足尾銅山

足尾銅山足尾銅山鉱毒事件1鉱毒事件2田中正造伝「足尾銅山史 」と私足尾鉱山への朝鮮人強制連行足尾鉱毒事件報道日本公害の原点足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地1遊水地2遊水地3遊水地4遊水地5・・・
「足尾暴動の史的分析/鉱山労働者の社会史」書評
 

雑学の世界・補考   

足尾銅山

栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山(鉱山)。「足尾銅山跡」として国の史跡に指定されている。明治期には亜砒酸も産出し、精錬の副産物として硫酸も生産していた。
1550年(天文19年)に発見と伝えられているが、本格的に採掘が開始されたのは江戸時代からである。当時、足尾銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われるような発展を見せ、当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたこともある。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していた。その後一時採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。明治4年(1871年)には民営化されたが銅の産出量は年間150トンにまで落ち込んでいた。
足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、1877年(明治10年)に古河市兵衛は足尾銅山の経営に着手、数年間は全く成果が出なかったが、1881年(明治14年)に待望の有望鉱脈を発見。その後探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見され、20世紀初頭には日本の銅産出量の1/4を担うほどの大鉱山に成長した。しかし、急激な鉱山開発は足尾鉱毒事件に見られる公害を引き起こし、下流域の住民を苦しめることとなった。これを見かねた田中正造は立ち上がり、この問題に対し懸命に取り組んだ。
1973年(昭和48年)2月28日をもって操業を停止し閉山した。現在は足尾銅山観光などの観光地となっている。閉山後も輸入鉱石による製錬事業は続けられたが、1989年(平成元年)にJR足尾線の貨物輸送が廃止されて以降は鉱石からの製錬事業を事実上停止し、2008年(平成20年)時点では、製錬施設を利用しての産業廃棄物(廃酸、廃アルカリなど)リサイクル事業を行っているのみである。
施設
鉱山/備前楯山と呼ばれる銅山が1つある。その他の足尾近隣の山からは銅は産出しなかった。
坑口/本山坑(有木坑)、小滝坑、通洞坑の3つの坑口があった。本山坑から小滝坑はほぼ一直線に繋がっており、通洞坑はこの太い坑道に横から接続する形になっている。このため、3つの坑口を結ぶ坑道は、T字型になっている。小滝坑は1954年閉鎖。最後まで使われていたのは本山坑と通洞坑であった。(より正確には、本山坑と有木坑は微妙に場所が違い、これ以外に近くに本口坑があった。通常はこの3つの坑口をまとめて「本山坑」と呼ばれる。有木坑は当初梨木坑という名であったが、縁起担ぎで有木に変更された。また、簀子橋という名の坑口もあった。規模は小さく、通洞坑と同一視されることが多いが、名目上は独立していた。現簀子橋堆積場付近にあった)
選坑場/通洞地区におかれた。最初期は女工が目で使える鉱石かどうか識別したという。
製錬所/本山地区にあったものが最も大きかったが、小滝地区にも小規模なものがおかれていた時代がある。鉱石から銅が製錬された。1960年代以降は、製錬時に出る亜硫酸ガスを回収して硫酸を製造し、これも出荷していた。
浄水場/1897年、鉱毒防止策として政府は足尾の銅山施設すべてから出る水を一旦沈殿させることを命じた。中才浄水場、間藤浄水場の2箇所が2005年現在も稼動中である。閉山後も浄水設備の稼動は続けられる。小滝にも浄水場はあったが、規模が小さかったため、中才に統合された。
堆積場/鉱石くずなどを貯めている場所。公表されているものは足尾町内に14箇所ある。
社員住宅/坑口付近に多くつくられ、ほとんどの鉱夫は徒歩で通勤した。小学校や商店なども周辺につくられたが、閉山後はほとんどが無人化しており、現存しないものも多い。
神社/本山坑向かいの山頂付近に鉱山神社が存在する。本殿と拝殿の2棟があるが、何れも放棄されている。このほか、通洞坑には別に神社があり、足尾銅山観光出口付近に拝殿がある。
鉄索/足尾ではケーブルカー(索道)のことを鉄索と呼んだ。1890年にまず、細尾峠を越えて日光を結ぶ路線が作られた。最も大規模なものは、本山坑から銀山平を経て小滝坑に向かい、そこからさらに利根村根利に向かう路線である。物資や鉱石を運ぶため、足尾町内に大規模なものがいくつも作られたが、閉山後にすべて撤去されている。登山家を乗せたという記述も残っており、鉱夫などの輸送にも使われたとみられる。
馬車鉄道、ガソリンカー/人や物資を運ぶために町内の道路に路線がつくられた。初期は馬車で、後期にはほぼ同じ路線をガソリンカーが走った。初期には馬車鉄道であった路線が、後に鉄索や鉄道に切り替えられたところも多い。  
 
足尾銅山鉱毒事件 1

 

19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山の公害事件。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。
経緯
鉱山の近代化
現在の栃木県日光市足尾地区では江戸時代から銅が採掘されていたが、江戸時代前期をピークとして産出量はいったん低下し、幕末にはほとんど廃山の状態となって国有化された。明治維新後、民間に払い下げられ、1877年に古河市兵衛の経営となる。古河は採鉱事業の近代化を進め、1885年までに大鉱脈が発見された。さらに西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンをかぞえる東アジア一の銅の産地となる。当時銅は日本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の1/4は足尾銅山が占めていた。しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)は、付近の環境に多大な被害をもたらすこととなる。
鉱毒公害の発生
鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。この崩壊は21世紀となった現在も続いている。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともにカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。鉱毒による被害はまず、1878年と1885年に、渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れた。ただし、当時は原因が分かっておらず、これを8月12日に最初に報じた朝野新聞も、足尾銅山が原因かもしれないというような、あいまいな書き方をしている。1885年10月31日、下野新聞が前年ごろから足尾の木が枯れ始めていることを報じ、これら2つが足尾銅山と公害を結びつける最初期の報道と考えられる。
被害の拡大
次に、渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。これに怒った農民らが数度にわたり蜂起した。田中正造はこのときの農民運動の中心人物として有名である。なお、この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。田畑への被害は、特に1890年8月と1896年7月21日、8月17日、9月8日の3度の大洪水で顕著となった。1892年の古在由直らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸。1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。このほか、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村となった。
対策の節で述べる工事が1897年から1927年にかけて行われると、表だった鉱毒被害は減少した。しかし、渡良瀬川に流れる鉱毒がなくなったわけではなかった。他の地域と異なり、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現太田市毛里田)とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加したと言われる。1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止された。古河鉱業はカドミウム被害は認めていないが、群馬県がこれを断定した。
閉山
1973年までに足尾の銅は掘りつくされて閉山、公害は減少した。ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。1989年にJR足尾線で貨物が廃止になると、原料鉱石の搬入量が減少し、鉱毒はさらに減少したとされる。しかし、どの時代も科学的な分析がほとんどされていないため、公害の内容はあまり明らかにはなっていない。
明確に分かっている鉱毒の量は、1972年度、環境庁が足尾町に設置した測定局における二酸化硫黄(亜硫酸ガス)濃度が、旧環境基準に適合していなかった。足尾町内1局の測定局のうち、1局が不適合で、都市内全測定局の値が不適合となったのは、測定局のある都市の中では、この年度、足尾町のみである(ただし当時の環境白書は、鉱毒被害とは明示していない)。1981年9月7日に足尾町の中才浄水場から排出された排水から、基準値の2倍、協定値の3倍の銅が検出されたというものがある。このほか、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会などが独自に測定した値などがある。
2011年3月11日、1958年に決壊した源五郎沢堆積場が再び決壊。鉱毒汚染物質が再度渡良瀬川に流下した。同日発生した東北地方太平洋沖地震が原因と思われるが、詳細は不明である。この際は、下流の農業用水取水地点において、基準値を超える鉛が検出された。また、堆積場と渡良瀬川の間にあるわたらせ渓谷鉄道の線路が破損。同鉄道は運休を余儀なくされた。
1899年の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒による死者・死産は推計で1064人。これは、鉱毒被害地の死者数から出生数を単純に減じたものである。松本隆海は、すべてが鉱毒が原因だとはいえないかもしれないが、当時の日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、死者数のほうが多いのは、鉱毒に関連があるとしている(実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本はこれらも鉱毒による死者とすべきだとしている)。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。
鉱毒激甚地であった当時の安蘇郡植野村字船津川地区(現佐野市船津川町)の死産率は明らかに全国平均を超えていることも鉱毒事務所は指摘している。松本隆海は、『足尾鉱毒惨状画報』(1901年)で、安蘇郡界村字高山(現佐野市高山町、当時の人口約800人)で、5年間で兵役合格者がわずか2名しか出ておらず(適齢者は延べ50名)、しかも、その合格者のうち1名も入隊後10日で病気で除隊となったという逸話を紹介している。田口掬汀は、海老瀬村の鉱毒被害者向けの診療所の医師に聞いた話として、忙しくて統計はとっていないが、ひと月に2300名を越える患者を診断し、うち半数が眼病であったが、これは地質が及ぼす結果だろうとこの医師は推測していることを佐藤儀助編『亡国の縮図』(1902年)で紹介している。また、元谷中村村民の島田宗三は、自身の父と祖父は、鉱毒水を飲んで胃を冒されて死亡した、と主張している。
政府の鉱毒対策  

 

1891年からたびたび田中正造が国会で質問したにもかかわらず、政府は積極的には鉱毒対策を行わなかった。この時代は、1891年刊行の吾妻村民らによる鉱毒の記録集『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸事情』を発刊直後に発売禁止にするなど、言論封殺が主な対策であった。
第一次
1897年、鉱毒被害地の農民が大挙して東京に陳情(当時の表現では押出し)を行うなど、世論が高まると、同年3月、政府は足尾銅山鉱毒調査委員会を設置し、数度の鉱毒予防令を出した。特に大規模なものは1897年5月の第3回の予防令で、古河側に、排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置、煙突への脱硫装置の設置を命令した。これらはどれもが数十日の期限付きで、一つでも遅れた場合には閉山するというものだった。古河側は当時珍しかった電灯などを活用し、24時間体制で工事を行った結果、すべての工事が期限内に間に合った。
しかし、これらの装置は、満足に役には立たなかった。政府は長年、この予防令による工事と、後述する渡良瀬川の改修工事(1927年竣工)で鉱毒問題は解決したとしてきたが、1993年、『環境白書』で、当時の対策が不十分で、根本的な解決とはならなかったことを認めた。
具体的には、濾過池・沈殿池は翌1898年には決壊し、再び下流に鉱毒が流れ出した。煙突の脱硫装置も、当時の技術レベルでは機能せず、効果は無いに等しかった。堆積場からの鉱石くずの流出は、既に1902年の第二次鉱毒調査委員会で指摘されている(しかし、第二次鉱毒調査委員会は特にそれを問題視することはなかった)。
被害民の一部は、鉱毒予防工事の効果はないものとみなして再び反対運動に立ち上がり、3回目(1898年9月)と4回目(1900年2月)の大挙上京請願行動(押出し)を決行した。4回目の押出しでは、農民側と警察側が衝突して大勢の逮捕者が出た(川俣事件)。しかし、実はその翌年(1901年)の秋には、工事の効果が現れはじめ、新聞も農地がかなり回復していると報道した。たとえば、10月6日付の『東京朝日』には、「激甚被害地を除く他は極めて豊作」と出ている。ただし、これらの報道については、当時のマスコミのみの取材能力では、渡良瀬川沿岸全域を調査したとは考えられず、一部地域のみの情報を元にしたものであるという指摘がされている。
第一次鉱毒調査委員会はこれ以外に、鉱毒被害民に対し免租を行った。これは農民の要求を受け入れたものだが、この措置のおかげで選挙権を失うものが続出、誰も立候補できずに村長が選べない村も出るという弊害も生まれた(当時は一定額の直接税を納めないと選挙権が得られなかった)。
第二次
明治34年(1901年)12月10日、日比谷において田中正造が明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行ったが、警備の警官に取り押さえられて失敗。しかし、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。田中の直訴後、学生が相次いで団体で足尾見学に向かうなど、世論の盛り上がりにあわてた政府は、1902年に第二次鉱毒調査委員会を設置した。同委員会は1903年に、1897年の予防令後は鉱毒は減少したと結論づけ、洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な「遊水池」を作るべきとする報告書を提出した。しかし、第二次鉱毒調査委員会は、前述のとおり、予防令による工事で鉱毒は減少したとは結論づけたが、鉱毒が消滅したという調査結果はない。
同調査会の結論は「作物に被害を与える銅分は、予防工事前の残留分で現業によるものは少ないとして古河鉱業の責任を解除した」(由井正臣『田中正造』)ものだったが、実際、1903年10月には「被害地の稲は豊作」になり、田中正造も「被害地豊作の実況」と題する演説をして歩いた(『田中正造全集・別巻』477頁)。この演説で正造は、「豊作の原因は断じて工事の効果ではない。去年の大洪水による山崩れで、新しい土が被害農地にかぶさったためだ」と抗弁した。この説は2006年現在、国土交通省も支持している。
しかし、群馬県山田郡側の鉱毒被害は、この時代、逆に増加したといわれる。理由は不明だが、大正時代、製錬方法が浮遊選鉱法に変更されたことにより渡良瀬川を流れる鉱石くずの粒が細かくなり、浮遊したまま川を流れるようになったため、上流部の渡良瀬川右岸に多く流れ込んで堆積するようになったと考える研究者がいる。群馬県側の鉱毒被害および鉱毒反対運動については後述する。この時代、鉱毒が減ったような報道が多くされたのは、鉱毒発生当初は山田郡は鉱毒激甚地とはみなされていなかったため、マスコミが取材に訪れなかったためだと考える研究者がいる。
第二次鉱毒調査会の報告書を受け、栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県の境に、鉱毒沈殿用の渡良瀬遊水地が作られた。当初、埼玉県側に作られる予定であったが、激しい反対のために栃木県側に予定が変更された。この土地は元々、農業を主な産業としていた栃木県下都賀郡谷中村であった。
谷中村には田中正造が住み、公害運動の拠点となっていたことから、運動をつぶすための決定だといわれた。谷中村はこれに激しく抵抗し、隣の藤岡町との合併案を否決した。谷中村は1906年に強制廃村となり、藤岡町に合併された。また、渡良瀬川の河川工事もこの時代に行われた。
1910年から1927年にかけ、谷中村を遊水地にし、渡良瀬川の流れの向きを変えるなど、大規模な河川工事が行われ、洪水は減少した。しかし、足尾の山から流出する土砂が下流で堆積するのは止まらなかった。また、下流地域での鉱毒被害が減っただけで、新たな鉱毒の流出が消滅したわけではなかった。政府が当時のこれらの対策が不十分であることを認めたのは、前述したとおり1993年であった。
戦後
1947年のカスリーン台風以降、政府は渡良瀬川全域に堤防を作った。この堤防工事は20年ほどかかった。堤防の竣工以後、渡良瀬川では大規模な洪水はない。
土砂の流出を防ぐため、1960年、足尾町に防砂ダムの足尾ダム(通称、三沢合流ダム)が作られた。容積500万立方メートルで、利根川水系の砂防ダムとしては最大。また、日本でも最大級の砂防ダムだとされる。2003年現在の堆砂率は67%。
渡良瀬川の治水と首都圏への水道供給を主目的にした多目的ダム、草木ダムが渡良瀬川上流の群馬県勢多郡東村に作られた(1977年竣工)。このダムは鉱毒対策を目的の中に入れていなかったが、参議院議員近藤英一郎(当時)が商工委員会で質問を行った結果、このダムについては「水質保全に特に留意」することとされた経緯がある。鉱毒を下流に流さないようにするための半円筒形多段ローラーも採用された。このダムは常時水質検査が行われ、結果が随時公表されているが、そのような多目的ダムは日本にはほとんど存在しない。竣工が銅山の閉山後だったこともあり、水質検査では異常な値はあまり検出されていない。
1976年7月30日、群馬県、栃木県、桐生市、太田市と古河鉱業の間で公害防止協定が締結された。ただし、後述する毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会はこの協定への参加を拒否した。この協定に基づき、水質検査などが行われている。鉱毒被害地の農地の土地改良も、公害防止協定締結後に行われた(後述)。
なお、協定に基づく水質検査の結果、降雨時の堆積場からの水質が環境基準を超えていることがあることを群馬県が2005年に指摘している。  
鉱毒反対運動

 

明治期
鉱毒反対運動は、現在の栃木県佐野市と栃木市藤岡町で盛んであった。最初の運動は、1890年、栃木県足利郡吾妻村(現在の佐野市吾妻地区)会が足尾鉱山の操業停止を求める決議を採択した。
佐野出身の衆議院議員田中正造は1891年以降、たびたび国会で鉱毒の質問を行い、鉱毒の害は全国に知れ渡った。栃木県は鉱毒仲裁会をつくり、古河側が、1893年頃に農民に示談金を払い、1896年6月末までに対策を行って鉱毒をなくすという内容で示談を行わせた。これに対し、田中正造はこの示談を行わないよう運動を行った。しかし、1896年の大洪水でさらに鉱毒が拡大し、対策がなされていないことが判明すると、農民側は示談契約書を根拠に再度交渉を行った。このとき、古河側が農民に若干の示談金を与えるかわりに、それ以前、以後の鉱毒被害の請求権を放棄するという内容の永久示談に切り替えた。このため、この後には鉱毒問題はないという主張もされる。しかし、示談金の受け取りを拒否した農民もおり、鉱毒反対運動はこの後も続いた。
森長英三郎によれば、1893年の時限付き示談の内容は、古河市兵衛が農民8414人の被害地4360町96畝06歩に対し76602円96銭9厘を支払うというもので、1896年の永久示談は農民5127人の被害地2207町43畝14歩に対し30119円23銭2厘を払うというものであった。森長の概算によれば1893年の示談の平均は1反あたり1円75銭、1896年の示談の平均は1反あたり1円54銭である。
反対運動が最も盛んになったのは、1896年の洪水以降で、田中正造の主導の元、10月4日、群馬県邑楽郡渡瀬村(現在の館林市下早川田町)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県の鉱毒事務所が作られた。ここは、被害農民の集結所となった。この後、東京への陳情に出かける農民と警官隊との衝突も起きた。このような陳情には当時名がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。布川了によれば、大規模な押出しは明治期に6回行われている(1897年3月2日、1897年3月24日、1898年9月26日、1900年2月13日、1902年2月19日、1902年3月2日)。第3回押出しで、与党議員であった田中は農民等を説得して大部分を帰郷させたが、直後に政権が崩壊。田中は第4回押出しを行うための機関、鉱毒議会を現地栃木・群馬県で組織させた。押出しについては川俣事件も参照のこと。
1896年には群馬県議会が足尾銅山の操業停止を求める議決(『鉱毒ノ儀ニ付建議』)を行った。一方、栃木県議会は1890年に足尾銅山の調査を求める議決を行っていたが、鉱毒被害地と足尾銅山双方の地元であるという事情から議会が紛糾し、1896年には鉱毒に関する議決は行わなかった。
当時、日清戦争・日露戦争のさなかであった政府としては、鉱山の操業を止める事はできず、反対運動を食い止めるため、政府は運動の盛んだった谷中村の廃村を決し、1907年強制破壊が行われる。その後、村民は主に隣の藤岡町や群馬県板倉町にあたる地域、下都賀郡の他の町村、古河町(現在の古河市)、那須郡、北海道常呂郡佐呂間町に移住した。また、元谷中村民以外も一緒に移住したが、実質的には元谷中村民救済の意味が強かった。なお、佐呂間町にある「栃木」という地名は、この移住の際につけられたものである。移住を拒否し、破壊された谷中村の自宅跡に住み続けた元村民もいる。ただし、1917年には全員が村を退去した。
鉱毒反対運動は、谷中村の廃村や、渡良瀬川の大工事による洪水の減少などにより次第に弱まり、特に1902年以降、足利郡、梁田郡、安蘇郡、下都賀郡、邑楽郡の鉱毒被害地が豊作になると弱体化した。さらに運動の中心人物であった田中正造が1913年に没するとほぼ消滅した。しかし、群馬県山田郡の鉱毒被害は止まず、この地区ではこの後も鉱毒反対運動が続いた(後述)。
足尾町での運動
煙害に困った足尾町赤倉地区の住民が1920年に煙害問題安定期成会を結成。古河鉱業と直接交渉を行った。しかし、土地柄、銅山との商取引で生計を立てている者が多く、運動は盛り上がらなかった。最終的に、銅山に全く依存していない数軒のみが賠償を受けることに成功したが、逆に町内の分断を招いた。
大正期・昭和期・平成期
渡良瀬川から農業用水を取水していた中流右岸の待矢場両堰普通水利組合(現在の待矢場両堰土地改良区。主に群馬県山田郡、邑楽郡の町村に用水を供給していた)と三栗谷用水普通水利組合(現在の三栗谷用水土地改良区、主に足利郡右岸に用水を供給)は、古河側と永久示談を行わず、期限つきの示談交渉を数度にわたり延長する方式をとっていた。しかし、1902年、1904年に古河側は状況が変わったとして示談延長を停止。両組合は、賠償請求額を算出するためにそれぞれ独自にたびたび足尾の現地視察などを行った。1917年、待矢場両堰普通水利組合は、渡良瀬川には鉱毒はなくなっていないとする意見書を群馬県知事に提出した。
1924年には干ばつがあり、これは、水源地の足尾の山林が荒廃して保水能力を失ったためだと考えた両組合は、それぞれ別個に活動を行い、1925年には群馬県側の農民ら数千人の署名が集められ、貴族院、衆議院、内務大臣、農務大臣宛てに請願書が提出される。この内容は主に、鉱害による損害賠償請求が行えるようにして欲しいというものだった(当時は原告に立証責任があったため、裁判で勝つ見込みがなかった)。この要望は1939年に実現した。
一方、三栗谷用水は、鉱業取り締まりや鉱業法改正の嘆願書を内務・農林・商工大臣宛に提出。この嘆願書は1926年から1933年までほぼ毎年提出された。なお、この時代、両水利組合が共同で行った運動も若干ある。
1936年に三栗谷用水は古河鉱業から事業資金の一部8万5千円を提供させ、取水口の改良工事を行い、それまでの渡良瀬川からの直接取水から、伏流水を主に取水する方式に変更した。この際、古河側は永久示談を要求。今後一切現金提供を求めないという条文が契約書に盛り込まれたが、工事は1950年の第4次工事まで続き、最終的に古河側は総工費3200万円の4%にあたる119万円を負担した。第4次工事で、用水本流上に中川鉱毒沈砂池(1948年竣工)が設けられ、下流部の鉱毒被害は激減した。しかし、最新の鉱毒防止装置の維持費は、その後も用水利用料増加という形で農民の負担となった。なお、事業そのものは1967年竣工の第5次まで続いたが、第5次工事には古河は金銭を負担していない。
1938年、1939年には渡良瀬川で大洪水があり、鉱毒が再度農地に流れ込んだ。同年、渡良瀬川改修群馬期成同盟会が結成され、内務省に対して渡良瀬川の河川改修や水源地の涵養などを求める陳情が行われた。陳情は1940年までに22回行われた。1940年、政府はこの事業に予算をつけるが、第二次世界大戦のため、あまり大規模な改修は行われなかったらしいという推測もある。政府が渡良瀬川の大改修を行うのは戦後であった。
これ以降の時代は、国策である銅の増産に協力しない者は非国民であるという主張がされるようになり、鉱毒反対運動は一時下火になった。
1945年、終戦となり、言論・集会への弾圧が行われなくなると、翌1946年、群馬県東部の渡良瀬川流域の農民が集まり、足尾銅山精錬所移転期成同盟会が結成された。この会はすぐに鉱害根絶同盟会と名称を変更し、古河鉱業と直接交渉を行った。周辺市町村は渡良瀬川改修群馬期成同盟会を沿岸鉱毒対策委員会と名称変更して鉱毒反対運動を続け、1953年、鉱害根絶同盟会は官製の対策委員会に吸収される形でいったん消滅した。対策委員会は古河鉱業から土地改良資金の20分の1(800万円)を受け取り解散した。800万円は、待矢場両堰土地改良区(水利組合が名称を変更したもの)の口座に入金された。
これらの資金を基に、待矢場両堰も三栗谷用水と同様、伏流水を取水するための工事を行ったが、用水の規模が違いすぎ、伏流水のみでは必要量を確保できなかった。待矢場両堰はその後も渡良瀬川からの直接取水を続けた。
しかし、1958年5月30日、足尾町オットセイ岩付近にある源五郎沢堆積場が崩壊。崩れた鉱石くずが渡良瀬川を流れ、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現在の太田市毛里田)の田畑に流れ込んだ。この後この地で再び鉱毒反対運動が盛んになる。
6月11日には毛里田村の農民らが足尾を訪れるが、古河側は自身に責任はないという主張を繰り返した。しかし、国鉄には、鉱石くずの流出で線路が流れたことに対して補償金を払っていたことが直後に判明。住民らが激怒し、7月10日、毛里田村期成同盟会(のちの毛里田地区期成同盟会)が結成され、これを受け、さらに8月2日、群馬県桐生市、太田市、館林市、新田郡、山田郡、邑楽郡の農民が中心となって群馬県東毛三市三郡渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会が再度結成される。古河側は150万円の見舞金を提示したが、毛里田村民側は賠償金の一部としてでなければ受け取れないと拒否。また、この交渉過程で、1953年に土地改良資金を提供したときに、永久示談を行ったと古河側は主張。当時の契約書も提示された。この契約書に関しては、1966年、参議院商工委員会で鈴木一弘委員(当時)が有効性があるのかと問いただしたところ、農林省、通産省の担当者は、それぞれ、契約書に署名した水利組合理事長に独断でそのような契約を結ぶ権限があったか疑わしく、また、契約後も鉱毒被害が発生していることから、永久示談の成立には否定的な答弁を行っている。
この時期の鉱毒反対運動は、最大の被害地、毛里田村期成同盟会(のちの毛里田地区期成同盟会)が活動の中心となった。この後、バスを使った押出しが行われた。明治期のものと区別するため、昭和期のものは昭和の押出しと呼ばれる。同年設置された政府の水質審議会指定河川から渡良瀬川が除外されたことも運動を大きくする原因になった。
1962年、水質審議会に渡良瀬川専門部会を設け、毛里田村期成同盟会会長が会長を辞職すれば、この会長を審議会委員に加えてよい、という内容の政治的な妥協がはかられたが、当初、毛里田村同盟会は同盟会の運動の分断を図ろうとするものだとして激しく抵抗した。また、そのような主張が認められるなら、同じく委員になっている古河鉱業の社長もその職を辞すべきだという主張もあった。しかし、会長はこれを受け入れ、会長を辞職した上で水質審議委員となった。しかし、この委員の意見はほとんど無視されたため、1964年10月5日、再び押出しが行われた。水質基準は経済企画庁の提案による銅0.06ppmという値で、1968年に決定された。毛里田地区期成同盟会(毛里田村期成同盟会が名称変更したもの)は、0.02ppmを主張したがこれは受け入れられなかった。
この間、1966年9月ごろ、足尾町の天狗沢堆積場が決壊。再度、鉱毒が下流に流れた。しかし、古河側はこの事実を公表しなかった。期成同盟会の住民は、群馬県からの連絡でこの事実を知った。
1971年に毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され、直後、農民らは80年分の賠償金120億円を古河鉱業に請求した。1972年、群馬県は、米の汚染は足尾銅山の鉱毒が原因と断定。3月31日、農民971人が古河鉱業に賠償金総額39億円の支払いを求め群馬県公害審査会に調停を申請した。4月3日、県は毛里田地区の土壌汚染についても足尾銅山の鉱毒が原因と断定。1974年に、農地359.8haを土壌汚染対策地域農用地に指定した。
1974年5月11日、群馬県公害審査会から事件の処理を引継いだ公害等調整委員会において調停が成立し、古河鉱業は15億5000万円を支払った。これは、古河側が鉱毒事件で責任を認めて賠償金(契約書上の文言は「補償金」)を支払った最初の出来事である。(それ以前の資金提供は常に「寄付金」「見舞金」「協力金」などの名目で、賠償金ではなかった)ただし、古河鉱業側は、銅の被害のみを認め、カドミウムについては認めなかった(農民側も、調停申請にはあえてカドミウム問題は提示せずに早期解決を目指したという理由もある)。このときの調停の内容に含まれていた土地改良は、1981年に始まり1999年に完了した。古河鉱業は土地改良事業費43億4000万円のうち51%を負担し、残りの大部分は国と群馬県が負担した(ごく一部を桐生市と太田市が負担)。土地改良には農民の金銭の負担はない。
毛里田地区の鉱毒反対運動は、どこからも主だった支援を受けず、農民の手弁当による活動であるところが他の同種の運動と大きく異なる。ただし、支援の申し出がなかったわけではなく、受け入れ体制が整わなかったのが支援を受けなかった理由であるという。
毛里田地区の調停成立直後の1974年11月18日、群馬県桐生市で桐生地区鉱毒対策委員会が設立され、農民444人が古河鉱業に対し交渉をもった。1975年11月18日和解が成立し、古河鉱業は銅などによる鉱毒被害を認め、2億3500万円を支払った。
1974年10月25日、太田市韮川地区鉱毒根絶期成同盟会の農民546人が、13億円の賠償を古河鉱業に請求。1976年12月1日、和解が成立し、古河鉱業は1億1千万円を支払った。
毛里田地区で申請漏れになっていた住民が、公害等調整委員会に調停を申請。1977年12月、390万円で和解が成立した。
1994年、毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会と、韮川地区鉱毒根絶期成同盟会が合併。鉱毒根絶太田期成同盟会となった。
2000年、2003年、2004年に、群馬県は農用地土壌汚染対策指定地域を追加指定。これまでに指定され、まだ解除されていない農地も含め、2005年現在の対策指定地域は53.74haである。2000年以降の追加指定地は、大部分が1970年代の調査が不十分で調査洩れになっていた地域と考えられている。
2004年、桐生市議会は、足尾町の中才浄水場に自動取水機の設置を求める要望書を採択した。
古河側の主張
足尾鉱毒事件に関しては、主に被害者側の視点での記述が多いが、中立性を確保するため、古河側の主張も併記する。ただし、古河側が直接、鉱毒に関して言及している例は非常に少ない。古河側の直接的な文献で、鉱毒に関する言及が多い文書には、古河鉱業刊『創業100年史』(1976年)がある。なお、古河鉱業は鉱毒という語を用いず、「鉱害」という語を用いている。
これによれば、1740年に既に渡良瀬川沿岸で鉱毒による免租願いが出されていることが当時の文献から確認でき、鉱毒は古河の経営になる前から存在したと主張している。また、当時は圧力があって文献では残っていないが、1821年に鉱毒被害があった、という研究も紹介している。
古河側の主張によれば、(第1次)鉱毒調査会による鉱毒防止令による工事と、大正時代までに行われた渡良瀬川の治水工事により、鉱毒は「一応の解決をみた」(『創業100年史』より)と述べている。この時代、待矢場両堰普通水利組合などが鉱毒に言及していたことについては記述がない。
源五郎沢堆積場崩壊事故後の毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会との交渉については(それ以前から鉱毒問題に関しては)、「つねに前向きの姿勢で対処してきた」(『創業100年史』より)と述べている。古河側が時効の成立を主張したことなどについては言及がある。1974年の調停で、鉱毒問題については「終止符が打たれた」(『創業100年史』より)と述べているが、古河鉱業がカドミウム汚染に関する責任を認めていないことについての言及はない(1976年に結ばれた公害防止協定への言及もないが、協定成立年とこの文献の発行年が同年であることから、編集に間に合わなかったという可能性もある)。 
 
鉱毒事件 2

 

足尾鉱山の経緯 
明治の御一新で西洋文明を立国、国家経営の道具として、がむしゃらに取り入れた時代でした。軍国主義は例外として一定の近代化の成功は確かでしょう。 しかし私達戦中派にとっては公害という語句すら存在しておりませんし、ましてや 足尾鉱毒事件どころか田中正造の存在すら教えられておりませんでした。
その足尾鉱毒事件と田中正造が社会にクローズアップしたのは昭和31年(1956)熊本県水俣や昭和40年(1965)の新潟県阿賀野川水銀中毒事件の発生が端緒でしたから、私達もお蔭様で戦後社会から得た知識です。……
まず足尾銅山の経緯から始めますが、明治黎明期のキーマン達の行動が投影され、大変面白い側面があります。係わった主な人物に古河市兵衛、渋沢栄一、陸奥宗光の交友は興味あるものです。
古河市兵衛さんの出自から、父は岡崎の庄屋木村家ですが没落し、幼少から困窮の生活で丁稚奉公の後、叔父の仕事を手伝います。貸金業の叔父の知人京都”小野組”の使用人古河太郎左衛門の養子となり、養父の病没で小野組で働く事になります。…頭角を現した市兵衛は鉱山経営も手掛けて小野組の大番頭に上り詰めるのです。
この京都の小野組とは三井組、岩崎家(三菱)とも競う当時の大商人、政商で維新の時、賊軍征伐の官軍へ用金調達の功から明治政府の資金預託、為替方も命ぜられ租税収納や送付を扱いました。
一方の陸奥宗光は紀伊藩士ですが幕末には坂本竜馬と親しく、勝海舟の海援隊に加わっており、才知にすぐれ、”二本差さないでも食えるのは陸奥と俺ぐらい”と竜馬に言わせるほどの切れる男だったようです。
彼の54歳の生涯ではヨーロッパ留学、駐米国公使、農商務大臣、外務大臣では日清戦争に係わり外交成果を挙げたとされます。
では、三人の最初の接点は? 憶測の域とは思いますが、明治4年頃大蔵省に租税正として招聘された渋沢栄一に市兵衛が相談事を持ち込み懇意になりますが、渋沢栄一の上司、租税頭(局長)が陸奥宗光と云う事でこの才知溢れる三人が偶然親交を結ぶ事に為ったのでしょう。……
やがて渋沢栄一は大蔵省を退任して国立第一銀行の設立を計り、小野組、三井組、島田組の出資をもとめ大株主として銀行は発足します。
小野組もまた業務の拡大に国立第一銀行から相当額の融資を利用しますが、政商同士の争いに敗れたのか、経営不振か、突然政府預託金の全額返済を国から迫られ、結果倒産に追い込まれました。
小野組倒産は国立第一銀行を直撃、貸出金総額300万円のうち小野組の事業資金として140万円の融資残高があり、銀行は連鎖倒産の危機を迎えます。……
銀行頭取渋沢栄一のピンチを救ったのは古河市兵衛の誠意でした。彼は小野組の全資産と自身の資産総てを担保として銀行に差し出し、結果、銀行損失は2万円に留まりました。 が、市兵衛は丸裸同然で小野組を去ります。…”禍福はあざなえる縄の如し”と喩がありますが、渋沢栄一の市兵衛にたいする感謝は、やがて強い信頼、親密の関係となり古河市兵衛の成功へのステップに転換されるのです。……
注)国立銀行とは…日本銀行成立以前の兌換紙幣発行銀行のこと、アメリカのナショナルバンクに倣ったもので「ナショナルバンク」を”国立銀行”と訳したものです。 明治15年(1882)に日本銀行が誕生して日銀券発行にともない国立銀行条例は消滅、各行は普通銀行になりました。現在はナンバー銀行として、第三、第四、第十六、第十八、第七十七、第八十二、第百五、第百十四、などが営業しております。
…無一文の市兵衛に渋沢栄一は早速手を差し伸べ市兵衛の手掛ける新潟草倉銅山買収に融資の道を開き明治八年に成功させ、古河市兵衛が鉱山業として自主独立の第一歩を歩む切っ掛けを与えます。更には明治10年(1877)に廃鉱状態の元幕府直轄足尾銅山を国立第一銀行の更なる支援を得て買収し、努力の結果銅の巨大鉱脈を次々に発見して、巨利を手中に収め古河財閥として発展の礎を築く事が出来ました。
また、駐米国公使の陸奥宗光から銅金属の近代工業での将来予測や電気精錬など先進鉱山経営の情報を逐一提供を受けて経営に活用していたのです。この間子供の無かった市兵衛は陸奥宗光の次男潤吉を養子に迎える縁戚関係となり、後に潤吉は養嗣子として古河二代目を継ぎます。 
幕府公儀御用山から明治まで

 

かぁちゃーん”おあし”頂だい!紙芝居が来ると子供が家に駆け込み母親に銭(ぜに)をねだる姿などは昔の東京下町で見慣れた光景でした。銭(ぜに)を”お足”と呼んだり、何処で覚えたのか”おぜぜ”と云う言葉も記憶に残っております。一寸それますが、下町生まれの母親でしたが、”おあし”などと言うなと、たしなめられた覚えもあります。が理由は今でも分りません。……
ところが、この”お足”の話は今回の足尾銅山と直接関係があったのでした。では、写真は足尾銅山資料館にある「寛永通宝」のモニュメントですが、一文銭の表と裏。裏には足尾銅山に在った銭座の鋳造銭を現す『足』の字が刻された足字銭と呼びます。この庶民の銭(ぜに)「寛永通宝」は寛保2年(1742)から5年間に2億1千万枚鋳造され、見慣れた足の字を語源として銭(ぜに)の総称を”おあし”と世間で呼ぶ様になったと云われます。戦前まで東京では、よく使われた言葉です。……
そもそも、私の記憶では足尾銅山とは古河市兵衛の手で明治に開発され日本近代化で繁忙した大銅山と鉱毒問題のイメージが大部分ですが、実は江戸幕府にとっても将に重要な山でも在ったのです。
その起源から始めます。慶長15年(1610)頃、治部と内蔵と云う二人の農民が黒岩山で銅鉱を発見します。早速幕府領となり足尾銅山と呼ばれました。その後、寛永4年(1627)から21年間は日光東照宮支配に属し、慶安1年(1648)には東照宮から幕府直山こと公儀御用山となります。
この時期、寛永13年(1636)には三代将軍徳川家光が現在の東照宮を再造営しました。寛永15年には、江戸城天守閣の落成、明暦3年(1657)には未曽有の大火”振袖火事”で江戸城天守閣本丸など全焼して、復旧用に大量の銅瓦など建築資材を必要としました。更には各代将軍の銅宝塔、巨大銅燈籠など現存する文化財からも銅は幕府に必要貴重な金属として多量に使用された事を示しております。
精錬した銅材を足尾から江戸への輸送路として”あかがね街道”(銅山街道)が開設され、足尾から利根川平塚河岸(群馬県太田市世良田の南)までを馬の背で運び平塚河岸から江戸蔵前御用銅蔵まで舟運で搬入されました。なお、幕府直山足尾銅山の最盛期は、ほぼ延宝4年(1676)から貞享4年(1687)の10年間でしたが、延宝4年(1676)の足尾銅の長崎への回送高は12.550貫ですが、外国交易の重要な輸出産品だったのです。……
この時代の話し、…実は足尾銅山公害は現代だけの話ではありませんでした。既に寛政2年(1790)には洪水で渡良瀬川堤が決壊、鉱毒被害が発生しているのです。その後は除々に鉱脈は枯渇し、産出量が減少して衰退期に入ります。遂に、文化14年(1817)には足尾銅山は休山状態に至りました。
《明治の御一新》日本国最長の武家統治者、徳川幕府は瓦解します。廃鉱同然の足尾銅山は幕府から日光県に所有権が移り、更に栃木県に集約されますが、国の銅山調査の結果、民間へ払い下げを示唆し、古河市兵衛の所有となりますが、当初、一商人の払い下げ願いは政府に拒否され、次善の策として名義人に旧相馬藩元殿様を立て取得できたのです。また、市兵衛は格別の信用を得た渋沢栄一の配慮で国立第一銀行の融資援助が決め手となり、事業成功への端緒を掴みました。時に明治10年(1877)です。……
過度期を脱した足尾銅山の経営は古河市兵衛の優れた資質経験により相次ぐ新鉱脈の発見をみて明治18年には産銅量4000トンに達します。有利な銅取引もジャーデンマセソン商会と成立し、さらなる大増産にピッチが上がり明治24年には産銅量全国一の足尾銅山に成長しました。……、しかし、鉱毒煙害被害は足尾地域近辺の農、林、養蚕に致命的な被害を与え始めます。……因みに足尾銅山の産銅量は明治10年の47トンから明治後期、6000トンに達していたのです。
銅鉱増産は直ちに精錬煙害、伐採災害は更に広範囲に拡大し、山は荒廃した禿山と化し、遂に明治29年に至って渡良瀬川は三度の大洪水を起こし鉱毒水は群馬、栃木両県の農民を直撃、致命的打撃を与えました。
鉱毒とはなんぞや!…採掘過程のズリ(廃鉱石)、選鉱過程のビコウ(低品位鉱)、精錬過程のカラミ(鐘氈j、などの不要物集積地が洪水などで含有する銅、鉄、硫酸等が溶出したもの。
煙害とは…精錬過程で排出される煙に含まれる亜硫酸ガス、亜ヒ酸粉塵などで森林が枯渇する。ハゲ山、洪水の原因。
伐採災害…銅1トン生産に4トンの木炭が必要とされ、4トンの木炭には100石(18立メートル)の木材が必要。その他に坑内支柱、軌道枕木、ボイラー燃料、電柱、橋梁、建造物住宅建築資材の木材を近隣の山々から伐採した。ハゲ山、洪水の原因。…… 
政治家田中正造と足尾鉱毒事件

 

既に足尾銅山は閉山されておりますが、過去を見渡しますと、この山の所有者は徳川幕府と古河鉱山会社の二つに大別されます。幕府の207年間に対し古河鉱山は96年と半分にも満たない年月だったのです。
明治10年来、旧古河財閥の祖、古河市兵衛の努力に育てられた足尾銅山でしたが敗戦後の昭和48年(1973)に産出量の減少をもって採掘中止、閉山を古河鉱業会社は決定して、足尾銅山の歴史は閉じられました。
英国に発した産業革命以来世界の技術革新は飛躍し続け、効率量産の過程での災害や未知の障害は大規模公害を引き起こす事態になりました。足尾鉱毒事件こそは、その明確な端緒でしたが、国家により秘匿されます。敗戦後の昭和31年(1956)熊本県水俣や昭和40年(1965)の新潟県阿賀野川水銀中毒事件は悲惨な被害者の姿をクローズアップさせ、以後企業は公害加害の莫大なコストや企業の社会基盤喪失に驚愕します。
一方地方自治体東京都知事美濃部亮吉氏の果敢な都市汚染への取り組みは社会を覚醒に導くのです。……その後、日本社会の努力は公害対策、技術で世界に認知される地位に達していたのですが。……残念、福島原発の放射能災害事故の発生です。未だに手を”こまねく”政府の姿、…票にならないと読んだ政治家の放射能離れ、東電社長のどこ吹く風の物腰、……やはり現代社会でも田中正造の様な政治家が必要なのでは!。……
明治23年(1890)始めて国会が開設された日本国の衆議院第一回選挙に田中正造は50歳で当選いたします。この年の8月に渡良瀬川大洪水で流域広範囲の田畑に鉱毒水が流れ込み、農産物は悪臭を放ち枯れ果てて各地の農民や町村議会の抗議運動が活発化します。
第一次山縣内閣の農商務大臣に就任した陸奥宗光に明治24年12月18日田中正造は『足尾銅山鉱毒の儀につき質問書』を衆議院で政府に提出。以下要約。
《大日本帝国憲法第27条には、日本臣民はその所有権を侵されることなしとあり、日本抗法には、試掘もしくは採鉱の事業が公益に害あるときは農商務大臣はすでに与えた許可を取消すことを得るとある。
しかるに栃木県上都賀郡足尾銅山より流出する鉱毒は、群馬、栃木両県の渡良瀬川沿岸の各郡村に年々巨万の損害をこうむらしむこと、去る明治22年より現今に至り、毒気はいよいよその度をくわえ、田畑はもちろん堤防竹樹に至るまでその害をこうむり、将来いかなる惨状を呈するに至るやも測り知らず。政府はこれを緩慢に付し去る理由いかん。これまでの損害にたいする救済の方法はいかん。将来の損害における防止の手順いかん》
更に12月24日、この質問書へ陸奥農商務大臣の答弁のない理由を質し議会で質問。以下要約。
《日本抗法にはもちろん鉱業条例にも、いつでもその営業を農商務大臣が停止できると明記してあるにもかかわらず、それをしないというのはいかなることでありまするか。古河市兵衛の銅山が本人にはいかに利益があるものにせよ、租税の義務を負担している人民、しかも害のない土地に住居を定めた人民にかくのごとき害を加えていることが見えないというのは、どういうことでありまするか。
言うにはばかることであるが、農商務大臣は古河市兵衛にせがれをくれられ、親類であるから、いや、まさか農商務大臣、国家の大臣たるものが、そのようなごときことで公務を私(わたくし)するものでないことは拙者も信じておるが、しかしながら、こういうことを人民がいうときには、何をもって弁解なさるのか》…岩波ジュニア新書田中正造佐江衆一著より
陸奥宗光の答弁書は渡良瀬川流域被害は認めても、その原因、詳細は不明としてありました。
田中正造の質問書の…将来いかなる惨状を呈するに至るやも測り知らず。…の如く度重なる洪水から被害は増大し明治30年、遂に政府は東京鉱山監督署長南挺三に命じて、足尾銅山に公害予防工事の沈殿地、堆積場、煙突脱硫装置の急遽設置を厳命します。市兵衛と既に重役となっていた養子潤吉は国立第一銀行の融資を仰ぎ、懸命に突貫工事で完成させますが、??
鉱毒予防工事の成果は?、積年の煙害による渡良瀬川上流山岳一帯は禿山と化しており、明治31年の大洪水は一挙に沈殿地、堆積場などを破壊決壊し、鉱毒は流域各地へと大拡散し惨状を招くのです。
しかし、ここに至り古河市兵衛は明確な意思表示をしました。…銅鉱山経営は時宣を得た事業と確信したのか!なんと、足尾鉱毒公害工事の政府監督官の南挺三を取り込み重役に据えます。この時期の被害者の現実は、明治32年栃木県鉱害調査では既に鉱毒死と死産は1,064人と報告されております。
以後、足尾公害事件は核心部分に推移し、請願農民と警官隊衝突の川俣事件が発生し田中正造は憲政史上に残る大演説、”亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問”に対し山縣有朋総理大臣の答弁は「質問の趣旨その要領を得ず、よって答弁せず」…
政府の答弁は遂に得られずに国会に見切りをつけた正造は議員辞職を決断。明治34年10月23日衆議院議員を辞任、正造の最後の手段は天皇へ決死の直訴でした。
それは国会出席帰途の馬車走行中の天皇へ決行されましたが護衛の近衛騎兵に阻止され失敗します。しかし、この騎兵は馬諸共横転して落馬、槍による刺殺は避けられます。麹町警察署に拘引された田中正造に対する検事の取調は丁重な対応だったのです。なぜか?一老狂人の発作的行動として事件を決着させる筋書きで即日不起訴釈放します。巧妙にも政府は裁判法廷で一連の足尾鉱毒事件の詳細経緯が一般社会への露出を防いだのでした。《知らしむべからず、よらしむべし》が実践されます。
この直訴事件は田中正造最後の命と引き換えの行動でした。田中の依頼で直訴状を起草した万朝報記者”幸徳秋水”、毎日新聞主筆”石川半山”三者の謀議説もあります。
…直訴当日の石川半山日記…開院式に列席す。田中正造石川案を行へり。幸徳秋水来て密議を凝らす。夜島田と協議す。田中放免の報来る。直ちに越中屋に於いて面会す。新聞社に至りて欄外に記す。幸徳遅く来る。呵々大笑々々。余田中に向て曰く。失敗せり失敗せり失敗せり失敗せり。一太刀受けるか殺さねばものにならぬ。田中曰く、弱りました。余慰めて曰く。やらぬよりも宜しい。…
田中正造の政治家としての反鉱毒活動は終止しますが、《余は下野の百姓なり》と自負し遊水池予定地内谷中村に移住して抵抗農民と共にします。
以後国による渡良瀬遊水池計画は進捗し、谷中村民の抵抗は田中正造の死去により、遂に消滅の途をたどりました。……この間の推移…
明治34年古河市兵衛妻タメ東京神田橋より入水自殺、鉱毒事件と係わる理由かは不明。
明治36年(1903)古河市兵衛死去。養子潤吉は二代目社長に就任、西ヶ原陸奥宗光邸は古河家の所有になる。伝えられる市兵衛の個人像は、人を逸らさない穏やかな物腰は鉱夫からもオヤジさんと慕われていたようです。
明治38年(1905)足尾銅山は古河家家業から分離し、古河鉱業会社設立。
二代目社長潤吉は父陸奥宗光の秘書官原敬を古河鉱山副社長に任命。
社長古河潤吉急死。
三代目社長に古河虎之助(市兵衛の実子)就任。
明治40年足尾銅山鉱夫の暴動事件発生し軍隊出動鎮圧。
明治43年大逆事件の検挙開始、幸徳秋水逮捕、翌年死刑。
明治44年鉱毒被害農民210名北海道サロマベツ原野に移住、谷中村村民137名を含む。
大正2年(1913)田中正造、鉱毒河川調査から谷中村への帰途、病重篤し佐野市旧吾妻村庭田清四郎宅にて没す。 
 
田中正造伝

 

1 まえがき 
『不屈の田中正造伝』は『田中正造自叙伝』等の関係資料を参考に、書き下ろしたものです。小説ですので個々の言動等は事実と異なる場合があります。また実在の人物が多数登場しますが、後記の通り、人物評価は田中正造の視点に立って評価しており、必ずしも公平では無いことをあらかじめお断りしておきます。 
2 天皇直訴した男  

 

明治34年12月10日。その日、国会議事堂の前にたたずんでいたひとりの無骨な男が、この日開催された、第15議会開会式に出席の帰路にある明治天皇の列に、なにやら大声でわめきながら突撃していった。
男はたちまち天皇警備の騎馬警官の機転で取り押さえられ逮捕された。男の名は田中正造。その手には「謹奏」としたためた一通の書状が握られていた。決死の天皇直訴である。当時、最高刑は死刑という重罪の天皇直訴をなぜこの男はおこなったのであろう。
これは熱血男、田中正造の波乱の人生軌跡である。
時はさかのぼり、天保12年11月3日の事、下野国の南西にある安蘇郡小中村(あそぐんこなかむら)の名主田中家に長男が誕生した。名を兼三郎(かねさぶろう)と呼ばれたこの子こそ、後の田中正造であった。
田中家は、名主とはいえ、農民に対する厚遇のためか常に貧しく、村でも中程度の規模の経営だった。これは両親の高い教養にうらずけされた思想であり、兼三郎少年もこの全ての人を慈しむ両親の豊かな愛情の影響を受けながら育った。
父は兼三郎に高い教育を受けさせる為に赤尾鷺州(あかおろしゅう)が経営する赤尾塾に入塾させた。その時の謝礼は、米1石。貧しい農家の出す金としては決して楽な額ではなかったが父は惜しまず兼三郎に学ばせた。
その父親が主家の旗本六角氏に取り立てられ割元役(名主元締)に昇進したのは、人望と高い教養にうらずけされたものであった。17歳になった田中正造青年は、この人事に伴い、父の名主職を若くして相続する事になった。
父母の物静かで厳格な性格に反し、田中正造は熱血漢あふれる男であった。潔癖で不正が許せず、常に村の若者の先頭に立って行動していた。
その田中正造が27歳になった頃に最初の試練が訪れた。主家の六角氏は安蘇郡、足利郡、武蔵国に表高2000石を持つ旗本であったが、その六角氏から、江戸屋敷普請の計画が発表され、各地の知行所に先納金の割当が発表されたのだった。
「いかに主家の屋敷普請といえど、巨額の先納金は不当で領民の実状を知らぬ暴挙である。」
熱血の田中正造が立ち上がった。各地の農村名主や農民の先頭に立って主家に対抗したのだった。後に地元の人々が六角事件と名付けた農民ほう起であった。田中正造は投獄された。 
3 明治の夜明け  

 

慶応4年、田中正造(当時兼三郎)は主家の旗本六角家に造反した罪で投獄された。田中正造は幼い主君を補佐し六角家を私物化していた筆頭用人林三郎兵衛を六角一族に直訴したのだった。林三郎兵衛の解任と幼君の隠居を提案したもので、領民を始め良識ある家人からも支持されていた提案であった。
しかし事実を知った林三郎兵衛は激高し刺客を送り込んだ。暗殺が失敗に終わると、屋敷内で田中正造を拘束し、収賄された幕府役人により不当な吟味を受けさせたのちに狭い独房に閉じこめた。
同情を寄せる家人からの極秘の差し入れで毒殺の危機を免れながら命をつないだ田中正造が、突然再吟味の場に引き出されたのは、およそ10ヶ月の入牢生活の後の事であった。
吟味役の役人は、以前の役人と違い、薩摩言葉の若者であった。
「田中兼三郎、身分をわきまえず願書を提出したことは、不届きである。仕置きすべき所ではあるが、温情を持って、領内追放を申しつける。」
薩摩役人は重々しく沙汰した。しかし打ち沈む正造の耳に、続いて信じられないような声が聞こえてきた。薩摩役人の沙汰は、それだけに終わらなかったのであった。
「林三郎兵衛、時節柄倹約せねばならぬのに私腹を肥やすとは言語道断。長くいとまを取らす。また幼君は隠居し、ご次男が家を継ぐべし。」
なんと、田中正造の願書は、この薩摩の若き名もない役人によってすべて容れられ、田中正造も領地追放という主家への反逆罪としては格別な軽い罪で放免されたのである。田中正造の正論が全面勝利したのであった。
田中正造は釈放された。気づけばすでに時代は明治と改元され武士の世は終わっていた。薩摩言葉の青年役人も維新後の江戸の新しい主から派遣されてきた役人であった。ついに田中正造を必要とする世の中になったのである。
故郷に帰った田中正造は、六角氏の領地をわずかにはずれた隣村に住み私塾を開いた。熱血の田中正造に、しばしの安息が訪れたが、時代は正造に休息を与えなかった。薦める友人があって再度上京したのは、まもなくの事であった。
「江刺へ行ってみないか?あそこは知事はじめ重職に下野の人がいるからいい役職につけるぞ。」
東京での生活で、友人に薦められるままに、田中正造は運を北の果てに求める決心をした。田中正造が自分の名を田中兼三郎から田中正造と変えたのはこの頃であった。強大な太刀打ちすることのできない「権力」の存在を知った田中正造の、新しい旅立ちであった。 
4 江刺への旅立ち  

 

田中正造が新天地をもとめて北の果ての江刺県閉伊郡遠野町へ旅だったのは明治3年の事であった。同行の友人と15日もの厳しい旅をしてやっと江刺町へ到着した時に、意外な情報が入ってきた。彼らが頼みとしていた下野出身の知事も国府大参事も数日前に転任してしまったというのである。仕官の目算がはずれ、有り金もすべて旅費につぎ込んで帰るに帰れなくなっていた田中正造は、途方に暮れてしまった。
しかし、同行の友人が官職につけた事で、彼もまた下級官史となる事が叶い、山間の辺地鹿角への転任が決まった。田中正造は、こおどりして喜び、設立まもない花輪支庁より任地へと向かった。
到着した鹿角は悲惨な極貧村であった。相次ぐ冷害で村人はほとんど餓死寸前の状態にあった。北の国では維新の混乱が未だに続いており、敗軍の残党が山賊化して村々を襲ったのも農民を苦しめる原因になっていた。田中正造の正義感が、ふたたび燃えたぎった。
田中正造はただちに木村支庁長に掛合った。農民あっての政治である事を必死に訴えついに大量の米を秋田県より買い付け農民に配給することに成功した。各地で大量の餓死が報告されたにもかかわらず、とりあえず鹿角では餓死者無しという成果をあげた。これより田中正造と木村支庁長は、深い信頼で結ばれた友人となった。
明治3年1月8日の晩の事、花輪の田中正造の家に、すぐ近くに住む木村支庁長の屋敷の使用人が、あわてふためいて飛び込んできた。聞けば屋敷で暴漢に襲われて木村支庁長が重体だという。田中正造は、医者や警官の手はずを使用人に言いつけると雪の中を木村支庁長の屋敷へ走った。虫のいきの木村支庁長は、田中正造の腕の中で後を頼むと、か細く言うと絶命した。
大規模な捜索にも係わらず犯人は捕まらなかった。そして二ヶ月が過ぎたある日、田中正造の運命を変える大事件が起きた。その日、突然訪れた警官により、田中正造は木村支庁長殺害の冤罪で逮捕されたのである。
無実の証人もいれば、殺害の証拠もない。どう考えても誤認逮捕であるからすぐに解放されるであろうと軽く考えていた田中正造に、またもや、どうにもならない強大な権力の罠が待ち伏せしていた。
取調は、まさに調べるなどというなま易しいものではなかった。犯行の事実を認めよと迫るばかりで田中正造が証拠について口に出すたびに、逆らうかとばかりに鞭を打つというものであった。田中正造は悲鳴を上げながらもひたすら無実を叫ぶ以外に無かった。
やがて江差に移され、本格的な審理が行われた。旧時代の吟味に当たる裁判であった。やっと証人を呼び筋立てて無実を証明出来ると安堵していた田中正造に現実は厳しかった。江差での審理とは、三角に尖った角材を並べた上に田中正造をすわらせ、その膝の上に石を乗せ、自白を迫るというただの拷問だったのである。旧時代の野蛮な慣習が、今でも残っていたのである。
幾度となく気を失いながらも、熱血の男田中正造は決して屈服することは無かった。この種の拷問で屈服しない人間はほとんどいないという話であるから、田中正造は、かなりの強靭な心臓の持ち主であった。拷問の効果が無いまま、田中正造は牢に戻された。
季節が回り、厳寒の地に冬が訪れても田中正造は獄舎につながれたままであった。同室の囚人が4人、相次いで凍死した。田中正造は赤痢で死んだ囚人の衣服を貰い受けて寒さをしのいだ。どうにか冬を乗り越えた3月、江差県は廃止され、新設の岩手県の県庁、盛岡へ移送される事になった。
盛岡での監獄生活は、田中正造に取っては、予想外のものであった。岩手県令島惟精は自ら幕末勤王論者として入獄の経験を持ち、囚人達には出来る限りの待遇を行っていたのであった。獄舎は清潔で日常生活には不自由のない配慮がなされていた。きびしい制限のあった外部からの差し入れも、ここでは全く自由であった。しかも、やがて、当時の監獄では信じられない厚遇である畳が敷かれ、田中正造の身元が確かな事もあって、およそ囚人とは思えない待遇となった。しかし、それでもなお三年間、無実の声は県令にまで届かなかった。田中正造に対する嫌疑があまりものいい加減な物であった事を知った県令島惟精の指示で緻密な捜査が再開されたのは明治7年4月になってからの事であった。再開されてほどなく田中正造の無実は完全に証明され無罪放免された。指導者が正しければ正義は行われる。田中正造は、またしても貴重な経験を自らの体で学びとったのである。
獄中で政治経済を学び生来のどもりを克服した田中正造にとって、盛岡での監獄生活は、後の人生に大きな影響を与えた。こうして北の果てで囚人生活を送った田中正造は、またもや振出しに戻り、故郷の栃木県佐野の小中村に帰った。 
5 政治家への岐路  

 

田中正造は明治7年の夏、ひさしぶりに郷里の小中村に帰った。すでに旧藩の処分は無効になっており、田中正造が郷里で生活する事を拒む物は無かった。わすがに村の戸籍簿に「処刑死亡」として名前が抹消してあった事を除いて。
正造が帰ってみると母はすでに他界し、借財で田中家は没落していた。負債を少しでも返済しようと家財を処分したが、すでに義民として村人から尊敬されていた田中正造に対し債権者は積極的に無償で証文を返却してきた。
田中正造は、生活の手段を求めて酒屋の店番になった。しかし、この正義感溢れる男に店番は勤まらなかった。2年ほど勤めたある雨の日に、荷馬を引いた馬子が、強くなってきた雨足を避けようと、この酒屋に飛び込んで来て、酒を一杯求めた。次の瞬間、田中正造のいつもの潔癖症が、この客であるはずの馬子をどなりつけていた。大切な馬とその荷を雨にさらしたまま、自分のみが雨宿りするとは何事かと言うのである。声を荒げる田中正造に慌てて店を飛び出す馬子。気の良い店の主人も、とうとうあきれて田中正造を店から暇を出した。
続いて村の青年のための夜学の教師となったが、時は西南戦争のおり、旧知の区長との雑談で西郷隆盛をどう思うかという質問に、「これだけの人物が起こした事件、何か正当な理由があったに違いない。賊とかたずけては気の毒。」という当時としてはかなり危険な発言をしたために、その職も失った。
やがて田中正造が、その人生の中で唯一大成功をおさめた事件が起きた。西南戦争の影響で物価の暴落が起きた時、「下がったものはあがる。」という単純発想の田中正造は、家財を処分し、全く役に立たぬ捨てられた土地を買いあさった。いつも無謀に猛進する田中正造に、支持者達すらあきれかえった。しかし、田中正造の計算は見事に当たったのだった。物価の急上昇で、地価が急騰したのだ。明治12年、田中正造は借財を全て返済してもなお家族が生涯暮らすに充分なほどの莫大な利益を得た。
しかし、それで安穏に暮らす男ではなかった。村人に人望され区会議員に選ばれた田中正造は、厳格な父親に向かい、重大な事を打ち明けた。
「この金をすべて公共の為に使いたい。」
これに対し、父親は、一言返しただけであった。
「死んでから仏になるはいらぬこと。生きているうちよき人となれ。」
熱血の子にして厳格な父あり。以後、田中正造は、父への誓いを守りぬき一切の私欲を捨て、生涯粗衣粗食を貫き、ただ一心に公共の為に働いた。
その年、さっそく田中正造が挑戦したのは県都栃木町で『栃木新聞』を創刊する事であった。と同時にその年の暮れの県会議員選挙に立候補した。一度は落選したが、その二ヶ月後におこなわれた補欠選挙で見事に当選したのであった。政治家田中正造の誕生であった。
『栃木新聞』は幾度かの廃刊の危機を乗り越え、苦難の末に明治14年、東京横浜毎日新聞の野村本之助を社長に招き本格的な自由民権運動の中核を成す新聞として成長した。当時は給料の支払はもちろん紙やインクの手配にも困るほどの経営難を繰り返し、田中正造が衣服をすべて質に入れたため、栃木県会に寝巻きで出席するというほどひどい状態であった。しかし、若い記者達は情熱に燃え、過熱した政治記事により幾度も罰金を課せられたり、編集部員が逮捕監禁されたりと弾圧をくりかえされながらも地域の民権思想発展に貢献した。
同じ年に国会開設の詔書が出て、板垣退助の自由党と、大隈重信の立憲改進党が結成された。前年に政治結社「結合会」を組織し国会開設請願書を元老院に提出していた田中正造は、さっそく自由党栃木支部の組織作りに乗りだしたが、途中で板垣退助が私欲に走ったと激怒し改進党に加わるようになった。両政党の地方での対立が起こり常に先頭に立って活躍した田中正造は、栃木鎮台、栃鎮(とっちん)とあだ名されるようになった。
しかしやがて両者の対立など吹き飛ぶ事件が発生した。明治16年10月、三島通庸(みしまみちつね)が栃木県令として赴任してきたのである。 
6 対決県令三島  

 

栃木県史の中で、最悪の指導者の名をあげよと尋ねれば識者のほぼすべてが三島通庸と答えるに違いない。それほどに県令三島の悪政の記憶は生々しく県民に語り継がれている。
三島通庸は薩摩士族の出身で酒田県令、福島県令を歴任したのちに栃木県令として赴任してきた。彼には常に伊藤博文の強い後ろだてがあり、先々で行った暴挙も中央で責められる事は全くなかった。伊藤博文は、このような人物を積極的に登用する事で自分の権力を不動の物にしようと企んでいた。
酒田県での暴挙を耳にした福島県民はこぞってこの暴君を警戒したが、福島県令として絶対的な権力を持って乗り込んできた三島通庸に県民は無力であった。無謀な道路建設計画を独断で作成し、ただちに全県民に無償での労役を義務づけた。また富豪からは強制的な寄付を取立て、また重税を課した。この有無を言わさぬ道路建設で福島県の経済は完全に破綻し、こののち立ち直るのに数十年もかかった。活発な反対運動には弾圧を繰り返した。これら道路建設で得た莫大な利益が伊藤博文の懐にすべて落ちていった事は言うまでもない。
福島県から延びた道路を帝都にまで延ばす。三島通庸の目が栃木県に向けられた。そして明治16年、福島県令、栃木県令兼任という肩書きの三島通庸が栃木県庁に姿を現した。田中正造43歳の年であった。
すでに福島県の惨状を耳にしていた栃木県では、県令三島に反対する空気が充満していたが、実際に赴任が決定すると、弾圧を恐れ全く影をひそめてしまった。富豪は、これから起こる悲劇を察知し我れ先にと他県へ移住を始めた。
県令三島の行動は早かった。着任早々県都を宇都宮に移転する事を発表し、ただちに県庁の建設にとりかかった。三島流のやり方で、宇都宮の庁舎にふさわしい土地を決定すると、そこの住人の住居を予告もなく破壊し強引に建設を開始し、わずか二ヶ月という短期間で完成させた。立て続けに福島県令を兼任する三島通庸は、福島県民を強制使役して作った道路を栃木県と結ぶための新道路建設を発表した。有無を言わせぬ道路建設が始まったのである。
田中正造は、多くの県会議員同胞とともに、果敢に県令三島と戦ったが、せいぜい県令三島の行動を一時的に妨害する程度の力しか無かった。栃木町の近くのある村での惨状は三島通庸の暴挙の一例であった。乙女村と呼ばれたその村では三島通庸の命令で道路建設が行われた。まず該当する地区の指導者を力で拘束し、計画承認を強要し、次に村人を全て無償奉仕の人夫としてかり出し、欠勤者からは高額の罰金を取り立てるという無謀な物であった。怠ける人夫を巡査が鞭打ち、村人を奴隷として使役したのであった。さすがに地元巡査では勤まらぬこの役は、土地に無縁な者が使われた。村で尊敬されていた惣代が殴られているのを見た村人が見かねて助けに入ったのがきっかけとなり、72名の逮捕者が出るという大事件に発展した。みせしめに惣代の妻は裸にされて打たれるというむごい暴行を受けた。田中正造が村に到着してみると、すでに村人はすべて離散し、誰一人住まぬ廃村の様に変わり果てていた。
議会での田中正造の声が一段と激しい物になっていた。さすがの三島通庸が恐ろしさの余り議場から逃げ出すほどの剣幕でその暴挙を責めたてた。三島通庸が刺客を送り込んできたのは、その直後の事であった。すでに幾度と無く困難を生き抜いてきた田中正造にとって、チンピラのごとき刺客など、全く恐れるに足らない物であった。一度は東京に逃れた田中正造であったが、ふたたび帰郷すると、さっそく三島通庸の残虐さを証明する証拠集めに奔走した。
明治17年9月、田中正造は証拠集めと三島通庸の魔手から逃れる日々であったが、ある日県境を越えて群馬県の館林町に入ったおり、支持者と名乗る見知らぬ男から、田中正造が犯罪人として指名手配されている事を聞かされた。三島通庸を爆弾テロで暗殺しようと計画したいわゆる加波山事件の一味の首謀者であるとでっち上げられてしまっていたのだ。
やむなく再度東京へ逃れた田中正造は、外務大臣井上馨に証拠の書類を提出しようと計画したが、井上馨と面識のない身では、逮捕されるだけで書類提出が不可能になる場合もあると考え、事も有ろうに敵中の本山、警視庁へ出頭した。「自首ですか。」と問う応対の課長に、犯罪は侵していないので自首ではない。と、三島通庸の非を証明する膨大な証拠資料を提出した。
やがて田中正造は、宇都宮へ護送された。あの丁重に応対した課長は、あの証拠資料をうまく上層部の目に触れさせる事ができるであろうか。今は、それだけに望みを託すよりなかった。
宇都宮に到着した田中正造には、想像通りの冷遇が待っていた。暴行を加えられ、嫌がらせを受けながら、公判の要求は無視され続けた。やがて県会議員との面会を謝絶する目的で県都から離れた佐野警察署へと護送された。
田中正造は、獄中から県令三島との対決文を支持者に送り続け、その風文は中央でも知れ渡る事になった。あまりもの三島の不人気についに伊藤博文もただの一年の任期で県令三島を解任せざるをえなくなった。
ただちに田中正造は、釈放された。獄舎を一歩でた田中正造は、「田中先生万歳!」という黒山の県民の熱狂に包まれた。我らが英雄田中正造が、極悪非道の三島通庸に勝利した。県民の歓声は途切れる事無く続いた。やがて栃木県会議長に推挙された田中正造であったが、地方議会レベルでの非力さを痛感していた田中正造は、すでにこの時、国政参加への強い決心を持っていた。
失脚の翌年、三島通庸は警視総監に任命された。伊藤博文の保安条例を帝都で厳しく実行できるのは、その忠実で冷酷な手下の三島通庸をおいて他に無かったのである。県令三島の残した栃木県新庁舎は、その年に火災で全焼した。 
7 足尾鉱毒の悲劇  

 

明治22年、憲法が発布された。皇居への式典に栃木県会議長として出席した田中正造は感涙にむせんだ。この憲法を正しく人々が守る限り、自分が見てきた不平等からくる不幸な出来事はことごとく無くなると確信できたからである。
明治23年7月1日。日本初の国会議員選挙で田中正造は栃木県第三区衆議院議員に当選した。そしてその年の11月29日。記念すべき第一回帝国議会は開会された。正装に身をかため、緊張のおももちで出席する議員達のなかに、ひときわめだつ格好の男がいた。着古されたぼろの服でざんばらな髪を振り乱したこの男こそ栃木県民が末代までも誇りと仰ぐ田中正造であった。
田中正造が、あの北の国の牢の中で身につけた大きな声で、「議長!議長!」と発言を求める姿は、鬼気迫るものがあった。尊敬する天皇陛下が臣民を案じて作成したこの崇高な憲法を一身に変えて守ろうとする気迫は、他のどの議員より真剣なものであった。
田中正造は、水を得た魚の如く、その信ずるままに正義をおこなった。逓信大臣の汚職問題、保安条例への異義、大蔵大臣の資産公開要求、教育問題等々、田中正造の演説は語気強く熱弁が繰り返された。
そして、ついに運命の時が来た。
明治24年12月24日。その日開催された第二回帝国議会本会議の壇上にあがった田中正造の姿は相変わらずの木綿の着物とはかま、それに乱れた髪という代議士には必ずしもふさわしいとは思えない風体であった。それはネクタイとスーツ姿で整えた他の議員の中では際だって奇異な格好であった。
その日の田中正造の演説は、いつもの絶叫する演説とはまるで違う物静かな口調で始まった。
「諸君、まずは、これを見て貰いたい。」
そう言うと、田中正造は、手に持った袋から、何やら得体のしれぬ物を取り出し、壇上に並べた。根腐れの稲、育たぬ芋、鯉鮒の死骸等々。
「瑞穂の国の農民は、豊かな川の水から恩恵を受け幸せに暮らすが、唯一、群馬栃木の両県を流れる渡良瀬川の流域の農民にはそれが許されていない。上流に近年出来た足尾銅山の流す毒水の為に稲はすべて枯れ、芋は育たず、魚も住まぬ川となっている。被害民の救済と、今後の防止策を求める意見書を提出しても農商務大臣は未だ何等の返答も行っていない。」
淡々と語る田中正造の語気が徐々に荒げられ、最後は、いつもの全力で熱弁する熱血の田中正造の姿に戻っていた。田中正造は、激怒していた。こんな事が、新憲法の元にある日本国民の身の上に起こっていいはずはないと信じた。
渡良瀬川は栃木県の奥日光足尾地方をみなもととして、群馬県の東部を流れ、ふたたび栃木県の足利、佐野を通り栃木群馬茨城埼玉の四県が境を接するあたりで利根川と合流する大きな河川であった。
本来、この地方は赤土の痩せた土壌で、そのままでは農作物の栽培には適しない土地であった。しかし、二年に一度ほどある渡良瀬川の洪水を、農民達は上手に利用していた。渡良瀬川は、氾濫とはいっても必ず静かに増水し、自然に退いていくので少しも農地に被害を及ぼす事はなかった。そして、そのたびに上流から腐葉土が運ばれ、水の引いた後は一面に沃土が覆い、洪水の翌年は肥料を全く必要とせずに大豊作になる事が保証されており、むしろ農民は氾濫する渡良瀬川のおかげで恵まれた豊かな生活をおくっていた。
しかし、近年その恵みの洪水が一変してしまった。上流の足尾に出来た近代工法による足尾鉱山のために水源の森林の木はことごとく伐採され、農地を荒らす荒々しい洪水がおこるようになったのである。しかも、沃土を運ぶはずの洪水が去った後は、耕作物が全滅するようになった。上流の鉱山のせいである事は、すぐに判明した。精錬した後の排水や排斥物に大量の有毒な硫酸銅が溜まり、洪水で下流に大量に流れて来るのである。植物や川の生物、あるいはその川魚の死骸を食べた犬猫にまで被害は広がった。むろん人体に影響のある事もわかっており、栃木県では流域住民に渡良瀬川の魚を食べないように指導していた。
田中正造が、足尾鉱毒問題を国会で初めてとりあげた前年の夏、渡良瀬川の洪水で水に浸かった農地のあらゆる作物が壊滅的な被害を受けた。そして、その被害は年を越しても無くなる事はなかった。翌年は水をかぶったどの農家でも一粒の米も実らなかったのである。桑の木さえ枯れてしまった。養蚕の盛んなこの土地では桑の木が枯れては養蚕は続けられない。農民は必死で農地の再生を試みたが、すべて徒労に終わった。
農民達の必死に訴えを国では一切無視した。当然であった。時の農商務大臣の陸奥宗光の次男は、問題になっている足尾鉱山の持ち主、古河市兵衛の後継娘婿だったのである。つまり、事も有ろうに農民の利益を代表するはずの大臣が、実は古河一族の身内だったのだ。それにもまして銅は富国強兵策に欠かせぬ大切な外貨獲得源にもなっていた。
陸奥宗光がいかに古河市兵衛の側に立ち奔走したかは、農民達が調査を依頼した農商務省地質調査所が「依頼に応じる事が出来ない」と、内圧のために不本意にも拒絶しなければならないと匂わす返答をしてきた事からも知れる。
しかし、外圧に屈しない学者もいた。農科大学の古在由直助教授は土壌を詳細に分析し、調査した全ての標本から発見された危険量の銅化合物がすべての原因であると断言する調査報告書を提出してきたのである。
田中正造が対決したのも、その古河一派の農商務大臣陸奥宗光であった。田中正造は、憲法により、「日本臣民は其の所有権を侵さるることなし」と保証されている事を訴えた。そして、日本坑法により、鉱山採掘事業が公益に害がある時には農商務大臣が許可を取り消す権限がある事を説き、足尾鉱山の採掘を即時禁止せよと迫った。
田中正造の国会での論理的で正当なこれらの熱弁に陸奥宗光は全く答弁しようとしなかった。国会議員の質問に正当な理由無く答弁しないのは国会議院法に反していると田中正造が声を荒げても、ついに陸奥宗光からの答弁は一切得られなかったのであった。そして、その態度は以後農商務大臣が変わってからもなお何年間も続いた。 
8 孤独な戦い  

 

田中正造の国会質問に政府は直接答弁する事を嫌った。どう考えても田中正造の正論に対抗できる答弁など不可能だったからである。政府は議会解散後に官報に掲載するという形で、田中正造の「答弁しないのは議会法違反」とする批判をかわそうとした。
その官報には、被害の存在を認めるが原因は不明である事。古河市兵衛は必要な予防策を講じている事が簡単に述べられていた。原因不明としながら、足尾鉱山では鉱毒流出の防止策を検討しているという、あきらかに足尾の鉱毒が原因である事を認めている矛盾した内容であった。
明治25年2月25日、第二回総選挙が行われた。政府に従順な多くの国会議員の中で、唯一危険な存在として知れ渡った田中正造への政府あげての露骨な選挙妨害は、し烈を極めた。警察や県が暴漢を雇い正造の選挙事務所の破壊、運動員への襲撃、有権者への脅迫を行ったのである。しかし政府の擁立した対立候補に辛勝して田中正造は再選された。
その年の5月、田中正造の足尾鉱毒攻撃が再開された。足尾銅山が被害の原因である事が、これほど学者の研究などでも明白になっているのに、足尾鉱山に対して何等の措置も取らないのはなぜかと迫る田中正造に、やはり政府は沈黙した。そして、前回と同様の方法で翌月になってから、農商務大臣の名で出された答弁書には、「鉱毒が被害の一原因になっている事は認める。」という多少進展したものではあったが、相変わらず、「鉱山を停止するほどの被害ではない」「損害に対して処分する権限は政府にはない」「鉱業人は目下被害をなくすための準備をしており将来の被害はない」と、足尾鉱山の経営者、古河市兵衛の利益を代弁するだけの物で、答弁と呼ぶにはほど遠い内容であった。
それとともに、政府は栃木県知事を動かして、被害農民にわずかな補償金と交換に示談書を書かせた。今後は鉱毒処理機械も導入されて被害は発生しない、という説明にその日の生活に困窮している被害農民が、おかみの仲裁で支払われる保証金に何の疑いももたずに涙を流して受け取った事は言うまでもない。仲裁委員に対して地元農民は感謝状さえ贈ったのであった。
田中正造は、その示談書の罠を見抜いていた。これは一時の見せ金で盛り上がっていた運動の芽を摘もうとする足尾鉱山の、政府と結託した姑息な手段である事を、被害農村を歩いて回り説いた。しかし、「田中正造を孤立させる」という政府の方策は、充分効果をあげていた。農民は田中正造の警告をうるさがり、国会でも政府は足尾鉱毒問題で取るべき手段を充分取ったと評価する空気がみなぎり、田中正造に同調する議員はいなくなった。そしてマスコミも関心を示さなくなり田中正造の運動は挫折した。
日清戦争により銅の需要が高まり、古河市兵衛は国家功労者として名誉金牌を授与された。政府と古河市兵衛の癒着は露骨なほどに強化されていった。たとえば外務大臣に就任した陸奥宗光の忠実な家臣である原敬は古河鉱業の副社長に就任したほどである。
明治27年夏に、渡良瀬川に小さな洪水が起こった。農民達は、その洪水が、まさか過去最大の鉱毒被害をもたらすとは思ってもいなかった。先の仲裁委員の話を信じた農民は、すでに足尾鉱山では必要な防止策が取られ、もう鉱毒の被害は無くなったと信じ切っていたからである。しかし、実際には鉱毒防止策は、ほとんど取られていなかった。相変わらず足尾の山は政府からタダ同然で払い下げられ、一本の木も残らぬほど伐採され、わすがに残った雑草さえも精錬所からの鉱毒で根こそぎ絶えてしまっていた。むき出しになった表土は、わずかな雨にも流され、これまでにない高濃度の鉱毒水として渡良瀬川を流れていった。
窮したのは足尾鉱山の経営者、古河市兵衛にしても同じ事であった。被害の想像以上の拡大は、世論の足尾鉱山への批判に直接結びつき経営危機にもつながりかねなかったからである。古河市兵衛は、最も安易で安上がりの解決方法を取った。被害農民に直接交渉して、前回の仲裁交渉の半額以下というわずかな補償金と引換に、未来永劫どんなに鉱毒被害が発生しても一切保証は求めないという示談書に署名させたのである。鉱毒防止策など、出来る訳ない事を、当の経営者が一番良く知っていたのである。
もちろん一度だまされた農民がそのような示談を歓迎するはずもなかったが、「もうじき足尾鉱脈は枯れる。そうなってからでは保証金は一切出ない。」という脅迫じみた交渉に屈して被害農民の半数近くが、これに応じた。
しかし、被害は拡大の一途をたどっていた。政府の無策が、ついに関東一円を巻き込む大災害へと発展してしまったのである。明治29年8月9日に発生した大洪水は、関東4県と東京の一部まで足尾の鉱毒を運んだ。農民達は、慌てて家財を質に入れ大量の肥料を購入し田畑に巻いたが、もちろん硫酸銅を大量に含んでしまった土には何の効果もなく、やたら破産農家を増やすだけであった。
人々は、初めて田中正造の警告の正しかった事を思い起こした。被害民の一部は結集して、新しい農商務大臣榎本武揚に陳情しようと試みたが、やはり一切無視され続けた。榎本武揚のような優柔不断で無能政治家の遍歴を持つ者が古河市兵衛に買収されるのは、いとも簡単な事だったのである。
孤立していた田中正造は、今度は総勢50名の議員の支持を受けてふたたび国会の場で足尾鉱毒問題を追求した。追求相手は、榎本武揚であった。しかし、この無能政治家は、先例に習って答弁を拒否し続けたあげくに議事日程が終了し、田中正造始め大半の議員が退席した後に、こっそりと答弁書を提出した。
榎本武揚の答弁書は、田中正造や被害住民の心情を逆なでする物であった。つまり、鉱毒被害は自然現象がもたらしたものである事、鉱業人は充分な示談金を支払っている事、鉱毒流失は減少している事など、単に古河市兵衛の利益代弁を行っているだけに過ぎなかった。
榎本武揚は、そう答弁しておきながら、一方では被害農民に同情しているかのような態度を取った。それは榎本武揚独特の八方美人的行動であった。被災地を回り、形だけの足尾銅山鉱毒調査委員会なる物を作った。しかし実際に榎本武揚は農民救済策を、何一つ行おうとしなかった。
4000人を越える農民達が組織だったものもないのに、5日ほどの握り飯を持って思い思いに集結し、榎本武揚に直接請願すべく東京へ向け行進を開始した。激しい警察の妨害をかいくぐり、いく名かの者が榎本武揚と面会した。その2日後、この優柔不断な政治家は、身内からも信用を失い失脚した。  
9 大弾圧川俣事件  

 

農民の窮状を一身に背負って、田中正造は国会質問という正攻法で政府と何度も戦った。田中正造は政府が憲法を尊守すれば必ず正しい方向で解決すると信じていた。
国会内で、田中正造が壇上にあがると、また足尾鉱毒の演説が延々と続く事を知る多くの政府要人や同僚議員さえうんざりした表情を見せるようになっていた。それほどに執拗な田中正造の攻撃に政府は相変わらず全くの無視を続けていたのである。
しかし田中正造の情熱に世論は引きずられるように盛り上がり、ついに明治30年5月27日、世界で初めてと言われる「鉱毒予防命令」が政府から出された。盛り上がる世論に初めて政府が屈したのであった。
足尾鉱山に対し、巨大な沈澱池と濾過池を20箇所に作る事、現在積まれた鉱毒を含む鉱碎の山の周囲に深い堀を作る事などの具体的な予防策を命じ、完成工期も厳格に定め、背いた場合、ただちに鉱業停止を命令すると言明していた。また山林伐採の制限と植林も義務づけるという、古河市兵衛と政府の癒着度から考えると信じられないほど厳しい内容であった。
田中正造は、当初からの要求である鉱業即時停止が認められなかったのは残念に思ったが、おおむね満足した。しかし本当に履行されるとは信じなかった。これで鉱毒問題も一段落と判断した人々から、ふたたび田中正造は孤立した。
古河市兵衛の行動は早かった。もはや足尾の殿様となっていた古河市兵衛には、足尾の町民を自由に使役する権利を有していた。町民の大半を無料奉仕に駆り立てて約束の工事は突貫作業で進められた。町民の中には鉱山とは直接関係の無い者も多くいたが公共事業への奉仕活動のごとくかり出された。しかし、なぜか政府の監督下で進めよとの条文を無視し、工事は部外者を完全排除した中で行われた。予防措置が期限内に完成した事は足尾鉱山より大々的に発表されたが、政府は、その完成後も、完成した工事を視察しようとしなかった。
わざわざ現地に出向いて確認しようとするジャーナリストも皆無であった。そして、なぜか「鉱毒予防命令」を発した東京鉱山監督署の南挺三は、足尾鉱山所長となって古河市兵衛の元へ就職していったのであった。足尾問題は画期的な解決方法で完全解決したと信じた世論は、もはや足尾鉱毒問題には何の関心も示さなくなった。
しかし、明治30年9月に発生した洪水は、またもや農民を失望させた。「鉱毒予防命令」の前と、全く変わらぬ被害が発生したからであった。決死隊を組織した農民は、要塞化した足尾の町に潜入し、予防措置の工事など全く何の役にも立たない形ばかりの物であった事を暴いた。「鉱毒予防命令」とは、またもや政府と古河市兵衛の共謀した民衆だましの茶番だったのである。田中正造の疑念は、またもや最悪の方向で当たった。
明治31年、ついに農民による大規模な騒動が発生した。以前の騒動のおりに集結した雲龍寺に3000人の農民が集結し、大挙請願(押し出し)を強行したのである。2月に発生した押し出しは、岩槻の町まで到達した時点で阻止された。
しかし、その年の9月にまたもや発生した洪水と鉱毒による致命的な被害に怒りを抑えられなくなっていた農民は一万人にも達していた。危険だ。田中正造は、直感した。素手で立ち向かう農民が何万いようと権力者に取っては、目の前のハエを追う程度の感覚しか持っていない事を田中正造は良く知っていた。たとえ結果的に勝利しようと、その代償は、大きすぎる。田中正造はひとり、行進する農民達の前に立ち、必死に説得した。最も信頼する人の説得に農民達も応しないわけにはいかなかった。
「もし、私の要求が政府に通じぬ時は、みずから先頭に立って死を決する覚悟であるから、この場は帰郷してくださらぬか。」田中正造の言葉を農民達は信じ帰郷した。後に田中正造が、最も大きな過ちてあったと後悔した出来事であった。
単なる売名行為と酷評されてもなお、田中正造には政治家の理念を信じ国会の場で追求を続けるより無かった。腹黒い資本家と政治家の癒着を追求する者としては、あまりに純真すぎる男であった。
明治32年4月14日、この純真で正義感の強い田中正造は、その年成立した議員の歳費加増を認めた法案に反対する意志を示し、歳費全額辞退を表明した。国会議員たるもの、自らその歳費を決定する権利を持っているのであるから、自ら慎む事が議員の「品位」という物である。というのが田中正造の主張であった。この道理にかなった主張は、田中正造にとっては、ごくあたりまえの発想だったが、世論の反響はすさましかった。今までこれほど単純明快な正義を貫いた政治家は皆無だったからである。たしかに、一部には人気取りの猿芝居と酷評する者もあったが、大半の世論も選挙区民も、彼の行動を支持した。
明治33年2月13日。この日、相変わらず田中正造は国会において同調していた議員でさえ、うんざりした表情をみせるようになってたい足尾鉱毒問題を再度持ち出して、政府を追求していたが、同時刻、地元農民達は5度目の押し出しの為に集合していた。
農民達の行進は、利根川の渡しで、まちうける警官隊によって阻止された。50名負傷、うち15名は重傷という「川俣事件」と呼ばれた事件であった。死者こそ出なかったが、新聞各社は窮状を訴えようとする農民を政府警察が暴力で鎮圧したと書き立てた。
すぐさま田中正造も国会の場で「先に毒、そして今回は官史で人民を殺傷した」と責めたてた。そして同時に、憲政党を脱党して政党のふがいなさを身を持って諌めた。明治33年12月。川俣事件逮捕者の支援に法廷を傍聴していた田中正造は、検事の論告中おおあくびをして逮捕された。それは、彼が過去何度か味わった偽りの正義に対する精いっぱいの批判であった。
翌年の3月23日、61歳になっていた老議員は、最後の力を振り絞って情熱を込めた国会質問を行った。
「崇高な憲法といえど、憲法の番人に徳なければ無価値となる他はない。」
憲法を正しく施行しない政府に対するやり場のない怒りをこめた演説であった。疲労のあまり、演説もとぎれとぎれになり、苦痛のあまり今にも倒れそうな老体を鞭うつように、一言一言、ゆっくりと田中正造は気迫を込めた演説を締めくくった。
「質問にあらず。回答せず。」
田中正造の国会活動に対する政府のたった一行の最終回答があった。その年の10月、圧倒的な地元有権者の支持の元に再選し続けていた田中正造は、秘めた決意を胸に正式に衆議院議員を辞職した。その意味を知るのに人々は、あと2ヶ月待たされる事になる。  
10 天皇直訴  

