日露戦争

日露戦争1ポーツマス条約日露戦争2日露戦争3日露戦争4日露戦争5日露戦争と軍人日清日露第一次大戦外観日清戦争旅順攻囲戦203高地1203高地2・・・
日露戦争と資金調達日露戦争斜め論技術が制した日露戦争日露戦争時の外務省の愚かさ山本権兵衛東郷平八郎大山巌・・
万博に見る最新技術内国勧業博覧会博覧会年表・・・
 

雑学の世界・補考   

日露戦争1

明治37年2月8日-明治38年9月5日(1904-1905)大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。  
戦争目的と動機
大日本帝国
三国干渉および義和団の乱後満洲を勢力圏としていたロシア帝国による朝鮮半島への南下(朝鮮支配)を防ぎ、日本の安全保障を目的とした戦争。
ロシア帝国
遼東半島の旅順、大連租借権等の確保と満洲および朝鮮における自国権益の維持・拡大を目的とした戦争。
関与国・勢力
日本側 / 大韓帝国(一進会をはじめとする親日派知識人と親日派両班)/ イギリス帝国(日英同盟) / アメリカ合衆国
ロシア側 / 大韓帝国(高宗をはじめとする支配者階級と親露派・独立派知識人) / フランス(露仏同盟)/ ドイツ帝国  
観戦武官
日露双方に多数の観戦武官が派遣され日本にはイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン=ノルウェー連合、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国の13ケ国から70人以上の武官が派遣されていた。日英同盟を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている。観戦武官は日露戦争の戦訓を持ち帰えり第一次世界大戦で生かされることになる。
イギリス エィルマー・ハルディン
アメリカ アーサー・マッカーサー・ジュニア、副官として息子のダグラス・マッカーサーを連れていた。  
戦争の性格
日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また二国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。このことから、横手慎二は日露戦争は第0次世界大戦(World War Zero)であったとしている。  
背景

 

朝鮮半島をめぐる日露対立
大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ売り払われた鍾城・鏡源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年にロシア軍艦対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。
当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。
一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。  
日英同盟
ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。
近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満洲への進出を押し進めていった。
1900年にロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。
1903年4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。
桂は後にこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映されることになる。  
直前交渉
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(後の十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。
日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。  
各国の思惑
南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行った。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側であったが具体的な支援は行っていない。  
外貨調達
戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。当時、政府の戦費見積もりは4億5千万円であった。日清戦争の経験で戦費の1/3が海外に流失したので、今回は1億5千万円の外貨調達が必要であった。この時点で日銀の保有正貨は5千2百万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。外国公債の募集には担保として関税収入を当てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5%以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理・曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。
開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。とくにフランス系の投資家はロシアとの同盟(露仏同盟)の手前もあり当初は非常に冷淡であった。またドイツ系の銀行団も慎重であった。
是清は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行の成算を得た。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するドイツ系のアメリカユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得、ニューヨークの金融街として残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。この引き受けについてはロンドン金融街としてもニューヨークの参加は渡りに舟の観があった。第1回は1904年5月2日に仮調印にこぎつけた。
結果当初の調達金利を上回る6%での調達(割引発行なので実質金利は7年償還で約7%)となったが、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約26倍、ニューヨークで3倍となり大成功の発行となった。1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0%(償還7年で実質約7.4%)を底として、1905年3月の第3回では4.5%での借り換え調達(3億円、割引発行なので償還20年で実質5.0%、担保は煙草専売益)に成功した。第3回からはドイツ系の銀行団も参加し募集は大盛況、第5回からはフランス系の銀行団も参加したが(英・仏ロスチャイルドもこの回でともに参加)このときにはすでに日露戦争は終結していた。
結局日本は1904年から1906年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1万3000ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した。この内最初の4回、8200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。
国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされる。  
経過

 

開戦時の両軍の基本戦略
日本側
海軍が第一艦隊と第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後陸軍が第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍、第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。軍令機関が陸海軍並列対等となった初めての戦争である。
ロシア側
日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引き付けながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。  
開戦
開戦時の日本海軍の主な戦闘艦艇
連合艦隊
第一艦隊
   第一戦隊(戦艦6隻:三笠、朝日、初瀬、敷島、富士、八島)
   第三戦隊(防護巡洋艦4隻:千歳、高砂、笠置、吉野)
   第一駆逐隊(駆逐艦4隻:白雲、朝潮、霞、暁)
   第二駆逐隊(駆逐艦4隻:雷、朧、電、曙)
   第三駆逐隊(駆逐艦3隻:薄雲、東雲、漣)
   第一艇隊(水雷艇4艇:第69号艇、第67号艇、第68号艇、第70号艇)
   第十四艇隊(水雷艇4艇:千鳥、隼、真鶴、鵲)
第二艦隊
   第二戦隊(装甲巡洋艦6隻:出雲、磐手、浅間、常盤、八雲、吾妻)
   第四戦隊(防護巡洋艦4隻:浪速、高千穂、新高、明石)
   第四駆逐隊(駆逐艦4隻:速鳥、春雨、村雨、朝霧)
   第五駆逐隊(駆逐艦4隻:陽炎、叢雲、夕霧、不知火)
   第九艇隊(水雷艇4艇:蒼鷹、鴿、雁、燕)
   第二十艇隊(水雷艇3艇:第62号艇、第63号艇、第64号艇、第65号艇)
第三艦隊
   第五戦隊(4隻:鎮遠、松島、橋立、厳島)
   第六戦隊(防護巡洋艦4隻:秋津洲、和泉、須磨、千代田)
   第七戦隊(略)
   第一艇隊(水雷艇4艇:第43号艇、第42号艇、第40号艇、第41号艇)
   第十一艇隊(水雷艇4艇:第73号艇、第72号艇、第74号艇、第75号艇)
   第十六艇隊(水雷艇4艇:白鷹、第71号艇、第39号艇、第66号艇)
開戦時の極東ロシア海軍の主な戦闘艦艇
太平洋艦隊(旅順艦隊)
   戦艦7隻(ツェサレーヴィチ、レトヴィザン、ペレスヴェート、ポルタヴァ、ペトロパヴロフスク、セヴァストーポリ、ポベーダ)
   装甲巡洋艦1隻(バヤーン)
   防護巡洋艦8隻(パルラーダ、ディアナ、アスコリド、ボヤーリン、ノーウィック、ザビヤーカ、ラズボイニク、ズジギート)
   砲艦・水雷砲艦6隻(グリミヤシチー、アッワヘジヌイ、ギリヤーク、ボーブル、フサードニク、ガイダマーク)
   駆逐艦18隻(詳細略。他に開戦後の竣工艦が数隻)
ウラジオストク巡洋艦隊の主な戦闘艦艇
   装甲巡洋艦3隻(ロシア、グロモボーイ、リューリク)
   防護巡洋艦1隻(ボガトィーリ)
   水雷艇17隻
仁川港に所在した戦闘艦艇
   防護巡洋艦1隻:ワリヤーグ
   砲艦1隻:コレーツ
日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。2月23日には日本と大韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。
ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。これに対し日本海軍は第三艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。この時捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった。
黄海海戦・遼陽会戦
黒木為髑蜿ォ率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。
旅順艦隊攻撃はうまくいかなかったため、日本海軍は陸軍に旅順要塞攻略を要請、これを受け乃木希典大将率いる第三軍が旅順攻略に当たることになった。8月7日には海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。これを受けて旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦・コルサコフ海戦)。ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。
8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。
10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。  
旅順攻略
第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。10月26日からの第二回総攻撃も戦果は有ったものの失敗と判断された。しかしながら8月〜10月まで黄海海戦を挟んで続いた港内への砲撃で旅順艦隊の壊滅には成功していた。11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが激戦のすえ、12月4日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。その後も第三軍は攻略を続行し、翌1905年1月1日にはロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将を降伏させた。旅順艦隊は艦艇をすぐさま使用できないように全て自沈させた。
沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導のもと、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。2月には第三軍が戦線に到着した。
奉天会戦
日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。
この結果を受けて日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。  
日本海海戦
バルチック艦隊は7ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達、5月27日に連合艦隊と激突した(日本海海戦)。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失い司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受け、連合艦隊は喪失艦が水雷艇3隻という連合艦隊の一方的な圧勝に終わった。世界のマスコミの予想に反する結果は列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。この結果、日本側の制海権が確定し、ロシア側も和平に向けて動き出した。
樺太攻略
日本軍は和平交渉の進むなか7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。  
講和へ
ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけ、戦争継続が困難な情勢となっていた。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。両国は8月10日からアメリカ・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入した。戦費のほとんどは戦時国債によって調達された。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達した。なお、脚気惨害については、「陸軍での脚気惨害」、「海軍の状況」を参照のこと。
影響

 

日本
ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができた。こうして日本はロシアの脅威から逃れ安全保障を達成した。さらに朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満洲鉄道の獲得など満洲における権益を得ることとなった。またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与した。
こうして、日本は最大の目標は達成した。しかし講和条約の内容は、賠償金を取れないなど国民にとって予想外に厳しい内容だったため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こった。結果戒厳令が敷かれるにまでに至り、戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。これはロシア側へいかなる弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあり、国民の多くは戦争をしている国力の実情を知らされず、目先の勝利によってロシアが簡単に屈服させられたように錯覚した反動から来ているものである。
この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官のステッセルが降伏した際に帯剣を許すなど、武士道精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、戦争捕虜を非常に人道的に扱い日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった施設が著名であったため、ロシア兵側では降伏することを「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある。終戦後、日本国内のロシア兵捕虜はロシア本国へ送還されたが、熊本県の県物産館事務所に収容されていたロシア軍士官は帰国決定の日に全員自殺している。
また、元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱えて、1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案が纏められる。だが、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非を巡って有名な2個師団増設問題が発生することになった。
日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、ロマン・コンドラチェンコによって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、永久防塁と呼ばれた演習用構造物を陸軍習志野錬兵場内に構築、演習などを行い要塞戦の戦術について研究したというエピソードが残されており、当時の陸軍に与えた影響の大きさを物語っている。
なお、賠償金が取れなかったことから、大日本帝国はジェイコブ・シフのクーン・ローブに対して金利を払い続けることとなった。「日露戦争で最も儲けた」シフは、ロシア帝国のポグロム(反ユダヤ主義)への報復が融資の動機といわれ、のちにレーニンやトロツキーにも資金援助をした。  
ロシア
不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この敗北を期に極東への南下政策をもとにした侵略を断念した。南下の矛先は再びバルカンに向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの侵略を企むオーストリアとの対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。
また、日露戦争の敗戦による民衆の生活苦から、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの叛乱等より始まるロシア第一革命が誘発され、ロシア革命の原因となる。  
西欧
イギリスは日露戦争の勝利により日本への評価を改めており1905年8月12日に日英同盟を攻守同盟に強化する(第二回日英同盟協約)。 日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約、英露協商を締結した。既に締結されていた英仏協商と併せて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟の対立へと向かった。こうしてイギリスは仮想敵国をロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大してゆく。  
アメリカ
アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでおり、日露講和後は満州でロシアから譲渡された東清鉄道支線を日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と成立させていた(桂・ハリマン協定、1905年10月12日)。これはアメリカの鉄道王ハリマンを参画させるというもので、ハリマンの資金面での協力者がクーン・ローブすなわちジェイコブ・シフであった。この協定は小村外相の反対によりすぐさま破棄された。日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。
大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され1906年のノーベル平和賞を受賞したが、彼の対日感情はポーツマス講和への協力以降、急速に悪化してゆく。
日比谷焼打事件の際、日本の群衆の怒りが講和を斡旋したアメリカにも向けられて東京の米国公使館などが襲撃の対象となったことで、アメリカの世論は憤慨し黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論の高まりと共に、対日感情が悪化してアメリカ国内で日本人排斥運動が沸き起こる一因となる。
これら日米関係の急速な悪化により、第二回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、日米戦争に巻き込まれることを畏れ始めた。  
清朝
日露戦争の戦場であった満洲は清朝の主権下にあった。満洲族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。開発も最南部の遼東・遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、東清鉄道やハルピンを始めとする植民都市の建設まで許すこととなった。さらに義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。1901年の北京議定書締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞や袁世凱は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。
終戦後は、日本は当初唱えていた満洲に於ける列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。こうした状況に危機感をつのらせた清朝は直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東三省の人口は743万4千人から1783万6千人まで増加している。さらに同年には袁世凱の北洋軍の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。また、日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。また、1917年のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、1932年には満州国を建国した。第二次世界大戦で日本が敗れて満州国が滅亡すると、代わって侵攻してきたソ連が進駐に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。中華人民共和国が満洲を完全に掌握したのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。
現代中国の高校歴史教科書では日露戦争について、ロシアあるいは日本の近代化過程の一部として触れられているものの、詳しく言及はしない(清朝の領土で起きた点を中心に記述するのが多い)。  
大韓帝国
開戦前の大韓帝国では、日本派とロシア派での政争が継続していたが、日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から一進会が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。ただし当初の一進会の党是は韓国の自主独立であった。
戦争後、朝鮮半島では日本の影響が絶大となり、のちに大韓帝国は様々な権利を日本に委譲することとなり、さらには日本の保護国となる。1910年(明治43年)の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は日本に併合され、滅亡した。  
モンテネグロ公国
モンテネグロ公国は日本に対して宣戦布告している。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。なおこの戦争状態は第二次世界大戦において、1945年に日本が連合国に降伏し、その中にモンテネグロ公国の後継国家であるユーゴスラビア社会主義連邦共和国が含まれていることから解消しており、また2007年7月にセルビア・モンテネグロから新国家モンテネグロとして分離独立した際の国交樹立により改めて確認されている。
なお、このようなことはヴェルサイユ条約に招かれなかったアンドラ公国に起きている。国際法上は、アンドラ公国は第一次世界大戦を唯一継続している状態になった。
上記について、2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男議員が、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。」との内容の質問主意書を提出。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない。」との答弁書を出している。モンテネグロの歴史#連邦再編から再独立へも参照されたい。
なお、日英同盟の規定により、当時の日本が二ヶ国以上と戦争状態になった場合、イギリスにも参戦義務が生じることとなる。仮に日本がモンテネグロの宣戦布告を無視しなかった場合、かなり厄介な問題を引き起こすこととなった。ちなみにモンテネグロは、第一次世界大戦時において、ジュネーヴ条約・ハーグ陸戦条約に加盟しないままに参戦したため、規定によって第一次世界大戦の参戦国全てに両条約が適用されないという大問題を引き起こしている。  
その他各国
当時、欧米列強の支配下にあり、後に独立した国々の指導者達の回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」と記されるなど、植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる。
また、第一次エチオピア戦争で、エチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があるが、これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える(間接的にだが、イギリスがバルチック艦隊の寄港や補給を妨害していたこともあった。)。また、絶対君主制(ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。いずれにしても日露戦争における日本の勝利が及ぼした世界的影響は計り知れず、歴史的大事件であったことには変わりない。
日本に来ていたドイツ帝国の医者エルヴィン・フォン・ベルツは、自分の日記の中で日露戦争の結果について「私がこの日記を書いている間にも、世界歴史の中の重要な1ページが決定されている」と書いた。
日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えている。
 
ポーツマス条約

 

(Portsmouth Treaty, Treaty of Portsmouth, Portsmouth Peace Treaty) アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。
また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日−)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。
日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の1905年(明治38年)6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩(岩手県)出身の日本の駐米公使高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化した。
講和会議は、1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾をはかった。結局、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し、日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。
この条約によって、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算一年分の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、締結直後、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。  
交渉の経緯  

 

交渉に至るまで
1905年3月、日本軍はロシア軍を破って奉天(現在の瀋陽)を占領したものの、戦闘能力はすでに限界を超え、武器・弾薬の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がり、さらにロシア軍のあいつぐ敗北とそれにともなう弱体化、日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた。
1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。5月31日、小村壽太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使にあてて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた。
米大統領の仲介を得た高平は、小村外相に対し、ポーツマスは合衆国政府の直轄地で近郊にポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルもあって、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できることを伝えている。
パリ(ロシア案)、芝罘またはワシントンD.C.(日本の当初案)、ハーグ(米英案)を押さえての開催地決定であった。ポーツマスは、ニューヨークの北方約400キロメートル地点に立地し、軍港であると同時に別荘の建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備がきわめて容易なことから公式会場に選定されたのである。
また、米国内の開催には、セオドア・ルーズベルトの「日本にとって予の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」(外交文書)という発言に象徴される親日的な性格に加え、講和の調停工作を利用し、米国をして国際社会の主役たらしめ、従来ロシアの強い影響下にあった東アジアにおいて、日・米もふくんだ勢力均衡の実現をはかるという思惑があった。
中国の門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満州を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの希望が一致したのである。ドイツ・フランス両国からも、「ロシアの内訌がフランス革命の時のように隣国に容易ならざる影響を及ぼす虞がある」(外交文書)として講和が打診されていた。ルーズベルトの仲介はこれを踏まえたものであったが、その背景には、米国がその長期戦略において、従来「モンロー主義」と称されてきた伝統的な孤立主義からの脱却を図ろうとする思潮の変化があった。
ルーズベルト大統領は、駐露アメリカ大使のジョージ・マイヤーにロシア皇帝への説得を命じたあと、1905年6月9日、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の6月10日、ロシアが6月12日であった。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している。
日本の国内において、首相桂太郎が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相小村壽太郎ではなく元老伊藤博文であった。桂政権(第1次桂内閣)は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのである。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂がにない、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤も全権大使への就任を辞退した。
結局、日向国飫肥藩(宮崎県)の下級藩士出身で、第1次桂内閣(1901年-1906年)の外務大臣として日英同盟の締結に功のあった小村壽太郎が全権代表に選ばれた。小村は、身長150センチメートルに満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった。伊藤博文もまた交渉の容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている。
対するロシア全権代表セルゲイ・ウィッテ(元蔵相)は、当時56歳で身長180センチメートルを越す大男であった。戦前は財政事情等から日露開戦に反対していたものの、かれの和平論は対日強硬派により退けられ、戦争中はロシア帝国の政権中枢より遠ざけられていた。ロシア国内では、全権としてウィッテが最適任であることは衆目の一致するところであったが、皇帝ニコライ2世は彼を好まなかった。ウラジーミル・ラムスドルフロシア外相は駐仏大使ネリドフを推薦したがネリドフはこれを辞退し、ムラビヨフ駐伊大使も引き受けなかったので、結局ウィッテが登用された。ウィッテは、皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けていた。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった。
すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃をおこなって戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていた。開戦後、日本軍が連戦連勝をつづけてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の奉天会戦の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがった。5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅したことは、その絶好の機会だったのである。
すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満州軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた。とくに下級将校が勇敢に進撃して戦死した結果、その補充は容易でなかった。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった。
首席特命全権大使に選ばれた小村は、こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだ。小村の一行は1905年7月8日、渡米のため横浜港に向かう新橋停車場を出発したが、そのとき新橋駅には大勢の人が集まり、大歓声で万歳し、小村を盛大に見送った。小村は桂首相に対し「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」とつぶやくように告げたと伝わっている。井上馨はこのとき、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度でだいなしになるかもしれない」と語ったといわれる。小村一行は、シアトルには7月20日に到着し、一週間後ワシントンでルーズベルト大統領に表敬訪問をおこない、仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明した。
児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士の代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた。日清戦争後の下関条約では、台湾の割譲のほか賠償金も得たため、日本国民の多くは大国ロシアならばそれに見合った賠償金を支払うことができると信じ、巷間では「30億円」「50億円」などの数字が一人歩きしていた。日本国内においては、政府の思惑と国民の期待のあいだに大きな隔たりがあり、一方、日本とロシアとのあいだでは、「賠償金と領土割譲」の2条件に関して最後の最後まで議論が対立した。
ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国の世論を巧みに味方につけていった。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求するきびしいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心をもつようになるだろうと考えたのである。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では、日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた。
それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、なかには激怒した記者もいたという。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった。 
講和会議
講和会議の公式会場はメイン州キタリーに所在するポーツマス海軍工廠86号棟であった。海軍工廠(ポーツマス海軍造船所)はピスカタカ川の中洲にあり、水路の対岸がニューハンプシャー州ポーツマス市である。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市に隣接するニューキャッスル(en)のホテルに宿泊し、そこから船で工廠に赴いて交渉を行った。
交渉参加者は以下の通りである。
日本側
全権委員:小村壽太郎(外務大臣)、高平小五郎(駐米公使)
随員:佐藤愛麿(駐メキシコ弁理公使)、山座円次郎(外務省政務局長)、安達峰一郎(外務省参事官)、本多熊太郎(外務大臣秘書官)、落合謙太郎(外務省二等書記官)、小西孝太郎(外交官補)、立花小一郎陸軍大佐(駐米公使館付陸軍武官)、竹下勇海軍中佐(駐米公使館付海軍武官)、ヘンリー・デニソン(外務省顧問)
ロシア側
全権委員:セルゲイ・ウィッテ(元蔵相・伯爵)、ロマン・ローゼン(駐米大使(開戦時の駐日公使))
随員:A・プランソン(外務省条約局長)、フョードル・フョードロヴィチ(ペテルブルク大学国際法学者・外務省顧問)、N・シポフ(大蔵省理財局長)、V・エルモロフ陸軍少将(駐英陸軍武官)、A・サモイロフ陸軍大佐(元駐日公使官付陸軍武官)、I・コロストウェツ(ウィッテ秘書。後、駐清公使)、C・ナボコフ(外務省書記官)
講和会議は、1905年8月1日より17回にわたって行われた。8月10日からは本会議が始まった。また、非公式にはホテルで交渉することもあった。
8月10日の第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解をえた。小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。
1. ロシアは韓国(大韓帝国)における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと。
2. ロシア軍の満州よりの全面撤退、満州におけるロシアの権益のうち清国の主権を侵害するもの、または機会均等主義に反するものはこれをすべて放棄すること。
3. 満州のうち日本の占領した地域は改革および善政の保障を条件として一切を清国に還付すること。ただし、遼東半島租借条約に包含される地域は除く。
4. 日露両国は、清国が満州の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束すること。
5. ロシアは、樺太および附属島、一切の公共営造物・財産を日本に譲与すること。
6. 旅順、大連およびその周囲の租借権・該租借権に関連してロシアが清国より獲得した一切の権益・財産を日本に移転交附すること。
7. ハルビン・旅順間鉄道とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより日本に移転交附すること。
8. 満州横貫鉄道(東清鉄道本線)は、その敷設にともなう特許条件にしたがい、また単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること。
9. ロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻すこと。払い戻しの金額、時期、方法は別途協議すること。
10. 戦闘中損害を受けた結果、中立港に逃げ隠れしたり抑留させられたロシア軍艦をすべて合法の戦利品として日本に引き渡すこと。
11. ロシアは極東方面において海軍力を増強しないこと。
12. ロシアは日本海、オホーツク海およびベーリング海におけるロシア領土の沿岸、港湾、入江、河川において漁業権を日本国民に許与すること。
それに対してウィッテは、8月12日午前の第二回本会議において、1.2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した。この日は、第1条の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされたが難航した。
8月14日の第3回本会議では第2条・第3条について話し合われ、難航したものの最終的に妥結した。15日の第4回本会議では第4条の満州開放問題が日本案通りに確定され、第5条の樺太割譲問題は両者対立のまま先送りされた。16日の第5回本会議では第7条・第8条が討議され、第7条は原則的な、第8条は完全な合意成立に至った。
8月17日の第6回本会議、18日の第7回本会議では償金問題を討議したが、成果が上がらず、小村全権の依頼によって、かねてより渡米し日本の広報外交を担っていた金子堅太郎がルーズベルト大統領と会見して、その援助を求めた。ルーズベルトは8月21日、ニコライ2世あてに善処を求める親電を送ったが、23日の第8回本会議の日本側からの妥協案も皇帝の意を受けたウィッテによって拒絶されている。
ルーズベルトは再び斡旋に乗りだしたが、ニコライ2世に講和を勧める2度目の親書の返書を受け取ったとき「ロシアにはまったくサジを投げた。講和会議が決裂したら、ラムスドルフ外相とウィッテは自殺して世界にその非を詫びなければならぬ」と口荒く語ったといわれている。8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった。
交渉が難航し、これ以上の譲歩は不可能と判断した小村は、談判打ち切りの意を日本政府に打電した。政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同衝撃を受けたという。
これに前後して、ニコライ2世が樺太の南半分は割譲してもよいという譲歩をみせたという情報が非公式に伝えられたため、8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した。これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている。アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった。9月1日、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。
以上のような曲折を経て、1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望した。  
合意内容
ポーツマス会議における日本全権小村壽太郎の態度はロシア全権ウィッテと比較してはるかに冷静であったとロシア側の傍聴者が感嘆して記している。すでに日本の軍事力と財政力は限界に達しており、にもかかわらず日本の国民大衆はそのことを充分認識していないという状況のなか、ロシアの満州・朝鮮からの撤兵という日本がそもそも日露戦争をはじめた目標を実現し、新たな権益を獲得して強国の仲間入りを果たした。
ウィッテは、ロシア国内に緒戦の敗北は持久戦に持ち込むことによって取り戻すことができるとする戦争継続派が存在するなかの交渉であった。講和会議が決裂した場合には、ウィッテが失脚することはほぼ間違いない状況であった。国内の混乱も極限状態であり、革命前夜といってよかった。ウィッテは小村以上の窮状に身をおきながら、日本軍が侵攻した樺太全島のうち、北緯50度以南をあたえただけで北部から撤退する約束のみならず、賠償金支払いをおこなわない旨の合意を日本から取り付けることができた。
講和内容の骨子は、以下の通りである。
1. 日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
2. 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
3. ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
4. ロシアは東清鉄道の内、旅順−長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
5. ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
6. ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
日本は1905年10月10日、講和条約を批准し、ロシアは10月14日に批准している。  
影響 

 

「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。しかし日本国民の多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄するかたちで講和しなければならないのかと憤った。有力紙であった『万朝報』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した。しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである。
日本政府としては、このような大きなディレンマをかかえていたが、果たして、ポーツマス講和条約締結の9月5日、東京の日比谷公園で小村外交を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した(日比谷焼打事件)。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった。結局、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、藩閥政府批判と結びついて、翌1906年(明治39年)、桂内閣(第1次)は退陣を余儀なくされた。
清国に対しては、1905年12月、満州善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、南満洲鉄道の吉林までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線鉱山の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、安奉鉄道の使用権継続と日清両国の共同事業化、営口・安東および奉天における日本人居留地の設置、さらに、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。
大韓帝国に関しては、7月の桂・タフト協定でアメリカに、8月の第二次日英同盟条約でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の第二次日韓協約によって韓国は外交権を失った。12月、首都漢城に統監府が置かれ、韓国を日本の保護国とした。日本は強国ロシアにようやく勝利し、世界の「一等国」の仲間入りを果たしたが、いっぽう国民のあいだでは従来の国家的な目標が見失われ、国民のコンセンサスは崩壊の様相を呈した。
セオドア・ルーズベルト米大統領は、この条約を仲介した功績が評価されて、1906年にノーベル平和賞を受賞した。また、この条約ののちアメリカは極東地域への発言権と関与をしだいに強めていった。ルーズベルトの意欲的な仲介工作によって、ポーツマス講和会議は国際社会における「アメリカの世紀」への第一歩となったという評価もある。だが上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。
ロシアでは、皇帝の専制支配に対する不満が社会を覆い、10月に入るとインフレーションに対する国民の不満は一挙に爆発してゼネスト(ゼネラル・ストライキ)の様相を呈した。講和会議のロシア全権であったセルゲイ・ウィッテはアレクセイ・オボレンスキーと共同して混乱収拾のために十月詔書を起草、皇帝ニコライ2世はそれに署名した。しかし、なおもロシア第一革命にともなう混乱は1907年までつづいた。  
補説
歴史遺産としてのポーツマス
米国内では、ポーツマス講和会議にかかわる歴史遺産の保全活動が進められている。
日本全権が宿舎としたウェントワース臨海ホテルは1981年に閉鎖されたままとなっており、老朽化が著しく、雨漏りや傷みもひどかった。そこで、ポーツマス日米協会が窓口となって「ウェントワース友の会」が設立され、ホテルの再建計画が立てられ、復元作業がなされた。
公式会場となったポーツマス海軍工廠では、1994年3月、会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設された。2005年、老朽化のため海軍工廠を閉鎖するとの政府決定が発表されたが、ポーツマスではそれに対する反対運動が起こり、その結果、閉鎖は撤回されている。
また、現地では、日米露3国の専門家による「ポーツマス講和条約フォーラム」が幾度か開催されており、2010年にはニューハンプシャー州で9月5日を州の記念日にする条例が成立した。
モンテネグロ公国参戦について
モンテネグロ公国は日露戦争に際してロシア側に立ち、日本に対して宣戦布告したという説がある。これについては、2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男議員が、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか」との内容の質問主意書を提出。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない」との答弁書を出している。
ロシアの公文書を調査したところ、ロシア帝国がモンテネグロの参戦打診を断っていたことが明らかとなり、独立しても戦争状態にならないことが確認された。  
 
日露戦争2

 

明治37年(1904年)2月の開戦から翌明治38年(1905年)8月のポーツマス講和会議までの18ヶ月にわたり、日本とロシアとの間で戦われた戦争を言います。
明治37年(1904年)2月4日に緊急御前会議においてロシアとの国交断絶と開戦とを決定した日本は、8日にはロシア艦隊と初めて交戦を行いました。 そして、9日には 「露国に対する宣戦の詔勅」 が出され、ロシアとの戦争が本格的に開始されました。 なお、「詔勅」とは、天皇が意志を表示する文書のことを指します。
戦争が長引くと、日本は軍事的には勝利を収めていたものの国力は著しく消耗し、また一方のロシアでも国内で革命がおこり、両国ともに戦争の継続が困難な状況となりました。 そこで、アメリカのセオドア・ローズベルト大統領の斡旋によりポーツマス講和会議が開かれました。 1か月に及ぶ交渉の結果、明治38年(1905年)9月5日、日露講和条約が署名され、10月16日に批准し、11月25日ワシントンにおいて批准書が交換されました。
「露国との講和に関する詔勅」 は、日露講和条約締結についての天皇からの詔勅です。 末尾にある「御名御璽」(ぎょめいぎょじ)とは、「御名」が天皇による署名、「御璽」が天皇の印鑑をそれぞれ意味しています。 原資料の末尾で、直筆の署名と印鑑を見ることができます。
「日露講和条約批准に関する枢密院会議筆記録」 には、明治38年10月4日、明治天皇臨席の下で開かれた日露講和条約批准案件に関する枢密院会議における伊藤博文議長の報告が含まれています。 伊藤の報告には、日露戦争の意義とロシアとの講和条約を締結するに際しての当時の日本の考え方がよく現れています。
伊藤博文は、講和条約の批准の是非を判断するに際しては世論や衆議院とは一線を画し、ロシアの継戦能力や世界の状況など開戦以来のすべての状況に照らして判断するよう委員に促し、批准案件は全会一致で可決されています。  
「露国に対する宣戦の詔勅」
天佑を保有し万世一系の皇祚を践める大日本国皇帝は忠実勇武なる汝有衆に示す。
天の助けによって先祖代々皇位を継承してきた家系に属する大日本国の皇帝は、忠実にして勇敢な汝ら国民に以下のことを知らせる。
朕茲に露国に対して戦を宣す。朕か陸海軍は宜く全力を極めて露国と交戦の事に従ふへく朕か百僚有司は宜く各々其の職務に率ひ其の権能に応して国家の目的を達するに努力すへし。凡そ国際条規の範囲に於て一切の手段を尽し遺算なからむことを期せよ。
朕はこの文書で、ロシアに対する戦争を行うことを布告する。朕の陸軍と海軍は、ぜひとも全力をつくしてロシアと戦ってほしい。また朕のすべての部下らは、それぞれの職務や権限に応じて国家の目的が達成されるように努力してほしい。国際的な条約や規範の範囲で、あらゆる手段をつくして誤ちのないように心がけよ。
惟ふに文明を平和に求め列国と友誼を篤くして以て東洋の治安を永遠に維持し各国の権利利益を損傷せすして永く帝国の安全を将来に保障すへき事態を確立するは朕夙に以て国交の要義と為し旦暮敢て違はさらむことを期す。朕か有司も亦能く朕か意を体して事に従ひ列国との関係年を逐ふて益々親厚に赴くを見る。今不幸にして露国と釁端を開くに至る豈朕か志ならむや。
朕の考えは、文明を平和的なやりかたで発展させ、諸外国との友好関係を促進することによって、アジアの安定を永遠に維持し、また、各国の権利や利益を損なわないようにしながら、末永く日本帝国の将来の安全が保障されるような状況を確立することにある。これは朕が他国と交渉する際に最も重視していることがらで、常にこうした考えに違反しないよう心がけてきた。朕の部下らも、こうした朕の意思に従ってさまざまな事柄を処理してきたので、外国との関係は年がたつにつれてますます厚い親交を結ぶに至っている。今、不幸なことにロシアと戦う事になったが、これは決して朕の意志ではない。
帝国の重を韓国の保全に置くや一日の故に非す。是れ両国累世の関係に因るのみならす韓国の存亡は実に帝国安危の繋る所たれはなり。然るに露国は其の清国との明約及列国に対する累次の宣言に拘はらす依然満洲に占拠し益々其の地歩を鞏固にして終に之を併呑せむとす。
日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。我が国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、今だに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。
若し満洲にして露国の領有に帰せん乎韓国の保全は支持するに由なく極東の平和亦素より望むへからす。故に朕は此の機に際し切に妥協に由て時局を解決し以て平和を恒久に維持せむことを期し有司をして露国に提議し半歳の久しきに亙りて屡次折衝を重ねしめたるも露国は一も交譲の精神を以て之を迎へす。
仮に満州がロシア領になってしまえば、我が国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、部下をおくってロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神はまったくなかった。
曠日弥久(こうじつびきゅう)徒(いたずら)に時局の解決を遷延せしめ陽に平和を唱道し陰に海陸の軍備を増大し以て我を屈従せしめむとす。凡そ露国か始より平和を好愛するの誠意なるもの毫も認むるに由なし。露国は既に帝国の提議を容れす韓国の安全は方に危急に瀕し帝国の国利は将に侵迫せられむとす。
ただいたずらに時間を空費して問題の解決を先延ばしにし、表で平和を唱えながら、陰では陸海の軍備を増強して、我が国を屈服させようとした。そもそもロシアには、始めから平和を愛する誠意が少しもみられない。ロシアはこの時点になっても日本帝国の提案に応じず、韓国の安全は今まさに危険にさらされ、日本帝国の国益は脅かされようとしている。
事既に茲に至る。帝国か平和の交渉に依り求めむとしたる将来の保障は今日之を旗鼓の間に求むるの外なし。朕は汝有衆の忠実勇武なるに倚頼し速に平和を永遠に克復し以て帝国の光栄を保全せむことを期す。
事態は、既にここまで悪化しているのである。日本帝国は平和的な交渉によって将来の安全保障を得ようしたが、今となっては軍事によってこれを確保するしかない。朕は、汝ら国民が忠実にして勇敢であることを頼みとして、速やかに永久的な平和を回復し、日本帝国の栄光を確たるものとすることを期待する。 
「露国との講和に関する詔勅」
朕東洋の治平を維持し帝国の安全を保障するを以て国交の要義と為し夙夜懈らす。以て皇猷を光顕する所以を念ふ。不幸客歳露国と釁端を啓くに至る。亦寔に国家自衛の必要已むを得さるに出たり。
朕は、アジアの平和を維持して日本帝国の安全を保障することを他国との交際に最も重要なことがらとして、日夜努力してきた。そうすることで、天皇のはかりごとが光り輝くものとなるよう念願してきた。残念ながら昨年、ロシアと戦端を開くに至ったが、これは我が国の自衛のために必要でやむを得ないことであった。
是固より我か皇祖皇宗の威霊に頼ると雖抑亦文武臣僚の職務に忠に億兆民庶の奉公に勇なるの致す所ならすむはあらす。交戦二十閲月(えつげつ)帝国の地歩既に固く帝国の国利既に伸ふ。朕の恒に平和の治に汲々たる豈徒に武を窮め生民をして永く鋒鏑(ほうてき)に困(くるし)ましむるを欲せむや。
これはもちろん我が天皇家の先祖の威光によるものではあるが、同時に文官や軍人が職務に忠実で、また大勢の民衆が勇敢に貢献したからにほかならない。二十ヶ月の戦いをへて日本帝国の基盤はもはや強固となり、国益を大きく伸ばした。朕は常に平和な統治をもとめて努力しており、けっして武力を行使して人々が長く戦乱に苦しむような事態を望んではいない。
嚮(さき)に亜米利加合衆国大統領の人道を尊ひ平和を重するに出てて日露両国政府に勧告するに講和の事を以てするや朕は深く其の好意を諒とし大統領の忠言を容れ乃ち全権委員を命して其の事に当らしむ。
先にアメリカ合衆国大統領が、人道と平和を尊重する立場から、日本とロシアの両国政府に講和についての勧告があった。朕はその好意に深く感謝して大統領の忠告に従い、全権委員を任命して講和の交渉を担当させた。
爾来彼我全権の間数次会商を累(かさ)ね我の提議する所にして始より交戦の目的たるものと東洋の治平に必要なるものとは露国其の要求に応して以て和好を欲するの誠を明にしたり。朕全権委員の協定する所の条件を覧るに皆善く朕か旨に副ふ。乃ち之を嘉納批准せり。
その時以来、我が国とロシアの全権委員は何度も交渉を重ね、我が国が提案したそもそもの戦争の目的とアジアの平和に必要な事柄については、ロシアはその要求に応じて、平和を望んでいるという誠意を明らかにした。朕は全権大使が取り決めた条約を見たが、それはすべて朕の希望通りであった。そこで、この条約を喜んで批准した。
朕は茲に平和と光栄とを併せ獲て上は以て祖宗の霊鑒(れいかん)に対(こた)へ下は以て丕績(ひせき)を後昆(こうこん)に貽(のこ)すを得るを喜ひ汝有衆と其の誉を偕にし永く列国と治平の慶に頼らむことを思ふ。今や露国亦既に旧盟を尋て帝国の友邦たり。則ち善鄰の誼を復して更に益々敦厚を加ふることを期せさるへからす。
朕はこれにより平和と栄光の両方を得たので、祖先に顔向けができるばかりか、大きな功績を後世まで遺すことができるのを喜び、汝ら国民とこの栄誉をともにして、永久に諸外国との平和を維持することを望む。今やロシアとはすでに戦前の関係を復活しており、日本帝国の友人である。すなわち友好的な隣国としての以前の関係に戻ったが、さらに親密な関係になることは疑いない。
惟ふに世運の進歩は頃刻息ます国家内外の庶政は一日の懈なからむことを要す。偃武(えんぶ)の下益々兵備を修め戦勝の余愈々治教を張り然して後始て能く国家の光栄を無疆(むきょう)に保ち国家の進運を永遠に扶持すへし。
朕の考えでは、世界の進歩は一時たりとも止まることはないので、国内外についての様々な政務は一日の猶予も許されない。戦争をやめてもますます軍備を整え、戦いに勝った後でさらに政治と教育を充実させることで、国家の栄光を永遠に保ち、国家の進歩を永遠に保持することができる。
勝に狃(な)れて自ら裁抑するを知らす驕怠(きょうだ)の念従て生するか若きは深く之を戒めさるへからす。汝有衆其れ善く朕か意を体し益々其の事を勤め益々其の業を励み以て国家富強の基を固くせむことを期せよ。
勝利して油断し、自分からそのおこないを見直したり改めたりすることをしないで、驕り高ぶったり怠けたりする考えが生じることが決してあってはならない。汝ら国民はよく朕の意思に従い、ますますこのことに励み、今後も勤勉に働いて、国家が富み強くなる基礎を強固にするよう努められよ。 
「日露講和条約批准に関する枢密院会議筆記録」
議長(伊藤)  唯今書記官をして朗読せしめた日露講和条約及追加約款は、事極めて重大なるを以て、議長自ら報告の任に当ることとせり。御承知の通、昨年以来十八箇月の永きに亙る戦争を終局せしむる条約にして、此の戦争の為には数十万の軍隊を犠牲に供し、十有余億円の金額を費し、遂に戦闘の何れの日に息むかは殆ど予測する能わざる形勢なりしに、米国大統領の発意に依り日露両国に勧告し、講和談判を開始することとなり、其の結果本条約の締結を見るに至れり。此の条約は前古比類なき関係を生ずる条約にして、事体極めて重大なるを以て議長自から報告の任に当りたり。
議長(伊藤)  ただいま書記官が朗読しました日露講和条約および追加の条項は、内容がきわめて重大ですので、議長みずからが報告を担当します。ご承知のとおり、昨年からの18ヶ月の長きにわたる戦争を終わらせる条約ですが、この戦争のために数十万の兵士を犠牲にして、10数億円の金額を使い(現在の約5〜10兆円に相当)、結局は戦いがいつ終了するのかまるで予測できない情況になっており、アメリカ大統領の発案によって日本とロシアの両国への勧告がなされ、講和の交渉が開始されることになりまして、その結果この条約が締結されることになりました。この条約は過去に例のない関係を生み出す条約であり、事態は極めて重大であるため議長みずからが報告します。
講和談判に付ては、内閣に於て充分審議を尽され、而して至尊の御裁可を得て全権委員派遣前に夫れ夫れ相当なる訓令を与えられることと枢密院に於ては見ざるべからず。而して全権委員は大命を畏(かしこ)み談判の対手に対し、身力の限りを尽し折衝を遂げたるものと見ざるべからず。然るに此の条約に付ては申すまでもなく、国論は鼎沸(ていふつ)の勢を呈したり。議長は諸君と共に静に開戦以来の状況を熟察し、本条約に対する御批准に付き賛否を決し、ここに君前に於て聖慮(せいりょ)を安じ奉るの手段を執らざるべからずと思料す。
講和談判に関しては、内閣で充分に審議しつくされ、そして陛下のお許しを得て全権委員の派遣の前にそれぞれ細かな指示を与えられたことは枢密院でご存じのことと思います。しかも全権委員は天皇陛下の命令を受け承り、話し合いの相手に対し全力をつくして交渉を成し遂げたと考えなければなりません。にもかかわらず、この条約については、言うまでもなく国の世論は様々な意見が提出され、激しく議論を戦かわす状況となっています。議長はみなさんとともに静かに開戦からの状況を深く見きわめ、この条約に対する天皇陛下のご批准についての賛否を決定し、ここで陛下の前でそのご心配事を取り除きご安心いただく手だてをとらなければならないと考えます。
此の条約に付ては批評百端なり。世間の批評議論は固より之を度外視する訳にはあらざれども、枢密院の議事は至尊腹心の議事なり。世間の議論と何等関連する所なく、衆議院の如きとは大に性質を異にし、重大なる事件に付宸断(しんだん)を決せらるるに方(あた)り、輔翼(ほよく)し奉る所あるべきものにして、之我々の職分なり。宸断せらるるに方リ、赤心を尽し思召に叶う様にすること我々の職責なり。
この条約については様々な意見があります。世間の批判と議論はもちろん無視する訳にはいきませんが、枢密院は国家の重大な事柄を論議するところです。枢密院は、世間の議論と全く関係している部分がなく、衆議院などとは性格が大きく異なっており、重大な事件について陛下が判断し決定するにあたって、補佐させて頂くところがなければなりません。これが我々の職務上の本分であります。陛下がご決断されるにあたって、真心をつくしてお考えに適うようにすることが我々の職務上の責任であります。
熟(つらつ)ら思うに世間の議論紛々たる中に於て枢密院は静に考量して談判には対手国のあることなれば本条約の締結に付ては全権委員の命を奉じたる者か、身力の限りを尽したるものと見ざるべからず。
よくよく考えてみますと、世間で様々な議論が出ている中で枢密院は落ち着いて考慮し、談判ではかけひきをする相手国がいるものですから、この条約の締結については陛下の命令を受けた全権委員が全力をつくしたものと考えなければなりません。
敵国は、満洲の野に於てこそ敗れたるも、尚お戦争を継続するの力あり。又敵国は戦に敗れたるも未だ降を請い和を請いたるものにあらず。世界の状況に鑑み講和談判の開始に同意したるものなるを以て我全権委員は身力の限りを尽して折衝の任に当りたるも、其の結果、対手国は我要求の総てを容れざりしは事実なり。
敵国は満州の大地では敗れたものの、なお戦争を継続する力があります。また、敵国は戦いには敗れたものの、いまだ降伏を求めているわけでも和平を求めているわけでもありません。世界の状況を考えた上で、講和の交渉を開始すると同意したのですが、我が全権委員は力の限りをつくして交渉の任務にあたったものの、その結果、相手国は我々の要求を全て受け入れたわけではないことは事実であります。
政府の見る所と世上無責任の議論とは固(もと)より符合すること難し。全権委員に於て身力を尽すも、結局妥協する能はざる場合に於ては、政府はこの条約を以て終局を告ぐべきや、将又(はたまた)談判を破裂せしむべきや。若し談判不調に帰したるときは、将来何れの日に於て戦争の終局を告ぐべきや、殆んど予期し能はざる形勢なりと信ず。
政府の見解と世間の無責任な議論とは、そもそも一致しにくいものです。全権委員が全力をつくしても結局妥協することができない場合は、政府はこの条約で戦争の終わりを告げるべきなのか、それとも交渉を決裂させるべきなのか、もし、交渉がうまくいかない時は、将来いつになったら戦争の終了を告げられるのか、ほとんど予測することができない情勢であることはまず間違いないと確信しています。
此く国家の安危を一断の下に決すべき際に処して、政府は危道を避け、安全の道を取り、咄嗟の間に議を定め、責任を負い、此の上数万の人命を損し十数億の軍費を費さんよりは、人道の上及社稷国家(しゃしょくこっか)の利害より打算して議を決せられ、今日、本条約の御批准を奏請せられたることと枢密院は見ざるべからず。
このように国家の重大な案件を即断しなければならない時、政府は危険な道を避け、安全な道を選択し、短時間の内に議論をまとめ、責任を負い、さらに数万の人命を失い十数億の軍費を費やすよりは、人道上と国家の利益から考えて議論を決定して、今日、この条約のご批准を天皇陛下に申し上げて裁可をあおぐことになったものと枢密院では考えざるを得ません。
本件は極めて重大なるを以て諸君も至尊と国家の憂を分たるる御考にて充分講究せられたることと思料す。議長は細目に渉るよりは、大体に付、開戦以来の総ての状況に照して御諮詢(しじゅん)に答え奉る方可なるべしと信じ、意見を陳述したる次第なり。御議論御質問の点あらば当局大臣も出席せられ居る故、随意に為されて可なり。御考慮の上決定あらんことを偏に希望す。
本件は極めて重大なので、あなた方も陛下と国家の心配を分担する考えから充分にご検討されたことと思います。議長は細かい事柄に言及するよりは、全体的な見地から、開戦以来の全ての状況にもとづいて陛下のお尋ねに答えるべきであると確信し、意見を述べた次第です。ご議論、ご質問がありましたら、担当大臣も出席されておりますので、随意におねがいいたします。熟慮の上で決定されるよう、切に希望します。
議長(伊藤) 各位において御意見を述べらるる必要なく、又御質問なくば採決す。御批准せらるべきものと認めらるる。諸君の起立を請う。〔全会一致〕
議長(伊藤)  全会一致を以て賛成せられたり。 議長(伊藤) 各議員においてご意見を述べられる必要がなく、またご質問もなければ採決します。天皇陛下がご批准されるべきであると考えます。みなさんの起立をお願いします。〔全会一致〕
議長(伊藤) 全会一致をもって賛成されました。 
 
日露戦争3

 

1. 日露戦争の原因  
(1) 日露戦争の歴史的意義
日露戦争は、1904年〜1905年にかけて、新興の大日本帝国と、老大国ロシア帝国が、中国東北部(満州)を主戦場として戦った、帝国主義の領土獲得戦争です。
この激戦は、アメリカが仲介する形で終結するのですが、その結果は、日本の勝利となりました。「判定勝ち」だったとはいえ、日本は、その戦争目的を完全に達成しましたから、完勝と言っても差し支えないと思います。
この戦争の結果、既に衰勢が明らかであったロシア帝国は、没落への一途を辿り、1917年のロシア革命で壊滅、崩壊します。
逆に、大日本帝国は世界の「五大国」に成り上がり、東アジアで大いに覇を唱えるに至るのですが、その突出振りがアメリカやイギリスの逆鱗に触れ、1941年〜1945年の太平洋戦争に敗れることで、アジアの覇権国家の地位を失うに至るのです。
日露戦争は、勝者である日本にとっても、敗者であるロシアにとっても、まさに運命の転機と言える政治的大事件でした。
いや、それ以上に、後世の政治史に重要な影響を及ぼしました。
日露戦争は、「有色人種が白色人種に勝利した、人類史上はじめての近代戦争」だったのです。
この当時の世界は、地球の陸地面積のほとんどを白人が支配しており、大多数の黄色人種や黒人(つまり有色人種)は、白人に植民地支配され、奴隷のような境遇に甘んじていたのです。この当時、有色人種の完全な主権国家は、全世界で日本、トルコ、タイ、エチオピアの4国だけでした(中米や南米は、白人と有色人種との混血に支配されていたので、純粋な有色人種の国家とは見なしません)。そのことからも、当時の状況の過酷さが良く分かると思います。そして、白人の有識者は、この状況を「当然」だと思っていました。彼らは、「有色人種など、ブタや馬と同じなのだから、我々に飼育されているのが当然だし、その方がかえって幸せなのだ」などと公言していたのです。
しかし、純粋な有色人種の国家である日本が、白人国家ロシアに挑戦し、これを見事に打ち負かした事実は、白人たちを瞠目させ、そして彼らの支配に苦しんでいた有色人種たちに勇気を与えました。
「俺たちだって、やれば出来るんだ!日本を見習え!」
こうして、全世界の植民地で独立運動が巻き起こり、自由の風が世界を覆う結末を迎えたのです。
日露戦争は、全人類の歩みを永遠に正しい方向に変えた、画期的な事件だったと言えるでしょう。
日本人は、もっと誇りを持って良いのです。 
(2) 本当は、日本の負けだった?
しばしば耳にする議論に、「日露戦争は、本当は日本の負けだった」というのがあります。学校の歴史の授業で、教師が生徒にそう教えているのだそうです。
私見を言うなら、この議論は完全な間違いです。
そもそも、「本当は負けだった」という言葉が論理的に変です。戦争の結果には、「勝ち」か「負け」か「引き分け」の3種類しか無いのです。その中に、「本当」や「嘘」が入る余地はありません。
学校教師が口にする「本当は負け」というのは、こういう意味で言っているのだそうです。
「日本は、短期で戦争が終わったから勝ったのだ。もしも長期化していれば、兵員数に勝るロシアが勝っていたはずなのだ。だから、本当は負けなのだ」
この説明は、論理的に間違っています。
実際の戦争は、確かに短期に終わったのですが、それは日本の戦争指導者たちが、短期に終わるよう努力したからそうなったのです。つまり、この戦争が短期に終わったのは、日本の作戦勝ちということです。ゆえに、「日本の勝利」という事実に変わりはなく、「本当」も「嘘」も無いのです。
また、一部の論者は、兵員の損耗数を根拠に「本当は日本の負け」と主張しているようです。確かに、捕虜を含めない兵隊の死傷者数では、日本の方が多かったかもしれない。
しかし、この主張も、論理的に間違っています。
戦争の勝ち負けというのは、兵員の損耗の多寡で決まるのではありません。戦争の勝敗は、「戦争目的が達成できたか否か」で決まるのです。日露戦争で、戦争目的を達成したのは日本の方でした。だから、あれは問題なく「日本の勝利」だったのです。異論を差し挟む余地などありません。
そもそも、損耗の多さで勝敗が決まるというのなら、長篠の戦いは武田騎馬軍団の勝利ということになるし、ノモンハン事変や硫黄島の戦いは日本軍の勝利ということになっちゃいませんか?(それぞれ、織田徳川連合軍、ソ連軍、アメリカ軍の方が、死傷者数が多かったのです)。
ところで、どうして日本の学校教師や識者は、「日露戦争を日本の負け」にしたがるのでしょうか?それは、戦後日本に蔓延したいわゆる「自虐史観」の仕業です。左翼思想に偏向した日教組は、戦前の大日本帝国の業績を、全て否定するような教育を展開したのです。今日、多くの日本人が愛国心を失っているのは、そのためです。
でも、我々の生きている社会には、『絶対悪』なんて存在しません。大日本帝国は、確かに悪事もしたでしょうが、良い事だってしているのです。その全てを否定的に教える日教組の方針は、教育というより「洗脳」ではないかと思います。
ともあれ、日本の若者の多くは、日露戦争に対して否定的な考えを持たされている。
そして、この小論の最大の目的は、洗脳の呪縛から若者たちを解放することにあります。 
(3) 日本の戦争目的
まず、基本的な前提から説明しなければなりません。
当時の世界は、いわゆる「帝国主義の時代」でした。軍隊や経済の力で他国や異文明を破壊し、植民地支配することが、ごく当たり前のように行われていたのです。力こそが正義、力こそが全てでした。力の無いものは、その生存を許されず、強者の草刈場にされてしまうのです。
最も残酷に帝国主義を推進したのは、もちろん、白色人種のヨーロッパです。彼らは、キリスト教、なかんずくプロテスタントの偏狭な世界観に縛られ、ヨーロッパ文明(=キリスト教文明)以外の文化や種族を軽侮していました。彼らの触手は、主として異教徒である有色人種たちに襲い掛かったのです。
前述のように、有色人種の完全な主権国家は、20世紀の初頭では4国しかありませんでした。
その中で最大勢力であったトルコ帝国は、その領土のほとんどをロシアとイギリスに奪い取られ、断末魔の危機に喘いでいました。
日本やタイやエチオピアが独立を保ちえたのは、これらの国が、たまたま白人勢力間の均衡の中間点にあったという幸運に恵まれたからです。例えば日本は、イギリスとフランスが頭上で睨みあって互いに牽制しあってくれたお陰で、その隙間をついて近代化を推進できたのです。
その日本は、19世紀終盤に至るまで、260年もの長きにわたって鎖国をしていました。これは、帝国主義の魔手から国富を守る措置でした。しかし、アメリカやロシアが強大な武力を背景にして開国を迫ると、もはや安住していられる時代は終わりを告げたのです。
こうして、なかば無理やり開国させられた日本は、究極の選択を迫られました。
・ 白人の植民地になるのか。
・ 黄色人種初の帝国主義国家に生まれ変わるのか。
日本の選択は、後者でした。
徳川幕府に取って代わった明治政府は、猛烈な「富国強兵政策」を展開し、従来の「封建的な農村国家」を、一気に「帝国主義的近代工業国家」に改造したのです。
その過程で起きた戦争が、日清戦争と日露戦争です。
この2つの戦争の最も重要な焦点は、「朝鮮半島の帰属問題」でした。
朝鮮半島は、言うまでもなく日本に地理的に最も近い陸地であって、その国家戦略に及ぼす重要性は計り知れないものがありました。19世紀末の時点で、ここを領有していたのは、「韓王国」でした。しかしこの国は、軍事力も経済力も前近代的な水準のままで、いつ外国の植民地になっても仕方がない状況に置かれていました。そんな朝鮮が、それまで独立を保っていられたのは、中国(清帝国)の属国になっていたからです。
その中国は、19世紀末の段階で、白人勢力に多くの領土を侵食され、もはや半植民地と成り下がっていました。今や朝鮮は、自分ひとりで帝国主義勢力と戦わなければなりません。
日本は、当初は、朝鮮に技術援助を行い、日本と同様の帝国主義国家に生まれ変わってもらおうと考えました。そして、共に手を携えて白人勢力に立ち向かおうとしたのです。しかし、この国では保守的な勢力が強く、改革などほとんど望めない状態でした。このままでは、朝鮮半島は、フランスかロシアかドイツの植民地になってしまうでしょう。そうなったら、日本は完全に白人勢力に包囲されてしまいます。
これは、当時の日本人にとって、たいへんな恐怖でした。ちょっとでも隙を見せたら、日本本土まで、たちまち乗っ取られてしまうでしょうから。
日本は、打って出ます。すなわち、朝鮮半島を勢力下に置き、ここを橋頭堡にして白人勢力の進出を防ぎとめようとしたのです。これが、いわゆる「日帝50年支配」の幕開けでした。
私は、「日帝50年支配」を正当化するつもりはありません。日本人の心の底に、「せっかく帝国主義国家になったんだから、植民地の一つでも持たなくちゃカッコが付かないし、西欧列強の仲間入りが出来ない」という気分があったことは確かです。
ただ、この時代は、情け容赦の無い「食うか食われるか」の世界だったことは、決して忘れてはならない点でしょう。侵略されたくないのなら、侵略する側に回るしかなかったのです。「弱い」と思われたが最後、たちまち食い物にされるからです。
そんな日本は、まずは、朝鮮半島に宗主権を持つ中国と対決します。日清戦争(1893〜94)です。この戦争に勝利した結果、朝鮮半島は日本の保護領にされるのでした。
しかし、この情勢に切歯扼腕したのは、ロシア、ドイツ、フランスでした。彼らは、「ちくしょう、生意気なサルに先を越されちまった!」と怒ったのです。そこで、日本政府にねじ込んで、日本が中国から租借した遼東半島などを奪い取ったのです。いわゆる「三国干渉」です。当時の日本の国力では、とても彼らに抵抗できませんから、日本人は「臥薪嘗胆」を合言葉に、復仇の時を狙ったのです。
この「三国干渉」で、最も利益を得たのは、地理的に朝鮮に近いロシアでした。大陸への日本の影響力を弱めることに成功したこの国は、中国東北部(満州)や朝鮮半島を植民地にしようと動き出しました。中国政府の微弱な抵抗を撥ねのけて、軍隊を満州のみならず、朝鮮半島にまで送り込んだのです。
このままでは、朝鮮半島がロシアに奪われる・・・。
日本政府の焦燥は、目を覆わんばかりでした。
日本としては、朝鮮半島を我が手に収め、満州は西欧列強からの中立地帯として中国に保持させておきたかったのです。
すなわち、日露戦争における日本の戦争目的は、「ロシアの勢力を、朝鮮半島と満州から駆逐する」ことでした。 
(4) ロシアの戦争目的
次に、ロシアの事情を見ていきましょう。
ロシアは、もともとヨーロッパ東部に位置する農業国でした。13世紀にモンゴルの侵略に遭い、その植民地となっていましたが、イワン雷帝らの活躍でようやく独立国の体面を取り戻します。しかし、新生ロシアと言えども、封建領主と農奴によって構成された、遅れた農業国でしかありませんでした。
この状況を大きく変えたのは、18世紀のピョートル大帝です。この巨人は、スウェーデンやトルコを連戦連破し、ついに海への出口を獲得しました。ペテルブルク(現サンクト・ペテルブルク)は、ロシア初の海外貿易港だったのです。
この後、西欧文明を見習って経済発展に努めるロシアですが、十分な不凍港(冬でも凍らない港)が無いために、思うほどの経済成長を遂げることが出来ません。
当初は、トルコを叩いて地中海方面に出ようとしたものの、ロシアの勢力拡張を恐れるイギリスとフランスが、その前に立ち塞がりました。そして、露土戦争やクリミア戦争の結果、ロシアは、この方面への進出を断念せざるを得なくなったのです。
南への進路を塞がれたその巨大な触手は、比較的西欧勢力が手薄な東へと向かいます。中国との数度にわたる角逐の後、ようやく日本海に臨む港湾を獲得。ここを、ウラジオストック(東を征服せよ、という意味)と名づけたのです。そして、中国の清王朝の弱体化を見た彼は、暖かい港を求め、南へ南へと下っていきました。清王朝を恫喝し、中国東北部に東清鉄道を敷設したロシアは、その先端にある細長い遼東半島を、「三国干渉」で日本からもぎ取りました。この半島の突端に位置する旅順港は、ロシアにとって念願の、豊かな不凍港だったのです。
ロシアは、旅順港に大艦隊を派遣しました。「旅順艦隊」です。喉元に匕首を突きつけられた日本は、震え上がりました。もはや、日本海と東シナ海のシーレーンは、ロシアの思うが侭だったのです。
以上のことから分かるように、日露戦争におけるロシアの戦争目的は、「苦節の末に獲得した東アジアの権益を維持し、強化すること」だったのです。 
(5) イギリスの事情
帝国主義の時代は、生き馬の眼を抜くような激しい闘争の時代でした。帝国主義諸国は、互いに複雑な同盟や協定を幾重にも結び、既得権益を守りつつ、新たなチャンスを野獣のように狙っていたのです。
この中でも、最大の既得権益の保持者は、太陽の沈まない帝国イギリスでした。そのイギリスは、当然ながら、新進気鋭のライバルであるドイツやロシアの動向に神経を尖らせていました。ドイツやロシアは、いわば帝国主義の後発組です。彼らが勢力を伸ばそうとすると、必然的にイギリスの既得権益が脅かされるのです。
イギリスとドイツは、アフリカや中近東で激しい鍔迫り合いを繰り広げました。この対立が、やがて第一次大戦への扉を開くのです。
その隙をついて、ロシアが中国への触手を伸ばしていきました。このとき、半植民地であった中国に最も巨大な利権を持っていたのがイギリスだったのです。イギリスは、大いに焦りました。しかし、東アジアに大軍を派遣する余裕はありませんから、彼は有力なパートナーを求めていました。そのパートナーに、ロシアを食い止めてもらおうと考えたのです。
東アジアのパートナー、それは、新興の大日本帝国以外に有りませんでした。
こうして、「日英同盟」が結ばれます(1902年)。 
(6) アメリカの事情
アメリカは、日露戦争に影響を及ぼした大国の一つです。このころは、ようやく南北戦争という内乱を乗り越えたばかり。いわば、帝国主義の後発組でした。
20世紀初頭の帝国主義競争を俯瞰すると、先頭を走るイギリスとフランスを、一馬身差でドイツとロシアが追い、さらにその後を日本とアメリカが追いかけているという状況だったのです。
イギリスは、真後ろにいて目障りなロシアを蹴り落とすため、遥かに後方にいて当面の脅威にならない日本を利用しようとしました。
そしてアメリカは、この状況の中で漁夫の利を得、一気に上位に踊り出ようとしたのです。すなわち、日本とイギリスの両方に恩を売ることで、ロシア撤退後の中国市場への進出を企んだのです。
この日露戦争の結果、ロシアは遥か後方に脱落し、やがて共産主義革命という形で、この帝国主義レースを降りてしまいました。
ロシアに取って代わった日本は、併走するドイツと手を組んで、今度はイギリスとフランスの覇権に挑戦します。これを迎え撃った英仏は、アメリカの力を借りて日独を返り討ちにするものの、自らも疲れ切って後方に脱落。これが、第二次大戦ですね。
結局、20世紀の覇権競争は、ライバルたちを振り落としてトップに飛び出したアメリカの一人勝ちに終わったというわけです。
そういう視点で歴史を見ると、日露戦争に果たしたアメリカの役割は、たいへんに興味深いものがあるのです。
アメリカは、日本とイギリスに対して、ロシアとの戦争になったら支援を惜しまない旨を約束しました。また、頃合を見て和平を斡旋することも約束したのです。
アメリカの視線は、じっと戦後の中国市場に注がれていました。
こうして日本は、イギリスとアメリカの「対ロシア覇権闘争」の道具として使われたのです。 
2.両軍の戦争計画

