天動説・地動説

地動説1地動説2コペルニクスの地動説3地動説4宇宙地動説5地動説6コペルニクスの地動説7ガリレオの生涯地動説の迫害・・・ 
天動説1天動説論者2プトレマイオスの天動説3天動説雑記4・・・ 
古代の宇宙観密教の宇宙観日本人の宇宙観1日本人の宇宙観2「星座」の歴史
 

雑学の世界・補考   

金環日食・彗星

 
 
 
 2012/5/21 金環日食 / at Maebashi

 
2013/4/23 PANSTARRS彗星 

Photo. Harada

 
地動説 1

地球が動いている、という学説のこと。天動説に対義する学説であり、ニコラウス・コペルニクスが唱えた。太陽中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと太陽が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。
歴史  
古代の地動説  
古くアリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。  
しかし、コペルニクス以前にも、地球が動いていると考えた者はいた。有名なところではピロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた。また、プラトンも善のイデアである太陽が宇宙の中心にあると考えていた。加えてレオナルド・ダ・ヴィンチもまた地動説に関する内容をレスター手稿に記している。  
特に傑出していたのは、イオニア時代の最後のアリスタルコスである。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心として、惑星の配置をはっきりと完全に示したことだ。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたものである。ほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している。紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまで、1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった。  
広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。  
天動説の優勢  
2世紀にはクラウディオス・プトレマイオスが天動説を体系化し、以後コペルニクスが登場する16世紀までこれが支持された。プトレマイオスの体系ならば、多少の誤差はあっても惑星の動きを計算することができたし、地球は止まっているのだから、鳥が取り残されることも考えずに済んだ。こうして日常的な生活に関する限り、天動説があれば特に不自由はなくなった。  
とはいえ、おかしなところは存在した。例えば  
5つの惑星のすべての軌道計算に、必ず「1年」という単位が出てくる  
惑星の順序が何故その順であるかという根拠の提示が不明瞭  
地球から見た時、火星の奇妙な動きを説明しづらい  
惑星の位置予報にも誤差がある  
などが挙げられる。しかし、これらの現象を説明し、精密な惑星の位置予報を出来る新説はなかなか現れなかった。  
また、ヨーロッパでは古代ギリシア時代以降科学は停滞し、西ローマ帝国滅亡後は暗黒時代を迎えることになる。後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのはルネッサンス以降である。  
こうした理由で、科学的な難点を含みながらも、16世紀に至るまでずっと、天動説は支持された。  
大航海時代  
天動説の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた。  
大航海時代以前、航海は沿岸航海であり陸地が見える場所しか船を運航しなかった。何も目印のない大海原では行き先が分からず、航行できなかった。羅針盤の登場がこれを可能にし、方位磁石と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになったのである。しかし当時の星表には問題がかなりあった。特に惑星の位置は数度単位での誤差が常にあった。  
さらにもう1つ問題が生じつつあった。1年の長さが、当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かったのである。この結果、暦の上の季節と実際の季節に約10日のずれが生じていた。キリスト教では春分の日が移動祝祭日の計算基準日になっており、10日もずれているのは問題があった。この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていたが、1年の正確な長さが分からず約300年間放置されていた。  
当時使われていた(そして、メソポタミア時代から現代に至るまでも根本的には変わらない)1年(回帰年)の定義は、分点または至点から次の同じ分点または至点までの時間である。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値は他の天文学的な値からは孤立した独立の量で、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった。  
コペルニクスの登場  
カトリック教会の司祭であったコペルニクスは、この誤差に着目した。彼は地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。コペルニクスはアリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した。1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる。  
コペルニクスは1543年の没する直前、思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定しなおせるようにした。コペルニクスが地動説の創始者とされるのは、このように検証を行なったためである。  
またこの業績について、ガリレオ・ガリレイから「太陽中心説を復活させた」と評された。  
コペルニクス以降の学説  
その後、ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年にグレゴリオ暦が作成されるが、改暦の理論にはコペルニクスの地動説は利用されなかった(ただしプトレマイオスの天動説も使われてはいない)。  
しかし、コペルニクスが著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされた(コペルニクスの月の運行理論は、アラビアとは独立に再発見したという説もある)。
コペルニクスの地動説  
コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的な変換をしただけのものではない。地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している。また、全惑星(地球を含む)の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される(実際の距離は、この時代にはまだ分からない)。同様に、地球と各惑星の距離も算出できる。これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである。プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった。また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値がそれぞれの値と関連しているため、どこかの値が少しでも変わると、全体の体系がすべて崩れてしまう。これも、プトレマイオスの天動説にはない大きな特徴である。この、一部分でもわずかな変更を認めない体系ができあがったことが、コペルニクスにこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多い。  
コペルニクスの地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する。惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である(この時代、天王星や小惑星はまだ発見されていない)。公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている。ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きの説明がつかず、コペルニクスの著書では、プトレマイオス説でも使われていた離心円が運動の説明に使われた。実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であるため、単純な円では運動の説明がつかなかったためだが、コペルニクスは惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じていたため、楕円軌道に気付くことはなかった(実際にはコペルニクスの使った値の精度は悪く、どちらにしても楕円軌道を発見することは困難だった)。  
コペルニクス後の地動説  
コペルニクスの後、地動説に同意する天文学者はなかなか現れなかった。しかし、当時の学者がより古いものを正しいものと考え、新しいものを排除しようとした、というのは若干史実とは異なる。支持者が多く現れなかったのには明確な理由があった。コペルニクスの著書は、どちらかというと理論書に近く、1年の長さは算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかったからである。計算に必要な値も、著書のあちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であった。当時の多くの天文学者が欲していたのは、理論書ではなく、表にある数値をあてはめて計算すれば惑星や月齢が計算できるより簡便な星表であった。  
その後、1551年に、エラスムス・ラインホルトが、コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』を作成した。しかし、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説と大して変わらなかった(実際には、わずかだがプロイセン星表のほうが誤差が小さい)。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が並行して使われ続けた。ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソ星表はこの時代にプロイセン星表に取って代わられたと主張している。  
それまで、惑星の位置予報はプトレマイオス説を使用しなければ行えなかった。似た他の方法が考案されたこともあったが、プトレマイオス説をしのぐ精度で予報ができるものは存在しなかった。しかし、コペルニクス説を使用しても、同等以上の精度で惑星の位置予報が行えることが分かったこの時代に、唯一絶対であったプトレマイオス説の絶対性は大きく揺らいだ。  
ティコ・ブラーエは、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているものとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けばヨハネス・ケプラーだった。ケプラーはブラーエの共同研究者であり(助手という記述もあるが、ケプラー自身は共同研究者として迎えられた、と主張しており、また、ブラーエ自身がケプラーに送って残っている書簡にも、助手として迎えるという文言はない)、ブラーエの膨大な観測記録から1597年、「宇宙の神秘」を公刊。コペルニクス説に完全に賛同すると主張してコペルニクスを擁護した。これらに追随する形で、ガリレオ・ガリレイもまた地動説を唱えた。
古代中国の「地動説」  
古代中国においても、独特な「地動説」が存在した。『列子』の「杞憂」の故事の原文には「われらがいる天地も、無限の宇宙空間のなかで見れば、ちっぽけな物にすぎない」(夫天地、空中一細物)とあり、当時すでに、宇宙的スケールの中では「天地」でさえ微小な存在だという認識があったことがわかる(ただし、古代中国人は「天地」が実は「地球」であることを知らなかった)。漢代に流行した「緯書」でも、素朴な地動説が散見される。例えば『春秋』にこじつけた緯書には「天は左旋し、地は右動す」(天左旋、地右動)、「地動けば則ち天象に見(あら)わる」(地動則見於天象)とある。『尚書』(書経)の緯書に載せる「四遊説」は、大地は毎年、東西南北および上下に動いている、という奇怪な地動説であるが、「大地は常に移動しているのだが、人間は感知できない(原文「地恒動不止、人不知」)。それはちょうど、窓を閉じた大船に乗っている人には、船が動いていることが知覚できないようなものだ」とあわせて説いている点が注目される。唐の柳宗元も、こうした中国独特の地動説をふまえて漢詩を詠んでいる(「天対」)。上述のとおり、西洋のHeliocentrism(太陽中心説。現代中国語では「日心説」)の訳語として「地動説」は不適切であるとする意見もある。古代中国の「地動説」は、Heliocentrismとは異質の宇宙観ではあるものの、「地右動」「地動則見於天象」「地恒動不止」など明確に「地動」を説く、文字通りの地動説であった。
中世イスラム世界の地動説  
ウマル・ハイヤームの時代のイスラムの天文学者は、すでに「太陽中心説」(地動説)を知っていたが、それを公言することはイスラム教の正統主義から攻撃される危険があったので黙っていた、と推測する説がある。その根拠の一つは、ウマル・ハイヤームの四行詩(ルバイヤート)の中の次の一首である。  
廻るこの世にわれらまどいて  
思えらく そは廻転提灯の如しと  
太陽は灯にして世界は提灯の骨  
われらその内に影絵の如く右往左往す  
この他、コペルニクスの地動説も、実はイスラム世界の天文学にその原型があったと推測する学説すらある。  
一方、アブー・ライハーン・アル・ビールーニー(973年 - 1048年)は、その著書「マスウード宝典」にて地動説を記載している。また、(地動説かどうかは不明だが)アッバース朝のマアムーンの時代に、アル=フワーリズミーがユーフラテス川の北、シンジャール平原やパルミラ付近で地球が球体であるとの前提で経緯度及び子午線弧長の測量を行っている(その測量結果からすると、地球の周長は39000Km、直径は10500Kmとなる)。
 
地動説と日本  
徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したときに、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。医者の麻田剛立が1763年に、世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時や間重富らに命じ、1797年に月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて、天保暦を完成させ、1844年に寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた。
 
司馬江漢作《天球図》の図像源泉 
18 世紀、長崎は鎖国下にありながら、日本で唯一外国船を受け入れる開港都市であった。長崎を通じて多くの和蘭文物が日本にもたらされ、同時に西洋の地理学や天文学も長崎に伝来した。司馬江漢は天明8 年(1788)の長崎旅行を契機に和蘭通詞本木良永と知り合い、地動説をはじめとする地理天文の知識を教わった。江戸に戻った江漢は、その後一連の自然科学関連の銅版画作品を制作し、その中で最初の純粋な天文関連作品が寛政8 年(1796)の《天球図》(神戸市立博物館)である。これは中国の伝統的な天文図の上に、西洋の星座絵を重ねて描いており、当時としては斬新な表現であった。本発表では、この作品の新たな図像源泉を明らかにしたい。  
先行研究において江漢の《天球図》の図像は、イエズス会指導による中国最新の天文書『天経或問』中の図像と、日本に伝来した和蘭製の星座図像を取り入れたものであるとされてきた。さらに、初代幕府天文方渋川春海の実測による新たな日本の星座名も加えられ、当時としては、東西最先端の知識が詰め込まれた作品であったと言える。江漢が写した和蘭製の天球図は、《ブラウ世界図》(東京国立博物館)に描かれた両天球図を写したフレデリック・デ・ウィットの《天球図》(個人蔵)が原図と言われてきた。しかしこの作品は来歴等が明らかにされていない。  
そこで、江漢が寛政5 年(1793)に《地球全図》を制作した際、彼に助言をした馬道良との関係に注目する。馬道良は寛政3 年(1791)幕命により、幕府所蔵ブラウの天地球儀補修を任され、一時天文方に勤務した人物である。馬道良による天地球儀補修の記録書『阿蘭陀天地両球修補製造記』の内容から、《天球十二宮象配賦二十八宿図説》(寛政7 年)がその幅物として、現在国立国会図書館に所蔵されている事が判明した。これは黄道12 宮の星座像が一直線上に描かれた作品であり、江漢の《天球図》に描かれた12 宮像と28 宿とを重ね合わせた図像様式が酷似していた。つまり、江漢同様に宇宙の外側から見て描く西洋の12 宮像に合わせて、中国の28 宿を反転させた作品だったのである。  
また、馬道良の息子北山寒巌は、八代将軍吉宗の時代に伝来したと思われる和蘭製《フィッセル改訂ブラウ世界図》(東京国立博物館)の模写《和蘭考成万国地理全図照写》(寛政4〜6 年頃、天理大学付属天理図書館)を制作している。江漢の星座図像は、馬道良のものよりもデ・ウィットに近い事を考慮すると、同じくブラウの系譜である《フィッセル改訂》を模写した寒巌の影響力も大きかったのではないかと考えられる。しかし、西洋の天球図という主題は、北山晋陽・寒厳父子(馬道良・馬孟煕)と江漢以降において制作例は見られない。それは江戸後期から幕末にかけて、急速に発展する蘭学と近代天文学の導入により、後世においてこの主題が省みられることが無かったからであると言えるだろう。
 
江戸時代の宇宙観  
1610年、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は自作の望遠鏡を覗いて木星の衛星を発見し、その他いくつかの知見をもとに、地動説を唱えた。地動説はそもそもニコラウス・コペルニクス(1473-1543)が、『天体の回転について』(1543)という書物の中で論じたものが最初であるが、当初はほとんど受け入れられず、ガリレオの発見とヨハネス・ケプラー(1571-1630)による惑星の楕円運動の解明によって、その正当性を明らかにした。しかし聖書の記述に反するという理由で、ローマ教皇庁は1616年にこれを禁じた。  
一方、日本では、望遠鏡の伝来は慶長十八年(1613)と早かったが、それを用いて天体を観測することは江戸中期になるまでなかった。西洋天文学が流入する以前の日本では、中国起源の「蓋天説(がいてんせつ)・渾天説(こんてんせつ)」や、仏教が説く「須弥界説(しゅみかいせつ)」などが宇宙観として知られていた。  
日本における天文学とは主として暦を作るためのものであり、暦算天文学と呼ばれることもある。暦の計算を行うにあたっては、軌道の中心が太陽であろうと地球であろうとさしたる違いはなく、日本において地動説が大きな問題とされることはなかった。  
「天文図解」元禄元年(1688)自序 井口常範著   
「弁説南蛮運気書(べんせつなんばんうんきしょ)」 慶安三年(1650)序 沢野忠庵(さわのちゅうあん)編述、向井玄升(むかいげんしょう)  
十六世紀なかば、日本でイエズス会による布教が始まると、それにともない西洋天文学も伝えられたが、当時は西洋においてもいまだプトレマイオスの天動説が信じられていた。沢野忠庵は日本に帰化したポルトガル人宣教師である。本書が書かれたのは江戸時代になってからだが、その内容はスペイン人イエズス会士ペトロ・ゴメス(1535-1600)著の『天球論』(1595)を下敷きにしているとみられる。ここで描かれている宇宙は中心に地球が存在し、その周辺に月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星が回り、さらに外側に星々を載せた列宿天、歳差を行う第九天、日周運動を行う宗動天が存在するという構成になっている。  
「天経或問(てんけいわくもん)」 享保十五年(1730) 游子六(ゆうしろく)著 西川正休(にしかわせいきゅう)訓点   
本書が中国で刊行された1675年は、西洋ではすでに地動説が主流となりつつあった時期であるが、游子六はイエズス会士の影響を受けた学統にあり、教皇庁が禁じている関係で、地動説を認めることはできなかったと考えられる。その結果として本書では、旧来よりの天動説の図にあわせて、天動説と地動説を折衷したようなティコ・ブラーエ(1546-1601)の宇宙観が紹介されている。日本では1630年代より鎖国が始まり、キリスト教に関する書物の輸入が制限されていたが、享保五年(1720)に八代将軍徳川吉宗によって禁書令がゆるめられると、西川正休(1693-1756)により訓点のつけられたものが刊行され、一躍ベストセラーとなった。  
「暦象考成(れきしょうこうせい) 後編」 乾隆七年(1742)再訂  
中国では日本と異なり、キリスト教宣教師の伝える西洋天文学が早くに公的に受け入れられて、西洋式の計算法を用いた暦が作られた。しかし、そのためかえって地動説の導入は遅れた。本書に先立つ『暦象考成 上下編』(雍正元年、1723)では天体の運動を円運動の組み合わせで説明するティコの体系が採用されていたが、後編になるとそこに、太陽・月の運動についてのみ、ケプラーの楕円軌道説を採り入れた。日本では寛政の改暦(寛政九年、1797)の際に研究され、寛政暦には太陽・月の楕円軌道が導入された。しかしながら惑星については上下編のままの円運動とした。  
「太陽窮理了解説(たいようきゅうりりょうかいせつ)」 寛政四年(1792) 本木良永(もときりょうえい)訳   
「暦象新書」寛政十年(1798)自序 志筑忠雄(しづきただお)  
本木良永(1735-1794)は長崎の通詞の職にあり、蘭語に通じていた。中国を介さず、直接蘭書から知識を得られる立場にあったため、日本に初めてコペルニクスの地動説を紹介することになった。「太陽窮理了解説」は英ジョージ・アダムスの天文書(ラテン語版1766、蘭語版1770)を和訳したもので、ここでは地動説はすでに自明のものとして採り入れられている。また惑星の運動についてもケプラーの楕円軌道論に基づいている。同じく長崎通詞出身で、本木良永の弟子でもあった志筑忠雄(1760-1806)は、英ジョン・ケイル(1671-1721)の著作(ラテン語版1700、蘭語版 "Inleidinge tot de waare Natuur-en Sterrekunde" 1741)を翻訳し、『暦象新書』(寛政十年−享和二年、1798-1802)を書いた。あくまで観念的な理解にとどまった本木に対して、志筑はニュートン力学を解したうえで地動説を論じている。ちなみに地動説という言葉を造ったのは志筑忠雄である。  
「新巧暦書(しんこうれきしょ)」 天保七年(1836) 渋川景佑(しぶかわかげすけ)、足立信頭(あだちしんとう)  
享和三年(1803)、高橋至時(たかはしよしとき)は幕府から仏の天文学者ラランデ(1732-1807)の著作の蘭語版『Astronomia of Sterrekunde』(1773-1780)の調査を命じられた。至時は本書に魅入られ熱心に翻訳したが、完成の前に亡くなり、以後を間重富(はざましげとみ)、高橋景保(たかはしかげやす)、渋川景佑らが引き継いだ。そうしてできあがったのが『新巧暦書』であるが、ラランデの天文書を純粋に翻訳したのではなく、日本の伝統的な暦書のスタイルに編纂しなおした体裁となっている。ここへ至ってついに惑星運動の計算には楕円軌道が採り入れられた。本書は後に天保の改暦(天保十三年、1842)の礎となったが、これは中国の暦書に倣うのではなく、蘭書を基にした初めての改暦であり、また江戸時代最後の改暦となった。  
地動説のもたらしたもの  
地動説は単なる惑星の軌道計算上の問題のみならず、世の哲学者、科学者らに大きな影響を与えた。地動説の生まれた時代を科学革命の時代とも言うのは、それほどまでに科学全体に与えた、そして、科学が人間の生活に影響を与え始めた時代であることをも反映している。  
“常識をひっくり返す(証明されている)新説”を「コペルニクス的転回」などと呼ぶのは、その名残である。
ガリレオ裁判  
ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。代表的なものは木星の衛星で、この発見はもし地球が動くなら、月は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にするものだった。また、ガリレオは金星の満ち欠けも観測。これは、地球と金星の距離が変化していることを示すものだった。またガリレオは太陽黒点も観測。太陽もまた自転していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、後に潮の干満は月の引力によるものだとして、否定された。  
ローマ教皇庁は1616年に、コペルニクス説を禁ずる布告を出した。地動説を唱えたガリレイは、1616年と1633年の2度、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。この時の「それでも地球は回っている」の呟きは、実際にそう呟いたという確固たる証拠は存在しないが、伝説として現在に至るまで語り継がれている。  
ガリレオ裁判以降  
たとえガリレオが異端の判決を受けたとしても、当時のローマ教皇にはイタリア国外での権力は事実上なかった。ヨハネス・ケプラーは、神聖ローマ帝国皇室付数学官(宮廷付占星術師)でありながら、平然と地動説を唱え続け、著書がローマ教皇庁から禁書に指定されても、それを理由に迫害を受けることはなかった。コペルニクスの説はその主張に反して周転円を含む不完全なものであったので、ケプラーは観測記録などからこれを楕円軌道に修正した。さらに『ルドルフ表』(ルドルフ星表)を作り、1627年、公刊した。それ以前の星表の30倍の精度を持つルドルフ星表は急速に普及し、教皇庁が何と言おうと、惑星の位置は地動説を基にしなければ計算できない時代が始まりつつあった。  
しかし、ケプラーもガリレオも、まだ、鳥が何故取り残されないのか、地球が何故止まらないで動き続けているのか、という疑問には正確な答えが出せないままでいた。これを完成させるのは、アイザック・ニュートンの登場を待つ必要があった。ニュートンが慣性を定式化することにより、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となったのである。  
ただ、その証明を確固とするには、ジェームズ・ブラッドリーの光行差の発見も必要となる。  
蛇足ではあるが、ローマ教皇庁ならびにカトリックが正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは、1992年の事である。しかも、それはガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオの異端決議を解く際の補則、という形での表明であった。ガリレオの死から359年が経過していた。
地動説と宗教  
地動説の解説の際、必ずといっていいほど、地動説がキリスト教の宗教家によって迫害された、という主張がされるが、これには異議をとなえる意見もある。このため、両論を併記する。  
迫害されたとされる理由  
ニコラウス・コペルニクスは、迫害を恐れ、説の完成後も30年に渡って発表をためらった。発表も死の直前であった。  
『天体の回転について』は、迫害を恐れる印刷業者によって、「純粋に数学的な仮定である」という但し書きが著者に無断でつけられて刊行された。  
発表後も、地動説に賛同する天文学者は出なかった。明らかに正しいはずの地動説に対して天文学者たちがこのような行動をとったのは、迫害を恐れたためである。  
マルティン・ルターは、コペルニクス説について、「この馬鹿者は天地をひっくり返そうとしている」と述べ、地動説を否定した。結果、プロテスタントでも、地動説はアイザック・ニュートンの登場まで迫害の対象となる。  
地動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノは、1600年に火刑に処された。  
ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために迫害された。  
1616年にローマ教皇庁は地動説を禁じた。  
1633年に時のローマ教皇ウルバヌス8世は、自らガリレオ・ガリレイに対する第2回宗教裁判で異端の判決を下した。この背景には三十年戦争によるカトリック勢力の回復策が要求されていた事が挙げられる。  
『天体の回転について』は、1616年に1835年までローマ教皇庁から禁書にされた。  
以上の諸点では、二つの論旨が入り交じっている。「地動説が教会から禁止された」ということと、「教会が実際に地動説を信じる者を迫害した」ということだ。前者は正しいが、後者は必ずしも正しくない。教会は地動説を蹴落とそうとしたが、実際に蹴落とすためには蹴落とすための権力を要する。以上の諸点では、この二つのことが混同されている。そのせいで、論旨としては、必ずしも正しいものではない。  
反論  
これに対し、地動説への迫害と思えるものは、単にガリレオがイタリア内での権力闘争に巻き込まれたためで、ガリレオを迫害するために地動説が理由に使われただけだという主張もされる。この理論の根拠は次のとおり。  
コペルニクスが自説の発表をためらったのは、万一、誤りであった場合、自分やカトリック教会の名誉や権威が失墜するのを恐れたためである。  
コペルニクスの地動説は、写本の形で1514年ごろから流布しており、もしそれを迫害・禁止するのなら、刊行以前に発禁・焚書になるはずである。  
コペルニクスは、死期が近づく前に、自説の解説本をプロテスタントであった弟子のレティクスの名で刊行しているが、両者ともに迫害を受けていない。  
『天体の回転について』には、ローマ教皇への献辞がある。当時、献辞を書くには相手の許可が必要だったはずであり、このことからも当時カトリック教会が地動説を迫害しなかったのは明らかである。  
グレゴリオ暦への改暦に際して、ローマ教皇グレゴリオ13世が直々に設置した改暦委員会は、改暦に必要な1年の長さの算出に、コペルニクスの『天体の回転について』の数値も使用した(もちろん、他の学者の数値も使用した)。  
プロテスタントであったマルティン・ルターが批判したのは、カトリック教会そのものである。ルターが地動説を批判した理由は、たんに地動説を唱えたコペルニクスがカトリック教会の司祭だったからである。またルターは総じて人文主義などの古典や自然学の研究には批判的であった。  
『天体の回転について』(1543年公刊)の印刷担当者はプロテスタントである。プロテスタントは前述のルターの例で分かるとおり、地動説には当初から批判的であった。これが影響して無断で前文が書き足されたと考えられる。  
地動説にすぐに賛同する天文学者があまり出なかったのは、コペルニクスの値の精度が悪く、天動説で計算したときと比べ、惑星の位置があまり正確に算出できなかったためである。その証拠に、ヨハネス・ケプラーがもっと精度のよい『ルドルフ星表』を出すと、瞬く間に全ヨーロッパの天文学者がこれを使いはじめた。  
ジョルダーノ・ブルーノが火炙りになったのは、太陽が中心だと言ったからではなく、同時にカトリック教会を激しく批判したためである。また、ブルーノは天文学を教えた形跡はあるが、天文学者ではない(天体計算などを行っていない)。ブルーノの説の中の天文学に関する部分で、教会を最も怒らせた部分は、太陽はその他の恒星と同じ種類の星で、特別な星ではない、また宇宙には特定の中心はなく、その意味で地球も特別な星でないと述べた部分である。もちろんブルーノのこの説は正しいし、当時同じように考えていた天文学者もいたと考えられているが、そう主張する者は当時はまだいなかった。  
ガリレオ裁判は、地動説を裁いたものではなく、当時、出世しはじめていたガリレオの出世の道を閉ざすために、政敵がしくんだ罠であり、地動説はそのための理由に使われただけである。その証拠に、地動説を唱えて異端とされた人物は、ガリレオ以後、誰もいない。またガリレオ以前にもいない。(ブルーノの有罪容疑にははっきり地動説とは書いてない)この時代、ローマ教皇庁が地動説を禁じたのは事実であるが、これはガリレオを有罪にするために、先に理由をつける必要があったためである。  
ガリレオは敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学の問題については教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従う事を拒絶し、哲学や宗教から科学を分離する事を提唱した。この事がガリレオ裁判に於いて、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果につながったと言われる。実際、時の教皇ウルバヌス8世は当初はガリレオを支持していたが、その後は掌を返したようにガリレオを非難する声明を何度も発した。  
『天体の回転について』は、1616年、ガリレオ裁判の始まる直前に、禁書リストに挙げられたが、十ヶ所の修正を行うまでという条件付きである。1620年には削除すべきとされた箇所が設けられた。  
地動説が批判された理由と考えられているもの  
聖書には、神のおかげで大地が動かなくなったと記述されており、キリスト教の聖職者は、大地が動くことが可能だと主張するのは神の偉大さを証明できるので、問題がないが、大地が動いていると主張するのは、神の偉大さを否定することになると考えたとされる。  
1539年にマルティン・ルターが、最初に宗教的な問題として地動説を批判した。ルターは旧約聖書のヨシュア記でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した。  
ガリレオ裁判の最高責任者だったロベルト・ベラルミーノ枢機卿は、大地の可動性を立証できると信じるが、大地の運動を証明できるかは疑問に思うと述べた。  
アリストテレスの流れをくむスコラ学の学者は、天動説を唱えたアリストテレスの理論が否定されるのを問題視したとされる。  
カトリック教会が、ガリレオの『天体対話』の中で、地動説を唱える貴族に言い負されるアリストテレス派の学者はローマ教皇・ウルバヌス8世をあてこすったものだと考えたとされる。  
カトリック教会は太陽が教皇の象徴だと考えていたので、太陽が中心にあるという考えについては問題視しなかったとされる。教皇庁が1620年にコペルニクスの『天体の回転について』に対して訂正を求めたときには、宇宙の中心に関する記述より地球の運動に関する記述が問題視されたと言われている。   
 
天動説と地動説 2

 

1.地動説と宗教裁判  
みなさんは、「地球が太陽の回りを回っている。」という話を聞いたことがありますか。これが、16世紀にコペルニクスが唱えた地動説です。  
当時は「地球の回りを太陽やわく星やそのほかの星々が回っている。」という天動説が信じられていました。空を見れば太陽や星は東から出て西にしずみます。地面が動いていることなどまったく感じません。地球が止まっていて天が動いていると考えるのは当然です。  
そのころの人は「地動説」を唱える人たちを、「人々をまどわすわす大うそつき」だと思いました。実際、宗教改革で有名なルターなども  
「地球が動いて、太陽が動かないなどとデタラメなことをいって世の中の人をまどわすのは、まったくけしからん。」  
というようなことをいっています。  
そこで、地動説をさらに発展させて、  
「私たちが住むような世界(太陽系)は、この宇宙の中に無数にある。」  
と唱えたブルーノという人は、「いくら注意をしても人をまどわすデタラメを言い続けた。」として、火あぶりのけいに処せられました。  
また、自分で作った望遠鏡で天体観測をして「地動説」を正しいと確信して広めたガリレオも「宗教裁判」にかけられ「地動説は間ちがいいでした。」と言わされました。そのとき「それでも地球は動いている。」とつぶやいたという話はあまりに有名です。
2.アリスタルコスと地動説(1)  
地動説というと最初に唱えたのはコペルニクスであると思われています。しかし、実は今から2300年も前(紀元前301年ごろ)に地動説を唱えた人がいました。古代ギリシアのアリスタルコスという人です。  
こんなことを言うと、  
「確かにそうかもしれないが、そんな昔にはくわしい観測などできなかっただろうから、その説は頭で想像しただけで、科学的とはいえないのじゃないのかな。科学的なしょうこをもとにして地動説を唱えたのはやはりコペルニクスが最初じゃないのかな。」  
そんなふうに思う人がいるかもしれません。本当はどうなのでしょう。アリスタルコスの考えた過程をいっしょにふり返ってみましょう。
アリスタルコスの地動説 / すばらしい幾何学の応用  
アリストテレスたちが、地球を中心にそのまわりを太陽が回っている(天動説)と考えていた頃、古代ギリシャのアリスタルコスは空に浮かぶ半月を見て次のように考えた。「月は球形だから、月のちょうど半分が照らされているのは太陽光が真横からあたっているからにちがいない。太陽S、半月M、地球Eとすれば、三角形SMEは、角SMEを直角とする直角三角形となる。ここで角SEMを測れば、角MSEも求められて直角三角形SMEの相似形がかける。そうすれば、太陽は、月の何倍の距離にあるかがわかる。月と太陽は肉眼ではほとんど同じ大きさに見えるから太陽が月の何倍の大きさか比べられる。さらに地球は月の約3倍なので太陽が地球の何倍か見当がつく。」と・・・そこでアリスタルコスは、実際に太陽と半月の角度を測定して87度を得た。角ESM 90-87=3度となる               それで直角三角形SMEを描き、MEを基にしてSEを測ると19倍を得た。「太陽は、月の19倍大きい。地球の直径は、月の約3倍なので太陽は、地球の約6倍の大きさだ。その重さは、地球の約200倍以上となるだろう。」ここまで調べてアリスタルコスは、次のように結論づけた。  
「これで太陽は、地球よりずーと大きいことがわかった。地球よりはるか に大きなものが地球のまわりを1日1回まわっていると考えるのは不自然だ。だから天動説は、まちがっている。きっと小さい地球が大きい太陽のまわりをまわっているにちがいない。」  
当時の測定精度は高くなかったので、かなり数字に誤差があります。実際の太陽は、距離が月までの約390倍、重さは地球の約33万倍です。しかし、これでも太陽と地球を比べる上では、まぎれもなく太陽の巨大さを推定できるものです。2000年以上前に手製の観測器具と初歩的な幾何学を用いてこれだけの結論を得たことは、すばらしいことです。これは客観的事実の上に立った数学的な帰結であり、古代人でありながらアリスタルコスの合理的な思考展開には驚かされるばかりです。  
3.月の満ち欠け  
月の形を毎日見ているとイのように変わります。どうしてでしょうか。  
月を眺めると、月は天に張り付いたお盆のようにも見えます。しかし本当は丸い球のような形をしています。月は遠くて立体的には見えないので、お盆のように見えるのです。そして月は地球のまわりを約1ヶ月で回っています。  
ではその月を地球から見たらどのように見えるのでしょうか。  
まず月は光を出していないので、太陽の光が当たらないと地球から見ることができません。ですから月の太陽に面している半分だけが見えることになります。月は丸いものなのに、いろいろな形に変わって見えるのは、太陽に照らされている月の部分だけが見えるからです。
4.日食の話  
地球から見ると月と太陽はほとんど同じくらいの大きさに見えます。  
そこで、月がちょうど太陽の間にはいると、太陽が月の後ろにかくされてしまうことがあります。それが日食です。  
太陽と地球の距離は季節によって少し変わるので、地球から見た太陽の大きさはほんの少し違って見えます。  
また、月と地球の距離も日によって変わるので、地球から見た月の大きさも変わります。  
そこで地球から見ると、時によって月の方が太陽より大きく見えたり、小さく見えたりします。月が大きく見えるとき日食になると、太陽は月に完全にかくされます。こうなったとき皆既日食といいます。  
逆に月の方が太陽に比べて小さく見えるとき日食になると、月は太陽を全部かくすことができず、太陽の周りが月からはみ出して輪のようになります。これを金環食といいます。  
時によって皆既日食になったり金環食になったりするくらいですから、地球から見た太陽の大きさと月の大きさはほとんど同じということができます。
5.アリスタルコスと地動説(2)  
地球からみた太陽と月の大きさはほとんど同じです。アリスタルコスは、「太陽と月の本当の大きさはどうなのだろう。何とか知ることはできないだろうか。」と考えました。そして、次のような方法を考えました。  
「月が半月の時、太陽は月を真横から照らしている。そのとき太陽と月がつくる角度を測れば、三角測量の方法で地球から月・太陽までの距離の比がわかるはずだ。」  
アリスタルコスはさっそく月が半月になる時を待って測定し、87度という結果を得ました。(正しい値は89度50 分です。)  
そして太陽は月より19倍も遠いところにあることを知りました。月と太陽の見かけの大きさが同じことを考えると太陽は月より直径で19倍も大きいことになります。
6.月食の話  
次にアリスタルコスは月や太陽が地球の何倍大きいか知る方法はないかと考えました。そして、月食を観測すれば月と地球の大きさをくらべることができることを思いつきました。  
満月が下の図のようにかけていくことがたまに起こります。これが月食です。  
これは月が地球のかげに入るためです。ですから月にうつる地球のかげの形から地球の大きさがわかります。  
そうして求めると地球のかげの直径は月の約3倍です。しかしかげは地球をはなれるにつれて小さくなるので地球の直径が月の3倍というわけではありません。実際の地球の直径は月の約4倍です。  
しかし、アリスタルコスは地球の直径は月の約3倍と考えたようです。
7.アリスタルコスと地動説(3)  
アリスタルコスは体積にして、月は地球の1/25、太陽は地球の300倍の大きさと推測しました。もちろん当時は月と同じように太陽も地球の回りを回っていると考えられていました。しかし、アリスタルコスはその説に疑問をもちました。  
「地球の300個分の大きさをもつ太陽が、ちっぽけな地球のまわりを回るなんてことがあるのだろうか。むしろその逆だと考える方が自然じゃないのかな。」  
アリスタルコスはそう考えて、「地動説」を発表したのです。しかし当時のえらい学者たち(ストア学派)からは、「地球が動いているだなんて、そんなバカげた説は信じられない。そんな考えは神への冒涜だ。」と激しく非難されました。  
アリスタルコスの推測は現在わかっている正しい値に比べると非常にひかえめなものでした。太陽は月より400倍も遠くにありますので、太陽は地球の何と130万個分の大きさだったのです(重さでいうと地球の33万個分)。  
しかし値はともかく、アリスタルコスは「そのように大きな太陽が、くらべものにならないくらい小さな地球のまわりを回るということこそ信じられない。」と考えたのです。
8.天動説 / プトレマイオス 
古代ギリシア人は、一部の学者をのぞくと、すべての星は地球を中心にして円運動をしていると考えていました。  
しかしそれでは、わく星の複雑な動きは説明できません。そこでプトレマイオスという人は、それまでの学者の考えを集大成して、わく星の動きをきわめて正確に説明できる天動説を唱えました。わく星は単に決まった軌道上を回るのではなく、軌道上に中心がある小さな円軌道(周転円)の上を、1年の周期で回ると考えたのです。そして、それでもうまく観測に合わないときにはさらに周転円を重ねたり、中心をずらすなどの修正をほどこしました。こうして大変良い精度でわく星の動きを説明することに成功しました。
9.地動説ふたたび / コペルニクス 
こうして十分な精度でわく星の動きを説明できることになると、天動説に疑問をもつ人はほとんどいなくなりました。  
しかし、問題が解決された訳ではありません。たとえば水星と金星は太陽からある決まった角度以上はなれることはありませんが、その理由は説明できません。また、わく星が太陽のまわりを回る周期はまちまちですが、周転円の上を回る周期はなぜかどのわく星も1年です。その理由も説明できません。  
「わく星の動きが正確に予測できるのだから、そんな細かなことはどうでもいいではないか。」  
多くの学者はそう考えていました。しかし、そうした天動説に疑問を持ち、満足できない人もいました。ポーランド人のコペルニクスです。  
「確かにわく星の位置を正確に知ることはできる。しかし、理論的には矛盾だらけだ。しかもわく星が実際どこにあってどのように運動しているのか、全く答えてくれない。宇宙の本当の姿が知りたい。」  
コペルニクスは当時起こった古代の学問を見直す世の中の流れ(ルネッサンス)の中で、古代の学者の本を読みました。自分の疑問を解決するヒントが得られないかと考えたからです。そして、古代にも地動説を唱えていた人のいることを知りました。  
「これだ!これが本当の宇宙の姿だ!!」  
コペルニクスはそれまで疑問に思っていたことすべてが「地動説」ならば解決することがわかり、たいへん喜びました。  
わく星の複雑な動きは、動く地球の上から見ていたためだったのです。周転円を動く周期が1年なのは地球が太陽のまわりを回る周期が1年だったからです。水星と金星が太陽からある角度以上はなれない理由もわかります。この二つのわく星は地球の内側を回っていたのです。惑星の配置(距離)を知ることもできます。  
コペルニクスは「天球の回転について」という本で、当時忘れ去られていた地動説を発表しました。しかし、地動説はなかなか受け入れられませんでした。
10.地動説の証拠  
「プトレマイオスの天動説」と「コペルニクスの地動説」の図を見比べながら、陽一郎君と花子さんが話し合っています。  
陽一郎「水星や金星を望遠鏡で見れば、天動説が正しいか地動説が正しいか、わかるのではないかな。」  
花子「え。どうして。」  
陽一郎「天動説では、地球から見た場合、水星や金星はいつも太陽を背にしているから、三日月のように欠けて見えるはずでしょ。絶対半月型や丸い形に見えることはない。でも地動説が正しいなら三日月型の時もあるが、半月型や満月型に近い形の時もあるはずだ。」  
花子「なるほど。それじゃ、水星や金星を観察して半月型や満月型になるときがあるかどうかを調べればいいのね。」  
みなさんも、「プトレマイオスの天動説」と「コペルニクスの地動説」の図を見比べながら考えてみてください。  
望遠鏡で見ると、水星や金星は本当に月のように欠けたりして見えるのでしょうか。  
水星・金星の観測 / 水星はいつも太陽の近くにあるのでちょっと見つけづらいわく星です。コペルニクスは水星を1度も見たことがなかったという話もあります。でも金星は、その名の通りたいへん明るく輝く星で、太陽からかなりはなれるのでずっと見やすいわく星です。望遠鏡を使えば昼間でも見ることができます。最も明るいときには、肉眼で見ることもできるくらいです。そして望遠鏡で観察すると、三日月型に見えるときもありますが、地球からみて太陽から最も離れたときには半月型に、地球から最も遠くはなれたときには満月に近い形に見えます。これは地動説が正しいことのしょうこです。できたら先生に見せてもらいましょう。
11.どちらが正しいかは精密な観測で /  ティコ・ブラーエ 
コペルニクスが「天球の回転について」という本で地動説を発表して以来約1世紀にわたって、天動説を信じる学者との間で論争が続きました。  
ティコ・ブラーエという人は「どちらが正しいかは精密な観測で証明される」と考え、星の位置観測を続けました。  
「もし地球が太陽の周りを回っているなら1年の周期で星の見える方向がずれるはずだ」と考えたのです。その結果、ティコは「わく星は太陽の周りを回り、太陽は地球の周りを回る」という独自の天動説を唱えました。いくら精密に観測しても、星の見える方向に変化はなかったからです。  
その後ティコは自分の説を確かめるため、16年間にわたって火星の位置変化を、肉眼としてはおどろくべき精度で観測しました。そのたくさんの観測結果を、数学にくわしい弟子のケプラーにあずけて、なくなりました。
12.惑星の軌道は楕円 / ケプラー 
ティコの弟子で、火星のたくさんの観測資料を使うことを許されたケプラーは、わく星の運動の法則を発見する努力をしました。ティコは独自の天動説を考えていたのですが、弟子のケプラーは、実は地動説を正しいと思っていました。  
ケプラーは火星の観測結果を用いて、地球の軌道を決定しようと考えました。火星が太陽の周りを回る周期(公転周期)は687日です。687日ごとに火星は元の位置に戻ってきます。その時の火星の位置(方向)から地球の軌道を求めたわけです。ケプラーは地球の軌道は中心のずれた円(離心円)であると考えていました。そこでその中心のずれ(離心率)と円の大きさをを求めたのです。  
次に、そうして求めた軌道上を地球がどのように動くかという法則を見つけようとしました。そして、地球が太陽から遠いときはおそく、近いときは速いことを知りました。ケプラーは「わく星の速さは太陽からの距離に反比例する。」という仮説をもとに検証しました。そしてついに「わく星と太陽を結ぶ線分が単位時間にえがく面積は一定である。」という正しい法則を発見しました。これを「ケプラーの第2法則」または「面積速度一定の法則」といいます。  
次にケプラーは、求められた地球の軌道をもとに火星の軌道を決めようとしました。火星の軌道も当然中心のずれた円軌道だと思っていたのですがどうもうまくいきません。また、先に発見した面積速度一定の法則も正確にはあてはまりません。ケプラーは頭をかかえました。  
「どこが間ちがいなのだろう。角度にして8分ほどのずれがある。ティコ先生の観測は正確で誤差はせいぜい1〜2分のはずなのに。」(角度の1分は1度の1/60です。)  
そして、ケプラーはティコの観測結果と合わない原因をひとつひとつ検討していきましたがわかりません。そして最後に、「そもそも、火星の軌道を円と考えていることが間ちがいではないだろうか。」と考えました。これは、それまでだれも疑ったことのないことでした。  
「天の世界は完全だから軌道は円以外考えられない。」だれもがそう考えていたのです。「円でないとしたらわく星はいったいどんな軌道をえがいているのだろう。」円でない軌道は無数に考えられます。それからのケプラーは、いろいろな軌道を仮定しては計算して確かめるという研究を続けました。そしてついに火星の軌道はだ円軌道であることをつきとめたのです。  
こうしてケプラーは「わく星は太陽の周りを、太陽を一つのしょう点としただ円軌道をえがく。」という法則(ケプラーの第1法則)を発見しました。
13.世界の調和 / ケプラーの調和の法則 
ケプラーは若いころから「宇宙の調和」という考え方に強い関心を持っていました。「宇宙には精密な調和があるにちがいない。」と強く信じていました。第1・第2法則を発見した後、ケプラーはわく星たちの運動をたがいに関係づける規則性を追い求めました。そして10年後、ついに第3の法則を発見しました。それは、「わく星の公転周期の2乗は、太陽からの平均距離の3乗に比例する。」というものです。ケプラーは「これこそ長い間、追い求めてきた宇宙の調和だ。」ということで、「調和の法則」と名付けました。こうしてケプラーは、わく星の運動に関する3つの法則を発見しました。  
ケプラーの法則  
【第1法則】わく星は太陽の周りを、太陽を一つの焦点としただ円軌道をえがく。  
【第2法則】わく星と太陽を結ぶ線分が単位時間に描く面積は一定である。  
【第3法則】わく星の公転周期の2乗は、太陽からの平均距離の3乗に比例する。  
この時代まで、コペルニクスの地動説では、プトレマイオスの天動説のようにわく星の動きを正確に表すことができませんでした。長い年月をかけていくつもの周転円を使い、改良に改良を重ねた天動説の方が正確なのは、いわば当たり前なのです。しかし、ケプラーの3法則によって、地動説でもわく星の動きを天動説と同じように正確に予測することができるようになりました。
14.そのころガリレオは / 慣性の法則 
そのころ、ふり子の等時性や落下の法則などで有名なガリレオは、自作の望遠鏡を使って宇宙の神秘をさぐっていました。そして、月のクレータや太陽の黒点、土星の輪などを発見しました。  
また、木星の周りを回る4つの衛星を発見しました。それらの衛星は今でも「ガリレオ衛星」と呼ばれています。その様子はコペルニクスが主張する「地動説の宇宙」の模型のようでした。ガリレオも地動説を支持していました。そして、これらの発見をもとにして「星界の報告」や「天文対話」という本を書きました。  
ケプラーがわく星のしたがう法則を研究して、地動説の正しいことを証明したころ、ガリレオは地動説にまつわる大きな問題を解決しました。それは物体の運動に関する非常に基本的な問題です。「地球が動いているなら手をはなれた石が落ちている間に地面が動くので真下に落ちるはずはない。石が真下に落ちるのは地球が止まっているしょうこである。」天動説を支持する人はそう言って地動説を信じる人に反論しました。ガリレオは、動く船のマストから石を落としても石は真下に落ちることから、「一定の速さで動く物体の上では、止まっているときと同じ力学法則がなりたつ。」という「ガリレオの相対性原理」を発見しました。そして、「相対性原理」が成り立つためには、それまで信じられていた「力と運動の関係」を根本から見直さなければならないことに気づきました。  
それまでは、「物体に力を加えなければ、動いている物体は必ず止まる。物体が動き続けるためには常に力が働いていなければならない。」と考えられていました。しかしガリレオは「動く船の上で手をはなれた石が真下に落ちるためには、石は船と同じ速さで動き続けながら落ちなければならない。したがって、『物体に力が働かないとき、動いている物体はその速さを保って動き続ける』はずだ。」と結論したのです。これは「地動説」と同じように、それまでの常識をくつがえす大発見でした。これを「慣性の法則」と言います。(後にニュートンが「運動の第1法則」として次のようにまとめました。)  
【運動の第1法則】慣性の法則 / 物体に力が働かない場合、静止している物体は静止し続け、運動している物体は、その速度を保って等速直線運動を続ける。  
ところで相対性原理といえば、「ガリレオの相対性原理」のほかに「アインシュタインの(特殊)相対性原理」というものもあります。この原理は「ガリレオの相対性原理」をもっと一般化したものです。すなわち、「相対的に一様な速度で運動しているものの中(あるいは上)では、力学法則だけでなく、光や電気・磁気など、あらゆる物理法則が全く同じになる。」というものです。
15.ニュートンの発想  
次にくるのがニュートンです。ニュートンはガリレオの後を継いで、物体に力が働いた場合の法則を発見しました。「物体はまっすぐに走らない場合もある。これはどうしたわけだろう。」ニュートンの結論はこうでした。「たとえば動いている物体を後ろからおせば物体は加速する。反対向きなら減速する。横から力を加えれば、速さは変わらないが運動の向きが変わる。どんな場合にせよ、物体の速さと向き、つまり速度を変えるには、とにかく力が必要なのだ。」  
こうしてニュートンは「運動の法則」を発見しました。  
【運動の第2法則】運動の法則 / 物体に力を加えると、力の向きに加速度を生じる。その加速度は加えた力に比例し、物体の質量に反比例する。  
こうしてニュートンは、わく星が太陽の周りを運動するとき、その接線方向には何の力もいらないことを見抜きました。しかし、わく星に力が全然働かなかったら、わく星はまっすぐ進ばかりです。実際にはわく星は直線運動を続けるわけではありません。力が働かないとしたら直進していったはずの所(P’)よりも、ずっと太陽によったところ(P”)まで軌道がねじ曲げられます。その結果として、ケプラーの言うように楕円軌道を描くのです。  
わく星が太陽の周りを回るためには、常に太陽に向かう力が働いていれば良いことを知ったニュートンは、「この力はおそらく太陽がわく星を引っ張るためだろう。」と考え、そのわく星を引っ張る力の法則を発見しようとしました。  
ニュートンは数学の天才でもありました。自分で微分・積分という新しい数学を発見してしまうほどでした。  
わく星の運動はケプラーの3つの法則で完ぺきに説明できます。ニュートンはケプラーの3法則が成り立つためにはどんな力が働けばよいのかを、得意な数学を使って考えました。そして、面積速度が一定というケプラーの第2法則は、「わく星に働く力が常に太陽の方向を向いてさえいればよい」ことを証明しました。  
また、「わく星の公転周期の2乗は、太陽からの平均距離の3乗に比例する。」という第3法則が成り立つためには、「その力が太陽からの距離の2乗に反比例して弱まっていく。」とすれば良いことを発見し、同時に、そのような力が働けば「わく星の軌道はだ円になる。」という第1法則も証明できました。  
これまでのところ、実はニュートンは何もしなかったのと同じです。なぜなら、ニュートンはケプラーが発見したことを別なことば(数式)で表現しただけにすぎないからです。実際ニュートンはこの世紀の大発見をたいしたこととは考えず、すぐに発表しようとはしませんでした。何十年かして、ハレー彗星で有名なハレーがそれを知って、急いで発表するように促しました。それでようやく発表したのです。そのためニュートンと独立に同じ法則を発見したフックとの間で先取権争いの論争を巻き起こすことになりました。同じようなことは微分・積分の発見についても、ライプニッツという人との間で起きました。  
ニュートンは力というものの根本的な性質に関する法則も発見しました。作用反作用の法則といいます。これについては別な機会に詳しく勉強しましょう。  
【運動の第3法則】作用反作用の法則 / 物体Aが物体Bに力をおよぼすとき、物体Bは物体Aに力を加え返す。それらの力は同一作用線上にあり、大きさは等しく向きは反対である。
16.ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て「万有」引力の法則を発見した  
よく「ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て、万有引力の法則を発見した。」と言われます。これは本当でしょうか。今までのお話を聞いてきたみなさんは、「そんなのうそだ。」と思うでしょう。「太陽がわく星を引っ張る力は、距離の2乗に反比例する。」という法則はケプラーの3法則から数学的に導かれたものです。リンゴが木から落ちるのを見て発見されたわけではありませんし、また発見されるはずもありません。  
本当はどうなのでしょう。しかし、「全くの嘘とはいえないのではないか」という人もいます。その人はこう想像します。  
当時すでにガリレオによって、木星の周りを4つの衛星が回っていることが知られていました。それは小さな太陽系みたいなもので、衛星は木星に引っ張られているようでした。月も地球に引っ張られてその周りを回っています。そして月というのはガリレオによって、地球と同じく山や谷があり、大きな岩石の固まりであることがわかっていました。  
そこでニュートンは次のように考えました。  
「ケプラーの3法則を成り立たせる力は、別に太陽特有のものではないようだ。木星と衛星、地球と月との間に働く力も同じものだろう。ということは、どんな天体も他の天体を引っ張るとは言えないだろうか。いや、まてよ。ガリレオが明らかにしたように、月は大きな岩石のようなものだ。地球だって岩の固まり。岩が岩を引っ張っている。…・。」  
ニュートンがそんなことを考えているとき、リンゴが木から…。  
「そうだ!きっとそうだ!天体ばかりでなくすべての物体に他の物体を引っ張る力があるのだ!!月が地球の周りを回っているのは、地球が月を引っ張るから。リンゴが落ちるのも地球がリンゴを引っ張るから。地球というのは岩の固まり。岩の固まりがリンゴを引っ張る。月という岩を引っ張る。そうだとしたらそこに転がっている岩だってリンゴを引っ張っているはずだ。」  
こうして、ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て、「すべての物体が他の物体を引く。」という「万有」引力の法則を発見しました。  
ニュートンは、さらに自ら発見した作用反作用の法則と、物体に働く重力がその物体の質量に比例することを使って次のように結論しました。  
【万有引力の法則】すべての2つの物体間に引力が働き、その引力の大きさはそれらの質量の積に比例し、距離の2乗に反比例する。  
ニュートンの「万有引力の法則」は、ケプラーの3法則を説明するために生みだされたのですが、ニュートンのすばらしさは、単にそれにとどまらず、月を軌道に引き止めている力が落下する物体(リンゴや石)に働く力と同じものであり、またすべての物体間に働くものであることを見ぬいたことにあると思います。  
こうしてニュートンは「力の法則」の一つである「万有引力の法則」と「運動の法則」を発見しました。「力の法則」は「万有引力の法則」以外にもいくつもありますが、「運動の法則」は一つしかありません。「運動の法則」がいくつもあって、みんな違う答えを出されたら困ってしまいます。  
たった一つしかない「運動の法則」を発見したのですから、ニュートンがいかにすばらしかったかわかるでしょう。
17.月は落ちている  
月が地球のまわりを回るということは、月が地球に「落ち続けている」ことを意味します。地上の物体は1秒間に5m位落ちます。では地球の半径の60倍離れた月は1秒間にどのくらい落ちているのでしょうか。  
陽一郎 60倍離れていると地球の引力は弱まるので落ちる距離は小さくなるのかな。  
花子 そうね。5mの1/60で10cm位かしら?  
陽一郎 いや、違うよ。万有引力は距離の2乗に反比例するというのだから、1/60の2乗で1/3600に力は弱まるんじゃない?  
花子 あっ、そうか。計算すると、えーと、1〜2mm位かしら。  
陽一郎 確かに計算ではそうなるけれど、そう単純に考えていいのかな。
18.月が落ちる距離  
地球表面で物体は1秒間に正確には4.9m落ちます。そして月は地球の半径の約60倍離れたところを回っています。万有引力の法則によると、引力は距離の2乗に反比例します。ですから月の軌道あたりで地球の引力は、1/602=1/3600に弱まっているはずです。  
万有引力の法則をもとにすると、  
4.9m/3600=0.0014m=1.4mm  
月は約1.4mm落ちることになります。  
しかし、本当に月は1.4mm落ちているのでしょうか。万有引力の法則は本当に正しいのでしょうか。次にそれを確かめてみましょう。  
月は地球の半径の約60倍のところ、つまり384、000kmはなれたところを回っています。そこを約1カ月、正確には 27.3日で地球のまわりを1周します。このことから月の動く速さを計算すると、・・・となります。  
では、実際に1秒間に月が落ちる距離を計算してみましょう。図で△MM''Oと△M"M'Mは相似です。ところでMM”≒vですから、  
2R:v=v:h             
2×384000:1.02=1.02:h         
万有引力の法則から求めた月の落下距離と、月の公転周期が27.3日という事実から求めた落下距離はぴったり一致します。これは万有引力の法則が確かに正しいことの証明といえます。ニュートンも同じ計算をして「万有引力の法則」の正しさを確信したということです。
19.月を引く力は太陽の方が大きい  
月に働く地球の引力と太陽の引力ではどちらが大きいのだろう。「月が地球のまわりを回っていることを考えると、地球の引力の方が大きいのではないか。」そう思った人もいるでしょう。万有引力の法則を使って計算してみましょう。  
太陽−月間の平均距離は地球−太陽間の約400倍、太陽の質量は地球の約33万倍です。万有引力の大きさは、質量に比例し距離の2乗に反比例するので、地球が月におよぼす引力の大きさを1とすれば太陽の引力は  
つまり、月に働く太陽の引力は地球の引力より、2倍以上大きいのです。
20.月も太陽の周りを回っている  
太陽を中心にしてみると、月はどんな軌道を描いているのでしょう。大体の様子を描くと下の図のようになっています。実は月も太陽の周りを回っているのです。そして月に働く太陽の引力が向心力となっています。地球の引力は月の軌道を左右に揺らしているにすぎないともいえます。  
「月が太陽の周りを回るのは地球に連れられているからで、もし地球の引力がなくなれば月は太陽の周りを回らなくなるんじゃないかな。」  
そう思う人もいるかも知れません。いいえそんなことはありません。もし地球に引力がなかったとしたら、月は地球と同じ軌道をえがいて太陽の周りをなめらかに回ることになります。
21.宇宙遊泳の話  
スペースシャトルに乗った宇宙飛行士が船外に出て、宇宙遊泳をしている様子をテレビなどで見たことがあるでしょう。そのとき、宇宙飛行士に働く力は地球の引力だけです。スペースシャトルが人を引く引力は非常に小さくほとんど働いていないといって良いからです。しかしそのために宇宙飛行士が地球に落ちていったり、スペースシャトルから取り残されたりはしません。スペースシャトルと同じ軌道を同じ速さで回ります。宇宙飛行士はいわば一つの人工衛星(人間衛星)となって地球を回りつづけます。  
ところでそのとき、スペースシャトルの中や宇宙飛行士は無重力状態となっています。しかし、無重力状態といっても「重力(万有引力)が働いていない。」というわけではありません。「重力だけを受けた物体は、物体の質量に関係なくすべて同じ運動をする」ので無重力になるのです。このことは「等価原理」と呼ばれ、基本的にはガリレオが発見したことです。  
アインシュタインはこの「等価原理」と「一般相対性原理」をもとに「万有引力の法則」に代わる「一般相対性理論」を打ち立て、重力のなぞにいどみました。「一般相対性原理」というのは「特殊相対性原理」をさらに一般化したものです。「相対的に一様な速度で運動している場合ばかりでなく、どんな運動をしている乗り物の上や中でも、物理法則は同じになる。」という原理です。  
太陽の引力を受ける月や地球は、地球の引力を受けるスペースシャトルや宇宙飛行士と同じことです。月と地球は太陽の引力を受けていますが、いわば無重力空間に浮かんでいるといって良いのです。ただ地球の引力が働くために、月は地球の周りを回ります。ですから月を地球に引き留めておくための力は、太陽の引力より大きい必要はまったくありません。 
 
コペルニクスはなぜ地動説を唱えたのか 3

 

