とも、眠っているようにじっとして動きません。  
しかも老人が側に置いている木のつえから芽が出て、それに葉と花が咲き、実さえなっているのですから、もう何年もこのままなのでしょう。  
「どうしよう。下手に起こして、ご機嫌をそこねられても困るし。でもとりあえず、お酒を」  
娘は大師に教えられたように、老人たちの近くに三つのおぜんを置いて、それぞれのさかずきにお酒をつぎました。  
そして木のかげから、三人の様子を見ていました。  
でも老人たちは、なかなか目を覚ましません。  
どうしたらいいかと考えているうち、娘もねむくなってきました。  
「仕方がないわ。ちょっとねむって、この人たちの目が覚めるのを待ちましょう」  
娘は松の木によりかかって、そのままねむってしまいました。  
そして娘も老人も、それから何十年も何百年もねむり続けました。  
もしかすると、今でもねむっているかもしれません。 
食べられぬ大師芋 / 南さつま市  
むかし、むかし。  
弘法大師が仏教を広めるため、南薩地方にも巡歴してきたことがありました。  
大師は、一軒の農家に立ち寄りました。  
家では、おいしそうな芋をぐつぐつと煮ているところでした。  
大師はそれを見ると、「そのお芋を、少しめぐんでください」と頼みました。  
家の人は、汚いなりをした大師を見るや、「お前なんかにはやれない。それに芋はまだ煮えていないよ」と言いました。  
芋は煮えていたのですが、家の人は欲張りだったため芋をやるのが惜しかったのでした。  
大師はそのまま、そこを立ち去っていきました。  
しばらくして、家の人々は芋を食べようと大急ぎで鍋を下ろしました。  
蓋を開けてみると、芋は真っ黒に焦げ付いていました。  
家の人はぶつぶつ言いながら、焦げ付いた芋をうしろの山に持っていて、捨ててしまいました。  
捨てた芋から芽が出て、やがて立派な芋ができました。  
どうしたわけか、その芋はいくら煮てみても食べることの出来ない、苦い芋であったそうです。
大師芋(デシイモ) / 南九州市  
むかし、むかし。  
ひとりの旅の僧が、施しのために一軒の家を訪れました。  
家では、お上さんが茹で上がった里芋をザルにあげていました。  
旅の僧は、「茹でた里芋をひとつ分けてください」とお願いしました。  
お上さんは、「まだ、よく茹っていないから、上げることは出来ません」と言って施しをしませんでした。  
「そうですか。芋が茹らぬほうが良いようですね」と言い残して、旅の僧はどこかへ行ってしまいました。  
ほっとしたお上さんは、茹で上がった里芋をザルから取り出しました。  
やわらかく茹っていたはずの里芋は、固くて半生でした。  
驚いたお上さんは、また里芋を茹で始めました。  
その里芋は、いつまで経っても煮えることはありませんでした。  
腹を立てたお上さんは、里芋を裏の竹やぶに捨ててしまいました。  
すると、捨てた里芋から青い芽が出て茂るようになりました。  
家を訪れたのは、諸国を行脚していた弘法大師であったそうです。  
そうして、煮えない里芋のことを「大師芋(デシイモ)」と呼ぶようになったそうです。
弘法大師の箸の木 / 南九州市  
むかし、知覧に弘法大師の箸の木と呼ばれる、とても大きな椎の大木があったそうです。  
村人たちは、大きくて立派な椎の木を大切にしていました。  
椎の木について、次のような話が伝えられていました。  
ある暑い夏のこと。  
ひとりの旅の僧が、一軒の家に托鉢に来ました。  
僧が訪れた家は、貧しい生活をしていました。  
家にいた奥さんは、施しをしようとあれこれ探しましたが見当たりませんでした。  
妻は、「お坊様、こんなものしかありません」と申し訳なさそうにいいました。  
そして、朝炊いた粗末な麦飯を旅の僧に施しました。  
旅の僧は、深々とお辞儀をすると麦飯をいただきました。  
旅の僧は、「ここは夏になると、木陰がなくて暑いことでしょう」と奥さんに言いました。  
旅の僧は奥さんにお礼を言うと、畑の方に歩いていきました。  
そして、麦飯を食べるときに使った箸を畑に刺して立ち去りました。  
しばらくすると、旅の僧が箸を刺した所から芽が吹き出しました。  
そうして、大きく立派な椎の木になりました。  
誰言うとなく、弘法大師の箸の木と呼ぶようになりました。  
大きく立派だった椎の木は、いつしかなくなってしまったようです。
大師黍 / 南九州市  
むかし、むかし。  
ある秋彼岸の頃のことです。  
お爺さんが縁側で、せっせと黍(キビ)の穂を藁シベで結んでいました。  
お爺さんは、竹ざおに掛け干しするために、黍を藁シベで結んでいるのでした。  
ひとりの旅の僧が訪れてきて、お爺さんに言いました。  
「お爺さん、一本、一本結ぶのは、面倒なことでありましょう」  
心優しいお爺さんは、「お坊様、こうしなければ竿に掛けることが出来ないのです。」と答えました。  
旅の僧は、一本の黍の穂を取ると、茎をたわむほどに曲げました。  
そうして旅の僧は、「黍の穂が、たわむようにしてあげよう」と言うと、お爺さんに渡しました。  
お爺さんは、お礼を言って黍の穂をありがたくいただき、次の年、畑に蒔いてみました。  
夏になって、大きな穂を出した黍はすべて、実をたくさんつけて、穂首は大きく曲がっていました。  
これを見たお爺さん、藁シベで結ぶ手間がなくなり、たいへん喜びました。  
お爺さんに、黍の穂を与えた旅の僧は弘法大師であったそうです。  
以来、その黍の名前を、「大師黍」と呼ぶようになったそうです。
水のなくなった川 / 南九州市  
むかし、むかし。  
ひとりのお坊さんが、知覧の山仁田にやってきました。  
お坊さんは、とても喉が渇いていました。  
一軒のお百姓さんの家に行くと、「水を一杯、飲ませて下さい」と頼みました。  
家には、ひとりの女がいて機を織っていました。  
女は機織りの手を止めないまま、「水は、ありません!」はっきりと断りました。  
土間を見ると、水桶には水がいっぱい入っていました。  
お坊さんは水桶を見ながら、「水は無いほうが良いようですね」と言うと、家を後にしました。  
夕方のこと。  
女が水汲みに行くと、あれほど流れていた川の水が、すっかり涸れていました。  
女は昼間のお坊さんのことを思い出し、後を追いかけようとしましたが、どうすることもできませんでした。  
川の水を涸らしてしまうほどの法力もつお坊さんは、弘法大師であったろう噂されたそうです。
弘法大師と垂水のソバ / 垂水市  
むかし、ひとりのお坊さんが、垂水の中町あたりにやってきました。  
お坊さん、よほど長く旅を続けたらしく、ふらふらしながら、ある家の門にたどり着きました。  
声をふりしぼって呼んでみました。  
しばらくすると、家の奥から若い娘さんが出てきました。  
お坊さんは、娘に一杯の飯を恵んでくれるよう、頼みました。  
娘さんは、「今ソバを打っているところでした。ソバでも差し上げましょう」と言って、お坊さんを中へ招きました。  
ソバをご馳走になったお坊さんは、娘さんにこう言いました。  
「お礼に差し上げるものはありませんが、美味しいタレの作り方を教えましょう。」  
娘さんは、お坊さんが教えたとおりタレを作ってみました。  
この家のソバは美味しいと評判となったそうです。  
垂水の十五郎ソバも、弘法大師から教えてもらったタレを受け継いだものだそうです。
弘法井戸 / 霧島市隼人町  
むかし、むかし。  
ある夏の暑い日のことです。  
ひとりの旅の僧が、杖をつきながら野久美田の村にやって来ました。  
そのお坊さん、炎天下の何日もあるいてきたらしく、とても疲れているようでした。  
よほど喉が渇いていたらしく、道端に置いてあった水桶に眼を留めると、それに近づき中をのぞいてみました。  
水桶には汚れた水が、底の方にすこしたまっているだけでありました。  
お坊さんはガッカリした顔で、その汚い水を飲むかどうか、迷っているようでした。  
この有様を木陰からじっと見ていた、ひとりの少女がいました。  
気の毒に思った少女は、隣の家から奇麗な水を汲んでくると、  
「お坊様、これをお飲みください」と言うと、水を差し出しました。  
お坊さんは大変よろこんで、美味しそうに飲み干しました。  
そうして大きく息をひとつつくと、少女にお礼を言いました。  
お坊さんは、持っていた杖で力いっぱい地面を突き立てました。  
すると、抜いた杖の穴から奇麗な水が勢いよく湧き出てきました。  
少女はビックリし、お坊さんの方を振り返りました。  
お坊さんの姿は、そこにありませんでした。  
このお坊さん、実は弘法大師でありました。  
気立ての優しい少女にお礼のシルシとして、水の乏しい土地に井戸を作ってくださったのだと、土地の人たちは言い伝えてきました。  
その井戸は、清い水がコンコンと湧き出て、どんな日照りの年でも枯れることはなかったそうです。
弘法大師の逆さ椿 / さつま町  
むかし、むかし。  
弘法大師が諸国をまわって、仏の教えを説いていたころのことです。  
弘法大師が中津川の園田にやってくると、村人たちが大勢集まっていました。  
村人たちは火を燃やし、鐘を鳴らして雨乞いをしていたのでした。  
畑を見ると、長い日照りがつづいたのでしょう。  
作物はみな枯れ果てていました。  
気の毒に思った弘法大師は、天に向かって一心にお経を唱え祈願しました。  
それでも、雨は降ってくれませんでした。  
弘法大師は地面に膝まづくと、こう唱えました。  
「水を与えたまえ」  
精魂込めて祈り、やおら立ち上がると杖を地面に立てました。  
すると、杖を立てたところから、水がこんこんと湧き出してきました。  
喜んだ村人たちは、弘法大師の力に驚き、感謝しました。  
村人たちは、急いで水を汲むと作物にかけ、何とか安心できるようになりました。  
そのときのこと。  
立てた杖が不思議と芽吹き、大きく育ち枝をはってきました。  
やがて奇麗な椿の花をたくさん咲かせるようになりました。  
ところが、椿の花はぜんぶ下向きにさきましたので、みな不思議に思っていました。  
よく見ると、杖が逆さに立てられていたそうです。 
弘法様と鬼 / 鹿児島県大島郡喜界町湾  
弘法大師が喜界島で鬼退治をしたと伝えられております。 
大師芋 / 鹿児島県  
煮ていた里芋を通りかかった空海に与えなかったので黒焦げになったので食べられないので捨てると芽がでたが生ったのは食べられない芋だった。
 
かまど神 / 「竈(かまど)神と厠(かわや)神」から 
家の神は土間、板の間、座敷と家屋構造が分化・発展するにつれて次々と新しい神々が増えていった。家の表側(座敷側)の神は新しく導入された神々、一方台所の水神や、かまど神(火の神)はわれわれの先祖が土間で生活していた極めて古い時代から祀られてきた神といえる。これらの「裏側の神」は、人形状の御幣や神像などイコン化した神体を持つものもあるが、たいていは御幣やお札を貼ったり、石や榊を供えて、神がいる場所を表示しているにすぎないことが多い。しかし「裏側の神」は家付きの土着神が多いため、毎日の生活の中で親しく祀られ、多様な機能をもつ生活神としての性格を濃厚に持っている。  
たとえば、「かまど」や「いろり」など家の火所に祀られている神は、火や火伏せの神としての他、作神や家族の守護神などとしても信仰され、稲苗や穀物の初穂を供えたり、赤ん坊や花嫁、家畜など家の成員として新たに加入するものを承認したり、旅に出るものを守護したりもする。昔話の「大歳(おおどし)の火」でも、土間からいろりやかまどを経て、納戸に至る裏側の空間が、福分を受ける上で重要な場所とされている。  
かまど神は穢れに敏感で、「荒神」と呼ぶ所も多いように、祟りやすく、恐ろしい神とされる。  
否定的なイメージを持つ反面で、家の盛衰や人の幸福や寿命を司り、生活全般にわたって恩恵を施してくれる神ともされている。  
 
「大歳の火」という民話は、日本神話を原型として、昔話として、広く語りつがれているようです。  
大晦日に火種を消してしまった嫁が、夜中に困り果てて、近所の家にもらい火に行くが皆寝静まっている。そこで見知らぬ人から死体を預かる条件で火種をもらい、年を越す。  
元日に見ると死体は黄金になっていて、その家は栄える。  
というような民話で、たくさんの変形パターンがあるようです。  
いろりの火種を絶やしてはいけない、という掟。その掟を守れなかった人は、何をしなければいけないのか?  
いろりの火種をめぐる伝承に、死のイメージが関わることからは、人間が火と家を手に入れるために辿った、長い歴史の暗闇が垣間見られるように思います。  
続いて筆者は、火の根源としての元来の自然物は「雷」であったとして、雷と火の関係を考えています。  
■ 
「かまど神」は、家屋の裏側の神々の代表といえる。  
「かまど神」が山と結びついている例もある。  
次の「竜頭太」の話は、「かまど神」と山の関連をはっきり示している。「弘法大師行状記」の中の「竜頭太の事」を、近藤喜博氏によって示すと次の通りである。  
「竜頭太」は和銅年中より以来、すでに百年におよび当山山麓に庵を結びて、昼は田を耕し、夜は薪を樵るを業とす。その面、竜のごとし。顔の上に光ありて、夜を照らすこと、昼に似たり。人これを「竜頭太」と名づく。その姓を「荷田」氏という。稲を荷けるゆえなり。  
しかるに弘仁の頃に、弘法大師この山にて難行苦行し給いけるに、かの翁来て申して曰く。「われは当所の山神なり。仏法を護持すべき誓願あり。願わくば大徳常に真密の法味を授けたまうべし。しからば愚老たちまちに、応化の威光を耀て、長く垂迹の霊地を盛りて、しずかに弘法を守るべし」と。  
弘法大師は服応し給いて、深く敬をいたし給う。これをもってその面顔を写して、彼の神体とす。種々の利用れんれんに断ずることなし。  
かの大師御作りの面は当社の「かまど戸殿」に安置される。毎年祭礼の時、神輿相共に出し奉る。すなわち、当社に「荷田の社」とて鎮座しましますは、かの社壇なり。今の神宮肥前前司荷田の延種は「竜頭太」の余胤なり。  
(中略)  
「かまど」が水、穴、山といった異界と密接に関連した特別の場であることがわかる。  
 
筆者飯島氏は、上記のように、空海が修行中に出会った「竜」のような姿の「山の神」についての近藤氏の文章をまとめて、「竜頭太」なる生物は、「田の神」かつ「山の神」であり、竜のような姿と光を発していることから、「雷神」的な性格をもつものであり、また「地主神」でもあり、「護法」的性格も持つとしています。  
そして、「かまど神」は、そうした「山の神」の系譜のものであり、さらに、稲荷信仰と密接に関連していることを指摘しています。「かまど神」は、家の中にはとても収まりきれない、はるかな森羅万象と共鳴しあっている存在であるようです。また、稲荷という神も、非常に重い意味を持っているように思われます。  
毎年正月に各家にやってくる来方神である。  
地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿(としどん)、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。  
「年」は稲の実りのことで、穀物神である。その根底にあるのは、穀物の死と再生である。  
古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。  
現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。  
門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。  
また一方で、年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。  
農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたためである。  
柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。 
雷神と竜と空海  
「火」は、誤りの無いように取り扱われなければならないし、また、釜鳴りの音は何を告げているか、よく聞きながら、、「火」の世話をする必要があるのではないかと思われてなりません。「竈(かまど)神と厠(かわや)神」の紹介を続けます。  
 
かまどと「竜頭太」との結びつきから、さらに、かまどと「雷神」の問題が出てくる。  
「雷神」の出現形態としては、竜蛇、少童、鬼などがある。  
「日本書紀・雄略記」に、「小子部(ちいさこべ)スガル」という連(むらじ)が、雷である三諸岳(三輪山)の大物主の神を捕らえにやらされたが、その神は目がらんらんと輝く大蛇であった、という。  
このことから雷岳(三輪山)の地主神は、竜蛇で表わされた「雷」であることがわかる。  
「雷」と「かまど」の結びつきは、火の根源が「雷」にあったと考えれば、当然のことである。  
「ひょうとく」(ひょっとこ)といった異界の醜い小童の面を、かまどの前の柱にかけて祀るのは、田の神、かつ山の神である「竜頭太」の雷神的性格に由来するものである。  
かまどは、家屋の中では、私的な裏側の領域に属するものであって、異界との境界であり、精霊の出現する場所としては中心といえる。  
物が生成される背後には、異界の霊力があることを考えた場合、かまどは創造の中心となるのである。  
 
かまどの神様は、いろいろな場所に祀られていると思いますが、その一つ、稲荷山のかまど神は、弘法大師・空海が最初に祀ったもののようです。  
山の中で、「竜頭太」という目をランランと輝かせた、光る竜の顔をした謎めいた生き物を見た空海は、その面を彫り、それを「かまど殿」に祀ったということです。  
なぜ、それが「かまど殿」に祀られたのかについて、  
筆者は、上の文章で、「日本書紀」にある「小子部スガルの連(ちいさこべのすがるのむらじ)」という人の伝承を引用しています。  
筆者は、「スガル」が「雷」である三輪山の主「大物主」をとらえてみたら、「蛇」であった、ということから、  
「蛇」=「竜」=「雷」=「火」=「かまど神」と考えられる、と言っているのだと思います。  
ここに連鎖するたくさんの物の関係は、とても興味深く思われます。  
家の中心「火」は、自然界においては、「雷」という電気的性質として捉えられていたということだと思います。  
小子部(ちいさこべ)スガルについて、「日本異界絵巻」という本で宮田登氏が、以下のように述べています。  
 
一寸法師、桃太郎、瓜子姫、かぐや姫など、民話の中の「小さ子」はなじみ深い。こうした「小さ子」の元祖というべき「小子部(ちいさこべ)スガル」については、次のような話がある。  
「日本書紀」では、雄略天皇に呼ばれ、奈良の三輪山の神を捕まえてくるように命じられた。三輪山の神は、水神である竜蛇の形をしている。天皇は「小子部連」は人並み以上の怪力の持ち主であることを知っているので、三輪山の神を引っ張って連れてくるように命じたのである。  
「スガル」は三輪山に登り、大蛇を捕らえて、天皇の下に連れてきた。  
また「日本霊異記」には、天皇に雷神を連れてこられるか、と難題を吹きかけられた「スガル」が、直ちに緋色の鉢巻を額につけ、赤い旗のついた鉾を空中に捧げもち、馬に乗り、飛鳥の道を東北から西南にかけて走り抜けた。そして雷神に、この場に落下するように呼びかけたのである。すると赤い鉾を通して落雷があったので、「スガル」はただちに竹で編んだかごの中に雷神を閉じ込め、天皇の下へ運んだ。  
この二つの記事によると、「小子部スガル」は小さいながら怪力を持ち、ずば抜けた知力をもつ存在であった。  
特に水神・雷神を自由自在に操る能力の持ち主だったことも分かる。  
それ以前は天皇そのものが雷鳴を起こし、雨を降らせる力をもっていたのだろうが、  
そうした天皇自身の超能力は分散してしまい、天皇は身近に代行者としての呪術者をはべらせていたのであり、そこに「小さ子」が位置付けられていた。  
こうした「小さ子」の不思議な力はいつの世にも印象深く、異界の主として語られてきたのである。  
 
ここに「稲荷山」の「稲荷信仰」が関わってくるので、キツネや稲も関係することになり、話はとてもややこしくなります。wikipedia「稲荷」によると、「稲荷」と「空海」の関係は以下のようになります。  
 
全国の稲荷神社の総本社は、京都市伏見区の稲荷山の西麓にある伏見稲荷大社である。元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神で、現存する旧社家は大西家である。また江戸後期の国学の祖、荷田春満を出した荷田家も社家である。  
『山城国風土記』逸文には、伊奈利社(稲荷社)の縁起として次のような話を載せる。  
秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐの はたの きみ)は、富裕に驕って餅を的にした。するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが神名となった。伊呂具はその稲の元へ行き、過去の過ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。  
また、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。  
都が平安京に遷されると、元々この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とみなされるようになった。『二十二社本縁』では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。  
 
「古代は生きている・石灯篭と稲荷の謎」という本で、榎本出雲氏と近江雅和氏は、稲荷について次のように述べています。  
 
国語学者は「イナリ」とは、「イネナリ、イネニナルのつづまったものである」と言うが、果たしてそうだろうか。漢字で「稲荷」と書いて「イナリ」と読ませているが、「荷」の字には「リ」や「ナル」の読み方はない。「イナリ」は明らかに、別の伝承によって当て字されたものだと読みたい。  
言葉の面から見れば、「伊奈利」と表記された「イナリ」信仰の始まりは、秦氏よりもさらに古くさかのぼるということが考えられ、そればかりではなく、考古学的にも裏づけられる。  
稲荷山は標高320mばかりの低い山で、山頂とその周辺から出土した鏡類は、少なくとも奈良時代よりもさらに古い4世紀の遺物であって、和銅年間には一般に使用されていないものであることが分かっている。  
初源の頃は、丸い石一つ置いただけで、これを拝んだものだった。  
たしかに「稲荷神社」の分布を見ると、古代の産鉄族がいた地域にあり、またしばしばいば「稲荷塚」とか「稲荷山」と呼ばれる古墳があることは、秦の伊呂具公よりもかなり古くから「イナリ信仰」があったと思われる。  
 
イナリ信仰については、改めて考えてみたいと思っていますが、近世のご利益信仰のイメージとはまるで違う、古代の「火」と「山」の荒々しい世界の息遣いが聞こえてくるようです。 
「後ろ戸の摩多羅神」は、何を見ているのか  
飯島吉晴氏の「竈(かまど)神と厠(かわや)神」という本では、「かまど神」の性質がさまざまに検討されています。筆者はさらに、「かまど神」は、「後ろ戸の神」と称されてきた「摩多羅(またら)神」にも似ている、と述べています。  
 
かまどと雷神は、火を根源とし、共に対立する物の媒介者となっている。  
雷神は天と地を媒介するものだが、それ自体水・火、陰・陽の対立を統合した存在であり、その姿を竜蛇、子童、鬼といった神的形象で表わした。  
かまど神は古来、人の生死や運命を司る神として鎮魂儀礼に関与し、家の象徴として家の神の代表ともなった。  
しかしかまど神は、強力な霊威を持った神であったが、決して表に出ることなく、暗い影の存在として留まった。  
この点、かまど神は「またら神」と類似している。  
「またら神」も反中央的な神で、五穀豊穣、怨霊重複を司り、「境の神」的な影の存在であるが、強力な神威を持っていた。  
大地は暗い、死の、女の世界とみなされ、この世にとって隠された世界であり、人間の心の最深層に対応する切り捨てられがちな世界であるが、他方で何かが生み出される世界でもある。  
大地の神には、こうした対立する性質が同居している。  
かまど神の暗いイメージは大地と生命の関係に由来するが、生をはらんだ死であるとしたものと見ることができよう。  
薩摩南の悪石島では、盆の来訪神「ボゼ」の仮面や杖は黒と赤の縞模様に塗られ、生と死という対立するものを表現している。  
ボゼは対立を統合した存在といえよう。  
家の神としてのかまど神は、境界性、両義的性格を持ち、媒介者として絶えず秩序を更新していく点にその機能が認められよう。  
秩序の移行に伴う、排除されるべきもの、死すべきもののイメージが、両方の世界の対比から神秘的な陰の神に付与されるために、かまど神は黒い暗い神と考えられていたのである。  
家においてはかまどの他、戸口、敷居、倉、厠、台所、井戸、肥塚、藪などが生死を媒介する境界領域にあたる。  
このような領域は、家屋や屋敷の裏側に属する私的な場所で、異界との交渉のためには暗い汚いイメージの伴う非公式的な場所が選ばれたのである。  
生命に強く関連する場所は、神聖な面を持つが、日常生活では暗い汚い場所と見られた。  
力は汚きものに宿る、という逆説は住居空間の中にも見られるのであり、かまどはその代表といえる。  
 
「摩多羅神」について、中沢新一氏は「精霊の王」という著書の中で、次のように述べています。  
 
この神の由来について、はっきりしたことはもうわからなくなっている。  
鎌倉から室町にかけて、比叡山を中心にする天台系の寺院で流行していた「本覚論」は、江戸時代に入ると「邪教」の烙印を押されて、書物を焼かれたり、仏具を壊されたりしてしまい、表だっての伝承はそれで絶えてしまったから、  
「摩多羅神」の正体についてもすっかり不明となってしまった部分が大きい。  
きれぎれに語られてきたことをつなぎあわせてみても、なかなかこの神の実体には届かない。  
「異神」という書物で山本ひろ子の出している考え方が、いまのところこの問題に一番肉薄できている、と私には思える。  
彼女は「渓嵐捨葉集(けいらんしゅようしゅう)」(光宗著・14世紀)に記録された次のような記事に注目する。  
「摩多羅神」とはマカカラ天(マハーカーラ天)といい、また「ダキニ天」である。  
この天の本誓に  
「経に言う。もし私が、臨終の際、その者の死骸の肝臓を食らわなければ、その者は往生を遂げることはできないだろう。」  
この事は非常なる秘事であって、常行堂に奉仕する堂僧たちも、この本誓を知らない。  
決して口外せず、秘かに崇めよ。  
ここにあげられている「マカカラ天、大黒天」といい、「ダキニ天」といい、どちらも心をこめてお祀りしていれば、正しい意図をもった願望を成就するために、大きな力となってくれる、  
しかし少しでも不敬のことがあると、事を進める上に大きな障害をもたらして、あらゆる願望の成就を不可能にしていまうというタイプの守護神である。  
民俗学的にこれを言い換えれば、このタイプの守護神はまぎれもない「荒神」である。  
しかもこの神は、「人食い」としての特徴ももっている。  
人が亡くなるとき、「またら神」=「大黒天」=「ダキニ天」であるこの神が、死骸の肝臓を食べないでおくと、その人は往生できないのだとういう。  
人生の間に蓄積されたもろもろの悪や汚れを消滅させておく必要がある。  
そうでないと、往生の最高である浄土往生は難しい。  
「摩多羅神」はそのような慈悲をしめすのだ。  
なぜ、それは秘密にされなければならなかったのか。  
それは「摩多羅神」をめぐる宗教的思考の中に、仏教が生まれるよりもはるか以前から活動を行っていた「野生の思考」による新石器的な思考が、新しい表現のかたちを得て生々しい活動を続けていることを、一般の目から隠す必要があったからである。  
「後ろ戸の神」である「摩多羅神」を中心としてうごめきまわっているのは、理知的な仏教の体系を作り出しているものとはまったく異質な、一種の「古層」に属する思考だ。  
仏教の歴史はたかだか紀元前数百年を遡るにすぎないが、こちらの方はその百倍もの長い時間を生きてきた人類の思考である。  
仏教の中に、そのようなとてつもなく古い思考が生き続けている事実は、隠しておかなければならなかった。  
 
中沢新一氏は、「後ろ戸の神」という世にも怪しげな名前を持つ神は、仏教の中に生きている、仏教以前の原始的な人類の思考の実体であると述べています。  
これは、キリスト教におけるミトラス教などと同じく、文化の基層を見ているということだと思います。  
「精霊の王」という同書で、中沢氏は諏訪のミシャグジ、石神などにうかがえる「宿神(しゅくじん)」といわれてきた原始的な神あるいは精霊と人類のかかわりについて、調べています。  
 
「宿神」をめぐる思考が包み込んでいる世界は、「またら神」が包摂しようとしている世界よりもずっと広大である。  
「またら神」が転換を促すのは、仏教がそのことに意識を集中している「煩悩」や「三毒」や「無明」のことばかりであるのにたいして、  
新石器的な「野生の思考」の直接の末裔である「宿神」にとっては、  
この宇宙を構成するありとあらゆるものとことに、いかにして転換をもたらし、よみがえりと刷新をもたらしていくかが課題となっているからだ。  
 
中沢氏は、幾度となく「野生の思考」という言葉を用いていました。  
その言葉は、人類の歴史の根源にある、人類の「思惟する力」を信頼している、と言っているのだと感じられました。  
原発という「かまど」も、なんらかの必然があって、この世に現れ出たのかもしれません。原発がなくなる時とは、どんな時なのか?人類は何をどのように「思惟」することができるか?生の、生きた、思考が求められているように思います。  
wikipedia「摩多羅神」には、以下のような説明があります。  
摩多羅神(またらじん、あるいは摩怛利神:またりしん)は、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。  
常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる。  
『渓嵐拾葉集』第39「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されている。  
しかし摩多羅神の祭祀は、平安時代末から鎌倉時代における天台の恵檀二流によるもので、特に檀那流の玄旨帰命壇の成立時と同時期と考えられる。  
この神は、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)のニ童子と共に三尊からなり、これは貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされ、衆生の煩悩身がそのまま本覚・法身の妙体であることを示しているという。  
江戸時代までは、天台宗における灌頂の際に祀られていた。  
民間信仰においては、大黒天(マハーカーラ)などと習合し、福徳神とされることもある。  
また一説には、広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされ、東寺の夜叉神もこの摩多羅神であるともいわれる。 
伝説が伝えられている場所・地名  
1.三度栗  
岡山県津山市、岡山県真庭郡川上村、岡山県阿哲郡哲西町、岡山県川上郡備中町、鳥取県西伯郡会見町、鳥取県日野郡日野町、高知県高岡郡窪川町、高知県土佐清水市  
2.弘法清水  
山形県東田川郡藤島町、同郡羽黒町、同郡三川町、同郡朝日村、山形県東村山郡中山町、山形県村山市、山形県東根市、山形市、山形県上山市、佐渡郡相川町、栃木県塩谷郡藤原町、栃木県那須郡烏山町、栃木県上都賀郡粟野町、同郡西方村、茨城県笠間市、茨城県高萩市、群馬県利根郡新治村、群馬県富岡市、群馬県利根郡片品村、群馬県碓氷郡松井田町、群馬郡榛名町、群馬県高崎市、群馬県前橋市、群馬県勢多郡新里村、山梨県南都留郡秋山村、千葉県佐倉市、埼玉県秩父郡両神村、埼玉県東松山市、埼玉県所沢市、埼玉県与野市、埼玉県戸田市、東京都練馬区、東京都八王子市、神奈川県秦野市、神奈川県小田原市、山梨県北巨摩郡高根町、山梨県中巨摩郡敷島町、同郡竜王町、同郡甲西町、山梨県東八代郡御坂町、山梨県富士吉田市、石川県羽咋郡志賀町、富山県下新川郡朝日町、富山県黒部市、富山県上新川郡大沢野町、富山市、富山県新湊市、富山県小矢部市、石川県鹿島郡能登島町、石川郡鳥越村、石川県能美郡辰口町、石川県江沼郡山中町、石川県小松市、石川県金沢市、石川県羽咋郡富来町、石川県輪島市、福井県坂井郡芦原町、同郡丸岡町、福井県大野市、福井県鯖江市、福井県武生市、福井県敦賀市、福井県遠敷郡名田庄村、大阪府羽曳野市、大阪府豊中市、大阪府枚方市、大阪府交野市、大阪府四条畷市、大阪府八尾市、大阪府柏原市、大阪府富田林市、大阪府南河内郡太子町、大阪府和泉市、和歌山県日高郡南部川村、和歌山県日高郡南部町、和歌山県西牟婁郡中辺路町、和歌山県伊都郡高野町(温水、塩水は除く)  
 
弘法水

 

 
弘法大師のことわざと弘法水1
1 弘法大師とは  
「弘法大師」とは、真言宗の開祖として有名な空海のことです。  
延喜21年(921)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られたそうです。  
現代においても、「弘法大師」は空海を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージでもあります。  
そして、歴史上、天皇から下賜された大師号は27名もいるそうですが、一般的に大師といえばほとんどの場合「弘法大師」を指しています。  
極端に言えば、空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」はほとんどの人が知っています。  
「弘法大師」の略年表は下記のようです。  
774年(宝亀5年)讃岐の国(香川県)生  
794〜803年の間行方不明  
804年に最澄と共に遣唐船で入唐  
806年帰国  
806〜809年の間行方不明  
809年嵯峨天皇の時上京が許され、高尾山寺に入る  
810年薬子の変が起こり、空海は鎮護国家のための大祈祷を行う  
816年帝より高野山を賜り開祖に着手 821年5月,故郷四国讃岐の満濃池の修築  
835年3月21日入定  
921年朝廷より「弘法大師」の諡号  
2 弘法大師のことわざ  
「弘法も筆の誤り」ということわざがあります。  
これは、どんなベテランでも間違うことがあるという意味のことわざですが、これにはもとになった逸話があるそうです。  
「弘法大師」は、平安時代のすぐれた書道家「三筆」の一人でもあったそうです。  
ある時、「弘法大師」は天皇から宮中諸門の額の字を書くよう勅命を受け、「応天門」と書いた額を掲げました。  
ところが掛け終わって下から額を見ると、「応」の1画目の点が抜けていました。  
額は相当高い場所にかけてあるため、下ろすのは無理で、登って書くこともできなかったそうです。  
でも、「弘法大師」は少しもあわてず、墨をつけた筆を下から投げたそうです。  
それが見事に「応」の1画目の位置に命中し、立派な点が打たれたことで、居合わせた全員が弘法大師の神業に感心したそうです。  
これは『今昔物語』に出てくる話で、本来は字を書き損じたことではなく、どんな状況でも完璧な文字を書く弘法大師の素晴らしさを伝えるものだったようです。  
また、「弘法筆を選ばず」もあります。  
本当に才能のある人は道具の優劣に関係なく力を発揮するという意味ですが、こちらはもとになる逸話はありません。  
「弘法大師ならどんな筆でも立派な文字を書くはず」と後世の人が考え、ことわざにしたようです。  
「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」もあります。  
大師といえば、「弘法大師」で、太閤といえば豊臣秀吉をイメージします。  
先に述べたように、大師というのは朝廷から高僧に与えられた称号なので、「弘法大師」以外にも何人もいるのですが、「弘法大師」のイメージがあまりにも強いため、現代では「お大師さん」といえば、「弘法大師」と多くの方が認識されています。  
同じように、太閤も摂政・太政大臣に対する敬称で、これも何人もいるわけですが、誰もが慣れ親しんでいる太閤は豊臣秀吉だと思います。  
つまり、このことわざは、大師も太閤も特定の個人を表す尊称ではないものであるのに、庶民の敬い慕う人気が、一般の尊称を特定の人を指すものにしてしまったことなのです。  
3 弘法大師の水にまつわる伝説  
さて、前置きが長くなりましたが、「弘法大師」には水にまつわる伝説がたくさんあります。  
「弘法大師」にまつわる伝説は全国に5000以上あると言われていますが、その中で、水に関するものだけでも1600以上あると言われています。  
典型的な「弘法大師」の伝説の水は次のような話が多いようです。  
1 喉が乾いた大師が水を所望し、老婆が遠方から水を運んで快く水を提供したので、水に不自由なこの土地に同情し、御礼に杖で地を突いて水を出す  
2 塩の入手に難儀していることに同情し、塩水井戸を湧かす  
3 土地を荒らす竜を閉じこめ、竜が悔い改めて水を湧出させた  
4 料理されそうになっている鮒を助けたところ片目の鮒になった  
5 盲目の老婆に水をもらい、御礼に眼病に効く水を湧出させた  
6 水を惜しんだ老婆が、嘘を言って大師を追い返すと、湧水や井戸が白濁したり、涸れてしまって水に苦しむことになる  
これらの弘法水は、これまでの調査で日本全国に1,400ヶ所ほど存在していることを確認しているそうです。  
その名称には次のようなものがあります。  
弘法水,弘法清水,弘法井戸,大師の水,清水大師,御水大師 杖突水,御杖の水,杖立清水,独鈷水,金剛水(遍照金剛),塩井戸(水湧出) 加持水(加持祈祷による),閼伽水(聖なる水),硯水(すずりみず,書道)  
4 弘法水の分布と水文学的特徴  
下記に、各都道府県の弘法水伝説数を調べていますが、弘法水の分布は日本海側と東海地方が少なくなっています。  
北海道と沖縄は伝説そのものがありませんが、遠くて行けなかったのでしょうか?  
県別にみると岩手県,福島県,群馬県,長野県,石川県,奈良県,和歌山県,香川県に多く、伝説や民話の多い地域に数多くみられるのが特徴です。  
また、平地には弘法水はほとんど見られず、丘陵地や山中の谷頭や地形の変換点、山頂などに多く見られます。  
私は、四国に住んでいますから、弘法水は四国ばかりと思っていたのですが、全国にこんなにもあるのが驚きです。  
香川県は生まれ故郷なので多いのはわかっていましたが、ものすごく多いと思っていた愛媛県が、全国では少ないほうの県に入っているとは思いませんでした。  
現地調査から、弘法水の湧出量はほとんどが1l/sec以下であり、その半分以上は0.1l/secのごく小さな湧水であることがわかっています。  
これら小規模の湧水が1,200年まえから現在に至るまで湧出しているとは考えにくいことで、水文学的には非常に興味ある湧水と言えます。  
尚、いくつかの弘法水では、潮汐に感応して湧出量や井戸の水位が変化するものがあります。  
5 弘法水の水質異常  
弘法水には,変わった水質(例えば,塩水井戸,白濁した水等)のものが知られています。  
例えば火山や石灰岩地域ではないにもかかわらず、pHが高かったり、極端に低い例が見つかりました。  
また、無機主要成分にも異常な値を示す弘法水が多く、特にカルシウム,硫酸,硝酸濃度の高いものが多く見いだされました。  
聞き取り調査ではゲルマニウムやホウ酸が溶けているといわれる弘法水もありました。  
これらの弘法水の中には薬水として利用されているものが多くみられます。  
最も典型的な例は、pHが低く硝酸イオン濃度の高い弘法水が眼病に効くと言われています。  
弘法水の効能,利用法には次のようなものがあります。  
眼病・胃腸病・皮膚病・疣取り・火傷・万病・健康増進・不老長寿・安産・書道(硯水)・茶の湯・仕込み水(酒・味噌・醤油)・紙漉き・水虫・害虫駆除などです。  
6 伝説の水に登場する人物  
様々な伝説全集や郷土資料等から伝説の水と呼ばれているものは、弘法水が圧倒的に多く、伝説の水の半分、登場する人物の3分の1を占めているそうです。  
2番目に多い安倍晴明(陰陽師)でさえ70ヶ所しかないそうです。  
以降では、歴代天皇(約20ヶ所)や蓮如(10ヶ所)を始めとして歴史上の有名な人物が上位を占めています。  
また、弘法水が日本全国で見られるのに対して、他の伝説の水は,その人物の活躍した狭い地域内でしかみられない場合が多いようです。  
7 弘法水とは  
弘法水は、大師自身が掘当てた水と考えるよりは、水量はわずかながらも水の乏しい地域に数百年もの間変わらずに湧出し続け、淘汰された湧水・井戸水と考えるべきだと思います。  
そして、無数の湧水,地下水の中で特殊な水質を持ち合わせ、疾病(特に眼病・皮膚病)や健康増進,その他の水として利用できたものは、当時の衛生状態や医療技術レベルから薬水・霊水として用いられるようになり、それが水神信仰とつながって弘法水となったと思われます。  
これらを合わせて考えると弘法水の本質とは鉱泉・温泉であると考えられます.  
伝説の水は、その登場人物と深く関わって、その用途や水質,水文学的な特徴の見られることがわかってきました。  
その中で、弘法水は日本を代表する伝説の水であり、敬うべきものだと思います。  
8 各都道府県の弘法水伝説数  
奈良県 139 / 和歌山県 134 / 群馬県 95 / 香川県 66 / 石川県 56 / 長野県 53 / 山形県 43 / 福島県 41 / 新潟県 37 / 大阪府 36 / 徳島県 35 / 広島県 35 / 三重県 35 / 京都府 35 / 岡山県 34 / 茨城県 32 / 高知県 30 / 岩手県 29 / 栃木県 29 / 愛知県 28 / 愛媛県 27 / 富山県 27 / 滋賀県 25 / 大分県 25 / 福井県 23 / 千葉県 23 / 兵庫県 22 / 神奈川県 22 / 山梨県 19 / 宮城県 19 / 熊本県 18 / 静岡県 15 / 東京都 15 / 埼玉県 15 / 鹿児島県 14 / 山口県 9 / 岐阜県 8 / 長崎県 8 / 島根県 8 / 秋田県 6 / 福岡県 6 / 青森県 5 / 佐賀県 3 / 鳥取県 3 / 宮崎県 2 / 北海道 0 / 沖 縄県 0 
弘法水2
1.弘法大師伝説の水とは  
弘法大師にまつわる伝説は全国に5000以上、水関係だけで1600以上あります。典型的な弘法大師伝説の水は次のような話です。  
「喉が乾いた大師が水を所望する。老婆が遠方から水を運んで快く水を提供したので、水に不自由なこの土地に同情し、御礼に杖で地を突いて水を出す。」  
一方で下記のような伝説もあります。  
水涸伝説:水を惜しんだ老婆が、嘘を言って大師を追い返す。すると湧水や井戸が白濁したり、涸れてしまって水に苦しむことになる(全国に200ヶ所以上あります)。  
その他にも、次のような伝説があります。  
※塩の入手に難儀していることに同情し、塩水井戸を湧かす。  
※土地を荒らす竜を閉じこめ、竜が悔い改めて水を湧出させた。  
※料理されそうになっている鮒を助けたところ片目の鮒になった。  
※盲目の老婆に水をもらい、御礼に眼病に効く水を湧出させた。  
これらの弘法水は、これまでの調査で日本全国に1,400ヶ所ほど存在していることを確認しています。その名称には次のようなものがあります。  
弘法水、弘法清水、弘法井戸、大師の水、清水大師、御水大師 杖突水、御杖の水、杖立清水、独鈷水、金剛水(遍照金剛)、塩井戸(水湧出) 加持水(加持祈祷による)、閼伽水(聖なる水)、硯水(すずりみず、書道)  
弘法大師(空海)略年表  
 774年(宝亀5年)讃岐の国(香川県)生  
 794〜803年の間行方不明  
 804年に最澄と共に遣唐船で入唐  
 806年帰国  
 806〜809年の間行方不明  
 809年嵯峨天皇の時上京が許され、高尾山寺に入る。  
 810年薬子の変が起こり、空海は鎮護国家のための大祈祷を行う。  
 816年帝より高野山を賜り開祖に着手 821年5月、故郷四国讃岐の満濃池の修築  
 835年3月21日入定  
 921年朝廷より「弘法大師」の諡号  
2.弘法水の分布と水文学的特徴  
弘法水の分布は日本海側と東海地方に少ないことがわかります。これは水資源と関係があるようで、溜池の分布ともよく似ています。また、昔からの街道沿いに分布する地域と、塊状に存在する地域とがみられます。県別にみると岩手県、福島県、長野県、奈良県、岡山県に多く、伝説や民話の多い地域に数多くみられるのが特徴です。また、平地には弘法水はほとんど見られず、丘陵地や山中の谷頭や地形の変換点、山頂などに多くみられます。  
現地調査から、弘法水の湧出量はほとんどが1l/sec以下であり、その半分以上は0.1l/secのごく小さな湧水であることがわかっています。これら小規模の湧水が1,200年まえから現在に至るまで湧出しているとは考えにくいことで、水文学的には非常に興味ある湧水といえます。なおいくつかの弘法水では、潮汐に感応して湧出量や井戸の水位が変化するものがあります。  
3.弘法水の水質異常  
弘法水には、変わった水質(例えば、塩水井戸、白濁した水等)のものが知られています。これまでに調査した弘法水の水質分析を実施した結果、水質異常を示す弘法水が多く見つかりました。例えば火山や石灰岩地域ではないにもかかわらず、pHが高かったり、極端に低い例が見つかりました。また、無機主要成分にも異常な値を示す弘法水が多く、特にカルシウム、硫酸、硝酸濃度の高いものが多く見いだされました。聞き取り調査ではゲルマニウムやホウ酸が溶けているといわれる弘法水もありました。これらの弘法水の中には薬水として利用されているものが多くみられます。最も典型的な例は、pHが低く硝酸イオン濃度の高い弘法水が、眼病に効くといわれています。弘法水の効能、利用法には次のようなものがあります。  
眼病・胃腸病・皮膚病・疣取り・火傷・万病・健康増進・不老長寿・安産・書道(硯水)・茶の湯・仕込み水(酒・味噌・醤油)・紙漉き・水虫・害虫駆除など。  
4.伝説の水と弘法水の用途  
弘法水は湧出地点の特徴と湧出量が少ないことから、その用途は緊急時の飲料水として利用される場合が圧倒的に多いようです。それ以外にも独特な水質とプラシーボ(偽薬)効果から、病気(特に眼病や胃腸病)に効く薬水・霊水として利用されたり、空海が書道の二聖・三筆と言われたように、硯水(字がうまくなるといわれている)として利用される例が多くみられました。しかし、他の伝説の水は病気や長寿の水としても利用されますが、仕込み水などの実用的な水として利用されるのが特徴です。  
伝説の水の中には白濁した水が存在しますが、一般的に弘法水が悪水として伝えられているのに対して、他の伝説の水では化粧水として利用されています。これは小野小町等の女性が登場する伝説や疣水の中に多くみられます。そのいくつかの水質を調べたところ、特に悪水と考えられるような成分は検出されませんでした。皮膚によいということから、白濁する原因は粘土分であろうと考えられます。  
5.伝説の水に登場する人物  
様々な伝説全集や郷土資料等から伝説の水を抽出し、人物毎にその数を調べてみると、弘法水が圧倒的に多く、伝説の水の半分、登場する人物の3分の1を占めています。もっとも伝説の水をすべて調べ上げているわけではありませんが、2番目に多い安倍晴明(陰陽師)でさえ70ヶ所しかなく、今後の文献調査でもそれほど増えるとは考えらません。以降、歴代天皇(約20ヶ所)や蓮如(10ヶ所)を始めとして歴史上の有名な人物が上位を占めます。また、弘法水が日本全国で見られるのに対して、他の伝説の水は、その人物の活躍した狭い地域内でしかみられない場合が多いようです。  
いくつかの文献の中には最初の日本全国地図を作製した行基にまつわる水が全国各地にあると書かれていますが、これまでの文献調査では溜池の築造などは多くみられるものの、湧水を出したという伝説は7話しか見られません。行基は弘法大師より100年ほど前の人物であり、本来行基水であった水が弘法水に変ってしまった例が多いと考えられます。  
6.まとめ  
弘法水は大師自身が掘当てた水と考えるよりは、水量はわずかながらも水の乏しい地域に数百年もの間変わらずに湧出し続け、淘汰された湧水・井戸水と考えるべきだと考えられます。一方、無数の湧水,地下水の中で特殊な水質を持ち合わせ,疾病(特に眼病・皮膚病)や健康増進,その他の水として利用できたものは,当時の衛生状態や医療技術レベルから薬水・霊水として用いられるようになり,それが水神信仰とつながって弘法水となったと思われます。これらを合わせて考えると弘法 水の本質とは鉱泉・温泉であると考えられます。  
伝説の水は,その登場人物と深く関わって,その用途や水質,水文学的な特徴の見られることがわかってきました。その中で弘法水は日本を代表する伝説の水であり,一方で非常に特殊な存在でもあるともいえるでしょう。 
日本各地にある「弘法水」3
「大師由来」伝説1500近く  
日本各地には弘法大師伝説の水(弘法水)が多数存在している。これらは弘法大師が発見した水として、次のように伝えられている。  
「弘法大師が日本各地を巡錫の折、ある村で喉が渇いた大師が老婆に水を所望する。老婆は遠方から水を運び快く水を提供したので、大師は水に不自由なこの土地に同情し、御礼に錫杖で地を突いて清水を出した」  
弘法大師にまつわる伝説は全国に無数に存在するが、弘法水伝説はこれまでの調査で1489編を確認している。次に多いのが晴明水(安倍晴明由来)の70編で、僧侶では日蓮水の40編であるから、弘法水がいかに多いかがわかるだろう。これらの弘法水は各地で「弘法清水」「弘法水」「弘法井戸」「加持水」「杖突水」「金剛水」「閼伽水」「霊水」「臼池」「硯水」「塩井」などと呼ばれ、古くから神聖な水として大切に利用されてきた。  
弘法水の分布を見ると、北は青森県の下北半島から南は鹿児島県の加計呂麻島にまで存在するが、必ずしも一様ではなく、旧街道に沿って点在する地域と、塊状に存在する地域がある。特に弘法大師の本拠地である高野山や東寺のある近畿地方から、生誕地であり八十八カ所霊場のある四国にかけて多数存在するが、水飢饉の頻発する関東内陸部にも多くの弘法水が存在する。逆に新潟、富山、石川を除く日本海側にはあまり見られない。これは豊富な雪解け水の恩恵に浴する地域であったためと考えられる。また弘法水の存在する地域には「杖突」「塩井」等の地名が残されている例が少なくない。  
弘法水の湧出形態には独特な特徴が見られる。弘法水は、丘陵地上の地形変換点や山頂直下の谷頭湧水、砂浜海岸にある淡水の湧水が多く、その一方で平野部に見られる井戸、いわゆる浅層(不圧)地下水や崖線からの湧水はほとんど見られない。水の不便な地域の代表的な地域である山頂直下や砂浜海岸で淡水が湧出するという不思議さから、弘法水と呼ばれるようになったものと考えられる。  
また「弘法井戸」と称される弘法水のほとんどが湧水であり、井戸であってもその地下水面は非常に浅く、湧水といって差し支えないものが多い。その湧出量は80%が毎秒1リットル以下であり、50%は毎秒0・1リットル以下のごく小規模の湧水である。しかし、これらの湧水が自然災害の多い日本において1200年前から現在に至るまで湧出し続けているかについては、疑問の余地が多い。もしこれが事実であれば、水文科学的には非常に珍しい湧水である。実際には、街道が整備され日本各地に布教ができるようになった江戸時代に、高野聖が弘法大師由来の水として伝えた湧水がほとんどではないかと考えられる。  
また、伝説の中には、「ある僧侶が……それは弘法大師だった」という記述が多く、大師の少し前に活躍した行基に由来する水が、弘法大師に置き換わった例もあるのではないだろうか。また、中国では水神としてあがめられている伝説の王朝「夏」の禹王と同様に、日本では弘法大師が水神と同一視されていることから、水の乏しい地域で、干ばつや災害の発生にもかかわらず枯渇することなく湧出し続けたものを「弘法水」として伝えてきたと考えるのが適当であろう。  
一方、弘法水の中には、潮汐に感応して湧出量や水位が変化するものや、塩水井戸、白濁水などの特異な水質を示すものが知られている。愛媛県西条市の河口にある「弘法水」は、満潮時は海中に没するにもかかわらず、ほとんど海水の混入は見られなかった。逆に山間にあるにもかかわらず塩水が湧出する井戸は、秋田県二ツ井町(現・能代市)、福島県会津若松市、千葉県館山市、新潟県柏崎市、富山県氷見市、長野県大鹿村などに存在する。また、白濁している地下水が日本各地に散見されるが、一般的な伝説の水の場合には「化粧水」として利用される例が多いものの、弘法水は水質の悪い「悪水」として存在している。また温泉や鉱泉も特異な水質を示す水であり、弘法水としては72カ所知られている。  
弘法水の中には、眼病、皮膚病、胃腸病などに効能がある、などという"薬水伝説"が多数存在する。科学的に最も大きな特徴は、これらの弘法水の多くに、特徴的な水質を示すものが多いことである。万病や長寿に効能が伝えられる弘法水はカルシウム濃度が高い傾向がある。一般的にカルシウム濃度の高い水を飲用する地域は長寿であることが知られている。また眼病に効く弘法水には、溶存成分濃度が低い水や、塩化ナトリウム型の水質を示す水、硝酸イオン濃度の高い水があり、当時の衛生状態を考えると、これらの水を使用することで眼病が改善したということは十分考えられる。  
日本人は、塩には脱水作用と殺菌作用があることを経験的に知っていた。塩湯は神経痛やリウマチあるいは皮膚炎などに効能が認められる。実際に皮膚病に効能が伝えられる弘法水は、一般的な炭酸カルシウム型の水ではなく、塩水や酸化還元電位の低い水が多かった。閼伽水として利用される水は、塩水型もしくは硫酸ナトリウム型の水質を示した。これらの水は非常に清澄であり、硫酸イオン濃度の高い腐りにくい水であった。閼伽水とは神仏に供える水であり、心身の垢を落とす水として利用する水でもあるために、すぐに腐ってしまう水の使用は避けたのであろう。  
硝酸イオンは殺菌効果があると考えられるが、人為的な汚染物質であり、高濃度の水を飲用すると、メトヘモグロビン血症(いわゆるブルーベビー・シンドローム)を発症することが知られている。しかし、お産の際の悪阻を和らげる効能が伝えられている弘法水には1リットル当たり数十ミリグラムに達する高濃度の硝酸イオンが検出されるものがある。この水を飲用すると、血液中の酸素濃度が低下するので、胎児に悪い影響を与えるはずである。自然状態の地下水中に高濃度で硝酸イオンが生成するメカニズムは不明であるが、今後、医学的な側面も含めた詳細な研究が行われることを期待したい。  
以上のことから、弘法水は、大師自身が掘り当てた水であるというよりも、次のように考えるべきであろう。  
1 水量はわずかながらも、水の乏しい地域に数百年もの間湧出し続けた湧水・井戸水である。  
2 無数の湧水・地下水の中で、特殊な水質を持ち合わせ、疾病(特に眼病・皮膚病・胃腸病)や健康増進などに利用できたものは、当時の衛生状態や医療技術レベルから、薬水・霊水として用いられるようになった。  
3 水文科学的には、微量ながらも安定した湧出量であり、特殊な水質の湧水が多いことから、弘法水は浅い地層中を流動する地下水ではなく、かなり深いところから湧出する深層地下水、あるいは温鉱泉の一種である。  
これらの湧水が長い歴史の中で淘汰され、さまざまな効能を発揮し、水神信仰、弘法大師信仰と摺り合わされて成立したものが弘法水の本質であろう。 
 
東北

 

青森県
 
岩手県
念仏清水 / 花巻市大迫町亀ケ森  
弘法大師が諸国遍歴の際に立ち寄り、この湧水を念じ、念仏清水と名づけたとの伝説がある。
蟹沢坊湧水 / 花巻市大迫町外川目  
弘法大師が訪れた際に、杖でついたところから湧水が出るようになったとの伝説がある。
杉ノ堂大清水 / 奥州市水沢区佐倉河字杉ノ堂  
湧水量は市内で一番多く、岩手の名水20選に選ばれている。弘法大師が旅の途中わざわざ立ち寄り飲んだ水である。 
杉之堂大清水 / 水沢市  
弘法大師が立ち寄ったと言われており、また、周辺から縄文晩期の土偶や遺物も発見され古代人がこの湧水で生活していたことを思わせる。る等昔人の生活の場であった所。かつては良質な水を利用しての寒天作りが盛んで、輸出までされたというが、今は農業用に使われている。  
 
宮城県
 
秋田県
塩の井 / 能代市二ツ井町切石字八木山  
弘法大師が授けたという伝承がある。適度な塩分濃度のため、調理に利用されてきた。 
弘法の井戸 / 秋田県男鹿半島・入道崎(畠)  
昔、弘法大師が入道崎の畠(はたけ)部落を訪れ、 水を飲ませてほしいとたのんだところ、その家の人は 「ここは水が不自由なのでその米のとぎ汁でよければ」とこたえた。  
すると、弘法大師は、地面に四角を書き、ここに井戸を掘ればよいと言った。  
教えられた所に掘った井戸は夏でも水が涸(か)れることがなく、「中の井戸」と呼ばれた。  
部落の中で立ち話をしていた男の人に井戸のことを聞くと、 「弘法大師の井戸の水を飲んでいるから、長生きできて、俺が168歳で、こいつが170歳だ。」と教えてくれた。  
井戸の水ではなく「米の汁」を飲んで元気だったようである。  
富山県や福井県には、米のとぎ汁を弘法大師に飲ませたために、そこの水は白く濁ってしまったという「弘法の濁り水伝説」がある。 米のとぎ汁の話は、富山県の方から伝わってきたのだろうが、正反対の結果になっている。  
 
山形県
弘法清水 / 山形県鶴岡市  
山形県鶴岡市の上名川にある「弘法清水」は、今はちょろちょろ流れ出る湧水ですが、弘法大師が休息したところと言い伝えられ、旅人に水を提供するという大事な働きを続けてきた湧き水です。 
 
福島県
半田山麓湧水群 / 桑折町  
半田山の麓に「弘法清水」「半田沼」「じじばば沼」「ヘビ沼」の四つの湧泉があり、そのひとつ弘法清水は,弘法大師が飲み物の残りをこぼしたらそこから清水が出たそうである。
弘法清水 / 桑折町  
山からの湧水を一旦水槽に蓄えて流す水で、花崗岩層からミネラル分を豊富に含んだ水ということである。明治天皇の東北巡行のおりに献上された水という。  
お寺の清水 / 只見町大字黒谷  
弘法大師ゆかりの清水、どんな重病人もこの水だけは飲めたという。
弘法大師の大清水 / 柳津町大字柳津字寺家町  
虚空蔵菩薩を彫ったところ人々が大切に崇めたので、その御礼に弘法大師が杖で岩を突いたら清水が湧き出たという伝説がある。
大法清水 / 石川郡石川町字大室  
弘法大師が農家に水を求めたが断られ、やむなく杖で掘ったところ湧き出たと言い伝えらている。  
 
磐梯山  
磐梯山は福島県を代表する山の一つです。磐梯山に登ったことのある方なら、「弘法清水」という清水があるのをご存知でしょう。いつも山頂手前のこの清水で喉を潤し、山頂への最後の登りにとりかかるのですが、そういえばこの清水はなぜ「弘法清水」なのでしょうか。  
磐梯山は「火山」です。これまでに5、6回の噴火が起きたとされ、有史以降では806年と1888年の噴火が記録されています。1888年に起きた大規模な水蒸気爆発では、500人近くもの死者が出たそうです。この時の噴火によって川がせき止められ、五色沼や桧原湖などの湖沼群が形成されたこともよく知られています。  
さて、そんな磐梯山に、弘法大師がどう関わってくるのかということですが、調べてみると「手長」「足長」という夫婦の妖怪の伝説が出てきました。この妖怪、磐梯山と明神ケ岳を両足でまたぐ「足長」と、猪苗代湖の水をすくって会津にばらまくこと ができた「手長」ということで、この2人?が地域に嵐を起こしたり、作物の実りを邪魔していたというのです。  
ここで弘法大師様の登場です。  
ここで改めて弘法大師についておさらいをすると、弘法大師は真言宗の開祖。遍照金剛(へんじょうこんごう)とも呼ばれ、俗に「お大師さま」の呼び名で親しまれています。天台宗の開祖の最澄とともに平安仏教を代表する僧であり、三密とよばれる行を実践して大日如来と一体化することで現世での成仏をめざす即身成仏が可能であるとの教えを説いた方です。  
話を戻しますと、諸国行脚の途中でこの地に立ち寄った弘法大師は、「手長」「足長」によって人々が困りきっている様子を見て、「それならその妖怪に会って話をしてみよう」と、「手長」「足長」の住みかを訪ねます。  そして、「お前たちはいろいろなことができるそうだが、できないことがあるだろう」と挑発します。「自分たちにできないことはない」と挑発に乗った妖怪に、弘法大師は「それなら小さくなって壷に入ってみせろ」と言い、壷に入った「手長」「足長」を閉じ込めてしまったというわけです。  
弘法大師は「手長」「足長」の入った壷を磐梯山の山頂に埋め、「磐梯明神」を祀ったのだそうです。以来、会津はもとの明るい里に戻ったというのが伝説のあらまし。実際、弘法大師は8世紀後半から9世紀前半の方なので、磐梯山の806年の噴火はともかく、1888年の噴火以前の方であることは間違いありません。磐梯山の現在の山頂は本来五合目だったといわれます。つまり、そこから上は噴火で吹き飛んでしまったということです。となると、山頂に埋めた「手長」「足長」はどうなっているか、ちょっと疑問なのですが。  
さて、「弘法清水」です。「弘法清水」があるのは四合目と記されています。山頂まで後一息のこの場所ではいくつかの登山道が合流し、売店小屋もあります。休日ともなればいつも大勢の登山者が水を飲んだり休憩したりして過ごしています。猪苗代スキー場からの登山道を登ると、この弘法清水の少し下に「黄金清水」という清水があります。「弘法清水」より水量も多くおいしいと言う方もいます。「弘法清水」より人が少ないのは確かです。  
「弘法清水」に限らず、県内には他にも弘法大師にまつわる伝説が残っています。たとえば郡山市湖南には、弘法大師が船を作った際の削り屑を湖に捨てたところウグイになったとか、弘法大師が湖の湾口に橋を架けようとしたといった場所があります。また、石川郡石川町には「弘法ワラビ」という灰汁抜きをしなくても食べられるワラビがあるそうですが、これは旅の途中に立ち寄った弘法大師に水をあげたおばあさんに、大師がお礼に教えてくれたという伝説があるとか。  
全国各地に同様の伝説はあるようですが、山にしても里にしても土地や場所の名称のいわれを探ると、時として興味深い内容のものに出会うことがあります。 
 
関東

 

栃木県
弘法の加持水 / 足利郡三和村板倉 
野州・足利(あしかが)在の養源寺(ようげんじ)の山の下の池などは、直径三尺ほどしかない小池ではありますが、これも弘法大師の加持水といい伝えて、信心深い人たちが汲んで行って飲むそうです。昔ある婦人が乳が足りなくて、赤ん坊を抱いて困り切っていたところへ、見馴れぬ旅僧が来てその話を聞き、しばらく祈念をしてから杖で地面を突きますと、そこから水が湧き出したのだそうです。これを自分で飲んでもよし、または乳のようにして小児に含ませても、必ず丈夫に育つであろうといって行きました。それが弘法大師であったということは、おおかた後に養源寺の人たちが、いい始めたことであろうと思います。
弘法の池 / 足利市南大町  
神明宮の御神水は、境内「弘法の池」で清らかな沸水です。 
 
群馬県
弘法の井戸 / 藤岡市下日野字高井戸  
弘法の泉 / 群馬県桐生市  
群馬県桐生市の新里町奥沢にも「弘法の泉」があり、ちょろちょろとした流れが小川をつくっていますが、ここでは、弘法大師が杖で地面をたたいたところから湧き出したと言い伝えられているそうです。 
弘法の清水 / 渋川市持柏木  
集落と集落を?ぐ農道の脇に湧いている。洗い場が設けられており、主に農産物の洗い場に使われている。弘法伝説のほどは不明だが、持柏木の名の起こりにもなった湧水という。 
 
茨城県
弘法水 / 八千代町栗山 
当時、岩の切れ目から溢れ出ていたが、その後盛土され、現在は谷津田となっていて少量ながれている。  
弘法霊水 / 高萩町  
黄金色のパゴタがある大高寺奥の院境内に、かつてから眼病に効果があると信じられている井戸があった。一度は涸れてしまったが、寺の信者がもう一度掘ったらまた湧き弘法井戸が復活した。奥の院はかつて大高寺(地元ではおおたかじと呼んでいる)があったところ。
ぷくぶく水 / 笠間市  
湿地のわきの池底から,泡とともに湧き出る鉱泉水で、隣接する宿では過熱して湯治に使用している。弘法伝説が残る清水で、風呂にはいると皮膚病・神経痛・胃の病がよく治るとされるほか、薬効のミネラルウォーターとしても重宝されている。  
 
埼玉県
弘法の井戸 / 深谷市本郷  
弘法の井戸保存会によって整備された。  
 
千葉県
羅漢の井 / 市川市国府台 
里見公園の一角にあり弘法大師のいわれのある湧水。
熊野の清水 / 長生郡長南町佐坪 
古い文献によると、弘法大師が全国行脚の途中にこの地に立ち寄り、水が無く農民が苦労しているのを見て、法力により水を出したという由緒ある湧水。 
巴川の塩井戸 / 館山市神余巴川  
老女の家に旅の僧がやってきたので、小豆粥を差し出してもてなしたが、塩気がないのを哀れに思った僧が川に錫杖を差したところ、そこから塩水が湧きだした。その僧が弘法大師だったという話である。  
その昔、土地の女性が1人の旅僧に小豆粥をもてなしたところ、その粥に塩気がないのを不思議に感じて僧がたずねると、貧しくて塩が買えないと答えた。すると、僧は川に降り、手に持った錫杖を地面に突き刺し、祈祷したのち引き抜くと、たちまち塩辛い水が噴出したとされている。以来、そのおかげで塩を手に入れることができるようになったという。その後、その僧は弘法大師だということがわかったそうである。巴川の川のなかに、やや黄色をおびた塩水が湧出しているところがある。地元ではこれを弘法井戸とも、塩井戸とも呼んでいる。この種の伝説は、「弘法清水」「弘法井戸」などというが、全国各地で、その土地の人々の真心に大師が報いたという形式の物語が発達しており、かつて、それを説いてまわった修験者など、密教系の宗教者の存在があったとみられている。
芋井戸 / 南房総市白浜町青木  
老女が芋を洗っているところへ旅の僧が現われ、「小芋をひとつ下さい」と言うと、老女は「石のような芋で食べられない」と断った。この老女が家に帰り、芋を食べようとしたら、本当に石のように硬く歯もたたなかったため、路傍に捨ててしまった。するとそこから泉水が湧き出て、芋が芽を吹き青々と茂ったそうだ。この僧も弘法大師だったという話である。  
 
東京都
 
神奈川県
弘法の清水 / 秦野市大秦町 
弘法大師の言い伝えがある湧水で、どんな日照りのときも枯れることがないことから、古くから地元の生活水として利用されています。  
弘法の水 / 南足柄市  
神奈川県南足柄市の苅野というところには「弘法の水」と名づけられた湧水があり、今もこんこんと湧き出る流れの中には清流の象徴の一つであるサワガニもくらし、この土地の地主さんは「この湧き水があることを誇りに思っている」と言われているそうです。 
 
中部

 

山梨県
弘法水 / 高根町  
国道141号の旧道は清里の手前で大門ダムへのつづら折の道になる。そのカーブの奥手の斜面から湧出する水で、ダム湖のわきに静かに湧き出る。清水のあたりには祠や石仏が建立され信仰に育まれた水ということを感ずる。  
 
静岡県
 
長野県
弘法大師の硯水 / 大町市大町  
県道脇の湧水。
弘法の清水 / 北安曇郡小谷村栂池高原  
栂池高原の塩の道内に湧き出る水。誰でも立ち入ることができる。
龍興寺清水 / 長野県下高井郡木島平村  
龍興寺清水は、木島平村内山地区の公民館の横に湧き出る清水で、かつてこの地にあったお寺の名前から龍興寺清水と呼ばれるようになり、地域の住民により大切に守られてきました。  
龍興寺縁起によると、この寺は治承年間(1177-1181)に虎室と見竜によって創建された古刹で、正応2年に住職が座禅供養会を催したとき、一人の美女が来て「某にも戒法を授けたまえ。我は居多ケ浜人(現在の新潟県上越市直江津周辺)なり。」と名乗り戒行に加わりました。7日の戒行を終えて、美女の云うに、「某は居多明神なり。戒法を授けさせていただいたお礼に霊泉を献ずる。」と告げていずれかに立ち去りました。姿が消えるとこの地に冷水が湧き出したといいます。  
また別の言い伝えでは、その昔真言宗を開いた弘法大師が諸国巡業の際この地を訪れ、「水が欲しいいか、お湯が欲しいいか。」と杖を突きたてて村人に尋ねました。「水が欲しい。」と村人が答えると、数日後に清水が湧き出したといいます。  
大干ばつの時にも涸れることなく湧き続ける清水に村人は居多明神の霊徳を感じ、明治33年の夏、清水の脇に居多明神と弁財天の両尊を勧請して祠が作られました。  
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その昔、真言宗を開いたかの弘法大師が諸国巡業の際、この地を踏み「水が欲しいか、お湯が欲しいか」。そう、杖を突き立て村人にたずねた。「水が欲しい」。村人が答えてから数日後、清水が湧き出したと伝わる。以来、村人が大切に守ってきた弘法清水。後に龍興寺がこの場所に建立され、龍興寺清水と呼ぶようになったと言われるが、寺は現在はない。 
内山紙漉きの水 / 木島平村  
現在は廃寺となっている龍興寺ゆかりの水で、古くから紙漉きの水として利用されてきた。この地の清水は弘法大師が水と湯のどちらがいいか村人に訪ね,村人は水を選んだという。ちなみに湯を所望したのは野沢温泉だという。紙漉き体験ができる施設もある。  
 
新潟県
弘法清水 / 新潟市西蒲区竹野町地内  
弘法大師が立ち寄り,良民の快いほどこしを受けたお礼にと,手にしていた錫杖を土にさし,これを抜くと水が湧き出て窮状を救ったと伝えられる。
弘法の清水 / 長岡市鉢伏町  
柿小学校近く、鉢伏段丘の坂道途中にある。
弘法清水 / 上越市牧区棚広牧村 
新潟県の名水に選定されている。弘法大師が水のない地域を救うため、大木の根を杖で一突きして沸きでたという伝説の湧水。 
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上越市牧区棚広牧村は、新潟県西南部、長野県飯山市との境にある豪雪地帯である。豊かな水と粘土質 の土壌が、美味しいコシヒカリを育てている。「弘法清水」は、戸数が10戸に満たない小さな集落・小平地区の中ほどに、サワグル ミの大木の根元から静かに湧き出している清水である。古くから地元住民の間で語り継 がれ、親しまれ、愛飲されてきた。その昔、弘法大師が諸国行脚をした折に牧村に立ち寄った。一杯の水を所望されたのだ が、夏は水が涸れてしまう土地だったため、離れた棚広集落から清水を汲ん差し上げた 。大師は水に恵まれない人々に同情し、大木に杖を突き刺し、水を湧きださせたという 。これが弘法清水の由来と言い伝えられている。現在は一部を村営水道の水源として利用している。清水の恵みは、今でも村を潤してい る。  
伝承  
昔、一人の旅僧が小平村のある農家に立ち寄り、「旅の者ですが、喉が渇いて困っております。水を一杯恵んでください」と、丁寧に頼んだ。この村は水が悪く、夏になると飲用水は隣村から運んでいるのだっ た。しかし、この家の老婆は、「しばらくお待ちください」といって約半里もある棚平まで行き、きれいな水を汲んできて僧にすすめた。  
僧は大変喜び、「お礼に清水を出して進ぜよう」といって、持っていた錫杖で畑の隅を突くと、きれいな清水がこんこんと湧き出てきた。  
老婆はビックリし、思わず旅僧に向かって手を合わせた。この旅僧は、諸国を行脚して いた弘法大師だったのである。依頼この清水は何百年も涸れることあく湧き出ており、 村人たちは恩恵に浴している。この清水は「弘法清水」と呼ばれ、牧村の簡易水道第三 水源になっているが、昭和60年に「新潟の名水」に指定された。  
大師は、それから神谷という村へ行き、同じ様に一見の農家に入り、一杯の水を所望し た。するとこの家の主人は、面倒くさがり、「うちの井戸はにごっていて飲めないから、他の家へ行ってくれ」と、すげなく断った。大師は黙って立ち去ったが、あとで家の者が井戸の水をくみ上げ て見たら、それまで澄んでいた水がどろどろに濁り、飲むことができなくなっていた。 それからこの村の井戸は全部濁り、新しく掘っても出るのは泥水だけで、掘った家に祟りがあったという。 
どっこん水 / 胎内市乙ほか市内の乙地区、大出地区、地本地区 
複数箇所で自噴している湧水郡。左の公表地は採水用に整備した場所である。定期的な飲用検査はしていないが、多くの人が飲用に使用し、「非常においしい」との評判。弘法大師が独鈷杵(とっこしょう)という仏具を使い、「聖地に清水のわき出ずる」と唱えたところ自噴したとされることから、独鈷水(とっこすい)と呼ばれ、現在のどっこんすいの呼び名に変わったものである。
弘法の清水 / 巻町  
弘法大師が諸国巡錫の際竹野の集落に立ち寄りほどこしを受けたお礼にと 錫杖を土にさしたところ水が湧き出て窮状を救ったと伝えられる、名水にはつきものの伝説がある。万病に効く霊水として今も数多くの信者が訪れて、弘法信者に守られている。 
「柏崎の水」 / 新潟県柏崎市椎谷  
身隠しの滝(不動滝)  
椎谷観音堂の仁王門前から南東方向へ進み、さらに御前水(お茶水の井戸)へ向かう道を奥まで行くと、不動堂の建物の向こうに身隠しの滝(不動滝)が見える。また観音堂境内の案内板から竹林の山道を10分ほど下ることでも到着する。滝近くには、滝の修復工事時に地中から発見されたという不動尊などが祀られている。  
[伝説要旨]  
『弘法大師(空海)は唐の国に渡り、恵果和尚に師事した。そして「万里の海を越えて旅する時には必ず不動明王の力におすがりせよ。」との教えを受け、帰国の際には身と心を浄め一寸八分(5.5cm)の不動明王を彫刻し、それを船中の守本尊とした。無事帰国した弘法大師は諸国を行脚し、椎谷の地で不動明王を安置することになった。しかし、夜明けの霧が立ちこめるある朝、突然不動明王が滝の中に姿を消してしまった。この時から滝のことを身隠しの滝と呼ぶようになった。』(柏崎市伝説集)  
『信濃国の侍が武者修行のため椎谷を訪れたところ、高熱に襲われてしまった。椎谷の人々の看病により熱はひいたものの、歩くことも立つこともできなくなった。ある夜、不動明王が侍の夢枕に立ち、信心すれば病気を治すと言った。不思議に思った侍がこのことを村人に話すと、「弘法大師が滝のそばのお堂に泊まった」「身隠し滝の不動明王は弘法大師が唐の国から帰るとき守本尊としたものである」と説明された。そこで侍は昼夜問わず一心に祈願したところ、ついには以前の健康を取り戻すことができた。侍は武者修行をやめ髪をそって僧となり、滝の堂守りとして、生涯、不動明王につかえた。』(昔の話でありました 第5集)  
現在の滝は、滝の上方にある池(用水)から管を通し、沢の流れと合流させ、樋から流す人工の滝である。もちろん以前は自然滝であったが、長い年月の間に浸食や土砂崩れのためその姿が失われてしまった。その後平成7年に当時2本となっていた水の流れが1本の滝にまとめられ、現在の形に整備された。なお、樋口が崖のふちから少し離れているのは、滝の流れにより岩盤が侵食されるのを防ぐためでもある。  
滝の前にある不動堂では、2月15日にだんごまきが盛大に行われていた。また、大般若会も行われていたという。しかし、昭和14年の椎谷大火により親寺の西禅院が焼失。その後住職が不在になると荒廃が進み、昭和60年には建物が取り壊され、境内は藪と化していた。これを見かねた有志の呼びかけにより、地域の方や市外の椎谷出身者から広く寄付を募って、平成3年に不動堂が再建された。  
現在、毎年5月28日に華蔵院のご住職により法要が営まれている。かつて荒れ放題だった境内も、今では地域の老人クラブの方や近くで田んぼを作っている方が、水の恵みに感謝して掃除を行っている。つい先日には、この地区に生育する樹木を、椎谷の小学生たちが一本一本調べ、樹の名前を書いた札をつける、という活動が行われた。これらは、椎谷の人々の、地域への愛着の証左といえよう。  
 
愛知県
 
岐阜県
弘法の井戸広場 / 大垣市十六町  
平安時代の高僧、弘法大師が水に困っている村人のために、持っていた杖で大地を突き、清水が噴き出したという由来の残る井戸で、平成21年度に既設の自噴井戸を改修し、自噴広場を整備した。深さは16m。
水呑弘法の水 / 関市洞戸菅谷地内  
板取川下流の山腹から湧き出る湧水。弘法大師に由来する伝説を持つ。冬季は、積雪のため、アクセスが規制される。
船津大洞湧水群 / 飛騨市神岡町船津地内  
まちの正面にそびえる大洞山の山麓からこんこんと湧き出ている。夏冷たく冬暖かな水で地下水特有の水温(約11℃)を有し、昔から生活用水として親しまれ、地内各地に水屋が設置されています。言い伝えによれば、弘法大師が全国行脚の途中に、この地に立ち寄られ、後に湧き出したといわれる由緒ある水で、いつからとなく弘法様の水と崇められ、大切に保全管理されてきました。今はあまり見られませんが、11月の霜の降りる頃には漬物にする菜洗いが水屋で始まり、地域の交流の場となっていました。  
 
石川県
弘法の霊泉 / 七尾市  
道路脇の湧き水で、地域住民の生活水としても利用されており、自由に立ち入りできる。約1,200年前に、日照りが続き、地域住民が苦しんでいたところに、旅の途中に訪れた公法大師が掘っていかれたという言い伝えがある。  
弘法大師の自然霊水 / 小松市下大杉町地内  
動山(ゆるぎやま)の登山口にあるこの霊水は、登山者の喉を潤してくれる。  
林町の生水 / 小松市林町地内  
弘法大師により恵みを受けたと伝えられ、生水のほとりに不動尊が祀られ、眼病に効くと伝られている。  
弘法大師之霊水 / 小松市三谷町地内  
弘法大師が旅の途中に訪れ、杖で突いた所から湧き出たと伝えられている。  
弘法池の水 / 白山市釜清水地内  
「名水百選」の一つ。全国でも数例しかない「おう穴湧水」。弘法大師が岩に錫杖を突き刺した場所から湧水した言い伝えがある。  
釜清水地区のくぼみの岩穴の底から湧き出る清水で、その形状から「釜池」とも呼ばれ、白山市指定文化財でもある。昔、弘法大師が親切な老婆に感謝し、お返しに手にした錫杖を岩に突き刺したところ、水が湧き出たという。  
押の泉 / 宝達志水町紺屋町 
弘法大師が水を求めて地面を杖で押すと、水が湧いたいう伝説の湧き水。  
弘法の井 / 能登町行延  
行延地区の山の斜面下に建てられたお堂。その中で、こんこんと清らかな水がわき出ている。清水は「おいしい」と評判で、遠方からも訪れている。平安時代、弘法大師がこの地を訪れた際に喉が渇いたので民家に立ち寄った。家人が遠くまで水をくみに行くのを不憫に思い、大師が錫杖(しゃくじょう)で地面を突くと水がわき出したと伝わる。 
弘法池 / 石川県石川郡鳥越村字釜清水  
地名の由来は弘法大師にちなんだもので、「その昔、暑い夏の盛りに、弘法大師が行脚のためこの村に立ち寄られた。大師は庄屋の家で休まれ、その家の老婆に水を所望されたが、村には飲料水が近くになく、老婆は手取川まで険しい谷道を下りて汲んできて差し上げた。大師は老婆の親切を大変喜ばれそしていたく感動された。大師は持っていた錫杖を岩に突き刺しえぐると、不思議なことに穴の底から清水が湧き出してきた。村人たちは喜び、この水を弘法様の水として大切に守り、飲料水にした。  
弘法の水 / 田鶴浜町  
弘法大師の清水伝説が残る湧水。小さな祠の前にこんこんと清水が湧き出している。藩政時代末期に、加賀藩の前田斉泰公が「きく水」と名づけ、昭和初期にはこの水を仕込み水として造り酒屋が営まれていたという。
押しのいずみ / 津幡町  
「弘法の池」とも呼ばれ、押水町の町名の由来ともなっている伝説の湧水。国道471号線沿い(紺屋町)の案内板から約100m入ったところにあります。湧出量は少ない。立派な水屋が建てられている。  
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町内の紺屋町地区には町の名称の由来ともなった、押しの泉と呼ばれる湧水がある。古くから飲用等にも利用されてきた清澄な水である。この湧水の由来として、弘法大師がこの地を通った時に水を求めたところ、老婆が一杯の水を恵んでくれた。その礼として大師が杖で岩を押したところ美味な清水が湧き出たという、いわゆる弘法水伝説がある。押水町(おしみずまち)は、石川県羽咋郡にあった町である。町名は町内の紺屋町地区にある押しの泉に由来する。
弘法の水 / 白山市鳥越村  
白山から流れ出る手取川の中流、鳥越村釜清水地区にある弘法伝説がまつわる甌穴清水。湧出する岩のくぼみが釜のような形をしていることから釜池と呼ばれ、そこから地名である釜清水が生まれた。
神子清水 / 白山市鳥越村  
名水百選「弘法池の水」から山ひとつ越えた神子清水集落内に湧出する清冽な水。水量は「弘法の水」よりはるかに多い。地域の生活水として利用されているほか、不動を祭っている清水もある。 
弘法の水 / 石川県鹿島郡田鶴浜町字大津  
約1200年前日照りが続いた時の事、村人たちは飲料水もなく悪疫が流行し大変困っていた。そこへ訪れたみすぼらしい旅の姿のお坊さんが、一生懸命に泉を掘ってくれた。村人たちは、ほどなくその旅のお坊さんが弘法大師だとわかり、御恩報謝のお堂を建てた。  
白山のふもとに湧き出る名水  
石川県は全国的にみて、雨の多い地方ですが、降水の大部分は雪です。冬にシベリア方面から吹いてくる冷たい北風は、暖かい日本海の大量の水蒸気を白山を中心とした加賀山地に運び、山にぶち当て、大雪をもたらします。この雪はやがて清らかな水に変わり、郷土の豊かな自然を生み出す源(みなもと)となります。  
白山(石川)のふもとには、昔から言い伝えのある数多くの湧き水があります。1985年(昭和60年)、環境庁(のち環境省)による「名水百選」において、石川県からは、総持寺(曹洞宗)の裏山にある古和秀水(こわしゅうど、門前、鳳至)、赤蔵山の赤倉神社境内の湧水池である、御手洗池(みたらしいけ、田鶴浜、鹿島)と共に、白山から流れ出る手取川の中流にある、弘法池の水(こうぼういけのみず、鳥越、石川)が選ばれました。、  
そこで、白山のふもと、白山比盗_社(はくさんひめじんじゃ)境内の地下水脈から汲(く)みあげた水、延命長寿の白山霊水、また弘法池から山ひとつ越えた、阿手(あて)に行く途中の杉森(すぎのもり)集落の道路沿いに、裏山から湧き出している、地蔵さまの清水(杉森地蔵水とも)について、以下に紹介しました。これらの湧き水(白山の雪解け水!)は、おいしいと言うことで、多くの人々がポリ容器、ペットボトルなど持って訪れていますが、私も水汲みファンの一人です。  
弘法池(釜清水)  
弘法池の水は、白山の麓の手取川左岸黄門橋の西北にあり、深さ約2m、直径約30cmの岩穴の底から、1日に約30トンの清水が湧き出しています。あふれた湧き水は、すぐそばの用水に流れ込み、近くの手取川に流れ落ちています。  
その昔、空海(弘法大師)が鳥越村を訪れ、水を求めたところ、老婆が険しい谷道を下り、手取川の水をくんできて大師にさし出したところ、その姿にいたく感動した大師が、錫杖(しゃくじょう)を岩に突き刺したところ水が湧き出した、との言い伝えがあり、その名の由来となっています。全国的にも珍しい甌穴湧水(おうけつゆうすい)で、その形が釜に似ていることから、釜清水(かましみず)とも呼ばれています。   
弘法池の地域は、手取川の河床(かっては、新第三紀の流紋岩質溶岩と岩脈とからなる河床)が隆起して出来たと言われています。弘法大師の像のすぐうしろに小さな池があり、この釜清水をポンプで汲み上げると、池の水面が下がることから、水脈はつながっていると思います。湧き水は、シャクまたはポンプで汲み上げ、飲料水として使われ、釜清水地区の住民が管理しています。  
水質(1996)は、水温11.7℃、pH6.4、カルシウムイオン11.0ppm、マグネシウムイオン2.3ppm、ナトリウムイオン6.2ppm、カリウムイオン1.0ppm、重炭酸イオン33.1ppm、塩化物イオン7.7ppm、硫酸イオン10.4ppm、硝酸イオン6.7ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率で100万の中の1の割合にあたる非常に少ない量です。  
『 弘法池(釜池) 湧水おう穴 石川県石川郡鳥越村釜清水  
本清水は、白山に源を発する一級河川手取川の中流に位置し、岩穴の底から湧き出でる清水です。形が釜に似ていることから釜池とも呼ばれ、これに因んで釜清水という地名が生まれました。  
弘法池の名前のおこりは、古老の言い伝えによりますとその昔弘法大師がこの池を訪れ庄屋久兵衛の家でご休息なされ家の老婆に水を求められました。その頃の村は水に乏しく飲料水は手取川の水を汲みました。老婆は「少しお待ち下され」と言って、険しい崖道を降りて、水を汲んできました。大師様はその親切を喜ばれ「老婆難儀なことじゃ。わしが湧水を求めて進ぜよう」と、仰せになりお持ちになった錫杖を岩に突きさし、ぐりぐりとえぐって穴を作られました。すると不思議や、穴から勢いよく清冽な水が湧き出てきました。久兵衛の老婆を初め、村人はたいそう喜んでこの水を弘法様の水として村中が飲料水として使用するようになり以来この池を「弘法池」と呼ぶようになりました。・・・と伝えられています。  
弘法池は湧水おう穴(急流の河床の岩面に礫によって生じる穴)で全国でも数例しかないと言われ昭和45年8月村指定天然記念物となっています。大きさは、内径東西70糎、南北75糎、深さ最深部192糎、中央部172 糎で、湧水量は日に約30立方米で年中変わることがありません。  
また、清冽な水は、地元住民の湧水管理と共に評価され昭和六十年三月環境庁が行った全国名水百選に選ばれました。 昭和六十年 鳥越村 鳥越村教育委員会 』  
白山の麓の雪解け水  
弘法池の水質(2004年、ヘキサダイヤグラム解析図)は、近くの手取川や上流の手取ダムの流出河川水の水質(浅い地下水、河川水の水質に分類されるカルシウムイオンー重炭酸イオン型)とよく似ていて、つながりが深いと思いました。  
白山霊水(白山比盗_社)  
白山比盗_社(はくさんひめじんじゃ)の大神、菊理媛尊(くくりひめのみこと)は水の神様であり、また結びの神様です。本来は、金沢平野一帯の里人たちの農耕の神様です。生命の源は水であり、結びは和合の力であり、このご神徳に大きな期待を抱くと言う。  
白山比盗_社の境内では、地下水(白山の雪解け水!)をポンプで汲み上げた水を、延命長寿の白山霊水として一般市民に提供しています。長期間保存の場合は、生水ですから加熱してご利用下さい、との注意書きが吊(つる)してあります。  
地蔵さまの清(水杉森地蔵水・杉森集落)  
地蔵さまの清水は、白山のふもと、杉森(すぎのもり)集落の裏山から道路沿いに湧き出している水(白山の雪解け水!)で、その名は地蔵(不動)が祀(まつ)られていることに由来しています。水源は弘法池の裏山(岳峰、標高505.48m)の反対側にあり、岳峰のふもとから湧き出した水と思われます。湧き水は、絶えることなく、すぐ前の用水に流れ込んでいます。  
 
石川県からは、白山美川伏流水群(白山市)、遣水観音霊水(やりみずかんのんれいすい、能美市)、桜生水(さくらしょうず、小松市)、藤瀬の水(七尾市)の4ヶ所が選ばれました。この選定は、7月の北海道洞爺湖(ほっかいどうとうやこ)サミットで環境問題が主要課題となるため、環境省が水の大切さを再認識してもらおうと、新たに選んだものです。環境省の選定基準は、前回と同じ内容の評価で、水質にこだわらずに、清澄で、景観や保全活動がよければ、名水と判定したようです。  
水質については、厚生省(のち厚生労働省)の定めた、おいしい水の要件があります。それによりますと、水をおいしくする成分は、水に溶けているミネラル(カルシウムイオンとマグネシウムイオンの含有量など、硬度10〜100ppm、ppmは百万分率で100万の中の1の割合)や重炭酸イオン(水に溶け込んでいる二酸化炭素、3〜30ppm)など、一方、水の味を悪くする成分は、鉄分(0.002ppm以下がよい)、水の消毒に使った残留塩素(0.4ppm以下がよい)などです。また、pHは6.0〜7.5、水温は、10〜15℃’(体温より20〜25℃低い温度)が適温でした。  
白山のふもとの湧き水は、白山の残雪が、夏にも冷たい水を送り出し、おいしさを引き立てていると思います。湧き水は、一年中絶えることがなく、温度は15℃前後、水量は降水に多少の影響を受け、大雨の後は勢いよく出ていました。  
 
富山県
中ノ寺の霊水 / 富山市上滝  
室町時代より、不老長寿、皮膚病にきく弘法大師の水として地元の人々に親しまれている。「とやまの名水」に選定されている。  
弘法の清水 / 小矢部市興法寺  
およそ1200年前、飲み水の不足に苦しんでいた当地を通りかかった弘法大師が、錫杖で地面をついて清水を湧き出させたと伝えられている。  
弘法大師の清水 / 上市町護摩堂  
とやまの名水に選ばれている。水の持ち帰りは自由。弘法大師ゆかりの清水で、飲むと頭がよくなるといわれています。 
弘法大師の清水 / 富山県中新川郡上市町護摩堂  
上市町の中心から北東へ8km、東福寺野公園の奥〈おく〉、護摩堂地区は富山湾と富山平野が一望できる高台にある。地名の由来は、弘法大師が村民の幸せを祈って護摩をたいたことによるものとされている。この高台に湧く清水は、地元の人びとに「頭が良くなる弘法清水〈こうぼうしみず〉」といわれ、現在でも、大切に保存されている。  
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富山の名水に選定されている弘法大師ゆかりの清水で、地元の人々からは飲むと頭がよくなると伝えられています。地名の由来は、その昔、諸国行脚の際にこの地を訪れた弘法大師が村民の幸せを祈って護摩をたいたことによるものとされています。細い山道をひらすら進むと護摩堂が見えてきます。途中見晴らしの良いところからは、富山湾と富山平野が一望できるので、ぜひ車を止めて眺めてみてください。護摩堂は高台にあり、そこから湧き出る清水は昔も今も人々に親しまれています。 
弘法大師の霊水所 / 富山県中新川郡上市町柿沢 
弥陀ケ原の弘法清水 / 富山県  
むかしむかし、弘法大師(こうぼうたいし)と言うお坊さんが、立山(富山県の南東部)にこもって修行をしていた時の事です。その当時の弥陀ヶ原(みだがはら)は、行けども行けども一滴のわき水もありませんでした。その為に立山に登る人たちは、苦しい思いをしていました。  
これを知った弘法大師が、「水は、生きていく上でもっとも大切な物。それがないとは、不便な事じゃ」と、持っていた錫杖(しゃくじょう、修行する人が持ち歩くつえ)で軽く地面を叩いたのです。すると錫杖は深く地面に突き刺さり、弘法大師が錫杖を引き抜くと、そこから水がこんこんとわき出てきたのです。  
人々はこのわき水を、弘法清水(こうぼうしみず)と名付けました。今でも弘法清水はわき出ており、この弘法清水でわかしたお茶を飲むと元気が出ると言われています。 
弘法の清水 / 神明町西  
弘法の清水(神明町西)弘法大師ゆかりの清水。家と家との小路に湧き出していて風情のある清水です。土管の中に湧いていて、昔ながらの清水の姿を残しています。 
富山 清水めぐり / 黒部市生地  
北アルプスの山々から流れ下る黒部川の水は地下水となり、生地のあちこちで清らかな湧き水となって地表に出てきます。この湧水のことを「清水(しょうず)」と呼び、生地の人々は昔から飲み水、炊事、洗濯などに利用してきました。2007年の富山県の調査によると、黒部市で約750か所の自噴井戸が確認され、いたるところで水が湧いているといっても過言ではありません。生地地区には全部で20か所の湧水スポットがあり、湧出量や水質、味わいがそれぞれに異なります。水温は1年を通じてほぼ11℃前後で、適度なミネラルを含んだ「おいしい水」として親しまれています。  
みどり町の清水 / 背戸川のほとりにあり、緑色のとんがり屋根が目印。生地地区で最も西に位置します。水のきらめきを思わせる青いステンドグラスもきれいです。  
前名寺の清水 / お寺の裏に回ると小さな池があり、そこからこんこんと湧き出ている清水です。生地で最も古い清水の一つで、地中に打ち込んだだけの1.5mの鉄管から、清水が湧き出しています。まろやかな味がします。新たに池のまわりを散策することができるようになりました。  
田村家の清水(泉水) / 田村家は、江戸時代に境(朝日町)から西岩瀬(富山市)までの漁村を仕切る十村役としてその名を馳せた旧家。邸内の庭園には見事な池があり、清水が湧き出しています。その湧水の美しさは生地随一と言われています。  
中島の清水 / ほかの湧水スポットに比べると、屋根もなく、コンクリートで囲っただけの簡素なつくり。水が湧き出ている様子がよくわかります。生地の古い清水の姿を今に伝えています。  
神明町の共同洗い場 / 背戸川にかかる橋の横にあり、近くに住む人たちが洗い物をしたり、飲み物を冷やしたりする場所。洗い場は階段状に仕切られていて、用途によって使い分けられています。ふれあいの場として大切に守られ、清水が生活になくてはならないものであることがよくわかります。  
神田(しんでん)の清水 〔井戸深さ80m〕 / 名水街道ぞいにあり、とうとうと湧き出す様子が美しい清水です。洗い場の底には小さな石が敷き詰められています。「神明町の共同洗い場」は、この「神田の清水」の昔の面影をしのび、再現したもの。  
弘法の清水(神明町西) / 昔、弘法大師さまが生地にいらっしゃったとき、錫杖で突かれたところから清水が湧き出たという言い伝えから名付けられました。土管の中から湧く水は清冽で、昔ながらの素朴な風情を残しています。  
弘法の清水(神明町東) / 昔、弘法大師さまが生地にいらっしゃったとき、錫杖で突かれたところから清水が湧き出たという言い伝えから名付けられました。名水街道から、細い路地を入った先にあります。  
殿様清水 〔井戸深さ75m〕 / 前田藩藩主が、江戸参勤の帰り道、生地村を通ったときに飲まれたという湧き水。ことのほかおいしいと賞賛され、以後「殿様清水」と呼ばれるようになりました。  
絹の清水 〔井戸深さ75m〕 / 江戸時代、隣にあった豆腐屋さんのとうふが、絹のように滑らかだったのでこの名が付きました。ここの湧き水を使って作るとうふは、光沢ときめの細かさで絶品と評判だったそうです。  
岩瀬家の清水 / 皇國晴酒造の敷地内にあります。深さ150mの井戸から湧く豊富な地下水は、今も昔も変わらぬまろやかさ。仕込みはもちろん、洗浄や冷却にも利用され、酒造りになくてはならないものです。  
弘法の清水(四十物町) 〔井戸深さ83m〕 / 昔、弘法大師さまが生地にいらっしゃったとき、錫杖で突かれたところから清水が湧き出たという言い伝えから名付けられました。湧出量は清水庵の清水に次いで生地で2番目の多さ(1分間に500リットル)。  
清水庵(しみずあん)の清水(共同洗い場) / 元禄2年の夏、『奥の細道』で有名な松尾芭蕉翁が、越中巡遊の途中、当道場の庭にこんこんと湧き出る清らかな水を見て、「清水庵」と名付けられたという言い伝えがあります。湧出量は生地で最も多く、1分間に600リットル。  
源兵サの清水 / 源兵サの清水は、通り沿いにある清水では一番東側に位置します。道路から背戸川の川面近くまで下りたところに湧き出しています。隣の肉屋さんの屋号(源兵サ)からその名がつきました。  
月見嶋(つきみじま)の清水 / 新治神社の境内にある月見嶋の池に湧き出す清水。かつて生地が新治村と呼ばれていたころ(12世紀)、付近一帯には「越之湖」という大きな湖が広がっていました。月見嶋の池は、その名残と言われています。  
生地温泉の清水 / その昔、上杉謙信が病のため歩けなくなったとき、新治神社の神のお告げにより、この地に湧く霊泉で治癒したと言われています。生地温泉たなかやの敷地内では数か所で湧水が見られ、分家筋にあたる詩人田中冬二の詩碑も建てられています。  
名水公園の清水 〔井戸深さ70m〕 / 黒部川扇状地湧水群が「全国名水百選」(1985)に選ばれたことを記念してつくられた公園。公園には山をつくり、そこからあふれ出る湧水が黒部川を流れ下る様子をあらわしています。  
魚の駅の清水 / 魚の駅「生地」の駐車場内にある清水。日展作家、浦山一雄氏作のクルーザー像のほか、黒部の名水キャラクター「ウォー太郎」の石像も設置されています。できたて館・とれたて館をはさんで海側には、足湯ならぬ「足清水」もあります。  
昆布屋の清水 / 四十物(あいもの)昆布の店先に湧く清水。共同洗い場を模した形で、階段状になっています。 
 
福井県
越前町 弘法大師の水 / 丹生郡越前町平等  
昭和62年高野山より高僧をお迎えして再建されたお堂の脇からの湧水。 
 
近畿

 

三重県
 
奈良県
阿知賀瀬の上湧水 / 下市町  
吉野川の河川段丘の集落に湧き出る清水で、泉の真ん中に弘法大師?の石仏が建立されている。水質も良く、地元住民が熱心に清掃保全を行っている。 
薬井の井戸 / 奈良県北葛城郡河合町  
石の井筒を施した掘り抜き井戸。むかし、この村に行脚でやってきた弘法大師が掘ったと伝えられている井戸で、眼の病気にもよく効く薬水とも言われてきた言い伝えがあります。  
むかし、弘法大師がこの地に来られたとき、眼を患う人に会い、気の毒に思われた大師は「ここを掘り湧き出す水で眼を洗いなさい」と教えられたので素直に教えられた所を掘ると水がどんどん湧き出し眼を患う人が近村からこの水をいただきにきたという。水は今も湧き出ており、井戸の片隅には「薬井水」と刻んだ古い石が立ててある。 
弘法大師の霊泉 / 京都府綴喜郡宇治田原町高尾  
こんなお話が伝わっています。  
その昔、高尾(こうの)のある農家に立ち寄り水を所望した僧がありました。  
留守番の老婆は快く返事をしましたが、なかなか水を運んで来てくれませんので、旅僧は縁側でうとうとと寝てしまいました。  
老婆はずいぶんたってから水を運んで勧めましたが、僧は老婆に「この村の水場はどこですか」と尋ねたので、老婆は「この下の田原川で汲んできますのじゃ。  
ご覧の通り高い所で、井戸が無く谷川も無いので。」と言うと、僧は老婆の親切に深く感激し「ありがとう、ありがとう」と言いながら水を飲みました。  
そして旅僧は弘法大師で村人に水の出るところを教えたと云われる井戸。  
実際に現地に行ってみると判りますが、こんな山の高い場所なのに湧水が出ることが不思議です。  
この水源は村の人にとっては非常に大切な命を繋ぐ井戸だったのが良く判ります。  
村の人たちは弘法大師の霊泉として守っています。  
今も、たえずこんこんと冷たい清水が湧き出ており、地域の人々の大切な場所です。  
 
和歌山県
大師の井戸 / 伊都郡かつらぎ町大字平  
槇尾山施福寺で弘法大師が仏法を広める為に旅をしていたところ、村人に飲み水を求めた時、村で暮らしの水に困っていることを知り、杖を岩に三度突き立てたところ、湧水が出たという伝説がある。  
冷水井戸 / 伊都郡かつらぎ町大字高田  
JR和歌山線西笠田駅から北西に5分ほど歩くと、住宅街の一角に隠れるように冷水(ひやみず)が湧いている。弘法大師が掘ったという伝説の湧水。  
清水井戸 / 伊都郡かつらぎ町大字短野  
葛城山系燈明岳の麓に位置し、弘法大師が掘ったという伝説の湧水で、今でも枯れることはない。  
弘法井戸 / 有田川町徳田  
昔は水田、現在はみかん畑や宅地となっているが、その一段下がったところで水が湧いている。弘法大師の発見とされている。 
お大師さんの井戸 / 粉河町  
この井戸のある一帯は昔は杉林だったという。この井戸も弘法伝説が伝わる。日頃は井戸に蓋がしてあり、井戸にはきれいな水が湛えられている。8月7日には地域住民によつて「井戸替え」がされるという。  
花野(けや)の弘法井戸 / 打田町  
大阪府と接する打田町の、のどかな田園に湧く弘法伝説が伝わる浅井戸で、「出水」ともいわれている。今では農業用に使われている。  
馮夷の滝 / 和歌山市  
紀伊風土記の丘に近い大日堂の境内にあり、石垣から湧出する小さな滝で、かつては滝行の信仰があったと思われる。この水は弘法大師ゆかりの水として霊験あらたかという。大日堂は耳にご利益があるという。  
 
滋賀県
弘法池 / 甲良町長寺  
むかし、弘法さんが食事の後にのどの渇きを潤すためにご飯の箸でこの地を掘って湧き出たといわれる山の中の小さな泉。 
大根洗いの泉 / 滋賀県東近江市清水町  
滋賀県東近江市清水町にある清水神社の裏には、以前は清水川に注ぐ湧水が出ていた。今では水が湧かなくなってしまい、人口の川になっているが、この湧水は夏には手が切れるように冷たく、冬には温泉のように暖かかった。  
昔、初冬の頃、瑞々しい大きな大根を漬物にしようと、老婆が清水川で洗っていた。老婆の側には大根が山のように積まれてあった。そこへ一人の旅の僧が通り掛った。その容姿は、草鞋の緒も擦り切れそうで、黒染めの衣もボロボロであった。僧は「大根を一本くれないか」と、老婆に頼んだ。老婆は僧のみすぼらしい姿を見て、「この大根は不味くて、食べられない」と断った。「では、何故食べられない大根を洗っているのですか?」と言って、僧は立ち去った。再び、老婆が大根を洗おうとすると、湧水はピタッと止まり、川はみるみる干上がってしまった。  
慌てて、老婆は大根を1本持って、僧の後を追った。そして、「どうぞ、貰ってください」と、僧に大根を差し出した。「今後、困っている人には善行しなさい」と、僧は老婆を諭したのであった。旅の僧は弘法大師だった。  
一年後のこと、老婆が清水川で大根を洗っていた。すると、背後からみすぼらしい身形の女が現れた。「3日前から何も食べていません。大根を1本頂けませんか?」と、女老婆に頼んだ。「この大根は不味くて、食べられない」と断り、老婆はプイッと横を向いた。女は何も言わずに、その場をそっと立ち去った。再び、老婆が大根を洗おうとすると、また湧水はピタッと止まり、川はみるみる干上がってしまった。ビックリした老婆は、昨年、弘法さまに諭されたことを思い 出した。「とんでもないことをしてしまった」と、大根を1本持って、女の後を追ったが、女の姿はその辺りには見当たらなかった。  
その晩のこと、老婆の夢枕に弘法さまが現れ、「困っている人には善行しなさいと教えたはずです。二度と、このことを忘れないように、大根を洗う時期には湧水を止めることにします」と告げた。それ以後、初冬の頃になると、湧水はピタッと止まり、清水川の水が枯れるようになったという。 
弘法の井戸 / 滋賀県甲賀市  
多羅尾からおとぎ峠へのぼる道ばたに、「弘法の井戸」とよばれていろ井戸があります。むかし、弘法大師というえらいお坊さんが峠のあたりに立派な寺を建てようと村のあちこちを歩いておられました。お坊さんは、とてものどがかわいたので水が飲みたくなりました。  
ところが、このころずっとつづいた日でりで水がありませんでした。  
どこの家へたのんでも水を飲ませてくれません。しかたなくお坊さんは、おとぎ峠へにさしかかる道ばたに大きな岩をひっくりかえして穴をほりました。  
すると、穴からこんこんと水がわき出てくるではありませんか。お坊さんはやっとのことで水を飲み、からからにかわいたのどをうるおすことができました。  
お坊さんはだれでもいつでも飲みたい時に水が飲めるように、石をきずいて井戸を作りました。この井戸は、長い日でりがつづいて村じゅうの水がなくなっても、いつもこんこんと水がわき出てかれることはありませんでした。村の人や村の人たちから、「弘法さんの井戸」と名づけられて、峠を通る人たちののどをうるおし、かんしゃされたということです。  
弘法の井戸  
滋賀県信楽町と三重県上野市の県境に近い多羅尾のタカラカントリーの入り口に弘法の井戸がありました。僧空海(弘法大師)は唐から帰って、真言宗を開きました。(806)が、その後空海は、真言密教の聖地を求めて諸国を巡礼の折、多羅尾の里にこられ、くまなく歩かれた時に、旅人のためにここに井戸を掘られたと伝えられています。その後、誰がいうことなしに村人たちは、この井戸を弘法の井戸と呼ぶようになりました。なお、この井戸は、どんな日照りでも水は枯れたことがないと言われています。  
 