 

(1) 日本の戦争計画
日本の指導者たちは、当初はロシアとの戦争に乗り気ではありませんでした。
戦っても、勝ち目が無いと思われたからです。
国力に劣るのみならず、日本はもともと資源の乏しい島国なのです。西欧列強を相手に戦争することなど、どう考えてもナンセンスでした。
そこで、清王朝も交えて、交渉でロシアを押さえ込もうとしました。具体的には、満州と朝鮮を、どちらとも中立化させようとしたのです。しかし、ロシアは、いったんは条約に応じたものの、たちまち豹変。満州はおろか、朝鮮半島にまで軍隊を送り込む始末。
日本は、もはや戦争を決意せざるを得ませんでした。
そんな日本にとって有利な点は、世界最大の経済大国であるイギリスやアメリカのバックアップが十分に期待できる点です。貧しい日本であっても、資金と資源については、比較的楽観的な見積もりを立てることが出来たのです。しかし、問題は戦力です。これは、どうしようもありません。
日本の作戦計画は周到でした。
「緒戦において奇襲攻撃をしかけ、敵の戦力が整わないうちにこれを各個撃破する。そして戦況が有利に進展しているうちに、アメリカに和平を仲介してもらう。戦争期間は長くて1年か1年半である」
重要なのは、戦争期間を「1年から1年半」と事前に決めている点です。日本の国力では、それ以上の戦争の拡大は不可能であるとの卓越した判断でした。長期戦になれば兵力が枯渇するのみならず、武器弾薬の生産も限界に達するでしょう。また、英米から資金を調達できるにしても、あまりに巨額の外債を発行してしまうと、後の世代に負担が掛かってしまうだろうことを慮ったのです。
この見識は、後の昭和の軍閥や、現代の政治家たちには及びも付かない深さです。
この差は、いったいどこから来るのでしょうか?
明治政府の首脳たちは、若い頃から幕末の血煙の中を掻い潜り、戦争の悲惨さを、身をもって味わってきました。また、戦争が、社会にとっての必要悪であることも十分に認識していたのです。だからこそ、戦争の是非には大いにためらいながら、いざ戦端が開かれたとたん、野獣のように断固たる意思で戦いを推進していったのです。
これは言うまでもなく、戦争に対するリアリティを喪失し、やらなくても良い戦争をダラダラ続けて国を滅亡に追いやった昭和の軍閥や、何の根拠も目的も無く口先だけで平和を叫ぶ現代の空想的な平和主義者たちには、及びもつかない境地でした。
日露戦争を日本の勝利に導いた最も重要な要因は、こうした戦争指導者たちの見識の深さにあったのだと思います。 
(2) ロシアの戦争計画
対するロシア軍は、あまりこの事態を深刻に考えていませんでした。
もちろん、有色人種の日本を侮っていたという側面もあるでしょう。
それ以上に重要なのは、この当時のロシアには、国策を決定するまともな機関が存在していなかった事です。
いちおう、皇帝が専制政治を行う国だったのですが、皇帝ニコライ2世は、優柔不断な坊ちゃんで、取り巻きたちの言いなりでした。自分自身では、国策を決めることが出来なかったのです。
そんな皇帝の側近たちは、その多くが地主貴族です。彼らは、宮廷サロンの中で、日夜、派閥抗争や権力闘争に明け暮れていました。その関心は、自分たちの私利私欲にしかありません。その過程で、貧しい農民たちが苦境にあえごうとも、東洋で日本との決定的な摩擦が起ころうとも、彼らにはどうでも良いことだったのです。
もちろん、良識派もいました。例えば、蔵相のウイッテは、対外戦争全般に反対の立場を貫いていました。なぜなら、ロシアの財政が窮乏化し、破産寸前になっていたからです。また、日本を視察した陸軍大臣クロパトキン大将は、この新興国の国力や国民の士気が侮りがたいことを見て取り、この強敵との戦争には反対だったのです。
しかし、少数の良識派の意見は、常に大勢の愚者に押し流されてしまいます。その愚者たちは、別に戦争を望んだわけではありません。何も考えていなかったのです。
日本との国交を破綻させたのは、既述のとおり、ロシア軍の一方的な朝鮮への駐留でした。この愚行を強行したのは、朝鮮に利権を確保して「カネ儲け」を企んだべゾブラゾフ卿の独断だったのです。国の意思とは無関係なところで、私利私欲を企む宮廷貴族が「暴走」したというわけです。
まるで、40年後の日本の姿を見ているようですね。歴史は繰り返すとは、良く言ったものです。
というわけで、東洋におけるロシアの戦力は極めて貧弱でした。日本が攻めてくるという事態を、ほとんど想定していなかったからです。日露戦争の全期間を通じて、ロシア軍の対応が常に後手に回ったのは、まさにそのためでした。 
(3) 山本海相の大英断
日本という国には、常に致命的な大ハンデが付きまといます。それは、「四方を海に囲まれた、資源の乏しい島国」という点です。これは、外国の侵略から国土を守る上では有用なのですが、こちらから打って出る場合にはたいへんなハンデとなります。
事実、16世紀の豊臣秀吉は、朝鮮水軍にシーレーンを破壊されたために、朝鮮出兵に失敗しているのです。
明治の日本は、同じ轍を踏むわけにはいきません。もしもロシアに日本近海の制海権を奪われたらどうなるのか?兵力を大陸に送れなくなるだけではありません。鉱物資源はおろか、食料すら輸入できなくなった日本国は、国民の生活を守ることができずに壊滅してしまうのです。
ここで物を言うのは、やはり「海軍力」です。日本は、イギリスと同様、何が何でも海軍を強くしなければならない国でした。
この当時は、軍艦の建造技術が日進月歩の勢いでした。その有様は、90年代のパソコン市場の状況に良く似ています。技術の粋を集めて建造した最新鋭戦艦は、わずか3年後には陳腐化していたのです。
さて、明治政府は、創設当初から国防に大いに神経を遣っていました。最初は、日本列島の海岸沿いに巨大な大砲を据えつけて、敵国の艦船の侵入に備えました。例えば、今日の若者スポット「お台場」は、もともとこうした大砲の「台場(=据付場)」だったのです。
やがて、日本の国力が伸張して来ると、今度は軍艦を集めて海軍を建設しようとしました。しかし、当時の日本の技術力では、巨大な戦艦を建造することは出来ません。従って、主力艦については、欧米から巨額の資金をはたいて購入しなければならず、ここで喧喧諤諤の議論が起きました。貧しい島国であった日本は、乏しい国費の遣り繰りに苦労していたので、なるべく安価な三級艦を購入しようという意見が圧倒的多数だったのです。
これに異議を唱えたのが、海軍大臣だった山本権兵衛です。彼は、日進月歩の建艦競争に注目し、「なるべく高価で高性能の艦船を購入するべきだ」と主張し続けたのです。彼の説得力ある弁舌は次第に周囲を動かし、そして日本海軍は、世界最高の性能を持つイギリス製軍艦を揃えた一大艦隊へと成長して行ったのです。このとき、日清戦争で獲得した賠償金の殆どが、軍艦の購入に使われたそうです。
山本海相のこの見識の高さは、日露戦争を勝利に導く決定的な要因となったのでした。 
3.開戦

 

(1) 奇襲攻撃
日露戦争は、日本軍の奇襲攻撃によって幕を開けました。
陸軍は、朝鮮半島の西岸に大軍を送り込み、海軍は、水雷戦隊を旅順港に潜入させて、ロシア旅順艦隊に夜間魚雷攻撃を仕掛けたのです。時に、1904年(明治37年)2月8日。
不意を衝かれたロシア軍は、大損害を出しました。
既に国交は断絶していたのです。当時の国際法規では、国交が断絶した国家間には、宣戦布告無しの攻撃が認められていました。ですから、日本軍の奇襲攻撃は卑怯な騙まし討ちではなく、国際的に非難を浴びることもありませんでした。
ロシアが不意を衝かれた理由は、やはり日本を軽んじていたことと、もともと腐朽官僚体質であるがゆえ、情勢判断が雑になっていたためなのでしょう。奇襲を受けた旅順港では、ほとんどの海軍士官が上陸しており、その多くはパーティーで浮かれ騒いでいたと言われています。
しかし、いよいよ戦争になってしまいました。
そして、ロシアは、自軍の不利な情勢に初めて気づいて愕然とします。極東にはほとんど陸軍を置いておらず、海軍も日本に劣っていたのです。軍艦の数は日本に匹敵していたのですが、旧式艦が多くて、とてもイギリス製の高性能艦で占められる日本海軍に勝てると思えません。そこで彼らは、長期持久戦の構えに入り、そして本国からの増援を待って決戦を挑む方式に切り替えたのです。
ロシアは、ドイツとの国境に数百万の大軍を擁していました。これをシベリア鉄道で極東に送り込めば、陸兵の数で日本を圧倒できるでしょう。
また、ロシアはヨーロッパのバルト海と黒海にそれぞれ大規模な艦隊を持っていましたから、これを極東に送り込めば、やはり数の上で日本海軍を圧倒できるはずなのです。
そして、日本は、こうした情勢を知悉していましたから、ロシア軍が増援を得て強化される前に、極東地域を電撃的に制圧して講和に持ち込もうとしたのです。
日露戦争は、陸海ともに、まさに時間との戦いだったのでした。 
(2) 閉塞作戦
ロシア軍が守りに入ったため、当面の日本軍の進撃は極めて順調でした。
極東ロシア海軍の主力は、旅順港を基地とする「旅順艦隊」でした。その戦力は、日本艦隊と規模の上で匹敵していたにもかかわらず、要塞化された旅順港内に立てこもり、日本の挑戦に応じようとしません。日本艦隊は港外で切歯扼腕したのですが、そのお陰で日本の輸送船団は安全に黄海を押し渡り、朝鮮半島のみならず遼東半島の南岸にまで大量の陸兵を揚陸したのです。
遼東半島を守っていたロシア陸軍は、もともと兵力が少なかった上に、味方の海軍が役立たずで、敵兵の揚陸を簡単に許してしまったために、有効な反撃を行えません。小競り合いを繰り返しながら満州の奥地へと撤退して行きました。ロシア陸軍は、ヨーロッパからの増援を待ってから反撃に転じる方針だったのです。
一方、日本陸軍は、3つのルートで遼東半島を北上し、遼陽市で合流。その後、一気に満州のロシア軍主力に決戦を挑む手はずでした。その進撃は、極めて順調に進みます。
しかし、日本軍の誤算は、「旅順艦隊が篭城してしまった」事です。旅順艦隊は、もちろん臆病だったわけではありません。彼らは、ヨーロッパ方面からの増援を待ち、これと合流した後で、日本海軍に決戦を挑む方針だったのです。
高性能艦が多い日本海軍といえども、ヨーロッパの敵と旅順の敵の合流を許せば、彼我の戦力比は2:1となり、勝ち目は無くなります。つまり、日本軍が戦争に勝利するためには、ヨーロッパのロシア艦隊が来援する前に、何としてでも旅順艦隊を潰さなければならなかったのです。
度重なる挑発にもかかわらず、どうしても出てきてくれない旅順艦隊を前に、日本海軍はユニークな作戦を案出します。すなわち、「閉塞作戦」です。出てこないなら、永遠に出られなくしてしまおう、という作戦です。つまり、旧式の商船団を、湾口が狭くて水深の浅い旅順港の入口に沈め、もって旅順艦隊を港内に封じ込めて増援との合流を妨げようという作戦なのでした。
しかし、3次に渡って展開されたこの作戦は、ロシアの海岸砲台や駆逐艦の活躍で失敗に終わります。有名な廣瀬武夫中佐が戦死したのは、この作戦中の出来事でした。
「こうなったら、陸上から攻撃するしかない」
大本営は、旅順港を陸側から攻撃するべく、新たに「第3軍」を編成します。指揮官は、乃木希典大将でした。 
(3) シーレーンの攻防
前述のように、日本のアキレス腱はシーレーンです。資源の乏しいこの島国は、シーレーンを切断されたら自滅するしかないのです。そして、ロシア軍もその事を知悉していました。
ロシア海軍は、日本海に面したウラジオストック港にも艦隊を保有していました。巡洋艦4隻を中心とした「ウラジオストック艦隊」です。この艦隊は小規模だったため、日本軍はあまり重視していませんでした。しかし、この小兵が、思わぬ脅威に成長して日本を苦しめるのです。
日本海軍の主力が、旅順沖で釘付けになっていることを見て取ったエッセン提督は、積極果敢にウラジオストック艦隊を動かします。この小兵艦隊は、日本海から玄界灘へ、さらには津軽海峡を越えて房総半島から東京湾へと転じ、列島沿岸の日本の商船や輸送船を片端から撃沈して回ったのです(4月〜7月)。
日本国民は、震え上がりました。
この情勢を危ぶんだ日本海軍は、上村彦之丞提督の艦隊を主力から分派して(第2艦隊)、ウラジオ艦隊の追撃に当たらせました。しかし、それぞれワンセットの艦隊が追いかけっこをしても、なかなか遭遇できるわけがない。日本列島という名のテーブルの周りをグルグルと回る、トムとジェリーみたいな様相を呈したのです。
船舶の被害は日を追って広がり、国民の戦意は衰えていきました。
日本国の持つ致命的な弱点は、開戦劈頭の時点で、戦争全体を危殆に陥らせたのです。 
(4) 世界最強の要塞
さて、亀の子のように港内深くに閉じこもった旅順艦隊を倒すべく、日本陸軍第3軍は遼東半島を南下し、そして旅順港を包み込むように広がる巨大な要塞を包囲しました。
旅順はたいへん美しい街ですが、巨大な軍港を守るために、街全体を取り囲む山岳地帯をコンクリートと銃砲で埋め尽くした、世界最強の要塞でもあったのです。
日本軍の最大の誤算は、この都市が要塞化されていることを「知らなかった」ことです。参謀総長の児玉源太郎などは、「旅順など、竹矢来で囲っておいて、敵兵を閉じ込めればそれで済むのだ」などと豪語していたのです。
もともと日本陸軍は、旅順を攻撃する計画を持っていませんでした。旅順は海軍に任せて、自分たちは満州奥地の主戦場に特化しようと考えていたからです。そのため、旅順の状況について無知であっても、それはそれで仕方なかったのかも知れません。
このことからも分かるように、日本の陸軍と海軍は、すでにこの当時から不仲で、互いの情報が分立していました。
それが悲劇を招きます。
急造の第3軍は、情報も兵力も武器弾薬も、全てが不足気味でした。しかし、現場を知らない大本営や満州軍司令部は、乃木将軍に総攻撃を強要します。そして、これに押し切られた乃木司令部はこの要塞に正面攻撃を仕掛けたのです。
7月26日からの第一次総攻撃は、屍の山の中で失敗に終わりました。
攻撃軍5万のうち、死傷者数はなんと1万5千!
全戦線で連敗中のロシア軍は、この情勢に欣喜します。 
4.戦争経済と諜報戦

 

(1) 戦争はカネがかかる
日本軍にとっては実に不本意ながら、旅順の戦いは、日露戦争の死命を決する主戦場へと昇格してしまったのです。
その理由は、「戦争経済」にあります。
戦争は、生産性皆無の破壊行為なので、ただひたすらにカネがかかります。どうして、このような愚かな行為をするのでしょうか?人間という生物種の本質に疑いを感じてしまいます。
それはさておき、この当時、日本とロシアはたいへんな貧乏国で、財政が非常に逼迫していました。そこで、この日露戦争において、両国とも外国からの借金で戦費を調達していたのです。
日本は主にイギリス市場で、ロシアはフランス市場で外債を発行しました。しかし、言うまでもなく、借金は「信用」が無ければできません。カネを貸す側は、利息を含めて回収の目処が立つから貸すのです。もしも貸付先が破綻したら、貸したカネは不良債権となり、大損をこいてしまいます。
現在の日本では、ほとんどの都市銀行が不良債権に苦しんでいますね。政治家やマスコミの論調では、あたかも「天災」みたいに扱われていますが、それは大きな間違いです。不良債権というのは、単なる「経営の失敗」です。銀行が、貸してはならない相手にカネを貸したからあんなことになったのです。なのに、どうして銀行の無能な経営陣は責任を取らないのでしょうか?どうして、彼らの尻を叩いた財務官僚どもは責任を取らないのでしょうか?公的資金の投入とか手数料の値上げとか、要するに、庶民に全てを押し付けて知らん顔なのはいかがなものか?この国は、まったく無責任で駄目な国になりましたな。
ともあれ、投資というのは、それくらいに難しいものなのです。
さて、外債市場では、当初はロシア債の方に人気がありました。なぜなら、外債を購入する投資家からすれば、日本よりもロシアの方が強いだろうから、ロシアに投資した方がより安全だと思われたからです。
そのため、日本の資金調達は、高橋是清らが奔走しイギリス政府のバックアップを受けたにもかかわらず難航しました。しかしそのとき、アメリカ市場のユダヤ財閥が助け舟を出してくれたのです。当時のロシアは、国内のユダヤ人に大弾圧を加えていましたから、同胞の苦境に悩むユダヤ財閥は、むしろ日本を応援して日本に勝ってもらいたいと願い、外債を大量に引き受けてくれたのです。こうして、日本は当面の戦費を確保することが出来ました。
しかし、それだって時間の問題です。もしも日本が戦場で劣勢を続けるようなら、投資家の興味はますますロシア債に移り、日本はいずれ資金ショートに陥るでしょう。
幸い、日本軍は戦場で連戦連勝でした。ロシア海軍は旅順に閉じ込められ、ロシア陸軍はどんどん北方に逃げて行きます。
この結果、日本債は高騰し、逆に、ロシア債は買い手が付かなくなりました。これは、ロシアにとって戦争遂行上の死活問題です。
そんな矢先、旅順要塞の戦いが起こり、日本軍は大損害を出して撃退されました。ロシア政府はこの勝利を大々的に宣伝し、「旅順要塞無敵神話」を創造したのです。このため、外債市場では再びロシア債が人気を取り戻したのでした。
こうして、日本はロシアの戦争遂行能力を破壊するため、何が何でも旅順要塞を陥落させ、その無敵神話を突き崩さなければならなくなったのです。
一部の歴史小説には、「旅順要塞を攻略する必要はなかった。203高地だけを落とせば良かったのだ」などと書かれていますが、これは間違いです。 
(2) 金子特使と明石大佐
ところで、どんなに戦場で勝利を重ね、どんなに資金繰りが円滑になっても、戦争そのものを終結させる方策を立てねば意味がありません。
当時の日本政府は、非常に用意周到でした。
まずはアメリカに、セオドア・ルーズヴェルト大統領の学友であった金子堅太郎を、外交等特使として送り込みました。彼の任務は、アメリカ大統領に食い入って、時宜を外さず和平の仲介を行わせしめることでした。ルーズヴェルトは、この戦争の全期間を通じ、タイミングを見計らって和平会議の開催をロシア政府に提案したのですが、その影に金子特使の活躍があったのです。金子はまた、アメリカ各地のパーティーに出席したり新聞に投稿をしたりと、アメリカ世論の親日感情を増進する上で大活躍しました。
また、日本政府は、スウェーデンに明石元二郎大佐を大量の金塊とともに送り込みました。彼の任務は、ロシア国内の反政府活動家に援助を与え、これをもって欧州のロシア軍の東進を制約するとともに、ロシア民衆の反戦感情を煽り立てて、ロシア帝国に長期戦の遂行を断念させることにありました。明石大佐の接触相手には、あのレーニンもいたと言われています。そして、ペテルブルクでの大暴動(血の日曜日事件)や黒海艦隊での戦艦ポチョムキン号の反乱の影には、明石大佐から軍資金をいただいた社会主義活動家の姿がありました。こうして、ロシア政府は「革命」の二文字に脅え、次第に日露戦争の早期終結を考えるようになります。明石大佐の活躍は、「数個師団に相当する」と言われました。
それ以外にも、日本は世界各地に諜報員や外交官を送り込み、世論操作や情報収集に全力を尽くしたのです。こうした草の根の活躍が、日露戦争の勝敗を決する重要なキーになったのでした。 
(3) 捕虜優遇政策
日露戦争当時の日本軍は、国際法をよく学び、それに完全に準拠して戦争を進めました。
例えば、内地に移送したロシアの捕虜たちを、日本全国に設置した捕虜収容所で人道的な待遇で扱い、また「二度と戦争に参加しない」ことを条件に、彼らを定期的にロシアに送り返すことまで行ったのです。松山収容所では、道後温泉に行ったり女郎屋に通うことすら許していました。つまり、ロシア捕虜は、日本の平均的な民間人よりも良い生活が出来たのです。
この事実は、日本を「劣等の黄色人種」と呼んで侮る傾向があった西洋列強に深い感銘を与えました。彼らは、次第に日本を「文明国の一員」として認知するようになります。これが、後のポーツマス講和条約で、日本寄りの国際世論を喚起する上での重要な要因となりました。
また、戦場のロシア兵にこうした噂が広がると、ただでさえ厭戦気分の強い彼らは、逆境になるとむしろ喜んで日本軍に投降するようになりました。「マツヤマ、マツヤマ」と叫びながら。捕虜優遇政策は、戦場でも敵の士気を落とす戦術的効果を発揮したというわけです。
以上のことから分かるように、この当時の日本政府は、満州の戦場だけではなく、全世界の金融市場や外交活動やテロ支援、さらには国際法と国際世論を視野に収めた壮大な大戦略を展開していたのです。でも、戦争に勝つためには、必ずこういうやり方をしなければなりません。そのことは、「孫子の兵法」からも明らかです。
こうしたグローバルな戦略遂行力が、この40年後の戦争で完全に失われていたのは奇妙に思えますが、その理由はもちろん、40年後の戦争が、政治家不在の「軍事官僚の暴走」によるものだったからです。
そして、現在の日本も「官僚の暴走」によって手足がバラバラに動いている状態にあります。これを是正できさえすれば、日本は長引く不況からも容易に脱却できると思うのですが・・・。 
5、運命の8月

 

(1) 黄海海戦
さて、話を戦場に戻しましょう。
開戦当初は消極的だった旅順艦隊は、4月に入ると、士気を高揚させるためにしばしば港外で日本艦隊と砲戦を行うようになっていました。新任のマカロフ提督が有能だったためです。しかし、マカロフが座乗していた戦艦ペトロパヴロフスクが機雷に触れて轟沈し、提督が戦死するという椿事が出来したために、かえって士気が下がってしまいました(4月13日)。何という不運。後任のウイトゲフト提督はやる気をなくし、こうして旅順艦隊は、再び港内に閉じこもったままとなります。
やがて8月に入ると、旅順を包囲した乃木第3軍による砲撃によって、山越しに飛び込んで来る砲弾の雨に焦った旅順艦隊は、この危険な港を脱出してウラジオストックに向かおうと考えました。しかし、久しぶりに出撃したこの大艦隊は、たちまち日本海軍の警戒網に引っかかり、おっとり刀で駆けつけた東郷平八郎提督の第1艦隊と砲撃戦になりました。
これが、「黄海海戦」です(8月10日)。
東郷提督は、しかし旅順艦隊の意図を正しく把握していませんでした。敵が、決戦を挑みに来たものと勘違いしたのです。そのため、旅順艦隊が、隙を見て日本艦隊との砲撃戦を避けて北方に全速力で逃げ出すと、後方に置き去りにされてしまったのです。
それでも、慌てて追いかける日本艦隊に、幸運の女神が微笑みました。遥か後方から放った遠距離射撃がラッキーパンチとなり、敵の先頭を進む旗艦チェザレビッチの艦橋を破壊し、ウイトゲフト提督ほか司令部要員を全滅させたのです。この結果、チェザレビッチの進路は乱れ、その後ろを進む諸艦艇も大混乱に陥りました。こうして追いついた日本艦隊は、混乱状態の敵を各個撃破することに成功。生き残ったわずかなロシア艦艇は旅順港内に引き返し、残りの多くが降伏するか撃沈されました。
日本軍の幸運は、それだけに留まりません。旅順艦隊の危難を知ったウラジオストック艦隊が、救援のために黄海に駆けつけたのです。それを待ち伏せしていたのは、上村提督の日本第2艦隊。彼は、ついに雪辱を晴らすことに成功しました。必死に逃げるウラジオ艦隊に懸命に追いすがった上村艦隊は、この仇敵をついに壊滅させることに成功したのです。これが「蔚山沖海戦」(8月14日)です。こうして、日本のシーレーンの安全は、ようやく確保されたのでした。
さて、「黄海海戦」の結果、ボロボロになった旅順艦隊の生き残りは、満足な修理も受けられずに旅順港内に居すくまり、戦力としては完全に無力化しました。しかし、ロシア政府が「健在」をアピールしたために、実態を知らない東郷艦隊は、相変わらず港外での警戒態勢を余儀なくされ、日本第3軍は要塞の早期攻略を余儀なくされたのでした。
ロシア軍は、見事な情報戦略で日本の大兵力を南方に釘付けにすることに成功したのです。
その間、満州では大決戦が戦われていました。 
(2) 遼陽の戦い
それまで退却を続けていたロシア満州軍は、遼東半島の重要都市である遼陽でその動きを止めました。アレクセイ・クロパトキン大将は、この街を要塞化して日本軍を迎え撃とうとしたのです。
そのころロシア本国では、クロパトキンが無為無策のままに退却を続けることを批判する動きがありました。ロシア満州軍司令部には、そういうプレッシャーもあったのです。
さて、3つのルートから進撃して来た日本軍は、遼陽の手前で合流に成功しました。そのまま、遼陽を三方から包囲して締め付けます。
日本満州軍の総司令官は、大山巌元帥でした。この人は、本当は小心で数字に細かい人物だったようですが、部下たちの前では豪放磊落で鷹揚とした人物を装っていました。決戦の最中に、「どこぞで大砲の音がしとるが、戦争でもやっているのかの?」と児玉参謀長に冗談を飛ばしたという逸話が残っています。これは、同郷の大先輩である西郷隆盛の統率術を見習ったのでしょうか?でも、彼は冗談を飛ばしながらも、頭脳の中では激しく正確な計算をし続けていました。日本人は、意外とこういう大将の下で働くほうが実力を出せそうな気がします。
参謀長の児玉源太郎は、台湾総督も勤めた政府要人で、本来なら次期首相候補でした。それが、軍隊の中で数階級も降格となって大山の軍師になった理由は、彼の知略なくしてはロシアに勝てないと思われたからです。
このように、当時の日本軍は、官僚的な年功人事を打破して、「勝利」を得るために尽力するスタンスを取っていました。もちろん、薩摩と長州の縄張りとか、そういう制約はあったわけですが、その枠内では割合とフレキシブルな人事を行える組織だったのです。ただ、乃木将軍が、長州閥の年功人事で第3軍司令官になったことは、彼が未だに悪く言われる所以の一つですね。
大山元帥の下には、第1軍の黒木大将、第2軍の奥大将、第4軍の野津大将ら、叩き上げのベテランが揃っていました。指揮下の将兵たちも、国家の「危急存亡」を自覚して、その戦意は極めて高揚していました。
これに対して、ロシア軍は今ひとつ気合が入らない。大将たちはもちろん、兵隊たちにとっても、何のために文字も言葉も通じない中国の一角で、日本人と殺しあわなければならないのか釈然としないものがありました。
こうして、遼陽の前面で一進一退の激しい攻防戦が展開されたのです(8月25日〜)。日本軍13万に対するロシア軍は22万。
日本軍は、黒木将軍率いる第1軍が見事な活躍を見せて、険しい山岳地帯を突破して南方からロシア軍の背後に回りかけたのです。この情勢を恐れたクロパトキンは、直ちに全軍に退却命令を出しました。
彼は、もともと遼陽で最終決戦を挑むつもりはありませんでした。ロシア本国に「やる気」を見せるとともに、援軍到着までの時間稼ぎがしたかったのです。
こうして、遼陽の戦いは、あっけなく決着しました。日本軍の死傷者は2万3千名、ロシア軍の死傷者は2万。ロシアは粛然と北方に引き、そして疲れきった日本軍は有効な追撃を行えませんでした。
この戦いでの日本軍の狙いは「遼陽でロシア満州軍を包囲殲滅する」というものでした。国力の低い日本としては、十分な余力が残っているうちに、とにかく早めにこの戦争の決着をつけたかったのです。そして、その目論見は完全に失敗したのでした。
そういう意味では、早期に退却を決断して主力を温存したクロパトキンは、後世に言われるほど無能な将軍ではなかったのかもしれません。
日本満州軍は、早期決着を諦め、クロパトキンを追って再び満州北方に進撃を開始しました。 
6、難攻不落の旅順要塞

 

(1) 無謀な突撃作戦
遼陽の戦いは、日本にとって最終決戦となるはずでした。そのため、満州軍はこの戦場に兵員と弾薬を無制限に投入したのです。しかし、ロシア軍に逃げられてしまったため、日本軍の武器弾薬は枯渇し、しかも大幅な兵員の損耗を抱えた状態になったのでした。
そんな情勢に苦悶する満州軍司令部は、旅順の第3軍を当てにしていました。旅順要塞を軽視していた幕僚たちは、第3軍が旅順にこれほど長期にわたって拘束され、しかも戦力にあれほどの損耗を出すとは予想していなかったのです。満州軍は、第3軍が北上してくれるまで、ロシア軍の前面で待機する方針を採るしかありませんでした。
しかし、旅順の戦いはこれからが本番でした。
第3軍の首脳部は、弾薬不足を理由に要塞攻撃をためらうばかりでしたが、海軍から何度も何度も催促されて、惰性のように攻撃を再開したのです(9月19日)。その結果は、無残なものでした。日本の兵士たちは、不十分な砲撃支援の後で銃剣を抱えて突撃し、そして機関銃弾の雨とぺトン(コンクリート)の壁の前に累卵のようになぎ倒されて行ったのでした。
旅順要塞は、確かに見事な要塞でしたから、弾薬不足の日本軍の苦戦は仕方ないと言えます。それにしても、第3軍首脳部の無為無策はひどかった。攻め方がとにかく単調で、いつも同じ場所を同じ様に攻撃するのだから、何度も何度も同じ失敗の繰り返しに終始したのです。士気の低い第3軍の司令部は、戦場から離れた安全なところに本営を置き、そして戦場を視察することすらしなかったようです。
この情勢を、海軍のみならず満州軍も憂慮しました。
海軍としては、ヨーロッパのロシア艦隊が来る前に旅順艦隊を全滅させたい。
満州軍としては、ロシア陸軍主力を殲滅するために第3軍の戦力が欲しい。
それだけではありません。ロシア政府は、「旅順無敵神話」をますます吹聴して外債市場を活性化させたため、資金繰りが日に日に良くなったのです。
そして、早期講和を狙う日本政府としては、ロシアの無敵要塞神話を粉砕しないことには、彼を交渉のテーブルに引き出すことが出来ない。
こうして、旅順の戦いは、日露戦争の正念場になったのでした。 
(2) 203高地
海軍軍令部は、乃木第3軍の鈍重さに激怒しました。彼らとしては、旅順艦隊をとにかく潰してもらいたい。海軍の立場からは、要塞なんか攻略できなくたって良いのです。そこで彼らは、第3軍に次のような提案をしました。
「旅順要塞を攻撃するのではなく、旅順北西に聳え立つ203高地を攻略してもらいたい。203高地は、旅順市街と旅順港を観測するに十分な高度を持っているから、そこから旅順艦隊の位置を把握できるだろう。そうなれば、要塞越しに砲撃をかけて艦隊を潰すことが出来る」。
しかし、第3軍は「いまさら、部隊の配置換えはしたくないし、旅順市自体を落とさなければ意味が無い」と言って渋りました。それでも、あんまり海軍がしつこいものだから、部隊の一部を203高地に向かわせることにしました。
こうして、第2次総攻撃(10月26日〜)に際して、初めて203高地は戦場になったのです。ロシア軍は、うかつなことに、この高地の重要性に気づいていませんでした。そのため、日本軍の攻撃は成功し、203高地はその手中に入ったのです。しかし、兵力が中途半端だったために、あっというまにロシア軍の反撃によって奪還されてしまいました。そして、203高地の重要性に気づいたロシアは、この地を厳重に要塞化したのです。日本軍の中途半端な攻撃は、いわば「やぶ蛇」に終わったのでした。
そして、第2次総攻撃は主戦線でも失敗に終わり、要塞の前面は日本兵たちの屍で埋め尽くされました。この要塞の存在は、今や日本の戦局にとって致命傷になりつつあったのです。
しかし、実は旅順要塞もそれほど無傷では無かったのです。日本軍の数次にわたる命知らずの攻撃によって、いくつもの陣地は破壊されていたし、兵員の損耗と疲労も日増しに高まっていました。窮したロシア軍は、今や役立たずとなった旅順艦隊残党の砲台を取り外し、これを要塞に据えつけるほどに追い詰められていたのです。こうして、港内に浮かぶ旅順艦隊の残党は、単なるオブジェになりました。もしも日本海軍がその事実を知っていたなら、あれほど203高地にこだわることも無かったでしょうに。これこそ、歴史の皮肉ですね。
でも、旅順要塞の無敵神話を崩さないかぎり、ロシアが講和に応じることは有り得ません。また、第3軍をこの悲壮な任務から解放しないことには、満州軍がロシア軍を打倒することも出来ないのです。
大本営は、乃木を更迭することを考えました。しかし、明治天皇が反対したために、この方針は撤回されたのです。
こうして、満州軍から参謀長の児玉源太郎が派遣されました。 
(3) 旅順の落城
第3軍司令部の無為無策ぶりを見た児玉参謀長は、自らが陣頭指揮を執ってこの苦境を切り抜けようとします。彼はまず203高地を確保しようと考えて、渋る第3軍司令部の尻を叩いて、砲台や兵員を大量にこの戦略要地に移動させました。
そして第3次総攻撃が開始されました(11月26日〜)。203高地はついに日本軍の掌中に入り(11月30日)、その山頂に陣取った観測員が的確な指示を出した結果、降り注いだ日本軍の砲弾は旅順艦隊(すでに残骸同然だったが)を全滅させたのでした(12月4日)。これを見た児玉は、大急ぎで満州の戦線に帰ります。
第3軍は、引き続いて旅順要塞を攻撃しました。今回は、無謀な突撃を繰り返すのではなく、地下坑道を掘り進め、そこに爆薬をセットすることで、要塞施設を地下から覆滅させる作戦を取ったのでした。この作戦は大成功を収め、要塞の外郭陣地は次々に地下から吹き飛ばされて行きました。この過程で、ロシア側の名将コンドラチェンコ少将も戦死し、すでに艦隊を失った旅順市の戦意はゼロになったのです。
1905年1月1日、旅順要塞司令官ステッセルは、白旗を掲げました。乃木将軍は、彼を水師営に迎えます。
こうして、第3軍はついに旅順を攻略し、そしてロシアの無敵神話は崩れ去ったのです。それにしても、日本軍の戦死傷者は4万名。実に苦い勝利でした。
旅順の戦いについては、日本軍(とりわけ乃木将軍)の無能ぶりばかりが強調されます。しかしこの時代は、野戦築城の技術が大幅に向上したことに加えて、機関銃の発明などによって、拠点を防御する側の能力が格段に成長を遂げたことに留意すべきです。これに対して攻撃側は、まだ戦車も飛行機も無かったのだから、砲撃か銃剣突撃しか取りうる有効な手段が無かったのです。しかも乃木軍は、慢性的な砲弾不足に悩まされていました。
この戦争の10年後に始まった第一世界大戦では、ベルダンの戦いに代表されるように、要塞を攻撃した側が悲惨極まりない流血を重ね、結局、膠着状態を4年も続ける破目に陥ります。「戦争のプロ」を自認するドイツ人やフランス人でさえこの有り様だったのだから、歴史の浅い日本軍の苦戦は当然だったでしょう。
それでも、乃木軍は最終的には旅順を陥落させることに成功したのだから、むしろこの10年後のドイツ軍やフランス軍よりも優秀だったという評価を与えることも可能なのです。
ですから、乃木個人の「無能」をあまり誇大に取り上げるべきでは無いと思います。 
7.黒溝台と奉天

 

(1) ロシア満州軍の逆襲
そのころ日本満州軍は、遼陽北方の沙河周辺でロシア軍と対峙していました。
日本軍は、遼陽の戦いで武器弾薬を使い果たしたために、補給を待たなければなりませんでした。また、大幅な兵員不足に襲われたため、乃木第3軍の到着をひたすら待ち続けるしか無かったのです。
しかし、対するロシア軍は、ヨーロッパから増援を得て著しく強化されていました。自信を付けた彼らは、反撃の機会を虎視眈々と狙うようになります。
「沙河会戦」(10月10〜17日)は、ロシア軍の最初の猛反撃でした。日本軍は大きな損害を受けながら、なんとかこれを撃退するのでした。ロシア軍22万のうち死傷者は4万。日本軍12万のうち、死傷者は2万。
その後、季節が冬になると、疲れきった日本軍は油断するようになります。ロシア軍がこの寒さの中を攻めてくるとは思わなかったのです。正確に言うなら、ロシア軍に攻めて来て欲しくなかったものだから、そういう風に無理やりに思い込んだのです。希望的観測に縋り付いて抜本的対策を講じない悪癖は、現在でもいたるところに見られる日本人の短所ですね。
しかし、日本人とロシア人とでは、「寒さ」の概念が全く違います。満州南部の冬季の気温は、平均して零下20度だったのですが、日本兵にとって驚異的だったこの寒さも、零下30度の中で生活してきたロシア兵にとっては寒さのうちに入りません。
こうして、ロシア軍の逆襲が開始されました。10万もの大軍が北方から回り込み、そして日本軍を包囲殲滅しようとしたのです。「黒溝台の戦い」(1月25〜29日)です。これは完全な奇襲となり、油断していた日本軍は各地で撃破されました。
満州軍司令部で、児玉参謀長と松村参謀長はパニックに陥りました。そんな彼らは、敵に突破された地帯に、増援兵力を逐次投入するという愚を犯したのです。
そんな不利な情勢だったにもかかわらず、日本軍が全滅を免れたのは、幸運以上の何者でもありません。ロシア軍司令部で、派閥抗争が勃発したのです。
モスクワのロシア政府は、クロパトキン司令が頼りないものだから、グリッペンベルグ大将を梃入れに派遣しました。そして、黒溝台の反撃作戦を立案指導したのは、この新参将軍だったのです。もしもこの作戦が成功したら、クロパトキンはその地位を追われてしまうことでしょう。焦ったクロパトキンは、グリッペンベルグの足を引っ張るような命令を乱発したのです。その結果、ロシア軍は当初の奇襲効果を生かすことが出来ず、あちこちでモタモタして攻撃を手控えているうちに、日本軍が戦線の穴を繕うことに成功してしまったのでした。
身内に足を引っ張られて作戦を挫折させられたグリッペンベルグは、やる気をなくして本国に引き上げてしまいました。こうして、クロパトキンはその地位を保全することに成功したのです。良かったね。でも、戦場は哀れなロシア兵1万名の死体でいっぱいだ。
このときのロシア軍の様相は、太平洋戦争のときの日本軍に良く似ていますね。あのときの日本軍も、陸軍と海軍が派閥抗争に夢中になって、貴重な資源や兵力を分散させるという愚を犯しました。腐朽官僚組織というものは、いつの時代でもどこの国でも同じなのかもしれません。
戦場では、よりミスの少ない方が勝利を得ます。そして、ロシアのミスが日本のそれを上回ったために、「黒溝台の戦い」は日本軍の栄光の一つとなったのです。
こうして、再び戦線は膠着状態に陥ります。 
(2) 補給路を巡る戦い
満州の日露両軍は、冷たい睨み合いを続けながら、互いの補給路を破壊しようと狙います。両軍の生命線は、一本の鉄道でした。兵員も医薬品も武器弾薬も、東清鉄道を用いて輸送されていたのです。
日露両軍は、快速の騎兵部隊を編成して敵の後方に送り込み、鉄道を爆破しようと試みました。しかし、あまり効果はありませんでした。
ロシアの騎兵隊は、しばしば平野部を走る鉄道を破壊したのですが、日本の工兵隊はこれを簡単に修復してしまいました。
一方の日本の騎兵隊は、そうなるだろうと予想して、鉄橋爆破を積極的に狙って行きました。鉄橋なら、簡単に修理できないからです。しかし、兵力にゆとりがあるロシア軍は、鉄橋のような重要拠点には、常時1万名もの兵力を貼り付けて見張っていたのです。わずか数十名の騎兵隊では太刀打ちできず、こうして日本の破壊工作も空振りに終わったのでした。
日本軍の特殊部隊の中には、長躯シベリアに侵入してシベリア鉄道を爆破しようと狙った者もいましたが、これも敵の厳重な警備によって失敗に終わったのです。
戦場において、もっとも重要なのは補給です。このころの日本軍は、そのことを良く知っていたのです。それが、この40年後の戦争では完全に忘れられてしまったのは、実に奇妙な現象ですね。
ところで、ロシア軍には、まだまだ日本軍の補給線を破壊するチャンスがありました。ヨーロッパの艦隊が、「第2太平洋艦隊(通称バルチック艦隊)」となって日本目指して出航していたからです。この艦隊が無事に戦場に到着すれば、日本のシーレーンを断ち切ることも可能だと思われていました。島国である日本は、常にこういった地勢上のハンデを背負っているのです。 
(3) 奉天会戦
このころ、日本の国力は限界に達しようとしていました。戦場では寒さや疫病による病人が続出し、内地では重税に苦しむ国民の悲鳴が響き、そして工場では武器弾薬の増産も間に合わない。このままではジリ貧になってしまいます。
そんな中、ようやく乃木第3軍との合流を果たした満州軍は、ロシア軍主力に最後の決戦を挑みました。これが「奉天会戦」(2月22日〜)です。日本軍24万9千に対し、ロシア軍36万7千。これは、世界戦史上最大規模の激突でした。
奉天に陣取るクロパトキンは、時間をかけて緊密な要塞を築き上げ、そして万全の態勢で日本軍を迎え撃ちました。
日本軍は、新編成の鴨緑江軍が右翼から、乃木第3軍が左翼から進撃し、奉天市を両翼から包囲するという作戦を立てました。この地でロシア軍を包囲殲滅しようというのです。
しかし、兵力はロシア軍の方が遥かに上だし、奉天を中心に堅固な陣地を敷いています。日本軍は、当然ながら苦戦に陥りました。
鴨緑江軍はロシア軍の厚い壁に阻まれてその歩調を緩めます。正面攻撃の第2軍と第4軍も、強力な敵の防塞によってなぎ払われていきました。こうなったら、頼みの綱は左翼の乃木第3軍です。その第3軍も、必死に進撃を試みるものの、激しい損耗を受けてその勢いは鈍る一方でした。
このとき、奇跡が起きました。ロシア軍が戦意を喪失し、ついに退却を開始したのです。その原因については様々な説がありますが、クロパトキン大将が誤断をしたという説が最有力です。
まずクロパトキンは、日本軍の予備戦力を過大評価していました。日本軍が損耗を恐れずに無茶な攻め方を繰り返すのは、人的資源に余裕があるからだと思ったのです。そしてクロパトキンは、旅順を落とした乃木第3軍の実力についても過大評価していました。そんな彼は、戦いの初期段階から第3軍をマークしていたのです。ところが、彼は右翼の鴨緑江軍を左翼の第3軍と勘違いし混同していました。そして、戦いの中盤になってそのことに気づき、激しいショックを受けて思考停止状態になったのです。このままでは、今までノーマークにしていた第3軍に横腹を衝かれてしまうのではないか?
実際には、日本軍はほとんど予備戦力を持っていませんでした。奉天会戦は、一か八かの大勝負だったのです。また、乃木第3軍は旅順でのダメージから回復しきれておらず、クロパトキンの心胆を寒からしめるほどの威力は持っていなかったのです。
ともあれ、弱気になったクロパトキンの命令一下、ロシア軍は奉天から撤退し、日本軍はこの会戦に勝利を収めることができたのです(3月10日)。
日本軍の死傷者数7万。ロシア軍の死傷者は9万、そして捕虜2万1千。
この勝利は、「クロパトキンが弱気な指揮官だった」という一事に大きく依存していました。どうして彼は、こんなに弱気だったのか?その理由は、彼がかつて、陸軍大臣として日本を視察したときに、その国力を非常に高く評価し、強い親日感情を抱いたことに原因があるようです。クロパトキンは、もともと日本との戦争自体に反対だったのです。それでは、ロシア政府は、どうしてそんな親日的な人物を満州軍の司令官に据えたのか?それは、極めて官僚的な年功人事によるものでした。腐朽官僚組織と堕したロシア帝国は、もはや「適材適所」という概念を忘却していたのです。これは、40年後の日本帝国とまったく同じことです。
しかし、日本軍は勝利したとはいえ、奉天会戦の最大の目的であった「ロシア軍主力の包囲殲滅」に失敗しました。ロシア軍主力は、結局逃げてしまったので、この戦いで致命的ダメージをロシアに与えて講和会議のテーブルに引きずり出すという政略は空振りに終わったのです。
アメリカ大統領ルーズヴェルトは、既に旅順要塞陥落時にロシア政府に「和平仲介」を申し入れていましたが、これはあえなく却下されました。そしてルーズヴェルトは、奉天の陥落を知って再び動いたのですが、ロシア政府は「我が国は、まだ固有の領土を奪われたわけではない」と言って突っぱねたのです。
ロシア軍は鉄嶺、続いて長春に撤退し、日本軍はそれを懸命に追撃しました。しかし、もはや予備戦力を使い果たした日本軍には、再度の決戦を挑む力は残されていなかったのです。互いに陣地を築いて睨み合う両軍は、互いの海軍の活躍に期待を置くしかありませんでした。
その間、バルチック艦隊は、刻一刻と日本本土に迫りつつありました。
全世界の耳目が、この艦隊に集中しました。
日本が講和のテーブルにロシアを引きずり出すためには、この艦隊との決戦に何が何でも勝利しなければなりません。 
8、日本海海戦

 