コペルニクスが、当時支配的だったプトレマイオスの天動説に反して地動説を主張したことは、宗教的迷信に対する科学の勝利と呼べるものではなかった。コペルニクスのモデルはプトレマイオスのモデルよりも正確でもなければ単純でもなかった。それにもかかわらず、コペルニクスが太陽中心の地動説を唱え、かつそれに魅了される天文学者が少なからずいたのは、当時太陽崇拝のネオプラトニズムが流行していたからであり、そしてそれは当時が近代小氷期と呼ばれる寒冷期であったことと関係がある。
1 コペルニクスの地動説に科学的合理性はあったのか  
地球上に存在する私たちが、地球は静止し、運動しているのは天体の方であるとみなすことは自然なことであり、古来、そうした地球中心の天動説が当然視されてきた。古代ギリシャの時代には、サモスのアリスタルコスなど、太陽中心の地動説を唱える者も少なからずいたが、彼らは異端として扱われ、ヨーロッパでは16世紀まで、地球中心の天動説が、キリスト教とも整合的なコスモロジーとして信じられてきた。  
厳密に言えば、地動説かそれとも天動説かという問題は、太陽中心説かそれとも地球中心説かという問題と同じではない。中世インドの数学者にして天文学者のアリヤバータは、宇宙の中心を地球としつつも、地球が地軸を中心に自転していることを認識していた。中世イスラムの物理学者、イブン・アル=ハイサムも同じような見解を取ったが、こうした地球中心の地動説は地球中心の天動説から太陽中心の地動説への過渡的形態と位置付けることができる。  
地球中心の天動説は多くの人によって提唱されたが、中でも、古代ローマの時代に現れたアレクサンドリアのクラウディオス・プトレマイオスの天文学は、最も理論的な完成度が高く、幾何学的に洗練されており、彼の著作『アルマゲスト(Almagest)』は、中世における最も権威のある天文学書であった。しかし、1543年に出版された『天球回転論(De revolutionibus orbium coelestium)』で、ニコラウス・コペルニクスは、プトレマイオスの地球中心の天動説を否定し、近代で最初に太陽中心の地動説を唱えた。  
以下の図の右側は、『天球回転論』に掲載されている天球の概略図で、この図では、地球の周りをまわっているのは月だけで、宇宙の中心に太陽(SOL)があり、その周りを、内側から順に、水星、金星、地球、火星、木星、土星が回り、一番外側には、不動の天球があることが示されている。図の左側は、同時代の地球中心説に基づく天球の概略図で、宇宙の中心は地球で、その周りを、内側から順に、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星が回っている。  
太陽中心の地動説は、その後、ヨハネス・ケプラーやガリレオ・ガリレイによって受け継がれ、近代天文学のパラダイムとなった。以下のアニメーションは、単純化された太陽(黄色の点)中心の地動説と地球(青色の点)中心の天動説に基づく火星(赤色の点)の逆行を説明するモデルであるが、前者の方が後者よりも火星の軌道が単純となる。だから、今日では、太陽系の惑星の運動は、太陽中心説に基づいて説明される。  
では、コペルニクスが太陽中心の地動説を唱えたことは、中世を支配していた宗教的迷信に対する科学の勝利とみなしてよいのだろうか。そうだと思っている人が多いが、実際にはそうではなかった。トーマス・クーンが言うように、「コペルニクスのシステムは、プトレマイオスのシステムと比べて、単純でもなければ正確でもない」からだ。  
どれだけ単純でも正確でもないかを具体的に確かめよう。コペルニクスの最終的な理論では、以下の図(a)に示されているように、地球は OE を中心とした円軌道で回転し、その OE は、O を中心にゆっくりと回転し、そしてその O が太陽 S の周りを回転する。火星は、以下の図(b)に示されているように、周転円で回転し、その周転円は、地球の軌道の中心と一定の幾何学的関係を持った点、OM を中心とした従円軌道上を回転する。  
1609年にケプラーは、惑星が太陽を一つの焦点とする楕円軌道上を動き、その速度は太陽との距離に反比例することを発見したが、コペルニクスは、惑星が円軌道上を等速円運動するという前提のもと、惑星の不規則な運動を等速円運動の組み合わせで説明しようとしたため、そのモデルは複雑なものとなった。このような複雑なモデルで惑星軌道を計算することに実用的なメリットはない。それにもかかわらず、コペルニクスが太陽中心説を提唱し、かつ少ならぬ人々がそれに魅了された理由は何だったのか。クーンは次のように言っている。  
この問いに対する答えは、『天球回転論』に満載の技術的詳細から容易に読み解くことはできない。なぜなら、コペルニクス自身が認めるように、太陽中心の天文学が実際に訴えていることは、実用的というよりも審美的であるからだ。天文学者にとって、コペルニクスのシステムを選ぶのかそれともプトレマイオスのシステムを選ぶのかという最初の選択は、もっぱら趣味の問題でしかありえず、趣味の問題は、決定したり議論したりする上で最も困難なことなのである。しかし、コペルニクス的転回がそうであるように、趣味の問題はどうでもよい問題ではない。幾何学的なハーモニーを聞き分ける耳は、コペルニクスによる太陽中心の天文学において新たな均整と統一を発見することができたのであり、その均整と統一が認識されていなかったのなら、いかなる転回もなかったかもしれない。  
コペルニクスは、『天球回転論』で、地球中心の天動説に根拠がないことを縷々主張している。その主張は正しいが、一般的に言って、どの観測地点から運動を記述するかは恣意的な問題で、精度や単純性に大差がないなら、太陽中心説かそれもと地球中心説かは「趣味の問題」とならざるを得ない。以下は、『天球回転論』でコペルニクスが太陽中心説を主張している箇所であるが、これを読めば、その根拠は科学的ではなく、むしろ宗教的信念とでも呼ぶべきものであることがわかる。  
万物の中心には、間違いなく太陽が静止している。というのも、誰が、この最高に美しい寺院[宇宙]において、このランプ[太陽]を、そこからすべてを同時に照らし出すことができる場所[宇宙の中心]以外のより良い場所に置くことができようか。実際、太陽は、「宇宙のランプ」、「宇宙の心」、「宇宙の支配者」と呼ばれるが、そうした呼称は不適切ではない。ヘルメス・トリスメギストスは太陽を「目に見える神」と呼び、ソポクレスの『エレクトラ』は「すべてを見渡す者」と呼んでいる。かくして太陽は、実に王座に座るかのごとく、その周りを回転する惑星の家族を支配するのである。  
結局のところ、コペルニクスが太陽中心の地動説を唱えたことは、宗教的迷信に対する科学の勝利などというようなものではなくて、伝統的な宗教的信念に別の宗教的信念を対置させただけということになる。では、コペルニクスが信じた宗教とは何だったのか。もっとも有力な候補は、当時流行していた太陽崇拝の神秘思想、ネオプラトニズムである。
2 ネオプラトニズムはなぜ地動説を動機付けたのか  
ネオプラトニズム とは、ローマ帝国時代の3世紀に、エジプト出身のプロティノスが、500年前の思想であったプラトンの哲学(プラトニズム)を継承して作り上げた神秘思想のことである。15世紀のフィレンツェで、マルシリオ・フィチーノが、メディチ家の保護のもとプラトンやプロティノスの著書をラテン語に翻訳すると、彼らの思想が再びイタリアでブームになった。  
ネオプラトニズムは、ローマ帝国時代に流入したオリエントの神秘思想の影響を受けており、本来のプラトン哲学からはかなり逸脱した思想であったが、プロティノスには独自の思想を作ったという自覚はなく、フィチーノもプロティノスをプラトンの真正な継承者と認識していた。だから当時は「ネオプラトニズム」という言葉はなかった。この言葉は、プラトンの本来の哲学と後世における改作を区別するため、19世紀にフリードリヒ・シュライアマハーが考案したものである。  
プラトニズムの中心はイデア論である。プラトンによれば、イデアとは、感覚的対象を超えた観念のことである。感覚的対象それ自体はイデアではない。例えば円のイデアを考えてみよう。この世界には、感覚の対象となる丸い物は存在するが、それらはどれも幾何学的に定義された完全な円ではない。それにもかかわらず、私たちが完全な円の観念(イデア)を理解しうるのは、私たちがかつてイデアの世界に所属し、それを想起するからである。『メノン』に登場する想起説である。そこで、イデアの世界は、その完全性ゆえに、真の実在であり、これに対して感覚の対象となるこの世界はイデアを模倣して作られた偽りの仮象にすぎないということになる。  
イデアの世界の内部においてもさらに階層があって、私たちがイデアを認識することができるのは、イデアのイデアとでもいうべき善のイデアのおかげである。プラトンは、『国家』において、善のイデアと一般のイデアとイデアの認識者との関係を太陽と太陽光で見えるものと見る物の関係に喩えている。  
私が善の子供と言っていたのは太陽のことだと理解してくれ。善は太陽を自分と類比的なものとして生み出した。すなわち、思惟によって知られる世界において、善が《知るもの》と《知られるもの》に対して持つ関係は、見られる世界において、太陽が《見るもの》と《見られるもの》に対して持つ関係とちょうど同じである。  
善のイデアに基づいてイデアが作られ、イデアに基づいて感覚的な世界が作られたとするプラトニズムは、神が善意で世界を創造したとするキリスト教の思想と同じと解釈することができる。プロティノスは、キリスト教徒ではなかったが、善のイデアを「一者」と呼び、これを神と同一視する一神教的な解釈を施した。プロティノスによれば、一者から理性が、理性から霊魂が「流出」し、多様な世界を作り出している。プロティノスは、一者を太陽に、理性の流出を太陽放射に、霊魂を太陽光を受けて輝く月に喩えている。  
プラトンにとっても、プロティノスにとっても、太陽は善のイデアの比喩であって、善のイデアそのものでないことはもちろん、一般的なイデアですらなく、たんなる感覚の対象にすぎない。しかし、フィチーノは善のイデアと太陽を同一視し、その結果フィチーノのネオプラトニズムはさながら太陽崇拝の宗教のようになった。コペルニクスはフィチーノの太陽崇拝思想の影響を受けて太陽中心の地動説を考案したのではないかとクーンは言う。  
例えば、フィチーノは、太陽が最初にしかも天の中央に作られたと著作に書いた。たしかに太陽の威厳と創造的機能にふさわしい時空上の位置は他にはあり得ない。しかしその位置はプトレマイオスの天文学とは両立不可能であり、そこから帰結するネオプラトニズムの問題を解決するために、コペルニクスは太陽中心の新しいシステムを構想するに至ったのかもしれない。  
では、なぜこの時代に太陽崇拝の思想が流行したのか。これを次に考えてみよう。
3 地動説と天動説の時代背景は何か  
近代以前の天文学では、その運行が説明されるべき天体は、太陽と月と五つの惑星に限られていた。地球を含めた八つの天体の運動を記述するだけなら、地球中心の天動説でも太陽中心の地動説でも決定的に間違いとは言えず、どちらを選ぶかは「趣味の問題」ないしは宗教的なコスモロジーの問題ということになる。今日の科学者が宗教的理由で天文学的理論を正当化することはないが、コペルニクスの時代までは、つまり天文学と占星術が明確に分かれていなかった時代においては、宗教的な動機が重要な役割を果たしていたと言ってよい。  
では、その宗教的動機は何を背景にしていたのか。過去の歴史を振り返ると、温暖期には天動説が、寒冷期には地動説が唱えられる傾向を見て取ることができる。科学が宗教から独立する以前の時期になぜこのようなことが言えるのか、理由を考える必要がある。  
気候とコスモロジーの関係  
寒暖の時代区分/コスモロジー  
古代寒冷期(800~250BC) / 古代ギリシャの時代。サモスのアリスタルコスなどが太陽中心の地動説を提唱する。  
古代温暖期(250BC~AD400) / 古代ローマ帝国の時代。プトレマイオスが地球中心の天動説を集大成する。  
中世寒冷期(AD400~950) / 中世インドでアリヤバータが地球の自転を主張し、この認識がインドで広まる。  
中世温暖期(AD950~1250) / 中世イスラム科学の全盛期。プトレマイオスの地球中心の天動説が支配的となる。  
近代寒冷期(AD1250~1830) / コペルニクス、ケプラー、ガリレオなどによる太陽中心の地動説が普及する。  
近代温暖期(AD1830~現在) / 宇宙には中心がないことがわかる。太陽は再び特権的な位置を失う。  
どの文化にも太陽崇拝の思想が多かれ少なかれあるものだが、崇拝の念は、太陽活動が弱まる寒冷期において強まる。これは逆ではないかと思う人がいるかもしれないが、そう思う人は、雨乞いはどういう時に行われるものなのかを考えてみるべきだ。自然信仰を持った人が、雨を降らすと信じる神を称え、その神に対して雨乞いをするのは、雨が降らない日が続き、旱魃で苦しんでいる時である。同様に、太陽活動が低下し、作物が実らなくなって初めて私たちは太陽のありがたみを実感し、実りをもたらしてくれると信じている太陽神を崇拝するものなのである。  
太陽活動が活発な時、作物は良く実り、私たちは特に努力をしなくても生きていくことができる。太陽活動が低下するとこれとは逆の結果となり、私たちは、生き延びるために動き回らなければならなくなる。太陽が活発さを失うということは、動いていた太陽の停止と意識され、私たちの側が動くということは地球の運動という発想につながる。太陽活動が活発な温暖期には常識的な天動説が信じられ、そうではない寒冷期になると地動説を唱える異端が現れるのは、こうした思想傾向が背景にあるのではないだろうか。  
たぶん、多くの人はこうした説明をばかげていると感じることだろう。しかし、それは科学的な説明に慣れた現代人の偏見というものである。コペルニクスの時代までは、天文学は、天体運動を象徴主義的に解釈する占星術の呪縛からまだ完全に脱却していなかった。プトレマイオスは『アルマゲスト』を著した天文学者であると同時に『テトラビブロス』を著した占星術師でもあったし、コペルニクスもまた、天文学だけでなく、占星術の勉強もしている。だから、コペルニクスの理論が科学的合理性に欠く象徴主義的な根拠に基づいていたとしても、それは驚くに値しないことなのである。 
 
地動説 4

 

コペルニクス(1473−1543)が、地動説を唱えてから後、ガリレオ(1564−1642)がまた地動説を発表した。コペルニクスは地動説を数学的仮説としたために宗教裁判にかけられることはなかったが、地球は不動であり、天が動いているとする聖書の記述から、ガリレオは異端者として宗教裁判にかけられ、自説を引っ込めざるを得ない窮地に追い込まれた。「それでも地球は回っている」というのは、ガリレオの言葉とされている。ガリレオの名誉回復が行われ、ダーウィンの進化論も『仮説以上のもの』と認められたは、ついこの間のパウロ2世(1920-2005)の時である。  
ガリレオが、地動説を証明した糸口は、金星の満ち欠けを観察していて、不思議なことを発見したことであると伝わっている。  
金星が三日月(?)になった時と、満月(?)になった時とでは、その大きさが違うと言うことに気づいた。三日月状になった時は大きく、満月状になった時は小さく見えるというのである。  
素人の私には残念ながら金星の満月(?)と金星の新月(?)を見ることはできないが、《太陽が眩しすぎて》、半月→三日月、三日月→半月を見ることはできるように思える。  
地球と金星の距離は、満月に近いほど遠く、三日月に近いほど近くに位置する。図で見れば一目瞭然ではあるが、この図が考えられる以前に、金星の大きさの相違から、金星も地球も太陽の周りを回っているなどと、よくも考えついたものである。  
ガリレオの考えた延長線上にニュートンの万有引力の法則があり、アインシュタインの相対性原理があるのだというから驚いた。  
「よく観察する」ということが真理を見いだす手だてであることの証明だ。  
そんなことを考えていると、ついつい明けの明星が出る頃になってしまった。  
そこでふと思ったのである。  
地球の赤道付近の円周は40077Kmだそうだ。地球は一日に一回転するので、赤道付近の人は、時速1670Kmの早さで東に向いて吹っ飛んでいることになる。  
極点(北極点・南極点付近の地軸)から1m離れた人の一日に回る距離は約3m。すると、そこに立っている人は時速125cmで東に向いて回転していることになる。尺取り虫よりも遅いスピードだ。  
そんなにものすごいスピードの差があるにもかかわらず、赤道に居る人も極点に居る人も、共に約1万Kmの腕を持っていたら、すれ違うことなく握手することができる。  
いや待てよ、レコード盤だってそうじゃなかったか?  
中心付近のスピードは遅く、円盤の端の方ほどスピードが早いが、レコード盤についたゴミは、互いの位置関係を保ちながら回っていた。  
いやはや、話は途方もない方向へ行くのだが、地球は太陽の周りを一年かけて一回りするのだが、地球が回っていくスピードは、時速107、229Kmなのだそうだ。鉄腕アトムだって追いつけないかも知れない。  
太陽系そのものも銀河の中で回っており、銀河もビッグバンの破裂のスピードに乗ってものすごいスピードで四方八方に広がっているというから、私はいったいいくらのスピードで移動しているのだろうか?  
微塵から三千大千世界などという数の単位の原点が仏教にあるのだが、仏教は天動説だったのか地動説だったかと疑問を持ってきた。  
紀元前6〜5世紀頃のインドには、祭祀を司ることを職業とし、アーリア人(他の地域からインド侵入してきた民族)によるインド建国を神話的に説き、人や自然は神々や宇宙創造者(これらを「ブラフマン」と呼んでは冒険かもしれないが)作ったものとするベーダ聖典を信奉するバラモンと、この世界にはいくつかの要素があって、それらが集合してこの世を構成していると考えたシュラマナ(沙門)が二大宗教勢力としてあったと言われている。  
シュラマナ達は、誰が世界を作ったかということが問題ではなく、この世に存在する全てのものは、相互に関係しあう中で成立し、その関係の関わりが大切であるということが最大の課題であった。  
釈迦もこれらシュラマナ達の一員であった。このあたりのことは、講談社学術文庫『仏陀のいいたかったこと』(田上太秀著)に詳しく記載されている。  
仏教は譬喩が多いので、あたかも天動説の様な説明になっていることが多い。実はバラモンの考えが大いに影響していることは間違いなさそうだ。アニメ映画『天空の城ラピュタ』の様に、世界が宙に浮いている絵を見たものだ。ロマンがあって面白いが、現実は随分違う。  
地球の地軸は少し揺らいでいるので、地球から見た北極の方向というのは歳差運動(コマが回り終える前には、軸が大きくぶれる動きのようなもの)によって、宇宙空間の中での絶対的北極というのはなくて、約25800年を周期に極方向が移動するというのである。  
西方過十万億土に極楽浄土があって・・・・と経文にあるが、ちょと待って。少しの歳差はあってもほぼ南極方向とか北極方向は地球から見た宇宙の座標としての検討はつくのだが、西方と言われても、地球は一日に1回転していて、今の西方は12時間後には宇宙座標から見ると東方になってしまう。  
てな、屁理屈を考えると、大乗経典を作った人の頭の中には、地動説ではなくて、天道説だったのかも知れない。いやいや、そういう物理的な意味ではなくて、日が沈んで一日が終わっていく、つまり人生の終末の方向として、西の方角を観念的に表現したのだという。哲学というものは難しいものだ。  
そういえば、「極楽」という言葉を作ったのはクマラジュウ(鳩摩羅什 350-409)という人だった。  
「脚下照顧」という言葉があって、「まず自分の足元を見なさい」と言うのだけれども、宇宙という大きな世界の中から、私たちの生き様を見てみると、なんと小さな生き物であって、小さなことにクヨクヨし、関係を持とうとするのではなく、関係を絶とうとしながら生きている現実が見えてくる。  
神戸の夜景は百万ドルだというのだけれども、あの一つ一つの明かりの下に、児童虐待もあれば夫婦喧嘩もあり、はたまた近隣とのもめ事も、そして嬉しいことも楽しいことも入り交じっている。  
宇宙はビッグバンで始まったというのだが、ビッグバンの微塵に乗っていのちを生きている私たちなのだから、せめて手の届く範囲の中では、不倶戴天ではなく、呉越同舟で生きていきたいものである。  
「私は私であって良かった。私が私であったから、私はあなたに出会えた。あなたに出会えて良かった」という生き様を目指すのが仏教の本来の願いであると言われた方がいた。私はその反対を生きているのではないだろうか。「私は私でなかった方がよかった。あなたと出会いたくなかった」と言いながら実は生きているのかも知れない。宇宙という長い歴史の中で、いのちが私を生きているという実感はなぜわいてこないのだろうか?   
 
宇宙

 

宇宙の始まり  
「宇宙はどこまでわかっているか」という表題をつけたのは、だんだんと宇宙というのがわかってきたからです。宇宙が始まって、いろいろ進化して現在の姿に至っていますが、私たちが研究する手だては、現在の姿から、より過去へ遡っていくことになるわけです。つまり普通は時間軸どおりに始まりがあって、現在まで変化していきますが、現実に調べる方は近くから調べていくので、現在から少し昔、そしてそのまた昔というように辿っていくわけです。その意味では、帰納的方法と言いますが、現在知っている知識を元にしてより過去を推測していきます。しかし話としては必ず時間軸に沿った話をしていくわけです。したがって、人々が宇宙を認識するということは、まず現在の知っている世界を認識した上で、より過去はどうだったのだろうかというように推測していくわけです。  
まず宇宙の認識の歴史から辿ってみると、一番初めに宇宙に関して描かれた図は、エジプト人が描いた宇宙図です。もちろん、この図が描かれる前の神話時代にも宇宙論はありました。世界中あらゆる民族は神話を持っていますが、そこには共通した主題があります。どのようにして宇宙が始まったのか、どのようにして人間が生まれたのか、どのようにして文化が生まれたのか、というのが神話の3つの主題です。宇宙が卵のようなものから生まれたとか、ある日、光あれと言われて天と地が分かれたとか、あるいは天から人々が降りてきて、この世界を創ったとか、様々な宇宙神話がありますが、それは空想した世界です。 
時間論  
具体的に宇宙の姿を描きだしたのは、文明が発達し始めてからです。それから私たちの取り巻いている世界がどのようなものであるかということを、具体的な形に表すようになったわけです。その1つがエジプト人が描いた宇宙図です。これは宇宙図と言っても本当は地図です。しかしエジプトの人々にとっては、この世界が宇宙だったわけです。  
ところがインド人が描いた宇宙図になると、さらに深遠になります。宇宙の言葉の意味を言っておきますと、宇宙の「宇」は空間、「宙」は時間を意味します。したがって、宇宙論というのは時間空間論です。しかし時間や空間は直接目に見えないので、物の形や変化、あるいは運動を通じて時間や空間を認識していくわけです。まさにインド人が描いた宇宙図には時間論も入っているわけです。無論、空間論も入っています。インド人は地球が丸いと認識していたので、半球ですが丸く描いてあります。そしてその下に山があります。これはエベレストを中心とした山ですが、仏教でいう須弥山(しゅみせん)です。世界の中心にある山のことです。その下に地球があって、その地球を象が3頭支えていて、さらにその下を亀が支えている。そしてその下をぐるりと一巻きした蛇が支えているという図です。この山、地球、象、亀、蛇はインドの人々にとっての空間論です。特に象、亀、蛇というのはガンジス川、インダス川、あるいはその流域の密林で仲良くもあるし、敵でもある動物、つまり身近な動物を描いていて、それが世界を支えているということです。問題は自分を飲み込もうとしている蛇の絵です。これは何を意味するのか。これは時間論を意味しているわけです。要するに頭が始まりを表していて、ずっと長い人生があって、終わりがある。その終わりが次の始まりに繋がっていく。そしてまた時間が経って、終わりがきて、また次の始まりに繋がっていく。つまり巡る時間の概念がここに描かれているわけです。時間は巡るということです。  
時間論には2つありまして、1つはこのように巡る時間が、生と死を繰り返していくという概論です。私たちの1年もそうです。1年も春に草木が芽生え、夏に成長し、秋に実を付け、やがて衰えて死んでいく。しかしそこで作られた新しい種が芽を出して、また新たな生に受け継がれていく、転生輪廻という言葉にもありますが、いろいろ姿を変えながら、生と死を繰り返しながら生きていくのです。そしてもう1つの時間論は、西洋式、キリスト教的というべきかもしれませんが、天地創造で世界が始まったという概論です。一目散に最後の審判に向けて時間が一方的に流れていき、最後の審判でハルマゲドンがあるという、時間が一方的に流れるものです。この一方的に流れる時間と巡る時間、どちらが良い、悪いという考え方ではなくて、時間論として両方とも大事なことです。一方的に進歩、進化するだけではなくて、同じところをぐるぐる回っているような循環する時間の中で私たちは生きているわけです。毎日、朝に太陽が昇って、夜に太陽が沈んで、その繰り返しの中で生きているわけです。その繰り返しの中で巡る時間を生きていると同時に、ゆっくりと進化していくという、その2つの組み合わせで生きています。いずれにしてもインド人が考えた図は、まさしく空間と時間という2つのものが見事に描かれています。この辺りは神話から一歩進んで、哲学的な考え方を宇宙図として固定したわけです。  
天動説と地動説  
そして本当の意味では科学的ではありませんが、もう少し観察に基づいて推測した宇宙論があります。それがアリストテレスの宇宙論です。アリストテレスは天動説を唱えました。地球が宇宙の中心にあり、太陽と月以外に5つの惑星が地球の周りを回っていて、遥か彼方の恒星天球がゆっくりと回っているという考え方です。アリストテレスの自然学の物質の根源は火、空気、水、土です。そしてその4つの元素を組み合わせて、すべてのものが出来上がっていると考えたわけです。始まりと終わりがあるものが直線運動で、それは地球の世界である。また、始まりがない、終わりもない、常に回っている運動を円運動とし、これは惑星の世界だという考え方です。他にも惑星世界はエーテルでできている、宇宙は有限であり、真空は存在しないということも言いました。このアリストテレスの宇宙論は2000年にわたって人々が信用したものですが、観察に基づいているのは事実です。  
しかし観察によって得られた事実とそこで現実に働いている力を通じた真理は、実は違うものである、これはアリストテレスの自然学を考える上で非常に大事な観点です。例えばアリストテレスは、物体は外から力を加えなければ運動はしないと考えました。これは私たちの世界も当たり前だと考えられていますが、本当に摩擦のないところであれば、動き出している物体は止まらないわけです。もし摩擦を一切忘れて理想的な状況を考えたら、押さなくても動き続けます。もし外力を加えたら、動く速さが変わります。このように単に観察だけでいくと、摩擦があるので押さないと動きません。しかし本当の真理は、摩擦を取って考えたら、押さなくても一定の速さで動き続けます。その上で摩擦という効果を考えれば止まる現象が起きます。つまり摩擦は外力で止めようとする力です。力が働くからこそ、止まったり、速度の変化が起きるわけです。したがってここで言いたいのは、物事を観察することによってある事実が明らかになったとしても、その事実は真理であるかどうかはわからない、直ちに真理と見てしまうと危ないことになるというわけです。真理というのは、今の場合だと摩擦になりますが、余計なものが入ったために、違うように見えているのであるということです。例えば太陽が東から昇って、西に沈んでいくのも、見かけの姿は太陽が地球の周りを回っているように見えます。  しかしそれを否定したのが、コペルニクスの地動説です。コペルニクスの考え方は太陽が中心にあり、地球がその周りを回っていて、私たちはその回っている上にいるから、太陽が昇ったり、沈んだりしているように見えるという考え方です。このように仮定すると、金星がいつも太陽の近くにいるということが、見事に説明できます。金星は宵の明星や明けの明星と呼ばれて、太陽に寄り添って昇ったり沈んだりしています。これは金星が太陽のごく近くを回っていると理解すれば良いわけです。これは本当にコペルニクス的大転換です。このようなことは少し見るだけでは考えようがありません。しかし様々な運動を調べると、そのように解釈するのが自然であったので、地動説が出てきました。
ガリレオ・ガリレイ  
地動説は次第に広がっていきましたが、その中でさらに大事な発見がありました。それはガリレオ・ガリレイの発見です。ガリレオは、皆さんよくご存知のように、振り子の等時性を発見しました。また、彼は地動説を信じていて宗教裁判にかけられた時も、判決が下った後に、「それでも地球が回っている」というように呟いたと言われています。  
しかしそれ以上に彼は宇宙論に重要な役割を果たしました。それはガリレオが望遠鏡を用いて初めて宇宙を観測した人だということです。望遠鏡を自分で作ってみて、その望遠鏡で夜空を眺めて、木星の4大衛星を発見したとか、月がデコボコしていることや、太陽に黒点があることを発見したということは、たぶんご存知だと思います。そしてあまり知られていませんが大事なことは、彼は望遠鏡で天の川を見たということです。そして天の川は多数の星の集団であるということを発見しました。要するに彼は望遠鏡で見て、太陽が無数にある世界が広がっているということを発見しました。アリストテレスやコペルニクスは太陽系の中心が地球にあるのか、太陽にあるのか、その争いをしていましたが、そうではなくて、この太陽が無数にある、要するに私たちの宇宙は無数の太陽が散らばっている世界であるということを明らかにしたのがガリレオです。その意味では非常に広い宇宙空間の中に無数の太陽、つまり星が散らばっていて、無数の太陽のそばに、無数の地球のような惑星が存在するかもしれないという考え方は、17世紀の始め頃にはもう広がっていたということです。
ハーシェル  
世界が多数であるという考え方は、特にルネサンス期に出てきました。大航海を経て、様々な新しい土地や人類を発見したので、天上世界も多数世界なのではないかと考えるようになったのです。そのことをはっきりと示したのがハーシェルです。ハーシェルは口径45センチの望遠鏡で、天の川の中の星の散らばりを調べました。彼は天球面を碁盤の目のように切って番地をつけて、各番地ごとに星が何個あるかというのを数えていきました。さらにその星も明るさごとに数えていったのです。非常に明るい星が何個、真ん中くらいの明るさが何個、中くらいの星が何個というように数えていきました。  
そして彼はすべての星はみんな同じ明るさであると仮定しました。すると明るく見える星は近くにあり、暗く見える星は遠くにあるということになり、三次元分布として星の分布を得ることができました。彼は太陽や地球が宇宙の真ん中にあると思い、この軸を中心に一周したものを星雲と呼び、星の塊であると考えました。したがってハーシェルは、星というのは厚みと直径の比が5対1くらいの歪な格好につまっていると考えました。その考え方は正しいのですが、実は私たちは真ん中に住んでいるのではなく、端っこの方に住んでいるのです。そして実際はもっと半径が大きい円盤になります。私たちは端の方に住んでいるとすると、星がたくさん見える方向と見えない方向があります。そして星がたくさん見える方向が天の川として見えているということです。また、星が歪に分布しているからこそ、天の川のようになって見えるという解釈をしたわけです。そして彼はこのような星の塊、つまり星雲が宇宙に転々と存在していると考えました。これを星雲仮説と呼んでいます。
銀河宇宙  
ハーシェルの予想に対して実際どのようにこの宇宙空間には星が散らばっているのかを調べる研究が、それから150年近く続けられてきました。そして最終的には銀河宇宙という考え方で決着がつきました。これは大論争(グレートディベート)と言われました。アンドロメダ大星雲という千年ほど前から知られていて、星のように点で見えるのではなくて、広がって見える大星雲があって、そのアンドロメダ大星雲が天の川の中にある星の集団なのか、天の川の外にある集団なのかという大論争が起こったわけです。そしてその解決方法は距離を測ることでした。距離を測って天の川の端よりも遠くにあれば外にあり、近くにあれば天の川の中の星団、つまり星の集団であるということです。見かけはほとんど天の川の中にある他の星団と同じ明るさなので、内か外か区別がつかないのです。  
そのような時に、変光星という明るさが規則的に変化する星を使って距離を決定する方法が開発されました。変光星の明るさの周期と絶対光度という、その星が元々放っている全エネルギーとの間に関係があることがわかり、その関係を利用したのです。変光星の周期を測り、絶対光度を決めて、そして絶対光度と見かけの明るさを比較して距離を求めるという方法です。そしてこの方法を使うことによってアンドロメダ大星雲は天の川の外にあって、天の川の大きさの3000倍も遠くにあるということがわかりました。しかし普通の近くにある星の集団と同じくらいの明るさなので、元々放っている光がすごいということです。実際、アンドロメダ大星雲は天の川よりもより明るいのですが、同じくらい、あるいはそれ以上に明るい星の集団であるということがわかり、それで銀河と呼ぶようになりました。銀河は星がおよそ1千億個から2千億個、大きいもので3千億個くらい集まったものです。私たちが住んでいるのは平べったい銀河です。そしてこれを天の川銀河(Milky Way Galaxy)と呼んでいます。このように銀河という塊に物質が固まり、星として輝いていて、それが点々と宇宙空間に分布しているということが1924年に明らかになり、銀河宇宙像が確立しました。
膨張宇宙  
私たちは「すばる」望遠鏡という望遠鏡を使うことによって、より遠くの世界の姿を知ることができるようになりました。それまではより近いところしか写真で写せなかったので、空想するだけでした。しかし非常に遠くにある銀河も写せるようになったので、宇宙が時間的に進化してきたのではないかという考え方が具体的な姿で見えるようになりました。  
そしてその進化を知るためには、もう1つ重要な発見がありました。それは膨張宇宙です。実は銀河1個1個に対して、その銀河までの距離と視線方向の速度、その銀河が私たちに近づいているか、遠ざかっているかというものですが、その2つを独立して観測できるようになりました。近づいているか、遠ざかっているかというのはドップラー効果を使って測ります。音のドップラー効果は有名ですね。サイレンを鳴らしながら近づいてくるとサイレンの音が高く聞こえて、遠ざかると、サイレンの音が低く聞こえるという現象です。光も同じで、光源が近づいてくると青い方にずれる、音で言えば高い方、光で言えば波長が短い方へずれます。そして遠ざかっていく光源からの光からは波長が長い方、つまり赤い方にずれます。それによって視線方向の速さを検出することができます。  
銀河について、光を出す物体は実はガスです。ガスを温度の高い状態にしておくと、そこから光を出します。そしてガスの成分、炭素や酸素、水素など、どのような元素であるかによって、それぞれその元素ごとに指紋を持っています。そして炭素ならこの波長、水素ならこの波長、酸素ならこの波長というように、各イオンごとに決まった波長の光を強く出します。これを輝線と言って、波長ごとに光を分けて観測します。そして遠ざかっている天体からの光は赤い方にずれるので、どれだけずれたかを測れば、どれくらいの速さで遠ざかっているかを検出することができます。アンドロメダ銀河は私たちのごく近くにある銀河ですが、秒速200キロくらいで私たちに近づいてきていて、およそ30億年後にはアンドロメダと私たちの銀河はぶつかるのではないかと言われています。しかしこのような例外を除くと、ほとんどが私たちから遠ざかっています。  
そして遠ざかる速さvが距離rに比例するという関係を導いたのがエドウィン・ハッブルです。遠ざかる速さが距離に比例するというのは、どのような場合に起こり得るのかと言うと、1つ簡単に考えられるのは、例えば運動場の真ん中に子どもたちが集まっていて、一斉に勝手な方向に走り出したとします。そうすると足の速い子ほど遠くに行き、足の遅い子ほど近くに行きます。これは遠ざかる距離は速さに比例しているということです。これは遠ざかる速さは距離に比例するということと同じことなので、私たちが宇宙の中心にいて、近くの銀河が私たちの場所から遠ざかっていけば、今のような観測結果が説明できるわけです。しかし私たちが宇宙の中心にいるというのは考えにくいので、どの銀河から見ても同じように飛び散っていくように見える仕掛けがあるに違いないというわけです。その仕掛けとは宇宙の膨張です。  
しかし宇宙が膨張しているとは考えにくいので、次のように考えます。みなさん一人ひとりが銀河だとして、この宇宙空間の各点で止まっていると仮定します。そして床が動いて大きくなっていくとすると、誰から見ても隣の人と遠ざかっていくように見えます。そして更に縦・横・高さの比が一定になるように遠ざかっていきます。つまり隣1mの人が1秒間に1m、2mの人は1秒間に2m遠ざかるとします。すると常に比が一定になり、形は一定の格好を保ちます。すると誰から見てもみんなが遠ざかり、また同じ比で大きくなっています。そして床が大きくなっているということを宇宙空間が膨張していると考えます。つまり宇宙の空間点に各銀河は止まっていて、宇宙空間が膨張するためにお互いに遠ざかっていると考えるわけです。このように考えると遠ざかる速さが距離に比例するということが、宇宙空間のどの銀河から見ても同じような法則として成立します。そして宇宙空間が膨張しているために銀河がお互いに遠ざかっていると考えるわけです。
ビッグバン理論  
前章のような考え方だと、現在の大きさに比べて過去はもう少し小さかった、更に前は更に小さかったというように過去へ過去へと遡っていくと、宇宙は1点に集まってしまうわけです。少なくともお互いの銀河同士がお互いに重なりあって、すべての銀河が1つの点に重なると考えざるを得ないわけです。ここで物理学原理主義という言葉を紹介しておきます。物理学にも原理主義がありまして、物理学者はそれが否定される根拠のない限りは、いかに異様でも極端まで考えます。したがってより過去へ戻っていった時に、途中でやめる理由がない限りはずっと極端まで考えて宇宙の始まり、つまり時間がゼロの1点から始まったと考えるわけです。1点から始まったということは、すべての点が同じ1点にあるので、現在は離れているすべての点が中心になっていると言えます。そして宇宙が1点から始まったと考えると、すべての物質が1点に集まっているので、密度がものすごく高いわけです。それから密度が高いということは、ぎゅっと詰まっているので、非常に温度の高い状態から出発したと考えられます。私たちの知っている物質、例えば人間の体は分子の塊、高分子でできています。この塊をよく見ると原子からできていて、原子をよく見ると、原子核と電子からできている。また、原子核は陽子と中性子からできているというように、いろいろな物質階層からできています。しかし非常に密度が高い状態なので、すべての物質階層が壊れてしまい、本当に原初的なものばかりの状態から出発したと考えざるを得ないわけです。このような高温度・高密度ですべての物質が壊れてしまっている状態から出発して、次第に私たちの知っている物質構造が作られてきたという考え方をビッグバン宇宙と言います。ビッグバンというのは大爆発理論と言います。爆弾が爆発した時に、非常に高温度・高密度状態で速い速さで膨張を開始することと、宇宙の始まりが非常に似ていて、高温度・高密度状態から非常に急速な膨張で宇宙が始まったと考える考え方です。  
ビッグバン理論は次のような理論です。宇宙は非常に小さい世界から始まり、そして次第に膨張して、その過程で宇宙に存在するもろもろの物質、例えば素粒子、原子核、原子、人間、惑星、太陽系、銀河などの構造が生まれて現在まで至ったという考え方です。このビッグバン理論は宇宙論の正統派理論と考えられています。  
そして宇宙進化のシナリオは詳しくは言いませんが、次のように描けます。宇宙が始まったのは10のマイナス44乗秒という、とても短い時間ですが、その時代に宇宙が生まれました。そして先ほど話した、非常にミクロな物質の時代、つまり素粒子の時代があり、原子核の反応が起こる時代があり、それからプラズマ状態といって、電荷を持つ粒子の状態があり、それから原子ができて、原子の塊である銀河が生まれて、そして様々な銀河宇宙の構造が生まれてきました。  
実はビッグバン宇宙の中で非常に難問だと言われている問題が2つあります。1つは宇宙の創世です。宇宙はどのようにして始まったのかという問題です。これに関してはまだ答えは出ていません。私は答えは永遠に出ないのではないかと思っています。『創世記』によれば宇宙は無から始まったということになっています。要するに無から始まったと考えざるを得ないわけです。何か物があれば、必ずその物はどのようにして生まれたのかということになるわけです。したがって、何にも無いところから始めないといけないわけです。ホーキングの話もありますが、今日は時間がないので話しません。そしてもう1つが銀河の形成、銀河宇宙がどのようにして生まれたのかという問題です。銀河宇宙というのは現在私たちが観測している宇宙です。これに関してはある程度の理解が進んできました。
宇宙の構造  
ハーシェルはある領域にある天の川の中の星の分布を懸命に調べて、星雲の図を描きました。現在の天文学者たちは1個1個銀河に望遠鏡を向けて1個1個距離を測っています。距離を測るといっても実際はドップラー効果を使って、どれくらいの速さで遠ざかっているかを調べています。全体で7000個ほど銀河があって、ハーシェルが描いた図には1700個ぐらいあり、銀河1個1個に望遠鏡を向けてドップラー効果を測っていくわけです。10年ほど前ですが、この仕事をするのに5年間かかったと言われています。現在はほぼ1年でできます。それくらい効率が良くなっていますが、それでも1700個です。  
そしてこの銀河分布を上から見たような図から泡宇宙という言葉が作られました。銀河が存在している領域に丸く線を入れても、その領域の中にはほとんど銀河は見えないので、これを空洞と呼んでいます。銀河が見えるのはこの丸い膜の上に見えます。ちょうどシャボン液に息を吹きかけ泡立てて、その泡立った断面に見えるわけです。そしてその泡の膜の部分にあたるところに銀河が集中しているという、宇宙の泡構造が発見されました。これが15年ほど前です。一番大きい泡のサイズが大体1億光年くらいです。私たちからせいぜい5億光年くらいの距離内において泡がお互いにぶつかり合っているように見えます。無論この姿は宇宙のあらゆる方向にも共通しているでしょうから、宇宙は泡がぶつかり合っている姿で永遠に散らばっているというイメージが良いのではないかとなっています。そして1億光年ぐらいのスケールで泡構造を作っているということがわかってきました。実はまだこの泡構造の原因ははっきりとはわかっていません。自然のうちにできるという人もいますが、本当に自然のうちにできるのか、何かある作用があったのかもしれません。その1つのヒントとして、「泡」という字はさんずいへんに「包」と書きます。「包」も「己」が少し突き出ています。そしてこの「泡」の意味を考えると、さんずいへんは水です。そして「包」は赤ちゃんなのです。お腹に赤ちゃんを抱えた妊婦の姿の象形文字がこの「包」です。したがって、内部に激しいものを持っている姿を水で包んでいるものが泡だということです。実際、橋げたで水がぶつかったり、滝壷で水が落ちたり、海岸縁で波が落ちるところなどで泡が発生しています。つまりエネルギーが水の中に入った結果として泡が出るわけです。そして激しい作用があるところでこそ、泡が発生するのです。したがって、今発見されている宇宙の泡構造も何か激しい作用があったのではないかということが考えられるわけです。また、銀河がたくさん集まっている領域をグレートウォールと呼んでいます。グレートウォールオブチャイナが万里の長城ですから、これは宇宙における万里の長城、要するに星が万里の長城のように非常に薄い壁状に集まって連なっているということです。大体この万里の長城は6億光年くらい続いています。長い距離に渡って銀河が非常に薄い壁状に連なっている領域が存在して、そのような領域が何箇所も存在するらしいということもわかってきました。  
現在、1990年頃の5倍くらい遠い領域までの銀河分布を調べようという研究が始まっています。まだ十分進んでいないので、どのような構造があるのか見えません。しかし始めの1990年代、1980年代から比べるとほぼ20倍遠くまで、つまり100億光年の領域まで広げて銀河分布を調べるということが進みつつあります。距離が100倍になると、観測するべき銀河の数は距離の3乗に比例するので、100万倍になります。それは体積が距離の3乗に比例するからです。今は非常に望遠鏡の性能も上がり、機械化されたので、1個の銀河の距離を測るのに15分もあれば測れるようになりました。ハッブルが1924年に測った頃は、1つの銀河までの距離を測るのに30時間かかりました。一晩に5時間くらいしか時間が無いので、夜になるとシャッターを開けてずっと5時間追いかけて、シャッターを閉じて、また次の日同じ方向に向けてシャッター開けて、ということを6日間繰り返しました。そして今は5分で撮れるようになりましたが、100万個はとても無理です。しかしいろいろな望遠鏡をうまく使って、効率的に銀河の姿、分布を調べようということが行われているので、2015年ぐらいには100億光年ぐらいまでの宇宙の構造が概ねわかってくるのではないかと思います。その中で本当に新しい構造が見つかるのかと言われると、わかりませんとしか答えようがありません。ということは宇宙の構造がどのようにしてできたかの本質的な理論がまだきちんとできていないわけです。その意味では、私は理論屋なのですが、理論の観点からもまだ不十分なままなわけです。したがって、今後銀河宇宙の姿がより鮮明になってくると思いますが、理論の方も頑張って、本当にこういう構造がこのような時間経過でできるということを証明できなければならないと考えています。  
 
地動説 5

 

古代ギリシャの天文学  
古代ギリシャでは、天文観測のデータを用いて「天文学」と呼べる体系をつくりあげていた。ピタゴラスは、それまでの神話から離れて合理的(宇宙の秩序と数学的表現)な宇宙論をはじめて唱えた。さらに、天動説としてアリストテレス(Aristoteles、BC384-322)、地動説としてアリスタルコス(Aristarchos、BC310頃-230頃)がそれぞれ有名である。  
アリストテレスによる天動説  
アリストテレスら古代の人々は宇宙の中心は地球でなければならず、そのまわりを各惑星が回転しているとし、天動説を唱えた。  
(1) 全宇宙は恒星天球の内側(正確には、外面の内側)にある。  
(2) 恒星天球の内側には、何らかの物質(重くもない軽くもない物質であるエーテル)が存在していて真空ではない。  
(3) 恒星天球の外側には、何も存在しない。  
(4) 宇宙を無限とすると、地球から離れている点は24時間で地球の周りを一周する事はできないとし、宇宙は有限である。  
(5) 宇宙は有限であることから、その形は球であり中心があり、その中心は地球でなければならない。  
また、地球が球形であることを、月食の時の地球の影の形から説明した。月食の時の地球の影の形は円形に近い形をしている。地球が従来の円板状だったら、その影は円に近い形にはならない。したがってアリストテレスは、地球について球形であるとした。  
アリスタルコスによる地動説  
このように、たくさんの人が天動説を唱える中で、アリスタルコスは地動説を唱え、唯一の著書である『太陽と月の大きさと距離について』において太陽と月それぞれの距離と大きさを不正確ではあるが幾何学的に算出した。  
まずアリスタルコスは、3つのことを仮定した。  
(1) 恒星と太陽は不動である。  
(2) 地球は太陽を中心として円運動で回転している。  
(3) 恒星天球は膨大な大きさをもっている。  
このように、アリスタルコスは太陽中心説を唱えた。この3つの仮定より、以下のように展開している。  
(1) 第1図において、月が正確に半月であるとき、∠EMSは直角(90°)である。  
(2) このときの∠MESを決定できれば∠ESMが求められる。  
(3) これから、ESとEMの比(地球からの太陽および月への距離の比)が算出できる。  
(4) さらに、太陽と月の視直径はいずれも0.5°でちょうど等しいから、ESとEMの比の値は、太陽と月の直径の比となる。  
アリスタルコスは、∠MESを観測して、87°を得て、ESとEMの比または太陽と月の直径の比を19:1とした。  
第2図のように、月が地球の影(円錐形)の中心を通過するように月食が起こるときをとらえて観測を行う。月食が開始する瞬間から月の全部が入り終わるまでの時間と入り終わった瞬間から再び月の一部が影の外に出始める瞬間までの時間を測定したところちょうど等しかった。太陽と月の直径の比を19:1とした結果とこの月食の観測から第2図のような関係が成立し、月の直径をd、地球の直径をDとすると、  
x:2d=(x+20R):19d  
および、x:2d=(x+R):D  
これから、x=(40/17)R、 月の直径=d=(20/57)D≒0.35D  
また、太陽の直径=19d≒(20/3)D  
よって、太陽、月の直径がD単位で求まる。ところですでにこの時代、地球の直径Dの値は求められるので、太陽、月の直径が求まる。さらに、太陽も月も視直径は0.5°であることから、いずれも太陽と月自身のそれぞれの直径の(360°/2π)÷0.5°=360/π倍の距離だけ地球から離れていることがわかるので、太陽、月との距離が求まる。(しかし精密な観測装置や望遠鏡等がなかったために、データが不正確であったので実際とはかなり違った値となってしまった。)  
しかし、アリスタルコスの唱えた地動説は宗教的弾圧などのため、以降しばらくはアリストテレスの天動説が採用されることとなった。
プトレマイオスによる逆行運動の説明  
プトレマイオス(Ptolemaios、BC367-283)は、天体について書かれた『アルマゲスト』で有名になった。この『アルマゲスト』は、プトレマイオスの理論のみではなく、プトレマイオス以前の理論の集大成である。『アルマゲスト』によると、  
1. 定理の順序 [略]  
2. 天空は回転する  
古代人にとっても観測によってこの問題についての最初の観念を得るのに十分であったことは疑いない。そして、星の回転によって、天球の観念が生まれた。星の運動は、直線上でもなく、ましては地球から出るときに光り入るときに消えるのでもなく、回転しているのである。球形である理由は、  
(1) 天体の回転運動が行われる場合に、最も都合のよい図形は平面では円であり、立体では球である。円は平面図形のなかで最大であり、球は立体のなかで最大であり、天球は物体のなかで最大である。  
(2) すべての物体の中、エーテルはその部分が最も希薄であり相似(均一)なものである。相似な部分から作られた物体の表面は、相似な部分をもっている。そして、部分が相似であるような唯一の表面は、平面では円であり、立体では球である。もし、星が平面的で円盤状であったならば、地球上の異なった場所から眺める人にとって丸い形には見えない。エーテルは相似的な立体であるので、球形である。そして、その部分が互いに相似であるので、エーテルは等速円運動をする。  
3. 地球は明らかに全体として球形である  
地球は明らかに球形である。このことは、日月およびその他の星の出没が地球上のすべての住民にとって同時に起こるのではなく、まず東の住民に、次第に西の住民に起こることからわかる。また、その時間差はお互いの距離に比例することから地球の表面は曲率が一定の球形であることがわかる。  
4. 地球は天空の中心にある  
地球のまわりに見える事柄は地球を天球の中心に置いたときに起こる。このことは、次の3つの場合を否定することによって説明されている。  
(1) 地球がそれぞれの極から等距離ではあるが軸からずれている時。  
この場合、地平線での星の大きさと距離は各極で同一ではなく、また星が出現から南中までの時間と南中から消失までの時間は同一ではない。これは、日々の経験に反する。  
(2) 軸上にあってもいずれかの極に近い時。  
どこでも地平線が天空を上下不等の2部分に分割するので反する。黄道は、地平線で2等分され同一半円が地球の上下にあるべきである。  
(3) 軸上にもなく同時に両極から等距離でもない時。  
(1)と(2)が否定されたので、この仮定も反する。  
(1)、(2)、(3)から、もし地球が天球の中心になかったら秩序に混乱が生じる。  
5. 地球は天空に対して点のごときものである  
地球上の任意の点から観察した星の大きさと距離は、同一時刻にすべての場所から同じように見え、異なった場所から同一の星を見ても変化しないことから、恒星天球まで広がる空間に比べ、地球は明らかに点のごときものにすぎない。また、地平線は天空を2等分するべきなので、地球がある一定の大きさを持っていたら上にある半円より下にある半円が大きくなってしまう。  
6. 地球はなんらの位置変化もしない  
4の地球は天空の中心にあるという証明により、地球は他の場所に移されたり、中心から出ることは絶対にできない。その理由は、  
(1) もし変位があったならば、地球が中心以外にあるときの現象(4の(1)、(2)、(3))が起こってしまう。  
(2) 地球上の重い物体は中心に向かって落下するので、地球のような重い物体は天球の中心に向かおうとする。よって、すでに天球の中心にある重い物体は他へ動こうとしない。  
(3) もし地球が動いていたら、地球上の支えられないもの(雲、投げられた物体、飛ぶ動物など)は、地球に取り残されて西に後退するように見えるはずである。実際そのようなことはあり得ない。  
7. 天空には異なる2つの基本的運動がある  
天空の異なる2つの基本的運動を、  
(1) 東から西への平行円(太陽など)の運動  
(2) 西から東への恒星天球の運動  
とした。(1)は現在の言い方では自転による日周運動、(2)は公転による年周運動を表わしたものである。  
このように、古代の人々は宇宙を球状と考え、さらに地球を中心に他の惑星が回転していると考えていた。その理論にはヒッパルコス(B.C.190頃-B.C.120頃)の考えが採り入れられている。ヒッパルコスは、単純な等速円運動ではないことから、周転円と離心円を用いた。  
周転円  
とくに周転円説により、惑星の順行・逆行運動、さらにアリストテレスが証明できなかった逆行中の惑星の明るさの変化を説明された。周転円説とは、「地球を中心として、回転する円(従円)上のある点を中心として回転する周転円上を惑星が運行する」というものである(第5図)。よって惑星の軌道は、第6図のようになる。  
周転円上の惑星が従円の外側にあるときは周転円と従円の運動が重なり合い、周転円上の惑星が従円の内側にあるときは周転円は従円の回転を打ち消すように見える。したがって、逆行運動が起きる。また、逆行運動が起きている付近は、惑星が地球に一番接近した付近である。したがって、逆行中に惑星は最も明るく見える。  
周転円は、逆行運動の証明だけではなく、面積速度一定の法則に合わせようともすることで用いられた。小さい周転円をたくさん用いることによって惑星の運行スピードを観測データに合うように調整した。よって、『アルマゲスト』では、1つの惑星にたくさんの周転円が用いられている(表1)。  
離心円・エカント点  
また離心円(第7図)により、現在でいうとケプラーの第2法則「面積速度一定の法則」の問題を解決しようとした。離心円とは、惑星軌道の中心から少しずれたところに地球を置き、惑星は、中心を角速度一定θで運動するという考えである。ヒッパルコスは、太陽については離心率を0.04166とし、太陽の実際の位置と理論のずれをわずか1分とした。  
また、離心円の他にエカント点というものを導入した人もいた(第8図)。エカント点とは、惑星軌道の中心から少しずれたところに地球を置き、その中心をはさんで反対側の同じ距離の所にある点Eである。惑星は、中心ではなくこのエカント点を中心に角速度一定θで運動するという考えである。  
この工夫により、惑星が地球の近くでは速く、地球から遠いときは遅く運動すること、つまり「面積速度一定の法則」をうまく説明することができた。(→エカントと面積速度一定の法則)しかし、一様円運動の原理を違反するものになり、のちのコペルニクスの批判を受けることになった。  
周転円─従円体系で各惑星の運動を表すには、それぞれの惑星ごとに別々の周転円─従円体系を作らなければならない。太陽や月は逆行運動を行わないため、従円だけで運動を表すことは可能である。他の惑星については、周転円と従円の回転の割合や相対的な大きさを各惑星の観測結果と合うように調整することによって惑星の運動を表すことができるようになった。プトレマイオスは、火星・木星・土星と逆行の動きが大・中・小となる観測データに合わせて周転円の大きさも大・中・小となるとした。また、内惑星では金星・水星と周転円が小さくなり、かつその中心はかならず地球と太陽を結ぶ線上にあると決めた。このように決めたのは、内惑星がつねに太陽の近くにあることを示すためで、最大離角(地球から見た太陽と内惑星の離れる最大角度)の観測データに合わせて、周転円の大きさをそれぞれ決定した。
コペルニクスによる地動説  
コペルニクス(Nicholas Copernicus、1473-1543)は、『天体の回転について』において以下のように述べている。  
1. 宇宙は球形であること  
 まず、宇宙は球形であるということを言う必要がある。球形である理由は、  
(1) 最も完全な形である。  
(2) 最も容積が大きい。  
(3) 宇宙の他の惑星(太陽・月・星)が球形である。  
(4) 水滴は球形になる性質を持っている。  
2. 大地(地球)もまた球形であること  
地もまた(高い山、深い谷などの例外を除けば)球形である。その理由は、  
(1) どこからでも北方に行く人にとって北斗七星が高くなり、南の星々は出ない。  
(2) 両極の傾斜は、大地を進んだ距離に比例する。  
水もまた球形である。その理由は、  
(1) 航海中に船体からは見えない陸地がマストの上からは見える。  
(2) 離れていく船を陸地から見るとマスト上の明かりは、徐々に下降し、ついには見えなくなる。  
3. どのようにして大地(地球)は水と共に1つの球形をなすのか  
地球を取り巻く大洋は海を生じさせ、低い部分を満たしている。水と大地はその重さにより中心へ向かい、陸地を残すために水は大地より少なくなくてはならない。また、大地の重さの中心と大きさの中心は同一である。  
したがって、以下の事が言える。  
(1) 水と大地は1つの重心へ引きつけられている。  
(2) 他に地球の中心はない。  
(3) 大地は水より重いので、低い部分は水で満たされる。  
(4) 水は大地より少ない。  
4. 諸天体の運動は一様で円状、永続的であり、ないし複数の円(運動)から合成されていること  
天体の運動は円状である。その理由は、  
(1) 球体をした天球の運動は円状に回転する。  
(2) 円状は初めも終わりもなく、一方を他方から区別することができない。  
しかし、天球の軌道数が多いために、その運動は複雑である。  
まずは、日周運動(東から西へ)について。これは簡単、明瞭である。時間は、日数で測られる。  
次に、西から東への運動(太陽・月・5惑星)について。太陽が1年、月が1ヶ月を示すように、他の5惑星もそれぞれに異なった固有の回転をする(周期が違う)。よって、天球は1つではない。また、それらはあるときは地球に接近し、あるときは遠ざかる。にもかかわらず、諸運動は円状であるか多くの円からなっている。これらが一定の法則によって周期的に起こっていることから、円運動でなくてはいけない。そして、その惑星が変則的運動をするように見えるのは、回転の真中に地球が存在しないからである。よって、地球から見ると距離が変化して見える(星の大きさが変化して見える)ことが明らかになる。  
5. 地球に円運動がふさわしいかどうか、およびその場所について  
ここでは、2で地球も球形であることがすでに証明されたので、その球形に従う運動があるのか、またその運動の場所は宇宙の何処であるのかを考える。場所的変化であると見なされるもののすべては、見える側(惑星)の運動であるか、見る側(地球上の観測者)の運動であるか、また両方のそれぞれの運動による。例えば、同一方向へ等しく動いているものの間には運動は感知されない。そこで、天体の運動を見るのは地球からである。地球が動いていれば、その運動は外界に再現されるであろう(方向は逆)。  
このように仮定すると、諸惑星が地球に近づいたり遠ざかったりすることを証明できる。それは、地球の中心が諸惑星の円運動の中心とは異なっているからである。  
6. 地球の大きさに対する天の広大さについて  
こんなに大きい地球も天の大きさから比べると非常に小さい。宇宙は非常に大きいが有限である。  
7. 地球が、いわば中心として、宇宙の真中に静止しているとなぜ古代人たちは考えたのか  
アリストテレスの主張によると、  
(1) 物には重さ、軽さがあるとした。そして、地は最も重い(重いものは、地、水。軽いものは、空気、火)とされた。重いものは、中心へ行こうとする。中心へ行ったものはさらに中心へ行こうとし、静止する。よって、地球は宇宙の中心で自らの重さによって静止する。  
(2) もし、地球が回転するならば、その運動は非常に速いために地球上の物は散り散りになり、落下するものは真下に進まない。  
8. 前述の緒論拠への論駁およびそれらの不十分性 [略] 
9. 地球に複数の運動が付与されうるか、および宇宙の中心について  
地球も1つの惑星と考えられる。  
宇宙の中心は太陽である。地球が回転運動していることによって年周運動、諸惑星のさまざまな留・逆行・順行が説明できる。  
10. 天球の順序について  
まず、前に述べた以下の事を確認する。  
(1) 地球および月の回転運動の中心は、他の諸惑星と共に太陽の周りを移動し、太陽の近くには宇宙の中心が存在する。  
(2) その太陽は不動であり、太陽が動いて見えるのは地球の運動のためである。  
(3) 宇宙の大きさは巨大である。  
そこに、  
(1) 宇宙の均衡。  
(2) 木星の順行・逆行運動は、土星のそれより大きい。また、金星のそれは、水星のそれより大きい。  
(3) 木星の順行・逆行運動は、土星のそれより稀である。また、火星や金星のそれは、水星のそれより稀である。  
(4) 土星・木星・火星は、日の出より日没と共に出てくるときの方が地球に近づいている。  
を考慮に入れて、天球の順序を考える。  
天球の順序は、  
第一の、一番高いのは恒星天球である。恒星天球は、不動である。  
次に来るのは、最初の惑星である土星である。土星は、30年で一回転する。  
次は、木星である。木星は、12年で一回転する。  
次は、火星である。火星は、2年で一回転する。  
第4番目の場所を、年周回転が占め、地球とそれを回転する月が含まれる。  
第5番目の場所は、金星である。金星は、9ヶ月で一回転する。  
最後に第6番目の場所を、水星である。水星は、80日間で一回転する。  
そして、真中に太陽が静止している。  
11. 地球の3重運動についての論証  
地球は3重の運動をしている。  
第1は、地球が軸の周りの西から東への回転、つまり自転。  
第2は、地球の中心の年周運動である。これも西から東への回転している。  
第3は、傾斜の年周運動である。これは逆で東から西への回転している。  
12. 円の弦の長さについて [略]  
13. 平面三角形の辺と角について [略] 
これらから、注目すべきは 地動説(太陽中心説)を採用したこと、それに伴い、惑星の順行・逆行運動の説明を書き換えたことである。
天動説(周転円説)から地動説へ 
地動説(太陽中心説)の採用  
コペルニクスは、「惑星は、一様円運動をする」という原理に忠実に周転円説を修正していった。  
以下の説がある。初めから地球が動くと考えていた訳ではなく、「太陽が地球を中心に回転している」ということを前提としていた。地球を中心として太陽が回転し、太陽を中心として他のすべての惑星が回転するようなモデル(このような宇宙体系は、天文学者ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe、1546-1601)の名をとって後に「ティコの体系」(第5図)と呼ばれている)を考えていた。  
コペルニクスは、天球(透明で固い殻のようなもの)というものを考えて、惑星それぞれが天球に埋め込まれていると考えていたため、太陽が地球の周りを回転すると考えると、火星天球と太陽天球が交差してしまう。天球が物体的存在である限り、物体が互いに浸透して自由に回転するということは考えられなかった。太陽が地球の周りを回転することはコペルニクスが採用していた天球という概念に反してしまう。この問題を、地球が太陽の周りを回転すると考えたとき、天球が交差することが避けられたのである。一様円運動を守ることから始まったコペルニクスの研究は、地球の公転運動を必要としたのである。このようにしてコペルニクスは、地球を中心とした宇宙の考え、地動説(太陽中心説)を唱えるようになった。  
惑星の順行・逆行運動の説明  
次に、惑星運動の主要な不規則性である惑星の逆行運動を説明する。第7図は、動いている地球から恒星天球という静止したものを背景にした動いている外惑星の見かけの位置である。第8図は、内惑星の見かけの位置である。太陽を中心とする円軌道における地球の位置は点E1、E2、…、E7で示されている。それに対応する惑星の位置は、P1、P2、…、P7で示されている。そして、それに対応する惑星の見かけの位置は地球から惑星への線をさらに恒星天球と交差するまで伸ばし見出すことができるが、それは1、2、…、7で示されている。  
第7図(外惑星について)からは次のことが分かる。恒星の間での惑星の見かけの運動は1→2、2→3へは順行運動であり、次いで惑星は3→4、4→5へは逆行運動しているように見える。そして、最後には再びその運動は元に戻り、5→6、6→7へは順行運動となる。また、第8図(内惑星について)からは次のことが分かる。恒星の間での惑星の見かけの運動は1→2へは順行運動であり、次いで惑星は2→3、3→4、4→5、5→6へは逆行運動しているように見える。そして、最後には再びその運動は元に戻り、6→7へは順行運動となる。  
地球がその軌道の残りの部分をまわっているとき、惑星は、太陽をはさんで地球の反対側では順行運動を続ける。したがって、コペルニクスの体系では、地球から見た惑星は多くの場合、順行運動をしているように見える。逆行運動が起こるのは、地球が惑星に最も近い付近だけである。よって、逆行運動が起こるとき、惑星が最も明るい。これは観測と一致している。このようにコペルニクスは、惑星の不規則運動(順行・逆行運動)を太陽を中心として地球や他の惑星が回転し、それらの周期の差のみで決まり、惑星が逆行の際に最も明るくなることを周転円説よりも単純なモデルで説明することができた。  
以上から、プトレマイオスの周転円説より優れた点があるが、数学的モデルとしてプトレマイオスの体系とコペルニクスの体系を比較すると同等である。ただし2つの体系とも中心が同じで、惑星が円軌道をとっていること、すべての惑星の軌道面が同一面であることが前提である。(→天動説(周転円説)と地動説との幾何学的関係)  
プトレマイオスの著作『アルマゲスト』の時代には、距離の絶対値は測定できず、その方向である相対値(r/R、e/R)のみ知られていた。そのため、従円半径 Rは一律60にしか設定できなかった。よって、プトレマイオスのr/Rと現代値の1/aを比べると、外惑星である火星、木星、土星において値はほぼ同じである。よって、地球からみた惑星位置の方向はほぼ同じである。これは、観測値より合わせたからであると思われる。これは、相対値のみ定めておけば、相似図形における角度の不変性によって、地球からみた惑星位置の方向は正しく定めることができたからである。例えば第1図のように、火星MをM'に移動しても、逆に火星M'をMに移動しても地球Eから見ても何ら変わりない。  
距離の絶対値については、ティコ・ブラーエとケプラーを経て、地球軌道の長径を一辺とする三角測量により観測値が手に入った。  
天動説(周転円説=プトレマイオス型)から導いた火星の運行  
まず、周転円説を考える。プトレマイオスの時代は、各惑星の見える方向しか分からず、観測値から合わせたものである。よって、すべての惑星間の距離のスケールを正確に描く。太陽から火星までの距離を半径とした従円を描き、太陽S(白色)から地球E(水色)までの距離を周転円の半径とする。よって、火星の位置M(赤色)、軌道は第2図のようになる。  
ティコ・ブラーエの説(天動説と地動説の中間)から導いた火星の運行  
次に、ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe、1546-1601)の宇宙体系(第3図)を考える。ティコの考えは、天動説と地動説の中間であり、地球のまわりを月、太陽、恒星天球が回転し、その太陽のまわりを水星、金星、火星、木星、土星が回転している。  
ティコ・ブラーエの宇宙体系では、地球を中心として太陽がまわり、その太陽を従円の中心として火星(各惑星)が回っている。火星(各惑星)は周転円となっている。  
ここでも、すべての惑星間の距離のスケールを正確に描く。太陽から地球までの距離を半径とした従円を描き、太陽から火星までの距離を周転円の半径とする。よって、火星の位置(M・赤色)、軌道は第4図のようになる。  
天動説(周転円説=プトレマイオス型)とティコ・ブラーエの説の幾何学的関係  
すべての惑星間の距離のスケールを正確に描いた天動説から導いた第2図と地動説から導いた第4図とを組み合わせると、第5図のようになり、火星の位置(M・赤色)、軌道は一致する。  
第6図のx-y座標で、太陽から地球へのベクトルをaEとし、太陽から火星へのベクトルをaMとし、地球から火星へのベクトルをaEM=aM-aEとする。  
一致する理由は、aMと-aEとでどちらを従円と呼んで、どちらを周転円と呼ぶかは、呼び方の問題であって、幾何学的には完全に等価だからである。  
逆行運動について  
太陽、地球、火星が一直線に並んだ付近で太陽の動きに火星は引きずられて逆行する。またこのときは、火星が地球に最も近づく時でもある。 これは、プトレマイオスの説も実際の様子であるコペルニクスの説も同じである。  
 