京都府
弘法の井戸 / 綴喜郡宇治田原町高尾  
弘法大師の指示した場所を掘って湧出した井戸。 
独鈷水 / 長岡京市  
大同元年(806)に開祖された楊谷寺には弘法大師の法力によって湧き出したという「独鈷水」があり、眼病に霊験あらたかと伝えられている。水社に蓄えられた水は参拝者に寸志により振舞われている。 
弘法大師杖の水 / 京都府京都市伏見区小栗栖中山田町  
桃山丘陵東南部の山裾にある細い山道沿いの湧水。伏見区東部、桃山丘陵の東側、山科盆地の南部といっても良いでしょう。桃山丘陵東南部の山裾に「弘法大師杖の水」と呼ばれる湧水があります。古都醍醐の湧水。そばには「杖の水ころころハウス」が建てられ、周辺の豊かな自然を生かした活動が行われています。 
京都府の名水  
独鈷水(どっこすい) 京都市東山区泉涌寺山内町33 来迎院(泉涌寺塔頭、らいごういん、せんにゅうじたっちゅう) 弘法大師伝説 弘法大師獨鈷水 長い柄杓で汲む。大石良雄は茶席含翆軒を設ける。  
五智水(ごちすい) 京都市東山区泉涌寺山内 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)弘法大師伝説  
五智の井 京都市東山区泉涌寺山内 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)弘法大師伝説  
弘法加持水 京都市右京区御室大内33 仁和寺  
弘法大師閼伽井 京都市右京区嵯峨大沢町4 大覚寺 真言宗大覚寺派大本山 名古曽瀧址 大沢池  
弘法大師杖の水 京都市伏見区小栗栖石川町 小栗栖(おぐるす)は明智光秀が最期を遂げた所縁の地  
醍醐三名水 赤間井 醍醐水 弘法独鈷水  
弘法独鈷水(こうぼうどっこすい) 京都市伏見区醍醐上ノ山町 弘法大師独鈷水  
弁天水 京都市西京区大枝沓掛町 弘法大師伝説  
独鈷水(弘法大師獨鈷水) 長岡京市浄土谷2 柳谷観音、楊谷寺(ようこくじ) 眼病平癒の霊水 眼力稲荷  
清浄水 長岡京市今里3丁目14-7 乙訓寺(おとくにでら) 弘法大師空海と伝教大師最澄 牡丹の寺  
お供水さん 宇治市 供水峠 弘法大師杖突伝説  
弘法大師の霊泉 綴喜郡宇治田原町高尾河原 大峰山中腹 高尾地区(こうの)  
柏の井 木津川市加茂町大字井平尾小字岸ノ上 弘法大師霊場「菜切石」 
弘法大師の霊泉 / 京都府綴喜郡宇治田原町高尾  
こんなお話が伝わっています。  
その昔、高尾(こうの)のある農家に立ち寄り水を所望した僧がありました。  
留守番の老婆は快く返事をしましたが、なかなか水を運んで来てくれませんので、旅僧は縁側でうとうとと寝てしまいました。  
老婆はずいぶんたってから水を運んで勧めましたが、僧は老婆に「この村の水場はどこですか」と尋ねたので、老婆は「この下の田原川で汲んできますのじゃ。  
ご覧の通り高い所で、井戸が無く谷川も無いので。」と言うと、僧は老婆の親切に深く感激し「ありがとう、ありがとう」と言いながら水を飲みました。  
そして旅僧は弘法大師で村人に水の出るところを教えたと云われる井戸。  
実際に現地に行ってみると判りますが、こんな山の高い場所なのに湧水が出ることが不思議です。  
この水源は村の人にとっては非常に大切な命を繋ぐ井戸だったのが良く判ります。  
村の人たちは弘法大師の霊泉として守っています。  
今も、たえずこんこんと冷たい清水が湧き出ており、地域の人々の大切な場所です。  
 
大阪府
弘法の水 / 東大阪市東豊浦町  
照涌大井戸 / 四條畷市下田原  
弘法大師にお茶を差し上げたお礼に教えてもらった水源という伝説がある。 
清水庵の弘法大師の清水 / 阪南市  
関西空港を眺める海岸近くの清水庵に湧き出る水。和泉葛城山系の伏流水で 弘法大師ゆかりの水ということで、名水百選の候補にもなった。境内に洗い場も残る。 
国松の弘法井戸 / 寝屋川市  
国松地区の丘陵際に覆い屋が設けられ「弘法井戸」と札のかかった井戸があります。江戸時代に出版された『河内名所図会』に、この地域の3か所の名水(井戸)が紹介されていますが、「二ツ井は国松村にあり」と記されており、二ツ井がこの井戸であったと考えられています。  
田井の弘法井戸 / 寝屋川市  
南前川の堤防の下に、立派な覆い屋が設けられた井戸があります。この井戸は、旅の僧侶が杖を突き立てたところから湧き出した水が起源と伝えられています。この僧侶が「弘法大師(空海)」に違いないと信じて、この井戸が「弘法井戸」と呼ばれるようになったそうです。  
弘法大師の井戸 / 大阪府富田林市清水町 
おおそ柿の水 / 大阪府河内長野市  
大阪府の南東部にある南河内地域は、大阪の中でも古墳群、旧街道、由緒ある寺社など歴史的文化遺産が広く分布し、山地、河川、ため池など緑豊かな自然環境に恵まれた地域です。  
応神陵をはじめとする古市古墳群など、古代の南河内の反映を示す遺跡が数多く存在し、古市大溝や狭山池などの大土木工事も行われ、まさに古代史上、極めて重要な地域でした。  
また自然環境にも恵まれ、大阪府内最高地点である金剛山に源を発する多くの湧水が存在し、大阪府内をはじめ遠く府外からも湧水を求めて車の列ができるほどです。  
その中の一つ、千早赤坂村小深の里にあるおおそ柿の水は特に有名です。この付近には弘法大師の弟子実恵によって創立された観心寺があります。観心寺は南北朝時代には楠木正成の学問所であり、この時代の遺物が多く残っています。  
また南河内には高野山に通じる高野街道がとおり、弘法大師がこの地を訪れてから水が湧き出したなど、師にまつわる実に多くの伝説が今に伝えられています。  
この、おおそ柿の水も、大昔から水脈は変わることなく、国道310号が整備され、コンクリートの壁面に変わった今でも、こんこんときれいな水が湧き出ています。昔の伝説が今に伝わり、大切に守られてきました。水不足のときにも、小深地区の命の水となり、涸れることなく湧き続けています。
弘法の水 / 東大阪市西畑町  
暗峠(くらがりとうげ) 笠塔婆 国道308号線沿い。道幅が狭いので徒歩見学するのがいいと思います。日本の道百選  
水壷(弘法水、水呑地蔵の水) / 八尾市大字神立  
水呑地蔵院(みずのみじぞういん)水呑地蔵、水呑地蔵尊ともいう。弘法大師伝説。  
高安山 / 絶滅危惧種に指定されている日本固有の淡水魚「ニッポンバラタナゴ」が生息し、環境保全活動が盛んに行われています。また、春には桜を愛でながらハイキングができ、「水呑地蔵」では弘法大師が湧かせたという霊水を汲むことができます。また、高安山の展望台は、大阪平野が一望できる絶景スポットです。夜はまばゆくきらめく夜景を見ることができます。  
弘法観念水(弘法井戸) / 大阪府寝屋川市打上(うちあげ)  
湯屋が谷井戸(やがたんの井戸) / 大阪府寝屋川市郡元町 
湯屋が谷弘法井戸ともいう  
田井の弘法井戸 / 寝屋川市緑町40  
国松の弘法井戸 / 国松町11番8号  
清浄泉(せいじょうせん) / 柏原市太平寺 
石神社(いわじんじゃ) 「浄井戸(じょういど)」 聖武天皇、孝謙天皇、弥徳天皇等が行幸。弘法大師伝説が残ることから「大師の水」ともいう。大阪府文化財指定。清浄泉保存会、太平寺地区委員会が保全活動。  
照涌大井戸(てるわきおおいど) / 四條畷市下田原 
弘法大師伝説。照涌の共同井戸、「照れば照るほどよく涌く井戸」という意味で、照涌井戸と呼ぶようになった。水供養(8月下旬)。照涌大井戸保存会。  
雨井戸(雨乞井戸) / 富田林市大字龍泉 
龍泉寺 弘法大師伝説  
弘法大師恵みの井戸 / 富田林市桜井町  
清水井戸 河内長野市 / 天見川と国道371号線(旧高野街道)沿い  
弘法大師伝説  
おおそ柿の水 / 河内長野市千早赤坂村 小深の里 弘法大師伝説  
大阪府の南東部にある南河内地域は、大阪の中でも古墳群、旧街道、由緒ある寺社など歴史的文化遺産が広く分布し、山地、河川、ため池など緑豊かな自然環境に恵まれた地域です。応神陵をはじめとする古市古墳群など、古代の南河内の反映を示す遺跡が数多く存在し、古市大溝や狭山池などの大土木工事も行われ、まさに古代史上、極めて重要な地域でした。また自然環境にも恵まれ、大阪府内最高地点である金剛山に源を発する多くの湧水が存在し、大阪府内をはじめ遠く府外からも湧水を求めて車の列ができるほどです。  
その中の一つ、千早赤坂村小深の里にあるおおそ柿の水は特に有名です。この付近には弘法大師の弟子実恵によって創立された観心寺があります。観心寺は南北朝時代には楠木正成の学問所であり、この時代の遺物が多く残っています。また南河内には高野山に通じる高野街道がとおり、弘法大師がこの地を訪れてから水が湧き出したなど、師にまつわる実に多くの伝説が今に伝えられています。  
清水井戸 / 河内長野市清水町  
左近城址の下、国道371号線(旧高野街道)沿い 弘法大師伝説  
高見村惣井戸 / 松原市高見の里3丁目  
弘法大師伝説 高見村の信田氏が村人の共同井戸として造った井戸だといわれている。  
弘法清水(お大師井戸) / 杓井戸伝説 泉佐野市鶴原東町  
清水庵(しみずあん) / 阪南市尾崎町  
立看板に弘法大師の水とある。(清水大師/弘法の泉/弘法大師の清水) 弘法大師伝説  
 
兵庫県
十戸の湧水 / 日高町  
スキー場で知られる神鍋の山麓、十戸地区に湧出する水で、その上流の稲葉川の伏流水と思われる。民家の軒先の清水には、それぞれ石段と洗い場が設けられている。旅館「大清水」の前の清水は「弘法水」といわれている。  
五独水 / 神戸市須磨区  
須磨寺の山門近くに設けられた水場で、裏山の湧水を引いた弘法大師ゆかりの水という。四国山地で産出された巨石がシンボライズされている。 
弘法の井戸・妙法寺 / 神戸市須磨区妙法寺谷野  
飲み水に困っていた地に、弘法大師が杖をつくと水が湧き出たという伝説が残っており、現在も土地の人々から大切にされている。  
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妙法寺の「弘法の井戸」なのですが、広さはだいだい縦3m×横1m。見た目は透明でおいしそうに見えますが…。「水を飲れる方は沸かして飲んでください」との注意書きがありますね。ここは素直に言うことを聞きましょう。説明板に弘法大師の言い伝えが書いてあります。昔水不足で困っていた妙法寺村に弘法大師がやってきた。村人が水がなくて困っていることを聞いた弘法大師が持っていた杖で地面をトントンと叩くと、きれいな水がコンコンと湧き出てきた。簡単にいうとこのようなものです。こういう伝説が古くから言い伝えられてきたことからも、いかに地元の人々に大切にされてきたのかがわかるような気がします。  
弘法大師の清水 / 神戸市西区平野町中津  
弘法大師がツエで山すそを突くとこんこんと清水が湧き出したと言う伝説がある。  
弘法大師の霊水 / 明石市二見町  
海岸に近く海水のため、飲み水に困っていた地に、弘法大師が錫杖で地を突くと、清水が湧いたという。水掛地蔵尊が祀られ、現在も土地の人々から信仰を受けている。 
弘法大師の水 / 兵庫県篠山市  
石井の清水・弘法大師の井戸 / 兵庫県加古川市西神吉町  
独鈷の滝 (どっこのたき) / 兵庫県丹波市氷上町  
弘法の井戸 / 神戸市須磨区妙法寺字谷野
弘法大師長命の水(弘法大師の霊水) / 神戸市中央区再度山  
大竜寺(大龍寺)奥院 大師にまつわる大師梵字岩、亀の石。和気清麻呂が伽藍を建立。  
五鈷水と弘法岩 / 神戸市須磨区須磨寺町  
須磨寺境内 2000年(平成12年)に作られた須磨寺の手水処。  
弘法の井戸 / 神戸市須磨区、妙法寺谷野  
弘法大師の清水 / 神戸市西区平野町中津  
弘法大師の霊泉 / 明石市二見町  
石井の清水 / 加古川市西神吉町中西  
播州名所巡覧絵図に記されている。「弘法大師の井戸」「石井さん」と呼ばれる。奈良時代前期にあった寺の跡、中西廃寺の塔の路盤が井戸枠に使用されている。  
狸穴の水(狸穴命水) / 丹波市市島町上鴨阪(かみかもさか)  
五台山登山口 弘法大師伝説が残る別名「弘法大師の水」。狸穴の水(源水)から、弘法大師像のある水汲み場に引かれている。前山水道組合が整備。  
独鈷清水 / 宝塚市名塩(旧有馬郡名塩村)  
豊岡の名水10選 / 二見の湧水 独鈷水 延命水 玉橋飲泉場 地蔵さんの水 十戸の湧水 蘇武の天然水 奥山川の水 福寿の水 志水柿の水  
天瀧 / 大屋町筏区  
落差九八m 天瀧は、県下最高峰の氷ノ山を源流に落差九八M(平成二年実測)と県一を誇る名瀑で、その名のとおり天から降るように流れ落ちる雄大さから、平成二年に「日本の滝百選」に選定されております。この天瀧は、古く「大和長谷寺縁起」や「役の行者本紀」にも書かれ、また弘法大師が仏運興隆の地を求めて全国行脚した際、滝の霊気に打たれて「この地こそ仏陀の我に恵み給いし聖地」と、谷の数を数えたところ、千に一つ足らなかったため、居を高野山に求めた−との伝説が残っています。また登山道から渓谷沿いの遊歩道は、原生林に囲まれ「森林浴の森日本百選」にも選定されています。  
 
中国

 

岡山県
黒井の井戸 / 瀬戸内市(旧邑久町)  
岡山ブルーライン内、黒井山グリーンパークの向い側の黒井山等覚寺にある井戸。古今枯渇したことのない井戸で、弘法大師が墨染めの布を洗われたと伝えられ、岡山県の名水にも指定されていて、まろやかな美味しい水です。  
法然上人・産湯の井戸 / 久米南町  
浄土宗開祖、法然上人生誕地として知られる、久米南町の誕生寺にある。弘法大師が全国行脚の際、錫杖をもって地をさされたところ浄水が湧き出たそうで、後に法然上人御誕生の産湯の井戸となった。今日でもこの聖水は「万病の霊水」として信仰されている。まろやかな飲み心地ですが、枯葉等が浮いてるんで沸かして飲んで下さい。  
 
広島県
弘法の一杯水 / 庄原市東城町戸宇の谷  
カルスト台地である帝釈台の一角、宇山野呂の台地の北東斜面山麓に湧く。脇に弘法大師を祭ったお堂がある。湧き出し口のすぐ奥に小空洞があり、地下水が一定量溜まると、サイフォンの原理によって流出すると考えられているが、1972年の豪雨以後、間歇性が見られなくなり今に至っている。  
戦前のいくつかの研究から、降雨によって変化するが、数10分の周期で毎秒約10ℓの地下水が突然に湧き出し、およそ5分続いたことが知られている。湧出の前には遠雷のような音がし、湧出終了直前にはボコボコいう水音があったようである。水温約12℃。  
1825年に記された「芸藩通志」や1860年頃の「郡務拾聚録」には、少ない時で日に2〜3回、多い時で5〜6回湧くこと、享保から文政年間にかけて2度長期に間歇性が無くなったことが記されている。  
最近の研究では、江戸時代末と昭和初期の著しい周期性の違いや間歇性の中断は、サイフォン構造に加えて貯留槽の底部に小さな排水管をもつ水理構造があること、ならびに両時代の降水量の違いによるものと考えられている。また、現在の間歇性の消失も江戸時代と同じく、いずれ復元する可能性があるといわれる。  
なお間歇泉(狭義)は熱水あるいはガスを多量に含んだ温水が突沸的に湧く型のものを、間歇冷泉はサイフォン構造によって地下水が湧くものを呼ぶもので、両者は湧出のメカニズムがまったく異なる。間歇冷泉は他に国内に4ヶ所(福井県越前市の時水、岡山県新見市の草間の間歇冷泉(潮滝)、福岡県北九州市の満干の潮、熊本県球磨村の息の水)がある。 
弘法水 / 福山市  
俄山(にわきやま)山中の弘法大師を奉る境内の井戸から湧き出る鉱泉水で、弘法が杖で岩を打ち湧き出させたという伝説が残る霊水である。新聞などで「おいしい水」と紹介されたこともあって水場には行列が出来るほどの人気である。   
 
鳥取県
 
島根県
 
山口県
金剛水 / 周南市  
弘法大師伝説が伝わる千石岳(630b)山麓から湧き出る水。弘法大師の別名「遍照金剛」にちなみ命名されたという。県道鹿野夜市線ぞいにあり、近年は名水ファンに人気の水となっている。   
六地蔵の「金剛水」 / 柳井市  
キャンプ地の中にある六地蔵尊の地蔵が彫られた太岩の下から湧き出る水。金剛水といわれ、弘法伝説の水らしい。水量は少ないが健在。  
 
四国

 

愛媛県
臼池さん / 東予市  
東予市楠地区の田園にある「臼池さん」と地元の人たちに親しまれているお堂の下から湧き出る清水で、名前からしてご多分にもれず弘法伝説が息づいている。臼状の井筒からきれいな清水が湧き、農業用水などに使われている。  
弘法水 / 西条市  
瀬戸内海に近い河口の水底からの「うちぬき」。かつては自噴していたが、水量低下でポンプアップしている。稀な湧水風景は一見の価値有り。     
柴の井のお加持水 / 西条市氷見  
63番札所密教山吉祥寺すぐそばに湧く弘法大師伝説が残る名水。市内氷見地区にある。水量は書くなくなっているが、よく整備保全されている。  
弘法大師御加持水 / 今治市玉川町別所甲  
杖の淵 / 松山市  
弘法大師の伝説が残る名水は多いがこれもその一つ.お遍路さんが喉を潤すし、地元の人たちが水汲みに訪れる。重信川の伏流水が大量に湧出し、大きな泉を形成し。水路には「ていれぎ(オオバタネツケバナ)」が栽培されている。水汲みには時間制限がある。  
 
徳島県
井戸寺のお加持水 / 徳島市国府町  
四国八十八所17番札井戸寺の由来となった弘法井戸。 
井戸寺のお加持水 / 徳島市国府町  
十七番札所井戸寺の名の由来ともなった弘法井戸。弘法大師は一晩でこの井戸を掘ったという。持ち帰り用の水容器が用意されている。  
白水の井戸 / 阿南市新野町  
二十二番札所平等寺の境内の井戸で弘法大師伝説の水.祈りを捧げるための水を得るため井戸を掘ったところ白い水が流れ出し,大師はこの水で身を清めて薬師像を刻んだという。お持ち帰り用の水容器がある。  
お杖の水 / 小松島市  
小松島市の田園地帯、小松島中学校近くの畑の中にある弘法伝説の井戸。見たところ飲用にはためらう、史跡といったところ。 
金泉寺・黄金の井戸 / 徳島県板野郡板野町大寺亀山下  
四国霊場第3番札所。弘法大師ゆかりの「黄金の井戸」があり、井戸に自分の顔が映れば長寿になるという。寺域からは藤原時代の瓦も発掘された古い歴史をもつ。  
 
香川県
楠井の泉 / 国分寺町  
弘法大師ならぬ、薬師如来が掘ったと伝えられている水.古くから知られた霊泉で水汲みが多いが、水量は少ない。水場には薬師如来像が安置されている。  
弘法大師産湯の井戸 / 善通寺市  
日本の名水を語る際に忘れてはならないのが弘法大師.大師はここ善通寺で生まれた.この井戸の水は大師自身の産湯の水と伝えられ,仏事に使われてきた。飲用はできないらしく、持ち帰らないで・・と明記してある。  
 
高知県
大日寺の加持水 / 野市町  
二十八番札所大日寺札所の奥の院から湧き出ている.涸れることもなくこんこんと湧き出ている信仰の水。奥の院には,弘法大師がツメで彫ったというクスの薬師如来像があり,首から上の病気に効くと信仰を集めている. 
水の峠の湧水 / 仁淀川町北川588番地1付近  
水の峠の湧き水は大師堂の西側にあり、弘法大師が杖で地面をたたくと水が湧き出たという言い伝えが残されているという。 土佐の峠からの書 「水の峠(みずのとう)土予交易、交流の峠だった。池川下土居から始まり番所跡から小郷川に沿って寄合を経由する道の外二道がある。今では林道が通じており峠に至る。大師堂、「中島与市郎殉難之地」の碑がある。」  
 
九州

 

福岡県
独鈷水 / 篠栗町若杉山頂付近奥の院  
弘法大師が杖でたたいた岩から吹き出したと言われる「独鈷水」が湧き出ています。  
 
佐賀県
 
大分県
熊兵衛井戸 / 豊後高田市  
弘法大師の伝説のある湧水である.  
弘法大師の霊水 / 真玉町椿堂・椿光寺  
弘法大師の霊水は,1,200年の歴史を持つ真玉町椿堂および椿光寺の境内の岩窟内から湧出する.別名を椿大師の御霊水ともいわれ,ごく僅かな湧出量にも関わらず,万病に霊験のある水として参詣する人が絶えない.弘法大師の霊水はその名の通り弘法大師由来の湧水で,大分県内には弘法大師にちなんだ多くの湧水が存在している.いずれの湧水も,水の得られない地域の人々が干ばつで苦しんでいるのを見かねた弘法大師が,杖を突き立てたところ湧出したといわれており,水資源の乏しい地域に生活する人々の命の水として大切に利用されてきた名水である.  
神井 / 宇佐市宇佐神宮  
この神井は宇佐神宮の閼伽水や神官らが利用したと伝えられている.この井戸は,井戸枠が八角形になっている. 河野(2001)は,一般的な井戸枠はその材質(木材,石)に基づく技術的制約から四角形,もしくは丸形にするのが一般的とし,これまでの調査で,日本には六角形,八角形の井戸が40ヶ所程存在することを明らかにした.なぜ六角にするのかという疑問から,まず数字の意味を調べてみると,日本では八は縁起の良い意味で使われるが,六は神聖な数として認識される一方で,墓や地獄などといった事象に通じる数として認識されている.数の意味で六角井戸をとらえた場合,そこには「六」本来の意味とは別の,特別な意味があるに違いないと考えられる. 六角井戸は秋田から沖縄まで,全国各地に見られるが,その分布は京都・奈良,淡路島周辺,長崎に集中する傾向がある.またその半分近くが海岸付近に存在し,弘法伝説のある井戸が6ヶ所ある.中部地方以北の六角井戸は元々あった井戸にあとから六角の枠をつけた井戸が多く,正確には六角井戸とは言い難い井戸が多い.京都・奈良は歴史上の人物や史実に基づく井戸が多く,史蹟となっている.淡路島周辺の井戸は風土記などに登場する古井戸が多く,海岸付近に存在する.長崎の井戸はやはり海岸付近にあり,中国人が築造して南蛮貿易船などへ水を供給した歴史をもっている.沖縄はもともと丸形の井戸に井戸枠を造る際,その材料は石灰岩のブロックを使用した.石灰岩のブロックを組合せるには,小型の井戸は六角,大型は八角にすると効率よく井戸枠を築造できることがその理由となっている.石の文化圏に属する沖縄ならではの井戸といえよう.一方で神奈川県鎌倉市小坪海岸の六角井戸は,実は八角でその2角を逗子側,6角を鎌倉側が使用する水利権を表すために築造された.これは朝夕に井戸使用が集中する際の合理的な対策として六角井戸が築造された典型的な理由と考えることができる.
弘法水 / 大分県西国東郡大田村横岳山頂  
小畑走水 / 大分県西国東郡香々地町小畑  
弘法井戸 / 大分県宇佐郡安心院町房ヶ畑  
 
長崎県
 
熊本県
桜井硯の池 / 熊本市東区神園1丁目  
弘法大師が杖を立てたところ、水が湧き出したという湧水。池を囲む自然石が硯の形をしているので、硯の池という。  
千体仏の水 / 宇土市城塚町  
田畑の灌漑用水として長い間利用されてきたこの地は,約1千年以上も前から,弘法大使師が西遊の際刻んだとされる摩崖千体仏がある。  
吹割岩の湧水 / 上天草市大矢野町登立  
天草島原の乱の際、天草四郎がこの洞窟を通って生き延びた伝説や、弘法大師の伝説を秘めた霊場として多くの人の信仰を集める神秘的なスポットである。  
不動神社の湧水 / 上天草市龍ヶ岳町樋島  
弘法大師ゆかりのある不動神社は、春は桜の花見と、そこから望める龍ヶ岳と倉岳は絶景であり、不動神社参拝者が参拝前に、手を清め、喉を潤すなど非常に重宝している水源である。  
 
宮崎県
 
鹿児島県
大師の湧水 / 垂水市新城  
弘法大師の賜物で,浜砂の間より水が滾々と湧いていたとされる。現在は枯れているが,国道脇に陸軍所の水として碑が建立されている。 
 
温泉

 

 
東北
鎌先温泉 / 宮城県白石市  
川原子ダム(農業用ダム)の湖面に映る南蔵王不忘山。その麓に湧き出る鎌先温泉の伝説。600年以上も昔,桜が咲き誇り,鶯のさえずりが艶めく頃,  
一人の農夫が山で木を伐採していました。のどが渇き,水を求めて沢を探すと,岩から湯気が出ている。  
農夫が腰に差していた鎌で岩を突くとこんこんと湯が湧き出したのが,鎌先温泉の始まりと言われています。「キズに鎌先」といわれ,  
奥羽の薬湯として人気です。夜は温泉街がライトアップされ,幻想的な雰囲気に包まれます。白石市には,源義経の家来が発見したとの伝説が残る小原温泉,弘法大師の伝説が残る白石湯沢温泉など,  
湯量豊富で風光明媚ないで湯が数多くありますので,お立ち寄りください。
湯沢温泉 / 宮城県白石市  
今からおよそ1200年前ほどの大昔、七ヶ宿街道下戸沢宿の湯元という所に一軒の湯宿があった。  
ある日、みすぼらしいお坊さんがやってきて、「一夜の宿を」と願い出たところ、宿の女将さんは頭の先から足の先まで見定め、このお坊さんからはお金を取れないと思い、「今夜の宿はいっぱいです。」と断ったそうです。  
そう言われたお坊さんは「せめて、納屋でも物置でも」とまた願い出たそうです。しかし女将さんは「そこもいっぱいです。」と断ったそうです。  
困ったお坊さんは「では立ち去る前にせめて足だけでも湯につからせて下さい」 とお願いしたところ、「足だけ湯につからせるので早々に立ち去りなさい。」 と言ったそうです。  
お坊さんは喜び足を湯につかり、わらじをはいて立ち去ろうとした時、お湯がふき出している所に神社がまつられているのを目にし、まつってあったお幣束を一枚取り、湯澤の川へ流したそうです。  
そして、湯のふき出ている所へ杖を「えい!」とばかり力を入れて、突き立て、「お幣札が流れ、たどり着いた所に熱いお湯が出る」と言い残したそうです。  
幾日か、過ぎたある日、お幣札のたどりついた所の田、畑のあちらこちらに熱いお湯がたくさん出てきたそうです。  
村人はそこに湯宿をはじめる人もあり、中には、このお湯がいつまでも絶えないようにと、自分の3才になる女の子を生きうめにした人もある程で、その子をまつった神社が、 あると言われています。  
お幣札がたどり着いたところが現在の小原温泉と言われております。お坊さんが立ち去る前までは湯沢温泉はとても熱いお湯だったのですが、お坊さんが杖をついてからぬるいお湯になったと言われております。 (現在 源泉40℃)  
このお坊さんこそ、全国を行脚なされたとされる弘法大師様ではないかと言われております。  
時代が下った江戸時代までにはお湯がぬるかったため利用されていなかったようです。ある日、この地に自噴の温泉があると聞き伝えた亘理郡坂元町の住人島田平三郎様が、この湯に体を浸かり、いやしたところ、驚くほどの効き目があったので、大いに感激し、この湯を近くの神社に奉納しました。  
このすばらしい温泉をこのままにしておくのはもったいないと思い、地主である斎藤建治様に交渉して、ゆずり受け、当時としては、多額の資金と労力を投じ、火力を用いて、お湯を温め、いくつかの客室と男・女の浴槽を備え、湯宿を始めました。 大正4年7月のことです。  
話しを聞き伝え、湯治に訪れる人々が多くなっていったそうです。とくに“できもの、やけど、切り傷、はれもの、打ち身等に,よく効く温泉と評判になりましたが、いつの間にか寂れてなくなってしまいました。  
せっかくのすばらしい温泉がただ川に流されておりましたが、「旅館やくせん」館主が平成6年幻の名湯「湯沢温泉」を再建いたしました。 
温海(あつみ)温泉 / 山形県鶴岡市  
あつみ温泉の誕生は今から1,000年以上もむかしに遡ります。弘法大師の夢枕に童子が立ち、その示現によって発見したとか、傷ついた鶴が草むらから湧き出る湯に足を浸しているのを木こりが見つけた、など諸説語られております。  
庄内藩主酒井忠勝公が入国した後、藩公の湯役所が設けられ、以来近郊の湯治場として栄えてきました。古くから文人墨客も多く訪れ、松尾芭蕉、与謝野晶子、横光利一など、小説、詩歌に数多くうたわれています。1,000年にも及ぶ長い間、あつみの湯は人々に愛され守り伝えられてきました。今では山形・庄内を代表する温泉地として皆様に親しまれています。 
芦ノ牧温泉 / 福島県会津若松市  
開湯は1200年前とされる。開湯伝説によれば、行基による発見とされる。異説として、弘法大師による発見説もある。  
温泉名の由来は、後に蘆名氏の牧場がこの近くに作られたことに由来する説と、温泉街を流れる大川が渦を巻いていたことに由来する説がある。  
江戸時代になっても近隣の人が利用するのみの温泉であったが、明治35年に温泉地に道路が開通したことにより温泉地としての発展を見せていった。
大塩温泉 / 福島県大沼郡金山町  
開湯伝説によれば、弘法大師の発見とされる。  
戦後は当地で行われた開発に翻弄されている。1955年、本名ダム建設により、只見川沿いにあった温泉は水没し、現在地に移転した。他にダム開発により水没した温泉地 に、日中温泉、鶴の湯温泉、入之波温泉、大牧温泉、猿ヶ京温泉などがある。
 
関東

 

塩原温泉 / 栃木県
法師温泉 / 群馬県みなかみ町
川場温泉 / 群馬県川場村  
昔、昔。川場の村は、水に不自由をしていました。  
ある日のこと、お婆さんが洗い物をしていると、ひとりのお坊さんが訪ねてきて言いました。  
「水を一杯、くださるまいか」でも飲み水は、遠い沢からくんで来なければなりません。  
それでもお婆さんは、困っているお坊さんを放っておけず、親切に沢まで行って水を運んできて、さし上げました。  
「お婆さん、このあたりは水が不自由なのかな?」  
「はい、水もさることながら、もしお湯が湧いたら、どんなによろしいでしょう。このあたりには、脚気(かっけ)の病人が多うございます。脚気には、お湯がいいと聞いております」  
「なるほど」と、うまそうに水を飲み終わったお坊さんは、やがて持っていた錫杖の先でガチンと大地を突きました。すると不思議なことに、そこから湯けむりが上がり、こんこんとお湯が湧き出したといいます。〜  
このお坊さんが、有名な弘法大師だと知った村人たちは、この湯に「弘法の湯」と名付け、 今でも湧出地には弘法大師堂を祀っています。  
これが、昔から川場温泉が「脚気川場」といわれるゆえんです。  
 
中部

 

修善寺温泉 / 静岡県 
修善寺を訪れた弘法大師が、桂川の清流で病気の父のからだを洗う少年を見つけ、「川の水では冷たかろう」と手にした独鈷(煩悩を打ち砕くといわれる仏具)で川中の岩を砕いたところ、霊泉が湧き出たと伝えられています。その場所は「独鈷の湯」と呼ばれるようになり、修善寺温泉のシンボルになっています。  
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歴史は、弘法大師(こうぼうたいし)[=空海(くうかい)]が開いたという桂谷山寺(今の修禅寺)の歴史とともにあります。大同2年(807)に、弘法大師がこの地を訪れたとき、独鈷の湯(とっこのゆ)を弘法大師が湧出させたとされ、これが修善寺温泉の起源であり、かなり古い歴史があります。   
独鈷の湯 / 伊豆市修善寺  
独鈷とは仏具の一つですが、弘法大師がこの地で、独鈷で川原を突いたらお湯が出て来たという言い伝えから独鈷の湯と言われています。以前は、公衆浴場だったようですが、今では、川原の真ん中にあずま屋があり、足湯になっています。修善寺温泉のシンボル的な存在です。  
伊豆山温泉 / 静岡県
湯村温泉 / 山梨県甲府市湯村  
西暦808/大同3年、弘法大師東北巡行の帰り、信州路より甲州路に入り、近くの国宝尼除地蔵で身体を休めていました。道路の真ん中に大石あり。旅人の通行を困難にしていたところ、弘法大師が現れ呪文を唱えながら杖にて奇せたところ、温泉が湧き出してきたといいます。  
湯村温泉郷として旅館街ができる以前は鷺の 湯、谷の湯、崖甫の湯、そして当館の杖の湯 を合わせた4つの湯が銭湯として庶民に愛さ れ憩いの場とされていました。  
この情景が、葛飾北斎の 「勝景奇覧、甲州湯村」団扇絵に書かれております。  
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塩沢寺のとなりに、ホテル弘法湯があります。その裏手には、杖の湯跡があります。  
大同3年(808)弘法大師が東北巡行の帰りに、信州から甲州に入り、近くの厄除地蔵に泊りました。道路の真ん中に大石があり、旅人が通行に困難な状況でした。大師は呪文を唱えながら杖にて寄せるたところ、温泉が湧き出しといわれています。  
「杖の湯」「弘法杖」といわれ、いまにその名残があります。  
旅館街が出来る以前は、この杖の湯・鷲の湯・谷の湯・産甫ノ湯が銭湯という形で庶民に愛されていました。この3軒の内の何れかかが葛飾北斎によって描かれています。  
谷の湯と馬の湯  
塩澤寺の門前から延命橋を渡り少し下った柳屋とナック湯村(元富士野屋)の間に谷の湯という湯がありました。とても湯量が豊富で塩辛い温泉でした。このことから湯川のほとりで塩が取れることから塩澤寺という名前になったのでしょう。山国で塩が貴重だったことから越後の上杉謙信が武田信玄に塩を送った「敵に塩を送る」という諺からも分かるように湯村から今の横沢迄を塩澤と呼んでいた時もあり、今の塩部はその頃の名残です。又は、当時塩を分けた場所だから塩分(しおべ)と呼んで後に塩部となったという話もありますが信憑性は?です。  
中国の高層大覚禅師(蘭渓道隆)が日本に招かれ、信濃(長野)に留まっていた時、甲斐の国に名湯が湧くから開くがよいという夢をみて、甲斐に入り塩澤寺で滞在していると、芦の生えた谷間から湯煙がたつのをみて芦を刈ってみると果たして湯が湧いていた。 1250年頃のことであるといわれています。  
この谷の湯は湯量が豊富だったため、湯村の人は溝を掘り湯川の横を掘って村境へ流れるようにしました。ところがこの水は付近で田んぼや畑ををしている処へ入ってしまい。作物に悪い影響が出てしまいました。怒った村人は農耕馬をつれてこの溝を堰き止めてしまったため、今度は湯村の畑がお湯びたしになってしまい、これが元で隣の村といさかいが起こりました。人々が争っていると土手づくりで疲れた馬や病気の馬が、気持ちよさそうに次々と溜まったお湯に入り始めました。人々は争いをやめてこの様を眺めていました。しばらくすると病気の馬や疲れた馬は元気になり、それからはこの湯を馬の湯と呼ぶようになったそうです。  
このお話よりかなりあと、今のJR(旧国鉄)が中央線を開通させたとき線路の敷石に使うため岩山である湯村山から砕石をしました。それが今の石切場跡ですが、ここから切り出した石は当時馬車で運び出されていました。石を満載した馬車を引く馬はこの馬の湯を使っていたようです。中央線の甲府までの開通は1903年(明治36年)で、昭和30年頃まではこの時の馬の湯の湯船が道から少し入ったところに、浅瀬から順に深くなり、また浅くなる変わったプールのような形で残っていたそうです。  
明治12年に湯村温泉から県令藤村紫朗に提出させた「温泉開湯御許可願」によりますと、湯村の湯は人や牛馬の腫れ物や筋肉の痛みに効くので、日々、人と牛馬が群っていたそうです。  
1里〜3里も離れたところからも多数の牛馬が入浴のためにやってきたといいますから、農耕や輸送で疲労した牛馬をリフレッシュさせる目的で入浴させたものと考えられます。  
この許可願でも、すみやかに開湯すれば、牛馬が助かるといっています。  
このような許可願を出したのは、農業を目的とした人馬の通行に支障が出るほどにたくさんの牛馬が温泉に連れてこられたためめで、これを知った県がこれらの温泉入浴を差し止めたからです。
瀬戸口温泉 / 新潟県
清津峡温泉 / 新潟県
関温泉 / 新潟県
燕温泉 / 新潟県
出湯温泉(でゆおんせん) / 新潟県阿賀野市  
新潟県(旧国越後国)阿賀野市(合併前の北蒲原郡笹神村)にある温泉。五頭(ごず)連峰西側の山裾(やますそ)に位置し、五頭連峰県立自然公園(日本森林浴100選に選ばれている)に含まれる。古くから湯治場として知られる静かな温泉地。周辺に白鳥の渡来する「瓢湖(ひょうこ)」、登山を楽しめる「五頭山(ごずさん)」、森林浴・キャンプ・川遊びを楽しめる「県民いこいの森」、ゴルフ場などが点在する。周辺の温泉と併せて五頭温泉郷(ごずおんせんごう)を構成している。  
開湯は809年である。弘法大師空海が錫杖をついて湧出させたという開湯伝説が残る、新潟県内で最も古い歴史がある温泉。
鹿塩温泉 / 長野県下伊那郡大鹿村  
大鹿村の鹿塩(かしお)地区には、海水とほぼ同じ塩分濃度の塩水が湧き出ています。山深い里になぜ塩水が? その原因は未だにわかっていません。伝説によれば、神代の昔、諏訪大社からこの地へ移り住んだ建御名方命(たてみなかたのみこと)が、大好きな鹿狩をしていた際、鹿が好んで舐める湧き水を調べたところ強い塩分を含んでいることを発見したと言われています。また、もう一説には、弘法大師がこの地を訪ね、山奥で塩の無い生活に苦労する村びとを憂いて杖を突いたところ、そこから塩水が湧き出たとも言われています。  
昔から鹿塩地区には地名に塩がつく場所が多い地。人の名前にも小塩、大塩、万塩など、やはり塩がつく方が多くいらっしゃいます。塩が湧き出る場所は、村を南北に貫く大断層「中央構造線」の東側に全て集中していることから、この地質がなんらかの原因になっているとも考えられていますが、これもまだ立証されるに至っていません。いずれにしても、山深い村に湧き出るこの塩が、煮物や漬物、味噌、醤油の製造など、村人の生活に決して欠かす事のできない宝として利用されてきたことは想像に難くありません。  
そして現在では、この塩泉を利用した秘湯・鹿塩温泉へ四季を通じて全国から人が訪れています。鹿塩温泉は全部で二軒。いずれも塩川のせせらぎを聞きながら、ゆっくりくつろいでいただける秘湯です。 
海の口温泉 / 長野県下伊那郡大鹿村
 
近畿

 

塩野温泉 / 滋賀県甲賀市甲南町塩野  
JR甲南駅にほど近く、甲南町塩野の甲賀盆地に湧く塩野温泉。1000年程前に弘法大師(空海)が発見した甲賀流忍者の里に湧く湯。江戸時代には近江輿地史略にもその名が記されており、滋賀県下随一の歴史ある古湯と云われている。閑静な田園風景に佇む1軒宿(明治31年創業)は、趣向を凝らした風呂、五右衛門風呂、バリアフリー型浴室などで古湯を楽しめる。温泉の泉質はナトリウム-塩化物泉。温泉の効能は婦人病、胃腸病、神経痛など。無色透明の湯は、塩分が少し含んだ14℃の天然冷鉱泉。   
2  
甲賀忍者の発祥の地として知られる甲賀の里。その閑静な田園風景の中にある塩野温泉。約1000年前、弘法大師(空海)により発見され、滋賀県随一の歴史ある古湯と言われています無色透明の湯は、ほのかに塩分を含んでいて、婦人病、胃腸病、神経痛 などに効果があるそう。郷土の幸を生かした忍者鍋や京風会席が楽しめます。 
赤引温泉 / 愛知県
龍神温泉 / 和歌山県
丹生温泉・丹生大師湯 / 三重県勢和村大字丹生  
(にゅうおんせん・にゅうだいしゆ) 三重県多気郡勢和村にある丹生大師神宮寺は、774年(宝亀5年)に弘法大師の師である勤操大徳によって開かれたという古刹です。その後弘法大師も訪れ815年(弘仁6年)に七堂伽藍が建立、大師堂にある弘法大師像は本人が作った自画像なのだそうです。そんな弘法大師ゆかりの寺の仁王門から150mほどのところには「丹生大師の湯」という小さな温泉浴場があります。  
 
中国

 

関金温泉 / 鳥取県
弘法寺温泉 / 山口県萩市  
弘法大師が唐からの帰途の船で老人に「自分の島にきてください」といわれてついていくと天女が現れて、弘法大師のおいでを喜び、その姿を彫刻した。その彫刻が弘法寺の御本尊のなっており、この地(島)を浮島または弘法島と呼び、山号を寄舟山と呼んだ。で、この地より明治25年に2種類の温泉が発見された。1つは浮島霊泉と呼ばれる飲泉、もう1つはおかげ湯とよばれる硫黄泉らしい。
湯免温泉(ゆめんおんせん) / 山口県長門市三隅町  
弘法大師が夢に見たラジウム豊富な名湯  
アユ釣りが楽しめる清流・三隅川沿いにある長門市三隅に位置する温泉地。一軒宿「湯免観光ホテル」内には、地元の人たちも足しげく通う大衆浴場を併設。もとは町営だった大衆浴場は、古いながら瓢箪型の浴槽に趣があり、その鄙びた佇まいが古くから生活の中に温泉が根付いてきたことを物語る。温泉街の中心には、三隅出身の画家・香月泰男の美術館。シベリヤでの抑留体験から生まれた「シベリヤシリーズ」で知られる香月は、三隅を「私の地球」と呼びこよなく愛したという。また、同じく当地出身の村田清風は、明治維新の基礎を築いたと語り継がれる賢人。江戸時代の後期、経済的窮地に陥っていた長州藩を産業の開発や人材の育成・登用などによって立て直した。旧宅・三隅山荘が現存し、武家の暮らしを今に伝えている。先人たちが愛し、多くの才能を輩出してきた三隅。今なお豊かな自然が残り、受け継がれる名湯が訪れる者を優しく包み込む。  
2  
その昔、弘法大師が唐からの帰途に立ち寄った際、温泉が湧く夢を見たことから発見されたとの言い伝えが残る古湯。そのため「ゆめ温泉」と呼ばれていたのが転じて、「ゆめん」となったとか。また一説には、傷ついたウサギが傷を癒したことから、「湯免(兎)」と名がついたとも言われている。通常の4倍ものラジウムを含んだ湯は神経痛や筋肉痛、皮膚病などに効果があり、美肌の湯として女性を中心に人気が高い。入浴施設は公営の「湯免ふれあいセンター」と「湯免観光ホテル」の2ヵ所のみ。規模は決して大きくないが、多くの人に親しまれてきた温泉だ。 
於福温泉 / 山口県美祢市 
弘法大師が開いたという伝説が残る市内唯一の古湯だが、湯量が少なく、一軒の温泉旅館(現在は2軒)が佇む鄙びたいで湯の雰囲気を漂わせていた。
 
四国

 

清水温泉 / 徳島県
千羽温泉 / 徳島県
東道後温泉 / 愛媛県松山市
南道後温泉 / 愛媛県松山市 
「杖の淵」という泉があり、空海が巡錫で訪れた際、旱魃を見かねて錫杖で地を突き、涌き出たものという。
 
九州

 

まむし温泉 / 福岡県
熊の川温泉 / 佐賀県佐賀市富士町大字上熊川  
開湯は821年。弘法大師・空海が全国行脚の途中に立ち寄り、傷ついた水鳥の水浴びを見て発見したと伝わる温泉。全国有数のラドン含有量と、体にまとわりつくような柔らかな湯触りが特徴だ。浴用ではリウマチや通風から、アトピーなどの皮膚病にも薬効が高いと評判。湯上りにはつるスベ感のある美肌効果も感じ取れる。また呼吸によって湯気から成分を吸収することで鎮静作用が働き、ノイローゼ等の治療にも効果的なのだとか。飲用では慢性消化器疾患や糖尿病などに効くとされる、幅広い効能を誇る良湯である。  
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熊の川温泉(くまのかわおんせん)は、佐賀県佐賀市富士町(旧国肥前国)にある温泉。開湯は821年です。開湯伝説によれば、弘法大師が水鳥を見て発見したとされています。昭和41年8月1日、古湯温泉と共に国民保養温泉地に指定されました。 
波佐見温泉 / 長崎県
杖立温泉 / 熊本県阿蘇郡小国町大字下城  
“湯に入りて 病なおれば すがりてし 杖立ておいて 帰る緒人”と詠んだのは、旅の途中、杖立温泉に立ち寄った弘法大師・空海。この句に詠まれているように、杖をついて湯治にやってくる病人や老人も、杖を忘れるほど健康になって帰っていくと言われ、街には置き忘れられた杖のモニュメントも建てられている。一方、弘法大師・空海が持っていた竹の杖を立ててみたところ、枝や葉が生えてきたという説も。いずれにしても、温泉の効能の高さから「杖立」と名付けられた弘法大師ゆかりの名湯。  
その昔、神功皇后が筑紫(現在の福岡県)で応神天皇を出産した際に、杖立の湧き出る霊泉を産湯に使ったことが始まりとされる古湯。その場所は、開湯1,800年を経た今もなお、無料の露天風呂「元湯」として親しまれている。豊富な湯量と、98〜100度の高温泉の蒸気を使ったのが、古来伝承の蒸し風呂。さらに、調理器具の発達する前は「むし場」と呼ばれる煮炊きをする公共の場所もあったとか。入浴だけでなく、温泉が人々の生活に深く密着して受け継がれてきたことを物語る。  
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杖立温泉の歴史は1800年の昔にさかのぼります。神功皇后が当時の新羅に出兵を行った際のこと、亡くなられた仲哀天皇の御子をみごもっておられた皇后は、戦いが終わり筑前の宗像まで引きあげたところで産気づかれました。その時現れた白髪の老人が「これより東南に川をさかのぼると霊泉がある。これを汲み産湯に用いれば皇子は千歳の寿を保たれるであろう。」と告げて消えてしまったそうです。そこで付き人は、険しく続く山々越え、この地に達し、中龍頭に似たおおきな岩窟から立ち上る一筋の湯気を見つけました。これを汲み取り、皇后のもとへ持ち帰り、産湯として奉ったのです。こうしてお生まれになったのが後の応神天皇であり、この霊泉こそ杖立温泉だったと伝えられています。  
「杖立」という地名についても、不思議な言い伝えがあります。平安時代の初めの頃、旅の途中で訪れた弘法大師空海は、温泉の効能にいたく感銘されたそう。そして持っていた竹の杖を立ててみたところ、節々から枝や葉が生えてきたのが、その名の由来とか。また、杖をついて湯治にやってくる病人や老人も、帰る頃には杖を忘れるという、温泉の霊験をたたえた由来もあると言われています。 
 
いぼとり神仏

 

 
北海道・東北 
北海道
青森県  
 
岩手県  
日吉神社(配志和神社) 岩手県一関市山目舘 松イボを借りてイボをこする。お礼は新しい松イボの二倍返し。  
いぼ神様(宮崎稲荷神社) 岩手県陸前高田市小友町宮崎 油揚げとか生卵を供える。(日本最東のいぼ神)  
 
宮城県  
五輪堂・疣取り地蔵 宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉 お礼に卵を奉納する。  
いぼ神様のケヤキの清水 宮城県塩竃市一森山1−1 泉の水をつける。お礼は箸を供える。(塩竃神社)  
玉こぶの欅・いぼ神様(柳津虚空蔵尊) 宮城県登米市津山町柳津 (柳津虚空蔵尊)、柳津(やないづ)  
志呂庫神社(白狐大明神) 宮城県大崎市松山長尾大天場西14 お礼は年令の数の玉子を供える。(旧志田郡松山町)  
いぼとり太子堂 宮城県黒川郡富谷町太子堂 太子堂の石でいぼをこする。  
大衡八幡神社 宮城県黒川郡大衡村大衡八幡  
いぼ地蔵様 宮城県石巻市長渡浜  
いぼ取り薬師 宮城県仙台市太白区長町4−2−9 いぼがとれるまで蛸を食べない。お礼は豆を供える。  
疣神尊(延寿院) 宮城県仙台市青葉区宮町5−6−18 小石でイボをこする。お礼は小石の倍返し。  
牛頭天王像(八坂神社) 宮城県仙台市宮城野区岩切若宮前11−7 (瘤とり神社)牛の頭の瘤を1週間なでると治る。お礼は年の数の小麦を供える。  
三吉神社 宮城県多賀城市市川奏社 (アラハバキ神社の境内社)  
南宮神社 宮城県多賀城市南宮色の地  
いぼ取り石・うば干し石 宮城県白石市小下倉以保石 小下倉(こしたぐら)、以保石(いぼいし)  
石神さん・いぼ神さん 宮城県白石市鷹巣石神 石でイボをこする  
竜の枕石・いぼ石神(春日神社) 宮城県角田市鳩原寺22 お礼参りに豆を供える。  
いぼ神様 宮城県亘理郡亘理町逢隈下郡 御礼はアズキやコメを供える。  
諏訪神社・イボ神様 宮城県伊具郡丸森町耕野 牛乳など(白い飲み物)を持ってお参りする。 
 
秋田県  
イボ神様 秋田県山本郡三種町外岡 箸でイボ神様の土を取りイボにつけ、菓子を供え箸を立てる。お願い後は後ろを振り返らない。(日本最北のいぼ神様)  
いぼとりさん・竜泉寺のお地蔵さん 秋田県横手市平鹿町浅舞浅舞286 湧き水を供えて煙草に火をつけ蝋燭を灯して祈願する。お礼は煙草とお餅。(旧平鹿郡平鹿町浅舞286)  
いぼとり地蔵 秋田県由利本荘市岩谷麓字折渡(おりわたり) 小石でイボをこする。お礼は石の倍返し。(延命地蔵尊)(旧由利郡大内町)  
側清水地蔵 秋田県仙北郡美郷町六郷 (旧仙北郡六郷町六郷・湧水群の河筋地蔵堂)  
金剛童子線刻像 秋田県雄勝郡羽後町西馬音内掘回郷ノ目 堀回地域イラストマップ (元西小学校の川向こう、七曲峠の入口)、西馬音内堀回郷ノ目(にしもないほりまわりごうのめ)  
イボ取りの石(女の神様) 秋田県湯沢市下院内笈沢 笈沢(おいざわ)・(降木神社の近く) 
 
山形県  
蛸薬師の石塔・いぼ神様 山形県酒田市日吉町2−9−21 日和山公園の東南、皇大神社の境内社の金刀比羅神社境内にある  
あごらし地蔵尊 山形県鶴岡市大宝寺1−8−4 ゴマ石を借りてイボをこする。  
いぼ取り観音 山形県鶴岡市下興屋 石を借りてイボをこする。お礼は石の倍返し。下興屋(しもこうや)  
いぼ稲荷・中山稲荷 山形県新庄市中山 杉の小枝のいぼでイボをなでる。  
いぼ石(石動神社) 山形県新庄市萩野 石にイボを3回こすりつける。  
いぼびっき(黒沢神社) 山形県最上郡最上町黒沢 イボをこする。(黒沢神社=大天馬様・だいてんばさま)いぼびっきは石の蛙。  
いぼ神様 山形県最上郡金山町下野明 お礼にお賽銭と割り箸1束を奉納する。  
石いぼの神・神田神社 山形県村山市湯沢1597 お供えする餅でいぼをさすりお祈りする。  
いぼ地蔵 山形市六日町 (旧県庁の文翔館の裏)  
いぼ神様・稲荷神社 山形県南陽市島貫(しまぬき)  
いぼころり地蔵 山形県米沢市駅前1丁目1ー71の近く 石でイボをこする  
イボ取観音(普門寺) 山形県米沢市万世町桑山 観音堂の石を借りてイボをこする。(桑山観音堂)  
いぼこ地蔵・さくら地蔵 山形県西村山郡朝日町宮宿助の巻 お饅頭を供える。(旧助の巻村)  
石いぼ地蔵(大師像) 山形県西村山郡西川町砂子関 (砂子関神社)、砂子関(すなごせき)  
疣とり地蔵 山形県西置賜郡小国町綱木箱口  
古志王神社(こしおうじんじゃ) 山形県西置賜郡小国町大滝 (大滝のオコショウサマ) 
 
福島県  
羽山神社 福島市方木田水口 神社の石を借りる。お礼はお礼石一つ持ってお参りする。  
お春地蔵尊(常円寺) 福島市山口寺屋敷4 地蔵さんの周りを3遍回ってその都度イボをこする。  
諏訪内来迎石仏・いぼ神さま 福島県郡山市富田町諏訪内 藁しべを結ぶとイボがとれる。  
エボ地蔵 福島県喜多方市熱塩加納町宮川 (旧耶麻郡熱塩加納村宮川山岩尾二ノ倉山中東瀧の沢)  
いぼとり神社(白山神社) 福島県喜多方市豊川町一井渋井 イボを石で擦り治ったお礼は石の倍返し。  
いぼとり地蔵 福島県喜多方市関柴町豊芦布流 治ったお礼は石の倍返し。  
イボとり地蔵様 福島県岩瀬郡天栄村白子太多郎  
いぼぬき地蔵尊 福島県会津若松市大戸町上小塩 上小塩(かみおしゅう)・(会津ニ十一地蔵尊第一番札所)  
疣神様 福島県会津若松市一箕町八幡滝沢  
おさすり地蔵(興徳寺) 福島県会津若松市栄町2−12  
戸の口いぼ地蔵 福島県耶麻郡猪苗代町翁沢戸ノ口 お地蔵さんの石でイボをこする。  
えぼとり地蔵 福島県南会津郡下郷町豊成楢原  
イボ清水 福島県南会津郡南会津町永田 (旧田島町永田)イボに清水をつける。  
いぼ神様・いぼ石 福島県いわき市田人町旅人熊の倉 溜まった水でイボを拭く。  
いぼ神様・太子堂 福島県いわき市遠野町滝川原 藁の小さな俵に大豆を入れて供えて祈願する。  
虚空蔵堂 福島県いわき市平下高久 布製の紅白の玉を奉納する。  
いぼ石(阿弥陀堂) 福島県いわき市四倉町戸田 いぼ石を借りてイボをこする。お礼は石を倍にして返す。  
いぼ地蔵 福島県いわき市四ツ波石森 『旅と伝説』復刻版(岩崎出版社・昭和53年刊)〜昭和14年12月号の高木誠一著「磐城の地蔵」  
子育て身代地蔵尊・いぼ地蔵(白水阿弥陀堂) 福島県いわき市内郷白水町広畑219 同上  
団粉地蔵・いぼ取り地蔵 福島県いわき市小川町西小川上谷地28 同上  
中山のイボ神様 福島県東白川郡鮫川村渡瀬中山 鮫川村渡瀬(さめがわむらわたらせ)  
いぼ神様(宝積寺) 福島県伊達郡桑折町新町43 宝積寺(ほうしゃくじ)、桑折町(こおりまち)  
八幡太郎義家の足跡石 福島県相馬市新沼 溜まっている水をイボにつける。(八幡神社)  
四地蔵尊・疣地蔵尊 福島県南相馬市原町区高倉東畑82 (高倉文殊堂)(旧原町市高倉)  
疣石観音 福島県相馬郡飯館村飯樋大平 こよりを疣石に結び祈願すると疣がとれる。  
いぼ清水 福島県田村郡三春町松橋 いぼに水をつける。  
相川観音・いぼ観音 福島県大沼郡会津美里町氷玉相川 (旧会津本郷町)(曹洞宗自福寺)・氷玉(ひだま)  
十王堂・疣神 福島県大沼郡三島町小山  
あまさけ地蔵 福島県双葉郡双葉町  
イボ取り地蔵 福島県双葉郡広野町下北迫 下北迫(しもきたば)地蔵尊、小石でイボをさする。  
北向人肌薬師 福島県二本松市油井北向 (弘誓山医王院) (旧安達郡安達町)  
長岡のえぼ石(熱田神社) 福島県伊達市長岡 ひいらぎの葉でいぼを三度こすり、その葉でえぼ石をこする。(旧伊達郡伊達町長岡)  
いぼ地蔵・永作地蔵 福島県伊達市月館町布川 (一盃盛地蔵)(旧伊達郡月館町布川)  
菅野稲荷・イボ取り神様 福島県須賀川市志茂 丸い石でイボを3回なでる。(菅野家の宅地内)・(旧岩瀬郡長沼町志茂)  
イボ神様(鶏渡権現) 福島県須賀川市志茂鶏渡(にわたり) 丸石でイボをこする。お礼は丸石を供える。(旧岩瀬郡長沼町)  
いぼ清水 福島県白河市東釜子畑中 清水を人肌くらいに加温してイボにつける。いぼとりを祈願して清水の中に10円硬貨を投入して清水を汲む。汲んだら後ろを振り返らずに帰路につく。 
 
関東

 

栃木県  
いぼ神様 栃木県大田原市久野又 (旧那須郡黒羽町)  
いぼ地蔵・アメ地蔵 栃木県大田原市元町2−4 お礼はアメを供える。  
三斗内のいぼ地蔵 栃木県大田原市実取  
いぼとり地蔵尊 栃木県那須塩原市高阿津 左縄をあみイボをこすり、その縄をいぼ結びにして地蔵さんに掛ける。(旧那須郡塩原町高阿津・稲荷神社近く)  
寺子の地蔵尊 栃木県那須塩原市寺子 (イボ取り地蔵)寺子(てらご)(旧黒磯市)  
いぼ地蔵尊(八坂神社) 栃木県矢板市倉掛上坪  
針生の地蔵尊(箒根神社) 栃木県矢板市針生御山下 大豆を供えて祈願  
前滝様・イボ取り不動様(水分神社) 栃木県矢板市下伊佐野 枝豆を供えて祈願  
三日月神社 栃木県鹿沼市上殿町31−1 豆腐を捧げて祈る。  
首掛地蔵・イボとり地蔵 栃木県鹿沼市下沢  
痣地蔵 栃木県宇都宮市徳次郎町2454 (徳次郎交差点から西へ50m)  
三日月神社 栃木県宇都宮市石井町 石を拾ってイボをなでる。  
坂口やの疣地蔵 栃木県宇都宮市中里西組 (旧河内郡上河内町)  
いぼ地蔵 栃木県さくら市氏家勝山 (将軍地蔵・そうめん地蔵の堂脇)火をつけたタバコを供える。  
いぼとり地蔵(龍泉寺) 栃木県足利市助戸1丁目ー652 自分の背丈の竹串に団子をさして供える。(足利厄除け大師)  
三日月塔・みかづきさま 栃木県足利市簗田町 線香を上げて祈る。  
いぼ薬師さま(医王寺) 栃木県足利市田中町  
三日月神社 栃木県栃木市川原田町535 石を借りてイボをこする。石を倍にして納める。  
柿の木さま(高椅神社) 栃木県小山市高椅702 柿の木の根元の砂をイボにつける。お礼は砂の倍返し。  
いぼとり地蔵 栃木県佐野市韮川町小山 (個人宅の裏山、未公開)  
瘤観音 栃木県佐野市葛生東  
いぼ地蔵(玉林寺) 栃木県佐野市多田町 秀宝山玉林寺(旧天神山総持院)  
いぼとり地蔵(二体) 栃木県下都賀郡壬生町安塚 お礼は豆腐を供える。(安塚五味梨北)  
いぼ切り聖観世音菩薩 栃木県真岡市久下田 (旧芳賀郡二宮町)  
いぼ地蔵 栃木県日光市足尾町原 お礼に山芋の実で作った数珠を供える。(旧上都賀郡足尾町)  
 
群馬県  
岩船地蔵・お船地蔵 群馬県前橋市公田町  
いぼ地蔵 群馬県前橋市元総社町  
イボ取り地蔵(景忠寺) 群馬県高崎市本郷町1148  
信玄石(奥州道) 群馬県高崎市八幡町 くぼみに溜まった水をイボにつける。  
いぼ石 群馬県高崎市倉渕町川浦下川原 いぼ石の水をイボにつける。(旧群馬郡倉渕村川浦下川原)  
いぼ地蔵(鳳仙寺) 群馬県桐生市梅田町1 やまいもの実を数珠にして地蔵さんの首に掛けてイボとりをお願いする。  
いぼ地蔵 群馬県桐生市梅田町5 (桐生市野外活動センターの入り口)  
イボ石 群馬県桐生市黒保根町上田沢 触れるとイボがとれる。(沢入川沿い) (旧勢多郡黒保根村)  
エボ取リ水・エボ石(清水の観音堂) 群馬県桐生市黒保根町下田沢 手水鉢の水でエボを洗う。(旧勢多郡黒保根村下田沢清水)  
疣薬師(赤城見台公園) 群馬県伊勢崎市波志江町・いせさき聖苑の隣 (カヤの根元の石仏)  
いぼ地蔵(明善寺) 群馬県館林市大島町4846  
いぼ地蔵 群馬県館林市四ツ谷町 お礼にお団子を3個さした地蔵の背丈の竹を供える。  
穴薬師・イボ薬師 群馬県北群馬郡吉岡町大久保溝祭  
いぼとり薬師 群馬県みどり市大間々町塩原 石を借りてイボをこする。お礼は石の倍返し。(旧山田郡大間々町)  
笠懸疣取地蔵尊(南光寺) 群馬県みどり市笠懸町阿佐美967  
いぼ庚申 群馬県太田市尾島町裏組 砂を借りてイボにつけ、もぎ取って欲しいと言ってお願いする。(旧新田郡尾島町尾島)  
いぼ地蔵 群馬県利根郡みなかみ町猿ケ京温泉 おがんしょをして、お礼におがんしょばたし。(旧新治村猿ケ京温泉)  
いぼとり地蔵 群馬県利根郡みなかみ町遠永 小石でいぼをこする。(旧新治村遠永)  
瘤観音(明言寺) 群馬県邑楽郡邑楽町石打甲237  
イボとり庚申(宝寿院) 群馬県邑楽郡大泉町寄木戸1114 庚申像の前の砂でイボをさする。お礼は新しい砂を返す。『大泉かるた』  
熊野神社の大欅 群馬県安中市安中3丁目22  
 
茨城県  
いぼ地蔵 茨城県久慈郡大子町袋田箕輪 お礼は豆を供える。(箕輪山の中腹の箕輪観音への途中)  
安産子育て疣取り地蔵 茨城県久慈郡太子町冥加597  
いぼ取り石・庚申塔(石沢寺) 茨城県北茨城市華川町中妻50 石沢寺(いしざわじ)  
小幡阿弥陀堂・イボ神様 茨城県日立市東滑川町小幡 お礼は大豆を奉納。  
阿弥陀堂・疣神様 茨城県日立市砂沢(いさござわ)町 (砂沢公民館のちかく)  
イボ取り地蔵 茨城県桜川市堤上 堤上(つつみのうえ)  
大町のイボとり道祖神 茨城県土浦市大町 (土浦橋の袂)  
みかづきさま(日枝神社) 茨城県つくば市田中1850 お社の石でイボをこする。  
疣神社(真珠院) 茨城県つくば市上横場1807  
疣の阿弥陀様 茨城県行方市羽生 (万福寺阿弥陀堂)(旧行方郡玉造町羽生)羽生(はにゅう)  
淨行殿(一乗寺) 茨城県行方市富田246 タワシでこする。お礼はタワシを奉納。(旧行方郡麻生町)  
いぼ取り地蔵尊 茨城県行方市篭田175 斉藤宅  
観音堂(観音寺) 茨城県行方市小幡1038 (旧行方郡北浦町)  
阿弥陀如来・イボとり地蔵(大儀寺) 茨城県鉾田市615 (旧鹿島郡大洋村)  
いぼとり榎 茨城県常陸大宮市中居729 (旧東茨城郡御前山村)  
阿弥陀如来(来迎院) 茨城県常陸太田市大里町 阿弥陀堂の石を持ち帰りイボをこする。お礼は石の倍返し。(旧久慈郡金砂郷町大里)  
イボ神様 茨城県常陸太田市大菅町田平  
小町いぼ神様 茨城県石岡市小野越 (旧新治郡八郷町)小野越(おのごえ)  
伊保田神社 茨城県かすみがうら市上佐谷関戸脇 (旧新治郡千代田町上佐谷)神殿から小石を借りて、毎日数回いぼをこする。治った御礼は小石を数倍にして返す。  
男神神社 茨城県かすみがうら市男神 拾った石でイボを擦り、その石を奉納する。  
いぼころり不動尊 茨城県坂東市中北(沓掛・内野山地区) 石を借りてこする。お礼は豆腐を供える。(旧猿島郡猿島町中北)  
三日月神社・イボ神様 茨城県古河市東山田 お礼はお豆腐をあげる。(旧猿島郡三和町東山田)東山田(ひがしやまた)  
いぼ取り地蔵(無量寿寺) 茨城県猿島郡五霞町小福田1226 土だんごを6個あげ祈願する。お礼は米のだんごを供える。  
六星神社 茨城県つくばみらい市山王新田 奉納された稲わらでイボをこする。  
イボとり地蔵 茨城県鹿嶋市佐田(坂ノ下)  
阿弥陀如来 茨城県潮来市大賀627 (文殊院・阿弥陀堂)  
いぼの神・愛宕神社 茨城県稲敷市柴崎7820 (旧稲敷郡新利根町)  
イボ神様 茨城県北相馬郡利根町下井 (下井公民館・稲荷大明神の近く)  
 
埼玉県  
いぼ地蔵 埼玉県草加市新里町 新里町(にっさとちょう)(徳性寺の近く)  
いぼ地蔵・瓶かぶり地蔵 埼玉県草加市松江6 (弁天社鳥居脇)  
いぼ地蔵(四体) 埼玉県草加市新栄町 (稲荷神社隣)  
いぼ地蔵(慈尊院) 埼玉県草加市稲荷4  
旧家藤波家のいぼ地蔵 埼玉県草加市青柳町5 いぼ地蔵の線香の灰をいぼにつけるか地蔵の前にある小石でいぼをこする。民話  
塩地蔵尊(観龍院) 埼玉県吉川市高久1−2−4 (山門前)  
塩盛り地蔵尊 埼玉県行田市行田23−10 (大長寺)  
いぼとり地蔵尊 埼玉県行田市長野ロータリー近く (安楽地蔵尊・子育て地蔵尊)  
満海地蔵尊・イボ地蔵様 埼玉県行田市和田685 (宝珠院)  
いぼ神様・馬頭さま 埼玉県狭山市下奥富吹上 御礼は白い豆俵.。(八雲神社の裏)  
黒こげ地蔵・イボとり地蔵 埼玉県狭山市入間川1 線香の灰を持ち帰りイボにつける。(慈眼寺の裏)  
上沢のイボ地蔵さま 埼玉県狭山市柏原・東上宿バス停近くの墓地内の念仏供養塔 荒縄で地蔵をしばる。願いが叶ったらほどく。上沢(うえさわ)  
いぼとり地蔵 埼玉県加須市西ノ谷 西ノ谷(にしのや)(旧北埼玉郡騎西町)  
泥庚申 埼玉県加須市正能 泥を打ち付ける。正能(しょうのう)(旧北埼玉郡騎西町)  
イボとり地蔵 埼玉県加須市上種足 (森住家の西)上種足(かみたなだれ)(旧北埼玉郡騎西町)  
地蔵菩薩(桂性寺) 埼玉県加須市割目505  
いぼとり地蔵尊(正福寺) 埼玉県熊谷市沼黒 お礼に真っ赤なタスキを供える。(旧大里郡大里町沼黒)  
いぼとり地蔵尊 埼玉県熊谷市中曽根 (旧大里郡大里町中曽根)  
いぼとり物言い権八地蔵 埼玉県熊谷市久下 線香の灰をイボにつける。久下(くげ)  
いぼ地蔵(普門寺)? 埼玉県熊谷市千代425? 千代(せんだい)(旧大里郡江南町)  
疣地蔵 埼玉県熊谷市塩明賀 泥団子を供えて祈願、お礼は米の団子を供える。(旧大里郡江南町)  
疣地蔵(楡山神社) 埼玉県深谷市原郷1994  
文永阿弥陀浮彫大板碑・おねんぼう様 埼玉県比企郡吉見町古名336 古名(こみょう)  
いぼとり地蔵(園光寺) 埼玉県比企郡小川町青山345  
平地蔵・べったら地蔵 埼玉県比企郡嵐山町鎌形 嵐山町(らんざんまち)  
疣取・子育延命地蔵尊 埼玉県大里郡寄居町今市 よりいの民話 (いぼ取りの一体地蔵)  
万人講・いぼ地蔵 埼玉県北本市高尾 泥団子を供えてお願いする。お礼に白い団子を供える。  
いぼ神様 埼玉県北本市下石戸下台原  
いぼ地蔵(深井薬師) 埼玉県北本市深井 地蔵の頭を撫でて祈る。  
石地蔵(大蔵寺) 埼玉県北本市下石戸下  
疣権現(田宮の雷電神社) 埼玉県幸手市中4−21−10  
いぼ地蔵(定福院) 埼玉県久喜市栗橋町佐間566 (旧北葛飾郡栗橋町)  
いぼとり地蔵(正楽寺) 埼玉県久喜市樋ノ口567−1  
福寿塩地蔵・イボとり地蔵 埼玉県久喜市栗橋中央2−8  
炮烙地蔵・エボ地蔵 埼玉県久喜市栗橋東3−15−7 線香の灰をイボにつける。(旧北葛飾郡栗橋町)  
小渕山観音院 埼玉県春日部市小渕1638  
疣とり地蔵 埼玉県蓮田市江ヶ崎 (セブンイレブンの北側、たにし不動尊の入口)  
いぼ地蔵(東曜寺) 埼玉県鴻巣市吹上本町4 線香の灰をイボにつける。お礼は線香を何倍にもして返す。(旧北足立郡吹上町本町4)  
本村の地蔵さん(建正寺) 埼玉県北足立郡伊奈町小室  
いぼ地蔵尊 埼玉県坂戸市多和目 土で作った団子を供えて祈る。お礼は白い団子を供える。  
魚藍観音 埼玉県坂戸市小沼  
いぼ地蔵尊(無量寿寺) 埼玉県東松山市下野本 地蔵の線香の灰をつけるとイボが落ちる。  
イボ地蔵・子育地蔵 埼玉県東松山市東平(ひがしだいら) 線香の灰をイボにつけると治る。  
疣取り地蔵 埼玉県日高市女影竹之内  
いぼとり地蔵 埼玉県上尾市平方 おだんごを供えて祈る。  
御蔵山観音・いぼ観音 埼玉県さいたま市南区南浦和2  
いぼ地蔵尊(広田寺) さいたま市南区沼影1−6  
瘤地蔵(万年寺) 埼玉県さいたま市見沼区片柳1−155  
疣とり地蔵 埼玉県川越市古谷上・二ノ関公民館 古谷上(ふるやかみ)泥団子を供えて祈願、お礼は白いお米の団子を供える。  
とんがらし地蔵 埼玉県川越市増形  
疣とり地蔵(観蔵院) 埼玉県川越市上寺山419  
伊刈風間地蔵尊・疣とり地蔵 埼玉県川口市伊刈 (藤右衛門川の真上)  
いぼ地蔵(正源寺) 埼玉県川口市新堀934  
イボとり地蔵さん 埼玉県川口市坂下町4 (須田病院の裏の道)(旧鳩ヶ谷市)  
いぼとり地蔵(西川地蔵堂) 埼玉県志木市本町3−2−29  
イボとり地蔵 埼玉県富士見市東大久保148  
イボとり地蔵 埼玉県富士見市東みずほ台1−3 (並木交差点)  
いぼとり地蔵 埼玉県富士見市上南畑 (蛇木の個人宅)上南畑(かみなんばた)  
下富のお地蔵さん 埼玉県所沢市下富 泥の団子を供えて祈る。お礼は白い米の団子を供える。  
東新井庚申塔 埼玉県所沢市東新井町288(境橋の袂) 土で作った黒だんごを供えて祈る。お礼はお米の白いだんごを供える  
放光地蔵 埼玉県所沢市城242  
いぼ取り地蔵 埼玉県飯能市上直竹上分細田 79年ぶりに改修されました。  
いぼとり地蔵(大蓮寺) 埼玉県飯能市前ケ貫227 前ケ貫(まえがぬき)  
いぼとり地蔵尊 埼玉県飯能市虎秀間野 虎秀(こしゅう)  
疣神社 埼玉県秩父市黒谷  
オクマン様・いぼ神様 埼玉県秩父市下吉田桜井 (熊野神社)(旧秩父郡吉田町下吉田桜井)  
如金(にょっきん)さま・疣神様 埼玉県秩父市吉田久長と秩父郡皆野町下日野沢の境界 札立(ふだたて)峠と大前山(おおまえやま)650mの途中。  
いぼ水 埼玉県秩父郡横瀬町横瀬坂氷 弘法大師の井戸(いぼ水の由来)。  
いぼとり地蔵 埼玉県入間郡三芳町上富1262付近 いぼとり地蔵  
 
千葉県  
疣とり地蔵・塩地蔵 千葉市中央区市場町10 地蔵の塩をイボに塗る。お礼は塩を供える。(胤重寺)  
いぼとり地蔵・塩地蔵 千葉市中央区亥鼻2−10−5 (高徳寺)  
蘇我比盗_社・御霊の大神 千葉市中央区蘇我町1−188  
疣霊神(いぼれいじん) 千葉市若葉区東寺山町 道祖神(疣神様)  
イボ弁天・お多福弁天 千葉県柏市東山2  
石尊宮・疣神様 千葉県我孫子市柴崎 (エボ天)  
熊野神社 千葉県流山市思井 絵馬を供えて祈る。  
いぼとり地蔵(宝蔵院) 千葉県松戸市上矢切1197  
いぼ弁天(平戸弁天) 千葉県松戸市大谷口  
いぼとり地蔵 千葉県市川市大野町迎米 塩を供えて祈る。(旧家及川総本家の近く)  
欠真間不動・いぼとり不動(源心寺) 千葉県市川市香取1−16−26 香取(かんどり)願をかける時に好きなものを断つ。  
いぼとり地蔵 千葉県市川市市川1 (地蔵山墓地)(田中正成逆修供養塔)  
いぼとり妙見(安国寺) 千葉県市川市曽谷1−35−1 曽谷の妙見さま  
池之端弁才天・イボ取りの神 千葉県船橋市東船橋1 日枝神社の境内社か。日枝神社と道祖神社の近くか。  
いぼ神様・姨母神さま 千葉県成田市竜台(たつだい) いぼが治ったお礼にヒシャクを供える。姨母神(いぼがみ)  
いぼ神様 千葉県成田市東和泉宿の台 「このいぼ取って下さい。」と祈る。お礼は稲藁1本づつ右撚りの縄を50本と左撚りの縄50本を奉納する。  
いぼ神様(貴船神社) 千葉県東金市山田295  
高橋地蔵・いぼトリ地蔵 千葉県君津市杢師 香炉の灰を持ち帰り仏壇に供えてからその灰をイボにすり込み祈る。  
イボ取り地蔵 千葉県君津市作木 お線香をあげて祈る。(作木バス停の近く)  
いぼ神様・加藤竹丸忠秀の墓 千葉県佐倉市木野子(きのこ) 「来年の初豆が出来たら一番最初にお上げ致します」と言って祈る。  
米戸道祖神・いぼ神様 千葉県佐倉市米戸 供えてある萩の箸でイボをはさみ、祠のまわりの木に箸をなすりつけるとイボがとれる。お礼は萩の箸を10膳作ってお返しする。  
イボ神(道祖神社) 千葉県佐倉市小竹(おたけ)  
イボ神社・いぼ神様 千葉県印西市船尾(船穂地区) 左縒りの縄1本借りていぼをこする。お礼は左縒りの縄を1本返す。  
疣とり地蔵 千葉県野田市堤台(延命地蔵堂境内) お礼に砂糖を供える。  
疣とり地蔵・子育地蔵 千葉県野田市上花輪 (太子坊境内)小石を2〜3個奉納して祈願する。  
瘤観音 千葉県野田市目吹高根 (馬頭尊堂内)  
疣地蔵 千葉県野田市船形2021  
いぼとり地蔵尊 千葉県市原市徳氏(小湊鉄道飯給駅のちかく) お線香の灰をもらって帰りイボに灰をつける。お礼はお線香を返す。徳氏(とくうじ)、飯給(いたぶ)  
田中地蔵・疣とり地蔵 千葉県市原市今津朝山 お礼は小石を奉納。(延命寺)  
薬師如来像(円明院) 千葉県市原市牛久906  
福授観音・いぼ観音 千葉県袖ヶ浦市代宿1089 (乗蓮寺)代宿(だいじゅく)  
疣取り地蔵 千葉県袖ヶ浦市奈良輪 (奈良輪高架の東側)  
いぼとり地蔵さま(愛染院) 千葉県木更津市中央1丁目3−15  
車地蔵・振袖六地蔵 千葉県木更津市烏田 供えてある石でなでる。  
吉野疣取地蔵菩薩(正法院) 千葉県富津市西大和田647 (上総薬師第6番)  
いぼ地蔵さま 千葉県館山市山本折目台 線香を供え、古い線香灰をいぼにつける。家に帰るまで口を聞かない。  
多幸(タコ)地蔵・イボ取り地蔵 千葉県館山市北条  
爪彫り地蔵・岩屋地蔵 千葉県館山市竜岡(りゅうおか) お礼はこんにゃくを供える。  
いぼとり地蔵 千葉県館山市相浜 地蔵の灰でいぼをさする。  
いぼ神様 千葉県鴨川市太海 お堂の石にイボをこする。  
淨行菩薩・イボ取り地蔵(淨国寺) 千葉県香取市佐原イ タワシでイボをこする。(旧佐原市)  
樹林寺の子持石 千葉県香取市五郷内2063 五郷内(ごこうち)  
いぼとり地蔵 千葉県勝浦市杉戸(すぎど) 地蔵の灰をイボにつける。  
いぼとり不動・いぼとりの水(東漸寺) 千葉県いすみ市国府台59 いぼとりの水(湧き水)をつけていぼとり不動明王に祈る。(心のイボをとるお不動様)  
いぼとり不動(眺洋寺) 千葉県いすみ市岬町井沢1166 (旧夷隅郡岬町井沢)  
岩船地蔵尊 千葉県いすみ市岩船区南台  
八幡神社(疣八幡) 千葉県長生郡睦沢町川島 社前の椎の木下の砂をイボにつける。お礼は枝豆・小旗を奉納。  
椎の古株・イボ神様(観音堂) 千葉県長生郡白子町関 観音堂前の椎の古株にイボをなすりつけて祈る。お礼は豆や小旗を奉納する。  
道祖神・いぼ神様 千葉県山武市寺崎沖寺崎 (旧山武郡成東町寺崎)  
いぼ神様・稲荷社 千葉県山武市松尾町下大蔵 供えてある石でイボをこする。(旧山武郡松尾町下大蔵)  
イボ取り仁王(善福寺) 千葉県山武郡九十九里町粟生 いぼの部位をさすり、仁王の同じ部位をさする。粟生(あお)  
月読神社 千葉県山武郡九十九里町片貝4004  
横芝のいぼ神様 千葉県山武郡横芝光町横芝 供えてある石でこする。お礼に石を返す。  
清水庵・いぼとり観音 千葉県銚子市清水町1427 (清水の観音様)  
横根のいぼ神さま 千葉県旭市横根 (旧海上郡飯岡町)(横根の路傍)  
飯岡漁港近くの疣神さま 千葉県旭市下永井 (旧海上郡飯岡町)(飯岡漁港降り口右側)  
疣神様・馬頭観音 千葉県匝瑳市吉崎 (吉崎天王前)(旧八日市場市吉崎)  
道祖神・イボ神様(六社神社) 千葉県匝瑳市野手1494 野手(ので)(旧匝瑳郡野栄町)  
イボとり地蔵 千葉県夷隅郡大多喜町小田代 (養老渓谷),小田代(こただい)  
いぼとり地蔵(水月寺) 千葉県夷隅郡大多喜町小沢又 小沢又(こざわまた)  
いぼ神様 千葉県安房郡鋸南町江月 神様に供えた線香の灰をイボに塗る。江月(えづき)  
嵯峨志のいぼり地蔵 千葉県南房総市三芳村山名 地蔵さんをなでた手でいぼに触れる。お礼は線香を一束(いっちゃ線香)奉納する。(旧安房郡三芳村山名)  
疣取り地蔵尊・朝日地蔵尊 千葉県南房総市富浦町南無谷岡町 線香の灰をつける。(旧安房郡富浦町南無谷岡町)  
いぼ井戸 千葉県南房総市谷向 谷向(やむかい)  
いぼとり地蔵 千葉県南房総市上滝田 上滝田(かみたきだ)  
いぼとり地蔵 千葉県南房総市九枝 
 
東京都  
疣取り地蔵・身代り地蔵 東京都北区浮間2−4地先 (北向地蔵堂)  
庚申様 東京都北区志茂4−29 (庚申堂)線香の灰をいぼにつけるといぼが落ちる。  
疣取地蔵 東京都板橋区赤塚8−4 (松月院の近く)  
いぼとりの蛸薬師・蛸薬師庚申塔(延命寺) 東京都板橋区志村1−21−12  
いぼとり地蔵(円明院) 東京都練馬区錦1−19 線香を供えて祈り、線香のけむりを浴びる。ブログ青空を御覧下さい。  
いぼとり地蔵(禅定院) 東京都練馬区石神井町5−19 土の団子を供えて祈る。お礼は米の団子を供える。(いぼ神地蔵)  
塩かけ地蔵・いぼとり地蔵 東京都新宿区新宿2(太宗寺) 塩を少しもらって帰り、お礼は塩の倍返し。  
疣天神(葛谷御霊神社) 東京都新宿区西落合2−17−17 小石を借りてイボをさする。  
塩かけ地蔵(東福寺) 東京都渋谷区渋谷3−5−8  
こぶとり地蔵・いぼとり地蔵 東京都中野区白鷺1−16 (福蔵院向い)小石を供えて祈る。  
いぼ地蔵 東京都世田谷区弦巻1−41 小石を借りてイボをなでる。お礼は小石の倍返し。  
いぼ庚申(宝性寺) 東京都世田谷区船橋4−39−32  
塩地蔵(西新井大師) 東京都足立区西新井1−15 地蔵に奉納された塩をイボにつける。お礼は塩の倍返し。(總持寺)  
えぼ地蔵 東京都足立区加平1−2−37 加平(かへい)  
佐竹稲荷神社 東京都足立区梅田6ー28−7 (いぼ稲荷)豆腐と油揚げを供えて食断ちをする。  
疣とり地蔵(福寿院) 東京都足立区大谷田3−11−26 (旧中川の疣取り地蔵)  
疣取り庚申 東京都足立区青井6−21−16 (個人宅)  
いぼとり地蔵・子育地蔵(阿弥陀院) 東京都足立区保木間4丁目17−13  
いぼ地蔵(東善寺) 東京都足立区花畑3−20−6  
疣取り地蔵(性翁寺) 東京都足立区扇町2丁目−19 (いぼころり地蔵)  
槐戸地蔵(さいかちどじぞう) 東京都足立区梅島二丁目10−5  
いぼとり地蔵尊(極楽寺) 東京都葛飾区堀切2−25−21 地蔵にふりかけた塩をイボにすりこむ。  
いぼとり地蔵(観蔵寺) 東京都葛飾区東金町7−1−2 1合の塩を供えて祈る。お礼は1升の塩。  
いぼとり地蔵(善養寺) 東京都葛飾区西亀有3−43−5  
いぼとり地蔵(蓮蔵院) 東京都葛飾区東水元2丁目39−10 一合の塩を供えて祈る。お礼は一升の塩を奉納。  
いぼとり地蔵(勝養寺) 東京都葛飾区青戸3丁目25−14  
いぼとり地蔵・塩舐め地蔵 東京都江東区大島8ー38−32 奉納された塩をイボにつける。(宝塔寺)  
取持地蔵尊(永代寺) 東京都江東区富岡1−15−1  
おいぬさま(亀戸天神社) 東京都江東区亀戸3−6−1 狛犬  
イボ神様・いぼ庚申 東京都目黒区上目黒2−19 (けこぼ坂庚申塔)  
蛸薬師(成就院) 東京都目黒区下目黒3−11 蛸薬師如来御撫石(おなでいし)でイボをなでる。  
大原不動尊 東京都品川区豊町 (ゆたか商店会、豊町交番隣り)  
頓兵衛地蔵 東京都大田区下丸子1−1 地蔵を削った砂をイボにつける。  
いぼとり地蔵(妙見堂) 東京都大田区池上1昭栄院 祠の石をもらいいぼに朝夕あてる。お礼は石の倍返し。  
いぼ地蔵(大楽寺) 東京都大田区新蒲田3−4−12 (鎌田不動尊)供えた小石でイボをこする。お礼は豆腐を供える。  
いぼとり観音・馬頭観音 東京都大田区池上3−38−23 (微妙庵・毘沙門天)  
北向き地蔵 東京都西多摩郡日の出町平井 (三吉野下平井の保泉院)  
えぼ地蔵 東京都西多摩郡奥多摩町棚沢  
安産疣取延命地蔵 東京都青梅市成木3 小石でイボをなでる。お礼は石の倍返し。(長全寺)  
塩地蔵・いぼ取り地蔵 東京都狛江市岩戸北4 (慶岸寺)  
いぼとり地蔵(光照寺) 東京都調布市柴崎1ー38 頂いた石でいぼをこする。お礼は塩俵を供える。  
西向き庚申様 東京都府中市住吉町 線香の灰をイボにつける(京王電鉄京王線中河原駅前)  
飛飯縄(とびいずな)堂 東京都八王子市高尾町2177 堂内の小石でイボをこする。(高尾山薬王院有喜寺)  
いぼとりの水 東京都八王子市弐分方町267 (I様宅)  
疣神さま 東京都八王子市寺田 荒縄で地蔵を縛りあげ「やい地蔵、このイボを取れ、取れれば縄はほどいてやる。もしとらなければもっときつく縛ってしまうぞ」と言い渡す。  
松っこごれ地蔵 東京都東大和市高木 お礼は松ぼっくりを奉納する。  
疣地蔵 東京都昭島市拝島町5−9 荒縄でしばりイボを治してくれたら縄を解くと願掛けをする。  
千佛地蔵・疣地蔵 東京都福生市加美平3−26 地蔵の石を持ち帰りイボをこする。お礼は新しい石を返す。  
かに地蔵・いぼとり地蔵 東京都福生市福生1182宮本墓地 小石でイボをこする。  
とうがらし稲荷・イボ取り稲荷 東京都稲城市坂浜(小田良通り)  
イボ神様(庚申塔) 東京都町田市森野5丁目 (森野5丁目バス停近く) 
 
神奈川県  
イボ取り地蔵(福泉寺) 横浜市緑区長津田3113 供えてある小石でイボをさする。お礼は新しい小石を返す。  
いぶき野の疣地蔵 横浜市緑区いぶき野 (いぶき野交差点近く)  
岩船地蔵 横浜市旭区矢指町 (旭区金が谷644の横浜ほうゆう病院の向かい)  
イボトリ地蔵(長昌寺) 横浜市旭区さちが丘59 (曹洞宗永谷山長昌寺)  
大熊地蔵尊 横浜市都筑区大熊町 (子育て地蔵尊)  
原のいぼ取り地蔵 横浜市西区宮ケ谷51 お堂の小石でイボをこする。お礼は小石を返して香華を供える。  
疣取地蔵尊 横浜市鶴見区鶴見1−3−5(東福寺) 地蔵の足元の石を借りてイボを撫でる。  
イボ地蔵(専念寺) 横浜市鶴見区市場東中町3−18 (京急鶴見市場駅前)(延命子育て地蔵)  
岩舟地蔵尊(宝心寺) 横浜市泉区和泉町3193  
いぼ地蔵 横浜市戸塚区平戸町  
延命地蔵・いぼとり地蔵 横浜市栄区小菅ヶ谷3 小石でイボをこすり、小石を奉納して祈る。(小菅ヶ谷幼稚園前)  
谷戸坂地蔵尊 横浜市金沢区富岡東5谷戸坂 石でこする。お礼は石の10倍返し。(悟心寺の近く)  
和田地蔵尊 横浜市保土ヶ谷区和田1 帷子川の川原の石を拾ってイボのこすりつけ地蔵に供える  
えぼ地蔵(唱導寺) 横浜市港南区日野中央1−6  
いぼとり地蔵・塩嘗地蔵 横浜市神奈川区神大寺4−13 塩嘗(しおなめ)地蔵。お礼に塩を奉納する。  
石観音堂 神奈川県川崎市川崎区観音2 イボにお堂の灰をつける。  
いぼとり地蔵(田中の寮) 神奈川県川崎市川崎区小田2  
六地蔵・いぼとり地蔵 神奈川県川崎市麻生区栗木203 地蔵の頭をつげくしで撫で、そのくしをイボにつける。(常念寺)  
疣とり地蔵 神奈川県川崎市麻生区片平5  
いぼ取り地蔵(秋月院) 神奈川県川崎市宮前区菅生2  
いぼとり地蔵(増福寺) 神奈川県川崎市高津区末長775 増福寺の入口近く、マンションの一角にたっている。地蔵の石でいぼをこする。  
いぼとり地蔵(明王院) 神奈川県川崎市高津区諏訪3丁目ー14−3  
いぼとり地蔵(薬師堂) 神奈川県相模原市中央区上矢部 お礼は大豆を入れた赤い布で作っ俵を3俵ほど奉納する。  
石神社(田名八幡宮) 神奈川県相模原市中央区田名  
いぼ神様・道祖神 神奈川県相模原市緑区大島上大島 神様にお願いしてからそばの榎にイボをこする。お礼は飴玉や団子を年の数だけ奉納する。  
雨降地蔵尊・イボ取り地蔵 神奈川県相模原市緑区川尻5770 (大地沢青少年センターの入口の三叉路)  
お不動様・いぼ神様 神奈川県相模原市緑区名倉4524 (旧津久井郡藤野町漆久保)  
いぼ落としのお地蔵様 神奈川県相模原市緑区牧野 向沢(網子隧道口)  
いぼとり地蔵 神奈川県海老名市大谷3469 (大谷観音堂)(元清眼寺の閻魔堂)  
いぼとり地蔵・延命地蔵 神奈川県愛甲郡愛川町三増 (法華堂の近く)  
いぼとり地蔵 神奈川県大和市深見一之関 小石を供える。  
子育て地蔵・いぼ神様 神奈川県大和市福田根下 地蔵の石を借りてイボを撫でる。お礼は石の倍返し。  
イボ取り地蔵 神奈川県大和市上草柳 地蔵前の石を借りてイボをなでる・お礼は石の倍返し。  
とげぬき地蔵・いぼとり地蔵 神奈川県綾瀬市寺尾台3−10 供えた小石を借りていぼを撫でる。お礼は小石を2から3個返す。  
いぼとり地蔵さん 神奈川県綾瀬市小園(こぞの) (地蔵堂)(旧東光山延命寺)  
砂坂地蔵・いぼ地蔵 神奈川県横須賀市大津町1−3−28  
馬頭観音(馬頭観音堂) 神奈川県横須賀市田浦3 (静円寺下)  
子育地蔵・いぼとり地蔵 神奈川県厚木市下川入根岸 地蔵さんの首の松かさでいぼをこする。  
いぼとり石(八幡神社) 神奈川県厚木市戸田1055 いぼとり石の小さな穴の中の小石でいぼをこする。お礼は小石を倍にして返す。  
とんがらし地蔵・いぼとり地蔵 神奈川県高座郡寒川町宮山町1785(興全寺) 線香の灰をイボにつける。お礼は年の数のとうがらしの数珠をつくり地蔵に掛ける。  
いぼとり地蔵 神奈川県茅ヶ崎市芹沢三軒大谷 地蔵の蓮華の台座の石でイボをこする。  
いぼとり地蔵・延命地蔵 神奈川県茅ヶ崎市行谷上 行谷(なめがや)  
三日月さま 神奈川県茅ケ崎市西久保 (小澤宅)  
いぼとり地蔵(地蔵院霊川寺) 神奈川県三浦市初声町三戸1117 線香の灰をイボにつける。お礼は貝殻を数珠にして供えて祈る。  
下宮田のいぼとり地蔵 神奈川県三浦市初声町下宮田  
疣取地蔵(永楽寺) 神奈川県三浦市南下浦町菊名312  
疣取り地蔵 神奈川県葉山町堀内 (葉山小学校脇のうしがやとの路地裏の牛ケ谷地蔵堂)  
恵母(えも)地蔵 神奈川県藤沢市高倉 (七ツ木市民の家入口交差点西側)(大山街道繁昌記によるとイボ神様)  
いぼ取り一色地蔵尊 神奈川県藤沢市石川5−18 地蔵様の石でイボをこする。  
椿地蔵・いぼ地蔵 神奈川県鎌倉市手広 大豆の数珠を供えて祈ります。  
泉光院のいぼ取り地蔵 神奈川県鎌倉市上町屋631(泉光院) 石でイボをこする。  
いぼ取り地蔵(貞宗寺) 神奈川県鎌倉市植木656   
網引地蔵・いぼとり地蔵(浄光明寺) 神奈川県鎌倉市扇ケ谷2−12−1 やぐら内の写経石でいぼをこするといぼがとれたと言われている。  
瘡守神社(上行寺) 神奈川県鎌倉市大町  
疣地蔵 神奈川県逗子市桜山6(地蔵山ふれあいセンター近く) (葉桜団地入口の上の庚申塚)  
いぼとり地蔵(香雲寺) 神奈川県秦野市西田原437 供えてある小石でイボをこする。  
馬場のイボ神様 神奈川県秦野市菖蒲 供えてある石でイボをこする。お礼は新しい石を供える。  
毘沙門天(毘沙門堂) 神奈川県小田原市水之尾 (水峯庵毘沙門天)  
愛の地蔵尊・泣き原の地蔵 神奈川県中郡大磯町西久保 小石でイボをこする。お礼は小石を倍にして返す。  
イボ神 神奈川県南足柄市沼田 (沼田城址)  
弘法のいぼとり水 神奈川県足柄下郡箱根町須雲川 石に溜まった水をイボにつける。  
二つのいぼ神様 神奈川県足柄上郡山北町神縄 いぼ神様を荒縄で縛って神様を脅迫する。イボが取れたら縄を解く。 
 
中部

 

山梨県  
いぼ水 山梨県山梨市東岩手 (荒神山の麓)(大石神社)  
軍刀利神社(ぐんだりじんじゃ) 山梨県上野原市棡原井戸 手水舎の手洗い水をイボにつける。  
いぼ神様 山梨県大月市富浜町宮谷新道 清水の水でイボを洗う。  
硯水不動尊の霊水 山梨県富士吉田市大明見4401 大明見(おおあすみ)  
白山神社・疣神様 山梨県南都留郡富士河口湖町淺川 年令の数の松かさを白糸で綴って奉納する。  
石割神社 山梨県南都留郡山中湖村平野 岩の割れ目から落ちる湧水をイボにつける。  
疣とり地蔵(西涼寺) 山梨県都留市中央4−4 八代上人のお墓の前の自然石の水鉢に溜まった水をイボにつける。  
三界萬霊等・疣神さま 山梨県笛吹市八代町北 三界萬霊等前の石の水鉢に溜まった水をイボにつける。(宝福院)(旧東八代郡八代町)  
いぼ地蔵 山梨県西八代郡市川三郷町高田 地蔵の顔を石でこすり、石の粉をイボにつける。(旧市川大門町)、三郷町(みさとちょう)  
いぼ地蔵 山梨県西八代郡市川三郷町宮原  
いぼ取り欅 山梨県北杜市長坂町長坂上条 (穂見諏訪十五所神社)(旧北巨摩郡長坂町)  
いぼ水さん 山梨県北杜市大泉町西井出油川 湧き水をつける。(松と桜の老木の下)(旧北巨摩郡大泉村)  
いぼ石 山梨県北杜市小渕沢町岩窪 石のくぼみに溜まった水をイボにつける。(諏訪神社・石宮神社)(旧北巨摩郡小渕沢町)  
疣地蔵・小笠原長清の墓 山梨県北杜市明野町小笠原 (旧北巨摩郡明野村小笠原)  
切房木の岩舟地蔵尊 山梨県南巨摩郡身延町切房木  
 