 

川俣事件を審理する裁判官が、本格的な鉱毒の原因調査と被害調査を行った事で、田中正造が10年間議場で一貫して主張していた事柄が、何の誇張もない事実であった事が初めて証明され、これを知った内村鑑三はじめ多くの識者が足尾鉱毒の本当のひどさを知り救済活動を開始した。
明治34年11月、活動を開始した鉱毒地救済婦人会の会合に、古河市兵衛婦人は、ひそかに家の女中を出席させた。婦人は、ちまたの運動の意味が全く理解できないでいたのだ。帰ってきた女中からの報告を聞き、初めて鉱毒被害の実態を知った婦人はその夜神田橋から身を投げて自害した。
キリスト教徒、社会主義者、仏教徒らが中心の救済活動であったが、現地を訪れた人々は、想像以上の惨状を見て絶句した。鉱毒がいかに人命を奪い村を崩壊させたかを知り初めて中央で活動していた人々は、その無知さ加減を認識したのであった。
12月9日、急進派の幸徳秋水の元に田中正造が訪れていた。田中正造は、鉱毒被害農民に対して約束したひとつの事を実行するために、国会議員を辞して密かに行動していたのであった。
『私の要求が政府に通じぬ時は、みずから先頭に立って死を決する覚悟である』
田中正造は確かに約束した。そして、度重なる追求にも何等回答しようとしない政府を見て、田中正造は、この農民達との約束を実行する決心をしたのであった。
天皇直訴。田中正造の考えた結論はそこにあった。憲法は天皇陛下が臣民の幸福の為に作られた物。その憲法を正しく行わない者がいるために、陛下の臣民が苦しんでいる。それをぜひ陛下にお伝えしなければならぬ。そう田中正造は考えた。
前日、妻カツに離縁状を書き送った田中正造は、この日、名文家で知られた幸徳秋水に、その直訴状の草案を依頼しに来たのだ。幸徳秋水は田中正造の決心を知ると二つ返事でこれを了承し、田中正造の望む通りの古式にのっとった文体で徹夜で直訴状を書き上げた。鉱毒地の復旧を天皇に求める主題を見事な文体で綴ったもので、正造もわずかな加筆をしただけで満足してこれを受け取った。
そして無頼の男には似つかわしくない黒紋服、黒袴を身につけて衆議院議長官舎に潜んだ。やがて午前11時頃、第16回議会の開院式からの帰路にある天皇の馬車が桜田門に近づいた頃、田中正造は白足袋のまま、その列めがけて飛び出して行った。
両手に「謹奏」としたためた直訴状を握り、
「お願いがございます。お願いがございます。」
と、精いっぱいの声を振り絞って天皇の馬車めがけて突進していった。60を越えた老人が正装でよろけながら走る様は、端からみれば滑稽そのものであった。騎馬兵が手に持った槍でこれを遮ろうとして、慌てて馬を反転させ、勢い余って落馬した。これをよけようとした田中正造もつまずいて倒れ、あとは大勢の警官が倒れた田中正造を取り押さえ、天皇の馬車はその横を何事もなかったかのように通り過ぎた。とっさの出来事であり、天皇はその小さな出来事には気づかなかった。
田中正造の時代錯誤な直訴は、またたくまに世間に知れ渡った。政府はこれによる世論の沸騰を危惧し、田中正造の行為をただの発狂として、翌朝何の罪も問わずに釈放した。田中正造の決死の行動にもなお、権力者達は正面から回答する事を避けたのである。
結果的にこの直訴問題は、三つの結果を産みだした。ひとつは世論で、これは政府の根回しの結果、田中正造の思惑を離れ、直訴の可否という問題にすり替えられてしまった。もうひとつは、田中正造に批判的な人々に、田中正造は狂人であるという誤った結論をあたえてしまった事であり、最後のひとつは、鉱毒救済運動が、これにより、益々盛んになった事であった。
その盛り上がりの様子は、時の文部大臣や東京府知事が、学生による救済活動は政府に学生が関与する行為であるから全面的に禁止すると発表したにも係わらず、帝大の山川総長が、これを是認した事でもうかがえる。
しかし、鉱毒被害民に人生をなげうって救いの手をさしのべた運動家は後にも先にも田中正造ただひとりしかいなかった。政府が本気でこの活動を阻止する動きを見せると、学生達はこの本来魅力の無い地味な活動にすぐに嫌気を感じて、ただちに中止してしまった。
その間に田中正造は、例のおおあくび事件の裁判で有罪の判決を受けて41日の禁固という余りにもおかしな重い刑をうけ服役する事になった。田中正造の農民運動の根を絶やせると喜んだ批判者が、一斉に田中正造批判活動を活発に展開した。農民運動を食い物にした詐欺師がようやく捕まったと世論に訴えた。内村鑑三らの、ごくわずかな弁護者を除き世論は田中正造から完全に離れていった。しかし熱血の男は、決して屈服する事は無かった。田中正造が後の世に真に義民と讃えられる足跡を残したのは、実はそれからの事であった。 
11 谷中村哀史  

 

明治35年の夏、相変わらず山林の無制限伐採が続けられた足尾の山から大量の土砂が流れ、渡良瀬川を2度にわたる例年にない大洪水が襲った。渡良瀬川流域では、多くの家屋が浸水する大被害が発生した。しかし、その洪水が、奇跡をおこした。洪水の規模が大きかったのが幸いし、昔のような沃土を運ぶ洪水となったのであった。鉱毒で汚染された土壌を覆った沃土により、農地は再生し、通常の農地ほどに回復した。
その年の12月、知識人達による「鉱毒解決意見書」が発表された。足尾地域の伐採を禁止し、鉱山の用材は他所から調達すね事。大規模な植林を行う事。完全な排水処理設備を整備する事。完成までの間は鉱業停止する事。という内容の物であった。田中正造の孤独な訴えを狂人の極論と内心軽侮していた知識人達が、自ら田中正造の意見に近ずく発言を始めたのであった。
しかし、これまでの経過からみて、政府がその一部でも採用する事は考えられない事であった。そのころ、すでに政府の鉱毒調査委員会が極秘に作成した計画は、全く違う視点に立った物であった。
渡良瀬川の洪水の主因は利根川からの逆流にあった。増水した渡良瀬川の水が利根川に阻まれて逆流するのが最大の原因であった。この、渡良瀬川の利根川合流点の手前に巨大な遊水池を作り、渡良瀬川の洪水をすべて流し込む事で、流域住民の被害を根絶させ、しかも鉱山経営は今まで通り続けさせるという、全てを一挙解決させる妙案を鉱毒調査委員会が考案したのであった。内密に計画されたこの事業を知った田中正造は、ふたたび激怒した。鉱毒調査委員会は、鉱毒根絶が目的で設立されたもの、それを洪水問題とすり替えようとは何事かと怒り狂った。田中正造は、さっそく埼玉県の川辺村と利島村に出かけ、極秘裏に進められていた計画を村民に暴露した。
埼玉県が故意に堤防修復を行わずにいる本当の理由を知った村民は、この田中正造の警告に直ちに反応した。川辺村、利島村は、渡良瀬川の堤防が完全に補修されている限り大規模な洪水被害に見舞われる事もなく、豊かな穀倉地が保証される土地であった。つまり遊水池計画は川辺村、利島村の両村にとっては、不利益なだけで、なんら利益になる話ではなかったのだ。両村ではただちに反対決議を行うと、ただちに埼玉県に対して堤防補修の実行を迫った。立場は埼玉県知事にしても同じであった。別段悲劇的な被害もない埼玉県で、県内の二村を潰す事業に賛同するわけにはいかなかった。県知事は遊水池計画には関与しない事を言明し、村民からの堤防の補修工事の要求にも同意した。以後、この地域は堤防工事のおかげで鉱毒や洪水の被害から数年で立ち直り、以後豊かな繁栄を続ける事になる。
しかし、もう一村、政府の遊水池候補となっていた村があった。栃木県の谷中村である。鉱毒調査委員会は、川辺、利島両村の遊水池化を断念すると、この谷中村一ヶ所に的を絞って遊水池計画を練り直した。
埼玉県知事と違い栃木県知事はこの計画に積極的であった。足尾鉱山との知事の癒着は誰の目にも確かな事であった。しかし、田中正造以来の良識の府である栃木県議会は、明治36年1月16日に知事の提出した谷中村買収原案をただちに全会一致で否決した。同年12月、ふたたび提出された同案も、古河の圧力にもめげず議会は拒否した。しかし、栃木県議会が屈服するのに時間はかからなかった。明治37年12月10日、再度提出された谷中村買収案を否決しようとしていた議会を知事は、その権限で秘密会とした挙げ句、50名の警官を室内に入れて議員を脅迫するという手段で、その日の深夜、ついに、強引に可決させてしまったのであった。維新前、下野内で、最も裕福な村と言われた谷中村の3000人の人々の、悲劇の幕開けの日であった。
この頃、谷中村では、川辺村、利島村に起きたような反対運動は全くなかった。度重なる洪水で壊滅的に決壊した堤防、大量に流入した鉱毒、村人すべてを巻き込んだ詐欺行為で村の経済を破綻させてしまった不良地主、村長の横領事件など、村人は立ち直る余裕も与えられないほどうちのめされていたのだった。遊水池計画を有利に進めたい栃木県知事は、この谷中村の被害に、一切の援助を拒んだ。飢えた農民が自滅するのを傍観するという非人間的な態度を取ったのである。明治37年、飢えに苦しむ農民に対し、近隣からの人道的な援助さえ禁止する措置を取った。
明治37年7月、63歳の老活動家田中正造は、この崩壊しかけた谷中村に入った。絶望感と猜疑心でよそ者を受け入れる事の出来なくなっていた村人の目は田中正造に冷たかったが、正義に燃える田中正造は、草鞋にすげの笠という出で立ちで、毎日村の中を歩き回り、圧力に屈しそうな村人を励まして歩いた。村人からも受けいられる事無く、そして、わすがに残った田中正造の理解者が、無意味であると制止するのも振り切り、孤独の戦いを続けた。もはや絶望的に崩壊した村を守る理由などどこにあるのか。補償金で豊かな土地に移転するほうが、どれほど村人に幸福か。識者の大半が田中正造の行動を、村人の幸福を考えぬ扇動行為と受けとめた。
生活苦から、坪単価で、はがき2枚分程度のわずかな補償金を受け取って逃げるように村を後にする者が続出した。しかし、その補償金の大半は、莫大な借財の弁済に当てられ、しかも、彼らの行く先に土地は無かった。代替地として用意された県北の未開の原野は、農業を行えるような土地ではなく、それでも何とか定着しようと試みる移民も、土地の農民が激しく拒絶した。他の土地も、約束に反して地主の私有地であった。自作農であった人々が、一夜にして最下層の小作農に転落してしまったのである。北海道の開拓地へ移住した者もあったが、結局は大半が離散して都市貧民と堕ちていった。
谷中村に住みつき、村人となる事でようやく村人からの信頼を得た田中正造は、勢力的に各方面に働きかけた。政界に言論界にと、繰り返し谷中村に対する政府の不正義を訴えた。そして、谷中村問題を管轄する内務大臣に原敬が就任した。明治38年、古河鉱業設立一周年記念に副社長として出席した原敬は、谷中村抹殺を指示した。地図の上から、谷中村の名を正式に消させたのである。形式的には、隣接の藤岡町に吸収合併という形が取られ、村は、おおやけの資料から消滅した。荒れるにまかされた堤防の修復を、わずかに残った村人が総出で必死に行ったが、辛い仕打ちに戦う村人に、追い打ちをかける洪水がふたたび村を襲った。
明治40年1月、素手で村を守る村人に政府は移転料無しの残留地強制収用を認める告示を発した。移転交渉無しの強制立ち退きを実行する事ができるなら、村人を排除するのに障害となっていた物は何も無くなる。やがて来る村の完全破壊に、村人は絶望し、また村の存続を支援していた人々もすべて手を引いた。谷中村の窮状を見かねて、農業適地を斡旋する事が目的の移転事業と言明していた政府が、自らその嘘を明らかにし、古河市兵衛の為に谷中村を廃村とする事のみが目的であった事を公式に認めたのであった。
この究極とも思える絶望の中で、なお不屈の男、田中正造は、谷中村のわらぶき小屋から動こうとはしなかった。 
12 こころざし半ば  

 

明治40年、極貧の中で、なお19戸の谷中村の住民が立ち退きを拒否していたが、この5月の洪水は、そんな村人に非情な仕打ちを繰り返した。村人が素手で築いた堤防はもろくも決壊し、全村の半分の麦が被害をうけたのである。しかし強制破壊の執行日が近づいても村人の決意は変わらなかった。栃木県が地元藤岡町で谷中村残留民の家屋破壊の為の人足を募集したが、貧しい者も多いこの町で、めったにない、この割りの良い仕事に応募した町民は皆無であった。藤岡町民の誰一人として谷中村の人々に同情しない者はなかったのである。窮した県が、谷中村の近くの茨城県古河町で再度募集を行うと、この非人道的な暴挙を憎んだ古河町長は、募集に応じた町民は、町の名を汚した人物として、永久追放し、二度と古河町に戻れなくすると公言した。結局県では、谷中村近辺から人足を募集する事は断念せざるをえなかった。
6月28日、200名の警官や執行官、人夫らが谷中村に入り、家屋の強制破壊は始まった。田中正造は、村人が抵抗する事で逮捕される事を恐れたが、村人は田中正造が案ずるよりはるかに立派な態度を取った。次々と破壊される先祖伝来の家屋敷を前に呆然とする者、ただ嗚咽する者、排除されるままに家屋から連れ出される者、皆悲痛な面もちでこの作業を見つめていた。全ての家が取り壊され、谷中村の歴史は終わった。後には廃材と投げ出された身寄りの無い人々だけが残った。村人はその日、破壊されたわが家の前で野宿する事になったが、深夜の豪雨で、老婆も生後間もない乳児も、ただ降りしきる雨に打たれるよりなかった。田中正造は、数人の応援者とともに豪雨の中を村人の安否を確かめに走り回った。67歳の翁の訪問を人々は神ほとけの到来のごとく涙を流して拝んだ。
7月3日。原敬内相は、あの田中正造が敬愛して止まぬ天皇に、谷中村破壊を報告した。それは宿敵田中正造への完全勝利宣言でもあった。栃木県知事は破壊された家屋の前に立ち、得意そうに記念撮影をおこなった。以後世間は谷中村の闘争は田中正造の全面敗北と受けとめて完全に忘れた。村人達は、それでも廃材を持ち寄り、手作りの小さな小屋を思い思いに作り、決して村から離れようとはしなかった。田中正造もむろん彼らと共に雨が降るとほとんどずぶ濡れになってしまう仮小屋で生活した。見かねた支援の弁護士が損害賠償請求訴訟を開始したが、それは12年も続けられたあげくに、わずかな金額で勝訴した。
8月、またもや渡良瀬川に大洪水が発生した。谷中村の修復されていない堤防はことごとく破壊され、谷中村は一面の沼地と化した。田中正造は村人の暮らす小屋を見回るのに、小舟を出さねばならなかった。村人は、ほとんど水没しながらも必死で戦っていた。彼らにももはや田中正造と同じく、故郷を守るという以外に、不正義と戦っている自負が芽生えていたのである。洪水の結果、政府が計画した通りの谷中村遊水池が出現した。しかし、それは周辺になんの効果ももたらさず、河川は各地で氾濫し、関東各地に甚大な被害を与えた。谷中村遊水池計画の失敗は誰の目にも明かであった。追求を恐れた栃木県では、谷中村問題を積極的に解決する事を中止した。
明治41年、県が遊水池計画をあきらめたとする噂を信じて、何名かの村人が戻ってきたが、彼らの期待を裏切るように谷中地区は河川区域に指定された。なにを今更と反対運動に走る田中正造の耳に信じられない話が飛び込んできた。谷中地区を企業に払い下げるという計画が進行しているという事であった。結局事前に漏れた事で中止になったこの計画を知り、政府の本心を知った田中正造は、激怒して各地を奔走し、政府の不正義を追求した。しかし熱弁する田中正造に、彼が生涯をかけて守った各地の農民達は非情だった。彼らにとっては、洪水の無くなる期待の持てる遊水池計画は歓迎できる事であり、その失敗が明らかになった今、代案として計画された膨大な渡良瀬川堤防計画には諸手を挙げて賛成していた。鉱業停止という根本解決を無視して進む治水事業に警鐘を鳴らす田中正造に、もはや耳を傾ける者は無かった。
明治43年に発生した洪水は、谷中村をふたたび丸飲みにしたにもかかわらず、遠く東京方面にまで被害を拡大した。それでも戦う谷中村の人々は、田中正造とともに根気強く水に浸かった田畑を耕作した。その間にも休息を知らぬ田中正造は、治水事業その物の非を正す資料を作成する為に関東各地の河川の流域調査に走った。幕政の頃よりの悪習で、治水事業は小藩単位で行われおり、かえって有害な治水事業も少なくなかった。全体のバランスで治水事業を考えれば谷中村の問題もおのずと解決すると考えたのであった。しかし、彼のこの見識ある事業に積極的に力を貸す者は無かった。
やがて時代は変わり、明治天皇が亡くなった翌年の大正2年、一日も休む事亡く谷中村再興の為に各地を精力的に走り回る田中正造は病身を押して栃木県の足利町を回り、佐野町に入ったところで床に臥した。病床の田中正造を見舞いに来た支持者達に向かい、田中正造は心からの怒りを込めて怒鳴っていた。
「諸君、正造が倒れたのはあの山や川が病んだからだ。本当に正造の病を治したいのなら、すぐに行って、あの安蘇や足利の山川を治してこい。そうすれば正造の病気はたちどころになおる。」
こうして死の直前まで戦い続けた田中正造は大正2年9月4日、72年の波乱の人生を締めくくり、静かに息を引き取った。 
13 正造の残した物

 

田中正造は郷里の雲龍寺で仮葬にされたあと、地元の60名の青年により火葬場に運ばれた。大正2年10月12日、三万人の会葬者に送られて栃木県佐野町の春日岡惣宗寺で本葬が行われた。「田中正造に同情して来てくれても少しも嬉しくない。田中正造の事業に同情して来ている者はひとりもいないからだ。」病の床にあった田中正造の怒りを、いったいこの中の何人が理解していたであろうか。
『不屈の田中正造伝』の話は今回でおしまいである。その間、田中正造の為に天皇直訴状を書いた幸徳秋水は、「田中正造の非暴力は結局勝利しなかった。」と公言し、やがて天皇暗殺を計画した嫌疑で捕縛され処刑されたが、力で民衆の不平を抑えようとする不当な公権力の犠牲者のひとりといわれている。
田中正造は栃木県民の誇りであり、伝説の人である。栃木県内から立候補するあらゆる政治家が政党や派閥を越えて最も尊敬する偉大な人物として真っ先に名をあげる政治家の手本でもある。しかし、黒の着古した和服に、わら草履、ぼさぼさの髪に白髭で登庁し、「議長、議長」と議場狭しと怒鳴り、真っ赤な顔で政府の要人を「国賊」「大泥棒野郎」「悪漢」と罵倒したあの田中正造の、ひたすら正義を行おうとした純情を果たしてどれほどの政治家が理解しているのだろうか。
その偉業を偲ぶ関係資料は、現在地元栃木県佐野市の佐野市郷土博物館に常設展示されていて、いつでも見る事ができる。同市にある田中正造生家も神の如く崇拝して止まぬ郷里の人々により保存され現在に至っているが、現在、保存運動資金をめぐる不明朗会計の話題などが地元を騒がせている。時代は変わったのであろうか。
田中正造が生涯を尽くして廃村反対に戦ったした谷中村は、彼の死とともに完全廃村となった。その後も度重なる洪水が渡良瀬川を襲ったが、その全ての洪水において渡良瀬遊水池は、その機能をただの一度も果たした事はなかった。現在、その目的を完全に失った無用の大草原は広大な緑地公園となって人々の憩いの場になっている。結果的に政府は緑地公園を作るためだけに、そこに暮らした人々の生活を根こそぎ破壊したのである。
渡良瀬川は現在、全水路に渡り巨大な堤防が築かれ、また上流の調整ダムのおかげで戦後の一時期の堤防決壊による大災害を除き、氾濫する事は全く無くなった。足尾銅山は昭和47年、銅の枯渇により閉鎖された。古河鉱業が、各地の公害裁判の企業敗北に恐れをなし、調停委員会の調停に従って、公害発生源の事実を初めて公式に認め、わずかな補償金(それも最後まで「補償金」の名目を使用しなかった)を最大の被害地だった群馬県太田市毛里田地区の農民に支払ったのは、昭和49年になってからの事である。実に田中正造が国会に鉱毒問題を告発してから83年後の事であった。
現在足尾町に行くと、今後数百年間は草一本生えぬと言われる不気味に変色した禿山が旧精錬所をとりまいて、さながら地獄を訪れたような悪寒が走る。田中正造は、常に素手で強大な権力と戦った。生涯、彼が戦った相手は農民を人間とも思わない虫けらのように扱う権力機構の不正義であった。 
14 あとがき

 

『不屈の田中正造伝』は時代が新しいので、記録が正確に残っていますからいい加減な事は書けませんので、資料検討が一番大変でした。自信の無い記録は片っ端から捨てましたので、田中正造の心の葛藤まで書けなかったのがとても残念です。
実在の人物を扱うのには本当に苦慮しましたが、あくまでも田中正造の目で見た人物像という発想で書きました。たとえば古河市兵衛は、ここでは、大悪党として登場させ、その名誉を著しく傷つけていますが、もちろん私はそれが目的でこれを書いた訳ではありません。裸一貫努力の末に、枯渇したと言われた足尾の山に賭けて鉱脈を発見し、明治政府の重要な柱となった事は紛れもない事実です。それを全く評価に値しないと酷評したのは、たぶん過去にも現在にも田中正造だけでしょう。そのほかにも私の評価と違う政府要人もいました。わずかな不正義も許せない田中正造にとっては大半の政府要人は憲法を踏みにじる国賊でした。シリーズでは、その田中正造の発想を重視して可能な限り再現しました。実際にはもっと過激な評価している人物もありましたが、主観か客観かをぼかしたお話では、あれが限界でしょう。
晩年は、名声を曇らせるような老醜をさらしたと評する人もおりますが、隠居する歳を過ぎてもなお青年期の情熱を全く変わらず持ち続けた田中正造だからこそ偉大なのだと感じ、後半で晩年の彼を表現しました。田中正造の評価は、いろいろあるでしょう。偉人と簡単にかたずけられるほど単純な人生ではありませんでした。明治のドン・キホーテと評価した小冊子も見かけた事がありますが、私の最も嫌いな評価です。 
 
田中正造 
国政に従事する田中正造にとって政治は、民の共通の問題を処理し、公共に奉仕するための一つの手段に過ぎなかった。足尾鉱毒事件で、政治がその目的を果たせなくなったならば、彼は何のためらいもなく、政治を捨てた。政治を志した初心を最後まで持ち続けた稀有な政治家だった。
公共への奉仕
明治の時代、日本初の公害事件と言われた足尾鉱毒事件が起こった。足尾銅山を開発した古河鉱業(現在の古河機械金属)が、有害物質を垂れ流し、甚大な被害を引き起こした事件。田中正造は被害民を救うため、この問題に生涯を賭けて取り組んだのである。
田中正造は、1841年下野国安蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市)に富蔵、サキの間の長男として生まれた。田中家は身分は百姓だが、代々名主の家系で村内の民政を司っていた。正造が、生涯にわたって鉱毒の被害民救出に当たったのは、母の影響を無視することはできない。母は慈愛に満ちた女性であったが、息子のわがままを決して許さなかった。5歳の時、下僕に対する理不尽な怒りをぶつけた正造を母は暗闇の戸外に2時間ばかり放置したという。後に正造は、「この母の刑罰は、自分から加虐(弱い者いじめ)の念を断たしめるものであった。まさに慈母の薫陶の賜物である」と述べている。
正造が政治を志したのは、30代の後半頃である。自由民権運動に身を投じ、国会開設運動に奔走した。安蘇郡選出の県会議員になり、その後、1890年7月に第一回衆議院選挙が行われた際、立憲改進党から立候補した正造は見事当選を果たした。
彼が国会議員になるや否や、出会ったのが足尾鉱毒事件であった。政治とは公共に奉仕することと考えていた正造にとって、鉱毒事件は運命的であった。当選した翌年には、鉱毒問題に関する質問状を議会に提出。その後10年に及ぶ議会での苦闘が始った。
足尾鉱毒事件
もともと渡良瀬川沿岸の地域は肥沃な土地だった。たびたび起こる川の氾濫により、上流から肥沃な腐葉土が運ばれたからである。米も、麦も、菜種も、どの農作物もよくとれた。その上、川魚も豊富でフナ、大エビ、雑魚、ナマズなどがざくざくとれたという。まさに渡良瀬川は生命の源であり、桃源郷さながらの趣があった。
この関東随一と言われた肥沃な土地を、米一粒とれない荒野に変え、その住民を飢餓に追いやったのが、鉱毒事件であった。農業や漁業に甚大な被害を及ぼしただけではない。母は母乳が出なくなり、乳幼児の死亡、
病気が多発。学校も閉鎖。さらにむごいことには、被害地の娘が嫁に行けない事態が相次いだ。
足尾鉱毒事件は単なる公害問題ではなかった。当時、富国強兵を国策とする政府にとって、銅の増産は不可欠だった。さらに、政権中枢に古河市兵衛の縁故関係者がいた。政府が一政商を庇護したいという本音が、その癒着にあることは明らかだった。
この悲惨な現実を前にして、正造は座視するわけにはいかなかった。数十万の民の生死がかかっている。彼は足尾銅山の操業停止を求める運動に立ち上がっていくのである。国会での追及、新聞による世論の喚起などを通して操業停止を要求。政府は鉱毒調査会を発足したものの、その目的は操業を停止しないで済む方法を見つけ出すことに他ならなかった。鉱毒の垂れ流しは、いっこうに止むことはなかった。
議員辞職
正造の運動は、合法主義に徹していた。暴力に訴えようとする過激な発想は全く見られない。1898年に1万人を超える被害民が大挙して、警察の厳重な警備を打ち破り東京に押し寄せた時のこと。不穏な空気の中、代表者だけを残して帰郷するよう説得したのは、正造だった。この時、彼は被害民と約束をした。「政府、議会、社会に訴えても、政府が操業を停止しないならば、正造自ら先頭に立って行動する」と。被害民は正造を信頼し、帰郷した。
しかし、事態は何の進展もなかった。1年半後、被害民数千人が請願のため東京に押しかけようと集まった。もはや、正造とて止めることができない。彼らが川俣(現在の群馬県明和町)まで辿り着いたとき、待ち構えていた警官隊と衝突。抜刀した警官が、非武装の被害民を斬りつけて四散させ、百名を超える逮捕者を出した川俣事件である。
事件に衝撃を受けた正造は、4日後、議会で演説をした。「民を殺すは国家を殺すなり」で始まるこの演説は、「亡国演説」として知られている。意味するところは、「銅山が被害民を殺し、権力が無力な民に刃を向けている。もはや亡国以外の何ものでもない」。この事件を契機に、正造は議会や政府に対する一切の期待を捨て、政治を捨てた。民を救えない政治は政治ではない。そして、かつて被害民と約束したように、彼らと行動を共にするため、議員を辞職してしまった。政治を志した初心に忠実に生きようとしたのである。
この決断の背後には、もう一つの要因を無視することはできない。川俣事件の公判中、抗議の意志表示により官吏侮辱罪に問われ逮捕されて入獄。この時に「新約聖書」が差し入れられた。彼はこれを熟読した。それがその後の彼を支える力となったことは間違いない。「神の力は鍛えたる刀より鋭く、神が放つ弓矢は千万の力である」と語り、神と共に被害民を救おうと思い始めるのである。
谷中村に入る
議員辞職した正造は、その年の12月10日、驚くべき行動に出た。明治天皇が乗っている馬車に向かって、直訴状を高く掲げ、「お願いがございます」と叫びながら突進した。天皇への直訴である。議員辞職した彼が取りうる最後の手段と思い詰めての行動だった。正造は天皇を深く敬愛し、その民衆に対する慈愛の心を信じて疑わなかったのである。
直訴に及ぶ以上、生きて帰れるとは思ってはいなかった。妻への手紙に「去る10日に死すべきはずのもの。今日生命あるのは間違いである」と書いている。しかし処置に困った政府は、狂人として早々と釈放してしまった。直訴状は天皇の手には渡らなかった。しかしその反響は大きく、各地から義援金が続々と集まり、被害民を感激させた。
それでも政府の対応は変わらない。鉱毒調査委員会は、足尾銅山には責任はないとして、鉱毒の被害除去のため、遊水池(洪水時に一時的に水を貯めておく場所)の設置を勧告する始末であった。鉱毒問題が治水問題にすり替えられてしまったのである。この遊水池に選ばれたのが谷中村であった。政府は村人を他所に移すため、買収を開始した。
谷中村には買収を拒んで、踏みとどまっていた残留民がいた。19戸、百人余りである。1904年7月30日、正造は村の滅亡を防ぐため、谷中村に入り、川鍋宅に住み込むことにした。彼らと生死を共にしようとしたのである。人生最後の戦いが始まった。
不屈の抵抗
正造が谷中に入って3年の月日が経った頃、ついに来るべき時が来た。警察官2百名余り、人夫数十名による家屋の強制破壊が実施された。立ち退き先も、仮小屋も用意されず、強制破壊の費用まで支払わされるという無慈悲で、乱暴なものだった。
雷鳴と豪雨の一日。容赦なく冷たい雨が残留民を打ち続けていた。先祖の位牌を抱き、「申し訳ない」と言って泣き伏す者。病体を小舟に横たえ、雨と波しぶきで全身ずぶ濡れになっても避難しようとしない老人。彼らの身の上を案じた正造は、全身ずぶ濡れになり、雑草を押し分け、泥水に浸かりながら慰問に駆けつけた。正造とて言葉がない。溢れ出る涙の中で、彼らをやさしく愛撫することしかできなかった。島田宗三(谷中村出身、正造の弟子)はその時のことを、「67歳のこの老義人の至誠を全世界の何ものよりもありがたいと感涙にむせんだことを、今なお忘れることができない」と述懐している。
残留民の不屈の精神は、正造に衝撃を与えた。彼らに畏敬の念すら感じ始め、彼らに対する態度に変化が生まれた。彼らを教え諭すという保護者の立場を捨て、むしろ彼らに学び、彼らに師事する姿勢への変化である。谷中村に入って死を迎えるまでの9年間、正造は残留民と寝食を共にし、苦楽を分かち合った。そして、いかなることがあっても、彼らの傍らを離れることがなかった。そして自ら谷中残留民と名乗るようになる。知人への手紙には、「谷中村民と枕を同じくする快楽を覚えた」と書いている。
正造の体は、ガンで病み衰えていた。病と戦い、貧困に耐える日々。それでも彼は、「今政府の横暴に抵抗しなければ正義がなくなる」と言って、死の直前まで活動を続けた。晩年、彼は自らの活動を「天国に行く道普請(天国への道作り)」と呼んだ。残留民と共にあることの中に心の安らぎを感じ、天国への希望を見出していたのである。そして、「見よ、神は谷中にあり、聖書は谷中人民の身にあり」とまで語っている。
1913年9月4日、ほとんど行き倒れ状態で倒れ込んだ庭田宅で正造は息を引き取った。枕元に残されていたものは、菅笠と袋一つだけ。その袋の中には、日記、草稿、新約聖書、帝国憲法の小冊子、石ころ数個であったという。生前、彼は「人の生命は他のために減るので、減り尽くして死ぬのです」と語っていた。まさに他者のために全てを捧げ尽くし、文字通り無一物となって、人生の幕を下ろしたのである。
正造の死後、谷中村の残留民はついに立ち退きを承知。谷中村復活の夢は断たれ、足尾鉱毒反対運動は失敗に終わった。しかし、正造の戦いが、後世に与えた影響を思えば、果たして敗北であったのか。2011年3月11日に発生した東北大地震の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出された。百年を過ぎた今なお、田中正造の戦いは終わっていないのかもしれない。 
 
『足尾銅山史』と私 / 村上安正

 

この度、第22回学会賞を拙著が受賞したとの通知を受けた。嘗て竹内好は私に「人生の中でたった一度でも輝かしいことがあれば大きな宝物だ」と云ったことがある。この受賞は、私にとって最も輝かしい出来事に遭遇することが出来たのだと思った。振り返ってみると、牛歩に似たほぼ半世紀の歩みではあった。私のこれまで当初からこの大事業を完成させる研究活動を続けてきたわけではなかった。一人の市井人として時代に翻弄されながら生き、その節目の中で道を見つけ、歩んできた結果ではなかったかとも思う。
私は、東京下町のしがない商家の長男として生まれた。1937年小学校に入学したが、その秋、父は中国に出征し、その翌年母を産後に失った。1939年父は除隊し、再婚した。足尾との縁は、父が10年間の少年時代を足尾で過ごし、継母は足尾生まれだっただけで、銅山と直接関わってはいなかった。物心ついて以来の私は、1943年春、都立の工業学校に入り、その翌年には亀戸の東京無線に勤労動員となる。その作業は電波探知機の組み付けで月に10日程で終わり、気楽だった。そして何よりも戦時下の厳しい束縛から離れた開放感があった。
転機1 それを根底から覆したのが死者10万が出た1945年3月の東京下町を襲った夜間大空襲だった。錦糸公園に逃げた私達の家族は無事だった。そして難を逃れて足尾に辿り着いたのである。これが第一の転機だった。
転機2 足尾での戦中戦後の数年間は、正に生き延びるための闘いだった。父は家族を養うために東京で身を粉にして働き、足尾に残された家族は、食い物も燃料も衣服もなく、それを調達する役割が私の肩にかかっていた。私は恥も外聞もなく、買い出しや山に出掛けて欠席し、学業は二の次だった。しかし日本は敗戦で戦争から解放された。そして貧しいながらも、開放感があり、自由な思想が溢れてきた。私は忙しい中、時間を作ってそれを吸収しようと懸命だった。そのキーワードは、アメリカ、原爆、社会の動きの三つだった。
足尾では、1945年12月銅山労組が結成されたが、食糧危機突破のために町ぐるみの運動を展開し、獲得した食糧は広く町民に分配された。戦前から培われてきた運動の伝統が再び開花したのだった。
転機3 1949年春、私は足尾高校第一期生として卒業、社会に巣立った。この年から翌年にかけては、インフレ収束のための経済九原則が具体化した時期であり、社会不安が覆っていた。私が選んだ就職先は足尾銅山だった。
多くのクラスメートは坑内鉱員に就いたが、私は、誕生間もない地質鉱床課の調査助手となった。学校では、電気科に入り、足尾では機械科、就いた仕事が地質である。会社では無からの出発だったのが幸いしてファイトが湧いた。また上司に恵まれて一般教養まで教えられた。この年から坑内の旧坑調査が始まり、大正以後から本格化した下部開発の旧坑精査を担当した。
1950年7月銅山は500名首切りを含む合理化を実施したが、その翌年、抜擢されて硫化鉱等の未利用資源の鉱量調査につづいて小滝坑全域の旧坑と稼行切羽の調査に携わった。ここで学んだことは、採鉱時期によって旧坑の様態が大きく異なること、その中から再開発の可能性につながる発見の糸口を見出すことを知ったのである。
転機4 軌道に乗った仕事と同時に私は労働運動に参画した。それは機関紙活動が主だった。中でも1954年の社宅改善闘争で活躍し、全鉱でも注目される存在になった。それが契機で古老の聞き書きを任され、「足尾銅山の思い出」をまとめ、順を追って大正八年争議まで4シリーズを計30回の連載をした。
一方、通洞支部副支部長を1956年に退き、組合活動から離れた。そこで降って湧いてきたのが『足尾銅山労働運動史』編纂責任者の仕事だった。それは専従でなく、余暇を宛てる厳しい二年余だった。しかし私の主張である1戦前からの通史、2銅山の歴史の中での労働運動を捉える、3組合員の歴史の三点が全面的に受け入れられた。編纂委員は四名、何れも非専従で25歳の私がリーダーだった。この過程で鉱業所文書や足尾に関する書籍、報文に目を通し、また聞き取りや座談会を通じてナマの現場取材を行うことが出来たことできた。1958年6月、690頁の本書を刊行、労働運動史としては勿論、足尾銅山総合史としても高い評価を得た。
転機5 この大事業を終えて感じたことは、足尾銅山の通史が無く、その光と影が見えないことであった。そして私がそれをまとめる機会があるとすれば、これまで重視していなかった技術史や経営史について勉学を積み重ねるしかないと考えたのである。しかし私の於かれている立場では、そうした研究活動に専念できるわけではなく、あくまで余暇の勉学であり、年月をかけて粘り強く持続するという選択しかなかった。
私の銅山での勤務履歴は、最初の10年間は地質、12.5年間は採鉱係員であり、その最後の仕事は、河鹿採掘跡に散水し機械収銅することであった。しかし閉山前に本社に転勤、停年まで約15年間は途中2年の出向を含め広告宣伝や経理という全く異業種の管理業務に就いた。55歳で停年後1年間の充電期間を経、約20年間職に就いていた。銅山史への出発東京へ出て1年余を経て足尾銅山は閉山した。求めに応じて1973年に「足尾鉱山史概説」を雑誌・西日本文化に3回連載した。それを契機に念願だった足尾銅山史への取り組みが始まった。しかし労働運動史の呪縛から抜け切れず、第3稿まで終わってから、しばらく停滞した。それを打開するため、4課題を定めて所論をまとめ、積み重ねていくことに軌道修正した。東京では、金属鉱山研究会を立ち上げ、また産業史に関わる学会等に参加して、そこで出会った識者との間で討議を交わす機会があり、啓発されることが多かった。
しかしこれら識者は、鉱山についての知識や認識が薄く、時にとんでもない誤りをおかすことがあった。その一つの例をあげる。足尾銅山の鉱石に砒素が含まれることから、その産出鉱物が硫砒銅鉱Cu3AsS4だと断定した技術史家がいた。これに対して、私はそれは単一の鉱物ではなく、黄銅鉱CuFeS2と硫砒鉄鉱FeAsSが共生する鉱床があり、その産出度合いによって砒素の比率が変化すると述べたが、彼は全く理解せず黙殺したのだった。こうしたやりとりは絶えず起こった。そうした経験を経て、足尾の鉱山史は、私が書かなければ真実を後世に伝えられないと確信した。そして古希を目前にして、数年で本史完成を発心、余暇を集中して、2007年上梓に漕ぎ着けたのだった。 
既刊の鉱山史

 

私が最初に目にしたのは麓三郎『佐渡金銀山史話』だった。他に『尾去澤・白根鉱山史』がある。彼の叙述は、史実を忠実になぞった好著だったが、近世から近代前期が対象だった。その他の鉱山では、主として大鉱山のものが多く、事業所史料を羅列したものが多く、その全体像を示すとは云えない。これとは別に地方史研究者による鉱山史があるが、鉱山そのものの理解が不充分で、その歴史を捉えきれていないものが多い。別子については、平塚正俊『別子開坑二百五十年史話』と『住友別子鉱山史』全三巻がある。後者は著名な経済学者が監修しているが、鉱山史としては内容的に見て前者の方がはるかに勝っている。
鉱業会社の社史では、所蔵史料による個別鉱山の記述があるが、叙述に精粗があり、鉱山の経緯を見定めるという面で問題が残る。
鉱山史とは違う公害史では、鉱害排出源の鉱山の歴史を書いているが、被害を強調することに力点が置かれ、鉱業資本の利益優先というセオリーを前提として貫かれているものが多い。
炭坑と鉱山世上の一般的認識では、炭坑と鉱山を同一視するきらいがある。炭坑については、隅谷三喜男『日本石炭産業分析』に規定しているように、その優劣は、炭質の良い炭層を持つ鉱区と採炭現場から市場に至る運搬の状態とでその価値が決定できる。
これに対して、金属鉱山の場合は、鉱床のタイプ、産出鉱物の内容等、多岐に渉る要素があり、炭坑のような単一的規定はできない。鉱山では、それぞれの鉱山が持つ鉱石の特性を熟知した上で、採掘から精製に至る処理過程が決定されるから、これを一律の判定基準で評価できない。坑内から搬出された鉱石は、選鉱〜製錬の処理過程を経て粗金属となり、それを精製して始めて金属となる。しかも金属市場は近世以来世界市場に連動し、これに左右された。従って国策で保護される場合を除き、需要量と価格は絶えず変動した。市場性の低い金属は、採取の対象から外されたが、それが復活した例として神岡鉱山をあげる。神岡はわが国トップの亜鉛鉱山として著名だが、近代前半までは鉛、金、銀の鉱石を採取し、亜鉛鉱は投棄された。しかし近代産業の発展により亜鉛の需要が高まり、これに対応して亜鉛鉱山として発展したのである。
選鉱、製錬の生産過程は、共通な設備形態と産出鉱物の構成による独自な形態とが組み合せて構成された。これが理解できないと大きな過ちを犯すことになる。選鉱は鉱石の物理的処理による濃縮であり、製錬は精鉱を化学的処理で粗金属に製造する。このこれら処理施設の技術革新によって採鉱にも大きな影響を与えるが、本来の鉱山事業としては、鉱源の多寡が極めて重要な核心であり、それなくして選鉱・製錬の近代化はかなえられない。しかしわが国では、菱刈金山以外に稼行鉱山がない現在、坑外の処理施設跡のみが生産遺跡の対象となっているのは嘆かわしいことである。史料とその分析『足尾銅山史』を編むにあたって先ず突き当たったのが近世史料であった。足尾には銅山に関する地方文書が存在していなかったからである。しかし『栃木県史』史料編に於ける日光輪王寺文書や古河所蔵の近世銅山文書が閉山直前に限定公開される幸運にめぐりあえた。後者については、粗整理して「足尾銅山江戸期の文書集録」として刊行されている。また「足尾御銅山古記」は、近世の銅山履歴について編年誌風にまとめられたものであった。
近代については、古河市兵衛から従純に至る伝記、これを支えた木村長兵衛や木村長七、昆田文治郎、中川末吉等の多くの伝記があり、『栃木県史』史料編収録文書、『明治工業史』鉱業編、内国博覧会史料、「日本鉱業会誌」「地質要報」など多岐にわたる。
大正期については、前記の他、『鉱業発達史』の主として上巻、足尾に関する案内書、所内の「採鉱課事業記録」所内報「鉱夫之友」などである。昭和期は、昭和30年までは半世紀前に刊行した『足尾銅山労働運動史』の編纂過程で集めた史料と太平洋戦争前後の外国人労働問題に関する資料に目を通したが、以後閉山に至る史料については難航した。それを時系列的に解決したのは、社内報「足尾ニュース」で、閉山過程については「渡部一夫メモ」を最大限活用できた。
以上ここで掲げた史料は主なものだが、そのすべてに目を通し、真偽を確かめた。近世鉱山文書について、葉賀七三男は普請に関わる見積書を例に挙げて、形式が整った時代の先端を行く者だと高く評価している。鉱山主から求められた普請に対して、工程に関わる労賃、消耗品を含む資材の内訳と単価等を積み上げたもので、近代に準ずる積算見積を行っているからである。
しかしその一方、衰退期になって盛山期に与えられた優遇特権除外処置等に対して、これまでの貢献を考慮して現状維持を求める文書が多いこと、更に盛山期に裕福になったという類の文書が絶無なことから、山師を含む鉱夫が絶えず鉱山主から収奪され貧窮に沈んでいたと推論しているのである。
後者については、一方では日本有数の鉱山地帯である南部の言葉に「なおりさねまったよんた」が残っているように鉱山で稼いで裕福になったものが多かったからこそこの言葉が生まれた。また井原西鶴の『日本永代蔵』巻六、第五に「あかがねやま(銅山)にかかりて、俄分限になるも有」とも述べている。しかも山例五十三条に規定されているように山師や掘大工には例外として通行の自由が保証されていた。こうした事実を積み重ねていくと、鉱山で富を築いた者も多かったと推論せざるを得ない。坑内排水機近世の坑内排水器具は、釣瓶やピストンポンプではこひ箱樋だったが、螺旋ポンプのみずあげは水上輪を佐渡で使用して排水能力を向上したとされている。しかしこの新式ポンプはその後使用されず、再び旧来の箱樋などに戻っている。この事実についての解釈の定説は、鉱夫の機械嫌いや抵抗という見当違いがまかり通っている。
これに対して私は、水上輪の構造が脆弱でその補修が困難だったからだと考える。先ず第一にこのポンプは全木製であった。六角断面の回転軸に六枚の定型の羽根を軸に取り付け、且つ螺旋状に形成するのである。羽根は二分三厘(約7o)厚さの薄板を成形加工し竹釘で固定する。この螺旋ポンプでは羽根一枚が欠損すれば揚水機能が失われるし、その修理は坑外に持ち出して行わなければならなかった。第二にこのポンプは清水用であり、洞鋪排水のような泥や細かい石粒が混じった水では負荷が大きすぎて羽根脱落の原因になる。そうした欠陥が相次いだため、坑内使用を断念し、引き揚げられたポンプは水田揚水用に払い下げられたのだった。(文末の排水機参照)鑿岩機の問題同じようなことは鑿岩機についてである。鑿岩機は1813年イングランド南西部のコンウォールの鉱山技師トレヴィックが蒸気機関を動力にしたポンプが嚆矢とされる。その後ウィンドハンマーにつづいて1849年アメリカでピストン式鑿岩機が作られた。わが国で最初に登場したのは1881年赤羽工作局が試作した英国の無弁式ダーリントン鑿岩機である。これを日本で模倣して製造したものを佐渡で試用したが、実用には至らなかった。
その翌年阿仁鉱山では、英国製シュラム式鑿岩機を輸入して成果を収めたことから、国内でも次第に使用されるようになる。この鑿岩機は、ピストンの往復運動で穿孔するピストン式だった。三田守一は阿仁の実績を1885年に報告している。それによると、一昼夜の掘進長は1mで手掘の穿孔発破法の2倍強となっている。しかし問題は、価格が本体300円、支持台他の付属品100円の計400円の初期投資と消耗品など操業経費が大きいことであった。しかも鑿岩機本体重量が70sを越えていること、水車によるバーレー式コンプレッサーを動力用に設備することであった。作業人員は3〜4名である。(文末の近代日本の鑿岩機の歩み参照)
掘進1m当りのコストは22円50銭で、同じく手掘では15円である。こうした事情から岩盤が硬く、施工を急ぐ場合に限定すべきだと述べている。その後習熟したこともあり、1890年頃には足尾の通洞開鑿で一方の穿孔長21尺となり、月間掘進長は26mに達し、コストが手掘並になった。1897年アメリカのライナーは、ハンマー式乾式ドリフターを発明した。これが鑿岩機に大きな革命をもたらした。この原理は、手掘穿孔の技法を応用したもので、打撃数を増やし、打撃の都度微廻転して穿孔するのである。
しかし当初の乾式では、粉塵で珪肺による死を早めるウイドー・メーカーだとして忌避され、倒産寸前に陥ったが、湿式にしてから飛躍を遂げた。日本には、1901年足尾でライナー各機種を試用して機種を選定した。ライナー5の成績は一方の穿孔長60尺で、それは手掘の10倍、シュラム式の6.6倍になった。本体重量は69sで在来機より10%軽い。
シュラム式から始まるこの30年間の鑿岩機の進歩はめざましいものだったが、採鉱全般での機械化には大きな壁があった。その要素は次のようなものである。
1 日本人の体格に合う機械ではない。
2 機械やコンプレッサー、圧気管等の初期投資が過大。
3 精鉱採掘から脱却できない
であった。その対策として先ず取り上げられたのが1の対策であった。ライナーの特許期間満了を受けて、大手鉱山会社ではこれまでの輸入機による操業実積を生かして主としてハンドハンマーの開発を開始した。足尾、日立、住友である。
このトップを行く足尾式は、1914年にハンドハンマーを作り、新設した鑿岩機工場で大量生産を開始している。これはフロットマン機にヒントを得たものだが、重量4.2s、全長28pと更に小型で、バルブチェンジは鋼球でなく算盤玉形として確実性を増した。本機の狙いは、手掘並の軽便さと低経費だが、手掘の5倍の掘進長を実現した。
こうした状況の中で青山秀三郎は、1918年手掘と機械掘の比較調査の長文の報告書を発表する。ここではワンマン作業でのハンドハンマーの優位性が強調されたが、日本鉱業会での討論で石本恵吉は、機械化投資よりは好不況の局面で採鉱夫を人員調節する方が時宜に叶っていると主張した。即ち大鉱山でも手掘の現状維持派が根強く残っていたのである。
しかし採鉱の機械掘は、優良な鉱体を持つ一部の大鉱山で進み、同時に手掘坑夫の大幅な縮減が計られる。足尾の例では、鉱夫数は1917年上の3,305人が1926年下には365人と実に11%に減っている。直接採鉱夫の鉱夫の構成比は同じく46.2%が21.3%になっていることを勘案すると、優良切羽への集中と同時に機械掘が進んだことを示唆している。また機械化率を工数比で示せば、同じく6.24%が1924年には手掘を逆転し、1926年には実に72.2%となった。一方産銅量は大正末までやや微増の水準を維持している。これは富鉱で大鉱体の河鹿に特化し、大戦後の銅不況乗り切りを図った結果であった。しかし鉱脈を含む完全な機械化は、1930年の進み掘即ち粗鉱掘への全面転換まで持ち越された。
以上、わが国の採鉱機械化のトップを走った足尾銅山の過程を述べた。これで明らかになったことは、導入した鑿岩機を実用化するには、経営の側で克服すべき問題が多く、それが解決して始めて近代化が達成されると云うことだった。この問題では、見逃されていることがある。それは手掘による穿孔発破法の急速な普及である。これは1967年生野鉱山に赴任したお雇い外国人技術者コワニェが教育・指導し、更に全国の鉱山から坑夫を募って開校した鉱山学校の主眼だった。それが急速に普及し、近代日本鉱山の大発展につながったことは銘記されなければならない事柄である。
ところが歴史研究分野では、鑿岩機導入から普及まで30年の歳月を経た原因について、経営側の“経済的理由によるもので”なく“飯場夫と直轄夫の問題に示されるような、労働組織の問題があったのである。手掘採鉱が、在来労働組織たる金名工組織と密接に結びついており、それが、明治期を通じて根強く再生産されていた”〈佐々木潤之介「日本における在来技術と社会」12頁及び197頁、国連大学・日本の経験プロジェクト〉として、佐々木はその後もこの所説を貫いている。彼ばかりでなく、間宏『日本労務管理史研究』や丸山真男『個人析出のパターン−近代日本をケースにして−』はじめ、日露戦後の鉱山暴動の記述にも踏襲された。佐々木の所説の基軸は、近世鉱山で冶金技術は多くの改良が加えられ、その蓄積があった。それが外来技術によって否一方ではこれまでの技術蓄積があり、短期間に近代化受容の素地となったとする。これに対して、採鉱では在来技術を固守する金名工組織が抵抗した結果、近代化を著しく阻害し、根強く再生産されて飯場制度に受け継がれたとする。しかし事実の経過に照らすと、独断的な論理である。更に手掘発破工法への大転換による実績や金名工組織が飯場制度に改変した過程も見逃していて、この論理は破綻しているのである。さらに前述の石本発言の真意を考えると尚更である。
これは歴史など文系のみに限った問題でなく、技術史の分野でも共通している。即ち、近代化問題は、産業近代化が工場制生産への展開を念頭に理論形成しており、これを機械的に鉱山に適用することの誤りに問題がある。
鉱山というカテゴリーの中で、佐々木の論理の対象になると考えられるのは、炭坑と金属鉱山では別子、日立などの鉱層鉱床に限られる。この場合は、定置形工場制生産に近いパターンが適用できるであろうが、他の多数を占める鉱脈や一部の塊状鉱床の鉱山については、機械化=近代化という一律の規定付けはできない。特に鉱脈鉱床の場合は、複数又は多数の鉱脈が対象になるが、その規模や鉱質の変化が大きく、それが鉱山の死活を決定する。それは日常的に直面する大問題であった。こうした事態に対応できる技術者の養成が鉱山会社の経営にとって不可欠であったのである。その一例として、住友の鴻之毎金山買収の隠れた意図をあげる。住友は別子を主体とした鉱山経営を続けてきたが、さらなるシェア拡大には鉱脈系鉱山に対応できる技術スタッフの養成が必要だった。そのための買収だったという挿話が残っている。わが国で近代以来多数を占めていた鉱脈系鉱山では、鉱源の探査と持続が不可欠で、採鉱では鉱量と鉱質の変化に対応し即決できる能力が求められた。そうした変動に対する調節弁の一つが、前述の石本発言に見られるような直接採鉱夫の増減で調節する方が良しとして、寧ろ機械化投資に慎重な意志を持つ技術者層があったことに注目したい。 
鉱山の総合産業性とインフラ

 

鉱山と工場制生産との違いは、工場が限定した敷地に生産設備を設け加工・製作して市場に供給する機能に限定されるのに対して、鉱山は必然的に独立した産業コンビナート的性格を具備する必要があった。特に近代前期では動力、機械、交通等の産業が自立した産業として成立しない状況だったから、必要に応じて鉱山が素早く対応したのだった。足尾の例では、動力は、水車から蒸気機関、水力発電への展開が短期間で進められ、モーターや電車の製造まで及んだ。運輸では馬車鉄道、索道へと進み、索道ロープの国産化や玉村式握索機の発明へとつながった。電話の開設も極めて早い。鑿岩機の修理から出発した機械では、鋳造、鍛造から機械加工まで総合的な機械工場を立ち上げ、成功している。
私は、わが国近代産業発展が先進鉱山で培われた先駆的な試みから出発し、その蓄積から生まれ、鉱山から独立して個別産業として成立していったのであった。もう一つ忘れてはならないのは、鉱山社会に必要なインフラである。土地造成からはじまり、道路や住宅の建設、水道、屎尿処理、学校、病院等は勿論、劇場などは鉱山従業者の生活に直結し、福利厚生でもあった。このインフラ事業は、国や地方自治体が行う以前に、鉱山が自力で建設、運営するのが当然だったのである。 
むすびにかえて

 

私は、『足尾銅山史』を狭い意味での鉱山史とすべきでなく、鉱山という一つの独立した産業社会の歴史的過程を辿りながら、これに伴う鉱山社会や人間の問題にまで踏み込んだ総合史としてまとめることだと確信した。しかし私のような在野の研究者には、共同研究者もなく独力で道を開拓するしかなかった。それを曲がりなりにも完成するまでに半世紀の歳月を費やしたことになる。この半世紀の経験から、これは単なる鉱山史ではなく、社会全体の動きを捉えることができると確信したのである。
私が生まれた東京・錦糸町の周辺には、江戸期の亀戸銭座や小梅銭座、明治前半に電気精銅の先駆けとなった古河・本所熔銅所があった。何れも足尾銅山と因縁深い土地柄だったことを当時は知らなかったのである。そして足尾は、私にとって遠い存在だった。若し東京夜間大空襲で被災していなかったら平凡な一市井人として過ごしたのかも知れない。そして今『足尾銅山史』の大事業を完成して思い浮かぶことがある。その一つは、成熟した高度技術産業が経済至上主義とセットになった偏った構造になった。しかし、つくばの核燃料濃縮過程での生産事故のような生産やリスク管理の不備から災害につながる例も多い。この問題解決に鉱山のリスク回避のノウハウを活かすことが出来ないかも考えたい。
その二は、トップ・エンジニアとこれを実務でカバーするエンジニアと熟達した技能者の組合わせが機能しないと効率的生産とならない。以上の二点は、鉱山の歴史から学ぶことが多いのではないか。
その三は、わが国の資源問題である。産業に必要な素材となる資源はごく一部を除いて、輸入に全面依存する状態が継続する。世界的に見ても地下資源埋蔵量が低下する中でどう確保するか、資源大量採取に伴う環境破壊、廃棄物からの資源リサイクルなど、これからの日本の大きな課題である。
  
足尾鉱山への朝鮮人強制連行

 

ここでは古河鉱業が経営した足尾鉱山における朝鮮人強制連行についてみていきたい。
足尾での銅採掘は16世紀中ごろからの記録がある。17世紀には江戸幕府直営の銅山となり、輸出品にもなったが、幕末には旧山状態になった。明治新政府は足尾鉱山を所有するが、すぐに民営となった。古河市兵衛が1877年にこの鉱山を買収して採掘を始め、1884年には足尾は日本最大の産銅量を記録するようになった。
他方、銅の製錬の煙は周辺の森林を破壊し、鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した。足尾での銅の生産は戦争国家を支えるものであり、鉱業停止を求める汚染地の民衆の声は弾圧された。また労働者の運動も形成され、1907年には「足尾暴動」、1919年には大争議がおこされ、1921年には鉱山で最初のメーデーも開催されるなど、労働運動の拠点にもなった。
戦争の拡大によって産銅態勢が強められ、1935年には新選鉱場が建設され、1939年には足尾銅山鉱業報国会が設立された。鉱山労働者が徴兵されて労働力が不足するようになると、朝鮮人・中国人・連合軍俘虜が強制連行されるようになる。
連行された朝鮮人についての史料には、厚生省勤労局による1946年の調査「朝鮮人労務者に関する調査」(栃木県分)に足尾鉱山の名簿がある。この名簿を分析した論文には、古庄正「足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理」(『経済学論集26-4』駒沢大学経済学会)がある。足尾には住友鴻之舞鉱山からの転送もあったが、守屋敬彦編『戦時外国人強制連行関係史料集V朝鮮人2下』にある住友鴻之舞鉱山強制連行者名簿には、この転送者の名簿も含まれている。朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』には現地調査の記載があり、栃木県朝鮮人強制連行真相調査団『遥かなるアリランの故郷よ』には足尾への被連行者の聞き取りや名簿の分析が収録されている。朝鮮人強制連行真相調査団の『資料集14朝鮮人強制連行・強制労働日本弁護士連合会勧告と調査報告』には、足尾鉱山への被連行者(鄭雲模)に対する人権救済勧告が収録されている。
以下、厚生省勤労局調査にある足尾鉱山名簿を中心に、先行研究をふまえて連行の状況についてみていきたい。 
1 名簿からみた足尾鉱山への朝鮮人強制連行

 

厚生省勤労局調査の足尾鉱山名簿には2461人分の連行年月日・氏名・住所・異動日・異動理由などが記されている。
この名簿から足尾鉱山への連行状況をみてみれば、1940年8月には慶南の梁山郡から93人が連行され、1941年には3月に梁山から96人、4月に慶南の蔚山から93人、9月に全北の鎮安から99人、12月に慶北の醴泉から129人が連行された。1942年には3月に鎮安から144人、8月に慶北の奉化から100人が連行され、1943年には1月に鎮安から97人、3月には忠北の清州から99人が連行された。この時期までに慶南梁山・蔚山、全北鎮安、慶北醴泉・奉化、忠北清州などから約1000人の連行がおこなわれたことがわかる。足尾への連行は100人単位でおこなわれている。連行は1939年の募集から1942年には官斡旋という形になっていくが、植民地からの強制的な動員であったことには違いがない。
なお、中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」には足尾鉱山へと1942年6月までに698人が連行されたとある。厚生省名簿でのこの時期までの連行者数は654人であり、44人少ない。「移入朝鮮人労務者状況調」では1939年に50人、1940年に300人、1941年に500人に割当が承認されたとある。初期の連行者の名簿の一部が欠落しているとみられる。
1943年4月には北海道の鴻之舞鉱山から370人、5月には千歳鉱山から155人の転送があった。520人を超える朝鮮人が北海道から送られてきた。
鴻之舞からの転送者のうち、忠南の扶余・論山・舒川出身者は1941年9月に、慶南の密陽出身者は1942年3月に,京畿の坡州出身者は同年4月に、慶北の星州出身者は同年6月に連行された人々である(住友鴻之舞鉱山強制連行者名簿『戦時外国人強制連行関係史料集V朝鮮人2下』1333〜1415頁)。
これらの転送は金鉱山を休止して他の鉱山へと労働者を転送する政策のもとにおこなわれたものである。鴻之舞鉱山へは1942年9月までに2600人ほどが連行されていたが、そのうちの371人が足尾に転送された。厚生省名簿は370人であるが、鴻之舞鉱山の転送者名簿では371人であり、厚生省名簿には1人が欠落している。これらの転送者は1945年4月までに満期や逃走などによって8割ほどが現場を離脱した。転送者のなかには連行されてから解放までに3年以上の労働を強いられた人もいた。
さらに1943年10月には忠北の報恩81人、全北の井邑38人の計119人が連行された。1944年にはさらに連行がすすめられた。4月には慶北から盈徳59人・迎日19人、5月には慶山49人、6月には永川・迎日123人が連行され、7月には江原の三陟・江陵などから125人が連行された。ここまでの連行により、足尾鉱山へと2000人近い朝鮮人が連行されたことになる。
9月以降には徴用が適用され、11月には咸南の豊山・甲山・安辺などから192人が連行された。1945年には1月には江原の横城から133人、2月には京畿の楊平・高陽などから107人が連行され、さらに京畿から4月に5人、5月には10人と小規模ながらも連行が続けられた。連行は江原から咸南地域にまで拡大され、連行者数は2400人を超えていったのである。
北海道炭鉱汽船などの史料をみると、朝鮮現地での逃亡が数多くあったことがわかる。この足尾鉱山の名簿には朝鮮現地での逃走者については記されていない。現地での連行者数は実際にはさらに多いものになるだろう。
足尾鉱山の名簿から逃走者数をみると、840人ほどとなる。連行者の3割ほどが逃走しているが、徴用適用前の連行集団をみると、半数近くが逃亡したものが多い。病気・送還・解雇・一時帰国者は230人ほどである。満期帰国は413人であるが、満期帰国者の内の6割が北海道からの転送者である。8.15解放時に残留していたのは連行者数の3割にあたる865人である。連行者の家族を含めると900人を超えるだろう。
厚生省名簿では死亡者の記載は33人である。しかし、鴻之舞鉱山の名簿と足尾現地での調査によって明らかにされた死亡記録を照合すると、5人分の記載の誤りと1人の欠落が明らかになった。病気、逃走、無記載となっているものが実際には死亡しているのである。たとえば1941年12月に連行された松田潤成は名簿では1942年2月6日に「逃走」となっているが、死亡調査記録では凍死している。1944年5月に連行された山本守文の場合、死亡記録では病死だが、名簿では「病気」となっている。今回の照合で死亡記述での誤りが判明したものは5人だが、これ以外の死者もあるだろう。子どもの死者も入れれば、連行期の朝鮮人の死者数は70人ほどになる(『遥かなるアリランの故郷よ』262〜267頁)。
連行された人々は足尾製錬所と本山坑の北方の高原木、通洞坑南西部の砂畑、小滝坑近くの二号長屋・爺ヶ沢・銀山平などに収容された。 
2 証言からみた朝鮮人連行の状況

 

強制連行は「募集」「官斡旋」「徴用」の形でおこなわれていったが、行政と企業が共同して連行したことに変わりはない。連行形態の変化によって国家による強制力がいっそう強められていった。証言から、連行当初から行政による割当と動員がおこなわれていたこと、連行現場で暴力的に支配されたことなどがわかる。
1940年から41年にかけて「募集」によって、慶南の梁山郡から連行された人々の証言をまとめてみよう(『遥かなるアリランの故郷よ』168〜185頁)。
1940年8月に朴聖述さんは精錬所に連行された。家族の呼び寄せがおこなわれ、妻の金末順さんは旧正月過ぎての5日に足尾に行っている。当時行きたくないと逃げても後で続けて何回も割当が来るので、とりあえず2年契約で行く人が多かった。三養会で配給を受け、後に給料から天引きされた。解放後、高崎に何ヶ月か滞在し、博多から船で帰った。しかし働いて貯めた金は換金してもらえなかった。
1941年3月には梁山郡院洞面花斎里から趙性載さん、徐正友さん、辛三洪さんらが連行された。募集という名目だったが、警察が先頭に立って斡旋し、面職員と警察が来て、行かないと制裁を受けた。3人は製錬所に送られ、団鉱場での砕石や運搬などの三交替の労働を強いられた。寮の監督は疲れて寝ている人を桜の棒で叩くなど殴打が日常的だった。
趙さんは兄の京載の代わりに行った。17歳の若さだった。最初の日に煙い仕事場に入るのがいやで仕事をサボったところ、雪の中に何時間も立たされた。手紙は出せたが検閲された。脚気になり本山病院に入院し、通訳として何ヶ月か居た。病院には一ヶ月で10数人の朝鮮人が担ぎ込まれ、足の切断なども多かった。病院では逃げて死んだ人もいることを聞いた。その後、沢入から汽車に乗って逃亡した。相模原の橋本などで土木仕事をした。仕事をするなかで協和会手帳をつくってもらった。解放直後、日本で稼いだお金は紙切れ同然だった。名簿では趙さんの逃亡日は1941年の4月17日とされている。これは入院の日とみられる。
徐さんは結婚直後に連行された。家業の精米所はつぶれてしまい、小作の田畑は他人に譲ることになり、生活は破壊された。逃亡したが捕らえられて警察に留置された。鉱山に連れ戻されたが、監視されて金は一銭も渡されずに、売店には労務がついてきて彼らが支払った。再び逃亡し、夜間、煙害で草ひとつ無い山を越えていった。山から降りたところにある水力発電所でしばらく働き、関釜連絡船に乗って戻ってきた。しかし、解放前の冬に平安道の製錬所に徴用され、そこで解放を迎えた。名簿では徐さんの逃亡日は1941年8月19日である。
辛さんは製錬の団鉱場で労働させられた。賞金をもらい送金したが、収入は少なく10月頃に逃亡した。
辛さんの逃亡日は名簿では1941年の10月28日になっている。辛さんによれば同村の「李ドウマン」は坑内で陥没事故にあい、体が悪くなり帰国して亡くなったという。名簿には「山本斗満」が同じ時期に連行され、1942年7月に業務上上肢麻痺となり、43年10月に負傷のために退所したとある。山本斗満の本名は李斗満であろう。
つぎに、「官斡旋」による連行者である鄭雲模さんの証言を見てみよう(『遥かなるアリランの故郷よ』121〜147頁)。厚生省名簿には、清州郡から1943年3月20日に連行された99人の連行者のなかに「鄭雲模」の名があり、職種は線路夫、逃亡日は1944年3月21日となっている。以下の証言では鄭さんは連行年を1942年としているが、名簿の記載から連行年は1943年とみられる。
鄭さんは1921年生まれ、忠北の清州郡桔倉面新平里の出身、当時上新里に在住していた。父を17歳のときに失い、母の世話もしていた。1942年2月頃に面へと呼び出され、「日本に行って2〜3年仕事をして来い」といわれた。その場には足尾鉱山の坑内部長の斉藤も派遣されていた。母の面倒を見ていることを言うと、その場で殴打された。翌日早朝、家を囲まれ、引っ張られ、トラックで清州に連れていかれた。清州で作業服を着せられ、列車で釜山に運ばれ、そこから船で下関に行き、足尾鉱山の砂畑へと連行された。最初は集合や整列、暴力的管理下で宮城遥拝での不動の姿勢などの訓練を強制された。仕事は坑内の線路工夫になったが、反抗した際に、腕をのこぎりで挽かれたり、木刀で頭を殴られたりのリンチを受けた。その際「半島人の1匹や2匹くたばってもすぐ補充できる」「一匹3銭で1000人でも2000人でも引っ張ってこられる」と言われた。あるとき梯子から転落し足腰を骨折し、入院したが、完治しないうちに仕事に就けと言われた。落盤で同胞が死んだとき、葬式もしないでに埋めてしまおうとしたので抗議した。ドスを持った者たちに襲われて刺され、留置場に入れられたこともある。賃金をくれというと国債をよこし、これではだめというと3〜4円しかくれなかった。逃走者は捕まれば、死ぬほどに殴られていた。日本人が逃亡を助けてくれ、1944年4月に東京へと逃走した。解放は群馬の安中で迎えた。
鄭さんは証言の場で、負傷時の治療や故郷への手紙の送付など、日本人と朝鮮人との相違に関する質疑を受けるなかで、次のように語る。「あのねえ、朝鮮人と日本人と比較すること自体が間違いなのです。比べられないんですよ。比べられるくらいならば、私は証言しません」と。
鄭さんが言いたいことは、植民地とされ、軍事的文化的な支配のなかで強制的に動員されて労働を強いられた朝鮮人と、植民地を支配する側にいた日本人とを、その労働条件について同列に扱って比較することはできないということだろう。同列にして比較すると、植民地支配下のなかで構造化されていた物理的精神的な強制性の問題が抜け落ちてしまうからである。
つぎに「徴用」による連行者である趙観變さんの証言をみてみよう。趙観變さんは厚生省名簿によれば1945年2月15日に京畿道の楊平郡から連行され、10月15日に帰国した。趙さんの証言をまとめてみよう(『遥かなるアリランの故郷よ』160〜176頁)。
趙さんは1928年6月生まれ、「徴用」により面事務所に召集され3日後に連行された。移動中には汽車の窓をふさぎ外が見えないようにされた。鉱山では支柱の大工仕事をさせられたが、仕事を一日でも休もうとすると事務所に連れて行かれ殴打された。坑内の近くに火葬場があり、寺もあった。飯場が屏風のように並び、中央に食堂があった。死なない程度の食事であり、一ヶ月で手渡されたのは小遣い程度の5円だった。手紙は何回か来たが、解放近くなるとできなかった。解放はラジオで知り、集団で帰国した。
以上、連行された朝鮮人による証言から連行状況についてみてきた。
日本人の証言をみてみよう。
「銀山社宅には強制的につれてこられた朝鮮人が住むようになった。脱走を監視するために奥銀山の家には夜2人が常駐した。巡査の派出所も置かれた。庚申山道には細い針金が張られ、逃亡者がそれに触れると鐘が鳴るようになっていた。捕まると水を入れた盥を頭の上で支えさせたり、家の柱に縛られ棒で殴られた。冬、六林班方面へ脱走して橋の下で凍死した人もいた。庚申川ぞいの傾斜地で自殺した人もいた」(『町民がつづる足尾の百年第2部』168〜169頁要約)。
「足を負傷して坑内に入らないと電線を足につけたり、納鉱場の脇に連れていきムチでたたいた。ぞっとするような、見ていられないことが再三あった。」(『足尾に生きたひとびと』89頁要約)。
「よく半島人が死んで、リヤカーで運ばれたりした。大根みたいな足がピーンとしていた」(『足尾に生きたひとびと』87頁要約)。
「深沢の入口の栃本屋は朝鮮人の宿舎で夜には朝鮮の歌を歌い、それにあわせて踊る風景が見られた。高原木には夫婦連れも多く、駅できれいな民族衣装を見た」(『町民がつづる足尾の百年第2部』213頁要約)
証言から暴力的管理があり、逃亡や死亡があったことがわかる。 
3 足尾鉱山からの帰国

 

戦争が終わり、解放を迎えた人々の帰還がはじまる。連合軍俘虜は9月はじめに、連行中国人は11月28日に帰還した。中国人は257人が連行され、連行途中を含めて110人が死亡している。
朝鮮人の帰還要求の動きも高まっていった。敗戦にともない、足尾鉱山では戦時資料の焼却がおこなわれたというが、1946年の厚生省調査に足尾鉱山の名簿があるということは、労働者名簿が保存されていたということになる。この史料から敗戦以降の朝鮮人の解雇日をみていくと、1945年10月15日、11月21日、12月5日の3次であることがわかる。これらの解雇日から、帰国が3派にわたっておこなわれたことをうかがい知ることができる。
帰還とともに、足尾の朝鮮人を組織した在日本朝鮮人連盟と足尾鉱山側との交渉が続いていた。この交渉の経過については、古庄正「足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理」にまとめられ、この論文は『遥かなるアリランの故郷よ』に収録されている(281〜338頁)。
この論文には、新聞記事の紹介もある。『下野新聞』(1945年11月3日付)によれば、足尾鉱山の朝鮮人900人は帰国を求め働かず、食料の増配や帰国の際の特別手当を要求していたが、そのうち第1次として350人が帰国したという。『下野新聞』(11月21日付)では、先に300人が帰国し、11月21日に320人、22日に80人の計400人が帰国するとある。これが帰国の第2次の集団になる(『遥かなるアリランの故郷よ』315・324頁)。第3次の帰国は12月に入ってからとなる。
古庄論文から朝鮮人連盟と鉱山側との交渉の経過についてみてみよう。
11月4日付で朝鮮人連盟(在日本朝鮮人連盟中央総本部栃木県本部)が出した要求をみると、即時の帰国、帰国までの充分な衣食住の提供、帰国に際しての食料などの支給(含む家族)、帰国者の釜山までの見送り、1年以下1000円・1年以上2年以下2000円・2年以上3年以下3000円の比例での慰籍料の支給、労働年金・貯金・預金など一切を本人に渡すこと、強制労働と暴虐の中での逃走者の年金・貯金・預金・衣服などを朝鮮人連盟中央本部に提出すること、連行者(1941年12月8日〜)の氏名本籍地・逃走者死亡者の氏名本籍地・残留者の数の明示、死亡重軽傷者への同様の慰籍料の支給、死亡者家族への1万円支払、足腕を失った者へと5000円支給、手足の指を失った者への1000円支給などがある。この要求から、強制的な貯金・預金がおこなわれていたこと、死亡重軽傷者が数多く存在したこと、補償が不十分なままであったことがわかり、解放後、その要求が噴出していった状況を知ることができる。
このような要求に対し、鉱山側は占領軍司令部に連絡し県司令官の来山を要請した。11月6日には栃木県が朝鮮人の徴用を解除した。11月10日には厚生省が労資に調停案を示した。その案は、帰国についてはできるだけ早くできるよう処置、帰国までの衣食住は会社が最善の努力、帰国に際しては乗船地まで随行、退職慰労金は2年未満300円、3年未満400円、3年以上500円、逃走者への退職慰労金は不払い、貯金・預金・未払金は精算支払(現金での持帰金には制限)、厚生年金などは必要に応じ会社側の立替払い、逃走者の貯金預金の朝鮮宛送金は連合軍と政府の決定に従って処理、会社は朝鮮人の入所者・脱走者・死亡者・在山者の明細な経過を公表、死亡傷痍者への厚生年金・慰籍料・特別慰籍料の支給(死亡者1000円・足腕を失った者に500円・指を失った者に100〜300円)というものであった。
厚生省案は要求の多くを認めながら、慰労金や慰籍料については減額し、朝連への委託は拒否するというものであった。朝鮮人側はこの案を拒否した。この調停案の翌日に鉱山側は米軍による治安維持を依頼し、機関銃隊約100人が派兵された。しかし、朝鮮人側の抵抗は続き、栃木県の米軍司令部は足尾への派兵軍隊長を通じて労資双方に斡旋案を出すことになった。
この斡旋案はつぎのような内容である。12月5日の輸送での帰国の完了(33人を除く)、会社側は乗船地まで見送り、10月15日から帰国完了までの会社側による衣食の負担(含む家族)、連行者(1941年12月8日〜帰国)の氏名本籍地・逃走者死亡者の氏名本籍地・残留者の数の明示、8・15以降の甲種勤労所得税控除の場合の払戻、8・15以前1年未満の無断退出者の預金・協和資金を朝鮮人連盟足尾支部に引渡、12月5日の帰国者に乗船地まで毛布1枚の貸与、帰国時に退職慰労金の支給(勤続2年未満350円、3年未満500円、3年以上650円.除く無断退出者)、死傷痍者への給付金・慰籍料・特別慰籍料(死亡者遺家族2000円、足腕を失った者に1000円、手足の指を失った者に200円)の支給(障害を持った者はこれに準じて支給)、遺骨は帰国に際し会社側が責任を持って遺族に届けること、争議解決に際し会社は義捐金として朝鮮人連盟足尾支部に24000円を支払うこと。
このような内容で帰国の日の12月5日に鉱山側と朝鮮人連盟足尾支部との間で協約が成立した。だが、この協約にある慰労金などは実際に支払われたのだろうか。すでに11月末までに7割ほどが帰国を終了していること、帰国時の持帰金額に制限があったこと、会社から朝鮮への送金は不能であったこと、3次の帰国の直前での決定であったことなどから、すべてが支払われたとは思われない。
厚生省勤労局調査の足尾鉱山分の名簿には、逃亡者の未払い金についてもなしと記され、連行末期(勤続2年未満)の帰国者についてみれば10月に退所した者にも350円が支払われたと記されている。12月に退所した者に350円が支払われることはあっても、10月に帰国した者に同様の支払いがあったとは思われない。また、逃亡者についての未払い金も多かったとみられる。このような記述には戦後の未払い金調査の段階での鉱山側の作為を感じる。 
4 朝鮮人強制連行についての歴史認識

 

古河鉱業は足尾以外では阿仁、永松、飯盛、久根などの鉱山で連行朝鮮人を使った。久根鉱山については500人ほどの名簿が厚生省調査の静岡県分の名簿のなかにある。戦争末期にはボーキサイトの代用鉱として西伊豆の明礬石が採掘されたが、古河はその採掘ために設立された戦線鉱業仁科鉱山の経営にもかかわった。この鉱山へも500人ほどの朝鮮人が連行された。この鉱山の開発工事にも朝鮮人が動員された。古河の炭鉱には福島の好間、福岡の大峰・峰地、下山田、目尾などがあったが、これらの炭鉱にも数千人規模で朝鮮人が連行された。
戦争の拡大によって軽金属部門が強化されていったが、古河資本は古河電工に軽金属部門をおいた。この古河電工へも朝鮮人が連行された。厚生省名簿からは古河電工小山工場へは29人、兵庫県尼崎の古河電工大阪伸銅所へは80人が徴用されたことがわかる。新潟県警察部特高文書からは古河電工横浜電気製作所から60人が新潟から帰国したことがわかる(「鮮人集団移入労務者送出二関スル件」『朝鮮問題資料叢書13』242頁)。川崎市の古河鋳造や埼玉県戸田市の古河電工軽金属処理所にも連行朝鮮人がいたという。古河電工は各地の工場へと朝鮮人を連行していたのである。
古河電工小山工場への連行についてみておけば、小山工場へは黄海道黄川から1945年3月21日に連行されている。名簿には29人分の氏名があるが、これは終戦まで残留していた人々のものであるように思われる。
古河資本が古河系列の鉱山・炭鉱や工場へと国家と共同して連行した朝鮮人の数は2万人ほどになるだろう。
ここで証言をみてきた鄭雲模さんは1997年に日本弁護士連合会へと人権救済を申告した。日弁連は2002年に勧告を出したが、その勧告をまとめると以下のようになる(朝鮮人強制連行真相調査団『資料集14朝鮮人強制連行・強制労働日本弁護士連合会勧告と調査報告』所収)。
足尾での労働は、任意ではなく処罰の脅威の下で強要されていたから、1930年に採択された「強制労働に関する条約」に違反する。鉱山での地下労働の強制、労働が60日を超えたこと、労働災害に対する無補償、健康保持への無配慮などでも、強制労働条約に反している。また、連行されての強制労働は奴隷的苦役であり、1926年に採択された奴隷条約に反する。さらに足尾鉱山への強制連行とそこでの強制労働は、殺人・奴隷化・強制的移動その他の非人道的行為など「人道に対する罪」にあたり、戦争犯罪である。
日弁連はこのように鄭さんの強制連行・強制労働を人権侵害と認定し、日本政府と古河機械金属に対して、被害実態の把握、責任の所在の明確化などの真相究明と謝罪の上での金銭的処置を含めた被害回復をおこなうように勧告した。
植民地支配のもとでおこなわれた強制連行・強制労働が、人間の奴隷化と強制的移動であり、「人道に対する罪」であるという視点は重要であり、理解の共有が求められる。政府も企業もこの勧告をふまえて誠意ある行動をとるべきであろう。
足尾観光の展示には年表があり、「補充として朝鮮人労働者を使用」「捕虜となった中国人が坑内に就労」とあるが、強制性についての記述はない。足尾町は2006年に日光市と合併したが、足尾町は閉町を記念して『足尾博物誌』を発行した。この本の年表には1940年「この頃から朝鮮人労働者が足尾銅山の労働に従事」、1944年「中国人が強制連行され坑内労働に従事」とある。ここには朝鮮人連行について、「強制」の歴史認識がない。
足尾銅山観光の建物に「日光市非核平和都市宣言」の張り紙があった。日光市は2007年3月に非核平和都市を宣言した。この宣言文では、世界の平和を願い、地域の清流や文化遺産とひとりひとりの命を守り、暴力・戦争・核兵器をなくすこと、被爆の歴史をふまえての非核平和を訴えている。ここで語られる世界平和の第一歩として、強制連行の史実を明確にし、被害者の尊厳の回復と友好にむけて、この足尾の地からの活動が求められるように思われた。
足尾鉱山は1973年に閉山し、通洞坑は今では観光用に使われている。製錬所の対面には龍蔵寺があり、そこには煙害で廃村になった松木村の墓石がピラミッド状につまれている。これらの墓石や寺の墓石は製錬所からの煙に焼かれて変色し黒いつやをもつ。選鉱場跡には捨てられた鉱滓も歳月を経て崩壊し赤茶や赤黒に変色していた。だが歴史の真実は変色させることはできない。
中国人を追悼する「中国人殉難烈士慰霊塔」は小滝坑北方の銀山平にある。裏側には110人分の死者名が刻まれている。1973年に建てられた石とコンクリートの大きな祈念碑である。
朝鮮人を追悼する碑は、小滝坑を南に下った専徳寺跡にある。木製の「足尾朝鮮人強制連行犠牲者追悼之碑」が10本ほど建てられ、横には木製の看板があり、墨で連行死者の氏名が記されている。そこは木々に囲まれた湿気の多い場所であり、古い碑木は変色し、碑を支える石には苔が生えている。『足尾博物誌』にあるような歴史認識がこのような追悼碑での格差になっている。
小滝坑の周辺に残る墓地には、無縁になった墓石が散在していた。ここで生き働いた民衆の生命と尊厳の歴史が放置されているかのようだった。
田中正造は「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」と1912年に語っている。これは、足尾鉱山からの鉱毒が深刻な汚染をもたらし、それに抗議する民衆が弾圧され、さらに居住地を奪われ、汚染源の鉱業は停止されないという状況の中での表現である。それは朝鮮半島の植民地支配がはじまり、植民地の再分割をめざして世界戦争が起こされていく時期でもあった。
戦争による植民地支配においても、山や川が荒らされ、村が破壊され、戦争へと民衆が動員された。朝鮮の植民地支配や足尾鉱毒事件から100年、このような歴史を反省し、現代を真の文明へと転換する試みが奔流となる時代としたい。足尾の山々は植林によって緑を取り戻しつつある。平和と友好についても同様でありたいと思う。 
 
足尾鉱毒事件報道

 

