不如帰・金色夜叉

徳冨蘆花 / 不如帰上編中編下編
 「不如帰」雑話大山捨松「不如帰」における時代描写・・・
尾崎紅葉 / 金色夜叉前編中編後編続金色夜叉続続金色夜叉新続金色夜叉
 「金色夜叉」雑話「金色夜叉」の国語学・・・
諸話 / 正宗・谷崎両氏の批評に答う(荷風)森鴎外の作品批評永井荷風論・・・
 

雑学の世界・補考   

「不如帰」徳冨蘆花

第百版不如帰の巻首に
不如帰(ふじょき)が百版になるので、校正かたがた久しぶりに読んで見た。お坊っちゃん小説である。単純な説話で置いたらまだしも、無理に場面をにぎわすためかき集めた千々石(ちぢわ)山木(やまき)の安っぽい芝居(しばい)がかりやら、小川(おがわ)某女の蛇足(だそく)やら、あらをいったら限りがない。百版という呼び声に対してももっとどうにかしたい気もする。しかし今さら書き直すのも面倒だし、とうとうほンの校正だけにした。
十年ぶりに読んでいるうちに端(はし)なく思い起こした事がある。それはこの小説の胚胎(はいたい)せられた一夕(せき)の事。もう十二年前(ぜん)である、相州(そうしゅう)逗子(ずし)の柳屋という家(うち)の間(ま)を借りて住んでいたころ、病後の保養に童男(こども)一人(ひとり)連れて来られた婦人があった。夏の真盛りで、宿という宿は皆ふさがって、途方に暮れておられるのを見兼ねて、妻(さい)と相談の上自分らが借りていた八畳二室(ふたま)のその一つを御用立てることにした。夏のことでなかの仕切りは形(かた)ばかりの小簾(おす)一重(ひとえ)、風も通せば話も通う。一月(ひとつき)ばかりの間に大分(だいぶ)懇意になった。三十四五の苦労をした人で、(不如帰の小川某女ではない)大層情の深い話上手(じょうず)の方(かた)だった。夏も末方のちと曇ってしめやかな晩方の事、童男(こども)は遊びに出てしまう、婦人と自分と妻と雑談しているうちに、ふと婦人がさる悲酸の事実譚(だん)を話し出された。もうそのころは知る人は知っていたが自分にはまだ初耳の「浪子(なみこ)」の話である。「浪さん」が肺結核で離縁された事、「武男(たけお)君」は悲しんだ事、片岡(かたおか)中将が怒って女(むすめ)を引き取った事、病女のために静養室を建てた事、一生の名残(なごり)に「浪さん」を連れて京阪(けいはん)の遊(ゆう)をした事、川島家(かわしまけ)からよこした葬式の生花(しょうか)を突っ返した事、単にこれだけが話のなかの事実であった。婦人は鼻をつまらせつつしみじみ話す。自分は床柱(とこばしら)にもたれてぼんやりきいている。妻(さい)は頭(かしら)をたれている。日はいつか暮れてしもうた。古びた田舎家(いなかや)の間内(まうち)が薄ぐらくなって、話す人の浴衣(ゆかた)ばかり白く見える。臨終のあわれを話して「そうお言いだったそうですってね――もうもう二度と女なんかに生まれはしない」――言いかけて婦人はとうとう嘘唏(きょき)して話をきってしもうた。自分の脊髄(せきずい)をあるものが電(いなずま)のごとく走った。
婦人は間もなく健康になって、かの一夕(せき)の談(はなし)を置(お)き土産(みやげ)に都に帰られた。逗子の秋は寂しくなる。話の印象はいつまでも消えない。朝な夕な波は哀音を送って、蕭瑟(しょうしつ)たる秋光の浜に立てば影なき人の姿がつい眼前(めさき)に現われる。かあいそうは過ぎて苦痛になった。どうにかしなければならなくなった。そこで話の骨に勝手な肉をつけて一編未熟の小説を起草して国民新聞に掲げ、後一冊として民友社から出版したのがこの小説不如帰である。
で、不如帰のまずいのは自分が不才のいたすところ、それにも関せず読者の感を惹(ひ)く節(ふし)があるなら、それは逗子の夏の一夕にある婦人の口に藉(か)って訴えた「浪子」が自ら読者諸君に語るのである。要するに自分は電話の「線(はりがね)」になったまでのこと。
明治四十二年二月二日
昔の武蔵野今は東京府下 北多摩郡千歳村粕谷の里にて 徳冨健次郎識  
上編

 

一  
一の一
上州(じょうしゅう)伊香保千明(いかほちぎら)の三階の障子(しょうじ)開きて、夕景色(ゆうげしき)をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷(まげ)に結いて、草色の紐(ひも)つけし小紋縮緬(こもんちりめん)の被布(ひふ)を着たり。
色白の細面(ほそおもて)、眉(まゆ)の間(あわい)ややせまりて、頬(ほお)のあたりの肉寒げなるが、疵(きず)といわば疵なれど、瘠形(やさがた)のすらりとしおらしき人品(ひとがら)。これや北風(ほくふう)に一輪勁(つよ)きを誇る梅花にあらず、また霞(かすみ)の春に蝴蝶(こちょう)と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかににおう月見草、と品定めもしつべき婦人。
春の日脚(ひあし)の西に傾(かたぶ)きて、遠くは日光、足尾(あしお)、越後境(えちござかい)の山々、近くは、小野子(おのこ)、子持(こもち)、赤城(あかぎ)の峰々、入り日を浴びて花やかに夕ばえすれば、つい下の榎(えのき)離れて唖々(ああ)と飛び行く烏(からす)の声までも金色(こんじき)に聞こゆる時、雲二片(ふたつ)蓬々然(ふらふら)と赤城の背(うしろ)より浮かび出(い)でたり。三階の婦人は、そぞろにその行方(ゆくえ)をうちまもりぬ。
両手優(ゆた)かにかき抱(いだ)きつべきふっくりとかあいげなる雲は、おもむろに赤城の巓(いただき)を離れて、さえぎる物もなき大空を相並んで金の蝶のごとくひらめきつつ、優々として足尾の方(かた)へ流れしが、やがて日落ちて黄昏(たそがれ)寒き風の立つままに、二片(ふたつ)の雲今は薔薇色(ばらいろ)に褪(うつろ)いつつ、上下(うえした)に吹き離され、しだいに暮るる夕空を別れ別れにたどると見しもしばし、下なるはいよいよ細りていつしか影も残らず消ゆれば、残れる一片(ひとつ)はさらに灰色に褪(うつろ)いて朦乎(ぼいやり)と空にさまよいしが、
果ては山も空もただ一色(ひといろ)に暮れて、三階に立つ婦人の顔のみぞ夕やみに白かりける。  
一の二
「お嬢――おやどういたしましょう、また口がすべって、おほほほほ。あの、奥様、ただいま帰りましてございます。おや、まっくら。奥様エ、どこにおいで遊ばすのでございます?」
「ほほほほ、ここにいるよ」
「おや、ま、そちらに。早くおはいり遊ばせ。お風邪(かぜ)を召しますよ。旦那(だんな)様はまだお帰り遊ばしませんでございますか?」
「どう遊ばしたんだろうね?」と障子をあけて内(うち)に入りながら「何(なん)なら帳場(した)へそう言って、お迎人(むかい)をね」
「さようでございますよ」言いつつ手さぐりにマッチをすりてランプを点(つ)くるは、五十あまりの老女。
おりから階段(はしご)の音して、宿の女中(おんな)は上り来つ。
「おや、恐れ入ります。旦那様は大層ごゆっくりでいらっしゃいます。……はい、あのいましがた若い者をお迎えに差し上げましてございます。もうお帰りでございましょう。――お手紙が――」
「おや、お父(とう)さまのお手紙――早くお帰りなさればいいに!」と丸髷(まるまげ)の婦人はさもなつかしげに表書(うわがき)を打ちかえし見る。
「あの、殿様の御状で――。早く伺いたいものでございますね。おほほほほ、きっとまたおもしろいことをおっしゃってでございましょう」
女中(おんな)は戸を立て、火鉢(ひばち)の炭をついで去れば、老女は風呂敷包(ふろしきづつ)みを戸棚(とだな)にしまい、立ってこなたに来たり、
「本当に冷えますこと!東京(あちら)とはよほど違いますでございますねエ」
「五月に桜が咲いているくらいだからねエ。ばあや、もっとこちらへお寄りな」
「ありがとうございます」言いつつ老女はつくづく顔打ちながめ「うそのようでございますねエ。こんなにお丸髷(まげ)にお結い遊ばして、ちゃんとすわっておいで遊ばすのを見ますと、ばあやがお育て申し上げたお方様とは思えませんでございますよ。先奥様(せんおくさま)がお亡(な)くなり遊ばした時、ばあやに負(おぶ)されて、母(かあ)様母様ッてお泣き遊ばしたのは、昨日(きのう)のようでございますがねエ」はらはらと落涙し「お輿入(こしいれ)の時も、ばあやはねエあなた、あの立派なごようすを先奥様がごらん遊ばしたら、どんなにおうれしかったろうと思いましてねエ」と襦袢(じゅばん)の袖(そで)引き出して目をぬぐう。
こなたも引き入れられるるようにうつぶきつ、火鉢にかざせし左手(ゆんで)の指環(ゆびわ)のみ燦然(さんぜん)と照り渡る。
ややありて姥(うば)は面(おもて)を上げつ。「御免遊ばせ、またこんな事を。おほほほ年が寄ると愚痴っぽくなりましてねエ。おほほほほ、お嬢――奥様もこれまではいろいろ御苦労も遊ばしましたねエ。本当によく御辛抱遊ばしましたよ。もうもうこれからはおめでたい事ばかりでございますよ、旦那様はあの通りおやさしいお方様――」
「お帰り遊ばしましてございます」
と女中(おんな)の声階段(はしご)の口に響きぬ。  
一の三
「やあ、くたびれた、くたびれた」
足袋(たび)草鞋(わらじ)脱(ぬ)ぎすてて、出迎う二人(ふたり)にちょっと会釈しながら、廊下に上りて来し二十三四の洋服の男、提燈(ちょうちん)持ちし若い者を見返りて、
「いや、御苦労、御苦労。その花は、面倒だが、湯につけて置いてもらおうか」
「まあ、きれい!」
「本当にま、きれいな躑躅(つつじ)でございますこと!旦那様、どちらでお採り遊ばしました?」
「きれいだろう。そら、黄色いやつもある。葉が石楠(しゃくなげ)に似とるだろう。明朝(あす)浪(なみ)さんに活(い)けてもらおうと思って、折って来たんだ。……どれ、すぐ湯に入って来ようか」

「本当に旦那様はお活発でいらっしゃいますこと!どうしても軍人のお方様はお違い遊ばしますねエ、奥様」
奥様は丁寧に畳(たた)みし外套(がいとう)をそっと接吻(せっぷん)して衣桁(いこう)にかけつつ、ただほほえみて無言なり。
階段(はしご)も轟(とどろ)と上る足音障子の外に絶えて、「ああいい心地(きもち)!」と入り来る先刻の壮夫(わかもの)。
「おや、旦那様もうお上がり遊ばして?」
「男だもの。あはははは」と快く笑いながら、妻がきまりわるげに被(はお)る大縞(おおじま)の褞袍(どてら)引きかけて、「失敬」と座ぶとんの上にあぐらをかき、両手に頬(ほお)をなでぬ。栗虫(くりむし)のように肥えし五分刈り頭の、日にやけし顔はさながら熟せる桃のごとく、眉(まゆ)濃く目いきいきと、鼻下にうっすり毛虫ほどの髭(ひげ)は見えながら、まだどこやらに幼な顔の残りて、ほほえまるべき男なり。
「あなた、お手紙が」
「あ、乃舅(おとっさん)だな」
壮夫(わかもの)はちょいといずまいを直して、封を切り、なかを出(いだ)せば落つる別封。
「これは浪さんのだ――ふむ、お変わりもないと見える……はははは滑稽(こっけい)をおっしゃるな……お話を聞くようだ」笑(えみ)を含んで読み終えし手紙を巻いてそばに置く。
「おまえにもよろしく。場所が変わるから、持病の起こらぬように用心おしっておっしゃってよ」と「浪さん」は饌(ぜん)を運べる老女を顧みつ。
「まあ、さようでございますか、ありがとう存じます」
「さあ、飯だ、飯だ、今日(きょう)は握り飯二つで終日(いちんち)歩きずめだったから、腹が減ったこったらおびただしい。……ははは。こらあ何ちゅう魚(さかな)だな、鮎(あゆ)でもなしと……」
「山女(やまめ)とか申しましたっけ――ねエばあや」
「そう?うまい、なかなかうまい、それお代わりだ」
「ほほほ、旦那様のお早うございますこと」
「そのはずさ。今日は榛名(はるな)から相馬(そうま)が嶽(たけ)に上って、それから二(ふた)ツ嶽(だけ)に上って、屏風岩(びょうぶいわ)の下まで来ると迎えの者に会ったんだ」
「そんなにお歩き遊ばしたの?」
「しかし相馬が嶽のながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。一方は茫々(ぼうぼう)たる平原さ、利根(とね)がはるかに流れてね。一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいてるなんぞはすこぶる妙だ。歌でも詠(よ)めたら、ひとつ人麿(ひとまろ)と腕っ比べをしてやるところだった。あはははは。そらもひとつお代わりだ」
「そんなに景色(けしき)がようございますの。行って見とうございましたこと!」
「ふふふふ。浪さんが上れたら、金鵄(きんし)勲章をあげるよ。そらあ急嶮(ひど)い山だ、鉄鎖(かなぐさり)が十本もさがってるのを、つたって上るのだからね。僕なんざ江田島(えたじま)で鍛い上げたからだで、今でもすわというとマストでも綱(リギング)でもぶら下がる男だから、何でもないがね、浪さんなんざ東京の土踏んだ事もあるまい」
「まあ、あんな事を」にっこり顔をあからめ「これでも学校では体操もいたしましたし――」
「ふふふふ。華族女学校の体操じゃ仕方がない。そうそう、いつだっけ、参観に行ったら、琴だか何だかコロンコロン鳴ってて、一方で『地球の上に国という国(くうに)は』何とか歌うと、女生(みんな)が扇を持って起(た)ったりしゃがんだりぐるり回ったりしとるから、踊りの温習(さらい)かと思ったら、あれが体操さ!あはははは」
「まあ、お口がお悪い!」
「そうそう。あの時山木の女(むすめ)と並んで、垂髪(おさげ)に結(い)って、ありあ何とか言ったっけ、葡萄色(ぶどういろ)の袴(はかま)はいて澄ましておどってたのは、たしか浪さんだっけ」
「ほほほほ、あんな言(こと)を!あの山木さんをご存じでいらっしゃいますの?」
「山木はね、うちの亡父(おや)が世話したんで、今に出入りしとるのさ。はははは、浪さんが敗北したもんだから黙ってしまったね」
「あんな言(こと)!」
「おほほほほ。そんなに御夫婦げんかを遊ばしちゃいけません。さ、さ、お仲直りのお茶でございますよ。ほほほほ」  

 

前回かりに壮夫(わかもの)といえるは、海軍少尉男爵(だんしゃく)川島武男(かわしまたけお)と呼ばれ、このたび良媒ありて陸軍中将子爵片岡毅(かたおかき)とて名は海内(かいだい)に震える将軍の長女浪子(なみこ)とめでたく合 きん(ごうきん)の式を挙(あ)げしは、つい先月の事にて、ここしばしの暇を得たれば、新婦とその実家よりつけられし老女の幾(いく)を連れて四五日前(ぜん)伊香保(いかほ)に来たりしなり。
浪子は八歳(やっつ)の年実母(はは)に別れぬ。八歳(やっつ)の昔なれば、母の姿貌(すがたかたち)ははっきりと覚えねど、始終笑(えみ)を含みていられしことと、臨終のその前にわれを臥床(ふしど)に呼びて、やせ細りし手にわが小さき掌(たなぞこ)を握りしめ「浪や、母(かあ)さんは遠(とおー)いとこに行くからね、おとなしくして、おとうさまを大事にして、駒(こう)ちゃんをかあいがってやらなければなりませんよ。もう五六年……」と言いさしてはらはらと涙を流し「母さんがいなくなっても母さんをおぼえているかい」と今は肩過ぎしわが黒髪のそのころはまだふっさりと額ぎわまで剪(き)り下げしをかいなでかいなでしたまいし事も記憶の底深く彫(え)りて思い出ぬ日はあらざりき。
一年ほど過ぎて、今の母は来つ。それより後は何もかも変わり果てたることになりぬ。先の母はれっきとしたる士(さむらい)の家より来しなれば、よろず折り目正しき風(ふう)なりしが、それにてもあのように仲よき御夫婦は珍しと婢(おんな)の言えるをきけることもありし。今の母はやはりれっきとした士(さむらい)の家から来たりしなれど、早くより英国に留学して、男まさりの上に西洋風の染(し)みしなれば、何事も先とは打って変わりて、すべて先の母の名残(なごり)と覚ゆるをばさながら打ち消すように片端より改めぬ。父に対しても事ごとに遠慮もなく語らい論ずるを、父は笑いて聞き流し「よしよし、おいが負けじゃ、負けじゃ」と言わるるが常なれど、ある時ごく気に入りの副官、難波(なんば)といえるを相手の晩酌に、母も来たりて座に居しが、父はじろりと母を見てからからと笑いながら「なあ難波君、学問の出来(でく)る細君(おくさん)は持つもんじゃごわはん、いやさんざんな目にあわされますぞ、あはははは」と言われしとか。さすがの難波も母の手前、何と挨拶(あいさつ)もし兼ねて手持ちぶさたに杯(さかずき)を上げ下げして居しが、その後(のち)おのが細君にくれぐれも女児(むすめ)どもには書物を読み過ごさせな、高等小学卒業で沢山と言い含められしとか。
浪子は幼きよりいたって人なつこく、しかも怜悧(りこう)に、香炉峰(こうろほう)の雪に簾(すだれ)を巻くほどならずとも、三つのころより姥(うば)に抱かれて見送る玄関にわれから帽をとって阿爺(ちち)の頭(かしら)に載すほどの気はききたり。伸びん伸びんとする幼心(おさなごころ)は、たとえば春の若菜のごとし。よしやひとたび雪に降られしとて、ふみにじりだにせられずば、おのずから雪融(と)けて青々とのぶるなり。慈母(はは)に別れし浪子の哀(かな)しみは子供には似ず深かりしも、後(あと)の日だに照りたらば苦もなく育つはずなりき。束髪に結いて、そばへ寄れば香水の香の立ち迷う、目少し釣りて口大きなる今の母を初めて見し時は、さすがに少したじろぎつるも、人なつこき浪子はこの母君にだに慕い寄るべかりしに、継母はわれからさしはさむ一念にかあゆき児(こ)をば押し隔てつ。世なれぬわがまま者の、学問の誇り、邪推、嫉妬(しっと)さえ手伝いて、まだ八つ九つの可愛児(かあいこ)を心ある大人(おとな)なんどのように相手にするより、こなたは取りつく島もなく、寒ささびしさは心にしみぬ。ああ愛されぬは不幸なり、愛いすることのできぬはなおさらに不幸なり。浪子は母あれども愛するを得ず、妹(いもと)あれども愛するを得ず、ただ父と姥(うば)の幾(いく)と実母の姉なる伯母(おば)はあれど、何を言いても伯母はよその人、幾は召使いの身、それすら母の目常に注ぎてあれば、少しよくしても、してもらいても、互いにひいきの引き倒し、かえってためにならず。ただ父こそは、父こそは渾身(こんしん)愛に満ちたれど、その父中将すらもさすがに母の前をばかねらるる、それも思えば慈愛の一つなり。されば母の前では余儀なくしかりて、陰へ回れば言葉少なく情深くいたわる父の人知らぬ苦心、怜悧(さと)き浪子は十分に酌(く)んで、ああうれしいかたじけない、どうぞ身を粉(こ)にしても父上のおためにと心に思いはあふるれど、気がつくほどにすれば、母は自分の領分に踏み込まれたるように気をわるくするがつらく、光をつつみて言(ことば)寡(すくな)に気もつかぬ体(てい)に控え目にしていれば、かえって意地わるのやれ鈍物のと思われ言わるるも情けなし。ある時はいささかの間違いより、流るるごとき長州弁に英国仕込みの論理法もて滔々(とうとう)と言いまくられ、おのれのみかは亡(な)き母の上までもおぼろげならずあてこすられて、さすがにくやしくかんだ唇(くちびる)開かんとしては縁側にちらりと父の影見ゆるに口をつぐみ、あるいはまたあまり無理なる邪推されては「母(おっか)さまもあんまりな」と窓かけの陰に泣いたることもありき。父ありというや。父はあり。愛する父はあり。さりながら家(うち)が世界の女の兒(こ)には、五人の父より一人(ひとり)の母なり。その母が、その母がこの通りでは、十年の間には癖もつくべく、艶(つや)も失(う)すべし。「本当に彼女(あのこ)はちっともさっぱりした所がない、いやに執念(しゅうねい)な人だよ」と夫人は常にののしりぬ。ああ土鉢(どばち)に植えても、高麗交趾(こうらいこうち)の鉢に植えても、花は花なり、いずれか日の光を待たざるべき。浪子は実に日陰の花なりけり。
さればこのたび川島家と縁談整いて、輿入(こしいれ)済みし時は、浪子も息をつき、父中将も、継母も、伯母も、幾(いく)も、皆それぞれに息をつきぬ。
「奥様(浪子の継母)は御自分は華手(はで)がお好きなくせに、お嬢様にはいやアな、じみなものばかり、買っておあげなさる」とつねにつぶやきし姥(うば)の幾が、嫁入りじたくの薄きを気にして、先奥様(せんおくさま)がおいでになったらとかき口説(くど)いて泣きたりしも、浪子はいそいそとしてわが家(や)の門(かど)を出(い)でぬ。今まで知らぬ自由と楽しさのこのさきに待つとし思えば、父に別るる哀(かな)しさもいささか慰めらるる心地(ここち)して、いそいそとして行きたるなり。  

 

三の一
伊香保より水沢(みさわ)の観音(かんのん)まで一里あまりの間は、一条(ひとすじ)の道、蛇(へび)のごとく禿山(はげやま)の中腹に沿うてうねり、ただ二か所ばかりの山の裂け目の谷をなせるに陥りてまた這(は)い上がれるほかは、目をねむりても行かるべき道なり。下は赤城(あかぎ)より上毛(じょうもう)の平原を見晴らしつ。ここらあたりは一面の草原なれば、春のころは野焼きのあとの黒める土より、さまざまの草萱(かや)萩(はぎ)桔梗(ききょう)女郎花(おみなえし)の若芽など、生(は)え出(い)でて毛氈(もうせん)を敷けるがごとく、美しき草花その間に咲き乱れ、綿帽子着た銭巻(ぜんまい)、ひょろりとした蕨(わらび)、ここもそこもたちて、ひとたびここにおり立たば春の日の永(なが)きも忘るべき所なり。
武男(たけお)夫婦は、今日(きょう)の晴れを蕨狩(わらびが)りすとて、姥(うば)の幾(いく)と宿の女中を一人(ひとり)つれて、午食後(ひるご)よりここに来つ。はやひとしきり採りあるきて、少しくたびれが来しと見え、女中に持たせし毛布(けっと)を草のやわらかなるところに敷かせて、武男は靴(くつ)ばきのままごろりと横になり、浪子(なみこ)は麻裏草履(あさうら)を脱ぎ桃紅色(ときいろ)のハンケチにて二つ三つ膝(ひざ)のあたりをはらいながらふわりとすわりて、
「おおやわらか!もったいないようでございますね」
「ほほほお嬢――あらまた、御免遊ばせ、お奥様のいいお顔色(いろ)におなり遊ばしましたこと!そしてあんなにお唱歌なんぞお歌い遊ばしましたのは、本当にお久しぶりでございますねエ」と幾はうれしげに浪子の横顔をのぞく。
「あんまり歌ってなんだか渇(かわ)いて来たよ」
「お茶を持ってまいりませんで」と女中は風呂敷(ふろしき)解きて夏蜜柑(なつみかん)、袋入りの乾菓子(ひがし)、折り詰めの巻鮓(まきずし)など取り出す。
「何、これがあれば茶はいらんさ」と武男はポッケットよりナイフ取り出して蜜柑をむきながら「どうだい浪さん、僕の手ぎわには驚いたろう」
「あんな言(こと)をおっしゃるわ」
「旦那(だんな)様のおとり遊ばしたのには、杪へごがどっさりまじっておりましてございますよ」と、女中が口を出す。
「ばかを言うな。負け惜しみをするね。ははは。今日は実に愉快だ。いい天気じゃないか」
「きれいな空ですこと、碧々(あおあお)して、本当に小袖(こそで)にしたいようでございますね」
「水兵の服にはなおよかろう」
「おおいい香(かおり)!草花の香でしょうか、あ、雲雀(ひばり)が鳴いてますよ」
「さあ、お鮓(すし)をいただいてお腹(なか)ができたから、もうひとかせぎして来ましょうか、ねエ女中さん」と姥(うば)の幾は宿の女を促し立てて、また蕨採りにかかりぬ。
「すこし残しといてくれんとならんぞ――健(まめ)な姥(ばあ)じゃないか、ねエ浪さん」
「本当に健(まめ)でございますよ」
「浪さん、くたびれはしないか」
「いいえ、ちっとも今日は疲れませんの、わたくしこんなに楽しいことは始めて!」
「遠洋航海なぞすると随分いい景色(けしき)を見るが、しかしこんな高い山の見晴らしはまた別だね。実にせいせいするよ。そらそこの左の方に白い壁が閃々(ちらちら)するだろう。あれが来がけに浪さんと昼飯を食った渋川(しぶかわ)さ。それからもっとこっちの碧(あお)いリボンのようなものが利根川(とねがわ)さ。あれが坂東太郎(ばんどうたろう)た見えないだろう。それからあの、赤城(あかぎ)の、こうずうと夷(たれ)とる、それそれ煙が見えとるだろう、あの下の方に何だかうじゃうじゃしてるね、あれが前橋(まえばし)さ。何?ずっと向こうの銀の針(びん)のようなの?そうそう、あれはやっぱり利根の流れだ。ああもう先はかすんで見えない。両眼鏡を持って来るところだったねエ、浪さん。しかし霞(かすみ)がかけて、先がはっきりしないのもかえっておもしろいかもしれん」
浪子はそっと武男の膝(ひざ)に手を投げて溜息(といき)つき
「いつまでもこうしていとうございますこと!」
「黄色の蝶二つ浪子の袖をかすめてひらひらと飛び行きしあとより、さわさわと草踏む音して、帽子かぶりし影法師だしぬけに夫婦の眼前(めさき)に落ち来たりぬ。
「武男君」
「やあ!千々岩(ちぢわ)君か。どうしてここに?」 
三の二
新来の客は二十六七にや。陸軍中尉の服を着たり。軍人には珍しき色白の好男子。惜しきことには、口のあたりどことなく鄙(いや)しげなるところありて、黒水晶のごとき目の光鋭く、見つめらるる人に不快の感を起こさすが、疵(きず)なるべし。こは武男が従兄(いとこ)に当たる千々岩安彦(ちぢわやすひこ)とて、当時参謀本部の下僚におれど、腕ききの聞こえある男なり。
「だしぬけで、びっくりだろう。実は昨日(きのう)用があって高崎(たかさき)に泊まって、今朝(けさ)渋川まで来たんだが、伊香保はひと足と聞いたから、ちょっと遊びに来たのさ。それから宿に行ったら、君たちは蕨(わらび)採りの御遊(ぎょゆう)だと聞いたから、路(みち)を教(おそ)わってやって来たんだ。なに、明日(あす)は帰らなけりゃならん。邪魔に来たようだな。はッはッ」
「ばかな。――君それから宅(うち)に行ってくれたかね」
「昨朝(きのう)ちょっと寄って来た。叔母様(おばさん)も元気でいなさる。が、もう君たちが帰りそうなものだってしきりとこぼしていなすッたッけ。――赤坂(あかさか)の方でもお変わりもありませんです」と例の黒水晶の目はぎらりと浪子の顔に注ぐ。
さっきからあからめし顔はひとしお紅(あこ)うなりて浪子は下向きぬ。
「さあ、援兵が来たからもう負けないぞ。陸海軍一致したら、娘子(じょうし)軍百万ありといえども恐るるに足らずだ。――なにさ、さっきからこの御婦人方がわが輩一人(ひとり)をいじめて、やれ蕨の取り方が少ないの、採ったが蕨じゃないだの、悪口(あっこう)して困ったンだ」と武男は顋(あご)もて今来し姥(うば)と女中をさす。
「おや、千々岩様――どうしていらッしゃいまして?」と姥(うば)はびっくりした様子にて少し小鼻にしわを寄せつ。
「おれがさっき電報かけて加勢に呼んだンだ」
「おほほほ、あんな言(こと)をおしゃるよ――ああそうで、へえ、明日(あす)はお帰り遊ばすンで。へえ、帰ると申しますと、ね、奥様、お夕飯(ゆう)のしたくもございますから、わたくしどもはお先に帰りますでございますよ」
「うん、それがいい、それがいい。千々岩君も来たから、どっさりごちそうするンだ。そのつもりで腹を減らして来るぞ。ははははは。なに、浪さんも帰る?まあいるがいいじゃないか。味方がなくなるから逃げるンだな。大丈夫さ、決していじめはしないよ。あはははは」
引きとめられて浪子は居残れば、幾は女中(おんな)と荷物になるべき毛布(ケット)蕨などとりおさめて帰り行きぬ。
あとに三人(みたり)はひとしきり蕨を採りて、それよりまだ日も高ければとて水沢(みさわ)の観音に詣(もう)で、さきに蕨を採りし所まで帰りてしばらく休み、そろそろ帰途に上りぬ。
夕日は物聞山(ものききやま)の肩より花やかにさして、道の左右の草原は萌黄(もえぎ)の色燃えんとするに、そこここに立つ孤松(ひとつまつ)の影長々と横たわりつ。目をあぐれば、遠き山々静かに夕日を浴び、麓(ふもと)の方は夕煙諸処に立ち上る。はるか向こうを行く草負い牛の、しかられてもうと鳴く声空に満ちぬ。
武男は千々岩と並びて話しながら行くあとより浪子は従いて行く。三人(みたり)は徐(しず)かに歩みて、今しも壑(たに)を渉(わた)り終わり、坂を上りてまばゆき夕日の道に出(い)でつ。
武男はたちまち足をとどめぬ。
「やあ、しまった。ステッキを忘れた。なに、さっき休んだところだ。待っててくれたまえ、ひと走り取って来るから――なに、浪さんは待ってればいいじゃないか。すぐそこだ。全速力で駆けて来る」
と武男はしいて浪子を押しとめ、ハンケチ包みの蕨を草の上にさし置き、急ぎ足に坂を下りて見えずなりぬ。 
三の三
武男が去りしあとに、浪子は千々岩(ちぢわ)と一間ばかり離れて無言に立ちたり。やがて谷を渉(わた)りてかなたの坂を上り果てし武男の姿小さく見えたりしが、またたちまちかなたに向かいて消えぬ。
「浪子さん」
かなたを望みいし浪子は、耳もと近き声に呼びかけられて思わず身を震わしたり。
「浪子さん」
一歩近寄りぬ。
浪子は二三歩引き下がりて、余儀なく顔をあげたりしが、例の黒水晶の目にひたとみつめられて、わき向きたり。
「おめでとう」
こなたは無言、耳までさっと紅(くれない)になりぬ。
「おめでとう。イヤ、おめでとう。しかしめでたくないやつもどこかにいるですがね。へへへへ」
浪子はうつむきて、杖(つえ)にしたる海老色(えびいろ)の洋傘(パラソル)のさきもてしきりに草の根をほじりつ。
「浪子さん」
蛇(へび)にまつわらるる栗鼠(りす)の今は是非なく顔を上げたり。
「何でございます?」
「男爵に金、はやっぱりいいものですよ。へへへへへ、いやおめでとう」
「何をおっしゃるのです?」
「へへへへへ、華族で、金があれば、ばかでも嫁に行く、金がなけりゃどんなに慕っても唾(つばき)もひッかけん、ね、これが当今(いま)の姫御前(ひめごぜ)です。へへへへ、浪子さんなンざそんな事はないですがね」
浪子もさすがに血相変えてきっと千々岩をにらみたり。
「何をおっしゃるンです。失敬な。も一度武男の目前(まえ)で言ってごらんなさい。失敬な。男らしく父に相談もせずに、無礼千万な艶書(ふみ)を吾(ひと)にやったりなンぞ……もうこれから決して容赦はしませぬ」
「何ですと?」千々岩の額はまっ暗くなり来たり、唇(くちびる)をかんで、一歩二歩寄らんとす。
だしぬけにいななく声足下(あしもと)に起こりて、馬上の半身坂より上に見え来たりぬ。
「ハイハイハイッ。お邪魔でがあすよ。ハイハイハイッ」と馬上なる六十あまりの老爺(おやじ)、頬被(ほおかぶ)りをとりながら、怪しげに二人(ふたり)のようすを見かえり見かえり行き過ぎたり。
千々岩は立ちたるままに、動かず。額の条(すじ)はややのびて、結びたる唇のほとりに冷笑のみぞ浮かびたる。
「へへへへ、御迷惑ならお返しなさい」
「何をですか?」
「何が何をですか、おきらいなものを!」
「ありません」
「なぜないのです」
「汚らわしいものは焼きすててしまいました」
「いよいよですな。別に見た者はきっとないですか」
「ありません」
「いよいよですか」
「失敬な」
浪子は忿然(ふんぜん)として放ちたる眼光の、彼がまっ黒き目のすさまじきに見返されて、不快に得堪(えた)えずぞっと震いつつ、はるかに目をそらしぬ。あたかもその時谷を隔てしかなたの坂の口に武男の姿見え来たりぬ。顔一点棗(なつめ)のごとくあかく夕日にひらめきつ。
浪子はほっと息つきたり。
「浪子さん」
千々岩は懲りずまにあちこち逸(そ)らす浪子の目を追いつつ「浪子さん、一言(ひとこと)いって置くが、秘密、何事(なに)も秘密に、な、武男君にも、御両親にも。で、なけりゃ――後悔しますぞ」
電(いなずま)のごとき眼光を浪子の面(おもて)に射つつ、千々岩は身を転じて、俛(ふ)してそこらの草花を摘み集めぬ。
靴音(くつおと)高く、ステッキ打ち振りつつ坂を上り来し武男「失敬、失敬。あ苦しい、走りずめだッたから。しかしあったよ、ステッキは。――う、浪さんどうかしたかい、ひどく顔色(いろ)が悪いぞ」
千々岩は今摘みし菫(すみれ)の花を胸の飾紐(ひも)にさしながら、
「なに、浪子さんはね、君があまりひま取ったもンだから、おおかた迷子(まいご)になったンだろうッて、ひどく心配しなすッたンさ。はッはははは」
「あはははは。そうか。さあ、そろそろ帰ろうじゃないか」
三人(みたり)の影法師は相並んで道べの草に曳(ひ)きつつ伊香保の片(かた)に行きぬ。 

 

四の一
午後三時高崎発上り列車の中等室のかたすみに、人なきを幸い、靴ばきのまま腰掛けの上に足さしのばして、巻莨(まきたばこ)をふかしつつ、新聞を読みおるは千々岩安彦なり。
手荒く新聞を投げやり、
「ばか!」
歯の間よりもの言う拍子に落ちし巻莨を腹立たしげに踏み消し、窓の外に唾(つば)はきしまましばらくたたずみていたるが、やがて舌打ち鳴らして、室の全長(ながさ)を二三度(ど)往来(ゆきき)して、また腰掛けに戻りつ。手をこまぬきて、目を閉じぬ。まっ黒き眉(まゆ)は一文字にぞ寄りたる。

千々岩安彦は孤(みなしご)なりき。父は鹿児島(かごしま)の藩士にて、維新の戦争に討死(うちじに)し、母は安彦が六歳の夏そのころ霍乱(かくらん)と言いけるコレラに斃(たお)れ、六歳の孤児は叔母(おば)――父の妹の手に引き取られぬ。父の妹はすなわち川島武男の母なりき。
叔母はさすがに少しは安彦をあわれみたれども、叔父(おじ)はこれを厄介者に思いぬ。武男が仙台平(せんだいひら)の袴(はかま)はきて儀式の座につく時、小倉袴(こくらばかま)の萎(な)えたるを着て下座にすくまされし千々岩は、身は武男のごとく親、財産、地位などのあり余る者ならずして、全くわが拳(こぶし)とわが知恵に世を渡るべき者なるを早く悟り得て、武男を悪(にく)み、叔父をうらめり。
彼は世渡りの道に裏と表の二条(ふたすじ)あるを見ぬきて、いかなる場合にも捷径(しょうけい)をとりて進まんことを誓いぬ。されば叔父の陰によりて陸軍士官学校にありける間も、同窓の者は試験の、点数のと騒ぐ間(ま)に、千々岩は郷党の先輩にも出入り油断なく、いやしくも交わるに身の便宜(たより)になるべき者を選み、他の者どもが卒業証書握りてほっと息つく間(ま)に、早くも手づるつとうて陸軍の主脳なる参謀本部の囲い内(うち)に乗り込み、ほかの同窓生(なかま)はあちこちの中隊付きとなりてそれ練兵やれ行軍と追いつかわるるに引きかえて、千々岩は参謀本部の階下に煙吹かして戯談(じょうだん)の間に軍国の大事もあるいは耳に入るうらやましき地位に巣くいたり。
この上は結婚なり。猿猴(えんこう)のよく水に下るはつなげる手あるがため、人の立身するはよき縁あるがためと、早くも知れる彼は、戸籍吏ならねども、某男爵は某侯爵の婿、某学士兼高等官は某伯の婿、某富豪は某伯の子息の養父にて、某侯の子息の妻(さい)も某富豪の女(むすめ)と暗に指を折りつつ、早くもそこここと配れる眼(まなこ)は片岡(かたおか)陸軍中将の家に注ぎぬ。片岡中将としいえば、当時予備にこそおれ、驍名(ぎょうめい)天下に隠れなく、畏(かしこ)きあたりの御覚(おんおぼ)えもいとめでたく、度量濶大(かつだい)にして、誠に国家の干城と言いつべき将軍なり。千々岩は早くこの将軍の隠然として天下に重き勢力を見ぬきたれば、いささかの便(たより)を求めて次第に近寄り、如才なく奥にも取り入りつ。目は直ちに第一の令嬢浪子をにらみぬ。一には父中将の愛おのずからもっとも深く浪子の上に注ぐをいち早く看(み)て取りしゆえ、二には今の奥様はおのずから浪子を疎(うと)みてどこにもあれ縁あらば早く片づけたき様子を見たるため、三にはまた浪子のつつしみ深く気高(けだか)きを好ましと思う念もまじりて、すなわちその人を目がけしなり。かくて様子を見るに中将はいわゆる喜怒容易に色にあらわれぬ太腹の人なれば、何と思わるるかはちと測り難けれど、奥様の気には確かに入りたり。二番目の令嬢の名はお駒(こま)とて少し跳(は)ねたる三五の少女(おとめ)はことにわれと仲よしなり。その下には今の奥様の腹にて、二人(ふたり)の子供あれど、こは問題のほかとしてここに老女の幾(いく)とて先の奥様の時より勤め、今の奥様の輿入(こしいれ)後奥台所の大更迭を行われし時も中将の声がかりにて一人(ひとり)居残りし女、これが終始浪子のそばにつきてわれに好意の乏しきが邪魔なれど、なあに、本人の浪子さえ攻め落とさばと、千々岩はやがて一年ばかり機会をうかがいしが、今は待ちあぐみてある日宴会帰りの酔(え)いまぎれ、大胆にも一通の艶書(えんしょ)二重(ふたえ)封(ふう)にして表書きを女文字(もじ)に、ことさらに郵便をかりて浪子に送りつ。
その日命ありてにわかに遠方に出張し、三月あまりにして帰れば、わが留守に浪子は貴族院議員加藤(かとう)某(なにがし)の媒酌(ばいしゃく)にて、人もあるべきにわが従弟(いとこ)川島武男と結婚の式すでに済みてあらんとは!思わぬ不覚をとりし千々岩は、腹立ちまぎれに、色よき返事このようにと心に祝いて土産(みやげ)に京都より買(こ)うて来し友染縮緬(ゆうぜんちりめん)ずたずたに引き裂きて屑籠(くずかご)に投げ込みぬ。
さりながら千々岩はいかなる場合にも全くわれを忘れおわる男にあらざれば、たちまちにして敗余の兵を収めつ。ただ心外なるはこの上かの艶書(ふみ)の一条もし浪子より中将に武男に漏れなば大事の便宜(たより)を失う恐れあり。持ち込みよき浪子の事なれば、まさかと思えどまたおぼつかなく、高崎に用ありて行きしを幸い、それとなく伊香保に滞留する武男夫妻を訪(と)うて、やがて探りを入れたるなり。
いまいましきは武男――

「武男、武男」と耳近にたれやら呼びし心地(ここち)して、愕(がく)と目を開きし千々岩、窓よりのぞけば、列車はまさに上尾(あげお)の停車場(ステーション)にあり。駅夫が、「上尾上尾」と呼びて過ぎたるなり。
「ばかなッ!」
ひとり自らののしりて、千々岩は起(た)ちて二三度車室を往(ゆ)き戻りつ。心にまとう或(あ)るものを振り落とさんとするように身震いして、座にかえりぬ。冷笑の影、目にも唇(くちびる)にも浮かびたり。
列車はまたも上尾を出(い)でて、疾風のごとく馳(は)せつつ、幾駅か過ぎて、王子(おうじ)に着きける時、プラットフォムの砂利踏みにじりて、五六人ドヤドヤと中等室に入り込みぬ。なかに五十あまりの男の、一楽(いちらく)の上下(にまい)ぞろい白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)に岩丈な金鎖をきらめかせ、右手(めて)の指に分厚(ぶあつ)な金の指環(ゆびわ)をさし、あから顔の目じり著しくたれて、左の目下にしたたかなる赤黒子(あかぼくろ)あるが、腰かくる拍子にフット目を見合わせつ。
「やあ、千々岩さん」
「やあ、これは……」
「どちらへおいででしたか」言いつつ赤黒子は立って千々岩がそばに腰かけつ。
「はあ、高崎まで」
「高崎のお帰途(かえり)ですか」ちょっと千々岩の顔をながめ、少し声を低めて「時にお急ぎですか。でなけりゃ夜食でもごいっしょにやりましょう」
千々岩はうなずきたり。 
四の二
橋場の渡しのほとりなるとある水荘の門に山木兵造(やまきひょうぞう)別邸とあるを見ずば、某(なにがし)の待合(まちあい)かと思わるべき家作(やづく)りの、しかも音締(ねじ)めの響(おと)しめやかに婀娜(あだ)めきたる島田の障子(しょうじ)に映るか、さもなくば紅(くれない)の毛氈(もうせん)敷かれて花牌(はなふだ)など落ち散るにふさわしかるべき二階の一室(ひとま)に、わざと電燈の野暮(やぼ)を避けて例の和洋行燈(あんどうらんぷ)を据え、取り散らしたる杯盤の間に、あぐらをかけるは千々岩と今一人(ひとり)の赤黒子は問うまでもなき当家の主人山木兵造なるべし。
遠ざけにしや、そばに侍(はんべ)る女もあらず。赤黒子の前には小形の手帳を広げたり、鉛筆を添えて。番地官名など細かに肩書きして姓名数多(あまた)記(しる)せる上に、鉛筆にてさまざまの符号(しるし)つけたり。丸。四角。三角。イの字。ハの字。五六七などの数字。あるいはローマ数字。点かけたるもあり。ひとたび消してイキルとしたるもあり。
「それじゃ千々岩さん。その方はそれと決めて置いて、いよいよ定(き)まったらすぐ知らしてくれたまえ。――大丈夫間違はあるまいね」
「大丈夫さ、もう大臣の手もとまで出ているのだから。しかし何しろ競争者(あいて)がしょっちゅう運動しとるのだから例のも思い切って撒(ま)かんといけない。これだがね、こいつなかなか食えないやつだ。しッかり轡(くつわ)をかませんといけないぜ」と千々岩は手帳の上の一(いつ)の名をさしぬ。
「こらあどうだね?」
「そいつは話せないやつだ。僕はよくしらないが、ひどく頑固(がんこ)なやつだそうだ。まあ正面から平身低頭でゆくのだな。悪くするとしくじるよ」
「いや陸軍にも、わかった人もあるが、実に話のできン男もいるね。去年だった、師団に服を納めるンで、例の筆法でまあ大概は無事に通ったのはよかッたが。あら何とか言ッたッけ、赤髯(あかひげ)の大佐だったがな、そいつが何のかの難癖つけて困るから、番頭をやって例の菓子箱を出すと、ばかめ、賄賂(わいろ)なんぞ取るものか、軍人の体面に関するなんて威張って、とどのつまりあ菓子箱を蹴(け)飛ばしたと思いなさい。例の上層(うえ)が干菓子で、下が銀貨(しろいの)だから、たまらないさ。紅葉(もみじ)が散る雪が降る、座敷じゅう――の雨だろう。するとそいつめいよいよ腹あ立てやがッて、汚らわしいの、やれ告発するのなんのぬかしやがるさ。やっと結局(まとめ)をつけはつけたが、大骨折らしアがッたね。こんな先生がいるからばかばかしく事が面倒になる。いや面倒というと武男さんなぞがやっぱりこの流で、実に話せないに困る。こないだも――」
「しかし武男なんざ親父(おやじ)が何万という身代をこしらえて置いたのだから、頑固だッて正直だッて好きなまねしていけるのだがね。吾輩(ぼく)のごときは腕一本――」
「いやすっかり忘れていた」と赤黒子はちょいと千々岩の顔を見て、懐中より十円紙幣(さつ)五枚取り出(いだ)し「いずれ何はあとからとして、まあ車代に」
「遠慮なく頂戴(ちょうだい)します」手早くかき集めて内(うち)ポケットにしまいながら「しかし山木さん」
「?」
「なにさ、播(ま)かぬ種は生(は)えんからな!」
山木は苦笑(にがわら)いしつ。千々岩が肩ぽんとたたいて「食えン男だ、惜しい事だな、せめて経理局長ぐらいに!」
「はははは。山木さん、清正(きよまさ)の短刀は子供の三尺三寸よりか切れるぜ」
「うまく言ったな――しかし君、蠣殻町(かきがらちょう)だけは用心したまえ、素人(しろうと)じゃどうしてもしくじるぜ」
「なあに、端金(はしたがね)だからね――」
「じゃいずれ近日、様子がわかり次第――なに、車は出てから乗った方が大丈夫です」
「それじゃ――家内も御挨拶(ごあいさつ)に出るのだが、娘が手離されんでね」
「お豊(とよ)さんが?病気ですか」
「実はその、何です。この一月ばかり病気をやってな、それで家内が連れて此家(ここ)へ来ているですて。いや千々岩さん、妻(かか)だの子だの滅多に持つもんじゃないね。金もうけは独身に限るよ。はッははは」
主人(あるじ)と女中(おんな)に玄関まで見送られて、千々岩は山木の別邸を出(い)で行きたり。 
四の三
千々岩を送り終わりて、山木が奥へ帰り入る時、かなたの襖(ふすま)すうと開きて、色白きただし髪薄くしてしかも前歯二本不行儀に反(そ)りたる四十あまりの女入り来たりて山木のそばに座を占めたり。
「千々岩さんはもうお帰り?」
「今追っぱらったとこだ。どうだい、豊(とよ)は?」
反歯(そっぱ)の女はいとど顔を長くして「ほんまに良人(あんた)。彼女(あれ)にも困り切りますがな。――兼(かね)、御身(おまえ)はあち往(い)っておいで。今日(きょう)もなあんた、ちいと何かが気に食わんたらいうて、お茶碗(ちゃわん)を投げたり、着物を裂いたりして、しようがありまへんやった。ほんまに十八という年をして――」
「いよいよもって巣鴨(すがも)だね。困ったやつだ」
「あんた、そないな戯談(じょうだん)どころじゃございませんがな。――でもかあいそうや、ほんまにかあいそうや、今日もな、あんた、竹(たけ)にそういいましたてね。ほんまに憎らしい武男はんや、ひどいひどいひどいひどい人や、去年のお正月には靴下(くつした)を編んであげたし、それからハンケチの縁を縫ってあげたし、それからまだ毛糸の手袋だの、腕ぬきだの、それどころか今年の御年始には赤い毛糸でシャツまで編んであげたに、皆(みいな)自腹ア切ッて編んであげたのに、何(なアん)の沙汰(さた)なしであの不器量な意地(いじ)わるの威張った浪子はんをお嫁にもらったり、ほんまにひどい人だわ、ひどいわひどいわひどいわひどいわ、あたしも山木の女(むすめ)やさかい、浪子はんなんかに負けるものか、ほんまにひどいひどいひどいひどいッてな、あんた、こないに言って泣いてな。そないに思い込んでいますに、あああ、どうにかしてやりたいがな、あんた」
「ばかを言いなさい。勇将の下(もと)に弱卒なし。御身(おまえ)はさすがに豊が母(おっか)さんだよ。そらア川島だッて新華族にしちゃよっぽど財産もあるし、武男さんも万更(まんざら)ばかでもないから、おれもよほどお豊を入れ込もうと骨折って見たじゃないか。しかしだめで、もうちゃんと婚礼が済んで見れば、何もかも御破算さ。お浪さんが死んでしまうか、離縁にでもならなきゃア仕方がないじゃないか。それよりもばかな事はいい加減に思い切ッてさ、ほかに嫁(かたづ)く分別が肝心じゃないか、ばかめ」
「何が阿呆(あほう)かいな?はい、あんた見たいに利口やおまへんさかいな。好年配(えいとし)をして、彼女(あれ)や此女(これ)や足袋(たび)とりかえるような――」
「そう雄弁滔々(とうとう)まくしかけられちゃア困るて。御身(おまえ)は本当に馬(ば)――だ。すぐむきになりよる。なにさ、おれだッて、お豊は子だもの、かあいがらずにどうするものか、だからさ、そんなくだらぬ繰り言ばっかり言ってるよりも、別にな、立派なとこに、な、生涯楽をさせようと思ってるのだ。さ、おすみ、来なさい、二人(ふたり)でちっと説諭でもして見ようじゃないか」
と夫婦打ち連れ、廊下伝いに娘お豊の棲(す)める離室(はなれ)におもむきたり。
山木兵造というはいずこの人なりけるにや、出所定かならねど、今は世に知られたる紳商とやらの一人(にん)なり。出世の初め、今は故人となりし武男が父の世話を受けしこと少なからざれば、今も川島家に出入りすという。それも川島家が新華族中にての財産家なるがゆえなりという者あれど、そはあまりに酷なる評なるべし。本宅を芝桜川町(しばさくらがわちょう)に構えて、別荘を橋場の渡しのほとりに持ち、昔は高利も貸しけるが、今はもっぱら陸軍その他官省の請負を業とし、嫡男を米国ボストンの商業学校に入れて、女(むすめ)お豊はつい先ごろまで華族女学校に通わしつ。妻はいついかにして持ちにけるや、ただ京都者というばかり、すこぶる醜きを、よくかの山木は辛抱するぞという人もありしが、実は意気婀娜(あだ)など形容詞のつくべき女諸処に家居(いえい)して、輪番(かわるがわる)行く山木を待ちける由は妻もおぼろげならずさとりしなり。 
四の四
床には琴、月琴、ガラス箱入りの大人形などを置きたり。すみには美しき女机あり、こなたには姿見鏡(すがたみ)あり。いかなる高貴の姫君や住みたもうらんと見てあれば、八畳のまんなかに絹ぶとん敷かせて、玉蜀黍(とうもろこし)の毛を束(つか)ねて結ったようなる島田を大童(おおわらわ)に振り乱し、ごろりと横に臥(ふ)したる十七八の娘、色白の下豊(しもぶくれ)といえばかあいげなれど、その下豊(しもぶくれ)が少し過ぎて頬(ほお)のあたりの肉今や落ちんかと危ぶまるるに、ちょっぽりとあいた口は閉ずるも面倒といい貌(がお)に始終洞門(どうもん)を形づくり、うっすりとあるかなきかの眉(まゆ)の下にありあまる肉をかろうじて二三分(ぶ)上下(うえした)に押し分けつつ開きし目のうちいかにも春がすみのかけたるごとく、前の世からの長き眠りがとんと今もってさめぬようなり。
今何かいいつけられて笑いを忍んで立って行く女の背(せな)に、「ばか」と一つ後ろ矢を射つけながら、女(むすめ)はじれったげに掻巻(かいまき)踏みぬぎ、床の間にありし大形の――袴(はかま)はきたる女生徒の多くうつれる写真をとりて、糸のごとき目にまばたきもせず見つめしが、やがてその一人(ひとり)の顔と覚しきあたりをしきりに爪弾(つまはじ)きしつ。なおそれにも飽き足らでや、爪(つめ)もてその顔の上に縦横に疵(きず)をつけぬ。
襖(ふすま)の開く音。
「たれ?竹かい」
「うん竹だ、頭の禿(は)げた竹だ」
笑いながら枕(まくら)べにすわるは、父の山木と母なり。娘はさすがにあわてて写真を押し隠し、起きもされず寝もされずといわんがごとく横になりおる。
「どうだ、お豊、気分は?ちっとはいいか?今隠したのは何だい。ちょっと見せな、まあ見せな。これさ見せなといえば。――なんだ、こりア、浪子さんの顔じゃないか、ひどく爪かたをつけたじゃないか。こんな事するよりか丑(うし)の時参りでもした方がよっぽど気がきいてるぜ!」
「あんたまたそないな事を!」
「どうだ、お豊、御身(おまえ)も山木兵造の娘じゃないか。ちっと気を大きくして山気(やまき)を出せ、山気を出せ、あんなけちけちした男に心中立て――それもさこっちばかりでお相手なしの心中立てするよりか、こら、お豊、三井(みつい)か三菱(みつびし)、でなけりゃア大将か総理大臣の息子(むすこ)、いやそれよりか外国の皇族でも引っかける分別をしろ。そんな肝ッ玉の小せエ事でどうするものか。どうだい、お豊」
母の前では縦横に駄々(だだ)をこねたまえど、お豊姫もさすがに父の前をば憚(はばか)りたもうなり。突っ伏して答えなし。
「どうだ、お豊、やっぱり武男さんが恋しいか。いや困った小浪(こなみ)御寮(ごりょう)だ。小浪といえば、ねエお豊、ちっと気晴らしに京都にでも行って見んか。そらアおもしろいぞ。祇園(ぎおん)清水(きよみず)知恩院(ちおんいん)、金閣寺(きんかくじ)拝見がいやなら西陣(にしじん)へ行って、帯か三枚(まい)襲(がさね)でも見立てるさ。どうだ、あいた口に牡丹餅(ぼたもち)よりうまい話だろう。御身(おまえ)も久しぶりだ、お豊を連れて道行きと出かけなさい、なあおすみ」
「あんたもいっしょに行きなはるのかいな」
「おれ?ばかを言いなさい、この忙(せわ)しいなかに!」
「それならわたしもまあ見合わせやな」
「なぜ?飛んだ義理立てさするじゃないか。なぜだい?」
「おほ」
「なぜだい?」
「おほほほほほ」
「気味の悪(わり)い笑い方をするじゃないか。なぜだい?」
「あんた一人(ひとり)の留守が心配やさかい」
「ばかをいうぜ。お豊の前でそんな事いうやつがあるものか。お豊、母(おっか)さんの言ってる事(こた)ア皆うそだぜ、真(ま)に受けるなよ」
「おほほほ。どないに口で言わはってもあかんさかいなア」
「ばかをいうな。それよりか――なお豊、気を広く持て、広く。待てば甘露じゃ。今におもしれエ事が出て来るぜ」 

 

五の一
赤坂氷川町(ひかわまち)なる片岡中将の邸内に栗(くり)の花咲く六月半ばのある土曜の午後(ひるすぎ)、主人子爵片岡中将はネルの単衣(ひとえ)に鼠縮緬(ねずみちりめん)の兵児帯(へこおび)して、どっかりと書斎の椅子(いす)に倚(よ)りぬ。
五十に間はなかるべし。額のあたり少し禿(は)げ、両鬢(りょうびん)霜ようやく繁(しげ)からんとす。体量は二十二貫、アラビア種(だね)の逸物(いちもつ)も将軍の座下に汗すという。両の肩怒りて頸(くび)を没し、二重(ふたえ)の顋(あぎと)直ちに胸につづき、安禄山(あんろくざん)風の腹便々として、牛にも似たる太腿(ふともも)は行くに相擦(あいす)れつべし。顔色(いろ)は思い切って赭黒(あかぐろ)く、鼻太く、唇(くちびる)厚く、鬚(ひげ)薄く、眉(まゆ)も薄し。ただこのからだに似げなき両眼細うして光り和らかに、さながら象の目に似たると、今にも笑(え)まんずる気(け)はいの断えず口もとにさまよえるとは、いうべからざる愛嬌(あいきょう)と滑稽(こっけい)の嗜味(しみ)をば著しく描き出(いだ)しぬ。
ある年の秋の事とか、中将微服して山里に猟(か)り暮らし、姥(ばば)ひとり住む山小屋に渋茶一碗(わん)所望しけるに、姥(ばば)つくづくと中将の様子を見て、
「でけえ体格(からだ)だのう。兎(うさぎ)のひとつもとれたんべいか?」
中将莞爾(かんじ)として「ちっともとれない」
「そねエな殺生(せっしょう)したあて、あにが商売になるもんかよ。その体格(からだ)で日傭(ひよう)取りでもして見ろよ、五十両は大丈夫だあよ」
「月にかい?」
「あに!年によ。悪(わり)いこたあいわねえだから、日傭取るだあよ。いつだあておらが世話あしてやる」
「おう、それはありがたい。また頼みに来るかもしれん」
「そうしろよ、そうしろよ。そのでけえ体格(からだ)で殺生は惜しいこんだ」
こは中将の知己の間に一つ話として時々出(い)づる佳話なりとか。知らぬ目よりはさこそ見ゆらめ。知れる目よりはこの大山(たいさん)巌々(がんがん)として物に動ぜぬ大器量の将軍をば、まさかの時の鉄壁とたのみて、その二十二貫小山のごとき体格と常に怡然(いぜん)たる神色とは洶々(きょうきょう)たる三軍の心をも安からしむべし。
肱近(ひじちか)のテーブルには青地交趾(せいじこうち)の鉢(はち)に植えたる武者立(むしゃだち)の細竹(さいちく)を置けり。頭上には高く両陛下の御影(ぎょえい)を掲げつ。下りてかなたの一面には「成仁(じんをなす)」の額あり。落款は南洲(なんしゅう)なり。架上に書あり。暖炉縁(マンテルピース)の上、すみなる三角棚(だな)の上には、内外人の写真七八枚、軍服あり、平装のもあり。
草色のカーテンを絞りて、東南二方の窓は六つとも朗らかに明け放ちたり。東の方(かた)は眼下に人うごめき家かさなれる谷町を見越して、青々としたる霊南台の上より、愛宕塔(あたごとう)の尖(さき)、尺ばかりあらわれたるを望む。鳶(とび)ありてその上をめぐりつ。南は栗(くり)の花咲きこぼれたる庭なり。その絶え間より氷川社(ひかわやしろ)の銀杏(いちょう)の梢(こずえ)青鉾(あおほこ)をたてしように見ゆ。
窓より見晴らす初夏の空あおあおと浅黄繻子(あさぎじゅす)なんどのように光りつ。見る目清々(すがすが)しき緑葉(あおば)のそこここに、卵白色(たまごいろ)の栗の花ふさふさと満樹(いっぱい)に咲きて、画(えが)けるごとく空の碧(みどり)に映りたり。窓近くさし出(い)でたる一枝は、枝の武骨なるに似ず、日光(ひ)のさすままに緑玉、碧玉(へきぎょく)、琥珀(こはく)さまざまの色に透きつ幽(かす)めるその葉の間々(あいあい)に、肩総(エポレット)そのままの花ゆらゆらと枝もたわわに咲けるが、吹くとはなくて大気のふるうごとに香(か)は忍びやかに書斎に音ずれ、薄紫の影は窓の閾(しきみ)より主人が左手(ゆんで)に持てる「西比利亜(サイベリア)鉄道の現況」のページの上にちらちらおどりぬ。
主人はしばしその細き目を閉じて、太息(といき)つきしが、またおもむろに開きたる目を冊子の上に注ぎつ。
いずくにか、車井(くるまい)の響(おと)からからと珠(たま)をまろばすように聞こえしが、またやみぬ。
午後の静寂(しずけさ)は一邸に満ちたり。
たちまち虚(すき)をねらう二人(ふたり)の曲者(くせもの)あり。尺ばかり透きし扉(とびら)よりそっと頭(かしら)をさし入れて、また引き込めつ。忍び笑いの声は戸の外に渦まきぬ。一人(ひとり)の曲者は八つばかりの男児(おのこ)なり。膝(ひざ)ぎりの水兵の服を着て、編み上げ靴をはきたり。一人の曲者は五つか、六つなるべし、紫矢絣(やがすり)の単衣(ひとえ)に紅(くれない)の帯して、髪ははらりと目の上まで散らせり。
二人の曲者はしばし戸の外にたゆたいしが、今はこらえ兼ねたるように四つの手ひとしく扉をおしひらきて、一斉に突貫し、室のなかほどに横たわりし新聞綴込(とじこみ)の堡塁(ほうるい)を難なく乗り越え、真一文字に中将の椅子(いす)に攻め寄せて、水兵は右、振り分け髪は左、小山のごとき中将の膝を生けどり、
「おとうさま!」 
五の二
「おう、帰ったか」
いかにもゆったりとその便々たる腹の底より押しあげたようなる乙音(ベース)を発しつつ、中将はにっこりと笑(え)みて、その重やかなる手して右に水兵の肩をたたき、左に振り分け髪のその前髪をかいなでつ。
「どうだ、小試験は?でけたか?」
「僕アね、僕アね、おとうさま、僕ア算術は甲」
「あたしね、おとうさま、今日(きょう)は縫い取りがよくできたッて先生おほめなすッてよ」
と振り分け髪はふところより幼稚園の製作物(こしらえもの)を取り出(いだ)して中将の膝の上に置く。
「おう、こら立派にでけたぞ」
「それからね、習字に読書が乙で、あとはみんな丙なの、とうと水上(みなかみ)に負けちゃッた。僕アくやしくッて仕方がないの」
「勉強するさ――今日は修身の話は何じゃッたか?」
水兵は快然と笑(え)みつつ、「今日はね、おとうさま、楠正行(くすのきまさつら)の話よ。僕正行ア大好き。正行とナポレオンはどっちがエライの?」
「どっちもエライさ」
「僕アね、おとうさま、正行ア大好きだけど、海軍がなお好きよ。おとうさまが陸軍だから、僕ア海軍になるンだ」
「はははは。川島の兄君(にいさん)の弟子(でし)になるのか?」
「だッて、川島の兄君(にいさん)なんか少尉だもの。僕ア中将になるンだ」
「なぜ大将にやならンか?」
「だッて、おとうさまも中将だからさ。中将は少尉よかエライんだね、おとうさま」
「少尉でも、中将でも、勉強する者がエライじゃ」
「あたしね、おとうさま、おとうさまてばヨウおとうさま」と振り分け髪はつかまりたる中将の膝を頡頏台(はねだい)にしてからだを上下(うえした)に揺すりながら、「今日はね、おもしろいお話を聞いてよ、あの兎(うさぎ)と亀(かめ)のお話を聞いてよ、言って見ましょうか、――ある所に一ぴきの兎と亀がおりました――あらおかあさまいらッしてよ」
柱時計の午後二点(にじ)をうつ拍子に、入り来たりしは三十八九の丈(たけ)高き婦人なり。束髪の前髪をきりて、ちぢらしたるを、隆(たか)き額の上にて二つに分けたり。やや大きなる目少しく釣りて、どこやらちと険なる所あり。地色の黒きにうっすり刷(は)きて、唇(くちびる)をまれに漏るる歯はまばゆきまで皓(しろ)くみがきぬ。パッとしたお召の単衣(ひとえ)に黒繻子(くろじゅす)の丸帯、左右の指に宝石(たま)入りの金環価(あたえ)高かるべきをさしたり。
「またおとうさまに甘えているね」
「なにさ、今学校の成績を聞いてた所じゃ。――さあ、これからおとうさんのおけいこじゃ。みんな外で遊べ遊べ。あとで運動に行くぞ」
「まあ、うれしい」
「万歳!」
両児(ふたり)は嬉々(きき)として、互いにもつれつ、からみつ、前になりあとになりて、室を出(い)で去りしが、やがて「万歳!」「兄(にい)さまあたしもよ」と叫ぶ声はるかに聞こえたり。
「どんなに申しても、良人(あなた)はやっぱり甘くなさいますよ」
中将はほほえみつ。「何、そうでもないが、子供はかあいがッた方がいいさ」
「でもあなた、厳父慈母と俗にも申しますに、あなたがかあいがッてばかりおやンなさいますから、ほんとに逆さまになッてしまッて、わたくしは始終しかり通しで、悪(にく)まれ役はわたくし一人(ひとり)ですわ」
「まあそう短兵急(たんぺいきゅう)に攻めンでもええじゃないか。どうかお手柔らかに――先生はまずそこにおかけください。はははは」
打ち笑いつつ中将は立ってテーブルの上よりふるきローヤルの第三読本(リードル)を取りて、片唾(かたず)をのみつつ、薩音(さつおん)まじりの怪しき英語を読み始めぬ。静聴する婦人――夫人はしきりに発音の誤りを正しおる。
こは中将の日課なり。維新の騒ぎに一介の武夫として身を起こしたる子爵は、身生のそう忙(そうぼう)に逐(お)われて外国語を修むるのひまもなかりしが、昨年来予備となりて少し閑暇を得てければ、このおりにとまず英語に攻めかかれるなり。教師には手近の夫人繁子(しげこ)。長州の名ある士人(さむらい)の娘にて、久しく英国ロンドンに留学しつれば、英語は大抵の男子も及ばぬまで達者なりとか。げにもロンドンの煙(けむ)にまかれし夫人は、何事によらず洋風を重んじて、家政の整理、子供の教育、皆わが洋のほかにて見もし聞きもせし通りに行わんとあせれど、事おおかたは志と違(たが)いて、僕婢(おとこおんな)は陰にわが世なれぬをあざけり、子供はおのずから寛大なる父にのみなずき、かつ良人(おっと)の何事も鷹揚(おうよう)に東洋風なるが、まず夫人不平の種子(たね)なりけるなり。
中将が千辛万苦して一ページを読み終わり、まさに訳読にかからんとする所に、扉(と)翻りて紅(くれない)のリボンかけたる垂髪(さげがみ)の――十五ばかりの少女(おとめ)入り来たり、中将が大の手に小(ち)さき読本をささげ読めるさまのおかしきを、ほほと笑いつ。
「おかあさま、飯田町(いいだまち)の伯母(おば)様がいらッしゃいましてよ」
「そう」と見るべく見るべからざるほどのしわを眉(まゆ)の間に寄せながら、ちょっと中将の顔をうかがう。
中将はおもむろにたち上がりて、椅子を片寄せ「こちへ御案内申しな」 
五の三
「御免ください」
とはいって来しは四十五六とも見ゆる品よき婦人、目病(や)ましきにや、水色の眼鏡(めがね)をかけたり。顔のどことなく伊香保の三階に見し人に似たりと思うもそのはずなるべし。こは片岡中将の先妻の姉清子(せいこ)とて、貴族院議員子爵加藤俊明(かとうとしあき)氏の夫人、媒妁(なかだち)として浪子を川島家に嫁(とつ)がしつるもこの夫婦なりけるなり。
中将はにこやかにたちて椅子をすすめ、椅子に向かえる窓の帷(とばり)を少し引き立てながら、
「さあ、どうか。非常にごぶさたをしました。御主人(おうち)じゃ相変わらずお忙(せわ)しいでしょうな。ははははは」
「まるでうえきやでね、木鋏(はさみ)は放しませんよ。ほほほほ。まだ菖蒲(しょうぶ)には早いのですが、自慢の朝鮮柘榴(ざくろ)が花盛りで、薔薇(ばら)もまだ残ってますからどうかおほめに来てくださいまして、ね、くれぐれ申しましたよ。ほほほほ。――どうか、毅一(きい)さんや道(みい)ちゃんをお連れなすッて」と水色の眼鏡は片岡夫人の方(かた)に向かいぬ。
打ち明けていえば、子爵夫人はあまり水色の眼鏡をば好まぬなり。教育の差(ちがい)、気質の異なり、そはもちろんの事として、先妻の姉――これが始終心にわだかまりて、不快の種子(たね)となれるなり。われひとり主人中将の心を占領して、われひとり家に女主人(あるじ)の威光を振るわんずる鼻さきへ、先妻の姉なる人のしばしば出入して、亡(な)き妻の面影(おもかげ)を主人の眼前(めさき)に浮かぶるのみか、口にこそ出(いだ)さね、わがこれをも昔の名残(なごり)とし疎(うと)める浪子、姥(うば)の幾らに同情を寄せ、死せる孔明(こうめい)のそれならねども、何かにつけてみまかりし人の影をよび起こしてわれと争わすが、はなはだ快からざりしなり。今やその浪子と姥の幾はようやくに去りて、治外の法権撤(と)れしはやや心安きに似たれど、今もかの水色眼鏡の顔見るごとに、髣髴(ほうふつ)墓中の人の出(い)で来たりてわれと良人(おっと)を争い、主婦の権力を争い、せっかく立てし教育の方法家政の経綸(けいりん)をも争わんずる心地(ここち)して、おのずから安からず覚ゆるなりけり。
水色の眼鏡は蝦夷錦(えぞにしき)の信玄袋(しんげんぶくろ)より瓶詰(びんづめ)の菓子を取り出(いだ)し
「もらい物ですが、毅一(きい)さんと道(みい)ちゃんに。まだ学校ですか、見えませんねエ。ああ、そうですか。――それからこれは駒(こま)さんに」
と紅茶を持て来し紅(くれない)のリボンの少女に紫陽花(あじさい)の花簪(はなかんざし)を与えつ。
「いつもいつもお気の毒さまですねエ、どんなに喜びましょう」と言いつつ子爵夫人は件(くだん)の瓶をテーブルの上に置きぬ。
おりから婢(おんな)の来たりて、赤十字社のお方の奥様に御面会なされたしというに、子爵夫人は会釈して場をはずしぬ。室を出(い)でける時、あとよりつきて出(い)でし少女(おとめ)を小手招きして、何事をかささやきつ。小戻りして、窓のカーテンの陰に内(うち)の話を立ち聞く少女(おとめ)をあとに残して、夫人は廊下伝いに応接間の方(かた)へ行きたり。紅のリボンのお駒というは、今年十五にて、これも先妻の腹なりしが、夫人は姉の浪子を疎(うと)めるに引きかえてお駒を愛しぬ。寡言(ことばすくな)にして何事も内気なる浪子を、意地わるき拗(す)ね者とのみ思い誤りし夫人は、姉に比してやや侠(きゃん)なる妹(いもと)のおのが気質に似たるを喜び、一は姉へのあてつけに、一はまた継子(ままこ)とて愛せぬものかと世間に見せたき心も――ありて、父の愛の姉に注げるに対しておのずから味方を妹に求めぬ。
私強(わたくしづよ)き人の性質(たち)として、ある方(かた)には人の思わくも思わずわが思うままにやり通すこともあれど、また思いのほかにもろくて人の評判に気をかねるものなり。畢竟(ひっきょう)名と利とあわせ収めて、好きな事する上に人によく思われんとするは、わがまま者の常なり。かかる人に限りて、おのずからへつらいを喜ぶ。子爵夫人は男まさりの、しかも洋風仕込みの、議論にかけては威命天下に響ける夫中将にすら負(ひけ)を取らねど、中将のいたるところ友を作り逢(あ)う人ごとに慕わるるに引きかえて、愛なき身には味方なく、心さびしきままにおのずからへつらい寄る人をば喜びつ。召使いの僕婢(おとこおんな)も言(こと)に訥(おそ)きはいつか退けられて、世辞よきが用いられるようになれば、幼き駒子も必ずしも姉を忌むにはあらざれど、姉を譏(そし)るが継母の気に入るを覚えてより、ついには告げ口の癖をなして、姥(うば)の幾に顔しかめさせしも一度二度にはあらず。されば姉は嫁(とつ)ぎての今までも、継母のためには細作をも務むるなりけり。
東側の縁の、二つ目の窓の陰に身を側(そば)めて、聞きおれば、時々腹より押し出したような父の笑い声、凛(りん)とした伯母の笑い声、かわるがわる聞こえしが、後には話し声のようやく低音(こえひく)になりて、「姑(しゅうとめ)」「浪さん」などのとぎれとぎれに聞こゆるに、紅(あか)リボンの少女(おとめ)はいよよ耳傾けて聞き居たり。 
五の四
「四(し)イ百(しゃア)く余州を挙(こ)うぞる、十う万ン余騎の敵イ、なんぞおそれンわアれに、鎌倉(かまくーら)ア男児ありイ」
と足拍子踏みながらやって来しさっきの水兵、目早く縁側にたたずめる紅(あか)リボンを見つけて、紅リボンがしきりに手もて口をおおいて見せ、頭(かしら)を掉(ふ)り手を振りて見せるも委細かまわず「姉(ねえ)さま姉さま」と走り寄り「何してるの?」と問いすがり、姉がしきりに頭(かしら)をふるを「何?何?」と問うに、紅リボンは顔をしかめて「いやな人だよ」と思わず声高に言って、しまったりと言い顔に肩をそびやかし、そうそうに去り行きたり。
「ヤアイ、逃げた、ヤアイ」
と叫びながら、水兵は父の書斎に入りつ。来客の顔を見るよりにっこと笑いて、ちょっと頭(かしら)を下げながらつと父の膝(ひざ)にすがりぬ。
「おや毅一(きい)さん、すこし見ないうちに、また大きくなったようですね。毎日学校ですか。そう、算術が甲?よく勉強しましたねエ。近いうちにおとうさまやおかあさまと伯母さンとこにおいでなさいな」
「道(みい)はどうした?おう、そうか。そうら、伯母様がこんなものをくださッたぞ。うれしいか、あはははは」と菓子の瓶(びん)を見せながら「かあさんはどうした?まだ客か?伯母様がもうお帰りなさる、とそう言って来い」
出(い)で行く子供のあと見送りながら、主人中将はじっと水色眼鏡の顔を見つめて、
「じゃ幾の事はそうきめてどうか角立(かどだ)たぬように――はあそう願いましょう。いや実はわたしもそんな事がなけりゃいいがと思ったくらいで、まあやらない方じゃったが、浪がしきりに言うし、自身も懇望(こんもう)しちょったものじゃから――はあ、そう、はあ、はあ、何分願います」
語半ばに入(はい)り来し子爵夫人繁子(しげこ)、水色眼鏡の方(かた)をちらと見て「もうお帰りでございますの?あいにくの来客で――いえ、今帰りました。なに、また慈善会の相談ですよ。どうせ物にもなりますまいが。本当に今日(きょう)はお愛想(あいそ)もございませんで、どうぞ千鶴子(ちずこ)さんによろしく――浪さんがいなくなりましたらちょっとも遊びにいらッしゃいませんねエ」
「こないだから少し加減が悪かッたものですから、どこにもごぶさたばかりいたします――では」と信玄袋をとりておもむろに立てば、
中将もやおら体(たい)を起こして「どれそこまで運動かたがた、なにそこまでじゃ、そら毅一(きい)も道(みい)も運動に行くぞ」
出(い)づるを送りし夫人繁子はやがて居間の安楽椅子に腰かけて、慈善会の趣意書(がき)を見ながら、駒子を手招きて、
「駒さん、何の話だったかい?」
「あのね、おかあさま、よくはわからなかッたけども、何だか幾の事ですわ」
「そう?幾」
「あのね、川島の老母(おばあさん)がね、リュウマチで肩が痛んでね、それでこのごろは大層気むずかしいのですと。それにね、幾が姉(ねえ)さんにね、姉さんのお部屋(へや)でね、あの、奥様、こちらの御隠居様はどうしてあんなに御癇癪(ごかんしゃく)が出るのでございましょう、本当に奥様お辛(つろ)うございますねエ、でもお年寄りの事ですから、どうせ永(なが)い事じゃございません、てね、そんなに言いましたとさ。本当にばかですよ、幾はねエ、おかあさま」
「どこに行ってもいい事はしないよ。困った姥(ばあ)じゃないかねエ」
「それからねエ、おかあさま、ちょうどその時縁側を老母(おばあさん)が通ってね、すっかり聞いてしまッて、それはそれはひどく怒(おこ)ってね」
「罰(ばち)だよ!」
「怒ってね、それで姉さんが心配して、飯田町(いいだまち)の伯母様に相談してね」
「伯母様に!?」
「だッて姉さんは、いつでも伯母様にばかり何でも相談するのですもの」
夫人は苦笑(にがわら)いしつ。
「それから?」
「それからね、おとうさまが幾は別荘番にやるからッてね」
「そう」と額をいとど曇らしながら「それッきりかい?」
「それから、まだ聞くのでしたけども、ちょうど毅一(きい)さんが来て――」 

 

六の一
武男が母は、名をお慶(けい)と言いて今年五十三、時々リュウマチスの起これど、そのほかは無病息災、麹町上(こうじまちかみ)二番町(ばんちょう)の邸(やしき)より亡夫の眠る品川(しながわ)東海寺(とうかいじ)まで徒歩(かち)の往来容易なりという。体重は十九貫、公侯伯子男爵の女性(にょしょう)を通じて、体格(がら)にかけては関脇(せきわき)は確かとの評あり。しかしその肥大も実は五六年前前(ぜん)夫通武(みちたけ)の病没したる後の事にて、その以前はやせぎすの色蒼(あお)ざめて、病人のようなりしという。されば圧(お)しつけられしゴム球(まり)の手を離されてぶくぶくと膨(ふく)れ上がる類(たぐい)にやという者もありき。
亡夫は麑藩(げいはん)の軽き城下士(さむらい)にて、お慶の縁づきて来し時は、太閤(たいこう)様に少しましなる婚礼をなしたりしが、維新の風雲に際会して身を起こし、大久保甲東(おおくぼこうとう)に見込まれて久しく各地に令尹(れいいん)を務め、一時探題の名は世に聞こえぬ。しかも特質(もちまえ)のわがまま剛情が累をなして、明治政府に友少なく、浪子を媒(なかだち)せる加藤子爵などはその少なき友の一人(にん)なりき。甲東没後はとかく志を得ずして世をおえつ。男爵を得しも、実は生まれ所のよかりしおかげ、という者もありし。されば剛情者、わがまま者、癇癪(かんしゃく)持ちの通武はいつも怏々(おうおう)として不平を酒杯(さけ)に漏らしつ。三合入りの大杯たてつけに五つも重ねて、赤鬼のごとくなりつつ、肩を掉(ふ)って県会に臨めば、議員に顔色(がんしょく)ある者少なかりしとか。さもありつらん。
されば川島家はつねに戒厳令の下(もと)にありて、家族は避雷針なき大木の下に夏住むごとく、戦々兢々(きょうきょう)として明かし暮らしぬ。父の膝(ひざ)をばわが舞踏場(ば)として、父にまさる遊び相手は世になきように幼き時より思い込みし武男のほかは、夫人の慶子はもとより奴婢(ぬひ)出入りの者果ては居間の柱まで主人が鉄拳(てっけん)の味を知らぬ者なく、今は紳商とて世に知られたるかの山木ごときもこの賜物(たまもの)を頂戴(ちょうだい)して痛み入りしこともたびたびなりけるが、何これしきの下され物、もうけさして賜わると思えば、なあに廉(やす)い所得税だ、としばしば伺候しては戴(いただ)きける。右の通りの次第なれば、それ御前の御機嫌(ごきげん)がわるいといえば、台所の鼠(ねずみ)までひっそりとして、迅雷(じんらい)一声奥より響いて耳の太き下女手に持つ庖丁(ほうちょう)取り落とし、用ありて私宅へ来る属官などはまず裏口に回って今日(きょう)の天気予報を聞くくらいなりし。
三十年から連れ添う夫人お慶の身になっては、なかなかひと通りのつらさにあらず。嫁に来ての当座はさすがに舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)もありて夫の気質そうも覚えず過ごせしが、ほどなく姑舅と相ついで果てられし後は、夫の本性ありありと拝まれて、夫人も胸をつきぬ。初め五六度(たび)は夫人もちょいと盾(たて)ついて見しが、とてもむだと悟っては、もはや争わず、韓信(かんしん)流に負けて匍伏(ほふく)し、さもなければ三十六計のその随一をとりて逃げつ。そうするうちにはちっとは呼吸ものみ込みて三度の事は二度で済むようになりしが、さりとて夫の気質は年とともに改まらず。末の三四年は別してはげしくなりて、不平が煽(あお)る無理酒の焔(ほのお)に、燃ゆるがごとき癇癪を、二十年の上もそれで鍛われし夫人もさすがにあしらいかねて、武男という子もあり、鬢(びん)に白髪(しらが)もまじれるさえ打ち忘れて、知事様の奥方男爵夫人と人にいわるる栄耀(えいよう)も物かは、いっそこのつらさにかえて墓守爺(はかもり)の嬶(かか)ともなりて世を楽に過ごして見たしという考えのむらむらとわきたることもありしが、そうこうする間(ま)につい三十年うっかりと過ごして、そのつれなき夫通武が目を瞑(ねぶ)って棺のなかに仰向けに臥(ね)し姿を見し時は、ほっと息はつきながら、さて偽りならぬ涙もほろほろとこぼれぬ。
涙はこぼれしが、息をつきぬ。息とともに勢いもつきぬ。夫通武存命の間は、その大きなる体と大きなる声にかき消されてどこにいるとも知れざりし夫人、奥の間よりのこのこ出(い)で来たり、見る見る家いっぱいにふくれ出しぬ。いつも主人のそばに肩をすぼめて細くなりて居し夫人を見し輩(もの)は、いずれもあきれ果てつ。もっとも西洋の学者の説にては、夫婦は永くなるほど容貌(かおかたち)気質まで似て来るものといえるが、なるほど近ごろの夫人が物ごし格好、その濃き眉毛(まゆげ)をひくひく動かして、煙管(きせる)片手に相手の顔をじっと見る様子より、起居(たちい)の荒さ、それよりも第一癇癪(かんしゃく)が似たとは愚か亡くなられし男爵そのままという者もありき。
江戸の敵(かたき)を長崎で討(う)つということあり。「世の中の事は概して江戸の敵を長崎で討つものなり。在野党の代議士今日議院に慷慨(こうがい)激烈の演説をなして、盛んに政府を攻撃したもう。至極結構なれども、実はその気焔(きえん)の一半は、昨夜宅(うち)にてさんざんに高利貸(アイスクリーム)を喫(く)いたまいし鬱憤(うっぷん)と聞いて知れば、ありがた味も半ば減ずるわけなり。されば南シナ海の低気圧は岐阜(ぎふ)愛知(あいち)に洪水を起こし、タスカローラの陥落は三陸に海嘯(かいしょう)を見舞い、師直(もろなお)はかなわぬ恋のやけ腹を「物の用にたたぬ能書(てかき)」に立つるなり。宇宙はただ平均、物は皆その平を求むるなり。しこうしてその平均を求むるに、吝嗇者(りんしょくもの)の日済(ひなし)を督促(はた)るように、われよりあせりて今戻せ明日(あす)返せとせがむが小人(しょうじん)にて、いわゆる大人(たいじん)とは一切の勘定を天道様(てんとうさま)の銀行に任して、われは真一文字にわが分をかせぐ者ぞ」とある人情博士(はかせ)はのたまいける。
しかし凡夫(ぼんぷ)は平均を目の前に求め、その求むるや物体運動の法則にしたがいて、水の低きにつくがごとく、障害の少なき方に向かう。されば川島未亡人も三十年の辛抱、こらえこらえし堪忍(かんにん)の水門、夫の棺の蓋(ふた)閉ずるより早く、さっと押し開いて一度に切って流しぬ。世に恐ろしと思う一人(ひとり)は、もはやいかに拳(こぶし)を伸ばすもわが頭(こうべ)には届かぬ遠方へ逝(ゆ)きぬ。今まで黙りて居しは意気地(いくじ)なきのにはあらず、夫死してもわれは生きたりと言い顔に、知らず知らず積みし貸し金、利に利をつけてむやみに手近の者に督促(はた)り始めぬ。その癇癪も、亡くなられし男爵は英雄肌(はだ)の人物だけ、迷惑にもまたどこやらに小気味よきところもありたるが、それほどの力量(ちから)はなしにわけわからず、狭くひがみてわがまま強き奥様より出(い)でては、ただただむやみにつらくて、奉公人は故男爵の時よりも泣きける。
浪子の姑はこの通りの人なりき。 
六の二
丸髷(まるまげ)を揚巻(あげまき)にかえしそのおりなどは、まだ「お嬢様、おやすくお伴(とも)いたしましょう」と見当違いの車夫(くるまや)に言われて、召使いの者に奥様と呼びかけられて返事にたゆとう事はなきようになれば、花嫁の心もまず少しは落ちつきて、初々(ういうい)しさ恥ずかしさの狭霧(さぎり)に朦朧(ぼいやり)とせしあたりのようすもようよう目に分(わか)たるるようになりぬ。
家ごとに変わるは家風、御身(おんみ)には言って聞かすまでもなけれど、構えて実家(さと)を背負うて先方(さき)へ行きたもうな、片岡浪は今日限り亡くなって今よりは川島浪よりほかになきを忘るるな。とはや晴れの衣装着て馬車に乗らんとする前に父の書斎に呼ばれてねんごろに言い聞かされしを忘れしにはあらねど、さて来て見れば、家風の相違も大抵の事にはあらざりけり。
資産(しんだい)はむしろ実家(さと)にも優(まさ)りたらんか。新華族のなかにはまず屈指(ゆびおり)といわるるだけ、武男の父が久しく県令知事務めたる間(ま)に積みし財(たから)は鉅万(きょまん)に上りぬ。さりながら実家(さと)にては、父中将の名声海内(かいだい)に噪(さわ)ぎ、今は予備におれど交際広く、昇日(のぼるひ)の勢いさかんなるに引きかえて、こなたは武男の父通武が没後は、存生(ぞんじょう)のみぎり何かとたよりて来し大抵の輩(やから)はおのずから足を遠くし、その上親戚(しんせき)も少なく、知己とても多からず、未亡人(おふくろ)は人好きのせぬ方なる上に、これより家声を興すべき当主はまだ年若にて官等も卑(ひく)き家にあることもまれなれば、家運はおのずから止(よど)める水のごとき模様あり。実家(さと)にては、継母が派手な西洋好み、もちろん経済の講義は得意にて妙な所に節倹を行ない「奥様は土産(みやげ)のやりかたもご存じない」と婢(おんな)どもの陰口にかかることはあれど、そこは軍人交際(づきあい)の概して何事も派手に押し出してする方なるが、こなたはどこまでも昔風むしろ田舎風(いなかふう)の、よくいえば昔忘れぬたしなみなれど、実は趣味も理屈もやはり米から自分に舂(つ)いたる時にかわらぬ未亡人、何でもかでも自分でせねば頭が痛く、亡夫の時僕(ぼく)かなんぞのように使われし田崎某(たざきなにがし)といえる正直一図の男を執事として、これを相手に月に薪(まき)が何把(ば)炭が何俵の勘定までせられ、「母(おっか)さん、そんな事しなくたって、菓子なら風月(ふうげつ)からでもお取ンなさい」と時たま帰って来て武男が言えど、やはり手製の田舎羊羹(いなかようかん)むしゃりむしゃりと頬(ほお)ばらるるというふうなれば、姥(うば)の幾が浪子について来しすら「大家(たいけ)はどうしても違うもんじゃ、武男が五器椀(わん)下げるようにならにゃよいが」など常に当てこすりていられたれば、幾の排斥もあながち障子の外の立ち聞きゆえばかりではあらざりしなるべし。
悧巧(りこう)なようでも十八の花嫁、まるきり違いし家風のなかに突然入り込みては、さすが事ごとに惑えるも無理にはあらじ。されども浪子は父の訓戒(いましめ)ここぞと、われを抑(おさ)えて何も家風に従わんと決心の臍(ほぞ)を固めつ。その決心を試むる機会は須臾(すゆ)に来たりぬ。
伊香保より帰りてほどなく、武男は遠洋航海におもむきつ。軍人の妻となる身は、留守がちは覚悟の上なれど、新婚間もなき別離はいとど腸(はらわた)を断ちて、その当座は手のうちの玉をとられしようにほとほと何も手につかざりし。
おとうさまが縁談の初めに逢(あ)いたもうて至極気に入ったとのたまいしも、添って見てげにと思い当たりぬ。鷹揚(おうよう)にして男らしく、さっぱりとして情け深く寸分鄙吝(いや)しい所なき、本当に若いおとうさまのそばにいるような、そういえば肩を揺すってドシドシお歩きなさる様子、子供のような笑い声までおとうさまにそっくり、ああうれしいと浪子は一心にかしずけば、武男も初めて持ちし妻というものの限りなくかわゆく、独子(ひとりご)の身は妹まで添えて得たらん心地(ここち)して「浪さん、浪さん」といたわりつ。まだ三月に足らぬ契りも、過ぐる世より相知れるように親しめば、しばしの別離(わかれ)もかれこれともに限りなき傷心の種子(たね)とはなりけるなり。さりながら浪子は永(なが)く別離(わかれ)を傷(いた)む暇なかりき。武男が出発せし後ほどもなく姑が持病のリュウマチスはげしく起こりて例の癇癪(かんしゃく)のはなはだしく、幾を実家(さと)へ戻せし後は、別して辛抱の力をためす機会も多かりし。
新入の学生、その当座は故参のためにさんざんにいじめられるれど、のちにはおのれ故参になりて、あとの新入生をいじめるが、何よりの楽しみなりと書きし人もありき。綿帽子脱(と)っての心細さ、たよりなさを覚えているほどの姑、義理にも嫁をいじめられるものでなけれど、そこは凡夫(ぼんぷ)のあさましく、花嫁の花落ちて、姑と名がつけば、さて手ごろの嫁は来るなり、わがままも出て、いつのまにかわがつい先年まで大の大の大きらいなりし姑そのままとなるものなり。「それそれその衽(おくみ)は四寸にしてこう返して、イイエそうじゃありません、こっちよこしなさい、二十歳(はたち)にもなッて、お嫁さまもよくできた、へへへへ」とあざ笑う声から目つき、われも二十(はたち)の花嫁の時ちょうどそうしてしかられしが、ああわれながら恐ろしいとはッと思って改むるほどの姑はまだ上の上、目にて目を償い、歯にて歯を償い、いわゆる江戸の姑のその敵(かたき)を長崎の嫁で討(う)って、知らず知らず平均をわが一代のうちに求むるもの少なからぬが世の中。浪子の姑もまたその一人(ひとり)なりき。
西洋流の継母に鍛われて、今また昔風の姑に練(ね)らるる浪子。病める老人(としより)の用しげく婢(おんな)を呼ばるるゆえ、しいて「わたくしがいたしましょう」と引き取ってなれぬこととて意に満たぬことあれば、こなたには礼を言いてわざと召使いの者を例の大音声(だいおんじょう)にしかり飛ばさるるその声は、十年がほども継母の雄弁冷語を聞き尽くしたる耳にも今さらのように聞こえぬ。それも初めしばしがほどにて、後には癇癪(かんしゃく)の鋒(ほこさき)直接に吾身(われ)に向かうようになりつ。幾が去りし後は、たれ慰むる者もなく、時々はどうやらまた昔の日陰に立ち戻りし心地(ここち)もせしが、部屋(へや)に帰って机の上の銀の写真掛けにかかったたくましき海軍士官の面影(おもかげ)を見ては、うれしさ恋しさなつかしさのむらむらと込み上げて、そっと手にとり、食い入るようにながめつめ、キッスし、頬(ほお)ずりして、今そこにその人のいるように「早く帰ッてちょうだい」とささやきつ。良人(おっと)のためにはいかなる辛抱も楽しと思いて、われを捨てて姑に事(つか)えぬ。 

 

七の一
流汗を揮(ふる)いつつ華氏九十九度の香港(ほんこん)より申し上げ候(そろ)。佐世保(させほ)抜錨(ばつびょう)までは先便すでに申し上げ置きたる通りに有之(これあり)候。さて佐世保出帆後は連日の快晴にて暑気燬(や)くがごとく、さすが神州海国男子も少々辟易(へきえき)、もっとも同僚士官及び兵のうち八九名日射病に襲われたる者有之(これあり)候えども、小生は至極健全、毫(ごう)も病室の厄介に相成り申さず。ただしご存じ通りの黒人(くろんぼう)が赤道近き烈日に焦がされたるため、いよいよもって大々的黒面漢と相成り、今日(こんにち)ちょっと同僚と上陸し、市中の理髪店にいたり候ところ、ふと鏡を見てわれながらびっくりいたし候。意地(いじ)わるき同僚が、君、どう、着色写真でも撮(と)って、君のブライドに送らんかと戯れ候も一興に候。途中は右の通り快晴(もっとも一回モンスーンの来襲ありたれども)一同万歳を唱えて昨早朝錨(いかり)を当湾内に投じ申し候。
先日のお手紙は佐世保にて落手、一読再読いたし候。母上リョウマチス、年来の御持病、誠に困りたる事に候。しかし今年は浪さんが控えられ候事ゆえ、小生も大きに安心に候。何とぞ小生に代わりてよくよく心を御用(おんもち)いくださるべく候。御病気の節は別して御気分よろしからざる方なれば、浪さんも定めていろいろと骨折らるべく遙察(ようさつ)いたし候。赤坂の方も定めておかわりもなかるべくと存じ申し候。加藤の伯父さんは相変わらず木鋏(きばさみ)が手を放れ申すまじきか。
幾姥(いくばあ)は帰り候由。何ゆえに候や存ぜず候えども、実に残念の事どもに候。浪さんより便(たより)あらばよろしくよろしく伝えらるべく、帰りには姥(ばあ)へ沢山土産(みやげ)を持って来ると御伝(おんつた)えくだされたく候。実に愉快な女にて小生も大好きに候ところ、赤坂の方に帰りしは残念に候。浪さんも何かと不自由にさびしかるべくと存じ候。加藤の伯母様や千鶴子(ちずこ)さんは時々まいられ候や。
千々岩(ちぢわ)はおりおりまいり候由。小生らは誠に親類少なく、千々岩はその少なき親類の一人(にん)なれば、母上も自然頼みに思(おぼ)す事に候。同人をよく待(たい)するも母上に孝行の一に有之(これある)べく候。同人も才気あり胆力ある男なれば、まさかの時の頼みにも相成るべく候。(下略)
香港にて
七月日
武男
お浪どの
母上に別紙(略之)読んでお聞かせ申し上げられたく候。
当池には四五日碇泊(ていはく)、食糧など買い入れ、それよりマニラを経て豪州シドニーへ、それよりニューカレドニア、フィジー諸島を経て、サンフランシスコへ、それよりハワイを経て帰国のはずに候。帰国は多分秋に相成り申すべく候。
手紙はサンフランシスコ日本領事館留め置きにして出したまえ。
〜〜〜
(前文略)去る五月は浪さんと伊香保にあり、蕨(わらび)採りて慰みしに今は南半球なる豪州シドニーにあり、サウゾルンクロッスの星を仰いでその時を想(おも)う。奇妙なる世の中に候。先年練習艦にて遠洋航海の節は、どうしても時々船暈(ふなよい)を感ぜしが、今度は無病息災われながら達者なるにあきれ候。しかし今回は先年に覚えなき感情身につきまとい候。航海中当直の夜(よ)など、まっ黒き空に金剛石をまき散らしたるような南天を仰ぎて、ひとり艦橋の上に立つ時は、何とも言い難き感が起こりて、浪さんの姿が目さきにちらちらいたし(女々(めめ)しと笑いたもうな)候。同僚の前ではさもあらばあれ家郷思遠征(かきょうえんせいをおもう)と吟じて平気に澄ましておれど、(笑いたもうな)浪さんの写真は始終ある人の内ポケットに潜みおり候。今この手紙を書く時も、宅(うち)のあの六畳の部屋(へや)の芭蕉(ばしょう)の陰の机に頬杖(ほおづえ)つきてこの手紙を読む人の面影がすぐそこに見え候(中略)
シドニー港内には夫婦、家族、他人交えずヨットに乗りて遊ぶ者多し。他日功成り名遂げて小生も浪さんも白髪(しらが)の爺姥(じじばば)になる時は、あにただヨットのみならんや、五千トンぐらいの汽船を一艘(いっそう)こしらえ、小生が船長となって、子供や孫を乗組員として世界週航を企て申すべく候。その節はこのシドニーにも来て、何十年前(ぜん)血気盛りの海軍少尉の夢を白髪の浪さんに話し申すべく候(下略)
シドニーにて
八月日
武男生
浪子さま 
七の二
去る七月十五日香港よりお仕出しのおなつかしき玉章(たまずさ)とる手おそしとくりかえしくりかえしくりかえし拝し上げ参らせ候さ候えばはげしき暑さの御(おん)さわりもあらせられず何より何より御嬉(おんうれ)しゅう存じ上げ参らせ候この許(もと)御母上様御病気もこの節は大きにお快く何とぞ何とぞ御安心遊ばし候よう願い上げ参らせ候わたくし事も毎日とやかくとさびしき日を送りおり参らせ候お留守の事にも候えば何とぞ母上様の御機嫌(ごきげん)に入り候ようにと心がけおり参らせ候えども不束(ふつつか)の身は何も至り兼ね候事のみなれぬこととて何かと失策(しくじり)のみいたし誠に困り入り参らせ候ただただ一日も早く御(おん)帰り遊ばし健やかなるお顔を拝し候時を楽しみに毎日暮らしおり参らせ候
赤坂の方も何ぞかわり候事も無之(これなく)先日より逗子(ずし)の別荘の方へ一同(みなみな)まいり加藤家も皆々興津(おきつ)の方へまいり東京はさびしきことに相成り参らせ候幾(いく)も一緒に逗子に罷(まか)り越し無事相つとめおり参らせ候御伝言(おんことづけ)の趣申しつかわし候ところ当人も涙を流して喜び申し候由くれぐれもよろしく御(おん)礼申し上げ候よう申し越し参らせ候
わたくし事も今になりていろいろ勉強の足らざりしを憾(うら)み参らせ候家政の事は女の本分なればよくよく心を用い候よう平生(かねがね)父より戒められ候事とて宅におり候ころよりなるたけそのつもりにて居(い)参らせ候えども何を申しても女のあさはかにそのような事はいつでもできるように思いいたずらに過ごし参らせ候より今となりてあの事も習って置けばよかりしこの事も忘れしと思いあたる事のみ多く困り入り参らせ候英語の勉強も御仰(おんおお)せの言(こと)も有之(これあり)候えばぜひにと心がけ参らせ候えども机の前にばかりすわり候ては母上様の御思召(おぼしめし)もいかがと存ぜられ今しばらくは何よりもまず家政のけいこに打ちかかり申したく何とぞ何とぞ悪(あ)しからず思召(おぼしめし)のほど願い上げ参らせ候
誠におはずかしき事に候えどもどうやらいたし候節はさびしさ悲しさのやる瀬なく早く早く早く御(おん)目にかかりたく翼あらばおそばに飛んでも行きたく存じ参らせ候事も有之(これあり)夜ごと日ごとにお写真とお艦(ふね)の写真を取り出(い)でてはながめ入り参らせ候万国地理など学校にては何げなく看過(みす)ごしにいたし候ものの近ごろは忘れし地図など今さらにとりいでて今日はお艦(ふね)のこのあたりをや過ぎさせたまわん明日(あす)は明後日(あさって)はと鉛筆にて地図の上をたどり居参らせ候ああ男に生まれしならば水兵ともなりて始終おそば離れずおつき申さんをなどあらぬ事まで心に浮かびわれとわが身をしかり候ても日々物思いに沈み参らせ候これまで何心なく目もとめ申さざりし新聞の天気予報など今在(いま)すあたりはこのほかと知りながら風など警戒のいで候節は実に実に気にかかり参らせ候何とぞ何とぞお尊体(からだ)を御(おん)大切に……(下文略)
浪より
恋しき
武男様
〜〜〜
(上略)近ごろは夜々(よるよる)御(おん)姿の夢に入り実に実に一日千秋の思いをなしおり参らせ候昨夜もごいっしょに艦(ふね)にて伊香保に蕨(わらび)とりにまいり候ところふとたれかが私(わたくし)どもの間に立ち入りてお姿は遠くなりわたくしは艦(ふね)より落ちると見て魘(おそ)われ候ところを母上様に起こされようよう胸なでおろし参らせ候愚痴と存じながらも何とやら気に相成りそれにつけても御(おん)帰りが待ち遠く存じ上げ参らせ候何も何もお帰りの上にと日々(にちにち)東の空をながめ参らせ候あるいは行き違いになるや存ぜず候えどもこの状はハワイホノルル留め置きにて差し上げ参らせ候(下略)
十月日
浪より
恋しき恋しき恋しき
武男様
御もとへ 
中編

 

一 
一の一
今しも午後八時を拍(う)ちたる床の間の置き時計を炬燵(こたつ)の中より顧みて、川島未亡人は
「八時――もう帰りそうなもんじゃが」
とつぶやきながら、やおらその肥え太りたる手をさしのべて煙草(たばこ)盆を引き寄せ、つづけざまに二三服吸いて、耳傾(かたぶ)けつ。山の手ながら松の内(うち)の夜(よ)は車東西に行き違いて、隣家(となり)には福引きの興やあるらん、若き男女(なんにょ)の声しきりにささめきて、おりおりどっと笑う声も手にとるように聞こえぬ。未亡人は舌打ち鳴らしつ。
「何をしとっか。つッ。赤坂へ行くといつもああじゃっで……武(たけ)も武、浪(なみ)も浪、実家(さと)も実家(さと)じゃ。今時の者はこれじゃっでならん」
膝(ひざ)立て直さんとして、持病のリュウマチスの痛所(いたみ)に触れけん、「あいたあいた」顔をしかめて癇癪(かんしゃく)まぎれに煙草盆の縁手荒に打ちたたき「松、松松」とけたたましく小間使いを呼び立つる。その時おそく「お帰りい」の呼び声勇ましく二挺(ちょう)の車がらがらと門に入りぬ。
三が日の晴着(はれぎ)の裾(すそ)踏み開きて走(は)せ来たりし小間使いが、「御用?」と手をつかえて、「何(なん)をうろうろしとっか、早(はよ)玄関に行きなさい」としかられてあわてて引き下がると、引きちがえに
「母(おっか)さん、ただいま帰りました」
と凛々(りり)しき声に前(さき)を払わして手套(てぶくろ)を脱ぎつつ入り来る武男のあとより、外套(がいとう)と吾妻(あずま)コートを婢(おんな)に渡しつつ、浪子は夫に引き沿うてしとやかに座につき、手をつかえつ。
「おかあさま、大層おそなはりました」
「おおお帰りかい。大分(だいぶ)ゆっくりじゃったのう。」
「はあ、今日(きょう)は、なんです、加藤へ寄りますとね、赤坂へ行くならちょうどいいからいっしょに行こうッて言いましてな、加藤さんも伯母(おば)さんもそれから千鶴子(ちずこ)さんも、総勢五人で出かけたのです。赤坂でも非常の喜びで、幸い客はなし、話がはずんで、ついおそくなってしまったのです――ああ酔った」と熟せる桃のごとくなれる頬(ほお)をおさえつ、小間使いが持て来し茶をただ一息に飲みほす。
「そうかな。そいはにぎやかでよかったの。赤坂でもお変わりもないじゃろの、浪どん?」
「はい、よろしく申し上げます、まだ伺いもいたしませんで、……いろいろお土産(みや)をいただきまして、くれぐれお礼申し上げましてございます」
「土産(みやげ)といえば、浪さん、あれは……うんこれだ、これだ」と浪子がさし出す盆を取り次ぎて、母の前に差し置く。盆には雉子(きじ)ひとつがい、鴫(しぎ)鶉(うずら)などうずたかく積み上げたり。
「御猟の品かい、これは沢山に――ごちそうがでくるの」
「なんですよ、母(おっか)さん、今度は非常の大猟だったそうで、つい大晦日(おおみそか)の晩に帰りなすったそうです。ちょうど今日は持たしてやろうとしておいでのとこでした。まだ明日(あす)は猪(しし)が来るそうで――」
「猪(しし)?――猪が捕(と)れ申したか。たしかわたしの方が三歳(みッつ)上じゃったの、浪どん。昔から元気のよか方(かた)じゃったがの」
「それは何ですよ、母(おっか)さん、非常の元気で、今度も二日も三日も山に焚火(たきび)をして露宿(のじく)しなすったそうですがね。まだなかなか若い者に負けんつもりじゃて、そう威張っていなさいます」
「そうじゃろの、母(おっか)さんのごとリュウマチスが起こっちゃもう仕方があいません。人間は病気が一番いけんもんじゃ。――おおもうやがて九時じゃ。着物どんかえて、やすみなさい。――おお、そいから今日はの、武どん。安彦(やすひこ)が来て――」
立ちかかりたる武男はいささか安からぬ色を動かし、浪子もふと耳を傾けつ。
「千々岩が?」
「何か卿(おまえ)に要がありそうじゃったが――」
武男は少し考え、「そうですか、私(わたくし)もぜひ――あわなけりゃならん――要がありますが。――何ですか、母(おっか)さん、私の留守に金でも借りに来はしませんでしたか」
「なぜ?――そんな事はあいません――なぜかい?」
「いや――少し聞き込んだ事もあるのですから――いずれそのうちあいますから――」
「おおそうじゃ、そいからあの山木が来ての」
「は、あの山木のばかですか」
「あれが来てこの――そうじゃった、十日にごちそうをすっから、是非(ぜっひ)卿(おまえ)に来てくださいというから」
「うるさいやつですな」
「行ってやんなさい。父(おとっ)さんの恩を覚えておっがかあいかじゃなっか」
「でも――」
「まあ、そういわずと行ってやんなさい――どれ、わたしも寝ましょうか」
「じゃ、母(おっか)さん、おやすみなさい」
「ではお母(かあ)様、ちょっと着がえいたしてまいりますから」
若夫婦は打ち連れて、居間へ通りつ。小間使いを相手に、浪子は良人(おっと)の洋服を脱がせ、琉球紬(りゅうきゅうつむぎ)の綿入れ二枚重ねしをふわりと打ちきすれば、武男は無造作に白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)尻高(しりだか)に引き結び、やおら安楽椅子(いす)に倚(よ)りぬ。洋服の塵(ちり)を払いて次の間の衣桁(えこう)にかけ、「紅茶を入れるようにしてお置き」と小間使いにいいつけて、浪子は良人の居間に入りつ。
「あなた、お疲れ遊ばしたでしょう」
葉巻の青き煙(けぶり)を吹きつつ、今日到来せし年賀状名刺など見てありし武男はふり仰ぎて、
「浪さんこそくたびれたろう、――おおきれい」
「?」
「美しい花嫁様という事さ」
「まあ、いや――あんな言(こと)を」
さと顔打ちあかめて、ランプの光まぶしげに、目をそらしたる、常には蒼(あお)きまで白き顔色(いろ)の、今ぼうっと桜色ににおいて、艶々(つやつや)とした丸髷(まるまげ)さながら鏡と照りつ。浪に千鳥の裾模様、黒襲(くろがさね)に白茶七糸(しらちゃしゅちん)の丸帯、碧玉(へきぎょく)を刻みし勿忘草(フォルゲットミイノット)の襟(えり)どめ、(このたび武男が米国より持(も)て来たりしなり)四分(ぶ)の羞(はじ)六分(ぶ)の笑(えみ)を含みて、嫣然(えんぜん)として燈光(あかり)のうちに立つ姿を、わが妻ながらいみじと武男は思えるなり。
「本当に浪さんがこう着物をかえていると、まだ昨日(きのう)来た花嫁のように思うよ」
「あんな言(こと)を――そんなことをおっしゃると往(い)ってしまいますから」
「ははははもう言わない言わない。そう逃げんでもいいじゃないか」
「ほほほ、ちょっと着がえをいたしてまいりますよ」 
一の二
武男は昨年の夏初め、新婚間もなく遠洋航海に出(い)で、秋は帰るべかりしに、桑港(そうこう)に着きける時、器械に修覆を要すべき事の起こりて、それがために帰期を誤り、旧臘(きゅうろう)押しつまりて帰朝しつ。今日正月三日というに、年賀をかねて浪子を伴ない加藤家より浪子の実家(さと)を訪(と)いたるなり。
武男が母は昔気質(かたぎ)の、どちらかといえば西洋ぎらいの方なれば、寝台(ねだい)に寝(い)ねて匙(さじ)もて食らうこと思いも寄らねど、さすがに若主人のみは幾分か治外の法権を享(う)けて、十畳のその居間は和洋折衷とも言いつべく、畳の上に緑色の絨氈(じゅうたん)を敷き、テーブルに椅子(いす)二三脚、床には唐画(とうが)の山水をかけたれど、 び間(びかん)には亡父通武(みちたけ)の肖像をかかげ、開かれざる書筺(しょきょう)と洋籍の棚(たな)は片すみに排斥せられて、正面の床の間には父が遺愛の備前兼光(びぜんかねみつ)の一刀を飾り、士官帽と両眼鏡と違い棚に、短剣は床柱にかかりぬ。写真額数多(あまた)掛けつらねたるうちには、その乗り組める軍艦のもあり、制服したる青年のおおぜいうつりたるは、江田島(えたじま)にありけるころのなるべし。テーブルの上にも二三の写真を飾りたり。両親並びて、五六歳の男児(おのこ)の父の膝に倚(よ)りたるは、武男が幼きころの紀念なり。カビネの一人(ひとり)撮(うつ)しの軍服なるは乃舅(しゅうと)片岡中将なり。主人が年若く粗豪なるに似もやらず、几案(きあん)整然として、すみずみにいたるまで一点の塵(ちり)を留(とど)めず、あまつさえ古銅瓶(へい)に早咲きの梅一両枝趣深く活(い)けたるは、温(あたた)かき心と細かなる注意と熟練なる手と常にこの室(へや)に往来するを示しぬ。げにその主(ぬし)は銅瓶の下(もと)に梅花の香(かおり)を浴びて、心臓形の銀の写真掛けのうちにほほえめるなり。ランプの光はくまなく室のすみずみまでも照らして、火桶(ひおけ)の炭火は緑の絨氈(じゅうたん)の上に紫がかりし紅(くれない)の焔(ほのお)を吐きぬ。
愉快という愉快は世に数あれど、つつがなく長の旅より帰りて、旅衣を平生服(ふだんぎ)の着心地(きごこち)よきにかえ、窓外にほゆる夜あらしの音を聞きつつ居間の暖炉に足さしのべて、聞きなれし時計の軋々(きつきつ)を聞くは、まったき愉快の一なるべし。いわんやまた阿母(あぼ)老健にして、新妻のさらに愛(いと)しきあるをや。葉巻の香(かんば)しきを吸い、陶然として身を安楽椅子の安きに託したる武男は、今まさにこの楽しみを享(う)けけるなり。
ただ一つの翳(かげ)は、さきに母の口より聞き、今来訪名刺のうちに見たる、千々岩安彦の名なり。今日武男は千々岩につきて忌まわしき事を聞きぬ。旧臘某日の事とか、千々岩が勤むる参謀本部に千々岩にあてて一通のはがきを寄せたる者あり、折節(おりふし)千々岩は不在なりしを同僚の某(なにがし)何心なく見るに、高利貸の名高き何某(なにがし)の貸し金督促状にして、しかのみならずその金額要件は特に朱書してありしという。ただそれのみならず、参謀本部の機密おりおり思いがけなき方角に漏れて、投機商人の利を博することあり。なおその上に、千々岩の姿をあるまじき相場の市(いち)に見たる者あり。とにかく種々嫌疑(けんぎ)の雲は千々岩の上におおいかかりてあれば、この上とても千々岩には心して、かつ自ら戒飭(かいちょく)するよう忠告せよと、参謀本部に長たる某将軍とは爾汝(じじょ)の間なる舅(しゅうと)中将の話なりき。
「困った男だ」
かくひとりごちて、武男はまた千々岩の名刺を打ちながめぬ。しかも今の武男は長く不快に縛らるるあたわざるなり。何も直接にあいて問いただしたる上と、思い定めて、心はまた翻然として今の楽しきに返れる時、服(きもの)をあらためし浪子は手ずから紅茶を入れてにこやかに入り来たりぬ。
「おお紅茶、これはありがたい」椅子を離れて火鉢(ひばち)のそばにあぐらかきつつ、
「母(おっか)さんは?」
「今おやすみ遊ばしました」紅茶の熱きをすすめつつ、なお紅(くれない)なる良人(おっと)の面(かお)をながめ「あなた、お頭痛が遊ばすの?お酒なんぞ、召し上がれないのに、あんなに母がおしいするものですから」
「なあに――今日は実に愉快だったね、浪さん。阿舅(おとっさん)のお話がおもしろいものだから、きらいな酒までつい過ごしてしまった。はははは、本当に浪さんはいいおとっさんをもっているね、浪さん」
浪子はにっこり、ちらと武男の顔をながめて
「その上に――」
「エ?何です?」驚き顔に武男はわざと目をみはりつ。
「存じません、ほほほほほ」さと顔あからめ、うつぶきて指環(ゆびわ)をひねる。
「いやこれは大変、浪さんはいつそんなにお世辞が上手(じょうず)になったのかい。これでは襟(えり)どめぐらいは廉(やす)いもんだ。はははは」
火鉢の上にさしかざしたる掌(てのひら)にぽうっと薔薇色(ばらいろ)になりし頬を押えつ。少し吐息つきて、
「本当に――永(なが)い間母(おっか)様も――どんなにおさびしくッていらっしゃいましてしょう。またすぐ勤務(おつとめ)にいらっしゃると思うと、日が早くたってしようがありませんわ」
「始終内(うち)にいようもんなら、それこそ三日目には、あなた、ちっと運動にでも出ていらっしゃいませんか、だろう」
「まあ、あんな言(こと)を――も一杯(ひとつ)あげましょうか」
くみて差し出す紅茶を一口飲みて、葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつ、快くあたりを見回して、
「半年の余(よ)もハンモックに揺られて、家(うち)に帰ると、十畳敷きがもったいないほど広くて何から何まで結構ずくめ、まるで極楽だね、浪さん。――ああ、何だか二度蜜月遊(ホニムーン)をするようだ」
げに新婚間もなく相別れて半年ぶりに再び相あえる今日このごろは、ふたたび新婚の当時を繰り返し、正月の一時に来つらん心地(ここち)せらるるなりけり。
語(ことば)はしばし絶えぬ。両人(ふたり)はうっとりとしてただ相笑(あいえ)めるのみ。梅の香(か)は細々(さいさい)として両人(ふたり)が火桶(ひおけ)を擁して相対(あいむか)えるあたりをめぐる。
浪子はふと思い出(い)でたるように顔を上げつ。
「あなたいらっしゃいますの、山木に?」
「山木かい、母(おっか)さんがああおっしゃるからね――行かずばなるまい」
「ほほ、わたくしも行きたいわ」
「行きなさいとも、行こういっしょに」
「ほほほ、よしましょう」
「なぜ?」
「こわいのですもの」
「こわい?何が?」
「うらまれてますから、ほほほ」
「うらまれる?うらむ?浪さんを?」
「ほほほ、ありますわ、わたくしをうらんでいなさる方が。おのお豊(とよ)さん……」
「ははは、何を――ばかな。あのばか娘もしようがないね、浪さん。あんな娘でももらい人(て)があるかしらん。ははは」
「母(おっか)さまは、千々岩はあの山木と親しくするから、お豊を妻(さい)にもらったらよかろうッて、そうおっしゃっておいでなさいましたよ」
「千々岩?――千々岩?――あいつ実に困ったやっだ。ずるいやつた知ってたが、まさかあんな嫌疑(けんぎ)を受けようとは思わんかった。いや近ごろの軍人は――僕も軍人だが――実にひどい。ちっとも昔の武士らしい風(ふう)はありやせん、みんな金のためにかかってる。何、僕だって軍人は必ず貧乏しなけりゃならんというのじゃない。冗費を節して、恒(つね)の産を積んで、まさかの時節(とき)に内顧の患(うれい)のないようにするのは、そらあ当然さ。ねエ浪さん。しかし身をもって国家の干城ともなろうという者がさ、内職に高利を貸したり、あわれむべき兵の衣食をかじったり、御用商人と結託して不義の財をむさぼったりするのは実に用捨がならんじゃないか。それに実に不快なは、あの賭博(とばく)だね。僕の同僚などもこそこそやってるやつがあるが、実に不愉快でたまらん。今のやつらは上にへつらって下からむさぼることばかり知っとる」
今そこに当の敵のあるらんように息巻き荒く攻め立つるまだ無経験の海軍少尉を、身にしみて聞き惚(ほ)るる浪子は勇々(ゆゆ)しと誇りて、早く海軍大臣かないし軍令部長にして海軍部内の風(ふう)を一新したしと思えるなり。
「本当にそうでございましょうねエ。あの、何だかよくは存じませんが、阿爺(ちち)がね、大臣をしていましたころも、いろいろな頼み事をしていろいろ物を持って来ますの。阿爺(ちち)はそんな事は大禁物(だいきんもつ)ですから、できる事は頼まれなくてもできる、できない事は頼んでもできないと申して、はねつけてもはねつけてもやはりいろいろ名をつけて持ち込んで来ましたわ。で、阿爺(ちち)が戯談(じょうだん)に、これではたれでも役人になりたがるはずだって笑っていましたよ」
「そうだろう、陸軍も海軍も同じ事だ。金の世の中だね、浪さん――やあもう十時か」おりからりんりんとうつ柱時計を見かえりつ。
「本当に時間(とき)が早くたつこと!」 

 

二の一
芝桜川町なる山木兵造が邸(やしき)は、すぐれて広しというにあらねど、町はずれより西久保(にしのくぼ)の丘の一部を取り込めて、庭には水をたたえ、石を据え、高きに道し、低きに橋して、楓(かえで)桜松竹などおもしろく植え散らし、ここに石燈籠(いしどうろう)あれば、かしこに稲荷(いなり)の祠(ほこら)あり、またその奥に思いがけなき四阿(あずまや)あるなど、この門内にこの庭はと驚かるるも、山木が不義に得て不義に築きし万金の蜃気楼(しんきろう)なりけり。
時はすでに午後四時過ぎ、夕烏(ゆうがらす)の声遠近(おちこち)に聞こゆるころ、座敷の騒ぎを背(うしろ)にして日影薄き築山道(つきやまみち)を庭下駄(にわげた)を踏みにじりつつ上り行く羽織袴(はおりはかま)の男あり。こは武男なり。母の言(ことば)黙止(もだ)し難くて、今日山木の宴に臨みつれど、見も知らぬ相客と並びて、好まぬ巵(さかずき)挙(あ)ぐることのおもしろからず。さまざまの余興の果ては、いかがわしき白拍子(しらびょうし)の手踊りとなり、一座の無礼講となりて、いまいましきこと限りもなければ、疾(と)くにも辞し去らんと思いたれど、山木がしきりに引き留むるが上に、必ず逢(あ)わんと思える千々岩の宴たけなわなるまで足を運ばざりければ、やむなく留(とど)まりつ、ひそかに座を立ちて、熱せる耳を冷ややかなる夕風に吹かせつつ、人なき方(かた)をたどりしなり。
武男が舅(しゅうと)中将より千々岩に関する注意を受けて帰りし両三日後(のち)、鰐皮(わにかわ)の手かばんさげし見も知らぬ男突然川島家に尋ね来たり、一通の証書を示して、思いがけなき三千円の返金を促しつ。証書面の借り主は名前も筆跡もまさしく千々岩安彦、保証人の名前は顕然川島武男と署しありて、そのうえ歴々と実印まで押してあらんとは。先方の口上によれば、契約期限すでに過ぎつるを、本人はさらに義務を果たさず、しかも突然いずれへか寓(ぐう)を移して、役所に行けばこの両三日職務上他行したりとかにて、さらに面会を得ざれば、ぜひなくこなたへ推参したる次第なりという。証書はまさしき手続きを踏みたるもの、さらに取り出(いだ)したる往復の書面を見るに、違(まご)う方(かた)なき千々岩が筆跡なり。事の意外に驚きたる武男は、子細をただすに、母はもとより執事の田崎も、さる相談にあずかりし覚えなく、印形(いんぎょう)を貸したる覚えさらになしという。かのうわさにこの事実思いあわして、武男は七分事の様子を推しつ。あたかもその日千々岩は手紙を寄せて、明日(あす)山木の宴会に会いたしといい越したり。
その顔だに見ば、問うべき事を問い、言うべき事を言いて早帰らんと思いし千々岩は来たらず、しきりに波立つ胸の不平を葉巻の煙(けぶり)に吐きもて、武男は崖道(がけみち)を上り、明竹(みんちく)の小藪(こやぶ)を回り、常春藤(ふゆつた)の陰に立つ四阿(あずまや)を見て、しばし腰をおろせる時、横手のわき道に駒下駄(こまげた)の音して、はたと豊子(とよこ)と顔見合わせつ。見れば高島田、松竹梅の裾(すそ)模様ある藤色縮緬(ふじいろちりめん)の三枚(まい)襲(がさね)、きらびやかなる服装せるほどますます隙(すき)のあらわれて、笑止とも自らは思わぬなるべし。その細き目をばいとど細うして、
「ここにいらっしたわ」
三十サンチ巨砲の的には立つとも、思いがけなき敵の襲来に冷やりとせし武男は、渋面作りてそこそこに兵を収めて逃げんとするを、あわてて追っかけ
「あなた」
「何です?」
「おとっさんが御案内して庭をお見せ申せってそう言いますから」
「案内?案内はいらんです」
「だって」
「僕は一人(ひとり)で歩く方が勝手だ」
これほど手強く打ち払えばいかなる強敵(ごうてき)も退散すべしと思いきや、なお懲りずまに追いすがりて
「そうお逃げなさらんでもいいわ」
武男はひたと当惑の眉(まゆ)をひそめぬ。そも武男とお豊の間は、その昔父が某県を知れりし時、お豊の父山木もその管下にありて常に出入したれば、子供もおりおり互いに顔合わせしが、まだ十一二の武男は常にお豊を打ちたたき泣かしては笑いしを、お豊は泣きつつなお武男にまつわりつ。年移り所変わり人長(た)けて、武男がすでに新夫人を迎えける今日までも、お豊はなお当年の乱暴なる坊ちゃま、今は川島男爵と名乗る若者に対してはかなき恋を思えるなり。粗暴なる海軍士官も、それとうすうす知らざるにあらねば、まれに山木に往来する時もなるべく危うきに近よらざる方針を執りけるに、今日はおぞくも伏兵の計(はかりごと)に陥れるを、またいかんともするあたわざりき。
「逃げる?僕は何も逃げる必要はない。行きたい方に行くのだ」
「あなた、それはあんまりだわ」
おかしくもあり、ばからしくもあり、迷惑にもあり、腹も立ちし武男行かんとしては引きとめられ、逃(のが)れんとしてはまつわられ、あわれ見る人もなき庭のすみに新日高川(しんひたかがわ)の一幕を出(いだ)せしが、ふと思いつく由ありて、
「千々岩はまだ来ないか、お豊さんちょっと見て来てくれたまえ」
「千々岩さんは日暮れでなけりゃ来ないわ」
「千々岩は時々来るのかね」
「千々岩さんは昨日(きのう)も来たわ、おそくまで奥の小座敷でおとっさんと何か話していたわ」
「うん、そうか――しかしもう来たかもしれん、ちょっと見て来てくれないかね」
「わたしいやよ」
「なぜ!」
「だって、あなた逃げて行くでしょう、なんぼわたしがいやだって、浪子さんが美しいって、そんなに人を追いやるものじゃなくってよ」
「油断せば雨にもならんずる空模様に、百計つきたる武男はただ大踏歩(だいとうほ)して逃げんとする時、
「お嬢様、お嬢様」
と婢(おんな)の呼び来たりて、お豊を抑留しつ。このひまにと武男はつと藪(やぶ)を回りて、二三十歩足早に落ち延び、ほっと息つき
「困った女(やつ)だ」
とつぶやきながら、再度の来襲の恐れなき屈強の要害――座敷の方(かた)へ行きぬ。 
二の二
日は入り、客は去りて、昼の騒ぎはただ台所の方(かた)に残れる時、羽織袴(はかま)は脱ぎすてて、煙草(たばこ)盆をさげながら、おぼつかなき足踏みしめて、廊下伝いに奥まりたる小座敷に入り来し主人の山木、赤禿(は)げの前額(ひたえ)の湯げも立ち上らんとするを、いとどランプの光に輝かしつつ、崩(くず)るるようにすわり、
「若旦那(だんな)も、千々岩君(ちぢわさん)も、お待たせ申して失敬でがした。はははは、今日はおかげで非常の盛会……いや若旦那はお弱い、失敬ながらお弱い、軍人に似合いませんよ。御大人(ごたいじん)なんざそれは大したものでしたよ。年は寄っても、山木兵造――なあに、一升やそこらははははは大丈夫ですて」
千々岩は黒水晶の目を山木に注ぎつ。
「大分(だいぶ)ご元気ですな。山木君、もうかるでしょう?」
「もうかるですとも、はははは――いやもうかるといえば」と山木は灰だらけにせし煙管(きせる)をようやく吸いつけ、一服吸いて「何です、その、今度あの○○○○が売り物に出るそうで、実は内々様子を探って見たが、先方もいろいろ困っている際だから、案外安く話が付きそうですて。事業の方は、大有望さ。追い追い内地雑居と来ると、いよいよ妙だが、いかがです若旦那、田崎君の名義でもよろしいから、二三万御奮発なすっちゃ。きっともうけさして上げますぜ」
と本性(ほんしょう)違(たが)わぬ生酔(なまえ)いの口は、酒よりもなめらかなり。千々岩は黙然と坐(ざ)しいる武男を流眸(ながしめ)に見て、「○○○○、確か青物町(あおものちょう)の。あれは一時もうかったそうじゃないか」
「さあ、もうかるのを下手(へた)にやり崩(くず)したんだが、うまく行ったらすばらしい金鉱ですぜ」
「それは惜しいもんだね。素寒貧(すかんぴん)の僕じゃ仕方ないが、武男君、どうだ、一肩ぬいで見ちゃア」
座に着きし初めより始終黙然(もくねん)として不快の色はおおう所なきまで眉宇(びう)にあらわれし武男、いよいよ懌(よろこ)ばざる色を動かして、千々岩と山木を等分に憤りを含みたる目じりにかけつつ
「御厚意かたじけないが、わが輩のように、いつ魚の餌食(えじき)になるか、裂弾、榴弾(りゅうだん)の的になるかわからない者は、別に金もうけの必要もない。失敬だがその某会社とかに三万円を投ずるよりも、わが輩はむしろ海員養成費に献納する」
にべなく言い放つ武男の顔、千々岩はちらとながめて、山木にめくばせし、
「山木君、利己主義のようだが、その話はあと回しにして僕の件から願いたいがね。川島君も承諾してくれたから、願って置いた通り――御印がありますか」
証書らしき一葉の書付を取り出(いだ)して山木の前に置きぬ。
千々岩の身辺に嫌疑(けんぎ)の雲のかかれるも宜(うべ)なり。彼は昨年来その位置の便宜を利用して、山木がために参謀となり牒者(ちょうじゃ)となりて、その利益の分配にあずかれるのみならず、大胆にも官金を融通して蠣殻町(かきがらちょう)に万金をつかまんとせしに、たちまち五千円余の損亡(そんもう)を来たしつ。山木をゆすり、その貯(たくわ)えの底をはたきて二千円を得たれども、なお三千の不足あり。そのただ一親戚(しんせき)なる川島家は富みてかつ未亡人の覚えめでたからざるにもあらざれど、出すといえばおくびも惜しむ叔母(おば)の性質を知れる千々岩は、打ち明けて頼めば到底らちの明かざるを看破(みやぶ)り、一時を弥縫(びほう)せんと、ここに私印偽造の罪を犯して武男の連印を贋(かた)り、高利の三千円を借り得て、ひとまず官金消費の跡を濁しつ。さるほどに期限迫りて、果てはわが勤むる官署にすら督促のはがきを送らるる始末となりたれば、今はやむなくあたかも帰朝せる武男を説き動かし、この三千円を借り得てかの三千円を償い、武男の金をもって武男の名を贖(あがな)わんと欲せしなり。さきに武男を訪(と)いたれどおりあしく得逢(えあ)わず、その後二三日職務上の要を帯びて他行しつれば、いまだ高利貸のすでに武男が家に向かいしを知らざるなりき。
山木はうなずき、ベルを鳴らして朱肉の盒(いれもの)を取り寄せ、ひと通り証書に目を通して、ふところより実印取り出(い)でつつ保証人なるわが名の下に捺(お)しぬ。そを取り上げて、千々岩は武男の前に差し置き、
「じゃ、君、証書はここにあるから――で、金はいつ受け取れるかね」
「金はここに持っている」
「ここに?――戯談(じょうだん)はよしたまえ」
「持っている。――では、参千円、確かに渡した」
懐中より一通の紙に包みたるもの取り出(い)でて、千々岩が前に投げつけつ。
打ち驚きつつ拾い上げ、おしひらきたる千々岩の顔はたちまち紅(くれない)になり、また蒼(あお)くなりつ。きびしく歯を食いしばりぬ。彼はいまだ高利貸の手にあらんと信じ切ったる証書を現に目の前に見たるなり。武男は田崎に事の由を探らせし後、ついに怪(け)しかる名前の上の三千円を払いしなりき。
「いや、これは――」
「覚えがないというのか。男らしく罪に伏(ふく)したまえ」
子供、子供と今が今まで高をくくりし武男に十二分に裏をかかれて、一腔(こう)の憤怨(ふんえん)焔(ほのお)のごとく燃え起こりたる千々岩は、切れよと唇(くちびる)をかみぬ。山木は打ちおどろきて、煙管(きせる)をやに下がりに持ちたるまま二人(ふたり)の顔をながむるのみ。
「千々岩、もうわが輩は何もいわん。親戚(しんせき)のよしみに、決して私印偽造の訴訟は起こさぬ。三千円は払ったから、高利貸のはがきが参謀本部にも行くまい、安心したまえ」
あくまではずかしめられたる千々岩は、煮え返る胸をさすりつ。気は武男に飛びもかからんとすれども、心はもはや陳弁の時機にあらざるを認むるほどの働きを存せるなり。彼はとっさに態度を変えつ。
「いや、君、そういわれると、実に面目ないがね、実はのっぴきならぬ――」
「何がのっぴきならぬのだ?徳義ばかりか法律の罪人になってまで高利を借る必要がどこにあるのか」
「まあ、聞いてくれたまえ。実は切迫(せっぱ)つまった事で、金は要(い)る、借りるところはなし。君がいると、一も二もなく相談するのだが、叔母様(さん)には言いにくいだろうじゃないか。それだといって、急場の事だし、済まぬ――済まぬと思いながら――、実は先月はちっと当てもあったので、皆済してから潔く告白しようと――」
「ばかを言いたまえ。潔く告白しようと思った者が、なぜ黙って別に三千円を借りようとするのだ」
膝(ひざ)を乗り出す武男が見幕の鋭きに、山木はあわてて、
「これさ、若旦那、まあ、お静かに、――何か詳しい事情(わけ)はわかりませんが、高が二千や三千の金、それに御親戚であって見ると、これは御勘弁――ねエ若旦那。千々岩君(さん)も悪い、悪いがそこをねエ若旦那。こんな事が表(おもて)ざたになって見ると、千々岩君(さん)の立身もこれぎりになりますから。ねエ若旦那」
「それだから三千円は払った、また訴訟なぞしないといっているじゃないか。――山木、君の事じゃない、控えて居たまえ、――それはしない、しかしもう今日限り絶交だ」
もはや事ここにいたりては恐るる所なしと度胸を据えし千々岩は、再び態度を嘲罵(ちょうば)にかえつ。
「絶交?――別に悲しくもないが――」
武男の目は焔(ほのお)のごとくひらめきつ。
「絶交はされてもかまわんが、金は出してもらうというのか。腰抜け漢(め)!」
「何?」
気色立(けしきだ)つ双方の勢いに酔(え)いもいくらかさめし山木はたまり兼ねて二人(ふたり)が間に分け入り「若旦那も、千々岩君(さん)も、ま、ま、ま、静かに、静かに、それじゃ話も何もわからん、――これさ、お待ちなさい、ま、ま、ま、お待ちなさい」としきりにあなたを縫いこなたを繕う。
押しとめられて、しばし黙然(もくねん)としたる武男は、じっと千々岩が面(おもて)を見つめ、
「千々岩、もういうまい。わが輩も子供の時から君と兄弟(きょうだい)のように育って、実際才力の上からも年齢(とし)からも君を兄と思っていた。今後も互いに力になろう、わが輩も及ぶだけ君のために尽くそうと思っていた。実はこのごろまでもまさかと信じ切っていた。しかし全く君のために売られたのだ、わが輩を売るのは一個人の事だが、君はまだその上に――いやいうまい、三千円の費途は聞くまい。しかし今までのよしみに一言(ごん)いって置くが、人の耳目は早いものだ、君は目をつけられているぞ、軍人の体面に関するような事をしたもうな。君たちは金より貴(たっと)いものはないのだから、言ったってしかたはあるまいが、ちっとあ恥を知りたまえ。じゃもう会うまい。三千円はあらためて君にくれる」
厳然として言い放ちつつ武男は膝の前なる証書をとってずたずたに引き裂き棄(す)てつ。つと立ち上がって次の間に出(い)でし勢いに、さっきよりここに隠れて聞きおりしと覚しき女(むすめ)お豊を煽(あお)り倒しつ。「あれえ」という声をあとに足音荒く玄関の方(かた)に出(い)で去りたり。
あっけにとられし山木と千々岩と顔見あわしつ。「相変わらず坊っちゃまだね。しかし千々岩さん、絶交料三千円は随分いいもうけをしたぜ」
落ち散りたる証書の片々を見つめ、千々岩は黙然(もくねん)として唇(くちびる)をかみぬ。 

 

三の一
二月(きさらぎ)初旬(はじめ)ふと引きこみし風邪(かぜ)の、ひとたびはおこたりしを、ある夜姑(しゅうとめ)の胴着を仕上ぐるとて急ぐままに夜(よ)ふかししより再びひき返して、今日二月の十五日というに浪子はいまだ床あぐるまで快きを覚えざるなり。
今年の寒さは、今年の寒さは、と年々に言いなれし寒さも今年こそはまさしくこれまで覚えなきまで、日々吹き募る北風は雪を誘い雨を帯びざる日にもさながら髄を刺し骨をえぐりて、健やかなるも病み、病みたるは死し、新聞の広告は黒囲(くろぶち)のみぞ多くなり行く。この寒さはさらぬだに強からぬ浪子のかりそめの病を募らして、取り立ててはこれという異なれる病態もなけれど、ただ頭(かしら)重く食(しょく)うまからずして日また日を渡れるなり。
今二点を拍ちし時計の蜩(ひぐらし)など鳴きたらんように凛々(りんりん)と響きしあとは、しばし物音絶えて、秒を刻み行く時計のかえって静けさを加うるのみ。珍しくうららかに浅碧(あさみどり)をのべし初春の空は、四枚の障子に立て隔てられたれど、悠々(ゆうゆう)たる日の光くまなく紙障に栄(は)えて、余りの光は紙を透かして浪子が仰ぎ臥(ふ)しつつ黒スコッチの韈(くつした)を編める手先と、雪より白き枕(まくら)に漂う寝乱れ髪の上にちらちらおどりぬ。左手(ひだり)の障子には、ひょろひょろとした南天の影手水鉢(ちょうずばち)をおおうてうつむきざまに映り、右手には槎さがたる老梅の縦横に枝をさしかわしたるがあざやかに映りて、まだつぼみがちなるその影の、花は数うべくまばらなるにも春の浅きは知られつべし。南縁(なんえん)暄(けん)を迎うるにやあらん、腰板の上に猫(ねこ)の頭(かしら)の映りたるが、今日の暖気に浮かれ出(い)でし羽虫(はむし)目がけて飛び上がりしに、捕(と)りはずしてどうと落ちたるをまた心に関せざるもののごとく、悠々としてわが足をなむるにか、影なる頭(かしら)のしきりにうなずきつ。微笑を含みてこの光景(ありさま)を見し浪子は、日のまぶしきに眉(まゆ)を攅(あつ)め、目を閉じて、うっとりとしていたりしが、やおらあなたに転臥(ねがえり)して、編みかけの韈(くつした)をなで試みつつ、また縦横に編み棒を動かし始めぬ。
ドシドシと縁に重(おも)やかなる足音して、矮(たけひく)き仁王(におう)の影障子を伝い来つ。
「気分はどうごあんすな?」
と枕べにすわるは姑(しゅうと)なり。
「今日は大層ようございます。起きられるのですけども――」と編み物をさしおき、襟(えり)の乱れを繕いつつ、起き上がらんとするを、姑は押しとめ、
「そ、そいがいかん、そいがいかん。他人じゃなし、遠慮がいッもンか。そ、そ、そ、また編み物しなはるな。いけませんど。病人な養生(ようじょう)が仕事、なあ浪どん。和女(おまえ)は武男が事ちゅうと、何もかも忘れッちまいなはる。いけません。早う養生してな――」
「本当に済みません、やすんでばかし……」
「そ、そいが他人行儀、なあ。わたしはそいが大きらいじゃ」
うそをつきたもうな、卿(おんみ)は常に当今の嫁なるものの舅姑(しゅうと)に礼足らずとつぶやき、ひそかにわがよめのこれに異なるをもっけの幸(さち)と思うならずや。浪子は実家(さと)にありけるころより、口にいわねどひそかにその継母のよろず洋風にさばさばとせるをあきたらず思いて、一家の作法の上にはおのずから一種古風の嗜味(しみ)を有せるなりき。
姑はふと思い出(い)でたるように、
「お、武男から手紙が来たようじゃったが、どう書(け)えて来申(きも)した?」
浪子は枕べに置きし一通の手紙のなかぬき出(いだ)して姑に渡しつつ、
「この日曜にはきっといらッしゃいますそうでございますよ」
「そうかな」ずうと目を通してくるくるとまき収め、「転地養生もねもんじゃ。この寒にエットからだ動(いご)かして見なさい、それこそ無(な)か病気も出て来ます。風邪(かぜ)はじいと寝ておると、なおるもんじゃ。武は年が若かでな。医師(いしゃ)をかえるの、やれ転地をすッのと騒ぎ申(も)す。わたしたちが若か時分な、腹が痛かてて寝る事(こた)なし、産あがりだて十日と寝た事アあいません。世間が開けて来(く)っと皆が弱(よお)うなり申すでな。はははは。武にそう書(け)えてやったもんな、母(おっか)さんがおるで心配しなはんな、ての、ははははは、どれ」
口には笑えど、目はいささか懌(よろこ)ばざる色を帯びて、出(い)で行く姑の後ろ影、
「御免遊ばせ」
と起き直りつつ見送りて、浪子はかすかに吐息を漏らしぬ。
親が子をねたむということ、あるべしとは思われねど、浪子は良人(おっと)の帰りし以来、一種異なる関係の姑との間にわき出(い)でたるを覚えつ。遠洋航海より帰り来て、浪子のやせしを見たる武男が、粗豪なる男心にも留守の心づかいをくみて、いよいよいたわるをば、いささか苦々(にがにが)しく姑の思える様子は、怜悧(さと)き浪子の目をのがれず。時にはかの孝――姑のいわゆる――とこの愛の道と、一時に踏み難く岐(わか)るることあるを、浪子はひそかに思い悩めるなり。
「奥様、加藤様のお嬢様がおいで遊ばしましてございます」
と呼ぶ婢(おんな)の声に、浪子はぱっちり目を開きつ。入り来る客(ひと)を見るより喜色はたちまち眉間(びかん)に上りぬ。
「あ、お千鶴(ちず)さん、よく来たのね」 
三の二
「今日はどんな?」
藤色(ふじいろ)縮緬(ちりめん)のおこそ頭巾(ずきん)とともに信玄袋をわきへ押しやり、浪子の枕べ近く立ち寄るは島田の十七八、紺地斜綾(はすあや)の吾妻(あずま)コートにすらりとした姿を包んで、三日月眉(みかづきまゆ)におやかに、凛々(りり)しき黒目がちの、見るからさえざえとした娘。浪子が伯母加藤子爵夫人の長女、千鶴子というはこの娘(こ)なり。浪子と千鶴子は一歳(ひとつ)違いの従姉妹(いとこ)同士。幼稚園に通うころより実の同胞(きょうだい)も及ばぬほど睦(むつ)み合いて、浪子が妹の駒子(こまこ)をして「姉(ねえ)さんはお千鶴さんとばかり仲よくするからわたしいやだわ!」といわしめしこともありき。されば浪子が川島家に嫁(とつ)ぎて来し後も、他の学友らはおのずから足を遠くせしに引きかえ、千鶴子はかえってその家の近くなれるを喜びつつ、しばしば足を運べるなり。武男が遠洋航海の留守の間心さびしく憂(う)き事多かる浪子を慰めしは、燃ゆるがごとき武男の書状を除きては、千鶴子の訪問ぞその重(おも)なるものなりける。
浪子はほほえみて、
「今日はよっぽどよい方だけども、まだ頭(かみ)が重くて、時々せきが出て困るの」
「そう?――寒いのね」うやうやしく座ぶとんをすすむる婢(おんな)をちょっと顧みて、浪子のそば近くすわりつ。桐胴(きりどう)の火鉢(ひばち)に指環(ゆびわ)の宝石きらきらと輝く手をかざしつつ、桜色ににおえる頬(ほお)を押(おさ)う。
「伯母様も、伯父様も、おかわりないの?」
「あ、よろしくッてね。あまり寒いからどうかしらッてひどく心配していなさるの、時候が時候だから、少しいい方だッたら逗子(ずし)にでも転地療養しなすったらッてね、昨夕(ゆうべ)も母(おっか)さんとそう話したのですよ」
「そう?横須賀(よこすか)からもちょうどそう言って来てね……」
「兄さんから?そう?それじゃ早く転地するがいいわ」
「でももうそのうちよくなるでしょうから」
「だッて、このごろの感冒(かぜ)は本当に用心しないといけないわ」
おりから小間使いの紅茶を持ち来たりて千鶴子にすすめつ。
「兼(かね)や?母(おっか)さんは?お客?そう、どなた?国の方(かた)なの?――お千鶴さん、今日はゆっくりしていいのでしょう。兼や、お千鶴さんに何かごちそうしておあげな」
「ほほほほ、お百度参りするのだもの、ごちそうばかりしちゃたまらないわ。お待ちなさいよ」言いつつ服紗(ふくさ)包みの小重を取り出し「こちらの伯母さんはお萩(はぎ)がおすきだッたのね、少しだけども、――お客様ならあとにしましょう」
「まあ、ありがとう。本当に……ありがとうよ」
千鶴子はさらに紅蜜柑(べにみかん)を取り出しつつ「きれいでしょう。これはわたしのお土産(みやげ)よ。でもすっぱくていけないわ」
「まあきれい、一ツむいてちょうだいな」
千鶴子がむいて渡すを、さもうまげに吸いて、額(ひたえ)にこぼるる髪をかき上げ、かき上げつ。
「うるさいでしょう。ざっと結(い)ってた方がよかないの?ね、ちょっと結いましょう。――そのままでいいわ」
勝手知ったる次の間の鏡台の櫛(くし)取り出(いだ)して、千鶴子は手柔らかにすき始めぬ。
「そうそう、昨日の同窓会――案内状(しらせ)が来たでしょう――はおもしろかってよ。みんながよろしくッて、ね。ほほほほ、学校を下がってからまだやっと一年しかならないのに、もう三一はお嫁だわ。それはおかしいの、大久保(おおくぼ)さんも本多(ほんだ)さんも北小路(きたこうじ)さんもみんな丸髷(まるまげ)に結(い)ってね、変に奥様じみているからおかしいわ。――痛かないの?―ほほほほ、どんな話かと思ったら、みんな自分の吹聴(ふいちょう)ですわ。そうそう、それから親子別居論が始まってね、北小路さんは自分がちっとも家政ができないに姑(おっかさん)がたいへんやさしくするものだから同居に限るっていうし、大久保さんはまた姑(おっかさん)がやかましやだから別居論の勇将だし、それはおかしいの。それからね、わたしがまぜッかえしてやったら、お千鶴さんはまだ門外漢――漢がおかしいわ――だから話せないというのですよ。――すこしつまり過ぎはしないの?」
「イイエ。――それはおもしろかったでしょう。ほほほほ、みんな自己(じぶん)から割り出すのね。どうせ局々(ところところ)で違うのだから、一概には言えないのでしょうよ。ねエ、お千鶴さん。伯母様もいつかそうおっしゃったでしょう。若い者ばかりじゃわがままになるッて、本当にそうですよ、年寄りを疎略に思っちゃ済まないのね」
父中将の教えを受くるが上に、おのずから家政に趣味をもてる浪子は、実家(さと)にありけるころより継母の政(まつりごと)を傍観しつつ、ひそかに自家の見(けん)をいだきて、自ら一家の女主(あるじ)になりたらん日には、みごと家を斉(ととの)えんものと思えるは、一日にあらざりき。されど川島家に来たり嫁ぎて、万機一に摂政太后の手にありて、身はその位(くらい)ありてその権なき太子妃の位置にあるを見るに及びて、しばしおのれを収めて姑の支配の下(もと)に立ちつ。親子の間に立ち迷いて、思うさま良人(おっと)にかしずくことのままならぬをひそかにかこてるおりおりは、かつてわが国風(こくふう)に適(あ)わずと思いし継母が得意の親子(しんし)別居論のあるいは真理にあらざるやを疑うこともありしが、これがためにかえって浪子は初心を破らじとひそかに心に帯(おび)せるなり。
継母の下(もと)に十年(ととせ)を送り、今は姑のそばにやがて一年の経験を積める従姉(いとこ)の底意を、ことごとくはくみかねし千鶴子、三つに組みたる髪の端を白きリボンもて結わえつつ、浪子の顔さしのぞきて、声を低め、「このごろでも御機嫌(ごきげん)がわるくッて?」
「でも、病気してからよくしてくださるのですよ。でもね、……武男(うち)にいろいろするのが、おかあさまのお気に入らないには困るわ!それで、いつでも此家(ここ)ではおかあさまが女皇陛下(クイーン)だからおれよりもたれよりもおかあさまを一番大事にするンだッて、しょっちゅう言って聞かされるのですわ……あ、もうこんな話はよしましょうね。おおいい気持ち、ありがとう。頭が軽くなったわ」
言いつつ三つ組みにせし髪をなで試みつ。さすがに疲れを覚えつらん、浪子は目を閉じぬ。
櫛(くし)をしまいて、紙に手をふきふき、鏡台の前に立ちし千鶴子は、小さき箱の蓋(ふた)を開きて、掌(たなそこ)に載せつつ、
「何度見てもこの襟止(びん)はきれいだわ。本当に兄(にい)さんはよくなさるのねエ。内(うち)の――兄さん(これは千鶴子の婿養子と定まれる俊次(しゅんじ)といいて、目下外務省に奉職せる男)なんか、外交官の妻になるには語学が達者でなくちゃいけないッて、仏語(フレンチ)を勉強するがいいの、ドイツ語がぜひ必要のッて、責めてばかりいるから困るわ」
「ほほほほ、お千鶴さんが丸髷(まるまげ)に結(い)ったのを早く見たいわ――島田も惜しいけれど」
「まあいや!」美しき眉(まゆ)はひそめど、裏切る微笑(えみ)は薔薇(ばら)の莟(つぼ)めるごとき唇に流れぬ。
「あ、ほんに、萩原(はぎわら)さんね、そらわたしたちより一年前(さき)に卒業した――」
「あの松平(まつだいら)さんに嫁(い)らっした方でしょう」
「は、あの方がね、昨日(きのう)離縁になったンですッて」
「離縁に?どうしたの?」
「それがね、舅(おとうさん)姑(おかあさん)の気には入ってたけども、松平さんがきらってね」
「子供がありはしなかったの」
「一人(ひとり)あったわ。でもね、松平さんがきらって、このごろは妾(めかけ)を置いたり、囲い者をしたり、乱暴ばかりするからね、萩原さんのおとうさんがひどく怒(おこ)つてね、そんな薄情な者には、娘はやって置かれぬてね、とうとう引き取ってしまったんですッて」
「まあ、かあいそうね。――どうしてきらうのでしょう、本当にひどいわ」
「腹が立つのねエ。――逆さまだとまだいいのだけど、舅姑(しゅうと)の気に入っても良人(おっと)にきらわれてあんな事になっては本当につらいでしょうねエ」
浪子は吐息しつ。
「同じ学校に出て同じ教場で同じ本を読んでも、みんなちりぢりになって、どうなるかわからないものねエ。――お千鶴さん、いつまでも仲よく、さきざき力になりましょうねエ」
「うれしいわ!」
二人(ふたり)の手はおのずから相結びつ。ややありて浪子はほほえみ、
「こんなに寝ていると、ね、いろいろな事を考えるの。ほほほほ、笑っちゃいやよ。これから何年かたッてね、どこか外国と戦争が起こるでしょう、日本が勝つでしょう、そうするとね、お千鶴さん宅(とこ)の兄さんが外務大臣で、先方へ乗り込んで講和の談判をなさるでしょう、それから武男(うち)が艦隊の司令長官で、何十艘(そう)という軍艦を向こうの港にならべてね……」
「それから赤坂の叔父さんが軍司令官で、宅(うち)のおとうさんが貴族院で何億万円の軍事費を議決さして……」
「そうするとわたしはお千鶴さんと赤十字の旗でもたてて出かけるわ」
「でもからだが弱くちゃできないわ。ほほほほ」
「おほほほほ」
笑う下より浪子はたちまちせきを発して、右の胸をおさえつ。
「あまり話したからいけないのでしょう。胸が痛むの?」
「時々せきするとね、ここに響いてしようがないの」
言いつつ浪子の目はたちまちすうと薄れ行く障子の日影を打ちながめつ。 

 

四の一
山木が奥の小座敷に、あくまで武男にはずかしめられて、燃ゆるがごとき憤嫉(ふんしつ)を胸に畳(たた)みつつわが寓(ぐう)に帰りしその夜(よ)より僅々(きんきん)五日を経て、千々岩(ちぢわ)は突然参謀本部よりして第一師団の某連隊付きに移されつ。
人の一生には、なす事なす事皆図星をはずれて、さながら皇天ことにわれ一人(にん)をえらんで折檻(せっかん)また折檻の笞(むち)を続けざまに打ちおろすかのごとくに感ぜらるる、いわゆる「泣き面(つら)に蜂(はち)」の時期少なくとも一度はあるものなり。去年以来千々岩はこの瀬戸に舟やり入れて、今もって容易にその瀬戸を過ぎおわるべき見当のつかざるなりき。浪子はすでに武男に奪われつ。相場に手を出せば失敗を重ね、高利を借りれば恥をかき、小児(こども)と見くびりし武男には下司(げす)同然にはずかしめられ、ただ一親戚(しんせき)たる川島家との通路は絶えつ。果てはただ一立身の捷逕(しょうけい)として、死すとも去らじと思える参謀本部の位置まで、一言半句の挨拶(あいさつ)もなくはぎとられて、このごろまで牛馬(うしうま)同様に思いし師団の一士官とならんとは。疵(きず)持つ足の千々岩は、今さら抗議するわけにも行かず、倒れてもつかむ馬糞(ばふん)の臭(しゅう)をいとわで、おめおめと練兵行軍の事に従いしが、この打撃はいたく千々岩を刺激して、従来事に臨んでさらにあわてず、冷静に「われ」を持したる彼をして、思うてここにいたるごとに、一肚皮(とひ)の憤恨猛火よりもはげしく騰上し来たるを覚えざらしめたり。
頭上に輝く名利の冠(かんむり)を、上らば必ず得(う)べき立身の梯子(はしご)に足踏みかけて、すでに一段二段を上り行きけるその時、突然蹴(け)落とされしは千々岩が今の身の上なり。誰(た)が蹴落とせし。千々岩は武男が言葉の端より、参謀本部に長たる将軍が片岡中将と無二の昵懇(じっこん)なる事実よりして、少なくも中将が幾分の手を仮したるを疑いつ。彼はまた従来金には淡白なる武男が、三千金のために、――たとい偽印の事はありとも――法外に怒れるを怪しみて、浪子が旧(ふる)き事まで取り出(い)でてわれを武男に讒(ざん)したるにあらずやと疑いつ。思えば思うほど疑いは事実と募り、事実は怒火に油さし、失恋のうらみ、功名の道における蹉跌(さてつ)の恨み、失望、不平、嫉妬さまざまの悪感は中将と浪子と武男をめぐりて焔(ほのお)のごとく立ち上りつ。かの常にわが冷頭を誇り、情に熱して数字を忘るるの愚を笑える千々岩も、連敗の余のさすがに気は乱れ心狂いて、一腔(こう)の怨毒(えんどく)いずれに向かってか吐き尽くすべき路(みち)を得ずば、自己――千々岩安彦が五尺の躯(み)まず破れおわらんずる心地(ここち)せるなり。
復讎(ふくしゅう)、復讎、世に心よきはにくしと思う人の血をすすって、その頬(ほお)の一臠(れん)に舌鼓うつ時の感なるべし。復讎、復讎、ああいかにして復讎すべき、いかにしてうらみ重なる片岡川島両家をみじんに吹き飛ばすべき地雷火坑を発見し、なるべくおのれは危険なき距離より糸をひきて、憎しと思う輩(やから)の心傷(やぶ)れ腸(はらわた)裂け骨摧(くじ)け脳塗(まみ)れ生きながら死ぬ光景をながめつつ、快く一杯を過ごさんか。こは一月以来夜(よ)となく日となく千々岩の頭(かしら)を往来せる問題なりき。
梅花雪とこぼるる三月中旬、ある日千々岩は親しく往来せる旧同窓生の何某(なにがし)が第三師団より東京に転じ来たるを迎うるとて、新橋におもむきつ。待合室を出(い)づるとて、あたかも十五六の少女(おとめ)を連れし丈(たけ)高き婦人――貴婦人の婦人待合室より出で来たるにはたと行きあいたり。
「お珍しいじゃございませんか」
駒子(こまこ)を連れて、片岡子爵夫人繁子(しげこ)はたたずめるなり。一瞬時、変われる千々岩の顔色は、先方の顔色をのぞいて、たちまち一変しつ。中将にこそ浪子にこそ恨みはあれ、少なくもこの人をば敵視する要なしと早くも心を決せるなり。千々岩はうやうやしく一礼して、微笑を帯び、
「ついごぶさたいたしました」
「ひどいお見限りようですね」
「いや、ちょっとお伺い申すのでしたが、いろいろ職務上の要で、つい多忙だものですから――今日(きょう)はどちらへか?」
「は、ちょっと逗子(ずし)まで――あなたは?」
「何、ちょっと朋友(ともだち)を迎えにまいったのですが――逗子は御保養でございますか」
「おや、まだご存じないのでしたね、――病人ができましてね」
「御病人?どなたで?」
「浪子です」
おりからベルの鳴りて人は潮(うしお)のごとく改札口へ流れ行くに、少女(おとめ)は母の袖(そで)引き動かして
「おかあさま、おそくなるわ」
千々岩はいち早く子爵夫人が手にしたる四季袋を引っとり、打ち連れて歩みつつ
「それは――何ですか、よほどお悪いので?」
「はあ、とうとう肺になりましてね」
「肺?――結核?」
「は、ひどく喀血(かっけつ)をしましてね、それでつい先日逗子へまいりました。今日はちょっと見舞に」言いつつ千々岩が手より四季袋を受け取り「ではさようなら、すぐ帰ります、ちとお遊びにいらッしゃいよ」
華美(はで)なるカシミールのショールと紅(くれない)のリボンかけし垂髪(おさげ)とはるかに上等室に消ゆるを目送して、歩を返す時、千々岩の唇には恐ろしき微笑を浮かべたり。 
四の二
医師が見舞うたびに、あえて口にはいわねど、その症候の次第に著しくなり来るを認めつつ、術(てだて)を尽くして防ぎ止めんとせしかいもなく、目には見えねど浪子の病は日(ひび)に募りて、三月の初旬(はじめ)には、疑うべくもあらぬ肺結核の初期に入りぬ。
わが老健(すこやか)を鼻にかけて今世(いまどき)の若者の羸弱(よわき)をあざけり、転地の事耳に入れざりし姑(しゅうと)も、現在目の前に浪子の一度ならずに喀血するを見ては、さすがに驚き――伝染の恐ろしきを聞きおれば――恐れ、医師が勧むるまましかるべき看護婦を添えて浪子を相州逗子なる実家――片岡家の別墅(べっしょ)に送りやりぬ。肺結核!茫々(ぼうぼう)たる野原にただひとり立つ旅客(たびびと)の、頭上に迫り来る夕立雲のまっ黒きを望める心こそ、もしや、もしやとその病を待ちし浪子の心なりけれ。今は恐ろしき沈黙はすでにとく破れて、雷鳴り電(でん)ひらめき黒風(こくふう)吹き白雨(はくう)ほとばしる真中(まなか)に立てる浪子は、ただ身を賭(と)して早く風雨の重囲(ちょうい)を通り過ぎなんと思うのみ。それにしても第一撃のいかにすさまじかりしぞ。思い出(い)づる三月の二日、今日は常にまさりて快く覚ゆるままに、久しく打ちすてし生け花の慰み、姑(しゅうと)の部屋(へや)の花瓶(かへい)にささん料に、おりから帰りて居(い)たまいし良人(おっと)に願いて、においも深き紅梅の枝を折るとて、庭さき近く端居(はしい)して、あれこれとえらみ居しに、にわかに胸先(むなさき)苦しく頭(かしら)ふらふらとして、紅(くれない)の靄(もや)眼前(めさき)に渦まき、われ知らずあと叫びて、肺を絞りし鮮血の紅なるを吐けるその時!その時こそ「ああとうとう!」と思う同時に、いずくともなくはるかにわが墓の影をかいま見しが。
ああ死!以前(むかし)世をつらしと見しころは、生何の楽しみぞ死何の哀惜(かなしみ)ぞと思いしおりもありけるが、今は人の生命(いのち)の愛(お)しければいとどわが命の惜しまれて千代までも生きたしと思う浪子。情けなしと思うほど、病に勝たんの心も切に、おりおり沈むわが気をふり起こしては、われより医師を促すまでに怠らず病を養えるなりき。
目と鼻の横須賀(よこすか)にあたかも在勤せる武男が、ひまをぬすみてしばしば往来するさえあるに、父の書、伯母、千鶴子の見舞たえ間なく、別荘には、去年の夏川島家を追われし以来絶えて久しきかの姥(うば)のいくが、その再会の縁由(よし)となれるがために病そのものの悲しむべきをも喜ばんずるまで浪子をなつかしめるありて、能(あと)うべくは以前(むかし)に倍する熱心もて伏侍(ふくじ)するあり。まめまめしき老僕が心を用いて事(つこ)うるあり。春寒きびしき都門を去りて、身を暖かき湘南(しょうなん)の空気に投じたる浪子は、日(ひび)に自然の人をいつくしめる温光を吸い、身をめぐる暖かき人の情けを吸いて、気も心もおのずからのびやかになりつ。地を転じてすでに二旬を経たれば、喀血やみ咳嗽(がいそう)やや減り、一週二回東京より来たり診する医師も、快しというまでにはいたらねど病の進まざるをかいありと喜びて、この上はげしき心神の刺激を避け、安静にして療養の功を続けなば、快復の望みありと許すにいたりぬ。 
四の三
都の花はまだ少し早けれど、逗子あたりは若葉の山に山桜(さくら)咲き初(そ)めて、山また山にさりもあえぬ白雲をかけし四月初めの土曜。今日は朝よりそぼ降る春雨に、海も山も一色(ひといろ)に打ち煙(けぶ)り、たださえ永(なが)き日の果てもなきまで永き心地(ここち)せしが、日暮れ方より大降りになって、風さえ強く吹きいで、戸障子の鳴る響(おと)すさまじく、怒りたける相模灘(さがみなだ)の濤声(とうせい)、万馬(ばんば)の跳(おど)るがごとく、海村戸を鎖(とざ)して燈火(ともしび)一つ漏る家もあらず。
片岡家の別墅(べっしょ)にては、今日は夙(と)く来(く)べかりしに勤務上やみ難き要ありておくれし武男が、夜(よ)に入りて、風雨の暗を衝(つ)きつつ来たりしが、今はすでに衣(い)をあらため、晩餐(ばんさん)を終え、卓によりかかりて、手紙を読みており。相対(あいむか)いて、浪子は美しき巾着(きんちゃく)を縫いつつ、時々針をとどめて良人(おっと)の方(かた)打ちながめては笑(え)み、風雨の音に耳傾けては静かに思いに沈みており。揚巻(あげまき)に結いし緑の髪には、一朶(だ)の山桜を葉ながらにさしはさみたり。二人(ふたり)の間には、一脚の卓ありて、桃色のかさかけしランプはじじと燃えつつ、薄紅(うすくれない)の光を落とし、そのかたわらには白磁瓶(はくじへい)にさしはさみたる一枝の山桜、雪のごとく黙して語らず。今朝(けさ)別れ来し故山の春を夢むるなるべし。
風雨の声屋(おく)をめぐりて騒がし。
武男は手紙を巻きおさめつ。「阿舅(おとうさん)もよほど心配しておいでなさる。どうせ明日(あす)はちょっと帰京(かえ)るから、赤坂へ回って来よう」
「明日いらッしゃるの?このお天気に!――でもお母(かあ)様もお待ちなすッていらッしゃいましょうねエ。わたくしも行きたいわ!」
「浪さんが!!! とんでもない!それこそまっぴら御免こうむる。もうしばらくは流刑(しまながし)にあったつもりでいなさい。はははは」
「ほほほ、こんな流刑(しまながし)なら生涯でもようござんすわ――あなた、巻莨(たばこ)召し上がれな」
「ほしそうに見えるかい。まあよそう。そのかわり来る前の日と、帰った日は、二日分(ぶり)のむのだからね。ははははは」
「ほほほ、それじゃごほうびに、今いいお菓子がまいりますよ」
「それはごちそうさま。大方お千鶴さんの土産(みやげ)だろう。――それは何かい、立派な物ができるじゃないか」
「この間から日が永(なが)くッてしようがないのですから、おかあさまへ上げようと思ってしているのですけど――イイエ大丈夫ですわ、遊び遊びしてますから。ああ何だか気分が清々(せいせい)したこと。も少し起きさしてちょうだいな、こうしてますとちっとも病気のようじゃないでしょう」
「ドクトル川島がついているのだもの、はははは。でも、近ごろは本当に浪さんの顔色がよくなッた。もうこっちのものだて」
この時次の間よりかの老女のいくが、菓子鉢(ばち)と茶盆を両手にささげ来つ。
「ひどい暴風雨(しけ)でございますこと。旦那(だんな)様がいらッしゃいませんと、ねエ奥様、今夜(こんばん)なんざとても目が合いませんよ。飯田町(いいだまち)のお嬢様はお帰京(かえり)遊ばす、看護婦さんまで、ちょっと帰京(かえり)ますし、今日はどんなにさびしゅうございましてしょう、ねエ奥様。茂平(もへい)(老僕)どんはいますけれども」
「こんな晩に船に乗ってる人の心地(こころもち)はどんなでしょうねエ。でも乗ってる人を思いやる人はなお悲しいわ!」
「なあに」と武男は茶をすすり果てて風月の唐饅頭(とうまんじゅう)二つ三つ一息に平らげながら「なあに、これくらいの風雨(しけ)はまだいいが、南シナ海あたりで二日も三日も大暴風雨(おおしけ)に出あうと、随分こたえるよ。四千何百トンの艦(ふね)が三四十度ぐらいに傾いてさ、山のようなやつがドンドン甲板(かんぱん)を打ち越してさ、艦(ふね)がぎいぎい響(な)るとあまりいい心地(こころもち)はしないね」
風いよいよ吹き募りて、暴雨一陣礫(つぶて)のごとく雨戸にほとばしる。浪子は目を閉じつ。いくは身を震わしぬ。三人(みたり)が語(ことば)しばし途絶えて、風雨の音のみぞすさまじき。
「さあ、陰気な話はもう中止だ。こんな夜(ばん)は、ランプでも明るくして愉快に話すのだ。ここは横須賀よりまた暖かいね、もうこんなに山桜が咲いたな」
浪子は磁瓶(じへい)にさしし桜の花びらを軽(かろ)くなでつつ「今朝(けさ)老爺(じいや)が山から折って来ましたの。きれいでしょう。――でもこの雨風で山のはよっぽど散りましょうよ。本当にどうしてこんなに潔いものでしょう!そうそう、さっき蓮月(れんげつ)の歌にこんなのがありましたよ『うらやまし心のままにとく咲きて、すがすがしくも散るさくらかな』よく詠(よ)んでありますのねエ」
「なに?すがすがしくも散る?僕――わしはそう思うがね、花でも何でも日本人はあまり散るのを賞翫(しょうがん)するが、それも潔白でいいが、過ぎるとよくないね。戦争(いくさ)でも早く討死(うちじに)する方が負けだよ。も少し剛情にさ、執拗(しつこく)さ、気ながな方を奨励したいと思うね。それでわが輩――わしはこんな歌を詠んだ。いいかね、皮切りだからどうせおかしいよ、しつこしと、笑っちゃいかん、しつこしと人はいえども八重桜盛りながきはうれしかりけり、はははは梨本(なしもと)跣足(はだし)だろう」
「まあおもしろいお歌でございますこと、ねエ奥様」
「はははは、ばあやの折り紙つきじゃ、こらいよいよ秀逸にきまったぞ」
話の途切れ目をまたひとしきり激しくなりまさる風雨の音、濤(なみ)の音の立ち添いて、家はさながら大海に浮かべる舟にも似たり。いくは鉄瓶(てつびん)の湯をかうるとて次に立ちぬ。浪子はさしはさみ居し体温器をちょっと燈火(あかり)に透かし見て、今宵(こよい)は常よりも上らぬ熱を手柄顔に良人(おっと)に示しつつ、筒に収め、しばらくテーブルの桜花(さくら)を見るともなくながめていたりしが、たちまちほほえみて
「もう一年たちますのねエ、よウくおぼえていますよ、あの時馬車に乗って出ると家内(みんな)の者が送って出てますから何とか言いたかったのですけどどうしても口に出ませんの。おほほほ。それから溜池橋(ためいけばし)を渡るともう日が暮れて、十五夜でしょう、まん丸な月が出て、それから山王(さんのう)のあの坂を上がるとちょうど桜花(さくら)の盛りで、馬車の窓からはらはらはらはらまるで吹雪(ふぶき)のように降り込んで来ましてね、ほほほ、髷(まげ)に花びらがとまってましたのを、もうおりるという時、気がついて伯母がとってくれましたッけ」
武男はテーブルに頬杖(ほおづえ)つき「一年ぐらいたつな早いもんだ。かれこれするとすぐ銀婚式になっちまうよ。はははは、あの時浪さんの澄まし方といったらはッははは思い出してもおかしい、おかしい。どうしてああ澄まされるかな」
「でも、ほほほほ――あなたも若殿様できちんと澄ましていらッしたわ。ほほほほ手が震えて、杯がどうしても持てなかったンですもの」
「大分(だいぶ)おにぎやかでございますねエ」といくはにこにこ笑(え)みつつ鉄瓶(てつびん)を持ちて再び入り来つ。「ばあやもこんなに気分が清々(せいせい)いたしたことはありませんでございますよ。ごいっしょにこうしておりますと、昨年伊香保にいた時のような心地(こころもち)がいたしますでございますよ」
「伊香保はうれしかったわ!」
「蕨(わらび)狩りはどうだい、たれかさんの御足(おみあし)が大分重かッたっけ」
「でもあなたがあまりお急ぎなさるんですもの」と浪子はほほえむ。
「もうすぐ蕨の時候になるね。浪さん、早くよくなッて、また蕨狩(と)りの競争しようじゃないか」
「ほほほ、それまでにはきっとなおりますよ」 
四の四
明くる日は、昨夜(ゆうべ)の暴風雨(あらし)に引きかえて、不思議なほどの上天気。
帰京は午後と定めて、午前の暖かく風なき間(ま)を運動にと、武男は浪子と打ち連れて、別荘の裏口よりはらはら松の砂丘(すなやま)を過ぎ、浜に出(い)でたり。
「いいお天気、こんなになろうとは思いませんでしたねエ」
「実にいい天気だ。伊豆(いず)が近く見えるじゃないか、話でもできそうだ」
二人(ふたり)はすでに乾(かわ)ける砂を踏みて、今日の凪(なぎ)を地曳(じびき)すと立ち騒ぐ漁師(りょうし)、貝拾う子らをあとにし、新月形(なり)の浜を次第に人少なき方(かた)に歩みつ。
浪子はふと思い出(い)でたるように「ねエあなた。あの――千々岩さんはどうしてらッしゃるでしょう?」
「千々岩?実に不埒(ふらち)きわまるやつだ。あれから一度も会わンが。――なぜ聞くのかい?」
浪子は少し考え「イイエ、ね、おかしい事をいうようですが、昨夜(ゆうべ)千々岩さんの夢を見ましたの」
「千々岩の夢?」
「はあ。千々岩さんがお母さまと何か話をしていなさる夢を見ましたの」
「はははは、気沢山(きだくさん)だねエ、どんな話をしていたのかい」
「何かわからないのですけど、お母さまが何度もうなずいていらっしゃいましたわ。――お千鶴さんが、あの方と山木さんといっしょに連れ立っていなさるのを見かけたって話したから、こんな夢を見たのでしょうね。ねエ、あなた、千々岩さんが我等宅(うち)に出入りするようなことはありますまいね」
「そんな事はない、ないはずだ。母(おっか)さんも千々岩の事じゃ怒(おこ)っていなさるからね」
浪子は思わず吐息をつきつ。
「本当に、こんな病気になってしまって、おかあさまもさぞいやに思っていらッしゃいましょうねエ」
武男ははたと胸を衝(つ)きぬ。病める妻には、それといわねど、浪子が病みて地を転(か)えしより、武男は帰京するごとに母の機嫌(きげん)の次第に悪(あ)しく、伝染の恐れあればなるべく逗子には遠ざかれとまで戒められ、さまざまの壁訴訟の果ては昂(こう)じて実家(さと)の悪口(わるくち)となり、いささかなだめんとすれば妻をかばいて親に抗するたわけ者とののしらるることも、すでに一再に止(とど)まらざりけるなり。
「はははは、浪さんもいろいろな心配をするね。そんな事があるものかい。精出して養生して、来春(らいはる)はどうか暇を都合して、母(おっか)さんと三人吉野(よしの)の花見にでも行くさ――やアもうここまで来てしまッた。疲れたろう。そろそろ帰らなくもいいかい」
二人は浜尽きて山起こる所に立てるなり。
「不動まで行きましょう、ね――イイエちっとも疲れはしませんの。西洋まででも行けるわ」
「いいかい、それじゃそのショールをおやりな。岩がすべるよ、さ、しっかりつかまって」
武男は浪子をたすけ引きて、山の根の岩を伝える一条の細逕(さいけい)を、しばしば立ちどまりては憩(いこ)いつつ、一丁(ちょう)あまり行きて、しゃらしゃら滝の下にいたりつ。滝の横手に小さき不動堂あり。松五六本、ひょろひょろと崖(がけ)より秀(ひい)でて、斜めに海をのぞけり。
武男は岩をはらい、ショールを敷きて浪子を憩わし、われも腰かけて、わが膝(ひざ)を抱(いだ)きつ。「いい凪(なぎ)だね!」
海は実に凪(な)げるなり。近午の空は天心にいたるまで蒼々(あおあお)と晴れて雲なく、一碧(いっぺき)の海は所々(しょしょ)練(ね)れるように白く光りて、見渡す限り目に立つ襞(ひだ)だにもなし。海も山も春日を浴びて悠々(ゆうゆう)として眠れるなり。
「あなた!」
「何?」
「なおりましょうか」
「エ?」
「わたくしの病気」
「何をいうのかい。なおらずにどうする。なおるよ、きっとなおるよ」
浪子は良人(おっと)の肩に倚(よ)りつ、「でもひょっとしたらなおらずにしまいはせんかと、そう時々思いますの。実母(はは)もこの病気で亡(な)くなりましたし――」
「浪さん、なぜ今日に限ってそんな事をいうのかい。だいじょうぶなおる。なおると医師(いしゃ)もいうじゃアないか。ねエ浪さん、そうじゃないか。そらア母(おっか)さんはその病気で――か知らんが、浪さんはまだ二十(はたち)にもならんじゃないか。それに初期だから、どんな事があったってなおるよ。ごらんな、それ内(うち)の親類の大河原(おおかわら)、ね、あれは右の肺がなくなッて、医者が匙(さじ)をなげてから、まだ十五年も生きてるじゃないか。ぜひなおるという精神がありさえすりアきっとなおる。なおらんというのは浪さんが僕を愛せんからだ。愛するならきっとなおるはずだ。なおらずにこれをどうするかい」
武男は浪子の左手(ゆんで)をとりて、わが唇(くちびる)に当てつ。手には結婚の前、武男が贈りしダイヤモンド入りの指環(ゆびわ)燦然(さんぜん)として輝けり。
二人(ふたり)はしばし黙して語らず。江の島の方(かた)より出(い)で来たりし白帆(しらほ)一つ、海面(うなづら)をすべり行く。
浪子は涙に曇る目に微笑を帯びて「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!死ぬなら二人で!ねエ、二人で!」
「浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」
「本当?うれしい!ねエ、二人で!――でもおっ母(かあ)さまがいらッしゃるし、お職分(つとめ)があるし、そう思っておいでなすッても自由にならないでしょう。その時はわたくしだけ先に行って待たなけりゃならないのですねエ――わたくしが死んだら時々は思い出してくださるの?エ?エ?あなた?」
武男は涙をふりはらいつつ、浪子の黒髪(かみ)をかいなで「ああもうこんな話はよそうじゃないか。早く養生して、よくなッて、ねエ浪さん、二人で長生きして、金婚式をしようじゃないか」
浪子は良人(おっと)の手をひしと両手に握りしめ、身を投げかけて、熱き涙をはらはらと武男が膝(ひざ)に落としつつ「死んでも、わたしはあなたの妻ですわ!だれがどうしたッて、病気したッて、死んだッて、未来の未来の後(さき)までわたしはあなたの妻ですわ!」 