このように、プトレマイオスの天動説(周転円説)からコペルニクスの地動説へ転換の関係を表すことができる。天動説(周転円説)も、従円の半径の大きさが太陽から火星までの距離(│aM│)、周転円の半径の大きさが太陽から地球までの距離(│aE│)であれば、ティコ・ブラーエの説での惑星軌道と同じ軌道を導けるのである。しかし、我々がすぐ認識できるのは惑星や星がどの方向に見えるかである。だからプトレマイオスらは、表1のように惑星の正確な位置がはっきりわかっていなかったのである。
ガリレイの望遠鏡での発見  
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、1564-1642)は、望遠鏡(ガリレイが望遠鏡を発明したわけではない)を用いて、様々な天体観測を行った。ガリレイは、『星界の報告』(1610)で、以下のように報告している。  
1. 月表面について  
ガリレイは、望遠鏡を用いて、月を観測した。すると月は第1図のように、  
(1) 三日月のとき、暗黒部と照明部の境界線は鮮やかな卵形ではなく、一様でないぎざぎざの曲がりくねった線を描いている。  
(2) 小斑点は、照明部では黒く、暗黒部ではきらきらと明るい。これと同じような光景は、地上でも見られる。  
このことから、月の表面には、多くの哲学者が主張しているような滑らかで一様な完全な球体ではない。地表と同じように起伏にとんでいる。山や谷がある地表と何ら変わりない。  
とういことがわかった。  
よって、天(月から上)は完全なるものである球からできているという説は覆された。このように、月と地球との類似性が明らかになった。  
2. 恒星について  
ガリレイは恒星について、日没直後に見える星は、たとえ一等星であっても大変小さく見える。ことから、星の見かけの大きさは、本体によってではなくその光彩によって変わる。 とした。よって、恒星は宇宙のはるか遠くに存在し、宇宙は大変広大であると考えた。  
3. 木星の四衛星について  
また、ガリレイの望遠鏡は優れていたため、偶然に木星の周りに4つの星を発見した。最初の日に発見した4つの星の位置と翌日、翌々日、・・・に見た4つの星の位置は違っていた。この観測結果をまとめると以下のようになる。  
(1) 類似した間隔で木星に後れたり先立ったりしている。  
(2) きわめて限定された広がりにおいてのみ、木星から東へ、あるいは西へ移動する。  
(3) 木星の逆行運動の際にも、順行運動の際にも同じように随伴する。  
このことから、  
(1) これらの惑星(4つの星)が木星の周りを回転している。  
(2) 木星と4つの星が一緒に12年周期で太陽の周りを回転している。  
(3) 4つの星は異なる軌道を回転している。  
とし、この4つの星を木星の衛星とした。  
この木星の衛星の発見によって、コペルニクスの宇宙体系を否定してきた学者達に一石を投じた。彼らは、コペルニクス体系における太陽の周りの惑星の回転は受け入れられるが、地球と月が一緒に太陽の周りを回転しつつ、地球の周りを月が回転しているのに疑問を持つ。しかし、木星の衛星の発見は、この疑問を取り除くことになろう。木星は地球と同じように太陽の周りを回転し、4つの衛星は月と同じように木星の周りを回転している。惑星が太陽の周りを回転しつつ、一方の惑星の周りを他の惑星が回転しているということは何も疑うべきことではない。このように、コペルニクスの地動説を補強した。  
4. 太陽黒点について  
さらに、太陽を観測し、黒点を発見した。黒点は、  
(1) 太陽面からずっと離れておらず、付着しているか極めて近い。  
(2) あるものは生成し、あるものは消滅していた。その期間は、不規則である。  
(3) 黒点の大部分は、不規則な形をしている。そして、絶えず変化している。  
(4) 暗さも絶えず変化している。  
(5) 1つの黒点が2つ、3つに分離することや1つに結合することもある。  
ということを発見した。しかし、このような無秩序な個別的運動の他に全体に共通する運動もある。それは、  
(1) 一様な運動によってお互いに平行線を描きながら太陽の本体を通過する。 
(2) 黒点は、太陽の両極に近づくにつれて、運動は小さく、遠ざかるにつれ、運動は大きい。  
ことである。このことから、黒点は、太陽面に付着していて、太陽の自転につれて動くことがわかった。また、黒点は、厚さと深さを持っていることも観測された。  
この太陽の黒点の発見によっても、天(月から上)は完全なるものである球からできているという説は覆され、天と地は別世界であるという説は否定された。  
またガリレイは、『天文対話(プトレマイオスとコペルニクスの二大世界体系についての対話)』(1632)を出版した。この書は、コペルニクスの地動説を天文観測や新しい運動論によって補強したが、ガリレイ裁判をひきおこす元となった。  
『天文対話』の1日目は、アリストテレスの『天体論』への批判という形で展開される。  
次に2日目は、地動説を否定する人々の主張を覆していくという形で展開される。当時地動説を否定していた人たちは、  
(1) もし地球が自転しているのならば、地球上の物体(空気・投げ上げられた物体など)は後ろに取り残されるだろう。 
(2) もし地球が自転しているのならば、地球上の物体は遠心力で宇宙に向かって投げ出されるだろう。  
と主張していた。そこでガリレイは、(1)の主張に答えるために、有名な「船のマストからの落下実験」をとりあげ、 ・・・  
石は船がじっとしていようととても速く動いていようと、常に同じ場所に落ちることが示されるでしょう。ですから、大地についても船についてと同じ条件にある以上、石が常に塔の根元に落ちることからは大地の運動についても静止についても何も推論されることはできません。  
またガリレイは、(2)の主張に対しては、地球表面から上昇しようとする傾向の大きさ(遠心力)と地球の中心へ落下しようとする傾向の大きさ(重力)を比較しようとした。そこで、後者の大きさは落下距離は落下時間の2乗に比例する(「y=0.5gt2」)という法則に従っていることを見い出した。しかし、遠心力の大きさは量的に求めることができなかったので直観に訴える形で「極めて小さい」とした。 
よって、宇宙に向かって投げ出されることはないだろうとした。  
以上によりガリレイは、コペルニクスの地動説を天文観測や新しい運動論によって補強した。
回転系の世界(フーコーの振り子)  
19世紀当時、コペルニクス(Nicholas Copernicus、1473-1543)の地動説やガリレイ(Galileo Galilei、1564-1642)による木星衛星の観測などにより地球の公転や自転は一般的に認められていた。しかし、地球の自転を直接地上で確証する手段を持っていなかった。そのような中で、1851年にフーコー(Jean Bernard Leon Foucault、1819-1868)は巨大な振り子(長さ67m、周期約16秒)を用いて、地球の自転を人々の目前で実演して見せた。(フーコーがはじめて実験を行ったときは、わずか長さ2mの振り子であった。)  
簡単化のため北極で実験を行った場合を考える。  
振り子は、宇宙空間(非回転座標系)から観察すると単振動する。それを地球(回転座標系)から観察すると振り子は、単純な単振動ではなく振動面が回転するように見える。よって北極では、振動面は進行方向から右側に曲げられ、1日で時計回りに1回転するように見える。  
フーコーはこれを地球の自転の証としたのである。南極では、振動面の回転は逆になる。また、極以外の緯度では、重力の方向が回転軸と平行でないために、回転周期は1日よりも長くなる。つまり、緯度がφのところでは、1日(正確には、地球の自転周期23時間56分54秒)で、360°×sinφだけ振動面が回転する。よって、新潟では、38°Nなので、360°×sin38°=221.6°となり、1時間で約9°回転する。そして、この地球の自転によって生じるコリオリの力により、地球の大気・海は運動の方向を回転させるのである。この話は、今日良く知られているものである。  
シュミレーションでは、回転座標系の周期を簡単に変化させることができ(回転座標系の周期≦振り子の周期)、それらの周期の比により、振り子の軌跡は様々な花弁型になる。  
振り子の周期に回転周期が近づいてくると、コリオリの力が大きくなり、振り子の軌跡は大きく曲げられる。そして、振り子の周期と回転周期とが一致(回転座標系の周期=振り子の周期)したとき、 振り子の運動を回転座標系から観察すると、往復運動ではなく完全な円運動になる。  
しかし、円運動をしているように見える振り子の軌跡も、非回転座標系から観測すれば、単純に単振動をしているのである。つまり、筒(振動面)の中を単振動し、その筒が回転運動しているだけなのである。このように、回転座標系から見た振り子と非回転座標系から見た振り子は、見る系の違いであって同じ振り子である。   
 
地動説 6

 

天動説から地動説へ  
天体の見方のひとつに、天動説と地動説というものがあります。  
天動説とは、 地球の周りの天体が地球を中心として回っているという考え方。そして地動説とは、地球が宇宙の中心ではなく、 地球はあくまでも衛星のひとつで太陽の周りをぐるぐる回っているとする節です。  
現在では言わずもがな地動説が定説とされているわけですが、400年ほど前までは天動説が当たり前として支持されていました。いったいどのようにして天動説から地動説へと移り変わっていったのでしょうか。  
プトレマイオス  
そもそも天動説とは、古代ギリシャの プトレマイオスが打ち出した理論で、カトリック教会から支持をされていた考えでした。つまり、この天動説を支持しない学者は教団から弾圧され、最悪の場合死刑にもされてしまっていたのです。  
そもそも地球が丸いですとか、重力という概念がまだない時代です。太陽は東から上り西に沈む、地面が動いているなど全く感じない毎日。天動説が支持されたのもあたりまえです。  
コペルニクスの登場  
そこに表れたのが、カトリック教の司祭だった コペルニクスです。彼は天動説では説明のつかなかった矛盾の多くが、地動説であれば説明がつくと主張します。しかし、当時には望遠鏡もなく、人々を納得させる証拠を提示することができずにいました。  
ガリレオ  
17世紀に入り望遠鏡が発明されたあと、この地動説を支持したのが ガリレオ=ガリレイです。木星には4つの衛星が存在していること、そして金星の満ち欠けと大きさが変化していることなど、天動説では説明ができない現象を発見していきました。  
しかし、当時の主流はやはり天動説。やりすぎてしまったガリレオは宗教裁判にかけられ、判決を持つ間に病死してしまいました。  
ちなみにこの年に、万有引力、そして地動説を決定づける慣性の法則を定義付けた アイザック=ニュートンが生まれています。  
宗教裁判の後  
ガリレオの弾圧の後、 ヨハネス=ケプラーが登場します。  
彼は自身の観測記録から、衛星の絵描く起動は楕円であることを発見、そしてルドルフ表と呼ばれる天体表を出版しました。天動説では説明がつかない矛盾があるということが世論の中で広まり始めたのです。  
そして最後に登場するのが アイザック=ニュートンです。彼は万有引力と慣性の法則を組み合わせることで、地球が動いていてもその星に生活している人たちには影響がないことを決定づけます。  
これにより、天動説の矛盾を破った地動説が新し理論として支持されていくことになるのです。  
 
コペルニクスの地動説 7

 

地動説を唱え、伝統的な宇宙観を覆したコペルニクス。  
しかし望遠鏡すら発明されていなかった時代に、彼はどうやってその考えにたどり着いたのだろうか? そして彼の革命的な本、『天球の回転について』(1543)は本当に革命的な内容だったのだろうか?コペルニクスの本が出版されるまでの経緯を追いながら、彼が地動説を唱えたその真意に迫る。
北へ  
1539年、春。二十代半ばの一人の若者が、神聖ローマ帝国南部の街ニュルンベルクを旅立って、北へと向かった。  
目的地は、バルト海沿岸の都市、フロムボルク。今日ポーランドに位置するこの街までは、ニュルンベルクからだと直線距離でも800キロ近くある。彼がそれほどの長距離を冒してまで旅に出たのには、理由があった。どうしても、ある人物に会いたかったのだ。  
若者の名は、ゲオルク・ヨアヒム・レティクスといった。ヴィッテンベルク大学――この時代には、ルターによる宗教改革の中心地だった――で学位を取った後、そこで数学の講師をしていた人物である。だが、大学で起こったいざこざを避けてニュルンベルクを訪れたことで、彼の運命は変わった。奇妙な噂を耳にしたのだ。なんでも、フロムボルクに住むある学者が、まったく新しい天文学理論を研究しているらしい。それによるとなんと、地球の周りを太陽が回っているのではなく、この確固とした地球の方が太陽の周りを回っているというのだ……。  
にわかには信じ難い考えだったが、レティクスは大いに興味を持ち、話を聴いてみようと決心した。これは僕の憶測だが、レティクスがそれほど惹きつけられたのは、彼が占星術に寄せていた強い関心のせいだったのかもしれない。もし、万が一、地球が太陽の周りを回っているのが正しいとしたなら、占星術に与える影響には計り知れないものがあった。なにしろこの時代、占星術と天文学は密接な関わりを持つ学問分野だったのだ。天文学者が同時に占星術師でもあるというのは、決して珍しい話ではなかった。  
ニュルンベルクで出会った天文学者のシェーナーと書籍商のペトレイウスも、この若い数学者の旅立ちを後押ししたらしかった。二人は、問題の新しい天文学理論をぜひとも本にして出版したいと考えていたのだ。実際、レティクスはフロムボルクへの手土産として五つの書籍を持って行ったのだけれども、そのうち三つはペトレイウスが出版したものだった。これは印刷見本を兼ねていたのではないかと、科学史の研究者は推測している。  
ともかく、レティクスは北へと向かった。僕らは先回りしてポーランドに行き、ついでに時間を数十年遡って、その新しい天文学理論がどのようにして構想されたのかを見ておくことにしたい。 ――そう、肝心なことを言い忘れていた。問題の人物は、その名をニコラウス・コペルニクスという。
天文学との邂逅  
ポーランド最長の河川、ヴィスワ川の中流に位置する街トルンは、ハンザ同盟の一翼を担う都市として、15世紀半ばには大いに繁栄していた。コペルニクスはこの街で、1473年の2月19日に生を受けたと考えられている。  
裕福な商人階級の家庭だったが、10歳の頃に父親が亡くなったため、その後は母方の伯父に育てられた。後見人となったこの伯父は、極めて厳格で高圧的な人物だったと伝えられている。世渡りにも長けていた。教会法の学位を取った後、教会組織の中で出世し、1489年にはワーミアという地区の司教にまでなった。さらにこの伯父は、自らの支配力を保つため、教会組織の重要な役職を身内で固めようともした。こうしたわけで、コペルニクスと彼の兄は、勉強のためにクラクフの大学へと送られることになったのだった。  
中世の大学というのは、一般教養にあたる哲学部と、神学・法学・医学という専門的な三つの上級学部からなっていることが多かった。聖職者と法律家と医者が特権的な職業であるのは、古今東西ほぼ同じ現象らしい。ちなみに、大学といっても現代のようにキャンパスがあるわけではない。universitas(universityの語源)という言葉はもともと、教師や学生の組合のことを意味していた。だから、コペルニクスが「クラクフ大学へ行った」というのは、「クラクフの街にあった教師・学生の組合に登録して、どこかの家や教会などで行われたいくつかの講義を聞いた」という意味に理解する必要がある。  
コペルニクスは22歳の頃までクラクフにいたらしいが、実際に何を勉強したのはよく分かっていない。だが、数学と天文学の講義――意外に思うかもしれないが、これらは当時、哲学部で教えられる「一般教養科目」だった――に興味を持ったのはおそらく間違いないだろう。  
コペルニクスがこの時期に手に入れ、亡くなるまでずっと持っていた本がある。これは二冊の本と何枚かの白紙を綴じて一つにしたもので、白紙部分にはいくつかの重要なメモが書かれていた。そのメモについては後で触れることになるが、ひとまずはその本に注目してみよう。  
二冊の本は、『アルフォンソ表』(ヴェネツィア、1492年刊)と『三角関数表』(アウグスブルク、1490年刊)というものである。どちらも、星の運行を計算するためのデータ・ブックだと考えてもらえばいいかと思う。このうち『アルフォンソ表』は、13世紀にカスティーリャ(スペイン)王アルフォンソ10世の命を受けて編纂された表で、好きな場所・時刻に惑星がどこにあるかを計算できる優れものだった。もう一つの『三角関数表』は15世紀最大の天文学者レギオモンタヌスの手によるもので、主に占星術の計算を手助けするためのものだが、西洋ラテン世界でおそらく初めてタンジェント(tan)の数値を載せた本でもある。どちらも17世紀前半まで繰り返し版を重ねており、天文学の分野のベストセラーだったと言っていい。  
この二冊の本からも察しが付くように、当時の天文学というのは、何よりもまず星(惑星)がいつどの位置にある(あった)かを計算する学問だった。なぜそんな計算が必要かと言えば、それは暦を作るためでもあり、また占星術のためでもある。私たちは「天文学」と聞くと、巨大な望遠鏡で星を観測したり、宇宙の構造や成り立ちを物理法則によって解明したりといったことを思い浮かべるけれども、この時代の天文学にそういった雰囲気はまったくない。コペルニクスは、確かに天文学の分野で歴史に残る業績を挙げたのだが、惑星の間に働く引力の法則も知らなかったし、望遠鏡で星を見たことすらなかった――そもそもこの時代にはまだ、望遠鏡が発明されていないのだ! コペルニクスが夢中になったのは、ほかでもない、星の運行の「計算」だった。いまの感覚からすれば、それは天文学というよりもむしろ、数学という方がしっくりくるような世界である。
イタリアにて  
ボローニャ大学は1088年に創設されたヨーロッパ最古の大学で、特に法学分野の教育で歴史的にその名を知られている。コペルニクスは1496年の秋、23歳のときにイタリアにやってきてこの名門大学に登録し、法律の勉強を始めた。例の伯父がコペルニクスのために「司教座聖堂参事会員」という教会内部のポストを確保したため、教会法を学ぶ必要が生じたのだ。司教座聖堂参事会員というのは、司教――つまり彼の伯父――を補佐してその地区の行政・立法・司法全般の仕事を行う、総合官僚とでも呼べそうな職のことである。ちなみに伯父自身、ボローニャ大学で教会法の学位を取った後、参事会員のポストに就いていた。何のことはない、伯父はコペルニクス(とその兄)に、自分と同じ経歴を歩ませようとしたわけである。  
だがコペルニクスは、このボローニャ留学中には教会法の学位を取らなかった。そしてその代わりに――と言ってよいかどうかは定かでないけれども――熱を上げたのが天文学だった。この時期のコペルニクスの活動については、いままさに彼の元へと向かっているレティクスが後年、こう語っている。  
わが師であられるところの博士[=コペルニクス]は、ボローニャにおられたとき、極めて学識ある人物ドミニコ・マリア[=ボローニャ大学天文学教授]の、学生というよりはむしろ、助手かつ観測の証人でありました。さらにローマでは1500年頃、だいたい27歳でしたが、学生たちの大群の前で、また多くの人々に取り囲まれて、数学について教授されており、この種の学問には熟達しておられました。  
これはさすがに誇張しすぎの感があるが、コペルニクスがこの時期にボローニャとローマでそれぞれ天文観測を行ったという記録は残っている。法学の勉強をしていながらも、数学と天文学の方にいっそう関心があったのは確かだろう。  
翌1501年、コペルニクスは、今度はパドヴァにやってきた。この時代、ボローニャ大学が法学のメッカだったとすれば、パドヴァ大学は医学のエルサレムだ。コペルニクスはボローニャからいったん帰国して(!)留学延長の許可を得、再びイタリアまで(!)、今度は医学の勉強もしに来たのだ。もっとも僕としては、コペルニクスが留学を延長したのは単に天文学の勉強を続けたかったからではないかという気もするわけだが……。  
ともかく、コペルニクスはパドヴァ大学で二年間学んだ後、1503年にフェラーラ大学で教会法の学位を取得して帰国した(結局、医学の学位は取っていない)。わざわざ別の大学を選んだのは、必要経費が少なくてすむからだったらしい。そしてこれ以降、コペルニクスは基本的にずっと、ワーミア司教区にとどまって一生を送ることになる。だが、話の舞台をワーミアに移す前に、当時のイタリアの状況についてもう少し話しておくことにしよう。何と言ってもこの時代、イタリアはルネサンスの最盛期を迎えていたのだから。
プトレマイオス・リヴァイヴァル  
ルネサンスと聞くと、なんといってもまず絵画や彫刻が思い浮かぶ。しかし科学にとっても、ルネサンスはとても重要な意味を持っていた。この時代になってようやく、古代ギリシアの文化・学問が詳しく研究されるようになったからだ。  
古代ギリシアというのは今日でこそ、西洋のほとんどあらゆる学問(自然科学も含めて)の出発点と見なされている。だが実はルネサンスの時代になるまで、およそ千年以上もの間、西欧人は古代ギリシア科学の遺産をほとんど知らなかった。古代ギリシアの本格的な「発見」はだいたい12世紀頃に始まるのだが、そうした「発見」が爆発的に増えたのが、14世紀から16世紀にかけてのイタリア・ルネサンスの時代だったのである。  
「発見」とは言っても、大昔の遺跡が発掘されたというような意味ではない。古代ギリシアの文化は、西欧ではほとんど忘れ去られてしまっていたが、東欧(東ローマ帝国)やアラビアの人々がその遺産を受け継ぎ、独自に発展させていた。西欧はそうした「先進的な」文化に遭遇し、それを翻訳して吸収することで、近代的な科学の基盤を作っていったのだ。コペルニクスがイタリアで目の当たりにしたのは、そうした古代の遺産が現在進行形で復興されつつある光景だった。  
そうしたルネサンス真っ只中のイタリアに留学していただけのことはあって、コペルニクスもその間にギリシア語を学んだ。そして帰国後には、『教訓・田園・恋の書簡集』なるギリシア語の本を翻訳・出版することさえしている(1509年)。西欧では失われていたギリシア語の文献を研究し、学問用語であるラテン語に翻訳することが、当時の流行だった。もっとも、この本はせいぜい「手紙の書き方見本」のようなものであって、わざわざ訳すほどの価値はないらしいのだが……。  
とはいえ、古代ギリシア(およびローマ)の復興というルネサンスの精神は、コペルニクスの天文学研究にとっても非常に重要な意味を持っている。古代ギリシア最大の天文学者プトレマイオスの著作も、西欧ではルネサンスの時代になってようやく、本格的に研究され始めたからだ。  
プトレマイオスは、コペルニクスの時代から遡ること1200年以上前、紀元後2世紀に古代ギリシアの都市アレクサンドリア(現在はエジプトに位置する)で活躍した人物で、それまでの天文学理論を集大成した『数学的総合全13巻』を書いた。この本はそれから700年ほど後、9世紀になってアラビアの天文学者の注目を集めるようになり、アラビア語に翻訳される。その際、おそらくその内容があまりに凄かったからだろうと思うのだが、この本は『最大の書』と呼ばれた。そして、それからさらに300年が経った12世紀になってようやくラテン語に翻訳され、アラビア語の『最大の書』を音訳したタイトル、『アルマゲスト』の名で知られるようになった。  
ラテン語版『アルマゲスト』は1515年に最初の印刷本が出版され、コペルニクスもこれを入手した。ところで、いま「最初の印刷本」と言ったけれども、グーテンベルクが金属活字による活版印刷を発明したのは1450年頃のことだ。それまで本というのは手で書き写すものだったのに、それから半世紀後にはもう、印刷された本が珍しくなくなっていたことになる。そういえば、コペルニクスは学生時代にすでに、二冊のデータ・ブックの印刷本を手に入れていた。ちょうど現代がインターネットの広く普及した時代であるように、コペルニクスは「印刷革命」の恩恵を十分に受けることのできた最も初期の世代に属していたのだ。  
もっとも、最初の印刷本が出る前から、『アルマゲスト』は手書きの写本の段階で詳しく研究され、天文学者のあいだで広く知られるようになっていた。特に、コペルニクスの使っていた『三角関数表』の著者でもあるレギオモンタヌスは、直接イタリアまで旅して様々なギリシア語文献を入手し、それを徹底的に研究した。その成果は死後、『アルマゲスト綱要』として出版され(1496年)、この本はコペルニクスの愛読書となる。また、彼が集めた写本をもとにして、1538年にはついに、『アルマゲスト』のギリシア語原典が初めて出版された。実は、レティクスがコペルニクスへの手土産とした例の五冊の本のうち一冊が、このギリシア語版『アルマゲスト』なのだ。コペルニクスがそれを受け取ったら、さぞかし喜ぶことだろう。  
さて、レティクスがやってくるまでには、まだ時間があるようだ。彼の到着を待つあいだに、『アルマゲスト』に書かれていた天文学理論とはどんなものなのか、簡単に説明しておくことにしたい。
「最大の書」  
『アルマゲスト』の凄さは、一見すると不可解な惑星の動きを、見事な工夫によって予測していたことにある。  
「惑星」というのはギリシア語の「さまよう人」に由来する言葉で、当時は水星・金星・火星・木星・土星・月・太陽の七つを指していた。すぐ分かるように、これは今日、僕らが「惑星」と呼んでいるものとは違う。肉眼で見えない天王星や海王星が入っていないのは望遠鏡のない時代だから当然だとしても、なぜ月や太陽が惑星なのか? それは、この二つの星も、ほかの五つの星と同じように、夜空に輝く星座の間を「さまよう」からだ。  
天の星の大部分は、一年を通じてその位置を少しずつ変えていく(たとえば、オリオン座を夏に見ることはできない)。そうした星たちの動き方は規則的で、みな一斉に動いていく。さながら、天を覆う巨大なドームに星座が貼りついていて、それが丸ごと回転しているかのようだ。――古代ギリシア以来、こうしたドームは本当に存在していると考えられ、「天球」と呼ばれていた。  
ところが、惑星の動き方は違う。太陽や月を含めた七つの惑星は、どれも恒星の貼りついた天球とはまったく関係なく動くのだ。だから、伝統的には、この七つの惑星はそれぞれ別の天球に貼り付いているとされた。恒星の天球と合わせて全部で八つの天球があり、これが入れ子のように重なって宇宙ができていると考えられたのだった。  
惑星の動き方の中でも特に不可解なのは、水星・金星・火星・木星・土星が見せる「逆行」という現象である。この五つの星は、普段は星座の間を東に進んでいくのだが、そのスピードはだんだん遅くなって、やがて停止してしまう。すると今度は、それまでと逆に、つまり西向きに動き始める。さらに観測を続けると、またいったん停止して、再び東向きに、何事もなかったかのように動き出す。この奇妙な動き方はいったい何なのだろう。それを予測するにはどうすればいいのだろうか?  
プトレマイオスが使ったのは、先人から受け継いだ周転円という手法だった。プトレマイオスはそれにオリジナルな工夫を加えて使ったのだが、まずその基本的な考え方から見ていこう。  
ここに書いた図で、宇宙の真ん中にあって動かないのが地球である。これは私たちの日常経験の範囲内では絶対確実と思える前提で、問題は、この地球から見たときに惑星がどの方向に見えるか、ということだ。  
ここで、惑星の動きを説明するために、二つの円が登場する。地球(E)を中心とする大きな円(図では緑色)は導円と呼ばれ、この円の上を、点Cが一定の速さで回転する。次に、この点Cを中心として、もう一つの小さな円(赤色)がある。これには周転円という名前が付けられていて、この円の上を、惑星(P)が一定の速さで回転する。つまり惑星は、導円の上を回転する周転円の上を回転する。親亀の上に小亀が乗っているようなこの模型を使うと、惑星は二つの回転が合成された結果、点線で描いたような動き方をする。そしてこれを地球から眺めると、見事に逆行しているように見えるのである。  
これだけでもなかなか凄いと思うのだが、プトレマイオスはさらに先へ進んだ。導円と周転円の単純な模型では、観察データからのずれがかなりあったのだ。そこでプトレマイオスは、この模型をわずかに「ずらす」戦略に出た。それがこちらの図(図2)である。  
今度は、導円の中心(M)が、地球からずれたところに置かれている。勘違いしないでほしいが、地球が宇宙の中心から外れたというわけではない。導円の方が宇宙の中心から少しずれたということだ。ここでさらに、プトレマイオスはもう一つ、決定的な工夫をする。導円の上を回転する点Cは、もはや円の上を一定の速さでは動かない。そうではなく、点E'(これはMを挟んで地球Eの反対側にある)の周りを、一定の回転速度で回るのだ(知っている人のために物理の用語で言うと、E'の周りの角速度が一定ということ)。この工夫は「エカント」と呼ばれ、これこそまさに、『アルマゲスト』を「最大の書」にした要因だった。これを使うことによって、惑星の位置の予測は格段に精確になったのだ。  
不動の地球を宇宙の中心に据えたプトレマイオスの天文学理論は、僕たちが想像するよりも遥かに精緻なもので、当時の観測データともよく一致していた。暦を作ったり占星術を行ったりするには十分だったし、誤差が出てきた場合でも、周転円や導円を適度にずらしたりすることによって模型を修正すればそれでよかった。と言うよりむしろ、それが天文学者の仕事だったと言ってもいい。しかも、地球が静止しているという考えは私たちの日常経験とも完璧に一致している。いったいどこに、地球が動いているなどと考える理由があるのだろうか? ――それがあるのだ。実は、「最大の書」のゆえんたる「エカント」こそ、コペルニクスが地動説を主張するきっかけだったのである。
『コメンタリオルス』  
1503年にイタリアから帰国した後、コペルニクスは伯父の補佐役・兼・侍医として働くようになった。ところが七年後、コペルニクスは突然伯父の元を去り、フロムボルクに移住する。理由ははっきりしないが、官僚としてのキャリアを積むことを捨てて、天文学に時間を割く方を選んだのではないかと考えられている。実際、ほぼこの頃に、コペルニクスは新しい天文学理論を考えていたのだ。コペルニクスはその概要をまとめ、クラクフの天文学者たちに送った。『コメンタリオルス』(強いて訳せば『小論』)と呼ばれるこの手書きの論文こそ、コペルニクスが地動説を公表した最初の著作だった。  
『コメンタリオルス』の序に当たる部分で、コペルニクスは、プトレマイオス流の周転円理論に反対の意を表明する。「なぜなら、それらの理論はさらにいくつかのエカント円を想定しなければ不十分であったし、こうした円のせいで、星は導円上においても固有の中心においても常に一様な速さで動くわけではないということが明白だったからである」。前に説明したように、エカントを使うと、惑星の回転するスピードは一定でなくなる。これがコペルニクスの目にはルール違反と映ったのだ。そこでコペルニクスは、「円たちのもっと合理的な配置」がないものかと考えた。つまり、一定の速度で円運動するというルールを破ることなく、惑星の動きをうまく説明できるような模型は作れないものかと考えたのだ。  
その試行錯誤の跡は、コペルニクスの「ノート」に残っている。前にコペルニクスが持っていた二冊のデータ・ブックのことを話したとき、その二冊は白紙と一緒にバインドされていたと言ったのを覚えているだろうか。「ノート」と言ったのはその白紙のことで、そのうちの一枚に、『コメンタリオルス』以前に書かれたと見られるメモ書きがある。専門の科学史研究者によれば、その内容から読み取れるのはこういうことだ。「コペルニクスは「地球が動く」ことをまず仮定して探究を開始したのではない。『一様円運動の原理』に忠実であろうとして、周転円説の修正に手をつけたのである」(高橋『コペルニクス・天球回転論』184-5頁)。つまり、地球が動くというアイディアは、プトレマイオス流の天文学理論を修正しようとした結果だったというのである。  
実を言うと、コペルニクス以前にも、同じようなことを考えた人々がいた。それは13世紀から14世紀にかけて活躍したアラビアの天文学者の一派で、科学史業界では「マラーガ学派」と呼ばれている。この人たちもやはり、一定の速度での円運動ということを重視してプトレマイオスを批判し、その理論に手の込んだ修正を加えた。詳しいことは省くけれども、エカントの代わりに別の円をいくつか加えて、それでもってエカントと同じような機構を再現したのだ。そして面白いことに、この学派の考案した理論は、コペルニクスのものとそっくりなのである――ただ一点、地球が動くということを除いて。  
マラーガ学派の理論がコペルニクスに影響を与えていたという明確な物的証拠は、今のところ挙がっていない。一説には、アラビアの天文学理論がビザンツ帝国を経由してイタリアに伝わり、留学中のコペルニクスの知るところとなったのではないかとも言われているが、はっきりしたことは言えない。個人的には、地動説がコペルニクスの完全な独創だったとするより、アラビアの先人たちから受け継いだ理論を発展させた結果だったと考えるほうがロマンチックでいいなあと思う。が、アラビア天文学とコペルニクスの関係をどう考えるべきかについては、専門家のあいだでもまだ結論が出ていないようだ。  
話を『コメンタリオルス』に戻そう。この小論は印刷こそされなかったけれども、天文学者たちの間ではかなり評判になったらしい。当然、コピー機などない時代だから、興味を持った人はそれを手書きで書き写す。そしてまた別の人に送る。こうしてコペルニクスのアイディアは、少しずつ、口コミに近い形で広まっていった。レティクスがコペルニクスのことを耳にしたのもその結果だったし、それより五年ほど前の1533年には、ローマ・カトリックの秘書官が教皇にコペルニクスの考えを説明したという記録さえ残っている。  
ちなみに教会側はこのとき、別に何の措置も取っていない。地動説はキリスト教会によって弾圧されたというイメージがあるかもしれないが、教会が地動説を問題視するようになるのは実は、コペルニクスから何十年も後のことなのだ。しかしその話はまた、別の機会にすることにしたい。
多忙な日々、地味な仕事  
『コメンタリオルス』から数年後の1514年、ローマ教皇庁では教会の暦の改革が議論に上っていた。教皇はヨーロッパ中の天文学者に意見を出すよう求め、当時四十歳くらいだったコペルニクスにも、その依頼があった。このエピソードは、コペルニクスがすでに天文学者としてその名を知られていたことを示している――公に本や論文を出版したことがないにもかかわらず!――けれども、実のところコペルニクスは、決して天文学に専念していたわけではない。  
この依頼のあった二年前、司教だった例の伯父が突然亡くなっていた。ほとんど彼の力量によって治められていたワーミアは政治的に厳しい状態に追い込まれ、1520年にはついに隣国と戦争状態になった。コペルニクスはどうしていたかと言うと、なんと戦争が終わるまでの五年間、ワーミアの中枢で戦闘の指揮に携わり、一時は司教代理という事実上のトップの職責も果たしていた。それでも何度か天文観測を行ったりはしていたようだが、こんな状況で研究に集中できたとは想像できない。  
戦争が終わっても、コペルニクスは参事会員という総合官僚職の仕事で忙しく、経済政策などに関わっていた。それだけでなく、イタリアで学んだ医学の知識を使って、医者としても活動していた。コペルニクスはこうした多忙な日々を過ごしつつ、空いた時間を使って天文学研究をしていたらしい。  
残念ながら、コペルニクスの研究が『コメンタリオルス』以降、どのように進展したのかはよくわからない。その後およそ三十年の間に書かれた天文学関係のものは、ヴェルナーという天文学者の本について批判的にコメントした書簡しか知られていない。そしてその書簡を見ても、肝心のコペルニクス自身の説については「別のところで説明しようと思っています」と書かれているだけだ。それ以外にわかっているのは、自分の理論に必要なデータを集めるために何度か天文観測を行ったということと、1535年頃には理論の主な部分がだいたいできていたらしいということくらいでしかない。  
もちろん、動く地球というアイディアはとっくにコペルニクスの頭の中にあったし、『コメンタリオルス』で仲間内には公表していた。けれども、惑星の位置の計算を仕事とする天文学の世界では、動く地球という装置を使って精確な計算結果を出せなければ意味がなかった。コペルニクスが多忙な日々の合間を縫って二十年以上もかけて取り組んでいたのは、観測データと合うように円の組み合わせ方を微妙に修正するという、何とも地味な仕事だったのだ。率直に言わせてもらうと、コペルニクスがここで何か革命的なことをしているという印象は全くない。プトレマイオス以来の伝統的な天文学――円をうまく組み合わせて惑星の動きを再現するという一種の数学、あるいはむしろパズル――に、ちょっとした工夫を付け加えただけにしか思えないのだ。  
だがそれでも、問題は、その工夫が「ちょっとした」程度では済まされないようなものだったことにある。誰がどう考えてみても、僕たちの立っているこの地球が動いているとは到底信じられないではないか! なるほど、『コメンタリオルス』の中では、円の説明が地動説の重要な論証になるのだと書かれていた。だが、地球が動いていると考えればうまく説明ができると言われたところで、地球が動いていると納得できるわけではないだろう。  
コペルニクス自身、自分の理論が人々に受け入れてもらえるという自信はなかなか持てなかった。最終的に出版された本の中でも、「見解の新奇さと不条理さのゆえに軽蔑されるのを恐れて、企てた著述を全く中止してしまおうかと思ったほどでした」と告白しているくらいなのだ。だから――もちろんほかにも理由はあるだろうが――ようやくのことで理論がほぼ完成し、原稿も書きためていたのに、コペルニクスはそれを出版しようとしなかった。  
そうこうしているうちに、時は流れて1539年の5月を迎える。コペルニクスのところに、一人の若者がやってきた。レティクスの到着である。
出版への道のり  
レティクスがコペルニクスのもとを訪れたとき、コペルニクスはすでに六十代も半ばを過ぎていた。この老人と若者のあいだでどんなやりとりが交わされたのかは、想像するよりほかにない。ただ、到着後およそ四ヶ月でコペルニクスの原稿を(全部ではないが)読み、その理論をほぼマスターして、レティクスがコペルニクスの最初の――かつ唯一の――弟子になったことは確かである。とすれば、長年にわたって一人で地道に研究を続けてきた老人が、遠方からやってきたこの若者を大いに歓迎したのは間違いないだろう。  
レティクスは師の天文学理論を学んだだけでなく、その概要を本にまとめ、翌年春に『第一解説』と題して出版した。この本は、出版物としてコペルニクスの説を初めて解説したもので、地動説に対する人々の反応をうかがう観測気球の役目を果たした。幸い、コペルニクスの心配をよそに反応は上々で、早くも翌年には再版されている。ちなみに、レティクスはもともと『第二解説』の執筆も予定していたのだが、これは結局書かれなかった。いや、もしかすると、書く必要がなくなったと言うべきなのかもしれない。レティクスの助けを借りて、ついにコペルニクス本人が、自分の本を印刷に回すべく原稿の改訂作業を始めたのだ。  
当たり前のことだが、どんなに素晴らしいアイディアだろうと、公表されなければ世界を動かすことはない。その意味で、レティクスの仕事はとても重要だった。いや、レティクスだけではない。コペルニクスの理論が世に出るまでには、他にも様々な人が関わっている。  
たとえば、出版された本の中でコペルニクス自身が「大親友」と呼んでいるギーゼ司教。彼は、新しい天文学理論を出版するよう強く促した一人だった。レティクスが『第一解説』の中で語っているところによれば、どうやらコペルニクスはもともと「プトレマイオスよりもむしろアルフォンソ表を真似て」、自分の理論そのものの内容を出版するのではなく、それに基づいて算出したデータ・ブックを出版しようと考えていたらしい。だがギーゼはそれでは不十分だと主張し、ついに説得に成功したのだという。  
それから僕としては、本の出版を請け負った書籍商ペトレイウスの気概も大いに評価すべきだと思う。この人物は、学問を非常に価値あるものと考えて多くの学術書の出版を手がけただけでなく、自分が印刷所を営むニュルンベルクの街が優れた学者を数多く輩出していることを誇りに思っていた。「およそ良いものはここからほとんど全世界へと輸出されるのですから、[優れた学者の著作が]ここから全世界に向かって出版されるのを何が妨げたりするでしょうか。実のところ、私はこの点で我が街から賞賛を受けるに値すると信じております」。フロムボルク滞在中のレティクスに宛てた手紙にこう書かれているのを見るとき、僕は、コペルニクスの本は決して著者一人の手によって世に出たのではないことを実感するのだ。  
かくして、1542年の5月頃、つまりコペルニクスのもとにやってきてからほぼ三年後に、レティクスは師の原稿を持ってニュルンベルクへと戻ってきた。早速ペトレイウスのところで印刷作業が始まり、レティクスがその監督にあたった。しかし、レティクスは秋から別の街の大学で教えなければならなかったので、知人の神学者オジアンダーに後を託した。そして、年は変わって1543年の初頭、ついにコペルニクスの主著『天球回転論』が出版された。
コペルニクスの宇宙  
『天球回転論』は全部で6巻からなる。このうち第1巻が地動説の全般的な説明(と、後で必要な数学の準備)に充てられているのに対し、残りの5巻では星の動きの計算についてのテクニカルな詳細が延々と解説されている。この専門的な部分こそ、天文学者コペルニクスが『コメンタリオルス』以降の三十年を費やして理論の精度を上げようとした努力の結晶だったわけだ。だが僕にはその詳細を解説するだけの力量がないし、それを期待されているとも思えないから、ここでは第1巻で述べられている内容について、とりわけコペルニクスの考える宇宙像について話すにとどめておきたい。  
第1巻の第10章は「天球の順序について」と題されていて、この中でコペルニクスの考える宇宙の構造が述べられている。ここで、コペルニクスが「天球」という伝統的な言葉を使っていることに注意してほしい。それ以前の人々と同じく、コペルニクスにとっても、天球は決して想像上のものではなかった。コペルニクスは地動説を唱えたと言われるけれども、それは実のところ、地球の貼りついたドームが回転するということだったのだ。  
それを踏まえた上で、この図を見てほしい。これは『天球回転論』の直筆原稿の中にある、宇宙体系の図である。真ん中に「太陽」(sol)と書かれ、それを取り巻くように、七つの天球が重なり合っている。円そのものではなく円と円に挟まれた部分が天球で、隣り合う天球がちょうど接して並んでいることをこの図は示している(残念なことに、出版された本ではこれに対応する図が若干書き換えられていて、このことが分かりにくくなってしまっている)。  
この七つの天球は、番号が振られている順に、外側から恒星、土星、木星、火星、地球と月、金星、水星をそれぞれ運んでいる。この順番は観測データから決定されており、実はこの点こそが、コペルニクス説の最大の長所だった。というのも、それまでの地球中心説の立場では、天球の順番を決定しようとすると主観的な推測が入らざるを得なかったからだ。つまり、コペルニクスは歴史上初めて、経験データに全面的に基づく宇宙像を提示したと言えるのである。  
ところで、この図を見ている限りでは、コペルニクスの宇宙は天球がうまく重なり合って、均整が取れているように見える。だが実は、この図に描かれているのは一種の理想で、本当はもっと歪んでいた。科学史の専門家がこの本の第2巻以降のテクニカルな議論を分析したところ、天球と天球の間にはかなり隙間ができてしまうことがわかったのだ。とりわけ、一番外側の恒星天球とその次の土星天球の間には、膨大な空間が広がっている。コペルニクスの理論に従って計算してみると、太陽から恒星天球までの距離は、太陽から土星天球までの距離の実に750倍にも達する! しかも、この恒星天球までの距離――これはつまり、宇宙の大きさということなのだが――は、伝統的に考えられていたよりも400倍以上大きい。コペルニクスの理論は、文字通り宇宙を膨張させてしまった。  
だがそれでも、コペルニクスの宇宙はあくまで有限の大きさだった。恒星天球の外側には何もなく、世界はそこで終わっている。そして宇宙全体の形は球状である。――ついでに言っておくと、『天球回転論』第1巻はまず、「宇宙は球形であること」と題された第1章から始まり、以下、「大地もまた球形であること」(第2章)、「どのようにして大地は水と共に一つの球状をなすのか」(第3章)と続く。要するに宇宙は何から何まで歪みのない円もしくは球の組合せでできていることになっていて、どうやらコペルニクスはよほど、円(球)という図形に入れ込んでいたようだ。  
それともう一つ、先ほどの図では曖昧にされている重要なポイントがある。それは、宇宙の中心はどこにあるのかという問題だ。図を見る限りでは、太陽が中心にあるのは明らかに思える。だが実は、コペルニクスは本の中で、「太陽の近くに宇宙の中心が存在する」と書いているのである。再び専門家が指摘するところでは、コペルニクスの数学的な理論では、地球の軌道の中心は太陽と一致していない。そして理論上重要なのは、太陽ではなく地球の軌道の中心の方なのだ。コペルニクスの地動説は「太陽中心説」とも呼ばれることがあるが、厳密に言えばこの呼び方は不適切だということになる。  
さて、ここまでの説明でお分かりいただけたかと思うのだが、コペルニクスの宇宙像は、地球が動くというその一点を除けば、僕たちが今日知っている宇宙の姿とは大きく異なっている。天動説から地動説へ、というキャッチフレーズは、僕たちの思い描く宇宙像がコペルニクスの手で生み出されたということを全く意味しないのだ。しかも、コペルニクス理論のテクニカルな部分についても、詳しい歴史研究の結果、プトレマイオス流の理論より簡潔だったわけでもなければ予測精度が優れていたわけでもないという結論が出されている。そうするとますます、こういう疑問が頭から離れない。『天球回転論』は、はたして革命的な本だったのだろうか?
予期せぬ結末  
コペルニクスの親友ギーゼが『天球回転論』を手にしたのは、出版から数ヶ月が経過した7月のことだった。彼にとって、それはとても感慨深い出来事だったに違いない。というのも、実はこのときすでに、コペルニクスはこの世を去っていたのだから……。ところが、ページをめくってみたギーゼは、奇妙なことに気が付いた。「読者へ」と題する前書き部分に、こんなことが書かれていたのだ。  
実際、[天文学者の考案する]それらの仮説[つまり地動説]が真であるという必然性はなく、それどころか本当らしいという必然性すらないのであり、むしろ観測に合う計算をもたらすかどうかという一つのことだけで十分なのである。  
また誰も、諸仮説に関連することで何か確実なことを天文学に期待しないように。なぜならそれは決してそうしたものを提供できないのだから。  
これはコペルニクス自身の言葉ではない、とギーゼは直感した。なるほど、世間一般の天文学者たちにとっては、円を組み合わせた惑星運動の模型が本当に宇宙の構造を表しているかどうかは問題でないかもしれない。重要なのは、それを使って正確な予測ができるかどうかということなのだから。けれども、コペルニクスは違っていた。地動説は計算のための単なる道具なのではなくて、彼は本当に地球が動いていると考えていたのだ。コペルニクスの天文学は、そのテクニカルな部分では古代ギリシア以来の伝統を完璧に保持していて、革命的なようには全然見えない。けれども、それによってこの世界の真理が明らかになると信じていたという点で、コペルニクスはまさしく革命的だったのである。  
ギーゼには、この前書きを付け加えたのが誰なのかも察しがついた。レティクスの後を受けて印刷を監督した、神学者オジアンダーに違いない。オジアンダーは、神学者や哲学者から地動説に対する批判が出るのを見越して、言ってみれば先手を打つことにしたのである。けれどもギーゼにしてみれば、それは亡き親友の偉業を台無しにするに等しい。ギーゼはレティクスに手紙を書き、こんなことをしたオジアンダーを、ペトレイウスともども非難した。さらに、問題の前書き部分を削除して出版し直そうともしたらしいのだが、残念ながらそれは実現しなかった。レティクスもまた、この前書きには反感を覚えた。ほかの人に『天球回転論』を贈呈するにあたり、彼はその部分を赤で消したのだった。  
しかし、こうした裏事情を知っているのはごく一部の人間だけだった。問題の前書きには署名がなかったから、何も知らない読者が見れば、この部分もコペルニクスが書いたように見えるだろう。そしてその読者は、この本に書かれていることは計算のための虚構なのだと納得してしまうだろう。実際、『天球回転論』の出版後、地動説を便利な計算の道具と見る考え方――それはまた、天文学という分野の伝統的な姿勢の反映なのだが――は、数十年にわたって標準的な見解であり続けたのだった。  
コペルニクスの地動説は確かに革命的だった。けれども、それが一夜にして人々の考えを変えたわけではまったくない。地球が本当に動いているという考え方が市民権を得るまでにはさらに半世紀以上の年月が必要で、しかもそのあいだには――いや、それはまた別のお話である。  
1543年5月24日、コペルニクスは臨終の床にあった。ギーゼが伝えているところでは、その何日も前からすでに昏睡状態だったらしい。  
何の因果か、まさにちょうどこの日、完成した『天球回転論』が著者のもとに届いた。おそらくコペルニクス自身は、その本を目にすることはなかっただろう――問題の前書き部分も含めて。かくして、コペルニクスは後の時代にもたらされるものを見ることなく、出版された本だけを残して七十歳でこの世を去った。余談だが、「革命」revolutionという言葉は、天体が軌道を周回すること、つまり「回転」revolutioを、その語源としている。  
 
ガリレオの生涯

 