(1) バルチック艦隊の回航
ロシア帝国は、ヨーロッパ方面に二つの艦隊を持っていました。すなわち、バルト海艦隊(バルチック艦隊)と黒海艦隊です。バルチック艦隊は、ドイツ海軍の攻撃からペテルブルクを守るための備え、黒海艦隊はトルコに対する備えでした。
さて、日露戦争の勃発によって、東アジアの海軍が窮地に陥ったことを知ったロシア政府は、バルチック艦隊を「第2太平洋艦隊」と改称し、これを極東に回航させようと考えます。指揮官に選ばれたのは、大官僚のロジェストヴェンスキー中将でした。
この艦隊は、1904年10月15日、皇帝に見送られてクロンシュタット港を出撃。バルト海から大西洋を南下し、南アフリカの喜望峰経由(一部の小型艦はスエズ運河経由)でインド洋に入り、マラッカ海峡からベトナム沖を北上し、そして旅順に入る予定でした。世界史上、類例を見ない長期の戦闘航海です。これに匹敵するのは、宇宙戦艦ヤマトのイスカンダル星への戦闘航海くらいのものでしょうか(笑)。
この艦隊の航海は、苦難に満ちたものとなりました。その最大の理由は、世界各地に植民地を持つイギリスが様々な妨害工作を行ったからです。イギリス領への寄港を拒否されたバルチック艦隊は、しかたなく数少ないフランス領の港湾に入るのですが、そこでも様々な「外交圧力」がかけられて、短日のうちに港外に追い出されてしまう始末。こうして、ろくに休養も取れず、訓練も受けられないこの艦隊の戦力は、日増しに低下して行きました。水夫の中には、発狂者も出たといいます。
しかし、日本政府には、そのような実情は分からない。バルチック艦隊の影に怯える政府が、乃木第3軍の尻を叩いて旅順を屍の山に変えたのは、これまで述べたとおりです。
さて、バルチック艦隊は、旅順の陥落をアフリカ東部のマダカスカル島(12月29日入港)で知りました。このとき、全艦に衝撃が走りました。旅順の陥落は、この戦闘航海の根本的意義を見失わせるものだったのです。なぜなら、バルチック艦隊は、旅順艦隊と合流することで日本海軍に対して圧倒的な数的優位を確保して、シーレーンを破壊し、満州の日本軍を飢えさせることを目的としていました。ところが、バルチック艦隊は、旅順艦隊が全滅した今となっては、単独で日本海軍と戦わなければなりません。そして、イギリス製の高性能艦を多く擁する日本海軍と正面衝突して勝てるとは思えないのです。
艦隊司令ロジェストヴェンスキーは、本国に作戦中止を具申しました。このまま進み続けても犠牲が増えるだけだと。
しかし、本国政府はまったく違うことを考えました。彼らは、バルト海の残存艦隊から退役間近の旧式艦を抽出し、これを「第3太平洋艦隊」と名づけてロジェストヴェンスキーの後を追わせました。増援を行うことで、日本海軍に対する数的優位を確保させようというわけです。
この計画は、理屈の上では良策のように思えますね。しかし、退役間近の旧式艦など、戦場では足手まといにしかなりません。また、増援の到着を赤道直下で待つ数ヶ月間で、ロジェストヴェンスキー旗下の将兵の疲労はますます激しくなったのです。先祖代々厳寒の地で暮らしてきたロシアの白人青年たちが、足掛け3ヶ月もの間、熱帯の太陽の下に置き去りにされた状況を想像してみてください。
一方、その数ヶ月間で、他に仕事が無くなった日本海軍の整備と休養と訓練は、十分過ぎるほどに整っていました。
バルチック艦隊の増援策は、会議室に篭って現場を知らない腐朽官僚の考え付きそうな愚策だったのです。ああ、なんと40年後の日本軍の様相に似ていることか。
しかし、愚直なロジェストヴェンスキー提督は、本国の命令に従わざるを得ませんでした。彼は、増援の動きを見据えながら、3月17日にようやくマダガスカルを出港し、インド洋を一気に突破。そしてマラッカ海峡を抜けて、4月14日、仏領インドシナ(ベトナム)に辿りつきました。しかし、この地を領有するフランスは、例によって例のごとく、イギリスの外交圧力に屈してバルチック艦隊を追い出しにかかります。
ロジェストヴェンスキー提督は、邪魔者扱いされた艦隊をベトナム近海に彷徨させつつ、ひたすら増援艦隊を待ち望むのでした。そんな彼は、5月9日にようやく増援との合流に成功し、その進路を日本へ向けたのです。
ところで、ロジェストヴェンスキーは、しばしば無能呼ばわりされますが、私はそうは思いません。これほどの過酷な大航海を一隻の脱落者も反乱者も出さずに乗り切った統率力は、実に大したものだと思うのです。彼は、もしも日本海海戦で勝利を収めていたら、「人類史上最高の名提督」と呼ばれていたでしょうね。
歴史は、常に敗者に不当に厳しいものなのです。 
(2) バルチック艦隊の進路は?
日本政府は、イギリスの諜報組織の助けを借りて、バルチック艦隊の動きを継続的にモニターしていました。しかし、カムラン湾以降は、その動きを見失ってしまったのです。
バルチック艦隊は、航海の疲れを癒すために、まずはウラジオストック港に入港するでしょう。そして、太平洋からウラジオストックに入るのには、大きく分けて2つのルートがありました。一つは、対馬海峡を抜ける西よりのルート。もう一つは、千島列島を抜ける北よりのルート。日本海軍は、このうちのどちらかで待ち伏せしなければなりません。
東郷提督率いる連合艦隊は、最初は「西よりルート」と考えて朝鮮半島南部に艦隊を集結させていました。しかし、待てば待つほど不安になるもの。敵の情報が全く入らないのだから無理もありません。また、秋山参謀が筮竹占い(笑)をやった結果、「東より」の卦が出たことも艦隊の心理を不安にさせました。秋山真之参謀は、しばしば小説などで美化され過大評価されていますが、かなりの変人だったことに留意すべきでしょう。
動揺した東郷提督は、大本営に無電を打って、北海道に転進する旨を通告しました。しかし、大本営の伊東軍令部長は冷静な判断力で東郷を宥めて押し止め続けたのです。
一方、問題のバルチック艦隊は、既に「西よりルート」の突破を決めていました。その理由は、1千島列島は潮流が激しく天候が悪いので、疲労しきった艦隊が無事に航行出来るとは思えない。2全艦隊がウラジオストックまで休息を取れず燃料を補給できない事情を鑑みれば、最短コースの「西よりルート」を進むしかない。
しかし、「西よりルート」には、強力な日本海軍が待ち伏せしているはずです。そこでロジェストヴェンスキーは、いくつかの偽装工作を行いました。艦隊をわざと沖縄(八重山)の東側に出現させ、旧式巡洋艦を小笠原方面に分離したのです。運が良ければ、この動きに釣られた日本海軍は、バルチック艦隊が千島ルートを辿るものと誤断して、対馬海峡をがら空きにしてくれるだろう。
しかし、幸運の女神はロシアには微笑みませんでした。八重山には無線設備が無かったので、バルチック艦隊が東岸に出現したとの報は東京まで伝わりませんでした。また、小笠原方面に分離した巡洋艦は、結局、どこの国籍の船舶にも行き会わず、したがってこれに関する情報も東京には流れませんでした。
それとは逆に、バルチック艦隊から分離された輸送船団が上海に入港したとき、これに関する情報が東京に流れてしまったのです。大本営は考えました。「輸送船団を切り離したということは、ロシア艦隊は最短距離の対馬ルートを採るに違いない」。
ロジェストヴェンスキーが仕掛けたフェイントは見事に空振りし、そして日本はバルチック艦隊の意図を突き止めることに成功しました。
こうして、決戦の火蓋が切られます。 
(3) 日本海大海戦
バルチック艦隊は、訓練不十分で疲労困憊の水兵に加え、貯蔵庫に納めきれない石炭を甲板に満載した状態で対馬海峡に入って来ました。しかも、その直前に、ロジェストヴェンスキーの副官に当たるフェリケルザム少将が過労で病死するというハプニングもありました。しかしロジェストヴェンスキーは、この人望溢れる有能な副官の死を、水兵たちに秘匿してしまいました。これ以上の士気の低下を避けたかったからです。
そして、このフラフラでボロボロの艦隊は、たちまち日本の哨戒網に引っかかりました。哨戒艇・信濃丸からの急報を受け、東郷提督率いる日本の連合艦隊は、韓国南部の鎮海湾を出撃しました。時に1905年5月27日午前6時。
旗艦「三笠」にZ旗が舞い上がりました。意味するところは、「皇国の興廃、この一戦にあり。各員いっそう奮励努力せよ」。秋山参謀は、大本営に無電を打ちました。「本日、天気晴朗なれども波高し」。
不運なことに、連合艦隊に視認されたバルチック艦隊は、狭い海峡を通るために陣形を変更している途中でした。彼らは、最悪のタイミングで最強の敵に襲われたことになります。
連合艦隊は、「T字回頭」を敢行しました。すなわち、敵の単縦陣に対して垂直になる形に味方の単縦陣を進め、そこから敵の直前で一斉回頭し、同じ方向(北)に艦隊を走らせながら砲撃を浴びせるというものです。よく誤解されているのですが、これは砲撃戦の戦法ではなくて、「進路の取り方」です。東郷提督と秋山参謀は、昨年8月の黄海海戦のさい、もう少しで旅順艦隊に北に逃げられそうになった嫌な経験があります。しかし、二度と同じ失敗は許されません。そこで、「常に敵と同じ方向に並行して進む」ために考え出されたのが「T字回頭」という航法だったわけです。
しかし、敵前で進路を変更するとき、軍艦の動きは一時的に静止します。そこを狙い撃たれたら致命傷になりかねません。この冒険をあえて試みたのが、東郷提督の勇気と覚悟です。案の定、全艦の先頭に立つ戦艦「三笠」は、ロシア艦隊の集中砲撃を受けました。しかし、「三笠」はイギリス製の世界最強の装甲を持つ新鋭艦です。直撃を受けても、そのダメージは致命傷にはなりませんでした。ロシア艦隊が、たまたま陣変えの途中だったために有効な砲撃を行えなかったことも幸いしたようです。これぞ、日本の幸運、ロシアの不運。
袋叩きになりながらも、無事に回頭を終えて敵と並進する形になった連合艦隊。今度は、日本がお返しする番です。東郷提督の戦艦「三笠」「敷島」「富士」「朝日」と装甲巡洋艦「春日」「日進」、上村提督の装甲巡洋艦「磐手」「出雲」「吾妻」「浅間」「八雲」「常盤」らが一斉に砲門を開きました。
日本の軍艦は、再三にわたって述べたように、世界最強のイギリス製でした。また、日本海軍は、日本オリジナルの伊集院信管や下瀬火薬を用いた高性能砲弾を使用していました。これは、敵艦の装甲を打ち抜くものではなく、甲板で爆発して高熱の炎を撒き散らすことで、敵水兵の活動を停止させてしまうという新兵器でした。
ロシア艦隊は、たちまち炎をあげて断末魔にあえぎます。不運なことに、旗艦のスワロフが、いきなり大ダメージを受け、総司令官のロジェストヴェンスキーが重傷を負い人事不省に陥ったのです。司馬遼太郎氏は、これを指して「だからロジェストヴェンスキーは無能なのだ!」と評していますが、それはちょっと酷なのでは?
ロジェストヴェンスキーが倒れたら、副官のフェリケルザムが指揮を引き継がねばなりません。しかし、前述のように、この副官は既に病死していました。しかも、その事実は一部の幕僚にしか知られていなかったのです。こうして、バルチック艦隊の指揮命令系統は海戦劈頭で無力化しました。何という不運!
日本の軍艦は、ロシアのそれよりも、砲力、機動力、装甲、全てにおいて勝っていました。また、水兵の鋭気と訓練度は、それこそ話にならないくらいに懸絶していたのです。こうして、日本海海戦は一方的なものとなりました。水平な海の上で、同じ距離から大砲を撃ち合うのだから、軍艦の性能と水兵の錬度は、それこそ勝敗を分ける決定的な要素となります。
陣形も隊形もズタズタにされながら、必死に北を目指すロシア艦隊は、夜になって安心したのもつかの間、魚雷を抱えた日本の水雷艇に襲い掛かられました。夜が明けたら、再び無傷の東郷艦隊に追いかけまわされるのでした。
退役間近の旧式艦隊(第3太平洋艦隊)は、奇跡的に無傷のまま、戦場で何の役にも立たずに北上し続けたのですが、ついに東郷艦隊に発見され包囲されてしまいました。この艦隊を率いるネボガトフ少将は、ついに降伏を決意します。また、重傷のロジェストヴェンスキー中将は、旗艦スワロフが沈没する直前に、幕僚たちに連れられて駆逐艦に乗って脱出したのですが、日本の駆逐艦に追い回され、やはり降伏したのです。
時に1905年5月28日、世界海戦史上最大のワンサイドゲームは、こうして終結しました。ロシア艦隊は事実上全滅したのに対し、日本艦隊の損害は海難事故にあった水雷艇数隻に過ぎなかったのです。
全世界が、この日本の大勝利に沸きかえりました。
ロシア政府は、意気消沈です。もはや、日露戦争の退勢を挽回する方策は皆無でした。 
9.ポーツマス講和会議

 

(1) 樺太の占領
アメリカ大統領ルーズヴェルトは、再びロシア皇帝ニコライ2世に講和を持ちかけました。
ニコライは、「まだロシアの領土が失われたわけではない」と言い募って渋るのですが、その内心では連戦連敗に意気消沈し、また、足元の革命の影に脅えていたのです。
フランスは、同盟国であるロシアがこれ以上弱体化すると、仮想敵国であるドイツを利するばかりと考えて、ニコライに講和を勧告しました。
その様子を見ていたドイツも、これ以上戦争が長引くと、仮想敵国であるイギリスが有利になるばかりだと考えて、やはりニコライに講和を勧めました。次第に傾くロシア皇帝の心。
その間、ルーズヴェルトは金子特使を通じて日本政府にある提案を持ち掛けていました。「ロシア政府は、まだ固有の領土を奪われたわけではないと言って戦争を継続する気だ。だったら、固有の領土であるサガレン(=樺太)を日本軍が占領してしまうべきだと思う」。
既に日本の戦争遂行能力は限界に達しつつあり、大本営の参謀の多くは、最初のうちはこの提案の実行を渋りました。しかし、「戦争を終わらせるための最後の一踏ん張り」と主張する児玉大将や長岡参謀に説得されて、ついに樺太作戦を発動したのです。
この間、バルチック艦隊を完全撃破した連合艦隊は、日本近海の制海権を一手に掌握し、ウラジオストックの近郊を艦砲射撃して回っていました。樺太への渡海作戦は、こうした海軍の活躍を前提にしていたのです。
強力な海軍に護衛された日本陸軍は、あっという間に樺太全土を占領しました。ロシア軍は、この地に部隊をほとんど置いていなかったのです。
こうして、「固有の領土」を失ったロシア帝国は、とうとう講和会議に応じる決意を固めたのでした。  
(2) ポーツマスの旗
ロシア全権ウイッテと日本の外相・小村寿太郎は、アメリカの港湾都市ポーツマスで対決しました。
ロシアは、日本が要求する「朝鮮半島と遼東半島の権益と東清鉄道の割譲」については簡単に合意しました。
争点となったのは、「ロシア領の割譲と賠償金」についてです。日本は、樺太の割譲と巨額の賠償金を求めたのですが、ロシア政府は「寸土の領土も割譲できないし賠償金も支払えない」と言い募りました。ロシアはケチだったのではなく、本当にカネが無かったのです。もちろん、これ以上の国家威信の低下を避けたかったという理由もありますが。
ロシアは、もはやこれ以上戦える状態ではありませんでした。それにもかかわらず強気な態度を崩さなかったのは、政府中枢を牛耳る腐朽軍人官僚(貴族)たちが、景気のいいことを言いふらしてニコライ皇帝を操っていたからです。軍人官僚たちは、自分たちの威信と既得権益を守るために、最後まで戦争を続けるつもりでした。まさに、40年後の日本の様相にそっくりですね。
もともと、日本側の講和条件は、日本軍圧倒的優位の戦況を鑑みれば、非常に穏当なものでした。全世界のプレスが、その誠実さを賞賛したほどです。また、小村寿太郎の見事な弁舌は、しばしば外交の大家であるウイッテを圧倒するほどでした。
ウイッテはむしろ、ロシア政府に日本側の条件を飲むように勧奨していました。しかし、タカ派軍人が実権を握る本国は煮えきろうとしないので、ウイッテの苦悶は深まるばかり。「このままでは、祖国は勝ち目の無い戦争をダラダラと続け、革命勃発によって国家が転覆してしまうだろう」。
一方の日本軍は、人的損耗が激しく、また砲弾の増産も間に合わない状態でした。前線での弾薬消費量は、当初の見積もりの十倍を超えていたのです。満州軍司令官・大山巌は、「ハルピンまで進撃するためには、あと1年以上の弾薬備蓄を待つ必要がある」と本国に具申しました。
それでも、戦場の日本軍は、単純な戦闘レベルで考えれば、ロシア軍を打倒して進撃できる可能性はあったのです。しかし、これ以上国民を重税で苦しめるわけにはいかないし、これ以上外債を発行して後世の世代に負担をかけてはならない。天皇も政治家も軍人も、みな心からそう考えました。なんという見識の深さでしょうか?
そこで、講和会議の深刻な対立を知った日本政府は、ポーツマスの小村に「賠償金も領土も諦めて良い」と指示したのです。その電報を受け取ったポーツマスの日本外交団は、悔しさのあまり嗚咽したと言われています。
このまま行けば、日本側の「完全譲歩」で決着するところでした。
ところが、ロシア政府は土壇場になって豹変します。ニコライ皇帝が、「樺太南部の割譲を認める」と声明を発したので、その方向で会議はまとまったのです。
日本は、賠償金を諦めました。
ロシアは、樺太の南半分を割譲することにしました。
時に1905年(明治38年)8月29日。こうして、日露戦争は終結の日を迎えたのです。 
(3) 日比谷焼き討ち事件
賠償金を得られなかったとはいえ、日本は戦争目的である「朝鮮と満州からのロシア勢力の駆逐」を完全に達成しました。すなわち、大勝利を収めたのです。
しかし、予想外の人的損害と重税に押しつぶされ、銃後の人々の苦しみは筆舌に尽くしがたいほどでした。そんな彼らは、戦勝によって巨額の賠償金と広大な領土を得られるものと早合点していました。そう考えて、自分たちを慰めていたのです。
その件については、マスコミ報道にも問題がありました。新聞や雑誌は、日本政府の苦しい台所事情を秘匿し、景気の良い戦勝報道しか流さなかったのです。ただし、その理由は、今日の日本で恒常的に行われているような「問題の隠蔽」ではありません。マスコミ報道によってロシアに日本の苦境を知られてしまうと、講和に応じてもらえなくなる可能性があったので、日本政府は「敵を欺くために味方(国民)を欺く」という苦渋の選択を余儀なくされたのです。
しかし、事実を知らない国民は納得しません。するわけがない。「大勝利なのに、これだけ大きな犠牲を払ったのに、どうして賠償金も出ない上に領土の割譲もわずかなのだ!」「政府はもちろん、外交団が腰抜けなのに違いない!」という世論が全国に沸き起こったのでした。
こうして日本全国で愛国集会が決起し、激しいデモ活動が繰り広げられました。日比谷公園でのデモは大規模な暴動となり、警官隊と衝突して交番が焼き払われる事態になりました(9月5日)。
小村外相は、ポーツマスでの殊勲者であったにもかかわらず、暗殺を恐れてお忍びでひっそりと帰国したのです。
それにしても、あの当時の日本人はバイタリティがあったんですね。今の日本人は、政府がどんな横暴を通してもニコニコしているし、そもそも選挙にも行きません。H・G・ウエルズの小説『タイムマシン』に出てくるエロイ族のように退化しちゃったのでしょうか?このままではきっと、欧米や中国という名のモーロック族に食い殺されてしまうでしょう。少しは、この当時の覇気を思い出してもらいたいですね。 
10.総括

 

(1) 勝因と敗因
こうして日露戦争は日本の大勝利に終わりました。
確かに、犠牲が多かった割には賠償金をもらえなかったし、得られた領土もわずかだったのですが、戦争目的を完全に達成したのだから、これは誰が何と言おうと大勝利だったのです。
その勝因について検討しましょう。
何と言っても、自分の長短を謙虚に分析し、「勝つため」に最も現実的で合理的な方策を打ったことが大きいでしょう。日本は、軍事のみならず外交や経済にも周到な配慮を行い、戦争を有利に早期終結させるために万全の措置を取りました。それは、自らの「弱さ」を良く自覚し、それを克服する道程だったのです。
孫子いわく「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」です。
ロシアの敗因は、まさにこれと表裏一体でした。彼は、日本を侮り、自らの実力を過信していました。そして、ひたすら戦場での勝利を追い求め、草の根の外交や諜報をおろそかにしていました。そのことが、国内での騒擾を招き、国際世論を敵に回し、諸外国から講和を勧告されるような政治状況を生んでしまったのです。
これは、現在にも通じるたいへんに深い教訓だと思います。 
(2) その後の両国
日露戦争の結果は、その後の日本とロシアの進路に極めて大きな影響を与えました。
ロシアでは、皇帝の威信が大きく崩れ、やがて革命が起こります(1917年)。そして、新政府のレーニンやスターリンは、ロシアを強国に改造するために、社会主義政権のソビエト連邦を樹立したのです。やがてソ連は、工業力を増強させて日本に雪辱を果たし(1945年)、アメリカと世界を二分する大勢力に成長しました。ロシア人は、日露戦争の屈辱から多くを学び取ったのです。
ところが日本は、これと逆の進路を辿ります。
望外の大成功に増長したこの国では、軍閥が台頭し、そして過激な軍国主義に走ります。自らの能力を過信し、経済や外交や諜報を無視し、そして驚くべきことに、国境を接する全ての国に戦争を吹っかけるにいたるのです。まさに、日露戦争のときのロシア帝国とまったく同じ病状に嵌ったというわけです。
日本が日露戦争で辛勝を勝ち得た戦略的理由は、西欧列強(英米)との外交協調であり、戦術的理由は、戦艦「三笠」に代表される近代兵器の威力でした。しかし、昭和の軍閥は、そのことを完全に忘れてしまいます。「かつてロシアに勝利した」という一事に有頂天となり、その原因分析を怠るようになったからです。その結果、役に立たない同盟をナチスドイツと交わし、資源の輸入元であるアメリカに戦争を挑むという愚を行い、さらには兵器の近代化を怠り人命軽視の精神論に逃げ込んだ。
さらに恐ろしいのは、日露戦争の負の遺産を忘却した点でしょう。日本は、あの戦争でいくつもの過失を犯しています。旅順要塞への無謀な突撃や、陸軍と海軍との情報の分立、さらには戦場医療の軽視(あの戦争では、戦死者の数より病死者の数が多かった)。しかし、日本軍は「勝利」の栄光に幻惑されて、これらの過失を克服するための抜本的改善策を採ろうとしなかったのです。そのため、太平洋戦争では、この過失がより大きく深刻な姿となってこの国に悲劇をもたらすのでした。
そして、日本は廃墟となりました(1945年)。
「勝って兜の緒を締めよ」とは、当時の日本にこそ捧げるべき言葉でしょうか。
こういったことに、歴史の教訓を読み取るべきだと思うのです。  
(3) 日本とロシア
日本とロシアは地勢的に見て、極めて因果関係の深い隣国同士です。
しかし、今日の日本では、アメリカに占領されアメリカ文化に洗脳された時期が長かったため、マスコミも学者も実務家も、みんなアメリカばかり見ています。
確かに、アメリカは資本主義の先進国ですから、経済面で参考に出来る部分が多いことは分かります。しかし、あそこは歴史の浅い深みに欠ける国ですから、文化面までべったりなのはいかがなものでしょうか?
これまでの日本人は、戦後復興とか経済発展ばかりに気を取られ、この世界にもっと大切なことがあることを忘れてきました。だから、経済先進国のアメリカの尻ばかり追い掛け回しているのでしょう。でもこれは、昭和の軍閥が狂ったように戦争し、ナチスドイツの尻を追い回していたのと同レベルだと思いますね。日本人は、本質的には成長していないのです。
ロシアは、日本とまったく異なる深い文化を持った国です。せっかく歴史の古いお隣同士なのだから、もっと互いの文化で刺激を与え合い、互いの価値を高めていくべき時期ではないでしょうか?(実は筆者はロシアびいきなのです)。
この日露戦争論で、多くの若い人がそういう気持ちをもってくれたら嬉しいですね。もちろん、その前提として、「自虐史観」から脱皮しなければなりませんが。  
 
日露戦争4

 

歴史的背景
日露戦争は、超大国帝政ロシアの極東侵略に対して、当時、未だ無名の一小国に過ぎなかった日本が国家の総力をあげ死力を尽くして戦いぬき、遂に、島国日本を不敗の態勢に作りあげてロシアの継戦意図を放棄させた戦争であった。
そもそも、帝政ロシアは、16世紀以来シベリアの経営に着手し、1730年頃までにアジア北方地域の占拠を終わって極東からの南下を開始した。そして、1860年にはウスリー以東の沿海州を獲得し、また、1875年には樺太(サハリン)の専有を果たし、沿海州の要地ウラジオストクに海軍の根拠地を築いて極東雄飛の足掛かりを作った。
しかし、この軍港は冬季結氷するので、ロシアは、なおも不凍港を求めての南下を画策していた。たまたま、修好条約を結び得たのを機として、韓国の沿岸に良港を借り受けようと策動したが、ロシアの南下を好まぬイギリスの妨害に遭って不成功に終わった。ところが、1895年(明治28)の日清講和条約で遼東半島が日本に割譲されることとなるや、ロシアは武力を背景にドイツ・フランスとともに条約に干渉を加えて同半島の清国返還を強要し、返還された同半島の要地である旅順及び大連を1898年に租借してしまった。かくして、ロシアは不凍港入手の念願を果たすとともに、先に獲得した東清鉄道敷設権と合わせて、この新軍港をロシア領と直結する強力な根拠地とした。
さて、日清戦争後は、弱体を暴露した清国に対する西欧列強の侵略が露骨化し、ロシアも満州の経営を強力に進めていたのであったが、これら列強の侵略に反発して起った北清事変(1900年)を好機として、ロシアは鉄道警備を名目に大軍を導入して満州の要地を占拠し、事変解決後もなお駐兵を続けて満州の領土化を策するとともに、更に南下して触手を韓国に伸ばし、やがては一衣帯水の日本も同じ運命に陥る危機をはらむ形勢にと発展していった。
この増大するロシアの脅威に対して、日本は、1902年(明治35)大海軍国イギリスと日英同盟を結び、その抑制効果を期待したのであったが、けた外れの軍事力と財力を誇るロシアは、小国日本の抗議あるいは談判に耳もかさず、かえって極東の兵力を増強して日本への圧迫を強化した。たまりかねた日本は、なんとしてでも、大国ロシアの脅威を排除しなければならないと、遂に1904年(明治37)2月6日ロシアとの国交断絶を通告するのやむなきに立ち至った。かくして、2月9日宣戦が布告され日露戦争が始まったのである。 
日本海軍の作戦方針
日本海軍は、戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を基幹とするもので、これに未回航の装甲巡洋艦2隻がいずれ増勢される予定であったが、その全勢力は新旧合わせても約26万トンに過ぎないもので、51万トンのロシア海軍に対して約半分の勢力であった。
また、当面の敵であるロシア太平洋艦隊は、約19万トンというやや劣勢なものながら、戦艦7隻・装甲巡洋艦4隻を中軸とする新鋭艦で構成された精鋭で非常な大敵であった。
そこで日本海軍は、奇襲および分散兵力の各個撃破などによりロシア太平洋艦隊の速やかなる撃滅を期し、そのうえで、予期されるロシア本国からの増援艦隊を迎え撃つのを方針とした。 
連合艦隊の出動
1904年(明治37)2月6日午前1時、真夜中にもかかわらず、連合艦隊の各級指揮官が佐世保在泊中の旗艦三笠に集められた。東郷司令長官は、長官公室で各級指揮官に勅語の伝達を行った後、日露開戦に伴う所要の命令を授与し作戦の発動を令した。連合艦隊の各隊・艦は、夜明けを待って、勇躍佐世保を発進し征途についた。 
1904.2.9 旅順口奇襲
旅順または大連に在泊中と予期されたロシア艦隊主力に対し、2月9日未明、駆逐艦による夜襲が敢行された。
旅順に対しては駆逐艦11隻が向けられ、外港錨泊中のロシア艦隊主力を奇襲したが、襲撃艦相互が連係を失したため、各艦の敢闘にもかかわらず成果は十分とはいい難く、戦艦レトウィザン、ツェザレウイチ及び二等巡洋艦パルラーダに損傷を与えたが撃沈できなかった。また、大連湾に侵入した駆逐艦8隻は会敵できずに帰還した。
この日、正午頃、連合艦隊は戦果拡大のため旅順口外のロシア艦隊に開戦第一撃を加え、海岸砲台の支援下にあるロシア主力と激烈な砲撃戦を展開した。彼我ともに相当の損害を生じたが、これが主力艦のはじめての対戦となった。
なお、ロシア太平洋艦隊司令長官スタルク中将は、旅順が奇襲された責を負わされて、マカロフ中将と交代することとなった。 
1904.2.9 仁川沖海戦
2月8日夕刻、瓜生外吉少将の率いる巡洋艦戦隊は装甲巡洋艦浅間を伴って仁川に到着し、護衛してきた陸軍部隊を夜のうちに仁川に陸揚した。当時、仁川港にはロシア軍艦2隻(ワリヤーグ、コレーツ)が在泊していたが、国際港での戦闘を避けて翌9日正午過ぎに、港外に誘い、絶対の優勢をもって一挙に撃滅して緒戦を飾った。 
1904.2.24-5.2 旅順口閉塞
旅順口閉塞
第1回閉塞
旅順口の閉塞は、連合艦隊参謀の有馬良橘中佐が中心となり米西戦争におけるサンチャゴ港閉塞作戦を参考に計画をたて、開戦前すでに、使用する閉塞船5隻と乗船する士官10名が予定されて実行の機会を待っていた。
開戦初頭の旅順奇襲でロシア艦隊が港内に移動したので、この機会にそのまま閉じ込めて、海上輸送の安全を図ろうと旅順口閉塞が実行されることになった。血書志願のもの多数を含む2000余名の志願者から67名を選抜し、先に予定されていた士官と合わせて、有馬中佐以下77名の決死隊が編成され、1904年(明治37)2月24日未明、天津丸、報国丸、仁川丸、武揚丸、武州丸の5隻が、水雷艇の支援下に旅順口への突入を敢行した。しかし、ロシア側の激しい妨害に遭って侵入は困難を極め、辛うじて広瀬少佐の指揮する報国丸および斉藤大尉の指揮する仁川丸の2隻が港口付近に到達して爆沈を果たしたにとどまった。死傷者4名。
第2回閉塞
第1回閉塞の効果が不十分であったので再度閉塞が計画され、数千の志願者から有馬中佐以下68名の決死隊を編成して、3月27日未明、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の4隻による突入が決行された。このたびは、ロシア側の妨害も一段と激しさを加えたが、前回の経験を生かして、探照灯の幻惑を防ぎながら飛来する多数の砲弾の中を猛進し、全船が港口付近での爆沈を果たすことができた。死傷者、広瀬中佐以下15名。
第3回閉塞
陸軍の塩大墺(遼東半島)上陸を援護するため、ロシア艦隊の動きを抑圧しようと連合艦隊主力を旅順に近い裏長山列島に進出させたが、更に、できれば旅順港内に閉じ込めてしまおうと第3回閉塞が計画された。
このたびは、前2回の経験にかんがみ、小出しをやめて12隻という大集団をもって5月2日夜半から進入を開始した。しかし、荒天のため閉塞隊の行動は困難を極め、遂に作戦中止が発令されたのであるが、命令の伝達が風浪に妨げられて徹底を欠き、8隻の閉塞船が突入した。帰還隊員は半数に満たない壮烈なものとなった。
なお、3回に及ぶ旅順口閉塞の結果、大型艦の港口通過は極めて困難なものとなり、ほぼ目的を達することができた。 
1904.8.10 黄海海戦
1904年(明治37)8月10日午前9時、ウィトゲフト少将の率いる旅順艦隊(戦艦6、巡洋艦4、駆逐艦8)がウラジオストクを目指して旅順を離れた。この日早朝からロシア艦隊出動の気配があり警報を受けていた東郷司令長官は、分在兵力の集中を命令するとともに、直率の戦艦4隻をもって敵航路上への進出を開始した。途中装甲巡洋艦春日及び日進を合同して急行し、午後1時頃、遇岩の西18kmを南東進中のロシア艦隊を望見することができた。
このたびは、過ぐる、6月23日の遭遇戦で敵艦隊を旅順に逸してしまった苦い経験にかんがみ、敵の退路を遮断して一挙に撃滅しようと、遠距離砲戦をもって援射しつつ洋心への誘い出しを試みたのであるが、ロシア艦隊の脱出意図は意外に堅く、日本側の常用する丁字戦法の後尾をすり抜け、一意、全速力をもって南下逸走を開始した。
逃がしては一大事と、日本艦隊は陣容を立て直して追撃したが、旗艦三笠が敵戦列の中央と並び、ロシア側の集中砲火により被害は累進していった。遂に午後3時20分、やむなく射程外に出て並進し懸命に追うこと2時間余り、やっと敵先頭との距離7kmに迫り得て不十分な態勢ながら砲戦を開始した。
しかし、戦勢は一向に好転せず、薄暮が迫り、このままでは暗夜に敵を逸する恐れが濃くなっていった。午後6時半頃、三笠の発射した主砲砲弾が、運命の一弾となって旗艦ツェザレウィチの司令塔付近に破裂して司令長官ら首脳部を倒した。被弾舵故障した同艦は左に急旋回して自己隊列中に突入し、ロシア陣列は四分五裂して混乱に陥った。この機に乗じて、日本主力は包囲攻撃にうつり、追撃してきた諸艦も逐次戦闘に加入して敵に痛打を加えた。大打撃を蒙りながらもロシア艦隊は、水雷部隊の夜襲をかわして主力は旅順に引き返し、戦艦1・巡洋艦3・駆逐艦5が武装解除または座礁により勢力減となった。
黄海海戦における苦戦が日本海海戦の徹底的戦勝につながるもととなった。三笠の被弾は20余発、死傷者125名で日本海海戦における被弾30余発、死傷者113名より死傷者はわずかに多い。また、後部主砲に被弾、伏見宮博恭王殿下が戦傷を負われたのもこの時である。 
1904.8.14 蔚山沖海戦
装甲巡洋艦3隻を基幹とするウラジオストク艦隊は、開戦以来、日本近海を縦横無尽に行動し、懸命な日本側の捜索の目を潜って6月中旬には対馬海峡で出征途上の陸軍将兵1000余名が乗船する常陸丸及び佐渡丸を襲って撃沈破し、また7月下旬には首都の玄関口である東京湾外に出現して猛威を振るうなど、神出鬼没の行動によって日本の海上交通に非常な脅威を与えてきた。
連合艦隊は8月10日旅順艦隊を黄海に破って敵主力のウラジオストク脱出を阻止したが、戦場を離脱南下した巡洋艦及び駆逐艦の対馬海峡通過を抑えるため、また策応して出動すると予期されるウラジオストク艦隊にも備えて、第二艦隊司令長官上村彦之丞中将の直率する第二戦隊(出雲・吾妻・常磐・磐手)を13日未明から対馬海峡東方に先行させて要撃配備につけていた。
8月14日午前5時、南航捜索中の第二戦隊は、遂に、前方約10kmに南下する宿敵ロシーヤ、グロモボイ、リューリクの艦影を認め全力をもって追跡を開始した。左折して東進し逸走の機をうかがうロシア艦隊に対し、第二戦隊は、その北航を妨げつつ5時23分距離8400mで殿艦リューリクに対し砲撃を開始し、次いで並行戦による猛撃にうつった。激戦30分にしてリューリクは後落し始め、ロシーヤ及びグロモボイの2艦は、孤立したリューリクを救出しようと反転また反転を繰返しながらリューリクをかばって応戦していたが、両艦の被弾ようやく累増するに及び、遂に8時22分、行動不自由となったリューリクの救出を断念して北走を開始した。
上村司令長官は、7時50分頃から戦場に到着していた軽巡2隻にリューリクをゆだね、第二戦隊をもって北走する2艦の追撃戦に移った。被弾により一時戦列を離れる艦を生じながら追撃すること1時間半、しかもロシアの2艦には減速の徴なく、逆に旗艦出雲の弾薬欠乏の報告に接した上村長官は、遂に10時4分追撃を断念して、リューリクを処分するため反転した。
大被害にもめげず、軽巡と対戦していたリューリクは、接近してくる第二戦隊を望見して脱出をあきらめ自沈して果てた。上村長官の命により、波間に浮かぶリューリクの乗員の救助が実施されたが、この行為は日本武士道の精華であると海外に喧伝された。 
旅順の陥落
1904年(明治37)8月10日の黄海開戦ののち戦艦5・巡洋艦1・駆逐艦3が旅順に帰ったが、いずれも大損傷を蒙っており、また14日の蔚山沖海戦を経てウラジオストクに帰着した装甲巡洋艦2も損傷が甚だしかったので、遂にロシア側は、旅順艦隊のウラジオストク回航を断念して、ヨーロッパからの増援艦隊の来着を待つこととなった。
日本側としては、このロシア増援艦隊到着前に、何としてでも旅順艦隊を壊滅しておかなければならなかったので、陸海軍が協力して旅順の攻略、特に旅順艦隊の撃滅を急いだ。乃木大将の率いる第三軍は、鉄壁の旅順要塞との死闘を繰返し、海軍派遣の重砲隊を駆使し、遂に28cm要塞砲まで動員しての半歳に及ぶ悪戦苦闘ののち、12月5日港内を一望に収める203高地の奪取に成功した。その後、戦勢は一挙に好転し、12日までに在泊のロシア主力艦を28cm要塞砲などで撃沈し、次いで翌1905年(明治38)1月2日旅順要塞が陥落し旅順艦隊も壊滅した。 
 

 

バルチック艦隊の出撃
ロシアは1904年(明治37)4月30日新編艦隊の極東派遣意図を公表し、ロジェストウェンスキー中将を司令長官とする、第2太平洋艦隊を編成して、10月15日リバウ港を発進させた。11月3日モロッコのタンジュールにおいてアフリカ迂回の主隊とスエズ運河経由の支隊に分かれて進出し、翌1905年(明治38)1月9日仏領マダガスカル島のノシベで合流を完了した。
バルチック艦隊とはその発航地であるバルト海にちなみ、日本側がつけた通称である。
太平洋第2艦隊 戦艦7隻,巡洋艦9隻,駆逐艦9隻,計戦闘艦25隻。
        運送船14隻,工作船1隻,特務船1隻,合計41隻。
太平洋第3艦隊 戦艦1隻,巡洋艦1隻,海防艦3隻,計戦闘艦5隻。
        工作船1隻,運送船3隻,合計9隻。 
連合艦隊の迎撃準備
日本側では、旅順方面の作戦一段落に伴い、大本営及び艦隊司令部の合同で、バルチック艦隊を全滅するための作戦が、連日真剣に研究された。
そして、1月21日、内地で整備中の全艦艇に対して、修理完了次第朝鮮海峡の前進基地鎮海湾への終結が発令された。かくして、バルチック艦隊撃滅手段である七段構えの戦法の猛烈な訓練が課せられ、「待つあるをたのむ」の態勢が順次構成されていった。 
日本海海戦
明治38年5月27日未明、ロシアのバルチック艦隊が九州の西対馬海峡に現れた。午前9時40分、付近哨戒中の哨戒艦信濃丸からの報告により東郷司令長官は、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第1報を大本営に打電して旗艦三笠を率い鎮海湾から出撃した。
やがて敵艦隊を認めた長官は、旗艦三笠のマスト高く戦闘旗を、ついで1時55分、「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ。」のZ旗信号を揚げ、全軍の士気を鼓舞した。
両軍の距離が、8千メートルになった時、長官は右手を大きく左に振り、取り舵一杯を令し、敵艦隊に接近した。時2時5分、これがかの有名な東郷長官の敵前大反転である。敵は好機到来とばかりに砲撃を始めたが、まだ一列の戦闘隊形(単縦陣)が出来上がっていなかったため味方が邪魔になり、思うように射撃が出来ず、また訓練不足と折からの荒波でなかなか命中しなかった。敵艦隊の射撃開始2分後の、2時11分、彼我の距離6500メートルになった時、長官は、初めて「打ち方始め」を命じた。世界の注目を集めた世紀の大決戦は、こうして始まったのである。
両国の艦隊は、共に祖国の命運を担って力の限り奮戦した。両国の主力艦は、大口径砲を持った戦艦が、我が4隻に対して、敵は新式が7隻、旧式4隻とはるかに優勢であったが、我には速力に勝る装甲巡洋艦が在り、その不利を補っていた。
我が艦隊の巧みな戦術と、猛訓練によって鍛えられた砲撃により、敵の損害は甚だしく、戦列を乱して右往左往した。旗艦スワロフは2時50分ついに戦闘力を失い、敵将ロジェストウエンスキー長官も重傷を負って駆逐艦に移乗し、指揮権を次席指揮官のネボガトフ少将に譲った。戦艦オスラビアも3時10分沈没し、戦いが始まって30分経ったころには勝敗が明らかになっていた。その後主力部隊や補助部隊が入り乱れ、数時間に渡る激しい戦闘が続いた。敵は、ボロジノアレキサンドル三世ほか3隻、また相次いで沈没、その他の艦艇も大損害を受け、ウラジオストックに逃げ込もうと必死の努力を続けた。やがて日没が近づき、我が主力部隊は7時28分、後を駆逐艦や水雷艇隊に任せ、翌朝の集合場所である鬱稜島に向かった。後を受け継いだ我が夜戦部隊は、怒涛逆巻く中、夜陰にまぎれて肉薄し、壮絶な魚雷攻撃を真夜中まで敢行した。
明けて5月28日、前日と打って変わって空は晴れ上がり、ネガボトフ少将率いる旗艦ニコライ一世以下5隻の残存部隊もたちまち発見包囲され、遂に白旗を揚げて降伏した。病床の敵将を乗せた駆逐艦ベドウィも我が駆逐艦「さざなみ」の追撃に遭い、白旗を掲げて降伏し、長官以下捕虜になった。
その他の艦隊も次々に撃沈又は拿捕あるいは降伏し、こうして2日間に渡る両国艦隊の決戦は終了した。
戦果を総合すると、38隻の敵主力艦の中、沈没21隻、降伏・拿捕7隻、中立国に逃げ込み武装解除されたもの7隻、残り3隻の小艦艇が目的のウラジオストックに到達したのみであった。
我がほうの損害はわずかに水雷艇3隻のみである。
またこの海戦で、ロシア側は戦死者4545名、捕虜6106名であったが、日本側の戦死者は116名であった。
世界海戦史上、稀なる完全勝利であり、これを契機にアメリカのポーツマスで日露講和会議が実施されることとなった。
日本海海戦は、日露戦争の勝利を導く上で決定的な役割を果たし、日本に平和をもたらしたのである。 
六六艦隊
ロシアが、ドイツおよびフランスを誘って、1895年(明治28)4月の日清講和条約に介入し、遼東半島の清国返還を強要してきた。この不当な干渉に日本人の憤激は極度に達したが、当時の日本海軍は三国の極東艦隊にすら対抗しかねる状況で、残念ながらこの干渉に屈するのほかなく、他日を期しての臥薪嘗胆が始まった。
同年7月、日本は、軍務局長 山本権兵衛少将の案画になる海軍拡張10年計画を発動して、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻(六六艦隊)を基幹とする極東水域での最強艦隊の保有を目指して必死の努力を開始した。
第一戦隊を構成する戦艦は、日清戦争の時建造中であった12000t級の富士、八島に加えて、敷島、朝日、初瀬、三笠が英国に発注され、30cm砲14門を備える15000トン級・18ノットの強力艦として出現した。
戦艦三笠は、その最終艦で、3年の歳月と88万ポンド(当時880万円)の巨費を投じて、1902年(明治35)英国のヴィッカース造船所で竣工した新鋭艦であった。
第二戦隊を構成する装甲巡洋艦は、浅間、常磐、出雲、磐手が英国に、八雲がドイツに、吾妻がフランスにそれぞれ発注され、1901年(明治34)までに完成して20cm砲4門・15cm砲14門を備える9700トン級・20ノットの新鋭艦として出現した。 
 
日露戦争5 明治37年2月9日〜明治38年9月5日

 

日露戦争は世界史を転換させた一大事件である。日本は、朝鮮半島が東侵主義的なロシアの手に陥ることを防止するため、国家安全上、真に止むを得ず国の存亡を賭して開戦に踏み切った。ナポレオンでさえ敗退させた世界屈指の大国たる帝制ロシアに対し、極東の新興小国日本が勝利しようとは我が同盟国であったイギリスですら思わず、世界中が日本の敗北を予想していた。しかしその予想は見事に覆る。政治と軍事を統合した明治日本の優れた政戦略は、最終的には日本に勝利をもたらした。近代史において初めて有色人種が白色人種に勝利したのである。
この日露戦争の勝利はアジア・中東・北欧などの諸民族に勇気と希望を与え、岡倉天心の言う‘アジアのめざめ’が生まれた。即ち、日本を範として白色人種の支配から脱しようとする気運が世界的に始まった。
日清・日露の両戦役に勝利を収めた日本は、国際社会においてその地位は確立されたかに見えた。しかし欧米列強は日本の指導的地位を認めないばかりか、アジア唯一の先進国として警戒の目を向けるようになった。ここに我が国の国防は新たな展開を要することになるのである。  
日露戦争1

 

日清戦争後の極東情勢 
日清戦争によって、国際社会での「眠れる獅子」清国の威信は低下し、列強と清国との力関係は大きく変化した。加えて重要なことは、清国最大の軍事集団であった北洋軍閥(軍団)が潰滅し、満州から華北にかけて軍事的空白が生じたことである。満州から華北にかけての地域は、北洋軍閥が存在するために未だ列強が進出できなかった最後の未開地であった。この軍事的空白地帯の発生は、列強による新たな勢力圏獲得競争を招来することを意味する。その地域に占領軍を置いていたのは日清戦争の戦勝国日本であったが、列強は新興国日本の駐留などなんら問題にしておらず、いつでもこれを排除できると考えていた。
このような日本軽視と軍事的空白地帯への強い関心を抱いていたのはロシア、フランス、ドイツなどで、三国干渉はその現れである。中でもシベリア鉄道を建設中で不凍港獲得の必要があったロシアが極めて積極的であった。 
ロシアの東侵政策 
ロシアは日清戦争が終わると露清密約を結んで満州進出を図り、明治31年(1898)東清鉄道の敷設権を獲得、さらに三国干渉で日本から取上げた旅順、大連の租借協定を締結、不凍港獲得の念願を達成した。ロシアはその後、旅順、大連の経営に力を注ぎ、韓国進出については一時日本と協調的態度に出ていたが、明治33年(1900)になると韓国に迫って馬山近傍にロシア極東艦隊の碇泊地を租借した。
これは旅順とウラジオストク軍港の中継基地ではあり、見方によっては日韓の連絡線を遮断し、韓国を三方向から制圧する態勢とも読み取れた。また、巨済島とその対岸をロシア以外に租借させないという露韓密約を結んだ。さらに鴨緑江の資源開発の利権を獲得、その勢力は次第に朝鮮半島を南下してきた。このため、三国干渉後は臥薪嘗胆ひたすら国力の充実を図る日本と、極東侵略の企図を露骨に現してきたロシアとが、韓国を舞台として激しく対立するようになった。
北清事変ののちロシアは、東清鉄道を防衛するという名目で大軍を出兵し、虎視眈々と狙っていた満州全土をたちまち占領した。その後も満州への兵力は増加の一途を辿り、ロシアの満州占領は永久的なものであることが意図されていた。明治33年11月には、極東総督アレクセーエフは奉天将軍・増棋に圧力を加え、第一次露清密約を強引に承諾させた。明治34年3月にはペテルブルクにおいて第二密約が調印されることになったが、我が政府は、この密約は東洋平和に危険なものであるとしてイギリスと図ってロシアに抗議した。当時ロシアはまだ南満鉄道の工事が完成していないため十分な軍隊を極東に送ることができず、清国に対する要求を一応撤回した。しかしその後もロシアは、満州占領の合法化/第三次密約を清国に迫り、列国の支援を受けて密約に抵抗する清国と長い間交渉を続けた。 このロシアの行動は、ロシアが既に韓国で軍事基地を獲得し、大連、旅順を租借、渤海湾、黄海の事実上の制海権を有し、朝鮮半島を通じてウラジオストクとを結ぶ長大な軍事基地を完成していただけに、重大な脅威であった。韓国に於ける日本の権益が危ういという問題ではなく、日本の存立そのものの危機であった。ロシア本土は、日本からはとうてい乗り越えられない遠い彼方の距離にあるのに対し、日本は、その本土を直接ロシアの前進軍事基地の前面にさらしていたのである。 
我が国を巡る当時の極東情勢 
明治日本の指導者にとって、日本列島の安全を保障するためには、朝鮮半島が強大な大陸国家の支配化に陥るのを防止することは不可欠の要件であった。古くは文永、弘安の昔、日本は元寇という国難に直面した。蒙古の圧政による命令下とは云え、弘安の役だけでも艦船900艘の建造と正規軍1万人、水手15000人の従軍により日本侵略の計画に荷担したのである。朝鮮が弱者であったが故の協働行為ではあったが、我が国は元寇の経験を通じて、朝鮮半島が大陸勢力の支配下に陥った時の日本に対する脅威について十分な教訓を得たのであり、この教訓は明治の指導者にも受け継がれていた。
その朝鮮と清国は、明治日本が最大の経済的利害関係を有する国家であったが、政治的に極めて不安定な両国が西欧列強の支配するところとなれば、日本の安全と経済的権益は危殆に瀕するものと考えられた。 
日英同盟か日露協商か 
かくしてロシアは満州を軍事占領し、その矛先は韓国の上にも及び、日本との利害はついに衝突せねばやまない勢いになった。当時の日本の軍備は、まだ予定の完成をみていなかった。独力で強大なるロシアに対抗し、ロシアの勢力を極東から掃蕩することは到底不可能である。いきおいロシアと協定の道を求めてその侵略的政策を緩和させるか、または他の列強と提携しその力を借りてロシアに対抗するか、国策はそのいずれかであった。
前者は、満州はロシアに譲って韓国における地位は確保しようという「調整可能論」「満韓交換論」で、伊藤博文、井上馨、山縣有朋ら元老級であった。後者は、膨張主義政策を強行するロシアは、満州を占領したのち韓国も必ず占領するから調整は不可能であるとする「対立必至論」で、桂太郎、加藤高明、小村寿太郎、林董ら現役大臣公使級であった。
当時の日本政府の基本的外交方針は日露協調路線であった。ロシア駐日公使イズヴォルスキーらは大いに日露提携を唱え、伊藤博文は外遊にあたって日露協定を主張していた。もっとも日露協調路線を主張する意見は日英同盟を望んでいないというわけでなく、日英同盟の成立は困難と判断していたのである。世界各国に属領・植民地を持ち、独力で国際社会のリーダーであろうとした「栄光ある孤立主義」を続ける大英帝国が、一転して極東の小国日本との同盟を結ぶことなど夢想であるとして、より現実的な日露協調を試みるのが自然であった。 
桂内閣の誕生と日英同盟締結 
この日露提携論はイギリス側に伝わり、少なからずイギリス政府を神経を刺激した。北清事変で我が陸軍の実力を目前にした英国の当事者の中に、極東でロシアに対抗できるのは日本の他にないという観念が高まってきた折でもあり、日英同盟の締結は両国上層部で真剣に考えられるようになっていく。加えてロシアと日本が協定を結ぶのではないか、という疑惑はかえって日英同盟の締結を早める結果となった。
明治34年6月成立の桂太郎内閣は、駐英公使林董をして、英国が日英攻守同盟まで考えていることがわかった。英国は、当時南ア戦争(ボーア戦争)のため極東に手を伸ばす余力がなく、ロシアがその虚に乗じて極東に進出してきたことを警戒していた時であったからである。その後数次にわたる意見交換と内容の修正を経て、明治35年1月30日ロンドンにおいて日英同盟は締結された。
日英両国が本同盟に託したものは立場の相違によって異なっていたが、日本はロシアに優越する権益の保証と大英帝国の輿望を得ることであり、イギリスはロシアの南下を極東で阻止することである。ただロシアの膨張政策を強く意識した点において両国は共通しておりこれが「対露同盟」といわれる所以である。 
対露外交交渉 
日英同盟はロシアの対清政策に影響を与えた。明治35年4月 ロシアは北清事変で満州占領のために派遣した膨大な兵力を3回に分けて撤退させ、満州の権利を清国に戻すことを露清条約として清国に約した。
ところが、明治35年10月8日の第一次撤兵は実行したが、続く明治36年4月8日の第二回撤兵は、期日が来てもロシアは撤兵を実施しないどころか、逆に増兵の気配さえ示した。そして一方では清国に撤兵の条件として、7ヶ条にのぼる満州の利益独占の要求をつきつけた。日英両国は、清国にロシアの不当な要求を拒絶するよう警告、米国もロシアに抗議し満州解放の約束をさせた。清国はロシアの要求を拒絶したが、それはロシアに満州に居座る口実を与えた。第一次撤兵も実は遼陽に移動しただけで、満州の経営をますます進め、占領の実績が既成事実となっていた。
このロシアの態度に対して、4月21日 京都の山縣有朋元帥の別邸無鄰庵で、桂首相、小村外相、伊藤博文、山縣有朋は協議した。そこで「満州問題についてはロシアの優先権は認めるが、朝鮮問題は譲歩しない」という基本方針を確認した。いわゆる「満韓交換論」の外交政策に立脚したものである。この間、ロシアの満州に対する野心は露骨な様相を呈していた、鳳凰城、安東県一帯を支配下におさめ、旅順要塞の補強を進めた。7月には東清鉄道が完成し、軍隊の大量移動の基礎はできていた。8月には極東総監府が設置され、日露間の関係は急速に悪化していった。
6月12日 ロシア陸軍大臣クロパトキン大将が極東視察の途中来日した。去る露土戦争(1877〜1878)の功績から欧州きっての大戦略家、皇帝側近の重臣と目されていたおり、我が国は国賓に準じて待遇した。日本の元老その他首脳と会談して帰国したクロパトキンはのちに、「日本兵3人にロシア兵は1人で間に合う。日本との戦争は、単に軍事的散歩にすぎない。」と語り、日本の戦力を問題にしていなかった。当時のロシアにとって、日本はトルコよりも遥かに弱小な後進国としか認知されていなかったのである。 
戦争を辞せざる決意の下に対露交渉 
クロパトキン大将が離日してから1週間後の6月23日 対露問題について御前会議が開催された。伊藤、山縣、大山、松方、井上の5元老と、桂総理、小林外相、寺内陸相、山本海相とが列席した。席上桂首相は、先の無鄰庵会議で決定した方針に基づき小村外相が起草した対露方針を説明、検討の結果以下の要旨が決定された。
1 ロシアが約にそむき満州から撤兵しなければ、この機会を利用し朝鮮問題を解決すること
2 この問題を決定する場合、まず韓国はいかなる事情があろうとも、その一部でもロシアに譲与しないこと
3 満州については、ロシアが既に優位な立場にあるので多少の譲歩はあり得ること
4 談判は東京で開催すること
万難を排しても朝鮮は譲歩しないということは、ロシアとの衝突は免れないものであった。従って6月23日の御前会議は、戦争を辞せざる決意を固めた日であった。
結果から見れば、日露開戦7ヶ月半前にあたり、日清戦争で戦争を辞せざる決意を固めたのが開戦2ヶ月前、のちの大東亜戦争が3ヶ月前である。これは、ロシアがあまりに強引で妥協の余地がなかったこと、4月21日の無鄰庵会議で伊藤、山縣の両巨頭が決意を固めたこと、大山、桂、寺内ら陸軍出身者の腹が決まっていたので、内閣として統帥部との摩擦もなく、山本海相を始めとする海軍の反対意見も体勢を動かすものではなかったことと、重大な御前会議に元老の地位が高かったこと、等々がのちの大東亜戦争に比べ注目されるところであろう。 
開戦経緯 
せっかく日清戦争によってあがなった韓国の独立が脅かされ、朝鮮半島の安定をもって日本存立の保証地とする国是が侵害される危険を感じた日本政府は、明治36年(1903)7月28日 駐露公使栗野慎一郎をしてロシアに対して満州撤兵の履行、満州・朝鮮半島における相互権益の承認等について交渉を開始した。この時日本には「38度付近で勢力圏を分けよう」とする案まで出たという。日本はロシアとの紛争をギリギリまで避けようと努力したのである。
これに対しロシアは誠意を示さず、8月12日 積極派のアレキセーエフ海軍大将を旅順の極東総督(太守)に任じて、極東の軍事、外交、行政を委任した。ロシアの駐日公使ローゼンと小村外相とは10月6日 外相官邸において会談を開始し、以降8日、14日、26日とこれを続けた。しかし彼我の主張の懸隔は大きく妥協の余地はなかった。しかも10月8日はロシアの満州撤兵第三期の最終期限であったがその撤兵の兆候もなかった。
日露間の危機が刻一刻と近づく中で、明治37年は明けた。1月6日ローゼン公使は小村外相に対し、去る12月21日小村が提議した修正案への回答を手交した。明治36年10月3日、12月11日に続く第三次案である。この回答はロシアの最終提案となったが韓国領土に関する主張は、依然として12月11日案を踏襲していた。
小村外相は1月13日 御前会議に基づく日本の最終案をローゼン公使に通告、同様に栗野公使に対しても訓電した。ロシアでは日本の最終提案を受領すると、アレキセーエフが、日本の提案は語調も内容も従来より自惚れて大胆である、として交渉打ち切りを主張した。そのためか日本からの督促にも拘わらずロシアは1月末になっても回答の期限すら明示せず、加えて極東での軍事行動はますます顕著となり、2月3日にはロシア旅順艦隊が出動して行方不明であるという急報すら入った。
2月 4日 午前 開戦を閣議決定。午後 御前会議にて閣議決定を天皇御裁可。
明治天皇は会議終了後「今回の戦は朕が志にあらず、然れども事既に茲に至る、
之を如何ともすべからざるなり」と開戦を深く憂慮された。
2月 5日 粟野公使に対し、「国交断絶」の通告をロ外相に提出を電令
2月 6日 1600 粟野公使、独立行動の採用と国交断絶の公文をラムスドルフ外相に手交
2月 8日 小村外相 ローゼン公使に国交断絶を通知
2月 9日 ロシア 対日宣戦布告(官報掲載10日)
2月10日 日本 対露宣戦布告
粟野公使以下公使館員 ロシアを引揚げ
2月11日 ローゼン公使以下在日公使館を閉鎖
照憲皇太后は女官を遣わされ、ローゼン夫人に令旨を賜り
「国交回復の日、再び夫人の帰来を待つ」として、御餞別に銀製の花瓶一対を下賜された。
ローゼン夫人は涙し、暫くは拝答の辞を述べることはできなかったという。
2月12日 ローゼン公使以下 横浜出帆のフランス遊船ヤーラ号にて帰国
「多年の親友であるベルギー公使が伊藤博文の使命を帯びて来訪し、
伊藤が公職上親しく別辞を述べることはできないのは遺憾であるが、他日国交が回復し
再び再会の日が来る事を切望していると伝えた。(中略)
護衛兵一隊が我が公使館に到着し護衛を受けて新橋駅に向かったが、
沿道には騎兵部隊整列し、(日本人による)侮辱又は迫害に対し我らを保護した(中略)
プラットホームには外交団全部の他、宮中の高官及び夫人が我らを待ち受け、慇懃に別辞を叙す。
(中略)これ実に任侠なる日本が、敵国代表者に対して致せる送別の礼なり」
以上のようにして明治36年8月以降、約6ヶ月にわたった日露交渉は遂に不調の裡に幕を閉じたのである。
未だ重工業発達の域に達していない日本にとってロシアは、人口で約3倍、石炭生産量で1.6倍、銑鉄・鋼材の生産量では数十倍にも達する大国である。ヨーロッパから極東に至る世界最大の国土を有し、陸軍は当時世界最強との誉れが高く、海軍も大拡充に着手しており、国力、軍事力の面からはとうてい敵しがたい国である。
ロシアに完勝できることを予想するものは、日本の責任ある当局者のなかには、だれ一人としていなかった。 
日露戦争2

 