田中代議士の質問書 [明治25(1892)年6月5日 毎日新聞]
本会明治25年5月9日河野広中君、及び工藤行幹君は北海道殖民開拓に関する施政カ針、北海道官有物払下、北海道勧業委托金処分、札幌製糖会社及び札幌製麻会社、北海道土地貸付、炭鉱鉄道線路変更の件に付、同月11日塩田奥造君、新井啓一郎君及び箕輪勝人君、同鉄道始末に対する件に付、同月23日加藤淳造君、同北海道炭鉱鉄道会社に関する件に付き、同月同日田中正造君は足尾銅山鉱毒加害の件、及び北海道幌内郁春別鉄道会社命令書違反、神戸造船所、釜石鉱山、阿仁及び院内鉄山、小坂銀山に関する件に付き以上の質問書を提出したるに、政府は未だ何等の答弁をもなさず。
議院法第49条には「質問主意書は議長之を政府に転送し、国務大臣は直ちに答弁を為し、又は答弁すべき期日を定め、若し答弁を為さざる時は、其の理由を明示すべし」とあり、黙るに政府は上記数件の質問に対し、未だこれが答弁をなさず、又答弁すべき期日を定めざる理由如何、若し政府に於て答弁能はずとせば、何故にその理由を明示せざるや。
以上、議院法第48条により提出す、国務大臣はその責任を負ひ直ちに明答あらんことを望む。
明治25年6月3日 質問者 田中正造 賛成者 塩田奥三 他2名 
鉱毒加害の件につき政府の答弁書 [明治25(1892)年6月12日 毎日新聞]
衆議院議員田中正造提出、足尾銅山鉱毒加害の件に付き、質問に対する答弁書。
足尾銅山より流出する鉱毒の、群馬及び栃木両県下に跨る渡良瀬川沿岸耕作地被害の一因たることは、試験の結果に依りて之を認めたり、黙れども此被害たる公共の安寧を危殆ならしむるが如き性質を有するものにあらざるのみならず、かつその損害たる足尾銅山の鉱業を停止せしむべきの程度にあらざるをもって、鉱業条例第19条により、鉱業の特許を取消すべき限りにあらず、その既往の損害の如きに至っては行政官はこれに対し、何等の処分をなすの職権を有せざるものとす。  もっともこの如き被害を将来に防止せん為め、鉱業人は現に粉鉱の採聚器設置、水利土功会と契約して自らその費用を負担し、粉鉱を含有するの虞ある渡良瀬川河底の土砂排除の為め、両堰水門内に沈澱場を設け、時々之れを凌渫することとし目下起工の準備中なり、故に将来植物の生長を害するが如き、多量の鉱物を流出することなきものと認む。
右答弁候也。
明治25年6月10日 農商務大臣 河野敏鎌 
足尾鉱毒被害弁償後報 [明治25(1892)年8月28日 毎日新聞]
栃木県下に係る足尾鉱毒事件は、鉱山営業主古河市兵衛氏と被害各村との問に条約を締結して、事落着したる旨前号に記せしが、なお聞く所によれば、同県下における足尾鉱毒の被害地は、下都賀・梁田・足利・安蘇の4郡の部落にして、その内数村は古河氏に対する弁償事作を、中山・横尾・川島・矢島・塚田・天海・新井・檜山・山口等の仲裁委員に委託し、他の数村はこれを折田知事、樺山足利梁田郡長、及び被害各村より選考したる査定委員に委任したり、而して此回古河氏と本条約を結びて事落着に至りたるは、万事を仲裁委員に委任したる部分、即ち下都賀都にては藤岡町・ 三鴨村・谷中村、生井・白鳥・部屋・蛭沼・新波・西前原・野木・野渡・甲の各大字梁田郡にては久野村、安蘇郡にては植野村・界村・犬伏町にして、これらの諸村が古河氏より受取ることとなりし弁償金は、総計3万5千余円なりと云う。
又古河氏との談判を査定委員に委任せし村落にては、右査定委員が総代の資格をもって、去月中折田知事、樺山郡長、古河市兵衛氏等列席の上仮契約を締結したるも、未だ本条約を取結びて弁償金を受取るの運びに至らず、と云えば、被害村民と古河氏との関係、全く終了するに至るまでには、なお多少の日時を要すべしと元へり。 
両毛鉱毒被害者の集会 [明治26(1893)年6月9日 毎日新聞]
足尾銅山より流出する鉱毒、被害者は彼の古河氏が粉鉱採収器据付後、実際鉱毒を除き得るや否や、調査を要するに付人団結を計らんとて、上毛邑楽郡渡良瀬村、大島村、谷田村、海老瀬村の四村長が発起者となり、本月4日大島村に集会し両毛鉱毒倶楽部なるものを設け、向後の運動方針を講究する事に150余名の衆議一致し、終に懇談会を開き目下同県漫遊中なる田中代議士を招 待し、席上同代議士及び玉生嘉寿平・左山文随両氏の演説あり。
翌5日午後1時より西谷田村に右同様なる懇親会を開き、会する者2百余名、席上田中代議士、玉生・左山・木塚貞治等の諸氏演説をなし、近来同地方稀なる盛会なりし、因に記す、名演説の為め改進党に加盟したるもの来会者殆ど全員なりと。 
田中代議士の群馬県鉱毒被害地巡回 [明治26(1893)年9月1日 毎日新聞]
栃木県選出代議士田中正造氏は、群馬県下に渡る足尾銅山鉱毒被害関係村の取調の為め、去る7月以来渡良瀬川沿岸各町村を巡回し、既に邑楽郡一円(22か町村)は、去月28日を以て終了し、同日は同郡の中心たる館林町において同町紳商青山・小室・斉藤・宮杉・荒井・千金楽・正田の諸氏発起となり、田中代議士が数10日間極暑もいとわず、各町村を巡回実査したる労を慰する為め、同地金松楼上において懇親会を開きたり。  同志会する者40余名に及び、午后4時配膳調うや斉藤半三郎氏開会の趣旨を述べ、次に田中代議士答辞として鉱毒関係被害の詳細を述べ、なお席上数番の演説あり、何れも田中代議士の運動を称賛し、各々胸襟を開き無事散会せしは、午後8時頃なりき、来会員の姓名は左の如し(略す) 
足尾銅山鉱毒被害地人民の運動 [明治30(1897)年3月3日 読売新聞号外]
足尾銅山鉱毒被害地である渡長瀬川沿岸罹災の人民2千余名は、鉱業停止請願の為め、昨日古河町まで来りしに、館林(群馬県)・佐野(栃木県)・古河(茨城県)等の各警察署にては、猶之を制止せんが為め、警官数10名出張し、一先づ之を制止せり。されども請願者は、これを聞き入れずして内8百余名は、昨夜窃かに出張して上京の途に就きたり。
右の8百余名は、今朝6時を期して日比谷練兵場に集合し、まず近衛貴族院議長を訪問し、同議長に面会して委細の事情を陳述し、次いで鳩山衆議院議長を訪問したるに、鳩山議長は要務の為め面会を得ず、よって直ちに外務省に出頭して、外務大臣に面会せんと図れり。それは足尾銅山営業 主古河市兵衛氏か嚢に英国公使サトウ氏に依頼し、榎本農商務大臣に懇請する所ありたりとの風説ありしより、右被害民は先っ外務大臣に面会して右の事実を確め、尚ほ進んで談ずる所あらんとしたるなり。
折柄麹町警察署にては、此報に接じ警部・巡査数10名出張して之を押止め、事情を陳述せんとならば、宣しく委員を挙げて穏かに談ずべし、若し聞かざれば止むを得ず、集会政社法によって処分すべしと諭したりしかば、一同一先づ解散し、三々五々午前11時頃より農商務省へ出頭したり、其後の委細は明日の本紙に詳報すべし。又、右罹災者等は何れも草鞍掛けにて、中には跣足の儘なるものも少なからざる由。 
鉱業停止請願連動 [明治30(1897)年3月7日 毎日新聞]
足尾鉱毒事件鉱業停止請願
茨城県猿島郡境町長・長谷沢雅氏外24か町村、及び人民総代連署をもって、去る3日群馬県山田郡広沢・相生・境野の3か村は、昨5日就れも鉱業停止に関する請願書を、農商務省に提出したりという。
出京せし町村
栃木県都賀郡全部、足利の久野村及び吾妻村内2字を除く外の各部は29年6月再度契約の際、永久苦情を申立てざることに示談したるも、右両郡中部に伍する界村、植野村、犬伏村、堤外地群馬県邑楽郡西谷田村、大島村、渡瀬村は示談とりまとめざらしため、遂に出京して運動を始めたり。
鉱毒調査委員会
農商務省に於ては、昨日午前10時より織田・島田・福井・内藤・改野の諸氏集合し、足尾銅山鉱毒事件調査に関する委員会を開きたるが、多分一両日中に詳細を大臣に復命する事なるべしと。 
足尾銅山鉱毒停止期成同盟会 [明治30(1897)年3月16日 毎日新聞]
去る13日午后4時より、呉服橋外柳屋に於て開会、関係諸県の貴衆両議員、県会議員及び惣代等の諸氏50余名、集会協むの末左の決議を為せり。
本会は足尾銅山鉱業停止期成同盟会と称す。
足尾銅山鉱業停止の目的を達するため、4県選出貴衆両院議員の尽力を乞うこと。
4県有志者は議院外に於て応援をなし、併せて当局者にその処分を迫ること。
鉱業停止迎動は、願意を貫徹したる後にあらざれば、止まざること。
なお、当日来会者諸氏にして、同会に金円を寄付せるもの少なからざりしと。 
榎本農商務大臣の鉱毒地視察 [明治30(1897)年3月26日 毎日新聞]
足尾鉱毒事件は、今や天下の大問題となり、当局者においてもまた、相当の処置をなささるへからさるの時となりぬ。これに於て榎本武揚農商務大臣は、去る23日津田貴族院議員、板野西ケ原試験所技師を従へ、粗服微行して上野発の汽車に塔し、佐野より下車して鉱毒地を巡視せり。
これより先き鉱毒地の人民数千は、政府の答弁書に満足せず、この上は農商務省の門に溢死して、一日も早く斯の疾苦を断つに如かずとの盟約忽ちここに一決し、早川田雲龍寺大広間に於て、一同水酒盛をなして永訣の意を表し、これより一隊は船、渡良瀬川を下りて上京の途に就き、一隊は市兵衛配下の被害村落に出没し、日頃欺嫡を事としつつある鼠輩を詰責し、再たび足其の地に入らしめざらんとて去る22日の如きは葦火天を焦がすばかりに焚き連らねて暁に達せりとの報、栃木・群馬の両警察本部、その他附近迄の警察署へ達せる後直ちに教名の警官富田停車場附近に出張し、足利・佐野・館林警察署の如きは、殆ど警部・巡査出切りの有様にて、同処に警戒線を張り、又た総代その他重立ちたる人々頻りに之れを制止して、漸く雲龍寺の請願所は3・40名を残すに至れり。
かかる騒動あるべしとは、神あらぬ身の知るによしなき大臣の一行恰かも視察として同地に赴きたることなれば、初めの程は其何人なるかを知るものなかりしも、津田氏の数日前巡回せられたると、被害地農民中、総代として農商務省に赴き、親しく大臣に面接したるその節、大臣の相貌を知るものあり、かつ板野技師は数回被害地を巡視して、農民とも相知れるより、何時しか大臣たることの知れ渡り被害農民の喜び一方ならず、箪食壼漿の好意をもって大臣を迎へ、大臣も今は包むも詮なしとや想はれけん、2・3の人々には打明かして腕車を下り、親しく作物を見又農民の案内に伴はれて、各地の堤防乃至毒土浸入の田畑、彼の生き倒れたる病毒の竹林等、残る隈なく視察したる間には、さすがに感に勝へて座ろに、農民の究苦を察しけん、大臣も感涙を催されしとなん、斯くて大臣は植野より足利郡吾妻村大字下羽田に至り、早川田に至って引き返し、群馬県邑楽郡大島村附近を視察し、また植野に帰りて船津川の毒土累々たる土饅頭を見、それより界村に、又群馬県邑楽郡西谷田・海老瀬に廻り、古河より汽車に乗って帰京せりと云う。 
鉱毒事件調査の結果 [明治30(1897)年3月31日 毎日新聞]
鉱毒事件調査会は一時休会の姿となりたるが、聞くところによれば、今日迄の調査の結果は次のごときものなりと。
鉱毒をもって田畑を侵害したるは人為にして、単に洪水の為めに田畑を侵害したるものにあらず。
洪水は侵害の原因たらずとも、洪水によりて鉱毒を汎濫せしめたるは事実なり。
而して洪水により、鉱毒を汎濫せしめたるは、山林の濫伐、土地の乱掘に基因するものなり。
故に濫伐、乱掘を慎み、予防の方法を実行したらんには、今日の如き害毒を看ざりしならん。
詮じ来れば、明治18年以来の怠慢より来りたるものにして、人為をもって今日の如き害毒を看ざりしならん。
斯の如き調査の模様なりと云へば、この上は当局大臣の処分如何にあれば、大隈伯たるもの如何に処する乎。或はまた聞くところによれば、鉱業を一時中止して、充分なる除害方法成立の上か、あるいは損害を賠償する方法成立したる上にて、再び採掘せしむに至るならんとのこと。 
野口春蔵・谷元八らの内務省陳情 [明治30(1897)年3月31日 毎日新聞]
鉱毒事件
委員等の内務・大蔵両省訪問 被害地より新たに上京せし委員、すでに従来在京の委員等2百余名は、一昨日内務省に出頭、寺原警保局長に面接し、陳状委員野口春蔵・谷元八氏より上京道途における沿道警官の横暴なる行為について、続々その状況を陳述せしも、警保局長には後日詳細取調の上、何分の取り計らいに及ぶべしとの事にて、詰り要領を得ずして内務省を去り、一同は直ちに足を大蔵省に向け、田尻次官に面接し、免税・減税の義に就き委員関口幸八・坂井与惣治氏等より、実際上における減免租なるべき理由を陳述し、同次官には大いに同情を表せられしをもって、一同は満足に同省を引取りたり。  善後策における委員等の決心 政府においてすでに被害地調査委員の任命ありし上は、最早多入数の滞在すべき必要なく、寧ろ少数委員を残して、他は尽く帰郷するの優れるに如かずと決定し、善後の方針に就き、差し当たり各自居村の調査に着手し、あくまで鉱業の中止を請願すること、不親切なる県知事に辞職の勧告をなすこと等、漸次運動に歩を進むるの策を講ずと云う。
被害民帰郷の途に就く 各村を通じて少教なる委員を滞京せしむるの方針に決定せしをもって、2百名以上の多人数は、昨日午前、道を日光街道に取り、千住を経て各帰郷の途につきたり。 
安蘇・足利郡の鉱毒運動方法 [明治30(1897)年4月1日 毎日新聞]
鉱毒被害地方なる足利・安蘇両郡においては、その後なお数名づつの出京者ありて、容易に鎮定すべき模様在きことなるが、同地力の人民は運動の方法を左の如く定めたり。
鉱業停止の請願を為すこと、もし政府の採用するところとならずその目的を達せざる時は
被害地方人民一同が袂を連ねて出京し、農商務省に内務省に宮内省に陳状すべし、もしこの方法にして目的を貫くことが出来ない時においては
決死して運動し、席旗も竹槍も辞する所あらず。
なお、安蘇郡のごときは、鉱毒の関係なき山間の山林にいたるまで総代を選び出京する有様にして、力とも紛騒の甚しきは植野村及び界村、足利郡毛野村、久野村等なりと云う。
鉱毒事件の演説会 一昨日午後5時より神田美土代町青年会館において、開会せし鉱毒事件演説会の出席弁士は、栗原彦三郎・山口弾正・高橋秀臣・田中正造・津山仙・谷千城等の諸氏にて順次登壇、慷慨悲憤の演説ありたり、当日は雨天なるにもかかわらず聴衆6百余名に及べり。 
鉱毒地巡見録 [明治30(1897)年4月15日 毎日新聞]
上州花輪にて 関美太郎
庭田源八の宅
雲龍寺を出でて吾妻村大字下羽田の庭田源八の宅に至る、庭田源八に隣して同じく庭田順平と言ふなり、両家共相応に資産を有し、この近傍にては物持をもって称せられ、入にも羨まれしものなるが、昨秋出水の折鉱毒侵入の為め、所有の田畑は悉く荒蕪に委し、今は窮落貧困憫む可き姿とはなれり、両家被害の概算たりとて書出せしところを見るに、源八の方は被害地の合反別8町7反9畝13歩にして、この損害金高1万3,522円ほど、又た順平の方は被害地の合反別8町9反9畝1歩にして、この損害金高1万3,866円ほどなり、源八の宅前渡良瀬川に沿へる堤上にも竹林の叢々たるものありけるか、この竹も悉く鉱毒の為め枯凋し力を要せずして容易に抜取るを得るなり、余等一行少時この処に休み居る間、毒泥に染みたる藁一把を拉し来り、前庭の中央にて焼きみせしか、その灰は凝固して釘の如くこれを投ずれば錚々として声あり、もって侵入せる泥砂の中には鉱物を包含することを測知す可きなり、谷将軍もまた被害地巡視の際源八宅内において試みに藁を焼みたりといふ。
佐野
源八宅を辞せし時は、夕陽まさに西山に傾かんとする頃なりしを以て往々船津川近傍の被害地を視察しながら佐野に至りて宿泊することに決し、伴ひ来りし腕車に駕し佐野に達して宿を斉藤に投ず、同処まで同行せし須永氏は此夕を以て告別足利に帰り、一行には福地小一郎氏加われり、この朝足利にて別れし後藤新平氏の一行は、足利より汽車にて佐野に出て佐野附近の被害地を視察せしとのことたりしか、同一行中後藤氏のみは雲龍寺より分離古河に往きしとて坪井次郎氏の一行は、斉藤に来宿せり、夜に入り坪井氏訪れ来りしか、源八宅にて焼きし藁灰を見せしに、余の試みし時は此の如くならさりしとて驚き居たり。    
越名沼
5日は午前8時佐野を出発し、腕車にて界村大字馬門に至る。界村は則ち群馬なり、一行には余等3人の外大塚・福地の両氏、この日天気朗かにして風また和に旅行には誂向きの天候たり。馬門にて下車し左に折れて越名に出づ、沼あり、越冬沼と称す、周囲には幾里なるやを知らされど、従前は魚族甚た多く越名地方の人民は大抵その魚鱗を撈漁し生計を営み居たりしか、鉱毒侵流後は魚族その跡を絶ち、俄に生計の途を失て窮困し居るもの少なからず。沼に沿ふて原あり、原を繞て秋山川流る、越名沼畔は阿蘇鉄道の終点にして阿蘇の特産物たる石灰は悉くここに運搬せられ、ここにて船積みをなし東都に輸送せらる、又た降雨あり、河水の増加せし時は東京より小蒸汽船も来往し、田舎としては一寸便利の処あり。
高山
越名沼畔の視察を終り、秋山川を小舟にて渡り高山に出つ、高山一部落の農民は概して養蚕を業とし、1年の生計を立て居ることなるが、これまた鉱毒のため、ありとあらゆる桑園を悉く荒廃に委し本年も既に蚕児発生の時期に近より居るに、桑樹の発芽覚束なかる可しとて農民一同愁へ居れり、実に高山の損害の如きは、その面積よりする時は他に比較して甚だ広大なりとは言を得ざる可けれど、一部落の処有耕作地約150町歩の内、120町歩までは鉱毒の侵害する処となりたりといふに至ては、その惨状聞くに忍びたるに非らすや、首藤氏この日微恙あり、高山より余等に別れ先つ群馬の一文渡に至りて待つ、而して余等は船津川の堤上を南に進み、麦畑・竹林等の同一なる惨状を呈し居るを見ながら杉の渡を越へ、渡良瀬川の南岸に出て、則ち群馬の地に入り沿岸を一文渡の方に下る、杉の渡より一文渡に至るの間は大島村にて、ここも沿岸一帯の地荒廃凄楚茫として草樹を見ず、誠に気の毒千万なる有様なり。 
鉱毒視察の樺山内相 [明治30(1897)年4月20日 毎日新聞]
三崎県局長、赤原警保局長、火野秘書官及び技師属官、警部等を従へて、去る10日鉱害地視察の途に上りたる樺山内相は、先づ茨城県の被害地を巡視し、それより栃木県に入り、下都賀郡吾妻村において、附近の村民5百余名集合せる際、急に左の如き一場の挨拶を為せり。
鉱毒被害の事は政府も等閑に置くべからざるを察し、鉱毒調査委員会なるものを新たに設け、衛生上より、土木上より、その他種々の方面より之を 調査し、然る後、断案を下さんとするものなり。
故に諸君も多人教出京したる如きことを為さず、各その堵に安じ、調査会の報告を待つべし、多人数出京運動したりとて、少数の運動者なりとて、政府は意見を左右するものに非されば、軽挙妄動して家業を廃するよりは、各その家に帰り、穏便に調査会の結果を待ちなば、諸君の満足すべき報告も得ることならん。 
大平山に篭りたる鉱毒被害民 [明治30(1897)年5月8日 毎日新聞]
本月4日午前9時頃より、栃木県安蘇郡界村の鉱毒被害民およそ60名は、名を同志者の縲紲にあるものの不幸を慰むるに籍り、一同は栃木町附近の大平山に立籠れり、斯くと聞くや、警官等は専ら之 が鎮撫に着手し、五日午後10時に至り、大凡20名は解散し、残り40名はさらに栃木方面に向ひ進んで、県庁に迫らんとの形成に見えしも同日夜に至り一同帰村せしを以て今は全く平穏に帰せりと云ふ。 
被害民1,500人、栃木町に入る [明治30(1897)年5月13日 毎日新聞]
曩に足利郡毛野村々長にして、古河派の運動者早川忠吉氏の宅へ侵入したるの嫌疑により、目下拘留中なる小野政吉・永島与八・石川兵蔵の三氏の公判は、去る11日栃木区裁判所に於て開かるる故、右公判傍聴のため、被害地の農民1,500名ばかり栃木町へ詰め掛けたり、折しも予めこの事あらんと察し、東京より憲兵30名、高崎より2〜30名、その他警部・巡査およそ350名ばかり、之を途に要し防がんとせしも、農民等ついに町内に入り込みたり。為に裁判所前は人山を築き、混雑云わ ん方なく、市民はスワ椿事出来せりとて東西に奔走し、或いは屋根に登りて見物するなど頗る騒ぎ立ちしも、被害農民は至って静粛にして、敢えて不穏の挙動なく、何れも公判如何と気支へ只傍聴をのみ望みたり。
されど場内限りあるを以て、100名だけ入場を許され、他は已むなく居村に引取りたり、右被告三名の内、石川兵蔵氏は証拠不充分にて無罪、小野政吉・永島与八の両氏は重禁固6か月に処せられたるも不服にて控訴せしという。 
足尾銅山鉱毒既往の損害に関する陳情書 [明治30(1897)年8月22日 毎日新聞]
足尾銅山鉱毒被害地の代表者として上京したる下記諸氏が、内務・大蔵・農商務の3大臣へ提出せし陳情書は次の如し。
足尾銅山鉱毒の為め、去る明治12・13年より渡良瀬・利根両川沿岸の人民は衛生上、権利上その他私有の土地物件に少なからざる損害を蒙り、当時地方官より衛生上の注意を川へし地方ありしにも拘わらず、当時その意志充分人民に徹底せずして、沿岸人民が鉱毒の漸く人畜田園に及ぼす害の著大なるものあるを知らざること10年、その後同23年の洪水にて稲麦は発育せざること、及び竹木枯凋せる等の顕著なる事実を見るに及びて、始めて大に喫驚したる始末に候ざれば、その損害の如きも明治12、3年来のものを累計せば実に莫大なるべきも、ここに暫く明治29年6月までの調査を省き、同年7月以後11月までにおいて群馬・栃木・茨城・埼玉4県に及ぼせる被害地売買価格の下落を見積りたるに、昨29年11月迄において、およそ金979万9,125円87銭5厘を算出するを得、又植物・労働・肥料・漁業積置食物浸毒等の損害の重なるものを算すれば、金566万2,008円28銭8厘にして、即ち合計金1,546万1,134円16銭43厘の多額と相成り申侯、なお精密に調査すれば、この他に遺漏せるもの多々可有之、又昨年の浸毒より来る本年上半期麦作その他の被害と、新たに発見せし被害地方、即ち千葉県東葛飾郡、埼玉県北葛飾郡等の著しき毒害地と、東京府下の将来を調査せば更に又驚くべきものあらんと奉存候、如此訳柄に候故、既往及び現在に対する鉱毒の損害の措置は被害地回復の請願と相待って、行政府の御処分を請うは実に止むを得ざる次第に御座候、黙るにその損害御処分の請願書正式の手続を尽さんとするも、現在被害地の区域は1府5県、下流域30余里にわたり、反別数万町、入口10余万人、調査の種目数十か条(就中沿岸蚕飼繭糸業及び機業色染等に関する被害の如きは最近の発見に係る)なれば、その調査の手数と至難とは被害地貧民の容易に為し能はざる処にして、又空しく多くの日数を費し貴重なる請願の時節を失はんことを心付き、我等在京委員は片時も猶予仕兼、不取敢我等在京委員にて一応陳情仕置侯次第に侯、追って詳細なる損害御処分請願書捧呈の上、行政府において精密なる御調査の上、公の処分あらせらる事に候へく、従って右調査御着手の御都合も町有之義と奉存候に付、次に被害種目の概要を列挙し御参考に供し置候。
鉱毒に因れる個入の被害
地価の低落
地価落低による売買実価の下落
土質変悪による肥料の増加
土質変悪による収獲の減失
藁桿侵害による用料及び肥料の減失
刈草土取侵害による肥料の減失
桑葉収穫の減失
蚕繭糸の変象
機業絹綿糸色染に関する被害
染物その他製造用料水の被害による新井開堰費等の増加
染物その他製造料用水の被害による職工賃銀の増加
積肥浸毒による土壌培養力の滅失
毒水浸入による家宅倉庫の損失
家宅倉庫の浸毒による什器家具の損害
家宅倉庫の浸毒による穀菜その他飲食物の損害
苗代不発育の害
家宅の浸毒による家畜家禽の斃死
毒泥浸入による床下土砂の入替費増加
土中浸毒による水脈の閉塞及び新井新堰費増加
原野浸毒による茅葭の枯
茅葭枯凋による草屋根葺料買入費増加
河川沼地の浸毒による漁業の損害
漁業廃絶による栄養補足費の増加
穀菜その他飲食物の滅失による栄養補足費の増加
財産減失による衣食住の欠乏
貧困急激による身体の異状
貧困窮迫による浸害物喫食の害
井戸浸害による飲料の汚害
薪炭浸害による焚火の烟害
土質変悪による筋骨過労の害
鉱毒による地方町村の被害
共有地の損害
共有家屋建物の損害
共有井水浚渫費の増加
共有肥料土取場の損害
共有沼池漁業の損害
共毛堤防の竹木草苔枯凋
戸口減失に図れる自治の被害
鉱毒による地方税及び国庫の被害
竹木草苔枯凋による堤防の決潰
水源山林乱伐による土砂流出河底埋塞
河底埋塞による舟揖往来の減失
鉱毒侵害による用水路の損失
失産貧窮による救恤費の増加
貧困流離による戸数及び入口の滅失
官有地損害
以上の外、国家及び社会に及ぼせる間接の損害は実に莫大なるものなりといえども、今ここに一々之を詳かに計数すべからざるものあるを以て暫く之を省く。
以上陳情仕候也。
明治30年8月21日
鉱毒被害地在京委員 室田忠七、阿部滝三郎、関口幸八、糸井藤次郎、小林偵七郎 
鉱毒被害の惨状 [明治31(1898)年10月31日 毎日新聞]
栃木県渡良瀬川附近は、去る7日の大洪水に今なお減水に至らずして、沿岸村々の民家は床上まで浸水しあるの惨状にて、田圃には採って食用に充つる作物無く、家にはこれより来年麦作まで支ふるの食物なく、唯に食物無きのみならず、飲料水すら悉く混入のため、近傍親戚故旧等より樽詰にて送り来り。 過般滞京と定まりたる50名の総代も、進んで当路の大臣に訴ふるの問題は、極めて至難なるに顧みれば、家族の飢餓を如何ともする能わず、止むを得ず一先づ2・3名の総代を残して帰郷せしめ、残り3名の総代は各自憲政党総務委員を訪いたるに、皆大いに同情を寄せられたりと。 
渡良瀬川修築工事 [明治31(1898)年12月3日 下野日日新聞]
政府は足尾銅山鉱毒問題に対し、古川市兵衛に予防工事を命ずると同時に、銅山の植樹並びに渡良瀬、利根両川の修築工事に着手する筈なりしが、渡良瀬川に対しては、昨年来麌々技師を派遣して、実地踏査を為さしめたる結果、已に設計計画 を竣へ、近々中に着手する事在りしが経費の都合により、33年度より3か年位の継続事業として70万円内外の経費にて、同工事に着手する予定なりと。 
鉱毒処分の陳状書 [明治32(1899)年6月3日 下野新聞]
東京芝口3丁目2番地の足尾銅山鉱毒処分請願事務所にては、今回又候左の陳状書を内務・大蔵・農商務3大臣に捧呈し、かつ被害地の各村に対し、一ケ村毎に不取敢郡長を経て陳情し、然る後連合村調印の上、郡長を経て請願書を差出すべき旨通知したりという。
去る明治29年に比し、被害は数倍の惨状となりたり、今より必ず鉱毒を下流氾濫せしめさる事。
渡良瀬川水源に関する山林樹木を禁伐し、土砂杵止を厳重にする事。
河身全面の破壌を復旧し、両岸の崩落を抑止し、河底の埋没を防ぎ及び堤を増築し、その沿岸の毒土を除却し能はざれば、加害者に除去を厳命する事。
従来被害濃厚地より、多年間納租したるの損害に対し、救助を与へらるる事。
被害激甚地人民の流離転廃、及び貧苦毒食を為す所の窮民に、救助を与へらるる事。
被害村々へ税欠額の補助を与へ、普通小学校及び村務を頽廃せしめさる事。
人命救護の実を挙げられ、異例の死亡者を増加せしめざる事。
右各条項に対し緊急の御処分無之、多数人民の権利生命を奪ひ、生業を停止せしままこれを救う能はざるにおいては、先ずもって至急足尾銅山鉱業停止を厳命せられて、然て各当局官省共通帯調査の上、厳重処分の順序に御着手あらんことを請ふ云々。 
足尾鉱毒事件の詳報 [明治33(1900)年2月13日 毎日新聞]
足尾鉱毒被害民の蜂起に関し、一昨目栃木県よりある筋に達したる電報に曰く、両3日来足尾鉱毒事件につき、佐野地方人民の東京に押寄せんとし不穏の挙動あるより、警部長水本兼孝は10日午後同地に出張し、憲兵20名もこれが鎮撫のため派遣せられたり。  しかるに彼等は多数人民の上京するは、運動上却て利あらずとし、しばらく上京を見合せ、稍や平穏に傾き、誓部長は本日(11日)午後6時帰庁したり、なお予て沿道警官にこれが鎮撫に関する訓令を発しありしも、直に以上の状勢を通知したり。 
鉱毒被害民教千上京せんとす [明治33(1900)年2月14日 毎日新聞]
群馬・栃木両県の鉱毒被害民数千は、一昨日来その事務所たる群馬県邑楽郡渡良瀬村下早川田雲龍寺に集合し、昨朝その地を出発し、隊伍を組みて陸路上京の途に就かんとするとの報、その筋に至せし由なるが、群馬・栃木・埼玉の三県は、県内の巡査を挙げてこれが説諭解散に努め、府下に ては板橋・千住の両口に於てこれを防ぐため、憲兵巡査の配置に着手した。
なお、昨日上州館林より被害民の発せる電報によれば、『請願人2万人上京』とあり、もってその状況容易ならざることを察知すべし。 
衆議院の鉱毒被害に関する質問 [明治33(1900)年2月16日 毎日新聞]
田中正造登壇、鉱毒に関する彼の質問演説は、ここに於てか3回の多きに達っせり、彼は先回宣言せし如く、その質問続発の実行に着手せるものの如し、彼にして真摯熱誠の政友を有し、もって激烈なる対抗を政府になしたらんには、本問題の如きは数年前すでに一段落を告ぐべかりしなり、惜しむらくは、この問題が田中正道一個の問題の如く解せられ、進歩党時に田中の熱誠に動かされて2・3の行動ありしも、アイルランドのバーテル党の如くならず、終に今日惨害に至らしめぬ。
被れ登壇するや、先づ自己の進退行動が常に党派のために動かされるが如く疑わるるを憾み、本日をもって断然憲政党を脱し、その身辺の疑惑を一掃し、これより猛然として政府に対抗せんことを告ぐ。 彼はこれより現在官民の争闘を説きて、その実相を政府に問ふところあらんとす、彼れ涙説を為すこと殆ど1時間にわたり、その熱誠は満場を感動せしめしが、最後に一言を断じで曰く、「余今政党を脱して独立の地に立つ、これ本問題が党争にあらざるを明にせんが為なり、しかれども余にして、なお選挙区民の意を迎えんが為めに、本問題を捉えつつあるを疑う者あるを恐れ、数日を期して断然議員の職を辞退すると決心す、今日この時において職を辞さざるは、なお1・2回の質問演説をな為さんがためめなり」と、満場この言葉を聞いて粛然たること稍久し、嗚呼、彼れ熱誠ここに到る、一個の田中正造能く浮薄なる風潮を戒むに足らんか。 
衆議院の鉱毒事件に関する質問 [明治33(1900)年2月24日 毎日新聞]
田中正造の登壇、ここに到りて5回、彼れ政府の答弁に滞足せずして、14議会における最後の質問を試みる、彼れは鉱毒被害地に関する政府の失 政を中心として、内閣各省の紊政を列挙せる書類を朗読せり、これに依りて更らに演説すること1時間、慷慨し悲憤し罵倒してその壇を下れり。 
足尾鉱毒事件 [明治33(1900)年3月2日 毎日新聞]
被告事件の拘引 凶徒聚集被告事件は、爾後愈々その手を伸ばし、栃木県安蘇郡植野村栗原才次郎、群馬県邑楽郡小林善吉、同上小林定七郎の3名は、日本橋警察署へ拘引の上、昨朝前橋地方裁判所へ押送されぬ。
被害地民の困難 被害民の重立てる者は凶徒 聚集の被告事件のため、続々拘引せられ、妻子の飢餓に泣く者多し。
寄附金 去月24日までに芝口なる鉱毒事務所へ、寄附したるは、大竹貫一(50円)、小林庄太郎(50円)、山崎義明(10円)、蓼沼丈吉(10円)、三田作蔵・早川進六(1円)等の諸氏なり。 
鉱毒入監惨状 [明治34(1901)年2月14日 野州日報]
足尾銅山鉱毒被害地の多人数が昨年請願のためと称し、上京の途次、警官、憲兵のために抗拒せられ、これに抵抗したるより兇徒聚集罪に問はれ、その首謀者は当時鍛冶橋監獄に拘禁中なるは既記のごとくなるが、その家族は日々の生活に も困難する有様なるをもって、過日来、陳情委員を上京せしめ、芝口の事務所に滞在して、頻りに内務省に迫るも、当局は冷淡にも取合ざるより、この上は昨年の如く、多人数上京するより外なしと決心し居れりと云ふ、果して然るや否や。 
田中正造氏の議員職辞退報告書 [明治34(1901)年10月29日 毎日新聞]
選挙区民に贈れるもの。
謹んで栃木県第3区衆議院議員選挙人諸君に申上候、正造儀これまで諸君の御信用を受け、衆議院議員に当選し、多年在職罷在候処、数年来専ら足尾銅山鉱毒被害の救済に関し、奔走致し来り候ため、議院において内治外交の大政に献替して職責を尽す能はざるのみならず、諸君に応答の義務をも欠き候程の次第にて、国家に対し誠に慙愧狃 怩の至に存侯に就ては、一昨23日断然議員の職を辞退致し候、是より諸君と共に粉骨砕身、鉱毒問題の解決に従事仕候間、此段諸君に御報告仕り、併せて従来の御厚誼を奉謝候、敬具。
二白、目下郵便料に乏しく、かつ折悪しく選挙人名簿持合せ無之に付いちいち申上兼候、ひとまず処、御近在選挙人中御知己の諸君へ宜しく御致声の程をも併せて奉願侯。 
 
日本公害の原点(足尾鉱毒事件)

 

1.谷中村の跡に立って
かって、城山三郎著「辛酸」という小説を読んで深い感動を受けた記憶があります。しかしそれは、農民一揆としてのとらえ方であり、公害の問題としての認識は薄いものでした。その当時はバブル経済の最中で、私の勤務していた工場でも、有機溶剤を一日にドラム缶数本分も大気中に放出するという時代で、公害についての関心もあまりありませんでした。
つい最近になって、日本で近代工業が興こってから初めての公害問題である足尾鉱毒事件を調べてみたくなり、渡良瀬遊水地を訪ねました。
東武日光線板倉東洋大前駅に降り立ち、自転車を借りて舗装された小路を軽快に走りました。分岐点でベンチに腰掛けて話をしていた老夫に、地図にあった「思い出橋」の位置をたずねました。その老夫は前の藤岡町長で、渡良瀬川の改修工事で川の位置が変わったこと、田中正造が乞食のような格好で、近くの知人を訪ねて食を恵んでもらっていた話などをしてくれ、丁寧に遊水地への行き方を説明してくれました。
その名もゆかしい「思い出橋」を渡ると目の前に周囲10kmはあろうと思われる人造湖が見え、その北側には渡良瀬遊水地と呼ばれる雑草の生い茂った草原が拡がっていました。
2.公害の原因
公害の原因になったのは、足尾銅山の銅を精錬する過程で生ずる硫化物が処理しきれず、廃棄物の山になっていたものがたびたびの洪水で流出し、渡良瀬川下流の漁業や農業に被害を及ぼしたものです。また、銅の精錬に使う燃料や木炭を確保するため、山林を乱伐したことで山は緑を失い、さらには、亜硫酸ガス(有毒ガスです)の拡散によって樹木が枯れたことも洪水の増加に拍車をかけました。
銅を製造する工程は次のようになります。鉱山から採掘された銅鉱石は、銅が硫化銅の形で含まれています。そのほかに鉄、鉛、ヒ素、アンチモン、ビスマス、スズなども含まれています。そのため、銅の多い鉱石だけをより分けます。これを選鉱と言います。
選鉱された鉱石を空気中で酸化して酸化銅に変えます。これを木炭で還元して粗銅に変えるのですが、鉄その他の不純物を除去するために更に数工程が必要になります。しかし話が専門的になりますので、これくらいで省略いたします。
3.銅山の変遷
足尾に銅鉱が発見されたのは慶長15年(1610年)で、その後、江戸時代を通じて幕府直営の銅山として採掘され、多い時には1、500トンの銅が取れたと言われています。
その後、廃山同様になっていましたが、明治10年(1877年)に古河市兵衛(古河財閥の創業者)が志賀直道(小説家志賀直哉の祖父)の協力を得て、銅山経営を始めました。その後、渋沢栄一(明治時代の大実業家)も経営に参加しましたが、志賀、渋沢ともに手を引き、古河の単独経営になりました。
創業当時は赤字でしたが、明治14年、明治16年と大富鉱が発見され、銅の産出量が急増しました。
ちなみに、足尾銅山の銅の算出量を年代ごとに追うと次のようになります。
明治10年(1877年)     46トン
明治15年(1882年)   132トン
明治20年(1887年)2,987トン
明治25年(1892年)6,468トン
明治30年(1897年)5,298トン
明治35年(1902年)6,695トン
明治40年(1907年)6,349トン
と増加の一途をたどります。
しかし、銅の産出量が増加すると、酸化銅還元用の木炭、動力用蒸気機関の燃料としての薪、坑道の支柱用木材、従業員の燃料としての薪や炭に使う木材の需要も急増し、これらは足尾地区の森林から伐り出されたため、山林を裸にし、残った山林は製錬所の亜硫酸ガスで枯れて、山林は保水の能力を失い、降水によって洪水を引き起こすようになりました。
さらには銅の製錬過程で生じる有毒の廃棄物の処分に困り、谷間、窪岸などに積み上げられ、これらが洪水のたびに大量に流出して、河川の下流域に被害を及ぼしました。
4.鉱毒の被害
鉱毒の被害は「明治15年頃からアユ、ハヤが見えなくなったと」と記され、また、明治20年には渡良瀬川の魚類が絶滅した」と記録に残されています。
そして明治23年には大洪水が起こり、栃木、群馬両県の1、650町歩にわたり、米、麦、豆などが立ち枯れてしまいました。渡良瀬川の水や泥の中には、硫酸、アンモニア、亜硝酸、銅が含まれており、これが鉱毒の成分と分析されています。
この洪水被害によって、被害地住民から「足尾銅山の操業停止」を求める運動が広がり始めました。
明治24年の第2回帝国議会で、衆議院議員の田中正造が、憲法で保障する所有権を侵す銅山の認可取り消し、被害者の救済、将来の鉱毒予防策について質問しました。
これに対し農商務大臣陸奥宗光は二男を古河に養子に出していた関係もあってか、取り組む姿勢を見せませんでした。
5.またも起こる大洪水
明治27、28年の日清戦争が終わると、軍備拡大計画に伴う武器の購入に対する支払や、軍需資材として銅が重要な役割を持つようになりました。そのため、全国の銅生産量の40%を占める足尾銅山が注目を引くようになりました。
栃木、群馬の両県は県知事らが、古河と示談交渉を進めていました。また、古河側も粉鉱採集器、沈澱場の設置などによる鉱毒防止対策を進めていました。
ところが、明治29年に大洪水が起こって渡良瀬川の堤防を数か所にわたって決壊し、栃木、群馬、千葉、埼玉、東京の46,700町歩の田畠を鉱毒水で浸しました。
6.田中正造の大質問演説
明治29年の大洪水の後、田中正造は農商務大臣榎本武揚あての「足尾銅山鉱業停止請願」で、「鉱毒が人民の生命と生活と公民権を奪う。県・市町村の財政支出を増加させる。国家は人民多数の権利公益をするものである。そのため足尾銅山の鉱業を停止し、人民多数の権利公益を保護すべきである。」と述べています。
また、明治30年の帝国議会で田中正造は、被害を受けた立ち枯れの稲、麦、大豆などを示して鉱毒の被害を訴え、「生命・財産・権利を侵されている人民が帝国憲法の庇護を受けられない理由は何か」「法律の保護をうけていない人民は法律を遵守する義務はないのではないか」「被害民はこれからはどんなことをしでかすかしれない」と被害民の行動の正当性を主張しました。この質問は2時間にわたる大演説でありました。
7.「鉱業停止の請願デモ」激化
被害地住民は「足尾銅山の操業停止」を要求して、数次にわたり政府に陳情のため、数千人の単位で上京しました。これを当時は「押し出し」と呼んでいました。
明治33年には3000人の被害民が「押し出し」、川俣という土地で利根川の橋を渡ろうとしたところ、待ち受けていた警官隊が襲い掛かり、約70人が逮捕されました。
田中正造は「殺されないようにしてくれ、という請願者を打ち殺すという挙動に出た以上は、最早、秩序ある運動が絶えきっているのであるから、自らが、自らを守るほかにない」とし、間もなく衆議院議員を辞職しました。
一方、古河側は政府の命令で抗内排水の沈殿池、鉱滓の集積所、脱硫塔、煙道と大煙突の建設など37項目を達成するため、全力を集中していました。
ところが、明治29年にはふたたび台風が来襲して、渡良瀬川沿岸の地に大被害をもたらしました。
8.明治天皇への直訴
議員を辞職したのち、田中正造は「足尾鉱毒事件」の解決を求めて、明治天皇に直訴しました。しかし、警備の警官に阻まれて直訴状は天皇の手にとどきませんでした。この直訴状は幸徳秋水(後に天皇を暗殺しようとしたといわれる大逆事件で死刑。政府のデッチアゲともいわれている)が原文を起草し、田中正造が手を加えたものです。直訴状の写しは佐野市、藤岡市、館林市の博物館で見ることができます。警察で取り調べを受けた田中正造はやがて釈放されました。
ただし、この直訴は世論の喚起を促したことは間違いありません。
9.鉱毒問題から治水問題への振り替り
直訴を契機として東京における鉱毒問題に対する世論は高まりました。しかし、日露の対立激化という国際情勢から、日露戦争の戦略物資としての銅の増産は必須の問題であり、足尾銅山はその重要な役割を荷なっておりました。
そうした背景から、足尾の鉱業停止から、渡良瀬川の治水問題へと問題点は変わって来ました。
明治35年の議会に提出された政府の調査報告では、次の3点が提議されています。
? 銅山の予防工事を厳しくする
? 足尾の林野経営
? 渡良瀬川の治水事業
この報告では、鉱毒は森林を枯らす有毒ガスと作物を枯らす銅があり、過去に蓄積された銅分の拡散を防ぐため、治水に重点を置くことになりました。
渡良瀬川の治水には渡良瀬川、利根川、思川の合流点に近い谷中村3000町歩があてられることになりました。
10.谷中村滅びる
渡良瀬川の恩恵で肥沃な土地であった谷中村は、鉱毒被害によってその落差が大きく、そのため「鉱業停止運動」も大変に盛んでありました。そのため、運動の妨害の意味もあって谷中村の遊水地化が推進されました。遊水地というのは渡良瀬川が増水したとき、その水を遊水地に入れ、洪水が治まった後にその水を流出するダムの役割をするものです。
明治35年の洪水によって決壊した堤防は、谷中村遊水地化計画のため修理されず、さらには、明治37年には日露戦争もあって、堤防は復旧されませんでした。
これによって、「足尾鉱業停止運動」や、「谷中村遊水地化反対運動」も衰えて行き、
谷中村は藤岡町に合併されました。
明治40年には、政府は土地収用法を適用して、残留民19戸の家屋の強制破壊を実施しました。残留民は流木を拾い集めて仮小屋を作って住み、これに抵抗しました。田中正造も残留民の「谷中村廃村反対運動」に力を注ぎますが、やがて死期を迎えます。
11.辛酸佳境に入る
田中正造は佐野市近郊の庄屋の家に生れ、第一回帝国議会で衆議院議員となります。しかしその後に議員を辞め、「足尾鉱業停止」や「谷中村廃村中止」の訴訟に私財を使い果たし、最後の時の持ち物は、蓑と笠、杖、聖書、日記、小石3個(何に使ったものか?)であったという。まさに「辛酸佳境に入る」または「赤貧洗うが如し」と言える境遇になりました。
田中正造の葬儀は佐野市の総宗寺(佐野厄除け大師として有名:キンキラキンの屋根であまり好きではない)で営まれ、伝え聞いた人たちが数万人、集まったといわれています。同寺の境内に立派な墓が立っています。
徳を慕った人々が分骨し,田中霊詞(藤岡町大字藤岡)、薬師堂(佐野市小中町)雲龍寺(館林し早川田)、北川辺町立西小学校前(北埼玉群北川辺町)の4か所にも墓造られています。
12.その後の足尾銅山
足尾銅山は大正10年代から昭和初期にかけて最盛期を迎えました。しかし第二次大戦後、産出量の減少や輸入銅に比べコスト高となるため次第に衰えました。
昭和30年には大幅な企業縮小がなされ、昭和48年には足尾銅山は完全に閉鎖されました。
13.現在の渡良瀬遊水地
渡良瀬遊水地の範囲は栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県にわたりますが、ほぼ全域が栃木県藤岡町に属しています。その広さは、東京のJR山手線の内側の面積に匹敵するといわれています。
内部は第一調節池(15km2)、第二調節池(9km2)、第三調節池(3km2)、さらには貯水池の谷中湖(5km2)に分かれています。谷中湖の北側には谷中村史蹟保存ゾーンがあり、そのため、谷中湖がハート型になっているのも皮肉なものです。
遊水地としての機能は完成してから第一調節池を1回、使用しただけでだそうです
第一調節池の中にはゴルフ場や運動公園がありますが、それもごく一部で、全体はアシや雑草の生い茂った荒涼たる原野となっています。低湿地のためバードウオッチングや自然観察には適した場所といわれています。
第二次大戦やバブル経済の時期にも、この土地にほとんど手が入れられなかったのも、谷中村民の恨みがこもっているためかと慄然としました。
14.おわりに
足尾鉱毒事件を調べてみて、現在にも通ずるいくつかの問題点が思い浮かんできました。
先ず、田中正造の訴えた憲法に保障された人民の生命と公民権の保護です。これは江戸幕府の時代にはほとんど表面には出てきませんでした。
次は銅の製錬法の近代化による生産量の増加と、燃料などに使用する樹林の乱伐による、山野の保水能力低下があります。
また、有毒廃棄物の処理技術の未熟による山野への堆積と、洪水による有毒廃棄物の流出があります。その結果、堤防の決壊による田畠への有毒水の冠水が発生しました。
これに対して、政府の公害に対する認識不足と、国家の経済力の不足で堤防補強不足や植林の遅れがありました。
さらには、日露戦争による銅の需要急増とさらなる資金不足が追い打ちをかけました。
これに対する対策として、遊水地計画の強行と住民の反発があり、これらが複雑に入り組んで、問題の解決を長引かせました。
やがて銅鉱石の枯渇や廉価な輸入銅に太刀打ちできなくなることによって足尾銅山は昭和48年に閉山を迎え、足尾鉱毒事件は収束に向かいました。
足尾鉱毒事件は、日露戦争を間にはさんで日本の富国強兵政策と自由民権運動とのせめぎ合いによって起こった事件と言えると思います。
国を富ませることで、反面、公害という激しいしっぺ返しを受ける、かって日本が経験し、今また中国でも経験しようとしている問題です。さらには、これが地球全体の危機にまでなろうとしています。
人間はなぜ歴史に学べないのでしょうか。人間は滅びに向かうのでしょうか。渡良瀬遊水地は何を我々に語りかけているのでしょうか。 
 
足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地の成立 [1]

 

1 はじめに
戸数約380戸、人口約2,500人からなる谷中村を廃村にしてまで渡良瀬遊水地は築造された。この遊水地築造について、田中正造が指導した足尾鉱毒反対運動の延長として語られることが多い。つまり明治20年代に本格化した足尾鉱毒問題は、明治33年(1900)、地域住民と警官隊が衝突した川俣事件が重大なピークであり、この後、田中正造の活動は、谷中村廃村を伴う遊水地計画反対に集中するようになった。田中の論理は、足尾鉱毒問題を治水問題にすりかえ、その矛盾を谷中村一村に押し付けて鉱毒問題の隠ぺいを図ったということである。
足尾鉱毒問題が、渡良瀬遊水地築造を伴う渡良瀬川改修に大きく影響したことは間違いない。内務省は次のように述べ、渡良瀬川改修が鉱毒事件さらにその延長としての谷中村問題に関連があったことを指摘している。
「明治23年頃ヨリ同39年二渉レル鉱毒被害、次デ谷中問題等二依り渡良瀬川ノ名ハ世人二遍シト雖モ、要スルニ其被害ハ主トシテ水害ノ窟ス所ニシテ其激甚ノ度又自ラ想定スルニ難カラザル可シ、故二朝野挙ゲテ之ヲ忽諸二附ス可カラザルモノアルヲ認メ、明治43年第26議会二於テ本渡良瀬川洪水防禦ノ議ヲ決セリ。」
中央政府がこの改修に着手したのは明治43年(1910)4 月のことであるが、同年8 月、全国的な大水害があり、これを契機に第一次治水長期計画が樹立された。そして翌年度から全国の大河川で治水事業が進められたが、利根川の一支川である渡良瀬川改修はそれに先立って着工されたのである。
この時までに政府が治水事業に着手していたのは、木曽川、淀川、利根川などの10大河川であり、首都・東京を流下していた荒川も着工していなかった。
しかし、足尾鉱毒問題の延長としてのみで渡良瀬遊水地を語ることは、重大な錯誤に陥ると考えている。渡良瀬川下流部は、関東造盆地運動の中心地であり、思川、谷田川が合流するとともに赤麻沼、板倉沼などの湖沼があり、全くの低湿地域であった。この地域の開発には、築堤を中心とした治水が必要不可欠である。しかし低湿地域であることは、日本における他の地域が示しているように、深刻な地域対立の発生が考えられる。一地域の堤防強化は、対岸の脅威となるのである。左・右岸、上・下流の地域対立が生じていないというのが不思議である。
また渡良瀬川が合流した直後の利根川は、その直下流部で権現堂川、赤堀川に分流するなど実に複雑な水理関係にあった。ここの治水は、歴史的に試行錯誤を繰り返したところである。
自然条件に制約されて、基本的に常習湛水地域であった渡良瀬川下流部には長い期間にわたる治水課題があり、それに足尾鉱毒問題が加わってこの地域の治水整備が喫緊の課題となった。そこで採択されたのが、谷中村廃村に基づく遊水地の整備であったと考えている。では、なぜ谷中村廃村なのか、自然条件、足尾鉱毒問題も含む歴史的な地域の成立過程の分析を通じて明らかにする必要がある。
日本の近代史に極めて重要なこの重い課題について、筆者は現在、まだ全貌を把握しているわけではないが、その基本的枠組みについて述べてみたい。 
2 近代改修における渡良瀬川遊水地の特徴
思川、渡良瀬川の最下流部に位置する谷中村は明治22年(1889)、恵下野村・内野村・下宮村が合併して成立した。谷中村中心部は一部、台地と接しているところを除いて堤防で囲まれている。その堤防の大きさは、当時、高さ20尺〜22 尺5 寸(6〜6.8m )、天端幅は10尺8 寸(3.3m) となっている。この堤内地が、土地収用法も適用されて買収され、洪水を貯留する遊水地(堤外地) となったのである。
この状況は、近代河川改修史において極めて異例である。近代改修が行われる以前の河川秩序をみると、優先的に守る地域を定めておき、その他の地域に氾濫させるというのが基本的なシステムであった。特に常習湛水地域は遊水地となっていた。江戸(東京)を貫流する荒川(その下流部が隅田川)をみるならば、日本堤上流の右岸側は、埼玉県下の入関川合流点に至るまで大遊水地帯となっていた。また淀川でも、宇治川、桂川、木津川三川の合流点に、巨椋池を中心とする大遊水地があった。利根川においても、埼玉平野西部に中条堤によって形成された大遊水地があった。これらの遊水地は近代河川改修によって、すべてではないが、かなりの区域が堤内地へと解放されたのである。荒川でみると、東京都下は全面的に、埼玉県下では、他の河川と比べると大きな堤外地が残されたとはいえ、約3,500町歩が堤内地となったのである。
つまり、近代改修の重要な成果として、堤外地から安定した生産が営まれる堤内地への解放があった。渡良瀬川改修でも3,200町歩が堤内地へと移行した。ところが谷中村はこの逆で、堤内地が堤外地となったのである。平地部において、近代改修でこれ程の規模が堤外地へと移行したのは、ここのみであった。 
3 渡良瀬川下流部の歴史的治水課題 
3.1 近代以前
明治10年代に測量された迅速図によると、渡良瀬川は広い堤外地を海老瀬七曲と呼ばれる激しい曲流をなして流下し、谷中村南方、古河地先で思川を合流する。その合流点直上流の渡良瀬川左岸、思川右岸に谷中村は位置する。両川は、谷中村と接する区域で激しく蛇行している。激しい蛇行は洪水の疎通にとって大きな支障となり、洪水を滞留させる。渡良瀬川左岸の堤防のかなりは、古河と藤岡を結ぶ県道を兼ねている。一方、思川は、谷中村恵下野地先で巴波川を合流させるが、その合流点付近から巴波川下流部にかけて築堤はなく、赤麻沼に連なっている。ここの大堤外地は遊水地帯であり、状況がよくわかる明治時代の出水記録でみると、思川の洪水のみでなく、渡良瀬川、利根川の逆流も流れ込む遊水地帯であった。
近代以前はどのような状況であったのか。谷中村内の集落、下宮の成立は室町時代の文明年間(1469〜86) と伝えられているが、その自然条件からして築堤は必要条件だろう。しかし低平地であるので、堤防の強弱は他地域と厳しい競合関係とならざるを得ない。一方的に高くまた強くすれば、対岸あるいは上下流に大きな影響を及ぼすのである。
記録に残っているところによると、寛永4 年(1627)、谷中の村々と思川流域の上流に位置する白鳥、部屋、赤間などの13 の村との間で論争があった。これ以降、谷中が堤防増強する際には上流の村々に知らせることとなったが、貞享元年(1684)、万治2 年(1659)に論争があり、谷中の堤防強化は結局、行われなかった。元禄9 年(1696)の紛争では、正保4 年(1647)から50年間、堤防の修復が行われなかったので3 尺(0.9m )程の土盛りが認められた。元禄12年には、堤防の腹付け部分に竹木を植えたことをめぐって紛争が生じた。裁断の結果、竹木は抜かれることとなった。
このように、谷中村の周囲堤はいわゆる論所堤であり、その強化は他地域から厳しく抑えられていたのである。ここでは築堤をめぐる上・下流の対立の歴史を抱えていた。
ではその他の地域との対立はどうであったのか.想定されるのは渡良瀬川対岸の群馬県「−邑楽郡(現)板倉町、埼玉県北埼玉郡(現)北河辺町、また下流の茨城県(現)古河市との対立である。しかし近世、激しい紛争があったこと示す資料は今のところ入手していない。
板倉、北河辺とも利根川、渡良瀬川の洪水がしばしば襲ったところである。その堤防は館林藩の榊原康政によって文禄4 年(1595)、利根川左岸堤は高さ15尺〜20 尺(4.5〜6m )、渡良瀬川右岸堤高さ15尺〜18 尺(4.5〜5.5m )に整備されたといわれている。その後の大規模な増築の記録はないが、渡良瀬川の最下流部に位置し、利根川に挟まれたこの地域の歴史は、水害との闘いであったといっても過言ではない。ではなぜ渡良瀬川対岸との間での左・右岸の対立を示す資料はないのか、寡聞にして未だ入手できていないのか、また他の理由があるのか、今後の課題である。
さて近世、谷中村を含む思川下流地域(栃木県下都賀郡)が、利根川の河川施設をめぐって対立した記録が残っている。一つは江戸川流頭部の棒出しをめぐる争いである。近年の研究によって棒出しの設置は寛政元年(1789)以前であることが指摘されているが、その川幅を18間(32.7m )より搾めない約束が行われたという。搾めることによって江戸川への洪水の流下が阻害され、上流部に滞留して水害が生じるという下都賀郡からの主張に対してである。
また権現堂川呑口にも寛政4 年(1792)に杭出が設置された。その後、増築され天保10年(1839)には千本杭といわれるほどになったが、下野、上野両国の渡良瀬川下流部からの訴えにより、天保13年、撤去されたことが知られている。
渡良瀬川が合流した後、利根川は権現堂川と赤堀川に分かれ、また江戸川、逆川に分流するなど複雑な水理機構となっていた。近世後半、棒出し、杭出しによるここでの洪水滞留が、自らの地域の脅威と渡良瀬川下流部は位置付け、その撤去を主張していたのである。この重要な背景として、天明3 年の浅間山噴火に伴う大量の火山灰の降下、それによる利根川河床の著しい上昇がある。これを契機に渡良瀬川下流部の湛水被害は大きく増大したと思われる。
谷中村の中の一つの村落・恵下野における記録であるが、宝暦13年(1763)から慶応3 年(1867)の約100年間に40回の出水があった。このうち20回が堤切(堤防決壊)と記録されている。しかし明和3 年(1766)を除いて残りの19回は文政5 年(1822)以降となっている。近世後半、利根川河床上昇にもとづく破堤の脅威が著しく高まっていたことが理解される。なお明治18年だが、谷中の下宮において、元禄9 年の堤高は4 尺から6 尺であったが水害を防いでいた、ところが今日、1丈8 尺の堤高になっても全く防備となっていないことが主張されている。
ところで幕末、渡良瀬川治水にとって実に注目すべき改修計画案が邑楽郡田谷村住民、大出地図弥から提出された。渡良瀬川を、藤岡の台地を開削して赤麻沼に落とすという近代渡良瀬川改修計画と同様のものである。館林藩に献策したところ認められたので、大出は多くの人々を指揮して測量を行い、詳細な実測図を作成して起工しようとした。しかしその開削台地が館林藩でなかったため挫折したことが伝えられている。「群馬県邑楽郡史」(群馬県邑楽郡教育会大正6 年)は、「近年、渡良瀬川河川改修工事の開始せらるるやその計画、地図弥の設計と全然軌を一にす。世人深く地図弥の卓見に服す」と述べている。 
3.2 明治初期
記録としてかなり遺漏があると思われるが、明治元年(1868)から明治30年までの水害記録として表−1 がある。利根川、渡良瀬川の出水により頻繁に渡良瀬川下流部では破堤しているのが分かる。まさにここは、湛水常習地域であったのである。
さて明治4 年(1871)、渡良瀬川中流部左岸に位置する栃木県下都賀郡、安蘇郡の村々から渡良瀬川改修計画案が当時の行政区域である古河県、日光県に嘆願書として提出された。渡良瀬川の秋山川合流点直上流から板倉沼に新河道を開削し、会の川との合流地点で渡良瀬川に再び落とそうとしたものである。嘆願した村々は、現在の佐野市が中心であるが、藤岡町も加わっている。先に幕末、藤岡の台地を開削して赤麻沼に落とす改修計画が右岸の館林領から提案されたことを述べたが、これの対抗策であったであろう。
明治10 年代終わりになって、利根川鉄道橋をめぐり大きな対立が生じた。日本鉄道会社により明治18年(1885) 、大宮・宇都宮間が利根川橋梁を除いて開通した。利根川橋梁は、渡良瀬川と利根川合流点からそう遠くないところに計画されたが、この利根川橋梁設置により洪水疎通に支障が生じるとして、渡良瀬川下流部が明治18年12月、下野南部治水会を結成して強く反対したのである。この地元の意向を受け、翌年1 月、栃木県会は、「請利根川水理改良之建議」を行い強い反対姿勢を示した。そしてこの建議で渡良瀬川合流部の利根川河道に対し二つの改良策を提案した。
一つが、江戸川の流頭部、関宿付近の改良である。つまり「関宿ノ水流をシテ上流卜平均セシム」と述べているが、棒出しの撤去を伴う河道の整備だろう。もう一つが赤堀川北側の古河・中田間に流入口をもつ新たに水路を開削し、渡良瀬川の洪水を流そうという計画である。古河・中田間の水路の開削は、近世後期にも何度か主張されていた。赤堀川の流入口は狭かったのである。
建議では、この二案とも容易な事業ではないので、是非とも内務大臣の現地の視察と、事業の着手を要望した。この事業が完了した後、はじめて通常の堤防で渡良瀬川下流部は治水が行えると主張したのである。なお利根川橋梁は、オランダ人御雇い技師ムルデルの意見に従い、中央の低水路の橋梁間を100尺から200尺に変更して明治19年7 月、完成した。
思川下流地域でも、平均3 ヵ年に1[ 亘Iの割合で水害は打ち続いた。やがて具体的な思川改修計画案が提示されていくことになるが、谷中村上流の生井村、寒川村の住民により、近代測量に基づく思川下流部の地形図が明治24年作成された。ここには土地利用とともに堤防の断面図までも記述されている。水害常習地帯からの脱却を目指し、この地域で思川下流の治水策が明治初期より検討されていたことを示すものであろう。 
4 足尾鉱毒問題と谷中村廃村
渡良瀬川下流部低湿地域の常習湛水は、外からの強烈なインパクトにより新たな質の災害の出現、それをめぐる激しい反対運動へと予期せぬ方向へ転化していった。渡良瀬川氾濫域での足尾鉱毒問題の発生であり、ここに一地方の治水問題にとどまらず、中央政府をまきこんで広い社会問題となったのである。
しかし近代公害史の原点とされる足尾鉱毒問題は、治水と密接に絡んだ問題であることは否定できない。下流での鉱毒被害は、足尾銅山から出た硫化銅を含む廃鉱が洪水によって下流に押し出され、それが田畑に氾濫して生じたのである。堤内地に渡良瀬川洪水が氾濫しなかったら、たとえ河道に廃鉱が堆積しても、堤内地の田畑は鉱毒被害にさらされることはない。このため鉱毒反対運動は、鉱山経営の廃止とともに渡良瀬川改修を求めており、渡良瀬川治水を包摂するものだった。さらに渡良瀬川治水にとっても、銅山採掘に伴う荒廃した上流山地からの多量の土砂流出は重大な支障となる。鉱毒被害と渡良瀬川治水は、密接、不可分な関係にあったのである。 
4.1 足尾鉱毒問題の発生と反対運動
不振をかこっていた足尾銅山の経営が、古河市兵衛の手にわたったのは明治9 年(1876)である。
この経営が軌道にのったのは、明治14年、新たに豊富な鉱脈(直利)が発見されてからである。これ以降、産銅量は急速に増加し、明治18年の産銅量は、全国の39%を占めるに至った。そして精煉工場の新設(足尾)、鎔銅所の建設(東京:本所)が行われた。また19年には蒸気動力ポンプ、23年には間藤に水力発電所が設置された。運搬施設としては23年に細尾峠で鉄索の運転開始、29年には日光駅と細尾の間で軽便馬車鉄道が開設された。また同年、東京の本所鎔銅所内に伸銅工場が建設された。
銅山経営が順調に発展していくなかで鉱毒問題が発生したのである。鉱毒の影響が下流農民に現れ始めたのは明治18年から20年といわれるが、明治21、22 年の洪水によって被害が認識されるようになった。そして翌23年の大洪水によって一挙に被害が顕在化したのである。群馬県の待矢場両堰水利土功会では鉱毒調査委員により、栃木県では県独自の被害調査が進められた。
また農商務省によっても調査が進められた。下流農民からは鉱業停止が主張され、さらに第二回帝国議会では、明治24年12月18日、田中正造により取り上げられた。この時の被害では古河との示談が進められ、粉鉱採集器の設置と示談金により収まっていったが、明治29年の安政以来という大洪水によって鉱毒問題は一挙に拡大していった。この後、被害地住民の鉱毒反対運動の組織化が進み、群馬県邑楽郡渡瀬村の雲龍寺に「栃木群馬鉱毒事務所」が設置されて、鉱業停止を求める活発な活動が展開されたのである。
群馬県会では鉱山の停止建議、栃木県会では予防・除害建議が行われた。中央政府でも榎本武揚農商務相の鉱毒地視察、農商務省5 名の「鉱毒特別調査委員」の任命が行われたが、明治30年3 月、被害農民の二度にわたる東京押出し(大挙上京請願運動) もあり、内閣直属として足尾銅山鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)が設置されたのである。
第一次鉱毒調査会では鉱業を停止するかどうかの議論が行われたが、停止は行わず古河によって予防工事を行うことに決定した。予防工事命令は37項目に及び、この命令書の違反する場合は直ちに鉱業停止というものであった。この工事には延人員60万人、費用100万円を要したというが、明治30年、鉱山監督署の竣工認可を受けた。
だが翌年には、予防工事命令によってできた沈殿池が洪水により破壊し、被害農民による3 回目の押出しとなった。さらに33年2 月13日には、警官隊と大規模に衝突したことで川俣事件として著名な第4 回押出しがあり、その主導者は起訴された。また翌34 年12月10日、田中正造の天皇直訴、学生達の被害地視察などの動きがあり、全国的な社会問題へと発展していったのである。
この展開のなかで政府は第2 回鉱毒調査会を設置し、その収拾を図った。 
4.2 第二次鉱毒調査会における治水の論議
明治35年1 月17 日の閣議決定に基づき、内閣直属の鉱毒調査委員会(第二次鉱毒調査会) が設置された13)。3 月18日に第1[n日を開催し、翌年3 月3 日、内閣総理大臣に「足尾銅山二関スル調査報告書」を提出して実質的な役割を終えた。調査会は、委員長と15名の委員より構成されたが、治水の専門家として東京帝国大学工科大学教授中山秀三郎、土木監督署技師(第一監督署署長)日下部弁二郎の二人が参画した。
この調査会では、洪水によって下流に運搬されてきた銅について、現在、稼働中の足尾銅山からの流出は少なく、明治30年予防工事命令以前の操業により排出され上流に堆積していたものとの基本認識の下に出発した。このため現操業による責任は認めず、当然、操業停止は議論とはならなかった。一方、渡良瀬川治水は重要な課題となった。治水策は主に中山、日下部の二人によって検討・報告されたが、谷中村をも含んだ遊水地計画が主張されたのである。管見するところ、中央政府においてこのような遊水地計画が公式の議論の場に出たのはこの時が初めてである。その考え方、また背景について少し詳しく述べていきたい。
治水計画の基本的な考え方は、次の二つに整理される。
「渡良瀬川、利根川二就キ水量ヲ測リタル果治水上二個ノ方法ヲ案出シタリ。何分出水ノ時ハ破堤ノ為メ、平水ノ時ハ減水ノ為メ、必要量ヲ推定スルニ由ナク、要スルニ基本タル最多大ノ水量ヲ知ル能ハサル困難シタルナリ。而シテ其第一ノ方法ハ、渡良瀬川ノ氾濫個所二堤防ヲ作り、其水ヲ利根川二疎通スルコト。即チ新川ヲ開墨シテ利根二水ヲ落スコトナリ。其第ニノ方法ハ、渡良瀬川ノ沿岸二水溜ヲ作リ、以テ之ヲ利根川二流出スルコト之レナリ。第一法ヲ仮二実行セムトセハ、目下為シツヽアル利根川ノ経営ヲ変更セサルヘカラサル大事業ヲ惹起スルノ困難ヲ免レス。然ラハ、不得止第二法ヲ実行スルノ外ナカルヘシ。」(第8 回日下部)
「本年八月二於ケル谷中村、九月二於ケル藤岡町各堤防決潰点及其出水ノ模様之レカ利根川トノ関係ヲ攻究シ、先ツ藤岡ノ決潰点ヨリ赤麻沼へ引水シ、之レヨリ谷中村へ流入スルノ計画ニテ設計スルニ、平均十尺ノ深サトシ三千町歩ノ遊水池アレハ或ハ可ナリ奏功セムト思料ス。」(第10 回中山)
計画として1 築堤と新川の開削により利根川に流下させる河道案、2 渡良瀬川の沿岸に貯水池をつくり、利根川合流量を減水させる遊水地案、の2 案が提示された。だが河道案は、現在進行中の利根川改修事業に多大な影響を与えるとして、遊水地案が実行計画として説明されたのである。その遊水地案は、赤麻沼と谷中村を中心とするものだった。
この遊水地計画をもとに、いろいろな角度から質疑が行われた。特に興味深いことは思川改修との関連である。中山は「思川、渡良瀬川ヲ併合シテ貯水池ヲ作ル計画ナリ」と述べている。つまり計画の基本は、実施中の利根川改修事業に影響を与えないことともに、思川を含めた改修計画の樹立であった。
さらに、遊水地に堆積する土砂について日下部は、「十年乃至二十年間位ハ耐へ得ルノ設計ヲナス見込ナリ」と述べている。足尾銅山からの多量の土砂流出を前提としていると判断される。鉱毒被害をもたらす廃鉱の土砂溜まりとしても、位置付けていたことは否定はできない。
また、事業費として、工事費は遊水地関係で160万円、上流改修で140万円の合わせて300万円、土地買収費として360万円との説明が行われた。買収対象地は遊水地で3,000町歩、その周辺で2,800町歩であった。一方、河道計画案は約1,300万円と算出されている。ただし利根川本川での買収分は含まれていない。
土地買収について、古在由直(東京帝国大学農科大学教授)から、困窮被害農民救済のため、治水事業により積極的に行うことが主張された。その価格も「十分救済ヲ意味シテ処分」と、出来る限り高い価格が主張された。つまり鉱毒被害として古河からの補償、また国からの救済ができないとしたら、治水に名を借りて回復のおぼつかない土地を買収し、困窮農民を救済しようとしたのである。その対象面積は回復の見込みがない土地5,000町歩、復興の見込みがない土地2,200町歩であった。
一方、治水を前面に立てての鉱毒救済は治水担当部局からは異議が唱えられた。また事業費の負担について、古河に負担させるかどうか、土地収用法の適用などをめぐり議論が展開された。
以上のような議論をもとに、内閣総理大臣に対する報告書が作成され、帝国議会に提出された。
この報告書では遊水地の必要性は述べられたが具体的な場所は特定されず、次のような記述となっている。
「流域中適当ノ地二一時増水ヲ蓄積シ徐二之ヲ流下スルノ作用ヲ為サシムルノ目的ヲ以テ遊水池ヲ造り」
「藤岡、海老瀬地方及思川、巴波川等ノ沿岸耕地ハ頗卑湿ニシテ作物ノ栽培二適セサル所妙ガラス」
「仮二遊水池ノ深ヲ平均十尺トスルトキハ之二要スル全面積八二千八百町歩乃至三千百町歩トス」 
4.3 栃木県の対応
谷中村が属するのは、栃木県である。37 年12月の通常県会末期に、谷中村買収を含む土木費が追加予算として提出された。秘密会である委員会での審議を経た後、本会議に再度、上程されて賛成18、反対12で可決され、谷中村は遊水地として栃木県に買収されることとなったのである。ここに至るまでの経緯について、治水問題への栃木県の対応を中心に述べていく。
谷中村の明治20年代から30年代中頃にかけての水害について、先ずみよう。明治25年から、27年、29年、31年、35 年、36年、37年と立て続けに破堤の記録がある。それ以前と比較して、明らかに破堤の頻度は多い。そしてこれによる湛水は鉱毒を含んでいたのであり、その被害は甚大かつ悲惨であった。
明治29年出水後の翌30年5 月、北埼玉郡古河川辺領(当時の川辺、利島の2 村、現在北河辺町)を視察した埼玉県職員は谷中村の状況について「実二悲惨ノ極ナラスヤ、古人曰夕人民化シテ魚卜為ラントハ夫レ此レノ謂へ乎」と述べている 。谷中村は明治29年9 月出水による破壊後も修築が遅れ、30 年春には決壊箇所から逆流し、「一望大湖ノ如シ」となっていた。一方、埼玉県に属する古河川辺は既に堤防復旧は慨成していた。このため谷中村の人々は「(古河川辺を)羨ミ且怒り頗ル殺気ヲ帯ピクル形状」であった。
しかし栃木県は、谷中村を放置していたのではない。表―2 にみるように治水堤防費としてかなりの額を復興につぎ込んでいたのである。年に一万円を超えていたのが26、30、31、32、36 、37 年度となっている。特に32年度は6 万円近くを投入し、渡良瀬川堤防は以前と比べ高く整備された。それでも堤防の安全は保たれなかったのである。また表−3 は県による谷中村罹災救助金の支出状況が示されている。
ところで当時の谷中村の堤防であるが、対岸の堤防に比べ高さは別にして、のり勾配が急な貧弱なものだった。たとえば思川対岸の堤防の表裏ののり勾配は2 割、渡良瀬川対岸の群馬県は2 割以上であったが、谷中村堤防は1 割以内であった 。この谷中村周囲堤の全面的改築案が、明治33年2月の臨時県会で知事より諮問されたのである 。総額13 万8 千円よりなる3 ヵ年計画で、谷中村は、村債による5 万円の寄付と1 万円に相当する工事人夫を負担するものであり、6,220間(IL300m) の堤防整備と120間(220m) の粗孕による護岸を行うものだった。しかしこの計画は、県会により否定された。それは思川下流部との関係であった。
当時、思川下流部では栃木県によって放水路計画が進められ、32年度から着工することとなっていた。この放水路計画は、下都賀郡間々田村大字乙女から同郡野木村大字野渡に至る台地に沿うものである。思川は、間々田村内で大蛇行しながら90°に曲流しており洪水疎通にとって非常な障害となっていた。放水路の工事費は約16万1 千円で、3 ヵ年計画で完成させるものだった。
この放水路の完成によって洪水の状況が変化する。この結果をみて、谷中村周囲堤の本格的な工事をすべきというのが県会の判断だった。なお谷中村周囲堤改築書は県の予算案として提示されたのではなく、諮問として提出されて県会の判断を仰いだ背景には、上下流の地域対立があったと考えている。谷中村の周囲堤の単純な強化は、その上流から反対が生じるのは間違いない。その調整を県会に任せたのであろう。
しかし放水路計画は、下流の野木、古河町、茨城県から猛烈な反対にあい、内務省の認めるところとならず着工とはならなかった。古河町によるその反対の理由は、利根川、渡良瀬川洪水の逆流と思川洪水が激突する場所は栃木県下であるが、それが放水路によって古河から下流に移り、その危険を古河に転嫁させるというものだった。そして「下都賀郡南部ノ地盤低ク利根川ヨリノ逆流止マザル限りハ、放水路ノ流入ロニ如何様ノ設備ヲ施シ候共到底衝突ナキヲ期シ難シ」と主張した。
利根川逆流を水害の最大の因としていたのである。
思川下流部の治水策としての栃木県の放水路計画は、上下流、特に茨城県との地域対立によって挫折をみたのである。この地域対立は、栃木県のみでは対処できるものではなかった。この経緯の中から、次に栃木県が提示した思川下流部の計画が、谷中村買収による遊水地計画であったのである。
明治35年9 月出水で谷中村が破堤した後、明治36年1 月に行われた臨時県会で、災害復旧工事費予算要求が中心の「明治35年度歳入歳出追加予算」が提案された 。その中に谷中村を遊水地とする「臨時部土木費治水堤防費修築費思川流域ノ部」が含まれていた。つまり「思川流域ノ部」で谷中村遊水地計画が、「思川流域費二於テ谷中村堤内ヲ貯水地ト為シ各関係河川ノ氾濫区域ヲ設クルハ治水上最モ其ノ策ヲ得タルモノニシテ将来県負担ノ利害消長二関スルコト実二鮮少ナラス」として提案されたのである。栃木県は、谷中村のこの遊水地化を放水路計画が挫折した後の思川下流部の治水計画として位置付けたのである。この谷中村土地買収については、国庫補助の内定を既に得ていた。
しかし臨時県会では否決された。政府の第二次鉱毒調査会の審議が終わりに近づいており、この結論が出てから処理するのが適当だとして復旧に止め、約38万3 千円を予算案から削除したのである。
だが、翌明治37年12 月10日の第8 回通常県会の最終日に谷中村買収を含む土木費が可決され、県により谷中村買収が決定されたのである。政府の第二次鉱毒調査会の報告書は既に帝国議会に提示されており、この中で渡良瀬下流部における遊水地設置が主張されていた。ここでの議論も、栃木県の決定に大きな影響を与えたことは当然だろう。
当時の栃木県知事は、内務省神社局長から転じた白仁武であったが、彼は内務大臣への明治37年8月20日付の国庫補助秦請の中で次のように述べている。
「下都賀郡南部一帯中谷中村ハ、殊二四面皆水ヲ以テ囲続セラレ、之力堤防ノ如キハ随テ築キ随テ壊レ、田園ノ荒涼音二村民困m ノ極二陥ルノミナラス、将来モ亦殆ント安全ノ途ナカラントス。案スルニ、鉱毒調査ノコトハ報申精細ニシテ、之カ実行亦着々其歩ヲ進メ、随テ渡良瀬一帯ノ治水二及フハ信シテ疑ハサル所ナルモ、現時一村ノ困惑真二焦眉ノ急二迫り、一日後ルレハー日ノ責アリ、是今日更二前議ヲ再提スルノ緊急已ム能ハサル所以ナリ。」
谷中村の周囲堤を築いても即座に壊れてしまい、村民は疲弊の極みとなっている 。将来に対して谷中村の安全の方策はほとんど見当たらない。鉱毒調査会で方針が樹てられ、将来、渡良瀬川の治水も進められることは間違いないであろうが、谷中村の疲弊はそれまで待ってはいられない。一日も早く対処する必要があり、栃木県として明治36年1 月に否決された計画を再度進めるのは緊急やむを得ない、というものである。
谷中村の堤防は、思川筋で最も下流に位置し、先述したように思川の上下流との間で論所堤となっていた。思川全体の中で解決しなくてはならない。しかし放水路計画が下流の反対にあって挫折したように、栃木県による思川下流部堤防強化による改修は多大な費用を要するとともに、下流の強硬な反対にあうのは火を見るより明らかであろう。谷中村の湛水は鉱毒を含んだ土砂の堆積を伴うものであり、その被害は極めて深刻である。放置しておくことは絶対に出来ない。この状況下で、谷中村全面買収による遊水地計画が栃木県により実行されたのである。 
5 利根川改修と渡良瀬遊水地
第二次鉱毒調査会で議論された渡良瀬川治水について、33年度から始まった利根川改修事業に影響を与えないことが前提としてあった。ここでは利根川改修について、遊水地問題との関連で整理していく。
この改修計画は、第一監督署技師近藤仙太郎技師によって策定された 。計画の対象とされた洪水は、明治18、23 、27.29年の出水で、渡良瀬川を合流した直後の中田地点では4洪水を平均した13,500立方尺/秒(3.750u/s)が計画対象流量とされた。この流量は、明治18 年の洪水量13,500立方尺/秒にほぼ近いものだった。
明治18年洪水は全川を通じて実測されたが、妻沼以下の上利根川は136,000立方尺/秒であり、3,000立方尺/秒が渡良瀬川への逆流と評価された。またこの洪水では、赤堀川へ66,000立方尺/秒、権現堂川へは67,000立方尺/秒分流し、権現堂川へ流下した洪水は河道内での若干のピーク流量の減少があって江戸川へ30,000立方尺/秒、逆川へ35,000立方尺/秒、流下していった。
一方、利根川改修計画では渡良瀬川への逆流、渡良瀬川からの合流とも零とした。中田下流は赤堀川一本に整理され、この後、江戸川へ35,000立方尺/秒分流し、中利根川へは100,000立方尺/秒の流下量とされた。江戸川への分派率は26%である。赤堀川一本に整理されたのは、次の理由からである。
「五ケ村附近ハ規定ノ如ク赤堀川ヲ拡ゲ、権現堂川ヲ閉切ルニ於テハ、有名ナル権現堂堤ノ難所ヲ避ケ得ルノミナラス、該川両岸ノ堤防ヲ廃棄シ得ルニ至ル。而シテ赤堀川ヲ拡ケ洪水疎通ヲ善良ナラシメハ其附近ノ水害ヲ減スルノミナラス、渡良瀬川ノ逆流ヲモ大二減少スヘシ。権現堂川ヲ閉切ルニ於テハ、江戸川ノ水量二影響ヲ及ホスユヘ逆川ヲ改修シ、江戸川ノ水量ヲシテ従来ノモノト異動ナカラシメントス。而シテ斯ノ如クスルニ於テハ、逆川及赤堀川ノ航路二於テモ一定ノ方向二流下シ土砂沈殿ヲ減スルニ至ルヘシ。」
赤堀川を拡げて一本にする理由の一つとして、渡良瀬川への逆流が減じることをあげている。また江戸川への分流状況は、旧来と変更がないことを主張している。
総事業費2,236万円よりなる近藤のこの計画は、明治31年(1898)に策定されたが、これに先立ち近藤は27年5 月、総額3,637万円からなる計画を策定していた。だがこの額は当時の国家全歳入の41% にも達するもので過大として工事着手とはならなかった。しかし明治29年の大水害後、約2,000万円となる計画を検討するもようにとの要請を受け、策定されたのである。
この計画は、佐原から銚子河口までの約42km が第1 期改修区間と位置付けられ、33年度から20ヵ年にわたる継続事業として着工された。この後、取手から佐原までの約52km が第2 期、取手から群馬県芝根村沼の上までが第3 期として着手される計画であった。
さて江戸川への分流量は旧来のままとされたが、ここの流頭部には寛政年間にはその前身が既にあったという棒出しがある。これについて近藤の計画では、何の変更も加えられていない。この棒出しによる江戸川流頭の縮少、それに伴う洪水流下能力の低下が渡良瀬川下流部の湛水害の原因として、その撤去が栃木県そして田中正造から強く要求されていた。ところがこの棒出し間隔は、明治31年、9 間強に狭められたのである。
前述したように近世後期、下都賀郡との間で18間(33m )より狭めないことが定められたというが、明治初年には棒だしの間隔は約30 間にまで拡がっていたといわれる。この後、明治8 年(1880)石張に改築した後、17年1 月から一年もかけて丸石積に強化され10間余りに狭められた。この落成式には、大相撲を行って盛大にこれを祝った。だが竣工直後の18年7 月の洪水で破壊された後、同年、角石積に改築された。この後、29 年には角石による修繕が行われたが、31年、河床の深さが計画低水位以下30尺(9.09m)から15尺(4.54m)に埋立てられるとともに9 間強に狭められ、護岸はコンクリートで覆われたのである。
この棒出し強化、特に明治31年の改築について田中正造の主張は、明治29年の大出水は東京府下まで浸水したのであるが、これにより鉱毒問題が首都・東京に飛び火するのを恐れた政府が江戸川への洪水流入を制限しようとしたということである。しかし明治政府による本格的な棒出し強化は、明治10年代中頃から既に始まっている。この時、まだ足尾鉱毒問題は顕在化していない。この棒出し強化について筆者は、東京港築港の課題から江戸川を通じて土砂を東京湾に流入するのを恐れたからだったと考えている。
明治10年代中頃から大きな課題となっていた東京港築港にとって、重要な技術的問題として江戸川からの流出土砂の対応があった。近代初期、わが国では港湾機能にとって河川から排出される土砂の港湾・航路における堆積は、重大な支障であったのである。明治29年から始まった淀川改良工事の大きな目的の一つが、大阪港を淀川からの流出土砂から守ることだった。
ところで、栃木県による谷中村買収の決定以前、第二次鉱毒調査会が行われている最中の明治35年(1902)10月、谷中村対岸の埼玉県北埼玉郡利島・川辺両村(旧古河川辺領、現北川辺町)の村民大会が開かれた。ここで、35年8 月、9 月の出水で破堤したまま、その復旧工事をしない埼玉県に対し、両村の買収遊水地計画に反対して、1県庁が堤防を築かなかったら村民の手で築くこと、2従って国家に対し納税・兵役の二代義務を負わない、との2 項目が決議された。
この両村の遊水地問題は、同年12 月の埼玉県の臨時県会で、遊水地にはしないとの知事の答弁で決着した。埼玉県が遊水地化を検討したのは、利根川水系治水の観点から渡良瀬川下流部に積極的に遊水地を築造しようというよりも、復旧しても復旧しても破堤する両村の復旧は意義がないとの判断からであったと考えている。
当時、川辺村には430 戸、3,100人、利島村には戸数580 戸、人口4,200人を抱えており、谷中村よりかなり多い人々が生活していた。ここが明治15 年、18 年、22 年、23 年、29 年、31 年、35 年と立て続けに破堤したのであり、県会では復旧に対して不信の念が抱かれたのである。ここには、明治23 年以来30 万円以上が復旧工事を中心として支出されていた。
明治35 年の出水後、埼玉県では新築堤計画と遊水地計画が調査・検討されたが両計画とも採用されず、結局、復旧工事となった。知事は「先ノ事二就テノ計画ハーモゴザイマセヌ」と答弁している。なお両村の堤防の大きさは、利根川対岸から厳しく抑制されていたようである。つまりこの堤防も論所堤であった。35 年12 月県会で県議田島春之助は次のように述べている。
「利根川ノ同一河川ノ堤防、而モ相対スル堤デ、一方八五間以上馬踏ヲ要スルニモ抱ラズ、一方八二間若シク八二間半二足ルカ足ラヌト云フ堤ヲ以テ、是デ効用が足りルト云フヨウナ考ヲモッテ居ルト言フコトハ、私共二八分ラナイ。成程、向フノ堤防ヲ立派ニスレバ、対岸が危イト云フガ、ソレガ分ラナイ。ソレガ為二二ヶ村ノ堤防ヲ
其倭ニシテ置クト云フコトハ、為政家トシテ、其当ヲ得タルモノデハアルマイト思フ。」
北河辺町に今日見られる対岸と同等の大きさの堤防が整備されたのは、政府による近代改修によってである。 
6 おわりに
谷中村廃村を伴う渡良瀬遊水地の成立について、足尾鉱毒事件との関わりも含めて栃木県の対応を述べてきた。栃木県は、政府の鉱毒調査会の下絵をもとに、鉱毒によって激甚な害を被っている谷中村の復旧をあきらめ、谷中村の全面買収に踏み切ったのである。その背景には連年の破堤とともに、上・下流の厳しい地域対立があった。谷中村の堤防強化は、歴史的な社会条件により大きな困難が伴っていたのである。
栃木県の対応をこのように論理立てることができるが、もちろん筆者は、栃木県による谷中村買収に必然性があったと主張するものではない。当然のことながら足尾鉱毒問題がなかったら、湛水は当時の土地利用状況からみてあれ程、激しい水害とはならなかったであろう。当地域の治水が社会の前面に出てくるのには、もう少し時間を要したであろう。
また財政が豊かだったら、別の治水策も樹てられたであろう。たとえば厳しい地域対立下にあった白鳥、生井などの思川下流部と一体となった堤防強化が考えられる。しかしこの場合、下流の茨城県、埼玉県から激しい抵抗にあうことは間違いない。3県を調整できる立場、それは中央政府だが、政府が乗り出すことによってはじめて可能となる事業だろう。
しかし政府は既に利根川改修に着手していた。その計画は、渡良瀬川からの合流量を零とするものだった。このため渡良瀬川下流部に遊水地を設置しない河道計画であったら利根川改修計画の全面的変更が必要となり、渡良瀬川改修費も含めて工事費は大きく増大する。栃木県また田中正造の主張のように、棒出しを拡げ、江戸川洪水量を増大させるならば、埼玉県下から猛烈な反対が生じる。さらに下流部改修の完成の後、渡良瀬川改修に初めて着手できる。その時まで谷中村等の渡良瀬川下流部の水害を放置できるのか。
古河の足尾鉱山からの生活保障があったら、状況は全く違うものとなるだろう。この意味からも、谷中村全面買収を伴う渡良瀬遊水地の成立は、足尾鉱毒問題と密接不可分な関係にあった。 
 
足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地の成立 [2]

 