 

五の一
新橋停車場に浪子の病を聞きける時、千々岩の唇(くちびる)に上りし微笑は、解かんと欲して解き得ざりし難問の忽然(こつぜん)としてその端緒を示せるに対して、まず揚がれる心の凱歌(がいか)なりき。にくしと思う川島片岡両家の関鍵(かんけん)は実に浪子にありて、浪子のこの肺患は取りも直さず天特にわれ千々岩安彦のために復讎(ふくしゅう)の機会を与うるもの、病は伝染致命の大患、武男は多く家にあらず、姑そくの間に軽々(けいけい)一片の言(ことば)を放ち、一指を動かさずして破裂せしむるに何の子細かあるべき。事成らば、われは直ちに飛びのきて、あとは彼らが互いに手を負い負わし生き死に苦しむ活劇を見るべきのみ。千々岩は実にかく思いて、いささか不快の眉(まゆ)を開けるなり。
叔母の気質はよく知りつ。武男がわれに怒りしほど、叔母はわれに怒らざるもよく知りつ。叔母が常に武男を子供視して、むしろわれ――千々岩の年よりも世故に長(た)けたる頭(こうべ)に依頼するの多きも、よく知りつ。そもそもまた親戚(しんせき)知己も多からず、人をしかり飛ばして内心には心細く覚ゆる叔母が、若夫婦にあきたらで味方ほしく思うをもよく知りつ。さればいまだ一兵を進めずしてその作戦計画の必ず成効すべきを測りしなり。
胸中すでに成竹ある千々岩は、さらに山木を語らいて、時々川島家に行きては、その模様を探らせ、かつは自己――千々岩はいたく悔悛(かいしゅん)覚悟(かくご)せる由をほのめかしつ。浪子の病すでに二月(ふたつき)に及びてはかばかしく治(ち)せず、叔母の機嫌(きげん)のいよいよ悪(あ)しきを聞きし四月の末、武男はあらず、執事の田崎も家用を帯びて旅行せしすきをうかがい、一夜(や)千々岩は不意に絶えて久しき川島家の門を入りぬ。あたかも叔母がひとり武男の書状を前に置きて、深く深く沈吟せるところに行きあわせつ。 
五の二
「いや、一向捗(はか)がいきませんじゃ。金は使う、二月も三月もたったてようなるじゃなし、困ったものじゃて、のう安さん。――こういう時分にゃ頼もしか親類でもあって相談すっとこじゃが、武はあの通り子供――」
「そこでございますて、伯母様(さん)、実に小甥(わたくし)もこうしてのこのこ上がられるわけじゃないのですが、――御恩になった故叔父様(おじさん)や叔母様(さん)に対しても、また武男君に対しても、このまま黙って見ていられないのです。実にいわば川島家の一大事ですからね、顔をぬぐってまいったわけで――いや、叔母様(さん)、この肺病という病(やつ)ばかりは恐ろしいもんですね、叔母様(さん)もいくらもご存じでしょう、妻(さい)の病気が夫に伝染して一家総だおれになるはよくある例(ためし)です、わたくしも武男君の上が心配でなりませんて、叔母様(さん)から少し御注意なさらんと大事になりますよ」
「そうじゃて。わたしもそいが恐ろしかで、逗子に行くな行くなて、武にいうんじゃがの、やっぱい聞かんで、見なさい――」
手紙をとりて示しつつ「医者がどうの、やれ看護婦がどうしたの、――ばかが、妻(さい)の事ばかい」
千々岩はにやり笑いつ。「でも叔母様(さん)、それは無理ですよ、夫婦に仲のよすぎるということはないものです。病気であって見ると、武男君もいよいよこらそうあるべきじゃありませんか」
「それじゃてて、妻(さい)が病気すッから親に不孝をすッ法はなかもんじゃ」
千々岩は慨然として嘆息し「いや実に困った事ですな。せっかく武男君もいい細君ができて、叔母様(さん)もやっと御安心なさると、すぐこんな事になって――しかし川島家の存亡は実に今ですね――ところでお浪さんの実家(さと)からは何か挨拶(あいさつ)がありましたでしょうな」
「挨拶、ふん、挨拶、あの横柄(おうへい)な継母(かか)が、ふんちっとばかい土産(みやげ)を持っての、言い訳ばかいの挨拶じゃ。加藤の内(うち)から二三度、来は来たがの――」
千々岩は再び大息(たいそく)しつ。「こんな時にゃ実家(さと)からちと気をきかすものですが、病人の娘を押し付けて、よくいられるですね。しかし利己主義が本尊の世の中ですからね、叔母様(さん)」
「そうとも」
「それはいいですが、心配なのは武男君の健康です。もしもの事があったらそれこそ川島家は破滅です、――そういううちにもいつ伝染しないとも限りませんよ。それだって、夫婦というと、まさか叔母様(さん)が籬(かき)をお結いなさるわけにも行きませんし――」
「そうじゃ」
「でも、このままになすっちゃ川島家の大事になりますし」
「そうとも」
「子供の言うようにするばかりが親の職分じゃなし、時々は子を泣かすが慈悲になることもありますし、それに若い者はいったん、思い込んだようでも少したつと案外気の変わるものですからね」
「そうじゃ」
「少しぐらいのかあいそうや気の毒は家の大事には換えられませんからね」
「おおそうじゃ」
「それに万一、子供でもできなさると、それこそ到底――」
「いや、そこじゃ」
膝乗り出して、がっくりと一つうなずける叔母のようすを見るより、千々岩は心の膝をうちて、翻然として話を転じつ。彼はその注(つ)ぎ込みし薬の見る見る回るを認めしのみならず、叔母の心田(しんでん)もとすでに一種子の落ちたるありて、いまだ左右(とこう)の顧慮におおわれいるも、その土(ど)を破りて芽ぐみ長じ花さき実るにいたるはただ時日の問題にして、その時日も勢いはなはだ長からざるべきを悟りしなりき。
その真質において悪人ならぬ武男が母は、浪子を愛せぬまでもにくめるにはあらざりき。浪子が家風、教育の異なるにかかわらず、なるべくおのれを棄(す)てて姑(しゅうと)に調和せんとするをば、さすがに母も知り、あまつさえそのある点において趣味をわれと同じゅうせるを感じて、口にしかれど心にはわが花嫁のころはとてもあれほどに届かざりしとひそかに思えることもありき。さりながら浪子がほとんど一月にわたるぶらぶら病のあと、いよいよ肺結核の忌まわしき名をつけられて、眼前に喀血(かっけつ)の恐ろしきを見るに及び、なおその病の少なからぬ費用をかけ時日を費やしてはかばかしき快復を見ざるを見るに及び、失望といわんか嫌厭(けんえん)と名づけんか自ら分(わか)つあたわざるある一念の心底に生(は)え出(い)でたるを覚えつ。彼を思い出(い)で、これを思いやりつつ、一種不快なる感情の胸中に うん醸(うんじょう)するに従って、武男が母は上(うわ)うちおおいたる顧慮の一塊一塊融け去りてかの一念の驚くべき勢いもて日々長じ来たるを覚えしなり。
千々岩は分明(ぶんみょう)に叔母が心の逕路(けいろ)をたどりて、これよりおりおり足を運びては、たださりげなく微雨軽風の両三点を放って、その顧慮をゆるめ、その萌芽(ほうが)をつちかいつつ、局面の近くに発展せん時を待ちぬ。そのおりおり武男の留守をうかがいて川島家に往来することのおぼろにほかに漏れしころは、千々岩はすでにその所作の大要をおえて、早くも舞台より足を抜きつつ、かの山木に向かい近きに起こるべき活劇の予告(まえぶれ)をなして、あらかじめ祝杯をあげけるなり。 

 

六の一
五月初旬(はじめ)、武男はその乗り組める艦(ふね)のまさに呉(くれ)より佐世保(させほ)におもむき、それより函館(はこだて)付近に行なわるべき連合艦隊の演習に列せんため引きかえして北航するはずなれば、かれこれ四五十日がほどは帰省の機会(おり)を得ざるべく、しばしの告別(いとま)かたがた、一夜(あるよ)帰京して母の機嫌(きげん)を伺いたり。
近ごろはとかく奥歯に物のはさまりしように、いつ帰りても機嫌よからぬ母の、今夜(こよい)は珍しくにこにこ顔を見せて、風呂(ふろ)を焚(た)かせ、武男が好物の薩摩汁(さつまじる)など自ら手をおろさぬばかり肝いりてすすめつ。元来あまり細かき事には気をとめぬ武男も、ようすのいつになくあらたまれるを不思議――とは思いしが、何歳(いくつ)になってもかあいがられてうれしからぬ子はなきに、父に別れてよりひとしお母なつかしき武男、母の機嫌の直れるに心うれしく、快く夜食の箸(はし)をとりしあとは、湯に入りてはらはら降り出せし雨の音を聞きつつ、この上の欲には浪子が早く全快してここにわが帰りを待っているようにならばなど今日立ち寄りて来し逗子の様子思い浮かべながら、陶然とよき心地(ここち)になりて浴を出(い)で、使女(おんな)が被(はお)る平生服(ふだんぎ)を無造作に引きかけて、葉巻握りし右手(めて)の甲に額をこすりながら、母が八畳の居間に入り来たりぬ。
小間使いに肩揉(ひね)らして、羅宇(らう)の長き煙管(きせる)にて国分(こくぶ)をくゆらしいたる母は目をあげ「おお早上がって来たな。ほほほほほ、おとっさまがちょうどそうじゃったが――そ、その座ぶとんにすわッがいい。――松、和女郎(おまえ)はもうよかで、茶を入れて来なさい」と自ら立って茶棚(ちゃだな)より菓子鉢を取り出(い)でつ。
「まるでお客様ですな」
武男は葉巻を一吸い吸いて碧(あお)き煙(けぶり)を吹きつつ、うちほほえむ。
「武どん、よう帰ったもった。――実はその、ちっと相談もあるし、是非(ぜっひ)帰ってもらおうと思ってた所じゃった。まあ帰ってくれたで、いい都合ッごあした。逗子――寄って来(き)つろの?」
逗子はしげく往来するを母のきらうはよく知れど、まさかに見え透いたるうそも言いかねて、
「はあ、ちょっと寄って来ました。――大分(だいぶ)血色も直りかけたようです。母(おっか)さんに済まないッて、ひどく心配していましたッけ」
「そうかい」
母はしげしげ武男の顔をみつめつ。
おりから小間使いの茶道具を持(も)て来しを母は引き取り、
「松、御身(おまえ)はあっち行っていなさい。そ、その襖(ふすま)をちゃんとしめて――」 
六の二
手ずから茶をくみて武男にすすめ、われも飲みて、やおら煙管(きせる)をとりあげつ。母はおもむろに口を開きぬ。
「なあ武どん、わたしももう大分(だいぶ)弱いましたよ。去年のリュウマチでがっつり弱い申した。昨日(きのう)お墓まいりしたばかいで、まだ肩腰が痛んでな。年が寄ると何かと心細うなッて困いますよ――武どん、卿(おまえ)からだを大事にしての、病気をせん様(ごと)してくれんとないませんぞ」
葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつつ、武男はでっぷりと肥えたれどさすがに争われぬ年波の寄る母の額を仰ぎ「私(わたくし)は始終外(ほか)にいますし、何もかも母(おっか)さんが総理大臣ですからな――浪でも達者ですといいですが。あれも早くよくなって母(おっか)さんのお肩を休めたいッてそういつも言ってます」
「さあ、そう思っとるじゃろうが、病気が病気でな」
「でも、大分快方(いいほう)になりましたよ。だんだん暖かくはなるし、とにかく若い者ですからな」
「さあ、病気が病気じゃから、よく行けばええがの、武どん――医師(おいしゃ)の話じゃったが、浪どんの母御(かさま)も、やっぱい肺病で亡(な)くなッてじゃないかの?」
「はあ、そんなことをいッてましたがね、しかし――」
「この病気は親から子に伝わッてじゃないかい?」
「はあ、そんな事を言いますが、しかし浪のは全く感冒(かぜ)から引き起こしたンですからね。なあに、母(おっか)さん用心次第です、伝染の、遺伝のいうですが、実際そういうほどでもないですよ。現に浪のおとっさんもあんな健康(じょうぶ)な方(かた)ですし、浪の妹――はああのお駒(こま)さんです――あれも肺のはの字もないくらいです。人間は医師(いしゃ)のいうほど弱いものじゃありません、ははははは」
「いいえ、笑い事じゃあいません」と母はほとほと煙管(きせる)をはたきながら
「病気のなかでもこの病気ばかいは恐ろしいもンでな、武どん。卿(おまえ)も知っとるはずじゃが、あの知事の東郷(とうごう)、な、卿(おまえ)がよくけんかをしたあの児(こ)の母御(かさま)な、どうかい、あの母(ひと)が肺病で死んでの、一昨年(おととし)の四月じゃったが、その年の暮れに、どうかい、東郷さんもやっぱい肺病で死んで、ええかい、それからあの息子(むすこ)さん――どこかの技師をしとったそうじゃがの――もやっぱい肺病でこのあいだ亡くなッた、な。みいな母御(かさま)のがうつッたのじゃ。まだこんな話が幾つもあいます。そいでわたしはの、武どん、この病気ばかいは油断がならん、油断をすれば大事じゃと思うッがの」
母は煙管をさしおきて、少し膝(ひざ)をすすめ、黙して聞きおれる武男の横顔をのぞきつつ
「実はの、わたしもこの間から相談したいしたい思っ居(お)い申したが――」
少し言いよどんで、武男の顔しげしげとみつめ、
「浪じゃがの――」
「はあ?」
武男は顔をあげたり。
「浪を――引き取ってもろちゃどうじゃろの?」
「引き取る?どう引き取るのですか」
母は武男の顔より目をはなさず、「実家(さと)によ」
「実家(さと)に?実家(さと)で養生さすのですか」
「養生もしようがの、とにかく引き取って――」
「養生には逗子(ずし)がいいですよ。実家(さと)では子供もいますし、実家(さと)で養生さすくらいなら此家(うち)の方がよっぽどましですからね」
冷たくなりし茶をすすりつつ、母は少し震い声に「武どん、卿(おまえ)酔っちゃいまいの、わかんふりするのかい?」じっとわが子の顔みつめ「わたしがいうのはな、浪を――実家(さと)に戻すのじゃ」
「戻す?……戻す?――離縁ですな!!」
「こーれ、声が高かじゃなッか、武どん」うちふるう武男をじっと見て
「離縁(じえん)、そうじゃ、まあ離縁(じえん)よ」
「離縁(りえん)!離縁!!――なぜですか」
「なぜ?さっきからいう通り、病気が病気じゃからの」
「肺病だから……離縁するとおっしゃるのですな?浪を離縁すると?」
「そうよ、かあいそうじゃがの――」
「離縁!!!」
武男の手よりすべり落ちたる葉巻は火鉢に落ちておびただしくうち煙(けぶ)りぬ。一燈じじと燃えて、夜の雨はらはらと窓をうつ。 
六の三
母はしきりに烟(けぶ)る葉巻を灰に葬りつつ、少し乗り出して
「なあ、武どん、あんまいふいじゃから卿(おまえ)もびっくいするなもっともっごあすがの、わたしはもうこれまで幾夜(いくばん)も幾晩も考えた上の話じゃ、そんつもいで聞いてたもらんといけませんぞ。
そらアもう浪にはわたしも別にこいという不足はなし、卿(おまえ)も気に入っとっこっじゃから、何もこちの好きで離縁(じえん)のし申(も)すじゃごあはんがの、何を言うても病気が病気――」
「病気は快方(いいほう)に向いてるです」武男は口早に言いて、きっと母親の顔を仰ぎたり。
「まあわたしの言うことを聞きなさい。――それは目下(いま)の所じゃわるくないかもしらんがの、わたしはよウく医師(おいしゃ)から聞いたが、この病気ばかいは一時(とき)よかってもまたわるくなる、暑さ寒さですぐまた起こるもんじゃ、肺結核でようなッた人はまあ一人(ひとり)もない、お医者がそう言い申すじゃての。よし浪が今死なんにしたとこが、そのうちまたきっとわるくなッはうけあいじゃ。そのうちにはきっと卿(おまえ)に伝染すッなこらうけあいじゃ、なあ武どん。卿(おまえ)にうつる、子供が出来(でく)る、子供にうつる、浪ばかいじゃない、大事な主人の卿(おまえ)も、の、大事な家嫡(あととり)の子供も、肺病持ちなッて、死んでしもうて見なさい、川島家はつぶれじゃなッかい。ええかい、卿(おまえ)がおとっさまの丹精(たんせい)で、せっかくこれまでになッて、天子様からお直々(じきじき)に取り立ててくださったこの川島家も卿(おまえ)の代でつぶれッしまいますぞ。――そいは、も、浪もかあいそう、卿(おまえ)もなかなかきつか、わたしも親でおってこういう事言い出すなおもしろくない、つらいがの、何をいうても病気が病気じゃ、浪がかあいそうじゃて主人の卿(おまえ)にゃ代えられン、川島家にも代えられン。よウく分別のして、ここは一つ思い切ってたもらんとないませんぞ」
黙然(もくねん)と聞きいる武男が心には、今日(きょう)見舞い来し病妻の顔ありありと浮かみつ。
「母(おっか)さん、私(わたくし)はそんな事はできないです」
「なっぜ?」母はやや声高(こわだか)になりぬ。
「母(おっか)さん、今そんな事をしたら、浪は死にます!」
「そいは死ぬかもしれン、じゃが、武どん、わたしは卿(おまえ)の命が惜しい、川島家が惜しいのじゃ!」
「母(おっか)さん、そうわたしを大事になさるなら、どうかわたしの心をくんでください。こんな事を言うのは異なようですが、実際わたしにはそんな事はどうしてもできないです。まだ慣れないものですから、それはいろいろ届かぬ所はあるですが、しかし母(おっか)さんを大事にして、私(わたくし)にもよくしてくれる、実に罪も何もないあれを病気したからッて離別するなんぞ、どうしても私(わたくし)はできないです。肺病だッてなおらん事はありますまい、現になおりかけとるです。もしまたなおらずに、どうしても死ぬなら、母(おっか)さん、どうか私(わたくし)の妻(さい)で死なしてください。病気が危険なら往来も絶つです、用心もするです。それは母(おっか)さんの御安心なさるようにするです。でも離別だけはどうあッても私(わたくし)はできないです!」
「へへへへ、武男、卿(おまえ)は浪の事ばッかいいうがの、自分は死んでもかまわンか、川島家はつぶしてもええかい?」
「母(おっか)さんはわたしのからだばッかりおっしゃるが、そんな不人情な不義理な事して長生きしたッてどうしますか。人情にそむいて、義理を欠いて、決して家のためにいい事はありません。決して川島家の名誉でも光栄でもないです。どうでも離別はできません、断じてできないです」
難関あるべしとは期(ご)しながら思いしよりもはげしき抵抗に出会いし母は、例の癇癖(かんぺき)のむらむらと胸先(むなさき)にこみあげて、額のあたり筋立ち、こめかみ顫(うご)き、煙管持つ手のわなわなと震わるるを、ようよう押ししずめて、わずかに笑(えみ)を装いつ。
「そ、そうせき込まんでも、まあ静かに考えて見なさい。卿(おまえ)はまだ年が若かで、世間(よのなか)を知ンなさらンがの、よくいうわ、それ、小の虫を殺しても大の虫は助けろじゃ。なあ。浪は小の虫、卿(おまえ)――川島家は大の虫じゃ、の。それは先方(むこう)も気の毒、浪もかあいそうなよなものじゃが、病気すっがわるかじゃなッか。何と思われたて、川島家が断絶するよかまだええじゃなッか、なあ。それに不義理の不人情の言いなはるが、こんな例(こと)は世間に幾らもあります。家風に合わンと離縁(じえん)する、子供がなかと離縁(じえん)する、悪い病気があっと離縁(じえん)する。これが世間の法、なあ武どん。何の不義理な事も不人情な事もないもんじゃ。全体(いったい)こんな病気のした時ゃの、嫁の実家(さと)から引き取ってええはずじゃ。先方(むこう)からいわンからこつちで言い出すが、何のわるか事恥ずかしか事があッもンか」
「母(おっか)さんは世間世間とおっしゃるが、何も世間が悪い事をするから自分も悪い事をしていいという法はありません。病気すると離別するなんか昔の事です。もしまたそれが今の世間の法なら、今の世間は打(ぶ)ちこわしていい、打(ぶ)ちこわさなけりゃならんです。母(おっか)さんはこっちの事ばっかりおっしゃるが、片岡の家(うち)だッてせっかく嫁にやった者が病気になったからッて戻されていい気持ちがしますか。浪だってどの顔さげて帰られますか。ひょっとこれがさかさまで、わたしが肺病で、浪の実家(さと)から肺病は険呑(けんのん)だからッて浪を取り戻したら、母(おっか)さんいい心地(こころもち)がしますか。同(おんな)じ事です」
「いいえ、そいは違う。男と女とはまた違うじゃなッか」
「同じ事です。情理からいって、同じ事です。わたしからそんな事をいっちゃおかしいようですが、浪もやっと喀血(かっけつ)がとまって少し快方(いいほう)に向いたかという時じゃありませんか、今そんな事をするのは実に血を吐かすようなものです。浪は死んでしまいます。きっと死ぬです。他人だッてそんな事はできンです、母(おっか)さんはわたしに浪を殺せ……とおっしゃるのですか」
武男は思わず熱き涙をはらはらと畳に落としつ。 
六の四
母はつと立ち上がって、仏壇より一つの位牌(いはい)を取りおろし、座に帰って、武男の眼前(めさき)に押しすえつ。
「武男、卿(おまえ)はな、女親じゃからッてわたしを何とも思わんな。さ、おとっさまの前で今(ま)一度言って見なさい、さ言って見なさい。御先祖代々のお位牌も見ておいでじゃ。さ、今(ま)一度言って見なさい、不孝者めが !!」
きっと武男をにらみて、続けざまに煙管もて火鉢の縁打ちたたきぬ。
さすがに武男も少し気色(けしき)ばみて「なぜ不孝です?」
「なぜ?なぜもあッもンか。妻(さい)の肩ばッかい持って親のいう事は聞かんやつ、不孝者じゃなッか。親が育てたからだを粗略(そまつ)にして、御先祖代々の家をつぶすやつは不孝者じゃなッか。不孝者、武男、卿(おまえ)は不孝者、大不孝者じゃと」
「しかし人情――」
「まだ義理人情をいうッか。卿(おまえ)は親よか妻(さい)が大事なッか。たわけめが。何いうと、妻、妻、妻ばかいいう、親をどうすッか。何をしても浪ばッかいいう。不孝者めが。勘当すッど」
武男は唇(くちびる)をかみて熱涙を絞りつつ「母(おっか)さん、それはあんまりです」
「何があんまいだ」
「私(わたくし)は決してそんな粗略な心は決して持っちゃいないです。母(おっか)さんにその心が届きませんか」
「そいならわたしがいう事をなぜきかぬ?エ?なぜ浪を離縁(じえん)せンッか」
「しかしそれは」
「しかしもねもンじゃ。さ、武男、妻(さい)が大事か、親が大事か。エ?家が大事?浪が――?――エエばかめ」
「はっしと火鉢をうちたる勢いに、煙管の羅宇(らう)はぽっきと折れ、雁首(がんくび)は空を飛んではたと襖(ふすま)を破りぬ。途端に「はッ」と襖のあなたに片唾(かたず)をのむ人の気(け)はいせしが、やがて震い声に「御免――遊ばせ」
「だれ?――何じゃ?」
「あの!電報が……」
襖開き、武男が電報をとりて見、小間使いが女主人(あるじ)の一睨(げい)に会いて半ば消え入りつつそこそこに去りしまで、わずか二分ばかりの間――ながら、この瞬間に二人(ふたり)が間の熱やや下(くだ)りて、しばらくは母子(おやこ)ともに黙然(もくねん)と相対しつ。雨はまたひとしきり滝のように降りそそぐ。
母はようやく口を開きぬ。目にはまだ怒りのひらめけども、語はどこやらに湿りを帯びたり。
「なあ、武どん。わたしがこういうも、何も卿(おまえ)のためわるかごとすっじゃなかからの。わたしにゃたッた一人(ひとり)の卿(おまえ)じゃ。卿(おまえ)に出世をさせて、丈夫な孫抱(で)えて見たかばかいがわたしの楽しみじゃからの」
黙然と考え入りし武男はわずかに頭(かしら)を上げつ。
「母(おっか)さん、とにかく私(わたくし)も」電報を示しつつ「この通り出発が急になッて、明日(あす)はおそくも帰艦せにゃならんです。一月ぐらいすると帰って来ます。それまではどうかだれにも今夜の話は黙っていてください。どんな事があっても、私(わたくし)が帰って来るまでは、待っていてください」

あくる日武男はさらに母の保証をとり、さらに主治医を訪(と)いて、ねんごろに浪子の上を託し、午後の汽車にて逗子(ずし)におりつ。
汽車を下(くだ)れば、日落ちて五日の月薄紫の空にかかりぬ。野川の橋を渡りて、一路の沙(すな)はほのぐらき松の林に入りつ。林をうがちて、桔槹(はねつるべ)の黒く夕空にそびゆるを望める時、思いがけなき爪音(つまおと)聞こゆ。「ああ琴をひいている……」と思えば心(しん)の臓をむしらるる心地(ここち)して、武男はしばし門外に涙(なんだ)をぬぐいぬ。今日は常よりも快かりしとて、浪子は良人(おっと)を待ちがてに絶えて久しき琴取り出(い)でて奏(かな)でしなりき。
顔色の常ならぬをいぶかられて、武男はただ夜ふかししゆえとのみ言い紛らしつ。約あれば待ちて居し晩餐(ばんさん)の卓(つくえ)に、浪子は良人(おっと)と対(むか)いしが、二人(ふたり)ともに食すすまず。浪子は心細さをさびしき笑(えみ)に紛らして、手ずから良人(おっと)のコートのボタンゆるめるをつけ直し、ブラシもて丁寧にはらいなどするうちに、終列車の時刻迫れば、今はやむなく立ち上がる武男の手にすがりて
「あなた、もういらッしゃるの?」
「すぐ帰ってくる。浪さんも注意して、よくなッていなさい」
互いにしっかと手を握りつ。玄関に出(い)づれば、姥(うば)のいくは靴(くつ)を直し、僕(ぼく)の茂平(もへい)は停車場(ステーション)まで送るとて手かばんを左手(ゆんで)に、月はあれど提燈(ちょうちん)ともして待ちたり。
「それじゃばあや、奥様を頼んだぞ。――浪さん、行って来るよ」
「早く帰ってちょうだいな」
うなずきて、武男は僕が照らせる提燈の光を踏みつつ門を出(い)でて十数歩、ふりかえり見れば、浪子は白き肩掛けを打ちきて、いくと門にたたずみ、ハンケチを打ちふりつつ「あなた、早く帰ってちょうだいな」
「すぐ帰って来る。――浪さん、夜気(やき)にうたれるといかん、早くはいンなさい!」
されど、二度三度ふりかえりし時は、白き姿の朦朧(もうろう)として見えたりしが、やがて路(みち)はめぐりてその姿も見えずなりぬ。ただ三たび
「早く帰ってちょうだいな」
という声のあとを慕うてむせび来るのみ。顧みれば片破月(かたわれづき)の影冷ややかに松にかかれり。 

 

七の一
「お帰り」の前触れ勇ましく、先刻玄関先に二人(にん)びきをおりし山木は、早湯に入りて、早咲きの花菖蒲(はなしょうぶ)の活(い)けられし床を後ろに、ふうわりとした座ぶとんにあぐらをかきて、さあこれからがようようこっちのからだになりしという風情(ふぜい)。欲には酌人(しゃくにん)がちと無意気(ぶいき)と思い貌(がお)に、しかし愉快らしく、妻(さい)のお隅(すみ)の顔じろりと見て、まず三四杯傾(かたぶ)くるところに、婢(おんな)が持(も)て来し新聞の号外ランプの光にてらし見つ。
「うう朝鮮か……東学党(とうがくとう)ますます猖獗(しょうけつ)……なに清国(しんこく)が出兵したと……。さあ大分(だいぶ)おもしろくなッて来たぞ。これで我邦(こっち)も出兵する――戦争(いくさ)になる――さあもうかるぜ。お隅、前祝いだ、卿(おまえ)も一つ飲め」
「あんた、ほんまに戦争(いくさ)になりますやろか」
「なるとも。愉快、愉快、実に愉快。――愉快といや、なあお隅、今日(きょう)ちょっと千々岩(ちぢわ)に会ったがの、例の一条も大分捗(はか)が行きそうだて」
「まあ、そうかいな。若旦那(だんな)が納得しやはったのかいな」
「なあに、武男さんはまだ帰って来ないから、相談も納得もありゃしないが、お浪さんがまた血を喀(は)いたンだ。ところで御隠居ももうだめだ、武男が帰らんうちに断行するといっているそうだ。も一度千々岩につッついてもらえば、大丈夫できる。武男さんが帰りゃなかなか断行もむずかしいからね、そこで帰らんうちにすっかり処置(かた)をつけてしまおうと御隠居も思っとるのだて。もうそうなりゃアこっちのものだ。――さ、御台所(みだいどころ)、お酌だ」
「お浪はんもかあいそうやな」
「お前もよっぽど変ちきな女だ。お豊(とよ)がかあいそうだからお浪さんを退(の)いてもらおうというかと思えば、もうできそうになると今度アお浪さんがかあいそう!そんなばかな事は中止(よし)として、今度はお豊を後釜(あとがま)に据える計略(ふんべつ)が肝心だ」
「でもあんた、留守にお浪はんを離縁して、武男はん――若旦那が承知しなはろまいがな、なああんた――」
「さあ、武男さんが帰ったら怒(おこ)るだろうが、離縁してしまッて置けば、帰って来てどう怒ってもしようがない。それに武男さんは親孝行(おやおもい)だから、御隠居が泣いて見せなさりア、まあ泣き寝入りだな。そっちはそれでよいとして、さて肝心要(かなめ)のお豊姫の一条だが、とにかく武男さんの火の手が少ししずまってから、食糧つきの行儀見習いとでもいう口実(おしだし)で、無理に押しかけるだな。なあに、むずかしいようでもやすいものさ。御隠居の機嫌(きげん)さえとりアできるこった。お豊がいよいよ川島男爵夫人になりア、彼女(あれ)は恋がかなうというものだし、おれはさしより舅役(しゅうとやく)で、武男さんはあんな坊ちゃんだから、川島家の財産はまずおれが扱ってやらなけりゃならん。すこぶる妙――いや妙な役を受け持って、迷惑じゃが、それはまあ仕方がないとして、さてお豊だがな」
「あんた、もう御飯(おまんま)になはれな」
「まあいいさ。取るとやるの前祝いだ。――ところでお豊だがの、卿(おまえ)もっと躾(しつけ)をせんと困るぜ。あの通り毎日駄々(だだ)をこねてばかりいちゃ、先方(あっち)行ってからが実際思われるぞ。観音様が姑(しゅうと)だッて、ああじゃ愛想(あいそ)をつかすぜ」
「それじゃてて、あんた、躾(しつけ)はわたしばかいじゃでけまへんがな。いつでもあんたは――」
「おっとその言い訳が拙者大きらいでござるて。はははははは。論より証拠、おれが躾をして見せる。さ、お豊をここに呼びなさい」 
七の二
「お嬢様、お奥でちょいといらッしゃいましッて」
と小間使いの竹が襖(ふすま)を明けて呼ぶ声に、今しも夕化粧を終えてまだ鏡の前を立ち去り兼ねしお豊は、悠々(ゆうゆう)とふりかえり
「あいよ。今行くよ。――ねエ竹や、ここンとこが」
と鬢(びん)をかいなでつつ「ちっとそそけちゃいないこと?」
「いいえ、ちっともそそけてはいませんよ。おほほほほ。お化粧(つくり)がよくできましたこと!ほほほほッ。ほれぼれいたしますよ」
「いやだよ、お世辞なんぞいッてさ」言いながらまた鏡をのぞいてにこりと笑う。
竹は口打ちおおいし袂(たもと)をとりて、片唾(かたず)を飲みつつ、
「お嬢様、お待ち兼ねでございますよ」
「いいよ、今行くよ」
ようやく思い切りし体(てい)にて鏡の前を離れつつ、ちょこちょこ走りに幾間(ま)か通りて、父の居間に入り行きたり。
「おお、お豊か。待っていた。ここへ来な来な。さ母(おっか)さんに代わって酌でもしなさい。おっと乱暴な銚子(ちょうし)の置き方をするぜ。茶の湯生け花のけいこまでした令嬢にゃ似合わンぞ。そうだそうだそう山形(やまがた)に置くものだ」
はや陶然と色づきし山木は、妻(さい)の留むるをさらに幾杯か重ねつつ「なあお隅(すみ)、お豊がこう化粧(おつくり)した所は随分別嬪(べっぴん)だな。色は白し――姿(なり)はよし。内(うち)じゃそうもないが、外に出りゃちょいとお世辞もよし。惜しい事には母(おっか)さんに肖(に)て少し反歯(そっぱ)だが――」
「あんた!」
「目じりをもう三分(ぶ)上げると女っぷりが上がるがな――」
「あんた!」
「こら、お豊何をふくれるのだ?ふくれると嬢(むすめ)っぷりが下がるぞ。何もそう不景気な顔をせんでもいい、なあお豊。卿(おまえ)がうれしがる話があるのだ。さあ話賃に一杯注(つ)げ注げ」
なみなみと注(つ)がせし猪口(ちょこ)を一息にあおりつつ、
「なあお豊、今も母(おっか)さんと話したことだが、卿(おまえ)も知っとるが、武男さんの事だがの――」
むなしき槽櫪(そうれき)の間に不平臥(ふてね)したる馬の春草の香(かんば)しきを聞けるごとく、お豊はふっと頭(かしら)をもたげて両耳を引っ立てつ。
「卿(おまえ)が写真を引っかいたりしたもんだからとうとう浪子さんも祟(たた)られて――」
「あんた!」お隅夫人は三たび眉(まゆ)をひそめつ。
「これから本題に入るのだ。とにかく浪子さんが病気(あんばい)が悪い、というンで、まあ離縁になるのだ。いいや、まだ先方に談判はせん、浪子さんも知らんそうじゃが、とにかく近いうちにそうなりそうなのだ。ところでそっちの処置(かた)がついたら、そろそろ後釜(あとがま)の売りつけ――いやここだて、おれも母(おっか)さんも卿(おまえ)をな、まあお浪さんのあとに入れたいと思っているのだ。いや、そうすぐ――というわけにも行くまいから、まあ卿(おまえ)を小間使い、これさ、そうびっくりせんでもいいわ、まあ候補生のつもりで、行儀見習いという名義で、川島家(あしこ)に入り込ますのだ。――御隠居に頼んで、ないいかい、ここだて――」
一息つきて、山木は妻(さい)と娘の顔をかれよりこれと見やりつ。
「ここだて、なお豊。少し早いようだが――いって聞かして置く事があるがの。卿(おまえ)も知っとる通り、あの武男さんの母(おっか)さん――御隠居は、評判の癇癪(かんしゃく)持ちの、わがまま者の、頑固(がんこ)の――おっと卿(おまえ)が母(おっか)さんを悪口(あっこう)しちゃ済まんがの――とにかくここにすわっておいでのこの母(おっか)さんのように――やさしくない人だて。しかし鬼でもない、蛇(じゃ)でもない、やっぱり人間じゃ。その呼吸さえ飲み込むと、鬼のよめでも蛇(じゃ)の女房にでもなれるものじゃ。なあに、あの隠居ぐらい、おれが女なら二日もそばへいりゃ豆腐のようにして見せる。――と自慢した所で、仕方ないが、実際あんな老人(としより)でも扱いようじゃ何でもないて。ところで、いいかい、お豊、卿(おまえ)がいよいよ先方へ、まあ小間使い兼細君候補生として入り込む時になると、第一今のようになまけていちゃならん、朝も早く起きて――老人(としより)は目が早くさめるものじゃ――ほかの事はどうでもいいとして、御隠居の用をよく達(た)すのだ。いいかい。第二にはだ、今のように何といえばすぐふくれるようじゃいけない、何でもかでも負けるのだ。いいかい。しかられても負ける、無理をいわれても負ける、こっちがよけりゃなお負ける、な。そうすると先方(むこう)で折れて来る、な、ここがよくいう負けて勝つのだ。決して腹を立っちゃいかん、よしか。それから第三にはだ、――これは少し早過ぎるが、ついでだからいっとくがの、無事に婚礼が済んだッて、いいかい、決して武男さんと仲がよすぎちゃいけない。何さ、内々はどうでもいいが、表面(おもてむき)の所をよく注意しなけりゃいけんぜ。姑御(しゅうとご)にはなれなれしくさ、なるたけ近くして、婿殿にゃ姑の前で毒にならんくらいの小悪口(わるくち)もつくくらいでなけりゃならぬ。おかしいもンで、わが子の妻(さい)だから夫婦仲がいいとうれしがりそうなもんじゃが、実際あまりいいと姑の方ではおもしろく思わぬ。まあ一種の嫉妬(しっと)――わがままだな。でなくも、あまり夫婦仲がいいと、自然姑の方が疎略になる――と、まあ姑の方では思うだな。浪子さんも一つはそこでやりそこなったかもしれぬ。仲がよすぎての――おッと、そう角が生(は)えそうな顔しちゃいけない、なあお豊、今いった負けるのはそこじゃぞ。ところで、いいかい、なるたけ注意して、この女(こ)は真(ほん)にわたしのよめだ、子息(せがれ)の妻(さい)じゃない、というように姑に感じさせなけりゃならん。姑 よめ(しゅうとよめ)のけんかは大抵この若夫婦の仲がよすぎて、姑に孤立の感を起こさすから起こるのが多いて。いいかい、卿(おまえ)は御隠居のよめだ、とそう思っていなけりゃならん。なあに御隠居が追っつけめでたくなったあとじゃ、武男さんの首ッ玉にかじりついて、ぶら下がッてあるいてもかまわンさ。しかし姑の前では、決して武男さんに横目でもつかっちゃならんぞ。まだあるが、それはいざ乗り込みの時にいって聞かす。この三か条はなかなか面倒じゃが、しかし卿(おまえ)も恋しい武男さんの奥方になろうというンじゃないか、辛抱が大事じゃぞ。明日(あす)といわずと今夜からそのけいこを始めるのだ」
言葉のうちに、襖(ふすま)開きて、小間使いの竹「御返事がいるそうでございます」
と一封の女筆(にょひつ)の手紙を差し出(いだ)しぬ。
封をひらきてすうと目を通したる山木は、手紙を妻(さい)と娘の目さきにひけらかしつつ
「どうだ、川島の御隠居からすぐ来てくれは!」 
七の三
武男が艦隊演習におもむける二週の後、川島家より手紙して山木を招ける数日前(すじつぜん)、逗子(ずし)に療養せる浪子はまた喀血(かっけつ)して、急に医師を招きつ。幸いにして喀血は一回にしてやみ、医師は当分事なかるべきを保証せしが、この報は少なからぬ刺激を武男が母に与えぬ。間(あわい)両三日を置きて、門を出(い)づることまれなる川島未亡人の尨大(ぼうだい)なる体(たい)は、飯田町(いいだまち)なる加藤家の門を入りたり。
離婚問題の母子(おやこ)の間に争われつるかの夜(よ)、武男が辞色の思うにましてはげしかりしを見たる母は、さすがにその請いに任せて彼が帰り来るまでは黙止(もだ)すべき約をばなしつれど、よしそれまでまてばとて武男が心は容易に移すべくもあらずして、かえって時たつほど彼の愛着のきずなはいよいよ絶ち難かるべく、かつ思いも寄らぬ障礙(しょうげ)の出(い)で来たるべきを思いしなり。さればその子のいまだ帰らざるに乗じて、早く処置をつけ置くのむしろ得策なるを思いしが、さりとてさすがにかの言質(ことじち)もありこの顧慮もまたなきにあらずして、その心はありながら、いまだ時々来てはあおる千々岩を満足さすほどの果断なる処置をばなさざるなり。浪子が再度喀血の報を聞くに及びて、母は決然としてかつて媒妁(ばいしゃく)をなしし加藤家を訪(と)いたるなり。
番町と飯田町といわば目と鼻の間に棲(す)みながら、いつなりしか媒妁の礼に来しよりほとんど顔を見せざりし川島未亡人が突然来訪せし事の尋常にあらざるべきを思いつつ、ねんごろに客間に請(しょう)ぜし加藤夫人もその話の要件を聞くよりはたと胸をつきぬ。そのかつて片岡川島両家を結びたる手もて、今やそのつなげる糸を絶ちくれよとは!
いかなる顔のいかなる口あればさる事は言わるるかと、加藤夫人は今さらのように客のようすを打ちながめぬ。見ればいつにかわらぬ肥満の体格、太き両手を膝(ひざ)の上に組みて、膚(はだえ)たゆまず、目まじろがず、口を漏るる薩弁(さつべん)の淀(よど)みもやらぬは、戯れにあらず、狂気せしにもあらで、まさしく分別の上と思えば、驚きはまた胸を衝(つ)く憤りにかわりつ。あまり勝手な言条(いいぶん)と、罵倒(ばとう)せんずる言(こと)のすでに咽(のど)もとまで出(い)でけるを、実の娘とも思う浪子が一生の浮沈の境と、わずかに飲み込みて、まず問いつ、また説きつ、なだめもし、請いもしつれど、わが事をのみ言い募る先方の耳にはすこしも入らで、かえってそれは入らぬ繰り言(ごと)、こっちの話を浪の実家(さと)に伝えてもらえば要は済むというふうの明らかに見ゆれば、話聞く聞く病める姪(めい)の顔、亡き妹(いもうと)――浪子の実母――の臨終、浪子が父中将の傷心、など胸のうちにあらわれ来たり乱れ去りて、情けなく腹立たしき涙のわれ知らず催し来たれる夫人はきっと容(かたち)をあらため、当家においては御両家の結縁(けちえん)のためにこそ御加勢もいたしつれ、さる不義非情の御加勢は決してできぬこと、良人(おっと)に相談するまでもなくその義は堅くお断わり、ときっぱりとはねつけつ。
忿然(ふんぜん)として加藤の門を出(い)でたる武男が母は、即夜手紙して山木を招きつ。(篤実なる田崎にてはらち明かずと思えるなり)。おりもおりとて主人の留守に、かつはまどい、かつは怒り、かつは悲しめる加藤子爵夫人と千鶴子と心を三方に砕きつつ、母はさ言えどいかにも武男の素意にあるまじと思うより、その乗艦の所在を糺(ただ)して至急の報を発せる間(ま)に、いらちにいらちし武男が母は早直接(じき)談判と心を決して、その使節を命ぜられたる山木の車はすでに片岡家の門にかかりしなり。 

 

八の一
山木が車赤坂氷川町(ひかわちょう)なる片岡中将の門を入れる時、あたかも英姿颯爽(さっそう)たる一将軍の栗毛(くりげ)の馬にまたがりつつ出(い)で来たれるが、車の駆け込みし響(おと)にふと驚きて、馬は竿立(さおだ)ちになるを、馬上の将軍は馬丁をわずらわすまでもなく、たづなを絞りて容易に乗り静めつつ、一回圏を画(えが)きて、戞々(かつかつ)と歩ませ去りぬ。
みごとの武者ぶりを見送りて、声(こわ)づくろいしていかめしき中将の玄関にかかれる山木は、幾多の権門をくぐりなれたる身の、常にはあるまじく胆(たん)落つるを覚えつ。昨夜川島家に呼ばれて、その使命を託されし時も、頭(かしら)をかきつるが、今現にこの場に臨みては彼は実に大なりと誇れる胆(きも)のなお小にして、その面皮のいまだ十分に厚からざるを憾(うら)みしなり。
名刺一たび入り、書生二たび出(い)でて、山木は応接間に導かれつ。テーブルの上には清韓(しんかん)の地図一葉広げられたるが、まだ清めもやらぬ火皿(ひざら)のマッチ巻莨(シガー)のからとともに、先座の話をほぼ想(おも)わしむ。げにも東学党の乱、清国出兵の報、わが出兵のうわさ、相ついで海内(かいだい)の注意一に朝鮮問題に集まれる今日(きょう)このごろは、主人中将も予備にこそおれおのずから事多くして、またかの英文読本を手にするの暇(いとま)あるべくも思われず。
山木が椅子(いす)に倚(よ)りて、ぎょろぎょろあたりをながめおる時、遠雷の鳴るがごとき足音次第に近づきて、やがて小山のごとき人はゆるやかに入りて主位につきぬ。山木は中将と見るよりあわてて起(た)てる拍子に、わがかけて居し椅子をば後ろざまにどうと蹴(け)倒しつ。「あっ、これは疎 そう(そそう)を」と叫びつつ、あわてて引き起こし、しかる後二つ三つ四つ続けざまに主人に向かいて叮重(ていちょう)に辞儀をなしぬ。今の疎忽(そこつ)のわびも交れるなるべし。
「さあ、どうかおかけください。あなたが山木君(さん)――お名は承知しちょったですが」
「はッ。これは初めまして……手前は山木兵造(ひょうぞう)と申す不調法者で(句ごとに辞儀しつ、辞儀するごとに椅子はききときしりぬ、仰せのごとくと笑えるように)……どうか今後ともごひいきを……」
避け得られぬ閑話の両三句、朝鮮のうわさの三両句――しかる後中将は言(ことば)をあらためて、山木に来意を問いつ。
山木は口を開かんとしてまず片唾(かたず)をのみ、片唾をのみてまた片唾をのみ、三たび口を開かんとしてまた片唾をのみぬ。彼はつねに誇るその流滑自在なる舌の今日に限りてひたと渋るを怪しめるなり。 
八の二
山木はわずかに口を開き、
「実は今日(こんにち)は川島家の御名代(ごみょうだい)でまかりいでましたので」
思いがけずといわんがごとく、主人の中将はその体格(がら)に似合わぬ細き目を山木が面(おもて)に注ぎつ。
「はあ?」
「実は川島の御隠居がおいでになるところでございますが――まあ私(わたくし)がまかりいでました次第で」
「なるほど」
山木はしきりににじみ出(い)づる額の汗押しぬぐいて「実は加藤様からお話を願いたいと存じましたンでございますが、少し都合もございまして――私(わたくし)がまかりいでました次第で」
「なるほど。で御要は?」
「その要と申しますのは、――申し兼ねますが、その実は川島家(あちら)の奥様浪子様――」
主人中将の目はまばたきもせずしばし話者(あなた)の面(おもて)を打ちまもりぬ。
「はあ?」
「その、浪子様(わかおくさま)でございますが、どうもかような事は実もって申し上げにくいお話でございますが、御承知どおりあの御病気につきましては、手前ども――川島でも、よほど心配をいたしまして、近ごろでは少しはお快い方(かた)ではございますが――まあおめでとうございますが――」
「なるほど」
「手前どもから、かような事は誠に申し上げられぬのでございますが、はなはだ勝手がましい申し条(ぶん)でございますが、実は御病気がらではございますし――御承知どおり川島の方でも家族と申しましても別にございませんし、男子と申してはまず当主の武男――様(さん)だけでございますンで、実は御隠居もよほど心配もいたしておりまして、どうも実もって申しにくい――いかにも身勝手な話でございますが、御病気が御病気で、その、万一伝染――まあそんな事もめったにございますまいが――しかしどちかと申しますとやはりその、その恐れもないではございませンので、その、万一武男――川島の主人に異変でもございますと、まあ川島家も断絶と申すわけで、その断絶いたしてもよろしいようなものでございますが、何分にもその、実もってどうもその、誠に済みませんがその、そこの所をその、御病気が御病気――」
言いよどみ言いそそくれて一句一句に額より汗を流せる山木が顔うちまもりて黙念と聞きいたる主人中将は、この時右手(めて)をあげ、
「よろしい。わかいました。つまり浪が病気が険呑(けんのん)じゃから、引き取ってくれと、おっしゃるのじゃな。よろしい。わかいました」
うなずきて、手もと近く燃えさがれる葉巻をテーブルの上なる灰皿にさし置きつつ、腕を組みぬ。
山木は踏み込めるぬかるみより手をとりて引き出されしように、ほっと息つきて、額上の汗をぬぐいつ。
「さようでございます。実もって申し上げにくい事でございますが、その、どうかそこの所をあしからず――」
「で、武男君はもう帰られたですな?」
「いや、まだ帰りませんでございますが、もちろんこれは同人(ほんにん)承知の上の事でございまして、どうかあしからずその――」
「よろしい」
中将はうなずきつ。腕を組みて、しばし目を閉じぬ。思いのほかにたやすくはこびけるよ、とひそかに笑坪(えつぼ)に入りて目をあげたる山木は、目を閉じ口を結びてさながら睡(ねぶ)れるごとき中将の相貌(かお)を仰ぎて、さすがに一種の畏(おそ)れを覚えつ。
「山木君(さん)」
中将は目をみひらきて、山木の顔をしげしげと打ちながめたり。
「はッ」
「山木君(さん)、あなたは子を持っておいでかな」
その問いの見当を定めかねたる山木はしきりに頭(かしら)を下げつつ「はッ。愚息(せがれ)が一人(ひとり)に――娘が一人でございまして、何分お引き立てを――」
「山木君(さん)、子というやつはかわい者(もの)じゃ」
「はッ?」
「いや、よろしい。承知しました。川島の御隠居にそういってください、浪は今日引き取るから、御安心なさい。――お使者(つかい)御苦労じゃった」
使命を全うせしをよろこぶか、さすがに気の毒とわぶるにか、五つ六つ七八つ続けざまに小腰を屈(かが)めて、どぎまぎ立ち上がる山木を、主人中将は玄関まで送り出して、帰り入る書斎の戸をばはたと閉(さ)したり。 

 

九の一
逗子の別荘にては、武男が出発後は、病める身の心細さやるせなく思うほどいよいよ長き日一日(ひまたひ)のさすがに暮らせば暮らされて、はや一月あまりたちたれば、麦刈り済みて山百合(やまゆり)咲くころとなりぬ。過ぐる日の喀血(かっけつ)に、一たびは気落ちしが、幸いにして医師(いしゃ)の言えるがごとくそのあとに著しき衰弱もなく、先日函館(はこだて)よりの良人(おっと)の書信(てがみ)にも帰来(かえり)の近かるべきを知らせ来つれば、よし良人を驚かすほどにはいたらぬとも、喀血の前ほどにはなりおらではと、自ら気を励まし浪子は薬用に運動に細かに医師(いしゃ)の戒めを守りて摂生しつつ、指を折りて良人の帰期を待ちぬ。さるにてもこの四五日、東京だよりのはたと絶え、番町の宅よりも、実家(さと)よりも、飯田町(いいだまち)の伯母(おば)よりすらも、はがき一枚来ぬことの何となく気にかかり、今しも日ながの手すさびに山百合を生くとて下葉(したば)を剪(はさ)みおれる浪子は、水さし持ちて入り来たりし姥(うば)のいくに
「ねエ、ばあや、ちょっとも東京のたよりがないのね。どうしたのだろう?」
「さようでございますねエ。おかわりもないンでございましょう。もうそのうちにはまいりましょうよ。こう申しておりますうちにどなたぞいらっしゃるかもわかりませんよ。――ほんとに何てきれいな花でございましょう、ねエ、奥様。これがしおれないうちに旦那(だんな)様がお帰り遊ばすとようございますのに、ねエ奥様」
浪子は手に持ちし山百合の花うちまもりつつ「きれい。でも、山に置いといた方がいいのね、剪(き)るのはかあいそうだわ!」
二人(ふたり)が問答の間(うち)に、一輛(りょう)の車は別荘の門に近づきぬ。車は加藤子爵夫人を載せたり。川島未亡人の要求をはねつけしその翌日、子爵夫人は気にかかるままに、要を託して車を片岡家に走らせ、ここに初めて川島家の使者が早くも直接談判に来たりて、すでに中将の承諾を得て去りたる由を聞きつ。武男を待つの企ても今はむなしくなりて、かつ驚きかつ嘆きしが、せめては姪(めい)の迎え(手放し置きて、それと聞かさば不慮の事の起こりもやせん、とにかく膝下(しっか)に呼び取って、と中将は慮(おもんばか)れるなり)にと、すぐその足にて逗子には来たりしなり。
「まあ。よく……ちょうど今うわさをしてましたの」
「本当によくまあ……いかがでございます、奥様、ばあやが言(こと)は当たりましてございましょう」
「浪さん、あんばいはどうです?もうあれから何も変わった事もないのかい?」
と伯母の目はちょっと浪子の面(おもて)をかすめて、わきへそれぬ。
「は、快方(いいほう)ですの。――それよりも伯母様はどうなすッたの。たいへんに顔色(おいろ)が悪いわ」
「わたしかい、何ね、少し頭痛がするものだから。――時候のせいだろうよ。――武男さんから便(たより)がありましたか、浪さん?」
「一昨日(おととい)、ね、函館から。もう近々(ちかぢか)に帰りますッて――いいえ、何日(なんち)という事は定(き)まらないのですよ。お土産(みや)があるなンぞ書いてありましたわ」
「そう?おそい――ねエ――もう――もう何時?二時だ、ね!」
「伯母様(さん)、何をそんなにそわそわしておいでなさるの?ごゆっくりなさいな。お千鶴(ちず)さんは?」
「あ、よろしくッて、ね」言いつついくが持(も)て来し茶を受け取りしまま、飲みもやらず沈吟(うちあん)じつ。
「どうぞごゆるりと遊ばせ。――奥様、ちょいとお肴(さかな)を見てまいりますから」
「あ、そうしておくれな」
伯母は打ち驚きたるように浪子の顔をちょっと見て、また目をそらしつつ
「およしな。今日はゆっくりされないよ。浪さん――迎えに来たよ」
「エ?迎え?」
「あ、おとうさまが、病気の事で医師(おいしゃ)と少し相談もあるからちょいと来るようにッてね、――番町の方でも――承知だから」
「相談?何でしょう」
「――病気の件(こと)ですよ、それからまた――おとうさんも久しく会わンからッてね」
「そうですの?」
浪子は怪訝(けげん)な顔。いくも不審議(ふしぎ)に思える様子。
「でも今夜(こんばん)はお泊まり遊ばすンでございましょう?」
「いいえね、あちでも――医師(いしゃ)も待ってたし、暮れないうちがいいから、すぐ今度の汽車で、ね」
「へエー!」
姥(ばあ)は驚きたるなり。浪子も腑(ふ)に落ちぬ事はあれど、言うは伯母なり、呼ぶは父なり、姑(しゅうと)は承知の上ともいえば、ともかくもいわるるままに用意をば整えつ。
「伯母様何を考え込んでいらッしゃるの?――看護婦は行かなくもいいでしょうね、すぐ帰るのでしょうから」
伯母は起(た)ちて浪子の帯を直し襟(えり)をそろえつつ「連れておいでなさいね、不自由ですよ」

四時ごろには用意成りて、三挺(ちょう)の車門に待ちぬ。浪子は風通御召(ふうつうおめし)の単衣(ひとえ)に、御納戸色繻珍(おなんどいろしゅちん)の丸帯して、髪は揚巻(あげまき)に山梔(くちなし)の花一輪、革色(かわいろ)の洋傘(かさ)右手(めて)につき、漏れ出(い)づるせきを白綾(しろあや)のハンカチにおさえながら、
「ばあや、ちょっと行って来るよ。あああ、久しぶりに帰京(かえ)るのね。――それから、あの――お単衣(ひとえ)ね、もすこしだけども――あ、いいよ、帰ってからにしましょう」
忍びかねてほろほろ落つる涙を伯母は洋傘(かさ)に押し隠しつ。  
九の二
運命の坑(あな)黙々として人を待つ。人は知らず識(し)らずその運命に歩む。すなわち知らずというとも、近づくに従うて一種冷ややかなる気(け)はいを感ずるは、たれもしかる事なり。
伯母の迎え、父に会うの喜びに、深く子細を問わずして帰京の途(みち)に上りし浪子は、車に上るよりしきりに胸打ち騒ぎつ。思えば思うほど腑(ふ)に落ちぬこと多く、ただ頭痛とのみ言い紛らしし伯母がようすのただならぬも深く蔵(かく)せる事のありげに思われて、問わんも汽車の内(うち)人の手前、それもなり難く、新橋に着くころはただこの暗き疑心のみ胸に立ち迷いて、久しぶりなる帰京の喜びもほとんど忘れぬ。
皆人のおりしあとより、浪子は看護婦にたすけられ伯母に従いてそぞろにプラットフォームを歩みつつ、改札口を過ぎける時、かなたに立ちて話しおれる陸軍士官の一人(ひとり)、ふっとこなたを顧みてあたかも浪子と目を見合わしつ。千々岩!彼は浪子の頭(かしら)より爪先(つまさき)まで一瞥(ひとめ)に測りて、ことさらに目礼しつつ――わらいぬ。その一瞥(いちべつ)、その笑いの怪しく胸にひびきて、頭(かしら)より水そそがれし心地(ここち)せし浪子は、迎えの馬車に打ち乗りしあとまで、病のゆえならでさらに悪寒(おかん)を覚えしなり。
伯母はもの言わず。浪子も黙しぬ。馬車の窓に輝きし夕日は落ちて、氷川町の邸(やしき)に着けば、黄昏(たそがれ)ほのかに栗(くり)の花の香(か)を浮かべつ。門の内外(うちそと)には荷車釣り台など見えて、脇(わき)玄関にランプの火光(あかり)さし、人の声す。物など運び入れしさまなり。浪子は何事のあるぞと思いつつ、伯母と看護婦にたすけられて馬車を下れば、玄関には婢(おんな)にランプとらして片岡子爵夫人たたずみたり。
「おお、これは早く。――御苦労さまでございました」と夫人の目は浪子の面(おもて)より加藤子爵夫人に走りつ。
「おかあさま、お変わりも……おとうさまは?」
「は、書斎に」
おりから「姉(ねえ)さまが来たよ姉さまが」と子供の声にぎやかに二人(ふたり)の幼弟妹(はらから)走り出(い)で来たりて、その母の「静かになさい」とたしなむるも顧みず、左右より浪子にすがりつ。駒子もつづいて出(い)で来たりぬ。
「おお道(みい)ちゃん、毅一(きい)さん。どうだえ?――ああ駒ちゃん」
道子はすがれる姉(あね)の袂(たもと)を引き動かしつつ「あたしうれしいわ、姉さまはもうこれからいつまでも此家(うち)にいるのね。お道具もすっかり来てよ」
はッと声もなし得ず、子爵夫人も、伯母も、婢(おんな)も、駒子も一斉に浪子の面(おもて)をうちまもりつ。
「エ?」
おどろきし浪子の目は継母の顔より伯母の顔をかすめて、たちまち玄関わきの室も狭しと積まれたるさまざまの道具に注ぎぬ。まさしく良人宅(うち)に置きたるわが箪笥(たんす)!長持ち!鏡台!
浪子はわなわなと震いつ。倒れんとして伯母の手をひしととらえぬ。
皆泣きつ。
重やかなる足音して、父中将の姿見え来たりぬ。
「お、おとうさま!!」
「おお、浪か。待って――いた。よく、帰ってくれた」
中将はその大いなる胸に、わなわなと震う浪子をばかき抱(いだ)きつ。
半時の後、家の内(うち)しんとなりぬ。中将の書斎には、父子(おやこ)ただ二人、再び帰らじと此家(ここ)を出(い)でし日別れの訓戒(いましめ)を聞きし時そのままに、浪子はひざまずきて父の膝(ひざ)にむせび、中将は咳(せ)き入る女(むすめ)の背(せな)をおもむろになでおろしつ。  

 

「号外!号外!朝鮮事件の号外!」と鈴(りん)の音のけたたましゅう呼びあるく新聞売り子のあとより、一挺(ちょう)の車がらがらと番町なる川島家の門に入りたり。武男は今しも帰り来たれるなり。
武男が帰らば立腹もすべけれど、勝ちは畢竟(ひっきょう)先(せん)の太刀(たち)、思い切って武男が母は山木が吉報をもたらし帰りしその日、善は急げとよめが箪笥(たんす)諸道具一切を片岡家に送り戻し、ちと殺生ではあったれど、どうせそのままには置かれぬ腫物(はれもの)、切ってしまって安心とこの二三日近ごろになき好機嫌(こうきげん)のそれに引きかえて、若夫婦方(がた)なる僕婢(めしつかい)は気の毒とも笑止ともいわん方(かた)なく、今にもあれ旦那(だんな)がお帰りなさらば、いかに孝行の方(かた)とて、なかなか一通りでは済むまじとはらはら思っていたりしその武男は今帰り来たれるなり。加藤子爵夫人が急を報ぜしその書は途中に往(ゆ)き違いて、もとより母はそれと言い送らねば、知る由もなき武男は横須賀(よこすか)に着きて暇(いとま)を得(う)るやいな急ぎ帰り来たれるなり。
今奥より出(い)で来たりし仲働きは、茶を入れおりし小間使いを手招き、
「ねエ松ちゃん。旦那さまはちっともご存じないようじゃないか。奥様にお土産(みやげ)なんぞ持っていらッしたよ」
「ほんとにしどいね。どこの世界に、旦那の留守に奥様を離縁しちまう母(おっか)さんがあるものかね。旦那様の身になっちゃア、腹も立つはずだわ。鬼婆(ばば)め」
「あれくらいいやな婆(ばば)っちゃありゃしない。けちけちの、わからずやの、人をしかり飛ばすがおやくめだからね、なんにもご存じなしのくせにさ。そのはずだよ、ねエ、昔は薩摩(さつま)でお芋(いも)を掘ってたンだもの。わたしゃもうこんな家(うち)にいるのが、しみじみいやになッちゃった」
「でも旦那様も旦那様じゃないか。御自分の奥様が離縁されてしまうのもちょっとも知らんてえのは、あんまり七月のお槍(やり)じゃないかね」
「だッて、そらア無理ゃないわ。遠方にいらっしたンだもの。だれだって、下女(おんな)じゃあるまいし、肝心な子息(むすこ)に相談もしずに、さっさとよめを追い出してしまおうた思わないわね。それに旦那様もお年が若いからねエ。ほんとに旦那様もおかあいそう――奥様はなおおかあいそうだわ。今ごろはどうしていらッしゃるだろうねエ。ああいやだ――ほウら、婆(ばば)あが怒鳴りだしたよ。松ちゃんせッせとしないと、また八つ当たりでおいでるよ」
奥の一間には母子の問答次第に熱しつ。
「だッて、あの時あれほど申し上げて置いたです。それに手紙一本くださらず、無断で――実にひどいです。実際ひどいです。今日もちょいと逗子に寄って来ると、浪はおらんでしょう、いくに尋ねると何か要があって東京に帰ったというです。変と思ったですが、まさか母(おっか)さんがそんな事を――実にひどい――」
「それはわたしがわるかった。わるかったからこの通り親がわびをしておるじゃなッかい。わたしじゃッて何も浪が悪(にく)かというじゃなし、卿(おまえ)がかあいいばッかいで――」
「母(おっか)さんはからだばッかり大事にして、名誉も体面も情もちょっとも思ってくださらんのですな。あんまりです」
「武男、卿(おまえ)はの、男かい。女じゃあるまいの。親にわび言(ごと)いわせても、やっぱい浪が恋しかかい。恋しかかい。恋しかか」
「だッて、あんまりです、実際あんまりです」
「あんまいじゃッて、もう後(あと)の祭(まつい)じゃなッか。あっちも承知して、きれいに引き取ったあとの事じゃ。この上どうすッかい。女々(めめ)しか事をしなはッと、親の恥ばッかいか、卿(おまえ)の男が立つまいが」
黙然(もくねん)と聞く武男は断(き)れよとばかり下くちびるをかみつ。たちまち勃然(ぼつねん)と立ち上がって、病妻にもたらし帰りし貯林檎(かこいりんご)の籠(かご)をみじんに踏み砕き、
「母(おっか)さん、あなたは、浪を殺し、またそのうえにこの武男をお殺しなすッた。もうお目にかかりません」

武男は直ちに横須賀なる軍艦に引き返しぬ。
韓山(かんざん)の風雲はいよいよ急に、七月(げつ)の中旬廟堂(びょうどう)の議はいよいよ清国(しんこく)と開戦に一決して、同月十八日には樺山(かばやま)中将新たに海軍軍令部長に補せられ、武男が乗り組める連合艦隊旗艦松島号は他の諸艦を率いて佐世保に集中すべき命を被(こうむ)りつ。捨てばちの身は砲丸の的(まと)にもなれよと、武男はまっしぐらに艦(ふね)とともに西に向かいぬ。

片岡陸軍中将は浪子の帰りしその翌日より、自らさしずして、邸中の日あたりよく静かなるあたりをえらびて、ことに浪子のために八畳一間六畳二間四畳一間の離家(はなれ)を建て、逗子より姥(うば)のいくを呼び寄せて、浪子とともにここに棲(す)ましつ。九月にはいよいよ命ありて現役に復し、一夕(せき)夫人繁子(しげこ)を書斎に呼びて懇々浪子の事を託したる後、同十三日大纛(だいとう)に扈従(こしょう)して広島大本営におもむき、翌月さらに大山大将(おおやまたいしょう)山路(やまじ)中将と前後して遼東(りょうとう)に向かいぬ。
われらが次を逐(お)うてその運命をたどり来たれる敵も、味方も、かの消魂も、この怨恨(えんこん)も、しばし征清(せいしん)戦争の大渦に巻き込まれつ。 
下編

 

一 
一の一
明治二十七年九月十六日午後五時、わが連合艦隊は戦闘準備を整えて大同江口(だいどうこうこう)を発し、西北に向かいて進みぬ。あたかも運送船を護して鴨緑江口(おうりょっこうこう)付近に見えしという敵の艦隊を尋ねいだして、雌雄を一戦に決せんとするなり。
吉野(よしの)を旗艦として、高千穂(たかちほ)、浪速(なにわ)、秋津洲(あきつしま)の第一遊撃隊、先鋒(せんぽう)として前にあり。松島を旗艦として千代田(ちよだ)、厳島(いつくしま)、橋立(はしだて)、比叡(ひえい)、扶桑(ふそう)の本隊これに続(つ)ぎ、砲艦赤城(あかぎ)及び軍(いくさ)見物と称する軍令部長を載せし西京丸(さいきょうまる)またその後ろにしたがいつ。十二隻の艨艟(もうどう)一縦列をなして、午後五時大同江口を離れ、伸びつ縮みつ竜のごとく黄海の潮(うしお)を巻いて進みぬ。やがて日は海に入りて、陰暦八月十七日の月東にさし上り、船は金波銀波をさざめかして月色(げっしょく)のうちをはしる。
旗艦松島の士官次室(ガンルーム)にては、晩餐(ばんさん)とく済みて、副直その他要務を帯びたるは久しき前に出(い)で去りたれど、なお五六人の残れるありて、談まさに興に入れるなるべし。舷窓(げんそう)をば火光(あかり)を漏らさじと閉ざしたれば、温気内(うち)にこもりて、さらぬだに血気盛りの顔はいよいよ紅(くれない)に照れり。テーブルの上には珈琲碗(かひわん)四つ五つ、菓子皿はおおむねたいらげられて、ただカステーラの一片がいづれの少将軍に屠(ほふ)られんかと兢々(きょうきょう)として心細げに横たわるのみ。
「陸軍はもう平壌(へいじょう)を陥(おと)したかもしれないね」と短小精悍(せいかん)とも言いつべき一少尉は頬杖(ほおづえ)つきたるまま一座を見回したり。「しかるにこっちはどうだ。実に不公平もまたはなはだしというべしじゃないか」
でっぷりと肥えし小主計は一隅(いちぐう)より莞爾(かんじ)と笑いぬ。「どうせ幕が明くとすぐ済んでしまう演劇(しばい)じゃないか。幕合(まくあい)の長いのもまた一興だよ」
「なんて悠長(ゆうちょう)な事を言うから困るよ。北洋艦隊(ぺいやん)相手の盲捉戯(めくらおにご)ももうわが輩はあきあきだ。今度もかけちがいましてお目にかからんけりゃ、わが輩は、だ、長駆渤海(ぼっかい)湾に乗り込んで、太沽(ターク)の砲台に砲丸の一つもお見舞い申さんと、堪忍袋(かんにんぶくろ)がたまらん」
「それこそ袋のなかに入るも同然、帰路を絶たれたらどうです?」まじめに横槍(よこやり)を入るるは候補生の某なり。
「何、帰路を絶つ?望む所だ。しかし悲しいかな君の北洋艦隊はそれほど敏捷(びんしょう)にあらずだ。あえてけちをつけるわけじゃないが、今度も見参はちとおぼつかないね。支那人の気の長いには実に閉口する」
おりから靴音の近づきて、たけ高き一少尉入り口に立ちたり。
短小少尉はふり仰ぎ「おお航海士、どうだい、なんにも見えんか」
「月ばかりだ。点検が済んだら、すべからく寝て鋭気を養うべしだ」言いつつ菓子皿に残れるカステーラの一片を頬(ほお)ばり「むむ、少し……甲板(かんぱん)に出ておると……腹が減るには驚く。――従卒(ボーイ)、菓子を持って来い」
「君も随分食うね」と赤きシャツを着たる一少尉は微笑(ほほえ)みつ。
「借問(しゃもん)す君はどうだ。菓子を食って老人組を罵倒(ばとう)するは、けだしわが輩士官次室(ガンルーム)の英雄の特権じゃないか。――どうだい、諸君、兵はみんな明日(あす)を待ちわびて、目がさえて困るといってるぞ。これで失敗があったら実に兵の罪にあらず、――の罪だ」
「わが輩は勇気については毫(ごう)も疑わん。望む所は沈勇、沈勇だ。無手法(むてっぽう)は困る」というはこの仲間にての年長なる甲板士官(メート)。
「無手法といえば、○番分隊士は実に驚くよ」と他の一人(にん)はことばをさしはさみぬ。「勉励も非常だが、第一いかに軍人は生命(いのち)を愛(お)しまんからッて、命の安売りはここですと看板もかけ兼ねん勢いはあまりだと思うね」
「ああ、川島か、いつだッたか、そうそう、威海衛砲撃の時だッてあんな険呑(けんのん)な事をやったよ。川島を司令長官にしたら、それこそ三番分隊士(さんばん)じゃないが、艦隊を渤海湾に連れ込んで、太沽(ターク)どころじゃない、白河(ペイホー)をさかのぼって李(リー)のおやじを生けどるなんぞ言い出すかもしれん」
「それに、ようすが以前(まえ)とはすっかり違ったね。非常に怒(おこ)るよ。いつだッたか僕が川島男爵夫人(バロネスかわしま)の事についてさ、少しからかいかけたら、まっ黒に怒って、あぶなく鉄拳(てっけん)を頂戴(ちょうだい)する所さ。僕は鎮遠の三十サンチより実際○番分隊士の一拳を恐るるね。はははは何か子細があると思うが、赤襯衣(ガリバルジー)君、君は川島と親しくするから恐らく秘密を知っとるだろうね」
と航海士はガリバルジーといわれし赤シャツ少尉の顔を見たり。
おりから従卒(ボーイ)のうずたかく盛れる菓子皿持ち来たりて、士官次室(ガンルーム)の話はしばし腰斬(ようざん)となりぬ。 
一の二
夜十時点検終わり、差し当たる職務なきは臥(ふ)し、余はそれぞれ方面の務めに就(つ)き、高声火光を禁じたれば、上(じょう)甲板も下(げ)甲板も寂(せき)としてさながら人なきようになりぬ。舵手(だしゅ)に令する航海長の声のほかには、ただ煙突の煙(けぶり)のふつふつとして白く月にみなぎり、螺旋(スクルー)の波をかき、大いなる心臓のうつがごとく小止(おや)みなき機関の響きの艦内に満てるのみ。
月影白き前艦橋に、二個の人影(じんえい)あり。その一は艦橋の左端に凝立して動かず。一は靴音静かに、墨より黒き影をひきつつ、五歩にして止(とど)まり、十歩にして返る。
こは川島武男なり。この艦(ふね)の○番分隊士として、当直の航海長とともに、副直の四時間を艦橋に立てるなり。
彼は今艦橋の右端に達して、双眼鏡をあげつ、艦の四方を望みしが、見る所なきもののごとく、右手(めて)をおろして、左手(ゆんで)に欄干を握りて立ちぬ。前部砲台の方(かた)より士官二人(ふたり)、低声(こごえ)に相語りつつ艦橋の下を過ぎしが、また陰の暗きに消えぬ。甲板の上寂(せき)として、風冷ややかに、月はいよいよ冴(さ)えつ。艦首にうごめく番兵の影を見越して、海を望めば、ただ左舷(さげん)に淡き島山と、見えみ見えずみ月光のうちを行く先艦秋津洲(あきつしま)をのみ隈(くま)にして、一艦のほか月に白(しら)める黄海の水あるのみ。またひとしきり煙に和して勢いよく立ち上る火花の行くえを目送(みおく)れば、大檣(たいしょう)の上高く星を散らせる秋の夜の空は湛(たた)えて、月に淡き銀河一道、微茫(びぼう)として白く海より海に流れ入る。

月は三たびかわりぬ。武男が席を蹴(け)って母に辞したりしより、月は三たび移りぬ。
この三月の間(ま)に、彼が身生はいかに多様の境界(きょうがい)を経来たりしぞ。韓山の風雲に胸をおどらし、佐世保の湾頭には「今度この節国のため、遠く離れて出(い)でて行く」の離歌に腸(はらわた)を断ち、宣戦の大詔に腕を扼(とりしば)り、威海衛の砲撃に初めて火の洗礼を授けられ、心をおどろかし目を驚かすべき事は続々起こり来たりて、ほとんど彼をして考うるの暇(いとま)なからしめたり。多謝す、これがために武男はその心をのみ尽くさんとするあるものをば思わずして、わずかにわれを持したるなりき。この国家の大事に際しては、渺(びょう)たる滄海(そうかい)の一粟(ぞく)、自家(われ)川島武男が一身の死活浮沈、なんぞ問うに足らんや。彼はかく自ら叱(しっ)し、かの痛をおおうてこの職分の道に従い、絶望の勇をあげて征戦の事に従えるなり。死を彼は真に塵(ちり)よりも軽く思えり。
されど事もなき艦橋の上の夜(よ)、韓海の夏暑くしてハンモックの夢結び難き夜(よ)は、ともすれば痛恨潮(うしお)のごとくみなぎり来たりて、丈夫(ますらお)の胸裂けんとせしこと幾たびぞ。時はうつりぬ。今はかの当時、何を恥じ、何を憤(いか)り、何を悲しみ、何を恨むともわかち難き感情の、腸(はらわた)に沸(たぎ)りし時は過ぎて、一片の痛恨深く痼(こ)して、人知らずわが心を蝕(くら)うのみ。母はかの後二たび書を寄せ物を寄せてつつがなく帰り来たるの日を待つと言い送りぬ。武男もさすがに老いたる母の膝下(しっか)さびしかるべきを思いては、かの時の過言を謝して、その健康を祈る由書き送りぬ。されど解きても融(と)け難き一塊の恨みは深く深く胸底に残りて、彼が夜々ハンモックの上に、北洋艦隊の殲滅(せんめつ)とわが討死(うちじに)の夢に伴なうものは、雪白(せっぱく)の肩掛(ショール)をまとえる病めるある人の面影(おもかげ)なりき。
消息絶えて、月は三たび移りぬ。彼女なお生きてありや、なしや。生きてあらん。わが忘るる日なきがごとく、彼も思わざるの日はなからん。共に生き共に死なんと誓いしならずや。
武男はかく思いぬ。さらに最後に相見し時を思いぬ。五日の月松にかかりて、朧々(ろうろう)としたる逗子の夕べ、われを送りて門(かど)に立ち出(い)で、「早く帰ってちょうだい」と呼びし人はいずこぞ。思い入りてながむれば、白き肩掛(ショール)をまとえる姿の、今しも月光のうちより歩み出(い)で来たらん心地(ここち)すなり。
明日(あす)にもあれ、首尾よく敵の艦隊に会して、この身砲弾の的(まと)にもならば、すべて世は一場(じょう)の夢と過ぎなん、と武男は思いぬ。さらにその母を思いぬ。亡(な)き父を思いぬ。幾年前江田島にありける時を思いぬ。しこうして心は再び病める人の上に返りて

「川島君」
肩をたたかれて、打ち驚きたる武男は急に月に背(そむ)きつ。驚かせしは航海長なり。
「実にいい月じゃないか。戦争(いくさ)に行くとは思われんね」
打ちうなずきて、武男はひそかに涙(なんだ)をふり落としつつ双眼鏡をあげたり。月白うして黄海、物のさえぎるなし。 
一の三
月落ち、夜(よ)は紫に曙(あ)けて、九月十七日となりぬ。午前六時を過ぐるころ、艦隊はすでに海洋島(とう)の近くに進みて、まず砲艦赤城(あかぎ)を島の彖登湾に遣(つか)わして敵の有無を探らしめしが、湾内むなしと帰り報じつ。艦隊さらに進航を続けて、大(だい)、小鹿島(しょうろくとう)を斜めに見つつ大孤山沖にかかりぬ。
午前十一時武男は要ありて行きし士官公室(ワートルーム)を出(い)でてまさに艙口(ハッチ)にかからんとする時、上甲板に声ありて、
「見えたッ!」
同時に靴音の忙(いそが)わしく走(は)せ違うを聞きつ。心臓の鼓動とともに、艙梯(そうてい)に踏みかけたる足ははたと止まりぬ。あたかも梯下(ていか)を通りかかりし一人の水兵も、ふッと立ち止まりて武男と顔見合わしたり。
「川島分隊士、敵艦が見えましたか」
「おう、そうらしい」
言いすてて武男は乱れうつ胸をいたずらにおし静めつつ足早に甲板に上れば、人影(じんえい)走(は)せ違い、呼笛(ふえ)鳴り、信号手は忙わしく信号旗を引き上げおり、艦首には水兵多くたたずみ、艦橋の上には司令長官、艦長、副長、参謀、諸士官、いずれも口を結び目を据えて、はるかに艦外の海を望みおるなり。その視線を趁(お)うて望めば、北の方(かた)黄海の水、天と相合うところに当たりて、黒き糸筋のごとくほのかに立ち上るもの、一、二、三、四、五、六、七、八、九条また十条。
これまさしく敵の艦隊なり。
艦橋の上に立つ一将校袂(たもと)時計を出(いだ)し見て「一時間半は大丈夫だ。準備ができたら、まず腹でもこしらえて置くですな」
中央に立ちたる一人(ひとり)はうなずき「お待ち遠様。諸君、しっかり頼みますぞ」と言い終わりて髯(ひげ)をひねりつ。
やがて戦闘旗ゆらゆらと大檣(たいしょう)の頂(いただき)高く引き揚げられ、数声のラッパは、艦橋より艦内くまなく鳴り渡りぬ。配置につかんと、艦内に行きかう人の影織るがごとく、檣楼に上る者、機関室に下る者、水雷室に行く者、治療室に入る者、右舷(うげん)に行き、左舷に行き、艦尾に行き、艦橋に上り、縦横に動ける局部の作用たちまち成るを告げて、戦闘の準備は時を移さず整いぬ。あたかも午時(ごじ)に近くして、戦わんとしてまず午餐(ごさん)の令は出(い)でたり。
分隊長を助け、部下の砲員を指揮して手早く右舷速射砲の装填(そうてん)を終わりたる武男は、ややおくれて、士官次室(ガンルーム)に入れば、同僚皆すでに集まりて、箸(はし)下り皿(さら)鳴りぬ。短小少尉はまじめになり、甲板士官(メート)はしきりに額の汗をぬぐいつつうつむきて食らい、年少(としした)の候補生はおりおり他の顔をのぞきつつ、劣らじと皿をかえぬ。たちまち箸をからりと投げて立ちたるは赤シャツ少尉なり。
「諸君、敵を前に控えて悠々(ゆうゆう)と午餐(ひるめし)をくう諸君の勇気は――立花宗茂(たちばなむねしげ)に劣らずというべしだ。お互いにみんなそろって今日(きょう)の夕飯を食うや否やは疑問だ。諸君、別れに握手でもしようじゃないか」
いうより早く隣席にありし武男が手をば無手(むず)と握りて二三度打ちふりぬ。同時に一座は総立ちになりて手を握りつ、握られつ、皿は二個三個からからとテーブルの下に転(まろ)び落ちたり。左頬(さきょう)にあざある一少尉は少軍医の手をとり、
「わが輩が負傷したら、どうかお手柔らかにやってくれたまえ。その賄賂(わいろ)だよ、これは」
と四五度も打ちふりぬ。からからと笑える一座は、またたちまちまじめになりつ。一人去り、二人去りて、果てはむなしき器皿(きべい)の狼藉(ろうぜき)たるを留(とど)むるのみ。
零時二十分、武男は、分隊長の命を帯び、副艦長に打ち合わすべき事ありて、前艦橋に上れば、わが艦隊はすでに単縦陣を形づくり、約四千メートルを隔てて第一遊撃隊の四艦はまっ先に進み、本隊の六艦はわが松島を先登としてこれにつづき、赤城西京丸は本隊の左舷に沿うてしたがう。
仰ぎ見る大檣(たいしょう)の上高く戦闘旗は碧空(へきくう)に羽(は)たたき、煙突の煙(けぶり)まっ黒にまき上り、舳(へさき)は海を劈(さ)いて白波(はくは)高く両舷にわきぬ。将校あるいは双眼鏡をあげ、あるいは長剣の柄(つか)を握りて艦橋の風に向かいつつあり。
はるかに北方の海上を望めば、さきに水天の間に一髪の浮かめるがごとく見えし煙は、一分一分に肥え来たりて、敵の艦隊さながら海中よりわき出(い)づるごとく、煙まず見え、ついで針大(はりだい)の檣(ほばしら)ほの見え、煙突見え、艦体見え、檣頭の旗影また点々として見え来たりぬ。ひときわすぐれて目立ちたる定遠(ていえん)鎮遠(ちんえん)相連(あいなら)んで中軍を固め、経遠(けいえん)至遠(しえん)広甲(こうこう)済遠(さいえん)は左翼、来遠(らいえん)靖遠(せいえん)超勇(ちょうゆう)揚威(ようい)は右翼を固む。西に当たってさらに煙(けぶり)の見ゆるは、平遠(へいえん)広丙(こうへい)鎮東(ちんとう)鎮南(ちんなん)及び六隻の水雷艇なり。
敵は単横陣を張り、我艦隊は単縦陣をとって、敵の中央(まなか)をさして丁字形に進みしが、あたかも敵陣を距(さ)る一万メートルの所に至りて、わが先鋒隊(せんぽうたい)はとっさに針路を左に転じて、敵の右翼をさしてまっしぐらに進みつ。先鋒の左に転ずるとともに、わが艦隊は竜(りゅう)の尾をふるうごとくゆらゆらと左に動いて、彼我の陣形は丁字一変して八字となり、彼は横に張り、われは斜めにその右翼に向かいて、さながら一大コンパス形(けい)をなし、彼進み、われ進みて、相距(さ)る六千メートルにいたりぬ。この時敵陣の中央に控えたる定遠艦首の砲台に白煙むらむらと渦まき起こり、三十サンチの両弾丸空中に鳴りをうってわが先鋒隊の左舷の海に落ちたり。黄海の水驚いて倒(さかしま)に立ちぬ。 
一の四
黄海!昨夜月を浮かべて白く、今日もさりげなく雲をひたし、島影を載せ、睡鴎(すいおう)の夢を浮かべて、悠々(ゆうゆう)として画(え)よりも静かなりし黄海は、今修羅場(しゅらじょう)となりぬ。
艦橋をおりて武男は右舷速射砲台に行けば、分隊長はまさに双眼鏡をあげて敵の方(かた)を望み、部下の砲員は兵曹(へいそう)以下おおむねジャケットを脱ぎすて、腰より上は臂(ひじ)ぎりのシャツをまといて潮風に黒める筋太の腕をあらわし、白木綿(しろもめん)もてしっかと腹部を巻けるもあり。黙して号令を待ち構えつ。この時わが先鋒隊は敵の右翼を乱射しつつすでに敵前を過ぎ終わらんとし、わが本隊の第一に進める松島は全速力をもって敵に近づきつつあり。双眼鏡をとってかなたを望めば、敵の中央を堅めし定遠鎮遠はまっ先にぬきんでて、横陣やや鈍角をなし、距離ようやく縮まりて二艦の形状(かたち)は遠目にも次第にあざやかになり来たりぬ。卒然として往年かの二艦を横浜の埠頭(ふとう)に見しことを思い出(い)でたる武男は、倍の好奇心もて打ち見やりつ。依然当時の二艦なり。ただ、今は黒煙をはき、白波(はくは)をけり、砲門を開きて、咄々(とつとつ)来たってわれに迫らんとするさまの、さながら悪獣なんどの来たり向こうごとく、恐るるとにはあらで一種やみ難き嫌厭(けんえん)を憎悪(ぞうお)の胸中にみなぎり出(い)づるを覚えしなり。
たちまち海上はるかに一声の雷(らい)とどろき、物ありグーンと空中に鳴りをうって、松島の大檣(たいしょう)をかすめつつ、海に落ちて、二丈ばかり水をけ上げぬ。武男は後頂より脊髄(せきずい)を通じて言うべからざる冷気の走るを覚えしが、たちまち足を踏み固めぬ。他はいかにと見れば、砲尾に群がりし砲員の列一たびは揺らぎて、また動かず。艦いよいよ進んで、三個四個五個の敵弾つづけざまに乱れ飛び、一は左舷につりし端艇を打ち砕き、他はすべて松島の四辺に水柱をけ立てつ。
「分隊長、まだですか」こらえ兼ねたる武男は叫びぬ。時まさに一時を過ぎんとす。「四千メートル」の語は、あまねく右舷及び艦の首尾に伝わりて、照尺整い、牽索(けんさく)握られつ。待ち構えたる一声のラッパ鳴りぬ。「打てッ!」の号令とともに、わが三十二サンチ巨砲を初め、右舷側砲一斉に第一弾を敵艦にほとばしらしつ。艦は震い、舷にそうて煙おびただしく渦まき起こりぬ。
あたかもその答礼として、定遠鎮遠のいずれか放ちたる大弾丸すさまじく空にうなりて、煙突の上二寸ばかりかすめて海に落ちたり。砲員の二三は思わず頭(かしら)を下げぬ。
分隊長顧みて「だれだ、だれだ、お辞儀をするのは?」
武男を初め候補生も砲員もどっと笑いつ。
「さあ、打てッ!しっかり、しっかり――打てッ!」
右舷側砲は連(つる)べ放(う)ちにうち出しぬ。三十二サンチ巨砲も艦を震わして鳴りぬ。後続の諸艦も一斉にうち出しぬ。たちまち敵のうちたる時限弾の一個は、砲台近く破裂して、今しも弾丸を砲尾に運びし砲員の一人武男が後ろにどうと倒れつ。起き上がらんとして、また倒れ、血はさっとほとばしりてしたたかに武男がズボンにかかりぬ。砲員の過半はそなたを顧みつ。
「だれだ?だれだ?」
「西山じゃないか、西山だ、西山だ」
「死んだか」
「打てッ!」分隊長の声鳴りて、砲員皆砲に群がりつ。
武男は手早く運搬手に死者を運ばし、ふりかえってその位置に立たんとすれば、分隊長は武男がズボンに目をつけ
「川島君、負傷じゃないか」
「なあに、今のとばしるです」
「おおそうか。さあ、今の仇(かたき)を討ってやれ」
砲は間断なく発射し、艦は全速力をもてはしる。わが本隊は敵の横陣に対して大いなる弧をえがきつつ、かつ射かつ駛(は)せて、一時三十分過ぎにはすでに敵を半周してその右翼を回り、まさに敵の背後(うしろ)に出(い)でんとす。
第一回の戦い終わりて、第二回の戦いこれより始まらんとすなり。松島の右舷砲しばし鳴りを静めて、諸士官砲員淋漓(りんり)たる汗をぬぐいぬ。
この時彼我の陣形を見れば、わが先鋒隊はいち早く敵の右翼を乱射して、超勇揚威を戦闘力なきまでに悩ましつつ、一回転して本隊と敵の背後を撃たんとし、わが本隊のうち比叡(ひえい)は速力劣れるがため本隊に続行するあたわずして、大胆にもひとり敵陣の中央を突貫し、死戦して活路を開きしが、火災のゆえに圏外に去り、西京丸また危険をのがれて圏外に去らんとし、敵前に残されし赤城は六百トンの小艦をもって独力奮闘重囲(ちょうい)を衝(つ)いて、比叡のあとをおわんとす。しかして先鋒の四艦と、本隊の五艦とは、整々として列を乱さず。
敵(てき)の方(かた)を望めば、超勇焼け、揚威戦闘力を失して、敵の右翼乱れ、左翼の三艦は列を乱してわが比叡赤城を追わんとし、その援軍水雷艇は隔離して一辺にあり。しかして定遠鎮遠以下数艦は、わがその背後に回らんとするより、急に舳(へさき)をめぐらして縦陣に変じつつ、けなげにもわが本隊に向かい来たる。
第二回の戦いは今や始まりぬ。わが本隊は西京丸が掲げし「赤城比叡危険」の信号を見るより、速力大なる先鋒隊の四艦を遣(つか)わして、赤城比叡を尾(び)する敵の三艦を追い払わせつつ、一隊五艦依然単縦陣をとって、同じく縦陣をとれる敵艦を中心に大なる蛇(じゃ)の目をえがきもてかつ駛(はし)りかつ撃ち、二時すでに半ばならんとする時、敵艦隊を一周し終わって敵のこなたに達しつ。このときわが先鋒隊は比叡赤城を尾(び)する敵の三艦を一戦にけ散らし、にぐるを追うて敵の本陣に駆り入れつつ、一括してかなたより攻撃にかかりぬ。さればわが本隊先鋒隊はあたかも敵の艦隊を中央に取りこめて、左右よりさしはさみ撃たんとすなり。
第三次の激戦今始まりぬ。わが海軍の精鋭と、敵の海軍の主力と、共に集まりたる彼我の艦隊は、大全速力もて駛(は)せ違い入り乱れつつ相たたかう。あたかも二竜(りゅう)の長鯨を巻くがごとく黄海の水たぎって一面の泡(あわ)となりぬ。 
一の五
わが本隊は右、先鋒隊(せんぽうたい)は左、敵の艦隊をまん中に取りこめて、引つ包んで撃たんとす。戦いは今たけなわになりぬ。戦いの熱するに従って、武男はいよいよわれを忘れつ。その昔学校にありて、ベースボールに熱中せし時、勝敗のここしばらくの間に決せんとする大事の時に際するごとに、身のたれたり場所のいずくたるを忘れ、ほとんど物ありて空(くう)よりわれを引き回すように覚えしが、今やあたかもその時に異ならざるの感を覚えぬ。艦隊敵と離れてまた敵に向かい行く間と、艦体一転して左舷敵に向かい右舷しばらく閑なる間とを除くほかは、間断なき号令に声かれ、汗は淋漓(りんり)として満面にしたたるも、さらに覚えず。旗艦を目ざす敵の弾丸ひとえに松島にむらがり、鉄板上に裂け、木板(ぼくはん)焦がれ、血は甲板にまみるるも、さらに覚えず。敵味方の砲声はあたかも心臓の鼓動に時を合わしつつ、やや間(かん)あれば耳辺の寂しきを怪しむまで、身は全く血戦の熱に浮かされつ。されば、部下の砲員も乱れ飛ぶ敵弾を物ともせず、装填(そうてん)し照準を定め牽索(ひきなわ)を張り発射しまた装填するまで、射的場の精確さらに実戦の熱を加えて、火災は起こらんとするに消し、弾(だん)は命ぜざるに運び、死亡負傷はたちまち運び去り、ほとんど士官の命を待つまでもなく、手おのずから動き、足おのずから働きて、戦闘機関は間断なくなめらかに運転せるなり。
この時目をあぐれば、灰色の煙空をおおい海をおおうて十重二十重(とえはたえ)に渦まける間より、思いがけなき敵味方の檣(ほばしら)と軍艦旗はかなたこなたにほの見え、ほとんど秒ごとに轟然(ごうぜん)たる響きは海を震わして、弾(だん)は弾と空中に相うって爆発し、海は間断なく水柱をけ上げて煮えかえらんとす。
「愉快!定遠が焼けるぞ!」かれたる声ふり絞りて分隊長は叫びぬ。
煙の絶え間より望めば、黄竜旗(こうりょうき)を翻せる敵の旗艦の前部は黄煙渦まき起こりて、蟻(あり)のごとく敵兵のうごめき騒ぐを見る。
武男を初め砲員一斉に快を叫びぬ。
「さあ、やれ。やっつけろッ!」
勢い込んで、砲は一時に打ち出(いだ)しぬ。
左右より夾撃(きょうげき)せられて、敵の艦隊はくずれ立ちたり。超勇はすでにまっ先に火を帯びて沈み、揚威はとくすでに大破して逃(のが)れ、致遠また没せんとし、定遠火起こり、来遠また火災に苦しむ。こらえ兼ねし敵艦隊はついに定遠鎮遠を残して、ことごとくちりぢりに逃げ出(いだ)しぬ。わが先鋒隊はすかさずそのあとを追いぬ。本隊五艦は残れる定遠鎮遠を撃たんとす。
第四回の戦い始まりぬ。
時まさに三時、定遠の前部は火いよいよ燃えて、黄煙おびただしく立ち上れど、なお逃(のが)れず。鎮遠またよく旗艦を護して、二大鉄艦巍然(ぎぜん)山のごとくわれに向かいつ。わが本隊の五艦は今や全速力をもって敵の周囲を駛(は)せつつ、幾回かめぐりては乱射し、めぐりては乱射す。砲弾は雨のごとく二艦に注ぎぬ。しかも軽装快馬のサラセン武士が馬をめぐらして重鎧(じゅうがい)の十字軍士を射るがごとく、命中する弾丸多くは二艦の重鎧にはねかえされて、艦外に破裂し終わりつ。午後三時二十五分わが旗艦松島はあたかも敵の旗艦と相並びぬ。わがうち出す速射砲弾のまさしく彼が艦腹に中(あた)りて、はねかえりて花火のごとくむなしく艦外に破裂するを望みたる武男は、憤りに堪(た)え得ず、歯をくいしばりて、右の手もて剣の柄(つか)を破(わ)れよと打ちたたき、
「分隊長、無念です。あ……あれをごらんなさい。畜生(ちくしょう)ッ!」
分隊長は血眼(ちまなこ)になりて甲板を踏み鳴らし
「うてッ!甲板をうて、甲板を!なあに!うてッ!」
「うてッ!」武男も声ふり絞りぬ。
歯をくいしばりたる砲員は憤然として勢い猛(たけ)く連(つる)べ放(う)ちに打ち出(いだ)しぬ。
「も一つ!」
武男が叫びし声と同時に、霹靂(へきれき)満艦を震動して、砲台内に噴火山の破裂するよと思うその時おそく、雨のごとく飛び散る物にうたれて、武男はどうと倒れぬ。
敵艦の発(う)ち出(いだ)したる三十サンチの大榴弾(だいりゅうだん)二個、あたかも砲台のまん中を貫いて破裂せしなり。
「残念ッ!」
叫びつつはね起きたる武男は、また尻居(しりい)にどうと倒れぬ。
彼は今体(たい)の下半におびただしき苦痛を覚えつ。倒れながらに見れば、あたりは一面の血、火、肉のみ。分隊長は見えず。砲台は洞(ほら)のごとくなりて、その間より青きもの揺らめきたり。こは海なりき。
苦痛と、いうべからざるいたましき臭(か)のために、武男が目は閉じぬ。人のうめく声。物の燃ゆる音。ついで「火災!火災!ポンプ用意ッ!」と叫ぶ声。同時に走(は)せ来る足音。
たちまち武男は手ありてわれをもたぐるを覚えつ。手の脚部に触るるとともに、限りなき苦痛は脳頂に響いて、思わず「あ」と叫びつつのけぞり――紅(くれない)の靄(もや)閉ざせる目の前に渦まきて、次第にわれを失いぬ。 

 

二の一
大本営所在地広島においては、十月(げつ)中旬、第一師団はとくすでに金州半島に向かいたれど、そのあとに第二師団の健児広島狭しと入り込み来たり、しかのみならず臨時議会開かれんとして、六百の代議士続々東より来つれば、高帽(こうぼう)腕車(わんしゃ)はいたるところ剣佩(はいけん)馬蹄(ばてい)の響きと入り乱れて、維新当年の京都のにぎあいを再びここ山陽に見る心地(ここち)せられぬ。
市の目ぬきという大手町(おおてまち)通りは「参謀総長宮殿下」「伊藤内閣総理大臣」「川上陸軍中将」なんどいかめしき宿札うちたるあたりより、二丁目三丁目と下がりては戸ごとに「徴発ニ応ズベキ坪数○○畳、○間」と貼札(はりふだ)して、おおかたの家には士官下士の姓名兵の隊号人数(にんず)を記(しる)せし紙札を張りたるは、仮兵舎(バラック)にも置きあまりたる兵士の流れ込みたるなり。その間には「○○酒保事務所」「○○組人夫事務取扱所」など看板新しく人影の忙(せわ)しく出入りするあれば、そこの店先にては忙(いそが)わしくラムネ瓶(びん)を大箱に詰め込み、こなたの店はビスケットの箱山のごとく荷造りに汗を流す若者あり。この間を縫うて馬上の将官が大本営の方(かた)に急ぎ行きしあとより、電信局にかけつくるにか鉛筆を耳にさしはさみし新聞記者の車を飛ばして過ぐる、やがて鬱金木綿(うこんもめん)に包みし長刀と革嚢(かばん)を載せて停車場(ステーション)の方より来る者、面(おもて)黒々と日にやけてまだ夏服の破れたるまま宇品(うじな)より今上陸して来つと覚しき者と行き違い、新聞の写真付録にて見覚えある元老の何か思案顔に車を走らすこなたには、近きに出発すべき人夫が鼻歌歌うて往来をぶらつけば、かなたの家の縁さきに剣をとぎつつ健児が歌う北音の軍歌は、川向こうのなまめかしき広島節に和して響きぬ。
「陸軍御用達」と一間あまりの大看板、その他看板二三枚、入り口の三方にかけつらねたる家の玄関先より往来にかけて粗製毛布(けっと)防寒服ようのもの山と積みつつ、番頭らしきが若者五六人をさしずして荷造りに忙(せわ)しき所に、客を送りてそそくさと奥より出(い)で来し五十あまりの爺(おやじ)、額やや禿(は)げて目じりたれ左眼の下にしたたかな赤黒子(あかぼくろ)あるが、何か番頭にいいつけ終わりて、入らんとしつつたちまち門外を上手(かみて)に過ぎ行く車を目がけ
「田崎君(さん)……田崎君(さん)」
呼ぶ声の耳に入らざりしか、そのままに過ぎ行くを、若者して呼び戻さすれば、車は門に帰りぬ。車上の客は五十あまり、色赤黒く、頬(ほお)ひげ少しは白きもまじり、黒紬(くろつむぎ)の羽織に新しからぬ同じ色の中山帽(ちゅうやま)をいただき蹴込(けこ)みに中形の鞄(かばん)を載せたり。呼び戻されてけげんの顔は、玄関に立ちし主人を見るより驚きにかわりて、帽(ぼう)を脱ぎつつ
「山木さんじゃないか」
「田崎君(さん)、珍しいね。いったいいつ来たンです?」
「この汽車で帰京(かえ)るつもりで」と田崎は車をおり、筵繩(むしろなわ)なんど取り散らしたる間を縫いて玄関に寄りぬ。
「帰京(かえる)?どこにいつおいでなので?」
「はあ、つい先日佐世保に行って、今帰途(かえり)です」
「佐世保?武男さん――旦那(だんな)のお見舞?」
「はあ、旦那の見舞に」
「これはひどい、旦那の見舞に行きながら往返(いきかえり)とも素通りは実にひどい。娘も娘、御隠居も御隠居だ、はがきの一枚も来ないものだから」
「何、急ぎでしたからね」
「だッて、行きがけにちょっと寄ってくださりゃよかったに。とにかくまあお上がんなさい。車は返して。いいさ、お話もあるから。一汽車おくれたッていいだろうじゃないか。――ところで武男さん――旦那の負傷(けが)はいかがでした?実はわたしもあの時お負傷(けが)の事を聞いたンで、ちょいとお見舞に行かなけりゃならんならんと思ってたンだが、思ったばかりで、――ちょうど第一師団が近々(ちかぢか)にでかけるというンで、滅法忙しかったもンですから、ついその何で、お見舞状だけあげて置いたンでしたが。――ああそうでしたか、別に骨にも障(さわ)らなかったですね、大腿部(だいたいぶ)――はあそうですか。とにかく若い者は結構ですな。お互いに年寄りはちょっと指さきに刺(とげ)が立っても、一週間や二週間はかかるが、旦那なんざお年が若いものだから――とにかく結構おめでたい事でした。御隠居も御安心ですね」
中腰に構えし田崎は時計を出(いだ)し見つ、座を立たんとするを、山木は引きとめ
「まあいいさ。幸いのついでで、少し御隠居に差し上げたいものもあるから。夜汽車になさい。夜汽車だとまだ大分(だいぶ)時間がある。ちょっと用を済まして、どこぞへ行って、一杯やりながら話すとしましょう。広島(ここ)の魚(さかな)は実にうまいですぜ」
口は肴(さかな)よりもなおうまかるべし。 
二の二
秋の夕日天安川(あまやすがわ)に流れて、川に臨める某亭(なにがしてい)の障子を金色(こんじき)に染めぬ。二階は貴衆両院議員の有志が懇親会とやら抜けるほどの騒ぎに引きかえて、下の小座敷は婢(おんな)も寄せずただ二人(ふたり)話しもて杯(さかずき)をあぐるは山木とかの田崎と呼ばれたる男なり。
この田崎は、武男が父の代より執事の役を務めて、今もほど近きわが家(や)より日々川島家に通いては、何くれと忠実(まめやか)に世話をなしつ。如才なく切って回す力量なきかわりには、主家の収入をぬすみてわがふところを肥やす気づかいなきがこの男の取り柄と、武男が父は常に言いぬ。されば川島未亡人(いんきょ)にも武男にも浅からぬ信任を受けて、今度も未亡人(いんきょ)の命によりてはるばる佐世保に主人の負傷をば見舞いしなり。
山木は持ったる杯を下に置き、額のあたりをなでながら「実は何ですて、わたしも帰京(かえり)はしても一日泊まりですぐとまた広島(ここ)に引き返すというようなわけで、そんな事も耳に入らなかッたですが。それでは何ですね、あれから浪子さんもよほどわるかッたのですね。なるほどどうもちっとひどかったね。しかしともかくも川島家のためだから仕方がないといったようなもので。はあそうですか、近ごろはまた少しはいい方で、なるほど、逗子に保養に行っていなさるかね。しかしあの病気ばかりはいくらよく見えてもどうせ死病だて。ところで武男――いや若旦那はまだ怒(おこ)っていなさるかね」
椀(わん)の蓋(ふた)をとれば松茸(まつだけ)の香の立ち上りて鯛(たい)の脂(あぶら)の珠(たま)と浮かめるをうまげに吸いつつ、田崎は髯(ひげ)押しぬぐいて
「さあ、そこですがな。それはもうもとをいえば何もお家のためでしかたもないといったものの、なあ山木君(さん)、旦那の留守に何も相談なしにやっておしまいなさるというは、御隠居も少し御気随が過ぎたというものでな。実はわたしも旦那のお帰りまでお待ちなさるようにと申し上げて見たのじゃが、あのお気質で、いったんこうと言い出しなすった事は否応(いやおう)なしにやり遂げるお方だから、とうとうあの通りになったンで。これは旦那がおもしろく思いなさらぬももっともじゃとわたしは思うくらい。それに困った人はあの千々岩(ちぢわ)さん――たしかもう清国(あっち)に渡(い)ったように聞いたですが」
山木はじろりとあなたの顔を見つつ「千々岩!はああの男はこのあいだ出征(でかけ)たが、なまじっか顔を知られた報いで、ここに滞在中(いるうち)もたびたび無心にやって来て困ったよ。顔(つら)の皮の厚い男でね。戦争(いくさ)で死ぬかもしれんから香奠(こうでん)と思って餞別(せんべつ)をくれろ、その代わり生命(いのち)があったらきっと金鵄(きんし)勲章をとって来るなんかいって、百両ばかり踏んだくって行ったて。ははははは、ところで武男君(さん)は負傷(けが)がよくなったら、ひとまず帰京(かえり)なさるかね」
「さあ、御自身はよくなり次第すぐまた戦地に出かけるつもりでいなさるようですがね」
「相変わらず元気な事を言いなさる。が、田崎君(さん)、一度は帰京(かえ)って御隠居と仲直りをなさらんといけないじゃあるまいか。どれほど気に入っていなすったか知らんが、浪子さんといえばもはや縁の切れたもので、その上健康(たっしゃ)な方(かた)でもあることか、死病にとりつかれている人を、まさかあらためて呼び取りなさるという事もできまいし、まあ過ぎた事は仕方がないとして、早く親子仲直りをしなさらんじゃなるまい、とわたしは思うが。なあ、田崎君(さん)」
田崎は打ち案じ顔に「旦那はあの通り正直(まっすぐ)なお方だから、よし御隠居の方がわるいにもしろ、自分の仕打ちもよくなかったとそう思っていなさる様子でね。それに今度わたしがお見舞に行ったンでまあ御隠居のお心も通ったというものだから、仲直りも何もありやしないが、しかし――」
「戦争中(いくささなか)の縁談もおかしいが、とにかく早く奥様を迎(よ)びなさるのだね。どうです、旦那は御隠居と仲直りはしても、やっぱり浪子さんは忘れなさるまいか。若い者は最初のうちはよく強情を張るが、しかし新しい人が来て見るとやはりかわゆくなるものでね」
「いやそのことは御隠居も考えておいでなさるようだが、しかし――」
「むずかしかろうというのかね」
「さあ、旦那があんな一途(いちず)な方(かた)だから、そこはどうとも」
「しかしお家のため、旦那のためだから、なあ田崎君(さん)」
話はしばし途切れつ。二階には演説や終わりつらん、拍手の音盛んに聞こゆ。障子の夕日やや薄れて、ラッパの響(おと)耳に冷ややかなり。
山木は杯を清めて、あらためて田崎にさしつつ
「時に田崎君(さん)、娘がお世話になっているが、困ったやつで、どうです、御隠居のお気には入りますまいな」
浪子が去られしより、一月あまりたちて、山木は親しく川島未亡人(いんきょ)の薫陶を受けさすべく行儀見習いの名をもって、娘お豊(とよ)を川島家に入れ置きしなりき。
田崎はほほえみぬ。何か思い出(い)でたるなるべし。 
二の三
田崎はほえみぬ。川島未亡人は眉(まゆ)をひそめしなり。
武男が憤然席をけ立てて去りしかの日、母はこの子の後ろ影(すがた)をにらみつつ叫びぬ。
「不孝者めが!どうでも勝手にすッがええ」
母は武男が常によく孝にして、わが意を迎うるに踟ちゅ(ちちゅ)せざるを知りぬ。知れるがゆえに、その浪子に対するの愛もとより浅きにあらざるを知りつつも、その両立するあたわざる場合には、一も二もなくかの愛をすててこの孝を取るならんと思えり。思えるがゆえに、その仕打ちのわれながらむしろ果断に過ぐるを思わざるにあらざりしも、なお家のため武男のためと謂(い)いつつ、独断をもて浪子を離別せるなり。武男が憤りの意外にはげしかりしを見るに及んで、母は初めてわが違算を悟り、同時にいわゆる母なるものの決して絶対的権力をその子の上に有するものにあらざるを知りぬ。さきにはその子の愛の浪子に注ぐを一種不快の目をもて見たりしが、今は母の愛母の威光母の恩をもってしてなお死に瀕(ひん)したる一浪子の愛に勝つあたわざるを見るに及び、わが威権全くおちたるように、その子をば全く浪子に奪い去られしように感じて、かつは武男を怒り、かつは実家(さと)に帰り去れる後までもなお浪子をののしれるなり。
なお一つその怒りを激せしものありき。そはおぼろげながら方寸のいずれにかおのが仕打ちの非なるを、知るとにはあらざれど、いささかその疑いのほのかにたなびけるなり。武男が憤りの底にはちとの道理なかりしか。わが仕打ちにはちとのわが領分を越えてその子を侵せし所はなかりしか。眠られぬ夜半(よわ)にひとり奥の間の天井にうつる行燈(あんどう)の影ながめつつ考うるとはなく思えば、いずくにか汝(なんじ)の誤りなり汝の罪なりとささやく声あるように思われて、さらにその胸の乱るるを覚えぬ。世にも強きは自ら是なりと信ずる心なり。腹立たしきは、あるいは人よりあるいはわが衷(うち)なるあるものよりわが非を示されて、われとわが良心の前に悔悟の膝(ひざ)を折る時なり。灸所(きゅうしょ)を刺せば、猛獣は叫ぶ。わが非を知れば、人は怒る。武男が母は、これがために抑(おさ)え難き怒りはなおさらに悶(もん)を加えて、いよいよ武男の怒るべく、浪子の悪(にく)むべきを覚えしなり。武男は席をけって去りぬ。一日また一日、彼は来たりて罪を謝するなく、わびの書だも送り来たらず。母は胸中の悶々を漏らすべきただ一の道として、その怒りをほしいままにして、わずかに自ら慰めつ。武男を怒り、浪子を怒り、かの時を思い出(い)でて怒り、将来を想(おも)うて怒り、悲しきに怒り、さびしきに怒り、詮方(せんかた)なきにまた怒り、怒り怒りて怒りの疲労(つかれ)にようやく夜(よ)も睡(ねぶ)るを得にき。
川島家にては平常(つね)にも恐ろしき隠居が疳癪(かんしゃく)の近ごろはまたひた燃えに燃えて、慣れしおんなばらも幾たびか手荷物をしまいかける間(ま)に、朝鮮事起こりて豊島牙山(ほうとうがざん)の号外は飛びぬ。戦争に行くに告別(いとまごい)の手紙の一通もやらぬ不埒(ふらち)なやつと母は幾たびか怒りしが、世間の様子を聞けば、田舎(いなか)よりその子の遠征を見送らんと出(い)で来る老婆、物を贈り書を送りてその子を励ます母もありというに、子は親に怒り親は子を憤りて一通の書だに取りかわさず、彼は戦地にわれは帝都に、おのおの心に不快の塊(かたまり)をいだいて、もしこのままに永別となるならば、と思うとはなく、ほのかに感じたる武男が母は、ついにののしりののしり我(が)を折りて引きつづき二通の書を戦地にあるその子にやりぬ。
折りかえして戦地より武男が返書は来たれり。返書来たりてより一月あまりにして、一通の電報は佐世保の海軍病院より武男が負傷を報じ来(こ)しぬ。さすがに母が電報をとりし手はわなわなと打ち震いつ。ほどなくその負傷は命(めい)に関するほどにもあらざる由を聞きたれど、なお田崎を遠く佐世保にやりてそのようすを見させしなりき。 
二の四
田崎が佐世保より帰りて、子細に武男のようすを報ぜるより、母はやや安堵(あんど)の胸をなでけるが、なおこの上は全快を待ちて一応顔をも見、また戦争済みたらば武男がために早く後妻(こうさい)を迎うるの得策なるを思いぬ。かくして一には浪子を武男の念頭より絶ち、一には川島家の祀(まつり)を存し、一にはまた心の奥の奥において、さきに武男に対せる所行(しわざ)のやや暴に過ぎたりしその罪?亡(ほろ)ぼしをなさんと思えるなり。
武男に後妻を早く迎えんとは、浪子を離別に決せしその日より早くすでに母の胸中にわき出(い)でし問題なりき。それがために数多からぬ知己親類の嫁しうべき嬢子(むすめ)を心のうちにあれこれと繰り見しが、思わしきものもなくて、思い迷えるおりから、山木は突然娘お豊を行儀見習いと称して川島家に入れ込みぬ。武男が母とて白痴にもあらざれば、山木が底意は必ずしも知らざるにあらず。お豊が必ずしも知徳兼備の賢婦人ならざるをも知らざるにはあらざりき。されどおぼるる者は藁(わら)をもつかむ。武男が妻定めに窮したる母は、山木が望みを幸い、試みにお豊を預かれるなり。
試験の結果は、田崎がほほえめるがごとし。試験者も受験者も共に満足せずして、いわば婢(おんな)ばらがうさはらしの種となるに終われるなり。
初めは平和、次ぎに小口径の猟銃を用いて軽々(けいけい)に散弾を撒(ま)き、ついに攻城砲の恐ろしきを打ち出(いだ)す。こは川島未亡人が何人(なんびと)に対しても用うる所の法なり。浪子もかつてその経験をなめぬ。しかしてその神経の敏に感の鋭かりしほどその苦痛を感ずる事も早かりき。お豊も今その経験をしいられぬ。しかしてその無為にして化する底(てい)の性質は、散弾の飛ぶもほとんどいずこの家に煎(い)る豆ぞと思い貌(がお)に過ぐるより、かの攻城砲は例よりもすみやかに持ち出(いだ)されざるを得ざりしなり。
その心悠々(ゆうゆう)として常に春がすみのたなびけるごとく、胸中に一点の物無(の)うして人我(にんが)の別定かならぬのみか、往々にして個人の輪郭消えて直ちに動植物と同化せんとし、春の夕べに庭などに立ちたらば、霊(たま)も体(たい)もそのまま霞(かすみ)のうちに融(と)け去りてすくうも手にはたまらざるべきお豊も恋に自己(おのれ)を自覚し初(そ)めてより、にわかに苦労というものも解し初(そ)めぬ。眠き目こすりて起き出(い)づるより、あれこれと追い使われ、その果ては小言大喝(どなり)。もっとも陰口中傷(あてこすり)は概して解かれぬままに鵜呑(うの)みとなれど、連(つる)べ放つ攻城砲のみはいかに超然たるお豊も当たりかねて、恋しき人の家(うち)ならずばとくにも逃げ出(いだ)しつべく思えるなり。さりながら父の戒め、おりおり桜川町の宅(うち)に帰りて聞く母の訓(おしえ)はここと、けなげにもなお攻城砲の前に陣取りて、日また日を忍びて過ぎぬ。時にはたまり兼ねて思いぬ、恋はかくもつらきものよ、もはや二度とは人を恋わじと。あわれむべきお豊は、川島未亡人のためにはその乱れがちなる胸の安全管にせられ、家内の婢僕(おんなおとこ)には日ながの慰みにせられ、恋しき人の顔を見ることも無(の)うして、生まれ出(い)でてより例(ためし)なき克己と辛抱をもって当てもなきものを待ちけるなり。
お豊が来たりしより、武男が母は新たに一の懊悩(おうのう)をば添えぬ。失える玉は大にして、去れる婦(よめ)は賢なり。比較になるべき人ならねども、お豊が来たりて身近に使わるるに及びて、なすことごとに気に入るはなくて、武男が母は堅くその心をふさげるにかかわらず、ともすれば昔わがしかりもしののしりもせしその人を思い出(い)でぬ。光をつつめる女の、言葉多からず起居(たちい)にしとやかなれば、見たる所は目より鼻にぬけるほど華手(はで)には見えねど、不なれながらもよくこちの気を飲み込みて機転もきき、第一心がけの殊勝なるを、図に乗っては口ぎたなくののしりながら、心の底にはあの年ごろでよく気がつくと暗に白状せしこともありしが、今目の前に同じ年ごろのお豊を置きて見れば、是非なく比較はとれて、事ごとに思うまじと思う人を思えるなり。されば日々(にちにち)気にくわぬ事の出(い)で来るごとに、春がすみの化けて出(い)でたる人間の名をお豊と呼ばれて目は細々と口も閉じあえずすわれるかたわらには、いつしか色少し蒼(あお)ざめて髪黒々としとやかなる若き婦人(おんな)の利発らしき目をあげてつくづくとわが顔をながめつつ「いかがでございます?」というようなる心地(ここち)して武男が母は思わずもわななかれつ。「じゃって、病気をすっがわるかじゃなっか」と幾たびか陳弁(いいわけ)すれど、なお妙に胸先(むなさき)に込みあげて来るものを、自己(おのれ)は怒りと思いつつ、果てはまた大声あげて、お豊に当たり散らしぬ。
されば、広島の旗亭に、山木が田崎に向かいて娘お豊を武男が後妻(こうさい)にとおぼろげならず言い出(い)でしその時は、川島未亡人とお豊の間は去る六月(げつ)における日清(にっしん)の間よりも危うく、彼出(いだ)すか、われ出(い)づるか、危機はいわゆる一髪にかかりしなりき。 

 

三の一
枕(まくら)べ近き小鳥の声に呼びさまされて、武男は目を開きぬ。
ベッドの上より手を伸ばして、窓かけ引き退(の)くれば、今向こう山を離れし朝日花やかに玻璃窓(はりそう)にさし込みつ。山は朝霧なお白けれど、秋の空はすでに蒼々(あおあお)と澄み渡りて、窓前一樹染むるがごとく紅(くれない)なる桜の梢(こずえ)をあざやかに襯(しん)し出(いだ)しぬ。梢に両三羽の小鳥あり、相語りつつ枝より枝におどれるが、ふと言い合わしたるように玻璃窓のうちをのぞき、半身をもたげたる武男と顔見合わし、驚きたって飛び去りし羽風(はかぜ)に、黄なる桜の一葉ばらりと散りぬ。
われを呼びさませし朝(あした)の使いは彼なりけるよと、武男はほほえみつ、また枕につかんとして、痛める所あるがごとくいささか眉(まゆ)をひそめつ。すでにしてようやく身をベッドの上に安んじ、目を閉じぬ。
朝(あした)静かにして、耳わずらわす響(おと)もなし。鶏(とり)鳴き、ふなうた遠く聞こゆ。
武男は目を開いて笑(え)み、また目を閉じて思いぬ。

武男が黄海に負傷して、ここ佐世保の病院に身を託せしより、すでに一月余り過ぎんとす。
かの時、砲台の真中(まなか)に破裂せし敵の大榴弾(だいりゅうだん)の乱れ飛ぶにうたれて、尻居(しりい)にどうと倒れつつはげしき苦痛に一時われを失いしが、苦痛のはなはだしかりしわりに、脚部の傷は二か所とも幸いに骨を避(よ)けて、その他はちとの火傷を受けたるのみ。分隊長は骸(がい)も留めず、同僚は戦死し、部下の砲員無事なるはまれなりしがなかに、不思議の命をとりとめて、この海軍病院に送られつ。最初(はじめ)はさすがに熱もはげしく上りて、ベッドの上のうわ言にも手を戟(ほこ)にして敵艦をののしり分隊長と叫びては医員を驚かししが、もとより血気盛んなる若者の、傷もさまで重きにあらず、時候も秋涼に向かえるおりから、熱は次第に下り、経過よく、膿腫(のうしょう)の患(うれい)もなくて、すでに一月あまり過ぎし今日(きょう)このごろは、なお幾分の痛みをば覚ゆれど、ともすれば石炭酸の臭(か)の満ちたる室をぬけ出(い)でて秋晴(しゅうせい)の庭におりんとしては軍医の小言をくうまでになりつ。この上はただ速(すみ)やかに戦地に帰らんと、ひたすら医の許容(ゆるし)を待てるなりき。
思いすてて塵芥(ちりあくた)よりも軽かりし命は不思議にながらえて、熱去り苦痛薄らぎ食欲復するとともに、われにもあらで生を楽しむ心は動き、従って煩悩(ぼんのう)もわきぬ。蝉(せみ)は殻を脱げども、人はおのれを脱(のが)れ得ざれば、戦いの熱(ねつ)病(やまい)の熱に中絶(なかた)えし記憶の糸はその体(たい)のやや癒(い)えてその心の平生(へいぜい)に復(かえ)るとともにまたおのずから掀(かか)げ起こされざるを得ざりしなり。
されど大疾よく体質を新たにするにひとしく、わずかに一紙を隔てて死と相見たるの経験は、武男が記憶を別様に新たならしめたり。激戦、及びその前後に相ついで起こりし異常の事と異常の感は、風雨のごとくその心を簸(ふる)い撼(うご)かしつ。風雨はすでに過ぎたれど、余波はなお心の海に残りて、浮かぶ記憶はおのずから異なる態をとりぬ。武男は母を憤らず、浪子をば今は世になき妻を思うらんようにその心の龕(がん)に祭りて、浪子を思うごとにさながら遠き野末の悲歌を聞くごとく、一種なつかしき哀(かな)しみを覚えしなり。
田崎来たり見舞いぬ。武男はよりて母の近況を知りまたほのかに浪子の近況(ようす)を聞きぬ。(武男の気をそこなわんことを恐れて、田崎はあえて山木の娘の一条をばいわざりき)武男は浪子の事を聞いて落涙し、田崎が去りし後も、松風さびしき湘南(しょうなん)の別墅(べっしょ)に病める人の面影(おもかげ)は、黄海の戦いとかわるがわる武男が宵々(しょうしょう)の夢に入りつ。
田崎が東に帰りし後数日(すじつ)にして、いずくよりともなく一包みの荷物武男がもとに届きぬ。

武男は今その事を思えるなり。 
三の二
武男が思えるはこれなり。
一週前(ぜん)の事なりき。武男は読みあきし新聞を投げやりて、ベッドの上にあくびしつつ、窓外を打ちながめぬ。同室の士官昨日(きのう)退院して、室内には彼一人(ひとり)なりき。時は黄昏(たそがれ)に近く、病室はほのぐらくして、窓外には秋雨滝のごとく降りしきりぬ。隣室の患者に電気かくるにやあらん。じじの響き絶え間なく雨に和して、うたた室内のわびしさを添えつ。聞くともなくその響(おと)に耳を仮して、目は窓に向かえば、吹きしぶく雨淋漓(りんり)としてガラスにしたたり、しとどぬれたる夕暮れの庭はまだらに現われてまた消えつ。
茫然(ぼうぜん)としてながめ入りし武男は、たちまち頭(かしら)より毛布(ケット)を引きかつぎぬ。
五分ばかりたちて、人の入り来る足音して、
「お荷物が届きました。……おやすみですか」
頭(かしら)を出(いだ)せば、ベッドの横側に立てるは、小使いなり。油紙包みを抱(いだ)き、廿文字(にじゅうもんじ)にからげし重やかなる箱をさげて立ちたり。
荷物?田崎帰りてまだ幾日(いくか)もなきに、たが何を送りしぞ。
「ああ荷物か。どこからだね?」
小使いが読める差し出し人は、聞きも知らぬ人の名なり。
「ちょっとあけてもらおうか」
油紙を解けば、新聞、それを解けば紫の包み出(い)でぬ。包みを解けば出(い)でたり、ネルの単衣(ひとえ)、柔らかき絹物の袷(あわせ)、白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)、雪を欺く足袋(たび)、袖(そで)広き襦袢(じゅばん)は脱ぎ着たやすかるべく、真綿の肩ぶとんは長き病床に床ずれあらざれと願うなるべし。箱の内は何ぞ。莎縄(くぐなわ)を解けば、なかんずく好める泡雪梨(あわゆき)の大なるとバナナのあざらけきとあふるるまでに満ちたり。武男の心臓(むね)の鼓動は急になりぬ。
「手紙も何もはいっていないかね?」
彼をふるいこれを移せど寸の紙だになし。
「ちょいとその油紙を」
包み紙をとりて、わが名を書ける筆の跡を見るより、たちまち胸のふさがるを覚えぬ。武男はその筆を認(したた)めたるなり。
彼女(かれ)なり。彼女(かれ)なり。彼女(かれ)ならずしてたれかあるべき。その縫える衣の一針ごとに、あとはなけれどまさしくそそげる千行(こう)の涙(なんだ)を見ずや。その病をつとめて書ける文字の震えるを見ずや。
人の去るを待ち兼ねて、武男は男泣きに泣きぬ。

もとより涸(か)れざる泉は今新たに開かれて、武男は限りなき愛の滔々(とうとう)としてみなぎるを覚えつ。昼は思い、夜(よ)は彼女(かれ)を夢みぬ。
されど夢ほどに世は自由ならず。武男はもとより信じて思いぬ、二人(ふたり)が間は死だもつんざくあたわじと。いわんや区々たる世間の手続きをや。されどもその心を実にせんとしては、その区々たる手続き儀式が企望と現実の間に越ゆべからざる障壁として立てるを覚えざるあたわざりき。世はいかにすとも、彼女(かれ)は限りなくわが妻なり。されど母はわが名によって彼女(かれ)を離別し、彼女(かれ)が父は彼女(かれ)に代わって彼女(かれ)を引き取りぬ。世間の前に二人が間は絶えたるなり。平癒(へいゆ)を待って一たび東に帰り、母にあい、浪子を訪(と)うて心を語り、再び彼女(かれ)を迎えんか。いかに自ら欺くも、武男はいわゆる世間の義理体面の上よりさることのなすべくまたなしうべきを思い得ず、事は成らずして畢竟(ひっきょう)再び母とわれとの間を前にも増して乖離(かいり)せしむるに過ぎざるべきを思いぬ。母に逆らうの苦はすでになめたり。
広い宇宙に生きて思わぬ桎梏(かせ)にわが愛をすら縛らるるを、歯がゆしと思えど、武男は脱(のが)るる路(みち)を知らず、やる方(かた)なき懊悩(おうのう)に日また日を送りつつ、ただ生死(しょうし)ともにわが妻は彼女(かれ)と思いてわずかに自ら慰めあわせて心に浪子をば慰めけるなり。
今朝(けさ)も夢さめて武男が思える所は、これなりき。
この朝軍医が例のごとく来たり診して、傷のいよいよ全癒に向かうに満足を表して去りし後、一封の書は東京なる母より届きぬ。書中には田崎帰りていささか安堵(あんど)せるを書き、かついささか話したき事もあれば、医師の許可(ゆるし)次第ひとまず都合して帰京すべしと書きたり。話したき事!もしくは彼がもっとも忌みかつ恐るるある事にはあらざるか。武男は打ち案じぬ。
武男はついに帰京せざりき。
十一月初旬、彼とひとしく黄海に手負いし彼が乗艦松島の修繕終わりて戦地に向かいしと聞くほどもなく、わずかに医師の許容(ゆるし)を得たる武男は、請うて運送船に便乗し、あたかも大連湾を取って同湾(ここ)に碇泊(ていはく)せる艦隊に帰り去りぬ。
佐世保を出発する前日、武男は二通の書を投函(とうかん)せり。一はその母にあてて。 

 

四の一
秋風吹き初(そ)めて、避暑の客は都に去り、病を養う客(ひと)ならでは留(とど)まる者なき九月初旬(はじめ)より、今ここ十一月初旬(はじめ)まで、日の温(あたた)かに風なき時をえらみて、五十あまりの婢(おんな)に伴なわれつつ、そぞろに逗子(ずし)の浜べを運動する一人(ひとり)の淑女ありき。
やせにやせて砂に落つ影も細々といたわしき姿を、網曳(ひ)く漁夫、日ごと浜べを歩む病客も皆見るに慣れて、あうごとに頭(かしら)を下げぬ。たれつたうともなくほのかにその身の上をば聞き知れるなりけり。
こは浪子なりき。
惜しからぬ命つれなくもなお永(なが)らえて、また今年の秋風を見るに及べるなり。

浪子は去る六月の初め、伯母(おば)に連れられて帰京し、思いも掛けぬ宣告を伝え聞きしその翌日より、病は見る見る重り、前後を覚えぬまで胸を絞って心血の紅(くれない)なるを吐き、医は黙し、家族(やから)は眉(まゆ)をひそめ、自己(おのれ)は旦夕(たんせき)に死を待ちぬ。命は実に一縷(いちる)につながれしなりき。浪子は喜んで死を待ちぬ。死はなかなかうれしかりき。何思う間もなくたちまち深井(しんせい)の暗黒(くらき)におちたるこの身は、何の楽しみあり、何のかいありて、世に永(なが)らえんとはすべき。たれを恨み、たれを恋う、さる念は形をなす余裕(ひま)もなくて、ただ身をめぐる暗黒の恐ろしくいとわしく、早くこのうちを脱(のが)れんと思うのみ。死は実にただ一の活路なりけり。浪子は死をまちわびぬ。身は病の床に苦しみ、心はすでに世の外(ほか)に飛びき。今日(きょう)にもあれ、明日(あす)にもあれ、この身の絆(ほだし)絶えなば、惜しからぬ世を下に見て、魂(こん)千万里の空(くう)を天に飛び、なつかしき母の膝(ひざ)に心ゆくばかり泣きもせん、訴えもせん、と思えば待たるるは実に死の使いなりけり。
あわれ彼女(かれ)は死をだに心に任せざりき。今日、今日と待ちし今日は幾たびかむなしく過ぎて、一月あまり経たれば、われにもあらで病やや間(かん)に、二月を経てさらに軽(かろ)くなりぬ。思いすてし命をまたさらにこの世に引き返されて、浪子はまた薄命に泣くべき身となりぬ。浪子は実に惑えるなり。生の愛すべく死の恐るべきを知らざる身にはあらずや。何のために医を迎え、何のために薬を服し、何のために惜しからぬ命をつながんとするぞ。
されど父の愛あり。朝(あした)に夕(ゆうべ)に彼女(かれ)が病床を省(せい)し、自ら薬餌(やくじ)を与え、さらに自ら指揮して彼女(かれ)がために心静かに病を養うべき離家(はなれ)を建て、いかにもして彼女(かれ)を生かさずばやまざらんとす。父の足音を聞き、わが病の間(かん)なるによろこぶ慈顔を見るごとに、浪子は恨みにはおとさぬ涙のおのずから頬(ほお)にしたたるを覚えず、みだりに死をこいねごうに忍びずして、父のために務めて病をば養えるなり。さらに一あり。浪子は良人(おっと)を疑うあたわざりき。海かれ山くずるるも固く良人の愛を信じたる彼女(かれ)は、このたびの事一も良人の心にあらざるを知りぬ。病やや間(かん)になりて、ほのかに武男の消息を聞くに及びて、いよいよその信に印捺(お)されたる心地(ここち)して、彼女(かれ)はいささか慰められつ。もとよりこの後のいかに成り行くべきを知らず、よしこの疾(やまい)痊(い)ゆとも一たび絶えし縁は再びつなぐ時なかるべきを感ぜざるにあらざるも、なお二人が心は冥々(めいめい)の間(うち)に通いて、この愛をば何人(なんびと)もつんざくあたわじと心に謂(い)いて、ひそかに自ら慰めけるなり。
されば父の愛と、このほのかなる望みとは、手を尽くしたる名医の治療と相待ちて、消えんとしたる彼女(かれ)が玉の緒を一たびつなぎ留め、九月初旬(はじめ)より浪子は幾と看護婦を伴のうて再び逗子の別墅(べっしょ)に病を養えるなりき。 
四の二
逗子に来てよりは、症(やまい)やや快く、あたりの静かなるに、心も少しは静まりぬ。海の音遠き午後(ひるすぎ)、湯上がりの体(たい)を安楽椅子(いす)に倚(よ)せて、鳥の音の清きを聞きつつうっとりとしてあれば、さながら去(い)にし春のころここにありける時の心地(ここち)して、今にも良人の横須賀より来たり訪(と)わん思いもせらるるなりけり。
別墅(べっしょ)の生活は、去る四五月のころに異ならず。幾と看護婦を相手に、日課は服薬運動の時間を違(たが)えず、体温を検し、定められたる摂生法を守るほかは、せめての心やりに歌詠(よ)み秋草を活(い)けなどして過ごせるなり。週に一二回、医は東京より来たり見舞いぬ。月に両三日、あるいは伯母、あるいは千鶴子、まれに継母も来たり見舞いぬ。その幼き弟妹(はらから)二人は病める姉をなつかしがりて、しばしば母に請えど、病を忌み、かつは二人の浪子になずくをおもしろからず思える母は、ただしかりてやみぬ。今の身の上を聞き知りてか、昔の学友の手紙を送れるも少なからねど、おおかたは文字(もじ)麗しくして心を慰むべきものはかえってまれなる心地(ここち)して、よくも見ざりき。ただ千鶴子の来たるをば待ちわびつ。聞きたしと思う消息は重に千鶴子より伝われるなり。
縁絶えしより、川島家は次第に遠くなりつ。幾百里西なる人の面影(おもかげ)は日夕(にっせき)心に往来するに引きかえて、浪子はさらにその人の母をば思わざりき。思わずとにはあらで、思わじと務めしなりけり。心一たびその姑(しゅうと)の上に及ぶごとに、われながら恐ろしく苦き一念の抑(おさ)うれどむらむらと心(むね)にわき来たりて、気の怪しく乱れんとするを、浪子はふりはらいふりはらいて、心を他に転ぜしなり。山木の女(むすめ)の川島家に入り込みしと聞けるその時は、さすがに心地乱れぬ。しかもそはわが思う人のあずかり知る所ならざるべきを思いて、しいて心をそなたにふさげるなり。彼女(かれ)が身は湘南に病に臥(ふ)して、心は絶えず西に向かいぬ。
この世において最も愛すなる二人は、現に征清の役に従えるならずや。父中将は浪子が逗子に来たりしより間もなく、大元帥纛下(とうか)に扈従(こじゅう)して広島におもむき、さらに遠く遼東(りょうとう)に向かわんとす。せめて新橋までと思えるを、父は制して、くれぐれも自愛し、凱旋(がいせん)の日には全快して迎えに来よと言い送りぬ。武男はあの後直ちに戦地に向かいて、現に連合艦隊の旗艦にありと聞く。秋雨秋風身につつがなく、戦闘の務めに服せらるるや、いかに。日々夜々(にちにちやや)陸に海に心は馳(は)せて、世には要なしといえる浪子もおどる心に新聞をば読みて、皇軍連勝、わが父息災、武男の武運長久を祈らぬ日はあらざりしなり。
九月末にいたり、黄海の捷報(しょうほう)は聞こえ、さらに数日(すじつ)を経て負傷者のうちに浪子は武男の姓名を見出(いだ)しぬ。浪子は一夜眠らざりき。幸いに東京なる伯母のその心をくめるありて、いずくより聞き得て報ぜしか、浪子は武男の負傷のはなはだしく重からずして現に佐世保の病院にある由を知りつ。生死(しょうし)の憂いを慰められしも、さてかなたを思いやりて、かくもしたしと思う事の多きにつけても、今の身の上の思うに任せぬ恨みはまたむらむらと胸をふさぎぬ。なまじいに夫妻の名義絶えしばかりに、まさしく心は通いつつ、彼は西に傷つき、われは東に病みて、行きて問うべくもあらぬのみか、明らさまにははがき一枚の見舞すら心に任せぬ身ならずや。かく思いてはやる方なくもだえしが、なおやみ難き心より思いつきて、浪子は病の間々(ひまひま)に幾を相手にその人の衣を縫い、その好める品をも取りそろえつつ、裂けんとすなる胸の思いの万分一も通えかしと、名をばかくして、はるかに佐世保に送りしなり。
週去り週来たりて、十一月中旬、佐世保の消印ある一通の書は浪子の手に落ちたり。浪子はその書をひしと握りて泣きぬ。 
四の三
打ち連れて土曜の夕べより見舞に来し千鶴子と妹(いもと)駒子(こまこ)は、今朝(けさ)帰り去りつ。しばしにぎやかなりし家の内(うち)また常のさびしきにかえりて、曇りがちなる障子のうち、浪子はひとり床にかけたる亡(な)き母の写真にむかいて坐(ざ)しぬ。
今日、十一月十九日は亡き母の命日なり。はばかる人もなければ、浪子は手匣(てばこ)より母の写真取り出(い)でて床にかけ、千鶴子が持(も)て来し白菊のやや狂わんとするをその前に手向(たむ)け、午後には茶など点(い)れて、幾の昔語りに耳傾けしが、今は幾も看護婦も罷(まか)りて、浪子はひとり写真の前に残れるなり。
母に別れてすでに十年(ととせ)にあまりぬ。十年(ととせ)の間、浪子は亡き母を忘るるの日なかりき。されど今日このごろはなつかしさの堪(た)え難きまで募りて、事ごとにその母を思えり。恋しと思う父は今遠く遼東にあり。継母は近く東京にあれど、中垣(なかがき)の隔て昔のままに、ともすれば聞きづらきことも耳に入る。亡き母の、もし亡き母の無事に永らえて居たまわば、かの苦しみも告げ、この悲しさも訴えて、かよわきこの身に負いあまる重荷もすこしは軽く思うべきに、何ゆえ見すてて逝(ゆ)きたまいしと思(おも)う下より涙はわきて、写真は霧を隔てしようにおぼろになりぬ。
昨日(きのう)のようなれど、指を折れば十年(ととせ)たちたり。母上の亡くなりたもうその年の春なりき。自身(みずから)は八歳(やつ)、妹(いもと)は五歳(いつつ)(そのころは片言まじりの、今はあの通り大きくなりけるよ)桜模様の曙染(あけぼのぞめ)、二人そろうて美しと父上にほめられてうれしく、われは右妹は左母上を中に、馬車をきしらして、九段の鈴木(すずき)に撮(と)らししうちの一枚はここにかけたるこの写真ならずや。思えば十年(ととせ)は夢と過ぎて、母上はこの写真になりたまい、わが身は――。
わが身の上は思わじと定めながらも、味気なき今の境涯はあいにくにありありと目の前に現われつ。思えば思うほどなんの楽しみもなんの望みもなき身は十重二十重(とえはたえ)黒雲に包まれて、この八畳の間は日影も漏れぬ死囚牢(ろう)になりかわりたる心地(ここち)すなり。
たちまち柱時計は家内(やうち)に響き渡りて午後二点(にじ)をうちぬ。おどろかれし浪子はのがるるごとく次の間に立てば、ここには人もなくて、裏の方(かた)に幾と看護婦と語る声す。聞くともなく耳傾けし浪子は、またこの室を出(い)でて庭におり立ち、枝折戸(しおりど)あけて浜に出(い)でぬ。
空は曇りぬ。秋ながらうっとりと雲立ち迷い、海はまっ黒に顰(ひそ)みたり。大気は恐ろしく静まりて、一陣の風なく、一波(ぱ)だに動かず、見渡す限り海に帆影(はんえい)絶えつ。
浪子は次第に浜を歩み行きぬ。今日は網曳(あびき)する者もなく、運動する客(ひと)の影も見えず。孩(こ)を負える十歳(とお)あまりの女の子の歌いながら貝拾えるが、浪子を見てほほえみつつ頭(かしら)を下げぬ。浪子は惨として笑(え)みつ。またうっとりと思いつづけて、うつむきて歩みぬ。
たちまち浪子は立ちどまりぬ。浜尽き、岩起これるなり。岩に一条の路(みち)あり、そをたどれば滝の不動にいたるべし。この春浪子が良人(おっと)に導かれて行きしところ。
浪子はその路をとりて進みぬ。 
四の四
不動祠(ふどうし)の下まで行きて、浪子は岩を払うて坐(ざ)しぬ。この春良人(おっと)と共に坐したるもこの岩なりき。その時は春晴うらうらと、浅碧(あさみどり)の空に雲なく、海は鏡よりも光りき。今は秋陰暗(あん)として、空に異形(いぎょう)の雲満ち、海はわが坐す岩の下まで満々とたたえて、そのすごきまで黯(くろ)き面(おもて)を点破する一帆(ぱん)の影だに見えず。
浪子はふところより一通の書を取り出(いだ)しぬ。書中はただ両三行、武骨なる筆跡の、しかも千万語にまさりて浪子を思いに堪(た)えざらしめつ。「浪子さんを思わざるの日は一日も無之候(これなくそろ)」。この一句を読むごとに、浪子は今さらに胸迫りて、恋しさの切らるるばかり身にしみて覚ゆるなりき。
いかなればかく枉(まが)れる世ぞ。身は良人(おっと)を恋い恋いて病よりも思いに死なんとし、良人はかくも想(おも)いて居たもうを、いかなれば夫妻の縁は絶えけるぞ。良人の心は血よりも紅(くれない)に注がれてこの書中にあるならずや。現にこの春この岩の上に、二人並びて、万世(よろずよ)までもと誓いしならずや。海も知れり。岩も記すべし。さるをいかなれば世はほしいままに二人が間を裂きたるぞ。恋しき良人、なつかしき良人、この春この岩の上に、岩の上――。
浪子は目を開きぬ。身はひとり岩の上に坐(ざ)せり。海は黙々として前にたたえ、後ろには滝の音ほのかに聞こゆるのみ。浪子は顔打ちおおいつつむせびぬ。細々とやせたる指を漏りて、涙ははらはらと岩におちたり。
胸は乱れ、頭(かしら)は次第に熱して、縦横に飛びかう思いは梭(おさ)のごとく過去(こしかた)を一目に織り出(いだ)しつ。浪子は今年の春良人にたすけ引かれてこの岩に来たりし時を思い、発病の時を思い、伊香保に遊べる時を思い、結婚の夕べを思いぬ。伯母に連れられて帰京せし時、むかしむかしその母に別れし時、母の顔、父の顔、継母、妹を初めさまざまの顔は雷光(いなずま)のごとくその心の目の前を過ぎつ。浪子はさらに昨日(きのう)千鶴子より聞きし旧友の一人(ひとり)を思いぬ。彼女(かれ)は浪子より二歳(ふたつ)長(た)けて一年早く大名華族のうちにも才子の聞こえある洋行帰りの某伯爵に嫁(とつ)ぎしが、舅姑(しゅうと)の気には入りて、良人にきらわれ、子供一人もうけながら、良人は内(うち)に妾(しょう)を置き外に花柳の遊びに浸り今年の春離縁となりしが、ついこのごろ病死したりと聞く。彼女(かれ)は良人にすてられて死し、われは相思う良人と裂かれて泣く。さまざまの世と思えば、彼も悲しく、これもつらく、浪子はいよいよ黝(くろ)うなり来る海の面(おもて)をながめて太息(といき)をつきぬ。
思うほど、気はますます乱れて、浪子は身を容(い)るる余裕(ひま)もなきまで世のせまきを覚ゆるなり。身は何不足なき家に生まれながら、なつかしき母には八歳(やつ)の年に別れ、肩をすぼめて継母の下(もと)に十年(ととせ)を送り、ようやく良縁定まりて父の安堵(あんど)われもうれしと思う間もなく、姑(しゅうと)の気には入らずとも良人のためには水火もいとわざる身の、思いがけなき大疾を得て、その病も少しは痊(おこた)らんとするを喜べるほどもなく、死ねといわるるはなお慈悲の宣告を受け、愛し愛さるる良人はありながら容赦もなく間を裂かれて、夫と呼び妻と呼ばるることもならぬ身となり果てつ。もしそれほど不運なるべき身ならば、なにゆえ世には生まれ来しぞ。何ゆえ母上とともに、われも死なざりしぞ。何ゆえに良人のもとには嫁しつるぞ。何ゆえにこの病を発せしその時、良人の手に抱(いだ)かれては死せざりしぞ。何ゆえに、せめてかの恐ろしき宣告を聞けるその時、その場に倒れては死なざりしぞ。身には不治の病をいだきて、心は添われぬ人を恋う。何のためにか世に永(なが)らうべき。よしこの病癒(い)ゆとも、添われずば思いに死なん――死なん。
死なん。何の楽しみありて世に永らうべき。
はふり落つる涙をぬぐいもあえず、浪子は海の面(おもて)を打ちながめぬ。
伊豆大島(いずおおしま)の方(かた)に当たりて、墨色に渦まける雲急にむらむらと立つよと見る時、いうべからざる悲壮の音ははるかの天空より落とし来たり、大海の面(おもて)たちまち皺(しわ)みぬ。一陣の風吹き出(い)でけるなり。その風鬢(びん)をかすめて過ぎつと思うほどなくまっ黒き海の中央(まなか)に一団の雪わくと見る見る奔馬のごとく寄せて、浪子が坐(ざ)したる岩も砕けよとうちつけつ。渺々(びょうびょう)たる相洋は一分時(ぷんじ)ならずして千波万波(ばんぱ)鼎(かなえ)のごとく沸きぬ。
雨と散るしぶきを避けんともせず、浪子は一心に水の面(おも)をながめ入りぬ。かの水の下には死あり。死はあるいは自由なるべし。この病をいだいて世に苦しまんより、魂魄(こんぱく)となりて良人に添うはまさらずや。良人は今黄海にあり。よしはるかなりとも、この水も黄海に通えるなり。さらば身はこの海の泡(あわ)と消えて、魂(たま)は良人のそばに行かん。
武男が書をばしっかとふところに収め、風に乱るる鬢(びん)かき上げて、浪子は立ち上がりぬ。
風はひょうひょうとして無辺の天より落とし来たり、かろうじて浪子は立ちぬ。目を上ぐれば、雲は雲と相追うて空を奔(はし)り、海は目の届く限り一面に波と泡とまっ白に煮えかえりつ。湾を隔つる桜山は悲鳴してたてがみのごとく松を振るう。風吼(ほ)え、海哮(たけ)り、山も鳴りて、浩々(こうこう)の音天地に満ちぬ。
今なり、今なり、今こそこの玉の緒は絶ゆる時なれ。導きたまえ、母。許したまえ、父。十九年の夢は、今こそ――。
襟(えり)引き合わせ、履物(はきもの)をぬぎすてつつ、浪子は今打ち寄せし浪の岩に砕けて白泡(しらあわ)沸(たぎ)るあたりを目がけて、身をおどらす。
その時、あと背後(うしろ)に叫ぶ声して、浪子はたちまち抱き止められつ。 

 

五の一
「ばあや。お茶を入れるようにしてお置き。もうあの方がいらっしゃる時分ですよ」
かく言いつつ浪子はおもむろに幾を顧みたり。幾はそこらを片づけながら
「ほんとにあの方はいい方(かた)でございますねエ。あれでも耶蘇(やそ)でいらッしゃいますッてねエ」
「ああそうだッてね」
「でもあんな方が切支丹(きりしたん)でいらッしゃろうとは思いませんでしたよ。それにあんなに髪を切ッていらッしゃるのですら」
「なぜかい?」
「でもね、あなた、耶蘇の方では御亭主が亡(な)くなッても髪なんぞ切りませんで、なおのことおめかしをしましてね、すぐとまたお嫁入りの口をさがしますとさ」
「ほほほほ、ばあやはだれからそんな事を聞いたのかい?」
「イイエ、ほんとでございますよ。一体あの宗旨では、若い娘(もの)までがそれは生意気でございましてね、ほんとでございますよ。幾が親類(みうち)の隣家(となり)に一人(ひとり)そんな娘(こ)がございましてね、もとはあなたおとなしい娘(こ)で、それがあの宗旨の学校にあがるようになりますとね、あなた、すっかりようすが変わっちまいましてね、日曜日になりますとね、あなた、母親(おや)が今日(きょう)は忙(せわ)しいからちっと手伝いでもしなさいと言いましてもね、平気でそのお寺にいっちまいましてね、それから学校はきれいだけれども家(うち)はきたなくていけないの、母(おっか)さんは頑固(がんこ)だの、すぐ口をとがらしましてね、それに学校に上がっていましても、あなた、受取証が一枚書けませんでね、裁縫(しごと)をさせますと、日が一日襦袢(じゅばん)の袖(そで)をひねくっていましてね、お惣菜(そうざい)の大根をゆでなさいと申しますと、あなた、大根を俎板(まないた)に載せまして、庖丁(ほうちょう)を持ったきりぼんやりしておるのでございますよ。両親(おや)もこんな事ならあんな学校に入れるんじゃなかったと悔やんでいましてね。それにあなた、その娘(こ)はわたしはあの二百五十円より下の月給の良人(ひと)には嫁(い)かない、なんぞ申しましてね。ほんとにあなた、あきれかえるじゃございませんか。もとはやさしい娘(こ)でしたのに、どうしてあんなになったンでございましょうねエ。これが切支丹の魔法でございましょうね」
「ほほほほ。そんなでも困るのね。でも、何だッて、いい所もあれば、わるいところもあるから、よく知らないではいわれないよ。ねエばあや」
心得ずといわんがごとく小首傾けし幾は、熱心に浪子を仰ぎつつ
「でもあなた、耶蘇(やそ)だけはおよし遊ばせ」
浪子はほほえみつ。
「あの方とお話ししてはいけないというのかい」
「耶蘇(やそ)がみんなあんな方だとようございますがねエ、あなた。でも――」
幾は口をつぐみぬ。うわさをすれば影ありありと西側の障子に映り来たれるなり。
「お庭口から御免ください」
細く和らかなる女の声響きて、忙(いそが)わしく幾がたちてあけし障子の外には、五十あまりの婦人の小作りなるがたたずみたり。年よりも老(ふ)けて、多き白髪(しらが)を短くきり下げ、黒地の被布(ひふ)を着つ。やせたる上にやつれて見ゆれば、打ち見にはやや陰気に思わるれど、目に温(あたた)かなる光ありて、細き口もとにおのずからなる微笑あり。
幾があたかもうわさしたるはこの人なり。未(いま)だし。一週間以前の不動祠畔(しはん)の水屑(みくず)となるべかりし浪子をおりよくも抱き留めたるはこの人なりけり。
ラッパを吹き鼓を鳴らして名を売ることをせざれば、知らざる者は名をだに聞かざれど、知れる者はその包むとすれどおのずから身にあふるる光を浴びて、ながくその人を忘るるあたわずというなり。姓は小川(おがわ)名は清子(きよこ)と呼ばれて、目黒(めぐろ)のあたりにおおぜいの孤児女と棲(す)み、一大家族の母として路傍に遺棄せらるる幾多の霊魂を拾いてははぐくみ育つるを楽しみとしつ。肋膜炎(ろくまくえん)に悩みし病余の体(たい)を養うとて、昨月の末より此地(ここ)に来たれるなるが、かの日、あたかも不動祠にありて図らず浪子を抱(いだ)き止め、その主人を尋ねあぐみて狼狽(ろうばい)して来たれる幾に浪子を渡せしより、おのずから往来の道は開けしなり。 
五の二
茶を持(も)て来て今罷(まか)らんとしつる幾はやや驚きて
「まあ、明日(あす)お帰京(かえり)遊ばすんで。へエエ。せっかくおなじみになりかけましたのに」
老婦人もその和らかなる眼光(まなざし)に浪子を包みつつ
「私(わたくし)もも少し逗留(とうりゅう)して、お話もいたしましょうし、ごあんばいのいいのを見て帰りたいのでございますが――」
言いつつ懐中(ふところ)より小形の本を取り出(いだ)し、
「これは聖書ですがね。まだごらんになったことはございますまい」
浪子はいまださる書(もの)を読まざるなり。彼女(かれ)が継母は、その英国に留学しつる間は、信徒として知られけるが、帰朝の日その信仰とその聖書をば挙(あ)げてその古靴及び反故(ほご)とともにロンドンの仮寓(やどり)にのこし来たれるなり。
「はい、まだ拝見いたした事はございませんが」
幾はなお立ち去りかねて、老婦人が手中の書を、目を円(つぶら)にしてうちまもりぬ。手品の種はかのうちに、と思えるなるべし。
「これからその何でございますよ、御気分のよろしい時分に、読んでごらんになりましたら、きっとおためになることがあろうと思いますよ。私(わたくし)も今少し逗留(とうりゅう)していますと、いろいろお話もいたすのですが――今日はお告別(わかれ)に私がこの書を読むようになりましたその来歴(しまつ)をね、お話ししたいと思いますが。あなたお疲れはなさいませんか。何なら御遠慮なくおやすみなすッて」
しみじみと耳傾(かたぶ)けし浪子は顔を上げつ。
「いいえ、ちょっとも疲れはいたしません。どうかお話し遊ばして」
茶を入れかえて、幾は次に立ちぬ。
小春日の午後は夜(よ)よりも静かなり。海の音遠く、障子に映る松の影も動かず。ただはるかに小鳥の音の清きを聞く。東側のガラス障子を透かして、秋の空高く澄み、錦(にしき)に染まれる桜山は午後の日に燃えんとす。老婦人はおもむろに茶をすすりて、うつむきて被布の膝(ひざ)をかいなで、仰いで浪子の顔うちまもりつつ、静かに口を開き始めぬ。
「人の一生は長いようで短く、短いようで長いものですよ。
私の父は旗本で、まあ歴々のうちでした。とうに人の有(もの)になってしまったのですが、ご存じでいらッしゃいましょう、小石川(こいしかわ)の水道橋を渡って、少しまいりますと、大きな榎(えのき)が茂っている所がありますが、私はあの屋敷に生まれましたのです。十二の年に母は果てます、父はひどく力を落としまして後妻(あと)もとらなかったのですから、子供ながら私がいろいろ家事をやってましたね。それから弟に嫁をとって、私はやはり旗下(はたもと)の、格式は少し上でしたが小川の家(うち)にまいったのが、二十一の年、あなた方はまだなかなかお生まれでもなかったころでございますよ。
私も女大学で育てられて、辛抱なら人に負けぬつもりでしたが、実際にその場に当たって見ますと、本当に身にしみてつらいことも随分多いのでしてね。時勢(とき)が時勢(とき)で、良人(おっと)は滅多に宅(うち)にいませず、舅姑(しゅうと)に良人の姉妹(きょうだい)が二人(ふたり)=これはあとで縁づきましたが=ありまして、まあ主人を五人もったわけでして、それは人の知らぬ心配もいたしたのですよ。舅(しゅうと)はそうもなかったのですが、姑(しゅうとめ)がよほど事(つか)えにくい人でして、実は私の前に、嫁に来た婦人(ひと)があったのですが、半歳(はんとし)足らずの間に、逃げて帰ったということで、亡くなッた人をこう申すのははしたないようですが、気あらな、押し強い、弁も達者で、まあ俗に背(せな)かを打って咽(のど)をしむるなど申しますが、ちょっとそんな人でした。私も十分辛抱をしたつもりですが、それでも時々は辛抱しきれないで、屏風(びょうぶ)の陰で泣いて、赤い目を見てしかられてまた泣いて、亡くなった母を思い出すのもたびたびでした。
そうするうちに維新の騒ぎになりました。江戸じゅうはまるで鍋(なべ)のなかのようでしてね。良人も父も弟もみんな彰義隊(しょうぎたい)で上野にいます、それに舅が大病で、私は懐妊(みもち)というのでしょう。ほんとに気は気でなかったのでした。
それから上野は落ちます、良人は宇都宮(うつのみや)からだんだん函館(はこだて)までまいり、父は行くえがわからなくなり、弟は上野で討死(うちじに)をいたして、その家族も失踪(なくな)ってしまいますし、舅もとうとう病死をしましてね、そのなかでわたくしは産をいたしますし、何が何やらもう夢のようで、それから家禄(かろく)はなくなる、家財はとられますし、私は姑と年寄りの僕(ぼく)を一人(ひとり)連れましてね、当歳の児(こ)を抱いてあの箱根をこえて静岡(しずおか)に落ちつくまでは、恐ろしい夢を見たようでした」
この時看護婦入り来たりて、会釈しつつ、薬を浪子にすすめ終わりて、出(い)で行きたり。しばし瞑目(めいもく)してありし老婦人は目を開きて、また語りつづけぬ。
「静岡での幕士の苦労は、それはお話になりませんくらいで、将軍家がまずあの通り、勝(かつ)先生なんぞも裏小路(うらこうじ)の小さな家にくすぶっておいでの時節ですからね、五千石の私どもに三人扶持(ぶち)はもったいないわけですが、しかし恥ずかしいお話ですが、そのころはお豆腐が一丁(ちょう)とは買えませんで、それに姑はぜいたくになれておるのですから、ほんとに気をもみましたよ。で、私はね、町の女子供を寄せて手習いや、裁縫(しごと)を教えたり、夜もおそくまで、賃仕事をしましてね。それはいいのですが、姑はいよいよ気が荒くなりまして、時勢のしわざを私に負わすようなわけで、それはひどく当たりますし、良人(おっと)はいませず=良人は函館後はしばらく牢(ろう)に入(はい)っていました=父の行くえもわかりませんし、こんな事なら死んだ方がと思ったことは日に幾たびもありましたが、それを思い返し思い返ししていたのです。本当にこのころは一年に年の十もとりましたのですよ。
そうするうちに、良人も陸軍に召し出さるるようになって、また箱根をこえて、もう東京ですね、その東京に帰ったのが、さよう、明治五年の春でした。その翌春良人は洋行を命ぜられましてね。朝夕(ちょうせき)の心配はないようになったのですが、姑(しゅうと)の気分は一向に変わりませず――それはいいのでございますが、気にかかる父の行くえがどうしてもわかりません。
良人が洋行しましたその秋、ひどい雨の降る日でしたがね、小石川の知己(しるべ)までまいって、その家(うち)で雇ってもらった車に乗って帰りかけたのです。日は暮れます、ひどい雨風で、私は幌(ほろ)の内(うち)に小さくなっていますと、車夫(くるまや)はぼとぼとぼとぼと引いて行きましょう、饅頭笠(まんじゅうがさ)をかぶってしわだらけの桐油合羽(とうゆがっぱ)をきているのですが、雨がたらたらたらたら合羽から落ちましてね、提灯(ちょうちん)の火はちょろちょろ道の上に流れて、車夫(くるまや)は時々ほっほっ太息(といき)をつきながら引いて行くのです。ちょうど水道橋にかかると、提灯がふっと消えたのです。車夫(くるまや)は梶棒(かじぼう)をおろして、奥様、お気の毒ですがその腰掛けの下にオランダ付け木(マッチの事ですよ)がはいっていますから、というのでしょう。風がひどいのでよくは聞こえないのですがその声が変に聞いたようでね、とやこうしてマッチを出して、蹴込(けこ)みの方に向いてマッチをする、その火光(あかり)で車夫(くるまや)の顔を見ますと、あなた、父じゃございませんか」
老婦人がわれにもあらず顔打ちおおいぬ。浪子は汪然(おうぜん)として泣けり。次の間にも飲泣(いきすすり)の声聞こゆ。 
五の三
目をぬぐいて、老婦人は語り続けぬ。
「同じ東京にいながら、知らずにいればいられるものですねエ。それから父と連れ立って、まあ近くの蕎麦屋(そばや)にまいりましてね、様子を聞いて見ますと、上野の落ちた後は諸処方々を流浪(るろう)して、手習いの先生をしたり、病気したり、今は昔の家来で駒込(こまごめ)のすみにごくごく小さな植木屋をしているその者にかかッて、自身はこう毎日貸し車を引いているというのでございますよ。うれしいやら、悲しいのやら、情けないのやら、込み上げて、ろくに話もできないのです。それからまあその晩は父に心づけられて別れましてね。
夜(よ)も大分(だいぶ)ふけていました。帰るとあなた姑(しゅうと)は待ち受けていたという体(てい)で、それはひどい怒(おこ)りよう苦(にが)りようで、情けないじゃございませんか、私に何かくらい、あるまじいしわざでもあるように言いましてね。胸をさすッて、父の事を打ち明けて申しますと、気の毒と思ってくれればですが、それはもう聞きづらい恥ずかしい事を――あまり口惜しくて、情けなくて、今度ばかりは辛抱も何もない、もうもう此家(ここ)にはいない、今からすぐと父のそばに行って、とそう思いましてね、姑が臥(ふ)せりましたあとで、そっと着物を着かえて、悴(せがれ)=六つでした=がこう寝(やす)んでいます枕(まくら)もとで書き置きを書いていますと、悴が夢でも見たのですか、眠ったまま右の手を伸ばして「母(かあ)さま、行っちゃいやよ」と申すのですよ。その日小石川にまいる時置いて行ったのですから、その夢を見たのでしょうが、びっくりしてじっとその寝顔を見ていますと、その顔が良人の顔そのままになって、私は筆を落として泣いていました。そうすると、まあどうして思い出したのでございますか、まだ子供の時分にね、寝物語に母から聞いた嫁姑の話、あの話がこうふと心に浮かみましてね、ああ私一人の辛抱で何も無事に治まることと、そうおもい直しましてね――あなた、御退屈でしょう?」
身にしみて聴(き)ける浪子は、答うるまでもなくただ涙の顔を上げつ。幾が新たにくめる茶をすすりて、老婦人は再び談緒(だんちょ)をつぎぬ。
「それからとやかく姑にわびましてね、しかしそんなわけですからなかなか父を引き取るの貢(みつ)ぐのということはできません。で、まあごく内々で身のまわり=多くもありませんでしたが=の物なんぞ売り払ったり、それもながくは続かないのですから、良人の知己(しるべ)に頼みましてね、ある外国公使の夫人に物好きで日本の琴を習いたいという人がありましてね、それで姑の前をとやかくしてそれから月に幾たび琴を教えて、まあ少しは父を楽にすることができたのですが、そうするうちに、その夫人と懇意になりましてね、それは珍しいやさしい人でして、時々は半解(はんわかり)の日本語でいろいろ話をしましてね、読んでごらんなさいといって本を一冊くれました。それがね、そのころ初めて和訳になったマタイ伝――この聖書の初めにありますのでした。少し読みかけて見たのですが、何だか変な事ばかり書いてありまして、まあそのままにうっちゃって置いたのでした。
それから翌年(よくとし)の春、姑はふと中風(ちゅうふう)になりましてね、気の強い人でしたが、それはもう子供のように、ひどくさびしがって、ちょいとでもはずしますと、お清(きよ)お清とすぐ呼ぶのでございますよ。そばにすわって、蠅(はえ)を追いながら、すやすや眠る姑の顔を見ていますと、本当にこうなるものをなぜ一度でも心に恨んだことがあったろう、できることならもう一度丈夫にして、とそうおもいましてね、精一杯骨を折ったのですが、そのかいもないのでした。
姑が亡くなりますとほどなく良人が帰朝しましてね。それから引き取るというきわになって、父も安心したせいですか、急に病気になって、つい二三日でそれこそ眠るように消えました。もう生涯会われぬと思った娘には会うし、やさしくしてくれるし、自分ほど果報者はないと、そう申しましてね。――でも私は思う十分一もできませんで、今でも思い出すたびにもう一度活(い)かして思う存分喜ばして見たいと思わぬ時はありませんよ。
それから良人は次第に立身いたします、悴は大きくなりまして、私もよほど楽になったのですが、ただ気をもみましたのは、良人の大酒(たいしゅ)――軍人は多くそうですが――の癖でした。それから今でもやはりそうですが、そのころは別してね、男子(おとこ)の方(かた)が不行跡で、良人なんぞはまあ西洋にもまいりますし、少しはいいのでしたが、それでも恥ずかしい事ですが、私も随分心配をいたしました。それとなく異見をしましても、あなた、笑って取り合いませんのですよ。
そうするうちにあの十年の戦争になりまして、良人――近衛(このえ)の大佐でした――もまいります。そのあとに悴が猩紅熱(しょうこうねつ)で、まあ日夜(ひるよる)つきッきりでした。四月十八日の夜(ばん)でした、悴が少しいい方でやすんでいますから、婢(おんな)なぞもみんな寝せまして、私は悴の枕もとに、行燈(あんどう)の光で少し縫い物をしていますと、ついうとうといたしましてね。こう気が遠(とおー)くなりますと、すうと人の来る気(け)はいがいたして、悴の枕もとにすわる者があるのです。たれかと思って見ますと、あなた、良人です、軍服のままで、血だらけになりまして、蒼(あお)ざめて――ま、あなた、思わずいったその声にふッと目がさめて、あたりを見るとだれもいません。行燈の火がとろとろ燃えて、悴はすやすや眠っています。もうすっかり汗になりまして、動悸(どうき)がはげしくうって――
その翌日から悴は急にわるくなりまして、とうとうその夕刻に息を引き取りましてね。もう夢のようになりましてその骸(からだ)を抱いているうちに、着いたのが良人が討死(うちじに)の電報(しらせ)でした」
話者は口をつぐみ、聴者は息をのみ、室内しんとして水のごとくなりぬ。
やや久しゅうして、老婦人は再び口を開けり。
「それから一切夢中でしてね、日と月と一時に沈(い)ったと申しましょうか、何と申しましょうか、それこそほんにまっ暗になりまして、辛抱に辛抱して結局(つまり)がこんな事かと思いますと、いっそこのままなおらずに――すぐそのあとで臥病(わずらい)ましたのですよ――と思ったのですが、幸(しあわせ)か不幸(ふしあわせ)か病気はだんだんよくなりましてね。
病気はよくなったのですが、もう私には世の中がすっかり空虚(から)になったようで、ただ生きておるというばかりでした。そうするうちに、知己(しるべ)の勧めでとにかく家をたたんでしばらくその宅にまいることになりましてね。病後ながらぶらぶら道具や何か取り細めていますと、いつでしたか箪笥(たんす)を明けますとね、亡くなりました悴の袷(あわせ)の下から書(ほん)が出てまいりましてね、ふと見ますと先年外国公使の夫人がくれましたその聖書でございますよ。読むでもなくつい見ていますと、ちょいとした文句が、こう妙に胸に響くような心地(こころもち)がしましてね――それはこの書(ほん)にも符号(しるし)をつけて置きましたが――それから知己(しるべ)の宅(うち)に越しましても、時々読んでいました。読んでいますうちに、山道に迷った者がどこかに鶏(とり)の声を聞くような、まっくらな晩にかすかな光がどこからかさすように思いましてね。もうその書(ほん)をくれた公使の夫人は帰国して、いなかったのですが、だれかに話を聞いて見たいと思っていますうちに、知己(しるべ)の世話でそのころできました女の学校の舎監になって見ますと、それが耶蘇(やそ)教主義の学校でして、その教師のなかにまだ若い御夫婦の方でしたが、それは熱心な方がありましてね、この御夫婦が私のまあ先達(せんだつ)になってくだすったのですよ。その先達に初歩(ふみはじめ)を教(おそ)わってこの道に入りましてから、今年でもう十六年になりますが、杖(つえ)とも思うは実にこの書(ほん)で、一日もそばを放さないのでございますよ。霊魂不死という事を信じてからは、死を限りと思った世の中が広くなりまして、天の父を知ってからは親を失ってまた大きな親を得たようで、愛の働きを聞いてからは子を失(な)くしてまたおおぜいの子を持った心地(こころもち)で、望みという事を教えられてから、辛抱をするにも楽しみがつきましてね――
私がこの書(ほん)を読むようになりましたしまつはまあざッとこんなでございますよ」
かく言い来たりて、老婦人は熱心に浪子の顔打ちまもり、
「実は、御様子はうすうす承っていましたし、ああして時々浜でお目にかかるのですから、ぜひ伺いたいと思う事もたびたびあったのですが、――それがこうふとお心やすくいたすようになりますと、またすぐお別れ申すのは、まことに残念でございますよ。しかしこう申してはいかがでございますが、私にはどうしても浅日(ちょっと)のお面識(なじみ)の方とは思えませんよ。どうぞ御身(おみ)を大事に遊ばして、必ず気をながくお持ち遊ばして、ね、決して短気をお出しなさらぬように――御気分のいい時分(とき)はこの書(ほん)をごらん遊ばして――私は東京(あちら)に帰りましても、朝夕こちらの事を思っておりますよ」

老婦人はその翌日東京に去りぬ。されどその贈れる一書は常に浪子の身近に置かれつ。
世にはかかる不幸を経てもなお人を慰むる誠(まこと)を余せる人ありと思えば、母ならず伯母ならずしてなおこの茫々(ぼうぼう)たる世にわれを思いくくる人ありと思えば、浪子はいささか慰めらるる心地(ここち)して、聞きつる履歴を時々思い出(い)でては、心こめたる贈り物の一書をひもとけるなり。 

 

六の一
第二軍は十一月二十二日をもって旅順を攻め落としつ。
「お母(かあ)さま、お母さま」
新聞を持ちたるままあわただしく千鶴子はその母を呼びたり。
「何ですね。もっと静かに言(もの)をお言いなさいな」
水色の眼鏡(めがね)にちょっとにらまれて、さっと面(おもて)に紅潮(くれない)を散らしながら、千鶴子はほほと笑いしが、またまじめになりて、
「お母さま、死にましたよ、あれが――あの千々岩(ちぢわ)が!」
「エ、千々岩!あの千々岩が!どうして?戦死(うちじに)かい?」
「戦死(せんし)将校のなかに名が出ているわ。――いい気味!」
「またそんなはしたないことを。――そうかい。あの千々岩が戦死(うちじに)したのかい!でもよく戦死(うちじに)したねエ、千鶴さん」
「いい気味!あんな人は生きていたッて、邪魔になるばかりだわ」
加藤子爵夫人はしばし黙然として沈吟しぬ。
「死んでもだれ一人泣いてくれる者もないくらいでは、生きがいのないものだね、千鶴さん」
「でも川島のおばあさんが泣きましょうよ。――川島てば、お母さま、お豊(とよ)さんがとうと逃げ出したんですッて」
「そうかい?」
「昨日(きのう)ね、また何か始めてね、もうもうこんな家(うち)にはいないッて、泣き泣き帰っちまいましたんですッて。ほほほほほほようすが見たかったわ」
「だれが行ってもあの家(うち)では納まるまいよ、ねエ千鶴さん」
母子(おやこ)相見て言葉途絶えぬ。

千々岩は死せるなり。千鶴子母子(おやこ)が右の問答をなしつるより二十日(はつか)ばかり立ちて、一片の遺骨と一通の書と寂しき川島家に届きたり。骨(こつ)は千々岩の骨、書は武男の書なりき。その数節を摘みてん。
旅順陥落の翌々日、船渠(せんきょ)船舶等艦隊の手に引き取ることと相成り、将校以下数名上陸いたし、私儀も上陸仕(つかまつ)り候(そろ)。激戦後の事とて、惨状は筆紙に尽くし難く  中略 仮設野戦病院の前を過ぎ候ところ、ふと担架にて人を運び居候を見受け申し候。青毛布(ケット)をおおい、顔には白木綿(しろもめん)のきれをかけて有之(これあり)、そのきれの下より見え候口もと顋(あご)のあたりいかにも見覚えあるようにて、尋ね申し候えば、これは千々岩中尉と申し候。その時の喫驚(きっきょう)御察しくださるべく候。中略  おおいをとり申し候えば、色蒼(あお)ざめ、きびしく歯をくいしばり居申し候。創(きず)は下腹部に一か所、その他二か所、いずれも椅子山(いすざん)砲台攻撃の際受け候弾創にて、今朝まで知覚有之(これあり)候ところ、ついに絶息いたし候由。中略  なお同人の同僚につきいろいろ承り候ところ、彼は軍中の悪(にく)まれ者ながら戦争のみぎりは随分相働き、すでに金州攻撃の際も、部下の兵士と南門の先登をいたし候由にて、今回もなかなか働き候との事に御座候。もっとも平生(へいぜい)は往々士官の身にあるまじき所行も内々有之(これあり)、陣中ながら身分不相応の金子(きんす)を貯(たくわ)え居申し候。すでに一度は貔子窩(ひしか)において、軍司令官閣下の厳令あるにかかわらず、何か徴発いたし候とて土民に対し惨刻千万の仕打ち有之(これあり)すでにその処分も有之(これある)べきところ  中略 とにかく戦死は彼がためにもっけの幸いに有之べく候。
母上様御承知の通り、彼は重々不埒(ふらち)のかども有之、彼がためには実に迷惑もいたし、私儀もすでに断然絶交いたしおり候事に有之候えども、死骸(しがい)に対しては恨みも御座なく、昔兄弟のように育ち候事など思い候えば、不覚の落涙も仕り候事に御座候。よって許可(ゆるし)を受け、火葬いたし、骨を御送(おんおく)り申し上げ候。しかるべく御葬り置きくだされたく願い奉り候。
武男が旅順にて遭遇しつる事はこれに止(とど)まらず、わざと書中に漏らしし一の出来事ありき。 
六の二
武男が書中に漏れたる事実は、左のごとくなりき。
千々岩の死骸(しがい)に会えるその日、武男はひとり遅れて埠頭(はとば)の方(かた)に帰り居たり。日暮れぬ。
舎営の門口(かど)のきらめく歩哨(ほしょう)の銃剣、将校馬蹄(ばてい)の響き、下士をしかりいる士官、あきれ顔にたたずむ清人(しんじん)、縦横に行き違う軍属、それらの間を縫うて行けば、軍夫五六人、焚火(たきび)にあたりつ。
「めっぽう寒いじゃねエか。故国(うち)にいりや、葱鮪(ねぎま)で一杯(ぺえ)てえとこだ。吉(きち)、てめえアまたいい物引っかけていやがるじゃねえか」
吉といわれし軍夫は、分捕(ぶんど)りなるべし、紫緞子(どんす)の美々しき胴衣(どうぎ)を着たり。
「源公(げんこう)を見ねえ。狐裘(かわ)の四百両もするてえやつを着てやがるぜ」
「源か。やつくれえばかに運の強(つえ)えやつアねえぜ。博(ぶつ)ちゃア勝つ、遊んで褒美(ほうび)はもれえやがる、鉄砲玉ア中(あた)りッこなし。運のいいたやつのこっだ。おいらなんざ大連(だいれん)湾でもって、から負けちゃって、この袷(あわせ)一貫よ。畜生(ちきしょう)め、分捕りでもやつけねえじゃ、ほんとにやり切れねえや」
「分捕りもいいが、きをつけねえ。さっきもおれアうっかり踏ん込(ご)むと、殺しに来たと思いやがったンだね、いきなり桶(おけ)の後ろから抜剣(ぬきみ)の清兵(やつ)が飛び出しやがって、おいらアもうちっとで娑婆(しゃば)にお別れよ。ちょうど兵隊さんが来て清兵(やつ)めすぐくたばっちまやがったが。おいらア肝つぶしちゃったぜ」
「ばかな清兵(やつ)じゃねえか。まだ殺され足りねえてンだな」
旅順落ちていまだ幾日もあらざれば、げに清兵(しんぺい)の人家に隠れて捜し出(いだ)されて抵抗せしため殺さるるも少なからざりけるなり。
聞くともなき話耳に入りて武男はいささか不快の念を動かしつつ、次第に埠頭(はとば)の方(かた)に近づきたり。このあたり人け少なく、燈火(ともしび)まばらにして、一方に建てつらねたる造兵廠(しょう)の影黒く地に敷き、一方には街燈の立ちたるが、薄月夜ほどの光を地に落とし、やせたる狗(いぬ)ありて、地をかぎて行けり。
武男はこの建物の影に沿うて歩みつつ、目はたちまち二十間を隔てて先に歩み行く二つの人影に注ぎたり。後影(かげ)は確かにわが陸軍の将校士官のうちなるべし。一人は濶大(かつだい)に一人は細小なるが、打ち連れて物語などして行くさまなり。武男はその一人をどこか見覚えあるように思いぬ。
たちまち武男はわれとかの両人(ふたり)の間にさらに人ありて建物の影を忍び行くを認めつ。胸は不思議におどりぬ。家の影さしたれば、明らかには見えざれど、影のなかなる影は、一歩進みて止(とど)まり、二歩行きてうかがい、まさしく二人のあとを追うて次第に近づきおるなり。たまたま家と家との間(なか)絶えて、流れ込む街燈の光に武男はその清人(しんじん)なるを認めつ。同時にものありて彼が手中にひらめくを認めたり。胸打ち騒ぎ、武男はひそかに足を早めてそのあとを慕いぬ。
最先(さき)に歩めるかの二人が今しも街(まち)の端にいたれる時、闇中(あんちゅう)を歩めるかの黒影は猛然と暗を離れて、二人を追いぬ。驚きたる武男がつづいて走り出(いだ)せる時、清人はすでに六七間の距離に迫りて、右手(めて)は上がり、短銃響き、細長なる一人はどうと倒れぬ。驚きて振りかえる他の一人を今一発、短銃の弾機をひかんとせる時、まっしぐらに馳(は)せつきたる武男は拳(こぶし)をあげて折れよと彼が右腕(うで)をたたきつ。短銃落ちぬ。驚き怒りてつかみかかれる彼を、武男は打ち倒さんと相撲(すま)う。かの濶大(かつだい)なる一人も走(は)せ来たりて武男に力を添えんとする時、短銃の音に驚かされしわが兵士ばらばらと走(は)せきたり、武男が手にあまるかの清人を直ちに蹴(け)倒して引っくくりぬ。瞬間の争いに汗になりたる武男が混雑の間より出(い)でける時、倒れし一人をたすけ起こせるかの濶大なる一人はこなたに向かい来たりぬ。
この時街燈の光はまさしく片岡中将の面(おもて)をば照らし出(いだ)しつ。
武男は思わず叫びぬ。
「やッ、閣下(あなた)は!」
「おッきみは!」
片岡中将はその副官といずくかへ行ける帰途(かえり)を、殊勝にも清人(しんじん)のねらえるなりき。
副官の疵(きず)は重かりしが、中将は微傷だも負わざりき。武男は図らずして乃舅(だいきゅう)を救えるなり。