静岡県  
いぼ神様(大屋八幡) 静岡県熱海市初島 祠の石を借りてイボをこする。取れたら石を裏返しにして返す。  
イボの神様(伊豆島田公園) 静岡県裾野市伊豆島田256−1 石の窪みの水に松傘を浸してイボにつける  
諏訪神社(いぼ神さま) 静岡県御殿場市竈 神社の御手洗の神水をイボにつける。  
いんぼ地蔵 静岡県下田市吉佐美 石でイボをこする。お礼に石を一つ返す。  
いんぼ地蔵 静岡県下田市箕作 地蔵の石を前の沢の水にひたしイボをこする。箕作(みつくり)  
大沢地蔵尊・疣とり地蔵 静岡県伊豆の国市浮橋 地蔵さんの軽石を借りてイボをこする。お礼は軽石を2個返す。(旧田方郡大仁町浮橋)  
いぼ石 静岡県伊豆市修善寺湯舟 (旧田方郡修善寺町修善寺)  
地持地蔵菩薩(大守院) 静岡県伊豆市八木沢 きれいな水を供えて祈願しその水を持ち帰りいぼにつける。(旧田方郡土肥町八木沢)  
金米さん 静岡県伊豆市土肥横瀬 (旧田方郡土肥町土肥)  
いぼ地蔵・大地蔵さん(慈眼寺) 静岡県賀茂郡西伊豆町宇久須321 地蔵の水鉢の水をイボにつける。お礼に赤い布か小石を供える。(旧賀茂郡賀茂村宇久須)  
疣水神社(東光寺) 静岡県田方郡函南町日守747 霊泉をいぼにつける。  
イボ神さん・山神社 静岡県駿東郡清水町八幡103  
いぼ神様 静岡県沼津市原  
西町の蛙石 静岡県富士宮市西町 蛙石の前に供えられた水をつける。  
青見の疣石 静岡県富士宮市大中里青見 石の疣に紙縒を結んで祈る。  
沼久保の疣神さん 静岡県富士宮市沼久保 石の窪みの水をイボにつける。  
頼朝の矢筒石・イボ神様 静岡県富士市天間  
疣神様(瘡守稲荷) 静岡県富士市本市場 供えられた白石でイボをこする。お礼は石の倍返し。  
傘木のいぼ神さん更新 静岡県富士市伝法傘木上692 石の窪みの水をイボにつけて祈り、後ろを振り向かず家に帰る。(浅間神社)  
石井浅間神社 静岡県富士市石井胡麻林116 (本殿前の水盤)富士おさんぽ見聞録の石井浅間神社  
いぼとり不動尊(滝不動)更新 静岡県富士市原田 滝の水をイボにつけて不動尊にお参りをするとイボが落ちる。PDF富士市ふるさとの昔話2  
五貫島の庚申さん 静岡県富士市宮島83−1 「松かさを歳の数だけ供えます」と言って祈る(五貫島観音堂)  
義経硯水 静岡市清水区蒲原硯水 供養塔に溜まった水をイボにつける。(旧庵原郡蒲原町蒲原)  
縄掛けのいぼ神さん 静岡市清水区由比町阿僧前田237 紙縒の縄を地蔵の首に掛けて祈る。お礼は炒った大豆を年の数。(常円寺)(旧庵原郡由比町)  
いぼとり観音 静岡市清水区由比町東倉沢 供えた水を持ち帰りイボにつける。(旧庵原郡由比町)  
播磨のばあさま 静岡市清水区小河内中川原 播磨のばあさまに供えられた茶碗の水をいぼにつける。  
宝塔・いぼがみさん 静岡市清水区八木間町 宝塔の前に供えられた茶碗の水をいぼにつける。(法泉寺)  
イボがみさま(浄蓮寺) 静岡市清水区八木間町 五輪塔に溜まった水をイボにつける。お礼はお豆腐を奉納する。  
ごりんさん・いぼ神 静岡市清水区中河内小川 どんどん沢の水を「ごりんさん」に供えて持ち帰りイボにつける。  
いぼ神・石塔 静岡市清水区谷津町2 (字城山368、横山城跡山頂西)  
いぼ取り地蔵 静岡市清水区袖師町 お礼は赤・青・白の七色菓子を供える。(延命地蔵)  
疣宮さん(白髭神社) 静岡市清水区北脇 疣石の水をイボにつける。  
おしゃもじさん更新 静岡市清水区三保3051−1 (佐久神社)  
瀬織戸神社・辧天様更新 静岡市清水区折戸1−16−6 お礼は年の数だけ白石を供える。  
大日如来堂 静岡市清水区南矢部 井戸の水をイボにつける。  
静岡浅間神社 静岡市葵区宮ヶ崎町 御池の水をイボにつける。  
いぼ石 静岡市葵区諸子沢 石の上に線香を供える。  
疣取り窪石 静岡市葵区足久保奥長島 窪みに溜まった水を木の葉につけてイボにつける。  
疣取り地蔵 静岡市葵区落合  
疣地蔵尊 静岡市葵区富沢  
西脇のいぼとり地蔵 静岡市駿河区西脇(椙地蔵尊) 水鉢の水をイボにつける。お礼は白い石を年令の数を奉納する。  
いぼ地蔵 静岡市駿河区中島 (川除け地蔵)  
滝不動明王(誓願寺) 静岡市駿河区丸子大鈩誓願寺 滝の涌き水をつけて不動に祈るとイボがおちる。  
白石大明神 静岡市駿河区用宗2 石に触ってイボ取りを祈る。  
穴地蔵・いぼ地蔵 静岡市駿河区小坂日本坂峠 地蔵に手で触れて祈る。お礼は穴あき石を奉納する。  
いぼ地蔵(長福寺)更新 静岡県焼津市関方 平たい石を借りてイボをこする。(長福寺門前)  
疣地蔵尊(常観寺) 静岡県焼津市西焼津 地蔵の小石でイボをこするとイボが取れる。  
いぼ地蔵 静岡県藤枝市青南町1 (栃山川右岸堤防)(きゅういち橋袂)  
いぼ地蔵 静岡県藤枝市内瀬戸646 イボイボの地蔵の頭を撫でる。(延命寺)  
いぼ地蔵更新 静岡県藤枝市横内堂の前 お礼は土の団子を供える。  
観世音菩薩(清林寺) 静岡県藤枝市高柳2425 観世音菩薩に供えた水を頂いてイボにつける。  
大松のいぼとり地蔵 静岡県藤枝市岡部町子持坂 丸い小石を地蔵に触れ、その石でいぼをさする。  
いぼとり地蔵 静岡県島田市岸2015 (岸の大日山、大日堂)  
いぼ地蔵 静岡県島田市稲荷町1−3 大井川公園 (大井川地蔵尊)  
石経さん・イボ取り地蔵 静岡県焼津市飯渕20 地蔵のところにある穴のあいた石でこするとイボがとれる。(長徳寺)(旧志太郡大井川町)  
浜の棒杭さん・川尻浜地蔵 静岡県榛原郡吉田町川尻川尻浜 供えてある赤い石でイボを撫でる。(農協川尻支店西を浜に出たところ)  
お地蔵さん・延命地蔵尊 静岡県榛原郡吉田町川尻東中2134 供えてある小石でイボをこする。  
しけ地蔵さん・波よけ地蔵さん 静岡県榛原郡吉田町住吉5436−22 供えてある赤い石でイボをこする。  
夫婦槇・こぶ槇(掉月庵) 静岡県牧之原市細江 こぶ槇の木をさすって願いをかけるとイボがおちる。(旧榛原郡榛原町)  
いぼとり地蔵 静岡県牧之原市細江道上  
いぼ地蔵様 静岡県牧之原市坂部 (地蔵峠の近く)  
いぼ神様(太郎坊大権現) 静岡県菊川市下内田 お礼参りは年の数だけ大豆を奉納する。(旧小笠郡菊川町下内田)  
いぼ地蔵(常現寺) 静岡県掛川市日坂506−1 地蔵の前にある首を地蔵の首を載せて祈り、首を外して元に戻す。  
いぼとり地蔵・延命地蔵 静岡県掛川市成滝西山口 線香の灰をイボにつける  
いぼ地蔵(竜眠寺) 静岡県掛川市西大渕5659  
雷三神社 静岡県磐田市見付2696 社前の赤石を持ち帰るといぼがとれる。  
いぼとり地蔵 静岡県磐田市浜部(元安楽寺) 地蔵に供えられた赤い石でいぼを撫でる。お礼は赤石の3つ返す。  
クロガネモチの雄木・疣の木 静岡県磐田市西之島 いぼを木にすりあて「いぼいぼこの木に渡れ」と3度祈る。(塩竃神社)  
弥藤観音 静岡県磐田市弥藤太島 イボに触れて観音の額に手を当てて祈る。お礼に大豆の首飾りを供える。(旧磐田郡豊田町弥藤太島)  
いぼ石 静岡県磐田市万瀬 万瀬(まんぜ)(旧磐田郡豊岡村万瀬・三森神社) 中遠昔はなし(第27話)  
延命いぼとり地蔵 静岡県磐田市藤上原大藤第9区 藤上原(ふじかんばら)  
いぼとり石(小島方公民館) 静岡県磐田市豊浜3013−1 赤い石でイボをこする。(旧福田町・宝泉寺跡)  
イボ取り地蔵(龍法院)  静岡県磐田市大原2371 (旧福田町)線香の灰をつけるとイボが取れる  
いぼ薬師(長溝院) 静岡県袋井市長溝800 (旧磐田郡浅羽町長溝)  
鶴松院のお薬師さま 静岡県袋井市山科3198 イボが取れたお礼に年の数だけ豆を糸に通して納める。  
疣取り地蔵・柚の木地蔵 静岡県袋井市見取 (見取公会堂前) 中遠昔はなし(第34話)  
いぼとりさん(梅林院) 静岡県周智郡森町 奉納の刀でいぼを切るように触れてから灰をいぼにつける。  
いぼとり池(小国神社)更新 静岡県周智郡森町一宮3956 池の水をいぼにつける。  
いぼ取地蔵・阿弥陀如来 静岡県周知郡森町三倉 松ぼっくりを糸に連ねて供え祈る。  
いぼと地蔵尊 静岡県浜松市天竜区春野町宮川里原 地蔵の前の石の水鉢にたまった水をつける。(旧周智郡春野町宮川里原)  
疣観世音菩薩(西来院) 静岡県浜松市天竜区西藤平 岩から涌き出た清水をイボにつける。(旧天竜市西藤平)  
鏡石の水 静岡県浜松市天龍区熊 (林道柴線)  
子安地蔵・いぼとり地蔵 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣 (毘沙門堂のそば)  
宇津木大明神(長久寺) 静岡県浜松市東区西塚町278 イボとりを祈願してイボが取れたらモミガラを奉納する。  
花の木のいぼ神様 静岡県浜松市東区積志町橋爪西 イボとりを祈願してイボが取れたらモミガラを奉納する。  
政勝稲荷(甘露寺) 静岡県浜松市東区中郡町1026 祠の赤石でイボをさする。お礼は赤石を1個加えて返す。  
延命地蔵・いぼとり地蔵 静岡県浜松市東区安新町126 (普伝院)  
観音堂(お観音様) 静岡県浜松市北区都田町須部尾高山 観音堂の石段から湧き出る水をつける。  
水岩山(疣観音) 静岡県浜松市北区細江町小野 岩の窪みに溜まった水をイボにつけるとイボが取れる。(旧引佐郡細江町小野)  
水神社 静岡県浜松市西区西山町  
いぼとり地蔵(洞雲寺) 静岡県浜松市西区神ヶ谷町 線香の灰をイボにつける。お礼は松傘の首飾り。  
辻地蔵・いぼとり地蔵 静岡県浜松市南区倉松町 松かさを供えて祈る(寿福寺の東方30m)  
 
長野県  
いぼ直し石 長野県下高井郡山ノ内町 まわりにある小石でイボを撫でる。(湯田中温泉)  
瘡守稲荷神社・瘡守さん 長野県千曲市羽尾 羽尾(はねお) 千曲川で拾った小石を供え、その石でイボをこする。(旧埴科郡戸倉町)  
エボ神様 長野県上田市常磐城(ときわぎ) 巨石の穴にたまった水をつける。亘理駅(わたりのうまや)  
いぼ石(諏訪神社) 長野県上田市下之郷(生島足島神社) 諏訪神社は生島足島(いくしまたるしま)神社の境内社。  
疣取地蔵尊・いいなり地蔵 長野県東御市田中 東御市(とうみし)(旧小県郡東部町)  
いぼ神様・イチイの巨樹 長野県佐久市常和下宮 根元の空洞に石を投げ込む。(白山神社)常和(ときわ)  
やわたさん(八幡神社) 長野県佐久市蓬田(よもぎだ) 石でイボをこする。お礼は石の倍返し。(旧北佐久郡浅科村)  
烏明神・イボ取り神社 長野県北佐久郡軽井沢町長倉鳥居原 神社の小石でイボをこする。  
八幡様(八幡神社) 長野県南佐久郡川上村秋山 社前の石をなでる。  
疣神様 長野県諏訪郡富士見町富士見横吹 (宝篋印塔)水をイボにつける。  
出早社(いずはやしゃ) 長野県諏訪市中洲宮山1 小石を捧げて祈る。(いぼ石神)(諏訪神社上社)  
疣石 長野県諏訪市岡村1 石に溜まった水をつけるか石でこする。「いぼいぼ一本橋渡れ」という。  
疣石 長野県諏訪市北沢 小石を借りてイボをこする。お礼は石の倍返し。  
いぼ石 長野県諏訪市湯の脇(児玉石神社) いぼ石に溜まった水をイボにつける。  
いぼ石(諏訪大社下宮春宮) 長野県諏訪郡下諏訪町大門193 いぼ石に溜まった水をイボにつける。  
阿礼神社 長野県塩尻市塩尻町433−1 石燈籠を削った石の粉をイボにつけた。  
いぼ地蔵(松林寺) 長野県塩尻市片岡10490−1  
永田徳本の籃塔 長野県岡谷市東堀 藍塔の石でイボをこする。尼堂(あまんどう)墓地。  
夫婦石 長野県岡谷市今井 石の窪みの水をイボにつける。  
いぼ石 長野県松本市中山 窪みの水でイボを洗う  
水沢観音堂(盛泉寺) 長野県松本市波田6011 天陽山盛泉寺(通称水沢観音)  
イボトリ地蔵 長野県松本市安曇大野田  
行人様・イボ神様 長野県安曇野市豊科高家(たきべ) 境内の小石をなでる。お礼は石の倍返しか茶を供える。  
赤沢稲荷 長野県安曇野市三郷小倉室町 赤い石でイボをこすり、その石を供える。  
駒の足跡 長野県北安曇郡小谷村黒倉 溜まった水でイボを洗う。小谷(おたり)  
十二様・いぼの神様 長野県北安曇郡小谷村中土 石でイボをこする。  
辻沢のいぼ神様 長野県駒ヶ根市辻沢 いぼ神様のほうきを借りていぼをはらう。お礼は新しいほうきを返す。  
北原のイボ地蔵 長野県駒ケ根市赤穂北割一区 (とび地蔵)  
いぼ神様 長野県飯田市天竜峡温泉 ポットホールの水でイボを洗う。  
イボ地蔵様 長野県飯田市大瀬木(おおせぎ)  
イボ取り観音 長野県飯田市南信濃和田・遠山郷 (旧下伊那郡南信濃村)  
小沢の疣水・疣水さま 長野県伊那市伊那小沢 (日向坂の中腹)  
いぼ神様 長野県上伊那郡辰野町伊那冨神戸 (神戸(ごうど)下のどん沢の入り口。)溜まった水をイボにつける。  
イボ神様・堀内神社 長野県上伊那郡飯島町鳥居原 イボ石の窪みの水をイボにつける。  
いぼ神様 長野県下伊那郡松川町上片桐  
いぼ石・イボ岩 長野県下伊那郡阿南町和合 石の窪みの水をイボにつける。(和合川の黒淵)  
いぼ石 長野県下伊那郡阿南町富草 石の窪みの水をイボにつける  
いぼ薬師 長野県下伊那郡阿南町新野  
いぼ石 長野県下伊那郡泰阜村田本 石に溜まった水をイボにつける。泰阜(やすおか)  
疣石 長野県下伊那郡高森町市田 石に溜まった水をイボにつける。  
鬼の手石・いぼ石 長野県下伊那郡高森町大島山 石の窪みの水をイボにつける。(天白公園)  
いぼ石 長野県下伊那郡阿智村浪合 石の窪みの水をイボにつける。浪合(なみあい)  
いぼ取り地蔵 長野県下伊那郡大鹿村鹿塩  
いぼとり観音(中山観音) 長野県木曾郡南木曾町十二兼 南木曾町(なぎそまち)  
イボ石 長野県木曽郡大桑村野尻 「イボイボ渡れこのはし渡れ。」といいながら、イボを箸でつまんでイボ石に置くしぐさをする。 
 
新潟県  
イボ地蔵 新潟県村上市大毎(おおごと) ムカゴの数珠を地蔵の首にかける。(旧岩船郡山北町)、山北(さんぽく)  
イボ地蔵 新潟県村上市大沢 イモゴの数珠を地蔵の首にかけて拝む。(旧岩船郡山北町)  
イボ地蔵 新潟県胎内市鍬江 イボ地蔵に祈願しオロシ皿でイボをこする。(旧北蒲原郡黒川村鍬江 公民館裏の虚空蔵堂)  
観音堂・イボ取り観音 新潟県岩船郡関川村大石 「いぼを取って下さい」の願文と卸し金にいぼ形を年の数書いた紙を供える。  
芹田のいぼ地蔵(地蔵堂) 新潟県東蒲原郡阿賀町日野川甲 (旧上川村芹田)  
イボ取り地蔵尊 新潟県五泉市大口(地蔵堂) 小石を供えて祈る。お礼は団子を供える。(旧中蒲原郡村松町大口)  
イボとり地蔵尊 新潟市西蒲区三方 (旧西蒲原郡潟東村三方)三方(さんぼう)  
イボ地蔵 新潟市西蒲区伏部 (旧西蒲原郡巻町)伏部(ふすべ)  
いぼとり地蔵・首地蔵 新潟市西蒲区矢島 (旧西蒲原郡西川町)地蔵に触れて祈る。  
才歩(さいかち)の地蔵様 新潟県南蒲原郡田上町田上 川の小石を供えて祈り、供えてあった小石でいぼをこする。  
イボ地蔵さま 新潟県見附市堀溝町 年の数のムカゴを供えてイボトリ祈願。  
疣水(釈迦堂) 新潟県魚沼市下折立・折立温泉 湧き水でいぼをあらう。(旧北魚沼郡湯の谷村下折立・折立温泉)  
いぼ神様 新潟県南魚沼市大和町赤石 (旧南魚沼郡六日町大和町)  
月岡のいぼ地蔵 新潟県南魚沼市長崎 (旧南魚沼郡塩沢町長崎)  
恵保地蔵様・子安恵保地蔵様 新潟県南魚沼市六日町田中町 地蔵様にある石を借りてイボをこする。お礼は石を2個返す。  
いぼ清水(不動院) 新潟県柏崎市土合 水でイボを洗う。(西中通地区)  
薬師如来(安蔵田観音堂) 新潟県柏崎市高柳町岡野町 小石を持ち帰りイボをこする。お礼は自分の年令の数の小石を納める。  
えぼ地蔵(西光寺) 新潟県柏崎市大久保1丁目8−23  
石抱き地蔵・疣地蔵 新潟県柏崎市両田尻 (昔は井戸水をイボにつけた。)  
疣洗の石(大野日吉神社) 新潟県佐渡市新穂(にいぼ)大野 石の窪みに溜まった水をつける。家に帰るまで振り向いてはいけない。(旧新穂村)  
いぼとり地蔵 新潟県上越市寺 (エスビーガーリック食品株式会社高田工場前)  
蟹池地蔵尊・いぼとり地蔵 新潟県上越市下門前1663 (ホテルビジネスイン上越の西向の公園内)  
 
愛知県  
いぼ岩 愛知県北設楽郡豊根村古真立 (小字分地ほうしょう)(旅と伝説新年号2巻1号昭和4年1月1日発行)  
いぼ取り地蔵 愛知県北設楽郡豊根村上黒川老平 上黒川老平(かみくろがわおいだいら)、役行者像がいぼとり地蔵。  
伊寶石神社・いぼ石様 愛知県豊橋市大岩町北元屋敷57 巨岩に溜まる霊水をイボにつける。  
いぼとり地蔵(春興院) 愛知県豊橋市石巻本町嵯峨15 お礼は松かさをひもでつないで地蔵さんの首にかける。(八名郡准四国88か所82番)  
庚申様・いぼ神様(善住寺) 愛知県豊川市小坂井町小坂井北浦 灰をイボにつける。お礼はお線香一把を供える。(旧宝飯(ほい)郡小坂井町)  
いぼ神様・田戸神社 愛知県田原市中山 拝殿の玉石でいぼをこする。お礼は石の100倍返し。(旧渥美郡渥美町)  
医王神古墳 愛知県蒲郡市五井町 岩の窪みに溜まった水をイボにつける。  
いぼとり石(岩津天神) 愛知県岡崎市岩津町 石でイボをこする。  
いぼ神様 愛知県岡崎市本宿町 石を借りてイボをなでる。本宿(もとじゅく)  
いぼ洗い岩 愛知県岡崎市秦梨町板平 岩窪の水でイボを洗う。秦梨町(はだなしちょう)  
いぼとり地蔵(大樹寺) 愛知県岡崎市鴨田町広元5−1 (大樹寺墓地)(三河33観音霊場第3番)  
いぼ神様 愛知県岡崎市一色町 お参りのあとは後ろをふりかえってはいけない。(旧額田郡額田町一色・いしき)  
いぼ洗い不動 愛知県岡崎市井沢町横畑 水をイボにつける。(旧額田郡額田町)  
いぼ地蔵(無相庵) 愛知県岡崎市明大寺町馬場東61  
イボコロリ(三河丸山廃寺) 愛知県岡崎市丸山町ハサマ・加良須神社 三河丸山廃寺心礎の資料(東海諸国の塔跡)  
冷田の水石・イボ神さん 愛知県豊田市冷田町 溜まった水をイボにつける。(旧東加茂郡足助町冷田)  
伊保社・伊保神・天童井 愛知県豊田市王滝町  
上のいぼ塚 愛知県豊田市保見町 塚の泥をいぼにぬる。  
下のいぼ塚 愛知県豊田市伊保町  
いぼ石 愛知県豊田市矢並町法沢725 (矢並町ダラバチ山より鞍が池公園に移転)  
イボ神様 愛知県豊田市寺部町4−31・随応院 (三河文護寺跡)礎石の資料(東海諸国の塔跡)  
上条弁財天・水分神社 愛知県安城市上条町千度8 (御霊水)上条町(じょうじょうちょう)千度(せんど)水分(すいぶん)  
六部地蔵 愛知県みよし市明知町 いぼとり石でイボをこする。明知(みょうち)(旧西加茂郡三好町)  
イボ神様 愛知県瀬戸市上品野町  
いぼ地蔵 愛知県刈谷市御幸町6 いぼ地蔵にあるものでいぼをこする。  
いぼ神様・業平供養塔 愛知県知立市八橋町 供養塔に溜まった水をイボにつける。  
いぼの治る地蔵さま(専唱院) 愛知県大府市朝日町4−139 (知多百観音第8番)  
寄石の大石・いぼ石 愛知県津島市蛭間町 いぼ石をさする  
いぼ神様 名古屋市昭和区御器所3−32 (御器所八幡北東)  
いぼ地蔵 名古屋市南区笠寺町 左手のいぼに触れて祈る。(さいくるぱーくかとう)  
西宮神社(金比羅社) 名古屋市中川区月島町11−1 おしゃもじを奉納する。  
西宮社・いぼの神(神明社) 名古屋市中川区山王町3−12  おしゃもじを奉納する。  
東岸居士の墓碑 名古屋市西区南堀越町1−8−20 いぼ神様・疣の神様  
いぼ地蔵(安泰寺) 愛知県西尾市西幡豆 地蔵さんの石でイボをこする。イボがとれたら年令の数だけ返す。(旧幡豆町)  
石塚地蔵(いぼ地蔵) 愛知県西尾市鳥羽石塚峠 地蔵さんの石でイボをこする。イボがとれたたら倍にして返す。幡豆の昔話(旧幡豆町)  
感応社・疣神さん(西浅井白山神社) 愛知県西尾市西浅井町札木18 お社の前の川砂を疣にかけて祈願する。お礼は川砂を返す。  
弁天さん 愛知県碧南市伏見町1 池の水をイボにつける。(常端寺の向い)  
疣地蔵尊 愛知県碧南市築山町1  
重軽地蔵・延命地蔵 愛知県常滑市神明町2 地蔵さんに心でいぼとりを祈る。(龍雲寺)  
いぼとり地蔵(宝全寺) 愛知県常滑市本町2−248 地蔵堂の石でイボをこする。お礼は石の倍返し。(知多四国88箇所64番)  
いぼとり地蔵(金弘法・妙楽寺) 愛知県知多市新知下森 地蔵の石でいぼをこする。お礼は石を倍にして返す。(知多四国88か所79番)  
桜鐘地蔵 愛知県知多市佐布里桜鐘 地蔵の石でいぼをこする。お礼は石を倍にして返す。佐布里(そうり)  
医王寺 愛知県知多郡南知多町大井真向38 (知多四国88か所第30番札所、宝珠山泉蔵院)  
大乗山法華寺の鐘 愛知県知多郡美浜町豊丘五宝 (南知多33観音6番札所)(鐘のいぼにこよりを巻いて祈る)  
地獄谷地蔵尊 愛知県知多郡阿久比町板山 地蔵前の石でイボをなでる。(板山グランドの近く)  
原山疣水社(原山社) 愛知県知多郡武豊町原田 疣水社の御神水を原山疣水社の御神前に供えて祈願し、持ち帰りイボに塗布する。  
小山のいぼ地蔵 愛知県一宮市千秋町小山 境内のムクゲの葉を取ってイボをこすり、その葉を奉納する。 
 
岐阜県  
美薗の榎(橿森神社) 岐阜市若宮町1−8 橿森(かしもり)  
イボ宮(八幡神社) 岐阜市上尻毛八幡 上尻毛(かみしっけ)  
青氷の滝 岐阜県高山市高根町中之宿 (旧大野郡高根村中之宿)滝の水をつけるとイボがとれる。  
駒かけ岩 岐阜県高山市高根町小日和田長峰峠 岩に溜まった水でイボを洗う。(旧大野郡高根村小日和田)小日和田(こひわだ)  
三ツ岩・三峰石 岐阜県高山市国府町上広瀬 岩に溜まった水がイボに効く。(旧吉城郡国府町上広瀬)  
イボ取りの薬師如来(大雄寺) 岐阜県高山市愛宕町67 大雄寺(だいおうじ)  
いんぼ岩(大西峠) 岐阜県高山市久々野町大西 岩に溜まった水をイボにつける。  
いぼとり地蔵 岐阜県可児市塩河春里 塩河(しゅうが)  
いぼとり観音 岐阜県土岐市鶴里町柿野  
いぼ石・いぼ神様 岐阜県恵那市中野方町 岩の窪みの水をイボにつける。  
上田のイボ岩 岐阜県恵那市明智町大田上田 イボからイボ石へ箸の橋を渡して『イボイボ渡れこの橋渡れ』と唱える。  
いぼ神様・いぼ石・修理夫人の墓 岐阜県恵那市岩村町源吾上 いぼ神様の石でこする。(旧恵那郡岩村町・源吾坂の分岐点)  
亀岩 岐阜県中津川市上野寺尾洞 岩に溜まった水をイボにつける。(旧恵那郡坂下町上野寺尾洞)  
あざ岩、いぼ岩 岐阜県中津川市落合 小石でイボをこする。  
横吹き地蔵 岐阜県中津川市坂下握 湧き水をイボにつける。(横引地蔵・岩清水の地蔵)(旧恵那郡坂下町坂下握)  
田中泥薬師(四反田公園) 岐阜県瑞浪市薬師町4 薬師の顔に泥をぬり、「どうかイボがとれますように」と御願いする。  
疣岩(桜堂薬師・法明寺) 岐阜県瑞浪市土岐町桜堂  
いぼ神様(お宮の清水・白髭神社) 岐阜県関市中之保温井 湧き水をいぼにつけてから後ろを振り向かないで帰る。(旧武儀郡武儀町中之保温井)中之保(なかのほ)  
追分のいぼ地蔵 岐阜県関市武芸川町谷口 (地蔵道標)  
いぼとり地蔵様 岐阜県加茂郡七宗町神淵杉洞 地蔵の清水をオワンにくみ供えその水を持ち返りをイボにつける。  
いぼとり地蔵 岐阜県加茂郡富加町加治田895−1 涌き水(霊水)をイボにつけるとイボがとれる。(清水地蔵尊・清水寺の二天門の左)  
いぼ井戸(雄鳥川) 岐阜県加茂郡川辺町鹿塩 溜まった水にイボを浸す。  
いぼ岩さま(坂折峠) 岐阜県加茂郡八百津町福地 いぼを小石でこすり、この岩に供える。  
イボ取石・イボ取りお水 岐阜県郡上市白鳥町石徹白2−48 白山中居(ちゅうきょ)神社参道  
弘法大師の水 岐阜県飛騨市神岡町割石 湧き水をイボにつける。(旧吉城郡神岡町割石) 
 
石川県  
いぼとり石 石川県金沢市兼六町兼六公園 石に触れた手でイボをなでる。  
上河内のいぼ地蔵 石川県鳳珠郡能登町北河内 沸泉でいぼを洗う。(旧鳳至郡柳田村北河内)・鳳至(ふげし)  
いぼ池(少彦名神社) 石川県能美市粟生町粟生 池の水をいぼにかけて振り向かないで帰る。  
御神水・いぼ池 石川県小松市須天町1−43 湧き水をつける。須天(すあま)(須天熊野神社)  
えぼ石 石川県七尾市町屋町高階 岩に溜まった水をイボにつける。(元伊保池神社の境内)  
イボ石(日吉神社) 石川県七尾市国下(こくが)町 石のぶつぶつにイボをこする。  
伊助谷のイボ池 石川県鹿島郡中能登町瀬戸 池の石でイボをこする。  
イボとり地蔵 石川県かほく市野寺 
 
富山県  
いぼとり石(北馬場神社) 富山市水橋北馬場  
弘法大師・弘法イボトリ水 富山市小糸 (旧上新川郡大沢野町小糸)  
イボ観音(天満宮) 富山市馬瀬口 (旧上新川郡大山町馬瀬口)  
疣石(鵜坂神社) 富山市婦中町鵜坂212 イボをさすりながら祈る。(旧婦負郡婦中町鵜坂)  
いぼ石 富山市八尾町石戸 いぼ石の水をつける。八尾町(やつおまち)石戸(せきど)  
いぼとり地蔵 富山県滑川市赤浜  
弘法の足跡・イボトリ水 富山県中新川郡立山町虫谷  
イボトリ地蔵・六地蔵石仏 富山県中新川郡立山町芦峅寺 地蔵の前の溜まり水を取り、振り返らずに帰る。  
いぼ石(小久米神社) 富山県氷見市小久米(おぐめ) 石のくぼみに溜まった水に銭を入れ、その水でイボを洗う。 
 
福井県  
びんだれ岩・いぼとり岩 福井県大野市伏石阪谷 伏石(ぶくいし)  
イボ神様(瑞祥寺) 福井県大野市日吉町5−3 溜まり水をイボにつける。  
いぼ落し岩 福井県大野市田野  
いぼ石さん 福井県大野市木本 同上。木本(このもと)  
いぼ地蔵 福井市国山町国山尻 地蔵に供えた賽銭をイボにつける。  
糸崎のいぼ地蔵 福井市和布町鷹巣地区 7月24日がいぼ神様例祭(コンコロモチを配る)・和布(めら)  
いぼおとし地蔵 福井県鯖江市和田町  
いぼ落としの岩 福井県鯖江市上戸口町 (刀那の滝の少し手前)  
仏じりの水 福井県丹生郡越前町上戸 (ほとけじり)湧水でイボをあらう。(旧丹生郡織田町上戸)上戸(うわど)  
独鈷水 福井県丹生郡越前町上糸生小川 (越知山へ登る途中)  
いぼとり地蔵 福井県越前市水間町 (服間小水間分教所の近く)  
いぼ石 福井県南条郡南越前町杣木又 (旧南条郡今庄町)  
いぼ地蔵 福井県三方上中郡若狭町三田 (旧遠敷郡上中町三田)  
いぼ地蔵 福井県小浜市太興寺(松永地区) お参りの後は振り返ってはいけない。  
イボ神さん 福井県小浜市上加斗 「イボ、イボなおれ」と祈って帰りは後ろを振り返ってはいけない。 
 
近畿

 

三重県  
イボとり地蔵 三重県鈴鹿市汲川原町  
庚申地蔵・イボの神さん 三重県四日市市堂ケ山町 地蔵を倒して願をかける。お礼は赤飯を供えて、倒した地蔵を起こしてお礼をいう。  
いぼ神様 三重県松阪市朝田町 お礼は土の団子を供える。(式内意非多神社)  
柳原観世音 三重県松阪市阪内町細野  
いぼ神様・家城神社 三重県津市白山町南家城古屋敷 霊泉(こぶ湯)をいぼにつける。(家城神社)(旧一志郡白山町南家城)  
庚申堂のいぼ地蔵 三重県津市雲出本郷町  
いぼ地蔵 三重県津市美里町南長野 (旧安芸郡美里村)(南長野分郷集落の東、国道163号沿い)  
いぼ取り地蔵さん・琴亀の地蔵さん 三重県津市河芸町高佐 豆でイボをこすり、その豆を持ってお参りする。河芸(かわげ)高佐(たかさ)(旧安芸郡河芸町高佐)  
いぼ地蔵(伊勢本街道) 三重県多気郡多気町井内林 地蔵さんに祈る。(地蔵は伊勢三郎物見の松の前にある。)井内林(いうちばやし)  
いぼ神様 三重県多気郡多気町荒蒔  
いぼとり地蔵(長慶寺) 三重県名張市蔵持町里 イボに触れた木の箸を地蔵に触れ、「いぼはしわたれ、金のはしはこわいぞ、木のはしはこわくないぞ。」を3回唱えて祈る。  
いぼとり地蔵 三重県度会郡大紀町大内山川口 (荷坂峠より移転)線香の灰をいぼにつける。(旧度会郡大内山村川口)  
いぼ不動明王 三重県尾鷲市泉町15 不動さんの前にいぼとりの灰あり。  
横手延命地蔵 三重県南牟婁郡紀宝町井田  
波田須の弘法さん 三重県熊野市波田須町 
 
奈良県  
 
和歌山県  
馬次(うまつぎ)の地蔵堂 和歌山市吐前 吐前(はんざき)  
いぼ取り地蔵 和歌山県有田市宮崎町(小豆島) (小豆島中央集会所・宮崎町814)の南、小豆島(あずしま)  
いぼ地蔵 和歌山県御坊市湯川町小松原 (湯川中の北150mのJR重力踏切り近く)  
会下のいぼ地蔵 和歌山県御坊市湯川町富安 会下(えげ)  
この花地蔵様 和歌山県田辺市上秋津(かみあきづ)学校横久保田  
サザナミ地蔵様 和歌山県田辺市上秋津久保田 荒縄でしばって願をかける。  
尼が谷地蔵様・木ノ下地蔵様 和歌山県田辺市上秋津河原 明治の合祀で一緒に祀られている。  
三本松の地蔵 和歌山県田辺市上秋津下畑 花筒の水をイボにつける。  
いぼ地蔵 和歌山県西牟婁郡上冨田町両平野 冨田(とんだ)西牟婁郡(にしむろぐん)  
霊験薬師水 和歌山県西牟婁郡上富田町生馬313 (救馬渓観音・すくまだにかんのん)生馬(いくま)  
奈目良地蔵 和歌山県西牟婁郡上富田町岩田〜岡(奈目良峠)  
いぼ薬師 和歌山県日高郡印南町宮ノ前 「イボをとれ、イボをとりなさい」と命令する。  
龍賀法印の墓・おりゅうさん(観福寺) 和歌山県西牟婁郡白浜町栄  
 
滋賀県  
いぼ地蔵さん 滋賀県高島市安曇川町西万木 廻国供養塔 西万木(にしゆるぎ)  
いぼとり地蔵・いぼとり水 滋賀県米原市上丹生 祠の横を流れる水をイボにつける。(旧坂田郡米原町上丹生)  
美肌観音の石碑 滋賀県東近江市永源寺高野町 (旧神崎郡永源寺町高野・興源寺)  
イボとり地蔵 滋賀県東近江市神田町 小石でイボをなでる。  
松が坂のいぼ地蔵 滋賀県甲賀市信楽町多羅尾松が坂 (旧甲賀郡信楽町)地蔵の頭を撫で、「どうぞいぼがとれますように」と祈願 
 
京都府  
御薬石(蛸薬師堂) 京都市中京区新京極東側町 御薬石でいぼをさする。  
碊観音寺 京都市左京区八瀬野瀬町211 碊(かけ)  
猿丸神社 京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺粽谷 (癌封じの神)  
不動滝不動尊 京都府綾部市下替地町 (梅ノ木谷不動滝)御神水をイボにつける。下替地(したのかち)  
イボ神さん(新宮神社) 京都府綾部市睦寄町草壁 池の湧き水をイボにつける。(瘡毒神社)  
山田のイボ神さん 京都府綾部市八津合町山田 池の水をイボにつける。(疣池大明神)綾部駅より上林線バス寺町下バス停下車徒歩約20分。お堂新築。  
厄済(やけすぎ)神社 京都府亀岡市曽我部町南条 湧水の水をイボにつける。  
イボトリ石塔・イボトリの神様 京都府亀岡市旭町印池(梅田神社) 石塔の中の米汁をイボにつける。  
いぼとり地蔵 京都府宮津市府中天橋立 石でイボをこする。  
穴観音 京都府舞鶴市東神崎  
稚児の滝 京都府舞鶴市真倉(まぐら) 滝の水と小石を持ち帰りイボをこする。(紫竹山稚児ケ滝)  
いぼ水さん(いぼ水宮) 京都府船井郡京丹波町本庄小丸山28 湧き水をつける。(阿上三所神社近く)(旧和知町)  
疣の神の水(帝釈天堂) 京都府南丹市八木町船枝 わいている水をイボにつける。(旧船井郡八木町船枝・ふなえだ)(帝釈天堂まで700mほどの参道途中)  
庚申様・疣取庚申(浄光寺) 京都府南丹市薗部町南大谷寺之下1 (旧船井郡園部町)  
いぼとり不動 京都府福知山市大江町南有路 不動の清水をイボにつける。お礼は水鉢にどじょう1匹を供える。(旧加佐郡大江町南有路・みなみありじ)  
滝本不動明王の滝 京都府福知山市大江町高津江 滝の水をイボにつける。(旧加佐郡大江町)  
いぼ地蔵 京都府福知山市夜久野町畑西ノ谷 地蔵の頭を撫でて祈る。また土の団子を供え、お礼は米の団子。(旧天田郡夜久野町畑西ノ谷) 香田疣地蔵 京都府与謝郡与謝野町石川 (旧与謝郡野田川町)  
後山疣地蔵 京都府与謝郡与謝野町石川 (旧与謝郡野田川町)  
栃谷イボ地蔵尊 京都府京丹後市久美浜町栃谷 栃谷(とちだに)(旧熊野郡久美浜町) 
 
大阪府  
いぼ大神・イボ神様 (大宮神社) 大阪市旭区大宮3−1−37 モチの古木の木肌と自分の肌を交互に撫でて祈願。  
磯良神社・疣水神社 大阪府茨木市三島丘1−4 玉の井(湧き水)でイボを洗う。  
疣取り水(菅原神社) 大阪府交野市傍示 手水の水。傍示(ほうじ)  
鐙摺地蔵・いぼとり地蔵 大阪府四条畷市逢坂 (東光寺)  
イボ神さん 大阪府羽曳野市野  
疣池大明神 大阪府堺市中区小坂町 疣池の土をイボにつける。(南海バス・北野田・鳳線・小坂西口バス停近く) 
 
兵庫県  
イボ地蔵 神戸市西区伊川谷町前開 (大山寺の仁王門の近く))  
いぼとり庚申堂(勝明寺) 神戸市西区平野町西戸田818 勝明寺(しょうみょうじ)  
イボ地蔵さん 神戸市西区押部谷町和田 (薬師堂の左側)  
赤地蔵さま 神戸市北区大沢町中大沢 大沢(おおぞう)  
いぼ薬師 神戸市須磨区妙法寺宮ノ下 (北向八幡神社の境内)(阿弥陀如来の笠塔婆) 山伏山神社 神戸市須磨区白川堂の東498 庚申碑(庚申塚) 神戸市東灘区住吉山手3  
夢見地蔵・イボとり地蔵 兵庫県三木市久留美(くるみ) (県道20号線の配分坂通称はる坂の北側の山陽自動車道をくぐる下あたり)  
芦屋廃寺の塔心礎の礎石 兵庫県芦屋市伊勢町12−25(芦屋市立美術博物館の前庭) 礎石のホゾ穴の水をつける。  
いぼとり地蔵(禅勝寺) 兵庫県丹波市氷上町上新庄1139 (旧氷上郡氷上町)  
いぼとり地蔵 兵庫県丹波市柏原町挙田 (旧氷上郡柏原町挙田)・柏原(かいばら)・挙田(あぐた)  
いぼとりの方便水 兵庫県丹波市青垣町東芦田 (胎蔵寺・いぼ水さん)  
いぼの石(高源寺) 兵庫県丹波市青垣町桧倉 触れるとイボが治る。(旧氷上郡青垣町桧倉)桧倉(ひのくら)  
いぼ取り八幡さん 兵庫県丹波市市島町中竹田友政 数え年の数だけ篠竹で矢を作ってお供えして祈る。  
いぼの神(小新屋観音) 兵庫県丹波市山南町小新屋477  
いぼ薬師 兵庫県多可郡多可町加美区清水 供えられた小さい箒で薬師をこすり、それでいぼをこする。(旧多可郡加美町)清水(きよみず)  
こぶ岩 兵庫県西脇市黒田庄町門柳村中 (旧多可郡黒田庄町)門柳(もんりゅう)  
いぼ取り地蔵さん 兵庫県西脇市黒田庄町田高 小さなワラ箒でイボを撫でる。(春日神社横の福寿荘)  
城跡のイボとり地蔵さん 兵庫県篠山市栗栖野 (栗栖野城跡の二の曲輪) 城跡のイボとり地蔵さんの民話  
勘助地蔵(和田寺) 兵庫県篠山市今田町下小野原69 「いぼとり地蔵さん」「足腰の地蔵さん」  
イボトリ庚申さん 兵庫県南あわじ市北阿万稲田南 (旧三原郡南淡町稲田南)北阿万(きたあま)  
イボのお薬師さん 兵庫県小野市敷地町 霊泉をイボにつける。(敷地薬師堂)  
綿山のいぼ地蔵さん 兵庫県神崎郡神河町吉富 (旧神崎郡神崎町)湧き水をイボにつける  
庚申堂・いぼの神さん 兵庫県神崎郡市川町下瀬加 お礼はくくりざるを奉納。  
抜居のいぼとり地蔵 兵庫県神崎郡神河町上小田抜居 湧いている清水をイボにつける。地蔵さんの小石でイボをこする。(旧神崎郡大河内町)  
多井田のお薬師さん 兵庫県加東市多井田 線香の灰をイボにぬる。(旧加東郡滝野町多井田)  
中山苦労堂 兵庫県加西市中山町  
薬師堂 兵庫県加西市下宮木町  
いぼ取り水(大歳神社) 兵庫県加西市田谷町 湧き水をつける。お礼は「たこの絵馬」を奉納する。  
いぼとり観音 兵庫県加西市福住東町 線香の灰をイボにつける。  
たばたのいぼとり地蔵 兵庫県加西市繁昌町繁陽町 「いぼはしわたれ。いぼはしわたれ。」と唱えながらいぼをなで、地蔵のその部分をなでる。お礼は新しいよだれかけを贈る。朝早くが良い。  
ブツブツ井戸・イボ取り井戸 兵庫県相生市那波大浜町 (大島山・大島城址)  
いぼとり井戸 兵庫県相生市若狭野町野野1196−26 (現在は集会所・宮野尾薬師堂)  
清水神社 兵庫県明石市魚住町清水 境内の石でイボをこする。お礼は猿のぬいぐるみ(くくりざる)を奉納。  
イボ神様(大年神社) 兵庫県明石市二見町福里 お礼は蛸の絵とか七色のお菓子を持って行く。  
疣おとしの薬師(龍王山長林寺) 兵庫県明石市材木町9  
薬師堂・瓢箪岩(薬師さま)の水 兵庫県赤穂市東有年613 瓢箪岩の水をイボにつける。  
イボ取り地蔵石像(横蔵寺) 兵庫県加古川市平岡町新在家900  
毛野の荒神さん 兵庫県姫路市打越毛野 供えてある穴の開いた石に触れる。  
ガチャガチャ地蔵 兵庫県姫路市西庄 西庄(さいしょう)  
蛇穴神社 兵庫県姫路市香寺町広瀬489 蛇穴(じゃけつ)  
觜崎摩崖仏・いぼとり地蔵 兵庫県たつの市新宮町觜崎川東 觜崎(はしさき)(旧揖保郡新宮町)揖保(いぼ)  
いぼ神さん・厳島神社 兵庫県たつの市揖保町中臣 揖保町中臣(いぼちょうなかじん)  
いぼころり地蔵 兵庫県三田市藍本 お供えは七色の品物。(秋谷地蔵・北向き地蔵ともいう)  
辺坂いぼ地蔵 兵庫県豊岡市日高町久田谷 お礼は白粉の団子とわらすべを年の数だけ供える。(旧城崎郡日高町久田谷)  
イボとり地蔵 兵庫県朝来市佐嚢老波 (旧朝来郡朝来町):朝来(あさご)佐嚢(さのう)  
いぼ神様(八幡神社・千年釜) 兵庫県美方郡新温泉町湯 「いぼいぼ渡れ、この橋渡れ」と唱えてイボに触れた指で石に触れる。(旧温泉町)  
高月前の疣取り地蔵(六体地蔵尊) 兵庫県養父市八鹿町宿南 丸い石を供える。  
イボ地蔵 兵庫県養父市大屋町宮垣 (旧養父郡大屋町宮垣)  
イボ取り地蔵 兵庫県養父市大屋町中間 (旧養父郡大屋町中間)  
いぼ地蔵 兵庫県宍粟市千種町河内 お地蔵さんの石でいぼをこする。(旧宍粟郡千種町河内)宍粟(しそう)千種町河内(ちくさちょうこうち)  
いぼ地蔵 兵庫県宍粟市一宮町桑垣 (県道6号、青菜林道の北入口)  
以ぼ水 兵庫県宍粟市一宮町小原 (旧宍粟郡一宮町)  
水谷のイボかみさま 兵庫県宍粟市波賀町上野(水谷地区) 宍粟市(しそうし)  
イボ取りの水(瑠璃寺) 兵庫県佐用郡佐用町船越877 湧水の水をイボにつける。(旧南光町へ) 
 
中国

 

岡山県  
いぼ神様 岡山市中区国府市場 左縄でくくる。穴に水を入れる。御礼は縄を編んで供える。  
おしめ神社・おしめ様 岡山市東区瀬戸町弓削宮の鼻 社の前の石でイボをこする。お礼は自分の年の倍の数の石を供える。(旧赤磐郡瀬戸町)  
かのう様 岡山市東区西大寺上1 巨勢金岡(こせのかなおか)の墓・いぼ取りの神様。墓石の粉をいぼにつける。  
疣とり地蔵 岡山市東区草ケ部1806 (仁王門への参道)  
亀石神社・亀石 岡山市東区水門町 亀石のまわりにある石でイボをこする。亀石(かめいわ)  
日鏡聖人供養塔 岡山市東区瀬戸町宗堂 小石でイボをなでる。(旧赤磐郡瀬戸町宗堂)  
イボ地蔵 岡山市北区中原下ノ原  
五輪地蔵・イボ取り地蔵 岡山市北区横井上 地蔵を削り取った石の粉をイボに塗る。横井上(よこいかみ)  
イボの神様 岡山県備前市吉永町南方1338 (松尾山松本寺理性院)  
いぼ神様 岡山県備前市西方上1871 (恵美須神社)  
いぼ神さま 岡山県倉敷市中帯江  
円田地蔵様 岡山県倉敷市呼松町 線香の灰をイボにつけ、素焼きの皿をお供えする。(新呼松バス停横)  
いぼ神様(西谷大師堂) 岡山県倉敷市真備町下二万西谷 いぼ神様の石を削ってその粉をイボにつける。  
日限地蔵 岡山県倉敷市児島小川  
平岩のイボ地蔵 岡山県笠岡市東大戸 東大戸(ひがしおおど)  
疣神さま 岡山県笠岡市横島 (丸い石が疣神さま)  
いぼ地蔵さん・縛られ地蔵 岡山県笠岡市大島中乗時 左綯いの縄で地蔵さんをくくってお願いする。イボが取れたら縄をとく。  
いぼ地蔵(日光寺) 岡山県笠岡市神島外浦2771 (石造地蔵菩薩)  
いぼ取り地蔵(玄忠寺) 岡山県笠岡市笠岡2785  
イボ神様 岡山県瀬戸内市邑久町宗三 (旧邑久郡邑久町) 邑久町(おくちょう)・宗三(そうさん)  
イボ神様 岡山県瀬戸内市邑久町下山田 (旧邑久郡邑久町) 下山田(しもやまだ)  
イボ神様 岡山県瀬戸内市邑久町本庄 (旧邑久郡邑久町) 本庄(ほんじょう)  
石上布都魂神社 岡山県赤磐市石上風呂谷1448 石上布都魂(いそのかみふつみたま)(旧赤磐郡吉井町)  
いぼ地蔵 岡山県総社市清音・大明神池堤 地蔵の石に願を掛け池に投げ込む。イボが取れたら石を元に戻す。(旧都窪郡清音村大明神池堤)  
小野の小町の墓 岡山県総社市清音黒田 イボをお墓の塔石にこする。(旧都窪郡清音村黒田)黒田(くろた)  
六地蔵 岡山県美作市右手(うて) 地蔵の前の水鉢のたまり水をいぼにつける。(旧勝田郡勝田町右手)  
疣池様・小淵の甌穴 岡山県美作市真加部 池に精米を入れその水をイボにつける。(旧勝田郡勝田町真加部)  
柊地蔵・疣神様 岡山県美作市江見?(豪路山の下) 石を借りて帰りイボをこする。お礼は新しい石を沿えて返す。(旧英田郡作東町)  
北向地蔵大菩薩 岡山県津山市河辺1158 (うどん山路の駐車場奥)  
イボ神様 岡山県津山市杉宮茶屋林 (旧勝田郡勝北町杉宮茶屋林)  
べんがら地蔵(泰安寺) 岡山県津山市西寺町12  
いぼ地蔵尊 岡山県和気郡和気町苦木 苦木(にがき)、(旧佐伯町)  
いぼ地蔵大菩薩 岡山県真庭市江川 (旧真庭郡勝山町江川)  
いぼ地蔵・阿弥陀仏 岡山県浅口市鴨方町地頭上 左縄を編み、石を縄で結び、イボ取りをお願いする。  
中谷の里観音様 岡山県真庭郡新庄村中谷 観音様の水がイボにきく。新庄村(しんじょうそん)  
苗代のいぼ地蔵 岡山県真庭市蒜山下徳山苗代 (旧真庭郡川上村下徳山苗代)  
イボ神様 岡山県勝田郡奈義町小坂 
 
広島県  
梶峠のいぼ地蔵さん 広島市安佐北区口田南小田 花立の水をイボにつける。(正田墓地)  
疣神さん 広島県安佐北区白木町市川弓投  
投石地蔵・いぼ地蔵 広島市安佐南区祇園1丁目 地蔵の傍の松の葉でいぼをつつく。  
いぼおとしのかみさん・白鳥社 広島市安芸区矢野東6丁目 神社東方100mほどの所にある「御手洗」の水をイボにつけ振り返らずに帰ればイボがとれる。  
幸崎の行者墓・歯いた地蔵 広島市安芸区矢野東2−6  
瀬野のイボ神さん(小宇羅地陸橋の下) 広島市安芸区瀬野1(瀬野交番の向い) お祈りして、振り向かず、口を利かないで帰る。  
イボ地蔵尊(長性院) 広島市南区比治山町7−40  
イボ地蔵(観音寺) 広島市南区黄金山  
いぼとり地蔵さん 広島市東区福田1 地蔵に溜った水をイボにかける。  
イボ墓(慈光寺) 広島市西区草津東3−7−25  
鼻の地蔵さん 広島県尾道市因島三庄町三庄 (旧因島市三庄町三庄・みつのしょう)  
えのき地蔵 広島県尾道市因島中庄町(成願寺)  
いぼ地蔵さん 広島県尾道市瀬戸田町荻田高根  
イボ神様 広島県東広島市志和町志和堀原  
薬師堂 広島県東広島市西条町郷曽吉郷 薬師堂の雨垂れに濡れた砂がイボに効く。  
疣観音堂 広島県廿日市市大野中山 建て替え前の疣観音(旧佐伯郡大野町)  
いぼ神様 広島県神石郡神石高原町近田 湧き水をいぼにつける。(旧油木町)(宇手迫)神石(じんせき)  
父石のいぼ地蔵 広島県府中市父石町 地蔵さんの線香の灰をイボにぬる。父石(ちいし)  
荒谷のいぼ地蔵 広島県府中市荒谷町東谷 年令の数だけ煎った豆を供える。荒谷(あらたに)  
いぼ地蔵 広島県竹原市田万里町  
いぼ落し地蔵 (白華寺) 広島県呉市倉橋町本浦 (倉橋島)  
イボ神様 広島県福山市水呑町 (善住寺の参道)  
いぼ神さん 広島県福山市水呑町高浦 水呑(みのみ)  
いぼの神様(福性院) 広島県福山市芦田町福田2689 北面山福性院福田寺  
疣神様(高諸神社) 広島県福山市今津町519 (剣大明神・お剣さん)、高諸(たかもろ)神社  
イボ神さん・竜王さん 広島県福山市坪生町189 坪生町(つぼうちょう)(神森神社)  
清水山竜王社 広島県福山市坪生町(清水山古戦場跡) 古戦場跡へは狐原町内会館から登る。清水山(しみずやま)  
六地蔵 広島県福山市内海町横島 (西音寺入口)内海(うつみ)  
いぼ神様 広島県福山市山野町 (艮神社の上・五頭天王善覚大明神のとなり)いぼ神様の石にイボをこすりいのる  
竜王社・タカオカミ神社 広島県福山市蔵王町 小さな器にたまった雨水をイボにつける  
一本松のいぼ地蔵 広島県福山市熊野町鴨尾 灰をこすりつけ祈る(一本松の地蔵堂)  
久師のいぼ地蔵 広島県福山市熊野町寺迫上 灰をこすりつけ祈る  
桶の堂地蔵 広島県福山市金江町金見643? 灰をこすりつけ祈る  
本谷のイボ地蔵 広島県福山市金江町金見752 灰をこすりつけ祈る  
いぼころり薬師 広島県山県郡安芸太田町遊谷槇ケ原 谷の水でイボを洗う。(槇ケ原薬師堂)、(旧山県郡安芸太田町戸河内遊谷槇ケ原)遊谷(あぞうだに)  
三界萬霊地蔵・いぼとり地蔵 広島県豊田郡大崎上島町原田 いぼとり地蔵の民話 夜明けに人に会わないようにしてお参りをする。(旧豊田郡大崎町原田・清光寺)  
いぼ地蔵 広島県三原市本郷町船木堂谷 (旧豊田郡本郷町船木堂谷)  
導神社・辻のいぼおとしさん 広島県安芸郡府中町本町3 (道祖神)  
いぼ落し石 広島県安芸郡海田町東2  
疣石 広島県安芸高田市向原町有留 (旧有保村)(旧高田郡向原町有留)  
ひしねさん・ひしね神さん 広島県安芸高田市向原町奥原 湧き水でいぼを洗う。  
戸島湧水 広島県安芸高田市向原町割石  
どうどう滝・水神様 広島県安芸高田市向原町有留 滝の水で洗い、水神様に祈る。 
 
鳥取県  
菖蒲廃寺塔・いぼ水 鳥取市菖蒲  
逢坂地蔵さん 鳥取市気高町睦逢 供えた水をつける。気高町(けたかちょう)、睦逢(むつお)  
イボ五輪 鳥取県西伯郡大山町文殊領 文殊領(もずら)の佐渡五輪・(旧西伯郡名和町文殊領)  
小原神社(客神社) 鳥取県西伯郡南部町原 境内の常盤の木の葉の朝露をつける。  
ちくま様 鳥取県東伯郡三朝町三朝温泉 歌を半分唄い、残りは治ってから唄う  
いぼ神さん・五輪塔 鳥取県東伯郡湯梨浜町方地 「いぼいぼ渡れ。金のはし渡れ。」ととなえる。(旧東伯郡東郷町方池)方地(ほうじ)  
いぼ神さん 鳥取県東伯郡湯梨浜町白石 「いぼいぼ渡れ。金のはし渡れ。」ととなえる。(旧東伯郡東郷町白石)  
いぼ神さん 鳥取県東伯郡湯梨浜町野方 石の窪みに溜まった水をイボにつけて、「たいさ、たいさ、のプリッチュー、がなは」と童謡を逆さにとなえる。(旧東伯郡東郷町野方)  
いぼ地蔵 鳥取県東伯郡湯梨浜町門田 (旧東伯郡東郷町門田)  
イボ神様 鳥取県岩美郡岩美町蒲生 (寺谷清水)  
お滝さん・福地の滝 鳥取県八頭郡八頭町福地 滝の水をイボにつける。(旧郡家町)(不動明王) 
 
島根県  
船石(諏訪神社) 島根県邑智郡邑南町矢上下京 石の窪みに溜まった水をイボにつける。(旧邑智郡石見町矢上)・邑南(おおなん)  
いぼ地蔵 島根県松江市美保関町美保関 (旧八束郡美保関町美保関・宝寿寺)美保関(みほのせき)  
いぼ地蔵(常楽寺) 島根県松江市鹿島町上講武 地蔵の体を撫でる。(旧八束郡鹿島町上講武) 花立の花の切り口の水をイボにつける。  
イボ取り地蔵さん(法船寺) 島根県松江市鹿島町恵曇(えとも) 水の入った茶碗を供え、その水をイボに塗る。  
古浦のイボ取り地蔵さん 島根県松江市鹿島町古浦 水鉢の水をイボにつける。  
いぼとり地蔵(月照寺) 島根県松江市外中原町175−6  
七面様・いぼ岩 島根県益田市匹見町澄川三出原(さんでばら) 岩の窪みの水をイボにつけるとイボがとれる。(旧美濃郡匹見町)  
伊保神社・伊佐賀神社 島根県出雲市斐川町出西 御神石に触れて祈る。出西(しゅっさい)(旧斐川町) 
 
山口県  
丸尾の法秀様 山口県宇部市東岐波丸尾崎 大豆の炒り豆を供えて祈る。(丸尾崎バス停西側の墓地内)  
疣神様(宮尾八幡宮) 山口県宇部市西万倉(まぐら) (旧厚狭(あさ)郡楠町)  
いぼ神様・石仏 山口県宇部市車地(くるまじ) 石仏(いしぼとけ)  
いぼ神社(琴崎八幡宮) 山口県宇部市上宇部大小路571  
塩地蔵・いぼ地蔵 山口県宇部市西岐波山村 (平成のいぼとり地蔵)(師井の生け墓の地蔵堂)  
いぼとり地蔵(籌勝院) 山口県岩国市小瀬264 地蔵の前の水をつける。お礼は水を入れ替える。  
いぼ神様 山口県岩国市柱島犬吠の鼻 サザエの殻に甘酒を入れて供え、殻に溜まった水をつける。  
庚申さん・イボ神様 山口県周南市湯野行田 意了田(いりょうだ)の榎の根元  
いぼ観音 山口県周南市湯野 仏弘寺(湯野下河合2823)の近く  
イボの神様 山口県山陽小野田市小野田浜河内上の台 (旧小野田市浜河内上の台・萬福寺の近く)  
疣観音様 山口県山陽小野田市旦東  
印塔・いぼ神様 山口市下小鯖棯畑 下小鯖(しもおさば)  
堂河内子安観音・いぼころり観音 山口市徳地藤木下藤木  
延命いぼおとし観音・船岩観音 山口市阿知須引野  
いぼとり地蔵 山口市小郡上郷中畑 年の数ほど後ろでんぐり返りをする。(危険です、祈るだけにしましょう。)  
疣地蔵 山口市仁保上郷 他人に頼んで祈願してもらう。  
いぼ神様 山口県萩市三見蔵本 菓子やいり豆を供えて祈願し供え物をイボの数だけ食べる。三見(さんみ)  
いぼ観音(大照院) 山口県萩市椿青海4132  
イボ地蔵 山口県萩市相崎 墓石を叩いて出た石の粉イボにつける。  
いぼ地蔵 山口県萩市紫福 いぼに紙で触れその紙に唾液をつけて地蔵さんに触れる。(旧阿武郡福栄村紫福)・紫福(しぶき)  
疣地蔵様・ことづけ地蔵様 山口市仁保上郷北河内 人に頼んで祈願して貰うとイボがとれる。
 
四国

 

愛媛県  
岡薬師如来(岡薬師堂) 愛媛県松山市星岡町120 (伊予12薬師霊場第8番・雲門寺)(岡薬師瑠璃光如来)  
イボ地蔵 愛媛県松山市森松町  
白波地蔵尊・イボ取り地蔵 愛媛県松山市中島 紙に蛸の絵を書いて供える。(旧温泉郡中島町)  
薬師堂・イボ取り薬師(長楽寺) 愛媛県松山市西垣生町1250 西垣生町(にしはぶまち)  
疣神さま 愛媛県松山市二神(二神島) 疣神の水をつける。(旧中島町二神)  
薬師堂(三角寺) 愛媛県四国中央市金田町三角寺 四国88か所65番札所由霊山三角寺(旧川之江市金田町三角寺)  
芝折さん・八の子地蔵 愛媛県西条市荒川八之川 (八の子橋のたもと)  
乳母の墓・いぼ神様 愛媛県西条市黒谷 (旧東予市黒谷)  
東宮さん・疣神さん 愛媛県西条市藤之石1号本郷 赤と白の幟を1本供えて祈願する。取れたらさらに1本奉納する。  
御前さま 愛媛県新居浜市楠崎 楠崎(くっさき)  
いぼ地蔵 愛媛県新居浜市舟木大久保 (大久保自治会館の東150mほどの南側の墓地)  
いぼ地蔵(正福寺) 愛媛県越智郡上島町生名813 (旧越智郡生名村)生名(いきな)  
水地蔵・イボ地蔵 愛媛県西予市野村町富野川舟坂 (県道44号線脇)(旧東宇和郡野村町富野川舟坂)  
イボ神様・大塚源九郎の墓 愛媛県西予市野村町予子林 (旧東宇和郡野村町横林小振)予子林(よこばやし)墓前に水を供え、持ち帰りイボにつける。  
五輪塔・疣神さま 愛媛県西予市野村町松渓 (三島神社の杉と桧の木の下の山伏・普門院を祀る五輪塔)7日間線香を供えて祈る。  
春日神社 愛媛県西予市明浜町狩浜 神社境内の土をイボにつける。(旧東宇和郡明浜町狩浜)  
いぼ岩 愛媛県大洲市高山 岩に溜まった水がイボに効く。  
イボとりのお塚さん 愛媛県東温市滑川 花立の水をイボにつける。(旧温泉郡川内町滑川)滑川(なめがわ)  
伊予神社 愛媛県伊予郡松前町神崎 「入らずの森」の石の窪みの水をイボにつける。  
疣をとってくれるお地蔵さん 愛媛県伊予郡砥部町 (砥部四国11番札所)  
神の水 愛媛県八幡浜市郷上郷 (梅之峠のクスノキの巨木の近くの火之神大明神のお堂の近くの湧き水)  
いぼ地蔵 愛媛県今治市玉川町高野 (旧越智郡玉川町高野)・高野(こうや)  
水大師 愛媛県今治市朝倉南乙野々瀬 御神水をイボにつける。(旧朝倉村朝倉南乙野々瀬)  
西向地蔵・いぼとり地蔵 愛媛県今治市吉海町椋名 (旧越智郡吉海町椋名・新谷海岸)  
カツのおじいさん・疣神さん 愛媛県今治市菊間町中川 お墓の花立の水をイボにつける。(旧越智郡菊間町中川)・中川(なかのかわ)  
イボに効く閼伽水 愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468  
いぼ神様・お薬師さん 愛媛県西宇和郡伊方町明神 年の数だけ米粒を供え、壺の水で手を洗う。(旧西宇和郡三崎町明神)  
大本様・疣神様 愛媛県西宇和郡伊方町湊浦 水をイボにつける。(旧西宇和郡三崎町)  
いぼがみ様 愛媛県西宇和郡伊方町名取 自分の年の数だけ米粒を供え手を洗うとイボが取れる。(旧西宇和郡三崎町)  
イボ神様(三宝荒神) 愛媛県南宇和郡愛南町家串 石でイボをこする。お礼は紙や石の蛸の絵か年の数の石を供える。(旧南宇和郡内海村家串)家串(いえくし)  
イボ神様(長養寺) 愛媛県西宇和郡伊方町三机 (旧西宇和郡瀬戸町三机・高覚道眼医師の墓)  
健雄神社・いぼの神様 愛媛県宇和島市吉田町深浦池の浦 お礼は蛸の絵を奉納する。 
 
徳島県  
つり鐘(阿弥陀如来堂) 徳島県勝浦郡勝浦町坂本宮平 つり鐘のイボをひもでくくる。  
イボ神様 徳島県三好市山城町脇 (旧街道の峠のお堂)  
かすの峯のいぼ地蔵 徳島県三好郡東みよし町東山二軒茶屋 お礼に松ふぐりを年の数だけ糸に通して供えた。(旧三好郡三好町)  
蛇岩 徳島県三好市井川町西井川 岩に溜まった水がイボに効く。(西井川小学校の西隣)(旧井川町)  
いぼ神様(満石神社) 徳島県海部郡美波町木岐 小池(井戸)の水がいぼとり効果がある。(旧海部郡由岐町)  
八山の地蔵尊(八山神社のぼり口) 徳島県海部郡海陽町尾崎八山 尾崎八山(おさきはちやま)(旧海部郡宍喰町)  
おっぱしょのお地蔵さん 徳島県阿南市柳島町南別当 
 
香川県  
疣神さん 香川県高松市檀紙町 平石に溜まった水をお題目を唱えながらイボにつける。  
いぼ石さん 香川県高松市十川西町 (光清寺の道を挟んだ斜め前) 十川西(そがわにし)  
いぼとり地蔵 香川県高松市香川町川内原 (旧香川郡香川町)  
高丸のいぼとり地蔵尊 香川県高松市香川町川東上高丸 お礼にはったい粉を奉納する。  
亀尻のいぼ目地蔵尊 香川県高松市香川町川内原亀尻 霊水をつける。  
下がり松の弁天さん・いぼ神様 香川県さぬき市大川町富田中2831 いぼ神様の水をイボにつける。お礼は小豆とお米を供える。(旧大川郡大川町富田中)富田中(とみだなか)  
いぼ神さん 香川県坂出市福江町1 石をひっくりかえし「いぼをなおさないともとにもどさないぞ」とおどかす。  
とうだら地蔵菩薩 香川県三豊市三野町吉津 地蔵の灰をつける。  
イボ神さん・お地蔵様 香川県三豊市三野町大見  
荷池(にないけ)のイボ神さん  
いぼとり地蔵 香川県三豊市仁尾町仁尾南草木 (旧三豊郡仁尾町)  
いぼ取りの薬師さま 香川県小豆郡土庄町伊喜末 (小豆島霊場第68番松林寺)伊喜末(いぎすえ)  
いぼとり地蔵(田ノ浦庵) 香川県小豆島町田ノ浦甲420 線香立ての灰をつける。  
いぼとり地蔵 香川県小豆郡小豆島町蒲毛入部 (旧小豆郡池田町)  
庚申社・イボコロリの神 香川県仲多度郡まんのう町勝浦 庚申様の水をイボにつけて祈る。 
 
高知県  
おみろく様 高知県土佐市中島 イボガエル(ヌマガエル)の置物を奉納する。(弥勒大明神様)  
いぼとり地蔵(宝幢院) 高知県香南市我美香町岸本 台石のくぼみにたまった水をいぼにつけたらとれる。(旧香美郡我美香町)  
岩屋大師堂 高知県安芸郡奈半利町  
べらいけ様 高知県安芸郡馬路村相名  
いびらの神様・宗伴坊さま 高知県高岡郡中土佐町大野見荻中 
 
九州

 

福岡県  
イボとり地蔵 福岡県北九州市小倉南区徳吉  
槻田地蔵(左家大明神) 福岡県北九州市八幡東区宮の町1  
無量寺観音・足水の井 福岡県北九州市八幡西区上上津役 足水(たるみ)・上上津役(かみこうじゃく)  
いぼとり地蔵 福岡県北九州市八幡西区市瀬2丁目14 (帆柱新四国第69番札所) 陣ケ原池の北側  
鏡の井・いぼとりの石 福岡市東区馬出2 翁別(おきなわけ)神社の境内、馬出(まいだし)  
いぼ地蔵 福岡市東区名島5丁目  
いぼ地蔵 福岡市南区鶴田2 小石でいぼをこする。お礼は年の数の石を返す。(鶴田池の傍ら)  
石投げ地蔵 福岡市南区向野  
瘤とり地蔵 福岡市南区長住1 (長住東公園東側)(花盛地蔵・石投げ地蔵)  
いぼとり地蔵 福岡県筑紫郡那珂川町五ケ山? 石でこする。  
イボ地蔵 福岡県大野城市山田4−6−21 (山田地蔵堂)供えた小石でイボをなでる。  
下の地蔵・紹運地蔵 福岡県春日市春日 お礼は川の丸石を年の数だけ供える。  
いぼころり 福岡県飯塚市建花寺・古野公民館前 石にいぼをすりつける。建花寺(けんげいじ)  
いぼ取り地蔵菩薩 福岡県田川郡福智町上野 (興国寺の参道脇)(旧赤池町上野)上野(あがの)  
いぼ神様 福岡県豊前市久路土  
いぼ神さま 福岡県豊前市求菩提(くぼて) いぼ神の横の流れの水をいぼにつける。お礼に手ぬぐい、のぼりを奉納する。  
いぼとり地蔵 福岡県直方市永満寺楠木 石祠に供えられている小石をもらって帰り擦る。お礼は小石を1個か歳の数を奉納  
昼掛のいぼぬき地蔵 福岡県宗像市朝野昼掛 荒堀川の小石でイボをこする。お礼はその石を奉納する。  
イボ神様(天照神社) 福岡県宮若市磯光266 天照神社(てんしょうじんじゃ)  
いぼ落ち六部さま(六部堂) 福岡県福津市勝浦松原 供えられた小石でイボをこするとイボが落ちる。お礼は小石の倍返し。  
いぼ神さま(石上神社) 福岡県大川市下牟田口 いぼ神さま(いぼじんさま)  
イボ取り地蔵 福岡県糸島市飯原(いいばる) 雉琴神社の南方500mの「しょうずの湯」の東方300mにある。(旧前原市)  
イボ観音 福岡県大牟田市倉永 甘木山公園麓 (仙台奥様の墓)奉納してある水をイボにつける。  
イボ地蔵 福岡県久留米市大善寺町夜明 イボをさすって祈願する。(清水館の前)  
いぼ地蔵(善導寺) 福岡県久留米市善導寺町飯田 石でイボを石でなでる。お礼は石の2倍返す。  
いぼとり地蔵 福岡県久留米市北野町大城 お礼は小石を奉納。(旧三井郡北野町大城)、大城(おおき)  
いぼ地蔵さん 福岡県久留米市田主丸 田主丸(たぬしまる)  
馬蹄石の水(高良山・高良大社) 福岡県久留米市御井町1 久留米ん昔話の(五)疣取除  
牛島地蔵・いぼ地蔵 福岡県筑紫野市牛島 小石でイボをさする。  
六地蔵 福岡県筑紫野市二日市 小石とよだれかけを納める。  
弾正さま(道林寺) 福岡県粕屋郡須恵町甲植木 飴玉を自分の年の数だけお供えする。  
イボ取り地蔵 福岡県糟屋郡新宮町三代 小石でお地蔵さんをこすり、その粉をイボに付ける。(太閤水の近く)  
いぼ神様 福岡県京都郡みやこ町国作 小石を供える。(旧京都郡豊津町国作)京都(みやこ)国作(こくさく)  
イボ神様 福岡県田川市宮尾町 (春日神社の近く)  
疣神様 福岡県田川郡大任町大行事梅田 お供えの小石でこする、お礼は小石の倍返し  
疣神様(丹波神社) 福岡県田川郡大任町大行事上元松 お供えの小石でこする、お礼は小石の倍返し  
いぼ地蔵 福岡県朝倉郡東峰村小石原 (湯の谷 大肥川の川岸)  
いぼとり地蔵 福岡県朝倉市杷木白木(しらき) お礼は大豆を年の数を供える。旧朝倉郡杷木町白木)   
おうとさま 福岡県朝倉市一木174(宝満宮の裏)  
土居の地蔵様 福岡県嘉穂郡桂川町土居(とい) 地蔵の小石でイボをこする。お礼は小石を供える。桂川(けいせん)  
戸平のイボ神様 福岡県嘉穂郡桂川町土師(はじ) 小石でイボをこする。お礼は年の数の小石を返す。  
いぼいぼさん・いぼいぼ神様 福岡県嘉麻市牛隈(うしくま) お宮の石でイボをこする。お礼は小石を供える。嘉麻(かま)、(旧嘉穂郡嘉穂町牛隈)  
いぼ薬師 福岡県久留米市城島町江島 (旧三潴郡城島町江島)城島(じょうじま)  
岩地蔵の水 福岡県八女市長野  
向野地蔵さん 福岡県八女市上陽町下横山 (旧八女郡上陽町)  
いぼ神さま 福岡県八女市上陽町久木原 (旧八女郡上陽町)年の数だけ大豆を納めて願をかける。  
平霊石・いぼの神さま 福岡県筑後市水田 大豆を石の窪みに入れ、たまり水にいぼをつけて祈る  
福間板碑・イボ観音 福岡県三潴郡大木町福土(ふくど) (田中宅)  
いぼの神様(木本神社) 福岡県三潴郡大木町八町牟田  
イボ神様・皇后石 福岡県築上郡吉富町子犬丸 (鬼の臼)巨石にたまった水をイボにつける。(八幡古表神社) 
 
佐賀県  
下馬の地蔵さん 佐賀市本庄町鹿子下  
疣取り地蔵(六地蔵) 佐賀市金立町金立野田  
疣なおし地蔵 佐賀市三瀬村藤原 (平松部落)(旧神崎郡三瀬村)年の数の小石を拾ってそれでイボをこすってからお供えする。  
疣なおし地蔵 佐賀市三瀬村藤原 (池田部落)(旧神崎郡三瀬村)南無地蔵大菩薩高嶋平之允と刻んだ石碑  
イボ地蔵 佐賀市北川副町新郷八田 大豆を年の数だけ上げて、祈った後地中に埋める。さがの歴史・文化お宝帳の八坂神社  
木起こし地蔵・いぼ地蔵(平尾天満宮) 佐賀市高木瀬町長瀬  
六地蔵(天徳寺) 佐賀市伊勢町6−32  
いぼ地蔵・イボ天神様 佐賀市川副町早津江和崎 自分の年の数の大豆を煎って供え、それを食べる。(旧佐賀郡川副町)  
いぼ地蔵(天神社) 佐賀市川副町小々森新村 (旧佐賀郡川副町)  
イボ地蔵 佐賀市川副町大詫間8区 (旧佐賀郡川副町)  
いぼ地蔵(天福寺) 佐賀市富士町下無津呂772  
いぼ地蔵さん 佐賀県神埼市神埼町田道ケ里大依(ひのはしら一里塚の上) 土を少し持ってゆく。炒った豆をあげる。地蔵の前の花差しの水をイボにつける。大依(おおより)  
いぼ地蔵 佐賀県神埼市神埼町尾崎東分 大豆を年令の数だけ煎って供える。尾崎東分(おさきひがしぶん)  
いぼ地蔵 佐賀県神埼市神埼町尾崎西分 茄子を供え、その茄子を割りイボに塗り、前を向いて後方に投げ後ろを振り向かずに帰る。尾崎西分(おさきにしぶん)  
いぼ地蔵 佐賀県神埼市神埼町岩田 イボを茄子でこすり、その茄子を供えてお祈りする。  
観音菩薩(いぼ地蔵) 佐賀県神埼市千代田町上直鳥 上直鳥(かみなおとり) 「地元ではいぼ地蔵と呼んでいる」  
いぼ薬師如来堂 佐賀県神埼市千代田町迎島 迎島(むかいしま)(筑後川の六五郎橋の佐賀県側の橋のたもと)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町中原 小石でイボをなでる。(旧三養基郡中原町・中原(なかばる)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町大阪間 自分の年令の数の大豆を供える。(旧三養基郡三根町大阪間)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町持丸 きれいな水を供え、その水をイボにつける。(旧三養基郡三根町持丸)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町南島 いり豆を供えて、近くで遊んでおる子供に食べさせる。(旧三養基郡三根町南島)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町本分 いり豆を供える。(旧三養基郡三根町本分)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町向島 イボの数だけのいり豆を供える。(旧三養基郡三根町向島)  
いぼ観音さん 佐賀県三養基郡みやき町中津隈 歳の数の焼いた大豆を供えて祈り、境内の土の中に埋める。  
隆信寺前のイボ地蔵 佐賀県武雄市東川登町永野1788  
蓮和のいぼ地蔵 佐賀県武雄市東川登町袴野二又 炒豆を供えてお詣りをする。蓮和の地蔵  
いぼ地蔵(円応寺) 佐賀県武雄市武雄町富岡川良 炒り豆をあげてお参りをする。  
六地蔵(ろくんぞう) 佐賀県武雄市山内町宮野舘 なすのへたでイボをこすり供える。(旧杵島郡山内町)  
いぼころり・いぼ地蔵 佐賀県武雄市若木町川古(かわご) 少量の豆を供えて祈る。(清正寺への登り口)  
福寿院の薬師地蔵 佐賀県武雄市若木町本部 大豆を供えて祈る。  
筒井のいぼ地蔵 佐賀県伊万里市波多津町筒井  
イボ地蔵 佐賀県鳥栖市幸津町  
疣取りの神様 佐賀県小城市小城町松尾北浦 石でイボをこする。お礼祇園川の石を10個返納。  
六地蔵・いぼとり地蔵 佐賀県小城市小城町池上牛尾 池上(いけのうえ)  
六地蔵・いぼ薬師堂 佐賀県小城市牛津町上砥川谷 上砥川(かみとがわ)  
イボの神様・地蔵菩薩 佐賀県多久市西多久町板屋平野 (石殿)  
イボとり地蔵 佐賀県多久市西多久町板屋吉の尾 (権現堂)  
イボ地蔵・長尾の六地蔵 佐賀県多久市南多久町長尾  
岡のいぼとり地蔵 佐賀県多久市多久町岡  
いぼ地蔵 佐賀県鹿島市高津原横田  
役の行者坐像・イボトリ地蔵 佐賀県藤津郡太良町多良 (多良岳大権現社務所跡)の近く。太良(たら)  
坂口七地蔵 佐賀県唐津市厳木町広瀬 (厳木ダムの下流)厳木(きゅうらぎ)  
地蔵堂 佐賀県唐津市厳木町瀬戸木場  
いぼ地蔵 佐賀県嬉野市塩田町大字谷所下童 谷所下童(たにどころげどう)  
イボを治す神様 佐賀県嬉野市塩田町五町田 (いぼとり石?)五町田(ごちょうだ)  
いぼ地蔵(板観世音境内) 佐賀県杵島郡白石町戸ケ里廻里 廻里(めぐり)  
いぼ地蔵(稲荷社の下) 佐賀県杵島郡白石町深浦古渡 古渡(ふるわたし)  
錦江のいぼ地蔵(有明西小の角) 佐賀県杵島郡白石町戸ケ里1493 
 
大分県  
疣神様 大分県別府市実相寺町 年の数の小石を拾って供える。  
イボ地蔵 大分県別府市内成(うちなり) (内成のイチョウのちかく)  
いぼ地蔵 大分市津守碇山  
江海社(春日神社) 大分市勢家町4−6−87  
薬師如来 大分市宮尾 薬師如来の水。  
イボ地蔵・延命地蔵 大分市中鶴崎1−8−2 (大音寺)  
いぼ地蔵さま・和霊社 大分市萩原2 (萩原天神)  
疣地蔵 大分市木ノ上  
疣地蔵尊 大分市神崎  
いぼ地蔵 大分市野津原雨川 (旧大分郡野津原町)  
イボ地蔵さま(臨済寺別院) 大分市永興(りょうご) お礼は赤飯を供える。  
松崎地蔵尊・イボ地蔵尊 大分市松原町(西原公園西側) 線香立ての灰とお供えの水をイボにつける。お礼は豆ご飯とご奉銭  
イボ地蔵 大分市福良  
いぼ地蔵 大分県由布市湯布院町川南 (ゆふ斎場横)  
黒津のいぼ神様 大分県国東市国東町小原黒津 (旧東国東郡国東町)  
イボ地蔵 大分県国東市国東町川原  
化粧の井戸 大分県臼杵市深田 井戸の水。深田(ふかた)  
いぼ地蔵 大分県臼杵市佐志生藤田 自分の年の数ほどの豆を煎ってお供えしてお願いする。  
大清水 大分県臼杵市大野大清水 清水の水。  
イボ薬師様 大分県臼杵市藤河内小出 イボをお薬師様の薬壷につけてなでる。  
イボ地蔵 大分県津久見市四浦刀自ケ浦 (城山の登り口)  
いぼとり地蔵 大分県津久見市四浦久保泊 お礼はお接待をする。四浦(ようら)  
疣石(念仏寺) 大分県中津市下永添 疣石に溜まった水をイボにつける。下永添(しもながそい)  
疣石(瑞福寺) 大分県中津市相原 疣石の水。相原廃寺跡の塔心礎。  
上方町地蔵尊 大分県中津市小祝上方町  
尾まがり疣取地蔵尊 大分県中津市山国町槻木 国道496号の須磨の景の近く (旧下毛郡山国町)  
イボ地蔵 大分県中津市本耶馬渓町跡田 (羅漢寺旧参道)  
疣石・疣水 大分県竹田市植木鬼田 疣石に溜まった水をイボにつける。:鬼田(おんだ)  
権現社の湧水 大分県竹田市九重野篭目 湧き水。  
イボ地蔵 大分県日田市刃連町 イボ地蔵の水。刃連(ゆきい)  
虫秋愛宕地蔵尊 大分県日田市前津江町赤石 (旧日田郡前津江村赤石)  
いぼ地蔵(地蔵院) 大分県宇佐市四日市 地蔵さんにふれる。  
疣地蔵 大分県宇佐市安心院町新原 地蔵の水。(旧宇佐郡安心院町新原)安心院(あじむ)、新原(にいばる)  
水垂不動・イボ神様 大分県宇佐市安心院町飯田 川原で年令の数の小石を拾ってイボ神様に供え、水を持ち帰り、イボにかける。  
穴居地蔵(満願寺観音堂) 大分県速見郡日出町川崎満願寺 日出(ひじ)  
いぼ神様 大分県豊後大野市三重町三重原 (旧大野郡三重町三重原)  
イボ神様 大分県豊後大野市大野町田代犬山 年の数の小豆を供えてお参りする。(旧大野郡大野町田代) 
 
長崎県  
いぼ地蔵 長崎県佐世保市早岐 早岐(はいき)  
イボ石様 長崎県佐世保市筒井町石盛  
新田のイボ神様 長崎県佐世保市新田町 (岩崎家の畑脇の板碑のイボ神様) 新田町(しんでんちょう)  
いぼ神様 長崎県大村市竹松 昊天(こうてん)宮  
石走道祖神 長崎県大村市福重町 石走(いしばしり)・(福重小学校裏)いぼ神様・やぼ神様  
イボ神様 長崎県大村市松原1  
落(おとし)の岩観音 長崎県諌早市上大渡野町 湧水がイボに効く。  
こもりじぞう 長崎市香焼町 その年に取れた小豆をイボの数だけ供える。(馬手ケ浦)香焼(こうやぎ)(旧西彼杵郡香焼町)  
いぼとり地蔵 長崎県雲仙市小浜町 「このいぼとれ。」というといぼが取れる。(旧南高来郡小浜町)  
摩崖仏・イボ神様 長崎県雲仙市千々石町木場 焼いたイモを供える。(旧南高来郡千々石町)千々石(ちぢわ)  
イボ取り地蔵 長崎県島原市有明町湯江甲浜西 地蔵を洗い、地蔵をなでた手でイボをおさえて祈る。(旧南高来郡有明町)  
いぼとり地蔵(正妙寺) 長崎県南島原市口之津町甲3300 仏像をなでて「いぼを取って」という。「いぼを取って下さい」と言ってはいけない。(旧南高来郡口之津町)  
いぼ神様 長崎県西海市西海町水浦郷小郡 いぼ神様を撫でた手でいぼを撫でる。(旧西彼杵郡西海町)  
イボ取り地蔵 長崎県五島市福江町16 (宗念寺の近く)(日本最西のいぼ神様)  
イモ地蔵 長崎県五島市本窯町芦の浦(椛島) 
 
熊本県  
イボの神様(若宮神社) 熊本市出水5丁目  
いぼ観音(観音堂) 熊本市大窪平島  供えてある水を持ち帰りイボにつける。(熊能座神社の近く)  
イボ地蔵 熊本市中島校区 中島校区(中島町・中原町・沖新町)  
いぼ地蔵 熊本市津浦町29 (熊本市打越町24との境界付近)  
水かけ観音(円通山寺院跡) 熊本市戸島町4268 年の数だけ炒り豆を供え、初穂の水をイボにぬる。  
立山のいぼとり地蔵 熊本市植木町豊田前田 お礼は歳の数の大豆を供える(旧鹿本郡植木町)  
平野のいぼとり地蔵さん 熊本市植木町平野 (清田宅前) (旧鹿本郡植木町)  
下中の六地蔵 熊本県山鹿市鹿北町下中  
イボ地蔵さん 熊本県山鹿市鹿央町上千田 (旧鹿本郡鹿央町上千田)  
イボ地蔵さん 熊本県山鹿市鹿央町上久野 (旧鹿本郡鹿央町上久野)  
いぼの神様 熊本県山鹿市平山平小城 水溜めの水をつける。年令の数を煎った大豆と米を供える。  
疣ダラさん・イボの神様 熊本県山鹿市中権現森 『山鹿市史』(昭和60年645頁)(中村廃寺の塔心礎)  
いぼ水さん 熊本県山鹿市菊鹿町宮原(みやのはる)  
いぼの神さん・鷹の水石 熊本県山鹿市菊鹿町上永野高池  
いぼの神さん 熊本県山鹿市菊鹿町小畑  
いぼの神さん・お薬師さん 熊本県山鹿市菊鹿町長谷 年の数の炒った大豆を供える  
いぼだらさん 熊本県菊池市七城町水次 イボダラさん(十蓮寺跡礎石)の水をイボにつける。(旧菊池郡七城町水次)水次(みつぎ)  
疣イボ取り地蔵さま 熊本県菊池郡大津町平川 (大年神社のすぐ下)  
いぼ石さん・イボイッサン 熊本県玉名郡和水町太田黒 年令の数の煎った大豆を供え、イボを石につける。(旧玉名郡三加和町)和水(なごみ)  
いぼ観音 熊本県玉名市岩崎653 年の数だけ大豆をお供えする。(クアハウスは萩の湯駐車場内)  
いぼ石 熊本県阿蘇市一の宮町坂梨 溜まった水をイボにつける。(旧阿蘇郡一の宮町坂梨・宿場茶屋後藤万十店隣り)  
イボ石・イボの神様 熊本県阿蘇郡小国町下城北河内 溜まった水をイボにつける。  
瀬の本のお地蔵さま 熊本県阿蘇郡南小国町瀬の本  
えぼ石 熊本県宇城市松橋町古保山 宇城(うき)、古保山(こおやま)  
いぼ神さん 熊本県八代市鏡町芝口 (旧八代郡鏡町芝口)  
いぼ観音さん 熊本県八代市千丁町 (旧八代郡千丁町)  
イボ荒神 熊本県八代市坂本町中津道 (旧八代郡坂本村中津道)  
地蔵さん(橋口宅横) 熊本県八代市坂本町下深水 (旧八代郡坂本村下深水)  
イボの神・いぼ取り地蔵 熊本県八代市日奈久馬越町 年の数の団子を供える。  
イボの神 熊本県八代市東町年神 年の数の団子を供えて祈る、お礼も必ず団子を供える。  
安心様・いぼの神様 熊本県球磨郡錦町一武本別府 一武(いちぶ)  
いぼとり地蔵さん 熊本県球磨郡錦町一武内村 錦町(にしきまち)、一武(いちぶ)、内村(うちむら) (道の駅錦の近く)  
久保のがらんどんさん 熊本県球磨郡錦町西  
イボん神さん・イボの神様 熊本県球磨郡錦町木上東 水を供え物とともい供え、水を持ち帰りイボにつける。木上(きのえ)  
阿弥陀様 熊本県球磨郡山江村万江 万江(まえ)  
六部地蔵・六部さん 熊本県上天草市松島町阿村 地蔵の水を毎日つける。(旧天草郡松島町阿村)  
ろくびさん 熊本県上天草市松島町辻 (旧上天草郡松島町辻)  
イボのお地蔵様 熊本県天草市有明町上津浦 誰とも話をしないで「イボをとって下さい。」とお願いする。お礼は煎った豆を奉納する。上津浦(こうつうら)  
石神様 熊本県天草市魚貫町浦越 (旧牛深市魚貫町浦越)魚貫(おにき)  
おすわ様 熊本県天草市久玉町吉田 久玉(くたま)(旧牛深市)  
どくんどさん 熊本県天草市馬場 (旧天草郡栖本町)栖本(すもと)  
いぼ地蔵(隣湯寺) 熊本県天草市天草町下田北1175 温泉水を供え、いぼにつける。  
胸かけ地蔵 熊本県天草市天草町大江 (旧天草郡天草町)  
イボ取り地蔵 熊本県天草市本町下河内はじ原下 子供の年の数の大豆供えてお参りする。  
水観音様・イボ観音 熊本県天草市河浦町新合平床 観音の横の清水のミズをつける。  
浮島神社(井王神社) 熊本県上益城郡嘉島町井寺2827 (いぼのサムライ・いぼとり、頭痛、歯痛の神) 
 
宮崎県  
熊野原地蔵尊・いぼとり地蔵 宮崎市学園木花台桜1(加江田神社の近く) (修験僧串間円立院の作)  
いぼとり地蔵 宮崎市清武町木原 自分の年数の大豆の首飾りを地蔵にかけて水をイボにつける。(旧宮崎郡清武町)  
疣の神様 宮崎県都城市高木町新原 お神酒を供えて祈る。  
東区のイボ神様 宮崎県都城市庄内町東区  
中原中常坊の墓・いぼ神様 宮崎県都城市高城町穂満坊 イボの数の炒り大豆を供える。(旧北諸県郡高城町)  
イボトリの仏さん(天長寺) 宮崎県都城市都島町1300−5 (阿弥陀如来)  
いぼの神様 宮崎県串間市西方 年の数だけ煎った大豆と焼酎とお米を供え、「芽が出る前にいぼを捨てて下さい。」とお願いする。  
イボ取り碑・上杉碑名(常楽寺) 宮崎県延岡市野地町4丁目3840 小豆を供えて祈る。  
西迎院地蔵・いぼとり地蔵 宮崎県児湯郡高鍋町上江1831−2 西迎院(せごいん)、児湯(こゆ)、上江(うわえ)  
イボ取り地蔵 宮崎県児湯郡新富町上富田4013  
大豆の神様・仁王像(狭野神社) 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田 高原(たかはる)、蒲牟田(かまむた) 
 
鹿児島県  
イボ神様(鞘脇バス停) 鹿児島県薩摩川内市陽成町 「私のイボをとってくれたら、歳の数だけ豆を煎って差し上げます」と言って拝む。  
イボンカンサア 鹿児島県薩摩川内市城上町今寺 今寺(いわでら)いった大豆を供えて拝む。  
イボの神様(龍光寺墓地) 鹿児島県出水市武本2893 (薩州島津家島津忠兼の墓)  
イボの神様 鹿児島県伊佐市大口木ノ氏 供えた水をつける。  
大島重制石どう イボの神様 鹿児島県伊佐市大口大島  
毘沙門天像 鹿児島市田上5−24  
比志島薬師如来 鹿児島市皆与志町 (比志島下公民館)  
伊集院抱節久治供養塔・いぼの神様 鹿児島県霧島市国分野口  
虎ケ石 鹿児島県志布志市志布志2 (旧志布志町)  
イボんかんさあ 鹿児島県垂水市新城宮脇 国市ドンの墓塔(くにいちどんのぼとう)、新城(しんじょう)  
イボン神サア・薬師如来 鹿児島県垂水市本城牧 本城(ほんじょう)  
下方の六地蔵 鹿児島県鹿屋市輝北町市成下方 大豆を供える。曽於(そお)(旧曽於郡輝北町)  
奥の神・いぼ神社(精茅神社) 鹿児島県姶良市加治木町日木山 大豆をいぼ神様の井戸の中に年の数だけ奉納する。(旧姶良郡加治木町)  
いぼ神さぁ・杖木神社 鹿児島県肝属郡南大隈町根占山本 肝属(きもつき)、根占(ねじめ)、(旧肝属郡根占町)  
イボの神様 鹿児島県肝属郡錦江町田代麓岩崎 磨崖仏(旧肝属郡田代町岩崎)  
木仏観音 鹿児島県指宿市西方下吹越 下吹越(しもひごし)の観音様とともにまつられている。  
いぼの神様・天授の板碑 鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島 初水を持っていって供えて祈る。  
いぼの神様(種子島) 鹿児島県西之表市安納大平 (日本最南のいぼ神様) 
 
修行の旅

 

 
    ●大師関連寺院 一般寺院 民話伝承 湧水 温泉 ご利益 
弘法大師 ゆかりの寺院  
●太龍寺 / 徳島県阿南市加茂町  
弘法大師 青年時代の修行  
空海の青年時代の修行地・大瀧獄であり、四国八十八箇所霊場第二十一番札所の太龍寺は、桓武天皇の勅願により開基した。標高600mの太龍寺山の山頂付近にある。  
境内から南西650mの舎心ヶ獄は、空海が著した『三教指帰』に『阿国太瀧嶽にのぼりよじ』とあるように、虚空蔵求聞持法を修した場所としても有名である。舎心は捨身を通じ、空海は百日間修行をしても悟りを得られず、谷に身を投げようとしたとも伝えられている。  
●大安寺 / 奈良県奈良市大安寺  
弘法大師 出家 / 天長6年(829)に別当に任ぜられる  
仏門の世界に空海が入ることになったきっかけとなった虚空蔵求聞持法について、『三教指帰』のなかで「ここに一人の沙門あり。余に虚空蔵求聞持法をしめす」とあるが、この沙門が大安寺の僧・勤操であるといわれてきた。 これは勤操から一代前の師である道慈(どうじ)が、唐から虚空蔵求聞持法を持ち帰ったと伝えられているためである。空海は大安寺の僧として出家したと伝えられ、唐から帰国後、天長6年(829)に別当に任ぜられたともいう。  
●久米寺 / 奈良県橿原市久米町  
弘法大師 唐へ渡ろうと決心  
聖徳太子の弟・来目皇子の祈願のために推古天皇が建立したと伝えられる久米寺。空海が夢のお告げで、大日経(密教の根本経典)を発見したのが、久米寺の東塔であるといわれる。 空海は経巻を読もうとしたものの、梵語の発音を漢字に置き換えた部分が少なかったため、全てを理解することは難しく、これを機に唐へ渡ろうと決心したもいわれる。現在は塔の礎石のみが残っている。戒壇堂は江戸時代に再建されました 。  
●東大寺 / 奈良県奈良市雑司町  
弘法大師 延歴22年(803) 戒壇院で受戒  
空海と東大寺の関係は深く、延歴22年(803)に戒壇院で受戒したといわれている。当時は東大寺、観世音寺、下野薬師寺の戒壇のいずれかで受戒しなければ、正式な僧侶と認められなかった。空海は唐から帰国後の弘仁13年(822)2月、大仏殿前に真言院(灌頂道場)を建立するように命ぜられた。六宗兼学の寺で南都を代表する東大寺に、密教が本格的に受け入れられる端緒となった。 
●観世音寺 / 福岡県太宰府市観世音寺  
弘法大師 大同元年(806) 滞在  
かつては三戒壇院の一つが置かれ、九州寺院の中心だった観世音寺は、天智天皇が亡くなった母・斉明天皇の冥福を祈るために発願し、天平18年(746)に落慶した。  
大同元年(806)に唐から九州・大宰府に帰り着いた空海だが、高階遠成や橘逸勢らと違い、朝廷から帰京の許しが出なかった。その間、滞在したのがこの寺といわれている。  
●東長寺 / 福岡県福岡市博多区  
弘法大師 大同元年(806) 起源  
唐から帰国した空海が、一軒の船宿に仏像や経本・仏具などを納めて寺としたのが起源とされている。そして密教が長く東に伝わるようにと祈願して「東長密寺」と名付けたともいわれる。  
本堂には自作と伝えられる大師像や、不動明王像があり、正御影供の時にのみ開帳される。福岡市の指定文化財である六角堂には六体の仏像が安置され、毎月28日の不動護摩供のときにのみ開扉される。 
●善通寺 / 香川県善通寺市善通寺町  
弘法大師 誕生地・三大霊跡  
真言宗善通寺派の総本山であり、四国八十八ヶ所霊場の第七五札所として知られる善通寺。空海の誕生地とも知られ、高野山や教王護国寺とともに空海のゆかりの三大霊跡として、古くから信仰を集めている。空海が師の恵和和尚が住した長安の青龍寺を模したとされる。宝物館には「一字一仏法華経序品」や唐から持ち帰った「金銅錫杖頭」が国宝として保存されている。  
●教王護国寺(東寺) / 京都市南区九条町  
弘法大師 天長元年(824) 別当・三大霊跡  
東寺真言宗総本山であり、本尊は薬師如来。天長元年(824)に空海は造東寺別当となり、伽藍の造営にあたり、以後真言宗の根本道場となった。講堂内に、仏像で密教空間を表現した。堂内中央に、五智如来、東に五大菩薩、西に五大明王、その周りに梵天、帝釈天、四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を安置している。五智如来は国の重要文化財、他の仏像は国宝に指定されている。  
●乙訓寺(おとくにでら) / 京都府長岡京市  
弘法大師 別当  
聖徳太子が創建したといわれる乙訓寺。延歴4年(785)、桓武天皇の側近・藤原種継暗殺を疑われた皇太弟・早良親王が幽閉され、無実を訴えたまま絶命し、その後災厄が続いた。嵯峨天皇の命による空海の別当就任は、親王慰霊の祈祷の効験を期待したものだった。 空海が滞在中、最澄がこの寺を訪れ、密教伝授を願い出たため受託し、のちに神護寺で結縁灌頂を授けた。 
真言密教とは  
真言宗は空海(弘法大師)によって開かれた密教を中心とした宗派です。平安時代の804年、のちに天台宗を興した最澄と同じ時期に留学僧として入唐しました。空海は唐で密教の第一人者の恵果のもとで2年余り学び密教の金剛界、胎蔵界両方の秘法をすべて授かったと言われています。  
帰国後816年に高野山を開き金剛峰寺を建立、これが真言宗の総本山となりました。さらに、823年には東寺を賜りここを鎮護国家祈祷の修行を行う根本道場としました。ここから天台宗の密教を台密というのに対して真言宗の密教を東密といいます。  
仏教の教えには顕教と密教と二つの分類があり、顕教とは「顕らかに説かれた教え」という意味で、これは衆生に教えを説くために姿を現した釈迦が人々の能力や性質に応じてわかりやすく説き示した教えであると空海は考え、一方密教とは「奥深い考え」という意味であり、真理そのものである大日如来が示した究極の奥義つまり秘密の教え(密教)であると考えたのでした。顕教では長い修行の末に成仏することを目指しますが、密教では大日如来と一体となって修行すればこの身がそのまま仏になるとできると説いたのでした。  
弘法大師の生涯  
弘法大師は、宝亀五年六月十五日(七七四年)現在の香川県善通寺市で、佐伯直田公(善通卿)と玉依御前の間に生まれた。幼名を真魚という。幼いころから非凡な才能を持つ、天才少年であった。十五歳で伯父の阿刀大足について奈良の都に出て、論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。十八歳で大学に入学するも、出世のための勉強に失望し、大学を辞め、仏門に入る。三論宗の高僧勤操より『虚空蔵(菩薩)求聞持法』を授かった弘法大師は、現在の高知県室戸市で修行をしている時、口に明星が飛び込んでくるという体験をして悟りを開いたといわれている。そのときの様子が「阿国大滝嶽に躋攀し、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す」と『三教指帰』に記されている。これが、弘法大師が密教に出会った瞬間であり、その間見ていたものが空と海だけだったため、「空海」と名乗るようになったといわれている。二十三歳で『大日経』と出会い、密教の深い教えを直に学び、それを実証すべく、中国の長安に留学する事を決意された。この時期、儒教、道教、仏教を比較検討し、仏教の優秀性を説いた『聾瞽指帰』後に、『三教指帰』と改題された。  
弘法大師は、入唐直前の三十一歳で東大寺戒壇院において得度したといわれている。延暦二十三年(八〇四)五月、弘法大師は三十一歳で留学生として遣唐使と共に唐へ出航する。この時の遣唐使一行には、政府の還学生として、天台宗の最澄がいた。途中嵐にあい、漂流し、福健省赤岸鎮に漂着した。上陸が許されないで立往生する中、お大師様が上陸嘆願書を書かれ、上陸許可が下りた一行は十二月に長安に到着した。長安に到着後は、梵語の勉強をされた。そして、翌年六月、密教の第七祖である青龍寺の恵果和尚を訪ねた。恵果和尚はお大師様が来ることをご存知であったのか、「われ先より、汝の来るのを知りて相待つこと久し。大いに好し、大いに好し。報命つきなんと欲すれども付法に人なし。必ず、須らく速かに香で花を弁じて灌項壇に入るべし」と言われ、また「われと汝は久しく契約ありて、誓って密蔵を弘む。われ東国に生まれて必ず弟子とならん」と申されたという。以降約半年にわたって師事する。そして、金剛、胎蔵、伝法の三つの灌項を受け、「この世の一切を遍く照らし、ゆるぎない最上の者」を意味する法号「遍照金剛」を与えられた弘法大師は、名実ともに密教の第八祖となった。大同元年(八〇六)十月、密教だけでなく、工学、医学、文学など最新の文化や学問を唐から持ち帰った弘法大師は、博多の地へ帰国し『御請来目録』を朝廷に奉進した。大同二年(八〇九)十一月八日、平城天皇から許され、弘法大師はかつて『大日経』を発見した大和久米寺にて『大日経』の講讃を行った。この日をもって真言宗は立教開宗された。  
弘法大師は、社会を救済し人久に利益を施すために、国家鎮護や雨乞いなどの祈祷を行った。また、真言宗を広めるために未徒の修行、養成に力を注いだ。弘仁六年(八一五)、自身の修行の場であった四国にて人々の災難を除き国の安泰と繁栄を願い四国を巡ったのが現在の四国霊場となっている。そして、弘仁七年(八一六)六月十九日、四十三歳のときに嵯峨天皇より高野山を開くことを許され、真言宗の修禅道場として、また自分自身の修行の場として高野山の開創に着手した。弘仁十二年(八二一)、現在の香川県の満濃池(日本最大の農業用ため池)は、数年間の間決壊したまま復旧が進んでいなかったが、弘法大師は改修を指揮し、わずか四十五日間で工事を成功に導いた。弘仁十四年(八二三)には京都東寺を賜り教王護国寺とし真言密教の道場としたが、のちに天長五年(八二八)にはここに私立の教育施設「綜芸種智院」を開設し庶民にも教育の門戸を開いた。また、著書も多く、『般若心経秘鍵』『秘密曼陀羅十住心論』『秘蔵宝鑰』『弁顕蜜二教論』『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』など、たくさんの書物を残された。承和二年三月二十一日「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなばわが願も尽きなん」と御請願のもと、高野山にで六十二歳で入定、即ち永遠の禅定に入った。弘法大師が入定してから八十六年後の延喜二十一年(九二一)、東寺の観賢の働きかけにより、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。弘法大師は「お大師さん」として、今でも広く親しまれている。  
そして、真言宗では、死後の未来は、弥勒菩薩の浄土である都率浄土に迎えられると言われています。お大師さんは、この都率浄土に生きておられると信じられている。 
弘法大師謡蹟  
●四国88ケ所を巡拝して  
伝説によれば四国88ヶ所は弘仁6年(815)弘法大師42歳の時に開かれたといい、他方、大師の入定後、高弟真済がその遺跡を遍歴したのがはじまりともいう。また本稿中にも紹介したように衛門三郎が自己の非を悟って四国の霊地をめぐったのが遍路のはじまりともいわれる。いずれにしても大師入定後、大師に対する信仰は間もなく起り、平安時代の末ごろには大師ゆかりの地を巡拝することがおこなわれていたものと推察される。  
四国88ヶ所の寺は全部弘法大師開基の寺なのではないかと漠然と考えていたが、調べてみると弘法大師開基の寺が41、行基開基が28、その他が19となっている。行基開基がかなりの数になっているのは意外であったが、案内書などを読んでいると、行基開基であってもその後弘法大師が修復したものも多く、直接間接に弘法大師が関与しているようである。現在88ケ所のどの寺にも本堂とともに大師堂があり、巡拝の人々も必ず双方に巡拝、読経している。その意味では88ケ所全部のお寺が弘法大師関連の謡蹟といっても過言ではない。  
●衛門三郎と大師像  
前述のとおり衛門三郎は大師の後を追って20回廻っても大師に逢うことが出来ず、逆に廻ればと考えて逆に廻り、ついに現在12番札所のこの焼山寺で病に倒れたが死の直前、大師に巡りあうことが出来た。大師が墓標として立てた三郎の杖が根づいたという杖杉が高くそびえ傍らには杖杉庵があるという。是非立ち寄りたいと願っていたが、団体旅行では仕方ない。杖杉庵のそばを通過した時、大きな杉、杖杉庵らしい建物、衛門の大師の像が見えたのでカメラのシャッターを切った。あまりよく写らなかったが参考までに掲げてみる。  
●慈尊院 和歌山県九度山町  
弘法大師の母堂を祀る慈尊院に立ち寄った。丁度桜の花が美しく咲いていた。ビデオでこのお寺の概略の解説があり、さらに母の玉依御前の像を拝観することができた。境内には弘法腰掛けの石や孝行松があった。  
●西新井大師、大師尊像 足立区西新井  
大師がこの地を通ったところ悪疫流行しているのを見て、21日間護摩を修ぜられて悪疫を終息せしめたという。その徳を慕ってやまない人々が、大師自ら刻んだ観世音菩薩像と御大師様尊像をお祀りしたのがこの寺の起源という。現在境内に建つ弘法大師立像は、開宗千百年の記念に東京千住睦講により諸国巡錫のお姿を現したものである。  
●弘法の池、護摩堂、弘法大師の清水、倶利伽羅不動尊  石川県、富山県  
石川県鳥越村には弘法の池がある。弘法大師が旅の通すがら通りかかった老婆に水を所望すると、老婆ははるばる沢まで降りて、五体にしみわたるような冷たい清水を汲んできた。胸を打たれた大師が手にした錫杖で地面を一突きするとたちまち泉が沸き出したという。池の前には大師の像が安置されている。  
富山県上市町には護摩堂と弘法大師の清水がある。当時付近の山野は猛獣毒蛇の巣で、人々が被害を蒙り困り果てていたが、大師がこの地に来て住民の苦しみを憐れみ、護摩を焚いて野獣の放逐を祈った。以来この地を護摩堂と称するようになったという。小さなお堂が建ち拝観させていただいたが、村人により大切に保存されている。また弘法の池と同じような物語が伝えられ、弘法大師の清水として今も清水がこんこんとして湧き出ている。  
富山県小矢部市の倶利伽羅不動尊は弘法大師が諸国をめぐられる途中、この地で紫雲光明の中に不動明王のお姿をおがまれ、また、一体の不動明王像をお刻みになり奉安されたという。  
●立木観音 大津市南郷  
大師行脚の折、当地を通ったところ、この山に光を放つ霊木があった。不思議に思って近寄ろうとすると、白い鹿が忽然として現れ、大師を脊に乗せて大河を渡り霊木の前に導き白鹿はたちまち観世音と化現し光明を放って虚空に消散した。大師はその霊木に向かい立木のまま自分の丈にあわせて、五尺三寸の聖観世音の尊像を刻み、その余材をもって毘沙門天、広目天、大師の真影を刻み、堂宇を結んで安置したという。  
●須磨寺の弘法岩五鈷水、東山寺  兵庫県  
神戸市の須磨寺の境内に平成12年「弘法岩五鈷水」という手水処が設置された。傍らの説明によると、平成12年初頭、この場所に手水処(手や口のお清めの場所)を建立することを計画した。そして弘法大師御宝前で祈ること21日、清浄で豊富な水が山内で湧出することが判り、その水をお大師さんにちなんで「五鈷水」と名付け、大きな五鈷を石の台座に置いた手水処にすることにした。ところがある雨の朝、手水処建立の予定地に立っていると、山のような僧形がぼんやりと浮かんできた。これは五鈷を持つのはお大師様だという思いが浮かび、その浮かんできた姿を描き、そのような石を求めて四国各県を訪ね歩いた。そしてまた祈ること14日、若き日の大師様もご修行なされた四国の霊峰石槌山の麓より、人の手の一切入っていない高さ2m、重さ約13トンの大岩が見付かった。一目見てこの大岩こそあの雨の朝に浮かんだ僧形でありお大師さんであると確信し「弘法岩」と称して当山にお迎えしたとのこと。そう言われて見ると僧の形に見えてくるから不思議である。兵庫県淡路島一宮町の東山寺も弘法大師開基の寺といわれ、本尊千手観音像は大師の作と伝えられる。  
●明王院 福山市草戸  
福山市の明王院も弘法大師開基と伝えられる美しい寺である。  
●宮島弥山、大聖院  広島県宮島町  
日本三景の一、天下の名勝、安芸の宮島の中心をなす霊峰弥山(みせん)は弘法大師の開創になり、その山容が唐の須弥山(すみせん)に似ていることから弥山と命名され、自ら一百日間の求聞持の秘法を修せられた所という。  
大聖院の境内は広く、勅願堂、大師堂、観音堂などの堂塔が建ち並び庭園もまた素晴らしい。弥山の頂上付近には消えずの火や求聞持堂があるという。ここから弥山の頂上までの通もあるようだが、とても歩けそうもないので、紅葉谷駅からロープウエイに乗り獅子岩駅で降りる。そこからでも頂上までは急な坂道が1キロほどあるというが覚悟を決めて歩く。少し歩くと求聞持堂がある。弘法大師が求聞持の秘法を修した所と伝える。傍らに錫杖の梅がある由だが見逃してしまった。更に進むと不消霊火堂(きえずのれいかどう)がある。大師修行の護摩の火が1190余年、昼夜燃え続けているとのこと。閼伽井堂は修行に用いた水の出たところである。文殊堂、観音堂、三鬼堂等を経て漸く頂上にたどり着く。頂上からの景観は壮観雄大で言葉に言い尽くせない。かっては海軍兵学校の生徒は必ずこの弥山まで登ったと聞いたことがある。永年の夢を一つ果たしたようで誠に壮快である。  
●神門寺、影向石(いろは石) 出雲市下塩冶町  
出雲市下塩冶町の神門(かんど)寺には、弘法大師がここで「いろは歌」を作った所といわれ、境内には影向石(いろは石)がある。このことからこの寺は「いろは寺」とも呼ばれている。また、南北朝の頃出雲の国主であった塩冶判官高貞公の墓がある。  
 
 
■東北
青森県

 

 
青森県  
東北地方は古代の令制国家では陸奥国(むつのくに)と出羽国(でわのくに)からなる奥羽地方と呼ばれていました。天正18年(1590年)7月〜8月に、豊臣秀吉が全国統一のために実施した『奥州仕置(おうしゅうしおき)』により、現在の青森県に該当する地域では津軽為信(つがるためのぶ)が初代・弘前藩(津軽藩)藩主として承認され、南部信直(なんぶのぶなお)が盛岡藩(南部藩)藩主として認められました。津軽氏は元々、南部氏の家臣の家柄で南部氏の傍流であったとも言われますが、津軽氏が南部氏から独立して現青森県の西部(日本海側)を統治するようになったので、南部氏と津軽氏は犬猿の仲としても知られています。  
官軍と幕軍が戦った幕末の戊辰戦争では、仙台藩(伊達藩)と盛岡藩(南部藩)、会津藩は江戸幕府の側について旧体制を守ろうとする『奥羽列藩同盟(奥羽越列藩同盟)』を結成しますが、弘前藩(津軽藩)は奥羽列藩同盟を裏切って離反し官軍に味方したことから、津軽藩と南部藩の対立は更に激烈なものとなりました。明治元年(1868年)11月には、『野辺地戦争(のへじせんそう)』が勃発して、南部藩の野辺地という場所で弘前藩と盛岡藩・八戸藩の兵士とが交戦する直接の武力衝突も起こりました。  
津軽藩最後の主君である第12代藩主の津軽承昭(つがるつぐあきら,1840〜1916)は新政府軍に合流して『箱館戦争』で功績を挙げ、戦後に新政府から1万石加増されましたが、明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事に任命され、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官されることになります。戊辰戦争の後、盛岡藩は大幅に石高を減封される敗戦処分を受け、盛岡藩の跡地には『斗南藩(となみはん)』が設置されて、元会津藩・松平家が3万石で転封されました。  
しかし、奥羽越列藩同盟の主要勢力(朝敵)として戊辰戦争に敗れた南部利剛(なんぶとしひさ,1828〜1896)は、明治新政府から隠居と領地没収の処分を下されることになり、新政府軍に味方した津軽藩・秋田藩とは明暗がくっきりと分かれてしまいました。最終的には、長男の南部利恭(としやす)に陸奥国白石13万石の減転封(盛岡藩20万石からの減法・配置換え)が認められましたが、戊辰戦争で幕軍について改易の厳罰処分を受けたのは、奥羽列藩同盟の会津藩・盛岡藩だけです。1870年(明治3年)7月10日に、盛岡藩(南部藩)は自ら財政難を理由に廃藩置県に先立って廃藩を申請して、旧領は『盛岡県』と改名されることになりました。盛岡県は廃藩置県によって、1872年(明治5年)1月8日に『岩手県』へと現在の県名に改称されています。  
明治政府は明治元年(1868年)12月に陸奥国の領域を『磐城(いわき)・岩代(いわしろ)・陸前(りくぜん)・陸中(りくちゅう)・陸奥(むつ)』の5つに区分しましたが、旧盛岡藩(南部藩)の一部を削減した領域に該当する岩手県は『陸中国・陸前国北東部・陸奥国南部』に広がるかなり広い県土を持つに至ります。  
明治維新の廃藩置県(明治4年,1871年)によって、弘前県(弘前藩)、黒石県(黒石藩)、斗南県(斗南藩)、七戸県(七戸藩)、八戸県(八戸藩)、北海道渡島半島の館県が生まれましたが、同9月4日にはこれらの6県が合併して『弘前県(県庁所在地・弘前)』が成立します。  
青森県は当初は弘前県という名称であり、歴史的にも経済的にも青森よりも弘前のほうが藩主の権威との関わりが深く経済的にも賑わっていたのですが、箱館戦争で活躍した九州地方の熊本藩出身の野田豁通(のだひろみち)が物資の輸送で利用した小さな漁港の青森に愛着を持ったことや津軽氏・南部氏の確執を和らげたいという思惑も影響して、『青森県』という県名が採用されるに至ったと言われます。青森は弘前と比べると、より旧南部藩の所領に近い漁港の町でしたが、その地名は単純にそこに『青い森』が広がっていたからという事のようです。  
明治5年(1872年)9月5日に、野田豁通(のだひろみち)が初代県大参事に任命されて、9月23日に県庁を弘前から青森に移転することを決め、県名もそれに合わせて『青森県』へと改称されました。初代の県権令(県知事)には菱田重禧が任命されています。しかし、青森県や青森という地名には、東北地方の歴史的・文化的な由来が含まれておらず、本来ならば戊辰戦争で官軍に協力した津軽氏の所領の弘前から『弘前県』としたほうが自然だったのですが、新しい青森県の範囲では弘前の位置が北に偏りすぎていること、青森の漁港としての将来性があること、旧幕藩体制の因習・遺恨を引きずらないことなどに注目して『青森県』という県名が採用されました。明治維新の廃藩置県では『旧弊の慣習・封建的権力を廃すること』が重視されたということも関係しています。 
 
岩手県

 

●蝙蝠岩 弘法大師霊場 / 岩手県花巻市東和町毒沢  
弘法大師 入唐前諸国巡錫の途中休息  
国道456号沿い、近くに「こうもり岩」のバス停がある。こうもりが棲むことから蝙蝠岩とも呼ばれ、その昔は山伏の修練場でもあったと伝えられている。巨大な天井石からなるドルメン状の岩屋。奥に弘法大師像があり、花が手向けられていた。太子堂の裏手にある花崗岩の重なる岩場。冠の形をした岩があることから「冠山」とも呼ばれている。  
東和町から国道456号線に沿って南下する猿ヶ石川の支流を毒沢川という。当霊場の地名にもなっており、その由来は「邦内郷村志」に「岩間に毒を出す沢あり、故に村名とす」(角川日本地名大辞典)とある。また、室町時代に毒沢城主伊賀守一忠が、豊臣秀吉の奥州仕置の軍に追われ城から逃れる際、追っ手を遮るために湧き水に毒を流したという伝承もあるが、この毒だ何だったのかは記されていない。  
内藤正敏氏の『聞き書き 遠野物語』〈新人物往来社〉に、こんなぶっそうな話が記されている。明治時代、東和町の隣、遠野の土淵村のはずれにある恩徳(おんどく)金山から青酸カリをもらってきて、川の魚がいそうなところに、ほんのひとにぎり、サーッと流す。浮き上がってきた魚をとって食べるのだが、腸(はらわた)をとって焼いて食べれば何ともなかったという。この密漁法は、ほとんどの金山周辺で行われており、大量の魚が浮き、川の水を飲んだ馬が死んだために、警察沙汰の事件にまでなったという。恩徳金山からもらった青酸カリは、金・銀の冶金(鉱石から含有金属を分離・精製する技術)に使用されたものと思われる。  
『丹生の研究』で知られる松田寿男氏は、東北地方すなわち古代の陸奥および出羽は、日本でも有数の水銀地帯であり、あの絢爛たる平泉の黄金文化を支えたのは、北上山地の金であったという。やはり、この地に水銀鉱山があったということなのか?  
 