両国の軍備 
ロシア軍は正規軍とコサック軍の二種からなり、全ロシア陸軍の現役総兵力は207万、予備・後備役を含めた動員可能兵力を加えると、400万人とも500万人とも考えられていた。野戦部隊は31個軍団に編成され、この他に狙撃兵旅団、鉄道兵旅団、要塞兵、大蔵大臣隷下の護境兵が存在し、当時自他共に「ヨーロッパ最大最強の陸軍」を誇っていた。
対する我が軍は、開戦時こそ極東配備のロシア軍の約2.3倍に相当したが、ロシア陸軍全体の歩兵大隊数で比較すると僅か約9%に過ぎなかった。
ところがロシアは、開戦後約半年でほぼ日本軍に匹敵する規模まで極東軍を増強し、戦争末期には全野戦軍の4割、全軍の3/7を欧州から極東に展開した。欧州からの増援は、シベリア鉄道の一方通行によって輸送力を強化し、大兵力の輸送を成し遂げたのである。
しかし、日本がほとんど全兵力を満州に投入したのに反し、ロシアは欧州方面の国際情勢と国内事情(いわゆる反体制革命勢力)によって兵力使用に制限を受けたのも事実である。
ロシア全海軍は約80万トンと、日本側約26万トンと比較して約3倍であったが、ロシア艦隊は地勢上、バルチック艦隊(バルト海艦隊)、黒海艦隊、太平洋艦隊(東洋艦隊)、裏海艦隊(カスピ海艦隊)などに分散されており、裏海艦隊は湖上、河川での行動しかできず、黒海艦隊もモントルーの中立条約によって、トルコがダーダネルス海峡の通過を禁止するので、太平洋への回航は事実上不可能であった。
すなわち、在極東の太平洋艦隊と、増援可能なバルチック艦隊とが敵対し得るものと考えられた。
太平洋艦隊は、旅順基地を拠点とするいわゆる旅順艦隊と、ウラジオストク基地を根拠地とするウラジオ艦隊とで構成され、一部が仁川、上海を拠点としていた。
ロシア艦隊は全体では圧倒的に我が艦隊よりも優勢ではあったが、極東に限定するとやや劣勢であった。艦艇の形式も多種多様で、新型艦艇と旧式艦が混在していた。後述するように、バルチック艦隊の多くが外洋で作戦するバランスに欠け、練度は低く、実戦に対する準備が日本よりもはるかに悪かった。砲弾も質量ともに日本よりも劣り、砲の仰角の制約から射程も劣っていた。 
両軍の作戦構想 
ロシア軍作戦構想 
もともとロシアの作戦計画は欧州方面を主眼とされており、極東には具体的なものがなかった。これは駐日武官等からの誤った報告と、皇帝以下の「恫喝すれば東方の未開民族日本は屈従する」という日本蔑視の誤判断が大きく影響していた。日清戦争後の明治34年(1901)対日作戦計画の概要が作られ、明治36年(1903)はじめて統一的な作戦計画が策定された。
海軍
ロシア極東艦隊は劣勢ではあるが、旅順要塞が健在な限り撃破されることなど考えられず、日本海軍の黄海進出と日本陸軍の朝鮮半島への上陸を阻止することを主任務とし、日本の沿岸の諸施設や沿岸航路(シーレーン)を攻撃しパニックを起こさせることが要求されていた。援軍に向かうバルチック艦隊と合流して日本艦隊を撃破することが最終的な作戦計画であったため、保全主義に陥り行動は消極的となった。
陸軍
ロシア極東艦隊が存在する限り上陸地点は韓国沿岸であろうと判断し、極東ロシア軍を奉天、遼陽地区に集結し、旅順とウラジオストクを確保しつつハルビンまでの地域で日本軍の攻撃を遅滞させつつ増援を待ち、日本軍に対し兵力的に優位にたってから満州において攻勢に転じるという作戦であった。
日本軍作戦構想 
ロシア軍総兵力は我の7倍から10倍にもあたるが、シベリア鉄道の輸送量から考えて極東に展開可能な兵力は25万内外であろうと判断し、少なくとも均衡兵力(実際にはこの見積は過小で、前述のように終戦時のロシア軍は全軍の3/7 約90万にも及んだ)をもって交戦できるものと考えた。日本軍の作戦計画の重点は早期決戦にあった。ロシアの在極東兵力に早期に決戦を強いて各個撃破し、次いで増援するロシア軍を逐次に各個撃破して講和の機会を待つことしか有利な戦争終末の見込はなかった。
1 3個師団で敵に先立ち韓国を占領、制海権なき場合は1個師団で京城を占領。
2 満州を主作戦地とし、まず遼陽に向かって作戦を実施する。
3 ウスリーを支作戦とし、1個師団で敵を牽制する。
4 海軍は、敵艦隊の戦備未完に乗じて急襲撃破し、極東の制海権を獲得する。
開戦前に作成されていた作戦では、第一期を鴨緑河以南の作戦、第二期を満州作戦としたが、第二期については開戦まで具体的な計画はなされていなかった。これによっても当時の日本が、朝鮮半島の確保とする国是が侵害され、追い詰められて開戦に踏み切ったという状況を伺うことができよう。 
仁川沖海戦 
明治37年2月6日0900 行動を開始した我が聯合艦隊は、主力艦隊は旅順港に向かい、瓜生外吉少将指揮下の第4戦隊は仁川を目指した。瓜生艦隊の目的は陸軍第12師団の先遣隊(2200名)を護衛し無事に揚陸させることと、仁川在泊中のロシア巡洋艦「ワリヤーグ」と砲艦「コレーツ」の撃滅にあった。
2月8日 1600すぎ、瓜生艦隊が仁川港の入口にさしかかった時、出港してきた「コレーツ」に遭遇した。ただちに攻撃態勢をとった日本艦隊を見た「コレーツ」は、砲門を開きつつ急遽仁川港内へ反転した。日露両軍がはじめて砲火を交えたのは実にこのときである。機先を制した日本軍は、翌9日三隻の輸送船から陸軍部隊を上陸させることができた。瓜生司令官はロ艦を含む仁川港内の外国船に、ロ艦が1300までに出港することを要求、外国船の協力を要請した。ロシア艦艇は、仁川港は中立港だから保護して欲しいと頼んだが聞き入られなかった。やむなくロシアの両艦は、日本艦隊の待ち受ける港外へと出撃した。彼我の距離 約7000Mに接近した1220、猛然と戦闘の火蓋が切られた。
ロシア側もよく戦ったが、我が集中砲火を浴びて「ワリヤーク」は火災を起こし(命中弾は推定11発)、艦の後部を沈下させながらふたたび仁川港内に逃げ帰った。「コレーツ」もそれに従い、両艦は結局全乗組員を退去させたのちに自沈、商船「スンガリー」も自沈した。
日本軍は、一発の損害を受けることなく完勝した。
この海戦で日本軍は仁川港を手中に収めることによって、以降同地からの上陸作戦が容易となり、戦局を有利に進めることができた。 
旅順港急襲作戦 
2月9日0030 第1駆逐隊(司令浅井正次郎大佐)以下の駆逐艦10隻は、旅順港に停泊する16隻からなるロシア太平洋艦隊対し魚雷20を発射、うち三本が命中、戦艦「ツェザレウィッチ」「レトヴィザン」巡洋艦「パルラーダ」に大損害を与えた。
やがて夜が明けたが、ロシア艦隊は夜襲の混乱のまま港外に停泊していた。1155 聯合艦隊主力は攻撃を開始、ロシア側もすぐさま応戦、これに旅順要塞の砲台も参加して猛烈な砲撃戦となった。我が戦艦「三笠」「富士」「敷島」などにも被弾し、結局は戦機を逸するも、旅順要塞の援護下を動かないロシア艦隊に比べ、聯合艦隊の積極果敢な攻撃は際立っていた。
2月14日 スタルク中将に代わってマカロフ中将が太平洋艦隊司令長官に任命された。水雷戦の権威で勇将として知られるマカロフ中将は、「損傷した軍艦が復旧するまでは、機雷敷設等により艦隊の強化と遼東半島の制海権を獲得し、日本軍の海上交通路を脅かし、日本陸軍の上陸を阻止する」方針で臨み、艦隊の士気、戦闘能力の向上に努めた。
ロシア海軍の作戦はやっかいなものであった。日本海軍による誘致作戦も、駆逐艦による奇襲攻撃も効果はなく、決戦を避けるロシア艦隊は旅順要塞の着弾距離以上に出撃することはなかった。しかし日本が警戒体制を解くと出撃し、日本艦隊主力を確認するとすぐ旅順港内に退避してしまう。ロシア太平洋艦隊が健在な限り、我が陸軍の輸送は絶えず危険にさらされることになった。このため日本軍は敵艦隊を旅順港内に封じ込める作戦を考えた。 
旅順港閉塞作戦 
旅順港で大型船舶が航行可能なのは幅91メートルの部分に過ぎない。この狭い海路に老朽の商船を沈め、港口を塞ごうという閉塞作戦が企図された。しかし敵艦隊と要塞砲台の目前での作戦は生還は期し難く、決死の作戦を意味した。
2月24日 第一回閉塞作戦(指揮官有馬良橘中佐)が敢行された。下士、兵を募集したところ、56名に対したちどころに2千余名が応募したという。全乗組員77名からなる5隻は、翌25日未明0415一気に港内へと突入した。しかし先頭を進んだ「天津丸」が砲火と探照灯によって航路を誤り擱座してそのまま爆沈、「武洲丸」は航行不能となり予定位置に行き着かず爆沈、それを見た「武陽丸」は予定位置を誤認して失敗、猛火をついてほぼ予定位置まで達したのは「報国丸」「仁川丸」のみであった。
この結果を不十分とみた聯合艦隊司令部では直ちに第二次作戦実施を決意、3月27日夜半に実施された。指揮官は前回と同じであったが、乗組員は再度の参加は許されなかった。
3月27日 0300 船隊は旅順港内に突進した。しかしロシア側の警戒は前にも増して厳重で、今回も完全な封鎖には至らず作戦は失敗した。この作戦で福井丸指揮官・広瀬武夫少佐は、福井丸を爆沈したとき乗員をボートに移乗させ点呼をとったところ、指揮官付の杉野孫七上等兵曹が見当たらず、沈みゆく船内で自ら三度にわたり船内を捜索、遂に発見できず止む無くボートに乗り移ろうとしたところ、敵艦の猛射を受け壮烈なる戦死を遂げた。生前の功績と合わせて中佐に昇進、軍神として謳われた。
その後、5月3日に第三次閉塞作戦(指揮官林三子雄中佐)が企図されたが、暴風雨のため損害が大きく作戦そのものも失敗に終わった。結果は乗員158名中、収容されたのは67名(内20名負傷5名戦死)、捕虜17名、行方不明74名であった。
こうして旅順港閉塞作戦は成功しなかったとはいえ、日本軍の決死の敢闘精神はロシア艦隊を圧倒、艦隊将士の士気は高まった。ロシア側はますます旅順港内に引き篭ることとなり、黄海の制海権はほとんど日本軍の掌中に帰した。なおこれには、勇将マカロフ中将の戦死も働いた。4月13日マカロフ中将は旗艦である戦艦「ペトロパウロスク」に乗り、我が第3戦隊への追撃戦の途中で反転したところ触雷して爆沈、部下650名と共に戦死した。その後を襲ったウィトゲフト少将は艦隊の保全を第一とし、以降の攻勢は巡洋艦と水雷戦隊による威力偵察に限定することとなった。
広瀬少佐の勇戦は海軍軍人の亀鑑となり、その後の海軍を支える精神的支柱となったことの意義は極めて大きかった。大東亜戦争における特殊潜航艇による真珠湾奇襲攻撃、さらには海上特攻の精神は、明治海軍においてその先例を見ることができるのである。 
鴨緑江会戦 
海軍の活躍によってロシア海軍の脅威はなくなり、陸軍の朝鮮展開は容易となった。
第12師団(井上光中将)は2月16日仁川に上陸して北上を開始、黒木為髑蜿ォ指揮の第一軍(近衛、第2師団基幹)は、3月11日鎮南浦に上陸した。この第一軍主力は、4月29日には早くも鴨緑江渡河作戦を開始した。
ロシア軍の鴨緑江北岸の防衛はザスリーチ中将指揮の東部支隊で、安東地区と九連城地区に防御戦を敷いていた。ロシア軍にとって守るには有利な地形ではあったが、お粗末な塹壕が9個中隊分設けられていただけで、砲兵は歩兵と同一線上のむきだしの陣地に配置され偽装も交通壕も準備されず、部隊間の連絡も充分ではなかった。このようにロシア軍の防御準備に大きな欠陥があった上に、偵察が充分におこなわれず、ザスリーチ中将は日本軍の主攻撃は安東地区に加えられるものと誤判断し、九連城への増援を怠った。
日本軍は右翼の第12師団を渡河させ、靉河上流から包囲させるとともに、第2師団、近衛師団で九連城陣地を攻撃させることとした。九連城付近では日本軍は兵力で5倍、砲兵で3倍の優勢を持つこととなった。対岸の敵情捜索のほか渡河点の調査、野戦重砲の推進、工兵による架橋、海軍の砲艦の進出などの準備ののち、5月1日払暁3個師団は砲兵の援護射撃の下に一斉に攻撃を開始した。日本軍の野砲はむきだしのロシア軍砲兵を圧倒し、第3艦隊の砲艦による艦砲射撃も手伝って、1400頃には九連城西方高地を確保、2000までには九連城陣地を占領した。日本軍はわずか1日で困難な渡河作戦を行った上に国境の敵陣を突破して満州に橋頭堡を確立した。
本会戦は日露陸戦の本格的緒戦であり、士気、練度に勝り、周到な準備と砲兵力が優勢な日本軍が快勝した。緒戦の勝利によって軍及び国民の士気は高揚し、制海権の確保と相俟って爾後の南満州作戦が有利に展開されることとなった。 
遼陽に向かう前進作戦 
第1軍が順調に朝鮮半島を北上して鴨緑江渡河の時期が近づくとともに、牽制効果を収めるよう同時期に遼東半島に上陸させるため、第2軍が編成された。両軍呼応して敵を包囲殲滅させようと計画したのである。
黄海の制海権確保に伴い、第2軍は予定を変更して5月5日から遼東半島の大沙河河口付近に上陸した。敵将クロパトキン大将は第2軍の上陸を阻止するように命じたが、この命令は実行されなかった。予備兵力を含めると9個師団もの大軍を日本軍が上陸させたという事態を迎えて、妨害の部隊は途中から引き返したのである。揚陸は5月13日までに終わり、兵站部隊の揚陸後は態勢を整えて5月16日には第4師団をもって金州と遼陽との遮断に成功、5月23日 3個師団を併列して南山の攻撃を開始した。 
南山会戦 
南山攻略には二つの戦術的効果があった。まず遼東半島の先端に旅順要塞があり、南山を攻略して遮断してしまえば旅順は孤立する。さらに南山・旅順をおさせてしまえば、決戦地点と予想される遼陽への北進に背後を脅かされる心配はなくなるのである。
第1師団が正面、第3師団が左翼、第4師団が右翼(同師団の半分は金州城攻撃)という布陣で、まず砲兵隊の攻撃から開始、砲撃のあとは歩兵の突撃である。しかし我が砲兵には重火器が不足しており、効果不十分のまま歩兵の突撃となった。加えてロシア軍の前面は平坦地で身を隠すところはない。突撃する歩兵はさながら標的のようにバタバタと倒れた。掩蓋機関銃を有する堅固な陣地と旅順から出撃したロシア艦隊の艦砲射撃により、第2軍は苦境に陥った。たとえば第1師団の第1聯隊では、連隊長小原正恒大佐自ら突撃隊を率いて突進、重傷を負ったほどである。
この状況に対し我が聯合艦隊は、「赤城」以下4隻の軍艦と2隻の水雷艇が金州湾にはいり、艦砲による支援攻撃を実施、奥軍司令官の強固な意志により、全滅覚悟の夕刻突撃も成功、1830第4師団の一部が敵陣を突破して一角を占領、1930頃にはロシア軍は旅順方面へ敗走、ようやくこれを占領した。
ロシア軍の正面わずか300メートルを2個師団半の兵力で攻撃して14時間かかり、死傷者は4400名にも及んだ。この南山の作戦は、日清戦争とは全く異なる新しい戦闘、ことにこの後の旅順攻囲戦を示唆したものであった。ところが残念なことに日本軍はこの教訓の活用が十分とはいえなかった。 
遼陽への前進 
ロシア軍は遅まきながら小反撃に転じた。シベリア第1軍団(シタケリベルグ中将)は旅順に向かう日本軍の動きを牽制するために南下し、得利寺に布陣したが、6月14、15日 第2軍の先制攻撃を受けて敗退した。また東部兵団(ザスリッチ中将のちケルレル中将)も第1軍、第10師団の正面に牽制攻撃を試みたが撃退された。
ロシア軍の不徹底な小反撃は敗退を繰り返すだけであった。
こうして8月上旬、日本軍は3方面より遼陽を包囲する形となった。一方ロシア軍は敗退を続けたとはいえ退却は概ね計画的に実施され、日本軍に勝る大軍を遼陽に集結することができた。 
日露戦争3

 

黄海海戦 
旅順のロシア艦隊は、旅順要塞の存在とともに艦隊保全を図り、来るべきバルチック艦隊の東洋回航を待って一挙に日本艦隊を撃滅することが作戦の基本とされていた。
世界的戦術家であり勇将で知られたマカロフ中将によって一時、攻勢に転じた時期もあったが、後任のウイトゲフト少将(臨時司令長官)は消極戦法を採用、日本艦隊との決戦を避けていた。極東総督アレクセーエフは、旅順要塞がいずれは陥落するものとみており、艦隊の将来のために早期にウラジオストックに脱出するよう厳命した。
8月10日0540 巡洋艦「ノーウィク」を先頭に、戦艦6、巡洋艦4を基幹とする旅順艦隊は出港、ウラジオ艦隊への合流を図った。
東郷司令長官は、この旅順艦隊を洋上に誘致して撃破しようと敵艦隊発見から4時間半後に敵に追いつき、1315射撃を開始した。我が艦隊は敵の先頭を抑えようと北東に進路をとり、一方のロシア艦隊は日本軍の後方から遁走を図った。ウイトゲフト少将には日本艦隊を撃破しようとする意志は全くなく、ただ皇帝命令に添ってウラジオストック回航の一念のみであった。追撃から約3時間、距離7000Mとなった1837 射弾一発が旗艦「ツエザレウィッチ」の艦橋に命中、ウイトゲフト少将以下幕僚は戦死、さらに機関員も倒れたため左旋回を始め、旅順艦隊の隊列は大混乱となった。主力は再び旅順へと逃げ帰り聯合艦隊は包囲態勢をとったが、日没を迎え、敵艦隊は四分五裂となって四散した。
2000 東郷司令長官は砲撃を打ち切り、水雷戦隊に夜襲を命じ遁走した敵艦隊の捜索を開始したが、ともに戦果を挙げることはなかった。
ロシア艦隊中、旅順港まで戻ることができたのは、5隻の戦艦と1隻の巡洋艦だけで、損傷が激しい旗艦「ツエザレウィッチ」は膠州湾で武装解除された。その他巡洋艦2隻は上海とサイゴンで武装解除され、1隻は樺太まで落ち延びその場で座礁した。結局、旅順艦隊は1隻も目的地ウラジオに達したものはなく、残る艦隊もさんざんな目にあい、ロシアの作戦計画は挫折した。
日本艦隊も少なからず被害を被ったものの、戦死64名、戦傷161名に留まった。この黄海海戦は、のちの日本海海戦の前にとかく軽んじられがちではある。しかしこの海戦によって旅順艦隊は事実上戦力を喪失し、制海権を握ったわけで、その意義は決して小さなものではない。東郷長官が期した「敵撃滅」の戦果は及ばなかったが、このとき用いた「丁字戦法」や「敵前一斉回頭」は、のちの日本海海戦に生かされることとなるのである。 
蔚山沖海戦 
神出鬼没なウラジオ艦隊に悩まされていた上村艦隊は、8月10日以降対馬付近にあって敵艦隊の警戒にあたっていた。
黄海海戦の4日後、8月14日早朝 イエスセン少将率いるウラジオ艦隊の巡洋艦3隻を発見、我が第二戦隊の巡洋艦4隻との間にただちに砲戦が開始された。上村艦隊の攻撃は激しく交戦30分でロシア艦隊は被弾炎上し、特に「リューリック」は操舵機が故障、わが集中砲火を浴びた。旗艦「ロシア」と「グロムボイ」は、被弾したが機関は無事でウラジオに逃走した。わが4艦も全力で追撃したが、交戦5時間後、旗艦「出雲」の弾薬欠乏によって海戦は幕を閉じた。
残る「リューリック」に対して上村長官は、来援してきた「浪速」「高千穂」に処分を任せたが、同時に「溺れる敵兵を救助せよ」と命令、当時ウラジオ艦隊を憎悪していた我が将兵に異様の感を抱かせながらも乗員600余名が救助された。
旗艦「ロシア」と「グロムボイ」は、使用可能な主砲は3門のみとなり、戦闘力を喪失、ふたたび出撃する力はなかった。ロシア艦隊3隻に対し日本艦隊は4隻、それゆえロシアは基本的に逃走を企図するも、戦闘局面においては極めて勇敢であった。むしろ上村艦隊の戦術指揮は慎重で、勝機を逸する場面すら見られたが最終的には敵艦1を撃沈、2隻に大損害を与え、日本艦隊に沈没艦はなく勝利の海戦となったのである。
黄海海戦と、続くこの蔚山沖海戦によって、ロシア太平洋艦隊は実質的に無力化してしまったのである。 
遼陽会戦 
日本軍は8月初め遼陽会戦の準備態勢についたが、遼陽付近に集中しているロシア軍は既に我の1倍半に近く、さらに増援が引き続き到着中であることを知り、速やかに会戦の態勢にうつることとともに、後続部隊の到着ともに全軍を挙げての決戦を開始することとした。作戦計画は、第4軍、第2軍で海城〜遼陽道に沿い攻撃し、第1軍主力は太子河右岸に渡って敵の東翼を包囲する計画である。ロシア軍も、近日中に増援が到着することとなったので、当初の予定を変更、8月21日 浪子山〜鞍山站の線で決戦することとした。
豪雨が続いたため前進開始が遅れていた第1軍は8月23日夕から行動を開始、ロシア東部兵団を攻撃した。激戦ののち26日までに第12師団、第2師団とも拠点を占領、さらに攻勢を続行したためロシア第10軍団は翌日から退却を開始、ロシア軍の左翼に破綻が生じた。また第4軍も鞍山站の敵陣に迫った。クロパトキンは黒木軍の迅速なる進出によって東部兵団左翼が危険となったので、再び計画を変更、鞍山站の線での決戦を中止し、遼陽南側の陣地に総退却を命じた。度重なる計画変更と退却はロシア軍を混乱させ、士気を低下させることとなる。
退却するロシア軍を追って前進した日本軍は、8月30日から遼陽南側の露軍陣地に対し、総攻撃を開始するも、頑強に抵抗するロシア軍の銃砲火によって損害が続出した。北大山の争奪戦では、歩兵第34聯隊第1大隊が勇戦し、人格高潔で文武に秀でた大隊長橘周太少佐は戦死後は軍神と謳われた。優勢なロシア軍砲撃の前に第2軍、第4軍は苦境に陥り日本軍は危機に立った。しかし、31日未明から太子河右岸に進出した第1軍主力はロシア軍の東翼を攻撃、9月2日には饅頭山を占領した。予備隊を使い果たしていたクロパトキンは、防御戦を後退させた後に兵力の集中を企図したが、夜間の突然の後退命令によりロシア軍の混乱は一層深まった。9月2日から饅頭山を巡って激しい争奪戦が続いたが、第2師団の岡崎旅団は、数倍の敵を撃破して山頂を再占領した。
9月3日朝クロパトキンは全軍の総退却に移った。連日の戦闘に疲労の極にあった日本軍は、弾薬も欠乏し追撃の余力はなかった。遼陽の占領までが限界で、ロシア軍退却に乗じることはできなかった。
本会戦は日露両軍の主力がはじめて行った野戦決戦であり、優秀なロシア軍を破った我が軍に対し、国民の士気は上がり黒木軍の名声は海外に轟いた。しかし期待した敵野戦軍主力の撃滅はできず、死傷者も日本軍の方が多かった。クロパトキンは「退却は予定の行動」と公報、引き続く第1回旅順総攻撃の失敗とともに我が軍首脳の憂慮は深まった。 
沙河会戦 
日本軍は遼陽を占領し第一期の作戦目標を達成したが、将兵の損害と疲労が大きく、弾薬も欠乏したため追撃する余力なく、遼陽の北方にて停止し戦力の回復に努めていた。一方ロシア軍は逐次欧州からの増援部隊が到着しており、戦局の前途は楽観できる状況になかった。大本営では人馬、弾薬の補充に努めるとともに兵備の緊急増設に着手したが、満州軍の人馬、弾薬補充は10月上旬まで、創設師団の編成は10月末までかかる見込みであり、爾後の北進には慎重なる配慮が要請された。満州軍総司令部では、国力の限界を考慮し、今後は戦略拠点の占領よりも、小さい損害でより多い敵兵力撃滅を図ることを主眼とし、作戦の工夫と北進準備に努めたが、攻勢開始時期を定められないまま児玉総参謀長は旅順攻略戦の作戦指導に出発することとなった。
ロシア満州軍総司令官クロパトキン大将は、遼陽会戦後一挙に鉄嶺までの後退を企図したが、極東総督の合意が得られず日本軍の停止もあって沙河付近に停止した。9月下旬には第1軍団、シベリア第6軍団等の増援も到着して日本軍よりも著しく優勢な兵力となったのでロシア宮廷の意向も考慮して攻勢を計画し、10月5日から行動を開始した。
日本軍は各種情報からロシア軍の攻勢が近いことは察知できたが、1現陣地で迎撃して損害を与えたのちに攻勢に点ずるか?2あるいは機先を制して攻勢をとるか?の両論が対立し、結論はでなかった。最右翼前方に突出していた梅沢旅団正面への敵兵が増加してきたので、第1軍司令官は10月7日夜、梅沢旅団を後退させるとともに第1軍主力を右側に寄せて態勢を整えた。8日からロシア軍は本溪湖等に猛攻を開始し、右翼にて激戦がはじまった。
児玉総参謀長は6日旅順より戻ったが攻勢転移に関する満州軍総司令部の議論はなかなか決せず、各軍参謀長の意見を聞き、9日夜半攻勢転移の命令が発せられた。10日から第2軍、第4軍が、11日から全軍が攻勢を開始し、中央及び左翼からロシア軍両翼に向かって主攻が指向されたが戦局は進捗せず、この間我が方右翼方面では苦戦が続いた。激闘が続く間に12日を迎えた。第4軍の三塊石山の夜襲とこれに連携する第2軍の攻撃が成功し、ロシア軍東部兵団の総攻撃失敗とともに転機が訪れた。同日、満州軍総司令部は沙河左岸に向かう追撃を命令したが、ロシア軍の抵抗は頑強で、なお戦線は波乱と激闘が続いた。
満州軍司令部の幕僚は、引き続き北方に向かう攻勢の続行を主張したが、山縣有朋参謀総長から「国力の限界から戦線拡大を避ける」旨連絡を受けていた総司令部首脳によって制止された。18日沙河左岸に陣地を占領することに決し、ロシア軍と付近に対陣したままで冬営の準備に入った。沙河の対陣は明くる春まで続いた。 
黒溝台会戦 
沙河会戦後日露両軍は、沙河をはさんで陣地構築と戦闘力の回復に努めながら、攻勢の機会をうかがっていた。翌年の解氷期までにロシア軍は30個師団以上の兵力を極東に集中するものと予想していた日本軍は、ロシアの攻撃を撃退する態勢を整えながら、旅順陥落、第3軍の北上を待ちながら越冬することにした。ロシア軍が攻勢に出る場合、堅固な我が正面を避け、両翼を衝くものと予想し、これに対応するため第8師団(師団長立見尚文中将)及び第5師団を予備として控置した。
明治38年1月 旅順は陥落、待望の第3軍は北進を開始、到着は2月17日と予想された。また大本営は韓国を防衛し且つ満州軍の東側に展開させるため、新たに鴨緑江軍を編成した。
10月26日極東軍総督アレキセーエフ海軍大将は解任され、クロパトキンが極東陸海軍総司令官となり、ロシア満州軍は第1〜第3軍に再編成された。
第1軍司令官 リネウィッチ大将(11/8奉天着)、第2軍司令官 グリッペンベルグ大将(12/8奉天着)、第3軍司令官 カウリバルス大将(12/15奉天着)である。クロパトキンは当初、本国からの増援到着をまって一大攻勢を行う予定であったが、旅順陥落によって第3軍が北上することを知り第3軍到着前に攻勢をとることにした。1月25日 ロシア軍は攻撃を開始、第1、第3軍で日本軍を正面に拘束、第2軍で日本軍の西翼を包囲攻撃する作戦である。日本軍は日増しに増大するロシア軍に圧迫されていたが、24日夜から最左翼の騎兵第2旅団や第2軍兵站諸部隊は撃退され、黒溝台も占領された。
新司令官として着任したグリッペンベルグ大将指揮のロシア第2軍の攻勢によって我が西翼に危機が訪れた。
大山総司令官は25日 第8師団長に黒溝台方面の敵撃滅を命じ、26日夜以降さらに第5、第2、第3師団の主力をも第8師団長に配属して臨時立見軍として反撃させた。一方ロシア軍は黒溝台占領後、沈旦堡を重点として秋山支隊の正面に猛攻を加えたが、秋山支隊は奮闘しこれを守り抜いた。またロシア軍は、臨時立見軍の攻撃も阻止し、黒溝台周辺で厳寒の地に連続三昼夜にわたって激戦が展開された。
28日夜になりクロパトキンは、沈旦堡攻撃の成功の見込みがなく、逆に日本軍が大攻勢をとり極めて危険な態勢となることを恐れ、攻勢の中止を命じてロシア第2軍を渾河右岸に後退させた。功を急いだグリッペンベルグ大将がクロパトキン大将の意見を無視して強行する局面が背景にあったともされている。二人は大将昇進は同期であったが、10歳年長のグリッペンベルグの方が宮中での発言権も大きかった。
ロシア軍が厳寒期に大規模な作戦をするはずがないと思い込み、不意を突かれた日本軍は指揮も支離滅裂となり、混乱したが、この危機は兵士の勇戦とクロパトキンとグリッペンベルグ両大将の不和によって辛うじて救われた。ロシア第2軍司令官グリッペンベルグ大将は、会戦後病気と称して帰国してしまった。 
日露戦争4

 

旅順要塞の状況 
旅順にはかつて清国が構築した旧式の要塞があったが、日清戦争後ロシアが三国干渉の代償として大連とともにこれを租借してからは、画期的に強化された大要塞に改築する工事を進めていた。1901年になって当時のクロパトキン陸相による構築計画が決定し、1909年完成を目途として総工費159万ルーブルを投じて第1期工事が進められ、工期の途中で日露開戦を迎えていた。
当初ロシア国防委員会やゴルバッキー将軍によって提案されたものからは縮小され、主防御線は前面の高地から見下ろされ、主防御線の外側から市内、港内が砲撃可能であるなどの弱点はあったが、多数の近代的堡塁と砲台を中核とし、その間隙を臨時堡塁、囲壁、野戦陣地等で補い、鉄条網をめぐらせた堅固な近代要塞となるはずであり、特に海正面は多数の砲台が造られた。
開戦当初は未だ工期の途中であり、海正面の砲台は概ね完成していたが、陸正面は一部を除いて完成してはいなかった。しかし3月中旬に要塞について経験の深いコンドラチェンコ少将(東狙兵第7師団長)の活力ある指導の下に急速に改善されていた。主防御線の永久堡塁の防備を完成するとともに、多数の臨時堡塁、機関銃座、野戦陣地等が設けられた。
関東軍軍司令官ステッセル中将、旅順要塞司令官スミルノフ少将以下守備兵力は東狙兵第4師団、同第7師団を中心に約47000名を数え、のちに海軍陸戦隊、義勇兵等が加わり、乃木第3軍を迎え撃つ態勢を固めていた。本国から救援のバルチック艦隊が来航するという連絡は既に伝えられており、守備隊の士気は極めて高かった。 
日本軍の戦略構想 
日本海軍の戦略的見地からすれば、ヨーロッパからの増援到着前に旅順にあるロシア太平洋艦隊を潰滅しておくことが絶対に必要だが、旅順要塞の庇護の下に健在を図ろうとするロシア太平洋艦隊を撃滅させるには、陸正面からの要塞陥落しか手段はなかった。
同時にそのことは、日本陸軍の戦略的見地からすると、極東ロシア軍との野戦決戦に勢力を集中するためには、要塞を攻撃するよりも陸上で封鎖監視に留める方が有利であり、旅順要塞の攻略に大きな戦力を割くことは、極東ロシア軍の各個撃破のための戦力を弱めてしまうことになる。陸軍のみの戦略であれば、旅順要塞は、旅順に至る鉄道及び海上を遮断すれば袋の鼠であり、大きな犠牲を払ってまでも攻略する必要はなかったが、我が陸海軍統帥部としての作戦上はそれを許さなかった。
要塞戦を軽視してはならないという、田中義一中佐(後の大将)、佐藤鋼次郎中佐(後の中将)、由比光衛少佐(後の大将)らの進言は積極的に採用されなかった。容易に攻略できたという日清戦争での経験とロシア軍の厳しい機密保持と相まって、旅順が最新式大要塞に変身しつつあることを知らなかった日本軍は、近代的攻城戦法の認識が不十分のまま作戦に臨むこととなった。 
攻撃準備 
開戦碧頭の旅順港外奇襲の戦果は少なく、3回にわたる閉塞作戦も、広瀬中佐等の奮戦にもかかわらず十分な成果に至らなかった。艦砲によるロシア艦隊への間接射撃も思わしくなく、直接的旅順港封鎖の長期継続は聯合艦隊にとって重い負担となっていた。さらにはウラジオストックのロシア別働艦隊は日本近海に出没し、聯合艦隊は艦隊を分遣せざるを得なくなった上に、4月末にはバルチック艦隊の東航決定が報じられた。この態勢でロシア増援艦隊を迎えれば日本は危機に立つ。かくして5月末、陸上からの旅順要塞への攻撃は決定された。
5月29日 以下のような戦闘序列が発令され、軍司令部は6月1日宇治港を出港、途中で聯合艦隊と打ち合わせを経て8日大連西北に到着した。
6月26日 剣山等の敵陣地を攻略して前哨戦を推進、要塞補強の時間を得ようとするロシア軍の奪回攻撃を撃退してこれを占領した。さらに第9師団などの増援部隊の到着後攻撃を再開、7月30日には要塞に対する攻囲線に進出した。陸軍の要請による海軍の陸戦重砲隊は、8月7日には旅順市街を砲撃して火災を発生させ、このため旅順艦隊は出港してウラジオに向かったが、途中で待ち受けた日本艦隊と黄海海戦を行い、その多くは旅順港に逃げ帰った。ロシア太平洋艦隊は再び出港することなく、水兵や砲の相当部分を揚陸して陸上防備を強化した。
8月9日には東正面の前衛陣地を攻略、攻城砲兵と弾薬は、我が軍によって修復した鉄道にて展開を終えた。
こうして総攻撃の準備は整った。 
第1回総攻撃 明治38年8月19日〜24日 
8月16日 乃木大将は軍使を使って「非戦闘員の避難と開城勧告」を送付。敵将ステッセル中将はもちろんこの勧告を拒否した。
8月19日 0600 我が攻城砲の砲撃とこれに続く突撃によって旅順総攻撃が開始された。
8月21日 第11師団が東鶏冠山第2堡塁を占領するも集中砲火を浴びて奪回された。22日には盤竜山東堡塁の斜面に張り付いていた姫野工兵軍曹ほか数名が、堡塁近くの機関銃座を爆破して守兵が少ないことを報告、これに乗じて歩兵第7聯隊の残存部隊が突撃して同堡塁西北突角を占領した。ロシア軍の再三に渡る逆襲に対して、日本軍も増援を送り、遂には西堡塁も占領した。24日も盤竜山東、西堡塁を確保するとともに戦果の拡大に努めたが、弾薬不足のため沈黙させられてしまった。24日朝 乃木大将らが双眼鏡でのぞいていると、明け行く光の中に次々と姿を現すには、斜面にとりついて倒れた無数の日本兵の屍ばかりであった。新式兵器である機関銃を駆使するロシア軍の前に、第3軍司令部はついに攻撃中止を命じた。主防御線では盤竜山東、西堡塁を占領するに留まって失敗した。ある聯隊では軍旗護衛兵若干を除いて、聯隊長以下全員が戦死するといった状況であった。 
前進堡塁への進撃 
第1回総攻撃の戦訓に鑑み、強襲に替えて正攻法による作戦を採るに至った。即ち、堡塁方向に壕を掘り進み、その先端に第2攻撃陣地を構築、防御側の有効射程に入ってからの前進、突撃準備等のすべてを攻撃側の築城による援護下に行うことによって、時間はかかるが犠牲を少なくより確実に突入できる方法である。
第3軍は主防御線の堡塁に接近する壕を掘削して第2回総攻撃の準備をすすめつつ、前方に残る前衛陣地の攻略に努めた。9月20日 激戦ののちに竜眼北方堡塁、水師営堡塁などを攻略したが、ロシア軍の集中砲火によって我が損害も少なくなく、かの203高地も一旦占領ののちに奪還されてしまった。 
第2回総攻撃 明治38年10月26日〜31日 
10月1日から28センチ榴弾砲6門の最初の砲撃が行われた。内地の海岸要塞から取り外して輸送してきたもので旧式ゆえに不発弾も多かったが、予期以上の命中精度と威力を発揮し、重火器不足に悩む日本軍にとっては有効的であった。日本軍が壕の掘削によって堡塁に近接するのに対して,ロシア軍は砲火の集中によって妨害した。夜間作業に切り替えると探照灯をつかって妨害、遂に日本軍は地下坑道を掘り進んで堡塁に接近した。
10月26日 北東正面に対する第2回総攻撃が開始された。今回の主目標は要塞北側主要3堡塁である。同日盤竜山北堡塁を奪取し、砲撃と坑道作業を続けた後に、30日歩兵突撃を敢行、通称一戸堡塁と東鶏冠山北堡塁の一部を占領した。しかし松樹山、二竜山、東鶏冠山の3堡塁に対する坑道作業の完成には時間がかかるため、総攻撃を中止、3堡塁への坑道作業への進捗に努力を継続した。 
主攻転換論争 
バルチック艦隊の東航が刻々と迫り、海軍としては艦艇の整備・修理のため少なくとも2ヶ月間の準備を必要とする。したがって11月末(バ艦隊到着は明年1月と予測していた)には海上封鎖を緩めて内地に帰港しなくてはならない。早期攻略のためにも攻撃目標を203高地に移し、ここを占領して観測所を設け、砲撃によって旅順港内の敵太平洋艦隊を撃破されたい、と陸軍に申し入れた。しかし現地の満州軍総司令部と第3軍司令部は、203高地を攻略しても旅順要塞が陥落したことにはならない、として、非戦略的な主攻転換には反対であった。
乃木軍司令官に対する批判が高まる中、11月23日には、とくに第3軍に対し激励の勅語を賜った。また山県参謀総長からも攻撃成功を祈る漢詩が送られた。全国民の感情もまた激しく、「乃木将軍よ腹を切れ」との轟々たる非難、或いは激励する電報が引きも切らず第3軍司令部へ殺到していた。 
第3回総攻撃 明治38年11月26日〜12月6日 
11月に入り、第3軍には第7師団と工兵3個中隊が増加された。焦燥の色が濃い第3軍は、あくまで初期の計画を貫徹すべく、要塞正面からの攻撃を開始した。開始に先立ち乃木軍司令官は「軍司令官自ら、軍予備の第7師団を率いて突進しよう」とまで述べ、その覚悟の程がうかがわれた。11月26日1300 各隊は多大なる損害にもかかわらず突撃を反復して敵陣の一角に突入したが、ロシア軍の猛烈な砲火と逆襲の反復によりこれを確保することができず、戦況は一進一退であった。
水師営の谷の中から敵の防御線の一角を分断して要塞内に突入し内部を攪乱すれば、敵の指揮系統に混乱を生じる。そう考えた歩兵第二旅団長中村覚少将は、乃木軍司令官に直訴して決死隊を編成した。各部隊より選抜された特別支隊6個大隊3千百余名は、夜襲に臨み総員白いたすきをかけた。有名な白襷隊である。11月26日夕刻、乃木大将の見送りを受け中村少将を先頭に出発した白襷隊だったが、途中で地雷に接触してからはロシア軍のサーチライトに照り付けられ砲火が集中、旅団副官以下多数の死傷者をだし、中村少将自身重傷を負った。かくして窮余の一策として、戦術常識としては無謀に近い夜間の奇襲戦法は失敗に終わった。
11月27日 窮地に追い込まれた軍司令官は、主攻をついに203高地に変更、支援砲撃に続いて同夜より第1師団による203高地に対する攻撃が開始された。一旦は高地の中腹まで突進したものの、ロシア軍の猛射を浴び兵の大半を失って退却した。翌28日0800 西南方面の突撃隊は猛烈な勢いで突進、これを見た右翼隊は援軍を送り死に物狂いで山頂に突入、激戦ののちに山頂西南部を一旦占領した。しかしその直後、南側からのロシア軍の大逆襲を受ける。山上からは魚雷を発射、自軍の白兵陣地にすら砲撃を加える凄まじさで、凄惨な争奪戦が展開された。29日には到着したばかりの第7師団を投入、30日夜には203高地を占領するも、翌朝にはロシア軍によって奪回され、石を投げ敵に噛み付き、戦友の屍を踏み越え屍山血河の修羅場が、203高地の争奪を巡る彼我の死闘によって現出した。
戦況を憂慮した大山総司令官は、児玉総参謀長を作戦指導のために派遣、児玉大将は直接第3軍参謀を統括するに至った。12月3日から攻撃が再開され、12月5日にはついに203高地を占領確保した。既にロシア軍も逆襲のための予備隊を消耗し尽くしており、203高地はまさに全山ことごとく日本軍将兵の屍をもって埋め尽くすことになった。 
旅順開城 
203高地陥落後、ロシア軍は急速に戦意を失いはじめた。いっぽう日本軍は、引き続き坑道作業による堡塁攻撃を続け、12月18日から28日まで、旅順要塞の堡塁砲台の中心であった3大堡塁を占領した。明治38年1月1日午後には、要塞線直後の中核陣地である望台頂上付近(185高地)を占領した。まさに市街に突入しようとした1530 ステッセル中将は開城のための軍使を派遣、ロシア軍は降伏した。
12月15日には作戦指導中のコンドラチェンコ少将が日本軍の28サンチ砲弾で戦死したことも、ロシア軍将兵の士気の低下に繋がった。1月2日午後 水師営にて開城規約を調印、明治38年1月5日正午には我が衛生隊本部に充てられていた民家にて、両軍司令官の劇的な会見が行われた。その日は朝から美しく晴れ渡り、数日前までの激戦が嘘のような穏かな日和であった。こうしてロシア軍の開城と武装解除により旅順攻略戦は終了した。
なおこの時明治天皇は、ステッセル中将が祖国のために尽くした忠節を重んじ、武士の名誉を保たしめるように、と希望された。天皇の聖旨は乃木大将に伝えられ、さらにはステッセル中将にも伝達された。我が国が武士道精神を発揮した一例である。 
戦果と損害 
明治37年7月31日前進陣地を占領してから155日の日数を要し、後方部隊を含めて延べ約13万人、戦闘参加最大人員6万4千(第3回総攻撃時)の兵力に及んだ。
野戦においては敗戦−予定の退却−を続けたロシア軍も、専守防御に徹したステッセル中将以下は、「世界最強のロシア陸軍」の名を辱めることなく、その伝統を遺憾なく発揮した。そのため旅順要塞の攻略戦は、強襲につぐ強襲を繰り返す未曾有の大激戦となり、まさに玉砕と精神的性格を同じくする戦闘であった。
旅順の陥落によって、聯合艦隊はバルチック艦隊に備えて整備、訓練を行う余裕を得、満州軍は次の奉天会戦に第3軍を使用することができることになり、外債募集にも好影響を与えた。そしてこの戦いは、将来戦における科学技術の重要性に関する一大警鐘であった。 
日露戦争5

 

会戦前の国状 
遼陽・沙河の両会戦と旅順攻略の5万余とあわせると、10万を超える将兵がこの1年で斃れていた。砲弾の欠乏に鍋や釜を潰して弾丸を作らねばならないほど貧弱な生産力しかない日本は、すでに募集した3億の外債も消費していた。参謀次長 長岡外史少将は、弾薬が補充されるまで2、3ヶ月の休戦もやむを得ない、と進言したほどだった。
これに対してロシアは、同程度の損害を蒙ったとはいえ新たに欧州から10数万の兵力をシベリア鉄道で送り込み、海軍は日本の主要艦艇に匹敵する規模の太平洋第二艦隊(いわゆるバルチック艦隊)を極東に派遣しつつあった。バルチック艦隊並びに奉天に集結する陸兵40万のある限り講和には応じられないと声明したロシアに対し、日本は否応なく陸海で決戦を挑まなければならなかった。 
会戦前の戦況 
旅順を陥落させた第3軍は、明治38年1月下旬より北上を開始、鴨緑江軍も兵站の困難を克服しつつ満州軍の東に進出しつつあった。大本営では、来る満州での一大決戦に備えて3個師団の増設と弾薬、火砲の増産と外国からの購入など、兵備の拡張に努めるとともに、駐米公使 高平小五郎をして米国大統領に早期講和の斡旋にむけて検討し始めていた。
満州軍では例年よりも早い解氷期に先立って奉天付近のロシア軍に決戦を求めることに決した。韓国駐剳軍隷下の鴨緑江軍(司令官 川村景明大将)に敵の東翼を包囲してこの方面に牽制するよう要請し、第1(司令官 黒木為髑蜿ォ)、第4(司令官 野津道貫大将)、第2軍(司令官 奥 保鞏大将)を並列して北進、第3軍(司令官 乃木希典大将)は敵の西翼を包囲させることとした。
満州軍総司令官 大山巌大将は明治38年2月20日、この命令を下達するとともに、「本会戦は日露戦の関ヶ原である。この会戦の結果を全戦役の決勝とするよう努めよ」として、正面からの力攻を避け、側背攻撃と少ない損害で大打撃を与えるよう訓示した。
一方ロシア側では、第3軍の行動は注視しており、黒溝台の敗戦後も早期の攻勢が検討されたが、クロパトキンは迷った後2月21日日本軍の西翼を包囲する攻勢の開始を命じた。しかしこの攻勢は日本軍によって出端をくじかれ、攻勢の中核となるロシア第2軍は24日には攻勢を断念してしまった。 
奉天会戦第1期 明治39年2月26日〜2月28日 
明治38年2月26日 鴨緑江軍は牽制行動のため坂城峪に、第1軍は高嶺子南方高地にそれぞれ進出、翌27日両軍はそれぞれ前面のロシア軍を攻撃したが、ロシア軍も徹底して抗戦し、いずれの正面もほとんど進展を見なかった。
第3軍は28日までに西翼に展開、第2軍と第4軍は、砲戦を行って企図の秘匿につとめた。ロシア第2軍は、日本軍の左翼に対して攻勢に出ようとしていたが、我が第3軍の動向を読み違え、攻勢を中止してしまう。28日になり、黒溝台方面からロシア軍を撃破しつつ清河城を占領、奉天西方に出現した日本軍に対し、果敢な行動から乃木第三軍であろうと判断、これを撃退するため予備隊を奉天付近に集結させた。
しかしそれは乃木第3軍でなく、川村景明大将率いる鴨緑江軍(第11師団、後備第1師団、後備第16旅団 他)であった。ロシア軍は日本軍主力が奉天の東方から進出してくるものと想定していたのである。 
奉天会戦第2期 明治39年3月1日〜3月7日 
3月1日 早朝から全戦線に渡って日本軍の総攻撃が開始された。
しかし、塹壕を掘り、障害物を設けたロシア軍の陣地は堅固で、第2軍正面は攻撃が進まず、1日で4679名の損害(うち戦死1089)に及んだ。第4軍、第1軍ともに攻撃は進まず、快調だったのは第3軍のみであった。第3軍は1日に新民府、四方台を占領し、3日にはロシア軍の反撃を撃退し、4日には奉天まで10数Kmの地点まで進出した。
これに連携して第2軍の左翼も前進できたが3月6日まで第3軍を除く各軍は、押しつ押されつの状態で戦況に著しい進展はなかった。第3軍の前面の抵抗も強くなり、第3軍は更に北方に迂回してロシア軍の退路を断とうとした。
一方のロシア軍の3月5日の反撃は不発に終わった。シベリア第1軍団の集合が遅れ、また我が第2軍の第5、第8師団の攻撃で、右翼隊の一部を左翼正面に転用しなければならなかったからである。しかし第3軍が奉天の頸部に突入しようとした3月7日 戦機は動き始めた。後方に不安を感じていたクロパトキン大将は、ロシア第1、第3軍を渾河の線まで撤退させ、新たな兵力を抽出することにした。 
奉天会戦第3期 明治39年3月8日〜3月10日 
満州軍総司令部がロシア軍の後退を知ったのは、3月8日0120 第1軍司令部からの電報による。総司令官大山巌元帥は改めて全軍に対して追撃命令を達した。
第1軍は急進してロシア第1軍を奉天付近にあったロシア第2、第3軍から分断し、第2軍、第4軍は前面のロシア軍に対して猛攻を開始、第3軍は鉄嶺に至る鉄道、道路を遮断しようとした。ロシア軍は全軍の崩壊を避けるため、3月9日我が第3軍及び第5師団正面に対し猛烈な逆襲を実施、この正面の日本軍は一時苦境に立ち、後備第1旅団などの一部には壊滅する部隊もあった。
反撃部隊はムイロフ中将の指揮する歩兵29個大隊、火砲約100門で、昼間攻撃に続き夜襲によって日本軍を苦しめた。
3月9日1915、クロパトキンは鉄嶺に向かう退却命令を発令、10日夜に入り、会戦は日本軍の大勝をもって終わり、奉天は我が手中に落ちた。 
奉天会戦後のロシア軍 
奉天から四平街に退却した直後の3月15日 敵将クロパトキン大将は満州軍総司令官を罷免された。しかし軍団長でも良いから満州軍に留まりたいという熱意が認められ、3月21日新たに総司令官となったリネウィッチ大将の後任として第1軍司令官に任じられた。潔く降格人事を甘受したのである。
たしかにクロパトキン大将の指揮した作戦は、前年5月1日の鴨緑江会戦以来ほとんどすべてに敗北し、旅順要塞も失っていた。ロシア中央がクロパトキンを総司令官として不適格と認めたことは首肯されるかもしれない。しかしながら、ナポレオン戦争でもさらには後の独ソ戦でも、敗北と後退の連続から広大なロシア国内で敵軍を疲弊させ最終的に勝利を掴む、というのがロシア軍の伝統的誘致戦略である。
奉天会戦までは敗北と後退の連続だったが、既に日本軍は攻勢限界点に達していた。さらに勝った作戦であっても日本軍の損害の方が多い局面も存在する。一つ一つの防御戦闘、全体としての遅滞行動として見ればロシア軍の作戦は成功したといえよう。ただし防御だけでは最終的な勝利を掴むことは不可能である。まだまだ余力のあるロシア軍にとって、まさにこれからが正念場であった。
ところが予想を遥かに越えて頑強な日本軍、社会不安を増大していた国内事情などから、悠々と伝統的戦略を展開するのを待っておれなくなっていた。クロパトキン並びにロシア中央の大いなる誤算であった。この後日本軍は鉄嶺、奉天間に、またロシア軍は主力を公主嶺付近に展開、それぞれ爾後の作戦を準備しつつ、休戦を迎えた。
陸戦はこの会戦をもって事実上終了したのである。 
会戦の結果 
本会戦は、兵力劣勢な日本軍が放胆な包囲を敢行して大勝を得たものであるが、最後の段階で包囲網を完成させることができず、大漁を逃した形になった。人員、火砲、弾薬の不足がその致命的な原因である。しかし、会戦期間が24日間、両軍合計約60万にも及ぶ大軍の戦闘は、世界陸戦史上空前の大会戦であり、世界の兵学界に大きな影響を与えた。すなわち、日露戦争前の戦争では、日没の早い冬季二日間にわたった例外を除き日没までに勝敗は決していた。日露戦争で作戦の歴史が大きく変わったのである。
満州国軍総司令官大山巌元帥は、奉天会戦後の3月13日 山県有朋参謀総長に、戦略と政治(政略)とが一致しなければ作戦は無意味であると上申、これを受けた山県参謀総長は3月23日「第一は敵はなお本国に強大な兵力を有するのに反し、我はあらん限りの兵力を用い尽くしている。第二に既に多数の将校を失い、今後容易に補充することができない。」との理由から「守勢をとるも攻勢をとるも容易に平和を回復する望みがない」との意見書が伊藤首相以下の閣僚に示された。
しかしロシア側には依然として講和に応じる気配はなかった。バルチック艦隊によって制海権を奪えば、満州の日本軍への補給路が遮断でき、最終的にはロシアが勝利すると確信していたからである。
著しく優勢なロシア軍に対する奉天での陸上決戦での勝利は、列国の賞賛を集め講和を促す気運を進めたが、決定的打撃を与えるまでには至らず首脳部の憂慮は依然深かった。
そして本戦争の雌雄を決する最後の決戦が、今度は海上において展開されることになるのである。 
日露戦争6

 