この事いずれよりか伝わりて、浪子に達せし時、幾は限りなくよろこびて、
「ごらん遊ばせ。どうしても御縁が尽きぬのでございますよ。精出して御養生遊ばせ。ねエ、精出して養生いたしましょうねエ」
浪子はさびしく打ちほほえみぬ。 

 

七の一
戦争のうちに、年は暮れ、かつ明けて、明治二十八年となりぬ。
一月より二月にかけて威海衛落ち、北洋艦隊亡(ほろ)び、三月末には南の方(かた)澎湖(ぼうこ)列島すでにわが有に帰し、北の方(かた)にはわが大軍潮(うしお)のごとく進みて、遼河(りょうが)以東に隻騎の敵を見ず。ついで講和使来たり、四月中旬には平和条約締結の報あまねく伝わり、三国干渉のうわさについで、遼東還付の事あり。同五月末大元帥陛下凱旋(がいせん)したまいて、戦争はさながら大鵬(たいほう)の翼を収むるごとく しゅく然としてやみぬ。
旅順に千々岩の骨を収め、片岡中将の危厄を救いし後、武男は威海衛の攻撃に従い、また遠く南の方(かた)澎湖島占領の事に従いしが、六月初旬その乗艦のひとまず横須賀に凱旋する都合となりたるより、久々(ひさびさ)ぶりに帰京して、たえて久しきわが家(や)の門を入りぬ。
想(おも)えば去年の六月、席をけって母に辞したりしよりすでに一年を過ぎぬ。幾たびか死生のきわを通り来て、むかしの不快は薄らぐともなく痕(あと)を滅し、佐世保病院の雨の日、威海衛港外風氷る夜(よ)は想いのわが家(や)に向かって飛びしこと幾たびぞ。
一年ぶりに帰りて見れば、家の内(うち)何の変わりたることもなく、わが車の音に出(い)で迎えつる婢(おんな)の顔の新しくかわれるのみ。母は例のごとく肥え太りて、リュウマチス起これりとて、一日床にあり。田崎は例のごとく日々(にちにち)来たりては、六畳の一間に控え、例のごとく事務をとりてまた例刻に帰り行く。型に入れたるごとき日々の事、見るもの、聞くもの、さながらに去年のままなり。武男は望みを得て望みを失える心地(ここち)しつ。一年ぶりに母にあいて、絶えて久しきわが家の風呂(ふろ)に入りて、うずたかき蒲団(ふとん)に安坐(あんざ)して、好める饌(ぜん)に向かいて、さて釣り床ならぬ黒ビロードの括(くく)り枕(まくら)に疲れし頭(かしら)を横たえて、しかも夢は結ばれず、枕べ近き時計の一二時をうつまでも、目はいよいよさえて、心の奥に一種鋭き苦痛(くるしみ)を覚えしなり。
一年の月日は母子の破綻(はたん)を繕いぬ。少なくも繕えるがごとく見えぬ。母もさすがに喜びてその独子(ひとりご)を迎えたり。武男も母に会うて一の重荷をばおろしぬ。されど二人(ふたり)が間は、顔見合わせしその時より、全く隔てなきあたわざるを武男も母も覚えしなり。浪子の事をば、彼も問わず、これも語らざりき。彼の問わざるは問うことを欲せざるがためにあらずして、これの語らざるは彼の聞かんことを欲するを知らざるがためにはあらざりき。ただかれこれともにこの危険の問題をば務めて避けたるを、たがいにそれと知りては、さしむかいて話途絶ゆるごとにおのずから座の安からざるを覚えしなり。
佐世保病院の贈り物、旅順のかの出来事、それはなくとももとより忘るる時はなきに、今昔ともに棲(す)みし家に帰り来て見れば、見る物ごとにその面影(おもかげ)の忍ばれて、武男は怪しく心地(ここち)乱れぬ。彼女(かれ)は今いずこにおるやらん。わが帰り来しと知らでやあらん。思いは千里も近しとすれど、縁絶えては一里と距(はな)れぬ片岡家、さながら日よりも遠く、彼女(かれ)が伯母の家は呼べば応(こた)うる近くにありながら、何の顔ありて行きてその消息を問うべきぞ。想(おも)えば去年の五月艦隊の演習におもむく時、逗子に立ち寄りて別れを告げしが一生の別離(わかれ)とは知らざりき。かの時別荘の門に送り出(い)でて「早く帰ってちょうだい」と呼びし声は今も耳底(みみ)に残れど、今はたれに向かいて「今帰った」というべきぞ。
かく思いつづけし武男は、一日(あるひ)横須賀におもむきしついでに逗子に下りて、かの別墅(べっしょ)の方に迷い行けば、表の門は閉じたり。さては帰京せしかと思いわびつつ、裏口より入り見れば、老爺(じじい)一人(ひとり)庭の草をむしり居(い)つ。 
七の二
武男が入り来る足音に、老爺(じじい)はおもむろに振りかえりて、それと見るよりいささか驚きたる体(てい)にて、鉢巻(はちまき)をとり、小腰を屈(かが)めながら
「これはおいでなせえまし。旦那様アいつお帰(けえ)りでごぜエましたんで?」
「二三日前に帰った。老爺(おまえ)も相変わらず達者でいいな」
「どういたしまして、はあ、ねッからいけませんで、はあお世話様になりますでごぜエますよ」
「何かい、老爺(おまえ)はもうよっぽど長く留守をしとるのか?」
「いいや、何でごぜエますよ、その、先月(あとげつ)までは奥様――ウンニャお嬢――ごご御病人様とばあやさんがおいでなさったんで、それからまア老爺(わたくし)がお留守をいたしておるでごぜエますよ」
「それでは先月(あとげつ)帰京(かえ)ったンだね――では東京(あっち)にいるのだな」
と武男はひとりごちぬ。
「はい、さよさまで。殿様が清国(あっち)からお帰(けえ)りなさるその前(めえ)に、東京にお帰(けえ)りなさったでごぜエますよ。はア、それから殿様とごいっしょに京都(かみがた)に行かっしゃりました御様子で、まだ帰京(けえ)らっしゃりますめえと、はや思うでごぜエますよ」
「京都(かみがた)に?――では病気がいいのだな」
武男は再びひとりごちぬ。
「で、いつ行ったのだね?」
「四五日(しごんち)前――」と言いかけしが、老爺(じじい)はふと今の関係を思い出(い)でて、言い過ぎはせざりしかと思い貌(がお)にたちまち口をつぐみぬ。それと感ぜし武男は思わず顔をあからめたり。
ふたり相対(あいむか)いてしばし黙然(もくねん)としていたりしが、老爺(じじい)はさすがに気の毒と思い返ししように、
「ちょいと戸を明けますべえ。旦那様、お茶でも上がってまあお休みなさッておいでなせエましよ」
「何、かまわずに置いてもらおう。ちょっと通りかかりに寄ったんだ」
言いすてて武男はかつて来なれし屋敷内(うち)を回り見れば、さすがに守(も)る人あれば荒れざれど、戸はことごとくしめて、手水鉢(ちょうずばち)に水絶え、庭の青葉は茂りに茂りて、ところどころに梅子(うめのみ)こぼれ、青々としたる芝生(しばふ)に咲き残れる薔薇(ばら)の花半ばは落ちて、ほのかなる香(かおり)は庭に満ちたり。いずくにも人の気(け)はなくて、屋後(おくご)の松に蝉(せみ)の音(ね)のみぞかしましき。
武男はそうそうに老爺(じじい)に別れて、頭(かしら)をたれつつ出(い)で去りぬ。
五六日を経て、武男はまた家を辞して遠く南征の途に上ることとなりぬ。家に帰りて十余日、他の同僚は凱旋(がいせん)の歓迎のとおもしろく騒ぎて過ごせるに引きかえて、武男はおもしろからぬ日を送れり。遠く離れてはさすがになつかしかりし家も、帰りて見れば思いのほかにおもしろき事もなくて、武男はついにその心の欠陥(あき)を満たすべきものを得ざりしなり。
母もそれと知りて、苦々しく思えるようすはおのずから言葉の端にあらわれぬ。武男も母のそれと知れるをば知り得て、さしむかいて語るごとに、ものありて間を隔つるように覚えつ。されば母子の間はもとのごとき破裂こそなけれ、武男は一年後の今のかえってもとよりも母に遠ざかれるを憾(うら)みて、なお遠ざかるをいかんともするあたわざりき。母子(ぼし)は冷然として別れぬ。
横須賀より乗るべかりしを、出発に垂(なんな)んとして障(さわり)ありて一日(じつ)の期をあやまりたれば、武男は呉(くれ)より乗ることに定め、六月の十日というに孤影蕭然(しょうぜん)として東海道列車に乗りぬ。 

 

八の一
宇治(うじ)の黄檗山(おうばくざん)を今しも出(い)で来たりたる三人(みたり)連れ。五十余りと見ゆる肥満の紳士は、洋装して、金頭(きんがしら)のステッキを持ち、二十(はたち)ばかりの淑女は黒綾(くろあや)の洋傘(パラソル)をかざし、そのあとより五十あまりの婢(おんな)らしきが信玄袋をさげて従いたり。
三人(みたり)の出(い)で来たるとともに、門前に待ち居し三輛(りょう)の車がらがらと引き来るを、老紳士は洋傘(パラソル)の淑女を顧みて
「いい天気じゃ。すこし歩いて見てはどうか」
「歩きましょう」
「お疲れは遊ばしませんか」と婢(おんな)は口を添えつ。
「いいよ、少しは歩いた方が」
「じゃ疲れたら乗るとして、まあぶらぶら歩いて見るもいいじゃろう」
三輛の車をあとに従えつつ、三人はおもむろに歩み初めぬ。いうまでもなく、こは片岡中将の一行なり。昨日(きのう)奈良(なら)より宇治に宿りて、平等院を見、扇の芝の昔を弔(とむら)い、今日(きょう)は山科(やましな)の停車場より大津(おおつ)の方(かた)へ行かんとするなり。
片岡中将は去(さんぬ)る五月に遼東より凱旋しつ。一日浪子の主治医を招きて書斎に密談せしが、その翌々日より、浪子を伴ない、婢(ひ)の幾を従えて、飄然(ひょうぜん)として京都に来つ。閑静なる河(かわ)ぞいの宿をえらみて、ここを根拠地と定めつつ、軍服を脱ぎすてて平服に身を包み、人を避け、公会の招きを辞して、ただ日々(にちにち)浪子を連れては彼女(かれ)が意のむかうままに、博覧会を初め名所古刹(こさつ)を遊覧し、西陣に織り物を求め、清水(きよみず)に土産(みやげ)を買い、優遊の限りを尽くして、ここに十余日を過ぎぬ。世間(よ)はしばし中将の行くえを失いて、浪子ひとりその父を占めけるなり。
「黄檗(おうばく)を出れば日本の茶摘みかな」茶摘みの盛季(さかり)はとく過ぎたれど、風は時々焙炉(ほうろ)の香を送りて、ここそこに二番茶を摘む女の影も見ゆなり。茶の間々(あいあい)は麦黄いろく熟(う)れて、さくさくと鎌(かま)の音聞こゆ。目を上ぐれば和州の山遠く夏がすみに薄れ、宇治川は麦の穂末を渡る白帆(しらほ)にあらわれつ。かなたに屋根のみ見ゆる村里より午鶏の声ゆるく野づらを渡り来て、打ち仰ぐ空には薄紫に焦がれし雲ふわふわと漂いたり。浪子は吐息つきぬ。
たちまち左手(ゆんで)の畑路(みち)より、夫婦と見ゆる百姓二人話しもて出(い)で来たりぬ。午餉(ひるげ)を終えて今しも圃(はた)に出(い)で行くなるべし。男は鎌を腰にして、女は白手ぬぐいをかむり、歯を染め、土瓶(どびん)の大いなるを手にさげたり。出会いざまに、立ちどまりて、しばし一行の様子を見し女は、行き過ぎたる男のあと小走りに追いかけて、何かささやきつ。二人ともに振りかえりて、女は美しく染めたる歯を見せてほほえみしが、また相語りつつ花茨(いばら)こぼるる畦路(あぜみち)に入り行きたり。
浪子の目はそのあとを追いぬ。竹の子笠(がさ)と白手ぬぐいは、次第に黄ばめる麦に沈みて、やがてかげも見えずなりしと思えば、たちまち畑(はた)のかなたより
「郎(ぬし)は正宗(まさむね)、わしア錆(さ)び刀、郎(ぬし)は切れても、わしア切れエ――ぬ」
歌う声哀々として野づらに散りぬ。
浪子はさしうつむきつ。
ふりかえり見し父中将は
「くたびれたじゃろう。どれ――」
言いつつ浪子の手をとりぬ。 
八の二
中将は浪子の手をひきつつ
「年のたつは早いもンじゃ。浪、卿(おまえ)はおぼえておるかい、卿(おまえ)がちっちゃかったころ、よくおとうさんに負ぶさって、ぽんぽんおとうさんが横腹をけったりしおったが。そうじゃ、卿(おまえ)が五つ六つのころじゃったの」
「おほほほほ、さようでございましたよ。殿様が負(おん)ぶ遊ばしますと、少嬢様(ちいおじょうさま)がよくおむずかり遊ばしたンでございますね。――ただ今もどんなにおうらやましがっていらッしゃるかもわかりませんでございますよ」と気軽に幾が相槌(あいづち)うちぬ。
浪子はたださびしげにほほえみつ。
「駒(こま)か。駒にはおわびにどっさり土産(みやげ)でも持って行くじゃ。なあ、浪。駒よか千鶴さんがうらやましがっとるじゃろう、一度こっちに来たがっておったのじゃから」
「さようでございますよ。加藤(あちら)のお嬢様がおいで遊ばしたら、どんなにおにぎやかでございましょう。――本当に私(わたくし)なぞがまあこんな珍しい見物さしていただきまして――あの何でございますか、さっき渡りましたあの川が宇治川で、あの螢(ほたる)の名所で、ではあの駒沢(こまざわ)が深雪(みゆき)にあいました所でございますね」
「はははは、幾はなかなか学者じゃの。――いや世の中の移り変わりはひどいもンじゃ。おとうさんなぞが若かった時分は、大阪(おおさか)から京へ上るというと、いつもあの三十石で、鮓(すし)のごと詰められたもンじゃ。いや、それよかおとうさんがの、二十(はたち)の年じゃった、大西郷(おおさいごう)と有村(ありむら)――海江田(かえだ)と月照師(げっしょうさん)を大阪まで連れ出したあとで、大事な要がでけて、おとうさんが行くことになって、さああと追っかけたが、あんまり急いで一文(もん)なしじゃ。とうとう頬(ほお)かぶりをして跣足(はだし)で――夜じゃったが――伏見(ふしみ)から大阪まで川堤(かわどて)を走ったこともあったンじゃ。はははは。暑いじゃないか、浪、くたびれるといかん、もう少し乗ったらどうじゃ」
おくれし車を幾が手招けば、からからと挽(ひ)き来つ。三人(みたり)は乗りぬ。
「じゃ、そろそろやってくれ」
車は徐々に麦圃(ばくほ)を穿(うが)ち、茶圃を貫きて、山科(やましな)の方(かた)に向かいつ。
前なる父が項(うなじ)の白髪(しらが)を見つめて、浪子は思いに沈みぬ。良人(おっと)に別れ、不治の疾(やまい)をいだいて、父に伴なわるるこの遊びを、うれしといわんか、哀(かな)しと思わんか。望みも楽しみも世に尽き果てて遠からぬ死を待つわれを不幸といわば、そのわれを思い想(おも)う父の心をくむに難からず。浪子は限りなき父の愛を想うにつけても、今の身はただ慰めらるるほかに父を慰むべき道なきを哀(かな)しみつ。世を忘れ人を離れて父子(おやこ)ただ二人名残(なごり)の遊びをなす今日このごろは、せめて小供の昔にかえりて、物見遊山(ものみゆさん)もわれから進み、やがて消ゆべき空蝉(うつせみ)の身には要なき唐(から)織り物も、末は妹(いもと)に紀念(かたみ)の品と、ことに華美(はで)なるを選みしなり。
父を哀(かな)しと思えば、恋しきは良人武男。旅順に父の危難(あやうき)を助けたまいしとばかり、後の消息はたれ伝うる者もなく、思いは飛び夢は通えど、今はいずくにか居たもうらん。あいたし、一度あいたし、生命(いき)あるうちに一度、ただ一度あいたしと思うにつけて、さきに聞きつる鄙歌(ひなうた)のあいにく耳に響き、かの百姓夫婦のむつまじく語れる面影は眼前(めさき)に浮かび、楽しき粗布(あらぬ)に引きかえて憂いを包む風通(ふうつう)の袂(たもと)恨めしく――
せぐり来る涙をハンケチにおさえて、泣かじと唇(くちびる)をかめば、あいにくせきのしきりに濡れぬ。
中将は気づかわしげに、ふりかえりつ。
「もうようございます」
浪子はわずかに笑(え)みを作りぬ。

山科(やましな)に着きて、東行の列車に乗りぬ。上等室は他に人もなく、浪子は開ける窓のそばに、父はかなたに坐(ざ)して新聞を広げつ。
おりから煙を噴(は)き地をとどろかして、神戸(こうべ)行きの列車は東より来たり、まさに出(い)でんとするこなたの列車と相ならびたり。客車の戸を開閉(あけたて)する音、プラットフォームの砂利(じゃり)踏みにじりて駅夫の「山科、山科」と叫び過ぐる声かなたに聞こゆるとともに、汽笛鳴りてこなたの列車はおもむろに動き初めぬ。開ける窓の下(もと)に坐して、浪子はそぞろに移り行くあなたの列車をながめつ。あたかもかの中等室の前に来し時、窓に頬杖(ほおづえ)つきたる洋装の男と顔見合わしたり。
「まッあなた!」
「おッ浪さん!」
こは武男なりき。
車は過ぎんとす。狂せるごとく、浪子は窓の外にのび上がりて、手に持てるすみれ色のハンケチを投げつけつ。
「おあぶのうございますよ、お嬢様」
幾は驚きてしかと浪子の袂を握りぬ。
新聞手に持ちたるまま中将も立ち上がりて窓の外を望みたり。
列車は五間(けん)過(す)ぎ――十間過ぎぬ。落つばかりのび上がりて、ふりかえりたる浪子は、武男が狂えるごとくかのハンケチを振りて、何か呼べるを見つ。
たちまちレールは山角(さんかく)をめぐりぬ。両窓のほか青葉の山あるのみ。後ろに聞こゆる帛(きぬ)を裂くごとき一声は、今しもかの列車が西に走れるならん。
浪子は顔打ちおおいて、父の膝(ひざ)にうつむきたり。 

 

九の一
七月七日の夕べ、片岡中将の邸宅(やしき)には、人多く集(つど)いて、皆低声(こごえ)にもの言えり。令嬢浪子の疾(やまい)革(あらた)まれるなり。
かねては一月の余もと期せられつる京洛(けいらく)の遊より、中将父子の去月下旬にわかに帰り来たれる時、玄関に出(い)で迎えし者は、医ならざるも浪子の病勢おおかたならず進めるを疑うあたわざりき。はたして医師は、一診して覚えず顔色を変えたり。月ならずして病勢にわかに加われるが上に、心臓に著しき異状を認めたるなりき。これより片岡家には、深夜も燈(ともしび)燃えて、医は間断なく出入りし、月末より避暑におもむくべかりし子爵夫人もさすがにしばしその行を見合わしつ。
名医の術も施すに由なく、幾が夜ごと日ごとの祈念もかいなく、病は日(ひび)に募りぬ。数度の喀血(かっけつ)、その間々(あいあい)には心臓の痙攣(けいれん)起こり、はげしき苦痛のあとはおおむねこんこんとしてうわ言を発し、今日は昨日より、翌日(あす)は今日より、衰弱いよいよ加わりつ。その咳嗽(がいそう)を聞いて連夜(よごと)ねむらぬ父中将のわが枕(まくら)べに来るごとに、浪子はほのかに笑(え)みて苦しき息を忍びつつ明らかにもの言えど、うとうととなりては絶えず武男の名をば呼びぬ。

今日明日と医師のことに戒めしその今日は夕べとなりて、部屋(へや)部屋は燈(ともしび)あまねく点(つ)きたれど、声高(こわだか)にもの言う者もなければ、しんしんとして人ありとは思われず。今皮下注射を終えたるあとをしばし静かにすとて、廊下伝いに離家(はなれ)より出(い)で来し二人の婦人は、小座敷の椅子(いす)に倚(よ)りつ。一人は加藤子爵夫人なり。今一人はかつて浪子を不動祠畔(ふどうしはん)に救いしかの老婦人なり。去年の秋の暮れに別れしより、しばらく相見ざりしを、浪子が父に請いて使いして招けるなり。
「いろいろ御親切に――ありがとうございます。姪(あれ)も一度はお目にかかってお礼を申さなければならぬと、そう言い言いいたしておりましたのですが――お目にかかりまして本望でございましょう」
加藤子爵夫人はわずかに口を開きぬ。
答うべき辞(ことば)を知らざるように、老婦人はただ太息(といき)つきて頭(かしら)を下げつ。ややありて声を低くし
「で――はどちらにおいでなさいますので?」
「台湾にまいったそうでございます」
「台湾!」
老婦人は再び太息つきぬ。
加藤子爵夫人はわき来る涙をかろうじておさえつ。
「でございませんと、あの通り思っているのでございますから、世間体はどうともいたして、あわせもいたしましょうし、暇乞(いとまごい)もいたさせたいのですが――何をいっても昨日今日台湾に着いたばかり、それがほかと違って軍艦に乗っているのでございますから――」
おりから片岡夫人入り来つ。そのあとより目を泣きはらしたる千鶴子は急ぎ足に入り来たりて、その母を呼びたり。 
九の二
日は暮れぬ。去年の夏に新たに建てられし離家(はなれ)の八畳には、燭台(しょくだい)の光ほのかにさして、大いなる寝台(ねだい)一つ据えられたり。その雪白なるシーツの上に、目を閉じて、浪子は横たわりぬ。
二年に近き病に、やせ果てし躯(み)はさらにやせて、肉という肉は落ち、骨という骨は露(あら)われ、蒼白(あおじろ)き面(おもて)のいとど透きとおりて、ただ黒髪のみ昔ながらにつやつやと照れるを、長く組みて枕上(まくら)にたらしたり。枕もとには白衣の看護婦が氷に和せし赤酒(せきしゅ)を時々筆に含まして浪子の唇(くちびる)を湿(うるお)しつ。こなたには今一人の看護婦とともに、目くぼみ頬落ちたる幾がうつむきて足をさすりぬ。室内しんしんとして、ただたちまち急にたちまちかすかになり行く浪子の呼吸の聞こゆるのみ。
たちまち長き息つきて、浪子は目を開き、かすかなる声を漏らしつ。
「伯母さまは――?」
「来ましたよ」
言いつつしずかに入り来たりし加藤子爵夫人は、看護婦がすすむる椅子をさらに臥床(とこ)近く引き寄せつ。
「少しはねむれましたか。――何?そうかい。では――」
看護婦と幾を顧みつつ
「少しの間(ま)あっちへ」
三人(みたり)を出しやりて、伯母はなお近く椅子を寄せ、浪子の額にかかるおくれ毛をなで上げて、しげしげとその顔をながめぬ。浪子も伯母の顔をながめぬ。
ややありて浪子は太息(といき)とともに、わなわなとふるう手をさしのべて、枕の下より一通の封ぜし書(もの)を取り出(いだ)し
「これを――届けて――わたしがなくなったあとで」
ほろほろとこぼす涙をぬぐいやりつつ、加藤子爵夫人は、さらに眼鏡(めがね)の下よりはふり落つる涙をぬぐいて、その書をしかとふところにおさめ、
「届けるよ、きっとわたしが武男さんに手渡すよ」
「それから――この指環(ゆびわ)は」
左手(ゆんで)を伯母の膝(ひざ)にのせつ。その第四指に燦然(さんぜん)と照るは一昨年(おととし)の春、新婚の時武男が贈りしなり。去年去られし時、かの家に属するものをばことごとく送りしも、ひとりこれのみ愛(お)しみて手離すに忍びざりき。
「これは――持(も)って――行きますよ」
新たにわき来る涙をおさえて、加藤夫人はただうなずきたり。浪子は目を閉じぬ。ややありてまた開きつ。
「どうしていらッしゃる――でしょう?」
「武男さんはもう台湾(あちら)に着いて、きっといろいろこっちを思いやっていなさるでしょう。近くにさえいなされば、どうともして、ね、――そうおとうさまもおっしゃっておいでだけれども――浪さん、あんたの心尽くしはきっとわたしが――手紙も確かに届けるから」
ほのかなる笑(えみ)は浪子の唇(くちびる)に上りしが、たちまち色なき頬のあたり紅(くれない)をさし来たり、胸は波うち、燃ゆばかり熱き涙はらはらと苦しき息をつき、
「ああつらい!つらい!もう――もう婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。――あああ!」
眉(まゆ)をあつめ胸をおさえて、浪子は身をもだえつ。急に医を呼びつつ赤酒を含ませんとする加藤夫人の手にすがりて半ば起き上がり、生命(いのち)を縮むるせきとともに、肺を絞って一盞(さん)の紅血を吐きつ。こんこんとして臥床(とこ)の上に倒れぬ。
医とともに、皆入りぬ。 
九の三
医師は騒がず看護婦を呼びて、応急の手段(てだて)を施しつ。さしずして寝床に近き玻璃窓(はりそう)を開かせたり。
涼しき空気は一陣水のごとく流れ込みぬ。まっ黒き木立(こだち)の背(うしろ)ほのかに明るみたるは、月出(い)でんとするなるべし。
父中将を首(はじめ)として、子爵夫人、加藤子爵夫人、千鶴子、駒子、及び幾も次第にベッドをめぐりて居流れたり。風はそよ吹きてすでに死せるがごとく横たわる浪子の鬢髪(びんぱつ)をそよがし、医はしきりに患者の面(おもて)をうかがいつつ脈をとれば、こなたに立てる看護婦が手中の紙燭(ししょく)はたはたとゆらめいたり。
十分過ぎ十五分過ぎぬ。寂(しず)かなる室内かすかに吐息聞こえて、浪子の唇わずかに動きつ。医は手ずから一匕(ひとさじ)の赤酒を口中に注ぎぬ。長き吐息は再び寂(しず)かなる室内に響きて、
「帰りましょう、帰りましょう、ねエあなた――お母(かあ)さま、来ますよ来ますよ――おお、まだ――ここに」
浪子はぱっちりと目を開きぬ。
あたかも林端に上れる月は一道の幽光を射て、惘々(もうもう)としたる浪子の顔を照らせり。
医師は中将にめくばせして、片隅(かたえ)に退きつ。中将は進みて浪子の手を執り、
「浪、気がついたか。おとうさんじゃぞ。――みんなここにおる」
空(くう)を見詰めし浪子の目は次第に動きて、父中将の涙に曇れる目と相会いぬ。
「おとうさま――おだいじに」
ほろほろ涙をこぼしつつ、浪子はわずかに右手(めて)を移して、その左を握れる父の手を握りぬ。
「お母さま」
子爵夫人は進みて浪子の涙をぬぐいつ。浪子はその手を執り
「お母さま――御免――遊ばして」
子爵夫人の唇はふるい、物を得言わず顔打ちおおいて退きぬ。
加藤子爵夫人は泣き沈む千鶴子を励ましつつ、かわるがわる進みて浪子の手を握り、駒子も進みて姉の床ぎわにひざまずきぬ。わななく手をあげて、浪子は妹の前髪をかいなでつ。
「駒(こう)ちゃん――さよなら――」
言いかけて、苦しき息をつけば、駒子は打ち震いつつ一匕(ひとさじ)の赤酒を姉の唇に注ぎぬ。浪子は閉じたる目を開きつつ、見回して
「毅一(きい)さん――道(みい)ちゃん――は?」
二人の小児(こども)は子爵夫人の計らいとして、すでに月の初めより避暑におもむけるなり。浪子はうなずきて、ややうっとりとなりつ。
この時座末に泣き浸りたる幾は、つと身を起こして、力なくたれし浪子の手をひしと両手に握りぬ。
「ばあや――」
「お、お、お嬢様、ばあやもごいっしょに――」
泣きくずるる幾をわずかに次へ立たしたるあとは、しんとして水のごとくなりぬ。浪子は口を閉じ、目を閉じ、死の影は次第にその面(おもて)をおおわんとす。中将はさらに進みて
「浪、何も言いのこす事はないか。――しっかりせい」
なつかしき声に呼びかえされて、わずかに開ける目は加藤子爵夫人に注ぎつ。夫人は浪子の手を執り、
「浪さん、何もわたしがうけ合った。安心して、お母さんの所においで」
かすかなる微咲(えみ)の唇に上ると見れば、見る見る瞼(まぶた)は閉じて、眠るがごとく息絶えぬ。
さし入る月は蒼白(あおじろ)き面(おもて)を照らして、微咲(えみ)はなお唇に浮かべり。されど浪子は永(なが)く眠れるなり。

三日を隔てて、浪子は青山(あおやま)墓地に葬られぬ。
交遊広き片岡中将の事なれば、会葬者はきわめておおく、浪子が同窓の涙をおおうて見送れるも多かりき。少しく子細を知れる者は中将の暗涙を帯びて棺側に立つを見て断腸の思いをなせしが、知らざる者も老女の幾がわれを忘れて棺にすがり泣き口説(くど)けるに袖(そで)をぬらしたり。
故人(なきひと)は妙齢の淑女なればにや、夏ながらさまざまの生け花の寄贈多かりき。そのなかに四十あまりの羽織袴(はかま)の男がもたらしつるもののみは、中将の玄関より突き返されつ。その生け花には「川島家」の札ありき。 

 

十の一
四月(よつき)あまり過ぎたり。
霜に染みたる南天の影長々と庭に臥(ふ)す午後四時過ぎ、相も変わらず肥えに肥えたる川島未亡人は、やおら障子をあけて縁側に出(い)で来たり、手水鉢(ちょうずばち)に立ち寄りて、水なきに舌鼓を鳴らしつ。
「松(まアつ)、――竹(たけエ)」
呼ぶ声に一人(ひとり)は庭口より一人は縁側よりあわただしく走り来つ。恐慌の色は面(おもて)にあらわれたり。
「汝達(わいども)は何(なあに)をしとッか。先日(こないだ)もいっといたじゃなっか。こ、これを見なさい」
柄杓(ひしゃく)をとって、からの手水鉢をからからとかき回せば、色を失える二人(ふたり)はただ息をのみつ。
「早(は)よせんか」
耳近き落雷にいよいよ色を失いて、二人は去りぬ。未亡人は何か口のうちにつぶやきつつ、やがてもたらし来し水に手を洗いて、入らんとする時、他の一人は入り来たりて小腰を屈(かが)めたり。
「何か」
「山木様とおっしゃいます方が――」
言(こと)終わらざるに、一種の冷笑は不平と相半ばして面積広き未亡人の顔をおおいぬ。実を言えば去年の秋お豊(とよ)が逃げ帰りたる以後はおのずから山木の足も遠かりき。山木は去年このかたの戦争に幾万の利を占めける由を聞き知りて、川島未亡人はいよいよもって山木の仕打ちに不満をいだき、召使いにむかいて恩の忘るべからざるを説法するごとに、暗(あん)に山木を実例にとれるなりき。しかも習慣はついに勝ちを占めぬ。
「通しなさい」
やがて屋敷に通れる山木は幾たびかかの赤黒子(あかぼくろ)の顔を上げ下げつ。
「山木さん、久しぶりごあんすな」
「いや、御隠居様、どうも申しわけないごぶさたをいたしました。ぜひお伺い申すでございましたが、その、戦争後は商用でもって始終あちこちいたしておりまして、まず御壮健おめでとう存じます」
「山木さん、戦争じゃしっかいもうかったでごあんそいな」
「へへへへ、どういたしまして――まあおかげさまでその、とやかく、へへへへへ」
おりから小間使いが水引かけたる品々を腕もたわわにささげ来つ。
「お客様の――」と座の中央(もなか)に差し出(いだ)して、罷(まか)りぬ。
じろり一瞥(いちべつ)を台の上の物にくれて、やや満足の笑(え)みは未亡人の顔にあらわれたり。
「これはいろいろ気の毒でごあんすの、ほほほほ」
「いえ、どうつかまつりまして。ついほンの、その――いや、申しおくれましたが、武――若旦那様も大尉に御昇進遊ばして、御勲章や御賜金がございましたそうで、実は先日新聞で拝見いたしまして――おめでとうございました。で、ただ今はどちら――佐世保においででございましょうか」
「武でごあんすか。武は昨日(きのう)帰って来申(きも)した」
「へエ、昨日?昨日お帰りで?へエ、それはそれは、それはよくこそ、お変わりもございませんで?」
「相変わらず坊っちゃまで困いますよ。ほほほほ、今日(きょう)は朝から出て、まだ帰いません」
「へエ、それは。まずお帰りで御安心でございます。いや御安心と申しますと、片岡様でも誠に早お気の毒でございました。たしかもう百か日もお過ぎなさいましたそうで――しかしあの御病気ばかりはどうもいたし方のないもので、御隠居様、さすがお目が届きましたね」
川島夫人は顔ふくらしつ。
「彼女(あい)の事じゃ、わたしも実に困いましたよ。銭はつかう、悴(せがれ)とけんかまでする、そのあげくにゃ鬼婆(おにばば)のごと言わるる、得のいかンよめ御(よめご)じゃってな、山木さん――。そいばかいか彼女(あい)が死んだと聞いたから、弔儀(くやみ)に田崎をやって、生花(はな)をなあ、やったと思いなさい。礼どころか――突っ返して来申(きも)した。失礼じゃごあはんか、なあ山木さん」
浪子が死せしと聞きしその時は、未亡人もさすがによき心地(ここち)はせざりしが、そのたまたま贈りし生花の一も二もなく突き返されしにて、万(よろず)の感情はさらりと消えて、ただ苦味(にがみ)のみ残りしなり。
「へエ、それは――それはまたあんまりな。――いや、御隠居様――」
小間使いがささげ来たれる一碗(わん)の茗(めい)になめらかなる唇をうるおし
「昨年来は長々お世話に相成りましてございますが、娘――豊(とよ)も近々(ちかぢか)に嫁にやることにいたしまして――」
「お豊どんが嫁に?――それはまあ――そして先方(むこう)は?」
「先方は法学士で、目下(ただいま)農商務省の○○課長をいたしておる男で、ご存じでございましょうか、○○と申します人でございまして、千々岩(ちぢわ)さんなどももと世話に――や、千々岩さんと申しますと、誠にお気の毒な、まだ若いお方を、残念でございました」
一点の翳(かげ)未亡人の額をかすめつ。
「戦争(いくさ)はいやなもんでごあんすの、山木さん。――そいでその婚礼は何日(いつ)?」
「取り急ぎまして明後々日に定(き)めましてございますが――御隠居様、どうかひとつ御来駕(おいで)くださいますように、――川島様の御隠居様がおすわり遊ばしておいで遊ばすと申しますれば、へへへ手前どもの鼻も高うございますわけで、――どうかぜひ――家内も出ますはずでございますが、その、取り込んでいますので――武――若旦那様もどうか――」
未亡人はうなずきつ。おりから五点をうつ床上(とこ)の置き時計を顧みて、
「おおもう五時じゃ、日が短いな。武はどうしつろ?」 
十の二
白菊を手にさげし海軍士官、青山南町(みなみちょう)の方(かた)より共同墓地に入り来たりぬ。
あたかも新嘗祭(にいなめさい)の空青々と晴れて、午後の日光(ひかり)は墓地に満ちたり。秋はここにも紅(くれない)に照れる桜の葉はらりと落ちて、仕切りの籬(かき)に咲(え)む茶山花(さざんか)の香(かおり)ほのかに、線香の煙立ち上るあたりには小鳥の声幽に聞こえぬ。今(いま)笄町(こうがいちょう)の方(かた)に過ぎし車の音かすかになりて消えたるあとは、寂(しず)けさひとしお増さり、ただはるかに響く都城(みやこ)のどよみの、この寂寞(せきばく)に和して、かの現(うつつ)とこの夢と相共に人生の哀歌を奏するのみ。
生籬(いけがき)の間より衣の影ちらちら見えて、やがて出(い)で来し二十七八の婦人、目を赤うして、水兵服の七歳(ななつ)ばかりの男児(おのこ)の手を引きたるが、海軍士官と行きすりて、五六歩過ぎし時、
「母(かあ)さん、あのおじさんもやっぱし海軍ね」
という子供の声聞こえて、婦人はハンケチに顔をおさえて行きぬ。それとも知らぬ海軍士官は、道を考うるようにしばしば立ち留まりては新しき墓標を読みつつ、ふと一等墓地の中に松桜を交え植えたる一画(ひとしきり)の塋域(はかしょ)の前にいたり、うなずきて立ち止まり、垣(かき)の小門の閂(かんぬき)を揺(うご)かせば、手に従って開きつ。正面には年経たる石塔あり。士官はつと入りて見回し、横手になお新しき墓標の前に立てり。松は墓標の上に翠蓋(すいがい)をかざして、黄ばみ紅(あか)らめる桜の落ち葉点々としてこれをめぐり、近ごろ立てしと覚ゆる卒塔婆(そとば)は簇々(ぞくぞく)としてこれを護(まも)りぬ。墓標には墨痕(ぼっこん)あざやかに「片岡浪子の墓」の六字を書けり。海軍士官は墓標をながめて石のごとく突っ立ちたり。
やや久しゅうして、唇ふるい、嗚咽(おえつ)は食いしばりたる歯を漏れぬ。

武男は昨日帰れるなり。
五か月前(ぜん)山科(やましな)の停車場に今この墓標の下(もと)に臥(ふ)す人と相見し彼は、征台の艦中に加藤子爵夫人の書に接して、浪子のすでに世にあらざるを知りつ。昨日帰りし今日は、加藤子爵夫人を訪(と)いて、午(ひる)過ぐるまでその話に腸(はらわた)を断ち、今ここに来たれるなり。
武男は墓標の前に立ちわれを忘れてやや久しく哭(こく)したり。
三年の幻影はかわるがわる涙の狭霧(さぎり)のうちに浮かみつ。新婚の日、伊香保の遊、不動祠畔(ふどうしはん)の誓い、逗子(ずし)の別墅(べっしょ)に別れし夕べ、最後に山科(やましな)に相見しその日、これらは電光(いなずま)のごとくしだいに心に現われぬ。「早く帰ってちょうだい!」と言いし言(ことば)は耳にあれど、一たび帰れば彼女(かれ)はすでにわが家(や)の妻ならず、二たび帰りし今日はすでにこの世の人ならず。
「ああ、浪さん、なぜ死んでしまった!」
われ知らず言いて、涙(なんだ)は新たに泉とわきぬ。
一陣の風頭上を過ぎて、桜の葉はらはらと墓標をうって翻りつ。ふと心づきて武男は涙(なんだ)を押しぬぐいつつ、墓標の下(もと)に立ち寄りて、ややしおれたる花立ての花を抜きすて、持(も)て来し白菊をさしはさみ、手ずから落ち葉を掃い、内ポッケットをかい探りて一通の書を取り出(い)でぬ。
こは浪子の絶筆なり。今日加藤子爵夫人の手より受け取りて読みし時の心はいかなりしぞ。武男は書をひらきぬ。仮名書きの美しかりし手跡は痕(あと)もなく、その人の筆かと疑うまで字はふるい墨はにじみて、涙のあと斑々(はんはん)として残れるを見ずや。
もはや最後も遠からず覚え候(そうろう)まま一筆(ひとふで)残しあげ参らせ候今生(こんじょう)にては御目(おんめ)もじの節(ふし)もなきことと存じおり候ところ天の御憐(おんあわれ)みにて先日は不慮の御(おん)目もじ申しあげうれしくうれしくしかし汽車の内のこととて何も心に任せ申さず誠に誠に御(おん)残り多く存じ上げ参らせ候
車の窓に身をもだえて、すみれ色のハンケチを投げしその時の光景(ありさま)は、歴々と眼前に浮かびつ。武男は目を上げぬ。前にはただ墓標あり。
ままならぬ世に候えば、何も不運と存じたれも恨み申さずこのままに身は土と朽ち果て候うとも魂(たま)は永(なが)く御側(おんそば)に付き添い――
「おとうさま、たれか来てますよ」と涼しき子供の声耳近に響きつ。引きつづいて同じ声の
「おとうさま、川島の兄君(にいさん)が」と叫びつつ、花をさげたる十ばかりの男児(おのこ)武男がそばに走り寄りぬ。
驚きたる武男は、浪子の遺書を持ちたるまま、涙(なんだ)を払ってふりかえりつつ、あたかも墓門に立ちたる片岡中将と顔見合わしたり。
武男は頭(かしら)をたれつ。
たちまち武男は無手(むず)とわが手を握られ、ふり仰げば、涙を浮かべし片岡中将の双眼と相対(あいむか)いぬ。
「武男さん、わたしも辛(きつ)かった!」
互いに手を握りつつ、二人が涙は滴々として墓標の下(もと)に落ちたり。
ややありて中将は涙(なんだ)を払いつ。武男が肩をたたきて
「武男君(さん)、浪は死んでも、な、わたしはやっぱい卿(あんた)の爺(おやじ)じゃ。しっかい頼んますぞ。――前途遠しじゃ。――ああ、久しぶり、武男さん、いっしょに行って、ゆるゆる台湾の話でも聞こう!」 
 
「不如帰」 雑話

 

雑話1 小説
明治31年(1898年)から32年(1899年)にかけて国民新聞に掲載された徳富蘆花の小説。のちに出版されてベストセラーとなった。
片岡中将の愛娘浪子は、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしい姑に苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を送っていた。しかし武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫をしたいつつ死んでゆく。浪子の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!」、「ああつらい!つらい!もう女なんぞに生まれはしませんよ」は日本近代文学を代表する名セリフとなった。家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に対する社会的な知識など当時の一般大衆の興趣に合致し、広く読者を得た。
作中人物にはモデルが存在する。しかしベストセラーとなったが故に、当時小説がそのまま真実と信じた民衆によって、モデルとなった人物に事実無根の風評被害があった。後にはこれを原作とした映画や演劇などの演劇作品が数多く制作されている。 
雑話2 小説
徳冨蘆花の長編小説。1898年から99年にかけて《国民新聞》に連載、改稿して1900年に刊行。陸軍大将大山巌(いわお)の長女にまつわる悲話に取材したモデル小説として名高い。海軍少尉川島武男と陸軍中将の娘片岡浪子は上流の青年男女として人もうらやむ新婚生活に入るが、やがて肺結核にかかった浪子は、家を至上とする姑や私欲によって結託する紳商、軍人たちによって離婚させられ、〈もう女には生まれてこない〉という叫びを残して死ぬ。  
雑話3
[ホトトギス] 俳句雑誌。明治30年(1897)松山で創刊。正岡子規主宰。翌年東京に移して高浜虚子が編集。日本派の機関誌として、写生を主唱し、近代俳壇に大きな影響を与えた。現在も続刊。
[不如帰] 徳冨蘆花(とくとみろか)の小説。明治31〜32年(1898〜1899)発表。海軍少尉川島武男と妻浪子との純粋な愛情が、封建的家族制度の中で壊されていく悲劇を描いた家庭小説。  
雑話4 日本文化の中のホトトギス

 

古典文学
日本では、激情的ともいえるさえずりに仮託して、古今ホトトギスの和歌が数多く詠まれ、すでに『万葉集』では153例、『古今和歌集』では42例、『新古今和歌集』では46例が詠まれている。鳴き声が聞こえ始めるのとほぼ同時期に花を咲かせる橘や卯の花と取り合わせて詠まれることが多い。
他にも夜に鳴く鳥として珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を忍音(しのびね)といい、これも珍重した。『枕草子』ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれる。
平安時代以降には「郭公」の字が当てられることも多い。これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りによるものと考えられている。松尾芭蕉もこの字を用いている。
宝井其角の句に「あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥」がある。ホトトギスは美しい声で鳴くが醜いトカゲなどの爬虫類や虫などを食べる、すなわち「人や物事は見かけによらない」ということを指す。
伝説・迷信
ホトトギスに関する伝説・迷信は、漢文の古典に由来するものが多い。
ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の伝説にもとづく。古代の古蜀国の帝王だった杜宇は、ある事情で故郷を離れたが、さまよううちにその魂が変化してホトトギスになった。そのため、ホトトギスは今も「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いている、という。
江戸時代から日本各地に伝わる「厠(かわや)の中にいるときにホトトギスの声を聞くと不吉である」という迷信の出典も、『酉陽雑俎』および『太平広記』である。夏目漱石が西園寺公望におくった有名な俳句「時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半(なか)ばに出かねたり」も、この迷信をふまえる(加藤徹『怪力乱神』ISBN 978-4-12-003857-0)。
近代文学
文芸雑誌『ホトトギス』
徳富蘆花作『不如帰』
音楽
『ほととぎす』(山田流箏曲) 文化初年頃、山田流の流祖・山田検校作曲。ホトトギスの忍音をたった一声でも聞くため、船に乗り隅田川を徹夜でさかのぼる様が詠われた曲。
『時鳥の曲』(箏曲) 1901年、楯山昇作曲。明治時代に大阪で活躍した盲人音楽家・楯山の数多い作品中、代表作。古今和歌集の「我が宿の池の藤波咲きにけり 山ほととぎすいつか来鳴かむ」「今更に山に帰るなほととぎす 声の限りは我が宿に鳴け」の2種を歌詞とし、ホトトギスの声を描写した手事(てごと - 長い間奏器楽部)を持つ。この作曲のため楯山は関西中のホトトギスの名所を巡り、また何日も山にこもって声を研究したと言う。
『夏の曲』(箏曲) 幕末の安政・嘉永頃、吉沢検校作曲。「古今組」5曲の一つ。古今和歌集から4首を採り歌詞とした中に「夏山に 恋しき人や入りにけむ 声振り立てて鳴くほととぎす」がある。
その他、『四季の眺』(松浦検校作曲)、『里の暁』(松浦検校作曲)、『夏は来ぬ』(小山作之助作曲)など、曲中一部にホトトギスを詠んだ曲は少なくない。
天下人とホトトギス
鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を後世の人が言い表している(それぞれ本人が実際に詠んだ句ではない)。これらの川柳は江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える(q:時鳥#川柳)(以下「 」内に引用とその解釈を記す)。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)この句は、織田信長の短気さと気難しさを表現している。
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)この句は、豊臣秀吉の好奇心旺盛なひとたらしぶりを表現している。
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)この句は、徳川家康の忍耐強さを表している。
「鳴け聞こう我が領分のホトトギス(加藤清正)この句は、加藤清正の配慮を表している。
なお、織田信長の七男・織田信高の系統の旗本織田家の末裔に当たる、フィギュアスケート選手の織田信成はテレビ番組のインタビューで、信長を詠んだ句への返句として「鳴かぬなら それでいいじゃん ホトトギス」と詠んで話題となった。またホトトギスとは前田利家そのもののことを指していると考える説もある(家康は利家が死ぬのを待っていたとする説)。 
雑話5 鳥類・ホトトギス

 

(杜鵑、学名:Cuculus poliocephalus)は、カッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種。特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵する習性で知られている(「ホトトギス目ホトトギス科」と書かれることもあるが、カッコウ目カッコウ科と同じものである)。日本では古来から様々な文書に登場し、杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑など、漢字表記や異名が多い。
形態
全長は28cmほどで、ヒヨドリよりわずかに大きく、ハトより小さい。頭部と背中は灰色で、翼と尾羽は黒褐色をしている。胸と腹は白色で、黒い横しまが入るが、この横しまはカッコウやツツドリよりも細くて薄い。目のまわりには黄色のアイリングがある。
分布
アフリカ東部、マダガスカル、インドから中国南部までに分布する。インドから中国南部に越冬する個体群が5月頃になると中国北部、朝鮮半島、日本まで渡ってくる。日本では5月中旬ごろにくる。他の渡り鳥よりも渡来時期が遅いのは、托卵の習性のために対象とする鳥の繁殖が始まるのにあわせることと、食性が毛虫類を捕食するため、早春に渡来すると餌にありつけないためである。
生態
日本へは九州以北に夏鳥として渡来するが、九州と北海道では少ない。カッコウなどと同様に食性は肉食性で、特にケムシを好んで食べる。また、自分で子育てをせず、ウグイス等に托卵する習性がある。オスの鳴き声はけたたましいような声で、「キョッキョッ キョキョキョキョ!」と聞こえ、「ホ・ト・…・ト・ギ・ス」とも聞こえる。早朝からよく鳴き、夜に鳴くこともある。この鳴き声の聞きなしとして「本尊掛けたか」や「特許許可局」や「テッペンカケタカ」が知られる。

ホトトギス (杜鵑/時鳥/不如帰) / ホトトギス目ホトトギス科の鳥の1種、または同科の総称。ホトトギスCuculus poliocephalus(英名Eurasian little cuckoo)(イラスト)はカッコウ類の1種で、全長28cm、背面とのどは暗灰色、腹面は白と黒の横縞模様をしている。雌雄同色だが、雌にはまれに全体に赤褐色の羽色をした赤色型がある。カッコウやツツドリによく似ているが、この種のほうがひとまわり以上小さい。ヒマラヤから沿海州にかけてのアジアの東部で繁殖し、秋・冬季には南アジアや大スンダ列島に渡る。

夏を告げる鳥
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」は、徳川家康の性格を表現した句であるが、ホトトギスは待ち遠しい夏の到来を告げる渡り鳥である。
そろそろ今の時期、「テッペンカケタカ」や「東京特許許可局」などに聞こえる独特の鳴き声を、聞いた人もいるかもしれない。ホトトギスはこの時期、早朝からよく鳴き、夜に鳴くこともある。
他の夏鳥は渡来する時期がずれることがよくあるが、ホトトギスは毎年同じ時期にやってくることから、ホトトギスの渡来は田植えを始める合図とされていた。そして季節の区切りを示すことから「時を告げる」→「時鳥」という当て字が使われたりもする。
たくさんの名前と物語を持つ鳥
「時鳥」の他にもホトトギスはその表記が実に多彩な鳥である。「不如帰」、「杜鵑」、「子規」、「郭公」、「杜魂」、「蜀鳥」、「杜宇」、「蜀魂」などの漢字で記される他、「あやめ鳥」、「いもせ鳥」、「うない鳥」、「さなえ鳥」、「夕かげ鳥」など、たくさんの異名も持つ。
そして多くの文学作品にも登場する。日本の最古の歌集である万葉集には、なんと150首以上にも詠まれている。おそらく野鳥のなかでも最も多く詠まれた鳥であろう。鳴き声が聞こえ始める時期に咲く橘や卯の花と合わせて読まれることが多く、他の鳥を圧倒する回数で読まれている。
伝説、迷信も非常に多数存在する。例えば「ホトトギスの鳴き声を真似ると厠で血を吐く」などの不吉な内容のものが多いのが特徴的で、これは一つに夜でも鳴く鳥というところから冥土に通う鳥とされていた事。ホトトギスの口の中が赤いため、「鳴いて血を吐くホトトギス」と言われるように血を吐くほど鳴き続けると表現されている事。また中国の故事に由来し、蜀の望帝が退位後、復位しようとしたが叶わず、死んでホトトギスと化し、「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いているという伝説に基づき、暗いイメージがついたと考えられている。
また、血を吐くほど鳴くという表現から明治の俳壇の重鎮、正岡子規は、まさにホトトギスを意味する「子規」を名に用いている。彼は若くして結核におかされたが、激しく鳴くホトトギスを喀血の症状になぞらえて「子規」と名乗った。彼は俳句雑誌「ホトトギス」を指導し、ホトトギス派文学の創始者でもある。
かしこく、したたかな鳥
激しく鳴く姿と、独特の声が人間のイマジネーションを刺激するのだろうか。文学の世界でホトトギスは実に多彩に、ドラマチックに登場する。しかし人間の解釈とはうらはらに、実際のホトトギスはどんな鳥なのだろうか。わかっているのは非常にしたたかな鳥ということである。
ホトトギスの習性としてよく知られているのが托卵である。ホトトギスはウグイスなどの巣に卵を産み付け、ウグイスに我が子を育てさせる。驚くのがホトトギスのヒナで、生まれて直ぐにヒナは巣の中のウグイスの卵を背中にのせ巣から放り出すという荒業をやってのける。結果、悲しいかなウグイスは自分の体の2倍の大きさに成長するホトトギスを育て上げることになる。親子そろって非常に狡賢い鳥なのである。
こんなに賢いホトトギスのことである、もしかしたらこの時期、人間が熱い視線をホトトギスに注いでいることを知っているかもしれない。知ってか知らずか、今日も人々の心を揺さぶる声でホトトギスは激しく鳴き続けている。 
雑話6 ホトトギスの語源・由来

 

ホトトギスの名は「ホトホト」と聞こえる鳴き声からで、「ス」はカラス・ウグイスなどの「ス」と同じく、小鳥の類を表す接尾語と考えられる。
漢字で「時鳥」と表記されることから「時(とき)」と関連付ける説もあるが、ホトトギスの仲間の鳴き声を「ホトホト」と表現した文献も残っているため、鳴き声からと考えるのが妥当であろう。
江戸時代に入ると、ホトトギスの鳴き声は「ホンゾンカケタカ(本尊かけたか)」「ウブユカケタカ(産湯かけたか)」、江戸時代後期には「テッペンカケタカ(天辺かけたか)」などと表現されるようになり、名前が鳴き声に由来することが解りづらくなった。
「トッキョキョカキョク(特許許可局)」という鳴き声は、戦後から見られる。
ホトトギスには、「杜鵑」「時鳥」「不如帰」「子規」「杜宇」「蜀魂」「田鵑」など多くの漢字表記があり、「卯月鳥(うづきどり)」「早苗鳥(さなえどり)」「魂迎鳥(たまむかえどり)」「死出田長(しでのたおさ)」など異名も多い。  
雑話7 唄・不如帰

 

 
雑話8 ホトトギス[杜鵑草]

 

分類
ユリ科 ホトトギス属
名前の由来
白地に紫の斑点が、ホトトギス(鳥)の胸〜腹の横縞模様に似ているから名付けられたと云われます。
この種は、大きく“杜鵑斑系・黄花系・上臈系”に分けられ、そのうち上臈系を除き、若葉が展開した頃の葉の表面に油を垂らした模様が入るので、これらの総称として漢名では“油点草”と書きます。
【ホトトギスに因んだ話】
我々の先人達は大層、鳥(カッコウ科ホトトギス属)のホトトギスがお好きと見え、万葉集には153首もの歌が収載されていたり、枕草子(清少納言)には“花より団子”のような“杜鵑より蕨(わらび)”の話が載っております。
また、啼き声は“トッキョキョキャキョク、トッキョキョキャキョク”と繰り返し啼き、最後は“トッキョキョ”で終わるのだそうですが、その聞き表しは
“テッペンカケタカ・オットオッチャケタオオタカチョウ・ホットンブッツァケタ(腹ぶっ裂けた)・ホンゾンカケタカ(本尊かけたか)・オトウトタベタカ(弟食べたか)・オトトコイシ(弟恋しい)・トッキョキョカキョク(特許許可局)”などと色々あるそうです。
ホトトギスに充てる漢字も沢山あり、杜鵑・霍公鳥・時鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂・郭公・蜀鳥・杜魄・盤鵑などがあります。
このように沢山の漢字が充てられるのは、中国の次の様な故事に因ると云われます。
“蜀の国が衰退して荒れ果てていたのを見かねた杜宇が農耕を指導して蜀を再興し、彼は帝王の座に着き望帝と称した。
望帝杜宇は長江の氾濫に悩まされたが、それを治める男を取り立て宰相にした。やがて、彼は帝位を譲られ叢帝となり、望帝は山中に隠居した。
望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスとなり、生前、得意とした農耕を始める季節(春〜初夏)が来ると、それを民に告げるため、杜宇の魂化身ホトトギスは鋭く鳴くようになったと云う。
時が流れて、蜀は秦に攻め滅ぼされた。
それを知った杜宇ホトトギスは嘆き悲しみ“不如帰去(帰り去くに如かず:帰ることが出来ない)”と鳴きながら血を吐いたので、口が赤く染まった”
ホトトギスを不如帰、杜宇、杜鵑、蜀魂、蜀鳥、杜魄、蜀魄などと表記されるようになったと云われます。
この故事の影響を受けた、日本の文学があります。
“ホトトギス(俳誌・1897年創刊)”を主宰した正岡子規は、本名を正岡常規(松山市新玉町で1867年に誕生)と云い、16歳で上京し帝大国文科に進学、22歳で肺結核を発病し吐血。
この吐血から、中国の故事に因んでホトトギスの表記の一つ“子規”と号するようになった。
その後、俗化した俳句の革新に努め主宰した同人誌にも自分の吐血に因んだ題名を付け、35歳で亡くなるまで多くの俳句や俳論を残した。

“不如帰(徳富蘆花)と金色夜叉(尾崎紅葉)”は明治の大衆小説の双璧です。
その一方の不如帰(国民新聞に明治31〜32年連載)は、蘆花と愛子夫人が逗子に逗留しているときに、病後保養に来ていたある婦人から聞いた、一つの哀しい悲恋の実話(三島通庸の息子弥太郎と大山元帥の娘信子のこと云われる)をもとに書かれたもので“結婚して幸せだった海軍少尉川島武男と、妻浪子であったが、浪子が結核にかかってしまう。
それでも二人はお互いの変わらない愛を確かめ合うのだが、武男が出征中に結核を理由に姑に離縁され、実家に引き取られ療養するのだが、療養の甲斐も無く死期を迎える浪子の「もう婦人(おんな)なんぞに生まれはしない」と云う最後の叫びは、真に“鳴いて血を吐く”思いから小説の題名“不如帰”が付けられました。
この小説が、評判となり“日露談判破裂して、日露戦争始まった...”のメロディで歌う数え歌に、この悲恋が歌い込められました。この歌詞は、幾種類もあるのですが、次のものは、その一つです。
一番初めは一の宮
二は日光の東照宮(とうしょうぐう)
三は佐倉の宗五郎(そうごろう)
四はまた信濃の善光寺
五つ出雲(いずも)の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守様(ちんじゅさま)
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡宮(はちまんぐう)
九つ高野(こうや)の弘法様(こうぼうさま)
十で東京招魂社(しょうこんしゃ)
十一心願掛けたなら
浪子の病は治らぬか
ごうごうごうごうなる汽車は
武雄と浪子の別れ汽車
二度と逢えない汽車の窓
鳴いて血を吐く、ほととぎす

万葉集(600〜759年を収載)には植物のホトトギスは、一首も詠われていません。何故でしょうか?
判りませんが。
現在でも使われている“霍公鳥”が用いられ、その読み(万葉仮名)も“保等登藝須、冨等登藝須”と書き
“ホトトギス”と読むことも、奈良時代に確定していました。
【皆人之 待師宇能花 雖落 奈久霍公鳥 吾将忘哉】 作者:大伴清縄
“皆人の、待ちし卯の花、散りぬとも、鳴く霍公鳥、我れ忘れめや”
【敷治奈美能 佐伎由久見礼婆 保等登藝須 奈久倍吉登伎尓 知可豆伎尓家里】 作者:田辺福麻呂
“藤波の、咲き行く見れば、ほととぎす、鳴くべき時に、近づきにけり”
【冨等登藝須 奈保毛奈賀那牟 母等都比等 可氣都々母等奈 安乎祢之奈久母】 作者:元正天皇
“ほととぎす、なほも鳴かなむ、本(もと)つ人、かけつつもとな、我(あ)を音(ね)し泣くも”

“春はあけぼの”で始まる枕草子は一条天皇の中宮・定子(ていし)に仕えた清少納言が書いた随筆で、紫式部の“源氏物語”と並ぶ平安時代の女流文学の双璧をなします。
全部で三百二十三編ありますが、ホトトギスより蕨(わらび)の話は、宮廷生活を書いた数少ない作品の一つです。
『五月のある日(今の六月中〜下旬)、清少納言は中宮にホトトギスの声を聞いて歌を詠みたいと願い出て許しを得、他の女官たちと牛車に乗って都の北賀茂川上流へ出かけました。
遥々来た甲斐あって、ホトトギスが鳴きながら飛ぶ姿を見ることができました。
御所に帰る途中、中宮の叔父・高階明順の別荘に立ち寄り、ここに咲いていた卯の花を頂戴し、皆でホトトギスの歌を詠もうとしていたところに、明順が「これは私が自分で摘んだ蕨ですよ」と云って、春に摘んでおいたワラビの煮物を出され、これが大変美味しかったので、つい長居してしまい。
五月といえば、梅雨の真っ盛り。
梅雨空の中を出かけたので、空が次第に暗くなり雨が降りそうなので、急いで御所に帰りました。
それから二日ほど過ぎても、女房たちがホトトギスの歌を披露せず、ワラビの美味しかった話ばかりしているので、中宮はあきれて手元にあった紙に“下蕨こそ恋しかりけれ”と下の句を書いて、清少納言に「上の句を付けなさい」と云いました。
清少納言は即座に“杜鵑たずねて聞きし声よりも”と書き加えて差し出しました。
これを見た中宮は「よくもまあぬけぬけと言ったものですね」とお笑いになりました。』
この話は長徳四年(998年)の出来事と云われています。
このように先人達はホトトギスの啼き声に魅せられていたようですが、それだけではなく鋭い観察眼をも持ち合わせていました。
万葉集には
“うぐいすの 卵の中に ほととぎす ひとり生まれて 汝が父に 似ては鳴かず 汝が母に 似ては鳴かず 卯の花の咲きたる野辺ゆ ...”作者:高橋虫麻呂 (巻9−1755)
と詠っているように、ホトトギスがウグイスに託卵しホトトギスのヒナがウグイスの卵やヒナを巣の外に排除して、ホトトギスのヒナが仮親のウグイスに育てられている様子を詠っています。
また、漢名の霍公鳥の意は“雨の中を飛ぶ鳥”だそうですが、実際の雨でなく、胸の斑点が雨粒に見えることに由来しているようです。  
雑話9 時鳥

 

霍公、霍公鳥、郭公、不如帰、子規、蜀魂、杜鵑、杜宇、田鵑とも書く。
万葉集
いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく [弓削皇子]
古に恋ふらむ鳥は霍公けだしや鳴きし吾が思へる如 [額田王]
(詞書には「吉野の宮に幸す時」とあり、持統天皇の行幸に持した折のものか。)
我が宿の花橘に霍公鳥今こそ鳴かめ友に逢へる時 [大伴書持]
古今和歌集
我が宿の池の藤波咲きにけり山郭公いつか来鳴かむ
五月待つ山郭公うちはぶき今も鳴かなむ去年のふる声
五月こば鳴きもふりなむ郭公まだしきほどの声を聞かばや
いつの間に五月来ぬらむあしひきの山郭公今ぞ鳴くなる
今朝き鳴きいまだ旅なる郭公花橘に宿はからなむ
音羽山今朝越えくれば郭公梢はるかに今ぞ鳴くなる
郭公初声聞けばあぢきなく主さだまらぬ恋せらるはた
いそのかみふるきみやこの郭公声ばかりこそ昔なりけれ
夏山に鳴く郭公心あらば物思ふ我に声な聞かせそ
郭公鳴く声聞けば別れにしふるさとさへぞ恋しかりける
郭公なが鳴く里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから
思ひいづるときはの山の郭公唐紅のふりいでてぞ鳴く
声はして涙は見えぬ郭公我が衣手のひつをからなむ
あしひきの山郭公をりはへて誰かまさると音をのみぞ鳴く
今さらに山へかへるな郭公声のかぎりは我が宿に鳴け
やよやまて山郭公ことづてむ我れ世の中に住みわびぬとよ
五月雨に物思ひをれば郭公夜深く鳴きていづち行くらむ
夜や暗き道や惑へる郭公我が宿をしもすぎがてに鳴く
宿りせし花橘も枯れなくになど郭公声絶えぬらむ
夏の夜のふすかとすれば郭公鳴くひと声に明くるしののめ
くるるかと見れば明けぬる夏の夜をあかずとや鳴く山郭公
夏山に恋しき人や入りにけむ声ふりたてて鳴く郭公
去年の夏鳴きふるしてし郭公それかあらぬか声のかはらぬ
五月雨の空もとどろに郭公何を憂しとか夜ただ鳴くらむ
郭公声も聞こえず山彦はほかになく音を答へやはせぬ
郭公人まつ山に鳴くなれば我うちつけに恋ひまさりけり
昔べや今も恋しき郭公ふるさとにしも鳴きてきつらむ
郭公我とはなしに卯の花のうき世の中に鳴き渡るらむ
ほととぎすなくや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな
中古の他の作品
郭公は、なほ更にいふべきかたなし。いつしかしたり顔にも聞え、歌に、卯の花、花橘などにやどりをして、はたかくれたるもねたげなる心ばへなり。五月雨の短か夜に寝ざめをして、いかで人よりさきに聞かむとまたれて、夜深くうち出でたる声の、らうらうしう愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せむかたなし。六月になりぬれば音もせずなりぬる、すべていふもおろかなり。--清少納言三巻本系『枕草子』
「ほととぎす、おれ、かやつよ。おれ鳴きてこそ、われは田植うれ」--清少納言『枕草子』「賀茂へまゐる道に」 作者が賀茂参詣の折に書きとめた田植歌。
近世
夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。
郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
 なかぬなら殺してしまへ時鳥 [織田右府]
 鳴かずともなかして見せふ杜鵑 [豊太閤]
 なかぬなら鳴まで待よ郭公 [大權現様]
このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
 なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
 なかぬなら貰て置けよほとゝぎす [ 靜山松浦清『甲子夜話』]
古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、恐れながら神君御參會の時、卯月のころ、いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、信長、
 鳴かずんば殺してしまへ時鳥
とありしに、秀吉、
 なかずともなかせて聞かう時鳥
とありしに、
 なかぬならなく時聞かう時鳥
とあそばされしは神君の由。自然とその御コ化の温順なる、又殘忍、廣量なる所、その自然をあらはしたるが、紹巴もその席にありて、
 なかぬなら鳴かぬのもよし郭公
と吟じけるとや。 [根岸鎮衛『耳袋』]
近代
時鳥 不如帰 遂に 蜀魂 [勝海舟『氷川清話』]
卯の花をめがけてきたか時鳥 [正岡子規『寒山落木』]
卯の花の散るまで鳴くか子規 [正岡子規『寒山落木』]
その他
しでの山こえてきつらむ郭公(ほととぎす)こひしき人のうへかたらなむ [伊勢]
『拾遺和歌集』入集。詞書「うみたてまつりたりけるみこの亡くなりて、又の年時鳥を聞きて」。「みこ」とは宇多天皇の皇子の事。
ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる [藤原実定]
後徳大寺左大臣、徳大寺実定とも。百人一首に採られる。
松島や鶴に身をかれほとゝぎす [河合曾良]『おくのほそ道』
鳴かぬなら鳴かなくてよいほととぎす [種田山頭火]
 『甲子夜話』にあるほととぎすの川柳のもじり。
谺して山ほととぎすほしいまま [杉田久女]
夏の夜のふすかとすればほととぎす鳴く一声に明くるしののめ [紀貫之]
昔思ふ草の庵の夜の雨に涙なそへそ山ほととぎす [藤原俊成]
目には青葉山郭公初松魚 [山口素堂]
 郭公は「ほととぎす」、松魚は「かつを」と訓する。 
雑話10 不如帰と郭公

 

不如帰 / ホトトギス
(名)霍公・郭公・時鳥〔郭公の字を用ゐれど、こは、かっこうどりなり、啼く聲を名とす、歌に「己が名を名のる」と詠める多し〕(一){攀禽類の鳥の名。山中の樹に棲み、夏の初より、晝夜を分かず啼きて、秋に至りて止む。其聲、叫ぶが如し。形、ひよどり(鵯)より痩せて長く、頭は、K褐に淡褐の斑あり、背は、淡青にして、背後、肩、翅、皆、K褐なり、喉は淡青にして、黄褐の横斑あり、胸、腹、色、淡くして、Kき横斑あり、尾、Kくして白斑あり、是れ雄なり。雌は、頭、額、深K褐にして青を帯び、Kき横斑あり、肩、翼、Kく、喉、胸、淡褐にして、腹、白く、胸より腹まで、Kき横斑あり、卵を鶯の巣の中に産みて、鶯をして養はしむと云ふ。異名、くきら。くつてどり。しづこどり。しづとり。しでたをさ。しでのたをさ。たうたどり。たそがれどり。たなかどり。たまさかどり。たまむかへどり。たをさ。たをさどり。ときつとり。ぬばたまどり。ももこゑどり。やまほととぎす。ゆふかげどり。よただどり。よぶこどり。杜鵑。子規。杜宇。蜀魄。不如歸去。 倭名抄、十八16羽族名「〓〓、保度度木須、今之郭公也」 字鏡、66「郭公鳥、保止止支須」 萬葉集、十八、17「あかときに、名のりなくなる、保登等藝須、いやめづらしく、思ほゆるかも」 同、九22長歌「鶯の、かひこの中に、霍公(ほととぎす)、ひとり生れて」 枕草子、三、第廿三段「夕暮の程に、ほととぎすの名のり渡るも」 江談抄、三、雜事「郭公爲二鶯子一事、云云、樹蔭造レ巣生レ子、漸生長、云云、ほととぎすと鳴去了」 今鏡、第十、打聞「子のやうやうおとなしくなりて、ほととぎすと啼きければ、云云、或人よめる、親のおやぞ、今はゆかしき、ほととぎす、はや鶯の、こはねなりけり」(二)百合科の山草。莖の高さ二三尺、葉は百合の葉に似て、廣し。又、笹の葉にも似たり。蕾は筆の如く、秋、開く、淡紫色にして、六出あり、中より一蘂出でて、又、花の形をなす。萼毎に小紫點多く、杜鵑の羽の斑に似て、しぼり染の如し。杜鵑草。油點草。 大和本草、七、花草類「ほととぎす、葉は紫萼(さぎそう)に似て短小なり、すぢ多し」
郭公・甎鳩・布穀 / かッこう-どり
(名)〔鳴く聲を名とす、多武峰少將物語、郭公「山路を知る、鳥を我が身に、なしてしが、君かくこふ(斯戀(かくこふ)にかけたり)と、鳴きて告ぐべく」漢名の郭公(クワクコウ)も鳴聲にて、暗合なり、荊楚歳時記「有レ鳥曰二穫穀一、其名自呼」爾雅、釋鳥、甎鳩、註「穫穀」爿雅、釋鳥「甎鳩、云々、今之布穀也、江東呼爲二郭公一」〕古名、ふふどり。ほほどり。渡鳥(わたりどり)なり。形、甚だ杜鵑に似て、大なるもの、夏時、山林に多し。かっこどり。かんこどり。かっぽうどり。ほうほうどり。つつどり。(何れも、鳴聲なり) 和漢三才圖會、四十三、林禽「加豆古宇鳥、疑此郭公、状似二杜鵑一、而帶二微赤色一、腹白而無二K斑一耳、偽爲二杜鵑一賣レ之、仲夏後有レ聲、秋後聲止、其聲大而圓亮、如レ曰二加豆古宇一、毎棲二山林一、不レ迹二人家一」(節文)
かッこ-どり【郭公鳥】(名)前條に同じ。

『異名分類抄』に、
秘蔵 くきら 「としのはにきゝふりわたる聲なれと猶めつらしく鳴くきらかな 遍昭 今按、後撰口訣云、苦歸樂(くきら)とは萬葉に「あらち山越行こしのうねのはらをりもくるしと苦歸樂なく、と云々、さる歌萬葉にある事なし如何
八雲 時の鳥 千五百番歌合に「うくひすの入ぬるあとの雲路より待ちつる時の鳥もなくなり」
同 してのたをさ 袖中抄云、してのたをさとはしつのたをさといふなり、ほとゝきすは勸農の鳥とて、過時不熟と鳴といへり、略奥義抄・童蒙抄・綺語抄共にしてのたをさとは郭公ををいふといへり
同 うなゐこ  拾遺集躬恒 「ほとゝきすをちかへりなけうなゐ子かうちたれかみのさみたれの頃 童蒙抄に、郭公は四手の山を越て來るほとは、童にてあるなれは、かくよめるといへり、かなひても聞かすと云々、顯昭云、わらはにて來るといふ事はうちたれがみの歌に付ていひ出し事也云々
能因 とけをしほ 
同 くつぬひ 古説に郭公は沓ぬひにて有けるか死て鳥となれりといふ事有後撰口訣に委
もしほ 常詞鳥          もしほ 百聲鳥 曉筆記同し
同   よたゝ鳥          同   玉迎鳥
同   五露鳥           同   田歌鳥
同   早苗鳥           同   草つく鳥
同   賤鳥            同   たそかれ鳥
同   いもせ鳥          同   玉さか鳥
同   鏡暮鳥           同   うつた鳥
同   さくめ鳥          同   めつら鳥
同   さくも鳥          同   夕かけ鳥
篠目  夏雪鳥          篠目  卯月鳥
同   おもはへ鳥        同   夜とこ鳥 曉筆記同し
同   あやめ鳥         同   まうけ鳥
同   夜め鳥  曉筆記同し  同   夕かけ鳥
同   むは玉鳥         同   あやなし鳥 曉筆記同し
同   くつて鳥 綺語抄にくつてたはらんとなくとよめり
同   あみ鳥  曉筆記同 是は萬葉十九に「ほとゝきすきけともあかす網取にとりてなつけはかれすなくかに、此歌よりいふ歟
○人きゝ鳥 人きゝ鳥の寫誤歟  ○たなか鳥  ○しろ鳥 是は藻鹽に所謂賤鳥の同名寫誤歟  ○まめやか鳥  ○たまさか鳥  ○うたひ鳥 已上曉筆記に見えたり
○三月すこ鳥  定家卿説、正二三を通して、四月來鳴故、三月すこ鳥といふ「なきふるす聲そひさしき我宿のかきねにつたふみつきすこ鳥 已上後撰口訣
○らんる鳥  是は倭名鈔に襤縷鳥(ほとゝぎす)今之郭公也とあり、此字音をいふのみ歟、後撰口訣に、らんるはかはきぬの名也、此鳥冬木の中にすみたる時、毛のむく/\としたるかかはきぬのことし云々、曉筆記の説も同し
○無常鳥  後撰口訣に見ゆ、此鳥無常をすゝむといへり云々
○こひし鳥 前に同し、昔のつまをこふと云々
藏玉 橘鳥
○いにしへをこふる鳥  萬葉集第二「いにしえをこふる鳥かも弓弦葉の三井のうへよりなきわたる見ゆ
○時つ鳥  堀川次郎 俊頼「時つ鳥なかね雲ゐにとゞろきて星のはやしにうつもれぬらむ
 
大山捨松

 

(おおやますてまつ、安政7年-大正8年1860-1919年)明治の知識人、教育者。大山巌の妻。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。愛国婦人会理事。赤十字篤志看護会理事。 
生い立ち
官軍の砲弾を浴びて激しく損傷した会津若松城安政7年(1860年)、会津若松の生まれ。父は会津藩の国家老・山川尚江重固(なおえしげかた)で、2男5女の末娘である。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は祖父の兵衛重英(ひょうえしげひで)が、後には長兄の大蔵(おおくら、後の山川浩)が父親がわりとなった。
知行1、000石の家老の家でなに不自由なく育ったさきの運命を変えたのは、会津戦争だった。慶応4年(1868年)8月、板垣退助・伊地知正治らが率いる新政府軍が会津若松城に迫ると、数え8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝った。女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていたが、さきはこれも手伝って大怪我をしている。すぐそばでは大蔵の妻が重傷を負って落命した。このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長は、西郷隆盛の従弟にあたる薩摩の大山弥助(のちの大山巌)だった。
近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に、会津藩は抗戦むなしく降伏した。会津23万石は改易となり、1年後に藩主の嫡男が改めて陸奥斗南3万石に封じられた。しかし斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかり、実質石高は7、000石足らずしかなかった。藩士達の新天地での生活は過酷を極めた。飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘のさきを海を隔てた函館の沢辺琢磨のもとに里子に出し、その紹介でフランス人の家庭に引き取ってもらうことにした。
官費留学
明治4年。姓名はいずれも当時のもの、数字は数え歳。明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることにした。黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集は当初から「男女」若干名という例のないものとなった。
開拓使のこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して渡米することが決まった。この留学生に選抜された若者の一人が、さきの兄・山川健次郎である。健次郎をはじめとして、戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させたのである。その一方で、女子の応募者は皆無だった。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったのである。
しかしさきは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れていた。またいざという時はやはり留学生として渡米する兄の健次郎を頼りにできるだろうという目論見もあって、山川家では女子留学生の再募集があった際に、満11歳になっていたさきを思いきって応募させることにした。この時も応募者は低調で、さきを含めて5人、全員が旧幕臣や賊軍の娘で、全員が合格となった。
こうしてさきは横浜港から船上の人となる。この先10年という長い歳月を見ず知らずの異国で過ごすことになる娘を、母のえんが「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させたのはこの時である。捨松がアメリカに向けて船出した翌日、横浜港にはジュネーヴへ留学に旅立つ一人の男の姿があった。大山弥助改め大山巌である。
滞米生活
5人の女子留学生のうち、すでに思春期を過ぎていた年長の2人はほどなくホームシックにかかり、病気などを理由にその年のうちには帰国してしまった。逆に年少の捨松、永井しげ、津田うめの3人は異文化での暮らしにも無理なく順応していった。この3人は後々までも親友として、また盟友として交流を続け、日本の女子教育の発展に寄与していくことになる。
捨松はコネチカット州ニューヘイブンの会衆派のリオナード・ベーコン(LeonardBacon)牧師宅に寄宿し、そこで4年近くをベーコン家の娘同様に過ごして英語を習得した。この間ベーコン牧師よりキリスト教の洗礼を受ける。このベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコンである。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学に進んだ。しげが専門科である音楽学校を選んだのに対し、この頃までに英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科大学に入学した。
ヴァッサーは全寮制の女子大学で、ジーン・ウェブスターやエドナ・ミレイなど、アメリカを代表する女性知識人を輩出した名門校である。東洋人の留学生などはただでさえ珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かないサムライの娘・スティマツは、すぐに学内の人気者となった。しかしそれにも増して、捨松の端麗な美しさと知性は、同学年の他の学生を魅了して止まなかったのである。大学2年生の時には学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった学生のみが入会を許されるシェイクスピア研究会やフィラレシーズ会にも入会している。
捨松の成績はいたって優秀だった。得意科目は生物学だったが、官費留学生としての強い自覚を持っていたようで、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも明るかった。学年3番目の通年成績で「偉大な名誉」(magnacumlaude)の称号を得て卒業した。卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行ったが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来だった。アメリカの大学を卒業した初の日本人女性は、この捨松である。
このとき北海道開拓使はすでに廃止されることが決定しており、留学生には帰国命令が出ていたが、捨松は滞在延長を申請、これが許可されている。卒業後はさらにコネチカット看護婦養成学校に1年近く通い、上級看護婦の免許を取得した。捨松はこの前年に設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を寄せていたのである。
帰国子女
捨松が再び日本の地を踏んだのは明治15年(1882年)暮れ、出発から11年目のことだった。新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々と帰国した捨松だったが、彼女を待っていたのは失望以外のなにものでもなかった。
捨松がアメリカで過ごした11年間は、今でいえば小学校高学年から大学卒業までの期間であり、個人の人格や言語が完成される時期である。帰国した捨松は、ものの考え方から物腰まで、すべてがアメリカ式になっていた。在学中、捨松は親友の永井しげとは極力日本語を使うようにしており、母にも毎日のようにつたない日本語で手紙を書き綴っていたが、それでも帰国の頃には日本語が相当怪しくなっていた。日常会話は数ヵ月でなんとかなるようになったが、漢字の読み書きとなるともうお手上げだったが、英語でしか話せなくなった上に日本語の理解に外国人通訳を通さなければならなかった津田梅子よりは遥かにましな状態ではあった。
そんな捨松の受け皿となるような職場は、まだ日本にはなかったのである。頼みの北海道開拓使もすでになく、仕事を斡旋してくれるような者すらいない状態、孤立無援の捨松を人は物珍しげに見るだけで、「アメリカ娘」と陰口まで叩かれる始末だった。しかも娘は10代で嫁に出す時代、23歳になっていた捨松は、当時の女性としてはすでに「婚期を逃した」年齢にあった。2歳年下の永井繁子が早々に瓜生外吉と結婚する中、捨松は英語学者の神田乃武から縁談の申し出を受けるが、にべもなく断ってしまう。この頃アリス・ベーコンに書き送った手紙には、「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって。想像できる?母はこれでもう縁談も来ないでしょうなんて言っているの」と愚痴をこぼしている。
恋愛結婚
ちょうどその頃、後妻を捜していたのが大山巌だった。大山は捨松と時を同じくしてジュネーヴに留学するが、国内の政局は彼の長期海外留学を許さなかった。明治六年政変で明治政府の半分近くが下野すると、大山は留学3年目に入ったところで帰国を余儀なくさせられ、愛してやまない欧州の地を後ろ髪引かれる想いで後にした。帰国後すぐに西南戦争となり、従兄の西郷隆盛に泣いて弓を引く。西郷が戦死し、その後を追うかのように大久保利通が暗殺されると、大山は従弟の西郷従道とともに薩摩閥の屋台骨を背負う立場に置かれることになった。以後要職を歴任、参議陸軍卿・伯爵となっていた。この間に同じ薩摩の吉井友実の長女・沢子と結婚して3人の娘を儲けていたが、沢子は三女出産後の肥立ちが悪く死去した。大山の将来に期待をかけていた吉井は、我子同然に可愛がっていたこの婿のために、後添いとなる女性を探し求めはじめる。そこで白羽の矢が立ったのが捨松だった。
当時の日本陸軍はフランス式兵制からドイツ式兵制への過渡期という難しい時期にあった。フランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、列強の外交官や武官たちとの膝詰め談判に自らあたることのできる、陸軍卿としては当時最適の人材だったが、この時代の外交の大きな部分を占めていたのは夫人同伴の夜会や舞踏会だった。アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松は、その大山の夫人としては、当時最適の候補だったのである。
吉井のお膳立てで大山が捨松に初めて会ったのは、永井繁子と瓜生外吉の結婚披露宴でのことだった。そこで大山は一目で恋に落ちる。自他共に認める西洋かぶれだった大山は、パリのマドモアゼルをも彷彿とさせる捨松の洗練された美しさにすっかり心を奪われてしまったのである。
しかし吉井を通じて大山からの縁談の申し入れを受けた山川家では、これを即座に断ってしまう。家長の浩は当然猛反対だった。縁談の相手は、会津戦争で砲弾を会津若松城に雨霰のように打ち込んでいた砲兵隊長その人だというのである。亡き妻の仇敵でもあり、心情として許せなかった。しかし大山も粘った。吉井から山川家に断られたことを知らされると、今度は農商務卿の西郷従道を山川家に遣わして説得にあたらせた。「山川家は賊軍の家臣ゆえ」という浩の逃げ口上は、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内でごわす」という従道の前では通じなかった。この従道が連日のように、しかも時には夜通しで説得にあたるうちに、大山の誠意が山川家にも伝わり、何がなんでも反対という態度は軟化した。最終的に浩は「本人次第」という回答をするに至ったのである。
これを受けた捨松の答えがまたいかにも西洋的だった。「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案したのである。大山はもちろんこれに応じた。捨松ははじめ濃い薩摩弁を使う大山が何を言っているのかさっぱりわからなかったが、英語で話し始めるととたんに会話がはずんだ。大山は欧州仕込みのジェントルマンだった。2人には親子ほどの歳の開きがあったが、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていった。この頃アリスに書いた手紙には捨松は、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記している。交際を初めてわずか3ヵ月で、捨松は大山との結婚を決意したのだった。
明治16年(1883年)11月8日、参議陸軍卿大山巌と山川重固息女捨松との婚儀が厳かに行われた。その1ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館で大山夫妻は盛大な結婚披露宴を催した。千人を超える招待者でごった返す披露宴、普通の新婦なら気が動転して会話もままならないような状況の中で、気さくな捨松には誰もが目を止め、話しかけ、また捨松の話に耳を傾けた。
活躍の場
近世以後ヨーロッパで確立された外交プロトコルでは、夜会や舞踏会が大きな役割を果たしていたが、その風潮は19世紀後半になってもあまり変わってはいなかった。列強の外交官は夫人同伴で食事や舞踏を楽しみ、時にはそうした席で重要な外交上の駆け引きも行う。幕末から明治初年にかけて欧米を視察した日本人にとって、それはひとつの大きな衝撃だった。日本人の女性がまだ人前での立ち振る舞いにまったく慣れていなかった時代、新政府の高官の多くが即戦力となる玄人の芸者や娼妓を正妻として迎えた理由のひとつもここにある。
早期の条約改正を国是としていた明治政府は、こうした宴席外交を行うことの出来る施設の必要性を痛感していた。当時は、別に正規の用途がある施設をその時々の必要に応じて借り上げる形で間に合わせていたが、代替施設はやはり不便だった。そこで外務卿の井上馨が中心となって、こうした代替施設に代わる恒常の官立社交場を新築することを決定した。それが鹿鳴館である。
鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれ、諸外国の外交官はもとより、明治政府の高官たちもそうした外交官たちとのパイプを構築するため、夜な夜な宴に加わった。そこには日本が文明国であることを示すという涙ぐましい努力があったのだが、そうした「鹿鳴館外交」の評判は必ずしも良いものではなかった。外交官たちはうわべでは宴を楽しみながらも、文書や日記などには日本人の「滑稽な踊り」の様子を詳細に記して彼らを嘲笑していたのである。体格に合わない燕尾服や窮屈な夜会服に四苦八苦しながら、真剣な面持ちで覚えたてのぎごちないダンスに臨む日本政府の高官やその妻たちの姿が、特筆せざるを得ないほど可笑しいものだったのも無理はなかった。
その中で、一人水を得た魚のように生き生きとしていたのが捨松だった。英・仏・独語を駆使して、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑する。12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップは堂に入ったものだった。当時の日本人女性には珍しい長身と、センスのいいドレスの着こなしも光っていた。そんな伯爵夫人のことを、人はやがて「鹿鳴館の花」と呼んで感嘆するようになった。
夜会や舞踏会だけではない。ある時有志共立東京病院を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることに衝撃を受ける。そこで院長の高木兼寛に自らの経験を語り、患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言した。高木もイギリスのセントトーマス病院に留学した経験があり、そこで専門教育を受けた看護婦たちと日々を過ごしていた。またナイチンゲールが運営する看護学校も見学するなど、看護婦の必要性は早くから認めていたのである。しかし如何せん資金がなかった。捨松には賛成しつつも、財政難で実施は難しいと白状せざるを得なかったのである。
それならば、と捨松は明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたって「鹿鳴館慈善会」を開いた。日本初のチャリティーバザーである。捨松は品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとった。ある紳士に「これはいくらかね?」と聞かれ「4円です」、「ではこれで」とこの年発行されたばかりの日本銀行券5円札を渡された捨松は、すかさず「慈善なのでお釣りは出ませんよ」と微笑みかける。そうしたテクニックも、他の高官の妻たちにはなかなか真似のできないものだった。3日間で予想を大幅に上回る、鹿鳴館がもう一つ建つぐらいの莫大な収益をあげ、その全額を共立病院へ寄付して高木兼寛を感激させている。この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立された。
日清・日露の両戦争では、大山巌が参謀総長や満州軍総司令官として、国運を賭けた大勝負の戦略上の責任者という重責を担っていた。捨松はその妻として、銃後で寄付金集めや婦人会活動に時間を割くかたわら、看護婦の資格を生かして日本赤十字社で戦傷者の看護もこなし、政府高官夫人たちを動員して包帯作りを行うなどの活動も行った。また積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えた。日本軍の総司令官の妻がニューヘイヴン出身・ヴァッサー大卒というもの珍しさも手伝って、アメリカ人は捨松のこうした投稿を好意的に受け止め、これがアメリカ世論を親日的に導くことにも役立った。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンによって直ちに捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用された。
近代日本におけるチャリティー企画やボランティア活動の草分けは、この大山捨松である。
女子教育
日本に帰ったら教職に就いて日本の女子教育の先駆けとなる、というのが捨松の留学時代の夢だった。しかし政府の要職にある大山巌と結婚したことで、彼女自身が教壇に立つことはあり得なくなった。それでも捨松の女子教育にかける熱意は冷めることなく、生涯にわたって陰に日向にこれを支援している。
早くも結婚の翌年の明治17年(1884年)には、伊藤博文の依頼により下田歌子とともに華族女学校(後の学習院女学部)の設立準備委員になり、津田梅子やアリス・ベーコンらを教師として招聘するなど、その整備に貢献している。しかしそうして出来上がった華族女学校では古式ゆかしい儒教的道徳観にのっとった教育が行われ、捨松はまたしても失望を味わう。
その後、明治33年(1900年)に津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立することになると、捨松は瓜生繁子ともにこれを全面的に支援した。アリスも日本に再招聘して、今度は自分たちの手で、自分たちが理想とする学校を設立したのである。教育方針に第三者の容喙を許さないという立場から、津田が誰からの金銭的援助もかたくなに拒んでいたこともあり、捨松も繁子もアリスもボランティアとして奉仕した。それでも捨松は英学塾の顧問となり、後には理事や同窓会長を務めるなど、積極的に塾の運営にも関与している。生涯独身で、パトロンもいなかった津田が、民間の女子英学塾であれだけの成功を収めることが出来たのも、捨松らの多大な支援があったがことが大きな理由のひとつだった。
晩年と死
捨松は大山との間に2男1女に恵まれた。これに大山の3人の連れ子を合せた大家族となったが、自らが2男5女の家に生まれ、その後ベーコン家の14人兄弟に揉まれて成長した経験のある捨松にとって、賑やかな家庭は幸せだった。40代半ばまで跡継ぎに恵まれなかった巌に、2人の立派な男子をもたらしたことも誇りだった。
巌は日清戦争後に元帥・侯爵、日露戦争後には元老・公爵となり、位人臣を極めた。それでいて政治には興味を示さず、何度総理候補に擬せられても断るほどで、そのため敵らしい敵もなく、誰からも慕われた。晩年は第一線を退いて内大臣として宮中にまわり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須で家族団欒を楽しんだ。
長男の高は「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年だったが、明治41年(1908年)、海軍兵学校卒業直後の遠洋航海で乗り組んだ巡洋艦・松島が、寄港していた台湾の馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没、高は艦と運命を共にした。
次男の柏は近衛文麿の妹・武子を娶り、大正5年(1916年)には嫡孫梓が誕生したが、その直後より巌は体調を崩し療養生活に入る。長年にわたる糖尿の既往症に胃病が追い討ちをかけていた。内大臣在任のまま同年12月10日に満75歳で死去した。
巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、亡夫の冥福を祈りつつ静かな余生を過ごしていたが、大正8年(1919年)に津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切った。津田は病気療養のために退任することになり、捨松は紆余曲折を経て津田の後任を指名したが、新塾長の就任を見届けた翌日倒れてしまう。当時世界各国で流行していたスペイン風邪だった。そのまま回復することなくほどなく死去。満58歳だった。 
逸話1 / 『不如帰』
大山巌は先妻との間に娘が3人いた。長女の信子は結核のため20歳で早世したが、彼女をモデルとして徳冨蘆花が書いた小説が、「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!」の名セリフが当時の流行語にまでなったベストセラー『不如歸』である。
小説の中で主人公の浪子は結核のため幸せな結婚生活を引き裂かれた挙げ句、実家に戻ると今度は非情冷徹な継母によって離れに押し込まれ、寂しくはかない生涯を終える。ところがこの小説に描かれた継母が捨松の実像と信じた読者の中には彼女に嫌悪感を抱く者が多く、誹謗中傷の言葉を連ねた匿名の投書を受け取ることすらあった。捨松は晩年までそうした風評に悩んでいたという。
実際は小説とはまったく逆で、信子の発病後、離縁を一方的に申し入れてきたのは夫の三島彌太郎とその母で、悩む捨松を見るに見かねた津田梅子は三島家に乗り込んで姑に猛抗議している。看護婦の資格を活かし親身になって信子の看護をしたのも捨松自身で、信子のためにわざわざ離れを建てさせたのも、信子が伝染病持ちであることに気兼ねせずに自宅で落ち着いて療養に専念できるようにとの思いやりからだった。巌が日清戦争の戦地から戻ると、信子の小康を見計らって親子3人水入らずで関西旅行までしている。捨松は巌の連れ子たちからも「ママちゃん」と呼ばれて慕われていた。家庭は円満で、実際には絵に描いたような良妻賢母だったという。
しかし蘆花からこの件に関して公に謝罪があったのは、『不如帰』上梓から19年を経た大正8年(1919年)、捨松が急逝する直前のことだった。雑誌『婦人世界』で盧花は「『不如歸』の小說は姑と繼母を惡者にしなければ、人の淚をそゝることが出來ぬから誇張して書いてある」と認めた上で、捨松に対しては「お氣の毒にたえない」と遅きに失した詫びを入れている。 
逸話2 / 洋風夫妻
大山巌・捨松夫妻はおしどり夫婦として有名だった。
ある時新聞記者から「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と下世話な質問を受けた捨松は、「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(=児玉源太郎)、二番目が私で、三番目がビーフステーキ。ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と言いつつ、まんざらでもないところを見せている。「いえいえそんなこと」などと言葉を濁さず、機智に富んだ会話で逆に質問者の愚問を際立たせてしまう話術も、当時の日本人にはなかなか真似のできないものだった。
巌は実際にビーフステーキが大好物で、フランスの赤ワインを愛した。大食漢で、栄養価の高い食物を好んだため、従兄の西郷隆盛を彷彿とさせるような大柄な体格になり、体重が100kgに迫ることもあったという。捨松はアリスへの手紙の中で「彼はますます肥え太り、私はますます痩せ細っているの」と愚痴をこぼしている。
巌は欧州の生活文化をこよなく愛し、食事から衣服まで徹底した西洋かぶれだった。日清戦争後に新築した自邸はドイツの古城を模したもので近所を驚かせたが、その出来はというとお世辞にも趣味の良いものとはいえなかった。再来日したアリスにまで酷評される有様だったが、当の巌は人から何といわれてもこの邸宅にご満悦だった。しかし捨松は自分の経験から子供の将来を心配し、「あまりにも洋式生活に慣れてしまうと日本の風俗に馴染めないのでは」と、子供部屋だけは和室に変更させている。
一般の日本人から見れば浮いてしまう「西洋かぶれ」の巌と「アメリカ娘」捨松。しかしそれ故にこの夫婦は深い理解に拠った堅い絆で結ばれていた。夫妻の遺骨は、2人が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されている。 
 
徳冨蘆花『不如帰』における時代描写

 

1 はじめに 
本稿は、徳富蘆花『不如帰』についての一検討を行ない、そこにみられる時代描写を摘出し、本書の時代的特質を明らかにするものである。日本における産業革命=産業資本の確立を研究の対象としている筆者の、その時期である明治という時代の全体像を描くという課題の一環に位置する。これまでに筆者は、この時期に著された文学作品における、明治の農村、農民生活の描写を検討し、これを通じて時代把握を深めることを意図してきた。しかし、ただに農村にとどまらずに、より広くこの時代の特質を認識するために、この時代に著された文学作品について考察することとした。このような観点から先に尾崎紅葉『金色夜叉』をとりあげたが、今回は徳富蘆花『不如帰』をとりあげる。
まず、この書であるが、最も簡単な紹介をあげれば、「徳富蘆花の家庭小説。明治三一〜三二年『国民新聞』に発表。海軍少尉川島武男の出征と愛妻浪子の病患とをめぐる家庭的葛藤を描写」(『広辞苑』)となる。
この作品については、片岡良一は、「『金色夜叉』と『不如帰』とが、紅葉、蘆花二作家によって筆を執られてから今日までの間に、いろいろな方面から大衆の中に入っていったほど、広くかつ永く社会の各層に浸潤し続けた作品は、他にはあるいは容易に見出されないかも知れない。 『不如帰』が書物として百数十版を重:ね、小説出版界に一つの記録を作ったことは、今更云うには余りに有名な事実になっている」と記しているが、この小説は、「尾崎紅葉作。明治三一年以降『読売新聞』に連載、同三六年続篇を『新小説』に掲載。富のために許婚の鴫沢(しぎさわ)宮を富山唯継に奪われた間(はざま)貫一が高利貸になり、金の力で宮や世間に復讐しようとする」(『広辞苑』)という小説『金色夜叉』とともに、近代日本の二大大衆(通俗)小説である。 
2 徳富蘆花『不如帰』の概要

 

人口に胞写しているものの、読まれることの少ないこの小説を検討するにあたって、まずその概要を、大塚豊子氏の「この作品のあらまし」によってみる。 
上編
上州伊香保の千明の三階から、夕景色を眺あている年のころ十八、九の婦人がいます。色白の細面で、品のよい丸幅を結い、夏の夕闇に匂う月見草のようなこの婦人こそ、先月、海軍少尉男爵川島武男と結婚したばかりの心妻浪子です。
浪子は、陸軍中将子爵片岡毅の長女ですが、八歳のとき実母に死別し、権高な継母繁子とは性格が合わず、武男に嫁いだことを心から幸せに思っています。
時は春、武男と浪子は、水沢観音近くの丘へ蕨狩りに出掛けますが、そこへ思いがけず、千々岩安彦が現れます。千々岩は、武男の従兄で、陸軍中尉ですが、早くから孤児となり、叔母にあたる武男の母に引き取られて成長し、立身出世の執念にかられ、浪子に横恋慕しました。しかし浪子が武男と結婚したので、おのれの旧悪を恐れ、武男夫妻を追って、ここに来たのです。千々岩は、成り上がりの政商山木兵造と気脈を通じ、よからぬ策謀をめぐらせている軽薄な才子なのです。
川島家は、麹町上二番町に屋敷を構え、武男の母お慶夫人は、今年五十三歳の未亡人です。亡夫通武は、もと薩摩藩(今の鹿児島県)の下級武士でしたが、維新の風雲に乗じて出世し、明治政府のもとで、各地の県令を務め、巨額の資産を築きました。その妻お慶は、新華族の男爵夫人といわれながら、横暴な夫のもとに、忍従の日々を送っていましたが、夫に先立たれた後、急速に体も肥満し、央の気性がのり移ったかと思われるような、強情で、吝奮の人になりました。
浪子は、まったく家風の異なる川島家の嫁として、持病のリュウマチスのために痴癌をおこす姑によく仕えます。
伊香保から帰って、間もなく夫は遠洋航海の任務に着きました。その留守中も、気むずかしい姑の冷遇に耐え、武男の写真をそっと手にとっては、頬ずりし、ひたすらその帰宅を待ちわびています。 
中編
武男は、ようやく年末に任務を終えて帰宅します。
明けて正月三日、武男夫妻は、浪子の実家と、浪子の叔母であり、ふたりの媒酌人でもある加藤子爵家に、年始の挨拶に出向きました。夫妻と入れ違いに、千々岩と山木が、川島家を訪れたことを知って、武男は眉をひそめます。その日も、岳父片岡中将から、千々岩についての忌わしい噂を耳にしたからです。しかも、二、三日後、見知らぬ男が、突然川島家に現れ、千々岩の借金の返済を求められたのです。事実、千々岩は、その地位を利用して、山木に参謀本部の機密情報を洩らし、その利益の分配を受けているばかりか、公金を横領し、武男の私印を偽造して、高利貸から借金をしていることが暴露し、武男は千々岩を激しく叱責し、断交を申し渡します。
二月初旬、浪子はふとした風邪から、肺結核にかかり、実家の逗子の別荘で、転地療養しますが、吐血するたびに、不吉な予感を覚えます。武男は、浪子を案じ、横須賀の海軍基地から、暇をみては見舞います。
姑のお慶夫人は、浪子の病気が、わが子武男に伝染するのを恐れ、浪子もこの病ゆえに、いっそう姑から疎外されるのではと悩みます。病気の本復を危ぶむ浪子の不安に対し、夫武男は、「なおらんというのは、浪さんが僕を愛せんからだ。愛するならきっとなおるはずだ」と力づけます。浪子も夫の手を握り、「死んでも、私はあなたの妻ですわ!たれがどうしたツて、病気したツて、死んだツて、未来の未来の後までわたしはあなたの妻ですわ!」と切ない涙を流します。
ところで千々岩は、参謀本部から、急に第一師団某連隊に移籍されたことや、武男から絶交されたことに、浪子やその父片岡中将が関わっているのではないかと疑い、恨みを抱いて、復讐の念に燃えます。そして浪子の発病を好機とし、ひそかに川島家を訪れ、浪子の肺結核は不治の病で、もし武男に伝染すれば、川島家の一大事になると、お慶夫人の不安を煽り立てます。
五月初旬、武男が帰宅しますと、その同母お慶夫人は、浪子の病気を理由に、離縁するように、武男に迫ります。武男は言下に、そんな不人情、不義理のことはできないと拒否します。その時ちょうど帰艦命令の電報を受け、武男はこの話の結着をつけぬまま出立します。翌日、武男は逗子に立ち寄り、浪子とひと時を過ごしましたが、別れ際に何度も「早く帰ってちょうだいな」と言った浪子の声が、武男の胸にいつまでも残ります。
しかしお慶夫人は、武男の同意を待たず、独断で浪子の離縁を決し、媒酌の加藤夫人に、片岡家への執り成しを頼みます。けれども加藤夫人に断られたため、山木を直接片岡家に差し向け、浪子を実家に引き取ってくれるように申し入れ、実父片岡中将の承諾を得ます。
急に実家に呼び出された浪子は、事の次第を知って悲嘆にくれます。
いっぽう武男は、艦隊演習を終えて帰宅し、一部始終を知ります。母親のあまりの仕打ちに激怒した武男は、「母さん、あなたは、浪を殺し、またそのうえにこの武男をお殺しなすツた。もうお目にかかりません」と言って、そのまま横須賀基地へ引き返します。
その七月、日本は清国(いまの中国)と開戦、武男は捨て身となって、連合艦隊旗艦松島町に乗り組みました。片岡中将も、実家に戻った浪子のために、離家を建てて、朝夕浪子をねんごろに見守っていましたが、九月、命によって窺役に復し、征清の途に着きました。 
下編
明治二十七(一八九四)年九月、連合艦隊は、黄海沖で敵艦隊と相対し、激しい戦闘が展開されます。
武男は分隊士として、砲撃の指揮を執りますが、敵弾をうけて、大腿部を負傷し、その場に倒れ気を失います。
佐世保の海軍病院に収容されてから、一ヵ月余、ある日武男のもとに、差し出し人の記名のない小包が届けられます。中には、丁寧に縫われた絹の着物類一式が入っており、その心尽しの品々と宛名の筆跡から、浪子から送られたものに相違ないと思い、男泣きに泣きます。
母のお慶夫人から、全快次第ともかく帰京してほしいという手紙を受け取りますが、武男は傷が全治してもついに上京せず、十一月初旬、ふたたび大連湾に碇泊中の松島号に帰艦します。
東京の川島家では、浪子が去ったあと、以前から武男を恋慕していた山木の娘お豊が、後妻になる心づもりで、行儀見習いとして、お慶夫人に近付きますが、もとより失人の気に入るはずもなく、彼女自身も辛抱しきれず逃げ出しました。お慶夫人は、今さらながら、浪子の賢明さとその起居のしとやかさ、人柄の美質を、しきりと感じるのです。
浪子は離縁された傷手に、一時病状も悪化し、一途に死を思いますが、父の愛情にわずかに心を慰め、父中将が出征した後は、ふたたび逗子の別荘で、養生の日々を送っています。そこへ黄海戦の勝報とともに、武男の負傷を知り、見舞の品を送ったのです。
十一月中旬、浪子は武男から一通の封書を受け取り、武男との思い出深い不動の岩の上で、開封します。文中に「浪さんを思わざる臼は一日も無之候」とあり、浪子の胸は迫り、夫を思っていよいよ懊悩し、ついに「魂魂となりて良人に添うはまさらずや」と海中に身を投じようとした時、クリスチャンの小川夫人に助けられます。
翌二十八(一八九五)年五月、ようやく戦争が終結、千々岩中尉は戦死し、武男は一年ぶりで無事凱旋します。ある日、武男は逗子の別荘を訪ねますが、浪子は、帰国した父片岡中将とともに、関西旅行に旅立った後でした。
武男もまた遠く南征の途に着くことになり、呉(広島県、当時は軍港都市)から乗艦するためその六月、東海道線の下り列車で出発します。
そのころ、浪子は京都、奈良、宇治(京都市)などの名所古刹を遊覧し、父の慈愛を身に感じつつ、夫武男への慕情絶ちがたく、せあてもう一度会いたいと思い続けています。ところが、山科駅(京都市東山区)の車中で、偶然武男の乗った列車とすれ違い、浪子と武男は互いにその名を呼び交わしますが、見る間に武男の姿は遠ざかって行ってしまいました。これがふたりの永久の別れとなりました。
関西から帰宅した浪子は、にわかに病勢がすすみ、数度の喀血を重ねて、危篤状態に陥り、悲痛の思いで、加藤夫人に武男への一通の遺書を託したまま、その生涯を閉じます。
葬儀の当日は、多くの会葬者の涙をさそい、祭壇には溢れるばかりの生花が供えられましたが、ただ一つ「川島家」の札をつけた生花だけは、玄関先から突き返されました。
台湾で、すでに浪子の卦音に接した武男は、帰国直後、白菊を手にして、青山墓地(東京都港区)に赴き、浪子の真新しい墓標の前に立ち、鳴咽します。そこへ浪子の父片岡中将が現れ、ふたりは固く握手し、ともどもに涙にくれるのです。 
2 創作の経緯

 

蘆花は「第百版不如帰の巻首に」においてつぎのように記している。
不如帰が百版になるので、校正かたがた久し振りに読むで見た。お坊ちゃん小説である。単純な説話で置いたらまだしも、無理に場面を賑はすため、かき集めた千々岩山木の安っぽい芝居がかりやら、小川某女の蛇足やら、あらを云ったら限りが無い。下版と云ふ呼声に対しても今些どうにかしたい気もする。併し今更書き直すのも面倒だし、到頭ほんの校正だけにした。
十年ぶりに読むで居る中に端無く思ひ起した事がある。其れは斯の小説の胚胎せられた一夕の事。最早十二年前である、相州逗子の柳田と云ふ家の室を借りて住むで居た頃、病後の保養に童男一人連れて来られた婦人があった。夏の真盛りで、宿と云ふ宿は皆塞がって、途方に暮れて居られるのを見兼ねて、妻と相談の上自分等が借り’て居た八畳二型の其の一を御用立てることにした。夏のことで中の仕切は形ばかりの小簾一重、風も通せば話も通ふ。一月ばかりの間に大分懇意になった。三十四五の苦労をした人で。(不如帰の小川某女では無い)大層情の深い話上手の:方だつた。夏も末方のちと曇ってしめやかな晩方の事、童男は遊びに出てしまふ、婦人と自分と妻と雑談して居る内、不図婦人が左る悲酸な事実課を話し出された。最早其頃は知る人は知って居たが自分にはまだ初耳の「浪子」の話である。「浪さん」が肺結核で離縁された事、「武男君」は悲しむだ事、片岡中将が怒って女を引取つた事、側女の為に静養室を建てた事、一生の名残に「浪さん」を連れて京阪の遊びをした事、川島家からよこした葬式の生花を突返した事、単に此丈が話の中の事実であった。婦人は鼻をつまらせつつしみじみ話す。自分は床柱にもたれて醸んやり聴いて居る。妻は頭を旧れて居る。日はいっか暮れてしまうた。古びた田舎家の間内が薄闇くなって、話す人の浴衣ばかり白く見える。臨終のあはれを話して、「さうお云ひだったさうですってね一もうもう二度と女なんかに生ればしない」一階ひかけて婦人は到頭嘘弔して話をきって了うた。自分の脊髄をあるものが雷の如く走った。
婦人は間もなく健康になって、彼の一夕の談を置土産に都に帰られた。逗子の秋は寂しくなる。話の印象はいつまでも消えない。朝な夕な波は哀音を送って、瀟琶たる秋光の浜に立てば影なき人の姿がつい眼前に現はれる。可愛想は過ぎて苦痛になった。如何にかしなければならなくなった。そこで話の骨に勝手な肉をつけて、一篇未熟の小説を起草して国民新聞に掲げ。後一冊目して民友社から出版したのが此の小説不如帰である。で、不如帰のまついのは自分が不才の卜す処、其れにも関せず読老の感を惹く節があるなら、其れは逗子の夏の一夕にある婦人の口に籍って訴へた「浪子jが自ら読者諸君に語るのである。要するに自分は電話の「線」になったまでのこと。
夫人愛子によれば、隣の部屋の婦人は福家安子という未亡人で、亡くなった夫が大山巌大将の副官であったこと、大山家の長女の信子が子爵三島家から肺結核で離縁されたこと、信子の夫の太郎氏が悲しんだこと、大山大将が怒って娘をひきとり、邸内に静養室を建てて養生させたこと、この世の名残に信子さんをつれて京阪旅行に出かけたこと、死んだとき三島家からよこした葬式の生花を突きかえしたこと、が語られたという。
この小説は、1898(明治31)年の11月から「国民新聞」に掲載された。自伝的小説『富士』において、「『不如帰』は正月から二、月三月と休み休み続けられた。評判は悪、くなかった。去年社からお暇になって『東京』といふ個人雑誌を出して居る吟夢君は、『蘆花子は昨年あたりより思想文章一新紀元を開けるものN如く、文章一唱三嘆の妙あり。長きを厭はず、願はくは完結あれかし』と書いた。熊次[早撃のこと]がよく尻切れとんぼをつくる癖を吟明君は知って居た」、滅多に小説を読まず、また息子である熊次の小説は読むには読んだが滅多には感心しない父も不如帰も毎日読んでいた、どこごこが面白い、衆議院の新聞記者室の評判を兄がとりつぎ、「関野のお浜さんは『御夫婦仲は当然としても、ちよつとも世間にお出もなさらぬ方が、如何してあんな山木なんて人をお書けなさるでせう?』と言ふたさう」などと、蘆花は記している。そしてひきつづき、『不如帰』の執筆過程での行き詰った状況などを記している。 
3 本書の評価

 

(1) 本書の評判
1899(明治32)年5月まで連載され、いったん完結した「不如帰」は、この年の後半に改稿された。翌年1月15日『小説不如帰』は出版された。表題に蘆花生著の4字があるが、早替に著者の名がないので、発行者を著者とみて田部留三氏を著者とされたり、折角の口絵も画家の名が落ちていたりで、「間のぬけ切った出世作の首途である」と蘆花は言っている。これを伊藤整は、「民友社は多くを期待できぬこの書を粗末に扱ったのであった」と記している。
「二月に入ると、ぼつぼつ小説の反響があった」と弔花は、その評判を具体的に記している。「気むつかしやで何でも難癖つけたがる日本新聞が、二号に渉って懇篤な紹介をしてくれた」、大阪朝日に丸田君が「同情が普遍なのが成功の要素」、東京日々に桐谷君が「文章でなくて音楽である、其節奏に触る玉詞、潜然として泣き、粛然として自己を忘れる、殊に叙景の高雅は他に比を見ない」と書いてくれた。M朝報のS君が、「九分目満足を以て読過したり、深夜床上涕涙湧泥として巻を漏したり、斯くの如き好文字をつくる蘆花甲にして、何ぞ其姓名の寂蓼たるや」と書き、『基督教世界』には「愛を書いて愚に到らず、然し海戦は場所はつれ」と書かれ、青年雑誌『文庫』には、この海戦も一つに数えて、「快の一也、快の二也」と快を五つまで書きつらねた記事がのった。もう一つの『新聲』は「不如帰が好評で、大分蔵花の名を聞くが、前に出た青山白雲を何で黙って居るか?」と書き、「蘆花は三十三だそうだ」と書いた。子規門で一二を争う俳人のK:君が「最初一二頁読むつもりなりしも、到頭徹夜読了致し候。読過の際、しばしば涙のこぼるるを覚えず、読み終って、純潔の血が湧く心地いたし候」、そして「小説に涙を落す火鉢かな」と一句認めてあるはがきをよこした。Kとは高濱虚子である。
これは薦花の心を喜びに波だたせた。「好い家庭小説、健全で親子の間にも読める、といふ一般評の中に、人物が類型的で、文章はリリカルだが、描写は浅薄だといふ黒人評もあったが、好評が普通で、婦人の感謝は一般であった」。
このように、反響は大きく本は急速に売れた。2000部門って、3.月には再版、4月には3版と版を重ねていった。 
(2) 本書の評価
本書の評価についてみよう。
片岡良一は、つとに、この『不如帰』が尾崎紅葉の『金色夜叉』とともに、近代日本の二大大衆小説であるとして、この大衆性の根拠として、これらの作品のもつ社会性や問題性、それらの作品のもつ感傷性や芸術性と相合したところにある、しかも問題の解決されない不調和と破綻という「不調和」の美をあげている。この前老については多くの文学者・批評家によって指摘されてきている。
「この作は日本に於ける初期のモデル小説として好奇的に読まれたぽかりでなく、家庭内の新旧思想の衝突と、伝染病を極端に恐怖したる当時の科学的脅威を描けるとが、時代の興味に投じた理由であり、また淫粗ならぬ夫婦の純愛を以て一貫してみることが、多くの家庭に迎へられた所以であらくおうう」、「新旧思想の衝突を中心とした過渡期の家庭悲劇と、夫婦の純愛を強調した浪漫的な描写が人の心のとびらをたたいて、おどろくべき多くの愛読老をもった。……かれはこの作で家族制度の不合理を通俗的にとらえ、女性の立場から切実な訴えを提示した」、「これは社会に根強く残存する封建道徳とそれに癒着した形であらわれる擬似近代倫理との栓楷につながれる明治女性の絶叫であったというほかなく、それによってその叫びはまた女性の人間的自覚の出発点でもありえたということができる。……これがあれだけ人々に月會炎し、作者の没した昭和二には一九〇版、五〇万部を売り尽くしたといわれるほど世上に流布した原因のひとつであった」、「それまでの小説の多くが、江戸文学の伝統をひいて、花柳界を背景にしていたのに反して、『不如帰』は、清純な青年男女のうつくしい失婦愛をえがいて、日本の家庭小説の新しいジャンルをひらいた。川島武男(三島弥太郎)と片岡浪子(大山信子)のモデル問題が、話題をにぎわしたことも見おとせない。作者の垣花は、相愛の男女が、自らの意志でなく、親権者の一方的な意志によって離婚を強制される悲劇をとらえて、日本の封建社会に重大な抗議を提出したのである」、「日本にはじめて、明かに婦人から感謝を受ける小説があらわれたのである。家庭小説はこの前後から、その姿を明確にした新らしい文学上のジャンルであった。 ちょうどこの明治三十三年間十九世紀の最終年で、新旧の交代時代だつた。廃藩置県で組織に引導をわたされた封建制度も、ムードとしてはこの頃まで、濃厚に尾をひいていたのが、しだいに薄れかかってきた。 封建制度の経済的基盤は土地であり、組織的大黒柱は家である。ただしそれは縦の家系的な、歴史的な、家長的な家で、つまりハウスである。
しかし儒教が古色を帯びて、時代にズレてきて1その代りに西洋的な倫理学派おこって、丁酉倫理学会が組織され、自我実現説などが新しい魅力となった。家も、家長が絶対権力をふるう系統尊重のhouseから、夫婦を中心にみんなの和楽をもとめるhomeへと、方向が代ってきかかった。この転換期の要望したのが家庭小説で、蘆花の『不如帰』は、著者無意識のうちに、それに応じたがための成功であった」、などと問題性をもっぱら封建的な家族制度と個人、女性問題としてしている。
以上のような見解のほかに、瀬沼茂樹は本書について、「この小説は一つには封建的家族制度とその中での妻としての女性の立場の悲劇であり、『家』を代表する姑川島慶子の糾弾に実母久子に対する私怨が執念深く働いていなかったとはいえまい。また一つには官僚・軍人と御用商人との結托、後者の致富の秘密への分析であり、家庭小説であるとともに、社会小説の意味をもつていた。しかし、浪子や武男の個人的自覚が国、家、社会の重圧に対決して、人間内容を深める方向に描きすエめられなかったがために、小説的結構において勧懲的類型化や通俗的興味に支配され.新しい倫理を自我の内部からうちたてることができずに終った」と記している。ここにおける大きな特徴は、上掲の諸見解と同様に家庭小説としながらも、あわせて、官僚・軍人と御用商人の結託と後者の致富の秘密への分析であり、社会小説の意味ももっていたとするところにある。「当代に多くあらわれた家庭小説の先縦として多くの読者を持ち、そのぶんだけ読み手によってより通俗的な傾斜において読まれていった小説であるが、ここで取出された素材領域はおりからの社会小説論の趨勢を反映してかってないほど広いものであり、かつ権力と資本の癒着する日本資本主義めありようまで手が届いている点でよく社会小説でもありうるものであった」、この作品は単なる家庭小説とはいえない一面をもつ、作者は時代背景として設定した日清戦争(1984・5年)前後の当時の強力なナショナリズムの趨勢のなかで、資本主義の暗部として権力と財力との結託による軍部の内部的頽廃を活写した社会小説の要素をみせている、入水しようとした浪子を救う小川夫人も決して作者自身のいう「蛇足」やその淫しのぎの思いつきではないと思う、などはその線上にあるものである。
以上のように指摘されている『不如帰』の問題性を改めて検討しよう。『蘆花全集 第五巻不如帰』(1930年 新潮社)を使用し、本論中の引用はそれによった。 
4 『不如帰』における問題性

 

(1) 家族制度の問題
中編六の一〜六の四(『盧花全集第五巻』127〜140ページ)は、武男の母慶子が武男に浪子と離縁をすすめる場面である。
函館付近で行なわれる連合艦隊の演習の実施の前に、立ち寄った武男に、にこやかに、客をもてなすように対した母慶子は、「武どん、よう帰ったもった。  実はの、些相談もあるし、是非帰って貰はうと思ってた所ぢやった。まあ帰って呉れたで、好都合ツごあした、逗子一寄って来つろの?」と言いかける。自分が大分弱っていること、リュウマチ、腰痛、そして年をとって心細いこと、そして武男にからだを大事にし、病気をしないように、と言って、一転浪子の話となる。浪子を引き取って貰ってはという母に対して、その意味ののみこめない武男に、母は、「わたしが云ふのはな、浪を実家に戻すのちや」。「戻す?……戻す?  離縁です!!」。
母慶子は、これはよくよく思案してのこと、結核は伝染するもので、病気が病気であるから、浪がかあいそうであっても、御前には代られない、川島家にも代られない、離別したら浪子は死ぬかもしれないが「ぢやが、武どん、わたしは卿の命が惜しい、川島家が惜しいのじや!」、という。
これに対して武男は、言い返す。……
母は突と立上って、仏壇より一個の位牌を取り下ろし、座に帰って、武男の眼前に押すゑつ。
「武男、卿はな、女親ぢやからツてわたしを何とも思はんな。さ、阿爺様の前で、今一度言って見なさい、さ言って見なさい。御先祖代々の御位牌も見て御出ぢや。さ、今一度言って見なさい、不孝者奴が!!」
屹と武男を睨めて、続けざまに煙管もて火鉢の縁打蔽きぬ。
流石に武男も少し気色ばみて「何故不孝です?」
「何故? 何故もあツもんか。妻の肩ばツかい持って親の云ふ事は聞かん奴、不孝者ぢやなツか、親が育てた体を粗略にして、御先祖代々の家を潰す奴は不孝者ぢやなツか。不孝者、武男、卿は不孝者、大不孝者ぢやど」
「しかし人情一」
「まだ義理人情を云ふツか。卿は親よか妻が大事なツか。たわけ奴が。何云ふと、妻、妻、妻ばかい云ふ、親を如何すツか。何をしても浪ばツかい云ふ。不孝者奴が。勘当すツど」
武男は唇をかみて熱涙を絞りつつ阿母さん、其れは余りです」
「何が余だ」
「私は決して其様な粗略な心は決して持つちや居ないです。阿母さんに其の心が届きませんか」
「其れならわたしが云ふう言を何故聴かぬ……エ……何故浪を離縁せんツか」
「併し其れは一」
「併しもねもンじゃ。さ、武男、妻が大事か、親が大事か。エ? 家が大事? 浪が一?一工・馬鹿奴」
はっしと火鉢をうちたる勢に、煙管の羅宇はぼつきと折れ、雁首は空を飛んではたと襖を破りぬ……
このとき、武男に帰艦電報がとどき、「阿母さん、兎に角私も」と電報を示しつつ「此の通り出発が急になって、明日は遅くとも帰艦せにやならんです、一と月位すると帰って来ます。其れ迄は何卒誰人にも今夜の話は黙って居て下さい。如何な事があっても、私が帰って来る迄は、待って居て下さい」といい、翌日武男は母の約束をとりつけ、主治医を訪ねて懇ろに浪子のことを託し、午後の汽車にて逗子に向かった。ここで、浪子の、「早く帰って頂戴な」、うなずく武男に、さらに「良人、早く帰って頂戴な」、すぐ帰ってくるといいつつ去っていく武男に、三たび「早く帰って頂戴な」、というかの有名な別れのシーンとなる。 
(2) 軍人・政商描写
蘆花は、先の不如帰が百版の序文で、この小説について「単純な説話で置いたらまだしも、無理に場面を賑はすため、かき集めた千々岩山木の安っぽい芝居がかりやら」などといっているが、千々岩安彦、山木兵造が入ったことにより、ひろがりをもち、たんなる家庭小説にとどまらずに、社会小説的ひろがりをもつものとなった。そこにみられる軍人、政商描写をみよう。
a 軍人
新婚の後間もなく遠洋航海に出て、旧騨押し詰って帰国した武男は妻とともに正月三日浪子の実家を訪れた。浪子の父片岡中将との歓談、長旅の後のわが家のくつろぎ、母は健在、新妻は愛しく、今まさにこの世の楽しみを享受している武男であるが、「唯一の騎は、$に母の口より聞き、今来訪名刺の中に見たる、千々岩安彦の名」である。
……今日武男は千々岩につきて忌まはしき事を聞きぬ。旧猟某日の事とか、千々岩が勤むる参謀本部に千々岩に宛てて、一通のはがきを寄せたる者あり。折節千々岩は不在なりしを同僚の某何心なく見るに、高利貸の名高き何某の貸金督促状にして、加之其の金額要件は特に朱害してありしと云ふ。膏に其れのみならず。参謀本部の機密折々思ひがけなき方角に漏れて、投機商人の利を博することあり。猶其の上に、千々岩の姿をあるまじき相場の市に見たる者あり。兎に角種々嫌疑の雲は千々岩の上に覆ひかかりてあれば、此の上とても千々岩に心して、且つ自ら戒乱する様忠告せよと、参謀本部に長たる某将軍とは爾汝の間なる舅中将の話なりき。
武男と浪子の話題は母からでた千々岩に移る。
「千々岩?一千々岩?一彼奴実に困った奴だ。佼猜い奴た知ってが、まさか彼様な嫌疑を受けやうとは思はんかった、否近頃の軍人は一肌も軍人だか一実にひどい。
毫も昔の武士らしい風はありゃせん、皆金溜めにかかつてる。何、僕だつて軍人は必ず貧乏しなけりやならんと云ふうのじゃない。冗費を節して、恒の産を積むで、まさかの時節に内顧の患のない様にするのは、其れあ当然さ。ね工浪さん。併し身を以って国家の干城ともならうと云ふ者がさ、内職に高利を貸したり、憐れむべき兵の衣食を噛つたり、御用商人と結託して不義の財を貧つたりするのは実に用捨がならんじゃないか、其れに、実に不快なは、彼の賭博だね、僕の同僚などもこそこそ遣ってる奴があるが、実に不愉快で堪らん。今の奴等は上に撃って下から負ることばかり知つとる」
今其処に当の敵のあるらむ様に息巻荒く攻め立つる未無経験の海軍少尉を、身に浸みて聞き惚るる浪子は薄々しと誇りて、早く海軍大臣か乃至軍令部長にして海軍部内の風を一新したしと思へるなり。
「本当に其様でございませうねエ。あの、何だかよくは存じませんが、阿爺がね、大臣をして居ました頃も、色々な頼み事をして色々物を持って来ますの。阿爺は其様な事は大禁物ですから、出来る事は頼まれなくとも出来る、出来ない事は頼んでも出来ないと申して、刎ねつけても刎ねつけても矢張色々な名をつけて持ち込んで来ましたわ。で、阿爺が軍談に、此れでは誰でも役人になりたがる筈だつて笑って居ましたよ」
「其様だろう、陸軍も海軍も同じ事だ。金の世の中だね、浪さん……」
ところで、この千々岩の嫌疑とはというと.「彼は昨年来其の位置の便宜を利用して、山木が為めに参謀となり諜者となりて、其の利益の分配に与れるのみならず、大胆にも官金を融通して蠣殻町に万金を撰まむとせしに、忽ち五千円余の損亡を来しつ。山木を強請り、其の貯の底をはたきて二千円を得たれ共、猶三千の不足あり」(90ページ)、というものである。そして、この千々岩はこの3千円を調達するために、武男の印鑑を偽造してそれをもつて連帯保証人として、高利貸より3千円を借入してひとまず官金使い込みを取り繕った。しかも高利貸より武男のところに滞っている利子の催促がすでに行っているとも露知らずにこの3千円を武男から借りようとするのである。
ここには、賄賂の横行などの腐敗した軍人社会の状況が批判的に描写されている、といえる。
b 政商
この千々岩は、新婚してまもない武男・浪子夫妻が逗留している伊香保に二人を訪ね、言い寄ったことのある浪子に嫌がらせを言い、高崎町から乗車して帰る途中王子駅で乗り込んできて一緒になった山木兵造に声をかけられ、山木の別邸、それは某の待合かと思われるような家作りであるが、に立ち寄った。
その「音締の響しめやかに嫡弾めきたる島田の障子に映るか、左もなくば紅の毛饒敷かれて花期など落ち散るに相応しかる可き二階の一室に、わざと電燈の野暮を避けて例の和洋行燈を据ゑ、取り散らしたる盃盤の問に」千々岩と左の目下にしたたかなる赤黒子のある山木があぐらをかいて話をしている。
遠けしにや、側に侍る女もあらず、赤黒子の前には小形の手帳を広げたり、鉛筆を添へて。番地官名など細かに肩書して姓名数多記せる上に、鉛筆にてさまざまの符号つけたり。丸。四角。三角。イの字。ハの字。五六七などの数字。或は羅馬数字。点かけたるもあり。一度消してイキルとしたるものあり。
「隔れぢや千々岩さん。其の方は其ときめて置いて、いよいよ定まったらすぐ知らせて呉れたまヘー大丈夫間違ひはあるまいね」
「大丈夫さ、最早大臣の手許まで出て居るのだから。併し何しろ競争者が終始運動しとるのだから例のも思ひ切って撒かんといけない。此れだがね、此奴中々喰へない奴だ。しツかり轡を脚ませんと宣けないぜ」と千々岩は手帳の上の一つの名を指しぬ。
「此れあ如何だね?」
「其奴は話せない奴だ。僕はよく識らないが、ひどく頑固な奴ださうだ。先正面から平身低頭で往くのだな。悪くすると失策るよ」
「いや陸軍にも、分つた人もあるが、実に話の出来ン男も居るね。去年だつた、師団に服を納めるンで、例の筆法でまあ大概は無事に通ったのはよかったが。あら何と云ったツけ、赤髭の大佐だつたかな、其奴が何の彼の難癖つけて困るから、番頭をやって例の菓子箱を出すと、馬鹿奴、賄賂なんぞ取るものか、軍人の体面に関するなんて威張って、到頭のつまりあ菓子箱を蹴飛ばしたと思ひなさい。例の上層が干菓子で、下が銀貨だから、たまらないさ。紅葉が散る雪が降る、座敷中一の雨だろう。すると其奴めいよいよ腹立てやがって、汚らわしいの、やれ告発するのなんの吐かしやがるさ。漸と結局をつけはっけたが、大骨折らしアがったね。此様な先生が居るから馬鹿々々しく事が面倒になる。いや面倒と云ふと武男さんなぞが矢張此の流で、実に話せないに困る。先日も一」
「併し武男なんざ親父が何万と云ふ身代を持へて置いたのだから、頑固だツて正直だツて好きな真似していけるのだがね。吾輩の如きは腕一本一」
「いや悉皆忘れて居た」と赤黒子は一寸千々岩の顔を見て、懐中より十円紙幣五枚取り出し、「何れ何は後からとして。先車代に」
「遠慮なく頂戴します」手早くかき集めて内衣兜にしまひながら「併し山木さん」
「?」
「なにさ、播かぬ種は生えんからな!」
山木は苦笑しつ。千々岩が肩ぽんと敲いて「喰ヘン男だ、惜しい事だな、せめて経理局長位に!」
「山木さん、清正の短刀は小面の三尺三寸よりか切れるぜ」
「甘く言ったな一併し君、蠣殻町だけは用心し玉へ、素人じゃ如何してもしくじるぜ」
「何有.端金だからね一」
「ぢや何れ近日、様子が分り次第一なに、車は出てから乗った方が大丈夫です」
この陸軍御用商人の木山兵造という人物の人となりはつぎのようである。
山木兵造という人物は、出所は定かではないが、今は世に知られた紳商とやらの一人。出世の初めは故人となった武男の父に少なからず世話になったということから、いまも川島家に出入りしている。それも川島家が新華族のなかで財産家であるからだという人もいる。本宅は芝桜川町に構え、別荘を橋場の渡しのほとりに持っている。昔は高利貸もしていたが、いまはもっぱら陸軍その他の官省の請負を業としている。嫡男はアメリカのボストンの商業学校に入っており、娘のお豊はつい先頃まで華族女学校に通っていた。妻はいつどのようにして妻となったかわからないが、京都の人であるという。たいへん醜いこの妻をあの山木はよく辛抱しているなという人もいるが、実のところ意気八郷などと形容詞のつくべき女が所々に家居して、かわるがわる行く山木を待ちうけるということを妻も気付いているという。
ここには、軍官と結びつき富をつくりあげる政商富豪の姿を批判的に記している。 
5 『不如帰』における時代描写

 

(1) 著者の認識
蘆花には、「不如帰(印刷中)」なる広告文がある。1899(明治32)年12月13日付である。そこで蘆花は、この小説が昨年末より今春にかけて国民新聞に掲載されるや、まだ会ったことのない人びとから同情を表せる書簡をうけとったこと、それは机の上に積み上げるほどであると記した後、それほどであるのは、「惟ふに文辞拙しと難も一片人の胸底に徹する所あるに由らずんばあらざる物し。 明治の齢は三十を越えたれ共、社会の繊維には恐る可き旧習の猶勢を逞ふする者少なからず。著者は窃かに其尤も手近き一を捉へんと試みたり、自ら太鼓を叩き今回を吹くを欲せずと錐も堅く不健全の文字を絶ちて清浄なる家庭にも入り得可きは自ら信ず所なり。 今や大改訂を加へ画伯黒田清輝氏が意匠を凝らされし口絵を挿み新年と共に発売せんとす幸に江湖の一読を煩はす」と記しているが、旧習の一つを批判的にとらえたとしている。
蘆花は、1904(明治37)年1月21日の日付をもつて、本書の英訳本を刊行したいというTurnerという人物に英文の手紙を書いている。それは、この「不如帰」が翻訳出版されることは望ましく思わないこと、それは日本にもっとよい作品があるのにこのようなよくないものを選んだ、とした上で、しかし、もう大分進行しているとのことなので、このあとこれを先駆によいものがでることを期待して同意する、と記している。そして、それに続いて、
You ask me how 1 came to write the story、 Well、 it is based on a fact. 1 was rnuch moved and so the story grew、 lt is true divorce law securing in sorne degree the right of women and tending to uphold the hoty tie of marriage has been promulgated since then、 and the ideas of humanity、 truth and justice are day by day taking their roots in the place of the worn−out Confucian ethics、 Yet 1 regret to say that the old devil does not die so easiiy、 and there are much shedding of tears in this age of transition. ln truth、 it is the age of emancipation、 We are struggling to throw off the thousand fetters and bondages、 which however cost much tears and many a victim fatls in its course. The present story is the superficial picture of one、 You ask me whether 1 have written with the purpose to reform、 Well、 yes and no、 Perhaps I wished to be more novelist than social reformer、 But then、 you know、 to expose an evil is sometimes to depose、
すなわち、「勿論其後離婚法も発布され、婦人の権理も幾分か確保され、結婚の聖締もやN保持さる!・・事になり、老朽した儒教倫理に代って人道、真理、及び正義の念が日は一日と根ざして来つ!・・あるは事実で」あるが、「然し残念な事には、古い悪魔は容易に死なず、斯過渡時代に流る工涙は少なくない」。このように「実に今は解脱の時代で」あり、「我々は千百年の姪楷束縛を刎ねのけ’ようともがいて居る。従って諮るる涙は多く、途中に発るる犠牲も多い」、「此小説は皮相な描写の一つなのです」、といっている。すなわち、古い家制度のもとに陣吟ずる女性を描いたものとしている。
さらに、先程引用したように、「第百版不如帰の巻首に」において、「単純な説話で置いたらまだしも、無理に場面を賑はすため、かき集めた千々岩山木の安っぽい芝居がかりやら、小川某女の蛇足やら、あらを云ったら限りが無い」と記していた。
このように、旧習批判、あるいはそれを軸とした家庭小説と認識しているが、しかし百版前書に記したことでいえぽ、この千々岩、山木をとりまぜたからこそこの小説はたんなる家庭小説にとどまらずに社会小説のとしての性格をもち、ひろがりをもつにいたっているのである。
(2) 時代の批判的描写
蘆花は、日露戦争について、「日清戦争の日本は挙国一致であった。十年過ぎた日露戦争の日本は、もう十年前の日本では無かった」、として、日露開戦に非戦論が展開され、非戦論者の一人で、蘆花の処女小説を推奨してくれて以来好意を寄せていた「佐川」から『平民新聞』の非三号への寄稿依頼に対して、「非戦論号に書けとの来論は、甚だ迷惑を感じ候。実を云へば小生は絶対的非戦論者にあらず、吾儘な子供は其手を引握って一睨の要あるを認むるものに候。 何ものか両面なからむ。ナイルの氾濫は挨及の豊饒也。日露戦争は日露和親の唯一手段にあらざらんや。 他の点に於て趣味相近しと信ずる諸兄と此点に隔て協力する能はざるは、小生の遺憾とする所に候」と記している。
日清戦争については、「日本は朝鮮をいざぎょく清国にくれて一切手を引くか、でなければ清国と血みどろに闘ふても朝鮮は自由にせねばならぬ立場に立つた。負けるだけ負け、我慢し得る限り我慢した日本の闘志がちりぢり燃え立つた」、「いよいよ開戦となって、社の中心の兄の活動は眼ざましくなった。彼は渾身の力を打込む機会を得て、蕎地に戦争の渦に新聞を提げて飛び込んだ。弱虫の熊次にも流るる日本人の、士の血が熱して、異常の緊張を彼は覚えた」などと、その開戦時から熱気を込めて記し、やがて、「明治二十八年が来た。 日清戦争の第二年、陸にはすでに旅順を落し、海には北洋水師も威海衛に屏息、し、大勢は己に決して居る。朝鮮は日本の保護の下に、支那をはなれて独立を宣した。去年七月英国と、十一月米国との改正条約が公布されて、日本もやっと世界的に一人前になる。国運隆々とのぼる朝日の門々した新年に、大元帥陛下は広島の大本営に御出になるので云はゴ御留守の東京も、千丁万戸松竹立てN旭旗勇ましく、児女がつく羽子さへ『勝ち、勝ち』と今年は殊に勇ましい音がする」、などと書き、手放しで喜んでいる。この『富士』第1巻の初版は1925(大正14)年5月10日であり、過去を客観化してみることのできる時点での記述である。
蘆花は、終世、明治天皇を畏敬し、乃木礼典、西郷隆盛を敬愛してやまなかった。このような蘆花であるが、しかし、同時に当時の知識人として、時代批判を内包する作品を書き、また行動している。この点については、神崎清、野田宇太郎などによって明らかにされているが、以下、改めてみていきたい。
蘆花は、日露戦争後の1906(明治39)年4月トルストイ訪問の旅にでる。
その記録「巡礼紀行」はトルストイとの出合の場面など生き生きとして読者をして心躍らせるものであるが、帰国後の12月に「勝利の悲哀」なる文章を発表している。これは、和花がアレキサンドル三世博物館を訪れ、そこで、有名な戦争画家エ”レスチャギソが描いた絵画からのインスピレーションにもとつくものであるという。
ロシアに進攻しモスクワ郊外の雀が丘に立つ得意満面のナポレオンの姿を描いたものであるが、そこに勝利の悲哀をみてとった四花が、この露仏戦争から一転して、日露戦争の勝利と陸軍参謀総長児玉源太郎へと思いを馳せ、つづいて、
戦後の経営、世界的日本の発展、攣れ耳やかましく唱道せらるる語也。戦後の日本は成程大いに発展しつつあるものの如し。陸軍は師団を増設せんとし、海軍は続々大腿を造る。南満の経営は大仕掛に始まらんとす。彼我の使臣は多く格を大使に上しぬ。曾て治外法権に憤涙を抑へかねし日本は、前後三年の征戦を経て、其食り求めし一等国の伍伴に入れり。
ああ日本よ、爾は成人せり。果して成長せる乎。否々爾は人の炉辞議辞に耳傾くる前に、先づ退いて静かに神の前に「己」を観ざる可からず。
爾の独立若し十何師団の陸軍と幾十万噸の海軍と云々の同盟とによって維持せらるるとせば、爾の独立は実に懸れなる独立也。爾の富若し何千万円の生糸と茶と、目口の石炭と、台湾の樟脳砂糖にあらば、爾の富は貧しきもの也。爾が所謂戦勝の結果は爾を如何なる位置に置きしかを覚悟せりや。一方に於ては、白哲人の嫉妬、猜疑、少なくとも不安は、黒雲の如く爾を目がけて湧き起り、また起らんとしつつあるにあらずや。一方に減ては、他の有色人種は爾が凱旋二二の声に恰も電気をかけられたるが如く勃々と頭を拾げ起し来れるにあらずや。此両面に立って、爾は如何にして何をなさんと欲する乎。一歩を誤まらば、爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん。押れ豊州が発展門々と足を空に心を浮かしてから騒ぎに盲動すべき時ならんや。
これは、日露戦争の勝利にうかれ、軍備拡張と植民地支配を内容とする日露戦後経営に対する警告の書である。
神崎清は、小説『寄生木』(1909年)におけるエリート軍人の出世コースを踏みはずした主人公篠原良平の描写に、戦争ぎらいの盧花が、淡々たる筆で軍人社会を希望なき世界として描いたところに、作者の間接的な軍国主義批判があったとしている。
1910(明治43)年末に大逆事件がおきた。社会主義者・無政府主義者に対する天皇暗殺計画の名目での弾圧事件である。幸徳秋水ら数百名を検挙、明治天皇暗殺計画を名目で26名を大逆罪として起訴、1911(明治44)年1月18日24名を死刑と判決、同日夜12名を天皇の慈悲として無期懲役に減刑、24日12名の死刑執行。社会主義運動は窒息状態となり、F冬の時代」となった。この事件は日本の文化人に多くの閉塞的影響を与えた。閉塞的な状況にあって門下は、天皇への「天皇陛下に願ひ奉る」(1911年1月25日執筆)なる助命嘆願書を認め、また、第一高等学校で「謀叛論」なる論題で講演を行った。
「謀叛論(草稿)」(1911年1月28日前後執筆)はこの第一高等学校での講演の草稿といわれるものである。それは明治維新の志士への思いから始まる。当時逆臣とされて処刑された志士たちを今日の国家形成の功労者であるとして時代の判断するところ、幸徳秋水たちは志士である。自由平等の新天地を夢み身を献げて人類の為に尽さんとする志士である。その行為はたとえ狂に近いとしてもその志は憐れむべきではな:いか。「彼等は、もとは社会主義者であった。富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した、社会主義が何が恐い? 世界の何処にでもある。然るに狭量にして神経質な××[政府]は、ひどく気にさへ出して、殊に社会主義者が日露戦争に非戦論を唱ふると俄に圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となって、官権と社会主義者は到頭犬猿の間となって了つた。諸君、最上の帽子は頭にのってみることを止るる様な帽子である。最上の政府は存在を忘れらるS様な政府である。帽子は上に居る積りであまり頭を押し付けてはいけぬ。我等の政府は重いか軽いか分らぬが、××[幸徳]君等の頭にはひどく重く感ぜられて、到頭彼等は××××××[無政府主義者]になって了ふた。×××××[無政府主義]が何が恐い?」。「天皇陛下は剛健質実、実に日本男児の標本たる御方である」が、とりまきが悪い。「若し当局者が無闇に堰かなかったならば、数年前の日比谷焼討事件はなかったであろらう。若し政府が神経質で依枯地になって社会主義者を堰かなかったならば、今度の事件も無かったであろう」。今度の事こそ真忠臣が禍を転じて福となすべき千金の機会である。「皇室を民の心腹に打込むのに、斯様な機会はまたと得られぬ。然るに彼等閣臣の輩は事前に子堕を萌すに由なからしむる程の遠見と憂国の誠もなく、事後に局面を急転せしむる機智親切もな」い。政府だけでない、議会もそうだ。「諸君××[幸徳]子等は時の政府に××[謀叛]人と見倣されて殺された。が、××[謀叛]を恐れてはならぬ。××[謀叛]人を恐れてはならぬ。自ら××[謀叛]人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に××[謀叛]である」、「我等は生きねぽならぬ。生きる為に××[謀叛]しなければならぬ」。
この演説は、会場をうめた一高生に感銘を与えた。
蘆花は1919(大正8)年1月、エルサレム巡礼と世界一周の旅に発つ。この旅行中、薩花はエルサレムの町からパリの世界講和会議の出席した日本の西園寺公望、アメリカのウィルソン、イギリスのロイド・ジョージ、ロンドンタイムスあてに「所望」と題する文章をよせ、平和会議の具体的条件を提案した、という。さらに、1924(大正13)年、前年暮の虎之門事件(摂政宮一後の昭和天皇一狙撃事件の犯人難波大介助命のための「難波大介の処分に就いて」なる摂政宮への公開状を記した、という。前者は、平和を願う蘆花の、当時の日本人としては抜群の行動であり、また後者は大逆事件に際しての謀叛是認論の延長線上のものである。
これら後のものとの流れにおいてみるとき、この『不如帰』にはその後に明確になる軍事・政治批判の始点として位置づけることができるといえよう。『不如帰』はたんなる家庭小説ではなく、家族制度の問題のみではなく、この軍部・政商批判を含む社会小説としての側面をより強調してよいのではないかと思われる。
この小説は、尾崎紅葉の『金色夜叉』とともに1898(明治31)年からの新聞小説であり、しかもそれはともに、近代日本の二大大衆小説となった。それが織り成す男女間の悲恋、しかもそれが成就しない、ないしひき裂かれるという大衆のつよく関心をもつことがらを、家制度の問題という個と家族の葛藤として描く問題性、のゆえに大衆性をもちえたといえる。片岡良一は、この徳富芦花の『不如帰』と尾崎紅葉の『金色夜叉』が近代日本における二大大衆小説としての大衆性をもつえていることの理由として、大衆性は作品における問題性と「不調和」の美[恋が実らない]という「二側面にあると、としている。そして、この問題性であるが、先に私は、「尾崎紅葉の『金色夜叉』一その時代描写」なる論稿において、この書物は、従来いわれているように、インテリゲンチャと財界の葛藤を描いたのではなく、文人=知識人の「インテリ」=高等教育==官僚制度と財閥の両者に対する違和感を表明したものである、とした。折から確立した資本主義・官僚制度=高等教育制度に対する文士的批判であり、まさにそのようなかたちでの時代描写=時代批判である、とした。この『不如帰』もまた、時代描写の書である。それは、家族制度だけでなく、軍部・政商に対する椰楡・批判である。ともに、ほかならず日清戦争を経た後の明治30年代初めの作品であることに注目したい。日清戦争を経過して、近代日本=日本帝国は成立した。この二書はともに折から確立し、そびえ立つ日本帝国国家についての描写・そして批判となっているところに、時代性をみることができる。この二つの小説を明治という時代を認識するための歴史研究の一つの材料とするという所以である。 
 
 
「金色夜叉」尾崎紅葉

 