案内板には、「当霊場は御大師様が入唐前諸国巡錫(じゅんしゃく)の途中休息された所で、全国に数多くある杖立て伝説が語り伝えられている霊場で清水が湧いております」とある。  
弘法大師伝説は、日本各地に3,000以上、ウィキペディアには5000以上あると記されている。なかでも多いのが、当霊場にみられる杖立て伝説で、弘法大師が旅の杖を地面に突き立てると、たちまちそこから清らかな水が沸き出たという弘法水の伝説である。弘法水は、場所や謂れによって「弘法清水」「お大師水」「弘法井戸」「独鈷水」などとも呼ばれている。  
柳田國男の『日本の伝説』「大師講の由来」では、弘法水伝説の北限を山形県の吉川としているが、秋田県、青森県にもあるというから、まさに北海道と沖縄を除いた全国各地に広まっているものと思われる。  
弘法大師空海は、18歳で大学に入るが、大学の枠におさまる器ではなかったようだ。ドロップアウトの道を選び、大学を中退、山林修行に入る。  
弘法大師伝説は、まだ空海が無名であった18歳から入唐するまでの31歳までの青年時代、いわば足跡のあきらかでない時代をもつことで生まれたものだが、いくら空海といえど、10数年で日本国中をくまなく歩き廻ることはできないだろう。諸国を勧進して廻った高野聖が各地に「弘法大師」の名を残したとも考えられるが、いずれにせよ弘法伝説に、空海自体が関わっている例は極めて稀であると思っていい。  
と分かっていても、なぜ弘法伝説が、東北のこの地に残されているのかと考えてしまう。毒沢の地名と空海の〈丹生〉つながりで、何か出てくるかと思ったが、目ぼしい伝承は見つからなかった。 
 
岩手県  
陸奥国と呼ばれていた時代から豊臣秀吉の奥州仕置を経て、南部氏と津軽氏が藩の主となった東北地方の大まかな歴史については、[青森県の名前と歴史]の項目で説明しました。盛岡藩(南部藩)は戊辰戦争で、幕府に味方する守旧派の『奥羽越列藩同盟』に参加して徹底抗戦を行いましたが、新政府軍に敗れて白石藩13万石への減転封処分を受けることになりました。南部氏の拠点であった盛岡は奪われて、松本藩戸田家と松代藩真田家が治める新政府軍の直轄領とされました。そして、1870年(明治3年)7月10日には、盛岡藩(南部藩)は自ら財政難で藩政を維持ができないという理由から、廃藩置県に先立って廃藩を申請して『盛岡県』に再編されました。  
盛岡県が成立した時の管轄地域は、『陸中国岩手郡・稗貫郡・紫波郡・和賀郡の一部』であり、南部氏が支配していた頃の盛岡藩と比べるとその管轄地の範囲は大幅に縮小されることになりました。1871年(明治4年)の廃藩置県による第一次府県統合では、現在の岩手県に該当する地域に『盛岡県』と『一関県』が置かれることになりますが、盛岡県には『和賀郡・稗貫郡(ひえぬき)・志波郡(しわ)・岩手郡・閉伊郡(へい)・九戸郡(ここのへ)』が含まれ、一関県には『気仙郡(けせん)・本吉郡・栗原郡・登米郡(とめ)・玉造郡(たまつくり)・磐井郡(いわい)・胆沢郡(いさわ)・江刺郡(えさし)』という由緒ある郡名が含まれていました。  
盛岡県は廃藩置県によって1872年(明治5年)1月8日に『岩手県』へと現在の県名に改称されますが、1876年(明治9年)の第2次府県統合では、磐井県から胆沢郡・江刺郡・磐井郡を、青森県から二戸郡を編入して県土を拡大しました。歴史的な由来や経緯を重視するのであれば、岩手県は盛岡県となり、青森県は弘前県となってもおかしくはなかったのですが、明治維新は『幕藩体制(藩政)の旧習・権威を否定する近代化革命』という意味合いを持っていたので、岩手県もまた南部氏の支配体制を彷彿させる盛岡県ではなく、盛岡が含まれている岩手という郡名のほうを県名に採用したのでした。岩手県への改称に当たっては、盛岡県が自ら固陋因習を正して県政と人心を刷新したいという陳情を行ったという体裁が取られました。  
『盛岡』という地名の意味は『盛んに繁栄する岡(台地)』というものですが、元々は南部氏家臣の福士氏が築いた『不来方城(こずかたじょう)』があった地名を、『人が来なくなる土地』というのは縁起が悪いということで、南部利直(なんぶとしなお)が慶長年間(17世紀初頭)に『盛岡城・盛岡』へ改名したのが始まりとされます。不来方城と盛岡城は城郭としては別々に建てられた城ですが、その城があった地名が『盛岡』へと改称されたことになります。現在でも岩手県民・盛岡市民の一部には、明治維新で取り上げられた『岩手』という地名よりも南部氏に由来する『盛岡』のほうに親しみがあるとも言われ、『岩手公園』の愛称として『盛岡城跡公園(もりおかじょうあとこうえん)』が採用されたりもしていますが、地図や公式文書では『盛岡城跡公園(岩手公園)』の表記が多くなっています。財政難もあり盛岡城の史跡としての復元は極めて難しい状況が続いています。  
岩手県の県名となった『岩手』という地名そのものは、盛岡以上に古いとも言われる地名・郡名であり、その由来は東北地方の名峰の一つである標高2038メートルの『岩手山』と考えられています。岩手山は二つの外輪山からなる複成火山であり、火山湖やカルデラ地形もあり、過去に溶岩が流れ出た溶岩流の跡も多く残されていることから、『岩が出る(溶岩が出る)』という自然事象の観察から、『岩出→岩手への転化』が起こったようです。岩手県の別名は『巌鷲山(がんじゅさん)』とも言うが、元々は『巌鷲山(いわわしやま)』と呼ばれていた山名が、『岩手』の音読みであるがんしゅに似ていることから岩手山へと転化していったとも言われます。春の岩手山は雪解け時期の山の形が飛んでいる鷲の形に見えるために、巌鷲山と呼ばれるようになったという伝承があります。  
岩手県は、2011年現在、政治資金規正法で起訴されている小沢一郎の地盤がある県でもありますが、近代の岩手県は藩閥政治を覆した庶民宰相の原敬(はらたかし)、反軍演説の斎藤実(さいとうまこと)、俳人の石川啄木、作家・詩人の宮沢賢治など多くの逸材を輩出している県でもあります。  
 
宮城県

 

●弥勒寺 / 宮城県登米市中田町上沼弥勒寺  
弘法大師 巡錫  
33年に一度御開帳の秘仏「弥勒仏坐像」の座する弥勒寺は別名奥州の高野山とも言われる東北の真言宗の中心地。正式名称は「長徳山 歓喜院 弥勒寺」。創建は1300年程前、7世紀に遡る。修験道の祖といわれ多大な法力を持っていたと伝えられる役小角(えんのおづの)の草庵がその始まりという。9世紀には弘法大師がこの地を訪れたと伝えられている。 
●弘法大師堂 / 宮城県岩沼市下野郷字藤曽根  
弘法大師 巡錫  
抑々当山は東北随一の弘法大師霊場にて広く世に知られて居り、一千百十有余年の昔、空海上人(弘法大師)奥州行脚の砌りこの地に御錫を止めさせ給いてご自身の姿を自ら御彫刻遊ばされ今日に伝えし霊場であります。尚自ら要ひた南天の杖と共に寺宝として奥の院に安置して在ります。毎年、4月21日に奥の院を開帳して御参詣の方に南天の杖で加持法を受けられます。特に真言密教の大修法師来山して護摩秘法を修行し、家内安全、五穀豊穣、交通安全、商売繁盛、海上安全大漁満足・所願成就の大護摩祈祷を厳修致します。 
●斗蔵寺(とくらじ) / 宮城県角田市小田斗蔵  
弘法大師 大同2年(807) 巡錫  
斗蔵山(標高250m)は、角田市の南西に位置しており、豊な自然は多くの方々の心の「ふるさと」としていき続けています。斗蔵山の山頂にある斗蔵寺観音堂は、大同2年(807)に坂上田村麻呂が建立し千手観音を安置したと言い伝えられており、同年、弘法大師がこの地を訪れた際に、「紫雲天になびき 奥州無二の霊地なり」と賛美したと言われております。    
斗蔵寺には秘仏の銅造千手観音像懸仏(県指定文化財)と木造千手観音立像(市指定文化財)及び眷属の二十八部衆と雷神、風神が安置されています。 秘仏の千手観音懸仏は、千手千眼世音菩薩ともいい、両手のほかに左右二十手あり、それぞれの四十手四十眼二十五の功徳を配して千手千眼とされています。多くの人々の苦悩を救い諸願成就及び、出産、平穏を司る観音様で、広く信仰されています。  
●弘誓寺 / 宮城県名取市  
弘法大師 弘仁年間(811) 開山  
弘誓寺は、金剛遊山と号し真言宗智山派の京都御室仁和寺の末寺で、本尊は不動明王となっています。開山は弘仁年間(810-824)に弘法大師空海によるとされ、中興開山は、寛喜2年(1230)良賢上人と言われています。  
江戸時代には仙台藩から寺領を与えられた格式を持つ寺で、旧名取郡内に、真福寺(本郷)や高照寺など末寺を16カ所も持っていました。  
境内には、日を切って願を懸けるものはその願いがかなうという日切地蔵尊(ひきりじぞうそん)や元禄15年(1702)仙台藩4代綱村公によって再建された観音堂がありましたが、昭和61年放火により焼失してしまいました。現在の建物は昭和62年に再建されたものです。  
なお、この寺の付近の植松という地名は、以前、寺の門前にあった弘法大師が植えたと伝えられている由緒のある松に由来していると言われています。  
館腰神社  
神社の由来は、嵯峨天皇の弘仁2年(811)、弘法大師(空海)が弘誓寺を創建する時に、京都伏見稲荷社を分霊したと伝えられています。祀られている神 は、倉(う)稲(かの)魂(みたまの)神(かみ)・大宮(おおみや)姫(ひめの)神(かみ)・猿田彦(さるたひこの)神(かみ)の3神で、奥州(街)道沿 い館の腰といわれる山の麓に近い所に鎮座することから社名が館腰神社と呼ばれるようになりました。 
 
泉明寺・湯元薬師堂 / 仙台市太白区秋保町湯元薬師  
慈覚大師(円仁) 開創  
秋保神社泉明寺は古来より薬師如来の霊応の地で、日本三御湯の一つ「名取の御湯」の鎮護のため、 慈覚大師(円仁)によって開創された。真言宗に属し、宗祖弘法大師(空海)の神仏習合(両部神道)の流れをくみ、 主に加持祈濤を行う。ご本尊薬師三尊・日光月光菩薩・十二神将は平安時代の比叡山の高僧の作品と伝えられる。  
隣に薬師堂は、本来付属仏堂であったが明治初期の神仏分離政策により、神社(祭神大己貴之命)とみなされた経緯があるが、 管理や運営は泉明寺がおこなっている。 ホテル佐勘の前にある湯神社が秋保温泉の守護「神」とすれば、泉明寺と薬師堂は守護「仏」といわれる。 泉明寺も薬師堂も近年新しく再建されたが、その歴史は古く秋保温泉を利用する人々をはじめ地域の人々に親しまれている。  
秋保郷の歴史  
秋保郷は、奥羽山脈に源ととする名取川とその流れに沿って貫通する古道(二口街道)を主体に構成され、 山々に囲まれた河岸平野と谷の上流の厳しい自然条件と相待った袋小路的要素を備え、 有史以来独自の歴史と風土を保ちながら今日に至っている。  
古来秋保・・・  
人間が生活を始めた歴史は今から三万年以前、秋保郷においては旧石器時代からはじまり、 湯元細野原遺跡がその痕跡を物語っている。以後、縄文及び弥生という原始民族が生活・土着したといわれている。 遺跡の総数は46箇所を超え、人々は山あいのわずかな土地を耕作し、大自然の中で狩猟採取をしながら、生活を営んでいた。  
弥生式小集落は、水田農業という安定した食料調達方法を獲得するとともに、人口の増加をもたらし、 集落の長たる「王」を生み、巨大な墓を象徴する次の古墳時代へと歴史を重ねていく。 仙台市遠見塚古墳の存在はこの頃のものとして想像され、仙台平野に統一された大きな集団があっと推測される。 しかし、秋保郷にはこのような墳墓は発見れていない。集落発達には困難を極めことが考えられ、 この時代名取川沿いに依然として弥生式小集落が点在するのみのさみしい化界の地だったことが推測される。  
やがて、中央(近畿地方)に大和政権が樹立するとともに、東北地方経営のための拠点として多賀城が設置される。この頃秋保郷は、多賀国府の近郊の集落という意味合いをもっていたほか、この時期に編纂された物語・歌集から「名取の御湯」という奥州の名所であった事実が推測され、 つまり秋保温泉は、多賀国府に派遣されてくる国府官人たちの保養・遊楽の地として栄え、 その名が遠く中央(大和)にも知られていたと考えられている。 秋保郷は東北の首都たる多賀国府の繁栄とともに、温泉の湧き出る湯元を中心小集落が形成されはじめたと思われ、 湯元以外には人は住んではいたであろうが依然として化界の地あったらしく、二口街道を背骨として名取川の上流まで集落ができ、 人々の生活が営まれるようになるまでにはその後数世紀を要したといわれている。この間、坂上田村麻呂や慈覚大師といった歴史的人物の来郷をきっかけに建立されたといわれる寺社や遺跡も多く、 仙台・山形間の主要街道の郷として、次の在郷小領主を始まりとした武士の時代へと変遷していく。 
宮城県  
現在の宮城県に該当する地域は、明治維新以前には伊達政宗(だてまさむね,1567-1636)で有名な伊達氏が支配する『仙台藩(伊達藩)』であり、62万石(実質石高は100万石以上)の仙台藩は全国的に見ても有数の大藩でした。福島盆地(伊達郡・信夫郡)と米沢盆地(置賜郡)を本拠地とした伊達氏は戦国時代に台頭しますが、“独眼竜・奥州の竜”と言われた伊達政宗の時代に、常陸国の戦国大名・佐竹義重や会津の蘆名氏を破って東北地方(奥羽)の南半分を支配する大大名に上り詰めます。  
伊達政宗は実力勝負では勝つことができないと見た天下人の豊臣秀吉に真っ白な死に装束を着て謁見し(全面降伏の意志を示し)、仙台の本領安堵を取り付ける奇策を講じますが、時代の趨勢を見極めて秀吉の死後の『関ヶ原の戦い(1600年)』では徳川家康の政権奪取を支援しました。その結果、江戸時代の仙台藩(伊達藩)62万石は全国きっての雄藩の一つとなりますが、政宗は関ヶ原の戦い以後も続いている豊臣氏と徳川氏との政治的な緊張関係を見て、もう一度『風雲(戦乱)の時代』が訪れるかもしれないという予測を持っており、天然の要塞である青葉山に『仙台城』を構えました。  
1600年からの築城に当たって、『千代(せんだい)』という地名の漢字を『仙臺(仙台)』に改めたのでした。城下町の建設も開始した。伊達政宗は1613年には家臣の支倉常長(はせくらつねなが)を使節とする『慶長遣欧使節団』を、スペイン王国やローマ法王庁(バチカン)といったヨーロッパの遠方にまで派遣しており、当時としては異例に優れた国際感覚の持ち主でもありました。  
戊辰戦争(1868〜1869年)では、薩長の新政府軍から会津藩を征伐しろとの『会津追討命令』を受けてその命令に背いたことで、『奥羽越列藩同盟』の盟主として戊辰戦争を戦うことになります。薩長の官軍に逆らって幕軍の会津藩に味方して戊辰戦争に敗れたことで、仙台藩(伊達藩)は『朝敵・賊軍・反乱軍』という汚名を受けることになり、仙台藩62万石の領地と城は当然没収されることになり、藩主の伊達慶邦(よしくに)と宗敦(むねあつ)の親子は東京の芝増上寺で監禁されることになりました。  
仙台藩・伊達家はその影響力と所領の大きさから奥羽越列藩同盟の盟主に祭り上げられたという側面も確かにありましたが、藩主の伊達慶邦らは孝明天皇の弟(明治天皇の叔父)の輪王寺宮(後の北白川宮)を擁立して政権の正統性を打ち出し、輪王寺宮を『東武皇帝』として即位させ、仙台藩主・伊達慶邦を征夷大将軍に任命させるという壮大な『政権奪取の野望』も持っていたと伝えられています。戊辰戦争の論功行賞によって朝敵として敗戦した仙台藩(伊達藩)は、石高を62万石から28万石にまで大幅に減封されて、俸禄が減って困窮した家臣団の救済策として蝦夷地(北海道)への入植を積極的に行いました。仙台藩は明治新政府と共同で札幌市開拓に当たっただけでなく、単独で伊達市を開拓する活躍を見せて、現在でも『伊達市』という地名が福島県伊達市と北海道伊達市に残っています。  
明治2年(1869年)に仙台藩は大幅に減封されて桃生県、江刺県、涌谷県、白石県、栗原県が分立したり、盛岡藩の南部氏が仙台藩の一部だった白石藩に移封されたりしましたが、明治4年(1871年)11月2日の第1次府県統合で仙台県と一関県(後に磐井県に改称)が置かれました。奥州南部を長期間にわたって支配した伊達氏が仙台に拠点を置いていたこと、仙台は紛れも無い東北最大の都市であったことから、本来であれば『仙台県』のままの県名になったほうが自然でしたが、1872年1月8日に仙台県は『宮城県』へと改称されました。仙台は戊辰戦争で新政府に逆らって戦った仙台藩(伊達藩)の拠点でもあったことから、仙台をそのまま県名にすることが敬遠されたこともありますが、明治維新の廃藩置県は基本的に『封建的な権力・因習・履歴を刷新すること』を目的にしていたので、封建主義的な藩政の拠点・地名をそのまま県名にすることが少なかったとも言えます。  
仙台県が宮城県になった理由は、盛岡県が岩手県になった理由と同じで、仙台が含まれている郡が『宮城』だったからです。しかし、『宮城』という言葉も『岩手』と同じように相当に古い歴史を持っており、古代の坂上田村麻呂の蝦夷征伐より前の『多賀城建設の時代(724年)』にまで遡る奥州の要衝の地でした。平安時代の『和名抄(わみょうしょう)』にも宮城の読み方について『美也木(みやき)』と書かれており、宮城という郡名の起源は塩竈神社や多賀城と深く関わっていると考えられています。宮城という漢字は『王宮の城塞』という意味にも読めるので、古代から中世初期に掛けて奥羽地方(東北地方)が独立的な勢力として栄えている時に、京都と並ぶ『遠の朝廷(とおのみかど)』として奥州が考えられたという仮説もあります。  
その仮説では、宮城という言葉は『みちのく府の王城』という意味になりますが、実際に『遠の朝廷』として権勢と富裕を誇った11世紀〜12世紀の奥州藤原氏であればともかく、奥州藤原氏よりも相当に古い時代に、奥州がそこまでの政治的にまとまりのある独立的勢力として自負していたかというと疑問ではあります。通説である塩竈神社と多賀城の由来に基づく仮説であれば、奥州最大の神社である塩竈神社の『宮』と古代の奥州の軍事拠点だった多賀城の『城』とがくっついて、『宮城』という郡名になったと考えることができます。  
戊辰戦争敗戦の悲劇によって、伊達政宗と仙台藩を強くイメージさせる『仙台』が県名になることはありませんでしたが、“杜の都”である仙台市は近代〜現代においても『東北地方最大の都市』であり続けており、明治政府の富国強兵政策でも『陸軍第二師団』と『第二帝国大学(東北帝国大学)』が設立されて、東京都心部に次ぐ日本の重要拠点という政治的な位置づけが為されていました。1982年に東北新幹線の開業があり、1989年には仙台市が政令指定都市に選ばれていますが、東日本大震災の被害・ショックを受けてもなお、宮城県仙台市を中心とする東北経済圏・文化圏の重要性は極めて高いものになっています。 
 
秋田県

 

●蚶満寺 / 秋田県にかほ市象潟町象潟島  
弘法大師 投杉伝説  
蚶満寺は廷暦年間(782〜806)に比叡山廷暦寺の慈覚大師円仁が開山したといわれ、はじめは天台宗に属していたが、真言宗さらに曹洞宗に改宗し現在に至っている。この寺には北条時頼が諸国行脚の際に立ち寄った伝説があり、また時頼の蚶満寺への寄付状と殺生禁断の墨付が残っていることから、松島の瑞厳寺と同様に、この時期に宗派が変わったのだろう。  
蚶満の名の起源については、古くはこのあたりを「蚶方」(きさかた)と書き、寺名も蚶方寺であったものをいつのころからか、蚶万寺と読み間違え、文字を改めて蚶満寺としたという。  
この辺りは、かつて八十八潟九十九島の景勝の地「象潟」の中心にあたり、松尾芭蕉もこの地を訪れ、「此の寺の方文に座して簾を巻けば風景一眼の中に尽きて…」と書いている。  
しかし、文化元年(1804)6月の出羽大地震でこの地は20mほども隆起し、多くの島々は陸地となり、現在は水田になっている。しかし、田植え時期に水田に水が張られると、かつての景勝の地が現出すると言う。  
この寺には、七不思議の伝説が残る。  
弘法投杉 / かつて、参道入り口左側の老松のてっぺんの一枝がだれが見ても杉に見えることから、弘法大師の霊験によるものといわれ、「弘法投杉」と呼ばれていた老松が太平洋戦争の終わり近くまであった。現在は残っていない。  
夜泣き椿 / 樹齢700年の椿で、寺に異変があるときは夜泣きするという。  
あがらずの沢 / 小さな太鼓橋があり、この辺は昔深い沢で、ここに人が落ちると泥が深い為あがることが出来ない人取沢であったといわれている。  
咲かずのツツジ / 北条時頼が植えたと伝えられる二株のツツジのうち一株は普段は花が咲かない。寺に異変がある年に限り咲くという。  
木登り地蔵 / 本堂裏手のモチの巨木の、上方の幹が分かれた間にちょこんと地蔵様がある。ある時地蔵様を木の根元に下ろしたが、翌朝にはまた元の所に登っていたと伝えられる。  
姿見の井戸 / 平安初期の三十六歌仙の一人の猿丸太夫が、象潟に来た時この井戸に自分の姿を映して自らの行く末を占ったとされている。夜半だれにも知られず井戸に参り自分の姿を映せば、将来の姿が現れるといわれている。  
血脈授与の木 / ある時、入棺の際に血脈(戒名を書いたお守り)を入れるのを忘れた葬列がこの前までくると、忘れたはずの血脈が、ケヤキの枝につり下がっていたといわれ、それ以来このケヤキの古木は血脈授与の霊木といわれるようになった。 
●法体の滝 / 秋田県由利本荘市 
弘法大師 伝説  
法体の空海が地元の村を訪れた際に不動明王が現れ、空海が滝に拝礼した事から来ているという。 宝暦8年(1758)『御領分覚書』  
 
秋田県  
戊辰戦争(1868年〜1869年)において奥羽越列藩同盟に参加せずに、明治新政府の側に味方した秋田県は藩の名前がそのまま県名になっていますが、東北6県のうちで藩名が県名となって残っているのは『秋田県』と『山形県』だけです。山形県は奥羽列藩同盟の側についていましたが、実際の戦争では官軍に痛撃を与えるだけの軍事力・組織力・政治力(財政力)を持っていなかったので、山形藩の戦争責任が厳しく問われる事が無かったとも言われます。  
1600年(慶長5年)に徳川家康が『関ヶ原の戦い』で勝利して征夷大将軍に任命されてから、慶長7〜8年に掛けて秋田県の諸大名は常陸に移封されてしまいます。この秋田郡下の大規模な移封によって、鎌倉時代以来の領主と住民の歴史的・情緒的なつながりが切断されましたが、これは徳川幕府(江戸幕府)の大名弱体化策の一環でもあり、『参勤交代・武家諸法度・治水や普請の命令』によって秋田郡の大名の財政は逼迫しました。1602年(慶長7年)には、秋田郡を領有していた安東氏の血流を汲む秋田実季(あきたさねすえ)は常陸国に移封されて、関ヶ原の戦いで西軍に内通して家康に協力した常陸の佐竹氏が秋田郡の領主になります。  
秋田郡に置かれた『久保田藩』の初代藩主は佐竹義宣(さたけよしのぶ)であり、義宣は秋田氏の居城・湊城(現在の秋田市土崎港)から神明山(秋田市千秋公園)の久保田城に拠点を移し、藩の組織や職掌を組み替える藩政改革に取り組みました。江戸時代の秋田・久保田藩は常陸54万石から移動してきた佐竹氏によって統治されることになり、秋田の石高は20万石(実質は開墾の進展で40万石とも)とされましたが、秋田には『院内鉱山・銅山・秋田杉』など米以外の財政基盤もあって比較的裕福だったとも言われます。  
幕末の秋田県には、久保田藩、岩崎藩、亀田藩、本荘藩、矢島藩、交代寄合旗本(仁賀保氏)の仁賀保陣屋、盛岡藩領の鹿角郡などがありましたが、戊辰戦争では久保田藩の勤王派がクーデターを起こして、奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に味方することになりました。久保田藩が奥羽越列藩同盟に反旗を翻したのを見て、周辺の岩崎藩、本荘藩、矢島藩なども明治新政府の側につくことになりますが、戊辰戦争では『勝者の側(官軍・新政府軍)』に立ったにも関わらず、秋田県への恩賞・利益供与はほとんどなくこの戦争によって秋田県の土地と財政は荒廃することになりました。戦争の被害だけではなく、秋田県内の勤王倒幕派と佐幕派との間の対立も長らく燻ぶることになり、秋田藩士(秋田藩権大参事)の初岡敬治(はつおかけいじ)には政府に対する内乱計画の疑いが掛けられたりもしました。これは外山光輔(とやまみつすけ)と愛宕通旭(おたぎみちてる)という二人の公家が計画していた政府転覆に、初岡敬治が首謀者として関与しているという嫌疑が掛けられた事件でした。  
明治の元勲である木戸孝允も秋田藩の佐竹氏を謀略家と見て警戒していたとも伝えられていますが、久保田藩の12代藩主の佐竹義堯(さたけよしたか,1825-1884)は内乱の疑いなどを回避して財政危機を解消するために、自ら藩を廃止して郡県制への移行を推進しました。戊辰戦争で官軍に協力したことの見返りというわけではないでしょうが、郡県制への移行に際して、秋田藩が抱えていた310万円もの債務を政府が肩代わりして上げることになりました。1869年(明治2年)の『版籍奉還』で12代藩主・佐竹義尭は久保田藩の知藩事に就任しますが、1871年(明治4年)の『廃藩置県』の年の1月13日に、佐竹義尭は藩名を『久保田藩』から『秋田藩』に改称しています。この秋田藩が『秋田県』へとつながっていくのです。『久保田』というのは佐竹氏が藩主となった約300年の歴史と深い関係がある地名でしたが、『秋田(飽田)』というのはそれよりもずっと古い古代の出羽の地名に起源を持つ名前です。  
1871年(明治4年)の7月14日に『秋田県』が誕生しますが、この廃藩置県の時には秋田県・亀田県・本荘県・矢島県・岩崎県・江刺県という6県が存在しており、11月2日にそれらの県が統合されて現在の『秋田県』が成立することになります。秋田というのは古代からある地名・群名であると同時に、この地方を支配した氏族の苗字でもありましたが、中世初期には『秋田城介(あきたじょうのすけ)』という官職名もありました。平安時代中期に『出羽城介(でわじょうのすけ)』という令外官があったのですが、これが鎌倉時代に入ると『秋田城介』という官職名として知られるようになっていったのです。  
鎌倉時代以降は、東北地方北部を安東氏が支配するようになりますが、この安東氏も時代が進むと自ら『秋田氏』を称するようになりました。明治4年12月26日には、初代の秋田県権令に侍従の島義勇(しまよしたけ,1822-1874)が就任していますが、この佐賀藩士の島義勇は蝦夷地の札幌開拓の功績を上げたことで知られています。しかし、島義勇は元司法卿の江藤新平と共に、士族反乱である『佐賀の乱(1874年)』を起こして捕縛され、明治7年4月13日に江藤新平と同じく斬罪梟首に科せられました。  
関ヶ原の戦いで豊臣家についた秋田氏は常陸に転封されますが、この秋田氏に代わって久保田藩を創設する佐竹氏が入ってきたのでした。『秋田』という地名は『飽田』という表記で、『日本書紀』の女帝の斉明天皇記(7世紀のエピソード)にも出てくるほどに古い地名であり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)による蝦夷征伐の記録で東方地方の『飽田・淳代(ぬしろ)』という地名が出てきます。『淳代(ぬしろ)』というのは現在の『能代(のしろ)』の古称だと考えられていますが、飽田にいて朝廷の天皇に忠誠と服属を誓った『恩荷(おが)』という蝦夷(エミシ)は『男鹿半島(おがはんとう)』の語源になっています。 
 
山形県

 

●羽州湯殿山・湯殿山大日坊 / 山形県鶴岡市  
弘法大師 開基  
神秘の霊山羽州湯殿山、そして女人の山と崇められた祈願寺湯殿山大日坊、共に空海弘法大師の開基と伝わり、その信仰は年と共に広く深く東北一円、関東へとおよんだ。  
今より四〇二年前の慶長八年、徳川家康は江戸幕府を開き、同十年には自らは駿府城に隠居し、秀忠を二代将軍とした。前年九年の竹千代(三代将軍)出生にともない、正式に乳人となるお福(春日局)は、やがて江戸城大奥の歴史に君臨する豪爽の人となる。お福の当坊への祈願来山は、竹千代の身体健固と将軍跡目決定の為に行なわれたものといわれるが、当時はこれを隠し、二代将軍の病気平癒が表面上の理由であったと伝えられている。
出羽三山  
山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集める。  
出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」「奥三山」「羽黒三山(天台宗系)」「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。宗教法人としての名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社(出羽三山神社)」である。三山のうち、羽黒山には3社の神を併せて祀る三神合祭殿と、宗教法人の社務所(鶴岡市羽黒町手向)とがある。  
かつては、鳥海山や月山の東方にある葉山が三山に含まれていた時代があった。湯殿山は、かつて「出羽三山総奥院」とされ、三山には数えられなかったのである。天正年間、これまで出羽三山の1つに数えられていた葉山が、別当寺であった慈恩寺との関係を絶ったことで葉山信仰が衰退し、これ以降湯殿山が出羽三山の1つとして数えられるようになったと言われている。なお、慈恩寺は東北地方における天台・真言両宗の中心となった寺院であり、湯殿山4ヶ寺のうち、本道寺(口ノ宮湯殿山神社)と大日寺(大日寺跡湯殿山神社)は慈恩寺宝蔵院の末寺であった。  
出羽三山で有名な即身仏は、真言宗の湯殿山派で行われたものであり、天台宗の羽黒山・月山派では行われていない。即身仏が残されている大日坊、注連寺は、いずれも湯殿山4ヶ寺である。元々、出羽三山は真言宗であったが、江戸時代の初期、羽黒山の天宥上人が徳川将軍家の庇護を受けるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山・月山は天台宗に改宗した。これに湯殿山は反発し、湯殿山派のみ真言宗となった。  
出羽三山の修験道には、かつて、当山派、本山派の修験も存在した。これに加えて月山の祖霊信仰が結びついた、土着の羽黒派修験の3修験の修行道場として共存していた。なお、当山派や本山派では、空海や役小角を出羽三山の開祖としていた。このうち空海開基説は、真言宗湯殿山派諸寺において唱えられている説である。これによると、空海が諸国漫遊の旅を行っている途上、ある川(梵字川。赤川の上流部の名称)を光り輝く葉が流れてきた。それを拾い上げるとその葉には、大日如来を表す5文字の真言が書かれていたため、この川の上流に聖地があると確信して川をさかのぼり、ついには湯殿山にたどり着いたという。湯殿山派諸寺では、湯殿山および空海によって開かれた大網の地を「高野山と対なる聖地」としている。なお、出羽三山の寺社の中には、東照大権現や飯縄権現が勧請される例もあった。  
現在、毎年8月末には出羽三山神社(神道)、羽黒山修験本宗(修験道)のそれぞれの山伏により「秋の峰」と呼ばれる1週間以上におよび山に籠る荒行が行われる。  
月山 / 月山神社(がっさんじんじゃ) / 月読命(月山権現)  
羽黒山 / 出羽神社(いではじんじゃ) / 伊氐波神・稲倉魂命(羽黒権現)  
湯殿山 / 湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ) / 大山祇神・大己貴命・少彦名命(湯殿山権現)
歴史  
出羽三山は、出羽三山神社の社伝では崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。  
月山神社は『延喜式神名帳』に記載があり、名神大社とされている。出羽神社も、『神名帳』に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)とされる。古来より修験道(羽黒派修験など)の道場として崇敬された。三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。鎌倉時代には僧兵の存在が確認され、幕府に地頭の干渉について訴えを起こし認めさせている(『吾妻鏡』)。室町時代以降、全岩東純、越叟了閩、界厳繁越らが羽黒山で出家した後、鎌倉や京都で学び長州大寧寺、駿河梅林院などで活躍した。江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが以下のように、仏教の寺院と一体のものとなった。  
羽黒山出羽神社 - 伊氐波神の本地仏を正観世音菩薩とし、一山を寂光寺と称して天台宗の寺院(輪王寺の末寺)であった。羽黒山全山は、江戸期には山の至る所に寺院や宿坊が存在した。羽黒山に羽黒山五重塔が、鳥居前に手向宿坊街が残っているのはその名残である。  
月山神社 - 本地仏を阿弥陀如来とし、岩根沢(現・西川町)に天台宗日月寺という別当寺が建てられた。  
湯殿山神社 - 本地仏を大日如来とし、別当寺として本道寺(現・口之宮湯殿山神社)、大日坊、注連寺、大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)という真言宗の4寺が建立され、うち本道寺が正別当とされた。  
江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称せられた。東北地方、関東地方の広い範囲からの尊敬を集め、多くの信徒が三山詣でを行った。出羽三山参詣は、「霞場(かすみば)」と呼ばれる講を結成して行われた。出羽三山の参道は、通称「七方八口」と言われた。八口とは、荒沢口(羽黒口)、七五三掛(しめかけ)口(注連寺口)、大網口、岩根沢口、肘折口、大井沢口、本道寺口、川代口であり、そのうち、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方となった。それぞれの口には「女人結界」が設けられ、出羽三山の山域は 1997年(平成9年)まで女人禁制であった。別当寺は、女人参詣所という役割もあった。なお、八口のうち川代口は江戸時代初期に廃され、肘折口には羽黒山・月山派の末坊、阿吽(あうん)院が置かれた。  
出羽三山の諸寺は山域の通行手形の発行も行い、参道は、村山地方と庄内地方とを結ぶ物流のルートであった。大網に庄内藩の「大網御番所」が、村山地方には大岫峠の手前に山形藩の「志津口留番所」がそれぞれ置かれた(江戸初期のみ。のち村山側も庄内藩知行地)。志津には、湯殿山別当であった本道寺と大日寺がそれぞれ「賄い小屋」を建て、参拝者の便を図った。  
明治の神仏分離で神社となった。1873年(明治6年)に国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において、伽藍・文物が徹底的に破却された。その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれた。旧社格は月山神社が官幣大社、出羽神社・湯殿山神社が国幣小社である。戦後、神社本庁の別表神社となった。
別当寺  
羽黒山 / 寂光寺 
廃寺となり、山内の18坊内15坊が廃棄となり取り壊される。残った正善院、荒沢寺、金剛樹院が寺院として羽黒山から独立し、現存する。  
月山 / 日月寺 
神仏分離により廃寺となり、現在の岩根沢三山神社となった。岩根沢の出羽三山神社は比較的早く廃寺となったため、廃仏毀釈を免れ、神社ではあるが庫裏の構造がそのまま残されており、修験道を知る貴重な史跡になっている。神社前に宿坊が立ち並んでおり、境内や周辺部には、日月寺に安置していたという地蔵菩薩を祀る地蔵尊や、南無阿弥陀仏石碑等が残されている。また、行者の精進料理である「六浄豆腐」は、岩根沢にしかない秘伝の豆腐である。  
湯殿山 / 本道寺、大日坊、注連寺、大日寺 
このうち、大日坊と注連寺は真言宗寺院として湯殿山から独立し、現存する。残る2寺は廃寺となり、神社となった。本道寺は西川町本道寺の口之宮湯殿山神社として、大日寺は西川町大井沢の大日寺跡湯殿山神社として現存する。本道寺の寺宝は、寺院として分離した大日坊・注連寺を初めとする諸寺院に引き取られたが、その後散逸した品が多い。このうち、空海坐像は栃木県内の古美術商の手に渡っていたが、1989年(平成元年)に口之宮湯殿山神社が買い取った。仁王像は、1905年(明治38年)に仙台駅前にある仙台ホテルが建て替えした際、同像を所有していた弥勒院が同ホテルに売却したが、2005年(平成17年)に仙台ホテルの所有者・運営者が替わって全面改装することになったため、同年11月15日に口之宮湯殿山神社に寄贈された。いずれも、現在は口之宮湯殿山神社の拝殿に安置されている。大日寺の伽藍は、明治期に火災により消失し、現在は山門のみが、当時の姿を偲ぶものとして残されている。 
●摩耶山 天上寺 / 山形県鶴岡市  
弘法大師 大同8年(806) 伝説  
大化2年(646) 摩耶山天上寺は、孝徳天皇の勅願により、インドの高僧法道仙人が開創されました。  
大同8年(806) 弘法大師として知られる高僧空海は、唐に留学された際、当時中国で女人守護のみ仏として盛んに崇拝されていた梁の武帝自作の香木造りの仏母摩耶夫人像を日本に請来され、当寺に奉安されました。摩耶夫人はお釈迦さまのご生母で、キリスト教のマリアに相当する仏教の聖母です。これ以来当山の名を「仏母摩耶山」(略して摩耶山)、寺の名を摩耶夫人尊の昇天された「忉利天(とうりてん)」にちなみ、「忉利天上寺」(略して天上寺)と呼ぶようになりました。 
●若宮寺 / 山形県西村山郡朝日町  
弘法大師 開基  
正平年間(1346〜70)五百川若狭が弘法大姉の霊感により、大日如来を西船渡に祀り、一寺を建立したと伝えられている。慶長5年(1600)に上杉勢が五百川に侵攻の際に全焼する。同17年(1612)に配下としていた山野辺城主山野辺右衛門義忠(最上義光4男)か゜現在地に移転し、第一世尊孝法印は若宮中興の名僧といわれ復興に活躍されました。  
若宮寺2  
若宮寺の創建は弘法大師が開いたとされ、中世は八ツ沼城主で周辺を支配した原甲斐守の菩提寺として庇護されました。境内にある鐘楼は20世盛括法印が再建したもので、棟梁として左沢菅野辰吉が天保14年(1843)から嘉永3年(1850)までの7年間という歳月をかけて作り上げました。特に江戸時代後期の細かな彫刻や建物の工法など見られ、朝日町における当時の建築様式を伝えるものとして昭和45年に朝日町指定有形文化財に指定されています。又、若宮寺の延命地蔵は山形百八地蔵尊霊場の第44番となっています。  
あつみ温泉 / 山形県鶴岡市 
弘法大師 伝説 
弘法大師による発見説や鶴が傷ついた脛を浸していたところを発見したなどの説もある。 
 
出羽三山神社 / 山形県鶴岡市羽黒町  
千四百年の歴史を刻んだ“日本人の心のふる里”  
出羽三山-羽黒山(標高414M)月山(標高1984M)湯殿山(標高1504M)-は「出羽国」を東西に分ける出羽丘陵の主要部を占める山岳である。  
太古の大昔は火山爆発を繰り返す“怒れる山”であった。時が経ち、再び静寂を取り戻した頃、山には草が生え、樹木が生い茂り小鳥や獣がもどってきた。その時、麓の里人たちはそこに深い不思議な“神秘”を感じた。「あの山こそ、我が父母や祖先の霊魂が宿るお山だ・・・」「我らの生命の糧を司る山の神、海の神が鎮まっているお山に違いない・・・」  
それから更に時を刻んだ推古天皇元年(593年)、遠く奈良の都からはるばる日本海の荒波を乗り越えて一人の皇子がおいでになられた。第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子、その人である。  
イツハの里・由良(ゆら)の八乙女浦(やおとめうら)に迎えられ、三本足の霊烏に導かれて、道なき径をかき分けたどりついたのが羽黒山の阿古谷(あこや)という、昼なお暗い秘所。蜂子皇子はそこで、来る日も来る日も難行苦行の御修行を積まれ、ついに羽黒の大神・イツハの里の国魂「伊氏波神(いではのかみ)」の御出現を拝し、さっそく羽黒山頂に「出羽(いでは)神社」を御鎮座奉られた。今を去ること、千四百年前の御事である。出羽三山神社では、この時を以て「御開山の年」とし、蜂子皇子を「御開祖」と定め、篤く敬仰している。  
やがて、御開祖・蜂子皇子の御修行の道は「羽黒派古修験道(はぐろはこしゅげんどう)」として結実し、千四百年後の今日まで“羽黒山伏”の形をとって、「秋の峰入り(みねいり)」(峰中ぶちゅう)に代表される厳しい修行道が連綿と続いている。  
以後、お山の内外を問わず、全国六十六州のうち東三十三ヶ国の民衆はもとより皇室、歴代の武将の篤き崇敬に与り、いつしか本邦屈指の「霊山・霊場」としてその地位を築き、四季を通じ登拝者の絶えることがない。そもそも、出羽三山は、祖霊の鎮まる“精霊のお山”、人々の生業を司る「山の神」「田の神」「海の神」の宿る“神々の峰”にして、五穀豊穣、大漁満足、人民息災、万民快楽(けらく)、等々を祈願する“聖地”であった。加えて「羽黒派古修験道」の“根本道場”として、「凝死体験(ぎしたけいん)・蘇り(よみがえり)」をはたす山でもある。  
すなわち、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命(いのち)をいただいて生まれ変わる、という類いまれな「三関三度(さんかんさんど)の霊山」として栄えてきたお山である。  
出羽三山の信仰世界を語る場合、まず挙げなければならないのは、今日なお「神仏習合」の色彩が色濃く遺されているということであろう。  
古来より出羽三山は、自然崇拝、山岳信仰、など“敬神崇祖”を重視するお山であったが、平安時代初期の「神仏習合」の強い影響を受け、以後、明治初年の「神仏分離」政策の実施の時まで、仏教を中心としたお山の経営がなされてきた。今日、出羽三山神社は「神道」を以て奉仕しているが、古くからの祭は道教や陰陽道そして密教を中心とする「修験道」を持って奉仕している。まさに、これこそ今日の出羽三山神社の大きな特色といってよい。  
歴史をふり返って見ると、鎌倉時代には羽黒山をして、「八宗兼学の山」と称し、全国各地から修行僧が競って入山し、各宗を実践修得していった。何故に「八宗兼学の山」であり、諸々の宗教・宗派がこれ程複雑に習合したのか。それこそ、出羽三山の大神、神々、そして御開祖・蜂子皇子の“御心(みこころ)”が成したものであろう。  
信ずる者来たれり、出羽三山の大神は何人にも等しく御神徳を授ける、偉大にして永久(とわ)に有りがたい神々である、との民衆の“確信”があったからに他ならない。人間の苦しみ・悩みは決して一様ではない。多様にして複雑怪奇、一つの“哲理・教義”のみでは決して救うことはできないということを、出羽三山の大神と御開祖・蜂子皇子は見抜いておられたに違いない。  
出羽三山の神々は寛大である。信仰心は、まず、“信ずること”に始まる。自分の邪念・邪心をむなしくして、「神」を信ずること、それが信仰世界に入る第一歩である。  
敬神崇祖(けいしんすいそ)。神を敬い、祖先を崇めること、この一語に尽きる。出羽三山の神々に仕える者は、千四百年間一貫してこの根本精神を以て大神に御奉仕致し、かつ登拝者・信者の方々に等しく接し、教化に勤めてきた。  
出羽三山神社となった明治以降もお山は繁栄御神威の発揚が図られている。今日では東三十三ヶ国からの信者にとどまらず、全国の津々浦々から、四季を通じて登拝者の絶えることがない。そして、最近では、日本はおろか外国からもお山においでになられる方も目立って多くなってきている。まさに“国際化”である。これも、太古から綿々と受け継がれてきた山麓の宿坊・羽黒山伏の全国に向けた弛まぬ“布教・教化活動”あるいは、出羽三山神社の御神威の“発揚”があったからに他ならない。  
出羽三山の信仰は、いつの時代にも、親から子へ、子から孫へと伝えられる「親子相伝のお山」として著名であるばかりでなく、成人儀礼として男子十五歳になると、「初山駈け」をしなければならないという風習が各地にあって、今も健在である。特に関東方面では古くから、出羽三山に登拝することを「奥参り」と称して重要な“人生儀礼”の一つとして位置づけ、登拝した者は一般の人とは違う存在(神となることを約束された者)として崇められた。また、西に位置するお伊勢様を意識するように東に存在する出羽三山を詣でることを「東の奥参り」とも称した。つまり「伊勢参宮」は「陽」、出羽三山を拝することは「陰」と見立て“対”を成すものと信じられ、一生に一度は必ずそれらを成し遂げねばならない、という習慣が根強くあった。  
今日、出羽三山のお山が、「日本の原郷」「日本人の心のふる里」といわれる所以は、類ない千四百年という歴史だけによるものではなく、“時空”を越えて一貫して顕わされてきた三山の大神の御神威・御神徳、合わせて御開祖・蜂子皇子の“衆生済度(しゅじょうさいと)”の御精神、皇室の御繁栄と民衆の息災を願う御心の「御仁愛」にあることを、私たちは今一度、識るべきであろう。  
出羽三山の開祖蜂子皇子上陸の地  
出羽三山の開祖である蜂子皇子が羽黒山へ辿り着くまでのルートについては諸説あるが、その一つに由良の八乙女伝説がある。  
崇峻5年(592)の冬、父である第32代崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された。このまま宮中に居ては皇子である蜂子の身も危ないと、聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた。ここに容姿端正な美童八人が海の物を持って洞窟を往来していた。皇子は不思議に思い上陸し、乙女に問おうとしたが皆逃れ隠れてしまった。そこに髭の翁があらわれ、皇子に「この地は伯禽島姫の宮殿であり、この国の大神の海幸の浜である。ここから東の方に大神の鎮座する山がある。早々に尋ねるがよい」とおっしゃられた。そこで皇子はその教えに従い東の方に向かって進まれたが、途中道を失ってしまった。その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導いた。これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた。  
このように、羽黒神は八乙女の浦の洞窟を母胎として誕生したとされ、しかもこの洞窟は羽黒山本社の宮殿と地下道で結ばれているという言い伝えがある。  
*伯禽島姫 ー 竜王の娘である玉依姫命(たまよりひめのみこと=竜宮にあっては伯禽島姫)で、江戸時代は羽黒神とされた。  
蜂子皇子  
御開山は千四百年余前の推古天皇元年(593年)、第三十二代崇峻天皇の御子蜂子皇子が、蘇我氏との政争に巻き込まれ、難を逃れるために回路をはるばると北上し、出羽国にお入りになりました。そして三本足の霊烏(れいう)の導くままに羽黒山に登り羽黒権現の御示現を拝し、山頂に祠を創建され、次いで月山、湯殿山を次々と開かれました。その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄や修験道の祖ともいわれる役ノ行者、真言宗の開祖空海、天台宗の開祖最澄などが来山し修行を積んだと伝えられています。  
出羽三山の沿革  
出羽三山とは、山形県(出羽国)にある月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称です。  
月山神社は、天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を、出羽神社は出羽国の国魂である伊氏波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたのみこと)の二神を、湯殿山神社は大山祗命(おほやまつみのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神を祀っています。月山と湯殿山は冬季の参拝が不可能であることから、羽黒山頂に三山の神々を合祭しています。また広大な山内には百八末社といわれる社があって、八百万(やおろず)の神々が祀られています。  
出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に、仏教・道教・儒教などが習合に成立した「修験道」のお山でした。それ故、明治維新までは仏教の、真言宗、天台宗など多くの宗派によって奉仕され、鎌倉時代には「八宗兼学の山」とも称されました。悠久の歴史の中で幾多の変還を重ねながら、多様にして限りなく深い信仰を形成し、「東三十三ヶ国総鎮護」として、人々の広く篤い信仰に支えられて現在に至っています。 
八海山 法音寺 / 山形県米沢市御廟  
法音寺は、山号を八海山といい、真言宗豊山派に所属し、本山は奈良県の長谷寺であります。当寺は、もと越後の国南魚沼郡藤原の里、八海山の麓(現在の新潟県六日町)に、聖武天皇の勅命により、天平9年(737)年に総建された寺です。  
当寺所蔵の八海山縁起によれば、藤原政照卿が、天皇の命を受けて諸国巡視中、越後国、飯盛山の麓で病死、その菩提を弔うため、行基菩薩が、勅命によってその地に法相宗の寺を建立したのが始まりとあります。寺号は政照卿の法名「都正院殿正二位政照法音大居士」に依ったものです。  
その後、越後国、真言宗国分寺兼務を命ぜられ、建久8(1197)年、源頼朝公の祈願寺となり、天正年間には、上杉家の帰依寺となって春日山に移されました。  
そして、慶長6(1601−400年前)年、会津を経て米沢に移られたのに随って、施主、景勝公によって、米沢城二の丸に伽藍が建立されました。景勝公御逝去の際は、法音寺住職能海僧正が葬儀の導師を務め、以後、歴代藩主の葬儀は、すべて法音寺住職が導師を務めることになり、上杉家歴代藩主の菩提寺となりました。米沢城下絵図(寛文の頃)より更に、大御堂に勤仕する真言21ケ寺の二の丸寺院の筆頭役、及び真言宗僧録司となり、藩内150ケ寺の統轄をするようになりました。  
その後、正保2(1645)年、嵯峨大覚寺より、院室名を永代兼帯することを許可され、院室菩提心院の号を贈られ、寺格は院主録所談林中本山となりました。  
やがて、明治に入り、廃藩置県、破城令、神仏分離令の措置により、明治3(1870)年、藩命により、歴代藩主の御廟所のある現在の地(法音寺住職の隠居寺として、江戸時代に延命寺が建てられ、住職は、朝夕、御廟所に出仕して御供養申し上げるのを主務としていた。それと合併して)に移転して復元されたのが現在の伽藍であります。  
又、明治9(1876)年、法音寺の移転、二の丸寺院の廃寺、米沢城が取り壊された本丸の地に上杉神社が造営されたのに伴い、謙信公の御霊廟も本丸より御廟所中央の現在地に移されました。  
なお、当寺の本尊は、大日如来尊で、更に歴代藩主の位牌を祀る上杉家御霊屋、善光寺如来尊並びに附属宝物、謙信公帰依の泥足毘沙門天、管谷不動尊等が奉安されており、その他上杉家に係る什物が多数保存されています。  
又、境内には、幸寿丸墓、矢尾板三印墓、景勝公への殉死者の墓、池田成章墓、上杉茂憲公句碑等があります。 
湯殿山の即身仏  
かつて湯殿山の仙人沢は湯殿山行者の修行所であった。行者は一世行人であり東北地方に降りかかるさまざまな飢饉、災難を自分が修行し犠牲になることで治め、真言宗の祖弘法大師 空海の「入定留身して後の世の人々を済度せん」との誓願のもとに湯殿山に山籠し寒暑一枚の白衣に身を包み、一千日(3年3か月)の五穀十穀の食料を断ち、木の実や水などで生活をする木食行をし成満して成仏の時期を悟り、自ら一切の食物を断ち弘法大師のように入定塚に入定して鐘を鳴らしながら読経して、鐘の音が鳴り止むと成仏したということで弟子達が発掘して即身仏として後世にその身を残す御尊体である。僧名には空海の海の字(海号)を頂戴している。  
庄内地方の即身仏様が安置されている寺院  
南岳寺(鶴岡市砂田、鉄竜海上人)、海向寺(酒田市、忠海上人、円明海上人)、注連寺(鶴岡市大網、鉄門海上人)、本明寺(鶴岡市東岩本、本明海上人)、大日坊(鶴岡市大網、真如海上人)  
行人塚(ぎょうにんづか)  
行人塚は供養塚に属するものと行者・修験者の自埋入定(にゆうじよう)を伝える塚とに大別でき,供養塚でありながらも後に入定伝説が付着したものもある。入定伝説をもつ塚は行人塚のほか,入定塚,山伏塚,法印塚,念仏塚などとも呼ばれ,関東地方を中心として東日本に多く分布している。入定した後の数日間は読経,念仏,鉦をたたく音が聞こえたとも伝えられる。入定の例としては,湯殿山の一世行人と称される修験の入定がよく知られており,現在即身仏としてまつられている本明海上人の場合は,一千日の十穀断ちなどの木食行をした後に61歳で入定したと伝えられている。 
山形県  
山形藩は戊辰戦争(1868年〜1869年)で『奥羽越列藩同盟』に参加していたにも関わらず、藩の名前がそのまま県名になっているという珍しい事例です。山形藩は小藩で軍事力も弱くて新政府軍に与えた損害も少なかったため、新政府軍による処分が甘かったとされますが、元々山形藩の藩主は『江戸幕府で失脚した幕閣』が左遷されるという特殊なポストでした。戊辰戦争の後には、米沢・上山・天童・鶴岡(庄内)・松山の各藩は減封されていますが、1869年6月の版籍奉還後に米沢新田藩は廃絶されて米沢藩に編入されました。明治新政府に逆らった鶴岡藩は大泉藩、松山藩は松嶺藩へとその名前が改称されていますが、山形藩だけがその名前を残して山形県となります。  
東北6県のうちで藩名が県名として残っているのは『秋田県』と『山形県』だけですが、山形藩は他の東北の藩とは違って江戸時代の藩主が次々と変わったという特殊事情を抱えていました。近世初期には外様大名の最上氏が山形藩藩主でしたが、その後は幕府の重職から失脚した幕閣が左遷される特殊な藩として位置づけられ、親藩・譜代大名の領主が12家にもわたって頻繁に交替したという歴史があります。『関ヶ原の戦い』で東軍に味方した最上義光(もがみよしみつ)が山形藩の初代藩主になりましたが、3代藩主・最上義俊(よしとし)の代に『最上騒動(1622年)』のお家騒動が起こって、近江国大森藩へと僅か1万石で転封されてしまいました。最上氏の後を鳥居忠政(鳥居元忠の子)が22万石で継ぎましたが鳥居家も嗣子がないためにすぐに改易されて、その後も松平家や堀田家など次々と藩主が変わっていきました。  
明和4年(1767年)に入封した秋元家が4代78年間にわたって最も長く藩主を勤めましたが、弘化2年(1845年)に上野国館林藩に転封となります。この転封された漆山4万6千石は館林藩領(漆山陣屋)として廃藩置県の時代まで残りますが、明治維新の時期の山形藩藩主は幕府の老中を代々勤めてきた『水野家』でした。水野家は水野忠邦(みずのただくに)による『天保の改革』が中途で失敗したために、その子の水野忠精(みずのただやす)が山形藩に左遷されることになった人事であり、戊辰戦争では水野家は米沢藩・仙台藩などと連合して奥羽越列藩同盟に加わって敗戦を経験します。2代藩主の水野忠弘(みずのただひろ)は13歳という若年であったために責任を免除され、分家出身の26歳の家老・水野元宣(みずのもとのぶ)が責任を負って刑死しました。明治3年(1870年)に水野家は近江国朝日山藩に5万石で転封される処分を受け、山形藩は明治政府直轄領となりました。  
山形県がある地域は古代から『出羽国』と呼ばれていた地域ですが、『出羽』の読みは元々は『でわ』ではなく『いでは』であり、『鳥獣の羽根が得られる国・羽根(羽毛)を産出する国』という意味だったのではないかと推測されます。古代からある出羽国は大きく『置賜郡(おきたま)・田川郡・村山郡・最上郡(もがみ)・出羽郡・飽海郡(あくみ)』の6つの郡に分類されてきましたが、それぞれの郡は現在の山形県では以下の地域に該当することになります。山形県の中心的な都市・街は、『旧村山郡』の領域と重なっていますが、地元の人たちの間では今でも『山形』という地名よりも『村山』という地名のほうが根づいているといいます。  
置賜郡……米沢市・南陽市・長井市  
田川郡・飽海郡……酒田市・鶴岡市一帯  
村山郡……山形市・天童市・寒河江市・村山氏一帯  
最上郡……新庄市一帯  
出羽郡……庄内平野、中世以降に田川郡に組み入れられる。  
山形県の中心的な地域は『村山』であるが、村山は明治時代後期までは『北村山郡・南村山郡・東村山郡・西村山郡』の4つに分かれていたといいます。明治3年(1870年)9月に酒田県が山形に移転することになり、初めて『山形県』が設置されますが、翌1871年7月には廃藩置県で山形県、米沢県、上山県、天童県、新庄県、大泉県、松嶺県の7つの県が設置されました。8月には将棋の駒の産地として有名な天童県が廃止されることが決まり、山形県に編入されています。  
廃藩置県の年である明治4年(1871年)11月には、第1次府県統合によって山形県(村山郡・最上郡)、置賜県(置賜郡)、酒田県(第2次府県統合での田川郡・飽海郡)の3県に統合されました。明治8年(1875年)8月には、酒田県(第2次)の県庁が鶴岡に移転することになり『鶴岡県』が誕生しますが、この鶴岡県は翌年にあっけなく消滅します。明治9年(1876年)8月、廃藩置県の第2次府県統合によって、現在の山形県に相当する山形県、置賜県、鶴岡県の3県が統合して現在の『山形県』が誕生することになりました。このかつての朝敵である山形県の3県統合に当たっては、明治の元勲で政府の権力者であった大久保利通も山形県の巡察を行ったという記録が残っています。  
山形県の初代県令に就任したのは薩摩藩士の三島通庸(みしまみちつね,1835-1888)ですが、三島はそれまで鶴岡県令を務めていて、旧鶴岡藩自体も薩摩藩の首領である西郷隆盛との深い政治的・交渉的なつながりがあったとされています。現在の山形県は日本有数の『果樹王国』として重要な果物の産地となっており、特に高級さくらんぼのサトウニシキや西洋なしのラ・フランスの生産地としても良く知られています。山形県全体では県外都市部への人口流出や県内都市部への集中により『人口減少・農村の過疎化』が続いているものの、県庁所在地である山形市の人口は人口統計を取り始めて以来、一貫して増加が続いており、山形市がある『村山地方』は東北地方の都市部として機能しています。 
 
福島県

 

●福満虚空藏尊 圓藏寺 / 福島県河沼郡柳津町 
弘法大師 伝説 霊木漂着木で虚空藏尊菩薩を刻む  
会津きっての名刹・福満虚空藏尊圓藏寺は千二百年にもおよぶ歴史を誇り、今でも多くの参詣者を集めています。ここは茨城県東海村の大満虚空藏尊、千葉県天津小湊町の能満虚空藏尊と共に日本三大虚空藏尊の一つに数えられています。  
縁起によれば、弘法大師が唐の高僧から霊木を授かり、帰国後にその木を三つに分かち海に投げいれたところ茨城、千葉、そしてここ柳津に流れついたといわれます。霊木漂着の知らせを聞いた大師は、さっそくその木で虚空藏尊菩薩を刻みあげました。それを受け会津の名僧・徳一大師が圓藏寺を開創したと伝えられています。  
また福満虚空藏尊を刻んだ木層がウグイになった話や、寺の難工事を手伝った赤牛の話など圓藏寺は数多くの伝説を秘めています。 
圓藏寺2 諸説 
円蔵寺は大同2年(807)徳一大師の創建という。霊岩山と号す。柳津虚空蔵尊。現在は臨済宗妙心寺派。  
柳津村・・・山中にあれども虚空蔵菩薩の霊場なれば、参詣の男女たへず・・・虚空蔵堂 村東岩上にあり8間1尺四面、高5丈余・・・西南面に舞台をかまへ・・・大同2年徳一の創立とも云ひ、また慈覚の創立とも云、或説には弘仁3年の建立と云、本尊を福満虚空蔵と云・・・安房国清澄と常陸国村松と、当山の霊像併せて一本三体の作とす・・・別當圓蔵寺・・・霊巌山と号す、大同2年本堂と共に此の寺を建立す、法相宗なりしが・・・廓内興徳寺第3世大圭に法嗣して臨済宗となる・・・  
柳津虚空蔵堂(柳津園蔵寺)現況 / 三重塔跡:現在その跡は明確ではない。圓蔵寺僧侶に確認すると、「遺構は何も残らない。跡地は菊光堂東北にある一段上の壇上であったといわれている。しかしこれはあくまで伝承であって確証はない。」との見解である。菊光堂の舞台は妻側つまり西南にあり、仁王門から菊光堂に至れば堂正面に向かって左に唐破風を付した向拝と堂入口がある。その向拝に向かって右手に水屋があり、その上が一段高い「中段平坦地」となり、さらにその上に圓蔵寺会館などの広い平坦地となる。僧侶の説明ではこの「中段平坦地」が三重塔跡と伝承されるという。  
圓蔵寺 「柳津虚空蔵菩薩絵巻縁起」では大同2年(807)徳一の開創という。(但し確証はないという)また本尊虚空蔵菩薩は弘法大師の作と伝えられる。空海は唐からの帰国の途中、仏法興隆の祈願をなし、三鈷と霊木を海中に投じる。三鈷は紀伊国に漂着し、後に高野山が建立される。霊木は那智の 浦に漂着し、大師はそれを三断し、再度海中に投ずる。後日、元木は安房国天津浦(安房国清澄寺)に漂着し、中木は常陸国村松(村松虚空蔵寺)に漂着し、末記は越後より只見川を遡り柳津に至る。大師はいずれも 当地を巡り、虚空蔵菩薩を刻み、それぞれを当地に安置するという。  
福満虚空蔵尊 [圓蔵寺、円蔵寺]  
1,200年前に、徳一大師によって開創された会津を代表する名刹。通称「虚空蔵様」と呼ばれ、親しまれている。日本三大虚空蔵尊 (清澄寺、日高寺) の一つ。歴代の藩主/蒲生家、加藤家、松平家はもちろん、織田信長、豊臣秀吉・秀次なども代参し、徳川家からは10万石の待遇で、5年に1度の将軍拝謁を住職に許していた。幕末には最も多い寺社領 200石の5寺 (建福寺、興徳寺、融通寺、延壽寺) の1つ。  
延歴23(804)年、弘法大師(空海)が唐の修行から帰国する際に、霊木を贈られた。帰国してから弘法大師は霊木を3つに分け、海に流した。現在の千葉県天津小湊町に流れ着いた霊木は能満虚空蔵尊が刻まれ、茨城県東海村では大満虚空蔵尊が刻まれた。柳津町に流れ着いた霊木は、知らせを受けた弘法大師の手によって、福満虚空蔵尊が刻まれた。それを収めるための圓蔵寺を、大同2(807)年、徳一大師が草創したと伝えられている。 
●勝常寺 / 福島県河沼郡湯川村勝常  
弘法大師 伝説  
弘仁年中(810-)あるいは大同2年(807)、徳一の創建(空海との説もある)と伝える。創建時には東大寺式に似た(中門及び回廊の外・南大門の内に東西塔を配置)伽藍配置を採ると云う。  
「創建時の主要建物の位置は伝承、焼土、道路等に依り大体は想像できる。講堂を起点として南に向って大体等間隔に金堂・中門・南大門の位置が一直線上に立ち並んでいたことが想定出来るし、三重の塔跡は中門のそと東側にある。講堂の近くにあったはずの経蔵・鐘楼・僧坊等の位置は明瞭でない。」 
勝常寺2  
大同2(807)年、徳一大師が五薬師の1つとして開創。「高寺」の「高寺三十六坊」の1つ「慈光坊」との説もある。七堂伽藍が建立され、子院100余の寺を持つ大寺院と伝えられる。瑠璃光山、真言宗豊山派。本尊は、木造薬師如来坐像 (国宝)。会津盆地の中央に位置し、「中央薬師」とも呼ばれる。応永5(1398)年、講堂 (現/薬師堂)が火災により焼失。室町時代初期(1398〜1466)に、蘆名氏の家臣/富田祐持が薬師堂を再建し、昭和39年に茅葺き屋根を銅板葺となった以外は、当時のまま現存している。本尊の木造薬師如来坐像、両脇侍像の月光菩薩立像と日光菩薩立像は国宝。いずれも平安時代初期の造像で、ケヤキ材の一木造り。 
勝常寺3 
慧日寺は、空海の伝記でもある『弘法大師行状集記』には空海の建立で空海が帰京するに及んで徳一に寺を譲ったとあるが、『今昔物語』などの諸史料から徳一が建てた寺であることはほぼ間違いがない。
●護法山 示現寺 / 福島県喜多方市  
弘法大師 開山  
示現寺の創建は平安時代の初期空海が開山したと伝えられています。当初は慈眼寺と称して真言宗の寺院でしたが荒廃し天授元年(1375)に玄翁(源翁:殺生石を鎮めた事でも有名)心昭和尚が示現寺として中興し、曹洞宗に改宗開山しました。その後は奥州一帯に教えを広め三十七ケ寺の末寺を有する名刹として確固たる地位を確立しています。寺宝も多く、正面の総門は寛保元年(1741)以降に建てられた一間一戸、切妻、瓦葺の四脚門で会津地方の近世寺院建築物の遺構として喜多方市指定有形文化財に指定されています。又、観音堂は天明8年(1788)に建てられた三間四方、宝形造り、金属板葺きの建物で龍、獅子、像などの細かな彫刻が施されています。観音堂も総門同様に喜多方市指定有形文化財に指定されています。境内には戊辰戦争の際敵味方区別なく介抱し社会福祉事業の先駆者となった瓜生岩子の坐像、墓碑や加波山事件殉難志士顕彰墓碑、源翁和尚の墓などがあります。 
●延命寺 / 三島町大字大石田  
弘法大師 大同年間 草創  
大同年間(806〜809)、徳一大師もしくは空海が草創とされる。長久山、真言宗豊山派。 本尊は虚空蔵菩薩。御坂山大高寺三十六坊の1つ「延命坊」とも。永禄7(1564)年、上州沼田の僧・見真が再建。享保21(1736)年、再建され、現在に至る。 
●高倉文殊堂 / 福島県南相馬市原町区高倉  
弘法大師 大同元年(806) 建立  
大同元年(806)に空海(弘法大師)によって建立されたと伝えられています。創建当時は文殊ヶ厳とよばれる山頂にありましたが、後に現在地に移築。御本尊は唐獅子に乗った文殊菩薩で、その神々しい姿はまさに「文殊の知恵」のたとえ通りです。相馬三文殊の一つです。 
●左下ひだりさがり観音 [左下観音堂] / 大沼郡会津本郷町  
弘法大師 建立  
左下ひだりさがりが原に弘法大師建立と伝える大きな観音堂があります。千年ほど前、越後国蒲原郡の人が無実の罪を着せられて逃げ、この観音堂に隠れ嘆願しました。みつけ出した役人は男の首をはね、血のしたたる首を萱に包み葛くずの蔓つるでしばって帰途につきましたが血潮がしたたるので三ヶ所で洗いました。それが上、中、下荒井です。帰って包みを開くと、なんと、出てきたのは観音様の石首でした。ここの秘仏の観音様は頚なし観音ともいいます。 
●吾妻嶽の荒駒 / 福島市北沢又 嶽駒神社  
弘法大師 伝説  
むかし吾妻嶽には荒駒が住み、里に出ては田畑を荒らした。大同四年、空海が出羽国湯殿山を詣でてのち、吾妻嶽の麓を通ったとき、里人の訴へを聞いて、荒駒を捕へようと吾妻嶽に向かった。折しも秋の台風の季節で、俄かに空を黒雲が覆ひ、暴風雨となった。松川も洪水であふれ、川岸で空海の一行が立ち往生してゐると、突然いななきとともに荒駒が現はれた。さっそく空海たちが駒を生け捕りにしようと構へると、どこからか白髪の神人か現はれて告げた。「我は当地の氏神なり。今汝の捕ふる荒駒を我に与へよ。我これを宥め、永く駆使せん」といって、藁に握り飯を包んで空海に与へ、更に歌を詠んだ。  
○陸奥の吾妻の嶽の荒駒も、飼へばぞなつく。なつけばぞ飼ふ  
かうして白髪の老人は駒を引いて立ち去って行った。  
空海は、握り飯の包みの藁で祠を建ててまつり、嶽駒大神と名づけ、祈祷を続けた。まもなく洪水は止み、いつのまにか地表の川の流れは消えて、地底を通って流れてゐた。今でもこの川は秋以降は社の付近の地底を通り、流れの末まで魚は住まない。よって「祭川」といふと社記にあり、この地を馬除とも魔除ともいふ。(嶽駒神社由緒)  
御神馬祠由来記  
昔、大同4年空海羽州湯殿山参詣の帰途、当地を過ぐる時、吾妻山の荒駒あり。秋毎に村里に出没して村民を悩まし、耕作に障害すること久し。折しも9月の事、晴天俄(にわか)にかき曇り、降雨激しく松川洪水す。  
空海、方便を用ひ荒駒を捕へ咒縛せんとする所に何万ともなく白髪の神人来たり我は当地の氏神なりと空海に告げ、荒駒を引き取り結飯を空海に与へ、一首を詠じ駒を引きて去り給ふ。乃空海結飯を包みし藁を以て祠を建て獄駒大神と勧請し奉り守護神となり給ふ。  
乃ち氏子等当時を偲び滋に御神馬祠を建立する所以なり  
昭和61丙寅年1月吉日 氏子一同 
●金塔山 恵隆寺 [通称 立木観音] / 福島県河沼郡会津坂下町  
弘法大師 大同三年(808) 開山伝説  
『会津温故拾要抄』等に伝える伝承によれば、欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩が高寺山(寺の北西、会津坂下町と喜多方市の境にある山)に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634年)に僧・恵隆が恵隆寺と名付けたという。また、『会津風土記』(寛文6年〈1666年〉成立)によれば、大同3年(808年)、空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したものという。いずれの伝承もにわかに史実とは認めがたいものであり、当寺の創建の正確な時期や経緯については不明と言わざるをえない。  
一時は周辺地域を支配するほどの一大伽藍や36坊もの堂宇を擁していたが、現在は仁王門、本堂、観音堂(立木観音堂)のみが残されている。  
本尊「十一面千手観音菩薩」  
寺の歴史によれば、大同三年(808年)に弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。本尊の身丈は8m50cmあり、一木彫で根の付いている仏像としては日本最大級の大きさです。また、本尊の左右に安置される脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は、身の丈2m弱の大きさで、すべて揃っており、密教様式を忠実に表現しており全国的にも大変珍しく貴重な仏像です。30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われています。  
どんな願いもコロリとかなうだきつき柱  
堂内のだきつき柱に抱きつき、観音様のお顔を見ながら心願すればどんな願いもコロリとかなうと言い伝えられています。  
『会津仏教発祥・財宝伝説』 / 高寺伝説  
日本に仏教が伝わったとされた(五三八年)以前今から一千年以上も昔中国から青岩(せいがん)と言うえらい偉いお坊さんが仏教を伝える地を求めて会津にやって来ました。青岩は会津坂下町のある山を理想の場所として寺を建て「(せきとうざん)石塔山恵隆寺(えりゅうじ)」と名づけましたが、山のふもとの村人たちは、高い所に寺が建ったのでたかてら高寺と言い、いつしか山の名前が高寺山となりました。  
その後、この寺は非常に繁栄し、高寺山には立派な七堂伽藍が建ちならび並び、山の所々に三十六坊舎を建てお坊さんの数は数千名にもなったそうです。  
その後、徳一の開いた恵日寺と勢力争いが始まり、ついに戦火を交えることとなりました。 結果高寺山は敗れ建物は全部焼かれ、ほとんどのお坊さんは戦死または逃げてしまい、今は何一つ寺の跡は残っていません。三十六坊の中には、その後寺としてどくりつ独立し新たに建てられたのが二十ほどあります。高寺の昔の面影はなくなってしまいましたが、村々に伝わるふしぎ不思議な歌があります。  
「立てば前 座ればうしろ山吹の黄金千杯 朱千杯 三つ葉うつぎのしたにある。」  
昔、朱はたいそう喜ばれ黄金同様貴重品でした。寺がほろ滅びる時ひそかに宝を埋め、そこに目じるしとして三ツ葉のうつぎを植えたらしい。  
その話は、まんざらウソではないらしく、明治の末のほんとの話で、村人が馬をに逃がしてしまい、馬は高寺山に逃げこんだらしく、方々かけめぐってやっとつかまえた時、馬の片足が血だらけでした。  
小川できれいに洗い傷口をさがしましたが見あたらず、血ではなく朱に間違いないと村人はおもいました。その話を聞きつけ、何人もの人々が黄金を求めて高寺山に入り三つ葉のうつぎを探しに来ましたが、まだ見つかっていないそうです。 (伝説ですがこの話しが本当であれば、奈良京都より早くこの会津の地に仏教が伝わったことになります。) 
●常福院 / 会津美里町新屋敷  
弘法大師 大同2年(807) 開山  
草創など詳細不詳だが、大同2年(807)に空海が開山とも。若宮山、真言宗豊山派。本尊は、大日如来、阿弥陀如来。若松蓮華寺の末寺。延元元(1336)年、常福院に改称し、現在地に移築。天正元(1573)年、村人の簗田孫市が再建。慶長2(1597)年、僧/実順が再興。明治24(1891)年、焼失したため2年後に再建。離れた場所にある会津十二薬師の第八番 (田子薬師堂) の別当寺。  
田子薬師堂(常福院薬師堂)  
建久8(1197)年、田子十兵衛道宥法印が創建したことから名付けられた。唐様建築の薬師堂は、国指定重要文化財。本尊の木造田子薬師如来座像は、座高174cmもある。田子薬師如来座像は江戸初期のものであるが、大同2(807)年、高僧・徳一と空海が、高寺で刻んだ二体の"李の薬師"が祀られたという。 
●大正寺 / 北塩原村大字北山  
弘法大師 弘仁年間(810〜823) 草創  
"漆大正寺"とも呼ばれる。弘仁年間(810〜823)、空海が北山薬師堂の守護として草創。打越山、天台宗。本尊は薬師如来立像。永禄年間(1558〜1569)、真言宗から浄土宗に改宗。慶長5(1600)年、僧/常海が天台宗に改宗し中興。慶長年間(1596〜1614)、蒲生氏郷公が再興。 
●吾妻山神社 / 猪苗代町大字若宮  
弘法大師 再興  
古来より人々に信仰されていた。白鳳14/朱鳥元(686)年、修験小角が拝殿を創建。後に、空海が再興したという。天安2(858)年、藤原義円が山道を整備し、吾妻山大権現と称す。主祭神は、倭健命やまとたけるのみこと。明治6(1873)年、廃仏毀釈により別当から吾妻山神社あずまやまじんじゃとなる。吾妻山神社跡は、吾妻山の山頂近くにある。 
●飯豊山神社 / 福島県喜多方市  
弘法大師 伝説  
(いいでさんじんじゃ) 福島県喜多方市の飯豊山地主峰である飯豊山南峰(標高2,102m)にある神社である。麓の一ノ木地区中在家に麓宮があり、飯豊山頂の奥宮とともに、両宮が一体のものとされる。旧社格は県社。  
飯豊山地は、「山容飯を豊かに盛るが如き」と表現され、これが飯豊の語源になっている。飯豊山神社は、605年(白雉3年)、中国から渡来した僧知道と修験道の開祖役小角が飯豊山頂に登り、この山を飯豊と名付け、さらに飯豊山地を5神の王子に見立てて、一王子、二王子、三王子、四王子、五王子を飯豊山地の祭神として祭ったのが起源とされる。なお、上記の説のほかに、高僧である徳一、空海、行基に起源を求める説や永保年間(1081年 - 1084年)、後に山伏になった南海、知影の2人の猟師によって開かれたとの説もある。  
信仰  
飯豊山信仰は土俗的な信仰であり、飯豊山地それ自体を神体として崇拝する。すなわち、飯豊山地は、越後、会津、出羽の3国の境に聳え立ち、3国を見下ろす。飯豊山から生まれた水は、阿賀野川、荒川、最上川へとなり、山野に恵みをもたらす。また、飯豊山地の周辺では、死者は天空へと上り、先祖は高所である飯豊山から見守っていると信じられており、それらが相まって、飯豊山信仰へとつながった。飯豊山への参詣は、近隣の住民にとって、大人になるための通過儀礼であり、男子が13〜15歳になると飯豊山に登るのがしきたりになっていた。  
社殿  
麓宮は、拝殿のみで本殿はない。飯豊山地そのものが神体であるとされたためである。代わりに鎌倉時代末の技法がみられる「銅造五大虚空蔵菩薩坐像」5躯が安置されており、福島県指定重要文化財に指定されている。五大虚空蔵菩薩は、神仏習合において、五社権現の本地仏(神道の神を、その本来の姿であるとされた仏教の仏として表したもの)とされたためである。  
飯豊山中には、5王子にちなみ、かつては5箇所の社が設置され、各社には虚空蔵菩薩坐像が毎年の参詣登山期間に背負って運ばれ、1体ずつ安置された。現在も御前坂から山頂に至る地名に一王子から五王子までの名前が残されている。王子は、参拝者にとって、祈願を行う霊場であり、遭難者を保護したり、物資を補給する場所でもあった。一王子は、今でも飯豊山頂付近にある貴重な水場であり、キャンプ場でもある。  
なお、飯豊山神社がある場所は四王子で、一等三角点(標高2,105.1m)が設置されている飯豊山頂が五王子である。飯豊山神社 は、山小屋である本山小屋に隣接し、社殿は積み石に囲まれており、その手前に鳥居が立てられている。夏は神職が詰めている。 
龍ヶ沢湧水 / 磐梯西山麓  
弘法大師 伝説  
磐梯西山麓湧水群の中で代表する湧水で、日本名水百選に選ばれている。古くから霊水として知られ、空海が請雨の法を修めた所とも伝えられている。 大干ばつにも涸れることがなく湧き出るので、江戸時代には雨乞いの儀式の場所でもあり、近年まで行われていた。 現在は、慧日寺資料館に引水されており、庭園内で飲める。 
 
恵日寺 / 福島県耶麻郡磐梯町  
徳一 大同2年(807) 建立  
(えにちじ)は、福島県耶麻郡磐梯町にある真言宗豊山派の寺院。かつては慧日寺(えにちじ)と称し、明治の廃仏毀釈で一旦廃寺になったが、1904年(明治37年)に復興され、現在の寺号となった。平安時代初期からの寺院の遺構は、慧日寺跡(えにちじあと)として国の史跡に指定されている。  
慧日寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれた。徳一はもともとは南都(奈良)の学僧であったが布教活動のため会津へ下り、勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実論争」とよばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送るなどをしていた。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与(金耀)が跡を継いだが、この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたといわれる。  
平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦がはじまると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職の援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退するのである。  
その後中世にはいると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。そしてその金堂も1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたがかつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。 
金剛山如法寺 鳥追観音 / 福島県耶麻郡西会津町  
徳一 大同2年(807) 建立  
仏都会津の祖・徳一大師が、千二百年前の平安初期大同2年(807)に、会津の西方浄土として御開創なされた屈指の観音霊場であります。  
御本尊鳥追聖観音は、僧行基御作と伝え、衆生を導いてこの世の寿命を全うさせ、あの世は西方浄土の阿弥陀仏の世界へ安楽往生させるという御誓願と、子授け・安産・子育て・厄除け・健康・長寿の広大無辺なご利益から、老若男女の厚い信仰を集めております。  
また、会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外別格の結願所として、二世(この世・あの世)の安楽を願い、≪命のふるさと・鳥追観音≫へ参る巡礼者が絶えません。  
さらに、当地西会津は、霊峰飯豊山の南麓に位置し、阿賀川が悠然と流れる山紫水明の里であり、如法寺境内には、樹齢千二百年の高野槙が孤高に聳え立ち、春は桜と若葉、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々の趣きもまた格別で、まさに≪仏都会津の西方浄土・鳥追観音如法寺≫は、身も心も癒される≪命のふるさと≫と申せます。 
海雲山慈眼院 高蔵寺 / 福島県いわき市高倉町鶴巻  
徳一 大同2年(807) 建立  
日本において仏教文化が美しく華やかに咲き競った奈良時代の後期から平安時代の前期にかけて偉大な宗教者であり卓越せる精進的指導者として今日まで広くその名が知られている方が二人おられます。一人は真言宗を開かれ、高野山に金剛峰寺を建立された弘法大師空海様であり、もう一人は天台宗を開かれ、比叡山に延暦寺を建立された伝教大師最澄様であります。このお二人の数々の行跡は歴史の教科書にも記述され現代まで伝承され、深く信仰を集めております。  
しかし、このお二人の陰にかくれ、あまり知られてはおりませんが、もう一人偉大な指導者がおりました。釈徳一(しゃくとくいち)という方であります。徳一様は奈良の興福寺で修行され、当時秀才中の秀才といわれた最澄様と宗教上の問題で互角に論争し、空海様からも大兄という尊称をもって手紙等を頂いているところから考えますと、相当な人物であったと思われます。  
徳一様は東国や東北地方の人々に仏教を説き広めたいと志を立て、まず筑波山(茨城県の代表的な山)を開き、更には船で小名浜(福島県いわき市)に上陸、いわき各地にお寺を建立されました。まさに大同2年(807)の事であります。  
大同2年という年は福島県にとりまして大変な年でありました。民謡でも有名なあの会津磐梯山をはじめ、吾妻小富士等の山々が噴火を繰り返し、高く舞い上がった火山灰が遠くいわき地方にも降り注ぎ、農作物が枯れ、加えて疫病蔓延してさながら地獄の様相であったと、この地方の古い歴史書である岩城地誌に記されております。  
徳一様はこの惨状を憐れみ人々に生きる勇気を与えんと海雲山の南麓(現在の三重之塔及び観音堂付近)を選び、ここを聖地と定め仮堂を作り、七体の観音様を刻み、当地方の要所に安置し、天災地変の熄滅と悪病の退散を祈願したところ、猛威を振るった災禍も治まり、人々安堵して以前の穏やかな平和な暮らしに戻ることができたといわれております。  
ちなみに七箇所に安置された観音様は高倉観音、法田観音、佛具観音、富沢観音、出蔵観音、関田観音、鮫川観音で菊多七観音と呼称されております。 
徳一 1  
(とくいつ、天平宝字4年−承和2年 / 760?-835?) 奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。父は藤原仲麻呂(恵美押勝)で、徳一はその十一男と伝えられている。徳溢、得一とも書く。生没年には諸説があるが、「南都高僧伝」には天平勝宝元年(749年)出生、天長元年7月21日(824年8月23日)没と記されている。  
初め東大寺で修円らから法相教学を学んだとされ、20歳頃に東国へ下った。弘仁6年(815年)空海から密教経典などの書写・布教を依頼されるが、これに対して真言密教への疑義を記した11か条の「真言宗未決文」を空海に送っている(ちなみに空海は徳一の「未決文」に対してあえて反応は示さなかった。真言宗側から「未決文」に対して反論がなされたのは実に500年後のことである)。  
また、天台教学に対しては「仏性抄」を皮切りに批判を加え、弘仁8年(817年)年頃から最澄との間で一大仏教論争である三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん。または「三乗一乗権実論争」)を展開した。  
この間、陸奥国会津慧日寺や同国会津勝常寺、常陸国筑波山中禅寺(大御堂)、西光院など陸奥南部〜常陸にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」と称されたという。現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓と伝えられる五輪塔が残されている。  
なお、日蓮を本仏とする宗派では、徳一は最澄と法華経を誹謗した失(とが)によって、舌が八つに裂けて死んだ、などといっている。
徳一 2  
千二百年前の平安時代初期、奈良の都から会津へ下られた法相宗の僧徳一〔生歿年は、高橋富雄氏の説、天応元年(781)生まれ、承和9年(842)11月9日歿。享年62歳〕は、会津に仏の都を実現し衆生済度をと志し、大同2年(807)、会津東方の磐梯山麓に根本寺として慧日寺を創建なされ、次いで越後への要所野沢に会津西方浄土として鳥追観音如法寺を開創なされました。更に会津盆地の中央に勝常寺を、奥会津只見への要所柳津に円蔵寺を、会津北方の要所熱塩に慈眼寺(現在は示現寺)を開創なされ、仏の都会津実現の為に、日夜、民衆の布教教化に邁進なされました。故に民衆は、僧徳一を東国の化主、菩薩、大師と尊称致し、尊信敬仰致したのであります。  
また、徳一は、平安新仏教のリーダー、天台宗最澄に対して、弘仁7年(816)『仏性抄』を著して、法相三乗説の立場から法華一乗説を批判した。最澄は、翌8年2月『照権実鏡』を著して反論、ここに三一権実論争が始まり、最澄が示寂する同13年までの5年間に亘り続けられた。真言宗空海に対しては、『真言宗未決文』を著して、11ヶ条の疑問を提出し真言宗を批判した。空海は、天長元年(824)『秘密曼茶羅教付法伝』に於いて、重要な第11鉄塔疑にのみ答えた。この様に、徳一は、平安新都の二人のリーダーに対して、奥州会津慧日寺に住しながら、真っ向から独り法戦を挑み一歩も引かず五分に亘りあい、よく旧南都仏教法相宗の正義を守った学僧としての面目も高いのであります。  
徳一が、東国の化主と法相宗の学僧との両面で、まさに八面六臂の活躍を致したことは、もう一人の東国のリーダーと申しても過言ではありません。最澄、空海が、後にその功により天皇から賜った、伝教大師、弘法大師の称号も、誠に尊いものであるが、徳一菩薩、徳一大師と、一般民衆より尊信敬仰されたことは、仏教僧の本分である衆生済度に身命を賭して、都より遥か東国の野に下り、民衆の為に御仏の慈悲を施し、仏教の法燈を点し続けた徳一の真面目であり、菩薩、大師の尊称も、徳一にこそ相応しい尊称であり、仏都会津の礎を築かれた偉大な祖師と申せます。故に、私たちは、今日でも徳一大師と尊称致し、尊敬致して止まぬのであります。  
その後、やがて磐梯山慧日寺は、会津四郡を支配し、最盛期には寺領十八万石、子院二千八百坊、僧侶三百人、僧兵数千人を数える程に隆盛を極め繁栄致しました。この慧日寺支配による荘園政治は、武家政治が確立する鎌倉時代以前まで続き、奥州一の会津仏教文化の黄金時代を創り出したのであります。そして、それは今日でも仏都会津と称されて、単に仏教文化遺産のみに止まらず、会津の文化、思想・政治・経済・芸能・風俗などのあらゆる面に広く深く浸透し、会津嶺の湧き水の如く尽きること無く、会津文化の源泉として影響を及ぼし続けているのであります。千二百年前、徳一大師が、会津の厳しくも美しい自然の大地に蒔いた仏教文化の種を、先人達は、枯らすことなく大切に育み枝葉を繁らせ、四季折々に美しい会津に仏教文化の花々を見事に咲かせて、実り豊かな仏都会津を築いて来たのであります。  
どうぞ、皆様も≪仏都会津の祖・徳一大師ゆかりの古寺巡礼≫をなさって、徳一大師の衆生済度への熱き御心を偲び、祖先の労苦に感謝致し、会津独特の仏教文化と豊かな自然の恵みを味わい、身も心も癒されて、明日への叡智を養って頂きます様に、心よりご祈念申し上げます。
徳一 3  
奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。最澄とのあいだでやりとりされた所謂三一権実諍論や、空海に対して密教についての疑義を提示したことなどで知られる。  
同時代史料  
徳一の伝記についての確実な史料は、最澄・空海の著作に残された記録である。  
徳一が最澄と論争をしていた弘仁8年(817年)頃から同12年(821年)頃に書かれた最澄の著作には、「陸奥の仏性抄」(『照権実鏡』)、「奥州会津県の溢和上」「奥州の義鏡」(『守護国界章』)、「奥州の北轅者」(『決権実論』)などの記述があり、この頃には陸奥国にいたことがわかる。また『守護国界章』に「麁食者(徳一のこと)、弱冠にして都を去り、久しく一隅に居す」という記述があり、この「都」は平城京であると考えられることから、遅くとも長岡京への遷都(783年)以前に20歳であったことが予想される。  
徳一が書いたと思われる万葉仮名が『守護国界章』に引用されているが、それには平安時代初期に中央で使われていた上代特殊仮名遣いがよく保存されていることから、中央で教育を受けたと思われる。また、『守護国界章』に「年を経て宝積(=『大宝積経』)を講ずる」とあるので、そのような活動をしていたのかもしれない。  
空海が弘仁6年(815年)頃、弟子康守を東国に遣わして徳一・広智に経典の書写を依頼した際、「陸州徳一菩薩」宛の書簡(高野雑筆集巻上所収)に「聞くならく、徳一菩薩は戒珠氷珠の如く、智海泓澄たり、斗藪し京を離れ、錫を振って東に往く…」と書いており、この頃には陸奥国にいたことがわかる。  
後世の史料  
東大寺・円超『華厳宗章疏并因明録』(914年)には「東大寺徳一」とあり、興福寺・永超『東域伝灯目録』(1094年)には「東大寺徳一」「東大寺得一」、興福寺・蔵俊『注進法相宗章疏』(1176年)にも「奥州徳一」「東大寺徳一」とあることから、平安時代には徳一は東大寺の出身とする見方があったようである。  
一方、同じく平安期の『今昔物語集』巻17・陸奥国女人、地蔵ノ助ケニ依リテ活ルヲ得ル語第二十九に「今ハ昔、陸奥国ニ恵日寺ト云フ寺有リ。此レハ興福寺ノ前ノ入唐ノ僧、得一菩薩ト云フ人ノ建タル寺也」とあり、興福寺出身で入唐したという説が見える。13世紀になると『私聚百因縁集』では「左大臣藤原ノ卿恵美ノ第四男」が空海に従って東国に修行したとあり、『南都高僧伝』(13世紀頃)では「恵美大臣息」、『尊卑分脈』(14世紀頃)では興福寺出身とされ、入唐経験のある藤原仲麻呂の六男・刷雄が同一視されている。徳一と藤原刷雄とを同一視するかどうかについては、研究者のあいだで意見が分かれている。  
師弟関係としては、『私聚百因縁集』が異説として興福寺・修因(修円か)の弟子とし、徳一が神野山で修行したと伝える。『元亨釈書』でも修円とする。また弟子としては、やはり『私聚百因縁集』が今与の名前をあげている。  
徳一の開創あるいは徳一が活動したことを伝える寺院が数多くある。陸奥国・会津の慧日寺や勝常寺、常陸国の筑波山・中禅寺(大御堂)、西光院など陸奥南部〜常陸にかけて多くの寺院を建立したとされる。現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓と伝えられる五輪塔が残されている。勝常寺には平安初期の木造薬師如来・日光菩薩・月光菩薩像が伝えられており、徳一との関係も指摘されている。  
その他、田村晃祐編『徳一論叢』には後世の様々な史料、縁起が収集されている。 
徳一 4 / 徳一の東国下向と陸奥の宗教文化  
奥州・出羽の東北地方には、『軍神・毘沙門天の化身』ともされる征夷大将軍の田村麻呂伝説が数多く残っていますが、奈良(南都仏教)の興福寺の僧侶であった徳一(とくいつ,780頃-842頃)に関する伝承・寺社縁起も多く伝わっています。徳一は徳逸・徳溢とも表記しますが、『南都高僧伝』にその名前が載っているように元々は陸奥(奥州)地方の人間ではなく、奈良の興福寺(こうふくじ)で修円(しゅうえん)に付いて学んだ法相宗の僧侶でした。修円の師は、唐招提寺の鑑真(がんじん)から直接授戒を受けた賢憬(けんけい)であり、藤原氏の氏寺である興福寺は戒律(具足戒)を重要視する法相宗の総本山です。そのため、興福寺の修円に学んだ徳一は、初め仏教界の中ではエリートに属する僧侶だったと考えられます。  
血縁的には徳一(徳逸)は、称徳天皇(孝謙天皇)に厚遇された後に反乱を起こして失脚した藤原仲麻呂(恵美押勝,706-764)の子であるとされていますが、年齢的に若干の矛盾があり正確な出自には謎が残っています。奈良時代の平城京では、法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・華厳宗・律宗の南都六宗(奈良仏教)が隆盛していましたが、これらの仏教は皇室・貴族鎮護の学問仏教としての性格を濃厚に持っていました。法相宗の開祖は道昭(どうしょう)、中心寺院は興福寺・薬師寺、三論宗の開祖は恵灌(えかん)、寺院は東大寺南院、倶舎宗の開祖は道昭、寺院は東大寺・興福寺、成実宗の開祖は道蔵(どうぞう)、寺院は元興寺・大安寺、華厳宗の開祖は良弁(ろうべん)、寺院は東大寺、律宗の開祖は鑑真、寺院は唐招提寺でした。藤原鎌足や藤原不比等との所縁が深い興福寺は藤原氏の氏寺であり、南都七大寺(東大寺・法隆寺・薬師寺・大安寺・元興寺・西大寺・興福寺)の一つとして数えられます。  
興福寺の学僧であった徳一は20歳前後で平城京から東国へと下向しますが、なぜ文化・宗教の中心地である平城京を離れて、奥州会津の恵日寺(えにちでら)や常陸筑波山の中善寺に行ったのかの理由は定かではありません。一説には、平城京の仏教界の中の勢力争いに巻き込まれて東国に流刑されたという説もありますが、自分自身の決断で中央政府の喧騒を離れて奥州(福島県)や常陸(茨城県)に赴いた可能性も否定できません。徳一が活動の拠点にしたのは、奥州会津で磐梯山(ばんだいさん)を背景に望む恵日寺と常陸筑波山の中善寺でしたが、晩年には『筑波山徳一』と呼ばれていたように筑波山の中善寺の方に本拠を置いていたようです。徳一大師の事績と徳行を重視する『恵日寺縁起』では、筑波山で死去した徳一の首を弟子の金耀が掻き切って恵日寺に持ち帰ったという伝説が残されています。  
現在では、奥州会津の恵日寺と筑波山の中善寺のどちらをより重要な拠点としたのかは推測するしかありませんが、徳一が何処かの時点で会津から筑波山へと拠点を移したのは確かなようです。徳一は天台宗の開祖である最澄(767-822)と激しい論争を交わしたことでも知られていますが、『仏性抄(ぶっしょうしょう)』という書物を書いて天台教学を苛烈に非難しました。最澄と徳一の論争を『三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん)』といいますが、これは、仏教の解脱・成仏の条件として『生まれながらの貴族的身分』が必要か否かといった問題を巡る論争で、修行によって万人が解脱(悔悟)できるとする最澄に徳一は強く反対しました。真言宗(真言密教)の開祖・空海(774-835)から『徳一菩薩』と呼ばれて敬われていた徳一(徳逸)ですが、徳一は空海の密教的な呪法・儀式にも批判的であり、奈良仏教(南都北嶺)の貴族主義的な伝統を重視していました。  
奈良時代の南都六宗に代わって平安時代には最澄の天台宗と空海の真言宗が隆盛します。奈良仏教と平安仏教の違いは、平安仏教が万人の救済を説く大乗仏教の要素を取り入れたことにあり、教義研究よりも加持祈祷・呪術秘儀(密教)を重視し始めたところにあります。徳一はどちらかといえば平城京の貴族アイデンティティが強くエリート学僧としての側面を持っていましたが、東北地方の寺社の縁起にその名前が多く見られるように、奥羽の仏教文化の発展に大きな貢献をしました。東北地方には『田村麻呂伝説』と『徳一の縁起』が数多く残されていますが、それは、征討した奥羽地方に多くの内地人が早くから移住したことの証左であり、段階的に蝦夷(俘囚)の人たちが平安京の文化・宗教に順応していったことを示しています。
福島県  
福島県という名称もまた青森県・岩手県(南部氏)・宮城県(伊達氏)と同じように『戊辰戦争の敗戦による影響』を強く受けたものであり、福島県の前身である幕末の『会津藩(あいづはん)』は、奥羽越列藩同盟で新政府軍と最も激しい戦闘を展開した大藩でした。会津藩の歴史を遡ると、豊臣秀吉の天正18年(1590年)の奥州仕置で没収された伊達政宗の会津領は、近江国蒲生郡出身の蒲生氏郷(がもううじさと, 1556-1595)に与えられたのですが、元々会津は伊達氏に滅ぼされた蘆名氏(あしなし)の旧領でした。1591年の『葛西大崎一揆』を煽動した嫌疑を掛けられた伊達政宗は、豊臣秀吉により岩出山に移封されて、蒲生氏郷が現在の福島県中通り以西に当たる会津領42万石を領有することになります。  
会津藩42万石は、秀吉が奥州の竜・伊達政宗を押さえ込むために子飼いの蒲生氏郷を配置したものであり、1592年にはその後の検地・加増によって石高が増えて会津は『92万石』という巨大な藩へと成長しました。奥羽地方(東北地方)において会津藩は仙台藩と並ぶ雄藩となりますが、氏郷の子の蒲生秀行(がもうひでゆき)の代になると、蒲生氏は会津藩から宇都宮藩へと移封され、それに代わって越後藩の上杉景勝(うえすぎかげかつ)が会津120万石に転封されます。政略的に故郷・本領の越後から切り離された上杉景勝は、福島県の中通り以西の地域と山形県の置賜地方を支配することになりますが、『関ヶ原の戦い』の後に積極的に東軍(徳川家康)を支援しなかった上杉景勝は減封処分を受けて、信夫郡・伊達郡を除く福島県(会津藩)の所領を失います。かつての豊臣政権で『五大老』として大きな石高・影響力を持っていた越後の虎の上杉氏も、この処分により40万石の大名になってしまいます。  
上杉景勝が処分された後の会津藩には、再び蒲生秀行が藩主に任命されることになり、会津藩60万石という東北の大藩が生まれます。しかし、2代目・蒲生忠郷(がもうたださと)が急逝したため、蒲生氏は伊予・松山藩に移封されることになり、1627年に加藤嘉明(かとうよしあき)が40万石で会津藩に入封しました。加藤家の会津支配も2代目の加藤明成(かとうあきなり)が『会津騒動』を起こしたことで領地を返上することになり、1643年に松平氏の保科正之(ほしなまさゆき)が会津藩23万石で入封しました。この松平氏が会津藩の藩主となり、この藩の体制は幕末の松平容保(まつだいらかたもり)にまで続いていきます。保科正之は江戸幕府の第3代将軍徳川家光の異母弟(=2代徳川秀忠の四男)に当たる人物であり、会津松平家は徳川家(家康の元々の苗字は松平氏です)の血縁の家系に当たります。  
上杉氏の米沢藩に残されていた信夫郡・伊達郡も1664年には改易されて、松平氏・会津藩の東北地方における影響力は極めて大きくなりました。会津藩9代藩主で尊皇攘夷派を捕縛する京都守護職でもあった松平容保(1836-1893)の幕末に、戊辰戦争の『会津戦争(1868年)』が勃発して、会津藩の藩士や少年・少女に大勢の犠牲者が出ましたが、飯盛山で自刃した白虎隊(少年兵部隊)の悲劇のエピソードは良く知られています。10代の男の子を中心にして結成された『白虎隊(びゃっこたい)』だけではなく、若い女の子を中心にして組織された『娘子隊(じょうしたい)』にも多くの死傷者・自害者が出たと伝えられています。  
会津藩は明治元年9月22日に新政府軍に降伏し、奥羽列藩同盟で最後まで新政府軍に抵抗した庄内藩もその2日後に降伏を余儀なくされますが、この戊辰戦争の敗戦によって会津藩は官軍に弓を引いた『朝敵・賊群』の汚名を受けることになりました。この敗戦によって、この現在の福島県に当たる地域が『会津県』となる可能性は断たれましたが、『会津』という名前の歴史は相当に古く、『古事記』の記述では第10代の崇神天皇(すうじんてんのう,紀元前148年-紀元前29年)の時代にまで遡ることができるとされています。崇神天皇は歴史学的に3〜4世紀に実在した可能性があると推測されている天皇ですが、崇神天皇を初代天皇とする仮説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と解釈するような仮説があります。  
古事記には『会津』の地名の語源の『相津(あいづ)』について、以下のような記述があるといいます。『大比古の命は、先の命のまにまに、高志の国に罷り行きき。しかして、東の方より遣はさえし建沼河別(たけぬまかわ)とその父大比古と共に、相津に行き遇ひき。かれ、そこを相津といふ』。『会津(相津)』の地名としての歴史は2千年に近いものであり、伝統主義の立場からは『福島』よりも圧倒的に由緒正しい名前と見ることもできますが、福島という地名は16世紀末に蒲生氏郷の客将であった木村吉清(きむらよしきよ)によってつけられたものです。  
木村吉清は蒲生氏郷から文禄元年(1592年)に、信夫郡(現在の福島市)5万石を与えられて大森城に入りましたが、その後に吉清は居城を大森城から杉妻城(杉目城,すぎのめじょう)へと移して、杉妻の地名を『福島』へと改称しました。これが『福島』という地名の起源になっています。慶長3年(1598年)に蒲生氏が宇都宮へ移封されると、木村吉清は九州・豊後国で1万5千石を与えられることになりましたが同年に死去しました。  
戊辰戦争において最も頑強に明治新政府に抵抗したことで、歴史的な深みのある『会津』が県名になることはありませんでしたが、『福島』という名前は江戸時代まではかなり存在感の弱い5万石程度の小藩の名前だったことは印象的です。福島県は現在でも高齢者の間では、西部の『会津』、東北新幹線周辺の『中通り』、太平洋沿岸の『浜通り』で、文化的・歴史的な気質や自己アイデンティティの違いがあると言われたりもしますが、幕末の東北地方では松平家の会津藩は伊達家の仙台藩と並び立つほどの影響力・石高を持つ藩としての威容を示していました。 
 