1.天才の誕生  
借家住まいの名家 / 同期はシェイクスピア  
西暦1564年の2月15日、ガリレオ・ガリレイはイタリアのピサで生まれた。イギリスの劇作家シェイクスピアと同じ年の生まれであり、ガリレオの生まれた日付2月15日は、ルネサンス最後の巨匠、ミケランジェロの死ぬ3日前のことである。当時、イタリアは各都市を中心とした小国家群に分かれており、ガリレオが生まれたトスカナ大公国は君主制の国で、他のイタリア半島の国々同様、ルネサンスを終えての長い凋落の時代に入ろうとしていた。  
ガリレオ・ガリレイという特徴的な名前は、ガリレイという姓を単数形にしたガリレオという言葉を名にしたもので、これは今現在でも続くトスカナ地方の古くからの慣習によるものである。ガリレイ家はトスカナの旧家で、過去にはトスカナ共和国の行政長官も輩出している。また、一族にはガリレオと同名の医師もおり、フィレンツェ大学で医学の講義をしていたという。  
趣味はリュート  
ガリレオの父、ヴィンチェンツィオは高潔だが売れない音楽教師で、家はそれほど裕福でなく、ガリレオが生まれた時、一家はピサに3つのバルコニーのある4階建てのアパートを借りていた。その後、父は単身フィレンツェに移るが、1574年、ガリレオ一家は父と合流し、改めて家族での生活が始まった。息子ガリレオも父同様、リュートを荘厳に演奏するのを好んだ。ガリレオはサンタ・マリア修道院付属の学校に入学するが、目の炎症の治療を理由にして、そこを辞めている。その病気が後年の病のもとなのか、それとも退学のための単なる口実なのか、それは分からない。
2.青年時代  
自由な学問への憧れ / 医師を目指した青年時代  
ピサ大学正面の大時計。 ガリレオの父、ヴィンチェンツィオは息子ガリレオを医者にしようと考えた。父のさまざまな画策の結果、1581年、ガリレオはピサ大学に入学許可を得る。当時のピサ大学には医学部と法学部、そして現在の教養課程に相当する教育を行う学芸学部があった。まず、ガリレオは医学部への進学を目指して、学芸学部に登録する。しかし、その正規の課程を終えることなく、3年半の在籍の後に退学した。この時、すでにガリレオは学問への道を心に決めていたようである。当時、大学に職を得るとしても、大学を中退したという経歴はかならずしも不利になるものではなかった。実力や実績のほうが大切だったのである。  
ピサの大聖堂 
このころ、大聖堂内のシャンデリアの揺れを観察して、振り子の等時性の原理を発見したとされる。 
師との出会い  
ガリレオを大学から遠ざけた原因のひとつに、数学者リッチとの出会いがある。トスカナ宮廷をガリレオが訪ねたとき、宮廷付き数学者オスティリオ・リッチがユークリッド幾何学を教授している現場にたまたま出くわしたのだった。大学の外にいるリッチからガリレオは自由で、そして実用的な学問を教わった。ガリレオがとくに興味を持ったのはアルキメデスで、その実際的、実験的な思考方法は、アリストテレスの学問観一色に染まった大学から、ますますガリレオを遠ざけたのだった。  
就職活動  
ピサ大学を中途退学したガリレオは、様々な研究に取り組んでいる。将来、大学教授になることを見越して、アリストテレスについての講義ノートも作っていた。1586年、ガリレオはアルキメデスからの学習に基づいた著『小天秤』を書いている。そして、彼はその書をひっさげて大学教授へ向けての就職活動を開始する。まず、ガリレオはローマに旅立った。ローマ大学とボローニャ大学の教授職を目指すが、あっさりと断られる。1588年、パトヴァ大学の数学教授になろうとヴェネツィア共和国に出かけるが失敗。直後にピサ大学で数学教授の空席が生じ、そこにも挑戦するが、やはり失敗した。フィレンツェ大学への就職もうまくいかず、空しい努力が続いた。1589年、ピサ大学のポストが再び空席になり、この浪人時代にもガリレオは業績を着実にあげていたこともあって、ようやく、数学教授の席に就けたのであった。  
ピサ大学数学教授に就任  
有力者の後ろ盾もあって、ピサ大学数学教授に就任したガリレオの待遇は、しかし決して良いとはいえなかった。再任が認められているとはいえ、任期は3年、年俸は60スクードしかなかった。ピサ大学の同僚教授が平均して200スクードを得ていたことを考えると、ガリレオの薄給ぶりは明白だろう。不満はいろいろあるが、そのときのガリレオの経済状況から考えても、ピサ大学数学教授の職を断ることなど、ガリレオには到底できないことだった。
3.ピサ大学数学教授時代  
窮屈な大学教育と研究への没頭 / 力学に夢中になる  
若きガリレオの肖像イラスト。 トスカナ大公国のピサ大学でガリレオが担当したのは、ユークリッド幾何学とプトレマイオスの天文学書の注釈だった。ガリレオはあくまで数学教師だから、理論的あるいは実際的な天文学を教えることはなかったはずである。理論的な天文学は、哲学者がアリストテレスの著作に基づいて講義しており、ガリレオの領分ではなかったのだ。  
この頃、ガリレオが夢中になっていたのは、力学の問題だった。運動、とくに自由落下の問題に取り組み、重さの異なるふたつの物体の落下速度について考察を巡らしていた。ガリレオの有名な逸話に「ピサの斜塔の実験」というものがある。斜塔のてっぺんから重さの違う二つの重りを落として、どちらが先に接地するかを実験した、というものだ。けれども、ガリレオが実際にこの実験を行ったという資料は見つかっていない。思考実験としては考えていたようだが、実際の実験は行っていなかったようだ。このように、伝説がいろいろとあるのもガリレオの偉大さを示しているのかもしれない。  
文芸評論  
ピサ大学の講義室にあるガリレオの全身像。また、ガリレオはこのピサ時代に文学にも傾倒している。タッソとアリオストという二人の詩人についての文芸評論を記している。ガリレオは端正で豪奢なアリオストの詩を好んだという。  
この文芸評論はもちろん、力学についての研究も、ガリレオは大学でそれを教えることはなかった。大学での講義内容というものは教師の裁量で決められるものではなく、ガリレオは旧態依然とした学問を教えるしかなかったのだ。自分が学生のときに不満をもった講義内容を、ガリレオは、自身が教師であるにもかかわらず、それをそのまま教えなければいけなかった。
4.栄光への第一歩  
ピサからパドヴァへ / パドヴァ大学数学教授に就任  
パドヴァ大学のガリレオの胸像。 1592年、ガリレオはピサ大学教授を辞職する。その理由は、ピサ大学に実権をふるうトスカナ大公の不評を買ったから、だとか、アリストテレス派の哲学者に攻撃されたから、だとか、さまざま推測されるが、もっとも直接的な原因となったのは、ピサ大学での待遇の悪さだろう。ガリレオがピサ大学を辞める前年、ガリレオの父が急逝し、ガリレオは家長として母や、妹、弟たち家族を養わないといけなくなった。同僚ともうまくいっていたとは決していえないガリレオには、よりよい待遇、具体的には今よりも高給なポストへ移る必要があったのだ。その時ちょうどヴェネツィア共和国のパドヴァ大学の数学教授が空席になっていたので、ガリレオは有力者の支援も利用して、その職に応募したのだった。そして、如才なくパドヴァ大学に就職したガリレオの任期は4年、年俸も大幅に増えた。  
もっとも幸福な時代  
パドヴァでのおよそ8年間の生活を、後にガリレオは「もっとも幸福な時代」と述べている。パドヴァ大学は、当時のヨーロッパの知的中心地であり、アルプス以北の国々もふくめ、全ヨーロッパから優秀な学生が集まってきていた。パドヴァ大学は医学部が中心の大学で、神学部が重きを占めるほかの大学よりも、科学にたいして自由な空気があった。また、ヴェネツィア共和国がローマ教皇庁と対立していたこともあって、宗教的に自由な、つまり、思想的に自由なこの地で、ガリレオはその生涯の業績の半分以上のものを、ヴェネツィア共和国パドヴァ大学数学教授の時期に積み上げるのである。
5.物理学と天文学の幕開け  
実用性を重視した学問への取り組み / 科学と実用性  
ガリレオが考えた「科学」には「実用性」が重視された。当時のヨーロッパで学問と考えられていたものは、自由学芸(リベラルアーツ)と呼ばれる、文法・修辞学・論理学・算術・幾何学・天文学・音楽の7学科のことを指す。これらが何から「自由」なのかというと、それは肉体や身体からという意味であり、つまりこれらリベラルアーツは思弁と言葉だけから成り立っているというわけである。一方、絵画や建築、測量といった技術的営みに対しては、当時ヨーロッパにあって軽視・蔑視されていた。しかし、学生時代に師リッチから受け継いだ態度が、ガリレオをそれらの技術に対して真摯に向かい合わせた。思弁を文字にするだけでない、「実用的」な学問をガリレオは望み、それが後世、「科学」と呼ばれることになるのだった。  
商人ガリレオ  
その実用的技術の実践として、ガリレオは「幾何学的・軍事学的コンパス」と名付けた関数尺を発明した。これは定規から組み合わされたコンパスに目盛りがついており、そのコンパスをガリレオが書いた使用手引き書にしたがって使うことで、たとえば、大砲を撃つときの角度と火薬の量を決定することができるのである。1606年までに、ガリレオはこのコンパスを200個以上売り上げた。彼はこのコンパスの作り方と使い方を公表せず、ガリレオに報酬を払った者だけにそれを教授した。このようなある種の専売によって、ガリレオはそれなりの収入を得た。たんなる善良な科学者の枠にとどまらない、商人としての姿をこのときのガリレオに見出すことができる。  
力学研究がみのる  
1604年、ピサ大学教授時代から続けていた力学研究が、ついに大きな成果となってあらわれた。物体の落下運動について、それを数式であらわせることを発見したのだった。具体的には、1つに、落下運動によって通過する距離が時間の二乗に比例していること、2つめは、物体は落下距離に比例してその速度を増す、ということだ。前者は確かにそのとおりだが、もちろん、後者は間違っている。距離に比例するのではなく、時間に比例して、物体は速度を増すからである。しかし、ともかくも、ガリレオは、物体の落下運動という自然の現象を数式で表現できることを結論づけたのだ。ガリレオが力学について最終的に考えをまとめるのは、1608年ごろになるのではあるが、この1604年の発見は、確かに物理学の黎明を意味していた。  
砲弾の軌道と物理学  
ガリレオが力学の問題に熱心に取り組んだのも、彼が「実学」を重視したからだった。力学の問題は、砲弾の軌道という極めて実際的なことがらと直結していた。  
ところで、ガリレオのこの力学研究の成果が実験によって得られたものか、それとも理論的な思弁によって到達したものか、その判断は難しい。この時代には正確な時計装置もなく適切な実験をする環境はほとんどなかった。実験の結果得られた理論というよりも、自然現象が数学と結びつくのだというガリレオの信念がもたらした発見と考えた方が相応しいだろう。
6.望遠鏡の製作  
ガリレオ天文学のはじまり / 新星の出現  
1604年に出現した超新星の残骸。天文学者ケプラーの記録に詳しいことから「ケプラーの新星」と呼ばれる。超新星は、大質量星が寿命の最終段階で大爆発を起こす現象である。(画像提供:NASA/ESA/R.Sankrit and W.Blair−Johns Hopkins University) 1604年の秋、新星がへびつかい座に出現した。新星といっても、これは現在「超新星」と呼ばれているものだが、この現象は当時にあって大事件だった。アリストテレスの世界観では月よりも上の世界は不変だから、「星が新しくできる」ことなどありえないからだ。よって、この「新星」が月よりも上の宇宙での現象なのか、あるいは月よりも下の気象的な現象なのかが、問題となった。ガリレオはこの新星を月よりも上の世界のものだと公開講義で主張した。まずそれを証明するために、地上の二地点からの「視差」を測定した。もし月よりも下に新星があるのなら、見る場所によって新星が見える方向が微妙に異なってくるはずである。そして、ガリレオの主張どおり、その「視差」がないことがあきらかになった。  
宇宙への助走  
さらにガリレオはこの新星を地動説の証明に利用しようとする。地上の二地点からの観測では視差が見られないにしても、地球が動いているなら、公転軌道上の二地点から観測すれば視差が見つかるはずである。しかし、数か月の観測によってもその視差は得られなかった。これは当時の技術、しかも肉眼での観測では、仕方のないことなのであるが(かつ、この超新星は現代の観測精度でも視差測定は不可能なほど遠い)、この時からガリレオはしばらくの間、望遠鏡の観測によって確信を得るまで、地動説への信頼を失っていたようだ。いずれにしろ、この新星はアリストテレス的世界観を揺るがせたのは確かであり、ガリレオの闘争もここから始まるのだった。  
望遠鏡を自作する  
1609年、ガリレオはその人生の方向を決定的に定めることになる。それは最高の栄誉のはじまりであり、同時に絶望への出発点でもあった。夏、オランダで望遠鏡が作られたという噂をヴェネツィアで耳にしたガリレオは、それの自作を試みた。いくどかの試作の末、年末には20倍の倍率の望遠鏡の製作に成功したのだった。  
望遠鏡発明論争  
まず、誰が望遠鏡を発明したのか、という点で、ガリレオはその当時から非難を受けていた。ガリレオは「光学に基づいて」とか「屈折理論に基づいて」望遠鏡を作ったと自分の著作のなかで主張しているが、この時代はまだ屈折法則が知られていないから、このガリレオの表現は、経験的な知識にもとにしたことを装飾していただけなのであろう。むしろ、ガリレオが非難されたのは、望遠鏡をあたかも自分の発明であるかのように偽ったと思われた点にある。事実、『星界の報告』のタイトルページには、「フェレンツェ貴族にしてパドヴァ大学数学者ガリレオ・ガリレイによって、彼が最近発明した筒眼鏡(望遠鏡のこと)を用いて観測された事柄……」とあり、この記述によって、ガリレオは敵対者から「嘘をついて政府をだましている」と非難されたのである。それも仕方のないことではあるが、けれども、当時のヨーロッパにあってガリレオが製作した望遠鏡よりも性能の高いものはなかったのであるから、ガリレオが誰の助けも借りずに望遠鏡を作ったことを誇りとしていても、それはそれで正当なことだとも言えよう。
7.星の世界  
そして地上の政治 / 月と木星  
自作の望遠鏡で天体を観察するガリレオを描いた想像イラスト。 望遠鏡を玩具としてではなく、科学的な観測装置としたのは、間違いなくガリレオ・ガリレイその人である。彼が本格的に天体観測を始めたのは1609年の12月からのことで、まずそれは月の観測記録として現在に伝えられている。望遠鏡をとおして見た月は、アリストテレスが考えていたものとはまるで違った。月は、滑らかでも完全な球でもなく、そこには、この地上と同じように山や谷があるのをガリレオは知ったのだった。  
翌年1610年、ガリレオは木星を望遠鏡で観測する。そして、木星が4つの星を伴っていることに気づいた。観測を続けると、その4つの星が、他の恒星とは違い木星の左右を行ったり来たりしているのが分かった。1月15日、ガリレオはそれら4つの星が木星の周りを回っているのだと確信した。  
メディチ星  
これらの発見をガリレオはまず、トスカナ大公国首相のベリザリオ・ヴィンタに手紙で報告した。そのなかで、月の地形について、木星を回る星について、銀河について、述べている。ガリレオはそれらの新発見をトスカナ大公コジモ二世に伝えようと思ったのだ。これは、己の立身のためである。  
ガリレオは、星の世界に政治を持ち込み、自分の出世を考えていた。2月になって、ガリレオは4つの新惑星、つまり木星の衛星をどのように命名すべきか首相に相談している。コジモ星とするべきか、トスカナ大公を輩出しているのがメディチ家だから、メディチ星とするべきか。木星の衛星の数とメディチ家の兄弟の数が一致することもあって、メディチ星を採用した。かくして、木星の衛星そのものがガリレオからメディチ家への献上品となったのだ。
8.『星界の報告』  
観測成果を直ちに出版 / ケプラーの反応  
『星界の報告』の表紙(画像提供:Istituto e Museo di Storia della Scienza、 Florence) ガリレオの新発見は、『星界の報告』という名の書物となって世間に伝えられた。1610年3月12日に出版された『星界の報告』は、さまざまな反響をひきおこした。ガリレオの言葉にすばやく反応したのはケプラーである。  
プラハに住む皇帝付き数学者ヨハネ・ケプラーは、ガリレオの説を知って、彼に最大限の賛美を送るにとどまらず、さらにその先を考えた。ケプラーは前年1609年に、すでに惑星の軌道が楕円であることを証明し、地動説を強固なものにしていた。また、ガリレオに対し、望遠鏡の製作方法についてアドヴァイスもしている。ガリレオはレンズを球面に加工していたが、レンズを双曲面に磨いたほうが望遠鏡の性能が上がることをケプラーはガリレオに伝えているのだ。  
ケプラー自身が実際に望遠鏡をのぞいてガリレオの発見を確認するのは、『星界の報告』の感想をガリレオに伝えてからのことだった。ガリレオがケルンの選帝侯に送った望遠鏡でケプラーが夜空を見る前に、月に山や谷があるのならそこに人々が住んでいるに違いない、とすでにケプラーはガリレオに手紙を出している。  
世間の反響  
けれども、ガリレオの発見に対して、ケプラーのような態度を示したのはむしろ例外的だった。当時の知識人は、ほとんどアリストテレス主義者で、『聖書』をかたくなに信じていたので、ガリレオの説は、アリストテレスと『聖書』の両方を否定するものだと捉えられ、とうてい受け入れられるものではなかったのである。実際の宇宙がどう見えるか、よりも世界をどう考えるか、の方が重要な問題であって、望遠鏡で木星の衛星が見えたからといって、それが説得力を持つとは限らなかったのである。  
土星  
1610年6月、ガリレオは望遠鏡を土星に向ける。そして、土星が3つの星からできているのを知るのだった。実際は、ガリレオの望遠鏡では解像度が低いため、土星の環は見えず、3つの星が連なっているように見えたのである。ガリレオはこの発見をまずトスカナ大公国首相のヴィンタにだけ知らせた。また、自分が新発見をしたことの証拠を残すため、イタリアやドイツの友人たちにはアナグラム(暗号)にして伝えた。このアナグラムを受け取ったケプラーは、ガリレオが何か新発見をしたのだということは分かっても、その内容が分からないため、ガリレオの作ったアナグラムを解読することに精を費やすことになった。  
土星の観測は行き詰まった。3つに見えるその星が実は環であるという発想はガリレオにはなかった。けれども、土星の様子は木星とその衛星とは全く違う。結局、結論の得られないまま土星の観測を終えた。土星に環があるのが分かったのは、1655年にオランダの科学者ホイヘンスが倍率100倍の望遠鏡で観測をしてからのことである。  
ガリレオの戦略  
ガリレオは1610年の前半だけで100台ほどの望遠鏡を製作している。ガリレオは、その自作望遠鏡をヨーロッパ各地の要人たちに『星界の報告』と一緒に、トスカナ公国の大使たちの手を通じて配ったのだった。これによって、ガリレオの名声とともにトスカナ大公の権威をも高めた。これらのガリレオの行為は、ヴェネツィア共和国のパドヴァ大学での処遇は未だ十分であるとは感じられないガリレオがトスカナ大公国に凱旋したいと思ってのことだったのかもしれない。
9.栄光と終焉のはじまり  
ヴェネツィアからフィレンツェへ / 哲学者ガリレオ  
パドヴァ大学があるヴェネツィア共和国は、その名のとおり共和国であり特定の君主がいるわけではない。だから、自由な環境で、君主の顔色をうかがったりする必要がない。また、ローマ教皇庁との対立関係から、宗教的にも縛られない土地柄なのだった。しかし、自分の待遇に不満を持つガリレオは、そのヴェネツィアを離れトスカナ大公国に栄誉とともに凱旋をしようと画策する。トスカナ大公国首相ヴィンタは、ガリレオに授業をする義務のないピサ大学特別教授、またトスカナ大公付き数学者兼哲学者、として遇することを約束する。かくして、1610年、ガリレオはフェレンツェへ帰国するのだった。ガリレオがこだわったのは、単なる数学者ではない、「哲学者」としての肩書きだった。実際的なものよりも思弁的なもののほうが上位とされる当時のヨーロッパにあって、ガリレオが哲学者として認められることは、そのまま彼の地位が高くなったことを意味していた。  
友人たちの危惧  
ガリレオの友人たちは、このフィレンツェ行きの決断にみな反対した。確かにそれは出世であるし、年俸も今よりもはるかによくはなる。しかし、一人の君主に仕えるということは危険が大きい。君主の心変わりや、その死によって、己の地位はもろくも崩れ去ることがあるのだ。また、イエズス会の力も強いトスカナ大公国で自由な発言ができるとも限らない。友人たちはガリレオに翻意を求めたが、ガリレオの意志は固く聞き入れられない。ガリレオの後の悲劇は、このときから既にはじまっていたのだった。  
ひとりの息子、ふたりの娘  
ガリレオは生涯、結婚しなかった。しかし、それは正式な式を挙げていないというだけであり、たとえば修道士が結婚しないように、当時の学者の風儀をならい法律上は独身であった、というだけだ。つまり、ガリレオには内縁の妻がおり、またその妻との間にひとりの息子とふたりの娘をもうけていたのだった。  
ガリレオの事実上の妻マリナ・ガンバとはヴェネツィアで出会ったようである。そして、ヴィルジニア、リヴィア、ヴィンチェンツィオの3人の子供も、ガリレオのパドヴァ大学教授時代に生まれている。フェレンツェへ帰国する際、妻とは離別した。それからガリレオは長女ヴィルジニアと次女リヴィアのふたりの娘を修道院に入れようと画策する。そのとき長女は10歳、次女は9歳で、ともに修道院で暮らすには幼すぎた。ガリレオの父親としての子への愛情を疑わせるものがそこにはあるのだが、ガリレオの経済的状況や家庭の事情からしてそれは仕方のないものだったのかもしれない。長男ヴィンチェンツィオとの間には、いつも確執があった。ガリレオはヴィンチェンツィオにピサ大学で法学を学ばせている。ガリレオはいつも息子の浪費をなじり、だがヴィンチェンツィオは質素な生活を強いられていて、しばしば父に金の無心をした。晩年、ガリレオの支えとなってくれたのは、修道女となって名をマリア・チェレステと変えた長女だけだった。ガリレオの家族からは、どこかしら不和のにおいがただよっていた。
10.確信  
動かぬ地動説の証拠 / 金星  
ガリレオの科学的業績はフィレンツェに転居してから絶頂を迎える。まず望遠鏡による天体観測を続けたガリレオは金星に満ち欠けがあることを発見した。1610年12月、金星の満ち欠けを観測したガリレオは、その発見をアナグラム(暗号)にして有力者や知識人に伝えた。もちろん、アナグラムになっているのだから、ガリレオが何を発見したのか、知らせを受けとった側は分からない。だから、ケプラーはまたもやアナグラムを解読するための無駄な努力をすることになる。翌年、ガリレオはアナグラムの回答を公表する。金星が満ち欠けをしていることから、惑星が自分では発光していないこと、そして、太陽の周りを回っていること、この結論をガリレオは確信したのだった。  
太陽黒点  
1613年、ガリレオは『太陽黒点とその諸属性に関する話と証明』という書を出版している。太陽の黒点が惑星などではなく、太陽の表層での現象であることと、黒点の動きから太陽が自転していることを主張しているものである。この本の成立の背景には、地動説を認めるかどうかについてのガリレオとその他の学者による激しい論争がある。この本自体が論敵への反論としての手紙であり、じっさいガリレオは『星界の報告』以後、激しい議論にさらされ、またガリレオもその渦のなかに自ら飛び込んでいった。自らへの批判に対し、時に黙殺し、時に苛烈に反論した。そこには、真理を求める情熱と自分の自己顕示や名誉欲などが一体となった、ガリレオの人格そのものが現れていた。  
ローマへの名誉の道  
ガリレオはその生涯で6回、ローマを訪問しているが、それぞれの旅の意味合いは大きくことなる。若いときローマを訪れたとき、彼は教授職を得ることで頭がいっぱいだった。将来の来るべき栄光を思い、それに心をおどらせていた。望遠鏡を用いた天体観測による発見をたずさえてローマに旅立ったのは1611年のことだった。ローマへの旅は2度目で、このときガリレオはトスカナ大公の用意した輿に乗って旅をし、ローマのトスカナ大使の邸宅に滞在した。ガリレオはまずイエズス会をはじめとする教会関係者に、自分の発見を説明しようとした。  
ガリレオは教会の人たちにも好意的に受け入れられたようである。天動説と地動説のどちらが正しいかについては決着がつかないままではあったが、月の表面や木星の衛星、金星の満ち欠けなど、ガリレオの新発見そのものを疑う人はいなかった。このローマ訪問は名誉のうちに終わったのだった。  
潮の干満と地動説  
このころには、ガリレオは地動説の正しさを理解し、確信していた。彼は望遠鏡による観測を行う前から地動説の可能性について考えていたようだが、いつから地動説の信者となったのかは、はっきりしない。ガリレオが地動説を信じるようになったのは、実は天文観測が理由ではない。潮の満ち引きから、ガリレオは地動説を思い立ったのだ。もちろん、現在の科学では潮の干満と地動説は直接にはつながらない。この点、地動説を確信するまでの過程は錯誤を含むものであったが、結局、1610年に太陽の黒点と金星の満ち欠けを目の当たりにして、ガリレオは地動説を疑いようのない真理だと考えたのだった。
11.第一次裁判  
敵対者たち / 告発  
ガリレオの名声が高まるとともに、彼への敵意はしだいに増大していった。ガリレオは敵を作りやすい性格だった。ガリレオは自分が批判されたときの反論として、相手を完膚なきまでに徹底的に攻撃し論破してしまうのだった。科学と宗教の対立というよりも、ガリレオという人そのものが、地動説への反発を招いていた面も多分にある。  
ガリレオへの非難とは、具体的にはガリレオの主張する地動説が『聖書』に反しているのではないかというものだった。ガリレオをよく思っていないロリーニという神父がガリレオをローマの異端審問所に告発した。自分が訴えられているとも知らずガリレオはローマを往訪し、自分の説を高らかに主張した。そんなガリレオを当時の教皇パウルス五世が不愉快に感じていたこともあって、最初の宗教裁判がはじまったのだった。  
お咎めなし  
この裁判は、実はとても穏健なものだった。ガリレオは堂々と自説を展開していたし、それを咎められることもなかった。判決というものも出ず、決まったことは、フォスカリーニというナポリのカルメル会神父の書いた、コペルニクス地動説と『聖書』の記述を和解させようとする書物が禁じられ、コペルニクスの『天球の回転について』と他の一冊の書物が、訂正されるまで閲覧中止となっただけであった。つまり、ガリレオはなんの咎もうけなかったのである。  
ある種の知的遊戯のような裁判は、ガリレオに多少の不快な思いをさせただけで、彼の態度に影響を及ぼさなかった。だから、ガリレオはのんきに自分の研究を続けられたし、また同時に晩年の悲劇を回避するきっかけとなることもなかった。  
彗星の出現  
1618年の秋、彗星が相次いで三つ出現した。いわゆる第一次裁判以降、沈黙を守っていたガリレオも意見を求められた。  
アリストテレスの考えによれば、月よりも上の世界は完全無欠であり、変化は起きない。だから、もし夜空に何か異変が起きたとすれば、それは月よりも下の世界の話であり、つまりそれは気象現象と同様のものである。  
ケプラーの師であるティコ・ブラーエという天文学者は、彗星を宇宙に満ちているエーテルを呼ばれる物質が凝縮したもので直線運動をしているものと考えた。  
ガリレオは前年末に体調を崩して床に伏しており、直接これらの彗星を観測することはできなかった。それでも彼は思案を巡らし考えた。彗星は月よりも下の現象で地上から立ち昇った蒸発物が太陽の光を反射している、とガリレオは結論を得た。アリストテレスの考えに近くなってしまったが、彗星が直線運動をしているという点ではティコ・ブラーエに従っていた。  
宇宙は一巻の書物  
ガリレオは宇宙を一つの書物にたとえた。そして、その書物は数学で記述されていると思っていた。とらえどころなくあやふやな世界も、背後には数学的に表現できる法則がある、とガリレオは信じていた。今回の彗星に関しても、彗星が動いているならば、数学的に簡単に説明のつく直線運動をしているべきなのであった。  
1623年、ガリレオは『贋金鑑識官』という書を出版する。そこには、宇宙という書物は数学の言語で書かれており、数学を学ぶことになしには宇宙を理解することはできない、というガリレオの自然観が明確に示されていた。近代の科学が、今まさに生まれようとしていたのだった。
12.『天文対話』  
教皇庁との蜜月、そして暗転 / 教皇ウルバヌス八世  
1623年、ガリレオの古くからの友人だったマッフェオ・バルベリーニが教皇に選出され、ウルバヌス八世となった。ガリレオはこの旧友を祝うため、1624年にローマを訪れている。このときのローマ訪問はもっとも華やかなものとなった。教皇から数々の宝物を下賜され、さらには息子ヴィンチェンツィオのための年金の約束さえ得た。このとき、教皇庁にはガリレオの知人が何人かおり、教皇庁は身内によって占められているようなものだった。ガリレオにはもはや心配することは何もないように思えた。だから、潮の干満を根拠にした地動説する著『天文対話』を執筆することのリスクをガリレオは考えることができなかったのだ。そして教皇ウルバヌス八世が、ガリレオの友という私人の立場とカトリックの指導者である教皇という公人の立場をはっきり分けていたことまでは、ガリレオは気づかなかった。  
『天文対話』の刊行  
『天文対話』の執筆は必ずしも順調ではなかった。ひとつにトスカナ大公への宮仕えがある。これは大学に所属せずに研究を続けているガリレオにとって避けることのできない事情だ。そして、もうひとつ『天文対話』の執筆を妨げたのは、ガリレオの健康だった。  
彼はこのころ身体の関節が痛む病を抱えていた。症状がひどいときには床にはりつけにならなければいけないほどであった。また、1630年には、ペストがヨーロッパ全土で大流行し、ガリレオ自身は感染しなかったものの、病気をおそれ窮屈な生活を強いられた。  
さまざまな困難のすえ、1632年、『天文対話』が刊行される。  
不穏な予兆  
ガリレオは『天文対話』を出版するにあたり、まずローマでの検閲を通そうとする。1630年、ローマに行き、教皇をはじめとする教会の関係者と会い、暫定的ではあるが出版許可を得ることができた。しかし、予想外だったのはローマでの出版を引き受けることになっていたフィデリコ・チェシという貴族が急死するのである。そこでガリレオは計画を変更しフィレンツェでの出版を考え始める。本来ならばローマにもういちど出向き、最終的な出版許可を得るつもりだったが、ペストの流行により交通が遮断されていたため、検閲をフィレンツェで受けることにしたのだった。  
出版許可の取り消し  
『天文対話』は実はその検閲も通っていた。出版の許可を得て1632年の2月に刊行された。しかし、7月、教皇がその本を差し押さえており、しかるべきところを訂正するまでどこにも本を送らないよう命じていることを突然に知るのだった。一度は出版を許可された書物がなぜ唐突に禁止になったのか、明確な理由ははっきりしない。ただし、前兆はあった。ガリレオに近い人物が教皇のそばから左遷や栄転のために外れていたのである。  
『天文対話』は地動説を説いてはいるが、その地動説の最大の根拠を潮の干満に求めていた。天文観測での発見は地動説を支持するものではあるが、ガリレオにとってそれは理論の主柱になるものではなかった。『天文対話』についての囂々たる非難のほとんどは、このガリレオが犯した科学的な過ちを指摘するものではなかったのは、皮肉なことだろう。『聖書』や教会への態度について、ガリレオは批判された。ガリレオは学問の世界から政治の世界の登場人物として、さまざまな批判の矢面に立たされることになったのだ。
13.宗教裁判  
最後の最大の挫折 / ローマへの険しい道  
ガリレオの異端を審査する裁判はローマで行われることになり、ガリレオにはローマ教皇庁検邪聖省への出頭が命じられた。トスカナ大公が貸し与えてくれた輿に乗って、ガリレオはアペニン山脈を横断した。その道は長く険しかった。1633年、ガリレオはローマに到着する。  
この最後のローマへの旅は、屈辱と挫折に満ちていた。それまでのガリレオの人生は豪奢とは言えなくとも、栄光と名誉が溢れていた。尊厳ある上流の市民として過ごしてきた今までの栄華が崩れ去ろうとしている。ローマの街の空気はくすんでいて、建物の汚ればかりが目についたのだった。  
冤罪  
裁判の争点となったのは、第一次宗教裁判の時に地動説を「いかなる仕方においても」「教えない」ことが命令されたのかどうか、ということだった。もしこのような命令が下されていたのなら、『天文対話』の刊行はその命令違反を行ったことになる。今日ある資料からは、第一次宗教裁判でこのような命令が下されていたことを立証するものはない。つまり、ガリレオは、地動説が異端か異端でないかという宗教上の理由とは関係なく、純粋に裁判の手続きや訴追理由において、冤罪だったのだ。  
裁判は、地動説が正しいか正しくないかを議論する場所ではなかった。ガリレオの命令違反を問うものだった。人生の先の見えているガリレオにとって、ここでの闘争は不毛でしかない。ガリレオは、あるはずのない罪を認めて減刑を期待することにしたのだった。  
判決  
1633年6月22日、異端審問が開かれていたサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会で判決が言い渡された。判決の要点は3つ、『天文対話』を禁書とすること、検邪聖省が望むだけの期間、聖省内の牢獄に入れること、贖罪のために3年間にわたって毎週1回7つの悔罪詩篇を唱えること、である。  
判決が言い渡されたあと、ガリレオはひざまずいて異端誓絶を行った。地動説の誤りをみとめ、罪をうけいれた。この時、ガリレオにはもはや有力な庇護者がいなかった。彼の精神をかろうじて保っていたのは、家族との絆だけだった。  
自宅軟禁  
年の暮れになって、ガリレオは帰宅を許された。裁判のあいだもガリレオを精神的に支えた長女マリア・チェレステとの、フィレンツェ郊外の集落アルチェトリにある家での生活も長くは続かなかった。マリア・チェレステは1634年4月2日に死ぬ。その後、親族を呼び寄せて寂しさを紛らわせようとしたが上手くいかず、老人は孤独なままの生活をおくることになった。  
自宅に軟禁されたガリレオに自由は少なかった。家から数m離れた教会に出かけるのにも、煩雑な手続きを必要とした。どうしようもない現実のなかで、思弁だけが己の意識を満たしていく。彼にもまだ考えることの自由はあった。逆に、自由は自分の頭の中にしかなかったのだった。  
ガリレオはそのような不幸な状況下で、新しい書物の執筆に取りかかる。彼の頭脳は休むことがなかった。常に新しい考えが頭に浮かんでいて、それをペンで書き取っていくことで自身を慰めようとしていたのだった。
14.『新科学対話』  
もう一度、真理の光を / 出版工作  
『新科学対話』は力学の研究をまとめた書である。『天文対話』同様、イタリア語による対話の形式で記述してある。1635年の夏に一応の完成をみたこの書について、問題はそれをどこで出版するか、ということだった。当然、イタリアには出版を引き受けてくれるところはない。そんな折、オランダの出版業者エルゼヴィルがガリレオを訪問し、出版を引き受けてくれることになった。しかし、オランダはローマ教皇庁と対立するプロテスタントの国であり、そんなところで教皇庁の許可なく出版活動を行えば、さらなる刑罰を受けてしまう可能性があった。そこで、ガリレオは知恵をしぼる。ガリレオがパドヴァで大学教授をしていたころの教え子で在ローマのフランス大使ノアイユ伯爵と面会したガリレオは、ノアイユからたまたまオランダのエルゼヴィルの手に渡ったのだということにして、そういう嘘のいきさつを『新科学対話』の献辞のなかに記した。実際は、ガリレオがエルゼヴィルに直接渡したのにもかからわらず、である。  
1638年7月に『新科学対話』は出版される。たとえ裁判で罪を認めていても、ガリレオは真理の光を見つめようとしていた。自分が得た真理を世に知らせたい、と思っていた。そして、その代償は大きく、『新科学対話』が出版されるころ、ガリレオは全盲になっていた。ガリレオの科学者としての仕事は終えようとしている。あとは、自分の死を待ち、それを受け入れるだけである。  
口述筆記  
1635年、フィレンツェの中心部に住む息子ヴィンチェンツィオと同居することを許されたガリレオではあったが、翌年には、郊外のアルチェトリの家にまた戻った。そして、ガリレオの最後の弟子で、最初の伝記作家となるヴィンチェンツィオ・ヴィヴィアーニがそこにやってきて、同居がはじまった。大気の圧力について研究し、水銀が入った容器をさかさにしたときにできる「トリチェリの真空」の発見者として知られるエヴァンジェリスタ・トリチェリが筆記者兼話し相手としてそこに加わった。  
ガリレオは『新科学対話』の加筆を考えていた。口述筆記で文を作っていった。そして、その仕事も完成しないまま、ガリレオの体調は悪くなっていく。1641年秋の発病から2か月間苦しんだ後、翌1642年1月8日に永眠した。78歳になる1か月前のことだった。  
死後の名誉  
ガリレオはトスカナ公国の公的な葬儀を経て霊廟にまつられる予定だったが、その計画がローマ教皇庁に知れると、教皇庁はそれを中止するようにトスカナ公国に命令を出した。結局、ガリレオは私的な葬儀ののち、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会の見習修道士礼拝室横の小部屋に葬られた。  
1737年になって、ガリレオの遺骸は、教会関係者の臨席のもと、礼拝室から教会の本堂に移され、霊廟が造られた。『天文対話』が教皇庁の禁書目録からはずれるのは、1757年のことである。  
1979年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世がガリレオ裁判の再調査を命じ、1992年、ガリレオを有罪としたカトリック教会の誤りが認められた。  
ガリレオの名誉は死後に徐々に回復していき、18世紀なかばには誰も彼を批判しなくなっていた。そして、同時にガリレオの偉大さは高まっていった。  
 
地動説はなぜ迫害されたのか

 

キリスト教は、なぜかつて地動説を否定して、天動説を支持していたのだろうか。たんに聖書に書かれている記述と矛盾するからだけなのか。キリスト教が母権宗教を否定する父権宗教である点に注目して、考えよう。
1. キリスト教は地動説を否定していた  
ガリレオ・ガリレイが、天動説を斥け、地動説を支持したかどで、宗教裁判にかけられ、異端誓絶を強要された後、「それでも地球は動いている」と呟いたという逸話は、宗教が科学を完全には屈服させることができないことを象徴するエピソードとして有名である。  
このエピソードは、しかしながら、よく考えてみると眉唾物である。もしも「それでも地球は動いている」という呟きが周囲に聞こえたなら、異端審問がやり直しになるはずだし、もしも周囲に聞こえないような小さな声で呟いていたのなら、このようなエピソードが後世に伝わるはずはない。  
ガリレオが本当に「それでも地球は動いている」と呟いたかどうかは別としても、彼が、1633年に宗教裁判にかけられたことは史実であり、もし異端誓絶を拒んだならば、33年前にローマで火あぶりになったジョルダノ・ブルーノと同じ運命をたどったであろうことも確かである。  
だが、意外なことに、ガリレオに先立って、地動説を提唱したコペルニクスの『天球回転論』は、コペルニクスの死後、1543年に何の検閲も受けることなく出版され、自由に読まれていた。これは、16世紀に、ローマ・カトリック教会が、325年のニケーア公会議で採用したユリウス暦と現実の季節とのずれを問題視するようになり、正確な暦法を新たに制定するために、天文学者たちの自由な研究を奨励しなければならなかったからである。ローマ・カトリック教会は、決して地動説を容認していたわけではなく、コペルニクスの地動説も、実在性のない数学的仮説、計算を簡単にするための道具的便法として許可していたまでである。  
地動説を宗教的な立場から最初に批判したのは、宗教改革の旗手、マルティン・ルターだった。ルターは、『天球回転論』が出版される4年前、地動説の噂を聞き、  
このばか者は天文学全体をひっくり返そうとしている。ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽に対してであって、地球に対してではない。  
と地動説の提唱者を批判した。プロテスタンティズムは、『聖書』を文字通りに解釈する原理主義だから、『聖書』の記述と矛盾する新説に対しては厳しかったのだ。ローマ・カトリック教会も、1582年に、現在まで使われることになるグレゴリウス暦を制定すると、次第に天文学の保護者から抑圧者へと変貌を遂げることになる。
2. 地動説と矛盾する聖書の記述  
では、地動説は、『聖書』のどのような記述と矛盾するのだろうか。そして、それはどのような宗教的問題を孕んでいるのだろうか。『聖書』には、「太陽が昇る」とか「太陽が沈む」という表現が出てくる(詩篇、19:6;伝道の書、1:5)が、こうした表現は、地動説を信じている現在の我々も便宜上使っている表現であり、かつ特別に宗教的な含蓄があるわけでもないので、問題はない。問題となるのは、以下の二つである。  
2.1. 大地の安定  
まず、『聖書』には、神の支配のおかげで大地が安定し、不動となったと述べている箇所(詩篇、93:1;96:10;104:5;歴代志上、16:30)がある。私は、[男社会はいかにして成立したのか]で、ユダヤ-キリスト教を、初めて女性原理を完全に克服した男性原理の宗教と位置付けたが、この説明は、『聖書』の天動説を説明する上でも有効である。『聖書』は、父なる天の動きにより、母なる大地がおとなしく動かなくなったことを示唆している。確かに、天動説的な宇宙観では、男の象徴である太陽が、女の象徴である大地の上を勝ち誇って凱旋しているようにも見える。  
2.2. 神の意志による太陽の停止  
『聖書』には、さらに、神の意志で太陽が静止したり、逆行したりすることが語られている箇所(ヨシュア記、10:12-13;列王記下、20:11)がある。特にヨシュア記の以下の箇所は、ルターが指摘して以来、天動説の根拠とされてきた。  
主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。  
日よとどまれ、ギブオンの上に。月よとどまれ、アヤロンの谷に。  
日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。  
主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。主はイスラエルのために戦われたのである。  
[聖書、 ヨシュア記、10:12-14]  
もし、太陽がもともと動いていないのなら、太陽に「とどまれ」ということは無意味になる。ガリレオは、この時太陽が止めた動きは自転だったという新解釈を出しているが、太陽が自転を止めたからといって、地球や月が公転運動を停止する必然性はない。イスラエル人とアモリ人との戦いにおいて起きたこの奇跡をどう解釈するかに関しては、古来議論が絶えないが、ここでも、聖書の、文字通りの意味ではなくて、象徴的意味を読み取ることにしよう。  
一般に、太陽が男性原理、大地が女性原理を象徴するのに対して、月は両性具有の性質を持つ。インノケンティウス3世は、教皇権と皇帝権を太陽と月の関係に喩えているが、これは、世俗の権力者である皇帝を、教皇と一般民衆との中間に位置付けるためである。引用した箇所では、月は太陽に準じる扱いを受けている。太陽も月も光を発するが、光は、男性原理に属する。戦いが終わるまで、太陽と月が没しなかった、すなわち男性原理である光がイスラエル人を見捨てなかったことを描写することで、男神ヤハウェの御加護があったことが表現されている。
3. なぜこれらの矛盾は許容できないのか  
以上、地動説に反する聖書の記述の象徴的意味を解読した。これらの箇所に限らず、ユダヤ-キリスト教は、女性崇拝の宗教との戦いを通じて広がった歴史を持つので、『聖書』には、男性原理と女性原理との対立が、隠れた主題として頻出する。そして、この対立を理解していれば、なぜキリスト教が地動説を危険視したかが見えてくる。以下、2.1. と2.2. に関して、分析してみよう。  
3.1. なぜ大地は安定しなければならないのか  
まず、2.1. についてだが、神の支配のおかげで大地が不動となっているのだとするならば、大地が動き出すことは、神の支配が衰えることを意味する。キリスト教の聖職者たちは、地球が動くということは、すでに征服しておとなしくなっていたはずの女性原理の不穏な動きと受け取ったのである。  
第一次ガリレオ裁判における訴訟指揮の最高責任者だったベルラルミーノ枢機卿は、「太陽の不動性と大地の可動性についての仮説が体裁をうまく取り繕うのを証明することと、大地の運動の真実性を立証することと同じでは決してない。私は第一の点の方は証明できると信じる。しかし、第二の点が証明できるかどうかは疑問に思う。だからこういう疑わしい場合は、人はこれまで教皇様方によって解釈されてきた『聖書』の意味を捨ててはならない」と言っているが、これはどういうことなのだろうか。  
コペルニクスの『天球回転論』の出版を許可したときもそうであるが、キリスト教の聖職者たちは、地球が実際に動いていると言ってはいけないが、地球が動くことが理論的に可能だと主張することには問題がないと考えていた。これはたんなる妥協ではない。もしも、大地がもともと動きようがないとするのなら、大地が安定しているのは、神の支配のおかげではないことになる。大地の可動性は、神の偉大さを認識するためにはむしろ必要だったのである。  
3.2. なぜ地球が太陽を動かしてはいけないのか  
次に2.2. についてだが、もしも、太陽の日周運動が、地球の自転によって起こるのだとするならば、昼と夜を交代させているのは、天ではなくて、大地ということになる。つまり、地動説を肯定することは、光の現前と不在を支配する権力が父なる天から母なる大地へと委譲されることを容認することになるわけで、キリスト教のような男性宗教としては、このような権力の自己否定を認めるわけにはいかない。
4. 男性原理としての火  
地動説の提唱者を含めた異端者の裁判は、魔女裁判とは種類を異にしていたにもかかわらず、両者は、有罪者を火あぶりにするという共通点を持っていた。中世のヨーロッパには、死刑には、絞首刑、斬首刑、四つ裂きの刑、車刑、杭打ちの刑、溺殺の刑、釜ゆでの刑など、いろいろな種類があったにもかかわらず、なぜ、魔女と異端者に対しては、火刑だったのか。  
その理由は、ジェンダーの対立を考えれば、明らかである。火は、光と同様に太陽の属性であり、男性原理に属する。したがって、魔女や異端者を火刑で焼き尽くすことは、男性原理で女性原理を抹殺する象徴的なセレモニーなのだ。もちろん、無知の暗闇をキリスト教の真理の光で啓蒙するという意味も込められている。イギリスでは、18世紀の末まで、火刑が、女性の犯罪者一般を死刑にするときに使われたという事実は、火刑が、ジェンダー・コンシャスな刑罰であったことを物語っている。  
ちなみに江戸時代初期の日本では、キリシタンが逆に火刑に処せられたが、これは、ナショナリスティックな動機に基づくもので、そこにはジェンダーの対立はない。キリシタン弾圧は、神国日本を外国の侵略から守るという大義名分で行われたので、太陽神の末裔である天皇を象徴する火が、処刑の際に使われたと考えることができる。
5. 魔女と地動説の接点  
話をヨーロッパに戻そう。魔女が、サバト(悪魔との宴会)に参加するのは夜、特に深夜である。光が男性原理に属するのに対して、闇は女性原理に属するからだ。天は大地に対して男性の領域だが、天の中でも、昼と夜という形で、男性原理と女性原理の対立が反復されている。サバトは夜明けを告げる鶏の鳴き声で終わるのだから、魔女を火あぶりによって抹殺することは、日の出とともに、悪魔や魔女が消えていく現象の再現と見ることができる。  
もし天動説が正しいのなら、父なる天は自らの意志で太陽を昇らせ、悪魔と魔女を消し去ることができることになる。だが、もし地動説が正しいのなら、母なる大地は、自らの意志で太陽を消し去ることができることになる。  
太陽が姿を消すと、それまで太陽の光(キリスト教の真理)のおかげで見えなかった、ギリシャ神話やローマ神話に登場する異教徒の神の名がつけられた惑星が現れ、サバトのダンスのような不規則な軌道を描きながら、闇夜を跋扈する。太陽が規則正しい軌道を描く秩序の象徴であるのに対して、惑星は、その名の通り迷える星で、無秩序の象徴である。太陽が昇れば、闇夜は消えるが、それは母なる大地の意志で姿を消すのであって、父なる天の意志によるのではない。これは、父権的宗教の聖職者にとっては、母権的宗教の許しがたい越権行為である。だから、キリスト教の聖職者たちは、自らの意志で魔女と地動説の提唱者を火あぶりにしなければならない。  
魔女裁判も異端審問もともにスケープゴート現象である。人間と自然の対立関係は、人間の内部で、男と女の対立関係として反復される。だから、女は人間と自然の境界上に位置する両義的存在として表象される。他方、異端者も、キリスト教徒と異教徒との境界上の両義的存在である。魔女や女性原理の崇拝者たちは、二つの意味で、境界上の両義的存在であり、キリスト教に基づく男社会の支配が危機に瀕したときに、システムのエントロピーを縮減するために、スケープゴートとして排除される運命にある。  
異端の中には、女性崇拝者でないものもいたが、キリスト教が成立した当初は、異教徒のほとんどは地母神崇拝者だったから、異端者は、女性原理の崇拝者として、一括して迫害された。実は、地動説も、もともとは男性原理の崇拝から生まれたのだが、キリスト教は、自分たちの基準で、女性原理の崇拝と誤解してしまった。
6. 宇宙の中心は争点ではない  
英語では、地動説のことを「太陽中心説 the heliocentric theory」、天動説のことを「地球中心説 the geocentric theory」と呼んでいる。しかし、地動説と太陽中心説、あるいは天動説と地球中心説は、概念的に同じではない。例えば、地球は宇宙の中心にあって自転していると考えるならば、その説は、地動説にして地球中心説ということになる。概念的に同じではない二つの説を混同したことが誤解の始まりである。  
最初に地動説を唱えたのは、ピタゴラス派のピロラオス(BC5世紀頃)で、その理論は地動説でありながら、地球中心説でも太陽中心説でもなかった。後に現れたピタゴラス派のヒケタスやエクパントスなどは、地球を宇宙の中心とする地動説を唱えた。太陽中心説と地動説という組み合わせを選んだのは、サモアのアリスタルコス(BC310-230年頃)で、彼は、地球の自転と公転を主張するなど、その結論はきわめて近代的だった。  
もちろん、古代ギリシャには、地球中心の天動説を唱える哲学者もいた。最終的に、中世ヨーロッパにおいて定説の地位を得ることができたのは、プトレマイオスがまとめあげた地球中心の天動説で、その理論は、アリストテレスの宇宙論のような単純な同心天球説とは異なり、周転円を導入して惑星の見かけ上の不規則な動きを説明するなど、天動説としては完成度が高かった。  
一般に、古代ギリシャの哲学者は、実験や観察を軽視する傾向にあるが、天文学に関しても然りであって、彼らの天文学的理論は、科学的仮説というよりも、哲学的あるいは宗教的なコスモロジーとしての色彩が強かった。私は、[男社会はいかにして成立したのか]で、古代ギリシャの哲学をユダヤ-キリスト教とともに、女性原理を克服した男性原理として位置付けたが、ギリシャで最初に、かつ最も純粋に男性原理を打ち出した哲学者、プラトンは太陽が宇宙の中心だと考えていた。  
プラトンは、純粋に非物質的な(つまり非女性的な)イデアを真実在とみなした最初の哲学者であり、彼のイデア論は、きわめて男性崇拝的である。有名な洞窟の比喩や太陽の比喩からわかるように、プラトンは、太陽を究極のイデアである善の象徴としていた。だから、彼が、太陽を宇宙の中心に位置付けても、不思議ではない。このように、同じ男性原理に基づいていても、太陽中心主義が帰結することもあれば、天動説が帰結することもある。  
しばしば、科学史の本などは、天動説から地動説へのパラダイム・シフトを脱人間中心主義として特徴付け、ローマ・カトリック教会が地動説を迫害したのは、地球中心主義を放棄したくなかったからだと解説している。だが、このおなじみの解説には首を傾げざるをえない。インノケンティウス3世が喩えるように、太陽が教皇だとするならば、太陽中心主義は教皇中心主義という、ローマ・カトリック教会にとっては都合の良いコスモロジーになるので、迫害する必要はなくなる。  
1620年に、教皇庁図書検閲聖省は、コペルニクスの『天球回転論』に何箇所かの訂正を命じている。検閲聖省は、第5章の宇宙の中心について述べた箇所に対しては、「地球が宇宙の真中にあると考えようが、真中から外れたところにあると考えようが、どうでもよい」とコメントしているのに対して、「地球の運動の真理性について公然と取り扱い、その静止を証明する古の伝統的諸論拠を破壊している」第8章に対しては、章全体が抹殺の対象となりうると書いている。ローマの教皇庁が、太陽中心説と地動説のどちらに目くじらを立てていたかは明白である。
7. 自然に対するロゴスの優位  
『聖書』は、地球が宇宙の中心であるとは主張していない。これまで見てきたように、『聖書』との整合性で問題になったことは、大地が動いて、太陽が静止することなのだ。太陽中心説が迫害されるのは、それが地動説にかかわる限りにおいてなのであって、太陽中心説自体は、第一次的な迫害のターゲットではなかった。  
それにしても、キリスト教の聖職者たちは、どうしてこうも『聖書』の一字一句にまで拘泥したのだろうか、と読者は不思議に思うかもしれない。ガリレオも、クリスティーナ大公妃宛の手紙の中で「神は『聖書』の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現したまう」と言って、地動説への理解を求めている 。  
しかし、私たちはここで、『ヨハネ福音書』の冒頭にある「はじめに言葉ありき」という命題を思い起こさなければならない。男性原理は、自然ではなくて言葉(ロゴス)に優位を置く。「はじめに自然ありき」と考えるガリレオは、キリスト教の聖職者からすれば、《自然=女》を崇拝する、許せない異端だったのだ。  
 
天動説 1

 