 
前編 
第一章
未(ま)だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直(ますぐ)に長く東より西に横(よこた)はれる大道(だいどう)は掃きたるやうに物の影を留(とど)めず、いと寂(さびし)くも往来(ゆきき)の絶えたるに、例ならず繁(しげ)き車輪(くるま)の輾(きしり)は、或(あるひ)は忙(せはし)かりし、或(あるひ)は飲過ぎし年賀の帰来(かへり)なるべく、疎(まばら)に寄する獅子太鼓(ししだいこ)の遠響(とほひびき)は、はや今日に尽きぬる三箇日(さんがにち)を惜むが如く、その哀切(あはれさ)に小(ちひさ)き膓(はらわた)は断(たた)れぬべし。
元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌(しる)されたる日記を涜(けが)して、この黄昏(たそがれ)より凩(こがらし)は戦出(そよぎい)でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥(なだ)むる者無きより、憤(いかり)をも増したるやうに飾竹(かざりだけ)を吹靡(ふきなび)けつつ、乾(から)びたる葉を粗(はした)なげに鳴して、吼(ほ)えては走行(はしりゆ)き、狂ひては引返し、揉(も)みに揉んで独(ひと)り散々に騒げり。微曇(ほのぐも)りし空はこれが為に眠(ねむり)を覚(さま)されたる気色(けしき)にて、銀梨子地(ぎんなしぢ)の如く無数の星を顕(あらは)して、鋭く沍(さ)えたる光は寒気(かんき)を発(はな)つかと想(おも)はしむるまでに、その薄明(うすあかり)に曝(さら)さるる夜の街(ちまた)は殆(ほとん)ど氷らんとすなり。
人この裏(うち)に立ちて寥々冥々(りようりようめいめい)たる四望の間に、争(いかで)か那(な)の世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重(きゆうちよう)の天、八際(はつさい)の地、始めて混沌(こんとん)の境(さかひ)を出(い)でたりといへども、万物未(いま)だ尽(ことごと)く化生(かせい)せず、風は試(こころみ)に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫(ただみだり)にひろく横(よこた)はれるに過ぎざる哉(かな)。日の中(うち)は宛然(さながら)沸くが如く楽み、謳(うた)ひ、酔(ゑ)ひ、戯(たはむ)れ、歓(よろこ)び、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は儚(はかな)くも夏果てし孑孑(ぼうふり)の形を歛(をさ)めて、今将(いまはた)何処(いづく)に如何(いか)にして在るかを疑はざらんとするも難(かた)からずや。多時(しばらく)静なりし後(のち)、遙(はるか)に拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃忽(たちま)ち一点の燈火(ともしび)は見え初(そ)めしが、揺々(ゆらゆら)と町の尽頭(はづれ)を横截(よこぎ)りて失(う)せぬ。再び寒き風は寂(さびし)き星月夜を擅(ほしいまま)に吹くのみなりけり。唯有(とあ)る小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間(ひあはひ)の下水口より噴出(ふきい)づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温(ぬくもり)の四方に溢(あふ)るるとともに、垢臭(あかくさ)き悪気の盛(さかん)に迸(ほとばし)るに遭(あ)へる綱引の車あり。勢ひで角(かど)より曲り来にければ、避くべき遑無(いとまな)くてその中を駈抜(かけぬ)けたり。
「うむ、臭い」
車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
車夫のかく答へし後は語(ことば)絶えて、車は驀直(ましぐら)に走れり、紳士は二重外套(にじゆうがいとう)の袖(そで)を犇(ひし)と掻合(かきあは)せて、獺(かはうそ)の衿皮(えりかは)の内に耳より深く面(おもて)を埋(うづ)めたり。灰色の毛皮の敷物の端(はし)を車の後に垂れて、横縞(よこじま)の華麗(はなやか)なる浮波織(ふはおり)の蔽膝(ひざかけ)して、提灯(ちようちん)の徽章(しるし)はTの花文字を二個(ふたつ)組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭(はづれ)を北に折れ、稍(やや)広き街(とほり)に出(い)でしを、僅(わづか)に走りて又西に入(い)り、その南側の半程(なかほど)に箕輪(みのわ)と記(しる)したる軒燈(のきラムプ)を掲げて、そぎ竹を飾れる門構(もんがまへ)の内に挽入(ひきい)れたり。玄関の障子に燈影(ひかげ)の映(さ)しながら、格子(こうし)は鎖固(さしかた)めたるを、車夫は打叩(うちたた)きて、
「頼む、頼む」
奥の方(かた)なる響動(どよみ)の劇(はげし)きに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて訪(おとな)ひつつ、格子戸を連打(つづけうち)にすれば、やがて急足(いそぎあし)の音立てて人は出(い)で来(き)ぬ。
円髷(まるわげ)に結ひたる四十ばかりの小(ちひさ)く痩(や)せて色白き女の、茶微塵(ちやみじん)の糸織の小袖(こそで)に黒の奉書紬(ほうしよつむぎ)の紋付の羽織着たるは、この家の内儀(ないぎ)なるべし。彼の忙(せは)しげに格子を啓(あく)るを待ちて、紳士は優然と内に入(い)らんとせしが、土間の一面に充満(みちみち)たる履物(はきもの)の杖(つゑ)を立つべき地さへあらざるに遅(ためら)へるを、彼は虚(すか)さず勤篤(まめやか)に下立(おりた)ちて、この敬ふべき賓(まらうど)の為に辛(から)くも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄(こまげた)のみは独(ひと)り障子の内に取入れられたり。 
(一)の二
箕輪(みのわ)の奥は十畳の客間と八畳の中の間(ま)とを打抜きて、広間の十個処(じつかしよ)に真鍮(しんちゆう)の燭台(しよくだい)を据ゑ、五十目掛(めかけ)の蝋燭(ろうそく)は沖の漁火(いさりび)の如く燃えたるに、間毎(まごと)の天井に白銅鍍(ニッケルめつき)の空気ラムプを点(とも)したれば、四辺(あたり)は真昼より明(あきらか)に、人顔も眩(まばゆ)きまでに耀(かがや)き遍(わた)れり。三十人に余んぬる若き男女(なんによ)は二分(ふたわかれ)に輪作りて、今を盛(さかり)と歌留多遊(かるたあそび)を為(す)るなりけり。蝋燭の焔(ほのほ)と炭火の熱と多人数(たにんず)の熱蒸(いきれ)と混じたる一種の温気(うんき)は殆(ほとん)ど凝りて動かざる一間の内を、莨(たばこ)の煙(けふり)と燈火(ともしび)の油煙とは更(たがひ)に縺(もつ)れて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々の面(おもて)は皆赤うなりて、白粉(おしろい)の薄剥(うすは)げたるあり、髪の解(ほつ)れたるあり、衣(きぬ)の乱次(しどな)く着頽(きくづ)れたるあり。女は粧(よそほ)ひ飾りたれば、取乱したるが特(こと)に著るく見ゆるなり。男はシャツの腋(わき)の裂けたるも知らで胴衣(ちよつき)ばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば四(よつ)まで紙にて結(ゆ)ひたるもあり。さしも息苦き温気(うんき)も、咽(むせ)ばさるる煙(けふり)の渦も、皆狂して知らざる如く、寧(むし)ろ喜びて罵(ののし)り喚(わめ)く声、笑頽(わらひくづ)るる声、捩合(ねぢあ)ひ、踏破(ふみしだ)く犇(ひしめ)き、一斉に揚ぐる響動(どよみ)など、絶間無き騒動の中(うち)に狼藉(ろうぜき)として戯(たはむ)れ遊ぶ為体(ていたらく)は三綱五常(さんこうごじよう)も糸瓜(へちま)の皮と地に塗(まび)れて、唯(ただ)これ修羅道(しゆらどう)を打覆(ぶつくりかへ)したるばかりなり。
海上風波の難に遭(あ)へる時、若干(そくばく)の油を取りて航路に澆(そそ)げば、浪(なみ)は奇(くし)くも忽(たちま)ち鎮(しづま)りて、船は九死を出(い)づべしとよ。今この如何(いかに)とも為(す)べからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王(によおう)あり。猛(たけ)びに猛ぶ男たちの心もその人の前には和(やはら)ぎて、終(つひ)に崇拝せざるはあらず。女たちは皆猜(そね)みつつも畏(おそれ)を懐(いだ)けり。中の間なる団欒(まどゐ)の柱側(はしらわき)に座を占めて、重(おも)げに戴(いただ)ける夜会結(やかいむすび)に淡紫(うすむらさき)のリボン飾(かざり)して、小豆鼠(あづきねずみ)の縮緬(ちりめん)の羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目をみはりて、躬(みづから)は淑(しとや)かに引繕(ひきつくろ)へる娘あり。粧飾(つくり)より相貌(かほだち)まで水際立(みづぎはた)ちて、凡(ただ)ならず媚(こび)を含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名は普(あまね)く知られぬ。娘も数多(あまた)居たり。醜(みにく)きは、子守の借着したるか、茶番の姫君の戸惑(とまどひ)せるかと覚(おぼし)きもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。服装(みなり)は宮より数等(すとう)立派なるは数多(あまた)あり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の愛娘(まなむすめ)とて、最も不器量(ふきりよう)を極(きは)めて遺憾(いかん)なしと見えたるが、最も綺羅(きら)を飾りて、その起肩(いかりがた)に紋御召(もんおめし)の三枚襲(さんまいがさね)を被(かつ)ぎて、帯は紫根(しこん)の七糸(しちん)に百合(ゆり)の折枝(をりえだ)を縒金(よりきん)の盛上(もりあげ)にしたる、人々これが為に目も眩(く)れ、心も消えて眉(まゆ)を皺(しわ)めぬ。この外種々(さまざま)色々の絢爛(きらびやか)なる中に立交(たちまじ)らひては、宮の装(よそほひ)は纔(わづか)に暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何(いか)なる美(うつくし)き染色(そめいろ)をも奪ひて、彼の整へる面(おもて)は如何なる麗(うるはし)き織物よりも文章(あや)ありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きを蔽(おほ)ふ能(あた)はざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
袋棚(ふくろだな)と障子との片隅(かたすみ)に手炉(てあぶり)を囲みて、蜜柑(みかん)を剥(む)きつつ語(かたら)ふ男の一個(ひとり)は、彼の横顔を恍惚(ほれぼれ)と遙(はるか)に見入りたりしが、遂(つひ)に思堪(おもひた)へざらんやうに呻(うめ)き出(いだ)せり。
「好(い)い、好い、全く好い! 馬士(まご)にも衣裳(いしよう)と謂(い)ふけれど、美(うつくし)いのは衣裳には及ばんね。物それ自(みづか)らが美いのだもの、着物などはどうでも可(い)い、実は何も着てをらんでも可い」
「裸体なら猶(なほ)結構だ!」
この強き合槌(あひづち)撃つは、美術学校の学生なり。
綱曳(つなひき)にて駈着(かけつ)けし紳士は姑(しばら)く休息の後内儀に導かれて入来(いりきた)りつ。その後(うしろ)には、今まで居間に潜みたりし主(あるじ)の箕輪亮輔(みのわりようすけ)も附添ひたり。席上は入乱れて、ここを先途(せんど)と激(はげし)き勝負の最中なれば、彼等の来(きた)れるに心着きしは稀(まれ)なりけれど、片隅に物語れる二人は逸早(いちはや)く目を側(そば)めて紳士の風采(ふうさい)を視(み)たり。
広間の燈影(ひかげ)は入口に立てる三人(みたり)の姿を鮮(あざや)かに照せり。色白の小(ちひさ)き内儀の口は疳(かん)の為に引歪(ひきゆが)みて、その夫の額際(ひたひぎは)より赭禿(あかは)げたる頭顱(つむり)は滑(なめら)かに光れり。妻は尋常(ひとなみ)より小きに、夫は勝(すぐ)れたる大兵(だいひよう)肥満にて、彼の常に心遣(こころづかひ)ありげの面色(おももち)なるに引替へて、生きながら布袋(ほてい)を見る如き福相したり。
紳士は年歯(としのころ)二十六七なるべく、長高(たけたか)く、好き程に肥えて、色は玉のやうなるに頬(ほほ)の辺(あたり)には薄紅(うすくれなゐ)を帯びて、額厚く、口大きく、腮(あぎと)は左右に蔓(はびこ)りて、面積の広き顔は稍(やや)正方形を成(な)せり。緩(ゆる)く波打てる髪を左の小鬢(こびん)より一文字に撫付(なでつ)けて、少しは油を塗りたり。濃(こ)からぬ口髭(くちひげ)を生(はや)して、小(ちひさ)からぬ鼻に金縁(きんぶち)の目鏡(めがね)を挾(はさ)み、五紋(いつつもん)の黒塩瀬(くろしほぜ)の羽織に華紋織(かもんおり)の小袖(こそで)を裾長(すそなが)に着做(きな)したるが、六寸の七糸帯(しちんおび)に金鏈子(きんぐさり)を垂れつつ、大様(おほやう)に面(おもて)を挙げて座中をみまはしたる容(かたち)は、実(げ)に光を発(はな)つらんやうに四辺(あたり)を払ひて見えぬ。この団欒(まどゐ)の中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々(びび)しく装(よそほ)ひたるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
例の二人の一個(ひとり)はさも憎さげに呟(つぶや)けり。
「可厭(いや)な奴!」
唾(つば)吐くやうに言ひて学生はわざと面(おもて)を背(そむ)けつ。
「お俊(しゆん)や、一寸(ちよいと)」と内儀は群集(くんじゆ)の中よりその娘を手招きぬ。
お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、慌忙(あわただし)く起ちて来(きた)れるが、顔好くはあらねど愛嬌(あいきよう)深く、いと善く父に肖(に)たり。高島田に結(ゆ)ひて、肉色縮緬(にくいろちりめん)の羽織に撮(つま)みたるほどの肩揚したり。顔を赧(あか)めつつ紳士の前に跪(ひざまづ)きて、慇懃(いんぎん)に頭(かしら)を低(さぐ)れば、彼は纔(わづか)に小腰を屈(かが)めしのみ。
「どうぞ此方(こちら)へ」
娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうに頷(うなづ)けり。母は歪(ゆが)める口を怪しげに動して、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
お俊は再び頭(かしら)を低(さ)げぬ。紳士は笑(ゑみ)を含みて目礼せり。
「さあ、まあ、いらつしやいまし」
主(あるじ)の勧むる傍(そば)より、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内(あない)して、客間の床柱の前なる火鉢(ひばち)在る方(かた)に伴(つ)れぬ。妻は其処(そこ)まで介添(かいぞへ)に附きたり。二人は家内(かない)の紳士を遇(あつか)ふことの極(きは)めて鄭重(ていちよう)なるを訝(いぶか)りて、彼の行くより坐るまで一挙一動も見脱(みのが)さざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、団欒(まどゐ)の間を過ぎたりしが、無名指(むめいし)に輝ける物の凡(ただ)ならず強き光は燈火(ともしび)に照添(てりそ)ひて、殆(ほとん)ど正(ただし)く見る能(あた)はざるまでに眼(まなこ)を射られたるに呆(あき)れ惑へり。天上の最も明(あきらか)なる星は我手(わがて)に在りと言はまほしげに、紳士は彼等の未(いま)だ曾(かつ)て見ざりし大(おほき)さの金剛石(ダイアモンド)を飾れる黄金(きん)の指環を穿(は)めたるなり。
お俊は骨牌(かるた)の席に復(かへ)るとひとしく、密(ひそか)に隣の娘の膝(ひざ)を衝(つ)きて口早にささやきぬ。彼は忙々(いそがはし)く顔を擡(もた)げて紳士の方(かた)を見たりしが、その人よりはその指に耀(かがや)く物の異常なるに駭(おどろ)かされたる体(てい)にて、
「まあ、あの指環は! 一寸(ちよいと)、金剛石(ダイアモンド)?」
「さうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だつて」
お俊の説明を聞きて彼は漫(そぞろ)に身毛(みのけ)の弥立(よだ)つを覚えつつ、
「まあ! 好いのねえ」
ごまめの目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この幾歳(いくとせ)か念懸(ねんが)くれども未(いま)だ容易に許されざる娘の胸は、忽(たちま)ち或事を思ひ浮べて攻皷(せめつづみ)の如く轟(とどろ)けり。彼は惘然(ぼうぜん)として殆ど我を失へる間(ま)に、電光の如く隣より伸来(のびきた)れる猿臂(えんぴ)は鼻の前(さき)なる一枚の骨牌(かるた)を引攫(ひきさら)へば、
「あら、貴女(あなた)どうしたのよ」
お俊は苛立(いらだ)ちて彼の横膝(よこひざ)を続けさまに拊(はた)きぬ。
「可(よ)くつてよ、可くつてよ、以来(これから)もう可くつてよ」
彼は始めて空想の夢を覚(さま)して、及ばざる身(み)の分(ぶん)を諦(あきら)めたりけれども、一旦金剛石(ダイアモンド)の強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも目覚(めざまし)かりける手腕(てなみ)の程も見る見る漸(やうや)く四途乱(しどろ)になりて、彼は敢無(あへな)くもこの時よりお俊の為に頼み難(がたな)き味方となれり。
かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
「金剛石(ダイアモンド)!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石??」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石??」
「可感(すばらし)い金剛石」
「可恐(おそろし)い光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
瞬(またた)く間(ひま)に三十余人は相呼び相応じて紳士の富を謳(うた)へり。
彼は人々の更互(かたみがはり)におのれの方(かた)を眺(なが)むるを見て、その手に形好く葉巻(シガア)を持たせて、右手(めて)を袖口(そでぐち)に差入れ、少し懈(たゆ)げに床柱に靠(もた)れて、目鏡の下より下界を見遍(みわた)すらんやうに目配(めくばり)してゐたり。
かかる目印ある人の名は誰(たれ)しも問はであるべきにあらず、洩(も)れしはお俊の口よりなるべし。彼は富山唯継(とみやまただつぐ)とて、一代分限(ぶげん)ながら下谷(したや)区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の中(うち)にも富山重平(じゆうへい)の名は見出(みいだ)さるべし。
宮の名の男の方(かた)に持囃(もてはや)さるる如く、富山と知れたる彼の名は直(ただち)に女の口々に誦(ずん)ぜられぬ。あはれ一度(ひとたび)はこの紳士と組みて、世に愛(めで)たき宝石に咫尺(しせき)するの栄を得ばや、と彼等の心々(こころごころ)に冀(こひねが)はざるは希(まれ)なりき。人若(も)し彼に咫尺するの栄を得ば、啻(ただ)にその目の類無(たぐひな)く楽(たのしま)さるるのみならで、その鼻までも菫花(ヴァイオレット)の多くかぐべからざる異香(いきよう)に薫(くん)ぜらるるの幸(さいはひ)を受くべきなり。
男たちは自(おのづ)から荒(すさ)められて、女の挙(こぞ)りて金剛石(ダイアモンド)に心牽(こころひか)さるる気色(けしき)なるを、或(あるひ)は妬(ねた)く、或は浅ましく、多少の興を冷(さま)さざるはあらざりけり。独(ひと)り宮のみは騒げる体(てい)も無くて、その清(すずし)き眼色(まなざし)はさしもの金剛石と光を争はんやうに、用意深(たしなみふか)く、心様(こころざま)も幽(ゆかし)く振舞へるを、崇拝者は益々懽(よろこ)びて、我等の慕ひ参らする効(かひ)はあるよ、偏(ひとへ)にこの君を奉じて孤忠(こちゆう)を全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎き面(つら)の皮を引剥(ひきむ)かん、と手薬煉(てぐすね)引いて待ちかけたり。されば宮と富山との勢(いきほひ)はあたかも日月(じつげつ)を並懸(ならべか)けたるやうなり。宮は誰(たれ)と組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念(けねん)するところなりけるが、鬮(くじ)の結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人(みたり)とともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし人数(にんず)はこの時合併して一(いつ)の大(おほい)なる団欒(まどゐ)に成されたるなり。しかも富山と宮とは隣合(となりあひ)に坐りければ、夜と昼との一時(いちじ)に来にけんやうに皆狼狽(うろたへ)騒ぎて、忽(たちま)ちその隣に自ら社会党と称(とな)ふる一組を出(いだ)せり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。則(すなは)ち彼等は専(もつぱ)ら腕力を用ゐて或組の果報と安寧(あんねい)とを妨害せんと為るなり。又その前面(むかひ)には一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を狼藉組(ろうぜきぐみ)と称し、右翼を蹂躙隊(じゆうりんたい)と称するも、実は金剛石の鼻柱を挫(くじ)かんと大童(おほわらは)になれるに外(ほか)ならざるなり。果せる哉(かな)、件(くだん)の組はこの勝負に蓬(きたな)き大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白(はなしろ)み、美き人は顔を赧(あか)めて、座にも堪(た)ふべからざるばかりの面皮(めんぴ)を欠(かか)されたり。この一番にて紳士の姿は不知(いつか)見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中には掌(たなぞこ)の玉を失へる心地(ここち)したるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯に怖(おそれ)をなして、密(ひそか)に主(あるじ)の居間に逃帰れるなりけり。
鬘(かつら)を被(き)たるやうに梳(くしけづ)りたりし彼の髪は棕櫚箒(しゆろぼうき)の如く乱れて、環(かん)の隻(かたかた)もげたる羽織の紐(ひも)は、手長猿(てながざる)の月を捉(とら)へんとする状(かたち)して揺曳(ぶらぶら)と垂(さが)れり。主は見るよりさも慌(あわ)てたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
彼はやにはに煙管(きせる)を捨てて、忽(ゆるがせ)にすべからざらんやうに急遽(とつかは)と身を起せり。
「ああ、酷(ひど)い目に遭(あ)つた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても立切(たちき)れないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかり撲(ぶた)れた」
手の甲の血を吮(す)ひつつ富山は不快なる面色(おももち)して設(まうけ)の席に着きぬ。予(かね)て用意したれば、海老茶(えびちや)の紋縮緬(もんちりめん)のしとねの傍(かたはら)に七宝焼(しちほうやき)の小判形(こばんがた)の大手炉(おほてあぶり)を置きて、蒔絵(まきゑ)の吸物膳(すひものぜん)をさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴して婢(をんな)を呼び、大急(おほいそぎ)に銚子と料理とを誂(あつら)へて、
「それはどうも飛でもない事を。外(ほか)に何処(どこ)もお怪我(けが)はございませんでしたか」
「そんなに有られて耐(たま)るものかね」
為(せ)う事無さに主も苦笑(にがわらひ)せり。
「唯今(ただいま)絆創膏(ばんそうこう)を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々(わざわざ)御招(おまねき)申しまして甚(はなは)だ恐入りました。もう彼地(あつち)へは御出陣にならんが宜(よろし)うございます。何もございませんがここで何卒(どうぞ)御寛(ごゆる)り」
「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」
「へえ、又いらつしやいますか」
物は言はで打笑(うちゑ)める富山の腮(あぎと)は愈(いよいよ)展(ひろが)れり。早くもその意を得てや破顔(はがん)せる主(あるじ)の目は、薄(すすき)の切疵(きりきず)の如くほとほと有か無きかになりぬ。
「では御意(ぎよい)に召したのが、へえ?」
富山は益(ますます)笑(ゑみ)を湛(ただ)へたり。
「ございましたらう、さうでございませうとも」
「何故(なぜ)な」
「何故も無いものでございます。十目(じゆうもく)の見るところぢやございませんか」
富山は頷(うなづ)きつつ、
「さうだらうね」
「あれは宜(よろし)うございませう」
「一寸(ちよいと)好いね」
「まづその御意(おつもり)でお熱いところをお一盞(ひとつ)。不満家(むづかしや)の貴方(あなた)が一寸好いと有仰(おつしや)る位では、余程(よつぽど)尤物(まれもの)と思はなければなりません。全く寡(すくな)うございます」
倉皇(あたふた)入来(いりきた)れる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
「おや、此方(こちら)にお在(いで)あそばしたのでございますか」
彼は先の程より台所に詰(つめ)きりて、中入(なかいり)の食物の指図(さしづ)などしてゐたるなりき。
「酷(ひど)く負けて迯(に)げて来ました」
「それは好く迯げていらつしやいました」
例の歪(ゆが)める口を窄(すぼ)めて内儀は空々(そらぞら)しく笑ひしが、忽(たちま)ち彼の羽織の紐(ひも)の偏(かたかた)断(ちぎ)れたるを見尤(みとが)めて、環(かん)の失せたりと知るより、慌(あわ)て驚きて起たんとせり、如何(いか)にとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、
「なあに、宜(よろし)い」
「宜いではございません。純金(きん)では大変でございます」
「なあに、可(い)いと言ふのに」と聞きも訖(をは)らで彼は広間の方(かた)へ出(い)でて行けり。
「時にあれの身分はどうかね」
「さやう、悪い事はございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「が、大(たい)した事はございませんです」
「それはさうだらう。然(しか)し凡(およ)そどんなものかね」
「旧(もと)は農商務省に勤めてをりましたが、唯今(ただいま)では地所や家作(かさく)などで暮してゐるやうでございます。どうか小金も有るやうな話で、鴫沢隆三(しぎさわりゆうぞう)と申して、直(ぢき)隣町(となりちよう)に居りまするが、極(ごく)手堅く小体(こてい)に遣(や)つてをるのでございます」
「はあ、知れたもんだね」
我(われ)は顔(がほ)に頤(おとがひ)を掻撫(かいな)づれば、例の金剛石(ダイアモンド)は燦然(きらり)と光れり。
「それでも可いさ。然し嫁(く)れやうか、嗣子(あととり)ぢやないかい」
「さやう、一人娘のやうに思ひましたが」
「それぢや窮(こま)るぢやないか」
「私(わたくし)は悉(くはし)い事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで」
程無く内儀は環を捜得(さがしえ)て帰来(かへりき)にけるが、誰(た)が悪戯(いたづら)とも知らで耳掻(みみかき)の如く引展(ひきのば)されたり。主は彼に向ひて宮の家内(かない)の様子を訊(たづ)ねけるに、知れる一遍(ひととほり)は語りけれど、娘は猶能(なほよ)く知るらんを、後(のち)に招きて聴くべしとて、夫婦は頻(しきり)に觴(さかづき)を侑(すす)めけり。
富山唯継の今宵ここに来(きた)りしは、年賀にあらず、骨牌遊(かるたあそび)にあらず、娘の多く聚(あつま)れるを機として、嫁選(よめえらみ)せんとてなり。彼は一昨年(をととし)の冬英吉利(イギリス)より帰朝するや否や、八方に手分(てわけ)して嫁を求めけれども、器量望(のぞみ)の太甚(はなはだ)しければ、二十余件の縁談皆意に称(かな)はで、今日が日までもなほその事に齷齪(あくさく)して已(や)まざるなり。当時取急ぎて普請せし芝(しば)の新宅は、未(いま)だ人の住着かざるに、はや日に黒(くろ)み、或所は雨に朽ちて、薄暗き一間に留守居の老夫婦の額を鳩(あつ)めては、寂しげに彼等の昔を語るのみ。 
第二章
骨牌(かるた)の会は十二時におよびて終りぬ。十時頃より一人起ち、二人起ちて、見る間に人数(にんず)の三分の一強を失ひけれども、猶(なほ)飽かで残れるものは景気好く勝負を続けたり。富山の姿を隠したりと知らざる者は、彼敗走して帰りしならんと想へり。宮は会の終まで居たり。彼若(もし)疾(と)く還(かへ)りたらんには、恐(おそら)く踏留るは三分の一弱に過ぎざりけんを、と我物顔に富山は主と語合へり。
彼に心を寄せし輩(やから)は皆彼が夜深(よふけ)の帰途(かへり)の程を気遣(きづか)ひて、我願(ねがは)くは何処(いづく)までも送らんと、絶(したた)か念(おも)ひに念ひけれど、彼等の深切(しんせつ)は無用にも、宮の帰る時一人の男附添ひたり。その人は高等中学の制服を着たる二十四五の学生なり。金剛石(ダイアモンド)に亜(つ)いでは彼の挙動の目指(めざさ)れしは、座中に宮と懇意に見えたるは彼一人なりければなり。この一事の外(ほか)は人目を牽(ひ)くべき点も無く、彼は多く語らず、又は躁(さわ)がず、始終慎(つつまし)くしてゐたり。終までこの両個(ふたり)の同伴(つれ)なりとは露顕せざりき。さあらんには余所々々(よそよそ)しさに過ぎたればなり。彼等の打連れて門(かど)を出(い)づるを見て、始めて失望せしもの寡(すくな)からず。
宮は鳩羽鼠(はとばねずみ)の頭巾(ずきん)を被(かぶ)りて、濃浅黄地(こいあさぎぢ)に白く中形(ちゆうがた)模様ある毛織のシォールを絡(まと)ひ、学生は焦茶の外套(オバコオト)を着たるが、身を窄(すぼ)めて吹来る凩(こがらし)を遣過(やりすご)しつつ、遅れし宮の辿着(たどりつ)くを待ちて言出せり。
「宮(みい)さん、あの金剛石(ダイアモンド)の指環を穿(は)めてゐた奴はどうだい、可厭(いや)に気取つた奴ぢやないか」
「さうねえ、だけれど衆(みんな)があの人を目の敵(かたき)にして乱暴するので気の毒だつたわ。隣合つてゐたもんだから私まで酷(ひど)い目に遭(あは)されてよ」
「うむ、彼奴(あいつ)が高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も横腹(よこつぱら)を二つばかり突いて遣つた」
「まあ、酷いのね」
「ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐(へど)が出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか」
「私は可厭(いや)だわ」
「芬々(ぷんぷん)と香水の匂(にほひ)がして、金剛石(ダイアモンド)の金の指環を穿めて、殿様然たる服装(なり)をして、好(い)いに違無(ちがひな)いさ」
学生は嘲(あざ)むが如く笑へり。
「私は可厭よ」
「可厭なものが組になるものか」
「組は鬮(くじ)だから為方(しかた)が無いわ」
「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの」
「そんな無理な事を言つて!」
「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ」
「知らない!」
宮はシォールを揺上(ゆりあ)げて鼻の半(なかば)まで掩隠(おほひかく)しつ。
「ああ寒い!」
男は肩を峙(そばだ)てて直(ひた)と彼に寄添へり。宮は猶(なほ)黙して歩めり。
「ああ寒い!!」
宮はなほ答へず。
「ああ寒い!!」
彼はこの時始めて男の方(かた)を見向きて、
「どうしたの」
「ああ寒い」
「あら可厭ね、どうしたの」
「寒くて耐(たま)らんからその中へ一処(いつしよ)に入れ給へ」
「どの中へ」
「シォールの中へ」
「可笑(をかし)い、可厭だわ」
男は逸早(いちはや)く彼の押へしシォールの片端(かたはし)を奪ひて、その中(うち)に身を容(い)れたり。宮(みや)は歩み得ぬまでに笑ひて、
「あら貫一(かんいつ)さん。これぢや切なくて歩けやしない。ああ、前面(むかふ)から人が来てよ」
かかる戯(たはむれ)を作(な)して憚(はばか)らず、女も為すままに信(まか)せて咎(とが)めざる彼等の関繋(かんけい)は抑(そもそ)も如何(いかに)。事情ありて十年来鴫沢に寄寓(きぐう)せるこの間貫一(はざまかんいち)は、此年(ことし)の夏大学に入(い)るを待ちて、宮が妻(めあは)せらるべき人なり。 
第三章
間貫一の十年来鴫沢の家に寄寓せるは、怙(よ)る所無くて養はるるなり。母は彼の幼(いとけな)かりし頃世を去りて、父は彼の尋常中学を卒業するを見るに及ばずして病死せしより、彼は哀嘆(なげき)の中に父を葬るとともに、己(おのれ)が前途の望をさへ葬らざる可(べ)からざる不幸に遭(あ)へり。父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりに苦(くるし)き痩世帯(やせじよたい)なりけるを、当時彼なほ十五歳ながら間の戸主は学ぶに先(さきだ)ちて食(くら)ふべき急に迫られぬ。幼き戸主の学ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちては葬(はうむり)すべき急、猶(なほ)これに先ちては看護医薬の急ありしにあらずや。自活すべくもあらぬ幼(をさな)き者の如何(いか)にしてこれ等の急を救得(すくひえ)しか。固(もと)より貫一が力の能(あた)ふべきにあらず、鴫沢隆三の身一個(ひとつ)に引承(ひきう)けて万端の世話せしに因(よ)るなり。孤児(みなしご)の父は隆三の恩人にて、彼は聊(いささ)かその旧徳に報ゆるが為に、啻(ただ)にその病めりし時に扶助せしのみならず、常に心着(こころづ)けては貫一の月謝をさへ間(まま)支弁したり。かくて貧き父を亡(うしな)ひし孤児(みなしご)は富める後見(うしろみ)を得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆるにその短き生時(せいじ)を以(もつ)て慊(あきた)らず思ひければ、とかくはその忘形見を天晴(あつぱれ)人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。
亡(な)き人常に言ひけるは、苟(いやし)くも侍の家に生れながら、何の面目(めんぼく)ありて我子貫一をも人に侮(あなど)らすべきや。彼は学士となして、願くは再び四民(しみん)の上(かみ)に立たしめん。貫一は不断にこの言(ことば)を以(も)て警(いまし)められ、隆三は会ふ毎にまたこの言を以(も)て喞(かこ)たれしなり。彼は言(ものい)ふ遑(いとま)だに無くて暴(にはか)に歿(みまか)りけれども、その前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者として陰(ひそか)に疎(うと)まるる如き憂目(うきめ)に遭(あ)ふにはあらざりき。憖(なまじ)ひ継子(ままこ)などに生れたらんよりは、かくて在りなんこそ幾許(いかばかり)か幸(さいはひ)は多からんよ、と知る人は噂(うはさ)し合へり。隆三夫婦は実(げ)に彼を恩人の忘形見として疎(おろそか)ならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、漸(やうや)くその心は出(い)で来(き)て、彼の高等中学校に入(い)りし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
貫一は篤学のみならず、性質も直(すぐ)に、行(おこなひ)も正(ただし)かりければ、この人物を以つて学士の冠を戴(いただ)かんには、誠に獲易(えやす)からざる婿なるべし、と夫婦は私(ひそか)に喜びたり。この身代(しんだい)を譲られたりとて、他姓(たせい)を冒(をか)して得謂(えい)はれぬ屈辱を忍ばんは、彼の屑(いさぎよ)しと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したる懽(よろこび)を懐(いだ)きて、益(ますます)学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる半(なかば)には過ぎざらん。彼は自らその色好(いろよき)を知ればなり。世間の女の誰(たれ)か自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るに過(すぐ)るに在り。謂(い)ふ可くんば、宮は己(おのれ)が美しさの幾何(いかばかり)値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てして纔(わづか)に箇程(かほど)の資産を嗣(つ)ぎ、類多き学士風情(ふぜい)を夫に有たんは、決して彼が所望(のぞみ)の絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤(びせん)より出(い)でし例(ためし)寡(すくな)からざるを見たり。又は富人の醜き妻を厭(いと)ひて、美き妾(めかけ)に親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて富貴(ふうき)を得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの若干(そくばく)を見たりしに、その容(かたち)の己(おのれ)に如(し)かざるものの多きを見出(みいだ)せり。剰(あまつさ)へ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ一件(ひとつ)最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七の歳(とし)に起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸(ドイツ)人は彼の愛らしき袂(たもと)に艶書(えんしよ)を投入れぬ。これ素(もと)より仇(あだ)なる恋にはあらで、女夫(めをと)の契(ちぎり)を望みしなり。殆(ほとん)ど同時に、院長の某(なにがし)は年四十を踰(こ)えたるに、先年その妻を喪(うしな)ひしをもて再び彼を娶(めと)らんとて、密(ひそか)に一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
この時彼の小(ちひさ)き胸は破れんとするばかり轟(とどろ)けり。半(なかば)は曾(かつ)て覚えざる可羞(はづかしさ)の為に、半は遽(にはか)に大(おほい)なる希望(のぞみ)の宿りたるが為に。彼はここに始めて己(おのれ)の美しさの寡(すくな)くとも奏任以上の地位ある名流をその夫(つま)に値(あた)ひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、牆(かき)を隣れる男子部(だんじぶ)の諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
若(もし)かのプロフェッサアに添はんか、或(あるひ)は四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後を嗣(つ)ぐの比にはあらざらんをと、一旦抱(いだ)ける希望(のぞみ)は年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人の己(おのれ)を見出(みいだ)して、玉の輿(こし)を舁(かか)せて迎に来(きた)るべき天縁の、必ず廻到(めぐりいた)らんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼を嫌(きら)へるにはあらず、彼と添はばさすがに楽(たのし)からんとは念(おも)へるなり。如此(かくのごと)く決定(さだか)にそれとは無けれど又有りとし見ゆる箒木(ははきぎ)の好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。 
第四章
漆の如き闇(やみ)の中(うち)に貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島(むこうじま)の八百松(やおまつ)に新年会ありとて未(いま)だ還(かへ)らざるなり。
宮は奥より手ラムプを持ちて入来(いりき)にけるが、机の上なる書燈を点(とも)し了(をは)れる時、婢(をんな)は台十能に火を盛りたるを持来(もちきた)れり。宮はこれを火鉢(ひばち)に移して、
「さうして奥のお鉄瓶(てつ)も持つて来ておくれ。ああ、もう彼方(あちら)は御寝(おやすみ)になるのだから」
久(ひさし)く人気(ひとけ)の絶えたりし一間の寒(さむさ)は、今俄(にはか)に人の温き肉を得たるを喜びて、直(ただ)ちに咬(か)まんとするが如く膚(はだへ)に薄(せま)れり。宮は慌忙(あわただし)く火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚(しよだな)に飾れる時計を見たり。
夜の闇(くら)く静なるに、燈(ともし)の光の独(ひと)り美き顔を照したる、限無く艶(えん)なり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の梢(こずゑ)に月のうつろへるが如く、背後(うしろ)の壁に映れる黒き影さへ香滴(にほひこぼ)るるやうなり。
金剛石(ダイアモンド)と光を争ひし目は惜気(をしげ)も無くみはりて時計の秒(セコンド)を刻むを打目戍(うちまも)れり。火に翳(かざ)せる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある紫縮緬(むらさきちりめん)の半襟(はんえり)に韜(つつ)まれたる彼の胸を想へ。その胸の中(うち)に彼は今如何(いか)なる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来(かへり)を待佗(まちわ)ぶるなりけり。
一時(ひとしきり)又寒(さむさ)の太甚(はなはだし)きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面(むかふ)なる貫一がしとねの上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
若(もし)やと聞着けし車の音は漸(やうや)く近(ちかづ)きて、益(ますます)轟(とどろ)きて、竟(つひ)に我門(わがかど)に停(とどま)りぬ。宮は疑無(うたがひな)しと思ひて起たんとする時、客はいと酔(ゑ)ひたる声して物言へり。貫一は生下戸(きげこ)なれば嘗(かつ)て酔(ゑ)ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に垂(なんな)んとす。
門(かど)の戸引啓(ひきあ)けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌(ただあわ)ててラムプを持ちて出(い)でぬ。台所より婢(をんな)も、出合(いであ)へり。
足の踏所(ふみど)も覚束無(おぼつかな)げに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾(うちかたむ)き、ハンカチイフに裹(つつ)みたる折を左に挈(さ)げて、山車(だし)人形のやうに揺々(ゆらゆら)と立てるは貫一なり。面(おもて)は今にも破れぬべく紅(くれなゐ)に熱して、舌の乾(かわ)くに堪(た)へかねて連(しきり)に空唾(からつば)を吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ御土産(おみやげ)です。還(かへ)つてこれを細君に遣(おく)る。何ぞ仁(じん)なるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つて了(しま)つた」
「あら、貫一(かんいつ)さん、こんな所に寐(ね)ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
仰様(のけさま)に倒れたる貫一の脚(あし)を掻抱(かきいだ)きて、宮は辛(から)くもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽(ひ)いてくれなければ僕には歩けませんよ」
宮は婢(をんな)に燈(ともし)を把(と)らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は踉(よろめ)きつつ肩に縋(すが)りて遂(つひ)に放さざりければ、宮はその身一つさへ危(あやふ)きに、やうやう扶(たす)けて書斎に入(い)りぬ。
しとねの上に舁下(かきおろ)されし貫一は頽(くづ)るる体(たい)を机に支へて、打仰(うちあふ)ぎつつ微吟せり。
「君に勧む、金縷(きんる)の衣(ころも)を惜むなかれ。君に勧む、須(すべから)く少年の時を惜むべし。花有り折るに堪(た)へなば直(ただち)に折る須(べ)し。花無きを待つて空(むなし)く枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮(みい)さん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。苦(くるし)いでせう」
「然矣(しかり)、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就(つ)いては大(おほ)いに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
「可厭(いや)よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断嫌(きら)ひの癖に何故(なぜ)そんなに飲んだの。誰に飲(のま)されたの。端山(はやま)さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、酷(ひど)いわね、こんなに酔(よは)して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、宮(みい)さん。謝(しや)、多謝(たしや)! 若(もし)それが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊(にぎりし)めつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して喋(しやべ)る男ぢやない。それがどうして知れたのか、衆(みんな)が知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃(しゆくはい)だ祝盃だと、十も二十も一度に猪口(ちよく)を差されたのだ。祝盃などを受ける覚(おぼえ)は無いと言つて、手を引籠(ひつこ)めてゐたけれど、なかなか衆(みんな)聴かないぢやないか」
宮は窃(ひそか)に笑(ゑみ)を帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初(かりそめ)にもああ云ふ美人と一所(いつしよ)に居て寝食を倶(とも)にすると云ふのが既に可羨(うらやまし)い。そこを祝すのだ。次には、君も男児(をとこ)なら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に奪(と)られるやうな事があつたら、独(ひと)り間貫一一(いつ)個人の恥辱ばかりではない、我々朋友(ほうゆう)全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延(ひ)いて高等中学の名折(なをれ)にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を一(いつ)にして結(むすぶ)の神に祷(いの)つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら却(かへ)つて神罰が有ると、弄謔(からかひ)とは知れてゐるけれど、言草(いひぐさ)が面白かつたから、片端(かたつぱし)から引受けて呷々(ぐひぐひ)遣付(やつつ)けた。
宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分宜(よろし)く願ひます」
「可厭(いや)よ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥(いよい)よ僕の男が立たない義(わけ)だ」
「もう極(きま)つてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃翁(をぢ)さんや姨(をば)さんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事は決(け)して無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡(りようけん)はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや余(あんま)りだわ」
貫一は酔(ゑひ)を支へかねて宮が膝(ひざ)を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬(ほほ)に、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又寐(ね)ちや……貫一さん、貫一さん」
寔(まこと)に愛の潔(いさぎよ)き哉(かな)、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望(のぞみ)は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾(あつ)めて、富も貴きも、乃至(ないし)有(あら)ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶(とろか)されて、彼は唯妙(ただたへ)に香(かうばし)き甘露(かんろ)の夢に酔(ゑ)ひて前後をも知らざるなりけり。
諸(もろもろ)の可忌(いまはし)き妄想(もうぞう)はこの夜の如く眼(まなこ)を閉ぢて、この一間(ひとま)に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明(あきらか)なる燈火(ともしび)の光の如きものありて、特(こと)に彼等をのみ照すやうに感ずるなり。 
第五章
或日箕輪(みのわ)の内儀は思も懸けず訪来(とひきた)りぬ。その娘のお俊と宮とは学校朋輩(ほうばい)にて常に往来(ゆきき)したりけれども、未(いま)だ家(うち)と家との交際はあらざるなり。彼等の通学せし頃さへ親々は互に識(し)らで過ぎたりしに、今は二人の往来(おうらい)も漸(やうや)く踈(うと)くなりけるに及びて、俄(にはか)にその母の来(きた)れるは、如何(いか)なる故(ゆゑ)にか、と宮も両親(ふたおや)も怪(あやし)き事に念(おも)へり。
凡(およ)そ三時間の後彼は帰行(かへりゆ)きぬ。
先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に思懸(おもひが)けざるに驚けり。貫一は不在なりしかばこの珍(めづらし)き客来(きやくらい)のありしを知らず、宮もまた敢(あへ)て告げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮は少(すこし)く食して、多く眠らずなりぬ。貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとは為(せ)ざりき。この間に両親(ふたおや)は幾度(いくたび)と無く談合しては、その事を決しかねてゐたり。
彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知る因(よし)もあらねど、片時(へんじ)もその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを見出(みいだ)さんは難(かた)き事にあらず。さも無かりし人の顔の色の遽(にはか)に光を失ひたるやうにて、振舞(ふるまひ)など別(わ)けて力無く、笑ふさへいと打湿(うちしめ)りたるを。
宮が居間と謂(い)ふまでにはあらねど、彼の箪笥(たんす)手道具等(など)置きたる小座敷あり。ここには火燵(こたつ)の炉を切りて、用無き人の来ては迭(かたみ)に冬籠(ふゆごもり)する所にも用ゐらる。彼は常にここに居て針仕事するなり。倦(う)めば琴(こと)をも弾(ひ)くなり。彼が手玩(てすさみ)と見ゆる狗子柳(いのこやなぎ)のはや根を弛(ゆる)み、真(しん)の打傾きたるが、鮟鱇切(あんこうぎり)の水に埃(ほこり)を浮べて小机の傍(かたへ)に在り。庭に向へる肱懸窓(ひぢかけまど)の明(あかる)きに敷紙(しきがみ)を披(ひろ)げて、宮は膝(ひざ)の上に紅絹(もみ)の引解(ひきとき)を載せたれど、針は持たで、懶(ものう)げに火燵に靠(もた)れたり。
彼は少(すこし)く食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間に入(い)りて、深く物思ふなりけり。両親(ふたおや)は仔細(しさい)を知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼の為(な)すままに委(まか)せたり。
この日貫一は授業始(はじめ)の式のみにて早く帰来(かへりき)にけるが、下(した)座敷には誰(たれ)も見えで、火燵(こたつ)の間に宮の咳(しはぶ)く声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄(うかがひよ)りぬ。襖(ふすま)の僅(わづか)に啓(あ)きたる隙(ひま)より差覗(さしのぞ)けば、宮は火燵に倚(よ)りて硝子(ガラス)障子を眺(なが)めては俯目(ふしめ)になり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐(ためいきつ)きて、忽(たちま)ち物の音を聞澄すが如く、美き目を瞠(みは)るは、何をか思凝(おもひこら)すなるべし。人の窺(うかが)ふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶(くもん)をその状(かたち)に顕(あらは)して憚(はばか)らざるなり。
貫一は異(あやし)みつつも息を潜めて、猶(なほ)彼の為(せ)んやうを見んとしたり。宮は少時(しばし)ありて火燵に入りけるが、遂(つひ)に櫓(やぐら)に打俯(うちふ)しぬ。
柱に身を倚せて、斜(ななめ)に内を窺ひつつ貫一は眉(まゆ)を顰(ひそ)めて思惑(おもひまど)へり。
彼は如何(いか)なる事ありてさばかり案じ煩(わづら)ふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。その故(ゆゑ)のあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
かく又案じ煩へる彼の面(おもて)も自(おのづか)ら俯(うつむ)きぬ。問はずして知るべきにあらずと思定(おもひさだ)めて、再び内を差覗(さしのぞ)きけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時(いつ)か落ちけむ、蒔絵(まきゑ)の櫛(くし)の零(こぼ)れたるも知らで。
人の気勢(けはひ)に驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にその傍(かたはら)に在り。彼は慌(あわ)てて思頽(おもひくづを)るる気色(けしき)を蔽(おほ)はんとしたるが如し。
「ああ、吃驚(びつくら)した。何時(いつ)御帰んなすつて」
「今帰つたの」
「さう。些(ちつと)も知らなかつた」
宮はおのれの顔の頻(しきり)に眺めらるるを眩(まば)ゆがりて、
「何をそんなに視(み)るの、可厭(いや)、私は」
されども彼は猶目を放たず、宮はわざと打背(うちそむ)きて、裁片畳(きれたたふ)の内を撈(かきさが)せり。
「宮(みい)さん、お前さんどうしたの。ええ、何処(どこ)か不快(わるい)のかい」
「何ともないのよ。何故(なぜ)?」
かく言ひつつ益(ますます)急に撈(かきさが)せり。貫一は帽を冠(かぶ)りたるまま火燵に片肱掛(かたひぢか)けて、斜(ななめ)に彼の顔を見遣(みや)りつつ、
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、直(ぢき)に疑深(うたぐりぶか)いの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか」
「だつて何ともありもしないものを……」
「何ともないものが、惘然(ぼんやり)考へたり、太息(ためいき)を吐(つ)いたりして鬱(ふさ)いでゐるものか。僕は先之(さつき)から唐紙(からかみ)の外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つて聞(きか)したつて可いぢやないか」
宮は言ふところを知らず、纔(わづか)に膝の上なる紅絹(もみ)を手弄(てまさぐ)るのみ。
「病気なのかい」
彼は僅(わづか)に頭(かしら)を掉(ふ)りぬ。
「それぢや心配でもあるのかい」
彼はなほ頭を掉れば、
「ぢやどうしたと云ふのさ」
宮は唯胸の中(うち)を車輪(くるま)などの廻(めぐ)るやうに覚ゆるのみにて、誠にも詐(いつはり)にも言(ことば)を出(いだ)すべき術(すべ)を知らざりき。彼は犯せる罪の終(つひ)に秘(つつ)む能(あた)はざるを悟れる如き恐怖(おそれ)の為に心慄(こころをのの)けるなり。如何(いか)に答へんとさへ惑へるに、傍(かたはら)には貫一の益詰(なじ)らんと待つよと思へば、身は搾(しぼ)らるるやうに迫来(せまりく)る息の隙(ひま)を、得も謂(い)はれず冷(ひやや)かなる汗の流れ流れぬ。
「それぢやどうしたのだと言ふのに」
貫一の声音(こわね)は漸(やうや)く苛立(いらだ)ちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覚(そぞろ)に言出(いひいだ)せり。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」
呆(あき)れたる貫一は瞬(またたき)もせで耳を傾(かたぶ)けぬ。
「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、何時(いつ)死んで了(しま)ふか解らないのね。かうしてゐれば、可楽(たのしみ)な事もある代(かはり)に辛(つら)い事や、悲い事や、苦(くるし)い事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。不図(ふつと)さう思出(おもひだ)したら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭(いや)な心地(こころもち)になつて、自分でもどうか為(し)たのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
目を閉ぢて聴(きき)ゐし貫一は徐(しづか)にまぶたを開くとともに眉(まゆ)を顰(ひそ)めて、
「それは病気だ!」
宮は打萎(うちしを)れて頭(かしら)を垂れぬ。
「然(しか)し心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
異(あやし)く沈みたるその声の寂しさを、如何(いか)に貫一は聴きたりしぞ。
「それは病気の所為(せゐ)だ、脳でも不良(わるい)のだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。固(もと)より世の中と云ふものはさう面白い義(わけ)のものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、衆(みんな)が皆(みんな)そんな了簡(りようけん)を起して御覧な、世界中御寺ばかりになつて了(しま)ふ。儚(はかな)いのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中で切(せめ)ては楽(たのしみ)を求めやうとして、究竟(つまり)我々が働いてゐるのだ。考へて鬱(ふさ)いだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を幾分(いくら)か面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何か楽(たのしみ)が無ければならない。一事(ひとつ)かうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。宮(みい)さんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如く偸(ひそか)に男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
彼は笑(ゑみ)を含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
宮の肩頭(かたさき)を捉(と)りて貫一は此方(こなた)に引向けんとすれば、為(な)すままに彼は緩(ゆる)く身を廻(めぐら)したれど、顔のみは可羞(はぢがまし)く背(そむ)けてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
肩に懸けたる手をば放さで連(しきり)に揺(ゆすら)るるを、宮は銕(くろがね)の槌(つち)もて撃懲(うちこら)さるるやうに覚えて、安き心もあらず。冷(ひややか)なる汗は又一時(ひとしきり)流出(ながれい)でぬ。
「これは怪(け)しからん!」
宮は危(あやぶ)みつつ彼の顔色を候(うかが)ひぬ。常の如く戯るるなるべし。その面(おもて)は和(やはら)ぎて一点の怒気だにあらず、寧(むし)ろ唇頭(くちもと)には笑を包めるなり。
「僕などは一件(ひとつ)大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で耐(たま)らんの。一日が経(た)つて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を拵(こしら)へたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。若(も)しこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と生死(しようし)を倶(とも)にするのだ。宮(みい)さん、可羨(うらやまし)いだらう」
宮は忽(たちま)ち全身の血の氷れるばかりの寒さに堪(た)へかねて打顫(うちふる)ひしが、この心の中を覚(さと)られじと思へば、弱る力を励して、
「可羨(うらやまし)いわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
「何卒(どうぞ)」
「ええ悉皆(みんな)遣(や)つて了(しま)へ!」
彼は外套(オバコオト)の衣兜(かくし)より一袋のボンボンを取出(とりいだ)して火燵(こたつ)の上に置けば、余力(はずみ)に袋の口は弛(ゆる)みて、紅白の玉は珊々(さらさら)と乱出(みだれい)でぬ。こは宮の最も好める菓子なり。 
第六章
その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶(いちびん)の水薬(すいやく)を与へられぬ。貫一は信(まこと)に胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。懊悩(おうのう)として憂(うき)に堪(た)へざらんやうなる彼の容体(ようたい)に幾許(いくばく)の変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋(あひこく)する苦痛は、益(ますます)募りて止(やま)ざるなり。
貫一は彼の憎からぬ人ならずや。怪(あやし)むべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることを懼(おそ)れぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、面(おもて)を合すれば冷汗(ひやあせ)も出づべき恐怖(おそれ)を生ずるなり。彼の情有(なさけあ)る言(ことば)を聞けば、身をも斫(き)らるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根(こころね)を見ることを恐れたり。宮が心地勝(すぐ)れずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生(へいぜい)に一層を加へたれば、彼は死を覓(もと)むれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその堪(た)ふべからざる限に至りぬ。
遂(つひ)に彼はこの苦(くるしみ)を両親に訴へしにやあらん、一日(あるひ)母と娘とは遽(にはか)に身支度して、忙々(いそがはし)く車に乗りて出でぬ。彼等は小(ちひさ)からぬ一個(ひとつ)の旅鞄(たびかばん)を携へたり。
大風(おほかぜ)の凪(な)ぎたる迹(あと)に孤屋(ひとつや)の立てるが如く、侘(わび)しげに留守せる主(あるじ)の隆三は独(ひと)り碁盤に向ひて碁経(きけい)を披(ひら)きゐたり。齢(よはひ)はなほ六十に遠けれど、頭(かしら)は夥(おびただし)き白髪(しらが)にて、長く生ひたる髯(ひげ)なども六分は白く、容(かたち)は痩(や)せたれど未(いま)だ老の衰(おとろへ)も見えず、眉目温厚(びもくおんこう)にして頗(すこぶ)る古井(こせい)波無きの風あり。
やがて帰来(かへりき)にける貫一は二人の在らざるを怪みて主(あるじ)に訊(たづ)ねぬ。彼は徐(しづか)に長き髯を撫(な)でて片笑みつつ、
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも昨日(きのふ)医者が湯治が良いと言うて切(しきり)に勧めたらしいのだ。いや、もう急の思着(おもひつき)で、脚下(あしもと)から鳥の起(た)つやうな騒をして、十二時三十分の汽車で。ああ、独(ひとり)で寂いところ、まあ茶でも淹(い)れやう」
貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
「はあ、私(わし)もそんな塩梅(あんばい)で」
「然(しか)し、湯治は良いでございませう。幾日(いくか)ほど逗留(とうりゆう)のお心算(つもり)で?」
「まあどんなだか四五日と云ふので、些(ほん)の着のままで出掛けたのだが、なあに直(ぢき)に飽きて了(しま)うて、四五日も居られるものか、出(で)養生より内(うち)養生の方が楽だ。何か旨(うま)い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
貫一は着更(きか)へんとて書斎に還りぬ。宮の遺(のこ)したる筆の蹟(あと)などあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず便(たより)あらんと思飜(おもひかへ)せしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて帰来(かへりきた)れるは、心の痩(や)するばかり美き俤(おもかげ)に饑(う)ゑて帰来れるなり。彼は空(むなし)く饑ゑたる心を抱(いだ)きて慰むべくもあらぬ机に向へり。
「実に水臭いな。幾許(いくら)急いで出掛けたつて、何とか一言(ひとこと)ぐらゐ言遺(いひお)いて行(い)きさうなものぢやないか。一寸(ちよつと)其処(そこ)へ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、始(はじめ)に話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、明日(あした)行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの離別(わかれ)には顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
女と云ふ者は一体男よりは情が濃(こまやか)であるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。豈(まさか)にあの人が愛してをらんとは考へられん。又万々(ばんばん)そんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
元来あの人の性質は冷淡さ。それだから所謂(いはゆる)『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその所為(せゐ)か知らんて。子供の時分から成程さう云ふ傾向(かたむき)は有(も)つてゐたけれど、今のやうに太甚(はなはだし)くはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや猶更(なほさら)でなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、殆(ほとん)ど……殆どではない、全くだ、全く溺(おぼ)れてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!
これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情が篤(あつ)くなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分酷(ひど)い話だ。これが互に愛してゐる間(なか)の仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事を為(さ)れると実に憎い。
小説的かも知れんけれど、八犬伝(はつけんでん)の浜路(はまじ)だ、信乃(しの)が明朝(あした)は立つて了ふと云ふので、親の目を忍んで夜更(よふけ)に逢(あ)ひに来る、あの情合(じやうあひ)でなければならない。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話になつてゐて、其処(そこ)の娘と許嫁(いひなづけ)……似てゐる、似てゐる。
然し内の浜路は困る、信乃にばかり気を揉(もま)して、余り憎いな、そでない為方(しかた)だ。これから手紙を書いて思ふさま言つて遣(や)らうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀(かあい)さうだ。
自分は又神経質に過るから、思過(おもひすごし)を為るところも大きにあるのだ。それにあの人からも不断言はれる、けれども自分が思過(おもひすごし)であるか、あの人が情(じよう)が薄いのかは一件(ひとつ)の疑問だ。
時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、多少(いくら)か自分を侮(あなど)つてゐるのではあるまいか。自分は此家(ここ)の厄介者、あの人は家附の娘だ。そこで自(おのづか)ら主(しゆう)と家来と云ふやうな考が始終有つて、……否(いや)、それもあの人に能(よ)く言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すと太(ひど)く慍(おこ)られるのだ、一番それを慍るよ。勿論(もちろん)そんな様子の些少(すこし)でも見えた事は無い。自分の僻見(ひがみ)に過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然し、若(もし)もあの人の心にそんな根性が爪の垢(あか)ほどでも有つたらば、自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情の俘(とりこ)とはなつても、未(ま)だ奴隷になる気は無い。或(あるひ)はこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかねて焦死(こがれじに)に死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん! どうならうと切れて了ふ。切れずに措(お)くものか。
それは自分の僻見(ひがみ)で、あの人に限つてはそんな心は微塵(みじん)も無いのだ。その点は自分も能(よ)く知つてゐる。けれども情が濃(こまやか)でないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だから、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を打壊(うちこは)すほどに熱しないのか。或(あるひ)は熱し能(あた)はざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、研究すべき問題だ」
彼は意(こころ)に満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だ曾(かつ)て解釈し得ざるなりけり。今日はや如何(いか)に解釈せんとすらん。 
(六)の二
翌日果して熱海より便(たより)はありけれど、僅(わづか)に一枚の端書(はがき)をもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の手蹟(しゆせき)なり。貫一は読了(よみをは)ると斉(ひと)しく片々(きれきれ)に引裂きて捨ててけり。宮の在らば如何(いか)にとも言解くなるべし。彼の親(したし)く言解(いひと)かば、如何に打腹立(うちはらだ)ちたりとも貫一の心の釈(と)けざることはあらじ。宮の前には常に彼は慍(いかり)をも、恨をも、憂(うれひ)をも忘るるなり。今は可懐(なつかし)き顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平に遭(あ)ひて、しかも言解く者のあらざれば、彼の慍(いかり)は野火の飽くこと知らで燎(や)くやうなり。
この夕(ゆふべ)隆三は彼に食後の茶を薦(すす)めぬ。一人佗(わび)しければ留(とど)めて物語(ものがたら)はんとてなるべし。されども貫一の屈托顔(くつたくがほ)して絶えず思の非(あら)ぬ方(かた)に馳(は)する気色(けしき)なるを、
「お前どうぞ為(し)なすつたか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それは好くない。劇(ひど)く痛みでもするかな」
「いえ、なに、もう宜(よろし)いのでございます」
「それぢや茶は可(い)くまい」
「頂戴(ちようだい)します」
かかる浅ましき慍(いかり)を人に移さんは、甚(はなは)だ謂無(いはれな)き事なり、と自ら制して、書斎に帰りて憖(なまじ)ひ心を傷めんより、人に対して姑(しばら)く憂(うさ)を忘るるに如(し)かじと思ひければ、彼は努めて寛(くつろ)がんとしたれども、動(やや)もすれば心は空(そら)になりて、主(あるじ)の語(ことば)を聞逸(ききそら)さむとす。
今日文(ふみ)の来て細々(こまごま)と優き事など書聯(かきつら)ねたらば、如何(いか)に我は嬉(うれし)からん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るに易(か)へて、その楽(たのしみ)は深かるべきを。さては出行(いでゆ)きし恨も忘られて、二夜三夜(ふたよみよ)は遠(とほざ)かりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。
彼はその身の卒(にはか)に出行(いでゆ)きしを、如何(いか)に本意無(ほいな)く我の思ふらんかは能(よ)く知るべきに。それを知らば一筆(ひとふで)書きて、など我を慰めんとは為(せ)ざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐(いと)しと思へる人の何故(なにゆゑ)にさは為(せ)ざるにやあらん。かくまでに情篤(なさけあつ)からぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼は忽(たちま)ちその事を忘るべき吾(われ)に復(かへ)れり。
「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
笑ふにもあらず、顰(ひそ)むにもあらず、稍(やや)自ら嘲(あざ)むに似たる隆三の顔は、燈火(ともしび)に照されて、常には見ざる異(あやし)き相を顕(あらは)せるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
彼は長き髯(ひげ)を忙(せはし)く揉(も)みては、又頤(おとがひ)の辺(あたり)より徐(しづか)に撫下(なでおろ)して、先(まづ)打出(うちいだ)さん語(ことば)を案じたり。
「お前の一身上の事に就(つ)いてだがの」
纔(わづか)にかく言ひしのみにて、彼は又遅(ためら)ひぬ、その髯(ひげ)は虻(あぶ)に苦しむ馬の尾のやうに揮(ふる)はれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
貫一は遽(にはか)に敬はるる心地して自(おのづ)と膝(ひざ)を正せり。
「で、私(わし)もまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の御父様(おとつさん)に対して恩返(おんがへし)も出来たやうな訳、就いてはお前も益(ますます)勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つも為(さ)せて、指折の人物に為(し)たいと考へてゐるくらゐ、未(ま)だ未だこれから両肌(りようはだ)を脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」
これを聞(き)ける貫一は鉄繩(てつじよう)をもて縛(いまし)められたるやうに、身の重きに堪(た)へず、心の転(うた)た苦(くるし)きを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はその中(うち)に在りてその中に在ることを忘れんと為る平生(へいぜい)を省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。愚父(おやぢ)がどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事は措(お)きまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいと念(おも)つてをります。愚父の亡(なくな)りましたあの時に、此方(こちら)で引取つて戴(いただ)かなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほど幸(さいはひ)なものは恐(おそら)く無いでございませう」
彼は十五の少年の驚くまでに大人びたる己(おのれ)を見て、その着たる衣(きぬ)を見て、その坐れるしとねを見て、やがて美き宮と共にこの家の主(ぬし)となるべきその身を思ひて、漫(そぞろ)に涙を催せり。実(げ)に七千円の粧奩(そうれん)を随へて、百万金も購(あがな)ふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。
「お前がさう思うてくれれば私(わし)も張合がある。就いては改めてお前に頼(たのみ)があるのだが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
彼はかく潔く答ふるに憚(はばか)らざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかる言(ことば)を出(いだ)す時は、多く能(あた)はざる事を強(し)ふる例(ためし)なればなり。
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁に遣(や)らうかと思つて」
見るに堪(た)へざる貫一の驚愕(おどろき)をば、せめて乱さんと彼は慌忙(あわただし)く語(ことば)を次ぎぬ。
「これに就いては私も種々(いろいろ)と考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つて了(しま)うての、お前はも少(すこ)しの事だから大学を卒業して、四五年も欧羅巴(エウロッパ)へ留学して、全然(すつかり)仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」
汝(なんぢ)の命を与へよと逼(せま)らるる事あらば、その時の人の思は如何(いか)なるべき! 可恐(おそろし)きまでに色を失へる貫一は空(むなし)く隆三の面(おもて)を打目戍(うちまも)るのみ。彼は太(いた)く困(こう)じたる体(てい)にて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更変換(へんがへ)を為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
待てども貫一の言(ことば)を出(いだ)さざれば、主(あるじ)は寡(すくな)からず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家(うち)とお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。大(たい)した事は無いがこの家は全然(そつくり)お前に譲るのだ、お前は矢張(やはり)私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
約束をした宮をの、余所(よそ)へ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処(そこ)はお前が能(よ)く承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴(あつぱれ)の人物に成るのが第一の希望(のぞみ)であらう。その志を遂(と)げさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、然(しか)しこれは理窟(りくつ)で、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前に頼(たのみ)が有ると言うたのはこの事だ。
従来(これまで)もお前を世話した、後来(これから)も益世話をせうからなう、其処(そこ)に免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
貫一は戦(をのの)く唇(くちびる)を咬緊(くひし)めつつ、故(ことさ)ら緩舒(ゆるやか)に出(いだ)せる声音(こわね)は、怪(あやし)くも常に変れり。
「それぢや翁様(をぢさん)の御都合で、どうしても宮(みい)さんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、断(た)つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着(とんちやく)は無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
得言はぬ貫一が胸には、理(ことわり)に似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、詰(なじ)るべき事、罵(ののし)るべき、言破るべき事、辱(はぢし)むべき事の数々は沸(わ)くが如く充満(みちみ)ちたれど、彼は神にも勝(まさ)れる恩人なり。理非を問はずその言(ことば)には逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌を咬(か)みても、敢(あへ)て言はじと覚悟せるなり。
彼は又思へり。恩人は恩を枷(かせ)に如此(かくのごと)く逼(せま)れども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何(いか)なる斧(をの)を以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が情(なさけ)は我が思ふままに濃(こまやか)ならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心也(なり)と、彼は可憐(いとし)き宮を思ひて、その父に対する慍(いかり)を和(やはら)げんと勉(つと)めたり。
我は常に宮が情(なさけ)の濃(こまやか)ならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節(ばんこんさくせつ)に遇(あ)はずんば。
「嫁に遣ると有仰(おつしや)るのは、何方(どちら)へ御遣(おつかは)しになるのですか」
「それは未(ま)だ確(しか)とは極(きま)らんがの、下谷(したや)に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
それぞ箕輪の骨牌会(かるたかい)に三百円の金剛石(ダイアモンド)をひけらかせし男にあらずやと、貫一は陰(ひそか)に嘲笑(あざわら)へり。されど又余りにその人の意外なるに駭(おどろ)きて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、苟(いやし)くも吾が宮の如く美きを、目あり心あるものの誰(たれ)かは恋ひざらん。独(ひと)り怪しとも怪きは隆三の意(こころ)なる哉(かな)。我(わが)十年の約は軽々(かろがろし)く破るべきにあらず、猶(なほ)謂無(いはれな)きは、一人娘を出(いだ)して嫁(か)せしめんとするなり。戯(たはむ)るるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は寧(むし)ろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんより邇(ちか)かるべしと信じたりき。
彼は競争者の金剛石(ダイアモンド)なるを聞きて、一度(ひとたび)は汚(けが)され、辱(はづかし)められたらんやうにも怒(いかり)を作(な)せしかど、既に勝負は分明(ぶんめい)にして、我は手を束(つか)ねてこの弱敵の自ら僵(たふ)るるを看(み)んと思へば、心稍(やや)落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
この一言に隆三の面(おもて)は熱くなりぬ。
「これに就いては私(わし)も大きに考へたのだ、何(なに)に為(し)ろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、然(しか)し、お前の後来(こうらい)に就(つ)いても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちは若(わか)しと云ふもので、ここに可頼(たのもし)い親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても可愧(はづかし)からん家格(いへがら)だ。気の毒な思をしてお前との約束を変易(へんがへ)するのも、私たちが一人娘を他(よそ)へ遣つて了ふのも、究竟(つまり)は銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。
それに、富山からは切(た)つての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も一家(いつけ)のつもりで、決して鴫沢家を疎(おろそか)には為(せ)まい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
決して慾ではないが、良(い)い親類を持つと云ふものは、人で謂(い)へば取(とり)も直(なほ)さず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は一家(いつか)の友達だ。
お前がこれから世の中に出るにしても、大相(たいそう)な便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、誰(たれ)の為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、私(わし)も決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
私の了簡(りようけん)はかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて年効(としがひ)も無く事を好んで、何為(なにし)に若いものの不為(ふため)になれと思ふものかな。お前も能(よ)く其処(そこ)を考へて見てくれ。
私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら直(すぐ)に洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番(ひとつ)奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも少(すこ)しのところを辛抱して、いつその事博士(はかせ)になつて喜ばしてくれんか」
彼はさも思ひのままに説完(ときおほ)せたる面色(おももち)して、寛(ゆたか)に髯(ひげ)を撫(な)でてゐたり。
貫一は彼の説進むに従ひて、漸(やうや)くその心事の火を覩(み)るより明(あきらか)なるを得たり。彼が千言万語の舌を弄(ろう)して倦(う)まざるは、畢竟(ひつきよう)利の一字を掩(おほ)はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も穢(けが)れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或(あるひ)は穢れたる念を起し、或は穢れたる行(おこなひ)を為(な)すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ豈(あに)穢れたるの最も大なる者ならずや。
世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の独(ひと)り汚(けがれ)に染(そ)みざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子(みなしご)を養へる志は、これを証して余(あまり)あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は酷(むご)くも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に唯(ただ)一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐(いとし)き宮が事を思へるなり。
我の愛か、死をもて脅(おびやか)すとも得て屈すべからず。宮が愛か、某(なにがし)の帝(みかど)の冠(かむり)を飾れると聞く世界無双(ぶそう)の大金剛石(だいこんごうせき)をもて購(あがな)はんとすとも、争(いか)でか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥(おでい)の中(うち)に輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを抱(いだ)きて、この世の渾(すべ)て穢れたるを忘れん。
貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨(うらめ)しとは思ひつつも、枉(ま)げてさあらぬ体(てい)に聴きゐたるなりけり。
「それで、この話は宮(みい)さんも知つてゐるのですか」
「薄々(うすうす)は知つてゐる」
「では未(ま)だ宮(みい)さんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、一寸(ちよつと)聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様(おとつさん)や御母様(おつかさん)の宜(よろし)いやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、漸(やうや)く得心がいつたのだ」
断じて詐(いつはり)なるべしと思ひながらも、貫一の胸は跳(をど)りぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。私(わし)の今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。悉(くはし)い事は何(いづ)れ又寛緩(ゆつくり)話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々(いろいろ)考へて置くが可(い)いの」
「はい」 
第七章
熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸(やうや)く一月の半(なかば)を過ぎぬるに、梅林(ばいりん)の花は二千本の梢(こずゑ)に咲乱れて、日に映(うつろ)へる光は玲瓏(れいろう)として人の面(おもて)を照し、路(みち)を埋(うづ)むる幾斗(いくと)の清香(せいこう)は凝(こ)りて掬(むす)ぶに堪(た)へたり。梅の外(ほか)には一木(いちぼく)無く、処々(ところどころ)の乱石の低く横(よこた)はるのみにて、地は坦(たひらか)に氈(せん)を鋪(し)きたるやうの芝生(しばふ)の園の中(うち)を、玉の砕けて迸(ほとばし)り、練(ねりぎぬ)の裂けて飜(ひるがへ)る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は麗(うららか)に霽(は)れたる空を攅(さ)してその頂(いただき)に方(あた)りて懶(ものう)げに懸(かか)れる雲は眠(ねむ)るに似たり。習(そよ)との風もあらぬに花は頻(しきり)に散りぬ。散る時に軽(かろ)く舞ふを鶯(うぐひす)は争ひて歌へり。
宮は母親と連立ちて入来(いりきた)りぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几(しようぎ)を据ゑたる木(こ)の下(もと)を指して緩(ゆる)く歩めり。彼の病は未(いま)だ快からぬにや、薄仮粧(うすげしやう)したる顔色も散りたる葩(はなびら)のやうに衰へて、足の運(はこび)も怠(たゆ)げに、動(とも)すれば頭(かしら)の低(た)るるを、思出(おもひいだ)しては努めて梢を眺(なが)むるなりけり。彼の常として物案(ものあんじ)すれば必ず唇(くちびる)を咬(か)むなり。彼は今頻(しきり)に唇を咬みたりしが、
「御母(おつか)さん、どうしませうねえ」
いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に転(うつ)りぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発(はじめ)にお前が適(い)きたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも貫一(かんいつ)さんの事が気になつて。御父(おとつ)さんはもう貫一さんに話を為(な)すつたらうか、ねえ御母(おつか)さん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから若(も)し適(ゆ)くのなら、もう逢(あ)はずに直(ずつ)と行つて了(しま)ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
声は低くなりて、美き目は湿(うるほ)へり。彼は忘れざるべし、その涙を拭(ぬぐ)へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適(い)きたいとお言ひなのだえ。さう何時(いつ)までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経(た)てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然(しつかり)極(き)めなくては可(い)けないよ。お前が可厭(いや)なものを無理にお出(いで)といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
「可(い)いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ度(たび)に、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強(し)ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お父(とつ)さんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方(あちら)へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合(しあはせ)と云ふものだから、其処(そこ)を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切(おもひきり)が好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり遇(あ)はずに行くなんて、それはお前却(かへ)つて善くないから、矢張(やつぱり)逢つて、丁(ちやん)と話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来(ゆきかよひ)をしなければならないのだもの。
いづれ今日か明日(あした)には御音信(おたより)があつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
宮は牀几(しようぎ)に倚(よ)りて、半(なかば)は聴き、半は思ひつつ、膝(ひざ)に散来る葩(はなびら)を拾ひては、おのれの唇に代へて連(しきり)に咬砕(かみくだ)きぬ。鶯(うぐひす)の声の絶間を流の音は咽(むせ)びて止まず。
宮は何心無く面(おもて)を挙(あぐ)るとともに稍(やや)隔てたる木(こ)の間隠(まがくれ)に男の漫行(そぞろあるき)する姿を認めたり。彼は忽(たちま)ち眼(まなこ)を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮(さへぎ)る隙(ひま)を縫ひつつ、姑(しばら)くその影を逐(お)ひたりしが、遂(つひ)に誰(たれ)をや見出(みいだ)しけん。慌忙(あわただし)く母親にささやけり。彼は急に牀几を離れて五六歩(いつあしむあし)進行(すすみゆ)きしが、彼方(あなた)よりも見付けて、逸早(いちはや)く呼びぬ。
「其処(そこ)に御出(おいで)でしたか」
その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉(ひとし)く、恐れたる風情(ふぜい)にて牀几の端(はし)に竦(すくま)りつ。
「はい、唯今(ただいま)し方(がた)参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
母はかく挨拶(あいさつ)しつつ彼を迎へて立てり。宮は其方(そなた)を見向きもやらで、彼の急足(いそぎあし)に近(ちかづ)く音を聞けり。
母子(おやこ)の前に顕(あらは)れたる若き紳士は、その誰(たれ)なるやを説かずもあらなん。目覚(めざまし)く大(おほい)なる金剛石(ダイアモンド)の指環を輝かせるよ。柄(にぎり)には緑色の玉(ぎよく)を獅子頭(ししがしら)に彫(きざ)みて、象牙(ぞうげ)の如く瑩潤(つややか)に白き杖(つゑ)を携へたるが、その尾(さき)をもて低き梢の花を打落し打落し、
「今お留守へ行きまして、此処(ここ)だといふのを聞いて追懸(おつか)けて来た訳です。熱いぢやないですか」
宮はやうやう面(おもて)を向けて、さて淑(しとやか)に起ちて、恭(うやうやし)く礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでも倨(おご)り高(たかぶ)るを忘れざりき。その張りたる腮(あぎと)と、への字に結べる薄唇(うすくちびる)と、尤異(けやけ)き金縁(きんぶち)の目鏡(めがね)とは彼が尊大の風に尠(すくな)からざる光彩を添ふるや疑(うたがひ)無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。真(ほん)に今日(こんにち)はお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」
母は牀几を払へば、宮は路(みち)を開きて傍(かたはら)に佇(たたず)めり。
「貴方(あなた)がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方(こちら)の塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分忙(せはし)い体(からだ)、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、翌(あす)の朝立たなければならんのであります」
「おや、それは急な事で」
「貴方がたも一所(いつしよ)にお立ちなさらんか」
彼は宮の顔を偸視(ぬすみみ)つ。宮は物言はん気色(けしき)もなくて又母の答へぬ。
「はい、難有(ありがた)う存じます」
「それとも未(ま)だ御在(おいで)ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の難(わけ)は無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家(ゐなかや)を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩(ゆつくり)遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
宮は笑(ゑみ)を含みて言はざるを、母は傍(かたはら)より、
「これはもう遊ぶ事なら嫌(きらひ)はございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは以後(これから)盛(さかん)にお遊(あす)びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京(さいきよう)でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌(おきらひ)ですか、ははあ。船が平気だと、支那(しな)から亜米利加(アメリカ)の方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山(ゆさん)に行(ある)いたところで知れたもの。どんなに贅沢(ぜいたく)を為たからと云つて」
「御帰(おかへり)になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下(いでくだ)さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは全(まる)で為方(しかた)が無い! こんな若い野梅(のうめ)、薪(まき)のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も凄(すさまし)い。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走(ごちそう)を為ますよ。お宮さんは何が所好(すき)ですか、ええ、一番所好なものは?」
彼は陰(ひそか)に宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞(はづか)しげに打笑(うちゑ)めり。
「で、何日(いつ)御帰でありますか。明朝(あした)一所に御発足(おたち)にはなりませんか。此地(こつち)にさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、難有(ありがた)うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日内(うち)には音信(たより)がございます筈(はず)で、その音信(たより)を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
唯継は例の倨(おご)りて天を睨(にら)むやうに打仰(うちあふ)ぎて、杖の獅子頭(ししがしら)を撫廻(なでまは)しつつ、少時(しばらく)思案する体(てい)なりしが、やをら白羽二重(しろはぶたへ)のハンカチイフを取出(とりいだ)して、片手に一揮(ひとふり)揮(ふ)るよと見れば鼻(はな)を拭(ぬぐ)へり。菫花(ヴァイオレット)の香(かをり)を咽(むせ)ばさるるばかりに薫(くん)じ遍(わた)りぬ。
宮も母もその鋭き匂(にほひ)に驚けるなり。
「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿(つ)いて、田圃(たんぼ)の方を。私未(ま)だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分跡程(みち)が有るから、貴方(あなた)は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良(わるい)のだから散歩は極(きは)めて薬、これから行つて見ませう、ねえ」
彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい。難有(ありがた)うございます。お前お供をお為(し)かい」
宮の遅(ためら)ふを見て、唯継は故(ことさら)に座を起(た)てり。
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう因循(いんじゆん)してゐては可(い)けない」
つと寄りて軽(かろ)く宮の肩を拊(う)ちぬ。宮は忽(たちま)ち面(おもて)を紅(あか)めて、如何(いか)にとも為(せ)ん術(すべ)を知らざらんやうに立惑(たちまど)ひてゐたり。母の前をも憚(はばか)らぬ男の馴々(なれなれ)しさを、憎しとにはあらねど、己(おのれ)の仂(はした)なきやうに慙(は)づるなりけり。
得も謂(い)はれぬその仇無(あどな)さの身に浸遍(しみわた)るに堪(た)へざる思は、漫(そぞろ)に唯継の目の中(うち)に顕(あらは)れて異(あやし)き独笑(ひとりゑみ)となりぬ。この仇無(あどな)きいとしらしき、美き娘の柔(やはらか)き手を携へて、人無き野道の長閑(のどか)なるを語(かたら)ひつつ行かば、如何(いか)ばかり楽からんよと、彼ははや心も空(そら)になりて、
「さあ、行つて見ませう。御母(おつか)さんから御許(おゆるし)が出たから可いではありませんか、ねえ、貴方(あなた)、宜(よろし)いでありませう」
母は宮の猶羞(なほは)づるを見て、
「お前お出(いで)かい、どうお為(し)だえ」
「貴方、お出かいなどと有仰(おつしや)つちや可けません。お出なさいと命令を為(な)すつて下さい」
宮も母も思はず笑へり。唯継も後(おく)れじと笑へり。
又人の入来(いりく)る気勢(けはひ)なるを宮は心着きて窺(うかが)ひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに忙(せはし)く踏立つる足音なりき。
「ではお前(まい)お供をおしな」
「さあ、行きませう。直(ぢき)其処(そこ)まででありますよ」
宮は小(ちひさ)き声して、
「御母(おつか)さんも一処に御出(おいで)なさいな」
「私かい、まあお前お供をおしな」
母親を伴ひては大いに風流ならず、頗(すこぶ)る妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれを防がんと、
「いや、御母さんには却(かへ)つて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可けますまい。実際貴方には切(た)つてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴女が可厭(いや)だつたら直(すぐ)に帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に騙(だま)されたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」
この時忙(せは)しげに聞えし靴音ははや止(や)みたり。人は出去(いでさ)りしにあらで、七八間彼方(あなた)なる木蔭に足を停(とど)めて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方(こなた)の三人(みたり)は誰(たれ)も知らず。彳(たたず)める人は高等中学の制服の上に焦茶の外套(オバコオト)を着て、肩には古りたる象皮の学校鞄(かばん)を掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
再び靴音は高く響きぬ。その驟(にはか)なると近きとに驚きて、三人(みたり)は始めて音する方(かた)を見遣(みや)りつ。
花の散りかかる中を進来(すすみき)つつ学生は帽を取りて、
「姨(をば)さん、参りましたよ」
母子(おやこ)は動顛(どうてん)して殆(ほとん)ど人心地(ひとごこち)を失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず呆(あき)れ果てたる目をば空(むなし)くみはりて、少時(しばし)は石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあらんより忽(たちま)ち消えてこの土と成了(なりをは)らんことの、せめて心易(こころやす)さを思ひつつ、その淡白(うすじろ)き唇(くちびる)を啖裂(くひさ)かんとすばかりに咬(か)みて咬みて止(や)まざりき。
想ふに彼等の驚愕(おどろき)と恐怖(おそれ)とはその殺せし人の計らずも今生きて来(きた)れるに会へるが如きものならん。気も不覚(そぞろ)なれば母は譫語(うはごと)のやうに言出(いひいだ)せり。
「おや、お出(いで)なの」
宮は些少(わづか)なりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと冀(ねが)へる如く、木蔭(こかげ)に身を側(そば)めて、打過(うちはず)む呼吸(いき)を人に聞かれじとハンカチイフに口元を掩(おほ)ひて、見るは苦(くるし)けれども、見ざるも辛(つら)き貫一の顔を、俯(ふ)したる額越(ひたひごし)に窺(うかが)ひては、又唯継の気色(けしき)をも気遣(きづか)へり。
唯継は彼等の心々にさばかりの大波瀾(だいはらん)ありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の食客(しよくかく)の来(きた)れるよと、例の金剛石(ダイアモンド)の手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐ腮(あぎと)を張れり。
貫一は今回(こたび)の事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞ犇(ひし)と言はん、今は姑(しばら)く色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう鎮(しづ)めて、苦(くるし)き笑顔(ゑがほ)を作りてゐたり。
「宮(みい)さんの病気はどうでございます」
宮は耐(たま)りかねて窃(ひそか)にハンカチイフを咬緊(かみし)めたり。
「ああ、大きに良いので、もう二三日内(うち)には帰らうと思つてね。お前さん能(よ)く来られましたね。学校の方は?」
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日(あす)明後日(あさつて)と休課(やすみ)になつたものですから」
「おや、さうかい」
唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、過(あやま)ちて野中の古井(ふるゐ)に落ちたる人の、沈みも果てず、上(あが)りも得為(えせ)ず、命の綱と危(あやふ)くも取縋(とりすが)りたる草の根を、鼠(ねずみ)の来(きた)りて噛(か)むに遭(あ)ふと云へる比喩(たとへ)に最能(いとよ)く似たり。如何(いか)に為べきかと或(あるひ)は懼(おそ)れ、或は惑ひたりしが、終(つひ)にその免(まぬが)るまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、甚(はなは)だ勝手がましうございますが、私等(ども)はこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」
「ははあ、それでは何でありますか、明朝(あす)は御一所に帰れるやうな都合になりますな」
「はい、話の模様に因(よ)りましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷(や)めます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下(いでくだ)さいよ。宜(よろし)いですか、お宮さん、それでは後にきつとお出(いで)なさいよ。誠に今日は残念でありますな」
彼は行かんとして、更に宮の傍(そば)近く寄来(よりき)て、
「貴方(あなた)、きつと後(のち)にお出(いで)なさいよ、ええ」
貫一は瞬(まばたき)も為(せ)で視(み)てゐたり。宮は窮して彼に会釈さへ為(し)かねつ。娘気の可羞(はづかしさ)にかくあるとのみ思へる唯継は、益(ますます)寄添ひつつ、舌怠(したたる)きまでに語(ことば)を和(やはら)げて、
「宜(よろし)いですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
貫一の眼(まなこ)は燃ゆるが如き色を作(な)して、宮の横顔を睨着(ねめつ)けたり。彼は懼(おそ)れて傍目(わきめ)をも転(ふ)らざりけれど、必ずさあるべきを想ひて独(ひと)り心を慄(をのの)かせしが、猶(なほ)唯継の如何(いか)なることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には幾許(いかばかり)の幸(さいはひ)なりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容(い)れず、唯あくまでもいとしき宮に心を遺(のこ)して行けり。
その後影(うしろかげ)を透(とほ)すばかりに目戍(まも)れる貫一は我を忘れて姑(しばら)く佇(たたず)めり。両個(ふたり)はその心を測りかねて、言(ことば)も出(い)でず、息をさへ凝して、空(むなし)く早瀬の音の聒(かしまし)きを聴くのみなりけり。
やがて此方(こなた)を向きたる貫一は、尋常(ただ)ならず激して血の色を失へる面上(おもて)に、多からんとすれども能(あた)はずと見ゆる微少(わづか)の笑(ゑみ)を漏して、
「宮(みい)さん、今の奴(やつ)はこの間の骨牌(かるた)に来てゐた金剛石(ダイアモンド)だね」
宮は俯(うつむ)きて唇を咬みぬ。母は聞かざる為(まね)して、折しも啼(な)ける鶯(うぐひす)の木(こ)の間(ま)を窺(うかが)へり。貫一はこの体(てい)を見て更に嗤笑(あざわら)ひつ。
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に気障(きざ)な奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきの面(つら)は!」
「貫一さん」母は卒(にはか)に呼びかけたり。
「はい」
「お前さん翁(をぢ)さんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口(あつこう)などを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥(くたびれ)だらうから、お湯にでも入つて、さうして未(ま)だ御午餐(おひる)前なのでせう」
「いえ、汽車の中で鮨(すし)を食べました」
三人(みたり)は倶(とも)に歩始(あゆみはじ)めぬ。貫一は外套(オバコオト)の肩を払はれて、後(うしろ)を捻向(ねぢむ)けば宮と面(おもて)を合せたり。
「其処(そこ)に花が粘(つ)いてゐたから取つたのよ」
「それは難有(ありがた)う!!!」 
第八章
打霞(うちかす)みたる空ながら、月の色の匂滴(にほひこぼ)るるやうにして、微白(ほのじろ)き海は縹渺(ひようびよう)として限を知らず、譬(たと)へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠(ねむ)げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙(しようよう)せるは貫一と宮となりけり。
「僕は唯(ただ)胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
五歩六歩(いつあしむあし)行きし後宮はやうやう言出でつ。
「堪忍(かんにん)して下さい」
「何も今更謝(あやま)ることは無いよ。一体今度の事は翁(をぢ)さん姨(をば)さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可(い)いのだから」
「…………」
「此地(こつち)へ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡(りようけん)のあるべき筈(はず)は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間(なか)で、知れきつた話だ。
昨夜(ゆふべ)翁さんから悉(くはし)く話があつて、その上に頼むといふ御言(おことば)だ」
差含(さしぐ)む涙に彼の声は顫(ふる)ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体(からだ)は火水(ひみづ)の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして遣(や)るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児(みなしご)でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
貫一は蹈留(ふみとどま)りて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣(きづかは)しげにその顔を差覗(さしのぞ)きぬ。
「堪忍して下さいよ、皆(みんな)私が……どうぞ堪忍して下さい」
貫一の手に縋(すが)りて、忽(たちま)ちその肩に面(おもて)を推当(おしあ)つると見れば、彼も泣音(なくね)を洩(もら)すなりけり。波は漾々(ようよう)として遠く烟(けむ)り、月は朧(おぼろ)に一湾の真砂(まさご)を照して、空も汀(みぎは)も淡白(うすじろ)き中に、立尽せる二人の姿は墨の滴(したた)りたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、これは一方には翁(をぢ)さんが僕を説いて、お前さんの方は姨(をば)さんが説得しやうと云ふので、無理に此処(ここ)へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々(はいはい)と言つて聞いてゐたけれど、宮(みい)さんは幾多(いくら)でも剛情を張つて差支(さしつかへ)無いのだ。どうあつても可厭(いや)だとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて了(しま)ふのだ。僕が傍(そば)に居ると智慧(ちゑ)を付けて邪魔を為(す)ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計(はかりごと)だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜(ゆふべ)は夜一夜(よつぴて)寐(ね)はしない、そんな事は万々(ばんばん)有るまいけれど、種々(いろいろ)言はれる為に可厭(いや)と言はれない義理になつて、若(もし)や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家(うち)は学校へ出る積(つもり)で、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処(どこ)に在る!! 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知(し)……知……知らなかつた」
宮は可悲(かなしさ)と可懼(おそろしさ)に襲はれて少(すこし)く声さへ立てて泣きぬ。
憤(いかり)を抑(おさ)ふる貫一の呼吸は漸(やうや)く乱れたり。
「宮(みい)さん、お前は好くも僕を欺いたね」
宮は覚えず慄(をのの)けり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
「余(あんま)り邪推が過ぎるわ、余り酷(ひど)いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
泣入る宮を尻目に挂(か)けて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為(せ)んよ。
お前が得心せんものなら、此地(ここ)へ来るに就いて僕に一言(いちごん)も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来(よこ)すが可いぢやないか。出抜(だしぬ)いて家を出るばかりか、何の便(たより)も為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈(てはず)になつてゐたのだ。或(あるひ)は一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦(かんぷ)だよ。姦通(かんつう)したも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、余(あんま)りだわ、余りだわ」
彼は正体も無く泣頽(なきくづ)れつつ、寄らんとするを貫一は突退(つきの)けて、
「操(みさを)を破れば奸婦ぢやあるまいか」
「何時(いつ)私が操を破つて?」
「幾許(いくら)大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻(さい)が操を破る傍(そば)に付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ歴(れき)とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所(よそ)の男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処(どこ)に在る?」
「さう言はれて了(しま)ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等(わたしたち)が此地(こつち)に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
宮はその唇(くちびる)に釘(くぎ)打たれたるやうに再び言(ことば)は出(い)でざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず過(あやまち)を悔い、罪を詫(わ)びて、その身は未(おろ)か命までも己(おのれ)の欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰(こころひそか)に望みたりしならん。如何(いか)にぞや、彼は露ばかりもさせる気色(けしき)は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変(こころがはり)を、貫一はなかなか信(まこと)しからず覚ゆるまでに呆(あき)れたり。
宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛(いとをし)みし人は芥(あくた)の如く我を悪(にく)めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤(いかり)は彼の胸を劈(つんざ)きて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を啖(くら)ひて、この熱膓(ねつちよう)を冷(さま)さんとも思へり。忽(たちま)ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪(えた)へずして尻居に僵(たふ)れたり。
宮は見るより驚く遑(いとま)もあらず、諸共(もろとも)に砂に塗(まび)れて掻抱(かきいだ)けば、閉ぢたる眼(まなこ)より乱落(はふりお)つる涙に浸れる灰色の頬(ほほ)を、月の光は悲しげに彷徨(さまよ)ひて、迫れる息は凄(すさまし)く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後(うしろ)より取縋(とりすが)り、抱緊(いだきし)め、撼動(ゆりうごか)して、戦(をのの)く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇(ねんごろ)に拭(ぬぐ)ひたり。
「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処(どこ)でこの月を見るのだか! 再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後(のち)の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
宮は挫(ひし)ぐばかりに貫一に取着きて、物狂(ものぐるはし)う咽入(むせびい)りぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚(なか)の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余(あんま)り言難(いひにく)い事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言(たつたひとこと)いひたいのは、私は貴方(あなた)の事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰(ゆ)くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も少(すこ)し辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、狼狽(うろた)へてくだらんことを言ふな。食ふに窮(こま)つて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に帰(ゆ)くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処(そこ)の一人娘ぢやないか、さうして婿まで極(きま)つてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰(ゆ)かなければならんのだ。天下にこれくらゐ理(わけ)の解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に帰(ゆ)くべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰(ゆ)かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件(ふたつ)の外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要(い)らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それは余(あんま)りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山が財(かね)があるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
翁(をぢ)さん姨(をば)さんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方(ほう)は幾許(いくら)もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊(ぶちこは)して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適(い)つて見る気は有るのかい」
貫一の眼(まなこ)はその全身の力を聚(あつ)めて、思悩める宮が顔を鋭く打目戍(うちまも)れり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息(ためいき)したり。
「宜(よろし)い、もう宜い。お前の心は能く解つた」
今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按(うちあん)じつつも、彼は乱るる胸を寛(ゆる)うせんが為に、強(し)ひて目を放ちて海の方(かた)を眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は傍(かたはら)に在らずして、六七間後(あと)なる波打際(なみうちぎは)に面(おもて)を掩(おほ)ひて泣けるなり。
可悩(なやま)しげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、びようびようたる海の端(はし)の白く頽(くづ)れて波と打寄せたる、艶(えん)に哀(あはれ)を尽せる風情(ふぜい)に、貫一は憤(いかり)をも恨をも忘れて、少時(しばし)は画を看(み)る如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
彼は頭(かしら)を低(た)れて足の向ふままに汀(みぎは)の方(かた)へ進行きしが、泣く泣く歩来(あゆみきた)れる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は些(ちつと)も泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
殆(ほとん)ど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、財(かね)なのだね。如何(いか)に何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相(あいそう)は尽きないかい。
好(い)い出世をして、さぞ栄耀(えよう)も出来て、お前はそれで可からうけれど、財(かね)に見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂(い)はうか、口惜(くちをし)いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺(さしころ)して――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。それを怺(こら)へてお前を人に奪(とら)れるのを手出しも為(せ)ずに見てゐる僕の心地(こころもち)は、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければ他(ひと)はどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の居候(ゐさふらふ)でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾(をとこめかけ)になつた覚(おぼえ)は無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物(なぐさみもの)にしたのだね。平生(へいぜい)お前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の意(つもり)で、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何の楽(たのしみ)も無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。
それは無論金力の点では、僕と富山とは比較(くらべもの)にはならない。彼方(あつち)は屈指の財産家、僕は固(もと)より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して財(かね)で買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
己(おのれ)の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を有(も)つてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、寧(むし)ろ害になり易(やす)い、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。
然し財(かね)といふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人に勝(すぐ)れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分甚(ひど)い事も為るのだ。それを考へれば、お前が偶然(ふつと)気の変つたのも、或(あるひ)は無理も無いのだらう。からして僕はそれは咎(とが)めない、但(ただ)もう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかと謂(い)ふことを。
雀(すずめ)が米を食ふのは僅(わづ)か十粒(とつぶ)か二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前に餒(ひもじ)い思を為せるやうな、そんな意気地(いくぢ)の無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
貫一は雫(しづく)する涙を払ひて、
「お前が富山へ嫁(ゆ)く、それは立派な生活をして、栄耀(えよう)も出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ招(よば)れて行く人もあれば、自分の妻子(つまこ)を車に載せて、それを自分が挽(ひ)いて花見に出掛ける車夫もある。富山へ嫁(ゆ)けば、家内も多ければ人出入(ひとでいり)も、劇(はげ)しし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気を傷(いた)めながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何を楽(たのしみ)に生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く費(つか)へるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に頼(よ)るで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万の財(かね)が有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人外(おもて)に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似(まね)をして、妻は些(ほん)の床の置物にされて、謂(い)はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、苦(くるしみ)ばかりで楽(たのしみ)は無いと謂つて可い。お前の嫁(ゆ)く唯継だつて、固(もと)より所望(のぞみ)でお前を迎(もら)ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、財(かね)が有るから好きな真似も出来る、他(ほか)の楽(たのしみ)に気が移つて、直(ぢき)にお前の恋は冷(さま)されて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地(こころもち)を考へて御覧、あの富山の財産がその苦(くるしみ)を拯(すく)ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれで楽(たのしみ)かい、満足かい。
僕が人にお前を奪(と)られる無念は謂(い)ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変(こころがはり)をした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀(かあい)さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
僕に飽きて富山に惚(ほ)れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは過(あやま)つてゐる、それは実に過(あやま)つてゐる、愛情の無い結婚は究竟(つまり)自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別(ふんべつ)一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便(ふびん)だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直(しなお)してくれないか。
七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨(うらやまし)いとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛(かはゆ)くは思はんのかい」
 彼は危(あやふ)きを拯(すく)はんとする如く犇(ひし)と宮に取着きて匂滴(にほひこぼ)るる頸元(えりもと)に沸(に)ゆる涙を濺(そそ)ぎつつ、蘆(あし)の枯葉の風に揉(もま)るるやうに身を顫(ふるは)せり。宮も離れじと抱緊(いだきし)めて諸共(もろとも)に顫ひつつ、貫一が臂(ひぢ)を咬(か)みて咽泣(むせびなき)に泣けり。
「嗚呼(ああ)、私はどうしたら可からう! 若し私が彼方(あつち)へ嫁(い)つたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」
木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや断然(いよいよ)お前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、膓(はらわた)の腐つた女! 姦婦(かんぷ)!!」
その声とともに貫一は脚(あし)を挙げて宮の弱腰をはたとけたり。地響して横様(よこさま)に転(まろ)びしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為(えせ)ず弱々(よわよわ)と僵(たふ)れたるを、なほ憎さげに見遣(みや)りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹(いつぴき)はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了(しま)ふのだ。学問も何ももう廃(やめ)だ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖(くら)つて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一の面(つら)を好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた翁(をぢ)さん姨(をば)さんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細(しさい)あつて貫一はこのまま長の御暇(おいとま)を致しますから、随分お達者で御機嫌(ごきげん)よろしう……宮(みい)さん、お前から好くさう言つておくれ、よ、若(も)し貫一はどうしたとお訊(たづ)ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方(ゆくへ)知れずになつて了つたと……」
宮はやにはに蹶起(はねお)きて、立たんと為れば脚の痛(いたみ)に脆(もろ)くも倒れて効無(かひな)きを、漸(やうや)く這寄(はひよ)りて貫一の脚に縋付(すがりつ)き、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方(あなた)これから何(ど)……何処(どこ)へ行くのよ」
貫一はさすがに驚けり、宮が衣(きぬ)の披(はだ)けて雪(ゆき)可羞(はづかし)く露(あらは)せる膝頭(ひざがしら)は、夥(おびただし)く血に染みて顫ふなりき。
「や、怪我(けが)をしたか」
寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
「話が有(あ)ればここで聞かう」
「ここぢや私は可厭(いや)よ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
「剛情張ると蹴飛(けとば)すぞ」
「蹴られても可いわ」
貫一は力を極(きは)めて振断(ふりちぎ)れば、宮は無残に伏転(ふしまろ)びぬ。
「貫一さん」
「貫一ははや幾間を急行(いそぎゆ)きたり。宮は見るより必死と起上りて、脚の傷(いたみ)に幾度(いくたび)か仆(たふ)れんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺(いひのこ)した事がある」
遂(つひ)に倒れし宮は再び起(た)つべき力も失せて、唯声を頼(たのみ)に彼の名を呼ぶのみ。漸(やうや)く朧(おぼろ)になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶(みもだえ)して猶(なほ)呼続けつ。やがてその黒き影の岡の頂(いただき)に立てるは、此方(こなた)を目戍(まも)れるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も遙(はるか)に来りぬ。
「宮(みい)さん!」
「あ、あ、あ、貫一(かんいつ)さん!」
首を延べてみまはせども、目をみはりて眺むれども、声せし後(のち)は黒き影の掻消(かきけ)す如く失(う)せて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。
宮は再び恋(こひし)き貫一の名を呼びたりき。 
中編 

 

第一章
新橋停車場(しんばしステエション)の大時計は四時を過(すぐ)ること二分余(よ)、東海道行の列車は既に客車の扉(とびら)を鎖(さ)して、機関車に烟(けふり)を噴(ふか)せつつ、三十余輛(よりよう)を聯(つら)ねて蜿蜒(えんえん)として横(よこた)はりたるが、真承(まうけ)の秋の日影に夕栄(ゆふばえ)して、窓々の硝子(ガラス)は燃えんとすばかりに耀(かがや)けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚(わめ)くを余所(よそ)に、大蹈歩(だいとうほ)の寛々(かんかん)たる老欧羅巴(エウロッパ)人は麦酒樽(ビイルだる)を窃(ぬす)みたるやうに腹突出(つきいだ)して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘(ゑひがさ)の柄(え)に橙(オレンジ)色のリボンを飾りたるを小脇(こわき)にせると推並(おしなら)び、おのれが乗物の顔して急ぐ気色(けしき)も無く過(すぐ)る後より、蚤取眼(のみとりまなこ)になりて遅れじと所体頽(しよたいくづ)して駈来(かけく)る女房の、嵩高(かさだか)なる風呂敷包を抱(いだ)くが上に、四歳(よつ)ほどの子を背負ひたるが、何処(どこ)の扉も鎖したるに狼狽(うろた)ふるを、車掌に強曳(しよぴか)れて漸(やうや)く安堵(あんど)せる間(ま)も無く、青洟垂(あをばなたら)せる女の子を率ゐて、五十余(あまり)の老夫(おやぢ)のこれも戸惑(とまどひ)して往(ゆ)きつ復(もど)りつせし揚句(あげく)、駅夫に曳(ひか)れて室内に押入れられ、如何(いか)なる罪やあらげなく閉(た)てらるる扉に袂(たもと)を介(はさ)まれて、もしもしと救(すくひ)を呼ぶなど、未(いま)だ都を離れざるにはや旅の哀(あはれ)を見るべし。
五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅(かたすみ)に円居(まどゐ)して、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる扮装(いでたち)にて、紋付の袷羽織(あはせはおり)を着たるもあれば、精縷(セル)の背広なるもあり、袴(はかま)着けたるが一人、大島紬(おほしまつむぎ)の長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別(せんべつ)の瓶(びん)、凾(はこ)などを網棚(あみだな)の上に片附けて、その手を摩払(すりはら)ひつつ窓より首を出(いだ)して、停車場(ステエション)の方(かた)をば、求むるものありげに望見(のぞみみ)たりしが、やがて藍(あゐ)の如き晩霽(ばんせい)の空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟(あまかす)」
黒餅(こくもち)に立沢瀉(たちおもだか)の黒紬(くろつむぎ)の羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑を洩(もら)せり。甘糟と呼れたるは、茶柳条(ちやじま)の仙台平(せんだいひら)の袴を着けたる、この中にて独(ひと)り頬鬚(ほほひげ)の厳(いかめし)きを蓄(たくは)ふる紳士なり。
甘糟の答ふるに先(さきだ)ちて、背広の風早(かざはや)は若きに似合はぬ皺嗄声(しわがれごゑ)を振搾(ふりしぼ)りて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
「馬鹿言へ。甘糟の痒(かゆ)きに堪(た)へんことを僕は丁(ちやん)と洞察(どうさつ)してをるのだ」
「これは憚様(はばかりさま)です」
大島紬の紳士は黏着(へばりつ)いたるやうに靠(もた)れたりし身を遽(にはか)に起して、
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利(さぶり)と甘糟は夙(かね)て横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間遊仙窟(ゆうせんくつ)を見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに気焔(きえん)を吐く意(つもり)なのさ」
「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたと謂(い)ふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……怪(け)しからん事(こつ)たぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に想遣(おもひや)らるるね。ええ、肩書を辱(はづかし)めん限は遣るも可(よ)からうけれど、注意はしたまへよ、本当に」
この老実の言(げん)を作(な)すは、今は四年(よとせ)の昔間貫一(はざまかんいち)が兄事(けいじ)せし同窓の荒尾譲介(あらおじようすけ)なりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補に挙(あ)げられ、踰えて一年の今日(こんにち)愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。その齢(よはひ)と深慮と誠実との故(ゆゑ)を以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。
「これで僕は諸君へ意見の言納(いひをさめ)じや。願(ねがは)くは君達も宜(よろし)く自重してくれたまへ」
面白く発(はや)りし一座も忽(たちま)ち白(しら)けて、頻(しきり)に燻(くゆ)らす巻莨(まきたばこ)の煙の、急駛(きゆうし)せる車の逆風(むかひかぜ)に扇(あふ)らるるが、飛雲の如く窓を逸(のが)れて六郷川(ろくごうがわ)を掠(かす)むあるのみ。
佐分利は幾数回(あまたたび)頷(うなづ)きて、
「いやさう言れると慄然(ぞつ)とするよ、実は嚮(さつき)停車場(ステエション)で例の『美人(びじ)クリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴啖(とかげくら)ふかと思ふね、毎(いつ)見ても美いには驚嘆する。全(まる)で淑女(レディ)の扮装(いでたち)だ。就中(なかんづく)今日は冶(めか)してをつたが、何処(どこ)か旨(うま)い口でもあると見える。那奴(あいつ)に搾(しぼ)られちや克(かな)はん、あれが本当の真綿で首だらう」
「見たかつたね、それは。夙(かね)て御高名は聞及んでゐる」
と大島紬(おほしまつむぎ)の猶(なほ)続けんとするを遮(さへぎ)りて、甘糟の言へる。
「おお、宝井が退学を吃(く)つたのも、其奴(そいつ)が債権者の重(おも)なる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。黄金(きん)の腕環なんぞ篏(は)めてゐると云ふぢやないか。酷(ひど)い奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら係(かか)つたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、木乃伊(ミイラ)にならんやうに褌(ふんどし)を緊(し)めて掛るが可いぜ」
「誰(たれ)か其奴(そいつ)には尻押(しりおし)が有るのだらう。亭主が有るのか、或(あるひ)は情夫(いろ)か、何か有るのだらう」
皺嗄声(しわがれごゑ)は卒然としてこの問を発せるなり。
「それに就いては小説的の閲歴(ライフ)があるのさ、情夫(いろ)ぢやない、亭主がある、此奴(こいつ)が君、我々の一世紀前(ぜん)に鳴した高利貸(アイス)で、赤樫権三郎(あかがしごんざぶろう)と云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的いん物と来てゐるのだ」
「成程! 積極(しやくきよく)と消極と相触れたので爪(つめ)に火がともる訳だな」
大島紬が得意のまぜかへしに、深沈なる荒尾も已(や)むを得ざらんやうに破顔しつ。
「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女を弄(もてあそ)ぶのが道楽で、此奴(こいつ)の為に汚(けが)された者は随分意外の辺(へん)にも在るさうな。そこで今の『美人(びじ)クリイム』、これもその手に罹(かか)つたので、原(もと)は貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、老猾(おやぢ)この娘を見ると食指大いに動いた訳で、これを俘(とりこ)にしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり仲働(なかばたらき)に貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひ辞(ことわ)りかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾(おやぢ)は六十ばかりの禿顱(はげあたま)の事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな爨妾然(たきざはりぜん)たる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
固唾(かたづ)を嚥(の)みたりし荒尾は思ふところありげに打頷(うちうなづ)きて、
「女といふ者はそんなものじやて」
甘糟はその面(おもて)を振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
佐分利の話を進むる折から、汽車は遽(にはか)に速力を加へぬ。
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
甘「さあ、御順にお膝繰(ひざくり)だ」
佐「荒尾、あの葡萄酒(ぶどうしゆ)を抜かんか、喉(のど)が渇(かわ)いた。これからが佳境に入(い)るのだからね」
甘「中銭(なかせん)があるのは酷(ひど)い」
佐「蒲田(かまだ)、君は好い莨(たばこ)を吃(す)つてゐるぢやないか、一本頂戴(ちようだい)」
甘「いや、図に乗ること。僕は手廻(てまはり)の物を片附けやう」
佐「甘糟、マッチを持つてゐるか」
甘「そら、お出(いで)だ。持参いたしてをりまする仕合(しあはせ)で」
佐分利は居長高(ゐたけだか)になりて、
「些(ちよつ)と点(つ)けてくれ」
葡萄酒の紅(くれなゐ)を啜(すす)り、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利は徐(おもむろ)に語(ことば)を継ぐ、
「所謂(いはゆる)一朶(いちだ)の梨花海棠(りかかいどう)を圧してからに、娘の満枝は自由にされて了(しま)つた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は荐(しき)つて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気(かたぎ)の親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿(はげ)の方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父(おとつ)さん、どうか承知して下さいは、親父益(ますま)す意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相(あいそ)を尽(つか)して、唯(ただ)一人の娘を阿父さん彼自身より十歳(とを)ばかりも老漢(おやぢ)の高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿の寵(ちよう)を得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家(さと)の方へ貢(みつ)ぐと思の外、極(きめ)の給(もの)の外は塵葉(ちりつぱ)一本饋(や)らん。これが又禿の御意(ぎよい)に入つたところで、女め熟(つらつ)ら高利(アイス)の塩梅(あんばい)を見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代(しんだい)我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭(かね)の方が大事、といふ不敵な了簡(りようけん)が出た訳だね」
「驚くべきものじやね」
荒尾は可忌(いまは)しげに呟(つぶや)きて、稍(やや)不快の色を動(うごか)せり。
「そこで、敏捷(びんしよう)な女には違無い、自然と高利(アイス)の呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、何処(どこ)へでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年辺(あたり)から禿は中気が出て未(いま)だに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つで盛(さかん)に商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に薄縁(うすべり)を一板(いちまい)敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな――然(しか)し事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女が独(ひとり)で腕を揮(ふる)つて益す盛に遣(や)つてゐる。これ則(すなは)ち『美人(びじ)クリイム』の名ある所以(ゆゑん)さ。
年紀(とし)かい、二十五だと聞いたが、さう、漸(やうや)う二三とよりは見えんね。あれで可愛(かはゆ)い細い声をして物柔(ものやはらか)に、口数(くちかず)が寡(すくな)くつて巧い言(こと)をいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、書替(かきかへ)だの、手形に願ふのと、急所を衝(つ)く手際(てぎは)の婉曲(えんきよく)に巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心を痿(なや)すかと思ふばかりだ。僕も三度ほど痿(なや)されたが、柔能く剛を制すで、高利貸(アイス)には美人が妙! 那彼(あいつ)に一国を預ければ輙(すなは)ちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
風早は最も興を覚えたる気色(けしき)にて、
「では、今はその禿顱(はげ)は中風(ちゆうふう)で寐(ね)たきりなのだね、一昨年(をととし)から? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、壮(さかん)な女だな」
「余り壮なのは恐れる」
佐分利は頭(かしら)を抑(おさ)へて後様(うしろさま)に靠(もた)れつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕(お)ちて、今はしも連帯一判、取交(とりま)ぜ五口(いつくち)の債務六百四十何円の呵責(かしやく)に膏(あぶら)を取(とら)るる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後(ご)に又二百円、無疵(むきず)なるは風早と荒尾とのみ。
汽車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば笑(ゑま)しげに傍聴したりし横浜商人体(しようにんてい)の乗客は、幸(さいはひ)に無聊(ぶりよう)を慰められしを謝すらんやうに、懇(ねんごろ)に一揖(いつゆう)してここに下車せり。暫(しばら)く話の絶えける間(ひま)に荒尾は何をか打案ずる体(てい)にて、その目を空(むなし)く見据ゑつつ漫語(そぞろごと)のやうに言出(いひい)でたり。
「その後誰(たれ)も間(はざま)の事を聞かんかね」
「間貫一かい」と皺嗄声(しわかれごゑ)は問反(とひかへ)せり。
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸(アイス)の才取(さいとり)とか、手代(てだい)とかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸(アイス)の才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
我が意を得つと謂(い)はんやうに荒尾は頷(うなづ)きて、猶(なほ)も思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級先(さきだ)ちてありければ、間とは相識らざるなりき。
荒「高利貸(アイス)と云ふのはどうも妄(うそ)ぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
彼は忍びやかに太息(ためいき)を泄(もら)せり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然(ぴん)と外眥(めじり)の昂(あが)つた所が目標(めじるし)さ」
蒲「さうして髪(あたま)の癖毛(くせつけ)の具合がな、愛嬌(あいきよう)が有つたぢやないか。デスクの上に頬杖(ほほづゑ)を抂(つ)いて、かう下向になつて何時(いつ)でも真面目(まじめ)に講義を聴いてゐたところは、何処(どこ)かアルフレッド大王に肖(に)てゐたさ」
荒尾は仰ぎて笑へり。
「君は毎(いつ)も妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃(いつぱい)を献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終憶(おも)ひ出すだらうな」
「僕は実際死んだ弟(おとと)よりも間の居らなくなつたのを悲む」
愁然として彼は頭(かしら)を俛(た)れぬ。大島紬は受けたる盃(さかづき)を把(と)りながら、更に佐分利が持てる猪口(ちよく)を借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に一番(ひとつ)間の健康を祝さう」
荒尾の喜は実(げ)に溢(あふ)るるばかりなりき。
「おお、それは辱(かたじけ)ない」
盈々(なみなみ)と酒を容(い)れたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると斉(ひとし)く戞(かつ)と相撃(あひう)てば、紅(くれなゐ)の雫(しづく)の漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息(ひといき)に飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を揺(うごか)して、
「蒲田は如才ないね。面(つら)は醜(まづ)いがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああ言(いは)れて見ると誰(たれ)でも些(ちよつ)と憎くないからね」
甘「遉(さすが)は交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
言(ことば)を改めて荒尾は言出(いひいだ)せり。
「どうも僕は不思議でならんが、停車場(ステエション)で間を見たよ。間に違無いのじや」
唯(ただ)の今(いま)陰ながらその健康を祷(いの)りし蒲田は拍子を抜して彼の面(おもて)を眺(なが)めたり。
「ふう、それは不思議。他(むかふ)は気が着かなんだかい」
「始は待合所の入口(いりくち)の所で些(ちよつ)と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子(ソオフワア)を起つと、もう見えなくなつた。それから有間(しばらく)して又偶然(ふつと)見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場(プラットフォーム)へ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、傍(そば)の柱に僕を見て黒い帽を揮(ふ)つとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
横浜! 横浜! と或(あるひ)は急に、或は緩(ゆる)く叫ぶ声の窓の外面(そとも)を飛過(とびすぐ)るとともに、響は雑然として起り、迸(ほとばし)り出(い)づる、群集(くんじゆ)は玩具箱(おもちやばこ)を覆(かへ)したる如く、場内の彼方(かなた)より轟(とどろ)く鐸(ベル)の音(ね)はこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。
☆ 昨七日(さくなぬか)イ便の葉書にて(飯田町(いいだまち)局消印)美人クリイムの語にフエアクリイム或(あるひ)はベルクリイムの傍訓有度(ぼうくんありたく)との言(げん)を貽(おく)られし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊(いささ)か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は憖(なまじひ)に理詰ならむよりは、出まかせの可笑(をかし)き響あらむこそ可(よ)かめれとバイスクリイムとも思着(おもひつ)きしなり。意(こころ)は美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗(くだくだ)しさを嫌(きら)ひて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、校合者(きようごうしや)の思僻(おもひひが)めてん字(じ)は添へたるなり。陋(いや)しげなるびじクリイムの響の中(うち)には嘲弄(とうろう)の意(こころ)も籠(こも)らむとてなり。なほ高諭(こうゆ)を請(こ)ふ(三〇・九・八附読売新聞より) 
第二章
柵(さく)の柱の下(もと)に在りて帽を揮(ふ)りたりしは、荒尾が言(ことば)の如く、四年の生死(しようし)を詳悉(つまびらか)にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に自(みづから)の影を晦(くらま)し、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略(あらまし)を伺ふことを怠らざりき、こ回(たび)その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所(よそ)ながら暇乞(いとまごひ)もし、二つには栄誉の錦(にしき)を飾れる姿をも見んと思ひて、群集(くんじゆ)に紛れてここには来(きた)りしなりけり。
何(なに)の故(ゆゑ)に間は四年の音信(おとづれ)を絶ち、又何の故にさしも懐(おもひ)に忘れざる旧友と相見て別(べつ)を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自(おのづか)ら解釈せらるべし。
柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独(ひと)り間貫一のみにあらず、そこもとに聚(つど)ひし老若貴賤(ろうにやくきせん)の男女(なんによ)は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、虞(きづか)ふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は一(いつ)なり。数分時の混雑の後車の出(い)づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久(ひさし)う立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の漸(やうや)く踵(きびす)を旋(めぐら)せし時には、推重(おしかさな)るまでに柵際(さくぎは)に聚(つど)ひし衆(ひと)は殆(ほとん)ど散果てて、駅夫の三四人が箒(はうき)を執りて場内を掃除せるのみ。
貫一は差含(さしぐま)るる涙を払ひて、独り後(おく)れたるを驚きけん、遽(にはか)に急ぎて、蓬莱橋口(ほうらいばしぐち)より出(い)でんと、あだかも石段際に寄るところを、誰(たれ)とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
慌(あわ)てて彼の見向く途端に、
「些(ちよつ)と」と戸口より半身を示して、黄金(きん)の腕環の気爽(けざやか)に耀(かがや)ける手なる絹ハンカチイフに唇辺(くちもと)を掩(おほ)いて束髪の婦人の小腰を屈(かが)むるに会へり。艶(えん)なる面(おもて)に得も謂(い)はれず愛らしき笑(ゑみ)をさへ浮べたり。
「や、赤樫(あかがし)さん!」
婦人の笑(ゑみ)もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として眉(まゆ)だに動かさず。
「好(よ)い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、些(ちよつ)と此方(こち)へ」
婦人は内に入れば、貫一も渋々跟(つ)いて入るに、長椅子(ソオフワア)に掛(かく)れば、止む無くその側(そば)に座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅(おぐるめ)の件なのでございますがね」
彼は黒樗文絹(くろちよろけん)の帯の間を捜(さぐ)りて金側時計を取出(とりいだ)し、手早く収めつつ、
「貴方(あなた)どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方(どちら)へかお供を致しませう」
紫紺塩瀬(しほぜ)に消金(けしきん)の口金(くちがね)打ちたる手鞄(てかばん)を取直して、婦人はやをら起上(たちあが)りつ。迷惑は貫一が面(おもて)に顕(あらは)れたり。
「何方(どちら)へ?」
「何方(どちら)でも、私には解りませんですから貴方(あなた)のお宜(よろし)い所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有(おつしや)らずに、私は何方でも宜(よろし)いのでございます」
荒布革(あらめがは)の横長なる手鞄(てかばん)を膝の上に掻抱(かきいだ)きつつ貫一の思案せるは、その宜き方(かた)を択ぶにあらで、倶(とも)に行くをば躊躇(ちゆうちよ)せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭(であひがしら)に、入来(いりく)る者ありて、その足尖(つまさき)を挫(ひし)げよと踏付けられぬ。驚き見れば長高(たけたか)き老紳士の目尻も異(あやし)く、満枝の色香(いろか)に惑ひて、これは失敬、意外の麁相(そそう)をせるなりけり。彼は猶懲(なほこ)りずまにこの目覚(めざまし)き美形(びけい)の同伴をさへ暫(しばら)く目送(もくそう)せり。
二人は停車場(ステエション)を出でて、指す方(かた)も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極(き)めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
満枝は彼の心進まざるを暁(さと)れども、勉(つと)めて吾意(わがい)に従はしめんと念(おも)へば、さばかりの無遇(ぶあしらひ)をも甘んじて、
「それでは、貴方、鰻(うなぎ)は上(あが)りますか」
「鰻? 遣りますよ」
「鶏肉(とり)と何方が宜(よろし)うございます」
「何方でも」
「余り御挨拶(ごあいさつ)ですね」
「何為(なぜ)ですか」
この時貫一は始めて満枝の面(おもて)に眼(まなこ)を移せり。百(もも)の媚(こび)を含みてみむかへし彼の眸(まなじり)は、未(いま)だ言はずして既にその言はんとせる半(なかば)をば語尽(かたりつく)したるべし。彼の為人(ひととなり)を知りて畜生と疎(うと)める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを露(あらは)して片笑(かたゑ)みつつ、
「まあ、何為(なぜ)でも宜うございますから、それでは鶏肉(とり)に致しませうか」
「それも可(い)いでせう」
三十間堀(さんじつけんぼり)に出でて、二町ばかり来たる角(かど)を西に折れて、唯(と)有る露地口に清らなる門構(かどがまへ)して、光沢消硝子(つやけしガラス)の軒燈籠(のきとうろう)に鳥と標(しる)したる方(かた)に、人目にはさぞ解(わけ)あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ辺(あたり)に六畳の隠座敷の板道伝(わたりづたひ)に離れたる一間に案内されしも宜(うべ)なり。
懼(おそ)れたるにもあらず、困(こう)じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色(けしき)にて貫一の容(かたち)さへ可慎(つつま)しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸(おもひか)けざる為体(ていたらく)を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早(いちはや)く満枝が好きに計ひて、少頃(しばし)は言(ことば)無き二人が中に置れたる莨盆(たばこぼん)は子細らしう一ちゆうの百和香(ひやつかこう)を燻(くゆ)らせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰(おつしや)らずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
「嘘(うそ)を有仰(おつしや)いまし」
かくても貫一は膝(ひざ)を崩(くづ)さで、巻莨入(まきたばこいれ)を取出(とりいだ)せしが、生憎(あやにく)一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は先(さきん)じて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
麻蝦夷(あさえぞ)の御主殿持(ごしゆでんもち)とともに薦(すす)むる筒の端(はし)より焼金(やききん)の吸口は仄(ほのか)に耀(かがや)けり。歯は黄金(きん)、帯留は黄金(きん)、指環は黄金(きん)、腕環は黄金(きん)、時計は黄金(きん)、今又煙管(きせる)は黄金(きん)にあらずや。黄金(きん)なる哉(かな)、金(きん)、金(きん)! 知る可(べ)し、その心も金(きん)! と貫一は独(ひと)り可笑(をか)しさに堪(た)へざりき。
「いや、私は日本莨は一向可(い)かんので」
言ひも訖(をは)らぬ顔を満枝は熟(じつ)と視(み)て、
「決(け)して穢(きたな)いのでは御坐いませんけれど、つい心着(こころつ)きませんでした」
懐紙(ふところがみ)を出(いだ)してわざとらしくその吸口を捩拭(ねぢぬぐ)へば、貫一も少(すこし)く慌(あわ)てて、
「決(け)してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をお吐(つ)きなさるなら、もう少し物覚(ものおぼえ)を善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日鰐淵(わにぶち)さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
「瓢箪(ひようたん)のやうな恰好(かつこう)のお煙管で、さうして羅宇(らう)の本(もと)に些(ちよつ)と紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口は頓(とみ)に塞(ふさ)がざりき。満枝は仇無(あどな)げに口を掩(おほ)ひて笑へり。この罰として貫一は直(ただち)に三服の吸付莨を強(し)ひられぬ。
とかくする間(ま)に盃盤(はいばん)は陳(つら)ねられたれど、満枝も貫一も三盃(ばい)を過し得ぬ下戸(げこ)なり。女は清めし猪口(ちよく)を出(いだ)して、
「貴方、お一盞(ひとつ)」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒(ビール)に致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑(すす)めて酌せんとこそあるべきに、甚(はなはだし)い哉、彼の手を束(つか)ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞(ひとつ)お受け下さいましな」
貫一は止む無くその一盞(ひとつ)を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅(おぐるめ)の件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
彼は忽(たちま)ち眉(まゆ)を攅(あつ)めて、
「いやそんなに」
「それでは私が戴(いただ)きませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の外(ほか)に未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げ難(にく)い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様(はばかりさま)ですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふ意(つもり)なのでございますもの」
その媚(こび)ある目の辺(ほとり)は漸(やうや)く花桜の色に染みて、心楽しげに稍(やや)身を寛(ゆるやか)に取成したる風情(ふぜい)は、実(げ)に匂(にほひ)など零(こぼ)れぬべく、熱しとて紺の絹精縷(きぬセル)の被風(ひふ)を脱げば、羽織は無くて、粲然(ぱつ)としたる紋御召の袷(あはせ)に黒樗文絹(くろちよろけん)の全帯(まるおび)、華麗(はなやか)に紅(べに)の入りたる友禅の帯揚(おびあげ)して、鬢(びん)の後(おく)れの被(かか)る耳際(みみぎは)を掻上(かきあ)ぐる左の手首には、早蕨(さわらび)を二筋(ふたすぢ)寄せて蝶(ちよう)の宿れる形(かた)したる例の腕環の爽(さはやか)に晃(きらめ)き遍(わた)りぬ。常に可忌(いまは)しと思へる物をかく明々地(あからさま)に見せつけられたる貫一は、得堪(えた)ふまじく苦(にが)りたる眉状(まゆつき)して密(ひそか)に目をそらしつ。彼は女の貴族的に装(よそほ)へるに反して、黒紬(くろつむぎ)の紋付の羽織に藍千筋(あゐせんすぢ)の秩父銘撰(ちちぶめいせん)の袷着て、白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)も新(あたらし)からず。
彼を識(し)れりし者は定めて見咎(みとが)むべし、彼の面影(おもかげ)は尠(すくな)からず変りぬ。愛らしかりしところは皆失(う)せて、四年(よとせ)に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自(おのづか)ら暗き陰を成してその面(おもて)を蔽(おほ)へり。撓(たゆ)むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色(がんしよく)の表に動けども、嘗(かつ)て宮を見しやうの優き光は再びその眼(まなこ)に輝かずなりぬ。見ることの冷(ひややか)に、言ふことの謹(つつし)めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎(な)るるを憚(はばか)れば、自(みづから)もまた苟(いやしく)も親みを求めざるほどに、同業者は誰(たれ)も誰も偏人として彼を遠(とほざ)けぬ。焉(いづく)んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを怪(あやし)むなりけり。
彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃(さかづき)を重ぬる体(てい)を打目戍(うちまも)れり。
「もう一盞(ひとつ)戴きませうか」
笑(ゑみ)を漾(ただ)ふる眸(まなじり)は微醺(びくん)に彩られて、更に別様の媚(こび)を加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
「貴方(あなた)が止せと仰有(おつしや)るなら私は止します」
「敢(あへ)て止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
答無かりければ、満枝は手酌(てじやく)してその半(なかば)を傾けしが、見る見る頬の麗く紅(くれなゐ)になれるを、彼は手もて掩(おほ)ひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
貫一は聞かざる為(まね)して莨を燻(くゆ)らしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
満枝は嘲(あざけら)むが如く微笑(ほほゑ)みて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に障(さ)へては困りますの。然(しか)し、御酒(ごしゆ)の上で申すのではございませんから、どうぞそのお意(つもり)で、宜(よろし)うございますか」
「撞着(どうちやく)してゐるぢやありませんか」
「まあそんなに有仰(おつしや)らずに、高(たか)が女の申すことでございますから」
こは事難(ことむづかし)うなりぬべし。克(かな)はぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を拱(こまぬ)きつつ俯目(ふしめ)になりて、力(つと)めて関(かかは)らざらんやうに持成(もてな)すを、満枝は擦寄(すりよ)りて、
「これお一盞(ひとつ)で後は決(け)してお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」
貫一は些(さ)の言(ことば)も出(いだ)さでその猪口(ちよく)を受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
「易(やす)い願ですな」と、あはや出(い)でんとせし唇(くちびる)を結びて、貫一は纔(わづか)に苦笑して止みぬ。
「間さん」
「はい」
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に未(ま)だお長くゐらつしやるお意(つもり)なのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
「勿論(もちろん)です」
「さうして、まづ何頃(いつごろ)彼方(あちら)と別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
満枝は忽(たちま)ち声を斂(をさ)めて、物思はしげに差俯(さしうつむ)き、莨盆の縁(ふち)をば弄(もてあそ)べるやうに煙管(きせる)もて刻(きざみ)を打ちてゐたり。折しも電燈の光の遽(にはか)に晦(くら)むに驚きて顔を挙(あぐ)れば、又旧(もと)の如く一間(ひとま)は明(あかる)うなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫(なほしば)し打案じたりしが、
「こんな事を申上げては甚(はなは)だ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方(あちら)にゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方が宜(よろし)いでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸(をこ)がましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
意外に打れたる貫一は箸(はし)を扣(ひか)へて女の顔を屹(き)と視(み)たり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は口籠(くちごも)りたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫(あかがし)に居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
「全然(さつぱり)解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
可恨(うらめ)しげに満枝は言(ことば)を絶ちて、横膝(よこひざ)に莨を拈(ひね)りゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
貫一が飯桶(めしつぎ)を引寄せんとするを、はたと抑(おさ)へて、
「お給仕なれば私致します」
「それは憚様(はばかりさま)です」
満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀(ちやわん)をそれに伏せて、彼方(あなた)の壁際(かべぎは)に推遣(おしや)りたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くて克(かな)はんですから赦(ゆる)して下さい。腹が空いてゐるのですから」
「お餒(ひもじ)いところを御飯を上げませんでは、さぞお辛(つら)うございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、此方(こちら)で思つてゐることが全(まる)で先方(さき)へ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐(はるか)に辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
「返事と言はれたつて、有仰(おつしや)ることの主意が能(よ)く解らんのですもの」
「何故(なぜ)お了解(わかり)になりませんの」
責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた詰(なじ)るが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処(あすこ)を出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
「どうも非常に腹が空(す)いて来ました」
「それとも貴方外(ほか)にお約束でも遊ばした御方がお在(あん)なさるのでございますか」
彼終(つひ)に鋒鋩(ほうぼう)を露(あらは)し来(きた)れるよと思へば、貫一は猶(なほ)解せざる体(てい)を作(な)して、
「妙な事を聞きますね」
と苦笑せしのみにて続く言(ことば)もあらざるに、満枝は図を外(はづ)されて、やや心惑へるなりけり。
「さう云ふやうなお方がお在(あん)なさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」
貫一も今は屹(きつ)と胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
「ああ、お了解(わかり)になりまして?!」
嬉しと心を言へらんやうの気色(けしき)にて、彼の猪口(ちよく)に余(あま)せし酒を一息(ひといき)に飲乾(のみほ)して、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
発(はずみ)に乗せられて貫一は思はず受(うく)ると斉(ひとし)く盈々(なみなみ)注(そそが)れて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜(よろこび)!
「その盃は清めてございませんよ」
一々底意ありて忽諸(ゆるがせ)にすべからざる女の言を、彼はいと可煩(わづらはし)くて持余(もてあま)せるなり。
「お了解(わかり)になりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
僅(わづか)にかく言ひ放ちて貫一は厳(おごそ)かに沈黙しつ。満枝もさすがに酔(ゑひ)を冷(さま)して、彼の気色(けしき)を候(うかが)ひたりしに、例の言寡(ことばすくな)なる男の次いでは言はざれば、
「私もこんな可耻(はづかし)い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
貫一は緩(ゆるや)かに頷(うなづ)けり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々(よくよく)の事でございますから、それに対するだけの理由を有仰(おつしや)つて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
「御尤(ごもつとも)です。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対して裹(つつ)まず自分の考量(かんがへ)をお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、衆(ひと)とは大きに考量が違つてをります。
第一、私は一生妻(さい)といふ者は決(け)して持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷(や)めて、この商売を始めたのは、放蕩(ほうとう)で遣損(やりそこな)つたのでもなければ、敢(あへ)て食窮(くひつ)めた訳でも有りませんので。書生が可厭(いや)さに商売を遣らうと云ふのなら、未だ外(ほか)に幾多(いくら)も好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日(はくじつ)盗(とう)を為(な)すと謂(い)はうか、病人の喉口(のどくち)を干(ほ)すと謂(い)はうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを択(えら)むものですか」
聴居る満枝は益(ますま)す酔(ゑひ)を冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日(こんにち)始めて知つたのではない、知つて身を堕(おと)したのは、私は当時敵手(さき)を殺して自分も死にたかつたくらゐ無念極(きはま)る失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を頼(たのみ)にしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
火影(ひかげ)を避けんとしたる彼の目の中に遽(にはか)に耀(かがや)けるは、なほ新(あらた)なる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に頼少(たのみすくな)い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、原(もと)はと云へば、金銭(かね)からです。仮初(かりそめ)にも一匹(いつぴき)の男子たる者が、金銭(かね)の為に見易(みか)へられたかと思へば、その無念といふものは、私は一(い)……一生忘れられんです。
軽薄でなければ詐(いつはり)、詐でなければ利慾、愛相(あいそ)の尽きた世の中です。それほど可厭(いや)な世の中なら、何為(なぜ)一思(ひとおもひ)に死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が障(さはり)になつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐(ふくしゆう)などは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけは屹(きつ)と霽(はら)さなければ措(お)かん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、全(まる)で発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻の甚(はなはだし)い、殆(ほとん)ど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情を暴(あら)してゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭(かね)ゆゑに売られもすれば、辱(はづかし)められもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを楽(たのしみ)に義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の望(のぞみ)も持たんのです。又考へて見ると、憖(なまじ)ひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方が夐(はる)か頼(たのみ)になりますよ。頼にならんのは人の心です!
先(まづ)かう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰(おつしや)る資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
彼は仰ぎて高笑(たかわらひ)しつつも、その面(おもて)は痛く激したり。
満枝は、彼の言(ことば)の決して譌(いつはり)ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実(げ)にさるべき所見(かんがへ)を懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるが故(ゆゑ)に、心狭くもこの面白き世に偏屈の扉(とびら)を閉ぢて、詐(いつはり)と軽薄と利欲との外なる楽あるを暁(さと)らざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は輙(たやす)く望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌(きらひ)で、総(すべ)ての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別して惚(ほ)れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解(わかり)になりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
今は取付く島も無くて、満枝は暫(しば)し惘然(ぼうぜん)としてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
打萎(うちしを)れつつ満枝は飯(めし)を盛りて出(いだ)せり。
「これは恐入ります」
彼は啖(くら)ふこと傍(かたはら)に人無き若(ごと)し。満枝の面(おもて)は薄紅(うすくれなゐ)になほ酔(ゑひ)は有りながら、酔(よ)へる体(てい)も無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
かく会釈して貫一は三盃目(さんばいめ)を易(か)へつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を啣(ふく)みて遽(にはか)に応(こた)ふる能(あた)はず、唯目を挙(あ)げて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時(しばらく)胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶(ことわり)を受けては、私実に面目(めんぼく)無くて……余(あんま)り悔(くやし)うございますわ」
慌忙(あわただし)くハンカチイフを取りて、片手に恨泣(うらみなき)の目元を掩(おほ)へり。
「面目無くて私、この座が起(たた)れません。間さん、お察し下さいまし」
貫一は冷々(ひややか)に見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は総(すべ)ての人間が嫌なのですから、どうぞ悪(あし)からず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅(おぐるめ)の件に就いてのお話は?」
泣赤(なきあか)めたる目を拭(ぬぐ)ひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでも宜(よろし)うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召(おぼしめ)して下さい。で、お可厭(いや)ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日(いつ)までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
「もつと優(やさし)い言(ことば)をお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
「もつと何とか有仰(おつしや)りやうが有りさうなものではございませんか」
「御志は決(け)して忘れません。これなら宜いでせう」
満枝は物をも言はずつと起ちしが、飜然(ひらり)と貫一の身近に寄添ひて、
「お忘れあそばすな」と言ふさへに力籠(ちからこも)りて、その太股(ふともも)を絶(したた)か撮(つめ)れば、貫一は不意の痛に覆(くつがへ)らんとするを支へつつ横様(よこさま)に振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴して婢(をんな)を呼ぶなりけり。 
第三章
赤坂氷川(あかさかひかわ)の辺(ほとり)に写真の御前(ごぜん)と言へば知らぬ者無く、実(げ)にこの殿の出(い)づるに写真機械を車に積みて随(したが)へざることあらざれば、自(おのづか)ら人目をのがれず、かかる異名(いみよう)は呼るるにぞありける。子細(しさい)を明めずしては、「将棊(しようぎ)の殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき器(うつは)を抱(いだ)きながら、五年を独逸(ドイツ)に薫染せし学者風を喜び、世事を抛(なげう)ちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量を肆(ほしいまま)にすれども、なほ歳(とし)の入るものを計るに正(まさ)に出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春(たづみよしはる)その人なり。
氷川なる邸内には、唐破風造(からはふづくり)の昔を摸(うつ)せる館(たち)と相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造(れんがづくり)の異(あやし)きまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄(すき)にて、独逸に名ある古城の面影(おもかげ)を偲(しの)びてここに象(かたど)れるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに充(あ)てて、万足(よろづた)らざる無き閑日月(かんじつげつ)をば、書に耽(ふけ)り、画に楽(たのし)み、彫刻を愛し、音楽に嘯(うそぶ)き、近き頃よりは専(もつぱ)ら写真に遊びて、齢(よはひ)三十四におよべども頑(がん)として未(いま)だ娶(めと)らず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然(ひようぜん)として、絶えて貴族的容儀を修めざれど、自(おのづか)らなる七万石の品格は、面白(おもてしろ)う眉秀(まゆひい)でて、鼻高く、眼爽(まなこさはやか)に、形(かたち)の清(きよら)に揚(あが)れるは、皎(こう)として玉樹(ぎよくじゆ)の風前に臨めるとも謂(い)ふべくや、御代々(ごだいだい)御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。
かかれば良縁の空(むなし)からざること、蝶(ちよう)を捉(とら)へんとする蜘蛛(くも)の糸より繁(しげ)しといへども、反顧(かへりみ)だに為(せ)ずして、例の飄然忍びては酔(ゑひ)の紛れの逸早(いつはや)き風流(みやび)に慰み、内には無妻主義を主張して、人の諌(いさめ)などふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛(あひあい)して、末の契も堅く、月下の小舟(をぶね)に比翼の櫂(かひ)を操(あやつ)り、スプレイの流を指(ゆびさ)して、この水の終(つひ)に涸(か)るる日はあらんとも、我が恋のほのほの消ゆる時あらせじ、と互の誓詞(せいし)に詐(いつはり)はあらざりけるを、帰りて母君に請(こ)ふことありしに、いと太(いた)う驚かれて、こは由々(ゆゆ)しき家の大事ぞや。夷狄(いてき)は□□よりも賤(いやし)むべきに、畏(かしこ)くも我が田鶴見の家をばなでう禽獣(きんじゆう)の檻(おり)と為すべき。あな、可疎(うとま)しの吾子(あこ)が心やと、涙と共に掻口説(かきくど)きて、悲(かなし)び歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無(せんな)くて、心苦う思ひつつも、猶(なほ)行末をこそ頼めと文の便(たより)を度々(たびたび)に慰めて、彼方(あなた)も在るにあられぬ三年(みとせ)の月日を、憂(う)きは死ななんと味気(あぢき)なく過せしに、一昨年(をととし)の秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、存(ながら)へかねし身の苦悩(くるしみ)を、御神(みかみ)の恵(めぐみ)に助けられて、導かれし天国の杳(よう)として原(たづ)ぬべからざるを、いとど可懐(なつか)しの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念益(ますま)す深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐(ただおもひ)を亡(な)き人に寄せて、形見こそ仇(あだ)ならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女(かのをんな)が十九の春の色を苦(ねんごろ)に手写(しゆしや)して、嘗(かつ)て貽(おく)りしものなりけり。
殿はこの失望の極放肆(ほうし)遊惰の裏(うち)に聊(いささ)か懐(おもひ)を遣(や)り、一具の写真機に千金を擲(なげう)ちて、これに嬉戯すること少児(しように)の如く、身をも家をも外(ほか)にして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に畔柳元衛(くろやなぎもとえ)ありて、その人迂(う)ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を戴(いただ)ける田鶴見家も、幸(さいはひ)に些(さ)の破綻(はたん)を生ずる無きを得てけり。
彼は貨殖の一端として密(ひそか)に高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至(ないし)一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを以(も)て、高利貸の大口を引受くる輩(はい)のここに便(たよ)らんとせざるはあらず。されども慧(さかし)き畔柳は事の密なるを策の上と為(な)して叨(みだり)に利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵直行(ただゆき)の一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺(いづれ)にか金穴(きんけつ)あるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
鰐淵(わにぶち)の名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の後楯(うしろだて)ありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄は謂(い)ふにも足らぬ足軽頭(あしがるがしら)に過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩の後(のち)出(い)でて小役人を勤め、転じて商社に事(つか)へ、一時或(あるひ)は地所家屋の売買を周旋し、万年青(おもと)を手掛け、米屋町(こめやまち)に出入(しゆつにゆう)し、何(いづ)れにしても世渡(よわたり)の茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、竟(つひ)には警部にまで取立てられしを、中ごろにして金(きん)これ権(けん)と感ずるところありて、奉職中蓄得(たくはへえ)たりし三百余円を元に高利貸を始め、世間の未(いま)だこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、或(ある)は欺き、或は嚇(おど)し、或は賺(すか)し、或は虐(しひた)げ、纔(わづか)に法網を潜(くぐ)り得て辛(から)くも繩附(なはつき)たらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし比(ころ)、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、虎(とら)に翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額は殆(ほとん)ど数万に上るとぞ聞えし。
畔柳はこの手より穫(とりい)るる利の半(なかば)は、これを御殿(ごてん)の金庫に致し、半はこれを懐(ふところ)にして、鰐淵もこれに因(よ)りて利し、金(きん)は一(いつ)にしてその利を三にせる家令が六臂(ろつぴ)の働(はたらき)は、主公が不生産的なるを補ひて猶(なほ)余ありとも謂(い)ふべくや。
鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨鉢(すてばち)の身を寄せて、牛頭馬頭(ごずめず)の手代と頼まれ、五番町なるその家に四年(よとせ)の今日(こんにち)まで寄寓(きぐう)せるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分に遇(あつか)はれ、手代となり、顧問となりて、主(あるじ)の重宝大方ならざれば、四年(よとせ)の久(ひさし)きに弥(わた)れども主は彼を出(いだ)すことを喜ばず、彼もまた家を構(かま)ふる必要無ければ、敢(あへ)て留るを厭(いと)ふにもあらで、手代を勤むる傍(かたはら)若干(そくばく)の我が小額をも運転して、自(おのづか)ら営む便(たより)もあれば、今憖(なまじ)ひにここを出でて痩臂(やせひぢ)を張らんよりは、然(しか)るべき時節の到来を待つには如(し)かじと分別せるなり。彼は啻(ただ)に手代として能(よ)く働き、顧問として能く慮(おもんぱか)るのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の齢(よはひ)を以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、己(おのれ)を衒(てら)はず、他(ひと)を貶(おとし)めず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に難有(ありがた)き若者なり、と鰐淵は寧(むし)ろ心陰(こころひそか)に彼を畏(おそ)れたり。
主(あるじ)は彼の為人(ひととなり)を知りし後(のち)、如此(かくのごと)き人の如何(いか)にして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一は己(おのれ)の履歴を詐(いつは)りて、如何なる失望の極身をこれに墜(おと)せしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後に顕(あらは)れにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿(せんさく)もせられで、やがては、暖簾(のれん)を分けて屹(きつ)としたる後見(うしろみ)は為てくれんと、鰐淵は常に疎(おろそか)ならず彼が身を念(おも)ひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるお峯(みね)は四十六なり。夫は心猛(たけ)く、人の憂(うれひ)を見ること、犬の嚏(くさめ)の如く、唯貪(ただむさぼ)りてあくを知らざるに引易へて、気立(きだて)優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心は有(も)てるなり。彼も貫一の偏屈なれども律義(りちぎ)に、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては猶更(なほさら)にあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
いと幸(さち)ありける貫一が身の上哉(かな)。彼は世を恨むる余(あまり)その執念の駆(か)るままに、人の生ける肉を啖(くら)ひ、以つて聊(いささ)か逆境に暴(さら)されたりし枯膓(こちよう)を癒(いや)さんが為に、三悪道に捨身の大願を発起(ほつき)せる心中には、百の呵責(かしやく)も、千の苦艱(くげん)も固(もと)より期(ご)したるを、なかなかかかる寛(ゆたか)なる信用と、かかる温(あたたか)き憐愍(れんみん)とを被(かうむ)らんは、羝羊(ていよう)の乳(ち)を得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる哉(かな)、彼はこの喜を如何(いか)に喜びけるか。今は呵責をも苦艱(くげん)をも敢(あへ)て悪(にく)まざるべき覚悟の貫一は、この信用の終(つひ)には慾の為に剥(は)がれ、この憐愍(れんみん)も利の為に吝(をし)まるる時の目前なるべきを固く信じたり。 
(三)の二
毒は毒を以て制せらる。鰐淵(わにぶち)が債務者中に高利借の名にしおふ某(ぼう)党の有志家某あり。彼は三年来生殺(なまごろし)の関係にて、元利五百余円の責(せめ)を負ひながら、奸智(かんち)を弄(ろう)し、雄弁を揮(ふる)ひ、大胆不敵に構(かま)へて出没自在の計(はかりごと)を出(いだ)し、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれに係(かか)りては、逆捩(さかねぢ)を吃(く)ひて血反吐(ちへど)を噴(はか)されし者尠(すくな)からざるを、鰐淵は弥(いよい)よ憎しと思へど、彼に対しては銕桿(かなてこ)も折れぬべきに持余しつるを、克(かな)はぬまでも棄措(すてお)くは口惜(くちをし)ければ、せめては令見(みせしめ)の為にも折々釘(くぎ)を刺して、再び那奴(しやつ)の翅(はがい)を展(の)べしめざらんに如(し)かずと、昨日(きのふ)は貫一の曠(ぬか)らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
彼は散々に飜弄(ほんろう)せられけるを、劣らじと罵(ののし)りて、前後四時間ばかりその座を起ちも遣(や)らで壮(さかん)に言争ひしが、病者に等き青二才と侮(あなど)りし貫一の、陰忍(しんねり)強く立向ひて屈する気色(けしき)あらざるより、有合ふ仕込杖(しこみつゑ)を抜放し、おのれ還(かへ)らずば生けては還さじと、二尺余(あまり)の白刃を危(あやふ)く突付けて脅(おびやか)せしを、その鼻頭(はなさき)に待(あしら)ひて愈(いよい)よ動かざりける折柄(をりから)、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来(かへりき)にけるが、これが為に彼の感じ易(やす)き神経は甚(はなはだし)く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の転(うた)た勝(すぐ)れねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠(ひきこも)れるなりけり。かかることありし翌日は夥(おびただし)く脳の憊(つか)るるとともに、心乱れ動きて、その憤(いか)りし後(のち)を憤り、悲みし後を悲まざれば已(や)まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。故(ゆゑ)に彼は折に触れつつその体(たい)の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは漸(やうや)く慣れてけれど、彼の心は決(け)してこの悪を作(な)すに慣れざりき。唯能(ただよ)く忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来(じらい)終天の失望と恨との一日(いちじつ)も忘るる能(あた)はざるが為に、その苦悶(くもん)の余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪(た)ふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、或(ある)は人の加ふる侮辱に堪(た)へずして、神経の過度に亢奮(こうふん)せらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる微恙(びよう)を得ることあり。
朗(ほがらか)に秋の気澄みて、空の色、雲の布置(ただずまひ)匂(にほ)はしう、金色(きんしよく)の日影は豊に快晴を飾れる南受(みなみうけ)の縁障子を隙(すか)して、爽(さはやか)なる肌寒(はださむ)の蓐(とこ)に長高(たけたか)く痩(や)せたる貫一は横(よこた)はれり。蒼(あを)く濁(にご)れる頬(ほほ)の肉よ、さらばへる横顔の輪廓(りんかく)よ、曇の懸れる眉(まゆ)の下に物思はしき眼色(めざし)の凝りて動かざりしが、やがて崩(くづ)るるやうに頬杖(ほほづゑ)を倒して、枕嚢(くくりまくら)に重き頭(かしら)を落すとともに寝返りつつ掻巻(かいまき)引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず投遣(なげや)りて仰向になりぬ。折しも誰(たれ)ならん、階子(はしご)を昇来(のぼりく)る音す。貫一は凝然として目を塞(ふた)ぎゐたり。紙門(ふすま)を啓(あ)けて入来(いりきた)れるは主(あるじ)の妻なり。貫一の慌(あわ)てて起上るを、そのままにと制して、机の傍(かたはら)に坐りつ。
「紅茶を淹(い)れましたからお上んなさい。少しばかり栗(くり)を茹(ゆ)でましたから」
手籃(てかご)に入れたる栗と盆なる茶器とを枕頭(まくらもと)に置きて、
「気分はどうです」
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々御馳走様(ごちそうさま)でございます」
「冷めない内にお上んなさい」
彼は会釈して珈琲茶碗(カフヒイちやわん)を取上げしが、
「旦那(だんな)は何時(いつ)頃お出懸(でかけ)になりました」
「今朝は毎(いつも)より早くね、氷川(ひかわ)へ行くと云つて」
言ふも可疎(うとま)しげに聞えけれど、さして貫一は意(こころ)も留めず、
「はあ、畔柳(くろやなぎ)さんですか」
「それがどうだか知れないの」
お峯は苦笑(にがわらひ)しつ。明(あきらか)なる障子の日脚(ひざし)はその面(おもて)の小皺(こじわ)の読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、櫛(くし)の歯通りて、一髪(いつぱつ)を乱さず円髷(まるわげ)に結ひて顔の色は赤き方(かた)なれど、いと好く磨(みが)きて清(きよら)に滑(なめらか)なり。鼻の辺(あたり)に薄痘痕(うすいも)ありて、口を引窄(ひきすぼ)むる癖あり。歯性悪ければとて常に涅(くろ)めたるが、かかるをや烏羽玉(ぬばたま)とも謂(い)ふべく殆(ほとん)ど耀(かがや)くばかりに麗(うるは)し。茶柳条(ちやじま)のフラネルの単衣(ひとへ)に朝寒(あささむ)の羽織着たるが、御召縮緬(ちりめん)の染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
「何為(なぜ)ですか」
お峯は羽織の紐(ひも)を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを遅(ためら)へる風情(ふぜい)なるを、強(し)ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は籃(かご)なる栗を取りて剥(む)きゐたり。彼は姑(しばら)く打案ぜし後、
「あの赤樫(あかがし)の別品(べつぴん)さんね、あの人は悪い噂(うはさ)が有るぢやありませんか、聞きませんか」
「悪い噂とは?」
「男を引掛けては食物(くひもの)に為るとか云ふ……」
貫一は覚えず首を傾けたり。曩(さき)の夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。那奴(あいつ)男を引掛けなくても金銭(かね)には窮(こま)らんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だから可(い)けない。お前さんなんぞもべいろしや組の方ですよ。金銭(かね)が有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方(こつち)へお貸しなさい」
「これは憚様(はばかりさま)です」
お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々(まじまじ)と手を束(つか)ねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便(たより)あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを択(えら)みて、その頂(いただき)よりナイフを加へつ。
「些(ちよい)と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人(かたじん)だから可いけれど、本当にあんな者に係合(かかりあ)ひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣(や)ると云ふのは評判ですよ。金窪(かなくぼ)さん、鷲爪(わしづめ)さん、それから芥原(あくたはら)さん、皆(みんな)その話をしてゐましたよ」
「或(あるひ)はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内(うち)の人も同(おんな)じのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね」
お峯がナイフを執れる手は漸(やうや)く鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
お峯は又一つ取りて剥(む)き始めけるが、心進まざらんやうにナイフの運(はこび)は愈(いよい)よ等閑(なほざり)なりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処(ここ)きりの話ですからね」
「承知しました」
貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹(き)とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は自(おのづ)から潜(ひそま)りぬ。
「どうも私はこの間から異(をかし)いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の夫(ひと)があの別品さんに係合(かかりあひ)を付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無いの!」
彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑(ゆすりわらひ)して、
「そんな馬鹿な事が、貴方(あなた)……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房(にようぼ)の私が……それはもう間違無しよ!」
貫一は熟(じつ)と思ひ入りて、
「旦那はお幾歳(いくつ)でしたな」
「五十一、もう爺(ぢぢい)ですわね」
彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの!!」
息巻くお峯の前に彼は面(おもて)を俯(ふ)して言はず、静に思廻(おもひめぐ)らすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで言(ことば)を継がざりしが、さて徐(おもむろ)に、
「それはもう男の働とか云ふのだから、妾(めかけ)も楽(たのしみ)も可うございます。これが芸者だとか、囲者(かこひもの)だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫(あかがし)さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! 凡(ただ)の代物(しろもの)ぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火(ちんちん)なら可いけれど、なかなか心火どころの洒落(しやれ)た沙汰(さた)ぢやありはしません。あんな者に係合(かかりあ)つてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の夫(ひと)もあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも異(をかし)いの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく冶(しや)れてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下(したておろ)し渾成(づくめ)で、その奇麗事と謂(い)つたら、何(いつ)が日(ひ)にも氷川へ行くのにあんなにめかした事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒(はがゆ)くて心苛(いら)つなるべし。
「はあ、事実とすれば弥(いよい)よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は悋気(りんき)で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手(あひて)が悪いからねえ」
思ひ直せども貫一が腑(ふ)には落ちざるなりけり。
「さうして、それは何頃(いつごろ)からの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
「然(しか)し、何(な)にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も篤(とつく)り言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処(そこ)を突止めたいのだけれど、私の体(からだ)ぢや戸外(おもて)の様子が全然(さつぱり)解らないのですものね」
「御尤(ごもつとも)」
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお在(いで)でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る哉(かな)、紅茶と栗と、と貫一はその余(あまり)に安く売られたるが独(ひと)り可笑(をかし)かりき。
「いえ、一向差支(さしつかへ)ございません。どういふ事ですか」
「さう? 余(あんま)りお気の毒ね」
彼の赤き顔の色は耀(かがや)くばかりに懽(よろこ)びぬ。
「御遠慮無く有仰(おつしや)つて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
お峯は彼が然諾(ぜんだく)の爽(さはやか)なるに遇(あ)ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧(はづかし)く覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若(も)し行つたのなら、何頃(いつごろ)行つて何頃帰つたか、なあに、十(とを)に九(ここのつ)まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
彼は起ちて寝衣帯(ねまきおび)を解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今俥(くるま)を呼びに遣(や)るから」
かく言捨ててお峯は忙(せはし)く階子(はしご)を下行(おりゆ)けり。
迹(あと)に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ煩(わづら)ひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に成損(なりそこな)つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
と端無(はしな)く思ひ浮べては漫(そぞろ)に独(ひと)り打笑(うちゑま)れつ。 
第四章
貫一は直(ただち)に俥(くるま)を飛(とば)して氷川なる畔柳(くろやなぎ)のもとに赴(おもむ)けり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入(しゆつにゆう)すべく、館(やかた)の側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣(もくげがき)に取廻して、昔形気(むかしかたぎ)の内に幽(ゆか)しげに造成(つくりな)したる二階建なり。構(かまへ)の可慎(つつまし)う目立たぬに引易(ひきか)へて、木口(きぐち)の撰択(せんたく)の至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
貫一も彼の主(あるじ)もこの家に公然の出入(でいり)を憚(はばか)る身なれば、玄関側(わき)なる格子口(こうしぐち)より訪(おとづ)るるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物(はきもの)は在らず。はや帰りしか、来(こ)ざりしか、或(あるひ)は未(いま)だ見えざるにや、とにもかくにもお峯が言(ことば)にも符号すれども、直(ただち)にこれを以て疑を容(い)るべきにあらずなど思ひつつ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる主(あるじ)の妻の声して、連(しきり)に婢(をんな)の名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら出(い)で来て、
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお出(いで)でした」
眼(まなこ)のみいと大くて、病勝(やまひがち)に痩衰(やせおとろ)へたる五体は燈心(とうしみ)の如く、見るだに惨々(いたいた)しながら、声の明(あきらか)にして張ある、何処(いづこ)より出(い)づる音(ね)ならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と謂(い)へるその人なり。年は五十路(いそぢ)ばかりにて頭(かしら)の霜繁(しもしげ)く夫よりは姉なりとぞ。
貫一は屋敷風の恭(うやうやし)き礼を作(な)して、
「はい、今日(こんにち)は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方(こちら)様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、お出(いで)はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に懸(かか)りたいと申してをりましたところ。唯今(ただいま)御殿へ出てをりますので、些(ちよつ)と呼びに遣りませうから、暫(しばら)くお上んなすつて」
言はるるままに客間に通りて、端近(はしちか)う控ふれば、彼は井(ゐ)の端(はた)なりし婢(をんな)を呼立てて、速々(そくそく)主(あるじ)の方(かた)へ走らせつ。莨盆(たばこぼん)を出(いだ)し、番茶を出(いだ)せしのみにて、納戸(なんど)に入りける妻は再び出(い)で来(きた)らず。この間は貫一は如何(いか)にこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促(いきせ)き還来(かへりき)にける気勢(けはひ)せしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今些(ちよつ)と手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方(あちら)へお出なすつて。直(ぢき)其処(そこ)ですよ。婢に案内を為せます。あの豊(とよ)や!」
暇乞(いとまごひ)して戸口を出づれば、勝手元の垣の側(きは)に二十歳(はたち)かと見ゆる物馴顔(ものなれがほ)の婢の待(ま)てりしが、後(うしろ)さまに帯かひつくろひつつ道知辺(みちしるべ)す。垣に沿ひて曲れば、玉川砂礫(ざり)を敷きたる径(こみち)ありて、出外(ではづ)るれば子爵家の構内(かまへうち)にて、三棟(みむね)並べる塗籠(ぬりごめ)の背後(うしろ)に、桐(きり)の木高く植列(うゑつら)ねたる下道(したみち)の清く掃いたるを行窮(ゆきつむ)れば、板塀繞(いたべいめぐ)らせる下屋造(げやつくり)の煙突より忙(せは)しげなる煙(けふり)立昇りて、折しも御前籠(ごぜんかご)舁入(かきい)るるは通用門なり。貫一もこれを入(い)りて、余所(よそ)ながら過来(すぎこ)し厨(くりや)に、酒の香(か)、物煮る匂頻(にほひしき)りて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響(ひしめき)したる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間(ひとま)に導かれぬ。 
(四)の二
畔柳元衛(くろやなぎもとえ)の娘静緒(しずお)は館(やかた)の腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持(とりもち)に召れて、高髷(たかわげ)、変裏(かはりうら)に粧(よそひ)を改め、お傍不去(そばさらず)に麁略(そりやく)あらせじと冊(かしづ)くなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、先(ま)づ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子(まはりばしご)の半(なかば)を昇行(のぼりゆ)く後姿(うしろすがた)に、その客の如何(いか)に貴婦人なるかを窺(うかが)ふべし。鬘(かつら)ならではと見ゆるまでに結做(ゆひな)したる円髷(まるわげ)の漆の如きに、珊瑚(さんご)の六分玉(ろくぶだま)の後挿(うしろざし)を点じたれば、更に白襟(しろえり)の冷えん物の類(たぐ)ふべき無く、貴族鼠(きぞくねずみ)のしぼ高縮緬(しぼたかちりめん)の五紋(いつつもん)なる単衣(ひとへ)を曳(ひ)きて、帯は海松(みる)色地に装束(しようぞく)切摸(きれうつし)の色紙散(しきしちらし)の七糸(しちん)を高く負ひたり。淡紅色(ときいろ)紋絽(もんろ)の長襦袢(ながじゆばん)の裾(すそ)は上履(うはぐつ)の歩(あゆみ)に緩(ゆる)く匂零(にほひこぼ)して、絹足袋(きぬたび)の雪に嫋々(たわわ)なる山茶花(さざんか)の開く心地す。
この麗(うるはし)き容(かたち)をば見返り勝に静緒は壁側(かべぎは)に寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼の俯(うつむ)きて昇(のぼ)れるに、櫛(くし)の蒔絵(まきゑ)のいと能(よ)く見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏み失(そこ)ねて、凄(すさまじ)き響の中にあなや僵(たふ)れんと為(し)たり。幸(さいはひ)に怪我(けが)は無かりけれど、彼はなかなか己(おのれ)の怪我などより貴客(きかく)を駭(おどろ)かせし狼藉(ろうぜき)をば、得も忍ばれず満面に慚(は)ぢて、
「どうも飛んだ麁相(そそう)を致しまして……」
「いいえ。貴方本当に何処(どこ)もお傷(いた)めなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ吃驚(びつくり)遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
こ度(たび)は薄氷(はくひよう)を蹈(ふ)む想(おもひ)して一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
「些(ちよつ)とお待ちなさい」
進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は慌(あわ)て驚きて、
「あれ、恐入(おそれい)ります」
「可(よ)うございますよ。さあ、熟(じつ)として」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
争ひ得ずして竟(つひ)に貴婦人の手を労(わづらは)せし彼の心は、溢(あふ)るるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花の薫(かをり)あらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書(じよししよ)の内訓(ないくん)に出でたりとて屡(しばし)ば父に聴さるる「五綵服(ごさいふく)を盛(さかん)にするも、以つて身の華(か)と為すに足らず、貞順道(ていじゆんみち)に率(したが)へば、乃(すなは)ち以つて婦徳を進むべし」の本文(ほんもん)に合(かな)ひて、かくてこそ始めて色に矜(ほこ)らず、その徳に爽(そむ)かずとも謂ふべきなれ。愛(め)でたき人にも遇(あ)へるかなと絶(したたか)に思入りぬ。
三階に着くより静緒は西北(にしきた)の窓に寄り行きて、効々(かひがひ)しく緑色の帷(とばり)を絞り硝子戸(ガラスど)を繰揚(くりあ)げて、
「どうぞ此方(こちら)へお出(いで)あそばしまして。ここが一番見晴(みはらし)が宜(よろし)いのでございます」
「まあ、好(よ)い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀(もくせい)が匂(にほ)ひますね、お邸内(やしきうち)に在りますの?」
貴婦人はこの秋霽(しゆうせい)の朗(ほがらか)に濶(ひろ)くして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色(おももち)して佇(たたず)めり。窓を争ひて射入(さしい)る日影は斜(ななめ)にその姿を照して、襟留(えりどめ)なる真珠は焚(も)ゆる如く輝きぬ。塵(ちり)をだに容(ゆる)さず澄みに澄みたる添景の中(うち)に立てる彼の容華(かほばせ)は清く鮮(あざやか)に見勝(みまさ)りて、玉壺(ぎよくこ)に白き花を挿(さ)したらん風情(ふぜい)あり。静緒は女ながらも見惚(みと)れて、不束(ふつつか)に眺入(ながめい)りつ。
その目の爽(さはやか)にして滴(したた)るばかり情(なさけ)の籠(こも)れる、その眉(まゆ)の思へるままに画(えが)き成せる如き、その口元の莟(つぼみ)ながら香(か)に立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、肌理濃(きめこまやか)に光をさへ帯びたる、色の透(とほ)るばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて瑩沢(つややか)に、頭(かしら)も重げに束(つか)ねられたれど、髪際(はへぎは)の少(すこし)く打乱れたると、立てる容(かたち)こそ風にも堪(た)ふまじく繊弱(なよやか)なれど、面(おもて)の痩(やせ)の過ぎたる為に、自(おのづか)ら愁(うれはし)う底寂(そこさびし)きと、頸(えり)の細きが折れやしぬべく可傷(いたはし)きとなり。
されどかく揃(そろ)ひて好き容量(きりよう)は未(いま)だ見ずと、静緒は心に驚きつつ、蹈外(ふみはづ)せし麁忽(そこつ)ははや忘れて、見据うる流盻(ながしめ)はその物を奪はんと覘(ねら)ふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるる貌(かたち)ありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人の傍(かたはら)には見劣せらるること夥(おびただし)かり。彼は己(おのれ)の間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひて止(や)まざりき。実(げ)にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで穿(さ)せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をか愧(は)づべき。婦(をんな)の徳をさへ虧(か)かでこの嬋娟(あでやか)に生れ得て、しかもこの富めるに遇(あ)へる、天の恵(めぐみ)と世の幸(さち)とを併(あは)せ享(う)けて、残る方(かた)無き果報のかくも痛(いみじ)き人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、二者(ふたつ)はかなはぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、その幸(さいはひ)は男にも過ぎぬべしなど、若き女は物羨(ものうらやみ)の念強けれど、妬(ねた)しとは及び難くて、静緒は心に畏(おそ)るるなるべし。
彼は貴婦人の貌(かたち)に耽(ふけ)りて、そのもてなしにとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西(フランス)より持ち帰られし名器なるを、漸(やうや)く取出(とりいだ)して薦(すす)めたり。形は一握(いちあく)の中に隠るるばかりなれど、能(よ)く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色の玉(ぎよく)もて造られ、僅(わづか)に黄金(きん)細工の金具を施したるのみ。
やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、措(お)くを忘らるるまでに愛(め)でられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽(ながめつく)されて、彼はこの鏡(グラス)の凡(ただ)ならず精巧なるに驚ける状(さま)なり。
「那処(あすこ)に遠く些(ほん)の小楊枝(こようじ)ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄(あさぎ)に赤い柳条(しま)の模様まで昭然(はつきり)見えて、さうして旗竿(はたさを)の頭(さき)に鳶(とび)が宿(とま)つてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度(たんと)御座いませんさうで、招魂社(しようこんしや)のお祭の時などは、狼煙(のろし)の人形が能(よ)く見えるのでございます。私はこれを見まする度(たび)にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜(よろし)うございませう。余(あんま)り近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」
「音が聞えたら、彼方此方(あちこち)の音が一所に成つて粉雑(ごちやごちや)になつて了(しま)ひませう」
かく言ひて斉(ひとし)く笑へり。静緒は客遇(きやくあしらひ)に慣れたれば、可羞(はづか)しげに見えながらも話を求むるには拙(つたな)からざりき。
「私は始めてこれを見せて戴(いただ)きました折、殿様に全然(すつかり)騙(だま)されましたのでございます。鼻の前(さき)に見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたら直(すぐ)にその眼鏡を耳に推付(おつつ)けて見ろ、早くさへ耳に推付(おつつ)ければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
淀無(よどみな)く語出(かたりい)づる静緒の顔を見入りつつ貴婦人は笑(ゑ)ましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在(おいで)でゐらつしやいましたが、皆為(みんななす)つて御覧遊ばしました」
貴婦人は怺(こら)へかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水(はやみ)と申す者は余(あんま)り急ぎましたので、耳の此処(ここ)を酷(ひど)く打(ぶ)ちまして、血を出したのでございます」
彼の歓(よろこ)べるを見るより静緒は椅子を持来(もちきた)りて薦(すす)めし後、さて語り続くるやう。
「それで誰(たれ)にも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目(まじめ)なお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西(フランス)に居た時には能(よ)く聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇(あくさげき)を親く睹(み)たらんにも劣らざりき。
「殿様はお面白(おもしろ)い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がお勝(すぐ)れ遊ばしませんので、お険(むづかし)いお顔をしてゐらつしやるのでございます」
書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、卒(にはか)に空目遣(そらめづかひ)して物の思はしげに、例の底寂(そこさびし)う打湿(うちしめ)りて見えぬ。
やや有りて彼は徐(しづか)に立ち上りけるが、こ回(たび)は更に邇(ちか)きを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方(あなたこなた)に差向くる筒の当所(あてど)も無かりければ、偶(たまた)ま唐楪葉(からゆづりは)のいと近きが鏡面(レンズ)に入(い)り来(き)て一面に蔓(はびこ)りぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、自(おのづ)から得忘れぬ面影に肖(に)たるところあり。
貴婦人は差し向けたる手を緊(しか)と据ゑて、目を拭(ぬぐ)ふ間も忙(せはし)く、なほ心を留めて望みけるに、枝葉(えだは)の遮(さへぎ)りてとかくに思ふままならず。漸(やうや)くその顔の明(あきらか)に見ゆる隙(ひま)を求めけるが、別に相対(さしむか)へる人ありて、髪は黒けれども真額(まつかう)の瑩々(てらてら)禿(は)げたるは、先に挨拶(あいさつ)に出(い)でし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃(まゆこ)く、外眦(まなじり)の昂(あが)れる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に肖(に)たりとは未(おろか)や、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の鏡(グラス)持てる手は兢々(わなわな)と打顫(うちふる)ひぬ。
行く水に数画(かずか)くよりも儚(はかな)き恋しさと可懐(なつか)しさとの朝夕に、なほ夜昼の別(わかち)も無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年(よとせ)の久きを、熱海の月は朧(おぼろ)なりしかど、一期(いちご)の涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又何日(いつか)は必ずと念懸(おもひか)けつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は毫(つゆ)も昔に渝(かは)らねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何(いか)なる労(わづらひ)をやさまでは積みけん、齢(よはひ)よりは面瘁(おもやつれ)して、異(あやし)うも物々しき分別顔(ふんべつかほ)に老いにけるよ。幸薄(さいはひうす)く暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出(わきい)でて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の鮮(あざやか)に映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は堪(た)へ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるを暁(さと)りて失(しな)したりと思ひたれど、所為無(せんな)くハンカチイフを緊(きびし)く目に掩(あ)てたり。静緒の驚駭(おどろき)は謂ふばかり無く、
「あれ、如何(いか)が遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が不良(わるい)ものですから、余(あんま)り物を瞶(みつ)めてをると、どうかすると眩暈(めまひ)がして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお頭(ぐし)をお摩(さす)り申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今に直(ぢき)に癒(なほ)ります。憚(はばかり)ですがお冷(ひや)を一つ下さいましな」
静緒は驀地(ましぐら)に行かんとす。
「あの、貴方(あなた)、誰にも有仰(おつしや)らずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が嗽(うがひ)をすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、畏(かしこま)りました」
彼の階子(はしご)を下り行くと斉(ひとし)く貴婦人は再び鏡(グラス)を取りて、葉越(はごし)の面影を望みしが、一目見るより漸含(さしぐ)む涙に曇らされて、忽(たちま)ち文色(あいろ)も分かずなりぬ。彼は静無(しどな)く椅子に崩折(くづを)れて、縦(ほしいま)まに泣乱したり。 
(四)の三
この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継(ただつぐ)と倶(とも)に田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交(くみかは)す間(ま)を、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の孰(いづれ)も日本写真会々員たるに因(よ)れり。自(おのづか)ら宮の除物(のけもの)になりて二人の興に入(い)れるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその意(こころ)を獲(え)んと力(つと)めけるより、子爵も好みて交(まじは)るべき人とも思はざれど、勢ひ疎(うとん)じ難(がた)くして、今は会員中善く識(し)れるものの最(さい)たるなり。爾来(じらい)富山は益(ますま)す傾慕して措(お)かず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定(かんてい)を乞ふを名として、曩(さき)に芝西久保(しばにしのくぼ)なる居宅に請じて疎(おろそか)ならず饗(もてな)す事ありければ、その返(かへし)とて今日は夫婦を招待(しようだい)せるなり。
会員等は富山が頻(しきり)に子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為(かれため)にするところあらんなど言ひて陋(いやし)み合へりけれど、その実敢(あへ)て為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が交(まじは)るところは、その地位に於(おい)て、その名声に於て、その家柄に於て、或(あるひ)はその資産に於て、孰(いづれ)の一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。実(げ)に彼は美き友を有(も)てるなり。さりとて彼は未(いま)だ曾(かつ)てその友を利用せし事などあらざれば、こたびも強(あながち)に有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく勉(つと)めて交(まじはり)は求むるならん。故(ゆゑ)に彼はその名簿の中に一箇(いつか)の憂(うれひ)を同(おなじ)うすべき友をだに見出(みいだ)さざるを知れり。抑(そもそ)も友とは楽(たのしみ)を共にせんが為の友にして、若(も)し憂を同うせんとには、別に金銭(マネイ)ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶは固(もと)よりこの理に外ならず、寔(まこと)に彼の択べる友は皆美けれども、尽(ことごと)くこれ酒肉の兄弟(けいてい)たるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるも然(しか)りと為(な)すの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目をかすめて、陋(いやし)みても猶(なほ)余ある高利貸の手代に片思の涙を灑(そそ)ぐにあらずや。
宮は傍(かたはら)に人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏(かきく)れて、熱海の浜に打俯(うちふ)したりし悲歎(なげき)の足らざるをここに続(つ)がんとすなるべし。階下(した)より仄(ほのか)に足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざと頭(かしら)を支へつつ室(しつ)の中央(まなか)なる卓子(テエブル)の周囲(めぐり)を歩みゐたり。やがて静緒の持来(もちきた)りし水に漱(くちそそ)ぎ、懐中薬(かいちゆうくすり)など服して後、心地復(をさま)りぬとて又窓に倚(よ)りて外方(とのがた)を眺めたりしが、
「ちよいと、那処(あすこ)に、それ、男の方の話をしてお在(いで)の所も御殿の続きなのですか」
「何方(どちら)でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お邸内(やしきうち)でございます。これから直(ぢき)に見えまする、あの、倉の左手に高い樅(もみ)の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下から直(ずつ)とお宅の方へ行(い)かれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。では些(ちつ)とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠に穢(きたな)うございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
宮はここを去らんとして又葉越(はごし)の面影を窺(うかが)へり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、那処(あすこ)にお父様(とつさま)とお話をしてゐらつしやるのは何地(どちら)の方ですか」
彼の親達は常に出入(でいり)せる鰐淵(わにぶち)の高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りを告(つぐ)るなり。
「他(あれ)は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買(うりかひ)を致してをります者の手代で、間(はざま)とか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
宮は聞えよがしに独語(ひとりご)ちて、その違(たが)へるを訝(いぶか)るやうに擬(もてな)しつつ又其方(そなた)を打目戍(うちまも)れり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
この物語に因(よ)りて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何(いか)にとも逢ふべき便(たより)はあらんと、獲難(えがた)き宝を獲たるにも勝(まさ)れる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日(いつ)をも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇を仇(あだ)に、余所(よそ)ながら見て別れんは本意無(ほいな)からずや。若(も)し彼の眼(まなこ)に睨(にら)まれんとも、互の面(おもて)を合せて、言(ことば)は交(かは)さずとも切(せめ)ては相見て相知らばやと、四年(よとせ)を恋に饑(う)ゑたる彼の心は熬(いら)るる如く動きぬ。
さすがに彼の気遣(きづか)へるは、事の危(あやふ)きに過ぎたるなり。附添さへある賓(まらうど)の身にして、賤(いやし)きものに遇(あつか)はるる手代風情(ふぜい)と、しかもその邸内(やしきうち)の径(こみち)に相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦は抑(そも)や幾許(いかばか)り恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、この面(おもて)に唾吐(つばはか)るるも厭(いと)はじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、逢瀬(あふせ)は今日の一日(ひとひ)に限らぬものを、事の破(やぶれ)を目に見て愚に躁(はやま)るべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべき機(をり)ならず、辛(つら)くとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒を賺(すか)して、邸内(やしきうち)を一周せんと、西洋館の後(うしろ)より通用門の側(わき)に出でて、外塀際(そとべいぎは)なる礫道(ざりみち)を行けば、静緒は斜(ななめ)に見ゆる父が詰所の軒端(のきば)を指(さ)して、
「那処(あすこ)が唯今の客の参つてをります所でございます」
実(げ)に唐楪葉(からゆづりは)は高く立ちて、折しく一羽の小鳥来鳴(きな)けり。宮が胸は異(あやし)うつと塞(ふたが)りぬ。
楼(たかどの)を下りてここに来たるは僅少(わづか)の間(ひま)なれば、よもかの人は未(いま)だ帰らざるべし、若しここに出で来(きた)らば如何(いか)にすべきなど、さすがに可恐(おそろし)きやうにも覚えて、歩(あゆみ)は運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳には入(い)らで、さて行くほどに裏門の傍(かたはら)に到りぬ。
遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目を挙(あぐ)れども何処(いづこ)を眺むるにもあらず、俯(うつむ)き勝に物思はしき風情(ふぜい)なるを、静緒は怪くも気遣(きづかはし)くて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
「いいえ、もう大概良いのですけれど、未(ま)だ何だか胸が少し悪いので」
「それはお宜(よろし)うございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」
「家(うち)の中よりは戸外(おもて)の方が未だ可いので、もう些(ち)と歩いてゐる中には復(をさま)りますよ。ああ、此方(こちら)がお宅ですか」
「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な! 木槿(もくげ)が盛(さかり)ですこと。白ばかりも淡白(さつぱり)して好(よ)いぢやありませんか」
畔柳の住居(すまひ)を限として、それより前(さき)は道あれども、賓(まらうど)の足を容(い)るべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる疎垣(まだらがき)の此方(こなた)に、樫(かし)の実の夥(おびただし)く零(こぼ)れて、片側(かたわき)に下水を流せる細路(ほそみち)を鶏の遊び、犬の睡(ねむ)れるなど見るも悒(いぶせ)きに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼(おそれ)は忽(たちま)ちその心を襲へり。
この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来(いできた)るに会はば、遁(のが)れんやうはあらで明々地(あからさま)に面(おもて)を合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何(いか)にせん。仮令(たとひ)此方(こなた)にては知らぬ顔してあるべきも、争(いか)でかの人の見付けて驚かざらん。固(もと)より恨を負へる我が身なれば、言(ことば)など懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭(おどろき)は如何ならん。仇(あだ)に遇(あ)へるその憤懣(いきどほり)は如何ならん。必ずかの人の凄(すさまじ)う激せるを見ば、静緒は幾許(いかばかり)我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると斉(ひとし)く身内は熱して冷(つめた)き汗を出(いだ)し、足は地に吸るるかとばかり竦(すく)みて、宮はこれを想ふにだに堪(た)へざるなりけり。脇道(わきみち)もあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、遣(や)る方も無く惑へる宮が面色(おももち)の穏(やす)からぬを見尤(みとが)めて、静緒は窃(ひそか)に目を側(そば)めたり。彼はいとどその目を懼(おそ)るるなるべし。今は心も漫(そぞろ)に足を疾(はや)むれば、土蔵の角(かど)も間近になりて其処(そこ)をだに無事に過ぎなば、と切(しきり)に急がるる折しも、人の影は突(とつ)としてその角より顕(あらは)れつ。宮は眩(めくるめ)きぬ。
これより帰りてともかくもお峯が前は好(よ)きやうに言譌(いひこしら)へ、さて篤と実否を糺(ただ)せし上にて私(ひそか)に為(せ)んやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を稍(やや)目深(まぶか)に引側(ひきそば)め、通学に馴(なら)されし疾足(はやあし)を駆りて、塗籠(ぬりこめ)の角より斜(ななめ)に桐の並木の間(あひ)を出でて、礫道(ざりみち)の端を歩み来(きた)れり。
四辺(あたり)に往来(ゆきき)のあるにあらねば、二人の姿は忽(たちま)ち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとは疾(と)く知られけれど、顔打背(かほうちそむ)けたる貴婦人の眩(まばゆ)く着飾りたるは、子爵家の客なるべしと纔(わづか)に察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに近(ちかづ)けば、貫一は静緒に向ひて慇懃(いんぎん)に礼するを、宮は傍(かたはら)に能(あた)ふ限は身を窄(すぼ)めて密(ひそか)に流盻(ながしめ)を凝したり。その面(おもて)の色は惨として夕顔の花に宵月の映(うつろ)へる如く、その冷(ひややか)なるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。脚(あし)は打顫(うちふる)ひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべく轟(とどろ)くを、覚(さと)られじとすれば猶(なほ)打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目に沁(し)むばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとする際(きは)に、ふと目鞘(めざや)の走りて、館の賓(まらうど)なる貴婦人を一瞥(べつ)せり。端無(はしな)くも相互(たがひ)の面(おもて)は合へり。宮なるよ! 姦婦(かんぷ)なるよ! 銅臭の肉蒲団(にくぶとん)なるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨(ね)めて動かざる眼(まなこ)には見る見る涙を湛(たた)へて、唯一攫(ひとつかみ)にもせまほしく肉の躍(をど)るを推怺(おしこら)へつつ、窃(ひそか)に歯咬(はがみ)をなしたり。可懐(なつか)しさと可恐(おそろ)しさと可耻(はづか)しさとを取集めたる宮が胸の内は何に喩(たと)へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付(いだきつ)きても思ふままに苛(さいな)まれんをと、心のみは憧(あこが)れながら身を如何(いかに)とも為難(しがた)ければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠(こ)むるより外はあらず。
貫一はつと踏出して始の如く足疾(あしばや)に過行けり。宮は附人(つきひと)に面を背(そむ)けて、唇(くちびる)を咬(か)みつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも弁(わきま)へねど、推(すい)すべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、賓(まらうど)の顔色のさしも常ならず変りて可悩(なやま)しげなるを、問出でんも可(よし)や否(あし)やを料(はか)りかねて、唯可慎(つつまし)う引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお出(いで)あそばして、お休み遊ばしましては如何(いかが)でございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼(まつさを)でゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方(あちら)へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可(い)けませんから、お庭を一周(ひとまはり)しまして、その内には気分が復(なほ)りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変貴方(あなた)のお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰(おつしや)います」
貴婦人はその無名指(むめいし)より繍眼児(めじろ)の押競(おしくら)を片截(かたきり)にせる黄金(きん)の指環を抜取りて、懐紙(ふところかみ)に包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のお証(しるし)に」
静緒は驚き怖(おそ)れたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
「可(よ)うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様(おとつさま)にも阿母様(おつかさま)にも誰にも有仰(おつしや)らないやうに、ねえ」
受けじと為るを手籠(てごめ)に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋(そたばし)近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑(たかわらひ)するが聞えぬ。
宮はこの散歩の間に勉(つと)めて気を平(たひら)げ、色を歛(をさ)めて、ともかくも人目をのがれんと計れるなり。されどもこは酒を窃(ぬす)みて酔はざらんと欲するに同(おなじ)かるべし。
彼は先に遭(あ)ひし事の胸に鏤(ゑ)られたらんやうに忘るる能(あた)はざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出(もえい)でて、募りに募らんとする心の乱(みだれ)は、堪(た)ふるに難(かた)き痛苦(くるしみ)を齎(もたら)して、一歩は一歩より、胸の逼(せま)ること急に、身内の血は尽(ことごと)くその心頭(しんとう)に注ぎて余さず熬(い)らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛(うちくつろ)ぎて意任(こころまか)せの我が家に独り居たらんぞ可(よ)き。人に接して強(し)ひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩(わづらは)しと、例の劇(はげし)く唇(くちびる)を咬(か)みて止まず。
築山陰(つきやまかげ)の野路(のぢ)を写せる径(こみち)を行けば、蹈処無(ふみどころな)く地を這(は)ふ葛(くず)の乱れ生(お)ひて、草藤(くさふぢ)、金線草(みづひき)、紫茉莉(おしろい)の色々、茅萱(かや)、穂薄(ほすすき)の露滋(つゆしげ)く、泉水の末を引きてちよろちよろ水(みづ)を卑(ひく)きに落せる汀(みぎは)なる胡麻竹(ごまたけ)の一叢(ひとむら)茂れるに隠顕(みえかくれ)して苔蒸(こけむ)す石組の小高きに四阿(あづまや)の立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は艱(なやま)しげに憩へり。
彼は静緒の柱際(はしらぎは)に立ちて控ふるを、
「貴方もお草臥(くたびれ)でせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
その色の前(さき)にも劣らず蒼白(あをざ)めたるのみならで、下唇の何に傷(きずつ)きてや、少(すこし)く血の流れたるに、彼は太(いた)く驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。如何(いかが)あそばしました」
ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴(ざくろ)の花弁(はなびら)の如く附きたるに、貴婦人は懐鏡(ふところかがみ)取出(とりいだ)して、咬(か)むことの過ぎし故(ゆゑ)ぞと知りぬ。実(げ)に顔の色は躬(みづから)も凄(すご)しと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周(いくめぐり)して我はこの色を隠さんと為(す)らんと、彼は心陰(こころひそか)に己(おのれ)を嘲(あざけ)るなりき。
忽(たちま)ち女の声して築山の彼方(あなた)より、
「静緒さん、静緒さん!」
彼は走り行き、手を鳴して応(こた)へけるが、やがて木隠(こがくれ)に語(かたら)ふ気勢(けはひ)して、返り来ると斉(ひとし)く賓(まらうど)の前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、直(すぐ)に彼方(あちら)へお出(いで)あそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
道を転じて静緒は雲帯橋(うんたいきよう)の在る方(かた)へ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭(ところせま)きまで盃盤(はいばん)を陳(つら)ねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
此方(こなた)の姿を見るより子爵は縁先に出でて麾(さしまね)きつつ、
「そこをお渡りになつて、此方(こちら)に燈籠(とうろう)がございませう、あの傍(そば)へ些(ちよつ)とお出で下さいませんか。一枚像(とら)して戴きたい」
写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に下立(おりた)ちて、早くもカメラの覆(おほひ)を引被(ひきかつ)ぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
いでや、事の様(よう)を見んとて、慢々(ゆらゆら)と出来(いできた)れるは富山唯継なり。片手には葉巻(シガア)の半(なかば)燻(くゆ)りしを撮(つま)み、片臂(かたひぢ)を五紋の単羽織(ひとへはおり)の袖(そで)の内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうの笑(ゑみ)を浮べつつ、
「ああ、おまへ其処(そこ)に居らんければ可かんよ、何為(なぜ)歩いて来るのかね」
子爵の慌(あわ)てたる顔はこの時毛繻子(けじゆす)の覆の内よりついと顕(あらは)れたり。
「可けない! 那処(あすこ)に居て下さらなければ可けませんな。何、御免を蒙(かうむ)る? ――可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」
「いや、貴方(あなた)は巧い言(こと)をお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方(あちら)へ。静緒、お前奥さんを那処(あすこ)へお連れ申して」
唯継は目もて示して、
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして御支度(ごしたく)をなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠の傍(そば)へ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も羞含(はにか)むことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内で遣(や)つてをるのに、あれで可いのさ。姿勢(かたち)は私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ倚掛(よつかか)つて頬杖(ほほづゑ)でもついて、空を眺(なが)めてゐる状(かたち)なども可いよ。ねえ、如何(いかが)でせう」
「結構。結構」と子爵は頷(うなづ)けり。
心は進まねど強ひて否(いな)むべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
かく呟(つぶや)きつつ庭下駄を引掛(ひきか)け、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠に倚(よら)しめ、頬杖をつかしめ、空を眺めよと教へて、袂(たもと)の皺(しわ)めるを展(の)べ、裾(すそ)の縺(もつれ)を引直し、さて好しと、少(すこし)く退(の)きて姿勢を見るとともに、彼はその面(おもて)の可悩(なやまし)げに太(いた)くも色を変へたるを発見して、直(ただち)に寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処(どこ)か不快(わるい)のか、ええ。非常な血色だよ。どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
「苦いやうなら我慢をせんとも、私(わし)が訳を言つてお謝絶(ことわり)をするから」
「いいえ、宜(よろし)うございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
「さうか、然し非常に可厭(いや)な色だ」
彼は眷々(けんけん)として去る能(あた)はざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
「如何(いかが)ですか」
唯継は慌忙(あわただし)く身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
鏡面(レンズ)に照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は種板(たねいた)を挿入(さしい)るれば、唯継は心得てその邇(ちかき)を避けたり。
空を眺むる宮が目の中(うち)には焚(も)ゆらんやうに一種の表情力充満(みちみ)ちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色ある衣(きぬ)は唐松(からまつ)の翠(みどり)の下蔭(したかげ)に章(あや)を成して、秋高き清遠の空はその後に舗(し)き、四脚(よつあし)の雪見燈籠を小楯(こだて)に裾の辺(あたり)は寒咲躑躅(かんざきつつじ)の茂(しげみ)に隠れて、近きに二羽の鵞(が)の汀(みぎは)にあさるなど、寧(むし)ろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や鏡面(レンズ)を開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖は忽(たちま)ち頽(くづ)れて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破(がば)と伏しぬ。 
第五章
遊佐良橘(ゆさりようきつ)は郷里に在りし日も、出京の遊学中も、頗(すこぶ)る謹直を以(も)て聞えしに、却(かへ)りて、日本周航会社に出勤せる今日(こんにち)、三百円の高利の為に艱(なやま)さるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは外(おもて)を張らざるべからざる為の遣繰(やりくり)なるべしと言ひ、或ものは隠遊(かくれあそび)の風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこは謂(い)ふべからざる事情の下に連帯の印(いん)を仮(か)せしが、形(かた)の如く腐れ込みて、義理の余毒の苦を受(うく)ると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士蒲田(かまだ)鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士風早庫之助(かざはやくらのすけ)とあるのみ。
凡(およ)そ高利の術たるや、渇者(かつしや)に水を売るなり。渇の甚(はなはだし)く堪(た)へ難き者に至りては、決してその肉を割(さ)きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその値(あたひ)玉漿(ぎよくしよう)を盛るに異る無し。故(ゆゑ)に前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の癒(いゆ)るに及びては、玉漿なりとして喜び吃(きつ)せしものは、素(も)と下水の上澄(うはずみ)に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に搾(しぼ)りその活肉に割きて以て返さざるべからず。噫(ああ)、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これを借(か)るは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを以(も)て、高利は借(か)るべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に罹(かか)れる哉(かな)と、彼は人の為ながら常にこの憂(うれひ)を解く能(あた)はざりき。
近きに郷友会(きようゆうかい)の秋季大会あらんとて、今日委員会のありし帰(かへる)さを彼等は三人(みたり)打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に御馳走(ごちそう)と云つては無いけれど、松茸(まつだけ)の極新(ごくあたらし)いのと、製造元から貰(もら)つた黒麦酒(くろビイル)が有るからね、鶏(とり)でも買つて、寛(ゆつく)り話さうぢやないか」
遊佐が弄(まさぐ)れる半月形の熏豚(ハム)の罐詰(かんづめ)も、この設(まうけ)にとて途(みち)に求めしなり。
蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さう泊(とまり)が知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早と対(たい)に成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。然(しか)し、どうもその長足のちやうはてう(貂)足らず、続(つ)ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然(すつかり)フロックが止(とま)つた? ははははは、それはお目出度(めでた)いやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは明(あきらか)に一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
風早は例の皺嗄声(しわかれごゑ)して大笑(たいしよう)を発せり。
風「更に一段の進境を示すには、竪杖(たてキュウ)をして二寸三分クロオスを裂(やぶ)かなければ可けません」
蒲「三たび臂(ひぢ)を折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖(たてキュウ)の極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の後曳(あとびき)の手際(てぎは)も知らんで」
これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間那処(あすこ)の主翁(おやぢ)がさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分失(なくな)る……」
蒲「穿得(うがちえ)て妙だ」
風「チョオクの多少は業(わざ)の巧拙には関せんよ。遊佐が無闇(むやみ)に杖(キュウ)を取易(とりか)へるのだつて、決して見(み)とも好くはない」
蒲田は手もて遽(にはか)に制しつ。
「もう、それで可い。他(ひと)の非を挙げるやうな者に業(わざ)の出来た例(ためし)が無い。悲い哉(かな)君達の球も蒲田に八十で底止(とまり)だね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは幾箇(いくつ)で来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られける哉(かな)だ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
語(ことば)も訖(をは)らざるに彼は傍腹(ひばら)に不意の肱突(ひぢつき)を吃(くら)ひぬ。
「あ、痛(いた)! さう強く撞(つ)くから毎々球が滾(ころ)げ出すのだ。風早の球は暴(あら)いから癇癪玉(かんしやくだま)と謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に柔(やはらか)いから蒟蒻玉(こんにやくだま)。それで、二人の撞くところは電公(かみなり)と蚊帳(かや)が捫択(もんちやく)してゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度(たんと)も行かんが、天狗(てんぐ)の風早に二十遣るのさ」
二人は劣らじと諍(あらが)ひし末、直(ただち)に一番の勝負をいざいざと手薬煉(てぐすね)引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で寛(ゆつく)り出来るさ。帰つて風呂にでも入(い)つて、それから徐々(そろそろ)始めやうよ」
往来繁(ゆききしげ)き町を湯屋の角より入(い)れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も雑(まじ)りながら閑静に、家並(やなみ)整へる中程に店蔵(みせぐら)の質店(しちや)と軒ラムプの並びて、格子木戸(こうしきど)の内を庭がかりにしたる門(かど)に楪葉(ゆづりは)の立てるぞ遊佐が居住(すまひ)なる。
彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出(い)で来(きた)りて、伴へる客あるを見て稍(やや)打惑へる気色(けしき)なりしが、遽(にはか)に笑(ゑみ)を含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫に尤(とが)められて、彼はいよいよ困(こう)じたるなり。
「唯今(ただいま)些(ちよい)と塞(ふさが)つてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
勝手を知れる客なればづかづかと長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
「鰐淵(わにぶち)から参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些(ちよい)とお会ひなすつて、早く還(かへ)してお了(しま)ひなさいましな」
「松茸(まつだけ)はどうした」
妻はこの暢気(のんき)なる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒(くろビイル)な……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私(わたし)は那奴(あいつ)が居ると思ふと不快(いや)な心持で」
遊佐も差当りて当惑の眉(まゆ)を顰(ひそ)めつ。二階にては例の玉戯(ビリアアド)の争(あらそひ)なるべし、さも気楽に高笑(たかわらひ)するを妻はいと心憎く。
少間(しばし)ありて遊佐は二階に昇り来(きた)れり。
蒲「浴(ゆ)に一つ行かうよ。手拭(てぬぐひ)を貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
実(げ)に言ふが如く彼は心穏(こころおだや)かならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸(アイス)が来てをるのだよ」
蒲「那物(えてもの)が来たのか」
遊「先から座敷で帰来(かへり)を待つてをつたのだ。困つたね!」
彼は立ちながら頭(かしら)を抑へて緩(ゆる)く柱に倚(よ)れり。
蒲「何とか言つて逐返(おつかへ)して了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍(ひねくね)した皮肉な奴でね、那奴(あいつ)に捉(つかま)つたら耐(たま)らん」
蒲「二三円も叩(たた)き付けて遣るさ」
遊「もうそれも度々(たびたび)なのでね、他(むかふ)は書替を為(さ)せやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を揮(ふる)つて」
「これは外の談判と違つて唯金銭(かね)づくなのだから、素手(すで)で飛込むのぢや弁の奮(ふる)ひやうが無いよ。それで忽諸(まごまご)すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀(すけだち)を為るから」
いと難(むづか)しと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、萎(しを)れてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして拯(すく)つて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いから可(い)かない。ああ云ふ風だから益(ますま)す脚下(あしもと)を見られて好い事を為れるのだ。高が金銭(かね)の貸借(かしかり)だ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは懼(おそ)れるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが高利(アイス)を貸したら名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利(あんり)や無利息なんぞを借りるから見れば、夐(はるか)に以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭(かね)に窮(こま)らんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは為(す)まいし、名誉に於て傷(きずつ)くところは少しも無い」
「恐入りました、高利(アイス)を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利(アイス)を借りるなどは、紳士たるもののいとも慚(は)づべき行(おこなひ)と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、未(いま)だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも能(あた)はざるなりだらう。宋(そう)の時代であつたかね、何か乱が興(おこ)つた。すると上奏に及んだものがある、これは師(いくさ)を動かさるるまでもない、一人(いちにん)の将を河上(かじよう)へ遣(つかは)して、賊の方(かた)に向つて孝経(こうきよう)を読せられた事ならば、賊は自(おのづ)から消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目(まじめ)で孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割(てんびきしわり)と吃(く)つて一月隔(おき)に血を吮(すは)れる。そんな無法な目に遭(あ)ひながら、未(いま)だ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利(アイス)は貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族(けだもの)さ」
得意の快弁流るる如く、彼は息をも継(つが)せず説来(とききた)りぬ。
「濡(ぬ)れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほ未(いま)だ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きなあやまりだ。それは勿論(もちろん)借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物(いちぶつ)にして一物ならずだよ。武士の魂(たましひ)と商人(あきんど)根性とは元是(これ)一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳を容(ゆる)さんことは、武士の魂と敢(あへ)て異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人(あきんど)にあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利(アイス)などを借りん内は武士の魂よ、既に対高利(たいアイス)となつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟(つまり)は敵に応ずる手段なのだ」
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利(アイス)を借りて、栄と為るに足れりと謂(い)ふに至つては……」
蒲田は恐縮せる状(さま)を作(な)して、
「それは少し白馬は馬に非(あら)ずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
「どれ、一匕(いつぴ)深く探る蛟鰐(こうがく)の淵(えん)と出掛けやうか」
「空拳(くうけん)を奈(いか)んだらう」
一笑して蒲田は二階を下りけり。風早は独(ひと)り臥(ね)つ起きつ安否の気遣(きづかは)れて苦き無聊(ぶりよう)に堪へざる折から、主(あるじ)の妻は漸(やうや)く茶を持ち来りぬ。
「どうも甚(はなは)だ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
彼はその美き顔を少く赧(あか)めて、
「はい、あの居間へお出(いで)で、紙門越(ふすまごし)に様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥(はづかし)くてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
「私(わたくし)はもう彼奴(あいつ)が参りますと、惣毛竪(そうけだ)つて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭(いや)に陰気なねちねちした、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
急足(いそぎあし)に階子(はしご)を鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
と上端(あがりはな)に坐れる妻の背後(うしろ)を過(すぐ)るとて絶(したた)かその足を蹈付(ふんづ)けたり。
「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
骨身に沁(し)みて痛かりけるを妻は赤くなりて推怺(おしこら)へつつ、さり気無く挨拶(あいさつ)せるを、風早は見かねたりけん、
「不相変(あひかはらず)麁相(そそつ)かしいね、蒲田は」
「どうぞ御免を。つい慌(あわ)てたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
「落付(おちつか)れる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸(アイス)と云ふのは、誰(たれ)だと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で君のとは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の面(つら)を蹈んだ」
「でも仕合(しあはせ)と皮の厚いところで」
「怪(け)しからん!」
妻の足の痛(いたみ)は忽(たちま)ち下腹に転(うつ)りて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た?!」
「さう! 驚いたらう」
彼は長き鼻息を出して、空(むなし)く眼(まなこ)をみはりしが、
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
別して呆(あき)れたるは主(あるじ)の妻なり。彼は鈍(おぞ)ましからず胸の跳(をど)るを覚えぬ。同じ思は二人が面(おもて)にも顕(あらは)るるを見るべし。
「下に参つてゐるのは御朋友(ごほうゆう)なのでございますか」
蒲田は忙(せは)しげに頷(うなづ)きて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
「夙(かね)て学校を罷(や)めてから高利貸(アイス)を遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和(ごくおとなし)い男で、高利貸(アイス)などの出来る気ぢやないのですから、そんな事は虚(うそ)だらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
「さあ、そこで誰も虚(うそ)と想ふのです」
「本(ほん)にさうでございますね」
少(すこし)き前に起ちて行きし風早は疑(うたがひ)を霽(はら)して帰り来(きた)れり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
「アルフレッド大王の面影(おもかげ)があるだらう」
「エッセクスを逐払(おつぱら)はれた時の面影だ。然し彼奴(あいつ)が高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」
「さあ、あれで因業(いんごう)な事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
主(あるじ)の妻はその美き顔を皺(しわ)めたるなり。
蒲「随分酷(ひど)うございますか」
妻「酷うございますわ」
こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をば遽(にはか)に取りて飲干し、
「然し間であるのが幸(さいはひ)だ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕(あこぎ)なことは言ひもすまい。次手(ついで)に何とか話を着けて、元金(もときん)だけか何かに負けさして遣らうよ。那奴(あいつ)なら恐れることは無い」
彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで喧嘩(けんか)に行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分も些(ちつ)と気凛(きりつ)とするが可い、帯の下へ時計の垂下(ぶらさが)つてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、主(あるじ)の妻は傍(かたはら)より、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは憚様(はばかりさま)です。些(ちよつ)と身支度に婦人の心添(こころぞへ)を受けるところは堀部安兵衛(ほりべやすべえ)といふ役だ。然し芝居でも、人数(にんず)が多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な! 間(はざま)如きに」
「急に強くなつたから可笑(をかし)い。さあ。用意は好(い)いよ」
「此方(こつち)も可(い)い」
二人は膝を正して屹(き)と差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても敵討(かたきうち)の門出(かどで)だ。互に交す茶盃(ちやさかづき)か」 
第六章
座敷には窘(くるし)める遊佐と沈着(おちつ)きたる貫一と相対して、莨盆(たばこぼん)の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍(かたはら)に茶托(ちやたく)の上に伏せたる茶碗(ちやわん)は、嘗(かつ)て肺病患者と知らで出(いだ)せしを恐れて除物(のけもの)にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
遊佐は憤(いきどほり)を忍べる声音(こわね)にて、
「それは出来んよ。勿論(もちろん)朋友(ほうゆう)は幾多(いくら)も有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、何(なん)ぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
貫一の声は重きを曳(ひ)くが如く底強く沈みたり。
「敢(あへ)て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それでは私(わたくし)の方が立ちません。何方(どちら)とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固(もと)より貴方(あなた)がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些(ほん)の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼(よしみ)として、何方(どなた)でも承諾なさりさうなものですがな。究竟(つまり)名義だけあれば宜(よろし)いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決(け)してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉(かど)が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先(ひとまづ)句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
遊佐は答ふるところを知らざるなり。
「何方(どなた)でも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関(かかは)るやうな手段も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
「無論差押(さしおさへ)です」
遊佐は強(し)ひて微笑を含みけれど、胸には犇(ひし)と応(こた)へて、はや八分の怯気(おじけ)付きたるなり。彼は悶(もだ)えて捩断(ねぢき)るばかりにその髭(ひげ)を拈(ひね)り拈りて止まず。
「三百円やそこらの端金(はしたがね)で貴方(あなた)の御名誉を傷(きずつ)けて、後来御出世の妨碍(さまたげ)にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決(け)して可好(このまし)くはないのです。けれども、此方(こちら)の請求を容(い)れて下さらなければ已(や)むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金(もときん)の上に借用当時から今日(こんにち)までの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円強(なにがし)、それと合(がつ)して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費(つか)つたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書(かか)される! 余(あんま)り馬鹿々々しくて話にならん。此方(こつち)の身にも成つて少しは斟酌(しんしやく)するが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」
空嘯(そらうそぶ)きて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
遊佐は陰(ひそか)に切歯(はがみ)をなしてその横顔を睨付(ねめつ)けたり。
彼ものがれ難き義理に迫りて連帯の印捺(いんつ)きしより、不測の禍(わざはひ)は起りてかかる憂き目を見るよと、太(いた)く己(おのれ)に懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を懸(か)くることもやと、断じて貫一の請求を容(い)れざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに谷(きはま)るとともに貫一もこの場は一寸(いつすん)も去らじと構へたれば、遊佐は羂(わな)に係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき謂無(いはれな)き責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、飜(ひるがへ)りて一点の人情無き賤奴(せんど)の虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず暴(あ)れ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
「先月の二十日(はつか)にお払ひ下さるべきのを、未(いま)だにお渡(わたし)が無いのですから、何日(いつ)でも御催促は出来るのです」
遊佐は拳(こぶし)を握りて顫(ふる)ひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで空(むなし)く帰るその日当及び俥代(くるまだい)として下すつたから戴きました。ですから、若(も)しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金(うちきん)でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」
「それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足(むだあし)を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜(よろし)い訳なのです。まあ、過去つた事は措(お)きまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
「今日(こんにち)はその事で上つたのではないのですから、今日(こんにち)の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有(おつしや)るのですな」
「出来ん!」
「で、金(きん)も下さらない?」
「無いから遣れん!」
貫一は目を側めて遊佐が面(おもて)を熟(じ)と候(うかが)へり。その冷(ひややか)に鋭き眼(まなこ)の光は異(あやし)く彼を襲ひて、坐(そぞろ)に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽(たちま)ち吾に復(かへ)れるやうに覚えて、身の危(あやふ)きに処(を)るを省みたり。一時を快くする暴言も竟(つひ)に曳(ひか)れ者(もの)の小唄(こうた)に過ぎざるを暁(さと)りて、手持無沙汰(てもちぶさた)に鳴(なり)を鎮めつ。
「では、何(いつ)ごろ御都合が出来るのですか」
機を制して彼も劣らず和(やはら)ぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
「聢(しか)と相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜(よろし)うございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を有仰(おつしや)るところは少しも有りはしません、その代り何分(なんぶん)か今日(こんにち)お遣(つかは)し下さい」
かく言ひつつ手鞄(てかばん)を開きて、約束手形の用紙を取出(とりいだ)せり。
「銭は有りはせんよ」
「僅少(わづか)で宜(よろし)いので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ金円(かね)は有りはせん」
「それぢや、どうも」
彼は遽(にはか)に躊躇(ちゆうちよ)して、手形用紙を惜めるやうに拈(ひね)るなりけり。
「ええ、では三円ばかり出さう」
折から紙門(ふすま)を開きけるを弗(ふ)と貫一のみむかふる目前(めさき)に、二人の紳士は徐々(しづしづ)と入来(いりきた)りぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等の各(おのおの)心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は少(すこし)く座を動(ゆる)ぎて容(かたち)を改めたり。紳士は上下(かみしも)に分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作(な)せり。
蒲「どうも曩(さき)から見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」
風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」
貫一は愕然(がくぜん)として二人の面(おもて)を眺めたりしが、忽(たちま)ち身の熱するを覚えて、その誰なるやを憶出(おもひいだ)せるなり。
「これはお珍(めづらし)い。何方(どなた)かと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りませんでしたが、いつもお変無く」
蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな――儲(まうか)りませう」
貫一は打笑(うちゑ)みて、
「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」
彼の毫(いささか)も愧(は)づる色無きを見て、二人は心陰(こころひそか)に呆(あき)れぬ。侮(あなど)りし風早もかくては与(くみ)し易(やす)からず思へるなるべし。
蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、然(しか)し思切つた事を始めましたね。君の性質で能(よ)くこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」
「真人間に出来る業(わざ)ぢやありませんな」
これ実に真人間にあらざる人の言(ことば)なり。二人はこの破廉耻(はれんち)の老面皮(ろうめんぴ)を憎しと思へり。
蒲「酷(ひど)いね、それぢや君は真人間でないやうだ」
「私(わたし)のやうな者が憖(なまじ)ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷(や)めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」
風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、依旧(やはり)真人間で居てもらひたいね」
風早は親しげに放笑せり。
蒲「さうさう、それ、あの時分浮名(うきな)の聒(やかまし)かつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」
貫一は知らざる為(まね)してゐたり。
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」
蒲「ねえ、間君、何とか云つた」
よしその旧友の前に人間の面(おもて)を赧(あか)めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。
「そんなつまらん事を」
蒲「この頃はあの美人と一所ですか、可羨(うらやまし)い」
「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印(ごいん)を願ひます」
彼は矢立(やたて)の筆を抽(ぬ)きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、
風「ああ些(ちよつ)と、その手形はどう云ふのですね」
貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、
「成程御尤(ごもつとも)、そこで少しお話を為たい」
蒲田は姑(しばら)く助太刀の口を噤(つぐ)みて、皺嗄声(しわがれごゑ)の如何(いか)に弁ずるかを聴かんと、吃余(すひさし)の葉巻を火入(ひいれ)に挿(さ)して、威長高(ゐたけだか)に腕組して控へたり。
「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別の扱(あつかひ)をして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、然し旧友の頼(たのみ)と思つて、少し勘弁をしてもらひたい」
彼も答へず、これも少時(しばし)は言はざりしが、
「どうかね、君」
「勘弁と申しますと?」
「究竟(つまり)君の方に損の掛らん限は減(ま)けてもらひたいのだ。知つての通り、元金(もとこ)の借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取立てるものは取立てる、其処(そこ)は能(よ)く解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹(かか)つたので、如何(いか)にも気の毒な次第。ところで、図(はか)らずも貸主が君と云ふので、轍鮒(てつぷ)の水を得たる想(おもひ)で我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友の間(はざま)として、実は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。夙(かね)て話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林(とおばやし)が従来(これまで)三回に二百七十円の利を払つて在(あ)る。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の元金(もときん)だけを遊佐君の手で返せば可いといふ事にしてもらひたいのだ」
貫一は冷笑せり。
「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も費(つか)はずに空(くう)に出るのだから随分辛(つら)い話、君の方は未(ま)だ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さ競(くらべ)を為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前(たちまへ)にはなつてゐる、此方(こつち)は三百九十円の全損(まるぞん)だから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」
「全(まる)でお話にならない」
秋の日は短(みじか)しと謂(い)はんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨無く約束の金額を書入れたり。一斉に彼の面(おもて)を注視せし風早と蒲田との眼(まなこ)は、更に相合うて瞋(いか)れるを、再び彼方(あなた)に差向けて、いとど厳(きびし)く打目戍(うちまも)れり。
風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」
貫「それでは遊佐さん、これに御印(ごいん)を願ひませう。日限(にちげん)は十六日、宜(よろし)うございますか」
この傍若無人の振舞に蒲田の怺(こら)へかねたる気色(けしき)なるを、風早は目授(めまぜ)して、
「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでも方(ほう)が付かんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所(いつしよ)に沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に関(かか)る大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何(いかに)とも手の着けやうが無い。対手(あいて)が君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難を拯(すく)ふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然(まるまる)損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、決(け)してさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」
「私(わたくし)は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日(こんにち)はまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」
遊佐はその独(ひとり)に計ひかねて覚束(おぼつか)なげに頷(うなづ)くのみ。言はで忍びたりし蒲田の怒(いかり)はこの時衝(つ)くが如く、
「待ち給へと言ふに! 先から風早が口を酸(す)くして頼んでゐるのぢやないか、銭貰(ぜにもらひ)が門(かど)に立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、可然(しかるべ)き挨拶(あいさつ)を為たまへ」
「お話がお話だから可然(しかるべ)き御挨拶の為やうが無い」
「黙れ、間(はざま)! 貴様の頭脳(あたま)は銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に可然(しかるべき)挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だから節(たしな)めと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人(ぬすつと)の兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば赧(あか)い顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑(ぶべつ)したこの有様を、荒尾譲介(あらおじようすけ)に見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟(おとと)を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱(ふさ)いでゐたぞ。その一言(いちごん)に対しても少しは良心の眠(ねむり)を覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は順(おとなし)く帰れ、帰れ」
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方(あなたがた)がそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かう為(な)すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形(かた)はそれで一先(ひとまづ)附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」
蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。
「うん、宜(よろし)い」
「ではさう為(なす)つて下さるか」
「うん、宜い」
「さう致せば又お話の付けやうもあります」
「然し気の毒だな、無利息、十個年賦(じつかねんぷ)は」
「ええ? 常談ぢやありません」
さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑(せせらわらひ)しつ。
風「常談は措いて、いづれ四五日内(うち)に篤(とく)と話を付けるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」
「さう云ふ無理を有仰(おつしや)るで、私の方も然るべき御挨拶が出来なくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だ外(ほか)へ廻るで急ぎますから、お話は後日寛(ゆつく)り伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方(あなた)御承諾なすつて置きながら今になつて遅々(ぐづぐづ)なすつては困ります」
蒲「疫病神(やくびようがみ)が戸惑(とまどひ)したやうに手形々々と煩(うるさ)い奴だ。俺(おれ)が始末をして遣らうよ」
彼は遊佐が前なる用紙を取りて、
蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」
遊「百十七円? 九十円だよ」
蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」
かかる事は能(よ)く知りながら彼はわざと怪しむなりき。
遊「そんな筈(はず)は無い」
貫一は彼等の騒ぐを尻目に挂(か)けて、
「九十円が元金(もときん)、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利(アイス)の定法(じようほう)です」
音もせざれど遊佐が胆は潰(つぶ)れぬ。
「お……ど……ろ……いたね!」
蒲田は物をも言はず件(くだん)の手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、猶(なほ)も引裂き引裂き、引捩(ひきねぢ)りて間が目先に投遣(なげや)りたり。彼は騒げる色も無く、
「何を為(なさ)るのです」
「始末をして遣つたのだ」
「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」
彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰(こころひそか)に懼(おそれ)を作(な)して、
「いやさう云ふ訳ぢやない……」
蒲田はきつと膝(ひざ)を前(すす)めて、
「いや、さう云ふ訳だ!」
彼の鬼臉(こはもて)なるをいと稚(をさな)しと軽(かろ)しめたるやうに、間はわざと色を和(やはら)げて、
「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方(あなた)も折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。私(わたくし)如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」
「おお俺が法学士ならどうした」
「名実が相副(あひそ)はんと謂ふのです」
「生意気なもう一遍言つて見ろ」
「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業を為(な)さい」
蒲田が腕(かひな)は電光の如く躍(をど)りて、猶言はんとせし貫一が胸先を諸掴(もろつかみ)に無図(むず)と捉(と)りたり。
「間、貴様は……」
捩向(ねぢむ)けたる彼の面(おもて)を打目戍(うちまも)りて、
「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋の帽子を冠(かぶ)つて煖炉(ストオブ)の前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼(ああ)、順(おとなし)い間を、と力抜(ちからぬけ)がして了ふ。貴様これが人情だぞ」
鷹(たか)に遭(あ)へる小鳥の如く身動(みうごき)し得為(えせ)で押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然(あはれ)と見遣りて、
「蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃の間(はざま)と思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人の誼(よしみ)を思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ」
「さあ、間、どうだ」
「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で自(おのづ)から別問題……」
彼は忽ち吭迫(のどつま)りて言ふを得ず、蒲田は稍(やや)強く緊(し)めたるなり。
「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸(いき)が止るぞ」
貫一は苦しさに堪(た)へで振釈(ふりほど)かんともがけども、嘉納流(かのうりゆう)の覚ある蒲田が力に敵しかねて、なかなかその為すに信(まか)せたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、風早も心ならず、
「おい蒲田、可いかい、死にはしないか」
「余り、暴(あら)くするなよ」
蒲田は哄然(こうぜん)として大笑(たいしよう)せり。
「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは水滸伝(すいこでん)にある図だらう。惟(おも)ふに、凡(およ)そ国利を護(まも)り、国権を保つには、国際公法などは実は糸瓜(へちま)の皮、要は兵力よ。万国の上には立法の君主が無ければ、国と国との曲直の争(あらそひ)は抑(そもそ)も誰(たれ)の手で公明正大に遺憾無(いかんな)く決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、曰(いは)く戦(たたかひ)!」
風「もう釈(ゆる)してやれ、大分(だいぶ)苦しさうだ」
蒲「強国にして辱(はづかし)められた例(ためし)を聞かん、故(ゆゑ)に僕は外交の術も嘉納流よ」
遊「余り酷(ひど)い目に遭せると、僕の方へ報(むく)つて来るから、もう舎(よ)してくれたまへな」
他(ひと)の言(ことば)に手は弛(ゆる)めたれど、蒲田は未(いま)だ放ちも遣らず、
「さあ、間、返事はどうだ」
「吭(のど)を緊められても出す音(ね)は変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこの面(つら)を五百円の紙幣束(さつたば)でお撲(たた)きなさい」
「金貨ぢや可かんか」
「金貨、結構です」
「ぢや金貨だぞ!」
油断せる貫一が左の高頬(たかほ)を平手打に絶(したた)か吃(くらは)すれば、呀(あ)と両手に痛を抑(おさ)へて、少時(しばし)は顔も得挙(えあ)げざりき。蒲田はやうやう座に復(かえ)りて、
「急には此奴(こいつ)帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずると為(せ)う」
「さあ、それも可(よ)からう」
独り可からぬは遊佐なり。
「ここで飲んぢや旨(うま)くないね。さうして形が付かなければ、何時(いつ)までだつて帰りはせんよ。酒が仕舞(しまひ)になつてこればかり遺(のこ)られたら猶(なほ)困る」
「宜(よろし)い、帰去(かへり)には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」
「はい」
「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」
と彼は横手を拍(う)ちて不意にさけべば、
「ええ、吃驚(びつくり)する、何だ」
「憶出(おもひだ)した。間の許婚(いひなづけ)はお宮、お宮」
「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日(こんにち)ぢや大きに日済(ひなし)などを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為(さ)しちや可かんよ。けれども高利貸(アイス)などは、これで却(かへ)つて女子(をんな)には温(やさし)いとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利を貪(むさぼ)る所以(ゆゑん)の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀(えよう)がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営惨憺(さんたん)と努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨(かね)を殖(こしら)へるやうだがな、譬(たと)へば、軍用金を聚(あつ)めるとか、お家の宝を質請(しちうけ)するとか。単に己(おのれ)の慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多(おほく)のガリガリ亡者(もうじや)は論外として、間貫一に於(おい)ては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つて存(そん)するのだらう」
秋の日は忽(たちま)ち黄昏(たそが)れて、稍(やや)早けれど燈(ともし)を入るるとともに、用意の酒肴(さけさかな)は順を逐(お)ひて運び出(いだ)されぬ。
「おつと、麦酒(ビイル)かい、頂戴(ちようだい)。鍋(なべ)は風早の方へ、煮方は宜(よろし)くお頼み申しますよ。うう、好い松茸(まつだけ)だ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白(ましろ)で、庖丁(ほうちよう)が軋(きし)むやうでなくては。今年は不作(はづれ)だね、瘠(や)せてゐて、虫が多い、あの雨が障(さは)つたのさ。間、どうだい、君の目的は」
「唯貨(かね)が欲いのです」
「で、その貨をどうする」
「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」
風「まあ、これを一盃(いつぱい)飲んで、今日は機嫌(きげん)好く帰つてくれ給へ」
蒲「そら、お取次だ」
「私(わたくし)は酒は不可(いかん)のです」
蒲「折角差したものだ」
「全く不可のですから」
差付けらるるを推除(おしの)くる機(はずみ)に、コップは脆(もろ)くも蒲田の手を脱(すべ)れば、莨盆(たばこぼん)の火入(ひいれ)に抵(あた)りて発矢(はつし)と割れたり。
「何を為る!」
貫一も今は怺(こら)へかねて、
「どうしたと!」
やをら起たんと為るところを、蒲田が力に胸板(むないた)を衝(つか)れて、一耐(ひとたまり)もせず仰様(のけさま)に打僵(うちこ)けたり。蒲田はこの隙(ひま)に彼の手鞄(てかばん)を奪ひて、中なる書類を手信(てまかせ)に掴出(つかみだ)せば、狂気の如く駈寄(かけよ)る貫一、
「身分に障(さは)るぞ!」と組み付くを、利腕捉(ききうでと)つて、
「黙れ!」と捩伏(ねぢふ)せ、
「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違無いから、早く其奴(そいつ)を取つて了ひ給へ」
これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事の余(あまり)に暴なるを快(こころよ)しと為ざるなりき。貫一は駭(おどろ)きて、撥返(はねかへ)さんと右に左に身を揉むを、蹈跨(ふんまたが)りて捩揚(ねぢあ)げ捩揚げ、蒲田は声を励して、
「この期(ご)に及んで! 躊躇(ちゆうちよ)するところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」
手を出しかねたる二人を睨廻(ねめまは)して、蒲田はなかなか下に貫一の悶(もだ)ゆるにも劣らず、独(ひと)り業(ごう)を沸(にや)して、効無(かひな)き地鞴(ぢただら)を踏みてぞゐたる。
風「それは余り遣過ぎる、善(よ)くない、善くない」
「善(い)いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何をぼんやりしてゐるのだ」
彼はほとほと慄(をのの)きて、寧(むし)ろ蒲田が腕立(うでだて)の紳士にあるまじきを諌(いさ)めんとも思へるなり。腰弱き彼等の与(くみ)するに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山に入(い)りながら手を空(むなし)うする無念さに、貫一が手も折れよとばかり捩上(ねぢあぐ)れば、
「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」
「ええ聒(やかまし)い。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕が独(ひとり)で遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ」
かく言捨てて蒲田は片手して己(おのれ)の帯を解かんとすれば、時計の紐(ひも)の生憎(あやにく)に絡(からま)るを、躁(あせ)りに躁りて引放さんとす。
風「独(ひとり)でどうするのだよ」
彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。
蒲「どうするものか、此奴(こいつ)を蹈縛(ふんじば)つて置いて、僕が証書を探すわ」
「まあ、余り穏(おだやか)でないから、それだけは思ひ止(とま)り給へ。今間も話を付けると言つたから」
「何か此奴(こいつ)の言ふ事が!」
間は苦(くるし)き声を搾(しぼ)りて、
「きつと話を付けるから、この手を釈(ゆる)してくれ給へ」
風「きつと話を付けるな――此方(こつち)の要求を容(い)れるか」
間「容れる」
詐(いつはり)とは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫(ちからくじ)けて、竟(つひ)に貫一を放ちてけり。
身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚(かきあつ)め、鞄(かばん)を拾ひてその中に捩込(ねぢこ)み、さて慌忙(あわただし)く座に復(かへ)りて、
「それでは今日(こんにち)はこれでお暇(いとま)をします」
蒲田が思切りたる無法にこの長居は危(あやふ)しと見たれば、心に恨は含みながら、陽(おもて)には克(かな)はじと閉口して、重ねて難題の出(い)でざる先にとかくは引取らんと為るを、
「待て待て」と蒲田は下司扱(げすあつかひ)に呼掛けて、
「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求を容(い)れん内は、今度は此方(こつち)が還(かへ)さんぞ」
膝推向(ひざおしむ)けて迫寄(つめよ)る気色(けしき)は、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。
「きつと要求は容れますけれど、嚮(さつき)から散々の目に遭(あは)されて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座(ちようざ)をいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」
忽(たちま)ち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑(あざわらひ)して、
「間、貴様は犬の糞(くそ)で仇(かたき)を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今(これから)毎(いつ)でも蒲田が現れて取挫(とりひし)いで遣るから」
「間も男なら犬の糞ぢや仇(かたき)は取らない」
「利(き)いた風なことを言ふな」
風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕が其処(そこ)まで送らう」
遊佐と風早とは起ちて彼を送出(おくりいだ)せり。主(あるじ)の妻は縁側より入(い)り来(きた)りぬ。
「まあ、貴方(あなた)、お蔭様で難有(ありがた)う存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」
「や、これは。些(ちよつ)と壮士(そうし)芝居といふところを」
「大相宜(よろし)い幕でございましたこと。お酌を致しませう」
件(くだん)の騒動にて四辺(あたり)の狼藉(ろうぜき)たるを、彼は効々(かひかひ)しく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来(いりく)るを見て、
「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方御寛(ごゆる)り召上つて下さいまし」
妻の喜は溢(あふ)るるばかりなるに引易(ひきか)へて、遊佐は青息(あをいき)つきて思案に昏(く)れたり。
「弱つた! 君がああして取緊(とつち)めてくれたのは可いが、この返報に那奴(あいつ)どんな事を為るか知れん。明日(あした)あたり突然(どん)と差押(さしおさへ)などを吃(くは)せられたら耐(たま)らんな」
「余り蒲田が手酷(てひど)い事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々(はらはら)してゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前(あとさき)を考へて遣つてくれなくては他迷惑(はためいわく)だらうぢやないか」
「まあ、待ち給へと言ふことさ」
蒲田は袂(たもと)の中を撈(かいさぐ)りて、揉皺(もめしわ)みたる二通の書類を取出(とりいだ)しつ。
風「それは何だ」
遊「どうしたのさ」
何ならんと主(あるじ)の妻も鼻の下を延べて窺(うかが)へり。
風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」
彼は先づその一通を取りて披見(ひらきみ)るに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。
二人は蒲田が案外の物持てるに驚(おどろか)されて、各(おのおの)息を凝(こら)してみはれる眼(まなこ)を動さず。蒲田も無言の間(うち)に他の一通を取りて披(ひら)けば、妻はいよいよ近(ちかづ)きて差覗(さしのぞ)きつ。四箇(よつ)の頭顱(かしら)はラムプの周辺(めぐり)に麩(ふ)に寄る池の鯉(こひ)の如く犇(ひし)と聚(あつま)れり。
「これは三百円の証書だな」
一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻の前(さき)なる遊佐良橘の名をも署(しる)したり、蒲田は弾機仕掛(ばねじかけ)のやうに躍(をど)り上りて、
「占めた! これだこれだ」
驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手は鶤(しやも)の鉢(はち)の中にすつぱと落入り、乗出す膝頭(ひざがしら)に銚子(ちようし)を薙倒(なぎたふ)して、
「僕のかい、僕のかい」
「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、筋(きん)の活動(はたらき)を失へるやうにて幾度(いくたび)も捉(とら)へ得ざるなりき。
「まあ!」と叫びし妻は忽(たちま)ち胸塞(むねふたが)りて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝の蹈(ふ)むところを知らず、
「占めたぞ! 占めたぞ!! 難有(ありがた)い!!!」
証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と六(むつ)の目を以(も)て子細にこれを点検して、その夢ならざるを明(あきら)めたり。
「君はどうしたのだ」
風早の面(おもて)はかつ呆(あき)れ、かつ喜び、かつ懼(をそ)るるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒(ビイル)の満(まん)を引きし蒲田は「血は大刀に滴(したた)りて拭(ぬぐ)ふに遑(いとま)あらざる」意気を昂(あ)げて、
「何と凄(すご)からう。奴を捩伏(ねぢふ)せてゐる中に脚(あし)で掻寄(かきよ)せて袂(たもと)へ忍ばせたのだ――早業(はやわざ)さね」
「やはり嘉納流にあるのかい」
「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝(きようげべつでん)さ」
「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」
「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治(たいじ)る材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが覘(ねら)ふ敵(かたき)の証書ならんとは、全く天の善に与(くみ)するところだ」
風「余り善でもない。さうしてあれを此方(こつち)へ取つて了へば、三百円は蹈(ふ)めるのかね」
蒲「大蹈(おほふ)め! 少し悪党になれば蹈める」
風「然し、公正証書であつて見ると……」
蒲「あつても差支無(さしつかへな)い。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本(せいほん)さへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動(じたばた)したつて『河童(かつぱ)の皿に水の乾(かわ)いた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、全然(まるまる)蹈むのもさすがに不便(ふびん)との思召(おぼしめし)を以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使が宜(よろし)く樽爼(そんそ)の間(かん)に折衝して、遊佐家を泰山(たいざん)の安きに置いて見せる。嗚呼(ああ)、実に近来の一大快事だ!」
人々の呆(あき)るるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴(おしいただ)き推戴きて、
「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方(あなた)が音頭(おんど)をお取んなさいましよ――いいえ、本当に」
小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事に埒(らち)開けんといふに励されて、さては一生の怨敵(おんてき)退散の賀(いはひ)と、各(おのおの)漫(そぞろ)に前(すす)む膝を聚(あつ)めて、長夜(ちようや)の宴を催さんとぞ犇(ひしめ)いたる。 
第七章
茫々(ぼうぼう)たる世間に放れて、蚤(はや)く骨肉の親むべき無く、況(いはん)や愛情の温(あたた)むるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然(かいぜん)として横(よこた)はる石の如きものなるべし。彼が鴫沢(しぎさわ)の家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、柔(やはらか)き手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等の楽(たのしみ)をも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として慊(あきた)らず、母の一部分となし、妹(いもと)の一部分となし、或(あるひ)は父の、兄の一部分とも為(な)して宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒(まどひ)に値せしなり、故(ゆゑ)に彼の恋は青年を楽む一場(いちじよう)の風流の麗(うるはし)き夢に似たる類(たぐひ)ならで、質はその文(ぶん)に勝てるものなりけり。彼の宮に於(お)けるは都(すべ)ての人の妻となすべき以上を妻として、寧(むし)ろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、自(みづから)はその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時(いちじ)に花を着くる心地して、曩(さき)の枯野に夕暮れし石も今将(は)た水に温(ぬく)み、霞(かすみ)に酔(ゑ)ひて、長閑(のどか)なる日影に眠る如く覚えけんよ。その恋のいよいよ急に、いよいよ濃(こまやか)になり勝(まさ)れる時、人の最も憎める競争者の為に、しかも輙(たやす)く宮を奪はれし貫一が心は如何(いか)なりけん。身をも心をも打委(うちまか)せて詐(いつは)ることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如く己(おのれ)に反(そむ)きて、空(むなし)く他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何(いか)なりけん。彼はここに於いて曩(さき)に半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥(せいりよう)を感ずるのみにて止(とどま)らず、失望を添へ、恨を累(かさ)ねて、かの塊然たる野末(のずゑ)の石は、霜置く上に凩(こがらし)の吹誘ひて、皮肉を穿(うが)ち来(きた)る人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みて已(や)まざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、その甞(かつ)て与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をも併(あは)せて取去られしなり。
彼は或(あるひ)はその恨を抛(なげう)つべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦(ひとたび)太(いた)くその心を傷(きずつ)けられたるかの痛苦は、永くその心の存在と倶(とも)に存在すべければなり。その業務として行はざるべからざる残忍刻薄を自ら強(し)ふる痛苦は、能(よ)く彼の痛苦と相剋(あひこく)して、その間(かん)聊(いささ)か思(おもひ)を遣るべき余地を窃(ぬす)み得るに慣れて、彼は漸(やうや)く忍ぶべからざるを忍びて為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、勁敵(けいてき)に遇(あ)ひ、悪徒に罹(かか)りて、或は弄(もてあそ)ばれ、或は欺かれ、或は脅(おびやか)され勢(いきほひ)毒を以つて制し、暴を以つて易(か)ふるの已(や)むを得ざるより、一(いつ)はその道の習に薫染して、彼は益(ますま)す懼(おそ)れず貪(むさぼ)るに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼を撻(むちう)つやうに募ることありて、心も消々(きえきえ)に悩まさるる毎に、齷さく(あくさく)利を趁(お)ふ力も失せて、彼はなかなか死の安きを懐(おも)はざるにあらず。唯その一旦にして易(やす)く、又今の空(むなし)き死を遂(と)げ了(をは)らんをば、いと効為(かひな)しと思返して、よし遠くとも心に期するところは、なでう一度(ひとたび)前(さき)の失望と恨とを霽(はら)し得て、胸裡(きようり)の涼きこと、氷を砕いて明鏡を磨(と)ぐが如く為ざらん、その夕(ゆふべ)ぞ我は正(まさ)に死ぬべきと私(ひそか)に慰むるなりき。
貫一は一(いつ)はかの痛苦を忘るる手段として、一(いつ)はその妄執(もうしゆう)を散ずべき快心の事を買はんの目的をもて、かくは高利を貪(むさぼ)れるなり。知らず彼がその夕(ゆふべ)にして瞑(めい)せんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常復讐(ふくしゆう)の小術を成して、宮に富山に鴫沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今少(すこし)く事の大きく男らしくあらんをば企図(きと)せるなり。然れども、痛苦の劇(はげし)く、懐旧の恨に堪(た)へざる折々、彼は熱き涙を握りて祈るが如く嘆(かこ)ちぬ。
「ああ、こんな思を為るくらゐなら、いつそ潔く死んだ方が夐(はるか)に勝(まし)だ。死んでさへ了へば万慮空(むなし)くこの苦艱(くげん)は無いのだ。それを命が惜くもないのに死にもせず……死ぬのは易(やす)いが、死ぬことの出来んのは、どう考へても余り無念で、この無念をこのままに胸に納めて死ぬことは出来んのだ。貨(かね)が有つたら何が面白いのだ。人に言はせたら、今俺(おれ)の貯(たくは)へた貨(かね)は、高が一人の女の宮に換へる価はあると謂(い)ふだらう。俺には無い! 第一貨(かね)などを持つてゐるやうな気持さへ為(せ)んぢやないか。失望した身にはその望を取復(とりかへ)すほどの宝は無いのだ。ああ、その宝は到底取復されん。宮が今罪を詑(わ)びて夫婦になりたいと泣き付いて来たとしても、一旦心を変じて、身まで涜(けが)された宮は、決して旧(もと)の宮ではなければ、もう間(はざま)の宝ではない。間の宝は五年前(ぜん)の宮だ。その宮は宮の自身さへ取復す事は出来んのだ。返す返す恋(こひし)いのは宮だ。かうしてゐる間(ま)も宮の事は忘れかねる、けれど、それは富山の妻になつてゐる今の宮ではない、噫(ああ)、鴫沢の宮! 五年前(ぜん)の宮が恋い。俺が百万円を積んだところで、昔の宮は獲(え)られんのだ! 思へば貨(かね)もつまらん。少(すくな)いながらも今の貨(かね)が熱海へ追つて行つた時の鞄(かばん)の中に在つたなら……ええ!!」
頭(かしら)も打割るるやうに覚えて、この以上を想ふ能(あた)はざる貫一は、ここに到りて自失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見(たずみ)の底に逍遙(しようよう)せし富山が妻との姿は、双々(そうそう)貫一が身辺を彷徨(ほうこう)して去らざるなり。彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為すより、往々その性の為す能はざるをも為して、仮(か)さざること仇敵(きゆうてき)の如く、債務を逼(せま)りて酷を極(きは)むるなり。退(しりぞ)いてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、忽(たちま)ち勢に駆られて断行するを憚(はばか)らざるなり。かくして彼の心に拘(かかつら)ふ事あれば、自(おのづか)ら念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、素(もと)より彼は正(せい)を知らずして邪を為し、是(ぜ)を喜ばずして非(ひ)を為すものにあらざれば、己(おのれ)を抂(ま)げてこれを行ふ心苦しさは俯(ふ)して愧(は)ぢ、仰ぎて懼(おそ)れ、天地の間に身を置くところは、纔(わづか)にその容(い)るる空間だに猶濶(なほひろ)きを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、夐(はるか)に忍ぶの易く、体(たい)のまた胖(ゆたか)なるをさへ感ずるなりけり。
一向(ひたぶる)に神(しん)を労し、思を費して、日夜これを暢(のぶ)るに遑(いとま)あらぬ貫一は、肉痩(にくや)せ、骨立ち、色疲れて、宛然(さながら)死水(しすい)などのやうに沈鬱し了(をは)んぬ。その攅(あつ)めたる眉(まゆ)と空(むなし)く凝(こら)せる目とは、体力の漸(やうや)く衰ふるに反して、精神の愈(いよい)よ興奮するとともに、思の益(ますま)す繁(しげ)く、益す乱るるを、従ひて芟(か)り、従ひて解かんとすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、竟(つひ)に如何(いか)に為(せ)ばや、と心も砕けつつ打悩めるを示せり。更に見よ、漆のやうに鮮潤(つややか)なりし髪は、後脳の辺(あたり)に若干(そくばく)の白きを交(まじ)へて、額に催せし皺(しわ)の一筋長く横(よこた)はれるぞ、その心の窄(せばま)れる襞(ひだ)ならざるべき、況(いは)んや彼の面(おもて)を蔽(おほ)へる蔭は益(ますま)す暗きにあらずや。
吁(ああ)、彼はその初一念を遂(と)げて、外面(げめん)に、内心に、今は全くこの世からなる魔道に墜(お)つるを得たりけるなり。貪欲界(どんよくかい)の雲は凝(こ)りて歩々(ほほ)に厚く護(まも)り、離恨天(りこんてん)の雨は随所直(ただち)に灑(そそ)ぐ、一飛(いつぴ)一躍出でては人の肉を啖(くら)ひ、半生半死入(い)りては我と膓(はらわた)を劈(つんざ)く。居(を)る所は陰風常に廻(めぐ)りて白日を見ず、行けども行けども無明(むみよう)の長夜(ちようや)今に到るまで一千四百六十日、逢(あ)へども可懐(なつかし)き友の面(おもて)を知らず、交(まじは)れども曾(かつ)て情(なさけ)の蜜(みつ)より甘きを知らず、花咲けども春日(はるび)の麗(うららか)なるを知らず、楽来(たのしみきた)れども打背(うちそむ)きて歓(よろこ)ぶを知らず、道あれども履(ふ)むを知らず、善あれども与(くみ)するを知らず、福(さいはひ)あれども招くを知らず、恵あれども享(う)くるを知らず、空(むなし)く利欲に耽(ふけ)りて志を喪(うしな)ひ、偏(ひとへ)に迷執に弄(もてあそ)ばれて思を労(つか)らす、吁(ああ)、彼は終(つひ)に何をか成さんとすらん。間貫一の名は漸(やうや)く同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目(しよくもく)せざるはあらずなりぬ。
かの堪(た)ふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸く頻(しきり)なる厳談酷促(げんだんこくそく)は自(おのづ)から此処(ここ)に彼処(かしこ)に債務者の怨(うらみ)を買ひて、彼の為に泣き、彼の為に憤るもの寡(すくな)からず、同業者といへども時としては彼の余(あまり)に用捨無きを咎(とが)むるさへありけり。独(ひと)り鰐淵はこれを喜びて、強将の下弱卒を出(いだ)さざるを誇れるなり。彼は己(おのれ)の今日(こんにち)あるを致せし辛抱と苦労とは、未(いま)だ如此(かくのごと)くにして足るものならずとて、屡(しばし)ばその例を挙げては貫一をそそのかし、飽くまで彼の意を強うせんと勉(つと)めき。これが為に慰めらるるとにはあらねど、その行へる残忍酷薄の人の道に欠けたるを知らざるにあらぬ貫一は、職業の性質既に不法なればこれを営むの非道なるは必然の理(ことわり)にて、己(おのれ)の為(な)すところは都(すべ)ての同業者の為すところにて、己一人(おのれいちにん)の残刻なるにあらず、高利貸なる者は、世間一様に如此(かくのごと)く残刻ならざるべからずと念(おも)へるなり。故(ゆゑ)に彼は決して己の所業のみ独(ひと)り怨(うらみ)を買ふべきにあらずと信じたり。
実(げ)に彼の頼める鰐淵直行の如きは、彼の辛(から)うじてその半(なかば)を想ひ得る残刻と、終(つひ)に学ぶ能(あた)はざる譎詐(きつさ)とを左右にして、始めて今日(こんにち)の富を得てしなり。この点に於ては彼は一も二も無く貫一の師表たるべしといへども、その実さばかりの残刻と譎詐(きつさ)とを擅(ほしいまま)にして、なほ天に畏(おそ)れず、人に憚(はばか)らざる不敵の傲骨(ごうこつ)あるにあらず。彼は密(ひそか)に警(いまし)めて多く夜出(い)でず、内には神を敬して、得知れぬ教会の大信者となりて、奉納寄進に財を吝(をし)まず、唯これ身の無事を祈るに汲々(きゆうきゆう)として、自ら安ずる計(はかりごと)をなせり。彼は年来非道を行ひて、なほこの家栄え、身の全きを得るは、正(まさ)にこの信心の致すところと仕へ奉る御神(おんかみ)の冥護(みようご)を辱(かたじけ)なみて措(お)かざるなりき。貫一は彼の如く残刻と譎詐(きつさ)とに勇ならざりけれど、又彼の如く敬神と閉居とに怯(きよ)ならず、身は人と生れて人がましく行ひ、一(いつ)も曾(かつ)て犯せる事のあらざりしに、天は却(かへ)りて己を罰し人は却りて己を詐(いつは)り、終生の失望と遺恨とは濫(みだり)に断膓(だんちよう)の斧(をの)を揮(ふる)ひて、死苦の若(し)かざる絶痛を与ふるを思ひては、彼はよし天に人に憤るところあるも、懼(おそ)るべき無しと為(せ)るならん。貫一の最も懼れ、最も憚るところは自(みづから)の心のみなりけり。 
第八章
用談果つるを俟(ま)ちて貫一の魚膠無(にべな)く暇乞(いとまごひ)するを、満枝は暫(しば)しと留置(とどめお)きて、用有りげに奥の間にぞ入(い)りたる。その言(ことば)の如く暫し待てども出(い)で来(こ)ざれば、又巻莨(まきたばこ)を取出(とりいだ)しけるに、手炉(てあぶり)の炭は狼(おほかみ)の糞(ふん)のやうになりて、いつか火の気の絶えたるに、檀座(たんざ)に毛糸の敷物したる石笠(いしがさ)のラムプのほのほを仮りて、貫一は為(せ)う事無しに煙(けふり)を吹きつつ、この赤樫(あかがし)の客間を夜目ながらみまはしつ。
袋棚(ふくろだな)なる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、その下は七宝焼擬(しつぽうやきまがひ)の一輪挿(いちりんざし)、蝋石(ろうせき)の飾玉を水色縮緬(みづいろちりめん)の三重(みつがさね)の褥(しとね)に載せて、床柱なる水牛の角の懸花入(かけはないれ)は松に隼(はやぶさ)の勧工場蒔絵(まきゑ)金々(きんきん)として、花を見ず。鋳物(いもの)の香炉の悪古(わるふる)びに玄(くす)ませたると、羽二重(はぶたへ)細工の花筐(はなかたみ)とを床に飾りて、雨中(うちゆう)の富士をば引攪旋(ひきかきまは)したるやうに落墨して、金泥精描の騰竜(のぼりりゆう)は目貫(めぬき)を打つたるかとばかり雲間(くもま)に耀(かがや)ける横物(よこもの)の一幅。頭(かしら)を回(めぐ)らせば、び間(びかん)に黄海(こうかい)大海戦の一間程なる水彩画を掲げて座敷の隅(すみ)には二鉢(ふたばち)の菊を据ゑたり。
やや有りて出来(いできた)れる満枝は服を改めたるなり。糸織の衿懸(えりか)けたる小袖(こそで)に納戸(なんど)小紋の縮緬の羽織着て、七糸(しつちん)と黒繻子(くろじゆす)との昼夜帯して、華美(はで)なるシオウルを携へ、髪など撫付(なでつ)けしと覚(おぼし)く、面(おもて)も見違ふやうに軽く粧(よそほ)ひて、
「大変失礼を致しました。些(ちよつ)と私(わたくし)も其処(そこ)まで買物に出ますので、実は御一緒に願はうと存じまして」
無礼なりとは思ひけれど、口説れし誼(よしみ)に貫一は今更腹も立て難くて、
「ああさうですか」
満枝はつと寄りて声を低くし、
「御迷惑でゐらつしやいませうけれど」
聴き飽きたりと謂(い)はんやうに彼は取合はで、
「それぢや参りませう。貴方(あなた)は何方(どちら)までお出(いで)なのですか」
「私(わたくし)は大横町(おおよこちよう)まで」
二人は打連れて四谷左門町(よつやさもんちよう)なる赤樫の家を出(い)でぬ。伝馬町通(てんまちようどおり)は両側の店に燈(ともし)を列(つら)ねて、未(ま)だ宵なる景気なれど、秋としも覚えず夜寒の甚(はなはだし)ければ、往来(ゆきき)も稀(まれ)に、空は星あれどいと暗し。
「何といふお寒いのでございませう」
「さやう」
「貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくても宜(よろし)いぢやございませんか。それではお話が達(とど)きませんわ」
彼は町の左側をこたびは貫一に擦寄(すりよ)りて歩めり。
「これぢや私(わたくし)が歩き難(にく)いです」
「貴方お寒うございませう。私お鞄(かばん)を持ちませう」
「いいや、どういたして」
「貴方(あなた)恐入りますが、もう少し御緩(ごゆつく)りお歩きなすつて下さいましな、私呼吸(いき)が切れて……」
已(や)む無く彼は加減して歩めり。満枝は着重(きおも)るシォウルを揺上(ゆりあ)げて、
「疾(とう)から是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後些(ちよつ)ともお目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当に偶(たま)にはお遊びにいらしつて下さいましな。私もう決して先達而(せんだつて)のやうな事は再び申上げませんから。些(ち)といらしつて下さいましな」
「は、難有(ありがた)う」
「お手紙を上げましても宜うございますか」
「何の手紙ですか」
「御機嫌伺(ごきげんうかがひ)の」
「貴方から機嫌を伺はれる訳が無いぢやありませんか」
「では、恋(こひし)い時に」
「貴方が何も私を……」
「恋いのは私の勝手でございますよ」
「然し、手紙は人にでも見られると面倒ですから、お辞(ことわり)をします」
「でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、鰐淵(わにぶち)さんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……」
唯(と)見れば伝馬町(てんまちよう)三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝を撒(ま)かんと思ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈為(せ)ずして立住(たちどま)りつ。
「それぢや私はここで失礼します」
その不意に出(い)でて貫一の闇(くら)き横町に入(い)るを、
「あれ、貴方(あなた)、其方(そちら)からいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、わざわざ、そんな寂(さびし)い道をお出(いで)なさらなくても、此方(こつち)の方が順ではございませんか」
満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。
「なあに、此方(こつち)が余程近いのですから」
「幾多(いくら)も違ひは致しませんのに、賑(にぎや)かな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷見附(みつけ)の所までお送り申しますから」
「貴方に送つて戴(いただ)いたつて為やうが無い。夜が更(ふ)けますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし」
「そんなお為転(ためごかし)を有仰(おつしや)らなくても宜(よろし)うございます」
かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、不知不識(しらずしらず)其方(そなた)に歩ませられし満枝は、やにはに立竦(たちすく)みて声を揚げつ。
「ああ! 間さん些(ちよつ)と」
「どうしました」
「路悪(みちわる)へ入つて了(しま)つて、履物(はきもの)が取れないのでございますよ」
「それだから貴方はこんな方へお出(い)でなさらんが可いのに」
彼は渋々寄り来(きた)れり。
「憚様(はばかりさま)ですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」
シォウルの外に援(たすけ)を求むる彼の手を取りて引寄すれば、女はよろめきつつ泥濘(ぬかるみ)を出でたりしが、力や余りけん、身を支へかねてどうと貫一に靠(もた)れたり。
「ああ、危い」
「転びましたら貴方(あなた)の所為(せゐ)でございますよ」
「馬鹿なことを」
彼はこの時扶(たす)けし手を放たんとせしに、釘付(くぎつけ)などにしたらんやうに曳(ひ)けども振れども得離れざるを、怪しと女の面(おもて)を窺(うかが)へるなり。満枝は打背(うちそむ)けたる顔の半(なかば)をシオウルの端(はし)に包みて、握れる手をば弥(いよい)よ固く緊(し)めたり。
「さあ、もう放して下さい」
益(ますま)す緊めて袖(そで)の中へさへ曳入れんとすれば、
「貴方、馬鹿な事をしては可けません」
女は一語(ひとこと)も言はず、面も背けたるままに、その手は益(ますます)放たで男の行く方(かた)に歩めり。
「常談しちや可かんですよ。さあ、後(うしろ)から人が来る」
「宜(よろし)うございますよ」
独語(ひとりご)つやうに言ひて、満枝は弥(いよいよ)寄添ひつ。貫一は怺(こら)へかねて力任せに吽(うん)と曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。
「あ、痛(いた)! そんな酷(ひど)い事をなさらなくても、其処(そこ)の角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……」
「好い加減になさい」
と暴(あらら)かに引払(ひつぱら)ひて、寄らんとする隙(ひま)もあらせず摩脱(すりぬ)くるより足を疾(はや)めて津守坂(つのかみざか)を驀直(ましぐら)に下りたり。
やうやう昇れる利鎌(とかま)の月は乱雲(らんうん)を芟(か)りて、はるけき梢(こずゑ)の頂(いただき)に姑(しばら)く掛れり。一抹(いちまつ)の闇(やみ)を透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割(かたわれ)とは、懶(ものう)く寝覚めたるやうに覚束(おぼつか)なき形を顕(あらは)しぬ。坂上なる巡査派出所の燈(ともし)は空(むなし)く血紅(けつこう)の光を射て、下り行きし男の影も、取残されし女の姿も終(つひ)に見えず。 
(八)の二
片側町(かたかはまち)なる坂町(さかまち)は軒並(のきなみ)に鎖(とざ)して、何処(いづこ)に隙洩(すきも)る火影(ひかげ)も見えず、旧砲兵営の外柵(がいさく)に生茂(おひしげ)る群松(むらまつ)は颯々(さつさつ)の響を作(な)して、その下道(したみち)の小暗(をぐら)き空に五位鷺(ごいさぎ)の魂切(たまき)る声消えて、夜色愁ふるが如く、正(まさ)に十一時に垂(なんな)んとす。
忽(たちま)ち兵営の門前に方(あた)りて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者(くせもの)に囲れたるなり。一人(いちにん)は黒の中折帽の鐔(つば)を目深(まぶか)に引下(ひきおろ)し、鼠色(ねずみいろ)の毛糸の衿巻(えりまき)に半面を裹(つつ)み、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの下穿(したばき)高々と尻からげ(しりからげ)して、黒足袋(くろたび)に木裏の雪踏(せつた)を履(は)き、六分強(ろくぶづよ)なる色木(いろき)の弓の折(をれ)を杖(つゑ)にしたり。他は盲縞(めくらじま)の股引(ももひき)腹掛(はらがけ)に、唐桟(とうざん)の半纏(はんてん)着て、茶ヅックの深靴(ふかぐつ)を穿(うが)ち、衿巻の頬冠(ほほかぶり)に鳥撃帽子(とりうちぼうし)を頂きて、六角に削成(けずりな)したる檳榔子(びんろうじ)の逞きステッキを引抱(ひんだ)き、いづれも身材(みのたけ)貫一よりは低けれど、血気腕力兼備と見えたる壮佼(わかもの)どもなり。
「物取か。恨を受ける覚は無いぞ!」
「黙れ!」と弓の折の寄るを貫一は片手に障(ささ)へて、
「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に敵手(あひて)にならう。物取ならば財(かね)はくれる、訳も言はずに無法千万な、待たんか!」
答は無くて揮下(ふりおろ)したる弓の折は貫一が高頬(たかほほ)を発矢(はつし)と打つ。眩(めくるめ)きつつも迯(にげ)行くを、猛然と追迫(おひせま)れる檳榔子は、件(くだん)の杖もて片手突に肩の辺(あたり)を曳(えい)と突いたり。踏み耐(こた)へんとせし貫一は水道工事の鉄道(レイル)に跌(つまづ)きて仆(たふ)るるを、得たりと附入(つけい)る曲者は、余(あまり)に躁(はや)りて貫一の仆れたるに又跌き、一間ばかりの彼方(あなた)に反跳(はずみ)を打ちて投飛されぬ。入替(いりかは)りて一番手の弓の折は貫一の背(そびら)を袈裟掛(けさがけ)に打据ゑければ、起きも得せで、崩折(くづを)るるを、畳みかけんとする隙(ひま)に、手元に脱捨(ぬぎす)てたりし駒下駄(こまげた)を取るより早く、彼の面(おもて)を望みて投げたるが、丁(ちよう)と中(あた)りて痿(ひる)むその時、貫一は蹶起(はねお)きて三歩ばかりものがれしを打転(うちこ)けし檳榔子の躍(をど)り蒐(かか)りて、拝打(をがみうち)に下(おろ)せる杖は小鬢(こびん)を掠(かす)り、肩を辷(すべ)りて、鞄(かばん)持つ手を断(ちぎ)れんとすばかりに撲(う)ちけるを、辛(から)くも忍びてつと退(の)きながら身構(みがまへ)しが、目潰吃(めつぶしくら)ひし一番手の怒(いかり)を作(な)して奮進し来(きた)るを見るより今は危(あやふ)しと鞄の中なる小刀(こがたな)撈(かいさぐ)りつつ馳出(はせい)づるを、輙(たやす)く肉薄せる二人が笞(しもと)は雨の如く、所嫌(ところきら)はぬ滅多打(めつたうち)に、彼は敢無(あへな)くも昏倒(こんとう)せるなり。
檳「どうです、もう可いに為ませうか」
弓「此奴(こいつ)おれの鼻面(はなづら)へ下駄を打着けよつた、ああ、痛(いた)」
衿巻掻除(かきの)けて彼の撫(な)でたる鼻は朱(あけ)に染みて、西洋蕃椒(たうがらし)の熟(つ)えたるに異らず。
檳「おお、大変な衂(はなぢ)ですぜ」
貫一は息も絶々ながら緊(しか)と鞄を掻抱(かきいだ)き、右の逆手(さかて)に小刀を隠し持ちて、この上にも狼藉(ろうぜき)に及ばば為(せ)んやう有りと、油断を計りてわざと為す無き体(てい)を装(よそほ)ひ、直呻(ひたうめ)きにぞ呻きゐたる。
弓「憎い奴じや。然し、随分撲(う)つたの」
檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」
弓「もう引揚げやう」
かくて曲者は間近の横町に入(い)りぬ。辛(から)うじて面(おもて)を擡(あ)げ得たりし貫一は、一時に発せる全身の疼通(いたみ)に、精神漸(やうや)く乱れて、屡(しばし)ば前後を覚えざらんとす。 
後編 