1 はじめに
筆者は、『国際地域学研究第5 号』(東洋大学国際地域学部2002 年)で、「足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地の成立」を報告した。その中で以下のように述べている。
渡良瀬川下流部は、自然条件に制約されて基本的に常習湛水地帯であった。このため長い期間にわたる治水課題があり、それに足尾鉱毒問題が加わってこの地域の治水整備が喫緊の課題となった。そこで採択されたのが、谷中村廃村に基づく遊水地の整備であった。ではなぜ谷中村廃村なのか。思川が渡良瀬川に合流する最下流部に谷中村は位置していた。その周囲は、思川と渡良瀬川に沿う堤防で囲まれている。その堤防の中で、特に思川沿いの堤防は上流部の部屋、白鳥、赤間などの集落との間で利害関係があり、谷中村が独自に強化することができなかった。つまり谷中村堤防が強化されると上流部の湛水がひどくなるとして、その強化が厳しく抑えられていたのである。
この治水秩序は近世に造られたが、この地域では堤防をめぐる上・下流の対立の歴史を抱えていたのである。因みに、谷中村の堤防は対岸の堤防に比べ高さは別にして、のり勾配は貧弱なものだった。たとえば思川対岸の部屋・生井の堤防表裏のり勾配は2 割、渡良瀬川対岸の群馬県は2 割以上であったが、谷中村堤防は1 割以内と薄いものであった。
このため谷中村はたびたび堤防が決壊し、水害を受けた。文政5 年(1822)から慶応3 年(1867)の45年間に、19回の破堤が生じている。3年に|回強である。その重大な理由として、天明3 年(1783)の浅間山大噴火、その後の火山灰等の流出による近世後半の利根川の河床上昇がある。これにより渡良瀬川・思川の洪水流出が困難となるとともに、利根川の逆流が生じたのである。谷中村堤防決壊は明治に入ってからも続く。その氾濫土砂に、明治20年以降、鉱毒が含まれるようになったのである。水害は激甚なものとなっていった。
この谷中村の水害に対し、谷中村が属する栃木県は決して傍観していたのではない。明治23(1890)年度から37年度にかけての15年間に、治水堤防費として約22万5 千円の額を注ぎ込んでいた。さらに明治33年2 月の県会で、知事により総額13万8 千円よりなる3 ヶ年計画の谷中村周囲堤の全面的改築案が諮問された。しかしこの計画は県会により否定された。それは思川下流部との関係であった。
当時、思川下流部では栃木県によって放水路計画が進められ、32 年度から着工することとなっていた。この放水路計画は、下都賀郡間々田村大字乙女から同郡野木村犬字野渡に至る台地に沿うものである。思川は、間々田村内で大蛇行しながら90°に曲流しており、洪水疎通にとって非常に大きな障害となっていた。放水路の工事費は約16万1 千円で、3ヶ年計画で完成させるものだった。この放水路の完成によって洪水の状況が大きく変化する。この結果をみて、谷中村周囲堤の本格的な工事をすべきというのが県会の判断だった。
しかし放水路計画は、下流に位置する野木、古河町、茨城県から猛烈な反対にあい、内務省の認めるところとならず、着工とはならなかった。古河町による反対の理由は、利根川、渡良瀬川洪水の逆流と思川洪水が激突する場所は栃木県下であるが、それが放水路によって古河から下流に移り、その危険を古河に転嫁させるというものだった。
思川下流部の治水策としての栃木県の放水路計画は、上・下流、特に茨城県との地域対立によって挫折をみたのである。この地域対立は、栃木県のみでは対処できるものではなかった。この経緯の中から、次に栃木県が提示した思川下流部の計画が、谷中村買収による遊水地計画であった。栃木県は、谷中村のこの遊水地を放水路計画が挫折した後の思川下流部の治水計画として位置付けたのである。この谷中村土地買収については、国庫補助の内定を既に得ていたが、明治36 年の臨時県会では否決された。政府の第二次鉱毒調査会の再審議が終わりに近づいており、この結論が出てから処理するのが適当だとして復旧に停めたのである。
だが、翌明治37年12月10 日の第8 回通常県会の最終日に「思川流域ノ部」として谷中村買収を含む土木費が可決され、県により谷中村買収が決定された。政府の第二次鉱毒調査会の報告書は既に帝国議会に提示されており、この中で渡良瀬下流部における遊水地設置が主張されていた。ここでの議論も、栃木県の決定に大きな影響を与えたことは当然だろう。第二次鉱毒調査会では、渡良瀬川・思川の両河川を合わせた治水が検討され、遊水地案が実行計画として説明されていた。
栃木県にとって、思川筋で最も下流に位置し、思川の上・下流との間で論所堤となっていた谷中村の堤防改築は、思川全体の中で解決しなくてはならない。しかし放水路計画が下流の反対にあって挫折したように、栃木県による思川下流部堤防強化による改修は多大な費用を要するとともに、下流の強硬な反対にあうのは火を見るより明らかである。一方、谷中村の湛水は鉱毒を含んだ土砂の堆積を伴うもので、その被害は極めて深刻である。放置しておくことは絶対に出来ない。この状況下で、谷中村全面買収による遊水地計画が栃木県により実行されたのである。
ところで、鉱毒被害の基となっている硫化銅を含む廃鉱は足尾銅山から流出していた。その廃鉱が洪水によって氾濫し、田畑に堆積して激烈な鉱毒被害を出現させている。その対策として渡良瀬川改修は絶対に必要であった。その渡良瀬川改修をどうするのか。第二次鉱毒調査会で議論され、遂には藤岡台地を開削して北方から洪水を導水し、その洪水を遊水地で貯留する渡良瀬川改修計画が国により策定されていったのである。本論文では、この渡良瀬川改修計画がどのような背景・考えの下に策定されていったのか、詳細に論じていく。ただし論じていく中で、2002年に報告した「足尾鉱毒事件と渡良瀬川の成立」と、やむを得ず重複して記述するところが出てくるが、それはお許し願いたい。なお、理解の手助けのために遊水地関係の年表を表一目こ示す。 
2 渡良瀬川中・下流部の歴史的治水秩序
渡良瀬川の流域面積はI,396km2、うち山地面積は614km2 、平地面積は782ku である。明治17年(1884)、近代測量技術によって初めて作成された第一軍管区地方迅速図( 略して迅速図) に基づいて、近代初頭の渡良瀬川中・下流の河道状況をみよう。
桐生を扇頂とする渡良瀬川扇状地の扇端部分に足利が位置するが、この後、渡良瀬川は東南東の方向に向かい、傍示塚から大島を経て西岡地先で狭い台地の間を掘割り河道となって流れる。この後、藤岡台地にぶつかる底谷村地先で90°近く曲流し、南々東に台地に沿って流下する。注目すべきは、足利と西岡との間で合流している支川のほとんどすべてが霞堤となり、堤防によって締切られていないことである。それは左岸側は袋川、旗川、秋山川であり、右岸側は矢場川である。
この区間での渡良瀬川の勾配をみると、足利市の中心部から矢場川合流点付近までがおおよそ1/800〜1/1,000、それより下流が約1/2,700 となっていて、1/150〜1/350 であるそれより上流の扇状地区間のようにきつくない。ここが霞堤となっていたのである。このため出水の都度、渡良瀬川本川の逆流によって遊水した区域である。
迅速図でみると、特に秋山川合流部分に大湿地帯が見られ、遊水の大きさを物語っている。
足尾鉱毒被害は、これら本川逆流地帯を中心に拡がったのである。
勾配が緩やかな区間で遊水させるという河川秩序となったのであるが、この状況は日本の河川では特異なことである。地形的にみると、秋山川が合流する西岡から底谷が関東ローム台地によって窄められ、川幅が広くない狭窄部になっている。特にその入口部分は堤防によって窄められている。このため疏通能力が小さく、上流部に大遊水地帯が形成されたのである。
渡良瀬川は、底谷から南下し離を通り、本郷地点で藤岡台地を掘割って栃木県下都賀郡に流出する。この後、広い堤外地を海老瀬七曲と呼ばれる激しい曲流をなして南下し、谷中村南方の古河地先で思川を合流する。
さて渡良瀬川の南側に、大きな連続した自然堤防がみられる。傍示塚から大島、大曲、大荷場、細谷を通り、離の上流で渡良瀬川に合流している。旧河道であるが、その蛇行状況から、左支川・矢場川が流れていたと考えられ、その規模の大きさからいって渡良瀬川の本河道であったことは間違いないだろう。因みにその上流部にある現況の矢場川は、栃木県(下野国)の梁田郡と群馬県(上野国)の邑楽郡の県境を流れている。渡良瀬川は、元々、この矢場川筋が本川といわれ、戦国時代に矢場川筋を離れ、下野国に属する梁田郡と足利郡の間を流れる現況となったといわれる
「群馬県邑楽郡誌」によると、渡良瀬川の歴史的な河道整備として明記されているのは、文禄4 年(1595) 榊原康政の館林城主治世下、奉行である荒瀬彦兵衛と石川佐次右衛門の2 名によって行われた築堤である。西は傍示塚村から束は海老瀬村に至る延長約4 里9 町余、堤防高2 間ないし3間、堤敷10 間ないし18間、馬踏(天端幅)2 間ないし2 間3 尺に整備された。この後、寛文年中(1661〜72)、徳川綱吉が館林城主の時代、渡良瀬川堤防と堰・樋門の定式組合が定められ、官民費によって維持管理することとなった。
その後、「群馬県邑楽郡誌」が刊行された大正期初めには、傍示塚村から海老瀬村までの築堤は延長6 里18町33 間、高さ2 間ないし3 間、敷】O間ないし18間、馬踏2 間ないし3 間余となっていた。
この大きさを文禄4 年のものと比較すると、馬踏は若干、大きくなっているが、堤防の大きさ自体はそれ程、変わらない。ところが堤防延長は約2 里9 町( 約8.8km) 長くなっている。その数字の信頼性もあるが、江戸時代に築堤が行われたことが推測される。
ところで傍示塚から西岡、除川、底谷、離に至る旧渡良瀬川河道筋であるが、興味深いことは、西岡から除川、底谷まで関東ローム層台地を開削して流れていることである。沖積低地上を流れるその上流・下流と様相を異にし、掘割り河道となっている。本来の渡良瀬河道にしては不自然であり、人工的に付替されたものと考えさせられる。
では全く新たに開削されて付替られたのであろうか。底谷から下流部は、唯木沼から流れてくる蓮花川が流れていたことが知られている。では、西岡から底谷に至るその上流部の河道はどうだっただろうか。
このことについて、参考とすべきデータを持ち合わせていないので何ともいえないが、蓮花川のような小河川が流れる谷地になっていたことは十分、想定される。あるいは越名沼からの小河川、または秋山川が流れていたことも十分考えられる。いずれにせよ、かなりの手が加えられ拡幅されて、渡良瀬川本川が押し込められたことは間違いないと考えている。このことについて「群馬県邑楽郡誌」は、「西谷田村」のなかで次のような記事を掲載している。
「附、矢場川は往古大島村南部を東流して、伊谷田村の北部を過ぎ、離村の北に於て佐野川(渡良瀬川)に合したるものなりしが、文禄四年の洪水に際し河身一変して現今の状態に転じたるものなりと云ふ。又除川村字入悪途は往古本地に接続し佐野川之を環流したりしが、寛永元年野州只木村より、底谷村堺まで二百八間の開盤をなし、佐野川を直流せしめたるなりといふ。」
文禄4 年の洪水により、矢場川は現・渡良瀬川河道筋を流れることとなった。それまで現・渡良瀬川河道には佐野川が流れていたという。この当時、渡良瀬川は傍示塚から大島、大曲、細倉、離村の現在の自然堤防筋を流れていた。一方、越名沼からの河川、また佐野を通って流れてくる秋山川が佐野川と呼ばれていて、西岡から除川、底谷の台地の中を流れていた。そこに渡良瀬川を押し込めたとする理解は、十分成立すると考えている。さらに寛永元年、野州只木村より底谷まで208間の河道が開削されたというが、大蛇行していた区間が整備されたのであろう。
このことからも榊原康政の時代の築堤について、それまで傍示塚から大曲、大荷場、細谷という自然堤防筋を流れていた河道を瀬替して、西岡から除川、底谷、離に至る台地の間に押し込んだ可能性が十分、想定される。しかし大正期までの堤防延長からみて近世、なかでも綱吉の時代に整備されたという推定も否定しきれない。
一方、「館林市誌」には「『矢場川ノ儀ハ江川ヨリ足次前之候所寛文四甲辰年(一六六四)木戸村ヨリ上早川田雷電裏迄新川二堀回シ然時二木戸足次傍示塚上早川田迄先年野州梁田郡二是ヨリ下離村迄安蘇郡二候所寛文五年(一六六五)巳年より新上州邑楽郡改』と延享五年(一七四八)「日向村田方畑方反別石高覚」の末尾に記されている。」と記述されている。
地名がはっきりしないので不明の点があるが、明治年間の図面によると矢場川は上早川田地点で渡良瀬川に合流している。この合流が、寛文4 年(1664)に新川を掘削して行われたと「館林市誌」は述べている。この付替によって、「木戸・足次傍示塚・上早川田」までは下野国梁田郡から、上早川田から下流の離村までは安蘇郡から、それぞれ上野国邑楽郡に変更になったとしている。かなりの土地が下野国から上野国に移管されたのである。この当時の矢場川がどのような状況なのか不明なので正確な判断は出来ないが、渡良瀬川への完全な押し込みは、このとき行われたとの解釈も成り立つ。
ここでは、以下のように理解しておきたい。下野国の梁田郡と足利郡の間を流れてきた渡良瀬川本川が榊原康政の治世下までに、秋山川が流れていた西岡から除川・底谷の台地の間に押し込まれた。綱吉の時代には矢場川も上早川田地点で渡良瀬川に合流させられ、台地の間を流れるようになった。
ところで、その下流の藤岡台地を掘割って下野国下都賀郡に流下する本郷狭窄部も、その上・下流の状況からみて人工的に開削されたのではないかと考えさせる。しかし滓口宏は、本郷狭窄部下流(現在の渡良瀬遊水地)に榛名火山起源のニツ岳軽石流堆積物があることから、自然に開削されたものとしている。榛名山は、古墳時代に3 回噴火活動を行い、ニツ岳軽石流堆積物噴出した。榛名山の位置からして、遊水地内のその堆積物は利根川によって運搬されたものである。往古、谷田川筋を流下していた利根川河道が本郷狭窄部を流下し、現渡良瀬遊水地に堆積させたとの判断である。つまり、利根川は当時、遊水地内に流れ込んでいたのであり、この後、利根川は谷田川筋を離れ埼玉平野を流下した。その跡を渡良瀬川が流れるようになったのであり、決して人工開削ではないとの評価である。
さて近世の渡良瀬川下流部の治水秩序をみると、右岸・館林藩領を守るという状況になっている。
西岡地先から台地に押し込み、その直上流部は築堤を行わず霞堤として下野国である渡良瀬川左岸、また矢場川左岸に遊水させる秩序となっている。館林藩には、家康関東入国の時に徳川四天王の一人・榊原康政が配封され、後にはここから綱吉が5 代将軍となっている。治水上、他地域に比して渡良瀬川下流部右岸は優位に整備されたのである。
しかし右岸側で水害が生じなかったというのではない。渾口によると、宝永元年(1704)から明治43年(1910) までの207年間に49回破堤・氾濫している。およそ4 年に1HI の割合であり、その破堤箇所は西岡、除川、離、伊谷田で集中的に破堤している。つまり狭窄部の直上流を中心に破堤しているのである。 
3 近代渡良瀬川改修計画 
3.1 明治初期の改修構想と地域対立
明治4 年(1871)、渡良瀬川中流部左岸に位置する栃木県下都賀郡・阿蘇郡の村々から、渡良瀬川改修計画案が当時の行政区域である古河県、日光県に嘆願書として提出された。渡良瀬川の秋山川合流点直上流から板倉沼に新河道を開削し、合ノ川との合流地点で渡良瀬川に再び落とそうとしたものである。嘆願した村々は、現在の佐野市区域が中心であるが、藤岡町も加わっている。この歴史的背景として、対岸と比べて不利な治水秩序となっていたこと、さらには幕末、藤岡の台地を開削して赤麻沼に落とす改修計画が右岸の館林領から提案されていたことがあげられる。直接的には、幕末の改修計画案への対抗策であったであろう。
右岸・館林領からの幕末の改修計画を策定したのは、邑楽郡田谷村住民・大出地図弥である。館林藩に献策したところ認められたので、大出は多くの人々を指揮して測量を行い、詳細な実測図を作成して起工しようとした。しかしその開削台地が館林藩ではなかったため挫折したことが伝えられている。「群馬県邑楽郡誌」(群馬県邑楽郡教育会大正6 年)は、「近年渡良瀬川改修工事の開始せらるゝやその計画地図弥の設計と全然軌を一にす。世人深く地図弥の卓見に服す」と述べている。彼の設計が、明治改修による放水路計画と同じだったと記述されていることに注目したい。なお彼が死んだのは明治33年(1900)7月で、被害住民による足尾鉱毒反対運動がピークになっていた時である。
さて明治4 年の左岸側の構想は、秋山川合流点直下流から新河道を開削しようということである。
合流地点の左岸は霞堤であるため常習湛水地域となっているが、常習湛水から脱却するためには霞堤を締めなくてはならない。そのためには、下流部の渡良瀬川河道の疎水能力を大きくしなくてはならない。しかし合流点下流部は台地によって狭窄されているため、容易に拡げることは出来ない。
そこで新河道開削の要求となったのである。
なお下流部の河道能力を大きくせずに霞堤を締切ると要求したらどうなるか。洪水は遊水することなく、河道の洪水流量は増大する。対岸あるいは下流部にとって脅威であり、これらの地域からの猛烈な反対にあうのは必然だろう。後年だが、明治27年【】894)12月、秋山川の霞堤を締切ろうとする栃木県に対し、群馬県会は次のような建議を行って反対した。
「栃木県界村ヨリ三鴨村地先新規築堤排除ノ建議
聞ク、栃木県安蘇郡界村大字高山村ヨリ同郡都賀郡三鴨村大字甲村地先へ、新規築堤ノ計画アリト、今ヤ其ノ設計事実ナルガ如シ。果シテ然ラバ該地ハ我群馬県邑楽郡西谷田村地先渡良瀬川ノ対岸二シテ其反害単二西谷田村地先ノ被害二止マラズ、当渡良瀬川堤防ノ安危二係リ、尋テ全県下経済二大関係ヲ及ボスヤ明カナリ。因テ該設計速カニ中止セラルヽ様、相当ノ御措置アランコトヲ県知事へ建議致度、別紙図面相添へ此段及建議候也。明治廿七年十二月十八日」
渡良瀬川左・右岸で、治水をめぐり厳しい地域対立が生じていたのである。 
3.2 第二次鉱毒調査会による渡良瀬川改修計画の議論
足尾鉱毒問題は、明治20年代になって顕在化した。24年(1891)12月の第2 帝国議会での田中正造による質疑、29 年の大洪水による鉱毒問題の一挙の拡大と被害地住民の鉱毒反対の活発な運動があり、明治30年、内閣直属の足尾銅山鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)が設置された。
この調査会では37項目に及ぶ予防工事命令が出され、これに基づき足尾銅山経営者・古河市兵衛によって工事が行われた。だが明治31年の洪水により沈殿池が破壊し、再び被害地住民によって鉱業停止を求める激しい運動が展開され、33年には警官隊と大規模に衝突した川俣事件が発生し、全国的な社会問題へと進展した。35 年3 月、政府は鉱毒調査委員会(第二次鉱毒調査会)を設置し、その収拾を図ったが、この第二次鉱毒調査会で渡良瀬遊水地を基軸とする渡良瀬川改修計画が議論されたのである。なお第一次鉱毒調査会については、第6 章で詳しく論ずる。
第二次鉱毒調査会は36年3 月、内閣総理大臣に「足尾銅山二関スル調査報告書」を提出した。この調査会では、洪水によって下流に運搬されてきた銅について、現在、稼働中の足尾銅山からの流出は少なく、明治30年予防工事命令以前の操業により排出され、上流に堆積していたものとの基本認識の下に出発した。このため現操業による責任は認めず、当然、操業停止は議論とはならなかった。そしてここでの議論の結論が、谷中村廃村を伴う渡良瀬遊水地築造の重大な出発点となったのである。「調査報告書」は改修計画について次のように結論する。
「仮二遊水地ノ深ヲ平均十尺トスルトキハ之二要スル全面積八二千八百町歩乃至三千百町歩トス、此ノ遊水地ヲ設クル外河身改修工事ヲ施行シ河幅ヲ整理シ河身屈曲ノ度ヲ緩ニシ又護岸エヲ施シ治水上二支障ナキ所ニハ堤防ヲ新設修補スルヲ要ス、其ノ詳細ナル設計及工費等二付テハ更二精密ナル調査ヲ遂ケサルヘカラス
以上ノ調査ハ渡良瀬川下流現状二於ケル出水量ヲ基礎トシテ為セルモノナリ、該川現状二就テ見ルニ上流二於ケル所謂鉱毒激甚地タル堤外地及無堤地ハ出水アル毎二常二其ノ氾濫スル所トナリ天然ノ遊水地タル作用ヲ為スモノナルヲ以テ、新二堤防等ヲ築造シ其ノ氾濫ヲ防止セムトセハ此ノ積勢ハ何処二於テ破裂スルヤ予メ期スヘカラスシテ、而カモ其ノ衝二於テ更二深大ナル惨害ヲ来タスヘキヲ以テ之ヲ遊水地卜為シ置クヲ必要卜認ム」
これによれば、新たな遊水地について、仮に水深10尺とするならばその面積は2,800町歩から3,100町歩となる。この遊水地とあわせて河幅整理、河身屈曲の修正、護岸工事、さらに築堤工事が必要となる。この詳細な設計および工費については、今後、精密な調査をする必要がある。
さらに現状の河川状況と鉱毒被害について、鉱毒被害が生じているのは渡良瀬川の堤外地、無堤地であり、ここは出水の度に氾濫している。つまり「天然の遊水地」の役割を果たしているのであるが、ここを築堤等によって氾濫を防御したら、その後どこで破堤するのか予期できなくなり、その際は「深大ナル惨害」をもたらす。このため、ここの区域を遊水地としておく必要がある。
前述したように、当時、渡良瀬川の中流部には、支川の合流部を中心にしてたくさんの霞堤があった。その代表的なものは左岸では秋山川、旗川、袋川の合流部であり、右岸では矢場川の合流部である。そして、ここで深刻な鉱毒被害が生じていたのである。鉱毒対策は渡良瀬川治水と密接不可分のものであった。
渡良瀬川洪水は、この中流部で大遊水しながら流下していたのである。ここを完全に締切ることは治水計画担当者にとって危惧することであり、慎重に検討することは当然だろう。なお遊水地の具体的な場所は「調査報告書」では特定されず、次のような記述となっていた。
「流域中適当ノ地二一時増水ヲ蓄積シ除二之ヲ流下スルノ作用ヲ為サシムルノ目的ヲ以テ遊水地ヲ造り」
「藤岡、海老瀬地方及思川、巴波川等ノ沿岸耕地ハ頗卑湿ニシテ作物ノ栽培二適セサル所妙ガラス」
このように遊水地を中心とした改修計画であるが、この結論に至る経緯を次にみていこう。
明治35年11月25日に行われた第8 回鉱毒調査委員会で、内務省第一監督署署長・日下部弁二郎委員は、改修計画の基本的な考え方について次のように述べた。
「本員分担事項ハ調査甚夕困難ニシテ殆ント其正確ナル材料ヲ難得卜雖トモ。種々渡良瀬川、利根川二就キ水量ヲ測リタル結果治水上二個ノ方法ヲ案出シタリ、何分出水ノ時ハ破堤ノ為メ平水ノ時ハ減水ノ為メ必要量ヲ推定スルニ由ナク要スルニ基本タル最多大ノ水量ヲ知ル能ハサルニ困難シタルナリ、而シテ其第一ノ方法ハ渡良瀬川ノ氾濫個所二堤防ヲ作り其水ヲ利根川二疎通スルコト即チ新川ヲ開盤シテ利根川二水ヲ落スコトナリ、其第ニノ方法ハ渡良瀬川ノ沿岸二水溜ヲ作り以テ之ヲ利根川二流出スルコト之レナリ、第一方法ヲ仮二実行セムトセハ目下為シツヽアル利根川ノ経営ヲ変更セサルヘカラサル大事業ヲ惹起スルノ困難ヲ免レス、然ラハ不得止第二法ヲ実行スルノ外ナカルヘシ、此貯水池経営ノ方法二付テハ中山委員二於テ種々調査セラレタルモノアリ、此方法クル全然渡良瀬川ノ水害ヲ除却スルコト能ハサルヘシト雖トモ先ツ大変災ナカリセハ大凡ソハ防禦シ得ヘシト信ス、即チ十中ノ七八八効果アル見込ナリ、之レカ経費二至ツテハ今日詳細説明致シ難ク追テ古在委員力調査セラレツヽアル高低測量等ノ結果ヲ待チ報告スルコトニ致サン」
つまり度々、渡良瀬川、利根川の流量を観測した結果に基づき2 つの計画案を検討した。第1 の案は、築堤を中心に新河道を開削して渡良瀬川の洪水をスムーズに利根川に流出させる。第2 案は渡良瀬川に貯水池を造り、ここで貯水した後、利根川に流出させる。
ここに、渡良瀬川下流部における貯水池案が提示されたのである。そして第1 案を行えば、明治33年度から進めている利根川治水計画の変更を伴う大事業となり困難である。このため第2 案を実行せざるを得ないと、現実に進めている利根川治水計画との関連で貯水池案を優先させるのである。この貯水池計画は、渡良瀬川の水害を完全に防ぐものではないけれども、大出水でなかったら大体、防御できると位置付けられていた。
貯水池計画について、東京帝国大学工科大学教授中山秀三郎から明治35年12月19 日の第10 回委員会で次のような、より具体的な報告がなされた。
「治水事業二付テハ未タ其ノ目的ヲ以テ根底ノ測量ヲナシタルモノナリ、従テ確乎タル計算ヲナスニ由ナシト雖トモ仮二高低測量ノ結果本会ニテ調製セラレタル図面二基キ参考トシテ陳述スルニ過キス此全体二付テ八日下部委員ト共二審議協定ヲナシ先ツ本年八月二於ケル谷中村、九月二於ケル藤岡町各堤防決潰点及其出水ノ模様之レカ利根川トノ関係ヲ攻究シ、先ツ藤岡ノ決潰点ヨリ赤麻沼へ引水シ之レヨリ谷中村へ流入スルノ計画ニテ設計スルニ、平均十尺ノ深サトシ三千町歩ノ遊水地アレハ或ハ可ナリ奏効セムト思料ス、之レ素ヨリ大体ノ見込ナリ、而シテ此範囲ハー箇所ノ遊水地トナル訳ニテ藤岡ノ部分ニハ其堤防ヲ低ク作ルノ考ナリ水量四尺乗越ストスレハ洗堰トシテ五百間ノ設備ヲ要ス、経費一間二付六百円トシ合計三十万円、水路二十二町(切取五百間余築堤千二百間余)此経費七十二万円、即チ他ヨリ入り来ル水ヲ水路二落スナリ、而シテ洪水ノ場合二於テ茲二逆流ヲ防クノ樋門ヲ要ス、之レハ凡ソ二十間一間二付千八百円トシ三万六千円、此外二付属ノ用、悪水路道路ノ付換へ等ノ経費ヲ八万九千円トシ総計百十五万円 谷中村へ引水スルトセハ堤防ヲ取払フ為メ局部二超水等ヲ生ス、此洗堰ヲ百五十間トシテ九万円、樋門七十間一間三千円トシ二十一万円、現在堤防ノ補修十万円、新築五万円、トシ 総計四十五方円 以上ノ上流二対シテハ尚ホ農地ノ関係上諸般ノエ事ヲ必要トス、此概算総計百四十万円 土地買収及ヒ家屋移転費等ヲ除キ前記三ロノ合計ノミニテ三百万円トナルナリ 仮二遊水地ノ三千町歩ト其他ノ雑二千八百町歩ヲ合算シー反歩六十円トスルトキハ土地買収費トシテ三百六十万円ヲ要ス 又上部ノ激甚地ト称スル方面ハ皆ナ現在ノ健二放置シ小遊水地タラシムル積ナリ
概略ノ考案上述ノ如シ」
これで分かるように、明治35年8 月、9 月出水について利根川との関係を調査し、放水路として、35年出水による藤岡の決壊箇所から赤麻沼へ流入させ、ここから谷中村に導入させる遊水地の計画としたのである。なお遊水地という言葉が初めて出るが、その大きさは平均10 尺、広さは3,000町歩である。
この計画では、遊水地への導水は洪水のみを対象としている。このため流入口には洗堰を設置する。また導水路の長さは22町で、うち切取500間、築堤は1,200間余である。切取とは台地の開削であろう。500間の台地開削でもって赤麻沼へ導水する計画であるが、その流入口(渡良瀬川本川側だろう)には洗堰を設置し、流入口から下流の渡良瀬川は廃川にするのではなく、平水のみを流す考えである。
また遊水地から本川へ流出するのを防ぐため、樋門を設置する。さらに谷中村へ流入させるならば、堤防を取り払い洗堰と樋門をそれぞれ設置する。また遊水地から上流の渡良瀬川でも改修工事を行う。ただし、ひんぱんに氾濫する所は現状のままにし、堤外地(小遊水地)とする。
費用は遊水地関係で160万円、上流改修で140万円のあわせて300万円である。これ以外に土地買収費として360万円が必要となる。その対象面積は遊水地で3,000町歩、ここ以外で2,800町歩である。
遊水地への放水路は、このように明治35年9 月出水に基づき藤岡の決壊箇所から赤麻沼(遊水地)に流入させる計画であった。しかし藤岡の決壊箇所がどこか、これのみではよく分からない。
なお谷中村の全面買収を伴う遊水地計画は、明治37年12月10 日の栃木県の第8 回通常県会最終日に可決された後、栃木県が谷中村買収に入るのであるが、この問題は帝国議会でも議論されていた。
この中で、政府側は明治37年12月22 日の衆議院議員予算第二分科会で次のように述べ、谷中村の北方にある赤麻沼の堤防が決壊して、谷中村は水害に襲われると主張している。
「此赤麻沼卜云フ沼ガアルサウデゴザイマスガ、其沼二流入シテ湛へ込ンデシマフ、然ルニ其湛へ込ンダトコロノ流積二依ツテ、赤間沼ト云フモノハ水勢ヲ得マシテ、其水勢二依ツテ今御話ヲ致シマシタトコロノ堤防が、年々歳々決潰ヲサレル、勿論其場所以外ニモ処々二於テ決潰スルノデゴザイマスガ、此谷中村ノ事柄が御話ノ問題ニナッテ居リマスカラ、其場所二付イテ特二中上ゲルノデゴザイマスガ、其点ハ御了承ヲ願ヒマスガ、其谷中関係ノ其堤防ト云フモノハ、今申上ゲマシタヤウナ、水流ノ関係二依リマシテ立切ラレマシタ、其水が谷中村二氾濫シテ谷中村ヲ一面ノ浸水地ニ致スト云フ状態ニナッテ居リマス」
谷中村の西側は渡良瀬川が流れ、東側は巴波川、思川、南側でこれらの河川が合流する。一方、北側は藤岡台地であり、赤麻沼に接している。帝国議会での政府答弁は、渡良瀬川等の河川沿いの堤防ではなく、谷中村は北方の赤麻沼の堤防が決壊するというのである。これが事実とすれば、赤麻沼を襲う洪水とはどんなものか、また明治35年9 月出水の藤岡の決壊箇所とはどこかを明確にすることが、極めて重要なことが分かる。 
3.3 明治35年の渡良瀬川出水
先述したように、第二次鉱毒調査会第10回委員会で中山秀三郎委員は本年(明治35年)の8 月洪水で谷中村、9月の洪水で藤岡の堤防が決壊したが、藤岡の決壊点から赤間沼に導水し、ここから谷中村へ流入する遊水地の計画を立てたという。つまり谷中村下流部に位置する渡良瀬川・思川の合流点付近から逆流させるのではなく、現在の渡良瀬川遊水地のように上流部から遊水地に導水させようとしたととらえられる。これが事実ならば、渡良瀬川の洪水は、藤岡台地上で既に赤間沼とつながっていたのである。
この時の洪水について「万朝報」は明治35年10月18日の「鉱毒地の風水害(上)」の記事の中で、次のような実に興味深いことを述べている。
「何人も土地のものより説明を聞かずば、真の湖水として思はれぬ谷中村の現状、水中の小丘に家屋のくづれかかりたるもの、土蔵の倒れかかりたるもの、人間と見えぬ様な人間の彼方此方に存して居る事など、どうしても湖中の島にありたる人家が、風水害の為に損害を被ったとしか思はれぬ、それを案内者に就て聞くに至って、始めて千余町歩の平野が、渡良瀬川破堤の為、三毛村を流出して二千余町歩の赤間沼に注ぎ、赤間沼の水が溢れて遂に内野と云ふ所より、百五十間の波堤を為し、谷中村一千余町歩を湖水に変じたのであることを知った」
渡良瀬川が破堤し、三毛村を流下して赤間沼に入り、その堤防が150間決壊して谷中村を襲ったというのである。
明治時代に測量された第一軍管区迅速図をみると、残念ながら三毛村というのは見あたらない。
しかし渡良瀬川が藤岡台地にぶつかり直角に曲流する付近は三鴨村となっている。万朝報の記者が、三鴨と三毛を間違えた可能性は十分あり得ることである。さらに出水直後の明治35年10月、下都賀郡三鴨村から県知事宛の「三合悪水玖樋修築補助願」に次のことが述べられている川。
「本年九月九日暴雨ニテ渡良瀬川洪水ノ為メ、大字甲字高取堤塘裏ヲ弐拾五間吐磋ノ間二欠崩候二付、関係地主其他数百人夫ヲ以テ漸ク欠崩ヲ防止シタルヲ、猶又仝月廿八日意外ノ暴雨雨ノ為メ、前二欠崩ノ個所追々増欠シテ、前ノ如ク数百人ヲシテ百万人カヲ尽シタルモ其効ナク、不幸ニシテ長五間ノ破堤トナリ。該堤二接続スル前述ノ四ヶ町村ハ不申及、一円ノ鉱毒水ヲ浸入シ加フルニ水力一時二玖樋二激流シタル為メ、該玖樋ハ裏ヨリ表二押抜キ水二赤麻沼ヲ経テ、部屋、谷中、生井、寒川、野木等ノ各村浸水トナリ。」
三合悪水玖樋が9 月の出水で破壊したのであるが、排水用のこの入樋は「裏ヨリ表ニ」激流によって破壊され、赤麻沼に流出したというのである。通常とは逆の方向からの洪水よって破壊されたと理解される。
ところで、この区域に興味深い河川、蓮花川がある。関根清蔵著「蓮花川」(全国農村教育協会)によると 、古代の蓮下川は図7 にみるように渡良瀬川に合流していたが、江戸時代は図8 のように築堤でもって遮断されたというのである。その代わり蓮花川・赤間沼との間に新堀が人工開削されてつながり、古代のふいご湖の水は赤間沼に落とされ、湖沼の面積は3 分のl 以下となって唯木沼と呼ばれ、その周辺は水田が開発されたのである。新堀が人工開削されたのは宝永7 年(1710)であった。
つまりこの蓮花川を中心にみると、渡良瀬川と赤間沼はつながっているのである。このことから、明治35年8 月・9 月の洪水では、高取・底谷間で蓮花川と渡良瀬川を遮断した堤防が渡良瀬川の洪水により決壊し、洪水は唯木沼から新堀を通り、三合玖樋を裏から破壊して赤間沼へ流入したものと判断される。明治43年から始まった近代改修によって、渡良瀬川は藤岡台地を開削した人工水路により渡良瀬遊水地(主に赤間沼と谷中村の地に築造)に流入することとなったが、それ以前もこの台地を横断して渡良瀬川洪水は赤間沼に既に流入していたのである。
また関塚は、「寛永元年(1624)に古河城主永井信濃守尚政により、底谷と高取の間の渡良瀬川の大湾曲部が、基部で連結さるように開削された」と述べている。この前後の渡良瀬川河道に、人間の手が数々人ったことは間違いないだろう。 
4 明治43 年着工の渡良瀬川改修計画
明治36年3 月に内閣総理大事に提出された「足尾銅山二関スル調査報告書」は同年6 月帝国議会に提出され、国民の知るところとなった。それに先立ち内務省は同年5 月、この報告書に対する意見書を内閣総理大臣に提出した。その中で渡良瀬川改修について次のように述べている。
「第二、渡良瀬川改修二関スル件
襲二足尾銅山鉱毒問題ノ起ルヤ渡良瀬川改修ノ件モ之卜同時二世人ノ注意スル所トナリ、当時石黒第一区土木監督署長ヲシテ其ノ計画ヲ立テシメシコトアリ。然ルニ其結果工費金壱千弐百万円ノ巨額ヲ要スルヲ以テ遂二其施エヲ見ルニ至ラス、更二日下部署長ヲシテ別案ヲ考究セシムルニ至り目下尚其調査中二属ス。鉱毒調査会ハ遊水地設置ノ方法ヲ以テ渡良瀬川改修ノ必要ヲ報告セリ。若シ単二治水ノ点ヨリ之ヲ見トキハ該川ノ改修ハ未タ其ノ順位二達セス、偶々鉱毒問題ノ為メニ急二其ノ改修ノ必要ヲ見ルニ至リタルヲ以テ之力為二本省所定ノ計画以外二於テ別二相当財源ヲ求メ、以テ之ヲ施エシ他ノ府県二於ケル河川改修ノ順位ヲ攬乱スルコトナキニ於テハ、該川改修ノ急ハ真二調査報告ノ如キモノナリ
現今施工中二係ル利根川ノ改修計画二於テハ、渡良瀬川合流ノ現状ヲ変更セサルモノトナスカ故二、若シ之二反スルノ設計ヲ取ルトキハ利根川ノ河川敷地ハ現計画二対シ幾多増加ノ必要ヲ生シ、其工費亦著シク増大スルニ至ルヘシ。故二鉱毒調査会二於テ遊水地設置ノ計画ヲ為セルハ最モ適当ナリ」
このように全国的な治水の観点からみると、渡良瀬川改修着手はまだその順位に達しないが、鉱毒問題のために改修が必要となった。現在内務省が進めている河川改修計画とは別途に財源が確保され、河川改修の順位を「攬乱スルコト」のない場合には、渡良瀬川改修は急いで行うべきものである。また、利根川との合流関係を変更すれば、現在、施工中の利根川改修計画に大きな影響を与え、工事費が著しく増大する。このため遊水地設置の計画が最も適当、と評価した。
大蔵・農商務両大臣からも意見書が提出され、これらを踏まえ、同年5 月次のような閣議決定が行われた。
「鉱毒調査委員会ノ報告ハ之ヲ議院二示スヲ可トス、該報告中事ノ直二実行シ得ヘキモノハ之力実行二着手スヘシト雖、治水事業ノ如キハ巨額ノ支出ヲ要スルモノナルヲ以テ、更二実地二就キ調査測量ヲ遂ケ詳細ノ費額ヲ査定シ、之力財源ヲ調査シ財政ノ許ス限リニ於テ之ヲ実行セムコトヲ期ス」
改修事業は、巨額の支出を要するのでさらに詳細な実施調査を行い、費用を査定し財源を調査して財政の許す範囲内で実行することが閣議決定されたのである。
なお調査報告書は、谷中村周辺について低湿地で到底、耕地に適さないところが広大にあるとして次のように述べている。
「藤岡、海老瀬地方及思川、巴波川等ノ沿岸耕地ハ扉頗卑湿ニシテ作物ノ栽培二適セサル所齢ガラス、今其ノ面積を算スルニ低水位上六尺以内ノ低地殆ント四千町アリ、之レ堤防ノ続囲スルアルヲ以テ直接氾濫ノ害斟シトスルモ水流緩慢ニシテ水停滞シ易ク農作地タルノ価甚少ナシ、其ノ内低水位上四尺以内ノ地二千二百七十余町歩二至りテハ到底耕地二適セス」
内務省直轄により、渡良瀬川改修事業が着手されたのは明治43年度である。42 年12 月に召集された第26帝国議会で承認され、実施に移されたのであるが、その事業費は750万円であった。しかし国による改修事業着手以前に、谷中村は栃木県により土地収用法も適用され全面買収となった。
ところで、明治43年4 月まで、なぜ事業着手に至らなかったのか、あるいはなぜこの時に着手されたのであろうか。明治43年8 月、全国的な大水害があり、これを契機に第一次治水長期計画が樹立された。そして翌年度から全国の大河川で治水事業が進められたが、利根川の一支川である渡良瀬川改修はそれに先立って着工されたのである。この時までに政府が治水事業に着手していたのは、木曽川、淀川、利根川などの10大河川であり、首都・東京を流下していた荒川も着工していなかった。
足尾鉱毒問題が、渡良瀬川遊水地築造を伴う渡良瀬川改修に大きく影響したことは間違いない。
内務省は次のように述べ、渡良瀬川改修が鉱毒事件さらにその延長としての谷中村問題に関連があったことを指摘している。
「明治23年頃ヨリ同39年二渉レル鉱毒被害、次デ谷中村問題等二依り渡良瀬川ノ名ハ世人二遍シト雖モ、要スルニ其被害ハ主トシテ水害ノ裔ス所ニシテ其激甚ノ度又自ラ想定スルニ難カラザル可シ、故二朝野挙ゲテ之ヲ忽諸二附ス可カラザルモノアルヲ認メ、明治43 年第26議会二於テ本渡良瀬川洪水防禦ノ議ヲ決セリ。」
ここで、国直轄による渡良瀬川改修事業着工が承認された第26 帝国議会での議論を見てみよう。
明治43 年3 月フ日の衆議院予算委員第二分科会(内務省所管)で次のような質疑が行われた。
「政府委員(内務次官一木喜徳郎) 御承知ノ通り渡良瀬川ノ改修ノ必要ナルコトハ殆ド一般二認メラレテ居ルノデアリマス、既二先年鉱毒調査会二於テモ其必要ヲ決議シタノデアリマス、又先年衆議院二於テモ御建議ノ次第モアリマスカラ、旁旁是が調査ヲ致シマシテ改修工事ノ計画ハ定マリマシタガ、之二充ツベキトコロノ費用ハ御承知ノ通り土木事業が既ニソレぞれ予定セラレテ居ルトコロノ事業ノタメ二五十年度迄八一杯ニナッテ居リマス、ソレデソレマデノ間ハ其地方ノ分担金ヲ繰上ゲテ之二充テマシテ、五十一年度以後国費ヲ以テ支弁シテ此計画ヲ実行致シタイト云フ考ヲ以テ此予算ヲ編成致シマシタ、ソレデ此分担金ノコトニ就テハ既ニソレソレ県会ノ決議ヲ経マシテ、漸ク今回関係各府県ノ決議が纒リマシタノデゴザイマス、目下施エシテ居リマスルトコロノ利根川ノ改修工事ト相侯ツテ、其完成期マデニ共二渡良瀬川改修工事モ完成セシメタイト云フ考デアリマウス、ソレデ本年度カラ著手スルト云フ目的ヲ以テ年割額ヲ定メテ御協賛ヲ仰グ次第デアリマス」
このように、政府は改修計画が確定したこと、さらに予算についても目途がたったと主張した。
予算についてみると、51 年度以降、国の予算をあてがうことが出来るが、それまでは県の負担金でもって事業を進める、この方針は県会で既に決議を得、了承されていると述べている。なお各県の費用分担は、栃木県130万3,000円、茨城県30万6,000円、群馬県38万8,000円、埼玉県26万9,000円の合計234万6,000円であった。これは事業費750万円の約31% であった。
さらに次のような質疑が行われた。
「政府委員(内務省土木局長犬塚勝太郎) 渡良瀬川二付テハ多年問題デアリマシタノデゴザイマスカラ、此地方二此案ヲ示シマシテ其地方二於テ之ヲ県会二出シマシタ際二於キマシテモ、地方ノ議会二於テ種々之二付テハ各議員二於テ深ク攻究サレマシタヤウデアリマス、ソレデ議員ノ中ニハ多少此工事ノ大体二付テ異論ヲ狭ム人が初メハアリマシタ、併ナガラ是等ノ人ニハ実際二就テ其事情ヲ了解セシムルタメニ或ル県二於キマシテハー回、或ル県二於キマシテ八二回、県会ノ議員ノ重ナル人々が地方長官一県知事、並二内務省ヨリ派遣致シマシタトコロノ技術家卜共ニ此改修区域ヲ普ク巡廻セシメマシテ其巡廻ノ結果此設計ヲ是ナリトシテ何レノ県二於テモ決定サレマシタヤウナ次第デアリマスルカラシテ、今日二於キマシテハ地方議会二於テハ何レモ此設計ヲ是認致シテ居ルモノト認メテ居リマス○粕谷義三君此渡良瀬川改修費ノ地方分担金ヲ年度二割当ツタ各県毎ノ調ベハ出来テ居リマスカ、出来テ居リマスレバソレヲ御回シヲ願ヒタイ
○政府委員(犬塚勝太郎) 各県毎ノ調ベハ出来テ居リマスカラ今書類ヲ御回シ致シマセウ
○粕谷義三君ソレカラモウ一ツ御尋致シマスルガ、此工事ヲ施エスルニ付テハ彼ノ谷中村ノ如キ瀦水池モ出来ルト云フ技師ヨリ御説明モアリマシタガ、其中デヤハリ谷中村ト同ジヤウニ其処二幾許ノ住民ガアリマセウガ、ソレヲヤハリ脇二移転ヲ命ズルト云フヤウナコトデ茲二費用ヲ見積ツテゴザイマスルガ、凡ソ其戸数ハトノ位デゴザイマスノデスカシラ……
○政府委員(犬塚勝太郎) 唯今ノ御尋二対シテ御答致シマスルガ、此谷中村二付テハ殆ド谷中村全部ヲ買収致シマシタ、其タメニ村ノ全部ノ戸数ヲ他二移スヤウナ結果二至りマシタノデゴザイマスルガ、今度遊水池二編入致シマスル場所ハ堤外地が多クアリマス、此堤内ノ耕地ハ凡ソニ百町歩バカリト記憶シテ居リマス、随ツテ谷中村ノ如ク全部悉ク買収シテ、其処ノ住民ノ家屋ヲ他二総テ移スト云フヤウナコトハナイノデアリマス、勿論今般御話致シマシタ如ク堤内二於ケル幾分ノ耕地が入ツテ居リマスカラ、其処ニアリマスルトコロノ竹木若クバ家屋モ或ハアルカモ知リマセヌガ、ソレニハ他二移転スル必要ヲ生ズルト思ヒマスルガ、谷中村ノ如キ場合ハ此度設計二依ツテ生シナイ見込デアリマス
○粕谷義三君是二関係シテチョット谷中村ノ其後ノ状況ハドンナ風ニナッテ居リマセウカ、若シ御分りニナッテ居リマスナラ……
○政府委員(犬塚勝太郎)本員ノ承知シテ居リマスルトコロノデハ未ダ彼処二許可ヲ得ズニ残ツテ居ル者ガーニ戸ハアルカモ知レマセヌケレドモ、併シ他ノ者ハ皆ソレソレ県二於キマシテ農商務省、其他卜協議致シマシテ代リノ耕地二与ヘテヤリマシタトコロノ新開墾地二移住致シマシタガ、是等ノ者ハ農作上ノ状況ハ其後良イヤウニ承知致シテ居リマス、其他ノ者ハ或ハ藤岡ノ方二移り、或ハ他ノ郡二移住シタ者モアルヤウニ聞及ンデ居リマズルカ、其後ノ状況ハ先ヅ本員ノ聞及ビマスルトコロデハ今申上ゲマシタヤウナ状態卜心得テ居リマス」
政府委員からの主な答弁内容を整理すると、次のとおりであった。
地方議会の議員で渡良瀬川改修に独自に意見を持つ人がいるが、!回あるいは2 回、県知事そして内務省から派遣した技師と一緒に現地を回り、改修計画を了承した。新たに遊水地に編入するところは堤外地が多く、谷中村のように全村買収するところは生じない。全村買収とした谷中村については、まだ買収に応じない残留戸数は12戸あるが、その他は新開墾地あるいは藤岡等の方へ移住した。
つまり改修計画の策定、それの地方議会への説明と分担金を含めた了承が整ったので、いよいよ事業着手となったと理解してよいだろう。
さて改修計画であるが、足利の岩井地点から下流が改修区域である。旧谷中村を中心にして遊水地築造となったが、そこへの放水路は、明治35年8 月、9 月の洪水が走った藤岡台地上の水路をショートカットするような計画となった。また第二次鉱毒調査会でも主張された放水流入口の洗堰、さらに谷中村側の樋門等は築造されず、放水路の下流にあたる渡良瀬川は廃川となった。洪水・平水とも自然流下で遊水地に流入することとなったのである。
さらに中流部で渡良瀬川に合流し、その合流ロが霞堤となっていた秋山川、旗川、矢場川などの支川はすべて霞堤が閉じられ、対岸とほぼ平行の連続堤で整備された。第二次鉱毒調査会で述べられた(小)遊水地は計画されなかった。その分、洪水のピーク流量は増大するが、渡良瀬遊水地の強化によって対応したと推定される。霞堤締切の前提として、遊水地の築造があったことは論を侯たない。この改修事業の結果、3,200町歩が堤外地から堤内地へと移行した。 
5 技術者・神谷嘉平
明治の利根川そして渡良瀬川改修事業に対し、実に重要な役割を担った地元出身の一人の技術者がいた。その技術者とは、群馬県邑楽郡佐貫村須加(現在の明和町)に嘉永3 年(1850) に生まれた神谷嘉平である。彼は、利根川・渡良瀬川改修が行われている最中の大正2 年(1913)、病気のため死去したが、技術者としての彼の経歴を見ると、明治10年(1877)、内務省が利根川低水工事に着手した時、沿岸府県は治水技術の勉学のため2 名ずつ県費生を派遣することとなった。神谷は群馬県から選ばれ、関宿土木出張所で測量・施工について学習した。さらに、宮城県野蒜築港工事の現場に派遣され、勉学を行い、12年8 月、「治水測量学及実施施工法伝習済」の証書を得て帰県し、24年4 月まで群馬県技術者として活躍した。この間「利根・渡良瀬両川改修工事主任」の地位にもあり、群馬県下の利根・渡良瀬両川について十分、熟知していたのである。
この後、24 年5 月、内務省に移り、第一区土木監督署勤務となって利根川改修工事を迎えた。この事業では、工務係長、土地収用事務長として現場第一線を仕切ったのであるが、さらに渡良瀬川改修計画においても重要な役割を果たしたと考えている。つまり藤岡台地を開削する放水路計画策定には、彼の役割が大きかったと判断している。そしてそれを支えていたのが邑楽郡田谷村に住み、藩政時代、詳細な実測図まで作成していた大出地図弥の計画であったと考えている。
神谷の出身地佐貫村須加(現・明和町須加)と大出の田谷村(現・館林市田谷) とは、直線距離にしてわずか10km である。神谷が群馬県技師として主に活躍したのは明治12年から24年にかけてであるが、この時、大出は存命であった。利根・渡良瀬両川を主任として担当していた神谷が、大出と接触しなかったというのが不思議である。大出の計画は神谷を通じて内務省技術陣の知るところとなり、この計画をベースにして渡良瀬川改修計画は策定されたと考えている。
利根川、渡良瀬川治水の意義は、特に地元群馬県邑楽郡にとって重大だった。神谷が、邑楽郡の利益を内務省にあって代弁していったことは想像に難くない。彼の死去にあたって利根川水害予防組合管理者・渡良瀬川水害予防組合管理者である塙任と、地元の有力者・衆議院議員武藤金吉から、利根・渡良瀬川改修事業において地元に貢献した神谷の活躍を大いに称える弔辞が述べられている。 
6 古市公威と第一次鉱毒調査会
政府は明治30年(1897)3 月、内閣直属の下で足尾銅山鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)を設置して対応を図った。ここでの議論の最も重要な課題は、鉱業を停止させるかどうかであったが、結局は被害民が求めるような停止を行わず、銅山経営者・古河によって予防工事を行うことに決定した。鉱業を停止させるかどうか、この基本の問題を巡って委員会では激しい議論が展開された。当初、事務局が提示した案は、予防工事が完了するまで停止させるというものだった。しかし結局はその案は修正された。
ここでは、治水分野が属する土木工学の権威者として委員会に参画した古市公威の主張・考え方を中心に、鉱業停止問題の経緯について詳細に検討する。当時、古市は内務省土木技監兼土木局長・帝国大学工科大学学長であり、土木工学の第一人者であった。委員会のメンバーは表1 に示す。資料としたのは「栃木県史史資料編近現代九」であり、その基は国立公文書館所蔵の「足尾銅山鉱毒事件調査委員会議事速記録」である。 
6.1 第1 回報告に対する委員会での議論
鉱毒の原因は足尾銅山からの廃鉱であり、その予防設備は不完全と認めた後、その対応についての議論が30年4 月14日、15 日にわたって行われた。14 日の委員会は、午後2 時15 分に始まった後、午後7 時35分から8 時25分の休憩をはさんで、終了したのは翌日の午前O 時10分であった。先ず事務局から次の案が提案された。
「以上ノ事由二依り当委員会ハ左ノ件々ヲ各主務省二下命アランコトヲ上申ス
1.一日モ速二足尾銅山附近ノ山谷二相当ナル方法ヲ以テ砂防及植樹ヲ為サシムベキコト
1.一時足尾銅山鉱業ノ全部若ハ其幾分ヲ停止シ鉱毒ノ防備ヲ完全二且永久二保持スル方法ヲ講究セシムルコト
I. 相当ナル方法ヲ以テ渡良瀬川ノ鉱毒含有ノ土砂ヲ浚渫若ハ排除セシムルコト」
3つの項目について、主務省に命令するよう委員会は上申する、との案であるが、その第2 項に「一時足尾鉱山鉱業ノ全部若ハ其幾分ヲ停止」して、完全かつ永久なる鉱毒の予防方法を講究するとある。これを巡り激しい議論が展開された。
先ず農商務省鉱山局長でもあった肥塚龍が激しく噛みつき、主務省(農商務省)では実行出来ないとして次のように主張した。
「之ハモウー部一時ノ停止ドコロデハナイ、全部停止シナケレバナラヌカモ知レマセヌケレドモ、此際二当ツテ之ヲバ主務省二実行セヨト云フコトハ、私ノ考デハ此際ハ容易二決行出来ナイカト思フノデゴザリマス。」
その具体的な理由の一つが、予防策が判然としないことであり委員会で予防策があったらまだしもと、次のように述べた。
「ソレトモ之ヲバ防備スルト云フ事柄ノ条件ヲコチラカラスツカリ備ヘテ、之ハ斯スレバ防備之ハ斯スレバ防備卜云フ大略デモ宜シウゴザリマスガ、ソレガ略ボコチラニ成案ガアツテヤルナラバマダシモデゴザリマスケレドモ」
さらにこの案が採用されたら担当部局は大変であり、また委員会で決定しながら内閣によってその採用を否定されたら、委員会の面子丸潰れだと次のように主張した。
「余程実行ノ上二於テ、或ハ若シ内閣が之ヲ採用スルト其局二当ツタモノハ余程之ハ他日ハ兎モ角モ、今日差当ツテ困ル問題デアラウト思ヒマス、又若シ之が内閣が此事ヲバ採用シナイトナリマスト、此委員会デ決議ヲ致シタ此委員会ノ面目信用ニモ幾ラカ係ハルコトヽ思ヒマス」
他の委員からの質疑の後、事務局が提示した「停止」の意味について、委員長・神鞭知常から説明があった。停止とは決して鉱害を生じさせた事に対する懲罰的な意味ではないと強く主張し、「(廃鉱は)除カセルニデスナ、除クマデ其手続が見付ルマデハ流シテ居ツテモ宜イト云フコトハナイ。之ハ其方法ヲ講究サセテ除ケルマデハ、此仕事ヲ止メサセテ之が除ケタラ此仕事ヲサセルト云フコトハ誠二通常ノ話」と、被害が生じているのでそれを除去する方法を講究するまでは、停止することは当たり前だと述べた。さらに「停止」について、永久に仕事をさせないことではない、停止しなければ予防することはできない、鉱山側が早く予防を行ったら、それだけ停止期間は短くなるなどと、次のように主張した。
「人民が害ヲ被ツテ今苦ンデ居ル、乍併山ノ方カラ害ニナル物が日々出テ来ルト云フコトガアツタナラバ、其害ノ源ヲナス事柄ヲ差当り停止シテ、其害ノアルモノヲ流出サセヌヤウニシテ、サウシテ其代リニハ昼夜掛ツテナリト、モ八方二奔走シテナリトモ其害ニナルモノノ流出ヲ安全二拒ゲル都合が立テバ、ソレデ仕事ヲ許シテ一向差支ナイコトデアル」
「予防ヲ命ジテ其予防ヲスル事柄が鉱業ヲ停止シナケレバ、其事柄が遂ゲラレヌトキニ鉱業ヲ停止スル1ヽ云フ事柄二過ギナイ。決シテ予防ヲ命シテ、予防が命令通リシナカツタトキニ鉱業ヲ停止スルト云フコトデハ決シテナイ」
「此停止卜云フコトハ永久二仕事ヲサセナイト云フノデナクシテ、其害ヲスル事柄ノ止ムマデ停メテ置ケバ宜イ」
「其害ノナイト云フコトヲ認メタトキニ許スノデアル。サウスルト、鉱山ノ方デ骨ヲ折ツテ早クヤレバ直グニ抜ケル。ソレヲ長ク掛ツテ居レバ、自分が困ルカラ長ク掛ツテ居レヌト云フ関係デアル」
また明治維新前は「農ハ国ノ本ナリ」と農業が最も重要であったが、今では農業、工業を同等に取り扱わなければならない、だから古河に懲罰的な停止に反対するとの意見に対し、神鞭は次のように反論した。
「農ハ国ノ本ナリト云フコトハ最早言ヘナイト仰シヤルケレドモ、事実上二於テ農ハ国ノ余程本デアル。又鉱山事業モ国ノ本ノー部デアル。之ハ農の国ノ本ナリト云フ議論デ此農ヲ害スルモノハ何ンデモ構ハヌ、ドンナコトモスルト云フコトヲ云フナラバ甚ダ不都合カモ知ラヌガ、在来農業ヲシテ居ルモノニ小部分ナラバ害が及ブ場合ニハ、鉱業ノ方ヲ其害ヲ及ボサナイヤウニサセルト云フコトニ就テハ、少シモ差支ナイ話デアル」
神鞭は、このように国にとって農が基本であり、鉱山事業はその一部と認識し、鉱業側に対策をさせる事は当然と述べた。また、予防策に対する肥塚の主張に対し、農商務省の当局者が一生懸命考える事は当然であるが、委員会委員も独自に研究しているのだから、内閣が採用するしないに関わらず、この委員会で考究することを提唱した。さらに実行するのに困難な対策であったら、この委員会の決議があれば内閣はその実行が容易になるだろうと述べた。
また予防の具体策を委員会で検討し、それを踏まえて決議すべきだとの肥塚の意見に対し、「此処が予防工事ノ設計マデシテヤルト云フ性質ノモノデナイト判断シ」、「予防工事ノ設計ハ農商務省若クハ農商務省ノ鉱山局等二於テスルカ、寧口鉱業人が立テヽ相談ヲシテ伺ヒヲ出」すもので、当委員会の役割は。「彼ノ鉱山ノ流出スル毒害ヲ除カニヤナラヌ。続ケテヤツテ居ツテハイケナイトカ、流シテ居ツテハイケナイトカ云フコトヲ決スルノガ適当」とした。
これに対し肥塚は、全部の停止あるいは一部の停止とは、最終的に行う重大な処分であって余程の理由がなくてはならない。「若シ軽率ナ理由二依ツテ恐ロシイ停止ノ処分ヲシタト云フヤウナコトニナリマスルト云フト、此委員ノ信用ニモ余程関係スルシ、又政府ノ威信ニモ関係ガアル」として、慎重な対処を主張した。鉱業条例では、最後の処分とは採掘権を取消すことであるが、肥塚は新聞社の発行停止が新聞社の一命を奪うとの事例をあげ、停止とは「最終ノ処分卜云フベキ重大ナルコト」との認識であった。
委員・長岡宗好は「一時足尾銅山鉱業作業中進行ヲシツツ主トシテ鉱毒ノ処分ヲナシ、鉱石等ノ流出防備ヲ至急完全ナラシムルコト」との修正意見を提出した。それは足尾銅山が国家に有益であり、鉱業の必要も充分認めた上で、農業側の立場から足尾銅山の一部停止を主張したものだった。委員会として足尾銅山から鉱毒が出ているのを認めているのだから、「ドウシテモ、鉱毒ト云フモノヲ至急二止メナケレバナラヌ」「洪水ノ時ノコトハ是ハ天災トシマシテモ、平常二出マスル所ノ毒ト云フモノハ必ズ止メテヤラナケレバ、即チ農民二於キマシテ物ヲ耕作スルニ大二不安心ヲ来シマス」「此農家が今日困難シテ居ルノヲ見ナガラ、此鉱業ノ最モ毒ノ出ルモノヲ止メナイデ置クト云フコトハ、実二気ノ毒ナコトデアラウト私ハ考ヘル」と認識した。
しかし彼の主張する一部停止とは、「銅山二対シテモ余り影響ヲ及ボサズ又鉱業ノ原因ヲナス最モ重ナル」洗鉱作業を停止するものだった。その代わり「刮り堀」で鉱石を得て、溶鉱炉に回したら営業は続けられるというのである。なお長岡は、洪水によってもたらされる鉱毒被害ではなく、用水によってもたらされる被害から農家を救出することを考えている。
次に古市公威が意見を述べた。まず、先に渡辺渡が提出していた次の修正案に賛意を示した。
「l 期日ヲ定メ鉱毒ノ防備ヲ完全二且永久二保持スルノ方法ヲ実施セシムルコト、若シ該期日夕経過シ怠慢ノ処置アリト認ムルトキハ鉱業ヲ停止スルコト」
つまり期日を定めて予防を行い、その期日までに怠慢のため完成しなかったら鉱業を停止するとの主張である。なお渡辺は「御一新前トハ違ツテ、今日デハ農ハ国ノ本ナリト云フコトヲ云ツテ居ラレナイト思ヒマス。総テ何処デモ相当二農業デモ鉱業デモ、同等二取扱ハナケレバナリマセヌ」
と述べているように、鉱業に理解を持つ立場である。
古市は、「停止」について懲罰的な意味でなく、委員長の考えのように「防禦ヲナスタメノ停止」であり、永久ではないと述べた後、停止が必要の条件として、次の2 つをあげた。
1.防禦スルノニ停止が必要(予防設備を完成させるのに停止が必要)
1.防禦如何二拘バラス今ノ設備デハ停止が必要(社会的に停止というパフォーマンスが必要)しかし古市は「土木ノ方カラ云ヘバ、停止ハ必要デアルト云フ説ハ反対デアル」として、停止には反対した。その理由の一つは、停止を行わずして防禦もできることであり、次のように述べた。
「今ノ設備ハ不完全ナリ。其設備ノ不完全ナル一日モ早ク是ハ完全二且ツ永久二保持スペキ計画ヲ早クセナケレバナラスト云フ位ナ考ヘデ、私ノ方カラハ今絶対的二停止ハ必要デハナイ。ソレカラナンノ方カラー一鉱業ヲスルタメニ停止が必要カト云ヘバソレモナイ、停止ヲセズニ防禦八十分私ハ出来ルト思フ」
もう一つは、農業との関係である。停止が与える影響と、今の農業の状況を考えたら停止は必要ないと次のように述べた。
「洗鉱カラ出ル水卜云フモノハ左程エライモノデハナイガ、之ヲ今緊急問題トシテ議決シテ一日モ早クヤラセルハ宜イケレドモ、今日カラシテ直グニ停止セナケレバナラヌ程ノ程度デアラウカ。ソレ迄トハ私ハ信シナイ。ソレ迄二進ンデヤウト云フニハ、余程今ノガ害ガアルソト云フコトヲ確メテカラ往カナイト。一方翻ツテ、停止ノ結果ヲ考ヘテ見ルト云フト、随分不権衡ナコトニナリハセヌカ」
長岡が主張した洗鉱を止めて「舌リり堀」をすることには、「痛岸粗関」と技術的観点から強く否定した。これを行うと鉱業は縮小するというのである。続いて多くの人々が働いている事業を停止させるのは、大きな影響を与えるとして次のように述べた。
「ソレ程ニシテ、サウシテ一日百五十俵モ飯ヲ喰フト云フ大部分ノ事業ヲ止メテソレハ、成程理屈カラ云ヘバ外ノ事業二当テレバ宜イト云ハレルガ、設備ノ計画ニナルト後トデ当テル訳二往カナイト云フ場合ガアル。兎モ角モ、少カラヌ人民ノ安堵卜云フモノハ丸デ失ツテ仕舞フ。ソレ丈ニスルモノト覚悟シナケレバナラヌ。ソレ程影響ヲ来スコトガアツテモ、今ノ洗鉱ノ水ヲ止メナケレバナラヌカ」
古市は、明らかに鉱業に肩入れしている。また現状の防備について「アノ位ナラマア大抵宜カラウト思バレル、唯遺り方が不完全ダ」、あるいは「僅カナ設備デ是ハ出来ルト思バレル」と主張した後、停止は行わなくても防御できるとして次のように述べた。
「要スルニ、未来二就イデー日モ早ク完全ニサセナケレバナラヌト云フモノハ勿論アルニ違ヒナイ。アルニ違ヒナイカラ、畢竟此案卜云フモノモ出タノデアラウト思フケレドモ、其設備ヲ直グヤラセル、今ヤレト云フ迄二必要デアツテ、之ヲ停止センナラヌト云フコトハ、私ハドウモ信シナイ」
「案ジテハ居ラレヌカラ、一日モ早ク設備ヲ完全ニサセナケレバナラヌ」
具体的には、農商務省が竣工までの期限を定めた計画・設計を行い、実行させたらよいと主張したのである。
これに対し長岡は、水田に対する農民の不安を除去するのはどうするのかと質問した。これに対し古市は「是レノ考ヘヲ持チ始メクラ仕様ガナイ、私ハソレハヤラヌ積リダ。念ヲ除去スルナラバ、鉱山を停止シタガー番念ヲ除去スルカ知ラン。斯ウスレバ、一番念ヲ除去スルト云フ策略ハ今ハナイ」と、不安をなくす策略はないと述べた。この答えに長岡はさらに、もし農民が古市に現況の水を利用して耕作しても害はないかと聞かれたらどう答えるのか、と迫った。これに古市はきっぱり、「私ハ其位害ガナイト認メル」と答えた。
ここで注意しておきたいのは、この議論での被害とは農業用水として渡良瀬川の水を使用した場合の害である。洪水による土砂氾濫による被害を対象としていない。
なお他の委員から、足尾銅山の鉱毒対策は十分ではないのですね、との確認の質問に対し、古市は「今ノデ八十分ナリト認メナイ」と述べている。
この後、予防工事にどれほどの年数がかかるかとの質問が出たが、これに渡辺渡が答えている。
その結論は「二年トカ三年トカ掛カルモノデナイ。又仕事ヲヤリツヽ、決シテ出来ヌコトヂヤナイ。
今ノ仕事二多少改良」すればよい、「今ヤツテ居ル奴ヲ完全サセル、完備サセル」と、足尾鉱山で現在行われているものの改良であり、そのため完成まで日数はそれほど必要ないとの主張である。
古市に対しても質問が出た。古市は次のように、停止したからといって土砂の流出がなくなるものではない、漸々と直していけばよいと主張した。
「チヨツト雨が降ルト、ドノ山カラデモ土砂ヲ流スノデス。アノ僅捨テ置イタナラバ永代ノ策デナイ。完全二且永久ノ策デナイ。ソレハ直サナケレバナラヌガ、ソレハ止メタカラト云ツテ直ルモノデナイデス。ソレカラ是が漸々直シテ往ケバ宜イ。アレヲー日モ早ク直シテ往キタイト云フノデ、斯ウ云フ手段ヲ取レバ宜シイ。」
坂野初次郎から、長岡と同様に予防方法が完全になるまで停止すべきだとの意見が出された。有害物質が流れ出ていることが分かっていながら、鉱業をそのまま営業させることは出来ないとの立場である。停止すると鉱山が損をするから、停止は大変重大なことであるとの意見を否定し、予防方法が完成するまで停止すべきだとして次のように述べた。
「鉱山二対シテ損ヲスルガ気ノ毒ダト云フ経済上ノ考二重キヲ措クナラバ、多数ノ農民が今日非常二騒動シテ居ルニ、ソレヲ構ハヌデ宜イト云フコトニナリマスト云フト、余程釣合が妙ナモノデナイカト思ヒマス。況ヤ、実際其毒ヲ流シツヽアルモノヲ其優二措イテ、何ノ係リカモ知レナイケレドモ、予防方法ノ完全スル迄、矢張り現在ノ儀ヤルト云フヤウナコトハドウモ、此委員会が甚ダ不親切甚ダ不公平デアルト云フ考ヲ持ツテ居リマス」
この後、休憩に入ったが、再開にあたり委員長から第2 項の鉱山停止問題について修正案が出された。「速ニ」を加え、「講究セシムルコト」を「講究実施セシムルコト」に修正した次のものである。
「1. 一時足尾銅山鉱業ノ全部若ハ其幾分ヲ停止シ速二鉱毒ノ防備ヲ完全且永久二保持スルノ方法ヲ講究実施セシムルコト」
なおこの項を、その重要性から第一項にもってきた。また新たな第2 項、第3 項について次のような修正案が提示された。
「1. 一日モ速二足尾銅山附近ノ山谷二相当ナル方法ヲ以テ砂防防火及造林ヲ為シ茲二治水上必要ナル森林ヲ保安林二編入セシムルコト 1.渡良瀬川ノ氾濫ヲ防禦スル為メ及鉱毒含有ノ土砂ヲ排除スル為二相当ナル方法ヲ講究実施セシムルコト」
ここで鉱業側の渡辺渡と、農業サイドの長岡宗好との間で再び議論が闘わされた。渡辺は、長岡が主張した『舌| 』り堀」について決して行うべき方法ではないと論じた後、改良すべき具体的方法について、次のように停止しなくても改良できると主張した。
「所謂古河市兵衛流ノ何デモ儲カル分バカリ取ツテ、余り儲ガラス所ハ捨テヽ置クト云フヤリ方デ、是ハヤツテハナラヌ方法ナンデス。是ハ寧口、一日モ速二止メサセタイト云フ私ノ希望デアル」
「足尾ノ場合ニハ、流下物ノ粉末ニナツタモノヲ水ノ中二人レルコトノ量モ減ラサセルト云フコトハ、ドウシテモサセナケレバナラヌ。之ハ鉱山ノ費用二影響シヤウガ何ダラウガ、是非止メナケレバナラヌ。サウシテ見ルト、現在ニヤツテ居ルヨリハ流下物ノ水二這入ル量ハ余程減ツテ来ヤウト思フ」
「此改良ト云フモノハ、時日ヲ要セズシテ出来ルコトデス。現時ノ器械ヲ以テ、唯注意ヲ行届カセ監督ヲ厳密ニシテサウシテヤラセルトキハ、困難ナ事業デナイ。少シモ止メナクテモ、出来ル」
これに対し長岡は、自分は鉱業側にも親切心を持って対応しているのに、渡辺は農業のことは全然考えていない、川から導水して濯漑する日本の農業は、イギリスやドイツと異なり特別であると論じた。さらに農業側の意向を汲まなかったら、農民と鉱業者が全国到るところで衝突するとして次のように述べた。
「今日ノ場合ハ、僅二足尾ト足尾以下ノ農民トノ衝突デゴザリマスガ、要スルニ此問題八日本全国ノ鉱山二影響ヲ及ボスコトデアリマシテ、鉱山者ノ方デモ十分農民ノ情実ヲ御採り下サラント。即チ日本全国ノ農民ト、ソレカラ日本全国ノ鉱業者トノ大衝突ヲ来スダラウト思ヒマス。」
この後、採決に入ったが、渡辺の修正案に後藤新平・古市公威の修正が加わり、期日を指定して完全かつ永久的な防備を行わせること、必要な場合には政府がこれを実施して、費用を古河から調達する、もしくは停止させるとの次の修正案が提出された。
「期日ヲ指定シテ鉱毒及煙害ノ防備ヲ完全二且永久二保持スヘキ方法ヲ講究実施セシムルコト、且必要ナル場合二於テハ官二於テ直チニ之ヲ実施シ其費用ヲ鉱業人ヨリ追徴セシメ若ハ鉱業ヲ停止セシムルコト」
これに対し和田国次郎と肥塚龍から、費用を鉱業人に政府が強いて追徴するという規定は法律にはない、鉱業人に一切費用を負担させることは反対との意見が出された。
しかし採決の結果、渡辺・後藤・古市の修正案が賛成多数で委員会の決議となった。
この後、第二項、第三項が異議なく可決された後、長岡から第四項として「速二被害田畑ノ改善方法及其実行方法ヲ講究セシメルコト」を付加することが提案された。これを「講究セシメルコト」を「講究実施セシメルコト」として可決された。
最終的な決議は次のとおりである。
「以上ノ事由二依り当委員会ハ先ヅ以テ左件々ヲ各主務省二命セラルヽノ必要アリト認ム
1.期日ヲ指定シテ鉱毒及煙害ノ予防ヲ完全二且永久二保持スヘキ方法ヲ講究実施セシムルコト、且必要ナル場合二於テハ官二於テ直二之ヲ実施シ其費用ヲ鉱業人二負担セシメ若ハ鉱業ヲ停止セシムルコト
I.一日モ速二足尾銅山附近ノ山谷二相当ナル方法ヲ以テ砂防々火及造林ヲ為シ井二治水上必要ナル森林ヲ保安林二編入セシムルコト
1.渡良瀬川ノ氾濫ヲ防禦スル為メ及鉱毒含有ノ土砂ヲ排除ス為二相当ナル方法ヲ講究実施セシムルコト
1.速二被害田畑ノ改善方法ヲ講究実施セシムルコト」
第三項は、渡良瀬川治水そのものの内容だが、これについてはほとんど実質的な議論は行われなかった。
なお国立公文書館所蔵の「鉱毒調査委員会「類聚記録」明治35年」による「明治三十年鉱毒調査委員会報告要領」には、先述した決議内容は次のように記述されている。
「以上ノ理由二依り先以テ左ノ件々ヲ主務省二命セラルヽノ要アリト認ム
1.期日ヲ指定シ鉱毒及煙害ノ予防ヲ命令シ又ハ政府代位執行シ若ハ鉱業ヲ停止セシムルコト
1.鉱山付近ノ砂防、防火、造林、保安林ノ編入ヲ行フコト
1.渡良瀬川ノ氾濫防禦及鉱毒含有ノ土砂排除ヲ行フコト
1.被害田畑ノ改善方法ノ講究実施」
どのような経緯でこのような文面になったのかは、今のところ分からない。 
6.2 第2 回報告に対する委員会での議論
明治30年4 月26日に次の委員会が開催された。先ず内閣に決議報告を提出したところ、予防の方法について大枠のことをこの委員会で指示することが必要でないか、と言われたので議論したい、と委員長から提案があった。この実質的な議論が行われたのは4 月28 日で、内閣へ報告した決議内容は「鉱毒調査委員会報告要領」によれば次のとおりである。
「本月十五日決議ノ鉱毒及煙害防備ノ方法及程度
1.鉱毒流出ノ原由物ノ置場ヲ定メ石垣又ハ煉瓦等ノ障壁ヲ以テ之ヲ支フヘシ
1.洗鉱排水ノ取扱方法及沈殿池等ノ築造方
1.旧坑ヨリ流出スル馨水捨石其他ノ取扱方法モ前項二準セシムルコトト有害瓦斯亜枇酸其他ノ煙灰ノ防止設備(脱硫方法、高峰上二大煙突の築造、亜枇酸除去装置)
1.右各項実施ノ為メ鉱業ト両立サセルトキハ其ノ部分ノ鉱業ヲ一時停止スルコト」
洗鉱廃水の取扱い、沈殿池等の築造などが記述されているが、第5 項に鉱業と両立しないときはその部分について一時停止することが決議されている。この決議がいかなる議論の下で行われたのか資料とした「栃木県史史資料編近現代九」では〈中略〉となっていて分からない。ただその議論の前に肥塚龍が現地調査を行っている。そして農商務省が先に指示していた明治29年12月26日の予防命令に従って行っている古河の予防工事が、「一口二言ツテ見マスルト子供ノ翫奔物タルノ感ヲ免ノヌ」と、実にひどいものであったことが報告されている。そのひどさについて、いくつかの事例をあげて指摘されているが、この実情報告がなにがしかの影響を与えたのかもしれない。 
6.3 第3 報告から最終報告
委員会は、明治30 年5 月3 日に第3 回報告、5 月12日に第4 回報告、5 月8 日に第5 回報告、5 月28日に第6 回報告、10月3 日に最終報告を出して、その役目を終えた。「明治30年鉱毒調査委員会報告要領」は、その決議報告を次のように記述している。
「第三回報告(三十年五月三日)
1.鉱毒被害地八三種トス
ー洪水ノ為ノ堤防破壊二伴ヒタルモノ
ニ洪水ノ節浸水二依ルモノ
三濯漑水二依ルモノ1.
前項一及ニハ荒地ニシテ地租条例第二十条二依ル免租年期ヲ与フヘキモノ
1.同上三八地租条例二依ルヘキモノニアラス、故二民事上ノ手続ヲ執ルヘキモノナ(本項ニハ反対即特別免租法ヲ設クヘシトノ少数意見アルニ付再議ヲナスコトアルヘシ)
第四回報告(三十年五月十二日)
1.第三回報告第一項三ノ土地二対シテハ特別免租法ヲ制定セラルヘキコト
少数意見(小寺、長岡、坂野)
人為二基因スル損害二対シテハ民事ノ手続二依ルヘシ、外国二於テモ皆ナ然リ、人為ノ結果二対シ法律ヲ以テ国家力免租スル如クンハ左二列記スル場合ニモ皆ナ同様ナルヘシ
第五同報告(三十年五月十八日)
1.鉱毒ノ人身二及ホス結果
1.鉱毒二起因スル直接ノ危害又ハ疾病ヲ認メス
1.河水ノ汚濁土地ノ変質ノ為メニ間接二健康ヲ損シ若ハ不利ヲ来スコトハ勿論ナリ
故二河川汚濁予防法ヲ設ケ衛生巡閲官ヲシテ河川ヲ検定シ清潔ヲ保持スルノ制ヲ定ムルノ必要アリト認ム
第六回報告(三十年五月二十八剛
1.晨二決議シタル衛生上一級河川清潔法案中ニハ広ク衛生並二農工業二其ノ効カヲ及ホサシムルノ目的ヲ以テ制定アランコトヲ望ム
1.(本案ハ決議上申シタルモノト認ム)
1.他ノ鉱山ニシテ鉱毒流出ノ虞アルモノヲ調査セシムルコト
1.外国ノ鉱毒始末及現時ノ処分方ヲ調査セシムルコト
1.速二前項内外ノ調査ヲ了シ農工業ト鉱業トノ調和ノ途ヲ講究セシムルコト
1.以上ノ調査上必要アレハ鉱業条例ヲ改正スルコト
最終報告(三十年十月十三日)
1.被害農作地改善復旧ノ件
速二地方庁ヲシテ改善復旧ヲ勧誘セシメラルヘキコト
改善復旧ノ費用ハ免租ニョリ受クル恩典ヲ以テ支弁シ得ヘキニアラサレハ国庫補助アリタキコト
悪性土砂削除及其後少クモ四、五年間ハ消毒用トシテ毎反二百貫目ノ石灰ノ施与、及特別肥料ヲ要スルニ付キ石灰代二依り補助ヲ見積ルトキハ(被害反別二万五千町歩トシ)
第一年度五十万円反二付平均二円
第二年度三十七万五千円一円五十銭
第三年度二十五万円一円
第四年度二十五万円一円
第五年度十二万五千円五十銭
計百五十万円
1.畜類魚介類、機業、染業等ノ被害二付テハ疑ナキニアラスト雖トモ之レ寧口主務省ニテ調査セラレタシ
1.参考ノ為ノ視察シタル別子銅山ハ目下着手ノ予防工事竣エノ上ハ鉱毒ノ恐レナカルヘク、阿仁ハ目下ハ被害著シカラサルモ之ヲ放置スルトキハ後来被害ノ虞アリ、従テ此際阿仁井二同様ナル鉱山ニハ将来ヲ警戒セシメラレタシ
1.委員ノ解任ヲ棄請ス」 
6.4 鉱業停止問題についての5 月12 日の議論
一件落着した鉱業停止問題は30年5 月12日の委員会でもう一度、ぶり返していた。銅山の現地調査を行ってきた坂野・長岡委員長から、緊急な建議が提案されたのである。彼らは、被害者側の立場から次のような認識の下に鉱業停止を強く主張した。
「主務省が完全ナル鉱毒予防ノ設備が竣エスルマデノ間デゴザイマス、其竣エスルマデノ間二今現在随分毒ヲ出シテ居リマスカラシテ、若シ全部ヲ停止スルト云フコトガ出来ナケレバ其毒ヲ出シテ居ル最モ重ナ部分、ソレ丈デモ一時停止シテ、サウシテ毒ノ成ル丈嵩マラヌヤウニシテ貰ヒクイト云フ精神デアリマス」
「此水田濯漑等ノコトニ就イテ、極ク必要ナ季節デアル。其季節二拘バラス、水源ノ方デ有害ナ物質ヲドンドン流シ出スト云フコトガアルノニ、ソレヲ構ハヌデ居ツテハ往カヌト云フ斯ウ云フ意味ナンデス」
しかし採決の結果少数として否決された。但し内閣には坂野・長岡両委員からの請求と、さらに委員長の判断により次の文書が上申された。
「上申(三十年五月十二日)
本件ハ委員会ニテ否決セリト雖トモ少数者ノ請求二依り上申ス
本官モ時宜二適スルト認ムルニ依り其ノ趣旨ノ採用ヲ希望ス
緊急決議案(坂野・長岡提出)
1.完全ナル予防ノ設備竣工迄一時鉱業ノ全部若ハー部(即チ云々)ノ停止ヲ命スルノ必要ヲ認ム
〔理由、実施ヲ臨見スルニ主務省力予防設備命令セントスルニ当り現在無責任二甚シク鉱毒ヲ伝播増加スルノ行為著シク一日モ猶予シ難キニアリ〕
鉱毒調査委員会での議論の後、東京鉱山監督署々長から鉱業条例第57条により、古河市兵衛に37項目よりなる「鉱毒予防工事命令書」が交付されたのは、30 年5 月27 日である。32 項目よりなる各所の工事については、交付された日から最長120 日以内に竣工するようにとの内容であるが、第32項に次のように述べられている。
「前掲の工事は此命令書交付の日より起算し左の期日内に竣工すべし、但本山並に小滝沈殿池濾過池竣工の時迄其鉱業を停止す」
つまり本山沈殿池及濾過池は50日以内、小滝沈殿池及濾過池は45日以内の竣工と定められ、その竣工までの鉱業の停止を命じたのである。また第37項に「此命令書の事項に違背するときは直に鉱業を停止すべし」と、命令書に違背したときは鉱業の停止が求められたのである。
この命令に対し古河は延人員60万人、費用100万円を要して工事を行ったといわれる。 
6.5 まとめ
委員会で委員長が不在の時は、古市が代理の議長を勤めたように、第一次鉱毒調査会における古市の存在は大きかった。鉱山停止問題に対する古市の意見は、一貫して停止する必要はないということであった。それは技術的な立場から、停止しなくても予防工事を行えるのであり、停止してまでする必要はないということであった。彼は、被害を受ける農民側に立つのではなく、鉱山でも多くの人々が働いていてそれらの人々のことも考慮しなくてはならないと認識しているように、鉱山側に肩入れしている。また農業側には停止を求めるほどの被害ではない、と考えている。さらに農業用水としての渡良瀬川の水の使用について。それによる害はないと判断している。一方、洪水の氾濫に対しては、防衛のための方法を講究実施すると決議されたが、ほとんど実質的な議論は行われなかった。
鉱山停止問題について、最終的には古市、後藤新平、渡辺渡から修正案が可決された。その内容は古河側に、期日を指定して完全かつ永久的な防備を行わせること、必要な場合には政府がこれを実施して費用を古河から調達する、もしくは停止させるというものだった。 
7 おわりに
近世からの渡良瀬川の治水秩序をみてきたが、足尾鉱毒問題が渡良瀬川遊水地築造を伴う渡良瀬川改修に大きく影響してきたことは、詳述してきたように間違いない。しかし足尾鉱毒問題の延長としてのみで渡良瀬遊水地を語ることは、重大な錯誤に陥ると考えている。渡良瀬川下流部は、全くの低湿地域であり開発には築堤を中心とした治水が必要不可欠である。ここでは、群馬県(上野国)側が優位に立ち、栃木県(下野国)が不利な状況に置かれていたという治水秩序が歴史的に成立していた。遊水地問題を考える場合、近世に成立したこの治水秩序が出発点である。
明治33年の川俣事件の総指揮をとった野中春蔵は、後、次のように語ったという。
「谷中一村が潰れることにより、他の村々が救われるのだから止むを得ないだろう。谷中村民は、川俣事件の時も大して熱もなく、上中流の被害民が体を張って闘ってきたのに、何もしなかったではないか。今頃になって何を言うか。」
野口は、放水路開削、遊水地築造を積極的に推進したため、田中正造信奉者からは裏切り者の汚名が着せられている。しかし彼の出身地は、秋山川下流部の遊水地で氾濫常習地域に位置する栃木県安蘇郡界村越名である。この地の氾濫常習地域からの脱却には、それに代わる治水施設が必要である。それが渡良瀬遊水地であった。つまり足尾鉱毒に対する反対闘争の段階から、その対策として渡良瀬川治水が課題となった時、治水をめぐる地域対立が前面に出てきたのである。
一方、ではなぜ、栃木県は直轄事業が開始されるかなり以前に、谷中村を遊水地とするため土地収用法を適用してまで買収したのだろうか。栃木県はもう一方で思川下流部の治水問題を抱えていた。明治32年度、改修事業に着手しようとしたが、下流・茨城県との間で利害が対立し、その調整がつかず挫折した。この後、栃木県が提示したのが谷中村買収による遊水地計画であり、これによって思川治水を進めようとした。因みに、谷中村遊水地計画は「思川流域ノ部」で県会に提案されたのである。第二次鉱毒調査会でも中山秀三郎が「思川、渡良瀬川ヲ併合シテ貯水池ヲ作ル計画ナリ」
と、遊水地は思川治水を含んだ治水計画であった。
第一次鉱毒調査会の議論も詳細に検討したが、足尾鉱山を停止させるかどうか、熱心な議論が戦わされた。当初の事務局案は停止させるというものであったが、議論の末、期日を指定して安全かつ永久的な防御を行わせること、必要の場合には政府がこれを実施して、費用を古河から調達する、もしくは停止させるとの決議となった。これに従い、古河には、37項目にわたる「鉱毒予防命令書」が交付された。32項目よりなる各所の工事については、交付された日から最長120日以内に竣工するようにとの内容である。さらに本山沈殿池及び濾過池は50日以内、小滝沈殿池及び濾過は45日以内の竣工が定められ、その時までは鉱業の停止が命じられた。そして「此命令書の事頂に違背するときは直ちに鉱業を停止すべし」と、命令書に違反したときは鉱業の停止が求められた。
この調査会の議論に古市公威は重要な役割を担い、その結論に大きな影響を与えた。なお渡良瀬川治水については「渡良瀬川ノ氾濫ヲ防御スル為メ及鉱毒含有ノ土砂ヲ排除ス為二相当ナル方法ヲ講究実施セシムルコト」と決議されたが、具体的な議論は行われなかった。 
 
足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地の成立 [3]
 渡良瀬川と利根川の合流 

 