バルチック艦隊の増遣決定 
日露戦争は世界中の予想に反してロシア軍の敗北につぐ敗北に終わっていた。陸戦においては、小国日本の陸軍が世界最強と呼ばれるロシア陸軍に徹底的な打撃を与えていた。またロシア海軍も日本の聯合艦隊によって大打撃を受けていた。明治37年8月におこなわれた黄海海戦と蔚山沖海戦によってロシア太平洋艦隊の戦力は著しく低下、残存兵力も辛うじて旅順港内に閉じ込められていた。
そうした状況を憂慮したロシア皇帝ニコライ二世は、戦局を一挙に挽回するために、第二太平洋艦隊(以下バルチック艦隊と記す)を編成、司令長官には、侍従武官・軍令部長ロジェストヴェンスキー少将(後に中将)を任命した。
その陣容は、新鋭戦艦5隻と旧式戦艦を主力に補助艦艇多数を配した強力なる艦隊で、途中に一つも基地のない18000海里を超えて長躯旅順に向かうという遠大な作戦である。この決定は4月末に発表されたが、艦艇の整備に手間取り、実際には7月4日になって同艦隊が編成され、リバウ軍港の出発は明治37年10月15日のことであった。
バルチック艦隊の各艦船は、その名のとおりバルト海のような内海での運用を考慮して建造されたため、復元力が弱く、艦首部の装甲が弱いという共通の弱点があった。さらには照準機や測距儀等の装備にも欠陥が多かった。加えて乗組員も、急遽農村部から徴発された者が多く、出港を前に戦術的教育を実施する必要があり、航海途中においても操艦訓練や砲術訓練を反復させなければならなかった。
全航路を走航するには90日、さらに石炭、水積込みなどのために60日の日数が予定され、朝鮮海峡に達するのは150日後、つまり順調に航海できれば、3月中旬には日本本土近くに到達できることが予想された。
数十隻にものぼる大艦隊の航海は、燃料とのたたかいでもあった。石炭は極めて燃料効率が悪く、おおむね3、4日ごとに補給しなければならない。大航海に費やされる石炭の量は、約24万トンという驚くべき量である。それらは、航路途中の港に配置されている外国から雇い入れた石炭船から補給を受けるが、艦隊自身も多くの石炭船を従え、食料、水を満載した運送船も同行させていた。
補給信号が発せられると、大型の石炭船が艦艇に接近し船体を横付けする。波に揺れる中での接舷は非常に危険であったが、波の穏かな日は、熟練した操舵によってそれを可能にした。そして石炭船のクレーンで吊り上げられた石炭の俵や水が甲板に移され、機関部員たちが艦内に運び込む。この石炭の洋上補給は、ロシア海軍が生み出した画期的な作業方法であった。ただし、うねりや波の高い洋上での作業時は、ハシケやカッターに石炭を積み替え、さらにそれを補給する艦艇に移さなければならず、非常な困難を伴った。 
旅順陥落前の極東情勢 
バルチック艦隊の派遣を発表した前後、極東では旅順港閉塞作戦をおこなっていた我が艦艇が次々と触雷、衝突で失われるという事件が勃発していた。明治37年5月14日に、二等巡洋艦「吉野」が濃霧のため装甲巡洋艦「春日」と衝突、「吉野」は沈没し317名が死亡、「春日」は損傷した。またその翌日には新鋭戦艦「初瀬」が二度触雷し沈没、副長以下492名が戦死、その直後、戦艦「八島」も触雷して沈没した。
聯合艦隊の主力である6隻の戦艦は4隻に激減、戦力の1/3が失われた。バルチック艦隊の来航が伝えられる最中にあって海軍の悲嘆は大きかった。
その頃ロシア東洋艦隊は、修理中を含めて5隻の戦艦が旅順港内に潜んでいた。その上ロシア本国から東航するバルチック艦隊には、戦艦7隻が主力(実際は8隻)であると伝えられ、これらが合流すればロシアは12隻の戦艦を有する大艦隊となる。これに対し聯合艦隊は、わずか4隻の戦艦で対抗しなければならない。巡洋艦以下の艦艇は聯合艦隊の方が勝っているとは云え、主力艦の斉射で艦隊一決の大勢は決する、という当時の海戦の常識から考え、このままでは日本海軍の敗北必至は誰の目にも明らかであった。
明治37年12月5日 旅順の203高地が陥落した。その山頂からは旅順港内と市街とが一望のもとに見下ろすことができた。我が重砲は敵艦に対して砲撃を開始、戦艦5隻中4隻、巡洋艦2隻ほかが撃沈、残る戦艦「セヴァストポリ」も我が水雷艇隊によって大破着底し、旅順艦隊は全滅、聯合艦隊はバルチック艦隊に総力を挙げて立ち向かう態勢をとることが可能となったのである。 
バルチック艦隊の東航経過 1 
リバウ軍港を4集団にわかれて出発した艦隊は、出港直後の暗夜の北海で英国漁船団を日本の水雷艇と誤認して砲撃する事件(ドッガー・バンク事件)を起こした。前述のように、急造の艦隊による練度の低さと指揮系統の弱さを暴露した顕著な事例であり、周辺諸国の物笑いとなっただけでなく、開戦の噂がささやかれたほど英露関係を悪化させた。
この影響もあり、日本の同盟国である英国からは艦隊の示威運動、フランスの港湾利用の制止、石炭購入の妨害等を受けて遠征の苦難は一層加重された。休養や補給に適した港湾はロシアの同盟国フランスの勢力下にある2、3を除いて、途中どこにもなく、遠大な航路の大半はイギリス海軍の勢力下にあった。そのため、洋上補給という困難な作業を繰り返さざるを得なくなった。
仏領マダガスカル島北岸のノシベ泊地とインドシナ半島カムラン湾だけが、40数隻12000名将兵の大遠征の休養・補給地であった。しかしこの艦隊に対してフランス政府の態度は、英仏関係を考慮して冷たかった。悪疫のはびこる灼熱の未開地ノシベ泊地では、当初2週間の停泊予定が2ヶ月にも延び、将兵の健康状態は急速に悪化、軍紀は極端に緩んだ。アフリカ海岸沿いの海図は不正確なものが多く、艦船の故障も相次いだ。ロシア人にとって灼熱の地は耐えがたいものがあり、運送船「マライア」では暴動が起こった程であった。
明治38年1月1日 本国から正式に旅順艦隊が全滅したことが伝えられ、旅順艦隊と合流して圧倒的な戦力で決戦に臨むという目論見は潰え去る。酷熱と激浪のインド洋を経て、4月14日たどり着いた補給地 ベトナムのカムラン湾でも、フランスの総督は本国の指示に基づいて3カイリ領海外への停泊を主張、さらには石炭の供給も拒否した。その頃スエズ運河を経て合流した支隊司令官(第2戦艦戦隊司令官)フェリケルザム少将が脳溢血で倒れ、精神衰弱気味のロジェストヴェンスキー長官は、遅れて到着するはずのネボガトフ少将指揮の第3艦隊を待ちながら4日間近海に遊弋、4月26日カムラン湾北方60海里にあるヴァン・フォン湾沿岸を彷徨して、ここでも20数日待機することとなった。
結局バルチック艦隊は、この非常識なまでの長期・長途の大遠征で、すでに健康を害し士気は沮喪し軍紀は弛緩するという、実戦力が著しく低下した状態のまま、運命の対馬沖へと向かうのである。 
日本艦隊の迎撃態勢 1 
旅順陥落後、聯合艦隊は一部でウラジオ艦隊の監視、バルチック艦隊の情報収集等を行いながら、逐次内地の海軍工廠で艦艇の整備・補強・休養を行い鋭気を回復した。これらの艦艇は、日露戦争勃発以降、仁川港外の海戦、旅順港奇襲、黄海海戦の息つぐ間もない海戦によって損傷や故障個所が続出し、満身創痍に近い状態で、バルチック艦隊を迎え撃つ態勢には程遠かった。
聯合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、12月30日明治天皇に上奏後、翌年2月6日東京を列車で出発、呉軍港から旗艦「三笠」に乗り込んだ。2月14日 艦艇を率いて呉軍港を抜錨、21日には朝鮮南岸の鎮海湾に集結し猛訓練を行った。東郷長官は技量の面だけでなく精神の訓練も怠らず、「機先を制するは戦いの常法なり」と諭し「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る」と訓示した。
訓練は猛烈を極めた。陣形運動が繰り返し行われ、敵発見から要撃戦、夜間の襲撃、追撃から撃滅へと一連の攻撃訓練は昼夜をわかたぬ激しいものであった。10日間に平時の1年間分もの訓練用砲弾を消費したほどで、この間に砲撃の技量は約3倍に向上したといわれ、鎮海湾の内外には実戦さながらの厳しい訓練が展開された。聯合艦隊は戦艦の数では劣っていたが、速力と中小口径の砲数で勝り、士気と技能ならびに下瀬火薬の威力では著しく勝っていた。 
日本艦隊の迎撃態勢 2 
バルチック艦隊が採るべき道は二つ考えられた。
1 戦闘を覚悟の上で1日も早くウラジオストック軍港に直航、ここを拠点に改めて作戦を開始する。
2 台湾・清国南岸またはさらに南方に根拠地を獲得し、反撃の時期を狙いながら日本の背後を脅かす。
遠征の途中ですら燃料補給に悩まされたバルチック艦隊が、改めて南方に拠点をつくり、そこで補給を行うとは考え難く、結局は1案を採用するものと判断した。
では、バルチック艦隊は、対馬海峡、津軽海峡のいずれを通過するのか、さらには宗谷海峡から迂回するのか。
1 最短コースである対馬海峡(朝鮮海峡)を通過する。
2 日本艦隊の意表をつく作戦から、津軽海峡または宗谷海峡を通過する。
津軽海峡や宗谷海峡からは確かに行動は隠せるが、この時期は両海峡とも濃霧が立ち込める。地理に不案内で長い航海で疲弊している大艦隊が通過するのは極めて困難である。衝突や座礁の危険を冒してまで、慎重なロジェストヴェンスキー長官がこのコースを選択するとは思えない。
能登半島沖にて待機しいずれからも対応できる案も検討されたが、東郷司令長官の決心により、最終的には対馬海峡にて待機することとなった。
聯合艦隊の迎撃作戦は、作戦参謀秋山真之が考案したといわれる連続4昼夜にわたる七段備(かまえ)の戦法で、連携した波状攻撃によってウラジオストック到着前に敵艦隊の完全殲滅を目的としていた。 
バルチック艦隊の東航経過 2 
ロジェストヴェンスキー長官以下のバルチック艦隊にとって、対馬海峡を通過することがウラジオストック軍港に向かう最短コースであることは十分承知していた。それ故、あえて太平洋上を迂回して、津軽、宗谷のいずれかの海峡を通過するコースも十分考えられたが、総合的に検討した結果、正攻法をとることに決した。
バルチック艦隊司令部は、対馬海峡に日本海軍の主力が待ち構えているに違いない、としながらも、基本的に日本艦隊は三海峡に分散配置されているものと信じていた。しかしロシア艦隊の戦力は日本艦隊を大きく凌駕しているという確信を抱いており、分散した中の一艦隊との決戦はむしろ望むところであった。その強い自信が対馬海峡突破の固い決意を抱かせたのである。
対馬海峡進入を前に、艦隊の一部を割いて太平洋上に進出させる陽動作戦を企図した。東郷長官以下の日本艦隊主力が対馬海峡を離脱した隙をついて、同海峡を突破しようと考えたためである。そのため仮装巡洋艦2隻と捕獲英国商船1隻を九州・四国の沖合いに出動させた。さらに5月24日には、石炭運搬の任を終えた運送船6隻が仮装巡洋艦2隻とともに上海方面に向かった。この行動もロシア艦隊が黄海方面で行動中を装う陽動作戦の一種であったが、却って対馬海峡を通過することを暗示させる結果となった。 
日本海海戦 経緯 
「ネボガトフ艦隊と合流したバルチック艦隊は、5月14日(カムラン湾北方)ホンコーヘ湾を出動、東方海上に向かう」この緊急電報に接した聯合艦隊は、インドシナからの距離から考え、5月22日にはロシア艦隊が対馬海峡付近に到達するはずであると推定した。ロシア側諜報機関の偽装電報が飛び交う中、我が聯合艦隊は対馬海峡に集結したまま動かなかった。
しかし24日になっても我が哨戒線に現れず、ロシア艦隊の消息は不明だった。聯合艦隊司令部では、津軽海峡に迂回したのではないかと焦燥し、5月25日 旗艦「三笠」における将官・参謀長会議では、同日午後3時に津軽海峡に向けての移動が決まりかけた。しかし、遅れて出席した第2艦隊参謀長藤井較一少将と同司令官島村速雄中将が反対したため、同日の移動は中止となり、折衷案として26日まで敵艦隊の動向を見極めることとなる。26日にはロシア艦艇の一部が東シナ海にいることが明らかになり、また天候が悪化したこともあり、再び移動は中止となった。結果的にはこれが日本に非常な幸運をもたらすこととなった。
0245 5月27日
哨戒中の仮装巡洋艦「信濃丸」(艦長成川揆大佐) バルチック艦隊発見 北緯33度10分 東経128度10分
0445 「信濃丸」 敵ノ艦隊203地点ニ見ユ 打電
0505 聯合艦隊司令長官 東郷平八郎大将 全艦隊に出動命令
0600 東郷長官 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 聯合艦隊ハ直チニ出動 之ヲ撃滅セントス」の暗号電文 末尾に「本日天気晴朗ナレド波高シ」の平文電文を大本営に発信
0605 聯合艦隊旗艦「三笠」(艦長伊地知彦次郎大佐) 鎮海湾を出港
0645 巡洋艦「和泉」(艦長石田一郎大佐)、「信濃丸」と哨戒任務を交代、監視行動を続行
0900 宮古島の「久松五勇士」バルチック艦隊接近の急報を内地に知らせるべく100km離れた石垣島電信局にクリ船で向かう
0950 第3艦隊(司令長官 片岡七郎中将) 対馬神崎南東12キロでバルチック艦隊を発見
1030 第3戦隊(司令官 出羽重遠中将) 対馬神崎南東25キロでバルチック艦隊を発見
1140 戦艦「オリョール」 距離8000で第3戦隊の巡洋艦4隻に対し砲撃開始 第3戦隊は退避行動へ
1339 旗艦「三笠」 バルチック艦隊発見 左舷南微西、ニ列縦陣で北上中を確認
1340 東郷司令長官 全艦戦闘開始を発令
1355 旗艦「三笠」にZ信号旗が揚がる 「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」と下令
1402 距離約10000 聯合艦隊速力15ノット、バルチック艦隊速力約11ノットと推定
1405 距離8000 左180度敵前一斉回頭を命令(いわゆる東郷ターン)
1408 ロジェストヴェンスキー司令長官 全艦攻撃開始を命令
1410 距離6500 東郷司令長官 全艦に砲撃を命令
1438 戦艦「オスラビア」 被弾多数 左舷に傾斜
1440 旗艦「三笠」 被弾20発以上 副長松村中佐、水雷長菅野少佐、艦隊参謀飯田少佐ほか死傷者100名
1452 旗艦「クニャージ・スワロフ」航行不能 ロジェストヴェンスキー長官、イグナチウス艦長重症
1500 病院船「オリョール」「カストロマー」拘束される
1506 戦艦「オスラビア」沈没 504名戦死
1520 ロシア艦隊濃霧の中へ退避 第一次戦闘終了
1540 旗艦「クニャージ・スワロフ」戦線脱落
1606 第二次戦闘開始
1730 重症のロジェストヴェンスキー長官 駆逐艦「ブイヌイ」に移乗、艦隊指揮をネボガトフ少将に委譲
1900 旗艦「クニャージ・スワロフ」沈没 925名戦死
1930 戦艦「アレクサンドル三世」転覆 乗組員867名全員戦死(沈没は2130頃)
1923 戦艦「ボロジノ」沈没 865名戦死 生存者水兵1名のみ
1928 日没 東郷長官 砲撃中止を命令
2000 駆逐艦、水雷艇の夜襲開始
2200 戦艦「ナワリン」魚雷攻撃を受け被害甚大 700名戦死(沈没は翌朝未明)
2300 駆逐艦、水雷艇の夜襲終了
0300 5月28日
戦艦「シソイ・ウェリーキー」被害甚大のため陸岸へ接近
0520 第5戦隊(司令官武富邦鼎少将) 敵残存艦隊発見
0830 戦艦「シソイ・ウェリーキー」 仮装巡洋艦「信濃丸」「台南丸」に降伏
0900 巡洋艦「アドミラル・ナヒモフ」沈没 乗員101名は対馬に上陸後捕虜となる。ロジェストヴェンスキー長官以下 機関故障の駆逐艦「ブイヌイ」から駆逐艦「ベドーヴィイ」に再移乗
1043 指揮権を継承したネボガトフ少将降伏、旗艦「ニコライ一世」ふくむ5隻は捕獲
1102 戦艦「シソイ・ウェリーキー」 乗員613名収容後沈没
1337 ネボガトフ少将、三笠艦上で降伏文書に調印
1500 駆逐艦「ベドーヴィイ」、駆逐艦「漣」(艦長相羽恒三少佐)に降伏、ロジェストヴェンスキー中将以下は捕虜となる。
1810 装甲巡洋艦「アドミラル・ウシャーコフ」沈没 艦長ミクロス大佐以下83名戦死 これにより二日にわたった海戦は終了
1245 5月29日
ロジェストヴェンスキー長官以下の幕僚を乗せた駆逐艦「ベドーヴィイ」 佐世保入港
1430 捕獲された戦艦「ニコライ一世」 佐世保入港
ロシア本国に逃れたのは特務船(運送船)「アナドゥイリ」1隻のみ、目的のウラジオストック軍港に到達したのはヨット式小型巡洋艦「アルマーズ」、駆逐艦「ブラーヴィイ」「グローズヌイ」の三隻のみであった。
日本艦隊の損失は、第34号艇、第35号艇、第69号艇の水雷艇三隻であった。 
その後のバルチック艦隊首脳陣 
司令長官 ロジェストヴェンスキー中将は、頭部に重症を負い、参謀長コロン大佐、セミョーノフ中佐以下の幕僚とともに駆逐艦「ベドーヴィイ」の降伏に伴い捕虜となった。直ちに佐世保海軍病院特等室に入院、衣食ともに日本海軍の将官級よりもはるかに高待遇であった。
次席指揮官たるネボガトフ少将は、旗艦「ニコライ一世」に坐乗し、戦艦「オリョール」他3隻の5隻をもってウラジオストックに向かったが、5月28日午前10時過ぎ、我が艦隊に包囲されたのを見て戦うことなく降伏を決意。参謀長クロッツ中佐、「ニコライ一世」艦長スミルノフ大佐らとともに捕虜となった。
しかし巡洋艦「イズムルード」だけは降伏命令に憤激し東方に逃走、ロシア領内ウラジミール湾で座礁のち自爆、艦長フェルゼン中佐以下の乗員は徒歩でウラジオストックに向かった。巡洋艦「オレーグ」「アヴロラ」「ジェムチューグ」の3隻は、エンクゥイスト少将に率いられて比島マニラまで逃走、そこで米政府に抑留され武装解除された。
東郷大将は、敗北した敵軍人に武人としての名誉を尊重し、ロジェストヴェンスキー中将とネボガトフ少将に対してロシア皇帝への戦況報告の打診を許可した。これは戦時下にあって極めて異例のことであった。また捕虜に対する待遇も人道的なものであり、ここでも武士道精神が発揮された。 
海戦の結果と世界各国の反応 
造船技術水準が高く、新鋭戦艦を続々と自国で進水させている世界一流の海軍国ロシアが、主要軍艦の多くを外国に発注している技術後進国日本に大敗したという事実は、まさに奇蹟的な大事件であり、奉天での陸上決戦での勝利に続く海上決戦での勝利は、日本軍の底知れぬ強さを示すものであった。
日本海海戦の日本圧勝のニュースは世界を驚愕させ、ほとんどの国が号外で報じた。
各国の報道を比較すると、おなじ有色人種として自国の勝利のように狂喜したアジアやアラブ各国、ロシアの南下を阻止したかった我が同盟国の英国やアメリカの新聞は、日本の勝利を手放しで称えた。一例を挙げると「ニューヨーク・サン」は社説で、「20世紀のうちに日本は、間違いなく世界のトップに立つだろう」とまで述べた。
一方ロシアの同盟国フランスは、これ以上戦争を続ければロシアの国際的地位が低下することを危惧し、講和に応じるべきである、と従来の主張を急変させた。ドイツは、「戦後の孤立」を避けようと徐々に日本寄りに政策を転じていたが、この海戦を機に対日接近を明確にした。またオーストラリアやフィリピンの新聞には、「強国となった日本が侵攻してくる」と、警戒心を強める論調が目立ち始めた。
このように、日本海海戦を境に国際関係は大きく変動し、各国の新聞も自国の国益を求めて大きく論調を変えるに至った。
他方ロシア国内では、日本海海戦の敗北は5月30日に初めて公表され、「海戦には敗れたがロシアの威力は常に陸軍である。満州には50万人の兵があり講和に応じるべきではない」とする内容が多かったが、「戦争の行方は決した」とする論調も現れた。
日本海海戦(世界的呼称 対馬沖海戦)は、艦隊決戦主義を不動のものとし、大艦巨砲主義時代の幕開けを告げ、全世界の海軍戦術や建艦政策に大きな影響を与えた。
1805年のトラファルガー沖海戦を上廻る大勝利は、「パーフェクト・ゲーム」「東洋の奇蹟」と絶賛された。世界海戦史上のみならず世界史上に残るこの大偉業によって、東郷司令長官はネルソンに匹敵する偉大な提督として、世界にその名を轟かせることになった。 
日露戦争7

 

支作戦/北韓方面作戦、樺太方面作戦 
明治37年春以来、ウスリー方面のロシア軍は、韓国東北部の咸鏡(かんきょう)道に進入していた。日本側では早くからこの敵を国境外に駆逐し、あるいはウラジオストックまで進撃してこれを占領する計画が議論されていたが、満州での主作戦重視のために見送られていた。韓国駐剳軍(司令官 長谷川好道大将)は、奉天戦の終わった明治38年5月以降、増加された後備第2師団を当該方面に行動させた。後備第2師団は9月1日会寧まで進出、講和条約の成立によって作戦を終了した。
樺太に対しても、同様に早くから攻略する案があったが、北韓作戦と同じ理由で見送られていた。奉天戦直後の3月31日動員された新設の第13師団(師団長 原口兼済中将)は、日本海海戦が終わり、戦争終結が近く予想されるに至り、講和条件を有利にする目的のため樺太占領に使用されることになった。独立第13師団は、7月上旬行動を起こし、7月8日一部をもって大泊に、7月24日主力をもってアルコワに上陸それぞれ当面の敵を攻撃、リヤブノフ中将指揮の歩兵約4000、砲8門を主力とする在樺太ロシア軍の降伏により、8月1日樺太全島を占領、講和を迎えた。 
終戦指導と政戦略 
ロシア陸軍は、国内の革命勢力に備えて兵力を温存していたうえに、日本軍の戦力を軽視したため極東への兵力派遣を躊躇していた。しかし相次ぐ敗戦に国内の人心動揺が高まることを恐れて、大々的な兵力増強に踏みきっていた。単線のシベリア鉄道を一方通行として使用し、たちまち極東ロシア陸軍の兵力は日本軍の3倍に迫っていた。日露両国の兵力の差は日を追って拡大していった。
これに対し奉天会戦で優勢なロシアの大軍を壊走させたとはいえ、日本軍にはそれ以上進撃する力は残っていなかった。しかも日本陸軍は、兵の補充を急ぐ余り、陸軍省令第五号で徴兵検査の水準を、身長四尺九寸五分(約147cm)まで下げていた。その上日本の財政も悲観的状況であった。開戦後1年3ヶ月余の間に投入された戦費は20億円近く、それは戦前の国家予算の8倍にもあたる巨額であった。政府は、増税、新税の創設をはじめ5回にわたる国債、4回の外債によって補ってきたが、財政政策上、これ以上の捻出は不可能であった。
このような情勢の中で、我が政府・統帥部には講和を臨む声が高まっていた。そもそも日本が存亡を賭けて戦争に踏み切ったのは、ロシアの露骨な侵略政策と挑発行為に対する自衛国防のためである。日本の指導者たちは領土的野心を抱くこともなく、ロシア領内深く進撃する国力のないことを自覚していた。政府も軍部も、開戦時から戦争は短期間で終了し、ロシアと講和条約を締結することを真剣に考えていたのである。 
ポーツマス講和会議 
陸の奉天会戦、海の日本海海戦で日本軍が大勝を得た後、6月2日米大統領ルーズベルトは、駐米ロシア大使カシニーを招いて講和を勧告してきた。しかしカシニー大使は、5月30日の露国宮中軍事会議が継戦に決定した旨の電報を示しながら次のように答えた。
「日本軍が未だロシア領土の寸地尺土をも占領せざる現状にて講和するは、ロシアの名誉を失墜するものなり。余は未だ講和の訓令に接せず、未だ応ずるを得ず。」
しかし6月7日ころからようやくロシア内部にも講和の動きが見え始め、改めて6月10日米大統領ルーズベルトは、日露両国に対して講和を勧告してきた。さらには独、仏ですらロシアに和を構ずべきを勧め、講和の声は全世界に漲った。
8月9日から日露全権委員は米ポーツマスにおいて講和会議を開き、8月29日講和条約の協定を終え、9月5日 午後3時47分 ポーツマス海軍工廠において日露講和条約が調印された。日露戦争は開戦以来20ヶ月をもって、ここに終結を見たのである。この結果満州軍は9月16日正午から休戦に入った。明治38年10月14日 講和条約の批准が行われ、日露の戦争は正式に終結した。
講和条約の主要内容は以下のとおり。
ロシアは、韓国における日本の政治軍事及び経済的優位を認める。
ロシアは、満州から撤兵する。
ロシアは清国の承諾を得て、遼東半島の租借権を日本に割譲する。
ロシアは清国の承諾を得て、南満州鉄道に関する権利と財産を日本に割譲する。
ロシアは、樺太南部を日本に割譲する。
無賠償、樺太の南半分のみ日本へ。これが心血を注いで講和会議に臨んだ日本全権・小村寿太郎の努力の賜物であり、日露戦争に辛勝した日本が得たすべてである。しかし同時にロシアのアジア侵略を抑え、日本の国際的地位を確立させたのであった。
賠償金がなく、占領した樺太も半分に削られたこの条約は、勝利を収めた日本にとって極めて不満足なものであった。一方、陸軍の大半を温存していたロシアにとっても、この条約は不本意であった。しかし日本の動員能力、戦費調達は払底しており、ロシアは国内に革命気運が燃え上がって来ており、ともに戦争継続は困難な事情があった。さらに米大統領の仲介努力もあってこのような妥協案が辛うじて成立したのである。
国内では講和条約を不満とする民衆が外交の失敗として政府を攻撃し、騒乱が日比谷付近から発生、9月から10月にかけて東京に戒厳令が布告される事件が起こった。「臥薪嘗胆」の苦労と、甚大なる犠牲に対する報いの少ないことに対する憤激からであった。ロシアは国内事情や内部の不和などによっていわば日本に勝利を譲ったが、もし継戦意思を堅持してハルピン付近で反撃にでていたならば果たしてどうなったいたか。このことは我が中央統帥部では当然知り尽くしていた。おそらく後年の大東亜戦争における、緒戦の勝利に対するその後の米英軍の反抗と同様の経過をたどったことであろう。
しかしこの真相は一般には理解され難く、国民の多くは連戦連勝の報道のみに眼を奪われ、国力の限界点に達していたわが国の現状には気づかなかった。その結果、いたずらに戦勝にたかぶり国防の脆弱性を知らずして、慢心が生じたことは否定できない。 
戦果と損害 
日本軍
死亡及び服役免除 約118000名
捕虜 約2000名
軍馬 約38350頭
軍艦損失 12隻
水雷艇・閉塞用艦船等 25隻
輸送船等 54隻
陸軍 臨時軍事費 128328万円
海軍 臨時軍事費 23993万円
ロシア軍
戦死 約115000名
捕虜 79454名
捕獲馬 3983頭
鹵獲火砲 957門
鹵獲小銃 140904丁
撃沈・捕獲艦船 98隻
抑留・武装解除艦船 7隻
推定軍事費 218000万円以上 
各国の反応 
日本人は、人道のため賠償金の権利を放棄した。この偉大な好意は日本人が勇敢なだけでなく、寛大な国民であることを示した。=ワシントン・スター紙=
日本は戦争で示した偉大さを講和条約で裏付けた。この日本の寛大さは世界史上例を見ないものである。=ニューヨーク・サン紙=
日本は世論を容れて正しく行動しそれによって得た地位は、いかに巨大な額の賠償金にも勝るものがある。=デイリー・ニュース紙=
日本政府が賠償金放棄に対する国民の不満に敢然と対決しようとする勇気は、日本の陸海軍軍人が敵に対決した時の勇気に比べ遜色がない。=モーニング・ポスト紙=
日本の古くからの騎士道(武士道)精神が、単なる金銭的配慮のための戦争遂行を恥としたのである。(中略)サムライの伝統からすれば、もし今、黄金のために戦うことを命じられるとすれば、彼らの名誉は汚されることになるであろう。=タイムス紙=
日本が日露戦争に勝利を収めると、世界は日本の勝因を愛国心、自律心などとしたが、その基盤が武士道にあると考えた。それは新渡戸稲造の「武士道」(Bushido-The Soul of Japan)が、6年間で10版を重ねたこと、金子賢太郎から「武士道」を贈られたルーズベルト大統領が30冊を購入し、3冊を息子たちに、残りを政府要人、軍学校等に配布したことからも、またカイゼル・ウィルヘルム三世はドイツ軍に向かって「汝らは日本軍隊の精神にならえ」と訓示したことなどからも、当時の世界が日本の武士道に強く関心を持ち、武士道を評価していたことが理解できよう。
この「武士道」で最も強調されているのが「義」であり、人がいくら才覚があっても「義」がなければ武士ではないと説いた。そして多くの若者が、のちの大東亜戦争では「悠久の大義」というアジア解放の「義(理想・正義)」のために生命を捧げた。
明治維新からわずか30余年にして西欧的近代化を達成した高度な技術力、小人のような日本軍将兵の驚くほど勇敢で不屈の精神力、これらは欧米先進国から感嘆と畏怖をもって迎えられた。富国強兵策を経ての日清戦争、臥薪嘗胆の後の日露戦争、それは我が陸海軍が全国民の後援のもとに登りつめた一つの黄金時代であった。 
日露戦争の歴史的意義 
日露戦争において、有色人種の一小国が白色人種の強国ロシアを打ち破ったことは、まさに13世紀の蒙古帝国以来絶えて久しいことであった。アジアの感激は大きく、シルクロードの宿場の多くには、明治天皇のご真影と東郷元帥の写真が飾られたほどで、インドのネールは、「青年時代最大の感激は、日露戦争で日本が勝利したことである」と記している。有色人種の志気を鼓舞し、民族意識を高めたことは論を待たない。
アジアの独立、アジアの民族運動はここに芽をふいた。清国に辛亥革命が起こったのも間もない後のことである。日本を範とし、白色人種の支配から脱しようとする気運がようやく動き出そうとした。その影響は中東やロシアの勢力圏内にあったポーランド・フィンランドなどにまで及んだ。前述のネール首相をはじめ、有色世界の多くの政治的指導者が、日露戦争を契機に起ち上がり、欧米列強の帝国主義的支配に果敢に挑戦し、遂には歴史の帰趨を変えるに至った。当時において日本民族の果たした役割は、実に偉大なものがあったと言えよう。
西欧の史書では、フランス革命が国民国家を成立させたとしているが、民族国家の独立をアジアやアラブ、アフリカ諸国に目覚めさせたのが日露戦争であり、その運動に火をつけ、有色人種の民族国家を建国させたのが、のちの大東亜戦争ではなかったか。 
 
日露戦争と軍人

 

満州軍/東京大本営
山本権兵衛/大山巌/児玉源太郎/松川敏胤/立見尚文
第一軍
黒木為/藤井茂太/梅沢道治
第二軍
奥保鞏/落合豊三郎/橘周太
第三軍
乃木希典/伊地知幸介/大庭二郎/津野田是重/一戸兵衛/中村覚
第四軍
野津道貫/上原勇作 秋山支隊-秋山好古 鴨緑江軍-川村景明
第一艦隊
東郷平八郎/加藤友三郎/秋山真之/三須宗太郎/出羽重遠/有馬良橘/鈴木貫太郎/広瀬武夫
第二艦隊
上村彦之丞/佐藤鉄太郎/島村速雄/藤井較一/瓜生外吉/八代六郎
第三艦隊
片岡七郎
ロシア
ステファン・マカロフ/カール・ペトロヴィチ・イェッセン 
満州軍/東京大本営

 

山本権兵衛 1852-1933 薩摩藩 加治屋町
日露開戦当時の海軍大臣。
欧米列強に比してあまりにも脆弱であった日本海軍を、大国ロシアに対抗し得るまでに増強した功績から、日本海軍の生みの親との異称もある。
今に残るいくつかの写真の風貌が示すとおり、若年の頃より勇猛な性格であり、かつ恵まれた肉体から、薩摩の中でも中心的な人物だった。幼い頃から『人になかなか屈しない暴れん坊の気質』があり、彼の父親などは「権兵衛はよくゆけば立派な人物になるが、一歩誤るとどんな人間になるか分からない」と心配していたという。その後、十代前半から鳥羽伏見〜戊辰戦争に従軍、戦後は力士になろうとしたとか、海軍兵学寮の試験に落ちればやくざ者になる覚悟だったとか、いかにも薩摩らしい無骨で獰猛なエピソードが残っているが、実際には極めて強い理性で固められた人物だったらしい。
薩摩閥の頭であった西郷隆盛が、明治政府に対する反乱軍の親玉として不平分子らに担ぎ上げられた際、多くの薩摩人らは西郷側に着くべく職をなげうって薩摩へと帰還した。もちろん権兵衛も例外ではなかったのだが、既に将来の有望株として権兵衛の才覚を見出していた西郷は、権兵衛を説得して東京へ返るよう強く言い聞かせた。西郷のもとに残った同胞らを横目に、権兵衛は泣く泣く東京に引き返し士官学校へ復帰、そのまま海外留学へと旅立ち、ドイツの船舶上で西郷の死を知らされる事になる。山本権兵衛の人生においてこの時ほど悲しみが大きかった出来事は無かったと言われているが、あらかじめ予想されたこの結末を甘んじて受け入れたのは、一時の感情に流されずに国の将来を見据えた判断の結果であり、権兵衛が「情より理性に勝る人」であった事を証明する分かりやすい例と言える。同様のケースとして第四軍司令官の野津道貫がいる。短気で恐ろしいと思われた彼も、実際には人一倍の理性で物事を判断する人物。よって野津も権兵衛と同じように西郷の説得を受け入れ、西南戦争で西郷側につく事はしなかった。
山本権兵衛が海軍畑の中で頭角を現した理由として、人並み外れた記憶力や、物事を理路整然と伝える能力が人一倍優れていた事があげられる。また非常に肝が据わっており、大きな交渉で物怖じしないとか、相手の意表をついて自分のペースに持ち込むなど、若い時分に既に相当の老獪さも併せ持っていたと言われる。しかしそこに嫌らしさが無く、ゆくゆくは明治天皇にも愛されたように、非常に気持ちのいい人物であった事も特筆すべきだろう。
そんな権兵衛がいよいよ日本海軍にメスを入れる事となる。日露開戦の10年前、日清戦争後の三国干渉は、近代日本が味わった最初の国辱だったが、これを期に国家増強に拍車がかかったのは間違いない。この時点で将来東洋で日本と衝突する可能性のあるのはロシアただ一国であり、権兵衛としてはこれに耐えうるだけの海軍を仕立てるのが至上命題だった。ここで立ち上げられたのが明治29年から実施された十ヵ年計画である。
10年で軍艦総計5万t⇒25万t、海軍軍人12,000人⇒36,000人への大増強は、国家予算のかなりの部分が注がれた大事業で、国民への税負担は生活をかなり圧迫していたと言われる。が、ここで今日の日本と決定的に異なるのは、多くの国民がこの重税を前向きに受け止めた事であり、時に「一体いつになったら軍艦ができあがるんだ?」とむしろ催促の声なども聞かれたという。三国干渉で『臥薪嘗胆』が国家レベルでのスローガンとなって以後、日本民族人持ち前の忍耐力が最大限に発揮され、長く苦しい重税・貧困の10年を乗り越えて欧米列強並みの海軍が成立するに至るのである。
目の前に明確な敵の姿があり、重税の使途が極めて分かりやすいという状況が国民の忍耐と精神を持続させ、国家が侵略される恐怖と欧米列強への畏怖・憧憬が我が国の飛躍的成長の糧となった。これに先立つ数十年前、隣の清国では似たような状況にもかかわず、このようにはならなかった。この差は国民性の違いもあるだろうが、優れた指導者の有無という点はやはり無視できない。
山本権兵衛は海軍の大増強より以前に、海軍人事の大整理を行ったわけだが、軍部の高官らはほとんどが戊辰戦争で活躍した旧時代の英雄であり、同時に時代遅れの戦争屋だった。多くは権兵衛の同郷である薩摩人であり、権兵衛の先輩に当たる人間も多数。彼はこれらを全て予備役へと追いやり、正規の軍人教育を受けた若手らを重用したのである。
後に東郷平八郎の参謀長〜総理大臣となる加藤友三郎なども派閥を超えて権兵衛に見出された逸材であり、また病弱で予備役行きが濃厚だった東郷平八郎自信も、ここでの権兵衛の判断で現役にとどめられた経緯がある。情より理性で物事を判断する気質が指導者の資質として発揮された一つの例であり、当時の新聞でも相当物議をかもしたらしいが、結果的に国家大計だった事が証明されている。
山本権兵衛は政治を含む戦略家としても優れており、早い段階で講和に持ち込む以外にこの戦争に勝ち目はないと考えた。全ての経緯や結果を知る我々からすれば、有利に講和に持ち込む構想は当たり前に思えるかもしれない。しかし、自らの手で列強に並ぶ軍艦を量産し、その威風を眺めれば『おかしな気』を起こしてしまうのが人間というもの。事実国民は自国の栄達に感動した。いよいよ日露開戦が濃厚になり始めた時、なんとか戦争を回避しようとする政府を、世論は弱腰と非難した。後の日本においては軍首脳部がこの大衆世論に便乗し、結果として滅亡寸前まで叩きのめされるのだが、明治国家においては理性の人、山本権兵衛をはじめとする、幾人かの優れた指導者により、その難を回避できたと言えるだろう。
山本権兵衛が主軸となって築き上げた日本海軍は、日本海海戦において、この時代で考え得る最高の働きで任務を全うした。この戦争の後、権兵衛は、造船業を民間に委託する方針を採用し、三菱造船をはじめとする民間の造船技術を飛躍的に高め、後の造船大国たる日本の礎を築くに至る。後にかの戦艦大和が造船される事となる呉海軍工廠の造船ドッグもこの流れで建造されたもので、この当時、世界でも群を抜く巨大なドッグだった。このドッグの記録は第二次大戦後の近代まで続き、60年代のタンカーの時代になってようやく世界水準として定着したというから、権兵衛の先見の明は凡人の及ぶところではない。
国家にとって有益なこの人物が表舞台から退場する要因となったのは政治がらみでのゴタゴタだった。総理大臣在任時のシーメンス事件(軍部絡みの汚職)や、かねてより『権兵衛にいい感情を持っていなかった』八代六郎海軍大臣の思惑など、権兵衛にとってマイナスとなる要因は本人の責任とは関係なく権兵衛を過去の人とした。結果的に国益を大きく損なうものであり、戦勝国がその栄華によってみずから転落し始めていた一つの兆しと言えるかもしれない。
権兵衛は日米開戦の8年前、1933年の12月8日に没した。 
大山巌 1842-1916 薩摩藩 下加治屋町
満州軍総司令官。日露戦争における実質の総司令官である。
血筋は西郷隆盛の従兄弟にあたり、西郷の弟の従道とともに器の大きさで知られる。大らかでデンと構え、どこか抜けたような風貌ながら、幕末の動乱期を前線でかいくぐってきた猛者であり、当事は常に西郷のそばで補佐する立場にあった。大山の、薩摩武士の首領としての振る舞いは西郷の影響を色濃く反映したもの。明治初期には「薩摩はバカだ」という陰口があったというが、これは西郷を始めとする薩摩の主要連中の事を指しており、細事にこだわらず、また雄弁を嫌う薩摩式のリーダー像が、他藩から見ればのろまに見えたという事だろう。その薩摩式の本流を行く大山が、当事の西郷そのままの像で、国運をかけた戦の総司令官となった。
大山は開戦前に、とある人物に「勝っている時は児玉さんに全てをまかせる。いよいよ敗け戦になる時には自分が出て行かなければならない」と語っているように、日露戦争中は全てを参謀総長の児玉源太郎らに委ねる形をとった。結局、形式上は勝ち続けたため、大山の出る幕はほとんどなかったと言ってよく、代わりに激戦中での大山のボケたエピソードばかりが残されている。が、西南戦争のころより、大山が(意図的に)ボケて見せるのは戦況が非常に厳しい時であるとされ、すなわち大山の『本当の意味での出番』はすぐそこまで来ていた証でもある。
ちなみに、大山が語った、先述の“とある人物”とは海軍大臣の山本権兵衛だ。山本は開戦に先立ち、対露の停戦交渉こそが日本の生命線である事を大山に念押しに行った際、上記の台詞を受け取っている。この時山本は、大山に国内大本営に残るよう提案したというが、あっさりと断られている。大山が言うには「彼らは戦は私よりもずっと上手だが、必ず我を張って作戦に支障をきたす」という事なのである。だから自分が現場で総指揮をとらねばならないと。ここでいう彼らとは、第一軍の黒木と第四軍の野津のことである。共に薩摩武士の上がりであり、黒木などは大山と同郷の下加治屋町の出だから幼時の頃から知っている間柄だろう。
ところで大山は、砲術の第一人者だ。祖先の代から何かと飛び道具に縁があり、父の影響もあって若い頃から大筒の研究に余念が無かった。幕末の戊辰戦争においては砲術長として活躍。自らの名のついた『弥助砲』というものも開発している筋金入りの砲兵家である。明治に入ってからはドイツ留学でさらに磨きをかけており、またこの時に普仏戦争におけるメッツ要塞の攻略戦(独の勝利)に観戦武官として従軍。近代要塞における戦闘規模のすさまじさを自らの眼球に焼き付けてきた人でもある。これらの経歴から分かるように、一見のろまでうすボケの人物は全く以って表面上のものでしかなく、「大山さんの偉さは、下で使われた者しか分からない」という、当事の桂首相の言葉が現実味を帯びてくるわけだ。
とは言え、もちろん大山も万能ではない。結果から見れば適切ではなかった判断もある。旅順要塞の203高地である。海軍の秋山真之参謀より、攻略の主眼を203高地に集中すべきとの案が出た際、東京の大本営はその道理に賛同し、すみやかにこれを実行に移すべきと判断した。だが、現地での決定権を持つ大山はこれに否定的だった。203高地については、攻略を担当する乃木と、その参謀長の伊地知が非難の対象となりがちだが、実際に現場で敵と対峙している人間には、いまひとつその攻略の意図がつかめないものだったのかもしれない。もしくは砲術の専門家である伊地知がそうであったように、砲のエキスパートである大山も何らかの固定概念があり、それが要塞攻略の正面突破にこだわりを持たせ続けたのだろうか。
ともあれ、大山の難色が旅順攻略に一定の影響を与えた事は確かであり、後日児玉参謀総長を旅順に遣る事(及びそれに伴ういくつかの英断)によって大いに挽回する事になった。
戦後は那須で農業などしながら静かに暮らしたが、故郷の鹿児島へは遂に帰らなかった。これは自らが強く慕った西郷を討伐せざるをえなかった西南戦争の感傷によるものとされている。何度か首相に推されながらその都度断り続けたのは、西郷を逆賊として貶めた明治政府に対する抵抗であったとも言われる。その大山もいよいよ臨終が迫った際、「兄さぁ(西郷の事)」とうわ言を放っており、最後までその精神の支柱が西郷である事を周囲に知らしめた。 
児玉源太郎 1852-1906 徳山藩
日露戦争における満州軍参謀総長。
明晰な頭脳と、広い視野で物事を捉えられる貴重な人材として、圧倒的不利な日露戦争の勝利に大いに貢献する。
児玉は作戦立案において天才的な能力があったとされるが、同時に国際情勢や政治力学を見極め、先を見通せる能力にも長けていたようだ。明治財界の大物、渋沢栄一といえば、現在でも書店に著書が並ぶほどの人物だが、戦費調達の為にこの財界のフィクサーを説得しきったのは児玉の手柄によるもの。一度目に門前払いをくらったのち、二度目の訪問においてボロボロと涙をこぼしながら日本の行く末を語ったとされる。
日露戦争の作戦全体の設計は児玉によって組み立てられたものである為、参謀総長には当然児玉が適任だったのだが、文明開化も40年たつと前例に縛られる弊害が現れ始める。すなわち『大臣(当事児玉は内務大臣)が現場の参謀をやるのはおかしい』という話である。企業で言えば『上層部が現場にでるのはおかしい』というのと同じだろう。論の是非はさておき、結局児玉は自ら降格人事を申し出、満州軍の参謀総長を務めることとなる。当事の世論で「よくも就きたり、又よくも就かしめたり」と賞賛された児玉の英断人事は、日本軍において最初のケースであり、同時に最後のケースでもあった。メンツやプライドよりも国益を優先させる事がいかに難しいかの一例かもしれない。
開戦に先立ち、情報戦の重要さを逸早く重視した児玉は、この時代に既に海底ケーブルという着想を得ており、実際に日本海海底にそれを張り巡らせるに至っている。また、旅順攻略においては、砲兵科の常識を無視した砲台配置によって要塞陥落に貢献している。先の人事の例に限らず、児玉という人は先入観や前例、固定観念による硬直思考に陥らない点で余人より圧倒的に優れていたように思える。
作戦立案者の立場から、戦役は最長でも2年と見限っており、常に講和の設置タイミング模索を前提とした作戦運用を展開していた点で、他の人物らと決定的に異なっている。全体を大きく俯瞰しながら、現場で辣腕を振るい続ける人材が、この時代のこの場所にいたことは日本にとって幸運な事であっただろう。元々日露戦争の作戦は前任の田村怡与造によるものだったが、田村が戦前に急死するという大きな不幸の為に、児玉がそれを引き継ぐ経緯があった。フタをあけてみれば天才とされた田村の作戦にはいくつかの不備が見つかり、かなりの部分が児玉によって組み直された。田村の死は軍部関係者が青ざめる悲劇だったが、その死が結果的に戦勝に結びついた事になる。
児玉は短気で怒鳴りやすい激情家だったらしい。攻略難航する旅順に赴いた際などは、激するあまり、とある参謀の胸についた「天保銭(エリートのあかし)」を引きちぎったというエピソードがある。が、同時に情に厚く、旅順で苦戦した同郷の乃木希典とは終生親しい間柄だった。日露戦争後、明治天皇への凱旋報告の際、乃木希典は自らの非を赤裸々に文にしたためて上奏したが、この潔さ(人によっては過度に悲壮とも受け取る)と劇的な乃木の一面を児玉は愛し、しばしば軍関係者らに「見ろ、これが乃木だ」と自らの自慢のように語ったと言われている。
「理想の天分に恵まれている」とは、ドイツから招かれた軍師メッケルによる児玉評だが、多くの人がこれと似たような証言を残しているのを見る限り、彼の才はやはり生まれ持ったものが大きかったのだろう。が、一方で児玉の母親は幼少の頃の児玉の頭の悪さを危惧したらしい。そこで頭を冷やす為に井戸の水を頭からかぶる「水浴び」をすすめたのだが、7歳で始まったこの習慣は、以後50年近く続くことになった。
日露戦争後の児玉は急速に覇気が衰え、ボーっとどこかを眺めているような事がしばしばあったと言われる。日露間の講和条約締結から2年を待つ前に、児玉は脳溢血により静かに息を引き取ることになる。葬儀においては、乃木希典が降雨の中で棺によりそう姿が認められている。
尚、余談だが、湘南江ノ島にある児玉神社とは、記者などの来訪者から逃れる為、開戦前に児玉が隠遁した別荘だが、結局住民にばれてしまい、その後神社として祭られるに至っている。 
松川敏胤 1859-1928 仙台藩
満州軍総司令部参謀。児玉源太郎の懐刀とも言われ、満州平野では作戦立案の中心としてその能力をふんだんに発揮した。
日露陸軍の事実上最後の衝突となった奉天会戦における『壮大な中央突破作戦』は松川の案とされ、松川の功績が後世に語られる要因の一つとなっているが、彼の評価に関しては賛否両論ある。日露戦争全体を通して日本軍にとって最大の危機はの黒溝台会戦だが、この時の大打撃は松川による人災と見る事もできるのである。
黒溝台会戦はロシア軍による大規模な急襲によって開幕となったが、この時の日本軍は全くの無防備であった為、当初の戦況は壊走に次ぐ壊走でかなり悲惨なもの。無防備だった理由は児玉源太郎も含む参謀本部が、厳冬期(-30℃以下)での奇襲は無いだろうと勝手に確信していたからだが、日本人の感覚から見れば、まあこれは仕方ないだろう。
問題は、そんな厳冬の中で索敵に出ていた秋山支隊から、露軍強襲を伺わせる情報が何度もあげられていた事だ。秋山支隊の指揮官、秋山好古は報告が集まれば集まるほど露軍の強襲は疑いようがないと確信していたが、これらの事実を満州軍総司令部にいくら報告しようとも、部隊の移動や陣地の構築、物資の補充などの命令は出される事がなかった。事実上秋山の報告は『黙殺』されたわけだが、このあたりは松川による判断と言われており、彼の評価がグレーである所以である。
この黙殺によって、日本軍は完全に打ちのめされる事になるのだが、事前に難を察知していた秋山支隊が機関砲で持ちこたえた事でどうにか壊滅を免れた。秋山からすれば、凍傷で指や鼻がちぎれてしまうほどの極寒の中で、何のための索敵だったのかとむなしい限りだったはずだ。ロシア軍の砲撃によって、秋山が長年育ててきた騎兵及び、貴重な騎馬が多く消失した。この時秋山が非凡だったのは「せめて騎馬だけでも避難を」との進言を無下に却下しているところ。「騎兵たるもの馬とともに死ね」との信念であり、秋山が最後の武士と畏怖される剛直さの現れと言える。一歩間違えば無駄な戦死・消耗を推奨しているとも取られるが、この会戦前後の秋山の働きや生き様を見れば、後世に見られるような安っぽい精神論とは別個のものと判断できる。
黒溝台での失策について参謀本部でどのような話し合いが行われたかは定かではないが、無論松川は自らを攻めただろう。その一方で、松川をはじめとする参謀連中は、戦いに間に合わなかった乃木軍を恨めしく思っていたようだ。旅順攻略が難航していた頃から、松川は乃木軍司令部を痛罵しており、乃木希典更迭の急先鋒であったとされる。また、常に慎重論を唱える第二軍の落合豊三郎参謀長を感情的な理由で排除に踏み切っているところなどを見ても、松川は有能な者にありがちな『相手の立場(苦境)が分からない人間』だったふしがある。開戦より以前には総司令官の大山巌や、児玉源太郎の前任者、田村怡与造を酷評するなど、比較的浅い部分だけで人を判断する傾向も見られ、先に触れた落合豊三郎なども「決断なければ大事を成し得る能はず」と切り捨てられている。
一方で別の側面を伺わせるエピソードもある。攻略が大いに難航した旅順要塞陥落後、総司令部に帰還した児玉源太郎がその後の処理を行っていた際である。伊地知幸介をはじめ、第三軍司令部の多くは処分の対象となったが、乃木に対しても人事を含めた『処分』の予定があったという。それに関する書類に、児玉源太郎がなんということもなくサインしようとするのを見て、松川はあわてて制止したという。この処分が実行されれば乃木が必ず切腹するとの確信があった為らしい。児玉はうっかりしていたのか、すんなりと納得してこの処分は見送りとなった。言われている事実関係に誤りがある可能性もあるが、強硬論をぶち上げる一方で敏感に配慮を示す二面性は人間味があって興味深い。児玉源太郎同様にカッとなりやすく、しかし一方ではウェットにそれを引きずるタイプだったのだろうか・・。
終戦帰国後、松川は議会で陸軍の戦中報告を担当したが、2時間にもわたるその報告の内容が実に見事で理路整然としていたと記録にある。対する海軍の報告は、やはり理路整然とした論の展開に定評のある秋山真之が担当したが、秋山という比較対象がありながら周囲に見事と言わしめる松川の頭脳はやはり当代屈指のものがあったのだろう。
大正の終わりに予備役へと編入され、昭和に入った3年目に没した。 
立見尚文 1845-1907 桑名藩
第八師団司令官。 日本が壊滅寸前まで追い込まれた黒溝台会戦における活躍で知られる。
立見尚文は柳生新陰流の名手であるとともに、かの有名な昌平坂学問所で勉学に務めた文武両道の才人だ。大政奉還後の幕府の中にあって主戦論を唱え続けた強硬派で、戊辰戦争においては薩長を主とする官軍を徹底的に苦しめた。日露戦争における軍上層部の多くは戊辰戦争を経験しているが、当事若年であった彼らが比較的末端近くで従軍していたのに対し、立見は既に指揮官として幕末を戦った。ゆえに薩長上層部には立見によって苦しめられた人物が多数。山縣有朋などもその一人であったとされる。そんな賊軍の主要人物が明治陸軍に招き入れられたのは才能の豊富さゆえであり、第四軍の野津道貫などは辰巳を指して「東洋一の用兵家」と評している。
日露開戦当時、立見の第八師団は予備戦力として国内待機の状態にあった。クロパトキンの撤退戦術によって闘いが長期化するに従い日本軍は物資や人員欠如の弊害が顕著に。合流するはずだった乃木希典の第三軍が旅順でいよいよ膠着状態に陥った10月、立見の師団は満州の荒野に上陸した。この時やや遅れて沙河会戦に参加し、その後満州軍総司令部付けの予備軍として控え、そのまま厳冬を迎えるに至っている。
児玉源太郎や松川敏胤ら総司令部の面々が冬季の襲撃は無いと踏んでいた1月半ば、ロシア軍は10万人を超える兵力を日本側左翼、黒溝台にぶつけてきた。猛将で知られるグリッペンベルク将軍に率いられた士気昂揚たる兵力によって、隙を付かれた日本側は一気に崩れた。日露戦争において最も敗戦が真実味を帯びた瞬間であり、ここで戦線が崩壊していれば後の奉天会戦はおろか、日本海海戦すらも存在しなかった事になる。
崩壊を食い止めていたのは秋山好古が率いる騎兵旅団(秋山支隊)であり、この部隊は唯一踏みこたえたが為に、ゆうに10倍を超える兵力に取り囲まれる事態に追い込まれていた。秋山支隊がここで敢闘できたのは、偵察によって襲撃を事前に察知していた事、また機関砲をはじめとする重火器を重点的に配備していた秋山の先見の明による。が、もちろん崩壊は時間の問題だった。
露軍の強襲が主戦力を用いた大規模なものであるとようやく察知した満州軍総司令部は、遅まきながらも増援部隊を派遣した。遊軍として控えていた立見師団だ。この時立見は既に61歳。予備軍として後方に置かれたのは能力や生い立ちからではなく、ただその年齢によるものだった。援軍として黒溝台派兵の命令が出された時、既に戦況は一刻の猶予が命取りという状況だったらしい。立見は約2万人の兵力を率いて厳冬の満州平野に出征。一時を争う事態に立見は休息の選択を排除、夜間においても寝ずの強行軍を敢行した。この時の気温は−30℃近くまで冷え込んだと言われ、将兵らが持参した握り飯が岩石のように凍ってとても食べられるものではなかった。この、まず本州ではありえない気候において、第八師団は崩れる事無く闇夜の外地を縦断、夜が明けた後に驚くべき早さで現場までたどり着いている。彼らは青森県の弘前で召集された部隊であり、日本中で最も耐寒性に優れた部隊だった。
第八師団が黒溝台にたどり着いた時、既に黒溝台はロシア軍の手に落ち、日本側は壊走直前の苦境にあった。立見らの到着により、戦線はかろうじて維持されるも、戦力比は依然として大きな開きがあり、さらなる援軍の到来まで持ちこたえるのが立見師団の実質の任務となった。この時の会戦は相当に苛烈であったとされ、約2万の立見師団の半数以上を失うほどの打撃をこうむった。この時、崩れそうになった師団に対し立見が怒涛の演説をぶって戦意を鼓舞させたのは有名な挿話である。
立見師団、秋山支隊が露軍を食い止めている間に日本側は第一軍、第二軍より兵力を裂いて黒溝台方面を増員、そうこうしている間に露軍のクロパトキンが戦況を読み違え撤退の方針を打ち出した。この時ロシア軍部内で指揮系統に混乱があったらしく、作戦を指揮していたグリッペンベルクはこれを不服として勝手に本国に帰ってしまう体たらくだった。
日本軍においては指揮官が兵士らを子弟のように可愛がり、国家防衛の意思と戦意が末端の兵卒にまで行き届いていたのに対し、ロシア側の歩兵らは、師団長の名前すら知らず、何の為に闘っているのかも分からず、本国で農作業をしていたらいきなり戦争に引っ張られてきた、という有様だったらしい。しかも当初約束された賃金はほとんど支払われず、食料も半分程度しか支給されない。分配前に士官らがネコババしてしまっていたのだ。老兵の立見が戊辰戦争の頃と変わらぬ気概で兵士らを鼓舞し続けたのに対し、ロシア側はあまりにお粗末だったと言うしかない。露軍は勝てる戦に負け続けた結果、数年後の帝政崩壊に至った。立見のような人材の絶対数が圧倒的に不足していたのは言うまでもないだろう。 
第一軍

 

黒木為 1844−1923 薩摩藩 下加治屋町
第一軍司令官。日露戦争における陸戦の第一戦を飾った猛将たる人物である。
士官学校で正規の軍人教育を経てきたエリートが既に主流となっていた開戦当時、非正規街道を歩み続けてきた『叩き上げ』の『侍上がり』が異例の抜擢を受けた。この理由として、第一戦となる第一軍には相当な重圧がかかる為、むしろ現場で修羅場を潜り抜けてきた猛者が適任と判断されたと言われる。
黒木軍の任務は鴨緑江を渡河し、満州のロシア軍を叩く最初の一撃を加える事だったが、この任務は、初戦で圧勝して『外債募集を有利に進める』とう政治的な意味合いが強かった。ここでの成否が戦争全体を左右すると言っても過言ではなく、生半可な勝ち方では許されなかったと表現してもいいだろう。
そんな背景を持っての緒戦において、黒木軍は期待どおりの仕事をしてみせた。敵前での無防備な渡河では多数の犠牲が予想されたが、広範囲を守備する露軍に対し、一点に戦力集中が可能な黒木軍は防御の脆弱な地点を正確に見抜く。露軍の3倍の兵力を一気に投入する事で圧倒し、雪解けで増水した鴨緑江の渡河に至るのである。この時の『架橋技術』は、弱国日本が明治の開花とともに地道に学んできた技術の一つであり、長年の努力が目に見える形で報われた分かりやすいケースと言えるかもしれない。
渡河後も、4万を越える軍隊で夜襲を行って露軍を徹底的に痛めつけるあたり、叩き上げの実戦経験者としてその能力を存分に発揮している。露軍(と言うか常識)からすれば、大軍を以っての夜襲など正規の運用法ではありえない暴挙だったわけで、ロシアが陸軍の先進国であった事が、ここでは仇となったとも考えられる。鴨緑江で戦った露軍には、黒木に対して相当な恐怖心が植えつけられ、後々まで影響を及ぼしたと言われているが、これなども何をしでかすか分からない黒木の底知れなさへの恐れだったと言えよう。
黒木軍の緒戦勝利によって『外債による資金調達』は波に乗り、黒木は戦役全体に対して非常に大きな結果を残した事になる。以後も療陽会戦での太子河渡河による型破りな奇襲を成功させるなど、国家防衛に大いに貢献しているのだが、最後まで侍であったのか、戦後も出世欲には乏しく、元帥に叙せられる事もなく予備役へと編入され、静かに軍人としての幕を閉じる事となった。 
第二軍

 

奥保鞏 1847-1930 豊前小倉藩
第二軍司令官。
全聾ではなかったが聴覚に障害があり、参謀とのやり取りも大半が筆談であったと言われる。戊辰戦争では幕府側についた、いわゆる賊軍の小倉藩士だったが、日露開戦にあたってはその能力の高さゆえに「奥だけは外せない」と、第二軍の司令官に抜擢された。日露戦争の陸軍司令官の中で「作戦参謀の補佐がなくても作戦計画を立案出来るのは奥だけ」と評されたのはあまりにも有名な話。
戊辰戦争においては、銃弾で頬を貫かれたまま指揮を執って敵中を突破するなどの勇猛さを存分に発揮したが、日露戦争の頃においては物静かで、決して部下に対して威を示すような事はしなかったと言われる。基本的には参謀の意見を尊重し、作戦会議においても黙って鎮座する姿勢で一貫。幕僚らの出した結論に対して許可を出すという流れだったようだ。
このあたりは、依然血気盛んな猛将、黒木為驍ニは対照的と言えるかもしれない。とは言え、ある時、奥軍の指令部が夜襲に会った際には、銃弾に慣れていない参謀らがうろたえる中、一人堂々と構えていたというエピソードもあり、若い頃に培われた胆力が年老いて尚、その精神を根本から支えていた事をうかがわせる。
そんな奥が率いる第二軍が最初にぶち当たった難関が、遼東半島の付け根付近にある金州・南山での攻略戦だ。この南山はロシア軍によって『小規模な要塞』として固められており、大小の砲門は131門、守備兵力は2万8000名であったとされる。ここで日本軍は初めて近代戦の洗礼を受けることとなり、131門の機関砲による一斉掃射でことごとくなぎ倒された。5月26日早朝に開始された作戦では、午前中だけで3000人を超える死傷者が出たが、これは従来の戦争観ではありえない数字だった。大本営が当初「ゼロが一つ多いのでは?」と、打電ミスを疑ったほどだったという。
前代未聞の惨状において、この時寡黙な老将が一体何を思ったかは語られていない。恐らく普段どおり、言葉を発せずその場に構えていたものと思われる。第二軍司令部はうろたえずに攻撃を続け、午後5時に突撃を敢行、午後8時に辛うじて南山の攻略に成功、ロシア軍は旅順へ撤退するに至る。その旅順攻略は第三軍の乃木希典に引き継がれる事となるのだが、もし仮にこの時点で大本営が要塞戦における認識を根本的に改めていれば、後に続く乃木軍の旅順攻略戦は、また違った展開を見せていたのではないかとも思われる。
南山後は、療陽会戦における首山堡の争奪戦など激戦を繰り返し、奉天でロシア軍を打ち払うわけだが、さすがに犠牲者の多さは目を覆うばかりのものがあった。戦後、奥は「あれほどの大きないくさは自分も初めてであった」と語っているが、そこには大きすぎた犠牲に対しての感傷も含まれていたのではなかろうか?日本中が浮かれた凱旋パレードにおいては謝罪の言葉をつぶやいた逸話が残っているが、このあたりは乃木希典に重なる気質かもしれない。
前時代からの生き残りである他の司令官ら同様、政治には関与しない姿勢を貫き、特に出世も望まず、静かな余生を送った。薩長閥意外では初の元帥に叙せられながらも、自らの武勇を一切誇示しない謙虚さは武士道の最後の名残であり、彼らの時代を以って旧日本は完全な終わりとなった。 
第三軍

 