 

第一章
翌々日の諸新聞は坂町(さかまち)に於ける高利貸(アイス)遭難の一件を報道せり。中(うち)に間(はざま)貫一を誤りて鰐淵直行(わにぶちただゆき)と為(せ)るもありしが、負傷者は翌日大学第二医院に入院したりとのみは、一様に事実の真を伝ふるなりけり。されどその人を誤れる報道は決して何等の不都合をも生ぜざるべし。彼等を識(し)らざる読者は湯屋の喧嘩(けんか)も同じく、三ノ面記事の常套(じようとう)として看過(みすご)すべく、何の遑(いとま)かその敵手(あひて)の誰々(たれたれ)なるを問はん。識れる者は恐くは、貫一も鰐淵も一つに足腰の利(き)かずなるまでうちのめされざりしを本意無(ほいな)く思へるなるべし。又或者は彼の即死せざりしをも物足らず覚ゆるなるべし。下手人は不明なれども、察するに貸借上の遺趣より為(な)せる業(わざ)ならんとは、諸新聞の記(しる)せる如く、人も皆思ふところなりけり。
直行は今朝病院へ見舞に行きて、妻は患者の容体を案じつつ留守せるなり。夫婦は心を協(あは)せて貫一の災難を悲(かなし)み、何程の費(つひえ)をも吝(をし)まず手宛(てあて)の限を加へて、少小(すこし)の瘢(きず)をも遺(のこ)さざらんと祈るなりき。
股肱(ここう)と恃(たの)み、我子とも思へる貫一の遭難を、主人はなかなかその身に受けし闇打(やみうち)のやうに覚えて、無念の止み難く、かばかりの事に屈する鰐淵ならぬ令見(みせしめ)の為に、彼が入院中を目覚(めざまし)くも厚く賄(まかな)ひて、再び手出しもならざらんやう、陰(かげ)ながら卑怯者(ひきようもの)の息の根を遏(と)めんと、気も狂(くるはし)く力を竭(つく)せり。
彼の妻は又、やがてはかかる不慮の事の夫の身にも出(い)で来(きた)るべきを思過(おもひすご)して、若(も)しさるべからんには如何(いか)にか為(す)べき、この悲しさ、この口惜(くちを)しさ、この心細さにては止(や)まじと思ふに就けて、空可恐(そらおそろし)く胸の打騒ぐを禁(とど)め得ず。奉公大事ゆゑに怨(うらみ)を結びて、憂き目に遭(あ)ひし貫一は、夫の禍(わざはひ)を転じて身の仇(あだ)とせし可憫(あはれ)さを、日頃の手柄に増して浸々(しみじみ)難有(ありがた)く、かれを念(おも)ひ、これを思ひて、絶(したたか)に心弱くのみ成行くほどに、裏に愧(は)づること、懼(おそ)るること、疚(やまし)きことなどの常に抑(おさ)へたるが、忽(たちま)ち涌立(わきた)ち、跳出(をどりい)でて、その身を責むる痛苦に堪(た)へざるなりき。
年久く飼(かは)るる老猫(ろうみよう)の凡(およ)そ子狗(こいぬ)ほどなるが、棄てたる雪の塊(かたまり)のやうに長火鉢(ながひばち)の猫板(ねこいた)の上に蹲(うづくま)りて、前足の隻落(かたしおと)して爪頭(つまさき)の灰に埋(うづも)るるをも知らず、いびきをさへ掻(か)きて熟睡(うまい)したり。妻はその夜の騒擾(とりこみ)、次の日の気労(きづかれ)に、血の道を悩める心地(ここち)にて、うつらうつらとなりては驚かされつつありける耳元に、格子(こうし)の鐸(ベル)の轟(とどろ)きければ、はや夫の帰来(かへり)かと疑ひも果てぬに、紙門(ふすま)を開きて顕(あらは)せる姿は、年紀(としのころ)二十六七と見えて、身材(たけ)は高からず、色やや蒼(あを)き痩顔(やせがほ)の険(むづか)しげに口髭逞(くちひげたくまし)く、髪の生(お)ひ乱れたるに深々(ふかふか)と紺ネルトンの二重外套(にじゆうまわし)の襟(えり)を立てて、黒の中折帽を脱ぎて手にしつ。高き鼻に鼈甲縁(べつこうぶち)の眼鏡を挿(はさ)みて、稜(かど)ある眼色(まなざし)は見る物毎に恨あるが如し。
妻は思設けぬ面色(おももち)の中に喜を漾(たた)へて、
「まあ直道(ただみち)かい、好くお出(いで)だね」
片隅(かたすみ)に外套(がいとう)を脱捨つれば、彼は黒綾(くろあや)のモオニングの新(あたらし)からぬに、濃納戸地(こいなんどじ)に黒縞(くろじま)の穿袴(ズボン)の寛(ゆたか)なるを着けて、清(きよら)ならぬ護謨(ゴム)のカラ、カフ、鼠色(ねずみいろ)の紋繻子(もんじゆす)の頸飾(えりかざり)したり。妻は得々(いそいそ)起ちて、その外套を柱の折釘(をりくぎ)に懸けつ。
「どうも取んだ事で、阿父(おとつ)さんの様子はどんな? 今朝新聞を見ると愕(おどろ)いて飛んで来たのです。容体(ようだい)はどうです」
彼は時儀を叙(の)ぶるにおよばずして忙(せは)しげにかく問出(とひい)でぬ。
「ああ新聞で、さうだつたかい。なあに阿父さんはどうも作(なさ)りはしないわね」
「はあ? 坂町で大怪我(おほけが)を為(なす)つて、病院へ入つたと云ふのは?」
「あれは間(はざま)さ。阿父さんだとお思ひなの? 可厭(いや)だね、どうしたと云ふのだらう」
「いや、さうですか。でも、新聞には歴然(ちやん)とさう出てゐましたよ」
「それぢやその新聞が違つてゐるのだよ。阿父さんは先之(さつき)病院へ見舞にお出掛だから、間も無くお帰来(かへり)だらう。まあ寛々(ゆつくり)してお在(いで)な」
かくと聞ける直道は余(あまり)の不意に拍子抜して、喜びも得為(えせ)ず唖然(あぜん)たるのみ。
「ああ、さうですか、間が遣(や)られたのですか」
「ああ、間が可哀(かあい)さうにねえ、取んだ災難で、大怪我をしたのだよ」
「どんなです、新聞には余程劇(ひど)いやうに出てゐましたが」
「新聞に在る通だけれど、不具(かたは)になるやうな事も無いさうだが、全然(すつかり)快(よ)くなるには三月(みつき)ぐらゐはどんな事をしても要(かか)るといふ話だよ。誠に気の毒な、それで、阿父(おとつ)さんも大抵な心配ぢやないの。まあ、ね、病院も上等へ入れて手宛(てあて)は十分にしてあるのだから、決して気遣(きづかひ)は無いやうなものだけれど、何しろ大怪我だからね。左の肩の骨が少し摧(くだ)けたとかで、手が緩縦(ぶらぶら)になつて了(しま)つたの、その外紫色の痣(あざ)だの、蚯蚓腫(めめずばれ)だの、打切(ぶつき)れたり、擦毀(すりこは)したやうな負傷(きず)は、お前、体一面なのさ。それに気絶するほど頭部(あたま)を撲(ぶた)れたのだから、脳病でも出なければ可いつて、お医者様もさう言つてお在(いで)ださうだけれど、今のところではそんな塩梅(あんばい)も無いさうだよ。何しろその晩内へ舁込(かつぎこ)んだ時は半死半生で、些(ほん)の虫の息が通つてゐるばかり、私(わたし)は一目見ると、これはとても助るまいと想つたけれど、割合に人間といふものは丈夫なものだね」
「それは災難な、気の毒な事をしましたな。まあ十分に手宛をして遣るが可いです。さうして阿父さんは何と言つてゐました」
「何ととは?」
「間が闇打(やみうち)にされた事を」
「いづれ敵手(あひて)は貸金(かしきん)の事から遺趣を持つて、その悔し紛(まぎれ)に無法な真似(まね)をしたのだらうつて、大相腹を立ててお在(いで)なのだよ。全くね、間はああ云ふ不断の大人(おとなし)い人だから、つまらない喧嘩(けんか)なぞを為る気遣(きづかひ)はなし、何でもそれに違は無いのさ。それだから猶更(なほさら)気の毒で、何とも謂(い)ひやうが無い」
「間は若いから、それでも助るのです、阿父(おとつ)さんであつたら命は有りませんよ、阿母(おつか)さん」
「まあ可厭(いや)なことをお言ひでないな!」
浸々(しみじみ)思入りたりし直道は徐(しづか)にその恨(うらめし)き目を挙げて、
「阿母さん、阿父さんは未(ま)だこの家業をお廃(や)めなさる様子は無いのですかね」
母は苦しげに鈍り鈍りて、
「さうねえ……別に何とも……私(わたし)には能(よ)く解らないね……」
「もう今に応報(むくい)は阿父さんにも……。阿母さん、間があんな目に遭(あ)つたのは、決して人事ぢやありませんよ」
「お前又阿父さんの前でそんな事をお言ひでないよ」
「言ひます! 今日は是非言はなければならない」
「それは言ふも可いけれど、従来(これまで)も随分お言ひだけれど、あの気性だから阿父さんは些(ちつと)もお聴きではないぢやないか。とても他(ひと)の言ふことなんぞは聴かない人なのだから、まあ、もう少しお前も目を瞑(つぶ)つてお在(いで)よ、よ」
「私(わたし)だつて親に向つて言ひたくはありません。大概の事なら目を瞑(つぶ)つてゐたいのだけれど、実にこればかりは目を瞑つてゐられないのですから。始終さう思ひます。私は外に何も苦労といふものは無い、唯これだけが苦労で、考出すと夜も寝られないのです。外にどんな苦労が在つても可いから、どうかこの苦労だけは没(なくな)して了(しま)ひたいと熟(つくづ)く思ふのです。噫(ああ)、こんな事なら未(ま)だ親子で乞食をした方が夐(はるか)に可い」
彼は涙を浮べて倆(うつむ)きぬ。母はその身も倶(とも)に責めらるる想して、或(あるひ)は可慚(はづかし)く、或は可忌(いまはし)く、この苦(くるし)き位置に在るに堪(た)へかねつつ、言解かん術(すべ)さへ無けれど、とにもかくにも言はで已(や)むべき折ならねば、辛(からう)じて打出(うちいだ)しつ。
「それはもうお前の言ふのは尤(もつとも)だけれど、お前と阿父(おとつ)さんとは全(まる)で気合(きあひ)が違ふのだから、万事考量(かんがへ)が別々で、お前の言ふ事は阿父さんの肚(はら)には入らず、ね、又阿父さんの為る事はお前には不承知と謂(い)ふので、その中へ入つて私も困るわね。内も今では相応にお財(かね)も出来たのだから、かう云ふ家業は廃(や)めて、楽隠居になつて、お前に嫁を貰(もら)つて、孫の顔でも見たい、とさう思ふのだけれど、ああ云ふ気の阿父さんだから、そんなことを言出さうものなら、どんなに慍(おこ)られるだらうと、それが見え透いてゐるから、漫然(うつかり)した事は言はれずさ、お前の心を察して見れば可哀(かあい)さうではあり、さうかと云つて何方(どつち)をどうすることも出来ず、陰で心配するばかりで、何の役にも立たないながら、これでなかなか苦いのは私の身だよ。
さぞお前は気も済まなからうけれど、とても今のところでは何と言つたところが、応と承知をしさうな様子は無いのだから、憖(なまじ)ひ言合つてお互に心持を悪くするのが果(おち)だから、……それは、お前、何と云つたつて親一人子一人の中だもの、阿父さんだつて心ぢやどんなにお前が便(たより)だか知れやしないのだから、究竟(つまり)はお前の言ふ事も聴くのは知れてゐるのだし、阿父さんだつて現在の子のそんなにまで思つてゐるのを、決して心に掛けないのではないけれども、又阿父(おとつ)さんの方にも其処(そこ)には了簡(りようけん)があつて、一概にお前の言ふ通にも成りかねるのだらう。
それに今日あたりは、間の事で大変気が立つてゐるところだから、お前が何か言ふと却(かへ)つて善くないから、今日は窃(そつ)として措(お)いておくれ、よ、本当に私が頼むから、ねえ直道」
実(げ)に母は自ら言へりし如く、板挾(いたばさみ)の難局に立てるなれば、ひたすら事あらせじと、誠の一図に直道を諭(さと)すなりき。彼は涙の催すに堪(た)へずして、鼻目鏡(はなめがね)を取捨てて目を推拭(おしぬぐ)ひつつ猶咽(むせ)びゐたりしが、
「阿母(おつか)さんにさう言れるから、私は不断は怺(こら)へてゐるのです。今日ばかり存分に言はして下さい。今日言はなかつたら言ふ時は有りませんよ。間のそんな目に遭(あ)つたのは天罰です、この天罰は阿父さんも今に免れんことは知れてゐるから、言ふのなら今、今言はんくらゐなら私はもう一生言ひません」
母はその一念に脅(おびやか)されけんやうにて漫(そぞろ)寒きを覚えたり。洟打去(はなうちか)みて直道は語(ことば)を継ぎぬ。
「然し私(わたし)の仕打も善くはありません、阿父さんの方にも言分は有らうと、それは自分で思つてゐます。阿父さんの家業が気に入らん、意見をしても用ゐない、こんな汚(けが)れた家業を為るのを見てゐるのが可厭(いや)だ、と親を棄てて別居してゐると云ふのは、如何(いか)にも情合の無い話で、実に私も心苦いのです。決して人の子たる道ではない、さぞ不孝者と阿父さん始阿母さんもさう思つてお在(いで)でせう」
「さうは思ひはしないよ。お前の方にも理はあるのだから、さうは思ひはしないけれど、一処(いつしよ)に居たらさぞ好からうとは……」
「それは、私は猶(なほ)の事です。こんな内に居るのは可厭(いや)だ、別居して独(ひとり)で遣る、と我儘(わがまま)を言つて、どうなりかうなり自分で暮して行けるのも、それまでに教育して貰つたのは誰(たれ)のお陰かと謂へば、皆(みんな)親の恩。それもこれも知つてゐながら、阿父(おとつ)さんを踏付にしたやうな行(おこなひ)を為るのは、阿母(おつか)さん能々(よくよく)の事だと思つて下さい。私は親に悖(さから)ふのぢやない、阿父さんと一処に居るのを嫌(きら)ふのぢやないが、私は金貸などと云ふ賤(いやし)い家業が大嫌(だいきらひ)なのです。人を悩(なや)めて己(おのれ)を肥(こや)す――浅ましい家業です!」
身を顫(ふる)はして彼は涙に掻昏(かきく)れたり。母は居久(いたたま)らぬまでに惑へるなり。
「親を過(すご)すほどの芸も無くて、生意気な事ばかり言つて実は面目(めんぼく)も無いのです。然し不自由を辛抱してさへ下されば、両親ぐらゐに乾(ひもじ)い思はきつと為(さ)せませんから、破屋(あばらや)でも可いから親子三人一所に暮して、人に後指を差(ささ)れず、罪も作らず、怨(うらみ)も受けずに、清く暮したいぢやありませんか。世の中は貨(かね)が有つたから、それで可い訳のものぢやありませんよ。まして非道をして拵(こしら)へた貨(かね)、そんな貨(かね)が何の頼(たのみ)になるものですか、必ず悪銭身に附かずです。無理に仕上げた身上(しんじよう)は一代持たずに滅びます。因果の報う例(ためし)は恐るべきものだから、一日でも早くこんな家業は廃(や)めるに越した事はありません。噫(ああ)、末が見えてゐるのに、情無い事ですなあ!」
積悪の応報覿面(てきめん)の末を憂(うれ)ひて措(お)かざる直道が心の眼(まなこ)は、無残にも怨(うらみ)の刃(やいば)に劈(つんざか)れて、路上に横死(おうし)の恥を暴(さら)せる父が死顔の、犬にけられ、泥に塗(まみ)れて、古蓆(ふるむしろ)の陰に枕(まくら)せるを、怪くも歴々(まざまざ)と見て、恐くは我が至誠の鑑(かがみ)は父が未然を宛然(さながら)映し出(いだ)して謬(あやま)らざるにあらざるかと、事の目前(まのあたり)の真にあらざるを知りつつも、余りの浅ましさに我を忘れてつと迸(ほとばし)る哭声(なきごゑ)は、咬緊(くひし)むる歯をさへ漏れて出づるを、母は驚き、途方に昏(く)れたる折しも、門(かど)に俥(くるま)の駐(とどま)りて、格子の鐸(ベル)の鳴るは夫の帰来(かへり)か、次手(ついで)悪しと胸を轟(とどろ)かして、直道の肩を揺り動(うごか)しつつ、声を潜めて口早に、
「直道、阿父さんのお帰来(かへり)だから、泣いてゐちや可けないよ、早く彼方(あつち)へ行つて、……よ、今日は後生だから何も言はずに……」
はや足音は次の間に来(きた)りぬ。母は慌(あわ)てて出迎に起(た)てば、一足遅れに紙門(ふすま)は外より開れて主(あるじ)直行の高く幅たき躯(からだ)は岸然(のつそり)とお峯の肩越(かたごし)に顕(あらは)れぬ。 
(一)の二
「おお、直道か珍いの。何時(いつ)来たのか」
かく言ひつつ彼は艶々(つやつや)と赭(あから)みたる鉢割(はちわれ)の広き額の陰に小く点せる金壺眼(かねつぼまなこ)を心快(こころよ)げにみひらきて、妻が例の如く外套(がいとう)を脱(ぬが)するままに立てり。お峯は直道が言(ことば)に稜(かど)あらんことを慮(おもひはか)りて、さり気無く自ら代りて答へつ。
「もう少し先(さつき)でした。貴君(あなた)は大相お早かつたぢやありませんか、丁度好(よ)ございましたこと。さうして間の容体はどんなですね」
「いや、仕合(しあはせ)と想うたよりは軽くての、まあ、ま、あの分なら心配は無いて」
黒一楽(くろいちらく)の三紋(みつもん)付けたる綿入羽織(わたいればおり)の衣紋(えもん)を直して、彼は機嫌(きげん)好く火鉢(ひばち)の傍(そば)に歩み寄る時、直道は漸(やうや)く面(おもて)を抗(あ)げて礼を作(な)せり。
「お前、どうした、ああ、妙な顔をしてをるでないか」
梭櫚(しゆろ)の毛を植ゑたりやとも見ゆる口髭(くちひげ)を掻拈(かいひね)りて、太短(ふとみじか)なる眉(まゆ)を顰(ひそ)むれば、聞ゐる妻は呀(はつ)とばかり、刃(やいば)を踏める心地も為めり。直道は屹(き)と振仰ぐとともに両手を胸に組合せて、居長高(ゐたけだか)になりけるが、父の面(おもて)を見し目を伏せて、さて徐(しづか)に口を開きぬ。
「今朝新聞を見ましたところが、阿父(おとつ)さんが、大怪我を為(なす)つたと出てをつたので、早速お見舞に参つたのです」
白髪(しらが)を交(まじ)へたる茶褐色(ちやかつしよく)の髪の頭(かしら)に置余るばかりなるを撫(な)でて、直行は、
「何新聞か知らんけれど、それは間の間違ぢやが。俺(おれ)ならそんな場合に出会うたて、唯々(おめおめ)打(うた)れちやをりやせん。何の先は二人でないかい、五人までは敵手(あひて)にしてくれるが」
直道の隣に居たる母は密(ひそか)に彼のコオトの裾(すそ)を引きて、言(ことば)を返させじと心着(づく)るなり。これが為に彼は少しく遅(ためら)ひぬ。
「本(ほん)にお前どうした、顔色(かほつき)が良うないが」
「さうですか。余り貴方(あなた)の事が心配になるからです」
「何じや?」
「阿父さん、度々(たびたび)言ふ事ですが、もう金貸は廃(や)めて下さいな」
「又! もう言ふな。言ふな。廃める時分には廃めるわ」
「廃めなければならんやうになつて廃めるのは見(みつ)ともない。今朝貴方(あなた)が半死半生の怪我をしたといふ新聞を見た時、私(わたし)はどんなにしても早くこの家業をお廃めなさるやうに為(さ)せなかつたのを熟(つくづ)く後悔したのです。幸(さいはひ)に貴方は無事であつた、から猶更(なほさら)今日は私の意見を用ゐて貰(もら)はなければならんのです。今に阿父さんも間のやうな災難を必ず受けるですよ。それが可恐(おそろし)いから廃めると謂ふのぢやありません、正(ただし)い事で争つて殞(おと)す命ならば、決(け)して辞することは無いけれど、金銭づくの事で怨(うらみ)を受けて、それ故(ゆゑ)に無法な目に遭(あ)ふのは、如何(いか)にも恥曝(はぢさら)しではないですか。一つ間違へば命も失はなければならん、不具(かたは)にも為(さ)れなければならん、阿父さんの身の上を考へると、私は夜も寝られんのですよ。
こんな家業を為(せ)んでは生活が出来んのではなし、阿父さん阿母さん二人なら、一生安楽に過せるほどの資産は既に有るのでせう、それに何を苦んで人には怨まれ、世間からは指弾(つまはぢき)をされて、無理な財(かね)を拵(こしら)へんければならんのですか。何でそんなに金が要(い)るのですか。誰にしても自身に足りる以外の財(かね)は、子孫に遺(のこ)さうと謂ふより外は無いのでせう。貴方には私が一人子(ひとりつこ)、その私は一銭たりとも貴方の財は譲られません! 欲くないのです。さうすれば、貴方は今日(こんにち)無用の財を貯(たくは)へる為に、人の怨を受けたり、世に誚(そし)られたり、さうして現在の親子が讐(かたき)のやうになつて、貴方にしてもこんな家業を決して名誉と思つて楽んで為(なす)つてゐるのではないでせう。
私のやうなものでも可愛(かはい)いと思つて下さるなら、財産を遺(のこ)して下さる代(かはり)に私の意見を聴いて下さい。意見とは言ひません、私の願です。一生の願ですからどうぞ聴いて下さい」
父が前に頭(かしら)を低(た)れて、輙(たやす)く抗(あ)げぬ彼の面(おもて)は熱き涙に蔽(おほは)るるなりき。
些(さ)も動ずる色無き直行は却(かへ)つて微笑を帯びて、語(ことば)をさへ和(やはら)げつ。
「俺の身を思うてそんなに言うてくれるのは嬉(うれし)いけど、お前のはそれは杞憂(きゆう)と謂ふんじや。俺と違うてお前は神経家ぢやからそんなに思ふんぢやけど、世間と謂ふものはの、お前の考へとるやうなものではない。学問の好きな頭脳(あたま)で実業を遣る者の仕事を責むるのは、それは可かん。人の怨の、世の誚(そしり)のと言ふけどの、我々同業者に対する人の怨などと云ふのは、面々の手前勝手の愚痴に過ぎんのじや。世の誚と云ふのは、多くは嫉(そねみ)、その証拠は、働の無い奴が貧乏しとれば愍(あはれ)まるるじや。何家業に限らず、財(かね)を拵(こしら)へる奴は必ず世間から何とか攻撃を受くる、さうぢやらう。財(かね)の有る奴で評判の好(え)えものは一人も無い、その通じやが。お前は学者ぢやから自(おのづか)ら心持も違うて、財(かね)などをさう貴(たつと)いものに思うてをらん。学者はさうなけりやならんけど、世間は皆学者ではないぞ、可(え)えか。実業家の精神は唯財(ただかね)じや、世の中の奴の慾も財より外には無い。それほどに、のう、人の欲(ほし)がる財じや、何ぞ好(え)えところが無くてはならんぢやらう。何処(どこ)が好(え)えのか、何でそんなに好(え)えのかは学者には解らん。
お前は自身に供給するに足るほどの財(かね)があつたら、その上に望む必要は無いと言ふのぢやな、それが学者の考量(かんがへ)じやと謂ふんじやが。自身に足るほどの物があつたら、それで可(え)えと満足して了うてからに手を退(ひ)くやうな了簡(りようけん)であつたら、国は忽(たちま)ち亡(ほろぶ)るじや――社会の事業は発達せんじや。さうして国中(こくちゆう)若隠居ばかりになつて了うたと為れば、お前どうするか、あ。慾にきりの無いのが国民の生命なんじや。
俺にそんなに財(かね)を拵(こしら)へてどうするか、とお前は不審するじやね。俺はどうも為(せ)ん、財は余計にあるだけ愉快なんじや。究竟(つまり)財を拵へるが極(きは)めて面白いんじや。お前の学問するのが面白い如く、俺は財の出来るが面白いんじや。お前に本を読むのを好(え)え加減に為(せ)い、一人前の学問が有つたらその上望む必要は有るまいと言うたら、お前何と答へる、あ。
お前は能(よ)うこの家業を不正ぢやの、汚(けがらはし)いのと言ふけど、財を儲(まう)くるに君子の道を行うてゆく商売が何処(どこ)に在るか。我々が高利の金を貸す、如何(いか)にも高利じや、何為(なぜ)高利か、可(え)えか、無抵当じや、そりや。借る方に無抵当といふ便利を与ふるから、その便利に対する報酬として利が高いのぢやらう。それで我々は決して利の高い金を安いと詐(いつは)つて貸しはせんぞ。無抵当で貸すぢやから利が高い、それを承知で皆借るんじや。それが何で不正か、何で汚(けがらはし)いか。利が高うて不当と思ふなら、始から借らんが可え、そんな高利を借りても急を拯(すく)はにや措(おか)れんくらゐの困難が様々にある今の社会じや、高利貸を不正と謂ふなら、その不正の高利貸を作つた社会が不正なんじや。必要の上から借る者があるで、貸す者がある。なんぼ貸したうても借る者が無けりや、我々の家業は成立ちは為ん。その必要を見込んで仕事を為るが則(すなは)ち営業の魂(たましひ)なんじや。
財(かね)といふものは誰でも愛して、皆獲やうと念(おも)うとる、獲たら離すまいと為(し)とる、のう。その財を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋常一様の手段で行くものではない。合意の上で貸借して、それで儲くるのが不正なら、総(すべ)ての商業は皆不正でないか。学者の目からは、金儲(かねまうけ)する者は皆不正な事をしとるんじや」
太(いた)くもこの弁論に感じたる彼の妻は、屡(しばし)ば直道の顔を偸視(ぬすみみ)て、あはれ彼が理窟(りくつ)もこれが為に挫(くじ)けて、気遣(きづか)ひたりし口論も無くて止みぬべきを想ひて私(ひそか)に懽(よろこ)べり。
直道は先(ま)づ厳(おごそか)に頭(かしら)を掉(ふ)りて、
「学者でも商業家でも同じ人間です。人間である以上は人間たる道は誰にしても守らんければなりません。私(わたし)は決して金儲を為るのを悪いと言ふのではない、いくら儲けても可いから、正当に儲けるのです。人の弱みに付入(つけい)つて高利を貸すのは、断じて正当でない。そんな事が営業の魂などとは……! 譬(たと)へば間が災難に遭(あ)つた。あれは先は二人で、しかも不意打を吃(くは)したのでせう、貴方はあの所業を何とお考へなさる。男らしい遺趣返(いしゆがへし)の為方とお思ひなさるか。卑劣極(きはま)る奴等だと、さぞ無念にお思ひでせう?」
彼は声を昂(あ)げて逼(せま)れり。されども父は他を顧て何等の答をも与へざりければ、再び声を鎮(しづ)めて、
「どうですか」
「勿論(もちろん)」
「勿論? 勿論ですとも! 何奴(なにやつ)か知らんけれど、実に陋(きたな)い根性、劣(けち)な奴等です。然し、怨を返すといふ点から謂つたら、奴等は立派に目的を達したのですね。さうでせう、設(たと)ひその手段は如何(いか)にあらうとも」
父は騒がず、笑(ゑみ)を含みて赤き髭(ひげ)を弄(まさぐ)りたり。
「卑劣と言れやうが、陋(きたな)いと言れやうが、思ふさま遺趣返をした奴等は目的を達してさぞ満足してをるでせう。それを掴殺(つかみころ)しても遣りたいほど悔(くやし)いのは此方(こつち)ばかり。
阿父(おとつ)さんの営業の主意も、彼等の為方と少しも違はんぢやありませんか。間の事に就いて無念だと貴方(あなた)がお思ひなさるなら、貴方から金を借りて苦められる者は、やはり貴方を恨まずにはゐませんよ」
又しても感じ入りたるは彼の母なり。かくては如何なる言(ことば)をもて夫はこれに答へんとすらん、我はこの理(ことわり)の覿面(てきめん)当然なるに口を開かんやうも無きにと、心慌(あわ)てつつ夫の気色を密(ひそか)に窺(うかが)ひたり。彼は自若として、却(かへ)つてその子の善く論ずるを心に愛(め)づらんやうの面色(おももち)にて、転(うた)た微笑を弄(ろう)するのみ。されども妻は能(よ)く知れり、彼の微笑を弄するは、必ずしも、人のこれを弄するにあらざる時に於いて屡(しばしば)するを。彼は今それか非(あら)ぬかを疑へるなり。
蒼(あを)く羸(やつ)れたる直道が顔は可忌(いまはし)くも白き色に変じ、声は甲高(かんだか)に細りて、膝(ひざ)に置ける手頭(てさき)は連(しき)りに震ひぬ。
「いくら論じたところで、解りきつた理窟なのですから、もう言ひますまい。言へば唯阿父さんの心持を悪くするに過ぎんのです。然し、従来(これまで)も度々(たびたび)言ひましたし、又今日こんなに言ふのも、皆阿父(おとつ)さんの身を案じるからで、これに就いては陰でどれほど私が始終苦心してゐるか知つてお在(いで)は無からうけれど、考出(かんがへだ)すと勉強するのも何も可厭(いや)になつて、吁(ああ)、いつそ山の中へでも引籠(ひつこ)んで了はうかと思ひます。阿父さんはこの家業を不正でないとお言ひなさるが、実に世間でも地獄の獄卒のやうに憎み賤(いやし)んで、附合ふのも耻(はぢ)にしてゐるのですよ。世間なんぞはかまふものか、と貴方はお言ひでせうが、子としてそれを聞(きか)される心苦しさを察して下さい。貴方はかまはんと謂ふその世間も、やはり我々が渡つて行かなければならん世間です。その世間に肩身が狭くなつて終(つひ)には容(い)れられなくなるのは、男の面目ではありませんよ。私はそれが何より悲い。此方(こつち)に大見識があつて、それが世間と衝突して、その為に憎まれるとか、棄てられるとか謂ふなら、世間は私を棄てんでも、私は喜んで阿父さんと一処に世間に棄てられます。親子棄てられて路辺(みちばた)に餓死(かつゑじに)するのを、私は親子の名誉、家の名誉と思ふのです。今我々親子の世間から疎(うとま)れてゐるのは、自業自得の致すところで、不名誉の極です!」
眼(まなこ)は痛恨の涙を湧(わか)して、彼は覚えず父の面(おもて)を睨(にら)みたり。直行は例の嘯(うそぶ)けり。
直道は今日を限と思入りたるやうに飽くまで言(ことば)を止(や)めず。
「今度の事を見ても、如何(いか)に間が恨まれてゐるかが解りませう。貴方(あなた)の手代でさへあの通ではありませんか、して見れば貴方の受けてゐる恨、憎(にくみ)はどんなであるか言ふに忍びない」
父は忽(たちま)ち遮(さへぎ)りて、
「善し、解つた。能(よ)う解つた」
「では私の言(ことば)を用ゐて下さるか」
「まあ可(え)え。解つた、解つたから……」
「解つたとお言ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな」
「お前の言ふ事は能う解つたさ。然(しか)し、爾(なんぢ)は爾たり、吾は吾たりじや」
直道は怺(こら)へかねて犇(ひし)と拳(こぶし)を握れり。
「まだ若い、若い。書物ばかり見とるぢや可かん、少しは世間も見い。なるほど子の情として親の身を案じてくれる、その点は空(あだ)には思はん。お前の心中も察する、意見も解つた。然し、俺は俺で又自ら信ずるところあつて遣るんぢやから、折角の忠告ぢやからと謂うて、枉(ま)げて従ふ訳にはいかんで、のう。今度間がああ云ふ目に遭うたから、俺は猶更(なほさら)劇(えら)い目に遭はうと謂うて、心配してくれるんか、あ?」
はや言ふも益無しと観念して直道は口を開かず。
「そりや辱(かたじけな)いが、ま、当分俺の躯(からだ)は俺に委(まか)して置いてくれ」
彼は徐(しづか)に立上りて、
「些(ちよつ)とこれから行(い)て来にやならん処があるで、寛(ゆつく)りして行くが可(え)え」
忽忙(そそくさ)と二重外套(にじゆうまわし)を打被(うちかつ)ぎて出(い)づる後より、帽子を持ちて送(おく)れる妻は密(ひそか)に出先を問へるなり。彼は大いなる鼻を皺(しわ)めて、
「俺が居ると面倒ぢやから、些(ちよつ)と出て来る。可(え)えやうに言うての、還(かへ)してくれい」
「へえ? そりや困りますよ。貴方(あなた)、私(わたし)だつてそれは困るぢやありませんか」
「まあ可えが」
「可(よ)くはありません、私は困りますよ」
お峯は足摩(あしずり)して迷惑を訴ふるなりけり。
「お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから」
「それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな」
「俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ」
さすがに争ひかねてお峯の渋々佇(たたず)めるを、見も返らで夫は驀地(まつしぐら)に門(かど)を出でぬ。母は直道の勢に怖(おそ)れて先にも増してさぞや苛(さいな)まるるならんと想へば、虎(とら)の尾をも履(ふ)むらんやうに覚えつつ帰り来にけり。唯(と)見れば、直道は手を拱(こまぬ)き、頭(かしら)を低(た)れて、在りけるままに凝然と坐したり。
「もうお中食(ひる)だが、お前何をお上りだ」
彼は身転(みじろぎ)も為(せ)ざるなり。重ねて、
「直道」と呼べば、始めて覚束(おぼつか)なげに顔を挙(あ)げて、
「阿母(おつか)さん!」
その術無(じゆつな)き声は謂知(いひし)らず母の胸を刺せり。彼はこの子の幼くて善く病める枕頭(まくらもと)に居たりし心地をそのままに覚えて、ほとほとつと寄らんとしたり。
「それぢや私はもう帰ります」
「あれ何だね、未だ可いよ」
異(あやし)くも遽(にはか)に名残(なごり)の惜(をしま)れて、今は得も放(はな)たじと心牽(こころひか)るるなり。
「もうお中食(ひる)だから、久しぶりで御膳(ごぜん)を食べて……」
「御膳も吭(のど)へは通りませんから……」 
第二章
主人公なる間貫一が大学第二医院の病室にありて、昼夜を重傷に悩める外(ほか)、身辺に事あらざる暇(いとま)に乗じて、富山に嫁ぎたる宮がその後の消息を伝ふべし。
一月十七日をもて彼は熱海の月下に貫一に別れ、その三月三日を択(えら)びて富山の家に輿入(こしいれ)したりき。その場より貫一の失踪(しつそう)せしは、鴫沢一家(しぎさわいつけ)の為に物化(もつけ)の邪魔払(じやまばらひ)たりしには疑無(うたがひな)かりけれど、家内(かない)は挙(こぞ)りてさすがに騒動しき。その父よりも母よりも宮は更に切なる誠を籠(こ)めて心痛せり。彼はただに棄てざる恋を棄てにし悔に泣くのみならで、寄辺(よるべ)あらぬ貫一が身の安否を慮(おもひはか)りて措(お)く能(あた)はざりしなり。
気強くは別れにけれど、やがて帰り来(こ)んと頼めし心待も、終(つひ)に空(あだ)なるを暁(さと)りし後、さりとも今一度は仮初(かりそめ)にも相見んことを願ひ、又その心の奥には、必ずさばかりの逢瀬(あふせ)は有るべきを、おのれと契りけるに、彼の行方(ゆくへ)は知られずして、その身の家を出(い)づべき日は潮(うしほ)の如く迫れるに、遣方(やるかた)も無く漫(そぞろ)惑ひては、常に鈍(おぞまし)う思ひ下せる卜者(ぼくしや)にも問ひて、後には廻合(めぐりあ)ふべきも、今はなかなか文(ふみ)に便(たより)もあらじと教へられしを、筆持つは篤(まめ)なる人なれば、長き長き怨言(うらみ)などは告来(つげこ)さんと、それのみは掌(たなごころ)を指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者の言(ことば)は不幸にも過(あやま)たで、宮は彼の怨言(うらみ)をだに聞くを得ざりしなり。
とにもかくにも今一目見ずば動かじと始に念(おも)ひ、それはかなはずなりてより、せめて一筆(ひとふで)の便(たより)聞かずばと更に念ひしに、事は心と渾(すべ)て違(たが)ひて、さしも願はぬ一事(いちじ)のみは玉を転ずらんやうに何等の障(さはり)も無く捗取(はかど)りて、彼が空(むなし)く貫一の便(たより)を望みし一日にも似ず、三月三日は忽(たちま)ち頭(かしら)の上に跳(をど)り来(きた)れるなりき。彼は終(つひ)に心を許し肌身(はだみ)を許せし初恋(はつごひ)を擲(なげう)ちて、絶痛絶苦の悶々(もんもん)の中(うち)に一生最も楽(たのし)かるべき大礼を挙げ畢(をは)んぬ。
宮は実に貫一に別れてより、始めて己(おのれ)の如何(いか)ばかり彼に恋せしかを知りけるなり。
彼の出(い)でて帰らざる恋しさに堪(た)へかねたる夕(ゆふべ)、宮はその机に倚(よ)りて思ひ、その衣(きぬ)の人香(ひとか)を嗅(か)ぎて悶(もだ)え、その写真に頬摩(ほほずり)して憧(あくが)れ、彼若(も)し己(おのれ)を容(い)れて、ここに優き便(たより)をだに聞(きか)せなば、親をも家をも振捨てて、直(ただち)に彼に奔(はし)るべきものをと念へり。結納(ゆいのう)の交(かは)されし日も宮は富山唯継を夫(つま)と定めたる心はつゆ起らざりき。されど、己は終(つひ)にその家に適(ゆ)くべき身たるを忘れざりしなり。
ほとほと自らその緒(いとぐち)を索(もと)むる能(あた)はざるまでに宮は心を乱しぬ。彼は別れし後の貫一をばさばかり慕ひて止まざりしかど、過(あやまち)を改め、操(みさを)を守り、覚悟してその恋を全うせんとは計らざりけるよ。真(まこと)に彼の胸に恃(たの)める覚悟とてはあらざりき。恋佗(わ)びつつも心を貫かんとにはあらず、由無き縁を組まんとしたるよと思ひつつも、強(し)ひて今更否(いな)まんとするにもあらず、彼方(かなた)の恋(こひし)きを思ひ、こなたの富めるを愛(をし)み、自ら決するところ無く、為すところ無くして空(むなし)き迷(まよひ)に弄(もてあそ)ばれつつ、終に移すべからざる三月三日の来(きた)るに会へるなり。
この日よ、この夕(ゆふべ)よ、更(ふ)けて床盃(とこさかづき)のその期(ご)におよびても、怪(あやし)むべし、宮は決して富山唯継を夫(つま)と定めたる心は起らざるにぞありける、止(ただ)この人を夫(つま)と定めざるべからざる我身なるを忘れざりしかど。彼は自ら謂(おも)へり、この心は始より貫一に許したるを、縁ありて身は唯継に委(まか)すなり。故(ゆゑ)に身は唯継に委すとも、心は長く貫一を忘れずと、かく謂(おも)へる宮はこの心事の不徳なるを知れり、されどこの不徳のその身に免(まぬか)る能(あた)はざる約束なるべきを信じて、寧(むし)ろ深く怪むにもあらざりき。如此(かくのごとく)にして宮は唯継の妻となりぬ。
花聟君(はなむこぎみ)は彼を愛するに二念無く、彼を遇するに全力を挙(あ)げたり。宮はその身の上の日毎輝き勝(まさ)るままに、いよいよ意中の人と私(わたくし)すべき陰無くなりゆくを見て、愈(いよい)よ楽まざる心は、夫(つま)の愛を承くるに慵(ものう)くて、唯(ただ)機械の如く事(つか)ふるに過ぎざりしも、唯継は彼の言(ものい)ふ花の姿、温き玉の容(かたち)を一向(ひたぶる)に愛(め)で悦(よろこ)ぶ余に、冷(ひやや)かに空(むなし)き器(うつは)を抱(いだ)くに異らざる妻を擁して、殆(ほとん)ど憎むべきまでに得意の頤(おとがひ)を撫(な)づるなりき。彼が一段の得意は、二箇月の後最愛の妻は妊(みごも)りて、翌年の春美き男子(なんし)を挙げぬ。宮は我とも覚えず浅ましがりて、産後を三月ばかり重く病みけるが、その癒(い)ゆる日を竣(ま)たで、初子(うひご)はいと弱くて肺炎の為に歿(みまか)りにけり。
子を生みし後も宮が色香はつゆ移(うつろ)はずして、自(おのづか)ら可悩(なやまし)き風情(ふぜい)の添(そは)りたるに、夫(つま)が愛護の念は益(ますます)深く、寵(ちよう)は人目の見苦(みぐるし)きばかり弥(いよい)よ加(くはは)るのみ。彼はその妻の常に楽(たのし)まざる故(ゆゑ)を毫(つゆ)も暁(さと)らず、始より唯その色を見て、打沈(うちしづ)みたる生得(うまれ)と独合点(ひとりがてん)して多く問はざるなりけり。
かく怜(いとし)まれつつも宮が初一念は動かんともせで、難有(ありがた)き人の情(なさけ)に負(そむ)きて、ここに嫁(とつ)ぎし罪をさへ歎きて止まざりしに、思はぬ子まで成せし過(あやまち)は如何(いか)にすべきと、躬(みづか)らその容(ゆる)し難きを慙(は)ぢて、悲むこと太甚(はなはだし)かりしが、実(げ)に親の所憎(にくしみ)にや堪(た)へざりけん。その子の失(う)せし後、彼は再び唯継の子をば生まじ、と固く心に誓ひしなり。二年(ふたとせ)の後(のち)、三年(みとせ)の後、四年(よとせ)の後まで異(あやし)くも宮はこの誓を全うせり。
次第に彼の心は楽まずなりて、今は何の故にその嫁ぎたるかを自ら知るに苦(くるし)めるなりき。機械の如く夫を守り置物のやうに内に据られ、絶えて人の妻たる効(かひ)も思出もあらで、空(むなし)く籠鳥(ろうちよう)の雲を望める身には、それのみの願なりし裕(ゆたか)なる生活も、富める家計も、土の如く顧るに足らず、却(かへ)りてこの四年(よとせ)が間思ひに思ふばかりにて、熱海より行方(ゆくへ)知れざりし人の姿を田鶴見(たずみ)の邸内に見てしまで、彼は全く音沙汰(おとさた)をも聞かざりしなり。生家(さと)なる鴫沢(しぎさわ)にては薄々知らざるにもあらざりしかど、さる由無(よしな)き事を告ぐるが如き愚(おろか)なる親にもあらねば、宮のこれを知るべき便(たより)は絶れたりしなり。
計らずもその夢寐(むび)に忘れざる姿を見たりし彼が思は幾計(いかばかり)なりけんよ。饑(う)ゑたる者の貪(むさぼ)り食(くら)ふらんやうに、彼はその一目にして四年(よとせ)の求むるところを求めんとしたり。あかず、あかず、彼の慾はこの日より益急になりて、既に自ら心事の不徳を以つて許せる身を投じて、唯快く万事を一事に換へて已(や)まん、と深くも念じたり。
五番町なる鰐淵(わにぶち)といふ方(かた)に住める由は、静緒(しずお)より聞きつれど、むざとは文(ふみ)も通はせ難く、道は遠からねど、独(ひと)り出でて彷徨(さまよ)ふべき身にもあらぬなど、克(かな)はぬ事のみなるに苦(くるし)かりけれど、安否を分(わ)かざりし幾年(いくとせ)の思に較(くら)ぶれば、はや嚢(ふくろ)の物を捜(さぐ)るに等しかるをと、その一筋に慰められつつも彼は日毎の徒然(つれづれ)を憂きに堪へざる余(あまり)、我心を遺(のこ)る方(かた)無く明すべき長き長き文を書かんと思立ちぬ。そは折を得て送らんとにもあらず、又逢うては言ふ能はざるを言はしめんとにもあらで、止(た)だかくも儚(はかな)き身の上と切なき胸の内とを独(ひとり)自ら愬(うつた)へんとてなり。 
(二)の二
宮は貫一が事を忘れざるとともに、又長く熱海の悲き別を忘るる能(あた)はざるなり。更に見よ。歳々(としどし)廻来(めぐりく)る一月十七日なる日は、その悲き別を忘れざる胸に烙(やきがね)して、彼の悔を新にするにあらずや。
「十年後(のち)の今月今夜も、僕の涙で月は曇らして見せるから、月が曇つたらば、貫一は何処(どこ)かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると想ふが可い」
掩(おほ)へども宮が耳は常にこの声を聞かざるなし。彼はその日のその夜に会ふ毎に、果して月の曇るか、あらぬかを試(こころみ)しに、曾(かつ)てその人の余所(よそ)に泣ける徴(しるし)もあらざりければ、さすがに恨は忘られしかと、それには心安きにつけて、諸共(もろとも)に今は我をも思はでや、さては何処(いづこ)に如何(いか)にしてなど、更に打歎(うちなげ)かるるなりき。
例のその日は四(よ)たび廻(めぐ)りて今日しも来(きた)りぬ。晴れたりし空は午後より曇りて少(すこし)く吹出(ふきい)でたる風のいと寒く、凡(ただ)ならず冷(ひ)ゆる日なり。宮は毎(いつ)よりも心煩(こころわづらはし)きこの日なれば、かの筆採りて書続けんと為(し)たりしが、余(あまり)に思乱るればさるべき力も無くて、いとどしく紛れかねてゐたり。
益(ますま)す寒威の募るに堪へざりければ、遽(にはか)に煖炉(だんろ)を調ぜしめて、彼は西洋間に徙(うつ)りぬ。尽(ことごと)く窓帷(カアテン)を引きたる十畳の間(ま)は寸隙(すんげき)もあらず裹(つつ)まれて、火気の漸(やうや)く春を蒸すところに、宮は体(たい)を胖(ゆたか)に友禅縮緬(ゆうぜんちりめん)の長襦袢(ながじゆばん)の褄(つま)を蹈披(ふみひら)きて、緋(ひ)の紋緞子(もんどんす)張の楽椅子(らくいす)に凭(よ)りて、心の影の其処(そこ)に映るを眺(なが)むらんやうに、その美き目をば唯白く坦(たひら)なる天井に注ぎたり。
夫の留守にはこの家の主(あるじ)として、彼は事(つか)ふべき舅姑(きゆうこ)を戴(いただ)かず、気兼すべき小姑(こじうと)を抱(かか)へず、足手絡(あしてまとひ)の幼きも未(ま)だ有らずして、一箇(ひとり)の仲働(なかばたらき)と両箇(ふたり)の下婢(かひ)とに万般(よろづ)の煩(わづらはし)きを委(まか)せ、一日何の為(な)すべき事も無くて、出(い)づるに車あり、膳(ぜん)には肉あり、しかも言ふことは皆聴れ、為すことは皆悦(よろこ)ばるる夫を持てるなど、彼は今若き妻の黄金時代をば夢むる如く楽めるなり。実(げ)に世間の娘の想ひに想ひ、望みに望める絶頂は正(まさ)に己(おのれ)のこの身の上なる哉(かな)、と宮は不覚(そぞろ)胸に浮べたるなり。
嗟乎(ああ)、おのれもこの身の上を願ひに願ひし余(あまり)に、再び得難き恋人を棄てにしよ。されども、この身の上に窮(きは)めし楽(たのしみ)も、五年(いつとせ)の昔なりける今日の日に窮(きは)めし悲(かなしみ)に易(か)ふべきものはあらざりしを、と彼は苦しげに太息(ためいき)したり。今にして彼は始めて悟りぬ。おのれのこの身の上を願ひしは、その恋人と倶(とも)に同じき楽(たのしみ)を享(う)けんと願ひしに外ならざるを。若(も)し身の楽(たのしみ)と心の楽(たのしみ)とを併享(あはせう)くべき幸無(さちな)くて、必ずその一つを択(えら)ぶべきものならば、孰(いづれ)を取るべきかを知ることの晩(おそ)かりしを、遣方(やるかた)も無く悔ゆるなりけり。
この寒き日をこの煖(あたたか)き室(しつ)に、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠をもてこの恋しさを語らば如何(いか)に、と思到れる時、宮は殆(ほとん)ど裂けぬべく胸を苦く覚えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その口惜(くちを)しさを悶(もだ)えては、在るにも在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の外面(そとも)を何心無く打見遣(うちみや)れば、いつしか雪の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。一月十七日なる感はいと劇(はげし)く動きて、宮は降頻(ふりしき)る雪に或言(あることば)を聴くが如く佇(たたず)めり。折から唯継は還来(かへりきた)りぬ。静に啓(あ)けたる闥(ドア)の響は絶(したたか)に物思へる宮の耳には入(い)らざりき。氷の如く冷徹(ひえわた)りたる手をわりなく懐(ふところ)に差入れらるるに驚き、咄嗟(あなや)と見向かんとすれば、後より緊(しか)と抱(かか)へられたれど、夫の常に飭(たしな)める香水の薫(かをり)は隠るべくもあらず。
「おや、お帰来(かへり)でございましたか」
「寒かつたよ」
「大相降つて参りました、さぞお困りでしたらう」
「何だか知らんが、むちやくちやに寒かつた」
宮は楽椅子を夫に勧めて、躬(みづから)は煖炉(ストオブ)の薪(たきぎ)をくべたり。今の今まで貫一が事を思窮(おもひつ)めたりし心には、夫なる唯継にかく事(つか)ふるも、なかなか道ならぬやうにて屑(いさぎよ)からず覚ゆるなり。窓の外に降る雪、風に乱るる雪、梢(こずゑ)に宿れる雪、庭に布(し)く雪、見ゆる限の白妙(しらたへ)は、我身に積める人の怨(うらみ)の丈(たけ)かとも思ふに、かくてあることの疚(やま)しさ、切なさは、脂(あぶら)を搾(しぼ)らるるやうにも忍び難かり。されども、この美人の前にこの雪を得たる夫の得意は限無くて、その脚(あし)を八文字に踏展(ふみはだ)け、漸(やうや)く煖まれる頤(おとがひ)を突反(つきそら)して、
「ああ、降る降る、面白い。かう云ふ日は寄鍋(よせなべ)で飲むんだね。寄鍋を取つて貰(もら)はう、寄鍋が好い。それから珈琲(カフヒイ)を一つ拵(こしら)へてくれ、コニャックを些(ち)と余計に入れて」
宮の行かんとするを、
「お前、行かんでも可いぢやないか、要(い)る物を取寄せてここで拵へなさい」
彼の電鈴(でんれい)を鳴して、火の傍(そば)に寄来ると斉(ひとし)く、唯継はその手を取りて小脇(こわき)に挾(はさ)みつ。宮は懌(よろこ)べる気色も無くて、彼の為すに任するのみ。
「おまへどうした、何を鬱(ふさ)いでゐるのかね」
引寄せられし宮はほとほと仆(たふ)れんとして椅子に支へられたるを、唯継は鼻も摩(す)るばかりにその顔を差覗(さしのぞ)きて余念も無く見入りつつ、
「顔の色が甚(はなは)だ悪いよ。雪で寒いんで、胸でも痛むんか、頭痛でもするんか、さうも無い?どうしたんだな。それぢや、もつと爽然(はつきり)してくれんぢや困るぢやないか。さう陰気だと情合(じようあひ)が薄いやうに想はれるよ。一体お前は夫婦の情が薄いんぢやあるまいかと疑ふよ。ええ? そんなことは無いかね」
忽(たちま)ち闥(ドア)の啓(あ)くと見れば、仲働(なかばたらき)の命ぜし物を持来(もちきた)れるなり。人目を憚(はばか)らずその妻を愛するは唯継が常なるを、見苦しと思ふ宮はその傍(そば)を退(の)かんとすれど、放たざるを例の事とて仲働は見ぬ風(ふり)しつつ、器具と壜(ボトル)とをテエブルに置きて、直(ぢき)に退(まか)り出(い)でぬ。かく執念(しゆうね)く愛せらるるを、宮はなかなか憂(う)くも浅ましくも思ふなりけり。
雪は風を添へて掻乱(かきみだ)し掻乱し降頻(ふりしき)りつつ、はや日暮れなんとするに、楽き夜の漸(やうや)く来(きた)れるが最辱(いとかたじけな)き唯継の目尻なり。
「近頃はお前別して鬱いでをるやうぢやないか、俺(おれ)にはさう見えるがね。さうして内にばかり引籠(ひつこ)んでをるのが宜(よろし)くないよ。この頃は些(ちよつ)とも出掛けんぢやないか。さう因循(いんじゆん)してをるから、益(ますま)す陰気になつて了ふのだ。この間も鳥柴(としば)の奥さんに会つたら、さう言つてゐたよ。何為(なぜ)近頃は奥さんは些(ちよつ)ともお見えなさらんのだらう。芝居ぐらゐにはお出掛になつても可ささうなものだが、全然(まるつきり)影も形もお見せなさらん。なんぼお大事になさるつて、そんなに仕舞(しまひ)込んでお置きなさるものぢやございません。慈善の為に少しは衆(ひと)にも見せてお遣(や)んなさい、なんぞと非常に遣られたぢやないか。それからね、知つてをる通り、今度の選挙には実業家として福積(ふくづみ)が当選したらう。俺も大(おほ)いに与(あづか)つて尽力したんさ。それで近日当選祝があつて、それが済次第(すみしだい)別に慰労会と云ふやうな名で、格別尽力した連中(れんじゆう)を招待するんだ。その席へは令夫人携帯といふ訳なんだから、是非お前も出なければならん。驚くよ。俺の社会では富山の細君と来たら評判なもんだ。会つたことの無い奴まで、お前の事は知つてをるんさ。そこで、俺は実は自慢でね、さう評判になつて見ると、軽々しく出行(である)かれるのも面白くない、余り顔を見せん方が見識が好(よ)いけれど、然し、近頃のやうに籠(こも)つてばかり居(を)るのは、第一衛生におまへ良くない。実は俺は日曜毎にお前を連れて出たいんさ。おまへの来た当座はさうであつたぢやないかね。子供を産んでから、さう、あれから半年(はんとし)ばかり経(た)つてからだよ。余り出なくなつたのは。それでも随分彼地此地(あちこち)出たぢやないかね。
善し、珈琲(カフヒイ)出来たか。うう熱い、旨(うま)い。お前もお飲み、これを半分上げやうか。沢山だ? それだからお前は冷淡で可かんと謂ふんさ。ぢや、酒の入らんのを飲むと可い。寄鍋は未(まだ)か。うむ、彼方(あつち)に支度がしてあるから、来たら言ひに来る? それは善い、西洋室の寄鍋なんかは風流でない、あれは長火鉢(ながひばち)の相対(さしむかひ)に限るんさ。
可いかね、福積の招待(しようだい)には吃驚(びつくり)させるほど美(うつくし)くして出て貰はなけりやならん。それで、着物だ、何か欲ければ早速拵(こしら)へやう。おまへが、これならば十分と思ふ服装(なり)で、隆(りゆう)として推出すんだね。さうしてお前この頃は余り服装(なり)にかまはんぢやないか、可かんよ。いつでもこの小紋の羽織の寐恍(ねぼ)けたのばかりは恐れるね。何為(なぜ)あの被風(ひふ)を着ないのかね、あれは好く似合ふにな。
明後日(あさつて)は日曜だ、何処(どこ)かへ行かうよ。その着物を見に三井へでも行かうか。いや、さうさう、柏原(かしわばら)の奥さんが、お前の写真を是非欲いと言つて、会ふ度(たび)に聒(やかまし)く催促するんで克(かな)はんよ。明日(あした)は用が有つて行かなければならんのだから、持つて行かんと拙(まづ)いて。未だ有つたね、無い? そりや可かん。一枚も無いんか、そりや可かん。それぢや、明後日(あさつて)写しに行かう。直(ずつ)と若返つて二人で写すなんぞも可いぢやないか。
善し、寄鍋が来た? さあ行かう」
夫に引添ひて宮はこの室を出でんとして、思ふところありげに姑(しばら)く窓の外面(そとも)を窺(うかが)ひたりしが、
「どうしてこんなに降るのでせう」
「何を下(くだ)らんことを言ふんだ。さあ、行かう行かう」 
第三章
宮は既に富むと裕(ゆたか)なるとにあきぬ。抑(そもそ)も彼がこの家に嫁(とつ)ぎしは、惑深(まどひふか)き娘気の一図に、栄耀(えいよう)栄華の欲するままなる身分を願ふを旨とするなりければ、始より夫の愛情の如きは、有るも善し、有らざるも更に善しと、殆(ほとん)ど無用の物のやうに軽(かろし)めたりき。今やその願足りて、しかも遂(つひ)にあきたる彼は弥(いよい)よまつはらるる愛情の煩(わづらはし)きに堪(た)へずして、寧(むし)ろ影を追ふよりも儚(はかな)き昔の恋を思ひて、私(ひそか)に楽むの味(あぢはひ)あるを覚ゆるなり。
かくなりてより彼は自(おのづか)ら唯継の面前を厭(いと)ひて、寂く垂籠(たれこ)めては、随意に物思ふを懌(よろこ)びたりしが、図らずも田鶴見(たずみ)の邸内(やしきうち)に貫一を見しより、彼のさして昔に変らぬ一介の書生風なるを見しより、一度(ひとたび)は絶えし恋ながら、なほ冥々(めいめい)に行末望あるが如く、さるは、彼が昔のままの容(かたち)なるを、今もその独(ひとり)を守りて、時の到るを待つらんやうに思做(おもひな)さるるなりけり。
その時は果して到るべきものなるか。宮は躬(みづから)の心の底を叩(たた)きて、答を得るに沮(はば)みつつも、さすがに又己(おのれ)にも知れざる秘密の潜める心地(ここち)して、一面には覚束(おぼつか)なくも、又一面にはとにもかくにも信ぜらるるなり。
便(すなは)ち宮の夫の愛を受くるを難堪(たへがた)く苦しと思知りたるは、彼の写真の鏡面(レンズ)の前に悶絶(もんぜつ)せし日よりにて、その恋しさに取迫(とりつ)めては、いでや、この富めるにあき、裕(ゆたか)なるに倦(う)める家を棄つべきか、棄てよとならば遅(ためら)はじと思へるも屡々(しばしば)なりき。唯敢(ただあへ)てこれを為(せ)ざるは、窃(ひそか)に望は繋(か)けながらも、行くべき方(かた)の怨(うらみ)を解かざるを虞(おそ)るる故(ゆゑ)のみ。
素(もと)より宮は唯継を愛せざりしかど、決してこれを憎むとにはあらざりき。されど今はしも正にその念は起れるなり。自ら謂(おも)へらく、吾夫(わがをつと)こそ当時恋と富との値(あたひ)を知らざりし己を欺き、空(むなし)く輝ける富を示して、售(う)るべくもあらざりし恋を奪ひけるよ、と悔の余はかかる恨をも他(ひと)に被(き)せて、彼は己を過(あやま)りしをば、全く夫の罪と為(な)せり。
この心なる宮はこの一月十七日に会ひて、この一月十七日の雪に会ひて、いとどしく貫一が事の忍(しの)ばるるに就(つ)けて転(うた)た悪人の夫を厭ふこと甚(はなはだし)かり。無辜(むこ)の唯継はかかる今宵の楽(たのしみ)を授(さづく)るこの美き妻を拝するばかりに、有程(あるほど)の誠を捧げて、蜜(みつ)よりも甘き言(ことば)の数々をささやきて止まざれど、宮が耳には人の声は聞えずして、雪の音のみぞいと能(よ)く響きたる。
その雪は明方になりて歇(や)みぬ。乾坤(けんこん)の白きに漂ひて華麗(はなやか)に差出でたる日影は、漲(みなぎ)るばかりに暖き光を鋪(し)きて終日(ひねもす)輝きければ、七分の雪はその日に解けて、はや翌日は往来(ゆきき)の妨碍(さまたげ)もあらず、処々(ところどころ)の泥濘(ぬかるみ)は打続く快晴の天(そら)に曝(さら)されて、刻々に乾(かわ)き行くなり。
この雪の為に外出(そとで)を封ぜられし人は、この日和(ひより)とこの道とを見て、皆怺(こら)へかねて昨日(きのふ)より出でしも多かるべし。まして今日となりては、手置の宜(よろし)からぬ横町、不性なる裏通、屋敷町の小路などの氷れる雪の九十九折(つづらをり)、或(ある)は捏返(こねかへ)せし汁粉(しるこ)の海の、差掛りて難儀を極(きは)むるとは知らず、見渡す町通(まちとほり)の乾々干(からからほし)に固(かたま)れるに唆(そその)かされて、控へたりし人の出でざるはあらざらんやうに、往来(ゆきき)の常より頻(しきり)なる午前十一時といふ頃、屈(かが)み勝に疲れたる車夫は、泥の粉衣(ころも)掛けたる車輪を可悩(なやま)しげに転(まろば)して、黒綾(くろあや)の吾妻(あづま)コオト着て、鉄色縮緬(てついろちりめん)の頭巾(づきん)を領(えり)に巻きたる五十路(いそぢ)に近き賤(いやし)からぬ婦人を載せたるが、南の方(かた)より芝飯倉通(しばいいぐらとおり)に来かかりぬ。
唯有(とあ)る横町を西に切れて、某(なにがし)の神社の石の玉垣(たまがき)に沿ひて、だらだらと上(のぼ)る道狭く、繁(しげ)き木立に南を塞(ふさ)がれて、残れる雪の夥多(おびただし)きが泥交(どろまじり)に踏散されたるを、件(くだん)の車は曳々(えいえい)と挽上(ひきあ)げて、取着(とつき)に土塀(どべい)を由々(ゆゆ)しく構へて、門(かど)には電燈を掲げたる方(かた)にぞ入(い)りける。
こは富山唯継が住居(すまひ)にて、その女客は宮が母なり。主(あるじ)は疾(とく)に会社に出勤せし後にて、例刻に来(きた)れる髪結の今方帰行(かへりゆ)きて、まだその跡も掃かぬ程なり。紋羽二重(もんはぶたへ)の肉色鹿子(にくいろがのこ)を掛けたる大円髷(おほまるわげ)より水は滴(た)るばかりに、玉の如き喉(のど)を白絹のハンカチイフに巻きて、風邪気(かぜけ)などにや、連(しきり)に打咳(うちしはぶ)きつつ、宮は奥より出迎に見えぬ。その故(ゆゑ)とも覚えず余(あまり)に著(しる)き面羸(おもやつれ)は、唯一目に母が心を驚(おどろか)せり。
閑(ひま)ある身なれば、宮は月々生家(さと)なる両親を見舞ひ、母も同じほど訪(と)ひ音づるるをば、此上無(こよな)き隠居の保養と為るなり。信(まこと)に女親の心は、娘の身の定りて、その家栄え、その身安泰に、しかもいみじう出世したる姿を見るに増して楽まさるる事はあらざらん。彼は宮を見る毎に大(おほい)なる手柄をも成したらんやうに吾が識(し)れるほどの親といふ親は、皆才覚無く、仕合(しあはせ)薄くて、有様(ありよう)は気の毒なる人達哉(かな)、と漫(そぞろ)に己の誇らるるなりけり。されば月毎に彼が富山の門(かど)を入るは、正(まさ)に人の母たる成功の凱旋門(がいせんもん)を過(すぐ)る心地もすなるべし。
可懐(なつかし)きと、嬉きと、猶(なほ)今一つとにて、母は得々(いそいそ)と奥に導れぬ。久く垂籠(たれこ)めて友欲き宮は、拯(すくひ)を得たるやうに覚えて、有るまじき事ながら、或は密(ひそか)に貫一の報を齎(もたら)せるにはあらずやなど、枉(ま)げても念じつつ、せめては愁(うれひ)に閉ぢたる胸を姑(しばら)くも寛(ゆる)うせんとするなり。
母は語るべき事の日頃蓄へたる数々を措(お)きて、先づ宮が血色の気遣(きづかはし)く衰へたる故を詰(なじ)りぬ。同じ事を夫にさへ問れしを思合せて、彼はさまでに己の羸(やつ)れたるを惧(おそ)れつつも、
「さう? でも、何処(どこ)も悪い所なんぞ有りはしません。余(あんま)り体を動(いご)かさないから、その所為(せゐ)かも知れません。けれども、この頃は時々気が鬱(ふさ)いで鬱いで耐(たま)らない事があるの。あれは血の道と謂(い)ふんでせうね」
「ああ、それは血の道さ。私なんぞも持病にあるのだから、やつぱりさうだらうよ。それでも、それで痩せるやうぢや良くないのだから、お医者に診(み)てもらふ方が可いよ、放つて措(お)くから畢竟(ひつきよう)持病にもなるのさ」
宮は唯頷(うなづ)きぬ。
母は不図思起してや、さも慌忙(あわただ)しげに、
「後が出来たのぢやないかい」
宮は打笑(うちゑ)みつ。されども例の可羞(はづか)しとにはあらで傍痛(かたはらいた)き余を微見(ほのみ)せしやうなり。
「そんな事はありはしませんわ」
「さう何日(いつ)までも沙汰(さた)が無くちや困るぢやないか。本当に未(ま)だそんな様子は無いのかえ」
「有りはしませんよ」
「無いのを手柄にでもしてゐるやうに、何だね、一人はもう無くてどうするのだらう、先へ寄つて御覧、後悔を為るから。本当なら二人ぐらゐ有つて好い時分なのに、あれきり後が出来ないところを見ると、やつぱり体が弱いのだね。今の内養生して、丈夫にならなくちや可けないよ。お前はさうして平気で、いつまでも若くて居る気なのだらうけれど、本宅の方なんぞでも後が後がつて、どんなに待兼ねてお在(いで)だか知れはしないのだよ。内ぢや又阿父(おとつ)さんは、あれはどうしたと謂ふんだらう、情無い奴だ。子を生み得ないのは女の恥だつて、慍(おこ)りきつてゐなさるくらゐだのに、当人のお前と云つたら、可厭(いや)に落着いてゐるから、憎らしくてなりはしない。さうして、お前は先(せん)の内は子供が所好(すき)だつた癖に、自分の子は欲くないのかね」
宮もさすがに当惑しつつ、
「欲くない事はありはしませんけれど、出来ないものは為方が無いわ」
「だから、何でも養生して、体を丈夫にするのが専(せん)だよ」
「体が弱いとお言ひだけれど、自分には別段ここが悪いと思ふところも無いから、診(み)てもらふのも変だし……けれどもね、阿母(おつか)さん、私は疾(とう)から言はう言はうと思つてゐたのですけれど、実は気に懸る事があつてね、それで始終何だか心持が快(よ)くないの。その所為(せゐ)で自然と体も良くないのかしらんと思ふのよ」
母のその目はみはり、その膝(ひざ)は前(すす)み、その胸は潰(つぶ)れたり。
「どうしたのさ!」
宮は俯(うつむ)きたりし顔を寂しげに起して、
「私(わたし)ね、去年の秋、貫一(かんいつ)さんに逢つてね……」
「さうかい!」
己だに聞くを憚(はばか)る秘密の如く、母はその応(こた)ふる声をも潜めて、まして四辺(あたり)には油断もあらぬ気勢(けはひ)なり。
「何処(どこ)で」
「内の方へも全然(まるきり)爾来(あれから)の様子は知れないの?」
「ああ」
「些(ちつと)も?」
「ああ」
「どうしてゐると云ふやうな話も?」
「ああ」
かく纔(わづか)に応ふるのみにて、母は自ら湧(わか)せる万感の渦の裏(うち)に陥りてぞゐたる。
「さう? 阿父(おとつ)さんは内証で知つてお在(いで)ぢやなくて?」
「いいえ、そんな事は無いよ。何処で逢つたのだえ」
宮はその梗概(あらまし)を語れり。聴ゐる母は、彼の事無くその場を遁(のが)れ得てし始末を詳(つまびら)かにするを俟(ま)ちて、始めて重荷を下したるやうにほと息を咆(つ)きぬ。実(げ)に彼は熱海の梅園にて膩汗(あぶらあせ)を搾(しぼ)られし次手(ついで)悪さを思合せて、憂き目を重ねし宮が不幸を、不愍(ふびん)とも、惨(いぢら)しとも、今更に親心を傷(いた)むるなりけり。されども過ぎしその事よりは、為に宮が前途に一大障礙(しようげ)の或(あるひ)は来(きた)るべきを案じて、母はなかなか心穏(こころおだやか)ならず、
「さうして貫一はどうしたえ」
「お互に知らん顔をして別れて了つたけれど……」
「ああそれから?」
「それきりなのだけれど、私は気になつてね。それも出世して立派になつてゐるのなら、さうも思はないけれど、つまらない風采(なり)をして、何だか大変羸(やつ)れて、私も極(きまり)が悪かつたから、能くは見なかつたけれど、気の毒のやうに身窄(みすぼらし)い様子だつたわ。それに、聞けばね、番町の方の鰐淵(わにぶち)とかいふ、地面や家作なんぞの世話をしてゐる内に使はれて、やつぱり其処(そこ)に居るらしいのだから、好い事は無いのでせう、ああして子供の内から一処(いつしよ)に居た人が、あんなになつてゐるかと思ふと、昔の事を考へ出して、私は何だか情無くなつて……」
彼は襦袢(じゆばん)の袖(そで)の端(はし)に窃(そ)とまぶたをすりて、
「好い心持はしないわ、ねえ」
「へええ、そんなになつてゐるのかね」
母の顔色も異(あやし)き寒さにや襲はるると見えぬ。
「それまでだつて、憶出(おもひだ)さない事は無いけれど、去年逢つてからは、毎日のやうに気になつて、可厭(いや)な夢なんぞを度々(たびたび)見るの。阿父(おとつ)さんや、阿母(おつか)さんに会ふ度に、今度は話さう、今度は話さうと思ひながら、私の口からは何と無く話し難(にく)いやうで、実は今まで言はずにゐたのだけれど、その事が初中終(しよつちゆう)苦になる所為(せゐ)で気を傷(いた)めるから体にも障(さは)るのぢやないかと、さう想ふのです」
思凝(おもひこら)せるやうに母は或方を見据ゑつつ、言(ことば)は無くて頷(うなづ)きゐたり。
「それで、私は阿母さんに相談して、貫一さんをどうかして上げたいの――あの時にそんな話も有つたのでせう。さうして依旧(やつぱり)鴫沢(しぎさわ)の跡は貫一さんに取(とら)して下さいよ、それでなくては私の気が済まないから。今までは行方(ゆきがた)が知れなかつたから為方がないけれど、聞合せれば直(ぢき)に分るのだから、それを抛(はふ)つて措(お)いちや此方(こつち)が悪いから、阿父さんにでも会つて貰(もら)つて、何とか話を付けるやうにして下さいな。さうして従来通(これまでどほり)に内で世話をして、どんなにもあの人の目的を達しさして、立派に吾家(うち)の跡を取して下さい。私はさうしたら兄弟の盃(さかづき)をして、何処までも生家(さと)の兄さんで、末始終力になつて欲いわ」
宮がこの言(ことば)は決して内に自ら欺き、又敢て外に他(ひと)を欺くにはあらざりき。影とも儚(はかな)く隔(へだて)の関の遠き恋人として余所(よそ)に朽さんより、近き他人の前に己を殺さんぞ、同く受くべき苦痛ならば、その忍び易きに就かんと冀(こひねが)へるなり。
「それはさうでもあらうけれど、随分考へ物だよ。あのひとの事なら、内でも時々話が出て、何処にどうしてゐるかしらんつて、案じないぢやないけれど、阿父さんも能(よ)くお言ひのさ、如何(いか)に何だつて、余り貫一の仕打が憎いつて。成程それは、お前との約束ね、それを反古(ほご)にしたと云ふので、齢(とし)の若いものの事だから腹も立たう、立たうけれど、お前自分の身の上も些(ちつと)は考へて見るが可いわね。子供の内からああして世話になつて、全く内のお蔭でともかくもあれだけにもなつたのぢやないか、その恩も有れば、義理も有るのだらう。そこ所(どこ)を些(ちつ)と考へたら、あれぎり家出をして了ふなんて、あんなまあ面抵(つらあて)がましい仕打振をするつてが有るものかね。
それぢやあの約束を反古にして、もうお前には用は無いからどうでも独(ひとり)で勝手に為るが可い、と云ふやうな不人情なことを仮初(かりそめ)にも為たのぢやなし、鴫沢の家は譲らうし、所望(のぞみ)なら洋行も為(さ)せやうとまで言ふのぢやないか。それは一時は腹も立たうけれど、好く了簡して前後を考へて見たら、万更訳の解らない話をしてゐるのぢやないのだもの、私達の顔を立ててくれたつて、そんなに罰(ばち)も当りはしまいと思ふのさ。さうしてお剰(まけ)に、阿父さんから十分に訳を言つて、頭を低(さ)げないばかりにして頼んだのぢやないかね。だから此方(こつち)には少しも無理は無い筈(はず)だのに、貫一が余(あんま)り身の程を知らな過(すぎ)るよ。
それはね、阿父さんが昔あの人の親の世話になつた事があるさうさ、その恩返(おんがへし)なら、行処(ゆきどこ)の無い躯(からだ)を十五の時から引取つて、高等学校を卒業するまでに仕上げたから、それで十分だらうぢやないか。
全く、お前、貫一の為方(しかた)は増長してゐるのだよ。それだから、阿父さんだつて、私だつて、ああされて見ると決して可愛(かはゆ)くはないのだからね、今更此方(こつち)から捜出して、とやかう言ふほどの事はありはしないよ。それぢや何ぼ何でも不見識とやらぢやないか」
その不見識とやらを嫌(きら)ふよりは、別に嫌ふべく、懼(おそ)るべく、警(いまし)むべき事あらずや、と母は私(ひそか)に慮(おもひはか)れるなり。
「阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんの身になつたら、さう思ふのは無理も無いけれど、どうもこのままぢや私が気が済まないんですもの。今になつて考へて見ると、貫一さんが悪いのでなし、阿父さん阿母さんが悪いのでなし、全く私一人が悪かつたばかりに、貫一さんには阿父さん阿母さんを恨ませるし、阿父さん阿母さんには貫一さんを悪く思はせたのだから、やつぱり私が仲へ入つて、元々通に為なければ済まないと思ふんですから、貫一さんの悪いのは、どうぞ私に免じて、今までの事は水に流して了つて、改めて貫一さんを内の養子にして下さいな。若しさうなれば、私もそれで苦労が滅(なくな)るのだから、きつと体も丈夫になるに違無いから、是非さう云ふ事に阿父さんにも頼んで下さいな、ねえ、阿母さん。さうして下さらないと、私は段々体を悪くするわ」
かく言出でし宮が胸は、ここに尽(ことごと)くその罪を懺悔(ざんげ)したらんやうに、多少の涼きを覚ゆるなりき。
「そんなに言ふのなら、還(かへ)つて阿父さんに話をして見やうけれど、何もその所為(せゐ)で体が弱くなると云ふ訳も無かりさうなものぢやないか」
「いいえ、全くその所為よ。始終そればかり苦になつて、時々考込むと、実に耐(たま)らない心持になることがあるんですもの、この間逢ふ前まではそんなでもなかつたのだけれど、あれから急に――さうね、何と謂(い)つたら可いのだらう――私があんなに不仕合(ふしあはせ)な身分にして了(しま)つたとさう思つて、さぞ恨んでゐるだらうと、気の毒のやうな、可恐(おそろし)いやうな、さうして、何と無く私は悲くてね。外(ほか)には何も望は無いから、どうかあの人だけは元のやうにして、あの優い気立で、末始終阿父さんや阿母さんの世話をして貰つたら、どんなに嬉(うれし)からうと、そんな事ばかり考へては鬱(ふさ)いでゐるのです。いづれ私からも阿父さんに話をしますけれど、差当(さしあたり)阿母さんから好くこの訳をさう言つて、本当に頼んで下さいな。私二三日の内に行きますから」
されども母は投首(なげくび)して、
「私の考量(かんがへ)ぢや、どうも今更ねえ……」
「阿母さんは! 何もそんなに貫一さんを悪く思はなくたつて可いわ。折角話をして貰はうと思ふ阿母さんがさう云ふ気ぢや、とても阿父さんだつて承知をしては下さるまいから……」
「お前がそれまでに言ふものだから、私は不承知とは言はないけれど……」
「可いの、不承知なのよ。阿父さんもやつぱり貫一さんが憎くて、大方不承知なんでせうから、私はあてにはしないから、不承知なら不承知でも可いの」
涙含(なみだぐ)みつつ宮が焦心(せきごころ)になれるを、母は打惑ひて、
「まあ、お聞きよ。それは、ね、……」
「阿母さん、可いわ――私、可いの」
「可(よ)かないよ」
「可かなくつても可いわ」
「あれ、まあ、……何だね」
「どうせ可いわ。私の事はかまつてはおくれでないのだから……」
我にもあらで迸(ほとばし)る泣声を、つと袖に抑(おさ)へても、宮は急来(せきく)る涙を止(とど)めかねたり。
「何もお前、泣くことは無いぢやないか。可笑(をかし)な人だよ、だからお前の言ふことは解つてゐるから、内へ帰つて、善く話をした上で……」
「可いわ。そんなら、さうで私にも了簡(りようけん)があるから、どうとも私は自分で為るわ」
「自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で為ることぢやないのだから、それは可けませんよ」
「…………」
「帰つたら阿父(おとつ)さんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね」
「だから、阿母(おつか)さんは私の心を知らないのだから、頼効(たのみがひ)が無い、と謂(い)ふのよ」
「多度(たんと)お言ひな」
「言ふわ」
真顔作れる母は火鉢(ひばち)の縁(ふち)に丁(とん)と煙管(きせる)を撃(はた)けば、他行持(よそゆきもち)の暫(しばら)く乾(から)されて弛(ゆる)みし雁首(がんくび)はほつくり脱けて灰の中に舞込みぬ。 
第四章
頭部に受けし貫一が挫傷(ざしよう)は、危(あやふ)くも脳膜炎を続発せしむべかりしを、肢体(したい)に数個所(すかしよ)の傷部とともに、その免るべからざる若干(そくばく)の疾患を得たりしのみにて、今や日増に康復(こうふく)の歩を趁(お)ひて、可艱(なやま)しげにも自ら起居(たちゐ)を扶(たす)け得る身となりければ、一日一夜を為(な)す事も無く、ベッドの上に静養を勉(つと)めざるべからざる病院の無聊(ぶりよう)をば、殆(ほとん)ど生きながら葬られたらんやうに倦(う)み困(こう)じつつ、彼は更にこの病と相関する如く、関せざる如く併発したる別様の苦悩の為に侵さるるなりき。
主治医も、助手も、看護婦も、附添婆(つきそひばば)も、受附も、小使も、乃至(ないし)患者の幾人も、皆目を側(そば)めて彼と最も密なる関係あるべきを疑はざるまでに、満枝の頻繁(しげしげ)病(やまひ)を訪ひ来るなり。三月にわたる久きをかの美き姿の絶えず出入(しゆつにゆう)するなれば、噂(うはさ)は自(おのづ)から院内に播(ひろま)りて、博士の某(ぼう)さへ終(つひ)に唆(そそのか)されて、垣間見(かいまみ)の歩をここに枉(ま)げられしとぞ伝へ侍(はべ)る。始の程は何者の美形(びけい)とも得知れざりしを、医員の中に例の困(くるし)められしがありて、名著(なうて)の美人(びじ)クリイムと洩(もら)せしより、いとど人の耳を驚かし、目を悦(よろこば)す種とはなりて、貫一が浮名もこれに伴ひて唱はれけり。
さりとは彼の暁(さと)るべき由無けれど、何の廉(かど)もあらむに足近く訪はるるを心憂く思ふ余に、一度ならず満枝に向ひて言ひし事もありけれど、見舞といふを陽(おもて)にして訪ひ来るなれば、理として好意を拒絶すべきにあらず。さは謂(い)へ、こは情(なさけ)の掛わな(かけわな)と知れば、又甘んじて受くべきにもあらず、しかのみならで、彼は素より満枝の為人(ひととなり)を悪(にく)みて、その貌(かたち)の美きを見ず、その思切(おもひせつ)なるを汲まんともせざるに、猶(なほ)かつ主(ぬし)ある身の謬(あやま)りて仇名(あだな)もや立たばなど気遣(きづか)はるるに就けて、貫一は彼の入来(いりく)るに会へば、冷き汗の湧出(わきい)づるとともに、創所(きずしよ)の遽(にはか)に疼(うづ)き立ちて、唯異(ただあやし)くも己(おのれ)なる者の全く痺(しび)らさるるに似たるを、吾ながら心弱しと尤(とが)むれども効(かひ)無かりけり。実(げ)に彼は日頃この煩(わづらひ)を逃れん為に、努めてこの敵を避けてぞ過せし。今彼の身は第二医院の一室に密封せられて、しかも隠るる所無きベッドの上に横(よこた)はれれば、宛然(さながら)爼板(まないた)に上れる魚(うを)の如く、空(むなし)く他の為すに委(まか)するのみなる仕合(しあはせ)を、掻むしらんとばかりに悶(もだ)ゆるなり。
かかる苦(くるし)き枕頭(まくらもと)に彼は又驚くべき事実を見出(みいだ)しつつ、飜(ひるが)へつて己を顧れば、測らざる累の既に逮(およ)べる迷惑は、その藁蒲団(わらぶとん)の内に針(はり)の包れたる心地して、今なほ彼の病むと謂はば、恐くは外に三分(さんぶ)を患(わづら)ひて、内に却(かへ)つて七分(しちぶ)を憂ふるにあらざらんや。貫一もそれをこそ懸念(けねん)せしが、果して鰐淵(わにぶち)は彼と満枝との間を疑ひ初めき。彼は又鰐淵の疑へるに由りて、その人と満枝との間をも略(ほぼ)推(すい)し得たるなり。
例の煩(わづらし)き人は今日も訪(と)ひ来(き)つ、しかも仇(あだ)ならず意(こころ)を籠(こ)めたりと覚(おぼし)き見舞物など持ちて。はや一時間余を過せども、彼は枕頭に起ちつ、居つして、なかなか帰り行くべくも見えず。貫一は寄付(よせつ)けじとやうに彼方(あなた)を向きて、覚めながら目を塞(ふさ)ぎていと静に臥(ふ)したり。附添婆(つきそひばば)の折から出行(いでゆ)きしを候(うかが)ひて、満枝は椅子を躙(にじ)り寄せつつ、
「間(はざま)さん、間さん。貴方(あなた)、貴方」
と枕の端(はし)を指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起ちてベッドの彼方(あなた)へ廻り行きて、彼の寐顔(ねがほ)を差覗(さしのぞ)きつ。
「間さん」
猶答へざりけるを、軽く肩の辺(あたり)を撼(うごか)せば、貫一はさるをも知らざる為(まね)はしかねて、始めて目を開きぬ。彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の可懐(なつか)しげに差寄りたる態(かたち)を改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けたるまま、
「私(わたくし)貴方に些(ちよつ)とお話をして置かなければならない事があるのでございますから、お聞き下さいまし」
「あ、まだ在(ゐら)しつたのですか」
「いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう」
「…………」
「外でもございませんが……」
彼の隔(へだて)無く身近に狎(な)るるを可忌(うとま)しと思へば、貫一はわざと寐返(ねがへ)りて、椅子を置きたる方(かた)に向直り、
「どうぞ此方(こちら)へ」
この心を暁(さと)れる満枝は、飽くまで憎き事為るよと、持てるハンカチイフにベッドを打ちて、かくまでに遇(あつか)はれながら、なほこの人を慕はでは已(や)まぬ我身かと、効(かひ)無くも余に軽く弄(もてあそ)ばるるを可愧(はづかし)うて佇(たたず)みたり。されども貫一は直(すぐ)に席を移さざる満枝の為に、再び言(ことば)を費さんとも為(せ)ざりけり。
気嵩(きがさ)なる彼は胸に余して、聞えよがしに、
「ああ、貴方には軽蔑(けいべつ)されてゐる事を知りながら、何為(なぜ)私(わたくし)腹を立てることが出来ないのでせう。実に貴方は!」
満枝は彼の枕を捉(とら)へて顫(ふる)ひしが、貫一の寂然(せきぜん)として眼(まなこ)を閉ぢたるに益(ますます)苛(いらだ)ちて、
「余(あんま)り酷(ひど)うございますよ。間さん、何とか有仰(おつしや)つて下さいましな」
彼は堪へざらんやうに苦(にが)りたる口元を引歪(ひきゆが)めて、
「別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは難有(ありがた)迷惑で……」
「何と有仰(おつしや)います!」
「以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します」
「貴方、何と……!!」
満枝は眉(まゆ)を昂(あ)げて詰寄せたり。貫一は仰ぎて眼(まなこ)を塞(ふた)ぎぬ。
素(もと)より彼の無愛相なるを満枝は知れり。彼の無愛相の己(おのれ)に対しては更に甚(はなはだし)きを加ふるをも善く知れり。満枝が手管(てくだ)は、今その外(おもて)に顕(あらは)せるやうに決(け)して内に怺(こら)へかねたるにはあらず、かくしてその人と諍(いさか)ふも、またかなはざる恋の内に聊(いささ)か楽む道なるを思へるなり。涙微紅(ほのあか)めたるまぶたに耀(かがや)きて、いつか宿せる暁(あかつき)の葩(はなびら)に露の津々(しとど)なる。
「お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。私(わたくし)も貴方に度々(たびたび)来て戴くのは甚(はなは)だ迷惑なのですから」
「御迷惑は始から存じてをります」
「いいや、未だ外にこの頃のがあるのです」
「ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか」
「まあ、さうです」
「それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふと何でも鬱陶(うつと)しがつて、如何(いか)に何でもそんなに作(なさ)るものぢやございませんよ。その事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどんなに窮(こま)つてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭(いや)なことを有仰(おつしや)つたのです。私些(ちつと)もかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あそばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます」
聴ゐざるにはあらねど、貫一は絶えて応答(うけこたへ)だに為(せ)ざるなり。
「実は疾(とう)からお話を申さうとは存じたのでございますけれど、そんな可厭(いや)な事を自分の口から吹聴らしく、却(かへ)つて何も御存じない方が可からうと存じて、何も申上げずにをつたのでございますが、鰐淵様(さん)のかれこれ有仰(おつしや)るのは今に始つた事ではないので、もう私実に窮(こま)つてをるのでございます。始終好い加減なことを申しては遁(に)げてをるのですけれど、鰐淵さんは私が貴方をこんなに……と云ふ事は御存じなかつたのですから、それで済んでをりましたけれど、貴方が御入院あそばしてから、私かうして始終お訪ね申しますし、鰐淵さんも頻繁(しげしげ)いらつしやるので、度々(たびたび)お目に懸るところから、何とかお想ひなすつたのでございませう。それで、この間は到頭それを有仰(おつしや)つて、訳が有るなら有るで、隠さずに話をしろと有仰るのぢやございませんか。私為方がありませんから、お約束をしたと申して了(しま)ひました」
「え!」と貫一は繃帯(ほうたい)したる頭を擡(もた)げて、彼の有為顔(したりがほ)を赦(ゆる)し難く打目戍(うちまも)れり。満枝はさすが過(あやまち)を悔いたる風情(ふぜい)にて、やをら左の袂(たもと)を膝(ひざ)に掻載(かきの)せ、牡丹(ぼたん)の莟(つぼみ)の如く揃(そろ)へる紅絹裏(もみうら)の振(ふり)を弄(まさぐ)りつつ、彼の咎(とがめ)を懼(おそ)るる目遣(めづかひ)してゐたり。
「実に怪(け)しからん! ばかなことを有仰(おつしや)つたものです」
萎(しを)るる満枝を尻目に掛けて、
「もう可いから、早くお還り下さい」
彼を喝(かつ)せし怒(いかり)に任せて、半(なかば)起したりし体(たい)を投倒せば、腰部(ようぶ)の創所(きずしよ)を強く抵(あ)てて、得堪(えた)へず呻(うめ)き苦むを、不意なりければ満枝は殊(こと)に惑(まど)ひて、
「どう遊ばして? 何処(どこ)ぞお痛みですか」
手早く夜着(よぎ)を揚げんとすれば、払退(はらひの)けて、
「もうお還り下さい」
言放ちて貫一は例の背(そびら)を差向けて、遽(にはか)に打鎮(うちしづま)りゐたり。
「私(わたくし)還りません! 貴方がさう酷く有仰(おつしや)れば、以上還りません。いつまでも居られる躯(からだ)ではないのでございますから、順(おとなし)く還るやうにして還して下さいまし」
いとはしたなくて立てる満枝は闥(ドア)の啓(あ)くに驚かされぬ。入来(いりきた)れるは、附添婆(つきそひばば)か、あらず。看護婦か、あらず。国手(ドクトル)の回診か、あらず。小使か、あらず。あらず!
胡麻塩羅紗(ごましほらしや)の地厚なる二重外套(にじゆうまわし)を絡(まと)へる魁肥(かいひ)の老紳士は悠然(ゆうぜん)として入来(いりきた)りしが、内の光景(ありさま)を見ると斉(ひとし)く胸悪き色はつとその面(おもて)に出(い)でぬ。満枝は心に少(すこ)く慌(あわ)てたれど、さしも顕(あらは)さで、雍(しとや)かに小腰を屈(かが)めて、
「おや、お出(いで)あそばしまし」
「ほほ、これは、毎度お見舞下さつて」
同く慇懃(いんぎん)に会釈はすれど、疑も無く反対の意を示せる金壺眼(かなつぼまなこ)は光を逞(たくまし)う女の横顔を瞥見(べつけん)せり。静に臥(ふ)したる貫一は発作(パロキシマ)の来(きた)れる如き苦悩を感じつつ、身を起して直行(ただゆき)を迎ふれば、
「どうぢやな。好(え)え方がお見舞に来てをつて下さるで、可(え)えの」
打付(うちつけ)に過ぎし言(ことば)を二人ともに快からず思へば、頓(とみ)に答(いらへ)は無くて、その場の白(しら)けたるを、さこそと謂(い)はんやうに直行の独(ひと)り笑ふなりき。如何(いか)に答ふべきか。如何に言釈(いひと)くべきか、如何に処すべきかを思煩(おもひわづら)へる貫一は艱(むづか)しげなる顔を稍(やや)内向けたるに、今はなかなか悪怯(わるび)れもせで満枝は椅子の前なる手炉(てあぶり)に寄りぬ。
「然しお宅の御都合もあるぢやらうし、又お忙(せはし)いところを度々お見舞下されては痛入(いたみい)ります。それにこれの病気も最早快(よ)うなるばかりじやで御心配には及ばんで、以来お出(い)で下さるのは何分お断り申しまする」
言黒(いひくろ)めたる邪魔立を満枝は面憎(つらにく)がりて、
「いいえ、もうどう致しまして、この御近辺まで毎々次手(ついで)がありますのでございますから、その御心配には及びません」
直行の眼(まなこ)は再び輝けり。貫一は憖(なまじひ)に彼を窘(くるし)めじと、傍(かたはら)より言(ことば)を添へぬ。
「毎度お訪ね下さるので、却(かへ)つて私(わたくし)は迷惑致すのですから、どうか貴方から可然(しかるべく)御断り下さるやうに」
「当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さらんやうに、のう」
「お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、私(わたくし)差控へませう」
満枝は色を作(な)して直行を打見遣(うちみや)りつつ、その面(おもて)を引廻(ひきめぐら)して、やがて非(あら)ぬ方(かた)を目戍(まも)りたり。
「いや、いや、な、決(け)して、そんな訳ぢや……」
「余(あんま)りな御挨拶で! 女だと思召(おぼしめ)して有仰(おつしや)るのかは存じませんが、それまでのお指図(さしづ)は受けませんで宜(よろし)うございます」
「いや、そんなに悪う取られては甚(はなは)だ困る、畢竟(ひつきよう)貴方(あんた)の為を思ひますじやに因(よ)つて……」
「何と有仰います。お見舞に出ますのが、何で私(わたくし)の不為(ふため)になるのでございませう」
「それにお心着(こころづき)が無い?」
その能く用ゐる微笑を弄(ろう)して、直行は巧(たくみ)に温顔を作れるなり。
満枝は稍(やや)急立(せきた)ちぬ。
「ございません」
「それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方もお若けりや間も若い。若い男の所へ若い女子(をなご)が度々出入(でいり)したら、そんな事は無うても、人がかれこれ言ひ易(やす)い、可(え)えですか、そしたら、間はとにかくじや、赤樫様(あかがしさん)と云ふ者のある貴方の躯(からだ)に疵(きず)が付く。そりや、不為ぢやありますまいか、ああ」
陰には己(おのれ)自ら更に甚(はなはだし)き不為を強(し)ひながら、人の口といふもののかくまでに重宝なるが可笑(をか)し、と満枝は思ひつつも、
「それは御深切に難有(ありがた)う存じます。私はとにかく、間さんはこれからお美(うつくし)い御妻君をお持ち遊ばす大事のお躯(からだ)でゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私自今(これから)慎(つつし)みますでございます」
「これは太(えら)い失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴方のやうな方と嘘(うそ)にもかれこれ言(いは)るるんぢやから、どんなにも嬉(うれし)いぢやらう、私(わし)のやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりや為(す)まいにな」
貫一は苦々しさに聞かざる為(まね)してゐたり。
「そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも」
「さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい」
「それこそ、御妻君が在(ゐら)つしやるのですから、余り頻繁(しげしげ)上りますと……」
後は得言はで打笑める目元の媚(こび)、ハンカチイフを口蔽(くちおほひ)にしたる羞含(はぢがま)しさなど、直行はふと目を奪はれて、飽かず覚ゆるなりき。
「はッ、はッ、はッ、すぢや細君が無いで、ここへは安心してお出(いで)かな。私(わし)は赤樫さんの処へ行つて言ひますぞ」
「はい、有仰(おつしや)つて下さいまし。私(わたくし)此方(こなた)へ度々お見舞に出ますことは、宅でも存じてをるのでございますから、唯今も貴方(あなた)から御注意を受けたのでございますが、私も用を抱へてをる体でかうして上りますのは、お見舞に出なければ済まないと考へまする訳がございますからで、その実、上りますれば、間さんは却(かへ)つて私の伺ふのを懊悩(うるさ)く思召(おぼしめ)してゐらつしやるのですから、それは私のやうな者が余り参つてはお目障(めざはり)か知れませんけれど、外の事ではなし、お見舞に上るのでございますから、そんなに作(なさ)らなくても宜(よろし)いではございませんか。
然し、それでも私気に懸つて、かうして上るのは、でございます、宅(たく)へお出(いで)になつた御帰途(おかへりみち)にこの御怪我(おけが)なんでございませう。それに、未(ま)だ私済みません事は、あの時大通の方をお帰りあそばすと有仰つたのを、津守坂(つのかみざか)へお出(いで)なさる方がお近いとさう申してお勧め申すと、その途(みち)でこの御災難でございませう。で私考へるほど申訳が無くて、宅でも大相気に致して、勉めてお見舞に出なければ済まないと申すので、その心持で毎度上るのでございますから、唯今のやうな御忠告を伺ひますと、私実に心外なのでございます。そんなにして上れば、間さんは間さんでお喜(よろこび)が無いのでございませう」
彼はいと辛(つら)しとやうに、恨(うらめ)しとやうに、さては悲しとやうにも直行を視(み)るなりけり。直行は又その辛し、恨し、悲しとやうの情に堪へざらんとする満枝が顔をば、窃(ひそか)に金壺眼(かなつぼまなこ)の一角を溶(とろか)しつつ眺入(ながめい)るにぞありける。
「さやうかな。如何(いか)さま、それで善う解りましたじや。太(えら)い御深切な事で、間もさぞ満足ぢやらうと思ひまする。又私(わし)からも、そりや厚うお礼を申しまするじや、で、な、お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなに念(おも)うて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうか卻(しりぞく)るやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふからで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨てて措(お)けんで。年寄と云ふ者は、これでとかく嫌(きら)はるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、ああ」
赤髭(あかひげ)を拈(ひね)り拈りて、直行は女の気色(けしき)を偸視(ぬすみみ)つ。
「さやうでございます。お年寄は勿論(もちろん)結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」
「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」
「それでございますから、もうもう口喧(くちやかまし)くてなりませんのです」
「ぢや、口喧うも、気難(きむづかし)うもなうたら、どうありますか」
「それでも私好きませんでございますね」
「それでも好かん? 太(えら)う嫌うたもんですな」
「尤(もつと)も年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方(こつち)から好きましても、他(さき)で嫌はれましては、何の効(かひ)もございませんわ」
「さやう、な。けど、貴方(あんた)のやうな方が此方(こつち)から好いたと言うたら、どんな者でも可厭(いや)言ふ者は、そりや無い」
「あんな事を有仰(おつしや)つて! 如何(いかが)でございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます」
「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」
椅子も傾くばかりに身を反(そら)して、彼はわざとらしく揺上(ゆりあ)げ揺上げて笑ひたりしが、
「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」
「如何(いかが)ですか、さう云ふ事は」
誰(たれ)か烏(からす)の雌雄(しゆう)を知らんとやうに、貫一は冷然として嘯(うそぶ)けり。
「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」
「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう筈(はず)はございませんわ。ほほほほほほほほ」
そのわざとらしさは彼にも遜(ゆづ)らじとばかり、満枝は笑ひ囃(はや)せり。
直行が眼(まなこ)は誰を見るとしも無くて独(ひと)り耀(かがや)けり。
「それでは私もうお暇(いとま)を致します」
「ほう、もう、お帰去(かへり)かな。私(わし)もはや行かん成らんで、其所(そこ)まで御一処に」
「いえ、私些(ちよつ)と、あの、西黒門町(にしくろもんちよう)へ寄りますでございますから、甚(はなは)だ失礼でございますが……」
「まあ、宜(よろし)い。其処(そこ)まで」
「いえ、本当に今日(こんにち)は……」
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座(あさひざ)の株式一件な、あれがつい纏(まとま)りさうぢやで、この際お打合(うちあはせ)をして置かんと、『琴吹(ことぶき)』の収債(とりたて)が面白うない。お目に掛つたのが幸(さいはひ)ぢやから、些(ちよつ)とそのお話を」
「では、明日(みようにち)にでも又、今日は些(ち)と急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」
姑(しばら)く推(おし)問答の末彼は終(つひ)に満枝を拉(らつ)し去れり。迹(あと)に貫一は悪夢の覚めたる如く連(しきり)に太息(ためいき)ついたりしが、やがて為(せ)ん方無げに枕(まくら)に就きてよりは、見るべき物もあらぬ方(かた)に、止(た)だ果無(はてしな)く目を奪れゐたり。 
第五章
檜葉(ひば)、樅(もみ)などの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯麗(うららか)なる日影のみぞ饒(ゆたか)に置余(おきあま)して、そこらの梅の点々(ぼちぼち)と咲初めたるも、自(おのづか)ら怠り勝に風情(ふぜい)作らずと見ゆれど、春の色香(いろか)に出(い)でたるは憐(あはれ)むべく、打霞(うちかす)める空に来馴(きな)るる鵯(ひよ)のいとどしく鳴頻(なきしき)りて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々(せきせき)たるに、たまたま響くは患者の廊下を緩(ゆる)う行くなり。
枕の上の徒然(つれづれ)は、この時人を圧して殆(ほとん)ど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一は辛(から)うじて夢を結びゐたり。彼は実(げ)に夢ならでは有得べからざる怪(あやし)き夢に弄(もてあそ)ばれて、躬(みづから)も夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ睡(ねむり)の中に囚(とらは)れしを、端無(はしな)く人の呼ぶに駭(おどろか)されて、漸(やうや)く慵(ものう)き枕を欹(そばだ)てつ。
愕然(がくぜん)として彼は瞳(ひとみ)を凝(こら)せり。ベッドの傍(かたはら)に立てるは、その怪き夢の中に顕(あらは)れて、終始相離(あひはな)れざりし主人公その人ならずや。打返し打返し視(み)れども訪来(とひきた)れる満枝に紛(まぎれ)あらざりき。とは謂(い)へ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。さるはその真ならんよりなほ夢の中(うち)なるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさも常に増して、夢に見るべき姿などのやうに四辺(あたり)も可輝(かがやかし)く、五六歳(いつつむつ)ばかりも若(わかや)ぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路(むそぢ)に余れる夫有(つまも)てる身と誰(たれ)かは想ふべき。
髪を台湾銀杏(たいわんいちよう)といふに結びて、飾(かざり)とてはわざと本甲蒔絵(ほんこうまきゑ)の櫛(くし)のみを挿(さ)したり。黒縮緬(くろちりめん)の羽織に夢想裏(むそううら)に光琳風(こうりんふう)の春の野を色入(いろいり)に染めて、納戸縞(なんどじま)の御召の下に濃小豆(こいあづき)の更紗縮緬(さらさちりめん)、紫根七糸(しこんしちん)に楽器尽(がつきつくし)の昼夜帯して、半襟(はんえり)は色糸の縫(ぬひ)ある肉色なるが、頸(えり)の白きを匂(にほ)はすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは燦爛(きらきら)と煩(うるさ)し。今日は殊(こと)に推(お)して来にけるを、得堪(えた)へず心の尤(とが)むらん風情(ふぜい)にて佇(たたず)める姿(すがた)限無(かぎりな)く嬌(なまめ)きて見ゆ。
「お寝(やすみ)のところを飛んだ失礼を致しました。私(わたくし)上(あが)る筈(はず)ではないのでございますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、些(ちよつ)と伺ひましたのでございますから、今日(こんにち)のところはどうか御堪忍(ごかんにん)あそばして」
彼の許(ゆるし)を得んまでは席に着くをだに憚(はばか)る如く、満枝は漂(ただよは)しげになほ立てるなり。
「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」
内に燃ゆる憤(いかり)を抑(おさ)ふるとともに貫一の言(ことば)は絶えぬ。
「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたら宜(よろし)いのでございませう……間さん、かうなのでございますよ」
「いや、その事なら伺ふ必要は無いのです」
「あら、そんなことを有仰(おつしや)らずに……」
「失礼します。今日(こんにち)は腰の傷部(きず)が又痛みますので」
「おや、それは、お劇(きつ)いことはお在(あん)なさらないのでございますか」
「いえ、なに」
「どうぞお楽に在(ゐら)しつて」
貫一は無雑作に郡内縞(ぐんないじま)の掻巻(かいまき)引被(ひきか)けて臥(ふ)しけるを、疎略あらせじと満枝は勤篤(まめやか)に冊(かしづ)きて、やがて己(おのれ)も始めて椅子に倚(よ)れり。
「貴方(あなた)の前でこんな事は私申上げ難(にく)いのでございますけれど、実は、あの一昨々日でございますね、ああ云ふ訳で鰐淵さんと御一処に参りましたところが、御飯を食べるから何でも附合へと有仰(おつしや)るので、湯島(ゆしま)の天神の茶屋へ寄りましたのでございます。さう致すと、案の定可厭(いやらし)い事をもうもう執濃(しつこ)く有仰るのでございます。さうして飽くまで貴方の事を疑(うたぐ)つて、始終それを有仰るので、私一番それには困りました。あの方もお年効(としがひ)の無い、物の道理がお解りにならないにも程の有つたもので、一体私を何と思召(おぼしめ)してゐらつしやるのか存じませんが、客商売でもしてをる者に戯(たはむ)れるやうな事を、それも一度や二度ではないのでございますから、私残念で、一昨々日なども泣いたのでございます。で、この後二度とそんな事の有仰れないやうに、私その場で十分に申したことは申しましたけれど、変に気を廻してゐらつしやる方の事でございますから、取(と)んだ八当(やつあたり)で貴方へ御迷惑が懸りますやうでは、何とも私申訳がございませんから、どうぞそれだけお含み置き下さいまして、悪(あし)からず……。
今度お会ひあそばしたら、鰐淵さんが何とか有仰るかも知れません。さぞ御迷惑でゐらつしやいませうけれど、そこは宜(よろし)いやうに有仰つて置いて下さいまし。それも貴方が何とか些(ちよつと)でも思召してゐらつしやる方とならば、そんな事を有仰られるのもまた何でございませうけれど、嫌抜(きらひぬ)いてお在(いで)あそばす私(わたくし)のやうな者と訳でもあるやうに有仰(おつしや)られるのは、さぞお辛くてゐらつしやいませうけれど、私のやうな者に見込れたのが因果とお諦(あきら)め遊ばしまし。
貴方も因果なれば、私も……私は猶(なほ)因果なのでございますよ。かう云ふのが実に因果と謂(い)ふのでございませうね」
金煙管(きんぎせる)の莨(たばこ)の独(ひと)り杳眇(ほのぼの)と燻(くゆ)るを手にせるまま、満枝は儚(はかな)さの遣方無(やるかたな)げに萎(しを)れゐたり。さるをも見向かず、答(いら)へず、頑(がん)として石の如く横(よこた)はれる貫一。
「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから、切(せめ)てさうと諦めてでもゐて下されば、それだけでも私幾分か思が透(とほ)つたやうな気が致すのでございます。
間さん。貴方は過日(いつぞや)私がこんなに思つてゐることを何日(いつ)までもお忘れないやうにと申上げたら、お志は決して忘れんと有仰いましたね。お覚えあそばしてゐらつしやいませう。ねえ、貴方、よもやお忘れは無いでせう。如何(いかが)なのでございますよ」
勢ひて問詰むれば、極(きは)めて事も無げに、
「忘れません」
満枝は彼の面(おもて)を絶(したたか)に怨視(うらみみ)て瞬(またたき)も為(せ)ず、その時人声して闥(ドア)は徐(しづか)に啓(あ)きぬ。
案内せる附添の婆(ばば)は戸口の外に立ちて請じ入れんとすれば、客はその老に似気なく、今更内の様子を心惑(こころまどひ)せらるる体(てい)にて、彼にさへ可慎(つつまし)う小声に言付けつつ名刺を渡せり。
満枝は如何なる人かと瞥(ちら)と見るに、白髪交(しらがまじ)りの髯(ひげ)は長く胸の辺(あたり)に垂れて、篤実の面貌痩(おもざしや)せたれども賤(いやし)からず、長(たけ)は高しとにあらねど、素(もと)よりゆたかにもあらざりし肉の自(おのづか)ら齢(よはひ)の衰(おとろへ)に削れたれば、冬枯の峰に抽(ぬ)けるやうに聳(そび)えても見ゆ。衣服などさる可く、程を守りたるが奥幽(おくゆかし)くて、誰とも知らねどさすがに疎(おろそか)ならず覚えて、彼は早くもこの賓(まらうど)の席を設けて待てるなりき。
貫一は婆の示せる名刺を取りて、何心無く打見れば、鴫沢隆三(しぎさわりゆうぞう)と誌(しる)したり。色を失へる貫一はその堪へかぬる驚愕(おどろき)に駆れて、忽(たちま)ち身を飜(ひるがへ)して其方(そなた)を見向かんとせしが、幾(ほとん)ど同時に又枕して、終(つひ)に動かず。狂ひ出でんずる息を厳(きびし)く閉ぢて、燃(もゆ)るばかりに瞋(いか)れる眼(まなこ)は放たず名刺を見入りたりしが、さしも内なる千万無量の思を裹(つつ)める一点の涙は不覚に滾(まろ)び出(い)でぬ。こは怪しと思ひつつも婆は、
「此方(こちら)へお通し申しませうで……」
「知らん!」
「はい?」
「こんな人は知らん」
人目あらずば引裂き棄つべき名刺よ、涜(けがらは)しと投返せば床の上に落ちぬ。彼は強(し)ひて目を塞(ふさ)ぎ、身の顫(ふる)ふをば吾と吾手に抱窘(だきすく)めて、恨は忘れずとも憤(いかり)は忍ぶべしと、撻(むちう)たんやうにも己を制すれば、髪は逆竪(さかだ)ち蠢(うごめ)きて、頭脳の裏(うち)に沸騰(わきのぼ)る血はその欲するままに注ぐところを求めて、心も狂へと乱螫(みだれさ)すなり。彼はこれと争ひて猶(なほ)も抑へぬ。面色は漸(やうや)く変じて灰の如し。婆は懼(おそ)れたる目色(めざし)を客の方へ忍ばせて、
「御存じないお方なので?」
「一向知らん。人違だらうから、断(ことわ)つて返すが可い」
「さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を有仰(おつしや)つてお尋ね……」
「ああ、何でも可いから早く断つて」
「さやうでございますか、それではお断り申しませうかね」 
(五)の二
婆は鴫沢(しぎさわ)の前にその趣を述べて、投棄てられし名刺を返さんとすれば、手を後様(うしろさま)に束(つか)ねたるままに受取らで、強(し)ひて面(おもて)を和(やはら)ぐるも苦しげに見えぬ。
「ああ、さやうかね、御承知の無い訳は無いのだ。ははは、大分(だいぶ)久い前の事だから、お忘れになつたのか知れん、それでは宜(よろし)い。私(わし)が直(ぢか)にお目に掛らう。この部屋は間貫一さんだね、ああ、それでは間違無い」
屹(き)と思案せる鴫沢の椅子ある方(かた)に進み寄れば、満枝は座を起ち、会釈して、席を薦(すす)めぬ。
「貫一さん、私(わし)だよ。久う会はんので忘れられたかのう」
室の隅(すみ)に婆が茶の支度せんとするを、満枝は自ら行きて手を下し、或(あるひ)は指図もし、又自ら持来(もちきた)りて薦むるなど尋常の見舞客にはあらじと、鴫沢は始めてこの女に注目せるなり。貫一は知らざる如く、彼方(あなた)を向きて答へず。仔細(しさい)こそあれとは覚ゆれど、例のこの人の無愛想よ、と満枝は傍(よそ)に見つつも憫(あはれ)に可笑(をかし)かりき。
「貫一さんや、私(わし)だ。疾(とう)にも訪ねたいのであつたが、何にしろ居所が全然(さつぱり)知れんので。一昨日(おとつひ)ふと聞出したから不取敢(とりあへず)かうして出向いたのだが、病気はどうかのう。何か、大怪我(おほけが)ださうではないか」
猶(なほ)も答のあらざるを腹立(はらだたし)くは思へど、満枝の居るを幸(さいはひ)に、
「睡(ね)てをりますですかな」
「はい、如何(いかが)でございますか」
彼はこの長者の窘(くるし)めるを傍(よそ)に見かねて、貫一が枕に近く差寄りて窺(うかが)へば、涙の顔を褥(しとね)に擦付(すりつ)けて、急上(せきあ)げ急上げ肩息(かたいき)してゐたり。何事とも覚えず驚(おどろか)されしを、色にも見せず、怪まるるをも言(ことば)に出(いだ)さず、些(ちと)の心着さへあらぬやうに擬(もてな)して、
「お客様がいらつしやいましたよ」
「今も言ひました通り、一向識(し)らん方なのですから、お還し申して下さい」
彼は面(おもて)を伏せて又言はず、満枝は早くもその意を推(すい)して、また多くは問はず席に復(かへ)りて、
「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと有仰(おつしや)るのでございます」
長き髯(ひげ)を推揉(おしも)みつつ鴫沢は為方無(せんかたな)さに苦笑(にがわらひ)して、
「人違とは如何(いか)なことでも! 五年や七年会はんでも私(わし)は未(ま)だそれほど老耄(ろうもう)はせんのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向いて来たのでのう、そこに免じて、些(ちよつ)とでも会うて貰ひませう」
挨拶(あいさつ)如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。
「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是非が無い。
然し、貫一さん、能(よ)う考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らんが、お前さんの爾来(これまで)の為方(しかた)、又今日のこの始末は、ちと妥当(おだやか)ならんではあるまいか。とにかく鴫沢の翁(をぢ)に対してかう為たものではなからうと思ふがどうであらうの。成程お前さんの方にも言分はあらう、それも聞きに来た。私の方にも少(すこし)く言分の無いではない。それも聞かせたい。然し、かうしてわざわざ尋ねて来たものであるから、此方(こちら)では既に折れて出てゐるのだ。さうしてお前さんに会うて話と謂ふは、決(けつ)して身勝手な事を言ひに来たぢやない、やはり其方(そちら)の身の上に就いて善かれと計ひたい老婆心切(ろうばしんせつ)。私の方ではその当時に在つてもお前さんを棄てた覚は無し、又今日(こんにち)も五年前も同じ考量(かんがへ)で居るのだ。それを、まあ、若い人の血気と謂ふのであらう。唯一図に思ひ込んで誤解されたのか、私は如何にも残念でならん。今日(こんにち)までも誤解されてゐるのは愈(いよい)よ心外だで、お前さんの住所の知れ次第早速出掛けて来たのだ。凡(およ)そ此方(こちら)の了簡(りようけん)を誤解されてゐるほど心苦い事は無い。人の為に謀(はか)つて、さうして僅(わづか)の行違(ゆきちがひ)から恨まれる、恩に被(き)せうとて謀つたではないが、恨まれやうとは誰(たれ)にしても思はん。で、ああして睦(むつまし)う一家族で居つて、私たちも死水を取つて貰ふ意(つもり)であつたものを、僅の行違から音信不通(いんしんふつう)の間(なか)になつて了ふと謂ふは、何ともはや浅ましい次第で、私(わし)も誠に寐覚(ねざめ)が悪からうと謂ふもの、実に姨(をば)とも言暮してゐるのだ。私の方では何処(どこ)までも旧通(もとどほ)りになつて貰うて、早く隠居でもしたいのだ。それも然しお前さんの了簡が釈(と)けんでは話が出来ん。その話は二の次としても、差当り誤解されてゐる一条だ。会うて篤と話をしたら直(ぢき)に訳は分らうと思ふで、是非一通りは聞いて貰ひたい。その上でも心が釈けん事なら、どうもそれまで。私はお前さんの親御の墓へ詣(まゐ)つて、のう、抑(そもそ)もお前さんを引取つてから今日(こんにち)までの来歴を在様陳(ありようの)べて、鴫沢はこれこれの事を為、かうかう思ひまする、けれども成行でかう云ふ始末になりましたのは、残念ながら致方が無い、と丁(ちやん)とお分疏(ことわり)を言うて、そして私は私の一分(いちぶん)を立ててから立派に縁を切りたいのだ。のう。はや五年も便(たより)を為(せ)んのだから、お前さんは縁を切つた気であらうが、私の方では未だ縁は切らんのだ。
私は考へる、たとへばこの鴫沢の翁(をぢ)の為た事が不都合であらうか知れん、けれども間貫一たる者は唯一度の不都合ぐらゐは如何(いか)にも我慢をしてくれんければ成るまいかと思ふのだ。又その我慢が成らんならば、も少し妥当(おだやか)に事を為てもらひたかつた。私の方に言分のあると謂ふのは其処(そこ)だ。言はせればその通り私にも言分はある。然し、そんな事を言ひに来たではない、私の方にも如何様(いかさま)手落があつたで、その詫(わび)も言はうし、又昔も今も此方(こちら)には心持に異変(かはり)は無いのだから、それが第一に知らせたい。翁が久しぶりで来たのだ、のう、貫一さん、今日(こんにち)は何も言はずに清う会うてくれ」
曾(かつ)て聞かざりし恋人が身の上の秘密よ、と満枝は奇(あやし)き興を覚えて耳を傾けぬ。
我強(がづよ)くも貫一のなほ言(ものい)はんとはせざるに、漸(やうや)く怺(こら)へかねたる鴫沢の翁はやにはに椅子を起ちて、強(し)ひてもその顔見んと歩み寄れり。事の由は知るべきやう無けれど、この客の言(ことば)を尽せるにも理(ことわり)聞えて、無下(むげ)に打(うち)も棄てられず、されども貫一が唯涙を流して一語を出(いだ)さず、いと善く識るらん人をば覚無しと言へる、これにもなかなか所謂(いはれ)はあらんと推測(おしはから)るれば、一も二も無く満枝は恋人に与(くみ)してこの場の急を拯(すく)はんと思へるなり。
枕頭(まくらもと)を窺(うかが)ひつつ危む如く眉を攅(あつ)めて、鴫沢の未(いま)だ言出でざる時、
「私(わたくし)看病に参つてをります者でございますが、何方様(どなたさま)でゐらつしやいますか存じませんが、この一両日(いちりようにち)病人は熱の気味で始終昏々(うとうと)いたして、時々譫語(うはごと)のやうな事を申して、泣いたり、慍(おこ)つたり致すのでございますが、……」
頭を捻向(ねぢむ)けて満枝に対せる鴫沢の顔の色は、この時故(ことさら)に解きたりと見えぬ。
「はあ、は、さやうですかな」
「先程から伺ひますれば、年来御懇意でゐらつしやるのを人違だとか申して、大相失礼を致してをるやうでございますが、やつぱり熱の加減で前後が解りませんのでございますから、どうぞお気にお懸け遊ばしませんやうに。この熱も直(ぢき)に除(と)れまするさうでございますから、又改めてお出(いで)を願ひたう存じます。今日(こんにち)は私御名刺を戴(いただ)いて置きまして、お軽快(こころよく)なり次第私から悉(くはし)くお話を致しますでございます」
「はあ、それはそれは」
「実は、何でございました。昨日もお見舞にお出で下すつたお方に変な事を申掛けまして、何も病気の事で為方(しかた)もございませんけれど、私弱りきりましたのでございます。今日(こんにち)は又如何(いかが)致したのでございますか、昨日とは全(まる)で反対であの通り黙りきつてをりますのですが、却つて無闇(むやみ)なことを申されるよりは始末が宜(よろし)いでございます」
かくても始末は善しと謂ふかと、翁(をぢ)は打蹙(うちひそ)むべきを強(し)ひて易(か)へたるやうの笑(ゑみ)を洩(もら)せば、満枝はその言了(いひをは)せしを喜べるやうに笑ひぬ。彼は婆を呼びて湯を易へ、更に熱き茶を薦(すす)めて、再び客を席に着かしめぬ。
「さう云ふ訳では話も解りかねる。では又上る事に致しませう。手前は鴫沢隆三と申して――名刺を差上げて置きまする、これに住所も誌(しる)してあります――貴方は失礼ながらやはり鰐淵(わにぶち)さんの御親戚ででも?」
「はい、親戚ではございませんが、鰐淵さんとは父が極御懇意に致してをりますので、それに宅がこの近所でございますもので、ちよくちよくお見舞に上つてはお手伝を致してをります」
「はは、さやうで。手前は五年ほど掛違うて間とは会ひませんので、どうか去年あたり嫁を娶(もら)うたと聞きましたが、如何(いかが)いたしましたな」
彼はこの美き看病人の素性知らまほしさに、あらぬ問をも設けたるなり。
「さやうな事はついに存じませんですが」
「はて、さうとばかり思うてをりましたに」
容儀(かたち)人の娘とは見えず、妻とも見えず、しかも絢粲(きらきら)しう装飾(よそほひかざ)れる様は色を売る儔(たぐひ)にやと疑はれざるにはあらねど、言辞(ものごし)行儀の端々(はしはし)自(おのづか)らさにもあらざる、畢竟(ひつきよう)これ何者と、鴫沢は容易にその一斑(いつぱん)をも推(すい)し得ざるなりけり。されども、懇意と謂ふも、手伝と謂ふも、皆詐(いつはり)ならんとは想ひぬ。正(ただし)き筋の知辺(しるべ)にはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、深き訳ある内証者なるべし。若(も)しさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して性根(しようね)も腐れ、身持も頽(くづ)れたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁を繋(つな)ぐべきものにあらず。如此(かくのごと)き輩(やから)を出入(でいり)せしむる鴫沢の家は、終(つひ)に不慮の禍(わざはひ)を招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中遽(にはか)に懼(おそれ)を生じて、さては彼の恨深く言(ことば)を容(い)れざるを幸(さいはひ)に、今日(こんにち)は一先(ひとまづ)立還(たちかへ)りて、尚(な)ほ一層の探索と一番の熟考とを遂(と)げて後、来(きた)る可(べ)くは再び来らんも晩(おそ)からず、と失望の裏(うち)別に幾分の得るところあるを私(ひそか)に喜べり。
「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りまするで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」
「はい、私(わたくし)は」と紫根塩瀬(しこんしほぜ)の手提の中(うち)より小形の名刺を取出だして、
「甚(はなは)だ失礼でございますが」
「はい、これは。赤樫満枝(あかがしみつえ)さまと有仰(おつしや)いますか」
この女の素性に於(お)ける彼の疑は益(ますます)暗くなりぬ。夫有(つまも)てる身の我は顔に名刺を用意せるも似気無(にげな)し、まして裏面(うら)に横文字を入れたるは、猶可慎(なほつつまし)からず。応対の雍(しとやか)にして人馴(ひとな)れたる、服装(みなり)などの当世風に貴族的なる、或(あるひ)は欧羅巴(ヨウロッパ)的女子職業に自営せる人などならずや。但しその余(あまり)に色美(いろよ)きが、又さる際(きは)には相応(ふさはし)からずも覚えて、こは終(つひ)に一題の麗(うるはし)き謎(なぞ)を彼に与ふるに過ぎざりき。鴫沢の翁は貫一の冷遇(ぶあしらひ)に慍(いきどほ)るをも忘れて、この謎(なぞ)の為に苦められつつ病院を辞し去れり。
客を送り出でて満枝の内に入来(いりきた)れば、ベッドの上に貫一の居丈高(ゐたけだか)に起直りて、痩尽(やせすが)れたる拳(こぶし)を握りつつ、咄々(とつとつ)、言はで忍びし無念に堪へずして、独(ひと)り疾視(しつし)の瞳(ひとみ)を凝(こら)すに会へり。 
第六章
数日前(すじつぜん)より鰐淵(わにぶち)が家は燈点(あかしとも)る頃を期して、何処(いづこ)より来るとも知らぬ一人の老女(ろうによ)に訪(とは)るるが例となりぬ。その人は齢(よはひ)六十路(むそぢ)余に傾(かたふ)きて、顔は皺(しわ)みたれど膚清(はだへきよ)く、切髪(きりがみ)の容(かたち)などなかなか由(よし)ありげにて、風俗も見苦からず、唯(ただ)異様なるは茶微塵(ちやみじん)の御召縮緬(おめしちりめん)の被風(ひふ)をも着ながら、更紗(さらさ)の小風呂敷包に油紙の上掛(うはがけ)したるを矢筈(やはず)に負ひて、薄穢(うすきたな)き護謨底(ゴムぞこ)の運動靴を履(は)いたり。
所用は折入つて主(あるじ)に会ひたしとなり。生憎(あいにく)にも来る度(たび)他出中なりけれど、本意無(ほいな)げにも見えで急ぎ帰り、飽きもせずして通ひ来るなりけり。お峯は漸(やうや)く怪しと思初(おもひそ)めぬ。
彼のあだかも三日続けて来(きた)れる日、その挙動の常ならず、殊(こと)には眼色凄(まなざしすご)く、憚(はばかり)も無く人を目戍(まも)りては、時ならぬに独(ひと)り打笑(うちゑ)む顔の坐寒(すずろさむ)きまでに可恐(おそろし)きは、狂人なるべし、しかも夜に入(い)るを候(うかが)ひ、時をも差(たが)へず訪(おとな)ひ来るなど、我家に祟(たたり)を作(な)すにはあらずや、とお峯は遽(にはか)に懼(おそれ)を抱(いだ)きて、とても一度は会ひて、又と足踏せざらんやう、ひたすら直行にその始末を頼みければ、今日は用意して、四時頃にはや還(かへ)り来にけるなり。
「どうも貴方(あなた)、あれは気違ですよ。それでも品の良(い)いことは、些(ちよい)とまあ旗本か何かの隠居さんと謂(い)つたやうな、然し一体、鼻の高い、目の大きい、痩(や)せた面長(おもなが)な、怖(こは)い顔なんですね。戸外(おもて)へ来て案内する時のその声といふものが、実に無いんですよ。毎(いつ)でも極(きま)つて、『頼みます、はい頼みます』とかう雍(しとやか)に、緩(ゆつく)り二声言ふんで。もうもうその声を聞くと悚然(ぞつ)として、ああ可厭(いや)だ。何だつて又あんな気違なんぞが来出したんでせう。本当に縁起でもない!」
お峯は柱なる時計を仰ぎぬ。燈(あかし)の点(とも)るには未だ間ありと見るなるべし。直行は可難(むづか)しげに眉(まゆ)を寄せ、唇(くちびる)を引結びて、
「何者か知らんて、一向心当(こころあたり)と謂うては無い。名は言はんて?」
「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」
「さうして今晩来るのか」
「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られては耐(たま)りませんから、貴方本当に来ましたら、篤(とつく)り説諭して、もう来ないやうに作(なす)つて下さいよ」
「そりや受合へん。他(さき)が気違ぢやもの」
「気違だから私(わたし)も気味が悪いからお頼申すのぢやありませんか」
「幾多(いくら)頼まれたてて、気違ぢやもの、俺(おれ)も為やうは無い」
頼める夫(つま)のさしも思はで頼無(たのみな)き言(ことば)に、お峯は力落してかつは尠(すくな)からず心慌(あわつ)るなり。
「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡して遣(や)りませう」
直行は打笑(うちわら)へり。
「まあ、そんなに騒がんとも可(え)え」
「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」
「誰も気違の好(え)えものは無い」
「それ、御覧なさいな」
「何じや」
知らず、その老女(ろうによ)は何者、狂か、あらざるか、合力(ごうりよく)か、物売か、将(はた)主(あるじ)の知人(しりびと)か、正体の顕(あらは)るべき時はかかる裏(うち)にも一分時毎に近(ちかづ)くなりき。
終日(ひねもす)灰色に打曇りて、薄日をだに吝(をし)みて洩(もら)さざりし空は漸(やうや)く暮れんとして、弥増(いやま)す寒さは怪(けし)からず人に逼(せま)れば、幾分の凌(しの)ぎにもと家々の戸は例よりも早く鎖(ささ)れて、なほ稍明(ややあか)くその色厚氷(あつこほり)を懸けたる如き西の空より、隠々(いんいん)として寂き余光の遠く来(きた)れるが、遽(にはか)に去るに忍びざらんやうに彷徨(さまよ)へる巷(ちまた)の此処彼処(ここかしこ)に、軒ラムプは既に点じ了りて、新に白き焔(ほのほ)を放てり。
一陣の風は砂を捲(ま)きて起りぬ。怪しの老女(ろうによ)はこの風に吹出(ふきいだ)されたるが如く姿を顕はせり。切髪は乱れ逆竪(さかだ)ちて、披払(はたはた)と飄(ひるがへ)る裾袂(すそたもと)に靡(なびか)されつつ漂(ただよは)しげに行きつ留りつ、町の南側を辿(たど)り辿りて、鰐淵が住へる横町に入(い)りぬ。銃槍(じゆうそう)の忍返(しのびがへし)を打ちたる石塀(いしべい)を溢(あふ)れて一本(ひともと)の梅の咲誇れるを、斜(ななめ)に軒ラムプの照せるがその門(かど)なり。
彼は殆(ほとん)ど我家に帰り来(きた)れると見ゆる態度にて、つかつかと寄りて戸を啓(あ)けんとしたれど、啓かざりければ、かの雍(しとやか)に緩(ゆる)しと謂ふ声して、
「頼みます、はい、頼みます」
風はひようひようと鳴りて過ぎぬ。この声を聞きしお峯は竦(すく)みて立たず。
「貴方、来ましたよ」
「うん、あれか」
実(げ)に直行も気味好からぬ声とは思へり。小鍋立(こなべだて)せる火鉢(ひばち)の角(かど)に猪口(ちよく)を措(お)き、燈(あかし)を持(も)て来よと婢(をんな)に命じて、玄関に出でけるが、先(ま)づ戸の内より、
「はい何方(どなた)ですな」
「旦那(だんな)はお宅でございませうか」
「居りますが、何方(どなた)で」
答はあらで、呟(つぶや)くか、ささやくか、小声ながら頻(しきり)に物言ふが聞ゆるのみ。
「何方(どなた)ですか、お名前は何と有仰(おつしや)るな」
「お目に掛れば解ります。何に致せ、おおお、まあ、梅が好く咲きましたぢやございませんか。当日の挿花(はな)はやつぱりこの梅が宜(よろし)からうと存じます。さあ、どうぞ此方(こちら)へお入り下さいまし、御遠慮無しに、さあ」
啓(あ)けんとせしに啓かざれば、彼は戸を打叩(うちたた)きて劇(はげし)く案内(あない)す。さては狂人なるよと直行も迷惑したれど、このままにては逐(お)ふとも立去るまじきに、一度(ひとたび)は会うてとにもかくにも為(せ)んと、心ならずも戸を開けば、聞きしに差(たが)はぬ老女(ろうによ)は入来(いりきた)れり。
「鰐淵は私(わし)じやが、何ぞ用かな」
「おお、おまへが鰐淵か!」
つと乗出(のりいだ)してその面(おもて)に瞳(ひとみ)を据ゑられたる直行は、鬼気に襲はれて忽(たちま)ち寒く戦(をのの)けるなり。熟(つくづ)くと見入る眼(まなこ)を放つと共に、老女は皺手(しわで)に顔を掩(おほ)ひて潜々(さめざめ)と泣出(なきいだ)せり。呆(あき)れ果てたる直行は金壺眼(かなつぼまなこ)を凝(こら)してその泣くを眺むる外はあらざりけり。
彼は泣きて泣きて止まず。
「解らんな! 一体どう云ふんか、ああ、私(わし)に用と云ふのは?」
朽木の自(おのづか)ら頽(くづ)れ行くらんやうにも打萎(うちしを)れて見えし老女は、猛然(もうねん)として振仰ぎ、血声を搾(しぼ)りて、
「この大騙(おほかたり)め!」
「何ぢやと!」
「大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の……雅之(まさゆき)のやうな孝行者が……先祖を尋ぬれば、甲斐国(かいのくに)の住人武田大膳太夫(たけだだいぜんだゆう)信玄入道(しんげんにゆうどう)、田夫野人(でんぷやじん)の為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来る。柏井(かしわい)の鈴(すう)ちやんがお嫁に来てくれれば、私(わたし)の仕合は言ふまでもない、雅之もどんなにか嬉からう。子を捨てる藪(やぶ)は有つても、懲役に遣る親は無いぞ。二十七にはなつても世間不見(みず)のあの雅之、能(よ)うも能うもおのれは瞞(だま)したな! さあ、さあさ讐(かたき)を討つから立合ひなさい」
直行は舌を吐きて独語(ひとりご)ちぬ。
「あ、いよいよ気違じやわい」
見る見る老女の怒(いかり)は激して、形相(ぎようそう)漸くおどろおどろしく、物怪(もののけ)などのついたるやうに、一挙一動も全くその人ならず、足を踏鳴し踏鳴し、白歯の疎(まばら)なるを牙(きば)の如く露(あらは)して、一念の凝(こ)れる眸(まなじり)は直行の外(ほか)を見ず、
「歿(なくな)られた良人(つれあひ)から懇々(くれぐれ)も頼まれた秘蔵の秘蔵の一人子(ひとりつこ)、それを瞞しておのれが懲役に遣つたのだ。此方(このほう)を女と侮(あなど)つてさやうな不埒(ふらち)を致したか。長刀(なぎなた)の一手も心得てゐるぞよ。恐入つたか」
彼は忽(たちま)ちさも心地快(ここちよ)げに笑へり。
「さうあらうとも、赦(ゆる)します。内には鈴(すう)ちやんが今日を曠(はれ)と着飾つて、その美しさと謂ふものは! ほんにまああんな縹致(きりよう)と云ひ、気立と云ひ、諸芸も出来れば、読(よみ)、書(かき)、針仕事(はりしごと)、そんなことは言つてゐるところではない。頸(くび)を長くして待つてお在(いで)だのに、早く帰つて来ないと云ふ法が有るものですか。大きにまあお世話様でございましたね、さあさ、馬車を待たして置いたから、履物(はきもの)はここに在るよ。なあに、おまへ私はね、汽車で行くから訳は無いとも」
かく言ふ間も忙(せは)しげに我が靴を脱ぎて、其処(そこ)に直すと見れば、背負ひし風呂敷包の中結(なかゆひ)を釈きて、直行が前に上掛(うはがけ)の油紙を披(ひろ)げたり。
「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。直(ぢき)に落ちるから、早く落してお了ひなさい」
さすがに持扱(もてあつか)ひて直行の途方に暮れたるを、老女は目を纖(ほそ)めて、何処(いづこ)より出づらんやとばかり世にも奇(あやし)き声を発(はな)ちて緩(ゆる)く笑ひぬ。彼は謂知(いひし)らぬ凄気(せいき)に打れて、覚えず肩を聳(そびや)かせり。
懲役と言ひ、雅之と言ふに因(よ)りて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務者なる飽浦雅之(あくらまさゆき)は、私書偽造罪を以(も)つて彼の被告としてこの十数日前(ぜん)、罰金十円、重禁錮(じゆうきんこ)一箇年に処せられしなり。実(げ)にその母なり。その母はこれが為に乱心せしか。
爾思(しかおも)へりしのみにて直行はその他に猶(なほ)も思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼の謀(はか)りて陥れたるなり。
彼等の用ゐる悪手段の中(うち)に、人の借(か)るを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その一判にても話合(はなしあひ)の上は貸さんと称(とな)へて先(ま)づ誘(いざな)ひ、然(しか)る後、但(ただ)し証書の体(てい)を成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に可然(しかるべ)き親族知己(しるべ)などの名義を私用して、在合ふ印章を捺(お)さしめ、固(もと)より懇意上の内約なればその偽(いつはり)なるを咎(とが)めず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむるなり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、一(いつ)は焦眉(しようび)の急に迫り、一(いつ)は期限内にだに返弁せば何事もあらじと姑息(こそく)して、この術中には陥るなりけり。
期におよびて還さざらんか、彼は忽(たちま)ち爪牙(そうが)を露(あらは)し、陰に告訴の意を示してこれを脅(おびやか)し、散々に不当の利を貪(むさぼ)りて、その肉尽き、骨枯るるの後、猶(な)ほあく無き慾は、更に件(くだん)の連帯者に対して寝耳に水の強制執行を加ふるなり。これを表沙汰(おもてざた)にせば債務者は論無う刑法の罪人たらざるべからず、ここに於(おい)て誰(たれ)か恐慌し、狼狽(ろうばい)し、悩乱し、号泣し、死力を竭(つく)して七所借(ななとこがり)の調達(ちようだつ)を計らざらん。この時魔の如き力は喉(のんど)を扼(やく)してその背をうつ、人の死と生とは渾(すべ)て彼が手中に在りて緊握せらる、欲するところとして得られざるは無し。
雅之もこのわなに繋(かか)りて学友の父の名を仮りて連印者に私用したりき。事の破綻(はたん)に及びて、不幸にも相識れる学友は折から海外に遊学して在らず、しかも父なる人は彼を識らざりしより、その間の調停成らずして、彼の行為は終(つひ)に第二百十条の問ふところとなりぬ。
法律は鉄腕の如く雅之を拉(らつ)し去りて、剰(あまつ)さへ杖(つゑ)に離れ、涙に蹌(よろぼ)ふ老母をば道の傍(かたはら)にけかへして顧ざりけり。噫(ああ)、母は幾許(いかばかり)この子に思を繋(か)けたりけるよ。親に仕(つか)へて、此上無(こよな)う優かりしを、柏井(かしわい)の鈴(すず)とて美き娘をも見立てて、この秋には妻(めあは)すべかりしを、又この歳暮(くれ)には援(ひ)く方(かた)有りて、新に興るべき鉄道会社に好地位を得んと頼めしを、事は皆休(や)みぬ、彼は人の歯(よはひ)せざる国法の罪人となり了(をは)れり。耻辱(ちじよく)、憤恨、悲歎、憂愁、心を置惑ひてこの母は終に発狂せるなり。
無益(むやく)に言(ことば)を用ゐんより、唯手柔(ただてやはらか)に撮(つま)み出すに如(し)かじと、直行は少しも逆(さから)はずして、
「ああ宜(よろし)いが。この首が欲いか、遣らうとも遣らうとも、ここでは可かんから外(おもて)へ行かう。さあ一処に来た」
狂女は苦々しげに頭(かしら)を掉(ふ)りて、
「お前さんの云ふことは皆妄(うそ)だ。その手で雅之を瞞(だま)したのだらう。それ、それ見なさい、親孝行の、正直者の雅之を瞞着(だまくらか)して、散々金を取つた上に懲役に遣つたに相違無いと云ふ一札(いつさつ)をこの通り入れたぢやないか、これでも未(ま)だしらじらしい顔をしてゐるのか」
打披(うちひろ)げたりし油紙を取りて直行の目先へ突付くれば、何を包みし移香(うつりが)にや、胸悪き一種の腥気(せいき)ありて夥(おびただし)く鼻を撲(う)ちぬ。直行は猶(なほ)も逆はで已(や)む無く面(おもて)を背(そむ)けたるを、狂女は目をみはりつつ雀躍(こをどり)して、
「おおおお、あれあれ! これは嬉(うれし)い、自然とお前さんの首が段々細くなつて来る。ああ、それそれ、今にもう落ちる」
地には落さじとやうに慌(あわ)てふためき、油紙もて承けんと為(せ)る、その利腕(ききうで)をやにはに捉(とら)へて直行は格子(こうし)の外へおしださんと為たり。彼は推(おさ)れながら格子に縋(すが)りて差理無理(しやりむり)争ひ、
「ええ、おのれは他(ひと)をこの崖(がけ)から突落す気だな。この老婦(としより)を騙討(だましうち)に為るのだな」
喚(わめ)きつつ身を捻返(ねぢかへ)して、突掛けし力の怪き強さに、直行は踏辷(ふみすべ)らして尻居に倒るれば、彼は囃(はや)し立てて笑ふなり。忽(たちま)ち起上りし直行は彼の衿上(えりがみ)を掻掴(かいつか)みて、力まかせに外方(とのかた)へ突遣(つきや)り、手早く雨戸を引かんとせしに、軋(きし)みて動かざる間(ひま)に又駈戻(かけもど)りて、狂女はその凄(すさまし)き顔を戸口に顕(あら)はせり。余りの可恐(おそろ)しさに直行は吾を忘れてその顔をはたと撲(う)ち、痿(ひる)むところを得たりと鎖(とざ)せば、外より割るるばかりに戸を叩きて、
「さあ、首を渡せ。大事な証文も取上げて了つたな、大事な靴も取つたな。靴盗坊(くつどろぼう)、大騙(おほかたり)! 首を寄来(よこ)せ」
直行は佇(たたず)みて様子を候(うかが)ひゐたり。抜足差足(ぬきあしさしあし)忍び来(きた)れる妻は、後より小声に呼びて、
「貴方、どうしました」
夫は戸の外を指(ゆびさ)してなほ去らざるを示せり。お峯は土間に護謨靴(ゴムぐつ)と油紙との遺散(おちち)れるを見付けて、由無(よしな)き質を取りけるよと思(おも)ひ煩(わづら)へる折しも、
「頼みます、はい、頼みますよ」
と例の声は聞えぬ。お峯は胴顫(どうぶるひ)して、長くここに留(とどま)るに堪へず、夫を勧めて奥に入(い)りにけり。
戸叩く音は後(のち)も撓(たゆ)まず響きたりしが、直行の裏口より出でて窺(うかが)ひける時は、風吹荒(ふきすさ)ぶ門(かど)の梅の飛雪(ひせつ)の如く乱点して、燈火の微(ほのか)に照す処その影は見えざるなりき。
次の日も例刻になれば狂女は又訪(と)ひ来れり。主(あるじ)は不在なりとて、婢(をんな)をして彼の遺(のこ)せし二品(ふたしな)を返さしめけるに、前夜の暴(あ)れに暴れし気色(けしき)はなくて、殊勝に聞分けて帰り行きぬ。
お峯はその翌日も必ず来(きた)るべきを懼(おそ)れて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。又試に婢(をんな)を出(いだ)して不在の由(よし)を言はしめしに、こたびは直(ぢき)に立去らで、
「それぢやお帰来(かへり)までここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるので、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」
彼は戸口(かどぐち)に蹲(うづくま)りて動かず。婢は様々に言作(いひこしら)へて賺(すか)しけれど、一声も耳には入(い)らざらんやうに、石仏(いしぼとけ)の如く応ぜざるなり。彼は已(や)む無くこれを奥へ告げぬ。直行も為(せ)ん術(すべ)あらねば棄措(すてお)きたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。
お峯は心苦(こころぐるし)がりて、この上は唯警察の手を借らんなど噪(さわ)ぐを、直行は人を煩(わづらは)すべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに逐払(おひはら)ふべき手立(てだて)のありやと責むるに、害を為(な)すにもあらねば、宿無犬(やどなしいぬ)の寝たると想ひて意(こころ)に介(かく)るなとのみ。意(こころ)に介(か)くまじき如きを故(ことさら)に夫には学ばじ、と彼は腹立(はらだたし)く思へり。この一事(いちじ)のみにあらず、お峯は常に夫の共に謀(はか)ると謂ふこと無くて、女童(をんなわらべ)と侮(あなど)れるやうに取合はぬ風あるを、口惜(くちをし)くも可恨(うらめし)くも、又或時は心細さの便無(たよりな)き余に、神を信ずる念は出でて、夫の頼むに足らざるところをば神明(しんめい)の冥護(みようご)に拠(よ)らんと、八百万(やほよろづ)の神といふ神は差別無(しやべつな)く敬神せるが中にも、ここに数年前(ぜん)より新に神道の一派を開きて、天尊教と称ふるあり。神体と崇(あが)めたるは、その光紫の一大明星(みようじよう)にて、御名(おんな)を大御明尊(おおみあかりのみこと)と申す。天地渾沌(てんちこんとん)として日月(じつげつ)も未(いま)だ成らざりし先高天原(たかまがはら)に出現ましませしに因(よ)りて、天上天下万物の司(つかさ)と仰ぎ、諸(もろもろ)の足らざるを補ひ、総(すべ)て欠けたるを完(まつた)うせしめんの大御誓(おほみちかひ)をもて国土百姓を寧(やすらけ)く恵ませ給ふとなり。彼は夙(つと)に起信して、この尊をば一身一家(いつけ)の守護神(まもりがみ)と敬ひ奉り、事と有れば祈念を凝(こら)して偏(ひとへ)に頼み聞ゆるにぞありける。
この夜は別して身を浄(きよ)め、御燈(みあかし)の数を献(ささ)げて、災難即滅、怨敵退散(おんてきたいさん)の祈願を籠(こ)めたりしが、翌日(あくるひ)の点燈頃(ひともしごろ)ともなれば、又来にけり。夫は出でて未(いま)だ帰らざれば、今日若(も)し罵(ののし)り噪(さわ)ぎて、内に躍入(をどりい)ることもやあらば如何(いかに)せんと、前後の別(わかれ)知らぬばかりに動顛(どうてん)して、取次には婢を出(いだ)し遣(や)り、躬(みづから)は神棚(かみだな)の前に駈着(かけつ)け、顫声(ふるひごゑ)を打揚(うちあ)げ、丹精を抽(ぬきん)でて祝詞(のりと)を宣(の)りゐたり。狂女は不在と聞きて敢(あへ)て争はず、昨日(きのふ)の如く、ここにて帰来(かへり)を待たんとて、同(おなじ)き処に同き形して蹲(うづくま)れり。婢は格子を鎖(さ)し固めて内に入(い)りけるが、暫(しばら)くは音も為ざりしに、遽(にはか)に物語る如き、或(あるひ)は罵(ののし)る如き声の頻(しきり)に聞ゆるより主(あるじ)の知らで帰来(かへりき)て、捉(とら)へられたるにはあらずや、と台所の小窓より差覗(さしのぞ)けば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語るところは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここの主(あるじ)に欺かれて無実の罪に陥されし段々を、前後不揃(あとさきぶぞろひ)に泣いつ怒りつ訴ふるなり。 
第七章
子の讐(かたき)なる直行が首を獲(え)んとして夕々(ゆふべゆふべ)に狂女の訪ひ来ること八日におよべり。浅ましとは思へど、逐(お)ひて去らしむべきにあらず、又門口(かどぐち)に居たりとて人を騒がすにもあらねば、とにもかくにも手を着けかねて棄措(すておか)るるなりき。直行が言へりし如く、畢竟(ひつきよう)彼は何等の害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たると太(はなは)だ択(えら)ばざるべけれど、縮緬(ちりめん)の被風(ひふ)着たる人の形の黄昏(たそが)るる門の薄寒きに踞(つくば)ひて、灰色の剪髪(きりがみ)を掻乱(かきみだ)し、妖星(ようせい)の光にも似たる眼(まなこ)を睨反(ねめそら)して、笑ふかと見れば泣き、泣くかと見れば憤(いか)り、己(おのれ)の胸のやうに際(そこひ)も知らず黒く濁れる夕暮の空に向ひてその悲(かなしみ)と恨とを訴へ、腥(なまぐさ)き油紙を拈(ひね)りては人の首を獲んを待つなる狂女! よし今は何等の害を加へずとも、終(つひ)にはこの家に祟(たたり)を作(な)すべき望を繋(か)くるにあらずや。人の執着の一念は水をも火と成し、山をも海と成し、鉄を劈(つんざ)き、巌(いはほ)を砕くの例(ためし)、ましてや家を滅(めつ)し、人を鏖(みなごろし)にすなど、塵(ちり)を吹くよりも易(やす)かるべきに、可恐(おそろ)しや事無くてあれかしと、お峯は独(ひと)り謂知(いひし)らず心を傷(いた)むるなり。
夫は決(け)して雅之の私書偽造を己(おのれ)の陥れし巧(たくみ)なりとは彼に告げざれば、悪は正(まさし)く狂女の子に在りて、此方(こなた)に恨を受くべき筋は無く、自(おのづか)らかかる事も出来(いでく)るは家業の上の勝負にて、又一方には貸倒(かしだふれ)の損耗あるを思へば、所詮(しよせん)仆(たふ)し、仆さるるは商(あきなひ)の習と、お峯は自(おのづか)ら意(こころ)を強うして、この老女(ろうによ)の狂(くるひ)を発せしを、夫の為(な)せる業(わざ)とは毫(つゆ)も思ひ寄(よす)るにあらざりき。さは謂(い)へ、人の親の切なる情(なさけ)を思へば、実(げ)にさぞと肝に徹(こた)ふる節無(ふしな)きにもあらざるめり。大方かかる筋より人は恨まれて、奇(あやし)き殃(わざはひ)にも遭(あ)ふなればと唯思過(ただおもひすご)されては窮無(きはまりな)き恐怖(おそれ)の募るのみ。
日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我等の命を絶たんが為にて、多時(しばらく)門(かど)に居て動かざるは、その妄執(もうしゆう)の念力(ねんりき)を籠(こ)めて夫婦を呪(のろ)ふにあらずや、とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地は譬(たと)へん方無く悩されぬ。されば狂女の門(かど)に在る間は、大御明尊(おおみあかしのみこと)の御前(おんまへ)に打頻(うちしき)り祝詞(のりと)を唱ふるにあらざれば凌(しの)ぐ能(あた)はず。かかる中(うち)にも心に些(ちと)の弛(ゆるみ)あれば、煌々(こうこう)と耀(かがや)き遍(わた)れる御燈(みあかし)の影(かげ)遽(にはか)に晦(くら)み行きて、天尊(てんそん)の御像(みかたち)も朧(おぼろ)に消失(きえう)せなんと吾目(わがめ)に見ゆるは、納受(のうじゆ)の恵に泄(も)れ、擁護(おうご)の綱も切れ果つるやと、彼は身も世も忘るるばかりに念を籠(こ)め、烟(けむり)を立て、汗を流して神慮を驚かすにぞありける。槍(やり)は降りても必ず来(く)べし、と震摺(おぢおそ)れながら待たれし九日目の例刻になりぬれど、如何(いか)にしたりけん狂女は見えず。鋭く冱返(さえかへ)りたるこの日の寒気は鍼(はり)もて膚(はだへ)に霜を種(う)うらんやうに覚えしめぬ。外には烈風(はげしきかぜ)怒(いか)り号(さけ)びて、樹を鳴し、屋(いへ)を撼(うごか)し、砂を捲(ま)き、礫(こいし)を飛して、曇れる空ならねど吹揚げらるる埃(ほこり)に蔽(おほは)れて、一天晦(くら)く乱れ、日色(につしよく)黄(き)に濁りて、殊(こと)に物可恐(ものおそろし)き夕暮の気勢(けはひ)なり。
鰐淵が門(かど)の燈(ともし)は硝子(ガラス)を二面まで吹落されて、火は消え、ラムプは覆(くつがへ)りたり。内の燈火(あかし)は常より鮮(あざやか)に主(あるじ)が晩酌の喫台(ちやぶだい)を照し、火鉢(ひばち)に架(か)けたる鍋(なべ)の物は沸々(ふつふつ)と薫(くん)じて、はや一銚子(ひとちようし)更(か)へたるに、未(いま)だ狂女の音容(おとづれ)はあらず。お峯は半(なかば)危みつつも幾分の安堵(あんど)の思を弄(もてあそ)び喜ぶ風情(ふぜい)にて、
「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もう毎(いつ)もきつと来るのに来ませんから、今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されて了(しま)ひませうから。ああ、真(ほん)に天尊様の御利益(ごりやく)があつたのだ」
夫が差せる猪口(ちよく)を受けて、
「お相(あひ)をしませうかね。何は無くともこんな好い心持の時に戴(いただ)くとお美(いし)いものですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、貴方(あなた)。おやおやもう七時廻つたんですよ。そんなら断然(いよいよ)今晩は来ないと極(きま)りましたね。ぢや、戸締(とじまり)を為(さ)して了ひませうか、真(ほん)に今晩のやうな気の霽々(せいせい)した、心(しん)の底から好い心持の事はありませんよ。あの気違さんぢやどんなに寿(いのち)を短(ちぢ)めたか知れはしません。もうこれきり来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。御酒(ごしゆ)もお美(いし)いものですね。なあにあの婆さんが唯怖(ただこは)いのぢやありませんよ。それは気味(きび)は悪うございますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何と無く凄(すご)くて耐(たま)らないのです。あれが来ると、悚然(ぞつ)と、惣毛竪(そうけだ)つて体(からだ)が竦(すく)むのですもの、唯の怖いとは違ひますわね。それが、何だか、かう執着(とつつか)れでもするやうな気がして、あの、それ、能(よ)く夢で可恐(おそろし)い奴なんぞに追懸(おつか)けられると、迯(に)げるには迯げられず、声を出さうとしても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」
銚子を更(か)へて婢(をんな)の持来(もちきた)れば、
「金(きん)や、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」
「好い塩梅(あんばい)でございます」
「お前には後でお菓子を御褒美(ごほうび)に出すからね。貴方(あなた)、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」
「あら可厭(いや)なことを有仰(おつしや)いまし」
吹来(ふききた)り、吹去る風は大浪(おほなみ)の寄せては返す如く絶間無く轟(とどろ)きて、その劇(はげし)きは柱などをひちひちと鳴揺(なりゆる)がし、物打倒す犇(ひしめ)き、引断(ひきちぎ)る音、圧折(へしお)る響は此処彼処(ここかしこ)に聞えて、唯居るさへに胆(きも)は冷(ひや)されぬ。長火鉢には怠らず炭を加へ加へ、鉄瓶(てつびん)の湯気は雲を噴(は)くこと頻(しきり)なれど、更に背面を圧する寒(さむさ)は鉄板(てつぱん)などや負はさるるかと、飲めども多く酔(ゑ)ひ成さざるに、直行は後を牽(ひ)きて已(や)まず、お峯も心祝(こころいはひ)の数を過して、その地顔の赭(あか)きをば仮漆布(ニスし)きたるやうに照り耀(かがやか)して陶然たり。
狂女は果して来(こ)ざりけり。歓(よろこ)び酔(ゑ)へるお峯も唯酔(ゑ)へる夫も、褒美貰(もら)ひし婢も、十時近き比(ころほひ)には皆寐鎮(ねしづま)りぬ。
風は猶(なほ)も邪(よこしま)に吹募りて、高き梢(こずゑ)は箒(ははき)の掃くが如く撓(たわ)められ、疎(まばら)に散れる星の数は終(つひ)に吹下(ふきおろ)されぬべく、層々凝(こ)れる寒(さむさ)は殆(ほとん)ど有らん限の生気を吸尽して、さらぬだに陰森たる夜色は益(ますま)す冥(くら)く、益す凄(すさまじ)からんとす。忽(たちま)ちこの黒暗々を劈(つんざ)きて、鰐淵が裏木戸の辺(あたり)に一道(いちどう)の光は揚りぬ。低く発(おこ)りて物に遮(さへぎ)られたれば、何の火とも弁(わきま)へ難くて、その迸発(ほとばしり)の朱(あか)く烟(けむ)れる中に、母家(もや)と土蔵との影は朧(おぼろ)に顕(あらは)るるともなく奪はれて、瞬(またた)くばかりに消失せしは、風の強きに吹敷れたるなり。やや有りて、同じほどの火影の又映(うつろ)ふと見れば、早くも薄れ行きて、こたびは燃えも揚らず、消えも遣らで、少時(しばし)明(あかり)を保ちたりしが、風の僅(わづか)の絶間を偸(ぬす)みて、閃々(ひらひら)と納屋(なや)の板戸を伝ひ、始めて騰(のぼ)れる焔(ほのほ)は炳然(へいぜん)として四辺(あたり)を照せり。塀際(へいぎは)に添ひて人の形(かたち)動くと見えしが、なほ暗くて了然(さだか)ならず。
数息(すそく)の間にして火の手は縦横に蔓(はびこ)りつつ、納屋の内に乱入れば、噴出(ふきい)づる黒烟(くろけふり)の渦は或(あるひ)は頽(くづ)れ、或は畳みて、その外を引つつむとともに、見え遍(わた)りし家も土蔵も堆(うづたか)き黯たん(あんたん)の底に没して、闇は焔に破られ、焔は烟(けふり)に揉立(もみた)てられ、烟(けむり)は更に風の為に砕かれつつも、蒸出す勢の夥(おびただし)ければ、猶ほ所狭(ところせ)く漲(みなぎ)りて、文目(あやめ)も分かず攪乱(かきみだ)れたる中より爆然と鳴りて、天も焦げよと納屋は一面の猛火と変じてけり。かの了然(さだか)ならざりし形はこの時明(あきらか)に輝かされぬ。宵に来(く)べかりし狂女の佇(たたず)めるなり。躍(をど)り狂ふ烟の下に自若として、面(おもて)も爛(ただ)れんとすばかりに照されたる姿は、この災を司る鬼女などの現れ出でにけるかと疑はしむ。実(げ)に彼は火の如何(いか)に焚(も)え、如何に燬(や)くや、と厳(おごそか)に監(み)るが如く眥(まなじり)を裂きて、その立てる処を一歩も移さず、風と烟と焔(ほのほ)との相雑(あひまじは)り、相争(あひあらそ)ひ、相勢(あひきほ)ひて、力の限を互に奮(ふる)ふをば、妙(いみじ)くも為(し)たりとや、漫(そぞろ)笑(ゑみ)を洩(もら)せる顔色(がんしよく)はこの世に匹(たぐ)ふべきものありとも知らず。
風の暴頻(あれしき)る響動(どよみ)に紛れて、寝耳にこれを聞着(ききつく)る者も無かりければ、誰一人出(いで)て噪(さわ)がざる間に、火は烈々(めらめら)と下屋(げや)に延(し)きて、厨(くりや)の燃立つ底より一声叫喚(きようかん)せるは誰(たれ)、狂女はききとして高く笑ひぬ。 
(七)の二
人々出合ひて打騒(うちさわ)ぐ比(ころほひ)には、火元の建物の大半は烈火となりて、土蔵の窓々より焔(ほのほ)を出(いだ)し、はや如何(いか)にとも為んやうあらざるなり。さしもの強風(ごうふう)なりしかど、消防力(つと)めたりしに拠(よ)りて、三十幾戸を焼きしのみにて、午前二時におよびて鎮火するを得たり。雑踏の裏(うち)より怪き奴は早くも拘引せられしと伝へぬ。かの狂女の去りも遣(やら)ざりしが捕(とらは)れしなり。
火元と認定せらるる鰐淵方(わにぶちかた)は塵一筋(ちりひとすぢ)だに持出(もちいだ)さずして、憐(あはれ)むべき一片の焦土を遺(のこ)したるのみ。家族の消息は直(ただ)ちに警察の訊問(じんもん)するところとなりぬ。婢(をんな)は命辛々(からがら)迯了(にげおほ)せけれども、目覚むると斉(ひとし)く頭面(まくらもと)は一面の火なるに仰天し、二声三声奥を呼捨(よびすて)にして走り出(い)でければ、主(あるじ)たちは如何(いか)になりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、過(あやまち)など有りしにはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。
熱灰(ねつかい)の下より一体の屍(かばね)の半(なかば)焦爛(こげただ)れたるが見出(みいだ)されぬ。目も当てられず、浅ましう悒(いぶせ)き限を尽したれど、主(あるじ)の妻と輙(たやす)く弁ぜらるべき面影(おもかげ)は焚残(やけのこ)れり。さてはとその邇(ちか)くを隈無(くまな)く掻起(かきおこ)しけれど、他に見当るものは無くて、倉前と覚(おぼし)き辺(あたり)より始めて焦壊(こげくづ)れたる人骨を掘出(ほりいだ)せり。酔(ゑ)ひて遁惑(にげまど)ひし故(ゆゑ)か、貪(むさぼ)りて身を忘れし故か、とにもかくにも主夫婦(あるじふうふ)はこの火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜の烟(けふり)となりて、鰐淵の跡とては赤土と灰との外に覓(もと)むべきものもあらず、風吹迷ふ長烟短焔(ちようえんたんえん)の紛糾する処に、独(ひと)り無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。
別居せる直道(ただみち)は旅行中にて未(いま)だ還(かへ)らず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし時病院より駈着(かけつ)けたり。彼は三日の後には退院すべき手筈(てはず)なりければ、今は全く癒(い)えて務を執るをも妨げざれど、事の極(きは)めて不慮なると、急激なると、瑣小(さしよう)ならざるとに心惑(こころまどひ)のみせられて、病後の身を以(も)てこれに当らんはいと苦(くるし)かりけるを、尽瘁(じんすい)して万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。
枕をも得挙(えあ)げざりし病人の今かく健(すこやか)に起きて、常に来ては親く慰められし人の頑(かたくな)にも強かりしを、空(むなし)く燼余(じんよ)の断骨に相見(あひみ)て、弔ふ言(ことば)だにあらざらんとは、貫一の遽(にはか)にその真(まこと)をば真とし能(あた)はざるところなりき。人は皆死ぬべきものと人は皆知れるなり。されどもその常に相見る人の死ぬべきを思ふ能はず。貫一はこの五年間の家族を迫(せ)めての一人も余さず、家倉と共に焚尽(やきつく)されて一夜の中に儚(はかな)くなり了(をは)れるに会ひては、おのれが懐裡(ふところ)の物の故無(ゆゑな)く消失せにけんやうにも頼み難く覚えて、かくては我身の上の今宵如何(いか)に成りなんをも料(はか)られざるをと、無常の愁は頻(しきり)に腸(はらわた)に沁(し)むなりけり。
住むべき家の痕跡(あとかた)も無く焼失せたりと謂(い)ふだに、見果てぬ夢の如し、まして併(あは)せて頼めし主(あるじ)夫婦を喪(うしな)へるをや、音容(おんよう)幻(まぼろし)を去らずして、ほとほと幽明の界(さかひ)を弁ぜず、剰(あまつさ)へ久く病院の乾燥せる生活に困(こう)じて、この家を懐(おも)ふこと切なりければ、追慕の情は極(きはま)りて迷執し、迫(せ)めては得るところもありやと、夜の晩(おそ)きに貫一は市(いち)ヶ谷(や)なる立退所(たちのきじよ)を出でて、杖(つゑ)に扶(たす)けられつつ程遠からぬ焼跡を弔へり。
連日風立ち、寒かりしに、この夜は遽(にはか)に緩(ゆる)みて、朧(おぼろ)の月の色も暖(あたたか)に、曇るともなく打霞(うちかす)める町筋は静に眠れり。燻臭(いぶりくさ)き悪気は四辺(あたり)に充満(みちみ)ちて、踏荒されし道は水にしとり、燼(もえがら)に埋(うづも)れ、焼杭(やけくひ)焼瓦(やけがはら)など所狭く積重ねたる空地(くうち)を、火元とて板囲(いたがこひ)も得為(えせ)ず、それとも分かぬ焼原の狼藉(ろうぜき)として、鰐淵が家居(いへゐ)は全く形を失へるなり。黒焦に削れたる幹(みき)のみ短く残れる一列(ひとつら)の立木の傍(かたはら)に、塊(つちくれ)堆(うづたか)く盛りたるは土蔵の名残(なごり)と踏み行けば、灰燼の熱気は未(いま)だ冷めずして、微(ほのか)に面(おもて)を撲(う)つ。貫一は前杖(まへづゑ)ついて悵然(ちようぜん)として佇(たたず)めり。その立てる二三歩の前は直行が遺骨を発(おこ)せし所なり。恨むと見ゆる死顔の月は、肉の片(きれ)の棄てられたるやうに朱(あか)く敷(し)ける満地の瓦を照して、目に入(い)るものは皆伏し、四望の空く寥々(りようりよう)たるに、黒く点せる人の影を、彼は自(おのづか)ら物凄(ものすご)く顧らるるなりき。
立尽せる貫一が胸には、在りし家居の状(さま)の明かに映じて、赭(あか)く光れるお峯が顔も、苦(にが)き口付せる主(あるじ)が面(おもて)も眼に浮びて、歴々(まざまざ)と相対(さしむか)へる心地もするに、姑(しばら)くはその境に己(おのれ)を忘れたりしが、やがて徐(しづか)に仰ぎ、徐に俯(ふ)して、さて徐に一歩を行きては一歩を返しつつ、いとど思に沈みては、折々涙をも推拭(おしぬぐ)ひつ。彼は転(うた)た人生の凄涼(せいりよう)を感じて禁ずる能(あた)はざりき。苟(いやし)くもその親める者の半にして離れ乖(そむ)かざるはあらず。見よ或はかの棄てられし恨を遺(のこ)し、或はこの奪はれし悲(かなしみ)に遭(あ)ひ、前の恨の消えざるに又新なる悲を添ふ。棄つる者は去り、棄てざる者は逝(ゆ)き、けい然(けいぜん)として吾独(われひと)り在り。在るが故に慶(よろこ)ぶべきか、亡(な)きが故に悼(いた)むべきか、在る者は積憂の中に活(い)き、亡き者は非命の下(もと)に殪(たふ)る。抑(そもそ)もこの活(かつ)とこの死とは孰(いづれ)を哀(あはれ)み、孰を悲(かなし)まん。
吾が煩悶(はんもん)の活を見るに、彼等が惨憺(さんたん)の死と相同(あひおなじ)からざるなし、但殊(ただこと)にするところは去ると留るとのみ。彼等の死ありて聊(いささ)か吾が活の苦(くるし)きをも慰むべきか、吾が活ありて、始めて彼等が死の傷(いたまし)きを弔ふに足らんか。吾が腸(ちよう)は断たれ、吾が心は壊(やぶ)れたり、彼等が肉は爛(ただ)れ、彼等が骨は砕けたり。活きて爾苦(しかくるし)める身をも、なほさすがに魂(たましひ)も消(け)ぬべく打駭(うちおどろ)かしつる彼等が死状(しにざま)なるよ。産を失ひ、家を失ひ、猶(なほ)も身を失ふに尋常の終を得ずして、極悪の重罪の者といへども未(いま)だ曾(かつ)て如此(かくのごと)き虐刑の辱(はづかしめ)を受けず、犬畜生の末までも箇様(かよう)の業(ごう)は曝(さら)さざるに、天か、命(めい)か、或(ある)は応報か、然(しか)れども独(ひと)り吾が直行をもて世間に善を作(な)さざる者と為(な)すなかれ。人情は暗中に刃(やいば)を揮(ふる)ひ、世路(せいろ)は到る処に陥穽(かんせい)を設け、陰に陽に悪を行ひ、不善を作(な)さざるはなし。若(も)し吾が直行の行ふところをもて咎(とが)むべしと為さば、誰か有りて咎(とが)められざらん、しかも猶(なほ)甚(はなはだし)きを為して天も憎まず、命も薄(うす)んぜず、応報もこれを避(さく)るもの有るを見るにあらずや。彼等の惨死(さんし)を辱(はづかし)むるなかれ、適(たまた)ま奇禍を免れ得ざりしのみ。
かく念(おも)へる貫一は生前(しようぜん)の誼深(よしみふか)かりし夫婦の死を歎きて、この永き別(わかれ)を遣方(やるかた)も無く悲み惜むなりき。さて何時(いつ)までかここに在らんと、主の遺骨を出(いだ)せし辺(あたり)を拝し、又妻の屍(かばね)の横(よこた)はりし処を拝して、心佗(こころわびし)く立去らんとしたりしに、彼は怪くも遽(にはか)に胸の内の掻乱(かきみだ)るる心地するとともに、失せし夫婦の弔ふ者もあらで闇路(やみぢ)の奥に打棄てられたるを悲く、あはれ猶(なほ)少時(しばし)留らずやと、いと迫(せ)めて乞ひ縋(すが)ると覚ゆるに、行くにも忍びず、又立還りて積みたる土に息(いこ)へり。
実(げ)に彼も家の内に居て、遺骸(なきがら)の前に限知られず思ひ乱れんより、ここには亡き人の傍(そば)にも近く、遺言に似たる或る消息をも得るらん想(おもひ)して、立てたる杖に重き頭(かしら)を支へて、夫婦が地下に齎(もたら)せし念々を冥捜(めいそう)したり。やがて彼は何の得るところや有りけん、繁(しげ)き涙は滂沱(はらはら)と頬(ほほ)を伝ひて零(こぼ)れぬ。
夜陰に轟(とどろ)く車ありて、一散に飛(とば)し来(きた)りけるが、焼場(やけば)の際(きは)に止(とどま)りて、翩(ひらり)と下立(おりた)ちし人は、直(ただ)ちに鰐淵が跡の前に尋ね行きて歩(あゆみ)を住(とど)めたり。
焼瓦(やけがはら)の踏破(ふみしだ)かるる音に面(おもて)を擡(もた)げたる貫一は、件(くだん)の人影の近く進来(すすみく)るをば、誰ならんと認むる間(ひま)も無く、
「間さんですか」
「おお、貴方(あなた)は! お帰来(かへり)でしたか」
その人は待ちに待たれし直道なり。貫一は忙(いそがはし)く出迎へぬ。向ひて立てる両箇(ふたり)は月明(つきあかり)に面(おもて)を見合ひけるが、各(おのおの)口吃(くちきつ)して卒(にはか)に言ふ能はざるなりき。
「何とも不慮な事で、申上げやうもございません」
「はい。この度(たび)は留守中と云ひ、別してお世話になりました」
「私(わたくし)は事の起りました晩は未(ま)だ病院に居りまして、かう云ふ事とは一向存じませんで、夜明になつて漸(やうや)く駈着(かけつ)けたやうな始末、今更申したところが愚痴に過ぎんのですけれど、私が居りましたらまさかこんな事にはお為せ申さんかつたと、実に残念でなりません。又お二人にしても余り不覚な、それしきの事に狼狽(ろうばい)される方ではなかつたに、これまでの御寿命であつたか、残多(のこりおほ)い事を致しました」
直道は塞(ふさ)ぎし眼(まなこ)を怠(たゆ)げに開きて、
「何もかも皆焼けましたらうな」
「唯一品(ひとしな)、金庫が助りました外には、すつかり焼いて了ひました」
「金庫が残りました? 何が入つてゐるのですか」
「貨(かね)も少しは在りませうが、帳簿、証書の類が主(おも)でございます」
「貸金に関した?」
「さやうで」
「ええ、それが焼きたかつたのに!」
口惜(くちを)しとの色は絶(したた)かその面(おもて)に上(のぼ)れり。貫一は彼が意見の父と相容(あひい)れずして、年来(としごろ)別居せる内情を詳(つまびら)かに知れば、迫(せ)めてその喜ぶべきをも、却(かへ)つてかく憂(うれひ)と為(な)す故(ゆゑ)を暁(さと)れるなり。
「家の焼けたの、土蔵の落ちたのは差支無(さしつかへな)いのです。寧(むし)ろ焼いて了はんければ成らんのでしたから、それは結構です。両親の歿(なくな)つたのも、私(わたくし)であれ、貴方であれ、かうして泣いて悲む者は、ここに居る二人きりで、世間に誰一人……さぞ衆(みんな)が喜んでゐるだらうと思ふと、唯親を喪(なくな)したのが情無(なさけな)いばかりではないのですよ」
されども堰(せき)敢(あ)へず流るるは恩愛の涙なり。彼を憚(はばか)りし父と彼を畏(おそ)れし母とは、決して共に子として彼を慈(いつくし)むを忘れざりけり。その憚られ、畏れられし点を除きては、彼は他の憚られ、畏れられざる子よりも多く愛を被(かうむ)りき。生きてこそ争ひし父よ。亡くての今は、その聴(きか)れざりし恨より、親として事(つか)へざりし不孝の悔は直道の心を責むるなり。
生暖(なまあたたか)き風は急に来(きた)りてその外套(がいとう)の翼を吹捲(ふきまく)りぬ。こはここに失せし母の賜ひしを、と端無(はしな)く彼は憶起(おもひおこ)して、さばかりは有(あり)のすさびに徳とも為ざりけるが、世間に量り知られぬ人の数の中に、誰か故無くして一紙(いつし)を与ふる者ぞ、我は今聘(へい)せられし測量地より帰来(かへりきた)れるなり。この学術とこの位置とを与へて恩と為ざりしは誰なるべき。外にこれを求むる能はず、重ねてこれを得べからざる父と母とは、相携へて杳(はるか)に迢(はるか)に隔つる世の人となりぬ。
炎々たる猛火の裏(うち)に、その父と母とは苦(くるし)み悶(もだ)えて援(たすけ)を呼びけんは幾許(いかばかり)ぞ。彼等は果して誰をか呼びつらん。思ここに到りて、直道が哀咽(あいえつ)は渾身(こんしん)をして涙に化し了(をは)らしめんとするなり。
「喜ぶなら世間の奴は喜んだが可いです。貴方(あなた)一箇(ひとり)のお心持で御両親は御満足なさるのですから。こんな事を申上げては実に失礼ですけれども、貴方が今日(こんにち)まで御両親をお持ちになつてゐられたのは、私(わたくし)などの身から見ると何よりお可羨(うらやまし)いので、この世の中に親子の情愛ぐらゐ詐(いつはり)の無いものは決して御座いませんな、私は十五の歳(とし)から孤児(みなしご)になりましたのですが、それは、親が附いてをらんと見縊(みくび)られます。余り見縊られたのが自棄(やけ)の本(もと)で、遂(つひ)に私も真人間に成損(なりそこな)つて了つたやうな訳で。固(もと)より己(おのれ)の至らん罪ではありますけれど、抑(そもそ)も親の附いてをらんかつたのが非常な不仕合(ふしあはせ)で、そんな薄命な者もかうして在るのですから、それはもう幾歳(いくつ)になつたから親に別れて可いと謂(い)ふ理窟(りくつ)はありませんけれど、聊(いささ)か慰むるに足ると、まあ、思召(おぼしめ)さなければなりません」
貫一のこの人に向ひて親く物言ふ今夜の如き例(ためし)はあらず、彼の物言はずとよりは、この人の悪(にく)み遠(とほざ)けたりしなり。故は、彼こそ父が不善の助手なれと、始より畜生視して、得べくば撲(う)つて殺さんとも念ずるなりければ、今彼が言(ことば)の端々(はしはし)に人がましき響あるを聞きて、いと異(あや)しと思へり。
「それでは、貴方真人間に成損(なりそこな)つたとお言ひのですな」
「さうでございます」
「さうすると、今は真人間ではないと謂ふ訳ですか」
「勿論(もちろん)でございます」
直道は俯(うつむ)きて言はざりき。
「いや貴方のやうな方に向つてこんな太腐(ふてくさ)れた事を申しては済みません。さあ、参りませうか」
彼はなほ俯(うつむ)き、なほ言はずして、頷(うなづ)くのみ。
夜は太(いた)く更(ふ)けにければ、さらでだに音を絶(た)てる寂静(しづかさ)はここに澄徹(すみわた)りて、深くも物を思入る苦しさに直道が蹂躙(ふみにじ)る靴の下に、瓦の脆(もろ)く割(わ)るるが鋭く響きぬ。地は荒れ、物は毀(こぼた)れたる中に一箇(ひとり)は立ち、一箇(ひとり)は偃(いこ)ひて、言(ことば)あらぬ姿の佗(わび)しげなるに照すとも無き月影の隠々と映添(さしそ)ひたる、既に彷彿(ほうふつ)として悲(かなしみ)の図を描成(ゑがきな)せり。
かくて暫(しばら)く有りし後、直道は卒然言(ことば)を出(いだ)せり。
「貴方、真人間に成つてくれませんか」
その声音(こわね)の可愁(うれはし)き底には情(なさけ)も籠(こも)れりと聞えぬ。貫一は粗(ほぼ)彼の意を暁(さと)れり。
「はい、難有(ありがた)うございます」
「どうですか」
「折角のお言(ことば)ではございますが、私(わたくし)はどうぞこのままにお措(お)き下さいまし」
「それは何為(なぜ)ですか」
「今更真人間に復(かへ)る必要も無いのです」
「さあ、必要は有りますまい。私も必要から貴方にお勧めするのではない。もう一度考へてから挨拶(あいさつ)をして下さいな」
「いや、お気に障(さは)りましたらお赦(ゆる)し下さいまし。貴方とは従来(これまで)浸々(しみじみ)お話を致した事もございませんで私といふ者はどんな人物であるか、御承知はございますまい。私の方では毎々お噂(うはさ)を伺つて、能(よ)く貴方を存じてをります。極潔(ごくきよ)いお方なので、精神的に傷(きずつ)いたところの無い御人物、さう云ふ方に対して我々などの心事を申上げるのは、実際恥入る次第で、言ふ事は一々曲つてゐるのですから、正(ただし)い、直(すぐ)なお耳へは入(い)らんところではない。逆ふのでございませう。で、潔い貴方と、拗(ねぢ)けた私とでは、始からお話は合はんのですから、それでお話を為る以上は、どうぞ何事もお聞流(ききながし)に願ひます」
「ああ、善く解りました」
「真人間になつてくれんかと有仰(おつしや)つて下すつたのが、私は非常に嬉(うれし)いのでございます。こんな商売は真人間の為る事ではない、と知つてゐながらかうして致してゐる私の心中、辛(つら)いのでございます。そんな思をしつつ何為(なぜ)してゐるか! 曰(いは)く言難(いひがた)しで、精神的に酷(ひど)く傷(きずつ)けられた反動と、先(ま)づ思召(おぼしめ)して下さいまし。私が酒が飲めたら自暴酒(やけざけ)でも吃(くら)つて、体(からだ)を毀(こは)して、それきりに成つたのかも知れませんけれど、酒は可(い)かず、腹を切る勇気は無し、究竟(つまり)は意気地の無いところから、こんな者に成つて了つたのであらうと考へられます」
彼の潔(きよ)しと謂ふなる直道が潔き心の同情は、彼の微見(ほのめか)したる述懐の為に稍(やや)動されぬ。
「お話を聞いて見ると、貴方が今日(こんにち)の境遇になられたに就いては、余程深い御様子が有るやう、どう云ふのですか、悉(くはし)く聞(きか)して下さいませんか」
「極愚(ぐ)な話で、到底お聞せ申されるやうな者ではないのです。又自分もこの事は他(ひと)には語るまい、と堅く誓つてゐるのでありますから、どうも申上げられません。究竟(つまり)或事に就いて或者に欺かれたのでございます」
「はあ、それではお話はそれで措(お)きませう。で、貴方もあんな家業は真人間の為べき事ではない、と十分承知してゐらるる、父などは決して愧(は)づべき事ではない、と謂つて剛情を張り通した。実に浅ましい事だと思ふから、或時は不如(いつそ)父の前で死んで見せて、最後の意見を為るより外は無い、と決心したことも有つたのです。父は飽くまで聴かん、私も飽くまで棄てては措(お)かん精神、どんな事をしても是非改心させる覚悟で居つたところ、今度の災難で父を失つた、残念なのは、改心せずに死んでくれたのだ、これが一生の遺憾(いかん)で。一時に両親(ふたおや)に別れて、死目にも逢(あ)はず、その臨終と謂へば、気の毒とも何とも謂ひやうの無い……凡(およ)そ人の子としてこれより上の悲(かなしみ)が有らうか、察し給へ。それに就けても、改心せずに死なしたのが、愈(いよい)よ残念で、早く改心さへしてくれたらば、この災難は免(のが)れたに違無い。いや私はさう信じてゐる。然し、過ぎた事は今更為方が無いから、父の代(かはり)に是非貴方に改心して貰(もら)ひたい。今貴方が改心して下されば、私は父が改心したも同じと思つて、それで満足するのです。さうすれば、必ず父の罪も滅びる、私の念も霽(は)れる、貴方も正い道を行けば、心安く、楽く世に送られる。
成程、お話の様子では、こんな家業に身を墜(おと)されたのも、已(や)むを得ざる事情の為とは承知してをりますが、父への追善、又その遺族の路頭に迷つてゐるのを救ふのと思つて、金を貸すのは罷(や)めて下さい。父に関した財産は一切貴方へお譲り申しますからそれを資本に何ぞ人をも益するやうな商売をして下されば、この上の喜(よろこび)は有りません。父は非常に貴方を愛してをつた、貴方も父を愛して下さるでせう。愛して下さるなら、父に代つて非を悛(あらた)めて下さい」
聴ゐる貫一は露の晨(あした)の草の如く仰ぎ視(み)ず。語り訖(をは)れども猶仰ぎ視ず、如何(いか)にと問るるにも仰ぎ視ざるなりけり。
忽(たちま)ち一閃(いつせん)の光ありて焼跡を貫く道の畔(ほとり)を照しけるが、その燈(ともしび)の此方(こなた)に向ひて近(ちかづ)くは、巡査の見尤(みとが)めて寄来(よりく)るなり。両箇(ふたり)は一様にみむかへて、待つとしもなく動かずゐたりければ、その前に到れる角燈の光は隈無(くまな)く彼等を曝(さら)しぬ。巡査は如何(いか)に驚きけんよ、かれもこれも各(おのおの)惨として蒼(あを)き面(おもて)に涙垂れたり――しかもここは人の泣くべき処なるか、時は正(まさ)に午前二時半。 
 