■関東
関東厄除三大師  
弘法大師を祀る寺院のうち、次の3つの寺院を指す。  
西新井大師  (東京都足立区 総持寺:真言宗豊山派)  
川崎大師   (神奈川県川崎市 平間寺:真言宗智山派)  
観福寺大師堂 (千葉県香取市 観福寺:真言宗豊山派)  
関東三大厄除け大師  
佐野厄除け大師 / 青柳大師 / 川越大師  
厄払いを行う時期として最もポピュラーな時期の元日から節分の間の頃にテレビなどでもよく取り上げられるのが関東三大厄除け大師というものがあります。ただこの関東三大厄除け大師については実は公式なものとされているものではないのですが、それぞれ神社はやはり人気があるのも特徴ですので、ここではそれらの3つの厄除け大師について紹介したいと思います。  
関東厄除け三大師について / 関東厄除け三大師というのは公式に決められているものではないものの、基本的には弘法大師を祀る寺院の事を指すと言われています。「大師」とは基本的には「弘法大師空海」のこと指しますが関東の三大師となると元三大師(良源)のことを指すと言われておりその違いからちぐはぐになりがちと思われます。関東厄除け三大師は佐野厄除け大師、青柳大師、川越大師の3つの大師が弘法大師空海が祭られている寺院(真言宗)とされています。 
 
栃木県

 

●弘法大師 日光へ布教の旅  
弘法大師 弘仁11年(820年) 開山  
816年、東国や九州へ弟子を派遣し密教を全国に伝える一方、この年から活動の本拠地となる高野山の開山に着手。山上に草庵を造り始める。45歳から各種教義書を立て続けに執筆し、真言教学の体系を築き上げていく。また、詩歌論や日本最古の漢字辞書「篆隷(てんれい)万象名義」なども表す。彼はまた、この時期に東海地方を経て日光まで布教の為に足を運んでいる。 
『日光山滝尾建立草創日記』に記される空海の事績 
弘仁11年(820)7月26日来山。龍生滝(りゅうじょうのたき)に7日間念誦、菩提寺建立。中禅寺登山、湖岸に四条木叉(もくしゃ)寺・転法輪寺・法華密厳寺・華厳寺・般若寺を建立。羅刹窟(らせつくう)(風穴)を結界祈念して二荒(にこう)を日光(にっこう)に改める。  
9月1日、野口生岡(いくおか)に大日如来を祀る。次いで寂光寺を開く。  
9月7日、四本竜寺に帰る。その後、仏岩の北方に修行、女体霊神を勧請し、滝尾を開く。道珍に密教の法を伝授。  
12月4日、上洛して滝尾草創を奏上したと記されている。  
清滝神社 / 820年(弘仁11)、弘法大師空海が開いたとされる。この地の岩壁に一条の滝がかかり、その景観が中国大鷲山の清流に似ていることから、清滝権現が勧請されたという。その後密宗修験道場として栄えた。 
●岩崎観世音 [鶴の子観世音] / 栃木県日光市岩崎  
弘法大師 弘仁11年(820年) 開山  
以前「岩崎山自性院正観寺」というお寺がありましたが、明治5年に廃寺となった。  
弘仁11年(820年)に弘法大師がひらいたとされる岩崎観世音は、本堂は馬頭観音でかつては多くの馬方が、遠方からも訪れていた。ここにはすばらしい彫刻や狩野派全盛のころ、修行僧達が描かれたと思われる習作の天井画がある。本堂より山道を登ると岩洞窟の中に、高さ1m程の鶴の子観音があり、ご利益のある子授け観音として、広く知られている。大祭当日(毎年3月の最終日曜日)には、卵を授かり、その卵をご夫婦で食べて、子供が授かれば翌年お礼に倍の卵をお返しに来るという「倍返し」信仰のめずらしいお祭りがある。  
弘法大師御作 鶴子観音大士略縁記  
抑、下野国野州日光のふもと、岩崎鶴子観音は人皇五十二代嵯峨天皇の御字、弘仁十一年(八二〇)弘法大師が当州二荒山僧正勝道の礼讃碑の銘を請うにしたがい、直済乃び大安寺の僧韓海を伴い、花洛を発して東州に志し、道すがら霊場を歴覧し、仏地を開き、同年七月当国に下着す。 
二荒山のふもとに近寄り給う時、道の傍に山あり、岩崎の西に向いて峨々たり、霊気山上に立昇りければ、大師奇異の思いなし、谷を越え、川を渉り、山中に到り給うに、巌窟より紫雲たなびき、光明の中に観世音菩薩夕日に向って來迎ましける故、此所に草庵を結び、一寸八分の尊像を御作あって巌窟に安じ奉り、三密修行をなし給うとき、酒水を求め給いとも、山中に曽て水なし、岩上を御覧じ御加持ありければ、忽ち清水湧き出づる、これを以って酒水となし給う猶、今に霊跡あり。 
その後、幾星箱を経て天正年中(一五七三〜一五九二)の頃とかや、此の山中のふもとに池あり即ち、蓮花池と名付けり、池の渚に洲あり、中に大きなる松立てり、梢の枝のしげみに巣ありて、白鶴常に住み、年々子を生めり、ある時、里人心なくも、彼の鶴のたまごを奪いて食わんと、湯の中に入れる時、老翁忽然と現れ、告げて曰く、白鶴は霊鳥なり、汝、このたまごを食わば、観世音菩薩の御罰を蒙り、癩病を病むのみならず、永く子孫に傳う、すみやかに元の巣に返せよと呼ばわって、いづこともなく消えうせぬ。 
里人大きに驚き、うでたるたまごを元の巣に返し、沐浴斉戒断食して観世音菩薩の霊前に一、七日赦罪の祈願をなし、一心余念なく祈りたるに、不可思議なるかな満願の曉、観世音菩薩微妙なる御声にて告げて曰く、汝、罪深しといえども赦罪の心深きによってとがを許す。巣の中を見よと、宣う故、松の梢を見上ぐれば、巣の中より光明輝き金色の光を放って観世音菩薩は白鶴に乗らせ給い巌窟目指して飛び去り給う。然しより以来鶴の子観世音と崇め奉るはこの因縁による所なり自性院と名付け、正観寺と号す。後に授け観世音とも称せられ奉納たまごを拝領し、祈願成就のあかつき御礼詣にたまごを奉納する信仰を生む。 
又同年中のことかや、この観世音菩薩御前の道を壬生の某と云う武士通りかゝりし時、乗りたる馬両脚躓き、骨くじき、痛く病みたれば、即ち観世音菩薩に祈念をかけるに、御利益空しからず、立所に痛みを去り荏苒と元の如く全快なしたれば霊験灼然なる敬、諸人挙って、牛馬の病をを祈るとかや。 
然るに。去んぬる寛政六年甲寅(一七九四)正月四日節分の夜半堂字より発火して堂舎委く焼亡す。この時火炎の中より車輪の如き光りもの、白晝の如く照らして飛び去りぬ仍りて見るに、不思議なる哉、一寸八分の御尊像、遥か山上の巌の上に暗然として立にせ給う。 
諸人、稀有の思いをなし、三拝九拝して法楽を捧げ、再び巌窟に納め奉りける。誠に霊験灼かにして有難き尊像なり、実に御利益空しからんや。 
然らば、この霊場に詣でて尊像を拝する輩は、諸願成就、家内繁栄、子孫長久、牛馬安全、先租代々霊仏果、福聚海無量、疑い無きものなり、依って略縁記をはんぬ。
●那須波切不動尊 金乗院 / 栃木県那須塩原市沼野田和  
弘法大師 大同元年(806) 開山  
今から約1200年前、弘法大師空海によって開かれた霊場です。関東三霊場 [北関東三十六不動尊霊場、関東薬師九十一霊場、関東地蔵百八札所] として、また滝のある寺として親しまれており、広大な境内には本堂をはじめ、波切不動尊、金色願叶龍神を祀る不動の滝、霊水薬師如来、慈母観音、願通大師[くぐり大師]、六体のわらべ地蔵、総けやき造りの奥の院地蔵堂、 大日堂、鐘楼堂などがあります。 
金乗院2 
今から1200年前(大同元年・806年開山)弘法大師によって開かれた関東三霊場・滝のある寺として知られる高野山真言宗の寺院。広大な境内には、本堂をはじめ、一石彫りでは日本最大(高さ6m、重さ11トンの波切不動尊、黄金の龍神の滝、霊水薬師如来、高さ10mの慈母観音、願通大師(くぐり大師)、6体のわらべ地蔵尊、大日堂、鐘楼堂、総けやき造りの「奥の院(地蔵堂)」などがある。毎年6月28日の「火まつり」では湯加持、松明行、火渡り行などの荒行が行われる。
●医王山 安国寺 / 下野市薬師寺  
弘法大師 弘仁11年(820) 滞留  
昔名は「薬師寺」歴応2年(1339)足利尊氏が改称した  
弘仁11年(820) 弘法大師 弟子二名と滞留、日光山へ向かった 
●満願寺 / 栃木市出流町  
弘法大師 弘仁11年(820) 参詣  
真言宗智山派の寺院。山号は出流山(いずるさん)。坂東三十三観音霊場の第17番札所。寺伝によれば天平神護元年(765)勝道上人が創建したという。弘仁11年(820)、空海が勝道上人の徳を慕って参詣し、その折りに当山の銘木で千手観世音菩薩を造立したとされる。 
満願寺2 
天平神護元年(765)勝道上人が創建した。子に恵まれないのを嘆いた若田氏高藤介の妻が岩窟(観音霊窟)の十一面観音に祈願し、授かったのが勝道上人で、上人はこの観音に帰依して霊窟で3年にわたり修行をし、後に男体山に登拝して日光山を開いた。このため、日光の修験者はまず満願寺で修行を行なったという。弘仁11年(820)弘法大師が勝道上人の遺徳を偲んで参籠した。その際に刻んだ千手観音像が現在の本尊という。応安元年(1368)足利義満寄進の観音堂が焼失、明和元年(1764)に再建。  
○ ふるさとをはるばるここにたちいづる わがゆくすえはいづくなるらん
満願寺3 
弘法大師御作の千手観音菩薩をご本尊とする坂東三十三観音第十七番札所です。今から千二百余年前に修験の行者、役の小角によって「観音の霊窟」(鍾乳洞)が見つけられ、天平神護元年(765年)日光山繁栄の源を作られた勝道上人によって開山されました。この「観音の霊窟」には鍾乳石によって自然にできた十一面観音像があります。下野の国司(今の県知事)の高藤介の妻が子宝に恵まれず、この「観音の霊窟」で子宝を得ることができるということを聞いて21日間「観音の霊窟」に籠り、翌天平七年に男の子を授かりました。この子がのちの勝道上人です。以来、当山の奥之院にお祀りされている鍾乳洞で自然にできた「十一面観音菩薩」は子授け、安産、子育てのご利益があると信仰されています。  
●独鈷沢 / 栃木県日光市独鈷沢  
弘法大師 天長6年(829) 
昔、天長6年(829)の4月、弘法大師空海は塩原元湯温泉にしばらく杖を休めていた。そして、その村の栄助という老人を案内役に頼んで、周辺の美しい景色を楽しんでいたとき、下三依村に足をのばした。まだ若かった空海は、下三依村に着いたころ、たいへんのどがかわいた。そこで、道ばたにいた一人の村人にお願いし、水をいっぱいもらうことにした。  
ところが、なかなかその村人が帰ってこない。そのころのこの辺り一帯は水に乏しく、村人は親切にも深い男鹿川の谷間に降りていき、清らかな冷たい水をくんできて差し上げたのだった。  
村人の真心に感じ入った空海は、村人が深い男鹿川の谷間に水をくみに行かなくてもすむようにと、持っていた独鈷(とっこ:仏教で使う道具)の先で勢いよく大地を突き刺し、こんこんとわき出す清らかな清水を作った。水くみが重労働であった村の人たちはこの上なく喜んだのであった。  
以来、千年以上、たくさんの人々の命の清水・霊泉として今日に至っている。  
村人たちは、この故事にちなんで、いつとはなく下三依村をあらため、「独鈷沢村(とっこざわむら)」と呼ぶようになったそうだ。 
●東高野山弥勒院 医王寺 / 栃木県鹿沼市北半田  
弘法大師 大同4年(809) 巡錫 
医王寺は真言宗豊山派の寺院です。日光開山勝道上人により天平神護元年(765)に創建され、弘法大師ゆかりの寺「東高野山」と呼ばれています。約3万坪にも及ぶ広大な敷地には、金堂・唐門・弘法大師堂・客殿が建ち並んでいます。 
医王寺2  
医王寺は東高野山弥勒院と号する、真言宗豊山派の寺院です。薬師如来の別名である医王如来の名を寺号としていることからも知られるように、薬師如来を本尊とする寺院であり、講堂の秘仏本尊として薬師如来坐像を、金堂の本尊として薬師三尊像を安置しています。  
縁起によれば、敏達天皇の勅願により聖徳太子が自ら薬師如来を造立して伽藍を整えられ、大同4年(809)、弘法大師空海(774〜835)が東国を巡錫した際に自らの御影像や不動明王などを納めて鎮護国家の道場とし、弘仁年間(810〜824)、高野山の開創によって当地を「東高野山」と呼ぶようになったと伝えられています。また、日光開山の勝道上人(735〜817)が夢告にしたがい山中より薬師如来を発見し堂閣を建立して尊像を安置したとも伝えられています。  
医王寺の創建については必ずしも明らかではありませんが、講堂の秘仏本尊薬師如来坐像が、平安時代後期の作と推定されることから、遅くともこの頃までには寺院としての体裁を整えていたものと考えられます。鎌倉時代には、金堂の本尊薬師三尊像を始めとして、数多くの仏像が造立され、大がかりな造営事業が進められたようです。縁起では、正中2年(1325)に、西方遠江守烏丸貞泰(〜1333〜)が堂宇の再建に尽力したと伝えられていますが、近年は、京都・畿内で活動し仏教信仰も厚かった宇都宮氏が、鎌倉時代における医王寺の造営事業を支援した可能性も指摘されています。また近年、吉祥天立像の納入品(『金光明最勝王経』)に記名がある晴空(1262〜?)という僧侶の鎌倉における活動が金沢文庫の史料から確認され、北関東と鎌倉の間を活発に往来していた僧侶の動向が明らかとなりました。  
医王寺は中世以降、地方における仏教修学の道場としての機能を有していたようです。江戸時代・寛政7年(1795)の『新義真言宗本末帳』には、本末関係では醍醐寺報恩院流の直末寺(法流末寺)であり、末寺6ヶ寺、門徒5ヶ寺を統領する田舎本寺(中本寺)・談林寺院であったことが記録されています。江戸時代には幕府から朱印地として寺領五十石を下賜され、歴代住職の尽力により寛永年間(1624〜1644)に焼失したとされる堂宇も再建されて、現在の伽藍が完成したと考えられています。当寺が所蔵する古絵図には、寛永の焼失以前の境内が描かれており、南から順に「仁王門」「大堂」「小堂」「客殿」が並ぶ、現在とは異なる配置であったことがわかります。それら堂宇のうち、現在の金堂の位置にあった「大堂」には現講堂秘仏本尊の秘仏薬師如来坐像を本尊、現金堂本尊の薬師三尊像を前立本尊として安置し、金堂の北側にあった「小堂」には弥勒菩薩坐像を安置していた可能性も指摘されています。  
近代に入ると、明治35年(1902)の足尾台風により仁王門・金剛力士像が倒壊するなど、堂宇の荒廃が進みましたが、昭和50年代から栃木県や旧粟野町、鹿沼市、檀信徒のご協力により建造物と仏像彫刻の保存修理が順次行われ、伽藍が整備されました。  
現在、医王寺には、下野の地に花開いた仏教文化の豊かさを示す、多種多様な宝物が伝えられており、そのうち30件が栃木県の有形文化財に、3件が鹿沼市の有形文化財に指定されています。  
●弘法大師の碑 / 栃木県大田原市市野沢  
市野沢郵便局の手前に弘法大師の碑がある、空海(弘法大師)が訪れた時の句 「蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉」。 
●天開山千手院 大谷寺 [大谷観音] / 栃木県宇都宮市  
弘法大師 弘仁元年(810) 開山  
大谷寺(おおやじ)は、栃木県宇都宮市にある天台宗の寺院。山号は天開山。院号は千手院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第19番札所。国の特別史跡及び重要文化財に指定されている「大谷磨崖仏」の所有者となっている。  
大谷寺は大谷石凝灰岩層の洞穴内に堂宇を配する日本屈指の洞窟寺院である。 本尊は、凝灰岩の岩壁に彫られた高さ4mの千手観音で、一般には「大谷観音」の名で知られている。  
当寺周辺には縄文時代の人の生活の痕跡が認められること(大谷岩陰遺跡)、また弘仁元年(810)に空海が千手観音を刻んでこの寺を開いたとの伝承が残ることなどから、定かではないが千手観音が造立された平安時代中期には周辺住民等の信仰の地となっていたものと推定されている。  
こうして、平安末期には現代に残される主要な磨崖仏の造立がほぼ完了し、鎌倉時代初期には鎌倉幕府によって坂東三十三箇所の一に定められたものと推定されている。鎌倉時代に入ると、大谷寺は宇都宮社の神職で鎌倉幕府の有力御家人でもあった下野宇都宮氏の保護の下で隆盛したと見られ、1965年(昭和40年)の大谷寺発掘調査において、鎌倉時代の懸仏、1363年(貞治2年又は正平18年)奉納の経石、1551年(天文20年)と書かれた銅椀などが出土している。しかし豊臣秀吉により下野宇都宮氏が改易されると、一時は衰退を余儀なくされた。  
しかし江戸時代に入って、奥平忠昌が宇都宮城第29代城主に再封された後の元和年間(1615-1624)、慈眼大師天海の弟子であった伝海が藩主忠昌の援助を得て堂宇を再建した。天海僧正は天文年間に宇都宮城下の粉河寺で修行した経歴を有しており、徳川幕府が擁立された後、徳川家康と代々の将軍家の援助により上野寛永寺を建立したほか、日光山貫主として堂宇再建を行っている。  
その後、宝永年間にも諸侯の援助により堂宇建立を中心とした勧請が行われたが、その後の火事で多くの堂宇を焼失している。  
大谷磨崖仏(おおやまがいぶつ)  
栃木県宇都宮市大谷にある磨崖仏である。千手観音像、伝釈迦三尊像、伝薬師三尊像、伝阿弥陀三尊像の4組10体の石心塑像が4区に分かれて彫出されている。このうち千手観音像は、現在大谷寺の本尊である。大谷磨崖仏は大分県臼杵市の臼杵磨崖仏と並んで学術的に非常に価値の高い石仏とされ、1926年(大正15年)2月24日に国の特別史跡に指定され、1961年(昭和36年)6月30日には「彫刻」として国の重要文化財に指定されている。 
●名草弁天(名草厳島神社) / 足利市名草上町  
弘法大師 開基  
名草の弁天さまは、弘法大師が水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まりと伝えられる。伝説では大師が足利に布教をしながら山伝いにまいると、白い大蛇に出会った。「これは弁財天のお使いに違いあるまい。道案内してくれるだろう」と、あとをつけていくと、やがて清水の流れるところの大きな岩の前に出た。すると大蛇は、私の役目は終わりましたとでもいいたそうに、岩の穴の中にはいっていった。大師は岩の前にすわり、経文を唱えて弁財天を勧請し前に祠を建てたのが名草弁天の始まりといわれている。この名草弁天は国指定の天然記念物、名草の巨石に鎮座しており、近くには弁慶の手割石と称するものもある。 
●佐貫観音院 / 栃木県塩谷郡塩谷町佐貫  
弘法大師 ゆかりの寺院  
真言宗智山派の寺院。江戸時代までは岩戸山慈眼寺観音院であったが、明治期の廃仏毀釈によって慈眼寺は廃寺となり、現在は宇都宮市篠井町の東海寺の別院となっている。本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)。  
佐貫観音院は、栃木県塩谷郡塩谷町佐貫の鬼怒川河畔にある聖観音菩薩を本尊とする真言宗の寺院である。寺域には高さ64mの観音岩と呼ばれる大岩が聳え、その窟内にある「奥の院大悲窟」には四国讃岐国多度郡郡司であった藤原富正所有の念持仏、佩刀、弘法大師(空海)作の如意輪観音と馬頭観音の2仏、中将姫の蓮の曼荼羅、藤原秀郷や源義家の奉納品(太刀、武具、銅鏡など)が納められていたと云われる。現在、銅版阿弥陀曼荼羅と銅鏡は宇都宮市篠井町の東海寺にて保管されているという。また、この観音岩の壁面には「大日如来坐像」が線刻されており、この磨崖仏は周囲の自然環境とともに佐貫石仏の名称で国の史跡に指定されている。観音岩下部には磨崖仏の大日如来を中央とする左右に祠がある。磨崖仏に向かって左側の祠は「白龍洞」と呼ばれる洞窟内にあり木造の御堂が建てられている。右側の祠は二枚の「立岩」が目前に立ち、その背後の洞穴内の小さな石造の祠となっている。観音岩頂上部には天然物とも人工物とも判らない「亀の子岩」が載っており、神の使いとしてまた長寿の象徴として珍重されている。 
●佐貫石仏 / 栃木県塩谷郡塩谷町佐貫  
弘法大師 大同2年(807) 建立  
大日如来の磨崖仏である。凝灰岩の山肌に線刻された仏像で風化が甚だしいが、像高60尺の巨大石仏のひとつとして1926年(大正15年2月24日)に国の史跡に指定されている。観音岩と呼ばれる大岩に線刻された佐貫石仏の尊像は、その洞窟内に奉安され観音岩の呼称の由来ともなった観音菩薩像と合わせて、一般的に佐貫観音と呼ばれることがあるが、本磨崖仏は大日如来坐像であり史跡名も佐貫石仏とされている。  
伝承によると、佐貫石仏の造立時期は、奈良時代説、平安時代説、鎌倉時代説とその年代に幅があり、直接的な史料が無いためいずれが正しいとも不詳である。近年では平安時代末期から鎌倉時代の作と推定されている。一方、当地区の旧家が蔵する古文書によると、唐から帰国した弘法大師が807年(大同2年)にこの地を訪れ、自らの念持仏をこの大岩に奉安し、讃岐国多度郡の領主であった藤原富正の子富治の願いにより一夜にして壁面に大日如来の坐像を刻んだものとされる。 
 
二荒の山  
日光の寺社の歴史  
但し、神仏習合時代の歴史ですから神社とお寺がぐちゃぐちゃです。  
766年 / 勝道上人(735−817年)、大谷川を渡り四本竜寺を創建。  
767年 / 勝道上人、大谷川の北岸に二荒山大神をまつる。  
782年 / 勝道上人、二荒山(男体山)の初登頂を果たす。  
784年 / 勝道上人、中禅寺湖畔に神宮寺(中禅寺=現在の二荒山神社中宮祠 )を創建。  
808年 / 下野国司・橘利遠、朝命により本宮神社の社殿造立。山菅の橋を架けて往来の 便に供す。  
810年 / 嵯峨天皇(786−842年より、四本竜寺を本坊とした一山の総号として「 満願寺」号を賜る。  
814年(弘仁5) / 弘法大師が勝道上人の功績を称える碑文(二荒山碑)を著す。  
816年(弘仁7) / 勝道上人、日光三社大権現(本社・滝尾・本宮神社)を勧請する。  
820年(弘仁11) / 弘法大師、滝尾・若子両神社を祀る。  
829−33年 / 慈覚大師、このころ来山し、三仏堂(現在の輪王寺の本堂)を創建する。  
927年 / [延喜式神名帳]下野国河内郡 二荒山神社(つまり、河内郡の宇都宮には二荒山という名前の神を祭った神社(官社)がありましたが、都賀郡の日光には官社(神社)はなかったようです。おそらく、「満願寺」という号を朝廷からもらっている ように、日光の寺社はお寺扱いだったんでしょう。)  
1215年 / 弁覚が新宮(現二荒山神社)を造営する。  
1315年 / 仁澄により中禅寺の大造営が行なわれた。  
日光三内  
日光東照宮、日光山輪王寺、日光二荒山神社、家光廟大猷院(たいゆういん)のある一帯 をさす。  
「日光権現」  
[新和歌集]の(1260年前後)に対して、既に1200年頃から日光の神は「日光権現」だったようです。  
[神道集](1352−60年頃)第二十三  
日光権現事  
「日光権現は下野国の鎮守である。往昔に赤城大明神と后を諍いつつ、×佐羅×(小野猿 丸)を語った事は遥か昔である。二荒山 が 本地垂迹を顕した のは、人皇四十九代光仁天皇の末から桓武天皇の初め、天応二年(782年(9月30日 まで))年から延暦初年(この年も同じく782年(9月30日以降))の頃である。勝 道上人(735−817年)が山に登り、一大伽藍を建立された。今の 日光山 である。日光山には男躰と女躰がある。男躰の本地は千手観音である。女躰の本地は阿弥陀如来である。(男体山と女体山が有るということではなく、伽藍に男躰と女躰とが有るという ことのようですね。)」  
瀧の尾  
滝尾(たきのお)神社。弘法大師が滝尾神社を創建したのが820年だそうです。この神社は、勝道上 人関係の神社じゃないんですね。新宮(本社=現二荒山神社)、滝尾、本宮(四本龍寺、本宮神社、現輪王寺)の三社を もって日光三社(所)大権現というそうです。  
中禅寺とて権現ましましけり  
(これを読むと中禅寺湖畔に、中禅寺の立派な伽藍があったのではないかと思われます。なお1315年に中禅寺の大造営が行なわれました。)  
『権現』とは、『仏教の仏が、仮に(=「権」)日本の神の姿で「現」れたもの』とする本地垂迹思想による神号です。ということは、『中禅寺とて権現ましましけり』を直訳すると、「中禅寺(当然お寺の 名前でしょう)という神が鎮座します」となって、筆者には何が何だか全くわかりません 。神仏習合っていうのは、複雑怪奇でホントにうんざりです。  
[日光修験]の記事によれば、『中禅寺とて権現ましましけり』と は次のようなことだそうです。  
「勝道上人は、日光開山に当たり、中禅寺に柱の立木をもって千手観自在の尊像を刻み、 中禅寺大権現と崇め、男体の神霊を鎮め祀った。別名男体大権現とも日光大権現とも称する。」  
「1872年の神仏分離により中宮祠(現二荒山神社中宮祠)と中禅寺が分離し、中禅寺は「日光山 輪王寺 別院 中禅寺」となり、現在は、天台宗の寺院である。1902年の大山津波で流失。本尊は中禅寺湖に流失したが、浮き上がり引き上げられた と云う。のち中禅寺は現在地に移転、本尊立木観音も同時に現在地に遷座。(現在中禅寺湖畔の歌ヶ浜にあり、地図上は「立木観音」) ※立木観音は明治の大山津波で、流出し現在の歌ヶ浜に移安する。高さ約6m。後補も 多いが12世紀後期の作と推定される」  
日光山  
江戸時代には日光の寺社群を総称して「日光山」と呼んだようです。今の「日光山内」の 寺社だけのことじゃないんですね。なお、新和歌集(1260年前後)の時代から、「日光山」という言葉は有りました。おそらく、意味はこれと同じだろうと思います。  
日光山の条  
「仏寺部の日光山の条」? そんなものは[下野国誌]にはありません。「日光山の条」 に相当するのは、五之巻(仏閣僧坊)全体のようです。  
[下野国誌]五之巻 仏閣僧坊  
「満願寺(今の輪王寺) 都賀郡日光山なり。一条実相院とも云。一山の衆徒二十六院、坊舎八十宇あり、圭田一万 三千六百石。開山勝道上人なり。観世音の座す山と云義を以て補陀洛山と号(ナツ)くと 云。弘法大師登山してより日光山と改む。そは大日遍照の山と云義なるべし。・・・五十 一世ハ輪王寺一品守澄法親王と申奉る。夫より以来世々 輪王寺宮 と称し奉り・・・」  
(参考1)明治期の輪王寺について  
明治になると神仏分離令が出され、神と仏の区別がなかった輪王寺は窮地に立たされる。 1869年には輪王寺の門跡号が廃止されたため、古い呼び名の満願寺に戻っている。ま た、1871年には日光山の神仏分離がおこなわれ、過去には109か寺あった寺が満願 寺1か所に併合されてしまった。これらの悲運を乗り越え、1882年に一山15か院が 復興、翌年には輪王寺、そして門跡呼称も復活する。  
(参考2)[下野国誌]三之巻 神祇鎮座  
「満願大権現(今の二荒山神社) 日光山の新宮なり。延暦三年(784年)五月勝道上人(735−817)の崇め祀る所 なり。もう一社ハ今の 本宮権現 にて、新宮ハ・・・慈覚大師(794−864)の建立なりとぞ。・・・」  
(考察)[下野国誌](1850年)の頃、日光山には、東照宮、満願大権現(新宮)、 満願寺があり、二荒山神社という名前の神社は無かったようです。そして1722年に女流歌人・石塚倉子が『二荒山へ詣で 』ていますが、詣でたのは 本宮権現・新宮権現・その他関連寺社群でしょう。 
日光二荒山神社  
勝道上人 神護景雲元年(767) 創建 
男体山を御神体とする、当社の縁起は、勝道上人が神護景雲元年(767)、現・別宮本宮神社の地に創建。後、嘉祥3年(850)、今の東照宮の側に遷座。さらに、建保3年(1215)、現在の場所に移動した。別宮滝尾神社と合わせて、日光三社権現という。  
二荒(フタラ、あるいはニコウ)の名義には諸説あるようで、『式内社調査報告』には以下の説が紹介されている。  
(1)  二神示現説…男女対の神の現れ。二神のあらわれ。  
(2)  補陀落山説…観音浄土を表す、補陀落(ふだらく)山の転化。  
(3)  布多郷説…男体山一帯を、和名抄の布多郷にあてたもの。  
(4)  二季暴風説…年2回の暴風。  
(5)  アイヌ語源説…アイヌで熊笹を意味するフトラの転化。  
(6)  土子説…マタギの地名「根子(ネゴ)」が土着後「土子(ニコ)」となった。  
(7)  荒風現象説…二季に渡る「男体颪」と「日光雷」。  
(8)  荒神説…二荒は、太荒であり、荒神の意味。  
(9)  安羅説…日本府のあった安羅の音から、荒々となり、二荒と変化。  
「日光」という地名の由来  
空海が二荒山(男体山)に登った際に、「二荒(ふたら)の文字がよくない」というのでこれを「にこう」と音読し、それに「日光」の字をあててに改名したとされる。 
日光権現  
日光権現は下野国の鎮守である。 往昔に赤城大明神と后を諍いつつ、唵佐羅麼を語った事は遥か昔である。二荒山が本地垂迹を顕したのは、人皇四十九代光仁天皇の末から桓武天皇の初め、 天応二年から延暦初年の頃である。 勝道上人が山に登り、一大伽藍を建立された。 今の日光山である。  
日光山には男躰と女躰がある。  
男躰の本地は千手観音である。  
女躰の本地は阿弥陀如来である。  
日光権現(男躰)  
二荒山神社(栃木県日光市山内)  
祭神は大己貴命(男体山)・田心姫命(女峰山)・味耜高彦根命(太郎山)。  
式内論社(下野国河内郡 二荒山神社名神大)。 下野国一宮(論社)。 旧・国幣中社。  
史料上の初見は『続日本後紀』(承和三年[836]十二月丁巳)の「奉授下野国従五位上勲四等二荒神正五位下」であるが、この二荒神が現在の二荒山神社(宇都宮、日光)のどちらに該当するかは不詳。  
日光連山は男体山(二荒山)・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山などの山々から成り、霊峰として古来より崇敬されている。  
勝道上人は二荒山の開山を志し、天平神護二年[766]三月中旬に山麓の大谷川に到った。 上人が求聞持真言を唱えると、大谷川の北岸に深砂大王が顕現し、手にした二匹の蛇で大谷川に橋を架けた。 上人はこの蛇橋によって大谷川の北岸に渡り、四本龍寺を建立して千手観音を本尊とした。  
神護景雲元年[767]、四本瀧寺の側に祠(本宮神社)を建てて二荒山権現(男体山)を勧請。 同年四月に初めて男体山の登頂を試みるが、雪や雷により途中で断念。 天応二年[782]三月、宿願の男体山登頂に成功し、山頂に二荒山神社の奥宮を奉斎した。 下山後、中禅寺湖の歌ヶ浜に小庵を結び、四本龍寺に帰還した。 延暦三年[784]、中禅寺湖の湖畔に二荒山神社の中宮祠(日光市中宮祠)を創建。 また、神宮寺として中禅寺を建立し、二荒山権現の本地仏である丈六の千手観音立像(立木観音)を安置した。  
天嘉祥三年[850]、昌禅座主が現在地に新宮を建立し、二荒山権現を本宮神社から遷座した。 その後、太郎山権現を本宮神社に勧請した。  
日光権現(女躰)  
二荒山神社の別宮・滝尾神社(日光市山内)  
祭神は田心姫命。  
『日光山滝尾建立草創日記』によると、弘法大師は弘仁十一年[820]に日光に来山し、滝尾権現(女峰山)を勧請した。  
          垂迹               本地  
日光三所権現  男体山(大己貴命)       千手観音  
          女峰山(田心姫命)      阿弥陀如来  
          太郎山(味耜高彦根命)   馬頭観音  
日光山縁起  
冒頭で簡単に言及された日光権現と赤城大明神の神戦および唵佐羅麼(小野猿丸)の物語は『日光山縁起』に詳しい。  
有宇中将は才芸優れた人物であったが、鷹狩に熱中して帝の不興を買い、鷹(雲上)と犬(阿久多丸)を連れ、青鹿毛の馬に乗って都を去った。 中将は陸奥の朝日長者の下へ身を寄せ、その姫君(朝日の君)の婿となった。 六年後、中将は母の姿を夢に見て恋しくなり、朝日の君を残して、鷹と犬を連れて青鹿毛で都に向かったが、途中の妻離川(阿武隈川)の水を飲んで病気になり、二荒山の山中で落命した。 炎魔王宮で中将の過去世を調べたところ、元は二荒山の猟師だったが、鹿と間違えて母を誤射してしまい、その罪を償うために神となって貧苦の者を救済しようと誓願を立てていた事が判明した。 青鹿毛は猟師の母の生まれ変わりだった。 炎魔王はその誓願を果たさせるために中将を蘇生させた。  
中将が生き返った後、朝日の君は懐妊して一子が誕生した。 その名は馬頭御前で、青鹿毛の生まれ変わりだった。 中将は上洛して大将に昇進、馬頭御前も都に上って中納言になった。 中納言が都から下って朝日長者のもとに居た時、侍女の腹に子供が出来た。 その子は奥州小野に住んで小野猿丸と称し、弓の名手となった。  
有宇中将は日光権現として顕れ、下野国の鎮守となった。 湖水(中禅寺湖)の領有を巡って日光権現と赤城大明神の間に争いが起き、鹿嶋大明神は猿丸に助勢を求めるよう日光権現に助言した。 猿丸は鹿(女躰権現の化身)を追って日光山に入り、そこで日光権現の要請を了承した。 日光権現は大蛇、赤城大明神は大百足に化身して激しく争った。 猿丸の射た矢は大百足の左眼に命中し、負傷した大百足は退散した。 日光権現は猿丸の功績を讃えて国を譲り、太郎大明神(馬頭御前)と共に山麓の人々を守護するよう命じ、二荒山の神主とした。 また、一羽の鶴が飛んで来て、左の羽の上には馬頭観音。右の羽の上には大勢至菩薩が見えた。 鶴は女人に変じ、馬頭観音は太郎大明神の本地、勢至菩薩は猿丸の本地である事、猿丸に恩(小野)の森の神となって衆生を導く事を告げて消えた。  
雲上の本地は虚空蔵菩薩である。  
阿久多丸の本地は地蔵菩薩で、今は高雄上と顕れている。  
青鹿毛は太郎大明神で、馬頭観音の垂跡である。  
有宇中将は男躰権現で、本地は千手観音である。  
朝日の君は女躰権現で、阿弥陀如来の化身である。  
その後、太郎大明神は下野国河内郡小寺山に遷座して、若補陀落大明神と号した。 
勝道上人「日光登山記」と空海  
自然と人間のこころの関わりについて空海は「そもそも、環境はこころにしたがって変わるものである。こころが汚れていれば環境は濁るし、その環境によってまた、こころも移り行くことになる。静かな環境に入り、そこに身を置けばこころも清らかである。そして、こころと環境が合致し、互いが無心にひびき合うことができれば、万物の根源となる"自然の道理"とそのはたらきである"知"が自ずと発揮される。そこに悟りがある」と説く。  
空海に先んじて、その静かな環境、奥深い山に分け入り、そこで修行することによって悟りを得た行者が、勝道上人(しょうどうしょうにん)である。下野国芳賀(しもつけのくに、はが:今の栃木県真岡市)の人であった。  
上人は少年の頃から蟻のいのちですら殺生しなかった。青年になってからも善悪の戒律を守り、こころは清らかであった。世間の生き方にこだわらず、仏教の空(くう)の教えを学び、街の喧噪を嫌い、自然の清らかさを慕って、山林での修行にひたすら励んだ。  
その青年が48歳になって、日光山(男体山)登頂に成功し、開山の祖となった。  
上人は、817年に83歳で亡くなられるが、その3年前に、人を介して、名勝の地、日光の記述を空海に依頼した。仲介者と空海は昔からの知り合いだったので、これを引き受けることになる。空海、41歳のときである。  
以下は、その空海執筆による「沙門勝道、山水を歴(へ)て玄珠を瑩(みが)く(道を極める)の碑」からの、我が国最初の「登山記」と日光山での上人の悟りの場面を口語訳したものである。  
767年4月上旬  
(上人、)日光男体山の登頂を試みる。しかし、雪は深く、崖はけわしく、行く手を雲と霧に閉ざされ、雷にあい、断念する。中腹まで引き返し、そこに21日間滞在したのち、下山する。  
781年4月上旬  
再度、登頂を試みるが失敗する。  
782年3月中旬  
今回は、登頂するまでは絶対にあきらめないとの覚悟を決め、周到に準備をし、山麓に着いた。そこに一週間滞在し、日夜の登頂祈願を行なった。  
「わたくしが登頂をめざすのは、すべての生き物の幸せを願うためです。その証として、わたくしが不浄のこころの持ち主でないことを示す経文と仏の絵姿図を自らしたためました。これを、山頂に辿り着くことができれば神々に捧げます。どうか、善き神々よ、そのちからを示し、災いとなる霧を巻き収めさせたまえ、山の精霊たちよ、わたくしを先導するためにその手をお貸しください。この願い、もし聞き入れなければもう二度と登頂を試みません。そして、もはや悟りを得ることはないでしょう」。  
このように願いをたておわると、雪の白く続くところを越え、緑のハエマツのきらめく崖をよじ登った。崖の上から頂上までは残り半分の距離であったが、からだは疲れ果て、体力を消耗してしまったので、その場に二泊して、体力を回復し、そして、とうとう頂上に立った。  
(今、この場にいることは)夢のようであり、でも現実であることを実感しながらうっとりしていると、天空を飛ぶ筏(いかだ)に乗らなくても、たちまちのうちに銀河の流れに浮かんでいるようだし、妙薬(幻覚剤)を舐めていないのに、自然の神の住むという岩屋を訪れている気がする。ただただ、喜びに涙し、こころは平静ではいられなかった。  
この山のかたちは、東西は龍がうつぶせに寝た背骨のようであり、その眺望は限りなく、南北は虎がうずくまったようであり、まるで、巨大な虎が棲息しているようである。  
この山は、世界を創る神の住む山、須弥山(しゅみせん)の仲間のようであり、周囲の山々も須弥山を浮かべる外海を取り巻いているという鉄囲山(てつちせん)のようである。  
中国五岳に数えられる衡山(こうざん)・泰山(たいざん)もここよりも低く、諸国の伝説の山、仙人の住むという崑崙山(こんろんざん)や、よい香りのただようというインドの香酔山(こうすいざん)にも勝っていると、この山は笑っているようだ。  
この頂きは、日が昇るとまっ先に明るくなり、月が昇るともっとも遅く沈む。ここからだと神通力をもつ目がなくても、万里の彼方までが目のまえにあり、一挙に千里を飛ぶという神話の鳥さえいらない。白い雲海はわたくしの足の下にあるのだ。  
広がる色とりどりの景色は、機(はた)もないのに美しい錦を織りなし、いろんな高山植物は一体、誰が作ったのだろう。  
北方を眺めると湖(今の川俣湖の方向にあたる)があり、その広さはざっと計算すれば一百頃(けい:中国地積の単位。一頃は百畝)。東西は狭く、南北は長い。  
西方をふり返ると、やはり一つの湖(湯の湖)があり、二十余頃の広さはありそうだ。  
西南方に目を向けると、さらに大きな湖(中禅寺湖)があり、広さは千余町(一町も百畝)もありそうだ。南北は広くないが、東西は長く伸びている。湖面にはまわりをとりまく山々の高い峰がその影を逆さに落とし、その山肌にはいろんな変わった草木や岩が自ら織りなす、奥深い色合いがあり、白銀の残雪のあるところからは早春の花が咲き、金色に輝いている。それらのすべての色が余すところなく鏡のような水面に映し出されている。  
山と水は互いにひびき輝き、その絶景がわたしを感涙させる。四方を眺め、たたずみ、見飽きることがない。しかし、突然の雪まじりの風がそれらの景色を打ち消してしまうー  
わたくし勝道は小さな庵を西南(中禅寺湖側)の隅に結び、登頂祈願の約束を神々に果たすため、そこに21日間滞在し、勤めを行ない、そののち、下山した。  
784年3月下旬  
改めて(今度は中禅寺湖とその周辺を探索するために)日光山に入った。五日間をかけて湖のほとりに着いたときには四月になっていた。  
ほとりで一艘の小舟を造り上げた。長さは二丈(一丈は十尺)、巾は三尺(一尺は約三十センチ)。さっそく、わたくしと二、三人が乗り、湖に棹をさし、遊覧した。  
湖上より周囲の絶壁を見回すと、神秘的で美しい景色が広がっている。東を眺め、西を眺め、舟の上下の揺れにあわせて気持ちもはずむー  
まだまだあちらこちらを遊覧したかったが、日暮れには南の中洲に舟を着けた。その中洲は陸から三百丈足らず離れていて、広さはタテヨコ三十丈余りあり、多くの中洲のうちでも勝れて美しい景観をもっていた。  
次の日からは湖の西岸に上がり、西湖(西の湖)に出かける。中禅寺湖からは十五里(平安時代、一里は約五百メートル)ばかり離れたところにある。また、北湖(湯の湖)も見に行った。そこは中禅寺湖から三十里ばかり離れたところにある。いずれも美しい湖であるが、中禅寺湖の美しさにはとうてい及ばない。  
その中禅寺湖はみどり色の水が鏡のように澄みわたり、水深は測り知れない。  
樹齢千年の松や柏の常緑の枝が水面に垂れ、岩の上には紺色の楼閣のような巨大な檜や杉が突っ立っている。  
あじさいの五色の花は同じ幹に混じりあって咲き、朝・昼・夕・晩・深夜・明け方にそれぞれに鳴く鳥は、同じさえずりに聞こえても、それぞれに種類のちがう鳥なのだ。  
白い鶴は羽をひろげてなぎさに舞い、青い水鳥は湖面に戯れている。それらの鳥の羽ばたきは風に揺れる鈴のよう。その鳴き声は磨かれた玉の響きのよう。  
松風は琴となって音色を奏で、岸に寄せる波は鼓となって調べを打つ。  
それらの自然の発する響きが合わさって天の調べとなり、湖水は甘く・冷たく・軟らかく・軽く・清く・臭いなく・のどごしよく・何一つ悪いものを含まず、たおやかにゆったりと貯えられている。  
(湧きだす)霧や雲は、水の神があたりをおおうしわざであり、星のまたたきと稲光は、天空の神、明星がしばしばその手を虚空に入れ、それらをつかもうとするからである。  
今、"湖水に映る満月を見ては、あるがままに無心に生きるということを知り、空中に輝く日輪を見ては、すべてのいのちが陽光の恵みによって共に生かされていて、その自然のもたらす英知とわたくし勝道が一体のものである"と悟る。  
―そののち、この悟りの地にささやかなお堂を建て、神宮寺と名づけた。ここに住んで自然の道理とそのはたらきに身を託し、そのまま四年の歳月が過ぎた。  
788年4月  
さらに北の端に住まいを移す。この地の四方の眺望は限りなく、砂浜は好ましい。さまざまな色の花はその名も分からない不思議なものばかりであり、どこからともなく漂う、嗅いだことのない芳純な香りがわたくしの気持ちを和ましてくれる。  
ここに住んでいたにちがいない仙人はどこに去ったのか分からないが、自然の神々が確かにここにはいる。  
この美しい地を、中国の文人、東方朔はその著『海内十洲記』の名勝の地の一つとして、どうして記さなかったのだろう。山水を愛でる貴族たちはどうしてここに集い、舟を浮かべて遊ばないのだろう。  
(ブッダは苦行の時代、飢えた虎に身を供養し、その餌食となったとの話があるが)その虎に出遭うこともなく、(不老不死の仙人)子喬もすでに立ち去ったあと。そのような聖なる地の澄みきった広い湖水からは鏡のようなこころを学び、日光山からは自然界を創りだしている無垢なる仕組みを知る。  
冬は茂るツタに寒さをさえぎり  
夏はおおう葉陰に暑さを避ける。  
菜食をし、水を飲むだけでの生活でもこころは楽しく  
あるときは出かけ、あるときは止まり  
俗界を離れて、ひたすら修行しているわたくし勝道がここにいる。  
   814年8月30日空海記す。  
 
勝道上人が日光男体山に初登頂(782年)したとき、空海は真魚(まお)と呼ばれる、まだ8歳の少年であった。その少年が若くしてあらゆる学問に通じながらも、20歳過ぎには都の大学を去り、山のやぶを家とし、瞑想をこころとして、山林に入り修行した。  
その頃のことを、空海は一編の詩に綴っている。  
―前文略―  
谷川の水一杯で、朝はいのちをつなぎ  
山霞を吸い込み、夕には英気を養う。  
(山の住まいは)たれさがったツル草と細長い草の葉で充分  
イバラの葉や杉の皮が敷いた上が、わたくしの寝床。  
(晴れた日は)青空が恵みの天幕となって広がり  
(雨の日は)水の精が白いとばりをつらねて自然をやさしくおおう。  
(わたくしの住まいには)山鳥が時おりやって来て、歌をさえずり  
山猿は(目の前で)軽やかにはねて、その見事な芸を披露する。  
(季節が来れば)春の花や秋の菊が微笑みかけ  
明け方の月や、朝の風は、わたくしのこころを清々しくさせる。  
(この山中で)自分に具わる、からだと言葉と思考のすべてのはたらきが  
清らかな"自然の道理"と一体になって存在していると知る。  
今、香を焚き、ひとすじのけむりを見つめ  
経(真理の言葉)を一口つぶやくと  
わたくしのこころは、それだけのことで充たされる。  
そこに無垢なる生き方の悟りがある。  
―後文略―  
空海文集「山中に何の楽(たのしみ)か有る」より  
そう、空海もまた、自然と人間のこころの関わりをよく理解し、そこから、悟りを得る修行をしていた。だから、日光山における勝道上人の行状をまるで見ていたかのように記述できたのだ。その記述に目を通し、上人は満足したことと思う。そこには、上人と同じ澄んだ目とこころをもつ、空海という人がいた。 
沙門勝道  
空海は、日光開山の祖、勝道のために、「沙門勝道歴山水宝玄珠碑弁序」を撰しました。  
下野国出身で、若い頃から仏道修行に励んだ沙門勝道が、天応2(782)年3月苦難の上に男体山初登頂を果たし、その後も中禅寺湖のほとりに住んで周辺の仏教化に務めたことを書いた碑文と序文になっています。男体山を観音の浄土である補陀洛(ふだらく)山として、勝道自身がそれに挑んだ話を作文してくれるよう、人を通じて空海に依頼したといわれています。  
弘仁5年(814) 40才 勝道のため「沙門勝道歴山水宝玄珠碑並序」を撰す。 
「日光山碑」及び日光と弘法大師との関係  
空海と勝道上人  
僧空海は延暦23年(840)僧最澄と共に入唐しました。翌24年、最澄は天台宗を開き、空海は大同元年(806)8月帰朝し真言宗を伝えました。これより先、天應2年春3月に勝道上人は、男体山(二荒山)を登頂して山頂に三神を祀りました。このことは、空海の遺稿を載せた『性霊集』に「沙門勝道山水を歴りて玄珠を瑩く碑並序」によって知ることができます。この碑が「沙門遍照金剛文并書」とあることによって空海の文及書であることがわかります。ちなみに遍照金剛とは空海の灌頂名です。  
この『日光山碑』は勝道上人が二荒山(男体山)を開山したことを世に知らしめた最初の文として認識され、書かれたのは弘仁5年(814)となっていますが、男体山開山の32年後のことです。  
弘仁7年(816)空海は高野山に金剛峯寺を創建します。そして、弘仁8年(817)勝道上人入寂。一方、空海は承和2年(835)3月に入寂し、延喜20年(921)弘法大師の諡号を贈られました。  
日光と空海(弘法大師)との係わり  
因みに日光は天台宗(二荒山神社と同じ山内にある日光山輪王寺は天台宗のお寺です)であり、空海は真言宗です。一見、日光と真言宗の開祖である空海はあまり関係のないように思いますが、日光二荒山神社境内には空海御手植えと伝えられる樹齢1千年を越す「高野槙」が現存します。  
又、一番言及すべきは最澄・空海の開いた仏教は、山岳仏教として当時の仏教に新風をもたらしたことです。最澄は比叡山延暦寺に拠って天台宗を、空海は高野山の金剛峰寺で真言宗(密教に基づく)を開いたことを見ても、山中での修行を重んじた山岳仏教的な性格(これがやがて修験道を生む)がうかがえます。  
こうした密教僧達の山岳修行は古くからの山岳信仰と結びつき修験道(山岳修行による超自然力の獲得と、その力を用いて呪術宗教的な活動ことを旨とする実践的な儀礼中心の宗教)へ発展していきました。そして日光は霊峰男体山を核とした山岳信仰の霊場として起こり、やがて神仏習合の信仰が加わって発展してきました。  
すなはち、「日光」と「空海」を結ぶ鍵は『山岳信仰』と『修験道』にあると言えそうです。  
事実、男体山頂遺跡からは独鈷杵(とっこしょ)・三鈷杵(さんこしょ)・三鈷鐃(さんこにょう)・羯磨(かつま)等の密教法具(ほうぐ)が多数出土しています。これは、密教の修行僧も多数男体山に登り、修行をしたという証拠になりますね。 
日光のはじまり  
「日光」の地名の由来  
世界に誇る観光地と言われている日光は、東西30km足らず、うなぎの寝床のような細長い街です。日光の入口で海抜が約500m、市内を通りいろは坂を登り奥日光の湯元で海抜約1,500mとなり、約1,000mの差があるという実に複雑な地形の街です。  
その中に、東照宮・日光山 輪王寺・二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)が鎮座し、国宝・重要文化財の人工造形美と大自然が織りなす関東随一の素晴らしいところが現存します。  
雨上がりの石畳の美しさ、霧の中に浮かぶ社殿・堂塔、新緑・紅葉の山々、ここ日光は特に朝夕の自然が美しく、朝陽は日光という名前の通り素晴らしいものです。  
この日光という地名の由来についてはいろいろな説があります。観音菩薩の浄土を補陀洛山(ふだらくさん)といいますが、その補陀洛山からフタラ山(二荒山)の名がついたという説、日光の山には熊笹が多いので、アイヌ語のフトラ=熊笹がフタラになりフタラが二荒になったという説、男体山、女峰山(にょほうさん)に男女の二神が現れたのでフタアラワレの山になったとか、いろは坂の入口付近に屏風岩があります。そこに大きな洞穴があり、「風穴」とか「雷神窟」などと呼ばれており、この穴に風の神と雷獣が住んでいて、カミナリをおこし豪雨を降らせ、春と秋に暴風が吹いて土地を荒したので二荒山という名ができたとか、二荒が日光になったのは、弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられております。  
日光といえば東照宮が有名ですが、日光の歴史は1,200年以上まえの奈良時代にさかのぼり、766年(天平神護2年)に勝道上人(しょうどうしょうにん)によって、四本竜寺を建てられたのが「日光」の始まりです。
男体山・女峰山・太郎山  
日本では、高い山は古来から神として崇められてきました。鎌倉・室町時代には、日光山も主峰は三つの山として信仰されていたようです。  
ですから、男体山は御神体であり、大己貴命(おおなむちのみこと)であり、千手観音であり、男体権現でもあります。女峰山も御神体で、田心姫命(たごりひめのみこと)であり、阿弥陀如来であり、女体権現(にょたいごんげん)でもあります。太郎山も御神体であり、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)であり、馬頭観音であり、太郎権現でもあります。  
山と仏と神が一体で、しかも男体山は父、女峰山は母、太郎山は子の家族として崇められました。  
このように、勝道上人が開かれた神仏習合の宗教観が関東の一大霊山「日光山」を栄えさせました。  
そのほかにも、大真名子山(おおまなごさん)・小真名子山(こまなごさん)は、孫であるとか?だとしたら、太郎山のお嫁さんは・・・?
日光開山の祖 勝道上人  
勝道上人は奈良時代735年(天平7年)4月21日、母の故郷である高岡の郷(現在の栃木県真岡市)でお生まれになったと伝えられています。幼少の頃は藤糸丸と呼ばれていたそうです。  
藤糸丸7歳のとき、夢の中に明星天子という神が現れて、「あなたはこれから仏の道を学び、大きくなったら日光山を開きなさい。」と、告げられたそうです。  
勝道上人28歳のとき(761年(天平宝字5年))、下野薬師寺(栃木県安国寺)で試験を受け僧侶となりました。法名を厳朝(げんちょう)と言い後に勝道と改めます。  
当時、僧侶となるための試験は奈良の東大寺、福岡県の観世音寺、栃木県の薬師寺と日本で3ヵ所しかなかったそうです。766年(天平神護2年)3月、勝道上人32歳のとき大谷川(だいやがわ)の激流を神仏の加護を受けて渡り(現在の神橋(しんきょう))山内地区に草葺きの小屋を建て、毎朝、礼拝石に座り、二荒山(男体山)の霊峰を拝しておりました。ある日、いつものように霊峰を拝していると、背後から紫の雲が立ち昇り悠々と大空に舞い上がって東北方面に吸い込まれました。勝道上人はこの壮厳なる風景に心を打たれ、その地点に急ぎました。その地点(紫雲石)が、青竜・白虎・朱雀・玄武の四神守護の霊地と感じ、この場所にお堂を建て「紫雲立寺(しうんりゅうじ)」と名づけたのが現在の「四本竜寺(しほんりゅうじ)」と伝えられています。1200年以上になる日光山の歴史のはじまりです。  
翌年の767年(神護景雲元年)、大谷川の北岸に二荒山大神(本宮神社)をまつり、二荒山(男体山)の頂上を極めようと登山しますが、山道は険しく登っていくほど残雪があり霧が行く手をさえぎり、前に進むことができませんでした。しかし、弟子たちと周辺を散策し中禅寺湖や華厳の滝などを発見することができたそうです。  
それから15年後、平安時代に移り782年(天応2年)勝道上人48歳の春、弟子の教旻・道珍・勝尊・仁朝とともに苦難のすえ、遂に二荒山(男体山)の頂上にたつことがかないました。その地に二荒山大神を拝し祠(奥宮)をまつりました。あの素晴らしい雲海と日の出のご来光を勝道上人一行は生涯忘れなかったことでしょう。と、お話をしてくださった方が感慨深く言っておられました。  
数年後弟子たちと中禅寺湖を舟で巡り中禅寺をお建てになられ此処に4年間滞在されたそうです。  
810年(弘仁元年)には、四本竜寺が一山の総号「満願寺」を賜りました。  
814年(弘仁元年)には、弘法大師空海が「沙門勝道、山水を歴 玄珠を螢くの碑(しゃもんしょうどう、さんすいをへ、げんじゅをみがくのひ)」を書き残されました。そこには日光山が補陀洛山(ふだらくさん)、観音の浄土であると書かれています。  
816年(弘仁7年)4月、82歳の高齢で再び二荒山頂に登られたのち三社権現の社を建立し、翌817年(弘仁8年)3月1日、山岳宗教に捧げた一生を閉じられました。
神橋  
華厳の滝から流れる大谷川に足を止められた勝道上人一行は、護摩をたき、神仏の加護を求めたところ、対岸に赤と黒の衣をまとい、首に髑髏をかけた恐ろしい顔の深沙大王(じんじゃだいおう)が現れました。  
「われは深沙大王である。昔、玄弉三蔵が印度(インド)に行ったとき、助けてやったことのある神である。助けてつかわそう」と赤と青二匹の蛇を放すと、蛇は大谷川の両岸にからみあって虹のように美しい橋となりました。  
勝道上人一行は蛇のウロコが光って渡れませんでしたが、そのうちに蛇の背に山菅(やますげ)がはえて小道ができました。恐れも忘れ喜んでこの橋を渡り、振り返って見ると蛇は深沙大王の手に戻り、雲にのって空高く消えていきました。  
その後、その場所に丸木橋をかけ「山菅の蛇橋」と呼ぶようになりました。  
勝道上人は、お礼の意味をこめてのちに深沙大王のお堂を建ててお祀りしました。  
お堂に扇の要(おうぎのかなめ)をはずして願い事をすると願いが叶うといわれ、特に花柳界の信仰があつく、小雨の中、蛇の目傘をさして朱塗りの神橋の近くを歩く芸妓衆の姿は、とても絵になる風景だったそうです。
華開く仏教文化  
時代は移り、唐の文化が伝わり、平安京への遷都など、新しい息吹のなかで日光山にも中央の文化が流れ込んできます。真言宗の開祖といわれる弘法大師空海が平安時代の820年(弘仁11年)日光に来山され、滝尾権現と寂光権現をまつられたと伝えられています。このとき「二荒」を「日光」に改められたそうです。  
天台宗の慈覚大師円仁は、平安時代の794年(延暦13年)栃木県壬生の手洗窪の生まれと伝えられています。円仁は、日光山霊峰に対しての崇敬の念が厚く、15歳のとき出家し比叡山で最澄の弟子となりました。  
後の838年(承和5年)遣唐使に従って唐に留学され、数多くの法難に遭いながら書かれた旅行記「入唐求法巡礼行記」を残されています。マルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西遊記」と共に世界の三大旅行記といわれています。  
この旅行記は、ハーバード大学教授ライシャワー博士によって英訳され円仁の素晴らしさが世界に知られました。また、田村完誓著「世界史上の円仁」によって知ることができます。  
円仁は、天台密教を研究されて帰国された後、比叡山の第三代天台座主となられました。この円仁によって日本天台宗は大成したといわれています。  
円仁は仁明天皇の勅命をうけて848年(嘉祥元年)4月、日光に来訪されました。中禅寺に登られ、神宮寺に7日間参護ののち、二荒山(男体山)に登り一泊して下山、中禅寺湖を舟で巡って薬師堂をまつられました。下山されて、日光山内に三仏堂と常行堂・法華堂を建てられました。  
勝道上人の弟子たちは、円仁の徳を感じて天台宗に帰伏し、円仁の弟子と共に36ヶ坊を開かれました。それが日光一山衆徒の始まりと伝えられています。  
円仁の日光来山によって中禅寺と山内への信仰が盛んになり、鎌倉時代には500坊をこえる寺院がたっていたそうです。とくに鎌倉将軍家の日光山への信仰は篤く、源頼朝は三昧田として領地を寄進され、実朝は三重塔などを寄進されたそうです。このころ日光山は関東の比叡山といわれ、仏教文化がもっとも花開いたときと伝えられております。  
日光に現在も行われている祭事「延年舞(えんねんまい)」は円仁が残してくださったもので、なかでも天台声明は和讃から現在の歌謡曲、演歌の基になっているといわれています。  
日光を離れた円仁はその後、東北方面に向かって松島の瑞巌寺や平泉の中尊寺、山形の立石寺(山寺)など有名な寺を開きました。863年(貞観5年)1月10日71歳で没し、2年後、朝廷より「慈覚大師」の尊号を賜りました。仏教文化の栄えた鎌倉・室町時代には、数々の有名人、著名人が日光に参拝されていたようです。年代を追って歴史とともに一部ご紹介します。  
860年(貞観2年)、大中臣清真(勝道上人の従弟)が、二荒山神社の神主となられました。日光山神主の始まりとなります。  
1000年(長保2年)、このころ書かれた清少納言の「枕草子」の「橋は・・・・・」のなかに「山すげの橋」とあるのは日光の神橋のことといわれています。  
1141年(保延7年)、藤原敦光が「中禅寺私記」を記されました。  
1185年(元暦2年)2月、那須与一が日光権現・宇都宮大明神に祈願し、扇の的を射落とされました。  
1192年(建久3年)、源頼朝が征夷大将軍となられました。  
1210年(承元4年)、弁覚、日光山座主となられます。この頃、衆徒36ヶ坊の他に小坊300余と伝えられています。  
1215年(建保3年)、弁覚により二荒山神社本社を造営されます。  
1315年(正和4年)、仁澄、中禅寺の大造営を行います。  
1476年(文明8年)、昌源、座禅院権別当となり、松や杉数万本を各所に植樹されました。  
1509年(永正6年)、連歌師の柴屋軒宗長が来山され、「東路の津登」に院々僧坊およそ500坊と記されたそうです。  
1590年(天正18年)7月、小田原北条氏に加担したため、豊臣秀吉に所領を没収されます。そのために日光山は衰退していきます。
児玉堂  
弘法大師が日光山に登り、四本竜寺に戻られてから、稲荷川に沿って開山堂のあたりを通り、滝尾山(たきのおさん)を開かれました。美しい滝があり、その流れが布をさらすように見えたり、糸のように見えたりするので「白糸の滝」と名をつけられました。  
滝のうしろに山がそびえ、その形が大きな亀が寝ているようなので「亀山」とつけました。そのふもとに大きな穴があって竜の棲家のようだったので、弘法大師は大竜穴と名づけて、そこに住むことにしました。  
竜穴の南に池があり「八葉蓮華池(はちようれんげいけ)」と呼び、その池のそばで7日間の修行をされました。不思議にも7日目に池の中から直径7センチほどの白い玉が浮かび出てきました。  
弘法大師はその玉に向かって「何者じゃ」と問われると、白い玉は「われは天補星(てんぽせい)でござる」と答えられました。弘法大師はありがたく、白い玉を袈裟に包んで持ち帰り、祠(ほこら)を建ててまつられました。これが現在、山内にある児玉堂です。  
それからまた、池のほとりでまじないを唱えると、今度は直径33センチもある大きな白い玉が浮かび出ました。弘法大師はますます喜んで「何者じゃ」と問われると、「われは妙見尊星でござる」と答えられました。白い玉は「この山は女体の神様のおられる所なので、その神をおまつりしてください。私の住む所は中禅寺です。末代になるにしたがって人々の心は悪くなります。ですから、私は人々の怠慢になる心を救いたい。」と告げてどこかに消えてしまいました。  
弘法大師は中禅寺に妙見大菩薩をまつられ、ますます熱心に修行を続けると、雲の中から天女の姿が現れました。たとえようのない美しさ、尊さ、あたりはよい香りにつつまれ、なんとも神々しいお姿です。弘法大師は竜穴の上に社堂を建て女神をまつられました。これが「滝尾大権現」で祭神は田心姫命(たごりひめのみこと)です。  
弘法大師は滝尾に永住しようとしましたが、京都に帰らなければならず、道珍に後を継がせて日光山を去ったと伝えらえています。
天海大僧正  
天海大僧正(慈眼大師)は会津大沼郡高田郷の人で、1536年(天文5年)生まれと伝えられています。幼名は兵太郎、10歳のとき随風といい、55歳のとき天海と改められました。  
幼少より聡明で、14歳のとき宇都宮の粉川寺の皇舜僧正のもとで学び、更に比叡山、三井寺、奈良の興福寺、足利学校、上野の善昌寺などで天台、法相、三論、禅、日本の古文学、儒教などを研究されました。数々の寺院の住持となられ、その間に武田信玄、後陽成天皇などに法を説き、1610年(慶長15年)75歳のとき、駿府城にて始めて徳川家康のまえで論議を開きました。この時、家康は68歳でしたが、天海に感銘され「もっと早く天海に逢いたかった。」と言われたそうです。 1613年(慶長18年)78歳のとき、日光山の住職となられました。天海が生前、家康に仕えたのは7年間で、のち二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕え、各将軍の家庭教師・政治顧問・相談役・黒衣の宰相として徳川のために尽力されました。  
1616年(元和2年)75歳で家康が亡くなられます。天海は、以前より残された遺言によって東照宮の造営を差配されます。1617年(元和3年)3月に完成、これを「元和の造営」といいます。後の家康二十一回忌の法要を機会に三代将軍家光とともに大改修を計画され、1636年(寛永13年)3月に現在の華麗なる社殿を造りあげました。これを「寛永の大造替」といいます。  
天海の功績により、この頃の日光山は20院80坊、数百人の僧侶と社家、奉仕人で賑わっていたと伝えられています。  
薬師堂、妙道院、相輪とうなどを残され、三将軍に仕え、江戸の寛永寺と日光山の住職として活躍し1643年(寛永20年)東叡山において108歳で亡くなられたと伝えられています。天海によって日光山は空前の繁栄をし、その功績をたたえ「日光中興の祖」と称されています。  
遺言により日光の大黒山に埋葬され、墓石は巨大な五輪塔で、近世における代表作ともいわれ、信仰の対象としてはもちろんのこと、芸術的にも貴重なものだといわれています。墓所に拝殿を建てて「慈眼堂」と称しています。そののち、日本で7番目のお大師様となりました。日光では「お大師様」といえば慈恵・慈眼の両大師のことになります。  
天海の残されたご遺訓なかに「気は長く、勤めは堅く、色うすく、食細くして、心広かれ」とあります。これを守ると108歳まで長生きできるとか、少しでも近づきたいものですね。
明智平  
日光中禅寺に向かう いろは坂を登ると素晴らしい景色が見られる明智平があります。名づけたのは天海大僧正といわれています。  
天海は「明智光秀」であるという説があります。  
明智光秀は本能寺で織田信長を討ち、京都の合戦に敗れ竹やりに襲われ亡くなったと伝えられていますが、襲われたのは影武者で、光秀は天台宗総本山の比叡山に身を寄せたというのです。  
寺では、信長に焼き討ちをされたので、その敵を討ってくれた光秀を優遇したといわれています。長寿院にて是春と名のり、剃髪して仏教を学んだそうです。  
比叡山の文庫のなかに大僧都にまでなった光秀の名がはっきりと記載されてあるそうです。  
光秀は、天海として家光に色々と教示し、その天海が昔の名をどこかに残しておきたくて、日光で一番眺めのよい場所を「明智平」と命名したと伝えられています。  
比叡山長寿院にも、願主光秀、慶長20年2月17日の日付で灯籠が寄進されているそうです。
将軍家康・家光ここに眠る  
天下人となられた徳川家康は、日本国中どこにでも墓所を建てられる権力者です。どうして日光を選んだのでしょう。それは、日光が日本国中で最もすばらしい聖地だからだと言われる方がおります。  
家康は生前、日光に一度も来ておりません。では、日光を知らなかったのか?いいえ、知っています。相談役であり政治顧問の天海大僧正からたくさんの話を聞いていたのです。ですから、家康は遺言を残します。「自分が死んだら遺体は久能山におさめ、葬儀は芝の増上寺で行ない、位牌は故郷の大樹寺に置き、一周忌が過ぎたら日光山に小さな堂を建ててまつりなさい。関八州(関東地方)の平和の守り神となろう。」そして、1616年(元和2年)4月、駿府で75歳の生涯を閉じられます。神としてまつられた徳川家康は、関八州のみならず日本全土の平和の守り神となられました。  
家康の両親は薬師信仰に篤く、峰の薬師(三河の鳳来寺)に祈願して生まれ、薬師如来の生まれ変わりだといわれています。東照大権現とは、「東に照る(東方薬師瑠璃光)如来が権りに現れた神」という意味なのだそうです。天海の一言で権現号が決まり、のちに宮号が与えられ東照宮と称するようになります。  
天海は、家康の遺言どうり1617年(元和3年)日光山に墓所を移します。  
二代将軍秀忠により社殿が完成されます。この時の建物は現在のような豪華さはありませんでした。これは、秀忠が極めてまじめな人で派手をこのまなかったからといわれています。秀忠が建てられた社殿の一部は、群馬県世良田の東照宮に移されましたが、これを「元和の造営」といい、日光の東照宮の創建とされます。  
1618年(元和4年)黒田長政により大石鳥居(日本三大石鳥居)が東照社に寄進されます。松平正綱は、1625年(寛永2年)から20年にわたり日光道中に杉並木を植えられています。これらのひとつひとつをとっても、家康の人柄が偲ばれます。1632年(寛永9年)秀忠が亡くなられ、家光が三代将軍となられます。  
家光は、常に祖父家康を尊敬し、なおかつ、神のように信仰されていました。その報恩のひとつの方法として、家康二十一回忌の法要を機会に大改修を計画します。  
現在のような華麗なる社殿が完成したのは1636年(寛永13年)の3月のことです。実に1年5ヶ月というスピード工事で、その神わざのような出来上がりには、甲良豊後守宗広(こうらぶんごのかみむねひろ)を大棟梁として、大阪城などの大建築にたずさわった経験者を京都、奈良方面から集めて完成されたといわれています。まさに、桃山時代から江戸初期にかけての建築技術や技巧を駆使された素晴らしいものです。これを「寛永の大造替」といいます。  
東照社の造り替えが完成するとオランダ商館から銅灯籠(どうとうろう)が贈られ、朝鮮使節が参詣され、春日局も来山しお参りされています。松平正信により杉並木寄進碑が建てられ、酒井忠勝より五重塔が贈られるなど、益々日光山は賑わっていきます。  
1645年(正保2年)東照社権現に宮号がくだされ東照宮と称するようになります。翌1646年(正保3年)に、朝廷よりの使いが来山され、これ以来、毎年恒例となり例幣使が始まります。  
家光は1651年(慶安4年)4月、48歳の生涯を閉じられます。遺命により、日光の大黒山に葬られます。祖父家康への孝心から「死んだあとも東照公(家康)のそばでお仕えする。遺骨を日光山に送り、慈眼堂のとなりに葬ってくれ」と遺言を残されたそうです。  
その遺志を受けた四代将軍家綱により1653年(承応2年)4月に大猷院(たいゆういん)が完成しました。遺命どおり大猷院は慈眼堂の北にあり、正面は東北の東照宮に向かって造られています。平内大隅守応勝(へいのうちおおすみのかみまさかつ)を最高技術者として建設され江戸時代初期の代表的建築とうたわれています。  
家光が東照宮以上のものを望まなかったので「細部の装飾は東照宮に遠慮し、簡素にすること」との方針で、金と黒を基本にし、目立たない部分に技巧が凝らされている素晴らしいものです。  
1868年(慶応4年)戊辰戦争が起こります。大鳥啓介の率いる旧幕府軍と、板垣退助の率いる官軍との決戦の場が日光に近づきます。当時の官軍の戦法は、大きな建物や人家を焼き払うことでした。日光の社寺も危ないというので、話合いのうえ、日光の地では戦争をしないことになりました。このとき命懸けで使命を果たした、厳亮(げんりょう)、道純(どうじゅん)、慈立(じりゅう)などの功績があったからこそ日光の社寺は守られたといわれています。  
時を同じくして、東照宮では身の危険を感じ、ご神体と神宝を長持に入れ、社家・神人(しゃけ・じにん)その他30人でこれを守り、密かに日光山を脱出されました。栗山、会津、出羽、仙台、大田原を経て、約7ヶ月ぶりに無事に日光山に戻られました。これを「神体動座」と称し一つの秘話となっています。  
1871年(明治4年)、神仏分離令が通達されます。このときから東照宮、輪王寺、二荒山神社に分かれ、神仏習合の歴史が覆されてしまいました。祖先の残された文化財が破壊される大事件となり、数年間続いたなかで日光の人々はこの悪令を非難し、山内の現状維持を訴え、1880年(明治13年)に願いが聞き届けられます。たくさんの日光を思う人たちによって現在の景観が守られたのです。  
1876年(明治9年)6月には、明治天皇が日光に訪れ「旧観を失わざるよう」と救いの手をさしのべられました。このとき明治天皇は現在の中禅寺湖にも訪れ「幸の湖(さちのうみ)」と名付けられています。  
観光地として名が知られている日光ですが、歴史をたどれば「神と仏の住む聖地」であり、世界に誇る文化財でもある日光を、もう一度訪れてみてはいかがでしょうか。 
平安時代の宇都宮  
京都に平安京がつくられ、都が移されたのは794年です。これから400年あまりを平安時代といいます。この時代のはじめは、律・令をおぎなう規則である格・式を定め、地方の政治もひきしめられました。しかし、都の造営や東北地方への遠征で財政がきびしくなり、しだいに地方政治もくずれていきます。  
朝廷では、9世紀のころから藤原氏がほかの貴族を退けて政治の実権をにぎり、摂関政治がつづきました。また、11世紀後半には、天皇が位を退いた後も上皇として引き続いて政治を行う院政が行われました。  
地方の国では、自分の領地を守るために武装した武士が誕生します。武士は皇族や貴族の子孫をかしら(棟梁)とし、主従関係を結んで武士団をつくっていきました。10世紀の前半、関東地方で平将門が乱を起こしたがこれをしずめたのも地方の武士団でした。武士団には源氏や平氏のように、都でも大きな力を持つほど成長したものもありました。  
下野国は、東北地方の豪族を押さえるために重要視され、下野薬師寺には、奈良時代に東日本で唯一の戒壇がおかれるなど、文化的な拠点ともなりました。  
このころ、宇都宮の中心部は河原や沼・池が多い湿地帯で、池辺郷と呼ばれていました。二荒山神社のすぐ南には大きな池があり、ここから神鏡が発見されたので鏡が池と呼ぶようになったと伝えられています。その西に残る池上町という地名はその名残だと考えられます。二荒山神社は、平安時代のはじめには、下野国の中心的な神社として認められていたと考えられています。  
平安時代の後半、現在の宇都宮城址公園のあたりに、その後の宇都宮城の元になる館が築かれたといわれています。築城者は、藤原秀郷とも藤原宗円ともいわれていますが確かな資料は残っていません。宇都宮系図の伝えるところによると、宗円は1053年に陸奥国鎮守府将軍となった源頼義にしたがい都からやってきた人物で、二荒山神社の社務職検校と宇都宮一帯の支配をまかされたとされています。それ以降、下野から常陸(ひたち)にかけての鬼怒川流域の支配権を約500年にわたってにぎる名族、宇都宮氏になったというわけです。  
この時代の集落跡は、瑞穂野団地遺跡など宇都宮市内でもたくさん見つかっています。このころの竪穴住居は一辺約4mと小型ですが、掘立柱建物や井戸も発見されています。また、住居跡からは紡錘車や鉄製の鎌・砥石などが出土していて、当時の生活の様子を知ることができます。  
弘法大師の伝承の残る大谷寺は、平安時代のはじめごろから庶民の信仰を集めていました。国の特別史跡・重要文化財である寺の本尊、千手観音像が彫られたのもこのころです。この時期は、日光山を開いた勝道上人や円仁が活躍した時代であり、下野国でも仏教文化の充実した時期です。 
今市宿(下野国) / 栃木県日光市今市  
日光街道の20番目の宿駅(宿場町)である。現在の栃木県日光市今市。  
今市宿は江戸時代に下野国都賀郡にあった宿場町。もと今村と呼ばれていたが宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われている。この宿は一街道の単なる一地方宿ではなく、日光街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿駅であった。  
日光例幣使街道と日光街道の追分には地蔵堂がある。ここに安置されているのは像高2mの石造地蔵菩薩坐像である。もと空海(弘法大師)が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏と云われ、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのをここに堂を建て安置したものと云われている。徳川吉宗が日光参詣した折、この地蔵が白幕で覆われているのを見て、後は白幕で覆わないよう命じ、この地蔵堂の後ろで朝鮮人参を育てさせたという。正確な造像時期は不明だが、室町時代頃の作と推定されている。  
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、今市宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が21軒あり、宿内の家数は236軒、人口は1,122人であった。 
●「名草の弁天様」厳島神社 / 足利市  
名草厳島神社・名草巨石群 / 弘仁年間弘法大師空海によって勧請されたと伝えられ、江戸時代中期には別当である金蔵院によって巨石の上に石宮、 後に弁財天像(現在も金蔵院弁財天堂に祀られる)が造立されました。江戸時代の祭典の際には、弁財天を運び祭礼を行っていたましたが、明治維新の神仏分離により、 厳島神社となり平成元年新たに弁財天を造立しました。鎮座している名草巨石群は国指定の天然記念物です。足利七福神めぐり社寺の一つで弁財天<福徳財宝・家内和合>の神社です。  
 
行道山浄因寺からさらに山奥へ入った場所。足利市の北部、名草という場所に昭和十四年に国の天然記念物に指定された巨石群がある。奇岩、巨石が多くあり、巨石群の中に厳島神社がある。もともとは名草弁財天として祀られていた場所で、明治の新仏分離令により改称しているが、今でも地元の人には「名草の弁天様」と慕われている。  
「名草の弁天様」の入り口に建つ鳥居。  
ここでの伝説は、弘法大師が天女のお告げにより江ノ島(神奈川県)で堂を建て修行していたということから始まる。護摩を焚き、その灰で弁天像を三対つくり、それぞれ三箇所に安置したそうだ。その場所は江ノ島、琵琶湖の武生島、そして足利の大勝寺。  
いつしか足利の弁天像が行方不明となってしまった。弘法大師は自らその探索に赴くことにした。この地に入ると、とても香りのよい風が吹いてきた。香りのもとへと足を向け、そのもとが草であることに気付く。これは名草(めいそう)だということで、地名の由来になったという。  
さらに山中をさまようと、突如現れたのが白蛇だった。弘法大師は弁天様の使いに違いないと思い、白蛇の導き通り後を追っていった。すると巨大な岩の前に出た。白蛇は岩の穴に入り、出てこなくなってしまう。弘法大師はこの地に霊示を感じ、この場所こそ弁天様を祀るにふさわしいとして、経文を唱えた。水源の守りに弁財天を勧請し、祠が建てられることになった。  
神社はその岩に建ち、江戸時代に現在の場所に再建された。  
科学的に見ると、大昔、この周辺は水成岩からできていて、ここへ地下からマグマが盛り上がり、約十万年の歳月を経て花崗岩になったらしい。さらに粗粒花崗岩が方状節理に沿って玉葱状に割れ、水に洗われ、風化することにより、球状に残った部分が折り重なったことにより、現在の巨石群ができあがったようである。  
天然記念物に指定されただけあって、貴重なものであるということが、よくわかる。  
ここも駐車場から歩いていくことになる。大きな朱塗りの鳥居を越え、なだらかな坂道が前方に開けてくる。途中までは舗装されているので歩きやすく、周囲の杉木立も手入れが行き届いてる。かなり快適な道だといえるだろう。途中左側にさきほどまでいた「行道山へのハイキングコース」入口がある。  
参道はやがて短い石段になった。ここに石で出来た鳥居がある。斜面に沿って登っていくと、上方に巨石が少しずつ見えてくる。弘法大師が白蛇に導かれながら、この巨石の間を通り抜けたというのも、何だか当然のような気がするから不思議だ。  
巨石群の中でも一際目立つ「弁慶の手割石」。巨大なおむすび型の岩が真っ二つに割れているのは圧巻。  
話には聞いていても、実際に眼にしてみると、印象が異なることはよくある。この巨石群も、突然現れてきた光景はそうでもないのだが、その場に立ってみると、異質な文明世界に入り込んだような気になり、事前の情報が一気に吹き飛んだ。「謎の巨石文明」とでも表現すればいいのだろうか、イギリスのストーンヘンジ、マルタ島のジュガンティア遺跡等々とはまったく異質ではあるものの、自然が創出した空間というより、太古の人間の神秘に満ちた信仰があるように思えてくる。これが太陽巨石信仰と直結することなく、弘法大師伝説が残るということに、お大師様の偉大さがわかるような気がする。  
そんな巨石群の中で、一際目立つのが「弁慶の手割石」。  
おむすび型の巨大な岩が真っ二つに割れているのは圧巻だ。また本殿を見上げる位置にあるのが、「胎内くぐり」。高さは10mを越えるだろう。岩に洞窟のような穴があり、案内板には潜り抜けると安産になると書かれている。  
本殿は断崖絶壁の不安定な岩の上に建っている。とても小さな社殿だが、この前に立つと、日常生活の苦悩も試練もいつの間にか消え失せ、瑣末なことでしかないと思えるだけの心の余裕が生まれてきた。この感覚を体験するためにここまで登ってきたのだとすれば、それはそれで何だか贅沢な気もしてくる。  
巨大な石が重なり合う場所に小さな祠が乗っている奥の院。  
本殿から「胎内くぐり」の頭上に到る橋を渡ると、奥にはまだまだ道が続いていた。奥の院へ向かう道である。沢に沿っていて、水の流れる音が心地よく、足取りが軽くなる。  
この沢では、水底に金色に輝く砂地を眼にすることもできる。砂金のように見えるが、花崗岩に含まれる金色の雲母が水に流され、堆積しているのだそうだ。  
奥の院には建物があるわけではない。巨大な石が重なり合う場所に小さな祠が乗っているだけだが、この周辺の巨石はかなりの迫力がある。  
近くには「天然記念物名草村ノ巨石群」という石碑がある。大鳥居の先の林道を車で進むと、迂回してこの奥の院に出てくるようだ。 
弘法の加持水 / 足利郡三和村板倉 
野州・足利(あしかが)在の養源寺(ようげんじ)の山の下の池などは、直径三尺ほどしかない小池ではありますが、これも弘法大師の加持水といい伝えて、信心深い人たちが汲んで行って飲むそうです。昔ある婦人が乳が足りなくて、赤ん坊を抱いて困り切っていたところへ、見馴れぬ旅僧が来てその話を聞き、しばらく祈念をしてから杖で地面を突きますと、そこから水が湧き出したのだそうです。これを自分で飲んでもよし、または乳のようにして小児に含ませても、必ず丈夫に育つであろうといって行きました。それが弘法大師であったということは、おおかた後に養源寺の人たちが、いい始めたことであろうと思います。  
白華山養源寺 (臨済宗妙心寺派)  
養源寺は、源義国を開基とし泰亀円了和尚(〜1152)を迎えて 開創されたと伝わります。ところで養源寺開基・源義国に関しては、その多くが定かでは有りません。例えば義国には「寳幢寺殿泰山觀東義大居士」と「青蓮寺殿覚阿宗岳梅翁」いうふたつの戒名が付けられています。後者の青蓮寺は、群馬県太田市岩松に現存し、近くに義国神社や義国の墓と言われる石碑も有り、義国の居住事実は孫の義清が納経した大般若経の奥書の記述からも知る事が出来ます。一方の寳幢寺は、その立地場所が確定されていません。僅かに古地図で「寳幢寺」と記された二か所を確認でき、そのひとつ(足利市緑町の八雲神社の場所)に建っていたと言われます。(八雲神社が現在の場所に移転されたのは明治になってからです。それまでは現在よりも低い場所に建てられて居ました。いずれにしても現在、寳幢寺の痕跡は確認できません。) 単なる憶測ですが、もしかすると養源寺こそ寳幢寺で有ったのかも知れません。因みに、足利氏初代・義康の戒名「鑁歳寺殿義山道達大居士」に有る、鑁歳寺の所在も未確定です。仮に養源寺が寳幢寺の跡であるならば、逆位置に有る光得寺も鑁歳寺の跡に義氏が再建したのかも知れません。いずれにしても自由な推測でしか有りません。養源寺が建てられて居る板倉は、先にも書いた通り江戸幕府の重臣・板倉家の本貫地でもあります。江戸時代の足利は、幕府領、旗本領、足利藩領、河内丹南藩領などが入り混じって居ました。板倉を領有していたのは河内丹南藩であり、板倉には代官が派遣されていたそうです。  
水塚 / 足利市板倉町  
伝説1 / この地に来た弘法大師が水が漲った沼を渡ることができなかった。通りかかった老婆は杖でやすやすと通ったので、その杖を借りようとしたが懐に隠して貸してくれなかった。やがて水がひけ、弘法大師は沼を渡り、老婆は杖とともに石となった。この地を「姥が懐」。  
伝説2 / 弘法大師がある水塚に一泊したところ蚊が多くて眠れなかった。そこで加持して蚊がこないようにしたのが「小林家の水塚」。 
神明宮 / 足利市南大町  
 芋の森伝説と弘法大師御加持水  
弘法の池 
当社の御神水は、境内「弘法の池」で足利市重要文化財「ニホンカワモズク」を育む清らかな沸水です。ニホンカワモズクは、淡水産紅藻類カワモズク科の新種で、湧水などの水温の変化の少ない清流に生息します。芋の森清明宮の境内、弘法の池に生息しているのを、昭和36年に南大町在住の高校生をとおして発見されました。弘法の池は、スギ林の北にあって、広さ、深さ、底から湧き出る清水の水温など、カワモズクの生育に最適の池です。学術研究上貴重なものであり、天然記念物・足利市重要文化財に指定され、大切に保護されております。  
石芋の由来  
平安朝時代、弘法大師(こうぼうだいし)が諸国を巡歴しておりました。たまたま南大町(当時大町村)の森の中から湧き出る泉のほとりに老婆がちょうど昼の仕事で里芋を洗っているところに出会い大師は、食べるものなく空腹を覚えましたので芋を少々恵んでくれと頼みましたところ、老婆は「この芋は石芋といって云って煮ても焼いても食べられない、と云って差し上げませんでした。大師は心よしとせず「それなら石芋にしてあげよう」と口中に呪文を唱え立ち去りました。老婆は早速芋を煮て食べようとしたところ、不思議に固くなってたべられず、そっくり前の泉に投げ捨ててしまいました。其の芋が、後になって芽を出し、今でも毎年しげっていると傳えられています。  
行道山浄因寺 / 栃木県足利市  
「関東の高野山」とも呼ばれる浄因寺は断崖絶壁に囲まれた山腹にあり、和銅6年(713)に行基上人(ぎょうきしょうにん)が開創と伝えられている。  
参道から山頂にかけ3万3千体といわれる大小の石仏や、右手を枕に西向きに寝ている寝釈迦(ねじゃか)があります。また、巨石の上には眺望絶景の建物「清心亭」があります。そこへ渡るために巨石から巨石に架けられた空中橋「天高橋」(てんこうきょう/あまのたかはし)は葛飾北斎が「足利行道山雲のかけ橋」として描きました。足利県立自然公園ハイキングコースのポイントでもあり、特に新緑や紅葉の時期の眺望は絶景。巨石の上に立つ清心亭や、参道に沿って点在する無数の石仏など、南画(山水画)さながらの景勝地として栃木県の名勝第1号に指定された。 
栃木県 
古代のヤマト王権が成立した時代には、栃木県の辺りは毛野川(けぬのかわ,現在の鬼怒川)が流れていて『毛野国(けぬのくに)』と呼ばれていましたが、毛野国は筑紫、出雲、吉備などと並ぶ当時の強力な政治拠点だったと推測されています。毛野国は奈良時代に『上毛野(上野)国』と『下毛野(下野)国』に分割されたと伝承されており、そのうちの下毛野国が7世紀に那須国と統合されて、現在の栃木県の原型となる『下野国』ができたのです。  
栃木県の県庁所在地の『宇都宮市(うつのみやし)』の名称は、出雲神を祀る二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)の別号である『宇都宮大明神』に由来しており、この神社では毛野国の開祖・豊城入彦命が祀られています。この神社の創建は西暦3〜4世紀とされ、日本国内の神社の中でも相当に古い神社です。二荒山神社は国造・下毛野氏の血縁者が代々座主を務めましたが、平安時代末期には藤原北家道兼流の毛野氏や中原氏の流れを汲む『宇都宮氏』が下野国の支配者となり、その後は約500年にわたってその地域の領主になりました。戦国時代には後北条氏が台頭して下野国一帯に勢力を伸ばしますが、宇都宮氏は常陸国・佐竹氏と一緒に後北条氏と向かい合いました。豊臣秀吉が後北条氏を関東征伐で滅ぼすと、宇都宮氏は備前国へと配流されて長年の拠点であった下野国(鬼怒川流域)を離れることになりました。  
宇都宮大明神と呼ばれる宇都宮二荒山神社は『武家』を守護する『武徳・尚武の神』として知られ、藤原北家魚名流・藤原秀郷(俵藤太,田原藤太)が、『平将門の乱』を鎮圧する際にこの神社から神秘の霊剣を授けられて将門を倒したと伝えられます。弓術の達人とされる藤原北家長家流・那須与一宗高も『治承・寿永の乱(源平合戦)』の屋島の戦いで『南無八幡大菩薩、日光権現、宇都宮、那須湯前大明神』と唱えてから、平家の船上の扇の的を射落としたという伝承が残されています。武家としての源氏の基礎を築いた源頼義、源義家(八幡太郎)父子も『前九年の役』の前に宇都宮大明神を参拝しており、奥州の安倍氏を鎮圧しています。鎌倉幕府を開いた源頼朝も奥州藤原氏の平定に際して参拝しており、徳川家康も二荒山神社に神領1,500石の特別な土地寄進を行っているのです。  
栃木県には近世江戸期に聖地とされ、現代でも観光地として賑わう『日光(日光市)』がありますが、日光開山の祖は勝道上人(しょうどうしょうにん)です。勝道上人は下野薬師寺で5年間の修行をして男体山(なんたいざん)を開山するという発願をして、766年に四本龍寺を建立しました。782年に3度目の試みで山頂にまで到達することに成功し、神宮寺(現在の中禅寺)を建立したことで日光1200年の信仰の歴史の基礎が築かれたのです。『日光』という地名の由来は真言宗の開祖である空海にあるとされ、『二荒(ふたら=補陀落:ポタラカ)』を音読した『にこう』から『にっこう』へと変化したとされます。古代の記紀類では『日光』の記述はなく『二荒』であることから二荒のほうが古い地名であることは明らかですが、鎌倉時代後期に『日光』という表記が文書に見られるようになってから、下野国内では千手観音や日光菩薩像が多く造立されて信仰拠点としての価値が高まってきたと考えられます。  
江戸時代には日光(日光市)は神君家康公を祀る『幕府の聖地』として認識されるようになりますが、日光は元々前述したように『武徳・尚武との結びつき』が強い東国の一大信仰拠点でした。家康の死後には豪華絢爛な『日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)』の建築物が陰陽道・道教の影響の下に建てられましたが、日光東照宮に彫られたり描かれたりした動物たち(眠り猫・見ざる聞かざる言わざるの三猿)は『永続的な平和の象徴』とされています。日光東照宮は徳川家康の『遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう』という遺言に基づいて建立されました。江戸時代の幕藩体制では宇都宮藩、壬生藩、烏山藩、黒羽藩、大田原藩、佐野藩、足利藩、吹上藩、高徳藩、喜連川藩の諸藩が置かれましたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では宇都宮藩は幕府に付いたわけではありませんが、官軍(新政府軍)として積極的に戦ったわけでもなく優柔不断な態度を取りました。  
大鳥圭介(おおとりけいすけ)が率いる幕府軍と官軍(新政府軍)が衝突する『宇都宮城の戦い』が行われましたが、板垣退助率いる官軍が勝利して、敗れた幕府軍は日光へと退却していきました。1868年(慶応4年)6月に、肥前藩士(現在の佐賀県)の鍋島道太郎が下野国の真岡知県事に任命されて、8月に日光領を新政府が没収しますが、新政府軍は旧幕府直轄地を支配するための布石として、まず真岡を押さえてから宇都宮・日光という『旧幕府の信仰拠点』を統治しようと考えました。  
1868年9月に、鍋島道太郎知県事は旧日光奉行所へと入り、翌1869年(明治2年)2月に行政区分を『日光県』と改称して日光に県庁が置かれました。この時点では栃木県ではなくこの地域は日光県と呼ばれていたわけですが、まだ宇都宮にまでは官軍の支配は十分に及んでいませんでした。日光は神君家康公を祀る日光東照宮があったことから、旧幕府の『政治的・宗教的な重要拠点』と見なされており、明治4年(1871年)の一律的な寺社領の没収よりも早い段階(明治2年)で、官軍によって没収されて日光県が置かれたということになります。  
明治維新後の1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)に『廃藩置県』が断行されますが、栃木県に当たる地域は1871年12月25日(旧暦11月14日)に下野国北部に『宇都宮県』が置かれ、また下野国南部と上野国南東部を併せて『栃木県』が置かれました。栃木県の設置に際しては、壬生県、吹上県、佐野県、足利県、日光県が統合されることになり、その県庁所在地と管轄区域は以下のようになりました。  
宇都宮県(県庁所在地は河内郡宇都宮)……旧下野国のうちの河内郡、塩谷郡、那須郡、芳賀郡を管轄。  
栃木県(県庁所在地は都賀郡栃木)……下野国のうちの都賀郡、寒川郡、安蘇郡、足利郡、梁田郡を管轄。上野国のうちの山田郡、新田郡、邑楽郡を管轄。  
この時点で栃木県の県庁所在地は『日光』ではなく『栃木』になっており、徳川将軍家由来の山中の信仰拠点である日光の存在感が薄れることになるのですが、栃木というのは1591年(天正19年)に小山氏の系統である皆川広照(みながわひろてる)が栃木城を築いて始まった商業・舟運(運輸)の町でした。『栃木』と比べると『日光』のほうが歴史的な権威や信仰拠点としての由来があり、全国的な知名度も上でしたが、明治新政府は徳川将軍家を守護する日光東照宮が置かれていたことに抵抗して、栃木のほうの地名を県名に採用し『日光県』を廃止したとも考えられます。歴史的な由緒や権威、知名度からすれば、『日光県・宇都宮県』の採用も有り得たかもしれませんが、結果としては『栃木県』という県名に落ち着くことになります。  
1873年(明治6年)6月15日に、宇都宮県と栃木県が合併することになり『栃木県』が成立し、県庁は栃木町に置くことが決められました。1876年(明治9年)に上野国内3郡が熊谷県の北半部(上野国内)と合併して群馬県の一部へと改変され、栃木県と群馬県はほぼ現在と同じ県域を持つことになります。1884年(明治17年)には、栃木県の県庁所在地は栃木町(栃木市)から現在の『宇都宮町(宇都宮市)』へと移されました。 
 