乃木希典 1849-1912 長州萩藩出身
旅順要塞を攻略すべく編成された陸軍第三軍の司令官。野津や奥ら他の司令官らに比べ、輝かしい経歴が無いにも関わらず抜擢されたのは、長州閥の長老、山懸有朋による派閥人事によるものと言われている。結果として旅順要塞の攻防では乃木の無能さばかりが目立ち、5万を越す死傷者が一帯を埋め尽くしたとされる。が、この論はいわゆる結果論であり、いささか乱暴でもある。
ここではあえて乃木擁護を主軸として論を組み立ててみたい。
人事の問題1
現在、乃木は戦下手であったという論が主流となっているように思える。これについては専門家と評論家の間で意見がぶつかっており、容易には断定できないところだが、どちらにしろ、問題の本質はその乃木を司令官に任命した大本営のあり方(言い換えれば薩長閥人事が横行した時代背景)にあり、多大な犠牲を出した責任の所在は、根本的には長州閥の長たる山縣に帰すると言える。『乃木無能論』を定着させた司馬遼太郎氏などは、山縣に対しても手厳しい評価を与えているのだが、一般論ではやはり『乃木無能論』だけが一人歩きしている感がある。
人事の問題2
近代戦における参謀とは、実際の作戦立案者であり、戦争をしているのは司令官ではなく参謀であると言っても過言ではない。それを最も体現しているのが総司令官の大山巌であり、現に陸軍の作戦は大半が参謀総長の児玉源太郎による図案の上にあった。このように、日露戦争においては各軍司令官の下には有能な参謀長が置かれる磐石な人事が行われたわけだが…。
乃木の第三軍においては、『結果的に』そうはならなかった。要塞を攻める乃木軍の参謀長には、砲兵科の第一人者として留学組の伊地知幸介が採用されたが、一つの作戦にこだわり続けた頑迷さや、前線からはるか後方に司令部を置くという致命的な選択ミスは、この参謀長の非が問われるところだろう。
乃木の戦争下手を指摘する声はあっても、司令官としての乃木の人格を否定する者はおらず、もしも参謀長が別の人物であれば、現代における乃木希典の評価はもう少し穏やかなものであったかも知れない。
旅順攻略が難航中、乃木軍(特に伊地知参謀)の頑迷さと作戦のまずさは大本営でも指摘されていたが、誰もが交代人事には口を閉じた。これは伊地知が大山総司令の親戚筋にあたる為であり、これを放置した事が大量の戦死者につながった側面があるのだから、公平に考えても責任を乃木一人に帰するのは妥当ではない。
認識の誤り1
乃木軍編成の当初、旅順要塞攻略の重要性はそこまで高いものではなかった。が、クロパトキンの撤退戦術によって戦争が長引くにつれ、ロシア本国のバルティック艦隊派遣が現実味を帯び始め、事前に旅順の艦隊を一隻残らず沈める必要性が喫緊の課題として浮上する事となる。すなわち、辺境戦の一つに過ぎなかった旅順攻略が、いつの間にか戦争全体の行く末を左右するキーポイントへと化してしまったのである。
そもそもの前提条件が変わってしまった為に、軍の編成から補給のあり方、弾薬の割り振りなどを見直す必要があるのだが、大本営は、たった1日で旅順を陥とした『日清戦争の前例』にとらわれ、旅順要塞の戦力を軽視しし続けていた。この戦略的判断ミスは死傷者の量産という結果によって報われる事となるのだが、この責任を「乃木の無能」で片付けてしまうのは酷と言う他は無い。
第三軍の軍備の中には、幕末に使われた青銅の砲も多数含まれていた事などは、認識の甘さを露呈する最たる証拠であるが、これを持たせた側(大本営)より、持たされた側の方が非難されるのはいささかおかしな話でもある。こういう不条理に対し、乃木が一切不平をこぼさない性格だった事も、後の乃木無能論の小さな一因かもしれない。
旅順攻略戦の後半、満州から旅順に派遣された児玉源太郎が伊地知参謀長と口論になった際「砲弾も無しに戦争ができますか!!」と憤る伊地知に対し、児玉は「砲弾が無いのはどこも同じ」と切って捨てた。この場合、悪いのはどちらでもなく、大本営における根本的な認識の誤りと見るべきだろう。
認識の誤り2
上記でも触れたように、当初旅順要塞の戦力は過小評価されていた。陥落まで半年もかかると言われながらも、たったの1日で陥落させた日清戦争の時の実績があった為で、逆に言えば日本軍に過信があったと言った方がいいかもしれない(この点は日清戦争で旅順を経験した乃木、伊地知の両者も同じであったと言われている)。
が、実際の旅順要塞は、10年前とは全く別物の近代要塞と化しており、日清戦争時の戦術は全く通用しなくなっていた。乃木上陸に先立ち、旅順よりはるかに規模の小さな金州南山の要塞では、奥軍が露軍の圧倒的な火力を前に『短時間で4000を超える死傷者』を出した。この前代未聞の結果を受け、大本営は根本的な認識を改める必要があったはずなのだが、そうはならなかったようだ。そして数週間後、前線にある乃木軍が、大本営の認識の誤りを身を以ってを痛感する事となる。
本当に愚策か
乃木が非難される理由の最たるものとして、大量の戦死者を出した三次にわたる一斉攻撃が挙げられるが、これを非難するのは『後出しじゃんけん』のようなものであり、一方的な断罪と言うしかない。戦争の仕方が劇的に変化していた当時、近代要塞攻略を経験した部隊は乃木軍が実質初めてであり、誰もその攻略の仕方を知らないどころか、現場で初めて要塞を目にするという有様だった(当時既に、要塞には工兵を用いる事を要とする論が欧州で定着していたが、この時点の日本では要塞を攻略できるほどの工兵技術自体が育っていなかった)。
乃木は三度も同じ作戦を繰り返したと痛罵されるが、別人であればどうだったか?黒木だったら?奥だったら?結果的に児玉源太郎による奇策によって陥落した旅順要塞だが、この奇策自体、正攻法では通用しないという乃木軍の教訓があった上での立案である。最も死傷者の多かった第一回一斉攻撃戦の前の時点で、正面突破を愚作と談じる事ができた人間が果たして何人いただろうか?それを知っていたのはおそらく要塞を築いたロシア軍のみであり、だからこそ要塞司令官のステッセリは乃木を『たったの半年で旅順を陥とした』と評価したのではなかったか。
もちろん、乃木軍も全く無策であったわけではない。二度目、三度目の一斉攻撃では、先の悲劇を教訓として、塹壕をギリギリまで延伸するなどいくらか工夫が加えられており、事実死傷者の数は第一次に比べ大幅に減っている。この二次、三次攻撃ではロシア軍の死傷者数の方が上回っていたとも言われ、だとすれば『無駄死に』と切ってすてるのはあまりにも忍びない。
安全な場所から死地に追いやったという誤解
乃木軍の作戦のまずさとして、前線から離れすぎた場所に司令部を置いてしまった点があげられる。これが禍となって必要以上に死傷者を出してしまった面があるのは否めないだろう。この点さえ改善できていれば第一回一斉攻撃によって要塞は陥落していたという声も一理あるように思える。が、ここで指摘しておきたいのは、乃木が『我が身の安全を優先して後方に司令部をおいたのではない』という事。
後方に司令部が置かれたのは、参謀長・伊地知による「銃弾の飛び交う前線においては的確な作戦判断ができない」という方針によるものであり、これを採用した乃木に責任があるとは言え、保身という不名誉と混同するべきではないだろう。
事実、乃木は単身で危険な前線への視察を何度も強硬しており、さらに言えば、若い頃に指摘されていた死地を探す『自殺願望』がここでも頭をもたげてさえいるのである。乃木は日露戦争出征にあたり、既に戦地に骨をうずめるつもりだったと言われるが、金州で長男を、旅順で次男を失って以降は、さらにその傾向に拍車がかかった可能性は否定できない。
愚人だったのか?
大量の死傷者を出した乃木は、時として偏狭な愚人として描かれる事がある。表現の自由と言ってしまえばそれまでだが、それが国営メディアによるものであった場合、この偏見の具合は何か極左的な匂いがしてあきれてしまう。周知の事実だが、乃木は一部の旧日本軍のように出世の為の私利私欲に走った事はなく、非常に部下を想い、過剰なまでに自分に厳しく生きた人間である。ところが、どういうフィルターを通過したのか、時としてあからさまに狂人めいた描写をされる事さえあるのである。
旅順の死傷者に対しての責任は、もちろん司令官である乃木に帰せられるべきであるが、この結果を一番恥じていたのは乃木自身であり、皆が浮かれた凱旋の際に明治帝に切腹を申し出ている事を知っておかねばならない。
日露戦争では旅順以外でも多数の死傷者が出ており、中には当然作戦のまずさに起因するものもあったわけだが、そういった諸々は戦勝の結果往来によってある程度水に流されている感は否めない。とすれば、みずから責任を買って出る潔さは愚人には真似のできない生き様であり、それをもっても尚、狂人めいた描写をする一部作家やメディアなどについては、その価値観こそが偏狭と言う他は無い。特にそれが国営メディアによるものであれば、もはや危機でしかない。
総論として
大量の死傷者を出したにもかかわらず、海軍の東郷平八郎と並んで乃木が日露戦争の英雄として祭り上げられた理由として、しばしば明治と現代の「庶民感覚の差」が指摘される。潔さや克己心を美徳とする前時代の日本民族の感覚が、身を滅して国に尽くした乃木を英雄として評価したというものであり、逆に言えば『成果至上主義』に陥っている現代の日本人の感覚が、乃木を愚将として、その名誉を地に貶めているという事ではないだろうか。
さらにもう一つの重要な点として第二次世界大戦に触れないわけにはいかない。乃木の犯した失策(一般論からあえて失策と呼ぶ)の類似例は先の大戦中、あらゆる場面で繰り返された。初期の方針や先入観にこだわるあまり最後まで正面突破を是とした基本方針をはじめ、情報軽視、安全なところから無理難題を押し付ける上層部の無能・腐敗は、亡国に至るも当然の醜態だったのは間違いない。当時の首脳部の『無策』を正当化する為に『精神論』が必要以上に強要され、愚作を連発した上層部に代わって、前線で米兵の10倍を超える兵士が散ったわけだ。
この時、身を犠牲にして国に尽くした乃木の『美徳』と『生き様』が戦意高揚に大いに利用され、これによって第二次大戦経験者の中から乃木批判の声が出るに至っている。が、論点を踏み違えてはならない。ここで批判されるべきは、乃木の威を借りて横暴を振るった凡人の士官らであり、身を律して己に厳しく生きた乃木をやり玉にあげるのは筋違いでしかない。
第二次大戦の敗戦は日本国民にとって非常に過酷な出来事であり、局所における敗残パターンが旅順攻略戦と重複する点は否定できない。だからといって、第二次大戦における首脳部の醜態を、さらに40年さかのぼって乃木に適用するのはやはり理不尽だ。乃木愚将論を国民に広めたと言われる司馬遼太郎氏も陸軍教育や第二次大戦でひどい目にあっており、氏の潜在的な感情によって乃木への評価が辛口になってしまうのは仕方のない事だろうが、戦争を経験していない大多数の世代の人間は、より大局から評価を下すべきであり、安易な精神論の否定に走るべきではない。本来精神論とは、己を厳しく律することにあると知っておく必要があるだろう。 
伊地知幸介 1854-1917 薩摩藩
第三軍参謀長。旅順攻略の作戦は基本的には伊地知が主となって立案、司令官の乃木希典が承認の形をとった。乃木に対しては賛否両論がある一方で、伊地知に対して擁護する声は当時も今も決して多くはない。旅順攻略が終わった後、伊地知は参謀長を解任され旅順要塞司令官に就いたが、これは事実上の更迭とされている。
司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』では頑迷で無能な悪玉参謀長として描かれているが、そもそも伊地知が参謀長に任命された理由としては、ドイツ留学組である上、同期でも突出した秀才ぶりを発揮していた背景がある(第三軍参謀長任命前は大本営の作戦参謀)。また専門が砲兵科であったため、要塞攻略に適任と考えられた事や、乃木司令官同様日清戦争で旅順攻略戦を経験し現地に明るかった事、さらには欧州留学時代に乃木と面識があった事なども任命の要因であったとされる。総司令・大山巌の親族(姪の夫)であった点で優遇されたとも言われるが、そもそもの前評判として能力的に第三軍の参謀長に適任と考えられていた為、これは後付けの風評と見た方がいいだろう。
伊地知の人となりについてはよく分からない。が、旅順要塞攻略戦が悲惨な様相を呈した事によって伊地知の人格はほぼ固定されてしまったようである。乃木軍の司令部において、外部からの進言を再三却下し続けた頑迷な参謀長。高慢で愚劣で、後方から無理を押し付ける卑怯者。これらは『坂の上の雲』によって定着したイメージだが、冷静に見てどうだろうか。
ここで特に伊地知を好意的に見るわけではないが、客観的に見て伊地知が無能だったというより、むしろ『仕方が無かった』というのが実態ではなかろうか。旅順攻略戦の結果を知る我々からすれば、自らの作戦にこだわり続けた伊地知は確かに無能な小役人に見えて仕方が無い。が、少なくとも伊地知は砲術の専門家であり、(伊地知の知識が旅順要塞に通用しないものであったとしても)専門家として任命された以上、自ら組み立てた作戦を推し進める事自体は決して愚ではない。が、フタをあけてみれば大本営に旅順要塞の情報が無く、第三軍にもそれがなかった。結果、起こるべくして起こった悲劇と言う他はないのではないか。
旅順攻略が難航している際、国内では東京湾を守る28サンチ砲を取り外して旅順に移すという常識はずれの案が浮上したが、当初専門家の伊地知はこれに対して懐疑的だった。伊地知に限らず、参謀副長の大庭をはじめとする現場の頭脳たちはこの案をことごとく無理だと評した。また実際に28サンチ砲が旅順攻略に配備された後も、マニュアル通りの適距離を保って砲撃していた為、その効果を最大限に発揮する事ができなかった。この停滞を打ち破ったのは、砲術の素人である参謀総長・児玉源太郎であり、安全距離を全く度外視した砲配備で、結果として旅順陥落に大きく貢献する事となる。
結果から見れば伊地知らは無能と見られて仕方がないが、学んできたマニュアル通りに専門技術を発揮するのが伊地知ら専門家の役割であり、しかしながら旅順要塞自体がマニュアルの通用するスケールを大きく超えていたという現実。すなわちこれこそが、悲劇の根本的な原因であったと言わざるを得ない。
日露戦争全体を見れば、コサック騎兵を相手に砲兵を活用して戦った秋山支隊、近代用兵ではありえない大規模な夜襲をかけた黒木や野津、従来の艦砲射撃のあり方を根底から改めた東郷艦隊など、正攻法でなかったからこそ大きな効果を発揮できた部分は少なくない。マニュアルの通じない要塞に専門家らを配置し、しかも要塞の情報を事前に把握できなかった大本営の不運。亡くなった方々には申し訳ないが、ここは伊地知一人をヤリ玉にあげるのではなく、『仕方なかった』と考えるのが妥当と思えるのである。 
大庭二郎 1864-1935 長州藩
第三軍参謀副長。
長門出身の英才の中の一人であり、長州閥の長である山縣有朋の副官を務めた経歴もある。第三軍に編成されるまでは参謀長の伊地知幸介同様に大本営の参謀本部におり、旅順攻略における頭脳の中枢としてその能力を期待された。
旅順攻略における攻防の中で最大の損害を出したのは第一回一斉攻撃の時だが、この作戦を立案したのは大庭であったとされる。最新式の機関砲に対して銃剣突撃を繰り返す作戦は、後世から見れば愚作中の愚作であり、結果としては目も当てられない数の死傷者を出すに至っている。しかし、銃剣突撃を愚作と切って捨てる我々の思考回路は、おそらく第二次大戦で繰り返された悲劇の記憶に由来していると思われる。この感覚を明治期の旅順攻略戦に当てはめるのは公正な判断とは言いづらいのも確かだろう。
実際のところ、旅順要塞の周辺は急峻な崖もしくは奈落の深谷に囲まれており、この要塞を攻めるとすれば緩やかに続く斜面のルートしか残されていなかった。当然敵の機関砲はここに重点配備されているのだが、乃木軍が無理は承知で正面から攻めたのは致し方のないところだろう。要塞攻略は物量で押し切るのが当時の正攻法であり、また満州軍や大本営から『攻略催促』の伝令がたびたび届いていた事情もあり、必然的に大規模な物量作戦、すなわち短期決戦を見込んだ一斉攻撃を仕掛けたというわけだ。
この一斉攻撃は無謀かつ無策な正面突破と思われているふしがあるが、実際には乃木軍は過去に例の無い11万3千発もの砲撃を旅順要塞に叩きつけ、可能な限り沈黙させた上で将兵を突撃させている。結果としては日本戦史に残る惨劇になったわけだが、機関砲を実戦配備した大規模戦闘自体が、世界で初めての事であり、結果論だけで一方的に切り捨てるのまずい。この時の一斉攻撃では一戸兵衛の率いる第六旅団が旅順市街の見下ろせる望台まで到達しているのだが、これ以前もこれ以降も、要塞攻略はこのようにして鉄壁に蟻穴をうがっていくものであり、一戸ら現場将校もそれを念頭とした行軍だったはずだ。
問題はこの後だ。同じく望台付近まで到達した第十一旅団とともに、一戸が露軍陣地へ一斉攻撃をかけようとしたところで、乃木軍司令部が退却の命令を出してしまっている。これに先立つ南山の攻略において、奥保鞏が率いる第二軍の死傷者数は相当な数(最終的に6,000人超)に昇ったのだが、下関への行軍列車内でこれを聞いた伊地知参謀長などは「数字が多すぎる。間違いではないのか」となかなか信じられずにいたという。が、実際に南山すらはるかに上回る数字を目のあたりにした時、伊地知のみならず、司令官の乃木希典、さらには作戦を立案した大庭などは相当に恐れ戦いたはずだろう。おそらくは動揺が充満した司令部が思考を焦ったのは必然なのかもしれない。戦況掌握が詰められていない状況下で退却を下令、これによって旅順攻略戦は出口が見えなくなってしまったのである。
以後、乃木軍は作戦運用に慎重になる。一斉攻撃はこの後も第二回、第三回と続いたが、塹壕を要塞ギリギリまで掘り進めてそこから出撃する方針を徹底した為、以後の損害は大幅に減少、ロシア側の方が被害が大きかったと言われている。とは言え要塞は一向に陥落しない。この間、日本から28サンチ砲が輸送され、要塞攻略に運用され始めたが、大庭二郎をはじめとする司令部は当初難色を示していたらしい。結果として旅順要塞が陥とせたのは28サンチ砲によるところが大きいのだから、大庭のこの時の姿勢は結果的にエリート気質の弊害だったと言ってもいいだろう。
一向に陥落しない旅順攻略戦に業を煮やした児玉源太郎が、満州総司令部からはるばるテコ入れにやってきた際、大庭は児玉から人前で大喝を受けている。エリートにとって耐え難い屈辱だったが、乃木、伊地知らに代わって大庭が児玉の罵声を浴びる事で軍規が保たれたとの見方もできる。特に大庭への風当たりが強かった点については、児玉と同郷であった事に加え、児玉が初代校長を勤めた陸軍大学校の出身であった事もあると指摘される。
司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』では、いきり立った児玉が乃木軍司参謀の天保銭を引きちぎったエピソードが記されているが、もしこれが史実であればこの時の被害者は大庭だったとも推測できる。なお、天保銭は第二次大戦に至るまで参謀の象徴かつ代名詞であり、「本部から天保銭が視察に来た」などという使われ方をした。
児玉の登場後、旅順攻略は順調に進み始め、遂には開城せしめるわけだが、司令官の乃木と参謀の津野田を除く司令部主要メンバーはことごとく処分の対象になってしまった。以後大庭の出る幕は無くなる一方、戦後は順調に出世を重ね陸軍大将まで上り詰めている。旅順攻略の過程はともかくとして、大庭の能力が軍に必要とされたと見る事もできるし、もしくは「参謀は処罰されない」という後の悪習が既にこの頃から芽生え始めていたのかもしれない。 
津野田是重 1873-1930 熊本藩
第三軍参謀。外交的で快活な性格であったとされる。本音を隠さず率直に発言する性格であり、また短気な面などからしばしば周囲との軋轢があったが、司令官の乃木希典にかわいがられ、後年も乃木について懐かしそうに語る事が多かったという。
乃木に対しても物怖じしない口の利き方であった為、しばしば参謀長の伊地知幸介から注意を受けた。ある時などは参謀同士で旅順攻略について議論していた際、口を挟んだ乃木に対して思わず「閣下は黙っていてください」と口走り、これを見た伊地知が激昂。津野田は軍機違反で国内に送り返されそうになった事もある。これに対して乃木は笑いながら「相手を見て発言しないと将来損をするぞ」といったような内容で諭したとされる。後年になるが、この性格が災いして津野田は陸軍を追われる事になる(上原勇作との軋轢が原因などと言われる)のだが、ここに及んで乃木の言葉を思い出し「今の自分の身を見ればあの時の閣下の言葉が感慨無量」との所見を漏らしている。
日露戦争中においては外交的な性格からか渉外的な役割も果たしており、彼と接した英国観戦武官のハミルトン中将などは「日本人には珍しく明朗な青年将校」と評しているのだが、逆に言えば当時の日本人の中でも浮きやすい性格であった証と言ってもいいだろう。司令官の乃木希典は、自身も幼少時より浮いた存在であり、常に周囲と溶け込めず、所属すべき集団をついに見つけ出す事ができなかったという。今であれば『個性』という言葉で賞賛される独自性が、当時の日本においては『生きづらさ』の大きな要因になっていたのだが、息子ほど年のはなれた津野田の中にも、乃木は自らと類似した気質を見出したのかもしれなかった。
第三軍参謀本部の中でも若年であった津野田が命じられた大きな任務に、旅順陥落後の敵軍司令官ステッセリとの交渉の役があった。敵軍降伏後に日本側から送られた最初の使者という立場だが、降伏直後だけにそれを受け入れない露軍の不満分子による襲撃は常に危惧されるところであった。この状況に対し、参謀長の伊地知らは騎兵一個中隊を護衛につけようとしたが、津野田は熟慮した上でこれを断っている。敵の残党は約一万。これらがいっせいに向かってくれば一個中隊など所詮は無力、貴重な戦力が無駄になるとの判断である。結局たった2人の部下のみを連れて旅順市街に乗り込む事になった。このあたりの割り切りの良さは津野田の持つ潔さであり、他の日本人よりも優れていた点かもしれない。
旅順市街に入った津野田は、幸い露軍残党の反撃に会う事もなくステッセリの邸宅に到着するのだが、ここでステッセリ本人を召使と間違えたり、ステッセリ婦人を下女としてあしらうなど、津野田特有の不手際を起こしている。彼は後の奉天会戦においても、占領前の敵陣地を日本の陣地と勘違いして進出、露軍に包囲されて死にかけるなど、かなり軽率な面を露呈させている。伊地知をはじめとする参謀らのエリート的思考からすれば、津野田のこういった点は忌むべきものあったろうし、一方でこの危うさを乃木は愛したのだろう。なお、津野田がうっかり露軍に包囲された際、部下の丸山という伝騎が敵の捕虜になってしまうのだが、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』によれば、露軍に尋問された際の丸山が、論文のような理路整然とした答弁を堂々と展開し、ロシア側を、ひいてはヨーロッパの兵学会を驚かせたという。将校クラスならまだしも、たかが一兵卒の教養の高さが欧州の常識とはかけ離れていたという事らしい。
日露戦争終結後、津野田は一時陸軍大学で教官として教鞭をふるうのだが、この時の生徒の中に、かの東條英樹がいた。後年、東條は津野田の息子の知重に対し「俺は教官の中でお前の親父さんが一番好きだった」と述懐したが、東条が津野田教官のどの部分に好感を持ったのかまでは語られていない。尚、陸大教官を経た後、津野田は少将まで昇るのだが、すぐに予備役入りを命じられ、先述のようにここで軍人としての人生を終える事となった。
津野田のような人間が軍隊にとって有益か無益かは判断がつけ難い。が、少なくとも日露戦勝以後の日本軍は津野田のような存在を容認しない体制へと移り変わっていったようであり、それは最終的に暴走して国家ごと壊滅する軍部が、少しずつ成立する過程の、ごく初期の段階だったのかも知れない。 
一戸兵衛 1855-1931 弘前藩
歩兵第6旅団長。もしも一戸兵衛が、指令を無視して独断で動く人物であったなら、旅順要塞攻略作戦の行方は大きく変わっていたかもしれない。
日露戦争で最も大量の犠牲者の出た旅順要塞攻略作戦。中でも第一回総攻撃の被害は相当に悲惨なものだった。要塞に配備された最新式の機関砲や幾重にも塗り固められたべトンは従来の戦術では太刀打ちできる類のものではなく、この攻略にあたった第三軍は慎重に事を運ぶ必要があった。これに先立つ南山において、奥保鞏の第二軍が攻略した要塞では、従来の常識から予想された死傷者を一桁上回る犠牲が出て大本営を驚愕させたが、南山をさらに上回る規模の旅順要塞は凶悪そのものだった。
この攻防において、乃木軍司令部が下した選択は従来どおりの正面突破。機関銃の射程が幾重にも重なる最も厳しいルートに真正面から丸腰同然で大量の将兵を送り込む事となってしまった。2万を超えるとされる旅順攻略作戦の犠牲の大半は、この第一回総攻撃の時のものであり、無為に大量の将兵を死に追いやった乃木希典らの無能を責める声は特に後世において少なくない。
一方で異論もある。すなわち、旅順要塞の攻略には正面突破以外になかったとされる意見だ。旅順攻略戦以降も世界中で要塞攻略戦が行われたが、基本的には正面から攻める物量作戦が正統であり、心理的、物質的に守備側を追い詰めていくというもの。事実、当初日本軍だけが無駄死にしたと思われた攻略作戦において、ロシア側の受けた重圧は結構なものだったらしい。後の203高地攻略において、数ヶ月続く攻防の疲労がロシア軍に蓄積された事でようやく成功に至ったという事実がある。
結果的には失敗であり、愚作とされる旅順要塞総攻撃だが、実は第一回攻撃の時、一戸兵衛の指揮する第六旅団の一部が旅順市街を見下ろせる望台まで到達、遂にはここの露軍陣地を攻略し得るまでに迫っていた。この時点で死傷者数が相当な数に膨らんでいたわけだが、その成果として、一戸兵衛らの部隊の躍進が実現したと言える。しかも友軍である第十一師団もすぐ近くまで前進してきている。一戸は体勢が整い次第、両旅団による一斉攻撃に踏み切る腹積もりだったが、ここに来て乃木軍司令部より撤退命令が通達される事になる。
『坂の上の雲』の著者、司馬遼太郎氏によれば、一戸は「いまにして攻撃を中止すればこれだけの死傷をだしたことがすべてむだになる。望台はとれる。わが旅団独力をもっても攻撃を続行したい」と悲痛な意見具申をしたとされるが、遂には受け入れられず、撤退に甘んじる事に。ここで伝令ミスなどを偽装するなどして攻撃を強行できていれば、旅順はあえなく陥落していたかもしれない。が、幸か不幸か一戸は細工を弄する策士の類ではなかった。
一方の乃木軍司令部だが、少なくともこの時点では戦況掌握能力に欠陥があったと言うしかない。乃木希典およびその司令部が責められるとすれば、作戦そのものの内容ではなく、まさにこの時の状況掌握の甘さにある。もちろん乃木軍司令部からすれば、次々とあがってくる『ありえない数字』に相当に肝がつぶされたはずであり、後から断罪するのは不条理と言えるかもしれない。もしも乃木が繊細な感性を持たない無骨漢であったなら、もしも伊地知らの参謀が『常識を備えたエリート気質』でなければ、あるいはさらに攻め込ませて攻略戦の結果を変えていたかもしれない。が、乃木も伊地知も、さらには作戦を立案したとされる参謀副長の大庭二郎も良識に基づいた判断を下してしまったのである。
戦後、一戸は戦時の活躍から個人感状を受けているが、この第一回総攻撃の働きが評価されたと考えていいだろう。退役後はかつて乃木希典も務めた学習院の院長職に就き、皇族らの師弟の教育にあたった。一戸は若年時、陸軍兵学寮に入学する為に本州最北の弘前から東京まで徒歩で上京したと言われる。はるばる遠路の旅路の果て、フタを開ければ試験官の質問には何一つ答えられない。あきれた試験官が「お前は何をしにきたのだ」と叱責するも、一戸はひるまず「人物を見て欲しい」と主張。「ならば好きな漢詩を読んでみろ」と応じた試験官に対し、自作の漢詩を披露。その場で合格扱いになったと伝えられるほどの人物だった。旅順での功名は勇敢な壮士のものであるが、元来の勉強家であり生涯書物を通読し続けた。教育者として迎えた晩年は人並み以上に幸福だったのではなかろうか。 
中村覚 1854-1925 彦根藩
旅順要塞攻略戦における白襷(たすき)隊の指揮官。
白襷隊とは、第三回一斉攻撃における奇襲部隊である。第一回の一斉攻撃であり得ない犠牲を出して後、乃木軍司令部は作戦を修正、可能な限り壕を掘り進める事で第二回一斉攻撃の犠牲者数を大幅に減らしている。が、要塞いまだ陥落せず。冬が目前となった11月、第三回目の攻撃に至って司令部はもはや手詰まりの感もあったという。その結果として、3100人による大掛かりな奇襲作戦が立案され、これが実行に移される事になった。この部隊は夜襲を任務としていた為、お互いの識別の為に白襷をつけていたわけだが、結果としてこれが死に装束となり、感情的に作戦の無謀さを引き立てる一因ともなっている。
軍内部の上流に位置した中村としては、この作戦の意図が、すなわち半ばやけっぱちの強行突破にある事を察していたと思われる。作戦に先立ち「大勢の兵士が死んでいる。そろそろ上の者が死なないと申し訳が立たないではないか」との台詞が残されており、この部隊の意義が攻略よりも武士道精神的なものに置かれていた現実をほのめかしている。
第三回一斉攻撃が開始されたのは11月26日の午前8時。白襷隊はその日が暮れた20時からの始動である。中村ら第三軍の兵士が遼東半島に上陸し、大陸の熱波にまみれた頃からは既に数ヶ月が経過していた。上陸間もない段階で奥保鞏の第二軍が南山を攻略、加勢した第三軍の一部に中村覚も含まれていたわけだが、そこでおびただしい数の死傷者を始めて目の当たりにし、第三軍の将兵らはその凄惨さに度肝を抜かれたという。以降、禿頭山や剣山、さらには南山に匹敵するの大量の死傷者を出した太白山、そして第一回、第二回の一斉攻撃を経た乃木軍兵士ら苦悩の末に、白襷隊が機関砲に滅多打ちにされる結末が用意された事になる。
奇襲の命運を分けたのは一発の地雷だ。闇夜で炸裂した地雷は白襷隊の位置を露軍に知らしめ、探照灯の光が一斉に集まる。見れば白い襷がよく反射して格好の的になっているではないか。ここに露軍が誇る機関砲が一斉に火を噴く惨事到来となった。これは一分間でおよそ600発もの銃弾を発する代物で、一秒に換算すれば実に10発。一度是を食らうと同じ場所に2発、3発と被弾する為、傷口が一気に広がり、即座に致命傷になる。中には60発、70発とくらった遺体もあったとされ、現場の凄惨さは容易に想像し難いものがある。軍医によって『全身蜂巣銃創』という新しい『死因』が命名されたほどだ。
この文字通り殺人的な機関砲射撃を集中的に受け、3000人を超える隊は数瞬の後に壊滅。決死で臨んだ中村覚自身はかろうじて一命をとりとめるも、重症によりそのまま本国へ送還となってしまった。作戦開始に先立ち、中村は自分が戦死した後の指揮系統のあり方を部下に提示し、さらには後ろに下がる者を斬れ、とまで命じているほどで、生きて帰る意思は毛頭無かったはずである。隊が全滅して後、本国で療養を余儀なくされた中村の精神の凄惨さは察して余りある。
第三軍の将兵らにとって白襷隊の壊滅はやはり象徴的なものであったらしく、彼らの落胆は相当なものであったと言われる。にも関わらず中村はこの時の戦いぶりを評価され、最終的に陸軍大将にまで昇り詰めている。結果はどうあれ中村の指揮統率や敢闘ぶりが評価されたものだろうが、一方で、旅順攻略と乃木希典を日露戦勝のシンボルに祭り上げた日本軍部の事情として、中村の存在は都合が良かったと見る事もできる。
おそらく日露戦後の時点では、日本軍部は純粋に勝ち戦を喜び、その功労者として中村や乃木、さらには幾人かの軍神を祭り上げたのだろう。が、結果的には後にこれらが美化され、尊ぶべき前例として教科書などに掲載されるに至る。その後100年を経て、我々の世代の感覚で判断すれば、死を賛美する悪しき前例と言わざるを得なくなるまでに変質してしまったのである。 
第四軍

 

野津道貫 1841-1908 薩摩藩
第四軍司令官。戦線の中央部分を担当した。
第一軍の黒木為體ッ様の猛将タイプであり、出身や戦歴、気質なども近い為か、双方共にライバル視していたとも言われている。日露開戦に先立ち、海軍大臣の山本権兵衛が大山巌に対し「統帥の中枢に参画すべく国内大本営に残った方が良かったのではないか?」と問いかけたところ、大山は「戦争については自分よりも野津らの方が上手である」と答えている。さらに「彼らは出先で互いに強情を張り、意見が一致しない事が多いだろう」と続き、「その時に意見をまとめるのが私の任務」と結んでいる。ここで言う“野津ら”というのが野津道貫と黒木為驍ナあるのは想像に難くない。
そんな野津だが、第一軍の黒木為驍ェ緑鴨江渡河の作戦を担当する事が決定した際、自ら黒木司令部を尋ね、自分が日清戦争時に使っていた鴨緑江周辺の地図を藤井参謀長に手渡している(黒木は不在だった為)。また、沙河会戦においては少人数・軽装が鉄則とされる夜襲を、野津軍全軍(2個師団/約3万人)で強行する荒業を見事成功させ、ロシア軍は潰走に至る。このような型破りの夜襲の前例と言えば、数ヶ月前の黒木軍のケースただ一例のみであり、ここにも両者の気質の類似性が伺われる。この時の野津の心までは記録に残っていないが、夜襲決行にあたって黒木に対する強烈な対抗心とリスペクトが大いに存在したと考えるのも面白いだろう。
ともあれ、若いころから勇猛すぎて暴走と隣り合わせだった面は否めず、彼をいかに制御するかが参謀らの重要な役目だったらしい。ここで幸運だったのは、参謀長に極めて慎重な性格の上原勇作が就いた事だ。彼は野津の娘婿という事もあり、野津を制止できるもっとも的確な人材だったと言える。結果として奉天会戦の時点で最も戦力を温存していたのは野津軍であり、(日本軍にとっての)最終決戦において黒木軍に代わっての主力となった。野津はそれまでのクロパトキンの撤退戦術を『見事な戦術』として称え、決して深追いさせる事はなかったのだが、この冷静な判断は上原参謀長との良好な関係とも無縁ではないと思われる。
そのクロパトキンの更なる撤退戦術によって、日本軍は辛うじて奉天会戦に勝利。続く日本海海戦の圧勝によって『勝ち逃げ』の構図で講和に持ち込む事に成功するのだが、敵将であったクロパトキンが敗戦の責任を取って軍法会議にかけられる事を聞いた野津は「そもそも閣下は開戦に反対だったと聞く。それでも満州で指揮を取って立派に戦ったのに負けたからと言って処罰されるのはあまりにも気の毒」と、その理不尽さに憤慨したとされる。これは敵将への畏敬の念の表れとも言えるだろうが、司馬遼太郎氏が指摘するように、日露戦争は『戦争の中にまだ騎士道(我が国では武士道)精神が介在していた最後のケース』だったのだろう。 
秋山好古 1859-1930 松山藩
日本騎兵の父と呼ばれる。
日本人離れした風貌で頭もよく、当時としては長身で婦人からの人気も厚かったと言われる。江戸期の質実剛健な武士の生き方を色濃く残しており、清貧を良しとする一方で並外れた酒豪としての一面もあった。
騎兵とは文字通り騎乗した兵隊だが、これは侍時代の騎馬とは全く別のものである。騎馬は、単に武士が馬に乗って個人技で敵に切り込むものであるのに対し、騎兵は索敵や奇襲を主任務としたもの。よってこの概念の存在しなかった明治初頭においては騎兵隊にかけられる期待はほとんどなかったようである。この流れを変えたのが、フランス留学・ロシア駐在で騎兵を学んだ秋山好古であり、上層部に騎兵の重要性を説くとともに、フランス式の乗馬を取り入れる事に注力した。当時の陸軍高官の多くがドイツかぶれ(軍師メッケルの影響)だった事を考えればこれは相当風当たりの強い荒行だったはずであり、後の日本騎兵は実質秋山一人によって育成されたと言ってもいいかもしれない。
長期のロシア滞在経験から対露事情に詳しかった秋山は、かの国が仮想敵国として浮上した段階で『コサック騎兵との戦闘を想定した騎兵育成』に着手した。日清戦争から日露戦争までの10年間で日本騎兵の質は大きく向上したが、馬体の質や装備、兵の層の厚さではロシア側に分がある。開戦に先立ち、秋山が騎兵の重火器を強化したのは柔軟な思考力の賜物と言えるだろうし、『見たくない現実』を冷静に受け止めて解決を図った点は多くの指導者が見習うべき美徳だろう。
日露が開戦した直後は、上層部が騎兵の特性を理解しきれていなかった事もあり、騎兵の持つ機動力を活かしきれない命令が続くも、戦争が長引くにつれ、広大な満州荒野における索敵任務が効果を発揮し始めた。秋山が方々に放った部隊や間諜が確実に機能し、露軍の行動は概ね秋山支隊の察知するところとなったのである。
日本軍が壊滅しかけた黒溝台の会戦においても、秋山支隊は事前に露軍の大規模強襲の兆しを認識、総司令部に何度も報告を上げている。が、この時の報告に関しては、総司令部参謀の松川敏胤(秋山の後輩に当たる)によって黙殺され、満州軍は潰走寸前まで追い詰められるという辛酸をなめた。それでも壊滅を防げたのは、特別に配備された機関砲をふんだんに活用した秋山支隊が、撤退せずに陣地で持ちこたえた事が大きい。逆に機関砲のない他の部隊はことごとく後退を余儀なくされており、秋山支隊が最後の砦でもあった。日本軍を壊滅から防いだ機関砲については、秋山自身が早くから上層部に執拗に掛け合った結果、特別に秋山支隊に配備されていたものであり、彼の先見の明は歴史を左右したと言ってもいいだろう。
黒溝台会戦後、秋山支隊は乃木希典の第三軍に編入され、左翼から露軍のはるか後方まで進出、しばしば露軍司令官のクロパトキンを疑心暗鬼におとしいれたと言われる。秋山はそれまでも多数の騎兵隊を索敵へと放っていたのだが、満州平野の冬は−30度にもなる厳冬である。現地の人間によれば、日本の真冬着くらいの装備の上に分厚い上着を羽織り、さらに分厚い真綿の特製コートを着、その上で分厚い毛糸や綿の帽で顔全体を覆うとの事だ。屋内ですら手が凍り、書き物も容易でなく全く仕事にならないらしい。そんな寒さの中で長距離にわたる索敵を繰り返し、敵情把握に貢献した事はまさに感嘆だが、策敵部隊の中には1000km以上の距離を移動したものもあり、はたして真冬の満州でどうやってそのような大事が成し得たのか、現代に生きる我々には想像のしようもない。将兵の身になっても、馬の身になってもただただ恐れ入るばかりであり、事実、大本営のみならず、海外の従軍記者らもこれらの偉業を畏怖したらしい。
もちろん極寒に耐えたのは騎兵に限らない。当時の日本軍の防寒具はロシア軍に比してかなり粗末なものであったようで、露軍兵士らは『日本軍は寒さで長期戦に耐えられない』と踏んでいた。が、実際にはそうはならず、露軍兵士らは「貧相な防寒具のまま雪の中で眠り、翌朝には起き上がって立ち向かってくる」と日本兵の持久力に驚愕したという。厳寒に慣れたロシア人と軽装の日本人が対等に闘い得たのは、兵士の士気の違いもあるだろうが、普段から清貧を心がけてきた精神的強靭さも大きな要因と言えるのではないか。
秋山自身、普段から贅沢を嫌い、質素を心がけ、軍部内においても最後の武士として一目おかれていたというし、秋山に限らず他の著名な人物らも類似の気質の持ち主が多かったように思われる。乃木希典と秋山好古は価値観において共通した部分が多く、事実両者とも気が合ったのか親交は深かったとも言われる。また、総司令官の大山巌をはじめとする薩摩武士には貧しい事がむしろ美徳という価値観が伝統的にあり、幼少の極貧を、恥じるどころか美談として周囲に誇るほどだった。後の世で言う精神論が当たり前の日常だったと言えるが、この気質によって日本は他のアジア諸国とは異なった歴史を歩んだと断言していいのではないだろうか。
秋山は退役後、故郷松山で教鞭を取る。武勲を誇る事が一切無く、終戦から26年後に静かに息を引き取った。 
秋山好古2 (あきやまよしふる)
日露戦争を勝利に導いた立役者の一人、秋山好古。彼は軍人というより、武士であり、武士道という日本精神の体現者の一人であった。日本騎兵を養成するというたった一つの目的のために自分の人生を捧げた。フランスへの留学後、騎兵養成の使命感を明確に自覚して帰国した。
日露戦争で活躍
秋山好古という名前を聞いて、いかなる人物かを即答できる者は日本人の中でも、そう多くはあるまい。当然、留学生にとっても馴染みのある人物ではない。彼は明治時代の軍人であり、日露戦争を日本の勝利に導いた立役者の一人である。とすれば、アジアの留学生の中には、本稿でこの人物を取り上げることに不快感を抱く人もいるかもしれない。この戦争の後、日本は朝鮮半島を日本の植民地として支配下に置いてしまったからである。
しかし、本稿で日露戦争時に活躍した軍人を取り上げるのは、戦争を美化するためでも、植民地政策を正当化するためでもない。秋山好古という一人の日本人が、どのような精神で明治の時代を生き抜いていったかを紹介してみたかったからに過ぎない。彼は軍人というより、武士である。武士道という日本精神の体現者の一人であった。その人物の職業がたまたま軍人であり、職場が戦場であったのだ。
1904年の日露戦争は、東洋の一角にある片田舎の日本がはじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をした戦争であった。奇蹟とも言われた勝利を勝ち取った要因は、いくつか上げられるが、主な要因は世界最強の騎兵と言われたロシアのコサック騎兵集団を撃ち破ったこと。それとロシア海軍の主力艦隊を日本海海戦で撃破したことである。
秋山好古は世界最強のコサック騎兵集団と戦った日本騎兵の隊長であった。彼はひ弱な日本騎兵を率いて勇敢に戦い、かろうじて敵をやぶった。またもう一つの勝利、日本海海戦は東郷平八郎率いる連合艦隊の作戦勝ちとも言われている。この作戦を立案した人物が好古の弟秋山真之であった。作家の司馬遼太郎は、この二人の兄弟と正岡子規の三人を主人公にした小説『坂の上の雲』を書き、その中で「この兄弟がいなければ日本はどうなっていたかわからない」と語っている。
陸軍士官学校騎兵科へ
後年、「日本騎兵の父」と呼ばれるようになった秋山好古の騎兵との関わりは、たわいのないものであった。陸軍士官学校入学時に、騎兵科は砲兵科や工兵科より修業年限が1年早いことで決めたのである。卒業が早ければ、給料も早くもらえる。家が貧乏であったので、この選択に迷いはなかった。
好古が士官学校に入ったのは、1877年(明治10年)の5月、19歳の年。士官学校ができてまだ3年も経っていなかった。陸軍それ自体もきわめて脆弱な基盤しか持ち合わせていない時期であり、騎兵科など有って無きがごとき存在であった。
この彼が、貧弱な騎兵の改善と進歩に熱い情熱を傾け、騎兵の養成に本格的に取り組むようになったのは、フランス留学がきっかけであった。「俺が日本の騎兵を作る」。好古は明確な使命を自覚して、フランスから帰国した。
フランス留学
好古がフランスに留学したのは1887年のことで、29歳になっていた。松山藩(現愛媛県)の旧藩主・久松定謨がその前年にフランスに遊学しており、87年にフランスの士官学校に入学することになった。そのため同郷の軍人を補佐役として派遣する話が郷里で持ち上がり、好古が抜擢されたというわけである。
この時代、まだ武士の主従関係は根強く残っていた。秋山家は先祖代々、藩主久松家に仕えてきた旧臣である。碌を食んできた恩をあだで返すわけには行かない。好古は迷う気持ちを振り切って、フランス行きを決断した。
当時好古は東京鎮台参謀という軍の要職にあった。その地位を捨てての留学である。軍の要請から出たものではない以上、軍での栄達をあきらめるしかなかった。その上、その当時、陸軍の軍制はドイツ式に一新されており、フランス留学は時代錯誤の感があった。それゆえに彼の留学をとめようとする者も少なくなかったのである。しかし、彼は決して落胆してはいなかった。フランスには騎兵の伝統があり、学ぶべき点が多くあるはずと感じていたからである。
パリに着いた好古は、ヨーロッパ文明の巨大な富と技術の集積に、しばしぼう然とする。東洋の後進国日本から、一気に世界の文化都市パリに足を踏み入れたのである。見る物、聞く物すべてが驚きで、当初一人で街を歩けないほどであったという。
騎兵に関する全てを学ぶ
好古のフランス留学は4年半に及んだ。当初、彼の留学は上記のいきさつから私費留学という立場であった。しかし2年半ほど経った頃、官費留学に切り替えるという命令を受け取ることになった。将来を嘱望された現役将校が私費留学では、かわいそうだという同情論が陸軍内部から起こってきたためである。
そのために彼に下された命令は、フランス騎兵の戦術、内務、経理、教育などを調査し、研究せよというものであった。つまり日本の騎兵建設に関する調査をすべて、好古に委ねるということなのである。
好古が努力したことは、まずフランス馬術の真髄を身につけることであった。なけなしの金をはたいて馬を一頭購入したほどであるから、彼の習得意欲は徹底していた。ここに一つの問題があった。先に述べたように日本陸軍の軍制がフランス式からドイツ式に切り替えられ、騎兵の分野も例外ではなかった。しかし、こと馬術に関してはドイツ式とフランス式では、まるで違っているのである。
ドイツ式は硬直美を追究するのに対して、フランス式は柔軟、かつ自然体であることを本則としていた。たとえばドイツでは馬に乗ったとき、膝を後ろに引き、膝から下はそれよりさらに後ろに引いてしまう。そうなると騎手は弓なりになり、見た目には凛々しく、威風堂々たる姿となる。しかしこれでは人間の姿勢としては不自然で、長時間の騎乗にどうしても無理がかかり、疲労がはなはだしい。
一方フランスは、騎手の姿勢を馬の運動リズムに沿うようにしており、足も後ろに引くという無理な姿勢を取らず、自然に垂れさせている。長時間の騎乗にできるだけ耐えるように考えられているのである。
好古の留学目的は、単にフランス騎兵に関する調査研究だけではなかった。帰国後、日本の騎兵建設に具体的に責任を持って取り組まなければならない。「それをやれるのは、自分しかいない」と考えていた。安易な妥協は許されないのである。フランス式でも良いものは良い。ドイツ式でも悪いものは悪い。
彼は、欧州視察でフランスに立ち寄った内務大臣の山県有朋に直訴してまで、フランス式馬術の優位性を主張した。山県の返事は「考えておく。そのことをさらに研究しておくように」という素っ気のないものであったが、秋山好古という人物に注目したことだけは確かであった。好古が留学を終えて帰国した後、若干33歳の彼に日本の騎兵建設の全てを任せることになるのである。
生涯一事
「男子は生涯一事をなせば足る」とは、秋山好古の口癖であった。この一事とは、彼にとって日本騎兵の育成に他ならない。欧米列強に引けを取らない騎兵を作り上げること。このたった一つの目的が彼の全人生を支配したと言っても決して過言ではない。彼の価値観は実に単純明快であった。この一事が全てであり、それ以外に関しては、何事にも実に淡泊であり、物や金銭には欲や執着心が全くといっていいほどない。
日清戦争終了時、共に戦った部下たちと輸送船に乗り込み、途中広島で宿営したときのことである。彼は副官を呼びだし、彼の行李を開けさせた。中には、彼自身の給料袋数ヶ月分がそのまま手つかずで入っていた。戦地ではほとんど金の使い道がないからだ。副官に「だいぶあるな。みんなで凱旋祝いでもやるがいい」と言って全額渡してしまった。
物や金銭に無頓着なだけではない。自分の命に対しても同様であった。敵の弾丸が飛来する中で、彼は身を隠すこともなく全軍の指揮を執った。敵陣に50メートルほどまで近づいての敵情視察など、隊長である好古自らがしばしば行った。前方には遮る物が何もない平地である。当然部下は必死に止める。しかし彼は軽くうなずくだけで、弾雨の中に飛び込んでいくのであった。
晩年、好古は乞われて郷里の中学校の校長を勤めることになった。陸軍大将まで昇りつめた人物が、地方の中学校の校長になるなど、当時の常識ではあり得ないことであった。しかし、名利や面子などとほとんど無縁なこの男は、「俺は中学のことは何も知らんが、他に人がいなければ、校長の名を出してもいい。日本人は少し地位を得て退職すると、遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。俺で役に立つなら何でも奉公するよ」と言った。
好古の校長在職は6年以上に及んだ。しかし決して名前だけの校長ではなかった。その間、一日も休んだことはなく、遅刻もなかった。彼の72年間の生涯は、一事の大切なことのためにあったということを後世に示した人生であった。  
川村景明 1852-1933 薩摩藩
陸軍における最終決戦となる奉天会戦に先立って結成された鴨緑江軍の司令官。薩英戦争・戊辰戦争を戦い抜いた、薩摩系高官の典型的な経歴を持つ。
鴨緑江軍とはその名のとおり、中朝国境を流れる大河、鴨緑江方面に配備された軍であり、その目的は奉天会戦ではなく朝鮮方面の警備及び樺太方面へのけん制、攻略にあった。日本には既に新たに軍を編成する余力は無く、既存の兵力・主に乃木稀典の第三運から歴戦の部隊を引き抜くなどして強引に兵力を集めた。満州軍総司令部では最終決戦として位置づけていた奉天の会戦が目前に迫っており、この段階で貴重な兵力を他にまわす事に対し、大山巌らは当然強い懸念を示した。では、なぜそこまでしてこの軍は編成されたのか?
この案の提唱者は大本営の長岡外資であるとされる。既に終戦が近い段階で、あわよくばロシア領の一部でも占領し、戦後の国家運営を有利に運びたい意図があったといい、これはまさに欧米列強の帝国主義そのままの発想だ。この極めて政治的な長岡の判断によって、前線の満州軍は戦力削減の通達を受けたわけだが、実際にこれは必然の措置だったと言えるかもしれない。
当事我が国は米国のルーズベルトに停戦講和の仲介を打診していたが、ロシア側にそれを受け入れる空気は微塵もなく、仮に講和に持ち込めたとしても交渉は極めて厳しいものになると予想された。そのため『ここは事前に樺太あたりを占領し、戦勝・領土獲得の既成事実を積み上げておくべき』というルーズベルトからの提案があり、これを実践する事がルーズベルトに調停役を果たしてもらう為の半ば前提条件という状況にあったのだ。一見大本営が愚作を打ち出したように見える鴨緑江軍編成にはそれなりの事情があったわけだ。もちろんこうした内部事情は前線で理解できる種のものではない。そもそも奉天で負けてしまえば停戦交渉も何も無くなってしまうのである。
この状況において、川村景明は人生で最も大きかったであろう重要な決断をする。すなわち大本営命令の無視である。満州における陸軍の総指揮権は東京の大本営ではなく、満州総司令部の大山にあった。が、それに不便を感じた大本営が、みずからの直轄の指揮下で動けるよう編成したのが鴨緑江軍であり、当然川村も東京の指示で動くべきであった。が、これをあっさりと蹴って見せたのが川村の潔いところだろう。軍編成後、大山との会談に際して早々に「総司令部(大山)の指揮に従う」意思を表明している。後の日本軍であれば軍法会議でめった切りとなる重罪なわけだが、あるいはこの決断によって奉天会戦は大いに動いたと言えるかも知れない。
時に露軍指揮官のクロパトキンは、旅順を陥とした『恐るべき乃木軍』の所在をつかみかねており、常にその動向を気にかけていた。そんな折、ロシアの諜報網が左翼方面(日本の右翼方面)に乃木軍の一部隊を発見。乃木軍は鴨緑江方面で進軍中との報をあげた。この一部隊は、既に川村の指揮下に入った“元”乃木軍の部隊であり、この勘違いによってロシア軍は部隊の運用を根本から誤ったといえる。すなわち、主力を鴨緑江軍の方面へと差し向けたのである。
鴨緑江軍は、急編成の上、規模も小さく、また、主力が老兵であった事もあり、その能力は他の軍に比べて著しく劣ると見られていた。そんなところに主力を叩き込まれれば即時粉砕もあり得るところだが…。実際にはそうはならなかった。ここには川村の人柄が強く影響していたとの評が少なからずある。鴨緑江軍の兵士はみじめだった。年齢層が高いのは後備の人間が多いからであり、すなわちスペアである。乃木軍から歴戦の舞台を引き抜いてきているとは言え、こちらは『後に精神を病むほどの死線』をくぐってきており、その疲労もはなはだしい。その上乃木軍に対する評価は高くないのだから、鴨緑江軍が周囲の部隊から「寄せ集め」と囁かれている状況に、現場兵士はよほど耐え難かったはずだ。
総司令官の大山と、さして戦歴の変わらない川村はこれを察したのだろう。自ら前線におもむいて名も無い老兵らに声をかけてまわった。この時、皮の軍靴からわざわざ草鞋に履き替えたとも言われる。当時の日本人の履物は草鞋であり、軍隊に入るまで靴すら見た事もない人間が大半だったという。川村は単に機能的だから草鞋に履き替えたとの説もあるが、末端の兵士らにとっては親しみやすい風貌であったに違いない。草鞋姿でやもすると危険な前線を歩き回り、おそらくは同じ目線で兵士らと声を交わした。この後、ロシア軍の猛攻を受けた鴨緑江軍の老兵らは、下馬評以上の働きをした。本当の乃木軍が左翼方面にいる事に露軍が気づくまで持ちこたえ、この間に野津道貫らの主力が趨勢を握る事に成功し、奉天での衝突をかろうじて辛勝にまで持ち込む事が可能となった。一連の行動から判断すれば、川村は相当に『人物』であると言えるだろう。 
第一艦隊

 