続金色夜叉

 

与紅葉山人書 学海居士
紅葉山人足下。僕幼嗜読稗史小説。当時行於世者。京伝三馬一九。及曲亭柳亭春水数輩。雖有文辞之巧麗。搆思之妙絶。多是舐古人之糟粕。拾兎園之残簡。聊以加己意焉耳。独曲亭柳亭二子較之余子。学問該博。熟慣典故。所謂換骨奪胎。頗有可観者。如八犬弓張侠客伝。及田舎源氏諸国物語類是也。然在当時。読此等書者。不過閭巷少年。畧識文字。間有渉猟史伝者。識見浅薄。不足以判其巧拙良否焉。而文学之士斥為鄙猥。為害風紊俗。禁子弟不得縦読。其風習可以見矣。」年二十一二。稍読水滸西遊金瓶三国紅楼諸書。兼及我源語竹取宇津保俊蔭等書。乃知稗史小説。亦文学之一途。不必止游戯也。而所最喜。在水滸金瓶紅楼。及源語。能尽人情之隠微。世態之曲折。用筆周到。渾思巧緻。而源氏之能描性情。文雅而思深。金瓶之能写人品。筆密而心細。蓋千古無比也。近時小説大行。少好文辞者。莫不争先攘臂其間。然率不過陋巷之談。鄙夫之事。至大手筆如金瓶源氏等者。寥乎無聞何也。僕及読足下所著諸書。所謂細心邃思者。知不使古人専美於上矣。多情多恨金色夜叉類。殆与金瓶源語相似。僕反覆熟読不能置也。惜範囲狭。而事跡微。地位卑而思想偏。未足以展布足下之大才矣。盍借一大幻境。以運思馳筆。必有大可観者。僕老矣。若得足下之一大著述。快読之。是一生之願也。足下以何如。 
第一章
時を銭(ぜに)なりとしてこれを換算せば、一秒を一毛に見積りて、壱人前(いちにんまへ)の睡量(ねぶりだか)凡(およ)そ八時間を除きたる一日の正味十六時間は、実に金五円七拾六銭に相当す。これを三百六十五日の一年に合計すれば、金弐千壱百〇弐円四拾銭の巨額に上るにあらずや。さればここに二十七日と推薄(おしつま)りたる歳末の市中は物情恟々(きようきよう)として、世界絶滅の期の終(つひ)に宣告せられたらんもかくやとばかりに、坐りし人は出でて歩み、歩みし人は走りて過ぎ、走りし人は足も空に、合ふさ離(き)るさの気立(けたたまし)く、肩相摩(けんあひま)しては傷(きずつ)き、轂相撃(こくあひう)ちては砕けぬべきをも覚えざるは、心々(こころごころ)に今を限(かぎり)と慌(あわ)て騒ぐ事ありて、不狂人も狂せるなり。彼等は皆過去の十一箇月を虚(あだ)に送りて、一秒の塵(ちり)の積める弐千余円の大金を何処(いづく)にか振落し、後悔の尾(しり)に立ちて今更に血眼(ちまなこ)をみひらき、草を分け、瓦を揆(おこ)しても、その行方(ゆくへ)を尋ねんと為るにあらざるなし。かかる間(ひま)にも常は止(ただ)一毛に値する一秒の壱銭乃至(ないし)拾銭にも暴騰せる貴々重々(ききちようちよう)の時は、速射砲を連発(つるべうち)にするが如く飛過(とびすぐ)るにぞ、彼等の恐慌は更に意言(こころことば)も及ばざるなる。
その平生(へいぜい)に怠無(おこたりな)かりし天は、又今日に何の変易(へんえき)もあらず、悠々(ゆうゆう)として蒼(あを)く、昭々として闊(ひろ)く、浩々(こうこう)として静に、しかも確然としてその覆(おほ)ふべきを覆ひ、終日(ひねもす)北の風を下(おろ)し、夕付(ゆふづ)く日の影を耀(かがやか)して、師走(しはす)の塵(ちり)の表(おもて)に高く澄めり。見遍(みわた)せば両行の門飾(かどかざり)は一様に枝葉の末広く寿山(じゆざん)の翠(みどり)を交(かは)し、十町(じつちよう)の軒端(のきば)に続く注連繩(しめなは)は、福海(ふくかい)の霞(かすみ)揺曳(ようえい)して、繁華を添ふる春待つ景色は、転(うた)た旧(ふ)り行く歳(とし)の魂(こん)を驚(おどろ)かす。
かの人々の弐千余円を失ひて馳違(はせちが)ふ中を、梅提げて通るは誰(た)が子、猟銃担(かた)げ行くは誰が子、妓(ぎ)と車を同(おなじ)うするは誰が子、啣楊枝(くはへようじ)して好き衣(きぬ)着たるは誰が子、或(あるひ)は二頭立(だち)の馬車を駆(か)る者、結納(ゆひのう)の品々担(つら)する者、雑誌など読みもて行く者、五人の子を数珠繋(ずずつなぎ)にして勧工場(かんこうば)に入(い)る者、彼等は各(おのおの)若干(そこばく)の得たるところ有りて、如此(かくのごと)く自ら足れりと為(す)るにかあらん。これ等の少(すこし)く失へる者は喜び、彼等の多く失へる輩(はい)は憂ひ、又稀(まれ)には全く失はざりし人の楽めるも、皆内には齷齪(あくそく)として、盈(み)てるは虧(か)けじ、虧けるは盈たんと、孰(いづれ)かその求むるところに急ならざるはあらず。人の世は三(みつ)の朝(あした)より花の昼、月の夕(ゆふべ)にもその思(おもひ)の外(ほか)はあらざれど、勇怯(ゆうきよう)は死地に入(い)りて始て明(あきらか)なる年の関を、物の数とも為(せ)ざらんほどを目にも見よとや、空臑(からすね)の酔(ゑひ)を踏み、鉄鞭(てつべん)を曳(ひ)き、一巻のブックを懐(ふところ)にして、嘉平治平(かへいじひら)の袴(はかま)の焼海苔(やきのり)を綴(つづ)れる如きを穿(うが)ち、フラネルの浴衣(ゆかた)の洗ひざらして垢染(あかぞめ)にしたるに、文目(あやめ)も分かぬ木綿縞(もめんじま)の布子(ぬのこ)を襲(かさ)ねて、ジォンソン帽の瓦色(かはらいろ)に化けたるを頂き、焦茶地の縞羅紗(しまらしや)の二重外套(にじゆうまわし)は何(いつ)の冬誰(た)が不用をや譲られけん、尋常(なみなみ)よりは寸の薄(つま)りたるを、身材(みのたけ)の人より豊なるに絡(まと)ひたれば、例の袴は風にや吹断(ふきちぎ)れんと危(あやふ)くも閃(ひらめ)きつつ、その人は齢(よはひ)三十六七と見えて、形や(かたちや)せたりとにはあらねど、寒樹の夕空に倚(よ)りて孤なる風情(ふぜい)、独(ひと)り負ふ気無(げな)く麗(うるはし)くも富める髭髯(ひげ)は、下には乳(ち)の辺(あたり)までさんさんと垂れて、左右に拈(ひね)りたるは八字の蔓(つる)を巻きて耳の根にもおよびぬ。打見(うちみ)れば面目(めんもく)爽(さはやか)に、稍傲(ややおご)れる色有れど峻(さかし)くはあらず、しかも今陶々然として酒興を発し、春の日長の野辺(のべ)を辿(たど)るらんやうに、西筋の横町をこの大路に出(い)で来(きた)らんとす。
「瓢(ひよう)空(むなし)く夜(よ)は静(しづか)にして高楼に上(のぼ)り、酒を買ひ、簾(れん)を巻き、月を邀(むか)へて酔(ゑ)ひ、酔中(すいちゆう)剣(けん)を払へば光(ひかり)月(つき)を射る」
彼は節(ふし)をかしく微吟を放ちて、行く行くかつ楽むに似たり。打晴れたる空は瑠璃色(るりいろ)に夕栄(ゆふば)えて、俄(にはか)に冴(さ)え勝(まさ)るこがらしの目口に沁(し)みて磨錻(とぎはり)を打つらんやうなるに、烈火の如き酔顔を差付けては太息嘘(ふといきふ)いて、右に一歩左に一歩とよろめきつつ、
「往々(おうおう)悲歌(ひか)して独(ひと)り流涕(りゆうてい)す、君山(くんざん)をさん却(さんきやく)して湘水(しようすい)平に桂樹(けいじゆ)をしやく却(しやくきやく)して月更(さら)に明(あきらか)ならんを、丈夫(じようふ)志有(こころざしあ)りて……」
と唱(うた)ひ出(い)づる時、一隊の近衛騎兵(このえきへい)は南頭(みなみがしら)に馬を疾(はや)めて、真一文字(まいちもんじ)に行手を横断するに会ひければ、彼は鉄鞭(てつべん)を植(た)てて、舞立つ砂煙(すなけむり)の中に魁(さきがけ)の花を装(よそほ)へる健児の参差(しんさ)として推行(おしゆ)く後影(うしろかげ)をば、壮(さかん)なる哉(かな)と謂(いは)まほしげに看送(みおく)りて、
「我(われ)四方(しほう)に遊びて意(こころ)を得ず、陽狂(ようきよう)して薬を施す成都の市(し)」
と漫(そぞろ)にその詩の首(はじめ)をば小声(こごゑ)朗(ほがらか)に吟じゐたり。さては往来(ゆきき)の遑(いとまな)き目も皆牽(ひか)れて、この節季の修羅場(しゆらば)を独(ひとり)天下(てんか)に吃(くら)ひ酔(ゑ)へるは、何者の暢気(のんき)か、自棄(やけ)か、豪傑か、悟(さとり)か、酔生児(のんだくれ)か、と異(あやし)き姿を見て過(すぐ)る有れば、面(おもて)を識らんと窺(うかが)ふ有り、又はその身の上など思ひつつ行くも有り。彼は太(いた)く酔(ゑ)へれば総(すべ)て知らず、町の殷賑(にぎはひ)を眺(なが)め遣(や)りて、何方(いづれ)を指して行かんとも心定らず姑(しばら)く立てるなりけり。
さばかり人に怪(あやし)まるれど、彼は今日のみこの町に姿を顕(あらは)したるにあらず、折々散歩すらんやうに出来(いでく)ることあれど、箇様(かよう)の酔態を認むるは、兼て注目せる派出所の巡査も希(めづら)しと思へるなり。
やがて彼は鉄鞭(てつべん)を曳鳴(ひきなら)して大路を右に出でしが、二町ばかりも行きて、乾(いぬゐ)の方(かた)より狭き坂道の開きたる角(かど)に来にける途端(とたん)に、風を帯びて馳下(はせくだ)りたる俥(くるま)は、生憎(あいにく)其方(そなた)によろめける酔客(すいかく)のよわごしの辺(あたり)を一衝撞(ひとあてあ)てたりければ、彼は郤含(はずみ)を打つて二間も彼方(そなた)へ撥飛(はねとば)さるると斉(ひとし)く、大地に横面擦(よこづらす)つて僵(たふ)れたり。不思議にも無難に踏留(ふみとどま)りし車夫は、この麁忽(そこつ)に気を奪れて立ちたりしが、面倒なる相手と見たりけん、そのまま轅(かぢ)を回して逃れんとするを、俥の上なる黒綾(くろあや)の吾妻(あづま)コオト着て、素鼠縮緬(すねずみちりめん)の頭巾被(づきんかぶ)れる婦人は樺色無地(かばいろむじ)の絹臘虎(きぬらつこ)の膝掛(ひざかけ)を推除(おしの)けて、駐(と)めよ、返せと悶(もだ)ゆるを、猶(なほ)聴かで曳々(えいえい)と挽(ひ)き行く後(うしろ)より、
「待て、こら!」と喝(かつ)する声に、行く人の始て事有りと覚(さと)れるも多く、はや車夫の不情を尤(とが)むる語(ことば)も聞ゆるに、耐(たま)りかねたる夫人は強(しひ)て其処(そこ)に下車して返り来(きた)りぬ。
例の物見高き町中なりければ、この忙(せはし)き際(きは)をも忘れて、寄来(よりく)る人数(にんず)は蟻(あり)の甘きを探りたるやうに、一面には遭難者の土に踞(つくば)へる周辺(めぐり)を擁し、一面には婦人の左右に傍(そ)ひて、目に物見んと揉立(もみた)てたり。婦人は途(みち)を来つつ被物(かぶりもの)を取りぬ。紋羽二重(もんはぶたへ)の小豆鹿子(あづきかのこ)の手絡(てがら)したる円髷(まるわげ)に、鼈甲脚(べつこうあし)の金七宝(きんしつぽう)の玉の後簪(うしろざし)を斜(ななめ)に、高蒔絵(たかまきゑ)の政子櫛(まさこぐし)を翳(かざ)して、粧(よそほひ)は実(げ)に塵(ちり)をも怯(おそ)れぬべき人の謂(い)ひ知らず思惑(おもひまど)へるを、可痛(いたは)しの嵐(あらし)に堪(た)へぬ花の顔(かんばせ)や、と群集(くんじゆ)は自(おのづか)ら声を歛(をさ)めて肝に徹(こた)ふるなりき。
いと更に面(おもて)の裹(つつ)まほしきこの場を、頭巾脱ぎたる彼の可羞(はづか)しさと切なさとは幾許(いかばかり)なりけん、打赧(うちあか)めたる顔は措(お)き所あらぬやうに、人堵(ひとがき)の内を急足(いそぎあし)に辿(たど)りたり。帽子も鉄鞭(てつべん)も、懐(ふところ)にせしブックも、薩摩下駄(さつまげた)の隻(かたし)も投散されたる中に、酔客(すいかく)は半ば身を擡(もた)げて血を流せる右の高頬(たかほ)を平手に掩(おほ)ひつつ寄来(よりく)る婦人を打見遣(うちみや)りつ。彼はその前に先(ま)づ懦(わるび)れず会釈して、
「どうも取んだ麁相(そそう)を致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目を打(ぶ)ちましたか、まあどうも……」
「いや太(たい)した事は無いのです」
「さやうでございますか。何処(どこ)ぞお痛め遊ばしましたでございませう」
腰を得立てずゐるを、婦人はなほ気遣(きづか)へるなり。
車夫は数次(あまたたび)腰(こし)を屈(かが)めて主人の後方(うしろ)より進出(すすみい)でけるが、
「どうも、旦那(だんな)、誠に申訳もございません、どうか、まあ平(ひら)に御勘弁を願ひます」
眼(まなこ)を其方(そなた)に転じたる酔客は恚(いか)れるとしもなけれど声粛(こゑおごそか)に、
「貴様は善くないぞ。麁相(そそう)を為たと思うたら何為(なぜ)車を駐(と)めん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を掻(かか)する」
「へい恐入りました」
「どうぞ御勘弁あそばしまして」
俥(くるま)の主の身を下(くだ)して辞(ことば)を添ふれば、彼も打頷(うちうなづ)きて、
「以来気を着けい、よ」
「へい……へい」
「早う行け、行け」
やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従の喜(よろこび)に引易(ひきか)へて、見物の飽気無(あつけな)さは更に望外なりき。彼等は幕の開かぬ芝居に会へる想して、余(あまり)に落着の蛇尾(だび)振はざるを悔みて、はや忙々(いそがはし)き踵(きびす)を回(かへ)すも多かりけれど、又見栄(みばえ)あるこの場の模様に名残(なごり)を惜みつつ去り敢(あ)へぬもありけり。
車夫は起ち悩める酔客を扶(たす)けて、履物(はきもの)を拾ひ、鞭(むち)を拾ひて宛行(あてが)へば、主人は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、懇(ねんごろ)に外套(がいとう)、袴(はかま)の泥を払はしめぬ。免(ゆる)されし罪は消えぬべきも、歴々(まざまざ)と挫傷(すりきず)のその面(おもて)に残れるを見れば、疚(やまし)きに堪へぬ心は、なほ為(な)すべき事あるを吝(をし)みて私(わたくし)せるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は可傷(いたま)しと眺(なが)めたりしに、その眼色(まなざし)は漸(やうや)く鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びては矚(まも)りつつ便無(びんな)げに佇(たたず)みけるに、いでや長居は無益(むやく)とばかり、彼は蹌踉(よろよろ)と踏出(ふみいだ)せり。
婦人はとにもかくにも遣過(やりすご)せしが、又何とか思直(おもひなほ)しけん、遽(にはか)に追行きて呼止めたり。頭(かしら)を捻向(ねぢむ)けたる酔客はくもれる眼(まなこ)を屹(き)と見据ゑて、自(われ)か他(ひと)かと訝(いぶか)しさに言(ことば)も出(いだ)さず。
「もしお人違(ひとちがひ)でございましたら御免あそばしまして。貴方(あなた)は、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」
「は?」彼は覚えず身を回(かへ)して、丁(ちよう)と立てたる鉄鞭に仗(よ)り、こは是(これ)白日の夢か、空華(くうげ)の形か、正体見んと為れど、酔眼の空(むなし)く張るのみにて、益(ますま)す霽(は)れざるは疑(うたがひ)なり。
「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」
「はあ? 荒尾です、私(わたくし)荒尾です」
「あの間(はざま)貫一を御承知の?」
「おお、間貫一、旧友でした」
「私(わたくし)は鴫沢(しぎさわ)の宮でございます」
「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰(おつしや)る……?」
「はい、間の居りました宅の鴫沢」
「おお、宮さん!」
奇遇に驚かされたる彼の酔(ゑひ)は頓(とみ)に半(なかば)は消えて、せめて昔の俤(おもかげ)を認むるや、とその人を打眺(うちなが)むるより外はあらず。
「お久しぶりで御座いました」
宮は懽(よろこ)び勇みて犇(ひし)と寄りぬ。
今は美(うつくし)き俥(くるま)の主ならず、路傍の酔客ならず名宣合(なのりあ)へるかれとこれとの思は如何(いかに)。間貫一が鴫沢の家に在りし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りて怜(いとし)かりし人にあらずや。その日の彼等は又同胞(はらから)にも得べからざる親(したしみ)を以(も)て、膝(ひざ)をも交(まじ)へ心をも語りしにあらずや。その日の彼等は多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇を算(かぞ)へざりしなり。よしさりとも、一(ひと)たび同胞(はらから)と睦合(むつみあ)へりし身の、弊衣(へいい)を飄(ひるがへ)して道に酔(ゑ)ひ、流車を駆りて富に驕(おご)れる高下(こうげ)の差別(しやべつ)の自(おのづか)ら種(しゆ)有りて作(な)せるに似たる如此(かくのごと)きを、彼等は更に更に夢(ゆめみ)ざりしなり。その算(かぞ)へざりし奇遇と夢(ゆめみ)ざりし差別(しやべつ)とは、咄々(とつとつ)、相携へて二人の身上(しんじよう)に逼(せま)れるなり。女気(をんなぎ)の脆(もろ)き涙ははや宮の目に湿(うるほ)ひぬ。
「まあ大相お変り遊ばしたこと!」
「貴方(あなた)も変りましたな!」
さしも見えざりし面(おもて)の傷の可恐(おそろし)きまでに益(ますま)す血を出(いだ)すに、宮は持たりしハンカチイフを与へて拭(ぬぐ)はしめつつ、心も心ならず様子を窺(うかが)ひて、
「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」
彼は何やらん吩咐(いひつ)けて車夫を遣りぬ。
「直(ぢき)この近くに懇意の医者が居りますから、其処(そこ)までいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」
「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」
「あれ、お殆(あぶな)うございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でお出(いで)あそばしまし」
「いんや、宜(よろし)い、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」
宮は胸先(むなさき)を刃(やいば)の透(とほ)るやうに覚(おぼ)ゆるなりき。
「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」
「然し、どうしてゐますか、無事ですか」
「はい……」
「決して、無事ぢやない筈(はず)です」
生きたる心地もせずして宮の慙(は)ぢ慄(をのの)ける傍(かたはら)に、車夫は見苦(みぐるし)からぬ一台の辻車(つじぐるま)を伴ひ来(きた)れり。漸(やうや)く面(おもて)を挙(あぐ)れば、いつ又寄りしとも知らぬ人立(ひとたち)を、可忌(いまはし)くも巡査の怪みて近(ちかづ)くなり。 
第二章
鬚深(ひげふか)き横面(よこづら)に貼薬(はりくすり)したる荒尾譲介(あらおじようすけ)は既に蒼(あを)く酔醒(ゑひさ)めて、煌々(こうこう)たる空気ラムプの前に襞だ(ひだ)もあらぬ袴(はかま)の膝(ひざ)を丈六(じようろく)に組みて、接待莨(せつたいたばこ)の葉巻を燻(くゆ)しつつ意気粛(おごそか)に、打萎(うちしを)れたる宮と熊の敷皮を斜(ななめ)に差向ひたり。こはこれ、彼の識(し)れると謂(い)ひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる西洋造の十畳間なり。物語ははや緒(いとぐち)を解きしなるべし。
「間(はざま)が影を隠す時、僕に遺(のこ)した手紙が有る、それで悉(くはし)い様子を知つてをるです。その手紙を見た時には、僕も顫(ふる)へて腹が立つた。直(すぐ)に貴方(あなた)に会うて、是非これは思返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられん、腹の癒(い)ゆるほど打のめして、一生結婚の成らんやう立派な不具(かたは)にしてくれやう、と既にその時は立上つたですよ。然し、間が言(ことば)を尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕の言(ことば)を容(い)れやう道理が無い。又間を嫌(きら)うた以上は、貴方は富山への売物じや。他(ひと)の売物に疵(きず)を附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢も楯(たて)も耐(たま)らん胸をさすつて了(しま)うたんです」
宮が顔を推当(おしあ)てたる片袖(かたそで)の端(はし)より、連(しきり)に眉(まゆ)の顰(ひそ)むが見えぬ。
「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつた間(はざま)さへが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理も無いぢやらう。僕は僕として貴方を怨(うら)むばかりでは慊(あきた)らん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、七生(しちしよう)まで怨む、きつと怨む!」
終(つひ)に宮が得堪(えた)へぬ泣音(なくね)は洩(も)れぬ。
「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が一婦女子(いつぷじよし)に棄てられたが為に志を挫(くじ)いて、命を抛(なげう)つたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、別に間として大いに責めんけりやならん。然し、間が如何(いか)に不心得であらうと、貴方の罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てた故(ゆゑ)に、彼が今日(こんにち)の有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女の操(みさを)を破つたのみでない。併(あは)せて夫を刺殺(さしころ)したも……」
宮は慄然(りつぜん)として振仰ぎしが、荒尾の鋭き眥(まなじり)は貫一が怨(うらみ)も憑(うつ)りたりやと、その見る前に身の措所無(おきどころな)く打竦(うちすく)みたり。
「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の悔悟(かいご)されたのは善い、これは人として悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら今日(こんにち)に及んでの悔悟は業(すで)に晩(おそ)い。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水は覆(くつがへ)つた。盆は破れて了(しま)うたんじや。かう成つた上は最早(もはや)神の力も逮(およ)ぶことではない。お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自ら作(な)せる罪の報(むくい)で、固よりかく有るべき事ぢやらうと思ふ」
宮は俯(うつむ)きてよよと泣くのみ。
吁(ああ)、吾が罪! さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪! その吾が罪の深さは、あの人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思知る時有らんと言ひしその人の、争(いか)で争で吾が罪を容(ゆる)すべき。吁(ああ)、吾が罪は終(つひ)に容(ゆる)されず、吾が恋人は終に再び見る能はざるか。
宮は胸潰(むねつぶ)れて、涙の中に人心地(ひとここち)をも失はんとすなり。
おのれ、利を見て愛無かりし匹婦(ひつぷ)、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがに情(じよう)は動くなりき。宮は際無(はてしな)く顔を得挙(えあ)げずゐたり。
「然し、好う悔悟を作(なす)つた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟に因(よ)つて自ら容されたんじや」
由無(よしな)き慰藉(なぐさめ)は聞かじとやうに宮は俯(ふ)しながら頭(かしら)を掉(ふ)りて更に泣入りぬ。
「自(みづから)にても容されたのは、誰(たれ)にも容されんのには勝(まさ)つてをる。又自ら容さるるのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうと謂(い)ふもの。僕は未(ま)だ未だ容し難く貴方を怨む、怨みは為るけれど、今日(こんにち)の貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察するからには、他の者の間(はざま)の胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうして孰(いづれ)が多く憐(あはれ)むべきであるかと謂へば、間の無念は抑(そもそも)どんなぢやらうか、なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外は無い。
かうして今日(こんにち)図らずお目に掛つた。僕は婦人として生涯の友にせうと思うた人は、後にも先にも貴方ばかりじや。いや、それは段々お世話にもなつた、忝(かたじけな)いと思うた事も幾度(いくたび)か知れん、その媛友(レディフレンド)に何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕も実に可懐(なつかし)う思ひました」
宮は泣音(なくね)の迸(ほとばし)らんとするを咬緊(くひし)めて、濡浸(ぬれひた)れる袖(そで)に犇々(ひしひし)と面(おもて)を擦付(すりつ)けたり。
「けれど又、円髷(まるわげ)に結うて、立派にしてゐらるるのを見りや、決(け)して可愛(かはゆ)うはなかつた。幸ひ貴方が話したい事が有ると言(いは)るる、善し、あの様に間を詐(いつは)つた貴方じや、又僕を幾何(どれ)ほど詐ることぢやらう、それを聞いた上で、今日こそは打のめしてくれやうと待つてをつた。然るに、貴方の悔悟、僕は陰(ひそか)に喜んで聴いたのです。今日(こんにち)の貴方はやはり僕の友(フレンド)の宮さんぢやつた。好う貴方悔悟なすつた! さも無かつたら、貴方の顔にこの十倍の疵(きず)を附けにや還(かへ)さんぢやつたのです。なあ、自ら容されたのは人に赦さるる始――解りましたか。
で、間に取成してくれい、詑(わび)を言うてくれい、とのお嘱(たのみ)ぢやけれど、それは僕は為(せ)ん。為んのは、間に対してどうも出来んのぢやから。又貴方に罪有りと知つてをりながらその人から頼まるる僕でない。又僕が間であつたらば、断じて貴方の罪は容さんのぢやから。
かうして親友の敵(かたき)に逢うてからに、指も差さずに別るる、これが荒尾の貴方に対する寸志と思うて下さい。いや、久しぶりで折角お目に掛りながら、可厭(いや)な言(こと)ばかり聞せました。それぢや、まあ、御機嫌好(ごきげんよ)う、これでお暇(いとま)します」
会釈して荒尾の身を起さんとする時、
「暫(しばら)く、どうぞ」宮は取乱したる泣顔を振挙(ふりあ)げて、重き瞼(まぶた)の露を払へり。
「それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑を為(なす)つては下さらないので御座いますか。さうして貴方もやはり私(わたくし)を容(ゆる)さんと有仰(おつしや)るので御座いますか」
「さうです」
忙(せは)しげに荒尾は片膝(かたひざ)立ててゐたり。
「どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、唯今(ただいま)直(ぢき)に御飯が参りますですから」
「や、飯(めし)なら欲うありませんよ」
「私は未だ申上げたい事が有るのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし」
「いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか」
「そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう堪忍(かんにん)なすつて下さいまし」
火鉢(ひばち)の縁(ふち)に片手を翳(かざ)して、何をか打案ずる様(さま)なる目をそらしつつ荒尾は答へず。
「荒尾さん、それでは、とてもお聴入(ききいれ)はあるまいと私は諦(あきら)めましたから、貫一(かんいつ)さんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」
咄嗟(とつさ)に荒尾の視線は転じて、猶語続(かたりつづく)る宮が面(おもて)を掠(かす)め去(さ)りぬ。
「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何(いか)にも悪かつた事を思ふ存分謝(あやま)りたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本望なのでございます。素(もと)より容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してくれやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。私はもう覚悟を致し……」
宮は苦しげに涙を呑みて、
「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下されば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましても可(よ)いので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さして下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」
感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、忽(たちま)ちその長き髯(ひげ)を振りて頷(うなづ)けり。
「うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好う言(いは)れた。さうなけりやならんじや。然し、なあ、然しじや、貴方は今は富山の奥さん、唯継(ただつぐ)と云ふ夫の有る身じや、滅多な事は出来んですよ」
「私はかまひません!」
「可かん、そりや可かん。間に殺されても辞せんと云ふその悔悟は可いが、それぢや貴方は間有るを知つて夫有るのを知らんのじや。夫はどうなさるなあ、夫に道が立たん事になりはせまいか、そこも考へて貰はにやならん。
して見りや、始には富山が為に間を欺き、今又間の為に貴方(あなた)は富山を欺くんじや。一人ならず二人欺くんじや! 一方には悔悟して、それが為に又一方に罪を犯したら、折角の悔悟の効は没(なくな)つて了ふ」
「そんな事はかまひません!」
無慙(むざん)に唇(くちびる)を咬(か)みて、宮は抑へ難くも激せるなり。
「かまはんぢや可かん」
「いいえ、かまひません!」
「そりや可かん!」
「私(わたくし)はもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、疾(とう)から棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富山の事などは……不如(いつそ)さうして死んで了ひたいので御座います」
「それそれさう云ふ無考(むかんがへ)な、訳の解らん人に僕は与(くみ)することは出来んと謂ふんじや。一体さうした貴方は了簡(りようけん)ぢやからして、始に間をも棄てたんじや。不埓(ふらち)です! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了簡であつて見りや、僕は寧(むし)ろ富山を不憫(ふびん)に思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を有つた富山その人の不幸を愍(あはれ)まんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕は同情を表する、愈(いよい)よ憎むべきは貴方じや」
四途乱(しどろ)に湿(うるほ)へる宮の目は焚(も)ゆらんやうに耀(かがや)けり。
「さう有仰(おつしや)つたら、私はどうして悔悟したら宜(よろし)いので御座いませう。荒尾さん、どうぞ助けると思召(おぼしめ)してお誨(をし)へなすつて下さいまし」
「僕には誨へられんで、貴方がまあ能(よ)う考へて御覧なさい」
「三年も四年も前から一日でもその事を考へません日と云つたら無いのでございます。それが為に始終悒々(ぶらぶら)と全(まる)で疾(わづら)つてをるやうな気分で、噫(ああ)もうこんななら、いつそ死んで了(しま)はう、と熟(つくづ)くさうは思ひながら、唯(たつた)もう一目、一目で可うございますから貫一(かんいつ)さんに逢ひませんでは、どうも死ぬにも死なれないので御座います」
「まあ能う考へて御覧なさい」
「荒尾さん、貴方それでは余(あんま)りでございますわ」
独(ひとり)に余る心細さに、宮は男の袂(たもと)を執りて泣きぬ。理切(ことわりせ)めて荒尾もその手を払ひかねつつ、吾ならぬ愁に胸塞(むねふさが)れて、実(げ)にもと覚ゆる宮が衰容(やつれすがた)に眼(まなこ)を凝(こら)しゐたり。
「荒尾さん、こんなに思つて私は悔悟してをるのぢやございませんか、昔の宮だと思召して頼(たのみ)に成つて下さいまし。どうぞ、荒尾さん、どうぞ、さあ、お誨(をし)へなすつて下さいまし」
涙に昏(く)れてその語(ことば)は能くも聞えず、階子下(はしごした)の物音は膳運(ぜんはこ)び出(い)づるなるべし。
果して人の入来(いりき)て、夕餉(ゆふげ)の設(まうけ)すとて少時(しばし)紛(まぎら)されし後、二人は謂(い)ふべからざる佗(わびし)き無言の中に相対(あひたい)するのみなりしを、荒尾は始て高く咳(しはぶ)きつ。
「貴方の言るる事は能(よ)う解つてをる、決して無理とは思はんです。如何(いか)にも貴方に誨へて上げたい、誨へて貴方の身の立つやうな処置で有るなら、誨へて上げんぢやないです。けれどもじや、それが誨へて上げられんのは、僕が貴方であつたらかう為ると云ふ考量(かんがへ)に止(とどま)るので……いや、いや、そりや言(いは)れん。言うて善い事なら言ひます、人に対して言ふべき事でない、况(いはん)や誨ふべき事ではない、止(た)だ僕一箇の了簡として肚(はら)の中に思うたまでの事、究竟(つまり)荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、然し猶能(なほよ)う考へて見て、貴方に誨へらるる方法を見出(みいだ)したら、更にお目に掛つて申上げやう。折が有つたら又お目に掛ります。は、僕の居住(すまひ)? 居住は、まあ言はん方が可い、蜑(あま)が子(こ)なれば宿も定めずじや。言うても差支(さしつかへ)は無いけれど、貴方に押掛けらるると困るから、まあ言はん。は、如何(いか)にも、こんな態(なり)をしてをるので、貴方は吃驚(びつくり)なすつたか、さうでせう。自分にも驚いてをるのぢやけれどどうも為方が無い。僕の身の上に就ては段々子細が有るですとも、それもお話したいけれど、又この次に。
酒は余り飲むな? はあ、今日のやうに酔うた事は希(まれ)です。忝(かたじけな)い、折角の御忠告ぢやから今後は宜(よろし)い、気を着くるです。
力に成つてくれと言うたとて、義として僕は貴方の力には成れんぢやないですか。貴方の胸中も聴いた事ぢやから、敵にはなるまい、けれど力には成られんですよ。
間にもその後逢はんのですとも。一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事も頗(すこぶ)る有るのぢやけれども。訪ねもせんので。それにや一向意味は無いですとも。はあ、一遍訪ねませう。明日(あす)訪ねてくれい? さうは可(い)かん、僕もこれでなかなか用が有るのぢやから。ああ、貴方も浮世(うきよ)が可厭(いや)か、僕も御同様じや。世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠に面倒なもので、僕なども今日(こんにち)の有様では生効(いきがひ)の無い方じやけれど、このままで空(むなし)く死ぬるも残念でな、さう思うて生きてはをるけれど、苦しみつつ生きてをるなら、死んだ方が無論勝(まし)ですさ。何故(なにゆゑ)命が惜いのか、考へて見ると頗(すこぶ)る解(わから)なくなる」
語りつつ彼は食を了(をは)りぬ。
「嗚呼(ああ)、貴方に給仕して貰ふのは何年ぶりと謂ふのかしらん。間も善う食うた」
宮は差含(さしぐ)む涙を啜(すす)れり。尽きせぬ悲(かなしみ)を何時までか見んとやうに荒尾は俄(にはか)に身支度して、
「こりや然し却(かへ)つてお世話になりました。それぢや宮さん、お暇(いとま)」
「あれ、荒尾さん、まあ、貴方……」
はや彼は起てるなり。宮はその前に塞(ふさが)りて立ちながら泣きぬ。
「私はどうしたら可いのでせう」
「覚悟一つです」
始て誨(をし)ふるが如く言放ちて荒尾の排(かきの)け行かんとするを、彼は猶も縋(すが)りて、
「覚悟とは?」
「読んで字の如し」
驚破(すはや)、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りも遣(や)らぬ宮が姿は、寂(さびし)くも壁に向ひて動かざりけり。 
第三章
門々(かどかど)の松は除かれて七八日(ななやうか)も過ぎぬれど、なほ正月機嫌(きげん)の失せぬ富山唯継は、今日も明日(あす)もと行処(ゆきどころ)を求めては、夜をひに継ぎて打廻(うちめぐ)るなりけり。宮は毫(いささ)かもこれも咎(とが)めず、出づるも入(い)るも唯彼の為(な)すに任せて、あだかも旅館の主(あるじ)の為(す)らんやうに、形(かた)ばかりの送迎を怠らざると謂(い)ふのみ。
この夫に対する仕向(しむけ)は両三年来の平生(へいぜい)を貫きて、彼の性質とも病身の故(ゆゑ)とも許さるるまでに目慣(めなら)されて又彼方(あなた)よりも咎められざるなり。それと共に唯継の行(おこなひ)も曩日(さきのひ)とは漸(やうや)く変りて、出遊(であそび)に耽(ふけ)らんとする傾(かたむき)も出(い)で来(き)しを、浅瀬(あさせ)の浪(なみ)と見(み)し間(ま)も無く近き頃より俄(にはか)に深陥(ふかはまり)して浮(うか)るると知れたるを、宮は猶(なほ)しも措(お)きて咎めず。他(ひと)は如何(いか)にとも為(せ)よ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易(こころやす)さを偸(ぬす)みて、異(あやし)き女夫(めをと)の契を繋(つな)ぐにぞありける。
かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終の憂(うき)に瘁(やつ)れたる宮は決して美(うつくし)き色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛は虧(か)くべきにあらざりき。抑(そもそ)もここに嫁(とつ)ぎしより一点の愛だに無かりし宮の、今に到りては啻(ただ)に愛無きに止(とどま)らずして、陰(ひそか)に厭(いと)ひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の楽からざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でて憂(うさ)を霽(はら)すに忙(いそがはし)きにあらずや。されども彼の忘れず塒(ねぐら)に帰り来(きた)るは、又この妻の美き顔を見んが為のみ。既にその顔を見了(みをは)れば、何ばかりの楽(たのしみ)のあらぬ家庭は、彼をして火無き煖炉(ストオブ)の傍(かたはら)に処(をら)しむるなり。彼の凍えて出(い)でざること無し。出(い)づれば幸ひにその金力に頼(よ)りて勢を得、媚(こび)を買ひて、一時の慾を肆(ほしいま)まにし、其処(そこ)には楽むとも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮が空(むなし)き色香(いろか)に溺(おぼ)れて、内にはかかる美きものを手活(ていけ)の花と眺(なが)め、外には到るところに当世のはぶしを鳴して推廻(おしまは)すが、此上無(こよな)う紳士の願足れりと心得たるなり。
いで、その妻は見るも厭(いとはし)き夫の傍(そば)に在る苦を片時も軽くせんとて、彼の繁(しげ)き外出(そとで)を見赦(みゆる)して、十度(とたび)に一度(ひとたび)も色を作(な)さざるを風引(かぜひ)かぬやうに召しませ猪牙(ちよき)とやらの難有(ありがた)き賢女の志とも戴(いただ)き喜びて、いと堅き家の守とかつは等閑(なほざり)ならず念(おも)ひにけり。さるは独(ひと)り夫のみならず、本家の両親を始(はじめ)親属知辺(しるべ)に至るまで一般に彼の病身を憫(あはれ)みて、おとなしき嫁よと賞(ほ)め揚(そや)さぬはあらず。実(げ)に彼は某(なにがし)の妻のやうに出行(である)かず、くれがしの夫人(マダム)のやうに気儘(きまま)ならず、又は誰々(たれだれ)の如く華美(はで)を好まず、強請事(ねだりごと)せず、しかもそれ等の人々より才も容(かたち)も立勝(たちまさ)りて在りながら、常に内に居て夫に事(つか)ふるより外(ほか)を為(せ)ざるが、最怜(いとを)しと見ゆるなるべし。宮が裹(つつ)める秘密は知る者もあらず、躬(みづから)も絶えて異(あやし)まるべき穂を露(あらは)さざりければ、その夫に事(つか)へて捗々(はかばか)しからぬ偽(いつはり)も偽とは為られず、却(かへ)りて人に憫(あはれ)まるるなんど、その身には量無(はかりな)き幸(さいはひ)を享(う)くる心の内に、独(ひと)り遣方無(やるかたな)く苦める不幸は又量無しと為ざらんや。
十九にして恋人を棄てにし宮は、昨日(きのふ)を夢み、今日を嘆(かこ)ちつつ、過(すぐ)せば過さるる月日を累(かさ)ねて、ここに二十(はたち)あまり五(いつつ)の春を迎へぬ。この春の齎(もたら)せしものは痛悔と失望と憂悶(ゆうもん)と、別に空(むなし)くその身を老(おい)しむる齢(よはひ)なるのみ。彼は釈(ゆるさ)れざる囚(とらはれ)にも同(おなじ)かる思を悩みて、元日の明(あく)るよりいとど懊悩(おうのう)の遣る方無かりけるも、年の始といふに臥(ふ)すべき病(やまひ)ならねば、起きゐるままに本意ならぬ粧(よそほひ)も、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、猶(なほ)甚(はなはだし)き浅ましさをその人の陰(かげ)に陽(ひなた)に恨み悲むめり。
宮は今外出せんとする夫の寒凌(さむさしの)ぎに葡萄酒(ぶどうしゆ)飲む間(ま)を暫(しばら)く長火鉢(ながひばち)の前に冊(かしづ)くなり。木振賤(きぶりいやし)からぬ二鉢(ふたはち)の梅の影を帯びて南縁の障子に上(のぼ)り尽せる日脚(ひざし)は、袋棚(ふくろだな)に据ゑたる福寿草(ふくじゆそう)の五六輪咲揃(さきそろ)へる葩(はなびら)に輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は昼眩(ひるまばゆ)き新調の三枚襲(さんまいがさね)を着飾りてその最も珍(ちん)と為る里昂(リヨン)製の白の透織(すかしおり)の絹領巻(きぬえりまき)を右手(めて)に引つくろひ、左に宮の酌を受けながら、
「あ、拙(まづ)い手付(てつき)……ああ零(こぼ)れる、零れる! これは恐入つた。これだからつい余所(よそ)で飲む気にもなりますと謂(い)つて可い位のものだ」
「ですから多度上(たんとあが)つていらつしやいまし」
「宜(よろし)いかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」
「何時頃お帰来(かへり)になります」
「遅いよ」
「でも大約(おほよそ)時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」
「遅いよ」
「それぢや十時には皆(みんな)寝みますから」
「遅いよ」
又言ふも煩(わづらはし)くて宮は口を閉ぢぬ。
「遅いよ」
「…………」
「驚くほど遅いよ」
「…………」
「おい、些(ちよつ)と」
「…………」
「おや。お前慍(おこ)つたのか」
「…………」
「慍らんでも可いぢやないか、おい」
彼は続け様に宮の袖(そで)を曳けば、
「何を作(なさ)るのよ」
「返事を為んからさ」
「お遅(おそ)いのは解りましたよ」
「遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌(きげん)を直すべし」
「お遅いなら、お遅いで宜(よろし)うございますから……」
「遅くはないと言ふに、お前は近来直(ぢき)に慍るよ、どう云ふのかね」
「一つは病気の所為(せゐ)かも知れませんけれど」
「一つは俺の浮気の所為かい。恐入つたね」
「…………」
「お前一つ飲まんかい」
「私(わたくし)沢山」
「ぢや俺が半分助(す)けて遣るから」
「いいえ、沢山なのですから」
「まあさう言はんで、少し、注(つ)ぐ真似(まね)」
「欲くもないものを、貴方は」
「まあ可いさ。お酌は、それかう云ふ塩梅(あんばい)に、愛子流かね」
妓(ぎ)の名を聞ける宮の如何(いか)に言ふらん、と唯継は陰(ひそか)に楽み待つなる流眄(ながしめ)を彼の面(おもて)に送れるなり。
宮は知らず貌(がほ)に一口の酒を喞(ふく)みて、眉(まゆ)を顰(ひそ)めたるのみ。
「もう飲めんのか。ぢや此方(こつち)にお寄来(よこ)し」
「失礼ですけれど」
「この上へもう一盃注(いつぱいつ)いで貰はう」
「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」
「可いよ、この二三日は別に俺の為る用は無いのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ」
「さうでございますか」
「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習(おほざらひ)が有るといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川(いとがわ)の処へ集つて下温習(したざらひ)を為るのさ。俺は、それお特得(はこ)の、「親々(おやおや)に誘(いざな)はれ、難波(なにわ)の浦(うら)を船出(ふなで)して、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待(かぜまち)にテチンチンツン……」
厭(いとは)しげに宮の余所見(よそみ)せるに、乗地(のりぢ)の唯継は愈(いよい)よ声を作りて、
「たまたま逢ひはア――ア逢ひイ――ながらチツンチツンチツンつれなき嵐(あらし)に吹分(ふきわ)けられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアア父(ちち)イイイイ母(はは)のチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定(つまさだめ)……」
「貴方もう好加減(いいかげん)になさいましよ」
「もう少し聴いてくれ、〔立つる操(みさを)を破ら……」
「又寛(ゆつく)り伺ひますから、早くいらつしやいまし」
「然し、巧くなつたらう、ねえ、些(ちよつ)と聞けるだらう」
「私には解りませんです」
「これは恐入つた、解らないのは情無いね。少し解るやうに成つて貰(もら)はうか」
「解らなくても宜うございます」
「何、宜いものか、浄瑠璃(じようるり)の解らんやうな頭脳(あたま)ぢや為方(しかた)が無い。お前は一体冷淡な頭脳(あたま)を有(も)つてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違無い。どうもさうだ」
「そんな事はございません」
「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」
「愛子はどうでございます」
「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」
「それで能く解りました」
「何が解つたのか」
「解りました」
「些(ちつと)も解らんよ」
「まあ可(よ)うございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」
「うう、これは恐入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」
「私は何時(いつ)でも待つてをりますぢや御座いませんか」
「これは冷淡でない!」
漸(やうや)く唯継の立起(たちあが)れば、宮は外套(がいとう)を着せ掛けて、不取敢(とりあへず)彼に握手を求めぬ。こは決(け)して宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、故(ゆゑ)は、この女夫(めをと)の出入(しゆつにゆう)に握手するは、夫の始より命じて習せし躾(しつけ)なるをや。 
(三)の二
夫を玄関に送り出(い)でし宮は、やがて氷の窖(あなぐら)などに入(い)るらん想(おもひ)しつつ、是非無き歩(あゆみ)を運びて居間に還(かへ)りぬ。彼はその夫と偕(とも)に在るを謂(い)はんやう無き累(わづらひ)と為(す)なれど、又その独(ひとり)を守りてこの家に処(おか)るるをも堪(た)へ難く悒(いぶせ)きものに思へるなり。必(かならず)しも力(つと)むるとにはあらねど、夫の前には自(おのづか)ら気の張ありて、とにかくにさるべくは振舞へど恣(ほしいま)まなる身一箇(みひとつ)となれば、遽(にはか)に慵(ものう)く打労(うちつか)れて、心は整へん術(すべ)も知らず紊(みだ)れに乱るるが常なり。
火鉢(ひばち)に倚(よ)りて宮は、我を喪(うしな)へる体(てい)なりしが、如何(いか)に思入(おもひい)り、思回(おもひまは)し思窮(おもひつ)むればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、終(つひ)に明けぬ闇(やみ)に彷徨(さまよ)へる可悲(かな)しさは、在るにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁に出(い)でたり。
麗(うるはし)く冱(さ)えたる空は遠く三四(みつよつ)の凧(いか)の影を転じて、見遍(みわた)す庭の名残(なごり)無く冬枯(ふゆか)れたれば、浅露(あからさま)なる日の光の眩(まばゆ)きのみにて、啼狂(なきくる)ひし梢(こずゑ)の鵯(ひよ)の去りし後は、隔てる隣より戞々(かつかつ)と羽子(はね)突く音して、なかなかここにはその寒さを忍ぶ値(あたひ)あらぬを、彼はされども少時(しばし)居て、又空を眺(なが)め、又冬枯(ふゆがれ)を見遣(みや)り、同(おなじ)き日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、抑(おさ)へんとはしたりけれども抑へ難さの竟(つひ)に苦く、再び居間に入(い)ると見れば、其処(そこ)にも留らで書斎の次なる寝間(ねま)に入(い)るより、身を抛(なげう)ちてベットに伏したり。
厚き蓐(しとね)の積れる雪と真白き上に、乱畳(みだれたた)める幾重(いくへ)の衣(きぬ)の彩(いろどり)を争ひつつ、妖(あで)なる姿を意(こころ)も介(お)かず横(よこた)はれるを、窓の日の帷(カアテン)を透(とほ)して隠々(ほのぼの)照したる、実(げ)に匂(にほひ)も零(こぼ)るるやうにして彼は浪(なみ)に漂ひし人の今打揚(うちあ)げられたるも現(うつつ)ならず、ほとほと力竭(ちからつ)きて絶入(たえい)らんとするが如く、止(た)だ手枕(てまくら)に横顔を支へて、力無き眼(まなこ)をみはれり。竟(つひ)には溜息(ためいき)つきてその目を閉づれば、片寝に倦(う)める面(おもて)を内向(うちむ)けて、裾(すそ)の寒さを佗(わび)しげに身動(みうごき)したりしが、猶(なほ)も底止無(そこひな)き思の淵(ふち)は彼を沈めてのがさざるなり。
隅棚(すみだな)の枕時計は突(はた)と秒刻(チクタク)を忘れぬ。益(ますま)す静に、益す明かなる閨(ねや)の内には、空(むな)しとも空(むなし)き時の移るともなく移るのみなりしが、忽(たちま)ち差入る鳥影の軒端(のきば)に近く、俯(ふ)したる宮が肩頭(かたさき)に打連(うちつらな)りて飜(ひらめ)きつ。
やや有りて彼は嬾(しどな)くベットの上に起直りけるが、鬢(びん)の縺(ほつ)れし頭(かしら)を傾(かたぶ)けて、帷(カアテン)の隙(ひま)より僅(わづか)に眺めらるる庭の面(おも)に見るとしもなき目を遣りて、当所無(あてどな)く心の彷徨(さまよ)ふ蹤(あと)を追ふなりき。
久からずして彼はここをも出でて又居間に還れば、直(ぢき)に箪笥(たんす)の中より友禅縮緬(ゆうぜんちりめん)の帯揚(おびあげ)を取出(とりいだ)し、心に籠(こ)めたりし一通の文(ふみ)とも見ゆるものを抜きて、こたびは主(あるじ)の書斎に持ち行きて机に向へり。その巻紙は貫一が遺(のこ)せし筆の跡などにはあらで、いつかは宮の彼に送らんとて、別れし後の思の丈(たけ)を窃(ひそか)に書聯(かきつら)ねたるものなりかし。
往年(さいつとし)宮は田鶴見(たずみ)の邸内に彼を見しより、いとど忍びかねたる胸の内の訴へん方(かた)もあらぬ切なさに、唯心寛(ただこころゆかし)の仮初(かりそめ)に援(と)りける筆ながら、なかなか口には打出(うちいだ)し難き事を最好(いとよ)く書きて陳(つづ)けも為(せ)しを、あはれかのひとの許(もと)に送りて、思ひ知りたる今の悲しさを告げばやと、一図の意(こころ)をも定めしが、又案ずれば、その文は果して貫一の手に触れ、目にも入るべきか。よしさればとて、憎み怨(うら)める怒(いかり)の余に投返されて、人目に曝(さら)さるる事などあらば、徒(いたづら)に身を滅(ほろぼ)す疵(きず)を求めて終りなんをと、遣れば火に入る虫の危(あやふ)く、捨つるは惜くも、やがて好き首尾の有らんやうに拠無(よりどころな)き頼を繋(か)けつつ、彼は懊悩(おうのう)に堪へざる毎に取出でては写し易(か)ふる傍(かたは)ら、或(ある)は書添へ、或は改めなどして、この文に向へば自(おのづか)らその人に向ふが如く、その人に向ひてはほとほと言尽(いひつく)して心残(こころのこり)のあらざる如く、止(ただ)これに因(よ)りて欲するままの夢をも結ぶに似たる快きを覚ゆるなりき。かくして得送らぬ文は写せしも灰となり、反古(ほご)となりて、彼の帯揚に籠(こ)められては、いつまで草の可哀(あはれ)や用らるる果も知らず、宮が手習は実(げ)に久(ひさし)うなりぬ。
些箇(かごと)に慰められて過せる身の荒尾に邂逅(めぐりあ)ひし嬉しさは、何に似たりと謂(い)はんも愚(おろか)にて、この人をこそ仲立ちて、積る思を遂(と)げんと頼みしを、仇(あだ)の如く与(くみ)せられざりし悲しさに、さらでも切なき宮が胸は掻乱(かきみだ)れて、今は漸(やうや)く危きを懼(おそ)れざる覚悟も出(い)で来て、いつまで草のいつまでかくてあらんや、文は送らんと、この日頃思ひ立ちてけり。
紙の良きを択(えら)び、筆の良きを択び、墨の良きを択び、彼は意(こころ)してその字の良きを殊(こと)に択びて、今日の今ぞ始めて仮初(かりそめ)ならず写さんと為(す)なる。打顫(うちふる)ふ手に十行余(あまり)認(したた)めしを、つと裂きて火鉢に差しく(さしく)べければ、焔(ほのほ)の急に炎々と騰(のぼ)るを、可踈(うとま)しと眺めたる折しも、紙門(ふすま)を啓(あ)けてその光に惧(おび)えし婢(をんな)は、覚えず主(あるじ)の気色(けしき)を異(あやし)みつつ、
「あの、御本家の奥様がお出(い)で遊ばしました」 
第四章
主(あるじ)夫婦を併(あは)せて焼亡(しようぼう)せし鰐淵(わにぶち)が居宅は、さるほど貫一の手に頼(よ)りてその跡に改築せられぬ、有形(ありがた)よりは小体(こてい)に、質素を旨としたれど専(もつぱ)ら旧(さき)の構造を摸(うつ)して差(たが)はざらんと勉(つと)めしに似たり。
間貫一と陶札を掲げて、彼はこの新宅の主(あるじ)になれるなり。家督たるべき直道は如何(いか)にせし。彼は始よりこの不義の遺産に手をも触れざらんと誓ひ、かつこれを貫一に与へて、その物は正業の資たれ。その人は改善の人たれと冀(こひねがひ)しを、貫一は今この家の主(ぬし)となれるに、なほ先代の志を飜(ひるがへ)さずして、益(ますま)す盛(さかん)に例の貪(むさぼり)を営むなりき。然(しか)れば彼と貫一との今日(こんにち)の関繋(かんけい)は如何(いか)なるものならん。絶えてこれを知る者あらず。凡(およ)そ人生箇々(ここ)の裏面には必ず如此(かくのごと)き内情若(もし)くは秘密とも謂ふべき者ありながら、幸(さいはひ)に他の穿鑿(せんさく)を免れて、瞹眛(あいまい)の裏(うち)に葬られ畢(をは)んぬる例(ためし)尠(すくな)からず。二代の鰐淵なる間の家のこの一件もまた貫一と彼との外に洩(も)れざるを得たり。
かくして今は鰐淵の手代ならぬ三番町の間は、その向に有数の名を成して、外には善く貸し、善く歛(をさ)むれども、内には事足る老婢(ろうひ)を役(つか)ひて、僅(わづか)に自炊ならざる男世帯(をとこせたい)を張りて、なほも奢(おご)らず、楽まず、心は昔日(きのふ)の手代にして、趣は失意の書生の如く依然たる変物(へんぶつ)の名を失はでゐたり。
出(い)でてはさすがに労(つか)れて日暮に帰り来にける貫一は、彼の常として、吾家(わがいへ)ながら人気無き居間の内を、旅の木蔭にも休(やすら)へる想しつつ、稍(やや)興冷めて坐りも遣(や)らず、物の悲き夕(ゆふべ)を特(こと)に独(ひとり)の感じゐれば、老婢はラムプを持ち来(きた)りて、
「今日(こんにち)三時頃でございました、お客様が見えまして、明日(みようにち)又今頃来るから、是非内に居てくれるやうにと有仰(おつしや)つて、お名前を伺つても、学校の友達だと言へば可い、とさう有仰(おつしや)つてお帰りになりました」
「学校の友達?」
臆測(おしあて)にも知る能(あた)はざるはこの藪(やぶ)から棒の主(ぬし)なり。
「どんな風の人かね」
「さやうでございますよ、年紀(としごろ)四十ばかりの蒙茸(むしやくしや)と髭髯(ひげ)の生(は)えた、身材(せい)の高い、剛(こは)い顔の、全(まる)で壮士みたやうな風体(ふうてい)をしてお在(いで)でした」
「…………」
些(さ)の憶起(おもひおこ)す節(ふし)もありや、と貫一は打案じつつも半(なかば)は怪むに過ぎざりき。
「さうして、まあ大相横柄な方なのでございます」
「明日(あした)三時頃に又来ると?」
「さやうでございますよ」
「誰(たれ)か知らんな」
「何だか誠に風の悪さうな人体(にんてい)で御座いましたが、明日(みようんち)参りましたら通しませうで御座いますか」
「ぢや用向は言つては行かんのだね」
「さやうでございますよ」
「宜(よろし)い、会つて見やう」
「さやうでございますか」
起ち行かんとせし老婢は又居直りて、
「それから何でございました、間もなく赤樫(あかがし)さんがいらつしやいまして」
貫一は懌(よろこ)ばざる色を作(な)してこれに応(こた)へたり。
「神戸の蒲鉾(かまぼこ)を三枚、見事なのでございます。それに藤村(ふじむら)の蒸羊羹(むしようかん)を下さいまして、私(わたくし)まで毎度又頂戴物(ちようだいもの)を致しましたので御座います」
彼は益す不快を禁じ得ざる面色(おももち)して、応答(うけこたへ)も為(せ)で聴きゐたり。
「さうして明日(みようんち)、五時頃些(ちよい)とお目に掛りたいから、さう申上げて置いてくれと有仰(おつしや)つてで御座いました」
可(よ)しとも彼は口には出(いだ)さで、寧(むし)ろ止(や)めよとやうに忙(せはし)く頷(うなづ)けり。 
(四)の二
学校友達と名宣(なの)りし客はその言(ことば)の如く重ねて訪(と)ひ来(き)ぬ。不思議の対面に駭(おどろ)き惑へる貫一は、迅雷(じんらい)の耳を掩(おほ)ふに遑(いとま)あらざらんやうに劇(はげし)く吾を失ひて、頓(とみ)にはその惘然(ぼうぜん)たるより覚むるを得ざるなりき。荒尾譲介は席の温(あたたま)る間(ひま)の手弄(てまさぐり)に放ちも遣(や)らぬ下髯(したひげ)の、長く忘れたりし友の今を如何(いか)にと観(み)るに忙(いそがし)かり。
「殆(ほとん)ど一昔と謂うても可(よ)い程になるのぢやから話は沢山ある、けれどもこれより先に聞きたいのは、君は今日(こんにち)でも僕をじや、この荒尾を親友と思うてをるか、どうかと謂ふのじや」
答ふべき人の胸はなほ自在に語るべくもあらず乱れたるなり。
「考へるまではなからう。親友と思うてをるなら、をる、さうなけりや、ないと言ふまでで是(イエス)か否(ノウ)かの一つじや」
「そりや昔は親友であつた」
彼は覚束無(おぼつかな)げに言出(いひいだ)せり。
「さう」
「今はさうぢやあるまい」
「何為(なぜ)にな」
「その後五六年も全く逢はずにゐたのだから、今では親友と謂ふことは出来まい」
「なに五六年前(ぜん)も一向親友ではありやせんぢやつたではないか」
貫一は目を側(そば)めて彼を訝(いぶか)りつ。
「さうぢやらう、学士になるか、高利貸になるかと云ふ一身の浮沈の場合に、何等の相談も為(せ)んのみか、それなり失踪(しつそう)して了うたのは何処(どこ)が親友なのか」
その常に慙(は)ぢかつ悔(くゆ)る一事を責められては、癒(い)えざる痍(きず)をも割(さか)るる心地して、彼は苦しげに容(かたち)を歛(をさ)め、声をも出(いだ)さでゐたり。
「君の情人(いろ)は君に負(そむ)いたぢやらうが、君の友(フレンド)は決(け)して君に負かん筈(はず)ぢや。その友(フレンド)を何為(なぜ)に君は棄てたか。その通り棄てられた僕ぢやけれど、かうして又訪ねて来たのは、未(ま)だ君を実は棄てんのじやと思ひ給へ」
学生たりし荒尾! 参事官たりし荒尾!! 尾羽(をは)打枯(うちから)せる今の荒尾の姿は変りたれど、猶(なほ)一片の変らぬ物ありと知れる貫一は、夢とも消えて、去りし、去りし昔の跡無き跡を悲しと偲(しの)ぶなりけり。
「然し、僕が棄てても棄てんでも、そんな事に君は痛痒(つうよう)を感ずるぢやなからうけれど、僕は僕で、友(フレンド)の徳義としてとにかく一旦は棄てんで訪ねて来た。で、断然棄つるも、又棄てんのも、唯今日(こんにち)にある意(つもり)じや。
今では荒尾を親友とは謂へん、と君の言うたところを以つて見ると、又今更親友であることを君は望んではをらんやうじや。さうであるならば僕の方でも敢(あへ)て望まん、立派に名宣(なの)つて僕も間貫一を棄つる!」
貫一は頭(かしら)を低(た)れて敢て言はず。
「然し、今日(こんにち)まで親友と思うてをつた君を棄つるからには、これが一生の別(わかれ)になるのぢやから、その餞行(はなむけ)として一言(いちごん)云はんけりやならん。
間、君は何の為に貨(かね)を殖(こしら)ゆるのぢや。かの大いなる楽(たのしみ)とする者を奪れた為に、それに易(か)へる者として金銭(マネエ)といふ考を起したのか。それも可からう、可いとして措(お)く。けれどもじや、それを獲(え)る為に不義不正の事を働く必要が有るか。君も現在他(ひと)から苦められてゐる躯(からだ)ではないのか。さうなれば己(おのれ)が又他(ひと)を苦むるのは尤(もつと)も用捨すべき事ぢやらうと思ふ。それが他(ひと)を苦むると謂うても、難儀に附入(つけい)つて、さうしてその血を搾(しぼ)るのが君の営業、殆ど強奪に等い手段を以つて金を殖(こしら)えつつ、君はそれで今日(こんにち)慰められてをるのか。如何(いか)に金銭(マネエ)が総(すべ)ての力であるか知らんけれど、人たる者は悪事を行つてをつて、一刻でも安楽に居らるるものではないのじや。それとも、君は怡然(いぜん)として楽んでをるか。長閑(のどか)な日に花の盛(さかり)を眺むるやうな気持で催促に行つたり、差押(さしおさへ)を為たりしてをるか。どうかい、間」
彼は愈(いよい)よ口を閉ぢたり。
「恐くじや。さう云ふ気持の事は、この幾年間に一日でも有りはせんのぢやらう。君の顔色(がんしよく)を見い! 全(まる)で罪人じやぞ。獄中に居る者の面(つら)じや」
別人と見るまでに彼の浅ましく瘁(やつ)れたる面(おもて)を矚(まも)りて、譲介は涙の落つるを覚えず。
「間、何で僕が泣くか、君は知つてをるか。今の間ぢや知らんぢやらう。幾多(いくら)貨(かね)を殖(こしら)へたところで、君はその分では到底慰めらるる事はありはせん。病が有るからと謂うて毒を飲んで、その病が痊(なほ)るぢやらうか。君はあたかも薬を飲む事を知らんやうなものじやぞ。僕の友(フレンド)であつた間はそんな痴漢(たはけ)ぢやなかつた、して見りや発狂したのじや。発狂してからに馬鹿な事を為居(しを)る奴は尤(とが)むるに足らんけれど、一婦人(いつぷじん)の為に発狂したその根性を、彼の友(フレンド)として僕が慙(は)ぢざるを得んのじや。間、君は盗人(ぬすと)と言れたぞ。罪人と言(いは)れたぞ、狂人と言れたぞ。少しは腹を立てい! 腹を立てて僕を打つとも蹴(け)るとも為て見い!」
彼は自ら言(いは)ひ、自ら憤り、尚(なほ)自ら打ちも蹴(けり)も為(せ)んずる色を作(な)して速々(そくそく)答を貫一に逼(せま)れり。
「腹は立たん!」
「腹は立たん? それぢや君は自身に盗人(ぬすと)とも、罪人とも……」
「狂人とも思つてゐる。一婦人の為に発狂したのは、君に対して実に面目(めんぼく)無いけれど、既に発狂して了(しま)つたのだから、どうも今更為やうが無い。折角ぢやあるけれど、このまま棄置いてくれ給へ」
貫一は纔(わづか)にかく言ひて已(や)みぬ。
「さうか。それぢや君は不正な金銭(マネエ)で慰められてをるのか」
「未だ慰められてはをらん」
「何日(いつ)慰めらるるのか」
「解らん」
「さうして君は妻君を娶(もら)うたか」
「娶はん」
「何故(なぜ)娶はんのか、かうして家を構へてをるのに独身ぢや不都合ぢやらうに」
「さうでもないさ」
「君は今では彼の事をどう思うてをるな」
「彼とは宮の事かね。あれは畜生さ!」
「然し、君も今日(こんにち)では畜生ぢやが、高利貸などは人の心は有つちやをらん、人の心が無けりや畜生じや」
「さう云ふけれど、世間は大方畜生ぢやないか」
「僕も畜生かな」
「…………」
「間、君は彼が畜生であるのに激してやはり畜生になつたのぢやな。若(も)し彼が畜生であつたのを改心して人間に成つたと為たら、同時に君も畜生を罷(や)めにやならんじやな」
「彼が人間に成る? 能はざる事だ! 僕は高利を貪(むさぼ)る畜生だけれど、人を欺く事は為んのだ。詐(いつは)つて人の誠を受けて、さうしてそれを売るやうな残忍な事は決して為んのだ。始から高利と名宣(なの)つて貸すのだから、否な者は借りんが可いので、借りん者を欺いて貸すのぢやない。宮の如き畜生が何で再び人間に成り得(う)るものか」
「何為(なぜ)成り得(え)んのか」
「何為(なぜ)成り得(え)るのか」
「さうなら君は彼の人間に成り得んのを望むのか」
「望むも望まんも、あんな者に用は無い!」
寧(むし)ろその面(めん)に唾(つば)せんとも思へる貫一の気色(けしき)なり。
「そりや彼には用は無いぢやらうけれど、君の為に言ふべきことぢやと思ふから話すのぢやが、彼は今では大いに悔悟してをるぞ。君に対して罪を悔いてをるぞ!」
貫一は吾を忘れて嗤笑(あざわら)ひぬ。彼はその如何(いか)に賤(いやし)むべきか、謂はんやうもあらぬを念(おも)ひて、更に嗤笑(あざわら)ひ猶嗤笑ひ、遏(や)めんとして又嗤笑ひぬ。
「彼もさうして悔悟してをるのぢやから、君も悔悟するが可からう、悔悟する時ぢやらうと思ふ」
「彼の悔悟は彼の悔悟で、僕の与(あづか)る事は無い。畜生も少しは思知つたと見える、それも可からう」
「先頃計らず彼に逢うたのじや、すると、僕に向うて涙を流して、そりや真実悔悟してをるのじや。さうして僕に詑(わび)を為てくれ、それが成らずば、君に一遍逢せてくれ、と縋(すが)つて頼むのじやな、けれど僕も思ふところが有るから拒絶はした。又君に対しても、彼がその様に悔悟してゐるから容(ゆる)して遣れと勧めは為(せ)ん、それは別問題じや。但(ただ)僕として君に言ふところは、彼は悔悟して独(ひと)り苦んでをる。即(すなは)ち彼は自ら罰せられてをるのぢやから、君は君として怨(うらみ)を釈(と)いて可からうと思ふ。君がその怨を釈いたなら、昔の間に復(かへ)るべきぢやらうと考へるのじや。
君は今のところ慰められてをらん、それで又、何日(いつ)慰めらるるとも解らんと言うたな、然しじや、彼が悔悟してからにその様に思うてをると聞いたら、君はそれを以つて大いに慰められはせんかな。君がこの幾年間に得た金銭(マネエ)、それは幾多(いくら)か知らんけれど、その寡(すくな)からん金銭(マネエ)よりは、彼が終(つひ)に悔悟したと聞いた一言(いちごん)の方が、遙(はるか)に大いなる力を以つて君の心を慰むるであらうと思ふのじやが、どうか」
「それは僕が慰められるよりは、宮が苦まなければならん為の悔悟だらう。宮が前非を悟つた為に、僕が失つた者を再び得られる訳ぢやない、さうして見れば、僕の今日(こんにち)はそれに因(よ)つて少(すこし)も慰められるところは無いのだ。憎いことは彼は飽くまで憎い、が、その憎さに僕が慰められずにゐるのではないからして、宮その者の一身に向つて、僕は棄てられた怨を報いやうなどとは決して思つてをらん、畜生に讐(あだ)を復(かへ)す価は無いさ。
今日(こんにち)になつて彼が悔悟した、それでも好く悔悟したと謂ひたいけれど、これは固(もと)よりさう有るべき事なのだ。始にあんな不心得を為なかつたら、悔悟する事は無かつたらうに――不心得であつた、非常な不心得であつた!」
彼は黯然(あんぜん)として空(むなし)く懐(おも)へるなり。
「僕は彼の事は言はんのじや。又彼が悔悟した為に君の失うた者が再び得らるる訳でないから、それぢや慰められんと謂ふのなら、それで可(よ)いのじや。要するに、君はその失うた者が取返されたら可いのぢやらう、さうしてその目的を以つて君は貨(かね)を殖(こしら)へてをるのぢやらう、なあ、さうすりやその貨さへ得られたら、好んで不正な営業を為る必要は有るまいが。君が失うた者が有る事は知つてをる。それが為に常に楽まんのも、同情を表してゐる、そこで金銭(マネエ)の力に頼(よ)つて慰められやうとしてゐる、に就いては異議も有るけれど、それは君の考に委(まか)する。貨(かね)を殖(こしら)ゆるも可い、可いとする以上は大いに富むべしじや。けれど、富むと云ふのは貪(むさぼ)つて聚(あつ)むるのではない、又貪つて聚めんけりや貨は得られんのではない、不正な手段を用(もちゐ)んでも、富む道は幾多(いくら)も有るぢやらう。君に言ふのも、な、その目的を変へよではない、止(た)だ手段を改めよじや。路(みち)は違へても同じ高嶺(たかね)の月を見るのじやが」
「辱(かたじけ)ないけれど、僕の迷は未だ覚めんのだから、間は発狂してゐる者と想つて、一切(いつせつ)かまひ付けずに措いてくれ給へ」
「さうか。どうあつても僕の言(ことば)は用(もちゐ)られんのじやな」
「容(ゆる)してくれ給へ」
「何を容すのじや! 貴様は俺を棄てたのではないか、俺も貴様を棄てたのじやぞ、容すも容さんも有るものか」
「今日限(こんにちかぎり)互に棄てて別れるに就いては、僕も一箇(ひとつ)聞きたい事が有る。それは君の今の身の上だが、どうしたのかね」
「見たら解るぢやらう」
「見たばかりで解るものか」
「貧乏してをるのよ」
「それは解つてゐるぢやないか」
「それだけじや」
「それだけの事が有るものか。何で官途を罷(や)めて、さうしてそんなに貧乏してゐるのか、様子が有りさうぢやないか」
「話したところで狂人(きちがひ)には解らんのよ」
荒尾は空嘯(そらうそぶ)きて起たんと為(す)なり。
「解つても解らんでも可いから、まあ話すだけは話してくれ給へ」
「それを聞いてどう為る。ああ貴様は何か、金でも貸さうと云ふのか。No(ノオ) thank(サンク)じや、赤貧洗ふが如く窮してをつても、心は怡然(いぜん)として楽んでをるのじや」
「それだから猶(なほ)、どう為てさう窮して、それを又楽んでゐるのか、それには何か事情が有るのだらう、から、それを聞せてくれ給へと言ふのだ」
荒尾は故(ことさ)らに哈々(こうこう)として笑へり。
「貴様如き無血虫(むけつちゆう)がそんな事を聞いたとて何が解るもので。人間らしい事を言ふな」
「さうまで辱(はづかし)められても辞(ことば)を返すことの出来ん程、僕の躯(からだ)は腐つて了つたのだ」
「固よりじや」
「かう腐つて了つた僕の躯(からだ)は今更為方が無い。けれども、君は立派に学位も取つて、参事官の椅子にも居た人、国家の為に有用の器(うつは)であることは、決して僕の疑はんところだ。で、僕は常に君の出世を予想し、又陰(ひそか)にそれを祷(いの)つてをつたのだ。君は僕を畜生と言ひ、狂人と言ひ、賊と言ふけれど、君を懐(おも)ふ念の僕の胸中を去つた事はありはせんよ。今日(こんにち)まで君の外には一人(いちにん)の友(フレンド)も無いのだ。一昨年(をととし)であつた、君が静岡へ赴任すると聞いた時は、嬉くもあり、可懐(なつかし)くもあり、又考へて見れば、自分の身が悲くもなつて、僕は一日飯も食はんでゐた。それに就けても、久し振で君に逢つて慶賀(よろこび)も言ひたいと念(おも)つたけれど、どうも逢れん僕の躯(からだ)だから、切(せめ)て陰ながらでも君の出世の姿が見たいと、新橋の停車場(ステエション)へ行つて、君の立派に成つたのを見た時は、何もかも忘れて僕は唯嬉くて涙が出た」
さてはと荒尾も心陰(こころひそか)に頷(うなづ)きぬ。
「君の出世を見て、それほど嬉かつた僕が、今日(こんにち)君のそんなに零落してゐるのを見る心持はどんなであるか、察し給へ。自分の身を顧ずにかう云ふ事を君に向つて言ふべきではないけれど、僕はもう己(おのれ)を棄ててゐるのだ。一婦女子(いつぷじよし)の詐如(いつはりごと)きに憤つて、それが為に一身を過つたと知りながら、自身の覚悟を以て匡正(きようせい)することの出来んと謂ふのは、全く天性愚劣の致すところと、自ら恨むよりは無いので、僕は生きながら腐れて、これで果てるのだ。君の親友であつた間貫一は既に亡き者に成つたのだ、とさう想つてくれ給へ。であるから、これは間が言ふのではない。君の親友の或者が君の身を愛(をし)んで忠告するのだとして聴いてくれ給へ。どう云ふ事情か、君が話してくれんから知れんけれど、君の躯は十分自重して、社会に立つて壮(さかん)なる働(はたらき)を作(な)して欲いのだ。君はさうして窮迫してゐるやうだけれど、決して世間から棄てられるやうな君でない事を僕は信ずるのだから、一箇人(いつこじん)として己の為に身を愛(をし)みたまへと謂ふのではなく、国家の為に自重し給へと願ふのだ。君の親友の或者は君がその才を用る為に社会に出やうと為るならば、及ぶ限の助力を為る精神であるのだ」
貫一の面(おもて)は病などの忽(たちま)ち癒(い)えけんやうに輝きつつ、如此(かくのごと)く潔くも麗(うるはし)き辞(ことば)を語れるなり。
「うう、それぢや君は何か、僕のかうして落魄(らくはく)してをるのを見て気毒(きのどく)と思ふのか」
「君が謂ふほどの畜生でもない!」
「其処(そこ)じや、間。世間に貴様のやうな高利貸が在る為に、あつぱれ用(もちゐ)らるべき人才の多くがじや、名を傷(きずつ)け、身を誤られて、社会の外(ほか)に放逐されて空(むなし)く朽つるのじやぞ。国家の為に自重せい、と僕の如き者にでもさう言うてくるるのは忝(かたじけ)ないが、同じ筆法を以つて、君も社会の公益の為にその不正の業を罷(や)めてくれい、と僕は又頼むのじや。今日(こんにち)の人才を滅(ほろぼ)す者は、曰(いは)く色、曰く高利貸ぢやらう。この通り零落(おちぶ)れてをる僕が気毒と思ふなら、君の為に艱(なやま)されてをる人才の多くを一層不敏(ふびん)と思うて遣れ。
君が愛(ラヴ)に失敗して苦むのもじや、或人が金銭(マネエ)の為に苦むのも、苦むと云ふ点に於ては差異(かはり)は無いぞ。で、僕もかうして窮迫してをる際ぢやから、憂を分つ親友の一人は誠欲いのじや、昔の間貫一のやうな友(フレンド)が有つたらばと思はん事は無い。その友(フレンド)が僕の身を念(おも)うてくれて、社会へ打つて出て壮(さかん)に働け、一臂(いつぴ)の力を仮さうと言うのであつたら、僕は如何(いか)に嬉からう! 世間に最も喜ぶべき者は友(フレンド)、最も悪(にく)むべき者は高利貸ぢや。如何(いか)に高利貸の悪むべきかを知つてをるだけ、僕は益(ますま)す友(フレンド)を懐(おも)ふのじや。その昔の友(フレンド)が今日(こんにち)の高利貸――その悪むべき高利貸! 吾又何をか言はんじや」
彼は口を閉ぢて、貫一を疾視せり。
「段々の君の忠告、僕は難有(ありがた)い。猶自分にも篤と考へて、この腐れた躯(からだ)が元の通潔白な者に成り得られるなら、それに越した幸は無いのだ。君もまた自愛してくれ給へ。僕は君には棄てられても、君の大いに用られるのを見たいのだ。又必ず大いに用られなければならんその人が、さうして不遇で居るのは、残念であるよりは僕は悲い。そんなに念(おも)つてもゐるのだから一遍君の処を訪ねさしてくれ給へ。何処(どこ)に今居るかね」
「まあ、高利貸などは来て貰(もら)はん方が可い」
「その日は友(フレンド)として訪ねるのだ」
「高利貸に友(フレンド)は持たんものな」
雍(しとや)かに紙門(ふすま)を押啓(おしひら)きて出来(いできた)れるを、誰(たれ)かと見れば満枝なり。彼如何(いか)なれば不躾(ぶしつけ)にもこの席には顕(あらは)れけん、と打駭(うちおどろ)ける主(あるじ)よりも、荒尾が心の中こそ更に匹(たぐ)ふべくもあらざるなりけれ。いでや、彼は窘(くるし)みてその長き髯(ひげ)をば痛(したたか)に拈(ひね)りつ。されど狼狽(うろた)へたりと見られんは口惜(くちを)しとやうに、遽(にはか)にその手を胸高(むなたか)に拱(こまぬ)きて、動かざること山の如しと打控(うちひか)へたる様(さま)も、自(おのづか)らわざとらしくて、また見好(みよ)げにはあらざりき。
満枝は先(ま)づ主(あるじ)に挨拶(あいさつ)して、さて荒尾に向ひては一際(ひときは)礼を重く、しかも躬(みづから)は手の動き、目の視(み)るまで、専(もつぱ)ら貴婦人の如く振舞ひつつ、笑(ゑ)むともあらず面(おもて)を和(やはら)げて姑(しばら)く辞(ことば)を出(いだ)さず。荒尾はこの際なかなか黙するに堪(た)へずして、
「これは不思議な所で! 成程間とは御懇意かな」
「君はどうして此方(こちら)を識(し)つてゐるのだ」
左瞻右視(とみかうみ)して貫一は呆(あき)るるのみなり。
「そりや少し識つてをる。然し、長居はお邪魔ぢやらう、大きに失敬した」
「荒尾さん」
満枝はのがさじと呼留めて、
「かう云ふ処で申上げますのも如何(いかが)で御座いますけれど」
「ああ、そりや此(ここ)で聞くべき事ぢやない」
「けれど毎(いつ)も御不在ばかりで、お話が付きかねると申して弱り切つてをりますで御座いますから」
「いや、会うたところでからに話の付けやうもないのじや。遁(に)げも隠れも為んから、まあ、時節を待つて貰はうさ」
「それはどんなにもお待ち申上げますけれど、貴方の御都合の宜(よろし)いやうにばかり致してはをられませんで御座います。そこはお察しあそばしませな」
「うう、随分酷(ひど)い事を察しさせられるのじやね」
「近日に是非私(わたくし)お願ひ申しに伺ひますで御座いますから、どうぞ宜く」
「そりや一向宜くないかも知れん」
「ああ、さう、この前でございましたか、あの者が伺ひました節、何か御無礼な事を申上げましたとかで、大相な御立腹で、お刀をお抜き遊ばして、斬(き)つて了(しま)ふとか云ふ事が御座いましたさうで」
「有つた」
「あれ、本当にさやうな事を遊ばしましたので?」
満枝は彼に耻(は)ぢよとばかり嗤笑(あざわら)ひぬ。さ知つたる荒尾は飽くまで真顔を作りて、
「本当とも! 実際那奴(あやつ)たたききつて了はうと思うた」
「然しお考へ遊ばしたで御座いませう」
「まあその辺ぢや。あれでも犬猫ぢやなし、斬捨てにもなるまい」
「まあ、怖(こは)い事ぢや御座いませんか。私(わたくし)なぞは滅多に伺ふ訳には参りませんで御座いますね」
そは誰(た)が事を言ふならんとやうに、荒尾は頂(うなじ)を反(そら)して噪(ののめ)き笑ひぬ。
「僕が美人を斬るか、その目で僕が殺さるるか。どれ帰つて、刀でも拭(ふ)いて置かう」
「荒尾君、夕飯(ゆふめし)の支度が出来たさうだから、食べて行つてくれ給へ」
「それは折角ぢやが、盗泉の水は飲まんて」
「まあ貴方、私お給仕を勤めます。さあ、まあお下にゐらしつて」
満枝は荒尾の立てる脚下(あしもと)に褥(しとね)を推付(おしつ)けて、実(げ)に還さじと主(あるじ)にも劣らず最惜(いとをし)む様なり。
「全で御夫婦のやうじやね。これは好一対じや」
「そのお意(つもり)で、どうぞお席にゐらしつて」
固(もと)より留(とどま)らざるべき荒尾は終(つひ)に行かんとしつつ、
「間、貴様は……」
「…………」
「…………」
彼は唇(くちびる)の寒かるべきを思ひて、空(むなし)く鬱抑(うつよく)して帰り去れり。その言はざりし語(ことば)は直(ただち)に貫一が胸に響きて、彼は人の去(い)にける迹(あと)も、なほ聴くに苦(くるし)き面(おもて)を得挙(えあ)げざりけり。 
(四)の三
程も有らずラムプは点(とも)されて、止(た)だ在りけるままに竦(すく)みゐたる彼の傍(かたはら)に置るるとともに、その光に照さるる満枝の姿は、更に粧(よそほひ)をも加へけんやうに怪(け)しからず妖艶(あでやか)に、宛然(さながら)色香(いろか)を擅(ほしいまま)にせる牡丹(ぼたん)の枝を咲撓(さきたわ)めたる風情(ふぜい)にて、彼は親しげに座を進めつ。
「間(はざま)さん、貴方(あなた)どうあそばして、非常にお鬱(ふさ)ぎ遊ばしてゐらつしやるぢや御座いませんか」
貫一は怠(たゆ)くも纔(わづか)に目を移して、
「一体貴方はどうして荒尾を御存じなのですか」
「私よりは、貴方があの方の御朋友(ごほうゆう)でゐらつしやるとは、実に私意外で御座いますわ」
「貴方はどうして御存じなのです」
「まあ債務者のやうな者なので御座います」
「債務者? 荒尾が? 貴方の?」
「私が直接に関係した訳ぢや御座いませんのですけれど」
「はあ、さうして額(たか)は若干(どれほど)なのですか」
「三千円ばかりでございますの」
「三千円? それでその直接の貸主(かしぬし)と謂(い)ふのは何処(どこ)の誰ですか」
満枝は彼の遽(にはか)に捩向(ねぢむ)きて膝(ひざ)の前(すす)むをさへ覚えざらんとするを見て、歪(ゆが)むる口角(くちもと)に笑(ゑみ)を忍びつ、
「貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、平生(へいぜい)私がお話でも致すと、全(まる)で取合つても下さいませんのですもの」
「まあ可いです」
「些(ちよつ)とも可い事はございません」
「うう、さうすると直接の貸主と謂ふのが有るのですね」
「存じません」
「お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから」
「私貴方からは戴きません」
「上げるのではない、弁償するのです」
「いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私あの債権を棄てて了ひます」
「それは何為(なぜ)ですか」
「何為でも宜(よろし)う御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと思召(おぼしめ)すなら、私に債権を棄てて了へと有仰(おつしや)つて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます」
「どう云ふ訳ですか」
「どう云ふ訳で御座いますか」
「甚(はなは)だ解らんぢやありませんか」
「勿論(もちろん)解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。然し貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね」
「いいや、僕は解つてゐます」
「ええ、解つてゐらつしやりながら些(ちよつ)ともお解りにならないのですから、私も益(ますま)す解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし」
満枝は金煙管(きんぎせる)に手炉(てあぶり)の縁(ふち)を丁(ちよう)と拍(う)ちて、男の顔に流眄(ながしめ)の怨(うらみ)を注ぐなり。
「まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい」
「御勝手ねえ、貴方は」
「さあ、お話し下さいな」
「唯今お話致しますよ」
満枝は遽(にはか)に煙管(きせる)を索(もと)めて、さて傍(かたはら)に人無き若(ごと)く緩(ゆるやか)に煙(けふり)を吹きぬ。
「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」
「…………」
「どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ」
「…………」
「三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、殆(ほとん)ど有得べき事でないのだけれど、……」
「…………」
唯(と)見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。
「さあ、お話し下さいな」
「こんなに遅々(ぐづぐづ)してをりましたら、さぞ貴方憤(じれ)つたくてゐらつしやいませう」
「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」
「憤つたいと云ふものは、決(け)して好い心持ぢやございませんのね」
「貴方は何を言つてお在(いで)なのです!」
「はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう」
「どうぞ」
「蓋(たし)か御承知でゐらつしやいましたらう。前(ぜん)に宅に居りました向坂(さぎさか)と申すの、あれが静岡へ参つて、今では些(ちよつ)と盛(さかん)に遣つてをるので御座います。それで、あの方は静岡の参事官でお在(いで)なのでした。さやうで御座いましたらう。その頃向坂の手から何したので御座います。究竟(つまり)あの方もその件から論旨免官のやうな事にお成なすつて、又東京へお還りにならなければ為方が無いので、彼方(あちら)を引払ふのに就いて、向坂から話が御座いまして、宅の方へ始は委任して参つたので御座いましたけれど、丁度去年の秋頃から全然(すつかり)此方(こちら)へ引継いで了ふやうな都合に致しましたの。
然し、それは取立に骨が折れるので御座いましてね、ああして止(とん)と遊んでお在(いで)も同様で、飜訳(ほんやく)か何か少(すこし)ばかり為さる御様子なのですから、今のところではどうにも手の着けやうが無いので御座いますわ」
「はあ成程。然し、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん」
「それはあの方は連帯者なので御座います」
「はあ! さうして借主は何者ですか」
「大館朔郎(おおだちさくろう)と云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動費の後肚(あとばら)だとか云ふ話でございました」
「うむ、如何(いか)にも! 大館朔郎……それぢや事実でせう」
「御承知でゐらつしやいますか」
「それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ」
はやその言(ことば)の中(うち)に彼の心は急に傷(いた)みぬ。己(おのれ)の敬愛せる荒尾譲介の窮して戚々(せきせき)たらず、天命を楽むと言ひしは、真に義の為に功名を擲(なげう)ち、恩の為に富貴を顧ざりし故(ゆゑ)にあらずや。彼の貧きは万々人の富めるに優(まさ)れり。君子なる吾友(わがとも)よ。さしも潔き志を抱(いだ)ける者にして、その酬らるる薄倖(はつこう)の彼の如く甚(はなはだし)く酷なるを念ひて、貫一は漫(そぞ)ろ涙の沸く目を閉ぢたり。 
第五章
遽(にはか)に千葉に行く事有りて、貫一は午後五時の本所(ほんじよ)発を期して車を飛せしに、咄嗟(あなや)、一歩の時を遅れて、二時間後(のち)の次回を待つべき倒懸(とうけん)の難に遭(あ)へるなり。彼は悄々(すごすご)停車場前の休憇処に入(い)りて奥の一間なる縞毛布(しまケット)の上に温茶(ぬるちや)を啜(すす)りたりしが、門(かど)を出づる折受取りし三通の郵書の鞄(かばん)に打込みしままなるを、この時取出(とりいだ)せば、中に一通の M., Shigis――と裏書せるが在り。
「ええ、又寄来(よこ)した!」
彼はこれのみ開封せずして、やがて他の読がら(よみがら)と一つに投入れし鞄をはたと閉づるや、枕に引寄せて仰臥(あふぎふ)すと見れば、はや目を塞(ふさ)ぎて睡(ねむり)を促さんと為るなりき。されども、彼は能(よ)く睡(ねぶ)るを得べきか。さすがにその人の筆の蹟(あと)を見ては、今更に憎しとも恋しとも、絶えて念(おもひ)には懸けざるべしと誓へる彼の心も、睡らるるまでに安かる能はざるなり。
いで、この文こそは宮が送りし再度の愬(うつたへ)にて、その始て貫一を驚かせし一札(いつさつ)は、約(およ)そ二週間前に彼の手に入りて、一字も漏れずその目に触れしかど、彼は曩(さき)に荒尾に答へしと同様の意を以(も)てその自筆の悔悟を読みぬ。こたびとてもまた同き繰言(くりごと)なるべきを、何の未練有りて、徒(いたづら)に目を汚(けが)し、懐(おもひ)を傷(きずつ)けんやと、気強くも右より左に掻遣(かきや)りけるなり。
宮は如何(いか)に悲しからん! この両度の消息は、その苦き胸を剖(さ)き、その切なる誠を吐きて、世をも身をも忘れし自白なるを。事若し誤らば、この手証は生ながら葬らるべき罪を獲(う)るに余有るものならずや。さしも覚悟の文ながら、彼はその一通の力を以て直(ただち)に貫一の心を解かんとは思設けざりき。
故(ゆゑ)に幾日の後に待ちて又かく聞えしを、この文にもなほ験(しるし)あらずば、彼は弥増(いやま)す悲(かなしみ)の中に定めて三度(みたび)の筆を援(と)るなるべし。知らずや、貫一は再度の封をだに切らざりしを――三度(みたび)、五度(いつたび)、七度(ななたび)重ね重ねて十(と)百通に及ばんとも、貫一は断じてこの愚なる悔悟を聴かじと意(こころ)を決せるを。
静に臥(ふ)したりし貫一は忽ち起きて鞄を開き、先づかの文を出(いだ)し、マッチを捜(さぐ)りて、封のままなるその端(はし)に火を移しつつ、火鉢(ひばち)の上に差翳(さしかざ)せり。一片の焔(ほのほ)は烈々(れつれつ)として、白くあがるものは宮の思の何か、黒く壊落(くづれお)つるものは宮が心の何か、彼は幾年(いくとせ)の悲(かなしみ)と悔とは嬉くも今その人の手に在りながら、すげなき烟(けふり)と消えて跡無くなりぬ。
貫一は再び鞄を枕にして始の如く仰臥(あふぎふ)せり。
間(しばし)有りて婢(をんな)どもの口々に呼邀(よびむか)ふる声して、入来(いりき)し客の、障子越(ごし)なる隣室に案内されたる気勢(けはひ)に、貫一はその男女(なんによ)の二人連(づれ)なるを知れり。
彼等は若き人のやうにもあらず頗(すこぶ)る沈寂(しめやか)に座に着きたり。
「まだ沢山時間が有るから寛(ゆつく)り出来る。さあ、鈴(すう)さん、お茶をお上んなさい」
こは男の声なり。
「貴方(あなた)本当にこの夏にはお帰んなさいますのですか」
「盆過(ぼんすぎ)には是非一度帰ります。然しね、お話をした通り尊父(をぢ)さんや尊母(をば)さんの気が変つて了つてお在(いで)なのだから、鈴さんばかりそんなに思つてゐておくれでも、これがどうして、円く納るものぢやない。この上はもう唯諦(ただあきら)めるのだ。私(わたし)は男らしく諦めた!」
「雅(まさ)さんは男だからさうでせうけれど、私(わたし)は諦(あきら)めません。さうぢやないとお言ひなさるけれど、雅さんは阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんの為方(しかた)を慍(おこ)つてお在(いで)なのに違無い。それだから私までが憎いので、いいえ、さうよ、私は何でも可いから、若し雅さんが引取つて下さらなければ、一生何処(どこ)へも適(い)きはしませんから」
女は処々(ところどころ)聞き得ぬまでの涙声になりぬ。
「だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、幾許(いくら)私の方で引取りたくつても引取る訳に行かないぢやありませんか。それも、誰(たれ)を怨(うら)む訳も無い、全く自分が悪いからで、こんな躯(からだ)に疵(きず)の付いた者に大事の娘をくれる親は無い、くれないのが尤(もつとも)だと、それは私は自分ながら思つてゐる」
「阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ貰(もら)つて下されば可いのぢやありませんか」
「そんな解らない事を言つて! 私だつてどんなに悔(くやし)いか知れはしない。それは自分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸のわなに罹(かか)つたばかりで、自分の躯には生涯の疵(きず)を付け、隻(ひとり)の母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚(いひなづけ)は破談にされ、……こんな情無い思を為る位なら、不如(いつそ)私は牢(ろう)の中で死んで了つた……方が可かつた!」
「あれ、雅さん、そんな事を……」
両箇(ふたり)は一度に哭(な)き出(いだ)せり。
「阿母さんがあん畜生(ちきしよう)の家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い肚癒(はらいせ)ぢやあるけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は鈴(すう)さんが来てくれると言つて、朝晩にそればかり楽(たのしみ)にして在(ゐな)すつた……のだし」
女(をんな)はつと出でし泣音(なくね)の後を怺(こら)へ怺へて啜上(すすりあ)げぬ。
「私(わたし)も破談に為(す)る気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな」
「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」
「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退(ひ)いて、これまでの縁と諦(あきら)めてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」
女は唯愈(いよい)よ咽(むせ)びゐたり。音も立てず臥(ふ)したりし貫一はこの時忍び起きて、障子の其処此処(そこここ)より男を隙見(すきみ)せんと為たりけれど、竟(つひ)に意(こころ)の如くならで止みぬ。然(しか)れども彼は正(まさし)くその声音(こわね)に聞覚(ききおぼえ)あるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし飽浦雅之(あくらまさゆき)ならずと為(せ)んや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と独(ひと)り頷(うなづ)きつつ貫一は又潜(ひそま)りて聴耳立てたり。
「嘘(うそ)にもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお遭(あひ)なので、それが為に縁を切る意(つもり)なら、私は、雅さん、……一年が間……塩断(しほだち)なんぞ為はしませんわ」
彼は自らその苦節を憶(おも)ひて泣きぬ。
「雅さんが自分に悪い事を為てあんな訳に成つたのぢやなし、高利貸の奴に瞞(だま)されて無実の罪に陥ちたのは、雅さんの災難だと、私は倶共(ともども)に悔(くや)し……悔し……悔(くやし)いとは思つてゐても、それで雅さんの躯に疵が附いたから、一処になるのは迷惑だなんと何時(いつ)私が思つて! 雅さん、私はそんな女ぢやありません、そんな女ぢや……ない!」
この心を知らずや、と情極(じようきはま)りて彼の悶(もだ)え慨(なげ)くが手に取る如き隣には、貫一が内俯(うつぷし)に頭(かしら)を擦付(すりつ)けて、巻莨(まきたばこ)の消えしをささげたるままに横(よこた)はれるなり。
「雅さんは私をそんな女だとお思ひのは、貴方がお留守中の私の事を御存じないからですよ。私は三月(みつき)の余(よ)も疾(わづら)つて……そんな事も雅さんは知つてお在(いで)ぢやないのでせう。それは、阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんは雅さんのところへ上げる気は無いにしても、私は私の了簡で、若しああ云ふ事が有つたので雅さんの肩身が狭くなるやうなら、私は猶更雅さんのところへ適(ゆ)かずにはゐられない。さうして私も雅さんと一処に肩身が狭くなりたいのですから。さうでなけりや、子供の内からあんなに可愛(かはい)がつて下すつた雅さんの尊母(おつか)さんに私は済まない。
親が不承知なのを私が自分の了簡通(りようけんどほり)に為るのは、そりや不孝かも知れませんけれど、私はどうしても雅さんのところへ適(ゆ)きたいのですから、お可厭(いや)でなくば引取つて下さいましな。私の事はかまひませんから雅さんが貰つて下さるお心持がお有(あん)なさるのか、どうだか唯それを聞して下さいな」
貫一は身を回(めぐら)して臂枕(ひざまくら)に打仰(うちあふ)ぎぬ。彼は己(おのれ)が与へし男の不幸よりも、添(そは)れぬ女の悲(かなしみ)よりも、先(ま)づその娘が意気の壮(さかん)なるに感じて、あはれ、世にはかかる切なる恋の焚(もゆ)る如き誠もあるよ、と頭(かしら)は熱(ねつ)し胸は轟(とどろ)くなり。
さて男の声は聞ゆ。
「それは、鈴(すう)さん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭(あ)はなかつたら、今頃は家内三人で睦(むつまし)く、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今日の別が何とも謂(いは)れないほど情無い。かうして今では人に顔向(かほむけ)も出来ないやうな身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人だと私は思ふ。その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事は無いのだけれど、尊父(をぢ)さん、尊母(をば)さんの心にもなつて見たら、今の私には添(そは)されないのは、決して無理の無いところで、子を念ふ親の情(じよう)は、何処(どこ)の親でも差違(かはり)は無い。そこを考へればこそ、私は鈴さんの事は諦(あきら)めると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころではない、悪事だ、立派な罪だ!私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやうな者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに成るのを楽(たのしみ)に、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外は無い、と私は覚悟してゐるのです」
「それぢや、雅さんは内の阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんの事はそんなに思つて下すつても、私の事は些(ちつと)も思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さんはかまつては下さらないのね」
「そんな事が有るものぢやない! 私だつて……」
「いいえ、可うございます。もう可いの、雅さんの心は解りましたから」
「鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは全(まる)で私の心を酌んではおくれでないのだ」
「それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適(ゆ)くと極(きま)つて、その為に御嫁入道具まで丁(ちやん)と調(こしら)へて置きながら、今更外へ適(ゆか)れますか、雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや余(あんま)り酷(ひど)いわ、余り勝手だわ! 私は死んでも他(よそ)へは適きはしませんから、可いわ、可いわ、私は可いわ!」
女は身を顫(ふるは)して泣沈めるなるべし。
「そんな事をお言ひだつて、それぢやどう為(せ)うと云ふのです」
「どう為ても可う御座います、私は自分の心で極(き)めてゐますから」
亜(つ)いで男の声は為(せ)ざりしが、間有(しばしあ)りて孰(いづれ)より語り出でしとも分かず、又一時(ひとしきり)密々(ひそひそ)と話声の洩(も)れけれど、調子の低かりければ此方(こなた)には聞知られざりき。彼等は久くこの細語(ささめごと)を息(や)めずして、その間一たびも高く言(ことば)を出(いだ)さざりしは、互にその意(こころ)に逆(さか)ふところ無かりしなるべし。
「きつと? きつとですか」
始て又明かに聞えしは女の声なり。
「さうすれば私もその気で居るから」
かくて彼等の声は又低うなりぬ。されど益す絮々(じよじよ)として飽かず語れるなり。貫一は心陰(こころひそか)に女の成効を祝し、かつ雅之たる者のこれが為に如何(いか)に幸(さいはひ)ならんかを想ひて、あたかも妙(たへ)なる楽の音(ね)の計らず洩聞(もれきこ)えけんやうに、憂(う)かる己をも忘れんとしつ。
今かの娘の宮ならば如何(いか)ならん、吾かの雅之ならば如何ならん。吾は今日(こんにち)の吾たるを択(えら)ぶ可(べ)きか、将(はた)かの雅之たるを希(こひねが)はんや。貫一は空(むなし)うかく想へり。
宮も嘗(かつ)て己に対して、かの娘に遜(ゆづ)るまじき誠を抱(いだ)かざるにしもあらざりき。彼にして若(も)し金剛石(ダイアモンド)の光を見ざりしならば、また吾をも刑余に慕ひて、その誠を全(まつた)うしたらんや。唯継(ただつぐ)の金力を以て彼女を脅(おびやか)したらんには、またかの雅之を入獄の先に棄てたりけんや。耀(かがや)ける金剛石(ダイアモンド)と汚(けが)れたる罪名とは、孰(いづれ)か愛を割(さ)くの力多かる。
彼は更にかく思へり。
唯その人を命として、己(おのれ)も有らず、家も有らず、何処(いづこ)の野末(のずゑ)にも相従(あひしたが)はんと誓へるかの娘の、竟(つひ)に利の為に志を移さざるを得べきか。又は一旦その人に与へたる愛を吝(をし)みて、再び価高く他に売らんと為るなきを得べきか。利と争ひて打勝れたると、他の愛と争ひて敗れたると、吾等の恨は孰に深からん。
彼は又かくも思へるなり。
それ愛の最も篤(あつ)からんには、利にも惑はず、他に又易(か)ふる者もあらざる可きを、仮初(かりそめ)もこれの移るは、その最も篤きにあらざるを明(あか)せるなり。凡(およ)そ異性の愛は吾愛の如く篤かるを得ざる者なるか、或(ある)は己の信ずらんやうに、宮の愛の特(こと)に己にのみ篤からざりしなるか。吾は彼の不義不貞を憤るが故(ゆゑ)に世上の恋なる者を疑ひ、かつ渾(すべ)てこれを斥(しりぞ)けぬ。されどもその一旦の憤(いきどほり)は、これを斥けしが為に消ゆるにもあらずして、その必ず得べかりし物を失へるに似たる怏々(おうおう)は、吾心を食尽(はみつく)し、終(つひ)に吾身を斃(たふ)すにあらざれば、得やは去るまじき悪霊(あくりよう)の如く執念(しゆうね)く吾を苦むるなり。かかれば何事にも楽むを知らざりし心の今日偶(たまた)ま人の相悦(あひよろこ)ぶを見て、又躬(みづから)も怡(よろこ)びつつ、楽(たのし)の影を追ふらんやうなりしは何の故ならん。よし吾は宮の愛ならずとも、これに易ふる者を得て、とかくはこの心を慰めしむ可きや。
彼はいよいよ思廻(おもひめぐら)せり。
宮はこの日頃吾に篤からざりしを悔いて、その悔を表せんには、何等の事を成さんも唯吾命(めい)のままならんとぞ言来(いひこ)したる。吾はその悔の為にはかの憤(いきどほり)を忘るべきか、任他(さはれ)吾恋の旧(むかし)に復(かへ)りて再び完(まつた)かるを得るにあらず、彼の悔は彼の悔のみ、吾が失意の恨は終に吾が失意の恨なるのみ。この恨は富山に数倍せる富に因(よ)りて始て償はるべきか、或(あるひ)はその富を獲んとする貪欲(どんよく)はこの恨を移すに足るか。
彼は苦(くるし)き息(いき)を嘘(ふ)きぬ。
吾恋を壊(やぶ)りし唯継! 彼等の恋を壊らんと為(せ)しは誰(た)そ、その吾の今千葉に赴(おもむ)くも、又或は壊り、或は壊らんと為るにあらざる無きか。しかもその貪欲は吾に何をか与へんとすらん。富か、富は吾が狂疾を医(い)すべき特効剤なりや。かの妨げられし恋は、破鏡の再び合ふを得て楽み、吾が割(さか)れし愛は落花の復(かへ)る無くして畢(をは)らんのみ! いで、吾はかくて空く埋(うづも)るべきか、風に因(よ)りて飛ぶべきか、水に落ちて流るべきか。
貫一は船橋を過(すぐ)る燈(ともしび)暗き汽車の中(うち)に在り。 
第六章
千葉より帰りて五日の後 M., Shigis――の書信(ふみ)は又来(きた)りぬ。貫一は例に因(よ)りて封のまま火中してけり。その筆の跡を見れば、忽(たちま)ち浮ぶその人の面影(おもかげ)は、唯継と並び立てる梅園の密会にあらざる無きに、彼は殆(ほとん)ど当時に同(おなじ)き憤(いかり)を発して、先の二度なるよりはこの三度(みたび)に及べるを、径廷(をこがまし)くも廻らぬ筆の力などを以(も)て、旧(むかし)に返し得べき未練の吾に在りとや想へる、愚なる精衛の来(きた)りて大海(だいかい)を填(うづ)めんとするやと、却(かへ)りて頑(かたくな)に自ら守らんとも為なり。
さりとも知らぬ宮は蟻(あり)の思を運ぶに似たる片便(かたたより)も、行くべき方には音づるるを、さてかの人の如何(いか)に見るらん、書綴(かきつづ)れる吾誠(わがまこと)の千に一つも通ずる事あらば、掛けても願へる一筋(ひとすぢ)の緒(いとぐち)ともなりなんと、人目あらぬ折毎には必ず筆採(ふでと)りて、その限無き思(おもひ)を写してぞ止まざりし。
唯継は近頃彼の専(もつぱ)ら手習すと聞きて、その善き行(おこなひ)を感ずる余(あまり)に、良き墨、良き筆、良き硯(すずり)、良き手本まで自ら求め来ては、この難有(ありがた)き心掛の妻に遣(おく)りぬ。宮はそれ等を汚(けがら)はしとて一切用ること無く、後には夫の机にだに向はずなりけり。かく怠らず綴(つづ)られし文は、又六日(むゆか)を経て貫一の許(もと)に送られぬ。彼は四度(よたび)の文をも例の灰と棄てて顧ざりしに、日を経(ふ)ると思ふ程も無く、五度(いつたび)の文は来にけり。よし送り送りて千束(ちつか)にも余れ、手に取るからの烟(けむ)ぞと侮(あなど)れる貫一も、曾(かつ)て宮には無かりし執着のかばかりなるを謂知(いひし)らず異(あやし)みつつ、今日のみは直(すぐ)にも焚(や)かざりしその文を、一度(ひとたび)は披(ひら)き見んと為たり。
「然し……」
彼は輙(たやす)く手を下さざりき。
「赦(ゆる)してくれと謂ふのだらう。その外には、見なければ成らん用事の有る訳は無い。若(も)し有ると為れば、それは見る可からざる用事なのだ。赦してくれなら赦して遣(や)る、又赦さんでも既に赦れてゐるのではないか。悔悟したなら、悔悟したで、それで可い。悔悟したから、赦したからと云つて、それがどうなるのだ。それが今日(こんにち)の貫一と宮との間に如何(いか)なる影響を与へるのだ。悔悟したからあれの操(みさを)の疵(きず)が愈(い)えて、又赦したから、富山の事が無い昔に成るのか。その点に於(おい)ては、貫一は飽くまでも十年前の貫一だ。宮! 貴様は一生汚(けが)れた宮ではないか。ことの破れて了(しま)つた今日(こんにち)になつて悔悟も赦してくれも要(い)つたものか、無益な事だ! 少(すこし)も汚(けが)れん宮であるから愛してをつたのだ、それを貴様は汚して了つたから怨んだのだ。さうして一遍汚れた以上は、それに対する十倍の徳を行(おこな)つても、その汚れたのを汚れざる者に改めることは到底出来んのだ。
であるから何と言つた! 熱海で別れる時も、お前の外(ほか)に妻と思ふ者は無い、一命に換へてもこの縁は切られんから、俺(おれ)のこの胸の中を可憐(あはれ)と思つて、十分決心してくれ、と実に男を捨てて頼んだではないか。その貫一に負(そむ)いて……何の面目(めんぼく)有つて今更悔悟……晩(おそ)い!」
彼はその文を再三柱に鞭(むちう)ちて、終に繩(なは)の如く引捩(ひきねぢ)りぬ。
打続きて宮が音信(たより)の必ず一週に一通来ずと謂ふこと無くて、披(ひらか)れざるに送り、送らるるに披(ひらか)かざりしも、はや算(かぞ)ふれば十通に上(のぼ)れり。さすがに今は貫一が見る度(たび)の憤(いかり)も弱りて、待つとにはあらねど、その定りて来る文の繁(しげ)きに、自(おのづか)ら他の悔い悲める宮在るを忘るる能(あた)はずなりぬ。されど、その忘るる能はざるも、遽(にはか)に彼を可懐(なつかし)むにはあらず、又その憤の弱れるも、彼を赦し、彼を容(い)れんと為るにあらずして、始(はじめ)に恋ひしをば棄てられ、後には棄てしを悔らるる身の、その古き恋はなほ己(おのれ)に存し、彼の新なる悔は切にまつはるも、徒(いたづら)に凍えて水を得たるに同(おなじ)かるこの両(ふたつ)の者の、相対(あひたい)して相拯(あひすく)ふ能はざる苦艱(くげん)を添ふるに過ぎざるをや。ここに於て貫一は披かぬ宮が文に向へば、その幾倍の悲きものを吾と心に読みて、かの恨ならぬ恨も生じ、かの憤(いかり)ならぬ憤も発して、憂身独(うきみひとり)の儚(はかな)き世をば如何(いか)にせんやうも知らで、唯安からぬ昼夜を送りつつ、出づるに入るに茫々(ぼうぼう)として、彼は屡(しばし)ばその貪(むさぼ)るをさへ忘るる事ありけり。劇(はげし)く物思ひて寝(い)ねざりし夜の明方近く疲睡を催せし貫一は、新緑の雨に暗き七時の閨(ねや)に魘(おそは)るる夢の苦く頻(しきり)に呻(うめ)きしを、老婢(ろうひ)に喚(よば)れて、覚めたりと知りつつ現(うつつ)ならず又睡りけるを、再び彼に揺起(ゆりおこさ)れて驚けば、
「お客様でございます」
「お客? 誰だ」
「荒尾さんと有仰(おつしや)いました」
「何、荒尾? ああ、さうか」
主(あるじ)の急ぎ起きんとすれば、
「お通し申しますで御座いますか」
「おお、早くお通し申して。さうしてな、唯今起きましたところで御座いますから、暫(しばら)く失礼致しますとさう申して」
貫一はかの一別の後三度(みたび)まで彼の隠家(かくれが)を訪ひしかど、毎(つね)に不在に会ひて、二度に及べる消息の返書さへあらざりければ、安否の如何(いかが)を満枝に糺(ただ)せしに、変る事無く其処(そこ)に住めりと言ふに、さては真(まこと)に交(まじはり)を絶たんとすならんを、姑(しばら)く強(しひ)て追はじと、一月余(あまり)も打絶えたりしに、彼方(あなた)より好(よ)くこそ来つれ、吾がこの苦(くるしみ)を語るべきは唯彼在るのみなるを、朋(とも)の来(きた)れるも、実(げ)にかくばかり楽きはあらざらん。今日は酒を出(いだ)して一日(いちじつ)彼を還さじなど、心忙(こころせはし)きまでに歓(よろこ)ばれぬ。
絶交せるやうに疏音(そいん)なりし荒尾の、何の意ありて卒(にはか)に訪来(とひきた)れるならん。貫一はその何の意なりやを念(おも)はず、又その突然の来叩(おとづれ)をも怪(あやし)まずして、畢竟(ひつきよう)彼の疏音なりしはその飄然(ひようぜん)主義の拘(かか)らざる故(ゆゑ)、交(まじはり)を絶つとは言ひしかど、誼(よしみ)の吾を棄つるに忍びざる故と、彼はこの人のなほ己(おのれ)を友として来(きた)れるを、有得べからざる事とは信ぜざりき。
手水場(てうづば)を出来(いでき)し貫一は腫(はれ)まぶたの赤きをしばたたきつつ、羽織の紐(ひも)を結びも敢(あ)へず、つと客間の紙門(ふすま)を排(ひら)けば、荒尾は居らず、かの荒尾譲介は居らで、美(うつくし)う装(よそほ)へる婦人の独(ひと)り羞含(はぢがまし)う控へたる。打惑(うちまど)ひて入(い)りかねたる彼の目前(まのあたり)に、可疑(うたがはし)き女客も未(いま)だ背(そむ)けたる面(おもて)を回(めぐら)さず、細雨(さいう)静(しづか)に庭樹(ていじゆ)を撲(う)ちて滴(したた)る翠(みどり)は内を照せり。
「荒尾さんと有仰(おつしや)るのは貴方で」
彼は先づかく会釈して席に着きけるに、婦人は猶も面(おもて)を示さざらんやうに頭(かしら)を下げて礼を作(な)せり。しかも彼は輙(たやす)くその下げたる頭(かしら)とつかへたる手とを挙げざるなりき。始に何者なりやと驚(おどろか)されし貫一は、今又何事なりやと弥(いよい)よ呆(あき)れて、彼の様子を打矚(うちまも)れり。乍(たちま)ち有りて貫一の眼(まなこ)は慌忙(あわただし)く覓(もと)むらん色を作(な)して、婦人の俯(うつむ)けるをきと窺(うかが)ひたりしが、
「何ぞ御用でございますか」
「…………」
彼は益(ますま)す急に左瞻右視(とみかうみ)して窺ひつ。
「どう云ふ御用向でございますか。伺ひませう」
「…………」
露置く百合(ゆり)の花などの仄(ほのか)に風を迎へたる如く、その可疑(うたがはし)き婦人の面(おもて)は術無(じゆつな)げに挙らんとして、又慙(は)ぢ懼(おそ)れたるやうに遅疑(たゆた)ふ時、
「宮!?」と貫一の声は筒抜けて走りぬ。
宮は嬉し悲しの心昧(こころくら)みて、身も世もあらず泣伏したり。
「何用有つて来た!」
怒(いか)るべきか、この時。恨むべきか、この時。辱(はぢし)むべきか、悲むべきか、号(さけ)ぶべきか、詈(ののし)るべきか、責むべきか、彼は一時に万感の相乱(あひみだ)れて急なるが為に、吾を吾としも覚ゆる能はずして打顫(うちふる)ひゐたり。
「貫一(かんいつ)さん! どうぞ堪忍(かんにん)して下さいまし」
宮は漸(やうや)う顔を振挙げしも、凄(すさまじ)く色を変へたる貫一の面(おもて)に向ふべくもあらで萎(しを)れ俯(ふ)しぬ。
「早く帰れ!」
「…………」
「宮!」
幾年(いくとせ)聞かざりしその声ならん。宮は危みつつも可懐(なつか)しと見る目を覚えず其方(そなた)に転(うつ)せば、鋭くみむかふる貫一の眼(まなこ)の湿(うるほ)へるは、既に如何(いか)なる涙の催せしならん。
「今更お互に逢ふ必要は無い。又お前もどの顔で逢ふ意(つもり)か。先達而(せんだつて)から頻(しきり)に手紙を寄来(よこ)すが、あれは一通でも開封したのは無い、来れば直(すぐ)に焼棄てて了ふのだから、以来は断じて寄来さんやうに。私(わたし)は今病中で、かうしてゐるのも太儀(たいぎ)でならんのだから、早く帰つて貰ひたい」
彼は老婢を召して、
「お客様のお立(たち)だ、お供にさう申して」
取附く島もあらず思悩(おもひなや)める宮を委(お)きて、貫一は早くも独り座を起たんとす。
「貫一さん、私(わたし)は今日は死んでも可(い)い意(つもり)でお目に掛りに来たのですから、貴方(あなた)の存分にどんな目にでも遭(あは)せて、さうしてそれでともかくも今日は勘弁して、お願ですから私の話を聞いて下さいまし」
「何の為に!」
「私は全く後悔しました! 貫一さん、私は今になつて後悔しました!! 悉(くはし)い事はこの間からの手紙に段々書いて上げたのですけれど、全(まる)で見ては下さらないのでは、後悔してゐる私のどんな切ない思をしてゐるか、お解りにはならないでせうが、お目に掛つて口では言ふに言(いは)れない事ばかり、設(たと)ひ書けない私の筆でも、あれをすつかり見て下すつたら、些(ちつ)とはお腹立も直らうかと、自分では思ふのです。色々お詑(わび)は為る意(つもり)でも、かうしてお目に掛つて見ると、面目(めんぼく)が無いやら、悲いやらで、何一語(ひとこと)も言へないのですけれど、貫一さん、とても私は来られる筈(はず)でない処へかうして来たのには、死ぬほどの覚悟をしたのと思つて下さいまし」
「それがどう為たのだ」
「さうまで覚悟をして、是非お話を為たい事が有るのですから、御迷惑でもどうぞ、どうぞ、貫一さん、ともかくも聞いて下さいまし」
涙ながらに手をつかへて、吾が足下(あしもと)に額叩(ぬかづ)く宮を、何為らんとやうに打見遣りたる貫一は、
「六年前(ぜん)の一月十七日、あの時を覚えてゐるか」
「…………」
「さあ、どうか」
「私は忘れは為ません」
「うむ、あの時の貫一の心持を今日お前が思知るのだ」
「堪忍して下さい」
唯(と)見る間に出行(いでゆ)く貫一、咄嗟(あなや)、紙門(ふすま)は鉄壁よりも堅く閉(た)てられたり。宮はその心に張充(はりつ)めし望を失ひてはたと領伏(ひれふ)しぬ。
「豊、豊!」と老婢を呼ぶ声劇(はげし)く縁続(えんつづき)の子亭(はなれ)より聞(きこ)ゆれば、直(ぢき)に走り行く足音の響きしが、やがて返し来(きた)れる老婢は客間に顕(あらは)れぬ。宮は未だ頭(かしら)を挙げずゐたり。可憐(しをらし)き束髪の頸元深(えりもとふか)く、黄蘖染(おうばくぞめ)の半衿(はんえり)に紋御召(もんおめし)の二枚袷(にまいあはせ)を重ねたる衣紋(えもん)の綾(あや)先(ま)づ謂はんやう無く、肩状(かたつき)優(やさし)う内俯(うつふ)したる脊(そびら)に金茶地(きんちやぢ)の東綴(あづまつづれ)の帯高く、勝色裏(かついろうら)の敷乱(しきみだ)れつつ、白羽二重(しろはぶたへ)のハンカチイフに涙を掩(おほ)へる指に赤く、白く指環(リング)の玉を耀(かがやか)したる、殆(ほとん)ど物語の画をも看(み)るらん心地して、この美き人の身の上に何事の起りけると、豊は可恐(おそろし)きやうにも覚ゆるぞかし。
「あの、申上げますが、主人は病中の事でございますもので、唯今生憎(あいにく)と急に気分が悪くなりましたので、相済みませんで御座いますが中座を致しました。恐入りますで御座いますが、どうぞ今日(こんにち)はこれで御立帰(おたちかへり)を願ひますで御座います」
面(おもて)を抑へたるままに宮は涙を啜(すす)りて、
「ああ、さやうで御座いますか」
「折角お出(いで)のところを誠にどうもお気毒さまで御座います」
「唯今些(ちよつ)と支度を致しますから、もう少々置いて戴(いただ)きますよ」
「さあさあ、貴方(あなた)御遠慮無く御寛(ごゆるり)と遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、今日(こんにち)はいつそお寒過ぎますで御座います」
彼の起ちし迹(あと)に宮は身支度を為るにもあらで、始て甦(よみがへ)りたる人の唯在るが如くに打沈みてぞゐたる。やや久(ひさし)かるに客の起たんとする模様あらねば、老婢は又出来(いできた)れり。宮はその時遽(にはか)に身づくろいして、
「それではお暇(いとま)を致します。些(ちよつ)と御挨拶だけ致して参りたいのですから、何方(どちら)にお寝(よ)つてお在(いで)ですか……」
「はい、あの何でございます、どうぞもうおかまひ無く……」
「いいえ、御挨拶だけ些(ちよつ)と」
「さやうで御座いますか。では此方(こちら)へ」
主(あるじ)の本意(ほい)ならじとは念(おも)ひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭(はなれ)に案内(あない)せり。昨夜(ゆふべ)の収めざる蓐(とこ)の内に貫一は着のまま打仆(うちたふ)れて、夜着(よぎ)も掻巻(かいまき)も裾(すそ)の方(かた)に蹴放(けはな)し、枕(まくら)に辛(から)うじてその端(はし)に幾度(いくたび)か置易(おきかへ)られし頭(かしら)を載(の)せたり。
思ひも懸けず宮の入来(いりく)るを見て、起回(おきかへ)らんとせし彼の膝下(ひざもと)に、早くも女の転(まろ)び来て、立たんと為れば袂(たもと)を執り、猶(なほ)も犇(ひし)と寄添ひて、物をも言はず泣伏したり。
「ええ、何の真似(まね)だ!」
突返さんとする男の手を、宮は両手に抱(いだ)き緊(し)めて、
「貫一さん!」
「何を為る、この恥不知(はぢしらず)!」
「私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし」
「ええ、聒(やかまし)い! ここを放さんか」
「貫一さん」
「放さんかと言ふに、ええ、もう!」
その身を楯(たて)に宮は放さじと争ひて益(ますま)す放さず、両箇(ふたり)が顔は互に息の通はんとすばかり近く合ひぬ。一生又相見(あひみ)じと誓へるその人の顔の、おのれ眺(なが)めたりし色は疾(と)く失せて、誰(たれ)ゆゑ今の別(べつ)にえんなるも、なほ形のみは変らずして、実(げ)にかの宮にして宮ならぬ宮と、吾は如何(いか)にしてここに逢へる! 貫一はその胸の夢むる間(ひま)に現(うつつ)ともなく彼を矚(まも)れり。宮は殆(ほとん)ど情極(きはま)りて、纔(わづか)に狂せざるを得たるのみ。
彼は人の頭(かしら)より大いなるダイアモンドを乞ふが為に、この貫一の手を把(と)る手をば釈(と)かざらん。大いなるダイアモンドか、幾許(いかばかり)大いなるダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知りぬ。彼の持(も)たるダイアモンドはさせる大いなる者ならざれど、その棄去りし人の誠は量無(はかりな)きものなりしが、嗟乎(ああ)、今何処(いづこ)に在りや。その嘗(かつ)て誠を恵みし手は冷(ひやや)かに残れり。空(むなし)くその手を抱(いだ)きて泣かんが為に来(きた)れる宮が悔は、実(げ)に幾許(いかばかり)大いなる者ならん。
「さあ、早く帰れ!」
「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日のところはどうとも堪忍して、打(ぶ)つなり、殴(たた)くなり貫一さんの勝手にして、さうして少小(すこし)でも機嫌(きげん)を直して、私のお詑(わび)に来た訳を聞いて下さい」
「ええ、煩(うるさ)い!」
「それぢや打つとも殴くともして……」
身悶(みもだえ)して宮の縋(すが)るを、
「そんな事で俺(おれ)の胸が霽(は)れると思つてゐるか、殺しても慊(あきた)らんのだ」
「ええ、殺れても可い! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了つた方が可いのですから」
「自分で死ね!」
彼は自ら手を下(くだ)して、この身を殺すさへ屑(いさぎよ)からずとまでに己(おのれ)を鄙(いやし)むなるか、余に辛(つら)しと宮は唇(くちびる)を咬(か)みぬ。
「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更見(みつ)とも無い態(ざま)を為ずに何為(なぜ)死ぬまで立派に棄て通さんのだ」
「私は始から貴方を棄てる気などは有りはしません。それだから篤(とつく)りとお話を為たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾(とう)から自分ぢや生きてゐるとは思つてゐません」
「そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!」
「帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません」
宮は男の手をば益す弛(ゆる)めず、益す激する心の中(うち)には、夫もあらず、世間もあらずなりて、唯この命を易(か)ふる者を失はじと一向(ひたぶる)に思入るなり。
折から縁に足音するは、老婢の来るならんと、貫一は取られたる手を引放たんとすれど、こは如何(いかに)、宮は些(ちと)も弛(ゆる)めざるのみか、その容(かたち)をだに改めんと為ず。果して足音は紙門(ふすま)の外に逼(せま)れり。
「これ、人が来る」
「…………」
宮は唯力を極(きは)めぬ。
不意にこの体(てい)を見たる老婢は、半(なかば)啓(あ)けたる紙門(ふすま)の陰に顔引入れつつ、
「赤樫(あかがし)さんがお出(いで)になりまして御座います」
窮厄の色はつと貫一の面(おもて)に上(のぼ)れり。
「ああ、今其方(そつち)へ行くから。――さあ、客が有るのだ、好加減に帰らんか。ええ、放せ。客が有ると云ふのにどうするのか」
「ぢや私はここに待つてゐますから」
「知らん! もう放せと言つたら」
用捨もあらず宮は捻倒(ねぢたふ)されて、落花の狼藉(ろうぜき)と起き敢(あ)へぬ間に貫一は出行(いでゆ)く。 
(六)の二
座敷外に脱ぎたる紫裏(むらさきうら)の吾妻(あづま)コオトに目留めし満枝は、嘗(かつ)て知らざりしその内曲(うちわ)の客を問はで止む能(あた)はざりき。又常に厚く恵(めぐま)るる老婢は、彼の為に始終の様子を告(つぐ)るの労を吝(をし)まざりしなり。さてはと推せし胸の内は瞋恚(しんい)に燃えて、可憎(につく)き人の疾(と)く出で来(こ)よかし、如何(いか)なる貌(かほ)して我を見んと為(す)らん、と焦心(せきごころ)に待つ間のいとどしう久(ひさし)かりしに、貫一はなかなか出(い)で来ずして、しかも子亭(はなれ)のほとほと人気(ひとけ)もあらざらんやうに打鎮(うちしづま)れるは、我に忍ぶかと、弥(いよい)よ満枝は怺(こら)へかねて、
「お豊さん、もう一遍旦那(だんな)様にさう申して来て下さいな、私(わたし)今日は急ぎますから、些(ちよつ)とお目に懸りたいと」
「でも、私(わたくし)は誠に参り難(にく)いので御座いますよ、何だかお話が大変込入つてお在(いで)のやうで御座いますから」
「かまはんぢやありませんか、私がさう申したと言つて行くのですもの」
「ではさう申上げて参りますです」
「はあ」
老婢は行きて、紙門(ふすま)の外より、
「旦那さま、旦那さま」
「此方(こちら)にお在(いで)は御座いませんよ」
かく答へしは客の声なり。豊は紙門(ふすま)を開きて、
「おや、さやうなので御座いますか」
実(げ)に主(あるじ)は在らずして、在るが如くその枕頭(まくらもと)に坐れる客の、猶悲(なほかなしみ)の残れる面(おもて)に髪をば少し打乱(うちみだ)し、左のわきあけの二寸ばかりも裂けたるままに姿も整はずゐたりしを、遽(にはか)に引枢(ひきつくろ)ひつつ、
「今し方其方(そちら)へお出(いで)なすつたのですが……」
「おや、さやうなので御座いますか」
「那裡(あちら)のお客様の方へお出(いで)なすつたのでは御座いませんか」
「いいえ、貴方、那裡(あちら)のお客様が急ぐと有仰(おつしや)つてで御座いますものですから、さう申上げに参つたので御座いますが、それぢやまあ、那辺(どちら)へいらつしやいましたらう!」
「那裡(あちら)にもゐらつしやいませんの!」
「さやうなので御座いますよ」
老婢はここを倉皇(とつかは)起ちて、満枝が前に、
「此方(こちら)へもいらつしやいませんで御座いますか」
「何が」
「あの、那裡(あちら)にもゐらつしやいませんので御座いますが」
「旦那様が? どうして」
「今し方這裡(こちら)へ出てお在(いで)になつたのださうで御座います」
「嘘(うそ)、嘘ですよ」
「いいえ、那裡(あちら)にはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……」
「嘘ですよ」
「いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません」
「だつて、此方(こちら)へお出(いで)なさりは為ないぢやありませんか」
「ですから、まあ、何方(どつち)へいらつしやつたのかと思ひまして……」
「那裡(あちら)にきつと隠れてでもお在(いで)なのですよ」
「貴方、そんな事が御座いますものですか」
「どうだか知れはしません」
「はてね、まあ。お手水(てうづ)ですかしらん」
随処(そこら)尋ねんとて彼は又倉皇(とつかは)起ちぬ。
有効無(ありがひな)きこの侵辱(はづかしめ)に遭(あ)へる吾身(わがみ)は如何(いか)にせん、と満枝は無念の遣(や)る方無さに色を変へながら、些(ちと)も騒ぎ惑はずして、知りつつ食(は)みし毒の験(しるし)を耐へ忍びゐたらんやうに、得も謂(いは)れず窃(ひそか)に苦めり。宮はその人の遁(のが)れ去りしこそ頼(たのみ)の綱は切られしなれと、はや留るべき望も無く、まして立帰るべき力は有らで、罪の報(むくい)は悲くも何時まで儚(はかな)きこの身ならんと、打俯(うちふ)し、打仰ぎて、太息(ためいき)つくのみ。
颯(さ)と空の昏(くら)み行く時、軒打つ雨は漸(やうや)く密なり。
戸棚(とだな)、押入(おしいれ)の外(ほか)捜さざる処もあらざりしに、終(つひ)に主(あるじ)を見出(みいだ)さざる老婢は希有(けう)なる貌(かほ)して又子亭(はなれ)に入来(いりきた)れり。
「何方(どちら)にもゐらつしやいませんで御座いますが……」
「あら、さやうですか。ではお出掛にでも成つたのでは御座いませんか」
「さやうで御座いますね。一体まあどうなすつたと云ふので御座いませう、那裡(あちら)にも這裡(こちら)にもお客様を置去(おきざり)に作(なす)つてからに。はてね、まあ、どうもお出掛になる訳は無いので御座いますけれど、家中には何処(どつこ)にもゐらつしやらないところを見ますと、お出掛になつたので御座いますかしらん。それにしても……まあ御免あそばしまして」
彼は又満枝の許(もと)に急ぎ行きて、事の由(よし)を告げぬ。
「いいえ、貴方(あなた)、私は見て参りましたので御座いますよ。子亭(はなれ)にゐらつしやりは致しません、それは大丈夫で御座います」
彼は遽(にはか)に心着きて履物(はきもの)を検(あらた)め来んとて起ちけるに、踵(つ)いで起てる満枝の庭前(にはさき)の縁に出づると見れば、つかつかと行きて子亭(はなれ)の入口に顕(あらは)れたり。
宮は何人(なにびと)の何の為に入来(いりきた)れるとも知らず、先(ま)づ愕(おどろ)きつつも彼を迎へて容(かたち)を改めぬ。吾が恋人の恋人を拝まんとてここに来にける満枝の、意外にも敵の己(おのれ)より少(わか)く、己より美く、己より可憐(しをらし)く、己より貴(たつと)きを見たる妬(ねた)さ、憎さは、唯この者有りて可怜(いと)しさ故に、他(ひと)の情(なさけ)も誠も彼は打忘るるよとあはれ、一念の力を剣(つるぎ)とも成して、この場を去らず刺殺(さしころ)さまほしう、心は躍(をど)り襲(かか)り、躍り襲らんと為るなりけり。
宮は稍羞(ややはぢら)ひて、葉隠(はがくれ)に咲遅れたる花の如く、夕月の涼(すずし)う棟(むね)を離れたるやうに満枝は彼の前に進出(すすみい)でて、互に対面の礼せし後、
「始めましてお目に掛りますで御座いますが、間様の……御親戚? でゐらつしやいますで御座いますか」
憎き人をば一番苦めんの満枝が底意なり。
「はい親類筋の者で御座いまして」
「おや、さやうでゐらつしやいますか。手前は赤樫満枝と申しまして、間様とは年来の御懇意で、もう御親戚同様に御交際を致して、毎々お世話になつたり、又及ばずながらお世話も致したり、始終お心易く致してをりますで御座いますが、ついぞ、まあ従来(これまで)お見上げ申しませんで御座いました」
「はい、つい先日まで長らく遠方に参つてをりましたもので御座いますから」
「まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?」
「はい……広島の方に居りまして御座います」
「はあ、さやうで。唯今は何方(どちら)に」
「池端(いけのはた)に居ります」
「へえ、池端、お宜(よろし)い処で御座いますね。然し、夙(かね)て間様のお話では、御自分は身寄も何も無いから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと有仰(おつしや)るもので御座いますから、全くさうとばかり私(わたくし)信じてをりましたので御座いますよ。それに唯今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がお有り遊ばすのに、どう云ふお意(つもり)であんな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のお有りあそばす事をお隠しになるには当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体作(なさ)るので御座いますよ」
疑(うたがひ)の雲は始て宮が胸に懸(かか)りぬ。父が甞(かつ)て病院にて見し女の必ず訳有るべしと指(さ)せしはこれならん。さては客来(きやくらい)と言ひしも詐(いつはり)にて、或(あるひ)は内縁の妻と定れる身の、吾を咎(とが)めて邪魔立せんとか、但(ただし)は彼人(かのひと)のこれ見よとてここに引出(ひきいだ)せしかと、今更に差(たが)はざりし父が言(ことば)を思ひて、宮は仇(あだ)の為に病めるを笞(むちう)たるるやうにも覚ゆるなり。いよいよ長く居るべきにあらぬ今日のこの場はこれまでと潔く座を起たんとしたりけれど、何処(いづく)にか潜めゐる彼人(かのひと)の吾が還るを待ちて忽(たちま)ち出で来て、この者と手を把(と)り、面(おもて)を並べて、可哀(あはれ)なる吾をば笑ひ罵(ののし)りもやせんと想へば、得堪(えた)へず口惜(くちをし)くて、如何(いか)にせば可(よ)きと心苦(こころくるし)く遅(ためら)ひゐたり。
「お久しぶりで折角お出(いで)のところを、生憎(あいにく)と余義無い用向の使が見えましたもので、お出掛になつたので御座いますが、些(ちよつ)と遠方でございますから、お帰来(かへり)の程は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又御寛(ごゆつく)りとお出(い)で遊ばしまして」
「大相長座(ちようざ)を致しまして、貴方の御用のお有り遊ばしたところを、心無いお邪魔を致しまして、相済みませんで御座いました」
「いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、些(ちよつ)とも御遠慮には及びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう」
「はい、誠に残念でございます」
「さやうで御座いませうとも」
「四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して今日(こんにち)は一日遊んで参らうと楽(たのしみ)に致してをりましたのを、実に残念で御座います」
「大きに」
「さやうなら私はお暇(いとま)を致しませう」
「お帰来(かへり)で御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね」
「いいえ、幾多(いくら)降りましたところが俥(くるま)で御座いますから」
互に憎し、口惜(くちを)しと鎬(しのぎ)を削る心の刃(やいば)を控へて、彼等は又相見(あひみ)ざるべしと念じつつ別れにけり。 
第七章
家の内を隈無(くまな)く尋ぬれども在らず、さては今にも何処(いづこ)よりか帰来(かへりこ)んと待てど暮せど、姿を晦(くらま)せし貫一は、我家ながらも身を容(い)るる所無き苦紛(くるしまぎ)れに、裏庭の木戸より傘(かさ)もささで忍び出でけるなり。
されど唯一目散に脱(のが)れんとのみにて、卒(にはか)に志す方(かた)もあらぬに、生憎(あやにく)降頻(ふりしき)る雨をば、辛(から)くも人の軒などに凌(しの)ぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思立ちて折節(をりふし)通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、其処(そこ)に躍入(をどりい)りけり。
客は三組ばかり、各(おのおの)静に窓前の竹の清韻(せいいん)を聴きて相対(あひたい)せる座敷の一間(ひとま)奥に、主(あるじ)は乾魚(ひもの)の如き親仁(おやぢ)の黄なる髯(ひげ)を長く生(はや)したるが、兀然(こつぜん)として独(ひと)り盤を磨(みが)きゐる傍に通りて、彼は先(ま)づ濡(ぬ)れたる衣(きぬ)を炙(あぶ)らんと火鉢(ひばち)に寄りたり。
異(あやし)み問はるるには能(よ)くも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、その余波(なごり)は今も轟(とどろ)く胸の内に痛(したた)か思回(おもひめぐら)して、又空(むなし)く神(しん)は傷(いた)み、魂(こん)は驚くといへども、我や怒(いか)る可き、事や哀(あはれ)むべき、或(あるひ)は悲む可きか、恨む可きか、抑(そもそ)も喜ぶ可きか、慰む可きか、彼は全く自ら弁ぜず。五内(ごない)渾(すべ)て燃え、四肢(しし)直(ただち)に氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と煩悶(はんもん)とは新に来(きた)りて彼を襲へるなり。
主(あるじ)は貫一が全濡(づぶぬれ)の姿よりも、更に可訝(いぶかし)きその気色(けしき)に目留めて、問はでも椿事(ちんじ)の有りしを疑はざりき。ここまで身は遁(のが)れ来にけれど、なかなか心安からで、両人(ふたり)を置去(おきざり)に為(せ)し跡は如何(いかに)、又我が為(せ)んやうは如何(いかに)など、彼は打惑へり。沸くが如きその心の騒(さわが)しさには似で、小暗(をぐら)き空に満てる雨声(うせい)を破りて、三面の盤の鳴る石は断続して甚(はなは)だ幽なり。主(あるじ)はこの時窓際(まどぎは)の手合観(てあはせみ)に呼れたれば、貫一は独り残りて、未だ乾(ひ)ぬ袂(たもと)を翳(かざ)しつつ、愈(いよい)よ限無く惑ひゐたり。遽(にはか)に人の騒立つるに愕(おどろ)きて顔を挙(あぐ)れば、座中尽(ことごと)く頸(くび)を延べて己(おの)が方(かた)を眺め、声々に臭しと喚(よば)はるに、見れば、吾が羽織の端(はし)は火中に落ちて黒煙(くろけふり)を起つるなり。直(ぢき)に揉消(もみけ)せば人は静(しづま)るとともに、彼もまた前(さき)の如し。
少頃(しばし)有りて、門(かど)に入来(いりき)し女の訪(おとな)ふ声して、
「宅の旦那(だんな)様はもしや這裡(こちら)へいらつしやりは致しませんで為(し)たらうか」
主は忽(たちま)ち髯(ひげ)の頤(おとがひ)を回(めぐら)して、
「ああ、奥にお在(いで)で御座いますよ」
豊かと差覗(さしのぞ)きたる貫一は、
「おお、傘を持つて来たのか」
「はい。此方(こちら)にお在(いで)なので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」
「さうか。客は帰つたか」
「はい、疾(とう)にお帰(かへり)になりまして御座います」
「四谷のも帰つたか」
「いいえ、是非お目に掛りたいと有仰(おつしや)いまして」
「居る?」
「はい」
「それぢや見付からんと言つて措(お)け」
「ではお帰りに成りませんので?」
「も少し経(た)つたら帰る」
「直(ぢき)にもうお中食(ひる)で御座いますが」
「可(い)いから早く行けよ」
「未(ま)だ旦那様は朝御飯も」
「可いと言ふに!」
老婢は傘と足駄(あしだ)とを置きて悄々(すごすご)還りぬ。
程無く貫一も焦げたる袂(たもと)を垂れて出行(いでゆ)けり。
彼はこの情緒の劇(はげし)く紛乱せるに際して、可煩(わづらはし)き満枝にまつはらるる苦悩に堪へざるを思へば、その帰去(かへりさ)らん後までは決(け)して還らじと心を定めて、既に所在(ありか)を知られたる碁会所を立出(たちい)でしが、いよいよ指して行くべき方(かた)は有らず。はや正午と云ふに未(いま)だ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何(いか)に為(せ)んとするにか有らん、猶降りに降る雨の中を茫々然(ぼうぼうぜん)として彷徨(さまよ)へり。
初夏の日は長かりけれど、纔(わづか)に幾局の勝負を決せし盤の上には、殆(ほとん)ど惜き夢の間に昏(く)れて、折から雨も霽(は)れたれば、好者(すきもの)どもも終(つひ)に碁子(きし)を歛(をさ)めて、惣立(そうだち)に帰るをあたかも送らんとする主の忙々(いそがはし)く燈(ひ)ともす比(ころ)なり、貫一の姿は始て我家の門(かど)に顕(あらは)れぬ。
彼は内に入(い)るより、
「飯を、飯を!」と婢(をんな)を叱(しつ)して、颯(さ)と奥の間の紙門(ふすま)を排(ひら)けば、何ぞ図らん燈火(ともしび)の前に人の影在り。
彼は立てるままに目をみはりつ。されど、その影は後向(うしろむき)に居て動かんとも為(せ)ず。満枝は未(いま)だ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女は尚(なほ)も殊更(ことさら)に見向かぬを、此方(こなた)もわざと言(ことば)を掛けずして子亭(はなれ)に入り、豊を呼びて衣を更(か)へ、膳(ぜん)をも其処(そこ)に取寄せしが、何とか為けん、必ず入来(いりく)べき満枝の食事を了(をは)るまでも来ざるなりき。却(かへ)りて仕合好(しあはせよ)しと、貫一は打労(うちつか)れたる身を暢(のびや)かに、障子の月影に肱枕(ひぢまくら)して、姑(しばら)く喫烟(きつえん)に耽(ふけ)りたり。
敢(あへ)て恋しとにはあらねど、苦しげに羸(やつ)れたる宮が面影(おもかげ)の幻は、頭(かしら)を回(めぐ)れる一蚊(ひとつか)の声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて憶出(おもひい)でらるれば、なほ往きかねて那辺(そこら)に忍ばずやと、風の音にも幾度(いくたび)か頭(かしら)を挙げし貫一は、婆娑(ばさ)として障子に揺(ゆ)るる竹の影を疑へり。
宮は何時(いつ)までここに在らん、我は例の孤(ひとり)なり。思ふに、彼の悔いたるとは誠ならん、我の死を以(も)て容(ゆる)さざるも誠なり。彼は悔いたり、我より容さば容さるべきを、さは容さずして堅く隔つる思も、又怪(あやし)きまでに貫一は佗(わびし)くて、その釈(と)き難き怨(うらみ)に加ふるに、或種の哀(あはれ)に似たる者有るを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の色こそ、その哀にも似たるやうに打眺(うちなが)めて、他(ひと)の憎しとよりは転(うた)た自(みづから)を悲しと思続けぬ。彼は竟(つひ)に堪へかねたる気色(けしき)にて障子を推啓(おしあく)れば、涼(すずし)き空に懸れる片割月(かたわれづき)は真向(まむき)に彼の面(おもて)に照りて、彼の愁ふる眼(まなこ)は又痛(したた)かにその光を望めり。
「間さん」
居たるを忘れし人の可疎(うとまし)き声に見返れば、はや背後(うしろ)に坐れる満枝の、常は人を見るに必ず笑(ゑみ)を帯びざる無き目の秋波(しほ)も乾(かわ)き、顔色などは殊(こと)に槁(か)れて、などかくは浅ましきと、心陰(こころひそか)に怪む貫一。
「ああ、未だ御在(おいで)でしたか」
「はい、居りました。お午前(ひるまへ)から私(わたくし)お待ち申してをりました」
「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」
「急な用が無ければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」
語気の卒(にはか)にはげしきを駭(おどろ)ける貫一は、空(むなし)く女の顔を見遣(みや)るのみ。
「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりましたのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。飛(とん)だ御娯(おたのしみ)のお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」
その眼色(まなざし)は怨(うらみ)の鋩(きつさき)を露(あらは)して、男の面上を貫かんとやうに緊(きびし)く見据ゑたり。
貫一は苦笑して、
「貴方(あなた)は何をばかな事を言つてゐるのですか」
「今更おかくしなさるには及びませんさ。若い男と女が一間(ひとま)に入つて、取付(とつつ)き引付(ひつつ)きして泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに控へてをりまして、様子は大方存じてをります。七歳(ななつ)や八歳(やつ)の子供ぢや御座いません、それ位の事は誰にだつて直(ぢき)に解りませうでは御座いませんか。
爾後(それから)貴方がお出掛になりますと私直(ぢき)にここのお座敷へ推掛(おしか)けて参つて、あの御婦人にお目に掛りましたので御座います」
絮(くど)しと聞流せし貫一も、ここに到りて耳を欹(そばだ)てぬ。
「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又有仰(おつしや)らなくても可ささうな事までお話を作(なさ)いますので、それは随分聞難(ききにく)い事まで私伺ひました」
為失(しな)したりと貫一は密(ひそか)に術無(じゆつな)き拳(こぶし)を握れり。満枝は猶(なほ)も言足らで、
「然し、間さん、遉(さすが)に貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯(おたのしみ)にお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者(いつこくもの)だ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠(ひしかくし)に隠し通してゐらしつたお手際(てぎは)には私実に驚入つて一言(いちごん)も御座いません。能く凄(すご)いとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」
「もうつまらん事を……、貴方何ですか」
「お口ぢやさう有仰(おつしや)つても、実はお嬉(うれし)いので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにも恋(こひし)くてゐらつしやるのですかね」
されば我が出行(いでゆ)きし迹(あと)をこそ案ぜしに、果してかかるわざはひは出で来にけり。由無(よしな)き者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く心跼(こころくぐま)りつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢて、唯月に打向へるを、女は此方(こなた)より熟々(つくづく)と見透(みすか)して目も放たず。
「間さん、貴方さう黙つてゐらつしやらんでも宜(よろし)いでは御座いませんか。ああ云ふお美(うつくし)いのを御覧に成つた後では、私如き者には口をお利(き)きに成るのもお可厭(いや)なのでゐらつしやいませう。私お察し申してをります。ですから私決して絮(くど)い事は申上げません。少し聞いて戴きたい事が御座いますのですから、庶(どう)かそれだけ言(いは)して下さいまし」
貫一は冷(ひややか)に目を転(うつ)して、
「何なりと有仰(おつしや)い」
「私もう貴方を殺して了ひたい!」
「何です?!」
「貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです」
「それも可いでせう。可いけれど何で私(わたし)が貴方に殺されるのですか」
「間さん、貴方はその訳を御存無(ごぞんじな)いと有仰(おつしや)るのですか、どの口で有仰るのですか」
「これは怪(けし)からん! 何ですと」
「怪からんとは、貴方も余(あんま)りな事を有仰るでは御座いませんか」
既に恨み、既に瞋(いか)りし満枝の眼(まなこ)は、ここに到りて始て泣きぬ。いと有るまじく思掛けざりし貫一は寧(むし)ろ可恐(おそろ)しと念(おも)へり。
「貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのですか。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければ措(お)きません」
「貴方を何日(いつ)私が憎みました。そんな事は有りません」
「では、何で怪からんなどと有仰(おつしや)います」
「怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳が有るとは。私は決(け)して貴方に殺される覚(おぼえ)は無い」
満枝は口惜(くちを)しげに頭(かしら)を掉(ふ)りて、
「有ります! 立派に有ると私信じてをります」
「貴方が独(ひとり)で信じても……」
「いいえ、独で有らうが何で有らうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます」
「私を殺すと云ふのですか」
「随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし」
「はあ、承知しました」
いよいよ昇れる月に木草の影もをかしく、庭の風情(ふぜい)は添(そは)りけれど、軒端(のきば)なる芭蕉葉(ばしようば)の露夥(つゆおびただし)く夜気の侵すに堪(た)へで、やをら内に入りたる貫一は、障子を閉(た)てて燈(ひ)を明(あか)うし、故(ことさら)に床の間の置時計を見遣りて、
「貴方、もうお帰りに成つたが可いでせう、余り晩(おそ)くなるですから。ええ?」
「憚(はばか)り様で御座います」
「いや、御注意を申すのです」
「その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので」
「ああ、さうですか」
「今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。如何(いかが)ですか」
憎さげに言放ちて、彼は吾矢の立つを看(み)んとやうに、姑(しばら)く男の顔色を候(うかが)ひしが、
「一体あれは何者なので御座います!」
犬にも非ず、猫にも非ず、汝(なんぢ)に似たる者よと思ひけれど、言争(いひあらそ)はんは愚なりと勘弁して、彼は才(わづか)に不快の色を作(な)せしのみ。満枝は益す独り憤(じ)れて、
「旧(ふる)いお馴染(なじみ)ださうで御座いますが、あの恰好(かつこう)は、商売人ではなし、万更の素人(しろうと)でもないやうな、貴方も余程(よつぽど)不思議な物をお好み遊ばすでは御座いませんか。然し、間さん、あれは主有(ぬしあ)る花で御座いませう」
妄(みだり)に言へるならんと念(おも)へど、如何(いか)にせん貫一が胸は陰(ひそか)に轟(とどろ)けるを。
「どうですか、なあ」
「さう云ふ者を対手(あひて)に遊ばすと、別(べつ)してお楽(たのしみ)が深いとか申しますが、その代(かはり)に罪も深いので御座いますよ。貴方が今日(こんにち)まで巧(たくみ)に隠し抜いてゐらしつた訳も、それで私能く解りました。こればかりは余り公(おほやけ)に御自慢は出来ん事で御座いますもの、秘密に遊ばしますのは実に御尤(ごもつとも)で御座います。
その大事の秘密を、人も有らうに、貴方の嫌(きら)ひの嫌ひの大御嫌(だいおきら)ひの私に知られたのは、どんなにかお心苦(こころくるし)くゐらつしやいませう。私十分お察し申してをります。然し私に取りましては、これ程幸(さいはひ)な事は無いので御座います。貴方が余り片意地に他(ひと)を苦めてばかりゐらしつたから、今度は私から思ふ様これで苦めて上げるのです。さう思召(おぼしめ)してゐらつしやい!」
聞訖(ききをは)りたる貫一は吃々(きつきつ)として窃笑(せつしよう)せり。
「貴方は気でも違ひは為(せ)んですか」
「少しは違つてもをりませう。誰がこんな気違(きちがひ)には作(な)すつたのです。私気が違つてゐるなら、今朝から変に成つたので御座いますよ。お宅に詣(あが)つて気が違つたのですから、元の正気に復(なほ)してお還し下さいまし」
彼は擦寄(すりよ)り、擦寄りて貫一の身近に逼(せま)れり。浅ましく心苦(こころくるし)かりけれど迯(に)ぐべくもあらねば、臭き物に鼻を掩(おほ)へる心地しつつ、貫一は身を側(そば)め側め居たり。満枝は猶(なほ)も寄添はまほしき風情(ふぜい)にて、
「就きましては、私一言(いちごん)貴方に伺ひたい事が有るので御座いますが、これはどうぞ御遠慮無く貴方の思召す通を丁(ちやん)と有仰(おつしや)つてお聞せ下さいまし、宜(よろし)う御座いますか」
「何ですか」
「なんですかでは可厭(いや)です、宜(よろし)いと截然(きつぱり)有仰(おつしや)つて下さい。さあ、さあ、貴方」
「けれども……」
「けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方は毎(いつ)も気の無い返事ばかり遊ばすのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方が思召す通を答へて下されば、それで宜(よろし)いのですから」
「勿論(もちろん)答へます。それは当然(あたりまへ)の事ぢやないですか」
「それが当然(あたりまへ)でなく、極打明けて少しも裹(つつ)まずに言つて戴きたいのですから」
善(よし)と貫一は頷(うなづ)きつ。
「では、きつと有仰つて下さいまし。間さん、貴方(あなた)は私をうるさい奴だと思召してゐらつしやるで御座いませう。私始終さう思ひながら、貴方の御迷惑もかまはずにやつぱりかうして附纏(つきまと)つてゐるのは、自分の口から箇様(かよう)な事を申すのも、甚(はなは)だ可笑(をかし)いので御座いますけれど、私、実に貴方の事は片時でも忘れは致しませんのです。それは如何(いか)に思つてをりましたところが、元来(もともと)私と云ふ者を嫌(きら)ひ抜いて御在(おいで)なのですから、あの歌が御座いますね、行く水に数画(かずか)くよりも儚(はかな)きは、思はぬ人を思ふなりけりとか申す、実にその通り、行く水に数を画くやうな者で、私の願のかなふ事は到底無いので御座いませう。もうさうと知りながら、それでも、間さん、私こればかりは諦(あきら)められんので御座います。
こんな者に見込れて、さぞ御迷惑ではゐらつしやいませうけれども私がこれ程までに思つてゐると云ふ事は、貴方も御存(ごぞんじ)でゐらつしやいませう。私が熱心に貴方の事を思つてゐると云ふ事で御座います、それはお了解(わかり)に成つてゐるで御座いませう」
「さうですな……そりや或(あるひ)はさうかも知れませんけれど……」
「何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、或(あるひ)はもさうかもないでは御座いませんか! さも無ければ、私何も貴方にうるさがられる訳は御座いませんさ、貴方も私をうるさいと思召すのが、現に何よりの証拠で。漆膠(しつこ)くて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知を遊ばしてお在(いで)のでは御座いませんか」
「それはさう謂へばそんなものです」
「貴方から嫌はれ抜いてゐるにも関(かかは)らず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十分御承知なので御座いませう」
「さう」
「で、私従来(これまで)に色々申上げた事が御座いましたけれど、些(ちよつ)とでもお聴き遊ばしては下さいませんでした。それは表面の理窟(りくつ)から申せば、無理なお願かも知れませんけれど、私は又私で別に考へるところが有つて、決(け)して貴方の有仰(おつしや)るやうな道に外(はづ)れた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事とは別で、お互にかうと思つた日には、其処(そこ)に理窟も何も有るのでは御座いません。究竟(つまり)貴方がそれを口実にして遁(に)げてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。然し、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成程儀剛(ぎごは)な片意地なところもお有(あん)なすつて、色恋の事なんぞには貪着(とんちやく)を遊ばさん方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方の頑固(がんこ)なのを私歯痒(はがゆ)いやうに存じてをつたので御座います……ところが!」
と言ひも敢(あ)へず煙管(きせる)を取りて、彼は貫一の横膝(よこひざ)をば或る念力(ねんりき)強く痛(したた)か推したり。
「何を作(なさ)るのです!」
払へば取直すその煙管にて、手とも云はず、膝とも云はず、当るを幸(さいはひ)に満枝は又打ち被(かか)る。
こは何事と駭(おどろ)ける貫一は、身を避(さく)る暇(いとま)もあらず三つ四つ撃れしが、遂(つひ)に取つて抑へて両手を働かせじと為れば、内俯(うつぷし)に引据ゑられたる満枝は、物をも言はで彼の股(もも)の辺(あたり)に咬付(かみつ)いたり。怪(けし)からぬ女哉(かな)、と怒(いかり)の余に手暴(てあら)く捩放(ねぢはな)せば、なほ辛(から)くも縋(すが)れるままに面(おもて)を擦付(すりつ)けて咽泣(むせびなき)に泣くなりき。
貫一は唯不思議の為体(ていたらく)に呆(あき)れ惑ひて言(ことば)も出(い)でず、漸(やうや)く泣ゐる彼を推斥(おしの)けんと為たれど、膠(にかは)の附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。涙の湿(うるほひ)は単衣(ひとへ)を透(とほ)して、この難面(つれな)き人の膚(はだへ)に沁(し)みぬ。
捨置かば如何(いか)に募らんも知らずと、貫一は用捨無くもぎ放(もぎはな)して、起たんと為るを、彼は虚(すか)さずまつはりて、又泣顔を擦付(すりつく)れば、怺(こら)へかねたる声を励す貫一、
「貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい」
「…………」
「さうして早くお帰りなさい」
「帰りません!」
「帰らん? 帰らんけりや宜(よろし)い。もう明日(あす)からは貴方のここへ足蹈(あしぶみ)の出来んやうに為て了(しま)ふから、さうお思ひなさい」
「私死んでも参ります!」
「今まで我慢をしてゐたですけれど、もう抛(はふ)つて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます」
満枝は始て涙に沾(うるほ)へる目を挙げたり。
「はあ、お話し下さい」
「…………」
「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」
貫一は歯を鳴して急上(せきあ)げたり。
「貴方は……実に……驚入(おどろきい)つた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか」
「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」
「怪(けし)からん!」
彼は憎き女の頬桁(ほほげた)をば撃つて撃つて打割(うちわ)る能(あた)はざるを憾(うらみ)と為(す)なるべし。
「定(さだめ)てあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決(け)してさやうでは御座いませんです」
「そんなら何(なん)ですか」
「往日(いつぞや)もお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、謂はば私の讐(かたき)も同然なので。成程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つてをりは致しません。さうですから、自分の好いた方(かた)に惚(ほ)れて騒ぐ分は、一向差支(さしつかへ)の無い独身(ひとりみ)も同じので御座います。
間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方が無いから、内の御膳炊(ごぜんたき)に貰つて遣るから、さう思へと、貴方が有仰(おつしや)つて下さいまし。私豊(とよ)の手伝でも致して、此方(こなた)に一生奉公を致します。
貴方は大方赤樫に言ふと有仰(おつしや)つたら、震へ上つて私が怖(こは)がりでも為ると思召すのでせうが、私驚きも恐れも致しません、寧(むし)ろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途方に昧(く)れるで御座いませう」
貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝も然(しか)こそは呆(あき)れつらんと思へば、
「それは実際で御座いますの。若し話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私を遠(とほざ)けやう為に、お話をなさるのなら、徒爾(むだ)な事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、私些(ちよつ)ともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう思召(おぼしめ)すものなら、物は試(ためし)で御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいましな。
私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふ主(ぬし)有る婦人と関係遊ばして、始終人目を忍んで逢引(あひびき)してゐらつしやる事を触散(ふれちら)しますから、それで何方(どちら)が余計迷惑するか、比較事(くらべつこ)を致しませう。如何(いかが)で御座います」
「男勝(をとこまさ)りの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」
「何で御座います?」
「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが直(ただ)ちに逢引(あひびき)ですか。又妙齢(としごろ)の女でさへあれば、必ず主有るに極(きま)つてゐるのですか。浅膚(あさはか)な邪推とは言ひながら、人を誣(し)ふるも太甚(はなはだし)い! 失敬千万な、気を着けて口をお利(き)きなさい」
「間さん、貴方、些(ちよつ)と此方(こちら)をお向きなさい」
手を取りて引けば、振釈(ふりほど)き、
「ええ、もう貴方は」
「おうるさいでせう」
「勿論(もちろん)」
「私向後(これから)もつと、もつともつとうるさくして上げるのです。さあ、貴方、今何と有仰(おつしや)つたので御座います、浅膚(あさはか)な邪推ですつて? 貴方こそも少し気を着けてお口をお利(き)き遊ばせな、貴方も男子でゐらつしやるなら、何為(なぜ)立派に、その通だ。情婦(をんな)が有るのがどうしたと、かう打付(ぶつつ)けて有仰らんのです。間さん、私貴方に向つてそんな事をかれこれ申す権利は無い女なので御座いますよ。幾多(いくら)さう云ふ権利を有ちたくても、有つ事が出来ずにゐるので御座います。それに、何も私の前を憚(はばか)つて、さう向(むき)に成つてお隠し遊ばすには当らんでは御座いませんか。
私実を申しませうか、箇様(かよう)なので御座います。貴方が余所外(よそほか)に未だ何百人愛してゐらつしやる方(かた)が有りませうとも、それで愛相(あいそ)を尽(つか)して、貴方の事を思切るやうな、私そんな浮気な了簡(りようけん)ではないのです。又貴方の御迷惑に成る秘密を洩(もら)しましたところで、かなはない願がかなふ訳ではないので御座いませう。どう思召してゐらつしやるか存じませんけれど、私それ程卑怯(ひきよう)な女ではない積(つもり)で御座います。
世間へ吹聴して貴方を困らせるなどと申したのは、あれは些(ほん)のその場の憎まれ口で、私決(け)してそんな心は微塵(みじん)も無いので御座いますから、どうかそのお積で、お心持を悪く遊ばしませんやうに。つい口が過ぎましたのですから、御勘弁遊ばしまして。私この通お詫(わび)を致します」
満枝は惜まず身を下(くだ)して、彼の前に頭(かしら)を低(さ)ぐる可憐(しをら)しさよ。貫一は如何(いか)にとも為(す)る能はずして、窃(ひそか)に首(かうべ)を掻(か)いたり。
「就(つ)きましては、私今から改めて折入つた御願が有るので御座いますが貴方も従来(これまで)の貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたいので御座います。そのお辞(ことば)次第で、私もう断然何方(どちら)に致しても了簡を極めて了ひますですから、間さん、貴方も庶(どう)か歯に衣(きぬ)を着せずに、お心に在る通りをそのまま有仰つて下さいまし。宜(よろし)う御座いますか。
今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は御存(ごぞんじ)でゐらつしやるのです。従来(これまで)も随分絮(くど)く申上げましたけれど、貴方は一図に私をお嫌(きら)ひ遊ばして、些(ちよつと)でも私の申す事は取上げては下さらんのです――さやうで御座いませう。貴方からそんなに嫌(きら)はれてゐるのですから、私もさう何時まで好い耻(はぢ)を掻かずとも、早く立派に断念して了へば宜(よ)いのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも女子(をんな)にしては極未練の無い方で、手短(てみじか)に一か八(ばち)か決して了ふ側(がは)なので御座います。それがこの事ばかりは実に我ながら何為(なぜ)かう意気地が無からうと思ふ程、……これが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふは無い積の私、それが貴方の事ばかりには全く迷ひました。
ですから、唯その胸の中(うち)だけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座います。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能くの因果で、究竟(つまり)貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう致方(いたしかた)も有りませんが、そんなに為(さ)れてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、如何(いか)にも不敏(ふびん)な者だと、設(たと)ひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方ではないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。
御自分が恋(こひし)く思召すのも、人が恋いのも、恋いに差(かはり)は無いで御座いませう。増(ま)して、貴方、片思(かたおもひ)に思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな不束(ふつつか)な者でも、同じに生れた人間一人(いちにん)が、貴方の為には全(まる)で奴隷(どれい)のやうに成つて、しかも今貴方のお辞(ことば)を一言(ひとこと)聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐるので御座います。其処(そこ)をお考へ遊ばしたら、如何(いか)に好かん奴であらうとも、雫(しづく)ぐらゐの情(なさけ)は懸けて遣(や)らう、と御不承が出来さうな者では御座いませんか。
私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお辞(ことば)を、唯一言(ひとこと)で宜いのですから、今までのお馴染効(なじみがひ)にどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」
終に近く益す顫(ふる)へる声は、竟(つひ)に平生(へいぜい)の調(ちよう)をさへ失ひて聞えぬ。彼は正(まさし)くその一言(いちごん)の為には幾千円の公正証書を挙げて反古(ほぐ)に為んも、なかなか吝(をし)からぬ気色を帯びて逼(せま)れり。息は凝(こ)り、面(おもて)は打蒼(うちあを)みて、その袖(そで)よりは劒(つるぎ)を出(いだ)さんか、その心よりは笑(ゑみ)を出(いだ)さんか、と胸跳(むねをど)らせて片時(へんじ)も苦く待つなりき。
切なりと謂はば実(げ)に極(きは)めて切なる、可憐(しをら)しと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、貫一もいと善く知れれど、他(た)の己(おのれ)を愛するの故(ゆゑ)を以(も)て直(ただ)ちに蛇蝎(だかつ)に親まんや、と却(かへ)りてその執念をば難堪(たへがた)く浅ましと思へるなり。
されど又情としてはげしく言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は打悩(うちなや)める眉(まゆ)を強(しひ)て披(ひら)かせつつ、
「さうして貴方が満足するやうな一言(いちごん)?……どう云ふ事を言つたら可いのですか」
「貴方もまあ何を有仰(おつしや)つてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を他(ひと)にお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」
「それはさうですけれど、私にも解らんから」
「解るも解らんも無いでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上(にげこうじよう)を有仰(おつしや)らうとなさるから、急に御考も無いので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外には有りは致しませんわ」
「いや、それなら解つてゐます……」
「解つてゐらつしやるなら些(ちよつ)と有仰(おつしや)つて下さいましな」
「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話の有つたやうな訳であるから、とにかくその心情は察しても可からう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶(あいさつ)を為てくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程難(むづかし)い、別にどうも外に言ひ様も無いですわ」
「まあ何でも宜(よろし)う御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし」
「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」
「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」
「貴方の思召(おぼしめし)は実に難有(ありがた)いと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません」
「間さん、きつとで御座いますか、貴方」
「勿論です」
「きつとで御座いますね」
「相違ありません!」
「きつと?」
「ええ!」
「その証拠をお見せ下さいまし」
「証拠を?」
「はあ。口頭(くちさき)ばかりでは私可厭(いや)で御座います。貴方もあれ程確(たしか)に有仰(おつしや)つたのですから、万更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠が有る訳です。その証拠を見せて下さいますか」
「みせられる者なら見せますけれど」
「見せて下さいますか」
「見せられる者なら。然し……」
「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」
驚破(すはや)、障子を推開(おしひら)きて、貫一は露けき庭に躍(をど)り下りぬ。つとその迹(あと)に顕(あらは)れたる満枝の面(おもて)は、斜(ななめ)に葉越(はごし)の月の冷(つめた)き影を帯びながらなほ火の如く燃えに燃えたり。 
第八章
家の内には己(おのれ)と老婢(ろうひ)との外(ほか)に、今客も在らざるに、女の泣く声、詬(ののし)る声の聞ゆるは甚(はなは)だ謂無(いはれな)し、我(われ)或(あるひ)は夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一は枕(まくら)せる頭(かしら)を擡(もた)げて耳を澄せり。
その声は急に噪(さわがし)く、相争(あひあらそ)ふ気勢(けはひ)さへして、はたはたと紙門(ふすま)を犇(ひしめ)かすは、愈(いよい)よ怪(あや)しと夜着(よぎ)排却(はねの)けて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るると斉(ひとし)く、二人の女の姿は貫一が目前(めさき)に転(まろ)び出(い)でぬ。
苛(さいな)まれしと見ゆる方(かた)の髪は浮藻(うきも)の如く乱れて、着たるコートは雫(しづく)するばかり雨に濡(ぬ)れたり。その人は起上り様(さま)に男の顔を見て、嬉(うれ)しや、可懐(なつか)しやと心も空(そら)なる気色(けしき)。
「貫一(かんいつ)さん」と匐(は)ひ寄らんとするを、薄色魚子(うすいろななこ)の羽織着て、夜会結(やかいむすび)に為(し)たる後姿(うしろすがた)の女は躍(をど)り被(かか)つて引据(ひきすう)れば、
「あれ、貫、貫一さん!」
拯(すくひ)を求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし宮ならずや。七生(しちしよう)までその願は聴かじと郤(しりぞ)けたる満枝の、我の辛(つら)さを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、猶慊(なほあきた)らで我が前に責むるかと、貫一は怺(こら)へかねて顫(ふる)ひゐたり。満枝は縦(ほしいま)まに宮を据(とら)へて些(ちと)も動かせず、徐(しづか)に貫一を見返りて、
「間(はざま)さん、貴方(あなた)のお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」
頸髪取(えりがみと)つて宮が面(おもて)を引立てて、
「この女で御座いませう」
「貫一さん、私(わたし)は悔(くやし)う御座んす。この人は貴方の奥さんですか」
「私(わたくし)奥さんならどうしたのですか」
「貫一さん!」
彼は足擦(あしずり)して叫びぬ。満枝は直(ただ)ちに推伏(おしふ)せて、
「ええ、聒(やかまし)い! 貫一(かんいち)さんは其処(そこ)に一人居たら沢山ではありませんか。貴方より私が間さんには言ふ事が有るのですから、少し静にして聴いてお在(いで)なさい。
間さん、私想ふのですね、究竟(つまり)かう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんなに申しても私の言(こと)は取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がお有り遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所(よそ)へ嫁に入つて了(しま)つたやうな、実に畜生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。――私善く存じてゐますわ。貴方も余(あんま)り男らしくなくてお在(いで)なさる。それは如何(いか)にお可愛(かはい)いのか存じませんけれど、一旦愛相(あいそ)を尽(つか)して迯(に)げて行つた女を、いつまでも思込んで遅々(ぐづぐづ)してゐらつしやるとは、まあ何たる不見識な事でせう! 貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女は一息に刺殺(さしころ)して了(しま)ふのです」
宮は跂返(はねかへ)さんと為(せ)しが、又抑(おさ)へられて声も立てず。
「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を有仰(おつしや)いましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為(なぜ)こんな淫乱(いんらん)の人非人(にんぴにん)を阿容(おめおめ)活(い)けてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に対しても、貴方男子の一分(いちぶん)が立たんで御座いませう。何為(なぜ)成敗は遊ばしません。さあ、私決(け)してもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ばしまし。さもなければ、私も立ちませんです。
間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分をお立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをりますから、立派に遣つて御覧あそばせ。卒(いざ)と云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して為損(しそん)じの無いやうに、私好(よ)い刃物(きれもの)をお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊ばせ」
彼の懐(ふところ)を出でたるは蝋塗(ろぬり)の晃(きらめ)く一口(いつこう)の短刀なり。貫一はその殺気に撲(うた)れて一指をも得動かさず、空(むなし)く眼(まなこ)を輝(かがやか)して満枝の面(おもて)を睨(にら)みたり。宮ははや気死せるか、推伏(おしふ)せられたるままに声も無し。
「さあ、私かうして抑へてをりますから、吭(のど)なり胸なり、ぐつと一突(ひとつき)に遣(や)つてお了(しま)ひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々(ぐづぐづ)してゐらつしやるのです。刀の持様(もちやう)さへ御存じ無いのですか、かうして抜いて!」
と片手ながらに一揮(ひとふり)揮(ふ)れば、鞘(さや)は発矢(はつし)と飛散つて、電光袂(たもと)を廻(めぐ)る白刃(しらは)の影は、忽(たちま)ち飜(ひるがへ)つて貫一が面上三寸の処に落来(おちきた)れり。
「これで突けば可(よ)いのです」
「…………」
「さては貴方はこんな女に未(ま)だ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作も無い事。些(ちよつ)と御覧あそばせな」
言下(ごんか)に勿焉(こつえん)と消えし刃(やいば)の光は、早くも宮が乱鬢(らんびん)を掠(かす)めて顕(あらは)れぬ。あなやと貫一の号(さけ)ぶ時、妙(いし)くも彼は跂起(はねお)きざまに突来る鋩(きつさき)を危(あやふ)く外(はづ)して、
「あれ、貫一さん!」
と満枝の手首に縋(すが)れるまま、一心不乱の力を極(きは)めて捩伏(ねぢふ)せ捩伏(ねぢふ)せ、仰様(のけざま)に推重(おしかさな)りて仆(たふ)したり。
「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい――貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから一思(ひとおもひ)に殺して下さい!」
この恐るべき危機に瀕(ひん)して、貫一は謂知(いひし)らず自ら異(あやし)くも、敢(あへ)て拯(すくひ)の手を藉(か)さんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、空(むなし)く悶(もだ)えに悶えゐたり。必死と争へる両箇(ふたり)が手中の刃(やいば)は、或(あるひ)は高く、或は低く、右に左に閃々(せんせん)として、あたかも一鉤(いつこう)の新月白く風の柳を縫(ぬ)ふに似たり。
「貫一さん、貴方は私を見殺(みごろし)になさるのですか。どうでもこの女の手に掛けて殺すのですか! 私は命は惜くはないが、この女に殺されるのは悔(くやし)い! 悔い!! 私は悔い!!」
彼は乱せる髪を夜叉(やしや)の如く打振り打振り、五体(ごたい)を揉(も)みて、唇(くちびる)の血を噴きぬ。彼も殺さじ、これも傷(きずつ)けじと、貫一が胸は車輪の廻(めぐ)るが若(ごと)くなれど、如何(いか)にせん、その身は内より不思議の力に緊縛(きんばく)せられたるやうにて、逸(はや)れど、躁(あせ)れど、寸分の微揺(ゆるぎ)を得ず、せめては声を立てんと為れば、吭(のんど)は又塞(ふさが)りて、銕丸(てつがん)を啣(ふく)める想(おもひ)。
力も今は絶々に、はや危(あやふ)しと宮は血声を揚げて、
「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つて、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さい」
又激く捩合(ねぢあ)ふ郤含(はずみ)に、短刀は戞然(からり)と落ちて、貫一が前なる畳に突立(つつた)つたり。宮は虚(すか)さず躍(をど)り被(かか)りて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、推隔(おしへだ)つる腋(わき)の下より後突(うしろづき)に、つかも透(とほ)れと刺したる急所、一声号(さけ)びて仰反(のけぞ)る満枝。鮮血! 兇器! 殺傷! 死体! 乱心! 重罪! 貫一は目も眩(く)れ、心も消ゆるばかりなり。宮は犇(ひし)と寄添ひて、
「もうこの上はどうで私は無い命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方に赦(ゆる)された積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれでもう堪忍(かんにん)して、今までの恨は霽(はら)して下さいまし、よう、貫一さん。私がこんなに思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替(いきかはり)死替(しにかはり)して七生(しちしよう)まで貫一さんを怨(うら)みますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴方の口からお念仏を唱(とな)へて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」
朱(あけ)に染みたる白刃(しらは)をば貫一が手に持添へつつ、宮はその可懐(なつかし)き拳(こぶし)に頻回(あまたたび)頬擦(ほほずり)したり。
「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることは無いのですから、せめて一遍の回向(えこう)をして下さると思つて、今はの際(きは)で唯一言(ただひとこと)赦して遣ると有仰(おつしや)つて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その御詑(おわび)が為たいばかりなのですから、貫一さん、既往(これまで)の事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一さん、貫一さん!
今思へばあの時の不心得が実に悔(くやし)くて悔くて、私は何とも謂ひやうが無い! 貴方が涙を零(こぼ)して言つて下すつた事も覚えてゐます。後来(のちのち)きつと思中(おもひあた)るから、今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひながら何為(なぜ)あの時に些少(すこし)でも気が着かなかつたか。愚(おろか)な自分を責めるより外は無いけれど、死んでもこんな回復(とりかへし)の付かない事を何で私は為ましたらう! 貫一さん、貴方の罰(ばち)が中(あた)つたわ! 私は生きてゐる空(そら)が無い程、貴方の罰が中つたのだわ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。
さうしてとてもこの罰の中つた躯(からだ)では、今更どうかうと思つても、願なんぞのかなふと云ふのは愚な事、未(ま)だ未だ憂目(うきめ)を見た上に思死(おもひじに)に死にでも為なければ、私の業(ごう)は滅(めつ)しないのでせうから、この世に未練は沢山有るけれど、私は早く死んで、この苦艱(くげん)を埋(う)めて了つて、さうして早く元の浄(きよ)い躯(からだ)に生れ替(かは)つて来たいのです。さう為たら、私は今度の世には、どんな艱難辛苦(かんなんしんく)を為ても、きつと貴方に添遂(そひと)げて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いて戴(いただ)き、又この世で為遺(しのこ)した事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にも悦(よろこ)ばれ、自分も嬉(うれし)い思を為て、この上も無い楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあんな不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。可(よ)うござんすか! きつと忘れずにゐて下さいよ。
人は最期(さいご)の一念で生(しよう)を引くと云ふから、私はこの事ばかり思窮(おもひつ)めて死にます。貫一さん、この通だから堪忍して!」
声震はせて縋(すが)ると見れば、宮は男の膝(ひざ)の上なる鋩(きつさき)目掛けて岸破(がば)と伏したり。
「や、行(や)つたな!」
貫一が胸は劈(つんざ)けて始てこの声を出(いだ)せるなり。
「貫一さん!」
無残やな、振仰ぐ宮が喉(のんど)は血に塗(まみ)れて、刃(やいば)の半(なかば)を貫けるなり。彼はその手を放たで苦き眼(まなこ)をみひらきつつ、男の顔を視(み)んと為るを、貫一は気も漫(そぞろ)に引抱(ひつかか)へて、
「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」
大事の刃を抜取らんと為れど、一念凝(こ)りて些(ちと)も弛(ゆる)めぬ女の力。
「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為(なぜ)放さんのだ」
「貫、貫一さん」
「おお、何だ」
「私は嬉い。もう……もう思遺(おもひのこ)す事は無い。堪忍して下すつたのですね」
「まあ、この手を放せ」
「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、赦(ゆる)すと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」
血は滾々(こんこん)と益す流れて、末期(まつご)の影は次第に黯(くら)く逼(せま)れる気色。貫一は見るにも堪(た)へず心乱れて、
「これ、宮、確乎(しつかり)しろよ」
「あい」
「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」
「貫一さん!」
「宮!」
「嬉い! 私は嬉い!」
貫一は唯胸も張裂けぬ可く覚えて、言(ことば)は出(い)でず、抱(いだ)き緊(し)めたる宮が顔をば紛(はふ)り下つる熱湯の涙に浸して、その冷たき唇(くちびる)を貪(むさぼ)り吮(す)ひぬ。宮は男の唾(つばき)を口移(くちうつし)に辛(から)くも喉(のど)を潤(うるほ)して、
「それなら貫一さん、私は、吁(ああ)、苦(くるし)いから、もうこれで一思ひに……」
と力を出(いだ)して刳(えぐ)らんと為るを、緊(しか)と抑へて貫一は、
「待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ」
「いいえ、止めずに」
「待てと言ふに」
「早く死にたい!」
漸(やうや)く刀をもぎはなせば、宮は忽(たちま)ち身を回(かへ)して、輾(こ)けつ転(ころ)びつ座敷の外に脱(のが)れ出づるを、
「宮、何処(どこ)へ行く!」
遣(や)らじと伸(の)べし腕(かひな)は逮(およ)ばず、苛(いら)つて起ちし貫一は唯一掴(ひとつかみ)と躍り被(かか)れば、生憎(あやにく)満枝が死骸(しがい)に躓(つまづ)き、一間ばかり投げられたる其処(そこ)の敷居に膝頭(ひざがしら)を砕けんばかり強く打れて、のめりしままに起きも得ず、身を竦(すく)めて呻(うめ)きながらも、
「宮、待て! 言ふことが有るから待て! 豊、豊! 豊は居ないか。早く追掛けて宮を留めろ!」
呼べど号(さけ)べど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は阿修羅(あしゆら)の如く憤(いか)りて起ちしが、又仆(たふ)れぬ。仆れしを漸く起回(おきかへ)りて、忙々(いそがはし)く四下(あたり)をみまはせど、はや宮の影は在らず。その歩々(ほほ)に委(おと)せし血は苧環(をだまき)の糸を曳きたるやうに長く連(つらな)りて、畳より縁に、縁より庭に、庭より外に何処(いづこ)まで、彼は重傷(いたで)を負ひて行くならん。
磐石(ばんじやく)を曳くより苦く貫一は膝の疼痛(いたみ)を怺(こら)へ怺へて、とにもかくにも塀外(へいそと)によろぼひ出づれば、宮は未(いま)だ遠くも行かず、有明(ありあけ)の月冷(つきひやや)かに夜は水の若(ごと)く白(しら)みて、ほのぼのと狭霧罩(さぎりこ)めたる大路の寂(せき)として物の影無き辺(あたり)を、唯独(ひと)り覚束無(おぼつかな)げに走れるなり。
「宮! 待て!」
呼べば谺(こだま)は返せども、雲は幽(ゆう)にして彼は応(こた)へず。歯咬(はがみ)を作(な)して貫一は後を追ひぬ。
固(もと)より間(あはひ)は幾許(いくばく)も有らざるに、急所の血を出(いだ)せる女の足取、引捉(ひつとら)ふるに何程の事有らんと、侮(あなど)りしに相違して、彼は始の如く走るに引易(ひきか)へ、此方(こなた)は漸く息疲(いきつか)るるに及べども、距離は竟(つひ)に依然として近(ちかづ)く能はず。こは口惜(くちを)し、と貫一は満身の力を励し、僵(たふ)るるならば僵れよと無二無三に走りたり。宮は猶脱(なほのが)るるほどに、帯は忽(たちま)ち颯(さ)と釈(と)けて脚(あし)に絡(まと)ふを、右に左にけはらひつつ、跌(つまづ)きては進み、行きては踉(よろめ)き、彼もはや力は竭(つ)きたりと見えながら、如何(いか)に為(せ)ん、其処(そこ)に伏して復(また)起きざる時、躬(みづから)も終(つひ)に及ばずして此処(ここ)に絶入(ぜつにゆう)せんと思へば、貫一は今に当りて纔(わづか)に声を揚ぐるの術(じゆつ)を余すのみ。
「宮!」と奮(ふる)つて呼びしかど、憫(あはれ)むべし、その声は苦き喘(あへぎ)の如き者なりき。我と吾肉を啖(くら)はんと想ふばかりに躁(あせ)れども、貫一は既に声を立つべき力をさへ失へるなり。さては効無(かひな)き己(おのれ)に憤(いかり)を作(な)して、益す休まず狂呼(きようこ)すれば、彼の吭(のんど)は終に破れて、汨然(こつぜん)として一涌(いちゆう)の鮮紅(せんこう)を嘔出(はきいだ)せり。心晦(こころくら)みて覚えず倒れんとする耳元に、松風(まつかぜ)驀然(どつ)と吹起りて、吾に復(かへ)れば、眼前の御壕端(おほりばた)。只看(み)る、宮は行き行きて生茂(おひしげ)る柳の暗きに分入りたる、入水(じゆすい)の覚悟に極(きはま)れりと、貫一は必死の声を搾(しぼ)りて連(しきり)に呼べば、咳入(せきい)り咳入り数口(すうこう)の咯血(かつけつ)、斑爛(はんらん)として地に委(お)ちたり。何思ひけん、宮は千条(ちすぢ)の緑の陰より、その色よりは稍(やや)白き面(おもて)を露(あらは)して、追来る人を熟(じ)と見たりしが、竟(つひ)に疲れて起きも得ざる貫一の、唯手を抗(あ)げて遙(はるか)に留(と)むるを、免(ゆる)し給へと伏拝(ふしをが)みて、つと茂の中(うち)に隠れたり。
彼は己(おのれ)の死ぬべきを忘れて又起てり。駈寄(かけよ)る岸の柳を潜(くぐ)りて、水は深きか、宮は何処(いづこ)に、と葎(むぐら)の露に踏滑(ふみすべ)る身を危(あやふ)くも淵(ふち)に臨めば、どう鞳(どうとう)と瀉(そそ)ぐ早瀬の水は、駭(おどろ)く浪(なみ)の体(たい)を尽(つく)し、乱るる流の文(ぶん)を捲(ま)いて、眼下に幾個の怪き大石(たいせき)、かの鰲背(ごうはい)を聚(あつ)めて丘の如く、その勢(いきほひ)を拒(ふせ)がんと為れど、触るれば払ひ、当れば飜(ひるがへ)り、長波の邁(ゆ)くところ滔々(とうとう)として破らざる為(な)き奮迅(ふんじん)の力は、両岸も為に震ひ、坤軸(こんじく)も為に轟(とどろ)き、蹈居(ふみゐ)る土も今にや崩(くづ)れなんと疑ふところ、衣袂(いべい)の雨濃(あめこまやか)に灑(そそ)ぎ、鬢髪(びんぱつ)の風転(うた)た急なり。
あな凄(すさま)じ、と貫一は身毛(みのけ)も弥竪(よだ)ちて、縋(すが)れる枝を放ちかねつつ、看れば、叢(くさむら)の底に秋蛇(しゆうだ)の行くに似たる径(こみち)有りて、ほとほと逆落(さかおとし)に懸崖(けんがい)を下(くだ)るべし。危(あやふ)き哉(かな)と差覗(さしのぞ)けば、茅葛(かやかつら)の頻(しきり)に動きて、小笹棘(をざさうばら)に見えつ隠れつ段々と辷(すべ)り行くは、求むる宮なり。
その死を止(とど)めんの一念より他(た)あらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地を踏む遑(いとま)もあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、壑間(たにま)の嵐(あらし)の誘ふに委(まか)せて、驀直(ましぐら)に身を堕(おと)せり。
或(あるひ)は摧(くだ)けて死ぬべかりしを、恙無(つつがな)きこそ天の佑(たすけ)と、彼は数歩の内に宮を追ひしが、流に浸(ひた)れる巌(いはほ)を渉(わた)りて、既に渦巻く滝津瀬(たきつせ)に生憎(あやにく)! 花は散りかかるを、
「宮!」
と後(うしろ)に呼ぶ声残りて、前には人の影も在らず。
咄嗟(とつさ)の遅(おくれ)を天に叫び、地に号(わめ)き、流に悶(もだ)え、巌に狂へる貫一は、血走る眼(まなこ)に水を射て、此処(ここ)や彼処(かしこ)と恋(こひし)き水屑(みくづ)を覓(もと)むれば、正(まさし)く浮木芥(うきぎあくた)の類とも見えざる物の、十間(じつけん)ばかり彼方(あなた)を揉みに揉んで、波間隠(なみまがくれ)に推流(おしなが)さるるは、人ならず哉(や)、宮なるかと瞳(ひとみ)を定むる折しもあれ、水勢其処(そこ)に一段急なり、在りける影は弦(つる)を放れし箭飛(やとび)を作(な)して、行方(ゆくへ)も知らずと胸潰(むねつぶ)るれば、忽(たちま)ち遠く浮き出でたり。
嬉しやと貫一は、道無き道の木を攀(よ)ぢ、崖(がけ)を伝ひ、或(あるひ)は下りて水を踰(こ)え、石を躡(ふ)み、巌を廻(めぐ)り、心地死ぬべく踉蹌(ろうそう)として近(ちかづ)き見れば、緑樹(りよくじゆ)蔭愁(かげうれ)ひ、潺湲(せんかん)声咽(こゑむせ)びて、浅瀬に繋(かか)れる宮が骸(むくろ)よ!
貫一は唯その上に泣伏したり。
吁(ああ)、宮は生前に於(おい)て纔(わづか)に一刻の前(さき)なる生前に於て、この情(なさけ)の熱き一滴を幾許(いかばかり)かは忝(かたじけ)なみけん。今や千行垂(せんこうた)るといへども効無(かひな)き涙は、徒(いたづら)に無心の死顔に濺(そそ)ぎて宮の魂(こん)は知らざるなり。
貫一の悲(かなしみ)は窮(きはま)りぬ。
「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺を為るさへ可哀(あはれ)なのに、この浅ましい姿はどうだ。
刃(やいば)に貫き、水に溺(おぼ)れ、貴様はこれで苦くはなかつたか。可愛(かはい)い奴め、思迫(おもひつ)めたなあ!
宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死では慊(あきた)らずに、二つ命を捨てた気か。さう思つて俺は不敏(ふびん)だ!
どんな事が有らうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけれども、この無残な死状(しにざま)を見ては、罪も恨(うらみ)も皆消えた! 赦したぞ、宮! 俺(おれ)は心の底から赦したぞ!
今はの際(きは)に赦したと、俺が一言(ひとこと)云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つたが、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した! 立派な悔悟だぞ!!
余り立派で、貫一は恥入つた! 宮、俺は面目(めんもく)無い! これまでの精神とは知らずに見殺(みごろし)に為たのは残念だつた! 俺が過(あやまり)だ! 宮、赦してくれよ! 可(い)いか、宮、可いか。
嗚呼(ああ)死んで了ったのだ!!!」
貫一は彼の死の余りに酷(むご)く、余りに潔きを見て、不貞の血は既に尽(ことごと)く沃(そそ)がれ、旧悪の膚(はだへ)は全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、己(おのれ)の為に捨てたる亡骸(なきがら)の、実(げ)に憐(あはれ)みても憐むべく、悲みても猶(なほ)及ばざる思の、今は唯極(きは)めて切なる有るのみ。
かの烈々(れつれつ)たる怨念(おんねん)の跡無く消ゆるとともに、一旦涸(か)れにし愛慕の情は又泉の涌(わ)くらんやうに起りて、その胸に漲(みなぎ)りぬ。苦からず哉(や)、人亡(な)き後の愛慕は、何の思かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何(いか)なる恨をも繋(か)くるの忍び易(やす)きを今ぞ知るなる。
貫一は腸断(ちようた)ち涙連(なみだつらな)りて、我を我とも覚ゆる能はず。
「宮、貴様に手向(たむ)けるのは、俺のこの胸の中(うち)だ。これで成仏してくれ、よ。この世の事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、百歳(ひやく)までも添(そひ)、添、添遂(そひと)げるぞ! 忘れるな、宮。俺も忘れん! 貴様もきつと覚えてゐろよ!」
氷の如き宮が手を取り、犇(ひし)と握りて、永く眠れる面(おもて)を覗(のぞ)かんと為れば、涙急にして文色(あいろ)も分かず、推重(おしかさな)りて、怜(いと)しやと身を悶(もだ)えつつ少時(しばし)泣いたり。
「然し、宮、貴様は立派な者だ。一(ひとた)び罪を犯しても、かうして悔悟して自殺を為たのは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、天晴(あつぱれ)だぞ。それでこそ始て人間たるの面目(めんもく)が立つのだ。
然るに、この貫一はどうか! 一端(いつぱし)男と生れながら、高が一婦(いつぷ)の愛を失つたが為に、志を挫(くぢ)いて一生を誤り、餓鬼(がき)の如き振舞(ふるまひ)を為て恥とも思はず、非道を働いて暴利を貪(むさぼ)るの外は何も知らん。その財(かね)は何に成るのか、何の為にそんな事を為るのか。
凡(およ)そ人と謂(い)ふ者には、人として必ず尽すべき道が有る。己(おのれ)と云ふ者の外に人の道と云ふ者が有るのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と添ふ事が出来ん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、苟(いやし)くも男と生れた一生を抛(なげう)たうと云ふのだ。人たるの効(かひ)は何処(どこ)に在る、人たる道はどうしたのか。
噫(ああ)、誤つた!
宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済まん躯(からだ)だ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に愧入(はぢい)りも為(す)りや、可羨(うらやまし)くもある。当初(はじめ)貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、貴様の悔悟と共に俺も速(すみや)かに心を悛(あらた)めて、人たるの道に負ふところのこの罪を贖(つぐな)はなけりや成らん訳だ。
嗟乎(ああ)、然し、何に就(つ)けても苦(くるし)い世の中だ!
人間の道は道、義務は義務、楽(たのしみ)は又楽で、それも無けりや立たん。俺も鴫沢(しぎさわ)に居て宮を対手(あいて)に勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢のやうに考へてゐた。
あれが浮世なのか、これが浮世なのか。
爾来(あれから)、今日(こんにち)までの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でも無かつた。それで何が頼(たのみ)で俺は活きてゐたのか。死を決する勇気が無いので活きてゐたやうなものだ! 活きてゐたのではない、死損(しにぞくな)つてゐたのだ!!
鰐淵(わにぶち)は焚死(やけし)に、宮は自殺した、俺はどう為(す)るのか。俺のこの感情の強いのでは、又向来(これから)宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲い思を為なければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層苦(くるしみ)を受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。
人たるの道を尽す? 人たるの行(おこなひ)を為る? ああ、うるさい、うるさい! 人としてをればこそそんな義務も有る、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、一(いつ)の罪悪だと謂(い)ふ。或(あるひ)は罪悪かも知れん。けれども、茫々然(ぼうぼうぜん)と呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等(なにら)の益するところも無く、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末(みじまつ)だ。増(ま)して、俺が今死ねば、忽(たちま)ち何十人の人が助り、何百人の人が懽(よろこ)ぶか知れん。
俺も一箇(ひとり)の女故(ゆゑ)に身を誤つたその余(あと)が、盗人(ぬすと)家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初(はじめ)に出損(でそくな)つたのが一生の不覚、あれが抑(そもそ)も不運の貫一の躯(からだ)は、もう一遍鍛直(きたへなほ)して出て来るより外(ほか)為方が無い。この世の無念はその時霽(はら)す!」
さしも遣る方無く悲(かなし)めりし貫一は、その悲を立(たちどこ)ろに抜くべき術(すべ)を今覚れり。看々(みるみる)涙の頬(ほほ)の乾(かわ)ける辺(あたり)に、異(あやし)く昂(あが)れる気有(きあ)りて青く耀(かがや)きぬ。
「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世(らいせ)で二人が夫婦に成る、これが結納(ゆひのう)だと思つて、幾久(いくひさし)く受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ」
さらば往きて汝(なんぢ)の陥りし淵(ふち)に沈まん。沈まば諸共(もろとも)と、彼は宮が屍(かばね)を引起して背(うしろ)に負へば、その軽(かろ)きこと一片(ひとひら)の紙に等(ひと)し。怪(あや)しと見返れば、更に怪し! 芳芬(ほうふん)鼻を撲(う)ちて、一朶(いちだ)の白百合(しろゆり)大(おほい)さ人面(じんめん)の若(ごと)きが、満開の葩(はなびら)を垂れて肩に懸(かか)れり。
不思議に愕(おどろ)くと為れば目覚(めさ)めぬ。覚むれば暁の夢なり。 
 