群馬県

 

●赤岩山 光恩寺 [通称・赤岩不動尊] / 群馬県邑楽郡千代田町赤岩  
弘法大師 弘仁5年(814) 再興開山  
光恩寺は、群馬県千代田町赤岩の利根川岸にある関東屈指の真言宗の古刹です。  
寺伝によると雄略天皇が穴穂宮のために、勅して全国に建立せられた九ケ寺の一つとされ、また推古天皇33年に高麗王より大和朝廷に貢された恵潅僧正が、当地に来往し、光恩寺を開かれたといわれます。のち、弘仁5年(814)弘法大師が諸国遊化の折当地に留まり、密教弘通の道場として再興開山せられたと云えられます。  
そののち兵火により殿堂を失うが、元亨元年(1321)後醍醐天皇は宇都宮公綱に奉行を命じ殿堂を再建され、 700石の朱印と「赤岩山光恩寺」の称号を下賜せられました。  
●子持神社 / 群馬県渋川市中郷  
弘法大師 修行  
人皇四十代天武天皇の御宇、伊勢国度会郡より荒人神が顕れ、上野国群馬郡白井保に児持山大明神として垂跡した。  
祭神は木花開耶姫命で、邇邇芸命・猿田彦大神・蛭子命・天鈿女命・大山祇神・大己貴命・手力雄命・須佐之男命を配祀。奥宮の祭神は日本武尊。  
『上野国神名帳』所載社(群馬東郡 従五位上 児持明神)。 旧・郷社。  
『子持山宮記』によると、日本武尊が東征の際に子持山に祈願して東国の平定を成し遂げ、地主神猿田彦大神・天鈿女命など七座の大神を祀った。 その後、仁徳天皇元年[313]に瓊々杵尊・木花開耶姫命の二神が高千穂の峯から子持山に影向した。  
『子持神社紀』によると、日本武尊が東国平定の際、上野国の国府に至り、豊城入彦命の娘の上妻媛を妃とした。 木花開耶姫命を子持山に奉斎して祈念したところ、忽ちに御子の岩鼓王が誕生したので、日本武尊は木花開耶姫命の神徳を称え奉り、子持山姫神と号して崇敬した。  
『子持山大神紀』によると、弘法大師が東国巡遊中に子持山の奥の院に分け入り、激しい雷雨に襲われた。弘法大師は岩屋に籠って子持山姫神を祈念し、七星如意輪供の秘法を修行して、本地仏の如意輪観音を岩屋に安置した。  
『上野国志』は『先代旧事本紀大成経』巻第七十一(神社本紀)に基づき、金橋宮天皇[安閑天皇]の御代に磐筒女大神が鎮座したとする。 
●里見郷 / 高崎市  
弘法大師 伝承  
(さとみのさと) 群馬県内の烏川流域の古称である。旧榛名町の烏川南岸、旧里見村 (群馬県)がこれに該当する。現在の高崎市榛名支所の上里見町・中里見町・下里見町・上大島町に相当する。贈鎮守府将軍・新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)が上野国碓氷郡里見郷に移り、その地の名を苗字としたとの伝承もある。  
「里見村誌」によれば、「里見郷」の由来と伝承されているものは二つあるとしている。  
景行天皇26年頃(97年)、東国平定を終えて、日本武尊一行が吾嬬山から峰づたいに密林地帯を幾日も困難を極めた征旅を続け、今の里見連山の峰づたいに差し掛かった時、人家や田畑をはるか東方に見えたので思わず「小里見えたり」と一行大いに喜んだ。これを伝え聞いた里人は里を「里見」と称するようになった。  
豊城入彦命の子孫に「佐太の臣」と称する人があって、この地に居を構えた。その名「サタノオミ」が段々変って「サトミ」となった。  
しかし、両説とも伝承の域を超えず、はっきりしない。おそらく「里見郷」の由来は、中世この地の地頭職であった里見氏から名づけられたものであるともいえるし、又里見に住して里見性を名乗ったともいえると「里見村誌」は結論付けている。  
間野の弘法井戸 / 弘法大師が間野に立ち寄り水を貰う。間野は高台に有る為、水汲みが大変という村民の嘆きを聞き井戸を掘る。  
石芋伝承 / 烏川対岸の室田村では弘法大師が所望する芋を渡すのを惜しんだため、付近の芋が法力で食べられなくなる。 
●三国大権現 / 群馬県利根郡みなかみ町  
弘法大師 三国峠越  
御阪三社神社は、上野赤城明神、信濃諏訪明神、越後弥彦明神の一宮が祀られている。上野国、信濃国、越後国の国境とした神社とのこと。明神が権現となったのは上杉謙信の仏教信仰から来たものである。明治元年の廃仏棄却により、「三国権現」と呼ぶことを禁じられ、現在は「御阪三社神社」という。三国トンネルの脇にある三国峠登口より山道を30分程登る。途中には「三国権現大清水」もあり、清水を飲むことも出来る。  
三国峠を越えた人々の碑 / 三国大権現(御阪三神社)の社前にある「三国峠を越えた人々」の碑。ここは元々は三国街道になっており、その為、碑には古くは「坂上田村麿」「弘法大師」から、「上杉謙信」「西園寺公望」「原敬」「伊能忠敬」「与謝野晶子」「川端康成」「北原白秋」等の著名な名前が見ることが出来る。この中に、三国峠の戦いで戦死した会津藩士「町野久吉」の名前も刻まれている。 
●弘法大師 / 群馬県利根郡片品村  
弘法大師 大同2年(807) 伝承  
大同二年のこと、弘法大師は諸国巡錫中、土井出の庄古伸に立ち寄られ、ここに安楽寿院を建立されたという。 
 
各願山来迎院 西慶寺 / 太田市鳥山上町  
勝道上人 大同二年(807) [『寺院名鑑』延暦十六年(797)] 開山  
県道足利・伊勢崎線の石橋十字路から、太田に向かう県道太田・大問々線の東に入った所に真言宗の西慶寺がある。参道から山門に入ると鐘楼門があり、正面に本堂、その右に庫裏、左に不動堂、そして本堂の裏に墓地があり、その入り口には石造の六地蔵と水子地蔵尊がまつられている。  
寺伝によると、西慶寺は日光山を開いた名僧勝道上人が大同二年(八〇七)(『寺院名鑑』では延暦十六年=七九七=ころとする)に開基したと伝える古刹である。その後、新田氏の祖新田義重が保元二年(一一五七)に左衛門督藤原忠雅から新田荘の下司職に補任され、寺尾の郷に居住し、西慶寺を鬼門になぞらえて祈願寺として尊び、水田を寄進したという。時代がさがって、元弘三年(一三三三)に新田義貞が鎌倉を攻めるに際し、西慶寺の不動明王に戦勝を祈願して陣鎌と鑓を奉納した。不動明王はこれに感応して天狗や山伏と化して越後の新田氏(鳥山氏)に義貞の挙兵を触れた。そこで一族は、大挙して義貞軍にはせ参じた。それ故に、この不動明王を「新田の触れ不動尊」と称されている。触れ不動尊の同様の伝承は、尾島町の明王院安養寺にも伝わっている。  
『上野国志』によると、観応年間(一三五〇〜一三五二)(『上野国郡村誌』では貞和=一三四五〜一三五〇=年中としている)に鳥山の右近将監頼仲が良覚法印を中興開山として再興した。古くは延命山鵬鳥山寺と称したが、後に各願山来迎院東蔵防西慶寺となり、村田宝蔵寺の末寺となった。一方、西慶寺の創建は南北朝期末の嘉慶二年(一三八八)だとするのが、足利市小俣鶏足寺の、世代血脈」である。これによると、第三十一代祖師良覚は上鳥山の峯崎という人物を頼って小庵を構え、村田村宝蔵寺の頼覚を師として仏法を修行し、明徳四年(一三九三)十一月十五日に綿打村大慶寺空覚と頼覚の指導を受けて伝法潅頂を執行した。そしてこの小庵の所に西慶寺を建てたとするものである。西慶寺は良覚以後、鶏足寺の系統を継ぐ末寺二十五寺の本寺として寺運は栄えたが、第二十一世真浄代の天明四年(一七八四、『上野国郡村誌』では、寛文元年=一六六一)に本堂が焼失したため、天明八年(一七八八)に再建し、本尊阿弥陀如来三尊を安置した。  
明治十二年(一八七九)六月三十日調査による『上野国新田郡寺院明細帳』では、本堂間口一〇問、奥行き七間半、境内二、四三三坪、不動堂の本尊は不動明王で由緒は不詳、堂宇は方四間、壇徒八十六人とある。この不動堂は第二十五世浄蓮代の文政六年(一八二三)の建立で、安置されている不動明王は新田触れ不動尊で、像高二尺余の木造立像である。不動明王は一般に像の後ろに光背(火熔光)を有するが、西慶寺の明王にはそれがない。顔は悪魔降伏の憤怒の相をし、左手には命あるものを救う象徴の羅索を、右手には降魔の剣を持っている。鐘楼門上にある百字真言鐘(梵鐘で、仏陀の教えを百字で表し、五字四行を一区として全部で五百字の梵字による真言を陽鋳したもの)は、西慶寺第十九世祐弘が新田義貞迫善のために寛保二年(一七四二)二月に佐野天明(栃木県)の長谷川弥市・山崎吉兵衛の鋳造により完成したものである。鐘銘には触れ不動の由来や「新田触不動御仏前、源光院殿後追薦(善)」などの文字や多数の僧名などが鋳出されている。源光院は、義貞の法号である。庫裏は、昭和五十五年(一九八○)に現在のものに造り変えられた。  
袈裟丸山 / 栃木県・群馬県  
袈裟丸山(けさまるやま)は栃木県日光市・群馬県沼田市と群馬県みどり市にまたがる火山(活火山以外の火山)であり、複数ある前袈裟丸山・中袈裟丸山・後袈裟丸山・奥袈裟丸山・法師岳の総称のこと。一般には前袈裟丸山がこう呼ばれる。標高は1,878m(前袈裟丸山)。最高点は奥袈裟丸山の標高点1,961m。袈裟丸連峰。名所としては寝釈迦像が有名。  
まだ誰も居ない桐生駅。わたらせ渓谷鉄道は、今ではトロッコ列車も運行する観光主体の路線となった。翌朝、まだ町が目覚めない時刻に桐生駅からわたらせ渓谷鉄道に乗車する。国鉄時代は足尾線といい、鉱毒事件で有名になった足尾銅山まで、渡良瀬川に沿って走る路線である。現在は第三セクターで運営され、トロッコ列車も運行する観光主体の路線となった。列車は桐生市街地から徐々に山間部に入っていった。かつて鉱毒を流した渡良瀬川も今では自然豊かな水を運び、のどかな流れが右手に見えてくる。  
草木ダム横の長いトンネルを越え、ダム湖を渡ると沢入駅に到着する。約一時間二十分の乗車だった。ログハウス風のきれいな駅舎を出て、渡良瀬川を今度は徒歩で渡る。いよいよ本格的な山岳地帯に突入だ。雲すら突き通すほどの太陽の輝きの下、足取り軽く林道へと進んでいく。  
袈裟丸山は初心者向きとはいい難い山で、観光地化という世俗的な波に覆い隠されてはいない。群馬・栃木両県に跨り、南北に長大な山体を有している。  
この山の由来というのは、当然、弘法大師伝説がもとになっている。入唐求法の旅を終えた弘法大師が赤城山に高野山と同じ道場を開こうとしたところ、赤城の神は仏の地になることを嫌い、谷を一つ隠し、九百九十九しか現さなかった。道場とする条件には千の谷が必要だということで、弘法大師は残り一谷を捜し、この地にやってきた。しかしここにも谷はなく、大いに落胆し、袈裟を丸めてこの山に置いて下りたことから、袈裟丸山という名がついたというものらしい。  
実はこれと似た伝説はいたるところにあり、例えば赤城と並ぶ群馬の名山・榛名山にも九十九谷という伝説がある。こちらでは谷を一つ隠したのは天狗といわれている。  
標高は2,000m弱で、前袈裟丸、中袈裟丸、後袈裟丸、奥袈裟丸の四つの峰が聳えている。一般的には前袈裟丸を袈裟丸山とよび、登山道もここまでは比較的整備されているらしい。  
登山口としては、塔ノ沢口、折場口、郡界尾根口とあるが、駅から比較的行きやすい塔ノ沢から登ることにした。林道が通じているので、車でそこまで行くことも出来るが、今回はあえて徒歩で向かうことにした。塔ノ沢の登山口は、五台くらいは停められる駐車場と、入山届を出すポスト、トイレなどがある。ここから沢に沿って登り始める。  
登山口から約1時間、2キロ弱を登ると「寝釈迦」の入り口。  
周囲は沢の音だけがこだまし、他の登山客もいないせいか、厳粛な感じさえしてきた。昨日の行道山や巨石群とは明らかに異なる山の雰囲気である。伝説通りであれば、弘法大師の偉大さを知った赤城の神が、己の聖域を守るために仕掛けた場所となる。赤城の神は日光の男体山とも戦ったほどの勇敢さを持っていることから、訪問者を排他的に扱ってくる場合、どんな仕打ちをしてくるか分からない。弘法大師ほどの力のない庶民としては、厳粛に、神聖にこの山を登る他あるまい。  
登山道は、昨日同様大きな石に囲まれた場所を貫いている。沢は進行方向左手。支流の小さな沢は、木が掛けられただけの橋を渡って進む。傾斜がきつくなり、息が切れ、木陰の心地よさが消え、全身が汗まみれになってきた。  
前髪から垂れてくる汗を拭い、斜面前方に視線が向くと、不思議な岩があるのに気付いた。人工的な石垣のような岩だ。規則正しく幾何学的な裂け目があるので、自然のものには思えない。ガイドブックにも登山の紀行文にも記述がないので、この山では特段珍しいわけではないのかもしれない。ただ、昨日の巨石群を見ているせいか、ここにも巨石文明があったのではないかという妄想が膨らんでくる。  
登山口から約1時間、2キロ弱を登ると、ようやく寝釈迦に到着した。昨日の行道山で見た「かわいい」寝釈迦像と比較するのも興味がある。ここの像は沢沿いの大きな岩の上にあった。足に力を込めて岩を登り、ようやく眼にすることができる。幅1.8m、縦4mという巨大なお釈迦様(上)と、まるで人工物のような対岸に聳え立つ高さ18mの相輪塔。巨大だ。幅1.8m、縦4mという大きさで、掌に乗るような行道山のものとは、存在自体が異なっている。  
この寝釈迦像は北を枕に西方を向き、右脇を下にして横たわっている。いつ、誰によって作られたのかは不明だということだが、ここでも弘法大師説があり、また勝道上人説などもある。しかし制作年代は決して古いわけではなく、江戸時代に足尾銅山に送り込まれ、死亡した多くの因人の菩提を弔う為に刻まれたという説が真実かもしれない。  
この対岸には高さ18mの相輪塔がある。石を人工的に積み重ねたような不思議な岩で、まさに奇岩といえる。  
この相輪塔にも伝説がある。この岩は、さきほど列車を降りた沢入という場所にあり、女性の信仰を集めていたそうである。彼女たちが塔に上がるので、天狗がそれを嫌がり、一夜のうちにこの場所まで持ってきてしまったというのである。その際に上の石から積み上げたため、不思議な形になってしまったという。  
神秘的な相輪塔と、偉大なる信仰心の表象ともいうべき寝釈迦をあとに、さらに山奥へ入っていくこととする。沢筋をさらに進み、笹に覆われた道が唐松とツツジの林を貫く。沢を渡る木の橋もなくなってきた。突然階段が現れ、その先には避難小屋がある。本格的登山をしていることに改めて気付かされる。  
自分の体に鞭打つようにして、ようやく視界が開けた場所に到着した。標高は1550m。 
袈裟丸山・賽の河原 / 群馬県みどり市  
黒く焼けたような色の火山岩が付近一帯に転がっている「賽の河原」  
ここは賽の河原とよばれ、袈裟丸山の中腹に開ける異様な世界だ。ここだけ木がなく、黒く焼けたような色の岩が、付近一帯に転がっている。岩は火山岩で、古よりここを訪れた人々によって石が積み上げられたのだろう。その積まれた姿が、荒れ果てた古い墓地のようにも見える。畏怖により、火照った全身を一気に冷やすようだ。登山口から約二時間、異界の地に到着といった感慨を持ってしまう。  
ここにも弘法大師の伝説がある。大師が、夜、ここを通ったときのこと、赤鬼・青鬼に責められながら、数人の子供たちが石を積み上げていた。弘法大師はこれを見て、三夜看径して済度したというものである。  
賽の河原を少し歩くと、袈裟丸山の稜線がはっきりと見えてきた。青い空、肌を突き刺すほどに鋭い太陽光線、澄んだ空気、さらにいえば赤城の神に守られた聖域……。弘法大師伝説に導かれ、この神秘の山に到ったことを何だか誇りにさえ思えてきた。疲労感はすべて消えていないものの、いつの間にか全身を纏う不快感は、この一瞬に消失したようである。  
風も、千年以上前から現在、そして未来へと向かって吹いているようだ。  
(赤城周辺には“死者の魂は赤城にのぼる”“旧4月8日に赤城山に登ると死者に会える”という言い伝えがあった。袈裟丸山にも“その年に子どもを亡くした人が賽の河原に行くと死者に会える”という言い伝えがあり、寝釈迦に参拝した後で賽の河原に登って石を積んだという。とくに旧暦4月8日は寝釈迦の祭日になっていることから、地元の僧が寝釈迦に行き祈祷を行った。(赤城山と同様に)この日に登ると死者に会えるということで、この日に登る人も多かった。戦前は村人や銅山関係者が詣でてにぎわったが、戦後はすたれていった。)  
袈裟丸山の山名について  
日光白根山から皇海山を経て南北に連なる足尾山塊主脈の南端に聳える雄峰が袈裟丸山である。主脈はこの山を最後に高度を減じ、やがて渡良瀬川に没する。  
1958mの奥袈裟を始め前袈裟・後袈裟・中袈裟・法師岳が当面に懸崖を掛け鋸状に峰を連ねて、周囲に大きな尾根を延ばしている。  
関東平野北部から望む山容は両毛の名峰たるに恥じない。中でも桐生と伊勢崎の間からの景観が最も雄大で、赤城山の右後方に尾根を左右に延ばした端正な双耳峰を仰ぐことができる。  
袈裟丸山の山名の由来について、群馬県側の地元勢多郡東村に次のような伝説がある。それによると、弘法大師が赤城山を開山しようとしたところ、赤城山の山神は仏教の地となることを嫌い一つ谷を隠して九百九十九谷しか現わさなかったので、開山に必要な千谷に満たなかった。大師は残りの一谷を探して袈裟丸山まで来たが、ここでも見付けることができず、着ていた袈裟を丸め山に投げ付けて開山を諦めて帰った。  
これ以外に、赤城山を開山しようとしたのではなく、はじめから袈裟丸山自体を開山しようとしたのだという伝説もある。  
西麓の利根郡利根村根利にも同じような伝説がある。いわゆる九十九谷伝説である。弘法大師に因んだ同様な伝説は他にもあり、弘法大師が実際に訪れたかどうかはともかくとして、これを持って山名の由来とすることは適当ではないと思われる。この伝説は後世になって作られたものであろう。  
そこで、袈裟丸山という呼称がいつ頃から使用されていたのか文献を調査したところ、古い図書には記載がなく、この呼称は比較的新しく主に明治以降のものであることが判明した。  
一八四二年(天保十三年)発行の富士見十三州与地之全図「上野国」には袈裟丸山の記載はなく、その位置に「大ケサ山」「小ケサ山」が記載されている。一七七四(安永三年)に発行された毛呂權蔵の上野国志には、勢多郡の部に「大袈裟山」「小袈裟山」があり次のように記載されている。  
大袈裟山 小ケサ山の南、下野界にあり、下野にて二子山と云  
小袈裟山 下野界にあり、利根郡さく山の南なり、野州にて二子山と云  
さく山は、小暮理太郎の考察によって現在の皇海山であることが明らかにされているので、上野と下野の境(両毛国境)の皇海山南方に小袈裟山・大袈裟山があることになる。これは現在の袈裟丸山にほかならず、江戸時代には大袈裟山・小袈裟山と称していたことが分る。  
さらに明治以降の地図を調査したところ、明治時代においても大ケサ山・小ケサ山、あるいは大袈裟山・小袈裟山が記載されている。  
一方、「袈裟丸山」が初めて登場するのは、一八七七年(明治十年)に編纂された上野国郡村誌勢多郡小中村の中においてである。  
また、群馬県地図における山名の変遷を見てみると、明治末頃から大袈裟山・小袈裟山に替わって大袈裟丸山・小袈裟丸山になり、昭和以降は全て袈裟丸山に統一されている。  
以上は群馬県側の文献に基づくものである。  
栃木県側の資料は調査不十分だが、下野国誌には袈裟丸山の名は見られず、隣接する二子山だけが記載されている。その中で、二子山は両毛国境にあって庚申山に連なる旨が記載されており、先に取り上げた上野国志に大袈裟山・小袈裟山が「二子山と云」ということを考え合すと、栃木県側では袈裟丸山を二子山と呼んでいたのかもしれない。明治になって地図を作成した際に、群馬県側の名称を採用し、栃木県側の名称を隣接する現在の二子山に持ってきたものとも考えられるが、必ずしも断定できない。  
いずれにせよ袈裟丸山の名称は群馬県側のものであり、袈裟山が袈裟丸山になったことは事実である。  
「丸」について  
では、何故「丸」が付け加えられたのであろうか。  
丹沢や大菩薩周辺では、桧洞丸・畦ケ丸・大蔵高丸など丸の付く山名が多くある。これらの地方は朝鮮半島からの帰化人が多く、「マル」は山を意味する朝鮮語系の呼称であることが明らかにされている。この呼称はこれら一部の地区だけでなく日本国内に広範囲に分布していることから、両毛地区にも山のことをマルと称する風習があった可能性が考えられる。両毛地方に直接マルが付く山名はないが、袈裟丸山周辺にマルの付く地名が幾つかある。袈裟丸山に源を発す小中川下流の東村小中に「袖丸」という集落がある。東村に隣接する黒保根村上田沢には「涌丸」という集落があり、更に東村には「枝丸」という地名がある。  
山を示すマルが集落に使用される例は各所にあるので、この地方において山をマルと称する風習があったことがこの事実から推察される。すなわち、袈裟丸山の「丸」は山を意味するマルであろう。  
古文献・古地図にはケサ山と記載されているが、おそらく地元ではケサ丸と呼んでいたのではなかろうか。その後、ケサ丸に更に山が付け加えられて袈裟丸山になったものと考えられる。古地図にはケサ山と記載されているが、地元で作成した上野国郡村誌においては「丸」が付いていることからもそれが推察されるのである。  
「袈裟」について  
次に、袈裟丸山の「袈裟」の由来は何であろうか。袈裟は梵語(サンスクリット)の「カーシャーヤ」の音字であり、現在は梵語に起源を持つ仏教用語となっている。このことから仏教用語としての「袈裟山」であるとする解釈が考えられる。  
山岳信仰のあった山に梵語にかかわる名称が多いことから、仏教用語としての袈裟であるとすると、袈裟丸山と山岳信仰との関連を考慮する必要がある。袈裟丸山に山岳修験が入っていた文献や遺跡を見い出すことはできないが、寝釈迦・相輪塔や賽の河原の存在と南画風の峨々たる山容を併せ考えると、修験の対象になっていたことは十分考えられる。  
近接する日光山は奈良時代に勝道上人によって開山された史実があり、赤城山も同じ頃開山されている。袈裟丸山の属する足尾山塊の他の山については、庚申山が勝道上人によって開山され、北部の白根山・錫ケ岳・宿堂坊山及び黒桧岳は日光山の修験者によって山岳宗教の対象に去れた。(三峰五禅頂の夏峰及び黒桧岳禅頂・白根山禅頂)  
これら近接する地域における開山の状況や修験者の足跡に、いかにも修験者好みの袈裟丸山の峨々たる山容を考え併せれば、おそらく袈裟丸山も山岳宗教の対象にされたであろう。  
その後、山岳宗教が衰退し永い年月の経過によりその痕跡は全く失われてしまったのではないだろうか。中腹にある寝釈迦の作製年代については明らかでないが、江戸時代との説が有力である。そうだとすると、その作製理由は山岳宗教再興の試みであったかもしれない。  
冒頭に掲げた弘法大師の伝説は、袈裟丸山が修験者によって開山されたことを示唆しているのかもしれない。  
以上のことから、おそらく「袈裟」は山岳宗教に由来する名称であろう。  
他の地名との比較  
地名を考察する際の一般的方法として、その固有の起源について調査するとともに、他の同じ地名を比較調査することが挙げられる。同じ地名は同種の起原に由来することが多いからである。  
袈裟丸という地名は、私の知っている限りでも幾つか挙げられる。まず、利根郡の湯桧曽川源流部の支流に「ケサ丸沢」があり、群馬郡倉淵村の烏川の上流部には「袈裟丸沢」及び「袈裟丸山」がある。特に、後者に至っては全く同一の名称である。この山は烏川右岸にある1142mの岩峰で、角落山の北北東に位置する。  
この付近には三ツ丸という地名があり、これが名称を考える手がかりを与えてくれるかもしれない。  
また、福岡県にも「袈裟丸」という集落がある。  
今まで古地図に記載されている「ケサ山」に着目し、名称を「袈裟」と「丸」に分けて考察を進めて来たが、以上のような同じ地名の存在から「袈裟丸」が固有の意味を持つ場合も考えられる。残念ながら以上の三例については未調査でその由来は不明であり、袈裟丸が固有の意味を持つ可能性は否定できない。今後研究の必要があると思われる。  
最後に、古文献・古地図に記載されている大ケサ山・小ケサ山という名称について考えると、一つの山を二つに分けて呼んでいるのは奇妙に思われる。袈裟丸山は南北に細長い連峰なので、これを二つに区分して現在の前袈裟方面を大ケサ山、奥袈裟方面を小ケサ山とする解釈が考えられるが、地形的には不自然の観を免れ得ない。  
江戸時代の絵図及び上野国志によると、サク山の南に小ケサ山・大ケサ山と続いている。サク山は皇海山なので、現在の鋸山が小ケサ山、袈裟丸山が大ケサ山であると考えるのが妥当ではないだろうか。  
そして、古地図に記載された大ケサ山・小ケサ山を次代以降の地図が単純に踏襲して明治時代の地図に記載されたものと思われる。以上が袈裟丸山の山名についての考察である。  
もとより、私は地名の研究者でも専門家でもないが、郷土の山袈裟丸山に関心を持つ登山者の一人として、拙い考察を試みた次第である。独断と誤謬が少なくないと思われるので、識者の叱正を得られれば幸いである。  
参考に、調べた地図の発行年と記載の山名及び直接引用しなかった文献を記す。  
富士見十三州与地之全図 1842年(天保13年) 大ケサ山・小ケサ山  
上野与地全図 大ケサ山・小ケサ山  
上野国地図        1889年(明治22年) 大ケサ山・小ケサ山  
分県上野新図       1893年(明治23年) 大ケサ山・小ケサ山  
大日本名蹟図誌     1901年(明治34年) 大袈裟山・小袈裟山  
群馬県管内全図     1904年(明治37年) 大袈裟丸山・小袈裟丸山  
大日本分県地図     1907年(明治40年) 大袈裟丸山・小袈裟丸山  
群馬県管内全図     1928年(昭和03年) 袈裟丸山  
上毛新聞付録地図    1928年(昭和03年) 大袈裟丸山・小袈裟丸山  
群馬県管内全図     1929年(昭和04年) 袈裟丸山  
下野国誌1850年(嘉永03年) 二子山安蘇郡足尾郷の山つづきにて、日光山より上野国へ越る山中にあり上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本庚申山安蘇郡足尾郷赤岩と云う所にあり、二子山の峰つづきなり、日光山より上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本西の方にありて、七里許あり  
上野国郡村誌       1877年(明治10年)  
勢多郡小中村 / 上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本袈裟丸山其高サ周回等不祥本村西北ノ方位ナアリ反別三百町歩官有ニ属ス嶺上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本郡根利村ニ属シ南ハ本村上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本ニ属ス山脈丑ノ方下野国都賀郡足尾村庚申山ニ連ル  
鹿流川 / 上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本水源袈裟丸山ヨリ発シ字番小屋ニテ大袈裟袈裟川落合又字コフキニ至テ野沢上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本川落合三水相合シテ南方ニ流帯シテ渡良瀬川ニ入ル  
山上多重塔 / 群馬県桐生市新里町  
「如法経」とは法の如く書写した経典のことで、多くは法華経を如法清浄に書写することをいいます。一般的な説では天長10年(833)に円仁が比叡山横川で始めたとされますが、如法経との表現自体は天平勝宝4年(752)5月16日の「自所々請来経帳」をはじめ古文献に散見され、近年の研究により「山上多重塔」が紹介されています。  
山上多重塔は赤城山南麓の舌状台地にあり、周囲は広大な草原、畑で赤城山の悠々たる姿を一望に収めます。所在は群馬県勢多郡新里村でしたが、現在は合併により群馬県桐生市新里町山上2555となりました。国指定の重要文化財として正式には「塔婆〈石造三重塔〉」ですが、通称の山上多重塔と呼ばれることが多いようです。多重塔は明治時代後半の開墾により近くで発見、その後現在地に移されて覆屋に納められ、礎石はコンクリートで固められました。最初に造り立てられた場所も、現在の所在地周辺ではないかと推測されています。材質は多孔質の安山岩を加工したもので、上から相輪、屋蓋、塔身、礎石で構成され、塔身上部に穿たれた円形状の穴には銘文にある「如法経」を納めたと考えられます。  
銘文は塔身の上層、中層、下層に分けて南面から西面、北面、東面へと横に刻まれ、上層に「如法経坐 奉為朝庭 神祇父母 衆生含霊」、中層に「小師道 輪延暦 廿年七 月十七日」、下層には「為兪无間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」と書かれています。読み下せば「如法経の坐である。朝庭(廷)、神祇、父母、衆生、含霊の為に奉る。小師道輪、延暦二十年七月十七日。無限に苦を受ける衆生を兪し、永く安楽を得て彼岸に登らせんが為に。」となるでしょうか。この銘文により、朝廷、神祇、父母、衆生、含霊等あらゆるもののために、無間地獄の受苦にあう衆生が救われ安楽を得て彼岸へ往けるように願い、僧道輪が関わって延暦20年(801)7月17日に如法経を納める経塔が造立されたことが分かります。これは最澄の入唐2年前のことで、円仁の如法経からは30年以上も前になります。また、朝廷から征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が蝦夷を平定すべく第三次(3期)征討軍を率いて現地に向かい、蝦夷の討伏を奏上した延暦20年(801)9月27日と同年のことでもあります。  
「無間地獄の受苦にあう衆生が救われ安楽を得て彼岸へ往けるように願い」造立された山上多重塔ですが、「為兪无間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」と刻んだ僧・道輪の前にはどのような光景が展開されていたのでしょうか。まず指摘されるのが、朝廷の蝦夷征討によって東国の衆生=民衆が置かれた厳しい現実です。 
群馬県  
群馬県も1869年(明治2年)の廃藩置県後に『県名』が二転三転した県ですが、最終的には前橋の所属していた群馬郡の名前が採用されました。群馬県の領域は、上代には栃木県域と合わせて『毛野国(毛の国)』と呼ばれており、毛野国を上下に分割して『上毛野国(かみつけぬのくに)』といわれる国が、現在の群馬県と重なっていました。飛鳥時代から奈良時代、平安時代にかけての『律令制』の時代には、群馬県のあたりは『上野国(こうずけのくに)』とされ、栃木県のあたりは『下野国(しもつけのくに)』とされました。そのため、群馬県(上野国)の異称には『上州(じょうしゅう)・上毛(じょうもう、かみつけ)』という言い方もありました。  
群馬郡(久留間)は古代では初め『くるまのこおり』と読まれていて、藤原京の遺構から発見された木簡には『車』という一字表記だけで群馬郡を指していました。奈良時代初期に、全国の郡・郷の名を二文字で表記するルールが制定されて、『車』から『群馬』の表記に改められましたが、群馬は『馬が群れる』という意味でありこの地域一体は『良い馬の産地』だったのではないかと推測されています。群馬県といえば『かかあ天下と空っ風・雷』などの言葉で有名ですが、一世帯あたりの自動車保有台数が首位を争っており女性の免許保有率も高いなど、古くから『女性の社会進出・労働参加』が進んでいた地域としても知られます。  
近代日本の繊維業では群馬県は『富岡製糸場・養蚕業』でも有名であり、養蚕・製糸は『おかいこさん』と呼ばれて女性が従事することが多く、現在では製造業も盛んで、遊技機(パチンコ・パチスロ機)の製造拠点としては日本有数の県にもなっています。戦時中も軍需産業が集中する工業の盛んな県であり、高崎市・前橋市・桐生市・伊勢崎市などが工業の拠点になっていました。群馬県は政治的には自民党支持層の多い『保守王国』とされ、戦後は自民党から福田赳夫(高崎市)、中曽根康弘(高崎市)、小渕恵三(中之条町)、福田康夫(高崎市)の4人の総理大臣を輩出しており、地方の県では山口県と並んで首相を出すことの多い県になっています。  
中世期には『治承・寿永の乱(源平合戦)』で、源義仲が多胡郡から西部を支配するようになり、東部には新田荘の新田義重(にったよししげ)が勢力を伸ばしました。この源平合戦において、新田荘の隣の足利には秀郷流藤原氏の惣領である藤原姓足利氏がいて平家に付きましたが、秀郷流藤原氏の一族である新田氏やその分家(里見・山名)は源氏(源頼朝)に味方しました。乱の勝者となる源頼朝の敵になった源義仲に付いた『佐位氏・那波氏・桃井氏』や平家に味方した『藤原姓足利氏』は没落することになり、頼朝に付いた東国武士団は『鎌倉御家人』として源氏に臣従しました。  
鎌倉末期には、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕活動に新田義貞と足利尊氏が協力して『建武の新政』にも参加しますが、結果として建武の新政は失敗して足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、天皇方についた新田義貞を打ち破って、1338年に京都で室町幕府を開設します。足利尊氏と足利直義の兄弟が争いあった『観応の擾乱(かんのうのじょうらん)』の後には、現・群馬県の『上州武士』は守護となった山内上杉家の被官(御家人)になっていきますが、上州武士の集団性は戦国時代まで続いたとされます。戦国時代においては、鎌倉公方(堀越公方)を補佐していた『山内上杉家』が戦国大名化して影響力が強くなりますが、相模国に台頭した新興勢力の『後北条氏』と対立して敗れたことで、上野国は後北条氏が統治するようになっていきます。  
上州から追われた山内上杉家は越後国の守護代である長尾氏を頼り、長尾景虎が山内上杉家の家督と関東管領職を継承していきますが、この長尾景虎が後の上杉謙信になります。上杉謙信は信濃北部で武田信玄と4度にも及ぶ『川中島の戦い』を行いますが、上野国を含む北関東では後北条氏と向き合っており、現・群馬県では『上杉氏・武田氏と後北条氏(甲相同盟)』がぶつかり合う対立状況が生まれていました。上杉・武田・後北条の三者関係では、『甲相同盟・越相同盟・甲越同盟(甲州の武田・相模の後北条・越後の上杉の間の同盟)』が頻繁に結びなおされて複雑な政治・軍事が展開されましたが、最終的には豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅ぼされ、上州(上野国)は徳川家康の家臣が統治するようになっていきました。  
徳川将軍家が幕府を開く江戸時代になると、東国の防衛拠点である上州には譜代大名が配置されるようになり、『前橋藩・高崎藩・沼田藩・館林藩・安中藩・小幡藩・伊勢崎藩・吉井藩・七日市藩』など沢山の藩が置かれました。交代寄合旗本では岩松(新田)氏の岩松陣屋があり、岩鼻には上野国内の幕府領を支配する代官のための陣屋(岩鼻陣屋)が置かれたので、群馬県は廃藩置県の前には『岩鼻県(いわはなけん)』とされた時期もありました。明治2年(1869年)12月26日には、版籍奉還後の『府藩県三治制』に基づいて『岩鼻県』が置かれますが、明治4年(1871年)10月24日には『高崎県』に改められました。  
しかし、『高崎県』とする旨が大久保利通と井上馨の名前で通達されたわずか3日後の1871年10月27日に、『群馬県』とする変更が行われました。この短期間での県名変更の理由は、『高崎藩8万石』と『前橋藩15万石』との威信をかけた対立であり、どちらの藩も自らの藩名を県名にしたいという思いを持っていたのですが、明治新政府は対立を調停するために二つの地域が含まれている『群馬郡』の群馬を県名として採用したのでした。明治4年(1871年)11月19日には、群馬県の県庁が高崎城跡地に建てられる計画が立てられますが、富国強兵の国策によって高崎城は兵部省によって接収されることになり、県庁の建設予定地から外されてしまいます。  
明治5年(1872年)5月27日に、県庁の建設予定地が『高崎』から『前橋』に変更されることになり、元前橋藩をライバル視していた元高崎藩の人たちの不満が募ってしまいます。更に明治6年(1873年)6月15日に、『群馬県』がいきなり廃止されてしまい、群馬県の領域は『入間県』と『熊谷県』の管轄になったのですが、その理由はただ当時の県令であった河瀬秀治(かわせしゅうじ)が入間県と群馬県の県令を兼務していて、県庁所在地の川越と前橋が離れすぎているので政務がとりにくいということだけでした。『熊谷県』となった群馬県の県庁所在地は、前橋ではなく高崎に置かれるという変更もそこに加わりました。  
明治9年(1876年)8月21日には、再び『群馬県』という県名が復活することになりますが、県庁所在地は『前橋』には戻らず、熊谷県時代と同じ『高崎』のほうになりました。しかし明治9年(1876年)9月21日には、当時の県令・楫取素彦(かとりもとひこ)が『高崎』ではなく『前橋』のほうで執務を行いたい旨を宣言して政府がそれを許可するという事態になります。それに対して、高崎では『県庁を前橋ではなく元の高崎に戻してほしい』という嘆願運動が起こるのですが、高崎側の住民が嘆願書を提出しても県から即座に却下されました。高崎の抗議運動は過熱しかけましたが、県令の楫取素彦がじきじきに出向いて『県庁を前橋に置くのは地租改正の事業が終わるまでのことで、一時的に執務上の都合で移転しているに過ぎない。いずれは高崎のほうに県庁を戻す。』と約束したために、抗議は沈静化しました。  
しかし、楫取素彦県令はこの高崎市民との約束を守ることなく、明治14年(1881年)2月16日に、『前橋での執務に馴染み落ち着いてきたので、正式に前橋のほうを県庁所在地にしたい』と政府に申し出てそれが承認されてしまいます。約束を破られた高崎市民は憤慨して前橋の県庁へと押し掛け、激しい抗議活動が行われましたが、楫取県令は『高崎の住民と県庁移設に関して正式の約束をしたことはない』と突っぱねました。  
明治14年(1881年)8月10日〜11日にかけて、数千人以上の高崎市民が抗議のために早朝から県庁へと押し掛け、シュプレヒコールを上げましたが、県はかつての約束を知らぬ存ぜぬで通し、デモ行動に対して『惣代人無効の達(たっし)』を出して牽制しました。この高崎市か前橋市かの県庁所在地の問題は、法廷闘争にまで縺れ込みましたが、結論としては高崎側が敗訴して群馬県の県庁所在地は、現状のまま前橋市にするという判決がでました。『高崎市』は県庁所在地では『前橋市』に遅れを取りましたが、現在の市の経済状況や街(都市)の賑わいにおいては、高崎市のほうが前橋市を超えて発展していったという皮肉な歴史の流れも指摘されます。  
 
茨城県

 

●泊崎大師堂 / 茨城県つくば市泊崎  
弘法大師 大同年間(806-810) 創建  
泊崎大師堂は、その名のとおり、牛久沼の中央に突き出た泊崎にあり、弘法大師(空海)が、大同年間(806〜810)に泊崎に来て、千座護摩をおさめたところに建てられたと伝えられています。現在ある社殿は、寛保4年(1744)に再建されたものです。昔から縁結びと長寿にご利益があるといわれ、人々に愛されてきました。今では長患いせずに人生の最後を迎えられるということで多くの人々の信仰を集めています。泊崎には、現在も弘法大師にまつわる伝説が残っています。  
泊崎大師堂2  
空海(弘法大師)は、平安初期の大同年間(806〜810)にこの地を訪れ千座護摩を修め、その場所に泊崎大師堂が建てられたと伝えられている。佐貫駅方面から見ると、ちょうど牛久沼対岸の突き出しところに位置している。茨城百景にも選ばれていて、ここから見下ろす風景は、180度の大パノラマに、神秘的で静寂な沼が広がっている。  
空海とは / 平安初期の僧。真言宗の開祖で、俗姓佐伯氏。幼名真魚(まお)という。空海というより諡号(しごう)弘法大師の方が親しみやすく一般的である。各地を転々としながら修行を行い、其の為か全国津々浦々に空海に纏わる伝承が伝えられている。この牛久沼畔泊崎においても然りである。延暦二三年より、唐にて真言密教を学ぶ。大同元年に高野山に金剛峯寺を建立。書にすぐれ、三筆の一人といわれ、弘法も筆の誤りなどのことわざの語原になっている。著に「三教指帰」「文鏡秘府論」「文筆眼心抄」「篆隷万象名義」「性霊集」「十住心論」「秘蔵宝鑰」「即身成仏義」、書簡「風信帖」などがある。(七七四〜八三五)讚岐(香川県)の人。  
当時の牛久沼 / 昔は旧鬼怒川(現小貝川)が常に氾濫し、沼はそのまま広範囲な湿地帯となっていた。人々は小船に乗って沼の周囲を行ったり来たり、葦の群生に櫂を取られることもあっただろう。筑波山は今も昔も変わらない姿をしていた。  
空海伝説  
空海の歩いた足跡に伝説が付き纏う、此れほどまでに伝説・伝承の多い人物は稀である。全国津々浦々に空海伝説があり、その数約300編を越えるといわれている。伝説は史実では無く、実際に起きた出来事のように脚色されたものである。この泊崎に伝わる伝説もおそらく民間伝承で史実と無関係だと思う。だが、空海はこの地に立ち寄って、この素晴らしい風景を見て、即身成仏の境地を切り開いたのではないかと、勝手な想像をしたくなる程、牛久沼は神秘的である。  
駒の足跡 / 木瓜(ほけ) / 逆松 / 独鈷藤(とつふじ) / 硯水 / 五葉の杉 / 法越(のつこし) / 弁天像 / 弘法大師の使い
●八溝山日輪寺 / 茨城県久慈郡大子町上野宮字真名板倉  
弘法大師 大同2年(807) 再建  
日輪寺は茨城・福島・栃木の三県にまたがる八溝山脈の主峰、標高1020mの頂上にある八溝嶺神社から300mほど下った地点にある。「八溝知らずの偽坂東」といわれ、遥拝ですましてしまう者がいたほどの坂東札所第一の難所である。  
『坂東霊場記』には「春夏巡礼のはか、尋常の往来なければ熊笹一面に生茂り、更に道の綾分ち難し」とある。今は町道を利用して自動車が行くので、これも昔語りとなった。大子から久慈川をたどり、さらに八溝川をさかのぼる。やがて茨交のバスの終点蛇穴に着く。も とはここから登拝にかかったものである。蛇穴の先にもとは古い大鳥居があったが、これ は日本武尊の創建と伝える八溝嶺神社のものである。  
「八溝」という地名は、もとこの地に源流を発 する川のことで、ヤは接頭語、ミゾは川のことで あるというが、それより日本武尊が東征の折、ここまで来られ、「この先は闇ぞ」といわれたのによるという話の方が面白い。現在でも原生林におおわれた日輪寺はまさに山岳信仰の霊地といえる。  
寺伝によれば、天武の朝(六七三)役ノ行者の創建といい、「八溝日輪寺旧記書類写」によれば大同2年(807)に弘法大師が八溝川の流水に、香気と梵文とを感得され、再建されたという。大 師はこの山の姿が八葉の蓮華を伏せた如くであったのと、この山の鬼人を退治された時、狩衣を着た二神(大己貴神・事代主神)が現われたのを、二体の十一面観音として刻み、日輪・月輪の二寺を建て、観音霊場とされたのであった。仁寿3年(853)慈覚大師の来錫を緑として天台の法流 に属し、今日に及んでいる。  
●村松山虚空蔵堂 [日高寺] / 茨城県那珂郡東海村  
弘法大師 大同2年(807) 創建  
本尊/満虚空蔵尊は、空海が霊木で彫った日本三大虚空蔵尊の一つ。他は会津の柳津町・円蔵寺/福満虚空蔵尊、千葉県鴨川市・清澄寺/能満虚空蔵尊(清澄寺の代わりに 三重県伊勢市・金剛証寺とも)。  
(むらまつさんこくうぞうどう) 茨城県那珂郡東海村にある真言宗豊山派の寺院。寺号は日高寺。本尊は空海(弘法大師)作の伝承をもつ虚空蔵菩薩である。三重県伊勢市の伊勢朝熊山金剛證寺及び福島県河沼郡柳津町の圓蔵寺とともに日本三大虚空蔵堂の一つとされる。地元では村松山の虚空蔵さんと呼ばれ親しまれているほか、茨城県北部や栃木県下では虚空蔵さんと言えば概して当寺を指す。  
縁起等によれば大同2年(807年)に空海(弘法大師)によって創建されたとされる。空海が真言密教を日本全土に広めるために各地を巡化した際に、この地で海の彼方に光る物ありとの話を聞き、それを引き上げさせたところ大きな老木であったので、それを等身大の虚空蔵菩薩像に刻みこの地に安置したのが始まりとの伝説がある。円仁(慈覚大師)の開基とする縁起もあるが、文献の多くが失われていて定かではない。創建の際、平城天皇から「村松山神宮寺」の勅額を賜わった。  
鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて常陸国を治めた佐竹氏の庇護を受け隆盛を極めたが、文明17年(1485年)、戦火により勅額も含め焼失している。その後、長享元年(1488年)に白頭上人により再建され、名称を「村松山神宮寺」から「村松山日高寺」に改められた。  
江戸時代にはいり、徳川家康から朱印50石を寄進された。水戸藩2代藩主・徳川光圀は寺を竜蔵院、竜光院の二院に分け、宗派を修験道に改め、虚空蔵菩薩を修飾しその台座に「日域三虚空蔵之一而霊応日新」と刻んだ。  
明治3年(1870年)の廃仏毀釈より「星の宮」と改称されたが、翌明治4年(1871年)には「虚空蔵」と称することが許可され再び「真言宗日高寺」となった。明治33年(1900年)、近隣の民家の火災から堂塔伽藍すべてが類焼するが本尊は災を免れた。その後、順次堂塔伽藍が再建され現在に至っている。  
村松山虚空蔵堂2  
大同2年(807)弘法大師の創建と伝える。平城天皇より「村松山神宮寺」の勅額を受く。なお慈覚大師創建との説もあるが、いずれにせよ創建の事情は不明な部分がある。  
※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)に「神明鏡」(作者不明、室町期の著述と推定)の慈覚大師(圓仁)の事跡記事の紹介がある。「神明鏡」では村松は慈覚大師の創建とする。中世には佐竹氏の庇護を受け大いに隆盛する。当時、円蔵寺、松林寺、歓喜寺、東光寺、竜蔵寺、竜光院等の寺中があったと云う。  
文明17年(1485)兵火により鳥有に帰す。  
※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年):「和漢合運図」文明17年の項では「佐竹乱、村松堂塔焼」とある。佐竹の乱とは佐竹義治と陸奥の岩城常隆との攻防を云う。  
長亨元年(1488)白頭上人再興し、村松山神宮寺を改め、村松山日高寺と称する。  
※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年):「和漢合運図」長享元年の項に「頭白上人村松建立」とある。なお、「和漢合運図」は水戸和光院に伝来した書き継がれた年表である。  
この頃、村松虚空蔵堂は太田・正宗寺が別当で、江戸初期までこの関係は続く。  
慶長15年(1610)徳川家康朱印50石を寄進。  
江戸期には、竜蔵院、竜光院を夫々別当とし、修験道に改宗す。  
※寛文3年(1663)徳川光圀は領内の寺社整理を企図し、「開基帳」(寺社基本台帳)の作成を命ず。この「開基帳」によれば、虚空蔵堂は村松東方龍蔵院(別当瀧之坊、水戸吉田一乗院末)と村松西方圓蔵院(別当前之坊、寺沼如意輪寺末)の支配であることが分かる。  
※天和3年(1683)龍蔵院と圓蔵院との間に争いが生じ、光圀は改めて修験行者太田村龍蔵院に正別当瀧之坊を命じ、龍蔵院下住(霞)大田村龍光院が前之坊の名称を与えられ、脇別当に任ぜられると云う。天保の検地絵図:龍蔵院・龍光院が描かれる。天保の検地のとき、検地絵図も作成される。この検地の時、村松東方と西方は統合され村松村に一本化されると云う。  
「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)には論述がないが、おそらく村松山虚空蔵堂(日高寺)と五社明神は一体であったと推測される。  
※以上のことは五社明神(現在の村松大神宮)のサイトの「御由緒」(以下に要約)から窺うことができる。即ち「「和銅元年(708)に奉斎」とされ、「大同年中(806〜810)平城天皇より『村松五所大明神』の御勅號を賜る。」「中世に至り戦乱の世となり、社殿も戦火を被り神領も侵犯され荒廃し祭祀などできる状態ではなくなり、戦火を逃れるため永享7年(1435)神璽を奉じて、奥州名取郡藤塚に奉遷した」と云う。  
江戸期には「朱印地三十三石餘と神地二十四町の寄進があり、元禄7年(1694)徳川光圀は、新たに神殿を造営し同9年あらためて伊勢皇大神宮より『御分霊』を奉遷、『天照皇大神宮』と奉称」する。  
「勤皇の志士が多数参宮し、皇大御神の御神徳を仰ぎ、尊皇敬神の念を高め、明治維新の礎」をなすとも述べる。  
ついでにいえば、「昭和31年より神池『阿漕浦』の水を日本原子力研究所へ分水。世論を分ける大論争となるも、『地域の発展と日本の未来のために』との先代宮司の英断によるものでした。それにより、わが国初の『原子力の火』をともすことに成功。以来核燃料サイクル開発機構・日本原子力発電株式会社・日本電信電話株式会社へも分水。」と誇る。  
※【近世史料W 加藤寛斉随筆(茨城県史編纂近世史第一部会刊)】では「・・・五社明神ハ、義公(光圀)地神天照大神と御定ニ遊しより、今ハ伊勢の大神の写と思ふ、・・・」とあり、これは的確な表現と思われる。以上は要するに、水戸光圀は封建領主として虚空蔵堂の世俗に介入し、さらに精神世界にも介入し五所明神と虚空蔵尊を分離、五社明神に伊勢大神(アマテラス)を勧請したということであろう。あるいは明治の神仏分離に先行する元禄の神仏分離とも云うべき処断であったのであろうと推測される。  
「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)では、その後光圀は巨資を投じ伽藍の造替を行うが、佐竹氏縁の僧侶を嫌忌し真言宗日高寺を廃すと云う。  
※真言宗日高寺を廃すとは意味が良く理解できないが、如何なることなのであろうか。  
明治3年神仏分離により「星の宮」と改号する。  
※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)には経緯などの論述がなく、何らかの強制力が働いたかどうかなどは不明。  
※日本における虚空蔵菩薩の信仰は真言宗などの密教の中で成立する。空海は虚空蔵求聞持法を教授され、その奥義を取得する。天台系では安房鴨川清澄寺にて虚空蔵求聞持法を修する。清澄寺は天台から真言に改宗、戦後日蓮宗大本山となる。  
※天台系教説では「明星天子の本地は虚空蔵菩薩なり」と説くようであり、このような教説が復古神道家などに逆利用されたのであろうか。  
明治4年「虚空蔵」の称号が認可され「星の宮」より改称、真言宗日高寺となる。  
明治33年(1900)民家から失火、本堂、仁王門、三重塔、客殿等悉く類焼す。ただちに仮本堂・庫裏などが再興される。  
大正元年本堂再建、大正6年書院再建。  
昭和9年奥之院多宝塔・客殿が寄進される。  
昭和45年仁王門再建、昭和55年鐘楼再建、平成10年に三重塔が再建される。  
現在は真言宗豊山派。伊勢朝熊山金剛證寺、陸奥柳津霊厳山円蔵寺とともに日本三体虚空蔵尊のひとつと称する。  
※あるいは、安房鴨川清澄寺を伊勢朝熊山に代えて、日本三体虚空蔵尊のひとつとする説もある。  
●円満寺 / 茨城県古河市小堤  
弘法大師 大同4年(809) 開山  
宝林山円満寺。真言宗豊山派の寺。大同4年(809)、弘法大師空海の開山とされる古刹。 平安時代の作とされる密教の法具、五鈷鈴(ごこれい)、三鈷杵(さんこしょ)などが茨城県指定文化財。  
●龍蔵院 / 茨城県古河市柳橋  
弘法大師 創建  
柳橋山。真言宗豊山派の寺。白衣観音と牡丹で知られる。仏法の守護神、八大龍王の伝説が残る。弘法大師が奥州・湯殿山に登った帰途、この地で沼を渡れずに難儀していると、不思議な老人が現れ、近くの柳の木の8本枝を橋に変え、渡れるようにした。 弘法大師がお礼を言おうと振り返るとすでに老人の姿は無く、仏法の守護神、八大龍王の化身と感じたという。 弘法大師はこの地に堂宇を設け、龍堂と名づけたとされる。  
 
ひたちなか市  
許奴美之浜   
許奴美之浜についてはここ常陸国磯崎の他に駿河国の手児の呼坂・石城国久ノ浜等が名乗りを上げていて定め難いようだ。  
磐城山 こえてぞ見つる 磯崎の こぬみの浜の 秋の夜の月    藤原忠通  
磯崎の こぬみの浜の 友ちどり 朝みつしほに 声さわぐなり   藤原定家  
那珂湊市の平磯から磯崎の海岸線は忠世代白亜紀の岩石が露出て連なり、獅子石、海老磯、源次郎万次郎磯、明神磯、竜宮卯磯、鷹だて磯、畜生(酒列磯)等の奇岩・名石がり、それぞれ伝説・史話に富み、住民からは神磯として崇められる磯もある。護摩壇磯もその一つで、海へ(向って突出する立方形の岩石で阿字石、清浄石、箱磯、釜石の名がありその形が阿の字ににてるので、弘法大師護摩を焚き阿字観をしたからであると伝える。(茨城県の地名)  
左奈都良の岡  
日本地名史蹟大辞典によると磯崎 佐奈都良の岡とあり比定・推定地として許奴美の浜近くの磯崎に印がある。  
阿多可奈湖(みなと)  
那珂川付近の水道ともいわれ常陸風土記香島郡の項には『東は大海、南は下総と常陸との堺にある安是湖、西は流海、北は那賀と香島の堺にある阿多可奈湖なり。』とある。  
「阿多可奈湖」の位置については、涸沼にあてる説(『新編常陸国誌』など)と那珂湊の古名とする説(『大日本地名辞書』)などがあり、たとえば、『新編常陸国誌』は、「阿多可奈湖」とは「暖湖」という意味で、涸沼が「水勢疾カラズ、水留滞シテ清冷ナラズ」という状態であるところからこう名付けられたとしている。  
ただし、涸沼説にせよ、那珂湊説にせよ、一長一短があり、いずれにしても、古代の地形が、現在の地形とそっくりそのまま同じであったとは、とうてい考えられず、おそらくは現在よりは入海化していたものと思われるから、「ミナト」は「水門を」の意で河川の河口を指し、「阿多可奈湖」とは、「古の那珂川の河口で涸沼はおそらくは其跡であらう」(松岡静雄『常陸風土記物語』)と考えるのがよい。涸沼を含む古の那珂川の河口を「阿多加奈湖」といったのである。  
『将門記』に「吉田郡蒜間之江辺」とみえる「蒜間之江」が涸沼を指すことは異論がない。この蒜間について中山信名は「亦日中ヲ比留麻ト伝ヘル義ニテ、亦暖湖ノ意ヲウケタルモノニヤタシカナラズ」(『新編常陸国誌』)と述べている。その他、涸沼の名称を近世文書等から拾うと、「蒜間湖」「乾沼湖」「日沼」「干湖」「蒜湖」「広浦」とさまざまである。中山信名も「粉々弁ジ難シ、タダコノ湖ノ水源、大橋村ノ土人伝ル所ハ、全ク比留麻ナリ、其水路ニテ笠間、長岡ノ辺、伝ヘ云ヘルモ亦同ジ、ヨク其語ヲ伝ヘタルモノナリ」(『新編常陸国誌』)と記しているから、「ヒルマ」の名は古代から近世までよく伝承されていたのであろう。  
仏ヶ浜と仏浜 / 茨城県日立市田尻町  
仏浜と度志観音  
茨城県日立市田尻町字度志前に茨城県の指定をうけた史跡「佛ヶ浜」(この指定名称は、佛と正字が用いられているが、浜は常用漢字に直されている)がある。市立田尻小学校の南側の崖地にある。この史跡は和銅年間(708−715)に編纂された「常陸国風土記」にある「仏浜」を、ここに江戸時代からあった度志観音(観泉寺)に比定したうえで、1955年(昭和30)6月に史跡「佛ヶ浜」と指定したのである。  
しかしこれには後年異論がでた。永沼義信が「小木津浜の磨崖仏と空久保の五輪塔」14で、仏浜は小木津浜の東連津川左岸の河口にある十二体観世音のある場所だと指摘したのである。現在では小木津浜の磨崖仏は1、2体がようやくみえるのみであるが。  
近年になって永沼同様の異論を耳にすることのある「仏浜」の比定地について検討してみる。  
まず仏浜に関して常陸国風土記の記述を『常陸国風土記』(沖森卓也ほか編)8によってみる。沖森らが拠ったのは、水戸彰考館本の忠実な写本で、最も優れた常陸国風土記のテクストとされる菅政友本1である。  
その多珂郡の条に  
国宰、川原宿禰黒麻呂時、大海之辺石壁、彫造観世音菩薩像。今存矣。因号仏浜。  
とある。訓読みすれば  
くにのみこともち、かわらのすくねくろまろのときに、おほうみのほとりのいわぎしに、くわんぜおむぼさちのみかたをゑりつくりき。いまもあり。よりてほとけのはまとなづく。  
二つの文献  
史跡指定を受けるにあたって申請者は、何を根拠にして仏浜を度志観音があるあたりだと言ったのか。申請者は日高村役場(代表者は村長)、申請は1954年(昭和29)である。日立市への合併が決まっていた時期である。申請書を見ていないので確かなことは言えないが、日高村役場が根拠にしたことをうかがわせる二つの文献がある。  
ひとつは、1925年(大正14)に刊行された『多賀郡郷土史』10である。度志観音について次のように記述する。  
観音堂日高村大字田尻字度志前にあり、境内二百十六坪、信徒六百四十人、宗派真言宗、本尊正観世音、岩壁彫造なり、崩落するも亦形を存して消滅することなし、由緒風土記云、国宰川原宿禰黒麻呂時大海之辺石壁彫造観世音菩薩像今存矣因号仏浜云々、蓋し是れならん、或云弘法大師の作なりと  
ここでは度志観音の岩壁に彫られた像を弘法大師の作によるとの説もあることを紹介している。弘法大師空海は宝亀5年(774)生れ、承和2年(835)に没する平安初期の僧である。風土記の編纂時期から百数十年ほど後のことである。  
もうひとつは、日高村が日立市に合併する直前の1954年(昭和29)、つまり指定申請年に発行された『日高郷土史』(『郷土史』と略)11である。『郷土史』は風土記の記事を紹介しながら  
田尻については、やはり常陸風土記に国宰川原の宿禰黒麿の時大海のほとりの岩壁に観世音菩薩の像が彫つてあつてそのために此の浜を仏浜と言つていると記載されてあるのを考えるとこの常陸風土記の出来る一二〇〇年も前に既に度忘(ママ)観音の石彫りはあつたのである。*  
この根拠として風土記の本文を記載し、続けて  
註 曰按仏浜未詳其所在或曰田尻村山中岩窟彫刻之度志観音像蓋是也  
と引用している。この『郷土史』が引用する註は、出典を記していないので、誰の本からの引用なのか、確かめられない。  
*「風土記の出来る一二〇〇年前に既に度志観音の石彫りはあった」という表現に少しの間混乱させられた。風土記が成立する8世紀のさらに1200年前の川原宿禰黒麻呂の時代に観音像が彫ってあったのか? そうではなくて、今から1200年前の常陸國風土記が書かれたときにはすでに観音像は彫られていた、と理解するのに少々時間がかかった。  
仏浜=度志観音説の根拠は  
『郷土史』が紹介する註の出所らしきものがある。それは天保10年(1839)に刊行された西野宣明校訂による『常陸國風土記』2である。この本の仏浜の記述の頭註に次のようにある。  
按佛濱未詳其所在、或曰田尻村ノ山中ニ岩窟所彫刻之度志観音像蓋是也、鍋田三善云今陸奥國楢葉郡有佛濱村蓋是也  
『郷土史』が紹介する註は「鍋田三善云」以下を落としているが、それ以外はほぼ同じである。ちなみに鍋田の言う仏浜村は陸奥国楢葉郡にあり、1889年に隣村と合併し、富岡村となり、現在は福島県双葉郡富岡町である。この鍋田の比定は位置関係からいって問題にならない。  
西野本は広く刊行されたので、『郷土史』が参照したものはこれでなかろうか。  
また幕末、潮来の郷士で学者である宮本元球(茶村)が『常陸誌料 郡郷考』3の中で風土記の仏浜の条をひいて「この石像、今村中 観泉寺境内 にあり」と書いている。観泉寺は度志観音のことである。『郡郷考』も幕末に刊行されているので、『郷土史』は見ているかもしれない。  
あるいは栗田寛が西野本を頭註を含めて収録している『標注古風土記』4を読んでいたかもしれない。栗田は、水戸生れ、彰考館に出仕し、のちに帝国大学文科大学教授となった歴史学者である。
仏浜=度志観音説の再検討  
再検討のために、まず常陸国風土記の記載順をみてみる。多珂郡においては、飽田村−仏浜−藻島駅家という順序である。久慈郡における沿岸部の記載はどうなっているか。高市−密筑里−助川駅家という順になっている。これから言えることは、風土記の日立地方における記述は、南から北へむかっている、あるいは「下り」の方向にあるとみるのが妥当だろう。  
とするなら、仏浜は飽田村と藻島駅家との間にあるということになる。飽田村は相田町に、藻島駅家は十王町伊師からその北方に比定されており、異論がない。ところが度志観音のある田尻は相田の南にあり、順路がくるってくる。冒頭で紹介した永沼説の小木津浜は順路内に収まるのである。  
また「大海之辺」という記述に関して、度志観音の標高についてみてみよう。度志観音のある南側の水田(現在は住宅地)は標高10メートルほどある。縄文時代前期、温暖化による海進があって現在より3〜5メートルほど海水面を押しあげたという。縄文海進から数千年後の風土記の時代においてなら、なおさら海辺から西方内陸部に1キロメートルほど入ったところにある度志観音は「大海之辺」にはほど遠い。「往事は海が深く湾入されていて、この地まで波が寄せていたと推定される」という『茨城の文化財 第二集』12の説明は、少々無理があるのではないか。といっても縄文海進が知られるようになったのは、この30年ほどのことであるので、指定当時とすれば可能な推定ではある。  
ともかく永沼が比定した小木津浜の十二体観世音は海辺から100メートルもないところにある。たしかに「大海之辺」である。  
現代においてこの二つの点においてみるならば、仏浜=度志観音は少々無理がある。ただし県指定の名称は「佛ヶ浜(度志観音を含む)」とある。また指定範囲は地番表示などせずに限定していないところを考えると、度志観音を含む広い範囲を仏浜としている、のだと解釈すれば(度志観音もあわせて史跡指定したと読みとれないこともないが)、誤りではないであろう。  
ちなみに指定後の1959年に刊行された『日立市史』13の記述は「度志観音は…小丘の中腹に露出する岩壁に彫られた正観音を本尊とし…(常陸風土記に記されている仏浜)の観音像とは度志観音であるともいわれている。…なお仏浜は度志観音を含めて、昭和三〇年六月二五日茨城県の文化財史跡に指定された」と実にそっけなく、よそよそしい記述である。『日立市史』も疑問を払拭できなかったのだろうか。  
奈良時代のことである。1300年前の一片の記述を元に確定的に言うのはむずかしい。考古学的に遺構と遺物が発見されてはじめて確定的なことが言えることである。そんなわけで本稿は仏浜の比定地を決定づけようとする目的はない。むしろ関心は次の項である。  
度志観音説が採用された理由  
地元に仏浜の伝説がふるくからあったのではない。江戸時代に何人かの歴史学者が仏浜=度志観音とあてていたにすぎない。そのほかに度志観音のほかに福島県富岡町の仏浜説もあったし、度志観音の磨崖仏は弘法大師の作だという伝説もあった。にもかかわらず、仏浜に度志観音が宛てられた理由とはなんだろうか。  
江戸時代の「水府志料」「みちくさ」その他の地誌や道中記に度志観音はでてきても、仏浜についての記載はない。江戸時代においては仏浜の場所を特定できていなかったのである。というか常陸国風土記はきわめて一部の学者にしか知られていなかった。つまり常陸国風土記の研究史はないに等しかった。幕末になって初めて西野が「仏浜は度志観音があるところだ」と言い出したことなのである(その後宮本元球も言っているが、西野を参照したうえで言っているはず)。西野は現地を歩いたのだろうか。歩いていれば、あるいは土地鑑のある人物に尋ねていれば、別の書きようがあっただろうにと思う。  
しかし『郷土史』が西野説を簡単に採用してしまったことに疑問が残る。『郷土史』の著者は地元の研究者である。小木津浜の磨崖仏を知らなかったとしても、風土記に記載された仏浜の位置関係はすぐに思い浮かんだはずだ。西野、宮本の説のあやうさに気付いたに違いない。にもかかわらず、度志観音を仏浜にあてたのはなぜか。  
彼に御国自慢的な発想がなかったとは言い切れまい。はるか古代の風土記に記された地を現在の地に比定するという冒険によって得られるものへの誘惑に負けてしまった。指定時において、度志観音の土地所有者でさえ「風土記にある岩窟は別の所にあるものではないか」と県の審議官に言っていたのにもかかわらず。…はやりすぎたかのかもしれない。  
しかし一部地元の異論を押し切ることができたのは、西野説を採用した帝国大学文科大学(東京大学)教授の栗田寛の著書4が裏付けとなっていたかもしれない。また『大日本地名辞書』9が宮本の説を「郡郷考、仏浜の石像、今観泉寺に在り」として採用していたことも後押ししたかもしれない。  
彼は迷っていた。しかし郷土史の編纂にあたって役場から要望されていること、村民から期待されていることを感じとったのだろう。その期待に応えたい、と思った。素直な感情だろう。村史の編纂事業を委託されるほどの人物なら自然と湧いてくる感情だろう。それらを後押ししたのが、弘道館の学者西野、水戸藩郷士で学者の宮本、東大教授の栗田、『大日本地名辞書』の吉田らの「権威」であると言ってよいだろうか。  
村の要望、村民の期待とは。日高村は日立市への吸収合併が翌年(1955年)にせまっていた。県指定の文化財があれば、新興都市日立市に吸収されたあとでも住民の「誇り」が保たれる。日高村の当局者にこんな意図があったとしても不思議ではない。それに『日高郷土史』の著者が過剰にかつ親切に反応したのではないか。推測である。  
ほとけがはま・ほとけのはま  
もうひとつ、わからないことがある。「常陸国風土記」を紹介する1の菅政友から11の宮田、そして13までの史料・文献は「仏浜」と表記しており、「仏ヶ浜」ではない。  
また傍訓を付している2・4・6・8・13はすべて「仏浜」を「ほとけのはま」としている。「ほとけがはま」ではない。いつ、だれが、「ほとけがはま」と言い出し、「仏ヶ浜」と表記したのだろうか。確認できるのは、茨城県の史跡として指定されてからのことのようである(『日立市史』は仏浜としている)が、どのような理由からか、わからない。  
なぜ「の」なのか。これもわからない。たとえば、常陸国、久慈郡、密筑里、多珂郡、藻島駅家…。これらは「ひたちのくに、くじのこおり、みつきのさと、たがのこおり、めしまのうまや」。固有名詞と一般名詞がつながるとき「の」でむすぶというルールがあるらしい。例はふさわしくないが、仏浜は似たようなものではないか。本稿ではこれ以上立ち入ることはしない。国語学の分野なのだろうか、専門のかたのご教示を得たいものである。  
わからないことだらけである。  
表記と読みについて提案  
「ほとけのはま」」の表記は、佛濱、仏浜、「ほとけがはま」は佛ヶ浜、仏ヶ浜、とさまざまである。「ヶ」を入れるのやめて、佛濱、仏浜(正字を使おうが異体字を使おうがいずれも可)とし、やわらかに響く「ほとけのはま」とよむのはどうだろうか。
注  
テクスト  
1 菅政友「常陸風土記 彰考館本」(文久2年写 1862) 茨城県立歴史館蔵  
2 西野宣明『常陸國風土記』(天保10年刊 1839) 茨城県立歴史館蔵  
参考文献  
3 宮本元球 『常陸誌料 郡郷考』(万延元年刊 1860) 茨城県立歴史館蔵  
4 栗田寛『標注 古風土記』(1899年 大日本図書)  
5 秋本吉郎校註『風土記』(日本古典文学大系 1958年 岩波書店)  
6 久松潜一校註『風土記』(日本古典全書 1959年 朝日新聞社)  
7 飯田瑞穂校訂「常陸國風土記」(『茨城県史料=古代編』 1968年 茨城県)  
8 沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)  
その他参考文献  
9 吉田東伍『大日本地名辞書 第6巻』(1907年 1980年版)  
10 塙泉嶺『多賀郡郷土史』(1925年)  
11 宮田実『日高郷土史』(1954年 日高村役場)  
12 茨城県教育委員会編『茨城の文化財 第二集』(1958年 茨城県教育委員会)  
13 日立市史編さん会『日立市史』(1959年 日立市役所)  
14 永沼義信「小木津浜の磨崖仏と空久保の五輪塔」(『文芸ひたち』第68号 1990年)  
佛ヶ浜(ほとけがはま)  
日立市の田尻小学校南側、崖縁の岩壁に度志観音(どじかんのん)の像があるが、この史跡を佛ヶ浜という。また、佛ヶ浜は大田尻の辺だと伝えられている。これに対しては異説もあるが、観音像は蝦夷鎮定のために、陸奥国の入口にあたる道前里(みちのくちさと)飽田(あいた)村(現在の田尻から太田尻付近)に彫造されたのは確かなので、田尻から大田尻あたりを当時の佛ヶ浜の遺跡とするのは妥当である。佛ヶ浜は度志観音を含め、茨城県の文化財史跡に指定されている。  
茨城県  
現在の茨城県は古代の律令体制の令制国(りょうせいこく)では、『常陸国(ひたちのくに)・下総国(しもうさのくに)』に該当しますが、近世江戸期の歴史では“天下の副将軍・水戸光圀(徳川御三家)”や“尊王攘夷を説く水戸学”でよく知られています。茨城県の読みは『いばらぎけん』と濁音で誤読されることも多いのですが、正しくは『いばらきけん』であり、その全国的な知名度は水戸と比べるとそれほど高いものではありませんでした。  
茨城県の水戸というと現代ではテレビドラマの『水戸黄門(水戸光圀を主人公とする勧善懲悪のフィクション)』や『特産物の水戸納豆』をイメージしやすいですが、江戸時代の幕末期には『水戸・水戸藩士』というとどちらかというと、尊王攘夷の目的達成のために実力行使を躊躇わない“コワモテの藩士集団・思想集団”というイメージが持たれていました。幕末には『桜田門外の変(井伊直弼暗殺)』をはじめとして水戸浪士が起こした暗殺事件が多く発生しており、水戸の土地には儒教の君臣秩序(上下関係の名分)と尊王思想(権威的君主への服従)を重視する『水戸学』という独自の愛国主義的傾向を持つ過激な学問が発展しました。  
孝明天皇の勅許を得ずに勝手に日米修好通商条約を結んだと指弾された井伊直弼(いいなおすけ)を暗殺した『桜田門外の変(1860年)』を起こしたのは水戸藩の脱藩浪士でした。その後にも水戸浪士は、天皇家と徳川将軍家を不可分に一体化させて幕府の権威を高める“公武合体策”を説いた安藤信正を襲う『坂下門外の変(1862年)』を起こしています。『茨城(いばらき)』という地名の由来は、常陸国茨城郡から取られたものですが、古代の時代に茨城郡の辺りに『国巣(くず)』という山中の穴に住み着いた土着の盗賊がいて、その盗賊を征伐するために黒坂命(くろさかのみこと)が穴に罠をしかけたといいます。その罠にあった茨の棘(とげ)に刺さって国巣の盗賊たちが死んだことから、『茨城』という地名が生まれたという伝承が伝わっています。  
ラディカルな武力行使も辞さない『水戸学の尊攘思想』が普及しはじめたのは、1841年(天保12年)に“質素倹約・上げ地・海防強化(異国船への対応)”を中心とした水野忠邦の『天保の改革』が行われた頃からで、日本国内の情勢と藩の財政が大きく混乱しはじめた時期でした。水戸学の始祖は、寛政3年(1791)に君臣身分(上下関係)の区別の重要性と尊王の大義名分の実践を説く『正名論』を著した藤田幽谷(ふじたゆうこく,1774-1826)であり、幽谷の儒学的思想はその子の藤田東湖(ふじたとうこ,1806-1855)や会沢正志斎(あいざわせいしさい,1782-1863)へと引き継がれていきました。更に、9代藩主の“烈公”と呼ばれた徳川斉昭(とくがわなりあき,1800-1860)が藩校・弘道館を開いて(1841年)、藤田東湖を側近・参謀として厚遇したことから、尊王攘夷思想の理論的根拠となる水戸学が全国的な影響力を持つようになっていきました。  
会沢正志斎の『新論』は、民心を集結させて幕府の政治改革と軍備充実を図ることで国難を乗り切ることを説き、その具体的方法として『尊王攘夷』を用いるべきとしましたが、この思想は幕末の薩長同盟の倒幕運動(王政復古)の正統性を担保する役割を果たすようになっていきます。藤田東湖の『弘道館記述義』では天皇権威の正統性の下にある人々の道徳を説いており、『古事記』『日本書紀』の建国神話から始まる歴史的な流れの中に、日本の人々が踏み行うべき普遍的な『道(道徳)』が示されているという思想を展開しました。  
水戸学を象徴する藤田東湖の『敬天愛人の道徳論』や会沢正志斎の『政治改革論(尊王攘夷論)』は、幕末に大きな思想的・政治的影響力を持つようになる薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の吉田松陰の基本思想にも非常に大きな影響を及ぼしており、倒幕運動・明治維新の『天皇主権の王政復古を正統とする思想的な原動力』になっていきました。  
幕末の志士や政治情勢に与えた水戸学の影響力の大きさを考えれば、水戸藩は『薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩』に並ぶくらいの存在感を示してもおかしくはなかったのですが、水戸学を信奉する頑固一徹で妥協を知らない“水戸っぽの気質”が災いして、幕末の水戸藩では『天狗党の乱』をはじめとする内部紛争が多く起こり遂にまとまった力を発揮することができませんでした。天狗党の乱では郷校出身者の多い『天狗党』と藩校(弘道館)出身者の多い『諸生党』との内部対立があり、元治元年(1864年)に藤田小四郎が率いる天狗党一派が筑波山挙兵をした時にも、挙兵に反対する諸生党が天狗党を鎮圧するために出兵したりしました。  
江戸時代には水戸藩を筆頭に14藩と諸大名の飛び地、幕府直轄領・旗本領が錯綜していましたが、1868年(慶応4年・明治元年)には倒幕後の明治維新によって、旧幕領・旗本領は新政府の直轄地に組み入れられていきました。1868年6月に粥川満明(三上藩士)が『常陸知県事』となり、8月には佐々府貞之丞(肥後藩士)が『下総知県事』となりますが、1868年(慶応4年)4月には府藩県の三治体制の暫時的対応として旧常陸国に『若森県』が設置されました。若森県の県庁は新治郡(にいはりぐん)の若森村に置かれましたが、2年後の1870年(明治4年)には若森県は『新治県(にいはりけん)』へと改名されます。  
明治政府の廃藩置県が行われた明治4年(1871年)11月13日には、現在の茨城県は次の3つの県へと統合されました。  
茨城県……松岡県・水戸県・宍戸県・笠間県・下館県・下妻県を統合。  
新治県……石岡県・志筑県(しずくけん)・土浦県・松川県・麻生県・龍ヶ崎県・牛久県・千葉県の一部を統合。  
印旛県(いんばけん)……結城県・古河県・千葉県の一部を統合。  
1875年(明治8年)5月7日に、その茨城県と新治県が統合されて現在の『茨城県』が誕生しました。印旛県のほうは1873年(明治6年)に木更津県と合併して、『千葉県』に組み込まれました。  
 
埼玉県

 

●山口観音 [金乗院] / 所沢市上山口  
弘法大師 開基  
ここも行基菩薩開基の寺といわれるが、弘法大師東国巡錫の折、龍神に祈念し霊泉を得たので、以来これを弘法大師加持水と称したという。また新田義貞が鎌倉攻めのときこの寺に戦勝を祈願したといわれる。  
●寿徳寺 / 久喜市上内  
弘法大師 弘仁11年(820) 日光の帰路滞留  
寿徳寺の東側には青毛掘が流れています。さらに東には葛西用水路が、さらに東には中川(古利根川)が流れています。1200年ぐらい前は広大な沼沢地であったという。  
上内村の新義真言宗豊山派の寿徳寺は、山城国醍醐地蔵院の末寺で山号を上内山と称し、不動明王を本尊とした。なお寿徳寺境内の地蔵堂に納められている二尺五寸の地蔵尊立像は弘法大師の作と伝えられている。その開基は、垂仁天皇庶流の子孫勝道上人による大同2年(807)の創設で、上内の地名は勝道上人を尊崇して名付けられたと伝える。はじめは七堂伽藍を備えた大寺で、弘仁11年(820)弘法大師が下野国日光からの帰路寿徳寺に立ち寄り、日光二荒山で画いた延命地蔵尊画像″を当寺に納めたとも伝える。  
●三峯神社 / 秩父市三峰  
弘法大師 淳和天皇(在位823-833)時 本地堂創建  
当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。  
尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。  
その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。  
降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。  
又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。  
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇(在位823-833)の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。  
こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。  
三峰神社2  
三峰の名は雲取山・白岩山・妙法岳の三つの峰が美しく聳えて連なる事から呼ばれている峰にも小生は登らせて頂いた。その三峰神社の由緒は古き良き昔に、景行天皇が、この国を平和にしようと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折に、皇子日本武尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中で当山に来られた。皇子日本武尊は当地の山川が誠に美しい様をご覧になり、その昔に伊弉册尊(いざなみのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が我が国をお作りになられたことをお偲びになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和で豊かに暮らしやすい事を祈られた。これが三峰神社の創まりであるとか。  
その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時に、上総国(千葉)で、当山が三山高く素晴らしく連らなることをお聴き及んで「三峰山」と名付けられ、三峰神社には「三峰宮」の称号を賜りまった。降って聖武天皇の時に、国中に悪病が流行して、天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峰宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られた。又、文武天皇の時には、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峰山に往来して修行したと伝えられている。この頃から当山に修験道が始まったものと思われる。  
天平17年(西暦745年)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じられた。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峰宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂とした。  
こうして徐々に佛教色の度合いが増して、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続いた。東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(西暦1352年)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げた。  
三峯神社3  
本殿春日造、神紋は下にあるように「菖蒲菱」。境内社は祖霊社・大山祇神社・日本武尊神社・東照宮他多数。鳥居は三輪鳥居でこれは、三峯の名の通り雲取山・白岩山・妙法ヶ岳の三山を表したものか。私の記憶にもう40年も前の事であるが、祖母の家の床の間には三峯神社のお札(掛け軸)が掛かっていた。中央の大木(杉?)に手前から参道らしきものが続いており参道の両脇には狼が一対座っている構図のものであった。当時祖母は半農半漁を営んでおり、祖母にこの絵が何であるか聞いた覚えがある。祖母はまだ小さい私に「畑に来る泥棒とか畑の物を食べちゃう悪い動物から狼が守ってくれてね、家に入ろうとする泥棒も狼が追い払ってくれるんだよ。」とやさしく教えてくれた。その時はじめて掛け軸の動物は”犬”ではなく”狼”だと知った。祖母の家の玄関には盗難除けのお守りが、竃には防火のお守りが貼ってあったのを覚えている。  
当社は今から1900年余の昔、日本武尊が東国の平安を祈り、伊弉諾(イザナギ)尊・伊弉冉(イザナミ)尊、二神をお祀りしたのが始まりです。尊の道案内をした山犬(狼)が、お使いの神です。三峯の名は神社の東南にそびえる雲取、白岩、妙法の三山が美しく連なることから、三峯宮と称されたことに因ります。奈良時代、修験道の開祖役小角が登山修行したと伝え天平8年(736年)国々に疾病が流行した折、聖武天皇は当社に葛城連好久を使わして祈願され、大明神の称号を奉られました。平安時代には僧空海が登山、三峯宮の傍らに十一面観音像を奉祀して天下泰平を祈り、以来僧侶の奉仕するところとなりました。鎌倉時代には畠山重忠が祈願成就の御礼として十里四方の土地を寄進しました。また戦国時代には月観道満が諸国を勧進して天文2年(1533年)に社殿を再建し、中興の祖と仰がれています。江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文元年(1661年)現在の本殿が造営されました。享保年間(1716〜1735年)には日光法印が社頭の復興に尽くし、御眷属信仰を広めて繁栄の基礎を固めました。寛政4年(1792年)に随身門(仁王門)、同12年(1800年)には拝殿が建立され、幕末まで聖護院天台派修験、関東のの総本山として重きをなし、幕府から十万石の格式をもって遇されました。明治維新の神仏分離により社僧を罷め仏寺を閉じ神社のみとなりました。明治6年郷社、同16年県社に列せられ、戦後官制廃止により宗教法人三峯神社として現在に至っています。  
当社の由緒は古く、景行天皇が国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折り、尊は甲斐の国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その伊弉諾尊・伊弉册尊が我が国をお生みになられたことをお偲びになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。その後、天皇は日本武尊が巡られた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遣わされ「大明神」の神号を奉られました。又、文武天皇の時、修験の祖役の小角が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。天平17年(745年)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じられました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。こうして徐々に仏教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。三津峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発に力を尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352年)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。後柏原天皇の文亀2年(1502年)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。後、天文2年(1533年)山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。更に、観音院第7世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇されました。現在、社紋として用いている「菖蒲菱」は花山院宮家の紋であります。この様に天台修験の関東総本山として繁栄した当山も、宝永7年(1710年)山主没後、山主に恵まれず10年間も無住となり、宝物も散逸し、社殿堂宇も破損が見られる様になりました。やがて、享保5年(1720年)日光法印という僧によって、当山も次第に復興され、以後六里四方を支配し、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治2年の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。 
●光了寺 / 埼玉県北葛飾郡栗橋町 [現在は茨城県古河市中田]  
弘法大師 弘仁年間(810〜23) 建立  
昔武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって「高柳寺」といい、弘法大師が建立したと伝えられている。  
栗橋にあった高柳寺は、度重なる洪水や利根川東遷に伴って対岸の古河市中田に移転し、名も「光了寺」と改めました。ここには静御前遺品の舞衣や手鏡、そして義経がかつて叔父の住職に託した鞍などが伝えられています。  
縁起 「光了寺は昔、武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって高柳寺といい、弘仁年間(810-823)に弘法大師が創立したと伝えられている。その後、建保年間(1213-1219)に親鸞聖人が越後より常陸に移ってきたとき、当時の高柳寺の住職であった大僧都法印円崇興悦が聖人の弟子となり、法名を西願と賜り、改宗して浄土真宗厳松山聖徳院光了寺と号した。」  
静女蛙蟆龍舞畧縁起 「靜女の舞衣は下總國葛飾郡中田宿松山聖徳院光了寺に藏する所也 此寺往昔は武州高柳村に有て高柳寺と號し天臺宗也 建保年中宗祖親鸞聖人御入りましゝたりし 其時の住持は後鳥羽院の北面土岐又太郎國村の次男 出家して權大僧都法印圓崇と云し人成しか 御弟子となり法名西願と下され 淨土眞宗光了寺と改號せり 其後寺を爰に移す也」  
光了寺2  
岩松山聖徳院光了寺。真宗大谷派。弘仁年間(810〜23)、弘法大師空海の開基と伝えられる。 武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって高柳寺といっていたが、健保年間(1213〜19年)、住職の興悦が親鸞聖人の弟子となり、改宗して現在の寺号に改められた。 6世悦信のとき、現在地に移った。 同寺は、静御前ゆかりの寺として知られる。静御前が源義経のいる奥州・平泉へ向かう途中、義経の死を知り、高柳寺に入って、義経の菩提を弔ったという。 寺には静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞ったときに着けていた「蛙蟆龍の衣」(あまりょうのころも)や守本尊、義経かたみの懐剣、アブミが伝えられている。 また、境内には芭蕉塚があり、「いかめしき音やあられのひのき笠」と刻まれている。  
●秩父今宮神社 [今宮坊] / 埼玉県秩父市中町  
弘法大師 (825) 来遊  
当社には古代より龍神池と言われる霊泉があり、ここに伊邪那岐・伊邪那美の二神が祀られていました。大宝年間(701〜704)、役行者(えんのぎょうじゃ)が飛来し、神仏混淆を旨とする修験の教えを広めるとともに、この地に宮中八神と、観音菩薩の守護神である八大龍王を合祀し、以後、明治維新まで『八大宮』と称するようになりました。八大龍王神は『水』をつかさどる偉大な神であり、生きとし生けるものすべてに『生命のおおもと』(生きる力)を授けるという素晴らしい御神徳をお持ちです。当社において毎年4月4日に執り行われる水分(みくまり)神事では、今宮神社から秩父神社に『水幣(みずぬさ)』が授与されますが、この『お水』によって育った稲が秋になって無事収穫されたことの喜びとともに、感謝の気持ちを込めてこの『お水』を再び武甲山に戻すお祭り、これが12月3日の秩父神社の『秩父夜祭』なのです。  
役行者に続いて、825年には弘法大師が来遊して大日如来を奉斎。次いで大宮山満光寺、長岳山正覚院金剛寺が建てられ、長歴二年(1038)には、二つの観音堂(現在の札所十四番今宮坊観音堂及び札所二十八番橋立寺観音堂)も建立されました。12世紀には熊野権現を勧請。宮中八神と大日如来の習合である八大権現社が建立され、寺院、神社、観音堂、祠と併せて百をゆうに越える一大修験道場となりました。  
不動坂 [タキ坂] / 埼玉県朝霞市岡  
弘法大師 杖堀の滝伝説  
東円寺不動堂と朝霞市博物館間の坂。由来 / 東円寺前の古道、「新編武蔵国風土起稿」には「尾崎坂ノ南ニアリ坂ノ下に不動堂アリ故ニ名ツク」とある。荒澤不動尊又は、弘法大師杖堀の滝に由来する。  
 
千葉県

 