1 はじめに
筆者は、『国際地域学研究第5 号』(東洋大学国際地域学部2002 年)と『国際地域学研究第7 号』(2004年)で、足尾鉱毒事件との関連も含めて渡良瀬遊水地の成立について述べてきた。それによると、渡良瀬川下流部は自然条約に制約されて基本的に常習湛水地帯であった。このため長い期間にわたる治水課題があり、それに足尾鉱毒問題が加わってこの地域の治水整備が喫緊の課題となった。そこで採択されたのが、谷中村廃村に基づく遊水地の整備であった。
谷中村は、思川が渡良瀬川に合流する最下流部に位置し、渡良瀬川下流部での治水をめぐる地域対立の中で最も弱い立場にあった。それは、自然条件そして歴史的整備過程の中で生まれてきたものだった。水害防御を求め谷中村からは熱心な治水運動が展開され、栃木県からも谷中村周囲堤の全面的改築案が県会で諮問されたりした。だが下流部・茨城県との地域対立もあって成功せず、結局は谷中村買収による遊水地築造となり、栃木県によって買収が進められたのである。
それは、国による渡良瀬川改修計画に基づくものであった。渡良瀬川改修計画は、第二次鉱毒調査会(明治35年3 月〜36 年12月)で思川治水を含めた治水策として議論された。遂には藤岡台地に放水路を開削して北方から洪水を導水し、その洪水を遊水地で貯溜する計画が樹立された。
しかし放水路開削は、全く新たに水路を整備したのではない。近世において、渡良瀬川に合流していた蓮花川を締切り赤麻沼に流出する新河道(新堀)が開削されていた。明治35年(1902)9月の渡良瀬川出水では、この締切堤防が決壊し、旧蓮花川を逆流した。その後、新堀を通って赤間沼に流入し、さらに谷中村を襲ったのである。この出水は第二次鉱毒調査会が活動していた時期に生じたものであり、渡良瀬川治水計画策定に大きな影響を与えたことは間違いない。放水路開削計画は、旧蓮花川から新堀の水路をショート・カット(捷水路化)したものと見なすことができる。
また、この放水路計画は、幕末から館林藩住民によって計画され測量まで行われていた。渡良瀬川治水をめぐる上野国(群馬県) と下野国(栃木県) の地域対立の中で、上野国が推進していったものである。
しかし渡良瀬川との関連のみで渡良瀬遊水地の成立を述べることはできない。渡良瀬川の洪水がスムーズに利根川に合流し流下していくならば、遊水地を設置する必要はない。現実はスムーズに合流するどころか、利根川からの激しい逆流が渡良瀬川下流部を襲っていたのである。
近代改修以前の利根川は、渡良瀬川合流直下流部で権現堂川・赤堀川に分かれ、また江戸川・逆川に分流するなど実に複雑な水理関係にあった。赤堀川はローム層台地を掘り割った人工河道で、いわゆる利根川東遷(埼玉平野を南下し東京湾に流出していた河道を、銚子から太平洋へと変更させたこと)の主舞台である。近代改修によって権現堂川は廃川とされ、赤堀川一本となったが、渡良瀬川との合流状況をどのように計画するのか、今日にとっても重要な課題である。
本論文では、この渡良瀬川と利根川の合流問題について近世後半から歴史的にアプローチし、合流問題が近代治水計画の中でどのように考慮されてきたのか考察するものである。これによって、なぜ渡良瀬川下流部に遊水地が必要になったのか利根川との関係で明らかにされる。先ず渡良瀬川下流部、特に谷中村の近代初頭の土地利用の概況から考えていく。  
2 合流点付近の概況 
2.1 明治時代の谷中村の土地利用
谷中村は藤岡台地と境する一部を除いて堤防が囲まれ、輪中となっている。明治17年(1884)に測量された第一軍区地方迅速図(略して迅速図)によると、北は赤麻沼が拡がり堤防で分けられている。西方は渡良瀬川左岸で、その堤防のかなりが古河と藤岡を結ぶ県道を兼ねている。渡良瀬川は、広い提外地を海老瀬七曲と呼ばれる激しい曲流をなして流下し、谷中村輪中の南方(北川辺の下柏戸地先)で思川と合流する。その間で、右支川・谷田川が合流している。谷田川は、合流点直上流で元利根川派川・合の川を合わせているが、合の川は天保13 年(1842)締切られ、それ以降、通常時に利根川の水が流れることはなくなった。
谷中輪中の東方は、思川とその支川・巴波川の右岸堤である。思川・巴波川とも大きな蛇行を繰り返して流下しているが、思川は谷中村恵下野地先で巴波川を合流させる。その合流地点付近から巴波川下流部にかけては、左岸堤は澪筋近くにはなく広い堤外地が拡がり、赤麻沼と連なっている。思川合流してからの渡良瀬川は、両岸にほぼ澪筋に沿って堤防が築かれる。左岸は古河となり、6.8km流下して鷲ノ宮地先で利根川と合流する。利根川は約3.0km 流下した後、赤堀川と権現堂川に分流する。この間に、明治19年(1886)に築造された上野と宇都宮を結ぶ鉄道橋がある。権現堂川は10.3km 流下した後、江戸川流頭部に達するが、この流頭部には棒出しがあり、大洪水の流下を抑えていた。江戸川に呑み込まれなかった洪水は、逆川を通って赤堀川に合流し利根川下流に流れていく。
このように非常に複雑な河道状況をなしているが、渡良瀬遊水地との関係で注目すべきことは、赤麻沼も含めて谷中村の北方・東方の遊水地域である。現在の渡良瀬遊水地の一部は、元々遊水地域だったのである。ここには利根川・渡良瀬川出水のため吐けなくなった思川洪水、そして利根川・渡良瀬川からの逆流も流れ込んできた。その状況を文献でみると次のようであった。
「本県下都賀郡南部一帯ノ地ハ西赤麻沼二面シ、東北思及巴波ノニ川ヲ挟ム。而シテ渡良瀬川ハ婉艇其ノ西南ヲ囲ミ、此等ノ諸水ヲ吸合シテ利根ノ本川二人ル。是ヲ以テー朝洪水ノ災厄ニ接スルヤ、渡良瀬川ハ利根二支ラレ、思及巴波ハ更二渡良瀬二支ラレ、其逆流浪溢語々トシテ赤麻二侵入シ、風涛堤ヲ噛ミ終二一望荒涼惨噌タル光景ヲ呈スルニ至ルハ、年二一再ノミナラス。」(白仁武知事から内務大臣への棄請)
明治20年代から30年代頃の谷中村の土地利用状況が、二つの資料から分かっている。一つが、「明治28年下都賀郡統計書」(以下「統計書」と呼ぶ)からの作成である。他の一つが、栃木県が谷中村全面買収を決定したときの知事・白仁武が国庫補助を要請した明治37 年(1904 )8 月20 日の「谷中村民有地ヲ買収シテ瀦水池ヲ設ケル秦請」(以下「秦請文」と呼ぶ) の中の資料に基づくものである。
「統計書」では、谷中村の総面積は約1284 町4 反( 畝歩は四捨五入)となっているが、「秦請文」では1057 町5 反となり、「統計書」の方が約227 町多い。これは、「棄請文」が民地の土地買収を目的として作成されたもので、官地は含まれていないためだろう。「統計書」の総面積から官有地の215 町5反を引くと約1069 町となり、ほぼ等しくなる。「察請文」の資料に基づき、谷中村民地1058 町の土地状況をみてみよう。1058町のうち8 割が堤内地であるが、2 割が堤外地となっている。田・畑の耕地は全民地の52%を占めている一方、原野・池沼併せて463町で44%を占めている。なかでも原野の占める面積が38%を占めて大きい。この状況を堤内地のみでみても、田畑あわせて54%に対し原野は同様40 %占めている。この原野に比べ、池沼はわずか1.4%と堤内地では少ない。
原野は、迅速図でみると荒蕪地で、ほとんど葦原と思われる。堤内地とは、洪水から築堤によって防護されるところであり、苦労してつくった堤内地はできる限り耕地に整備していくというのが一般的である。その堤内地に、谷中村では4 割の荒蕪地を抱えこんでいたのである。この状況は実に特異なことである。なぜこのような土地利用状況となったのだろうか。
谷中村内の集落・下宮の成立は室町時代の文明年間(1469〜86 )と伝えられているが、安定した地域社会の成立のためには、その自然条件からして築堤は必要であっだろう。しかし築堤には多大な労力を要する。自分の住む場所、耕地となっているところ、あるいは耕地として整備できるところを堤防で囲い、堤内地としていくのが基本である。日本の沖積低地は、この基本方針のもとに整備が進められていったのである。では谷中村は、堤内地になぜ40% も荒蕪地を抱えこんでいたのだろうか。
筆者は、耕地としてかなり整備されていたのが、ある時を境にして排水の条件が悪くなり、また度々、堤防が決壊して湿地化し荒蕪地になった可能性もあると考えている。ある時とは、天明3 年(1783)の浅間山大噴火であり、これに伴う大量の火山灰の降下によって利根川河床の著しい上昇となったのである。利根川河床が上昇するとどうなるか。渡良瀬川、思川の排水条件が悪くなるとともに、利根川から逆流が多くなってくる。これを契機にして谷中村堤内の湿地化が進んだ可能性もあると考えている。因みに、谷中村の中の一つの村落・恵下野における記録であるが、宝暦13年(1763)から慶応3 年(1867 )の約100年間に40回の出水があった。このうち20回が堤切(堤防決壊)と記録されている。しかし明和3 年(1766)を除いて残りの19回は、文政5 年(1822)以降となっている。文政5 年以降では10 年のうち4 年強が破堤しているのである。近世後半、破堤の脅威が著しく高まっていたことがよく理解される。
利根川河床が上昇したことによって水田が湿地化したことは、利根川下流部の飯沼干拓地で生じたことが知られている。飯沼は、思川と鬼怒川に囲まれた関東ローム層台地の中にある。近世中期、徳川吉宗により推進された享保の改革の時、飯沼は全面的に干拓され、水田約1900町歩が整備された。しかし近世後期、排水先の中利根川(渡良瀬川合流後から布佐・市川の狭窄部の間)の河床上昇に伴い排水の困難、また利根川洪水の逆流が生じ、干拓地の湿地化が進んだのである。この結果、明治17年(1884)測量の第一地方軍管区迅速図でみると、湿地面積は約1000町歩となっている。
谷中村に拡がるこの広大な荒蕪地を耕地にするためには、機械排水が必要であった。明治24年(1891)以降、谷中村では機械排水の実現に向けて動いていった。 
2.2 利根川の河床上昇と合流開題
渡良瀬川の合流点付近の利根川河床の上昇状況、また利根川・渡良瀬川・思川の合流状況をみてみよう。
「明治十八年十二月下野南部治水会日誌」4)によると、「天保度古利根、・゛切巳来逆流シテ地方ノ水害ヲ増シタリ。天保度r ゛切巳来出水ノ節ハ、利根川ヨリ逆流シテ古河野木辺ハ登リノ船二謐ヲ用ユル程ナリ」(発会趣主陳情書)と、天保年度対岸に位置する古利根川の締切によって、利根川から下野南部への逆流が大きくなったことを述べている。また下野南部治水会・須田会長は、「夫権現堂卜称スル処二在テハ、元ト堤内地ニアリテハ船帆ヲ見ルトキハ、洪水ナルヲ知リタルニ、今日二至テハ少シク満水ノ兆アルニ際スレバ、忽チニ船体ヲ見ルヲ得ルナリト」と、見えてくる船の姿から権現堂川の河床上昇を指摘している。また委員の一人は、「今ヲ去ル六七十年ノ前二在リテハ、四五尺ノ堤ヲ以テ当時ノ洪水卜雖トモ防禦シ得タリシモノモ、今ヤ一丈五尺有余ノ堤塘ヲ築造スルニ、尚且水害ヲ防過スル能ハサルノ有様ナリ」と、洪水の水位が近年、上昇したことを主張している。一方、第二鉱毒調査会において、調査嘱託員・君島三郎(内務省技師) は次のように報告し、両川の合流付近において利根川より渡良瀬川の勾配の方が緩やかなことを指摘した。(「治水二関スル調査報告書」)
「(渡良瀬川は)合流附近二至ル間ハ僅ニ0.00028以上ノ上二出テス。之ヲ利根川ノ低水位勾配飯野中田間ノ0.00035ニ比スルトキハ合流附近二於テ渡良瀬川反テ利根川ヨリ緩ナリ。」
また利根川・渡良瀬川・思川の合流状況について次のように述べている。
「地質粗惨ノ度ト山野配置ノ勢ヨリ考フルトキハ、渡良瀬川先ツ出水シ思川利根川之二次クヲ順序トス。然レトモ雨量風向ノ不同河底傾斜ノ緩急等二依リテ大ナル影響ヲ受ケ、其ノ出水ノ順序必スシモ一定セス。或ハ利根川先ツ出水シテ渡良瀬之二次クコトアリ。或八三川同時二出水スルコトアリ。且ツ洪水毎二必ス破堤浸水ノ伴ハサルコトナキヲ以テ、合流附近二於ケル此等三川ノ影響ハ独立二考フルコト素ヨリ至難ノ業トス。」
出水の順序は必ずしも一定しないが、合流部付近において3 川の影響を別々に考えることはできず、一体となって襲ってくることを主張するのである。
さらに、茨城県古河町は「思川放水路開盤反対請願書(明治34年3 月)」で、次のように述べている。
「殊二近年水源ノ為メ土砂ノ流出甚シク、利根ノ河床漸次高騰シ水量年々ニ累加シ、以是洪水ニ際シ地盤低キ栃木県下都賀郡南部二向テ利根川ヨリ逆流シ、思川ノ洪水ト衝突ノ結果、同地方二水害ヲ及ホスコト近年ノ実例二有之候。」
利根川の逆流が、思川の洪水と合わさって水害が生じていることを主張するのであるが、その前提として利根川の河床の上昇を指摘している。
古河町のこの請願書は、栃木県による思川の放水路計画(下都賀郡間々田村大字乙女から野木村大字野渡に至る台地に沿った新河道開削)に反対したものだが、従来「(栃木)県下ニアリシ順逆両流ノ衝突点ヲ下流二移シ、己レノ受ケツツアル惨害ヲ当町以下二転嫁到シ候二外ナラズ候間」と、利根川と思川の衝突場所が下流に移り、古河が危険となることを危惧したのである。一方、栃木県の主張は、「思川ノ水源最モ近キニ依リ、直線ノ水路ヲ開ケバ他川ノ出水二先チ、思川ノ洪水ヲ利根川ノ下流二放下シ得ベシ」と、放水路開削により、他の河川に先立って思川は出水し、利根川に流下してしまうということだった。
利根川と渡良瀬川の合流問題は、この地域にとってまことに重要なものだった。 
3 合流問題についての近世後期の動向 
3.1 赤堀川開削
利根川東遷と直接的につながるのは赤堀川開削である。元和7 年((1621)に着手され、寛永2 年(1625)、承応3 年(1654)と拡幅され、承応3 年の3 回目の開削によって通常時に水が流れるようになった。赤堀川はこの後、元禄11 (1698)年には川幅が27間(約49m )、深さ2 丈9 尺(約8.7m)となっていた。
近世初期のこの赤堀川開削の目的について、羽生領・幸手領・島中川辺領等の埼玉平野乗北部の治水が主目的であり、なかでもここを通る日光街道の整備が最も重要であったと考えている。江戸を中心とした幕藩体制確立の中で参勤交代が制度化していくが、その交通路として全国とつながる街道が整備されていく。特に日光街道は、徳川家にとって聖地である日光東照宮とつながり、その整備が重視されていた。しかし二代将軍秀忠が元和3 年(1617 )4月に社参した時は、千住・草加間で諸道具を運んでいた足軽13 人が洪水によって死亡した。近世当初、日光街道はこのような状況であったのである。
一方、利根川河道は物資輸送の交通路でもあった。特に利根川舟運にとって、最も優先的に取り扱われていたのは、上利根川(渡良瀬川合流点から上流の利根川) および渡良瀬川水系と江戸を結ぶ水路と考えている。中山道の交差点に位置する上利根川の倉賀野河岸は、慶長期(1596 〜1611 )の創設といわれているが、信濃・越後の物資も中山道を通って運び込まれ、ここから江戸へ移出された。また逆に、江戸の物資はここから信濃・越後方面にも運ばれていた。倉賀野河岸には、元禄4年(1691 )、計70 余彼の舟があったといわれている。
また上利根川は足尾御用銅のルートであった。当初は平塚河岸、元禄期からは前島河岸から、利根川舟運によって運ばれ江戸で精錬されたのである。足尾銅山は戦国時代から銅山として知られていたが、江戸幕府により幕府御用銅山とされ、芝・上野の徳川家の廟の築造また江戸城の増築の時にその屋根瓦に使用された。近世におけるその盛況のピークは貞享年間(1684 〜87 ) であったが、オランダに輸出した国産銅のうち、5 分の1 は足尾銅山のものであったという。最盛期には、その産銅量から推定して年間数百岐の舟によって運送されたと思われる。航路は、権現堂川から江戸川を下っていった。
一方、利根川舟運は下利根川(布佐・市川の狭窄部から下流部)、中利根川を遡って関宿から江戸川に入るルートでもあり、東北地方の廻米ルートとして知られている。しかし東北地方からの物資輸送の主ルートとしては、寛文日年(1671)、河村瑞賢によって整備された海路である東廻り航路があった。これに対し上利根川、渡良瀬川流域では、利根川・江戸川のルートしかなかったのである。
また中利根川で合流する鬼怒川舟運をみると、阿久津、板戸などで積荷された後、「境通り」として久保田河岸他の3 河岸で陸上げされ、大木より境へ直線にして約15km の距離を陸送されて境から江戸川を下っていた。このルートが先ず確立され、この後、米や穀物などに関して野木崎で中利根川に出、ここを遡って関宿に出る「大廻し」が整備された。しかし、ヒンターランドの大きさからいって、上利根川、渡良瀬川流域がはるかに重要であることは言をまたないだろう。江戸幕府にとって、上利根川・渡良瀬川との航路確保が最重要課題であったと考えている。
常陸川筋(利根川下流部)の舟運についてさらにみると、銚子入内川江戸廻り、つまり海に出た後、鹿島灘沖から銚子に入り、利根川を遡るコースが承応年中に本格化し、次第に重要性を増していった。承応年間におけるこの本格化には、承応3 年(1654)に行われた赤堀川の新たな開削が重要な契機となったと考えられる。赤堀川の新開削によって、上利根の水が中利根・下利根に流れ、銚子入港の際に最も難所であった河口部の水深が増大し、船の出入りに少なからず貢献したのだろう。常陸川筋を遡った船が関宿経由で逆川・江戸川を本格的に下るようになったのは、承応3 年以降であろう。赤堀川の新開削は、河口部の水深増大等により、利根川舟運にとって重要なインパクトであったことは間違いない。その結果を奥羽の諸藩が利用したのである。しかし奥州と江戸とを繋ぐ最も有力なルートは、河村瑞賢による房総半島を迂回する東廻り航路である。 
3.2 文化年間(1804 〜17 )の赤堀川開削
赤堀川開削は近世中期の宝暦年間(1751〜63 )になると、権現堂川締切と一体となって農業整備の観点から、武蔵国羽生領によって主張された。羽生領の排水は、島川に落された後、権現堂川に放流されるが、その不良とともに権現堂川からの逆流が大きな課題となっていたのである。
天明3 年(1783)7月の浅間山噴火により大量の火山灰が利根川流域に降下し、これを契機に利根川河道は一変した。降灰が洪水によって河道に集中することにより、それまでの掘込み河道から土砂の移動の激しい天井川へと変貌していったのである。
河道の天井川化は、農業排水にとって大きな障害をもたらす。またそれまでの堤防が相対的に低くなり、洪水防御にとって大きな脅威となる。さらに土砂の移動により寄州が到るところで生じて澪筋が不安定となり、舟運機能に重大な支障を生じさす。この自然条件をもとに、「享保年中とハ川瀬も違」 うとして、利根川東遷事業は新たな一歩を踏み出したのである。
なお河道が一挙に変化した直接的な引鉄は、天明6 年(1786) の大洪水であった。この出水で権現堂堤も決壊し、氾濫水は江戸の下町を襲った。その水位は江戸下町にとって最も大きいもので、大出水として有名な寛保2 年の洪水と比べ、本所・深川において2 尺(0.6m)ないし4 尺(1.2m)も深かった。浅草等の江戸下町右岸にとって第一線の堤防である日本堤をも乗り越えようとするほどの大出水であった。ここに、権現堂堤が江戸の水害と初めて深くつながることとなったのである。
なお当然のことながら、日光街道も大きな被害を受けた。
文化6 年(1809)、赤堀川が開削されて40間(57m )となった。それ以前の川幅として知られているのは元禄11 年(1678)の27間(49m )であり、10間前後、開削されたのである。だがこれより以前、重要な工事が行われていた。江戸川の流頭部に左右岸からの突堤である棒出しが設置されたのである。
棒出し設置は、天明3 年(1783)に下総国庄内領の村々から出された出願「乍恐書付ヲ以奉願上候」には、「先年関宿御関所台井棒出御築立下利根川江七分、江戸川江三分分水有之候」と、天明3年には、既に棒出しが設置されていることが述べられている 。
恐らく、洪水を下利根川に7 割、江戸川に3 割流下させる目的で造られたのであろう。この出願は、浅間山噴火に伴う河道上昇に対する水害防御対策を強く訴えているが、さらに次のように、浅間山噴火直後、約3 尺余り河床が上昇し、舟運に多大な影響があったことを述べている。
「信州・上州大変二付江戸川江焼石砂泥水数日押来、川床凡三尺余弥上押埋当七月夏川中水之時節通船差支候儀二御座候得ハ、冬川二相成候而ハ船之通路相成間敷、左候而ハ数ケ国難儀、第一御廻米之御差支二可相成義も難計乍恐奉存候」
また権現堂川の呑口でも寛政4 年(1792) 、杭出しが行われ、利根川への流人を抑えようとした。
この杭出は文化6 年(1809) 、天保10 年(1839) にも行われ、千本杭といわれるほどになった。ここで権現堂川舟運についてみると、権現堂川は元禄末年から埋まりはじめ冬期には通航に支障が生じたというが、天明元年(1781)6 月の文書に、関宿前の逆川が浅瀬となったため下流からの舟は栗橋まで遡り、権現堂川から江戸川へ入っていったと記されている。天明年間の当初までは、この航路は健在だったのである。
しかし天明6 年(1786)の大出水を契機に、権現堂川には、それ以前と質の異なった重大な障害が生じた。勾配が緩やかという自然条件に起因する大量の土砂の堆積、それにより河道が非常に不安定となったのである。これにより、通行路としての維持が最早、不可能と幕府は判断したと考えられる。航路としての権現堂川は、放棄してもかまわない状況となったのである。
土砂の堆積は、権現堂堤さらに上流の利根川堤を危険にする。寛政年間(1789〜1800)、権現堂川の堤防補強が行われた。天明6 年の大出水を契機として、勾配が緩やかな権現堂川の河床が急激に上昇したことは間違いない。権現堂堤の決壊は、直接的には幕府にとって重要な日光街道に重大な脅威をもたらす。寛政8 年(1796)、幸手宿肝煎役を権現堂川の水防見廻役に任命したが、権現堂堤と日光街道の関係をよく物語っているだろう。
さらに江戸の水害が意識されるようになったかもしれない。加えて河床上昇により羽生領、島中領等の埼玉平野、渡良瀬川下流部の広範囲の地域の排水悪化が顕在化する。これへの対応が、権現堂川に比べて勾配がきつく土砂が流れやすい赤堀川の文化6 年の拡幅であったことは間違いないだろう。
権現堂堤は、武蔵国(埼玉県)八浦から高須賀の島川右岸、そして島川合流後から上宇和田に至る約10km に及ぶ権現堂川右岸の連続堤である。幸手領内村々見分役人宛に提出された天保3年(1832)の「権現堂堤取締請書」によると、権現堂堤は「御府内囲堤」と呼ばれ、次のように述べられている。
「一体御府内囲は水下数万石大切之堤ニて、就中幸手領水災重り歎ケ敷次第二付、享和三亥年、権現堂村切所御普請之節、後年保方之ため住所押堀池成之場所莫太之御入用を以御埋立被成下候処、天明以来来川筋変地床高二て往古之姿に有之可保様無之不容易候二付、右切所御普請出来候」
このように、この堤防は享和2 年(1802)の出水により破堤した翌年に普請が行われ、決壊によってできた押堀( 池) は莫大な費用をかけて埋立てられた。天明以来、河床は上昇し以前と一変したためこの普請が行われたが、「御府内囲堤」はその下流数万石の大切な堤防であり、特に幸手領にとって重大な堤防であった。この後も補修・整備が手厚く行われたとして次のように述べている。
「後年迄保方之御仕法被仰立引読御手厚之御普請被成下、堤通二生立候竹木悉く御伐払根絶シ、無請祠等は御取除ケ御入用を以狐穴弐拾壱ケ所御掘潰候二付、其後年々無等閑手入いたし水防不差支様御主法相立、且亦翌子年領中井二騎西領・庄内領江自普請被仰付囲堤丈夫二相保当辰年迄三十ヶ年来絶て切所無之、猶亦御府内囲防之ため小石衛門村江新規土出被仰付赤堀川切広ケ等も出来、別て松石・高須賀両村地内天明度之切所跡は幸手領第一之難場二付、文政四巳年中多分之御入用を以新規埋立小段御築立被仰付候二付、諸川二無之厚之囲堤相成候」
「享和以来水下一同安穏二営ミ候御主法難有奉存候」
「後年水難御救之ため格別之訳ヲ以御普請等丈夫二被仰付、其節御見込之通三拾ケ年来水災之憂無之」
このように、権現堂堤の強化が享和2 年の出水による決壊後に幕府の費用(御入用)によって行われた。堤防上の竹木はすべて伐採され、いわれなき祠を取り除いたり狐の穴21 ヶ所を取り潰して補強したが、翌年(文化元年)には騎西領・庄内領の自普請によって一層強固にされ、30年来決壊することがなかった。またこの堤防の防御のため小石衛門村で新たに土出しを築き、赤堀川も切り拡げた。さらに文政4 年には天明の出水による切所も埋立て、小段も築き丈夫にし他の河川では例のない手厚い囲堤となったことを述べている。権現堂堤は「御府内囲」と呼ばれているが、防御する地域はその下流部、特に幸手領であることを述べている。江戸を守るためとは特に主張されていない。
赤堀川拡幅とは、文化6 年(1809)に行われた40間拡幅のことを指しているのだろう。一方、この拡幅について利害関係にある赤堀川下流部の境町、川妻村他8 村の村々から享和3 年(1803)閏1月、「差上申一礼之事」なる文書が出された。この中に次のような文章がある。
「一体上筋川々も連々押埋近来床高二相成、少々之雨天ニも満水いたし、利根川通羽生領堤ヲ始権現堂川通其外川々共度々堤切入、御府内迄も水開候議有之」
利根川、権現堂川の河床が上昇し、堤防が度々決壊し、「御府内」までも洪水に襲われたことが述べてある。だから赤堀川・権現堂川の水流をよくしたら水難が免れるとして赤堀川開削が図られた。この文書は、赤堀川下流に位置する10村の反対文書であるが、赤堀川開削が江戸の防備であることが記されている。
また、文政13年(1830)7 月、権現堂堤下流部に位置する武州葛飾郡幸手領53 ケ村惣代、他2 人の名主から、「三領悪水路模様替止願」が出されている 。権現堂堤をめぐり、羽生領・島中川辺領の上流部と幸手領の下流部の間で激しい地域対立が生じていたことがこれによりわかるが、「一体利根川井江戸川通り床高二相成候故右川出水之砺堤五合余二相成候節は、庄内古川落合より逆水押上ケ年々水腐数ケ領出来、甚難渋困窮罷在候」と、利根川・江戸川の河床上昇により庄内古川への逆流によって水害を受け、大変困難な状況になっていると述べている。さらに天明以前の宝暦9 年(1759)、北大桑地内に逆水樋門が設置されて以来、それまでの4 、50年の間一度も切れることのなかった権現堂堤が度々決壊したとして次のように述べている。
「先年羽生領逆水留門樋無之已前は、権現堂川通りニ切所は四五拾年之開稀ニは壱度成らてハ無之旨及承候処、羽生領悪水落シ逆留門樋去ル宝暦年中北大桑地内江御伏込後同七丑年八甫村地内堤押切レ、安永元辰年同村地内堤押切レ.同九子年上吉羽村地内堤押切レ、天明六午年八甫村・松石村・高須賀村・内国府間村・権現堂・木立村右六ケ村堤押切レ、享和二戌年権現堂村・内国府間村両村堤押切、中ニも天明六午之儀は木立村ニて流死人七拾五人有之、享和二戌年権現堂村ニて家数八拾軒程流失仕、度毎田畑押掘砂入亡所多分出来極窮仕罷在候」
つまり権現堂堤は宝暦7 年(1757 )、安永元年(1772 )、9 年(1780 )、天明6 年(1786 )、享和2 年に決壊(押切)したが、特に天明6 年(流死人75 人)、享和2 年(家屋80 軒流)の水害は大きかった。
だから下流部の立場として、権現堂堤に玖樋を伏設し上流の悪水を古利根川(葛西用水) に流下させることに強く反対するのだが、その理由として次のように述べている。
「水下数拾万石御府内迄之水入二相成、別て日光道中幸手・杉戸両宿之儀往還筋は不及申御本陣向共二水押入、日光御門主様井日光山御用御役人様方其外奥筋御大名様方御休泊御通行共二御差支は暦然之儀と乍恐奉存候」
下流の府内に至る数十万石が水害に遭うだけでなく、幸手・杉戸の日光街道また本陣が被害にあい、日光御門宅、奥州筋の大名の通行・休泊に多大な支障が生じることを指適する。さらにこの堤防を「御府内御要害御囲堤」と呼び、そこでの玖樋の伏込に強く反対するのである。
また同年12月に武州葛飾郡幸手領高須賀村他10ヶ村の願文「乍恐以書付謹て御愁訴奉中上候」には、北大桑から八甫村地内蛇田に逆流樋を移設したら、下流の村々のみでなく府内まで水害が生じるだろうとして次のように述べている 。
「第一私共領内地窪拾壱ケ村始メ下郷騎西領・百聞領・幸手領・庄内領・松伏領・八条領・葛西領・弐郷半領・惣新田・小金領右捨ケ領一同難渋無比上、殊二右場所危急之変難等出来領内水入二相成候ハゝ百姓家床上迄水面二相成候儀ハ勿論、第一御府内江悪水的当二充満致候」
権現堂堤の強化は、享和2 年の出水後、権現堂堤下流部を防御するため行われ、それと一体となって赤堀川開削が行われたことは間違いない。しかしその強化には厳しい地域対立があった。赤堀川開削には、洪水を受け入れるその下流部から強い反対がある。また権現堂堤強化は、島川上流の羽生領・向川辺領・島中川辺領と利害が真向から反する。この地域には、地水のみでなく権現堂川からの逆流も襲ってくる。その逆流を防ぐため、羽生領がやっとのことで島川に逆水門樋の設置に成功したのは宝暦9 年であるが、権現堂川との合流点からかなり遠い自領内の北桑地内であった。その後、逆水門樋の下流(八甫) への移転、また権現堂堤に玖樋を設置して島川悪水の葛西用水への放流、さらに島中川辺領の排水を権現堂堤に玖樋を設置し、北側用水への放流を強く主張していたのである。
この権現堂堤の強化、また赤堀川開削の目的は、幸手領・庄内領などの江戸川と古利根川で挟まれた埼玉平野の防備が中心であったと判断している。当然、その埼玉平野防備の中には日光街道も含まれる。幸手領、庄内領が中心となって幕府に強く働きかけ、利害の反する地域に対しては、江戸防備のため必要と説得させて幕府の費用によって強化に成功したと考えている。そして権現堂堤を権威付けるために「御府内囲堤」と呼んだのである。一方、幕府にとっては、日光街道の防備が必要であった。
このように江戸の防備に重点を置かないのは、江戸の水害からである。近世前期、江戸を襲う利根川の水は、当地域よりさらに上流で氾濫している。権現堂堤の決壊による氾濫水が、利根川氾濫水の中心となって江戸を襲ったのは、天明6 年の出水が初めてである。それに続いて14年後の享和2年、利根川洪水により権現堂堤が決壊し、氾濫水は江戸・本所に達した。しかし天明6 年に比べたらその規模はかなり小さい。享和3 年の権現堂堤強化、文化6 年の赤堀川開削が江戸の水害防備が主目的とは考えられない。幕府にとって、それよりも日光街道の安全・防御がより重大であったと判断している。享和2 年の洪水でも、幸手宿では本陣では床上浸水一尺となり、大きな害を被っている。 
■43.3 天保年間の赤堀川拡幅と水行直し
天保年間(1830〜43)は、水野忠邦による天保の改革(天保12 〜14年・1841〜43)が行われ印旛沼掘削工事も着手されたが、赤堀川周辺でも諸々の工事が行われた。享和3 年から権現堂堤の強化が行われたが、これによりその上流の会の川、利根川、権現堂川で囲まれた区域(羽生領、島中川辺領、向川辺領)では湛水被害が一層顕在化する。ここの水害が新たな治水秩序に向けて強い推進力となった。
この地域には内水の他、島川を通じて利根川の逆流、浅間川からの氾濫水が湛水する。特に島川からの逆流が大きかった。一方、排水は、一部は文政2 年(1819 ) まで浅間川に行われていたが、島川が中心である。宝暦9 年(1759 ) にやっと逆水門設置に成功した羽生領であるが、その位置はかなり上流の自領内であり、その後、下流への移転要求を安永9 年(1780 )、寛政7 年(1795 )、享和元年(1801 )、文化H 年(1814 )、文政8 年(1825 ) と行っていたが、下流幸手領からの強い反対運動もあり成功しなかった。幕府は、日光街道が走っている幸手領の安全を優先的に取り扱ったのである。しかし天保年間に入ると、幕府のこの姿勢は大きな変化を見せる。
天保3 年(1832 )、幸手領村々は、権現堂堤の維持・管理に手を抜いたとして厳しく叱責を受けた(「権現堂堤取締請書」)。,領民が権現堂堤を勝手に掘崩し、家を造ったり畑にしたり苗木を植え竹木をはびこらせたりしていたというのがその理由である。幸手領村々は「何様被仰付候共御違背難申上候」とその非を全面的に認めた。そして島川の逆水樋門の下流への移転、川口に玖樋を設置し羽生領の悪水を古利根川(葛西用水) への受け入れ、向川辺領・島中川辺領の悪水排除のため権現堂川への玖樋の埋設を承諾したのである。羽生領等の執拗な運動がここに実を結び、この後、権現堂堤上流部の悪水排除が進められたのである。
この一環としてであろう、天保9 年(1838 )、浅間川の流入・流出口が自譜請により締切られた。
天保7 年、利根川右岸堤が決壊したが、これを契機として幕府譜請役による水行直しが行われ、締切が決定されたのである。続いて権現堂川呑口に杭出しが増強されて、千本杭と言われるようになった。
しかし、この動きが対岸の渡良瀬川下流部を強く刺激した。当時の利根川の堤防をみると、武蔵国側は「敷廿間余、馬踏4 間余二至ル」のに対し、上野・下野国側は「敷十四五間馬踏二間二過ギズ」と左岸側が貧弱であった。さらに江戸川の流頭部の棒出しに加え、権現堂川の呑口に千本杭が設置されて洪水の下流への流下が抑えられたのである。渡良瀬川下流部からは75 ヶ村連合して幕府に支障が訴えられ、3 年余りの強い反対運動が行われた。この結果、遂に千本杭と佐波から中新井の利根川右岸にあった海鼠堤の撤去、および合の川(武蔵国と上野国の境界) の締切が天保13 年に行われたのである。これらの撤去について、上野(群馬県)、下野(栃木県)両国の反対によって行われたことが、次のように述べられている。
「天保年間栗橋栗餅下二千本杭ヲ築造シテ江戸川二向ヘル水勢ヲ温遮シ四新二向ツテ幾多ノ水害ヲ醸シタリ、然ルニ尚充分ノ策ヲ施シ江戸川二向フノ水勢ヲ防禦センガ為メ下野渡良瀬川卜合流セシメシヨリ其反動ノ禍害ハ上下両毛二波及シ将来焦慮二堪ヘザルヲ以テ天保十年被害ノ各郡村連合シ以テ故障ノ旨ヲ幕府二訴工後三年ニシテ漸ク千本杭ト佐波村ヨリ中新井村二達スル海鼠堤ヲ除去シテ上野国島村二於テ間ノ川ヲ1^切ル事ヲ允許セラン為二著大ノ水害ヲ免カルヽヽニ至リタリ」
しかし、浅間川と合の川締切により洪水は下流に集中してくる。あわせて千本杭の撤去は権現堂川への流下が増大する。これを避けるために天保14 年(1843)、赤堀川拡幅が行われたのである。一方、赤堀川拡幅すると下利根川の洪水が増大する。これに備えて、印旛沼から江戸湾に抜ける水路の開削が天保の改革の一環として行われたのだろう。しかし改革を推進した水野忠邦の失脚によりこの開削は成功しなかった。
また利根川からの農業用水の新たな取水が許可されている。左岸の上野国では天保10年に、古海からの取水が認められ、長年の悲願が実った。またその翌年、対岸の上川俣で元玖が新設されて羽生領は新たな水源を手に入れたのである。
さらに、天保年間に江戸川流頭部の棒出しをめぐっても大きな動きがあった。それまで既にあった棒出しの強化が、大杭出し・築出しによって行われた。強化は、江戸川下流部で合流する庄内古川の逆流区域、それは二合半領、庄内領、幸手領であるが、ここからの強い要望によって行われた。しかしこの強化に渡良瀬川下流部の下野国下都賀郡が強く抵抗し、18 間より狭めないということで決着をみた。この状況は次のように述べられている。
「天保年間二於テ、土出シ、杭出シヲ設ケタルニ起因シ、二合半領ノ石川民部卜云ヘル者農民ノ金銭ヲ徴収シテ、之ヲ公儀二貯蓄シ、以テ幕府二於テ、直接工事ヲ施行スルモノヽ如クシテ、施エシタルモノナルガ、其上流タル、栃木県下都賀郡々民ハ主トシテ之二反対シ、該工事ヲ中止セザレバ、水流停滞シテ、汎濫漆溢ノ災害ヲ蒙ムルニ至ルベキヲ呼号シ、其結果、遂二将来、江戸川流頭ヲシテ、十八間ヨリ窄縮セザルペキコトヲ約シ、其粉議漸ク和解スルヲ得タリシナリ。」
「関宿杭出ノアル処ハ、旧卜寄洲ノ在リシ処ニシテ、維新前二合半領外二領二於テ、自費ヲ以テ該処二幕府ノ許可ヲ得テ、杭出土出ヲ築造シタリ。当時之レカ関係ノ沿岸ノ郡村ハ、頗ル故障ヲ中立タリシモ、遂二採用セラレス。而シテ、当時該杭出ノ間八十八間ヲ以テ限リトシタルニ、此村々ハ之レカ約束ヲ守ラスシテ、尚杭出シ現今ハ僅二十間余トナリタリ。」
ここで利根川の流れについて原淳二の研究に基づいて見ていこう。文化6 年の赤堀川拡幅と権現堂川杭出しによって赤堀川の水勢は「以前二一倍仕」、「権現堂川水勢至而相衰、既二二通船相成兼候様成行、赤堀川者次第二水勢相増、年々出水時者堤通り欠所切所数多出来難渉」との記録がある。赤堀川に利根川流水は集中してくるのである。
時代は少し下って天保年間(1830〜43 )における利根川の流れは次の状況であった。
「利根川渡良瀬川落合壱瀬二罷成、栗橋宿御関所下二而平水二而は赤堀川江七分、権現堂川江三分相流、及出水候而ハ両川共五分二相流候故、出水之度毎権現堂川之方土砂挿入追々床高二罷成」
平水(通常時)の場合、赤堀川に7 割、権現堂川へ3 割、洪水の際には赤堀川、権現堂川へ5 割づっであった。赤堀川の流れは、その後、どのように流れていくのか、幕末の嘉永6 年(1853)だが次のような記録がある。
「平水之模様を考るに、中利根川は川床高候故赤堀川之水境町渡場二而分流、関宿城裏之逆川江七分、中利根川江三分ならてハ流れ不申」
平水の場合、逆川に7 割、中・下利根川には3 割となっている。結局、下利根川には、上利根川の平水は2 割程度しか流れなかったのである。つまり通常時、赤堀川から逆川を通り江戸川に流れていくのが主流となった。上利根川、渡良瀬川舟運にとって格好の形態となったのである。このように平水において赤堀川から逆川そして江戸川が主流となったのは、幕府の意図からであったと考えている。 
3.4 天保の地方役人の権現堂川締切構想
ところで幕末の天保8 年(1837)、幕府の吟味方下役出役・大竹伊兵衛が「権現堂川通川除御普請井両川辺領悪水落方之義中上候書付」なる文書を残した 。この中で権現堂川の締切を主張した。権現堂川は明治の近代改修によって締切られたが、管見するところ権現堂川締切を体系的に主張した最初の提案と考えられる。なお大竹は、水害復旧もままならず、排水不良のため困難をきわめている向川辺領・島中川辺領の開発・整備の立場から論じている。このニケ領が排水不良なのは「権現堂通り連年土砂押入床高二罷成」と、この地域の排水に大きく影響している権現堂川の河床が連年、高くなっていることを先ず指摘している。
さて当時の水理であるが、先述したように通常時の流水は赤堀川へ7 割、権現堂川へ3 割流れている。だが出水の時は両川とも半分づつとなり、出水のたびに土砂は権現堂川の方へ押し上がり河床を高くしている。このため通常時はもちろん、堤2 合水の出水の時にも権現堂川には舟は一切、通らない。3 合以上の出水の時でなかったら関宿との舟の往来は全くない状況であった。
大竹は、権現堂川を締切り、赤堀川一本に河道の整備を主張した。つまり栗橋宿から川妻村地先へ築堤して権現堂川を締t刀り、赤堀川のみに流しても文化6 年に切拡げてあり、それ以降、流れはスムーズに流れているので何ら支障はないと述べる。権現堂川締切の利益については次のように主張した。
赤堀川一本に整備したら、権現堂通りの堤防は利根川第一線の堤防ではなくなり、年々の「川除御普請」の費用は大きく減じる。また島川に築造された権現堂川からの逆水樋門、伏越などは不必要となってくる。そのうえ島川への逆水等により始終、水に浸っていた日光街道の高須賀・外国府間村の往来にも支障がなくなる。また向川辺領、島中川辺領の排水が良くなり湛水害がなくなる。さらに権現堂川の3 里という広大な河川敷を新たに開発ができ、江戸川通りの出水の危険もなくなり洪水で荒らされた土地の整備もできる。
一方、江戸川への通水は、赤堀川から逆川経由で流し込むので舟運に何ら差し支えない。もし水不足となって支障が生じるというならば、関宿の関所前の棒出しにより川幅28間に狭めてある箇所を10間も切拡げ、川幅40間ほどにしたならば江戸川の水量は増える。ここの流入量はいかようにもコントロールできる。また権現堂村河岸の舟運機能については、島川、またニケ領の排水を利用して関宿までの往来は十分できる。これにより中島村用水も不足することはないと主張するのである。
逆川については、権現堂川が2 合余りまでの出水の時は赤堀川から江戸川に流れ込み、3合以上になったときは権現堂川から赤堀川の方へ流れるような勾配となっている。権現堂川分派点から前林村あたりまでの赤堀川は、川幅が狭いけれども文化年度の切り拡げ、河床掘削の工事によって「御見込之通」、年々河床が下がっている。しかし前林村から下流の赤堀川は、川幅が広いので(河床に変動がなく)先述の逆川との分派状況には何ら支障が生じていない。
栗橋宿から上流の渡良瀬川周辺に対しては、権現堂川締切が少しは影響がでるかもしれない。しかし中田宿字五料というところは、先年の切り拡げ工事で手が加えられずそのままの状況で残っているところであり、幅10間、長200間も切り拡げたならば上流部の水の流れはよくなる。しかし、この切り拡げまでは自分としては言及しない。
権現堂川については、赤堀川より川幅が広く増水時、満水の時には6 割強も流れ、減水に従い、赤堀川の勾配がきついので赤堀川に流れる。だがひとたび権現堂川の方へ流れてくると、同川は約1里半余りの下流で川幅200間ほどで権現堂村大曲に突き当たる。その下流の上吉羽村大出より木立村辺にくると、川幅は50間程に狭まり、流水は「惣体之押水一ト纏二相抱候二付」権現堂堤は甚だ危険となる。大切な御囲堤であるが、享和年度よりもさらに一層、河床が高くなっているので、その安全のための整備が大変である。そして「切所逆落シニ押込、元形二築留候義は相成間敷程之勾配違二罷成」と、権現堂堤復旧の困難をあげて権現堂川の締切を主張するのである。 
4 明治前期の動向 
4.1 河道開削・河道整備、棒出し撤去要求
明治新政府は、政権樹立後の明治4 年(1871)、赤堀川呑口の切り拡げ工事を行った。工事予算のうち約2/3 は地元負担であったが、負担した地域は羽生領、向川辺領、島中川辺領、幸手領、庄内領の埼玉平野、および館林領、古河藩などである。この負担状況から、赤堀川直上流地域の治水のためであることが分かる。排水のため、疎通能力を高めたのである。それに先立つ明治2 年、谷中村では思川と渡良瀬川について、それぞれ新たな水路を掘り割って下流で利根川に合流させる計画が樹てられていた。思川は栃木県友沼村逆川から茨城県新堀村大山沼に至る水路開削、渡良瀬川は立崎から茶屋新田へ掘削、大山沼から前林沼を経て堀崎村から赤堀川へ合流させるものだった。
また明治8 年(1885)、権現堂川の一部の島川が合流する区域で約1300ni の堤防が築かれ、権現堂堤と島川は切り離された。この堤防はその後、御幸堤と呼ばれた。その目的は権現堂川からの逆流による島川筋の氾濫防止であり、これ以降、日光街道は御幸堤の上を通ることとなった。日光街道の安全も含まれていたのである。因みに島川への逆流防止は、宝暦年間以降、幾度も羽生領から強い要求があったが、ここに締め切られたのである。工事のかなりは民費として地元負担となり、島中・幸手・羽生領の埼玉平野137 ヶ村で負担した。
明治10年代終わりになって、利根川鉄道橋をめぐり大きな対立が生じた。日本鉄道会社により明治18年(1885)、大宮・宇都宮間が利根川橋梁を除いて開通した。利根川橋梁は、渡良瀬川と利根川合流点からそう遠くないところに計画されたが、この利根川橋梁設置により洪水疎通に支障が生じるとしその撤去を求め、栃木県下の思川・渡良瀬川下流部では下野南部治水会が明治18年12 月、結成され強く反対したのである。ここでの議論の中で利根川との合流部を締切り、新たに古河町の下立崎村から御所沼・大山沼・長井戸沼・鑓内村・小山村を経て下利根川へ、もしくは下立崎村から境町に至る渡良瀬川の新河道案が検討された。
この地元の意向を受け、翌年1 月、栃木県会は、「請利根川水理改良之建議」を行い、橋梁設置に強い反対姿勢を示した。この建議に基づき、栃木県の利根川水理の認識を見てみよう。栃木県(下野)は、群馬県(上野)、埼玉県(武蔵)に比べて水害が多いが、それは近年政府が埼玉・群馬両県の堤防を修繕していることも帰因しているとして、次のように述べる。
「上下両野及ヒ武蔵ノ諸国ハ常二其害ヲ蒙ル亦タ少カラサルナリ、然り而シテ上野武蔵ノ両国ハ往時治水ノエニ鋭意カヲ尽シタルト、近年政府ノ努メテ堤防ヲ修繕セラレタルトニョリ、幾ント水患ヲ絶ツニ至りシ。」
これに比べ、栃木県は人為的に障害がつくられているとして次のように主張する。
「我下野ノ如キハ然ラス、天保年間旧幕府カ江戸川ノ水勢ヲ減殺セント欲シ、佐輪村ヨリ幡井村二達スル沿岸二新タニ海鼠堤ヲ築キ、字鷲ノ宮二於テ渡良瀬川二合流セシメ、且ツ下流衆餅下二千本杭ナルモノヲ設ケショリ、氾濫逆流ノ禍害延ヒテ上下野両野二及ヒ、其災将二測ル可ラサラントス、是二於テ乎、沿岸七十有五ケ村ノ人民ハ切二之ヲ愁恕、遂二千本杭ヲ撤去スルニ至レリ、然レトモ水理ノ改良未タ全ガラス、県下南部諸川(渡良瀬、巴波、思)ノ沿岸、各地ハ其害ヲ蒙ルコト今猶ホ昔日ノ如ク、一朝利根川ノ水勢淡溢スルアレハ堤防決潰ノ患ハ免ル能ハサルナリ。」
天保年間に江戸川の水勢を減殺させようとして、旧幕府は佐輪村から幡井村に達する海鼠堤を築き、また渡良瀬川が合流して下流に千本杭が設置されたため、氾濫・逆流が上野・下野国で生じた、と述べる。この千本杭は、これによって影響を受ける村々からの訴えにより撤去されたが、しかし洪水疎通は不十分で、栃木県下都賀郡南部は「昔日ノ如ク」一たび利根川が出水したら堤防決壊は免れないと主張する。さらに、これに日本鉄道会社が計画している鉄道橋が完成したら、洪水疎通に一層の障害になるだろうとして、次のように鉄道橋の設置に強く反対するのである。
「利根川二合流スル諸川力患害ヲ為スノ此ノ如ク其レ多キハ、旧幕府力利根川ノ治水其法ヲ失ヒ濫リニ自然ノ水勢ヲ緊縮シタルニ因ルナリ、然ルニ今又夕日本鉄道会社ハ中田、栗橋ノ両駅間二鉄橋ヲ架設セントス。此工事果シテ落成スルアラハ、其反激ハ益々盛ンナルニ至リ、上流各地ハ其衝突ヲ受クル愈々甚キヲ加フルハ理ノ当二然ル所ナルヘシ。」
この鉄道橋梁は、オランダ人御雇い技師ムルデルの意見に従い、中央の低水路の橋梁間は100尺から200尺に変更して明治19年7 月完成した。
さらに栃木県は治水策について築堤によるのではなく、次のように根本的な処理が必要として二つの方針を主張した。
「利根川ノ水理ヲ改良シテ其禍害ノ病原ヲ医治スルニ非ンハ、如何ナル堅牢ノ堤防卜雖モ意二其実効ヲ奏スル能ハサルヘシ、是レ利根川水理改良工事ノ今日二己ム可ラサル所以ナリ。抑モ日下利根川ノ本流ハ鷲ノ宮二至テ東南二届曲シ、関宿二至テ河幅愈々窄ク、随テ水勢ヲ緊束涯縮ス。故二反激送流以テ、上流地方ノ大患ヲ醸成スルナリ。是ヲ以テ窃二水理改良ノ方策ヲ案スルニ左ノニヲ得タリ
其一江戸川口即チ関宿ノ水流ヲシテ上流ト平均セシム
其二新二河川ヲ古河、中田ノ両駅間二開盤シ以テ渡良瀬、巴波、思、諸川ノ水ヲ疎通セシメ及下利根川ノ河身ヲ浚渫シテ以テ水勢ヲ暢達セシム」
一つの方針は、江戸川流頭部関宿の洪水疎通の改良である。棒出しによる江戸川流頭部の縮小、それに伴う洪水流下能力の低下が渡良瀬川下流部の湛水害の原因として、棒出し撤去が念頭にあると判断してよい。もう一つの方策が、利根川と分離した渡良瀬川の新たな河道を設置することである。下野南部治水会の議論に基づき、赤堀川北側の古河・中田間に新たに水路を開削し、渡良瀬川の洪水を流そうという計画である。しかし二つの方策は非常に難しいことを認識し、次のように述べている。
「以上二者ノ中、前法二由ルトキハ江戸川ノ水勢ヲ盛ンニシ、其沿岸地方及ヒ下流ナル東京二禍害ヲ及スノ恐ナキニアラス。然ラハ則チ第二法二由り新川ヲ開キ河身ヲ浚滞スルノ策二従ハンカ、是レ容易ノ業ニアラス。願クハ閣下、其実況ヲ視察シ、宣ク身法ヲ操定シテ蘆二治水ノエヲ起シ、以テ逆流氾濫ノ患ヲ除カレンコトヲ。」
前者は江戸川下流部・東京との関係で難しく、後者は工事が難しい。是非とも内務大臣の現地視察と事業の着手を要望し、この事業が完了した後、はじめて通常の堤防で渡良瀬川下流部は治水が行えると主張したのである。この建議では、利根川の本流を権現堂川筋と認識している。
このように、棒出し撤去と古河・中田間からの新たな水路の開削を提案したが、後者については、その後、明治29年(1896)に栃木県会と群馬県会から「渡良瀬川末流新川開削ノ建議」を内務大臣に提出した。両県会は、建議でもって渡良瀬川下流部の洪水疎通のため茨城県古河町の直下流から大山沼に至る渡良瀬川新河道の開削を要望したのである。
また明治30 年に設立された第一次鉱毒調査会に調査委員として参画した小藤文次郎(帝国大学教授・地質学)が、明治30年7 月、委員長に提出した「渡良瀬下流鉱毒地の地質報告」の中で、赤堀川と平行に新たな水路の開削を次のように主張した。
「第二案は、利根川の為渡良瀬の押留めらるるを避くる策として、古河の南に於て一大溝渠を穿ち之を牧の地に始め、而して新久田、馬喰を経て中田の北を貫き中田沼に落し、大山沼の縁に於て、赤堀川(利根分流)に潟がしむる件なり。武野唯一の水路狭道たる栗橋辺の川床を横過する東北鉄道も、下渡良瀬の洪濫に対して其責の一部を分負せざる可らず。」
この文では第二案となっているが、その前に一策として西岡新田から大曲・板倉沼を経て谷田川下流部を通って渡良瀬川へ続く新たに河道を次のように提案していた。
「拙案に拠れば、渡良瀬の積水を分割し勢を殺く為めに西岡新田より地勢を利用し幅広き溝を穿ち、大曲より板倉沼に落し而して谷田川に頼り、下宮の向岸に於て渡良瀬本流に送水するを一策とす。」
一方、棒出しの撤去であるが、この後、この棒出し問題が栃木県会の建議に出てくるのは明治31年11 月に可決された「利根川河身改良二付建議」である。棒出しは石堤と表現されているが、それが渡良瀬川下流部に大きな害となっていることを次のように主張した 。
「如此惨害ヲ極ムル所以ノモノハ、利根ノ河身ヲ東向セシメシニ起り、近クハ政府力利根ノ河身改修工事ト称シテ栗橋以下赤堀川及権現堂川口等二沈床工事ヲ撤去シタルト、江戸川口関宿ノ石堤間ヲ縮小セシニ在リト確信セリ。故二本会ハ、如此有害ナル沈床工事ヲ撤去シ反テ寄洲ヲ浚渫シ、赤堀川通ノ河身ノ狭陵ナル場所ヲ拡メ、上下ノ流域ヲ平均セシメ、河水ノ疎通ヲ大二便ナラシメハ、逆流氾濫ノ惨害ヲ減却スヘシト信セリ。」
この棒だしの問題は、埼玉県でも強い関心を持っていた。明治34年の埼玉県通常県会で、県会議員大作新右衛門は渡良瀬川下流部からの撤去要求に対して次のように述べ、江戸川の安全の面から棒出し撤去に反対したのである。棒出しは東京のみでなく、埼玉県も強い利害関係をもっていたことが分かる。
「此事(棒出し……筆者注)二付テハ渡良瀬川ノ関係者、其他上流ノ者ヨリ種々其話ガアル、彼レハドウカ切拡ゲタイト云フヤウナ意思ヲ以テ、夫々運動ヲシテ居ルト云フコトヲ私ハ承知シテ居ル。」
「江戸川ノ堤防が、権現堂川若クハ利根川ノ如キ堤塘ニナツテ居レバ、彼ノ関宿ノ棒出シハドウデモ宜シイ、然ルニ江戸川ノ堤防ト権現堂川ノ堤防ノ如キト比較シテ見ルト、非常ナ差ガアル、ドウシテモ四五尺以上ノ差ガアル、ゾンデ何ゼサウシテ置クカト云フト、彼ノ棒出シノ鳥メニ水が支ヘラレテ居ルカラ、此位ノ堤塘デ宜カラウ位ノ考ヘカラ、他ノ河川ノ堤塘ヨリ低クナツテ居ル。」
さて田中正造は渡良瀬川下流部の治水のため棒出しの撤去を強く要求するが、「谷中残留民居住立チ退キノ説諭二対スル回答書」(大正2 年6 月20 日田中正造談島田宗三著) の中で次のことを述べている。
「三十一年二至り自然ノ利根川流路タル其江戸川ノ河口八千葉県関宿地先二於テ石堤ヲ以テ狭窄シ、且ツ石トセメントニテ河底二十七尺ヲ埋メ、其他利根川各所二流水妨害工事を造リテ洪水ヲ湛へ且ツ渡良瀬川ノ落合タル川辺村本郷ノ逆流口百二十間ヲ拡ゲテ上流二水害ヲ造ルト共ニ、下流東京府下ノ鎮撫二努メ以テ一時ノ急ヲ逃レントシクリ。
……中略……明治35年二至り川辺村ノ逆流ロハ更二七十間ヲ拡ゲ、且ツ三十七年亦日露戦争ニシテ世人ノ海外二意を注ギツゝアルニ乗ジ、社会ノ目ヲ盗ミ中利根川ノ銚子河ロハ境町地先ニ於テ大流水妨害工事ヲ造レリ。」
明治31年(1898)、利根川と渡良瀬川の合流口を120間ほど拡げ、また明治35年にはさらに70 間拡げたと述べている。これが事実とすれば、利根川の渡良瀬川への逆流は著しく増大する。ある地域を徹底的に不利にする、このような河川処理が、戦国時代ならまだしも、地域にしっかりした秩序が形成された近世後半以降に、日本の他の地域で行われたことは寡聞にして知らない。事実とすれば驚くべきことであるが、これを支持あるいは示唆する資料はどこにも見当たらない。このような行為があれば思川下流部、また古河町が真向うから反対するのは必然である。田中のこの談は、治水を巡る地域対立を研究している筆者にとって到底信じられる話ではない。 
4.2 江戸川流頭部「棒出し」をめぐる論争−東京築港問題との関連で
江戸川流頭部の棒出しは、天明3 年(1783) には既にその前身はあったが、近世後期、先述したように下野国下都賀郡との間で18間(33m) より狭めないことが定められた。しかし明治初年には約30間にまで拡がっていたといわれる 。その後、明治8 年(1880)石張に改築した後、17年1 月から一年もかけて丸石積に強化され10間余りも狭められた。この落成式には、大相撲を行って盛大にこれを祝った。だが竣工直後の18 年7 月の洪水で破壊された後、同年、角石積に改築された。この後、29年に角石による修繕が行われたが、31年、河床の深さが計画低水位以下30尺(9.09ra) から15尺(4.54m)に埋立てられるとともに9 間強に狭められ、護岸はコンクリートで覆われたのである。
この棒出し強化、特に明治31 年の改築について田中正造の主張は、明治29年の大出水は東京府下まで浸水したのであるが、これにより鉱毒問題が首都・東京に飛び火するのを恐れた政府が江戸川への洪水流入を制限しようとしたとのことである。しかし明治政府による本格的な棒出しは、明治10年代中頃から既に始まっている。この時、まだ足尾鉱毒問題は顕在化していない。この棒出し強化について筆者は、東京港築港の課題から江戸川を通じて土砂を東京湾に流入するのを恐れたからだと考えている。これについて具体的にみていこう。
東京港築港問題は、明治13年(1880 年)、東京府に市区取調委員局が設置されて以来検討され、翌14年より東京港築港調査が行われた。東京市区の整備は、「貿易市場ノ目的ヲ以テ規模ヲ立ツルニ如カズ」と、貿易を第一義に置いているため、港湾の位置と密接に関係しているとの認識であった 。
東京府は、品川港・隅田川の測量、横浜港まで含めた舟の出入りの状況、移出入物、運賃、隅田川の出水、品川沖の風の調査を行った。この調査項目でもわかるように、東京港の重要な課題は、自然条件としては隅田川出水、品川沖の風の動向、社会条件としては横浜港との関連であった。この調査をもとにして東京府では、佃島以南、築地・芝・高輪沖での海港策を樹てた。しかし、府内に設置された市区取調委員局で隅田川下流に作るべし、との意見が出されたため、内務省お雇い技師・ムルデルに諮問した。
東京府より港湾計画を諮問されたムルデルは、明治14年、川策海港策の二つについて答申した。彼は隅田川の処理をも含めて両策を計画し、どちらを選択するのかは東京府に預けた。ムルデルの報告をみると、隅田川は、下流部の石川島によって二派に分かれ東京港に流出する 。その深さは、両国橋より永代橋までは低水以下十二尺、それより下流では東派は低水以下二尺ないし三尺、西派は四尺から五尺である。永代橋より下流では土砂が堆積してこのように浅く、これが舟運にとって大きな問題であることを指摘した。なお永代橋下流での糾ラは、その上流より広くなっている。
この堆積土砂の由来についてムルデルは、「隅田川ノ水ハ実二中川・江戸川ノ水ヨリ清浄ナリト雖モ、諸川ノ水ノ如ク砂域ハ泥分ヲ含ム」と考え、隅田川からの流出土砂であることを匂わせる。それと共に次のように述べた。
「利根川ノ砂洲ハ、海中二突出スル幾何ノ遠キニ至ルヤハ第二図二就テ考フルヲ要ス。而シテニ間且三間ノ深線ハ、此川ノ近傍二於テ海ノ方二向ヘル湾円ク擁曲ヲ現ハス。是レ此川ノ影響少ナカラザルヲ知ラシムル者ナリ。」
ムルデルは、利根川の影響がここまで及んでいることを指摘するのである。そしてこの認識の下で、永代橋付近より下流に堆積する土砂の由来を二つあげる。一つは隅田川からの土砂であって、この地点で川幅が広がり、流速が落ちることによっての堆積である。他の一つは、海からの漂砂である。河口が二派に分かれているため、二派から入ってきた海の潮流が永代橋付近でぶつかり、この付近に堆積するとの考えである。海からの漂砂、それは利根川・江戸川・中川からの流出土砂を想定していたことは間違いない。
またムルデルは、海港策の一つとして考えられていた東派の整備について、砂州が出来て流れに支障が生じないように低水下六尺ないし七尺まで水深を維持すべきことを図った。さらに、西派を締切り、その澪に若干の手入れをして、ここを港として使用しようとの案については、隅田川・中川・江戸川が近くにあるのですぐに浅くなってしまうことを指摘して退けた。ムルデルは、江戸川からの流出土砂を東京港築港と強く結びつけていたのである。
その後、東京府によって、明治16年(1883年)から10 ヵ年計画で隅田川澪浚工事を行うことが議決された。その目的は、隅田川河口から東京湾にかけての舟運路を確保するためである。
一方、東京府に諮問されたムルデルの港湾計画が東京府に取り上げられ、港湾問題が大きく動いたのは明治18年(1885年)である。この年、東京府知事芳川顕生が品川築港、すなわちムルデルの海港策を取り上げたのである。これを契機としてムルデルの海港策が検討されたが、その計画とは西派を締め切って隅田川を東派に追いさり、締め切った西派から西に千町余の池を造り、漏斗状の口でもって海と連絡する計画である。池は低水下23尺まで掘削し、その水深の維持は二十四時間で二回ある干潮に起因する潮流に任せる。つまり潮流によって、漏斗状の口から入ろうとする土砂を除去する考えである。この池の中に隅田川を入れると、土砂等の沈殿によって浅くなり港湾としての機能がなくなる。このため隅田川は東派に整備するのである。この計画に対し、隅田川の西派を締め切って東派一本にすると、海への出□の地理的関係により、その河口が土砂によって埋まらないのかとの疑問が出された。
この技術的疑問も踏まえて、明治18 年(1885)、品川沖築港工事修正案が、芳川知事が会長となった内務省の市区改正品海築港審査会より出された。その案は、東派を締め切って西派一本にしその周辺に船着場を整備しようとの計画である。ムルデルの「川策」の発展した計画といってよい。なおこの計画は、隅田川からの流出土砂が江戸川・中川等と比べて少ないことを前提としている。
市区改正審査会のこの修正案が、内務大臣に復せられた。しかし、築港に対してその利害の反する横浜港との関連等で実現するには至らなかった。
明治21年(1888年)、内務省に東京市区改正委員会が設置され、ここで築港問題が審査されて技術的調査を行うことになった。調査内容は、内務省技師・沖野忠雄の方針に基づくものである 。沖野は、「品川湾ノ測量、潮ノ干潮、江戸川・荒川・綾瀬川等ノ水源、笠其土砂ノ流量、大川ノ深浅杯ヲ緻密二調査スルニ在リ」の考えをもっていた。これに加えて隅田川の地質も調べることになった。
この沖野の意見で注目すべきことは、荒川・綾瀬川のみならず、江戸川の土砂の問題も大きく浮かび上がっていることである。そして調査報告書では、品川沖に堆積した土砂の由来について、「隅田川・六郷川其他大小ノ河渠ヨリ流出セル土砂ト、潮流ノ潟シ来レル海砂ノ多年海底二沈澄堆積セシニ由リ」と述べている。つまり、品川沖に直接流出している隅田川等の土砂と、潮流によって運搬された土砂とを並列的に指摘しているのである。
この後も基礎調査が引き続いて行われた。しかし、明治22年(1889年)は横浜港の築港が着手された年でもあって、東京港築港問題も一応収まった。東京築港問題が再び大きく取り上げられるのは、東京市区改正委員会に調査委員を設けた明治28年(1895年)からである。明治32年(1899年)、当時の松田市長は古市公威・中山秀三郎に計画を嘱託した。
明治33年(1900年)、古市公威・中山秀三郎より築港計画の報告書が提出された。それに先立ち古市は、明治22年(1889年)に欧州を巡回した時、フランスで仏軍省海工監海督官ルノーに東京港築港の意見を求めた。古市・中山の計画は、この時のルノーの意見を基にして造られたものである。このため、先ずルノーの東京港築港に対する意見からみていく 。
ルノーの築港計画は海港案であり、十分水深のある川崎の突出点(羽田沖)に前港を設け、ここより10キロメートル半の運河を開削して繋泊所(本港)を芝浦・品川近くに設置しようとの計画である。繋泊所の位置は、「鉄道ノ便、並ビニ市内ノ運河及ビ隅田川ノ利アルヲ撰ミ」て定められた。
繋泊所は、運河で前港とつなぎ海と連絡するのであるが、これは次の考えからである。
「品川湾ハ海岸ヨリ十「キロメートル」余ノ間二泥砂ノ充満スルヲ見ル。即チ此湾二注グ所ノ諸川殊二新利根川ノ流送スル泥砂ナリ。此泥砂ハ束ヨリ西二回りツツ徐々二沖ノ方二進ミ出ズルモノナリ。」
このように土砂の堆積を避けるために、10 キロメートル沖合に前港を設けるのである。そして遠浅になっている品川沖の土砂は、この湾に注ぐ諸川、とくに新利根川より流出する泥砂ととらえている。この新利根川とは、この文章そして付属図面(省略)から判断して江戸川のことである。つまりルノーは、堆積土砂を江戸川から由来するものと考えている。
またルノーは、ムルデルの深海策に対して自らの意見が優れていることを次のように述べる。ムルデルの計画では、港門が「新利根川ノ近キニ在ルコトヲ以テ考フルニ」、閉塞することは間違いのないことである。このため港門を維持するためには、「不断浚渫ノ方法二依頼セザル可ラズ」。
この量は決して少なくなく、工事費は巨額に達するだろう。ムルデルが言及している潮の干満の差によって、堆積を防ぐことは不可能である。なぜなら「海潮干満ノ差大ナラザレバ、退潮二港門ヨリ流出スル水量モ亦小ナリ。故二潮カヲ仮リテ港門ノ浅洲ヲ浚ヒ、大船ノ出入リニ差悶ナキ深ヲ保ツ能ハズ」。
これに対し自らの案は、前港の突堤の頭部を海底の斜面が急となる点に置くので港門に土砂が堆積することはなく、水深は維持される。なぜなら「海岸二沿フテ進ム所ノ泥砂ハ深淵二陥リ、港門二浅洲ヲ生ゼズシテ潮流と共二門外ヲ通過シ去ルペシ。又港門外ノ深サ大ナルガ為メニ、波浪ノ泥砂ヲ捲クコト少ナシ。又南風二因テ生ズル怒濤ハ、門外ヲ通過シテ港門ヲ侵サザルペシ」。
このようにルノーは土砂堆積より見た港門の維持の点で、ムルデルの深海策より優れていることを強調したのである。東京築港計画において、土砂問題が実に大きな課題であったことがわかろう。特にここで重要なことは、問題となっている土砂を海からの漂砂であると考え、江戸川河口からの流出土砂を大きく扱っていることである。
次に古市・中山の東京港築港計画をみると、ルノー案と同様に前港・本港(繋船所)、両港をつなぐ運河を造るのが柱である。本港の位置は芝浦沖である。基本的な設計はルノーと同様であり、ルノーの計画をもとにして社会条件を勘案し、より具体化したものと評価することができる。
古市・中山の計画は、明治33年(1900年)、東京市会で継続12ヵ年事業として可決され、公式の東京港計画となった。国庫補助を求めて内務大臣に二度程請願したが、内務大臣から何の指令もなく、実行へ移すことができなかった。その後、東京港修築工事の名のもとに着手されたのは、かなり先の昭和6 年(1931年)であり、昭和16 年開港となった。それまでは隅田川岸が江戸時代に引き続いて水上輸送の東京の窓口であった。このため隅田川の改良は、明治20年前後の澪浚工事の終了以降もたびたび行われた。
明治39年(1906年)から隅田川河口改良第一期工事が、36年の東京市の議に基づいて行われた。
この工事の目的等について東京市の小川織三技師の36年の意見書をもとに、土砂との関連を中心にしてみると、水深を浅くする土砂の由来について、彼は次のように考えている。
「隅田川ハ総テ他ノ諸川ノ如ク泥砂ヲ放下スルコトハ到底免レザル処ナレドモ、其量比較的少ナク、其川底埋没ノ原因トシテ恐ルベキハ寧口河口充塞サルゝニ依リテ、自然河水ノ流通ヲ妨ゲ河水中二含有スル土砂ヲ比較的多ク河底二沈殿セシムル傾ヲ有スルニ在リ。蓋シ品川湾内二於ケル潮流ノ性質ハ、中川及江戸川ヨリ放下シタル泥砂ヲ東ヨリ西二運ビ、海底一帯二之ヲ堆積スルト同時ニ、隅田川ヨリ放下シタル泥砂亦其付近ノ海底二沈殿ス。」
つまり隅田川からの放出土砂はそんなに多くはない。しかし中川及び江戸川より流下された土砂が、潮流によって東より西に流れ、品川沖に堆積して隅田川の河口閉塞も生ぜしめる。この結果、隅田川からの土砂もこの地に堆積して浅くなる。小川は、隅田川河口の土砂堆積は隅田川からの土砂のみならず、江戸川、中川より放出された土砂も深く影響していると考えたのである。
ここで棒出しの推移を東京港築港・舟運問題との関連で整理しょう。
明治17年(1884)1 月から一年にもわたる棒出しの強化では丸石積み工事が行われ、落成式には大相撲を行ってこれを祝った。これと時期を同じくした16年から、東京府は10ヶ年計画で隅田川河口を中心に澪浚工事が行われた。この当時、流出土砂問題は、隅田川からとともに、江戸川からの流出もムルデルの意見のように意識されていた。
明治18年、東京市区改正委員会より出された品川沖築港工事修正案は、隅田川からの流出土砂を江戸川・中川と比べて少ないことを前提の条件として計画された。つまり江戸川からの流出土砂が十分意識されていたのであり、品川沖築港にとって棒出し強化による江戸川への土砂流入の防止は望むところであった。あるいは、その前掲であった。
明治14年に東京港湾計画を諮問したムルデルは、19年の利根川改修計画で江戸川・下利根川の分派状況を固定、つまり現状のままとしている。ムルデルは、東京港計画について隅田川からの流出土砂とともに、銚子より海へ放出される利根川からの漂砂も含めた利根川水系の土砂を大きく問題としている。港湾の位置よりして銚子での放出より、中川・江戸川からの土砂が大きな課題であったことは想像に難しくない。棒出しの補強が行われた17年の状況を固定したものと考えることは、ムルデルにとって当を得たことであろう。
明治29年棒出しの大修繕が行われ、31 年、棒出しの間隔は幅九間強に狭まったが、この直前より東京築港問題は大きく動いていた。28 年、東京市区改正委員会に調査委員が設けられ、ここを中心にして築港問題が検討された。32 年には市会で築港が建議されて、古市・中山に計画が嘱託されたのである。古市・中山は東京港築港にとって江戸川からの流出土砂を大きく問題としていたが、これは22年、古市が渡仏した時に意見を求めたルノーの考えであった。ルノ―は自らの計画がムルデルより優れているのは、江戸川から流出してくる堆積土砂への対応からと主張しているほどである。
なお、沖野忠雄も明治20年代初期ではあるが、東京港築港にとって江戸川からの流出土砂を問題としていた。
このように、当時の我が国の土木計画に強い影響を及ぼす実力者が、江戸川からの流出土砂を問題にしているのである。明治10年代には東京港への流出土砂は、江戸川から放出されたものが漂砂となって流れてきたものであり、それはまた東京の舟運と密接に絡んでいるとの認識は、かなり一般化していたと考えても十分妥当であろう。
以上のことにより、江戸川における明治17年の棒出しの強化、それに続く31年の呑口の極端な狭窄工事は、東京港湾計画、舟運問題との関わりで行われたと判断する。
利根川ではその後、明治33(1900)年から昭和5 (1930)年にわたる改修工事により、パナマ運河の工事量に匹敵する大量の土砂が浚渫されていった。このこともあって東京湾への土砂流出は次第に意識から消えていったものと思われる。 
5 明治改修における政府の合流計画 
5.1 ムルデルの改修計画
利根川で一定の計画の工事が進められたのは、明治20年(1887) からであり、オランダ人お雇い技師ムルデルにより前年4 月に策定された計画に基づいて行われた。
この計画は、近藤仙太郎を助手にして行われた明治16年(1883)4 月から18年12月にかけての測量に基づくものである。ムルデルは1通船、2破堤、越水の危険の防止、3下流低地の一部の開墾、を計画の目的としていた。この中で利根川と渡良瀬川との合流について次のように述べている。
「渡良瀬川の事
一支流なる渡良瀬川が、利根本川に接する近傍に於ける傾斜度の如きは、之を該所本川の傾斜に比較するも猶遥かに緩なり。是に由り洪水の時は本川の水此支流逆流し、為めに下方の渡良瀬平地に大なる損害を来すや屡々之なり。斯る禍害の幾分は水流矯正の工に籍り、且又更に劃然本支を分離するの方法を以て減除し得べき所のものなり。右分隔をなすの法は堤防を長ふし、而して堅牢且傾斜して低水面に達する一強堰を設くるにあり。」
合流地点において、渡良瀬川の勾配が利根川本川に比べて「遥かに緩」と指摘し、本川からの逆流被害を防止するには、河道の整理とともに両川を分離すべきだとしている。その分離方法は導流堤によってである。そして「堅牢且傾斜して低水面に達するー強堰を設くる」と述べている。利根川の逆流を防ぐ堰の設置と思われるが、具体的にはよく分からない。
赤堀川を中心としたムルデルの計画をみると、赤堀川、権現堂川、逆川をそれぞれ拡幅するが、その分流比は基本的に従前と同じにすることを次のように述べる。
「赤堀川を拡開し堤防撤去の後は前日よりも一層多分の水を誘引すべきが如しと雖も、権現堂川及び逆川をも拡開するを以て、本川の流水量を分引すること大抵前日に同かるべし。然れども他日双方の何れか流水の引こと多きに過ぐるを見れば、即ち分流派叉の所の工事を変更し以て其状を矯正するを得べし。」
なお権現堂川を閉じて赤堀川に利根川全川の水を流し、江戸川へは逆川を通じて流そうという願望があることに対し、その利益を次のように4 つあげている。
1)低水すべてを一本の水路に流すことにより舟運の便となる。
2)江戸川河口の航路の障害が減少する。
3)逆川の流れも常に一定の方向に流れ、水路の閉塞が減少する。
4)権現堂川敷を耕地として利用できる。
このムルデルの計画策定に先んじて、明治18年(1885)7月、かなりの大きさの洪水の近代的流量観測に成功した。
それによると、上利根川(妻沼以下)が136,000立方尺/秒、渡良瀬川への逆流が3,000立方尺/秒、中田地先へは133,000立方尺/秒が流下した。この後、赤堀川に66,000立方尺/秒、権現堂川に67,000立方尺/秒とほぼ半分づつに分流した。この分流状況は近世後半の評価と同じである。この後、権現堂川洪水は河道内で若干のピーク流量の減少があって逆川に35,000立方尺/秒、江戸川に30,000立方尺/秒の分派状況となった。
その後の明治23年の洪水では、上利根川で182,580立方尺/秒、中利根川へは136,000立方尺/秒となっている。渡良瀬川への逆流は観測されていないが、上利根川と中利根川の流量差は46,580立方尺/秒であり、その一部が逆流していたのである。 
5.2 明治33年利郵||改修計画
明治33 年(1900)度から、利根川では29年に成立した河川法に基づき国直轄によって洪水防御工事が着手された。治水計画は近藤仙太郎によって策定されたが、この計画は国家予算規模の制約のため全川で行うものではなく、次に述べるように、改修区域のうち計画より河積の狭い箇所、湾曲している箇所であって緊急に改修を必要とするか近いうちに改修を必要とする箇所に限定して工事するものであった。
「利根川ノ上流芝根村ヨリ下流ヲ改修シ、(中略)二様ヲ調査セシニ関宿ヲ経テ行徳二至り東京湾二入ル改修費ハ凡四千五百八万円ヲ要シ、境町ヨリ若松村ヲ経テ太平洋二出ル改修費ハ凡三千六百三十七万円ヲ要スルノ結果ヲ得タルモ、巨額ノ費用ニシテ到底今日ノ場合実行ヲ許サス。依テ今度河幅狭阻屈曲甚シクシテ最モ速二改修ヲ要スル箇所及早晩改修ヲ必要トスル箇所ヲ提出シ、之レカ計画及工費予算ヲ調製セリ。」
このような考えの下に、群馬県芝根村から銚子河口までの利根川本川約51里(204km )の間で、工事箇所17 カ所が選定された。近藤仙太郎の計画書「利根川高水工事計画意見書」に基づいて、渡良瀬川の合流問題を検討しよう。この計画で、遂に栗橋下流は権現堂川が締め切られ、河道は赤堀川一本に整理されたのである。
渡良瀬川が合流する区域の利根川河道状況については次のように述べ、堤外地が高くなったこと等によって明治18年に比べてほぼ同じ流量に対して水位は三尺ほど高くなっていることを近藤は主張する。渡良瀬川への逆流はそれ程、し易くなったのである。
「廿三年洪水以来、沿岸ノ堤防ハ殆ント総テ其高三尺以上増シタルモ、水量二於テ八木川中咽喉ノ要所タル中田町地先二於テノ水量八十三四万立方尺ノ間ニアリテ、十八年ノ水位二比シテ二十三年廿七年廿九年ノ水位ハ殆ント三尺ノ差アリト雖モ、其流量二於テ其差甚ダ些少ナリ。之レ蓋シ十八九年以来(一)堤外地ノ高マリシト(二)堤外地二盛ンニ桑樹ヲ植ユルヲ以テ流水ノ疎通ヲ妨タルト(三)堤外地二存在スル所ノ掻上ケ堤ノ次第二高大ナリシト(四)従来非常洪水二際セバ或ハ超越シ或ハ洪潰セシ堤防モ近来二至り高且ツ大トナリシ為メ洪水ノ氾濫区域ヲ減シ従テ本川ノ水位ヲ高メシニ起因セスンハアラサリナリ。」
計画の対象とされた洪水は、明治18、23、27、29年の出水で、渡良瀬川を合流した直後の中田地点では4 洪水を平均した13,500立方尺/秒(3.75Ou/s )力1計画対象流量とされた。この流量は、明治18年の洪水量136,000立方尺/秒にほぽ近いものだった。また渡良瀬川合流点上流でも中田地点と同じ135,000立方尺/秒であり、渡良瀬川の逆流は零とされた。この後、江戸川へ35,000立方尺/秒分流し、中利根川へは100,000立方尺/秒の流下量とされた。江戸川への分派率は26% である。
また渡良瀬川が利根川に合流する付近から江戸川分流地点の利根川の計画は、具体的に次のようであった。
「東村附近ハ堤外地廣潤ナリト雖モ、堤外二人家及小堤等アルカ為メ高水疏通ヲ妨クルコト大ナリ、故二此等ヲ撤去スルニ於テハ、向川辺領ノ水害ヲ減スルノミナラス渡良瀬川ヘノ逆流ヲ減スルコト大ナリトス。」
「上利根川ヲ改修セハ多少下流二影響ヲ及ホスヘキヲ以テ、此間ノ改修ヲ必要トスル所以ナリ。五ケ村附近ハ既定ノ如ク赤堀川ヲ拡ケ、権現堂川ヲ閉切ルニ於テハ有名ナル権現堂堤ノ難所ヲ避ケ得ルノミナラス、該川両岸ノ堤防ヲ廃棄シ得ルニ至ル。而シテ赤堀川ヲ拡ケ洪水疎通ヲ善良ナラシメハ、其附近ノ水害ヲ減スルノミナラス、渡良瀬川ノ逆流ヲモ大二減少スヘシ。権現堂川ヲ閉切ルニ於テハ、江戸川ノ水量二影響ヲ及ホスユヘニ、逆川ヲ改修シ江戸川ノ水量ヲシテ従来ノモノト異動ナカラシメントス。而シテ斯ノ如クスルニ於テハ、逆川及赤堀川ノ航路二於テモ一定ノ方向二流下シ土砂沈殿ヲ減スルニ至ルヘシ。」
合流点直上流の東村付近は基本的に旧来の河道の整理であるが、堤外にある人家・小堤等を撤去すれば疎通が良くなり水位が下がることにより渡良瀬川への逆流が減じると述べている。また赤堀川を拡げて一本にする理由として、権現堂堤等の難所をもつ権現堂川を廃止できること、渡良瀬川への逆流の減少が、主張されている。さらに江戸川への分流状況は、旧来と変更がないことを主張している。
中田地点の計画対象流量13,500立方尺/秒(約3,750m/s )は、明治18年の洪水量にほぼ等しい。しかしこの洪水は3,000立方尺/秒が渡良瀬川へ逆流した後のものである。近藤は、合流点付近の河道の整理、赤堀川への拡幅によって逆流は生じないと計画した。一方、渡良瀬川の側からみたら、利根川洪水の逆流を考慮することはないが、利根川への合流量は零ということになる。つまり利根川のピーク時、渡良瀬川の出水を利根川本川に流下させることはできず、自らの流域・河道内で処理せねばならないことになる。しかしこの状況は、従来の状況を引き継いだのであり、あるいは利根川逆流が零になっただけ渡良瀬川下流部にとって有利になったとの評価もできる。その後、渡良瀬川改修計画は、この利根川改修計画と整合を図ることが求められたのである。 
5.3 明治43年の改修計画
近藤仙太郎の改修計画は、佐原から銚子河口までの約42km が第1 期改修区間と位置づけられ、明治33年度から20 ヵ年にわたる継続事業として着工された。この後、取手から佐原までの約52km が第2期、取手から群馬県芝根村沼の上までが第3 期として着手される計画であった。
だが明治43年8 月、利根川は未曾有の大洪水に襲われ大水害となった。このため改修計画は全面的に見直され、中田地点は200,000立方尺/秒の計画対象流量となった。江戸川分流派は80,000立方尺/秒に引き上げられ、その分派率も40% となった。またその流頭部にあった棒出しは撤去され、新たな分派地点に水門、閉門の設置とともに高水路床固めが設置されることとなったのである。ただ利根川への渡良瀬川合流量は従来と同様に零であった。利根川改修計画変更により、渡良瀬川改修計画が変わることはなかったのである。 
6 おわりに
この改修事業が完成したのは昭和5 年(1930) であった。この竣功から間もない10年、利根川は大出水となったが、上利根川で氾濫することなく、中利根川・下利根川(旧常陸川)筋に流れていった。すなわち上利根川の大出水が上利根川で破堤することなく赤堀川筋を流れ、旧常陸川に流下していった有史以来、初めての大洪水であった。ここに近世初期から行われた利根川東遷が完成したのである。
一方、明治43年4 月から始まった渡良瀬川改修工事が竣功したのは大正14年(1925)である。この後、渡良瀬川下流部の水害常習地帯での整備が進められていったのである。水害常習地帯にとって渡良瀬川改修事業が大きなインパクトと成ったのである。 
 
足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地の成立 [4]
 渡良瀬川・思川治水をめぐる地域対立 

 