続続金色夜叉

 

第一章
貫一が胸は益(ますます)苦(くるし)く成り愈(まさ)りぬ。彼を念(おも)ひ、これを思ふに、生きて在るべき心地はせで、寧(むし)ろかの怪(あやし)き夢の如く成りなんを、快からずやと疑へるなり。
彼は空(むなし)く万事を抛(なげう)ちて、懊のう(おうのう)の間に三日ばかりを過(すご)しぬ。
これを語らんに人無く、愬(うつた)へんには友無く、しかも自ら拯(すく)ふべき道は有りや。有りとも覚えず、無しとは知れど、煩(わづら)ふ者の煩ひ、悩む者の悩みて縦(ほしいま)まなるを如何(いか)にせん。彼は実にこの昏迷乱擾(こんめいらんじよう)せる一根(いつこん)の悪障を抉去(くじりさ)りて、猛火に燬(や)かんことを冀(こひねが)へり。その時彼は死ぬべきなり。生か、死か。貫一の苦悶(くもん)は漸(やうや)く急にして、終(つひ)にこの問題の前に首(かうべ)を垂るるに至れり。
値無き吾が生存は、又同(おなじ)く値無き死亡を以つて畢(を)へしむべき者か。悔に堪(た)へざる吾が生の値無かりしを結ばんには、これを償ふに足る可(べ)き死を以て為(せ)ざる可からざるか、或(あるひ)は、ここに過多(あやまちおほ)き半生の最期(さいご)を遂(と)げて、新(あらた)に他の値ある後半の復活を明日(みようにち)に計るべきか。
彼は強(あなが)ちに死を避けず、又生を厭(いと)ふにもあらざれど、両(ふたつ)ながらその値無きを、私(ひそか)に屑(いさぎよ)しと為(せ)ざるなり。当面の苦は彼に死を勧め、半生の悔は耻(はぢ)を責めて仮さず。苦を抜かんが為に、我は値無き死を辞せざるべきか、過(あやまち)を償はんが為に、我は楽まざる生を忍ぶべきか。碌々(ろくろく)の生は易(やす)し、死は即(すなは)ち難(かた)し。碌々の死は易し、生は則(すなは)ち難し。我は悔いて人と成るべきか、死してその愚を完(まつた)うすべきか。
貫一は活を求めて得ず、死を覓(もと)めて得ず、居れば立つを念(おも)ひ、立てば臥(ふ)すを想(おも)ひ、臥せば行くを懐(おも)ひ、寐(い)ぬれば覚め、覚むれば思ひて、夜もあらず、日もあらず、人もあらず、世もあらで、唯憂(ただうれ)ひ惑へる己一個(おのれひとり)の措所無(おきどころな)く可煩(わづらはし)きに悩乱せり。
あだかもこの際抛(なげう)ち去るべからざる一件の要事は起りぬ。先に大口(おほぐち)の言込有(いひこみあ)りし貸付の緩々(だらだら)急に取引迫りて、彼は些(ちと)の猶予も無く、自ら野州(やしゆう)塩原なる畑下(はたおり)と云へる温泉場(おんせんじよう)に出向き、其処(そこ)に清琴楼(せいきんろう)と呼べる湯宿に就きて、密(ひそか)に云々(うんぬん)の探知すべき必要を生じたるなり。
謂知(いひし)らずうるさしと腹立たれけれど、行懸(ゆきがかり)の是非無く、かつは難得(えがた)き奇景の地と聞及べば、少時(しばし)の憂(うさ)を忘るる事も有らんと、自ら努めて結束し、かの日より約(およそ)一週間の後、彼はほとほと進まぬ足を曳(ひ)きて家を出でぬ。その晨(あした)横雲白(よこぐもしろ)く明方(あけがた)の空に半輪の残月を懸けたり。一番列車を取らんと上野に向ふ俥(くるま)の上なる貫一は、この暁の眺矚(ながめ)に撲(うた)れて、覚えず悚然(しようぜん)たる者ありき。 
(一)の二
車は駛(は)せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易(かは)らざる他(そ)の悒鬱(ゆううつ)を抱(いだ)きて、遣(や)る方無き五時間の独(ひとり)に倦(う)み憊(つか)れつつ、始て西那須野(にしなすの)の駅に下車せり。
直(ただ)ちに西北に向ひて、今尚(いまなほ)茫々(ぼうぼう)たる古(いにしへ)の那須野原(なすのがはら)に入(い)れば、天は濶(ひろ)く、地は遐(はるか)に、唯平蕪(ただへいぶ)の迷ひ、断雲の飛ぶのみにして、三里の坦途(たんと)、一帯の重巒(ちようらん)、塩原は其処(そこ)ぞと見えて、行くほどに跡(みち)は窮(きはま)らず、漸(やうや)く千本松を過ぎ、進みて関谷村(せきやむら)に到れば、人家の尽る処に淙々(そうそう)の響有りて、これに架(かか)れるを入勝橋(にゆうしようきよう)と為(な)す。
輙(すなは)ち橋を渡りて僅(わづか)に行けば、日光冥(くら)く、山厚く畳み、嵐気(らんき)冷(ひややか)に壑深(たにふか)く陥りて、幾廻(いくめぐり)せる葛折(つづらをり)の、後には密樹(みつじゆ)に声々(せいせい)の鳥呼び、前には幽草(ゆうそう)歩々(ほほ)の花を発(ひら)き、いよいよ躋(のぼ)れば、遙(はるか)に木隠(こがくれ)の音のみ聞えし流の水上(みなかみ)は浅く露(あらは)れて、驚破(すは)や、ここに空山(くうざん)の雷(いかづち)白光(はつこう)を放ちて頽(くづ)れ落ちたるかと凄(すさま)じかり。道の右は山をきりて長壁と成し、石幽(いしゆう)に蘚碧(こけあを)うして、幾条(いくすぢ)とも白糸を乱し懸けたる細瀑小瀑(ほそたきこたき)の珊々(さんさん)として濺(そそ)げるは、嶺上(れいじよう)の松の調(しらべ)も、定(さだめ)てこの緒(を)よりやと見捨て難し。
俥を駆(か)りて白羽坂(しらはざか)を踰(こ)えてより、回顧橋(みかへりばし)に三十尺の飛瀑(ひばく)をふみて、山中の景は始て奇なり。これより行きて道有れば、水有り、水有れば、必ず橋有り、全渓にして三十橋、山有れば巌有(いはあ)り、巌有れば必ず瀑(たき)有り、全嶺(ぜんれい)にして七十瀑。地有れば泉有り、泉有れば必ず熱有り、全村にして四十五湯。猶(なほ)数ふれば十二勝、十六名所、七不思議、誰(たれ)か一々探(さぐ)り得べき。
抑(そもそ)も塩原の地形たる、塩谷郡(しおやごおり)の南より群峰の間を分けて深く西北に入(い)り、綿々として箒川(ははきがわ)の流に沂(さかのぼ)る片岨(かたそば)の、四里に岐(わか)れ、十一里に亙(わた)りて、到る処巉巌(ざんがん)の水を夾(はさ)まざる無きは、宛然(さながら)青銅の薬研(やげん)に瑠璃末(るりまつ)を砕くに似たり。先づ大網(おほあみ)の湯を過(すぐ)れば、根本山(ねもとやま)、魚止滝(うおどめのたき)、児(ちご)ヶ淵(ふち)、左靱(ひだりうつぼ)の険は古(ふ)りて、白雲洞(はくうんどう)は朗(ほがらか)に、布滝(ぬのだき)、竜(りゆう)ヶ鼻(はな)、材木石(ざいもくいし)、五色石(ごしきせき)、船岩(ふないわ)なんどと眺行(ながめゆ)けば、鳥井戸(とりいど)、前山(まえやま)の翠衣(みどりころも)に染みて、福渡(ふくわた)の里に入(い)るなり。
途(みち)すがら前面(むかひ)の崖(がけ)の処々(ところどころ)に躑躅(つつじ)の残り、山藤の懸れるが、甚(はなは)だ興有りと目留まれば、又この辺(あたり)殊(こと)に谿浅(たにあさ)く、水澄みて、大いなる古鏡(こきよう)の沈める如く、深く蔽(おほ)へる岸樹(がんじゆ)は陰々として眠るに似たり。貫一は覚えず踏止りぬ。
かの逆巻(さかま)く波に分け入りし宮が、息絶えて浮び出でたりし其処(そこ)の景色に、似たりとも酷(はなは)だ似たる岸の布置(たたずまひ)、茂(しげり)の状況(ありさま)、乃至(ないし)は漾(たた)ふる水の文(あや)も、透徹(すきとほ)る底の岩面(いはづら)も、広さの程も、位置も、趣(おもむき)も、子細に看来(みきた)ればいよいよ差(たが)はず。
彼は眦(まなじり)を決(さ)きて寒慄(かんりつ)せり。
怪(あやし)むべき哉(かな)、曾(かつ)て経(へ)たりし塲(ところ)をそのままに夢むる例(ためし)は有れ、所拠(よりどころ)も無く夢みし跡を、歴々(まざまざ)とかく目前に見ると云ふも有る事か。宮の骸(むくろ)の横(よこた)はりし処も、又は己(おのれ)の追来(おひき)し筋も、彼処(かしこ)よ、此処(ここ)よと、陰(ひそか)に一々指(ゆびさ)しては、限無(かぎりな)く駭(おどろ)けるなり。
車夫を顧みて、処の名を問へば、不動沢(ふどうざわ)と言ふ。
物可恐(ものおそろ)しげなる沢の名なるよ。げに思へば、人も死ぬべき処の名なり。我も既に死なんとせしがと、さすが現(うつつ)の身にも沁(し)む時、宮にはあらで山百合(やまゆり)の花なりし怪異を又懐(おも)ひて、彼は肩頭(かたさき)寒く顫(ふる)ひぬ。
卒(にはか)に踵(きびす)を回(かへ)して急げば、行路(ゆくて)の雲間に塞(ふさが)りて、咄々(とつとつ)、何等(なんら)の物か、と先(まづ)驚(おどろ)かさるる異形(いぎよう)の屏風巌(びようぶいは)、地を抜く何百丈(じよう)と見挙(みあぐ)る絶頂には、はらはら松も危(あやふ)く立竦(たちすく)み、幹竹割(からたけわり)に割放(さきはな)したる断面は、半空(なかそら)より一文字に垂下(すいか)して、岌々(きゆうきゆう)たるその勢(いきほひ)、幾(ほとん)ど眺(なが)むる眼(まなこ)も留(とま)らず。
貫一は惘然(ぼうぜん)として佇(たたず)めり。
彼が宮を追ひて転(まろ)び落ちたりし谷間の深さは、正(まさ)にこの天辺(てつぺん)の高きより投じたらんやうに、冉々(せんせん)として虚空を舞下(まひくだ)る危惧(きぐ)の堪難(たへがた)かりしを想へるなり。
我(われ)未(いま)だ甞(かつ)て見ざりつる絶壁! 危(あやふ)しとも、可恐(おそろ)しとも、夢ならずして争(いかで)か飛下り得べき。又この人並(ひとなみ)ならぬ雲雀骨(ひばりぼね)の粉微塵(こなみじん)に散つて失(う)せざりしこそ、洵(まこと)に夢なりけれと、身柱(ちりけ)冷(ひやや)かに瞳(ひとみ)を凝(こら)す彼の傍(かたはら)より、これこそ名にし負ふ天狗巌(てんぐいわ)、と為(し)たり貌(がほ)にも車夫は案内(あない)す。
貫一はかの夢の奇なりしより、更に更に奇なるこの塩原の実覚をば疑ひ懼(おそ)れつつ立尽せり。
既に如此(かくのごと)くなれば、怪は愈(いよい)よ怪に、或(あるひ)は夢中に見たりし踪(あと)の猶(なほ)着々(ちやくちやく)活現し来(きた)りて、飽くまで我を脅(おびやか)さざれば休(や)まざらんと為るにあらずや、と彼は胸安からずも足に信(まか)せて、かの巌(いはほ)の頭上に聳(そび)ゆる辺(あたり)に到れば、谿(たに)急に激折して、水これが為に鼓怒(こど)し、咆哮(ほうこう)し、噴薄激盪(げきとう)して、奔馬(ほんば)の乱れ競(きそ)ふが如し。この乱流の間に横(よこた)はりて高さ二丈に余り、その頂(いただき)は平(たひらか)に濶(ひろが)りて、寛(ゆたか)に百人を立たしむべき大磐石(だいばんじやく)、風雨に歳経(としふ)る膚(はだへ)は死灰(しかい)の色を成して、鱗(うろこ)も添はず、毛も生ひざれど、状(かたち)可恐(おそろ)しげに蹲(うづくま)りて、老木の蔭を負ひ、急湍(きゆうたん)の浪(なみ)に漬(ひた)りて、夜な夜な天狗巌の魔風(まふう)に誘はれて吼(ほ)えもしぬべき怪しの物なり。
その古(いにしへ)蒲生飛騨守氏郷(がもうひだのかみうじさと)この処に野立(のだち)せし事有るに因(よ)りて、野立石(のだちいし)とは申す、と例のが説出(ときいだ)すを、貫一は頷(うなづ)きつつ、目を放たず打眺(うちなが)めて、独り窃(ひそか)に舌を巻くのみ。
彼は実(げ)に壑間(たにま)の宮を尋ぬる時、この大石(たいせき)を眼下に窺ひ見たりしを忘れざるなり。
又は流るる宮を追ひて、道無きに困(くるし)める折、左右には水深く、崖高く、前には攀(よ)づべからざる石の塞(ふさが)りたるを、攀(よ)ぢて半(なかば)に到りて進退谷(きはま)りつる、その石もこれなりけん、と肩は自(おのづ)と聳(そび)えて、久く留(とどま)るに堪(た)へず。
数歩(すほ)を行けば、宮が命を沈めしその淵(ふち)と見るべき処も、彼が釈(と)けたる帯を曳(ひ)きしその巌(いはほ)も、歴然として皆在らざるは無し! 貫一が髪毛(かみのけ)は針(はり)の如く竪(た)ちて戦(そよ)げり。彼の思は前夜の悪夢を反復(くりかへ)すに等(ひとし)き苦悩を辞する能はざればなり。
夢ながら可恐(おそろし)くも、浅ましくも、悲くも、可傷(いたまし)くも、分(わ)く方無くて唯一図に切なかりしを、事もし一塲の夢にして止(とどま)らざらんには、抑(そもそ)も如何(いかん)! 今や塩原の実景は一々(いちいち)夢中の見るところ、然らばこの景既に夢ならず! 思掛(おもひが)けずもここに来にける吾身もまた夢ならず! 但(ただ)夢に欠く者とては宮一箇(ひとり)のみ。纔(わづか)に彼のここに来(きた)らざるのみ!!
貫一はかく思到りて、我又夢に入りたるにあらざるかと疑はんとも為つ。夢ならずと為(せ)ば、我は由無(よしな)き処に来にけるよ。幸(さいはひ)に夢に似る事無くてあれかし。異(あや)しとも甚(はなは)だ異し! 疾(と)く往きて、疾く還(かへ)らんと、遽(にはか)に率(ひきゐ)し俥(くるま)に乗りて、白倉山(しらくらやま)の麓(ふもと)、塩釜(しおがま)の湯(ゆ)、高尾塚(たかおづか)、離室(はなれむろ)、甘湯沢(あまゆざわ)、兄弟滝(あにおととのたき)、玉簾瀬(たまだれのせ)、小太郎淵(こたろうがぶち)、路(みち)の頭(ほとり)に高きは寺山(てらやま)、低きに人家の在る処、即ち畑下戸(はたおり)。 
第二章
一村十二戸、温泉は五箇所に涌(わ)きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方(あた)りて箒川(ははきがわ)の緩(ゆる)く廻(めぐ)れる磧(かはら)に臨み、俯(ふ)しては、水石(すいせき)のりんりんたるを弄(もてあそ)び、仰げば西に、富士、喜十六(きじゆうろく)の翠巒(すいらん)と対して、清風座に満ち、袖(そで)の沢を落来(おちく)る流は、二十丈の絶壁に懸りて、ねりぎぬを垂れたる如き吉井滝(よしいのたき)あり。東北は山又山を重ねて、琅かん(ろうかん)の玉簾(ぎよくれん)深く夏日の畏(おそ)るべきを遮(さへぎ)りたれば、四面遊目(ゆうもく)に足りて丘壑(きゆうかく)の富を擅(ほしいまま)にし、林泉の奢(おごり)を窮(きは)め、又有るまじき清福自在の別境なり。
貫一はこの絵を看(み)る如き清穏(せいおん)の風景に値(あ)ひて、かの途上(みちすがら)険(けはし)き巌(いはほ)と峻(さかし)き流との為に幾度(いくたび)か魂(こん)飛び肉銷(にくしよう)して、理(をさ)むる方(かた)無く掻乱(かきみだ)されし胸の内は靄然(あいぜん)として頓(とみ)に和(やはら)ぎ、恍然(こうぜん)として総(すべ)て忘れたり。
彼は以為(おもへ)らく。
誠に好くこそ我は来(き)つれ! なんぞ来(きた)るの甚(はなは)だ遅かりし。山の麗(うるは)しと謂(い)ふも、壌(つち)の堆(うづたか)き者のみ、川の暢(のどけ)しと謂ふも、水の逝(ゆ)くに過ぎざるを、牢(ろう)として抜く可からざる我が半生の痼疾(こしつ)は、争(いか)で壌(つち)と水との医(い)すべき者ならん、と歯牙(しが)にも掛けず侮(あなど)りたりし己(おのれ)こそ、先づ侮らるべき愚(おろか)の者ならずや。
看(み)よ、看よ、木々の緑も、浮べる雲も、秀(ひいづ)る峰も、流るる渓(たに)も、峙(そばだ)つ巌(いはほ)も、吹来(ふきく)る風も、日の光も、鶏(とり)の鳴く音(ね)も、空の色も、皆自(おのづか)ら浮世の物ならで、我はここに憂(うれひ)を忘れ、悲(かなしみ)を忘れ、苦(くるしみ)を忘れ、労(つかれ)を忘れて、身はかの雲と軽く、心は水と淡く、希(こひねが)はくは今より如此(かくのごと)くして我生を了(をは)らん哉(かな)。
恋も有らず、怨(うらみ)も有らず、金銭(ぜに)も有らず、権勢も有らず、名誉も有らず、野心も有らず、栄達も有らず、堕落も有らず、競争も有らず、執着も有らず、得意も有らず、失望も有らず、止(た)だ天然の無垢(むく)にして、形骸(けいがい)を安きのみなるこの里、我思(わがおもひ)を埋(うづ)むるの里か、吾骨を埋るの里か。
性来多く山水の美に親(したし)まざりし貫一は、殊(こと)に心の往くところを知らざるばかりに愛(め)で悦(よろこ)びて、清琴楼の二階座敷に案内(あない)されたれど、内には入(い)らで、始より滝に向へる欄干(らんかん)に倚(よ)りて、偶(たまた)ま人中を迷ひたりし子の母の親にも逢(あ)ひけんやうに、少時(しばし)はその傍(かたはら)を離れ得ざるなりき。
楼前の緑は漸(やうや)く暗く、遠近(をちこち)の水音冱(さ)えて、はや夕暮(ゆふく)るる山風の身に沁(し)めば、先づ湯浴(ゆあみ)などせばやと、何気無く座敷に入りたる彼の眼(まなこ)を、又一個(ひとつ)驚かす物こそあれ。
鞄(かばん)を置いたる床間(とこのま)に、山百合(やまゆり)の花のいと大きなるを唯(ただ)一輪棒挿(ぼうざし)に活(い)けたるが、茎形(くきなり)に曲(くね)り傾きて、あたかも此方(こなた)に向へるなり。
貫一は覚えず足を踏止めて、そのみはれる眼(まなこ)を花に注ぎつ。宮ははやここに居たりとやうに、彼は卒爾(そつじ)の感に衝(つか)れたるなり。
既に幾処(いくところ)の実景の夢と符合するさへ有るに、またその殊に夢の夢なる一本(ひともと)百合のここに在る事、畢竟(ひつきょう)偶合に過ぎずとは謂へ、さりとては余りにかの夢とこの旅との照応急に、因縁深きに似て、などかくは我を驚かすの太甚(はなはだし)き!
奇を弄(ろう)して益(ますます)出づる不思議に、彼は益懼(おそれ)を作(な)して、或(あるひ)はこの裏(うち)に天意の測り難き者有るなからんや、とさすがに惑ひ苦めり。
やがて傍近(そばちか)く寄りて、幾許(いかばかり)似たると眺(なが)むれば、打披(うちひら)ける葩(はなびら)は凛(りん)として玉を割(さ)いたる如く、濃香芬々(ふんふん)と迸(ほとばし)り、葉色に露気(ろき)有りて緑鮮(みどりあざやか)に、定(さだめ)て今朝(けさ)や剪(き)りけんと覚(おぼし)き花の勢(いきほひ)なり。
少(しばら)く楽まされし貫一も、これが為に興冷(きようさ)めて、俄(にはか)に重き頭(かしら)を花の前に支へつつ、又かの愁(うれひ)を徐々に喚起(よびおこ)さんと為つ。
「お風呂へ御案内申しませう」
その声に彼は婢(をんな)を見返りて、
「ああ、姐(ねえ)さん、この花を那裏(そつち)へ持つて行つておくれでないか」
「はあ、その花で御座いますか。旦那(だんな)様は百合の花はお嫌(きら)ひで?」
「いや、匂(にほひ)が強くて、頭痛がして成らんから」
「さやうで御座いますか。唯今直(ぢき)に片付けますです。これは唯(たつた)一つ早咲(はやざき)で、珍(めづらし)う御座いましたもんですから、先程折つてまゐつて、徒(いたづら)に挿して置いたんで御座います」
「うう、成程、早咲だね」
「さやうで御座います。来月あたりに成りませんと、余り咲きませんので、これが唯(たつた)一つ有りましたんで、紛(まぐ)れ咲(ざき)なので御座いますね」
「うう紛れ咲、さうだね」
「御案内致しませう」
風呂場に入(い)れば、一箇(ひとり)の客先(まづ)在りて、未(ま)だ燈点(ひとも)さぬ微黯(うすくらがり)の湯槽(ゆぶね)に漬(ひた)りけるが、何様人の来(きた)るに駭(おどろ)けると覚(おぼし)く、甚(はなは)だ忙(せは)しげに身を起しつ。貫一が入れば、直(ぢき)に上ると斉(ひとし)く洗塲(ながし)の片隅(かたすみ)に寄りて、色白き背(そびら)を此方(こなた)に向けたり。
年紀(としのころ)は二十七八なるべきか。やや孱弱(かよわ)なる短躯(こづくり)の男なり。頻(しきり)に左視右胆(とみかうみ)すれども、明々地(あからさま)ならぬ面貌(おもて)は定(さだ)かに認め難かり。されども、自(おのづか)ら見識越(みしりごし)ならぬは明(あきらか)なるに、何が故(ゆゑ)に人目を避(さく)るが如き態(かたち)を作(な)すならん。華車(きやしや)なる形成(かたちづくり)は、ここ等辺(らあたり)の人にあらず、何人(なにびと)にして、何が故になど、貫一は徒(いたづら)に心牽(こころひか)れてゐたり。
やがて彼が出づれば、待ちけるやうに男は入替りて、なほ飽くまで此方(こなた)を向かざらんと為つつ、蕭索(しめやか)に浴(ゆ)を行(つか)ふ音を立つるのみ。
その膚(はだ)の色の男に似気無(にげな)く白きも、その骨纖(ほねほそ)に肉の痩(や)せたるも、又はその挙動(ふるまひ)の打湿(うちしめ)りたるも、その人を懼(おそ)るる気色(けしき)なるも、総(すべ)て自(おのづか)ら尋常(ただ)ならざるは、察するに精神病者の類(たぐひ)なるべし。さては何の怪むところ有らん。節は初夏の未(ま)だ寒き、この寥々(りようりよう)たる山中に来(きた)り宿(とま)れる客なれば、保養鬱散の為ならずして、湯治の目的なるを思ふべし。誠にさなり、彼は病客なるべきをと心釈(こころと)けては、はや目も遣らずなりける間(ひま)に、男は浴(ゆあ)み果てて、貸浴衣(かしゆかた)引絡(ひきまと)ひつつ出で行きけり。
暮色はいよいよ濃(こまやか)に、転激(うたたはげし)き川音の寒さを添ふれど、手寡(てずくな)なればや燈(あかり)も持来(きた)らず、湯香(ゆのか)高く蒸騰(むしのぼ)る煙(けむり)の中に、独(ひと)り影暗く蹲(うづくま)るも、少(すこし)く凄(すさまじ)き心地して、程無く貫一も出でて座敷に返れば、床間(とこのま)には百合の花も在らず煌々(こうこう)たる燈火(ともしび)の下に座を設け、膳(ぜん)を据ゑて傍(かたはら)に手焙(てあぶり)を置き、茶器食籠(じきろう)など取揃(とりそろ)へて、この一目さすがに旅の労(つかれ)を忘るべし。
先づ衣桁(いこう)に在りける褞袍(どてら)を被(かつ)ぎ、夕冷(ゆふびえ)の火も恋(こひし)く引寄せて莨(たばこ)を吃(ふか)しゐれば、天地静(しづか)に石走(いはばし)る水の響、梢(こずゑ)を渡る風の声、颯々淙々(さつさつそうそう)と鳴りて、幽なること太古の如し。
乍(たちま)ちはたはたと跫音(あしおと)長く廊下に曳(ひ)いて、先のにはあらぬ小婢(こをんな)の夕餉(ゆふげ)を運び来(きた)れるに引添ひて、其処(そこ)に出でたる宿の主(あるじ)は、
「今日(こんにち)は好(よ)うこそ御越(おこ)し下さいまして、さぞ御労様(おつかれさま)でゐらつしやいませうで御座ります。ええ、又唯今程は格別に御茶料を下(くだ)し置れまして、甚(はなは)だ恐入りました儀で、難有(ありがた)う存じまして、厚く御礼を申上げまするで御座います。
ええ前以(ぜんもつ)てお詑(わび)を申上げ置きまするのは、召上り物のところで御座りまして一向はや御覧の通何も御座りませんで、誠に相済みません儀で御座いまするが、実は、未だ些(ちよつ)と時候もお早いので、自然お客様のお越(こし)も御座りませんゆゑ、何分用意等(とう)も致し置きませんやうな次第で、然し、一両日(いちりようにち)中にはお麁末(そまつ)ながら何ぞ差上げまするやうに取計ひまするで御座いますで、どうぞ、まあ今明日(こんみようにち)のところは御勘弁を下さいまして、御寛(ごゆるり)と御逗留(ごとうりゆう)下さいまするやうに。――これ、早う御味噌汁(おみおつけ)をお易(か)へ申して来ないか」
主(あるじ)の辞し去りて後、貫一は彼の所謂(いはゆる)何も無き、椀(わん)も皿も皆黄なる鶏子一色(たまごいつしき)の膳に向へり。
「内にはお客は今幾箇(いくたり)有るのだね」
「這箇(こちら)の外にお一方(ひとかた)で御座りやす」
「一箇(ひとり)? あのお客は単身(ひとり)なのか」
「はい」
「先(さつき)に湯殿で些(ちよつ)と遇(あ)つたが、男の客だよ」
「さよで御座りやす」
「あれは病人だね」
「どうで御座りやすか。――そんな事無(ね)えで御座りやせう」
「さうかい。何処(どこ)も不良(わる)いところは無いやうかね」
「無(ね)えやうで御座りやすな」
「どうも病人のやうだが、さうでないかな」
「ああ、旦那様はお医者様で御座りやすか」
貫一は覚えず噴飯(ふんぱん)せんと為つつ、
「成程、好い事を言ふな。俺は医者ぢやないけれど、どうも見たところが病人のやうだから、さうぢやないかと思つたのだ。もう長く来てゐるお客か」
「いんえ、昨日(きのふ)お出(いで)になりやしたので」
「昨日来たのだ? 東京の人か」
「はい、日本橋の方のお方で御座りやす」
「それぢや商人(あきんど)か」
「私能く知りやせん」
「どうだ、お前達と懇意にして話をするか」
「そりやなさりやす」
「俺と那箇(どつち)が為る」
「旦那様とですけ? そりや旦那様のやうにはなさりやせん」
「うむ、さうすると、俺の方がお饒舌(しやべり)なのだな」
「あれ、さよぢや御座りやせんけれど、那裏(あちら)のお客様は黙つてゐらつしやる方が多う御座りやす。さうして何でもお連様(つれさま)が直(ぢき)にいらしやる筈(はず)で、それを、まあ酷(えら)う待つてお在(いで)なさりやす」
「おお、伴(つれ)が後から来るのか。いや、大きに御馳走(ごちそう)だつた」
「何も御座りやせんで、お麁末様(そまつさま)で御座りやす」
婢(をんな)は膳を引きて起ちぬ。貫一は顛然(ころり)と臥(ね)たり。
二十間も座敷の数有る大構(おほがまへ)の内に、唯二人の客を宿せるだに、寂寥(さびしさ)は既に余んぬるを、この深山幽谷の暗夜に蔽(おほは)れたる孤村の片辺(かたほとり)に倚(よ)れる清琴楼の間毎に亘(わた)る長廊下は、星の下行く町の小路より、幾許(いかばかり)心細くも可恐(おそろし)き夜道ならんよ。戸一重外(とひとへそと)には、山颪(やまおろし)の絶えずおどろおどろと吹廻(ふきめぐ)りて、早瀬の波の高鳴(たかなり)は、真に放鬼の名をも懐(おも)ふばかり。
折しも唾壺(はひふき)打つ音は、二間(ふたま)ばかりを隔てて甚だ蕭索(しめやか)に聞えぬ。
貫一は何(なに)の故(ゆゑ)とも知らで、その念頭を得放れざるかの客の身の上をば、独り様々に案じ入りつつ、彼既に病客ならず、又我が識(し)る人ならずと為(せ)ば、何を以つて人を懼(おそ)るる態(かたち)を作(な)すならん。抑(そもそ)も彼は何者なりや。又何の尤(とが)むるところ有りて、さばかり人を懼るるや。
貫一はこの秘密の鑰(かぎ)を獲んとして、左往右返(とさまかうさま)に暗中摸索(もさく)の思(おもひ)を費すなりき。 
(二)の二
明(あく)る朝(あした)の食後、貫一は先(ま)づこの狭き畑下戸(はたおり)の隅々(すみずみ)まで一遍(ひとわたり)見周(みめぐ)りて、略(ほ)ぼその状況を知るとともに、清琴楼の家格(いへがら)を考へなどして、磧(かはら)に出づれば、浅瀬に架(かか)れる板橋の風情(ふぜい)面白く、渡れば喜十六の山麓(さんろく)にて、十町ばかり登りて須巻(すまき)の滝(たき)の湯有りと教へらるるままに、遂(つひ)に其処(そこ)まで往きて、午(ひる)近き頃宿に帰りぬ。
汗を流さんと風呂場に急ぐ廊下の交互(すれちがひ)に、貫一はあたかもかの客の湯上りに出会へり。こたびも彼は面(おもて)を見せじとやうに、慌忙(あわただし)く打背(うちそむ)きて過行くなり。
今は疑ふべくもあらず、彼は正(まさし)く人目を避けんと為るなり。則(すなは)ち人を懼るるなり。故は、自ら尤(とがむ)るなり。彼は果して何者ならん、と貫一は愈(いよい)よ深く怪みぬ。
昨日(きのふ)こそ誰乎彼(たそがれ)の黯がり(くらがり)にて、分明(さやか)に面貌(かほかたち)を弁ぜざりしが、今の一目は、躬(みづから)も奇なりと思ふばかり奇(くし)くも、彼の不用意の間(うち)に速写機の如き力を以てして、その映じ来(きた)りし形を総(すべ)て脱(のが)さず捉(とら)へ得たりしなり。
貫一はその相貌(そうぼう)の瞥見(べつけん)に縁(よ)りて、直(ただ)ちに彼の性質を占(うらな)はんと試(こころむ)るまでに、いと善く見極(みきは)めたり。されども、いかにせん、彼の相するところは始に疑ひしところと頗(すこぶ)る一致せざる者有り。彼若(も)し実(まこと)に人を懼るると為(せ)ば、彼の人を懼るる所以(ゆゑん)と、我より彼の人を懼るる所以と為(な)す者とは、或(あるひ)は稍(やや)趣(おもむき)を異(こと)にせざらんや。又想ふに、彼は決して自ら尤(とがむ)るところなど有るに非ずして、止(た)だその性(せい)の多羞(シャイ)なるが故のみか、未だ知るべからず。この二者(ふたつ)の前(さき)のをも取り難く、さすがに後のにも頷(うなづ)きかねて、彼は又新(あらた)に打惑(うちまど)へり。
午飯(ひるめし)の給仕には年嵩(としかさ)の婢(をんな)出でたれば、余所(よそ)ながらかの客の事を問ひけるに、箸(はし)をも取らで今外に出で行きしと云ふ。
「はあ、飯(めし)も食はんで? 何処(どこ)へ行つたのかね」
「何でも昨日(きのふ)あたりお連様(つれさま)がお出(いで)の筈(はず)になつてをりましたので御座いませう。それを大相お待ちなすつてゐらつしやいましたところが、到頭お着が無いもんで御座いますから、今朝(けさ)から御心配遊(あそば)して、停車場(ステエション)まで様子を見がてら電報を掛けに行くと有仰(おつしや)いまして、それでお出ましに成つたので御座います」
「うむ、それは心配だらう。能く有る事だ。然し、飯も食はずに気を揉(も)んでゐるとは、どう云ふ伴(つれ)なのかな。――年寄(としより)か、婦(をんな)ででもあるか」
「如何(いかが)で御座いますか」
「お前知らんのか」
「私(わたくし)存じません」
彼は覚えず小首を傾(かたむ)くれば、
「旦那(だんな)も大相御心配ぢや御座いませんか」
「さう云ふ事を聞くと、俺(おれ)も気になるのだ」
「ぢや旦那も余程(よつぽど)苦労性の方ですね」
「大きにさうだ」
「それぢやお連様がいらしつて見て、お年寄か、お友達なら宜(よろし)う御座いますけれど、もしも、ねえ、貴方(あなた)、お美(うつくし)い方か何かだつた日には、それこそ旦那は大変で御座いますね」
「どう大変なのか」
「又御心配ぢや御座いませんか」
「うむ、大きにこれはさうだ」
風恬(かぜしづか)に草香(かを)りて、唯居るは惜き日和(ひより)に奇痒(こそばゆ)く、貫一は又出でて、塩釜の西南十町ばかりの山中なる塩の湯と云ふに遊びぬ。還(かへ)れば寂(さびし)く夕暮るる頃なり。例の如く湯に入(い)りて、上(あが)れば直(ぢき)に膳(ぜん)を持出(もちい)で、燈(あかし)も漸く耀(かがや)きしに、かの客、未(いま)だ帰り来(こ)ず、
「閑寂(しづか)なのも可いけれど、外に客と云ふ者が無くて、全(まる)でかう独法師(ひとりぼつち)も随分心細いね」
託言(かごと)がましく貫一は言出づれば、
「さやうでゐらつしやいませう、何と申したつてこの山奥で御座いますから。全体旦那がお一人でゐらつしやると云ふお心懸(こころがけ)が悪いので御座いますもの、それは為方が御座いません」
婢はわざとらしう高笑(たかわらひ)しつ。
「成程、これは恐入つた。今度から善く心得て置く事だ」
「今度なんて仰有(おつしや)らずに、旦那も明日(あした)あたり電信でお呼寄(よびよせ)になつたら如何(いかが)で御座います」
「五十四になる老婢(ばあや)を呼んだつて、お前、始らんぢやないか」
「まあ、旦那はあんな好い事を言つてゐらつしやる。その老婢さんの方でないのをお呼びなさいましよ」
「気の毒だが、内にはそれつきりより居ないのだ」
「ですから、旦那、づつと外(ほか)にお在んなさるので御座いませう」
「そりや外には幾多(いくら)でも在るとも」
「あら、御馳走で御座いますね」
「なあに、能く聴いて見ると、それが皆(みんな)人の物ださうだ」
「何ですよ、旦那。貴方、本当の事を有仰(おつしや)るもんですよ」
「本当にも嘘(うそ)にもその通だ。私(わたし)なんぞはそんな意気な者が有れば、何為(なにし)にこんな青臭い山の中へ遊びに来るものか」
「おや! どうせ青臭い山の中で御座います」
「青臭いどころか、お前、天狗巌(てんぐいわ)だ、七不思議だと云ふ者が有る、可恐(おそろし)い山の中に違無いぢやないか。そこへ彷徨(のそのそ)、閑(ひま)さうな貌(かほ)をして唯一箇(たつたひとり)で遣(や)つて来るなんぞは、能々(よくよく)の間抜(まぬけ)と思はなけりやならんよ」
「それぢや旦那は間抜なのぢや御座いませんか。そんな解らない事が有るものですか」
「間抜にも大間抜よ。宿帳を御覧、東京間抜(まぬけ)一人(いちにん)と附けて在る」
「その傍(そば)に小く、下女塩原間抜一人と、ぢや附けさせて戴(いただ)きませう」
「面白い事を言ふなあ、おまへは」
「やつぱり少し抜けてゐる所為(せゐ)で御座います」
彼は食事を了(をは)りて湯浴(ゆあみ)し、少焉(しばらく)ありて九時を聞きけれど、かの客は未(いま)だ帰らず。寝床に入(い)りて、程無く十時の鳴りけるにも、水声空(むなし)く楼を繞(めぐ)りて、松の嵐の枕上(ちんじよう)に落つる有るのみなり。
始よりその人を怪まざらんにはこの咎(とが)むるに足らぬ瑣細(ささい)の事も、大いなる糢糊(もこ)の影を作(な)して、いよいよ彼が疑(うたがひ)の眼(まなこ)を遮(さへぎ)り来(きた)らんとするなりけり。貫一はほとほと疑ひ得らるる限疑ひて、躬(みづから)も其の妄(ぼう)に過(すぐ)るの太甚(はなはだし)きを驚けるまでに至りて、始て罷(や)めんと為たり。
これに亜(つ)いで、彼は抑(そもそ)も何の故(ゆゑ)有りて、肥瘠(ひせき)も関せざるかの客に対して、かくばかり軽々しく思を費し、又念(おもひ)を懸(かく)るの固執なるや、その謂無(いはれな)き己(おのれ)をば、敢て自ら解かんと試みつ。
されども、人は往々にして自ら率(ひきゐ)るその己を識る能はず。貫一は抑へて怪まざらんと為(せ)ば、理に於て怪まずしてあるべきを信ずるものから、又幻視せるが如きその大いなる影の冥想(めいそう)の間に纏綿(てんめん)して、或(あるひ)は理外に在る者有る無からんや、と疑はざらんと為る傍(かたはら)より却(かへ)りて惑(まどは)しむるなり。
表階子(おもてばしご)の口に懸(かか)れる大時計は、病み憊(つか)れたるやうの鈍き響を作(な)して、廊下の闇(やみ)に彷徨(さまよ)ふを、数ふれば正(まさ)に十一時なり。
かの客はこの深更(しんこう)に及べども未(いま)だ帰り来(こ)ず。
彼は帰り来らざるなるか、帰り得ざるなるか、帰らざるなるかなど、又思放(おもひはな)つ能はずして、貫一は寝苦(ねぐるし)き枕を頻回(あまたたび)易(か)へたり。今や十二時にも成りなんにと心に懸けながら、その音は聞くに及ばずして遂(つひ)に眠(ねむり)を催せり。日高(ひだか)き朝景色の前に起出づれば、座敷の外を小婢(こをんな)は雑巾掛(ぞうきんがけ)してゐたり。
「お早う御座りやす」
「睡(ねむ)さうな顔をしてゐるな」
「はい、昨夜(よんべ)那裏(あちら)のお客様がお帰(かへり)になるかと思つて、遅うまで待つてをりやしたで、今朝睡うござりやす」
「ああ、あのお客は昨夜(ゆふべ)は帰らずか」
「はい、お帰(かへり)が御座りやせん」
貫一はかの客の間の障子を開放(あけはな)したるを見て、咥楊枝(くはへようじ)のまま欄杆伝(てすりづた)ひに外(おもて)を眺め行く態(ふり)して、その前を過(すぐ)れば、床の間に小豆革(あづきがは)の手鞄(てかばん)と、浅黄(あさぎ)キャリコの風呂敷包とを並(なら)べて、傍(そば)に二三枚の新聞紙を引つつくね、衣桁(いこう)に絹物の袷(あはせ)を懸けて、その裾(すそ)に紺の靴下を畳置きたり。
さては少(すこし)く本意無(ほいな)きまでに、座敷の内には見出(みいだ)すべき異状も有らで、彼は宿帳に拠(よ)りて、洋服仕立商なるを知りたると、敢(あへ)て背(そむ)くところ有りとも覚えざるなりき。
拍子抜して返(もど)れる貫一は、心私(こころひそか)にその臆測の鑿(いりほが)なりしをはぢざるにもあらざれど、又これが為に、直(ただ)ちに彼の濡衣(ぬれぎぬ)を剥去(はぎさ)るまでに釈然たる能はずして、好し、この上はその待人(まちびと)の如何(いか)なる者なるかを見て、疑は決すべしと、やがてその消息を齎(もたら)し来(きた)るべき彼の帰来(かへり)の程を、陰ながら最更(いとさら)に遅しと待てり。
夜は山精木魅(さんせいもくび)の出でて遊ぶを想はしむる、陰森凄幽(いんしんせいゆう)の気を凝(こら)すに反してこの霽朗(せいろう)なる昼間の山容水態は、明媚(めいび)争(いかで)か画(が)も如(し)かん、天色大気も殆(ほとん)ど塵境以外(じんきよういがい)の感無くんばあらず。黄金(こがね)を織作(おりな)せる羅(うすもの)にも似たる麗(うるはし)き日影を蒙(かうむ)りて、万斛(ばんこく)の珠を鳴す谷間の清韻を楽みつつ、欄頭(らんとう)の山を枕に恍惚(こうこつ)として消ゆらんやうに覚えたりし貫一は、急遽(あわただし)き跫音(あしおと)の廊下を動(うごか)し来(きた)るに駭(おどろか)されて、起回(おきかへ)りさまに頭(かしら)を捻向(ねぢむく)れば、何事とも知らず、年嵩(としかさ)の婢(をんな)の駈着(かけつく)るなり。
「些(ちよい)と旦那、参りましたよ、参りましたよ! 早くいらしつて御覧なさいまし。些と早く」
「何が来たのだ」
「何でも可いんですから、早くいらつしやいましよ」
「何だ、何だよ」
「早く階子(はしご)の所へいらしつて御覧なさい」
「おお、あの客が還つたのか」
彼ははや飛ぶが如くに引返して、貫一の言(ことば)は五間も後に残されたり。彼が注進の模様は、見るべき待人を伴ひ帰れるならんをと、直(す)ぐに起ちて表階子(おもてはしご)の辺(あたり)に行く時、既に晩(おそ)し両箇(ふたり)の人影は欄(てすり)の上に顕(あらは)れたり。
鍔広(つばひろ)なる藍鼠(あゐねずみ)の中折帽(なかをれぼう)を前斜(まへのめり)に冠(かむ)れる男は、例の面(おもて)を見せざらんと為れど、かの客なり。引連れたる女は、二十歳(はたち)を二つ三つも越したる可(べ)し。銀杏返(いてふがへし)を引約(ひつつ)めて、本甲蒔絵(ほんこうまきゑ)の挿櫛(さしぐし)根深(ねぶか)に、大粒の淡色瑪瑙(うすいろめのう)に金脚(きんあし)の後簪(うしろざし)、堆朱彫(ついしゆぼり)の玉根掛(たまねがけ)をして、鬢(びん)の一髪(いつぱつ)をも乱さず、極(きは)めて快く結ひ做(な)したり。葡萄茶(えびちや)の細格子(ほそごうし)の縞御召(しまおめし)に勝色裏(かついろうら)の袷(あはせ)を着て、羽織は小紋縮緬(こもんちりめん)の一紋(ひとつもん)、阿蘭陀(オランダ)模様の七糸(しつちん)の袱紗帯(ふくさおび)に金鎖子(きんぐさり)の繊(ほそ)きを引入れて、嬌(なまめかし)き友禅染の襦袢(じゆばん)の袖(そで)して口元を拭(ぬぐ)ひつつ、四季袋(しきぶくろ)を紐短(ひもみじ)かに挈(さ)げたるが、弗(ふ)と此方(こなた)を見向ける素顔の色蒼(あを)く、口の紅(べに)も点(さ)さで、やや裏寂(うらさびし)くも花の咲過ぎたらんやうの蕭衰(やつれ)を帯びたれど、美目の盻(へん)たる色香(いろか)尚濃(なほこまやか)にして、漫(そぞ)ろ人に染むばかりなり。
両箇(ふたり)は彼の見る目の顕露(あらは)なるに気怯(きおくれ)せる様子にて、先を争ふ如く足早に過行きぬ。貫一もまたその逢着(ほうちやく)の唐突なるに打惑ひて、なかなか精(くはし)く看るべき遑(いとま)あらざりけれど、その女は万々彼の妻なんどにはあらじ、と独(ひと)り合点せり。 
第三章
かの男女(なんによ)はいとしさに堪(た)へざらんやうに居寄りて、手に手を交(まじ)へつつ密々(ひそやか)に語れり。
「さうなの、だから私はどんなに心配したか知れやしない。なかなか貴方(あなた)がここで想つてゐるやうな訳に行きは為(し)ませんとも。そりや貴方の心配もさうでせうけれど、私の心配と云つたら、本当に無かつたの。察しるが可(い)いつて、そりや貴方、お互ぢやありませんか。吁(ああ)、私は今だに胸が悸々(どきどき)して、後から追掛(おつか)けられるやうな気持がして、何だか落着かなくて可けない」
「まあ何でも、かうして約束通り逢(あ)へりや上首尾なんだ」
「全くよ。一昨日(をととひ)の晩あたりの私の心配と云つたら、こりやどうだかと、さう思つたくらゐ、今考へて見れば、自分ながら好く出られたの。やつぱり尽きない縁なのだわ」
些(ちよ)と男の顔を盻(みや)りて、濡(ぬ)るる瞼(まぶた)を軽く拭(ぬぐ)へり。
「その縁の尽きないのが、究竟(つまり)彼我(ふたり)の身の窮迫(つまり)なのだ。俺(おれ)もかう云ふ事に成らうとは思はなかつたが、成程、悪縁と云ふ者は為方(しかた)の無いものだ」
女は尚窃(なほひそか)に泣きゐる面(おもて)を背(そむ)けたるまま、
「貴方は直(ぢき)に悪縁だ、悪縁だと言ふけれど、悪縁ならどうするんです!」
「悪縁だからかうなつたのぢやないか」
「かう成つたのがどうしたんですよ!」
「今更どうするものか」
「当然(あたりまへ)さ! 貴方は一体水臭いんだ!!」
「おい、お静(しず)、水臭いとは誰の事だ」
色を作(な)せる男の眼(まなこ)は、つと湧(わ)く涙に輝けり。
「貴方の事さ!」
女の目よりは漣々(はらはら)と零(こぼ)れぬ。
「俺の事だ? お静……手前(てめへ)はそんな事を言つて、それで済むと思ふのか」
「済んでも済まなくても、貴方が水臭いからさ」
「未(ま)だそんな事を言やがる! さあ、何が水臭いか、それを言へ」
「はあ、言ひますとも。ねえ、貴方は他(ひと)の顔さへ見りや、直(ぢき)に悪縁だと云ふのが癖ですよ。彼我(ふたり)の中の悪縁は、貴方がそんなに言(いは)なくたつて善く知つてゐまさね。何も貴方一箇(ひとり)の悪縁ぢやなし、私だつてこれでも随分謂(い)ふに謂(いは)れない苦労を為てゐるんぢやありませんか。それを貴方がさもさも迷惑さうに、何ぞの端(はし)には悪縁だ悪縁だとお言ひなさるけれど、聞(きか)される身に成つて御覧なさいな。余(あんま)り好(い)い心持は為やしません。それも不断ならともかくもですさ、この場になつてまでも、さう云ふ事を言ふのは、貴方の心が水臭いからだ――何がさうでない事が有るもんですか」
「悪縁だから悪縁だと言ふのぢやないか。何も迷惑して……」
「悪縁でも可ござんすよ!」
彼等は相背(あひそむ)きて姑(しばら)く語無(ことばな)かりしが、女は忍びやかに泣きゐたり。
「おい、お静、おい」
「貴方きつと迷惑なんでせう。貴方がそんな気ぢや、私は……実に……つまらない。私はどうせう。情無い!」
お静は竟(つひ)に顔を掩(おほ)うて泣きぬ。
「何だな、お前も考へて見るが可いぢやないか。それを迷惑とも何とも思はないからこそ、世間を狭くするやうな間(なか)にも成りさ、又かう云ふ……なあ……訳なのぢやないか。それを嘘(うそ)にも水臭いなんて言(いは)れりや、俺だつて悔(くやし)いだらうぢやないか。余り悔くて俺は涙が出た。お静、俺は何も芸人ぢやなし、お前に勤めてゐるんぢやないのだから、さう思つてゐてくれ」
「狭山(さやま)さん、貴方もそんなに言はなくたつて可いぢやありませんか」
「お前が言出すからよ」
「だつて貴方がかう云ふ場になつて迷惑さうな事を言ふから、私は情無くなつて、どうしたら可からうと思つたんでさね。ぢや私が悪かつたんだから謝(あやま)ります。ねえ、狭山さん、些(ちよい)と」
お静の顔を打矚(うちまも)りつつ、男は茫然(ぼうぜん)たるのみなり。
「狭山さんてば、貴方何を考へてゐるのね」
「知れた事さ、彼我(ふたり)の身の上をよ」
「何だつてそんな事を考へてゐるの」
「…………」
「今更何も考へる事は有りはしないわ」
狭山は徐々(おもむろ)に目を転(うつ)して、太息(といき)をついたり。
「もうそんな溜息(ためいき)なんぞをつくのはお舎(よ)しなさいつてば」
「お前二十……二だつたね」
「それがどうしたの、貴方が二十八さ」
「あの時はお前が十九の夏だつけかな」
「ああ、さう、何でも袷(あはせ)を着てゐたから、丁度今時分でした。湖月(こげつ)さんのあの池に好いお月が映(さ)してゐて、暖(あつたか)い晩で、貴方と一処に涼みに出たんですよ、善く覚えてゐる。あれが十九、二十、二十一、二十二と、全(まる)三年に成るのね」
「おお、さうさう。昨日(きのふ)のやうに思つてゐたが、もう三年に成るなあ」
「何だか、かう全で夢のやうね」
「吁(ああ)、夢だなあ!」
「夢ねえ!」
「お静!」
「狭山さん!」
両箇(ふたり)は手を把(と)り、膝(ひざ)を重ねて、同じ思を猶悲(なおかなし)く、
「ゆ……ゆ……夢だ!」
「夢だわ、ねえ!」
声立てじと男の胸に泣附く女。
「かう成るのも皆(みんな)約束事ぢやあらうけれど、那奴(あいつ)さへ居なかつたら、貴方だつて余計な苦労は為はしまいし。私は私で、ああもかうも思つて、末始終の事も大概考へて置いたのだから、もう少しの間時節が来るのを待つてゐられりや、曩日(いつか)の御神籤通(おみくじどほり)な事に成れるのは、もう目に見えてゐるのを、那奴(あいつ)が邪魔して、横紙(よこがみ)を裂くやうな事を為やがるばかりに大事に為なけりや成らない貴方の体に、取つて返しの付かない傷まで附けさせて、私は、狭山さん、余(あんま)り申訳が無い! 堪(かん)……忍(にん)……して下さい」
「そりやなあに、お互の事だ」
「いいえ、私がもう少し意気地が有つたら、かうでもないんだらうけれど、胸には色々在つても、それが思切つて出来ない性分だもんだから、ついこんな破滅(はめ)にも成つて了つて、私は実に済まないと、自分の身を考へるよりは、貴方の事が先に立つて、さぞ陰ぢや迷惑もしてお在(いで)なんだらうに、逢ふ度(たんび)に私の身を案じて、毎(いつ)も優くして下さるのは仇(あだ)や疎(おろか)な事ぢやないと、私は嬉(うれし)いより難有(ありがた)いと思つてゐます。だものだから、近頃ぢや、貴方に逢ふと直(ぢき)に涙が出て、何だか悲くばかりなるのが不思議だと思つてゐたら、果然(やつぱり)かう云ふ事になる讖(しらせ)だつたんでせう。
貴方にはお気の毒だ、お気の毒だ、と始終自分が退(ひ)けてゐるのに、悪縁だなんぞと言れると、私は体が縮るやうな心持がして、ああ、さうでもない、貴方が迷惑してゐるばかりなら未だ可いけれど、取んだ者に懸り合つた、ともしや後悔してお在(いで)なんぢやなからうかと思ふと、私だつて好い気持はしないもんだから、つい向者(さつき)はあんなに言過ぎて、私は誠に済みませんでした。それはもう貴方の言ふ通り悪縁には差無(ちがひな)いんだけれど、後生だからそんな可厭(いや)な事は考へずにゐて下さい。私はこれで本望だと思つてゐる」
「生木(なまき)を割(さ)いて別れるよりは、まあ愈(まし)だ」
「別れる? 吁(ああ)! 可厭(いや)だ! 考へても慄然(ぞつ)とする! 切れるの、別れるのなんて事は、那奴(あいつ)が来ない前には夢にだつて見やしなかつたのを、切れろ切れろぢや私もどの位内で責められたか知れやしない。さうして挙句(あげく)がこんな事に成つたのも、想へば皆(みんな)那奴のお蔭だ。ええ、悔(くやし)い! 私はきつと執着(とつつ)いても、この怨(うらみ)は返して遣(や)るから、覚えてゐるが可い!」
女は身を顫(ふるは)せて詈(ののし)るとともに、念入(おもひい)りて呪(のろ)ふが如き血相を作(な)せり。
不知(しらず)、この恨み、詈(ののし)り、呪はるる者は、何処(いづく)の誰(だれ)ならんよ。
「那奴も好加減な馬鹿ぢやないか!」
男は歯咬(はがみ)しつつ苦しげに嗤笑(ししよう)せり。
「馬鹿も大馬鹿よ! 方図の知れない馬鹿だわ。畜生! 所歓(いろ)の有る女が金で靡(なび)くか、靡かないか、些(ちつと)は考へながら遊ぶが可い。来りや不好(いや)な顔を為て遣るのに、それさへ解らずに、もううるさく附けつ廻しつして、了局(しまひ)には人の恋中の邪魔を為やがるとは、那奴も能(よ)く能くの芸無猿(げいなしざる)に出来てゐるんだ。憎さも憎し、私はもう悔くて、悔くて、狭山さん、実はね、私はこの世の置土産(おきみやげ)に、那奴の額を打割(ぶちわ)つて来たんでさね」
「ええ、どうして!」
「なあにね、貴方に別れたあの翌日(あくるひ)から、延続(のべつ)に来てゐやがつて、ちつとでも傍(そば)を離さないんぢやありませんか。這箇(こつち)は気が気ぢやないところへ、もう悪漆膠(わるしつこ)くて耐(たま)らないから、病気だと謂(い)つて内へ遁(に)げて来りや、直(すぐ)に追懸(おつか)けて来て、附絡(つきまと)つてゐるんでせう。さうすると寸法は知れてまさね、丁(ちやん)と渉(わたり)が付いてゐるんだから、阿母(おつか)さんは傍(そば)から『ちやほや』して、そりや貴方、真面目(まじめ)ぢや見ちやゐられないお手厚(てあつ)さ加減なんだから、那奴は図に乗つて了つて、やあ、風呂を沸(わか)せだ事の、ビイルを冷(ひや)せだ事のと、あの狭い内へ一個(ひとり)で幅を為(し)やがつて、なかなか動(いご)きさうにも為ないんぢやありませんか。
私は全で生捕(いけどり)に成つたやうなもので、出るには出られず、這箇(こつち)の事が有るから、さうしてゐる空(そら)は無し、あんな気の揉(も)めた事は有りはしない――本当(ほんと)にどうせうかと思つた。ええ、なあに、あんな奴は打抛出(おつぽりだ)して措(お)いて、這箇(こつち)は掻巻(かいまき)を引被(ひつかぶ)つて一心に考へてゐたんですけれど、もう憤(じ)れたくて耐らなくなつて来たから、不如(いつそ)かまはず飛出して了はうかと、余程(よつぽど)さう念つたものの、丹子(たんこ)の事も、ねえ、考へて見りや可哀(かはい)さうだし、あの子を始め阿母さんまで、私ばかりを頼(たより)に為てゐるものを、さぞや私の亡(な)い後には、どんなにか力も落さうし、又あの子も為ないでも好い苦労を為なけりやなるまいと、そればかりに牽(ひか)されて、色々話も有るものだから、あの子の阿母さんにも逢つて遣りたし、それに、私も出るに就いちや、為て置かなけりやならない事も有るし為るので、到頭遅々(ぐづぐづ)して出損(でそこな)つて了つたんです。
さうすると、どうでせう、まあ、那奴はその晩二時過までうで付いてゐて、それでも不承々々に還(かへ)つたのは可い。すると翌日(あくるひ)は半日阿母さんのお談義が始まつて、好加減に了簡(りようけん)を極めろでせう。さう言つちや済まないけれど、育てた恩も聞飽きてゐるわ。それを追繰返(おつくりかへ)し、引繰返(ひつくりかへ)し、悪体交(あくたいまじ)りには、散々聴せて、了局(しまひ)は口返答したと云つて足蹴(あしげ)にする。なあに、私は足蹴にされたつて、撲(ぶた)れたつて、それを悔いとは思やしないけれど、這箇(こつち)だつて貴方と云ふ者が有ると思ふから、もう一生懸命に稼(かせ)いで、為るだけの事は丁(ちやん)と為てあるのに、何ぼ慾にきりが無いと謂つても、自分の言条(いひじよう)ばかり通さうとして、他(ひと)には些(ちつと)でも楽を為せない算段を為る。私だつて金属(かね)で出来た機械ぢやなし、さうさう駆使(こきつか)はれてお為にばかり成つてゐちや、這箇(こつち)の身が立ちはしない。
別にどうしてくれなくても、訳さへ解つてゐてくれりや、辛いぐらゐは私は辛抱する。所歓(いろ)は堰(せ)いて了ふし、旦那取(だんなとり)は為ろと云ふ。そんな不可(いや)な真似(まね)を為なくても、立派に行くやうに私が稼いであるんぢやありませんか。それをさう云ふ無理を言つてからに、素直でないの、馬鹿だのと、足蹴に為るとは……何……何事で……せう!
それぢや私も赫(かつ)として、もう我慢が為切れなく成つたから、物も言はずに飛出さうと為る途端に、運悪く又那奴(あいつ)が遣つて来たんぢやありませんか。さあ、捉(つかま)つて了つて、其処(そこ)の場図(ばつ)で迯(にげ)るには迯られず、阿母(おつか)さんは得(え)たり賢(かしこ)しなんでせう、一処に行け行けと聒(やかまし)く言ふし、那奴は何でも来いと云つて放さない。私も内を出た方が都合が好いと思つたから、まあ言ふなりに成つて、例の処へひつぱられて行つたとお思ひなさい。あの長尻(ながちり)だから、さあ又還らない、さうして何か所思(おもはく)でも有つたんでせうよ、何だか知らないけれど、その晩に限つて無闇(むやみ)とお酒を強(しひ)るんでさ。這箇(こつち)も鬱勃肚(むしやくしやばら)で、飲めも為ないのに幾多(いくら)でも引受けたんだけれど、酔ひさうにも為やしない。
その内に漸々(そろそろ)又お極(きま)りの気障(きざ)な話を始めやがつて、這箇(こつち)が柳に受けて聞いてゐて遣りや、可いかと思つて増長して、呆(あき)れた真似(まね)を為やがるから、性の付く程諤々(つけつけ)さう言つて遣つたら、さあ自棄(やけ)に成つて、それから毒吐(どくつ)き出して、やあ店番の埃被(ほこりかぶり)だの、冷飯吃(ひやめしくら)ひの雇人(やとひにん)がどうだのと、聞いちやゐられないやうな腹の立つ事を言やがるから、這箇(こつち)も思切つて随分な悪体(あくたい)を吐(つ)いて遣つたわ、私は。
さうすると、了局(しまひ)に那奴は何と言ふかと思ふと、幾許(いくら)七顛八倒(じたばた)しても金で縛(しば)つて置いた体だなんぞ、と利(き)いた風な事を言ふんぢやありませんか。だから、私はさう言つて遣つた、お気の毒だが、貴方は大方目が眩(くら)んで、そりやお袋を縛つたんだらうつて」
聴ゐる狭山は小気味好(こきみよ)しとばかりに頷(うなづ)けり。
「それで那奴(あいつ)は全然(すつかり)慍(おこ)つて了つて、それからの騒擾(さわぎ)でさ。無礼な奴だとか何とか言つて、私は襟(えり)を持つて引擦(ひきず)り仆(たふ)された。随分飲んでゐたから、やつぱり酔つてゐたんでせう。その時はもう全(まる)で夢中で、唯(ただ)那奴の憎らしいのが胸一杯に込上(こみあ)げて、這畜生(こんちくしよう)と思ふと、突如(いきなり)其処(そこ)に在つたお皿を那奴の横面(よこつつら)へ叩付(たたきつ)けて遣つた。丁度それが眉間(みけん)へ打着(ぶつか)つて血が淋漓(だらだら)流れて、顔が半分真赤に成つて了つた。これは居ちや面倒だと思つたから、家中大騒を遣つてゐる隙(すき)を見て、窃(そつ)と飛出した事は飛出したけれど、別に往所(ゆきどころ)も無いから、丹子の阿母(おつか)さんの処へ駈込(かけこ)んだの。
ところが、好かつた事には、今旅から帰つたと云ふところなんで、時間を見ると、十時余程(よつぽど)廻つてゐるんでせう。汽車はもう出ず、気ばかりは急(せ)くけれど、若箇道(どつちみち)間に合ふんぢやなし、それに話は有るし為るもんだから、一晩厄介に成る事にして、髪なんぞを結んでもらひながら、些(ちつ)と訳が有つて、貴方と一処に当分身を隠すのだと云ふやうに話を為てね、それから丹子の事も悉(くはし)く言置いて遣りましたら――善い人ね、あの阿母さんは――おいおい泣出して、自分の子の事はふつつりとも言はずに、唯私の身ばかりを案じて、ああのかうのと色々言つてくれたその実意と云つたら……噫(ああ)、同じ人間でありながら、内の阿母さんは、実に、あなた、鬼ですわ! 私もあの子の阿母さんのやうな実の親が有つたらば、こんな苦労は為やしまいし、又貴方のやうな方の有るのを、さぞかし力に念(おも)つて、喜びも為やうし、大事にも為る事だらうと思つたら、もうもう悲くなつて、悲くなつて、如何(いか)に何でも余(あんま)り情無くて、私はどんなに泣きましたらう。
それに、私をばあんなに頼(たのみ)に為てゐた阿母さんの事だから、当分でも田舎(ゐなか)へ行つて了ふと云ふのを、それは心細がつて、力を落したの何のと云つたら、私も別れるのが気の毒に成るくらゐで、先へ落付いたら、どうぞ一番に住所(ところ)を知せてくれ、初中終(しよつちゆう)旅を出行(である)いてゐる体だから、直(ぢき)に御機嫌伺(ごきげんうかが)ひに出ると、その事をあんなに懇々(くれぐれ)も頼んでゐましたから、後で聞いたら、さぞ吃驚(びつくり)して……きつと疾(わづら)ひでも為るでせうよ。考へて見りや、丹子も可愛(かはい)し、あの阿母さんも怜(いとし)いし。吁(ああ)、吁!」
歔欷(すすりなき)して彼は悶(もだ)えつ。
「さう云ふ訳ぢや、猶更(なほさら)内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう」
「大変でせうよ」
「それだと余(あんま)り遅々(ぐづぐづ)しちやゐられないのだ」
「どうで、狭山さん、先は知れてゐ……」
「さうだ」
「だからねえ、もう早い方が可ござんすよ」
女は咽(むせ)びて其処(そこ)に泣伏しぬ。狭山は涙をしばたたきて、
「お静、おい、お静や」
「あ……あい。狭山さん!」
憐(あはれ)むべし、情極(じようきはま)りて彼等の相擁(あひよう)するは、畢竟(ひつきよう)尽きせぬ哀歎(なげき)を抱(いだ)くが如き者ならんをや。 
(三)の二
両箇(ふたり)は此方(こなた)にかつ泣きかつ語れる間、彼方(あなた)の一箇(ひとり)は徒然(つれづれ)の柱に倚(よ)りて、やうやう傾く日影に照されゐたり。
その待人の如何(いか)なる者なるかを見て、疑は決すべしと為せし貫一も、かの伴ひ還りし女を見るにおよびて、その疑はいよいよ錯雑して、しかも新なる怪訝(あやしみ)の添はるのみなり。
如何(いか)なればや、女の顔色も甚(はなは)だ勝(すぐ)れず、その点の男といと善く似たるは、同じ憂を分つにあらざる無からんや。我聞く、犯罪の底には必ず女有りと、若(も)し信(まこと)なりとせば、彼は正(まさし)く彼女(かのをんな)ゆゑに如何(いか)なる罪をも犯せるならんよ。その罪の故(ゆゑ)に男は苦み、その苦の故に女は憂ふると為(せ)ば、彼等は誠に相愛(あひあい)するの堅き者ならず哉(や)。
知らず、彼等は何(なに)の故に相率(あひひきゐ)てこの人目稀(まれ)なる山中(やまなか)には来(きた)れる。その罪をのがれんが為か、その苦と憂とを忘れんが為か、或(あるひ)はその愛を全うせんが為か、明(あきらか)に彼等は夫婦ならず、又は、女の芸者風なるも、決して尋常の隠遊(かくれあそび)にあらずして、自(おのづ)から穂に露(あらは)るるところ有り。さては何等(なにら)の密会ならん。
貫一は彼を以(も)て女を偸(ぬす)みて奔(はし)る者ならずや、と先(まづ)推(すい)しつつ、尚(な)ほ如何にやなど、飽かず疑へる間より、忽(たちま)ち一片の反映は閃(きらめ)きて、朧(おぼろ)にも彼の胸の黯(くら)きを照せり。
彼はこの際熱海の旧夢を憶(おも)はざるを得ざりしなり。
世上貫一の外(ほか)に愛する者無かりし宮は、その貫一と奔るを諾(うべな)はずして、僅(わづか)に一瞥(べつ)の富の前に、百年の契を蹂躙(ふみにじ)りて吝(をし)まざりき。噫(ああ)我が当時の恨、彼が今日(こんにち)の悔! 今彼女(かのをんな)は日夜に栄の衒(てら)ひ、利の誘(いざな)ふ間に立ち、守るに難き節を全うして、世の容(い)れざる愛に随(したが)つて奔らんと為るか。
爾思(しかおも)へる後の彼は、陰(ひそか)にかの両個(ふたり)の先に疑ひし如き可忌(いまはし)き罪人ならで、潔く愛の為に奔る者たらんを、祷(いの)るばかりに冀(こひねが)へり。若しさもあらば、彼は具(つぶさ)に彼等の苦き身の上と切なる志とを聴かんと念(おも)ひぬ。
心永く痍(きずつ)きて恋に敗れたる貫一は、殊更(ことさら)に他の成敗に就いて観(み)るを欲せるなり。彼は己(おのれ)の不幸の幾許(いかばかり)不幸に、人の幸(さち)の幾許幸ならんかを想ひて、又己の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想ひて、又己の契の幾許薄く、人の縁(えにし)の幾許深からんかを想ひて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の交(かは)せる情(なさけ)の幾許篤からんかを想ひて、又己の恋の障碍(さまたげ)の幾許強く、人の容れられぬ世の幾許狭からんかを想ひて。嗟呼(ああ)、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の末終(つひ)に如何(いか)ならんかを想ひて。
昼間の程は勗(つと)めて籠(こも)りゐしかの両個(ふたり)の、夜に入りて後打連(うちつ)れて入浴せるを伺ひ知りし貫一は、例の益(ますま)す人目を避(さく)るならんよと念(おも)へり。
還り来(き)て多時(しばらく)酒など酌交(くみかは)す様子なりしが、高声一つ立つるにもあらで、唯障子を照す燈(ともし)のみいと瞭(さやか)に、内の寂しさは露をも置きけんやうにて、さてはかの吹絶えぬ松風に、彼等は竟(つひ)に酔(ゑひ)を成さざるならんと覚ゆばかりなりき。
為(な)す事もあらねば、貫一は疾(と)く臥内(ふしど)に入りけるが、僅(わづか)にまどろむと為れば直(ぢき)に、寤(さ)めて、そのままに睡(ねむり)は失(うす)るとともに、様々の事思ひゐたり。
夜の静なるを動かして、かの男女(なんによ)の細語(ひそめき)は洩(も)れ来(き)ぬ。甚(はなは)だ幺微(かすか)なれば聞知るべくもあらねど、びびとして絶えず枕に打響きては、なかなか大いなる声にも増して耳煩(みみわづら)はしかり。
さなきだに寝難(いねがた)かりし貫一は、益す気の澄み、心の冱(さ)え行くに任せて、又徒(いたづら)にとやかくと、彼等の身上(みのうへ)を推測(おしはか)り推測り思回(おもひめぐ)らすの外はあらず。彼方(あなた)もその幺微(かすか)なる声に語り語りて休(や)まざるは、思の丈(たけ)の短夜(たんや)に余らんとするなるか。
乍(たちま)ち有りて、迸(ほとばし)れるやうにその声はつと高く揚れり。貫一は愕然(がくぜん)として枕を欹(そばだ)てつ。女は遽(にはか)に泣出(なきいだ)せるなり。
その時男の声音(こわね)は全く聞えずして、唯独(ひと)り女の縦(ほしいま)まに泣音(なくね)を洩(もら)すのみなる。寤めたる貫一は弥(いや)が上に寤めて、自ら故(ゆゑ)を知らざる胸を轟(とどろか)せり。
少焉(しばし)泣きたりし女の声は漸(やうや)く鎮りて、又湿(しめ)り勝(がち)にも語り初(そ)めしが、一たび情(じよう)の為に激せし声音は、自(おのづ)から始よりは高く響けり。されどなほその言ふところは聞知り難くて、男の声は却(かへ)りて前(さき)よりも仄(ほのか)なり。
貫一は咳(しはぶ)きも遣らで耳を澄せり。
或(あるひ)は時に断ゆれども、又続(つ)ぎ、又続ぎて、彼等の物語は蚕(かひこ)の糸を吐きて倦(う)まざらんやうに、限も知らず長く亘(わた)りぬ。げにこの積る話を聞きも聞せもせんが為に、彼等はここに来つるにやあらん。されども、日は明日(あす)も明後日(あさつて)も有るを、甚(はなは)だ忙(せはし)くも語るもの哉(かな)。さばかり間遠(まどほ)なりし逢瀬(あふせ)なるか、言はでは裂けぬる胸の内か、かく有らでは慊(あきた)らぬ恋中(こひなか)か、など思ふに就けて、彼はさすがに我身の今昔(こんじやく)に感無き能はず、枕を引入れ、夜着(よぎ)引被(ひきかつ)ぎて、寐返(ねがへ)りたり。
何時罷(いつや)みしとも覚えで、彼等の寐物語は漸く絶えぬ。
貫一も遂に短き夢を結びて、常よりは蚤(はや)かりけれど、目覚めしままに起出(おきい)でし朝冷(あさびえ)を、走り行きて推啓(おしあ)けつる湯殿の内に、人は在らじと想ひし眼(まなこ)を驚(おどろか)して、かの男女(なんによ)は浴(ゆあみ)しゐたり。
貫一ははたと閉(とざ)して急ぎ返りつ。 
第四章
両箇(ふたり)はやや熱かりしその日も垂籠(たれこ)めて夕(ゆふべ)に抵(いた)りぬ。むづかしげに暮山(ぼさん)を繞(めぐ)りし雲は、果して雨と成りて、冷々(ひやひや)と密下(そぼふ)るほどに、宵の燈火(ともしび)も影更(ふ)けて、壁に映(うつろ)ふ物の形皆寂く、憖(なまじ)ひに起きて在るべき夜頃(よごろ)ならず。さては貫一も枕(まくら)に就きたり。
ラムプを細めたる彼等の座敷も甚(はなは)だ静に、宿の者さへ寐急(ねいそ)ぎて後十一時は鳴りぬ。
凄(すさまじ)き谷川の響に紛れつつ、小歇(をやみ)もせざる雨の音の中に、かの病憊(やみつか)れたるやうの柱時計は、息も絶気(たゆげ)に半夜を告げわたる時、両箇(ふたり)が閨(ねや)の燈(ともし)は乍(たちま)ち明(あきら)かに耀(かがや)けるなり。
彼等は倶(とも)に起出でて火鉢(ひばち)の前に在り。
「膳(ぜん)を持つて来ないか」
「ええ」
女は幺微(かすか)なる声して答へけれど、打萎(うちしを)れて、なかなか立ちも遣(や)らず。
「狭山さん、私(わたし)は何だか貴方(あなた)に言残した事が未(ま)だ有るやうな心持がして……」
「吁(ああ)、もうかう成つちやお互に何も言はないが可(い)い。言へばやつぱり未練が出る」
彼は熟(じ)と内向(うつむ)きて、目を閉ぢたり。
「貴方、その指環を私のと取替事(とりかへつこ)して下さいね」
「さうか」
各(おのおの)その手に在るを抜きて、男は実印用のを女の指に、女はダイアモンド入のを男の指に、さし了(をは)りてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。
颯(さ)と鳴りて雨は一時(ひとしきり)繁(しげ)く灑(そそ)ぎ来(きた)れり。
「ああ、大相降つて来た」
「貴方は不断から雨が所好(すき)だつたから、きつとそれで……暇(いとま)……乞(ごひ)に降つて来たんですよ」
「好い折だ。あの雨を肴(さかな)に……お静、もう覚悟を為ろよ!」
「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」
「酒を持つて来な」
「あい」
お静も今は心を励して、宵の程誂(あつら)へ置きし酒肴(しゆこう)の床間(とこのま)に上げたるを持来(もてき)て、両箇(ふたり)が中に膳を据れば、男は手早く燗(かん)して、その間(ま)に各(おのおの)服を更(あらた)むる忙(せは)しさは、忽(たちま)ち衣(きぬ)の擦(す)り、帯の鳴る音高くさやさやと乱れ合ひて、転(うた)た雨濃(こまやか)なる深夜を驚(おどろ)かせり。
「ええ、もう好(す)かない!」
帯緊(おびし)めながら女はその端(はし)を振りて身悶(みもだえ)せるなり。
「どうしたのだ」
「なあにね、帯がこんなに結(むす)ばつて了つて」
「帯が結ばつた?」
「ああ! あなた釈(と)いて下さい、よう」
「何か吉(い)い事が有るのだ」
「私はもしも遣損(やりそこな)つて、耻(はぢ)でも曝(さら)すやうな事が有つちやと、それが苦労に成つて耐(たま)らなかつたんだから、これでもう可いわ」
「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事は無いとは念ふけれど、運悪く遅れたら、俺(おれ)はきつと後から往くから――どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」
つと俯(ふ)したるお静は、男の膝を咬(か)みて泣きぬ。
「その代り、偶(ひよつ)としてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……魂(たましひ)はおまへの陰身(かげみ)を離れないから、必ず心変(こころがはり)を……す、するなよ、お静」
「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」
「一処に往くとも!」
「一処に! 一処に往きますよ!」
「さあ、それぢやこ、この世の……別に一盃(いつぱい)飲むのだ。もう泣くな、お静」
「泣、泣かない」
「さあ、那裏(あすこ)へ行つて飲まう」
男は先づ起ちて、女の手を把(と)れば、女はその手に縋(すが)りつつ、泣く泣く火鉢の傍(そば)に座を移しても、なほ離難(はなれがた)なに寄添ひゐたり。
「猪口(ちよく)でなしに、その湯呑(ゆのみ)に為やう」
「さう。ぢや半分づつ」
熱燗(あつがん)の酒は烈々(れつれつ)と薫(くん)じて、お静が顫(ふる)ふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれぬ。
女の最も悲かりしは、げにこの刹那(せつな)の思なり。彼は人の為に酒を佐(たすく)るに嫻(なら)ひし手も、などや今宵の恋の命も、儚(はかな)き夢か、うたかたの水盃(みづさかづき)のみづからに、酌取らんとは想の外の外なりしを、唄(うた)にも似たる身の上哉(かな)と、漫(そぞろ)に逼(せま)る胸の内、何に譬(たと)へん方(かた)もあらず。
男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、少時(しばし)手にせるままに眺(なが)めゐれば、よし今は憂くも苦くも、久(ひさし)く住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、僅(わづか)に一盃(いつぱい)の酒に対するも、又哀別離苦(あいべつりく)の感無き能はざるなり。
念(おも)へ、彼等の逢初(あひそ)めし夕(ゆふべ)、互に意(こころ)有りて銜(ふく)みしもこの酒ならずや。更に両個(ふたり)の影に伴ひて、人の情(なさけ)の必ず濃(こまやか)なれば、必ず芳(かうばし)かりしもこの酒ならずや。その恋中の楽(たのしみ)を添へて、三歳(みとせ)の憂(うさ)を霽(はら)せしもこの酒ならずや。彼はその酒を取りて、吉(よ)き事積りし後の凶の凶なる今夜の末期(まつご)に酬(むく)ゆるの、可哀(あはれ)に余り、可悲(かなし)きに過(すぐ)るを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は点々(ほろほろ)と散りて零(こぼ)れぬ。
「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」
「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者風情(ふぜい)で死んで了ふのが……悔(くやし)い、私は!」
聞くも苦しと、男は一息に湯呑の半(なかば)を呷(あふ)りて、
「さあ、お静」
女は何気無く受けながら、思へば、別の盃(さかづき)かと、手に取るからに胸潰(むねつぶ)れて、
「狭山さん、私は今更お礼を言ふと云ふのも、異な者だけれど、貴方は長い月日の間、私のやうなこんな不束者(ふつつかもの)の我儘者(わがままもの)を、能くも愛相(あいそ)を尽かさずに、深切に、世話をして下すつた。
私は今まで口には出さなかつたけれど、心の内ぢや、狭山さん、嬉いなんぞと謂ふのは通り越して、実に難有(ありがた)いと思つてゐました。その御礼を為たいにも、知つてゐる通の阿母(おつか)さんが在るばかりに唯さう思ふばかりで、どうと云ふ事も出来ず、本当(ほんと)に可恥(はづかし)いほど行届かないだらけで、これぢや余(あんま)り済まないから、一日も早く所帯でも持つやうに成つて、さうしたら一度にこの恩返しを為ませうと、私は、そればかりを楽(たのしみ)に、出来ない辛抱も為てゐたんだけれど、もう、今と成つちや何もかも水(み)……水(み)……水(みづ)の……泡。
つい心易立(こころやすだて)から、浸々(しみじみ)お礼も言はずにゐたけれど、狭山さん、私の心は、さうだつたの。もうこれぎりで、貴方も……私も……土に成つて了へば、又とお目には掛れ、ないんだから、せめては、今改めて、狭山さん、私はお礼を申します」
男は身をも搾(しぼ)らるるばかりに怺(こら)へかねたる涙を出(いだ)せり。
「もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな! 冥路(よみぢ)の障(さはり)だ。両箇(ふたり)が一処に死なれりや、それで不足は無いとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜んで死なうよ」
「私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝つて私は飲みます」
涙諸共(もろとも)飲干して、
「あなた、一つお酌して下さいな」
注(つ)げば又呷(あふ)りて、その余せるを男に差せば、受けて納めて、手を把(と)りて、顔見合せて、抱緊(だきし)めて、惜めばいよいよ尽せぬ名残(なごり)を、いかにせばやと思惑(おもひまど)へる互の心は、唯それなりに息も絶えよと祈る可かめり。
男は抱(いだ)ける女の耳のあたかも唇(くちびる)に触るる時、現(うつつ)ともなく声誘はれて、
「お静、覚悟は可いか」
「可いわ、狭山さん」
「可けりや……」
「不如(いつそ)もう早く」
狭山は直(ぢき)に枕の下なる袱紗包(ふくさづつみ)の紙入(かみいれ)を取上げて、内より出(いだ)せる一包(いつぽう)の粉剤こそ、正(まさ)に両個(ふたり)が絶命の刃(やいば)に易(か)ふる者なりけれ。
女は二つの茶碗(ちやわん)を置並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封を披(ひら)きて、男の手よりその内に頒(わか)たれぬ。
「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」
「ああ可うござんす」
雨はこの時漸く霽(は)れて、軒の玉水絶々(たえだえ)に、怪禽(かいきん)鳴過(なきすぐ)る者両三声(さんせい)にして、跡松風の音颯々(さつさつ)たり。
狭山はやがて銚子(ちようし)を取りて、一箇(ひとつ)の茶碗に酒を澆(そそ)げば、お静は目を閉ぢ、合掌して、聞えぬほどの忍音(しのびね)に、
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」
代りて酌する彼の想は、吾手(わがて)男の胸元(むなもと)に刺違(さしちが)ふる鋩(きつさき)を押当つるにも似たる苦しさに、自(おのづ)から洩出(もれい)づる声も打震ひて、
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、南無(なむ)……阿弥陀(あみだ)……南無阿弥(なむあみ)……陀(だ)……仏(ぶつ)、南無(なむ)……」
と両個(ふたり)は心も消入らんとする時、俄(にはか)に屋鳴(やなり)震動(しんどう)して、百雷一処に堕(お)ちたる響に、男は顛(たふ)れ、女は叫びて、前後不覚の夢か現(うつつ)の人影は、乍(たちま)ち顕(あらは)れて燈火(ともしび)の前に在り。
「貴方(あなた)方は、怪からん事を! 可けませんぞ」
男は漸く我に復(かへ)りて、惧(お)ぢ愕(おどろ)ける目をみひらき、
「ああ! 貴方(あなた)は」
「お見覚(みおぼえ)ありませう、あれに居る泊客(とまりきやく)です。無断にお座敷へ入つて参りまして、甚(はなは)だ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか」
悄然(しようぜん)として面(おもて)を挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は両個(ふたり)の姿をみまはしつつ、彼の答を待てり。
「勿論(もちろん)これには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入(こみい)つたお話は承(うけたま)はらんでも宜(よろし)い、但何故(ただなにゆゑ)に貴下方は活(い)きてをられんですか、それだけお聞せ下さい」
「…………」
「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」
男は甚(はなは)だ微(かすか)に頷(うなづ)きつ。
「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、何故(なにゆゑ)に添れんのです」
彼は又黙せり。
「その次第を伺つて、私(わたくし)の力で及ぶ事でありましたら、随分御相談合手(あひて)にも成らうかと、実は考へるので。然し、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成程活きてをられんのは御尤(ごもつとも)だ、他人の私(わたし)でさへ外に道は無い、と考へられるやうなそれが事情でありましたら、私は決してお止(とど)め申さん。ここに居て、立派に死なれるのを拝見もすれば、介錯(かいしやく)もして上げます。
私(わたくし)もこの間に入つた以上は、空(むなし)く手を退(ひ)く訳には行かんのです。貴下方を拯(すく)ふ事が出来るか、出来んか、那一箇(どつちか)です。幸(さいはひ)に拯(すく)ふ事が出来たら、私は命の親。又出来なかつたら、貴下方はこの世に亡(な)い人。この世に亡い人なら、如何(いか)なる秘密をここで打明けたところが、一向差支無(さしつかへな)からうと私は思ふ。若(も)し命の親とすればです、猶更(なおさら)その者に裹(つつ)み隠す事は無いぢやありませんか。私は何も洒落(しやれ)に貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、顕然(ちやん)と聴くだけの覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」 
第五章
貫一は気を厳粛(おごそか)にして逼(せま)れるなり。さては男も是非無げに声出(いだ)すべき力も有らぬ口を開きて、
「はい御深切に……難有(ありがた)う存じます……」
「さあ、お話し下さい」
「はい」
「今更お裹(つつ)みなさる必要は無からう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町(こうじまち)の者で、間(はざま)貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々(よくよく)これは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為(ふため)に成るやうには取計ひません。私も出来る事なら、人間両個(ふたり)の命を拯(すく)ふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄に為て見たい。私はこれ程までに申すのです」
「はい、段々御深切に、難有う存じます」
「それぢや、お話し下さるか」
「はい、お聴に入れますで御座います」
「それは忝(かたじけ)ない」
彼は始めて心安う座を取れば、恐る惶(おそ)る狭山は先(ま)づその姿を偸見(ぬすみみ)て、
「何からお話し申して宜(よろし)いやら……」
「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰(おつしや)る――! 何為(なぜ)添れんのですか」
「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分遣(つか)ひ込みましたので御座います」
「はあ、御主人持(もち)ですか」
「さやうで御座います。私は南伝馬町(みなみてんまちよう)の幸菱(こうびし)と申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔(さやまもとすけ)と申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋(かしわや)の愛子と申しまする」
名宣(なの)られし女は、消えも遣(や)らでゐたりし人陰の闇(くら)きより僅(わづか)に躙(にじ)り出でて、面伏(おもぶせ)にも貫一が前に会釈しつ。
「はあ、成程」
「然るところ、昨今これに身請(みうけ)の客が附きまして」
「ああ、身請の? 成程」
「否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその引負(ひきおひ)の為に、主人から告訴致されまして、活(い)きてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何(いか)にとも致方(いたしかた)が御座いませんゆゑ、無分別(むふんべつ)とは知りつつも、つい突迫(つきつ)めまして、面目次第も御座いません」
彼等はその無分別を慙(は)ぢたりとよりは、この死失(しにぞこな)ひし見苦しさを、天にも地にも曝(さら)しかねて、俯(ふ)しも仰ぎも得ざる項(うなじ)を竦(すく)め、尚(なほ)も為ん方無さの目を閉ぢたり。
「ははあ。さうするとここに金さへ有れば、どうにか成るのでせう! 貴方の費消(つかひこみ)だつて、その金額を弁償して、宜(よろし)く御主人に詑(わ)びたら、無論内済に成る事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、此方(こつち)でも請出すまでの事。さうして、貴方の引負(ひきおひ)は若干(いくら)ばかりの額(たか)に成るのですか」
「三千円ほど」
「三千円。それから身請の金は?」
狭山は女を顧みて、二言三言(ふたことみこと)小声に語合(かたら)ひたりしが、
「何やかやで八百円ぐらゐは要(い)りますので」
「三千八百円、それだけ有つたら、貴下方は死なずに済むのですな」
打算し来(きた)れば、真に彼等の命こそ、一人前一千九百円に過ぎざるなれ。
「それぢや死ぬのはつまらんですよ! 三千や四千の金なら、随分そこらに滾(ころが)つてゐやうと私は思ふ。就いては何とか御心配して上げたいと考へるのですが、先づとにかく貴下方の身の上を一番(ひとつ)悉(くはし)くお話し下さらんか」
かかる際(きは)には如何ばかり嬉き人の言(ことば)ならんよ。彼はその偽(いつはり)と真(まこと)とを思ふに遑(いとま)あらずして、遣る方も無き憂身(うきみ)の憂きを、冀(こひねがは)くば跡も留めず語りて竭(つく)さんと、弱りし心は雨の柳の、漸く風に揺れたる勇(いさみ)を作(な)して、
「はい、ついに一面識も御座いません私共、殊(こと)に痴情の果に箇様(かよう)な不始末(ぶしまつ)を為出(しだ)しました、何(なに)ともはや申しやうも無い爛死蛇(やくざもの)に、段々と御深切のお心遣(こころづかひ)、却つて恥入りまして、実に面目次第も御座いません。
折角の御言(おことば)で御座いますから、思召(おぼしめし)に甘えまして、一通りお話致しますで御座いますが、何から何まで皆恥で、人様の前ではほとほと申上げ兼ねますので御座います。
実は、只今申上げました三千円の費消(つかひこみ)と申しますのは、究竟(つまり)遊蕩(あそび)を致しました為に、店の金に手を着けましたところ、始の内はどうなり融通も利(き)きましたので、それが病付(やみつき)に成つて、段々と無理を致しまして、長い間にうかうか穴を開けましたのが、積り積つて大分(だいぶん)に成りましたので御座います。
然(しか)るところ、もう八方塞(ふさが)つて遣繰(やりくり)は付きませず、いよいよ主人には知れますので、苦紛(くるしまぎ)れに相場に手を出したのが怪我(けが)の元で、ちよろりと取られますと、さあそれだけ穴が大きく成りましたものですから、愈(いよい)よ為方御座いません、今度はどうか、今度はどうかで、もうさう成つては私も死物狂(しにものぐるひ)で、無理の中から無理を致して、続くだけ遣りましたところが、到頭逐倒(おひたふ)されて了ひまして、三千円と申上げました費消(つかひこみ)も、半分以上はそれに注込みましたので御座います。
然し、これだけの事で御座いますれば、主人も従来(これまで)の勤労(つとめ)に免じて、又どうにも勘弁は致してくれましたので御座います。現にこの一条が発覚致しまして、主人の前に呼付けられました節も、この度(たび)の事は格別を以つて赦(ゆる)し難いところも赦して遣ると、箇様に申してはくれましたので」
「成程?!」
「と申すのには、少し又仔細(しさい)が御座いますので。それは、主人の家内の姪(めひ)に当ります者が、内に引取つて御座いまして、これを私に妻(めあは)せやうと云ふ意衷(つもり)で、前々(ぜんぜん)からその話は有りましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、何と就かずに段々言延(いひのば)して御座いましたのを、決然(いよいよ)どうかと云ふ手詰(てづめ)の談(はなし)に相成(あひな)りましたので。究竟(つまり)、費消(つかひこみ)は赦して遣るから、その者を家内に持て、と箇様に主人は申すので御座います」
「大きに」
「其処(そこ)には又千百(いろいろ)事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実に辞(ことわ)るにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと吾儘(わがまま)を申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います」
「ああ、さうなのですか」
「そこへ持つて参つて、此度(こんど)の不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと云ふので御座いますから、全(まる)で仇(かたき)をば恩で返してくれますやうな、申分(まをしぶん)の無い主人の所計(はからひ)。それを乖(もど)きましては、私は罰(ばち)が中(あた)りますので御座います。さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何(いか)にともその気に成れませんので、已(や)むを得ず縁談の事は拒絶(ことわり)を申しましたので御座います」
「うむ、成程」
「それが為に主人は非常な立腹で、さう吾儘(わがまま)を言ふのなら、費消(つかひこみ)を償(まと)へ、それが出来ずば告訴する。さうしては貴様の体に一生の疵(きず)が附く事だから、思反(おもひかへ)して主人の指図(さしず)に従へと、中に人まで入れて、未(ま)だ未だ申してくれましたのを、何処(どこ)までも私は剛情を張通して了つたので御座います」
「吁(ああ)! それは貴方が悪いな」
「はい、もう私の善いところは一つでも有るのぢや御座いません。その事に就きまして、主人に書置(かきおき)も致しましたやうな次第で、既に覚悟を極(きは)めました際(きは)まで、心懸(こころがかり)と申すのは、唯そればかりなので御座いました。
で又その最中にこれの方の身請騒(みうけさわぎ)が起りましたので」
「成程!」
「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分それは非道な強慾な者で御座います。まあ悉(くはし)く申上げれば、長いお話も御座いますが、これも娘と申すのは名のみで、年季で置いた抱(かかへ)も同様の取扱(とりあつかひ)を致して、為て遣る事は為ないのが徳、稼(かせ)げるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな了簡(りようけん)で、長い間無理な勤を為(さ)せまして、散々に搾(しぼ)り取つたので御座います。
で、私の有る事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところから、さあ聒(やかまし)く言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、下谷(したや)に富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」
「え!? 何……何……何ですか!」
「御承知で御座いますか、あの富山唯継(ただつぐ)と云ふ……」
「富山? 唯継!」
その面色、その声音(こわね)! 彼は言下(ごんか)に皷怒(こど)して、その名に躍(をど)り被(かか)らんとする勢(いきほひ)を示せば、愛子は駭(おどろ)き、狭山は懼(おそ)れて、何事とも知らず狼狽(うろた)へたり。貫一は轟く胸を推鎮(おししづ)めても、なほ眼色(まなざし)の燃ゆるが如きを、両個(ふたり)が顔に忙(せはし)く注ぎて、
「その富山唯継が身請の客ですか」
「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」
「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」
狭山の打惑(うちまど)ふ傍(そば)に、女は密(ひそか)に驚く声を放てり。
「那奴(あいつ)が身請の?」
問はるる愛子は、会釈して、
「はい、さやうなんで御座います」
「で、貴方は彼に退(ひ)かされるのを嫌(きら)つたのですな」
「はい」
「さうすると、去年の始から貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」
「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」
「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」
「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」
「ああ、さうですか! それぢや旦那(だんな)に取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」
女は聞くも穢(けがらは)しと、さすが謂ふには謂れぬ尻目遣(しりめづかひ)して、
「私には、さう云ふ事が出来ませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然(まるつきり)無いんで御座います」
「ああ、さうですか! うむ、成程……成程な……解りました、好く解りました」
狭山は俯(うつむ)きゐたり。
「それではかう云ふのですな、貴方は勤(つとめ)を為てをつても、外の客には出ずに、この人一個(ひとり)を守つて――さうですね」
「さやうです」
「さうして、余所(よそ)の身請を辞(ことわ)つて――富山唯継を振つたのだ! さうですな」
「はい」
たちまちに瞳(ひとみ)を凝(こら)せる貫一は、愛子の面(おもて)を熟視して止(や)まざりしが、やがてその眼(まなこ)の中に浮びて、輝くと見れば霑(うるほ)ひて出づるものあり。
「嗚呼(ああ)……感心しました! 実に立派な者です! 貴方は命を捨てても……この人と……添ひたいのですか!」
何の故(ゆゑ)とも分かず彼の男泣に泣くを見て、両個(ふたり)は空(むなし)く呆(あき)るるのみ。
貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの一匹婦(いつひつぷ)も、知らず誰(たれ)か爾(なんぢ)に教へて、死に抵(いた)るまで尚(なほ)この頼(よ)り難(がた)き義に頼(よ)り、守り難(かた)き節を守りて、終(つひ)に奪はれざる者あるに泣けるなり。
其の泣く所以(ゆゑん)なるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、崇(たふと)く優くも、高く麗(うるはし)くも、又は、完(まつた)くも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、一度(ひとたび)は目前(まのあたり)睹(み)るを得て、その倒懸の苦を寛(ゆる)うせん、と心やくが如く望みたりしを、今却りて浮萍(うきくさ)の底に沈める泥中の光に値(あ)へる卒爾(そつじ)の歓極(よろこびきは)まれればなり。
「勿論さう無けりや成らん事! それが女の道と謂ふもので、さう有るべきです、さう有るべき事です。今日(こんにち)のこの軽薄極(きはま)つた世の中に、とてもそんな心掛のある人間は、私は決して在るものではないと念つてをつた。で、もし在つたらば、どのくらゐ嬉からうと、さう念つてをつたのです。私は実に嬉い! 今夜のやうに感じた事は有りません。私はこの通泣いてゐる――涙が出るほど嬉いのです。私は人事(ひとごと)とは思はん、人事とは思はん訳が有るので、別して深く感じたのです」
かく言ひて、貫一は忙々(いそがはし)く鼻洟(はな)打かみつ。
「ふむ、それで富山はどうしました」
「来る度(たび)に何のかのと申しますのを、体好(ていよ)く辞(ことわ)るんで御座いますけれど、もううるさく来ちや、一頻(ひとつきり)なんぞは毎日揚詰(あげづめ)に為れるんで、私はふつふつ不好(いや)なんで御座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうして独(ひとり)で利巧ぶつて、可恐(おつそろし)い意気がりで、二言目(ふたことめ)には金々と、金の事さへ言へば人は難有(ありがた)がるものかと思つて、俺がかうと思(おも)や千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、始終そんな有余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、衆(みんな)が『御威光』と云ふ仇名(あだな)を附けて了つて、何処へ行つたつて気障(きざ)がられてゐる事は、そりや太甚(ひど)いんで御座います」
「ああ、さうですか」
「そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、可(い)けもしない事を不相変(あひかはらず)執煩(しつくど)く、何だかだ言つてをりましたけれど、這箇(こつち)も剛情で思ふやうに行かないもんですから、了局(しまひ)には手を易(か)へて、内のお袋へ親談(ぢかだん)をして、内々話は出来たんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全で気違のやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もう箸(はし)の上下(あげおろし)には言れますし、狭山と切れろ切れろの聒(やかまし)く成りましたのも、それからなので、私は辛(つら)さは辛し、熟(つくづ)くこんな家業は為る者ぢやないと、何(なんに)も解らずに面白可笑(おもしろをかし)く暮してゐた夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身が余(あんま)りつまらなくて、もうどうしたら可いんだらう、と鬱(ふさ)ぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います」
「うむ、身請――けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事も無くて、直(すぐ)に身請と云ふのですか」
「さうなので」
「変な奴な! さう云ふ身請の為方(しかた)が、然し、有りますか」
「まあ御座いませんです」
「さうでせう。それで、身請をして他(ほか)へ囲(かこ)つて置かうとでも云ふのですか」
「はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるやうにして遣つたら、言分は無からうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうな嬉(うれし)がらせを言つちやをりましたけれど」
眉(まゆ)を昂(あ)げたる貫一、なぞ彼の心の裏(うち)に震ふものあらざらんや。
「妻君に就いてどう云ふ話が有るのですか」
「何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の病人で、小供は無し、用には立たず、有つても無いも同然だから、その内に隠居でもさせて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな口気(くちぶり)なんで御座います」
「さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは」
「随分ちやらつぽこを言ふ人なんですから、なかなか信(あて)にはなりは致しませんが、妻君の病身の事や、そんなこんなで余(あんま)り内の面白くないのは、どうも全くさうらしいんで御座んす」
「ははあ」
彼は遽(にはか)に何をや打案ずらん、夢むる如き目を放ちて、
「折合が悪いですか!……病身ですか!……隠居をさせるのですか!……ああ……さうですか!」
宮の悔、宮の恨、宮の歎(なげき)、宮の悲(かなしみ)、宮の苦(くるしみ)、宮の愁(うれひ)、宮が心の疾(やまひ)、宮が身の不幸、噫(ああ)、竟(つひ)にこれ宮が一生の惨禍! 彼の思は今将(は)たこの憐(あはれ)むに堪へたる宮が薄命の影を追ひて移るなりき。
貫一はかの生ける宮よりも、この死なんと為る女の幾許(いかばかり)幸(さいはひ)にかつ愚ならざるかを思ひて、又躬(みづから)の、先には己(おのれ)の愛する者を拯(すく)ふ能はずして、今却(かへ)りて得知らぬ他人に恵みて余有る身の、幾許(いかばかり)幸(さち)無くも又愚なるかを思ひて、謂ふばかり無く悲めるなり。
時に愛子は話を継ぎぬ。貫一は再び耳を傾けつ。
「そんな捫懌(もんちやく)最中に、狭山さんの方が騒擾(さわぎ)に成りましたんで、私の事はまあどうでも、ここに三千円と云ふお金が無い日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんですから、私は吃驚(びつくら)して了つて、唯もう途方に昧(く)れて、これは一処に死ぬより外は無いと、その時直(すぐ)にさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へられないから、これは不如(いつそ)富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやうに為やうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お前の了簡ぢや、富山の処へ行くのが可いか、死ぬのが可いか、とかう申すので御座いませう」
「うむ、大きに」
「私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ方が愈(まし)だと、初中終(しよつちゆう)言つてをりますんですから、あんな奴に身を委(まか)せるの、不好(いや)は知れてゐます」
「うむ、さうとも」
「さうなんですけれど金ゆゑで両個(ふたり)が今死ぬのも余(あんま)り悔いから、三千円きつと出すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は那裏(あつち)へ行つたつて、直(ぢき)に迯(に)げて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、少(すこし)の間(ま)不好(いや)な夢を見たと思へば、それでも死ぬよりは愈(まし)だらう、と私はさう申しますと、狭山さんは、それは詐取(かたり)だ……」
「それは詐取(かたり)だ! さうとも」
あだかも我名の出でしままに、男はこれより替りて陳(の)べぬ。
「詐取(かたり)で御座いますとも! 情婦(をんな)を種に詐取を致すよりは、費消(つかひこみ)の方が罪は夐(はるか)に軽う御座います。そんな悪事を働いてまでも活きてゐやうとは、私(わたくし)は決して思ひは致しません。又これに致しましても、あれまで振り通した客に、今と成つて金ゆゑ体を委(まか)せるとは、如何(いか)なる事にも、余(あんま)り意気地が無さ過ぎて、それぢや人間の皮を被(かぶ)つてゐる効(かひ)が御座りませんです。私は金に窮(つま)つて心中なんぞを為た、と人に嗤(わらわ)れましても、情婦(をんな)の体を売つたお陰で、やうやう那奴(あいつ)等は助つてゐるのだ、と一生涯言れますのは不好(いや)で御座います。そんな了簡が出ます程なら、両個(ふたり)の命ぐらゐ助ける方は外に幾多(いくら)も御座いますので。
ここに活きてゐやうと云ふには、どうでもこの上の悪事を為んければ成りませんので、とても死ぬより外は無い! 私は死ぬと覚悟を為たが、お前の了簡はどうか、と実は私が申しましたので」
「成程。そこで貴方が?」
「私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、究竟(つまり)私ゆゑにそんな訳に成つた狭山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、私一箇(ひとり)残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ――それぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います」
「いや、善く解りました!」
貫一は宛然(さながら)我が宮の情急(じようきゆう)に、誠壮(まことさかん)に、凛(りん)たるその一念の言(ことば)を、かの当時に聴くらん想して、独(ひと)り自ら胸中の躍々として痛快に堪(た)へざる者あるなり。
正にこれ、垠(はてし)も知らぬ失恋の沙漠(さばく)は、濛々(もうもう)たる眼前に、麗(うるはし)き一望のミレエジは清絶の光を放ちて、甚(はなは)だ饒(ゆたか)に、甚だ明(あきら)かに浮びたりと謂はざらん哉(や)。
彼は幾(ほとん)どこの女の宮ならざるをも忘れて、その七年の憂憤を、今夜の今にして始て少頃(しばらく)も破除(はじよ)するの間(いとま)を得つ。信(まこと)に得難かりしこの間(いとま)こそ、彼が宮を失ひし以来、唯(ただ)これに易(か)へて望みに望みたりし者ならずと為(せ)んや。
嗚呼(ああ)麗(うるはし)きミレエジ!
貫一が久渇(きゆうかつ)の心は激く動(うごか)されぬ。彼は声さへやや震ひて、
「さう申しては失礼か知らんが、貴方の商売柄で、一箇(ひとり)の男を熟(じつ)と守つて、さうしてその人の落目に成つたのも見棄てず、一方には、身請の客を振つてからに、後来(これから)花の咲かうといふ体を、男の為には少しも惜まずに死なうとは、実に天晴(あつぱれ)なもの! 余り見事な貴方のその心掛に感じ入つて、私は……涙が……出ました。
貴方は、どうか生涯その心掛を忘れずにゐて下さい! その心掛は、貴方の宝ですよ。又狭山さんの宝、則(すなは)ち貴下方夫婦の宝なのです!
今後とも、貴方は狭山さんの為には何日(いつ)でも死んで下さい。何日でも死ぬと云ふ覚悟は、始終きつと持つてゐて下さい。可う御座いますか。
千万人の中から唯一人見立てて、この人はと念(おも)つた以上は、勿論(もちろん)その人の為には命を捨てるくらゐの了簡が無けりや成らんのです。その覚悟が無いくらゐなら、始から念はん方が可いので、一旦念つたら骨が舎利(しやり)に成らうとも、決して志を変へんと云ふのでなければ、色でも、恋でも、何でもないです! で、若(も)し好いた、惚(ほ)れたと云ふのは上辺(うはべ)ばかりで、その実は移気な、水臭い者とも知らず、這箇(こつち)は一心に成つて思窮(おもひつ)めてゐる者を、いつか寝返(ねがへり)を打れて、突放されるやうな目に遭(あ)つたと為たら、その棄てられた者の心の中は、どんなだと思ひますか」
彼の声音(こわね)は益す震へり。
「さう云ふのが有ります! 私は世間にはさう云ふのの方が多いと考へる。そんな徒爾(いたづら)な色恋は、為た者の不仕合(ふしあはせ)、棄てた者も、棄てられた者も、互に好(い)い事は無いのです。私は現にさう云ふのを睹(み)てゐる! 睹てゐるから今貴下方がかうして一処に死ぬまでも離れまいと云ふまでに思合つた、その満足はどれ程で、又そのお互の仕合は、実に謂ふに謂はれん程の者であらう、と私は思ふ。
それに就けても、貴方のその美い心掛、立派な心掛、どうかその宝は一生肌身(はだみ)に附けて、どんな事が有らうとも、決して失はんやうに為て下さい!――可う御座いますか。さうして、貴下方はお二人とも末長く、です、毎(いつ)も今夜のやうなこの心を持つて、睦(むつまじ)く暮して下さい、私はそれが見たいのです!
今は死ぬところでない、死ぬには及びません、三千円や四千円の事なら、私がどうでも為て上げます」
聞訖(ききをは)りし両個(ふたり)が胸の中は、諸共(もろとも)に潮(うしほ)の如きものに襲はれぬ。
未(ま)だ服さざりし毒の俄(にはか)に変じて、この薬と成れる不思議は、喜ぶとよりは愕(おどろ)かれ、愕くとよりは打惑(うちまど)はれ、惑ふとよりは怪(あやし)まれて、鬼か、神か、人ならば、如何(いか)なる人かと、彼等は覚えず貫一の面(おもて)を見据ゑて、更にその目を窃(ひそか)に合せつ。
四辺(あたり)も震ふばかりに八声(やこゑ)の鶏(とり)は高く唱(うた)へり。
夜すがら両個(ふたり)の運星蔽(おほ)ひし常闇(とこやみ)の雲も晴れんとすらん、隠約(ほのぼの)と隙洩(すきも)る曙(あけぼの)の影は、玉の緒(を)長く座に入りて、光薄るる燈火(ともしび)の下(もと)に並べるままの茶碗の一箇(ひとつ)に、小(ちひさ)き蛾(が)有りて、落ちて浮べり。 
 