地球は宇宙の中心にあり静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているとする説で、コスモロジー(宇宙論)の1つの類型のこと。大別して、エウドクソスが考案してアリストテレスの哲学体系にとりこまれた同心天球仮説と、プトレマイオスの天動説の2種がある。単に天動説と言う場合、後発で最終的に体系を完成させたプトレマイオスの天動説のことを指すことが多い。現在では間違いとされる。  
2世紀にクラウディオス・プトレマイオスによって体系化された、地動説に対義する学説である。地球が宇宙の中心にあるという地球中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと、地球が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、天動説は「Geocentric model (theory) (=地球を中心とした構造模型)」の訳語として不適切だとの指摘もある。なお中国語では「地心説」という。後述する、半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される(しかし、日本語では、「天動説」という語が当てられたため、天上の天体が運動しているという世界観の全てが天動説であると誤解されることが多い)。13世紀から17世紀頃までは、カトリック教会公認の世界観だった。  
古代、多くの学者が宇宙の構造について考えを述べた。古代ギリシャでは、アリストテレスやエウドクソスは、宇宙の中心にある地球の周りを全天体が公転しているという説を唱えていたが、エクパントスは、地球が宇宙の中心で自転しているという説を唱え、ピロラオスは地球も太陽も宇宙の中心ではないが自転公転しているという説を唱え、原著は失われたが紀元前280年頃アリスタルコスは、宇宙の中心にある太陽の周りを地球が公転しているという説を唱えていた(古代ギリシア以外の宇宙観については後述)。ガリレオ・ガリレイはコペルニクスの事を太陽中心説の発明者ではなく「埋もれていた仮設を復活させて確認した人」と書いている。  
それらの学説からより確からしいものを集め、体系化したのがプトレマイオスである。ヒッパルコスの説に改良を加えたものだと考えられているが、確証はない。地球が宇宙の中心にあるという説を唱えた学者はこれ以前にもいるし、惑星の位置計算を比較的に正確に行った者もそれ以前にいたが、最終的に全てを体系化したプトレマイオスの名をとり、今なおこの形の天動説は、プトレマイオスの天動説とも呼ばれる。  
天動説では、宇宙の中心には地球があり、太陽を含め全ての天体は約1日かけて地球の周りを公転する。しかし、太陽や惑星の速さは異なっており、これによって時期により見える惑星が異なると考えた。天球という硬い球があり、これが地球や太陽、惑星を含む全ての天体を包み込んでいる。恒星は天球に張り付いているか、天球にあいた細かい穴であり、天球の外の明かりが漏れて見えるものと考えた。惑星や恒星は、神が見えない力で押して動いている。あらゆる変化は地球と月の間だけで起き、これより遠方の天体は、定期的な運動を繰り返すだけで、永遠に変化は訪れないとした。  
天動説は単なる天文学上の計算方法ではない。それには当時の哲学や思想が盛り込まれている。神が地球を宇宙の中心に据えたのは、それが人間の住む特別の天体だからである。地球は宇宙の中心であると共に、全ての天体の主人でもある。全ての天体は地球のしもべであり、主人に従う形で運動する。中世ヨーロッパにおいては、当時アリストテレス哲学をその体系の枠組みとして受け入れていた中世キリスト教神学に合致するものとして、天動説が公式な宇宙観と見なされていた。14世紀に発表されたダンテの叙事詩『神曲』天国篇においても、地球の周りを月・太陽・木星などの各遊星天が同心円状に取り巻き、さらにその上に恒星天、原動天および至高天が構想されていた。  
更に天動説は、当時においては観測事実との整合性においても地動説より優位に立っていた。すなわち、もし地動説が本当であれば、恒星には年周視差が観測されるはずである。しかし、当時の技術ではそのようなものは見当たらなかった。
天動説の歴史  
エウドクソスの同心天球  
紀元前4世紀、古代ギリシアのエウドクソスは、地球を中心に重層する天球が包む宇宙を考えたとされる。いちばん外側の天球には恒星が散りばめられており(恒星球)、天の北極を軸に、およそ1日で東から西へ回転する(日周運動)。太陽を抱える天球は恒星球に対して逆方向に西から東へ、およそ1年で回転する(年周運動)。太陽の回転軸は恒星球の回転軸とは傾いているために、1年の間でその南中高度が変わり、季節が説明される。恒星球と太陽の間には惑星を運行させる天球を置いた。地球から見て惑星は星座の中をゆっくりと動くように見える。これは恒星球に対して惑星を運ぶ天球の相対運動で説明されたが、惑星は天球上で速さを変えたり、逆行といって一時期だけ逆に動くことがある。逆行を説明するために、いくつかの回転方向や速度の異なる複数の天球を1つの惑星の運行に用意した。これらの天球は動かぬ地球を共通の中心とする球体であったので、地球からそれぞれの惑星までの距離は変化することはない。エウドクソスの同心天球はアリストテレスの宇宙像に組み入れられた。  
アポロニウスの周転円  
紀元前3世紀頃のアポロニウスあるいは紀元前2世紀のヒッパルコスは、惑星が単に円運動を描くのではなく、円の上に乗った小さな円の上を動くと考えた。この小さな円を周転円、周転円が乗っている大きな円を従円と呼ぶ。感覚的には、遊園地の乗り物のコーヒーカップがこれに近い。コーヒーカップの取っ手を中心から見ると、2種類以上の円運動が合成されて、進む方向や速さが変化するように見える。これによって惑星の接近による明るさの変化、巡行と逆行の速度の差を大雑把に説明できた。  
全ての惑星が同一平面上にある太陽を中心とした円軌道を等速運動しているのであれば、地球から見た惑星の運動は、円軌道と1つの周転円のみで記述することができるはずである。しかし、現実の惑星の運動はそのようにはなっておらず、惑星の運動を天動説で正確に記述するためにはより複雑な体系が必要になる。そのためヒッパルコス以降、プトレマイオスを始めとしてさまざまな天動説モデルが提唱され、最終的には地動説のコペルニクス、ケプラーを経てニュートンの万有引力の法則に基づく宇宙モデルに至ることになる。  
従円と周転円  
従円と周転円(じゅうえんとしゅうてんえん、Deferent and epicycle)とは、天動説において月、太陽、惑星などの運行速度や進行方向の変化を説明するために、紀元前3世紀の終わり頃にペルガのアポロニウスが考え出した概念である。この考え方で、当時知られていた5つの惑星の順行・逆行や、地球との距離が上手く説明できた。  
天動説では、惑星は周転円と呼ばれる小さな円を描きながら、従円と呼ばれる大きな円軌道を公転すると考えられていた。どちらも左回りで、黄道とほぼ平行になっていた。この系での惑星の軌跡をエピトロコイドという。  
従円は、離心中心(エカント)と地球との中間点を中心とする円である。周転円は従円の離心中心を中心として回転する。惑星が周転円を回る速度や角速度は一定である。  
クラウディオス・プトレマイオスはアルマゲストの中で惑星の従円の相対的な大きさについては予測せず、標準的な従円について計算を行っただけである。これは、彼が全ての惑星が地球から等距離にあると信じていたわけではないからであり、彼は実際、惑星の配列について考えていた。後にプトレマイオスはPlanetary Hypothesesの中で惑星の距離を計算している。  
外惑星は、天球上を恒星よりもゆっくりと動き、止まって見えることもある。これは順行である。たまに衝に近い位置に来た時には、恒星より早く動いて見えることもある。この時が逆行である。プトレマイオスのモデルでは、この現象が一部うまく説明できている。  
内惑星は、常に太陽と近い位置に見え、日の出前か日の入り後の短い時間に見られる。これを説明するためにプトレマイオスのモデルでは水星と金星の動きは固定され、離心中心と周転円の中心を結ぶ直線は常に太陽と地球を結ぶ直線と平行になるようになっている。
プトレマイオスの体系  
2世紀にアレクサンドリアで活躍したプトレマイオスは周転円を取り入れつつ、離心円とエカント (equant) を導入、体系化した。恒星球の中心は地球だが、惑星の従円の中心はこれとは異なる(離心円)。周転円の中心は離心円上を定速では回らないが、エカント点からこれを見ると一定の角速度で動いている。  
図は比較的簡単な例であるが、これでも図示されている大きな離心円と小さな周転円のほかに、離心円の中心Xの運動、恒星球の日周運動、エカント点を中心とする角度など、この1つの惑星の運行に5つの動きが絡んでいる。  
プトレマイオスの体系では地球から惑星までの平均距離にほぼ相当する離心円の径をどう採っても、視方向が同じである周転円を作ることができる。とりあえず各惑星の周転円が重なり合うことを避けるため、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていった。その外側を恒星球が取り囲む。この宇宙像は、エウドクソス、アリストテレスの同心天球の拡張形とも言える。  
プトレマイオスの体系は当時としては非常に優れたものであり、地球を中心と仮定して惑星や太陽の運動を説明するには、これ以上のものは無いと言ってもよい。仮に(そんな事はあり得ないが)太陽系の惑星の運動が全て円運動であったのなら、プトレマイオスの体系でほぼ完璧に説明ができたであろう。しかし後に明らかになる通り、実は惑星は太陽を焦点の1つとした楕円運動をしており、それ以降の天動説の発展は、楕円運動を円運動で説明せんがための発展であった。  
プトレマイオス後の展開  
プトレマイオスの体系をまとめた『アルマゲスト』は、中世イスラム世界を経て中世ヨーロッパへ引き継がれ、およそ1500年にわたって教科書的な権威を持ち続けた。  
一方、6世紀インドのアリヤバータ (Aryabhata) は太陽中心の地動説に基づいたと思われるいくつかの計算を残している。インドには古代ギリシアの天文学が入ってきており、その影響が指摘されている。彼の著作は8世紀にアラビア語に、13世紀にはラテン語に翻訳されている。  
8世紀にアッバース朝が建設した都バグダードは、ヘレニズム文明、文化の継承とインド文明などが出会う「るつぼ」であり、イスラム科学の中心地となった。9世紀頃シリア地方で活躍したバッターニーは、詳しい観測を行い、プトレマイオスの体系を継承発展させた。  
14世紀マムルーク朝のダマスカスに居たイブン・アル=シャーティル (Ibn al-Shatir) は、天動説の立場に立ちながらエカント点を排除する、コペルニクスと数学的にそっくりの系を考えた。円運動から直線往復運動を作り出す手法はシャーティルに先だって13世紀のナスィール・アル=ディーン・トゥースィー (Nasir al-Din Tusi) によって編み出されている(トゥースィーの対円、Tusi-couple)。彼らの業績がコペルニクスの説に影響を与えた可能性も指摘されているが、証拠は認められていない。
ヨーロッパでの受容と展開  
十字軍遠征やイベリア半島におけるレコンキスタ、地中海貿易などは、ヨーロッパとイスラム世界との接触を活発にした。11-13世紀にかけて、イスラム科学の成果はシチリア王国の首都パレルモ、カスティーリャ王国の首都トレドなどで精力的に研究され、翻訳が成された(→12世紀ルネサンス)。アリストテレスなど古代ギリシアの文献も、アラビア語訳からの重訳という形でヨーロッパにもたらされた。それまでのカトリック教会の神学はアウグスティヌスなどラテン教父による、ネオプラトニズムを基盤にしたものであった。1210年にパリの聖職者会議がアリストテレスを教えることを禁止するなど、新しく流入した知識を採り入れることに抵抗はあったものの、13世紀後半に活躍するアルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスらにより、結局はアリストテレスの哲学はスコラ学の主流となる。  
プトレマイオスの体系も受け入れられて、13世紀にカスティーリャ王国のアルフォンソ10世のもとで編纂された『アルフォンソ天文表』は、その後の補正を受けながらも17世紀までヨーロッパで使われていた。15世紀のドイツでプトレマイオスなどの研究をしたレギオモンタヌス(ヨハン・ミューラー)の業績は、彼の死後1496年に『アルマゲスト綱要』として出版され、コペルニクスの研究に大きな影響を与えた。この頃になると、『アルマゲスト』もアラビア語からの重訳ではなく、ギリシア語原典に当たることができていた。  
16世紀のヨーロッパでニコラウス・コペルニクスが地動説を唱えた。コペルニクスの説は太陽を中心に地球を含む惑星が公転するという点で画期的であると共に、エカント点を排除して全ての運行を大小の等速円運動で記述した。しかしながらコペルニクスの説も、円運動を前提にしているという点においては、従来の天動説と同じであった。本当であれば楕円運動をしている惑星の運動を円運動で説明するために小周転円が必要だったので、計算の手間はプトレマイオスと大して変わらなかったし、予測精度も大きく上がることはなかった。地球の位置が動くならば恒星の見える方向が変化するはずなのに、当時の観測精度ではそれ(年周視差)が認められなかったことも、コペルニクスの説が直ちには受け入れられなかった理由である。コペルニクスの説を受け継いで、エラスムス・ラインホルトが、『プロイセン星表』を作成したが、周転円の数をプトレマイオスの天動説よりも増やしてしまい、さらに計算を煩雑にしてしまった。  
コペルニクス説の影響を受けて、17世紀のティコ・ブラーエは、動かぬ地球を中心にしながらも、月と地球を除く惑星が太陽の回りを周回する宇宙を考えた。ティコの太陽系はプトレマイオスの天動説の発展形とも言える。プトレマイオスの体系でも太陽系というものが全く存在しなかった訳ではない。内惑星である水星と金星の離心円の回転角は、太陽のそれと同じであった。しかし外惑星は別扱いされた。内惑星を地球から見ると太陽からある程度以上は離れることはないが、外惑星は太陽の反対側へも回り込む。  
プトレマイオスの体系では、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていた。この配列で水星、金星、太陽を見ると、この順に離心円の径が大きくなる。しかし、ティコはこれらを同じにした。周転円が重なり合うことを問題にしなければこれができ、これに応じて周転円の径を変えると地球からの視方向が同じであるものができる。この系では太陽の回りを水星、金星が回る。さらに外惑星も同じようにできるが、この場合は離心円の径と周転円の径の大小が反転する。しかし、元々 離心円の径 > 周転円の径 であったのは、周転円同士が重なり合わないための要請で、それを取り払うと問題ではなくなる。すなわち、ティコが破ったプトレマイオスの掟は周転円同士の重なりであった。元のプトレマイオスの体系でも離心円同士は重なっていたのだから、周転円同士の重なりを回避するのは不自然な要請だったのかもしれない。  
16世紀にニコラウス・コペルニクスが地動説を唱えた後にも、天動説を脅かす事件は続いた。新星が観測されたことは、恒星の中にも変化が見つかったことになる。月より遠方ではいかなる変化も起きないというアリストテレス的宇宙観にとって、これは大きな問題となった。さらに、ティコ・ブラーエが彗星を観測し、この天体が月より遠方にあることを証明した。これは激しい論争を生んだ。多くは彗星を気象現象として考えようというものだった。
地動説  
17世紀になって望遠鏡が発明され、天動説に不利な観測結果が次々ともたらされる。しかし当時は望遠鏡を錬金術師が使う非科学的な呪具であると考える者が多く、また依然として残る宗教的圧力によって天動説を捨てる学者はなかなか現れなかった。天動説の優位性は、太陽の周りを地球が公転するなら月は軌道を保てずに飛んで行ってしまうであろうという批判に対し、当時の地動説が反証できなかった点にあった。しかし、1610年にガリレオ・ガリレイが望遠鏡を用いて木星に衛星があることを発見した。 この発見により、天動説は木星の月が飛んでいってしまわない理由の説明に窮した。  
さらに、ヨハネス・ケプラーが惑星の運動は楕円運動であること(ケプラーの法則)を発見する。ケプラーの説は天動説やそれ以前の地動説モデルよりも遥かにシンプルに天体運行を説明でき、しかもケプラーの法則に基づくルドルフ星表の正確さが誰の目にも明らかになり議論は収束に向かった。恒星の年周視差が未だ観測できないという地動説モデルの弱点は、この大発見の前には些事でしかなかった。  
ニュートンは、ケプラーの法則を支持する慣性の概念を始めとした運動の法則、および万有引力の法則という普遍的な法則を導きだした。これらの法則は天動説をとるにせよ地動説をとるにせよ大きな謎であった天体運動の原動力及び月が飛ばされない理由に回答を与えた。さらに、惑星に限らず、石ころから恒星まで、宇宙のあらゆる物体の運動をほぼ完全に予測・説明できる手段となった。これらの圧倒的な功績によって、地球中心説としての天動説は完全に過去のものとなった。
他文明と天動説  
他文明において、古代ギリシア・古代ローマ文明と同等の天動説は未だ発見されていない。メソポタミア文明では、詳しい惑星の位置観測結果が粘土板として出土しているが、この文明がどのような世界観を持っていたのかは不明である。ただし、多くの文明は、観測者がいる大地を中心とした宇宙観を持っていた。古代インドでは、須弥山説(ヘビの上にカメが乗り、その上にゾウが乗って、その上に人間の住む世界があるという世界観)が唱えられ、古代中国では、蓋天説や渾天説が唱えられた。ただし、これらの文明と古代ギリシア文明とは、学問の上で大きな接触があったとはいえず、これらの説や天動説が互いに影響を与えたかどうかについては詳しい研究はない。中国独自の無限宇宙論といえる宣夜説の形成には、天動説が影響したと考える研究者もいるが、確証はない。古代ギリシア・古代ローマ文明のように、惑星の明るさの変化や逆行について円運動で説明しようという試みは皆無であった。  
前述した通り、その後、天動説は古代ギリシア・ローマからアラビア文化圏を経て中国に渡り、アラビアと中国で独自の発展を遂げた。これらの文化圏が既に持っていた世界観との乖離は、特に問題とはならず、その地の知識人は抵抗もなくこれらの学説を受け入れた。しかし、アラビア、中国での天動説の発展は主に観測精度の向上で、体系の発展はあまりなかった。
地動説後の宇宙観  
地動説以降、宇宙の中心は地球ではなく、太陽にあると考えられるようになった。例えば宇宙空間での恒星の分布図を描いたウィリアム・ハーシェルは、太陽が銀河系の中心に存在すると考えていた。  
しかしながらニュートンの万有引力の法則は、太陽が宇宙の中心ではない可能性を示唆するものでもあった。太陽系の惑星が太陽のまわりを公転しているのは、太陽の質量が太陽系の惑星の質量に比して、遥かに大きいからに過ぎず、太陽が宇宙の中心であるとする理由は存在しない。ニュートン自身も太陽が宇宙の中心であるとは述べてはいない。そもそも前述のウィリアム・ハーシェルも、二重星の研究によって、太陽系外の天体においてもケプラーの法則が成立する事を示唆した。  
その後の研究により、実際に太陽は宇宙の中心ではない事が明らかになった。ニュートンの力学法則は、結果的に旧来の地動説をも葬り去ることになった。そして恒星の年周視差が観測できない事は、恒星がかなり遠方にある事を意味し、にもかかわらず地球まで恒星の光が届く事は、恒星が太陽に匹敵、もしくはそれ以上に明るく輝く天体である事を意味した。つまり太陽もまた、宇宙に数多く存在する恒星のひとつに過ぎない事が明らかになった。  
現在では太陽は銀河系を構成する無数の星の1つとして、他の星々と共に銀河系の中心の周りを回っていることが知られており、銀河系の中心からは約26,000 - 35,000光年の距離にある。その銀河系もまたこの宇宙で移動し続ける、無数の銀河の1つに過ぎないことが知られている。すなわち、太陽が宇宙の中心であるとする古典的な地動説は間違いとされている。  
現代の一般的な宇宙観では、全ての物質は各々相対的に運動しているのであって、宇宙のどこかの物質に中心があるという考えを支持しない。宇宙には特別な場所も方向も存在しないのであり、この考え方を宇宙原理という。但し、天体の運動を近似計算するために、数学的に座標の中心を設定する手法はよく使用されている。  
一方でそれとは違う宇宙観を提示する論者も存在する。物理学者のジョージ・エリスは、宇宙に裸の特異点が存在し、地球はその正反対の位置にあるとした。宇宙の中心という訳ではないが、この宇宙において特別な位置に地球が存在するという説である。なぜ特異点の正反対に地球が位置するかというと、特異点に極めて近い場所は温度が非常に高く、生物=人間が存在しえないため、我々人間が存在する場所は特異点とは最も離れた位置にあるべきとする。このように宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方を、人間原理という。
現代の天動説  
2004年国立天文台の研究者のアンケートによると、小学生の4割が「太陽は地球の周りを回っている」と思っており、3割は太陽の沈む方角を答えられないという結果が出たという。文部科学省の答弁によると、「これらのことは、中学校で教育する。」とのことだった。一方、哲学者の永井均などは、経験抜きで知識によらざるを得ない命題に対し、批判し考えることを子供たちに説いており、単に地動説を真理として「教育する」のが妥当かどうかは今後の議論が必要である。べらぼうな労力を要することになるが、その労力さえ厭わなければ、天動説の立場で天体の運動を数学的に記述することは可能なのである。天動説が無知な古代人の妄想ではなく、緻密な数学的背景を持った科学的体系であったことを認識させることが必要である。但し、天動説(地球中心説)が正しいのはあくまで数学的にであって、物理的(力学的)にはもちろん完全に破綻している。  
なお、地球中心説としての天動説は誤りであったが、太陽が動いているという意味での天動説は、現在では新たな意味を持って復活している。ニュートンの万有引力の法則は、太陽が宇宙の中心ではない可能性を示唆しするものでもあったが、実際に太陽は宇宙の中心ではなかった。現在では太陽は銀河系を構成する無数の星のひとつとして(ちょうど地球が他の惑星と共に太陽のまわりを回っているように)他の星々と共に銀河系の中心のまわりを回っていることが知られており、その銀河系もまたこの宇宙に無数に存在する銀河の一つに過ぎないことが知られている。  
 
天動説論者 2

 

2003年終わりに、平原綾香がホルストの組曲「惑星」から「ジュピター」を日本語歌詞で歌い、CDもミリオンセラーになった。その木星には探査衛星で大気の大赤斑が身近になった一方、公転周期が12年であることから方位神としての太歳神や九星の四緑木星など古き陰陽道が生き残っている。  
木星に限らず周期的に運行する星を「惑う星」とは変だと思っていたが、元々は「彷徨者」を意味するギリシャ語planetaiを訳しただけだと知ったのは、還暦を過ぎてのことである。我国では「遊星」中国でも「行星」と呼んでいたようで、全て天体が地球中心に運行していると考えた天動説の名残である。  
仮に地球が動かないとすれば、光を発する遠くの星は位置が定まった恒星(Fixed Star)となり、近くの太陽系の惑星は相対的に不規則に運行しているように見える。  
2004年4月の新聞には、日本の小学生の四割が、太陽が地球の周りを回っていると思っていると調査結果が出たが、現在は中学の課程で地動説を教えるそうだから当然の結果なのだろう。何も教えなければ人間はそう考えるのが普通である。  
実際、我々にしても地動説を信じる根拠を問われれば、正確に説明できるとも思えない。多分いつかの学校の理科の時間に教わって、そのまゝ正しいと思っているだけで、自らの手で何かを確かめたわけではない。  
そこへ昨年2005年の夏、新たに太陽系十番目の惑星を発見したとアメリカから発表されて話題になった。それが2006年になるとさらに後二つも追加されて、合計十二になると騒がれたが、日頃の無関心をよそに妙に盛り上りをみせたのである。  
唯、惑星の定義は定かでなく、1930年発見の冥王星でさえ惑星ではないとの議論が続いており、ましてや新発見の十番目のものなど「2003UB313」なる記号でしかない。  
そもそも冥王星は月より小さく軌道が他の太陽系の惑星と異なっており、彗星と紛らわしいのである。公転周期が76年のハレー彗星が現れたのは1986年だったが、それが今回のものでは560年といわれると人の寿命に比べあまりに掛け離れた話で、とても実感が湧かない話になってしまう。  
そこに今回は従来衛星だとしてきたものを二つも加えるのだから一層話はややこしい。  
その昔「すいきんちかもくどてんかいめい」と太陽系には九つの惑星があると覚えたのは何だったのかと思わぬでもない。  
ホルストの組曲も地球を除いて七つしかないが、冥王星は知られない時代の作曲だったのだ。この星の名は「Pluto」とギリシャ神話の黄泉の国の神である。訳したのは野尻抱影という明治の学者で、「幽王星」という案もあったらしい。結果的に「冥王星」になったが、いずれにしても幽霊や冥土の王を想像させる怪しげな存在だったのである。  
そのせいでもなかろうが、とうとう今回、惑星に国際的な定義がなされて矮惑星に格下げされたが、最後まで惑う星だった。  
太陽系の惑星が幾つであろうと日常の生活に何ら関係はないが、広い宇宙には他にも太陽系外惑星があるはずと探索を続ける人達もおり、人間の知的興味と考えれば面白い。   
一方で、何でも自分を中心にものを考える時代背景をみれば、「天動説」はまさに人間の心理の象徴のように見える。  
少し昔の薬師寺管長で高田好胤の師匠であった橋本凝胤が、TVに出て「天動説」を当然の如く語っていたのをよく憶えているが、天下の鬼才が集うと噂の東大の印度哲学科で学んだ学僧だから、多分物事をよく理解した上での確信犯だったのだろう。  
しかし近頃そこらに跋扈するジコチュー的人物の場合は、無恥な天動説論者の感がある。  
同様に今回の惑星騒ぎも、人間の勝手な都合での議論だったように思える。  
 
プトレマイオスの天動説 3

 

天動説、という言葉は広く知られています。地球は動いておらず、地球は世界(昔の言葉でいう世界とは現在の宇宙を指します)の中心に鎮座し、その周りを太陽やらの天体が動いているというとても素直な説です。地球が、すなわちあなたの住んでいる家も、部屋も、椅子も、パソコンのモニタもあなたと一緒に高速で動いているだなんて普通は考えられません。だから地球は動いておらず、動いているのは天なのだ、というスタンスです。  
この天動説は素朴な考えなのでずっと以前からあったのですが、 2世紀ごろ、アレキサンドリア王朝の時代に天文学者プトレマイオスがきちんと体系化しています。地球は世界の中心でじっとしているという仮定のもと、少しの観測結果と大きな思考でつくりあげられたといいます。ここで少しの観測結果といったのは、後のティコブラーエやケプラーが厳密な観測を寄りどころにしたことと対比させるためです。  
当時から星には恒星と惑星があることが分かっていました。恒星というのは太陽や、星座をつくっているはるか彼方の恒にひかり輝いている星です。夜空をボケっと眺めていると星が少しずつ動いていることが分かりますが、星座はずっと同じ形を保っています。 1年を通じて少しずつ見える星座は変わりますが、星座を構成する星の位置関係は変わっていません。まるでなにか球状のものに星がへばりついて、その球ごと、ごっそりと星座が動いているようです。この球は天球と呼ばれます。  
しかし火星とか金星とかはそうではなく、あるときは恒星を追い抜き、あるときは逆戻りし、いきあたりばったりに動いているように見えます。いや、僕はちゃんと見たことないですけど、そうらしいです。そんなわけで金星や火星は戸惑う星、惑星と名付けられています。恒星しか見えてなかったら天球がごっそり地球を中心に回転している、で話は簡単だったのですが、惑星のことを知っていたばかりにそれでは話が片付きませんでした。  
そこでプトレマイオスくんは、惑星を2つの円運動の合成として考えました。まず地球を中心にした円周を考えます。つぎに、その円周をさらに小さな円周が回っていると考えます。  
これによって、あるときは逆行したりする惑星の運動を説明していました。小さい方は円周を回るので「周転円」、大きい方の円は小さいのを運ぶから「搬送円」と呼ばれます。なんだか複雑なことになっていますが、とりあえず当時の観測精度ではこれで説明がついたのでした。  
このプトレマイオスの天動説は多くの人たちに受け入れられ、長い間浸透していました。しかしそれをくつがえしたのがコペルニクスです。天ではなく地球が動いているという、コペルニクスの地動説です。現在では、太陽の周りを地球が動いているなんて誰でも知っていますが、天が動いていようと地球が動いていようと、普通生活しているぶんには直接感じることはないですよね。ではでは、どうしてコペルニクスは地動説を思いついたのでしょうか。  
 
天動説・雑記 4

 

円の個数  
「アリストテレスは、5つの惑星と太陽、月の7つの天体を動かすのに、27個の円があると考えた。プトレマイオスは円を34個に増やし、後の天文学者が円をさらにつけ加えた。観測精度が上がり、細かい運動が次々に見つかったためである。最終的には16世紀までに数十個もの円が使用されることになったという。しかし、その円の個数がなにゆえにその個数でなければならないのかを明確に答えることはできなかった。」  
なぜ、この段落を省いたかというと、34個という数は1514年頃コペルニクスが手稿『コメンタリオス』の中で自説の円の数に言及したもので、プトレマイオスのものではありませんから、明らかな間違いです。しからばプトレマイオスが使った円の数はいくらか? コペルニクスはプトレマイオスにある5惑星の離心円を地球の公転軌道に置き換えたので、5つ少なくなったはずだと考えるとプトレマイオスの円は39個だったということになります。いっぽう、プトレマイオスのエカントを除くためにコペルニクスは小周転円を導入したので、5惑星と地球、月とで計7つ追加。差引きプトレマイオスより2個多いとすれば、プトレマイオスが使った円の数は32個ということになります。これらの推論は間接的なもので、しかも、コペルニクスが1514年ごろに34個を使っていたとしても、『天球の回転について』を脱稿した1543年にはその数が変わっているかもしれません。私には確かなことが分からないので、とりあえずこの記述は削除しました。  
1.エウドクソス(紀元前4世紀) 27  
2.カリッポス(紀元前4世紀) 34  
3.アリストテレス(紀元前4世紀) 56  
4.プトレマイオス(2世紀) 43  
5.コペルニクス(1514年ごろ) 35  
6.アミーコ(1536年) 107  
7.フラカストロ(1538年) 79  
8.コペルニクス(1543年) 49  
ただし、これらの数え方はいろいろいろあって、アリストテレスのうち22個は精度を上げるためのものではないし、プトレマイオスで各惑星の年周運動の計算に必要なだけを数えると34です。コペルニクスはやはり『コメンタリオス』(動かない恒星球を除けば34。赤緯方向に動かすための4つを加えると38)から『天球の回転について』までに14個増やしています。アミーコとフラカストロは、べらぼうに多いですが、プトレマイオスと体系が違う(同心球)ので、精度は上がらず、これにもとづく星表は作られていないなど、実用的には無視されていたようです。代表的な星表が作られたもので言えば、(4)にもとづくアルフォンソ星表が34、(8)にもとづくプロイセン星表が48といったところでしょうか。  
「最終的には16世紀までに数十個もの円が使用されることになったという。」という部分について、状況が分かりました。1949年にハーバート・バターフィールドが論文『近代科学の誕生』の中で、コペルニクスの仮説では「天球の総数が80から34に減っている」と述べたために、一時これが通説となったようです。コペルニクスが学んだ16世紀のパドヴァ大学の学派の中には同心天球モデルにもとづいて、円を増やした学者も居ました。しかし、当時信頼を受けており、コペルニクスも持っていた『アルフォンソ表』は、13世紀に作成されたものです。この『アルフォンソ表』も、1532年シュテフラーの『天体暦』も、使っていた円の数は2世紀のプトレマイオスの(計算に必要な個数だけを挙げると)34個から増減していないことを、1973年、ギンガリッチが再計算により示しました。 
天動説とキリスト教会  
「キリスト教界の強力な援護により約1500年間支持された。」とありますが、天動説が生き延びたのは、対抗する有力な説が現れなかったからで、それを16世紀のコペルニクスに採り、終焉を17世紀に採れば、キリスト教会が関与するのはたかだか100年でしかありません。あるいはコペルニクスの地動説が教会で問題になるのはガリレオ裁判のときで、1616年ごろから1633年。ケプラーの説にもとづく『ルドルフ星表』が作られるのが1627年で,これは精度が良かったので急速に普及したそうです。そうするとキリスト教会(カトリック教会)の抵抗が有効だったのは、1500年のうちの、せいぜい20年に満たない期間ということになります。  
それに、プトレマイオスの天動説について言えば、8世紀からの数百年はイスラム教圏で保持されていたのであり、カトリック教会がこれを採り入れるのは13世紀ごろのスコラ学からです。とりあえずこの1文は削除を提案します。カトリック教会との関係を記述するとすれば、概要の最終段落に、「17世紀、カトリック教会によるガリレオ裁判において、天動説を否定する地動説は物議となった。」くらいの文章を追加するかです。  
「13世紀から17世紀頃までは、ローマ教会の公認の世界観だった」というのはオッケーなのですが、プトレマイオス後の展開のところに「当初、ローマ教会は、これらの研究を禁止したが」という記述が追加されました。この「当初」とは、いつごろの話でしょうか? 4世紀末〜5世紀の高名な神学者アウグスティヌスはギリシア哲学に通じていましたし、それは13世紀のスコラ学にも継承されています。 
天動説で記述する労力  
「現代の天動説」の節に「べらぼうな労力を要することになるが、その労力さえ厭わなければ、天動説の立場で天体の運動を数学的に記述することは可能なのである。」という記述があります。  
天動説で記述することは、地動説に比べそれほどたいへんなのでしょうか?  
たとえば地球から見える金星の方角を算出しようとするとき、  
1. コペルニクス体系だと、順番はどちらでも良いですが、まず太陽を中心軸にして地球がその軌道上のどこに居るかを計算し、次に金星が軌道上のどこに居るかを計算し、最後にその地球から金星を結ぶ線の方角を計算します。  
2. プトレマイオス体系だと、まず太陽の方向を計算します。次に金星の離心円の回転角はこれと同じなのでそれを利用し、あとは周転円以降を計算して金星の位置を算出します。最後に不動の地球からその金星へ結ぶ線の方角を計算します。  
使う言葉が少し違いますが、実は同じことをしています。地動説の記事には「コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』が作られたが、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説とたいして変わらなかった。」とあります。  
それぞれの計算にたくさんの小周転円があって、計算がたいへんだろうと想像するのは、軌道をどう近似するかの問題であって、天動説か地動説かという問題ではありません。楕円で近似すればもっと単純だというのもそのひとつです。天動説でもそれぞれを楕円で近似することはできます。地球軌道が複雑な理由のひとつに月の影響がありますが、これは楕円で近似しても残る別の問題ですし、それをニュートンで説明するのは、説明がすっきりするだけで、計算の手間が減るわけではありません。  
たしかにねぇ。単に、「地動説」(その中身が何であれ)と数学的におなじ計算を地球を固定した座標系でやれば、それはそれで一つの天動説の体系になるだろうから、言いたいことはわかります。まあ、おなじ精度を目指すなら実際の計算は多分仮定が少なくてすむであろう「地動説」のほうが何かと「簡単」では有ろうかと思いますが。あと、天動説というものをそう捕らえるのが一般的かどうかというあたりに争点があるのかも。まあ、天動説というものをあくまで小周転円を無限に連ねる方法だと規定するのも論者の勝手といえば勝手だし、アインシュタインの相対性理論の世界を、天動説と地動説のどちらかとみなすのはもうぜんぜんナンセンスだろうし…。まずは、何を争点にするのかを決めないと、話がすすまなそうだ。  
該当段落は「現代の」なので、その地動説はケプラーのもので、ニュートンで裏付けられたそれを指しているのでしょう。これに対し「天動説」の言葉で呼ばれているのは、中世ヨーロッパが持っていた宇宙観、アリストテレスとプトレマイオスの合成によるものを指しているようです。この宇宙観は、次のもので構成されています。そのうち天動説のコアは1だが、該当段落はこのうち「べらぼうな労力」は5の問題、節の最後にある「物理的(力学的)にはもちろん完全に破綻している。」は2の問題について議論しているようです。  
1. 地球は宇宙の中心にあり、動かない。代わりに天が東から西へ日周運動、西から東へ年周運動をしている。  
2. 地球を中心に、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、恒星球がこの順に層を成している。  
3. 恒星は恒星球に貼りついているか、穴である。  
4. 月から上は天の世界であり、それより下の世界とは隔絶している。  
5. 太陽、月を含む各惑星の年周運動を離心円、エカント、周転円で近似した。  
いっぽう、教育の問題として、地球の上に立つ現代の子供たちが空を見上げると、太陽が地球の周りを回っているように見えることをどう説明するかという問題を論じています。その問題に、特定の時代の特定の地域で信じられていた天動説を取り上げて、それをこき降ろすことにどんな意味があるのでしょうか? 天動説は、さまざまな文化でいろいろに説明されています。  
とりあえず、教育の問題は別扱いのほうが良いでしょう。「現代の天動説」の節はざっくり削って、その代わり天動説のいろいろな類型を説明する節と、理科教育の問題について触れる節を新たに作るのが良いですかね。あまり突っ込んだ話になると僕には手におえないので、Portal:物理学とPortal:天文学でちょっとここを見てもらえるように告知を出してみます。  
ありがとうございます。私としては、「べらぼうな労力」と「物理的(力学的)な完全破綻」の文を取れば、この段落の記述は問題ないように思えます。 畳み掛けるようですが、次の段落の「地球中心説としての天動説は誤りであった」と言い切って良いのでしょうか? 地球が中心だと思っていたら、太陽が中心だった。かと思えば銀河系の中心は別のところにあって、その銀河系は宇宙のほんの一部でしかない。私はこの方面に暗いのですが、現在の科学の最先端の理解として、宇宙の中心というのは、どこかにあるのでしょうか?  
「べらぼうな労力」は程度問題なのでおいておくとしても、「物理的(力学的)な完全破綻」は事実としか言い様がありません。いわゆる「天動説」を根拠付けるような「力学法則」を含む「物理学体系」が構築されたことは一度も無いはずですし、未来においてもそのような「物理学体系」を構築することは出来ないはずです。「天動説」はその起源から今日にいたるまで、一度たりとも物理学上(力学上)の理論であったことは無いのです。 宇宙に特定の中心はない、あるいは中心を定義することは出来ない、というのが現在の宇宙論の立場から見た定説だと思います。  
そうでしょう。他に中心が無いのに、地球中心説を笑うというのがしっくり来ないんです。この段落には「宇宙のいずこかに中心を置くのは誤りである。」との文言を入れないと分かりにくいのではと。  
「天動説」を根拠付けるような「力学法則」を含む「物理学体系」が構築されたことは一度も無いということは、そのとおりです。しかし、ティコの太陽系で、各軌道を楕円にしたら、力学的には何の問題も無いはず。…恒星との関係で、まずいですかね?  
ティコのモデルだと恒星との関係、特に光行差や年周視差の原因を説明できない点が致命的な問題になります。最終的に天動説に引導を渡したのはニュートン力学の確立だけでなく、この二つが16、17世紀に観測的に発見されたことが大きいという点も書くべきだろうと思います(英語版には書かれていますね)。また、宇宙に特定の中心が存在しないというのはその通りですが、「太陽系の重心」は観測する系によらず一意に決まり、太陽の内部にあります(太陽の正確な中心からはわずかにずれていますが)。ですので、地動説には「太陽系の重心系から見た描像」であるという特別な意味があることも忘れてはいけないでしょう。  
天動説はあくまでも地球から星を観測したときにその星が天球上でどこに位置するかを予言するための体系です。まあそれすらもHinaさんのいうように16世紀の時点ですでに破綻しているわけですが、こと、現代的な意味での力学上の問題に言及するならば、「なぜ星がそのような運動をするのか」を説明する必要があります。地球が中心であるというのなら、地球が中心にあって動かない理由を説明しなければなりませんが、それを力学法則を使って行うのは不可能といってよいでしょう。数学的にはどこを固定して計算してもおなじ事ですが、物理学的には「地球が止まっている」というのなら「何に対して止まっているのか」「どうして止まっていることができるのか」を説明しなければなりません。  
本筋ではない細かいところですが、光行差の発見は1727年、年周視差は1838年、フーコーの振子が1851年で、これらの観測的発見は18世紀から19世紀にかけてということになります。  
さらに余談ですが、ティコの太陽系に楕円軌道を適用するという発想は私だけの思い付きではないようです。1798年の寛政暦が、そういう宇宙像を描いているようです。 「太陽系の重心」というのは凄い発想ながら、なるほどと思いました。そこまでゆかずとも、2体の回転はどこを基準にとっても良いが、2体の重心を中心に採るのが自然だというのは頷けます。そこで、現記述の「労力」は残し、「べらぼう」を取ることを提案します。すなわち、「べらぼうな労力を要することになるが、その」までを削除。「労力さえ厭わなければ、天動説の立場で天体の運動を数学的に記述することは可能なのである。」とする。  
「べらぼう」の由来が分かりました。1949年にハーバート・バターフィールドが論文『近代科学の誕生』の中で、コペルニクスの仮説では「天球の総数が80から34に減っている」として、プトレマイオスの理論に対し「計算と予測という点ではコペルニクスの理論の方が簡便」と、述べたためです。これが誤りであることは、後の研究で明らかになりました。  
「現代の天動説」なのにプトレマイオス体系とコペルニクス体系の対比を問題にするのですか?なんか変です。まあプトレマイオス体系=天動説なら、そもそも実際の「天体の運動」なんかは記述していないうえに「天体の位置関係を計算」しているわけでもないので、まるっきり書き換えないといけなくなりますね。というか、議論をきちんと行うためには、いちど「現代の天動説」とはなんなのかをはっきりさせておかないといけないでしょう。  
そうですね。次に記事全体に「天動説」をどう定義するか考え直さねばならないかもしれません。概要冒頭で「プトレマイオス体系=天動説」としているから、記者にバターフィールドの科学革命論が頭にあって、ここに「べらぼう」という言葉が入ったのではないかと想像したまでです。 
歴史的・文化的な観点  
この記事は「秀逸記事」のようですが、何が秀逸なのかよく分かりません。それはともかく、おかしく感じるのは、「天動説」とはそもそも何か、という歴史的・文化的な定義・脈絡が欠如しているというか、自明のことだとして省いているように思えます(省いているということにも気づいていないのだと思います)。「異端」の概念で、異端と正統は補完関係にあり、客観的には、異端・正統は決まらない、何が決めるかというと、政治や経済や軍事や、ある主張の「支持勢力」の優越性だと述べています。異端説とされる主張・説・理論・宗教・教派について記述する場合は、その理論・説・派の立場に立って、まず、それがどういうものかを述べ、それに対し、この説を異端とする、または間違っているという説の主張や、根拠を述べるものです。科学理論の場合は、どちらが科学的に正しかったかという歴史の結果が来ます。  
「天動説」というのは、そもそも何なのか。現在の定義文だと、「天動説(てんどうせつ)は、すべての天体が地球の周りを公転しているという学説のこと」だとなっていますが、天体観測は、古代ギリシアだけでなく、古代エジプト、古代インド、古代中国、古代バビロニア、マヤ・アステカなどでも行われており、マヤ・アステカは知りませんが、その他のどこの文化でも、上のような「すべての天体が地球のまわりを公転している」という「考え=学説」があったはずです。古い版だと、定義部分がもう少し詳しいようですが、しかし、「プトレマイオスが体系化した学説」というのは本当なのかという疑問が起こります。「体系化」の意味が問題ですが、プトレマイオス以前の人が唱えていた、説=意見は、天動説ではないということなのでしょうか。また、インドや中国でも天動説だと思いますが、これらは天動説とは呼ばないのか。  
コペルニクスとかの話で出てくる西欧の天動説と地動説の話は、基本的には、「古代ギリシアの天文学理論」→「イスラム科学での天文学理論」→「西欧の11世紀から14,15世紀頃までのイスラム科学の学習と議論」→「西欧の天文学議論論争」となっているはずです。「古代ギリシア」の前に、エジプトやバビロニアの天文学も関係するはずです。科学はすべて、西欧において、15世紀頃にどういう訳か、古代ギリシアなどの思想を修正して原型ができ、そこからは西欧内部の議論や研究で発展してきて、西欧のみが精密な科学を築いた、という話があるようですが、これは本当のことなのか、という疑問があります。  
古代インドにも古代中国にも、唯物論者や懐疑論者が存在し、仏教などは、「外道」とか言っていますが、物質宇宙という考え方の起源を説明すると、出てくるのは通常、古代ギリシアの自然哲学者たちのアルケー、デモクリトスのアトモス(原子)などです。「天動説」とか「地動説」とかいう概念乃至術語は誰が言い出したのか、一体何が定義なのか、西欧でのコペルニクスやガリレオなどを中心にした話だけに限定されているように思えます。その限定は構いませんが、その場合、他の諸文化での「天動説」はどうなるのか。(話が少しずれているように思えるかも知れませんが、西欧において近代科学が成立した……または、したように見える……ことは、どういう意味があるのか、西欧中心観点ではなく、別の文化観点から見ると、違う問題が出てくるのではないかということです)。  
同感です。「天動説」一般を最初に定義しながら、概要以降は「プトレマイオスの天動説」で貫かれているように思います。全面的に解説できるのが良いが、できなければ、ここでは「プトレマイオスの天動説」だけを解説するという断り書きを入れるか…。「プトレマイオスの天動説」に限っても、「西欧において、15世紀頃に…」に近い見方に偏っているように思います。天文学史の記事に、英語版から引き写したか、金星の発見は紀元前5世紀ピュタゴラスによるという記述があって、失笑してしまいましたが、何でも古代ギリシアという謬見はときどきありますね。  
一案ですが、冒頭定義を「天動説(てんどうせつ)は、すべての天体が地球の周りを公転しているという学説のこと。地動説と対置し、西欧の科学史を語る文脈では、特にプトレマイオスの天動説を言う。本稿ではこれについて解説する。」とするのはいかがでしょうか? 「地動説」についても「コペルニクスが唱え、ケプラーに引き継がれた」と限定しなければならないかもしれませんが。  
フランス革命の記事に、フランス革命が明治維新に与えた役割を書かなくても誰も文句は言わないでしょう。もちろん、何の関係もないとはいいません。しかし、そういう研究がなされていなければ、そして、それが多くの研究者に受け入れられなければ、百科事典に書くのは早すぎるか意味がないでしょう。この記事に研究の進んだ内容がすべて盛り込まれているとは言いませんが、研究がなされていないかあまり受け入れられていない視点について、そういう視点がないというのは方向違いの苦情であると認識します。  
天動説に関して言えば、そもそも、地球が丸い、という概念が存在しない文明では、天動説という宇宙観も出てきません。少なくとも、「地球」が静止している、ということを認識していないと、天動説とはならないでしょう。その意味では、回転天球などを用いたアリストテレスなどの説は、概念としては天動説の中に当然入ります。ただ、それは記事内に書いてあるのでわざわざ列挙する必要性は感じません。  
メソポタミア文明では恒星や惑星の観測記録が多く出てきますが、彼らの持っていた宇宙観がどうであったのか、そこまで詳しいことが書いてある粘土板は出てこないか、解析が済んでいないようです。また、アリストテレス的な、地球が動くなら地上のものはすべて吹き飛ばされる、というような哲学が導入されていない場合には、地面が動く体系を考える可能性も十分にありえます。ギリシャ以前の文明では、世界は半球状にとらえられることが多かったようです。ただ、そういう話は地動説の記事ではなく、宇宙論とかの記事で行うべきでしょう。平らな地面(地球ではなく)の上半分が半円状の天球になっていて、そこに張り付いた星が1日1回転するという宇宙観を持っていた文明はいくつかあるようですが、その段階では通常は天動説とは言わないようです。それらの文明がどれくらい星を重要視していたかによっても、天動説が生まれるかどうかは変わるでしょう。夜を越えて航海をひんぱんに行っていた文明のほうが、地球が丸いという概念については受け入れやすいようです。(水平線は丸いし、遠くの船は帆先から見え始めますので)  
その後、プトレマイオス体系がアラビアに持ち込まれ、さらに中国にも持ち込まれてそれぞれ発展しますが、それぞれの文明が「地球が丸い」「天球があってそれが動く」という概念や認識を受け入れるときに、それぞれの文明の体系との非互換が問題になって、それが大きな政変とかに結びついたのならそれはそれで書く必要はあるでしょうが、そういうものもないようです。  
天動説とは、地動説に対する言葉であって、その地動説とはコペルニクスのものであるという立場からは、それで良いでしょう。しかし、「古代ギリシア・古代ローマ文明以外では、天動説に類する宇宙観は生まれないか、発展しなかった。」というのは、無茶苦茶でしょう。「球状の「地球」が世界の真ん中に浮かんでいる」のを(この記事で言う)天動説と定義してのことです。なぜ球状でなければ天動説と言えないのか、大地が固定されず浮かんでいなければならないのか、解せません。それを是認したとしても、6世紀インドのアリヤバータ(Aryabhata)は、そういう地動説を唱えています。彼の書は8世紀にはアラビア語に、13世紀にはラテン語に翻訳されています。プトレマイオスの天動説→コペルニクスの地動説の文脈で語るにせよ、少なくともインドは無視できせん。  
そう言われましても、「天動説」という語は元々日本語にあった概念ではなく、geocentric modelの訳です。本来の意味を直訳すると、「地球中心説」になります(それは本文中に言及があります)。従って、「地球」という概念が存在しない文明で天動説があるという主張自体がおかしなことになります。いつかの時代の日本の学者がgeocentric modelに「天動説」という訳語をあてたためにかようなことになっているわけで、それは私や他のこの記事の執筆者の責任ではありません。それなら「地球中心説」に移動すればよいと思われるかもしれませんが、いったん固定化した用語を急に変えるのは困難です。確かに、「地球中心説」という語を好んで使う研究者とかはいることはいますが、それでもたいていの場合、「地球中心説(天動説)」などと注釈付きです。私はgoogleヒット数とかはあまり気にしないほうなのですが、やってみると、2桁ほど「天動説」のほうが多くなっています。さすがにこれだけ圧倒的な差があると、「記事名は地球中心説」であるべき、という主張を行うわけにもいきません。また、この語は、天文学だけの用語ではなく、哲学の用語でもあるため、どちらかの分野の都合で勝手に変えるわけにもいきません。interlinkをごらんになれば分かるとおり、たとえば英語版では、天動説は半球状のドーム型の世界観とははっきり区別されると明示さえしてあります。その言及が日本語版に足りなかったのは確かなので、さっそく直しておきます。半球状の世界観は、「原始天動モデル」とかそういう言い方をする研究者もいるようですが、確かな使用例が文献ですぐに見つからなかったので、見つけてから名前を書くことにします。  
アリヤバータについては、彼がギリシアの天文学にふれたことはほぼ明白です。少なくとも、英語版にはそれについての言及があります。ギリシアで天動説が生まれてから、アリヤバータの時代まで500年以上あります。プトレマイオスから数えても400年です。逆に、インドの最も古いインド数字の碑文の年から、西ヨーロッパの文献でインド数字(アラビア数字)が登場するまで、400年はかかってません。アリヤバータの時代、西ヨーロッパとインドには(アラビアという中間地点があったにしろ)間接的に接触があったのだから、アリヤバータへの言及は、「恐らく、ギリシアの天文学に影響されて」と言及すべきです。ので、さっそく直しておきます。これも英語版に言及があるので今すぐ直すのに問題はないでしょう。 
球状の地球が浮かんでいる?  
天動説でも地球中心説でも構いませんが、「球状の地球が浮かんでいる」ことを要件とする合理的理由がありません。「コペルニクスが批判の対象として選んだ説」とでも定義するほうが、よっぽど正直です。その決め付けには不服ながら、定義と概要の矛盾をとりあえず解消するために、定義を「天動説(てんどうせつ)は、すべての天体が地球の周りを公転しているという学説のこと。 時代と地域により、さまざまな宇宙観が存在したが、16世紀のヨーロッパでコペルニクスが提唱した地動説に対置して、とくにプトレマイオスの天動説を指すことが多い。本記事ではこれを中心に解説する。」と、書き変えました。  
合理的理由なんか無くても、慣習的にそう扱われているのならしかたがないじゃないですか。とはいっても、元が訳語だからといって日本語化したときに付加的な意味が付け加わってはいけないという話も無いので、「天動説」という日本語の使い方として、「地球」概念を含まない考え方がある程度広まっているという事を示す例があるのなら、それを具体的に提示したうえで、そのような考え方に触れるのも間違いとはいえないと思いますが。  
そうはいっても、たとえば『世界大百科事典』第2版でも、地球が中心というのが前提の定義になっています。Shinobar氏が持っているはずの、高橋訳『天球回転論』も同じです。123ページと125ページをごらんください。Shinobar説は、根拠の提示がありません。天動説が、半球状で地面が平らという世界観も含むという定義を行った日本語使用者の職業天文学者が例示されない場合、元の(私の)記述に戻します。  
天動説は「球状の地球が浮かんでいる」ことを要件とするのが、「慣習的」かどうかです。高橋、p123は「地球が宇宙の中心に静止し、天が動く」という考えを天動説としています。「天動説では地球を平らだとしている」という「誤解」を挙げ、「天動説でも地球は丸いと前提していた」と指摘しています。これは、天動説には地球が平らだというものも含むというのが慣習的だが、もっとも進歩したプトレマイオスでは地球が丸いということを、専門家は知っていると読むこともできます。専門家の間では「天動説=エウドクソス/アリストテレス/プトレマイオス」だという主張もあるかもしれませんが、そう言い切ってしまてよいのかどうか…。「地球が中心」というのが前提とおっしゃいますが、紀元2世紀、後漢代の中国では張衡が渾天説にもとづき天球儀(渾天儀)を作っています。この中心は地球でしょう? それとも、球じゃないから「地球」じゃないって?  
球形をしてないから地球じゃないですね。天動説がgeocentric modelの訳語である限り、それは取り替えられません。日本語に限らず、名称の字面が実際の内容を的確に表していないことはよくあります。「恒星」という語にしても、「超新星は恒星である」と言い切った時点で、「恒久」に輝くわけじゃないんだから語としては内容を的確には表していませんしね。学術用語の定義は可能な限り厳格であるべきで、申し訳ないが、私やあなたの都合で勝手には変えるわけにはいきません。いずれにしても、勘違い以外の使用例がない定義をこのまま残すわけにはいきません。早急に定義者を確認してください。確認されない場合は元に戻します。  
geoあるいはEarthが球形かどうかです。wikipedia英語版の定義部分には「geocentric modelとは、Earthが宇宙の中心で、その回りを…。」「この体系は、古代ギリシアで一般的に信じられていた。」「古代中国にも同様の考えがあった。」「古代ギリシアや中世(ヨーロッパ)の geocentric modelは、球形の Earthが組み合わされているのが常である。したがってこれは、いくつかの神話に登場する、もっと古い flat Earth modelと同じではない。」などあります。wikipedia英語版の定義は、geo=Earthが球形であるとは限らないし、geocentric modelも古代ギリシアのものばかりとは言ってません。日本語版現記事の概要にある「半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される。」という文章は、「古代ギリシアや中世の geocentric modelは」と限定している英語版とは異なっています。 高橋、p125は冒頭、「…天体の運行に関してさまざまな理論が提出されてきたが、ここではそれを網羅できない。コペルニクスを理解するのに必要な範囲に叙述を限定する」と断っています。高橋の言う「天体の運行」=「天動説」ではないと主張することもできますが、その「天動説」は「コペルニクスが批判の対象として選んだ説」とでも定義するほうが、よっぽど正直というのは、私の論です。また、高橋は「天動説」に同心天球説と導円─周転円説の2つを挙げています。少なくとも「天動説=プトレマイオスの天動説」ではありません。  
「コペルニクスが批判の対象」とかいう定義は、単にあなたが主張しているだけで、現代の日本語の天文学で主流の定義とは到底言えません。もしそうなら、その定義者を紹介してください。何度も書きますが、あなたの妄想で記事を改変されては困ります。Wikipediaは、あなたが正直だと思うことを勝手に宣伝してまわる場所ではありません。  
また、たとえば、高橋が、天動説では地面は平らではないとわざわざ断っているところとかをあえて無視する理由も提示願います。英語版は、平らな地面のモデルは天動説ではないとわざわざ断っているのだから、Earthが平らでないのは明白です。私は別に、古代ギリシャのものだけがgeocentric modelだとは言っていません。同じ時代か前の時代に別の文明で似たことを考えた学者がいれば、そう書けばよろしい、ただ、球形の天球の中に、球状の地球が浮かんでいるというモデルは、何故か古代ギリシャ以外では生まれなかったか、あるいは主流の宇宙観にはならなかった、と言っています。  
いずれにしても、根拠文献の提示がないままどんどん記事の書き換えを行っておられるようなので、ひとまず、根拠が提示されていない定義部分は元に戻します。定義者が見つかりましたら、「誰々はこう言う定義もあると主張している」という形で本文に戻してください。また、そのほかにも、誤解に基づく書き換えも、見つけ次第直しておきます。  
私は新たな主張をしているのではなく、「球状の地球が世界の真ん中に浮かんでいる」ことを天動説の要件とする論はWikipedia英語版とは異なっていると指摘しただけです。英語版のgeo=Earthは球形であると限っておらず、中国の渾天説もgeocentric modelの仲間に入れています。いろいろなgeocentric modelがあるうち「古代ギリシアや中世の geocentric modelは」と、わざわざ限定を付け、球形のEarthという点で他とは違うとしています。つまり、天動説一般が球形のEarthを持つとはしていません。英語をどうお読みになるかという問題でもありますが。  
たとえば、『世界大百科事典』では、2〜6世紀にアリストテレス研究がさかんに行われたが、その後、その研究はアラビア世界に移り、12〜13世紀にヨーロッパで再び研究がさかんになったことと、この時代、キリスト教神学と対立したことが記されています。禁令も実際に出たはずですが、どのレベルで出たのか(バチカンが直接禁止したのか、特定の修道会が禁止したのかなど)はすぐには出ませんでした。川添信介『水とワイン―西欧13世紀における哲学の諸概念』という、この問題についての専門書もあるようですが未見です。  
天動説とキリスト教会に関する件は、記事に「ヨーロッパでの受容と展開」の節を設けて書いておきました。 それはさておき、天動説に「球状の地球が浮かんでいる」ことを要件とするModehaさんのお考えは、Wikipedia英語版にも、『世界大百科事典』にも無いものです。『世界大百科事典』の天動説は、「天体の見かけの運動を記述するのに,地球の自転,公転を導入せず (多くの場合は地球を不動の中心に置いた〈地球中心説 geocentric model (geocentric theory) 〉に基づき),天界が運動することによって説明しようとする説をいう。」とあります。つまり、英語のgeocentric modelには(ギリシア語起源なので?)地球があるが、日本語の天動説は、そうでないものも含むという立場です。いっぽう、Wikipedia英語版による geocentric modelによればgeo=Earthは球形であると限っておらず、中国の渾天説もgeocentric modelの仲間に入れています。  
渾天説に関する言及は、英語版には見あたらないのですがどこにあったのか提示してください。いずれにしても、渾天説はflat earthじゃないですよね。前述したとおり、「天動説」という語は誤解を生みやすいのでなるべく使わないようにしている研究者はいます。村上陽一郎の定義がそう読めるというのなら、それは村上によればと限定して記事に書くのはかまわないんじゃないですか。ただ、村上は同心球仮説とプトレマイオス体系の紹介だけで、地面が平らなモデルまで含むとまでははっきり主張してないようですが。それはもう少し村上の言及を丹念に調べる必要はあるでしょうね。そうだとしても、高橋が、天動説は地面が平らではないとはっきり言い切っている以上、その部分を消すわけにはいかないでしょう。  
あなたが典拠として出された Wikidepdia英語版、『世界大百科事典』、高橋『天球回転論』の3つのいずれもが、「球状の地球が浮かんでいる」ことを要件とはしていないと指摘しただけで、私が「村上によれば」とか、新たな主張を見付けて来たわけではありません。村上は「天動説」と「地球中心説」を区別しているようですし、高橋はp125で「天体の運行に関してさまざまな理論」と「天動説」と言葉を変えているようです。しかし「さまざまな理論」の一部を省略する理由は、コペルニクス説を理解するのに重要でないからだと言っており、この章に挙げたものだけが天動説だと、はっきりとは言っていません。p124も、読み方の問題です。Wikidepdia英語版は、さきに(7月16日)その最初の部分を抜き出して訳しました。古代ギリシアの説を紹介したあと、「同様の考えは中国でも…」としています。それから、日本語版現記事の「半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される。」と、Wikidepdia英語版の記述「The geocentric model was usually combined with a spherical Earth by ancient Greek and medieval philosophers. Thus, it is not the same as the older flat Earth model implied in some mythology. 」とは一致していません。英文は、「古代ギリシアや中世のもの」の他にも geocentric modelが存在することを含意しています。3つを通して、私の印象は、「天動説=エウドクソス/アリストテレス/プトレマイオス」とは言い切れず、「天動説」の定義には幅があるということです。  
同様の考えは中国でも...の部分には、[citation needed]タグ(誰がそんなこと言ってるのか証拠を見せろタグ)が張られているので、その一文だけは根拠にしないほうがいいと思います。いずれにしても、この文章だけでは渾天説への言及かどうかは分かりません。ではその部分は英語版からもっと細かく訳して、「天動説は、地球が球形であるという説と一体化し、古代ギリシアから中世まで使われた。このモデルは、もっと以前の神話などに出てくる「平らな地球」の世界観とは異なる」くらいにしておきますか? いずれにしても高橋は、天動説は地面が平らではないと言及していることは取り消せないと思いますが。  
いえ、「天動説=エウドクソス/アリストテレス/プトレマイオス」という立場と、もう少し広く採る立場と2つあると思うので、現記事を前者の立場で統一するのも悪くないと思っています。ただ、現状では2つの立場を認めるべきで、何の断りもなく他を切って捨てるのはよろしくない。たとえば、高橋は、プトレマイオスなどに対する無知を「誤解」(p123)と呼んでいるので、天動説にもいろいろあるという理解は、いちがいには否定されません。ここから先は私の主張ですが、「天動説=エウドクソス/アリストテレス/プトレマイオス」という立場は、近代科学のルーツを古代ギリシアだけに求める、特殊な歴史観です。地球から見た星の動きを精緻に予測できたのは、プトレマイオスだけではない。プトレマイオスが生まれるずっと前(紀元前104年)に作成された三統暦は、太陽、月と5惑星の位置予測を、どのくらいの精度か知らないが、載せている。アリヤバータの例を出したのも、古代ギリシア、インド、中世イスラムの間には互いの影響が認められており、西欧の数学と天文学の歴史でもインドは無視しえないということです。中世イスラムのバッターニーの業績はコペルニクスが引用しています。  
別にイスラムや中国の成果を無視しようとは思いませんが。ただ、今の記事にある以上の貢献が明らかになっているかというとそうともいえないと思いますが。それがあなたの主張でない、一般的に受け入れられたものなら、書いてもかまわないでしょうね。もちろん、主張者を明示して。イスラムや中国をもっと評価したいというのは分かりましたから、それを記事に入れるのは、その評価がもっと受け入れられてからにしてください。  
「そういう立場がある」なら、そういう立場の日本語使用者の研究者を捜してきて、「誰々によれば」と書けばよろしいでしょう。しかし、少なくとも高橋は、「天動説(地球中心説)」と書いていますから、これら2つを同義に扱っているのは明白です。無知と呼んだのは、それは天動説ではないというはっきりした高橋の意思表示で、それが誤りだという宣言でしょう。高橋によれば、地面が平らな宇宙観が天動説というのは誤っている、とでも強い言い方に変えますか?  
中国の暦法については、研究が進んでから書くべきでしょう。現物が残っていなくて精度も分からないのでは、議論のしようもありません。ただ、それがそれなり以上の精度で使えたもので、どういう宇宙モデルを持っていたのか分かるのなら書いてもかまわないでしょうね。おおざっぱな、角度15度程度の誤差でいいのなら、天動説みたいなモデルを考えなくても概算はできるはずなのでそういう方法かもしれませんが。もっとも中国は二十八宿かもしれませんが。  
探して来いと言われたので、ちょっと辞典類を調べてみました。  
1.『世界大百科事典』、平凡社 (2000?)「天体の見かけの運動を記述するのに,地球の自転,公転を導入せず (多くの場合は地球を不動の中心に置いた〈地球中心説 geocentric model (geocentric theory) 〉に基づき),天界が運動することによって説明しようとする説をいう。」  
2.『日本大百科全書』、小学館 (1987)「宇宙の中心に地球が静止し、その周囲で月、太陽、5惑星、諸恒星が各個別の天球上を公転するという宇宙模型。地球中心説。」とするが、古代エジプトの丸天井説、インドの須弥山説、中国の蓋天説も含める。  
3.『岩波科学百科』、岩波書店 (1989)「わたしたちのいる大地が静止していて、それを中心に月、太陽、惑星、さらに恒星がまわっているとする説。」  
4.『物理学辞典』 改定版、培風館 (1992)「西洋では地球中心説という。」とし、エウドクソスとプトレマイオス、ティコのほかに、地球の公転を認めず、自転のみを認める説も含める。  
5.『科学史技術史辞典』、弘文堂 (1994) 地球中心説として、とくに定義は記さず、古代エジプトの平板地球から古代ギリシア、プトレマイオスまでを概観。  
と、まあ、けっこうバラバラです。天動説の現記事は4の『物理学辞典』の立場にほぼ近いといえそうです。その他の4つはいずれも「球状の地球が浮かんでいる」ことを要件とはしていません。 「天動説」という日本語の由来としては、江戸時代にコペルニクスの説が紹介されたときに「地動説」という訳語が使われ、それの対義語として「天動説」という言葉ができたそうです。これは地球が動くかどうかですので、自転は認めるが、公転は認めないという説はどちらに入るのか、分からなくなります。「太陽中心説」か「地球中心説」かならば、自転の有無は不問とし、地球の公転を認めるかどうかで分けることができるということでしょう。 「地動説」あるいは「太陽中心説」の代表をコペルニクス/ケプラーとしたとき、これに対置する「天動説」あるいは「地球中心説を、「地動説」以外の宇宙観すべてとすることもできます。『物理学辞典』以外は、それに近い考え方に依っているようです。この立場に対して、私の言葉で言えば「コペルニクスが主に批判の対象として選んだ説」を「天動説」と呼ぶ立場もあるでしょう。高橋の言葉でいえば「コペルニクスを理解するのに必要な範囲に叙述を限定する」ということです。天動説の現記事がその立場で説明を展開することは構わないのですが、一般的に、あるいは慣習的に、もっと広く採る立場もあることを認めて、記事冒頭に断り書きすべきだというのが、私の意見です。  
国語辞典的なものでいいのでしたら、『大辞林』初版(1988年)は地球中心説と同義に扱っていて、同心球仮説と周転円仮説の両方を(それだけを)紹介しています。新版は手元になくすぐに調べられませんでした。以前私がお聞きしたのは、天文学者がどう言っているか、でした。一般的な国語辞典執筆者と、学術上の専門家が使う用語の綴りや意味が若干食い違うのはよくあることで、たとえばうま味などもそうです。前述したとおり、そう書いてある国語辞典があるのなら、「国語辞典にはこう書いてあるものもある」と書けばよろしい。「しかし学術上は厳密に分離されることが多く、混乱や誤解を防ぐために、天動説(地球中心説)などと書く研究者もいる」とでも書き足しますか? どちらにしても、1990年代後半以降の文献では天動説は地球中心説とするものが多いようですが。それはShinobar氏の調査でもそうですね。ちなみに、世界大百科事典は確か最新版が1988年です。それで異議がないのでしたら、そう書き換えます。  
まぜっかえすようで申し訳ないのですが、1990年あたりを境に意味が変化したと言う事実があるのですか?もしそうならばその理由が知りたいところですが。  
高橋訳の『天球回転論』が出たのが1993年なので、この訳が影響を与えた可能性はあると思います。私の推論ですが。  
なるほど。どうも、どっちかにすっきり割り切れると言う話でもないような感じですね。あまり突っ込んでもそれこそ独自の研究と言われかねませんが、どの辺まで記事に反映するか難しいところです。これが、天文学辞典なら現在主流の解釈だけ書いておくのでもいいのですけど、百科事典と言う事を考えると、ある程度はそれ以前の使われ方についても書かないといけないのかもしれません。  
問題を2つに分けて話をしなければいけません。  
1.「天動説」か「地球中心説」か。これは地球の自転は認めるが、公転は認めない説があるので、「地動説 vs.天動説」よりも「太陽中心説 vs.地球中心説」のほうが訳として適切だとするものが、最近増えているようです。もともと地球が自転かつ公転する説を地動説とし、それ以外を天動説としていたので、意味は変わっておらず、訳語が変わって来ているということです。  
2.「天動説(地球中心説)」の範囲をどこまで採るか。これについては時代的な傾向は見られず、「天動説(地球中心説)=エウドクソス/アリストテレス/プトレマイオス」にとどめる場合と、もっと広く採る場合があるということです。 
現代の天動説の後半部分  
「現代の天動説」の後半部分が同一IPのユーザーによって「大きな誤謬」または「文脈完全無視」として削除されていますが、「大きな」「完全」といった言葉をつけるほどの誤謬、文脈無視がどこにあるのか不明です。該当箇所は過去にも議論の対象になっていますが、誤謬や文脈無視との指摘はありません。  
前半の記述は、永井哲学の見方に関するものであるのに対し、後半付加部分は明らかに違う次元の内容だからです。または、永井哲学の記事が異質なのかもしれませんが、実際はこちらのほうが先にあったのでは? 皆さんがそのように読めないというのであれば反論のしようもありませんが・・・  
この項目で説明されているのは「現代の天動説」であり、「永井哲学と天動説」ではありません。本文中にも「永井均など」と書かれているように、永井哲学はあくまで「単純に天動説を真理として教えることへの疑問」の一例でしかありません。「現代の天動説」の登場の経緯も、履歴を見る限りではまず「小学生の4割が云々」の話が書かれ、それに対する反論(?)として永井哲学が書かれ、更に現代における天動説の意義(?)について書き加えられたようです。  
そうかもしれませんが、文脈が完全に顛倒していることに皆さんは全然気付かないのですね。まあ、私が被害を蒙ることはありませんから固執しません。これが Wikipedia というものですね。  
具体的にどのように「文脈が完全に顛倒している」のか御指摘いただければ幸いです。本当に文脈が顛倒しているのであれば、百科事典の記述として極めて不適切ですので、この記事を読む皆さんのためにもお願いします。  
『但し』以下、それ以前と全然関係ない内容になっています。しかも永井哲学が批判している、まさにその内容が記述されているのです。しかも『数学的に正しくて物理的・力学的に破綻 とは何を書いているのか不明です。これは物理学をかじった事のある人が書いたものと思われますが、まさにそういう態度をを永井は批判しているのです。記事を書こうという人なら、読解力もつけてください。  
まず、「2004年国立天文台の〜」と「なお、〜」はタイトル(現代の天動説)に関連する別個の話題であり、両者の関連性は必ずしも必要ないと思います。問題は「但し」から段落末までの一文のみでしょう。 書かれている内容についてですが、『数学的に正しくて』とは「天動説モデルに基づく数式によって、天体の運動(地球から見た)を予測できる」という意味で正しいということであり、『物理的・力学的に破綻』は、「しかし天動説モデルを正当化する力学体系は過去に存在したことがなく、今後も存在しないであろう」という意味で破綻しているということです(地動説を正当化する力学体系はもちろん存在しています)。よって内容自体は何ら矛盾を孕んだものではなく、「天動説」の記事をよく読めば理解できないことはないと思いますが、よりわかりやすい表現にすべき余地はあるでしょう。 永井氏は『地動説を真理として「教育する」のが妥当かどうか』という問いに対し、「No」と言っているわけですね。しかし、この問いに対しては「Yes」と答える立場も存在します。天動説の問題に関する永井氏の批判が適切かどうかには、当然疑問の余地があります。現在の記述では、最後の一文を除くと永井氏の立場に対する批判が欠けてしまい、中立性に問題があるように思えます。  
永井は「No」とはいっていません。永井は決して天動説云々に言及しているのではなく、教わったことをそのまま受け入れてしまうという態度を批判しているのです。やはり文脈を読んでいませんね。構いませんよ。ロラン・バルトもいっているように、文章は書かれた途端に読者のものになってしまうのですから。『破綻』という言葉も読む人によって異なった解釈を生じているのです。私の読み方は当然異なっていますが、決して私は喧嘩を売ろうと思っているのではないことくらいは受け入れてください。  
この記事のテーマは「天動説」ですから、そのような文脈からすれば「現代の天動説」の第一段落目は「小学生の4割が云々」とそれに対する見解についての項目になるはずです。私自身は永井氏について何も知りませんが、ここで永井氏の話は、「小学生の4割が云々」に対する見解の一つとして出ているのだと理解していました。しかし、219.196.247.221さんがおっしゃるように永井氏が天動説云々に言及しているのではないなら、永井氏について「天動説」の項目で言及する必要はないように思えます。「教わったことをそのまま受け入れてしまう」ことの是非は一般論で、天動説地動説に固有の問題ではありません。  
それでは、前半を削除すればいかがでしょうか。このままでは文章の途中から顛倒しているという事態は改善されませんし、記事を書いた皆さんも永井哲学の批判の対象になっているのは嫌でしょうから。  
別に永井氏の批判の対象になるには嫌でも何でもありませんが、「天動説」の記事であるにもかかわらず、天動説とはほとんど関係のない「永井哲学」が批判していることが書かれている、という理由で(「顛倒」「破綻」と言ってますが結局はそういうことでしょう)記事がごっそり削除されるのは不適切だと思いますし、個人的にも不愉快です。 それはともかく、削除するのは永井氏に直接関係ある部分だけで良いでしょう。その他の変更も含めた改定案として 『2004年国立天文台の研究者のアンケートによると、小学生の4割が「太陽は地球の周りを回っている」と思っており、3割は太陽の沈む方角を答えられないという結果が出たという。文部科学省の答弁によると、「これらのことは、中学校で教育する。」とのことだったが、日本における理科離れ、科学リテラシーの低さとあわせて問題視する意見もある。一方で、多大な労力を要することになるが、それさえ厭わなければ、天動説の立場で天体の運動を数学的に記述することは可能であり、単に地動説を真理として「教育する」のが妥当かどうかには議論の余地がある。天動説が無知な古代人の妄想ではなく、緻密な数学的背景を持った科学的体系であったことを認識することは大切である。但し、天動説(地球中心説)が正しいのはあくまで数学的にであって、物理的(力学的)にはもちろん完全に破綻している。』 を提案します。  
『但し』以下を『但し、天動説(地球中心説)を数学的に記述することは可能であるが、それによって誰もが容易に理解できるかという点では極めて妥当性を欠いているのである』とすべきでしょうね。相変わらず『破綻』の意味が私にはつかめません。  
義務教育レベルの精度であれば、天動説も地動説も数学的には同じ(どちらが難しいとも言いがたい)ですので、その変更は不要でしょう。天動説のほうが多大な労力が必要になるのは実用的な精度で計算する場合です。「破綻」ですが、天動説はまず第一にニュートン力学の運動の第1法則に反しており(地球・太陽系の重心が慣性運動をしないため。太陽を固定した場合は近似的に慣性運動と見なせる)、そのため以降の議論が破綻します。  
数学的に記述可能とは、近代物理学の立場では座標系の選び方のことだと思います。座標系を変えると破綻するということが、さっぱりわかりません。破綻する場合は数学的に記述不可能である、ということになるのだと思います。  
確かに地球が静止するような座標系を選べば、天体の天動説的な運動は万有引力+慣性力で問題なく記述できます。しかし、今のように天動説・地動説の是非を物理的に問う場合、座標のとりかたに由来する慣性力は普通は除外すると思います。  
『現代の−』となっていましたので『天動説』そのものが変貌してきたように読み取れました。『現代における天動説の立場』とでもいった標題であれば誤解を避けられるのではないでしょうか?  
そうですね。では最初の段落を2006年で書いたものにし、表題を『現代における天動説の立場』にする、でよろしいでしょうか?  
結構です。  
現状の記事では内容が大幅に削られており、小学生へのアンケートと天動説を関連付ける記述が無いため、この部分を現状に合わせて日本の理科教育という節に分離しました。また、残りの部分も、天動説との関連についての記述が無くなっているため、また、上の議論にある『天動説』そのものが変貌してきたという誤解が生じないように、節名を現代の宇宙観に変更しました。事後になり申し訳ありませんが、問題などありましたらご指摘ください。よろしくお願いします。  
 