1.はじめに
筆者は、「国際地域学研究第5号」(東洋大学国際地域学部2002年3月)で、本課題「足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地の成立」についての基本的枠組みを述べた。それは、次のようである。自然条件に制約されて基本的に常習湛水地域であった渡良瀬川下流部には長い期間にわたる治水課題があり、これに足尾鉱毒問題が加わってこの地域の治水整備が喫緊の課題となった。そこで採択されたのが、谷中村廃村に基づく遊水地の整備であった。ではなぜ谷中村なのか。自然条件、足尾鉱毒問題も含め、歴史的な地域の成立過程の分析を通じて明らかにする必要がある。
この認識に基づき「国際地域学研究第7号」(2004年3月)では、渡良瀬川の歴史的河道整備について論じ、近世、渡良瀬川は右岸に展開する上野国(現・群馬県)館林領を守るように整備されてきたことを明らかにした。館林領の対岸、そこは下野国(現・栃木県)であるが、そこで合流する支川のほとんどは堤防で締切られることなく霞堤となり、洪水の都度、氾濫していたのである。また、特に明治35年(1902)の渡良瀬川出水が、藤岡台地の開削・渡良瀬遊水地築造という近代改修計画に大きな影響を与えたことを指摘した。その出水は、旧蓮花川河道(唯木沼から旧渡良瀬川に流出していた河道)・新川(宝永7年(1710)に唯木沼から赤麻沼(現渡良瀬遊水地の一部)に人口開削された水路)を通って藤岡台地を横切り、赤麻沼から谷中村を襲っていた。谷中村は、渡良瀬川・思川合流部からではなく、その背後から襲われたのである。この出水を踏まえ、近代改修計画は策定されたのである。
続いて「国際地域学研究第8号」(2005年3月)では、渡良瀬川と利根川の合流状況について論じてきた。天明3年(1783)の大噴火により大量の火山灰が利根川流域に降下し、これを契機に、利根川河道は一変した。降灰が洪水によって河道に集中することにより、それまでの堀込河道から土砂の移動の激しい天井川へと変貌していったのである。また利根川河床上昇により、渡良瀬川・思川の排水条件が悪くなるとともに、渡良瀬川・思川下流部には利根川からの逆流が多くなり水害が激化した。谷中村では、堤内の湿地化・荒蕪化が進み、その結果、530余戸あった人家が、明治2年(1869)には300余戸と減少したのである。
本研究では、渡良瀬川中・下流部、思川下流部に焦点をあて、近代改修に至る厳しい地域対立について論じていく。なお説明の都合上、既論文と重なる部分が少々あることをお断りしておく。 
2.渡良瀬川中・下流部の地域対立 
2.1 近代初頭の地域対立
近世の渡良瀬川下流部の治水秩序をみると、右岸・館林領を守る状況になっている。館林領は築堤で囲まれ、渡良瀬川を西岡地先から台地に押し込み、その直上流部は築堤で締切らず霞堤となっていた。下野国である渡良瀬川左岸また矢場川左岸に遊水させる秩序となっていたのである。そして館林藩には、家康関東入国時に徳川四天王の一人・榊原康政が配封され、後にはここから綱吉が5代将軍となった。治水上、他地域に比して館林領である渡良瀬川下流部右岸は優位に整備されたのである。
明治4年(1871)、渡良瀬川中流部左岸に位置する栃木県下都賀郡・安蘇郡の村々から渡良瀬川改修計画案が、当時の行政区域である古河県・日光県に嘆願書として提出された。渡良瀬川の秋山川合流点直上流から板倉沼に新河道を開削し、合ノ川との合流地点で渡良瀬川に再び落とそうとしたものである。嘆願した村々は、現在の佐野市が中心であるが、藤岡町も加わっている。この嘆願の歴史的背景として、対岸・群馬県側と比べて不利な治水秩序となっていたこと、さらには幕末、藤岡の台地を開削して赤麻沼に落とす改修計画が右岸の館林領から提案されていたことがあげられる。直接的には、この改修計画案への対抗策であったであろう。
右岸・館林領からの幕末の改修計画を策定したのは、邑楽郡田谷村住民・大出地図弥である。館林藩に献策したところ認められたので、大出は多くの人々を指揮して測量を行い、詳細な実測図を作成して起工しようとした。しかしその開削台地が館林藩ではなかったため挫折したことが伝えられている。「群馬県邑楽郡誌」(群馬県邑楽郡教育会大正6年)は、「近年渡良瀬川改修工事の開始せらるゝやその計画地図弥の設計と全然軌を一にす。世人深く地図弥の卓見に服す」と述べている。彼の設計が、明治改修による放水路計画と同じだったと記述されていることに注目したい。
さて明治4年の左岸側の構想は、秋山川合流点直下流から新河道を開削しようということである。
合流地点は霞堤であるため常習湛水地域となっているが、常習湛水から脱却するためには霞堤を閉じなくてはならない。そのためには下流部の渡良瀬川河道の疎水能力を大きくしなくてはならない。しかし合流点下流部は台地によって狭窄されているため、容易に拡げることは出来ない。そこで新河道開削の要求となったのである。 
2.2 鉱毒被害と地域の対応
鉱毒の影響が下流農民に現れ始めたのは明治18年(1885)から20年といわれるが、23年の洪水によって一挙に被害が顕在化した。23年10月、秋山川の中流地域に位置する安蘇郡犬伏町から「秋山・渡良瀬川逆水防禦堤塘新設願」が栃木県知事に提出された。その中で以前は「出水ノ度毎ニ其逆水ノ為メ耕地ニ害ヲ被ムル実ニ甚シキモノ」であったが、「年々出水ノ度毎ニ此大害ヲ被ル事ナレバ其積算スル処実ニ巨大ト謂ハザルヲ得ス、況ンヤ近年足尾銅山ヨリ来ル処ノ『タンパン』水ノ為メ、浸水耕地ノ諸作物ヲ害スル事実ニ甚シク、且ツ従来谷地ヲ採ツテ以テ肥料トナシ来リシモ、却而諸作物ヲ害スルカ故ニ之レヲ用ユルヲ得ス、豈之レガ防禦ノ法ヲ求メズシテ可ナランヤ」と、常習湛水が鉱毒被害となったことを述べている。
この「堤塘新設願」は、洪水防禦のため堤防・樋門を設置して霞堤を締切ることを要請するが、さらに43町余の良田を新たに得るとして、その効果を主張する。また「本案工事ニ要スル諸費ハ一切有志者ノ寄附金及ビ献力人夫ヲ以テ之レヲ弁ジ、聊カモ県庁ノ御補助ヲ仰ガザルナリ」とのことを付け加えている。いかに霞堤締切りの要望が強いかが分かる。
さらに明治23年(1890)12月、渡良瀬川左岸に位置する足利郡吾妻村々長が、栃木県知事に甚大な被害を受けるとして上申書を提出した。吾妻村は、才川が渡良瀬川に合流する地域に位置し、その合流部は霞堤となっていて常習氾濫地域である。しかし北から南への地形勾配はかなりあり、湛水が引くのは早かった。この点で湛水時間が長い下流部の秋山川、あるいは谷中村と異なっていたが、この中で鉱毒被害について次のように述べている。
「1. (略)往古ハ一度出水アリ多少害ヲ被ムルモ、田面ニ残ル澱土肥料トナリ、両三年間ハ多少ノ肥料ヲ要セス稲作繁茂ヲ見ルモ、近年該澱土反ッテ有害トナリ、古来ノ肥料倍数ニ施スモ年々収穫ヲ減ス。(略)
1. 本村畑作ハ大小麦菜種之レナリ。夫レ之レカ実況ヲ査察スルニ、前記ノ如ク出水後ノ澱土、最モ畑作物ノ肥料トナリ頗ル生育好ク、仮令出水アリ夏作物タル大小豆ニ多少被害ヲ受クモ、大小麦菜種ノ収穫多キヲ以テ敢テ意ト為サリシカ。近年之ニ反シテ該澱土ノ有害ナルカ為、毎秋播種期ニ至リ播種スルモ、発生ノ後更ニ生育ノ景状ナク央ハ枯損スルアリ。(略)
1. 本村勉強ナル農夫ハ春期中余暇ノ際、渡良瀬川沿岸寄州ニ沈澱スル土ヲ適宜ノ方法ニ據リ我田畑ニ運搬シ、肥料ノ一助トナシ来リシカ。今春大字上羽田ノ一農夫該方法ヲ我田ニ履行セシ処、豈ニ計ランヤ反ッテ有害トナリ、田ノ稲作ヨリ生育ノ劣レルコト数等、故ニ本村民之レヲ実見シテ丹礬毒ノ甚シキ驚嘆セリ。(略)」
このように常習氾濫地域があったが、洪水によって運ばれてきた土砂には肥料が含まれており、稲作や畑作にとって少々の氾濫は被害とはならなかった。中には、堆積した土砂を田畑に運搬して肥料としていた。しかし銅分を含むことによって一変したと述べている。洪水が激甚な鉱毒被害へと変わったのである。被害を受けた住民は「鉱毒洪水合成加害」と認識していた。
中・下流部での鉱毒被害は、足尾銅山から出た硫化銅を含む廃鉱が洪水によって下流に押し出され、それが田畑に氾濫して生じたのである。堤内地に渡良瀬川洪水が氾濫しなかったら、たとえ河道に廃鉱が堆積しても、堤内地の田畑は鉱毒被害にさらされることはない。このため鉱毒反対運動は、鉱山経営の廃止とともに渡良瀬川改修を求めており、渡良瀬川治水を包摂するものだった。さらに渡良瀬川治水にとっても、銅山採掘に伴う荒廃した上流山地からの多量の土砂流出は重大な支障となる。鉱毒被害と渡良瀬川治水は、密接、不可分な関係にあったのである。
渡良瀬川の洪水氾濫は、霞堤の地域から拡がっていた。その面積は表1に示すとおりである。秋山川の合流口の湛水区域が特に大きいことが分かる。6尺の増水は年30回以上、14尺の洪水は平均一ヶ年1回以上と評価されていた。
もちろん渡良瀬川沿いの堤防は貧弱ものであったので大洪水の時には堤防が破壊され、一層、広い区域に鉱毒被害を生じさせていた。一方、対岸の群馬県中・下流部では、堤防決壊があって初めて洪水は堤内に氾濫していた。
示談と治水
明治24年(1891)から県会議員が仲裁人となり、足尾製銅所(古河)と被害民との間で示談が進められていた。この中で治水がどのように認識されていたのかをみてみよう。秋山川沿いの安蘇郡植野・界・犬伏は、示談の中で新堤築造を求めて次のように主張した。
「堤外地四十町歩アリ。段価六十円ノ半額ヲ損害トシテ金一万二千円外ニ、新堤築造及水路新開費金二万円、合計三万二千円ニテ仲裁ヲ受ケタシ。但シ新堤及水路ノ築造ニ支障アルトキハ其費用ヲ堤内被害者ニ配分スル見込ナリ。」
また足利・梁田両郡からの要求は、次のように堤防の増築・新築を先ず第一に主張した。
「1. 堤防増築並ニ新堤築造ノ事
1. 鉱毒ノ為ニ荒蕪地ニ変シタル土地ヲ旧地ニ復スル法ヲ実行スルコト
1. 二十三年已降鉱毒ノ為ニ作物減損ニ対スル賠償ヲ受クルコト
1. 水源涵養法挙行ノコト」
栃木県下、渡良瀬川中・下流部の鉱毒被害住民にとって、霞堤締切がいかに重要であったかが分かる。なお谷中村がある下都賀郡は、斡旋案に対して次のように堤防強化を要求している。
「下都賀郡カ被害十分ノ二ト云フニ付テ異議ナシ、但谷中三鴨両村ト他四ヵ村ト対等ト云フハ少シク不相当ト認ラルヽヲ以テ、三鴨谷中ヲ四分トシ他ノ四ヵ村ヲ六分トシ、且四ヵ村ニ対シテ歩合ノ外ニ二千円ノ堤防費ヲ要求シタシ」
このような治水要求に対し、明治25年(1892)6月24日の安蘇郡・梁田郡との相談会の場で、県会議員・横尾輝吉は次のように述べ、秋山川・矢場川の霞堤締切りが鉱毒対等として重要であるが、行政上諸種の手続きが必要なので二番目の課題としたいと主張している。
􌓕安蘇郡ニ於ケル新堤築造ノ件ハ極メテ好挙ナレハ、篤ト調査ヲ加ヘテ御同意致スヘキ積リナリ。然レトモ事行政ニ関スルヲ以テ諸種ノ手続ヲ盡サヽルヘカラス。即チ示談ノ歩武ヲ進メタル後第二ノ目的トシテ之ニ従事セサルヘカラス。梁田郡ニ於ケル矢場川ノ如キモ同様、知事ニ於テ取扱ハルヘキト思ハルニ付、私共モ及フヘキ丈ケノ盡力ヲナスヘシ。」
被害地域からは「秋山川ノ開鑿ハ第二段ノコトトノコトナリシカ如何ナル訳ナルカ」と疑問が出たが、「秋山川ノ新堤ハ仲裁事件トシテ直接ニ出来ス」と、直接的に仲裁はできないと主張したのである。
明治25年8月から26年3月にかけて、それぞれの地域は示談について、明治29年6月までは新たに取り付けた粉鉱採集器が実動試験中なので何等の苦情も唱えない等の条件の下で、個別に鉱業側と契約を結んでいった。下都賀郡藤岡町・生井村・部屋村・野木村との間で25年8月に結ばれた契約の第一條は、次の内容であった。
「第一條古河市兵衛ニ於テハ未タ被害有無ノ調査ヲ遂ケサルモ仲裁人ノ取扱ニ任セ徳義上示談金トシテ左ノ如ク支出スルモノトス
第一項金参百拾壹円四拾五銭 是ハ本件ノ為メニ要シタル失費ニ充ツ
第二項金五千円 是ハ前記関係地ヘ配当
第三項金千八百円 是ハ水防費トシテ明治二十七年二月末日支出スルモノトス
第四項第一、第二両項ノ金額ハ即時之ヲ支払フ事
第五項第三項ノ金額ハ難止支障ヲ生シ水防工事遂工ニ至ラサルトキハ更ニ之ヲ該村関係地ヘ配分スル事」
示談金の合計は7,111円45銭だが、このうち25%が水防費にあてられている。同様に谷中村は、三鴨村大字都賀と合わせ第1項が500円、第2項が3,000円、第3項が2,000円の合計5,500円であった。また安蘇郡植野村・堺村・犬伏町の契約では、第1条は次の内容のものだった。
「第一條古河市兵衛ニ於テハ未ダ被害有無ノ調査ヲ遂ケザルモ、仲裁人ノ取扱ニ任セ徳義上示談金トシテ、左ノ如ク支出スルモノトス
第一項金千参百六拾八円九拾銭四厘 是ハ本件ノ為メニ要シタル失費ニ充ツ
第二項金壱万円也 是ハ植野村・界村・犬伏町ノ関係地ヘ適宜配当
第三項金壱万四千円也 是ハ水防費トシテ明治二十六年十月三十日、同二十七年十月三十日ノ両期、半額ツヽ支出スルモノトス
第四項第一第二両項ノ金額ハ即時之ヲ支払フコト
第五項第三項ノ金額ハ難止支障ヲ生ジ水防工事遂工ニ至ラサルトキハ、更ニ之ヲ三町村関係地ヘ配分スルコト」
示談25,368円90銭のうち55%が水防工事費にあてられているのである。
続いて明治26年12月から、いかなる災害があっても苦情は一切申し出ないという、いわゆる永久示談書がそれぞれの地域と結ばれた。下都賀郡「部屋村ノ内及生井村ノ内」では、26年12月26日に3,500円の示談金でもって次のような契約が結ばれた。
「右ハ当村々堤塘工事拡張致候ニ付、該費用中ニ不足ヲ生シ甚タ困難ノ折柄、特別ノ御都合ヲ以テ頭書ノ金参千五百円御補助被下難有領収仕候。就テハ自今右堤塘工事ヲ完全ニ竣功シ、常ニ水害ノ憂ナカラシムルハ勿論、昨明治廿五年八月中貴殿ト当村々トノ間ニ取組ミタル約定條件ハ一切無効ト致シ、向後永世ニ至ル迄、堤塘ノ内外ヲ問ハス天災其他如何ナル災害ニ遭遇候トモ、貴殿御事業足尾銅山ヨリ流出スル鉱毒土砂其他何等ノ名義ニ不拘、苦情カ間敷義一切申出間敷候。」
このように堤防の拡築工事のため費用が不足し、その補助金として永久示談金を受け取ったのである。治水さえしっかりしていれば被害が生じないとの判断であった。この後、示談金額を代えて同内容のものがそれぞれの地域で結ばれていった。しかし秋山川が合流する安蘇郡植野村・堺村・犬伏町はこの永久示談を締結しなかった。 
2.3 渡良瀬川中流部の治水の動向
河川改修を行うのは、この当時、栃木県である。明治25年(1892)1月、栃木県は内務大臣に才川合流部における「新堤築造之義伺」を出し、次のように陳情した。
「多年築堤ノ計画有之候得共、時機熟セス起工ノ場合ニ至リ兼居。然ルニ明治廿三年八月ノ洪水ハ、実ニ非常ニシテ数百町歩ノ耕地ヲ浸シ、無限ノ惨状ヲ極メ候ヨリ益々堤塘築造ノ必要ヲ感シ、地先ニ当ル上下羽田人民ニ於テハ、堤敷ハ勿論千五百人ノ人夫ラモ寄附シ、新堤築造ノ事ヲ企図要請候ニ付、主任者派出調査為致候処事実相違無之ニ付、前後古堤ニ照準別紙図面ノカ所ヘ新堤築造ノ計画ヲ立、該工費金参千円支出議案ヲ廿五年度通常県会ニ発附候処、多数ノ賛成ヲ得テ可決ニ至リ候ニ付、該年度早々起工候様致度、尤利害ニ関係アル群馬県ヘ其意見紹介及候処、新堤築造相候時ハ、従来本県下ニ汎濫ノ水量放流ノ途ヲ設ケサレハ不相成ト、既設堤塘ハ薄弱ナルトヲ以テ協議ニ難応旨ノ回答ニ有之候得共、一体該県下ノ堤塘ハ本県下ニ比シ従来ヨリ高大且堅牢ニシテ、仮令本流ニ多少増水スト雖モ敢テ支障ヲ来タスノ憂ヒハ無之ト認メラレ候。」
このように、才川合流部には、以前から締切りの計画があったこと、23年の洪水によりその湛水面積は大きく悲惨な状況となったので、地元では用地と1500人の人夫を寄付して新堤築造を企画したこと、栃木県では主任を派遣して調査をして計画をつくり、三千円の予算で工事を行うことを決定したことが述べられている。しかし利害に関係のある群馬県に照会したところ、流下洪水量が増大し既存の堤防が危険になるといって反対した。栃木県は、群馬県の堤防は栃木県より高大で牽牢であって、たとえ多少の増水があったとしても支障がないことを主張し、内務大臣により至急の締切許可を要請したのである。
しかし内務大臣の裁可がないため明治27年(1894)4月、再度提出した(「新堤築之義ニ付再伺」)。その反答が27年5月、土木局長からあったが、次のように、新築すれば上・下流に影響し、その害は家屋・人命にも危険を及ぼし、農産物被害だけである今日に比べて著しく被害が増大すると論じ許可しなかった。
「該所ニ新堤ヲ築設シ洪水汎濫ヲ塞断スルトキハ水面ノ隆起ヲ来タシ、流水ノ疎通ヲ妨ケ、上流ニ影響ヲ及ホスコト不少。ノミナラス下流ニ於テモ自然洪水時刻ヲ早メ、水位ヲ嵩ムルコト一層ナリ。加之右ハ其築堤カ所ニ係ル下羽田地内ニ就キ之ヲ見ルモ、現時同所ニ於ケル洪水ハ之カ汎濫徐々タルヲ以テ、其害ノ及フ所単ニ農産物ニ止マリ土地ヲ害スルコト少ナシト雖モ、新堤築設ノ上一朝破壊スルコトアランカ、其災害ハ右土地ヲ害スルハ勿論、家屋人命ニモ危険ヲ来スノ虞有之。」
才川は、秋山川・矢場川と比べ、河川規模またその位置からして他地域に影響するところは少ない。しかしこの才川であっても群馬県は強硬に反対したのである。渡良瀬川中流部において、治水をめぐり極めて強い地域対立があったことが分かる。
この栃木県側の動きが刺激したであろう群馬県邑楽郡西谷田村外四ヶ村が、明治27年、群馬県会に「渡良瀬川堤防修築工事請願並びに設計書」を提出し、邑楽郡渡良瀬川右岸の堤防拡築を請願した。この中で次のように述べ、栃木県の治水の動きが脅威を与えているとして栃木県を非難した。
「対岸ナル栃木県ハ、地勢上優等ノ位置ヲ占ムルニ不拘治水ニ最モ鋭意シテ、連年堤塘ヲ修築セルヲ以テ、今之ヲ軽々ニ看過シタランニハ、再ヒ洪水ニ際スレハ必スヤ堤塘ノ決潰ハ栃木県ニアラスシテ、我カ群馬県ノ沿岸ニアラン。嗚呼之レヲ思ヒ彼レヲ思ヘハ轉タ憂患ニ堪ヘス。」
この請願に呼応して明治27年12月、群馬県会では、「栃木県界村ヨリ三鴨村地先新規築堤排除ノ建議」を行い、秋山川の霞堤を締切ろうとする栃木県を強く牽制した。なお秋山川合流部の直上流の渡良瀬川は、築堤により人為的に狭窄部となっていて、渡良瀬川洪水の疎通を抑える形状となっていた。
栃木県の常習氾濫の地域からは、この後も霞堤締切り要求は続いていく。明治28年12月「渡良瀬川下流測量願」が秋山川沿いの安蘇郡植野村・界村・犬伏町から提出され、国による渡良瀬川下流部の測量が懇願された。この中で「壱万四千円ヲ堤塘事業費トシテ寄附シ、以テ渡良瀬川下流ニ新堤ノ築造ト新川ノ開鑿トヲ県庁に出願セシニ、是レ亦容ルノ所ト為リ県会モ亦該測量ニ関スル費用ノ支出ヲ決議セラレタル」と、秋山川合流部の霞堤締切りと新川開削が計画されたことを述べている。新川開削とは秋山川のショートカットと思われるが、これも実行されず、「今ヤ対岸ナル群馬県ニ於テハ、此年ノ水害ニ鑑ミ一層宏大ナル拡築工事ヲ施シ、堤防ヲ鞏固ニセシモ、我地方ニ於テハ治水ノ功今ニ成ラス」と、堤防拡築を図る群馬県の動きを指摘し、政府による早急の測量を懇願したのである。
ところで新川開削について明治29年(1896)10月群馬県邑楽郡から、「渡良瀬川未流改良ノ儀」との請願書が提出された。この中で「茨城県猿島郡新郷村大字立崎ヨリ同村大字大山沼字大山エ(凡一里)、別紙略図黒点ノ通リ新川開鑿シ、之ヲシテ赤堀川ヘ放流スルトキハ逆水ヲ防遏シ、之ニ伴フ処ノ災害ヲ除クベク」と、利根川・渡良瀬川合流部で新たな水路の開削が主張された。邑楽郡からのこの動きをふまえてだろう同年12月19日、「茨城県猿島郡新郷村大字立アヨリ、同郡大山村大字大山沼へ一里程新川ヲ開鑿シ、以テ赤堀川ニ放流セシメ、之レカ溯水ヲ防遏シ其惨害ヲ避ケントス。若シ此新川ニシテ成功セハ、利根渡良瀬両川共ニ疏水ノ道全キヲ得、其利益ノ及ホス所啻ニ本県ノミナランヤ。延テ茨城、埼玉、栃木ノ四県ニ渉ルへシ」と主張する「渡良瀬川下流新川開鑿ノ建議」が群馬県会で行われ、県会議長から内務大臣へ上申された。
また栃木県会でも、明治29年12月12日付で行われた足尾銅山に関する建議の中で、「足尾銅山ヨリ流出スル鉱毒土砂等ヲ渡良瀬川以外ニ氾濫セシメサルニ湛ユヘキ堤防ヲ国庫支弁ヲ以テ新設又ハ拡築スルコト、及渡良瀬川下流ヨリ利根川ニ向ヒ新川ヲ開鑿シ疏通ノ途ヲ開ク事」と、堤防新改築とともに合流部における新川開削が主張された。合流部における新川開削では、両県は利害を一致させたのである。
なお明治30年3月に内閣直属の下に設置された足尾鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)でも、新川開削が議論されていた。調査委員として参画した小藤文次郎(帝国大学教授・地質学)は、明治30年7月、委員長に提出した「渡良瀬下流鉱毒地の地質報告」の中で、赤堀川と平行に新たな水路の開削を次のように主張した。
「第二案は、利根川の為渡良瀬の押留めらるるを避くる策として、古河の南に於て一大溝渠を穿ち、之を牧の地に始め而して新久田、馬喰を経て中田の北を貫き中田沼に落し、大山沼の縁に於て、赤堀川(利根分流)に瀉かしむる件なり。武野唯一の水路狭道たる栗橋辺の川床を横過する東北鉄道も、下渡良瀬の洪濫に対して其責の一部を分負せざる可らず。」
この文では第二案となっているが、その前に一策として西岡新田から大曲・板倉沼を経て谷田川下流部を通って渡良瀬川へ続く新たに河道を次のように提案していた。
「拙案に拠れは渡良瀬の積水を分割し、勢を殺く為めに西岡新田より地勢を利用し、幅広き溝を穿ち大曲より板倉沼に落し、而して谷田川に頼り、下宮の向岸に於て渡良瀬本流に送水するを一策とす。」
ところで明治30年、全く別個の改修計画案が地元住民から提出された。群馬県邑楽郡館林町住民と同県勢多郡住民の2名が「渡良瀬川治水ニ付建議」を内閣総理大臣に提出し、この中で藤岡台地開削による治水等を主張したのである。この中で
「第一河身ヲ定ムル事
第二堤外地ノ家屋及桑畑竹薮ノ如キ水流ノ疏流ニ害アルモノヲ撤去シ、応分ノ処置ヲ施ス事
第三末流ヲ開鑿スル事」
を提案したが、第三が藤岡台地開削であり、次のように論じた。
「渡良瀬川ノ沮滞スルハ、往時通船ノ便ノ為メニ設ケタル七曲ニ候ヘトモ、今日ハ気車ノ便利開ケ、敢テ通船ノ便ノミニ依ルヲ要セサレバ、其水路ヲ変シ、栃木県下都賀郡赤麻村ニ於ケル赤麻沼ニ疏通シ、之ヲ経テ下利根川ニ入ルベキ流域ヲ開鑿スルヲ以テ、治水上ノ良策ト思惟致シ候
赤麻沼ハ下利根川ニ比スレバ、其地勢二十尺余ノ高サニ在ルヲ以テ、之ニ渡良瀬川ヲ疏通スルハ啻ニ水害ヲ除クノミナラズ、更ニ幾多ノ良田ヲ得ベキハ昭乎タル事実ニ御座候」
幕末にも館林領の住民から藤岡台地開削による放水路案が提出され、測量まで行われている。明治30年(1897)になって再び地元住民から提案されたのである。この経線について提案した住民は「渡良瀬川末流開鑿之義ハ前年モ土地有志者熱心計画シタリシ位ニシテ、宿昔ノ考案ニ有之候」と述べている。幕末の計画が引き継がれているのである。 
2.4 明治30年代前半の渡良瀬川中・下流部での治水の議論
渡良瀬川中流部において治水をめぐり栃木県と群馬県との間で極めて強い地域対立があったが、明治30年代のこの状況をみたのが表2である。栃木県安蘇郡・足利郡からは、堤防の増築とともに新堤による霞堤締切りが、一方、群馬県からは堤防の全面改修が主張された。

表2 明治30年代渡良瀬川中流域の治水要求
年月        地域   治水要求内容
明治31年 4月  足利郡堤防新築・増築・改造
       6月  安蘇郡堤防新築・改築 足利郡堤防新築・改築
       7月  足利郡堤防新築・改築
      10月  足利郡渡良瀬川河身改良・河床浚渫・堤防改増築
      11月  安蘇郡渡良瀬川沿岸の堤防拡築・無堤地の堤防新築、秋山川下流に新川開鑿し、逆流防止の水門建設(「渡良瀬川堤塘増築建議書」)
      12月  邑楽郡松方内閣(明治30年内閣)時の調査に基づく渡良瀬川河身浚渫、堤防増築(「河身浚渫堤防増築ノ請願」)
明治32年 6月  邑楽郡渡良瀬川両岸堤防崩落防止、明治30年内閣調査会の測量に基づく河身浚渫、堤防改増築
       8月  邑楽郡明治30年内閣調査会の計画通り渡良瀬川河身全面の大復旧工事(「渡瀬村外三か村民の渡良瀬川復旧再請願」)
      10月  邑楽郡明治30年内閣調査会の測量に基づく渡良瀬川河身改良、堤防改築(「邑楽郡会議長の内務大臣宛意見書」)
      12月  安蘇郡植野村大字船津川地内椿堤防以下拾ヶ所の堤防修築工事(「渡良瀬川堤防修築工事再請求書」)
明治33年 1月  足利郡渡良瀬川全面改築 安蘇郡渡良瀬川全面改築 邑楽郡渡良瀬川全面改築
       7月  足利郡明治30年内閣調査会で決めた河身改築、堤防増築等の工事
明治35年 1月  足利郡渡良瀬川全面改築
       5月  足利郡河川の改築浚渫
       6月  邑楽郡・山田郡渡良瀬川の河底浚渫、堤防設置
       7月  邑楽郡・山田郡渡良瀬川の河底浚渫、堤防設置
      11月  安蘇郡渡良瀬川身改良、堤防改築

表2で興味深いことは、明治31年(1898)から32年にかけて、鉱毒調査会による30年計画を実行しろとの要求が出てくることである。例えば32年6月、足尾銅山鉱業停止請願事務所・足尾鉱毒処分請願事務所から「群馬、栃木、埼玉、茨城四県被害地ヨリ主務大臣ニ提供シタル者」として「渡良瀬川河身大回復諸工事実行ノ請願書」が提出され、「明治三十年鉱毒調査会ヲ開カレ閣議ヲ以テ設計セラレタル測量ニ基カレ至急此ノ大施設ヲ実行スルニアラザレバ、已往ノ惨状ヲ回復セサルノミナラス目下ノ危急如何トモスベカラズ」と主張している。また31年12月、群馬県邑楽郡各村の惣代から提出された群馬県知事宛の請願書では、「渡良瀬川河身浚渫堤防増築ノ大工事費ハ、測量ノ結果凡ソ一千三百万円ノ予算ナリトハ、松方内閣ノ時ニ於テ調査結了セシモノト聞及ベリ、然ルニ尚前政府ニ至リ更ニ再測量ヲナセルヲ聞クモ、未ダ河床浚渫堤防増築等ノ実行アルニ至ラズ、而シテ洪水ニ乗ジテ入リ来ル鉱毒ノ加害ハ、旧ニ倍シテ益々増加スルノ状勢アリ」と述べている。政府による渡良瀬川全面改修が、地元被害者側から強く期待されているのである。
ここで述べられている鉱毒調査会とは、足尾銅山鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)であるが、この経緯について後年、内務省は「当時石黒第一区土木監督署長ヲシテ其ノ計画ヲ立テシメシコトアリ。然ルニ其結果工費金壱千弐百万円ノ巨額ヲ要スルヲ以テ遂ニ其施工ヲ見ルニ至ラス」
と述べている。具体的な計画は分からないが、その巨大工事説からして当時の渡良瀬川河道の拡幅が中心だったと思われる。また表8.2にみるように、群馬県邑楽郡から内閣調査会の計画通りに実行しろ、との要求のほとんどが出ているので、群馬県に不利になるようなものではなかっただろう。あるいは渡良瀬川と利根川との合流部分では、新川開削が計画されていたのかもしれない。 
3.思川改修計画の挫折
思川下流部は、勾配がゆるやかな低平地である。近代改修事業により大きく変化する以前の思川を見ると、谷中村恵下野地先で支川・巴波川を合流し、再び大きく大蛇行して古河の船渡地先で渡良瀬川に合流する。その上流の思川をみると、友沼川岸地先から激しい大蛇行を繰り返しながら流下する。堤防は河川沿いに発達するが、右岸・左岸とも輪中堤となっている。
思川は左岸・友沼川岸、右岸・網戸川岸が堤防によって著しく狭められている。洪水はここで窄められ、その疎通能力を大きく落とすが、その上流の間中・網戸の間は霞堤となっている。この区間で洪水は氾濫し、与良川・巴波川に分散して流下していく。一方、巴波川は与良川を白鳥地先で合流するが、ここは赤麻沼にもつながっている大堤外地である。流域面積1,160㎢の思川大洪水の一気の流下は、このように妨げられる治水秩序となっていたのである。しかし霞堤区域からの洪水流出により、部屋村の新波、穂積村の間中・生良・楢木・上生井・白鳥、寒川村の鏡・中里・寒川・迫間田・網戸の11の集落を中心に被害を及ぼしていた。
この治水秩序は、思川を合流する前の渡良瀬川が七曲と称される大蛇行となっている状況と合わせ、渡良瀬川・思川の洪水の下流の流下を抑える、あるいは遅らせる効果をもつ。それは下流・古河城下町の防禦を目的としたものと考えられる。
明治40年(1907)12月の茨城県会で、渡良瀬川のこの仕組みは熊澤蕃山が造ったものとして「熊澤蕃山先生ガ古河藩ニ御預ケニナッテ居ル時デ、思川ト渡良瀬ノ上流ニ七曲リト云フ所ヲ拵ヘテ、ソレガゴザイマス為ニ南流ヲ防イデ古河城ト云フモノハ浸水ノ憂ガナクナリマシタ。ソレハ三百年以前デアリマス」と述べている。渡良瀬川の七曲りについて、古河城防備のため七曲を整備したと述べたものだが、人為的にそのようにしたかどうかは疑問があるが、その直線化は抑えられてきたのだろう。
思川も同様であったろう。狭窄部の切開について下流民から「往古藩候ノ威ニ依リ一且開鑿ニ着手シ下流ノ故障ニヨリテ中止セシ以来、幾度カ起工派村民ノ計画ヲ重ネ」との指摘がある。具体的なことは分からないが、狭窄部の切開は被害を受ける地域にとって歴史的な執念であることが分かる。
その水害状況は表3でみるが、明治29年(1896)、31年が大きい。狭窄部の上流の間中と網戸の間の霞堤区域から氾濫し、与良川堤が決壊して上生井、寒川、部屋、白鳥、網戸、樽木などは浸水田畑千有余町、浸水家屋八百余戸に達する大水害を受けていたのである。
明治になってから、この秩序の変更に向けて動き出す。明治6年(1873)頃、大きく曲流している友沼村字高座(野)口から野渡村字大手箱まで直線の新河道計画が策定された。この河道に土地を所有している友沼村住民から、しかるべき相談が行われていないとそれに反対する文書が提出されていることから、このことが分かる。この計画は、実行されなかった。
明治18年(1885)頃から思川改修計画が地元から強く要望され、栃木県は21年10月から22年5月にかけて、県技手・田辺初太郎を派遣して穂積村石ノ上から渡良瀬川合流点まで測量させ、詳細な「下野国南部治水実測図」を作成させた。その費用は地元の有志から一千有余円を募って行われたが、この実測図を基にしてだろう、概算40万円からなる南部治水改良計画が策定されている。
それによると、上流部の霞堤は締切り大屈曲している高座口の上流に位置する狭窄部直上流の野木町乙女地内から野渡地先にかけて直線の新川を開削し、さらに築堤によって河道整備を行うものである。この完成により渡良瀬・思・巴波川他のこれまでの堤防51,486間が15,200間となり、36,286間が不要となると評価している。思川水系の下流部は、新たに整備する一つの河道にまとめようというもので、これまでの河川秩序を一変する規模の大きい計画と評価できる。明治25年から与良川両沿岸に堤防の改築が行われているが、この計画を踏まえてのものと思われる。
この新河道計画が県会で審議され動き出すのは、明治32年(1899)になってである。32年12月の県内務部の史料「乙女放水路開鑿工事施行諮問」によると、その計画とは次にみるように、新川開削による河道整備は巨額なので、洪水だけを流下させる間々田村大字乙女より野木村野渡に至る4,300間放水路のみを整備しようというものである。その費用は19万9 千余円であった。
「乙女放水路開鑿工事施行諮問
下都賀郡野木町大字乙女地内ヨリ仝村大字野渡地先へ新川ヲ開鑿シ、思、巴波、与良等諸川ノ流水ヲ集合疏通シ、以テ該地方一体ノ洪水氾濫ヲ防カントスルノ計画ハ、去十八年以来該地方ニ於テ熱心講究スル所ノモノナリシカ。客年通常県会決議ノ趣旨ニ依リ、本年之カ精密ノ調査ヲ遂ケシニ、頗ル好結果ヲ得ヘキ事業ナルコトヲ認メタリ。蓋シ本県ノ経済上、巨万ノ工費ヲ投スルカ如キハ到底許サヽル所ナルヲ以テ、第一着トシテ幅六十間ノ放水路ヲ開鑿スルノ設計ニシテ、工費拾九万九千余円ヲ要ス。然レトモ敢テ至難ノ事業ニ非スシテ、之ニ依リ従来充分放水ノ目的ヲ達シ得ヘシ。抑モ下都賀郡南部地方ハ比年水害相続キ、殊ニ歳毎ニ被害ノ多キヲ加ヘ、為メニ多額ノ工費ヲ要セシモ、若シ本工事ニシテ能ク其効ヲ奏スルニ於テハ、亦昔日ノ如キ洪水氾濫堤防決壊等ノ被害ヲ避ルコト不尠、其利スル所亦幾許ナルヤ知ルヘカラス。是レ将来最モ得策タル事業ナルコトヲ認ムルヲ以テ、本県経済上ノ実況ヲ深察シ時機ヲ計リ継続事業ト為シ施行セントス。」
放水路により狭窄部を解消し、下流への洪水の疎通をスムーズにさせようというものだが、この放水路開削工事は明治32年12月に県会に提出され可決された。そして翌年3月4日の第4回臨時県会で、33〜35年度の事業費19万9,286円の3ヶ年継続事業として決定された。この内7万円は、利益を受ける地域からの労働力提供(寄付人夫)である。しかし県参事会は、県支出の開鑿工事費12万9.286円を9 万1,431円に減額修正した。その工事費内訳および支出方法状況は表4、表5に示す。
この栃木県の動きに対して下流は即座に反応した。同じ栃木県内でも放水路区域にあたる下都賀友沼は、144名からなる「思川放水路非開鑿派慰労会」を明治33年5月には結成していたが、茨城県古河町は34年2月27日、町会で放水路開鑿抗議の決議を行った。そして34年3月、茨城県知事宛に「思川放水路開鑿反対請願書」を提出した。これによると、今日の事業決定以前に栃木県は内務省に許可の働きかけを行っていたが、これに茨城県が必死になって反対してきたこと、それにも関わらず栃木県が事業を推進し、内務省土木監督署も実施調査を修了した、として次のように述べている。
「曩ニ栃木県ニ於テ放水路ノ計画ヲ為シ、主務省ニ向テ許可ノ稟請ヲ為スヤ、本郡ハ勿論本県上下非常ノ決心ヲ為シ、行政立法各機関ノ全力ヲ傾注シ、一方ハ他県ニ交渉シテ反対区域ヲ拡メ、前知事柏田君ノ如キ特ニ滞京シテ熱心ノ運動ニ出テラレ候結果、遂ニ栃木県自ラ再調査ニ藉口シテ却下ヲ乞フノ已ムヲ得ザルニ至リ、聊カ安堵ノ思ヲナセシ折柄、又候栃木県ニ於テ再挙ノ運動ニ出タル趣ニ付、不取敢探索致シ候処、書類ヲ出シタルハ昨年十一月ニシテ、稟請書及ヒ県会ノ決議録共前回ノ儘ニテ、設計ニ聊カノ相違有之、理由書ハ大ニ細密ヲ尽シ、土木監督署ニ於テモ実地調査ヲ結了セシ趣ニ有之候。」
また新川開鑿から放水路に変更したことは、河川法の許可が得られないから行ったのであり、洪水によって呑口が崩壊し、新川開鑿と同様のことになるとして次のように指摘した。
「間々田村大字乙女ヨリ野木村大字野渡ニ至ル四千三百間ノ新川ヲ開鑿シ、当町大字悪戸新田地先ニ向テ奔放直下セシメントスルコトハ年来ノ宿望ニシテ、三十一年度ノ通常県会ニ於テ之カ調査費ヲ議定致候処、新川ノ開鑿ハ河川法ノ許ササルヲ悟リ、流入口ノ開鑿ヲ平水面ニ止メ洪水丈ヲ放下スルモノナリトノ口実ヲ設ケ、名称ヲ容易ニシテ放水路トナシ、其実洪水ニ際シ上流ヨリ非常ノ高低ヲ以テ瀑下シ来ル水圧ニ崩壊セシメ、天災ニ托シテ新川開鑿ノ実ヲ収メントスル計画ト確認致シ候。」
しかし水害の原因は利根川の河床が高いために生じているのであり、利根川からの逆流が止まらない限りは放水路は効果がないと論じた。そして放水路建設により利根川からの逆流と思川の順流との衝突場所が下流に移り、「己レノ受ケツヽアル惨害ヲ当町以下ニ転嫁致シ候ニ外ナラズ候」と、古河に多大な影響を及ぼすことを主張したのである。
この下流部からの強硬な反対にあい、栃木県の思川放水路計画は内務省の許可を得られず頓挫したのである。
しかし思川の改修計画は、栃木県による谷中村を中心とした遊水地計画が県会から承認を得た後の明治38年頃から再び動き出した。先ず38年2月、下都賀郡生井、部屋、寒川、野木、赤麻の5村から思川堤防を増築する「栃木県下都賀郡谷中村藤岡街道及思川沿岸村落堤防改良増築ニ関スル建白書」が提出された。それによると、谷中村を廃止すると谷中村の堤防がぜい弱となり、堤防と兼用である藤岡街道を決壊させた洪水が谷中村の堤防で弱められることなく、一気に5村を襲い、多大な被害を出す。明治29年の洪水は藤岡街道を決壊して谷中村を浸水し、その後5村を襲った。このため「買収ハ不当ノ決議タルコトハ瞭然タルナリ」と、谷中村の遊水地化に反対を述べた上で、恵下野から下生井の間に新堤を築き下生井・生良・楢木の堤防、下生井・友沼の堤防を増築することを主張した。なお恵下野から下生井の間を流れる巴波川と思川は閘門でつなげる計画であった。
この計画は、基本的に渡良瀬川の氾濫に備えるものであったが、一方、思川狭窄部をめぐり2つの計画が地元で構想され推進されていった。一つが狭窄部の友沼川岸・網戸川岸の堤防を切り下げ、そこから氾濫する洪水を新たに設置する遊水地に貯溜しようという計画である。これに関して最も古い要望書と思われるのが、思川改良希望有志者から明治38年4月18日に提出された「思川最狭隘場所遊水地設置意見書」である。谷中村を遊水地とする計画の樹立からヒントを得たのかもしれない。
その計画は「思川中最狭隘ナル野木村大字友沼川岸、生井村大字網戸川岸堤外宅地ヲ買収シ、増水量河幅六拾間平水面ヨリ高七尺度ニ切下ケ遊水地ヲ設定シ水行セシムル」というもので、堤防切下げによる洪水の遊水とともに川幅を60間ほどに拡げることも含まれている。この事業費として、概算買収費・土地切下費を合わせて15,000円内外としている。なお当時の河道の流下状況として、上流からの3万個(立方尺/秒)の洪水に対し、1万個は狭窄部下流に流下するが、2万個は霞堤から逆流すると評価している。
その後、遊水地計画は具体化していく。明治38年7月に生井村大字網戸生良、寒川村大字泊間田住民から栃木県知事に出された「思川沿岸生井村大字網戸及友沼川岸ニ遊水地設置願」によると、「生井村網戸川岸ヲ平水面ヨリ高サ七尺ニシ八反歩余りヲ削リ尤角ヲ去リ而シテ其下流対岸ナル友沼川岸水面ヨリ高サ七尺ニシ壱町歩ヲ削リテ平面トナシ遊水地ヲ造設」と述べている。十分、理解できないところがあるが、堤防の高さを平水位より上、七尺までに削り(低くする堤防面積左岸8反歩、右岸1町歩)越流させる堤防の整備を主張している。こうすれば、わずかな費用でもって水害を防ぐことができるとしている。しかし遊水地となる区域をどうするかについては述べられていない。また明治38年7月の「思川最隘所切開出願ニ対スル参考書」でみると、これにより思川堤防9,900間、与良川堤防7,450間、田畑反別約1,500町、795戸が利益を得るとしている。
この遊水地計画は、構想としては出たが、現実に有効な力とはならなかった。広い地域を巻き込んで再び厳しい地域対立をもたらしたのは、もう一つの計画であった。それは狭窄部を切り開こうというものである。その要求の経緯について、次のように、放水路計画が挫折した後のそれに代わるべき対策と述べる。
「明治三十三年ヨリ三十五年ニ至ル継続工事トシテ、乙女地内ヨリ野渡ニ向テ放水路ヲ開鑿シ、水害ヲ根絶セントシ、県会ハ全会一致ヲ以テ、県費拾六万千四百参拾壱円六拾七銭五厘ヲ支出シタルノ議決ヲ為スニ至リシカ、憾ラクハ隣県関係地ノ故障ニヨリ、主務省ノ容ルヽ所トナラサリキ。之レニ因テ之レヲ観ルニ、思川ノ水害ハ実ニ劇甚ヲ極メ、其防衛策ニ就テハ地方的ノ小利害、若クハ感情等ヲ以テ、取捨ヲ決スヘキ問題ニ非ラサルヲ知ルへシ。故ニ放水工事ノ行ハレサルヤ、直チニ之レニ代ルへキ設計ヲ為サヽルへカラス。之レ即チ、隘所ノ切開ヲ請願セシ所以ナリトス。」
その具体的計画については、明治38年12月12日の寒川村、部屋村、生井村、穂積村住民からの「思川改修再陳情書」によると、「工事主眼ノ狭隘所川幅三十七間ニ切開予定、四十間ヲ加フルモ八十間内外ナレハ、此ノ八十間流下ノモノ百四十間ノ川幅ニ流下スルハ易々タルモノ」と主張している。下流が140間であるから、80間に拡げても下流の安全を損なわないとの論理である。
これに当然のことながら、下流が強く反発した。12月11日野木村友沼惣代から、狭窄部を切開して洪水が下流に押し寄せ「直チニ下流・廻曲ノ河身ニ横溢シ、蒼潭一転某等現時ノ耕地タル友沼ニ逆シ、水勢滔々尋イテ接続各地衝撃ノ惨ヲ見ルコト因ヨ其所ナリ」と、その脅威を栃木県知事に主張したのである。つまり狭窄部直下流の大曲流している高座口から洪水が溢れ出し自地域の輪中堤に脅威を与え、大被害を受けると訴えたのである。また切開を推進する生井村からも、高座口から洪水が堤外地に溢れ出し、そこに所有している桑畑が被害を受けると反対の声があがった。
これらの陳情は栃木県の第9 回通常県会に向けて行われたが、栃木県は「三九年度臨時土木費中治水堤防費」として切開工事を行うため5千円の予算を県会に上程していた。12月、県会で質疑が行われたが、県の説明から事業内容をみると、思川の計画対象流量5万個(立方尺/秒)に対して、狭窄部を通過できる洪水量は27,300個しかない。この狭窄部を延長150間にわたり10間ほど切り開くが、これによって上流では6寸8分ほど水位を低めることができる。これに対して下流は5,600個ほど流量が増大して3分5厘の水位上昇を見るが、29年以来堤防の強化に努めているので心配はないというものであった。
また県技師は、今回の計画で十分なる効果があるのかとの質問に対し、「十分なる効果を得るだけの設備には二万五千円はかかろうと思う、それをなすには切拡げを四十間位にしなければならぬと思います、それには下流の調査をしなければならないという事は先程申し上げましたが、五千円に対しては十分とは申し上げませぬ、下流の関係から申すので、今の計画で、不充分と云う意味ではありませぬ」と答弁した。下流の状況から事業費5千円による10間ほどの拡幅工事としたのである。
ところが事業費を1万円とする動議が出され、これが可決された。県会では狭窄部の切開を進めようという勢力が優勢だったのである。
しかし、下流部の同じ栃木県内の下都賀郡野木村、さらに茨城県古河などが猛烈に反発した。特に直下流部に位置する野木村の反対は激しく、放水路反対事務所を設置し、野木村を中心にして反対運動は展開していった。この反対理由を、39年1月、原敬内務大臣宛の陳情書で見てみよう。
「高座口大屈折ノ南岸一帯高阜ノ地アリ。地盤岩石其他堅牢ノ基礎アルニ非ズ。而モ能ク数百年来ノ水圧ニ堪ヘ、思川ノ洪水ヲシテ常ニ迂回屈折ノ河身ヲ流下セシム。之レ即チ起工派ガ常ニ以テ洪水ノ主因ト認ムル所、古藩候ノ威ニ依リ一且開鑿ニ着手シ下流ノ故障ニヨリテ中止セシ以来、幾度カ起工派村民ノ計画ヲ重ネ、遂ニ先年放水路ノ計画トナルニ至ル、其焦慮垂涎スル所、凡テ此高阜ノ地ヲ貫キ本村ノ耕地ヲ蹂シテ直線南下ヲ計ルニ外ナラズ。」
「於是彼豺狼ノ慾遂ニ狡猾ノ策ヲ按ジ、現ニ高座口ノ南岸、即チ彼等積年ノ目的地ナル沈床工事ノ漸ク腐朽セルヲ奇貨トシ、巧ニ隘所切開ノ些事ニ装ヒ屈折ヲ撤シテ直線衝撃ノ水圧ヲ利用シ、目的高阜地ヲ崩壊貫通セシメ、即チ不可抗力ノ結果ニ帰シテ放水路ノ実質ヲ作リ、以テ宿年ノ欲望ヲ達セントス。之レ即チ今回計画ノ裏面ニ伏在セル真想ニシテ、起工派ノ所謂「放水路ニ代ル可キ計画」ナリトス。」
要約すると、大曲流している高座口地点は、下流部にとっては重要な地点であり、ここが決壊すると下流部の野木村の耕地は大被害に会う。上流部はここを何とか開鑿しようと近世以来、画策を重ね、明治32年には放水路事業を行おうとした。今、高座口にある思川南岸の沈床が腐朽しているのを好機ととらえ、狭窄部を切り開いて洪水を下流に導き、その水勢により高座口を決壊させ、不可抗力として洪水路を造ろうとしている。以前、挫折した「放水路計画」に代わり、洪水路を造ろうというものだ。
このような理由で反対運動を精力的に進めていった。しかし下都賀郡野木村は、栃木県に属す。
その栃木県が事業を執行するのである。反対住民は、陳情のため大挙して宇都宮に押し寄せようとしたが警察に押し止められ、この後、その反対運動を近県に拡げて近県の支援を求めていった。群馬県には39年2月20日付で次のような支援を乞う葉書きを送っている。
「拝啓、思川放水路工事ハ昨丗八年十二月十九日、本県会ノ議ニ上リ賛成議員十八名、否決議員十三名、僅カ五名ノ多数ニテ可決相成リ候。依テ直ニ野木村ニ於テハ内務大臣ニヨ依テ直ニ野木村ニ於テハ内務大臣ニ陳情書ヲ奉呈仕リ候処、昨八日本県ヨリ野村技師上京仕リ、目下御認可ノ請求中ニ御座候間、別紙絵図面関係書数相添ヘ御送附申候間、何卒大至急御尽力下被度奉墾願候。草々」
また明治39年5月22日に一府五県治水会を行うとして、茨城県猿島郡古河町鷹見吾、栃木県都賀郡野木村治郎左衛門、埼玉県北埼郡川辺村山岸平作の名で、古河警察分署長に開催届が提出された。治水会では、委員長鷹見吾外59名の治水会委員から次のような請願が、内務大臣宛に電報で打たれた。
「栃木県ヨリ申請セラレタル思川開鑿工事ハ、群馬、栃木、茨城、千葉、埼玉、東京ノ一府五県関係町村ニ大害アルモノト認メ、御省ニ於テ断然不認可アランコトヲ本会ノ決議ニヨリ謹デ請願ス。一府五県治水会委員 委員長鷹見吾 外五拾九名」
またこの反対運動の一環として、群馬県邑楽郡長より群馬県第1部長宛に明治39年5月21日付で次のような状況を問う文書が出されている。邑楽郡内西谷田村外5ヶ村長の工事中止を求める請願をふまえてである。
「思川開鑿工事中止ノ義ニ付、別紙ノ通リ郡内西谷田村外五ヶ村長ヨリ提出之処、本件ハ利根渡瀬両川ニ多大ノ関係ヲ有シ、随テ両川ニ介在セル本郡ノ如キ亦其影響ヲ免カレザル義ニ有之、村民等申出ノ事情尤モ之次第ニ候得共、右ハ関係府県ノ協同一致ニ出テタル義ナルヤ。将栃木県へ対シ一応交渉ヲ遂ゲタル結果、本請願ニ出テタル義ナルヤ。否目下調査中之処、聞ク処ニ依レハ其筋ニ於テハ急速処決セラレントスル哉ノ趣ニ付不取敢本願書進達候条可然御取扱相成候様致度、此段及照会候也。」
このような強い反対運動の結果、内務大臣は、栃木県のこの事業を許可しなかった。内務省の許可を得られず、切開工事を断念した栃木県は、思川改修について問う群馬県からの照会文書に対し、明治39年6月2日付で白仁武知事名の「御紹介ニ係ル思川工事ハ、施行不致候条此段及回答候也」との文書を送っている。また一府五県治水同盟会からは、群馬県邑楽郡を選挙地盤としている衆議院議員武藤金吉に反対運動に対する感謝状が出された。
左岸・友沼河岸、右岸・網戸河岸という渡良瀬川との合流地点よりかなり上流の思川において、10間ほどの切開に対しても、このように幅広い地域から反対運動が生じ実現しなかったのである。思川も含めた渡良瀬川下流部は、治水・水害に対して極めて敏感な地域であることが分かる。
ところで、この地域について田中正造は、明治31年、政府が利根川と渡良瀬川と利根川の合流口を120間ほど拡げ、また35年にはさらに70間拡げたとして次のように「谷中残留民居住立チ退キノ議論ニ対スル回答書」(大正2年6月20日田中正造述島田宗三稿)の中で述べたという。
「三十一年ニ至リ自然ノ利根川流路タル其江戸川ノ河口ハ千葉県関宿地先ニ於テ石堤ヲ以テ狭窄シ、且ツ石トセメントニテ河底二十七尺ヲ埋メ、其他利根川各所ニ流水妨害工事を造リテ洪水ヲ湛ヘ且ツ渡良瀬川ノ落合タル川辺村本郷ノ逆流口百二十間ヲ広ゲテ上流ニ水害ヲ造ルト共ニ、下流東京府下ノ鎮撫ニ努メ以テ一時ノ急ヲ逃レントシタリ。……中略……明治三十五年ニ至リ川辺村ノ逆流口ハ更ニ七十間ヲ拡ゲ、且ツ三十七年亦日露戦争ニシテ世人ノ海外ニ意を注ギツゝアルニ乗ジ、社会ノ目ヲ盗ミ中利根川ノ銚子河口ハ境町地先ニ於テ大流水妨害工事ヲ造レリ。為メニ上流地方数十ヶ村ハ更ニ幾層ノ加害ヲ被ラシメラルフニ至レリ。」
利根川の逆流は、栃木県下都賀郡、群馬県邑楽郡、埼玉県河辺村、手島村、茨城県古河町と広い地域に影響し、水害を激化させる。谷中村は下都賀郡の一部に過ぎない。明治39年に行おうとした思川の狭窄部の10間程の切開でも、これほど激しい地域からの抵抗があったのである。それに比べて利根川・渡良瀬川合流口の切拡げは、はるかに影響するところが大きい。明治政府が仮に行おうとしても、水害に極めて敏感なこの地域が黙って見過ごすはずは絶対にない。思川下流部、また古河町が真向うから反対するのは必然である。
このような河川処理が、戦国時代ならまだしも、地域にしっかりした秩序が形成された近世後半以降に、日本の他の地域で行われたことは寡聞にして知らない。事実とすれば驚くべきことであるが、これを支持あるいは示唆する資料はどこにも見当たらない。田中が述べたというこの談は、治水を巡る地域対立を研究している筆者にとって到底信じられる話ではない。
なお利根川・渡良瀬川の合流口で政府は何も手を付けなかったというのではない。政府は、明治41年3月26日総理大臣西園寺公望名で「利根川流域ノ被害ニ関スル質問ニ対スル答弁書」を提出しているが、この中で「渡良瀬川口東端ノ堤防ハ其破損後旧来ノ位置ニ復築シ能ハサリシオ以テ、多少引堤シタルモ之カ為逆流量ヲ増加シタル形跡ヲ認メス」と述べている。明治40年洪水で破損した後、その復旧工事によって被災状況から旧状と変化したことは認めている。しかしそれによって逆流量の増大はないとも主張している。先述したように、逆流量を増大させるとその影響は谷中村のみでなく、広い地域に深刻な影響を及ぼす。地域を無視して政府が到底、行えることではないと判断している。 
4.渡良瀬川改修事業の成立 
4.1 谷中村の治水
明治37年(1904)12月の栃木県通常県会末期に、谷中村買収を含む土木費が追加予算として提出された。秘密会である委員会での審議を経た後、本会議に再度、上程されて、賛成18、反対12で可決され、谷中村は遊水地として栃木県に買収されることとなったのである。ここに至るまで、地元あるいは栃木県によって谷中村の治水がどのように進められていったのかをみていこう。
内野・恵下野・下官の三村が合併して谷中村が誕生したのは明治22年(1889)4月である。この地は、西側の一部を除いてその周りは堤防で囲まれ、また低平地であって排水の条件は悪かった。堤内地1,058町歩のうち44%の463町が原野・池沼であり、「利根渡良瀬川底年々高マリ、従テ耕地追々底湿地ニ化シ、僅ニ一尺或ハ二尺之水壤ニテ拾分之収穫ヲ得ル能ハス」の状況であった。周囲の堤防は論所堤であり、自らの意思の下に自由に増築することはできず、対岸の堤防に比べ、高さは別にしてのり勾配が急な貧弱なものだった。たとえば思川対岸の堤防の表裏ののり勾配は2割、渡良瀬川対岸の群馬県は2割以上であったが、谷中村堤防は1割以内であった。このため明治5年から22年の17年間にかけて堤防決壊が11ヶ所生じた。一度、破壊が生じたら地窪の地のため氾濫水はなかなか抜けない。このたね、堤防上または堤腹に住まわせるよう特別の許可をすべきとの建議が明治25年12月、県会で行われた。
当然のことながら地域からの治水の要望は強く、明治2年(1869)には利根川・渡良瀬川の合流部で新水路の開削が主張された。23年には谷中村から1万人を役夫として出し、県によって堤防工事が行われたが、この年頃から次のような認識の下に堤防増築と堤内の排水を行う排水機の設置を求めていった。
「方円ノ器ニ応スルヲヤ、水ヲ堪ヘ得ルノ堤防ヲ添築スルト同時ニ、堤内水堪ハ排水器ヲ利用セバ其害ヲ免カルヽハ見易キノ利ナリ」
明治27年(1894)10月、地域住民から知事宛に堤防拡築を求める嘆願書が提出された。ここで次のような二つの「願望ノ主意」を述べ、工事費約5万円で堤防法面の勾配を緩く2割とする増築工事を要望した。その背景には、「接続隣県ノ堤塘漸ク堅牢ヲ加ヘタリ」との認識がある。
「第一群馬埼玉両県ニ対峙スル堤塘トナリ、将来安堵生息センコトヲ懇願ス。第二堅牢ノ堤塘トナレハ、本村自害消滅シ原野開ヶ戸口増殖シ、多年ナラスシテ数倍ノ納祖納税疑ナク、又皇国人民タルノ本分ヲ尽スニ至ランコトヲ期セリ。」
しかし、住民の望む増築工事は行われなかった。
ここで谷中村の明治20年代から30年代中頃にかけての水害についてみると、23年、25年、27年、29年、30年、31年、35年、36年、37年と立て続けに破堤などの記録がある。それ以前と比較して、明らかに水害の頻度は多い。そしてこれによる湛水は鉱毒を含んでいたのであり、その被害は甚大かつ悲惨であった。これを背景に、谷中村からの治水事業の要望は、涙ぐましい努力でもって進められた。
明治30年10月、村議会で村債発行の認可申請が議決された。谷中村長から内務・大蔵両大臣に宛てた「谷中村々債条例認可稟請」をみると、10万円の村債のうち6万5千円を堤防添築及用悪水路改修費に充てようとした。谷中村の発展は「排水機ヲ完整シテ水湛ヲ排水シ、原野ヲ開拓シテ耕地トナシ、堤塘ヲ完備ニシテ水害ヲ防止スルノ他良策ナキ」状況との認識であり、起債により資金を得、自らのかなりの負担でもって堤防増強と排水器の設置を行おうとしたのである。堤防添築工事は明治30年11月着工、同31年5月竣工と予定していた。
寄附工事による谷中村堤防拡築計画の内容が「寄附ハ受入手続可致筈」との文とともに、栃木県の明治31年2月の内部資料として残っている。それによると、大字恵下野では巴波川通り4ヶ所・延長828間、思川通り1ヶ所・延長695間、内野では巴波川通り5ヶ所・延長1607間、渡良瀬川通り2ヶ所・350間、下宮では思川通り2ヶ所・540間、渡良瀬川通り9ヶ所・884間、を法勾配3割以上に拡築するもので、全工事費は約7万2千円であった。
これを基礎にして、さらに12ヶ所の用水路樋門の設置と堤内地の悪水路255間の浚渫を加え、7万7千円からなる堤防工事寄附願が明治31年4月、谷中村長より栃木県知事に提出された。しかし31年11月、10万円の起債が認可されたにも関わらず、着工とはならなかった。その一つの理由は、日本勧業銀行が5万円しか債権を引き受けようとしなかったからである。
なお31年4月の谷中村々債弁明書をみると、次のように他機関に劣る堤防の状況およびその強化を内務省にも働きかけていたことを述べている。
「本村ノ堤防ハ長延七千間余ニシテ、平均高廿三尺、馬踏弐間、表裏壱割ノ勾配ナリ。県下ハ扨置、全国各県下ニ廿三尺余ノ堤防表裏壱割ノ法ノ現形、普ク他ニ比類ナキ者ト確信ス。増築ノ止ヲ得サル所以ニシテ、若シ此侭黙止スルトキハ、耕民挙テ離散スルノ外ナシ。近キ利根川ノ堤防ハ、近年非常ノ地方税ヲ以テ、馬踏四間余表裏弐割五分実ニ牽牛ノ為メ、数拾年間破堤ノ被害曽テ見聞セス。然レハ水ヲ湛ヘ得ルノ増築設計セハ将来安全ナルヲ証スルニ足ル。昨三拾年九月、破堤被害ノ当時ヨリ度々内務省ニ相伺、国庫費ニテ改築セラレンコトヲ内願セシニ到底及フマジトノ事。又地方費ニテ完全ノ工事ヲ求ムルモ能ワス。」
しかし栃木県は、谷中村を放置していたのではない。水害後の罹災救助金を支出するとともに、治水堤防費としてかなりの額を復旧につぎ込んでいた。年に一万円を超えていたのが26、30、31、32、36、37年度となっている。特に32年度は6万円近くを投入し、渡良瀬川堤防は以前と比べ高く整備され、その竣功式は同年11月に行われた。
それでも堤防の安全は保たれなかったのである。谷中村からは、県に向けてその後も堤防拡築工事が陳情されていった。
この要望を受け、栃木県によってさらに検討を加えられた谷中村周囲堤の全面的改築案が、明治33年(1900)2月の臨時県会で知事より諮問された。表6にみるように総額13万8千円よりなる3カ年計画で、谷中村から村債による5万円の寄付と1万円に相当する工事人夫を負担するものであり、6220間(11300m)の堤防整備と120間(220m)の粗朶による護岸を行うものだった。しかしこの計画は県会により否決された。それは思川下流部との関係であった。
前章でみたように、思川下流部では放水路計画が進められ、明治33年度(1900)から3ヵ年、工事費約16万1千円で着工することとなっていた。この完成によって洪水の状況が変化する。
この結果をみて、谷中村周囲堤の本格的な工事をすべきとの県会の判断のためだった。具体的には次のように述べている。
「思川か如何なる変化を来すべきか、即ち放水路開鑿工事の効を奏せし結果として或は構築工事を異にせさるも計られすと思料したる結果として、連年支弁を廃し本年の工事を渡良瀬川沿岸と赤麻沼の工事を施し思川に面する所は後廻しとなし、比の結果を見し上、施すも遅きに在ざれは本年施すべき分を施行し、放水路の結果を見たる後ち施行するも遅きにあらざるべし。」
谷中村に同情する県議からは、「谷中村民の事情を察する戸数僅かに三百二十、面積千五百町歩中不毛に帰したる地、其多きを占むるる微力の一小村にして而も五万円の村債と連年人夫一万余の寄付を為さんとす其情察すべきに非すや」との発言もあったが、本格工事を行わない修正案が可決された。この修正案に基づき、渡良瀬川沿岸と赤麻沼の築堤工事が、ほとんど民費の負担により行われた。
しかし思川放水路計画は、下流の野木、古河町、茨城県から猛烈な反対にあい、内務省の認めるところとならず着工とはならなかった。思川下流部の治水策としての栃木県の放水路計画は、上下流、特に茨城県との地域対立によって挫折をみたのである。この地域対立は、栃木県のみでは対処できないものだった。この経緯の中から、次に栃木県が提示した思川下流部の計画が、谷中村買収による遊水地計画であったのである。
明治35年(1903)9 月出水で谷中村が破堤した後、36年(1903)1月に行われた臨時県会で、災害復旧工事費予算要求が中心の「明治35年度歳入歳出追加予算」が提案された。その中に、谷中村を遊水地とする「臨時部土木費治水堤防費修築費思川流域ノ部」が含まれていた。つまり「思川流域ノ部」で、谷中村遊水地計画が「思川流域費ニ於テ谷中村堤内ヲ貯水地ト為シ、各関係河川ノ氾濫区域ヲ設クルハ、治水上最モ其ノ策ヲ得タルモノニシテ、将来県負担ノ利害消長ニ関スルコト実ニ鮮少ナラス」として提案されたのである。栃木県は、谷中村の遊水地化を放水路計画が挫折した後の思川下流部の治水計画として位置付けたのである。この谷中村土地買収について、既に国庫補助の内定を得ていた。
しかし臨時県会では否決された。政府の第二次鉱毒調査会の審議が終わりに近づいており、この結論が出てから処理するのが適当だとして復旧に止め、約38万3千円を予算案から削除したのである。
だが、翌明治37年12月10日の第8回通常県会の最終日に谷中村買収を含む土木費が可決され、県により谷中村買収が決定されたのである。この時、政府の第二次鉱毒調査会の報告書は既に帝国議会に提示されており、ここで渡良瀬下流部における遊水地設置が主張されていた。ここでの議論も栃木県の決定に大きな影響を与えたことは当然だろう。 
4.2 事業の成立と地域対立
内務省直轄により渡良瀬川改修事業が着手されたのは明治43年(1910)度である。42年12月に召集された第26帝国議会で承認され、実施に移されたのであるが、国による改修事業着手以前に、谷中村は栃木県により土地収用法も適用されて全面買収が進められていた。
渡良瀬川改修事業費は750万円であった。明治36年(1903)、内務省が概算として示していた700万円より50万円ほど高くなっている。事業内容が膨らんだためと考えられるが、その事業費負担を国そして関係4県で定めていった。各県の費用分担は、栃木県130万3,000円、茨城県39万6,000円、群馬県38万8,000円、埼玉県26万9.000円の合計234万6,000円であった。これは事業費750万円の約31%であった。
この事業費負担について、これまで歴史的な激しい地域対立があったため各県会で熱心に議論された。群馬県では明治42年9 月10日にすっきりと可決されたが、他県に比べて費用負担が断然多い栃木県では、「群馬県はこの計画で特別の利益を受けるに拘わらず、僅かに三十八万八千円、本県はこれが為に被害を受けるに拘わらず、百三十万三千円の過当の割当をなされたのである」など、これまでの群馬県との対立もふまえ議員から激しく反対意見が述べられた。だが一度、未決となった後、明治42年(1909)9 月27日、可決された。また茨城県会では42年9 月23日、臨時県会に諮問されたが、賛否は見送られた。次の県会は11月1日からの通常県会であったが、開会と同時に再び諮問され審議の結果、11月30日に可決された。それに先立ち茨城県古河市水害地関係地主総代が42年9月28日県会議長宛に「渡良瀬川改修ニ関スル陳情書」を提出し、既往の思川放水路計画と基本的に同じだと次のように述べ反対した。
「思川放水路ニ抗議シ来レル歴史ハ焉日星ノ如シ、思川ニ於ケル高座口直通ノ事業ハ幾度名称ヲ替フルモ、其実質ハ全然放水路ニ違フ迄ナシ、然ルニ今回ハ之ニ加フルニ、渡良瀬川ノ直通サヘ実行セラレントスルニ非ズヤ。」
このような地元地域からの強い反対意見があり、茨城県は慎重に審議したのである。埼玉県会も明治42年9 月の臨時県会で渡良瀬川改修事業は時期尚早として否決した後、翌年2月の通常県会で可決した。
一方、明治42年9 月の臨時県会でこの改修事業を可決しなかった茨城・埼玉の両県会に対し、下野西南治水会は42年11月「渡良瀬川ノ河身ヲ改良シテ、四県下拾余万民塗炭ノ疾苦ヲ救済セラレンコトヲ謹テ陳情候」と、早急の解決を要請したのである。また群馬県邑楽郡では、可決しない茨城県会に対して次のような陳情書を提出した。
陳情書
渡良瀬川ノ水源タル山林伐採ハ、仝川ノ河底ヲ埋昂シ、為メニ河川ノ氾濫ヲ屡々年豊カニシテ、民ニ菜色ノ嘆アラシムルモノ既ニ久シ。爰ヲ以テ渡良瀬河身改修ヲ実施シ、以テ沿岸民ヲ救冶セラレンコトヲ貴衆両院ニ請願シ、或ハ該希望ヲ政府ニ陳情セシコト、明治二十九年以来其幾回タルヲ知ラス。然レトモ未ダ其機ヲ得ス。遂ニ今日ニ至リテ、千計万慮全ク盡キ策ノ施スベキモノナク、徒ラニ手ヲ拱シテ天命ヲ俟ツノ悲境ニ沈淪セル者、洵ニ悲惨ノ極ト云フベキナリ。而ルニ政府ニ於テモ此ノ悲絶惨絶ナル沿岸民ヲ救冶スル方法トシテ、渡良瀬川河身改修ノ実施ヲ計画シ、是レヲ茨城、埼玉、栃木、群馬ノ四県ニ対シ諮問セラルルノ運ビニ至リテ、栃木、群馬ノ両県会ハ政府ノ計画ヲ賛シ以テ諮問ニ答申セラレタルモ、貴県会及ヒ埼玉県会ハ曩キノ県会ニ於テ、之レカ決定ヲ延期セラレタルヲ以テ、今ヤ更ラニ県会ニ諮問セラルルト聞ク。爰ニ於テ吾等沿岸民ハ叙上ノ事実ニ因リ、渡良瀬川河身改修ノ成否ハ沿岸民生死ノ繫ル所ニシテ、之レガ施行ヲ望ムヤ啻ニ一日三秋ノミ一アラザルナリ。且ツ此ノ機ヲ逸センカ、何レノ時カ沿岸ノ希望ヲ達スル時ナキヲ思ヘハ、憂心沖々措ク能ハサル所ナリ。仰キ願クハ渡良瀬川沿岸民ノ痛苦ヲ察シ、改修案ヲシヲ完カラシメラレンコト熱望ノ至リニ堪ヘス。辞礼ヲ欠ク所アルモ、衷情御採納相成度、邑楽治水会大会ノ決議ニ依リ謹テ陳情仕リ候。敬具
群馬県邑楽郡治水会 代表者長谷見弥十郎 松本英一 山本栄四郎 県会議員殿
邑楽治水会大会の決議をもっての群馬県邑楽郡の陳情である。渡良瀬川改修がいかに当地域にとって重要であるかが分かる。当地域の安定そして発展にとって、渡良瀬川改修は基本的な課題だったのである。
ところで、明治43年(1910)4月まで、なぜ事業着手に至らなかったのか、あるいはなぜこの時に着手されたのであろうか。明治43年8月、全国的な大水害があり、これを契機に第一次治水長期計画が樹立された。そして翌年度から全国の大河川で治水事業が進められたが、利根川の一支川である渡良瀬川改修はそれに先立って着工されたのである。この時までに政府が治水事業に着手していたのは、木曽川、淀川、利根川などの10大河川であり、首都・東京を流下していた荒川も着工していなかった。利根川の一支川である渡良瀬川の国直轄による改修事業が異例に早いことが分かろう。
足尾鉱毒問題が、渡良瀬川遊水地築造を伴うこの早期の渡良瀬川改修に大きく影響したことは間違いない。内務省は次のように述べ、渡良瀬川改修が鉱毒事件さらにその延長としての谷中村問題に関連があったことを指摘している。
「明治23年頃ヨリ同39年ニ渉レル鉱毒被害、次デ谷中村問題等ニ依リ渡良瀬川ノ名ハ世人ニ遍シト雖モ、要スルニ其被害ハ主トシテ水害ノ齎ス所ニシテ其激甚ノ度又自ラ想定スルニ難カラザル可シ、故ニ朝野挙ゲテ之ヲ忽諸ニ附ス可カラザルモノアルヲ認メ、明治43年第26議会ニ於テ本渡良瀬川洪水防禦ノ議ヲ決セリ。」
さらに栃木県の強い働きかけが背景にあったと考えている。谷中村は、思川が渡良瀬川に合流する最下流部に谷中村は位置している。その周囲は、思川と渡良瀬川に沿う堤防で囲まれている。その堤防の中で特に思川沿いの堤防は上流部の部屋、白鳥、赤間などとの間で利害関係があり、谷中が独自に強化することができなかった。
また栃木県による思川放水路計画は、下流の茨城県の強い反対にあって実行できない。渡良瀬川・思川下流部の新たな河川秩序をつくるには両県を越えた存在、つまり国の調整によって初めて可能であった。
国直轄による改修を早期に実現するにはどうしたらよいのか。国直轄工事は、基本的に用地買収が終わってから進められる。工事着工前の用地買収に多大な労力と時間がとられている。この着工のネックとなる用地買収を一日でも早く解決して国に引き渡すことと、栃木県は判断したと想定される。栃木県は、明治40年(1907)、谷中村に土地収用法を適用し、残存していた家屋の強制破壊を行ってまで全面買収を進めたのである。
一方、谷中村村民は、なぜあそこまで激しく抵抗したのだろうか。その反対闘争は、鉱毒を引き起こした製銅所(古河)への怒り、また「暴虐」なる国家権力・明治政府への抵抗という田中正造の理念に共鳴したのだろうか。
これについて、もちろん、その答えをもっている訳ではないが、ここに興味ある資料がある。表7は、千葉県佐原より下流で行われた利根川第一期改修事業での用地費である。この事業は国直轄として33年度から着工されたが、用地は33年度から37年度にかけ、土地収用法を適用して買収が行われた。田の反当たりは約151円、畑は約201円、宅地は314円となっている。
これに対し栃木県によって行われた谷中村土地買上は、表8に示してある。堤内地の水田単価は反当たり36円、畑39円、宅地129円となっている。つまり利根川第一期改修に比べて水田で24%、畑で19%、宅地で41%としかなっていない。驚くべき程、安い単価である。
谷中村は耕地としては条件の悪い低湿地域であるが、利根川第一期事業は千葉県・茨城県下の利根川最下流部であって、ここも低湿地帯である。谷中村がさらに格段と悪いということだろうか。
この買収価格を知って、谷中村住民が栃木県に対し、激しい不信感をもつのは当然だと推測される。
それも私企業による銅山経営による鉱毒によって、田畑を荒らされた後である。谷中村住民の強い反発・抵抗は、この買収価格が一つの重要な出発点であったと考えている。
なお明治28年(1895)、谷中村と近接町村との間の地価比較が行われている。谷中村の地価は、思川直上流の部屋村と比較し、水田で15%、畑で59%、宅地で77%となっている。部屋村も水害で痛めつけられた地域であるが、そこよりもかなり安い。谷中村は、思川最下流部に位置し湛水条件が最も悪かった地域であったことが、この地価からも読み取れる。 
5.おわりに
渡良瀬川中・下流部の開発には、築堤を中心とした治水が不可欠である。しかも赤間沼、越名沼、板倉沼などの湖沼がある低湿地域を多く抱え、治水に関して厳しい利害関係を内包していた。それは、治水をめぐる地域対立として表面化する。渡良瀬川中流部での右岸・群馬県(上野国)と左岸・栃木県(下野国)の対立であり、思川下流部における部屋・生井・寒川村々などと最下流部の谷中村との対立である。また栃木県と茨城県との上・下流の対立があった。近世に成立したこのような治水秩序が、遊水地問題を考える場合の出発点である。このような基本認識の下に、足尾鉱毒問題とも関連させながら渡良瀬遊水地築造の歴史的経緯について論じてきた。 
 
足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地の成立 [5]
 東京押出しと足尾鉱毒事件 

 