東郷平八郎 1848-1934 薩摩藩下加治屋町
日本海海戦においてロシアのバルティック艦隊を壊滅させた、日本連合艦隊の司令長官。
日露戦争の英雄として世界中に広く知られるが、元来寡黙なタチだった上、病弱だった事もあって周囲からの評価は決して高いとは言えなかった。ところが、日露戦争開戦に先立ち、日本海軍の育ての親とも言える海軍大臣山本権兵衛による大抜擢を受け、閑職であった舞鶴鎮守府司令長官から、一躍表舞台へと登場する事となる。
それまで、日露開戦時の艦隊司令長官は、当時の常備艦隊(平時の艦隊)司令長官であった豪傑、日高壮之丞中将(薩摩藩)がそのまま任命される事に疑問を挟む者はおらず、当の日高中将も自らが日本海軍を率いてロシアを迎え撃つ心づもりだった。が、幼馴染でもあり、盟友でもある山本大臣が放った逆転人事で、日高はロシア迎撃の大仕事から外される結果となってしまった。これを聞いて激昂した日高は、短剣を抜いて「権兵衛、これで俺を刺せ!!」と山本大臣に詰め寄ったと言われる。
日高に限らず、海軍関係者の多くは常に無口な東郷の実力をつかみ損ねており、その能力は概ね『未知数』という事で一致していた。中には山本の決断を乱暴な人事として露骨に眉をひそめた者もいくらかおり、この時点では、今日世間で言われているような英雄東郷はまだ存在していなかったと言っていいだろう。
この人事については宮中でも話題になったらしく、ある時明治天皇が山本大臣に東郷抜擢の理由をお尋ねになった。これに対して山本大臣は「東郷は運の良い男でございますから」と、あまりにも有名な一言を献上している。
果たして山本は、運だけで東郷を採用したのだろうか?山本が東郷を採用するにあたり、東郷の『熟慮に熟慮を重ねた上で実行に移す』という慎重な性格を評価したと言われている。その性格を如実にあらわす例が、日露開戦の10年前、日清戦争時における英国籍船舶の撃沈事件だ。
東シナ海の海上で『清の兵士』を満載した英国籍の運搬船に遭遇した東郷は、停止命令を無視する英国船への対応に大いに迷った。とは言え選択肢はたったの2 つ、『撃沈』か『放置』のみ。当時はまだ船上から中央へ連絡をとる手段が発達しておらず、国際法に則った『適切な対応』は全て東郷一人にゆだねられた。エリート揃いの海軍において、東郷は決して頭の回転が早い方ではなかった。が、当の東郷自身がその事を深く認識しており、人一倍時間をかけて考え、考え抜いた末に決断に至った。すなわち撃沈である。この結論に至るまで、東郷は清の兵士らを眼前に、実に4時間も熟慮を重ね、この状況下における撃沈が国際法上、何ら問題ない事を確かめあげた上で実行に移したのである。
この事件は一時国内外を騒然とさせたが、結果的に東郷の行動は道理に沿ったものとして、英国との政治問題に発展する事はなかった。山本権兵衛はこの時の東郷の英断を高く評価しており、それが連合艦隊司令長官への抜擢につながった事は間違いないだろう。また、別の要因の一つとして、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』に興味深いエピソードが記載されている。
概略すれば、「…山本権兵衛は若い頃は非常に気性が荒く、同僚らに片っ端から喧嘩をふっかけていた(これは薩摩の風習でもある)。留学から帰国後に配属された艦でささいな事から東郷と口論になり、ここで東郷を打ち負かしてやろうと、得意のマスト昇りで競争し白黒付けようとした。東郷もこれに快諾するが、結果は東郷が半分も登らないうちに山本がマストの頂上まで昇りきるという圧勝だった。が、負けが確定した後も東郷はノロノロとマストの頂上まで昇り詰め、そこで初めて『おいの負けたい!!』と感服して見せた…。」途中でサジを投げず、最後までやり遂げた上で堂々と負けを認める様に、山本は東郷の懐を感じ、大いに関心したとの事である。
こういった経緯もあって連合艦隊司令長官となった東郷は、黄海の海戦で旅順艦隊に打撃を加え、日本海海戦で主力のバルティック艦隊を殲滅。史上類の無い戦果で以って海軍の英雄となるのだが、黄海海戦以後、日本海海戦までの数ヶ月の間は、ひたすら地道に射撃訓練を繰り返し、英国の観戦武官から「拙劣極まりない」と酷評された艦砲技術を「奇跡的な命中率」と唸らせるまでに育て上げた。海戦では「多くの弾を当てた方が勝つ」というシンプルな原理を信条とする一方で、「海上での大砲はそうそう当たるものではない」という現実を薩英戦争以後、身をもって痛感していた東郷が、その性格が表すが如く地道に、ひたすら地道に連合艦隊を研磨した結果、歴史に類を見ない圧勝につながったと言える。彼の司令官としての最大の成果は、地味ながらもここにあったのは間違いない。
東郷には有名な挿話がある。ロシア本国より派遣された主力のバルティック艦隊を迎撃するにあたり、日本海軍は「バルティック艦隊は対馬海峡を通過する」事を大前提とした上で作戦を立案し、それに従って全てが進行していた。が、肝心のバルティック艦隊は5月の14日にフィリピンを出発して以降、いつまでたっても日本の哨戒網にひっかからない。海軍内はおろか大本営でも「ロシアは既に太平洋側を通ったのではないか?」との疑念が日増しに高まっていった。もしそれが本当であれば日本海軍の作戦は全てが水泡に帰すどころか、決戦が先延ばしになる事で戦争が長期化し、講和どころか疲弊した満州の陸軍が壊滅させられる。すなわち敗戦⇒属国化⇒国土消失⇒日本滅亡だ。
「もしも対馬を通らなかったら…」このプレッシャーに耐えかね、作戦立案の張本人である参謀秋山真之が、自ら「対馬迎撃案」の放棄を主張し始めるなど、海軍内の狼狽は目に余るものがあったという。この状況を見かねた第二艦隊の島村速雄(秋山参謀の元上司)はわざわざボートをこいで旗艦三笠の東郷を訪ねた。部屋に入るなり挨拶も抜きで「長官は、バルティック艦隊はどこを通るとお考えですか」と単直に尋ねた。突然の訪問・質疑に驚いた風も無く、少し考えた東郷はたった一言答えて曰く、
「それは対馬海峡よ」
東郷の極端に無口と伝えられるが、若年時はよく軽口を叩いて失敗していたとも言われ、以後発言にまで熟慮を加えた長年の習慣によって、後の無口な性質ができあがったものと推察できる。島村との対面後、そのまま東郷は艦隊を待機させ続け、海戦史上最初で最後の大仕事を遂行する事となる。東郷の姿勢と偉業は、国内のみならず海外の海軍関係者らからも高く評価された。太平洋戦争時の米国太平洋艦隊司令長官のミニッツ提督は、最も尊敬する軍人として東郷元帥の名を挙げている。また帝政ロシアに苦しめられていたフィンランドにとっても東郷は英雄であり、一時期子供にTogoの名前が頻発したとの伝説もある。
戦後東郷は生きながらにして軍神に祭り上げられ、退役後も海軍のご意見番となる。現役の海軍重役が、重要事項を決定の際に必ず東郷の意見を聞く事が習慣化、結果として日本は主力が航空機に移り変わる時勢に乗り遅れ、昭和に入った後も大艦巨砲主義の呪縛にとらわれ続ける事となる。『先人を敬う』儀礼は我々の国民性における尊い部分だが、それは同時に『前例至上主義』による思考停止と紙一重の性質を持つ。その後の日本海軍の行き着く先は歴史の示すとおりである。 
加藤友三郎 1861-1923 広島藩
日本海海戦時における連合艦隊参謀長。後に海外の記者からロウソクとあだ名されるように細身の風貌だった。
士官学校時代は、島村速雄(第二艦隊へ転出)と主席を争う優秀ぶりを見せたが、人間味にあふれ周囲からの信頼もあつかった島村とは性格の面で対照的であったとされる。
薩摩・長州の人間が重要なポストを独占していた当事において、薩長閥でないにも関わらず着実に地位を上げていったのは頭脳の明晰さによるものだが、特筆すべき点は加藤の才を高く買った薩摩の山本権兵衛による後押しだろう。薩摩閥の出身ながらも派閥にこだわらない人事を行っていた山本は、早くから加藤を抜擢し、自らの後継者の一人として十数年に渡って教育をほどこしてきた。その加藤が連合艦隊の参謀長として勇躍し、後には総理大臣にまで上り詰めるのだから、山本権兵衛の教育と先見の明には改めて感嘆するしかない。
日露が開戦するにあたり、当初、連合艦隊の参謀長は島村速雄だった。これは総司令官の東郷平八郎の意向もあったとされ、参謀長に内定していたとも言われる加藤は上村彦之丞率いる第二艦隊の参謀長に。上村艦隊がウラジオ艦隊補足に失敗し、怒った国民から留守宅が投石された際、参謀長の加藤宅も同じく投石を受けている。が、蔚山沖会戦で雪辱を晴らした後に連合艦隊の参謀長として転任、代わりに島村参謀長が第二艦隊の第二戦隊指揮官として転出する事になった。
生真面目な加藤としては、連合艦隊の傍若無人な秋山真之参謀が目障りだったとも言われるが、加藤も秋山の才能は高く買っており、作戦全般は秋山主導で展開する事に。日本海海戦前には、その重圧から秋山参謀が大いにやつれた話が有名だが、参謀長たる加藤も胃が相当まいっていたらしく、軍医にかかりきりの日々が続いた。元々加藤はかなりの酒豪として知られており、幼少の頃より既に兄の晩酌の相手をしていたとの逸話が残る。この時の胃痛はそうした長年の負担と無縁ではないかもしれない。
日本海海戦においては、東郷、秋山と並び、無防備な艦橋でただ3人最後まで立ち続けその職務を全うした。戦後、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令官などを歴任するが、その間、八代六郎が海軍大臣に就任し、山本権兵衛の築いてきた海軍の方針が戦前とは徐々に違ったものになりはじめた。後に加藤が総理大臣に就任するに当たり、人事や制度において山本権兵衛の意思を継承する路線を取るも、この時点で海軍は潜在的な亀裂を内包。加藤の時代においては良質な海軍が維持されるも、昭和に入ってからは明治の頃とは異質の海軍へと変貌するに至ってしまった。
加藤は米国との戦争の可能性を既に認識していたが、軍縮や外交によってこれを回避する事が最善と考えていた。「国防は軍人の専有物にあらず」とも述べており、既に国を私物化しはじめた軍隊を危ぶんでいたとも言えよう。加藤の危惧が具現化するまで、そう長くはかからなかった事は周知のとおりである。
予断だが、後の大戦の際、広島にあった加藤の銅像は銃弾用の金属として徴用され、台座だけが残されるという憂き目に会っている。その台座も大戦末期に世界初の原子爆弾にさらされ、今なお主無き台座として現地に残存している。 
秋山真之 1866-1942 松山藩
「智謀、湧くるが如し」とは東郷平八郎による評である。連合艦隊参謀として、日本海海戦の大部分を立案したとされる。風貌は際立ち、目つきの鋭さや行動様式の独自性から、海軍内でも一際異彩を放つ存在だった。人一倍の集中力に長け、一度考え始めると談話中であろうと相手の存在を消し去って思考に没頭できたとも言われている。
幼少より気性が激しく、常に子供らの悪事の先頭に立つような性格だったらしい。しばしば喧嘩騒動なども起こし、両親の心配は尽きないタイプ。成人してからもギャンブル上のトラブルで外国人のチンピラを脅しつけたエピソードが残るように、生来そういう気質だったのだろう。にもかかわらず並外れた頭脳を持ち合わせている点は海軍大臣の山本権兵衛と類似しており、両者が接した際にどのようなやりとりがあったのか非常に興味深いところでもある。
秋山の頭脳の明晰さにおいては加藤友三郎参謀長らを始め多くがそれを認めているが、彼が比較的自由に振る舞えたのは開戦当時第一艦隊参謀長であった島村速雄の存在が大きいようだ。戦後に島村は「日露戦争における海上作戦はすべて彼の頭脳から出たものであります」との証言を残しているが、実際のところは島村が『秋山が全てを出せるよう』お膳立てたと言えるかも知れない。
日露開戦において、海軍における最初の山は旅順口の閉塞作戦だが、これは先に米西戦争で米軍が行った作戦を参考とした秋山によって主に立案されたものだ。観戦武官として米西戦争に参加した秋山は米軍のこの発想に感嘆したというが、事実、日本でも連合艦隊内で作戦要員を募集した際、非常に多くの兵士がこの作戦参加に志願し、選に漏れた者が上官に泣きついて作戦参加を懇願するほどだった。それだけ作戦として魅力的であり、かつ多くの兵士を魅了するだけの戦果が期待されたという事だろう。が、立案した秋山自身、いざそれが動き始める段階になり「兵員に危険が多すぎる」として急遽消極的になっている。この不安定さは、日本海海戦や戦後の精神世界への傾倒と通じるものがあるが、極めて感性が豊かであったこの男のモロい部分が、戦場の現実に揺さぶられていたと解釈もできる。
旅順口閉塞作戦は、いざふたを開けてみるとその戦果は芳しくなく、一方で死傷者がじわじわと累積し始めた。作戦指揮を取った有馬良橘は思いつめて体調を崩して戦線離脱。秋山の親友であった広瀬武夫は旅順要塞の砲弾に身を砕かれ、以後日本で最初の軍神へと祭り上げられるに至った。
結局たいした成果を残せないまま作戦は停止。その後、黄海の海戦などを経て連合艦隊の主眼はいよいよ陸軍へと向けられるようになる。すなわち203高地である。結果を知る我々からすれば、203高地を軽視したロシア軍や乃木希典ら第三軍司令部は無能と思いがちであるが、第二次大戦を経験した元日本海軍軍人の千早正隆氏などは、著書で秋山参謀の英知を絶賛している。この高地にかなり早い段階で目を付けた秋山の神眼に感服するというのだ。
確かに、航空機の存在しない明治期においては二次元の海面(地面)が全てである。三次元の視点で本質を見抜くのは並外れた眼力の証だろう。ドイツから招聘された陸軍の軍師メッケルが将校に必要な資質として『想像力』を挙げているが、秋山はこの才においても大いに優れていたようである。ともあれ、この203高地が旅順攻略作戦におけるキーポイントと見た秋山は、連日、陸から旅順を攻略する乃木希典の第三軍方面に矢のような督促状を送り続けている。その内容は理路整然とした長文であり、先出の千早氏は、参謀職の激務の合間にあれほどの文章を書き上げるとはどういう処理能力なのかと驚きを隠さない。
司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』では、203高地へ主力を向けない乃木軍に対して海軍が相当いらだっていたというような記述があるが、秋山の督促状を見る限りでは、そういった類の表現はない。乃木軍の第一回総攻撃の惨たる結果をねぎらいつつも、ただひたすら203高地が天王山である旨を論じ続けているのである。12月に入りようやく203高地が占領された翌日の催促状には、連合艦隊司令部が小躍りして喜んだ旨まで記載しており、その勢いで速やかに旅順艦隊への砲撃を開始するよう激励している。旅順要塞陥落後、旅順港に入港した東郷と乃木の面会が設けられたが、現場まで付き添った秋山はこの時の面会を大いに感動的な場面として受け止めたと言われ、少なくとも乃木軍に対する恨みがましさなどは示されていない。
旅順陥落後、日本軍は制海権を完全に掌握、既にロシアを発したバルティック艦隊をいかに有利な体制で迎撃できるかが主眼となった。以後、連合艦隊は艦の整備と砲撃の修練に全てを費やすのだが、この間の秋山は終始海戦のシュミレーションに没頭していたようだ。日本海海戦では7段構えの作戦や東郷ターンが有名だが、それ以前の問題として、バルティック艦隊は“いつどこを通るのか”という事が海軍首脳部を悩ませた。その中枢にいた男が秋山であり、参謀長の加藤だった。両者ともこの間に相当やつれ、バルティック艦隊がフィリピンを発したとの情報が得られて以降、彼らの衰弱ぶりは目も当てられなかったと伝えられる。ここに来て秋山は精神の不安定さを露呈し始め、既に決定された『対馬での迎撃』を破棄する旨、勝手に大本営に送信するなど、なかなかの危うさを歴史に刻んでいる。
5月27日早朝、「敵艦見ゆ」の報を受信後、秋山は一人小躍りしている姿を目撃されているが、この数時間後にかの有名な「本日天気晴朗なれども波高し」の電信が打たれる事になる。いよいよ海戦が始まってからは、東郷、加藤の両者とともに危険な艦橋に立ち続け、日が暮れるまで遂にそこを動かなかった。日没後に駆逐隊による掃討戦に入ってからは、ひたすら報告書の作成に務め、翌日の追撃について思いをめぐらせた。司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』では、海戦序盤に大炎上したロシア戦艦『オスラーヴィア』の惨況を目の当たりにした秋山が深く衝撃を受けた旨記載されているが、事実この戦艦の炎上はこの海戦においても象徴的なものだった。
戦艦の装甲は「仮に自らの主砲で自らの装甲を打ち抜いたとしてもそれに耐えられる」ものと定義されており、この条件を満たせないものは戦艦とされない。また、物理的にも沈まない設計であり、当時想定された海戦において戦艦が沈没する事態はあり得なかった。その戦艦が目の前で二隻も炎上している。弾薬に引火した『オスラーヴィア』の炎と黒煙は天まで届き、途中視界が悪すぎて砲撃を止めざるを得ないほどだったと言われる。そして、決して沈まないと言われ続けたた戦艦は、やがてあっけなく沈んだ。しかもこの海戦を通して通算六隻もの戦艦がことごとく海面に没しているのである。
理論家で博学だった秋山としては、艦砲での沈没など想定したはずもなく、だからこそ執拗な夜間の魚雷攻撃も含めた7段階もの迎撃網を苦心して構築したのではなかったか。秋山がどの段階で仏門を志したかは定かではない。が、一連の『出来事』が秋山をキリキリと締め上げ、結果として後の精神世界への傾倒が深まったのは各伝記が伝えるとおりだ。終始微動だにせず、凱旋後も顔色変えずしばしば料亭で遊び倒した東郷平八郎とは極めて対照的な末路と言える。
戦後はかつて教官であった八代六郎と近い位置にあり、かの鈴木貫太郎を軍部上層へ引き上げるなどの働きを見せるが、既に陸海軍の主動が政争の色を強く帯び始めていたこの頃において、秋山の存在価値は次第に薄まっていったに違いない。以後、息子を仏門に入れ、自らも特定の宗教に傾倒し、極めて静謐に歴史の表舞台から立ち去って行った。
軍神たる東郷平八郎の陰に隠れ、国民からは目につかなかったこの功労者も、もちろん海軍内においては長く伝説的な参謀とされ、日露開戦から70年を経た後に『坂の上の雲』によって一般にも広く名を知られる事となった。 
三須宗太郎 1855-1921 彦根藩
第一艦隊所属、第一戦隊司令官。
第三戦隊の出羽重遠に続き、薩長閥以外で大将にまで昇り詰めた人物である。バルティック艦隊の集中砲火によって負傷、後に海軍の『独眼竜』の異名となる。
生まれは彦根藩だが、ここの藩主は桜田門外の変で討たれた井伊直弼である。三須宗太郎の『宗』の字は井伊直弼の戒名である「宗観院柳暁覚翁居士」にあやかって命名されたものであり、本人も井伊直弼に対して尊敬の念を抱いていたとされる。井伊直弼は尊皇攘夷派を大弾圧した張本人であり、薩長をはじめとする倒幕派からみれば文字通りの『仇』である。海軍兵学寮時代の三須の肩身の狭さが容易に想像できよう。この時の同期に、薩長閥以外で初めて海軍大将に昇り詰めた出羽重遠がいるが、かれらの栄達はこの時期の逆境の上に成り立つものだ。
日露開戦当初、三須は第二艦隊所属の第二戦隊指揮官の座にあった。これは扱いが極めて難しい上村彦之丞長官の存在が前提にあり、中央で人事の部署にいた三須が、自ら上村の下に配属される事を選択した事による。第二艦隊及び上村長官がウラジオ艦隊に翻弄され、国内で『露探』よばわりされていた頃、三須は上村の癇癪を全身で受け止めざるを得ない位置にあり、常に罵声の的であったとも推測される。この苦境は蔚山沖海戦の完勝によって報われ、この後に三須は第一戦隊の指揮官に転出する事となった。
第一戦隊は、旗艦の『三笠』をはじめとする主力戦艦から成る隊であり、日本海海戦において三須自身は殿(しんがり)となる戦艦『日進』に乗艦した。日本海海戦初動における『東郷ターン』は世界中の知るところだが、この時ロシア側が最も砲撃を集中させたのが旗艦の『三笠』であり、次の目標となったのが隊の最後尾に位置した『日進』である。この2艦は日没まで終始ロシア側の目標とされ、事あるごとに被弾する災難に見舞われる事になる。
『日進』が無事ターンを終えた後、装甲の薄い第二艦隊は比較的安全な距離を保ってターンを完遂、この頃には第一戦隊によって既にロシア側の頭を押さえ込む陣形が出来上がっており、連合艦隊主力艦の側面という側面が一斉に砲門を開くに至る。開戦から一時間もたたない間にバルティック艦隊の旗艦『スワロフ』は炎上、まもなく『オスラーヴィア』が大火災、遂には戦艦の常識を打ち破って沈没する悲劇を実演する事となった。この後形勢が逆転する事はなかったが、依然砲撃の目標となっていた『三笠』と『日進』はしばしば被弾、日も傾く16時過ぎ、三須の近くにも着弾があり将校の多くが死傷した。この時破片の一部が三須の顔面を直撃し、冒頭に述べた『独眼竜』の所以となる重症になった。日没が近づくにつれて海戦の主役は駆逐隊へと移り変わり、以後『日進』は後部8インチ砲塔左砲に砲弾直撃をくらうも、致命的な被害を被らないまま歴史的な海戦を無事終えるに至った。
海戦中に顔面に食い込んだ破片は、戦後も体内に残って耳鼻科系の障害で三須を悩ませたが、十数年の後、ようやく鼻腔から自然に落下したと言われる。晩年は故郷にほど近い舞鶴鎮守府司令長官の職務を全うし、66歳で没した。 
出羽重遠 1856-1930 会津藩
第一艦隊に属する第三戦隊の指揮官。薩摩閥以外で海軍大将まで昇進した最初の人物である。
戊辰戦争時に賊軍の要となった会津藩の出身だが、この時に白虎隊として戦争に参加。他の賊軍上がりとは別の道を歩んだのは、『白虎隊の美談』が影響したと見る事もできる。
第三戦隊とは、巡洋艦の『笠置』を旗艦とする編成で、以下に『千歳』、『音羽』、『新高』から成る。これに対して第一戦隊は東郷平八郎が乗艦する『三笠』をはじめとする4隻の戦艦と2隻の装甲巡洋艦から成る。これに駆逐隊や水雷艇などを含めて第一艦隊というまとまりになる。
日本海海戦直前の段階において第三戦隊は対馬近辺で哨戒任務下にあり、バルティック艦隊を最初に発見した『信濃丸』からの打電を受け現場に直行、艦隊の監視を行った。彼らが現場海域に到着した時点で、既に片岡七郎の第三艦隊が敵艦隊と併走していたが、バルティック艦隊は火蓋を切らずにこれらを黙殺し続けている状態にあった。この背景には隊列の乱れや弾薬の無駄遣いを恐れたロジェストウェンスキー提督の判断があったとされるが、砲門だけはキッチリと日本側に向けられており、内情を知らない第三艦隊としてはギリギリの距離で航行する難しい時間帯が続いていた。
この緊張状態において敵艦隊を挑発したのが出羽の第三戦隊である。片岡の第三艦隊(第五・第六戦隊)が射程距離の淵を出入りしているのに対し、出羽は一気に敵艦隊の懐までもぐりこむ暴挙に出た。距離7,000を切れば互いに十分な砲撃が可能になるが、第三戦隊はさらにじわじわと距離を詰め、3,000mあたりまで接近して見せたという。この時、最も距離を近づけられた戦艦アリョ−ルの一兵が耐え切れず暴発、指令の命を待たずに砲門を開いてしまった。これを合図に号令を待ちかねていた他の艦船らが次々と砲撃を開始、出羽の第三戦隊は集中砲火の的となった。もしこの時波が低ければ、いくつかの命中弾によって第三戦隊は大きな損害をこうむっていた可能性があり、後の作戦に心理的な面で影響を与えていたとも推測できる。
どうにか射程圏外まで逃れた第三戦隊だが、この冒険の裏には『賊軍』としてはいつくばってきた出羽の海軍人生があったのかもしれない。当時の軍隊上層部はことごとく薩長閥が独占。とくに海軍は薩摩単独の天下であり、『賊軍出身』の人間は多かれ少なかれ理不尽な扱いを受けてきた。出羽なども例外ではなく、ある程度の地位を得てからも、そのせいで逆に風当たりが強かった事は想像に難くない。長年耐え忍んだ末の反骨心が、敵の大艦隊を前に出羽を暴発させたと考えるのは、決して邪推ではないだろう。
日露戦争終結後、佐世保鎮守府の司令長官や教育本部長を歴任し、冒頭にも触れたように海軍大将へと昇進。当時も新聞などでも大きく扱われた。あくまで憶測でしかないが、この瞬間に出羽の海軍人生は極まったものと思われる。一人になった後、男泣きに泣いたかもしれない。 
有馬良橘 1860-1930 紀州藩
第一艦隊参謀。旅順口閉塞作戦の指揮官。
生まれの紀州は徳川幕府御三家の一つであり、複数の将軍を輩出してきた歴史がある。戊辰戦争後の明治においては賊軍中の賊軍と言えるだろう。有馬の父親は紀州徳川家の家臣であった為に維新後の風当たりが相当に強く、良橘自身も幼少より苦労を重ねてきたらしい。この影響もあってか生涯を通し極端なほどに質素な生活を是とし、東郷平八郎からの信頼厚く、側近中の側近と言われた。
日露戦争の序盤において、海軍にとって最初の大掛かりな作戦となった旅順口閉塞作戦。これは湾口の狭い旅順港の出口に船舶を沈めて港を無力化する斬新なもの。原案は米西戦争を視察した参謀秋山真之によるものだが、兵士の危険が高すぎる事からいざ実行に移す段階で、秋山自身が及び腰になっていた。東郷平八郎も、生還が絶望的な作戦は作戦ではないとし、概ね反対の意向を示していたが、これに反して作戦参加への志願者は多数。数倍の抽選を以って作戦要員が選ばれるという有様であった。
秋山同様、以前から旅順港口は閉塞させるしかないと考えていた有馬としては、絶対に成功させるという気概があっただろうし、また膠着する旅順艦隊攻略作戦に業を煮やしていた事情もあっただろう。有馬は東郷の意向を半ば無視する形で細事を進め、自沈させる船の選別、さらには爆薬の積み込みまで終えた状態で現状を報告。既成事実を先行させることで作戦実行まで漕ぎ着けた。一参謀が独断で話を進めてしまった格好だが、自らが作戦に参加し、先頭に立って死地に赴く事で、その責任を示したと言える。
ところがいざ作戦が始まってみると、旅順要塞の砲撃が激しすぎ、ほとんどの艦船が湾口までたどりつけない。死を覚悟で望んだ有馬にとっては断腸の結果であったが、特に第二回目の作戦では、福井丸を指揮する広瀬武夫少佐が犠牲になるなど、いよいよ被害が深刻になってきた。何事にも実直な性格の有馬だけに、この結果を痛恨の極みと受け止め遂に病身へ。無念の戦線離脱となった。尚、有馬が外れた後の第三回閉塞作戦は別の指揮官が作戦を担当するも、結局芳しい成果を上げるに至らなかった。
連合艦隊としては非常に厳しい結果ながら、一方で一連の経緯を見守ってきた欧米の観戦武官やマスコミはこれらの作戦を概ね好意的に捉えたらしい。彼らの記事や報告によって欧米の、連合艦隊に対する評価が上がったとも言われる。指揮官が自ら死地に赴く姿勢や、作戦に対する将兵らの士気の高さが、当時の欧米の感覚もしくは日本に対する先入観と大きく異なっていたのが原因ではないかと思われる。さらにこの時期、緑鴨江では黒木為驍フ第一軍が初戦を圧勝して見せ、これらの出来事によって日本に対する世界の見方が一変。当初全く売れる気配の無かった外債が飛ぶように売れ始め、戦役継続の資金をどうにか獲得するに至っている。
有馬は元来、政治的なものには口を挟まず、戦後も従来どおり実直な生き方を貫いた。山本権兵衛失脚の原因となったシーメンス事件では、政治に介入した軍閥関係者らの思惑が大いに渦巻いたが、調査委員であった有馬はそうした雑音に一切交わらず、ただ事実に基づき公平な判断を下したとされる。
ちなみに、この時失脚した山本権兵衛は事件とは全く無関係で、事件発覚時にたまたま総理大臣の役職にいたにすぎない。が、雄弁で知られる権兵衛は一切の言い訳もせず、野党の言うままに責任をとる道を選んだ。有馬にしろ山本権兵衛にしろ、こうした係争とは無縁でありたかったに違いない。彼らに限らず、幕末から闘い続けてきた多くの指揮官らは政治とは無縁の道を選んだ。が、中には駆け引きや権力が大好きな人物もおり、列強に躍り出た後の日本はこういった連中によって牽引されていく事となった。 
鈴木貫太郎 1868-1948 関宿藩(千葉県)
第二艦隊に所属する第四駆逐隊司令。後に太平洋戦争を終結に導いた総理大臣、鈴木貫太郎と同一人物である。180cmを超える巨体で目立ち、艦長時代の山本権兵衛からも目をかけられたという。徹底した訓練を行う厳しさから、部下には鬼の貫太郎、鬼貫などと呼ばれた。
戦時における駆逐艦の主要任務は重に魚雷による敵艦襲撃である。戦艦三笠が15,000t前後なのに対し、駆逐艦はその30分の1以下(400t弱)の大きさであり、身を挺して魚雷を発射する事が使命だった。駆逐艦隊が最初に躍動したのは宣戦布告前後の旅順港奇襲作戦だが、この作戦は芳しい成果をあげていない。続く黄海海戦においては、敵の残存兵力を叩く任務が下ったが、やはり駆逐隊は成果をあげる事ができなかった。原因として、各駆逐艦が敵の反撃を恐れ、比較的遠い距離から魚雷を発射していた事が指摘されており、秋山真之をはじめ連合艦隊の司令部は相当業を煮やしたという。それら不甲斐ない駆逐隊の中に鈴木貫太郎はあった。
日清戦争を経験した鈴木の持論は「高速近距離射法」。読んで字のまま高速で懐に飛び込んで魚雷を発射するという考えであり、日露戦争においては揮下艦艇にこの点を徹底して強化させた。が、黄海海戦では、まさに鈴木の持論と真逆の運用が行われた為に当初の戦果は惨々たるもの。これによって駆逐隊の名は汚泥にまみれる事となった。これは逆説として鈴木の持論が肯定されたという事でもあるが、ともあれ一連の作戦に参加した鈴木は屈辱で夜も眠れなかったに違いない。
本来ならば無名で終わる駆逐隊の鈴木が、歴史の表舞台に登場するのはバルティック艦隊迎撃の直前である。連合艦隊によって東シナ海に展開された索敵網がバルティック艦隊を捕らえたのは5月27日の未明であり、索敵を主任務とした第三艦隊を主軸に数時間に及ぶ敵艦隊の追尾が行われた。司令官片岡七郎が率いる第三艦隊は敵艦隊の構成や速度、隊列、進行方向などを逐次打電し続けたが、濃霧や高めの波によって正確な航路割り出しに若干手間取った。この時片岡は危険を承知で艦隊の真正面に艦艇を出し、バルティック航路を計測する方針を決定。危険任務実行にあたり相当な覚悟で挑んだはずだが・・。
片岡がこれをやる直前、第二艦隊所属となる鈴木の隊が独断でこれをやってしまった。三景艦(厳島・松島・橋立)などの旧式艦で編成された第三艦隊にとってバルティック艦隊は脅威そのものだが、さらに規模の小さな鈴木の駆逐隊が敵艦50隻弱の真正面に展開、正確な航路割り出しにあたったのである。鈴木持論の「高速近距離射法」に必要なのは恐怖に耐えうる胆力だが、鬼貫がしごき上げた駆逐隊の成果がこういう場面で一気に表面化する事となった。
この時の鈴木の行動はロシア側にとっても想定外であったらしく、まさかこれが航路計測の為の行動とは思わない。バルティック艦隊の司令部は航路に大量の機雷がまかれたと判断し、おかげで隊列が大きく乱れる事に。立て直しに至らぬまま主戦場に突入となった。
主力艦同士の激突において駆逐隊の出る幕はない。初日の両艦隊激突の後、夕暮れが近付くとともに再度駆逐隊の出番となる。17時前、鈴木が率いる第四駆逐隊に東郷から発動の命令が出た。目標はバルティック艦隊旗艦の『スワロフ』だ。各艦、鈴木の持論どおり600mほどまで近付き魚雷を発射するも高波によって命中せず。業を煮やしたのか、鈴木は自らが乗艦する『朝霧』を300mまで接近させ、至近から魚雷を放っている。残念ながらこれも的を外す一方、『朝霧』に追従して同じく300mまで接近した『村雨』の魚雷が『スワロフ』に命中している。撃沈に至らなかった為に大きな成果とはとられなかったが、この攻撃によって『スワロフ』は旗艦としての機能を完全に失う事になった。
夜間に入り再度駆逐隊に出撃の指令が出され、一晩をとおして鈴木の駆逐隊は3隻撃沈の成果を挙げるに至った。これは全駆逐隊の中でも際立つ快挙であり、かつて旅順港閉鎖作戦や黄海海戦においてこき下ろされた頃の駆逐隊からすればまさに雪辱だったろう。第四駆逐隊の働きを見た東郷平八郎は大いに喜び、掃討戦後に旗艦三笠を訪れた鈴木に対し30分もの間戦況の推移について語り続けたと言われる。無口で知られる東郷の饒舌ぶりを初めて目の当たりにした鈴木は、後に『閣下があれほどしゃべるのを見たのは初めてだ』と語っている。尚、この掃討戦において第四駆逐隊の活躍が飛びぬけていた為、参謀の秋山真之が撃沈の成果一隻を他の隊に譲って欲しいと迫ったのは有名な話。鬼貫鈴木と以下、骨肉を削った隊員らにとって感無量の栄誉であったに違いない。
・・この世界海戦史上の快挙から実に41年後、鈴木は米軍の焼夷弾によって焦土と化した東京で、失脚した東條英樹に代わって内閣総理大臣に就任する事となる。秘密裏に終戦を任務とした内閣であり、辞退し続けた鈴木に対し昭和天皇がなかばお願いする形でようやく成立した内閣だった。第四駆逐隊時代に見た国家の姿は既に無く、暗殺を警戒しながらの国家運営は人生終盤の鈴木にとって残酷すぎる舞台と言うしかない。表立った行動を取れない鈴木に対し、周囲は決断力の無さを指摘した。終戦工作の時間を稼ぐ為に『ポツダム宣言』をやり過ごした鈴木を、マスコミは『ポツダム宣言黙殺』として大いに騒ぎ、これを知った米国は遂に原子爆弾投下を決定することになる。
対米戦争終結後、鈴木は日本の武士道精神の枯渇を心から悔やんだと言われる。たったの40年で世界の列強に追いついた日本は、同じく40年で地に没した。鈴木に言わせれば、その最大の原因は日本人の精神の堕落という事だったのだろう。 
広瀬武夫 1868-1904 岡藩
旅順口閉塞作戦における現場指揮官。当作戦における戦死の結果、日本においておそらくは初の軍神として祭り上げられる事となった。
年齢が一つ違いの秋山真之とは交流が深く、一時期は住居をともにしていた間柄であり、同年代を見下しがちな秋山が珍しく対等に付き合った数少ない人物と言われる。両者は、後の海軍大臣、八代六郎を通じて知り合ったらしく、秋山にとってかつての教官だった八代の自宅に、広瀬が日々柔道の練習に通っていた事が縁だと伝えられる。
米西戦争に観戦武官として参加した秋山は、新興国の米国がかつての海軍王国のスペインを叩きのめす様を目の当たりにし、特に米国艦隊の湾口閉塞作戦に感嘆した。彼が帰国して後、広瀬に対し「今回アメリカがスペインに対してやったのと同じことをもっと大規模にやれば、ロシアだって袋のねずみだ」と語ったとされるが、そしてそれから数年後、広瀬は実際にその作戦に参加する事になったのである。
旅順口の閉塞作戦が予想以上の難航した一因は強力な要塞砲だ。同じく強力な探照燈が常に夜の海を照らしてまわり、船影を認めようものなら容赦なく砲弾を連発する。かつて日清戦争の時に日本軍が陥落させた旅順要塞とは全く別物の近代要塞であり、三国干渉以後、ロシアが実に十年もの月日を費やして構築した牙城だった。米西戦争で秋山がスペイン艦隊に見た『脆弱さ』は旅順のロシア軍には微塵も無く、ただただ鋼鉄の山から日本側に対して徹底的な打撃が加えられ続けたのだった。
広瀬は第一回閉塞作戦において『報告丸』の指揮官として参加。士官学校での成績は下から数えたほうが早かった広瀬は、しかし水雷術においては並ぶ者がいなかったとされる。その広瀬を含む日本の水雷艇が旅順の港口を目指すも、その手前で猛烈な砲撃に叩きのめされ、目的を達する事かなわず撤退するに至っている。
第二回の作戦では『幸福丸』の指揮官として挑むも、ここでもロシア側に察知され、あえなく集中砲火の的となっている。辛うじて湾口近くに船舶を停泊させ、爆薬を仕掛けた後に脱出をはかるも、いざ避難用のボートに集まってみれば部下が一人足りない。複数の要塞砲の射程内にあって既に死線スレスレのところにありながら、広瀬は3度、実に3度も船内に戻り、行方不明の部下を探したらしい。逃げ遅れた部下が一人だけ爆薬とともに海に沈むのがどうしても受け入れられなかったようである。それでもいよいよ砲撃が激しくなり、遂にボートで現場から脱出をはかった時、広瀬はこの世から消えた。他の部下たちが気づくまもないほど一瞬の事だったと伝えられる。広瀬の体はボートの上から瞬時に消え去ったというのだ
広瀬武夫とはこういう男であった。常々部下の面倒見がよく、いやな仕事を事を率先してこなすなど、周囲からの人望が厚く、その生き方の延長によって遂には自らの命を落とし、部下想いのこの美談によって後に『軍神』に祭り上げられた。広瀬は要塞砲の直撃を受けたと推測され、それゆえに『数辺の肉片を残して消え去った』といったような描写をされるが、実際にはそうではなかったようだ。2010年の2月、ロシア側の資料によって、広瀬の遺体がロシア海軍によって海中から引き上げられていた事が分かったのである。
広瀬は軍部内において数少ない知露派であり、日清戦争後のロシア駐在によってかの国に多くの人脈を築いた。士官同士の関係のみならず、海軍重役の娘、アリアズナとの親密な関係は有名なところであり、旅順口閉塞作戦前にもアリアズナへ手紙を書き送っている。広瀬の遺体がわざわざ海底から引き上げられたのは、こういった人脈によって、ロシア軍部内で何らかの働きかけがあったのは間違いないだろう。資料によれば、引き上げられた広瀬は頭部を除けばほぼ無傷であったという。その後葬儀を以って丁重に葬られたとされ、その時の一連の写真はロシア側に現存しているとの事である。
現代に生きる我々にとって軍神と言えば、戦意高揚に利用されるネガティヴなイメージが先行しがちだが、それはここからもう数十年先の話だ。ロシア海軍の軍人からすらも別段の敬意とともに遇された広瀬の事例を見れば、少なくとも我が国最初の『軍神』は純粋に広瀬という功労者に対する、慰労と尊敬によって祭られたと理解するのが正解だろう。
広瀬武雄が迎える事のできなかった37歳の生誕の日、5月27日。東郷平八郎率いる連合艦隊は対馬沖にてバルティック艦隊を迎撃。前にも後にも並ぶ例の無い、海戦における完全勝利によって祖国防衛の責務を果たす事となった。 
第二艦隊

 

上村彦之丞 1849-1916 薩摩藩
第二艦隊司令長官。戦艦を中心に編成される第一艦隊に対し、装甲巡洋艦で編成されたのが第二艦隊である。その機動力を活かし、海戦当初はウラジオストク艦隊撃破の任務を負う。上村は非常に短気で気性が荒い事で知られ、同郷の東郷平八郎をして「あれほど感情の激しい男はおらん」とまで言わしめている。
上村が撃退すべくところのウラジオ艦隊は、文字通りウラジオストクに常駐するロシア艦隊で、物資を運ぶ日本の輸送ラインを急襲しては沈める作戦を任務としていた。これにより、日本は将兵をはじめとする物資をしばしば沈められ、まさに戦略上の痛点であった。制海権の確保は、既に開戦よりずっと以前から山本権兵衛海軍大臣によって強く主張されていた事であり、よってわざわざ第二艦隊が編成されていたわけだが、開戦後しばらくはこの任務を果たせていなかったのが第二艦隊上村長官の不運だった。
第二艦隊苦戦の理由として、相手のウラジオ艦隊が機動性に優れた艦船の集まりであったこと、それらがあくまで輸送船の奇襲を目的としており、上村艦隊と戦火を交える意思が皆無であったこと、また日本海特有の濃霧がウラジオ艦隊の逃亡に有利であったことが挙げられる。この為、上村艦隊は何度かウラジオ艦隊を補足しつつも、あと一歩で逃げられる醜態を繰り返していた。国内では上村への罵倒が吹き荒れ、議会でも上村を露骨に無能扱いする声まであった。
この間、妻が守る上村の自宅には投石が繰り返され、前線の上村には上村を痛罵する手紙や書面が殺到したと言われる。万人の間でも群を抜いて感情の激しい男が、吹き上がる自らへの酷評に対しどれほどの心傷を患ったかは察して余りある。この間上村は一切気にしないそぶりで通したというが、佐藤鉄太郎参謀には上村の背中が小さく見えたという。
そんな雌伏の時を経て、上村艦隊はようやく任務をまっとうする機を得る。日本主力の東郷艦隊とロシアの旅順艦隊が激突した黄海海戦が行われたのは開戦の年の夏、8月10日。そしてその4日後、ウラジオ艦隊は旅順艦隊が壊滅したとは知らずに合流予定地点に進み出た。ここで遭遇したのが上村艦隊であり、退路を断ちつつ全艦がありったけの砲弾を吐き出した。世に名高い下瀬火薬が黄海海戦に続いてここでも大火焔を上げ、この時わずか3隻のウラジオ艦隊は散り散りとなった。上村は余人を寄せ付けないほどの激情をぶちまけながら砲弾発射の指令を出し続け、遂にはウラジオ艦隊壊滅寸前に追い詰めながらも弾切れに至る(これは誤報だったとの説もある)。この時上村は伝言用の黒板を叩きつけて暴れるように悔しがったと言われるが、その数時間後には半沈の敵艦リューリックから乗組員を救助する冷静さを取り戻している。
上村が数ヶ月もの間呪い続けたウラジオ艦隊に対し、救済を施したのは彼の人物を見る上で興味深いものである。上村艦隊に徹底的に叩かれたロシアのリューリックは、誰の目にも戦闘不能は明らかで、乗員は沈没に備えて早急に避難するべき状態にあった。にもかかわらず、どんどん傾いていく船体において、リューリック乗員は砲を打ち続けており、僚艦が戦線離脱した後も戦意を途切れさせることがなかったらしい。この勇敢さが上村の琴線に触れたようなのだ。
薩摩武士にとって『勇敢である事』と『弱者をいたわる事』は最大の美徳であるとされる。薩摩型の典型的気質でこの地位まで登ってきた上村が、敵艦乗組員の救済命令を出したのは、まさに必然であったと言える。後にこの行為は日本国民に大いにウケ、直前まで『無能』との中傷を浴びせてきた世間の評価は一変、武士道の鑑として大いに賞賛される事となる。
罵倒と賞賛が吹き荒れた上村と類似のケースとしては乃木希典の例がある。乃木が旅順要塞攻略に手間取った際にも、乃木邸には投石が繰り返され、留守を守る妻はたいそう心細い想いをしているのだが、戦後になってみれば世間は手のひらを返したように乃木を賞賛、軍神に祭り上げた。失敗した者に対して陰から徹底的に打撃を加える性質は、我々日本国民が持つ陰湿なる部分の最たるところだが、一方で物事に一気に熱狂し、理性を失いかけるのもやはり我々の(時に負の性質を持つ)国民性と言っていいだろう。
さて、ウラジオ艦隊撃退から9ヵ月後の日本海開戦において、上村は再び重要な働きをする事になる。戦線離脱を試みるバルティック艦隊の進路を見誤った東郷らの指令を無視し、独断で逆方向へ転進、退路をふさぐ事で敵艦隊の逃亡を完全に防ぎきったのである。これがなければバルティック艦隊は戦線から無事に離脱、ウラジオ港への退避を果たせたはずであり、結果として今の日本は無かったかもしれない。
戦後、参謀の佐藤鉄太郎は米軍士官らに対する公演において、この時の内輪事情を談話として述べたのだが、真相を知ったとある米軍将官が上村の『勇気ある独断』に対して「ブラボー」を叫んだ。既に仮想敵国になりつつあった米国の仕官を前に佐藤は「言うのではなかった…」と深刻に後悔している。なお、東郷らが敵艦の進路を見誤った事は戦後も長い間秘密にされていた。軍神が間違いを犯したという記録は断じて外に漏れてはならないというわけだ。
この戦争に勝った時点で、日本はもう転落し始めていたと言える。 
第三艦隊

 

片岡七郎 1854-1920 薩摩藩
第三艦隊司令官。性格は温厚で派閥に属さず、無欲な人格者であったとされる。
呉鎮守府司令官、呉艦政部長などの要職を経て第三艦隊司令官となる。
第三艦隊は、日清戦争を戦った老朽艦から成り、主力決戦においては当初から戦力外の存在として見られていた。一方で足の速い巡洋艦が中心の構成から、日本海海戦では、バルティック艦隊の進路確認が主任務だった。片岡は、当初連合艦隊司令長官に最有力視されていた薩摩の日高壮之丞と士官学校(の前身)の同期であり、海軍においてそれなりの道を歩き続けてきただけに、出る幕の無い戦力外の零細艦隊司令官という立場(しかも主力艦は第一艦隊に引き抜かれる)は心外であったかもしれない。が、片岡は自らの任務と立場に対し、極めて忠実な人物だったようだ。
薄霧が日本海を覆う5月27日早朝、哨戒艦『信濃丸』からの「敵艦見ゆ」の打電により、日本海海戦がいよいよ開戦へと向かうわけだが、日本側の戦勝条件は敵艦隊殲滅。海戦の常識では、まず実現不可能とされる高いハードルが課せられていた。これをクリアするには日本側にとって『圧倒的に有利な状況』で戦火を開く必要があり、その為の下地作りとして、敵艦隊の『進路確認』はこの上なく重要だった。すなわち第三艦隊の任務こそが“それ”であり、この重要性を明確に認知し、全力でまっとうしたのが、片岡七郎という男の真価だろう。
『信濃丸』の打電によりバルティック艦隊を補足した第三艦隊は追跡の任務を継承した。この時点でロシア側の進路は概ね特定できており、ならばその精度を確実なものにするという段階にあった。ここで片岡七郎が下した命令が、敵艦の前を突っ切るという力技だ。船舶が、他の船舶の正確な進路を断定する際、最も確実なのは相手艦の真正面に出、そこから角度、すなわち方角を割り出す方法である。もちろん集中砲火に会うリスクはこの上なく高い。片岡はそれを決行すべきと判断した。第三艦隊全滅のリスクと、敵情の伝達をはかりにかければ、間違いなく後者が重要との英断と言える。
敵前の横断については、実際にはこの時近くにいた第四駆逐隊(第二艦隊所属)が勇敢にも先に同じことを決行してしまった。巡洋艦の数分の一の大きさで、かつ機動力も二倍を誇る駆逐艦隊がその真価を発揮したわけだ。この駆逐艦隊の司令官が、鈴木貫太郎中佐であり、第二次大戦末期に東条英機から政権を引き継いだ、後の鈴木総理大臣である。
その後、ロシア艦隊主力艦からの砲撃の的となりながらも第三艦隊は情報の打電を続け、結果東郷平八郎をして「敵を見る前に敵の陣形その他を知ることができた」と言わしむるに至る。通信手段が発展途上にあった当時において、敵の進路や戦力、隊列まで事前に掌握できた成果は、この時点で世界屈指だった。個人の武勲だけが重視された武士の時代の戦から近代的な集団戦へと形が変わる中、片岡らを始めとする舞台裏の人材の貴重さは筆舌に尽くしがたい。ともあれ、この時の戦場では、日本人が持つ、地味で着実な勤勉さが最も大きく発揮され、最大の成果を上げたと断言してもいいだろう。日本海海戦後、片岡は停戦の講和条約を有利に進める為の樺太占領に派遣され、そこでも任務を無事まっとうする事となった。
戦後は陸海軍を中心とする政争には関わらず、片岡とは対照的に海軍大臣にまで上り詰めた八代六郎(装甲巡洋艦『浅間』艦長:第二艦隊)が、台湾総督のポストを巡るゴタゴタ(陸海軍のいざこざ絡み)を持ち込んできた時なども、無下に一蹴している。これは片岡の性格によるものであっただろうが、同時に薩摩武士の美徳の一つとされる『潔さ』による部分も大きかったのかもしれない。 
ロシア

 

ステファン・マカロフ 1813-1878 ウクライナ
太平洋艦隊、いわゆる旅順艦隊の司令官。
1877-78年のロシア・トルコ戦争において、水雷作戦で敵方を苦しめた海軍の名将である。この時の戦いは魚雷を使用した作戦では世界でも最も早い時期のもので、海軍技術革新の最先端であったと言える。この時期にロシアが開発した徹甲弾丸がマカロフキャップと呼ばれるように、マカロフ自身、艦隊の機能を向上させるために装甲や航海機能、及び海洋研究などに尽力し、中には有害な研究もあったとされるが、全体として海軍力増進にかなり貢献したらしい。
また、世界一周航海を2度も行っており、海の男としての冒険家的一面をみせながらも、この時の研究成果を「ヴィーチャシ号と太平洋」に著して発表するなど、研究家としての根性も相当なものだったようだ。日露開戦直前にも、当時最新鋭の氷砕艦建造に携わり、この頃のロシアにとってのMr.海軍だったと言えるだろう。
そんなマカロフが極東に乗り込んできた。
日露開戦の段階で、旅順艦隊の司令官はオスカル・ヴィークトロヴィチ・スタルク提督だったが、日本の連合艦隊に奇襲された責任を問われて退任、代わってマカロフ提督が就任する事になる。元来海軍において大いにリーダーシップを発揮し、彼の信奉者は多数にのぼったとされており、この交代人事でロシア側の士気はすこぶる上昇したようだ。
当初、旅順港の奥深くで戦力温存を図っていた旅順艦隊は、マカロフの就任によって積極的に外洋に出没し始め、しかし要塞砲の射程距離ギリギリから外に出る事はなく、日本側を誘っては引っ込むというかけひきが連日行われた。が、それでもマカロフの気性としては、もっと外洋でドンパチやりたかったようで、しばしば要塞砲の援護の届かないエリアまで遠出し始め、東郷平八郎ら連合艦隊側に付け入る隙を与えることになる。
旅順港閉塞作戦が芳しい成果をあげず、手詰まり感のあった東郷らとしては、しきりに港から出てきては挑発を繰り返すマカロフの性質はむしろ好都合だったろう。こちらから挑発すればすぐに熱くなる事がわかるにつれ、「では、おびき出して機雷にぶち当てればどうか」という案が浮上。さすがに原始的すぎる作戦に、連合艦隊司令部もそこまで大きな成果は期待していなかったとも言われる。が、ふたをあければ、おびき出されたマカロフは、まんまと日本側の機雷に接触し、旗艦ペトロパフロフスクはあえなく轟沈。ここでマカロフは脱出の道を選ばず、艦とともに海に消えた。このあたりは、脚色もあろうが、海の男としての生き様が前面に出ていて上質の英雄談と言える。
さて、マカロフを機雷で撃沈させた連合艦隊としては、思わぬ戦果に色めき立ったようだ。が、これがきっかけで旅順艦隊が港の奥深くまでもぐりこんでしまう副作用が発生、さらには復讐に燃えたロシア側が、自分達がやられた機雷作戦を日本側に仕掛け、なんと日本側も『八島』と『初瀬』がこれをまともにくらうという大失態を見せている。この時、一発の砲弾も打たずに、まさに虎の子の戦艦が2隻も失われ、誰もが国家存続の危機を感じるほどの衝撃だったようだ。
このあたりは、日露双方ともに、近代戦の未熟さが露呈したケースと考えられるが、よりによって旗艦や戦艦がピンポイントで被雷するなど、運命的な展開が事態をより劇的にしている。この事件で大本営は激怒し、東郷更迭論もあったようだが、最終的には東郷自身の罷免は行われず、これが国運を分けたとも言える。
逆にロシア側でもマカロフ戦死で戦意の低下が著しく、こちらもここで国運が決まってしまったと言っていいだろう。 
カール・ペトロヴィチ・イェッセン 1852-1918 ラトビア
ウラジオストク艦隊司令官。日本海において通商破壊戦を行い、日本軍の補給を脅かした。
日露開戦当初は旅順港の太平洋艦隊に所属。開戦後にマカロフ提督の命により、ウラジオ艦隊司令官として日本海における通商破壊作戦に従事する事になる。日本側から見れば、バルティック艦隊こそ脅威といった感があったが、ロシアでは旅順艦隊こそがロシア海軍の精鋭であり、事実、海戦当初の彼らの士気は常に高い水準に保たれていた。この為、海戦直後の仁川沖海戦を除けば、日本の連合艦隊は常に苦戦を強いられており、辛勝した黄海沖海戦などでも「どうして勝てたのか分からない(秋山真之参謀)」というのが実情だった。
ウラジオ艦隊は4隻の巡洋艦を中心とした小規模艦隊であり、機動力を生かして輸送船などを襲撃、短時間で戦線を離脱する戦術を繰り返して日本側を苦しめた。このウラジオ艦隊を捕捉する任務にあたったのが第二艦隊の上村彦之丞長官だが、着任から数ヶ月、一向にウラジオ艦隊を捉える事ができずに無能呼ばわりされたのは有名な話だ。
日本側を翻弄し続けたウラジオ艦隊がようやく捕捉されたのは、海戦から半年を経た蔚山(うるさん)沖海戦においてである。これまで巧妙に上村艦隊をかわしてきたイェッセンがあっけなく補足されたのは、黄海海戦における「想定外」に起因する。蔚山沖海戦に先立ち、旅順艦隊がウラジオストクへと移動するとの報を受けたイェッセンは、これを迎える為に日本海を南下、予定エリアで予定時刻を過ぎても一向に合流できないために海上をさまよっていたところを、上村艦隊に発見された。この時、イエッセンがすぐに北上していれば上村艦隊にはち合わせる事はなかったのだが、まさか旅順艦隊が壊滅するとは思わない。その先入観によって判断が鈍ったようなのである。さすがにおかしいと気づき、北上を開始したところで上村艦隊に遭遇、ありったけの砲弾を叩き込まれる難事に遭遇となった。
この時の上村長官は相当に加熱していたと言われ、激情家としてのエピソードがいくつか伝わるが、一方のイェッセンは負け戦ながらも後に母国で賞賛される働きを見せる。この時のウラジオ艦隊は『ロシア』『グロモボイ』『リューリック』の3隻のみの編成で、上村艦隊の砲撃によって『リューリック』は大破。残る2隻も上村の鉄槌を喰らいながらの防戦となった。この時点で連合艦隊の『下瀬火薬』については、ほとんどロシア側に知られておらず、ウラジオ艦隊はその猛火を身を以って思い知らされた。イエッセンの立場からすれば、残存の艦船をウラジオストクまで退避させれば、引き続き通商破壊作戦は可能なわけで、この苦しい状況下での至上命題は『逃走』にあったと言える。が、イェッセンは戦場をなかなか離脱しようとしなかった。『リューリック』である。
艦隊運動から脱落した『リューリック』は日本側にとって紛れも無い標的となった。この時猛り狂っていた上村彦之丞長官によって、この装甲巡洋艦は焼き尽くされるのも時間の問題だっただろう。が、イェッセンは戦場を離脱するも再三『リューリック』を助けに戻り、下瀬火薬の砲弾を喰らっては逃走。逃げ切ったかと思うとまた僚艦を救いにくるという行動を繰り返した。この一連の行動によって、ウラジオ艦隊は磨耗に磨耗を重ね、以後使い物にならない程に破壊され尽したのだが、そこまでやり切ったイェッセンに敵味方問わず後に賞賛が集まったのは必然であったと言える。
辛うじて自走していた『リューリック』は相次ぐ着弾によって浸水。遂にはイェッセンも戦場を後にすることとなった。この時、『リューリック』の砲塔部では沈没しながらも尚、砲撃を続けており、上村長官に「敵ながらあっぱれ」と言わしめたらしい。数刻の後、『リューリック』は遂に日本海に没する事になるのだが、上村艦隊は生き残った乗組員らを救出。丁重に扱ったとされる。捕虜となった彼らはその後、日本国内の収容所へ送られたが、日露戦争全体をとおして捕虜となったロシア兵の扱いは、後世の日本軍とは比較にならないほどの厚遇だったようだ。尚、ウラジオ艦隊が日本の輸送船などを撃沈していた頃、波間に浮かぶ人馬は全て見殺しにされたわけで、見殺しにした当事者であるウラジオ艦隊乗組員らは、自らが救助される立場になり、日本側の扱いに大いに困惑したと言われる。
敗軍の将となったイェッセンは戦後、その責任によって左遷されるも、後に名誉を回復。以後海軍内の力学に翻弄される形で退役となり、造船企業の現場監督として比較的平和な余生を送る事となった。 
 
日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦 外観

 