古代の宇宙観

 

中国  
古代中国では、すでに宇宙を、単に空間的なひろがりだけでなく、時間をも含む概念として捉えていた。そのことは、紀元前2世紀の前漢時代の『淮南子』に、「往古来今謂之宙 四方上下謂之宇」という記述があることでわかる。意味は、「宙」とは往古来今すなわち時間、「宇」とは四方上下すなわち空間のことだと、いっているのである。  
天円地方の宇宙 / 大地は巨大な正方形をなしており、天はそれよりさらに大きい円形(天の中心は北極星)、または球形(北極星と大地の中心を結ぶ線が球面の軸)。  
蓋天説 / 大地はお椀を伏せた形で、その上に半球形の屋根のような天が覆っている。  
渾天説 / 卵形の宇宙の中心に卵黄のように地がある。  
宣夜説 / 「天は了として質なし」つまり質も何もない空虚な空間が無限に続くという無限宇宙論。その中に浮かぶ各天体はそれぞれ独自の規則に則って運動しているとする。  
インド  
インドでは、四つの宗教(ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教・シーク教)がそれぞれ独自の宇宙論を持っていた。その最大のものは紀元前10数世紀から一千年の間に成ったというインド最古の宗教文献『ヴェーダ』である。『ヴェーダ』はリグ・サーラ・ヤジェル・アタルヴァの四つから成り、いわばインドの哲学、宗教、文学の根源をなすものである。『ヴェーダ』はバラモン教の聖典で、バラモン教が土着の民間信仰などを吸収して大きく変貌した形のものがヒンドゥー教。  
宇宙の構造についての基本的な見解は、地と空気と天の三層から成るというもの。そして地・空気・天はそれぞれがさらに三つの層に分かれる。つまり宇宙は全部で九層に分かれると考える。  
人間が住むのは三層の地の最も高い部分で、下界の二層を支配するのは神の対立者アスラ(阿修羅)。天とは神を意味すると同時に神の住む高い所のことで、仏教にあっては天の三層は欲界・色界・無色界と区分され、ちなみに最高天は“有頂天”である。空気の三層は天の空間、地の空間、その中間の空間と分けられ、雲や雨は地の空間にあり、太陽はその上の空間を通過するとされている。  
仏教  
仏教では、古代インドの宇宙観を受け継ぎ、世界は平らで中心に須弥山という高い山がそそり立ち、周囲を九つの山と八つの海が囲んでいると考えた。須弥山の南方には、南贍部洲(なんたいぶしゅう)などというの四つの大陸があり、人間などが生活しているとともに、日・月・星などは須弥山を中心に回転しているというもの。この須弥山宇宙観は8世紀頃に星曼荼羅(ほしまんだら)などを通じて日本に伝わったが、天文的宇宙観が論じられるようになったのは西洋から地動説が伝わってから。仏教の宇宙観観は地動説をとなえる西洋天文学と真っ向から対立するものとなった。  
アトラス—天を支える巨人—  
アトラスは、巨人族タイタンの一人で、大変優れた才能を持ち、アフリカの北部のマウリタニアという国の王でした。子宝にも恵まれ、プレアデスの七人姉妹、ヒアデスの八人姉妹はアトラスの娘でした。アトラスはもともと穏やかな性格で争いごとを好みませんでしたが、大神ゼウスが父クロノスとの権力争いで最後の大戦争を行った際に、タイタン族の一人としてやむおえず、刀を握ったのでした。約十年の戦争の結果、クロノス、タイタン族連合は、大敗を記し地下のならくへと追放され、封じ込められてしまいました。アトラスも、大神ゼウスから罰として一生天を支えるように命ぜられたのでした。その後、一度は、ヘルクレスに天を担いでもらいましたが、また天を担ぐことになったのでした。その後、メデューサの首を持って通りがかったペルセウスに頼んで、自分を石にしてもらい、天を担ぐ苦痛から開放してもらいました。現在、マウリタニア北部に有るアトラス山脈が、石になったアトラスであるといわれています。  
ギリシャ  
大地は平たい円盤で、オケアノスという大洋に浮かんでいるとした。水は我々世界を取り囲むだけでなく、太陽も月も星も灼熱した水蒸気で天井の水の空を航行している。ギリシャ神話では、大神ゼウスの命令により、巨人アトラスが天を支えている。神話期以降のギリシャにおいては、宇宙の中心にはこの地球があり、その周りを月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星の順番で7 つの星が回っていて、その外側に星の張り付いた天球が回っているという天動説が唱えられた。しかしこれだけでは惑星の留や逆行が説明できないため惑星は周転円をえがきながら回ってるという周転円説が考え出され天動説は完成され、その後一部現在でも信じられている。天動説は、まず哲学者アリストテレスの『天体論』において始まり、天文学者ヒッパルコスの周転円の考えを導入して、プトレマイオスに至って確立された。  
バビロニア(メソポタミア)  
古代バビロン人は、大地は、周囲を大洋に囲まれていて、その大洋もまた高い絶壁で囲まれており、その上を紡錘型の天井がアーチ状にかかっていると考えていた。天井の内部は真っ暗でちりだけの夜の世界であり、天井の東と西には、それぞれ穴が開かれており、太陽や月はここを出入りすることで、昼と夜が繰り返されるものと考えていた。  
エジプト  
古代エジプト人は、地球は植物でおおわれて横たわる女神ゲブの姿であると考えていた。そして、天の神ヌトは、体を折り曲げて大気の神に持ち上げられているものと考えられていた。太陽の神ラーと月の神は、それぞれ二つの舟に乗って、毎日、天のナイル川を横切って死の闇に消えていくものと考えていた。  
マヤ・アステカ  
マヤ・アステカ人は、この世は、水に囲まれた円盤状の固まりと見なしていた。その円盤状の固まりを取り囲む水は、天と一体になっており、4ヶ所で神々の差し上げた腕で支えられていた。天上界は、13界から成り立っており、そこには惑星・星・夜・暗黒を象徴するドラゴンが住んでいた。また、地下界は、9界から成り立っていた。死者は、生前の行いに応じて9つのいずれかに行き、9番目の界に行くと無となり消滅した。生けにえや戦争で死ねば、天国に行くことが出来ることになっていた。  
ユダヤ  
泉が湧き、川が流れ、山や海もある大地が下界の中心にある。大地の周囲は海で囲まれ、その海の外側、空気のある場所とない場所の境が天である。大地の下には泉に通じる下界の水(地下の海)があり、さらにその下にインフェルノがある。天の下縁は風の貯蔵所であり、上方は上界の水・雪・ヒョウの貯蔵所である。そしてその上を上天が覆っている。
キリスト教(ユダヤ教) / 聖書・創世記(新共同訳)  
1: 1 初めに、神は天地を創造された。  
1: 2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  
1: 3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。  
1: 4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  
1: 5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  
1: 6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」  
1: 7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。  
1: 8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。  
1: 9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。  
1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。  
1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。  
1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。  
1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。  
1:14 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。  
1:15 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。  
1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。  
1:17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、  
1:18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。  
1:19 夕べがあり、朝があった。第四の日である。  
1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」  
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。  
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」  
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。  
1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。  
1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。  
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」  
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。  
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」  
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。  
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。  
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。  
2: 1 天地万物は完成された。  
2: 2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。  
2: 3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。  
2: 4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、  
2: 5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。  
2: 6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。  
2: 7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。  
2: 8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
日本  
いわゆる「国生み神話」における宇宙観・世界観。しかし、日本書紀(720)と古事記(712)では、取り扱いがやや異なっている。これについては、天語人氏はこう述べている。  
日本書紀の神話と古事記の神話との関係について、ひとこと言っておきましょう。  
日本書紀は、我が国最初の官撰の歴史書です。神話の部分が歴史とは言いませんが、神武天皇以下の歴史叙述の頭に置かれています。  
そして日本書紀編纂者は、当代一流の官僚であり、知識人でした。官僚として日常の行政文書等の作成に携わる一方、知識人として、主に中国の文献を独占し、身につけていました。律令国家草創期の国家的プロジェクトに抜擢されました。  
ですから、伝承を理解して、文章として正確に残す能力がありました。目の前にある事実を尊重し、主観に走らない知性がありました。だからこそ伝承を尊重し、本文と異なったり、あるいは矛盾する伝承でも、一書(あるふみ)として、きちんと残しました。  
日本書紀には、そうした客観性があります。そして本文は、日本書紀編纂者が採用した、神話の公権的公定解釈です。これ以上の権威は、国家的にはもちろん、民間にもありませんでした。  
これに対し古事記は、ある1人の古事記ライターが作成したものにすぎません。古事記ライターの癖は、古事記の文章のいたるところに残されています。その癖を把握すれば、古事記の価値が評価できます。古事記の価値は、古事記ライターの文章作成能力や誠実性に、大きく寄りかかっています。ともすれば主観に偏りがちな書物です。  
さて、日本書紀は、世界の生成を、陰陽二元論という中国哲学の借り物をもって説明することから始まる。そして、天と地が成って、その中に「神聖(かみ)」が生まれたとして(日本書紀第1段)。自然の中に神が生まれたという思想であり、この点日本書紀は、神話らしいと言えるだろう。  
太古、天地が未だ分れていない時、そしてまた陰陽も別れていなかった時、渾沌としてまるで鶏卵のように形が定まっていない時、自然の気が集まって物の兆しが含まれるようになった。その清く輝いているものはたなびいて天となり、重く濁っているものは、積もり固まって地となったが、清く輝くものは集まりやすく、重く濁ったものは固まり難かった。だから天がまず生じて、地は後に定まった。そしてその後に神が生まれた。だから次のような伝承がある、天地が生まれる初め、国土がまだ浮かれ漂う様は、例えると遊魚が水上で浮いているようだった。その時に天地の中に、一つの物が生じた。その形は葦の芽のようだった。それは神となった。名を国常立尊くにのとこたちのみことと言う。非常に貴いことを尊そんという。それ以外は命めいという。他に美挙等みことと表す。以下全てこれに従う。次に国狭槌尊くにさつちのみこと。次に豊斟渟尊とよくむぬのみこと。合わせて三柱の神が生まれた。彼等は陽気のみで生じた。それゆえに純粋な男として生じた。  
しかし古事記本文冒頭は、いきなり、  
「天地あめつち初めて發ひらけし時」、「高天原たかまのはら」に「天之御中主神あめのみなかぬしのかみ」「高御座巣日神たかみむすひのかみ」「神産巣日神かみむすひのかみ」が生成したとしている。そしてこれら3神は、「獨神ひとりがみ」となって身を「隱した」というのだ。  
そして「次に、國稚わかく浮きし脂あぶらの如くして海月くらげなす漂へる時」、宇摩志阿斯訶備比古遲神うましあしかびひこじのかみと天之常立神あめのとこたちのかみが生成。この2神は天を支える神で、これも獨神となって身を隠した。  
いかにも唐突。有無を言わせぬ大前提として高天原という世界と高御座巣日神たかみむすひのかみら3神をもってくるのだ。この、高天原と高御座巣日神たかみむすひのかみら3神が、古事記の特徴であり世界観なのだ。  
ここで日本書紀を振り返ってみると、日本書紀本文は「天」という世界観を採用し、「高天原」というマイナーな世界観は採用していない。古事記はどうか。どうやら、「天之常立神あめのとこたちのかみ」という、「天」という世界観に登場する神を出現させながらも、強引に、「高天原」世界観を冒頭にくっつけたというのが真相のようだ。 言ってみれば、2つの世界観がだぶって語られている。古事記ライターは、何らかの理由で、高天原と3神を強調したかったということになるだろう。  
日本書紀では、続いて、  
‥‥合計で八柱の神が現れた。陰陽の気が一つになって現れた。それゆえ男神と女神が現れた国常立尊くにのとこたちのみことから、伊奘諾尊いざなきのみこと・伊奘冉尊いざなみのみことに至るまでを、神世七代かみのよななよと言う。  
伊奘諾尊いざなきのみこと・伊奘冉尊いざなみのみことは天浮橋あまのうきはしの上に立って、共に相談して、「この下の方にどうして国がないのだろうか」と言って、天之瓊矛あまのぬほこ<瓊は、玉のこと。これをぬと読む。>を指し下ろして掻き探ってみた。するとそこに青海原があることが解った。そしてその矛の先から滴った潮が、凝り固まって一の島になった。それを名付けて馭廬嶋おのごろしまとした。  
一方、古事記では、  
「天つ神諸もろもろの命みこともちて」、伊邪那岐神いざなきのかみと伊邪那美神いざなみのかみに、「この漂へる国を修め理つくり固め成せ」と命令し、「天の沼矛あまのぬほこ」を与えた。そこで2神は、天の浮橋に立って天の沼矛あまのぬほこで「鹽しおこをろこをろに」かき混ぜて引き上げた。その時滴り落ちた塩が固まって、「淤能碁呂島おのごろしま」となった。  
古事記では、2神は、「天つ神」に命じられてこの作業をしているが、日本書紀本文ではこんな命令は行なわれていない。  
この後は、日本書紀も古事記も2神による「国生み」のハナシとなる。  
ところで、日本書紀も古事記も、人間の発生については何も語ろうとしていない。無関心である。一般の人々は、単なる労働力としか考えられていないかのようだ。星に関する伝承も、ほんの断片があるだけ。要するに、時の権力者が作成した、時の権力者にとっての神話でしかないのだろう。そうした限界がある。神話を名乗るのであれば、この世界や人間がいつどのように発生したのか、天と地と太陽と月と星がいつどのようにできたのかを語ってほしいものだ。我々がなぜこの世界にいるのかを語ってこそ、神話というものではないだろうか。  
森貞彦氏によれば、  
日本人の考える「神」は人間を理想化あるいは美化したものか、そうでなければ祟りをなすものだということです。それはあの山、あの森、あの川、あるいはあの海等々、いたる所に居て、神話の時代にすでに「八百万」(やおよろず)と表現されていたのです。仮に「高天が原」が文字通り天の高いところにあると考えられたとしても、そこは地上の「原」と本質的には違わないところであり、そこに住む神々は人間と同様の生活をしていたのです。日本人の想像力によればそうとしか考えられなかったのであって、超越的な絶対者が占有するところの、人間が立ち入ることのできない空間としての「天」が存在することさえ思いもよらなかったのです。  
荒川氏(静岡大学)は、著書「日本人の宇宙観」において、古事記および日本書紀の中で「神話的でありながら独自の宇宙観がつくりだされていた」こと、そしてそれがはるかな後世の思想にも尾を引いていることに注意を向けながら次のようにも言いました。  
その一方で、日本人の眼は天上の世界よりも地上の自然に注がれてきた。多様で、季節とともに多彩な変化をみせる風土のなかで生活をしていたからであろう、万葉集では月は詠(うた)われても、星をよんだ歌は数えるほどしかなく、ほとんどが地上の自然を詠ったものである。古事記・日本書紀の描く「高天が原」も、山川があり草木のしげる地上的な空間であった。この自然も不死だった。自然は詠われつづけ、自然的な宇宙との一体化を理想とする思想もくりかえし出現したのである。  
最後のセンテンスからわかるように、これは古代だけに限定される話ではありません。そしてここには早くも重要な事柄が二つ顔をのぞかせています。その一つは、日本人にとっての宇宙は地上の自然の延長上のものであって、それらの間に不連続があるとは考えないということです。  
「月は詠われても、星をよんだ歌は数えるほどしか」ないということは、水平に広がる陸と海こそが日本人の関心を引く自然界であったということの反映でしょう。それでも月は太陽に次ぐ明るく大きい天体であるし、それに満ち缺けという劇的な変化を見せ、さらに海水の干満とも強く関連し、また女性の生理とさえ関係があるように見えるほどで、人の関心を掻き立てる要素を多く持っています。これに対して星は、1年を周期とする恒星の緩やかな動きと、数個の惑星の一見不規則な動きがあるだけで、ある程度の形而上学的考察をしなければ日常生活との関係があるようには見えません。それで、星が日本人の関心を強く引くことはなかったのです。  
 
仏教(密教)の宇宙観「須弥山とは」

 

ここでは、文献による仏教の宇宙観を紹介したいと思います。実は建築物にもその宇宙観が反映されているのです。 そして日常われわれがなにげなく使う言葉や地名にさえも、その影響が残っているのです。仏教にはさまざまな経典や言葉があるが、結局は輪廻(りんね)と解脱(げだつ)の2つの思想にいきつくものであろう。解脱とは輪廻あっての解脱である。輪廻と解脱の両方を解説しないといけないのだが従来の仏教の解説書は、たいていは解脱に関するものであった。仏教宇宙観の体系を示す書物の1つにインド5世紀の仏僧ヴァスバンドゥの「倶舎論(くしゃろん)」がある。この中の「世品(せほん)」という1章にいわゆる須弥山(しゅみせん)説が述べられている。  
この宇宙観が日本に受け入れられてから、日本各地にこの宇宙観にあやかった名がつけられた。須弥山とか、地獄谷とか、弥陀ヶ原という名前がそれである。たとえば、栃木県の霊山「二荒(ふたら)山(さん)」(男体山のこと)は、音の類似から観音の浄土「補陀落・普陀落(ふだらく)山(せん)」とされ、同じ「二荒(にこう)」が仏教的な「日光(にっこう)」に書きかえられたという。  
普陀落山あるいは普陀落とは、インドの南海岸にあり、観世音菩薩の住所とされる山のこと。須弥山というのは、仏教宇宙観に出てくる創造的な山である。これは虚空の中に風輪(ふうりん)というものが浮かんでいるのである。形は円盤状で大きさは示せないほど大きい。その上に同じく円盤状の水輪(すいりん)が載っている。水輪の大きさは、直径が120万3450由旬(ゆじゅん)高さが80万由旬である。その水輪の上に金輪(こんりん)が載っている。金輪の大きさは、直径は水輪と同じ120万3450由旬で、高さは32万由旬である。金輪上の表面に山、海、島などが載っている。  
1由旬=約7キロメートル  
非常に簡単にたとえたら、風輪、水輪、金輪が重なった具体的なイメージとしてはたらいを伏せて、その上に風呂桶を伏せて、その風呂桶の上にバースディ・ケーキを載せた姿を思い浮かべるとよい。  
水輪と金輪のさかいめは金輪際(こんりんざい)と呼ばれ、「もう金輪際いたしません」というような表現に使われる。つまり「金輪際」は、「真底」「徹底的」を意味しているのであって、金輪際の一角にすむ我々にとっては、金輪際が真の底というわけだ。  
金輪の上に9つの山がある。中央に高くそびえたつのが須弥山である。須弥山をとりまく同心方形の山(山脈)が7つある。すなわち同心円ではなく四角形でもって7つの山脈が須弥山をとりまいている。  
須弥山をとりまく四角形の山脈は、なんとなくピラミッドを連想してしまう。密教ではこれらを金剛界・胎蔵界両曼荼羅であらわしています。       
金輪上に8つの回廊状の海がある。前述の回廊状の山脈の間が、それぞれ海になっているのだ。内側の7つは淡水の海で、外の大きなのが塩水の海である。  
この塩水の海の中に4つの島が浮かんでいる。4つの島はみな形が違う。東の島は半月形、南の島は台形、西の島は円形、北の島は正方形である。  
ここでは南の島だけ紹介する。南の島は形が台形といってもほとんど三角形というべき台形である。上辺が2000由旬、下辺が3.5由旬、斜辺がそれぞれ2000由旬である。この南の島、贍部州(せんぶしゅう)が、我々の住む人間界である。  
なんと、この三角形に近い台形の島は、実はインド亜大陸の形にもとづいたものである。それは、この島のいろいろの特徴からも判断できる。  
まず、島の北寄りに雪山がある。これはヒマラヤのことである。この雪山の北に池(無熱悩池)があり、この池がガンジス河、インダス河、オクサス河、シーター河の共通の源になっている。  
だが、現在我々の地図では、この4つの河は同一の源泉からは流れていない。しかし、この4つの河のそれぞれの上流を延長すると、それらがほぼ交わる点に1つの大きな湖がある。マナサロワル湖(チベット名 マパム)である。  
もしかすると昔はマナサロワル湖も大きくて、本当に4つの河の共通の源になっていたのかもしれない。  
たいていの宗教的宇宙観は、その宇宙のどこかに地獄をもっている。  
地獄はインドの言葉「ナラカ(naraka)」の意訳である。仏教が中国に入る前、「地獄」という言葉は中国にはなかった。ナラカの音訳は奈落迦、奈落(ならく)である。ナラカを中国語に翻訳したとき地獄という言葉ができた。  
現代も、舞台の床下の奈落として残っている。  
地獄の数、種類、大きさなどについて、さまざまな経典がさまざまの説を述べている。ここでは「倶舎論」を中心に説明する。  
まず、八熱地獄がある。この8つの地獄は重なりあって贍部州(せんぶしゅう)の下に存在する。上からその名前を列記していくと次のようになる。  
等活とうかつ  Samjiva  
黒縄こくじょう  Kalasutra  
衆合しゅごう   Samghata  
号叫ごうきょう Raurava  
大叫だいきょう Maharaurava  
炎熱えんねつ  Tapana  
大熱だいねつ  Pratapana  
無間むけん     Avici  
これらそれぞれ立方体をなして、縦に積み上げられている(地下深く層をなしている)。  
最上部の「等活地獄」というのは、罪人が責めさいなまれて死んで?も、再びよみがえって暫しの生きごこちを味わうことができる地獄であり、この点で、一瞬の休みもなくさいなまれつづける最下層の地獄「無間地獄」と対照をなす。「無間」というのは、「苦しみが間断なく」という意味である。  
地獄はこれで終わりではない。どの熱地獄も四壁面に1つずつ門をもっていて、1つの門ごとに次にあげる4種の副地獄がついている。八熱地獄全体では結局128の副地獄をもつことになる。 8*16=128  
塘(火偏)畏(火偏)(とうい)副地獄  
死糞(しふん)副地獄  
鋒刃(ほうじん)副地獄  
烈河(れっか)副地獄  
塘(火偏)畏(火偏)副地獄では熱した灰の中を歩かされ、死糞副地獄では死体と糞の泥沼につかり、ウジ虫に骨をうがたれ、髄をしゃぶられる。  
地獄はまだ終わりではない。さらに八寒地獄というものがある。これも贍部州の下、大地獄(熱地獄)のかたわらにあるという。その種類は次のとおりである。  
安(安に頁)部陀 あぶた      Arbuda  
尼刺部陀 にらぶだ        Nirarbuda  
安(安に頁)折(口偏)陀 あたた  Atata  
霍(肉づき)霍(肉づき)婆 かかば Hahava  
虎虎婆 ここば           Huhuva  
温(口偏)鉢羅 うはら        Utpala  
鉢特摩 はどま            Padma  
摩訶鉢特摩 まかはどま      Mahapadma  
第3、4、5の地獄の名はみな苦しみの声の擬声語である。すなわち、罪人は寒さのためにそれぞれの地獄で「アタタ」、「ハハヴァ」、「フフヴァ」という悲鳴をあげるのである。  
これらの地獄は、いっぺんにできあがったものではない。長い時間をかけて、徐々に考え出したものである。地獄などを考えた学僧は、仏教の僧侶だけに限らない。地獄の観念は、インド人全体に共通の思想的所産である。ジャイナ教にもヒンズー教にも似たりよったりの地獄のリストがある。  
オーストリアのインド学者ヴィンテルニッツは、ジャイナ聖典の地獄のリストを「サディステイック」といっている。  
地の下に地獄があるとすれば、地の上には天界がある。  
なお、仏教で「天」というとき、それは「空」sky とか heaven という場所を表す言葉ではなく、生きた存在としての神 god を意味するということである。たとえば帝釈天(たいしゃくてん)とか梵天(ぼんてん)というように。  
「天」の原語は deva である。これはラテン語の deus と同じ言葉である。2つの言語はともにインド・ヨーロッパ語に属する。  
「天」が神を意味するのに対して、「天界」は空間を意味する。  
さて、おびただしい天がいる。仏教の世界観は多神教である。  
まず、下界に住む天とその住所から説明していこう。須弥山の、水上に出ている部分は正立方体で、どの辺も長さ8万由旬である。その立方体の下半分が四天王とその手下たちの住みかである。  
この住みかはいわば4階だてである。水面から1万由旬の高さのところに、四周に張り出したヴェランダのごときものがある。1万6千由旬そとへ張り出しているという。  
このヴェランダから、さらに1万由旬たかいところに、次のヴェランダがある。これは8千由旬だけそとへ張り出している。  
さらに1万由旬たかいところに、次のヴェランダがあって、4千由旬だけ張り出している。  
さらに1万由旬たかいところに、次のヴェランダがあって、2千由旬張り出している。  
上のヴェランダほど内へひっこんでいるのは、今日騒がれている「日照権」の問題を連想させて面白い。  
一番上のヴェランダには四大天(四天王)とその身内が住んでいる。四天王とは、東方の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天(毘沙門天)である。  
四天王の手下たちの住みかは、下の3つの階である。しかし、彼らの手下たちはこのほかに、持双山など7つの山脈や、太陽や月(須弥山の中腹と同じ高さを回転している)などにも植民している。  
次に須弥山の頂上に「三十三天の住みか」がある。須弥山頂上の中央に「善見げんけん」という名の都城がある。一辺の長さ2500由旬の正方形で、高さ1由旬半である。建物は金ででき、地面は綿(雲?)のようなものでできている。  
この都城の中央に殊勝殿(しゅしょうでん)という、一辺の長さ250由旬の正方形の宮殿がある。種々の宝石で飾り立てられ、他の楼閣の追従を許さない。この殊勝殿こそ三十三天中の第一人者、帝釈天(たいしゃくてん)の住みかである。  
これまでに天上、地上、地下の世界を説明した。ここまでは他の宗教的宇宙観と共通する点が多いであろう。           
もろもろの仏教的世界観を知ると、さらに、仏の居所はどこかという疑問がおきよう。「仏国土」はどこか。実は「倶舎論」の宇宙論には、「仏国土」というものはない。それは大乗仏教の生み出した別の観念である。       
それでは、「倶舎論」の宇宙論では、仏はどこにいるのか。おそらく、無色界のさらに上にいるのであろう。古い須弥山図をみると、仏は無色界の上に描かれている。しかし、正しくは無色界と同様、仏の世界も空間を超越していると考えるべきであろう。  
いままで述べてきた欲界、色界、無色界をまとめて「三界さんがい」と呼ぶ。つまり、有情が生存しうる三種の世界である。「三界」は「全宇宙」というような意味でよく諺に用いられる。「子は三界の首かせ」とか「三界に家なし」とかいうように。  
仏教的宇宙観の底を流れているものは、業と輪廻の思想である。輪廻という言葉は、迷える世界での生死のくりかえしを意味する。生死のくりかえしは、5種あるいは6種の生存状態の間で行われる。  
「六道ろくどう」(6つの迷える境界)、すなわち地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天の6種類の世界をあげる。     
「生まれかわり」の思想はブッダの伝記にも反映している。仏は何度も前世をくりかえし、修行をつんで完成者として現れるのだ。仏典のうちに前世物語(本生譚)というのがあるが、これは仏が前世でどのように数々の功徳をつんだかを述べたものである。それによると、仏は前世で猿や鹿になって生まれたこともある。  
輪廻の思想とともに重要なのは、業の思想である。業はインドの言葉カルマまたはカルマンの訳語であって、「行為」を意味する。そして、それとともにその行為のもつ影響力をもさす。行為といっても単に身体の行為だけでなく、言語行為と精神行為も含まれる。また影響力というのも、単に一生の間おこりうる影響力だけでなく、来世にまでつづく影響力も含まれる。  
業の作用は自動的に働くものである。決して神のごとき裁定者の介入を必要としない。よい原因をつくれば、よい結果が生まれ、悪い原因をつくれば悪い結果が生まれる。これは自然法的な法則である。  
自業自得という言葉があるが、これは自分がおこなった行為の結果を自分が受ける、ということを表している。だから、仏教では「罰せられる」とか「地獄におとされる」とかは言わない。「報いを受ける」のであり、「地獄に おちる」のである。                   
今まで述べてきた宇宙観は、主に「倶舎論」にもとづいたものである。今日われわれは、地獄と極楽を対にして(セットにして)考えている。しかし、地獄に関してあれほど詳しく述べた「倶舎論」は、極楽については一言もいってはいない。地獄と極楽とは、我々が想像しがちのような、最初から対で考えだされたものではないのだ。  
極楽の説明をはじめるまえに、まず「娑婆世界」を説明しておこう。娑婆世界とは、我々の住むこの世界をいい、釈迦出世の舞台となり、教化活動の対象となった世界である。  
つぎに「仏国土」を説明する。宇宙にはたくさんの仏がいて、それぞれ固有の国土を所有して、教化にあたっている。その国土は「仏土」とも「浄土」とも呼ばれる。  
その代表的なものは薬師如来の「浄瑠璃世界」、阿弥陀如来の「極楽浄土」である。また仏土ではないが、仏土に似たものとして、観音菩薩の「補陀落(ふだらく)山(せん)」(インドの南方海中にあるとされる)がある。  
これらの浄土の中で、のちに断然有名になるのが極楽浄土である。  
「仏土」は大乗仏教において生まれた概念である。「倶舎論」では、すでに説明したように、仏は三界から脱出して無に帰している。この完全に無に帰すること(無余涅槃むよねはん)が、小乗仏教のめざす最高の境地である。彼らにとっては、仏がまた形を有し、仏国土にあって活動するということは考えられない。  
ところが、大乗仏教では、仏たちは仏国土の建設をめざして修業し、仏国土を建設しおえたなら、迷える衆生(しゅじょう)をそこに導きいれるために永遠に活動を続ける。  
では極楽浄土はどこにあるのであろうか。三界の中にあるというのと、外にあるというのと、2つの説がある。このように意見が分かれているのには理由がある。三界は古典的宇宙観の説であるのに、仏国土はその宇宙観には説かれていなかったのだから。  
しかし、娑婆(人間界)からの極楽(須弥山の頂上)の距離に関しては、「16万8千由旬(由旬=約7q)」という一致した見解がある。      
極楽とはどのようなところであろうか。そこは、その名の示すとおり、極めて楽しいところである。この世のような苦しみは一切ない。そして、そこは言い尽くせないほど美しいところである。七宝で飾られた池や楼閣がある。美しい鳥たちがいつも美しい声でさえずっている。  
そして、この国には阿弥陀仏とその阿弥陀仏につかえる観音・勢至の二菩薩がいて、そのもとに、信心によってそこに生まれ変わった有徳の人たちがいる。しかし、それらはみな男性である。前世で信心のあつかった女性もここに生まれかわっているのだが、彼女らは男の姿にかわってしまっている。というのは、女性というのは劣悪で不幸な性であるので、極楽ではすべてが幸せでなければならないという観点から、女性は男性に変えられているのだ。  
だからと釈迦はいう。みなこの国に生まれようと願をたてなさい。そこでは有徳の人たちと一緒になれるのだから。だが、その国に生まれるのには、わずかな善行 では足りない。仏の名を念じて、日々一心不乱に努めるなら、その人が死ぬときに、釈迦はもろもろの聖者とともに、その人の前にやってきてくれる。その人は死に臨んでも心みだれることもなく、極楽浄土に迎えられるのである。  
 
日本人の宇宙観 / 書評1

 

本書は、題名の通り日本人の宇宙観を古代から現代まで追ったものです。とはいっても、日本人は宇宙観を自ら発展させてきたわけではありません。そうではなく、外来の先端的な宇宙思想を3回にわたって受け入れ、その都度日本的に消化してきたのです。  
外来思想受容の第1回目は、中国やインドの思想を受けいれた飛鳥時代です。第2回目は、ポルトガル人やスペイン人の宣教師によってアリストテレス的な宇宙体系がもたらされたキリシタンの時代です。第3回目は、ヨーロッパとアメリカから近代科学とその宇宙観が移植された明治時代です。もうひとつの特徴として、日本人の宇宙観の基層には大地的な「神」と「自然」の精神が流れ続けていたということが挙げられます。 
第1章 飛鳥人と宇宙

 

7世紀後半、大陸における隋・唐統一国家の成立、新羅による半島統一の動きという国際情勢の下で、日本も中央集権的国家体制の整備が課題となります。これを担ったのが、672年壬申の乱に勝利した天武天皇です。  
壬申の乱のとき、天武(当時は大海人皇子)は空を覆う黒雲について自ら占ったと伝えられます(天文と気象が分けて考えられるようになったのは最近のことです。)。  
『日本書紀』によれば、「天文」に長けていた天武は、即位の4年後に天文観測所である「占星台」を設立します。  
>目的は占いにあったのだが、・・・飛鳥の都で天皇が率先する組織的な天体の観測がはじまっていた・・・。  
>この天文ブームといってもよい時代に、天文図が描かれていた高松塚古墳やキトラ古墳の築造もなされていた。  
日本の飛鳥時代に建造された高松塚古墳とキトラ古墳の玄室には天文図が描かれていました。 高松塚古墳の天文図は様式的なものですが、キトラ古墳の方は実際の星の配置に従っているだけでなく、天の赤道、黄道、内規、外規の4つの円が描かれています。天文図は、高句麗経由で日本に伝わったものと推測されます。  
時間を詠んだ和歌が載っています。  
時守の打ち鳴す鼓数(よ)み見れば時にはなりぬあはなくも怪し  
鼓を鳴らして時刻を知らせたということですが、残念ながら私には最後の「あはなくも怪し」の部分が理解できません。 
第2章 日本神話の宇宙

 

荒川さんは、日本神話の宇宙観には、垂直の宇宙軸と水平の宇宙軸とがあるとします。垂直の宇宙軸とは、[天]高天原(たかまがはら)−葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)−黄泉の国(よみのくに)[地底]です。一方、水平の宇宙軸は[西]出雲−大和−伊勢[東]というもので、日の出と日没を結ぶ「日の宇宙軸」とも呼んでいます。  
そして、生を代表する高天原と伊勢、死を代表する黄泉の国と出雲がイメージ的に重ね合わされることになります。  
天皇という呼称が道教起源であることは知られていますが、高天原も道教起源であり、「葦原の中つ国」は漢語の中国そのもの、地下世界「黄泉の国」は中国でも同じ意味で使われています。  
垂直の宇宙には大陸文化の濃厚な影響が認められます。  
『古事記』『日本書紀』の創世神話には、丸山真男のいう「なる」型、「つくる」型、「うむ」型という三つの型の神話がいずれも出てきます。  
しかし、記紀の創世神話全体を支配するのは「なる」型です。  
ただ、記紀では宇宙の原初の状態を例えるのに「浮きし脂(あぶら)」「海月(くらげ)」「葦牙(あしかび)」「鶏子(とりのこ)」「游魚(あそぶうお)」「海上に浮かべる雲」などの表現を使っています。  
「葦牙」は成長する葦の芽であり、「鶏子」(卵)は中国の宇宙創成論から取ったものです。  
しかし、その他は一体何でしょうか。  
著者は福永光司を引いて、それらはいずれも道教、それも不老不死のための仙薬を製造する煉丹(れんたん)術の用語だったといいます。  
中国では「天」と「天命」の観念が政治的にも重要でした。
中国の伝統的宇宙論  
1.蓋天説(がいてんせつ)  
中国の伝統的な宇宙観は、天は円形で地は方形(四角形)という天円地方の宇宙でした。  
天円地方説に基づく最古の宇宙構造論が、「天も地も平面であり、天体は天とともに天の中心である北極星のまわりを東から西に一日に一回転する」という蓋天説です。  
蓋天説の天地は、あたかも蓋(かさ)をたてた馬車や牛車のようです。  
古代中国の馬車や牛車の輿(こし)は方形であり、そこには円形の蓋がつけられていました。  
蓋天説の詳細な解説書が3世紀に成立した『周髀算経(しゅうひさんけい)』です。  
しかし、蓋天説では現実の天の運行をうまく説明できませんでした。  
2.渾天説(こんてんせつ)  
そこで、後漢時代に新たに登場したのが、「球面の天が水の上に浮かぶ方形の大地のまわりを回転する」という渾天説です。  
おそらくは、轂(こしき)を中心に回転する馬車や牛車の車輪、あるいは水車から着想された宇宙の構造論と推測されます。  
後漢の太史令(天文・暦法などを司る官職)であった張衡(ちょうこう)は『渾天儀』の中で渾天説を論じ、「天は鶏卵のようなものであり、天の本体は丸くて弾丸のようである。地は鶏卵の中の卵黄のようであって、孤立して内部に位置する。」と述べています。  
渾天説をもとに作られたのが「渾天儀」で、それは古代でもっとも精巧な天体観測器械でした。  
渾天説の難点は、火の天体である太陽がなぜ火を消すことなく大地の下の水の中に入っていけるのかということでした。  
しかし、渾天説はその後の中国で支配的な天文学説であり続けます。  
3.天文図  
天文図が作られたという中国の最古の記録は『晋書』天文志で、晋の武帝(在位265〜296)のとき、太史令の陳卓(ちんたく)が天文図を作成したという記述があります。  
しかし、現存する最古の天文図は宋代1247年、蘇州の孔子廟に石に刻まれたもので、そこに描かれたのは星座の位置から1078〜85年の観測に基づくものです。  
蘇州の孔子廟の天文図には、天の赤道、黄道(太陽の道)、内規(北極星を中心とする常に地平線上に見える天空の境界)、外規(地平線の下に隠れるときはあっても視界に入る天空の境界)の4つの円が描かれています。  
これらは、蓋天説の宇宙論で理解しやすい天文学の概念です。  
4.「天」という概念の性格  
中国では「天命」により王朝交代が行われました。  
天あるいは天命は、統治の原理=支配を正当化するものであると同時に、革命の原理でもありました。  
また、その同じ天が地上の自然現象を支配するとも考えられていました。  
天はもともとは天の神でしたが、徐々にその人格性は薄れていきます。  
孔子(前551〜前479)は、『論語』陽貨篇で「天何をか言うや、四時行われ百物生ず」(天は何も言わないが、四季をめぐらせ万物を生育させる)と述べています。  
この孔子の天は、意志と感情をもたず、人格性を薄めた理念的な天です。  
一方で、天は蓋天説や渾天説にみられるような、大地を覆う自然の天でもありました。  
神と自然との両面を持ち続けながら、天は中国思想の核心に位置し続けたのです。  
ただ、天の概念は、もともとはユーラシアの草原を生活の場としていた遊牧民の間に発達して、遊牧民から中国に入ってきたものと考えられます。  
5.朱子学の宇宙論  
11世紀に北宋の儒学者たちによって基礎が築かれ、12世紀に南宋の朱子によって集大成されたのが、新儒教=朱子学です。  
朱子学は、当時の中国の思想界を支配していた仏教や道教に対抗し、孔子や孟子の教えを理論的な哲学に体系化したものです。  
その特徴は、従来の儒学思想の核心にあった「天」を受け継ぎながらも、それを「理」という普遍的な観念に置き換え、さらに根源的物質的と考えられていた「気」と組み合わせて、自然と人間を含む体系的な宇宙論の構築に向かったことです。  
朱子によれば、「理」が自然と人間を含む全宇宙を貫く原理です。  
それは、単に自然を支配する物理であるだけでなく、人間が従わなければならない倫理でもあります。  
具体的にいえば、儒教で説かれていたような仁義礼智信の五常、とくに君臣父子の上下的秩序が重視されます。  
宇宙の創生については、陰陽の気が回転し続け、その回転の中央部に堆積した気が大地を形成、その外側を回転する気から天が生まれたとします。  
朱子は、そうして生まれた宇宙については、渾天説をとります。  
人間も気からの生成物であり、死は気の消散とされますが、その人間も天地を貫く「理」に支配されます。  
宇宙と人間は大宇宙=小宇宙の関係で捉えられます。  
人間の理想は人欲を去って天理に至ることであり、その方法とされたのが「居敬」と「窮理」、すなわち心を集中させて自分の身を正しく保ち、そうして全宇宙の根底にある理を正しく窮めることです。  
このため、朱子学は「理学」とも呼ばれました。現代の「理学部」の意味とは大違いですね。 
しかし、日本では天皇の地位の正当性は血縁的な連続性によって保障され、それを象徴するのは大嘗祭という儀式でした。  
中国と比べ、日本の神話は地上的であり、自然的であり、なによりも稲作文化の色彩が濃いことが特徴として挙げられます。(「豊葦原の瑞穂の国」など)  
老子や荘子に代表される道家の基本的な思想は「自然」にありました。  
この「自然」は「おのずからなること」つまり「自然さ」の意味で使われており、自然界の自然と同じ意味ではありませんが、しかし両者を別のものとみてもならないと荒川さんはいいます。  
山川草木鳥獣などの「自然」は人為が加えられていない、「おのずからなるもの」という意味で「自然」な存在です。  
「自然」という語は、すでに(中国の)南北朝時代には一般にも自然界の意味で使われるようになります。陶淵明の詩が用例として引用されています。  
道家の「道」は「天下の母」「万物の母」ともよばれていました。  
宇宙の原理は大地的なものであり、女性的なものであると理解されていた。遊牧民によって[k:中国に]もたらされた天が男性的・父性的な原理であるのに対して、道家の道は女性的・母性的な原理である。  
日本人の伝統的自然観についてのまとめは次のようなものです。  
日本人がみずからの自然感情を思想化することには不熱心な民族であったことは否定できない。なによりも日本人は自然を詠う民族であった。 
第3章 仏教の宇宙 

 

第3節では密教の宇宙である曼陀羅、第5節では地獄、第6節では西方極楽浄土が、それぞれ解説されます。第8節では法然と親鸞の自然、特に親鸞の「自然法爾(じねんほうに)」について解説しています。 
仏教の須弥山宇宙論 
4・5世紀頃のインド人世親(ヴァスバンドゥ)は、人生後半で大乗仏教に転向し、大乗仏教の2つの大きな流れのうち認識論的な「唯識(ゆいしき)」を創始して菩薩になったとされますが、転向前は小乗仏教の学者であり『阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)』、通称『倶舎論』という仏教哲学を体系的に説いた書物を著わしています。  
日本史上最大の宗教思想家は平安仏教の創始者の一人である空海(774〜835)として大方の同意が得られると思いますが、彼の主著『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』は日本人による仏教の初めての総合的な議論であるばかりでなく、最初の宇宙論的著述でもあって、『倶舎論』の須弥山宇宙も取り入れていました。  
ここでは『十住心論』に基づいて須弥山宇宙をみていきます。  
世界は虚空に浮かぶ風輪の上に円盤状の水輪・金輪(こんりん)が重なり、その上に8つの海と9つの山、4つの大洲と8つの嶋が存在します。  
この山と海の中心に須弥山がそびえ立ちます。  
須弥(しゅみ)はスメールの音訳で、意訳されて妙高山ともいいます。  
その水面からの高さも、水中の高さ(=海の深さ)も8万由旬(ゆじゅん)です。  
須弥山の形状は角柱で、側面の幅は8万由旬、だから海面の上に出ている部分はちょうど立方体となります。  
材質は、北面が金、東面が銀、南面が瑠璃(エメラルド)、西面が水晶です。  
上で出てきた「由旬」は長さの単位で、牛車が1日に走れる距離ともいわれますが、はっきりした定義はありません。  
ただ、ある解釈によれば8万由旬は約13万kmとなります。  
今では地球の半径が6、400kmとされているので、地球の直径よりちょうど一桁大きいわけです。いくら何でもデカすぎるよね(^^  
須弥山のちょうど中間のところには四方を守る四天王が住む四天王天があります。  
天文学的に重要なのは、ここには太陽と月と星々が位置し、それらは須弥山を中心に回転していることです。  
太陽の大きさは51由旬、月の大きさは50由旬。小さいなぁ(^^  
須弥山の周りは同心的に7つの外輪山が取り囲み、さらにその外側を鉄囲山(てついせん)が囲みます。  
7つの外輪山は方形で金からなり、鉄囲山は円形で鉄からなります。  
外輪山と鉄囲山の間に、東西南北に4つの大洲があります。  
各大洲の形は、東は半月形、西は円形、南は逆台形、北は正方形、各大洲には2個の嶋が付属します。  
南の大洲は贍部洲(せんぶしゅう)といい、人間の住むところとされます。現実のインド亜大陸がモデルとなっていることは明らかです。  
須弥山宇宙には28個の天が存在します。  
一番下が四天王天、次が須弥山の頂上にある とう利天、3番目からは須弥山の上空となり、下から順に夜魔天、都率天(とそつてん)、化楽天(けらくてん)、他化自在天(たけじざいてん)と名付けられています。  
これら6つの天をまとめて欲界(六欲天)といいます。  
都率天は兜率天とも書き、人間界に生まれる前の釈迦が住んでいたところで、今は56億7千万年後に地上に降りてくる予定の弥勒菩薩が修行しています。  
(余談ですが、宮澤賢治が妹の死を悼んだ詩「永訣の朝」の本人手入れ本には「兜率の天の食」という表現が出てきます。)  
欲界の上に18の色界、さらに4つの無色界が存在します。  
これらは人間の解脱への段階に対応するとされ、上に行くほど理想的な世界となります。  
さらに、須弥山世界が千あつまって小千世界を構成し、小千世界が千集まって中千世界を構成し、中千世界が千集まって三千大世界を構成し、これを一つの宇宙と考えます。  
つまり三千世界というのは、千の3倍の3000ではなく、千の3乗の10億を意味するので、ご注意を。  
「世界」は仏教の宇宙を表すために作られた漢語で、「世」は時間、「界」は空間を意味するので、世界は時空的存在と考えられます。  
今でも「世」は更新世など地質時代を著わす名称として使われていますね。  
これも余談ですが、  
「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい。」というのは、幕末の志士である高杉晋作が作った有名な都都逸(どどいつ)です。鴉は中国神話によると太陽に住んでいて、ここでは太陽の象徴とされています。 
第4章 キリシタン天文学 

 

16世紀末にキリシタン天文学によって「地球説」が日本へもたらされ、定着した経緯を扱っています。  
地球説の宇宙論の講義が日本で最初に行われたのは、1580年に設立された豊後の府内(今の大分市)のコレジオ(イエズス会の宣教師養成のための高等教育機関)で、1583年に来日したスペイン人宣教師ペドロ・ゴメス(1535〜1600)によってでした。  
当時ヨーロッパでは好戦的な日本人と戦い日本を軍事的に制圧して布教することは不可能だと認識されており、一方日本人は知的好奇心が旺盛だったためキリスト教の知的優位性を示すことにより布教を容易にしようとしたようです。  
次いで、日本人修道士不干斎(ふかんさい)ハビアン(1565〜1621)が、1605年に刊行したキリスト教の教理書『妙貞問答(みょうていもんどう)』で仏教、儒教の宇宙論を批判しました。  
これに対し、翌1606年、当時若干23歳の若き林羅山(1583〜1657)が朱子学の立場からハビアンのいた京都の南蛮寺に乗り込んで論争を挑み、そのやり取りを『排耶蘇(はいやそ)』に残しました。  
主な論点は、天と地の関係、大地の形状、物体の落下運動、世界の創造です。  
林羅山は天円地方と動円静方の原理から大地は円(球)ではあり得ないと主張しました(動円静方とは「動く者は円、静かなる者は方なり」という朱子学の原理)。  
これに対しハビアンは、東に進めた船が西から戻るという事実と、地球に穴を開けて石を落とせば石は地球の中心に落ち着くはずだという主張を述べます。  
また、宇宙には始めがあって終わりがないというハビアンの主張に対し、林羅山は始めがあれば終わりもあるはずだと批判します。  
両者の論争は、東の朱子学の宇宙論と西のスコラ哲学の宇宙論の対決でした。  
議論は水掛け論に終わらざるを得なかったのですが、互いに相手の思想の原理的なところに踏み込んだ論争であった点に意義がありました。  
朱子学にしろキリシタンにしろ、当時の日本における新興の思想・宗教だったのです。  
その後、ハビアンは、特に弾圧されたわけでもないのにキリスト教を捨て、1620年には仏教、儒教を擁護してキリスト教を批判した書『破堤宇子(はだいうす)』を出版します。  
しかし、棄教後も宇宙論においては地球説は捨てませんでした。  
羅山・ハビアン論争から50年後の1656年に出版された『乾坤弁説(けんこんべんせつ)』では、地球説が受け入れられます。  
著者は当時の代表的儒者である向井元升(げんしょう)(1609〜77)です。  
同書は、キリシタンの宇宙論を述べた本論に対する元升の弁説という形式をとりますが、本論はラテン語の「天文書」を棄教したポルトガル人元神父のフェレイラ(日本名・沢野忠庵、1580頃〜1650)が訳したものです。  
ただし、キリスト教的な天地創造説などの部分は省かれ、アリストテレス的四大説は朱子学の五行説の立場から批判しています。  
これが江戸時代日本における地球説の受容のし方でした。 
第5章 地動説の受容 

 

キリシタン天文学が導入された時代にはヨーロッパではコペルニクスの地動説はすでに知られており、またガリレオやケプラーも同時代でしたが、カトリックの宣教師が異端である地動説をわざわざ紹介することはありませんでした。  
『乾坤弁説』では、本論で地動説が否定的に紹介され、元升の弁説も本論を支持するものでした。  
地動説を本格的に日本に紹介したのは、オランダ通詞(通訳のこと。当時の他の職業同様に世襲)の家系だった本木良永(もときりょうえい)(1735〜1794)と志筑忠雄(しづきただお)(後の中野柳圃、1760〜1806)でした。  
本木は『太陽窮理了解説』を1792〜3年に著し、志筑は『暦象新書』を1802年に完成させます。  
ともに出版はされなかったのですが、写本の形で流布しました。  
『太陽窮理了解説』はケプラーの法則のレベルですが、『暦象新書』ではその根拠となるニュートンの万有引力の法則と運動法則も紹介されています。後者では無限宇宙論も認めています。  
また、『暦象新書』は宇宙の創成に関して「混沌分判(ぶんぱん)図説」というものを付しています。  
これは、朱子学の宇宙創成論とニュートン力学を組み合わせて、混沌未分の「気」から惑星が誕生し楕円軌道を公転するようになったことを説明するもので、後の1895(明治28)年に狩野亨吉(かのうこうきち)によって、カント・ラプラスの星雲説に匹敵するものと評価されました。  
同様の説は地球が中心であれば中国の『天経或問(てんけいわくもん)』などにすでにあったのですが、太陽中心の説としては初めてです。  
地動説の意義をより積極的に評価したのは、司馬江漢、山片蟠桃)といった在野の思想家であり、彼らにとって地動説は西洋文明の高度な世界認識象徴するものと理解されていました。  
司馬江漢(しばこうかん)(1747〜1818)は画家が本業で、日本最初の銅版画家です。  
それとともに、西洋科学の合理性に絶大な信頼を寄せ、地動説の啓蒙者となりました。  
彼は、世界地理の書と世界地図(銅版画)を出版した後、1796年に『和蘭天説』、1808年に『刻白爾天文図解』、1816年に『天地理譚』と相次いで地動説の解説書を刊行します。  
無限宇宙論も継承しています。  
司馬江漢に関して重要なのは、宇宙の無限性に対する人間の微小性を悟らねばならないという彼の人間観です。  
>無数に存在する太陽(恒星)とそのまわりを回転する惑星。その惑星のひとつに住む人間は大虚空に漂うひと粒の粟であり、大地を這いうごく一匹の小虫にすぎない。そうであれば、人間の貴賎など意味がない。  
>『春波楼筆記』では「上天子将軍より下士農工商非人乞食に至るまで皆以て人間なり」とのべていた。  
こうして彼は、近代の宇宙論の認識から人間の平等に到達したのです。  
山片蟠桃(やまがたばんとう)(1748〜1821)は大阪の両替商・升屋の番頭でしたが、多忙な時間を割いて学問を学び、天文家の麻田剛立(ごうりゅう)主宰の先事館に入門して天文学も修めました。  
やがて彼は、本木、司馬、志筑らの著作を渉猟し、地動説の揺るぎない支持者となりました。  
55歳のときから73歳のときまで書き続けた百科全書的論考『夢の代(しろ)』の「天文」は、地動説を詳説した天文学に当てられています。  
蟠桃も、司馬江漢と同様に無限宇宙論を採りましたが、蟠桃には江漢のような平等思想はみとめられません。しかし、朱子学から学んだ思弁的な合理主義と大阪商人の現実的合理主義に加えて、西洋科学の合理主義は蟠桃を徹底した無神論と唯物論に導きました。  
>地獄なし極楽もなし我もなしたゞ有るものは人と万物  
>神仏化物(ばけもの)もなし世の中に奇妙ふしぎのことは猶(なお)なし  
『夢の代』は刊行されませんでしたが、写本が50冊以上見つかっています。 
第6章 国学的宇宙論の成立 