1.はじめに
足尾鉱毒問題にとって鉱毒被害民の東京押出し(大挙上京請願運動)は特に重要なできごとである。行動を開始した日は、第一回は明治30年(1897)3月2日、第二回は同年3月24日、第三回は31年9 月26日、そして第四回が33年2月13日であり、この時、利根川沿いの川俣で警官隊と大規模に衝突した川俣事件が発生した。
東京押出しは、明治29年9 月の渡良瀬川大出水により、鉱毒被害がそれ以前より一層大規模かつ深刻に発生したことに起因して行われた。これに対し政府は、30年3月24日、内閣直属として足尾銅山鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)を設置し収拾を図った。
第一次鉱毒調査会は、内閣に7回の決議を上申し、明治30年12月27日に解散となったが、この上申に基づき同年5月27日、鉱業人・古河市兵衛に37項目にわたる鉱毒予防命令が発せられた。古河は同年11月22日、この命令に基づく予防工事について東京鉱山監督署の竣功認可を受けた。また鉱毒調査会では、足尾鉱毒被害地の地租の免税が決議され、政府は現地調査に入り実行された。
このように、第一回東京押出しが決行された明治30年3月2日から四回目の33年2月13日の間に、鉱毒問題は大きな動きがあった。ではこの展開の中で鉱毒被害民は、何を具体的に求めて押出し、つまり請願運動を行ったのだろうか。足尾鉱毒問題の本質を考える上で、この問題は極めて重要と考える。 
2.室田忠七日記に見る東京押出しの目的
鉱毒被害地における請願運動の根拠地は、渡良瀬川左岸・群馬県邑楽郡渡瀬村下早川田の飛地にある雲竜寺である。ここに明治29年10月、請願事務所が設立された。その事務所は、「両県鉱毒事務所」、「両毛被害集会所」、「鉱毒停止請願事務所」、「足尾銅山鉱業停止請願事務所」、「両県連合会協議会事務所」、「栃木群馬茨城埼玉四県連合足尾鉱業停止同盟事務所」などと呼称された。一方、東京にも事務所が30年2月27日設立され、3月7日には芝口三丁目の旅館・信濃屋に移るが、その名称は「足尾鉱業停止請願同盟事務所」である。
これらの名称には、すべてではないが鉱業停止が掲げられている。明治29年の大出水直後は、鉱業停止がその運動の前面にあったことは間違いない。29年11月29日、栃木県安蘇・足利両郡、群馬県邑楽郡の三郡10ヶ町村の有志が集まり次のような精神的誓約が交わされたというが、その目的は「足尾銅山の鉱業を停止することは勿論、之に附帯の諸請願を貫徹せしむる事」となっている。
足尾銅山鉱業停止が中心であった。
「本日出席の我々は精神的誓約を為し、各請願提出の町村を監督し、不正不義の行衛(為)を弾劾し、互に其責任を重じ、群馬栃木両県の目的たる足尾銅山の鉱業を停止することは勿論、之に附帯の諸請願を貫徹せしむる事に従事すべきこと。但し爾今加入之村々及一ヶ人たりとも、其精神を見届け上は加入を許すこと。
右本日決議候上は、互に其体面に傷けざるを制約せしもの也。二十九年十一月二十九日」
また明治29年11月、栃木・群馬両県三郡9ヶ村の鉱毒被害民が、農商務大臣宛に足尾銅山鉱業停止請願書を提出している。その最後に、「仰ぎ願くは以上の事実と理由とを審察し足尾銅山の鉱業を停止し、人民多数の権利公益を保護せられんことを」と述べた。29年11月当時、鉱業停止が大きな課題であったのである。
被害民が「鉱業停止請願運動推進貫徹規約」・「両県連合会則」をつくり、「停止請願及附帯ノ諸請願貫徹」のための正式な組織体が結成されたのは、明治29年12月21日である。この組織が中心となって東京押出しが決行される。その運動を背景としながら、政府により、第一次鉱毒調査会が設置されたのは、30年3月24日である。
この時までの請願運動の具体的な動きについて、東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌でみていこう。 
2.1 明治30年3月から同年5月までの請願運動の動向
明治30年3月2日
「足尾銅山鉱業停止請願ヲ貫徹スル為メ上京ス」
3月3日
「貴衆両院議長ノ官宅ヲ訪問」、「農商務省ニ出頭シ前ノ事情ヲ大臣ニ向テ陳情セントス」貴衆両院議長および農商務大臣に陳情しようとしたが、結局は面会できなかった。
3月18日
「足尾銅山鉱業停止事務所栃木県・群馬県・埼玉県・茨城県ノ四県ノ事務所ヲ芝口三丁目信農屋ニ置ク」
3月19日
「東京府下各新聞社ヲ訪問ス」
3月20日
計10名の衆議院議員を訪問。
3月21日
計5名の衆議院議員を訪問。
3月22日
「農商務省ニ至リ大臣ニ面会ヲ求メタレトモ、大臣議会ニ出タリトテ面会カ出来ス」
3月24日
「夜十二時、村内一同下早川田雲竜寺前堤防ニ集合シ、夫ヨリ東京木挽町農商務省至リ停止ノ確答ヲ得ントテ出デ警官ノ説兪(論力)ニテ止ル者アリ。川俣ノ橋ヲ渡リ上京セシ者千人余リ」
3月29日
「内務省ニ一同訪問ス、法正局長面会ス。埼玉県岩槻ニテ、巡査カ被害人民長嶋与八外二名ニキズツケタルコト陳ブ」「大蔵省ニ至リ大蔵次官ニ面会、鉱毒ノ為メ地租ノ免租ヲ陳ブ」
4月3日〜4日
内務省衛生局長・後藤新平他が、被害地検分に来、それを現地に案内する。
4月7日
鉱毒調査委員・渡辺渡他が、被害地巡視に来る。
4月11日〜14日
内務大臣他が、被害地巡視に来る。
4月11日
内務省土木局長・古市公威が被害地検分に来る(内務大臣と一緒に回ったことも考えられる)。
4月20日
衆議院副議長・島田三郎が、被害地検分に来る。
4月27日
「大蔵省出頭シ地租ノ免租・減租ノ願書奉差シ、且ツ大臣ニ面会ヲ求ムレトモ大臣ハ出省ナキトテ面会ヲ得ス。依テ主税局長目賀田種太郎君面会シ、被害地調書ヲ鉱毒調査ニ参考ノ為メ持参ス。依テ又陸軍省ニ出頭シ鉱毒被害ノ為メ壮丁充分出来ス、従テ教育ヲ授クルコトモ出来サルコトヲ陳情セ(ン)トスレトモ大臣出省ナシ。陸軍梅地少佐ニ面会シ右ノ事情ヲ陳テ退省ス」
4月28日
農商務省に出頭し「早川秘書官面会シ鉱毒被害調書ヲ出シテ、鉱毒調査会ニ回サレンコト乞フ。早川君承知シテ吾々ニ預リ書ヲ渡」す。
4月30日
「農商務省ニ訪問シ、山林輪伐ハ政□ニ依ルモ政府ハ議会ニ於テ水源涵養ニ関係アル故ニ深山輪伐ハ中止シタルト云フニ、昨年ハ足尾銅山辺ニテ非常乱伐セシハ如何ノ理由、山林局長ニ向テ質問ス。山林局長高橋琢也君答テ曰ク既ニ政府深山乱伐中止シタリ、昨年切り取りシ(ハ)二十六年払ヒ下タル樹木ナリト答フ」
5月1日
「農商務省ニ出頭シ大臣ニ面会ヲ求メルモ、大臣ハ出省ナキニヨリ秘書官ニ面会シ早ク調査会処アランコトヲ願フ。又農務局長藤田四郎君ニ面会シ、被害地検分ニ出頭アランコトヲ願フ。局長曰ク、最早本官ハ担当ノ技師ヲ出シテ調査セシメタレハ検分至サストモ事情ハ明カニ知レリト答フ」
5月4日
「(内務)省ニ出省シ後藤衛生局長ニ面会シ、調査会ノ結果ヲ尋ヌ。又土木局長長古市君ニ面会シ又調査会ノ結果ヲ尋ヌ。午後三時退省ス」
5月16日
現地の早川田雲龍寺事務所で宮内省への出願について協議する。
5月25日
「(内務省に)出頭シ、被害地ノ土地改復ノコト陳情セントスレトモ、大臣ハ出省ナキトテ中村次官ニ面会ヲ求レトモ、次官モ多忙ニテ面会ヲ得ズ。依テ木内書記官ニ面会シ右ノコトヲ陳情ス」
5月27日
「(農商務省に出頭シ)大石次官ニ面会シ停止ノ処分ヲ請求セントセシ処、相反シテ次官ヨリ鉱山主古河ニ対スル命令書且ツ政府ノ処分ヲ惣代等ニ報道セリ。依テ惣代ハ次官ニ向テ、今日ハ鉱業停止ノ陳情ニ出省セシ処、此ノ如キコトニハ被害地人民ト能ク相談スべシトテ退省セリ」
その後再び農商務省に出頭して
「農商務属磯辺館親愛君ニ面会シ、先ニ大石次官ガ古河ニ対スル命令書ノ中ニ鉱毒被害地ノ改復ノ文字アルヤ否ヲ尋ネシ処、命令書中ニハ此如キコト無シト言フニ付一同退省セリ」
このように第一次鉱毒調査会の設置まで、被害民の請願先は鉱業所管の農商務省が中心で、銅業停止がその内容であった。被害民が鉱毒調査会委員の名を知ったのは室田日記によると、3月28日の読売新聞である。
第一次鉱毒調査会が設置された後、その委員である後藤新平、渡辺渡、古市公威が現地視察にやってきた。被害民は、彼らに期待をかけ、被害状況を熱心に説明したことは間違いないだろう。その前に内務省局長であった後藤・古市には内務省で面会し、調査会の結果を尋ねている。また内務大臣も4日間、現地調査を行い被害地を見たり堤防破壊カ所を視察している。
被害民の運動は、鉱業停止を要求の中心におき、農商務省への陳情等を行っていたのであるが、それとともに地租の免租・減租・被害地回復の陳情を行っている。また洪水と関係の深い足尾山地の乱伐についての中止を要求している。
5月27日、鉱山主・古河に対して東京鉱山監督署から37項目の予防命令が出されたが、その内容を被害民は農商務省で知った。鉱業停止ではないこと、また鉱業側による鉱毒被害地の回復がないことに強い衝撃を受けたことが推測される。なお5月27日、大蔵大臣は客年洪水のため鉱毒害を被った土地に対し、地租条例20条を適用し災害地としての免租の検討を税務官史に訓令している。 
2.2 明治30年6月から同年12月までの請願運動の動向
鉱業主・古河による約100万円を費した予防工事が、政府からの竣功指定期間内に終わり、東京鉱山監督署から竣功認可を受けたのは、明治30年11月21日である。そして鉱毒調査会が解散となったのは、同年12月27日である。次に、この時までの被害民の運動をみていこう。
明治30年7月22日
鉱毒地復旧請願書の町長調印を足利町役場でもらう。郡役所に行ったが、郡長は宇都宮に行って留守。
7月24日
梁田、御厨、山辺の各村役場を訪問し鉱毒被害地復旧請願書への各村長の調印をもらう(足利・安蘇・下都賀郡の各被害地の町村長の調印も、他の運動家が8月3日までに得る)。
8月5日
宇都宮に行って県知事に面会し「復旧添書ヲ願へシ処、早速承知シテ是添書セリ」、この添書をもって上京した。一方、群馬県知事からの添書はこの日までにもらえず。
8月6日
請願書をもって大蔵省に出頭し大臣に面会を求めたが、不在のこともあり、結局は目賀田主税局々長に請願書を渡す。また陸軍省・農商務省・内務省・内閣調査員・神鞭知常(鉱毒調査会委員長)にも請願書を渡す。
8月9 日
内務省に出頭し、「県治属官高橋氏面会シテ復旧ノコト陳情」、内閣法制局でも神鞭知常氏に面会して、復旧のことを陳情した。
8月10日
農商務省に出頭し、鉱毒被害土地復旧請願陳情のため次官に面会を求めたが会えず。
8月11日
農商務省に出頭し、鉱山での予防工事視察に行くことについて鉱山局長の証明書をもらおうとする(「農商務省出頭シ、鉱毒口デ工事視察ニ参ルニ付キ鉱山局長ノ証明ヲ貰ウニ付キ出頭」)。
10月2日
足利税務署で宅地税猶予願を述べたが、署長は「宅地ハ素ヨリ収獲ノ有ベキモノアラズ」から宅地は猶予しないと答える。
10月7日
再び足利税務署に行って、宅地税について群馬県は猶予したのに栃木県はなぜ猶予しないのかと理由を問うたが、署長は認めず。
10月8日
県庁で宅地税について問うた結果、「被害地関係地丈ハ宅地ナリトモ徴収ヲ中止スルトノコト決シ、地方税務署通告セリ」との返事をもらう。
10月17日
早川田雲龍寺事務所において、四県共同で被害地の「財産救済快復ノ請願書」を町村長の調印を得て提出することを決める。
10月20日
「請願書」の草案をもって足利郡内の役場を回る。
以上のように、5月27日の鉱山主・古河への37項目の予防命令が発せられた後、被害民は鉱山停止を前面に揚げてはいない。前面に揚げられたのは鉱毒地の復旧であり、宅地税(耕地は既に免租・減租にするとの方針で大蔵省は調査に入いっている)の免税であった。 
2.3 明治31年1月から同年8月までの請願運動の動向
次に第三回目の押し出しの因となった明治31年9 月洪水以前の状況をみていこう。
31年1月12日
「特別免租処分請願書奉呈運動トシテ梁田村長・御厨村長・筑波村長ノ調印ヲ得」る。
3月27日
特別免訴処分の件について上京する。
3月28日
神鞭知常の自宅を訪問する。
3月29日
農商務省に「巡視願書」を提出する。群馬県邑楽郡全町村長は大蔵省に出頭し、地租条例による免訴処分について帝国議会で特別立法が成立するまで延期願を提出する。
3月30日
逓信省・内務省・大蔵省に出頭し、「被害地巡視願書」を提出する。
4月11日
免訴処分延期願書の提出のため、各村長に調印をもらいに巡回する。
4月30日
政府は、被害地に対して普通条例より免訴処分すると発表。
5月24日〜26日
東京にて貴・衆両院議員への働きかけを行う。訪問した代議士は衆議員3名、貴族院議員16名である。この中に貴族院議員を兼ねている内務省土木局長・古市公威も含まれている。
5月27日
貴族院へ、「被民救済・被害地土地恢復・河身改良・堤防増築・損害賠償」の請願書を議員子爵・谷干城の紹介で提出する。
5月28日
23人の衆議院議員の紹介で、衆議院に「被害地救済請願」を提出。この衆議員の中に鉱毒調査会の委員であった肥塚龍も含まれている。
7月27日
栃木県庁に出頭し、「二十九年度県税地租割戻」について第一課長に陳情する。
7月29日
内務省に出頭し、「堤防増築・河身改良至急実行願」、「二十九年度県税還附」の陳情および「地方自治体ノ破レタル件」を述べる。また大蔵省に出頭し、「二ヶ年ノ免租継年期願ノタメ添田次官・主説局長目賀田種太郎ニ面会引取リタリ」。
8月13日
足利郡役所に出頭、郡長に「自治体ノ破レタル件」につき陳情。
8月19日
久野村役場に出頭し「村治上ノ件」ついて協議。
8月25日
「村税補助請願書」をもって足利郡役所に出頭、郡長に面会して事情を話す。その請願書の内容は概ね次のようなことであり、内務・大蔵大臣への陳情を考えていた。「免租処分が行われた結果、地租税は負担減租となったが納税額に基づいて与えられていた選挙権を失い、自治の機関がなくなった。また村税として課すことのできるのは戸別割のみとなったが、これすら鉱毒被害のため貧弱となった村民にとって負担に堪え難きものである。一村維持・自治体破滅を免がれるため、従来の地価割・反別割として徴収せられていた歳入額を土地回復するまで国庫補助を仰ぐ」。
このようにこの時期の運動は、当初、特別免租が中心に置かれていた。それは地租条例による普通免租を行うと選挙権を失ってしまい、選挙に基づいて行われていた自治行政が破壊されるためだった。それを防ぐために地租額が減じることのない特別免租を請願したのであるが、しかし普通一般の免租となってしまった。それ以降、「地方自治体ノ破レタル件」も請願の課題となったのである。また内務省へは渡良瀬川堤防の増築、河身改良の改修事業の要望も行っている。この他、被害民救済、被害地土地回復、損害賠償を要求しており、鉱業停止は運動の前面には出てきていない。 
2.4 明治31年9月から同年12月までの請願運動の動向
次に第三回東京押出しが決行された明治31年9 月出水から31年末の状況をみていこう。
明治31年9 月11日
雲竜寺事務所で「村税補助願」の陳情書提出のための協議、及び「九月六日ノ洪水ニテ予防工事ノ破壊ニ付キ視察トシテ銅山ニ上ルコト」を決める。
9 月13日
農商務省に出頭したが、大臣・次官がいなかったため面会できず。大蔵省・内務省に出頭し、「洪水ニ付鉱毒浸入シタルニヨリ検分被下タシト(ノ)件ニ付陳情」する。
9 月14日
農商務省で参事官に面会し、「被害地検分願」について陳情する。
9 月15日
大蔵省に出頭して参事官に面会し、「被害地検分願」および「免訴継年期限」の陳情、内務省に出頭し「自治破滅ニ付村税補助」を陳情する。
9 月19日
雲竜寺事務所で「三日大洪水ニ付キ足尾銅山除害工事既チ沈殿池破壊セシニ付」き、今後の方針について協議し、「堤防増築・救助窮済・自治破減ノ三件ニ付キ大運動スルコトニ決シタリ」。
9 月20日
久野村役場で「自治破減ノ件」につき協議する。
9 月21日
雲竜寺事務所で山田友二郎、須永金三郎、野口春蔵より「銅山視察ニ登山セシ報告アリ」。
9 月23日
「渡良瀬川堤防増築ノ請願書並ニ自治破滅ニ付、村税国庫補助請願」提出のため、地方庁の添書を得る行動に移る。久野村長の調印、足利郡長の添書を得る。
9 月24日
佐野郡長の添書を得る。栃木県庁に出頭して課長に面会し、知事の添書を願うが得られず。
9 月25日
県知事の添書を得る。
9 月26日
第三次東京押出しを決行。雲竜寺事務所境内に集合して出発する。
「九月三日ヨリ七日迄ニ大風雨ニテ沈殿池ハ破壊シ、鉱毒甚シク流沈セシニヨリ被害民一同ハ大ニ撃抗シ是ヨリ一同上京シ、ヲソレ多クモ陛下御膝下ニテ衷訴セントノコトニテ、当日午後一時ヲ期シ一同出発セリ」
9 月29日
田中正造の説得により、多数の請願者の中から選ばれた総代50名が前日、信濃屋に宿泊。この日、代表4名が内務省に行き大臣に面会を求めたが果たせず。内務省の説明は「地方庁ヲ経由シテ参ルべシト。若シ多数ガ出省シテ強テ面会ヲ求ムルトモ地方庁ヲ経由(セ)ザレバ断ジテ面会セズ」とのことであった。農商務省にも7名が出頭して大臣に面会を求めたが、「明日十二時ニ面会ヲ許ス」との回答を得る。
9 月30日
農商務省に全員で出頭したが、閣議があって出省しないとのことで大臣に面会できず。また明日の面会者は代表5、6名との言に激高、農商務省に夜中12時まで居続ける。
10月1日
農商務省に大臣の面会を求めていったが、大臣病気のため出省せず。少人数で大臣宅へ行くようにとの指示がある。しかし結局は官邸で全員が農商務大臣と面会する。農商務大臣は、次のように被害地民に対して理解あることを述べた。
「皆様ノ話シニ就テハ我レモ又内務大臣モ過日洪水ノトキ非常ニ心配シ、銅山ニハ技手ヲ派遣シ夫々鉱毒ノ流失セシメザル様注意シ居ル。又被害地へハ技手ヲ派出夫レ々皆調査シテ居ル故ニ、本省ニテモ夫レ々此ノ件ニ付調査シテ居ルワケデ(ア)ル。諸君ガ斯ク多数上京スルニハ余程困難スルニ相違ナク、実ニ憫然ノ次第デアル。故ニ此ノ際、諸君ノ願意ノ内取ルベキ者ハ採用シ、用ヒラレザル者ハ用ヒズト言フ方ガ諸君ノタメ利益デアルカラ、現政府モ尽セル限リハ尽スツモリテアル故ニ、諸君モ順序ヲ誤ルべ可ラズ。諸君ガ順序ヲ誤ラズシテ地方長官ノ手続ヲ経テ惣代丈ニテ事情ヲ具申シタラバ、諸君ノ主旨モ貫徹スルニアロウ。若シ順序ヲ蹄ミテ而シテ諸君ノ願意ガ徹底セザルトキハ、本大臣職ヲ退テモ速ニ採用スベシ。本大臣ハ勿論、内務大臣モ採用スルデアロウ。若シ諸君ガ順序ヲ蹄ミテ願意ガ徹底セザルトキ、本大臣ガ職ヲ退テ諸君ニ謝スベシ。若シ又諸君ノ願意スルトシテモ、国会ノ協参ヲ経ナケレバナラヌ故ニ、諸君モ宣シク議員ヲ運動スベシト言フ」
10月7日
足利郡役所に出頭し郡長に面会して、「農商務・内務両大臣ガ地方庁ヲ経由セザレバ如何ナル事情アリトモ面会セザルトノコトニ付、郡長ヨリ知事ニ向テ被害地人民ノ窮困ノ事情具申シ被下タシトノ件」を述べる。郡長は、県庁に行く時一緒に行くことを約束した。
10月12日
栃木県知事、鉱毒被害を視察し被害民の案内により堤防を見る。
10月16日
雲竜寺事務所で「被害民救済願・自治破壊ニ付救済願・堤防増築願ノ件ニ付県知事参考書類ヲ出スコト」を決議する。
10月19日
久野村鉱毒事務所で「鉱毒地免租継年期願ノ件」で協議する。
11月4日
「村税県税戸数割徴収猶予願ノ件、其他吾妻村新堤防改築ノ件ニ付、故障ヲ申シ立ツルコトニ決」する。
11月5日
雲竜寺事務所で「吾妻村・植野村・界村三ヶ村新堤防工事ノ件ニ付、久野・筑波・梁田・多々良・渡瀬・大島ハ新堤工事ニ故障ヲ言フ」。
11月8日
雲竜寺事務所で「再請願書中堤防増築ノ件ニ付」について協議する。
11月12日
東京の鉱毒事務所より室田宛に書面が届く。そこには堤防築造について、吾妻・植野・界と久野の間で利害対立を煽る動きがあることが次のように述べられている。また1500万円の渡良瀬川改修大計画が図られていることが述べられている。
「四方八方ヨリノ通信ニ依レバ驚入候。果シテ其ノ事実ノ真偽ハ知ラザレトモ、近頃マタ加害者ノ間牒(諜)村々ニ出没、堤防新設ニ付回シ吾妻・植野・界・久野ノ間ヲ離間シ、夫レガタメ一般被害民ハ非常熱心ナルニモ関カワラズ、堂々タル有名ノ有志ニシテ瞞着セラレ、二十九年以来堤防請願ノ貫徹シテ漸ク茲ニ至リ一千五百万円大事業トナリ。素人ニテハ到底分ラザル大経画ナルニ、各々字々ニ割拠シテ眼小豆ノ如ク亦タ近眼ニシテ一寸先ハ真暗ニシテ愚論ヲ唱フルハ、一般ノ利害ヲ省リミズ政府ノ事業及ヒ外村々ノ妨害ヲ為スモノナリ」
12月8日
久野村鉱毒事務所で足利郡役所と「村治上ニ就」て協議する。
12月29日〜30日
貴族院に「鉱毒事件ニ付附託セラレシ」26名の特別委員への訪問運動を行う。
明治31年9 月出水で、鉱毒被害地では洪水氾濫があり、再び鉱毒被害が拡がった。この洪水は29年洪水に比べると規模は小さいが、西谷田村などで破堤した。また足尾銅山の予防工事で設置された沈殿池が破壊したとの認識を持ち、被害地住民運動は再び「東京押出し」に向けて活発化していった。
ただ、この沈殿地の破壊とはいかなるものだったのかはっきりしない。被害地側は野口春蔵他2名を現地視察に派遣し、その報告を受けているが、その具体的内容は明らかでない。また県等の行政文書にも、この破壊について記述されているものは見当たらない。
さて明治31年9 月19日に「東京押出し」等の「大運動」をすることが決まるが、その要求内容は当日の日記によると「堤防増築・救助窮済・自治破滅」の三つであった。堤防増築とは、渡良瀬川堤防の増築であり、自治破滅とは、それを防ぐための村税国庫補助である。ここには鉱業停止は掲げられていない。また破壊したという沈殿池への対処も述べられていない。
このことから沈殿池の破壊とは、それほど規模の大きいものではなかったかもしれない。因みにこの沈殿池破壊について、31年11月に足尾銅山を視察した下都賀郡赤麻村村長、谷中村助役、部屋村書記他6人の報告によると、「小瀧第一号の沈殿池は、本年大洪水にて全く破壊し、今猶工事中なれども該池に沈殿せし毒土は悉く流出せしを認めたり」と述べている。つまり破壊したのは、三つある沈殿池の中で最も小さい小瀧第一号沈殿池である。
県知事の添書も得て明治31年9 月26日に開始された「東京押出し」であるが、その請願の具体的内容は次のことと思われる。
「1.憲法保護請願の事
1.鉱毒被害地土地恢復願の事
1.本年再度の流毒による被害実況見分願の事
1.免租継年期願の事
1.渡良瀬川河身改良及河床浚渫堤防改増築実行再促願の事
1.鉱毒の衛生上に及ぼす事実再調査願の事
1.被害激甚に附窮乏村民へ刻下の衣食救助願の事
憲法保護の請願書に記載之通り
1.被害窮民は窮困甚しく到底司法裁判を起して鉱業主より損害賠償を得るの力なきにより、憲法上相当の保護により損害金救済下附再促願の事
明治三十一年九月
鉱毒被害民一同」
「土地回復・救助窮済・堤防増築・自治破減」を中心に、31年9 月洪水による鉱毒被害の現地調査なども要求している。だが鉱山停止は揚げられていない。
また先述した下都賀郡赤府村村長、谷中助役等による31年11月の「足尾銅山視察報告書」では、鉱業による予防工事を「予防工事旧来の経験に徴するも、将来、其の功を全うするや否や頗る疑問とする処なり。仮に功を奏するものとするも、数年来渡良瀬川床及び沿岸耕地に沈殿堆層せる処の毒土砂を除去するにあらざれば、到底被害は免れざるものと思料す」と述べた後、次のように根本的対策として毒土除去・土地回復とともに渡良瀬川河川改修を主張するのである。
「之れをして無害ならしめんには、堤防増築、河身改良及び毒土除去、土地は恢復進んでは利根の河身改良を施し、渡良瀬合流を潟せしめされば、吾人、豈、居住するを得んや。故に吾人の覚悟とするは飽迄此れを政府に請求して、其の実践を求むるは急務中の尤も急務とせざる可からざる処なり」
第三次押出しの後、地道な運動が続いていく。その要求内容は「被害民救済、自治破壊、堤防増築」が中心であるが、築堤計画が具体化するにつれて渡良瀬川右岸と左岸との間の地域対立が表面化していった。室田の住む久野村は渡良瀬川右岸に位置するが、対岸との間で恐らく渡良瀬川左岸の霞堤締め切りをめぐり、利害の衝突が表面化していったのである。渡良瀬川改修計画については後述するが、国により計画が立案されつつあった。 
2.5 明治32年1月から同年8月までの請願運動の動向
次に第四回押し出しに到る経線についてみていこう。
明治32年1月2日〜 7日
貴族院議員と衆議院議員を訪問する。勝海舟宅には、参考のため被害地植物藁灰を持参して訪問する。
1月26日
内閣大臣・内務次官の自宅を訪問するが会えず。内務省で「被害ニ対ス処分並ニ大臣閣下ニ検分ヲ願」う。
1月27日
神鞭知常を訪問するが会えず。
1月28日
内務省、農商務省に出頭する。
1月31日
安蘇郡々長に栃木県新任知事の被害地視察を願う。
2月2日
栃木県知事、被害地視察に来る。
3月13日
田中正造他12人の衆議院議員が被害地視察に来る。農商務大臣、被害地検分に現地に来る。
4月1日
雲竜寺事務所で、今後の方針について協議。
4月11日
「鉱毒被害激甚地人民救助ノ請願書」提出のため、足利郡役所に出頭する。郡長は岡登堰の件で大間々に出張のため不在。
この4月11日の日記によると、被害民の請願が貴族院で採択すべきものと議決され、貴族院議長から内閣総理大臣に送付されている。帝国議会への請願活動の結果と考えてよいが、それらの請願は以下のようである。
○足尾銅山鉱毒被害ニ関スルノ件
群馬県山田郡毛里田村江原民吉他18名から提出。要求内容は、町村自治体破壊の救治、被害地免訴年限の継続、被害民公権の存続(明治32年3月6日付)。
○足尾銅山鉱毒ニ関スル件
栃木県下都賀郡谷中村茂呂近助他8名から提出。要求内容は、憲法の保護、被害土地回復、河身浚渫、堤防改築新設、衛生調査・救助・町村費補助(明治32年12月付)。
○鉱毒被害地町村救治ノ件
群馬県邑楽郡大島村磯幸次郎他342名から提出。要求内容は、被害町村に対する適当の法律を制定し、人民の権利を保ち、町村員への国庫補助による町村自治機関の整備(明治32年12月付)。
○足尾鉱山鉱毒ニ関スルノ件
栃木県足利郡久野村稲村与市他141名から提出。要求内容は、特別保護法の設置による自治体の保護(明治32年1月付)。
○鉱毒被害地堤塘増築ノ件
埼玉県北埼玉郡川辺村井田兵吉他1458名が提出。要求内容は、渡良瀬川堤防の増築(明治32年2月付)。
○鉱毒被害地町村自治体救治ノ件
埼玉県北埼玉郡川辺村井田兵吉他1458名が提出。要求内容は、被害地住民の救済(明治32年2月付)。
○足尾銅山鉱毒被害地人民救護ノ件
栃木県安蘇郡植野村谷元八他4名が提出。要求内容は、被害地住民の救護。
4月18日
足利人郡役所で、郡長に「被害激甚地ノ窮民救助願書」の提出について陳情する。
5月4日〜 5日
足尾銅山予防工事、山村植林の現地視察を行う。
5月14日
雲竜寺事務所で、今後の方針について相談する。
5月17日
雲竜寺事務所で、損害賠償について地方裁判所に出訴すること、吾妻村下羽田の1町歩を被害激甚地に指定すること、各村ごとに鉱業側と談判を行わないことを決定する。
5月22日
農商務省に出頭し「足尾銅山鉱毒御処分要求」として次のことを陳情する。
「1.今ヨリ必ズ鉱毒ヲ汎濫放流セシメザルコト
1.渡良瀬川水源ニ関スル山林樹木ノ禁伐ヲ要求スルコト
1.河身破壊ヲ復旧シ両岸ノ崩落ヲ止シ河底ノ埋没ヲ防ギ、且ツ堤塘ヲ増築シ其ノ沿岸ノ毒土ヲ除却スルコト
1.従来ノ納租地ノ損害ニ対スル救助ヲ乞フコト
1.被害激甚地ノ流離転廃及貧苦毒食ヲ為ス場合ノ窮民ヲ救助スルコト
1.被害村々税欠額ノ補助ヲ乞ヒ普通小学及村務ヲ頽廃セシメサルコト
1.人命ヲ保護シ異例ノ死亡者ヲ増加セシメザルコト
右ノ各項ニ対シ処分之無キニ於テハ銅山ノ鉱業ヲ停止スベシ」
5月23日
内務省に出頭し大臣に面会を求めたが、不在のため面会できず。職員に陳情書を提出しょうとしたところ、「陳情書捧呈至シケレバ、内務省ニテハ惣テ書類ハ地方庁ヲ経由セザレバ受理セザルコトニ決定シケ(レ)バ受理セズ」との返答に、「内務省ノ非立憲的ノ動作ニ驚キ退省セリ」。大蔵省に出頭して陳情書を提出する。
5月24日
農商務省に出頭して、「処分ノ実行」を陳情する。
6月16日
内務省に出頭し「町村破壊ノ件」で陳情、地方局長・土地局長に面会する。
7月1日
内務省に出頭し、衛生局長に面会して鉱毒被害について述べた後、土木局に対し「河身全面ノ改修工事」を申し込むよう陳情する。
7月3日
内務省に出頭し、地方局長に面会して「村税欠額国庫補助願書却下」について質す。大蔵省に出頭し次官に面接して、「堤防増築工事ノ予算ヲ本年度ノ予算組込セラレタキ旨陳情」する。
7月4日
農商務省に出頭し、「堤防河身復旧工事ノ予算ヲ本年分ニ組込マレタキ旨陳情」する。
7月5日
内務・大蔵・農商務省に損害表を配布する。
7月24日
「免租更生ニ付キ免租ノ辞令アリタリ」
8月4日
(久野)村事務所で村行政について協議し、次の2件を決議する。「鉱毒費賦課方免租積算額ニ課ス」「高等科設置ノ件高等科ヲ置クコト」
8月5日
足利税務署に出頭し、久保田の新荒地免租について陳情する。
このように、明治32年6月までは、鉱毒被害状況の説明あるいは現地視察を願い、被害の救済を中心に請願運動を展開している。その背景の一つには免租、減租の要求があったと思われる。第二回目の荒地免租処分は32年7月に行われた。
当時の要求は、5月22日〜23日に関係省に提出された「足尾銅山鉱毒御処分要求」に現れている。それは、・鉱毒を氾濫、放流させないこと、・渡良瀬川水源の樹木の禁伐、・渡良瀬川の改築、堤防増築、・沿岸に堆積した銅分の除去、・損害補償、・窮民救済などであり、これらの要求に対して何ら処分が行われない時は鉱山の鉱業停止を求めている。
なお5月23日に内務省に出頭した時、地方庁を経由して請願書をあげてこなかったら、つまり直接的な請願は受理しないと決定したと聞いて、「内務省ノ非立憲的ノ動作ニ驚キ退省セリ」と感想を述べている。他省と比べて地方行政そして警察行政を管轄する内務省の強硬な対応が目につく。また7月1日以降、被害民の請願内容は、渡良瀬川全面改修を前面に出していく。それは、国による測量が終わり改修計画案が策定されたとの認識に基づいてである。これについては、後述する。 
2.6 明治32年9月から33年2月までの請願運動の動向
明治32年9 月1日
県庁に出頭し、河身全面大復旧工事請願書の添書をもらう。
9 月2日
内務省に出頭し、土木局長に面会して「河身浚渫大復旧工事実行願書」を提出して陳情したところ、「局長ハ至テ冷淡ナルアイサツナリ、一同怒テ引取レリ」。
9 月4日
内務省に出頭し、土木局・衛生局・地方局に請願に対する処分の実行を請求する。その後、内閣総理大臣に面会を求めたが面会できず。
9 月5日
農商務省に出頭し、農務局長に面会する。内務大臣に面会を求めたが面会できず。
9 月7日
雲竜寺事務所で「被害民死活−途ニ関スル最後ノ方針ヲ協議スルタメ大集会」を開く。
9 月12日
各村から「全権ヲ有スル委員」が雲竜寺事務所で会合し、次のことを決定する。
「最後之運動方法ニ就キ大運動必用ヲ見留メ就テハ各村参謀長選任シ、二十日迄ニ死亡調査表及上京スル人名等記シ、事務所ニ集会スルコト」
10月4日
栃木県庁に出頭し、明治29年洪水後から30年、31年、32年に渡良瀬川治水にどれほど費やしたかの調査を行おうとしたが、知事の許可がなかったら張簿は見せられないとして出来ず。
10月21日
雲竜寺事務所で、「河身大改復実行ノ請願ヲナスコト・衛生保護ノ件・免租継年期願ノ三件」を決議する。内務大臣宛の「町村会決議之要領書」を次のように定める。
「足尾銅山鉱毒事変ニ付、明治三十年松方内閣調査会ノ結果中、渡良瀬川河身大破壊ノ一ヶ条ハ即チ同内閣ノ閣議ヲ経テ当局内務大臣伯爵樺山資紀ノ時、測量調査結了セシモノニモ関ワラズ、河身全面ノ改復改造等ノ大工事ノ遷遠ニ付、沿岸ノ惨状旧日ニ数倍シ、生命ヲ刻ミ多クノ人畜ヲスニ至レリ。此レガ工事実行ノ急迫ナルニ付、催促請願ノ儀村会ノ決議ニ依リ請願仕候也」
10月22日
4名の郡会議員を訪問し、「河身改良ノ実行」について郡会の決議を経て郡会より請願することを要請する。
10月30日
「河身堤防改築請願・衛生保護・村費欠額補助請願ヲ各村共村会ノ決議ヲ経テ請願セリ」ことを決め、行動に移る。
10月31日
栃木県庁に出頭し、知事に面会し請願書に対する添書を要求したところ、知事の了解を得る。
11月10日
雲竜寺事務所で報告会を兼ね、今後の方針について協議する。
11月20日
雲竜寺事務所で、会計上の件及び今後の運動方針について協議する。
33年1月16日
久野役場に出頭し、「宅地免訴ノ件」について協議する。
1月22日
請願書調印のため久野役場に出頭する。
1月26日
吾妻村役場で村長と、「上京青年組織ノ件」につき相談する。
2月8日
内閣総理大臣に請願書を提出しようとしたが、不在のためできず。衆議院に出頭し請願書を提出する。
2月9 日
内閣・農商務省・内務・大蔵・法制局・文部・陸軍の各省に請願書を提出する。
警官隊と激しく衝突し、大量の検挙者を出した川俣事件が発生したのは、明治33年2月13日である。この事件の前の室田忠七の日記は、2月11日で経わっている。その最後に「大運動ノ計画アルタメ憲兵警官4名計警戒セリ」となっていて、暗雲を漂わせる表現となっている。川俣事件では100余名が逮補され、51名が起訴されることとなった。室田に検挙され、それ以降、長期の勾留となった。
この著名な川俣事件を生じさせた第四回東京押出しの請願要求は、明治32年10月21日の雲竜寺事務所での決議にみるように、渡良瀬川大改修・衛生保護・免租継年期願の三つであった。三番目の免租継年期願は10月30日の「各村共村会ノ決議」からみると、「村費欠額補助請願」に変わっているが、いずれも渡良瀬川大改修あるいは渡良瀬川堤防改築請願が最初に取り上げられている。
また明治32年7月以降の請願運動みていくと、渡良瀬川全面改修が前面に出ていくことがよく分かる。7月に入いると、大蔵省・農商務省に渡良瀬川堤防増築工事の予算を本年度の予算に組み込んでくれとの陳情を行っている。
それに先立ち32年6月、足尾銅山鉱業停止請願事務所・足尾鉱毒処分請願事務所から「群馬、栃木、埼玉、茨城四県被害地ヨリ主務大臣ニ提供シタル者」として、「渡良瀬川河身大回復諸工事実行ノ請願書」が提出された。その中で「明治三十年鉱毒調査会ヲ開カレ閣議ヲ以テ設計セラレタル測量ニ基カレ、至急此ノ大施設ヲ実行スルニアラザレバ、已往ノ惨状ヲ回復セサルノミナラス目下ノ危急如何トモスベカラズ」と主張している。
河川改修は内務省の管轄である。知事から河川改修の請願書に対する添書を手に入れ、内務省に働きかけを行っている。ところが9 月2日に面会した土木局長の応対は「至テ冷淡ナルアイサツナリ、一同怒テ引取レリ」の結果となった。これ以降、被害地住民は、4回目の東京押出しに向けて動き出すのである。
9 月7日には、「最後ノ方針ヲ協議スルタメ大集会」が開かれ、同月12日には「全権ヲ有スル委員」が会合して「最後之運動方法ニ就キ大運動必用ヲ見留メ」と、第四回東京押出しの方針を決定している。その具体的請願内容について、9 月29日の『万朝報』が「鉱毒被害民の決議」として次のように報道している。
「栃木群馬埼玉三県鉱毒被害民の委員等ハ此程群馬県鉱毒事務所に会合し下の決議を為し、今回ハ死を決して目的を達せんとする趣を声言し居れり。
1.渡良瀬川河身改良即ち大復旧工事施設費予算編入のこと
1.鉱毒による被害人民生命救助の事
1.途中は野宿の心得にて食料及び天幕を用意する事
1.行進中は凡て指揮者の命に従ふ事
1.警察に行進を差止めらるヽときは何事たりとも其場所に止まる事
1.警察官に拘引せらるヽもの有るときは之れを奪ひ返す事
1.一致団結して運動するを差止めらるヽときは各道を異にして上京する事」
要求項目は渡良瀬川改修事業への予算要求と救済救助の2点である。その中でも最初に取り上げられているのが渡良瀬川改修事業の着工であり、これが最も重要な要求内容であることが分かる。
では渡良瀬川改修事業とは具体的にどのような内容なのか。10月21日に決められた内務大臣宛の「町村会決議之要領書」によると、明治30年松方内閣調査会(第一次鉱毒調査会)で渡良瀬川河身大破壊(大改修)が決議され、その後、樺山資紀が内務大臣の時に測量調査が完了したにも関われず、着工していないとして、この工事の早急な着工を求めたのである。
また室田日記に、明治32年8月31日「報知新聞」に掲裁された「鉱毒被害民の建議」の記事が記載されている。この記事は、「河身大破壊の復旧は、人命を未来に保護し又田宅を保護するの要旨を含有するものなれば、三十年内閣計画の通り大至急施設実行あらんことを重ねて奉請願候以上」、つまり既に策定された渡良瀬川改修事業の早急な着工を求めていると結んでいる。では第一次鉱毒調査会で決議され測量・調査も完了し既に策定されている計画とは、どのようなものなのだろうか。
当時の国家による治水事業の進渉状況からみて、渡良瀬川改修事業の可能性はあったのだろうか。あるいは被害民は何の根拠のもとに請願運動を展開したのだろうか。章を改めてみていこう。
また渡良瀬川治水を考える場合、重要なのは、近世以来の歴史的経緯の中心形成された地域間の強い利害対立の存在である。それは31年11月5日、12日の日記にみるように鉱毒反対運動内部でも発生していた。 
3.明治30年代初頭における近代河川改修事業
明治33年2月13日に決行され川俣事件として著名な第4回東京押出しの主要な要求は、渡良瀬川改修であることをみてきた。被害民はその渡良瀬川改修について測量が終わり既に計画が完了していると認識していた。その計画案の実行を迫ったのであるが、ここでは当時の日本の近代河川改修の経緯についてみ、被害民のこの要求を近代改修史の中で考えてみよう。 
3.1 明治29年3月の河川法の成立
明治10年代から20年代初めにかけて、大河川では直轄による低水工事が進められていた。低水工事は、主に河身修築(低水路整備)と土砂流出防止工事よりなるが、低水路の整備はまた洪水の疎通をよくすることである。修築工事により河道を整備して洪水の疎通をよくした後、高水工事である築堤工事を行うというのが政府の基本方針であった。
表1 国直轄による修築工事の実施状況
河川名    費用     工事期間
淀川      修築費1874(明治7)〜1888(明治21)年度
         修築工修繕費1889(明治22)〜1898(明治31)年度
利根川    修築費1875(明治8)〜1899(明治32)年度
信濃川    修築費1876(明治9 )〜1888(明治38)年度
         河口修築費1896(明治29)〜1903(明治36)年度
木曾川    修築費1877(明治10)〜1912(大正元)年度
         修築工速成費1903(明治36)〜1905(明治38)年度
北上川    修築費1880(明治13)〜1901(明治34)年度
         修築工修繕費1901(明治34)〜1902(明治35)年度
阿賀野川   修築費1882(明治15)〜1904(明治37)年度
筑後川    修築費1882(明治15)〜1898(明治31)年度
最上川    修築費1882(明治15)〜1903(明治36)年度
吉野川    修築費1882(明治15)〜1904(明治37)年度
大井川    修築費1882(明治15)〜1902(明治35)年度
富士川    修築費1883(明治16)〜1894(明治27)年度
        修築工修繕費1895(明治28)〜1898(明治31)年度
        追加修築費1896(明治29)〜1897(明治30)年度
庄川     修築費1883(明治16)〜1899(明治32)年度
阿武隈川  修築費1883(明治16)〜1902(明治35)年度
天竜川    修築費1884(明治17)〜1894(明治27)年度
        修築工修繕費1895(明治28)〜1899(明治32)年度
        追加修築費1896(明治29)〜1898(明治31)年度
(内務省土木局『第七回治水事業ニ関スル統計書』,1931.3から作成)
しかし水害の多発、特に明治18年(1885)に全国的な大水害があったことから高水工事の要望が高まり、20年になると利根川・信濃川・筑後川・木曽川など新たな計画の下に河川事業が着手された。事業内容は、河身修築は国が行い、築堤工事は府県の負担で行うものであった。特に、木曽川下流では、木曽川・揖斐川・長良川の三川分離を伴う大規模な改修事業に着工した。
明治23年(1890)、帝国議会が開設されると、国庫による堤防修築など、治水を求める請願が全国から行われた。第一回帝国議会に寄せられた請願数は142件に及び、地租軽減・地価修正の438件に次いで多く、全請願数1,056件の1割以上であった。議員からは治水工事の促進を求める建議が度々行われ、政府直轄による治水の要望が熱心に展開されたのである。
この結果、明治29年(1896)年度から修築工事が既に完了していた淀川・筑後川で、政府直轄により高水工事に着手することとなった。河川事業がこの新しい段階に入るにあたり、工事に先立ち河川管理、費用負担などを規定した制度として、29年3月、66条からなる河川法が成立したのである。
河川法の内容を簡単にみると、河川法が適用される河川は、主務大臣が「公共ノ利害ニ重大ノ関係アリ」(第一条)と認定した河川で、主務大臣は、その河川名を区間、時期とともに官報に告示する。さらに、適用河川の支川や派川が地方行政庁より認定され、「特別ノ規程ヲ設ケタル場合ヲ除クノ外」これらの支川・派川には河川法が適用される(第四条)。これは、本川である適用河川の管理を完全に行うためには、そこに流入する支川、そこから流出していく派川を併せて管理しなければならないからである。なお、河川法の適用されない河川や水流等に対しては、準用河川の制度がある。
適用された河川の管理主体は地方行政庁であり、「河川ハ地方行政庁ニ於テ其ノ管内ニ係ル部分ヲ管理スベシ」(第六条)と定められた。また、工事の施工・維持の原則的主体も地方行政庁であり、「地方行政庁ハ河川ニ関スル工事ヲ施行シ其ノ維持ヲナスノ義務アルモノトス」(第七条)と規定されている。
このように、河川工事・維持の第一次的責任は、府県知事にあるとされたが、第八条に特例の場合として、1工事の影響が他府県にまで及ぶようなもの、2工事が物理的に困難で高度の技術を必要とするもの、3地方財政の負担能力を超えるような多額の工事費を必要とするもの、4河川工事が一定の全体計画の下に施工される必要があり、一つの府県単位で工事を施工すると不均衡が生じて全体計画が達成されないおそれがあるときには、主務大臣による直轄工事で行われることが定められていた。
ここに国直轄による洪水防禦工事への参画が法律で規定されたのである。これこそが、旧河川法制定の最大の眼目であった。これらの河川の改良工事等の管理費用の負担についてみると、管理一般については、「河川ニ関スル費用ハ府県ノ負担トス」(第二十四条)と、府県による負担が原則であることを規定している。その上で、第六条の但書「但シ他府県ノ利益ヲ保全スル為必要ト認ムルトキハ主務大臣ニ於テ代テ之ヲ管理シ又ハ其ノ維持修繕ヲナスコトヲ得」により、国が管理ないし維持修繕を行う場合は、「国庫ニ於テ其ノ費用ノ全部若ハ其ノ一部ヲ負担スルコトヲ得」と、国庫による支出について定めている。
改良工事に対する国庫補助については、「河川ノ改良工事ニ要スル予算費用ニシテ其ノ府県内ノ地租額十分ノ一ヲ超過スルトキハ、其ノ超過額ノ三分ノ二以内ヲ国庫ヨリ補助スルコトヲ得。但シ地租額ヲ超過スル部分ニ付テハ其ノ超過額ノ四分ノ三以内ヲ補助スルコトヲ得」(第二十六条)と、府県内の地租額を基準にして国による補助を規定している。直轄工事の場合も、府県はこの第二十六条の規定に基づいて負担額が定められ、府県は受益者負担として直轄工事費の一部を負担するものとされた。
明治29年度のこの河川法の成立は、特に同年4月に着工された淀川改修と密接な関係があった。洪水防御を目的とする淀川改修期成運動は、18年の大水害後から本格的に始まった。改修期成同盟が結成されて、24年に代表4名が大阪・京都府下の請願書をもって上京し、淀川改修の請願を熱心に行った。この運動の結果、地元支出により測量が行われることになったが、改修期成運動はこの後も続けられ、24年、大阪府会で淀川改修が建議され、翌25年には淀川治水対策同盟会が公的なものとして設立された。この同盟会により請願、建白が行われたが、27〜28年の日清戦争のため運動は一時停止した。
日清戦争後、再び淀川改修運動は熱心に推進される。当時の第二次伊藤博文内閣は議会での優位政党の力を借りることとなり、自由党と提携したが、自由党はまた党勢拡張に汲々とし、大阪での自由党勢力が弱かった。このため、淀川沿岸の代議土、府会議員、町村長、水利委員らがこぞって自由党に入党すれば、自由党の党議によって淀川改修工事を実施できると考え、淀川改修工事を自由党の政策に加えるよう説いたのであった。
伊藤は、財源について大蔵大臣に意見を求めたところ、大蔵大臣は次の敵国としてロシア戦に備えるため軍備拡張が優先課題であって他の政策に対しての財源はなく、緊急止むを得ないものを対象とした追加予算にも淀川改修事業はなじまないと強く反対した。しかし地元代議士の根強い運動により、「治水ニ関スル建議案」が明治29年2月27日帝国議会で可決された。これが、河川法成立の直接的な推進力となったのである。29年度から淀川そして筑後川で河川法による河川改修が着工されたが、淀川の当初予算額約909万円、筑後川は約40万円であった。 
3.2 明治32年度帝国議会での治水要求
明治32年度になって33年度予算に対し、新たな河川改修着手を求める強い要求が帝国議会で展開された。第14回通常議会は32年11月22日開会となったが、12月8日付で佐々木正蔵他13名の提出者、また賛成者156名からなる次のような「治水ニ関スル建議案」が提出された。提出者・提案者は合計170名を越え、議会定数の過半数以上であった。
「我カ国治水ノ事タル国家経営上緊要ナルハ、言ヲ俟タサルナリ。近来、水害頻ニ到リ僅々数年間ニ国庫ニ民産ニ損害ヲ蒙ルコト、其ノ数幾億圓ナルヲ知ラス。故ニ議会開設以来、衆議院ハ第二回、第四回、第六回、第九回及第十三回議会ニ於テ、国家経営上須モ忽諸ニ付スヘカラサル河川改修ノ建議ヲ為セリ。政府ニ於テモ茲ニ見ル所アリテ、明治二十年以来土木費定額ヲ一箇年百五十万円トシ、其ノ内八十五万円ヲ河川改修費ト内定セラレタリ。加之二十五年十二月一日、第四回議会ニ於ケル総理大臣及大蔵大臣ノ施政方針演説中、治水事業ヲ今一歩進メテ既定年額ノ外、一百万円ヲ増加スルノ計画ヲ為シタリト明ニ陳述セラレタリ。当時、国庫ノ歳出入総額ハ凡ソ八千万円ニシテ斯ノ如シ。又戦後経営ノ第一年乃チ明治二十九年度ハ金二百三十九万六千円、三十年度ニ金五百六十三万四千三百四十三円、三十一年度ニ金三百六十七万七千七百五十五円、三十二年度ニ金二百二十九万六千四十三円ヲ支出シ、此ノ四箇年間ノ平均額ハ約金三百五十万円トナレリ。之レ未タ治水事業費ノ定額トハ云フヘカラサルモ、年々其ノ額三百万円以上タリ。然ルニ三十三年度ノ予算案ヲ関スルニ既定継続費ニ止メ、僅々一百三十余万円ニ減縮セラレタリ。此ノ方針ニ依レハ、四五年ノ後ハ改修費ハ全滅スルニ至ルヘシ。異竟一定ノ定額ナキノ致ス所、国家ノ為歎スヘキノ至ナラスヤ、是本院ノ黙止スル能ハス。屡ヽ建議ヲ為シタル所以ナリ。請フ其ノ主旨ヲ採納セラレ、改修工事費ニ年額三百万円乃至四百万円ノ定額ヲ以テシ、河川法ヲ普及セシメ順次根本的改良工事ヲ速成シ、目下調査設計ノ整頓セリト聞ク所ノ利根川全部、九頭龍川、庄川、神通川ノ改修工事費ノ追加予算案ヲ今回ノ議会ニ発案セラレ、尚一日モ看過スヘカラサル高梁川、斐伊川、吉野川、阿賀野川外数川ノ設計ヲ急ニシ、其ノ計画ノ成ルニ従ヒ順次実行セラレムコトヲ右建議ス」
この建議を整理すると次のようになる。
治水は国家経営上、実に緊要な課題であり、衆議院では開設以来、5回も河川改修の建議行い、政府も重要として国庫支出の増額を行ってきた。日清戦争後の戦後経営でも明治29年度は約240万円、30年度約563万円等、29年度から32年度の4ヶ年の平均額は約350万円となっていた。とこるが33年の予算案は既定の継続費に止め、僅か約130万円となっている。これでは河川改修費はやがて全滅してしまう。毎年改修費に300万円から400万円を定額として予算化する必要がある。このため新たに河川法に基づいて順次、改修工事を進めていく必要があるが、既に調査設計が終了していると聞く利根川全部、九頭竜川、庄川、神通川の改修工事費を追加予算案に組み込むこと、また高梁川、斐伊川、吉野川、阿賀野川他数河川の設計を急いで行い、計画ができ次第、順次実行すること。
なお当初、政府予算案で前年に比べて河川改修費が大幅に減らされた背景には、膨大な海陸軍の臨時拡張費、あるいはそのために増額した地租額を5年後には元に戻さねばならないなどの厳しい財政事業があった。
このような議員からの建議であるが、内務省の意向もある程度、踏まえてのものだった。明治32年11月30日の衆議院予算委員会で内務省政府委員は次のように述べている。
「実ハ此河川ノ改修ハ、段々必要ニ迫テ居ルノデアルノデアリマス。既ニ福井ノ九頭龍、富山県ノ庄川トカ、或ハ利根川是等ハ近々調査ノ結果、計画モスッカリ出来テ居リマスシ、着手シナケレバナラヌ必要ハモウ十分必要ガアリマスノデ、ゼヒ着手シナケレバナラヌノデアリマス。然ルニ財政上ニ関シマシテ尚色ゝ調査中デゴザイマシテ、果シテ提出スルコトガ出来ルカ出来マセヌカ、目下尚大蔵省ニ於テ調査中デアリマス」
「調査ハ段々進ムト、是非ヤラナケレバナラヌコトニナッテ居リマス。唯大蔵省ノ繰合ガ附クカ附カヌカト云フ場合デアリマス。ソレデ水害ノ補助ノ方ヲ改メマシテ、是迄ヨリ非常ニ辛クナッテ、従テ富山ノ庄川或ハ福井ノ九頭龍、其他ハ何トカ改修シマセヌト、本年ノ水害デモ多額ノ県債ヲ起サナケレバナラヌ。此災害ガ度々アッテハ、到底県ハ堪エ切ラヌト云フコトニナルダラウト思ヒマス。ソレ等ノ点ニ至りマシテモ、改修ガ出来ルダケ改修シテヤラナケレバナラヌト考へテ居リマス」
要するに、調査設計が完了していた河川改修は、できるだけすみやかに着工するというのが内務省の意向であった。渡良瀬川改修の議論は全く出てこないが、議員からの建議案では「利根川全部」の中に含まれている可能性もある。
一方、渡良瀬川沿岸の被害民は、明治32年7月には渡良瀬川では測量は行われ設計は完了していたと認識していた。33年度から設計が既になっている河川に新たに着工したい、との内務省の意向、またその動きについて鉱毒被害民は東京事務所を根拠地とした活動等を通じて把握していたと考えて間違いないだろう。被害民は渡良瀬川改修着手に強い期待をもったとみるのが当然だろう。32年7月には内務省・大蔵省・農商務省に陳情し、9 月には渡良瀬川河川改修を最大の目的に「東京押出し」を決定していったのである。32年11月22日から帝国議会は開会され、治水の議論は活発に行われていた。この状況下、鉱毒被害民は、国直轄による渡良瀬川改修を求め議会閉会の10日前、大示威運動を開始したのである。
結果として、明治33年度から新たに河川改修に着工したのは利根川第一期(事業費総額約600万円)、庄川(事業予算額約292万円)、九頭竜川(事業費総額178万円)であった。3河川合わせての総事業費は約1070万円である。庄川・九頭竜川は、当初は国費を使わず県費を先行的に使用した。一方、調査・設計が終了していたと認識していた神通川であるが、庄川と同じ富山県にあることもあって着工とはならなかった。
利根川治水計画は内務省技師・近藤仙太郎によって策定されたが、近藤は、明治27年に群馬県沼の上から河口・銚子に至る区域で総工費3637万円からなる改修計画を策定していた。だが、当時の国家歳入約8800万円にくらべて過大であり、この計画は着手されなかった。しかし29年に大出水があり、近藤は約2000万円の計画の策定を命じられ、2233万円からなる計画を策定しこれが実行された。この計画は国家予算規模の制約のため全川で行うものではなく、改修区域のうち計画より河積の狭い箇所、湾曲している箇所であって緊急に改修を必要とするか、近いうちに改修を必要とする箇所を重点として工事するものであった。この計画の中に渡良瀬川改修は含まれていなかった。政府は約2200万円のこの利根川改修計画を一度に予算化できず、3期に分けて下流部のみを6ヶ年継続事業として予算化したのである。
後、渡良瀬川改修について内務省は、「当時石黒第一区土木監督署長ヲシテ其ノ計画ヲ立テシメシコトアリ。然ルニ其結果工費金壱千弐百万円ノ巨額ヲ要スルヲ以テ遂ニ其施工ヲ見ルニ至ラス」と述べている。明治32年当時、1200万円からなる改修計画は策定されていたことは間違いないだろう。しかし、この額は他の河川と比べても巨額である。その巨額さから実行には結びつかなかったと判断される。なおこの計画は、遊水池を新たに設置するものではなく当時の渡良瀬川河道の拡幅が中心であったと考えられる。 
4.栃木県・群馬県改修事業への対応
では、地域を代表する地方行政体である栃木県、群馬県は明治30年代初頭、利根川・渡良瀬川改修にどのように関わっていったのか簡単にみていこう。 
4.1 栃木県
明治30年12月28日、内務大臣宛の「足尾鉱山鉱毒事件ニ関スル建議書」が栃木県会で建議された。その中で、同年、第一鉱毒調査会の審議そして政府の命令に基づき鉱業側によって築造された沈殿池が氷結して沈殿の効果が生じていないことに対する方策とともに、国費による築堤工事を請求した。その内容は、次のとおりである。
「本県下足尾鉱山鉱毒事件ニ関シテハ、政府已ニ除害予防ノ命令ヲ発シ沈殿池等ヲ築造シ其工事ヲ竣リシト難トモ、今ヤ寒天ニ際シ永結ノ処アリ。又渡良瀬川沿岸ニ於テハ、国庫費用ノ築提ヲ請ハントシテ従来已ニ本県会ヨリ建議スル所アリシモ、今ニ於テ政府ハ何等ノ処置ヲ為サス。故ニ沈殿池等ニ対シテハ、予メ凍氷期ニ於テ尚ホ能ク沈殿ノ効ヲ奏スル方法ヲ講シ、又渡良瀬川沿岸ノ築提ハ之レカ起工ヲ速カナラシメテ、以テ沿岸細民ノ困弊ヲ救ハンコトヲ」
翌明治31年12月20日、栃木県会で内務大臣宛の「利根川河身改良ニ付建議書」と「渡良瀬川改修工事及堤塘拡築ニ付建議書」が建議された。前者の利根川についての建議では、利根川洪水の疎通のため栗橋下流の赤堀川・権現堂川呑口の沈床工事の撤去、江戸川呑口の棒出し(石堤)の徹去、赤堀川の狭少なる区域の拡幅及び高州の浚渫を要求した。一方、直接、県下を流れる渡良瀬川に対しては、鉱毒対策と関連して次のように河川改修、堤防拡築を要求した。
「本県下渡良瀬川ニ於ケル治水工事ハ、他ノ諸川ト違ヒ特殊ナル事情ノ存スルアツテ鉱毒ノ害之ニ附随セリ。政府茲ニ見ルトコロアリ、足尾銅山工業主ニ対シ日ヲ期シテ命ヲ伝へ除害工事ヲ為サシム。然トリ雖モ、之カ毒害ヲ受クル沿岸ノ土地ニ対シテ河川ノ改修、堤塘ノ拡築ヲ為サスンハ何ノ益スルトコロナシ。彼除害工事ハ、河川ノ改築ト相待テ始メテ功ヲ奏スルコトヲ知ル。聞カ如クンハ、政府ハ既ニ技師ヲ派遣シテ実地河川ノ測量ニ従事セシムルコト二回ナリト。然ルニ未タ其工事ハ着手セラレス。沿岸人民ノ嘆声ハ日ニ益々甚シク、民ノ疾苦生産ノ萎靡国帑ノ損害之ヲ救フノ策、一日ヲ怠レハ数年ニ癒へサルノ瘡痍ヲ重ヌルニ至ル。閣下乞フ、直チニ此済民策ヲ決行シテ至急何分ノ詮議ヲ垂レンコトヲ」
このように渡良瀬川河川改修は、他の河川と異なる特殊な事情がある。それは鉱毒対策からの必要性であり、鉱業側による対策と合わせて河川改修を行わねば成功しない。政府は、既に技師を派遣して実地測量を2回行ったと開いているとして、早急な工事着手を要求したのである。栃木県会において鉱毒被害との関連での河川改修の必要性の主張は、被害民と同様であったと認識してよかろう。 
4.2 群馬県
明治30年12月13日、群馬県会は足尾鉱毒に関連して二つの建議を行った。一つは、次のように森林の伐裁の禁止とともに、鉱山側による砂防工事の施工、堤防工事に対して堤外地の土砂使用の禁止、また損害が発生した場合、鉱業主古河市兵衛による補助の要求であった。
「1.水源涵養ノ為メ足尾鉱山附近森林ノ代採ヲ禁ズルコト。
1.渡良瀬川及小支流沿岸森林ノ伐採ヲ禁ズルコト。
1.渡良瀬川及小支流沿岸ニ沙防法第八條ニ依リ沙防工事ヲ施スコトヲ鉱主ニ命ズルコト。
1.渡良瀬川堤防工事ニ堤外地ノ土砂ヲ使用セザルコト。之レニ因テ生ズル損害ハ鉱主古河
市兵衛ニ命ジ補助セシムルコト。」
もう一つの建議では、渡良瀬川堤防工事・浚渫工事の一部を河川法に基づいて古河市兵衛にさらに負担させることを要求した。これ以外には鉱毒被害地の原状回復、鉱毒対策のために鉱業側によって設置された沈殿池の氷結問題であり、凍結期間における鉱業停止を要求した。建議の内容は以下のとおりである。
「1.栃木県上都賀郡足尾鉱山ニ対シ、鉱毒除害ノ方法ハ政府ニ於テ其処分行為ヲ施シタリト雖モ、沈殿地ハ凍氷期ニ際シ今ヤ其ノ用ヲ為サズ。是レニ対シ、政府ハ適当ナル方法ヲ施スコトヲ望ム。若シ其ノ方法ヲ施ス能ハザルニ於テハ、凍氷期間ハ所営ノ選鉱停止アランコトヲ求ム。
1.渡良瀬川沿岸ノ被害地ニ対シテハ、其ノ被害地ヲ原状ニ復セシメンコトヲ望ム。
1.渡良瀬川堤防修築及浚渫工事費ノ一部ヲ、河川法第三十一條ニ依リ鉱主古河市兵衛ニ負担セシムルコトヲ望ム。」
鉱業主・古河へ河川法に基づき、改修事業費の負担を要求したことは非常に興味深い。
翌明治31年12月23日、群馬県会は利根川渡良瀬川の堤防増築と渡良瀬川河身改良費用の全額国庫支出を建議した。この提案説明で足尾鉱毒は渡良瀬川のみでなく、利根川にも流出していると主張し、両川への国庫支弁を要求したのである。
また翌明治32年12月5日、「利根川治水工事国庫支弁」が建議された。その内容は「政府ニ於テハ本県ニ関シ已ニ精密ナル調査ヲ逐ゲ予算ヲ編成シ、国費ヲ以テ事業ノ施行ヲ計画セラレ居ルヤニ聞ケリ。希クハ其計画ヲシテ速ニ施行セラレ、県民ノ困厄ヲ救済セラレ度」というものである。帝国議会での利根川改修事業着工の議論に呼応して行われたものと思われる。因みに、茨城県会は32年12月14日に「治水意見書」を、埼玉県会は同年11月29日に「利根川改修速成ヲ請ウ意見書」をそれぞれ内務大臣に提出していた。 
5 まとめ
明治30年3月2日から33年2月13日にかけて鉱毒被害民により実行された「東京押出し(大挙上京請願運動)」について、その請願目的を中心に論じてきた。この間、30年3月24日、政府により第一次鉱毒調査会が設置され、同年5月27日には鉱業側に37項目にわたる予防命令が発せられ、鉱業側は約104万円からなる対策工事を行った。その竣功は同年11月22日であるが、これ以降、鉱毒被害の因となっている廃鉱は新たには発生しないというのが政府の見解となった。
明治30年3月に東京押出しは2回決行されたが、二回目は鉱毒調査会設置と同日に行われた。政府の動きをにらんで行われたのだろう。この2回とも、「鉱業停止」が請願目的であった。鉱毒調査会設置以降をみると、被害民は農商務省・内務省・大蔵省を中心に働きかけていったが、その要求は、地租の免租・減租、被害地回復、さらに足尾山地の乱伐の禁止であった。5月27日に行われた予防命令に、鉱業主・古河に対し鉱業停止・鉱業側による鉱毒被害地回復の措置がないことに強い失望を感じたことは間違いないだろう。
この後、被害民の請願要求から鉱業停止が前面に出てくることはなく、被害地復旧、免租などの被害地救済が中心となった。また鉱山での予防対策工事視察を行おうとした。この工事の終了後、やがて河身改修・堤防増築などの河川改修が要求されるようになった。また免租により選挙権が失われないよう特別免租を要求した。しかし普通一般の免租となり、地方自治の確保が重要な要求項目となっていく。
第三回東京押出しが、明治31年9 月26日に決行された。そのきっかけは、9 月初めの洪水により予防工事で行われた沈殿地破壊の報に基づいてであった。その具体的要求の主なるものは、被害民救済・堤防増築・自治破壊の救済であった。鉱業停止は主張されていない。そして次第に渡良瀬川改修の要望が前面に出ることとなる。しかし渡良瀬川改修計画が具体化していくと、渡良瀬川左岸・右岸の間の歴史的な地域対立の懸念が、被害民の鉱毒反対運動内部でも生じていく。
政府に対しての請願は続く。また被害民の請願が帝国議会で採択されている。明治31年前半の要求は、5月22〜23日に関係者に提出した「足尾銅山鉱毒御処分要求」に現れている。それは、・鉱毒を氾濫、放流させないこと、・渡良瀬川水源の樹木の禁伐、・渡良瀬川の改築、堤防増築、・沿岸に堆積した銅分の除去、・損害補償、・窮民救済などであり、これらの要求に対して何ら処分が行われない時は鉱山の鉱業停止を求めたのである。
なお興味深いことは、地方行政・警察行政を管轄する内務省が被害民の陳情に対して強硬な態度を示していることである。それは、地方庁を経由しなかったら書類を受理しない、つまり請願を認めないとの姿勢である。被害民は「内務省ノ非立憲的ノ動作ニ驚キ退省セリ」(明治32年5月23日)と憤っている。内務省のこの姿勢が、遂に川俣事件につながったと判断される。
やがて被害民の運動は、渡良瀬川全面改修が前面に出ていく。明治32年7月には改修工事の予算を本年度予算に組み込むよう要求したが、同年9 月2日、担当部局である内務省土木局長に面会し「河身浚渫大復旧工事実行願書」を提出して陳情したところ、「局長ハ至テ冷淡ナルアイサツナリ、一同怒テ引取レリ」となった。渡良瀬川改修工事に内務省は否定的だったのである。
しかし、これ以降、被害民の動きは活発化し、同年9 月7日には「最後ノ方針ヲ協議スルタメ大集会」が開催され、第4回東京押出しに向けて動き出す。その最大の要求は渡良瀬川全面改修であった。当時、渡良瀬川は第一次鉱毒調査会の議決もあり、内務省によって測量が行われ、1200万円からなる計画案が策定されていた。その実行を求め、32年9 月からでも6ヶ月の準備をもって33年2月13日、東京押出しを決行したのである。
この当時、帝国議会では第14回通常議会が開催され、ここで33年度予算に関連して新たな河川改修着手が議論されていた。予算編成する政府内では、当然、前年の早い時期から検討が進められていた。その情報を被害民は把握していたと考えて間違いない。32年11月22日に帝国議会が開催されて以降、議会の場では治水問題が取り上げられ、利根川は着工する運びとなった。渡良瀬川改修に向け、被害民は大きな期待を持って「東京押出し」を決行したのである。
しかし帝国議会では、渡良瀬川改修は議論の俎上にあがっていなかった。帝国議会で承認されたのは利根川第一期、庄川、九頭竜川の3川で、合わせて1070万円の総事業費であった。1200万円からなる渡良瀬川改修は、当時の国家規模からみて余りにも巨額であった。
その実行には、さらに年月を要した。その着工には、既に着手した利根川改修事業に影響を与えないことが強い前提となり、明治43年4月から谷中村を中心にした遊水地設置を伴う改修計画に基づき工事は進められたのである。
なお栃木県・群馬県においてもこの時期、国に対し渡良瀬川治水を要求していた。中でも群馬県会が、鉱業主・古河に対し河川法に基づき渡良瀬川河川改修の負担を要求していたことは興味深い。 
6 おわりに
明治33年(1900)2月13日、東京へ向け渡瀬村雲竜寺を出発した2500人以上の鉱毒被害民は、利根川沿いの川俣で警官隊に阻止され、100名以上の逮捕者を出した。世に言う川俣事件である。
鉱毒被害民の最大の要求は、渡良瀬川改修事業の着工であった。しかし内務省は、大蔵省との折衝を既に終え当時の厳しい財政事情の中にあって着工は考えていなかった。また内務省は、地方局を経由しなかったら請願は受理しないとの方針を打ち出していた。この状況下、首都・東京へ大挙して押し寄せ請願しようという被害民の直接行動を内務省は認めなかったのである。国への直接行動を認めないという内務省の姿勢が、川俣事件を生じさせた最も大きな理由であったことは間違いない。
興味深いことに、地方庁を経由しなかったら請願を認めないというこの方針は、江戸時代と全く同様である。幕末だが、次のような記録がある。
万延元年(1860)、武蔵国宗岡村(現・埼玉県志木市)が堤防を回り、隣村の南畑村と争った。このとき、宗岡村は江戸の幕府勘定書へ訴状を提出しようとしたが、先ず地元・川越藩の役人達に内伺し、その了承を得て正式に願い出、川越藩上屋敷への「添翰」を得た。この後、江戸の上屋敷に訴状をもって出向き、上屋敷から勘定奉行に提出されたのである。
明治33年のこの当時、内務省が民衆を見る目は、江戸時代と同様であったとみてよいであろうか。 
 
二村一夫著『足尾暴動の史的分析 / 鉱山労働者の社会史』書評

 

書評 1
1
本書は、1971年に争議史研究の重要性を提唱してその後の労働運動史研究に大きな影響を与えるなど日本の労働運動史研究をリードする役割を果たして来た著者が、1907年の足尾暴動に関して発表して来た研究を集大成されたものである。著者が足尾暴動の研究に着手されてから本書が纏められるまでに実に30年に及ぶ歳月が費されている。「20年余り作業を中断したために過ぎない」との著者の言にもかかわらず、鉱山労働に関する著者のこの間の持続的な研究の成果が本書の到る所に盛り込まれていることからすれば、本書はやはり著者の〈半生をかけた作品〉と評することが出来よう。本書を貫く著者の姿勢は、日本の労働運動史研究のあり方を見据えながら、労働運動史のこれまでの理解・通念を足尾銅山の史実を基に実証的に検討するというものである。それ故、本書は決して足尾暴動の研究書に止まるものではなく、労働運動史・労使関係史研究全体の中で本書が持つ意義と問題点を検討することが本書の書評に当って何より求められる。しかし、評者の力量と専門の関係から、また他にも多くの書評が出ると思われるので、ここでは主に鉱山労働史研究の側面から本書の内容を検討することにしたい。
2
本書は、1959年から1985年にかけて発表された3つの論文を基礎にした第1章から第3章と序章・終章からなっている。序章「暴動の舞台・足尾銅山」では、鉱毒事件で著名な割には良く知られていない足尾銅山の暴動当時の状況が紹介され、全体の導入とされている。足尾の地理・地名から始まる説明は微細に及び、足尾銅山を経営した古河と原敬のつながりや暴動当時の職制・役員、足尾銅山の友子同盟の組織など、足尾暴動を理解する上で不可欠の予備知識が紹介されている。
第1章「足尾暴動の主体的条件」は足尾暴動そのものを分析対象とし、暴動に至る坑夫の運動・暴動の経緯と原因・暴動後の経過を会社・警察・裁判・新聞資料などを突き合わせて追求している。その叙述は、詳細と言うよりは生々しいと称するのが適切である。ここで著者は、足尾暴動を始めとする労働者の暴動を「組織をもたず、経済的に窮乏した労働者による自然発生的反抗」だとして労働者の主体性を評価せず、それ故それぞれの暴動の歴史的差異を無視することになった多くの通史的研究での見解、とりわけ、鉱山労働者を「求心的・非結社形成的で他者志向的な」原子化された人々とし、鉱山暴動を「絶望的に原子化された労働者のけいれん的な発作であ」るとする丸山真男氏の見解を批判の対象に据え、足尾暴動の中心となった坑夫の主体的特質とその組織性の解明に力を注いでいる。
1907年2月4日の暴動勃発までに足尾銅山の鉱夫の間では3年以上に亘って再三労働組合の組織化の試みがなされ、特に1906年10月に夕張から南助松が来山し、彼を中心に大日本労働至誠会足尾支部が結成されると、同会はより正確な現状認識の下に、a)賃上げ、b)役員の一般労働者に対する差別待遇の象徴であった食米の改良を運動目漂に据え、飯場頭や「いわば坑夫のクラフト・ギルドで」「坑夫の自治団体であった」友子同盟の山中委員に協力を働きかけた。
これに対し鉱業所側は至誠会に先んじて飯場頭に賃上げ請願を行わせたが、既に至誠会に協力姿勢をとっていた通洞の友子同盟の山中委員は友子同盟としての独自の請願を行うことを計画し、これを抑えようとする飯場頭と激しく対立するようになった。至誠会に接近した通洞の山中委員は、足尾内の他の友子同盟の山中委員に働きかけて労働条件の改善や友子同盟の労働者代表権などを要求する全山友子一致の請願書を作成し、また飯場頭の中間搾取に強力な制限を加えようとした。2月4日の暴動は、こうして追いつめられた飯場頭の挑発によるものだった可能性が大きいとされる。そして、暴動でもっぱら役員が攻撃目標にされたのは、坑夫賃金の決定に現場員の裁量の余地が大きく、また現場員が低賃金であった状況下で賄賂の強要など現場員の不公正な行為が多かったためであった。このような分析を踏まえて著者は、暴動自体の中には自然発生的な側面があったにしても、その背後には友子同盟の極めて組織的な活動があったのであり、むしろ坑夫が〈結社形成的〉であったからこそ暴動が起こったのであり、それは他の鉱山の争議にも共通していたと主張されている。
第2章「飯場制度の史的分析」の原論文は、大河内一男氏の「出稼型論」に痛撃を与えたことで著名な1959年に発表された論文「足尾暴動の基礎過程」である。「出稼型論」は、原論文が発表された当時には大きな影響力を持っていたが、多くの批判に会い、また大河内氏の見解の転換もあって今日では受容されていないと言って良い。にもかかわらず著者が「出稼型論」批判をそのままの形で収録されたのは、「出稼型論」が何よりも日本の労働者の特質を問題にするものであり、そこでの「宿命論」的な理解を克服した日本の労働者の特質把握こそ著者の中心的研究テーマだったからであろう。
著者の「出稼型論」批判の最大の重点は、それがもっばら労働市場での在り方から労働力の特質を規定するに止まり、生産過程での労働力の鍛冶、その性格の変化を見落としている点に置かれ、本章では、生産機構(具体的には採鉱法)の進歩に伴う坑夫の性格変化が、特に飯場制度の変質を軸に追求されている。1877年の古河による買収後、銅山開発の進展過程で旧来の下稼人制度が廃止され、「産業資本に包摂された請負制度」たる飯場制度が形成された。この飯場制度は、基幹工程たる採鉱が手工的作業による抜き掘法の段階に止まっていたことにその存立根拠を有したが、1890年代後半には抜き掘法の欠陥が強く意識されるようになり、1900年前後には採鉱法は階段掘法へと移行した。その結果、飯場制度の重要な機能であった飯場頭による作業請負が廃止され、また雇用・解雇・賃金決定に関する権限が失われて飯場頭の坑夫統率が弱化し、飯場頭の中間搾取者としての本質があらわになった。しかも、収入を減少させた飯場頭は流通面からの坑夫の収奪を強めたため飯場頭と坑夫の矛盾が激化した。
著者は明示されていないが、こうした採鉱法の革新に主導された飯場制度の変質=弱化によって生み出された坑夫の自立性の強化が、第1章で明らかにされた坑夫の活動を可能にして暴動の基盤になったし、また第1章の「結びにかえて」で論じられている暴動後の飯場制度改革(飯場頭への統制の強化、配下坑夫の独立性の強化)の根拠にもなったと読むべきであろう。ここに足尾暴動とその基礎過程の分析の統合をみることが出来よう。
本章の論旨は極めて明快であるが、率直に言って評者には不満が残った。飯場制度の変質=弱化を論ずる際に議論の焦点となった飯場頭による作業請負の存在が十分実証されていないのである。著者はいくつかの資料で採鉱が「請負」とされていることを以て作業請負の存在を主張されているが、採鉱の「請負」とは必ずしも飯場頭による作業請負を意味するわけではない。また、採鉱法の階段掘法への転換時期についても鉱石品位の低下から推測されるだけで十分実証されているとは言えない。原論文の発表時期を考えればこれらの点は必ずしも非難されるべきではないが、本章の議論の根幹に係る点なので何らかの形で補足された方が良かったのではないだろうか。
本章には補論1「飯場頭の出自と労働者募集圏」、補論2「足尾銅山における囚人労働」の2つの補論が付加されている。特に補論1では、飯場制度の労働力確保機能や飯場頭の出自など本書全体の理解に係る重要な点が論じられている。
第3章「足尾銅山における労働条件の史的分析」では、暴動に至る足尾銅山の労働者の労働条件、とりわけ実質賃金水準の推移と、それを規定した労働力需給・技術・経営政策の変化が追求されている。
著者によれば、従来の日本労働運動史や日本資本主義発達史では労働争議の原因として労働者の「構造的低賃金」から来る「窮乏」が強調されるだけのことが多いが、他職種・他鉱山・他産業の労働者に比して高賃金を得ていた坑夫が暴動の主力となった足尾暴動はそうした理解では説明され得ず、暴動当時の足尾坑夫の「窮乏」の質を明らかにするためには足尾銅山の各職種別の賃金水準の変化の歴史的追求が必要だとされる。
本章は、本書の中で最も分量が多く、論点も多岐に亘り、しかも多くの資料をつなぎ合わせながら資料批判と推計を繰り返して史実に迫っているので限られたスペースで要約することは評者の能力を越えるが、評者なりに結論部分のみを纏めると以下のようになろう。
1880年代の足尾銅山では、生産拡大に伴う膨大な労働力需要が存在したため坑夫・製錬夫とも相対的な高賃金を得ていたが、暴動直前には両者とも実質賃金を大幅に低下させ、特に製錬夫の賃金は、この間実質賃金が横ばいだった雑役夫と同水準にまで落ち込んだ。製錬夫の賃金低下は、熟練製錬夫=吹大工の労働市場の需給関係の1880年代後半の緩和と1886年以降の洋式熔鉱炉の導入の下で経営側の積極的攻撃により進められ、特に、1890年に洋式熔鉱炉により旧来の吹床の駆逐がなされ吹大工の知識や熟練が無用化してしまうと、彼らに代った洋式熔鉱炉の製錬夫がOJTにより企業内的に養成され、技能の社会的通用性が制限される下で低賃金を甘受せざるを得なかったためである。これに対して坑夫の実質賃金の低下は、鉱毒事件に係って1897年に出された「第3回鉱毒予防命令」を機とする古河の経営政策の転換(市兵衛の「進業専門」から潤吉の「守成の方針」ヘ)により賃金が抑えられる一方、日露戦後に物価が騰貴したためであり、製錬と異なりこの間の採鉱労働に質的変化がなく、また労働市場的条件にも支えられたため製錬夫ほど大幅なものにはならなかった。こうした実質賃金の低下により「高賃金」時代の生活水準の維持が困難化したことが暴動当時の足尾坑夫の「窮乏」の中身であった。
本章では、足尾暴動の分析の枠を越えて、とりわけ製錬・選鉱部門を中心に技術革新による労働及び労働市場の変化が詳細に検討されている。それは、これらが賃金水準の変動の規定要因だからだけでなく、生産技術・生産機構の革新により労働様式の変化を媒介として生み出される労働者の質的変化の把握を重視する著者の姿勢の現れと言うことが出来よう。本書の副題が「鉱山労働者の社会史」とされているのも、友子同盟や飯場制度に体現される鉱夫間の人間関係のあり方の重視と共にかかる著者の姿勢を反映したものだと思われる。
終章「総括と展望」では、これまでの分析を受けて、まず争議・暴動の原因が総括され、続いて足尾暴動の与えた影響が労働者・経営側・国家に分けて指摘され、最後に本書の内容に係らせて、日本の労働運動と言うよりは近代日本の労働者のあり方を理解することの必要性とそのための視点が提唱されている。
3
以上、若干の感想を交えながら本書の内容を評者なりに紹介して来たが、本書の素晴しさは何よりもその実証の凄さにある。ここで実証の凄さと言うのは、倉庫に死蔵されていた資料を探し出し分析したという類のことではなく、2次資料を含め多くの資料、それも断片的な資料を突き合わせ、資料批判と推計を繰り返しながら正確な歴史像を築き上げて行く著者の手腕の見事さを意味している。
かつて著者が個別争議研究を提唱された際、既成の理論の枠組を「史料的論証」によって検証・修正することを意図されていたとすれば、それは本書において果たされたと言うことが出来る。とりわけ、第3章の鉱山技術・鉱山労働の分析は、技術者の役割を含めて詳細かつ明確であり、これまでの研究水準を格段に凌駕したものと評し得る。これらの点は、鉱山労使関係の解明にとって極めて重要でありながら、その理解に大きな困難を伴うものであった。ここに著者の長年の鉱山研究の成果、そして著者もその中心人物の一人であった、研究者と鉱山関係者により組織された研究会の地道な研究活動の成果を認めることが出来よう。そして、鉱山技術の発展を軸に労働様式・労働者の質的変化を明確に把握した点、友子同盟や飯場制度に体現された鉱夫の人間関係のあり方や鉱夫の心性の暴動に至る変化を追求した点で、本書は単なる足尾暴動の研究に止まらない極めて優れた近代日本鉱山労働史の研究という評価を受けて然る可きである。
なお、本書の特長の一つとして鉱毒事件と足尾暴動の関連が示されていることがある。足尾銅山の名を世間に知らしめたこの2つの事件の関連はこれまで明確ではなかったが、本書で両者の密接な関連が明らかにされている。以上の評価を前提とした上で、以下、主に鉱山労働史の立場から若干の疑問を出して書評の責を果たすことにしたい。
本書を読んで最も気になったのは友子同盟と飯場制度・飯場頭の関係の捉え方であった。著者によれば、友子同盟は坑夫の「白主的な同職団体」で「いわば坑夫のクラフト・ギルド」であり、各飯場から選ばれた山中委員により運営される組織とされる。これに対して飯場頭は請負人的性格を有するものの基本的には資本に従属した中間搾取者であり、暴動直前に友子同盟と飯場頭の厳しい対立が生じたのは、友子同盟の独自の賃上げ請願を飯場頭が抑圧し、更に坑夫の自主的団体である友子同盟に飯場頭が介入・干渉したからだとされる。従来友子同盟と飯場制度は原理的に異なることが強調されて来た。しかし、実体的には、飯場頭は坑夫の親分として友子同盟の中で大きな力を持つのが普通で、友子同盟と飯場制度は密接な関係を持っていたのではないだろうか。既に、親分子分関係を紐帯とする「坑夫集団」を飯場制度の基礎と捉える観点が提起されており(武田晴人『日本産銅業史』1987年、東京大学出版会、評者も炭鉱の飯場制度・納屋制度についてほぼ同様の観点を述べたことがある)、本書でも、坑夫飯場の飯場頭は坑夫出身者により占められていたことが明らかにされている。坑夫中の有力な親分が飯場頭に任命された際、従来の親分子分関係が消滅するとは考え難い。暴動前の足尾の友子同盟においても、財政の管理権を飯場頭が掌握し、また飯場頭が友子の集会に出席していたのであり、飯場頭は友子同盟と密接な関係を持っていたようである。この両者の関係をどのように考えたら良いのであろうか。著者も第1章の「結びにかえて」で両者の関連を示唆されているが、全体としては両者の異質性を強調されているようである。資料的制約の故だろうが、本書では友子同盟を重視する割には足尾の友子同盟の組織や実態についての分析が手薄である。足尾の友子同盟の内実をもう少し詳しく知りたいという感は否めない。
この点は飯場頭と坑夫との関係の捉え方への疑問につながって行く。著者は、飯場制度の変質=弱化の中で中間搾取者たる飯場頭の坑夫に対する流通面での収奪が強められ、これが暴動の重要な原因となったとされている。この認識は著者の研究により今日通説的地位を占めるようになっている。しかし、その実証的根拠は必ずしも十分なものではない。管見の限りでは、1919年に纏められた古河鉱業「使用人一般状況」(1986年復刻、非売品)の中にこの点の記述があるが、この「使用人一般状況」の記述の内容は暴動の原因をもっぱら飯場制度の欠陥に負わせるものであり、そのまま信用して良いか疑問が残る。第1章で詳細に分析されたように暴動はもっぱら役員を攻撃目標として飯場頭は攻撃されていないし、暴動に先立つ賃上げ運動の中でも飯場頭の中間搾取が大きな問題とされていないことからすれば、この認識は再検討の余地があるとも考えられる。賃上げ運動の中で出て来る坑夫及び山中委員の飯場頭への反感は、むしろ、飯場頭が会社に対して弱腰で鉱夫の利益を代弁しなかったことにあるように思われる。坑夫達は、親分たる飯場頭に自分達の利益の代表者たることを求めており、それが実現されなかったことに坑夫の飯場頭への反感の根拠があったとは考えられないだろうか。
細かなことだが、実証的根拠が明示されないまま、「1890年代から1900年代の北海道・常磐の炭鉱の採炭夫の中心部分は、金属鉱山、とくに関東以北の金属鉱山の出身者によって占められた」という記述がなされている。「中心部分」が何を意味しているのか明確ではないが、北海道の炭鉱の場含、確かに東北の金属鉱山の出身者がその開発に大きな役割を果たしたものの、採炭夫の主力となったのはやはり東北農村の過剰人口だったように思う。いずれであったにせよ、実証密度の極めて濃い本書で何故こうした根拠を明示されない記述がなされるのだろうか。
第3章の製錬部門の分析は極めて説得的であったが、一つだけ気になったのは洋式熔鉱炉の導入に伴う製錬夫の性格変化の捉え方であった。著者によれば、洋式熔鉱炉の導入により製錬夫は学校出の技術者の指揮・監督の下でOJTにより熟練を身に付けるようになったとされている。この点を示す資料も掲げられていないが、当時足尾の製錬技術が先進的であったため、かかる新しい質の熟練の養成は自鉱山内で行われるよりほかあり得なかったと言うことであろう。OJTにより養成された製錬夫は等級賃金制の下に組み込まれ定着性が高かったとされるが、問題は、こうした企業による製錬夫の包摂が足尾独自のキャリア編成による熟練の祉会的通用性の喪失によるものなのか、それとも単に他鉱山での洋式製錬の普及の遅れに基づくものなのかと言うことである。もし後者であったとしたら、それは一時的で限界を持ったものだったと言うことになろう。著者がこの点をどう考えておられるのか良く分からなかった。
最後に著者にお尋ねしたいのは、日本の鉱山労働者の心性の特質をどう考えるべきかと言うことである。終章の「3、今後の課題」において著者は、日本の労働運動・労使関係史全体に議論を敷衍させ、日本の労働者は自らに加えられた身分的差別に大きな不満を持ち、労働者の地位からの脱出志向が強く、その際個人の能力による差別は当然と考えたが親の経済状態の差などにより能力の劣った者の身分が上になる現実に不満を持ったとされ、更に、かかる日本の労働者の心性は、入職規制や相互の競争の制限により労働条件の維持を図るクラフト・ギルドの慣行が徳川時代に欠如していたことと密接な関係があったと主張されている。この主張は近年著者が折に触れて発言されているもので、それ自身真剣な検討を要するものであるが、ここではそれは措くことにしたい。友子同盟も入職規制を十分に行いえず、また足尾の労働者の間にも強い上昇志向があったという叙述からすれば、上述の日本の労働者の心性は鉱山労働者にも共通すると著者は考えておられるようである。しかし、鉱山の労働運動の主体的条件として徳川時代に起源を持つ友子同盟の存在を重視する著者の立場からすれば、鉱山労働者の心性の重工業労働者などのそれに対する差異が問題とされるのが自然ではないだろうか。友子同盟に体現された坑夫仲間の交際・慣行は鉱山労働者に独自の心性を持たすことがない程意義の小さいものだったのであろうか。評者は、鉱山・炭鉱の労働者の心性はある時点までかなりの独自性を有し、大袈裟に言えばそこには独自の文化形成さえ認められるのではないかと考えている。
以上、鉱山労働史の立場から本書を読んだ感想を書かせて頂いた。誤読や思わぬ読み落としがあったとしたら著者に御容赦を乞うのみである。多くの読者が本書の深い味わいを満喫されることを願って止まない。  
書評 2

 

足尾銅山には何度か行った。戦後早くから「足尾鉱毒問題」に関心を持っていたので、その発生源である銅山の現地を見たかったことや、東大社会科学研究所の労働組合調査への参加や、さらに組合が編集した『足尾銅山労働運動史』(1958年刊)の作業に協力することなどが目的であった。本書の著者とは、たしか法政大学助手時代に同行したことがある。宿舎で、彼が提起した大河内一男氏の「出稼型」論にたいする批判をめぐって議論した記憶がある。やがて彼は1959年に、本書の第二章のもとになった論文「足尾暴動の基礎過程──『出稼型』論に対する一批判」を発表し、学界に深い感銘をあたえた。
さて、このたびの彼の大著『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』が刊行された直後に、私は「赤旗」紙の書評欄に短い紹介と感想を書いた(1988年7月4日号)。
また彼の友人たちが催した合評会(7月9日)にも出席して、与えられた短時間の意見を述べて、著者の簡単な応答を受けた。
その後、昨年(1988年)秋・足尾に詳しい村上安正氏(足尾に育ち、26年間、銅山の職員として働き、二村氏も私も長く交際をつづけてきた友人)の案内で久しぶりに、現地に一泊旅行を試みた。「足尾暴動」がおこった1907年当時、3万5000の人口を持ったと伝えられる鉱山の町は、人口5000そこそこに衰退して、荒涼たる風情であった。私は「銅山観光──全長700米の坑内。400年の歴史がそのまま生きている博物館」と謳う町営の施設を見物して往時を偲んだ(さきに私は北海道夕張炭鉱や佐渡金山でのこの種の観光施設を見物して、日本の産業構造の変転の一端を目のあたりにした)。
このような若干の経験をはさんで、もう一度本書を読み返してみたが、鉱業史、鉱山労働運動史の専門研究者でない私の感想に変化はおこらなかった。そこでこの小稿では、さきの「赤旗」紙の文章をそのまま再録させてもらったうえで、800字の制限内では述べられなかったいくつかの論点について、やはり本稿のあたえられた紙数の制限のなかで、順を追ってコメントを加えるという形で責を塞ぎたい(したがって本書の目次に即した内容紹介は省略させていただく)。
綿密な調査で具体的に
軍隊まで出動した1907(明治40)年の足尾銅山暴動を分析した論文で学界の注目を浴びた著者が、それ以来四半世紀の歳月をかけてそのテーマを追いつづけ、このたびの大著を仕上げたねばり強さに敬服する。
労働争議が、資本と労働の矛盾・対立関係を集中的に表現するという視点は、かねてから私なども持っていたつもりだが、著者は、これを足尾暴動という一つの事例を徹底して追究することによって、これまで立ちおくれていた労働運動史研究に、科学的方法を提供しようと志したわけである。そのために、賃金を中心とする労働条件、飯場制度、鉱業技術の発達、経営方針の変化、労働者の自主的組織運動などの諸要因を綿密に調査・分析して、整理の行き届いた、すこぶる具体性をもった叙述によって、立体的構図を描きだすことをはかっている。
おそらく、それぞれの個別分野での、開拓者的な仕事として尊重されることだろう。例えば私は、渡良瀬川の鉱毒問題の原因について教えられた。
著者はみずから本書の特徴を、「その論争的性格と実証的方法である」と宣言している。そして「偉大な敵手」として、大河内一男氏の「出稼ぎ型労働力」論、丸山真男氏の「原子化された労働者」説、山田盛太郎氏の「日本資本主義分析」をえらび出している。しかし著者の批判の刃が、「敵手」のどこまで届いたかについては、別の場所で吟味したい。
また、鉱山労働者の友子同盟の重要性について、くりかえし強調されているが、その機会に、片山潜が「鉱夫のギルド」を重視していた事実(1918年「日本にける労働運動」)に一度も言及されていないのはなぜだろうか、と首をかしげた。
それはともかく、おそらく部分が全体を宿すという確信に立って精魂を傾けたこの学術的労作は、労働運動史研究への貴重な寄与となるものと歓迎する。

(1) 「労働争議が、資本と労働の矛盾・対立関係を集中的に表現するという視点は、かねてから私なども持っていたつもりだが……」と述べた点について──。
藤田若雄・塩田庄兵衛編『戦後日本の労働争議』(1963年4月、御茶の水書房刊)と題する調査報告書に、私は故藤田氏と連名で次のように書いたことがある。「労働争議はもちろん、労・資双方にとっての非常事態の発生として当事者には意識されるが、そのときにこそ、平常時の労資関係がもっていた問題点が、したがって労働争議が内部にはらんでいた問題点が、かえって集中的に表面化する。そしてさらに、争議という戦闘行為がうみ出したあたらしい事態の展開によって、労資関係は、したがって労働運動は、あたらしい次の段階にすすんでゆく。この意味で労働争議調査は、労資関係と労働運動の特徴の解明にとって、もっとも有力な手がかりとなるものといえる、という見地に立って、われわれは戦後日本の労働争議を観察しようとした。」(同書・はしがき) このような問題意識にもとづいて私自身も参加した共同作業は、戦後かなり早い時期から開始されていたから、あるいは研究者の常識というのかも知れない。そしてさらにいえば、一般的にいって歴史とは、そのような理法にしたがって動いているものであるといってよいかも知れない。しかし著者の功績は、この立場を徹底的に具体的につらぬこうとするねばり強さを発揮して、一つのモデルをつくりあげた点にあるのだろうと考える。
(2) 著者がみずから本書の特徴を、「その論争的性格と実証的方法である」と宣言している点について──。
「実証的方法」を自負している点については異存はない。しかし、「論争的性格」を自認し、日本の社会科学界の三人の巨匠を「偉大な敵手」としてえらび出し、〈闘争宣言〉を発して挑んでいる点についてはどうだろう。私見によれば、大河内一男氏の「出稼ぎ型労働力」論を精力的に批判した成果は承認してよいと思う。このことは、著者の本書での業績をも含めて、学界ではいちおうの合意が成立している論点ではないだろうか。次に丸山真男氏の「原子化された労働者」説をとりあげて、「丸山氏の労働者像は主体性のなさでより徹底している」ときびしく批判している点は説得的だろうか。暴動=自然発生的抵抗説は古くから流布しており、著者はそれを俗説として論破することを目ざそうとしたのだろうが、なぜ丸山真男氏か、という問題が残るように私は思う。丸山政治学の体系にかかわる基本問題であるならば、やはりそのことをここで論じてもらいたかった。偶然標的にえらんだまでだ、という印象をあたえるようではまずいと思う。さらに、私を含めて多数の社会科学者が強い影響を受けてきた、いわば日本の学界のひろい部分を支配してきた山田盛太郎氏の『日本資本主義分析』にたいして、何をどのように批判しているのかを、多数の読者に明示してもらいたいと希望する。山田氏の『分析』では、囚人労働や納屋制度などの〈遅れたもの〉の役割を過大評価しているという批判は新しいものではない。しかし山田氏の本領は、日本資本主義を全構造的にとらえようとした方法にあることが基本点だと私は理解している。著者は「どこにも明示していないので、念のためにつけ加えれば……つねに意識していたのは、それぞれの理論の背後に強い影響力をもって存在していた『日本資本主義分析』であった」と「はじめに」で挨拶されるだけでは読者にたいして不親切であるように私は思う。私はさきの短評で、「著者の批判の刃が、『敵手』のどこまで届いたかについては、別の場所で吟味したい」と書いたが、実は、「吟味」のための材料不足を感じると告白するならば、私はあきめくらのそしりを甘受しなければならないだろうか。
(3) 片山潜になぜ言及しないのかという点について──。
友子同盟について詳説している著者が、「鉱夫のギルド」を重視した片山潜の指摘について知らぬはずはないが、やはり省略しないで紹介した方が公正だったろうと私は考える。それは英文で書かれたLabourMovementinJapan(1918)のなかに記され、岩波文庫の『日本の労働運動』に日本語訳が収められている。そこで片山が述べていることは、著者が「友子同盟」についてくりかえし強調していることと、精粗についての差はあっても、趣旨において異なっていないように私には思われるが、さらに次のような記述もある。「わが国の鉱夫は、鉱山会社の建てたバラックの長屋に押し合って住んでいる。彼らは鉱夫だけの小さな部落をつくっており、互いが知り合い、そして坑内で働いている時には、彼らの好きなどんな問題についても、自由に話合うことができた。」 ここまでくると私の頭には、松田解子さんの小説『おりん口伝』が描き出した、鉱夫の労働と生活とのリアルな姿が浮かんでくる。関連して夏目漱石、山本有三、宮嶋資夫、新井紀一、木下順二などなどの、足尾銅山をはじめとして鉱山に目を向けた小説や戯曲を思い出す。改めていうまでもないほどのことだが、私は著者の長年の研究がこのような形で立派に実を結んだことを祝福するとともに、わが国の労働運動史研究が、この国際的視野をみがいてきた著者によって大きな財産を一つ得たことをよろこぶものである。  
書評 3

 