●法然山伝灯寺 釋蔵院 / 千葉県市原市能満  
弘法大師 大同元年(808) 開創  
釋蔵院は、724年に創建され、大同元年(808)に真言宗の開祖である弘法大師空海によって開創された、大変古いお寺でございます。延喜元年(901)に醍醐天皇勅願寺となりました。15万石の格式をもち、又、上総の国の真言宗の根本道場として36ヶ寺を従え、徳川家康公もおいでになったことが、高野山の西門院の古文書にも書かれております。御本尊様は、不動明王の立像でございます。元弘元年(1331)、釋蔵院第11代住職弘鑁僧正による作と言われております。 
●小塚大師・曼陀羅山金胎寺遍智院 / 千葉県館山市  
弘法大師 弘仁6年(815) 創建  
嵯峨天皇の弘仁6年(815)に、弘法大師が創建したと伝えられている真言宗の寺院で、曼陀羅山金胎寺遍智院というのが正式名です。神戸地区大神宮の字小塚にあって、弘法大師を本尊にしていることから、俗に小塚大師の名で親しまれているわけです。関東厄除三大師のひとつとして、毎月21日のお大師様の縁日には参詣者があり、特に旧暦の正月にあたる1月21日の初大祭には、たいへんな賑わいをみせます。またこの小塚大師をはじめ、周辺には弘法大師にまつわる伝説も多く残されています。  
小塚大師周辺の弘法大師の伝説  
小塚大師(神戸地区大神宮) / 弘法大師がこの地に滞在したときに、忌部氏の祖先神が現われて、大師の木像を刻むように告げた。大師はお告げの通り、二体の像を彫って、一体はこの地に祀り、もう一体を布良崎の浜から流したところ、今の神奈川県に流れ付き、川崎大師(平間寺)の本尊になったと伝えられている。この地に祀った像はもちろん小塚大師の本尊である。  
爪彫り地蔵(神戸地区竜岡) / 小塚大師のすぐ近くの竜岡に爪彫り地蔵(または岩屋地蔵)という崖面に彫られたお地蔵さんがある。これは弘法大師が爪で彫ったものだと伝えられている。  
巴川の塩井戸(豊房地区神余) / 老女の家に旅の僧がやってきたので、小豆粥を差し出してもてなしたが、塩気がないのを哀れに思った僧が川に錫杖を差したところ、そこから塩水が湧きだした。その僧が弘法大師だったという話である。  
芋井戸(白浜町青木) / 老女が芋を洗っているところへ旅の僧が現われ、「小芋をひとつ下さい」と言うと、老女は「石のような芋で食べられない」と断った。この老女が家に帰り、芋を食べようとしたら、本当に石のように硬く歯もたたなかったため、路傍に捨ててしまった。するとそこから泉水が湧き出て、芋が芽を吹き青々と茂ったそうだ。この僧も弘法大師だったという話である。  
小塚大師2  
嵯峨天皇の弘仁6年(815年)に、弘法大師が創建したと伝えられている真言宗の寺院で、曼陀羅山金胎寺遍智院というのが正式名です。弘法大師がこの地に滞在したときに、忌部氏の祖先神が現われて、大師の木像を刻むように告げました。大師はお告げの通り、二体の像を彫って、一体はこの地に祀り、もう一体を布良崎の浜から流したところ、今の神奈川県に流れ付き、川崎大師(平間寺)の本尊になったと伝えられています。この地に祀った像が小塚大師の本尊です。 
●鋸山 日本寺 / 千葉県安房郡鋸南町鋸山  
弘法大師 留錫  
日本寺は今から約1300年前、聖武天皇の勅詔と、光明皇后のお言葉を受けた行基菩薩によって神亀2年(725年)6月8日に開山されました。開山当初法相宗に属し、天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光公の治世の時に曹洞禅宗となり、今日に至っております。  
日本寺は開山当時、七堂十二院百坊を完備する国内有数の規模を誇り、良弁、空海、慈覚といった名僧が留錫(りゅうしゃく)したと記録されています。良弁僧正は木彫りの大黒尊天を彫られ、弘法大師(空海)は100日間護摩を焚かれ石像の大黒尊天を彫られました。  
仁王門の金剛力士像は慈覚大師の作と伝えられています。   
弘法護摩の窟 
行基開基の寺であるが、この弘法護摩の窟は弘法大師修行の跡といわれる。
●白滝不動 / 千葉県鴨川市  
弘法大師 大同年間(806-8) 開基    
嶺岡浅間(335m)「富士浅間神社が祀られ浅間の名を採った」  
ここから県道を北上すれば近いのだが、工事中全面通行止めの看板があり、迂回する。山間に集落が点在し、それを結ぶ道が複雑に巡る。カーナビの御陰で、嶺岡スカイラインに入り、山頂直下の登山口に着く。スダジイの林を抜けるとすぐ三角点があり、山頂である。  
石段と石灯籠を構えた石祠がある。これは相模大山の石尊さんであろうか。  
少し離れて小さい灯籠と石碑があり、これには小御岳石尊大神と書かれている。新しい御影石に、浅間神社遷座(昭和55年)と書かれている。神社は下ろされ石碑だけが残るということだろうか。草藪の中に朽ちかけた鳥居がある。これが表参道であろう。  
今回怠けて登らなかったが、表参道は北の南小町の方から、弘法大師作と伝える大聖不動明王を祀る白滝不動を経て登るようである。  
隣の高鶴山と同じで、相模大山の石尊信仰が入り、天狗を祀った。高鶴山ではもう一つ日光の古峰が原神社の天狗も祀られていたが、この嶺岡浅間では遙かに見える富士山への信仰も強く、富士山5合目の小御岳浅間神社(石尊大神)を勧請(1668)した。大山、富士山の両方から石尊信仰が入ったと説明されている。  
この地方は半島で高い山や大きな川がないので、農耕用の用水の確保は大変で、今は各地に溜め池やダムが造られているが、昔は神頼みであった。雨乞いに大山阿夫利(石尊)神社は霊験があったのである。  
この山一帯は嶺岡山系といわれるが、浅間神社が祀られて嶺岡浅間と呼ばれるようになった。中世の嶺岡山系は里見氏の軍馬育成牧場が点在した。この山の南は緩斜面が開け、田畑や集落が広がるが、牧場のあったところなのだろうか。  
山の北面は急崖でフェンスが張られているのは興ざめである。玄武岩、蛇紋岩の露出があり、採石場として削られたのである。  
●花島山 / 千葉県印西市  
弘法大師 修行  
花島山について、『利根川図志』には次のように書かれています。  
<印旛江の中にあり。平賀村に属す。むかし此島へ舟にて渡りし由云伝ふれど、今は田畑となれり。島の廻り一里といへり。此絶頂にむかし寺あり。大日本寺といふ。今は不動堂と籠り堂のみ残れる。弘法大師護摩修行の古跡なりとて、護摩壇塚・独鈷水(とつこする)(東の方山の半腹にあり)など、今に存在せり。山に十六峯、八谷ありと云ふ。さて此山に登れば、西には富士、南には佐倉の城山将門山、東に当りて成田山、北を望めば筑波・日光の山々、また、北須賀村水神の洲崎は江の半に蛾媚をなし、往来の高瀬船は白帆を掲げて八方に乗りちがへ、数万の漁舟は柳葉をちらすがごとく、千勝万景応接するに遑(いとま)あらず。誠に北総第一の勝地なるべし。>  
とあり、弘法大師の護摩修行の場であり、頂上から見る景色は北総第一であるという。現在は、樹木が大きく茂り、残念ながら頂上から周辺部を見渡すことが出来ない。 
●迎接寺 / 成田市下総地区  
弘法大師 弘仁3年(812) 創建  
(こうしょうじ) 楽満寺からあぜ道に近い道を進む、冬父(とぶ)の迎接寺に向かう。この寺院は、弘仁3年(812)に弘法大師が聖徳太子作の阿弥陀三尊を携えて来たとき、領主多五郎入道政吉の古地である当地に案内され、心にかなう地に一寺を創建したのが本寺であるという。本尊は阿弥陀三尊で、鬼舞い面は市指定文化財。やっと山門に着き、境内に入るが、無住か?大分境内が荒れていた。 
●観福寺 / 千葉県香取市山倉  
弘法大師 弘仁5年(814) 修法  
真言宗豊山派の寺院。山号は山倉山。本尊は大六天王。元は山倉大神の別当寺であった。山号は、地区の名称から山倉の地名を取り山倉山。院号は、京都嵯峨御所から下る。聖観世音菩薩が勧請されている伽藍、天地に(地)、伽藍(院:建物)と謂う事で観音地院と、寺号は、聖観世音菩薩の福徳を授けると謂う事で観福寺と。  
811年(弘仁2年)円頓によって創建され、814年(弘仁5年)弘法大師空海がこの寺に入り修法した。京都嵯峨御所、お上から 十六菊紋の使用(寺紋)許可、緋紫法着用(当山は僧階に関係なく堂守に就任すると同時に)認可、江戸殿中に参上認可、殿と接見許可 旧書院欄間(葵紋)、講堂正面に(:葵紋付きを観ることが出来る)  
略縁起文  
当山は日本に点在する『第六天』の総本山です。真言宗で葬儀法事等で読経(理趣経)の本尊、空海が勧請(814)「苦厄除き抜苦與樂の根本一大霊場」と定めた参拝寺院であり八方除きの参道と厄除の石段、水屋前五段五体清浄、本堂の木段六根清浄です。本尊は慾界の最上界に住み『厄災難消除疫病退散を掌り福コ智惠愛敬』をお授けです。開山(811)天台宗最澄聖観音勧請後、空海41歳「第六天・子育観音」勧請です。巡錫の途中村民の疫病を憐みこの霊跡に留まり本尊を勧請万民快楽祈り修行事夜毎の竜燈を献じ満願の日に小川から生鮭を捕獲後民が空海に本尊に献納後疾病者に与えると快方に向かう、本尊と鮭のご縁なり。嵯峨御所より『院号を観音地院寺紋菊16紋法衣緋紫着用允許、御勅願の御下賜あり。』 信仰団体の第六天講社組織があり、又、お助け護摩修法があり、御本尊は秘仏『勧請以来一度も御開帳ない』です。  
山倉山大六天王畧縁起文  
抑々本尊大六天王と申し奉るは大日如来の内眷屬にして此の慾界に安住し假りに降伏の形相を示し給ひ大自在神通の力を以て或は大忿怒威の御身と現はれ悪鬼魔軍面縛し厄難消除疾病退散を司り壽命を與へ福徳智惠愛敬を授け給ふの御誓願なれば御利益は響きの物に應するが如く願として満足せざることなし  茲に當山の由來を案ずるに人皇52代嵯峨天皇の御宇弘仁5年天下大疾し衆人其の病苦に斃るヽ者巷に満る蔭惨の状人の目を覆ふばかりなり時恰も大聖吾が弘法大師東國回錫の砌り即ち同年辛夘霜月初夘の日霊験新かなる御本尊を此の地に勧請し奉り済世利民の本願を以て國家安全萬民豊楽を祈り殊には末世諸人の疾病に苦しむを憐れみ天尊の威徳を仰いて護摩供の秘法を厳修し給ふ事一夏90日(座)の間遂に感應空しからず奇瑞ありし中にも龍神よりは夜毎に龍燈を捧げ供魚として鮭の魚を献し奉る而して此の天尊を信心し護摩供御霊符の御利益に依り厄難病苦を脱れ福徳智惠愛敬を満足したる者挙げて御魚として献るに敢えて変ることなく實に有難き事ならずやされば此の天尊を信ずる人々は疾病厄難を退れ福智益長し家門繁栄子孫長久の基き最も御符護摩供の霊験に因りて當利益を蒙りし者は擧げて数へ難し之れ諸人の知る處なり  又當山は往時皇室の御祈願所と御尊特に嵯峨御所入りは観音地院の称号を賜り緋紫衣被着の允許あり殿上の参入を許され菊花御紋章付御勅願の御下賜あり其の他寶冠御幕等國寶的寶物を多数保存し以て往時の威容を忍ぶに足るものあり古来山倉山と唱ふれば抜苦與楽の一大霊場として天下に其の名を歌はれしも亦故なきにあらざるなり   時會明治維新排佛稀釈の法難に遭へ神佛分離の制度に依り現在の山倉大神よりご本尊を當山に移請し奉り附属する宝物記録等一切を管理し又跡に高皇産命を祀り山倉部落の鎮守として山倉大神と称す故に古へより山倉様と称し諸人の信仰を集めたるは當山の御本尊にして之れ即ち大六天王と山倉大神の分離別体なる所以なり 
観福寺2  
真言宗豊山派の巨刹で、川崎大師・西新井大師と並び、日本厄除三大師(関東厄除け三大師)の一つに数えられる北総の名刹です。本尊に祀るのは平将門の守護仏である聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)で、寛平2年(890年)にお堂が建立されたことが起こりと伝えられています。古くは千葉氏の祈願所として歴代武将が厚く帰依し、中世以降は佐原の伊能家一族の帰依を受けるようになりました。江戸時代には末寺五十三ヶ寺をもつ中本山として寺領三十石を有し、幕府から七年に一度の年始独礼の拝謁を許されました。由緒正しさのゆえに、僧侶の叙任や法衣の色の許可を与える権限を持つ院室兼帯の寺院とされた一方で、本山での修行に入る前の基礎的な教育を施す地方壇林所として学徒の教育にあたり、更には大師信仰の中心となって庶民の信仰を集めました。  
観福寺厄除弘法大師縁起  
抑(そもそも)當山厄除弘法大師は大師自ら御彫刻遊ばされたる霊像にして日本厄除三大師の一と称し奉る。今其縁起を案ずるに人王五十二代嵯峨天皇の御宇(ぎょう)弘仁六年大師四十二歳の御厄年にあたらせられ親(みずか)ら御像三?を彫刻して其一を禽獣草木の厄を除かんがために山城国大倉村大蔵寺に其一を一切魚鼈(ぎょべつ)を救わんがために武州河原の平間寺に、其一つを庶民の災厄を除かんがために京都嵯峨の大覚寺に留め給う。茲に當山三十三世鏡覚(けいがく)和尚嵯峨の院を訪へり。院の阿闍梨は當山三十世三等和尚の法弟なり、阿闍梨鏡覚和尚に告げて曰く我が法兄三等和尚東国庶人結縁の為に新四国霊場を開創せらされたと聞き我れ喜びに堪えず、乃ち心経殿安置の厄除弘法大師の御像を付属し旦つ曰く之を以て新四国霊場の親大師として安置し奉るべしと、鏡覚和尚恵頓首して之を受け奉侍して郷に帰り山内の宝殿に安置し、奉れり。  
とあります。現住職のお話では、弘法大師がみずから彫刻した三体の御像のうち大蔵寺の霊像は西新井大師に、平間寺の霊像はそのまま平間寺(川崎大師)に、そして大覚寺の霊像が観福寺に伝わっていることから、この真言宗の三つのお寺が日本厄除三大師あるいは関東厄除け三大師とされているとのことでした。  
なお、関東厄除け三大師に似た「関東の三大師」と呼ばれるお寺もありますが、こちらは弘法大師ではなく厄除大師とも呼ばれる元三大師(良源)を祀る佐野厄除け大師・青柳大師・川越大師の天台宗の寺院を指す場合が多く、関東厄除け三大師とは全く別のものです。  
山倉大神・観福寺3  
山倉大神と観福寺でそれぞれ行われる初卯祭は、鮭を奉納することから別名を鮭祭りと呼ばれている。もとは霜月初卯の日に行われていた祭礼で、昔は祭りが近づくと、近くを流れる栗山川に鮭が遡上してきたという。  
山倉大神では鮭を龍宮献進のものとし、奉納された鮭を初卯祭(現在は12月第1日曜)の前日に白川流包丁式の神事で小さい切り身にさばき、祭礼当日に限り護符として参拝者へ頒布している。護符は“災いをサケる”と珍重され、常備されている鮭の黒焼きの護符とともに、病災消除とくに風邪薬として知られる。  
初卯祭では鮭を献上する古式ゆかしい行列が組まれて厳かに祭儀が執行され、夕刻には神輿渡御も行われる。また観福寺では、お堂にこもり断食修業を続けた弘法大師のもとに竜神が鮭を供え、それを大師が村人に分け与えると病が癒えたと伝えており、今も旧暦の霜月初卯の日に鮭を奉納する。 
●紅龍山 布施弁天 東海寺 / 千葉県柏市  
弘法大師 大同2年(807) 開山  
「布施の弁天さま」として親しまれている当山は、紅龍山布施弁天東海寺と称し、大同2年(807)に弘法大師空海御作といわれる弁財天像をご本尊(秘仏)として開山された祈願寺です。平成18年には本堂・楼門・鐘楼が千葉県重要文化財の指定を受けました。  
千葉県柏市に位置し、北には利根川の雄大な流れ、あけぼの山公園や広大な田園風景に囲まれた当山は、風光明媚な勝景地としても高名です。1200年の歴史と四季折々の豊かな自然が織りなす静かな時間を味わいにお越し下さい。  
赤い龍と天女の御像 / 大同2年(807年)7月7日、大雷雨とともに赤い龍が現れ手にもった土塊を捧げて島を造り、その時から島の東の山麗から夜な夜な不思議な光が射しました。ある時、天女が村人の夢に現れて、「我は、但馬の国朝来郡筒江の郷(現 兵庫県朝来郡和田山町)から参った、我を探し祭りなさい」と告げました。 夢から覚めた村人が光をたどっていくとそこに三寸(約9センチメートル)ほどの尊い御像があったので、藁葺きの小祠を建てておまつりしました。  
弘法大師による開山 / のちに弘法大師空海が関東地域に巡錫のおり、この話を聞き布施に参り「この像は、私が但馬の国で願をかけ、彫刻し奉った弁財天である」と感嘆せられました。そこで大師は寺を造り、山を紅龍山とよび、この村を天女の利益にあやかり「布施」と名付け、京に帰り親交の深い嵯峨天皇に事の次第を申し上げました。  
嵯峨天皇の勅願所に指定 / 弘仁14年(823年)に入り、その話にいたく感動された嵯峨天皇は田畑を寄付され、堂塔伽藍を建立され勅願所(天皇が天災地変や疫病流行などを祈願せしめられた寺社)に指定しました。本堂の向拝の回柱に菊の紋章があるのは、そのためです。  
平将門と弁財天 / 承平年間(931年〜938年)平将門の兵火のため焼失されたのちに、この時の討伐軍の武将源が戦跡巡りの際、不思議なことに遇い、弁財天を信仰することになり尊像奉持して、平将門の乱を制し、寺を再興し、本尊弁財天は松の木の上に避難し難を逃れていたので、松光院と名付けました。 
●真間山 弘法寺 / 千葉県市川市真間  
弘法大師 伽藍を構えて弘法寺と改称  
(ぐぼうじ) 日蓮宗の本山(由緒寺院)。奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされる。平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したという。その後、天台宗に改宗した。鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗した。常忍の子で日頂を初代の貫主とした。大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受ける。室町時代、山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展した。徳川家康より朱印地30石を与えられる。江戸時代、徳川光圀が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈る。紅葉の名所として知られ、諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されている。明治時代、火災のため諸堂は焼失した。その後、再建され現在に至る。境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。 
●医王山瑠璃光院 威徳寺 / 千葉県銚子市  
弘法大師 弘仁元年(810) 創立  
威徳寺の歴史は、寺伝によると、創立は嵯峨天皇弘仁元年(810)弘法大師東国遊化の砌り、下総国銚子港荒野袋町(現 銚子市双葉町)に草庵を結び、本尊薬師如来の尊像を自ら彫刻せられ安置し給いてよりはじまります。  
『 清和七年(864年) 益信大徳、京より当寺へ来たりて、堂宇を増築、不動明王の尊像を安置する。 天歴元年(947年) 空也上人当寺の草庵に来り 一宇を造し、彌陀の尊像を安置 念仏三昧を修し諸人教化し給う。 これ空也坊の始にして後に荒野坊と称したと伝えられる。 往古には当寺は地化寺と称され、境内には明暦年間(1650年頃) に再建された本堂をはじめ、 薬師堂、観音堂、閻魔堂、二重塔、鐘楼が立ち並び、 圓妙院、不動院、千手院、龍性院、自性院、普門院、地福院の七坊の塔頭を有し 白幡神社の別当職を兼ねる一大巨刹として栄えるが、 明治維新の廃仏毀釈により一時衰微する。更にまた、 明治22年(1889)1月11日火災により堂塔ことごとく廃塵と化したが、 明治44年(1911)、大本山 高尾山薬王院の援助、檀信徒の努力により現在地に移転再建される。』 
●飯沼山 円福寺 [飯沼観音・銚子観音] / 千葉県銚子市馬場町  
弘法大師 大同年間(806〜810) 開山  
飯沼観音は、坂東太郎こと利根川の河口、関東一の漁港としてにぎわう銚子の中心に位置しており、この町は観音の門前町として発展してきた。仁王門を入った境内には、戦後に再建された本堂のほか、正徳四年(1714)に鋳造された丈六の大仏などがある。かつては広大な境内を有していたが、現在では分断され、観音堂と本坊は、200メートルほど離れている。  
『飯沼山観世音縁起絵巻』などによると、神亀五年(728)の春、銚子の浦が荒れて漁ができなくなり、五月には皷が淵の沖の海上が光り輝いた。ある夜、漁師の清六が、「輝いているところで牛堀の漁師長蔵とともに漁をせよ」との霊夢を見た。翌朝、沖に出ると、同じ霊夢を見た長蔵が対岸から来たので、二人で網をおろしたところ、左の脇に瑪瑙をはさんだ十一面観音が出現した。二人は出家して草庵を結び、尊像を安置。加持して諸人の病を癒したので、瘧除(ぎゃくよ)け法師と呼ばれたと伝えられる。  
天平年間(729〜749)になり、行基菩薩がこの奇瑞を耳にして、厨子を作って奉納した。しかし尊像のほうが少し大きくて入らなかったので、行基が祈願すると、尊像は首をたれて、みずから厨子に入ったという。  
後に、弘法大師が東国を巡錫した大同年間(806〜810)、この尊像を拝したが、海中出現のままの姿だったので、台座や光背を作り、開眼供養をおこなった。そして、下総国の守護千葉氏の系統を引く海上長者が、尊像と大師に帰依して、壮大な伽藍を建立したとされる。 
●岩橋山大仏頂寺 / 千葉県酒々井町下岩橋字田中  
弘法大師 大同2年(807)開基  
寺伝によると、大同2年(807)弘法大師が鎮護国家のため本尊を当地に納め開基とした。  
大仏頂寺は下岩橋字田中にあり岩橋山と号し、真言宗智山派に属し佐倉五カ寺の一つである。寺伝によると、弘法大師が大仏頂の法を修めたところという。慶長、宝永、宝暦の三度火災となり、古文書はないが真言宗の談林(学問所)が設置されていた。寺宝には古鐸がある。この古鐸は中国から伝来したもので、通称「舌出しの鈴」といわれ、全長17.5cm 鈴部高さ9cm 口径10cmあり、三銛(さんこ)鈴に属するもので、柄部の三面に人面の彫刻があり、動かすとその一面から両眼と舌が飛び出すようになっている珍しいものである。鈴の上部と下部に中国風の文様がついている。古鐸は密教の法具として奈良朝時代に中国から渡来したものが始まりという。 
●冬父山 迎接寺 [三世院または淨光院] / 成田市冬父  
弘法大師 弘仁3年(812)〜 創建  
当寺の創建は古く、たび重なる火災により確たる記録を失なっているが、古来より阿弥陀信仰の霊場として広く知られ、天台・真言・浄土宗兼学の道場として隆盛した大伽藍であった。寺伝によれば、弘仁3年(812)弘法大師弘通のため、大和国法隆寺に御参籠せしとき、夢に高僧紫雲に乗じて現われ、聖徳太子彫刻せらる三尊の仏を守護して東国に下降し、広く衆生済度せよとの霊告あり。大師ただちに東国に降り、下総の並木城下に着いたおり、城主神崎多五郎入道政吉、夢告により大師に拝することを得る。政吉、大師の請いにより大檀主となり、一三の霊水ある当山に根本多宝七堂伽藍を創建し、太子彫刻せる三尊を本尊とする。  
●守龍山東福寺 / 千葉県流山市鰭ケ崎  
弘法大師 弘仁5年(814) 開山  
弘仁5年(814)に創建された弘法大師開山の真言宗の寺である。目つぶしの鴨、俵藤太百足退治の図などがある。 
●成東山長勝寺不動院 [波切不動] / 千葉県山武市成東  
弘法大師 建立  
731年、行基がが東国巡錫の折、不動明王の尊像を刻み海難除けを祈願し開基したとされ、その後平安時代の初め弘法大師が関東教化の折、現在の場所に移し建立して民衆救護のため大護摩を催し民福増進の秘法を行ったとされる。 
●小茶園弁天 [出世弁天] / 千葉県千葉市  
弘法大師 伝説  
創建年代は不詳。一説には弘法大師が巡錫の杖をこの地にとどめ弁財天像を彫って祀った事にはじまるともいう。鎌倉時代の領主であった千葉常胤が崇敬し、源氏再興の祈願を行ったとも伝わっている。  
当社は昔から小茶菌弁天様と呼ばれ、その霊名はひろく伝えられている(小茶菌とは地名で:菌は実字は草冠が無い。[きん]倉の意)。元々、この地には、古寺があり、創建は不明となるものの、伝えられる所によると弘法大師が巡錫の杖をこの地に留め、弁財天を彫し、池畔に奉祀したという。このため、この地は一千有余年前より霊地だったとされる。昭和33年秋には、有志により再建された。 
●茂侶神社 / 船橋市東船橋  
弘法大師 伝説  
当茂侶神社の起原は古く延喜式神名帳に、下総國葛飾郡二座、茂侶神社・意富比神社とあり、今を去る千六百年前すでにこの地に鎮座されて居たのであります。愛媛縣越智郡瀬戸内海大三島祭神は阿多の豪族大山祇神の姫御子で日本の女性の表徴である木花開耶姫を祀り、古来縁結び安産子育ての神として、地元民の崇敬する処でありました。摂社として祭神の姉命磐長姫を祀り小御嶽神社と申して居ります。  
三代実録に清和天皇の貞観十三年十一月十一日下総國従五位下茂侶神に従五位上を授く、とあり又陽成天皇の元慶三年九月二十五日下総國正五位下茂侶神に正五位上を授くとあります。  
西北にある湧池は天の眞名井と称する当社の神池であります。  
江戸名所図会によれば、年の始に隔年この神域より柳営に根引の若松を選び上納する旧例とす、とあります。古来例祭は旧暦6月1日に行う。境内由緒書きより  
『延喜式』神名帳記載の下総国葛餝郡・茂侶神社。千葉県内には三つの神社が論社となっております。  
他の二つは、流山市三輪野山の茂侶神社、松戸市小金原の茂侶神社。  
真名井 
ここは、古くは窪地になっており、その名を真名井と呼び、当時の人々は、ここの湧水から水を汲み、飲料水として使用しておりました。昔弘法大師が訪れ、錫杖で掘りさげた泉という伝説があり、側に弘法大師を祀ってあります。戦後、宮本中学校を造る為に校庭の整地をした頃から、湧水の水位が低くなっていましたが、当時の古老達がこのままでは弘法大師に申し訳ないと、井戸を整備し、大師堂を祀り直しました。 
●松崎神社 / 千葉県香取郡多古町  
弘法大師 伝説  
宝亀3年(772年)の創建で、五穀および歌舞音曲の神々として、古くから人々の信仰を集めている。  
延暦16年(797年)に征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が蝦夷征討の途中に参拝し、鏡一面および征矢を献じ木鼓一箇を奉納をした。鏡と征矢はその後兵火によって失われたが、木鼓は現在社宝として保存されている。また弘仁年間には諸国行脚の僧空海が参拝、携えてきた公孫樹の杖を上下逆さまに地中に挿し「後世まで繁盛せよ」と念じて立ち去ったという伝説があり、社殿前には周囲約6メートルの古木「空海の逆さ公孫樹」がある。  
平忠常の乱(1028年-1030年)で兵火にかかり建久2年(1191年)に再興され、旧号を「坂東稲荷本宮」と称したが、北条氏や里見氏などの武将の尊敬が篤く、徳川家康も朱印地30石を寄進した。現在の本殿は万治元年(1658年)、中殿および拝殿は宝暦6年(1756年)の改築である。  
明治2年(1869年)「松崎神社」と改号し、明治6年(1873年)郷社に列した。 
松崎神社2  
社伝によれば、宝亀3年(772年)の創建とされ、祭神は倉稲魂命、邇邇芸命、大宮比売命。延暦16年(797年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中に参拝、戦勝を祈願したという。このとき、鏡1面及び征矢を献じ、木鼓1箇を奉納したと伝えられる。その後の戦乱により、鏡と征矢は失われたが、木鼓は現在も社宝として保存されている。長さ約3尺(90cm)、径約1尺5寸(45cm)で、鼓皮は桜の木皮を樹脂貼り付けてある、という。祭神が倉稲魂命であることから五穀豊穣の神であるとともに、この木鼓のせいか、歌舞音曲の神ともされる。なお、最近では、この木鼓は、実は酒樽として献上されたものではないかともいわれているらしい。  
そのほか、社殿前にある公孫樹(イチョウ)の木は、弘仁年間(810〜824年)に僧・空海(弘法大師)が諸国行脚の際に参拝し、上下逆さまに地に挿した公孫樹の杖が育ったものであるという、「空海の逆さ公孫樹」の伝説がある。また、坂上田村麻呂以来、武家諸侯の崇敬が篤く、源頼朝や徳川家康による社田の寄進があったり、徳川光圀(水戸黄門)が参詣したり等、逸話には事欠かない。こうしたことから、「坂東稲荷本宮」を称していたが、明治2年、地名を採って「松崎神社」と改めた。  
こうした由緒ある神社であるが、古墳ファンには「北条塚古墳」の所在地として知られている。「北条塚古墳」(「東松崎2号墳」ともいう。)は、全長74m、前方幅45m、後円径36mという前方後円墳である。後円部の直径より前方部幅の方が大きく、6世紀中葉〜後葉の築造と推定されている(千葉県県指定史跡)。当神社の創建時期の真偽は別として、古墳自体を信仰の対象としていることは明らかで、古墳の保存状態も良好。 
塩井戸 / 千葉県館山市神余  
弘法大師 大同3年(808) 伝説  
近くを流れる巴川には塩井戸橋がかかり、橋のたもとには「弘法の塩井戸」があります。ここにはこんな言い伝えが。大同3年(808)11月、旅の僧を心優しい女性は小豆粥でもてなしました。その粥は塩気がなく、旅の僧は不思議に思い女性にたずねると、貧しくて買えないとのこと。それを聞いた僧は錫杖の先で巴川の川中を挿し、引き抜くとそこから塩辛い水が湧き出たとか。その旅の僧こそ、弘法大師だったという伝説です。その塩井戸からは現在も黄色味を帯びた塩水が湧き出ており、11月になるとこの塩水で小豆粥を煮て、大師にお供えするという慣習もありました。神余という地名通り、神仏との関わりが深い地なのです。  
熊野(ゆや)の清水 / 千葉県長生郡長南町  
弘法大師 伝説 (ゆやのしみず) 千葉県長生郡長南町佐坪2388にある湧水であり、1985年(昭和60年)名水百選のひとつに選定された。「弘法の霊泉」ともいわれ空海が布教のため立ち寄り、旱魃で農民が苦労していたので法力によって清水を湧き出させたという伝説がある。室町時代になってから、鶴岡八幡宮の社領となり、「鶴岡事書日記」によると八幡宮直営の湯治場として栄えたことが記されている。このため、当時の地区の名前は「湯谷」と呼ばれていたことから「ゆやのしみず」と呼ばれている。水量は、48L/分の流量を有し、下流の灌漑にも使用している。 
芋井戸 / 千葉県白浜町青木  
羅漢の井 / 市川市国府台  
里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、このあたりは国府台と呼ばれ、ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。公園の南斜面下にあり、里見一族が布陣の際の飲用水として使用したと思われ、高台にあって水源が乏しいにもかかわらず一年中清水が湧いています。一説には弘法大師が巡錫の折に発見し、里人達に飲用水として勧めたと伝えられています。国府台は高台であるため飲用水を得るためには深い井戸を掘らねばならず多額の費用がかかりました。この伝説もここの住民にとって、いかに水が貴重なものであったかを物語っています。 
 
古代王朝と安房国  
奈良時代に既に見られた神仏習合思想がさらに進んで平安後期は本地垂迹説も確率した。これは仏が本体であり仏があとをたれて、人々を救うためにこの世に現れた仮の姿であるとする仏主神従の教え方で、各地に別当寺や神宮寺なども建立された。次に、修験道(山伏たちの呪術的宗教体系)は日本古来の山中他界の山岳信仰が外来の密教・道教・陰陽道などの影響のもとに、後に修験道の 開祖に仮託された役小角を始め、多くの宗教者たちが山岳で修行した。平安時代になると、最澄・空海による山岳修行の提唱に呼応して、密教僧(山伏)らも好んで峰入修行を行い、大日如来の教令輪身といわれる不動明王やその両童子を崇拝し、成仏の過程になぞらえた十界修行によって、即身成仏を得ようとしたのである。こうして、東国の出羽三山を行場とする羽黒修験、紀州の熊野三所権現を仰ぐ熊野修験や九州の英彦山に拠る彦山修験など、日本の三大修験が比肩するに至った。安房国では、弘法大師の開基説の寺院や伝説を伴う史跡が多い。    
修験道の開祖役小角(役行者)にまつわる創建や伝承も多く、石造ないしは木像彫刻などは、安房の修験道の一端を物語っている。    
小松寺 / 千葉県千倉町大貫  
文武天皇の代 役行者の創建    
大房山不動明王 / 千葉県富浦町多田良  
大宝元年(701) 役行者の開山(現在は滝渕神社・役行者像)  
養老寺 / 千葉県館山市洲崎  
役行者の独鈷水・役行者像    
富浦町深名峯坂の役行者像    
鋸南町保田 神崎信次家蔵 役行者像(伝武田石翁作、先祖は修験法道院)    
なお、安房の天台・熊野系修験の中心は、本山派総本山聖護院(京都末、触頭の正善院(富浦町原岡)で、 その触下二六か寺のうち町内に所在した修験寺は満能院(不入斗)、米沢寺(旧米沢村)・常光院(平久里中)・満蔵院(久枝村)の四か寺であったが、明治5年(1872)の修験道禁 止令によりすべて廃寺となった。  
安房国清澄寺に関する一考  
山川智応氏は寺主・弘賢について、「天台宗の当時の僧綱の名を列せるあらゆる文献を捜索したが、遂にその名を見出せなかった」とし、「真言宗の僧綱名を列せる各文献を捜索」したところ「東寺長者補任」に弘賢の名を発見する。  
貞治五年(1366年)丙午 / 長者僧正 光済 / 僧正 弘賢 後七日法行之  
(東寺長者は969年・安和2年以降、4名の定員となっている)  
そして「貞治五年(1366)から明徳三年(1392)までは、二十六年あるから、その間に大僧正となり得る可能性がある」としながらも、「併し東寺の長者で、宮中の後七日法まで奉行した人物が、何故に房州清澄寺の寺主となっているか」と不審とする。  
確かに、弘法大師空海開創の東寺長者の座にあった人物が、清澄寺のような安房の国の地方寺院の寺主に納まるというのはどうであろうか。山川氏は「弘賢の隠居寺でもあったのか」と弘賢の法脈系統を知るために東密の関連文書(「仁和寺諸院家記」「諸嗣宗脈記」「秘密辞林」「真言宗法脈系図」)を捜すも見当たらず、しかし、意外なところに弘賢の名を発見する。  
源頼朝によって建立された鶴岡八幡宮寺の社務職を記した「鶴岡八幡宮寺社務職次第」に弘賢の名があった。それによると弘賢は鶴岡八幡宮寺第二十代の別当であり東寺流の出身。1355年・文和4年、31歳の時より1410年・応永17年、86歳に至るまで、56年間、関東管領足利基氏、氏満、満兼、持氏の四代を経て在職。  
他に十数カ所の別当を兼務していて、相模箱根山・走湯山の二所権現、足利氏の菩提寺・下野足利の鑁阿寺、月輪寺、松岡八幡宮、大門寺、勝無量寺、赤御堂、鶏足寺、大岩寺、越後国国付寺、安房国清澄寺、平泉寺、雪下新宮、熊野堂、柳営六天宮等の別当職になっていたことが判明した、としている。(※注 山川氏は弘賢の兼務寺院に箱根山を含めたが、「箱根山別当・東福寺金剛王院・累世」等によると箱根山の歴代に「弘賢」の名はない)  
続いて「聖人滅後百十一年の明徳三年(1392)当時には、清澄寺が正しく此の弘賢法印を寺主別当として、真言宗醍醐三宝院流親快方(或いは地蔵院流)の法脈に属していた事実は、頗る確実である」とされている。  
 
「安房国清澄寺縁起」(岩村義運氏 1930)が伝える「光仁天皇の宝亀(ほうき)二年(771)、一人の旅僧何地よりか飄然として此の山に来たり一大柏樹を以って、虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し、一宇を此處に建立し、日夜礼拝供養怠らず」との、清澄寺起源の時代の宗旨は不明だと考えるが、「其の後六十余年を経て、仁明天皇の御宇、承和三年(836)慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處、聞きしに優る仙境に讃嘆禁ぜず、之れ仏法相応の霊地なりとし、錫を止めて興隆に力を盡(つく)し、自ら一草堂に籠りて、虚空蔵菩薩求聞持法を厳修して其成満を祈り、遂に僧坊を建つる十有二、祠殿を造る二十有五、房総第一の巨刹、天台有数の大寺となり、清澄寺の名、漸(ようや)く世に知らるるに至れり」と、円仁再興との伝承を発生させた時代=天台・台密の聖らが再興した時からしばらくは天台・台密色の濃い清澄寺であったのではないか。これが東密の聖らの再興であれば、「弘法大師東国巡錫の砌、この地に」云々との縁起を作ったのではないかと考えられ、「慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處」(安房国清澄寺縁起)、「房州千光山清澄寺者、慈覚大師草創」(清澄寺・古鐘の銘文)との伝承に、清澄山の堂宇を整備した天台・台密系の聖らの姿が思われるのである。  
成田山本尊上陸地  
県道30号(九十九里ビーチライン)を通った折に、横芝光町の尾垂ヶ浜(おだれがはま)にある「成田山本尊上陸地」を再訪しました。成田山新勝寺(真言宗)の本尊は、弘法大師(空海)作(開眼)といわれる不動明王像(像高1.32m)です。寺伝によると、平将門が叔父国香を殺害して下総国を始め、常陸国・上野国・上総国・武蔵国の近国を侵し、自ら「新皇」と称し、関東に威を振るった(平将門の乱)ため、天慶3年(940)1月に朱雀天皇が寛朝(かんちょう)僧正に宝剣を授け、「治乱の護摩を修法(しゅほう)せよ」と命じました。  
この命を受けた寛朝僧正は、すぐに京都の高雄山に安置されていた不動明を奉持して難波津(大阪)から船出して、この尾垂ヶ浜に上陸したといわれます。  
上陸地跡の鳥居の脇に平成3年(1991)3月に光町教育委員会が建てた「案内板」に  
<平安時代の中頃に桓武天皇の子孫の平氏が東国へきて勢力を張り、その一族の平将門が反乱を起こしたとき、それを鎮めるために寛朝僧正によって不動明王像が都から大阪を経て船で運ばれ、尾垂の浜に上陸、調伏(ちょうぶく)祈願をしたところ、天慶三年(940)乱は鎮まりました。この時の不動明王が、成田山新勝寺の本尊です。>と記されています。  
鳥居をくぐり、掃除を行き届いた参道を進みますと、突き当たりに平成10年(1998)12月に光町教育委員会が建てた「案内板」があり、  
<光町指定史跡 成田山御本尊不動明王 御上陸之地 平成十年四月二十三日指定 天慶の乱(平将門の乱)の時、将門調伏の祈祷のため、寛朝大僧正が京都から海路、不動明王尊像を奉持して、ここ尾垂ヶ浜に上陸しました。その不動明王尊像は、現在の成田山新勝寺の御本尊です。>と記されています。ここから左手に大きな石碑が見え、  
(正面)成田山本尊不動明 御上陸之地  
    大本山成田山貫首大僧正照定 謹書  
と刻まれています。  
この大僧正の照定は、中興第18世で、明治25年(1892)4月に成東町小松(山武市小松)に荒木辰五郎の次男として生まれ、同35年(1902)6月に石川貫首に随って得度した。  
その後、成田中学校(成田高校)を経て東洋大学に入り、大正2年(1913)に同大を卒業後、同大学研究科に進み、同3年3月に卒業した。同13年(1924)1月に石川僧正の遷化により貫首になった。照定僧正は、石川大僧正の素志を継承し、成田山公園を完成させ、同7年(1918)11月に深川不動堂の境内地を購入し、同9年(1920)11月に大阪市外香里に大阪別院を建立した。また、同10年(1921)1月に内仏殿・奥殿の新築起工式を行い、同年8月に北海道函館別院、10月に横浜別院の大師堂及び客殿の再建などを手がけた。昭和40年(1965)9月20日に遷化された(73歳)が、「当山過去一千余年、高僧大徳相つぎ、寺門の興隆に衆庶の救済に貢献した貫首は多いが、僧正の如く壮歯能く此の大山の経営に任じ、霊林の繁栄利物の勝計を確立したのはその例稀有というべきである」(『新修成田山史』)と高く評価されています。  
この「御上陸之地」の石碑の左側には、平成10年(1998)4月に建立した「成田山浪切り不動尊」が建てられています。  
この浜に上陸した不動明王は、その後、下総国公津ヶ原(不動ヶ岡)に安置し、護摩を修めました。翌3年(940)2月に平貞盛・藤原秀郷らが将門の居館・下総猿島を襲い、将門を討ち取りました。  
乱後、寛朝僧正は、伽藍を建て、不動明王を祀り、鎮護の道場としました。この伽藍を、新たに敵に勝ったということで、「新勝寺」と名付けたといいます。  
現在地に境内を遷座したのは、江戸時代の元禄年間(1688〜1704)とか、宝永2年(1705)とかの説がありますが、成田山新勝寺大本堂建立記念として出版した昭和43年(1968)3月の『新修成田山史』には、  
<現境内に遷地したのは少なくとも天文年間(1532〜55)か、それ以前でなければならない。さすれば永禄年間(1558〜70)の遷座入仏は諸堂を整備した落慶紀念の式典を行ったことを意味するものであろう。>とあり、「天文年間か、それ以前」としています。 
松戸 地名由来 
松戸の古代名は「馬津郷(うまつのさと)」であった。その後、マツサト、マツトと転じてマツドとなったが、現在の「松」は当字である。それは馬が多く配置された宿駅であったこと、松の木の多い里であったことに因む。地形的には、松戸は太日川(現在の江戸川)の砂州上にあって渡船場に好都合であり、国府と結ぶ官道の接合地点でもあったなど、古代から下総国の交通の要衝であった。それだけに多くの歴史が刻まれている。  
松戸駅近くの戸定台(とじょうだい)も中世の城址だがまた小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(よしあきら)の陣構え跡、松戸宿最初の旗本領主高木筑後守の陣屋跡、将軍鹿狩りの小休止所跡ともいわれる。国道6号松戸トンネルの柏側周辺を「陣ヶ前(じんがまえ)」というのは、この陣屋を指す。  
「相模台(さがみだい)」はかつて陸軍工兵学校跡で中央公園には赤レンガの門柱や衛士の詰所が残っている。この地名は、鎌倉時代に北条相模守長時(ながとき)が岩瀬坂に築城して住んだことから呼ばれるようになった。  
この相模台は第1次国府台合戦の激戦地であり、小田原北条氏綱(うじつな)と里見義堯(よしたか)・足利義明が戦った。第2次国府台合戦は26年後、矢切大坂を中心に氏綱の子・氏康(うじやす)と義堯の子・義弘(よしひろ)が激戦を展開した。  
「根本(ねもと)・中根(なかね)」は、弘法大師が1本の木から3個の薬師如来像を作った際、根本に近い部分を吉祥寺本尊、中間を東照院(現中根寺)本尊、末を印西市の寺の本尊にしたことから、それぞれ根本村、中根村、浦部村と呼ばれたという。  
 
東京都   

 

●五智山遍照院持寺「西新井大師」 / 東京都足立区  
弘法大師(空海) 巡錫  
「西新井大師」は、東京都足立区にある真言宗豊山派の寺院です。正式名は「五智山遍照院持寺(ごちさんへんじょういんそうじじ)」。平安時代初期の天長の時代、弘法大師(空海)が関東巡錫の折に当地を訪れ、悪疫流行に悩む村人たちを救おうと観音を造り、祈祷を行ったところ、枯れ井戸から水が湧き病が治ったといい、その井戸がお堂の西側にあったことから「西新井」の地名ができたと伝えられています。 
西新井大師2 
真言宗豊山派の総持寺は、五智山遍照院と号し、西新井大師と呼ばれています。826年弘法大師により創建され、本堂の西側に加持水の井戸があったことから西新井となりました。川崎大師平間寺、観福寺大師堂(前橋厄除大師)と共に関東三大師の一つ、関東八十八ヶ所霊場特別、関東三十六不動の26番不動、荒川辺八十八ヶ所霊場37番、38番、荒綾八十八ヶ所霊場1番、新四国四箇領八十八ヵ所霊場1番、武蔵国八十八ヶ所霊場1番札所です。 
西新井大師と空海  
関東には三大厄除け大師があります。 神奈川県には川崎大師、千葉県には観福寺大師堂、 そして東京都には西新井大師があります。  
ただ、これが複雑なのですが、上記三つとは別で関東の三大師と言われるものがあります。 関東厄除け大師とは空海である弘法大師を祀る真言宗の寺院をさしますが、 関東の三大師は別の寺院をさします。 西新井大師は東京都足立区にある西新井の真言宗の五智山遍照院総持寺をさします。  
なぜ足立区に厄除け大師があるのかというと、 9世紀頃に空海が関東を巡っていた際に西新井に寄りました。 その時、その土地の村人たちが病にかかっていたそうです。 観音菩薩の霊託を聞き、本尊の十一面観音を造ると、 水が出なくなった枯れた井戸から清水が出て、その村人たちがそれを飲むと病が治ったそうです。 井戸はお堂の西側にあったので、この土地は西に新しい井戸ができた、 つまり西新井と命名されたそうです。ダジャレですね。  
826年に真言宗の寺院として西新井大師は完成しました。江戸時代には本堂が建立されました。 しかし、1960年代に火災により焼失してしまいますが、本尊は無事でした。 現在の西新井大師は再建されたものですね。数年前にも改築をしてかなり綺麗になりました。 ただ、西新井大師といえばお団子屋さんなので、 来たのならお団子屋さんで舌鼓するのが満喫するポイントですね。  
私は2012年の初詣に川崎大師にお参りをしました。まずここはすごい人出です。 そこを稼ぎ時と多くの出店が設置され、大変なにぎわいを見せています。特に元日はスゴイ。  
この川崎大師と言うのは通称で、正式名称は平間寺と言います。厄除けの寺として有名で特に厄年の人には 大きな力となる場所です。厄年は男性の場合25,42,61歳。女性の場合は19,33,37歳です。 その前後を全厄、後厄と言い、この時期はお参りをした方がいいでしょう。 
●善福寺、柳の井戸 / 港区元麻布  
弘法大師 開基  
弘法開基と伝えられ、境内には柳の井戸がある。弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突き立てたとこ、たちまち噴出したもので、関東大震災や昭和20年の大空襲のとき、この良質の水がどれほど一般区民を救ったか知れないという。また境内には福沢諭吉や越路吹雪の墓もある。 
●目白不動 金乗院 / 豊島区高田  
弘法大師 ゆかりの不動明王(断腎不動明王)   
「弘法大師が、羽州(出羽国)湯殿山に篭ったときに、大日如来忽然とと不動明王の姿に変わり滝の下に現れ、汝に無漏(悟りが開け迷いや欲望がなくなる)の上火を与うべしと持てる剣で左の肘を切り給えば霊火盛んに燃え出たそうです。大師はそのすさまじい不動明王の姿を刻んだといわれています。後年、野州(上野国)足利住の僧この地の住人松村某とはかり、一字を開き右の不動明王(断腎不動明王)を移し本尊としました」(『江戸名所図会』)。  
元和四年(1618)大和の長谷寺の四世秀算が再興したので新長谷寺と称したそうです。三代将軍家光の信仰厚く、鷹狩の途中に拝して、城南の目黒に村して目白と呼ぶべしといい、これから目白不動、このあたりを目白と呼ぶようになりました。五色不動の一つとして有名。また、観音霊場としても名が高かったようです。目白台の崖の上にあリ、下は大洗堰の流れ日夜絶えず 早稲田たんぼを越えて高田の森を望む絶景の地でした。境内に茶屋や料理屋などもあったようです。江戸時代から繁栄し「…・おしあひてまゐりのつどふ寺なればめじろ不動と名づけそめけん」 (『江所名所記』) とあります。  
時の鐘 「寺門の傍に鐘楼あり、昼夜時を報ず、目白の鐘と称す、上野、浅草と美名を斉うす、楼下に番人家居す、世話人ありてこれを司どれるなり。鐘の響く所、毎月鐘銭を集む」(『新撰東京名所図会』) とある。戦災で焼けて廃寺となり、不動尊と門前の不動石像は金乗院)に移されました。跡地は現在住友生命関口寮となっています。その名を留めるものは目白板だけです。 
●瀧河山松橋院 金剛寺(もみじ寺) / 東京都北区滝野川  
弘法大師 遊歴  
本尊は不動明王像です。縁起によれば、この地は、弘法大師遊歴の古蹟で、大師自ら不動明王像を彫り、石の上に安置した、 これが同寺の本尊であるといい、また治承年中(1177〜81)、源頼朝が松橋弁天を信仰し、 堂舎を建立、あわせて田園を寄進したが、その後兵火に焼かれ、強盗に田園を掠奪され、宗門すら 定かでなかったのを、天文(1532〜55)のころ阿闍梨宥印という僧がこれを歎いて北条氏康 に訴え、真言宗の道場にしたということです。  
松橋弁天というのは、この寺院の西側、崖下にある洞窟(現在は石神井川護岸の裏側になっていま す)に祀られていた弁財天のことで、岩屋弁天とも呼ばれていました。江戸時代、かなり広く知ら れていたようで、現在も区内に何ヶ所か、その名を彫った道標が残っています。  
「源平盛衰記」に、源頼朝が隅田川を渡って府中に向かう途中、「武蔵国豊島の上滝野川、松橋と いう所に陣を取る」と記されております。また、この寺院の一帯は、豊島氏の支族滝野川氏の居館 滝野川城跡といわれています。境内には、鹿島万平翁の碑などがあります。  
●高尾山薬王院 / 八王子市高尾町  
弘法大師 巡錫  
平間寺(川崎大師)、成田山新勝寺とともに、真言宗智山派の関東三大本山のひとつ。  
天平16年(744年)聖武天皇からの直接の命あって、高僧として知られる行基菩薩が自ら薬師如来の尊像を刻み、高尾山を開基した。永和年間(1375〜1379年)には京都の醍醐寺から俊源大徳が入り、飯縄権現を守護神として奉ったことから、飯縄信仰の霊山として、また修験道の道場として繁栄する。  
戦国時代には多くの武将が飯縄大権現を信奉したが、わけても当地の領主北条氏康・氏照親子の信仰は深く、薬王院や高尾山についての厳しい軍規を定め、その保護に尽力した。信仰は現代に到るまで庶民の間に引き継がれ、高尾山の自然とともに大切に守られている。  
薬王院の中心となる本社・権現堂は、東京都指定有形文化財に指定されている。享保14年(1729年)に本殿が、宝暦3年(1753年)に幣殿と拝殿が建立された。総朱塗りに極彩色の彫刻という華やかなつくりで、寺院の中にあるにも関わらず、鳥居を備えた神社建築である。  
弘法大師の巡錫も伝えられ、諸堂には修験道の開祖である役小角に竜神、弁才天、愛染明王、天狗など、多彩なご本尊がそれぞれに祀られて、神仏を幅広く信仰した庶民のおおらかさが見える。 
●品川寺 / 東京都品川区  
(ほんせんじ) 東京都品川区南品川三丁目にある真言宗醍醐派の寺院である。山号は海照山。本尊は水月観音と聖観音で、江戸三十三箇所観音霊場の第31番である。  
寺伝によると、弘法大師空海を開山とし、大同年間(806-810年)に創建されたという。長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称した。その後戦乱により荒廃するが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、現在の寺号となった。スイスジュネーヴ市と深い縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがある。 
貫井(ぬくい)の地名 / 練馬区  
弘法大師 伝説  
旧上練馬村のうちの小字である。江戸時代の上練馬村は今の田柄、春日町、高松、向山、光が丘(一部)を含む大村であった。上練馬貫井村とも称して一村の形をとることもあった。  
むかし弘法大師がこの地をおとずれ、水不足に苦しむ村民の姿をみて、持っていた杖で大地を突いたところ、泉が湧き出した。これが地名の由来だという。湧き水でできた池が貫井中学校グランド辺にあった。南池山貫井寺円光院の号もこの伝説によるという。  
昭和7年板橋区成立のとき練馬貫井町となり、同22年練馬区独立後、練馬の冠称をとって貫井町となった。40年住居表示が実施され現町名となった。西武池袋線富士見台駅は貫井3丁目にある。だから大正14年開設当初は貫井駅といったが、昭和14年現駅名に改めた。先ごろ貫井2−18付近で遺跡の発掘が行われた。数多くの出土品のなかに、古代の国司(今の県知事)級高官の装身具が見つかった。 
 
五色不動  
目黒は今、東京二十三区の区名ともなり、山手線の駅名にもなるが、江戸時代は長らくの間、江戸市中には入っておらず、農地であり、徳川家光は度々に渡り、鷹狩りに訪ずれており、この地の由来とも言われる、目黒不動尊のおわします地であった。目黒不動尊は、天台宗・泰叡山瀧泉寺といい、江戸時代以前から信仰を集めていたが、寺伝によると、大同三年(八〇八)慈覚大師円仁が、下野国(栃木県)から比叡山に赴く途中に、不動明王像を安置して創建したということである。  
不動明王は、不動威怒明王と称し、真言宗・天台宗の密教にて、五大明王・八大明王の主尊であり、大日如来が一切の悪魔・煩悩を降伏させるために、姿を変えてこの世に現われた、その教えを示す使者で、密教の代表的な忿怒の相をとる。  
不動明王は、日本の密教の伝道者の一人である、弘法大師空海の守護仏が大日如来であり、その使者としても、空海が入唐する際に先導したとされる「波切不動」との縁とも相まって、平安時代初期からの、日本における密教の盛行と共に、不動信仰は隆盛となり、今日までも長く続いている。不動明王像は仏教美術において、絵画や彫刻などにより、優れた作品が伝わり、特に滋賀園城寺の黄不動、高野山明王院の赤不動、京都青蓮院の青不動の「三不動」は知られ、それぞれがその色で御身が描かれている。  
東京の「五色不動」は、言い伝えによると、江戸時代に徳川三代将軍・家光が、天海大僧正の進言により、中国の陰陽五行説にもとずき、江戸の地の守護・天下泰平のために、江戸市中を囲むような、東・西・南・北・中央にあたる、五箇所の地にかねてから安置されていた不動尊を選び、それぞれを表わす色である、青・白・赤・黒と黄を配したということである。  
この江戸の「五色不動」は、天台宗の高僧であり、江戸市中を守るために、鬼門に当たる上野に東叡山・寛永寺を建立した人物でもある、天海大僧正による陰陽五行説に由来していることであった。平安時代の「三不動」の仏画が、黄・赤・青それぞれで彩色されているのとは異なり、決して目が各々の色をしているということではない。その色そのものに、密教の示す重要性が込まれていたわけで、それ故に「五不動」の存在価値があった仏像ということで、庶民の信仰を集めていたのである。  
今、目黒・目白の地名はよく馴染んでいるが、そのもととなったのが、「不動尊」にあったことは、あまり知られていない。 
深川不動堂 / 江東区富岡  
深川不動堂は、千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の東京別院です。古くより「深川のお不動様」と親しまれて参りました。その開創は元禄16年と伝わり、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことに始まります。この御尊像は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂で奉祀する御本尊はその御分霊を勧請した、御分身であります。成田山別院の嚆矢として法燈は今も守り継がれ、日々皆様の諸願成就をご祈念いたします。  
成田山新勝寺(以下「成田山」)の歴史は古く、御本尊の不動明王像は平安時代の初め、嵯峨天皇の勅願により弘法大師自らが敬刻し開眼したものと伝わります。その後は長らく京都の高雄山神護寺に奉安されていました。この御尊像が、はるか東国の下総国成田に遷座されることになったのは、朱雀天皇の天慶2年(939)に起こった「将門の乱」のときです。朝廷は真言宗の高僧寛朝大僧正に神仏の力による将門の調伏を命じました。そこで寛朝大僧正は、神護寺の不動明王像を奉持し、現在の成田の地に不動明王像を祀り調伏の護摩を修したのであります。 乱が治まり、寛朝大僧正は不動明王像を奉じて京都へ戻ろうとしますが、御尊像は根が生えたように動きません。そして不動明王は、「我再び王城へ帰ることを欲せず、永くこの地にとどまりて東国の鎮護とならん」と寛朝大僧正に告げたといいます。これを聞いた朱雀天皇は、この地に堂宇を建立させて東国の霊場とし、「成田山神護新勝寺」の寺号を下賜することとなりました。こうして成田山は創建されたのであります。  
成田山が庶民信仰の対象として高い人気を得るようになったのは、江戸時代の中期です。ひとつには、生活にゆとりのできた商人が盛んに成田詣をするようになった一方、歌舞伎の市川團十郎丈が成田人気に拍車をかけます。子供に恵まれなかった初代團十郎が成田山の不動明王に祈願し、二代目團十郎を授かって以来、市川家は代々篤く成田山を信仰し、屋号を「成田屋」と称するほどで、「成田不動尊利生記」など成田山のご利益を物語った芝居を上演して大当りをとったといいます。  
そうしたことと相まって、成田山の不動信仰は江戸庶民の中に広く浸透していきました。江戸庶民の人気に支えられ、元禄16年(1703)に第一回目の出開帳が富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われました。本尊の不動明王像を成田山から運び、江戸の人々に公開したのであります。これには、5代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝しました。一説には、成田不動尊の尊信篤き桂昌院が、護国寺の高僧隆光を動かし出開帳を実現させたともいわれます。以来出開帳はたびたび行われ、大勢の江戸っ子が押し寄せ大いに賑わったと伝えられております。不動信仰はますます盛んになる中で、信徒講社が結成されました。一つは日本橋の魚市場、米屋町を中心とした深川佐賀町の米市場、木場、蛤町の講社であり、もう一つは蔵前の札差、米問屋に加え、俳優・花柳界・鳶からなる浅草方面の講社でした。  
明治元年(1868)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで、信徒講社は永続的な御旅所確立のために深川移転説を主張し、成田山当局にも熱心に働きかけました。その結果、旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座されたのであります。「深川不動堂」の名のもとに堂宇が完成したのは、それから13年後の明治十四年(1881)のことでした。.  
大正12年、未曾有の大震災である関東大震災が東京を襲います。幸い御本尊及び諸仏は役僧によって運び出され難をのがれたものの、諸堂伽藍は全て焼失してしまいました。数年間境内整備もままならず仮本堂の状態が続きましたが、ご信徒の熱望と寄せられた浄財により、昭和3年(1928)本堂が再建され盛大な入仏供養記念開帳が執行されたのであります。ところが、昭和20年(1945)の東京大空襲により再び東京は火の海に包まれてしまいます。深川はまったくの焼け野原となり、不動堂の堂宇もことごとく灰燼に帰しました。このときも御本尊は役僧達の必死の努力により焼失を免れ、いったん成田山の光明堂へ遷座されることとなりました。  
再建に向け、成田山には「深川不動堂本堂建立事務局」が開設され、着々と準備が進んでいきました。しかし占領下の日本では、建築面積等に制限があり、計画通りの本堂を建立することができません。そこで、千葉県印旛郡の天台宗龍腹寺地蔵堂を移築するという計画が検討され、成田山側と龍腹寺側による話し合いの末、譲渡寄進が決定しました。建物は、成田山工務課により解体され、深川へ運ばれました。昭和25年ついに本堂の上棟式が執り行われ、深川不動堂は甦ったのであります。その後、ご信徒皆様の多大なご信助を賜り平成14年に内仏殿が落慶、平成24年9月には新本堂が落慶しました。こうして、不動明王の広大無辺の威徳と成田山別院としての嚆矢たる法燈は今も脈々と受け継がれているのです。  
<全国の成田山別院> 川越別院(成田山本行院) / 札幌別院(成田山新栄寺) / 横浜別院(成田山延命院) / 函館別院(成田山函館寺) / 大阪別院(成田山明王院) / 名古屋別院(成田山大聖寺) / 福井別院(成田山九頭龍寺) 
三縁山広度院 増上寺 / 東京都港区  
増上寺は、明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれました。場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられています。室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展していきます。  
安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。家康公がときの住職源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、と伝えられています。慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もありました。家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。  
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。墓所には各公の正室と側室の墓ももうけられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれています。現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。  
恵心僧都(えしんそうず)源信の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願しました。その歿後増上寺に奉納され、勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めています。黒本尊の名は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいること、また、人々の悪事災難を一身に受けとめて御躰が黒くなったことなどによります。やはり家康公の命名といわれています。  
江戸時代、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達しました。全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八檀林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めました。檀林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています。  
明治期は増上寺にとって苦難の時代となりました。明治初期には境内地が召し上げられ、一時期には新政府の命令により神官の養成機関が置かれる事態も生じました。また、明治六年(1873年)と四十二年(1909年)の二度に渡って大火に会い、大殿他貴重な堂宇が焼失しました。しかし明治八年(1875年)には浄土宗大本山に列せられ、伊藤博文公など新たな壇越(だんのつ)(檀徒)を迎え入れて、増上寺復興の兆しも見えはじめました。大正期には焼失した大殿の再建も成り、そのほかの堂宇の整備・復興も着々と進展していきました。
増上寺2  
空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。その後、室町時代の明徳4年(1393年)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗した。この聖聡が、実質上の開基といえる。  
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移された。  
風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。  
また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。なお、延宝8年(1680年)6月24日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。なおテレビドラマ水戸黄門・第17部においては、この一件が水戸光圀の旅立ちのきっかけとして描かれている(光圀の諸国漫遊はフィクション)。  
また元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品『忠臣蔵』で有名である。畳替えの件が史実であるかは不明。なお、長矩は内藤忠勝の甥である。  
明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。のち明治7年(1874年)1月1日排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。  
太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。  
なお、この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指す。現在の総門は昭和12年に作られた、コンクリート造のものである。 
東京都  
東京都は日本の首都であり、その面積は2,187.58平方キロ、人口は日本の都道府県で最多の13,161,751人(2010年)となっています。東京の基礎自治体の構成は『23区・26市・5町・8村』の区市町村であり、地価の高い千代田区、中央区、港区の『都心3区』を抱え、『新宿副都心・池袋副都心・渋谷副都心・上野・浅草副都心・錦糸町・亀戸副都心・大崎・品川副都心・東京臨海副都心』という7つの副都心を制定しています。古代の律令体制の区分では東京都は『武蔵国・下総国・伊豆国の一部』に該当し、多摩地域は『多摩郡』に属していました。区部の西側は、武蔵野台地の末端部であるという意味で『山の手』と呼ばれ、鉄道の山手線周辺は日本の中心的な都市機能が集中する地域となっています。  
多摩地域は特別区に含まれる東多摩郡を除いて、南多摩郡、北多摩郡、西多摩郡の3つの郡を総称して『三多摩(みたま)』と呼ぶことがありますが、多摩郡は古代には東京都内に当たる地域でもっとも先進的な地域だったと考えられています。旧北多摩郡の『府中(ふちゅう)』では、4世紀前半に大國魂神社が建立されたという伝説があり、7世紀には大國魂神社内に『武蔵国府』が置かれましたが、東京の名称の前身である『江戸』という地名は、12世紀の『豊島郡江戸郷』という名前から始まったようです。  
12〜13世紀以降にかけて、隅田川の西側の地域を『江戸』と呼ぶようになりますが、江戸時代以前は関東地方で栄えていたのは江戸ではなく、相模国国府(神奈川県相模原市周辺)や上総国国府(千葉県市原市周辺)、下総国国府(千葉県市川市周辺)、武蔵国国府(東京都国分寺市・府中市周辺)でした。  
東京都に含まれる『伊豆諸島』は古代からある伊豆国の流刑地でしたが、戦国時代になると『扇ヶ谷上杉氏』の家宰の太田氏が実力をつけて独立の構えを示し、太田道灌(おおたどうかん,1432-1486)が現在の皇居(近代の宮城)である『江戸城』を建設しました。相模国にあった小田原城を本拠地とする『後北条氏(北条早雲を祖とする氏族で氏綱-氏康-氏政-氏直と続き秀吉に滅亡させられた)』が武蔵国全域を支配するようになると、今度は現在の八王子市に滝山城・八王子城を建設しました。後北条氏は甲斐国の武田氏の侵攻を防衛する活躍を見せたものの、天下人になった豊臣秀吉の関東一円の支配を目指す『小田原攻め』によって1590年に滅亡させられました。  
後北条氏の領地は徳川家康に賜与されることになり、江戸を本拠地とした本格的な開発が始まりますが、1603年の『関ヶ原の戦い』で徳川家康率いる東軍が石田三成の西軍に勝利したことで、江戸幕府が開府されることになりました。江戸城は徳川将軍家の居城となり、江戸は日本の政治の中心地として発展していきますが、18世紀初頭には人口が100万人を超えて世界でも有数の大都市にまで成長しました。武蔵野台地では農業も盛んとなり、畑作が増加して新田開発によって耕地面積も急拡大していきます。江戸城の西にあった『甲州街道』の途中には多くの宿が設けられ、その内の一つであった『内藤新宿』は明治期以降の『新宿』となって経済的・文化的に栄えることになります。  
『王政復古・尊王攘夷』を掲げる薩長軍の倒幕運動と戊辰戦争によって、徳川将軍家の江戸幕府は崩壊へと追いやられ、1868年5月3日(慶応4年(明治元年)旧暦4月11日)に江戸城は無血開城して江戸は新政府(明治政府)が統治することになります。1868年6月30日(旧暦5月11日)に、明治新政府はまず『江戸府』を設置します。9月3日(旧暦7月17日)には、江戸を『東亰(後に東京)』へと改称し、江戸府も『東京府』という名前に改められました。1869年(明治2年)には、平安時代から長く京都の御所を拠点にしていた天皇(明治天皇)が宮城・皇居(旧江戸城)に入る事となり、東京府は法律によって『遷都の宣言』をしたわけではないのですが、明治維新を進めようとする近代日本の『事実上の首都』となります。  
1878年(明治11年)には伊豆諸島、1880年(明治13年)には小笠原諸島を東京府に編入して、1893年には1872年に神奈川県に移管していた多摩地域が東京府に戻ってきます。この時点で東京府は、ほぼ現在の『東京都』と同じ管轄領域を持つようになりますが、東京都という名称になるのは1943年(昭和18年)7月1日になってからのことです。1868年(慶応4年/明治元年)から1943年(昭和18年)までは、現在の東京都は府県制の下で『東京府』と呼ばれていました。1889年(明治22年)になると、当時の主力輸出品の一つであった絹織物の輸送路も兼ねて新宿-八王子間をつなぐ『甲武鉄道(後の中央線快速区間)』が開通し、19世紀末には後に国鉄線(JR線)となる東京府内の各方面に延びる幹線鉄道が整備されていきました。20世紀前半になると、日本各地の都市で私鉄各線の路線も開通していき、東京府と各地の主要都市を鉄道で結ぶ『国内の陸上交通網』が整備されました。  
1889年(明治22年)に『市制施行』による東京市が発足しますが、大正時代になって周辺各地から東京市への人口流入が進んで、1920年の東京市の人口は370万人にまで膨れ上がりました。1923年(大正12年)9月1日には、直下型の『関東大震災(マグニチュード7.9)』が発生して、震災後に発生した火災で東京の大半の建物が焼失し、死者・行方不明者も10万5千人にも上りました。第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)の真っ只中である1943年(昭和18年)7月1日に、東京市と東京府が廃止されて、現在と同じ『東京都』が設置される運びとなり、初代の東京都長官には内務省出身の大達茂雄(おおだちしげお)が就きました。  
終戦が迫る1945年(昭和20年)3月10日には米軍による『東京大空襲』を受けて、東京都の下町は壊滅状態となり、空襲による爆発・炎上によって東京の市街地の多くが『焼け野原の焦土』と化しました。東京都に所属する小笠原諸島でも、兵員すべてが玉砕する『硫黄島の戦い』という苛烈な戦闘が展開されましたが、1968年(昭和43年)に小笠原諸島と火山列島が米国より返還されています。戦後の焼け野原になっていた東京は、経済最優先の政治方針の下で短期間で復興を成し遂げていき、1964年(昭和39年)に開催された『東京オリンピック』によって、『最早戦後ではない』といわれる戦後復興が完成したとされます。東京都は高度経済成長期を経て日本の政治・経済の中心として急成長を続け、1967年(昭和42年)には東京都の人口は1千万人を突破しますが、『東日本大震災(2011年3月11日)』の後遺症が残る2012年1月の現時点においても『東京一極集中』の傾向は顕著なものがあります。  
令制国の旧武蔵国多摩郡だった『三多摩』は、1872年(明治5年)5月22日に東京府から神奈川県に移管されますが、1893年(明治26年)4月1日には再び神奈川県から東京府に移管されて戻ってきます。三多摩が神奈川県から東京に再移管された理由は、『東京の水資源である玉川上水の確保』と『多摩地区が拠点になっていた板垣退助を首班とする自由民権運動の抑制』にありました。1876年(明治9年)3月10日に小笠原諸島が東京に移管、1878年(明治11年)1月11日に伊豆七島が静岡県から移管、そしてこの1893年の三多摩の再移管によって、現在の東京都の領域を得ることになりました。東京都の区域を大まかに区分すると、『(都心中心部の)山の手・(江戸情緒の残る)下町・(都心近郊を形成する)三多摩・(日本最南端を含む)小笠原諸島・伊豆諸島』の5つの区域に分類することができます。 
 
神奈川県

 

●青蓮寺 / 神奈川県鎌倉市手広  
弘法大師 弘仁10年(819) 開山  
神奈川県鎌倉市手広にある高野山真言宗の寺院。高野山宝寿院(無量寿院)末。詳しくは飯盛山仁王院青蓮寺(はんじょうざんにおういんしょうれんじ)と号する。高野山真言宗準別格本山。関東八十八ケ所第五十九番札所、東国新四国八十八箇所第八十八番結願札所、相州二十一箇所第十九番札所  
弘仁10年(819)に空海(弘法大師)が開山し、長禄年中に善海が再興したと伝わる。天正19年(1591)には徳川家康より手広村に25石の寄進を受け、関東壇林三十四院のひとつとしても名を連ねるなど徳川氏からは寺格を高く評価されていたようだが、天保4年(1833)に起きた火災と関東大震災の時に寺院が倒壊した事によって寺の史料の多くが散逸しており、詳しい事はよくわかっていない。  
近世初期には相模国に30以上の末寺を抱えていたが、江戸時代中期以降はその多くが、無住ないし廃寺となっており、寺院経営は苦しかったようである。  
寺には、弘法大師が寺の裏手にある山(飯盛山)で修行をしている時に天女から仏舎利を託され、翌朝目を覚ますと青い蓮華(ハスの花)が一面に咲いていたという伝承が残っており、寺の名前もこれに由来している。なお飯盛山は戦後急速に宅地化が進んだ周辺区域の中でも比較的豊かな自然が残存しているため、鎌倉市でその自然環境を保護しようとする動きがある。  
寺は神奈川県道304号腰越大船線と旧江ノ島道に面している。かつて旧江ノ島道から青蓮寺へ抜ける洞門が存在したが、県道304号が開通した際に山ごと切りくずされ、以降この洞門は入り口で封鎖されている。なおこの洞門の付近には庚申塔があり、かつては洞門の付近を村の境としていたことが推測される。 昭和25年に住職の草繋全宣師が京都大覚寺門跡に栄晋された時に多数の末寺が青蓮寺を離れ大覚寺末となる。 
●水無川 / 神奈川県秦野市を流れる金目川水系  
弘法大師 伝説 
盆地扇端部で流量の大部分が地下に伏流するため、以前はその名のとおり盆地内を流れる「水無」川だった。戦後、流域に工場や住宅が増えるにつれ、そこから流入する水(排水や浄化処理された水)が流れるようになり、流量は安定した。それでも時期と場所によってはほとんど水が流れていない事もしばしばある。秦野市内にある戸川という地名はこの川の別称「砥川」(砥石のような石が河原に多かったため)の転じたものである。  
川から水がなくなった由来に言及した御伽噺の一つとして、弘法大師が登場する伝説がある。弘法大師は「心の優しい人がこの辺りにはいないものか」と思い、わざと貧しい身なりをしてこの川の流域の住民に水を求めた。水を求められた住民はその人が弘法大師とは知らず、貧しい身なりをしていたので水を与えなかった。「人の身なりで人を判断するとは何たる事だ」と怒った弘法大師は、この住民たちの生活用水である川の水を涸らしてしまった。その川に水が無くなってしまった事から、「水無川」と言う名称が付いたというのである。  
●弘法山 / 神奈川県秦野市  
弘法大師 修業  
弘法山の名前は弘法大師(774〜835)がこの山頂で修業したことから名付けられたとの 伝承があり、権現山(千畳敷)を含んで呼ぶこともある。弘法山は麓の龍法寺と深い関わりを持ち、戦国期に真言宗から曹洞宗に変えた。鐘楼の下に続く沢を真言沢と呼び、その名残りがある。弘法山の鐘は、享保頃(1716〜35)に龍法寺5世無外梅師と行者の直心全国が発願し、弘法山周辺の村々の有志や念仏講中の人々の寄進により宝暦7年(1757)12月に完成させた。明和3年(1766)に山火事でひび割れ、再び周辺村々の有志や江戸隅田の成林庵主で下大槻伊奈家出身の 松操智貞尼の尽力により徳川御三家や諸大名などから「多額の喜捨」を得て享和元年(1801)5月に完成した。鐘は当初から「時の鐘」として親しまれ、災害の発生も知らせながら昭和31年まで撞き続けた。現在の鐘楼は慶応3年(1867)に再建したものである。
●成就院 / 神奈川県鎌倉市  
弘法大師 巡礼  
弘法大師が諸国巡礼の折、百日間にわたる虚空蔵菩薩を祀る修法を行ったところと伝えられる。  
平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師さま空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法を修したという霊跡に、承久元年(1219)に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、 普明山法立寺成就院と称した。  
元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688-1703)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。 
成就院2  
神奈川県鎌倉市にある真言宗大覚寺派の寺院。本尊は不動明王。アジサイの寺で知られる。空海(弘法大師)が諸国巡礼の折、百日間にわたり虚空蔵求聞持法(虚空蔵菩薩の真言を百万回唱える修行)を行ったところと伝えられる。鎌倉時代には執権北条氏の帰依を得たという。境内には弘法大師像や聖徳太子1300年忌に建てられた八角の小堂がある。寺には平安時代末から鎌倉時代初期の僧・文覚の荒行像がある(境内に模造が置かれている)。また参道には般若心経の文字数と同じ262株のアジサイが植えられている。 寺の東方、鎌倉十井の一つ「星ノ井」(星月夜ノ井)のそばにある虚空蔵堂(星井寺)は成就院が管理する境外仏堂である。 
麻生区 / 神奈川県川崎市麻生区  
弘法大師 伝説  
麻生区(あさおく)は、川崎市を構成する7区のうちのひとつである。川崎市の西北端に位置する。新百合ヶ丘駅周辺は川崎市の北部副都心として発展している。1982年(昭和57年)7月に、多摩区から分区する形で誕生した川崎市で最も新しい区である。  
麻生の地名の由来は、古くから麻が自生しており、8世紀には朝廷に麻布を納めていたという記録が残っている点からである。区名は一般公募され、川崎市に編入されるまで同地域の多くを占めた都筑郡柿生村に由来する「柿生」が最も多い結果であったが、歴史の古さから麻生に決定した。あさおくと読むのが正しいが、あそうくと間違って読まれることが多い。  
区南部には、日本最古の甘柿の品種と言われている禅寺丸柿が発見された王禅寺地区があり「柿生」の名の由来となった。区北部の黒川地区には、昔ながらの里山が残っている。  
弘法の松  
弘法大師がこの地に立ち寄り、寺を建設しようとしたが谷の数が足りずに断念し、代わりに松の木を植えて立ち去ったという伝説が残されている。初代弘法の松は1956年12月に焼失し、今に至っている。  
王禅寺  
川崎市麻生区にある真言宗豊山派の寺院。星宿山蓮華蔵院王禅寺と号する。この寺院付近一帯の地名にもなっている。「東の高野山」とも呼ばれた。 寺紋は三つ葉葵。日本最古の甘柿の品種と言われている禅寺丸が発見された寺として有名。境内には原木が残っている。  
創建の正確な年代は不明である。慶安3年(1650年)成立の縁起(『聖観世音菩薩略縁起』)によれば、天平宝字元年(757年)、観音菩薩が孝謙天皇の夢枕に現れ「武蔵国の光ヶ谷戸という所に居る」と言われ、探索を命じられた結果、発見されたいう。孝謙天皇の勅命で武蔵国都筑郡二本松で発見(光ヶ谷など異説あり)された一寸八分の聖観音(しょうかんのん)である金の像を祀り堂宇を創建したという。寺伝によれば延喜17年(917年)高野山の三世無空上人が、醍醐天皇から「王禅寺」の寺号(王の命じた仏教を修行するに適した場所としての寺という意味)を賜り、同地に改めて創建され関東の高野山と呼せられ、東国鎮護の勅願寺となる。延喜21年(921年)高野山の熊空上人により真言宗の寺となるという。 
●雨降山 大山寺 / 神奈川県伊勢原市大山  
弘法大師 大山寺第三世  
大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(755)に開山したのに始まります。  
行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立。  
その後、徳一菩薩の招きにより、大山寺第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、現在は大山七不思議と称される霊地信仰を確立しました。  
また日本古来の信仰を大切にし、尊重すべきとのお大師様のおことばにより、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存を心掛け手厚く神社を保護してきました。  
元慶八年には天台宗の慈覚大師の高弟・安然が大山寺第五世として入山。伽藍を再興し、華厳・真言・天台の八宗兼学の道場としました。  
これより大山は相模国の国御岳たる丹沢山系の中心道場として各地に知られ、別当八大坊をはじめとする僧坊十八ケ院末寺三、御師三百坊の霊山として栄えました。  
しかし明治初年の廃仏毀釈により、現阿夫利神社下社のある場所から現在の場所に移りました。関東一円を初め日本中の強い信仰に支えられ、幸いにもご本尊を初めとする、数々の寺宝は破壊を免れました。明治期に数多くの信者たちの寄進によって現在の位置に本堂をはじめ数々の伽藍が再興され現在に至っています。大山寺はまさに多くの信者に支えられた一大霊地といえます。  
大山信仰  
大山は丹沢山地東南部に聳える標高1252mの神奈備型(ピラミッド形)の孤峰で、伊勢原市・厚木市・秦野市の3市の境界をなす。前面が開けた平野となっていて遠方からもその姿を望むことができ、相模国の象徴として万葉集にも「相模峯」とうたわれている。それは「大山」という名前が、普通名詞であることによってもわかる。このほか「阿夫利山」「雨降山」「如意山」「大福山」など様々な別名が付けられた。  
大山への信仰は広範囲にわたる。古くより、死後の霊魂の赴く山とされ、また山頂には常に雨雲がかかり(雨降山の由来)と呼ばれ農民に雨乞いの神として信仰された。さらに漁民からは航海の目印として信仰された。また朝廷や鎌倉幕府、室町幕府、後北条氏、江戸幕府など時の為政者からも信仰が寄せられたほか、江戸時代には現世利益を願う江戸っ子や水を必要とする町火消しなども盛んに訪れ、その様子は浮世絵や落語「大山参り」をはじめとする文芸作品で盛んに描かれている。  
古来、山頂の阿夫利神社と山腹の大山寺が一体となって(寺院側の勢力のほうが強かったが)大山信仰の核となっていた。阿夫利神社は祟神天皇の頃の創建という社伝を持つ、『延喜式』の神名帳にも名のある古社で、山自体を神格化したものである。また山頂の自然の大岩を御神体とすることから「石尊」とも呼ばれる。大山寺も天平勝宝7年(755)に奈良東大寺初代別当の良弁僧正が両親のために開いたという縁起を伝える古寺で、鎌倉期の鉄造不動像(国重文)を本尊とする。弘法大師などの伝説も残るが実態は明らかでない。しかし、大山の天狗は有名で、戦国時代には修験道本山派の棟梁が訪れるなど修験者の修行地として知られたのは確かである。彼らはしばしば後北条氏に従って戦っており、これを危険視した徳川家康によって近世の初期に改革が行われた。修験者は山を下り、信徒に御札を配ったり、宿泊所を提供する「御師」となって活躍し、大山信仰の拡大に寄与した。その活動範囲は明治時代の記録では遠く福島・新潟・長野、あるいは伊豆諸島まで広がっていた。幕末から平田派国学と接触があった大山では明治の神仏分離の際、神社が主導権を握り国学の碩学−権田直助を迎え、御師は先導師と名を改め神社の傘下に入った。その後、県社の社格が与えられている。一方、大山寺は一時衰えたものの真言宗大覚寺派準本山・関東別院の寺格を誇っている。 
●江ノ島岩屋 / 藤沢市江の島  
弘法大師 弘仁5年(814) 参拝  
役行者や弘法大師も修行した海の中の岩屋。かつては一大霊場だった。  
長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)から成ります。古くから信仰の対象にもされてきた岩屋。弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも言われています。  
 
江の島の「岩屋」は波によって浸食されてできた洞窟。その昔、弘法大師や日蓮が修行したといわれ、1182年(養和2年)には、源頼朝が奥州平泉の藤原秀衡征伐を祈願した。その際、文覚が断食したというのがこの洞窟であったのかもしれない。  
鎌倉大楽寺(廃寺)の願行(京都泉涌寺第六世)は、ここで祈願し、伊勢原大山寺の鉄造不動明王像(国重文)を鋳造した。覚園寺にはその試作とされる不動明王像が安置され、「試みの不動」と呼ばれている。   
 
「江嶋縁起」(11世紀に皇慶が書いたと伝えられる)によれば、552年4月に海底より塊砂を噴き出し、21日で島ができたと伝えられている。  
672年(白鳳元年)役小角が江の島を開基したといわれる。以来、島全域が聖域として扱われた。  
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年) 正倉院に残る庸布墨書によれば、方瀬(片瀬)郷の郷戸主大伴首麻呂、調庸布一端を朝廷に貢進とあり、この地域の公的記録の初出とされる。  
814年(弘仁5年) 伝承によれば空海(弘法大師)が金窟(現・岩屋)に参拝し国土守護・万民救済を祈願、社殿(岩屋本宮)を創建、神仏習合により金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になったという。  
伝承によれば853年(仁寿3年) 円仁(慈覚大師)が龍窟(現・岩屋)に籠もり、弁才天よりお告げを受け、上之宮(現・中津宮)の社殿を創建したという。  
 
四囲を海蝕崖に囲まれた険阻な地形、海蝕洞「岩屋」の存在は、古来宗教的な修行の場として江の島を特色づけてきた。奈良時代には役小角が、平安時代には空海、円仁が、鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。1182年(寿永元年)に源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、参詣されてきた。弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝した。ことに音曲に関連する職業に多い視覚障害者の参拝も見られ、中でも関東総検校となる杉山和一の存在は特筆すべきである。参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。宿坊の中でも岩本院(江嶋寺=こうとうじとも呼ばれた)は有名で、現在の旅館「岩本楼」の前身にあたる。 
●海詠山聖無動院 長楽寺の石仏群 / 平塚市札場町  
弘法大師 止宿  
長楽寺は海詠山聖無動院と号す古義真言宗の寺院です。江戸時代末に編さんされた『新編相模国風土記稿』では、この地は弘法大師が止宿した霊地で、後に鎮海という僧が草庵を結んで海詠庵と称して住み、建保年中(1213〜1218)に朝秀という僧が鎮海を開山として中興し、現在の山寺号を付けたと伝えています。高野山の末寺で不動尊を本尊とし、同宗の関東壇林の一カ寺として栄え、須賀に三力寺の末寺をもって三島神社の別当も務め、さらに境内の護摩堂には相模国の新札所第八番の観音を安置するとも記されています。  
昭和20年の戦災で堂塔伽藍(がらん)がすべて焼け、かつての面影はありませんが、境内には多くの石仏が残されています。長楽寺の石仏のうち、すでに庚申塔(同寺境内には5基ある)は紹介しましたが、これ以外では寛文期の地蔵尊、大日如来像、弘法大師像、六字名号(みょうごう)塔、関東大震災供養塔、正保3年(1646)銘の宝篋印塔などがあります。下の写真はこれらの一部で、左写真には左から大日如来が2基、聖観音像1基、大日如来1基が並び、右写真には左から地蔵尊、如意輪観音、頭が落ちている阿弥陀如来と地蔵尊がみえています。  
これら一つ一つをとり上げることはできませんので、ここでは特色あるいくつかの石仏を紹介しておきます。長楽寺の石仏を見ていて気付くことの一つには石塔・石仏の建立や現在の姿には歴史の爪あとが残されていることがあります。  
たとえば本堂横の六字名号塔は、黒く煤けています。石の黒さではなく、火にあっていることは確かで、これは戦災時の火災の跡ではないかと思われます。  
境内の二隅に積まれ、無縁仏として供養されている石仏の中には40基ほどの弘法大師像を見ることができます。初めに記したようにこの寺は弘法大師にかかわる寺伝をもち、この関係で建立されたとも考えられます。境内には「四国講中」と彫られた燈籠の一部が残っており、四国八十八カ所霊場のミニチュア版がつくられていたことがうかがえます。建立年代については不明ですが、大師像の状態からは明治以前のものと推定できます。  
この弘法大師像で強く考えさせられるのは、首の落とされた像が多いことです。路傍や神社・寺院などの石仏を見て歩くと、首から上が人為的に落とされたものがしばしばあります。弘法大師像もこうした石仏の一つですが、ここには明治初期の排仏毀釈の爪あとを見ることができるわけです。排仏毀釈というのは、明治元年の神祗官の再興と神仏判然令に基づいて起こった仏教の抑圧・排斥・破壊運動のことです。 
長楽寺2  
(関東東北地方へ赴くにあたり伊豆から船で上陸し最初の滞在地) 海詠山長楽寺は、弘法大師空海を開祖とする高野山真言宗の寺院。縁起によれば、総本山・高野山金剛峰寺の相模国における直末寺(じきまつじ=総本山直属の末寺)であり、13ヶ寺の末寺を配していたという。現在長楽寺が建つ場所は、かつて空海が関東・東北地方へ赴くにあたり、伊豆から船で上陸し最初に滞在した地とされる。開山は文治元年(1185年)頃。僧・鎮海が草庵を建て海詠庵とし、その後建保3年(1215年)に僧・朝秀が庵号を海詠山とし、以来約800年間、地域を見守ってきた。 
●御嶽神社 / 神奈川県秦野市堀西  
弘法大師 霊水伝説  
創建年代は不詳ですが、江戸時代の1671年には月光山桂林寺の持ち分となり蔵王宮と改称されました。その後1873年神仏分離令により御嶽神社と改称されました。「新編相模国風土記稿」には「堀四ヶ村の鎮守なり。御神体は木造。」との記述がみられます。祭神は日本武尊です。  
お神水(おみたらし)の由来  
このおみたらしは、権現さんのお神水と呼ばれ、昔から霊水として近隣にも聞こえていました。その由来は、昔、弘法大師がこの三竹山を通りかかったとき、部落に水がなくて困っていることを知り、法力でこのみたらしの水みちを開いて下されたという伝説や、また、日本尊命(日本武尊)が東征の折、野火の難をのがれここで休息され、村人に世話になった礼として持っていた剣で水を湧かせた。それがこのみたらしの起こりだとも伝えられています。いずれにしても、お宮様と村とが水によって一つに結ばれたことを物語る尊いお神水であります。おみたらしの水は、眼病その他、諸病に効くと、今でも深く信仰されています。 
●湯河原温泉 / 神奈川県足柄下郡湯河原町  
弘法大師 弘仁8年(817) 開湯  
「田子の浦にうちいで見れば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ」と、万葉歌人を詠わした日本の霊峰、富士山は幾度もなく噴火をおこしたが、延暦19年の4月、72ヵ所から火を噴いて、焼けた溶岩が火の泥のように流れ出し、周囲二十里四方は全て焼け埋まった。  
更に、2年後の延暦21年5月にまた大爆発をおこし、それによる大地震が2回に渡って大地をゆすり、崖は崩れ、噴火の灰や石は、その頃の官道と言われた足柄道の人馬の行き来をふさいでしまった。  
ところが、それから僅か4年目の大同元年6月、またまた大噴火がおこりこの地方の人民は、ほどほど困窮した。時の朝廷は全国の神社、仏閣に特使をつかわしたり、人民の救済に手を尽くした。  
しかし、そのかいもなく11年たった弘仁8年(817)7月14日、東国一体に突然大地震がまた起こり、山は崩れ、河川は氾濫、百姓その他圧死するものが数える事が出来なかったという。  
時の嵯峨天皇は、8月19日に真言宗の開祖”弘法大師(空海)”を特使として、関東に実地調査を命じた。その際、湯河原地方を訪れた大師が、湯河原の渓谷を流れる千歳川の上流で崖から落ちる滝の水で足を洗ったら、その水が温泉に変わったのが湯河原温泉の始まりであると長い間信じ伝えられてきた。  
昭和の半ば頃まで、温泉場中央、桜山入口に大師堂があり、清瀧(きよたき)と呼ばれた瀧が、その側の谷に落ちていた。そして、この瀧を「弘法大師洗足(せんそく)」とも呼んでいたが、今は細い流れだけとなり、大師堂も姿を消した。 
湯河原温泉2  
発見説  
大化の改新後まもなくの674年に加賀の国(金沢)から、名族の血統である二見加賀之助が、新しい政治の圧迫を逃れる為に湯河原に移住し、開拓の際に温泉を発見したという説が残されています。また、奈良薬師寺の大高僧、行基(ぎょうき)が大仏を作るための寄付を集めるために全国を旅している最中に、箱根山で病でうずくまっている乞食に出会うところから物語が始まり、乞食に言われるまま彼を背負って渓谷に向かうと湯が湧き出し、湯に入るとあっと言う間に病が直っただけでなく、実は正体は薬師如来だったという話が残されています。  
これ以外にも、同じく大高僧の弘法大師が湯河原の谷で修行した際に見つけた説や、優れた修行僧であった役行者役小角(えんのおづの 飛鳥時代700年頃)が神通力によって見つけた説、怪我を負った狸が傷を治す為に湯を見つけて治した等の説が残されています。  
狸説に関しては、湯河原で傷を治した狸が人々に恩返しをした説があり、この狸を祀った神社があります。(万葉公園/狸福神社)町の人々も昔から狸をこよなく愛し、湯河原では狸にちなんだ「坦々やきそば」も新たに作られ、多くのお店で振舞われています。  
日本最古の記録  
日本最古の和歌集、万葉集(760年前後)に、唯一温泉の様子が記されているのがここ湯河原温泉です。  
あしがりの土肥の河内に出づる湯の、世にもたよらに子ろが言はなくに (巻十四の東歌/相模の国の歌十二首の中の八首目)  
[意味]「湯河原の温泉が、夜となく、こんこんと河原から湧いているが、その湯河原温泉が湧き出るような情熱で、彼女が俺の事を思ってくれているかどうか、はっきり言ってくれないので、毎日仕事が手につかないよ」  
この歌が万葉集初期の歌として多分に民謡性を帯びていると思われているところから想像すれば、すでに湯河原の渓谷には温泉が湧いていたことは勿論、その頃の人々がその温泉が湧き出る様子を女性の情熱にたとえて、酒の酔いに浮かれながら歌った素朴な生活ぶりが想像できてゆったりとした気持ちになります。 
●見富山 善勝寺 / 神奈川県相模原市  
弘法大師 開山  
弘法大師の開山と伝えられ、文亀年間宥海によって再建されました。かつては関東法談所36院の内に数えら、津久井郡内に末刹18ヶ寺を有していました。 本尊は毘沙門天(像高55.5cm)で弘法大師作とも言われています。また弁天島は善勝寺の飛び地境内で弁天堂があります。津久井三十三観音霊場第18番札所。 
善勝寺2  
弘法大師空海が諸国巡錫の折り、この地で毘沙門天の尊像を彫り祀られたことを開創としている。時は流れ明応9(1500)年、甲州都留郡上鶴島禅定院より宥興法印が善勝寺に入山し堂字の修復、再興を行ったことが『新編相模風土記』に記されている。この宥興法印を当山第一世として歴代住職が連なる。  
江戸時代には関東における古義真言宗の法談所36カ所の一寺を担い、紀州高野山の直末として、末寺18ケ寺を数えた。また千木良には上明神牛鞍神社と下明神月読神社の二つの鎮守社があり、別当を勤める。慶安2(1649)年には小田原北条より御朱印が下賜され、北条家の祈願寺として朱印地を賜わっている。慶安年間(1648〜1652)と文化5(1805)年に、裏山が崩壊する災害があり、堂宇を大破してしまう。その当時は、山の中腹(現在の墓地に辺る)に堂宇が建っていたが、度重なる災害のため現在地に移築されたという。  
境内には山門・本堂・鐘楼など記し、町指定の高野槙・枝垂れ桜など彩りを添えている。また、寺領地である相模川と底沢の合流にある一枚岩は弁天島と呼ばれ、岩頂の祠に宇賀弁財天を祀る。尊像は二度の盗難にあったため現在は当寺本堂にお祀りしている。  
本尊は毘沙門天、脇侍が弁財天・善賦師童子の立像。弘法大師像は不動、愛染明王を脇仏とし、寛永16(1639)年、鎌倉仏師後藤左近の作と銘あり。さらにもう一体の弘法大師像と阿弥陀如来像は共に室町時代の特徴を備える尊像。十二面観音・三面大黒天は江戸時代の作と多くの諸仏諸尊を祀る。  
寺宝としては、弘法大師ご着用の古納衣、狩野元信筆と伝わる12枚の鷹の絵図などを有す。 
相模湖 / 神奈川県相模原市  
弘法大師 行脚伝説 
「桂川」「嵐山」「与瀬」「小原」「吉野」「奈良本」「高尾」といった京都に由来する地名が点在している。弘法大師がこの地を行脚した折、京都の地形や山容に非常に似通った所があるとして命名されたとの伝説が残っている。 
 
黄雲山 延命寺 [逗子大師] / 神奈川県逗子市逗子  
天平時代 / 創立・開祖 奈良時代聖武天皇の天平年中、行基菩薩自ら作られた延命地蔵尊を安置したことが当山の始まりである。  
平安時代、逗子の地名の発祥 / 弘法大師が当山に立寄り、延命地蔵菩薩の厨子を設立せられる。その後、住民の尊信が高まり、この地を「厨子」と呼び現在の「逗子」という地名の発祥と伝わっている。  
鎌倉時代 / 三浦氏の一党が大いに当寺を修補して祈願寺とする。 
日向山宝城坊 日向薬師 / 神奈川県伊勢原市  
当山は奈良時代初頭の霊亀2年(西暦716年)に、僧行基により開山されました。僧行基が熊野を旅していた際、薬師如来のお告げにより、相模国のこの地(現在の神奈川県伊勢原市)に、日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)を開山した、と伝えられています。  
薬師信仰は奈良時代に盛んになり全国に広まりました。薬師如来は東方瑠璃山(とうほうるりせん)に在って現世のご利益を願う尊(ほとけ)です。寺は、かつては勅願寺とされていましたが民衆の篤い信仰を受けて、今日まで法燈が受け継がれてきました。人々の心の安らぎ、和やかさ、健やかさのご加護を願う尊(ほとけ)として益々、人々の信仰を篤くしています。 
大本山川崎大師平間寺 [通称・川崎大師] / 神奈川県川崎市川崎区大師町  
大本山川崎大師平間寺の厄除弘法大師略縁起によれば、大本山川崎大師平間寺の建立は、第七十五代崇徳天皇の御代(1123〜1141)、無実の罪により生国尾張(現在の名古屋地域)を追われた武士の親子、平間兼豊・兼乗が諸国を流浪し、川崎の地に住みつき、漁師として生計を立て、兼乗は深く仏法に帰依、弘法大師を崇信し、42歳の厄年に当たり、日夜厄除けの祈願を続け、ある夜、一人の高僧が兼乗の夢まくらに立ち、『我むかし唐に在りしころ、我が像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり所願もまた満足すべし』と告げられ、兼乗は翌朝直ちに海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられ、それは大師の尊像、この地は『夜光町』と名づけられ、大師の浜の古い歴史を今に伝え、兼乗はお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで供養を怠らなかったとあり、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途中ここ兼乗のもとに立ち寄られ、兼乗と力をあわせ、大治三年(1128)一寺を建立、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいげんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉ったとあり、これは今日の大本山川崎大師平間寺の由来とされます。  
兼乗は、信仰のおかげで、晴天白日の身となり晴れてふたたび尾張の国に帰任し、平間寺の開基である尊賢上人は、保延二年(1136)弘法大師を篤く信仰されておられた鳥羽上皇の后・美福門院に平間寺開山の縁起を申し上げ、災厄消徐と皇子降誕の祈祷を修行され、霊験たちまちに現れ、皇子(のちの近衛天皇(1139〜1155)・第七十六代(在位1142〜1155))がお生まれになられ、厄除弘法大師のご霊徳と美福門院もお喜びになり、鳥羽上皇にご奉告申し上げ、永治元年(1141)近衛天皇のお名によって、平間寺に、勅願寺のご宣旨が下されたとあります。  
爾来、皇室のご尊信も深く、以降、徳川将軍家の帰依も篤く、厄除弘法大師のご霊徳は、いよいよ天下にあまねく関東厄除・第一霊場として善男善女の参詣、相ついて跡をたたず、現在に至っているとあります。  
生国尾張追われた武士の親子、平間兼豊・兼乗が諸国を流浪し、川崎に住み着き、漁師として生計を立て、仏法に帰依し、夢告により海中より引き揚げられた弘法大師尊像が尊奉されている川崎大師さんの寺号は平間寺であるのは、平間に因むとされるも、関東で古く、平将門の反乱も、嵯峨天皇(809〜823、諱は神野)の勅願で空海(774〜835)が敬刻、開眼、護摩法を修され、高雄山神護寺に奉安され、朱雀天皇(930〜946、諱は寛明)の天慶二年(939)の鎮定祈願の密勅を受け、鎮定(天慶3年(940承平天慶の乱))されたのであり、平将門は、寛平元年(889)、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下された桓武天皇の第三皇子、葛原親王の三男高見王の子、高望王とあり、高望は昌泰元年(898年)に上総介に任じられ、長男・国香、次男・良兼、三男・良将を伴って任地に赴くとあり、三男・良将が平将門であり、となれば、次男・良兼は、大師平間寺の厄除弘法大師略縁起に記された、川崎に定着し、弘法大師尊像を尊崇された生国・尾張の兼乗となり、同寺は、嵯峨天皇の勅願に発起されて三男良将=将門が鎮定された後になって、三男・良将=将門に敗れた次男・良兼=兼乗が追善されたものと考えられます 
川崎大師2  
真言宗智山派の大本山。川崎大師の通称で知られる。山号は金剛山。院号は金乗院(きんじょういん)。尊賢(そんけん)を開山、平間兼乗(ひらまかねのり)を開基とする。2008年(平成20年)時点の貫首は第45世・中興第2世藤田隆乗が務める。  
平間兼乗は海中へ網を投げ入れたところ、弘法大師の木像を引き揚げた。兼乗は木像を洗い清め、花を捧げて供養していたという。諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人は、弘法大師の木像に纏わる話を聞き、兼乗と力をあわせ、1128年(大治3年)平間寺を建立した。1813年(文化10年)徳川幕府第11代将軍、家斉が訪れた。毎年の正月には初詣の参拝客で大変な賑わいとなる。2012年初詣客は296万人となり、全国3位、神奈川県1位を記録した。当寺への参詣客を輸送する目的で、1899年1月21日(初大師の縁日)に開業した大師電気鉄道は、現在の京浜急行電鉄の基となった。 
川崎大師3  
兼乗 網を投じ大師像引き揚げる  
今を去る870余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく 、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。  
兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、 日夜厄除けの祈願をつづけていました。  
ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。已来未(いらいいま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。  
兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。  
その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。 これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。川崎大師掲示板より (*;吟醸注)  
あらら、川崎大師側の縁起と落語家の縁起では随分・・・、いえ、全く違っています。だから・・・落語家の話をまともに聞いてはいけないのです。これも臼だ!と言っています。  
でも、落語「千早振る」と同様、大変に良く出来た話で、若い空海が美人の娘に言い寄られる”仏難=女難”から身を避ける話は、さもありなんと思わせるところが憎い限りです。ここで空海がこの娘と一緒になっていたら歴史も変わっていた事でしょう。  
正式には「真言宗智山派 大本山金剛山金乗院平間寺 川崎大師」と言い、 厄よけ大師として有名です。本尊;厄除弘法大師 / 中興の祖;興教(こうぎょう)大師覚鑁(かくばん)上人。嘉保 2年(1095)6月17日〜康治2年(1143)7月没、49歳。
弘法大師   
書道に秀でた空海上人でしたが、彼の書にも間違いがあるという、「弘法も筆の誤り」はその道に長じた者にも、時には誤りや失敗があるというたとえ。「猿も木から落ちる」「河童の川流れ」と同じ意味で使われます。 逆に、書は道具で書くのではないと、「弘法筆を選ばず」の言葉も有名です。  
弘法大師が間違ったという字は何だか解りますか。その文字は「応」の字。点が一つ足りなかった。京の都の大内裏に応天門があり、弘法大師は頼まれてこの門の額に字を書いたのだが、いざ挙げてみると、点が一つ足りな かった。筆を投げつけて(?)点を打ったが、じつに上手く字にまとまったとか。しかし、空海没後約30年、貞観8年(866)閏3月10日の夜、応天門が炎上、全焼してしまった。だから、その額の書は今見る事が出来ません。この火事を政争の具に利用されて”応天門の変”と言います。
六郷の渡し  
東京都と神奈川県の境を流れるのが多摩川です。この多摩川が東京湾に流れ込む河口のところが六郷(ろくごう、六江)と呼ばれる所です。川の名前も六郷川と言います。現在は羽田空港があり、多摩川の最下流に架かった橋が六郷橋と言いい・・・、いえいえ、とは言わず川崎大師から「大師橋」と言います。六郷橋はこの上流の第一京浜国道に架かった橋で、旧東海道はここを通っています。  
大師橋の上流500m程の、ここに”大師の渡し”がありました。昭和14年(1939)大師橋が完成するまで運用されていました。六郷にはもう二つの渡しがあり、 その一つは大師橋の下流羽田に渡す渡しです。その名を”羽田の渡し”(六左衛門渡し)と言っていました。これも大師橋完成で役目を終わっています。  
もう一つは第一京浜国道に架かる六郷橋の所にあった渡しで”六郷の渡し”。江戸側は今の国道に沿って東側に旧東海道があり土手に突き当たって降りた所が船着き場でした。川崎側は今の六郷橋の下あたりです。  
六郷橋は慶長5年(1600)架橋、その後破損修復を繰り返しながら貞亨(1688)の洪水で流失以降架橋は絶え、交通は六郷の渡しに依る事になります。当初渡し船の運営は幕府の直営で行われましたが、その後江戸町人の請負となり、宝永6年(1709)川崎宿が幕府からその運営を任せられます。  
明治7年(1874)八幡塚村の元名主であった鈴木左内が有料の橋を建設。別名左内橋と呼ばれ、この時から渡船が無くなります。  
川崎大師から一番近い六郷川を渡す所と言えば”大師の渡し”です。私は急遽宿を立って急いで川向こうの江戸に行きたいのであれば、わざわざ遠回りするより、目の前の”大師の渡し”を利用するのがごく自然ではないかと思っています。  
一刻前の渡船とは、男の足で2時間は約2里、8km程あります。多摩川を渡って、大森、鈴が森(刑場があった所)、品川、そして今のJR品川駅ほども行ってしまいます。ま、舞台の当時は海岸線ばかりで、刑場も品川新宿も有りませんでしたので、もっと遠くまで行っていたかも知れません。何せ逃げるように行ってしまったのですから・・・。 
江ノ島  
相模の国江ノ島に鎮座まします江ノ島神社(辺津宮 中津宮 奥津宮 舊下ノ宮 舊上ノ宮 舊巌本宮)の祭神(多紀津姫命 市杵島姫命 多紀理姫命)三神の由緒を審に尋ねるに昔欽明天皇十三年壬申四月十二日より二十二日まで此津村の湊の海上にわかに霧立ち雲覆い沖合い振動し次第に海上穏やかになり時に不思議や一つの島沸き出でたし 天女三神ここに天降りましたまえり是れ即ち現時江の島大神と申し昔は弁財天女と呼び奉る御神なり  
この時に当りこの島の北の方に黒澤という四十里の湖水を隔て南の山谷に津村の湊と呼ぶ淵あり この淵に五頭の悪龍住み居りて人の子を取り食らいしその近辺の長者十六人の子を持てるが皆この悪龍のために飲まれにければ長者は痛く之を恐れ西の里に移りしゆえこの所を名づけて子死越という 今腰越村に作る後悪龍天女の美麗き姿を見初恋慕の情止みがたくかかる猛悪なる毒龍も抑えがたき色欲煩悩の犬に追われて天女の許しいを至り思いの丈を述べければ天女は甚だ心好からず思し召し今より邪悪の念を絶ち人の子供を取り食う事を止めたれてその時誓いを為すべしと思せ賜え 流石の悪龍も後悔して遂に心を改め善龍とこそ化したりどぞ今に津村の鎮守なる龍口明神は即ち之なり かかる舊縁あるを以って六十一年毎に江の島に渡御(とぎょ)ありて六十日の大祭あり 又江の島大神は亥と巳の年に当る七年毎に大祭を執行す 之を昔は開帳ととなえしを王政維新のその後は神と仏の差別を立て今の称えに改めたり  
抑々当時江島の開基は人皇第四十二代文武天皇の頃大和国に役行者(えんのぎょうじゃ)という人あり 神霊不思議の事あればその弟子韓国広足此れを妬み小角(おづの)という不思議の妖術を」使う由を朝廷に誣告したるより同天皇の三年に伊豆国大島へ流され翌年四月小角は不図北海を見てあれは紫雲起こるところあり 行者は不測の思いをなしその所を尋ねると江の島金窟の上において尋ね当てし故行者はやがてかの窟中に止まりて七日の間精進をしその冥感を祈りして満願百七日の真夜中頃天女突然窟中に示現在々けりとなん  
一 人皇四十四代元世天皇の養老七年三月泰澄大師江の島へ参詣し大乗経を読誦しければ天女現前然と現れ給いしと言い伝えたり  
一 人皇四十五代聖武天皇の神き五年より天平六年まで道智法師この島に在まし法華経を読誦しけると数部の妙典聴聞の為か天女毎日三の飲を手づから供養せられしという  
一 人皇五十三代嵯峨天皇弘仁五年二月弘法大師北京之帝城より東海の霊場を拝しながら相州津村の湊に泊どり南海の幽畔によって一孤島の勝景奇絶たるを見渡海して江の島に至り金窟に入りて十七日趺座して真言陀羅尼を読満する夜窟中厳淨として梵楽聞こえ天女突然と現じ八臂具足の格好を見せ大師に一偈を示したりと  
一 文徳帝の御寿三月三日慈覚大師この津村に着し南海の霊島を望むに島中三領あり ここに大師恭敬合掌し読経修行すること三十七日洋中に彩雲愛たいとして霊験あり 大師いよいよ信心したまうとぞ  
一 村上帝の御宇健保四年正月十五日江の島明神の宣託あり 大海潮干きて道路を顕出せりよりて鎌倉中緇素の輩ら群集せり 公命を受三浦左衛門尉義村を御使いとしてこの霊地に詣でしめしと 是より参詣人は船路の煩い無くなりて前代未曾有の神変を尊とみけり  
一 北条時政かつて江の島神社に篭り武運長久を祈誓せし三十七日の夜に当たり緋の袴を穿き柳裏の衣着たる美麗なる女房忽然と出で来り時政が所願の旨を告げ給いさしも艶やかなりし女房たちまち長二丈ばかりの大龍となって海中に入りたり この跡を見に大いなる鱗三枚を残せり 時政願望就せりとて喜びてその鱗の形を取り旗の紋に用いたり 是より北条は三鱗形を定紋をはなえたりとぞ  
一 辺津社 舊下ノ宮  
建永元年慈悲上人諱真の開基にて源実朝の建立なり 延宝三年に再興の棟札ありと言う  
一 中津宮 舊上ノ宮   
文徳天皇御代仁寿三年慈覚大師この宮を創造せりと言う  
一 奥津宮 舊巌本宮の御殿  
養和二年四月五日武衛頼朝腰越に出て江の島に赴き給う その頃高尾の文学上人武衛の御祈願により龍穴の大神を勧請す 今の巌屋本社是なり 今奥津宮の華表に掛ける一遍額金亀山を書するは文学上人の筆なりと  
一 龍窟  
この龍穴に於いて祈雨の事徃々見えたり 法印堯慧が北国紀行に此処を蓬莱洞といえるは佛法深秘のことなり  
一 碑石  
辺津の社南方に立てり 高サ五尺余 広サ二尺余  
鐘楼の傍らにあり 上と雨縁は別石にして座石なし 年古て今は土中を掘り埋めて建てたり 碑文の所半ばより折れしを繋ぎ合わせてあり この石は江の島の屏風石なりとも言伝う  
この碑石は土御門帝の御宇に慈悲上人宗の国に至り 慶仁禅師に見えこの碑を相伝して帰朝せりとぞ篆額は小篆文にて粗大篆を兼ねたり  
碑文は摩滅して字体不分明なり 普く博識好事家に就いて質せども嘗て知人あらざるを遺憾とす  
鴨長明の歌  
江の島やさしてこし路ふ跡たるゝ 神はちかいの深さなるべし  
法印げつ慧の歌  
ちらさじと江の島もりやかざすらん かめのうへなる山さくらかな  
蘭渓和尚同遊江島帰賦以呈宗大休 佛源禅師  
江島追遊列俊髪馬蹄猟々擁春袍穿雲分座烹茗香  
策杖徐行踏巨鼇洞口千尋石壁聳龍門三級浪花高  
須知海角天涯外萍水逆懽能幾遭  
片瀬村  
固とも記せり江の島の北に当り砂路八町片瀬川島の西に流る  
鎌倉郡と高座郡の堺に流れると片瀬川と言う、駿河次郎清重が戦死せし所にして大庭三郎景親(かげちか)を梟首(きょうしゅ)したるもこの川の畔なり。新田義貞鎌倉攻めの時。片瀬。腰越。十間坂。五十余箇所に火を賭けると古書に見えたり  
龍行寺  
片瀬腰越の間江の島より北十五町余りにあり  
文永7八年九月十二日。日蓮上人難に遭舊蹟にて敷革石一名を首の座石といい寂光山と号す日蓮上人選化の後弟子六人の老僧力を合わせて建立す(日蓮土牢本堂の西山麓に有る窟をいう)  
龍口明神社  
龍行寺の西の方にあり  
舊祠にして津村の鎮守なり祭神は江の島大草紙に委し  
西行見返松  
片瀬村の中央藤沢駅通路の傍らにあり西行此処に来り都の方を顧みて松枝を西の方へ捩れたるをもって捩れ松ともいう  
神奈川県  
神奈川県は現在では県名の『神奈川』より、日本第二の都市で県庁所在地でもある『横浜市』のイメージ(存在感)のほうが強くなっていますが、歴史的には幕末まで『横浜』は極めて小さな漁村に過ぎず、東海道筋で江戸時代に栄えていた宿場町の『神奈川宿』のほうが横浜よりも大きな町でした。神奈川(かながわ)という名前そのものは、幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれていた『神奈川奉行所』に由来するとされますが、元々、京急仲木戸駅の近くに神奈川という長さ約300メートルの小さな小川が流れていました。現在はこの川は埋め立てられていて存在しませんが、井伊直弼が大老を務めていた幕末の神奈川宿は、武家や商家が集う宿場町として活況を呈していました。  
古代の神奈川県の領域は『相模国八郡・武蔵国三郡』で構成されていましたが、神奈川県に該当する地域が本格的に栄えてくるのは、中世期に征夷大将軍に任命された源頼朝(みなもとのよりとも)によって『鎌倉』に日本初の幕府が開設(1185年に全国に鎌倉幕府の官吏である守護・地頭を設置)されてからです。室町時代に入ると室町幕府が、関東八ヶ国(関八州)を支配する役所として『鎌倉府』を置きますが、実質的な政務の権限は鎌倉府の長官である『鎌倉公方(かまくらくぼう)』ではなく、それを補佐するナンバー2の『関東管領(かんとうかんれい)』が握ることになりました。  
江戸時代中期には、小田原藩とその支藩の荻野山中藩や武蔵金沢藩(六浦藩)などが現在の神奈川県域を支配しましたが、それ以外にも県外に本拠を置いている藩(烏山藩・佐倉藩・西大平藩など)が飛地としての所領を保有していました。江戸期には現在の神奈川県全域の全体を一円的に支配するような大藩は存在せず、小田原藩を中心として他の幾つかの藩があり、そこに幕府直轄領・旗本領などが混在していました。初代将軍の徳川家康から厚遇されたイギリス人の三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、西欧の情勢や文物、知見をもたらした功績により三浦半島に領地を与えられたりもしています。  
神奈川県の横浜市が『国際都市』になるきっかけは19世紀以降の外国船(イギリスやアメリカの蒸気機関の黒船)の相次ぐ来航であり、幕府は武力をちらつかせて『開国・開港』を迫ってくる外国勢力に対して、会津藩を動因して沿岸地域の警備体制を固めました。文政元年(1818年)5月にイギリス船が来航し、文政5年(1822年)にも再びイギリスの捕鯨船が洲崎沖(千葉県)にやってきて、天保8年(1837年)6月にアメリカ商船のモリソン号が浦賀沖に来航した事で幕府は騒然としました。そして、嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国の代将(実質的な提督)であるマシュー・ペリーが率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が江戸湾浦賀に来航して、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に『日米和親条約』が締結され鎖国体制が終焉しました。  
安政5年6月19日(1858年7月29日)には、アメリカ全権タウンゼント・ハリスとの間に『日米修好通商条約』が結ばれて、神奈川の開港を約束させられました。この日米修好通商条約は強制的に開港させられて、領事裁判権(治外法権)や関税自主権の放棄を認めさせられた『不平等条約』でしたが、幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んでこれらは『安政五ヶ国条約』と呼ばれました。  
この条約で開港することになったのは、『神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫』の5港でしたが、実際に開港したのは神奈川ではなく『横浜』であり、兵庫ではなく『神戸』でした。幕府は政治上の意図もあり、横浜は神奈川の一部であり神戸は兵庫の一部であると強弁して、アメリカ側のクレームをはねつけました。当時の『神奈川』は東海道の宿駅として栄えていて武士・町人の人通りが多かったため、幕府は外国人に危害を加える『攘夷騒動(外国人襲撃)』が起こることを危惧したとされています。実際に文久2年8月21日(1862年9月14日)には、東海道の街道筋で薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人3人を薩摩藩士が無礼討ちで殺傷する『生麦事件』が勃発しています。  
条約に記載されていた『神奈川』ではなく、街道筋から離れた対岸にあった約100戸の寒村の『横浜村』が開港されることになります。これが現在の横浜市の発展の始まりになるのですが、横浜の港湾設備が整備されて貿易取引が活発化するにつれて、神奈川宿のほうは次第に寂れて衰退し、貿易港として栄え異国情緒を漂わす横浜のほうが急速に大都市化していったのです。慶応4年(明治元年)3月19日(1868年4月11日)に『横浜裁判所』が設置され、4月20日(5月12日)にその横浜裁判所が『神奈川裁判所』に改称されて、その下に戸部裁判所(内務担当)と横浜裁判所(外務担当)が設置されました。1868年6月17日(8月5日)には全国に10個あった『府』の一つとして『神奈川府』となり、同年9月21日(11月5日)には現在の『神奈川県』へと改称されたのでした。  
幕末までの『神奈川』の位置づけが如何に高かったかは、神奈川府が東京府・京都府・大阪府の次に位置づけられていたことからも分かりますが、初代の知県事には寺島宗則(てらしまむねのり)が任命されています。明治2年(1869年)の『版籍奉還』では、神奈川県域で小田原藩・荻野山中藩・六浦(むつら)藩が版籍奉還を申し出ており、同年6月(7月)に各藩主が知藩事に任命されました。明治4年(1871年)の段階では、六浦藩が『六浦県』となり、小田原藩が『小田原県』、荻野山中藩が『荻野山中県』となっていましたが、六浦県は『神奈川県』と合併したものの、小田原県と荻野山中県は『足柄県(あしがらけん)』として再編制されました。  
しかし、神奈川県と足柄県の二県並立体制は、1876年(明治9年)4月18日に足柄県が廃止されて終わりを迎えることになり、足柄県の旧相模国地域は神奈川県に編入され、旧伊豆国地域は静岡県へと編入されて、現在の『神奈川県』と『静岡県』の原型ができていったのです。 
 
■中部
山梨県

 