新続金色夜叉

 

第一章
生れてより神仏(かみほとけ)を頼み候事(さふらふこと)とては一度も無御座候(ござなくさふら)へども、此度(このたび)ばかりはつくづく一心に祈念致し、吾命(わがいのち)を縮め候代(さふらふかはり)に、必ず此文は御目(おんめ)に触れ候やうにと、それをば力に病中ながら筆取りまゐらせ候。幸(さいはひ)に此の一念通じ候て、ともかくも御披(おんひらか)せ被下候(くだされさふら)はば、此身は直ぐ相果(あひは)て候とも、つゆ憾(うらみ)には不存申候(ぞんじまをさずさふらふ)。元より御憎悪強(おんにくしみつよ)き私(わたくし)には候(さふら)へども、何卒(なにとぞ)是(これ)は前非を悔いて自害いたし候一箇(ひとり)の愍(あはれ)なる女の、御前様(おんまへさま)を見懸(みか)けての遺言(ゆいごん)とも思召(おぼしめ)し、せめて一通(ひととほ)り御判読(ごはんどく)被下候(くだされさふら)はば、未来までの御情(おんなさけ)と、何より嬉(うれし)う嬉う存上(ぞんじあ)げまゐらせ候。
扨(さて)とや、先頃に久々とも何とも、御生別(おんいきわかれ)とのみ朝夕(あさゆふ)に諦(あきら)め居(を)り候御顔(おんかほ)を拝し、飛立つばかりの御懐(おんなつか)しさやら、言ふに謂れぬ悲しさやらに、先立つものは涙にて、十年越し思ひに思ひまゐらせ候事何一つも口には出ず、あれまでには様々の覚悟も致し、また心苦(こころぐるし)き御目(おんめ)もじの恥をも忍び、女の身にてはやうやうの思にて参じ候効(さふらふかひ)も無く、誠に一生の無念に存じまゐらせ候。唯其折(ただそのをり)の形見には、涙の隙(ひま)に拝しまゐらせ候御姿(おんすがた)のみ、今に目に附き候て旦暮(あけくれ)忘(わす)れやらず、あらぬ人の顔までも御前様(おんまへさま)のやうに見え候て、此頃は心も空に泣暮し居りまゐらせ候。
久(ひさし)う御目(おんめ)もじ致さず候中(さふらふうち)に、別の人のやうに総(すべ)て御変(おんかは)り被成(なされ)候も、私(わたくし)には何(なに)とやら悲く、又殊(こと)に御顔の羸(やつれ)、御血色の悪さも一方(ひとかた)ならず被為居候(ゐらせられさふらふ)は、如何(いか)なる御疾(おんわづらひ)に候や、御見上(おんみあ)げ申すも心細く存ぜられ候へば、折角御養生被遊(あそばされ)、何は措(お)きても御身は大切に御厭(おんいと)ひ被成候(なされさふらふ)やう、くれぐれも念じ上(あげ)候。それのみ心に懸り候余(さふらふあまり)、悲き夢などをも見続け候へば、一入(ひとしほ)御案(おんあん)じ申上まゐらせ候。
私事恥を恥とも思はぬ者との御さげすみを顧(かへりみ)ず、先頃推(お)して御許(おんもと)まで参(さん)し候胸の内は、なかなか御目もじの上の辞(ことば)にも尽し難(がた)くと存候(ぞんじさふら)へば、まして廻らぬ筆には故(わざ)と何も記(しる)し申さず候まま、何卒(なにとぞ)々々宜(よろし)く御汲分(おんくみわけ)被下度候(くだされたくさふらふ)。さやうに候へば、其節(そのせつ)の御腹立(おんはらだち)も、罪ある身には元より覚悟の前とは申しながら、余(あまり)とや本意無(ほいな)き御別(おんわかれ)に、いとど思は愈(まさ)り候(さふらふ)て、帰りて後は頭痛(つむりいた)み、胸裂(むねさく)るやうにて、夜の目も合はず、明る日よりは一層心地悪(あし)く相成(あひなり)、物を見れば唯涙(ただなみだ)こぼれ、何事とも無きに胸塞(むねふさが)り、ふとすれば思迫(おもひつ)めたる気に相成候て、夜昼と無く劇(はげし)く悩み候ほどに、四日目には最早起き居り候事も大儀に相成、午過(ひるすぎ)より蓐(とこ)に就き候まま、今日までぶらぶら致候(いたしさふらふ)て、唯々懐(なつかし)き御方(おんかた)の事のみ思続(おもひつづ)け候(さふらふ)ては、みづからの儚(はかな)き儚き身の上を慨(なげ)き、胸は愈(いよい)よ痛み、目は見苦(みぐるし)く腫起(はれあが)り候て、今日は昨日(きのふ)より痩衰(やせおとろ)へ申候(まをしさふらふ)。
かやうに思迫(おもひつ)め候気(さふらふき)にも相成候上(あひなりさふらふうへ)に、日毎に闇(やみ)の奥に引入れられ候やうに段々心弱り候へば、疑(うたがひ)も無く信心の誠顕(まことあらは)れ候て、此の蓐(とこ)に就(つ)き候が元にて、はや永からぬ吾身とも存候(ぞんじさふらふ)まま、何卒(なにとぞ)これまでの思出には、たとひ命ある内こそ如何(いか)やうの御恨(おんうらみ)は受け候とも、今はの際(きは)には御前様(おんまへさま)の御膝(おんひざ)の上にて心安く息引取(いきひきと)り度(た)くと存候へども、それはかなはぬ罪深き身に候上は、もはや再び懐(なつかし)き懐き御顔も拝し難く、猶又前非の御ゆるしも無くて、此儘(このまま)相果て候事かと、諦(あきら)め候より外無く存じながら、とてもとても諦めかね候苦しさの程は、此心(このこころ)の外に知るものも、喩(たと)ふるものも無御座候(ござなくさふらふ)。是(これ)のみは御憎悪(おんにくしみ)の中にも少(すこし)は不愍(ふびん)と思召(おぼしめし)被下度(くだされたく)、かやうに認(したた)め居(を)り候内(さふらふうち)にも、涙こぼれ候て致方無(いたしかたな)く、覚えず麁相(そそう)いたし候て、かやうに紙を汚(よご)し申候。御容(おんゆる)し被下度候(くだされたくさふらふ)。
さ候へば私事(わたくしこと)如何(いか)に自ら作りし罪の報(むくい)とは申ながら、かくまで散々の責苦(せめく)を受け、かくまで十分に懺悔致(ざんげいた)し、此上は唯死ぬるばかりの身の可哀(あはれ)を、つゆほども御前様には通じ候はで、これぎり空(むなし)く相成候が、余(あまり)に口惜(くちをし)く存候故(ぞんじさふらふゆゑ)、一生に一度の神仏(かみほとけ)にも縋(すが)り候て、此文には私一念を巻込め、御許(おんもと)に差出(さしいだ)しまゐらせ候。
返す返すも悔(くやし)き熱海の御別(おんわかれ)の後の思、又いつぞや田鶴見(たずみ)子爵の邸内にて図らぬ御見致候(ごけんいたしさふらふ)而来(このかた)の胸の内、其後(そののち)途中(とちゆう)にて御変(おんかは)り被成候(なされさふらふ)荒尾様(あらをさま)に御目(おんめ)に懸り、しみじみ御物語(おんものがたり)致候事(いたしさふらふこと)など、先達而中(せんだつてじゆう)冗(くど)うも冗うも差上申候(さしあげまをしさふらふ)。毎度の文にて細(こまか)に申上候へども、一通の御披(おんひらか)せも無之(これなき)やうに仰せられ候へば、何事も御存無(ごぞんじな)きかと、誠に御恨(おんうらめし)う存上候(ぞんじあげさふらふ)。百度千度(ももたびちたび)繰返(くりかへ)し候ても、是非に御耳に入れまゐらせ度存候(たくぞんじさふら)へども、今此の切なく思乱れ居(をり)候折(さふらふをり)から、又仮初(かりそめ)にも此上に味気無(あぢきな)き昔を偲び候事は堪難(たへがた)く候故、ここには今の今心に浮び候ままを書続けまゐらせ候。
何卒(なにとぞ)余所(よそ)ながらも承(うけたま)はり度(たく)存上候(ぞんじあげさふらふ)は、長々御信(おんたより)も無く居らせられ候御前様(おんまへさま)の是迄(これまで)如何(いか)に御過(おんすご)し被遊候(あそばされさふらふ)や、さぞかし暴(あら)き憂世(うきよ)の波に一方(ひとかた)ならぬ御艱難(ごかんなん)を遊(あそば)し候事と、思ふも可恐(おそろし)きやうに存上候(ぞんじあげさふらふ)を、ようもようも御(おん)めでたう御障無(おんさはりな)う居らせられ、悲き中にも私の喜(よろこび)は是一つに御座候。
御前様(おんまへさま)の数々御苦労被遊候間(あそばされさふらふあひだ)に、私とても始終人知らぬ憂思(うきおもひ)を重ね候て、此世には苦みに生れ参り候やうに、唯儚(ただはかな)き儚き月日を送りまゐらせ候。吾身(わがみ)ならぬ者は、如何(いか)なる人も皆(みな)可羨(うらやまし)く、朝夕の雀鴉(すずめからす)、庭の木草に至る迄(まで)、それぞれに幸(さいはひ)ならぬは無御座(ござなく)、世の光に遠き囹圄(ひとや)に繋(つなが)れ候悪人(さふらふあくにん)にても、罪ゆり候日(さふらふひ)の楽(たのしみ)は有之候(これありさふらふ)ものを、命有らん限は此の苦艱(くげん)を脱(のが)れ候事(さふらふこと)かなはぬ身の悲しさは、如何に致候(いたしさふら)はば宜(よろし)きやら、御推量被下度候(くだされたくさふらふ)。申すも異な事に候へども、抑(そもそ)も始より我(わたくし)心には何とも思はぬ唯継(ただつぐ)に候へば、夫婦の愛情と申候ものは、十年が間に唯の一度も起り申さず、却(かへ)つて憎き仇(あだ)のやうなる思も致し、其傍(そのそば)に居り候も口惜(くちをし)く、倩(つくづ)く疎(うと)み果て候へば、三四年前(ぜん)よりは別居も同じ有様に暮し居候始末にて、私事一旦の身の涜(けがれ)も漸(やうや)く今は浄(きよ)く相成、益(ますます)堅く心の操(みさを)を守り居りまゐらせ候。先頃荒尾様より御譴(おんしかり)も受け、さやうな心得は、始には御前様に不実の上、今又唯継に不貞なりと仰せられ候へども、其の始の不実を唯今思知り候ほどの愚(おろか)なる私が、何とて後の不貞やら何やら弁(わきま)へ申すべきや。愚なる者なればこそ人にも勾引(かどはか)され候て、帰りたき空さへ見えぬ海山の果に泣倒れ居り候を、誰一箇(たれひとり)も愍(あはれ)みて救はんとは思召し被下候(くだされさふら)はずや。御前様にも其の愚なる者を何とも思召(おぼしめ)し被下候(くだされさふら)はずや。愚なる者の致せし過(あやまち)も、並々の人の過も、罪は同きものに御座候や、重きものに御座候や。
愚なる者の癖に人がましき事申上候やうにて、誠に御恥(おんはづかし)う存候(ぞんじさふら)へども、何とも何とも心得難(こころえがた)く存上候(ぞんじあげさふらふ)は、御前様(おんまへさま)唯今(ただいま)の御身分に御座候(ござさふらふ)。天地は倒(さかさま)に相成候とも、御前様(おんまへさま)に限りてはと、今猶(いまなほ)私は疑ひ居り候ほど驚入(おどろきいり)まゐらせ候。世に生業(なりはひ)も数多く候に、優き優き御心根にもふさはしからぬ然(さ)やうの道に御入(おんい)り被成候(なされさふらふ)までに、世間は鬼々(おにおに)しく御前様(おんまへさま)を苦め申候(まをしさふらふ)か。田鶴見様方(たずみさまかた)にて御姿(おんすがた)を拝し候後(さふらふのち)始(はじめ)て御噂承(おんうはさうけたま)はり、私は幾日(いくか)も幾日も泣暮し申候。これには定て深き仔細(しさい)も御座候はんと存候へども、玉と成り、瓦(かはら)と成るも人の一生に候へば、何卒(なにとぞ)昔の御身に御立返(おんたちかへ)り被遊(あそばされ)、私の焦れ居りまゐらせ候やうに、多くの人にも御慕(おんしたは)れ被遊候(あそばされさふらふ)御出世の程をば、偏(ひとへ)に偏(ひとへ)に願上(ねがいあげ)まゐらせ候。世間には随分賢からぬ者の好き地位を得て、時めかし居り候も少からぬを見るにつけ、何故(なにゆゑ)御前様(おんまへさま)には然(さ)やうの善からぬ業(わざ)を択(より)に択りて、折角の人に優(すぐ)れし御身を塵芥(ちりあくた)の中に御捨(おんす)て被遊候(あそばされさふらふ)や、残念に残念に存上(ぞんじあげ)まゐらせ候。
愚なる私の心得違(こころえちがひ)さへ無御座候(ござなくさふら)はば、始終(しじゆう)御側(おんそば)にも居り候事とて、さやうの思立(おもひたち)も御座候節(ござさふらふせつ)に、屹度(きつと)御諌(おんいさ)め申候事も叶(かな)ひ候ものを、返らぬ愚痴ながら私の浅はかより、みづからの一生を誤り候のみか、大事の御身までも世の廃(すた)り物に致させ候かと思ひまゐらせ候へば、何と申候私の罪の程かと、今更御申訳(おんまをしわけ)の致しやうも無之(これなく)、唯そら可恐(おそろ)しさに消えも入度(いりた)く存(ぞんじ)まゐらせ候。御免(おんゆる)し被下度(くだされたく)、御免し被下度(くだされたく)、御免し被下度候。
私は何故(なにゆゑ)富山に縁付き申候や、其気(そのき)には相成申候や、又何故御前様の御辞(おんことば)には従ひ不申(まをさず)候や、唯今(ただいま)と相成候て考へ申候へば、覚めて悔(くやし)き夢の中のやうにて、全く一時の迷とも可申(まをすべく)、我身ながら訳解らず存じまゐらせ候。二つ有るものの善きを捨て、悪(あし)きを取り候て、好んで箇様(かよう)の悲き身の上に相成候は、よくよく私に定り候運と、思出(おもひいだ)し候ては諦(あきら)め居り申候。
其節御前様の御腹立(おんはらだち)一層強く、私をば一打(ひとうち)に御手に懸け被下候(くだされさふら)はば、なまじひに今の苦艱(くげん)は有之間敷(これあるまじく)、又さも無く候はば、いつそ御前様の手籠(てごめ)にいづれの山奥へも御連れ被下候(くだされさふら)はば、今頃は如何なる幸(さいはひ)を得候事やらんなど、愚なる者はいつまでも愚に、始終愚なる事のみ考居(かんがへを)り申候。
嬉くも御赦(おんゆるし)を得、御心解けて、唯二人熱海に遊び、昔の浜辺に昔の月を眺(なが)め、昔の哀(かなし)き御物語を致し候はば、其の心の内は如何に御座候やらん思ふさへ胸轟(むねとどろ)き、書く手も震ひ申候。今も彼(か)の熱海に人は参り候へども、そのやうなる楽(たのしみ)を持ち候ものは一人も有之(これある)まじく、其代(そのかはり)には又、私如(わたくしごと)き可憐(あはれ)の跡を留め候て、其の一夜(いちや)を今だに歎き居り候ものも決して御座あるまじく候。
世をも身をも捨て居り候者にも、猶(なほ)肌身放(はだみはな)さず大事に致候宝は御座候。それは御遺置(おんのこしおき)の三枚の御写真にて何見ても楽み候はぬ目にも、是(これ)のみは絶えず眺め候て、少しは憂さを忘れ居りまゐらせ候。いつも御写真に向ひ候へば、何くれと当時の事憶出(おもひだ)し候中に、うつつとも無く十年前(ぜん)の心に返り候て、苦き胸も暫(しばし)は涼(すずし)く相成申候。最も所好(すき)なるは御横顔の半身のに候へども、あれのみ色褪(いろさ)め、段々薄く相成候が、何より情無く存候へども、長からぬ私の宝に致し候間は仔細も有るまじく、亡(な)き後には棺の内に歛(をさ)めもらひ候やう、母へは其(それ)を遺言に致候覚悟に御座候。
ある女世に比無(たぐひな)き錦(にしき)を所持いたし候処(さふらふところ)、夏の熱き盛(さかり)とて、差当(さしあた)り用無く思ひ候不覚より、人の望むままに貸与へ候後は、いかに申せども返さず、其内に秋過ぎ、冬来(ふゆきた)り候て、一枚の曠着(はれぎ)さへ無き身貧に相成候ほどに、いよいよ先の錦の事を思ひに思ひ候へども、今は何処(いづこ)の人手に渡り候とも知れず、日頃それのみ苦に病み、慨(なげ)き暮し居り候折から、さる方にて計らず一人の美き女に逢ひ候処、彼(か)の錦をば華(はなや)かに着飾り、先の持主とも知らず貧き女の前にて散々(さんざん)ひけらかし候上に、恥まで与へ候を、彼女(かのをんな)は其身の過(あやまり)と諦(あきら)め候て、泣く泣く無念を忍び申候事に御座候が、其錦に深き思の繋(かか)り候ほど、これ見よがしに着たる女こそ、憎くも、悔(くやし)くも、恨(うらめし)くも、謂はうやう無き心の内と察せられ申候。
先達而(せんだつて)は御許(おんもと)にて御親類のやうに仰せられ候御婦人に御目に掛りまゐらせ候。毎日のやうに御出(おんい)で被成候(なされさふらふ)て、御前様の御世話(おんせわ)万事被遊候(あそばされさふらふ)御方(おんかた)の由(よし)に候へば、後にて御前様さぞさぞ御大抵ならず御迷惑被遊候(あそばされさふらふ)御事(おんこと)と、山々御察(おんさつ)し申上候へども、一向さやうに御内合(おんうちあひ)とも存ぜず、不躾(ぶしつけ)に参上いたし候段は幾重にも、御詫申上(おんわびまをしあげ)まゐらせ候。
尚(なほ)数々(かずかず)申上度(まをしあげたく)存候事(ぞんじさふらふこと)は胸一杯にて、此胸の内には申上度事(まをしあげたきこと)の外は何も無御座候(ござなくさふら)へば、書くとも書くとも尽き申間敷(まをすまじく)、殊(こと)に拙(つたな)き筆に候へば、よしなき事のみくだくだしく相成候ていくらも、大切の事をば書洩(かきもら)し候が思残(おもひのこり)に御座候。惜き惜き此筆止(とど)めかね候へども、いつの限無く手に致し居り候事も叶(かな)ひ難(がた)く、折から四時の明近(あけちか)き油も尽き候て、手元暗く相成候ままはやはや恋(こひし)き御名を認(したた)め候て、これまでの御別(おんわかれ)と致しまゐらせ候。
唯今(ただいま)の此の気分苦く、何とも難堪(たへがた)き様子にては、明日は今日よりも病重き事と存候(ぞんじさふらふ)。明後日は猶重くも相成可申(あひなりまをすべく)、さやうには候へども、筆取る事相叶(あひかな)ひ候間は、臨終までの胸の内御許に通じまゐらせ度(たく)存候(ぞんじさふら)へば、覚束無(おぼつかな)くも何なりとも相認(あひしたた)め可申候(まをすべくさふらふ)。
私事空(むなし)く相成候とも、決して余(よ)の病にては無之(これなく)、御前様(おんまへさま)御事(おんこと)を思死(おもひじに)に死候(しにさふらふ)ものと、何卒(なにとぞ)々々御愍(おんあはれ)み被下(くだされ)、其段(そのだん)はゆめゆめ詐(いつはり)にては無御座(ござなく)、みづから堅く信じ居候事に御座候。
明日(みようにち)は御前様(おんまへさま)御誕生日(ごたんじようび)に当り申候へば、わざと陰膳(かげぜん)を供へ候て、私事も共に御祝(おんいは)ひ可申上(まをしあぐべく)、嬉(うれし)きやうにも悲きやうにも存候。猶くれぐれも朝夕(ちようせき)の御自愛御大事に、幾久く御機嫌好(ごきげんよ)う明日を御迎(おんむか)へ被遊(あそばされ)、ますます御繁栄に被為居候(ゐらせられさふらふ)やう、今は世の望も、身の願も、それのみに御座候。
まづはあらあらかしこ。
五月二十五日
おろかなる女より
恋(こひし)き恋き
生別(いきわかれ)の御方様(おんかたさま)
まゐる 
第二章
隣に養へる薔薇(ばら)の香(か)の烈(はげし)く薫(くん)じて、颯(さ)と座に入(い)る風の、この読尽(よみつく)されし長き文(ふみ)の上に落つると見れば、紙は冉々(せんせん)と舞延びて貫一の身をめぐり、猶(なほ)も跳(をど)らんとするを、彼は徐(しづか)に敷据ゑて、その膝(ひざ)に慵(ものう)げなる面杖(つらづゑ)つきたり。憎き女の文なんど見るも穢(けがらは)しと、前(さき)には皆焚棄(やきす)てたりし貫一の、如何(いか)にしてこたびばかりは終(つひ)に打拆(うちひら)きけん、彼はその手にせし始に、又は読去りし後に、自らその故(ゆゑ)を譲(せ)めて、自ら知らざるを愧(は)づるなりき。
彼はやがて屈(かが)めし身を起ししが、又直(ただ)ちに重きに堪(た)へざらんやうの頭(かしら)を支へて、机に倚(よ)れり。
緑濃(こまや)かに生茂(おひしげ)れる庭の木々の軽々(ほのか)なる燥気(いきれ)と、近き辺(あたり)に有りと有る花の薫(かをり)とを打雑(うちま)ぜたる夏の初の大気は、太(はなは)だ慢(ゆる)く動きて、その間に旁午(ぼうご)する玄鳥(つばくら)の声朗(ほがらか)に、幾度(いくたび)か返しては遂(つひ)に往きける跡の垣穂(かきほ)の、さらぬだに燃ゆるばかりなる満開の石榴(ざくろ)に四時過の西日の夥(おびただし)く輝けるを、彼は煩(わづらは)しと目を移して更に梧桐(ごどう)の涼(すずし)き広葉を眺めたり。
文の主(ぬし)はかかれと祈るばかりに、命を捧げて神仏(かみほとけ)をも驚かししと書けるにあらずや。貫一は又、自ら何の故(ゆゑ)とも知らで、独(ひと)りこれのみ披(ひら)くべくもあらぬ者を披き見たるにあらずや。彼を絡(まと)へる文は猶解けで、巌(いはほ)に浪(なみ)の瀉(そそ)ぐが如く懸(かか)れり。
そのままに専(ひた)と思入るのみなりし貫一も、漸(やうや)く悩(なやまし)く覚えて身動(みじろ)ぐとともに、この文殻(ふみがら)の埓無(らちな)き様を見て、やや慌(あわ)てたりげに左肩(ひだりがた)より垂れたるを取りて二つに引裂きつ。さてその一片(ひとひら)を手繰(たぐ)らんと為るに、長きこと帯の如し。好き程に裂きては累(かさ)ね、累ぬれば、皆積みて一冊にも成りぬべし。
かかる間(ま)も彼は自(おのづ)と思に沈みて、その動す手も怠(たゆ)く、裂きては一々読むかとも目を凝(こら)しつつ。やや有りて裂了(さきをは)りし後は、あだかも劇(はげし)き力作に労(つか)れたらんやうに、弱々(よわよわ)と身を支へて、長き頂(うなじ)を垂れたり。
されど久(ひさし)きに勝(た)へずやありけん、卒(にはか)に起たんとして、かの文殻の委(お)きたるを取上げ、庭の日陰に歩出(あゆみい)でて、一歩に一(ひと)たび裂き、二歩に二たび裂き、木間に入りては裂き、花壇を繞(めぐ)りては裂き、留りては裂き、行きては裂き、裂きて裂きて寸々(すんずん)に作(な)しけるを、又引捩(ひきねぢ)りては歩み、歩みては引捩りしが、はや行くも苦(くるし)く、後様(うしろさま)に唯有(とあ)る冬青(もち)の樹に寄添へり。
折から縁に出来(いできた)れる若き女は、結立(ゆひたて)の円髷(まるわげ)涼しげに、襷掛(たすきがけ)の惜くも見ゆる真白の濡手(ぬれて)を弾(はじ)きつつ、座敷を覗(のぞ)き、庭を窺(うかが)ひ、人見付けたる会釈の笑(ゑみ)をつと浮べて、
「旦那(だんな)様、お風呂が沸きましたが」
この姿好く、心信(こころまめや)かなるお静こそ、僅(わづか)にも貫一がこの頃を慰むる一(いつ)の唯一(ただいつ)の者なりけれ。 
(二)の二
浴(ゆあみ)すれば、下立(おりた)ちて垢(あか)を流し、出づるを待ちて浴衣(ゆかた)を着せ、鏡を据(すう)るまで、お静は等閑(なほざり)ならず手一つに扱ひて、数ならぬ女業(をんなわざ)の効無(かひな)くも、身に称(かな)はん程は貫一が為にと、明暮を唯それのみに委(ゆだ)ぬるなり。されども、彼は別に奥の一間(ひとま)に己(おのれ)の助くべき狭山(さやま)あるをも忘るべからず。そは命にも、換ふる人なり。又されども、彼と我との命に換ふる大恩をここの主(あるじ)にも負へるなり。如此(かくのごと)く孰(いづ)れ疎(おろそか)ならぬ主(あるじ)と夫とを同時に有(も)てる忙(せは)しさは、盆と正月との併(あは)せ来にけんやうなるべきをも、彼はなほ未(いま)だ覚めやらぬ夢の中(うち)にて、その夢心地には、如何(いか)なる事も難(かた)しと為るに足らずと思へるならん。寔(まこと)に彼はさも思へらんやうに勇(いさ)み、喜び、誇り、楽める色あり。彼の面(おもて)は為に謂(い)ふばかり無く輝ける程に、常にも愈(ま)して妖艶(あでやか)に見えぬ。
暫(しば)し浴後(ゆあがり)を涼みゐる貫一の側に、お静は習々(そよそよ)と団扇(うちは)の風を送りゐたりしが、縁柱(えんばしら)に靠(もた)れて、物をも言はず労(つか)れたる彼の気色を左瞻右視(とみかうみ)て、
「貴方(あなた)、大変にお顔色(かほつき)がお悪いぢや御座いませんか」
貫一はこの言(ことば)に力をも得たらんやうに、萎(な)え頽(くづ)れたる身を始て揺(ゆす)りつ。
「さうかね」
「あら、さうかねぢや御座いませんよ、どうあそばしたのです」
「別にどうも為はせんけれど、何だかかう気が閉ぢて、惺然(はつきり)せんねえ」
「惺然(はつきり)あそばせよ。麦酒(ビイル)でも召上りませんか、ねえ、さうなさいまし」
「麦酒かい、余り飲みたくもないね」
「貴方そんな事を有仰(おつしや)らずに、まあ召上つて御覧なさいまし。折角私(わたくし)が冷(ひや)して置きましたのですから」
「それは狭山君が帰つて来て飲むのだらう」
「何で御座いますつて?!」
「いや、常談ぢやない、さうなのだらう」
「狭山は、貴方、麦酒(ビイル)なんぞを戴(いただ)ける今の身分ぢや御座いませんです」
「そんなに堅く為(せ)んでも可いさ、内の人ぢやないか。もつと気楽に居てくれなくては困る」
お静は些(ちよ)と涙含(なみだぐ)みし目を拭(ぬぐ)ひて、
「この上の気楽が有つて耐(たま)るものぢや御座いません」
「けれども有物(あるもの)だから、所好(すき)なら飲んでもらはう。お前さんも克(い)くのだらう」
「はあ、私もお相手を致しますから、一盃(いつぱい)召上りましよ。氷を取りに遣りまして――夏蜜柑(なつみかん)でも剥(む)きませう――林檎(りんご)も御座いますよ」
「お前さん飲まんか」
「私も戴きますとも」
「いや、お前さん独(ひとり)で」
「貴方の前で私が独で戴くので御座いますか。さうして貴方は?」
「私は飲まん」
「ぢや見てゐらつしやるのですか。不好(いや)ですよ、馬鹿々々しい! まあ何でも可いから、ともかくも一盃召上ると成さいましよ、ね。唯今(ただいま)直(ぢき)に持つて参りますから、其処(そこ)にゐらつしやいまし」
気軽に走り行きしが、程無く老婢(ろうひ)と共に齎(もたら)せる品々を、見好げに献立して彼の前に陳(なら)ぶれば、さすがに他の老婆子(ろうばし)が寂(さびし)き給仕に義務的吃飯(きつぱん)を強(し)ひらるるの比にもあらず、やや難捨(すてがた)き心地もして、コップを取挙(とりあぐ)れば、お静は慣れし手元に噴溢(ふきこぼ)るるばかり酌して、
「さあ、呷(ぐう)とそれを召上れ」
貫一はその半(なかば)を尽して、先(ま)づ息(いこ)へり。林檎を剥(む)きゐるお静は、手早く二片(ふたひら)ばかりそぎて、
「はい、お肴(さかな)を」
「まあ、一盃上げやう」
「まあ、貴方――いいえ、可けませんよ。些(ちつ)とお顔に出るまで二三盃続けて召上れよ。さうすると幾らかお気が霽(は)れますから」
「そんなに飲んだら倒れて了ふ」
「お倒れなすたつて宜(よろし)いぢや御座いませんか。本当に今日は不好(いや)な御顔色でゐらつしやるから、それがかう消えて了ふやうに、奮発して召上りましよ」
彼は覚えず薄笑(うすわらひ)して、
「薬だつてさうは利(き)かんさ」
「どうあそばしたので御座います。何処(どこ)ぞ御体がお悪いのなら、又無理に召上るのは可う御座いませんから」
「体は始終悪いのだから、今更驚きも為んが……ぢや、もう一盃飲まうか」
「へい、お酌。ああ、余(あんま)りお見事ぢや御座いませんか」
「見事でも可かんのかい」
「いいえ、お見事は結構なのですけれど、余(あんま)り又――頂戴……ああ恐入ります」
「いや、考へて見ると、人間と云ふものは不思議な者だ。今まで不見不知(みずしらず)の、実に何の縁も無いお前さん方が、かうして内に来て、狭山君はああして実体(じつてい)の人だし、お前さんは優く世話をしてくれる、私は決して他人のやうな心持は為(せ)んね。それは如何(いか)なる事情が有つてかう成つたにも為よ、那裏(あすこ)で逢(あ)はなければ、何処(どこ)の誰だかお互に分らずに了つた者が、急に一処に成つて、貴方がどうだとか、私(わたくし)がかうだとか、……や、不思議だ! どうか、まあ渝(かは)らず一生かうしてお附合(つきあひ)を為たいと思ふ。けれども私は高利貸だ。世間から鬼か蛇(じや)のやうに謂(いは)れて、この上も無く擯斥(ひんせき)されてゐる高利貸だ。お前さん方もその高利貸の世話に成つてゐられるのは、余り栄(みえ)でも無く、さぞ心苦く思つてゐられるだらう、と私は察してゐる。のみならず、人の生血を搾(しぼ)つてまでも、非道な貨(かね)を殖(こしら)へるのが家業の高利貸が、縁も所因(ゆかり)も無い者に、設(たと)ひ幾らでも、それほど大事の金をおいそれと出して、又体まで引取つて世話を為ると云ふには、何か可恐(おそろし)い下心でもあつて、それもやつぱり慾徳渾成(ずく)で恩を被(き)せるのだらうと、内心ぢやどんなにも無気味に思つてゐられる事だらう、とそれも私は察してゐる。
さあ、コップを空(あ)けて、返して下さい」
「召上りますの?」
「飲む」
酒気は稍(やや)彼の面(おもて)に上(のぼ)れり。
「お静さんはどう思ふね」
「私(わたくし)共は固(もと)より命の無いところを、貴方のお蔭ばかりで助(たすか)つてをりますので御座いますから、私共の体は貴方の物も同然、御用に立ちます事なら、どんなにでも遊(あそば)してお使ひ下さいまし。狭山もそんなに申してをります」
「忝(かたじけ)ない。然し、私は天引三割の三月縛(みつきしばり)と云ふ躍利(をどり)を貸して、暴(あら)い稼(かせぎ)を為てゐるのだから、何も人に恩などを被せて、それを種に銭儲(かねまうけ)を為るやうな、廻り迂(くど)い事を為る必要は、まあ無いのだ。だから、どうぞ決(け)してそんな懸念(けねん)は為て下さるな。又私の了簡では、元々些(ほん)の酔興で二人の世話を為るのだから、究竟(つまり)そちらの身さへ立つたら、それで私の念は届いたので、その念が届いたら、もう剰銭(つり)を貰(もら)はうとは思はんのだ。と言つたらば、情無い事には、私の家業が家業だから、鬼が念仏でも言ふやうに、お前さん方は愈(いよい)よ怪く思ふかも知れん――いや、きつとさう思つてゐられるには違無い。残念なものだ!」
彼は長吁(ちようう)して、
「それも悪木(あくぼく)の蔭に居るからだ!」
「貴方、決(け)して私共がそんな事を夢にだつて思ひは致しません。けれども、そんなに有仰(おつしや)いますなら、何か私共の致しました事がお気に障(さは)りましたので御座いませう。かう云ふ何(なんに)も存じません粗才者(ぞんざいもの)の事で御座いますから」
「いいや、……」
「いいえ、私は始終言はれてをります狭山に済みませんですから、どうぞ行届きませんところは」
「いいや、さう云ふ意味で言つたのではない。今のは私の愚痴だから、さう気に懸けてくれては甚(はなは)だ困る」
「ついにそんな事を有仰(おつしや)つた事の無い貴方が、今日に限つて今のやうに有仰ると、日頃私共に御不足がお有(あん)なすつて」
「いや、悪かつた、私が悪かつた。なかなか不足どころか、お前さん方が陰陽無(かげひなたな)く実に善く気を着けて、親身のやうに世話してくれるのを、私は何より嬉く思つてゐる。往日(いつか)話した通り、私は身寄も友達も無いと謂つて可いくらゐの独法師(ひとりぼつち)の体だから、気分が悪くても、誰(たれ)一人薬を飲めと言つてくれる者は無し、何かに就けてそれは心細いのだ。さう云ふ私に、鬱(ふさ)いでゐるから酒でも飲めと、無理にも勧めてくれるその深切は、枯木に花が咲くやうな心持が、いえ、嘘(うそ)でも何でも無い。さあ、嘘でない信(しるし)に一献差(ひとつさ)すから、その積で受けてもらはう」
「はあ、是非戴かして下さいまし」
「ああ、もうこれには無い」
「無ければ嘘なので御座いませう」
「未(ま)だ半打(はんダース)の上(うへ)有るから、あれを皆注いで了はう」
「可うございますね」
貫一が老婢を喚ぶ時、お静は逸早(いちはや)く起ち行けり。 
(二)の三
話頭(わとう)は酒を更(あらた)むるとともに転じて、
「それはまあ考へて見れば、随分主人の面(つら)でも、友達の面でも、踏躙(ふみにじ)つて、取る事に於ては見界(みさかひ)なしの高利貸が、如何(いか)に虫の居所が善かつたからと云つて、人の難儀――には附込まうとも――それを見かねる風ぢやないのが、何であんな格(がら)にも無い気前を見せたのかと、これは不審を立てられるのが当然(あたりまへ)だ。
けれども、ねえ、いづれその訳が解る日も有らうし、又私といふ者が、どう云ふ人間であるかと云ふ事も、今に必ず解らうと思ふ。それが解りさへしたら、この上人の十人や二十人、私の有金の有たけは、助けやうが、恵まうが、少(すこし)も怪む事は無いのだ。かう云ふと何か酷(ひど)く偉がるやうで、聞辛(ききづら)いか知らんけれど、これは心易立(こころやすだて)に、全く奥底の無いところをお話するのだ。
いやさう考込まれては困る。陰気に成つて可かんから、話はもう罷(やめ)に為(せ)う。さうしてもつと飲み給へ、さあ」
「いいえ、どうぞお話をお聞せなすつて下さいまし」
「肴(さかな)に成るやうな話なら可いがね」
「始終狭山ともさう申してをるので御座いますけれど、旦那様は御病身と云ふ程でも無いやうにお身受申しますのに、いつもかう御元気(ごげんき)が無くて、お険(むづかし)いお顔面(かほつき)ばかりなすつてゐらつしやるのは、どう云ふものかしらんと、陰ながら御心配申してをるので御座いますが」
「これでお前さん方が来てくれて、内が賑(にぎや)かに成つただけ、私も旧(もと)から見ると余程(よつぽど)元気には成つたのだ」
「でもそれより御元気がお有(あん)なさらなかつたら、まあどんなでせう」
「死んでゐるやうな者さ」
「どうあそばしたので御座いますね」
「やはり病気さ」
「どう云ふ御病気なので」
「鬱(ふさ)ぐのが病気で困るよ」
「どう為てさうお鬱ぎあそばすので御座います」
貫一は自ら嘲(あざけ)りて苦しげに哂(わら)へり。
「究竟(つまり)病気の所為(せゐ)なのだね」
「ですからどう云ふ御病気なのですよ」
「どうも鬱ぐのだ」
「解らないぢや御座いませんか! 鬱ぐのが病気だと有仰(おつしや)るから、どう為てお鬱ぎ遊(あそば)すのですと申せば、病気で鬱ぐのだつて、それぢや何処(どこ)まで行つたつて、同じ事ぢや御座いませんか」
「うむ、さうだ」
「うむ、さうだぢやありません、緊(しつか)りなさいましよ」
「ああ、もう酔つて来た」
「あれ、未だお酔ひに成つては可けません。お横に成ると御寐(おやすみ)に成るから、お起きなすつてゐらつしやいまし。さあ、貴方」
お静は寄(よ)りて、彼の肘杖(ひぢづゑ)に横(よこた)はれる背後(うしろ)より扶起(たすけおこ)せば、為(せ)ん無げに柱に倚(よ)りて、女の方を見返りつつ、
「ここを富山唯継(ただつぐ)に見せて遣りたい!」
「ああ、舎(よ)して下さいまし! 名を聞いても慄然(ぞつ)とするのですから」
「名を聞いても慄然(ぞつ)とする? さう、大きにさうだ。けれど、又考へて見れば、あれに罪が有る訳でも無いのだから、さして憎むにも当らんのだ」
「ええ、些(ほん)の太好(いけす)かないばかりです!」
「それぢや余り差(ちが)はんぢやないか」
「あんな奴は那箇(どつち)だつて可いんでさ。第一活(い)きてゐるのが間違つてゐる位のものです。
本当に世間には不好(いや)な奴ばかり多いのですけれど、貴方、どう云ふ者でせう。三千何百万とか、四千万とか、何でも太(たい)した人数(ひとかず)が居るのぢや御座いませんか、それならもう少し気の利(き)いた、肌合(はだあひ)の好い、嬉(うれし)い人に撞見(でつくは)しさうなものだと思ひますのに、一向お目に懸りませんが、ねえ」
「さう、さう、さう!」
「さうして富山みたやうなあんな奴がまあ紛々然(うじやうじや)と居て、番狂(ばんくるはせ)を為て行(ある)くのですから、それですから、一日だつて世の中が無事な日と云つちや有りは致しません。どうしたらあんなにも気障(きざ)に、太好(いけす)かなく、厭味(いやみ)たらしく生れ付くのでせう」
「おうおう、富山唯継散々だ」
「ああ。もうあんな奴の話をするのは馬鹿々々しいから、貴方、舎(よ)しませうよ」
「それぢやかう云ふ話が有る」
「はあ」
「一体男と女とでは、だね、那箇(どつち)が情合が深い者だらうか」
「あら、何為(なぜ)で御座います」
「まあ、何為(なぜ)でも、お前さんはどう思ふ」
「それは、貴方、女の方がどんなに情が」
「深いと云ふのかね」
「はあ」
「信(あて)にならんね」
「へえ、信にならない証拠でも御座いますか」
「成程、お前さんは別かも知れんけれど」
「可(よ)う御座いますよ!」
「いいえ、世間の女はさうでないやうだ。それと云ふが、女と云ふ者は、慮(かんがへ)が浅いからして、どうしても気が移り易(やす)い、これから心が動く――不実を不実とも思はんやうな了簡も出るのだ」
「それはもう女は浅捗(あさはか)な者に極(きま)つてゐますけれど、気が移るの何のと云ふのは、やつぱり本当に惚(ほ)れてゐないからです。心底から惚れてゐたら、些(ちつと)も気の移るところは無いぢや御座いませんか。善く女の一念と云ふ事を申しますけれど、思窮(おもひつ)めますと、男よりは女の方が余計夢中に成つて了ひますとも」
「大きにさう云ふ事は有る。然し、本当に惚れんのは、どうだらう、女が非(わる)いのか、それとも男の方が非いのか」
「大変難(むづかし)く成りましたのね。さうですね、それは那箇(どつち)かが非(わる)い事も有りませう。又女の性分にも由りますけれど、一概に女と云つたつて、一つは齢(とし)に在るので御座いますね」
「はあ、齢に在ると云ふと?」
「私共(わたくしども)の商買(しようばい)の者は善くさう申しますが、女の惚れるには、見惚(みぼれ)に、気惚(きぼれ)に、底惚(そこぼれ)と、かう三様(みとほり)有つて、見惚と云ふと、些(ちよい)と見たところで惚込んで了ふので、これは十五六の赤襟(あかえり)盛に在る事で、唯奇麗事でありさへすれば可いのですから、全(まる)で酸いも甘いもあつた者ぢやないのです。それから、十七八から二十(はたち)そこそこのところは、少し解つて来て、生意気に成りますから、顔の好いのや、扮装(なり)の奇(おつ)なのなんぞには余(あんま)り迷ひません。気惚と云つて、様子が好いとか、気合が嬉いとか、何とか、そんなところに目を着けるので御座いますね。ですけれど、未(ま)だ未だやつぱり浮気なので、この人も好いが、又あの人も万更でなかつたりなんぞして、究竟(つまり)お肚(なか)の中から惚れると云ふのぢやないのです。何でも二十三四からに成らなくては、心底から惚れると云ふ事は無いさうで。それからが本当の味が出るのだとか申しますが、そんなものかも知れませんよ。この齢に成れば、曲りなりにも自分の了簡も据(すわ)り、世の中の事も解つてゐると云つたやうな勘定ですから、いくら洒落気(しやれつき)の奴でも、さうさう上調子(うはちようし)に遣つちやゐられるものぢやありません。其処(そこ)は何と無く深厚(しんみり)として来るのが人情ですわ。かうなれば、貴方、十人が九人までは滅多に気が移るの、心が変るのと云ふやうな事は有りは致しません。あの『赤い切掛(きれか)け島田の中(うち)は』と云ふ唄(うた)の文句の通、惚れた、好いたと云つても、若い内はどうしたつて心(しん)が一人前(いちにんまへ)に成つてゐないのですから、やつぱりそれだけで、為方の無いものです。と言つて、お婆さんに成つてから、やいのやいの言れた日には、殿方は御難ですね」
お静は一笑してコップを挙げぬ。貫一は連(しきり)に頷(うなづ)きて、
「誠に面白かつた。見惚(みぼれ)に気惚に底惚か。齢(とし)に在ると云ふのは、これは大きにさうだ。齢に在る! 確に在るやうだ!」
「大相感心なすつてゐらつしやるぢや御座いませんか」
「大きに感心した」
「ぢやきつと胸に中(あた)る事がお有(あん)なさるので御座いますね」
「ははははははは。何為(なぜ)」
「でも感心あそばし方が凡(ただ)で御座いませんもの」
「ははははははは。愈(いよい)よ面白い」
「あら、さうなので御座いますか」
「はははははは。さうなのとはどうなの?」
「まあ、さうなのですね」
彼は故(ことさら)にみはれる眼(まなこ)を凝(こら)して、貫一の酔(ゑ)ひて赤く、笑ひて綻(ほころ)べる面(おもて)の上に、或者を索(もと)むらんやうに打矚(うちまも)れり。
「さうだつたらどうかね。はははははは」
「あら、それぢや愈(いよい)よさうなので御座いますか!」
「ははははははははは」
「可けませんよ、笑つてばかりゐらしつたつて」
「はははははは」 
第三章
惜くもなき命は有り候(さふらふ)ものにて、はや其(それ)より七日(なぬか)に相成候(あひなりさふら)へども、猶(なほ)日毎(ひごと)に心地苦(くるし)く相成候やうに覚え候のみにて、今以つて此世(このよ)を去らず候へば、未練の程の御(おん)つもらせも然(さ)ぞかしと、口惜(くちをし)くも御恥(おんはづかし)く存上参(ぞんじあげまゐ)らせ候。御前様(おんまへさま)には追々(おひおひ)暑(あつさ)に向ひ候へば、いつも夏まけにて御悩み被成候事(なされさふらふこと)とて、此頃(このごろ)は如何(いか)に御暮(おんくら)し被遊候(あそばされさふらふ)やと、一入(ひとしほ)御案(おんあん)じ申上参(まをしあげまゐ)らせ候。
私事(わたくしこと)人々の手前も有之候故(これありさふらふゆゑ)、儀(しるし)ばかりに医者にも掛り候へども、もとより薬などは飲みも致さず、皆(みな)打捨(うちす)て申候(まをしさふらふ)。御存じの此疾(このわづらひ)は決して書物の中には載せて在るまじく存候を、医者は訳無くヒステリイと申候。是もヒステリイと申候外は無きかは不存申候(ぞんじまをさずさふら)へども、自分には広き世間に比無(たぐひな)き病の外の病とも思居り候ものを、さやうに有触れたる名を附けられ候は、身に取りて誠に誠に無念に御座候。
昼の中(うち)は頭重(つむりおも)く、胸閉ぢ、気疲劇(きづかれはげし)く、何を致候も大儀(たいぎ)にて、別(わ)けて人に会ひ候がうるさく、誰(たれ)にも一切(いつせつ)口(くち)を利(き)き不申(まをさず)、唯独(ただひと)り引籠(ひきこも)り居り候て、空(むなし)く時の経(た)ち候中(さふらふうち)に、此命(このいのち)の絶えず些(ちと)づつ弱り候て、最期(さいご)に近く相成候が自(おのづ)から知れ候やうにも覚(おぼ)え申候(まをしさふらふ)。
夜(よ)に入(い)り候ては又気分変り、胸の内俄(にはか)に冱々(さえざえ)と相成(あひなり)、なかなか眠(ねぶ)り居り候空は無之(これなく)、かかる折に人は如何やうの事を考へ候ものと思召被成(おぼしめしなされ)候や、又其人私に候はば何と可有之候(これあるべくさふらふ)や、今更申上候迄にも御座候はねば、何卒(なにとぞ)宜(よろし)く御判(おんはん)じ被遊度(あそばされたく)、夜一夜(よひとよ)其事のみ思続け候て、毎夜寝もせず明しまゐらせ候。
さりながら、何程思続け候とても、水を覓(もと)めて逾(いよい)よ焔(ほのほ)に燃(や)かれ候に等(ひとし)き苦艱(くげん)の募り候のみにて、いつ此責(このせめ)を免(のが)るるともなく存(ながら)へ候(さふらふ)は、孱弱(かよわ)き女の身には余(あまり)に余に難忍(しのびがた)き事に御座候。猶々(なほなほ)此のやうの苦(くるし)き思を致候(いたしさふらふ)て、惜むに足らぬ命の早く形付(かたづ)き不申(まをさざ)るやうにも候はば、いつそ自害致候てなりと、潔く相果て候が、はるかに愈(まし)と存付(ぞんじつ)き候(さふら)へば、万一の場合には、然(さ)やうの事にも可致(いたすべく)と、覚悟極めまゐらせ候。
さまざまに諦(あきら)め申候(まをしさふら)へども、此の一事は迚(とて)も思絶ち難く候へば、私(わたくし)相果(あひは)て候迄(さふらふまで)には是非々々一度、如何に致候ても推(お)して御目(おんめ)もじ相願ひ可申(まをすべく)と、此頃は唯其事(ただそのこと)のみ一心に考居(かんがへを)り申候(まをしさふらふ)。昔より信仰厚き人達は、現(うつつ)に神仏(かみほとけ)の御姿(おんすがた)をも拝(をが)み候やうに申候へば、私とても此の一念の力ならば、決してかなはぬ願にも無御座(ござなく)と存参(ぞんじまゐ)らせ候。 
(三)の二
昨日(さくじつ)は見舞がてらに本宅の御母様(おんははさま)参(まゐ)られ候。是(これ)は一つは唯継事(ただつぐこと)近頃不機嫌(ふきげん)にて、とかく内を外に遊びあるき居り候処(さふらふところ)、両三日前の新聞に善からぬ噂出(うはさい)で候より、心配の余(あまり)様子見に参られ候次第にて、其事に就き私へ懇々(こんこん)の意見にて、唯継の放蕩致候(ほうとういたしさふらふ)は、畢竟(ひつきよう)内(うち)のおもしろからぬ故(ゆゑ)と、日頃の事一々誰が告げ候にや、可恥(はづかし)き迄に皆知れ候て、此後は何分心を用ゐくれ候やうにと被申候(まをされさふらふ)。私事(わたくしこと)其節(そのせつ)一思(ひとおも)ひに不法の事を申掛け、愛想(あいそ)を尽され候やうに致し、離縁の沙汰(さた)にも相成候(あひなりさふら)はば、誠に此上無き幸(さいはひ)と存付(ぞんじつ)き候へども、此姑(このしうとめ)と申候人(まをしさふらふひと)は、評判の心掛善き御方にて、殊(こと)に私をば娘のやうに思ひ、日頃(ひごろ)の厚き情(なさけ)は海山にも喩(たと)へ難きほどに候へば、なかなか辞(ことば)を返し候段にては無之(これなく)、心弱しとは思ひながら、涙の零(こぼ)れ候ばかりにて、無拠(よんどころなく)身(み)の不束(ふつつか)をも詑(わ)び申候(まをしさふらふ)次第に御座候。
此命(このいのち)御前様(おんまへさま)に捨て候ものに無御座候(ござなくさふら)はば、外には此人の為に捨て可申(まをすべく)と存候(ぞんじさふらふ)。此の御方を母とし、御前様(おんまへさま)を夫と致候て暮し候事も相叶(かな)ひ候はば、私は土間に寐(い)ね、蓆(むしろ)を絡(まと)ひ候(さふらふ)ても、其楽(そのたのしみ)は然(さ)ぞやと、常に及ばぬ事を恋(こひし)く思居りまゐらせ候。私事相果て候はば、他人にて真(まこと)に悲みくれ候は、此世に此の御方一人(おんかたひとり)に御座あるべく、第一然(さ)やうの人を欺き、然やうの情(なさけ)を余所(よそ)に致候(いたしさふらふ)私は、如何(いか)なる罰を受け候事かと、悲く悲く存候に、はや浅ましき死様(しにやう)は知れたる事に候へば、外に私の願の障(さはり)とも相成不申(あひなりまをさず)やと、始終心に懸り居り申候(まをしさふらふ)。
思へば、人の申候ほど死ぬる事は可恐(おそろし)きものに無御座候(ござなくさふらふ)。私は今が今此儘(このまま)に息引取り候はば、何よりの仕合(しあはせ)と存参(ぞんじまゐ)らせ候。唯後(ただあと)に遺(のこ)り候親達の歎(なげき)を思ひ、又我身生れ効(がひ)も無く此世の縁薄く、かやうに今在る形も直(ぢき)に消えて、此筆(このふで)、此硯(このすずり)、此指環、此燈(このあかり)も此居宅(このすまひ)も、此夜も此夏も、此の蚊の声も、四囲(あたり)の者は皆永く残り候に、私独(ひと)り亡(な)きものに相成候て、人には草花の枯れたるほどにも思はれ候はぬ儚(はかな)さなどを考へ候へば、返す返す情無く相成候て、心ならぬ未練も出(い)で申候(まをしさふらふ)。 
 
「金色夜叉」 雑話

 

雑話1 小説
尾崎紅葉が書いた明治時代の代表的な小説。読売新聞に1897年(明治30年)1月1日 - 1902年5月11日まで連載された。創作中に作者が逝去したため未完成である。昭和に入って、度々、映画、ドラマ化されるようになった。お宮を貫一が蹴り飛ばす、熱海での場面は有名である。
あらすじ / 高等中学校の学生の間貫一(はざまかんいち)の許婚であるお宮(鴫沢宮、しぎさわみや)は、結婚を間近にして、富豪の富山唯継のところへ嫁ぐ。それに激怒した貫一は、熱海で宮を問い詰めるが、宮は本心を明かさない。貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために、高利貸しになる。一方、お宮も幸せに暮らせずにいた。
モデル / 文芸評論家北嶋廣敏によれば、主人公・間貫一のモデルは児童文学者の巖谷小波である。彼には芝の高級料亭で働いていた須磨という恋人がいた。が、小波が京都の新聞社に2年間赴任している間に、博文館の大橋新太郎(富山唯継のモデル)に横取りされてしまった。小波は別に結婚する気もなかったのでたいして気にも留めていなかったというが、友人の紅葉が怒って料亭に乗り込み須磨を足蹴にした。熱海の海岸のシーンはそれがヒントになったという。
作品評価・解説
未完のまま作者が亡くなったため、作品の全体像が掴めないという難点はあるが、雅俗折衷の文体は当時から華麗なものとして賞賛された。だが、自然主義文学の口語文小説が一般化すると、その美文がかえって古めかしいものと思われ、ストーリーの展開の通俗性が強調され、真剣に検討されることは少なくなった。
1940年頃に企画された中央公論社版の『尾崎紅葉全集』の編集過程で、創作メモが発見され、貫一が高利貸しによって貯めた金を義のために使い切ること、宮が富山に嫁いだのには、意図があってのことだったという構想の一端が明らかにされた。しかし、戦渦の中でこの全集が未完に終わったこともあって、再評価というほどにはならなかった(この件に関しては勝本清一郎『近代文学ノート』(みすず書房)に詳しい)。
三島由紀夫は、金色夜叉の名文として知られる、「車は馳せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易らざる其の悒鬱を抱きて、遣る方無き五時間の独に倦み憊れつゝ、始て西那須野の駅に下車せり」を挙げ、この名文が浄瑠璃や能の道行の部分であり、道行という伝統的技法に寄せた日本文学の心象表現の微妙さ・時間性・流動性が活きている部分だと解説し、「『金色夜叉』は、当時としては大胆な実験小説であつたが、その実験の部分よりも伝統的な部分で今日なほ新鮮なのである」と述べている。また小説の主題である金権主義と恋愛の関係については、「金権主義が社会主義的税制のおかげで一応穏便にカバーされてゐる現代は、その実、『金色夜叉』の時代よりもさらに奥深い金権主義の時代なのであるが、これに対する抗議が今ほど聞かれない時代もめづらしい。といふのは、現代では、金権主義に対抗する恋愛の原理が涸渇してゐるからであり、『金色夜叉』において、金に明瞭に対比させられてゐる恋愛の主題には、実はそれ以上のものが秘められてゐたのである」と述べている。
1980年代になって、硯友社文学全体の再評価の中で、典拠や構想についての研究が進み、アメリカの小説にヒントを得て構想されたものであるという説が有力になり、2000年7月、堀啓子北里大学講師が、ミネソタ大学の図書館に所蔵されているバーサ・M・クレー (Bertha M.Clay) 『WEAKER THAN A WOMAN(女より弱きもの)』が種本であることを解明した。 
雑話2 『金色夜叉』における翻案的側面

 

のちに紅葉は『金色夜叉』について、こう回想している。
これが普通の明治式の婦人なら、富人富山その人の如きに嫁したらば、それなりに昔の関係を棄て、富山の夫人になつて仕舞つて、貫一を見捨て仕舞ふのであるが、僕は宮をして超明治式の婦人たらしむるつもりで、宮をしてあのやうに悔悟の念さかんならしめたのだ。これが僕の此を書いた動機だ。(「金色夜叉上中下合評」『芸文』明治三十五年八月)
『金色夜叉』には、もとになった洋書がある。『読売新』に連載が始まったのが、明治三十年の元旦。その半年前、紅葉が出会った、ある恋愛小説だ。著作権意識が現代とは異なり、多くの文豪が自作の「下敷き」を洋書に求めていた時代である。無名の作者の作だが興味深いストーリーに出会った紅葉は、何のこだわりもなく、そこから「材料」を得ることにした。BerthaM.Clayというこの原作者とは、相性が良かったのだろう。紅葉がこの作者からヒントを得るのは、二年前の『不言不語』に引き続き、二度目となる。
Bertha M.Clayという名は、本来イギリス人女性Charlotte Mary Brame(1836-1884)のペン・ネームであった。イギリスで流行していたその作品に目をとめ、アメリカの出版社が自国に誘致したのだ。Bertha M.Clayとは、そのとき与えられた、言わばアメリカでの「商標」である。だが、それは最初から確立していたわけではなかった。彼女の作品が最初にアメリカで登場したのは、Street&Smith社刊のNewYork Weekly(vol.30.No.14/Feb.8,1875)誌上である。同誌は、家庭の実用情報、娯楽および恋愛小説を掲げ、一部八ページ、五セントで売り出されたタブロイド型週刊誌であった。だがそこに初めてお目見えしたClayの作品、Thrownonthe World;or, The Discarded Wifeの作者欄にClayの名は掲載されていなかった。もちろん、本名もない。
代わって記されたのは、“Bythe Authorof“Lady Damer's Secret”“Dora Thorne”“AWoman's Error,”etc., etc.”という表記である。面白い作品のタイトルを記憶する読者はあっても、その作者名の記憶は約束されない。このことはそうした、読み捨て小説の特徴を、端的にあらわしている。それゆえ、こうした作者のアイデンティティーは、その作品をかき集めることによって初めて保たれる。逆言すれば、個々の作品は、一時的な読書の快楽を約束する消耗品でしかない。事実、Clayが爆発的な人気を博したため、後半には多くの偽作者たちがその名を共有して行く。Clayの作品は、廉価多売の出版戦争の中、まさに使い捨ての、早いサイクルに取り込まれる商品のひとつだった。
紅葉もこうした出版背景を認識していたのであろう。Clayの作品を「下敷き」として気楽に採択し、日本の新読者に新しい趣向を提供しようと試みた。何しろこうした、cheapeditionsと総称される廉価小説は、単行本価格は一冊二十−二十五セントである。輸入された日本でも、二巻組みやそれに準じる厚みのものを除けば、十五銭−四十銭の範囲で値がついた。Clayのみならず、こうした読み捨て作品はずいぶん輸入されている。英語の勉強かたがた自作の趣向探しに、こうした洋書を濫読していた同時代の文士は、珍しくなかった。
さて『金色夜叉』に「材料」を提供したのは、このClayのWeaker Thana Woman(邦題:『女より弱き者』)である。その中で、お宮に該当するヒロインはヴァイオレット、貫一は弁護士フィリックス、富山は大富豪の准男爵オーウェン、となっている。美しいヒロインが、恋人の愛情を捨て、財産家との結婚を選ぶ件は同じである。熱海の海岸と、ライラックの樹のそばという違いこそあれ、ともに月光の降りそそぐなかで、恋人に別れを告げる場面も同様だ。だが、ヴァイオレットの対応は宮よりも、明快だ。毅然とした態度で恋人に相対し、きっぱりと、こう言い放つ。
私は貧しさも、名もないことも、階級や地位がないことも嫌いなの。私はあなたが常々思ってきたような高潔な人間ではないの。私はお金とぜいたくが好きだし、豪華なものを愛するの。あなたが与えてくれたような小さな家では私はけっして満足しないの。あそこでは私の人生を満たすには充分ではないの。あの場に立ったとき、私はそれを感じたわ。あそこで長い年月どうやって生きればいいのか自問した。私はみじめになるし、あなたもみじめになるのよ。(バーサ・M・クレー『女より弱き者』拙訳・南雲堂フェニックス、平成十四年)
一見、宮よりも大胆に、財産だけに執着するかに見えながら、じつは、ヴァイオレットの心変わりには、尤もな理由がいくつもあった。彼女の藤の裏には、フィリックスとの婚約が半ば重荷に感じられたこと、オーウェンの熱心なアプローチ、ライバルの登場、爵位への強い憧れ、オーウェンと結託した母親の巧みな誘導など、他の要因が少しずつ重なっていた。そして何より大きな要素だったのは、フィリックスの運命の急変である。罪を被せられたフィリックスの父が人々に白眼視され始め、この一家は村中から孤立した。同時に、彼らは経済的に迫し、長男フィリックスの独立も難しくなった。事実上不可能となったフィリックスとの結婚は、目処もたたぬまま延期となったのである。これでは、ヴァイオレットがフィリックスと別れ、オーウェンと結婚したのも、無理からぬことだ。そこには、社会的に見てもある種の正当性があり、納得できる背景がある。単なる財産目当ての心変わり、と言い切ることはできない。それゆえに、ヴァイオレットも正面きってフィリックスに対峙することができたのだ。
翻って宮は、熱海の海岸で貫一に詰め寄られたとき、ほとんど自己主張することはない。唯一「考へた事がある」と訴える内容も、「余り言難い」という理由で、伏せてしまう。「天下にこれくらゐ理の解らん話が有らうか」と、貫一が憤るのも無理はない。貫一が詰るとおり、宮の心変わりには、社会的正当性をもつ理由が、何ひとつなかった。ヴァイオレットと宮との最大の相違点はここにある。
ヴァイオレットはその後、オーウェンと結婚したが、数年で未亡人となった。そして彼女は、莫大な寡婦資産を手にし、密かにフィリックスのもとに戻ろうと試みる。周囲には何も知らさぬまま、フィリックスと再婚し、その豊かな財を共有しようと考えたのだ。宮の「考へた事」も、おそらくこのあたりに通じよう。ここでの宮の心境を尋ねられた紅葉は、「一たび富山家に嫁して如何なる手段をか運らして財産を我が有となし、而して後ちに貫一の妻たらんとしたるなり」(「故紅葉山人と演劇と」『新小説』明治三十七年二月)と答えている。いかなる考えにしろ、財産への執着を中途半端に隠そうとした宮には、やはり「言難」すぎたのであろう。だがその態度が、ひたむきに金銭への執着を守る宮の姿を、かえって強く象づけたのかもしれない。
多くの大衆読者に、わかりやすく、一時的な楽しみを与えるストーリーテリングは、読後に響くを残してはならない。いかなる場合であっても、作中の登場人物の一連の動きには決着はつけられ、そうした意味での整合性が成り立つように著される。こうした作品を読む読者は、「娯楽」として切り取られた時間の、独立した楽しみを求めるのであり、それを日常に持ち帰ろうとはしないからだ。この種の小説の多くが「鉄道小説」と称され、列車の中、という時間的空間的に外界と遮断された箇所に持ちこまれるのはそうした理由からだ。
Weaker Thana Womanは、確かにそうした小説だった。だから、ヴァイオレットが何を思い、どう行動したのかは、宮の動きに比べれば、ずっと簡明である。そこには自然の流れがあり、妥当な理由がある。その単純明快さこそが、アメリカで大衆読者に支持されたのであり、紅葉も一読でそれを看取したはずだ。だが、紅葉は『金色夜叉』をただの「俗受け」にするつもりはなかった。「世間をよろこばしむると共に、自己の主張を加味して行かなければ」(鳴花生記「紅葉山人を訪ふ」『文芸楽部』明治三十年七月)と語った紅葉が、『金色夜叉』で目指したのは、冒頭に記した「超明治式の婦人」の具現である。
従来の婦人像とは異なる、新しい女性を描こうとした紅葉は、その婦人像を「普通」を「超」えた存在とした。宮は、「超明治式の婦人」ゆえに悔悟したという。ならば愛よりも金を選んだ宮には、ヴァイオレットのように、「社会的正当性」をもつ理由が一分でもあってはならない。言い訳できる要素を一切持たず、ただ恣に富山の財力に動かされた宮であるからこそ、その深い悔悟がいっそう生きてくる。一見した印象とは異なり、宮はヴァイオレットよりもはるかに大胆な思考の持ち主であった。両作を比較すると随所に見て取れる、こうした相違は、紅葉の斧鑿の痕あとを浮き彫りにする。そこには、材料を元の形からは想像もつかない姿に変え得た紅葉の技量が見て取れる。と同時に、その上に立ち上げられた紅葉のオリジナリティーの価値も、改めて見ることができるのではないだろうか。
雑話3 書評

 

尾崎徳太郎紅葉が『金色夜叉』を読売新聞に連載したのは明治30年の元旦からだった。前年は樋口一葉が急逝して遺作『大つごもり』が残響している年明けのこと、紅葉は2月いっぱいまで連載していったん中断した。これが30歳のときである。
ところがこの評判が大変で、また翌年元旦から連載を再開して4月まで続けたところ、すぐに市村座で舞台になった。このときすでに貫一お宮の熱海の場面が話題になった。けれども、読者の熱狂は収まらず、ある重病に罹った令嬢などは自分の命はこのままもちそうもないけれど、お宮(鴫沢宮)の運命のほうが気がかりで、自分が死んだらお花や線香を手向けてもらうなんぞより、『金色夜叉』の連載の新聞を毎日墓前に供えてほしいと言ったほどだった。いま、これほど読者の心を動かす文学はない。
こうして紅葉は明治32年、連載を再々開するのだが、今度は自分の体調がおもわしくなく、ときどき中断、34歳のときもなお連載の再々再開に挑むものの、ついに病魔に耐えられず、35歳で紅葉自身が死んでしまうのである。胃癌だった。何かの折々に、ぼくは紅葉が35歳で夭折したことを語ることがあるのだが、多くの人は尾崎紅葉と「夭折」は結びつかなかった。
だから『金色夜叉』は未完であって、かつ紅葉の遺作となった作品なのである。
それなのにその評判は紅葉の死後もいっこうに衰えず、知っての通りの新派の名題の名作舞台となって、貫一お宮の熱海の場面は映画にも歌謡曲にもコントにも記念像にもなっていった。
ところがそうなればなったで、今度は肝心の原作『金色夜叉』が遠のいて、この作品をちゃんと読む者が少なくなってきた。よくあることである。いまは『金色夜叉』を手にとる者さえいない。
けれども、『金色夜叉』の仕組みこそは紅葉畢生の大実験だったのである。前々年に書いた『多情多恨』を紅葉は口語体で書いた。それも当時の文学としての大実験だったのだが、それに苦しんだ。内容が新しいからといって三味線を捨ててエレキギターにしたようなもの、そこを脱出するために紅葉はあえて卑俗な設定を試みて、これを若いころから磨き上げたきた華麗な擬古文体で織り成すことにした。たった一行でも手を抜けば、たちまち物語は卑俗なものになる。そこを絶対に綴れ錦の文体で彫りこんだ。それが『金色夜叉』なのである。
この紅葉の大実験は何に似ているかといえば、おそらく三島由紀夫や野坂昭如がのちに試みたことの先駆だったと思えばいいだろう。
冒頭、すでにこう始まっている。「未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直(まっすぐ)に長く東より西に横たはる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂しくも往来(ゆきき)の絶えたるに、例ならず繁き車輪(くるま)の輾(きしみ)は、或は忙しかりし‥‥」。
なぜ紅葉がこうなったのか。そこを知ることは明治文学の全部の出発点を知ることにもなるのだけれど、ここではごくごくその一端を書いておく。いわば明治の金色変成観光だ。
紅葉は19歳で東京大学予備門にいたとき、すでに一九、三馬、京伝に通じていた。この同級生に美男の川上眉山、度の強い眼鏡の石橋思案が、1級下に紅葉の幼なじみのや山田美妙、野球と器械体操好きの夏目漱石、俳句好きの正岡子規がいた。
なかで一番の交際上手が紅葉で、人好きがして、みんなから慕われていた。そこへ坪内逍遥の『当世書生気質』が出た。これがなかなかシャレていた。全員が刺激をうけ、とくに紅葉と思案は発奮して文章を集め、これを編集して半紙半切32葉の回覧雑誌「我楽多文庫」をつくった。硯友社のスタートである。これによってもともと広がりのあった紅葉の交流範囲はまた大きく広がった。
広がっただけでなく、深くもなった。とくに紅葉が影響をうけたのが江戸文芸に造詣の深かった淡島寒月で(この人物こそ明治文学の鍵を握るキーパーソンだが)、紅葉は寒月に言われて初めて西鶴を読んだ。紅葉は黄表紙などの戯作には通じていたが、それ以前の江戸文学は初めてだったのである。なかでも『好色一代女』に驚いた。これをどうしたら逍遥のシャレた近代感覚と合わせられるのか。すぐにそう思った。
そこへ寒月が幸田露伴から預かっていた『禅天魔』を紹介して読ませた。露伴の処女作である。ついで『露団々』を読んだ。いずれにも奇妙で斬新な味があった。
明治21年に「我楽多文庫」が公売されるようになると、紅葉も自分で新しい小説を書くようになっていた。とくに露伴の作品が忘れられない。こうして『二人比丘尼色懴悔』が発表される。許婚の愛人を失った芳野が仏道に入って供養のために諸国をめぐるうちに行き暮れて山間の草庵をたずねると、そこに若い尼がいる。夜話をしているとその尼も夫を失っていて、それは芳野の許婚の夫だったという話である。素材と文体は『信長記』と『浮世草子』と『好色一代女』で織り成した。とくに露伴に対抗して文体を何度も練って、凝ってみた。
これが当たった。お金も入った。まだ23歳だった紅葉は喜んで石橋思案と熱海に遊びに行く。いくつかの旅館はあったが、まだ熱海が観光地になる前のことである。自然も残っていた。この熱海がのちに『金色夜叉』になる。
このあと、露伴と紅葉は読売新聞に迎えられて入社する。文学欄の充実のためである。勢いをえた若き紅葉は牛込横寺町に引っ越し、結婚もし、その根っこを張った。
ここからの紅葉は若いながらも文壇の一大センターの中心のような存在となり、硯友社は文芸の梁山泊の趣きを呈して、文士の卵が次々に集まり育てられ、ここに泉鏡花や徳田秋風や小栗風葉らの英才が輩出した。とくに鏡花の師の紅葉への奉仕的ともいえる敬愛は、異常なほどだった。
ところで紅葉には自分の出発点になった象徴のような料亭がある。芝の紅葉館である。ここは鹿鳴館に並び称された名士交流の場で、この名から「紅葉」の筆名も生まれた。紅葉自身も芝の生まれだった。そこにとびきり美人の中村須磨子という女給がいて、紅葉がいろいろ面倒をみていた学生の巌谷小波がぞっこん惚れていた。巌谷大四の息子である。
しかるに須磨子はいまをときめく博文館の大橋佐平の息子の新太郎の豪勢な遊び方と容赦のない惚れ方にすっかり翻弄され、結局はそこへ嫁いでしまった。いっとき紅葉は須磨子に「なぜ巌谷君のところに行ってやらないのか」と迫ったが、須磨子は美貌を曇らせて泣くばかりなのである。
それらの一部始終を見ていた紅葉は、この「恋の社会」の理不尽に深く心を動かされる。時あたかも日本の近代資本主義が萌芽して、金持ちと貧乏書生という構図や資本家と女工哀史という構図が見えはじめた時期である。そこで紅葉は、須磨子を鴫沢宮に、巌谷を一高生の間貫一に、大橋新太郎を金貸しの富山唯継に仕立て、それぞれをモデルに借りて新たな長編作品を構想する。題名も凝りに凝って『金色夜叉』とした。これはすばらしい表題だった。ぼくはこの表題は日本文学史上の傑作のひとつだと思っている。
『金色夜叉』の筋書はもはや書くまい。圧巻はなんといっても雅俗混淆文体の絢爛の駆使にある。それは読んでもらう以外はなく、とくに目で文字を眺め、そのままにその音と律動を声を出して酔うごとく感じるのがいい。
たとえば例の熱海の海岸の場面であるが、あれはこういう雅俗な文体によって始まるのである。ルビがなければとうてい現代人にはお手上げであろう。
「宮は見るより驚く逞(いとま)もあらず、諸共(もろとも)に砂に塗(まび)れて掻抱(かきいだ)けば、閉ぢたる眼(まなこ)より乱落(はふりお)つる涙に浸れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨(さまよ)ひて、迫れる息は凄(すさまじ)く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後(うしろ)より取縋(とりすが)り、抱緊(いだきし)め、揺動(ゆれうごか)して、戦(をのの)く声を励せば、励す声は更に戦きぬ」。
このあと、「どうして、貫一さん、どうしたのよう」という口語が入って、例の有名な「僕がお前に物を言ふのも今夜かぎりだ。一月の十七日、宮さん、よく覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか。再来年の今月今夜、十年後の今月今夜、一生を通して僕は今月今夜を忘れない云々」のセリフになっていく。
そのあとに宮が波打際に崩れて顔を被って泣くのだが、そこでまた次の雅文調なのである。「可悩(なやま)しげなる姿のつきに照らされ、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、渺々たる海の端の白く頽(くづ)れて波と打寄せたる、艶にあはれを尽せる風情に、貫一は憤(いかり)をも恨(うらみ)をも忘れて、少時(しばし)は画を看る如き心地もしつ、更に、この美しき人今は我物ならずと思へば、なかなか夢とも疑へり」。
ついでに言っておくと、この場面は御存じ有名な恋の修羅場となるのだが、その最後の最後に宮は、「貫一さん、それぢゃもう留めないから、もう一度、もう一度‥」と言って、そのあと「私は言遺(いひのこ)した事がある」という謎の一言を嗚咽のまにまに洩らしているのである。
実は『金色夜叉』はこの謎の一言をめぐって展開する。
それはお宮が富山の子を生まず、富山の死を待ってその一切の財産をもって貫一のもとに帰っていくという謎の暗示であるのだが、未完に終わった『金色夜叉』は、かえってお宮を発狂させたのち、ジッドの『狭き門』のアリサではないが、そのあとやっと落ち着いた長い手紙を送って、中断の幕が下りてしまうのだ。のちに小栗風葉やら何人かが、この続きに挑戦するものの、それは残念ながら尾崎紅葉の金色変成観光とまではいかなかった。  
雑話4 続金色夜叉のあらすじ

 

熱海の海岸涙の別れから10年目 、お金に目がくらみ、富山に嫁いだお宮を見返すために高利貸しとなり、 たちまち巨万の富を築いた貫一であったが、お宮を思う気持ちで心の晴れた日はなく、結局親友の 荒尾健介とともに、人生をやり直そうと東京を捨て、15万円の資本金で置戸で興農園という農場を開く 。この興農園獲得は 松崎網走支庁長の尽力によるものである 。置戸駅から4里(16k)ばかり山地の方へ入った ところで、後にはクマネシリ連山を負い前はシイコトロ川の流域で、その広さは100町(ha)に近い。農学士の農場主任や農夫を入れ、自らも開墾や畑作業に汗を流した 。余りにも荒涼とした北海道の天地は、都会を思慕させる前にこの大自然を征服しようという力強い野心を彼の胸に吹き込んだ 。やがて、山林事業にも着手し、将来はシイトコロ川上流に発電所を設け、それによってクマネシリ 渓間にある処女林を伐採して、製材工場を建てる計画や牧場を開く準備も始める。このため貫一は製材器具買い付けのために上京して、久々にお宮の消息を知る 。富山は放蕩に明け暮れ、お宮はいじめぬかれて監禁同様の身になっており、貫一は「ゆるす」の手紙を書いて興農園に帰る。
置戸ではたくさんの労務者が入り伐採作業が行われていたが、その中には前歴を偽った網走監獄脱獄囚がいる。男は別の使用人の女房に狼藉を働こうとして、救いに入った荒尾を手斧で打ち重傷を負わせたために貫一はこの男を猟銃で射殺する。親友を倒されたためたとえ脱獄囚とはいえ人を殺した貫一は自殺を決意し、吹雪の夜お宮に当てた遺書を書き続けているとき、吹雪の中から馬橇に乗ったお宮が着く。
貫一は「あっ」と叫んだ。お宮なのだ。彼女は狂喜しあえぎながら貫一にすがりついた。「お宮さん、僕はもう一時間君の着きやうが遅かったら、無論あの鉄砲で此の胸を撃って死んでしまってゐたのだ。あのひきがねを引く前に、君が来てくれたといふことは、確かに神の助けかも知れん」。貫一は胸の底から絞り出すやうな声でいった。いつの間にか戸外では吹雪も吹き落ちたらしく、ひっそりとした四辺にはもう雪の音も聞こえなかった。と見ると、東の空にはそろそろ黎明を催してきたものとみえ、硝子窓から蒼ざめた薄明が夢のやうに流れ込んでゐる。雪に埋もれた未開の野山を照らすその新しい暁の光の中で、しかも二人にとっては永久に忘れることの出来ない心の友である荒尾健介の瀕死の枕辺で、貫一とお宮は9年間の長い悪夢もさめて、熱いあつい真実の抱擁に酔ったのであった  続金色夜叉は、この二人のドラマチックな再会で終わる。
置戸から熱海、そして東京へ
また「金色夜叉」終焉編の「上」は、
野付牛の北辰病院で荒尾の一命が奇跡的に助かったところから開幕する。貫一とお宮の生活は長くは続かなかった。富山からの使の者がお宮を引き取りに来て、拒否すると姦通罪で訴えるという。貫一と荒尾はお宮の身を案じて相談を重ねているうちに、お宮は近くの川辺で自殺を図るが危うく助けられる。こんな出来事の後、貫一はお宮の正式離婚のために上京する。しかし、お宮は再び富山の別荘に監禁された後、悩む貫一の手元にまた自殺の報が届く。貫一は絶望の想いで農場へ帰ると、興農園が山火事に見舞われている。農場は焼け、築き上げた財産は灰と消え失せ、決定的な被害を受ける。ここで終焉「上」は終わり終焉「下」にうつる。
終焉「下」
「お宮は自殺を企てすぐ精神喪失者として精神病院へ入れられたが、それは夫富山の奸計によるものであり、不法行為を摘発して正式に裁判に仰ぐ」という弁護士からの手紙が貫一に届く。農場再建が始まるが、貫一と荒尾は支庁長にも相談して、興農園を人手にゆずり「うしろ髪」をひかれる思いで、三年間の置戸での生活に別れを告げて帰京する。ここから舞台は置戸から熱海・東京へと移り、荒尾はまもなく政界入りする。一方、お宮はついに気がふれ、置戸での楽しかったことだけを口にする毎日であったが、ある日、お宮は甘く悲しい想い出の熱海海岸で投身する。二度あることは三度とか、お宮はまたも救助され、その時のショックで正気に戻る。そして富山もお宮との離婚を認め、
貫一はその声も聞こえないやうにいつか犇とお宮の肩をかき抱いて、二人は悪夢のやうな幸福に身を浸してゐた。お宮の啜泣く声は寛一の胸の中に聞えて、五十年の生涯に二度と返ってこない一刹那が今悲恋の暗い月日を送ってきた二人を息づまるやうな陶酔のなかへ誘ひ込んで行くのであった。
これが金色夜叉の続編と、終焉編「上・下」編のあらすじであるが、谷崎潤一郎と並ぶ耽美派作家であった長田幹彦によって壮大なドラマが展開された舞台である。長田は、明治44年に釧路から帯広に出て野付牛(現・北見市)に向かう途中、ある女優と置戸駅で会う約束をしていた。だが、女優は来ない。5月というのに吹雪で汽車は止まり置戸に足止めされてしまった。山歩きが好きな長田は、吹雪が止んでから駅から8kほどある勝山の方へ歩いていった。一面荒涼とした大森林が続く。その先に西クマネシリを臨む、原始を思わせるその光景に強い衝撃を受け圧倒された。途中、開拓村の農家で暖をとりながら入植時の苦労話を聞き、切り株が残る開墾途上の風景を目にするこの体験談が、失恋や金銭欲を乗り越えて、大自然の中で開拓に挑む貫一の夢と、彼をめぐる友情と再会の物語を生み出した。  
雑話5 唄・金色夜叉 

 

作詞作曲 宮島郁芳・後藤紫雲
熱海の海岸 散歩する 貫一お宮の 二人連れ
共に歩むも 今日限り 共に語るも 今日限り
   僕が学校 おわるまで 何故(なぜ)に宮さん 待たなんだ
   ・・・ 
夫に不足は ないけれど あなたを洋行(ようこう) さすが為
父母の教えに 従って 富山一家に 嫁(かしず)かん
   如何に宮さん 貫一は これでも一個の 男子なり
   ・・・ 
宮さん必ず 来年の 今月今夜 この月は
僕の涙で くもらして 見せるよ男子(おのこ) 意気地(いきじ)から
   ダイヤモンドに 目がくれて 乗ってはならぬ 玉の輿(こし)
   ・・・ 
恋に破れし 貫一は すがるお宮を つきはなし
無念の涙 はらはらと 残るなぎさに 月さびし  
雑話6 「メロドラマ」の語源 
メロドラマの「メロ」は、「メロメロにする」の「メロ」ではなく、「歌」を意味するギリシャ語「melos(メロス)」、「ドラマ」は「劇」を意味するギリシャ語「drama」である。 日本語の「メロドラマ」は、フランス語経由で英語に入った「melodrama」から。
18世紀後半から19世紀初めにかけ、ヨーロッパの舞台劇で、劇中に感情を表現したり、観客の感情を揺さぶるため、音楽を伴奏として使用する手法が流行した。 1775年、ジャン=ジャック・ルソーの『ビグマリオン』が最初といわれる。
メロドラマは、音楽の伴奏が入る娯楽的な大衆演劇が本来の意味であるが、音楽的要素が薄れ、大衆受けする感傷的な内容のドラマといった意味の部分が強くなり、今日では扇情的・衝撃的な内容のドラマを「メロドラマ」と呼ぶようになった。
 
『金色夜叉』本文の国語学的研究 (前編・中編について)

 

要約
明治の文豪尾崎紅葉の代表作である長編小説『金色夜叉』には、諸々の本文が存在しており、それらの本文の間には、少なからぬ異同があることが先行研究によって既に指摘されている。しかし、先行研究は語句や語法の異同のみを取り上げているだけで、漢字表記の異同・句読点の異同・送り仮名の異同・語形の異同・仮名遣いの異同・漢字表記か平仮名表記かの異同、濁音符の有無の異同、ルビの有無、誤植、などについては、取り上げていない。
そこで、本稿は、読売新聞初出本文と春陽堂初版本文とを、初版単行本全五冊のうち『金色夜叉前編』『金色夜叉中編』という最初の二冊分について調査範囲とし、語句の異同だけではなく句読点や文字表記上の異同をも広く取り上げ、その全ての異同箇所を対照表として示し、その調査結果に基づいて、本文異同の偏りや特徴について考察しようとするものである。なお、本稿の執筆者は、今後もこの調査分析を継続し、できるだけ早い時期に『金色夜叉』全編の本文異同の様相を明らかにしたいと考えている。なお、本稿では、本文異同の種類を「1 符号の異同」「2 表記の異同」「3 語法の異同」「4 語句の異同」の四種類に大別し、更に、その各々を下位分類した。 
1.はじめに 
1.1 本稿の目的
明治の文豪尾崎紅葉の畢生の大作『金色夜叉』は、近代文学研究や文芸批評の対象としてばかりでなく、明治時代の言語実態の解明のための資料としても用いられることが多い。
近代日本語の研究分野は、他の時代語の研究と同様に、文字・表記、音韻、語彙、文法、文体、方言など多岐に亘るが、それらの言語事象を、個々の文献からの用例収集に基づく帰納的方法によって明らかにしようとする限り、調査対象とする文献の本文(ほんもん・テクスト)の性格の吟味が不可欠であることは言を俟たない。
本稿が対象としようとする長編小説『金色夜叉』にも又、諸々のテクストが存在する。今日では、主に、岩波書店『紅葉全集第七巻金色夜叉』(1993年刊)が流布しているようであるが、実は、それ以前に成立したテクスト間に少なからぬ異同があることが先行研究によって既に指摘されている。
『金色夜叉』の本文批評(textual criticism)についての先行研究としては、塩田良平(1952=1970)、増井典夫(2003)、同(2004)、木川あづさ(2007)の研究成果がある。塩田論文は先駆的な論考と言えるが、断片的な指摘にとどまっている。また、増井論文は「形容語での『可』」の用字法に限定した研究である。なお、木川論文は『金色夜叉』前編を対象として、讀賣新聞初出本文と春陽堂初版本文との異同箇所を全て調査した、本稿と最も関連の深い研究である。しかし、木川論文は、前編における「初出本文、初版本文の異同はすべて収集した」と述べつつも、漢字表記の異同、句読点の異同、送り仮名の異同、語形の異同、仮名遣いの異同、漢字表記か平仮名表記かの異同、濁音符の有無の異同、ルビの有無、誤植などについては取り上げないという方針の調査分析であることが注意される。ここで、念のために、この木川論文の調査方針と本稿の調査方針とが著しく異なるものであることに触れておく。木川論文が上記の方針によって収集した前編の異同は全230例であるが、本稿では、木川論文が除外した用字や符号の異同も悉く扱うという新たな調査方針によって、前編のみならず、それに続く中編をも調査した結果、前編だけでも全832例という、木川論文の3倍以上の異同箇所を収集し対比することができた。その全容については、本稿の7頁以降に対校表として掲出する。
1.2 調査範囲
本稿は、讀賣新聞初出本文と春陽堂初版本文とを、初版単行本全五冊のうち『金色夜叉前編』『金色夜叉中編』(但し、(一)〜(六)の八まで)という最初の二冊分について調査範囲とし、その異同箇所を全て対校表として示し、本文異同の様相について報告しようとするものである。なお、本稿の執筆者は、今後もこの調査分析を継続し、できるだけ早い時期に『金色夜叉』全編の本文異同の様相を明らかにしたいと考えている。(因みに、2007年12月末の時点で、『後編』の最後まで対校の作業を終えている。) 
2.『金色夜叉』の諸本 
本節では、晩年の紅葉による未完の長編小説『金色夜叉』の諸本の中で、本文の異同を考察する上で、特に重要と考えられるテクストをその成立の経緯とともに解説する。
1 新聞初出本文
まず、「金色夜叉」は、讀賣新聞に、明治30年1月1日から明治35年5月11日まで六年にわたって断続的に掲載された。(以下のa〜fの記号は便宜上本稿の執筆者が付したものである。)
a「金色夜叉」(壱)〜(八)……………………明治30年1月1日〜同年2月23日
b「後篇金色夜叉」(壱)〜(八)……………明治30年9月5日〜同年11月6日
c「続金色夜叉」(壱)〜(七)………………明治31年1月14日〜同年4月1日
d「続々金色夜叉」(壱)〜(六)……………明治32年1月1日〜同年5月28日
e「続々金色夜叉」(七)〜(十三)…………明治33年12月4日〜明治34年4月8日
f「続々金色夜叉続篇」(壱)〜(三)……明治35年4月1日〜同年5月11日
(なお、fの(壱)(二)については、紅葉自身が本文を改訂し『新小説』(明治36年1月号・2月号・3月号に「新続金色夜叉」の題名で再掲している。)
2 初版本文
「金色夜叉」初版単行本は、讀賣新聞掲載分について、明治31年7月から明治36年6月にかけて、春陽堂から以下の順で出版された。
『金色夜叉前編』明治31年7月6日発行……(新聞初出本文aと対応)
『金色夜叉中編』明治32年1月1日発行……(同上bと対応)
『金色夜叉後編』明治33年1月1日発行……(同上cと対応)
『金色夜叉続編』明治35年4月28日発行……(同上d及びe(七)(八)と対応)
『続々金色夜叉』明治36年6月12日発行……(同上e(九)〜(十三)と対応)
(なお、『続々金色夜叉』第七版には、1の『新小説』掲載の「新続金色夜叉」の追加がある。)
3 博文館版全集本文
明治36年10月に紅葉が没した後、博文館より『紅葉全集』が刊行された。その『紅葉全集第六巻』(明治37年12月18日発行)に「金色夜叉」が収められている。章立ては2と同じであるが、さらに「新続金色夜叉」を追加している。「新続金色夜叉」の第一章、第二章は『新小説』掲載本文を、第三章は新聞初出本文を用いているという。なお、この本文について、塩田良平(1952=1970)が、「紅葉が改めて手を入れ」「全体の統一訂正は紅葉の門弟泉斜汀(鏡花の弟)がした」と述べている点は注意を要する。
4 中央公論社版全集本文
上記の3の後、春陽堂より幾種類かの「金色夜叉」が出版されているが、未見である。むしろ、ここで注目したいのは、塩田良平が校訂した中央公論社版『尾崎紅葉全集第六巻』(昭和16年6月発行)所収の「金色夜叉」本文である。塩田良平(1952=1970)によれば、「単行本本文(本稿の上記2の本文を指す引用者注)に紅葉が手を入れ、更に斜汀が検訂した右全集本(本稿の上記3の本文を指す、引用者注)を底本とし、斜汀の校訂した部分(例えば字体、送仮名、仮名遣など不自然な統一による紅葉用字法の無視部分)を原文に戻し、かつ単行本全集本に犯されてゐた本文の組違へなどを正常に復した新しい『金色夜叉』本文が、(中略)中央公論社本『尾崎紅葉全集』第六巻の本文である」とのことである。文字通りそうであるなら「最も原作の俤を伝へる」(同上)本文であることになろうが、木川あづさ(2007)の調査結果によると、上記の123のいずれの本文とも異なる「塩田氏独自の表現」が散見すると言う。この4の本文は、後に筑摩書房『明治文学全集第十八巻尾崎紅葉集』(昭和40年4月10日発行)所収「金色夜叉」の底本として採用されることにもなる。今回、本稿ではこの4の本文に関しては研究対象としていないが、その独自性については、作品全編に亘って、今後、周到に調査検討される必要がある。 
3.本稿における本文異同の調査方法と分類の枠組 
3.1
くり返しになるが、本稿は、前節の、1新聞初出本文a・bと、2『金色夜叉前編』(以下『前編』と略称)及び『金色夜叉中編』(正確には、本稿における中編の調査範囲は、(一)〜(六)の八までであるが、以下『中編』と略称する)の初版本文の両者を対校し、その異同箇所を掲出することを目的としている。その際、語句の異同だけではなく、句読点や文字表記上の異同をも広く取り上げるという調査方針をとるため、異同箇所の掲出のし方は、以下の凡例によるものとする。
(1) 対校にあたって、讀賣新聞初出本文には「壱の一」のように回数を示し、春陽堂初版本文には異同のある箇所の頁数と行数を算用数字で示した。讀賣新聞初出本文は「明治の讀賣新聞」(CD−ROM 読売新聞社メディア企画局データベース部1999年刊)を用いた。春陽堂初版本文は、『精選名著復刻全集近代文学館』(ほるぷ昭和55年刊)の複製本を用いた。
(2) 漢字の掲出にあたっては、本文の字体が正字体以外の異体字・別字体の類であっても、両者の間に異同のある箇所についてはその字体をそのまま残した。それ以外の箇所については、常用漢字表にある文字はその字体を用い、それ以外は正字を使用した。
(3) 句読点、符号、反復記号、仮名遣い、送り仮名、仮名の清濁については異同の対象とした。ただし、変体仮名については取り上げない。
(4) ルビの異同については、語形の違いだけでなく、仮名遣いと清濁の違いも取り上げた。なお、本稿の対校表では、ルビは、例えば「誤解(ごかい)」のように、漢字の直後の括弧内に示した。また、「誤解(ご□い)」はルビの二文字目が欠字、もしくは判読不能であることを意味する。
なお、初出本文は総ルビであるのに対して、初版本文はパラルビであるので、初出本文にあったルビが初版本文で欠けている箇所については、異同の対象としていない。
(5) 異同箇所の掲出は、原則として、30字までを目安としている。
(6) ある一つ異同箇所が、以下の3.2の分類法における複数の種類の異同として分析しうる場合には、複数の項目に立項した。これは、将来、対校表から各種類ごとに異同一覧を検索できるようにするためである。
3.2
本稿が取り上げた本文異同を分類すると、次のようになる。
まず、「1 符号の異同」「2 表記の異同」「3 語法の異同」「4 語句の異同」の四種類に大別し、さらに、その各々を下位分類した。なお、「金色夜叉」の初出本文と初版本文との間に、具体的にどのような異同が見られるのか、各類に該当する異同箇所を一例ずつ例示しておく。ちなみに、以下の例は、初出「後編」とそれに対応する初版『中編』から掲出している。なお、カギ括弧と下線は、本稿において用例を引用する際に付したものであり、「金色夜叉」本文の一部ではない。用例の直後の番号は、本稿の対校表の通し番号である。 
1 符号の異同
111 読点の変更(→句点):「是非願(ぜひねが)ひな、」(初出)→「是非願(ぜひねが)ひな。」(初版)1301
112 読点の付加:「あな可煩(わずらは)しと」(初出)→「あな可煩(わずらは)しと、」(初版)1232
113 読点の削除:「お世話(せわ)になりまして、お蔭様(かげさま)で」(初出)→「お世話(せわ)になりましてお蔭様(かげさま)で」(初版)1206
121 句点の変更(→読点):「なすつて下(くだ)すつたのに。」(初出)→「なすつて下すつたのに、」(初版)1300
122 句点の付加:「譯(わけ)だ!」(初出)→「譯(わけ)だ!。」(初版)1698
123 句点の削除:「塞(ふさが)つてをりますから。」(初出)→「塞(ふさが)つてをりますから」(初版)1415
131 その他の符号の変更:「五とは情無(なさけな)い、」(初出)→「五とは情(なさけ)無い!」(初版)1394
132 その他の符号の付加:「さあ、那(あれ)で」(初出)→「「さあ、那(あれ)で」(初版)1526
133 その他の符号の削除:「見(み)せて遣(や)りたい!!」(初出)→「見せて遣(や)りたい!」(初版)1665 
2 表記の異同
210 仮名遣いの変更:「醉(よ)はざらむと欲(ほつ)するに」(初出)→「醉(よ)はざらんと欲(ほつ)するに」(初版)1219
220 送り仮名の変更:「艱(なや)ましげに」(初出)→「艱(なやま)しげに」(初版)1246
231 ルビの仮名遣いの変更:「御愁傷(ごしゆうしやう)のやうな」(初出)→「御愁傷(ごしうしやう)のやうな」(初版)1380
232 ルビ(無→有):「一枚(まい)の證文(しようもん)を」(初出)→「一枚(いちまい)の證文(しようもん)を」(初版)1663
240 反復記号の変更:「嗚呼(ああ)、」(初出)→「嗚呼(あゝ)、」(初版)1711
251 濁音符(有→無):「蒟蒻玉(こんにやくだま)。」(初出)→「蒟蒻玉(こんにやくたま)。」(初版)1399
252 濁音符(無→有):「従々(づか)と」(初出)→「々(づが)と」(初版)1417
260 漢字の変更:「苦痛(くるしみ)を齎(もたら)して、」(初出)→「痛苦(くるしみ)を齎(もたら)して、」(初版)1223
271 平仮名→漢字:「「ほんに」(初出)→「「本に」(初版)1518
272 漢字→平仮名:「頭痛(づヽう)が致(いた)すので。」」(初出)→「頭痛(づつう)がいたすので。」(初版)1331
280 誤植:「高利貸(アイス)を」(初出)→「高利貸(アスイ)を」(初版)1524 
3 語法の異同
311 助詞の変更:「呟(つぶや)きながら庭下駄(にはげた)を」(初出)→「呟(つぶや)きつゝ庭下駄(にはげた)を」(初版)1311
312 助詞の付加:「お掛(か)けなさい。」(初出)→「お掛(か)けなさいな。」(初版)1250
313 助詞の削除:「心配(しんぱい)はして居(ゐ)る」(初出)→「心配(しんぱい)して居る」(初版)1645
321 助動詞の変更:「途(みち)に求(もと)めたるなり。」(初出)→「途(みち)に求(もと)めしなり。」(初版)1374
322 助動詞の付加:「行(い)かうとは何(なに)?」(初出)→「行かうとは何だ!」(初版)1396
323 助動詞の削除:「事(こと)の秘密(ひみつ)なるべきを思(おも)へば、」(初出)→「事の秘密(ひみつ)なるを思へば、」(初版)1195
330 助詞・助動詞間の異同:「過(す)ぎし故(ゆゑ)なりと知(し)りぬ。」(初出)→「過(す)ぎし故ぞと知りぬ。」(初版)1258
341 用言の活用の変更:「思合(おもひあは)するなるべし。」(初出)→「思合すなるべし。」(初版)729
342 用言の音便の変更:「氣(き)の毒(どく)なと思(おも)つて」(初出)→「氣(き)の毒(どく)なと思うて」(初版)41
351 単文の複文化:「太(いた)く驚(おどろ)けり。」(初出)→「太(いた)く驚(おどろ)きて、」(初版)1255
352 複文の単文化:「詰(なじ)るが如(ごと)く見返(みかへ)して、」(初出)→「詰(なじ)るが如く見返(みかへ)しつ。」(初版)441
360 文の成分の語順転倒:「お座敷(ざしき)で先程(さきほど)からお待兼(まちかね)で」(初出)→「先程(さきほど)からお座敷ではお待兼(まちかね)で」(初版)1267 
4 語句の異同
410 名詞の異同:「三月目毎(みつきめごと)に血(ち)を」(初出)→「一月隔(ひとつきおき)に血(ち)を」(初版)1470
420 動詞の異同:「妻(つま)とすべき以上(いじやう)を」(初出)→「妻(つま)となすべき以上を」(初版)1891
430 形容詞の異同:「うゝ、好(よ)い松茸(まつだけ)だ。」(初出)→「うゝ、好(い)い松茸(まつだけ)だ、」(初版)1766
440 形容動詞の異同:「強慾(がうよく)の事(こと)を」(初出)→「強慾(がうよく)な事を」(初版)1496
450 副詞の異同:「一寸(ちよつと)」(初出)→「些(ちよいと)」(初版)1412
460 接続詞の異同:「然(さ)れども」(初出)→「然(しか)れども、」(初版)1939
470 感動詞の異同:「風「あ、」(初出)→「風「あゝ」(初版)1615
481 語句・文章の変更:「葛(くづ)の花咲(はなさ)きて、」(初出)→「葛(くづ)の乱(みだ)れ生(お)ひて、」(初版)1235
482 語句・文章の付加:「遊佐(ゆさ)は」(初出)→「少間(しばし)ありて遊佐は」(初版)1430
483 語句・文章の削除:「可恐(おそろし)さと」(初出)→ ナシ(初版)1190 
4.おわりに 
以上、本稿では、「金色夜叉」諸テクストの中でも、特に重要と考えられる、讀賣新聞初出本文と春陽堂初版本文とを取り上げ、初版単行本全五冊のうち『金色夜叉前編』『金色夜叉中編』(但し、(一)〜(六)の八まで)という最初の二冊分を調査範囲とし、その異同箇所を対校表として全て掲出し、本文異同の様相について報告した。
今、『前編』に限ってみても、今回の調査を通して、両者のテクスト間には本文の異同箇所が832箇所も存在することが明らかになった。(なお、『中編』には約2200の異同箇所がある。)さらに、『前編』の本文の異同を、前節の分類基準にしたがって下類化して示すと、「1 符号の異同」が12%、「2 表記の異同」が59%、「3語法の異同」が20%、「4 語句の異同」が9%、であることも判明した。とは言え、本稿は未だ『金色夜叉』全体の5分の2ほどの調査報告にすぎない。ひき続き、『金色夜叉』本文の全容解明にむかって邁進したい。 
参考文献
小平麻衣子(1998)『NHK 文化セミナー・明治文学を読む尾崎紅葉〈女物語〉を読み直す』日本放送出版協会
嘉部嘉隆編(1988)『森外「舞姫」諸本研究と校本』桜楓社
木川あづさ(2007)「『金色夜叉』における新聞初出と初版本の本文異同について」『実践国文学』第71号実践国文学会
塩田良平(1952)「金色夜叉の本文成立について」『大正大学学報』38
――――― (1970)『明治文学論考』桜楓社
田島優(1998)『近代漢字表記語の研究』和泉書院
土佐亨(2005)『紅葉文学の水脈』和泉書院
飛田良文(1992)『東京語成立史の研究』東京堂出版
増井典夫(2003)「尾崎紅葉における形容語での「可」の用字について―『金色夜叉』『多情多恨』の場合―」
『愛知淑徳大学国語国文』26
――――― (2004)「尾崎紅葉における形容語での「可」の用字―初期作品を中心に―」『愛知淑徳大学国語国文』27
松井栄一(1993)「現代語研究のために―明治期以降の著作物のテキストについて―」『国語と国文学』10月号
松井栄一(2005)『国語辞典はこうして作られる理想の辞書をめざして』港の人
山下浩(1993)『本文の生態学漱石・外・芥川』日本エディタースクール出版部
湯浅茂雄(2000)「近代語研究の要点と課題」『日本語学』19
付記本稿は、北澤が企画立案し、許が収集した用例を北澤が分析検討し、両者による議論と調整を経て、1〜4を北澤が執筆し、「讀賣新聞初出本文・春陽堂初版本文対校表」を許が作成したものである。 
 
正宗谷崎両氏の批評に答う / 永井荷風

 

去年の秋、谷崎君がわたくしの小説について長文の批評を雑誌『改造』に載せられた時、わたくしはこれに答える文をかきかけたのであるが、勢(いきおい)自作の苦心談をれいれいしく書立てるようになるので、何となく気恥かしい心持がして止(よ)してしまった。然るにこの度は正宗君が『中央公論』四月号に『永井荷風論』と題する長文を掲載せられた。
わたくしは二家の批評を読んで何事よりもまず感謝の情を禁じ得なかった。これは虚礼の辞ではない。十年前であったなら、さほどまでにうれしいとは思わなかったかも知れない。しかし今は時勢に鑑(かんが)みまた自分の衰老を省みて、今なおわたくしの旧著を精読して批判の労を厭(いと)わない人があるかと思えば満腔(まんこう)唯感謝の情を覚ゆるばかりである。知らぬ他国で偶然同郷の人に邂逅(かいこう)したような心持がしたのである。
かつて大正十五年の春にも正宗君はわたくしの小説及(および)雑著について批評せられたことがあった。その時わたくしは弁駁(べんばく)の辞をつくったが、それは江戸文学に関して少しく見解を異にしているように思ったからで、わたくしは自作の小説については全く言う事を避けた。自作について云々するのはどうも自家弁護の辞を弄するような気がして書きにくかった故である。わたくしが個人雑誌『花月』の誌上に、『かかでもの記』を掲げて文壇の経歴を述べたのは今より十五、六年以前であるが、初は『自作自評』と題して旧作の一篇ごとに執筆の来由を陳(の)べ、これによって半面はおのずから自叙伝ともなるようにしたいと考えた。しかしそれもあまり自家吹聴に過るような気がして僅に『かかでもの記』三、四回を草して筆を擱(お)いた。
谷崎君は、さきに西鶴と元禄時代の文学を論じ、わたくしを以て紅葉先生と趣を同じくしている作家のように言われた。事の何たるを問わず自分の事をはっきり自分で判断することは至難である。谷崎君が批判の当れるや否やはこれを第三者に問うより外はない。紅葉先生は硯友社(けんゆうしゃ)諸先輩の中(うち)わたくしには最も親しみが薄いのである。外国語学校に通学していた頃、神田の町の角々(かどかど)に、『読売新聞』紙上に『金色夜叉(こんじきやしゃ)』が連載せられるという予告が貼出(はりだ)されていたのを見たがしかしわたくしはその当時にはこれを読まなかった。啻(ただ)に『金色夜叉』のみならず紅葉先生の著作は、明治三十四、五年の頃友人に勧められて一括してこれを通読する日まで、わたくしは殆どこれを知らずにいた位である。これも別に確然たる意見があったわけではない。その頃の書生は新刊の小説や雑誌を購読するほどの小使銭を持っていなかったので、読むに便宜のない娯楽の書物には自然遠ざかっていた。わたくしの家では『時事新報』や『日々新聞』を購読していたが『読売』の如きものは取っていなかった。馬琴(ばきん)春水(しゅんすい)の物や、『春雨物語』、『佳人の奇遇』のような小説類は沢山あったが、硯友社作家の新刊物は一冊もなかった。わたくしが中学生の頃初め漢詩を学びその後近代の文学に志を向けかけた頃、友人井上唖々(いのうえああ)子が『今戸心中(いまどしんじゅう)』所載の『文芸倶楽部(ぶんげいクラブ)』と、緑雨(りょくう)の『油地獄』一冊とを示して頻(しきり)にその妙処を説いた。これが後日わたくしをして柳浪(りゅうろう)先生の門に遊ばしめた原因である。しかしその後幾星霜を経て、大正六、七年の頃、わたくしは明治時代の小説を批評しようと思って硯友社作家の諸作を通覧して見たことがあったが、その時分の感想では露伴(ろはん)先生の『※(言+闌)言長語(らんげんちょうご)』と一葉(いちよう)女史の諸作とに最(もっとも)深く心服した。緑雨の小説随筆はこれを再読した時、案外に浅薄でまた甚(はなはだ)厭味(いやみ)な心持がした。わたくしは今日に至っても露伴先生の『※(言+闌)言長語』の二巻を折々繙(ひもと)いている。
大正以前の文学には、今日におけるが如く江戸趣味なる語に特別の意味はなかった。もしこの語を以て評すれば露伴先生の文はけだし江戸趣味の極めて深遠なるもので、また古今を通じて随筆の冠冕(かんべん)となすべきものである。『世に忘れられたる草木』『雲のいろいろ』以下幾十篇皆独特の観察に基いている。正宗君は露伴先生が明治三十年代に雑誌『新小説』に執筆せられたこれらの随筆を忘れておられるのであろう。もしこれを思出されたなら、わたくしの雑著についての賛辞は過半取消されるにちがいない。
明治四十一年の秋西洋から帰って後、わたくしは間もなく『すみだ川』の如き小説をつくった。しかし執筆の当時には特に江戸趣味を鼓吹する心はなかった。洋行中仏蘭西(フランス)のフレデリック・ミストラル、白耳義(ベルギー)のジョルヂ・エックー等の著作をよんで郷土芸術の意義ある事を教えられていたので、この筆法に倣(なら)ってわたくしはその生れたる過去の東京を再現させようと思って、人物と背景とを隅田川の両岸に配置したのである。短篇小説『狐』と題したものもまた同様である。わたくしはその頃既に近代仏蘭西の小説を多く読んでいた事については、窃(ひそか)に人後(じんご)に落ちないと思っていたが、しかしいざ筆を取って見ると文才と共に思想の足りない事を知って往々絶望していたこともあった。まだ巴里(パリー)にあった頃わたくしは日本の一友人から、君は頻にフロオベルを愛読しているが、君の筆はむしろドーデを学ぶに適しているようだ、と忠告されたこともあった。二葉亭(ふたばてい)の『浮雲』や森先生の『雁(がん)』の如く深刻緻密(ちみつ)に人物の感情性格を解剖する事は到底わたくしの力の能(よ)くする所でない。然るに、幸にも『深川の唄』といい『すみだ川』というが如き小作を公にするに及んで、忽(たちまち)江戸趣味の鼓吹者と目せられ、以後二十余年の今日に至ってなお虚名を贏(か)ち得ている。文壇の僥倖児(ぎょうこうじ)といわれるのは、けだし正宗君の言を俟(ま)つに及ぶまい。
大正改元の翌年市中に暴動が起った頃から世間では仏蘭西の文物に親しむものを忌(い)む傾きが著しくなった。たしか『国民新聞』の論説記者が僕を指して非国民となしたのもその時分であった。これは帰朝の途上わたくしが土耳古(トルコ)の国旗に敬礼をしたり、西郷隆盛(さいごうたかもり)の銅像を称美しなかった事などに起因したのであろう。しかし静に考察すれば芸術家が土耳古の山河風俗を愛惜する事は、敢て異となすには及ばない。ピエール・ロチは欧洲人が多年土耳古を敵視し絶えずその領土を蚕食(さんしょく)しつつある事を痛嘆して『苦悩する土耳古』と題する一書を著(あらわ)し悲痛の辞を連ねている。日本と仏蘭西とは国情を異にしている。大正改元の頃にはわたくしも年三十六、七歳に達したので、一時の西洋かぶれも日に日に薄らぎ、矯激なる感動も年と共に消えて行った。その頃偶然黒田清輝(くろだきよてる)先生に逢ったことがあるが「君も今の中(うち)に早く写真をうつして置け。」と戯(たわむれ)に言われたのを、わたくしは今に忘れない。日本の風土気候は人をして早く老いさせる不可思議な力を持っている。わたくしは専(もっぱら)これらの感慨を現すために『父の恩』と題する小説をかきかけたが、これさえややもすれば筆を拘束される事が多かったので、中途にして稿を絶った。わたくしはふと江戸の戯作者また浮世絵師等が幕末国難の時代にあっても泰平の時と変りなく悠々然(ゆうゆうぜん)として淫猥(いんわい)な人情本や春画をつくっていた事を甚(はなはだ)痛快に感じて、ここに専(もっぱら)花柳小説に筆をつける事を思立った。『新橋夜話(しんきょうやわ)』または『戯作者(げさくしゃ)の死』の如きものはその頃の記念である。浮世絵並(ならび)に江戸出版物の蒐集(しゅうしゅう)に耽ったのもこの時分が最も盛であった。
浮世絵の事をここに一言したい。わたくしが浮世絵を見て始て芸術的感動に打たれたのは亜米利加(アメリカ)諸市の美術館を見巡(みまわ)っていた時である。さればわたくしの江戸趣味は米国好事家の後塵(こうじん)を追うもので、自分の発見ではない。明治四十一年に帰朝した当時浮世絵を鑑賞する人はなお稀であった。小島烏水(こじまうすい)氏はたしか米国におられたので、日本では宮武外骨(みやたけがいこつ)氏を以てこの道の先知者となすべきであろう。東京市中の古本屋が聯合(れんごう)して即売会を開催したのも、たしか、明治四十二、三年の頃からであろう。
大正三、四年の頃に至って、わたくしは『日和下駄(ひよりげた)』と題する東京散歩の記を書き終った。わたくしは日和下駄をはいて墓さがしをするようになっては、最早(もはや)新しい文学の先陣に立つ事はできない。三田(みた)の大学が何らの肩書もないわたくしを雇(やと)って教授となしたのは、新文壇のいわゆるアヴァンガルドに立って陣鼓(タンブール)を鳴らさせるためであった。それが出来なくなればわたくしはつまり用のない人になるわけなので、折を見て身を引こうと思っていると、丁度よい事には森先生が大学文科の顧問をいつよされるともなくやめられる。上田先生もまた同じように、次第に三田から遠ざかっておられたので、わたくしは病気を幸に大正四年の十二月をかぎり、後事を井川滋氏に託して三田を去った。わたくしは最初雇われた時から、無事に三個年勤められれば満足だと思っていた。三年たてば三田の学窓からも一人や二人秀才の現れないはずはない。とにかくそれまでの間に、森先生に御迷惑をかけるような失態を演じ出さないようにと思ってわたくしは毎週一、二回仏蘭西人某氏の家へ往(い)って新着の新聞を読み、つとめて新しい風聞に接するようにしていた。三年の歳月は早くも過ぎ、いつか五年六年目となった。もともとわたくしは学ぶに常師というものがなかったから、独学固陋(ころう)の譏(そしり)は免(まぬか)れない。それにまた三田の出身者ではなく、外から飛入りの先生だから、そう長く腰を据えるのはよくないという考もあった。
わたくしの父は、生前文部省の役人で一時帝国大学にも関係があったので、わたくしは少年の頃から学閥の忌むべき事や、学派の軋轢(あつれき)の恐るべき事などを小耳(こみみ)に聞いて知っていた。しかしこれは勿論わたくしが三田を去った直接の原因ではない。わたくしの友人等は「あの男は生活にこまらないからいつでも勝手気儘(きまま)な事をしているのだ」といってその時も皆これを笑った。谷崎君の批評にも正宗君の論文にもわたくしが衣食に追われていない事が言われている。これについてわたくしは何も言う事はない。唯一言したいのは、もしわたくしが父兄を養わなければならぬような境遇にあったなら、他分小説の如き遊戯の文字を弄(もてあそ)ばなかったという事である。わたくしは夙(はや)くから文学は糊口(ここう)の道でもなければ、また栄達の道でもないと思っていた。これは『小説作法』の中にもかいて置いた。政治を論じたり国事を憂いたりする事も、恐らくは貧家の子弟の志すべき事ではあるまい。但し米屋酒屋の勘定を支払わないのが志士(しし)義人(ぎじん)の特権だとすれば問題は別である。
わたくしは教師をやめると大分気が楽になって、遠慮気兼(きがね)をする事がなくなったので、おのずから花柳小説『腕くらべ』のようなものを書きはじめた。当時を顧ると、時世の好みは追々(おいおい)芸者を離れて演劇女優に移りかけていたので、わたくしは芸者の流行を明治年間の遺習と見なして、その生活風俗を描写して置こうと思ったのである。カッフェーの女給はその頃にはなお女ボーイとよばれ鳥料理屋の女中と同等に見られていたが、大正十年前後から俄(にわか)に勃興して一世を風靡(ふうび)し、映画女優と並んで遂に演劇女優の流行を奪い去るに至った。しかし震災後早くも十年を過ぎた今日では女給の流行もまた既に盛を越したようである。これがわたくしの近著『つゆのあとさき』の出来た所以(ゆえん)である。
谷崎君はこの拙著を評せられるに当って、わたくしが何のために、また何の感興があって小説をかくかという事を仔細に観察しまた解剖せられた。谷崎君の眼光は作者自身の心づかない処まで鋭く見透していた。
ここでちょっと井原西鶴について言いたい事がある。世人は元禄の軟文学を論ずる時必(かならず)西鶴と近松とを並び称しているようであるが、わたくしの見る処では、近松は西鶴に比すれば遥に偉大なる作家である。西鶴の面目は唯その文の軽妙なるに留っている。元禄時代にあって俳諧をつくる者は皆名文家である。芭蕉とその門人去来(きょらい)東花坊(とうかぼう)の如き皆然りで、独(ひとり)西鶴のみではない。試に西鶴の『五人女』と近松の世話浄瑠璃(せわじょうるり)とを比較せよ。西鶴は市井(しせい)の風聞を記録するに過ぎない。然るに近松は空想の力を仮りて人物を活躍させている。一は記事に過ぎないが一は渾然(こんぜん)たる創作である。ここに附記していう。岡鬼太郎(おかおにたろう)君は近松の真価は世話物ではなくして時代物であると言われたが、わたくしは岡君の言う所に心服している。
西鶴の価(あたい)を思切って低くして考えれば、谷崎君がわたくしを以て西鶴の亜流となした事もさして過賞とするにも及ばないであろう。
江戸時代の文学を見るにいずれの時代にもそれぞれ好んで市井の風俗を描写した文学者が現れている。宝暦以後、文学の中心が東都に移ってから、明和年代に南畝(なんぽ)が出で、天明年代に京伝(きょうでん)、文化文政に三馬(さんば)、春水(しゅんすい)、天保に寺門静軒(てらかどせいけん)、幕末には魯文(ろぶん)、維新後には服部撫松(はっとりぶしょう)、三木愛花(みきあいか)が現れ、明治廿年頃から紅葉山人(こうようさんじん)が出た。以上の諸名家に次(つ)いで大正時代の市井狭斜の風俗を記録する操觚者(そうこしゃ)の末に、たまたまわたくしの名が加えられたのは実に意外の光栄で、我事は既に終ったというような心持がする。
正宗谷崎二君がわたくしの文を批判する態度は頗(すこぶる)寛大であって、ややもすれば称賛に過ぎたところが多い。これは知らず知らず友情の然らしめたためであろう。あるひは幾分奨励の意を寓して、晩年更に奮発一番すべしとの心であるやも知れない。わたくしは昭和改元の際年は知命に達していた。二君の好意を空(むな)しくせまいと思っても悲しい哉(かな)時は早や過去ったようである。強烈な電燈の光に照出される昭和の世相は老眼鏡のくもりをふいている間にどんどん変って行く。この頃、銀座通に柳の苗木(なえぎ)が植付(うえつ)けられた。この苗木のもとに立って、断髪洋装の女子と共に蓄音機の奏する出征の曲を聴いて感激を催す事は、鬢糸(びんし)禅榻(ぜんとう)の歎(たん)をなすものの能(よ)くすべき所ではない。巴里(パリー)には生きながら老作家をまつり込むアカデミイがある。江戸時代には死したる学者を葬る儒者捨場があった。大正文学の遺老を捨てる山は何処にあるか……イヤこんな事を言っていると、わたくしは宛然(さながら)両君がいうところの「生活の落伍者」また「敗残の東京人」である。さればいかなる場合にも、わたくしは、有島、芥川の二氏の如く決然自殺をするような熱情家ではあるまい。数年来わたくしは宿痾(しゅくあ)に苦しめられて筆硯(ひっけん)を廃することもたびたびである。そして疾病(しっぺい)と老耄(ろうもう)とはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道はこの二者より外はない。老と病とは人生に倦(う)みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は頗(すこぶる)妙(みょう)である。
コノ稿ハ昭和七年三月三十日正宗白鳥君ノ論文ヲ読ミ燈下匆々(そうそう)筆ヲ走ラセタ。ワガ旧作執筆ノ年代ニハ記憶ノ誤ガアルカモ知レナイ。好事家(こうずか)ハ宜(よろ)シク斎藤昌三氏ノ『現代日本文学大年表』ニ就イテコレヲ正シ給エトイウ。 
 
森鴎外の作品批評 / 《合評》形式の意味をめぐって

 

日清戦争従軍(明27・8〜明28・10)を終え帰京した森鴎外が感じ取ったものは、文壇に生まれ始めていた新しい気運であった。悲惨小説、深刻小説、あるいは観念小説と呼ばれる新しい傾向の作品が続々と生み出され、泉鏡花、広津柳浪、川上眉山、後藤宙外、小栗風葉、小杉天外らが次第に文壇的地位を固めつつあった。また、明治二十八(一八九五)年一月には「文藝倶樂部」「太陽」「帝國文學」、二月には「青年文」、七月には「新聲」「新小説」「新文壇」と、文芸雑誌の創刊も相次ぎ、さらに新進の評論家として上田柳村、高山樗牛の発言が注目を集めていた。
中央に復帰し、明らかに世代交代が始まりつつあった文壇の状況を目の当たりにした鴎外は、明治二十九(一八九六)年万、「めさまし草」創刊によ・て自身の文学活動を再開する・かつて鴎外は・「しからみ纂」創刊(題6°お)に際し、その巻頭に『しからみ草紙の本領を論ず』(S・S・S)と題した一文を寄せ、その発行趣旨を説いていたが、「めさまし草」創刊号にはそのような記事は見いだせない。しかし巻頭には、当時、皮肉・嘲罵・風刺をほしいままにしていた正太夫斎藤緑雨一流の文芸時評とも言うべき『金剛杵』が掲載されており、次に挙げる一節は、「めさまし草」の編集方針をほぼ代弁している。
試みに今の批評家なる者に問はん作者としての露伴紅葉と同じき力を評者として有するの人あるか恐らくはこれ無からん批評とは受付が長官のかげ口をきく類のものにあらず今の作家の作を売るを答むといへども今の批評家は評を売り居るなり
(中略)
所謂青年作家に告ぐ君等唯真直に歩め渠等のオダテに乗る勿れ渠等は面白つくに評をなす者なり忠実なる者にあらず吹けば飛ぶ如き君等が作をも沈痛の深刻のといふを見れば渠等が唱ふる雄大も荘厳も知れたものなり
(中略)
われら山豆鴎外を扶けんや鴎外山豆われらが扶けを待たんや『めさまし草』には首領なる者なし首領を仰ぐの要なし批評の不振という共通の認識のもと「めさまし草」に集まった個性の組み合せによって、新しい批評の形が生み出されることを予感させる一節である。現に「めさまし草」は、日清戦争出征のため休刊し、そのまま廃刊した「しからみ草紙」と同様に、文学評論を主体としているが、とくに新しい特色は、《批評の批評》に重点を置いていた「しからみ草紙」時代に築き上げた文芸批評理論の実践とも言うべき作品批評が現れたことである。
「めさまし草」における作品批評は、鴎外単独の場合と幸田露伴、斎藤緑雨、尾崎紅葉らを交えた(合評》の場合とがある。
前者としては、巻之一(明29・1)から巻之⊥ハ(明29・6)における『鶴翻掻』、巻之十(明29・10)から巻之十三(明30・1)における「触膿』、巻之三十四(明32・1)と巻之三十六(明32・4)における『雲中独語』が挙げられる。
これらの中には、「しからみ草紙」時代のような《批評の批評》も含まれるが、かなりの部分が月々の新作批評に当てられており、しかも、その批評基準の根底にハルトマン美学の立場がある点が注目される。鴎外は、〈観念を美とは異次元のものとする美学器〉に基づいて・作者や作品の思想・世界観に三て三さい触れようとしないし、作品と現実との関係についても論評しようとはしない。〈われは唯詩の真を説かんがために、其作者の個人的世界観を顧慮するは、其作者の伝記を顧慮するより重かるべき程のものに非ざるべきをことわりおかむのみ。故奈何といふに、至大なる個人的世界観あるものは、われその大哲学者たることを知りて、その必ず大詩人たることを知らざればなり〉という姿勢がほぼ一貫しているのである。
後者の《合評》形式によるものとしては、巻之三(明29・3)から巻之七(明29・7)まで連載された、脱天子(露伴)、登仙坊(緑雨)、鍾禮舎(鴎外)による『三人冗語』、続いて、巻之八(明29・9)から巻之三十一(明31・9)まで、露伴、緑雨、学海、篁村、紅葉、鴎外、思軒の七人の署名で掲載された『雲中語』がある。また、この間、『好色一代女』や『水瀞伝』など和漢の古典についての《合評》が六篇、『標新領異録」の名で、巻之十七(明30・5)から巻之二十七(明31・4)までの間に載せられている。評者としては、竹二、学海、紅葉、露伴、思軒、篁村、椀南、鴎外らが登場し、各自の名を出して発言している。続く「藝文」(明35・6および明35・8)「萬年艸」(明35・10〜明37・3)になると、三篇の古典《合評》のほかに、『金色夜叉上中下篇合評』(「藝文」巻第二、明35・8)と『新社会合評』(「ン年艸」巻第三〜巻第四、明35・12〜明36・2)が出るだけであることを考えると、「めさまし草」での作品《合評》にかけた鴎外の意欲には並々ならぬものがあったと想像される。
美学に基づく批評の確立を目指していたはずの鴎外が、どういう意図でこの《合評》を始めたかについては、明確な答えは出しにくい。
後に田山花袋は・〈その内容には・非常に有益な・今日読んで見ても有益な批評があつたので袈〉と「めさまし草」における《合評》の意義を認めつつも、〈人に逢つては、「あれに逢つちやかなはない。誰も片なしだから」などと言つてゐるけれども、内心では「めざまし草」の新刊が雑誌屋の店頭に並んでゐるのを見るのが辛かつた。見たいには見たいし、見るのもイヤだし、さうかと言つて見ぬわけにも行かぬので、店頭に立つて自分のわる口を言はれてゐるところだけを見て、顔を赤くして、腹を立て・さつさと出て行つた〉と当時の多くの作家たちを代弁する言を述べ、さらにく大家達の新しい時代に対する防禦運動〉と見なしている。確かに、既成の大家達と結んでの一見旧時代的とも思われる《合評》形式の採用には、鴎外の〈守旧の立場〉と当時の文壇の〈新しい気運に対する〉〈椰楡的な態度〉を見てとることもできよう。事実、『鵡翻掻』の中での鏡花や柳浪ら新進作家に対する鴎外の評言は概して批判的であるし、小倉移住後に書いた『鴎外漁史とは誰ぞ』(「福岡日日新聞」明33・1・1)においては〈扱今の文壇になつてからは、宙外の如き抱月の如き鏡花の如き、予は只.・その作の或段に多少の才思があるのを認めたばかりで、過言ながら殆ど一の完壁をも見ない。新文学士の作に至つては、又々、過言ながら一の局部の妙をだに認めたことが無い〉と述べ、〈今の文壇は露伴等の時代に比すれば、末流時代の文壇だ〉と痛罵している。
鴎外をして〈末流時代の文壇〉と評せしめた当時の文壇概況をトータルな形で把握することは容易ではないが、第一次「早稲田文学」終刊号(明31・10・8)所収「彙報」欄の「文学」の一項「小説市場」冒頭に示された〈文壇の沈滞は目下其の極度に達し、就中、小説界の不振なるは、過去前半期に、一篇の請すべき作だに出でざりしを見ても知るべし〉という認識や、「帝國文學」第五巻第八(明32・8)の「雑報」欄の〈誠に小説壇の不振寂莫、今日の如きはなし〉という評言は、示唆的である。もちろん、新たに創刊された「文藝倶楽部」(明28・1)「太陽」(明28・1)「新小説」(明29・7)「新著月刊」(明30・4)などを舞台に、毎月相当量の小説が先に挙げた新進作家らによって生み出されたことも事実であるが、ことの本質は量的な問題ではなく、質の問題にこそあったと言えよう。先に触れた第一次「早稲田文学」終刊号(明31・10・8)は、その冒頭の「廃刊の辞」において次のように述べている。
本誌が文壇の途に就きてより既に七年、顧れば往事転々感に堪へざるものあり。而して今や明治文学の一波は其の頂に達して更に他の一波を醗展し来らんとす、吾人は情として当に前途の行色を壮にすべきなり、而も他の面より見れば今や社会の事日に非にして頽波酒々たり、文運の開拓を以て任ずるもの・覚悟またおのつから異ならざるを得んや。切に言へば、社会の根底に一道の生命を点ぜざる限りは、之れが表現たる文学や美術や、また言ふに足らざらんとす。吾人は是に見る所ありて且らく文壇を退き、社会、教育の方面に全精力を移さんとす。波面の濁を去らんとしてしばらく水底の没人となる、情に於て忍ぶべからざるものありといへども、吾人の覚悟はつひに柾ぐべからざるなり。
日に日に頽勢に向かいつつある社会状況下にあって、文学や美術も頽勢に向かわざるを得ないという認識のもと、しばらく文壇を退き、社会・教育の方面に全力を傾けようという覚悟を示しているが、〈水底の没人となる〉といった痛切な言い回しを残してなされた「早稲田文学」の廃刊の根底に文壇の衰退という状況認識があった点は注目しておく必要があろう。そして、明治三十一(一八九八)年一月の「文學界」廃刊、同年八月の「國民之友」廃刊も、ほぼ同様の意味付けができるはずである。これらの事実は、ひとつの文学的季節がほぼ確実に終焉を迎えようとしていたことの証であった。
こうした状況の中で、「帝國文學」の「雑報」欄がしばしば批評の質の向上や批評家の責務への自覚を促す発言を繰り返している点にも注目する必要がある。〈現代の小評論家には是非論理学の根本的研究を薦めざるを得ず、論理の原則が爾等が血と肉となるまてに熱心に研究せられよ、無意識に之を活用し得るまてに熟読せられよ〉(第三巻第四、明30・4)や〈余輩は論者と共に這般の単調子を峻拒せむが為に、世の評家に向つて層一層の奮励を嘱せざるを得ず〉(第三巻第十二、明30・12)はその一例である。文壇の衰退という状況のもとで、批評の果たすべき役割が声高に叫ばれつつあったわけである。
ところで、このような文壇状況を踏まえつつ、明治三十年代初頭の小説界をくまなく渉猟する形で展開されたのが、「めさまし草」における(合評》1『三人冗語』と『雲中語』であった。かつて鴎外は、「しからみ草紙」時代の数少ない作品批評のひとつである『こわれ指輪の評』(「文則」五、明24・2)において、〈人の批評を読みて、その審美的批評眼いかにと判するは猶易けれど、直ちに人の小説などを評して、そのまことの声価を定めむはたやすき業にあらず。余はみつからそれほどの力なしとおもひて、猶予せしなり〉と審美的作品批評の難しさへの本音を洩らしたことがあったが、『鶴翻掻』において本格的に作品批評を行うにつれ、その思いはより一層強くなったと想像される。第一回目の『雲中語』における『新小説』(「めさまし草」巻之八、明29・9)の中のおそらく鴎外と推定される「審美家」の次の発言は、《合評》を始めた鴎外の意識をよく示している。
人おのくその趣味あり。(中略)批評をばいかなる趣味を持ちたるものも倣し得ることは論なく、またその批評に皆相応の価あることは論なし。この種々の趣味にして、世界人間の上より見わたして一貫の道理をなすことを得となすもの、即ち審美学の芸術に対する一面なるべし。されば審美学ありて後に批評あるにはあらず。寧ろ批評ありて後に審美学ありと云はんかた至当なるべし。
これは、「新小説」第二期創刊号(明29・7)巻頭の「春陽堂主人」による『謹みて江湖諸君に』と題した告白文の一節〈審美学を修めざれば批評は成るまじきものにて候はん哉〉をめぐっての発言である。もちろん、審美学を否定してはいないが、審美批評を前面に押し出し、もっぱら審美学による標準の確立を目指していた「しからみ草紙」時代の鴎外とは、明らかに異なる。こうした審美学重視の姿勢の後退の中に、鴎外が(合評》形式に向かった理由を解き明かすひとつの鍵がある。
『三人冗語』にせよ『雲中語』にせよ、役者評判記のパロディとして江戸時代の中ごろ成立し、以後明治に至るまで刊行され続けた名物評判記の《問答による評判》という基本的な型をほぼ受け継いでいる。まず、「頭取」が梗概を述べ、その後「ひいき」「理窟」「むだ口」「小説ずき」「天保老人」と続き、さらには「数学家」「邪推家」「穿整家」「冒険家」といった思いがけない人物も登場し、それぞれ設定された人物の趣味や感情に応じた意見を述べていく。そこには厳しい批評精神といったものはほとんど見られず、むしろ、個性的で諮諺性に富んだ既成大家達の気ままな放談会といった観すらするほどで、ときには椰楡・皮肉・冷笑に終始することもあった。
たとえば、「天保老人」(依田学海と推定される)は、ほとんどいつも、次に挙げる『雲中語』の『河内屋』合評(「めさまし草」巻之十、明29・10)における評言のように、実に天衣無縫に勧善懲悪を説いている。
老人は陳腐といはれてもなんといはれても、勧善懲悪が主意だ。第一小説は教科書では無い、美術だといふけれども、それはやつばり一家の説といふもので、なにも天から命令が下て是非小説は勧善懲悪はならぬといふでも有るまい。又仏魯独三国同盟で日本の文学者にどうでも小説は善をこらし悪をす・めねばならぬといふでもあるまい。
縦さういふとも老人は日本男児だ。天がいはうが三国かいはうがきかぬく。次に挙げる『雲中語』の『鈴舟』合評(「めさまし草」巻之十一、明29・H)における「諸諺家」の審美批評を茶化した発言も同じ例である。
鈴舟は傑作なり、大々的傑作なり。これを佳ならずといふもの・如きは、オシヤリコデンベエ氏の審美学の一「ペエジ」も窺はざる無学無識の徒のみ。氏の哲学第二巻に云はずや。茶壼に追はれてトツピンシヤンと。鈴舟の結末は実に此段の意に副ふもの、何者の痴漢かこれを不佳とせん。ムナ御気がつかれてざふらうか。
ところで、『三人冗語』にせよ『雲中語』にせよ、匿名による《合評》形式であるが故の有効性を無視することはできない。たとえば、『三人冗語』の場合、批評主体は鴎外、露伴、緑雨の(三人》であるが、実際には《三人》がそのままの名前で、あるいは素顔のままで登場して議論するわけではない。(三人》がさまざまに仮装して登場し、仮装した人物の立場から批評するという、いわば演劇的構造を持った(合評》なのである。
《三人》が仮装する人物は、批評対象である個々の作品に応じてさまざまに変化する。『三人冗語』全五巻全五十篇の作品評に登場する人物は延べ六十名を越えるが、それらは「息子」「束髪」「文学通」「学者」「医学士」「医学生」「教師」「若旦那」「学生」「老婆」「無学者」「すね者」「隠居」「洋行がへり」「壮士」「通りもの」「通がり」「むすめ」「医師」「歌人」「新体詩家」「軍談ずき」「本草家」「江戸児」といった具合で、当時の現実社会の各界・各層にわたっている。もちろん、頻出する人物「頭取」(‖作品の梗概紹介)、「ひいき」(11肯定的見解)、「悪口」(11否定的見解)、「真面目」(‖正論)、「さし出」(Hまぜかえし)、「果断家」(H寸評)、「理窟」(‖考証・論証による批判)、「小説通」(H技術評)などが『三人冗語』の中心的存在であり、批評のきっかけを与える役割を担っている。しかし、(三人》の批評主体がそれぞれの解釈・意見・批評を出し合うのみにとどまらず、現実社会の各界・各層に存在し得るさまざまな人物に仮託して、各種各様の解釈・意見・判断を集約した形のドラマに仕立て上げた結果、一見伝統的な(合評》形式を受け継いだかに思われた『三人冗語』は、同時代の不特定多数の読者の側に立った新しい形式の作品批評として機能することになった。そして、『雲中語』においても同様のことが指摘できるはずである。もちろん、〈頭取例に檬りて、先づ口を開き、贔負現はれ、悪口現はれ、天保老人現はれ、江戸子現はれ、壮士現はれ、猫も現はれ、杓子も現はれて、賞めたり、識ったり、統一なきは、三人冗語以来の特色として、更に男らしく、本名を名乗り出でなば、誠実の批評、始めて起るべし〉というような受け止め方をされていたことも事実であるが、むしろ〈統一なき〉点にこそ『三人冗語」や『雲中語』の新しさがあったと言えよう。
『三人冗語』や『雲中語』の《合評》がどういう過程を経て活字化されたのかについては必ずしも明確ではない。苦木虎雄は『三人冗語』についてく観潮楼に会して行ない、座に次弟篤次郎がいて周旋したらしい。(中略)取上げる作品は事前に評者のもとへ通知してあって、.評者は各自評を書いて持ち寄り、それをもとに口頭で合評し合ったものを、のちに林太郎が整理して清書したものと思われる〉と推定している。また『雲中語』については、〈合評「雲中語」はこれまで、露伴、緑雨、篁村、紅葉、思軒、学海らの小説評を集め、自分の評もまじえて、林太郎がまとめて書いていたようである。しかし、この日(引用者註、明治二十九年十月三日)から千駄木の観潮楼に会同して、各人が心おぼえによって評をし、それを(たぶん篤次郎が筆記したものを)あとで林太郎がまとめることにしたらしい〉とか〈この年(引用者註、明治三十年)二月二十一日以後、自宅観潮楼での合評会は行われず、諸家の評を集めて林太郎が書いたとも考えられる(二月十七日付篁村宛の書簡に、「拝呈御無沙汰耳仕候陳者めさまし草編輯日相近き申し候に付明日頃雲中語頂戴に使差出可申候に付御留守にても相分り申候様御申置上候」とあるのも、推定の根拠となる)。学海が病み、緑雨は債鬼に追われ、紅葉は例の如く不参、露伴、篁村、思軒も出席不同で、再び以前の形に戻ったのであろう〉と記している。この推定通りであったとすれば、篤次郎が筆記したものや集まった諸家の評を原稿化する際に鴎外が再構成し、評言の内容に応じて人物名を設定した可能性も十分考えられる。
『三人冗語』も『雲中語』も発言者を特定することが容易ではなく(特定することはむしろ無意味なのかも知れないが)、鴎外の批評方法なり批評視点なりを帰納的に把握することは難しい。ただ、一貫する特徴として、深刻小説・観念小説に対して否定的であること、あくまでも技術評にこだわり、内面的批評はほとんどなされないことが挙げられよう。そういう意味では、文学を審美の枠内に限定する姿勢が維持されていると言えるが、一方で、《合評》形式であることを利用しつつ、審美的批評を椰楡する評者や批評を批評主体の問題から切り離して考えることに疑問をさしはさむ評者を登場させることで、鴎外的立場を相対化させ、文学批評の相対性を認める方向へ歩を進めていることも確かである。『雲中語』の『辰巳巷談』合評(「めさまし草」巻之二十八、明31・5)における「学者」のく標準などを担ぎ廻はる評者はかういふものに逢つては言句も出ざるべし。此作者は女といふものに、白い、温い、柔な一面と、凄い、さつぱりした、つめたい一面とのあるのを認めて、それを種々の形に実現させて、而して己れの主観は節穴より覗く如く、壁に椅りて聴く如く、これを弄んで居るに過ぎず。是れ科学的批評なり。是れ第十九世紀、否第二十世紀の批評なり〉という椰楡的言い回しや、『雲中語』の『思ひざめ』合評(「めさまし草」巻之二十⊥ハ、明31・2)における「天保老人」の〈不必然必不然必然三様の説明明細なる御講義ことにく感服の至也。併し人情風俗は古今洋和同しからず。今の人情を以て昔の人情を測り難く風俗に至りて猶さら意想の及はさるほとの異同あり。されば必然といひても彼にありては必然なるも我にありて不必然又必不然の事もあり〉という一節は、その一例である。《合評》という自由な雰囲気の中で、鴎外は次第に文学批評の相対性を認める方向へ歩を進めていくのである。
『標新領異録』と名付けられた古典《合評》になると、この傾向はさらに強まる。「めさまし草」巻之十七(明30・5)所収の『村井長庵巧破傘』から始まって、以下『好色一代女』『水瀞伝』『浮世道中膝栗毛』『神霊矢口渡し』などと続いた『標新領異録』が、〈現代文学に対するあきたらなさから来る古典への回帰、あるいは現代文学の衰退に対しての古典の提示といった啓蒙的姿勢〉に支えられていることは言うまでもないが、そこでの発言は文学批評の相対性を認める傾向がさらに強まり、審美批評の枠組から解放されたものが多くなっている。『好色一代女』合評(「めさまし草」巻之十九、明30・7)の中では評価の視点を〈審美上の価値と、文学史上の価値と開明史上の価値と〉の三点に絞り、〈審美上の価値〉を〈詩としての材料、結構及文章〉の観点から評するのみならず、〈文学史上の価値〉を〈同世以下の文壇に及ぼした影響の大なる〉点に認め、〈開明史上の価値〉についても〈此時代の風俗人情を探らんとする人には西鶴の書、所謂浮世草子位多く資料を与へて呉れる者は少からう〉と述べている。批評の対象が古典作品のせいもあろうが、批評の視点が多角化していることに注目したい。続く『水瀞伝』合評(「めさまし草」巻之二十、明30・8)の中ではく其他水瀞伝の性質上には、猶一の注意すべきものがある。それは此書の含む所の支那文明史的分子は、径に是れ支那社会的分子だといふ一事だ。別言すれば宋代の支那と今の支那とには同一顕象があつて、それが此書中に影を印して居て、随って水瀞伝はどこまでも特殊なる支那産たることを失せぬといふのだ。支那には何故に疫痛凶兼欠氾濫が相継いで至るか。支那の官府は何故にこれを防過することが出来ぬか。支那には何故に匪徒が横行するか。支那の官兵は何故にこれを蕩平することが出来ぬか。これは宋時既に有る問題で、今に至るまで未だ解釈せられぬ。私は水瀞を読むごとに、未だ曾てこれに想ひ到らざることはない〉とも述べている。この二例には、かつての現実のレベルと芸術・文学のレベルとを裁然と弁別する姿勢はもはやなく、歴史的視点・社会的視点が明確に現れている。
こうした歴史的視点・社会的視点に立って作品を批評する姿勢は、『金色夜叉上中下篇合評』(「藝文」巻第二、明35・8)や『新社会合評』(「萬年艸」巻第三〜巻第四、明35・12〜明36・2)でひとつの頂点に達する。『金色夜叉上中下篇合評」の中で「隠流」の名で登場した鴎外は、〈鴫沢宮〉の〈「自ら其の色よきを知」って、其色を資本として、出来る丈の栄華を鼠ち得やうとして居る、その思想の全体〉を〈十九世紀の紀末からこのかたの世間〉の思潮、あるいは〈全世界の現時代の思想〉を〈或る方面から〉代表する〈高利貸的思想〉と見なし、ロルフが『道徳論』で人間の生活形式の発展は生活増殖競争の成果であり、その根底には〈不属歴〉(あくことをしらないこと)という人間の本性があるとしている点を引きながら、〈さうして見ると、カO↑=の哲学は金色夜叉の哲学で、紅葉君の小説は不麗歴の小説だと謂つて好からう〉と評している。また、『新社会合評』では、概して文学作品として評価されなかった矢野龍渓の『新社会』(大日本図書株式会社、明35・7)を〈実現を将来に期した〉〈一の社会小説(SOCIALER ROMAN)〉〈一のUTOPIA〉とし、〈小説体を具へた一著述の理想上内容に立ち入つて云々するのが、全く不当だといふ訣も無からうではムりませぬか〉とことわった上で、作品内に説かれている社会政策や思想を徹底的に批判している。とくに、この『新社会合評』については、(合評》の対象として『新社会』を選択している点にく小倉時代にはじまった、国のありようを対象化する思想的なひろがり〉を見ることもできるが、鴎外は、この時点で、審美的批評の呪縛からほぼ完全に脱け出したのである。
以上見てきたように、主に「めさまし草」「藝文」「萬年艸」を舞台に展開された《合評》は、当時の文壇に大きな影響力を発揮し、ひとつの時代を画し得た。また、鴎外自身は、この《合評》を通して、和漢の古典から当代の作品まで幅広く触れながら、彼の初期文学評論活動における大きな特徴であった審美的標準主義一辺倒から歩を進め、多面的な関心を育成させた。それは、〈十九世紀の終りで二十世紀の初めといふ限界線の上に立つて居る〉者として〈これから先の二十世紀の世界の芸術はどうなるだらうか〉という思いを抱きつつ〈どの時代、どの国の古い作をでも充分に研究して、その上ですなほに積極に新しい芸術を産み出す〉という考えの実践であった。そして、この時期に発揮された多面的な関心は、明治四十年代の多様な口語体小説として結実することになる。
 
永井荷風論

 

「断腸亭日乗」 新藤兼人
新藤兼人監督には「墨東綺譚」という作品がある。筆者も見たことがある。津川雅彦扮する主人公に荷風の面影を見、その主人公の女性遍歴を透かして、荷風が生きた時代の雰囲気の一端を感じた気になったものだった。
映画は非常に丁寧に作られていた。荷風贔屓からだけでいうのではないが、新藤監督の代表作の一つと言ってもよいだろう。この映画を作るにあたっては、監督は相当の努力をしたそうで、単に墨東綺譚一篇を精読するにとどまらず、断腸亭日乗全七巻を繰り返し通読したそうだ。そこから荷風の人間性を感じとり、その人間観にたって作品作りに励んだらしい。
新藤監督が書いた<「断腸亭日常」を読む>には、そんな新藤監督の荷風への思い入れがよく出ていて、荷風贔屓としては非常に嬉しくなる本である。断腸亭日乗の行間から現れてくる荷風の人柄を、色々な角度から照らし出しているが、中でも圧巻は、荷風と女たちとの交情を巡るものだろう。映画「墨東綺譚」において描かれていたのも、主として荷風と女たちとの交情であったわけだが、映画作りの立場からすれば、男女の交情は永遠のテーマであるということなのだろう。
周知のように荷風は、生涯を通じて膨大な数の女性と性の遍歴のようなことをした。何処にそんなに多くの女たちと付き合えるだけの余裕があったのか、色にも金にも乏しい筆者などには到底伺うべくもないが、そこのところを監督は次のように言っている。
「荷風は六尺豊かで、なかなか端正な姿をしていますし、良家に生まれて、子供のときからうまいものを食って育っていますから、お坊ちゃんのような、いい顔をしていますね。そしてお金がある。勉強もして、学問もあるというように、実にいい条件が揃っています。それをいいことに、荷風は帰朝した三十歳から約三十年間、したい放題に放蕩したという感じです」
これを読むと監督は、荷風を日本に生まれたドン・ファンのような存在だと思っているふしがある。そこにはもてる者への羨望のまなざしも感じられる。
日乗昭和十一年一月三十日の記事に、自らの女性遍歴を吐露した有名なくだりがある。そのくだりを材料にして、監督は荷風の女性遍歴の一端をあぶりだしている。そのやりかたが、生半可ではない。ここに記された十六人の女たちについて、その生涯や荷風との関係など、実に綿密に調べ上げている。まるで探偵の仕事を見るようである。
ここに記された十六人の女たちは、いわば氷山の一角であって、荷風が実際にかかわった女の数はその数倍にも上るだろうと監督は言う。断腸亭日乗にも、そうした女たちとの関わりが何気なく書かれていたりもする。監督が注目するのは、そうした女たちがいずれも、商売女であった点だ。「荷風を巡る女たちの殆どが芸者か私娼です。素人女は一人もいません」
そんな荷風の女性遍歴のあり方については、色々な見方がある。中には当然けしからんと言う見方もあり、また多くの女性読者は、荷風の文章の中に女性に対する抜きがたい偏見と傲慢とを感じとって、嫌悪感を抱く人もいる。
しかし監督の荷風に対する立場は極めて鷹揚である。価値観は別にして、その生き方の中にそれなりの人間臭さを感じているからだろう。また荷風が女性との関係をその場の快楽の為ばかりでなく、自分の創作のために必要な行為として行ったという点にも注目している。荷風は女の文学といってよいほど、女性を描くことにこだわった作家だったが、荷風の小説に出てくる女性たちは皆実在の女性をモデルにしている。荷風にはモデルがいなければ生き生きとした小説が書けなかったのである。
映画「墨東綺譚」を作るにあたって、監督は荷風の女性遍歴をバックボーンとして使った。映画にも様々な女たちが出てくる。荷風が生涯にもっとも愛した関根歌についても、それとなく触れている。戦後になって老いさらばえた荷風が、関根歌と再会するシーンまで登場させているのは微笑ましい。
これは余談だが、関根歌が荷風と別れるきっかけになったのは、荷風の性欲が衰えて、歌が欲求不満に陥ったためだと監督はいっている。筆者にはそこまでは分からなかった。日乗の文字面からはそんなことを伺う由もない。荷風自身歌が発狂したと思い込んでいるのである。監督の推理は卓抜で、さすがに探偵を思わせるだけある。
「墨東綺譚」には、玉乃井の娼婦お雪が出てくる。荷風の女遍歴の最期を飾る実在の女性だ。荷風は玉乃井に通ううちにこの女性と出会い、ひと時の交情をもった。それが荷風の創作意欲を掻き立てて一篇の傑作を生みださせた。それが「墨東綺譚」だというわけである。
この小説は偶然の着想に基づいて生まれたものではない、と監督は言う。荷風は一篇の小説を書くための材料を求めて玉乃井に足しげく通い、その甲斐あって一人の女と出会い、その女との間に幸福な瞬間を持つことができた。この小説は荷風のそうした努力の賜物だったという側面もある、そう監督は言うのである。
この小説を荷風が書いたのは昭和十一年の秋だが、この年の荷風は玉乃井詣でに明けくれたと言ってよい。取材のためである。その様子を日乗の中から読み取りつつ、監督は荷風の取材スタイルを次のように紹介している。
「荷風は気を付けて、できるだけ風采を下げ、下駄を履き、折り目のないズボンを履いて、勝山の谷崎のところに行った時のように、茶色の手拭いをぶら下げていくという、用意周到さです。ひょっとしたら、一篇の創作が生まれるのではないかという予感があって、突っ込んでいくやり方には迫力があります」
荷風のこうした徹底ぶりは、このケースだけではなかったようで、日乗の中には、出会った女に興味をそそられ創作意欲を刺激されたらしい荷風が、女の身元を確かめようとして、私立探偵のように嗅ぎまわるところが記されている。
荷風が玉乃井に足を運んだのは、五十八歳の時だった。荷風は自分が年老いたことを自覚している。性欲が衰えたことが歌と別れた本当の原因だったとすれば、荷風自身にも自分の性欲の衰えは漠然と意識されていただろう。しかし荷風にとって、性欲と女とは自分の創作の泉のようなもの、それが枯れれば自分の創作意欲も枯れてしまう。そうした自覚があったに違いない。だからこそ荷風は、「肉欲衰えれば、芸術の創作欲もなくなると、自分を鞭打つような感じで入り込んでいった。それには獲物を追うハンターのすさまじさのようなものを感じます。そしてお雪に会えたから、荷風流にいえば肉欲を果たすことができたから、ひとつの創作が生まれたのだと思います」
荷風をこよなく愛する者でなければ出てこない言葉だ。 
荷風と谷崎
新藤兼人が荷風の日記に接したのは「罹災日録」が最初だったそうだ。もともと荷風の日記に大した興味を持っていたわけではなかったが、これを読んで偏奇館焼亡やその後の放浪、また折に触れて吐露する戦争についての考え方などを通じて、荷風という人間に非常な興味を覚えるようになり、それがもとで彼の日記断腸亭日乗全巻を繰り返し読むようなマニアになってしまった。ただ単にマニアの読者たるにとどまらず、断腸亭日乗をもとにして一本の映画を作るまでに至った。
断腸亭日乗の中でも戦災にかかわる記事がもっとも迫力に富むとは、筆者などの感じたところでもある。荷風は日頃戦争を憎み、軍部を憎み、勝利して軍部の専横を見るよりは敗戦したほうがましだなどと過激な感情を日記に吐露していたが、やがて自分自身が戦災を蒙り、命からがら放浪の旅に出る。そして放浪しながら人間としてのぎりぎりの感情を、抑制の利いた筆づかいで記録していく。そのあたりがなんともすさまじい迫力を伴って読む者の心を圧倒するのである。新藤もまたそうした荷風の生きざまに大いに共感を覚えたのだろう。新藤の断腸亭日乗論は、まず荷風の戦災日記を論じるところから始まる。
昭和20年3月9日夜半のいわゆる東京大空襲によって偏奇館を焼き出された荷風は、従弟の大島五艘を頼って身を寄せたりするが、やがて東京に居ることに危険を感じ、友人の菅原明朗夫妻と共に岡山へと逃避する。それまでに書き溜めた断腸亭日乗29巻は五艘に預けた。五艘はそれを御殿場にある友人の邸に保存した。五艘自身の家もやがて消失するから、断腸亭日乗は危機一髪で助かったわけである。
岡山に着いた荷風は、倉敷から伯備線で入ったところにある勝山というところに、谷崎潤一郎が疎開していることを知って、はがきで挨拶をしたところ、谷崎から返事と共に色々な品物が贈られてきた。
<七月廿七日。晴。午前岡山駅に赴き谷崎君勝山より贈られし小包を受取る。帰り来りて開き見るに、鋏、小刀、印肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、其他あり。感涙禁じ難し。晩間理髪。>
荷風は日記にこう記して谷崎の厚情に感謝している。
8月6日には広島に原爆が落とされ、岡山の人々は戦々恐々になった。岡山にも落されるかもしれないと、恐れたのである。東京を焼け出され、また行く先々でも空襲の恐怖に慄いていた荷風は、思い切って勝山の谷崎を訪ねることにした。荷風は安全な勝山で、できたら疎開生活を続けたいと思ったのである。
谷崎潤一郎は、荷風を師として生涯礼を尽くした。そんな谷崎の厚情に荷風は一時甘えようとしたのだろう。着の身着のままといった状態で単身列車で勝山に向かった。それが8月13日のことである。しかし荷風は翌々日の15日に、早くも岡山に帰ってきてしまう。いくら非常の時とはいえ、谷崎に甘えることができなかったのだと新藤は言っている。
8月13日から15日にかけての3日間の日記は、断腸亭日乗のひとつのピークだと新藤は評価している。その期間谷崎も日記をつけていた。新藤はこの二人の日記を並べながら、彼らの個性の差を読み取っている。
13日の荷風の日記は、岡山駅を出発して勝山に至るまでの車内の見聞が主なものだ。荷風は列車に揺られながら、窓外の景色や人々の様子を艶のある文章で書いている。勝山に着くとその足で谷崎を訪ね、松子夫人と初めて会う。松子夫人は荷風のためになにかと世話を焼いてくれた。荷風はとりあえず、谷崎の用意してくれた旅館に泊まることにした。
その日の谷崎の日記は、荷風が訪ねてきたことを記している。
<八月十三日、晴。本日より田舎の盂蘭盆なり。午前中永井氏より来書、切符入手次第明日にも来訪すべしとのことなり。ついで午後一時頃荷風先生見ゆ。今朝九時過の汽車にて新見廻りにて来れりとの事なり。カバンと風呂敷包みとを振分にして担ぎ余が先日送りたる籠を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤革の半靴を穿きたり。焼け出されてこれが全財産とのことなり。>
谷崎は荷風のやつれきった姿に注目しているのである。昔日の紳士らしい面影はない。服装も粗末なら、表情もさえなかったに違いない。
一方荷風を迎えた谷崎の方は、それなりに快適な暮らしをしている。谷崎は5万円ほど用意して疎開したそうだが、当時の5万円は大金である。千円あれば100坪の土地に8畳6畳4畳半の家が建つような時代だ。谷崎はその金で、いろいろ闇物資を手に入れたりして、生活に不自由することはなかった。
面白いことに、谷崎は疎開先の勝山の人々にはあまりよく思われていなかった、と新藤はいう。彼等から直に聴いたらしい。来て早々鮎を一年分買い占めたりしたそうだから、その振る舞いが横柄だと思われたのかもしれない。
荷風にしても、別に金に困っていたわけではなかったのである。彼は銀行通帳をいつも手元に持っていて、その通帳には莫大な額の預金があったはずなのだ。にもかかわらず荷風は、その金を下ろして、それで入用なものを買おうという気持を起こさなかった。金をもっているくせに、貧乏人のような風采で歩き回ることが気にならなかったのである。そこが荷風の面白いところだ。
14日は二人で街を散策したり、食事を共にしたりしている。荷風は谷崎に勝山での疎開を相談してもいる。それに対して谷崎はできる限りの協力をしましょうと答えている。
しかし荷風は結局勝山での疎開を取りやめることにする。谷崎の生活ぶりを見た荷風は、自分と谷崎との境遇があまりにも違うことにショックを受け、また谷崎が疎開中も小説の執筆を続けていることに驚いた。そんな谷崎にとって自分が荷物になることを遠慮したのだろうと、新藤はいう。荷風にはそんな一面があるというのだ。
15日の午前、荷風は列車で岡山に向かう。その荷風を見送った谷崎は、正午頃に天皇の放送があったことを知るが、詳しいことまでは分からない。そうこうするうち、噂などで日本の無条件降伏の情報が入ってくる。
<・・・二階にて荷風氏の「ひとりごと」の原稿を読みゐたるに家人来り今の放送は日本が無条件降伏を受諾したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉へるものらし。皆半信半疑なりしが3時の放送にてそのこと明瞭になる。町の人々は当家の女将を始め皆興奮す。家人も3時のラヂオを聞きて涙滂沱たり・・・>
一方荷風の方は、岡山の寄宿先に帰ってきたところで、日本の敗戦を知らされる。
<・・・休み休み三門の寓舎に帰る。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ>
谷崎が一家そろって涙滂沱だったのに対して、荷風は<恰も好し>の一言である。このことに関して新藤は次のように述べている。
<その一日の、同じ時間に、荷風、谷崎という日本を代表する優れた文学者が同じことを見るのに、角度が違っていたということは、非常に興味あることだと思います。わたしはここまで読んで、改めて「断腸亭日乗」へはいっていきました> 
「我が荷風」 野口富士男
永井荷風といえば、いまでは「断腸亭日常」や「日和下駄」などを通じて、日記作者あるいは東京散策の案内者といったイメージが強いが、かつては偉大な小説家として、日本文学史に屹立する大作家だった。そんな荷風の小説家としての業績を、その生涯の足跡と照らし合わせながら読み解いたものに、野口富士男の「我が荷風」がある。これは、荷風の文人としての全体像に迫ろうとするもので、筆者のような荷風ファンにとっては、非常に裨益されるところの多い研究である。
氏は荷風の幼年時代から筆を起こし、多感な青年時代とヨーロッパから帰朝した直後の秀作時代を経て、荷風が作家としての自己を確立する過程を追っているが、その結果たどり着いた結論は、荷風は女を描くことを自己の文学の核心として自覚し、生涯それを追い求めた作家、つまり性的人間だったというものだ。
この解釈は、荷風のイメージとして今では最も受け入れられているものなので、筆者としてもたいした異論はない。たしかに作家としての荷風は、女ばかり描いた。それも性的存在としての女を描いた。だから、荷風が小説しか書かない作家で終わったとしたら、ポルノ作家という範疇を出ることはできなかったかもしれない。
氏は荷風の小説作品を、大きくふたつのジャンルに区分している。ひとつは、「すみだがわ」から「おかめ笹」にいたる作品群で、氏はこれらを「花柳小説」と名付けている。もう一つは、「つゆのあとさき」から「墨東奇譚」にいたるもので、氏はこれらを「私娼もの」と名付けている。そしてこの両者の間には、荷風40歳から53歳までの間の沈滞期があるといっている。40歳代と言えば、作家にとってはもっとも脂の乗った時期のはずだ。その時期に荷風は殆どまともな小説を書いていないというのである。そういわれてみれば、たしかにそうだ。
ジャンル分けをしたといっても、内容に大きな差異があるわけではない、と氏は言う。花柳小説といっても、花柳界の華やかさや闇の暗さを描くというより、ほとんど枕事の描写に限られている。その点では、私娼ものにおける枕事と変わりはない。だから小説に出てくる女の職業が、片方は芸者であり、もう片方はカフェーの女給と、相互に異なってはいるけれど、やることは同じ、描く内容も同じだと言うわけである。
だから氏によれば、荷風と言う人間は、この枕事を描きたいという一念から、生涯に膨大な数の女と枕を共にしたということになる。そしてその枕の周辺から立ち込める色気を、小説という作品世界に昇華させたのだということになる。
実際、荷風の小説に出てくる女たちにはそれぞれモデルがあると氏は言う。荷風は自分が枕を共にした女たちを創造の糧として小説を書き続けた。荷風の小説はだから、荷風の性欲が昇華したものだ。それ故性欲が消滅した時が、創造力が枯渇するときであり、したがって筆を進めることができなくなる時ということになる。
氏は、「墨東奇譚」を最後として、荷風の想像力は消失したと考えている。その理由は、性欲が焼失したからだ。その辺の事情について、氏はこういっている。「"墨東奇譚"が実際に擱筆された昭和11年以降、荷風の詩魂は急速に衰退した・・・荷風の場合性的人間としての終末感が、作家としての終局に通じる一過程であったことはほとんど象徴的である」
これは、荷風は自己の(性的な)体験をもとにしてしか創造ができなかったという意味だろう。このことについて氏は、「いったい作家としての荷風は、谷崎潤一郎などに比べるまでもなく作品の構想力が薄弱で、なまじドラマティックな構想を立てると妙に芝居じみた趣向倒れに陥る欠点がある」と言っている。そのうえで、「結局彼の場合は虚構ないし具象的現実を組成して、そこから読者に自己の思想を伝達するといった作家的体質よりも、評論家的体質のほうが優位している」
しかし、荷風には評論家的体質とともに、叙情詩人的な体質が混じっていたことも事実であり、この抒情詩人としての荷風が、小説や評論と言った分野を超えて、作品世界に独特の陰影を持ち込み得ているのだといえる。
ともあれ、氏の荷風についての考証は実に綿密である。氏は荷風の作品世界を肌で感じたいという思いから、それぞれの作品の舞台になったところを、自分の脚でくまなく歩いている。また、荷風の枕事を追体験するために、自身も娼婦を買いに深川洲崎の遊郭に出向いたりもしている。その折のことを記述した部分を紹介しよう。
「一間幅の廊下を遣手婆さんに案内されていっても、人間の気配はまったく感じられなかった。そして、敵娼が来るまで床に入って天井を見上げていると、遠浅の海に寄せては返しているらしい波音が低く聞こえてきて、わずかに泥臭のまじった潮の香がした」
昭和10年ごろのことらしい。確かにその頃の洲崎なら、広重描いたところの波打ち際に船漕ぐ光景とそう大差はなかっただろう。それにしても、よくやるものだと感心した。 
「物と人間と社会」 加藤周一
加藤周一が「物と人間と社会」という題名で永井荷風論を展開したのは、雑誌「世界」の1960年6月号から翌年1月号にかけての紙面においてであった。時あたかも日米安保条約改定問題で日本中が政治に熱狂していた時期である。その時期に政治とは最も縁の遠いと思われていた作家について、これは最も政治的な知識人と思われていた加藤周一が論じたわけであるから、そこにはある種のアナクロニズムを感じさせるところがあった。しかしそうしたアナクロニズムは、荷風という作家自身が漂わせているものでもある。荷風を論じる者はしたがって、いつの時代に論じても、つねにアナクロニズムに陥る危険を免れないわけである。
荷風のプロフィールを紹介するにあたって、加藤は荷風の死にざまに触れることから始める。「好色で鄙吝な八一歳の老人が、誰に残すのでもない金をためたままうす汚い場末の一部屋で死んだ」と。
荷風が死んだのは、北総台地の田園地帯の一角に立っていた小さな木造の家の中であり、決してうす汚い場末の一部屋などではない。加藤がこんなふうに事実を曲げてまで荷風の死にざまを汚らしいイメージで書きたがったのは、おそらく荷風の孤老ぶりを強調したかったからだろう。この荷風論の最大の特徴は、荷風がいかに時代や社会から弧絶して生きていたかを強調することにあるようだから、その死にざまを陰惨な孤老の雰囲気に染めあげるのは、彼の生涯の締めくくりに相応しいと思ったのであろう。
たしかに荷風は時代や社会から弧絶して生きていた、しかもそれを、自分で選択した生き方として自覚的に生きた。こんな生き方をした文学者は他にはない。日本の文学者の殆どは、時代や社会を自分にとっての当然の与件として受け止め、その中に自分の身を納める空間を見出して、そこから自分の目に見えてくる世間を描いた、またはそんな世間と触れ合う自分を描いた。彼らはだから時代や社会から自由であることはできなかった。だが荷風にはそれができた。荷風は時代や社会とは常に一線を画していたから外側からそれを見ることが出来た。ということは、時代や社会の様子を覚めた目で見ることが出来たということである。
「物と人間と社会」という題名は、そんな荷風の生き方を連想させるものだ。加藤は、モノに対する荷風の執着〜行きつけの食堂の同じ椅子でなければ決して座らない、偏奇館の蔵書に対する異常な執着等々〜ぶりを紹介しながら、荷風が物にこだわったのは、人間の世界に住めなかったから、それらの物の世界に住んだのだと言っている。つまり、物は荷風の人間世界からの弧絶を象徴するものだったわけである。物は荷風にとって、ただに物質的な対象であるのみにとどまらず、人間や社会のあり方そのものなのだ。彼にとっては、人間も物の一つに他ならないのである。
「自分にとって女とは抱いて寝るだけのものです」と荷風は友人に語ったことがあるそうだが、この言葉は、人間を物の一つとしてとらえる荷風の生き方をよくあらわしていると加藤はいう。「荷風は女色を好んだ。女はこれに触れることが出来るし、また離れてこれを眺めることができる。その限りでは女もたとえば古陶に等しいだろう。その姿と手触りを好むのは、恋愛ではなく好色である。恋愛は人間としての女を相手にする。好色は物としての女を相手とする」というわけである。
人間や社会を物化する姿勢は文筆にも影を落とす。荷風ほど文体にこだわった作家はいない。というより「荷風は、鴎外以後、日本語の散文を彫琢して文体を作り上げることに成功したほとんどただ一人の作家であった」。そんな荷風にとって、「文章の形式への執着は、文学の中の物的な要素への執着である。執着と言って不都合ならば、信念といってもよい。文章の形式的な秩序の中に外在化された文化の歴史的な持続を、誰が荷風ほどに信じたであろうか」
このようにあらゆる面で社会から弧絶して、自分の周囲にあるものを物として対象化し、冷たい視線で観察するといった態度はどんなところから生まれてきたのだろうか。加藤はそれを荷風の父親との関係に求めている。
荷風にとって父親は絶対的な存在だった。彼は生涯父親の用意した路線に乗って生き続けたといってもよい。それなのに荷風はそんな父親の影響を束縛と感じ、それに抵抗せざるを得ない自分を感じた。荷風はまた母親にも慰安を感じることができなかった。母親は彼女自身の世界に夢中で、息子に慰安を与える存在にはならなかったのだ。こうして自分の家の中に居場所を持たないと感じた荷風は、社会全体にも居場所を感じることができないような人間になっていった。彼の弧絶はそこから始まったのだ、というわけである。
しかし人間はいくら社会から弧絶しても、一人だけでは生きていけないし、心の拠り所も持たねばならない。荷風にとってその拠り所とは、ひとつは憧れの対象としてのフランスであり、もうひとつは感情のやり場としての江戸文化であった。荷風がいま生きている日本は、西洋になろうとしてなりそこなった醜い日本である。だが徳川時代の日本は成熟した文化をもった自足した社会であった。それは荷風にとって幸いなことに、物の手触りをも感じさせてくれる。こうして荷風はますます現実社会から浮き出て、架空の文化の中に居場所を求めようとしたわけである。
このようなわけで、荷風には同時代の日本を外から眺める視点があった。しかしその視点は批判にはつながらなかったと加藤は言う。批判には、現実を変えるための理想と言うものがなければならぬ。この理想を荷風は持つことがなかった。そこが鷗外や漱石との違いだと加藤はいう。鴎外や漱石は、彼らなりに理想をもって社会の変革に参画しようとする姿勢があったが、荷風にはそんなものはどこにもなかった。彼にとって社会とは、参画するものではなく、眺めるものであり、批判するものではなく、鑑賞するものだったのだ。
そうした鑑賞には童心といったものがかかわると加藤は言う。そうした童心の例として加藤はリルケを持ちだし、「子どもの時に親しんだ物」が、いかにその人の美的意識に影響を及ぼすかについて語っているが、荷風にもこうした童心が残っていて、彼の美的センスに作用を及ぼし続けた。しかしリルケの場合には、幼い時の甘美な思い出が、大人になった後でもよい作用を及ぼし続けたのとは対照的に、荷風の場合には、子供時代の思い出は、必ずしもよい作用ばかり及ぼしたというわけにはいかなかった。「リルケは自分自身の内部に没頭し、荷風は子どもが親を観察するように社会を観察した」という具合に、荷風の場合には、父親との確執の影響がいつまでも変な作用を及ぼし続けたというのである。
こうしてみると、荷風は大人になりそこなった子どもだ、というのが加藤の荷風論のエッセンスといえそうである。
(荷風が死んだのは1959年4月30日だから、加藤のこの荷風論は、荷風の死に触発されたかたちで構想されたのだろう) 
 

 

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