1
本書は、1907年の足尾暴動に関し「暴動そのもの」と「その歴史的背景」とを追求した書物である。まず、全体の構成を目次から示すと、本書は、短い「はしがき」の後、次の五つの章から構成されている。
1) 序章暴動の舞台・足尾銅山
2) 第1章足尾暴動の主体的条件
3) 第2章飯場制度の史的分析
 a) 補論l飯場頭の出自と労働者募集網
 b) 補論2足尾銅山における囚人労働
4)第3章足尾銅山における労働条件の史的分析
5)終章総括と展望
みられるように本論を成すのは第1章から第3章の3つの章であり、第2章の母体となる「足尾暴動の基礎過程」を1959年に発表していた著者が、20年あまりの中断の後この10年間に丹念な資料調査に基づいて、大原社会問題研究所の『研究資料月報』などに順次発表してきた関連論文を再構成したものである。著者の言葉によれば、本書の特徴は「その論争的性格と実証的方法」とにあり、「どれもがこれまで、ほとんど史実によって検証されないまま、自明のこととして広く受け容れられてきた解釈を、資料に基づいて吟味することを意図し」、しかもその論争的な形式ゆえに、若干の矛盾等をいとわず「あえて論文集として刊行することにした」ものだと言われている。
しかし、前述の「足尾暴動の基礎過程」による出稼型論の批判、あるいは労働運動史研究の方法に関する提言など、日本の労働問題研究に重要な問題提起を行ってきた二村一夫氏ならではの骨太の構成により、論旨が極めて明快な著作である。私の未熟な読み方であえて整理すれば、第1章は労働運動史を、第2章は飯場制度を中心とする労使関係の制度的枠組みを、第3章は賃労働そのものを分析することを通して、足尾暴動の全体像を明かにしたものである。まずはこの貴重な著作の刊行を心から喜びたい。
2
本書の内容を二村氏が果した実証の細部に立入って紹介し、論ずることは困難であるから各章の論争点となっている問題を中心に紹介して行くことにしよう。
暴動の舞台となっている足尾銅山を紹介した序章に続く、第1章は「〈原子化された労働者〉説批判」と副題が付けられているように、これまで足尾暴動の「暴動」という表現から連想されるような通説的理解への批判が意図されている。通説的理解とは、足尾暴動が原子化され、「非結社形成的」であった坑夫の「自然発生的抵抗」であるというものであり、「原子化された労働者」という表現は、丸山眞男の図式を念頭におき、その例示として鉱山暴動ないしは鉱山労働者を挙げることに対して、「暴動にいたる」、または暴動における労働者の行動を具体的に追求することで批判しているのである。
具体的には、徳川時代からの伝統をもつ坑夫のクラフトギルドともいうべき友子同盟の役割が強調される。暴動の参加者の多くはこの友子同盟に組織された人々であり、暴動に先立つ賃上げ運動で坑夫の力を結集させるうえでも友子同盟が決定的な役割を果したこと、また、暴動に至る過程で足尾では永岡鶴蔵を中心とする労働至誠会という結社形成の動きがあったこと、そしてここでも永岡が友子同盟の一員であったことが重要な意味をもったというのである。こうした労働者の組織的な動きが賃上げ要求として噴出し、友子同盟四山(通洞、本山、小滝、簀子橋)の請願がまとめられていった時、このような状況に危機感を抱いた飯場頭が、「至誠会を撲滅するために計画し、配下の坑夫をして実行させた」のが足尾暴動だ、というのが著者の見解である。
第2章は「〈出稼型〉論に対する一批判」と副題が付され、大河内一男氏の出稼型労働力論についての批判が意図される。出稼型論が分析に一定の有効性を持つことを認めつつ、それが労働運動・労働問題の研究において当然視野にいれるべき企業の労務管理政策や国家の労働政策などを論理の枠内にとりこみえていないこと、労働者の主体的側面を無視していること、さらに労働力を労働市場の性格によって特徴づけているにすぎないことなどの問題点が指摘される。そのうえで方法的批判の有効性が具体的な分析の中で示される必要が強調され、足尾暴動を対象として分析が行われる。すでに良く知られた論文を基礎としているのでその内容を要約する必要がないかもしれないが、二村氏が足尾暴動の分析で焦点とするのは、「奴隷制的な飯場制度の支配」の評価であり、大河内氏をはじめとする「通説」に対して「飯場制度の強度な支配力」のためではなく、「飯場制度の弱化」の故に暴動が発生したことを明かにする。
この場合とくに重視される視点は、労働力が「資本の支配する生産過程において、その生産機構の特質に応じて特有の性格を刻印される」という点であり、従って同一生産部門でも技術的な変化が労働力の性格を変えていくことであった。こうした視点から二村氏は、飯場制度が「日本の労働市場の特質、或いはそこにおける労働力の特質によって規定されたものというより、むしろこの段階における日本の鉱山技術の跛行的な発展に基づぐものであった」ことを明かにし、「抜き掘法」から「段階掘法」への採鉱技術の発展により作業請負が廃止され、飯場制度が変質していったところに暴動発生の基礎的条件を見るのである。
第3章は、労働争議の原因とされる「賃金の低さ」について、足尾暴動は「構造的な低賃金といった理解では説明し得ない事例」の一つであると問題を提起する。坑夫の大幅な賃上げ要求が暴動の一因であることに疑問はないが、なぜ「他の職種の労働者より高い賃金を得ていた坑夫」が、しかも「他鉱山や他産業と比べても高かった」にもかかわらず、賃上げを求めたのかというのである。この問に答えるため、まず、足尾の高賃金が労働力需要の急増の結果であったことを確認したうえで、鉱夫の賃金水準の比較検討から、製錬夫賃金の大幅な低落傾向、坑夫賃金の名目的な上昇と実質的な低下などの差異が問題とされる。この差は、職種別の労働力需要の差異と、これに影響を与える技術的変化から説明される。結論のみ記せば、製錬夫の場合には、1880年代には急速な拡張のなかで生じた熟練不足が高賃金を生み出したが、西欧式の製錬技術の導入定着によって熟練の変質が生じ、OJTによる企業内養成によって供給されるようになったこと、しかも足尾の技術の先進性がその熟練をいわば足尾特有のものとしたために「社会的通用性」が低く、賃金水準を抑制することを可能にしたという。
これに対して坑夫については、1880年代には短時間労働・高賃金であった坑夫は、1897年の鉱毒予防工事命令をきっかけとする経営政策の転換によって賃金上昇が抑制され、移動による高い賃金の獲得の可能性が残っていたために傾向的には上昇したものの、物価騰貴により実質賃金の低下を免れえなかった。つまり、実質賃金の低下が坑夫の生活水準の維持を困難にしたことが、暴動に至る条件として重視されているのである。
3
以上の通り、二村氏のこの著作は、足尾暴動というミクロの舞台に注目しながら、そこから提出される問題提起は、労働運動史・労働問題研究に関連して極めて広範囲にわたり、かつその核心部分に及ぶものとなっている。資料的な制約のなかで明かにされていく事実の重みに圧倒されるが、それ以上に、提起された問題の大きさに感嘆せざるを得ない。それらをどのように受けとめ、生かしていくかが、フィールドを同じくする研究者の今後の共同の課題であり、それだけの成果を挙げた本書とその著者に最大の賛辞を惜しむべききではない。
ただ感心していては書評の責任を果したとはいえないので、若干の疑問点なり、感想を付け加えておくこととする。本書の主旨からして細部の実証に立入ることを避けるべきであろうから、以下の感想もその骨格に係わるものに限ることにしたい。なお、本書の280ページ以下に私の『日本産銅業史』に関する二村氏の反論があるが、この点については、私の資料の紹介の仕方が不親切であったことを認めたうえで、改めて『日本産銅業史』の187〜188ぺージの注記を精読されることを二村氏に希望しておきたい。私は自分の結論に変更はないが、両者とも坑夫と製錬夫との賃金格差の存在は認めているのであり、差異はその程度の評価であるから何れにしろ大きな問題ではない。
さて、私の疑問は、広い意味での足尾暴動の原因に関連している。二村氏は、暴動の主体的条件を友子同盟や至誠会などの組織的な動きのなかに認め、採鉱法の変化による飯場制度の支配力の低下や、経営方針の変化による賃金の抑制に求めている。しかし、第2章で採鉱法の変化により作業請負が変化したことと、第3章で製錬夫との対比でこの時期の坑夫の熟練に変化がなかったと強調されることとは、どのように関連しているのであろうか。採鉱法の変化が採鉱切羽での労働の質を変えるものではなかったことは、誤りではない。労働用具や、作業の基本的な内容に変化はなかったからであり、その限りで両立可能である。しかし、二村氏は第3章のむすびで、賃金に関連して、その実質的な低落と同様に、同職種間の格差の大きさにも注意すべきことを指摘し、賃金決定の方法、その公正さの欠如が坑夫の不満を醸成したと述べている。もしそうだとすると、第2章で強調される作業請負の変化は、工程管理・採鉱の計画化だけでなく賃金決定方法の変化を当然のことながら含む筈であるから、第3章では例えば坑夫の熟練に質的な変北がなかったとしても、賃金決定方法の変化がなかったのか、あったとすればそれは賃金水準にどのような影響を与えたか、あるいは同職種間の賃金格差のあり方にどのような変化をもたらしたかなどが、問われるべきではなかったかという気がする。
残念ながら第3章の二村氏の分析は、製錬夫に関連した分析のスペースに比べて──この部分が極めて貴重な成果であり、技術史研究としても高い評価を受けるものであることは間違いないが──採鉱技術や坑夫に関説する部分が少ない。賃金決定方法については、第1章で説明されているが、これは暴動直後の実態に即したものでしかない。あるいは資料的な制約によるものであるかもしれないが、第2章との関連において第3章の叙述がバランスを失しているという印象を否めないし、坑夫の労働条件の分析を充実させることが、第3章の分析の意図するところをより明確にできたと考えられるからである。
もう一つの疑問点は、坑夫の熟練に変化がなかったという前提についてである。これについては、私にもこれといった反論の手掛りはない。ただ、この点にこだわるのは、二村氏が足尾暴動に関して友子同盟の存在を強調されるからである。二村氏は飯場制度のもつ歴史的な位置、その特有の技術的条件、技術発展の跛行性による過渡的性格を主張する反面で、友子同盟については、伝統的な坑夫組織として、その組織の強さを強調しているかに見える。友子同盟は、坑夫の自発的な組織として、その熟練を一つの基盤として組織的な紐帯を維持していたと考えられていたから、その基盤が採鉱の機械化まで変化したのか、あるいは変化しなかったのかが気掛りなのである。あるいは誤解かもしれないが、二村氏は本書の終章で今後の課題として、主体的条件の要因を一層立入って検討すべきこと、社会史的な接近が必要であることとならんで、前近代の遺産を問題とすべきことを提示しているので、その際に是非解き明かしていただきたいと思う。  
書評 4

 

1
これまでのわが国において、日本の労働運動史、労使関係史等に関する実証研究は、かなりまとまった蓄積を有してきたにもかかわらず、労働史、生活史の領域となると、残念ながらまだ緒についたばかりである。しかし、国際的にみれば、かなり以前からこうしたたテーマに係わる注目すべき成果が現れてきていることは、ほぼ常識化しているといってよい。
そうした折、二村一夫氏が長年にわたる研鑽の集大成として本書を刊行されたことは、日本の労働史研究の大きな突破口になること必至であろう。二村氏の本書は、興味深い実証分析の手堅さは勿論のこと、本書全体にちりばめられた方法論的視角の鋭利さも、魅力を倍加させてくれる効果を持っている。
本書は、序章と終章の間に、実証的な3つの章が配置され、全体で350ページを超える迫力ある叙述がなされている。以下では、このなかでとくに第1章「足尾暴動の主体的条件──〈原子化された労働者〉説批判」、第2章「飯場制度の史的分析──〈出稼型〉論に対する一批判」、それに終章「総括と展望──労働史研究の現地点確認のために」を中心に検討を試み、できるだけ「問題史的分析」の深層に立ち入ってみたいと思う。
2
まず、第一章においては、足尾暴動(1907年)とは一体何であったのか、その背景、原因から、暴動の実態、終息に至るまでのプロセスが克明に分析される。とりわけ、従来から主張されてきた暴動における主体性欠如という見方(丸山真男)に対して、全面的な批判が加えられていく。
暴動前の状況として、大日本労働同志会足尾支部の結成(1904年)に尽力した永岡鶴蔵や、大日本労働至誠会の結成(1906年)を主導した南助松らの行動が描かれる。とくに、後者の至誠会は賃上げ等の賃金・労働条件改善を訴え、それが坑夫の自主的組織「友子同盟」にも影響を及ぼしていく。これら坑夫の上に立つのが飯場頭であり、彼らに付与されたざまざまな権限をめぐって日頃から坑夫との間で問題がくすぶりつづけていた。
暴動が起こったのは2月4日であり、このときとくに役員の不正が糾弾された。著者によれば、「〈暴徒〉の狙いは採鉱方や見張方といった下級職制を威嚇・報復すること」にあった。下級職制に対しては、賃金査定等をめぐって不満がうっせきしていたためである。暴動は3日にわたり、所長への攻撃もあったが、最後は出兵要請により鎮圧された。結果は、全員解雇、選別再雇用である。
では、なぜ飯場頭でなくて役員への攻撃となったのか。この暴動の原因について、著者は「飯場頭主謀説」をとる。まさに「至誠会を撲滅するために計画し、配下の坑夫をして実行させた」わけだ。飯場頭の権限を削減(後述)しようとする「至誠会こそ諸悪の原因」であった。飯場頭の煽動による暴動であり、そこには鉱山労働をめぐる複雑な上下関係が存在していたとする著者の主張は、次のように主体性欠如を否定する。
つまり、ここで著者は友子同盟の動きに注目する。なぜなら、暴動に先立ち、組織的な体制を整えたうえで手続きに沿った形での交渉を企図していたからである。そうした事実のもつ意味(主体性)を過小評価してはならぬとする著者の視点には、歴史家としての確かな眼がある。
3
次に、第2章で論じられるのは、飯場制度の史的分析を通しての大河内理論批判である。それは、大河内氏が同制度を〈奴隷制的飯場制度の強度な支配〉と理解する、その視角への根本的疑義をなす。
飯場制度において注目すべきは、飯場頭である。彼らは、労働力確保、請負仕事の割り当て、賃金管理等を通じて坑夫に対する密接な係わりをもった。とはいえ、主要生産手段は鉱業主の所有であり、「本質的には飯場頭は資本家と労働者の間に介在する中間搾取者」にすぎなかった。著者は、飯場制度について「産業資本に包摂された請負制度」といい、「〈労務管理〉についてはほぼ独自の権限をもち、生産過程においても一定の自立性を有するとはいえ、基本的には資本に従属したもの」とみる。では、なぜ鉱山で飯場制度が成立するのか。それは、鉱山に特有な生産過程のためである(詳細は第3章)。
ところが、近代技術の導入とともに旧来の経験等は役立たなくなり、飯場制度の機能は変化していった。つまり、作業請負の廃止は、飯場頭の権限を大幅に削減した。それは、飯場頭にとって大きな危機であり、坑夫の反感をかう「寄生的性格」を強める一因になった。飯場頭と坑夫の対立の一根拠は、ここにある。こうして、著者は鉱山争議の社会的基盤を「飯場制度の変質=弱化」に求めるが、それが大河内氏的把握(飯場頭の強度の支配力)を批判するものであることは、いうまでもない。
なお、第三章では、「足尾銅山における労働条件の史的分析」として、鉱山の技術進歩、それに伴う労働力構成の変化等、非常に緻密な議論が展開されており、1・2章の分析をさらに説得的にする役目を果たしている。
4
最後に、終章。ここで、本書を貫く基本視角が論じられるとともに、今日までの研究史に対する痛烈な批判が試みられる。足尾暴動分析において得られた主要な点として、たとえば、賃上げ要求者がむしろ高給の坑夫であったこと、それゆえ切り下げへの不安が運動へと駆りたてたこと、また、坑夫の間に〈差別〉に対する怒りが強く、その意味では「端的に言って、足尾暴動とは、坑夫の職員に対する報復・制裁行動」であったこと等、があげられる。とくに後者については、暴動が飯場頭の煽動であったにせよ、実際に起こった暴動の行為の本質面を、論理的に見事に照射しているといえよう。
また、徳川時代以来の伝統をもつ友子同盟の機能に注意を喚起し、「前近代社会の遺産」が鉱山労働者問題を考える場含、極めて大きな意味をもつと指摘する。著者によれば、「工業化以前の社会における労働慣行や労働組織、民衆の価値観などが、工業化後の組織や運動に及ぼした影響の検討などほとんど問題にされたことがない」のであり、それには十分な反省の必要があるだろう。かかる視点は、日本の近代化過程のみならず、現代日本の労働者のビヘイビアを考えるうえでも貴重な示唆になるという著者の主張には、ほぼ同感である。
近世的なものが、いかに近代化に係わりをもってくるのか。この問題の重要性を、本書は鉱山労働という一定の視角から描き出すことに成功している数少ない文献のひとつである。その意味で、日本の労働史研究は、まだ緒についたばかりなのである。
以上、3つの章に限定する形でコメントを加えてきたが、本書が日本労働史の本格的な研究成果である点は高く評価すべきであろう。ただ、欲をいえば、鉱山労働者の能力主義と連帯主義との生産過程におけるせめぎ合い、また生産過程のみならず生活過程も含めた鉱山労働者像の描写を加えて経営、労働各レベルでの鉱毒認識等にもう少し論及がほしかったことを、気付いた点として書き留めておきたい。なお、このように一冊にまとめあげるのがもう少し早い時期であったならば(ちなみに、2章の原型論文は1959年)、方法論的に混迷している学界へのインパクトも、はるかに大きなものがあったように思えてならないのは、評者のみだろうか。  
書評 5

 

本書は、まさしく実証的な方法によって書かれた第一級の歴史のモノグラフであり、労働運動史研究に新たなパースペクティブを拓くものといえる。もっとも二村氏にとって足尾暴動は30年も前に手掛けた主題であり、その成果は(本書第二章)すでに定説として広く認められているのであるから(たとえば東洋経済『日本近現代史辞典』を見よ)、ことさらに新しいわけではない。
だが、そこでの二村氏の所説は、この1907年(明治40年)暴動を「原生的労働関係と奴隷制的飯場制度の強度な支配」のもとにあった労働者の「苛烈な労働条件や身分的な拘束に対する鬱積した不満」の自然発生的爆発であるとする大河内一男氏の見解に対し、それとは「全く逆のもの」すなわち「飯場制度の変化=弱化」のなかで生じたことを指摘する。あえていうなら、ただそれだけであった。
なぜ、全職種中で最高給を得ていた坑夫(開坑採鉱夫)から──暴動の引き金となった60%もの──賃上げ要求が出されたのか、またかれらが江戸時代以来の伝統をもつ同職団体(クラフトギルド)の友子同盟、それにもとづいて組織された大日本労働同志会(のち至誠会)を通じて主体的・民主的にこの闘争に参加していたかということは、処女論文以来「二〇年余」にして再開された研究、その総括である本書によって初めて明らかにされたのであるから、これは「研究史」上やはり新しいといわなくてはならないのである。
巻末に掲載されているリストによると、二村氏は、1980年代前半にほぼ右の順で第一の(通念からすれば)逆説的な疑問に対する解答を与える努力をされ、ついで1984〜85年に「足尾暴動の主体的条件」と題された、前段でいえば第二の友子同盟に関する論文(4点)を書いておられる。しかし本書を成すに当たっては、前者を第三章、後者を第一章とし、その間に第二章としで前述の処女論文を配しておられるが、第二章は飯場「制度」にかかわる40ページほどの論述であるからして、これを第一章に加えてよいとすると、第一、三章ともそれぞれ150ページ前後を占め、通例なら第一部、第二部と見てよい雄篇である。したがって二村氏の分析・所論をここで逐一まとめることはとうてい不可能であり、本書から私の学び得た、そしてまた深く感銘を受けたポイントの一端を以下与えられたスペースの範囲内で記しておきたい。
第一章でも二村氏は「偉大な敵手」の一人である丸山真男氏の、つぎのような1907年の鉱山暴動に関する理解を批判する形で、自らの所説を展開しておられる。すなわち丸山氏によれば、足尾暴動は「絶望的に原子化された労働者のけいれん的な発作」の典型と目されているけれども、他鉱山(たとえば幌内炭坑)においても暴動勃発の一ヵ月以上まえに鉱夫総代は再三にわたって賃上げ等の嘆願を繰り返しており、それが「礦長」に容れられず、総代が解雇されるに及んで暴動が起きているのであって、この場合も友子同盟という「結社」ないし連帯にもとづいて労働者は主体性をもってその闘争を進めていた、と見てよい。そして足尾の場合、(中央の)社会主義者と連絡のあった永岡鶴蔵・南助松のような渡り坑夫のリーダーがいたという点で「例外的」であるが、しかしかれらの来足自体、友子の連帯にもとづいており、賃上げ要求は全員一致を得るまで長時間の民主的討議の結果であったし、飯場頭の挑発によって争議が暴動化してしまったのちも、友子あるいは坑夫は「破壊はよい、飲食もよい、しかし盗むな」という「百姓一揆の行動規範」に即して行動しているなど、この古くて新しい友子同盟の存在をもっとも良く示してくれる「事例」なのである。一口にいうため抽象的になることを許されるなら、ここで二村氏は歴史における連続性(あるいは連続的要素)を見いだし、強調されているのであり、私はこの点に関しいわゆる我意を得たという思いを抱くものである。
さりとて、歴史はまたしばしば不連続的要素を含むものであり、足尾銅山においてそれは主として製煉部門に(暴動前の20年間に)導入された近代技術であったと見られる。二村氏は第三章、とくにIII節において、氏自身の発見になる帝国大学工科大学学生の実習報告書などによって技術進歩につき詳細に記述し、それが製煉夫の数と質を変化させ、かつその賃金を坑夫にくらべ相対的に低くしたにもかかわらず、かれらをして賃上げ闘争の第一線に立たせなかった、ということを鮮やかに示しておられる。裏返していうと、これは、開坑・採鉱部門における機械化の遅れが友子同盟を通して伝承された在来技能をもつ坑夫への(経営側の)依存度を強め、かれらの高賃金と「横断的」労働市場、ならびに友子同盟そのものの継続性をもたらしたことを、意味しているわけで、足尾銅山全体として見るなら、不連続的要素の導入が伝統的存在の継続をもたらしたという、歴史の弁証法を抉り出してみせる第三章を圧倒される思いで読んだことを記しておきたい。
二村氏は本書に「鉱山労働者の社会史」という副題を添えておられる。これはとくに第一章にふさわしい。それに対していうなら、第三章は技術史、経営史、そして(数量)経済史への寄与としても高く評価できるといえるであろう。  
書評 6

 

二村氏が論文「足尾暴動の基礎過程」をもって大河内一男の「出稼型論」を実証的に批判し、学界に華々しくデヴューした1959年から、本書が刊行されるまで30年近い年月が流れている。途中、中断した時期はあるものの、一つのテーマに30年余とり組み、今回著書として刊行されたことに、まず敬意を表さずにはいられない。本書の合評会が行われた席で(88年7月9日)、司会をされた山本潔氏が「本書の刊行により我々の青春は終った」といわれたが、そのような感慨は、本書を手にした読者の多くが抱くのではなかろうか。
足尾暴動は、1907年2月に勃発した。従来この暴動は、組織をもたず経済的に窮乏した鉱夫による自然発生的反抗として捉えられ、意識の遅れた主体性を欠如した労働者像が描かれてきた。著者は、かような捉え方が労働運動、労使関係を経済主義的に分析することから生じており、その結果、窮乏そのものの把握も、実証的・歴史的分析を怠っている単純なものとなり、暴動もアプリオリに「自然発生的抵抗」と捉えられていると批判する。経済的要因だけで暴動(そして労働争議も)の発生を理解するのは不可能であり、労使関係をとりまく歴史的、社会的、文化的要因を考慮し、労働者の主体的要因を分析することの重要性を指摘するのである。そして、暴動・争議という「非日常」の研究を通して、なかなか史料には表わされにくい労働者のマンタリテといった「日常」が把握できるとする。著者自身が書いているように、1971年に労働争議研究の積極的意義を主張したとき、「争議という〈非日常〉を通して、労働者の〈日常〉を探りあてること、これが争議研究の重要な課題であると指摘したのである。この提唱は、最近の社会史ブームの中で目されている〈マンタリテ〉(心性)の重要性とその把握の具体的方法を提示していたもので、西欧での労働史や社会史の研究動向といささか共通する問題を、ほぼ同時に意識していたと言えるのではないか。」(p.346)私は、かような分析方法が1970年代初めにすでに二村氏により採られていたことに驚嘆せざるをえない。フランスアナール派社会史にあっては、事件史とマンタリテ=深層の歴史との関連づけはなされず、両者は乖離したままになっている。また、マンタリテという視角は、中世のような緩慢な社会変化の時代の分析には疑いなく有効性を発揮するが、激変的な上層の歴史をもつ近代の分析ではその有効性に疑義が生している現況のなかて、本書は、足尾暴動に関するこれ以上は発掘されないと思われるほどの徹底した第一次資料にもとづき、マンタリテと暴動という現代の事件史との関連性を実証的に明らかにしたのだから、それはアナール派の分析の上記2つの限界を突破したものであり、見事という他はない。
第1章「足尾暴動の主体的条件」は、丸山真男の「原子化された労働者」説の批判を、理論的には目的とする章である。暴動が発生する背景には、友子同盟と大日本労働至誠会が存在していたことが指摘され、それらの組織としての活動が詳述され、暴動は共同体から切り離された「原子化された労働者」が起こしたのではなく、組織的なものであり、「結社形成的」であったからこそ暴動を起こしえたとする。この点は、本書の核心である。「暴動の主な参加者は、徳川時代からの伝統をもつ坑夫のクラフト・ギルドともいうべき友子同盟に組織されていた人々であった。まったく未組織の労働者に暴動を引き起こす力はなかったのである。(丸山氏のように)〈非結社形成的〉であったから暴動を起こしたのではなく、むしろ〈結社形成的〉であったからこそ暴動を起こし得たのである。」(p.112)ついで、3日間にわたる足尾暴動の発生、暴動化、出兵・鎮圧の経過と事後処理(全員解雇・選別再雇用、賃上げ実施)が辿られ、さらに暴動の原因として、偶発説、至誠会教唆・扇動説、飯場頭主謀説が逐一検討され、前二者は多くの難点があることを資料的に提示し、著者は飯場頭主謀説が正しいと考えていることを示唆する。
第2章「飯場制度の史的分析」では、大河内一男の「出稼型論」批判を理論的には目的としている。1900年頃から採用された階段法という採鉱法が、飯場頭の作業請負の廃止をもたらし、かれらの労働管理の必要性を失わせ、地位を弱体化させたこと、すなわち、飯場制度は従来主張されてきたように強化されたのではなく、反対に弱体化したこと、その過程のなかで、飯場頭が挑発して暴動が生じたとするのである。第1章で示唆されていた飯場頭主謀説は、飯場制度の弱体化を採掘方法という技術過程の分析まで深めた第2章によって完結的に論証される。このことは、第1章て明らかにされた、飯場頭の財政支配を象徴する「箱」の管理権が友子同盟に返還されることが決定された時点で暴動が発生した事実と整合的であり、説得的である。
第3章「足尾銅山における労働条件の史的分析」は、足尾の賃金水準や技術進歩を選鉱部門、製錬部門別に明らかにし、それらの労働の量的・質的変化を分析したものである。足尾の鉱夫が、絶対的に低い賃金ではなく、相対的には高い賃金を取得していたことを、他の職種や他の銅山の賃金と比較して明らかにしたことは、争議や暴動が「構造的な低賃金」から生じたとする、実証なしの従来の研究に対する批判になっている。
終章「総括と展望」では、この足尾暴動研究を労働史研究の潮流のなかに位置づけたとき浮び上ってくる問題点を提示する。それは、日本だけでなく諸外国の労働史研究まで比較検討する視野をもつものであり、労働史の史料に精通し、内外の諸研究についても該博な知識を有する著者のみが書きうる総括である。
以上のような内容をもつ本書を、以下この書評では、暴動史研究の視角から眺め、西欧の、とくにイギリスのそれと比較検討してみたい。それを試みるのは、日本の労働運動史や争議史という視角からの書評は、他で多くなされると推測されるからだけでなく、イギリス暴動史研究の到達点と二村氏の研究が、後述するように多くの共通点をもっているからである。以下、5点に整理して順次みていこう。
第1に、暴動の発生原因に関して。暴動の発生を経済的要因からのみ捉えるW.W.ロストウやT.S.アシュトンを別とすれば、多くの論者は暴動を多様な複雑な要因の絡み合いのなかで把握しようとしている。E.J.ホブズボームは、ラダイツ運動を電流に反応する動物のように描くことを批判し、その運動は、新機械の導入に反対した盲目的運動ではなく、「暴動による団体交渉」であったとしたことは周知のことであろう。そして、J.スティーブンスンやG.リューデは、食糧暴動は小麦価格の絶対的水準ではなく、価格の上昇率が急速であるときに起こったことを明らかにし、「相対的剥奪説」を主張する。このように、イギリス暴動史研究の現在の水準は、暴動を絶対的貧困状態、極度な低賃金水準、あるいは小麦の高価格といった経済的要因から直接的に起こった自然発生的・盲目的反抗として捉えるのではなく、経済的要因を考慮するさいにも「相対的剥奪」説をとり、自然発生性ではなくその組織性を強調する。そのことは、食糧暴動(18世紀)、機械打ちこわし(1810年代)、スウィング暴動(農業暴動−1830年)等々の暴動を、けっして犯罪者や失業者などマージナルな人々と結びつけて捉える伝統的な理解を批判し、「ふつうの人々」ordinarypeopleが暴動の担い手てあったと主張することでもある。本書も、足尾暴動を従来のように「経済主義的」に、単純に「窮乏」の結果生じたと捉えることを批判する。二村氏はいう。「もとより争議や暴動は〈胃の腑の問題〉という側面をもっている。足尾暴動をはじめとする1907年の一連の労働争議の主原因が、インフレによる生活困難にあったことは明瞭である。だが、〈信じられない悲惨〉な労働条件の下におかれれば、人々は必ず運動に立ち上がるというものではない。いかに飢えても、何らの運動も起こさなかった事例は少なくないのである。……いずれにせよ、経済的要因だけで暴動や争議の発生を理解するのは無理である。」(p.344)つづいて、氏は、相対的剥奪と暴動の発生との関連を、つぎのように指摘する。「足尾暴動の検討によって確かめられたのは、賃上げ運動の担い手が労働者の中ではもっとも高給をとっていた坑夫であったことである。もちろん彼らも窮乏していた。しかし、その〈窮乏〉は食うや食わずといったものではなく、それ以前に、他職種の労働者に比べ、また他産業の労働者に比べて、相対的に〈豊か〉な暮しを経験した時期があったことを抜きには考えられないものであった。そうした相対的な豊かさが失われた時、あるいは失われそうになった時、何かのきっかけで、彼らは運動に加わったのである。」(p.344)
かくして、二村氏も、暴動の自然発生性を否定し、永岡鶴蔵、南助松が指導する大日本労働至誠会や、徳川時代以来の伝統をもつ自律的団体=友子同盟の日常的活動を重視する。永岡が暴動の発生を阻止すべく努力したのは事実であるが、「〈暴動〉そのものにしても、ある意味では、永岡のような組織者が、粘り強く労働者の団結訓練につとめた結果ようやく起きたもの」(p.337)であった。
第2に、暴動の選択性・合理性・正当性に関して。暴徒が敵の権力のシンボルに対して攻撃したこと、さらに、攻撃目標が選択的、合理的であったことは、暴動史研究が具体的に明らかにしたことである。そのシンボルは、監獄であったり(ロンドンのニューゲイト監獄(1780年)、バーミンガム暴動(1791年)、ブリストル暴動(1831年)等々)、トーリー所有の城であったり(ノッティンガム暴動(1831年))、市長舎であったりする。この悪玉の象徴化は、足尾暴動でも同様に生じ、鉱業所長・南挺三が、暴動発生3日目の2月16日、暴徒に襲撃される。この「権力に対する公然たる敵対行為」(P.74)の間、南は、床下に3時間余身を潜めるが、このときの南は、群衆が生みだした指導者が、無秩序な騒乱にならぬよう指導し、「……品物ヲ持テ行クノハ我々ノ採ラナイ処デ、名誉ニモ関スルカラ、品物ナドヲ持テ行ツテハイケナイ。而シ破砕ハ充分ニスル様ト云テ指揮シテ居リマシタ者ガアリマシタ」(p.74)と証言している。ここに二村氏は、「まさに百姓一揆の行動規範と共通するもの」(P.75)を見出し、南所長を「殴るにも手加減をしていた」し、「かなりの自制心をもって行動していたことも確かである」(p.75)という。この襲撃事件はその日午前11時頃以降、暴動の性格が変化・拡大する以前のことであるが、この暴徒は予想外に自制心が強かったとの指摘は、イギリス暴動史研究でも共通である。E.P.トムスンが、18世紀の食糧暴動を分析するさい、モラル・エコノミーの下で正当性観念に裏付けられた公正価格を求めたとしたのも周知のことであろう。暴動に蜂起した民衆は奪った穀物を公正価格で販売し、その代金を被略奪者に戻したといわれる。また、いささか我々の通念には反することかもしれないが、ラダイツのさいにW.ホースボールが殺された以外は、スウィング暴動でも、食糧暴動でも暴徒に殺されたものはいないのである。
第3は、暴動の保守的・防衛的・過去回帰的性格と慣習の継承性とに関して。イギリスでは共同体の規範communitynorms、伝統的価値、慣習的生活様式・水準が脅かされたとき、古きよき時代(「自由人たるイングランド人」という思想や「ノルマンの軛」の思想)ヘの回帰を理想にして蜂起したこと、そのさい過去の蜂起が語らいによって民衆の中に伝承されてきたことが潜在的な力として作用したことが、明らかにされている。前述したように、足尾でも友子同盟を単に前近代的組織として否定的に捉えるのてはなく、その積極的継承的側面、それ故、それが暴動の発生の重要な基礎となった点は、二村氏によって指摘されたところである。二村氏はそれをさらに一般化して、日本労働運動史研究が、従来、明治維新以後、それも日清戦争以降に限られていることを批判し、「工業化以前の社会における労働慣習や労働組織、民衆の価値観などが、工業化後の組織や運動に及ぼした影響の検討などほとんど問題にされたことがない」(p.352)と指摘する。イギリスでも、労働組合とギルドの非連続性を唱えたウェッブの理解が永年学界の支配的見解であったが、最近は、ギルドからの労働組合への継承性を、すなわちブレンターノの理解をより実証的な史料にもとづいて再評価することが進行している。明治維新の前と後で、ほとんど研究者の間でも交流がなく、百姓一揆と労働者の暴動や米騒動の研究が分断化されているわが国学界の現状、いいかえれば、暴動史というジャンルが成立していない現状のなかで、二村氏が従来軽視されてきた「労働者の主体的要因を考える上での重要な論点として、前近代社会から引き継がれた伝統の問題」(p.350)を提起したことを、我々は今後の課題として受けとめねばならないだろう。前述の南所長を襲った暴徒の指導者が、「飲み食いは自由だ。充分破壊せよ、しかし盗むな」と指示したところには、たしかに百姓一揆の行動規範と共通するものがあるし、また、至誠会の演説のなかで永岡が「昔ノ佐倉惣五郎ハ逃支度ヲシナイ」(p.59)と語っていることも、ある意味では義民伝承が生きていたことを示している。後者の引用については、本論の中で論じられていないが、今後さらに深められるべき課題であろう。
第4は、暴動弾圧に関して。イギリスでも1830年代までは、警察機構は完備されず、迅速に弾圧できる体制にはなかった。また、警察や治安部隊が出動したさいには、暴徒は、国王がかれらを守るにちがいないとの確信から、警察や軍隊の到着を歓迎することすらあった。足尾でも、暴動発生の2月4日の朝は警官20名足らずであり、午後50名急派。しかし、翌5日県警察部が本格的に動いたが、宇都宮から足尾までは8−9時間近くかかり、警察は無力であった。ついに6日午前、出兵要請がなされ、300名が7日午後足尾に到着し、鎮圧する。628名検挙、182名起訴(p.81-82)。だが、ここでも死傷者はきわめて少ないのが特徴である(死者1名は、酔って火に呑まれたものと推定)。
第5は、暴動の与えた影響に関して。一般に暴動に対して、労働組合運動の指導者がとった態度は否定的であり、暴徒とは一線を画していた。1831年のブリストル暴動のさいには、T.アトウッドを理論的指導者とする「政治同盟」に当局は秩序の回復を求めたし、同年のノッティンガム暴動のさいにも、著名な労働組合指導者G.ヘンスンが、法と秩序を維持すべく、内務大臣と連絡をとっていたのはその顕著な例である。足尾のばあいは暴動鎮圧10日後に開かれた日本社会党第2回大会で、幸徳秋水が足尾暴動の自然発生性を高く評価し、支配階級を戦慄せしめたことを強調するが、二村氏によれば、「幸徳は実際に労働者の階級的自覚を喚起するということが、どれほど根気のいる仕事であるか分かっていなかった」(p.337)し、幸徳らは永岡鶴蔵ら至誠会の指導者が暴動発生阻止の必死の努力をしたことを看過している。暴動後ただちに賃金は20%引き上げられたが、全員解雇され、選別再雇用されるさいに、組合に入らないとする「誓約書」を提出させられた。さらに至誠会足尾支部は壊滅し、友子同盟も自主性を喪失し飯場頭の支配下に組みこまれる。しかし一方では、足尾暴動はたしかに支配階級を震憾させ、また、新聞等により他の鉱山にも伝播し、争議を連鎖的にひきおこしていった。暴動が、一方では労働組合などの組織に被害を与えるが、他方ではたとえ短期間に鎮圧されても、支配階級を震撼させたことは、イギリス暴動史でもしばしばみられることである。
このようにみてくると、本書の足尾暴動の分析とイギリスの暴動史研究の到達点との間には驚くべきほどに共通点があることが明らかになる。それが研究対象の類似性によるのか、あるいは研究方法の類似性によるのかは微妙な問題であるが、ともあれ著者が、わずか3日間の暴動の分析に30年の歳月をかけたのは、この足尾暴動の中に、労働問題分析の諸論点が凝縮しており、それらをひきだすことが「労働者の社会史」を構築することだと確信したからに他ならない。私は永かった「青春」を享受しつつ終えられた著者に、つぎの作品の出現をも強く期待するものである。  
書評 7

 

1 「足尾暴動の基礎過程」はどのように読まれてきたか
本書『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』のもとになった諸論文のうち、最も初期の作品は、「足尾暴動の基礎過程──〈出稼型〉論に対する一批判」で、これが二村氏の足尾暴動研究の直接の出発点である。論文「足尾暴動の基礎過程」は、1959年の発表以降、今日に至るまで、実に4半世紀を越えて、日本労働史・日本労働問題研究を志す者の必読文献としての位置を占め続けてきている。では、「足尾暴動の基礎過程」は、いかなる理由でそうした位置を占めたのであろうか。
「足尾暴動の基礎過程」が発表された当時、日本労働史・日本労働問題研究で圧倒的な影響力をもち、ことに戦前期日本労働問題の全領城にわたる通説、基本的な考え方とされていたのは、大河内一男氏の「出稼型」論であった。すなわち、一国の労働運動・労働問題は、その国の労働力の特質=型によって基本的に制約されるものであり、労働力の型は基盤としての経済構造に規定される。日本の労働者は前近代的な農家経済と結びつきをもっており、ここから労働力の日本的特質として「出稼型」が成立する。構造的な低賃金、劣悪な労働条件、身分的な労働関係、縦断的労働市場、企業別労働組合、労働者意識の前近代性など、日本の労働問題の特徴は全てこの「出稼型」によって説明可能であり、また、「出稼型」は日本資本主義の全歴史を貫通するものとしていよいよ固定化しつつある、と。
「出稼型」論が、1940年代後半から50年代前半にかけての膨大な過剰労働人口と農業就業人口の大きな比重を前提にして書かれたことを重視し、現在からみて「当然、その古さが目立つ」(神代和欣『日本の労使関係』1983年、有斐閣)とするのは、たしかに「当然」であろう。ただし、同時に「出稼型」論がもっていた、方法的・実証的難点を追究することを欠いては、この論を乗り越えたことにならないことも「当然」であろう。
「出稼型」論に対しては、二村氏の「足尾暴動の基礎過程」が発表される以前から、すでにいくつかの批判が存在した。ある論者はそれが「型」の固定化を通じて宿命論的な性格を強くもっていることを指摘(大友福夫氏他)し、また農村がその余剰人口を1920年以降コンスタントに排出し続けてきたことをあとづけた研究(並木正吉氏)も発表されていた。
しかし、何が「出稼型」論を宿命論たらしめているのかを方法的に明らかにし、その批判をふまえた方法によって日本の労働運動史の様態を具体的に実証した研究としての第一弾となったものこそが、この「足尾暴動の基礎過程」に他ならなかったのである。
1970年代前半期までの日本の労働問題研究を文字どおり総括した中西洋『日本における「社会致策」・「労働問題」研究』(1977年、東京大学出版会)は、「足尾暴動の基礎過程」をつぎのように論評している。
「戦後『労働問題』研究史上において、かかる意味での史的アプローチの決定的優位を明確化した労作」が「足尾暴動の基礎過程」であり、「ここでこの気鋭の歴史家によって解明された史実は、戦後日本の『労働問題』研究の方法を根底からゆるがすに足りるものであった」、と(181頁)。
実際、「足尾暴動の基礎過程」によって、「出稼型」に規定された「奴隷制的飯場制度の強度な支配」がその苛烈さを増し労働者の耐えがたい状況に至ったとき、彼らは自然発生的に暴動化へと赴いたのである、とする当時の通説的な理解とは逆に、生産技術の変容に伴う1900年前後以降の飯場制度の弱化の中で、飯場頭と坑夫との間の矛盾が激化したこと、そのために暴動が「起り得た」ことが明らかにされたのであった。そして、「出稼型」論がこうした事実を見出しえなかったのは、労働市場の一特質である「出稼型」を不当に普遍化したためであり、それが「労働力の主要な存在の場は資本の支配する生産過程にある」ことを無視したがゆえに宿命論に陥ったことが指摘され、ここに「出稼型」論は、理論体系としての破産を余儀なくされたのである。
だが、このような「足尾暴動の基礎過程」にももとより問題がなかったわけではない。中西氏は前述した部分に続けて次のように述べている。「しかしながら、この二村氏の場合においてもなお、〈史的分析の方法〉が明確に提示されたというわけではなかった。……二村氏にあっても、『足尾暴動』の分析と『足尾暴動の基礎過程』の分析とは、方法的に統合化される見通しをもちえていない。……『生産技術』の『労働組織』への規定性は……労働者集団のあり方によって決して一様ではありえないし、またそもそも『生産技術』の革新自体が労働者達のあり方をも含んだ種々の条件とのかかわり合いで現実化するのである。この点を充分方法的に整理することのないまま、『生産技術』を基点として『基礎過程』を説くことは……危険をはらむ」(182ー183頁)と。
中西氏のこの一文は、「足尾暴動の基礎過程」に対する鋭い批判として二村氏自身が認めていたものである。実際、本書『足尾暴動の史的分析』の「はじめに」vi頁には同文が引用され、続けて二村氏は「この批判に対しては、足尾暴動を、その〈基礎過程〉だけでなく、〈暴動〉そのものについて分析し、両者を統合的に提示する仕事によってしか応えようがないことは明らかであった」と述べている。本書がこの批判に応えることをその一つの目的にしていることは、本書の構成、第1章「足尾暴動の主体的条件──原子化された労働者〉説批判」、第2章「飯場制度の史的分析──〈出稼型〉論に対する一批判」、第3章「足尾銅山における労働条件の史的分析」からも、明らかである。基礎過程を軸に、「足尾暴動」という争議そのものを分析した作品として、二村氏は本書を世に問うたのである。
2 争議研究の意味と方法に即して
ここで、やや広い脈絡で、本書を日本労働史研究に位置付ける場合、方法としての争議研究の意味ということが問題となろう。
1971年、日本労働運動の歴史研究を総括するために執筆された論文「労働運動史(戦前期)」(労働問題文献研究会編『文献研究──日本の労働問題』増補版、総合労働研究所)のなかで、研究史上の流れが労働組合研究から争議研究へと移ってきていることを述べた上で、二村氏は次のように主張した。
「労働争議においては、労働組合の日常活動の記録からは容易にうかがえないさまざまな矛盾が顕在化するのであり、争議を研究することによって組合の日常活動も動態的に分析することができる……とりわけ、文書による記録を残すことがまれな活動家や一般組合員、あるいは組合にも参加しない労働者の意識、思想をさぐる手だてとしては、彼等の行動そのものを手がかりにする他はない……労働争議は、日本労働運動史の特質を解明するための最も豊かな鉱脈としてわれわれの前に残されている。問題は、それを掘りあてる方法にこそある。……研究を前進させるためには、各時期における代表的な争議についての徹底的な事例研究による他はない。これには……一経営を対象に、その資本蓄積の運動にともなって変化する労資関係の具体的な存在様式を解明することが必要である。このことによって、争議の当事者の性格、特質を解明することが可能になる」と(301頁)。
この一経営を対象とする争議研究の必要性という提唱は、一定数の研究者の間に強く受け入れられ、争議研究、ことに具体的な個別の争議を対象とした労資関係の史的研究は、急速に日本労働史研究の主潮流の一つになるまでに至ったのである。
では、争議研究の方法という点でみて、本書はどのような意味をもっているのであろうか。
まず第1に、争議における主体的な要因の重視である。本書第2章のもととなった「足尾暴動の基礎過程」は、文字どおり争議の基礎過程、すなわち争議を可能にした条件、背景の説明であった。そしてまた、前述のように中西氏の批判は、「基礎過程」のつきとめ方と、基礎過程と争議そのものをどう統合化するか、にあった。本書第1章──この章が本書の中で最も新しく執筆されている──は、暴動に至る経過、暴動そのものの展開過程と、特徴を述べたものである。そしてそこでは、金属鉱山坑夫の間で、徳川時代から続いてきた自主的な同職団体としての「友子同盟」が争議において果たした積極的な役割が、きわめて実証的に明らかにされている。すなわち、足尾銅山──足尾にとどまらず全国各地の金属鉱山はほぼ同様であろう──の坑夫たちは、友子同盟という歴史的伝統に根ざした「自律的な団体」を有しており、これによって「日常的に会合し、代表者を選出し、自分たちの要望を坑夫の総意としてまとめ、全員で行動することが出来た」のであり、また、足尾で労働者の自主的な運動がおこる上で重要な役割を果たしたものに、永岡鶴蔵や南助松らの大日本労働至誠会があったが、こうした坑夫出身の労働運動家が生まれた背景には、友子同盟の伝統があったのである、と。
争議における坑夫らの直接の要求は、賃金の増額であった。ただし、暴動が始まった契機は、危機感を抱いた飯場頭の、至誠会と坑夫への挑発的行動(通洞坑内の見張り所襲撃事件)と推測される。すなわち、友子同盟の会計で、当時飯場頭がその管理権を握り坑夫に対するピンハネの手段となっていた「箱」を、おりから至誠会の影響を受けた友子同盟の山中委員が自分たちへ返還させるべく求めており、飯場頭らは、これでは飯場の経営が成り立たなくなると、危機感を抱いたのである。そして、飯場頭が配下の坑夫から公然と攻撃を受けるに至った背景には、生産過程の技術的改変に伴い、飯場頭がかつて有していた作業請負の権限を失い、配下の坑夫に対する支配力を弱め、坑夫たちとの矛盾を激化させていたことがあった。
このように、本書では、争議が可能となった条件、背景と、争議それ自体との連関が、争議主体、ことに一つのまとまった単位をなす労働現場(より一般化すると「職場」)の次元における、活動家層および一般の坑夫たちの行動に焦点をあわせていくことで、くっきりと浮かびあがっているのである。
第2に、研究の現時点における個別実証研究の意義の確認である。争議研究が日本労働史の有力な一潮流になるに至る過程で、これに対して加えられた最も大きな批判は、争議研究が個別実証研究になりがちで、それでは日本労働史の「全体像」を描くことはできない、というものであった。もちろん個別実証研究といえども、各研究主体が何らかの「全体像」を背景に有するがゆえに、どの事例をいかなる視点と方法で検討するかを問題にしているのであり、「全体像」と無縁な個別研究などありうるはずもない。
だが本書が明らかにしているのは、批判者らのいう意味での「全体像」を描きうるほどには、実証──というより、事実に基づき吟味された知識の集積──が現時点におけるわれわれの眼前には、十分に存在してはいない、ということである。
一、二の例をあげよう。近代日本の鉱山業発達史においては、囚人労働の役割を大きくみるのが常である。論者によっては、これこそが鉱山業の「基底」であったとすら評している。しかし本書によれば、囚人労働は、最盛期においても全国炭坑・鉱山の労働力の2.6%にとどまっており、しかも三池など特定の炭坑に集中する傾向をみせていた。もとより近代鉱山業の黎明期において囚人労働が用いられたことの意味や、その労働条件の苛酷さは、十分に考慮され強調されなければならない。しかしそれらが実態を越えて一般化されるとすれば、いうまでもなくそれは不適切であり、そうした不適切さを是正するのは個別的な実証研究の深化をおいて他にない。
もっと直接に争議に関する例をあげよう。足尾暴動における坑夫らの主要求=賃金増額要求の、背景・意味はどのようであったのか。二村氏は、争議の先頭に立ったのは、最も窮乏した最底辺の労働者ではなく、相対的に「豊か」な労働者であった、と論じている。そもそも足尾の労働者自体が、他の金属鉱山に比べれば、ことに1880年代には相対的に「豊か」な労働条件のもとにおかれていた。それは、急速に生産規模が拡大されたとき、他の鉱山に比して高い賃金を払うことで、必要な労働力を確保せざるをえなかったためであった。しかし、必要な労働力が確保された後は、賃金の上昇は抑えられた。これに国際商品としての銅の価格変動の激しさ──相場低落時には賃金が低下する──という事情が加わり、労働者は生活水準において不安定な状況へと追いこまれた。物価騰貴ともなると、彼らの不満は激化し、運動参加への要因となったのである。「窮乏」は争議の大きな要因であるが、それはけっして「奴隷的」労働条件による「窮乏」ではなく、このようにいったんは「高い」水準で形成された消費と生活のあり方に深くかかわっていた。こうした把握と理解は、疑いなく、個別の実証を積み重ねることでしか、見えてはこないものであろう。
第3に、労働者意識の特質把握である。二村氏は足尾暴動において、坑夫らの間に「差別に対する怒り」が深かったことを強調している。暴動の際、坑夫らの攻撃目標となったのは、所長をはじめ坑部課長、庶務課長といった鉱業所のトップレベルから採鉱方、見張方など一般に「現場員」とよばれた下級職員に至るまでの人々であった。ではなぜ坑夫らは彼らを攻撃したのか。それは、現場員らが坑夫の賃金決定に大きな権限を持っていたのをよいことに、賄賂を強要するなど不公正な行為が多かったためである。
戦前の、ことに第一次世界大戦前後の日本の鉱工業では、労働者の昇級や昇格をめぐり、職長や下級職員らが賄賂をとるケースが多かったことは、よく知られている。もっとも、足尾銅山の場合、賄賂の問題はとくに深刻であった。二村氏は、その主な原因を採鉱夫の賃金が各切羽ごとに予想掘進延長と予想採鉱量を組合せた複雑な出来高制であったためであるとし、賄賂の有無、多寡により坑夫の実収が大きく異なってきたことを論じている。
端的に言ってこの暴動は、坑夫らの職員に対する制裁行動であった。そして同じ職員のなかでも、まず、労働者出身の下級職制が「暴行」の対象となった。それは、現場員が賄賂を強要する存在だったからであり、同時に、とくに採坑方や見張方が、本来は坑夫らと同じ階層に属していたのに、「役員」となった途端に威張り出し、「労働者」を見下す態度をとったためであった。「このような『身分的差別』によって日常的に欝積した憤懣、怒りが彼らを衝き動かし、暴動に駆り立てたのである」。職員には「内地米」を販売しながら、坑夫らには「南京米」しか売らない、などの鉱業所の施策に対し、労働運動家らが訴えた「南京米ノ改良」についての要求が、坑夫の間に大きな反響を呼んでいた事実も、同様の脈絡で理解しうる事象である。
この「差別に対する不満」は、二村氏が再三にわたって強調しているとおり、戦前(十五年戦争以前)、さらには戦後そして現在にいたってもなお、日本の労働者のメンタリティーを理解するための最大のキイワードの一つである。研究史上では松沢弘陽氏らにより日露戦後に即して指摘されだした、この「差別に対する怒り」の実情が、本書において具体的な、それもそれこそ名も残さない労働者大衆の意識と心理の問題として、明らかにされた意味は大きい。
3 本書の視点と内容
ここで本書の概要を紹介しよう。
「はじめに」では、本書の構成とその意味がまず説明される。すなわち「暴動そのもの」が追究されているのは、第1章であり、第2章および第3章は、「暴動」について調べるなかで生まれた「疑問を解くため、その歴史的背景を追究したもの」である、と。
そして、各章が発表された際、最も主要な批判対象とされた研究が紹介され、ついで第2章に対する中西氏の評価と疑問、争議研究の意味の再確認がなされ、「本来ならば全体を再構成」するつもりであったこと、しかしそれが「もともと問題別の独立論文として書き、しかもいずれも論争的な形式をとったため」困難であったことが述べられている。ここにも記されているとおり、本書全体がそうであるように、各章もまたきわめてポレミークな性格をもっている。すなわち、第1章では丸山真男氏が、第2章では既述のとおり大河内一男氏が、第3章では隅谷三喜男氏・黒川俊雄氏ほか当時の金属鉱山の労働条件に関する「通説」的理解を有する者が、批判対象とされ、全体を通じては、友子制度・飯場制度など労資関係の「機構」と、戦前期日本の労働諸条件全般について大きな影響力をもつ山田盛太郎氏が、「敵手」とされている。
ちなみに、二村氏も本書で記しているとおり、学問研究における「敵手の偉大さ」について氏に多大な影響を与えたのは、石母田正氏であった(viii頁。なお、この石母田氏における「敵手の偉大さ」に関しては、『図書』1988年10月号8頁に、石母田氏の学問の体系性を「敵手」と絡めて述べた石井進氏の興味深い発言がある)。続く「序章暴動の舞台・足尾銅山」では、当時の足尾銅山の様相が、概観されている。
第1章「足尾暴動の主体的条件」は副題=「原子化された労働者」説批判、が示すとおり、従来鉱山暴動の特徴の一つとされてきた「自然発生的抵抗」説を克服しようとしたものである。大きくは、大日本労働至誠会足尾支部の結成状況、暴動と続く詳細な検討の結果、暴動に至る過程において、前近代以来続いてきた金属鉱山坑夫の自主的な同職団体である「友子同盟」が、そこでは大きな役割を果たしていたことが実証されている。これは、伝統的な近代ヨーロッパ観に基づいて日本の労働者ないし民衆をとらえようとした丸山真男氏の見解──この期の鉱山暴動は「絶望的に原子化された労働者の欝積した不満の爆発」とする見解に、事実として、そして方法において、重大な見直しを求めるものとなつている。狭義の歴史学の世界において、幕末維新期から近代化過程における民衆のありようを、民衆(農民)自らの思想に内在化して見直そうとした研究には、安丸良夫氏らの作品があるが、本書は金属鉱山という限定されたものではあるが、伝統的な、そして日常的に意味を有する組織それ自体の「見直し」である。二村氏は、争議突入に至るまでの大日本労働至誠会足尾支部と友子同盟、そして飯場頭らの関係を立体的にとらえている。ここから、飯場頭から相対的に自律した坑夫らの集団的な行動の根拠が説明される。それにしても、「友子同盟」に対する旧来の解釈を考えると、本書で明らかにされた「史実」は一八○度これを覆すものに近い。この点は後述する。
なお、第1章で、二村氏においていま少し説明を要したのではないかと思われる点が2つある。1つは、至誠会結成に先立つ組織である「大日本鉱山労働会」と至誠会との関係である。労働会の方は通洞坑のみの組織であったが、両者の関係についていったいどの程度まではっきりしうるのかは、明示されてよいのではないか。もう1つは、坑夫らが要求を提出するに至る内的な過程で日露戦争の体験がもっていた意味があるのではないか、ということである。これは1906・07年の大企業の争議について考える際、落とすことの出来ない論点と思われるのだが、史料上の制約もあろうが、論及されてしかるべきであったのではないか。
第2章「飯場制度の史的分析」については、すでに述べたとおりである。内容的には飯場制度の歴史的変化が扱われており、その生成と変容の過程が具体的に明らかにされている。補論として「飯場頭の出自と労働者募集圏」「足尾銅山における囚人労働」が収められている。「飯場頭の出自と労働者募集圏」では、寄留者の間に地域的な偏りがみられることを指摘し、足尾銅山において、特定の地域に重点的に形成された求人網があったことが推定されている。
第3章「足尾銅山における労働条件の史的分析」では、足尾銅山における賃金水準が相対的に高かったことがまず明らかにされ、ついでその理由が、主として技術上の問題と、他企業との競争に即して述べられている。選鉱部門、製練部門、そして採鉱部門のそれぞれに即して、技術的変化と労働の質的・量的変化が詳細にあとづけられ、争議にかかわっては次のようにまとめられる。すなわち、日露戦争後、坑夫の間で賃上げ運動が発展した最大の理由は、この時期にその実質賃金が同じ足尾の他職種の労働者と比べても大幅に低落していたことであった。足尾坑夫の実質賃全低落をもたらした主要因は、特殊的には1897年以降、古河の経営政策が、「進業専門」の積極政策から、長期にわたって安定的に利益を確保することを狙った「守成の方針」に転換したことであり、一般的には日露戦争後の物価騰貴であった、と。なお本章では他に、例えば、いわゆる足尾鉱毒事件についても、その主原因が粉鉱にあるとするなどの、興味深い指摘もおこなわれている。
4 疑問点
本書の最大の特徴は、その論争的性格と、実証上の精度の高さにある。批判対象とされた諸見解には、本書で明らかになっている「史実」をふまえての反批判が容易でなく思われることが多い。また規模は小さくないとはいえ一事業所の労資関係史、あるいは経営史としてみても、この時代を対象とした研究で本書のように詳細なものは、ほとんど例がなかろう。しかし、こうした本書にあってもなお疑問と思われる点がないわけではない。
その第1は、友子同盟と飯場制度との関係である。山田盛太郎『日本資本主義分析』のように、納屋制度・飯場制度と友子同盟を事実上すべて一緒にし、かつその強固な存続を説いた議論に対し、まずはそれらが歴史的に変化するものであること、そして友子同盟が坑夫らの自立のより所となっていたこと、を本書は明らかにしている。しかしそこで後景に退いたのは、友子同盟と飯場制度の関連であるように思われる。両者には、補完的な役割というものはなかったのであろうか。たしかに足尾における友子同盟は坑夫仲間だけの組織であったし、その委員は飯場頭のように職務上の権限をもってはいない。しかし、友子同盟に集まる坑夫と飯場頭の「対抗」──それが暴動勃発にいたる過程では主要な線になるのだが──のみが強調されると、かえって見えなくなってしまうものがあるのではないか。実際、暴動開始後は坑夫と現場員・鉱業所当局との「対抗」が基軸となり、そこでは飯場頭がどのように行動し対応したのかは、ほとんど隠れてしまっているように思われる。
二村氏はこのことにかかわって次のように述べている。
「友子同盟は親分・子分的関係を基本としていただけに、飯場頭がその主導権を握ることが容易であり、友子同盟はしばしば飯場頭の支配を補完する機能を果した。ただ、飯場頭が鉱業主との関係で相対的に自主性を保ち、鉱業主と対立的な関係にあった場合、あるいは暴動前の足尾銅山のように一般坑夫の代表が友子の運営に力をもった時は、経営者と対抗しうる存在となったのである。決定的なことは、友子同盟の運営の主導権を誰が握り、それが経営側といかなる関係に立つかであった」(121頁)と。
大筋ではこのとおりなのであろう。しかしにもかかわらず友子同盟をこれほどニュートラルなものとみることは適切であろうか。もしそうだとするならば、足尾における飯場制度と友子同盟それ自体の関係がいま少し追究される必要があったのではなかろうか。
第2は、「前近代社会の遺産」とされる点についてである。すでに見たとおり友子同盟が暴動に至る経過において果たした役割は大きく、また争議時における労働者の行動様式や価値観には近世末期における一揆と同様の行動規範がみられたこと、差別に対する怒りからは労資双方の対立点を明確化して解決点を求めるより情緒的な和解で対立を緩和させる傾向があること、労働者が自己の正当性を自然権ではなく実定法に求めたこと、などを二村氏は指摘し、労働者の主体的要因を考える上で前近代社会から引き継がれた諸々の伝統を考えるべきである、としている。もとより現象的には人間的関係としての「労資関係」は、労働者側の要因のみによって形成されるものではない。ここで二村氏が指摘する諸特徴も、労と資双方のそれぞれ、および両者の関わり方が有した「伝統」に根ざしたもの、と見るべきであろう。それにしても、氏はこの「前近代社会の遺産」の検討が氏の今後の課題であるとされるのだが、そうすることによってかえって、日本の労資関係──というより日本の労働者の価値観・行動様式など彼らの主体的な側面──の、足尾暴動時点での特徴が後景に退くことになってしまったのではないであろうか。また、単に言葉の問題であると思われるかもしれないが、「前近代社会の遺産」という発想方法には、氏自身が批判された「出稼型」論にある「宿命論」的な陥穽の余地が必ずしもないとは思われない。もっともこうした点は、氏への疑問というよりも、本書の切り拓いた地平に依拠しながら研究を進めていこうとするわれわれ後学の課題である、と正確にはいうべきものなのであろう。  
書評 8

 

本書は、氏が1959年に発表した『足尾暴動の基礎過程』と題した1907年足尾暴動についての論文を改稿し、さらに大幅に増補したものである。本書の骨子は、「足尾暴動の基礎過程」再論(『金属鉱山研究会会報』第27号)に述べられ、それと前後して大原社研『研究資料月報』に12回にわたって連載された論文を集大成されたものである。
序章、終章をふくんで全五章で構成されているが、第一章では、鉱山暴動について〈自然発生的抵抗〉説を検討し、友子同盟の果した積極的役割を明らかにする。
第二章は、『足尾暴動の基礎過程』を改稿したもので、飯場制度について、その歴史的変化が採鉱法の進歩に伴なう生産過程の変革によって起ったことを充分に論証しようとしたもので、日本の労働構造が大河内一男氏のとなえる「出稼型」では論証できないことを強調している。
さらに補論として、飯場頭の出自と労働者募集圏および足尾銅山における囚人労働をとりあげ、これらを総合して明治期足尾銅山の労働構造について述べている。
第三章は、鉱山労働者の労働条件がどのように変化してきたかについて、先ず足尾の賃金水準について、他産業との比較、他鉱山との比較、鉱山急成長期の高賃金の背景等について論じたあと、鉱山における生産部門の技術進歩とこれに伴なう労働の質的・量的変化について、機械化による近代化が急速に進行した選鉱、製錬について個別に述べたあと、鉱山の根幹となる採鉱については、当初の自由請負採鉱である「抜掘法」から採掘区画に制約して組織的な近代的採鉱法である「階段掘法」への転換による坑夫の賃金水準の推移について述べ、最後の不熟練労働者の賃金水準がどう変わっていったかについて述べている。
この章では、賃金水準変動の主要因が労働力の需給関係の変化によることを明らかにしようとしたもので、これを立証するために、鉱業技術の展開過程、特に製錬技術については、実習報告書などから多くの紙幅を割いており、技術史としても役立っている。
終章は、争議・暴動原因、暴動の影響について総括したあと、今後の課題として、労資関係をとりまく歴史的、社会的、文化的要因、労働者意識等をとりあげ、これまで労資関係や労働運動についての理解が、著しく経済主義的であったために誤った解釈をするようになっているが、たとえば前近代社会の遺産である百姓一揆の行動規範、友子同盟の評価などを加え、総合的な解明をすべきであるとしている。
本書は、近代足尾銅山について、鉱山労働者が鉱山の急成長によってどう変わり、また技術の進歩に伴なう生産過程の変化によって、それぞれの生産部門がそれぞれの変革に応じ、独特の変化をしていったかについて、歴史的過程の中で見据えようとしている。
副題の「鉱山労働者の社会史」とは、そうした著者の意図をあらわしたものといえよう。本書が、単なる足尾暴動の分析にとどまらず、労働の諸相の史的変化から見た近代足尾銅山史としてとらえることが出来るのは、著者が30年来蓄積してこられた研究成果であると考える。
最後に、やや寸評的なことになるが、至誠会の中核となった坑夫について、たとえば、鉱層型鉱山と鉱脈型鉱山との生産過程、労働過程の微妙な相違、「抜掘法」、「階段掘法」など採鉱方式の採用とその限界、それぞれの生産過程による労働側の意識的問題などについて、充実した解明がはかられればよかったと思うが、これは資料的制約もあって十分に究明されなかった。
ともあれ、複雑で難解な鉱山の状況について、新しい境地を拓かれた著者の研究に心から敬意を表するものである。  
書評 9

 

この本は、タイトルが示すょうに1907年足尾銅山暴動についての過程と分析が主要テーマとなっている。しかし副題が〈鉱山労働者の社会史〉とあるように、明治維新以降の鉱山がどう発展していったのかについて、当時わが国の銅鉱山で突出した発展をとげた足尾銅山について、鉱床の開発、単に鉱山技術の革新にとどまらず、広く産業技術を選択、採用したこと。同時に労働力の充足など、大きな課題を抱えてきた足尾銅山の近代化の歩みをつかんで、まとめ上げていることである。
著者の専攻は、労働問題であり、本書の祖型は30年前発表されたものであるが、今日までの過程のなかで、著者もいうように、賃金水準変動の主要因は労働力の需給関係の変化であり、それには労働力の質的・量的変化を問題にせざるを得ず、そのためには鉱業技術の展開過程の追究が不可欠……内容的には鉱業技術、とりわけ製錬技術の歴史にかなりの筆をさいている、のが特徴である。
すなわち、労働関係の変化を追究する中で技術の展開が大きな因子となったこと。それを追究することで、これまでの技術史が、とかく技術を受容し、こなしていく労働の変化を見逃していた傾向をつきやぶる試みが行われ、それが成功したといえる。
特に明治の足尾銅山は、鉱山のみでなくわが国近代産業の先駆として活躍していたものであり、この本は、近代産業技術を研究する上で、新しい方法論と視点を与えるものといえよう。  
書評 10

 

本書は、書名からもわかるように、1907年(明治40年)2月に起きた足尾銅山における鉱夫の暴動についての研究である。
周知のように足尾銅山は、日光の近くにある銅山で、1875(明治8年)に古河市兵衛によって再開発され、1883年(明治16年)頃から大富鉱をさぐり当て、その後西欧技術を導入して近代化をはかり、文字通り日本一の銅山として名を轟かせた。それ故、1907年に暴動がおきた当時の足尾銅山は、産業革命下の日本鉱山業における代表的な大企業であっただけでなく、日本資本主義を代表する大企業の一つでもあった。
本書は、単に足尾銅山の暴動についての研究ではない。足尾銅山の鉱夫の暴動の研究を通じて、明治後期における産業革命下の鉱山あるいは資本主義的大企業における労資関係の基本的な構造を分析しようとしたものである。
方法論上の問題として、一鉱山の労資関係の分析が、鉱山業一般の、更にいえば日本資本主義一般の労資関係の分析としてどの程度有効性をもつか、という問題がある。後に詳しく紹介する内容から明らかなように、私にいわせてもらうなら、本書の基本的特徴は、足尾銅山の個別的な労資関係を徹底的に実証的に分析することに努力がなされているということである。
それは、著者が25年前に本書の第二章をもって学界にデビューしたころ支配的だった、あるいは今日もまだ多分に残っている徹底した個別研究もなしに、日本の労資関係を安易に一面的に、抽象的に、図式的にあるいは独善的に一般化したり理論化したりする傾向に、著者が厳しい批判的立場をとっていたからであろう。私は、本書のすばらしさは、後にみるようないくつかの労働問題上の理論命題を批判の俎上にのせて、足尾銅山の鉱夫の暴動とその背景を徹底的に実証的に分析することによって、何人も否定できない具体的事実によって批判を成功的なものにしていることであると思う。もちろん本書は他人の説を批判しているだけではない。著者は、常に足尾銅山の個別的特殊性を考慮しつつ、批判に代わって一般的な自説を見事に展開している。
本書は、次の五つの章からなっている。
1) 序章暴動の舞台・足尾銅山
2) 第一章足尾暴動の主体的条件──〈原子化された労働者〉説批判
3) 第二章飯場制度の史的分析──〈出稼型〉論に対する批判
4) 第三章足尾銅山における労働条件の史的分析
5) 終章総括と展望──労働史研究の現地点確認のために
この章別編成をみる限りでは、著者の足尾銅山の暴動の分析の方法や叙述のスタイルは、ちょっとわかりにくい。それは、本書が、足尾銅山の暴動の分析のために書き下ろされたものでなく、著者が、かなり長い期間をかけて、書きためてきたものを、一冊の本にまとめたものであり、その際に全面的な書き変えができなかったからであろう。しかし本書のメリットは.叙述構成の外見上のわかりにくさやまずさによって少しも損なわれることはない。本書のメリットは、問題ごとの徹底した実証的分析方法にあるからである。
本書の直接的な課題は、足尾銅山の暴動が従来考えられていたように「組織をもたず経済的に窮乏した労働者による自然発生的な反抗」(大河内一男)、「苛烈な原生的労働関係と奴隷的飯場制度の強圧的な支配」が「労働組合の力をもってしてはコントロールできない」で「惹きおこ」された「暴動」(大河内一男)といった説、あるいは「絶望的に原子化された労働者のけいれん的発作」(丸山真男)にすぎなかったとする説を具体的に批判することである。
さて第一章「足尾暴動の主体的条件」は、足尾銅山の鉱夫が暴動を起こすまでに至った事情と暴動そのものの過程を、一級の資料を詳細に検討することによって分析している。著者は、この分析によって、まず第一に、足尾銅山の鉱夫が、組織をもたない、絶望的に原子化された労働者でなく、暴動に先立つ数年前から永岡鶴蔵という先進的鉱夫によって労働組合に組織され、暴動の直前には、大衆的な待遇改善運動を成功的に進めるまでに主体的に成長していたことを明らかにしている。
第二に、その鉱夫の労働組合運動は、日本の鉱山に徳川期から存在していたクラフト・ギルド的な鉱夫の伝統的組合である友子(氏は友子同盟と呼んでいるが、これには少し問題がある)を基盤にして行われたこと、そしてこの友子は、暴動直前には、労働組合の働きかけもあって、従属していた飯場制度から自立して、労働組合と並んで、労働組合のように、待遇改善運動に立ちあがったことを明らかにしている。二村氏は従来飯場制度と同一視され、鉱夫の収奪・抑圧機構とさえみなされてきた友子が、時として労働者的性格を持ち、一般的にも労働組合活動の基盤となっていたことを、わが国ではじめて実証的に主張した。
もっとも本書においては、この注目すべき友子についての論述は、後にみる飯場制度の分析に比較されるほど充分ではない。たまたま私は、この7月に友子制度を全面的に分析した『日本の伝統的労資関係──友子制度史の研究』(世界書院)を出版することになっているので、二村氏の友子論を補う意味で、拙著を参照していただければ、二村氏の友子論が一層明確になると思われる。
第三に、著者は、足尾銅山の暴動が、貧しくて絶望的な労働者によって自然発生的に起こされたのではなく、労働組合による待遇改善運動の成功的な展開、とくに飯場制度に従属していた友子(とくに山中委員と呼ばれる友子の役員層)が自立して、飯場制度の傾向を強めたことに脅威を感じた一部の飯場頭らによって、謀略的に起こされた可能性が著しく強いことを明らかにしている。またそうして起こされた暴動には、労働組合は批判的であり.しかし日頃の下級職員や社員へ強い不満をもった採鉱夫たち(これは友子のメンバーであり、中には労働組合のメンバーもいた)が参加してしまった事実をも明らかにしている。
第二章は、「飯場制度の史的分析──〈出稼型〉論に対する一批判──」と題し、足尾銅山の鉱夫の雇用関係の特質を分析している。本章は、もともと25年前に発表された時には「足尾暴動の基礎過程──「出稼型」論に関する一批判──」と題され、著者の足尾銅山暴動研究の最初の論文であり、かつ氏の研究上の処女作であった。この論文は、若い著者が当時支配的であった大河内理論を批判して、自らの独自の日本の労働運動史研究の方法論を提示しようとしたものであり、そして労働問題研究史において高い評価を得ていることは、よく知られていることである。
ここでは、それらの問題に入っている余裕はないので.先に進もう。第二章の意図は、かつて労働問題研究の全般にわたって大きな影響力をもった大河内一男氏の出稼型論、すなわち日本の労働運動、労働問題は、出稼型と呼ばれる労働力の特質に制約されるという見解、足尾銅山の暴動についていえば、「苛烈な原生的労働関係と奴隷的飯場制度の強度な支配」が「労働組合の力をもってしてはコントロールできない」で「惹きおこ」された、とみる見解に全面的に批判を加えようとすることにあった。
著者は、本書で第一に、足尾銅山の飯場制度を分析し、飯場制度が奴隷的なものではなく、また飯場制度下の鉱夫が必ずしも苛烈な原生的労働関係にあるのではないことを明らかにしている。すなわち、飯場制度は、全体として鉱山資本に支配され、資本に代わって一定の独自性をもちつつ、労働力の確保、作業請負、賃金管理、鉱夫の日常生活管理を請負う制度であり、一言でいえば「産業資本に包摂された請負制度である」ことを明らかにしている。
第二に、著者は、飯場制度は、出稼型論のように労働市場によって根拠づけられるのではなく、労働運動・採鉱部面における採鉱夫の手作業によって規定されるべきであると主張する。すなわち足尾銅山のような近代鉱山における飯場制度の必然性は、採鉱部面における作業の性質が、資本による直接的労働の指揮監督に代わって、飯場頭による作業請負を必然化したことにある、というのである。
第三に、足尾の暴動の原因に関連していえば、飯場制度の奴隷的抑圧に耐えかねて鉱夫が暴動をおこしたのではなく、むしろ飯場制度が弱体化し、採鉱夫の主体性が強化される程度で暴動が起きたことが、明らかにされている。とくに飯場制度の弱体化は、伝統的な採掘から手作業だが西欧式の階段掘による採鉱の計画化、大型化が進展し作業請負が廃止され、資本の管理強化によって生じたと主張されている。
もっとも飯場制度を少々研究している評者からみると、著者の飯場制度論は、発表当時は画期的意義をもつものであるが、今日からみると、少々実証牲に欠け、それ故論理的にも少々あいまいさを残してはいないか、という感じがする。例えば、氏が飯場頭による作業請負という場合、それが具体的にどういうものか必ずしも明らかではない。この点は、本書の数少ない弱点のひとつではないかと思う。
第三章は、「足尾銅山における労働条件の史的分析」と題し、足尾銅山の鉱夫の広い意味での労働条件(鉱夫の賃金、労働力の質、労働過程、労働市場、経営政策)の分析を通じて、足尾銅山の鉱夫の労資関係を立体的に分析して、暴動の客観的な原因を明らかにしている。
第一に著者が、本章の分析で力説しているのは、足尾の暴動は、構造的に低賃金の鉱夫が、飯場制度のピンハネや物価騰貴によって一層窮乏し、絶望的に反抗したために起こったのではなく、むしろ相対的に高賃金の採鉱夫が参加しておきたのであり、それに先立つ労働組合、友子の賃上げ運動は、相対的に高賃金の採鉱夫によって展開されたのだということである。こうした主張は、わが国の伝統的な構造的低賃金、あるいは長時間低賃金論の常識に著しく反するのだが、著者は自分の主張を詳細に実証している。
かくして著者は、明治20〜30年代には一般的に労働力不足と熟練職種のために相対的に高賃金傾向にあり、特に日本一の銅山として労働力の確保の必要から高賃金傾向にあった足尾銅山の賃金が、経営の合理化と物価騰貴によって暴動前に著しく低下していた事実を明らかにし、これが採鉱夫の不満を生み、労働組含運動の高揚をもたらし、ついに暴動の事態をひき起こすことになったと主張する。
第二に著者は、労働組合運動や暴動への参加が採鉱夫中心だったことを明らかにして、何故製錬部門の労働者が参加しなかったかを分析している。著者によれば、製錬部門では、旧型の製錬職人が、西欧式の製錬技術の導入によって駆逐され、技術者の指導の下に新しく形成された製錬職工が、賃金も押さえられ、鉱山資本の下に直接的に支配されていたためである。
終章「総括と展望──労働史研究の現地点確認のために──」は、これまで分析してきた足尾銅山の暴動の原因を総括しつつ、この暴動が労働者社会、鉱山経営、足尾の労働組合、あるいは国家や社会主義運動に与えた種々の影響について概述し、従来の日本の資本主義史や労働運動史の研究が持っていた経済主義的傾向を批判している。そして著者は、足尾銅山での争議の分析によって明らかになった争議下の根底に流れている鉱夫の意識(それは単なる窮乏への不満ではなく、下級職員たちの不正や差別への怒りだったこと)に注目している。そして著者は、そこに西欧の労働者の中にあるお互いの競争を排除しようとするクラフト・ユニオンの基本原理の欠如をみ、日本の労働者の史的特質を見出している。
以上のように本書は、大変ポレミークな書であり、本書の主張は一つ一つが非常に衝撃的で、専門家にとって学ぶべき論点が多い。一般の読者にとっても、従来の常識論をこえて、真実に迫る研究の楽しみを与えてくれる数少ない歴史書であろう。本書は今日の日本の労資関係を理解するためにも貴重な示唆を与えており、著者による今後の研究に期待したい。  
書評 11

 

近年数多く出される労働史のモノグラフの多くは戦後生まれの世代によって書かれた。それらは、徹底した史料の収集を志し、その分析の中から現在の労使関係の原型を取り出そうとする野心を持っている。欧米でも、ほぼ同時期に、若い世代の間に労働史研究に対する関心が高まったが、ニューレイバーヒストリーといった表現に示されているように、そこでは、団体交渉を中心とする労使関係のフォーマルな側面に注日してきた正統的な研究のスタイルとの断絶が意識されていた。彼らは、ホブズボームやブロディーなどの研究の意義を再発見しながら、団体交渉中心史観を克服して、労働者のさまざまな経験を描き出していったのである。
これに対して、日本の近年の業績は、団体交渉や労使協議制などのフォーマルな側面への関心をさらに発展させて、国家論や近代社会論などの再構成や日本の労使関係の再評価に向かっていくものだった。我が国の研究史における断絶の不在は、新たな道を踏み出すことを恐れる研究者の憶病さの産物であろう。が、反面では、それは先行業績のレベルの高さを物語っているのである。中西洋著『日本における「社会政策」・「労働問題」研究』などにみられるように、二村一夫氏の業績は早くから高い評価を受け、時には黒子に徹するような氏の献身的な研究のあり方は後に続く世代を励ました。その意味では氏は労働史研究興隆の立て役者の一人であった。しかし、興味深いことに、若い世代の作品に混じって、待望されていた氏の作品が世に出たとき、それは研究史の中で十分に咀嚼され尽くした大家の遅ればせの著書としてではなく、むしろ若々しさに満ち、研究の新しい方向を模索する新しい研究として登場したのである。本書は、優れた書物がそうであるように、さまざまの観点から評価されよう。民衆暴動に関心を持つもの、技術の展開が重要であるとみなすもの、労使関係の伝統とは何かと自問するものはそれぞれに本書を通して著者と対話をすることができるだろう。
『足尾暴動の史的分析』の冒頭から、読者は密度の濃い明晰な文体にいざなわれて、明治の足尾の世界へ連れ出される。研究書にありがちなくだくだしい研究史の説明、師匠達と自分の方法の違いについての弁明。それらとは無縁な叙述は、著者が研究の流れの中で自分の位置を絶えず意識しながらも、長年にわたって〈足尾〉と向かい合ってきた決然とした姿勢を示すかのようだ。
第一章「足尾暴動の主体的条件」では、まずオルガナイザー永岡鶴蔵に焦点があてられ、彼が設立を試みた大日本労働同志会が、大日本鉱山労働会を経て大日本労働至誠会に結実する経緯が語られる。至誠会の目標であった米の供給における差別廃止と賃上げは、友子同盟と飯場頭によってとりあげられた。坑夫支配への批判の高まりに危機感を抱いた飯場頭は、事件を自ら引き起こし、暴動後には友子同盟を支配下におさめることに成功した。だが飯場頭も、会社によって中間搾取を禁じられてその統制下に組み入れられる。
第二章「飯場制度の史的分析」は、技術進歩によって、飯場制度がどのように変質していったかを明らかにする。機械化が遅れた採鉱部門は、手労働に依存していたために、下請制度の一種であった飯場制度が残っていた。しかし、1900年前後に、採鉱枝術がそれまでの抜き掘り法から階段掘り法へと変わったことで、飯場頭の作業請負は後退していき、飯場頭が生活品支給や信用供与を通して中間搾取を行う存在であることがあらわになった。著者は、生産過程をだれが掌握したのか、そこで労働者はどのような支配に服していたのかに光をあてている。およそ30年前に大河内一男の出稼ぎ型論への批判として打ち出されたこの観点は、合衆国の機械産業における熟練労働者の生産過程支配を分析したモントゴメリーの研究と比較されうる位置を研究史で占めるだろう。著者などの努力を通して、今では当然と思われる研究視角を我々は持つことができるのである。
第三章「足尾銅山における労働条件の史的分析」は、80年代に生産規模の拡大によって労働条件の上昇が起こったこと、しかしその後、精錬部門では技術進歩によってそれまでの熟練が解体して労働条件が急速に悪化し、また採鉱部門でも鉱毒問題の発生によって経費節減が進められた中で実質賃金が低下していったことを明らかにした。著者は賃金上昇の後の停滞こそが労働者に不満を生み出していたことを主張する。実質賃金の低下に直面した坑夫の賃上げ運動は、友子同盟を媒介として展開していく中で、中間搾取を強化させつつあった飯場頭との対決を強めていった。
終章「総括と展望」は、1907年2月4日の見張り所襲撃事件をはじめとする暴動の全体像を提示する。暴動後、経営側は、労働者が人格を持った存在であることに気づき、彼らを従業具として直接把握しようとした。「人格」と「従業員」。この二つのキーワードは、近年の労働史研究を支配してきたといってよい。本書は、東條由紀彦著『製糸同盟の女工登録制度』、佐口和郎氏や三宅明正氏の研究などとともに、現在の研究者の関心がどこにあるのかを示している。労働条件が上昇する中で労働者の期待が高められ、それに続く時期に労働条件が停滞したり低下すると労働者の不満がうっ積して暴動が起こり時としては革命につながるということは、これまでも欧米の歴史家などによって採用されてきた研究視角であったが、これほどまでに着実な史料批判の上に築き上げられた議論を評者はほかに知らない。それと同時にこの章で著者は、労働者の心の底に差別に対するわだかまりがあったことを主張する。労働者は、能力に基づく差別は許容しえたが、そうでない差別には深い怒りを持つ。石田光男著『賃金の社会科学』が分析の対象とした労働者の能力観を、著者もまた重要なものとみなしているのである。
歴史研究が、時の流行に対する禁欲的態度を持ちつつ、自分の選んだ対象に腰を落ちつけて取り組むことに他ならないことは、あまりに自明のことである。だがそれを実行しうる人は数少ない。終章での著者の主張は確かに時代とは余りかけ離れてはいないが、それは著者が流行に乗ったためというよりも、時代が著者に歩み寄ったことを示している。しかし歴史分析としての著作の評価はそのような時流との関係で決まるのではない。本書が、実に丹念な史料の探索の上に成り立ち、しかもおそらく最小限必要なものを除いては史料へのいたずらな言及を避けたことは、本書の歴史書としての成功を保証した。技術についての締密な調査などは、ともすれば読者に対象への過度のこだわりとの印象を与えるかもしれない。だが、このような偏執は、むしろ健全なる学間精神の表れである。評者は著者の歴史家としてのあり方に深い敬意を表する。評者の感想は、この一点に集約されるが、以下蛇足ながら、粗雑な疑問を並べて、読者がこの書物を読み解いていかれる際の参考に供したい。本書の叙述は、1)足尾暴動そのものの実態解明と、2)友子同盟や飯場制度の変質過程を、生産過程における技術進歩や労働市場の状態によって説明することの二つからなっているように思われる。前者は結局、後者の説明の枠組みの中に位置づけられており、暴動は、技術進歩や労働市場に引き寄せられて語られることになる。当然そこから抜け落ちてくる間題があることはやむをえない。それは優れたモノグラフにつきものである。コミュニティーとしての足尾の分析がないのも、そのひとつである。坑夫中飯場の居住者は約半数といわれており、町場住まいの坑夫はかなりの数に上ったであろう。彼らはどのような生活を送っていたのだろうか。また、彼らはどのような仕方で飯場頭の支配下にあったのだろうか。約半数の労働者が、家族持ちてあったことも著者の関心を引いていないように思われる。イギリスの社会史研究者ならば鉱山地帯での家族のあり方、女性の役割、さらには女性がどのような仕方で自己を主張していたかを入念に描き出すことに熱中するだろう。我々とても、坑夫が「衣食に奢」っていた(43頁)という叙述からさまざまなことを想像したくなる。それは彼らの気概、自負、総じて彼らの文化をかいま見せてくれているではないか。著者が生産過程に焦点をあてたことは、結果としては労働者の生活のさまざまな面への考察を二の次にすることになった。これれは本書だけではなく、日本の労働史研究、ひろくは日本の労働間題研究に共通する問題である。隅谷三喜男氏の賃労働の理論の提唱は、実証分析の中でとれだけ生かされたのであろうか。本書の到達点を踏まえながら、研究上の〈生産主義〉を克服する研究がこれから出てくることを待望する。
著者は、友子を近代的な制度とみる視点(58、113頁)と、伝統的制度としてみる視点(350頁)を混在させているようにみえる。前者は、松島静雄著『友子の社会学的考察』の説くような友子の疑似血縁的側面を軽視しているように思われる。著者は、友子同盟が全員一致であったことを、前近代的ではない証としている(58頁)が、全員一致への固執こそ前近代性の特徴であろう。日本の労働者の組織における疑似血縁的関係は指摘されることがあっても、立ち入った分析のなされなかったテーマであるように思われる。評者のごとき無知な人間には、本書の問題とする飯場支配もそれを抜きには語れないようにも思える。だが、友子や飯場について深い知識を持つ著者があえてこのことに言及しなかったことにはおそらく理由があるのだろう。後者の友子を伝統的制度としてみる視点については、労働者が伝統を選択的に採用していく(あるいは〈伝統〉を作り上げる)側面の解明がなされればと思う。伝統は、一人歩きするのではなく、その時々の労働者の決断によって受け継がれていく。友子に参加したことの背景にも、個々の労働者の決断、あるいは戦略があったのではないだろうか。労使関係における伝統の問題は著者によって初めて体系的に提起された。
本書の終章を読んでも、現代の労使関係のはらんでいる問題を江戸時代にまでさかのぼって考察しようとする著者の姿勢は明確である。それは、労働史研究に全く新しいパースペクティブを与えるものである。著者に続いてこの間題について研究が深められることを切に期待するが、その際に伝統が一人歩きをして労使関係の特徴と短絡的に結びつけられるならば、研究史の前進にはつながらないと思う。  
 

 

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