 

国学とは、江戸時代において古事記などの日本の古典を研究することにより日本独自の文化・思想を見出して、仏教や儒学などの外来思想を批判・排撃した学問潮流で、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えました。  
その代表的人物としては本居宣長(1730〜1801)、平田篤胤(1776〜1843)などが挙げられます。  
国学は、宇宙論においては地球説・地動説を受け容れ、その一方で仏教や朱子学の宇宙論を批判しました。  
これは、国学が西欧の自然科学と親和的だったからではなく、もともと仏教や朱子学のような完成された宇宙論の体系をもっていなかったためにかえって地球・地動説を受け容れやすかったからだと考えられます。  
 
「第7章 明治の近代化と宇宙意識」では内村鑑三、「第8章 現代宇宙論との出会い」では夏目漱石、西田幾多郎、和辻哲郎、戸坂潤、賀川豊彦、宮澤賢治らの宇宙観が、アインシュタインとその訪日の影響を含め論じられています。いずれも大変興味深い(たとえば同じキリスト者である内村鑑三と賀川豊彦の対比など)のですが、省略させていただきます。  
 
日本人の宇宙観 / 書評2

 

古代・中世
『日本人の宇宙観』は、静岡大学教授荒川紘氏(1940−)が上梓した本で、荒川氏は「はじめに」の冒頭で著作の目的を「日本人は宇宙をどのようにみてきたか。古代から現代まで、日本の歴史に現われた宇宙観の変遷をたずねてみたい」と言い表わしています。この目的からすれば比較文化の観点が重要であることは明らかです。どこの国でも、歴史の大部分を通じて、宇宙観は形而下の問題であるよりもむしろ形而上の問題でありました。したがってそれは文化と深く関わっています。日本に話を限っても、日本人が外国の文化の影響を受けなかった頃にどんな宇宙観を持っていたかということが日本固有の文化を反映しているだけでなく、外国の宇宙観が紹介されたときにそれをどう理解し、どう変容させたかということも日本文化の特徴と大いに関係しています。それはまさにベネディクトが『文化の型』の中で言った「鋳直し」(recast)です。文化の型(patterns of culture)は、その時鋳型として機能するのです。『日本人の宇宙観』にはベネディクトという人名も、『文化の型』という書名も出てきませんが、荒川氏はその「鋳直し」に当たる現象に注目しています。それは、「はじめに」の中でヨーロッパの宇宙論を中心とした考察に偏ることを戒めた次の段落に表われています。  
しかし、それは歴史の一部でしかない。ヨーロッパの宇宙論に出会う前、日本には中国やインドの宇宙思想が海を越えて伝えられてきた。その以前にも、この極東の島国の風土と社会に根ざした宇宙観が抱かれていたはずである。このように、視野を古代・中世にも広げてみると、日本人は、外来の文化の影響を受けながらも、日本人に固有な眼をもって世界の全体性と秩序性をとらえようとしていたのに気づく。そこに独自な宇宙と人間との関係を求めていたことも教えられる。  
そして荒川氏は、日本人の宇宙観の歴史に三つの節目があることに注意します。それは、まず飛鳥時代、次にキリシタンの世紀、最後に明治時代です。主としてこれらの時代に新しい宇宙観が流れ込んできた経緯を述べるのが第1章、第4章および第7章です。これらの節目に続いて、その都度新しい宇宙観を「日本的に消化するという過程」が伴っています。それらについては、それぞれ第2−3章、第5−6章および第8章があてられています。  
ここでは、『日本人の宇宙観』の全体を一挙に取りあげるのでなく、三つに分割して、第1−3章を「その1:古代・中世」、第4−6章を「その2:近世」そして第7−8章を「その3:近代・現代」として考察を加えます。今回は本文の話に入る前に「はじめに」の中の注目すべき文に触れておきましょう。それは、日本人の宇宙観の歴史全体を通じての印象を述べた言葉です。荒川氏は『古事記』および『日本書紀』の中で「神話的でありながら独自の宇宙観がつくりだされていた」こと、そしてそれがはるかな後世の思想にも尾を引いていることに注意を向けながら次のようにも言いました。  
その一方で、日本人の眼は天上の世界よりも地上の自然に注がれてきた。多様で、季節とともに多彩な変化をみせる風土のなかで生活をしていたからであろう、『万葉集』では月は詠(うた)われても、星をよんだ歌は数えるほどしかなく、ほとんどが地上の自然を詠ったものである。『古事記』『日本書紀』の描く「高天が原」も、山川があり草木のしげる地上的な空間であった。この自然も不死だった。自然は詠われつづけ、自然的な宇宙との一体化を理想とする思想もくりかえし出現したのである。  
最後のセンテンスからわかるように、これは古代だけに限定される話ではありません。そしてここには早くも重要な事柄が二つ顔をのぞかせています。その一つは、日本人にとっての宇宙は地上の自然の延長上のものであって、それらの間に不連続があるとは考えないということです。このことがもう一つの重要なポイントである「自然的な宇宙との一体化を理想とする思想」に拠り所を与えています。 私の見るところでは、これらはいずれもベネディクトが『菊と刀』の中で説いた恥の文化と強い関連を持っています。  
私はこれまでに何度も、日本人が人間を超越する絶対者の存在を認めないということについて解説してきました。日本人の考える「神」は人間を理想化あるいは美化したものか、そうでなければ祟りをなすものだということです。それはあの山、あの森、あの川、あるいはあの海等々、いたる所に居て、神話の時代にすでに「八百万」(やおよろず)と表現されていたのです。仮に「高天が原」が文字通り天の高いところにあると考えられたとしても、そこは地上の「原」と本質的には違わないところであり、そこに住む神々は人間と同様の生活をしていたのです。日本人の想像力によればそうとしか考えられなかったのであって、超越的な絶対者が占有するところの、人間が立ち入ることのできない空間としての「天」が存在することさえ思いもよらなかったのです。そして超越的な絶対者が考えられないことから、人々は次のように言われている方針にしたがって行動しなければならなかったのです。  
日本人の生活において恥が最高の地位を占めているということは、恥を深刻に感じる部族または国民がすべてそうであるように、各人が自己の行動に対する世評に気を配るということを意味する。彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める。みんなが同じ規則に従ってゲームを行ない、お互いに支持しあっている時には、日本人は快活にやすやすと行動することができる。  
「他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める」ということは、お互いに支持しあう関係を維持するためなのです。その方針によって得られる一体感は日本人の社会的行動のきわめて重要な要素なのです。そうであってみれば、あの山にも、あの森にも、あの川にも、あの海にも棲む八百万の神々とも一体感を持つことが肝要です。荒川氏が先程の文で言い表わしたことは、こう考えれば全面的に恥の文化と結びつきます。  
このように、日本人の宇宙観と、恥の文化との間には強い関係があるのです。このことは、『日本人の宇宙観』を詳しく読んでいくとますます明らかになります。  
それでは古代および中世の日本人の宇宙観を扱った章を見ましょう。先ほど見た各章のタイトルからもわかるように、記述されている内容の時間的順序から言うと第2章、第1章、第3章の順序になります。荒川氏は、先ほど言われた「節目」を先ず説明する立場を取ったので飛鳥時代のことを最初に掲げ、それからその前後の時代のことを述べたのでしょう。しかしここでは、大筋としては時間軸にそった順序で現象を見ていきますが、その三つの章の垣根を取り払って話を進めます。  
荒川氏は、『古事記』『日本書紀』に注目しました。第2章の導入部にその文献の性格についての見解が述べられています。  
飛鳥浄御原律令が天皇を頂点とする国家体制を法的に規定しようとしたのにたいして、『古事記』と『日本書紀』は天皇による統治の正当性を神話的伝承にもとづいて明らかにしようとするイデオロギーの書であった。中国の史書にならいながらも、ここには、中国の史書にはみられない性格があらわれる。律令制という政治の「近代化」を進める一方で、その統治の原理を神話で裏付けようとする王権の意図が濃厚に主張された書だったのである。  
私もこの見解は妥当だと思います。そしてこれに続けて述べられた第2章のレジュメとも言うべき次の文は、荒川氏が意図したかどうかはともかく、日本文化の型による中国の宇宙思想の鋳直しへの言及と考えることができます。  
私たちが注目するのは、その神話が日本人の宇宙観と不可分であったという点である。記紀から読みとれる日本人の宇宙観にも中国の宇宙思想の影響がみとめられるのだが、しかし、古代の中国で成立した蓋天説や渾天説とは異質な宇宙である。記紀のなかで天円地方の宇宙が語られることもない。神々は天と地を舞台に活躍するが、天文学的な天地への関心は稀薄である。むしろ、大陸文化の影響をうけながらも、それに反発するかのように、伝統的なもの、日本的なものへ回帰しようとする独自な宇宙意識が打ち出されていた。記紀の宇宙の特徴もそこにあり、そこから日本人の心の古層に流れていた宇宙観が読みとれる。  
「蓋天説」「渾天説」および「天円地方の宇宙」といった専門用語については、第1章第2節「飛鳥人と中国宇宙論」で説明されています。それを要約すると、中国の古代の学説によれば大地は巨大な正方形をなしており、天はそれよりさらに大きい円形または球形であるというのです。それが「天円地方の宇宙」です。そして天が円板状であるとするのが蓋天説、大地を取り囲む球面であるとするのが渾天説です。前者では天の中心は北極星であるとされ、後者では北極星と大地の中心を結ぶ線が球面の軸であるということになっていて、その中心あるいは軸のまわりに天が日周運動をするというのです。  
そのような中国の学説が日本に紹介されたのは7世紀の初期であろうと考えられています。それから数十年経った天武天皇(在位672−686)の時代にようやく天体観測所(占星台)が設置され、専門の役人が配置されました。当時の天体観測の目的は地上に起こる異常な自然現象や社会的変事の予兆を知ることにあったのですが、それには中国で発達した学説を理解しなければなりません。それゆえ少なくとも当時の高級官僚は蓋天説または渾天説を知っていたはずです。現に、7世紀後半または8世紀初期に築かれたと思われる高松塚古墳やキトラ古墳の玄室の天井には星の図が描かれており、しかも後者では明らかに渾天説を反映する線が引かれています。それにもかかわらず、712年に出来上がった『古事記』にも、720年に完成した『日本書紀』にも、神々の活躍する時代の記述にはそのような宇宙観の片鱗も見えないのです。  
それでは記紀の内容は中国の思想と無関係なのかというと、そうでもありません。記紀では、太陽の神として最高の地位にある天照大神(あまてらすおおみかみ)は高天原(たかまがはら)に居て、自分の孫である番能邇邇芸命(ほのににぎのみこと)に日本列島を治めることを命じ、地上に降臨させたということになっています。そして番能邇邇芸命の子孫がこの国を支配し、古代天皇制を確立したというわけです。しかしながら荒川氏が説くところによると、天に至上の神が居るという思想は中国のもので、古い日本には無かったということです。  
天孫である番能邇邇芸命が降臨したときの日本列島は、無人島ではなく、先住民が居ました。記紀にはその先住民の諸部族と天孫民族との間でいろんな交渉や闘争があったことが記録されています。先住民の中で最も大きい勢力を持っていたのは、大国主命(おおくにぬしのみこと)に率いられ、山陰地方を根拠地とする部族でしたが、彼らは平和的な交渉の結果天孫民族に国を譲ることに同意しました。しかしすべての部族がそうしたわけではなく、しばしば激しい戦闘が行なわれました。そして時には謀略が用いられ、またある時には残虐な手段で一部族を皆殺しにするというようなこともありました。そうして九州から東北地方南部に及ぶ地域に支配権を確立したのですが、各地方の先住民たちも部族ごとに固有の文化を持っていたので、征服者である天孫民族は彼らを統治するために天皇家に特別な権威があることを宣伝する必要を感じていたのです。そのために先進国であった中国からいろいろな文物を導入したのですが、文字という強力な媒体を使ってその権威を視覚化するという方法も中国から学びました。こうして記紀が編纂されたのです。  
こういう事情を考えれば、そこに中国の先進的な思想が取り入れられていることは理解できます。しかしながら何から何まで中国の思想に頼るわけにはいきません。そんなことをすると誰の目にも作り話としか見えないものになってしまいます。たぶん、蓋天説や渾天説などというものは当時の日本人の感覚からすれば異様なものであったのでしょう。16世紀のヨーロッパの人々にとっての地動説がどんなものであったかを考えればそれは想像できます。ただ近世のヨーロッパと違うのは、新説が権力者の支配力の拡大のために役立つイデオロギーの源泉であり得たということです。古代日本では、土着の思想との急激な対立を避けながら新しい思想で飾った権威を前面に押しだすという政策が取られ、それが成功したのです。根強い土着の思想があったとしても、偉い人が高いところに居て、その人の命令を受けた大将が軍勢を率いてそこから降りてくるという程度の話なら受け入れることが可能なので天孫降臨という筋書きができたのであろうと思われます。しかしもともと日本人の頭の中にある世界あるいは宇宙は、山や谷があるとしても基本的には水平の広がりを持つものであったのです。『日本人の宇宙観』の第2章第2節「水平の宇宙 ― 常世の国と妣(はは)の国」では、いくつかの証拠によってそれが示されています。  
「はじめに」の中で言われた「月は詠われても、星をよんだ歌は数えるほどしか」ないということは、水平に広がる陸と海こそが日本人の関心を引く自然界であったということの反映でしょう。それでも月は太陽に次ぐ明るく大きい天体であるし、それに満ち缺けという劇的な変化を見せ、さらに海水の干満とも強く関連し、また女性の生理とさえ関係があるように見えるほどで、人の関心を掻き立てる要素を多く持っています。これに対して星は、1年を周期とする恒星の緩やかな動きと、数個の惑星の一見不規則な動きがあるだけで、ある程度の形而上学的考察をしなければ日常生活との関係があるようには見えません。それで、星が日本人の関心を強く引くことはなかったのです。  
ベネディクトが「彼ら(日本人)はもっぱら今ここにあるものに集中する」という言葉はこの場合にも真実です。星空を見上げてそこに人間を超越した神の領域があるというようなことを考えるのは、日本の恥の文化とは無縁のことなのです。中世以来今も日本人が続けている7月7日の星祭りは元来中国の風習です。それは、現代の日本人がする12月24日のパーティと同様、先進国の人がしていることを「他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める」という原理に基づいて取り入れているという意味では恥の文化を反映することですが、その祭りの主役とも言うべき織女が天帝の孫であるというようなことは今ではほとんど忘れ去られて、一年に一夜しか逢うことのできない夫婦の物語だけが強調されています。そしてその夜華やかな飾り付けをした笹を掲げて客を誘う商店街は数多くありますが、無数の星の中の二つを指差して「あれが織女、これが牽牛だよ」と言うことができるのは、日本人の全体から見れば決して多数とは言えない天文ファンだけです。 

 

古代から中世にかけて外来の宇宙観が鋳直された過程に注目しましょう。  
7世紀後半の天武天皇の時代に占星台が設置され、専門の役人が天体観測を始めたのは、天体現象が地上の自然現象や社会現象に影響を及ぼすと考えられたからでした。それは中国から伝わった思想に従った考え方です。その占星台のことを説明したくだりを見ましょう。  
天武の天文への関心もこのような政治的志向と切り離しては考えがたい。天体の動きが国家の興亡をさえ予言すると考えられていたからなのであって、天武の個人的な趣味といったものではない。『日本書紀』天武紀の六七五(天武四)年の記事には、卜占、天文、造暦、報時をつかさどる「陰陽寮」(おんようりょう)という役所の名がみとめられるように、天体の観測と占星は国家的な事業だったのであり、天文とふかく関係する暦の作成や時刻の管理も律令国家の運営には欠かすことができなかった。  
陰陽寮の職員のなかで天文に従事するのが天文博士。天体の観測にあたる。そのために設立されたのが天文観測所の占星台であった。そのほかの職員についていうと、陰陽師は占いの専門家で、地相の吉凶の判断も担当する。天武一三年には新しい都の土地をさがすために陰陽師が派遣されている。暦の作成を担当するのが暦博士。天武五年と六年の記事には、毎月の朔日(ついたち)におこなわれる「告朔」(ついたちもうし)という儀式がみられるが、この日を決定するのも暦博士であったろう。「漏剋」(ろうこく)とよばれた水時計を管理し、報時に従事したのが漏剋博士である。水時計は先代の天智天皇が皇太子の時代に設置されていた。  
ここまでは飛鳥時代のわが国の制度の説明ですが、これに続いてそれを中国の制度と比較する解説が述べられています。  
この陰陽寮は中国・唐における天文、暦法、漏剋を掌(つかさど)る組織である大史局(たいしきょく)と卜占を専門とする部署である太卜署(たいぼくしょ)を合わせたものである。天文博士・暦博士・漏剋博士が太史局でおこなわれていた職務を、陰陽師が太ト署でおこなわれていた職務を担当した。陰陽師という呼称は陰陽五行説を原理とする占いであることによる。中国の制度では卜占よりも暦法が上位におかれていたのだが、日本では陰陽寮という呼称からもうかがわれるように、占いが中心と考えられていた。  
占星台は中国古代の天文観測所「霊台」(れいだい)に相当するが、それを占星台とよんだところにも陰陽寮の性格がみてとれる。しかし、占星台がどのような施設であり、そこでどのような方法で天体の観測がされたのか、記録はなにも残されていない。それでも、中国や朝鮮の資料から、星の位置の観測器械や影の長さから太陽の高度を測るための「表」(一種の日時計)などが置かれていたものと推測される。それ以前から存在していた水時計も備えられていたのかもしれない。占星台の設置場所については、一九八一年に水時計の施設の一部とみられる給水管や水槽が飛鳥寺の北西部にある水落(みずおち)遺跡から発掘されたが、おなじ場所で確認された建物跡を占星台にあてようとする意見もある。  
天体観測と占卜を国家の事業として行なうにあたって先進国である唐の制度を模倣するのが最も近道と考えられるのですが、実際にできたのは丸写しではなく、微妙に違う制度であったのです。中国では占卜より暦法が上位にあったのにそれが逆になり、「霊台」と呼ばれていた観測所を「占星台」と言い換えたということは、天体の運行に支配される人間の生活(たとえば農業)の数理的秩序を確立することよりもむしろ政権の安定あるいは個人の吉凶の方に強い関心が持たれていたことを暗示しています。ここにもまた、人間を超越する絶対的な価値を認めない日本人の考え方が顔をのぞかせています。  
このことは、第1章4節「時間の秩序」で述べられている事柄を見ればもっとはっきりします。中国では前漢時代に初めて組織的な暦が作られてから20世紀初期に太陽暦へ移行するまでの約二千年の間に50回もの改暦が行なわれたのに対して日本では、飛鳥時代から平安初期までは中国での改暦に追従して三回改暦をしたものの、その後江戸時代初期まで約八百年もの間改暦をしなかったという事実があります。それでは暦博士は何をしていたのかというと、荒川氏は次のように述べています。  
陰陽寮で重視されたのは暦の呪術的な部分、陰陽寮の暦博士の主な仕事は「具注暦」(ぐちゅうれき)の作成にあった。その日の吉凶を判断するための、木・火・土・金・水の五行や建(たつ)・除(のぞく)・満(みつ)・平(たいら)・定(さだん)・執(とる)・破(やぶる)・危(あやう)・成(なる)・納(おさん)・開(ひらく)・閉(とず)の十二直(ちょく)、それに、血忌(ちいみ)日、帰己(きこ)日、往亡日、修託日といった暦注を付すのである。  
先ほど役所の名称に関して述べた事はこういう事実によって裏付けられます。それゆえこの一連の事実は、ベネディクトがで言った「鋳直し」の例だと言ってもさしつかえないでしょう。ただし、この場合には日本文化の型のことを厳密に「擬装された意志の自由」と「自己責任」であると考える必要はありません。それよりいくらか大まかな「恥の文化」を考慮すれば十分です。無意識のうちに恥の文化に従う日本人としては「各人が自己の行動に対する世評に気を配る」ということが大切なのです。「世評」と言っても、世界中とか日本中というような大きいものを考える必要は毛頭ありません。「日本人から見れば、自分の属している世界で尊敬されれば、それでもう十分な報いである」のです。自分と同じ時代に、自分の属する社会(職場)で評価されることが大切なのであって、自分の死後永い年月が経った後に暦の不備のためにたとえば農業に支障が生じるかもしれないというような事は大きい問題ではありませんでした。それよりはるかに大きい問題は、現在の政権の盛衰に直接結びつく明日の吉凶にあったのです。  
荒川氏は、飛鳥時代の権力者や知識人の態度を次の通り要約しました。  
さまざまな大陸の文化が流入したが、日本人が期待したのは現世利益、実用の技術と呪術である。専門家による天文観測がおこなわれても、その背後にある宇宙の理論的な問題に目をむけた様子はない。蓋天説や揮天説といった古代中国の宇宙論にたいして支持とか反対とかといった積極的な反応は伝えられていないのである。  
現世の利益は、飛鳥時代だけでなく、歴史の全期間を通じて日本人が強い関心を持ったものです。それは、人間を超越する絶対者を心に描くことのない民族としては当然のことです。そしてそのことは、天文学や暦学に関することだけではなく、宗教においてさえ少しも違わなかったのです。第1章と第3章の大部分で仏教の伝来と変容について解説していますが、そこでもやはり現世の利益を中心に据えたものへ鋳直しが起こったことがわかります。次に掲げる長い引用文は今し方見た文より前に書かれているものですが、その鋳直しを適確に言い表わしています。  
すでに飛鳥時代に須弥山の模型がつくられ浄土図が描かれはした。しかし、当時の人々が仏教に期待したのはなによりも現世利益であったということを見過ごしてはならない。飛鳥寺、四天王寺、法隆寺といった寺院は戦勝や病気平癒を祈願して建立されたことについてはすでにのべたとおりである。  
『日本書紀』によると、六八〇(天武九)年に天武天皇は皇后(のちの持統天皇)の病いの快癒を祈って薬師寺を建立している。天皇の病が重くなったときにも、川原寺や飛鳥寺や大官大寺では平癒のための読経がなされ、観音像がつくられた。そのために多数の僧侶が出家し、宮中でも僧の御籠(おこごも)りの修行である安居(あんご)がおこなわれる。しかし、それでも死をのがれることはできなかった。六八六(朱鳥元)年の九月九日に天武は崩じる。  
それだけでない。仏教には天をも動かす力があると信じられていた。旱魃(ひでり)のときの降雨祈願や霖雨(ながあめ)のときの止雨祈願にも仏教の僧侶たちが動員される。天武五年の旱魃のさいには、多くの僧侶と尼僧に祈らせ、雨を呼ぼうとした。このときには、効験なく雨は降らなかったが、天武一二年の七月から八月にかけての旱魃のさいには百済の僧の道蔵(どうぞう)が雨乞いをおこない、そのときには、雨にめぐまれたという。  
戦いでの勝利を祈って寺院が建てられる。天皇や皇后の病気平癒を願って造寺造仏につとめ、そのために多くの僧を出家させる。雨を祈り読経をさせる。そのとき仏教は、災いを払い、福をまねくことを目的とする現世利益のための呪術だった。すでにみた飛鳥時代の天文ブームと通底するところである。というよりも、表裏の関係にあるといえようか、占星術が起こりうる吉凶を予測するのにたいし、この仏教の呪術のほうは災禍から逃れる方途だった。天文観測から旱魃が占われたなら、雨乞いの仏教呪術がおこなわれたであろう。  
天武天皇のころから護国のための仏教が前面にうちだされるようになった。国家体制の整備とともに、国家の繁栄と安全が仏教の呪力に期待されたのである。なによりも、天候が順調で、穀物がよく稔り、疫病は流行(はや)らず、国は安穏であってほしい。その結果、国王、国土、人民を災禍から解放し、安寧をもたらしてくれるという『金光明経(こんこうみょうきょう)』や『仁王経(にんのうきょう)』がとくに重視されるようになった。六七六(天武五)年には使いを諸国につかわして両経を説かせている。国家権力と仏教の結合も本格化する。  
解脱(げだつ)を究極の目標とする仏教から飛鳥人が最初に学んだのは、現実の苦から現実的に逃れる方法、現世利益の宗教だった。飛鳥人は、中国の天文学から占星術を学び、仏教を新しい呪術として受容したのである。  
仏教の受容は日本史の中で特筆すべき大きい出来事の一つですからベネディクトも注目しました。「各々其ノ所ヲ得」の中では「七世紀に日本は支那から仏教を、『国家を護るために勝れた』宗教として大々的に採り入れた」という文があります。注記によると『』の中はジョージ・サンソムの著書からの引用だということですが、それでもこういう短い文言の中に本質的に重要な概念が含まれているのを認識していたことがわかります。「徳のジレンマ」には、「幸運を祈願する儀式はあるが、贖罪の儀式はない」という一文があります。そして更に、上の引用文の最後の段落で言われている「解脱を究極の目標とする仏教」がそれとは異なる性質のものに鋳直されたことについては「修養」で次のように述べられています。  
このような哲学は日本には見られない。日本は一大仏教国であるにかかわらず、いまだかつて輪廻と涅槃の思想が国民の仏教的信仰の一部分となったことはない。これらの教えは、少数の僧侶たちが個人的に受け容れることはあっても、民衆の風習や民衆の思想に影響を及ぼしたことは一度もない。日本では獣や虫を、人間の魂の生まれ変わりだからという理由で、殺さぬようにするというようなことはない。また日本の葬式や出生にともなう儀式は、輪廻思想の影響を全然受けていない。輪廻説は日本的な思想の型ではない。涅槃の思想もまた、一般民衆に全然理解されていないばかりでなく、僧侶自らがそれに手を加えて、結局なくしてしまっている。学問のある僧侶たちは、サトリ=k悟り〕を開いた人間は、すでに涅槃の境地にあるのである、涅槃は今ここに、時間のただ中にある、また人は松の木の中にも、野生の鳥の中にも「涅槃を見る」、と断言する。日本人は昔から常に、死後の生活の空想には興味をもたなかった。彼らの神話は神がみの物語は伝えているが、死者の生活のことは述べていない。彼らは仏教の死後における因果応報の思想さえ棄ててしまった。どんな人間でも、最も身分の低い百姓でさえ、死ねば仏になる。仏壇に祭られている家族の位牌を表す言葉が正に、「仏さま」である。このような言葉づかいをする仏教国はほかにはない。そして平凡なごく普通の死者について、このように大胆な言い方をする国民が、涅槃の達成などというような困難な目標を中心に描いていないというとは、十分了解しうるところである。何をしたところでどのみち仏になるものならば、人間は何もわざわざ一生涯肉体を苦しめて、絶対的停止の目標に到達しようと努力する必要はない。  
この引用文に描かれている「涅槃」の日本的理解は、飛鳥時代というよりはむしろ中世に成立したものかもしれません。しかし、だからといって仏教伝来の当初はそうでなかったなどとは言えません。仮に大陸から渡来した高僧や彼の地で修業して帰朝した日本人僧侶が本来の輪廻と涅槃の思想を説いたとしても、それがこの国に根付かなかったという事実を認めないわけには参りません。  
それは、小説『沈黙』の中でフェレイラが17世紀初期の日本で長年にわたって基督教の布教に身も心も捧げた後に次のように言い表わした現象とそっくりです。  
知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ。……この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。  
仏教も、基督教も、日本に上陸したとたんに鋳直されたのです。  
その後、中世の日本で仏教的宇宙観がどのように変化していったかということについては第3章「仏教の宇宙」で詳しい解説が行なわれています。その主要な点は、弥勒信仰から阿弥陀信仰への移り変りに伴って垂直軸に添う「天」の思想から水平軸に添う「極楽」の思想への変遷にあり、それが太古の宇宙観への回帰と見られるという見解が述べられています。そしてその変化と並行して、現世と、極楽や地獄との間の距離も小さく考えられるようになったことが指摘されており、ついにはひとつの庭園の中に浄土を再現する試みさえ行なわれたということも述べられています。 
近世

 

日本史の近世が何時始まったのかはいろんな考え方がありますが、ヨーロッパ人の渡来、とくにキリスト教布教者の渡来を中世との区別を与える指標の一つと見ることができます。彼らは、それまで日本人が想像することさえなかった異質の文明をこの国に紹介したばかりか、積極的に彼らの思想―もちろん、世界観および宇宙観を含みます―を移植しようと試みたのです。  
天も、地も、その間にあるあらゆる物質も、植物も、動物も、人間も、一切は全知全能の神によって作られたというのがキリスト教の教義の基本的な前提です。そして大地が球形であるという説はキリスト教の成立以前からありました。長い間それは実際的な意味の乏しい説でしたが、15世紀末期以後地理学的発見が相次ぐに至って確固たる説になりました。そして彼らが日本に到達した16世紀中頃には、今日知られているすべての大陸を不完全ながら記載した世界地図が描かれ、地球儀が作られていました。そして布教のために日本へ渡来したカトリック教徒たちは、地球が宇宙の中心に静止していて、その周囲を月や、太陽や、惑星が天使に導かれながら動き回り、更にその外側を天球が覆っていて、そこに恒星がちりばめられているという宇宙モデルを日本人に教えました。この天動説は、アリストテレスによって大成された古代ギリシャの自然学と合致し、しかもキリスト教の教義とも矛盾しないのです。  
大地が球形であるとする地球説と天動説を最初に日本人に教えたのはフランシスコ・ザビエル(1506−1552)で、日本での布教活動は1549年からの約3年間でした。コペルニクスの地動説が発表されてから6年ほど後のことで、もちろん、それはまだ公認されていませんでした。コペルニクスの説を支持したブルーノが火刑に処せられたのは関が原合戦と同じ1600年です。ヨーロッパから日本への知的情報の伝達がもっぱらカトリックの布教者によって行なわれていたのですから、当時地動説が事実上伏せられていたのは当然です。日本人が太陽中心の地動説について考えるようになったのは、徳川吉宗(1684−1751)による洋書輸入禁止令緩和以後で、18世紀も後半になってからのことです。  
これらの時代を通じて日本人が遠いヨーロッパに芽生え、育った思想をどう受け止めたかということにはたいへん興味をそそられます。著者荒川氏は大量の資料を駆使してそれを追究し、注目すべき所見に到達したばかりでなく、江戸時代中期の国学者たちが西洋の宇宙論と、記紀に記述された神話との融合を図ったことをも論じ、「神秘は合理と両立できる―この宣長にはじまる国学の精神は近代の日本にも濃い影を落とすことになる」と指摘しました。  
閑話休題。ザビエルが日本で布教を始めてから数十年間、幾人かの仏教僧侶や朱子学者からの反発はあったものの、キリシタンは自由に行動することが可能でした。その期間中に日本人信徒がおよそ四十万人にも達したこと、そしてその後豊臣秀吉の治世の末期に弾圧が始まり、1614年に至ってついに徳川幕府が全面的な禁教と宣教師追放を行なったことはよく知られている通りです。そして弾圧の最後を締めくくったのが島原の乱の鎮圧でした。以後明治維新まで、隠れキリシタンは残ったものの、公然とキリスト教を論じることはなくなりました。ところが地球説および天動説を論じることは憚りなく行なわれたのです。  
その証拠に、17世紀の中頃に2冊の宇宙論書が書かれています。一つは向井元升(げんよう)が1656年に書いた『乾坤弁説』であり、いまひとつは、それとほぼ同じ頃に書かれたと推定される『二儀略説』で、著者は小林謙貞(けんてい)という人です。この二冊には共通の種本があります。それは、ペドロ・ゴメス(1535−1600)というイエズス会士が日本で行なう講義のテキストとして1590年代に書いた『天球論』(de Sphaera)です。『天球論』はカトリックの教義を明確に示していますが、『乾坤弁説』でも、『二儀略説』でも、宗教的な記述は省かれ、もっぱら天文学と自然学に関する事柄だけが取り上げられています。その二冊が多くの人に読まれたかどうかは分かりませんが、16世紀後半に伝来した西洋の宇宙観が断絶せず、公然と受け継がれたことを示す証拠として軽視できません。事実その宇宙観は、18世紀に長崎の天文学者西川如見(じょけん)が著わした本によって多くの人に知られたのです。西川の場合には中国人洋学者が著わした本の影響が大きかったということですが、とにかくキリスト教以外のものを海外から受け入れることには寛容であったと言えます。そしてこの態度は、幕府の中にあって要職を勤めた新井白石や暦の改定という重要な仕事をした渋川春海においても同様でありました。このことを荒川氏は次のように言い表わしました。  
春海や白石という幕府の中枢の人間までもが、神による天地の創造説は排斥しながらも、天球地球説は受けいれる。スコラ哲学の骨格であるキリスト教的な思想は退けても、アリストテレス的な宇宙論は残す。これが、キリスト教をとおして学んだヨーロッパ宇宙論にたいする基本的な態度となった。  
地動説が伝えられたときにも日本人の間には拒絶反応のようなものが起こらなかったのです。  
荒川氏によると、太陽中心の地動説がわが国に紹介されたのは18世紀後半にオランダの本の和訳としてであったということです。地球の自転に否定的に言及した文献はそれ以前にもあったということですが、宇宙観を大きく動かしたのは地球の公転という観念の導入であったのですから、自転だけに言及したものはさほど重要ではありません。その意味で重要な日本語の文献は、長崎の通詞の家に生まれた蘭学者本木良永が1770年以後に書いた四冊の本だということです。その中でも最も詳しいのは1792−93年に書かれた『太陽窮理了解説』です。これは、ジョージ・アダムスというイギリス人が著わした本のオランダ語版をもとにしたもので、荒川氏によると、ケプラーの楕円軌道論に基づく地動説、惑星や衛星の運動、日食・月食の生起についての原理的な説明ばかりでなく、太陽の自転、地球の公転と自転、惑星の軌道の傾斜角度、軌道半径と回転周期、月の朔望周期などについても詳しい数値をあげて説明しているということです。ただし、それらの本は刊行されたのではなく、写本として現代に伝えられているのです。  
『太陽窮理了解説』はそういう詳しい内容をもっているのですが、いわば現象論だけで、理論には触れていません。ニュートンの『プリンキピア』が世に出てから百年以上経ったときのことであり、本木がそれに関する解説書を読んだ形跡があるにもかかわらず言及されていないのです。しかしその点は、本木の弟子にあたる志筑忠雄が1802年に完成した『暦象新書』によって補われています。この本も刊行されず写本として流布したのですが、イギリス人ジョン・ケイルの『自然哲学・天文学入門』(1725年刊)のオランダ語訳を種本としたもので、ニュートンの力学の要点を正確に表現しただけでなく志筑の独自の意見や解説も含んでいます。もっとも、その意見や解説には朱子学の陰陽説が反映しています。この意味で本木はまだ中世的なものを引きずっていたのですが、その半面に荒川氏は次のことを認めています。  
それでも、志筑は宇宙の無限性はみとめる。「太陽も恒星も一種不動の火体」であり、無数の恒星が「広大無辺の天際に散漫し」ているという。当時のヨーロッパではみとめられるようになっていたものの、以前には強い反発がしめされた無限宇宙説である。日本ではそれもすんなりと受けいれられる。  
そして、印刷されない形ではあっても地動説は当時の知識人の間に広がり、それに強い関心を示す在野の思想家が現れました。その代表的な人物が司馬江漢(1747−1818)と山片蟠桃(1748−1821)です。  
その二人は同時代の人ですが、江漢は江戸に住む画家、蟠桃は大阪の両替屋の番頭と、違った生活環境を持っていました。それにもかかわらずその二人が共に合理主義的な考え方という点で共通していたのはたいへん興味深いことです。江漢はもともと画家で、浮世絵を描いていたのですが、平賀源内の影響を受けて洋画と蘭学に関心を持ち、オランダ製の世界地図を見てそれを複製したりするうちに西欧の天文学の知識を吸収しました。その著書を見た蟠桃がその天文学を咀嚼・消化して百科全書的論稿『夢の代』の中に確信を書き込んだのです。  
江漢の態度を要約してこう述べました。  
江漢の力点は日本の伝統的な思想にたいして、西洋の科学思想の優位性を一括してみとめるところにあった。旧思想と際立って対立していたのが地動説、だから江漢は地動説にこだわりつづけ、その啓蒙に力を注いだのである。  といって、江漢もキリスト教にたいする態度は別であった。神による天地の創造はみとめない。『春波楼筆記』(しゅんぱろうひっき)では聖書のアダムとイブやノアの箱舟を紹介するが、天地の創造については、「天地開けざる前人なし、故に知るべき理なし」といって退ける。西洋文明を評価するが、あくまでもそれが合理的であると考えるところだけである。無条件に受けいれているのではない。  
蟠桃も地動説を安易に受け入れたわけではありません。その証拠として荒川氏は、『夢の代』の初稿本にあたる文書の中に次の文があることを指摘しています。  
地動儀の法、日輪を中心として万古変動なし。地及五星九天恒星みな旋る。月は地を心として旋り、地も天につれて一日一周、自行一度その外は推てしるべし。これを聞くこと未熟せず。後の君子を待つべし。  
つまり、容易に信じられないということです。しかしそれから何年か経って書かれた『夢の代』の「天文」の章には西洋人の研究成果を論破することができないと認める次の文が含まれています。  
太陽は天地の主なり。地は主にあらず。太陽動かずして他曜(他の天体)の動くは、其処なるべし。今にても欧羅巴の人は大船にのりて地球を巡り、その知らざる所を発明すること、万国の及ぶところにあらざれば、天地のことはこれに任じて、其の糟粕をねぶる(なめる)のほかはあるまじきなり。必ずしも西洋の術を疑う事なかれ、あつく信じて従うべきものなり。  
しかしながらこれを単純な西洋崇拝と見てはなりません。西洋の宇宙論も、またそれまでわが国で行なわれてきた仏教や朱子学の宇宙論も十分吟味した上で、合理性において前者に軍配を上げざるを得ないと判断しての発言なのです。記紀の宇宙生成説話も、仏教の須弥山説も、中国の蓋天説・渾天説も、蟠桃に言わせれば「小児の戯にも及ばざるなり。西洋人に見せたらんには、三歳の小児といへども腹をかゝへて笑ふべし」ということになります。それでいて東洋の学説を何でもかでも無価値と決め付けたのではありません。そのあたりの機微は、荒川氏の文によって見るのがよいと思います。  
『夢の代』の終章に近い「無鬼上」と「無鬼下」では、おもに朱子学の鬼神論が槍玉にあげられる。とくに、新井白石の『鬼神論』にむけられた批判がきびしく、「一つもとるべきところなし」である。蟠桃も、人間の生死を朱子学の説くとおり気の理論で説明するが、朱子学の霊魂論には与しない。朱子学にある「鬼神」(死後の霊魂)の存在は否定される。人間は無に帰るのだ。  
仏教と神道にたいする攻撃は全編にわたる。極楽や地獄は存在しない。輪廻転生もありえない。伊勢神宮の霊験などなく、そこを汚しても神罰をうけることなどない。神も仏も存在しないのである。  
蟠桃が『夢の代』で真にのべたかったのは、この無神論と唯物論だったのであり、「天文」で論じた地動説はその導入部ともおもわれてくる。  
蟠桃が健全な批判精神の持ち主であったことがわかります。  
当時、地動説を拒んだ人が居なかったわけではありません。三浦梅園(1723−1789)は地動説の説明を聞いてもそれを認めようとしなかったということですが、それについて荒川氏はこう述べました。  
梅園が地動説を容認できなかったのは、地球中心説をもとにした、自然と人間を統一的に説明する「条理」の哲学体系を確立していたからであったと考えられる。その解説書である『玄語』は一七七五年に完成していたのであって、もしも地動説をみとめれば、彼の哲学体系は破綻せねばならないのである。むろん、そこに梅園の保守性を指摘してもよいが、自己の哲学への自信の表われというべきであろう。  
こういう人も居ましたが、全体としては太陽中心の地動説は日本人の間にスムースに入っていきました。荒川氏は、日本に地動説が伝搬するのが遅れた最大の理由はヨーロッパからの距離にあったとしています。その他の理由としては、すでに触れたように、カトリック教徒がその伝搬を好まなかったという点が挙げられます。そして荒川氏は次のように言っています。  
地動説にたいする日本人の態度にその理由をもとめるのは難しい。すでにみたように、日本人のあいだには地動説への反発はほとんどみとめられなかった。それは、日本人が地動説の合理性を理解していたというよりも、地球説の場合もそうであったように、日本人の宇宙論的な問題への関心の希薄さが地動説を抵抗なく受容させたと理解すべきであろう。  
そしてさらに、次のことも言及されています。  
梅園のような哲学者も存在したが、遅ればせながらも、地動説は比較的スムーズに日本に移入された。しかしながら、地動説そしてニュートンの力学が日本に移植されても、それが日本の科学思想に刺激を与え、新たな科学の発達をうながす契機とはならなかった。ニュートン力学をもとに新しい技術を切り開きもしなかった。 

 

16世紀後半にキリスト教布教者たちによって大地が球形であるという地球説と、天球を外殻とする階層的構造を持った天界が地球を中心として回転するという天動説とがもたらされ、その後キリスト教が政治的に排除された後にもその地球説・天動説を論じるのは自由であったこと、そして18世紀後半になってオランダから輸入した書籍を通じて地動説が知られ、それにともなって宇宙が無限の広がりを持つという知識が導入されたときにも日本人は思想的打撃を感じなかったし、それを発展させようともしなかったことが前回述べられました。簡単に言えば、西洋人が学者を火あぶりにしてしまうほど精神的衝撃を受ける新説が現われても日本人はそれを「ああ、そうですか」と言って聞き流したのです。 私はこの違いを罪の文化と恥の文化の違いとして把握します。  
日本人は、西洋人の目で見たときには「無法と思われる行為」を平気で是認することがあるのです。地動説を初めて聞かされたときに「ああ、そうですか」と言って聞き流すのは、西洋人にしてみれば無法と思われる行為を簡単に通してしまうのと同じくらい不可解なことでしょう。そこには、西洋人の社会では見ることのできない、日本人独特の行動の型があるのです。行動の型は文化の型ではありませんが、それを探る手掛りになります。彼女はそういう行動の型をいくつも探し出し、それらがどのように成立するのかを分析することによって日本文化が恥の文化の一種であることを発見し、そしてさらにその恥の文化の中で「擬装された意志の自由」と「自己責任」を特色とするものであることを突きとめました。  
西洋ではなぜ地動説が「無法と思われる行為」と類似のものであるかのように受け取られたのかというと、人間が活動するこの地上と、神聖な天上界とを区別する秩序が否定されるからです。聖書の教えるところでは、全知全能の唯一神は天上界に居られます。その天上界では地上(月下界)の原理とはまったく違う原理が支配しているので、そこに属する月、太陽、五つの惑星および無数の恒星は決して地上に落ちてこないのです。この聖なる秩序を疑うのはキリスト教徒としては無法と思われる行為であったのです。  
ところが地動説によると、水星、金星、火星、木星および土星は地球の同類であり、月は地球に従属するものだということになります。これは、天上界と地上界の間にあるべき秩序の根本的な改変を意味します。これは、一見したところ、神を信じるかどうかということにかかわる問題に見えます。でも、地動説を信じるからといってそれが必ず聖書と神を否定することを意味するわけではありません。ガリレオも、ニュートンも、もっと後の時代ではアインシュタインも、その他にもたくさんの人たちが科学的真理を尊重するがゆえにますます信仰心を固くしたのですが、近世初期には圧倒多数の人々は問題が提起されたというだけで無条件であるべき信仰が否定されたように感じ、その問題のきっかけを作った者が「無法と思われる行為」をしたように思ったのでしょう。  
なぜそれが「無法」であるかを理解するには、ベネディクトが「研究課題―日本」で言った次の言葉を思い出す必要があります。  
ある国民がそれを通して生活を眺めるレンズは、他の国民が用いるレンズと異なっている。われわれがものを見る時に必ずそれを通してする眼球を意識することは困難である。どの国民もことあたらしくそんなことを問題にしない。そしてある国民にその国民に共通の人生観を与える、焦点の合わせ方、遠近(パースペクティブ)の取り方のこつが、その国民には、神様から与えられたままの風景の配置というふうに思い込まれている。  
「パースペクティブ」は、多くの場合「遠近法」と訳されています。ある特定の視点を取ったときに、それに近い物体は大きく見え、同じ物体でも遠くにあれば小さく見えるという現象を一つの画面上に忠実に再現する画法のことです。同じ対象でも視点を変えて描けばずいぶん違った絵になるのは容易に理解できることでしょう。しかし「パースペクティブの取り方のこつ」というのはあくまで比喩であって、空間認識の問題としての天動説と地動説の比較ということとは何の関係もありません。  
しかしそれでも近世初期に地動説が唱えられたときには、ヨーロッパの人々は「神様から与えられたままの風景の配置」を取るか、それとも捨てるかと選択を迫られたように感じたのです。そして彼らは、それを捨てるのは神様に背いて悪魔に加担する「無法」な行為だと思ったので、地動説を支持する学者を焼き殺したのです。  
一方日本人が常用しているパースペクティブによれば、人間が侵すことのできない神聖な天界などというものは存在しません。そもそも日本人には、人間を超越する唯一絶対の神などというものは見えません。そういうものが見えるパースペクティブを取っていないのです。だから16世紀にカトリック教徒から天動説を教えられたときには、はあそうですかと、さからわずに聞き入れましたが、日本人の精神の根底がそれによって影響を受けたわけではありません。そしてそれから二百年ほど経って、オランダ人が持ってきた書物によって地動説を知ったときにもなるほどそんなものかなと簡単に受け入れました。いずれにしてもそれが「天にましますわれらの父」を信じるか、信じないかということに結びつくわけでもなく、政治的思想に影響を及ぼしもしなかったので幕府も干渉しなかったのです。  
そういうわけで、西洋人が地動説を知ったときに受けた精神的衝撃を日本人が理解するのは難しいのですが、宇宙論とは違う所にそれと似た衝撃の例があることを指摘しておきましょう。今ではそれを実感として覚えている人も少なくなりましたが、1945年9月29日の朝、新聞を受け取った瞬間に日本人が感じたものはその衝撃に似ていたと考えられます。その新聞の1面トップに、昭和天皇とマッカーサー元帥が並んで立っている写真が掲げられていました。その写真についてジョン・ダワーが『敗北を抱きしめて』で述べた次の言葉は実に適切です。  
以上のような背景のもとで、日本全体があの写真(「あの写真」に傍点)に出会ったのである。それは全占領期間を通じて最も有名な画像であり、同じ九月二九日の新聞に掲載された。写真は先述の天皇との「会見」記事の影を薄くし、内務省の検閲官を顔面蒼白にさせた(言論の番犬たちにとってはまったく忙しい日であった)。したがってなおさら内務省は、この日の新聞を回収しようとしたのである。写真には、マッカーサーと天皇が、マッカーサーの宿泊場所の一室で並んで立っていたが、どちらがより大きな権力をもっているかは一目瞭然であった。マッカーサー最高司令官はカーキ色の開襟シャツに勲章もつけず、両手を腰にあて、少しだけひじを張って、気楽といっていいような姿勢で立っており、しかも天皇を見下ろすような長身であった。他方、司令官の左に立つ天皇は、礼装のモーニング姿で緊張して立っている。二人の指導者の年齢の差も、マッカーサーの序列を高める要因であった。当時マッカーサー元帥は六五歳。四四歳の天皇は、マッカーサーの息子であってもおかしくない年齢であった。  
その写真がなぜ日本人の精神に大きい衝撃を与えたのか、「内務省の検閲官を顔面蒼白にさせた」のかは、当時天皇の写真がどういうものと考えられていたかを知らなければ理解しにくいかもしれません。『菊と刀』の「汚名をすすぐ」にある次の文は、単に天皇が現人神(あらひとがみ)として崇敬されていたというような観念的な説明だけでは言い尽せないものを巧みに表現しています。  
例えば、自分の学校の火災によって―失火の責任は全然ないのだが―どの学校にも掲げてある天皇の写真が危険に瀕したという理由で自殺した校長がたくさんいる。教師のなかにもまた、この写真を救い出すために燃えさかる校舎の中に飛び込んで焼け死んだ人びとが大勢いる。これらの人びとは死ぬことによって、彼らが名に対する「義理」と天皇に対する「忠」とをいかに重視しているかということを証明したのである。  
そういう神聖な天皇の写真を新聞に載せるということさえ恐れ多いことでした。しかし天皇に対する日本人のそのような考え方も、結局のところ、天動説と同様の道をたどって消えていきました。西洋人が地動説に馴染んでいったように、日本人も「人間天皇」―1946年1月1日の詔勅で天皇自らが明らかにした観念―に馴染んでいきました。そして西洋人がキリスト教を捨てなかったように、日本人は天皇制を捨てなかったのです。いずれの場合にもベネディクトが言う「パースペクティブの取り方」が変更されたのではありません。それは昔も今もほとんど違わないのですが、ベネディクトが使った比喩を拡張して言い表わすならば、望遠鏡や、レーダーや、放射線技術等が発達して以前には見えなかったものが見えるようになったにすぎません。その程度のことでも人間は大きい精神的衝撃を感じるのです。これから推測するならば、パースペクティブの取り方を変えることは事実上不可能だと考えられます。  
地動説に対する西洋人の態度と日本人の態度との間に大きい違いがあることについてはこれでおおまかな説明ができたと思いますが、まだ別の問題が残っています。18世紀末ないし19世紀初頭には、ニュートンの力学の法則が日本の一部の知識人に知られました。それにもかかわらず日本人はそれを発展させることをしなかったので、19世紀後半の「文明開化」に際して改めてそれを英語の書物を通じて一から勉強し直さねばなりませんでした。  
こういう現象についても『菊と刀』の視点から見ておく必要があります。「万分の一の恩返し」にある次の文です。  
日本人はなまなまと記憶されている者以外の祖先に対する孝行を重視しない。彼らはもっぱら今ここにあるものに集中する。多くの書物が、日本人の、抽象的思索、もしくは現存しない事物の心像を脳裏に描き出すことに対する興味の欠如を論じているが、日本人の孝行観は、中国のそれと対照してみると、やはりこのことを立証する一つの事例として役立つ。  
日本人の特色の一つが「抽象的思索、もしくは現存しない事物の心像を脳裏に描き出すことに対する興味の欠如」にあるというのは、ベネディクトだけでなく、日本人でない観察者、研究者の多くが認めていることなのです。そうであってみれば、ニュートンの業績がたとえば砲術の理論の確立に役立つかもしれないという程度のことさえ考えられなかったのは偶然でないことがわかります。そういうことを考えるには多少とも抽象的思索をしなければならないのです。  
抽象的な事柄が日本人にとって大切でないことは、別の所でも言及されています。「各々其ノ所ヲ得」にある「地図」の比喩について見ておきましょう。  
日本には、侵略行為は、もしそれが現行の行動の「地図」の上で許されていない行為であるならば、必ず矯正されるという保証が実際に与えられていた。人はこの「地図」を信頼した。そしてその「地図」に示されている道をたどる時にのみ安全であった。人はそれを改め、あるいはそれに反抗することにおいてではなくして、それに従うことにおいて勇気を示し、高潔さを示した。そこに明記されている範囲内は、既知の世界であり、したがって、日本人の眼から見れば、信頼しうる世界であった。その規則はモーセの十戒のような抽象的な道徳原理ではなくて、この場合にはどうすべきか、またあの場合にはどうすべきか、武士ならばどうすべきか、また庶民ならばどうすべきか、兄にはどういう行為がふさわしい行為か、また弟にはどういう行為がふさわしい行為か、というようなことをいちいち細かに規定したものであった。  
日本人は、「モーセの十戒のような抽象的な道徳原理」に従って行動することに馴染まず、いろいろな具体的状況に関して一々細かく規定された「地図」に書いてあるとおりに行動することを良しとします。ニュートンの運動の法則は自然現象を極度に抽象化したものですから、それをそのまま「地図」の記載事項とみなしてもほとんど役に立ちません。それでその法則の価値を認識できなかったのですが、西洋人がその抽象的な法則から出発して非常に有用な技術をたくさん開発したこと、そしてそれが大衆の啓蒙と強く結びついていることを知ってからようやくその重要性に気付いて勉強に熱を入れるようになったのです。  
ではなぜ日本人は抽象的な思索を好まないのでしょうか。『菊と刀』の「徳のジレンマ」から次の文を引用しました。  
日本人の生活において恥が最高の地位を占めているということは、恥を深刻に感じる部族または国民がすべてそうであるように、各人が自己の行動に対する世評に気を配るということを意味する。彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める。  
そういう推測が成り立つためには、その他人と自分との考え方が少なくとも大筋において共通でなければならない。お互いにどういう考え方をしているのかわからないようではそんな推測は不可能であり、したがって自己の行動の方針を定めることができなくなる。そういうわけで、「抽象的思索」や「現存しない事物の心像を脳裏に描き出すこと」といった、くどくどと説明しなければ他人に理解されないものは、日本人の社会生活にとってはむしろ邪魔な存在である。日本人がそれに興味を欠いているのはこのためである。  
結局、日本人がニュートンの運動の法則を明治になるまで放ったらかしにしていたことは恥の文化によって説明が付くのです。 

 

仏教僧侶の間で須弥山(しゅみせん)宇宙説が受け継がれ、18世紀から19世紀にかけてそれに関する書物がいくつか現われたことが述べられています。しかしその説は、江戸時代にはもはや知識人たちには相手にされないものになって、教団の中だけで保存されていたにすぎません。  
章で大きく取り挙げられているのは、本居宣長(1730−1801)と平田篤胤(1776−1843)の宇宙論です。そのほか佐藤信淵(1769−1850)の宇宙論にも触れており、またいろいろな意味での自然観、世界観をめぐって水戸学、朱子学そして蘭学、さらには芭蕉や良寛の思想にも言及されていますが、ここでは宣長と篤胤の宇宙論について手短に述べておきましょう。  
宣長の宇宙論の要点は、記紀に記載されている宇宙生成の神話と、西洋人が伝えた天球地球説との融合にあります。仏教の説く須弥山宇宙説も、中国で考えられた蓋天説や渾天説も、事実に基づかない人工的な宇宙観として排除されました。彼の見るところでは『古事記』こそが「いささかのさかしらを加へずして、古へより伝へ伝へたるまゝに記された」書であったのです。そして天球地球説も疑い難いものと考えられたのですが、キリスト教の創世神話には触れず、キリスト教に対する批判はしていません。  
解説によると、宣長は『古事記』の冒頭にあらわれる天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神産巣日神(かみむすびのかみ)の三神は天地の生成以前から虚空の中に存在していたと考えていました。宣長はこの三神のうちの後の二神が宇宙の生成にあずかったとしましたが、その二神が作り出したとは言っておらず、「御徳」によって生成されたとしているのです。そこに生成されたものは「浮脂(うきあぶら)の如くして、くらげなすただよへる」宇宙であったのですが、『古事記』によるとそこに「葦芽(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物」があって、そこにまた二柱の神が出現したことになっています。宣長は、その萌え騰る物とは「虚空(おおぞら)に漂」うところの「一物」であるとし、その一物から天地が分離・生成したと考えました。  
宣長のこのアイデアは彼の弟子服部中庸(はっとりなかつね。1754−1824)によって発展させられ、『古事記伝』の付録『三大考』において天球地球説と融合したのです。荒川氏はそれを次のように要約しました。  
まず、宣長の理解にしたがって、天地の出現以前に虚空中に存在していたのは、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神。一方、虚空中には宇宙の原質となる一物が生まれ、高御産巣日神と神産巣日神の働きにより、その一物から天が萌えあがって、残りの部分が大地となり、他方で、黄泉の国が地底に垂れ降る。ここにおいて中庸は、天=高天が原は太陽であり、黄泉の国は月であると解釈した。もちろん、葦原の中つ国は皇国と外国をふくむ地球である。黄泉が垂れ降るというのは、記紀にはみとめられないが、中庸は、天と大地の分離になぞらえて、黄泉の国が一物から分離したと推察する。高天が原・葦原の中つ国・黄泉の国という垂直的な宇宙構造論にたつ議論となっている。  
つづいて、太陽(天)・地・月(黄泉)の分離がはじまり、やがて太陽と月は独立の天体となって地球のまわりを回転するようになる。地球中心の宇宙の完成である。 …(中略)…  
中庸も宣長と同様、仏教と儒教の宇宙論にたいしては否定的である。『三大考』の冒頭でのべているように、インドの説は「たゞ世の女童(おみなわらわ)を欺くが如き、妄説(みだりごと)なれば、論(あげつら)ふにも足らず」であり、中国の説も「是も亦皆妄説也」である。それにたいして、わが国に伝わる天地開闢の説は、「いさゝかも私のさかしらを加ふることなく、ありのまにまに、神代より伝はり来にける、これぞ虚偽(いつはり)なき、真(まこと)の説には有りける」である。他方で、これも宣長と同様、「海路(うみつぢ)を心にまかせて、あまねく廻(めぐ)りありくによりて、此の大地(おおつち)のありかたを、よく見究(みきは)めて、地は円(まろ)にして、虚空(そら)に浮ベるを、日月は其の上下へ旋る」ことを考ええたヨーロッパの宇宙論にも賛意を表する。このヨーロッパの宇宙論は、中国・インドの宇宙論とは違いが大きいのだが、日本の、一物から天・地・黄泉が生まれるという説とは齟齬をきたすことがない。記紀から中庸が読みとった宇宙創成論とヨーロッパの地球中心説とは両立しうるという。  
荒川氏はこれに続いて、この宇宙観は中庸の独創というよりはむしろ宣長の説と言うほうが当たっているという意味のことを述べています。  
日本の古代の神話と西洋の近世の宇宙論とを結び付けるという一見奇妙な操作がなぜ可能であったのかという点については、荒川氏は「記紀は、大地の形状についても、天体の運行についても具体的にのべることがない。だから記紀はどんな宇宙構造論でも取り込むことができた」としています。この見解は現象の一面をとらえたものとして傾聴に値しますが、 私はその外にもいま一つ考えに入れてもよいことがあると思います。それについては、平田篤胤の説を見てから申しましょう。  
服部中庸の『三大考』が書かれたのは1791年ですが、それから21年後の1812年に、宣長の門人であった平田篤胤が『霊能真柱』(たまのみはしら)を書きました。彼はその中で宣長・中庸の宇宙論から出発して独自の見解を加えた説を展開しました。荒川氏の解説によると篤胤はひそかにキリスト教の文献を読んでいたらしく、その本の随所にキリスト教の影響と見られる記述があるそうです。しかし 私は神学の問題には立ち入らず、宇宙論だけに注目します。とくに興味深いのは荒川氏によって次のように言い表わされていることです。  
すでに中庸によって肯定的に受けとめられていた地動説は、篤胤になると、より積極的に承認されるようになる。『霊能真柱』で篤胤は太陽と月と大地の生成を論じたところで、「地は大空に漂い、日について廻るものである」とものべていた。それを、太陽が回ると思うのは、「たとえば、舟に乗って川を行く時、舟が止まっていて岸が移るように考えることと同じことである」。記紀の神話は地動説をも包容可能だった。  
しかも、篤胤は大地が動く地動説もヨーロッパから日本に伝えられたのではなく、すでに記紀の神話に含まれていたという。ヨーロッパの説が日本の説に似ていたのであって、その逆ではない。司馬江漢にとって地動説は西洋文明を象徴するものであったが、篤胤はそれを日本のものとする。ヨーロッパの科学を受けいれながら、神話的なナショナリズムと折り合わせようとするのである。  
記紀の内容とヨーロッパの宇宙論とを結び付ける篤胤の態度は、宣長・中庸の場合と同じ方向に向いており、より前に出ています。  
この三人の行動のパターンを見るとき、私は『菊と刀』の「降服後の日本人」に引用された幣原喜重郎の演説を連想します。その演説は1945年10月、米軍による日本占領が開始されてから最初の帝国議会において内閣総理大臣として行なわれたもので、引用されたのは次の部分です。  
新日本の政府は、国民の総意を尊重する民主主義的な形態を取る。(中略)。わが国においては古来、天皇は国民の意志をそのみ心としてこられた。これが明治天皇の憲法の御精神であって、私がここに言うところの民主的政治は、まさしくこの精神の顕現と考えることができる。  
ベネディクトはこれに次のコメントを添えました。  
このようなデモクラシーの説明は、アメリカ人読者には全く無意味、いな無意味以下のものと思われるのであるが、日本が西欧的なイデオロギーの上に立つよりは、そのような過去との同一視の基礎の上に立つ方が、いっそう容易に市民的自由の範囲を拡張し、国民の福祉を築き上げることができるということは疑いの余地がない。  
国学者の宇宙論と、幣原喜重郎の民主主義論との間には、過去との同一視という共通のパターンがあります。日本人が思想を受け入れるときには、それが本当は昔から日本にあったものだと考えなければ安心できないのです。そのパターンに属するものは他にもたくさんあります。たとえば1890年に渙発された教育勅語ですが、それから半世紀余にわたって日本の教育界を一色に塗り潰したその勅語のベースは儒教思想であり、さらに近代ヨーロッパの思想が加味されているにもかかわらず、それは皇祖、皇宗すなわち天皇の先祖の遺徳だということにしています。地球説や地動説を『古事記』と結び付けたり、民主主義が明治天皇の思想だと言ったりするのが例外的な珍説だと言うわけにはいきません。  
ではなぜ日本人に思想を受け入れさせる場合に過去との同一視が効果を発揮するのでしょうか。このことを考えるときには、『菊と刀』の「日本には、侵略行為は…」に始まる文を思い出す必要があります。ベネディクトが言ったように、既知の世界にあるものなら日本人に信頼されるのです。それゆえある思想を導入しようとする場合に、これは新規の思想のように見えるけれども実は昔からわが国にあったものだよと言えば日本人は安心して受け入れます。また日本人が見慣れない思想に出会ったときには、それが既知の世界にあるもるのと同じだと思いこむことによって安心感を持ちます。フランシスコ・ザビエルが初めて日本人にキリスト教を教えたときに日本人はその神デウスのことを大日如来として受けとめましたが、たぶん、そう思わなければ心の中に混乱が起こったのでしょう。そういう「過去との同一視の基礎」があってはじめてキリスト教を受け入れることができたのです。地球説も、地動説も、教育勅語に言われている「博愛衆ニ及ボシ、学ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ広メ、世務ヲ開キ」という、封建時代には厳しく制限または固く禁止されていた事柄を全国民に奨励することも、政府が民主主義的な政策を取ることも、すでにずっと前から「地図」に載っていたのだと、自分自身にも、他人にも言い聞かせることによって受け入れる準備ができたのです。  
要は、日本人の生活において他人(‘others’であって‘outsiders’ではありません。したがって親兄弟を含みます)がどういう判断を下すであろうかを推測することがきわめて重要であり、それと同時に自分がどういう判断を下すかが他人によって容易に推測されることも同様に重要だからです。そのためには抽象的な原理に基づいて行動するのは不適当であり、あの場合にはこうする、この場合にはどうするということが具体的かつ詳細に記載された「地図」を共有してそれに従うのが日本人としては最も良い方法なのです。 
近代・現代