弘法大師伝説 / 南アルプス市  
●真豊院 / 南アルプス市  
弘法大師 創建  
弘法大師が像を安置し創建したと伝えられる寺院。この寺がもとで付近の村の名を北大師と呼ぶようになったと伝えられる。安政五年正月九日夜の火災のため、すべて堂宇が焼失し、土蔵一棟だけが残った。武田式部大輔信包公の再建、信包の菩提寺となる。  
●深向院 / 南アルプス市  
弘法大師 天長年間 創建  
天長年間、弘法大師創建と伝えられる寺院。武田五郎信光が再興し、天文年間に武田家の重臣であった跡部大炊介が真言宗寺院を改宗して現在の曹洞宗寺院を建立した。本尊は釈迦如来。県指定文化財。  
●八幡寺 / 南アルプス市  
弘法大師 創建  
弘法大師創建の伝説が残る寺院。本尊は地蔵菩薩。武田信武も深く信仰したと伝えられる。八幡寺には次の伝説が残されている。大師が当寺を建てた時、見なれない童子が毎日来て手伝ってくれた。完成した夜、その童子が夢に現れて言った。「われは若宮八幡の神なり」。これを知った大師は感銘し、本堂の正面に安置し奉った。これによって清水山八幡寺と号することとなったという。  
●清水若宮八幡宮 / 南アルプス市  
弘法大師 創建  
八幡寺を弘法大師が建てたとき、若宮八幡の化身である童が助けた言い伝えが残されている。  
●不動寺 / 南アルプス市  
弘法大師 創建  
弘法大師が川の中から現れた金色に輝く大日(不動明王)に導かれ、不動明王を彫刻して開いたと伝えられる真言宗の古刹。大日が現れた不動寺西側の川は明王川といわれている。寺内には空海が功徳ための水を汲んだ池があったと伝えられるなど、数々の弘法大師伝説に彩られている。  
●金剛寺 / 南アルプス市  
弘法大師 創建  
弘法大師が、洪水と疫病に苦しむ人々を救済するため薬師如来を彫り、建立したと伝えられる真言宗寺院。 
●福田山 塩澤寺 [厄地蔵さん] / 山梨県甲府市湯村  
弘法大師 大同3年(808) 開山  
古くより厄除け地蔵尊は信仰されていました。地蔵堂に安置されている本尊の石造地蔵菩薩座像(県指定文化財)が、一日だけ耳を開き、善男善女の願いを聞きいれ、厄難を逃れることができることから、厄除地蔵尊祭りに人々が集まってくるのです。  
福田山塩澤寺(えんたくじ)は、大同3年(808)年弘法大師(空海)が開山し。天暦9年(955)空也上人によって開かれ、後に大覚禅師(蘭渓道隆 1250年頃)により再興されたと伝えられています。山門の脇には、「舞鶴の松」と呼ばれる県指定文化財のクロマツがあり、高さはありませんが、横に枝が伸び、30mにも及びます。山門の上には、鐘があり、行列ができますが大晦日除夜の鐘をつくことができます。  
寺の境内は、白樫の自然林で、日本最北端といわれ市指定の天然記念物です。地蔵堂の裏手には、岩盤を50pほどくりぬかれており、「首浮き地蔵」がまつられています。首と体が離れていて、願いごとがかなうときは、首が軽く浮き上がるといわれています。地元の信仰をあつめています。  
地蔵堂からは、南アルプスが一望でき、住宅地の向こうにはこんもりとお椀を逆さまにした加牟那塚古墳が見えます。地蔵堂の右手を奥に歩いていくと、板碑があります。県内最古のものといわれ、1350年2月の銘がある阿弥陀種子の板碑と1374年の銘がある無縫塔の2基があります。  
さらに、その板碑を過ぎて、裏山を登っていくと、右手に曲がり、湯村山に登る道との合流点に出ます。ベンチがあり、広場になっています。そこに、「こうもり塚」「地蔵古墳」と呼ばれる古墳が2基あります。周辺には、桜がたくさん植えられ、3月下旬から4月上旬に、花見ができます。  
北山の道に多く見られる、自然石の上に地蔵の首だけをのせたお地蔵様。裏の墓地の中程にあり「たんきりまっちゃん」と呼ばれ愛嬌のある顔で、地元の住民に親しまれている。塩澤寺より1k程北に昇った青松院にも同様の石地蔵があり、体の部分の大岩が雨合羽のように見えることから「合羽地蔵」と呼ばれています。北山の道に数箇所このような地蔵があります。  
滾々と湧き出でる弘法水と石芋伝説  
昔、大師が訪れた時大変空腹であった大師は、泉で里芋を洗っている老婆に何か食べるものをくれるよう願い出ました、長旅で衣服も汚れていた大師をみて老婆は身分の卑しい者だと思いました。そこで老婆は芋を恵むのをためらい、「今洗っているのは芋ではなく石ですよ」と言い、大師を追い払ってしまいました。その後老婆が里芋を取り自ら食べてみたところ以前より実がとても堅くなり、とても食べられた物ではなくなってしまったということです。その後この芋を「弘法石芋」と呼ぶようになりました。今でも塩澤寺より更に1k程上った羽黒にある龍源寺の左手の泉に弘法石芋があります。 
●雲岸寺 窟観音 / 山梨県韮崎市  
弘法大師 天長5年(828) 開山  
天長5年(828)、僧・空海(弘法大師)が七里岩中腹の岩窟に開いた観音堂がある。  
空海は七里岩窟絶壁の中央で、一夜斎戒沐浴の上造った観音石仏を洞窟に安置。民衆が窟堂を建立、霊験な祈願霊場として仰がれ、その傍らに隧道がある。霊場断崖に張り出した舞台造りの建築は、寛政6年(室町時代 1465)完成。岩壁をくり抜いた岩屋に石像が安置されているので「窟観音」と呼ばれ、寛政以後、正徳5年(江戸時代1715)から大正・昭和・平成と修復されている。  
観音堂は三つの部屋に区切られている。【手前】千体仏(千体地蔵尊)が祀られている。寛文7年(江戸時代1667)にすべての地蔵が安置され、日詣り・月参り・願掛け千体仏として祈願されている。【中央】民衆の足である馬の安全・民衆の家内安全を願う「本尊観世音菩薩」(弘法大師自作)を中心に、その左には地獄の裁判官「十王尊」、右に心の鏡を照らすと伝わる「心鏡」が祀られている。【奥】天長5年(平安時代 828)、弘法大師が平安を願い造った石像「弘法大師御尊像」が祀られている。 
●大嶽山那賀都神社 / 山梨市三富上釜口  
弘法大師 天長8年(831) 巡錫  
(だいたけさんながとじんじゃ) 奥秩父山塊の国師ケ岳(2591m)天狗尾根(2436m)を奥宮とする大嶽山那賀都神社(だいたけさんながとじんじゃ=標高約1000m)は、今も里人の信仰が厚い神々しい里宮である。  
天長8年(831)、僧空海(弘法大師)が巡業の際、立ち寄り、弘法の清浄ケ滝、座禅岩、下流川浦に絵書石等の行蹟を残す。 
大嶽山那賀都神社2  
当神社は往昔幾度か火災に遭ひ、古文書は現存しないが社記に依ると「畏くも人皇十二代景行天皇の御代、皇子日本武尊東夷御征定の砌、甲武信の国境を越えさせ給ふ時、靄霧四呎を弁せず依って岩室に山営を張り、三神に祈念を凝し給ひし時、神宣ありて皇子の向ふべき路を示し給ふ。依って武尊神恩奉謝の印として岩室に佩剣を留め給ひ以って三神を斎き給ふ。爾来、大嶽山奥の古院として代々剣を立て、三神を奉斎せり。後人皇四十代天武天皇の御代役の行者小角、富士の霊峯開山を志すに当り木花咲耶媛命の御父神を祭祀し、其の御守護を被り此の大業を完遂させんと従者と共に至り、当山の霊験なるを以て祈誓所修験道場を定めたるに、不思議にも昼夜連日に亘り鳴動止まず、故に神意ならんと単身山頂に至り拝むに神宣有り『我は三神なり』と、小角驚恐して身の置く所を知らず、其れより当山を赤之浦那留都賀崎の大嶽山と称へ奉る。今尚当山東に行者の遺跡存す。養老元年(七一七年)僧泰澄来りて神宣を蒙り藤蔓を以て四面の山頂に七五三を張り、神域を定めて七日七夜篝火を焚き祈?す。又、堂宇を修復なし岩室に参籠なす即ち西の行者の行跡是なり。天平七年(七三五年)僧行基勅令を奉じ諸山歴訪の砌り当山に至り参籠をなし観世音像を刻す時、神感ましまして神威ナガトととかれ、『赤の浦那留都賀崎に那留神の御稜威や高く那賀都とは祈る』と進歌を奉じ、其れより当山を大嶽山那賀都神社と申上奉るとなむ。天長八年(八三一年)僧空海弘法巡錫の砌、登山修業なし弘法の絵書石、清浄の滝、座禅岩の行跡を遺す。文明五年(一四七三)美濃浮洲の城主日原河内守藤原重実霊宣を蒙り、再建し奉る時に、厳寒冷凍斧を振る事不能。然るに深夜大木の倒るヽ音しきりなり。翌朝之を見るに古木、大木伐採山積しありたり。依って神助により工を起し社殿の建立をなす。以来是より薪切祭をなし神慮を慰む。以下略」又甲斐国社記・寺記第四巻寺院編に、由緒書上帳で、山梨郡下石森村羽黒修験観音寺より、甲府市御城代松平伊予守に差出した書面に「甲斐国山梨郡万力筋上釜口村釜戸ノ庄那訶都神社大嶽山金剛坊大権現、社地五町四方余、当神社往古人皇四十四代元正天皇ノ御宇養老元丁巳三月十八日笛吹川ノ源、国司ヶ嶽に鎮座ス。次ニ今ノ社ヘ御遷ノ時鳴動ス夫ヨリ折々鳴動ス。依テ鳴渡カ崎ト呼ビ、今、那訶都ニ依テ国司ガ嶽ハ奥院ト申伝ル。往古日原氏宮之丞トテ社主有シガ聊ノ事有テ大破ニ及、数年来之間小祠有リ。干時宝永中(一七〇四頃)日原氏之二男宮松トテ出生ス。七才ノ時託宣ノ事有テ日々参詣ノ信翼夥シ。元文五庚申年(一七四〇)正月二十一日ヨリ再建ノ企テ東叡山御支配ト成。金剛坊大権現トノ神位御令旨下増益社頭繁栄シ諸堂不残建立ス。拝殿眺望ハ東方ニ川浦観音ノ森、谷底ヲ見渡セハ参詣ノ老若行来ノ人手ニ取ル斗ニ思フ絶景ニシテ岩岨嶮岨シテ数十丈難量中程ニ行者越ト云名有。是ニ少ノ洞穴有、三方ハ流ノ音不絶云々……」と有る。又「本殿九尺四方掛作り、拝殿二間三間掛作り、女人堂四間半八間半中通、本尊伝教大師御作観音壱体、絵馬堂壱丈四方、石鳥居壱丈二尺、末社八社但小祠、馬部九尺四方、雪隠壱ヶ所」明治六年村社に列せらる。同時代には本殿、随神門、神楽殿建替。昭和四十二年拝殿建替。平成二十三年に御鎮座千三百年記念改修事業を敢行し現在に至る。 
●塔福山 大城寺 / 山梨県南アルプス市在家塚  
弘法大師 天長8年(831) 巡見  
宝亀年間(770〜780) / 威光上人、在家塚郷神野原に精舎建立を国司へ出願して一万坪を下賜される。  
天長8年(831) / 同年八月、大洪水にて数十カ村が流出。大城寺周辺の原七郷は被害甚大であり、人民は再度国司に哀訴し、国司藤原貞雄は朝廷にこの旨を奏上した。果たして勅使が弘法大師空海上人と共に甲斐国に下向し、流亡の村々を巡見し、大城寺で休息をした。この時、弘法大師は原七郷の安穏永続のため一刀三拝して毘沙門天像を作り、七種商法免書を胎内に入封して原七郷の守護神とした。 
●大野山 福光園寺 / 山梨県笛吹市御坂町  
弘法大師 行脚滞在  
大野山福光園寺は真言宗智山派に所属し、真言宗七談林(僧侶弟子教育の場)の1つで著名な古いお寺です。  
推古天皇の時代に聖徳太子が創立されたといわれる説があります。また、当時は聖徳太子が乗っていた甲斐黒駒という馬が産出された場所とされていて、ゆかりがあるという説もあります。その際に山号を駒獄山としました。当時は先程の馬の牧場があり、その上に当山があったと言われています。毘沙門堂には、当時から残っていると言われている吉祥天立像(現在調査中)が石仏にて安置されています。  
養老年中(717〜23)行基菩薩が当山に行脚中滞在し、本尊不動明王(火災にて現在焼失)を彫刻して、仏法結縁の霊場とされていました。  
その後、真言宗開祖である弘法大師空海が当山に行脚中滞在した際に、加持祈禱により湧出したと言われている牛池は現在も残っています。また真筆の般若心経2巻が残されていると伝えられていました。しばらく深い由緒により、多くの衆生を競って帰依しました。しかし諸堂伽藍を完備し隆昌を極めましたが、多くの変革を経て荒廃してしまいました。  
創立以来数百年を経て、保元2年(1157)当地の領主であった大野対馬守重包を中興開基に、賢安上人を中興開山として再建をはかり、諸堂伽藍を備わり寺号を大野山と称しました。  
戦国時代、武田信玄公(以下、信玄公)より深い帰依を受けて、甲斐、信濃や駿河の3ヶ国中に寺領を賜り、さらに甲府に長谷寺を建立して大野寺の祈禱寺としました。また金欄の七条袈裟、仏典や宝剣等が信玄公によって寄進されました。また武田勝頼公よりも手厚い庇護を受けて、数通の印判状を賜ったとされています。 天正2年(1574)山寺号を現在の大野山福光園寺と改めました。徳川家代々より寺領安堵の御朱印状を賜り、御祈願に勤めたとされています。当時は無本寺でありましたが、寛文12年(1672)初めて嵯峨大覚寺の末寺に、また宝永年間には松平甲斐守の祈願所となり、これらの由来により天明4年(1784)御城代により、甲府御城開門の許可を受けました。 
●瑞牆山 / 山梨県北杜市  
弘法大師 開山伝説  
(みずがき) 古くからの信仰の山で、洞窟には修験者の修行跡や刻字が残り、山頂の西峰には弘法岩があり、空海開山伝説も伝わる。  
瑞牆山は秩父連山の西端に位置する標高2,230mの花崗岩山です。まるでノコギリのような独特のギザギザ頭は今から2万年以上も昔の火山活動の名残で、その大小様々な形の岩が切り立つ山頂は奇峰の名にふさわしく、大小の奇岩にはヤスリ岩、弘法岩、十一面岩などの名前が付けられています。弘法岩からもわかるように、瑞牆山は弘法大師が修行した山と伝えられ、弘法岩の基部にはカンマンポロン(不動尊大日如来)という梵字のようなものが刻まれているという。これは弘法大師が彫ったものだとも言われるが、実のところは雨による侵食というのが本当らしい。いずれにしても山岳信仰の山である。   
瑞牆山の名前の由来 / みずがきとは、神社の周囲に巡らす垣根のことで、もともとは「瑞垣」とも「瑞塁」とも書く。近くの金峰山と同様に蔵王権現の山岳信仰と結びつき古くから甲州修験道の中心として登拝されていた。 
●武田八幡宮 / 山梨県韮崎市  
弘法大師 弘仁13年(822) 起源  
社伝によれば、822年(弘仁13年)に宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請し、地名から武田八幡宮と称したのが草創とされる。一方で『甲斐国志』は当宮の別当寺である法善寺(南アルプス市)の記録に基づき、同じく822年に空海の夢の中で八幡大菩薩が武田郷に出現したため神祠を構えたのを起源としている。なお、同書では日本武尊の子である武田王が御殿を設けた事が武田の地名の由来であり、武田王が館の北東の祠を館内に移して祀ったのが武田武大神の起源としている。  
甲斐国には石和八幡宮(笛吹市)や窪八幡神社(山梨市)など武田氏により勧請された八幡社が分布しているが、『甲斐国社記・寺記』によれば、清和天皇の頃に奉幣と社領の寄進が行なわれた後、武田信義が武田八幡宮を氏神とし、社頭の再建などを行なったという。  
歴代の甲斐国司も造営を行なったとされるが、戦国期に武田晴信(後の信玄)が天文10年12月23日(1542年1月19日)に大檀主として嫡子である武田義信とともに再建したとある[1]のが、確認されている中で古い造営記録である。この造営は国主となった晴信の最初の事業でもあった。  
永禄3年(1560年)に信玄が国中の諸社に対して甲府の府中八幡宮への参勤を命じた際、武田八幡宮は甲斐国一宮の浅間神社など10社とともに参勤を免除されている[2]。天正10年2月19日(1582年3月23日)には、織田信長の甲州征伐に際して、武田勝頼の妻・北条夫人が勝頼の武運を祈って祈願文を捧げた[3]。この祈願文は掛軸に仕立てられ、県指定の有形文化財となっている。  
武田氏の滅亡後、甲斐の領主となった徳川家康は、天正11年4月18日(1583年6月8日)に社領を安堵している[4]。また、社記によると天正年間に、平岩親吉に命じて当社の造営を行なったとされる。慶長9年3月23日(1604年4月22日)には境内での樹木伐採や放放、諸役の賦課などが禁止されている[5]。1622年(寛文2年)に甲府徳川家の家老が巡見として由緒を調査し、修復料が支払われた。また、柳沢吉保は甲府藩主の時代に修復を行なっている。安永年間には社殿が大破して修理を行い、1853年(嘉永6年)にも修復されている。将軍や国主の代替りの際には巡見役や役人が参詣し、国内が不穏な場合には国主からの神事執行が依頼されたという。柳沢家からは旱魃の際に雨ごいの祈祷が依頼され、初穂料として金・300疋が支払われている。社記によれば正月や祭礼の時には神主が甲府城の楽屋曲輪まで祈祷札を届け、甲府勤番が追手門まで出迎えたという。 
湯村温泉 / 山梨県甲府市湯村  
弘法大師 大同3年(808) 開湯 
西暦808/大同3年、弘法大師東北巡行の帰り、信州路より甲州路に入り、近くの国宝尼除地蔵で身体を休めていました。道路の真ん中に大石あり。旅人の通行を困難にしていたところ、弘法大師が現れ呪文を唱えながら杖にて奇せたところ、温泉が湧き出してきたといいます。
湯村温泉2  
塩澤寺のとなりに、杖の湯跡があります。大同3年(808)弘法大師が東北巡行の帰りに、信州から甲州に入り、近くの厄除地蔵に泊りました。道路の真ん中に大石があり、旅人が通行に困難な状況でした。大師は呪文を唱えながら杖にて寄せるたところ、温泉が湧き出しといわれています。「杖の湯」「弘法杖」といわれ、いまにその名残があります。旅館街が出来る以前は、この杖の湯・鷲の湯・谷の湯・産甫ノ湯が銭湯という形で庶民に愛されていました。この3軒の内の何れかかが葛飾北斎によって描かれています。  
谷の湯と馬の湯   
塩澤寺の門前から延命橋を渡り少し下り谷の湯という湯がありました。とても湯量が豊富で塩辛い温泉でした。このことから湯川のほとりで塩が取れることから塩澤寺という名前になったのでしょう。山国で塩が貴重だったことから越後の上杉謙信が武田信玄に塩を送った「敵に塩を送る」という諺からも分かるように湯村から今の横沢迄を塩澤と呼んでいた時もあり、今の塩部はその頃の名残です。又は、当時塩を分けた場所だから塩分(しおべ)と呼んで後に塩部となったという話もありますが信憑性は?です。中国の高層大覚禅師(蘭渓道隆)が日本に招かれ、信濃(長野)に留まっていた時、甲斐の国に名湯が湧くから開くがよいという夢をみて、甲斐に入り塩澤寺で滞在していると、芦の生えた谷間から湯煙がたつのをみて芦を刈ってみると果たして湯が湧いていた。貞和3年(1347年)のことであるといわれています。この谷の湯は湯量が豊富だったため、湯村の人は溝を掘り湯川の横を掘って村境へ流れるようにしました。ところがこの水は付近で田んぼや畑ををしている処へ入ってしまい。作物に悪い影響が出てしまいました。怒った村人は農耕馬をつれてこの溝を堰き止めてしまったため、今度は湯村の畑がお湯びたしになってしまい、これが元で隣の村といさかいが起こりました。人々が争っていると土手づくりで疲れた馬や病気の馬が、気持ちよさそうに次々と溜まったお湯に入り始めました。人々は争いをやめてこの様を眺めていました。しばらくすると病気の馬や疲れた馬は元気になり、それからはこの湯を馬の湯と呼ぶようになったそうです。このお話よりかなりあと、今のJRが中央線を開通させたとき線路の敷石に使うため岩山である湯村山から砕石をしました。それが今の石切場跡ですが、ここから切り出した石は当時馬車で運び出されていました。石を満載した馬車を引く馬はこの馬の湯を使っていたようです。中央線の甲府までの開通は1903年(明治36年)で、昭和30年頃まではこの時の馬の湯の湯船が道から少し入ったところに、浅瀬から順に深くなり、また浅くなる変わったプールのような形で残っていたそうです。  
明治12年に湯村温泉から県令藤村紫朗に提出させた「温泉開湯御許可願」によりますと、湯村の湯は人や牛馬の腫れ物や筋肉の痛みに効くので、日々、人と牛馬が群っていたそうです。1里〜3里も離れたところからも多数の牛馬が入浴のためにやってきたといいますから、農耕や輸送で疲労した牛馬をリフレッシュさせる目的で入浴させたものと考えられます。この許可願でも、すみやかに開湯すれば、牛馬が助かるといっています。このような許可願を出したのは、農業を目的とした人馬の通行に支障が出るほどにたくさんの牛馬が温泉に連れてこられたためめで、これを知った県がこれらの温泉入浴を差し止めたからです。 
●富士山  
弘法大師 大同2年(807) 登山  
大同2年(807) 空海(弘法大師)登山。甲州(山梨県)側より登り、石仏を勧進したという。 
 
富士山の浅間神社  
浅間神社の沿革  
わが国が世界に誇る富士山は、古くから神聖視された存在だった。この霊峰を「神」と崇める信仰を浅間信仰(富士信仰)といい、その神を祀る社を「浅間神社」という。お膝元の駿河・甲斐両国には、総本宮の富士山本宮浅間大社を筆頭に多くの浅間神社が鎮座している。  
浅間神社の史料上の初見は『文徳実録』。仁寿3年(853)7月5日条に「駿河国浅間神預於名神」とあり、駿河国浅間神、つまり富士山本宮浅間大社が名神(特に霊験が著しい神に対する称号)に列している。さらに直後の13日条に「特加駿河国浅間大神従三位」とあり、富士山本宮浅間大社は従三位を授けられた。  
続いて『三代実録』の貞観元年(859)条で正三位へ昇叙し、貞観6年(864)の富士山噴火の項では、「富士郡正三位浅間大神大山火」「駿河国大山。惣有暴火」と載っている。これらの記述から察するに当時、富士山は駿河国に属すると認識され、それを鎮める官社として富士山本宮浅間大社が祀られていたようだ。  
翌年の貞観7年(865)になると、甲斐国にも浅間明神が祀られた。経緯は『三代実録』に詳しく、概略すると貞観6年の富士山大噴火の原因を占ったところ「富士山本宮浅間大社の祢宜や祝(神職の名)の斎敬怠慢のせい!とでたため、甲斐国にも浅間神社を建てて祀ることになった――と述べられている。  
この時、八代郡と山梨郡に1社ずつ祀られた。該当社と目されるのは河口浅間や一宮浅間などである。いわば北口における根本社といえ、河口浅間は明治以前、「富士山北口本宮極位浅間神社」「富士山北室本宮」などと称した。延喜式では「駿河国富士郡浅間神社(=浅間大社)」と「甲斐国八代郡浅間神社」が名神大社に列している。  
甲斐国に2社祀られたのは、まず富士山そば(八代郡)に1社祀って山霊をなだめ、さらに国府そば(山梨郡)にもう1社祀って万全を期したのだろう。駿河国においても延喜元年(901)、醍醐天皇勅願により富士山本宮浅間大社の分霊が国府に祀られ(富士新宮=静岡浅間神社)、爾来代々の国司があつく尊崇していた。  
下って平安末期ごろになると、富士山は遥拝だけでなく、登拝対象にもなった。修験者や修行僧たちによって各地に登山道が開かれ、その起点に浅間神社が祀られていった。村山口の村山浅間神社、須山口の須山浅間神社、須走口の冨士浅間神社、吉田口の冨士御室浅間神社、北口本宮冨士浅間神社などである。  
また官や宗教家以外の、富士山を日々遥拝している一般人の間にも浅間信仰は浸透し、人々は産土神としてこれを各郷に祀った。やがて時代が下るにつれ浅間信仰は全国へ広まり、室町期ごろには盛んに富士登拝が行われていたという。ことに江戸期、関東圏で富士講が大流行すると、浅間神社は数多く祀られるようになった。  
浅間神社の分布  
昭和初期の『浅間神社の歴史』によれば、全国の浅間神社は1,316社で、畿内3、東海道943、東山道345、北陸道3、山陰道4、山陽道1、南海道1、西海道14、北海道2。  
1位の東海道は全国総数の7割2分に及び、2位の東山道は2割6分余りを占め、この2街道で全体の9割8分に達している。  
東海道を都道府県別にみると、三重25、愛知57、静岡150、山梨66、神奈川33、東京60、埼玉185、千葉257、茨城109。意外なことに1位は千葉、2位は埼玉となり、静岡、山梨は3位と5位。  
一方、これらを郷社以上に絞ると、三重0、愛知1(郷1)、静岡12(官国2、県2、郷8)、山梨7(官国1、県3、郷3)、神奈川0、東京2(郷2)、埼玉0、千葉0、茨城0となる。社格の高い神社は、そのほとんどが静岡・山梨両県に鎮座している。  
つまり、富士山のお膝元たる静岡・山梨両県は古社を抱えているため、自然と社格の高い神社が多い。一方、神奈川・東京・埼玉・千葉・茨城などの浅間神社は、そのほとんどが江戸期の富士講流行で祀られた。これらは歴史浅く小規模なため、社格はふるわないが、爆発的に数を増やしたことがうかがえる。  
富士山・世界文化遺産の構成資産神社  
富士山の世界文化遺産「構成資産」となっている浅間神社は次の各社。「山頂の信仰遺跡」をのぞく9社は富士の裾野に鎮座しており、お山をぐるりと周るかたちで巡拝できる。  
山頂の信仰遺跡     富士山山頂(浅間大社奥宮、久須志神社)  
富士山本宮浅間大社  静岡県富士宮市宮町1−1  
山宮浅間神社       静岡県富士宮市山宮740  
村山浅間神社       静岡県富士宮市村山1151  
人穴富士講遺跡     静岡県富士宮市人穴529(人穴浅間神社)  
須山浅間神社       静岡県裾野市須山722  
冨士浅間神社       静岡県駿東郡小山町須走126  
河口浅間神社       山梨県南都留郡富士河口湖町河口1  
冨士御室浅間神社    山梨県南都留郡富士河口湖町勝山3951、3953  
北口本宮冨士浅間神社 山梨県富士吉田市上吉田5558  
富士山本宮浅間大社  
浅間神社の総本宮。富士山を神体山とし、山頂に奥宮が鎮座。太古、富士山麓で創祀され、山宮を経て大同元年(806)に現在地へ遷座。朝廷・武家から崇敬され、現社殿は徳川家康の再建。所在地/静岡県富士宮市宮町1−1。主祭神/浅間大神。社格/式内社、駿河国一宮、旧官幣大社。  
山宮浅間神社  
浅間大社の旧鎮座地。同社の「神跡」として尊重され、以前は年2度、本宮から祭神が里帰りする御神幸が行なわれた。本殿を備えず、遥拝所から神奈備たる富士山を仰ぎ、祭祀を行なう古い形態。所在地/静岡県富士宮市山宮字宮内740。主祭神/木花之佐久夜毘売命。旧社格/村社。  
村山浅間神社  
富士山表口の旧登山道・村山口に鎮座し、「富士根本宮」と号する。江戸期まで表口登山道と山頂大日堂およびその付属地を支配した富士山興法寺(本山派修験)の主要堂社のひとつ。神仏分離により神道へ復した。所在地/静岡県富士宮市村山1151。主祭神/木花之佐久夜毘賣命。旧社格/県社。  
人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)  
富士山西麓の溶岩洞穴「人穴」にあり、通称人穴浅間神社。富士講の始祖・長谷川角行が修行滞在し、正保3年(1546)当地で入寂。以降、富士講の聖地とされ、「西の浄土」と呼ばれた。境内に富士講の碑塔が林立している。所在地/静岡県富士宮市人穴529。主祭神/木花佐久夜毘賣命。旧社格/村社。  
須山浅間神社  
須山口の起点に鎮座し、「南口下宮」と号する。景行天皇御代(71〜130)日本武尊が奇瑞により創祀。欽明天皇13年(552)に再興、天元4年(961)に修理されたとする。戦国期は武田氏、江戸期は小田原藩が崇敬。所在地/静岡県裾野市須山722。主祭神/木花開耶姫命。旧社格/郷社。  
冨士浅間神社(須走浅間神社)  
須走口の基点にあり、「東口本宮」と号する。社伝によると、延暦21年(802)富士山噴火時に鎮火祭事が行われた跡地に、大同2年(807)社殿が造営された。一方、江戸期は空海開闢と称し、「弘法寺浅間宮」とも号した。所在地/静岡県駿東郡小山町須走126。主祭神/木花開耶姫命。旧社格/県社。  
河口浅間神社  
『三代実録』で官社に列した「浅間明神祠」および『延喜式』所載「浅間神社」の論社。歴代領主から信奉され、江戸期は将軍家祈祷所に。周辺に100軒をこす御師坊が連なり、富士登拝の拠点として賑わった。所在地/山梨県南都留郡富士河口湖町河口1。主祭神/浅間大神。社格/式内論社、旧県社。  
冨士御室浅間神社  
富士山2合目に本宮、河口湖畔に里宮が鎮座。本宮は文武天皇3年(699)、里宮は天徳2年(958)創建と伝える。戦国期は「御室」「富士山北室」などと称し、武田氏歴代から祈願所として厚遇された。所在地/山梨県南都留郡富士河口湖町勝山3951、3953。主祭神/木花咲耶姫命。旧社格/県社。  
北口本宮冨士浅間神社  
北口(吉田口)の起点にあり、富士講から崇敬された。社記曰く日本武尊が富士山を遥拝して大鳥居を建て、後里人が小祠を建てた。他方『甲斐国志』は二合目の冨士御室浅間から勧請したと紹介。所在地/山梨県富士吉田市上吉田5558。主祭神/木花開耶姫命・瓊々杵命・大山祇神。旧社格/県社。  
甲斐国の仏教  
甲斐国への仏教伝来と古代寺院の成立  
日本列島には6世紀中頃に仏教が伝来するが、内陸部の甲斐国へは国家規模で寺院建立が奨励された古墳時代後期の7世紀後半頃に伝わり、この頃から仏教文化の影響が見られる。  
甲府盆地では盆地南部の曽根丘陵地域において4世紀後半に甲斐銚子塚古墳を中心とするヤマト王権の影響を受けた前期古墳が立地し、5世紀には中道勢力が弱体化し盆地各地へ古墳の築造が拡散し、やがて仏教文化の伝来に伴い古墳の築造は見られなくなる。甲斐国へは朝鮮半島での百済・高句麗の滅亡に際して多くの渡来人が移住しているが、6世紀には盆地北縁地域を中心に横根・桜井積石塚古墳など渡来人系の墓制である積石塚や生産遺跡を築いた勢力が出現し、仏教文化との関わりが指摘されている。  
甲斐国が成立した7世紀には盆地東部が政治的中心地となり、前期国府推定値である笛吹市春日居地域に甲斐国最古の古代寺院である寺本廃寺(寺本古代寺院)が出現する。寺本廃寺は法起寺式の伽藍配置で有力豪族の氏寺であると考えられている。また、国府周辺にあたる甲府市川田町に寺本廃寺へ瓦を供給した川田瓦窯跡があり、甲斐市天狗沢の天狗沢瓦窯跡からも供給先は不明であるものの同時期の古代瓦が出土している。  
8世紀には741年(天平13年)に聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を下し、甲斐国では笛吹市一宮地域に甲斐国分寺・国分尼寺が建立される。『甲斐国志』や『甲斐国社記・寺記』など近世に編纂された地誌類によれば奈良時代に創建された寺院が数多くあり、山梨郡の万福寺や三光寺(ともに甲州市勝沼地域)、八代郡の瑜伽寺(笛吹市八代地域)など盆地東部の国衙・国府周辺地を中心に分布する。中でも甲州市勝沼地域の大善寺は古代豪族の三枝氏が建立した氏寺で、柏尾山経塚から出土した平安時代の康和5年(1103年)在銘経筒にも見られる。この頃の仏教は現世利益をもたらす薬師如来や観音菩薩への信仰が盛んであり、薬師如来を本尊とする大善寺でも薬師悔過の修法が行われていたという。  
甲斐国初期の仏教文化を示す遺物として、甲府市横根町の東畑遺跡から出土した8世紀初頭の製作と考えられており県内最古の仏像である金銅仏(観音菩薩立像)をはじめ瑜伽寺の塑像片、三光寺に伝来する磬(打楽器)などのほか、甲斐市の松ノ尾遺跡から出土した蓮華座は観音菩薩像の台座と考えられている。7-8世紀代の古代寺院は現在のところ寺本廃寺や甲斐国分寺・国分尼寺のみであるが、これらの仏教遺物や瓦窯跡の存在から未発見の古代寺院が想定されている。  
天台・真言密教の影響と山岳信仰  
平安時代中期の9世紀には、入唐僧である空海・最澄により真言宗・天台宗の両派が新しい仏教として密教を導入する。天台宗は東国出身の円仁の活躍もあり早くから東国へも伝播し、甲斐国ではに市河荘(西八代郡市川三郷町)を中心とする荘園)において成立した平塩寺(現在は廃寺)が天台勢力の拠点寺院となったほか大善寺や円楽寺、岩殿山円通寺(大月市)などの天台寺院が成立したが、平安後期には真言勢力に押されて後退する。  
一方の真言宗は天台宗より送れて伝播し、空海書簡によれば空海は812年(弘仁3年3月)が甲斐国司の藤原真川に対し密教教典の写経を依頼し弟子を派遣している。また、同年には都の高雄寺(神護寺)において金剛界・胎蔵界の灌頂が行われているが、胎蔵界受法者の記録には甲斐国出身で永禅寺(法善寺)を創建した神徳の名があり、甲斐国では弘法大師開創伝承を持つ寺院や、平安後期に天台寺院から転宗した寺院も多い。  
また、富士山や八ヶ岳、金峰山など甲府盆地の周囲に高峻な山々が連なる甲斐国では古来から山岳信仰があったが、天台・真言密教は山岳信仰にも影響を与え修験道が成立する。特に役行者により始められたと伝わる富士信仰や金峰山信仰はその代表的なもので、富士山麓には修験道に関わる行場があり、修験道と関係して創建された円楽寺(甲府市)には役行者像が伝わる。金峰山においても修験道関係の遺構や遺物が存在している。 
甲斐源氏の台頭と浄土信仰  
平安中期には末法思想の影響により阿弥陀浄土を希求する浄土信仰が盛んになり、書写した教典を土中に埋納する経塚の造営が貴族層により行われはじめた。  
甲斐国では平安後期に常陸国から源義清・清光が市河荘に配流され、義清の一族である甲斐源氏は甲府盆地各地へ荘園管理者として土着する。八幡神を氏神とする甲斐源氏は勢力拡大とともに盆地各地で八幡神を勧請して八幡神社を造営しているが、神仏習合の影響を受けて阿弥陀如来が八幡神の本地仏として信仰されるようになると甲斐源氏の間でも阿弥陀信仰が広まる。  
甲斐源氏の一族は盆地各地で寺院を創建し、源義光(新羅三郎)を開祖とする大聖寺(南巨摩郡身延町)や、甲斐源氏の棟梁である武田信義が創建した願成寺(韮崎市神山地区)、安田義定が創建し寺内には阿弥陀堂があったといわれる放光寺(甲州市塩山地域)などがある。平安後期の阿弥陀如来像では願成寺の像や旧北宮地村(韮崎市)大仏堂に安置されていたと伝わる甲斐善光寺(甲府市)に伝わる旧天台寺院所蔵の阿弥陀如来像が代表格で、絵画では大聖寺や一蓮寺(甲府市)に伝わる浄土曼陀羅図が知られる。  
甲斐国における経塚造営は、古代豪族三枝氏により造営され康和5年(1103年)在銘経筒が出土した柏尾山経塚(甲州市勝沼地域)や、三河国司藤原顕長により身延山地の篠井山に造営され「顕長」の名や久寿2年(1155年)の在銘のある渥美窯の短頸壺が現存している篠井山経塚(南巨摩郡南部町)などがある。平安後期には甲斐源氏の台頭により経塚の造営主も武家層に移り、一の森経塚(甲府市)や秋山経塚(南アルプス市)などが造営されている。  
中世  
鎌倉時代には天台・真言の旧仏教に対して、大陸からの渡来僧や留学僧による新仏教の流入や、旧仏教側からの旧弊打破などにより諸宗派が興隆し、これらは鎌倉新仏教と呼ばれる。鎌倉新仏教には大陸から伝来した臨済宗・曹洞宗などの禅宗や、法然・親鸞の浄土宗、一遍の時宗、日蓮の法華宗(日蓮宗)などの様々な宗派があり、それぞれの創始者は祖師と呼ばれる。  
甲斐国は東国の政治的中心地であり鎌倉新仏教の信仰拠点であった鎌倉に近く、鎌倉新仏教は一般民衆を信仰基盤とし、都市と都市を結ぶ街道に沿って展開したことから甲斐においても広まり、また領主層においても甲斐源氏の一族は鎌倉初期に源頼朝の粛清により衰微したものの、残存した甲斐源氏の一族が新興の鎌倉新仏教に帰依したことにより諸宗派が定着する。  
また、古くから甲斐は山岳信仰に象徴される霊場であったこともあり甲斐国は鎌倉新仏教の展開において信仰拠点となり、各宗派の祖師とも関わりが深い。  
時宗  
時宗を創始した一遍智真(1239年-1289年)は諸国を遍歴し遊行を行い、信濃国佐久郡伴野荘で踊念仏を開始する。甲斐国には二世他阿真教(1237年-1319年)によりもたらされ、一蓮寺(甲府市太田町)をはじめ長泉寺(北杜市須玉町)、一行寺(笛吹市春日居町桑戸)、九品寺(笛吹市御坂町成田)、称願寺(笛吹市御坂町黒駒)、西念寺(富士吉田市)などの寺院が創建されている。真教は一遍没後に諸国を遊行し、神奈川県の清浄光寺などに写本が伝来する「遊行上人縁起絵」には甲斐国を遊行する真教が描かれている。  
「遊行上人縁起絵」巻7には中河(笛吹市石和町)で和歌を書き与える姿が描かれ、巻8では小笠原道場(南アルプス市小笠原)で説法中に乱入した日蓮宗徒と法論を行う場面や、御坂峠を越え河口(富士河口湖町)に至り、同行した板垣入道と別れ相模国へ至り、持仏堂に篭った板垣入道が真教の御影を前に往生を遂げる場面が描かれている。  
「遊行上人縁起絵」詞書には年紀が記されていないため真教の甲斐国遊行の時期やルートは不明であるが、甲斐の時宗寺院はおおむね「遊行上人縁起絵」に記されるルート上に立地している。  
真教は甲斐国遊行前に北陸地方から信濃国へ至り、永仁2年に(1294年)信濃善光寺を参籠し、一遍ゆかりの佐久郡伴野荘で歳末別事を催している事情から、甲斐国へは永仁3年に巨摩郡北部から入国した可能性が考えられている。  
真教の遊行に助力したのが甲斐源氏の一族で、甲斐一条氏の一条時信は真教に帰依し、弟の宗信(法阿弥陀仏朔日)が弟子となり正和元年(1312年)に一蓮寺が創建される。また、「遊行上人縁起絵」に描かれる板垣入道も武田信義の子板垣兼信の子孫であると考えられている。  
日蓮宗  
日蓮宗を開いた日蓮(1222年 - 1282年)は安房国長狭郡東条郷(千葉県鴨川市)の生まれで、生家に近い清澄寺で出家し、比叡山をはじめ京都・奈良の諸大寺や高野山で学んだ。日蓮は法華経を重視し、鎌倉で布教活動を行い、既成教団や浄土宗を批判し、文応元年(1260年)には執権・北条時頼に主著『立正安国論』を献じた。日蓮の主張は容れられず弾圧され、文永8年(1271年)には日蓮は伊豆・佐渡へ流罪となり、文永11年(1274年)には許されて鎌倉へ戻る。  
鎌倉へ戻ると御内人の平頼綱に諸宗派による祈祷の中止を進言するがこれも容れられず、同年5月には甲斐源氏の一族である地頭波木井実長の招聘により甲斐国波木井郷(身延町)へ赴いた。日蓮は身延に草庵を構え、弘安5年(1282年)までの8年半を身延で過ごし、この間に多くの書簡や曼荼羅本尊を記している。弘安5年8月には身延を離れ常陸へ向かうが、同年8月に武蔵国池上の地で死去する。  
日蓮の没後、身延山久遠寺は日蓮宗の総本山として発展する。 
 
静岡県

 

●大師窟 / 静岡県伊豆長岡町北江間  
弘法大師 修行  
弘法籠居の跡と伝えるが、七世紀後半から八世紀中頃までに営まれた古墳のようである。  
●福地山 修禅寺 / 静岡県伊豆市修善寺  
弘法大師 大同2年(807) 開創  
当山の正式な呼称を『福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)』略して福地山修禅寺と呼んでいます。大同2年(807)、弘法大師に依って開創され、その後約470年間は真言宗として栄えました。  
鎌倉時代になり、中国から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)禅師が入山して臨済宗に改宗。臨済時代は二百数十年間続きました。  
やがて室町時代(1489)に韮山城主北条早雲が骭k繁紹(りゅうけいはんじょう)禅師を住職として遠州の石雲院から招き、曹洞宗に改宗。  
文久3年(1863)に再び伽藍や宝物の多くを焼失、明治13年から同20年にかけて本堂などを再建。その後専門僧堂として多くの禅僧を輩出してきました。  
曹洞宗になってから518年、開創から1200年目にあたる平成19年には記念事業として、42世住職田中徳潤老師の発願により、檀信徒会館の建設、老朽化した本堂と大屋根の修復が為されました。 
修善寺2 
歴史は、弘法大師が開いたという桂谷山寺(今の修禅寺)の歴史とともにあります。大同2年(807)に、弘法大師がこの地を訪れたとき、独鈷の湯(とっこのゆ)を弘法大師が湧出させたとされ、これが修善寺温泉の起源であり、かなり古い歴史があります。 
桂大師 / 伊豆市修善寺  
弘法大師 伝説  
(天然記念物・弘法大師由来の桂の木)奥の院をさらに山中に入ったところにあります。弘法大師が平安初期に唐から持ち帰った桂の杖を大地にさしたところ、桂の木が芽生えたと伝わっています。県指定の天然記念物で、根本に大師の石仏が祀られています。  
独鈷の湯 / 伊豆市修善寺  
弘法大師 伝説  
独鈷とは仏具の一つですが、弘法大師がこの地で、独鈷で川原を突いたらお湯が出て来たという言い伝えから独鈷の湯と言われています。以前は、公衆浴場だったようですが、今では、川原の真ん中にあずま屋があり、足湯になっています。修善寺温泉のシンボル的な存在です。  
青野のお大師さん / 静岡県賀茂郡南伊豆町青野地先  
弘法大師 伝説  
南伊豆町青野地区には弘法大師祀り、地域の人々から信仰を集めていた「青野のお大師さん」の石碑や祭壇があったが、ダムの建設に伴って移転したという。ダムの名前はこの「青野大師」に由来する。 
●伊豆山神社 [走湯権現] / 熱海市伊豆山  
弘法大師 参詣  
走湯山[走湯権現] 現在も熱海市伊豆山に鎮座する伊豆山神社の前身。神仏分離以前は伊豆山権現あるいは走湯権現、走湯山権現などと称し、多くの寺僧が神仏習合による祭祀・勤行を行っていた。「権現」とは仏・菩薩が仮に姿を変え、神としてこの世に現れるという意味で、走湯山が神仏習合であったことを現すが、境内には社殿を凌駕する規模の仏堂・院家が立ち並び、走湯山という一山を形成していた。走湯山権現の本地仏は、千手千眼大菩薩(千手観音)であるとされた。  
『走湯山縁起』 異国からの神霊を日金山上の三神仙が祭祀したのが始まりとする。応神天皇(273) の頃、相模国唐浜より伊豆山の海に出現した神鏡を松葉・木生・金地 の三仙人が日金山に祀り、のち推古天皇(573) の頃、麓の海岸に温泉が走るが如く噴出しているので、社を本宮山に移し、走湯権現の神号を賜ったとする。文武天皇の頃、役行者が走湯山の温泉を開拓、嵯峨天皇の頃、弘法大師も詣で、仁明天皇の承和三(836) 年とき甲斐国の僧賢安大徳が夢中に権現の示験に会い、日金山・本宮から神霊を遷じ、現在の地に走湯山東明寺なる祠堂を建て、走湯権現を祀ったとする。つまり走湯山は、古来日金山に鎮座、本宮山(奥宮)に遷じ、現在の地(上宮付近)に至ると記す。  
縁起によると、本殿を含む諸堂が平安中期に造営され、各堂に仏像を安置した神仏習合の状態で、後に述べる別当寺も平安末期には存在していたようである。  
走湯山の組織  
賢安大徳は、元々天台宗の僧であった。そこから天台宗の走湯山進出がみてとれるが、弘法大師の参詣が語られた背景に、真言宗の進出もある。走湯山は平安時代から両宗が進出する別山で、東谷一帯は天台、西谷(岸谷)一帯は真言宗の拠点になっていた。鎌倉時代に活躍する専光房良暹は天台宗、文陽坊覚淵は真言宗の僧である。  
走湯山が一山として一つの寺院の形式を整えると、自然と寺院内部や各地の荘園の雑務処理等の運営の必要から一山の総責任者である別当や執事・雑掌といったそれぞれの職務の責任者が各院家・僧坊から選出され寺務を運営し、その運営を僧兵でもあった多くの衆徒が支えた。当初別当職は、天台・真言両宗それぞれに存在していたようであるが、鎌倉時代以降は、院家の一つ密厳院が山内で中心となって発展し、密厳院の院主が別当職を代々継承することになった。密厳院は賢安大徳が開いたという東明寺という寺号を用いており、走湯山全体を東明寺密厳院と称していたことが確認できる。密厳院の院主は代々東寺で真言宗の教学を学び、東谷一帯も含め山内は真言宗の勢力で固められた。室町時代に入り一時天台宗の僧侶が別当を勤めたこともあったが、再び真言宗の系統の僧侶が別当を勤めた。 
伊豆山権現  
伊豆山(走湯山)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、伊豆山権現社・走湯山般若院で祀られた。伊豆山三所権現、走湯権現とも呼ばれた。  
応神天皇の時代に日金山頂上に現れた円鏡を松葉仙人が奉祀したのが走湯権現の始まりとされ、木生仙人・金地仙人・蘭脱仙人が続いて現れたが、文武天皇三年(699年)修験道の開祖と仰がれる役小角(役行者)が走湯山に堂を建立し、以後は修験道場として隆盛した。伊豆山三所権現は、法躰は千手観音の垂迹、俗躰は阿弥陀如来の垂迹、女躰は如意輪観音の垂迹とされる。  
伊豆山権現は箱根権現と合わせて二所権現と呼ばれ、鎌倉時代には鶴岡八幡宮に次いで関東武士の信仰を集めた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で伊豆山権現と神宮寺の密厳院は焼亡したが、文禄3年(1594年)から慶長17年(1612年)にかけて徳川家康は高野山から快運を招聘し、神宮寺に走湯山般若院の称号を与えて伊豆山三所権現を復興した。これにより江戸時代の伊豆山は12の僧坊と7つの修験坊を有するなど繁栄を取り戻した。また走湯山般若院は真言宗伊豆派(当時)の本山として関東一円に大きな勢力を誇った。  
明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく伊豆山三所権現は廃された。走湯山般若院は、伊豆山神社と高野山真言宗の走湯山般若院に強制的に分離された。 
伊豆国・走湯山  
源氏と東密の関係も深い。  
ここでは、源頼朝挙兵にあたって、心身ともに後ろ盾となった伊豆国・走湯山(走湯権現、伊豆山権現)の成り立ちと頼朝時代のつながりを確認しよう。  
「走湯山縁起」によれば応神天皇2年(271)4月、相模国唐濱磯部の海漕(現在の大磯)に直径三尺有余の円鏡が出現したという。円鏡はある夜、日輪のような光明を放ち、ある時には響声を発して琴の音曲かと聞き間違えるようであった。近づこうとすると波が荒れて円鏡は海底に隠没し、また高峯に飛び登っては松の枝にかかり、海中に入っては波底を照らしたりした。よって時の人は円鏡を二処の日金と呼んだという。応神天皇4年(273)9月、一仙童が日金山に円鏡を奉祀する。この一仙童は「開山祖師」「勧請仙人」とも呼ばれる松葉仙人であった。推古天皇2年(594)、海岸より温泉が湧き出したことから走湯権現の神号を賜る。文武天皇3年(699)、役小角(えんのおづの 舒明天皇6年・634〜大宝元年・701)が走湯山に堂宇を建て、以後、多くの修験者が集うようになった。  
弘仁10年(819)には、東寺大和尚・空海(宝亀5年・774〜承和2年・835)が来山した。承和3年(836)4月、甲斐国八代郡の人・賢安が走湯権現の霊験を得て、日金山本宮から現在地に遷座する。本地仏千手観音像を造立し、仏堂を建て自ら出家した。また空海の十大弟子の一人である杲隣(ごうりん 神護景雲元年・767?〜?)が伊豆国を訪れ、修善寺と走湯山を開創とも伝えている(櫛田P481)。走湯山の起源について貫達人氏は賢安の事跡を受け、論考「伊豆山神社の歴史」(三浦古文化 30号P3 京浜急行電鉄 以下、貫・伊豆山と表記)において、「伊豆山神社文書」(「県史料」所収)七号文書弘安九年(1286)十一月廿九日付、鎌倉将軍家寄進状中の「抑伊豆権現者、自承和往代祠宇祐基、」を引用、「静岡県史」の「走湯山神宮寺の創建はまず平安期承和年間(834〜848)と想定して大過あるまい」との解説を紹介されている。  
斉衡2年(855)、比叡山の安然(承和8年・841〜?)が走湯山を訪れ、岩戸山(松岳)西谷に舎房を構える。虚空蔵菩薩求聞持法を行ったところ、明星が井戸の中に入る瑞があり、以来、その井戸は智慧の水と呼ばれるようになった。安然は聖教を数百巻安置し、読経修学に励んでいる。元慶元年(877) 、安然の門弟・隆保が来山し、神勅により伽藍を建立。元慶2年(878)、堂舎を造営して12月に法華八講を始め、翌元慶3年(879)1月には、一山をあげて不断観音品読誦を行っている。延喜4年(904)2月15日、法華長講を始める。賢安の代に建てられた堂閣が破損してきたため、講堂を修造して十一面観音像を安置。礼堂を造立して金剛神を二体奉安。経蔵も修造して五千余巻の聖教を奉納する。天徳4年(960)、鐘楼を建て始め、講堂をさらに修繕し、康保2年(965)、堂宇を造り、礼堂を拡充して金色の十一面観音像一体、正観音像一体、権現像一体を安置した。安和3年(970)、依智秦永時宿爾を願主、延教が勧進となって常行堂を建立。西廊に金身の仏菩薩七体を奉安、僧坊一宇を造立する。天禄2年(971)、仏像を修復し普賢・文殊の檀像に金泥を塗り、供僧を選び法華経を誦し、懺法(せんぼう)等を修した。天禄4年(973)から翌天延2年(974)にかけて、北条太夫平時直が願主、延教が勧進となり宝塔一基を建立。金色の五仏を安置した。永観元年(983)、大門を造立し金剛力士像を安置。御祭所、礼殿、中堂を改造する。  
日金山を神聖の地として崇拝した山岳信仰から、走湯山の歴史が始まったと考えられるが、往古よりその名は知られていたようだ。  
平安時代の学者・藤原明衡(ふじわらのあきひら 永祚元年・989?〜冶暦2年・1066)が著した「新猿楽記」(しんさるごうき)には、「次郎者一生不犯之大験者,三業相応之真言師也。 (中略)凡其言之道究底,苦行之功拔傍,遂十安居,満一落叉度度。通大峰、葛木、踏迎道年年,熊野、金峰、越中立山、伊豆走湯根本中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、高野、粉河、箕尾、葛川等之間,無不競行挑験。山臥修行者,昔雖役行者、浄蔵貴所,只一陀羅尼之験者也。今於右衛門尉次郎君者,己智行具足生佛也。」とある。生涯不犯を貫いた山伏にして、身口意三業相応の真言師でもあった次郎についての記述の中で、山岳修行の場として熊野、金峰、立山、伯耆大山、富士山、白山、高野といった名立たる霊地と共に伊豆走湯根本中堂が並び出ており、平安中期には全国に名が知られるほどの霊験所となっていた。後白河法皇(大治2年・1127〜建久3年・1192)が編者となって治承年間(1177〜1184)に成立したとされる「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)にも、「四方(よも)の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生戸、讃岐の志度の道場とこそ聞け」とある。そのような所へ東密の祖・空海が来山した、台密の大成者・安然が修行したという伝承は、走湯山では平安時代から東密僧と台密僧が活動したことを物語っているもの、といえるのではないだろうか。  
時代は下って平安末期、伊豆に配流中の源頼朝が監視役の伊東祐親(いとうすけちか ?〜寿永元年・1182)の娘・八重姫と秘かに通じ、安元元年(1175)9月、激怒した祐親が頼朝の殺害を図った時、頼朝は間一髪で走湯山に逃げ込み、北条時政(保延4年・1138〜建保3年・1215)の館に匿われている。北条政子との逢瀬の舞台は走湯山だったという。  
「吾妻鑑」治承4年(1180)7月5日条の源頼朝と文陽房覚淵のやり取りは興味深い。伊豆走湯山の密厳院を開創した東寺の僧・文陽房覚淵は、頼朝の帰依を受けていた。治承4年7月5日、頼朝は覚淵を配所に招き「吾心底に挟むこと有り」(挙兵平家討滅のことか)と覚淵に秘かに明かし、続けて「法華経一千部読誦を成し遂げて、その功を以て自らの真意を表明しようと法華経読誦をしてきたが、世の動きは慌ただしく火急を要することになり(5月26日、以仁王と源頼政らが平家に敗れていた)、続けるのは難しくなった。そこで八百部で打ち切り仏陀に捧げようと思うのだが、いかがだろうか」と語る。覚淵は「一千部に満たざると雖も、啓白せらるるの條、冥慮に背くべからずてえり」と一千部に満たなくても神仏の御意に叶わないはずはないと返答。覚淵は香花を仏前に供えて表白を読み上げた。その後「君は忝なくも八幡大菩薩の氏人、法華八軸の持者なり。八幡太郎の遺跡を稟(う)け、旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、八逆の凶徒八條入道相国(平清盛)一族を退治せしめ給うの条、掌裡に有り。これ併しながら、この経八百部読誦の加護に依るべし」と平清盛一族を退治することは八幡太郎義家の業績を継ぐ頼朝の手に握られており、それは法華経八百部読誦の加護によるものである等と語っている。これを聞いた頼朝は大いに感嘆して施物を贈っている。晩になり導師・覚淵が門外に出ると再び呼び戻し、「世上無為の時、蛭島に於いては今日の布施たるべき」と世が平和になったならば、この蛭島は今日の布施として覚淵に与えよう、と約束している。実際「(醍醐)三宝院文書」(櫛田P484)によれば、応永6年(1399)6月25日到来、走湯山領知行に「蛭島郷」が寺領として記入されている。  
治承4年(1180)8月18日、これからの戦により長年の祈りができなくなることを嘆いた頼朝は政子の勧めにより、祈り続けてきた経典の目録を伊豆山の法音尼に渡し、日々の勤行の代行を依頼している。法音は一生独身を貫いた尼で、政子の御経師だった。翌19日、石橋山(相模国)の合戦を前にした頼朝は、政子を走湯山の文陽房覚淵の坊舎に避難させている。その後、合戦に敗れ箱根権現別当・行実と弟の永実らに匿われた頼朝一行は安房に逃れて再び挙兵。10月6日、畠山重忠(長寛2年・1164〜元久2年・1205)が先陣、千葉常胤(ちばつねたね 元永元年・1118〜建仁元年・1201)が殿(しんがり)を務める頼朝軍数万は鎌倉に入る。7日、頼朝は鶴岡八幡宮を遥拝。11日、走湯山を出てきた政子が頼朝と合流。同日、走湯山の住侶・専光房良暹(りょうせん)も以前からの約束により鎌倉に来た。良暹も東密の僧であったと思われ(櫛田P485)、覚淵と同じく流人の頼朝が師と仰いだ人物だった。12日、頼朝は祖宗を崇めるため小林郷の北山を選んで宮殿を作り、鶴岡宮を遷して良暹を当面の別当職に任じ、大庭景義(大治3年・1128?〜承元4年・1210)をして神宮寺の事を執行せしめている。続いて16日、「武衛の御願として、鶴岡若宮に於いて長日勤行を始めらる。所謂法華・仁王・最勝王等、国家を鎮護する三部妙典、その他大般若経・観世音経・薬師経・寿命経等なり。供僧これを奉仕す。相模の国桑原郷を以て御供料所と為す。」(吾妻鏡)と、頼朝の発願として鶴岡若宮において長日の勤行を始め、法華経・仁王経・最勝王経等、鎮護国家の三部妙典とその他大般若経・観世音経・薬師経・寿命経等の読経を供僧が勤めたとしているが、貫達人氏は、良暹が来て4日しか経っておらず、この時点では供僧がいたとは考えにくいものがあり、この記事は10年後の建久(1190〜1198)初年、25坊が整備される頃のことと考えないわけにはいかない、とされている(貫・鶴岡P33)。この日、駿河国に達した平維盛(たいらのこれもり 保元3年・1158〜寿永3年・1184)の数万を迎え撃つべく、頼朝率いる軍勢が鎌倉を発している。10月20日、富士川を挟んで東岸に源氏の兵、西岸に平氏の兵が対峙するも、夜半、平氏の軍勢は急に撤退を始め、本格的な戦闘のないまま「富士川の戦い」は終結している。翌21日、頼朝は平氏の軍勢を追撃して上洛しようとするも、三浦義澄(みうらよしずみ 大治2年・1127〜正冶2年・1200)、上総広常(かずさひろつね ?〜寿永2年・1184)、千葉常胤らがまずは一部不安定な東国を固めることに専念すべきであると諌め、受け入れた頼朝は鎌倉へ戻ることになる。同日、黄瀬川駅で平泉から駆けつけた源義経(平治元年・1159〜文治5年・1189)と対面。また三島社に参詣して神領を寄進している。12月4日、頼朝は上総広常に命じて阿闍梨定兼を上総国より鎌倉に呼び、鶴岡八幡宮寺の供僧職に任じる。定兼は安元元年(1175)4月26日、何らかの罪により上総に配流となった東密の僧だったが、鶴岡八幡が再建されたものの当時の鎌倉には碩徳と言われる人物がいなかったので、「知法の聞こえ有り」(吾妻鏡)と仏教の学徳が高いと評判だった定兼が鎌倉に呼ばれたものだった。12月25日、石橋山の戦いの時、頼朝が岩窟に納めた小像の正観音を良暹の弟子が見つけ出し、閼伽桶の中に入れて持参。頼朝は手を合わせて受け取り、信心を強盛なものにしたという。  
「吾妻鏡」冶承5年(1181)3月1日条には、「今日、武衛、御母儀の御忌月を為すに依って、土屋次郎義清が亀谷堂に於いて仏事を修被(しゅうせら)る。導師は箱根山別当の行実、請僧(しょうそう)は五人、専光房良暹・大夫公承栄・河内公良睿・専性房全淵・浄如房本月等也。武衛聴聞令(せし)め給ふ。御布施は導師に馬一疋・帖絹二疋、請僧は口別に白布二端也」とあり、頼朝の亡き母の忌月(きげつ・忌日のある月)である3月になり、亀ヶ谷にある土屋次郎義清の堂で法事が行われた。そこでは箱根山別当の行実が導師を務め、請僧5人の一人として専光房良暹が連なっている。同年(養和元年・1181)8月29日、頼朝は御願成就の為、鶴岡並びに近国の寺社において「大般若経」「仁王経」等の転読を命じる。特に長日の御祈祷を鶴岡と箱根山、走湯山に命じている。一日を通して経を読む長日の祈祷について、箱根山と走湯山には毎月一日は大般若経一部で「衆三十人」と命じているので、両山の大衆は、30人以上はいたことになり、その規模の一端が窺われるものとなっている。10月6日、走湯山の住侶・禅睿を鶴岡八幡宮寺の供僧に補任して大般若経衆とし、免田二町(鶴岡西谷)を支給する。  
寿永元年(1182)8月11日、政子が産気付き頼朝と諸人が集まり、地元に居住する在国の御家人らも鎌倉に参上する。安産の祈祷のため、奉幣の使いを伊豆山、箱根山をはじめ、相模一宮、三浦十二天、武蔵六所宮、常陸鹿島、上総一宮、下総香取社、安房東條庤、安房洲崎社といった近国の主な宮社に向かわせている。8月12日、専光房良暹と観修が祈祷をする中、政子は男子(頼家)を出産した。9月20日、三井寺の円暁が京都より下向。9月23日、円暁は頼朝と共に鶴岡八幡宮寺に参り、拝殿で別当職を申し付けられる。9月26日、頼朝の立ち会いのもと、鶴岡の西麓で別当坊の柱を立て棟上げを行う。  
元暦2年(1185)3月27日、土佐国介良庄に住む琳猷(りんゆう)上人が、走湯山住僧・良覚の紹介により頼朝と面会する。琳猷は寿永元年(1182)に土佐国で討たれた頼朝の同母弟・土佐冠者希義(源希義・みなもとのまれよし 仁平2年・1152〜寿永元年・1182)の遺体を葬り、供養を続けてきた僧であった。同年(文冶元年・1185)10月27日、頼朝は箱根山、走湯山に奉幣の使いを出し、両山に馬一匹を奉納する。  
文治3年(1187)4月2日、鶴岡八幡宮寺、箱根山、走湯山をはじめ相模国の寺が全山あげて勤行、百部の大般若経転読を始める。後白河法皇の病気平癒祈願のためであった。  
文治4年(1188)1月16日、頼朝は鶴岡八幡宮寺に参詣した後、二所詣で(箱根権現・伊豆山権現[走湯山]への参詣)のため精進潔斎の沐浴を始める。1月20日、頼朝は300騎余りを従え箱根、伊豆、三島社への参詣に向かう。1月26日には鎌倉に戻っている。2月23日、源範頼(頼朝の異母弟 久安6年・1150〜建久4年・1193)が一日おきに発病、「吾妻鏡」は瘧病(おこりやまい)と記述しておりマラリヤにかかったものか。この日より、専光房覚淵を呼び加持祈祷させている。尚、専光房といえば良暹で、覚淵といえば文陽房であり、専光房覚淵という名は他には見当たらない。政子の出産の時には良暹に祈祷させており、良暹と頼朝家族との関係、先例からすれば、この時も専光房良暹に祈祷させたものではないか。専光房覚淵は「吾妻鏡」の誤記だと思う。3月2日、範頼の病が治癒したことに頼朝は喜び、馬を良暹の坊へ届けている。3月15日、鶴岡八幡宮寺の道場で梶原景時の宿願であった大般若経供養が行われ、頼朝も結縁のために参列する。法会の舞楽で舞った稚児は箱根山5人、走湯山3人だった。「吾妻鏡」12月18日条に「二品走湯山に参らせしめ給ふ」とあり、頼朝は走湯山に参詣している。  
文治5年(1189)7月18日、頼朝は走湯山の住侶・専光房良暹を呼び出し、奥州征伐のため秘かな願いがあるとし、持戒清浄なる良暹が留守中の鎌倉で祈祷を行うこと。奥州へ向け出発して20日経ったら、持仏である正観音像を安置する堂宇を御所の裏山に建てること。その際、大工には依頼せずに良暹自身の手で柱を立てること。これらを命じた。造営にあたっては別途手を打つことも伝えている。同時に、奥州征伐祈祷のため、伊豆国北条に伽藍を建てることを立願している。約束より一日早い8月8日、良暹は「夢想の告げ」(吾妻鏡)によって御所の裏山に登り、「白地に仮柱四本を立て、観音堂の号を授」(吾妻鏡)けている。8月15日、鶴岡で放生会があり、舞楽は箱根山の稚児8人が舞い、流鏑馬も行われた。  
建久元年(1190)1月15日、頼朝は二所詣でに進発。1月18日、走湯山に参詣。19日、三島にある伊豆の国府に滞在。20日夜、鎌倉に帰着している。8月15日、鶴岡放生会に頼朝が参列。先ず供僧らが大行道、次に法華経供養。導師は鶴岡別当の円暁が務め、舞楽で舞ったのはこの時も伊豆山(走湯山)より来た稚児達だった。翌8月16日、「馬場の儀也。先々会日、流鏑馬・競馬有りと雖も、事繁きに依って、今年は始めて両 日に分け被(らる)るところ也。二品の御出昨日の如し」(吾妻鏡)と、今迄一日で終わらせていた放生会を今回から二日に分け、この日は流鏑馬が行われている。  
建久2年(1191)1月8日、頼朝は鶴岡の供僧と走湯山・箱根山の衆徒らに対し、今年中は毎日十二巻の薬師経を読誦することを命じる。1月28日、二所詣でを前にした頼朝は50人の供を従えて由比ヶ浜に行き、海水で身を清めている。2月4日、頼朝は鶴岡に参詣して奉幣した後、二所詣りに進発する。2月10日、鎌倉に帰着している。  
建久3年(1192)1月25日、頼朝は走湯山に参詣。住僧らの臈次(ろうじ 法蠟の次第、順序)については文治4年(1180)に細目を決めてあるが、ややもすれば法蠟、序列を違え越えてしまうことがあったので、今後は法蠟の次第を守るよう重ねて決めている。5月8日、後白河法皇の四十九日法要には南御堂(勝長寿院)で百僧供が行われた。参加の僧衆は鶴岡八幡宮寺20人、勝長寿院13人、伊豆山(走湯山)18人、箱根山18人、大山寺(石尊権現 阿夫利神社)3人、観音寺3人、高麗寺3人、六所の宮2人、岩殿寺2人、大倉観音堂1人、窟堂1人、慈光寺10人、浅草寺3人、真慈悲寺3人、弓削寺2人、国分寺3人だった。  
建久4年(1193)3月4日、この日、後白河法皇の一周忌である13日の千僧供養に参上するよう、鶴岡、勝長寿院、永福寺、伊豆山、箱根山、高麗寺、大山寺、観音寺に使いを出して知らせている。3月13日、後白河法皇の一周忌を迎え仏事を修し、千僧供養を行った。箱根山の行実と走湯山の良暹も一方の頭(他にも多数いる)として百僧を従えた。  
「吾妻鏡」建久5年(1194)1月29日条に「御台所、伊豆・箱根両権現に奉幣の為、進発せしめ給ふと云々」とあり、この年は頼朝ではなく政子が二所詣でに進発している。2月3日、鎌倉に帰着。4月12日、頼朝は宿願があるとして、伊豆権現(走湯山)の宝前で大般若経を転読することを命じ、神馬を奉納している。  
●音羽山 清水寺 / 静岡県藤枝市原  
弘法大師 弘仁8年(817) 伝説  
静岡県藤枝市原の清水寺旧参道は、平安時代から利用されてきた「平安の道」です。不動明王から少し参道を上った所にある、厄除け、縁結びなどにご利益があるとされている古刹。  
「弘法の井戸」 / 弘仁8年(817)に、喉がかわいた弘法大師が錫杖で岩間を突き刺したところ、清水が湧き出したという伝説の井戸。「姿見の井戸」とも呼ばれ、自分の姿が水に映ると不老長寿のご利益が得られるといわれてる。 
●高野山 / 静岡県賀茂郡松崎町  
弘法大師 伝説  
岩科川上流の八木山は、かつて山を焼いて開拓したために、焼山≠ニ呼ばれていた。その集落から山間へ3kmほど入ると、渓流に面して奇岩の絶壁がそそり立ち、知られざる静寂境に初めて訪ねるひとは誰もが驚く。が、実はここは昔、修験者の行場だったところ。  
かつては弘法大師もここを訪れたが、近くの農地から肥料の臭いが漂ってきて不浄なこと、谷の深さが物足りないことを理由に立ち去り、やがて紀州(和歌山県)へ行って高野山を開いた─という伝説さえ残されている。そのいい伝えを裏づけるように、絶壁の中腹の行場「閻魔真行」には、弘法大師像をまつってあったが、現在では八木山の永禅寺に移し安置されている。  
さらに幕末のころ、諦然という僧がこの「閻魔真行」で修行、近在を祈祷して歩いたが、霊験のあらたかなことが評判となり、お大師さまと呼ばれて敬われ、信者の数は200人に及んだとか。そして、この地を立ち去るとき、経典や法衣などを地元の田口家へ記念として残して行った。同家には、「諦然が三河(愛知県)の人であること、天保元年(1830)に当地を訪れて弘法大師尊像をまつり、およそ1年間参籠し、多くの信者が集まってきたこと…」を記した箱書きもある。  
また一説によると、建久年間(1190〜1199)には文覚上人もここで参籠したといわれ、修行を終えて立ち去ろうとしたところ、上人の衣に野バラがからみついて離れられなくなった。そこで上人は再び岩窟の中に篭って行を続けたという。それ以来、地元の人々は野バラのことを文覚バラ≠ニ呼んでいるそうである。  
 
八木山から2kmほど登ったところには、昔から霊場として知られた高野山がある。  
真言密教の修行の地といわれていて、昔の山岳仏教の名残りを思わせるところである。ここは伝承によると、平安時代の初めの頃、弘法大使が諸国巡錫のみぎりに、真言宗の大本山をここに開こうとしたが、近くに肥料の匂いがするところから断念して、紀伊国に本山を開いたといわれている。それが紀州の高野山であって、〈高野山〉の名称は伊豆の八木山にも残されたと伝えている。この高野山の中腹には、大きな岩窟があり、江戸時代に入って、僧泰念が行をして開き、その後行者の参籠は、つい近年にまで及んでいたという。堂宇は数十年ほど前に焼失していまはないが、行者が残して行った経、のぼり、白衣などは、以前八木山にいて、今は堂ヶ島に博物館を持つ田口良氏方に残されている。 
●秋葉山 舘山寺 / 静岡県浜松市  
弘法大師 開創  
舘山寺(かんざんじ)という寺号は、舘山(たてやま)に開かれた寺であることから舘山の寺という意で名付けられたものです。  
平安時代・弘仁元年(810) / 弘法大師が高野山より仏道行脚の際、舘山を訪れて当地において修行し、その際に開創。旅する人々の心を清める寺として、山紫水明のこの地を選んだといわれている。  
   西行岩 「舘山の巌の松の苔むしろ 都なりせば君もきてみむ」  
鎌倉時代・文治三年(1187) / 兵火により焼失したが、源頼朝公がこの地を訪れ、道中安全・武運長久の祈願寺として諸堂を再建した。(頼朝の建立した諸堂や寺宝は元中元年(1384)に再び兵火により焼失)  
南北朝時代・貞治年間(1362) / 堀江城(遊園地パルパル、ホテル九重付近)の城主として、当地に赴任した大沢氏の要請により城主の祈願寺として、以後五百年守られる。  
江戸時代・慶長三年(1589) / 徳川家康公により御朱印判物を賜り東海の名刹として繁栄した。  
明治三年(1870) / 新政府の神仏分離令(廃仏棄釈)により廃寺となる。  
明治二十三年(1890) / 再興が認められ秋葉の火祭りで有名な秋葉山・秋葉寺(しゅうようじ)住職・牧泰禅(まきたいぜん)和尚を招請し、秋葉寺の出張所を持ってくる名目で再興した。その際に秋葉三尺坊を舘山寺でも祀ることになり、山号も「中嶺山」(ちゅうれいざん)から「秋葉山」に改め真言宗の伝統を引き継ぎながら曹洞宗の祈願寺として今日に至る。 
●長楽寺 / 静岡県浜松市  
弘法大師 開基  
平安時代初期の大同年間に弘法大師によって開かれたといわれ、この寺の北に陽光を受けて光る巨岩を霊地と見、お堂を建てたことにはじまるのち今川、徳川の信仰を集め、巨岩のふもとに七堂迦藍が建ち並び寺領25ヘクタールをもって繁盛した。昭和22年の農地解放で寺領を失い一時荒廃、この時収入の道を失った寺が、雑木林を開いて実をとるために植えた梅が毎年春になると白、紅の花ををつけ、辺りに芳香を漂わせる。  
ドウダンツツジが植え込まれた庭は遠州三名園になっており、隠元禅師の高弟、独湛禅師の筆である「長楽寺」の扁(へん)額がかけられている山門や土べいは室町時代の作。本尊は馬頭観音。 
●足柄山聖天堂 / 静岡県駿東郡小山町竹之下  
弘法大師 弘仁2年(811) 開基  
弘仁2年(811)相模国早川の海辺に発見し足柄山に祭祀す。本尊は歓喜双身像。  
足柄山聖天堂に鎮座致しますご本尊は、大聖歓喜双身天(石像高さ1.8米)で、元は京都にあったものといわれ、昔、宮中の女官と武士が相思の仲となっていたのが、この聖天像に願をかけて一緒になることが出来ました。然し有司(役人)は、「こんな物を置いていては風紀上よろしくない」と云って、空舟に乗せ海に流したところ、舟は海上を漂流し相模国(神奈川県)早川に着いたので、土地のものが拾い上げ祭っていたのを、弘法大師が見出して足柄山に勧請自筆の『足柄山』という額と共に奉納したと伝えられる。この聖天尊の御利益はあらたかで、衆生の迷いを救い願をかなえさせ、紋所である大根は、一家和合、商売繁盛、縁結び、厄除、開運をあらわし、その霊験のあらたかなことは広く知られ「日本三大聖天尊」(浅草聖天、生駒聖天、足柄聖天)の一つとして数えられている。  
矢倉沢往還  
江戸・赤坂御門から三軒茶屋、厚木、松田、御殿場を経て東海道・沼津宿に至る街道で、東海道の脇往還として機能しており、途中に矢倉沢関所が設けられていたことから「矢倉沢往還」と呼ばれていた。元々は律令時代に開かれた機内と東国を結ぶ主要街道(古東海道)で、官道として機能していたが、鎌倉時代に箱根湯坂道が開かれ、さらに江戸時代になると箱根東坂 ・西坂が本道になり、裏街道という位置づけに変わってしまう。しかし、江戸中期から庶民の間に大山講が盛んになると 、宿駅が整備されていた矢倉沢往還が参詣道として利用されるようになり 、大山阿夫利神社までの道を「大山街道」あるいは「大山道」と呼んでいた。  
竹之下宿  
足柄峠や甲斐へ向かう篭坂峠への分岐点であった竹之下宿は多くの旅人で賑わっており、遠くは源頼朝、義経や日蓮らも宿泊したという。また、朝廷から派遣された新田軍と朝廷に叛旗を翻した足利尊氏軍が戦った竹之下合戦の場でもあった。 
●楞厳山 鬼岩寺 / 静岡県藤枝市藤枝  
弘法大師 弘仁年間(810〜824) 巡錫  
寺伝によれば、神亀3年(726)、行基菩薩の開創という。弘仁年間(810〜824)、弘法大師(空海)がこの地に立ち寄ったとき、この付近では魔物(鬼)が出て村人を悩ましていたため、魔物退治を懇願された。そこで、弘法大師は五大尊の画像を描いて真言の行法を行い、魔物を巨岩に閉じ込めた。この巨岩は、今も寺の西の山麓にあるという。また、不動堂の不動明王像は智証大師(円珍)(空海の甥であるが、天台宗寺門派の宗祖)の作で、永禄年間(1558〜1570年)に武田信玄が駿河国に侵攻した際、当寺も兵火に遭い、この不動尊像も焼失したと思われた。しかし、ある夜、当寺第23代堅照上人の夢に不動尊が現れ、「今、甲州の大泉寺に居るが、帰る縁があるので、迎えに来てくれ。」と言った。堅照上人が富士川まで来ると、仏像を背負った僧がいた。この僧こそ甲州大泉寺の住職で、当寺の不動尊像を運んできたのだった。これによって、当寺に不動尊が戻った、という伝説もある(夢のお告げはともかく、武田軍によって不動尊像が甲斐国に持ち去られていたらしい。)。  
ほかにも、境内には「鬼かき石」(鬼の爪痕が残る石)、「行基菩薩腰掛石」(行基が腰を掛けたという石で、背もたれのある椅子のような形をしている。)などもある。「鬼かき石」は、その溝(鬼の爪痕)を3回なぞると願い事が叶う、特に手芸の上達に御利益があるとされるが、どうやら、古代、この溝で玉(勾玉)を磨いた砥石であるという。  
また、「黒犬神社」は、当寺に飼われていた黒犬(クロ)を祀る。昔、田中城主が飼っていた白い土佐犬と無理に戦わされ、これを噛み殺したが、城主の怒りを買い、家来たちに追い立てられて井戸に飛び込んで自殺したという。そのとき、どこからともなく、夥しい犬が現れて、家来たちを襲った。これを恐れた城主が黒犬を祀ったのが「黒犬神社」であるとされる。この黒犬は春埜山から来たとされるが、春埜山の奥、山住山(標高1100m)には式内社「山住神社」があり、山犬(狼)信仰がある。つまり、この黒犬は狼だった、ということを暗示しているとともに、当寺辺りにも春埜山や秋葉山の神仏混淆、あるいは修験道の影響が及んでいたということだろう。  
なお、行基の開創というのは伝説に過ぎないだろうが、奈良時代には法相宗?、平安時代後期には天台宗寺門派に転じ、鎌倉時代後期には真言律宗、現在は高野山真言宗の寺院となっている。 
鬼岩寺2  
鬼岩寺は藤枝市の商店街からはずれた山裾にあり、背後の山には雑木の古木が緑の葉を繁らせ、静閑の地にある。大正4年(1915)の火災や、永禄13年(1569)武田軍の兵火等により、昔の大伽藍や貴重な寺宝や古記録等を焼失したため重厚な雰囲気は薄らいでいるが、藤枝地区を代表する古刹である。約1千3百年の寺の歴史を誇り、数多くの伝説を持ち、観世音菩薩や不動様の霊験あらたかなことから、今でも善男善女の篤い信仰を受けている。  
開創  
寛保2年(1741)31世照秀の記した『鬼岩寺縁起』によると、楊厳山鬼岩寺は神亀3年(726)行基菩薩によって開創されたという。行基 (668〜749)は河内国の豪族高志氏の子として生まれ、15歳で出家し道昭・義淵に就いて法相唯識学を究めた。学問追究にあきたらず民衆の中に入って、寺を作り、土木事業に携り、国分寺・東大寺建立に大きな力を発揮した。その功績によって、我国では最初の大僧正に任ぜられた奈良時代一の高僧として有名である。  
神亀3年(726)行基は東国地方へ布教の途上、此の地に寄った。寺も無く仏教を信じる者が少ないのを憐れんだ行基は、衆生を救済し、仏教弘通の根拠地とするため、自らの手で聖観世音菩薩を彫りあげて祀ったのが、鬼岩寺の始まりであったという。現在この観世音菩薩は秘仏であり、33年に1度の開扉法要を待たねば拝顔できない。  
弘法大師と魔魅の岩  
開創してから百年程過ぎた弘仁年間(810〜823)、弘法大師空海が東国行脚の折、この地に寄った。ちょうどこの頃悪い鬼が出て人々を苦しめ、困りはてていた。そこへ弘法大師が訪れたので、村の人々はこれ幸いと大師に鬼退治をお願いした。そこで大師は五大尊の像を措き、7日間秘咒を加持すると、一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに鬼が姿をあらわした。そこで大師はこの鬼を裏山の岩穴に封じこめると、荒れていた空はたちまち晴れわたり、翌日から鬼岩寺村に鬼は出なくなった。これを機に寺の名を「鬼岩寺」と称するようになり、真言宗に改宗され、村の名も鬼岩寺村と称するようになった。今でも寺の裏山には岩穴があり「鬼岩」とか「魔魅の岩」と呼んでいる。また鬼が鋭い爪を研いだと言われる傷あとの残った「鬼かき岩」(学者の説では玉を研いだ石であると言う)が境内に安置されている。  
その後鬼岩寺は有名になり、建久3年(1192)には、鳥羽天皇が先帝後白河法皇の追善供養のため、法皇所持の仏舎利二粒を宝塔に入れて鬼岩寺に奉納したという。  
静照上人大蛇退治  
平安末期の長安年間(1163〜1164)、鬼岩寺の南方2.5キロ程の村の大池に大蛇(竜)が住みついていた。この大蛇は池の近くを通る人々を次々に飲み込んでしまうので、村人たちは困りはてていた。鬼岩寺の住職であった静照(菱和元年寂281)は、池のまわりの丘に7ヶ所の護摩壇を築き、天台宗三井寺開山智証大師円珍(814〜892の刻んだ不動明王を祀り、大蛇退散の不動護摩の修法を行った。さしもの大蛇もその法力によって教化され封じ込まれ、広大な池の水も干上って陸地となり、後には田畑として利用されるようになった。霊験あらたかなこの不動明王は、承安3年(1173)鬼岩寺境内に不動堂を築き安置した。人呼んで「池早不動」と称し、今でも多くの人々に篤く信仰されている。鬼岩寺の正面の不動堂に安置され、最近市の文化財に指定された本尊がこの不動明王である。左の眼は天をにらみ、右の眼は地を見つめている天地眼の不動尊像である。天台宗寺門派では天地眼の不動明王を祀る特徴を持っているから、慈覚大師との関係は深いと言える。  
大蛇を退治した鬼岩寺の静照は、戒走慧三学を究めた名僧として広く知られ、後に源頼朝からも帰依された。頼朝は純錦の自分の礼服をお袈裟に仕立て直して、静照に賜ったと言う。鬼岩寺ではこの静照を中興開山としてあがめている。  
この静照の大蛇退治の伝説は「水上池の悪竜退治」の伝説として、水上村万福寺、志太の九景寺等の開創縁起として伝えられている。それぞれ内容は少しずつ異っているが、水上という地名でもわかるように、大きな池(低湿地帯)があった。中世の時代水上池を開拓し、田畑に変え、食糧の増産を図るため、僧侶による宗教的・技術的指導の下で土地開発が行われた。この開発が伝説として伝えられたのであると、磯部武男氏の優れた学問的研究「水上池の悪霊退治伝説について」(藤枝市郷土博物館紀要三)があるので参照されたい。  
足利義満・足利義教宿泊  
鎌倉時代に入っても鬼岩寺はこの地区の名利として街道に名が知られ、名僧が住職となっている。永仁年間(1293〜1298)には良観上人が、また後には鎌倉極楽寺開山の忍性上人が住職となり、二重塔を建立し、その中には、書写した大蔵経を納めたと言われている。  
嘉慶2年(1388)、足利幕府3代将軍義満は、富士山を見物のため下向した時、この鬼岩寺に宿泊した。さらに永享4年(1432)9月17日には、6代将軍足利義教も鬼岩寺に宿泊した。この時のことは、『続太平記』『今川記』『富士御覧日記』等にも詳しく記されている。将軍義教は鎌倉公方の足利持氏に将軍の権威を誇示するため「富士遊覧」と称して、大行列を仕立てて京都から駿河国に下った。飛鳥井雅世、三条実雅、勧修寺教秀の公家や歌人や殿上人の他に、一説には6千騎ともいわれる武士を率いて、「山も川もとどろき渡りけり。」と称される程の大部隊を伴って大井川を越えて来た。  
駿河国守護職今川範政が出迎え、一行は鬼岩寺に1泊した。帰路にも1泊し、この時鬼岩寺裏の岩田山に富士山を眺めるための望事を築いたという。この故事によってこの山を「富士見平」とか「天がすみ」(殿下休み)と呼ばれ、高草山の山越しに富士山が眺められることで有名になった。文明5年(1473) 歌人の正広は富士見平にて、「富士ハなを うへにそミゆる 藤枝や 高草山の峯の白雲」という歌を残している。  
宝篋印塔  
入口を入って左側に苔むした石の宝篋印塔・五輪塔・板牌が並んでいる。この宝篋印塔というのは、『宝篋印陀羅尼』の経文を書き写し納めた塔で、鎌倉末期から室町時代にかけて流行した信仰習慣である。  
塔の形は、塔の頂きに宝珠があり続いて相輪・笠・塔身・基礎・反花座からなり、笠の4隅には隅飾をつけた手のこんだ石の塔である。宝筐印陀羅尼を唱え、塔を造立すると悪道に堕ちた亡者も極楽に生じるという信仰によって建立された。鬼岩寺にはこの塔が15基残っているが、その中で一きわ大きい塔に「矢部隼人 永徳2年(1382)」と刻まれた銘が残っている。矢部氏は岡部氏、朝比奈氏、松井氏等とともに、今川家に古くから仕えた武士であり、現在も葉梨下之郷に矢部屋敷の地名が残っている。その他の塔には銘はないけれど、この時代の矢部家一族や今川系の武士達が道立したものであろう。  
また、小さな五輪の塔は、近年墓地整備の折出土したもので現在260基程発見され現在地に安置されたが、まだ地中には埋まったままのものがあるという。これだけ多くの五輪塔が1ヶ所にあるということは、県内では珍しい。その中の2基に応安(1368〜1374)の年号のものと応永12年(1405)の年号が記されているから、14世紀から15世紀頃造塔いたされたものである。また、弥陀三尊の梵字を刻した板ひ牌も県内では珍しいものである。これらの石塔群は当時の信仰形態を知る上で、貴重な資料であり、文化遺産でもある。  
飛行舎利  
戦国争乱の風の吹き荒れた永禄13年(1570)、甲斐の武田信玄は駿河に攻め込み、駿府城を手に入れ、1月26日には花沢城を攻め滅ぼし、月末には田中城を攻略した。この時武田軍は飽波神社、清水寺、東光寺、遍照光寺等の名だたる神社仏閣を焼き払った。鬼岩寺もこの兵火によって本尊の聖観世音菩薩を除いて貴重な寺宝や記録が残らず焼失した。この時鳥羽天皇が奉納した仏舎利二粒は、燃えさかる炎の中を飛び出したので、「飛行の舎利」と呼ばれた。信玄はこの舎利を甲斐に持ち帰り、武田勝頼の手を経て高野山に奉納した。江戸時代に入ってから高野山成慶院住職秀雅は、この舎利が藤枝宿鬼岩寺のものであったことを知り、延宝7年(1679)鬼岩寺に返納した。その後、鬼岩寺の復興は慶長7年(1602)幕府から12石の朱印領を賜り、伽藍が再興されてからである。現在の不動堂はこの時建立されたものである。  
不動明王の帰山  
この永禄13年の兵火に遭った折、不動堂に祀られていた不動明王は行方知れずになっていた。八方捜したが見つからず、焼失してしまったのではないかと言われていた。ところが、六十年程たった寛永年間(1624〜1643)23世住職堅照上人がある夜夢を見た。その夢の中に例の不動明王があらわれ、  
「吾、甲斐国甲府大泉禅寺にあり。汝等来たり迎えよ。」  
と告げたのである。翌朝、堅照が夢のことを思い出していると、鬼岩寺の檀那大井神社神主の大桶六兵衛があわてた様子で寺をたずねて来た。六兵衛は昨夜見た夢のことを堅照に告げた。不思議なことに全く同じ夢であった。  
そこで住職と六兵衛の2人は旅仕度を整え甲斐の国、大泉寺に向けて出発した。旅を続け、富士川のほとりの茶店に寄ると、一人の旅の僧が休んでいる。何とはなしにこの僧と話しはじめ、夢のお告げのことを語ると旅の僧は大変驚いた。旅の僧が言うのには、実は私はその大泉寺の使いの僧であり、同じように不動明王の夢のお告げにより、駿河国鬼岩寺へお不動様をお返しにあがる途中であるという。鬼岩寺堅照も六兵衛も霊験あらたかなお不動様に感謝しながら、不動明王をこしに載せて帰山した。60年ぶりに不動堂の本尊が帰山したことに誰もが歓喜し、その因縁の不思議さに改めて驚いた。  
如意宝網珠  
享保17年(1732)9月10日のことである。門前の道普請のため裏山を削った土を門前に積みあげておいた。その夜、村人が鬼岩寺の護摩堂の方を見ると、寺が真赤に光っている。火事ではないかと駆けつけて見ると、何の異変もない。首をかしげながら家に帰り、鬼岩寺をながめると、また同じように鬼岩寺が赤く光っている。  
翌日村人が光ったあたりの積み上げた土地を掘ってみると火鉢のようなものが出て来た。こじあけてみると直径8寸8分、表面は網をかけたような筋のある鼠色の玉が現れた。誰も今まで見たことのないような不思議な美しい玉である。皆口々に「昨日火事だと思ったのは、きっとこの玉が光ったからに違いない。」と言った。  
その後住職が京都に行く用事がありこの玉を持参し、諸国から来た僧達に見せた。しかし、誰一人としてこの玉の名を知っている者はいない。このうわさが二候関白殿下の耳に入り、高覧してもらったところ、殿下は「如意宝網珠」と名づけてくれた。この珠は現在も鬼岩寺の大切な宝として伝えられている。  
黒犬物語  
寛政から文化年間(1789〜1803)の頃、鬼岩寺に「クロ」と呼ばれていた黒プチの犬が飼われていた。身体も大きく精博で大変強い犬であった。その強いうわさが天下に広まり「東海道の黒犬」とまで言われていた。これを聞いた土佐の国の殿様が、自分の国も土佐犬の産地として有名であり黙認することができず、土佐犬を連れて来て決着をつけようとした。そこで参勤交替の折に土佐一の犬を連れて来て、鬼岩寺に行列をとめた。  
鬼岩寺の住職は、土佐藩主からの使いを受けると、闘志より心配の方が先に立ち、気が気でない。  
「いくらクロが強いとは言え、有名な土佐犬と戦えば負けるに決まっている。万一勝っても恨まれる。下手をすれば殺されてしまうかもしれない。」  
と嘆き、弱りはてていた。そこで和尚は、殿様が到着する前にクロを逃がしてしまおうと思いつき、クロに「帰って来るな」と言い聞かせ寺から追い出した。するとクロは名残惜しそうに、尾をふりながら裏山に消えていった。  
やれ一安心と思っていると、数日後クロは寺に帰って来てしまったのである。和尚もそれでは仕方がないと覚悟を決め戦わせることにした。翌日土佐の殿様が10数人の家来を従え、土佐犬を連れてやって来た。いよいよ犬の戦いが始まった。犬同士を見合わせると黒い犬クロはあたかも木鶏の如く落ちつきはらっている。それにひきかえ、殿様の方は興奮し、土佐犬は闘志むき出しである。  
しばらくにらみあいが続いたが、クロが一声「ウーウワン」鋭い声で吠えた。すると裏山から沢山の犬の鳴き声が呼応したのである。それを聞いた土佐犬は先刻の闘志はすっかり消え失せ、尾を下げてあとずさりを始めてしまった。勝敗は決した。殿様も潔く負けを認め、江戸へと旅立った。クロは鬼岩寺を出された時、遠州春野まで行き、春埜山大光寺の部下の犬を連れて来たのだと評判が立った。その後鬼岩寺のクロは増々有名になり、皆から可愛いがられるようになった。  
それからしばらく過ぎたある日、田中城の殿様本多候が碁を打ちに鬼岩寺に来山した。和尚と碁を打っていると、クロが裏庭に入って来て殿様の目にとまった。  
本多候はクロを見て、「和尚どうだ、有名なこのクロとわしが飼っているシロと闘犬させてみたいが……。」と言う。殿様のことばであるから和尚も困ってしまった。クロが勝っても殿は面子をつぶされたとして、犬を手打ちにするかもしれない。そこで和尚は「どちらが勝っても傷つくし、負ければ殺されるかもしれません。むごいことですから………。」とやわらかく断った。が、殿様は引き下がらない。そこでとうとう戦い合うはめになってしまった。  
数日後、本多候はシロを連れて来て鬼岩寺の庭で戦いが始まった。シロも強く、お互いに吠え合い、咬み合い、血を流しあったが、やはりクロの方が格段に強く、勝ってしまった。殿様は可愛いがっていた自慢のシロが負けると怒り出し 「このにっくき黒犬め。」と刀を抜いて切りつけたので、クロは裏山へ逃げこんでしまった。面子をつぶされた殿様は怒りがおさまらず、家来に槍を持たせ、翌日から山狩りをすることを命じた。  
その夜こっそり帰って来たクロに、和尚は御馳走をたっぷり与え、もう寺には帰ってくるなと言い聞かせ、裏山に逃がした。本多候の家来達は翌日からクロを必死になってさがしたが見つからない。10日程たった夕方、クロはひょっこり寺に帰って来た。それ逃がすなと家来たちが追いかけると、クロは逃げまわる。それでも大勢の家来にとりかこまれると、とうとうクロは、川の横にあった井戸(硯生涯学習センター近く)に自分から跳び込んでしまったのである。すると突然井戸の中から黒煙がわき出し、何万匹もの黒犬が現われて吠え出した。クロの自刃であった。その潔い姿に感じた殿様も自分の負けを認め、社わがままを悔い改めたとい榊う。後に村人たちはクロの霊を祀り神社を建立した。これが山門を入って左側にある黒犬神社である。  
このように楊厳山鬼岩寺は1千3百年の歴史を誇り、数多くの伝説を持ち、由緒ある仏様を祀り、貴重な寺宝を蔵し、真言密教の法灯を伝えてきた。残念ながら大正四年に火災に遭い数多くの寺宝や貴重な書類を焼失したが、昭和54年には本堂を建立、55年に庫裡を再建した。鬼岩寺の寺宝として残っているものは  
聖観世音菩薩 鬼岩寺本尊 行基作  天和2年(1616)田中城々主土屋政直再興  
大聖不動明王不動堂(護摩堂)本尊 智証大師円珍作   
如意宝網珠 享保17年(1732)地中より発見  
鰐口 慶長16年(1611)若松惣右衛門作(藤枝市指定文化財)  
鬼かき岩 音この辺りに出没した鬼が爪を研いだ岩という  
等がある。  
今も鬼岩寺はこの地域の仏教を信仰する人々の拠り処として、数多くの信者を集めている。1月28日に行われる厄除け火渡りの行事と、8月20日弘法大師の縁日には、近隣からの善男善女が雲集し、花火もあがり大いに賑う。 
●宇津山 慶竜寺 / 静岡市宇津谷  
弘法大師 伝説  
宇津山慶竜寺は、国道一号線から新宇津ノ谷トンネル静岡口の手前で旧東海道にはいり、宇津ノ谷峠に向かう途中にある。  
かつては「渓流寺」とも記されたように、同寺の前には丸子川が流れ、そこに朱塗りの竜門橋がかかっている。寺伝によれば、天正六年(一五七八)に泉ケ谷の勧昌院四世光岩宗旭和尚が開創し、後に勧昌院九世光國〇淳和尚(一六八六没)が中興した。  
本堂の須弥壇上には、向かって右側に本尊の一一面観音、中央に高さ一一〇センチ程の木製の地蔵立像と、脇侍の掌善童子と掌悪童子が祀られている。しかし、この地蔵は「おまえたてさん」と呼ばれるもの。延命地蔵は、その後ろにある左甚五郎作の厨子に納められている。二一年毎の本開帳と、一一年毎の中開帳の時にだけ姿を表す秘仏で、前回の本開帳は平成七年に行われた。  
この秘仏の地蔵は、弘法大師の作と言われている。高さ八〇センチ程の石造りの座像で、両手で宝珠をもっている。もとは宇津ノ谷峠に祀られて「峠の地蔵」と呼ばれていたが、明治四四年に麓の慶竜寺に下ろされた。同寺の境内には、地蔵と一緒に下ろされた賽の河原の供養塔や秋葉灯籠が安置されており、「十団子も小粒になりぬ秋の風」という向井許六の句碑も建てられている。 
 
●空海と伊豆山祭祀  
1  
『神道体系』神社編二十一には、伊豆山祭祀に関する縁起書が複数収録されていて、それらを読んでいると、全体にかなり高度・複雑な神仏習合、また神々習合のさまが、さながら曼荼羅模様のごとくに展開されている印象を受けます。  
この高度・複雑な習合思想を伊豆山に持ち込んだ人物は、平安期・嵯峨天皇の時代に鎮護国家の最前衛の仏教徒として頭角をあらわしてくる空海をおいてほかにいないだろうとおもわれます。  
わたしがこのように空海を名指しするのは、以下のような文面が縁起書(「伊豆山略縁起」)に確認できるからです。  
弘仁十年己亥、弘法大師、社殿に詣し、結檀念誦し玉ふこと三夜に及ぶ〔中略…後述〕大師重[かさね]て勅命を奉じ、当山を管[つかさど]り、詳[つまびらか]に清規を定め、初[はじめ]て密法を修して、深秘を高雄の僧正及[および]杲隣[こうりん]大徳に附属し玉ひ、其後天長二年乙巳、中本宮・其余社頭・僧房を経営して、永く鎮護国家瑜伽の道場と成せしより、今に其法則[ほっそく]を守り、深密の行業、神殿の秘事、日々の修法、護国の勤念[ごんねん]懈[おこた]ることなし、  
弘法大師こと空海は、弘仁十年(八一九)に伊豆山にやってきて、それも「勅命」によって伊豆山を管轄し、こまかな社則(「清規」)を定めたとされます。また、ここで初めて「密法」を修め、その「深秘」の極意を弟子たちに伝えたようです。空海は天長二年(八二五)にもやってきて、伊豆山の「中本宮」ほかを経営し、ここを「鎮護国家瑜伽の道場」と定めたとされます。  
縁起の作者は、空海が定めた「其法則[ほっそく]を守り、深密の行業、神殿の秘事、日々の修法、護国の勤念[ごんねん]懈[おこた]ることなし」と、空海の教えを忠実に継承していることを、半ば誇りをもって書いてもいます。空海が「鎮護国家」のために定めた「法則」や「深密の行業」・「神殿の秘事」が具体的にどのようなものかは、部外の者には、うかがうことが容易ではありません。  
しかし、「勅命」を奉じた空海による伊豆山祭祀への干渉といった視点で再読してみますと、伊豆山祭祀は、空海の登場を画期として、大きな変動を蒙っただろうことは想像できます。  
遠野郷に伊豆権現(瀬織津姫命)が伝えられたのは大同元年(八〇六)とされます。この伝承を信じるならば、空海が伊豆山祭祀に手を加えた弘仁十年(八一九)から天長二年(八二五)という時間の「前」に相当していますから、空海以降、伊豆山から「瀬織津姫命」の祭祀が消えたのではないかという仮説を立ててもそれほど無理はなかろうとおもいます。  
明治四年(一八七一)に国家に提出された「伊豆国加茂郡伊豆山神社書上」は、「社伝ニハ、正殿ヲ忍穂耳尊、相殿二座ヲ栲幡千々姫命・瓊々杵尊ト称シ来リ、其外区々之諸説等モ御座候」、しかしながら「祭神之事、古来一定仕ラス」とし、正殿は火牟須比命、左相殿は伊邪那岐命、右相殿は伊邪那美命とすることを「右確定支度(右確定したく)」と申請しています(結果、受理されます)。  
平安期から江戸期までの神仏・神々習合の各縁起の内容は、ここで全否定されることになりますが、そもそも「祭神之事、古来一定仕ラス」の淵源はといえば、やはり空海にまでさかのぼって考えてみる必要がありそうです。  
「神社書上」は、社号については「旧称」として伊豆御宮、伊豆大権現、走湯大権現の三つがあったとし、さらに「社地沿革」の項では、「上古ハ日金山鎮座」、「次牟須夫峯ニ遷座」、「次亦今之社地ニ遷座」と、その変遷を記しています。また、それぞれに割注のかたちで、以下のような補足説明をしてもいます(個々の鎮座・遷座ごとに改行、それぞれの割注を〔 〕で記します)。  
上古ハ日金山鎮座〔本宮ト称ス、是所謂伊豆ガ根ニテ、今之社地ヨリ乾六十町許山嶽上、今ニ至リ、小祠存ス〕  
次牟須夫峯ニ遷座〔中ノ本宮ト称ス、社地ヨリ北八町許山中、今ニ至リ、鳥居礎・敷石等存シ、且小祠アリ、祭日六月晦日〕  
次亦今之社地ニ遷座〔因テ新宮ト称ス〕  
これを読みますと、社地の変遷ばかりでなく、それに対応するように社名の変遷もあったことがわかります。曰く、本宮→中ノ本宮→新宮(現在の伊豆山神社)の順です。ここで想起されるのは、「伊豆山略縁起」の記述です。縁起は、空海が「中本宮」ほかを経営し、「永く鎮護国家瑜伽の道場」となしたと書いていました。この「中本宮」は「中ノ本宮」のことですが、「神社書上」の割注(補足説明)は、この「中ノ本宮」の項の末尾に「祭日六月晦日」と記しています。つまり、空海が「鎮護国家瑜伽の道場」とみなした中本宮は「六月晦日」を祭日としていたのでした。  
この「六月晦日」は、いうまでもなく「六月晦大祓」の日です。伊豆山の社則(「清規」)を定めたのは空海でしたから、この大祓の日を、新たな伊豆御宮(中本宮)の祭日と定めたのも空海ということになります。  
明治期、たしかに「祭神之事、古来一定仕ラス」だったかもしれませんが、「古来」、本殿あるいは山頂から降格祭祀がなされ、しかも大祓の神と限定されてきたのが瀬織津姫という神でした(岐阜県・野宮神社、白山史料にみる瀬織津姫神の項を参照)。伊豆山においても同じことがいえるだろうと考える理由は、空海の登場以前に、自身の守護神として伊豆権現(瀬織津姫命)をもって伊豆から遠野までやってきた四角藤蔵がおり、今もこの神をまつりつづける遠野・伊豆神社の存在があるからです。  
空海は「勅命」によって伊豆山へやってきて、そこで「鎮護国家」の名のもとに新たな社則(「清規」)を定め、しかも「密法」の「深秘」まで伝えたとされます。  
空海の真言密教の全体像を解読するのは至難ですが、そのエッセンスを抽出することは不可能ではないとおもわれます。「走湯山縁起」巻第五は、巻末に、空海による「真済面授口伝」なる名で、次のように記しています(筆者読み下しで引用)。  
海底大日印文五箇口伝、中心伊勢大神宮、内胎蔵大日、外金剛界大日〔已上中台〕、南方高野丹生大明神〔宝珠〕、西方熊野〔蓮花〕、北方羽黒〔羯磨〕、東方走湯権現〔円鏡〕、  
日本是大日如来、密厳花蔵浄刹也、四仏を四方に安じ、天照大神を中心に処す、此海底印文、皆大龍の背に在るなり、  
「走湯山縁起」巻第五の作者(延尋)は、弘法大師が弟子「真済」に語ったことは「面授口伝」(の秘伝)で、今廃忘を嘆くがゆえにこれをおそれながら注すとしています。  
最澄というよりも円仁といったほうがよいでしょうが、天台密教は、内宮の秘神を神仏習合の方法でどう封印するかに腐心しました。これはまだ単純といえなくもありませんが、空海の真言密教は、同じ封印でも、自身の密教理念の中心にまず大日如来を据え