 

最初に注目されるのは、福沢諭吉の『窮理図解』(1868年刊)です。それは三巻からなる物理学の初歩の解説書ですが、その「巻の三」が天文学に当てられており、その中で地球説および地動説が記述されています。前に述べたようにそれらは、18世紀末頃にはオランダの書物を通じて学者たちに知られていましたが、一般人にはほとんど知られていませんでした。福沢はアメリカの学者が著わした書物に基づいて初等教育の教科書として使うことのできる本を書いたのです。その意味でその著述は画期的なものでした。荒川氏はその内容の概略を解説すると共に、福沢の思想についても述べています。それは、『学問のすすめ』で言われているように、人間は生まれつき貴賎上下の区別を身につけているのではなく、身分の高低は学問に励んだか否かによるのであって、学問に励まなければ一身の独立は実現せず、一身の独立をなしえない人々の国は独立国であり得ないという考えを中心にするものでした。要するに啓蒙が目的であって、宇宙論に関する知識も、国家の独立に貢献し得る人材の常識 ― もっとはっきり言えば外国人に馬鹿にされないための備え ― として教えられたのです。その考えが発展していった先では、純粋な知的活動に対する憧憬よりはむしろ実利の追求を重く見る態度が濃厚になっていく傾向が当然のように現れてきました。  
明治政府の科学技術教育政策もその線に並行するものでした。1877年には東京大学が開設され、それが発展して1886(明治19)年には帝国大学と呼ばれるようになりましたが、その目的は「国家の須要に応ずる学術技芸を教授し及び其の蘊奥(うんのう)を考究する」こととされました。個人主義ではなく、国家主義がはっきりと打ち出されたのです。この点に関連して荒川氏は、こう述べています。  
その結果、科学にたいする技術的な見地からの評価が強まる。理学部長から帝国大学の理科大学長となり、のちには大学総長・文部大臣を歴任した菊池大麓は、理科大学長のときに著わした『理学之説』で、理学は「純正の理学」と「応用の理学」とからなるが、真理の発見を目的とする「純正の理学」にしても、それが、「実地家の事業より何倍の実益」をあげうるという点でのみ重要視されるとの見解をのべていた。そのため、大麓にとって理学は、技術の基礎としての有用性がたしかめられていた物理学と化学とその周辺分野であった。科学が技術の基礎であるというのは、当時のヨーロッパを支配していた科学思想であるが、江戸時代の蘭学・洋学の科学観をうけついだともみることができよう。現世利益のための科学である。  
読者のみなさんは「現世利益」という言葉がここで初めて現われたのでないことをご存じですね。荒川氏は第1章で古代の「文明開化」に言及したときにこう述べました。  
さまざまな大陸の文化が流入したが、日本人が期待したのは現世利益、実用の技術と呪術である。専門家による天文観測がおこなわれても、その背後にある宇宙の理論的な問題に目をむけた様子はない。蓋天説や揮天説といった古代中国の宇宙論にたいして支持とか反対とかといった積極的な反応は伝えられていないのである。  
それとまったく同じパターンの行動が明治時代にもあったのです。それは日本人にとってはあまりにも当然で、少しも意識せずに行なわれましたが、西欧人の目には異様に見えました。  
このことをはっきり言った人物の一人がエルウイン・ベルツ(1849−1913)です。彼は医学者で宇宙論とは直接の関係を持っていませんでしたが、科学技術の西欧からの受容ということを考究する際に見逃してはならない点を鋭く指摘した演説をしました。時は1901年11月22日、場所は東京の小石川植物園、東京帝国大学関係者によって催された彼の在職25年祝賀会の席上でのことです。そこには文部大臣菊池大麓をはじめとして、帝国大学の総長、多数の教授、学生が列席していました。その演説の核心部分は次のとおりです。  
すなわち、わたくしの見るところでは、西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われるのであります。人々はこの科学を、年にこれこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んでそこで仕事をさすことのできる機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体でありまして、その成長には他のすべての有機体と同様に一定の気候、一定の大気が必要なのであります。  
しかしながら、地球の大気が無限の時間の結果であるように西洋の精神的大気もまた、自然の探求、世界のなぞの究明を目指して幾多の傑出した人々が数千年にわたって努力した結果であります。それは苦難の道であり、汗 ― それも高潔な人々がおびただしい汗で示した道であり、血を流しあるいは身を焼かれて示した道であります。それは精神の大道であり、この道の発端にはピタゴラス、アリストテレス、ヒポクラテス、アルキメデスの名前が見られますし、この道の一番新しい目標の石にはファラデー、ダーウィン、ヘルムホルツ、フィルヒョウ、パストール、レントゲンの名前がしるされています。これこそヨーロッパ人が到るところで、世界の果てまでも身につけている精神なのであります。  
諸君! 諸君もまたここ三十年の間にこの精神の所有者を多数、その仲間に持たれたのであります。西洋諸国は諸君に教師を送ったのでありますが、これらの教師は熱心にこの精神を日本に植えつけ、これを日本国民自身のものたらしめようととしたのであります。しかし、かれらの使命はしばしば誤解されました。もともとかれらは科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として取り扱われたのでした。かれらは種をまき、その種から日本で科学の樹がひとりでに生えて大きくなれるようにしようとしたのであって、その樹たるや、正しく育てられた場合、絶えず新しい、しかもますます美しい実を結ぶものであるにもかかわらず、日本では今の科学の「成果」のみをかれらから受取ろうとしたのであります。この最新の成果をかれらから引継ぐだけで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとしないのです。  
この発言は時おり学術的なエッセイ等に引用されますが、長い間それが正面から取り挙げられることはありませんでした。何かの問題に関連して「ベルツはこう言った」というふうに扱われ、短いコメントが添えられるのが常態でありました。中にはその演説を指して「日本の学問の在り方に重大な忠告を与えた」と言った人もありましたが、いかなる意味で重大なのかということまでは明言しなかったのです。誰もが、その演説を聴いた(あるいは読んだ)人々が皆一様にベルツの意図を理解できるはずだと思い込んでいたのです。要するに、ベルツの切々たる訴えは日本人の右の耳に入って左の耳から出てしまったのです。日本人は彼をこの上なく尊敬し、東大での四半世紀にわたる教育と研究の功績を讃えて盛大な祝賀会を催し、立派な記念品を贈呈するという最高の栄誉を捧げたにもかかわらずそうなったのです。日本人の「現世利益」中心の価値観は、それ程までに強固でしかも意識されないものなのです。これこそベネディクトの言う「パースペクティブの取り方」がもたらしたものの好例の一つでしょう。  
そして荒川氏が次のように言い表わした状態になっていったのです。  
欧米の大学をモデルに生まれた唯一の大学である東京大学・帝国大学に明治国家を担う高級官僚と高級技術者の養成を独占させた(二つ目の帝国大学である京都大学が生まれるのは、二〇年後の一八九七年であった)。この意味で、東京大学の創設が果たした意味は大きかった。しかし同時に、それは、その後の日本の大学と日本の近代化の性格を強く規定することになった。日本人の宇宙観の歴史についてもである。  
西洋では、すでに18世紀中にハーシェルが天王星を発見し、さらに銀河系の構造に関する初歩的な説が提出されていましたし、カント、ラプラスの星雲説も唱えられていました。そして19世紀には力学的計算を手掛りとして海王星が発見されるという劇的な出来事があり、更に望遠鏡の性能の向上によって銀河系が大宇宙に多数存在する島宇宙の一つであることが確認されるという画期的な進歩もあったのです。その中での日本の状況は、荒川氏の表現によれば「草創期の東京大学で盛んであったのは天の研究よりも大地についての研究である」ということでした。水沢緯度観測所に拠った木村栄(ひさし)が1902年に緯度変動に関してZ項を発見したのは日本の天文学史に特筆される業績ですが、これもその文脈の中に位置していることがわかります。そしてその文脈を共有するものとして日本国内での重力や地磁気の測定が盛んに行なわれました。長岡半太郎が金属の磁気の研究という当時の先端の問題に進出したのもこういう背景があってのことでした。荒川氏はあからさまには言及しませんでしたが、こういう鉱物資源の開発とか軍事技術の向上に関係する方面に力が注がれ、宇宙の構造というような「国家の須要」から遠い問題は軽んじられたのです。  
荒川氏はこういう話の後で進化論の受容とそれに関連する社会学上の論議について述べていますが、ここではそれに立ち入らないことにします。それよりむしろ内村鑑三(1861−1930)の思想について述べたセクションが注目を引きます。  
内村は熱心なキリスト教徒でした。彼の信仰はラジカルで、人が組織した教会を認めず、神によって造られた宇宙が教会であるという立場をとりました。そして彼は、キリスト教と科学との間に矛盾があるとは考えていませんでした。荒川氏は、『キリスト教問答』から次の文を引用しています。  
彼が神を信ずるによってのみ、この権能は彼に賦与せらるるのであります。霊が物に勝つまでは物の科学研究は始まりません。……天然を神の意志の発顕と見て、我らは始めて天然の真相を悟り、したがって虔(つつし)んでこれを研究せんと欲するの念がわれらの心に起るのであると思います。  
ここに用いられている「天然」という語について荒川氏が解説を加えています。もちろんそれは英語のnatureにあたる語ですが、「おのずから然るもの」ではないので「自然」とは言わないのです。それは「天(=創造主)」によって造られたものと考えたのです。そして彼は、内村によって1910年に書かれた次の文も引用しました。  
乍然(しかしながら)科学は神を宇宙の外に発見する能はらざりしと雖も、其内(「其内」に圏点)に彼を認めざるを得ない、此無限的に大なる宇宙、此無限的に精細なる宇宙、星と塵とは相関聯し、人と艸(くさ)とは相繋がる、宇宙は一体である、身体が一体であるが如くに一体である、四肢相関聯し、同一の活液は全体を循環する、而して之を統一するに霊魂がある、宇宙が有機体(オルガニズム)でないならば止む、然れども有機体である以上は(而して科学は有機体であると云ふ)之を統一するに其霊魂がなくてはならない、神は宇宙の霊魂である。  
ここに盛られている思想は、ガリレオやニュートンのものとほとんど同じと言ってもよいのではないでしょうか。科学に偶然性の論理が導入されていなかった当時としては、あらゆる自然現象が整然たる合理性に導かれているように見えるのを神の御業(みわざ)と見て、神の存在に対する確信を固める人があったのは理解できることです。ただ、日本人の大多数はそうでなかったということも事実です。そういう意味で、内村は日本人離れした人物であったのでしょう。  
彼が日本人離れしていたということは、荒川氏が次のように書き表わしていることからも見て取れます。  
一九〇三年の講演「日本国の大困難」では、そのような文明批判の観点から、明治の日本はヨーロッパの精神から切り離されたヨーロッパの近代文明のみを摂取していると指摘するとともに、日本の困難の原因については端的に、「日本人がキリスト教を採用せずして、キリスト教的文明を採用したこと」にある、とみていた。内村によれば、自由や民権も人類の誕生とともにあるのではなく、キリスト教の精神が前提となって出現したものである。したがって、ヨーロッパ文明によって日本人の精神を根底から改革しようとするならば、その文明の根底にあるキリスト教を採らねばならない。つまり、「天賦人権論」の「天」そのものをみずからのものとしなければならない。  
ここに言われている内村の行動のうち「明治の日本はヨーロッパの精神から切り離されたヨーロッパの近代文明のみを摂取していると指摘」したことは、ベルツの演説と同じパターンを持っています。ベルツもヨーロッパ人が大切にしてきた「精神の大道」を日本人が捨てて顧みないことを問題にしました。ただ、ベルツはキリスト教を前面に掲げることをしませんでした。それは、ピタゴラス、アリストテレス等々という非キリスト教徒の業績を考慮に入れずには済まないからだと思われます。その点、内村は視野が狭かったと言われても仕方がないでしょう。しかしたとえ視野が少し狭かったとしても、内村はベルツと類似のパースペクティブを取ったのです。彼のことを日本人離れしていたと評するのは間違いではありません。  
さらに荒川氏は、日本のキリスト教全体が明治20年代後半以後信者の減少を見るに至った中で内村の活動も有効でなかったことについてこうも言っています。  
権力との関係を排し、イエス Jesus と日本 Japan という「二つのJ」をモッ卜ーに「日本的キリスト教」を追い求めながら、神の造った宇宙を教会とし、直接に神から真理を学ぶべきであるという内村の無教会主義にしても、けっして成功とはいえなかった。原理的・超越的なものを排する日本の土地にキリスト教を植え付けるのは至難だった。遠藤周作が『沈黙』でフェレイラに語らせた「どうしても基督教をうけつけぬなにか」という問題に内村もつきあたっていたのである。  
荒川氏は「明治の近代化と宇宙意識」の最後のページでこう述べました。  
キリスト教の布教が再開され、自由民権運動の原理となった天賦人権論が一世を風靡しても、キリスト教の「天(=神)」という形而上学的原理は日本社会に根づくことはなかった。儒教的な忠孝の精神は「教育勅語」の基礎にすえられ、それは小学校教育をとおして全社会的に浸透したのだが、忠孝の上位概念であった天が見直されることはない。天皇主権が明記された帝国憲法でも、その根拠は儒教の天によるのではなく、万世一系という血統的連続性と社会有機体説に装われた家族国家論にもとめられた。天は天皇のなかに隠されたのである。  
まさにその通りです。それは「忠孝の上位概念であった天が見直されることはない」という点についてですが、その「天」を崇拝する思想に由来する「仁」の概念が日本人によって零落させられたことが『菊と刀』の「万分の一の恩返し」で論じられています。ベネディクトは、朝河貫一の『入来院文書』から「日本ではこれらの思想は明らかに天皇制と相容れぬものであった。したがって、学説としてさえも、そっくりそのまま受け容れられたことは一度もなかった」という言葉を引用し、日本では「仁」は倫理体系の外に追放された徳となって、中国の倫理体系の中で有していた高い地位からすっかりおとされてしまったと言いました。 

 

ご覧のように、ここに名の出ている日本人はいずれも科学の専門家ではありません(宮沢賢治は科学の分野に通じた人ですが、ここでは文学者として論じられています)。もちろん、その章には幾人かの日本人科学者の業績への言及がありますが、それらが日本人の宇宙観の問題としては取り挙げられてはいないのです。  
これは、宇宙論のパラダイムを転換させるような業績が日本人学者によって挙げられたことがないということから来ているように思われます。あらっぽい言い方をすれば、日本人にとっての宇宙論は、作り出すものではなく、受容するものであったのです。このこと自体が文化論的考察の主題でありえますが、受容に際してどういう受けとめ方がされるのかという話になると、もはや科学者の問題であるより思想家の問題になるわけです。前の第7章ですでにそうでした。そこでは福沢諭吉と内村鑑三という互いに大きく異なる価値観を持った二人の科学者でない人物が大きく取り挙げられました。この第8章でもその観点が保持され、科学者でない数人の論客が考察の対象になっているのです。ただし、 私はそこに深く立ち入ることをしません。今回主として取り挙げるのは、日本人の間でアインシュタインの人気が非常に高かったということと、それから日本人が自然とどう関わりあってきたかということです。  
宇宙論のパラダイム転換と言えば地動説とかビッグバンなどいくつかの事柄が思い出されますが、その中には必ずアインシュタインの相対性理論が含まれます。第8章「現代宇宙論との出会い」もその相対性理論の話から始まっています。1920年代にわが国で「相対性理論ブーム」と言ってもよい社会現象があったことに関連して荒川氏が次のように述べていることは見逃せません。  
なぜ、アインシュタインの相対性理論はこれほど日本人の関心をよんだのか。その状況はヨーロッパの場合とはちがっていた。近代ヨーロッパ科学のパラダイムであるニュートン力学の否定はヨーロッパ人に一大衝撃をもたらしたのであるが、日本人は目下ニュートン力学を学習中、いわばニュートン力学がパラダイム化される以前だったのであるから、ニュー卜ン力学が覆されるといっても、ヨーロッパ人のような衝撃をうけることはなかった。むしろ、アインシュタインの相対性理論の衝撃は、この点ではヨーロッパ人にとってもそうであったが、日常的な感覚とは相いれない結果をもたらすという点においてであった。物体や時間の伸び縮み、空間の歪み、境界のない有限の宇宙、質量とエネルギーの同等性などである。  
だから、アインシュタインの相対性理論のしめす空間と時間の観念がニュートンのそれと異なる、非常識で理解しがたいものであるとしても、それにたいする理論的な反発はほとんどみられなかった。一高講師の物理学者であった土井不曇(ふずみ)のようにアインシュタインの相対性理論に異議を唱えるものも現われたが、ごく稀な例であった。地球説や地動説にたいする日本人の態度にも共通する。  
そこには「地球説や地動説にたいする日本人の態度にも共通する」行動のパターンがあるのです。地球説や地動説にたいする日本人の態度については荒川氏の本の第4章「キリシタン天文学」と第5章「地動説の受容」で解説されており、 私はそれについて分析をしました。日本人の態度を「簡単に言えば、西洋人が学者を火あぶりにしてしまうほど精神的衝撃を受ける新説が現われても日本人はそれを『ああ、そうですか』と言って聞き流したのです」と言い表わしましたが、一見したところ、相対性理論の場合にはそうではなかったように見えます。金子務氏の『アインシュタイン・ショック1』(1991年、河出書房新社)第1章「日本上陸」によれば、1922(大正11)年アインシュタインが海路神戸に到着したことを翌日の日刊新聞各紙はそれぞれ大きく報道し、次のような見出しを掲げたということです。  
アインシュタイン博士来る  温容春のやうな懐しさ 光に力を置いた船上の土産話 夫人の面には秘書役の疲れが見えた (大阪毎日新聞、社会面トップ、三段)  
『科学界の巨人』来る アインシュタイン博士神戸へ着 知識の国際的関係を説く (大阪朝日新聞、杜会面第二トップ、三段)  
偉大なる「光」の如く輝きて 学界の巨人ア博士来る 埠頭に渦巻く出迎への群 (神戸新聞、社会面第ニトップ、三段)  
北野丸で来朝した 上乗機嫌のア博士 日本の木造建築美が見たい (神戸又新、社会面トップ、三段)  
世界学界の巨人 アインシュタイン博士 愈(いよいよ)来朝相対性理論は 難解では無いと船中で語る (京都日出新聞、社会面中記事、二段)  
これだけを見れば、「ああ、そうですか」と聞き流したという表現が見当外れに見えるかもしれません。しかし一般向けの日刊新聞が大きく取り挙げたからと言って一般人が相対性理論を理解したと考えるわけにはいきません。問題はむしろ専門家の方にあります。その相対性理論を理解したはずの学者たちの間からそれに対する異義あるいは批判論がほとんど現われなかったということが問題なのです。それを「ああ、そうですか」と聞き流したと言うのは、表現がどぎついかもしれませんが、かならずしも間違いとは言えないでしょう。  
では、アインシュタインに対する一般の日本人の熱狂的とも言える歓迎ぶりは何に由来していたのでしょう。それを考えるときには、彼がその前年にノーベル物理学賞を受けたということを忘れるわけにはいきませんニュートン以来の物理学の体系を一新するという大きい業績を挙げた人物だと聞かされ、しかもノーベル賞受賞者だと言われれば、それだけでもう日本人は彼に最高の敬意を表します。しかし、だからと言って彼の言うことを理解したとは言い切れません。前回見たベルツの演説のように、右の耳に入って左の耳から出てしまったということもあり得たのです。  
さらに少々付け加えましょう、当時のノーベル賞受賞者は、全分野を通じて、ほとんど全員がヨーロッパ人またはアメリカ人でした(例外は、文学賞を受けたタゴールただ一人です)。つまり、日本国内にはその点で肩を並べることのできる人は一人も居なかったのです。それでアインシュタインは、学者としての「階層制度」(hierarchy)の中ではすべての日本人より上に居ると考えられたのです。普通の日本人は階層制度の頂点に立つ人を批判しないということをご存じでしょう。批判を差し控えるのは一種の思考停止です。たとえ理解したとしても、「ああ、そうですか」と聞き流すのと同じ結果になります。これによって当時の日本人物理学者の態度を説明することができます。  
荒川氏は相対性理論に対する日本人の態度のことを述べた後で、話題を転換してアインシュタインが持った日本の印象、とくに日本の芸術に関する印象に言及しています。そこでアインシュタインが汎神論的なスピノザの神を信じていたことに触れてから引用した言葉は次のとおりです。  
この点で私は瞠目と驚嘆の念から逃れることができない。自然と人間とは一体様式 Stileinheit 以外の何物も生まないほどに一つに結ばれている。実際にこの国に由来するすべ てのものは、愛らしく晴れやかであり、抽象的でも形而上学的でもなく、常に自然によって与えられたものとかなり緊密に結びついている。  
そして荒川氏はこれに次のコメントを添えました。  
もちろん、これはアインシュタインの新しい発見ではない。「自然と人間との一体様式」というのは、私たちも、詩歌、宗教、庭園から医学の世界にまでみてきた日本文化の特質にほかならない。たしかに、スピノザにおいても自然と人間は「神即自然」に統一されている。しかし、それは日本の文化にみられた融合というものではない。自然の秩序を自覚したうえでの神との同一化である。  
「これはアインシュタインの新しい発見ではない」というのは、たとえばラフカディオ・ハーンに前例を見ることができるのです。  
それから話は6人の日本人の自然観に移っていきます。そこで注目される人物は、夏目漱石、寺田寅彦、西田幾太郎、和辻哲郎、戸坂潤、賀川豊彦および宮沢賢治です。この人たちはいずれも何らかの意味で「自然と人間との一体様式」に接点を持っていたのです。しかし、この部分についてはここでは立ち入らないことにします。  
荒川氏は、ジョージ・ガモフが1946年に発表した宇宙創成論に端を発するビッグバン理論の解説もしています。その解説をここで繰り返すことはしませんが、ビッグバンが実際にあったという証拠はすでに1960年代に発見されており、現在の宇宙が生まれた経緯は説明されたということです。しかしビッグバンより前に宇宙が存在したか、時間は存在したのかという点をめぐって、1982年にA・ビレンゲンが新説を発表し、現在も論争が続いています。ガモフの説では、時間は永遠に経過しており、宇宙は膨張と収縮を繰り返しているということになるのですが、ビレンゲンはビッグバンより前には宇宙も、時間も存在せず、まったくの無から宇宙が生まれたと主張したのです。荒川氏はこれを「こうなると、ビッグバン理論は、ユダヤ・キリスト教の天地創造説の復活であるようにもみえる」と評しています。そしてそれに対する日本人の態度についてはこう言いました。  
キリスト教徒の多くない日本人のあいだでもビッグバン理論への異議は聞かれない。「無からの創造」にもとくに反発はないようである。それは驚くべきことではないだろう。国学者の平田篤胤さえもが、キリスト教の「無からの創造」の教義を受けいれていたのだ。しかし、はたして、日本人によってビレンゲンのような研究が生まれるであろうかといえば、日本人の宇宙観の歴史から考えても、否定的にならざるをえない。宇宙観はその社会の文化的産物なのである。  
荒川氏は、「日本人の宇宙と自然」のはじめの部分で日本人が自然とどう関わってきたかを要約しました。彼はまず第二次大戦後に日本は工業の飛躍的な発展を実現したが、それによって得たのは自然の「大破滅」を代償とした豊かさであったと指摘し、「かつて、私たち日本人は自然に育まれ生きてきたことを心底から感じとることのできた民族であった」にもかかわらず「自然の破壊にこうも平気でいられるのか」と疑問を提起しました。そして次のように、その事と宇宙観とを結び付けました。  
それもまた、日本人の宇宙観と無関係ではないように思われる。日本人は、海を渡ってきたさまざまな宇宙的思想を学ぶ機会があったのだが、想い起こされねばならないのは、それによって宇宙と自己との関係、自然と人間との関係を明確にする思想としては受けいれられなかったということである。『万葉集』の詠う自然との一体感はいまも生きつづける。そして問題は、そのとき日本人は自然を愛する人間ではあったが、同時に、自然に甘える人間でもあったという点である。すべてを水に流せるように、廃棄物でさえも自然がなんとかしてくれる! 私には、この自然への甘えが、自然に鈍感な、そして傲慢な人間をうみだした素地となったと思われてならない。和辻の風土論では説明しがたいところである。  
いいかえれば、日本人は自然を愛してきたとはいっても、それは宇宙的な自然ではなかったということである。日本人の好んだ自然は近傍的な小自然、山里の自然、旅の自然、わが家の庭の自然、和歌的自然、俳句的自然といってよい。俗塵にまみれた都会人がそこに逃れ、癒されるための自然であった。  
そのような自然に生きる人間にとっての主たる関心は宇宙的な人間関係ではなく小社会的な人間関係でしかない。自己の位置もつねに世間のなかで判断、そのために現世利益を超えた、根源から考える自前の論理を積極的にもとうとしない。そこでは、真の対立点はあらわにはされず、論理化されても「即」的論理でぼかされてしまう。善悪も明確にされず、矛盾がそのまま肯定されてしまう。そこを支配するのは、「自然」な共同体を維持しようとする本能的なもの、権力さえもが「自然」な秩序とうけとめられ、権力への迎合が「自然」となる。そんな「自然」な社会のなかで、自然の破壊はとめどなく進行する。  
荒川氏は、アインシュタインが日本における自然と人間との「一体様式」と言い表わしたものを肯定し、夏目漱石をはじめ幾人もの日本人が書き残したものにそれが反映していることを明らかにしましたが、最後にこの文を掲げてそれが一定の限界を持っていることを指摘したのです。 私は彼の主張を大筋において支持します。  
この引用文の要(かなめ)は、「日本人の好んだ自然は近傍的な小自然……であった」という所にあります。それが「小社会的な人間関係」を主たる関心事とすることと密接な関係を持っていることは明らかです。「自己の位置もつねに世間のなかで判断」「現世利益を超えた、根源から考える自前の論理を積極的にもとうとしない」「真の対立点はあらわにはされず、論理化されても〈即〉的論理でぼかされてしまう」「善悪も明確にされず、矛盾がそのまま肯定されてしまう」「〈自然〉な共同体を維持しようとする本能的なもの」によって支配される、そして「権力さえもが〈自然〉な秩序とうけとめられ、権力への迎合が〈自然〉となる」というのは、いずれも恥の文化から出た行動パターンです。  
しかしながら日本人は、自らに多大の要求を課する。世人から仲間はずれにされ、誹謗を受けるという大きな脅威を避けるために、彼らはせっかく味を覚えた個人的な楽しみを棄てなければならない。彼らは人生の重大事においては、これらの衝動を抑制しなければならない。このような型に違反するごく少数の人びとは、自らに対する尊敬の念すら喪失するという危険におちいる。自らを尊重する (「自重」する)人間は、「善」か「悪」かではなくて、「期待どおりの人間」になるか、「期待はずれの人間」になるか、ということを目安としてその進路を定め、世人一般の「期待」にそうために、自己の個人的要求を棄てる。こういう人たちこそ、「恥を知り」、無限に慎重なすぐれた人間である。こういう人たちこそ、自分の家に、自分の村に、また自分の国に名誉をもたらす人びとである。  
日本人は自然を見るときにもそこに人生観を投影しました。人生において最も重んじなければならないのは世人一般の「期待」ですが、その「世人」というのは通常何百人というような多数ではありません。まず父母、それから兄弟と配偶者です。その次には親類や隣人、そして職場の上司、同僚(学生、生徒であれば、教師や級友)がその範疇に入ります。職業上の顧客も無視できません(ただし条件があります。たとえば、製造業であれば、末端の消費者ではなく、直接顔を合わせる取引先が重んじられます)。しかしその程度を越えた広い範囲が問題になることは稀です。その範囲でうまくやっていけば人生は楽しく過ごせます。その範囲を越える社会のことを本気で考える人はきわめて稀です。人々に生きる道を示し、苦悩からの救済をすべき仏様でさえ「縁無き衆生は度し難し」と言ったと信じられています。また日常を離れた旅の空では少々まちがったことをしても「旅の恥はかき捨て」です。  
日本人が自然との間に「一体様式」を持つのもこれと同様のセンスにおいてであって、自分が今居る地点から見える範囲あるいは自分の記憶にある範囲だけが問題なのです。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」は遠い場所に思いを馳せる詩ですが、作者がすでに経験した範囲を越えません。日本の詩人は、山の彼方の空遠くにあると言われているところのまだ見ぬ「幸」を思いあこがれるというような詩を作ろうとはしません。ベネディクトが日本文化の型の一つとして挙げた「擬装された意志の自由」がそうさせているのです。その「擬装された」という限定があるか無いかで、阿部仲磨呂とカール・ブッセは色合の違う詩を作りました。そしてその限定とは無縁の西洋の科学者は次々と新しい宇宙論を開発しましたが、その限定を文化の型として背負っている日本の科学者は、西洋人が開発したものを特殊な解釈によってモディファイすることはしますが、彼らと同じ水準の画期的な新説を編み出すことは苦手なのです。  
 
「星座」の歴史

 

一番、最初に星をみていたのは誰?  
夜空を見上げると、星が輝いています。最近は、街の明かりがどんどん明るくなってしまって、たくさんの星々、満天の星空を見ることが難しくなってきました。でも、車で高い山などに登ると、(大崎地方ではちょっとたんぼ道を歩くと?)昔の人たちがみたような満天の星空を楽しむことができます。  
 昨年パレットおおさきに「一番、最初に星をみていたのは誰?」という質問が届きました。誰という質問には答えられなかったのですが、いろいろ調べていくうちに、こんな研究が発表されていました。それによると、フランスのラスコー壁画(1万5千〜1万年前)に描かれたいくつかの黒い点々が、おうし座のすばるを、また夏の大三角と模写したと思われる、というのです。この研究が正しければ、「星をみてそれを記録した最古の人々は」1万5千〜1万年前のフランスに住む旧石器時代の芸術家たち、ということになるでしょうか。  
「星座」とは  
それから時代が進み、昔の人々は、明るい星をむすんで「星座」を想い描きました。星座とは、星と星を結び,動物や人物、道具などに見立てて,天球上の区分としたものです。  
星座は、英語で、コンステレーションconstellationです。conは「共に」という意味があり、stellaは「星」、tionは名詞につく語尾の言葉ですので、直訳すれば「星の集まり」「星の散らばり」となるでしょう。  
現在普通に使われている星座は、西洋から伝えられた星座です。しかし、日本で星座といえば、明治初期までは、中国の星座「星宿」でした。西洋の星座が日本に入ってきた明治期以降も、しばらくの間、constellationは「星宿」と訳され、大正期ごろよりやっと「星座」と呼ばれることになったようです。  
星座の起源  
さて、星座は、いつ、どこでだれがつくったのでしょうか。  
かつて、星座は「ギリシア星座」と呼ばれていた時代がありました。ご存じのように、星座には、豪華絢爛、ドラマチック、ロマンティックなギリシア神話が描かれていたからで、星座の歴史も、今から3000年ほど前のギリシアで始まったものと考えられていたのです。しかし、今から100年と少し前になって、だいぶ話は違ってきました。  
今のイラクのあたりに、チグリス川・ユーフラティス川という二つの大きな川があって、そこにかなり古くから文明が栄えていたのはご存じかと思います。歴史の教科書でもおなじみの「メソポタミア文明」です。メソポタミア文明といえば、粘土などに尖ったヘラのようなもので刻んだ「くさび形文字」が有名ですが、そのくさび形文字が彫り込まれた粘土板などから、文明の詳しい様子、そしてギリシア以前の星座の古い歴史が明らかになってきたのです。今では、星座は、ギリシアより現在はもっともっと古い約5000年あるいはそれ以上も前に、今のイラクを中心としたメソポタミア地方で起こったものとされています。  
星のガイドブックや星占いの本には、よく「約5000年前、カルディア人(新バビロニア人)という羊飼いが、夜羊の番をしながら、空に星座をつくっていった」とあります。多くの人がこのような文章を目にし、これが常識だとお思いではないかと思います。しかし、これもあやまりです。星座の起こりについては、実は、まだまだはっきりしないことが多くありますが、カルディア人が活躍したのは約3000年前のことですし、カルディア人よりもっと古い今から約5000年も前にシュメール人やアッカド人といった人たちがつくり始めたのが星座の始まりの始まりではないか、というのが定説となっています。 
1.黎明期〜メソポタミア  
(1)シュメール人・アッカド人  
シュメール人は、BC.3500ごろに繁栄したセム系(メソポタミアを統一したアッカド人やバビロニアを建てたアムル人、新バビロニアを建てたカルデア人、シリアを中心に活躍したフェニキア人、イスラム教を生んだアラブ人など )の農耕民族です。神殿や塔など日干し煉瓦の建築物を建設したことなどがわかっています。BC2400頃、同じくセム系の農耕民族アッカド人に征服されますが、シュメール人もアッカド人も、共に高度な文明を築いた農耕民族で、星空をよく見ていた形跡があります。2つの民族の伝承によれば、  
恒星全体は「天の羊の群」  
太陽は「老いた羊」  
惑星は「老いた羊の星」、星にはみな羊飼いがいる  
“ジブジアナ”という明るい星は「天の羊の群の羊飼い」  
研究者は、ジブジアナをアルクトゥルスと考えており、もしこれが正しいとすれば、すでに、うしかい座の原型ができあがった、ということになります。  
しかしながら、シュメール人もアッカド人も、現在も使われている星座そのものをつくったという直接の証拠がないのが痛いところです。シュメール人によって星座の名前や絵を書かれた粘土板は、今のところまったくといっていいほど見つかっていないからです。しかし、メソポタミアで以降つかわれている星座の名前は、たいていがシュメール語で書かれているそうです。そういうところから、星座をはじめてつくった人としてシュメール人の名前があげられてくるわけです。  
ですから、星座の原形をシュメール人がつくり、それに続くメソポタミアの人たち<アッカド・アモリ・アッシリア・カルデア(バビロニア)といった人たち>が、星座として発展・整理していったのではないかと考えるのが自然なわけです。いつの日か、星座の名前が書かれたシュメールの粘土板が発掘される日が来るといいですね。  
(2)アモリ人・カッシート人 
さて、はじめて考古学的に星座の名前が登場するのは、今から約4000年前のことです。紀元前2000年頃、シュメール・アッカド人のあとにアモリ人(アムル人ともよばれる)です。アモリ人は、「目には目を歯には歯を」で知られる『ハンムラビ法典』で有名な古代バビロニア王国を作った民族。彼らも、シュメール・アッカドの高度な文明を受け継いでいました。アモリ人のが残した、今から3800年前のBC1800の記録には、荷車(おおぐま座)、天の狩人(オリオン)といった星座や、現在も星占いの星座として知られる「黄道十二星座」のうち、いて・かに・てんびんを除く黄道9星座が登場しています。つまり、このアモリ人が、「確実に星座をつくった、とりあえず確実な人たち」ということになります。農業を行うために、星ををよく観察し季節を知る必要性があり、やがて暦をつくっていったのでしょう。  
その後、ハンムラビ王が亡くなって、古代バビロニア=バビロン第1王朝が衰退していくと、カッシート族に国をのっとられてしまいます。カッシートの時代は400年も続きますが、あまりよくは知られていません。しかし、境界石(クッドルー)と呼ばれる石碑が大きく注目されます。  
クッドルーは、王が領主に授けた土地所有についての誓約書のようなものだとされています。楔形文字と絵が書かれていて、その絵には動物の姿が多く描かれています。かつては、これが星座絵だといわれていましたが、残念ながら、神々の姿(シンボルマーク)である、ということに現在は落ちついているようです。  
しかし、クッドルーの絵の中には、魚ヤギやサソリ人間、水がめをもつ女神があったりして、これが星座のもとになっていった、という見方もできそうです。  
(3)アッシリア  
今から約2700年前の紀元前6〜7世紀、アッシリア朝と呼ばれる時代になると、黄道12星座だけでなく36の星座が、粘土板に描かれるようになっていきます。アッシリアの王の中でも有名なB.C.669から626のアッシュール・バニパル王は、粘土板をたくさん作りました。その中にいろんな星座が書かれた資料も多く含まれています。黄道12星座を含む36の星座がみつかっており、星座の基本が確立したことがうかがえます。  
(4)カルディア人  
今から約3100前になると、先ほど紹介したカルディア人が登場します。カルディア人は紀元前1100年ごろ、メソポタミアにやってきたアラム系(今のシリアのあたり)地方遊牧民です。そのころのネブカドネザル1世がつくった境界石にはいて座・さそり座・うみへび座などの星座名が認められています。  
B.C.645頃からB.C.550頃まで繁栄したカルディア王国(新バビロニア王国)は、カルディア人が起こした王国ですが、彼らは、天文学・数学などを発達させました。「天文学はカルディアの賜」といわれるほど、カルディアの自然科学や天文学は高度でした。1年が12カ月、1週間は7日、1日は24時間、角度の1周は360度といった現在の常識となっている単位は、みなカルデアで産まれました。また、惑星の会合周期や日食予報など、かなりしっかりと計算され、粘土板にもその数字が残されているといいます。  
■ 
エジプト文明と天文学  
星座の起源はメソポタミア地方ですが、古くから、エジプトでも天文学が発達しています。  
古代エジプトの中心地は、ナイル川下流の広い三角州(デルタ地帯)とナイル川中流の細長い平野部分の関東地方ほどの面積の場所でした。ナイル川では、毎年夏になると大雨が続き、そこに高い山の雪解けが重なり、下流・中流は洪水に見舞われるのでした。洪水はまた、人々に肥沃な土地を与え、早くから農業が豊かに発達しました。  
古代エジプト人は、ソティス(=水の上の星の意味、おおいぬ座のシリウス)を重要視しました。それは、全天で一番明るい星であったということと、シリウスが夏の間太陽の光で約70日程姿が見えなくなった後、夏至の頃日の出直前に現れる始めると、間もなくナイル川の増水が始まるからです。このシリウス=ソティスが日の出の直前に見え出す日が、エジプト暦の元旦とされ、そのような注意深い観測から、1年を365日という、現在も私たちが使っている太陽暦を手に入れることになったのです。  
このように、エジプトでも天文学が発達し、星座もつくられました。エジプトは太陽の通り道にそって36個星座をつくり,時を測りました。今から3000年前の紀元前1000年頃には、クレオパトラが新婚旅行で行ったというエジプトのデンデラ遺跡のイシス神殿の天井にはほとんど完全な全天の星座が描写されています。このころ、エジプトでは星座の知識はかなり高度なものとなった証拠でしょう。このなかで、獅子座、やぎ座、双子座、牡牛座等はメソポタミアの星座とは同じですが、そのほかはエジプト独自の星座が描かれています。それらはメソポタミアの星座とはかなりことなります。  
(5)フェニキア人  
さて、再びメソポタミアの星座の歴史に戻りますが、紀元前2000年頃から、今のシリアのあたり地中海の東部沿岸にはフェニキア人という、船に乗って貿易を行うのが得意なセム系の民族が活躍します。この民族は、航海のために星を大切な目印にする必要から、メソポタミアの古代星座の知識をかなり持っていたのです。彼らは、場合によっては、ジブラルタル海峡を通って大西洋にわたったり、ひょっとするとアメリカ大陸にもわたっていたのではないか、といわれていますが、航海の主な目的は、同じ時代から文明が起こったギリシアとの間の貿易だったのです。 ですから、メソポタミアで発生・発展した星座の知識は、やがて、フェニキア人によって古代ギリシアにもたらされることになります。 
2.発達期 〜ギリシア時代  
ギリシアに伝わった星座の知識は、空想力豊かなギリシアの詩人や哲学者・科学者によって次第に、ギリシア古来の神様や伝説、西アジアの多方面に古くから伝わる神話や伝説の神々、英雄などを星座の中に当てはめていきます。それが、絢爛豪華な星座神話の始まりにとなっていくわけです。  
(1)ホメロス  
まず、ギリシア最古の物語(叙事詩)は、紀元前9世紀頃ホメロスの書いた「イリアス」と「オデュッセイア」です。「イリアス」はトロヤ戦争で活躍する英雄たちの物語、「オデュッセイア」は、トロヤ戦争後の英雄オディッセウスの冒険物語ですが、このなかには今私たちが聞くギリシア神話の主要なものが入っているばかりでなく、太陽や月、プレアデスやヒアデス、おおぐま座、オリオン座、うしかい座、オリオンの星・シリウスなどの星座や星の名前も多く含まれていて、ギリシア星座を考える上で最古の文献となっています。  
また大空をぐるりと取り巻く 星座の数をすべて尽くして、プレイアダスの七つ星やら、ヒュアダス(雨星)やら、荒々しいオーリーオーンや、熊の星とて、世間で人が北斗とよぶもの、この星座は同じところをぐるぐる廻って、オーリーオーンを目の敵にし、ただ一つだけのオーケアノス(極洋)の水へ浸りに入らないという(イーリアス第18書)  
(2)ヘシオドス  
紀元前8世紀末とされる時代のヘシオドスは、『仕事と日々』という民衆の生活を詠った詩を書いています。これは、だらしない生活を送る弟を戒めるために書いたとされますが、一種の羊飼いのカレンダーで、ここにはプレアデス、ヒアデス、オリオン座、シリウス、アルクトゥルスの名前が明示されています。  
また、彼は『神統記』という詩を書いていますが、これはギリシアの神々の系統を説明したもので、なぜゼウスが世界を支配するようになったのかが説明されてます。  
(3)6世紀の詩人たち  
紀元前6世紀にかけて、ギリシアの詩人たちが取り上げる星座は、次第に増えてきます。たとえば、ギリシアの作家アグラオステネスは今日のこぐま座(キノスラ=犬の尾)やわし座をあげ、クレタ島の詩人エピメニウスはやぎ座やぎょしゃ座のカペラをあげ、シロスの詩人フェレキデスはオリオン座が沈むとさそり座が昇るという天文学上の事実を述べたり、アトラスの娘であるプレアデスの7人姉妹の伝説を書き、ヘラニコスはヒアデスの形、また5世紀のミレトスのミレトスの詩人ヘカタイオスはうみへび座の伝説などを描くようになります。  
紀元前5世紀のアテネの天文家エウクテモンは、天気カレンダーを作成し、この中で、みずがめ・わし・おおいぬ・かんむり・はくちょう・いるか・こと・オリオン・ペガスス・や座、ヒアデス、プレアデスをあげ、それらと気候の移り変わりについてに言及しています。  
(4)アラトス  
さらに時代が下り、紀元前3世紀末になると、ソロイで医師・詩人として活躍したアラトス(BC315〜240)が登場します。彼はこれよりも前の天文学者エウドクソスなどの天文学書を1154行に韻文化した『ファイノメナ』を書きました。その中で、ギリシャからみえる44個の星座、これは当時知られていたすべての星座であり、その形や出没、星座神話をめぐる長編の詩。現在知られる星座の多くが含まれ、これが後にラテン語化されローマ文化圏に及んでいくという、画期的な星座解説書となります。  
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北天19星座 / おおぐま・こぐま・うしかい・りゅう・ケフェウス・カシオペヤ・アンドロメダペルセウス・・さんかく・ペガスス・いるか・ぎょしゃ・ヘルクレス・こと・はくちょう・わし・や・かんむり・へびつかい(へびを含む)  
黄道13星座 / おひつじ・おうし・ふたご・かに・しし・おとめ・てんびん・さそり・いて・やぎ・みずがめ・うお・プレアデス  
南天12星座 / オリオン・いぬ・うさぎ・アルゴ・くじら・エリダヌス・みなみのうお・さいだん・ケンタウルス(おおかみを含む)・うみへび・こっぷ・からす  
へびつかいとへび、ケンタウルスとおおかみを分離させたのは、ヒッパルコスやプトレマイオス。プトレマイオスの48星座にあるこうま座には触れていない。  
(5)ヒッパルコス  
紀元前2世紀になると、トルコのニケア生まれのヒッパルコス(BC190〜120)という偉大な観測天文学者が現れます。彼の功績の第一は、まず、星の位置を観測し、その位置をカタログ化した「星表」を作製したことです。アラトスは、実際にはあまり星を観察していなかったようですが、アラトスの記録を修正した上で、肉眼で見えるすべての星の位置と光度を正確に観測し、そのうち1080星を含む星表を作成しました。これには49星座が記録されています。  
彼が観察して、明るさを分類した方法が、明るい星を1等星として肉眼で見える最も暗い星を6等星とし、6段階に分けるというものです。つまり、現在もわたしたちが使っている、明るさの分類方法を生み出した人です。現在では、さらに科学的に、1等星と6等星の明るさの差を100倍とし1等の違いは2.5倍としていますが、いずれにしても、天文学史上に名を残す大天文学者といえます。彼は、詳しい観測によって、星が時代と共にその位置が動いていることにも気づきました。これは、私たちの地球の回転軸の方向が、時代と共に変化する「歳差」として知られています。  
このヒッパルコスの偉業をたたえ、ヒッパルコス衛星が1989年にうちあげられ、12万個の星の位置を、これまでの100倍の精度で観測しました。これは6枚のCDROMになりましたが、これまでのどんな星の表よりも高精度で、多くの星が含まれています。  
(6)トレミーの48星座  
さらに時代はくだり、紀元後2世紀になると、これらの古代星座を集大成させる大事業が果たされます。ギリシアの天文学者・数学者・地理学者・自然哲学者のプトレマイオス・クラウジオスです。英語読みでは、トレミーと呼ばれますが、トレミーのほうが我が国では一般的かもしれません。  
彼は、当時の星座名を48座に統合整理し、大著『天文学大全』を書きます。『天文学大全』は、ギリシア語で『メガレ・シンタクシス』という題名でしたが、アラビア語に翻訳されて『アルマゲスト』とよばれ、これがヨーロッパに逆輸入され『アルマゲスト』のほうが有名になりましたに。天文学大全という名前の通り、この本は古代天文学の集大成であり、いわゆる「天動説」を確立するものでもありました。後に、コペルニクスやガリレオが出て地動説が提唱されるまで、この考え方は、聖書・キリスト教の教えと結びついて、西洋の思想・学問・生活を支配するものになっていったのです。  
この間、星座の数は、増えもせず減りもせず、名前も変わらず、プトレマイオスの星座がずっと使われ続けました。16世紀まで1500年間もずっと同じ形で使われたのです。そして、この48星座の47個までが、今も私たちが使っている星座です。この48星座は、「古代48星座」または「トレミー(プトレマイオス)の48星座」と呼ばれています。 
3.近代の新設星座  
ということで、あっという間に1500過ぎ、時代は近世になります。近世になって、主に2つの理由で、新しい星座がどんどん追加されます。  
ひとつは、暗い星が観測されたり、望遠鏡の発明などに伴って、空のどの部分にも目が向けられるようになっていったからです。じつは、プトレマイオスの星座は、明るい星のない目立たないところは、どの星座にも属さない「空白の部分」があったのです。それでは、天体観測には不便です。これが一つ目の理由です。  
二つ目の理由は、1420年頃から1620年ごろにかけて繰り広げられた「大航海時代」によって、それまで西洋の人たちが行ったことのない低緯度地方、さらに赤道を越えて南半球に足を運ぶようになったことです。南半球にいくと、北半球ではみられない星が見えるのです。船を進めるには星の位置を知らねばならず、そうした遠洋航海上の必要性からも、これまではなかった南の新しい星座が必要になってきたわけです。  
こうして、16世紀の半ばから、約300年間、新しい星座をつくるといった動きが天文学者や、星図・天球儀をつくるひとたちによって盛んにおこなわれるようになっていったのです。  
17世紀初頭〜18世紀のバイヤー、ラカイユは、それまで知られていなかった南半球の空の星座を考案した天文学者です。また、チコ・ブラーエやバルチウス、へベリウスも、それまでの星座の間を埋めるように、新たな星座が付け加えていきました。  
(1)チコ・ブラーエ  
新星座を作り出した最初の人は、16世紀に活躍したチコ・ブラーエです。チコは、惑星の位置とその変化を精密に観測した人ですが、その貴重な資料を使って後に、惑星の動きを研究したのが弟子のケプラーです。チコは、1572年にチコの新星を発見するなど、多くの功績を持っていますが、星座の歴史の上では、ヒッパルコスがつくりながらプトレマイオスは48星座の中に入れなかった「かみのけ座」を復活させた人です。  
(2)バイエル(バイヤー)  
ヨーハン・バイヤー(1572〜1625)は、ドイツ南部バイエルンの農村に生まれた弁護士でしたが、アマチュア天文家としても活躍しました。彼は、『ウラノメトリア,1603』を31歳で出版し、現在まで名を残しています。『ウラノメトリア』は、プトレマイオスの48星座に、南の星座12個を追加し、全天1709星の星を描いた51枚の星図です。  
ケンタウルス座の下に、当時は正式な星座にはなりませんでしたが南十字を描き、ケンタウルス座の一部にした、次の12の南の星座を新しくつくりました。  
・ふうちょう・カメレオン・かじき・つる・みずへび・インディアン・くじゃく・ほうおう・みなみのさんかく・きょしちょう・とびうお・はち座。  
このうち、はち座は、のちにはえ座となって、今に伝わっています。また、チコがつくったかみのけ座は、入れていません。また、マゼラン大星雲を、マゼラン座として入れたともされていますが、定かではありません。  
これらの南半球の星座は、バイヤーが直接見て記録したわけではなく、オランダの航海家ペトルス・テオドルスが観察したものだとされています。  
また、バイヤーは、各星座の星々に、明るい順番に  
αアルファ・βベータ・γガンマ・δデルタ・εエプシロン・ζゼータ・ηエータ・θセータ・ιイプシロン・κカッパ・λラムダ・μミュー・νニュー・ξクシー・οオミクロン・πパイ・ρロー・σシグマ・τタウ・υユープシロン・φパイもしくはフィー・もしくはピー・χカイ・ψプシー・ωオメガ  
とギリシャ文字のアルファベットを付けたのですが、これが現在も天文観測家によって毎日のように使われるものとなり、「星のバイエル符号」と呼ばれています。  
(3)シラー  
みなさんは、こんな疑問を持ちませんか? 星座というと、なぜギリシア神話によって脚色されいるのであって、なぜ、あれほど権威を振るったキリスト教ではないのでしょうか。星座にキリスト教に関わる星座はないのでしょうか。  
実は、キリスト教の立場からキリスト教儀に登場する人々や道具を星座絵として制作した人がいます。15世紀、キリスト教内部でルターが宗教改革を起こしたのは有名ですが、その改革派・プロテスタントにイエズス会の反改革運動も、特にドイツで運動を起こしました。そのドイツで、熱心なカトリック教徒でイエズス会の会員であったシラーという人は、それまでの星座に変えて、ダビデ王・ノアの箱船・十字架座・キリストの飼い葉桶座、聖ペテロ座などの星座を描きました。しかし、その星座たちは、まったく使われることはありませんでした。  
(4)ケプラー  
惑星の運動の法則を発見したケプラーは、チコの弟子ですが、2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスがつくったアンティノウス座を復活させました。アンティノウスは、小アジアのビティニアという国からつれてこられた奴隷の男の子で、皇帝ハドリアヌスがかわいがっていた実在の人物です。アンティノウスは、130年にナイル川でおぼれ死んでしまい、皇帝は嘆き悲しみ、星座にしました。これは、バイヤーやチコ、メルカトルも、古い名称として認めていましたが、ケプラーはこれを正式な星座としてしまいました。現在は、わし座となっています。  
(5)バルチヌス  
ケプラーの娘と結婚したドイツの数学者で、いっかくじゅう座・キリン座、きたばえ・ティグリス座の4つを新設。現在いっかくじゅう座・キリン座の2つが残っています。  
(6)ロワーエ  
フランスの天文学者で、はと座、南十字座をつくりました。おうしゃく座・ゆりのはな座は、認められていません。  
(7)ハレー  
万有引力の発見者ニュートンの友人で、ハレー彗星の研究からその回帰を予言した、イギリスの天文学者エドモンド・ハレーは、イギリス王のチャールズ2世の名誉を記念して「チャールズの樫の木座」を新設したものの、その後消滅してしまいました。また、同じくチャールズの心臓という意味のコル・カロリをりょうけん座α星の名前にしましたが、このコル・カロリという名前は、現在も使われています。  
(8)キルヒ  
現在のドイツの一部、プロシアの王室天文学者のキルヒは、彼が使えていた王・ベルヘレム1世をたたえて、「ブランデンブルグの王しゃく」座をつくったが、その後は使われなくなりました。  
(9)ヘベリウス  
17世紀のポーランドの天文学者ヘベリウスは、ポーランドの王ヤン3世に保護されて優れた天体観測を行いましたが、現在も正式に使われるこぎつね・こじし・たて・とかげ・やまねこ・ろくぶんぎ・りょうけんの7星座をつくりましたが、ケルベルス・小さんかく・マエナルス山座の3星座はすたれてしまいました。  
(10)ラカーユ  
18世紀の天文学者ニコラ・ルーイ・ド・ラカイユは、パリの子午線長さを計算したり、南の星々の位置を観測した実力派の天文学者でした。南半球に、近代的な理化学機器などの多い、がか・けんびきょう・じょうぎ・ちょうこくしつ・ちょうこくぐ・テーブル山・とけい・はい(はえ)・はちぶんぎ・ぼうえんきょう・ポンプ・レチクル・ろ座の13星座を新設。また、1756年、巨大な星座ラルゴ座を、正式に4分割し、とも・ほ・らしんばん・りゅうこつとしました。  
(11)ルモニエ  
フランスの天文学者で、ピエール・シャルル・ルモニエ(1715-1799)。パリ大学の物理学教授で、1782年にハーシェルが天王星を発見する前に、何度も新しい惑星とは気づかずに天王星を観察した人。となかい座とつぐみ座を新設したが、両方ともすたれてしまいました。  
(12)その他  
ポーランドの神父ポスツォブトが18世紀にへびつかい座の中につくった、「ポニアトフスキーのおうし座」、同じく18世紀の天文学者ジョセフ・ジュローム・ル・フランセ・ド・ラ・ランドがつくった軽気球・ねこ・監視者メシエ座・壁面四分儀という4星座も、今ではまったく忘れ去られています。しかし、壁面四分儀座は、現在も1月に活動するりゅう座流星群の別名「しぶんぎ座流星群」として、わずかに生き延びています。 
4.星座の確立  
このようにして、当時の著名な天文学者の間で新星座作りが流行したのですが、最大130個ほどにもなり、一時は混乱状態となってしまいました。そこで、20世紀になって、世界の天文学の拠点ともいうべき国際天文学連合でこの問題が取り上げられるようになり、オランダのデルポルトを委員長とする小委員会が1922年につくられ、無理なこじつけや国際的に通用していないものは次第に廃止、その境目も、かつては曲線だったものを直線に、さながら砂漠の中の国境線のように確定し、88個の星座に整理統合。1931年に確定しました。  
現在、星座そのものに科学的な意義はあまりありません。しかし、星座は、流れ星を観察したり、天文観測家が星を観測・追跡したりするのに役立ちます。たとえば、新星には「いて座新星2001」などと、出現星座名が新星の名称となります。「○○座流星群」という流星群の名称も学際的に認められた正式名称です。また、新彗星が「○○座に出現」というニュースが流れると、世界中の天文学者や観測家は、その季節と星座名から観測可能時間帯を把握し、その晩の観測計画を立てる手がかりとします。現在では、88の星座が公式に認められていますが、その役割は「星空の住所」といったところでしょうか。  
 

 

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