日清戦争 
日清戦争は、今から120年近く前、1894年に始まった戦争です。相手国の清は、江戸時代の「海外交流の実態」を学習したときに出てきました。日清戦争の時も清王朝が中国を支配していました。日清戦争は明治になってから日本が初めて経験した本格的な外国との戦争です。
左の写真は、名古屋市千種区に残る戦死者の「記念碑」です。高さは22メートルで、最上部は大砲の砲弾をかたどっています。ここには、日清戦争の時に戦死した兵士726人の名前が刻まれています。その下には、当時の兵士が戦場で身につけていた道具のレリーフが彫られています。背嚢というリュックのような物に靴をつけています。ピストルもあります。名古屋の部隊は日清戦争でたくさんの戦死者を出しました。この記念碑は、1903年、その功績を讃えるためとして、武器などを鋳直して作られました。
次の左の写真は、大阪市天王寺区にある旧真田山陸軍墓地です。明治時代の初めの西南戦争から太平洋戦争までの戦いで戦死した陸軍の兵士などの墓地で、5000基以上の墓石が残っていて、日清戦争の戦死者のものが多く残っています。墓石の側面には、亡くなった日付や場所が記されています。この墓地には、軍夫の墓も残っています。軍夫とは、兵隊とともに戦場へ行って荷物の運搬などをした人たちのことです。墓石を見ると石工などの職人や病人の看護をする人など、軍人以外の人々も戦場で亡くなったことが分かります。
(1)日清戦争の原因
日清戦争はなぜ起こされたのか。また、戦争の目的についても考えていきます。
(2)戦争の経過と結果
戦争の結果とともに、当時の人々が戦争をどのようにとらえていたのか、当時の戦場の写真や絵などから、戦争の様子も見ていきます。
(3)戦後経営
戦争の結果として、その後の日本はどのような進路をとったのかを追います。
開戦の経緯
1860年代半ば以降、フランスやアメリカは、朝鮮半島を支配していた朝鮮王朝に開国を迫っていました。日本も、朝鮮に対して条約締結と開国を迫り、1876年に日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させました。しかしその一方で、清国も朝鮮への介入を強めていきました。
朝鮮国内では清国を支持する勢力と日本を支持する勢力が対立しました。
1884年、日本の協力を得て国内を改革しようとする金玉均(キム・オッキュン)らのグループがクーデターを起こします。「甲申事変」です。これに対し清国は朝鮮に軍隊を送り、鎮圧しました。
翌1885年、日本は清との関係を修復するため伊藤博文を清に送り「天津条約」を結びました。この条約で、今後、朝鮮に重大な事件が起きて出兵する場合には互いに連絡しあうことを決めました。
1894年春、朝鮮南部で大規模な農民の反乱が起こりました。「甲午農民戦争」です。役人による不当な課税などに対して民衆が怒り、そのころ朝鮮で広まっていた新興宗教「東学」の指導者を中心に武力蜂起したのです。
朝鮮政府はこの鎮圧のため、清国に出兵を要請。清国からは2000人余りの軍隊が派兵されました。
これに対して日本は、朝鮮にいる日本人を保護するためとして、朝鮮への出兵を決定、およそ4000人を送りました。
ところが、日清両国軍の介入に危機感をもった朝鮮政府と農民軍は和約を結び、反乱はいったん収まります。そこで、日本政府は清国に共同で朝鮮の内政改革を行なうことを提案しましたが、清国はこれを拒否しました。
日本政府は独力で朝鮮の内政改革にあたるとして、そのまま兵を置くことを決めました。そして、朝鮮王宮を占領。清国寄りの政権を倒し、国王の父で日本を支持していた大院君(テウォングン)を政権の座につけました。
そして、清国軍を追放をしてほしいと、朝鮮王朝から日本に依頼させたのです。
その2日後の1894年7月25日、プンド(豊島)沖で遂に日清両軍の艦隊が戦いに突入、日清戦争が始まったのです。
19世紀末の東アジア情勢と戦争の原因・目的
なぜ日本は清と対立してまで朝鮮半島にこだわったのでしょうか。それを考えるためにこのころの東アジアの状況を整理してみましょう。
中国は清王朝が支配していました。
19世紀末、世界の強国としてイギリスと対立するロシアが東アジアにも勢力を伸ばしていました。
こうした対立に拍車をかけたのが、1891年に始まった、ロシアによるシベリア鉄道建設です。この鉄道の終点はウラジオストクです。
当時日本政府の要職にいた山県有朋は、シベリア鉄道が完成すれば、ロシアの朝鮮進出が容易になると危機感を募らせました。そして、日本の安全を守るためには国境を守るだけでなく、その外側(周囲)、つまり朝鮮の安全を確保する必要があると考えました。
一方、甲申事変後、朝鮮への影響力を強めるには清国を討たなければという主張もメディアに出てきました。こういう状況で1894年に起きた「甲午農民戦争」が引き金となって日清戦争が始まったのです。
日本が戦争に進んだ背景は2つあります。
一つは、国内の事情です。開戦前の1894年には政府は衆議院の政党勢力と対立して追い詰められ、衆議院を2回も解散するほどでした。国内的には、もう一つ、清国と戦える軍事力がこの時期になって整備されたということがあります。
また対外的には、イギリスとの関係です。1894年7月16日、開戦の直前に、イギリスと日英通商航海条約が結ばれました。
これによって、清と戦争になっても最強の国イギリスが戦争に介入するおそれがなくなりました。
8月1日に出された、「宣戦の勅諭」にこの戦争の目的が書かれています。
「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。〜陰ニ陽ニ其ノ内政に干渉シ・・・」
「日本が朝鮮を国際社会に引き入れた。しかし清が独立国であるはずの朝鮮に干渉しているのでそれを排する」−これが最終的な戦争の名目でした。つまり、「朝鮮の独立」のために、清国の勢力を朝鮮から追い出したかったのです。ここで日本は「朝鮮の独立」と言っていますが、ここでの「独立」とはあくまで清朝への従属関係を断ち切るという意味です。
日清戦争の経過
1894年9月、日本の陸軍は朝鮮北部の都市、ピョンヤンを占領。海軍は黄海海戦に勝利、11月には陸軍が、清国の重要な軍事拠点・旅順を占領。遼東半島を制圧しました。
翌95年には中国・山東半島の威海衛を攻撃し、清の北洋艦隊を降伏させます。
日本が優勢な中で、清は講和を打診してきました。
1895年3月、総勢100人を超える清国の使節が講和会議のため山口県の下関にやってきました。ここには講和会議の様子を伝える記念館があります。この記念館には、講和会議に関する資料が展示されている他、会議が行なわれた部屋が当時の調度品そのままに再現されています。
清国側の全権は李鴻章。日本側の全権は伊藤博文首相と陸奥宗光外相です。
交渉で日本は、
・日本の国家予算の4倍以上にあたる「3億両の賠償金」。
・「遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲ること」。
・加えて「清の重要な港を開港する」ことを要求しました。
4月、賠償金以外はほぼ日本の要求通りで合意に達し、日清講和条約、いわゆる下関条約が結ばれました。
日清戦争の二つのとらえ方
ここで、日清戦争とはどんな戦争だったのかもう一度考えてみようと思います。2つの考え方があります。
一つは、「狭い意味」の日清戦争です。戦いが始まった1894年7月から講和条約が締結された95年の4月まで。
戦場となったのは、朝鮮から清国の東北部、戦争の末期には日本軍は台湾近くの澎湖島を攻撃しました。このわずか10か月程度の戦争を指します。
もう一つは、「より広い意味」でとらえる見方です。これは、朝鮮王宮の占領や東学鎮圧戦争まで含めるものです。
東学は「甲午農民戦争」を起した宗教団体でした。農民軍はいったん撤退したのですが、日清戦争中に再び蜂起しました。日本軍は朝鮮政府軍とともにその鎮圧に繰り出したのです。
そして台湾征服の戦争です。下関条約で日本は清から台湾を獲得しました。
しかし台湾では、日本の領土になることに反発して抵抗運動が起こりました。日本は軍隊を派遣してこれを鎮圧して、台湾を征服したのです。
そこまでを日清戦争ととらえる考え方もあります。
日清戦争と日本国民
日清戦争が始まると、新聞、雑誌、演劇、錦絵、兵士たちの手紙などさまざまなメディアが戦争を伝えました。
例えばこれは「日清戦闘画報」といって、戦争の経過を絵入りで伝えたものです。このように、一つ一つの戦闘を絵で描き、詳しい解説をつけています。
新聞社は競って従軍記者や従軍画家を送りました。
さて、この日清戦争に政府はおよそ24万人の兵力を投入しました。そのうち、海外の戦地に行ったのが17万人余りでした。戦死者は台湾征服の戦争まで含めるとおよそ1万3000人で、そのうち台湾でコレラやマラリアなどにかかって病死した人が1万人もいました。戦争は実は病気との闘いとも言えたわけです。
それでは当時の写真や絵から、戦場の実態を見てみましょう。
これは、亀井茲明(これあき)という従軍カメラマンが旅順郊外でとらえた、毛布を持って避難する女性と子供たちです。戦争相手国の一般の民間人たちにもたらす悲しみを写した貴重な写真です。
もう一つ、触れておきたいことがあります。次の絵を見てください。
これは、風刺画で有名なビゴーが戦場を描いた絵です。
笠をかぶったり草履をはいた人がけが人を運んでいるところですが、この戦場に似つかわしくない格好の人たちが、軍夫といわれる人々です。
軍夫は民間の業者が集めて、十数万人が戦場に出かけたといわれますが、7000から8000人が死亡しました。日清戦争は「兵士と軍夫の戦争」と言われるほどです。
「文明の戦争」という見方
さて、兵士たちはどんな考え方や思いで戦地に行ったのでしょうか?
その時にキーワードとなるのが「文明」という考え方でした。
日本は文明という立場に立って清と戦うのだという考え方です。
その例として、当時、キリスト教徒として有名だった内村鑑三という人が、このような、戦争を正当化する論文を『国民之友』という雑誌に発表しました。この人は後の日露戦争の開戦前には非戦論、戦争反対を主張した人です。
元は「Justification of the Corean War」というタイトルの英文で書かれたものです。当時の戦場が主に朝鮮半島だったので、こういうタイトルがつけられました。英文で書くことによって、欧米世界に日本の戦争の正当性を訴えたのです。
その中で「日本は東洋に於ける進歩主義の戦士なり」として、進歩の敵である中国以外の世界中すべてが日本の勝利を望むだろうと言っています。
日本は欧米流の文明を取り入れ、近代化を図っているという自負があったのです。
さらに「日本の勝利は東洋六億人の自由政治 自由宗教 自由教育 自由商業を意味」するという記述が見られます。
この論文からは、進んだ日本がアジアの盟主、すなわちアジア地域の中心となることを構想していたように読み取れます。
この戦争は日本にとって「文明に基づく、文明のための戦争」なのだという考え方は、内村鑑三だけでなく、当時、福沢諭吉が主宰する新聞「時事新報」など、さまざまなメディアで盛んに主張されました。そしてそれが国民、兵士たちにも受け入れられていったのです。
戦後経営
この「戦後経営」とは、日清戦争後の軍備拡張を中心とした日本の政策を指す言葉です。
日清戦争後、下関条約が結ばれ、日本はこのように、ほぼ要求通りに2億両=3億円という多額の賠償金と、遼東半島、台湾、澎湖諸島などの領土を得ました。また清は、朝鮮が独立国であることを認めました。
しかし、数日後、ロシア、ドイツ、フランスが「遼東半島が日本のものになることは、朝鮮の独立を有名無実、つまり名前だけで実態のないものにする」として、日本に放棄を求めました。いわゆる「三国干渉」です。
結局、日本は三国に対抗する武力がなかったため、これを受け入れました。そして遼東半島をおよそ4500万円で清国に返還しました。
この三国干渉の後、日本は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに、軍備の拡張を進めました。これは、敵に復讐するまで、薪の上に寝て身を苦しめ、にがい肝をなめて敵討ちの志を忘れないようにした、という中国の故事です。このスローガンが日清戦争後の「戦後経営」に大きく影響します。
具体的には、兵器などを作るのに欠かせない鉄の生産を増やそうとしました。それについて見てみましょう。
官営八幡製鉄所
20世紀初めに撮影された、福岡県の八幡製鉄所の映像です。
日本最初の本格的な製鉄所である八幡製鉄所の建設が始まったのは、日清戦争が終わって3年後の1897年のことでした。
それまで日本は、鉄の大部分をイギリスなどからの輸入に頼っていました。
日清戦争後の日本は、軍備拡張のための兵器作り、軍艦の建造、鉄道の建設、そして工業機械の製造などのために多くの鉄を必要としました。
そこで政府は、日清戦争の賠償金を投じて、福岡県八幡村、現在の北九州市に官営の製鉄所を建設したのです。
ドイツの技術を取り入れた製鉄所は1901年に操業を始め、15年ほどで鉄の国内生産の80%を占めるまでになりました。
これ以降、八幡製鉄所は、日本の重工業の中心となっていきました。
金本位制の採用
「戦後経営」の大きなポイントとして、日本は賠償金を元に金本位制を採用しました。
これは金をお金のおおもとと考える制度です。「金本位」といっても、もちろん普段は紙幣や硬貨をお金として使うのですが、それがお金として安心して使えるのは、いつでも金と交換できるからだ、と考えるのです。
写真左が金本位制で使われた紙幣ですが、これには、「この紙幣で金貨拾円と交換できる」と書いてあります。
19世紀にイギリスがこの制度を定め、その後ヨーロッパの他の国々も金本位制を採っていました。しかしそれまでの日本は違いました。
ところが日清戦争で日本は清から、当時の国家予算のおよそ3年分にもあたる賠償金をイギリスのお金・ポンドでもらいました。ポンドを持っているということは、当時は金を持っていることと同じでした。
そこで日本はその賠償金を使ってヨーロッパの国々と同様に「金本位制」を採ることができました。
そうすることで、日本の円が、ヨーロッパの国々で信用のあるお金と見なされます。
また金本位制という同じ制度を採っているので、貿易などでの取引もスムーズになります。日本が金本位制を採用したということは、欧米と経済的に対等になる一歩だったわけです。
その様子を示したビゴーの絵があります。
「1897年の日本」という絵です。欧米列強の国々が集まっている中に日本が入っていく様子です。列強の国々は、驚いたり、冷ややかな目で見ているのが当時の日本に対する見方を表しています。
今日は、日清戦争がどのような戦争であったかを学習しました。そこでは「文明」というのが重要なキーワードになっていました。その文明という考え方がいかに近代の日本をとらえていたのか、そのことを知る上で、当時の言論界をリードした福沢諭吉の『文明論之概略』を読むことをおすすめします。 
日露戦争 

 

日露戦争は、日清戦争から10年後、1904年に始まった戦争です。この戦争は日清戦争の何倍もの規模で行なわれ、その結果日本はアジア大陸の一角に勢力圏を持つ国家となりました。その後の歴史にも大きな影響を及ぼした日露戦争を、今日は幾つかの面から考えていきたいと思います。
それでは、今日のポイントです。
(1)戦争の背景
日露戦争がなぜ起こったのか、その背景を考えていきます。特に、日本とイギリスとの同盟=日英同盟が大きな後押しになったことを見ていきたいと思います。
(2)国民と戦争
日露戦争は兵士だけでなく国民全体に大きな犠牲を強いる戦争でした。その中で、戦争に反対する主張がさまざまな立場からなされました。そのうちキリスト教の信者の内村鑑三を取り上げてみたいと思います。また、戦争に女性たちはどう関わったのかも見ていきます。
(3)戦争の結果
戦争の結果、日本は韓国を保護国とし、やがて植民地としました。また日本の勢力圏となった満州をめぐってイギリス、アメリカとの対立も生じてきました。そのあたりを見ていきます。
戦争の背景
清国は日清戦争後、ドイツやロシア、イギリス、フランスなどの列強の国々がそれぞれに勢力圏を設け、半ば植民地のような状態になりました。
これに対して清国内では、民衆宗教義和団を中心に「扶清滅洋=清朝を助け、西洋を滅ぼせ」を掲げた外国人襲撃運動が起こります。清朝政府もこれを支持し、1900年、列強に宣戦を布告しました。
これに対して、イギリス、アメリカ、日本など8か国が出兵し、乱を鎮圧しました。この事件は義和団事件と呼ばれます。
ところが出兵した国の一つロシアは満州=中国東北部を事実上占領してしまいます。
その名目は、ロシアが満州地域で中国から租借していた鉄道を守るためというものでした。
満州に駐兵を続けるロシアは、日本にとっても大きな脅威となりました。また、中国に大きな利権を持っていたイギリスも、自国の権益と衝突すると考えました。
こうした中、1902年、日本とイギリスは日英同盟協約を結びます。
条約には、朝鮮半島と中国大陸で互いの利権を認め合う内容が盛り込まれました。この同盟によって日本では、ロシアと戦おうという世論が高まっていきます。
1903年、ロシアとの戦争を回避しようと考えていた元首相の伊藤博文がロシアに赴き、皇帝ニコライ2世と会見しました。しかし、交渉は失敗に終わります。
日本の安全のためには、朝鮮半島からロシアを駆逐する必要があるとして、小村寿太郎外相は、1904年2月6日、ロシアに国交断絶を言い渡しました。
2月8日、日本軍は、韓国と中国の旅順で軍事行動を開始。2月10日、双方が宣戦を布告して、日露戦争が始まったのです。
朝鮮半島をめぐる動き
開戦にいたる経過を年表で追っていきましょう。
まず、朝鮮を巡る動きです。
1895年4月、日清戦争後の下関条約で清国は朝鮮の「独立自主」を認めました。つまり、日本としては、清国の勢力を朝鮮から追い出したということで、日清戦争の目的を一応達成したことになります。
ところがその直後に三国干渉がありました。日本の力が後退した機会に朝鮮では、親日派政権が倒され、ロシア寄りの政権が誕生しました。
これに対し日本は1895年10月、朝鮮の王宮を襲って、朝鮮の中でロシア寄りの勢力の中心だった閔妃(ミンビ)を殺害します。この結果反日闘争が高まり、ますます日本の立場は悪くなり、ロシアの影響力が強まりました。
一方で1897年10月、朝鮮は国号を大韓帝国に改めます。清や日本と同じ「帝国」という国号で、自主性を示そうとしたのです。
こうして日本は、日清戦争からわずか数年で、戦争の成果を消滅させてしまう形になりました。しかも義和団事件の後もロシアが満州から撤兵しなかったことは、日本の韓国での力関係をさらに弱める問題として無視できませんでした。
日本にとって、ロシアの勢力を韓国から排除することが最重要課題となったのです。
一方イギリスは当時ロシアと対立していましたが、南アフリカでボーア戦争という戦争をして、それが大きな負担になっていました。そこで、極東でロシアに対抗するために、日本の力を利用しようとしたわけです。
日英同盟の内容は、「イギリスの清における利益、日本の清における利益と韓国における政治上商業上工業上の利益を第三国の「侵略的行動」から守るため必要な措置をとる。」というものです。この第三国とはロシアのことなのですが、その後、日本は満州問題や韓国問題についてロシア側と交渉を重ねましたがまとまらず、遂に1904年2月に開戦に踏み切ったのです。
日本の目的は、
(1)韓国に対する日本の支配権をロシアに認めさせる
(2)満州からロシア軍を撤退させる
ことでした。
またイギリスやアメリカに日本の立場を理解してもらおうと、特使を派遣しました。アメリカに派遣されたのが金子堅太郎です。彼は明治の初めにアメリカのハーヴァード大学に留学し、大統領のセオドア・ローズヴェルトとも面識がありました。
1904年4月、金子は、ニューヨークで政財界の著名人に対して行なったスピーチで次のように述べました。
「ペリー提督は、私たちに門戸開放を授けてくれました。今、我が国は、その門戸開放のために戦っているのです。」
中国大陸での門戸開放、つまりどの国も中国で経済的な利益を追求できる、というのが、アメリカの中国政策の基本方針でした。ところがロシアが満州を占領し、門戸開放を妨げているので、日本はそれを改めるために戦うのだと言っているのです。
非戦論
戦争が始まる直前、日本国内のほとんどのメディアは、「ロシアを撃つべきだ」と主張していました。これを「主戦論」と言います。これに対し、一部ですが、開戦するべきでないという非戦論や、明確な反戦論も主張されました。
この非戦論、反戦論にはさまざまな立場のものがありましたが、ここではキリスト者の内村鑑三を取り上げてみましょう。
内村鑑三といえば、日清戦争の時には正義の戦争だ、と主張した人物でした。
ところが日清戦争の結果を見て、内村は大きく反省することになったのです。
彼が書いた「戦争廃止論」を読んでみましょう。
「その(=日清戦争での日本の)目的たりし朝鮮の独立は却て弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され東洋全体を危殆の地位にまで持ち来つたではない乎」 (『万朝報』1903.6.30)
つまり日清戦争の結果、東洋全体が危うくなってしまったというのです。
彼は別の文章で、日清戦争は結局「利欲のための戦争」であったとも言っています。こうした反省から、戦争は「人を殺すこと」であり、それは「大罪悪」で、自分は「戦争絶対的廃止論者」になったと言い切りました。
しかし内村は、実際に戦争が始まると、平和回復を祈る行動にシフトしていきました。反戦は、幸徳秋水ら社会主義系の人々によって主張され続けました。
では次に、実際の戦争のようすを見てみましょう。
戦争の実態
当時、中国・遼東半島先端の旅順港は、ロシア太平洋艦隊の本拠地になっていました。
陸軍はこのロシアの艦隊を陸から攻撃するため、旅順を見下ろす丘を占領しようと、攻撃を繰り返しました。
しかしロシアは強固な要塞を築いて日本を再三撃退します。日本の兵士は突撃を繰り返しましたが、要塞からの砲弾を浴び、次々と倒れていきました。
攻撃開始からおよそ半年後の1905年1月、日本軍は大きな犠牲を払った末にようやくこの地を占領することができました。
1905年3月には、満州で奉天会戦が行なわれました。日本軍とロシア軍、合わせて60万人を超える将兵が、18日間にわたって激しい戦いを繰り広げたのです。
最後にロシア軍が撤退を始めたため、日本側は奉天を占領することには成功しました。
しかしロシア軍に決定的な打撃を与えることには失敗し、また日本軍は兵士も物資も限界に達しました。
戦争と国民
ロシアとの戦争は文字通り国の総力を挙げての戦いでした。戦費だけでも約18億円で、これは戦争前の日本の国家予算、約3億円の6倍以上になります。
これをまかなうために行なったのが、まず増税です。非常特別税ということで、地租などの税を増税するだけではなく、煙草や塩の専売制度を本格的に始めました。売り上げは国のものになります。
次に国債を発行しました。つまり借金です。国内でおよそ6億7千万円調達しましたが、国民の多くは増税で負担が増えていたため、国債を進んで買える状況ではありませんでした。市町村などで強く購入をすすめたという例が少なくありませんでした。
また外債といって、イギリスやアメリカからも借金をしました。およそ8億円という巨額でした。この借金が戦後の財政を大きく苦しめることになりました。
またこの戦争で従軍した日本の兵士はおよそ109万人と言われています。当時の人口が約5000万人で、およそ半分が男性だとすると、109万人は男子22〜23人に1人という計算になります。これだけの兵隊を集めるには、20代の若者だけでなく、30代や40代の男性も動員しなければなりませんでした。中には、日清戦争に続いて二度目の出征になった兵士もいたのです。
そしてそのうち、およそ88000人の兵士が亡くなっています。またけがや病気になった兵士は40万人を超えます。つまり出征した兵士の半数が何らかの犠牲を被ったことになります。
戦争と女性たち
一人一人の兵士とその家族にはさまざまなドラマがあったと思います。ここでは夫を戦場に送り出し、家を守ることになった妻のことを見ていきたいと思います。
戦争が始まると、女性の尽くすべき任務として、例えば次のようなことが言われました。
(1)出征者をして内顧の憂なからしむべし
(2)笑って軍門に夫を送るべし
(3)出征者の家族を慰撫すること       
女性も戦争に何か役立ちたいということで、愛国婦人会という、会員が45万人もいた団体が、兵士たちに慰問品を送ったり、出征兵士の家族を励ましたりと盛んに活動しました。
「内顧の憂」とは妻として夫に家庭のことで余計な心配をかけないということです。その決意の表れとして、具体的には妻たちが自分の髪の毛を切ったりしました。
中央の写真を見てください。これは千葉県の我孫子市にある「黒髪塚」というものです。地元の女性たち11人が黒髪を切って戦争中の家を守り、戦争が終わって無事夫たちが凱旋したことで、その記念として建てたものです。
しかし無事帰ってきた場合はよかったでしょうが、戦死した人も多かったわけです。
右の絵を見てください。これは満谷国四郎という人の描いた「軍人の妻」という絵です。
ここでは女性が兵士の帽子と刀を持って、悲しそうに見つめています。
実は夫は戦死して、形見として帽子と刀が戻ってきた、それを手にしている場面です。妻の目には涙がたたえられています。戦争の悲しみが静かに伝わってくる絵です。
このように夫を失った妻を当時は「未亡人」と言いましたが、そうした女性がたくさん出ると、未亡人が再婚することが良いかどうかが大きな話題になりました。「国のために命を落とした夫のことを大切に思うなら再婚すべきでない」という意見が強かったのですが、日本にロシア文学を紹介した作家の二葉亭四迷は、「再婚すべし」ときっぱりと主張しました。
戦争の終結
さてポイント(3)戦争の結果です。まず、日露戦争がどう終わったのか、一緒に見てみましょう。
1905年5月、日本は、戦艦三笠が率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を対馬沖の日本海海戦で破りました。バルチック艦隊が戦力の大半を失うという、日本の圧倒的な勝利でした。
右は当時の日本とロシアの戦いを描いた風刺画です。勝利が続いたにもかかわらず、日本は財政的軍事的にも限界を迎え、これ以上の戦争継続は困難になっていました。
こうした状況下、大国ロシアに勝利する日本の勢いに危機感を覚えたアメリカが両国の仲介となり、休戦への動きが強まりました。
ポーツマス講和会議
そして1905年8月から9月にかけて、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれました。
仲介したのはアメリカのセオドア・ローズヴェルト大統領。日本の代表は小村寿太郎外相、ロシアの代表はウィッテでした。
会議の結果、日露の講和条約、ポーツマス条約が調印されました。
講和の内容
最終的にまとまった講和条約は次のような内容でした。
(1)ロシアは、日本が韓国において必要な「指導保護及び監理(監督し、処理すること)の措置」をとることを妨害干渉しない
(2)旅順大連の租借権、旅順口−長春の鉄道と付属の権利(例えば撫順炭鉱など)を日本に譲渡
(3)北緯50度以南の樺太を日本に譲渡
ただし賠償金は支払われませんでした。
日本の国民は、戦争で払った犠牲に対して獲得したものがあまりに少ないとして、講和条約が結ばれた日に東京など各地で暴動を起しました。日比谷焼き打ち事件などです。軍隊が出動して鎮圧に当たらなければならないほどでした。
さて日本はこの後、1910年に韓国を併合して植民地としていきました。その経過を見てみましょう。
韓国併合の歩み
日露戦争が始まった直後の1904年2月23日、日本は韓国との間に日韓議定書を調印しました。これによって、「韓国を他の国から守るため」と言う名目で、韓国内で軍事上必要なさまざまな権利を得ました。
旅順で激戦を続けていた8月には、第一次日韓協約を結び、韓国に、日本が推薦する外交・財政顧問を受け入れることを認めさせます。
講和の後、1905年11月には韓国との間で第二次日韓協約を締結。首都に韓国統監府を設置して、韓国の外交権を奪いました。
これに対して韓国の皇帝・高宗(コジョン)は、1907年6月にオランダのハーグで開かれた平和会議に密使を送り、日本の支配が不当だと訴えようとしましたが、失敗に終わります。いわゆるハーグ密使事件です。
この事件をきっかけに日本は1907年7月、高宗を失脚させ第三次日韓協約を締結。
日本は韓国の内政権を接収、韓国の軍隊を解散させました。解散された軍隊からは元軍人が、義兵闘争と呼ばれる日本への抵抗運動に参加していきました。
1909年10月には、中国ハルビン駅構内で、韓国の民族運動家・安重根(アンジュングン)が韓国統監だった伊藤博文を狙撃、伊藤は死亡しました。
日本は翌1910年8月、韓国併合条約によってついに韓国を併合し、日本領の「朝鮮」としました。朝鮮には朝鮮総督府や日本の軍隊が置かれ、1945年まで植民地支配が続くことになるのです。
満州問題
植民地時代の朝鮮についてはたくさんの本がありますが、ここにあるイ・サンクムの『半分のふるさと』やハム・ソクホンの『死ぬまでこの歩みで』などは、植民地になるということがどういう経験なのかがたいへんよく分る本です。
ところでポーツマス講和条約で日本は、ロシアが持っていた満州での利権を獲得しました。
鉄道については、旅順口−長春間の鉄道を手に入れ、1906年に「南満州鉄道株式会社」=いわゆる「満鉄」を設立し、経営していきました。
遼東半島の旅順・大連地域は「関東州」と呼ばれ、旅順には支配のために関東都督府が置かれました。
日露戦争が始まる際、日本は満州の門戸開放をアメリカやイギリスにアピールしていました。そこで、アメリカの鉄道王と言われたハリマンという人が、さっそく満鉄の日米共同経営を申し入れてきました。
しかし、日本は小村外相の意見でこれを断ります。それに対してアメリカは次のように日本に苦言を呈しました。  
「露国カ該地方ニ於テ実利ノ国家的独占ヲ為サントシテ失敗シタルノ企図ニ踵キ満州ニ於テ之ト均シキ日本ノ利益ノ排他的扶植ハ痛切ナル失望ノ起因タルヘシ」
つまり、かつてロシアがしたのと同じ排他的な行動を日本が満州でしている、と批判したのです。
こうしたことに伊藤博文は次のように憂慮しました。
「我当局者ニシテ門戸開放、機会均等ノ主義ヲ尊重セス切リニ利己主義ニ走レハ欧米諸邦ハ我誠実ヲ疑ヒ信ヲ吾ニ措カサルニ至ルヘシ」「満州ニ於ケル利己政策ノ実施ハ勢ヒ清人ノ反抗ヲ招クハ勿論」「世界ノ大勢ハ殆ト日本ヲ孤立セシメスンハ已マサルノ傾向」 (1907年)
ロシアに勝つことで日本は当時、世界の一等国になったと言われましたが、それだけに列強の熾烈(しれつ)な争いに対応していかなければならなくなったのです。また中国からの反発もありました。
日露戦争の時代は、列強といわれた欧米諸国が覇権を争う時代、弱肉強食、領土や権益を拡大していくことが当然とされた時代でした。日本はそうした欧米文明国をめざして長い坂道を登ってきました。そして日露戦争で当時言われた「一等国」の仲間に入りました。その過程には今にまでつながる大切な問題があると思います。みなさんも歴史と対話していってください。 
第一次世界大戦 

 

日露戦争から10年後、1914年に始まった第一次世界大戦のころの歴史を学んでいきましょう。この第一次世界大戦には、ヨーロッパの荒廃、アメリカの台頭、ソ連の出現などの特徴があり、その意味で世界史の中の大きな転機といえます。
イギリスの歴史家ホブスボームは、戦争と革命、そして平和が交錯する20世紀がここから始まったという見方をしています。
一方日本は、大戦を通してアジア・太平洋にさらに膨張していきました。つまりより大きな帝国へと拡大していったのです。
今日のポイントです。
(1)二十一か条要求
日本がなぜ第一次世界大戦に参戦したのか、またその中で中国に対して出した要求を見ていきます。
(2)ワシントン体制
第一次世界大戦を通して、日本は中国や太平洋でさらに権益を膨らませていきました。それに対して起きた反発や、その結果として生まれた国際的な体制も見ていきます。
(3)大戦景気 製糸業の発展
第一次世界大戦の結果、日本経済は急成長を遂げました。その様子を繊維産業を中心に見ていきます。
戦争の背景と開戦
ポイント(1)まず第一次世界大戦についてみてみましょう。
1914年6月。ヨーロッパ東部、ボスニアの首都サラエヴォで事件が起きました。
この地を訪れていたオーストリアの帝位継承者夫妻が、隣の国セルビアの青年に暗殺されたのです。当時、民族紛争で緊張していた東ヨーロッパでは、この事件をきっかけに、オーストリアとセルビアが戦争を始めます。
これに他の大国の利害が絡み合い、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなども次々と参戦していきました。「第一次世界大戦」です。
ヨーロッパは当初、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、イタリアを中心とする同盟国側とイギリス、フランス、ロシアを中心とする連合国側が戦いました。
この戦いは、国家がすべての力を戦争につぎ込む、総力戦となりました。
さらに、これまでなかった新しい兵器が使われました。
飛行機や戦車。潜水艦や毒ガスです。
この第一次世界大戦は、ヨーロッパでは、軍人の戦死者がおよそ900万、さらに400万と言われる一般市民が犠牲になるという、悲惨な戦争となりました。
日本の参戦
日本は、イギリスと日英同盟を結んでいたことを根拠に、この戦争に参戦します。
当時、ドイツは中国の山東半島に鉄道や鉱山などの権益を持っていました。日本は、ドイツを攻め、これらの権益を手に入れようと考えたのです。
そして1914年8月、ドイツに宣戦を布告しました。
9月には、山東半島に日本軍が上陸し、アジアでのドイツの拠点だった青島を占領しました。
日本の参戦の背景
日本が参戦した理由を考えるため、大戦前の日本の状況を見てみましょう。
実は日本は二つの大きな課題を抱えていました。
一つは、「一等国」として軍備拡張を続けたことです。その結果、増税路線も継続することになりましたが、国民からは税の廃止や減税を求める運動が高まることになりました。
そして第二は、イギリス、アメリカなどへの負債、つまり借金が増え、また貿易赤字にも苦しんでいたということです。
こうして行きづまっていた日本の前に起きたのが第一次世界大戦だったのです。
例えば、当時78歳だった元老の井上馨は次のように言っています。
「今回欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑。」  
「東洋に対する日本の利権を確立せざるべからず」
天佑とは天の助けという意味ですが、大戦に参戦することで国の内外のさまざまな問題を一挙に打開していこう、あるいは打開できると考え、その意味で天佑と言ったのです。そして、アジアにさらに大きく進出していくべきだとも言っています。
当時ドイツは中国では山東半島の膠州湾(こうしゅうわん)地域を1898年から租借していました。また太平洋では、19世紀末にスペインから購入したマーシャル諸島、カロリン諸島、アメリカ領のグアムを除くマリアナ諸島などを支配していました。
日本の軍部や加藤高明外相は、連合国側に立って参戦することで、これらの地域を手に入れようと強く望んでいたのです。
日英同盟の趣旨からすると必ずしも参戦しなければならないわけではありませんでした。日本の思惑については、イギリスやアメリカ、そして中国から懸念が出されました。しかし日本は日英同盟を盾にとる形で、1914年8月、開戦から1か月後に、かなり強引にドイツに宣戦布告したのです。
日本はまず山東半島に兵を送り、青島のドイツ軍を降伏させました。またドイツが経営していた山東鉄道も占領しました。一方海軍は南洋諸島に艦隊を派遣して10月には占領し、この地域に軍政を敷きました。つまり軍が統治に当たったのです。
そしてもう一つの大きな出来事が、ポイントにある中国への「二十一か条要求」です。
これについて見る前に、当時の中国の状況を確認しておきましょう。
中国の状況と21か条要求
20世紀初めの中国では、列強の国々が権益をいっそう拡大しようとしていました。
1911年1月、孫文率いる革命派が、清朝の打倒を目指して、中国南部で武装蜂起しました。「辛亥革命」の始まりです。この動きは、中国各地に広がっていきました。
翌1912年1月。孫文は中華民国の樹立を宣言。「臨時大総統」に就任します。
しかし、清朝に代わって全土を支配できるまでには至りませんでした。清朝で実権を握っていた袁世凱(えんせいがい)が孫文の前に立ちはだかったのです。
袁世凱は、清朝の皇帝を退位させます。
そしてそれと引き換えに、自らが孫文を抑えて、中華民国の初代・大総統となったのです。
袁世凱は、青島を占領する日本軍に撤退を求めます。しかし日本はそれを拒否。
1915年1月、袁世凱に対して「二十一か条の要求」を突きつけたのです。
二十一か条要求の内容
それでは二十一か条の要求の主な内容を見てみましょう。
(1)山東省のドイツ権益の日本への引渡し
(2)旅順・大連の租借期限と南満州鉄道の権益の期限をそれぞれ99か年間に延長すること。これはいずれも日露戦争で日本がロシアから獲得したものです。
(3)漢冶萍公司(かんやひょうこんす)の日中共同経営
漢冶萍公司は1908年に設立された中国最大の製鉄企業です。この経営に日本も参加させろというのです。
(4)中国沿岸の港湾・島しょ(=島々)の他国への不割譲
(5)日本人の政治・財政・軍事顧問を採用すること、警察を日中合同にすること
さすがにこの五号要求には国際的にも、また日本国内の政治家からも批判が出されました。
日本はこの五号要求以外の主な要求を、中国側に最後通牒をつきつけて受け入れさせたのです。
当時の中国では、受諾した5月9日を国恥記念日、つまり国の恥を心に刻む日としただけでなく、日本製品の不買運動も起こりました。
また中国の新聞「北京日報」は次のように書きました。
日本の要求は「列強ノ嫉妬ヲ招キ内ハ支那人ノ憤心ヲ激」するもので、日本は「世界ノ公敵」となり、「他日必ス命ヲ賭スル日アルナリ」
中国から「世界の敵」と言われるまでになってしまったように、中国の問題をめぐって日本は大きな課題を背負うことになったのです。
ヴェルサイユ条約と五四運動
第一次世界大戦の結果、どうなっていったのかが、次のポイント(2)です。
1919年6月、第一次世界大戦を終わらせる講和条約が、フランスのパリ郊外、ヴェルサイユ宮殿で調印されました。
日本は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアとともに5大国の一員として参加。元首相の西園寺公望らが出席しました。
この条約で日本は、膠州湾の統治権や鉄道など、山東半島におけるドイツの権益を引き継ぐことを認められました。しかし、中国はこの条約に調印しませんでした。
五四運動
講和会議の最中の1919年5月4日。日本が山東半島の権益を求めたことで、中国では大規模な反日運動が起こりました。学生などが天安門広場で集会を開き、反日のスローガンを掲げて立ち上がったのです。「五四運動」です。
中国各地で、学生の授業ボイコット、労働者のストライキ、商店の閉店や日本商品の不買運動などが起こりました。
南洋諸島の統治
第一次大戦中、日本は中国だけではなく、太平洋の島々にも進出しました。1914年、ドイツ領だったマリアナ諸島、パラオ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島など南洋の島々を占領したのです。
1920年には、ヴェルサイユ条約に基づいて日本が統治することになりました。
パラオ諸島のコロール島に「南洋庁」が作られ、島々に6つの支庁が置かれました。
以降、日本は人々の暮らしや教育などを「日本化」する政策をとりながら、20年以上にわたって統治を続けていくことになります。
実は中国も途中から参戦して戦勝国の一員でした。その立場で講和会議に参加し、山東半島でドイツが持っていた権益は当然、中国に返還されるべきだと主張しました。
これに対し日本は、日本の手を経て中国に返還すると声明して、いったん日本が引き継ぐ形を受け入れさせました。そうすると、今見たように五四運動と呼ばれる反日運動が起きるということもあり、中国代表は講和条約に結局、調印しませんでした。つまり山東問題は宙に浮いた形となったのです。
また日本が占領した赤道より北のドイツ領の南洋諸島について、日本は、国際連盟から統治を任されました。これを「委任統治」といいます。
1920年に南洋諸島の委任統治が始まり、日本の法律に基づいて統治されることになりました。(ただし軍事施設の設置は禁止されていました。)
1922年にはパラオ諸島のコロール島に南洋庁という役所が設置され、民政に移行しました。そして南洋庁は、移民の奨励、産業の振興、教育の奨励を進めました。
産業というと、サトウキビや、油が取れるココヤシ(石けんの材料)の栽培、かつおぶしの製造などがありました。移民としては、沖縄からたくさんの人が南洋諸島にわたっていきました。
教育に関しては、こちらを見てください。
これは『国語読本』という日本語の教科書です。委任統治が決まる前に既に島の児童に日本語を「国語」として教えようとし、そのためにこの教科書を作ったのです。
巻2の第5課「ガッコウ」のページにはこう書いてあります。
「センセイノオシエヲマモッテ イッショウケンメイニベンキョウスレバ ハヤクヨイニホンジンニ ナルコトガデキマス・・・」
ただし、日本語は教えられても日本国籍は与えられませんでした。
ワシントン体制
ポイントにあったワシントン体制についてですが、第一次世界大戦を通して日本が中国や太平洋に進出したことに対し、諸外国からはこれまで見たようにさまざまな不安や批判がありました。そして、アジア・太平洋地域で日本を含めた関係国が利害を調整し、行動に枠を設けるために開かれたのが、1921〜22年にかけてのワシントン会議でした。
ワシントン会議では中国に関してまず九か国条約が結ばれました。
調印したのは、米・英・仏・伊・蘭・中国・ベルギー、ポルトガル、日本の9か国でした。
その内容は、中国の主権、独立ならびに領土的、行政的保全を尊重することが盛り込まれました。これは中国の独立国としての立場を尊重し、その領土や、領土内での支配権を尊重するということです。
そしてもう一つ大きな内容が、中国における各国民の機会均等主義を維持すること、でした。つまり、ある国だけが中国で独占的利権を得ることは、機会均等に反するとして否定されました。そこにこの条約の最大の意味があったといえます。
この条約の趣旨に沿って中国と日本の全権が交渉し、山東省の旧ドイツ権益は中国に返還すること、日本軍は撤兵することが決められました。
また、太平洋海域で列強の利権をお互いに侵さないようにしようということで、四か国条約も結ばれました。これは日本、アメリカ、フランス、イギリスの間で結ばれたもので、太平洋の現状維持を目的としていました。
石橋湛山の「小日本主義」
こうして日本はイギリス、アメリカと協調して、海外の利権を維持する方向をとることになりました。ただ、こうした英米と協調しようというありかたに対して、軍部の中には英米と対決しつつ中国での利権拡大をはかるべきだという考えを持つ人々がいて、構想を練っていました。
しかし、こうした軍の一部の考えとは正反対に、そもそも日本が海外に利権を持つことを真っ向から批判した人がいました。その代表的な人物が石橋湛山で、彼は「小日本主義」を主張しました。
これは、日本は小さな国でいいではないか、ということです。
例えば彼の「大日本主義の幻想」という文章には次のような一節があります。
「朝鮮、台湾、樺太、満州と云う如き僅かばかりの土地を棄つることに依り広大なる支那の全土を我友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我道徳的支持者とすることは、如何ばかりの利益であるか計り知れない。…」
つまり石橋湛山は「日本人は西洋列強の真似をするのをやめて、植民地や勢力圏を放棄することを主張したのです。そうすれば軍備も不要になるという注目すべきことも述べています。それはとても小さな声で当時はほとんど無視されましたが、こうした主張があったことも忘れてはならないと思います。
大戦景気
最後のポイント、大戦景気です。それではこれについて映像を見てみましょう。
第一次世界大戦によって、日本はそれまでと一変して好景気となりました。「大戦景気」です。
世界的な船の不足から、造船業や海運業が著しく伸びました。
八幡製鉄所などを中心とした鉄鋼業や機械工業。それまで輸入に頼っていた化学、薬品工業なども発達。工業国としての基礎を築きました。
富山県東部を流れる黒部川です。ここでは大正時代に水力発電所が建設されました。この時代、機械の動力は、蒸気から電気に変わり、それが電源の開発、特に水力発電に拍車をかけたのです。
製糸業の発展
大戦景気によって、めざましい勢いで成長したのが、生糸を作る製糸業です。日本各地で輸出に向けた生糸の生産が盛んになりました。
右の写真は、長野県の諏訪湖畔に立ち並ぶ製糸工場です。
ここは、明治時代から製糸業が盛んな地域で、「諏訪千本」と言われるほど、工場の煙突が立ち並んでしました。
そこでは、主に農村の貧しい女性たちが女工となり、製糸工場でまゆから糸をとったのです。労働は、1日14時間にも及ぶものでした。
女工の賃金の記録が残っています。賃金は、とった糸の質や量によって決まりました。100円以上を稼ぐ女工は、工場同士で取り合いになることもありました。
しかし、過酷な労働で病気になって故郷に帰されたり、命を落とす女工たちも少なくありませんでした。
製糸業
第一次世界大戦期の日本の経済発展について、左のグラフを見ると分かるように、1915年ごろから増え、15年から18年までは輸出が輸入を上回っています。この時期はちょうど第一次世界大戦の間です。
それまでの日本の貿易は、綿花をアメリカや、イギリス領だったインドから輸入したり、鉄や機械を輸入したために赤字傾向が続いていました。
しかし大戦が始まると、アジア向けの綿糸や綿織物、そして日本以上に大戦景気に沸いたアメリカ向けの生糸の輸出が大きく伸び、貿易黒字となったのです。その結果日露戦争以降の債務は解消していきました。
幕末以来、生糸は輸出品のトップを走り続けてきました。生糸は原料を国内でまかなえますから、輸出すればするほど、外貨を稼ぐことができました。日本にとって貴重な輸出品だったのです。
女工の労働環境
女工たちの労働時間ですが、表に示したのは明治末期の長野県の場合で、朝5時15分に起床して、5時40分に就業します。途中食事休憩を挟みながら、夜は9時まで仕事です。
全国的には一日10〜14時間といったところで、現在の感覚からすると長時間労働でした。
一方、綿花から糸を作る紡績工場の女工たちには、深夜労働がありました。彼女たちのことは、ここにある『女工哀史』という本に描かれています。これは1925年に細井和喜蔵という人が著した本です。
この本の最後のところで彼は「女工問題こそは社会、労働、人道上あらゆる解放問題の最も先端に、中心に置いて考へられねばならぬ凡ての条件を具備して居る。」といっています。こうした女工たちが当時の日本経済を支えていたのです。
都市の近代文化
大戦景気とともに、都市人口は増加し、東京は200万を越えるほどになりました。都市ではサラリーマンやその家庭を担う主婦、あるいは「職業婦人」と呼ばれる事務職などの女性が増えていきました。大正の終わりから昭和のはじめにかけての都市のようすを見てみましょう。
写真は大正時代の東京です。
都市では、自動車やデパートといった西洋の近代文化が身近になりました。
華やかな洋服を身につけて街を歩く女性たちは、モダンガール・「モガ」と呼ばれました。
右は、レストラン。このころ、西洋料理はレストランだけではなく、家庭の食卓にも広がっていきました。
第一次世界大戦を通して日本は膨張していきました。しかしその際、イギリス、アメリカとの利害の調整が必要でした。それだけでなく、膨張していった先の中国などとの摩擦が避けられない問題でもあったのです。そんな中で、先ほど見たように日本は白人の真似をやめて、植民地や中国での利権を捨てるべきだとの主張も存在しました。こうした多様な意見や可能性が存在したところに、大正という時期を学んでゆく際の魅力があるように思います。 
 
日清戦争 明治27年8月1日〜明治28年3月10日

 

西欧列強の東洋侵略の最中にあって、日清両国の角逐はかれらに漁夫の利を与えるに過ぎない。日清が善隣提携のためには朝鮮における日清両国の紛争を根絶させることが急務であった。そのため明治18年4月に「天津条約」が締結されたが、締結から約10年後に生起した日清戦争は、清国がこの条約に違反したことが原因となったものである。
即ち、宗主権を維持し朝鮮は属国であると主張し続ける清国と、朝鮮を独立させこれと提携して発展の道を開拓しようとする日本との国策の衝突であると同時に、自力で収拾できなかった朝鮮内部の混乱によるものである。かくして明治27年に勃発した日清戦争は新興国日本が始めて経験した対外戦争であった。しかも相手は老いたりとはいえ「眠れる獅子」と恐れられ、人口・版図とも我の10倍はあろうかという超大国の清である。国民は不安に慄きながらも維新で築いたばかりの新生国家の命運を賭して上下・官民心を一つにして国難にあたり、連戦連勝のうちに戦争目的を完遂した。しかし戦いはこれで終わったわけではなかった。宿年の想定敵国ロシアとは早晩戦わざるをえない運命が待っていたのである。
「大韓国」の国号は、西暦1897年(明治30年・光武元年)10月12日の皇帝即位式挙行の日から起こる。それ以前は「朝鮮」である。従って「征韓論」とか、明治9年2月調印の修交条規を「日韓修交条規」と呼ぶのは厳密には正しくない。本項では上記起源に基づき「朝鮮」「韓国」を区別して呼称する。 
日清戦争1

 

征韓論の台頭と台湾出兵
日本は幕末期に西洋11カ国と条約を結んでいながら、近隣の中国・朝鮮とは正式国交を締結してはいなかった。
明治維新ののち新政府は朝鮮との修交を図ろうとし、明治元年12月 対馬藩主・宋義達に命じて書を朝鮮に送ったが、時の摂政である大院君は鎖国主義を採って日本の要求を拒んだ。なおも政府は朝鮮との修交を望んで外交的交渉を重ねるも常に非協調的な態度で我に対した。このため朝鮮の無礼を許し難いとする征韓論が巻き起こり、のちの西南の役に繋がった。だが当面の日本にとっては半島問題よりも北方蝦夷地での対ロシア問題の方が重要であり、何より不平等条約の改正が国策として最重要課題であった。
明治4年11月 琉球の民69名が台湾南端地方に漂着し、そのうち54名が生蕃(土民)のため虐殺され、3名は溺死、12名のみが辛うじて逃れ去った。また明治6年3月には備中・岡山の民4名が台湾東南岸に漂着して略奪される事件が起こった。これを受けて政府は、外務卿副島種臣を清国に派遣し談判させたところ清国は、台湾は清国の領域ではなく、化外の民であり関知するところではない、として我が抗議には応じなかった。そのため明治7年4月4日 政府は陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任じ、陸軍少将谷干城、海軍少将赤松則良以下3658名を以って出征の軍を台湾に送った。酷熱と病魔と戦いつつ生蕃の本拠を衝き、相次いで敵を降しついに台湾全島を平定した。清国は日本の出兵を非難し両国の間は険悪となったが、英仏の調停によって清国は日本の出兵を義挙と認めた。我が国は台湾領有は意図せず、全軍を撤収後12月下旬に帝都に凱旋した。本戦役の日本軍の損害は、戦死12、戦傷17、戦病死531であった。
この台湾征討(征蕃の役)は拡大することもなく小戦争で終わったが、日清の衝突は既に明治初頭に遡って現れたのである。 
江華島事件 
征韓論争が一段落したのちも日本政府はなお修好の希望を捨てなかった。明治8年 朝鮮国王李煕大王は23歳になり、自ら国政をみる立場となった。保守主義者で攘夷論者の李大王の生父・摂政大院君の影響力も低下し、これにより朝鮮の外交方針も一変、修好の意を通じるまでになった。両国の修好が始まるかに見えた矢先、隠遁していた大院君は京城にはいり、再び政治の実権を握ったので、外交方針は二転し、修好ができなくなったばかりではなく、不幸にして江華島事件が突発した。
明治8年5月20日 軍艦「雲揚」(艦長井上良馨少佐)が朝鮮近海の水路を測量中、江華島砲台の朝鮮兵から砲撃を受けた。「雲揚」は断固応戦して砲台を占領、永宗城を焼き朝鮮兵30余名を倒し、火砲38門その他を奪って帰投した。この戦闘で損害は水兵1名戦死、2名が負傷した。明治9年1月 参議陸軍中将黒田清隆を特命全権として朝鮮に派遣、朝鮮と交渉を続けた。交渉は難航したが2月27日 朝鮮政府は罪を謝し、日本の要求を容れて江華島条約12条を結び、ともかく修好は復活した。日鮮が修好を絶った文化8年(1811)から65年目のことであった。
この条約の骨子は、朝鮮が独立自主の国家であることを確認し、日鮮両国和親の実を表することを約したことである。しかるに清国は朝鮮は属国であると主張し、日本・朝鮮両国間の条約を破棄するように要求してきた。日本はこれを拒否したが、何らの解決を見ないで時間が経過していった。 
朝鮮京城の変/壬午の変 
明治9年の江華島条約によって日本は朝鮮を自主独立の国家と認めた。朝鮮での条約締結の原動力であったのが開化党という近代化に意欲的な勢力である。これは日本にならって内政を改革し、近代国家への脱皮を図ろうとするもので、別枝隊と呼ばれる日本軍人の指導による新式軍隊の育成や日本への視察団などが積極的に行われ、大院君ら保守派を追い、王の舅家・閔氏一族と結んで政府の重要な地位を占め、実権を握りつつあった。
別枝隊が優遇される代わりに旧式軍隊が冷遇されるのは致し方がなかった。これに伴う彼らの不満の増長に加え、給与の不払い、糧食の不正事件が重なって、明治15年(1882)7月20日壬午の変(京城の変)が勃発した。200余名の朝鮮兵によるクーデターは暴民が加わり2000人以上の勢力となり王宮に乱入、王と王子を生け捕りにし、閔氏一族を虐殺した。大院君はこの機を逃さず日本人の追放を図り、派遣教官・堀本礼造工兵中尉をはじめ6人の日本人が殺害された。日本公使館も焼かれ、花房義質公使らは重囲を突破して仁川に逃れ、英国軍艦に収容されて辛うじて帰国することができた。
花房公使からの報告を受けた日本政府は、黒田清隆の強硬論と山縣有朋の慎重論がぶつかり、結局外交交渉を援護するため少数の兵力のみ派遣する慎重論を採った。8月20日京城に戻った花房公使は、公式謝罪、損害賠償、犯人関係者の処罰など6か条を要求した。再び実権を握った大院君は援兵を清国に求めており、回答は遅れた。また山中に逃れていた閔妃は、山中から密使を送りすみやかに清国に救済保護を請うように勧めた。閔氏一族は、大院君と対立したからこそ日本を背景とする開化党と提携したが、その勢力維持のためには日本よりも強大な清国の力に依存しようとした。言い換えれば、清国は大院君と閔氏一族を巧みにあやつり、実質上の属国としていたのである。
その清国は、朝鮮からの要請を受けて陸兵と軍艦6隻を派遣し、緊張が高まったが、8月30日 「済物捕(さいもつほ)条約」が調印され、日本は朝鮮から謝罪賠償の他に公使館護衛のための駐兵権を得た。交渉にあたり清国は、依然韓国は属国であると主張し兵を朝鮮に駐屯、大院君を抑留・引退させ、大いに朝鮮の内政に干渉した。この事件により、我が政府特に軍当局者は対外交渉の容易でないことを強く認識させられた。 
朝鮮京城の変/甲申の変 
壬午の変後の朝鮮は、京城内では日本兵と清国兵が相対峙しており、政府内では保守派と改革派の対立が続いていた。保守派は、開化党とむすんで大院君を追放した閔氏一族を中心とする事大党で、壬午の変で清国の援助で政権に回復するとますます大国に依存する必要を感じ、守旧派に転じていた。表面上は清国の支持を仰ぎ、裏面では清国のみに依存することが保身には不利なことを悟り、進んでロシア以外の列強と通じようとすらしていた。改革派は金玉均、朴泳孝らを中心とする独立党と呼ばれる明治維新に範をとる開明的少壮集団である。閔氏一族と結んで大院君を追放したが、今度は改革をめぐって閔氏と対立し、日本との連携を強めようと考えていた。
閔氏一族を中心とする事大党は朝鮮内部で勢力を拡大してはいたが、悪政ぶりがひどく人心は閔氏一族から離反しつつあった。朝鮮国王の心境にも変化が見られたが、国政を一新するだけの決意はなく、優柔不断な態度に終始していた。こうした国王の態度に、独立党は一挙に国政改革を断行することに決し、明治17年(1884)12月4日 京城郵便局開設の祝宴に各国公使と政府高官が一堂に会した夜、独立党の洪英植、朴泳孝、徐広範、金玉均らによって事大党の高官閔泳翊を傷つけ王宮に迫った。翌12月5日 国王を擁した独立党は大政一新を布告、王宮守備のため日本公使・竹添新一郎に援軍を要請した。竹添公使は100名余の兵によって王宮を護衛、政権は独立党に帰し、クーデターは一応成功した。
ところがこの甲申の変(漢城の変)が起こると閔氏一族は直ちに清国兵に救援を求め、袁世凱は清国兵2000をもって軍事介入し王宮に迫り、王宮内の朝鮮兵と救援の日本兵に向かって攻撃を開始した。国内二派の政争が一転して日清両国兵の戦闘になったのである。日本軍は数が少なく非常な苦戦に陥った。しかも国王は劣勢の日本軍を見限り、密かに王宮を逃れて清国軍に身を投じてしまった。こうして成功したかにみえた独立党政権は一夜の天下で潰え、日本軍は護るべき王を失ったうえに在留邦人を含む40名を越す死者を出し京城を撤収、仁川に逃れた。邦人犠牲者の中には暴虐なる清国兵によって犠牲となった婦女子もあった。
日本政府は、朝鮮に対しては謝罪賠償を、清国に対しては国王を護衛していた我が兵を攻撃した罪を糾し、再び問罪使を送った。明治18年1月9日 日鮮間に「京城条約」が調印された。また伊藤博文らを天津におくって清国と談判し、4月18日に至り、日清ともに朝鮮から撤兵すること、将来朝鮮に異変が起こり両国または一国が派兵を要するときは、相互事前通知の必要を決めた「天津条約」を締結した。 
日清対立に対する情勢 
二度の京城の変を重ね、清国との関係は年とともに悪化した。そして我が政府特に軍当局の対外観念を大きく刺激し、対清軍備を急速に高める決意をさせた。しかし日本は清国に対して戦争を欲してはいなかった、当時の日本は列強との不平等条約の改正に努力中で、日英条約の更改こそ条約改正の基礎になるとみて英国に働きかけていた。その英国は対露仏の国際関係から日清戦争には反対し、それどころか英清同盟説さえも噂された程であった。従って日清の開戦は起動にのってきた不平等条約改正を水泡に帰さないとも限らない。時の外相陸奥宗光は非常な苦悩があり対清外交方針は著しく協調的・平和的ですらあった。
この政府当局の平和主義的協調方針に対して、主戦論を展開したのは軍部であった。陸軍は諸般の形勢から日清は早晩戦わねばならぬものと判断し、一意対清戦争の決意を固めていた。だが海軍は主動的な立場から開戦を論じたものはなく陸軍の意見に追従するという形であった。これには海軍軍備が遅れて対清海戦に自信がなかったことも一因であるとされている。このように国論は二分し、対清政策は容易に一致しえない状況にあった。 
金玉均の遭難と国内世論の沸騰 
明治17年の甲申の変の敗北によって亡命を余儀なくされた朝鮮独立党幹部は、日本やアメリカに在って再起の機会を待った。その中でも日本にきた金玉均や朴泳孝は、守旧派による朝鮮政府から最もマークされていた危険人物であった。日本は国事犯亡命者として保護していたが、やがて外交上の問題となるのを恐れ国外退去を命じ、実行されないと見るや保護を理由に小笠原や北海道などの遠隔地に移した。その間金玉均は祖国改革の大望を忘れることはなく、日本人の支援者も福沢諭吉、中江兆民、後藤象二郎ら多数にのぼっていた。そのような状況の中で明治27年3月27日 朝鮮政府は刺客洪鐘宇を日本におくりこみ、最終的には上海にて金を射殺、遺体を朝鮮軍艦で輸送した上に四肢を寸断、頭と胴はさらしものにするといった暴挙に出たのである。
この残虐な事件が報じられると日本の国民は朝鮮の残虐ぶりと日本政府の軟弱さをなじり、事件の背後に暗躍する清国の悪辣さに激怒した。世論は強硬外交方針へと移り、日本国内には反朝抗清気運が盛り上がっていた。 
東学党の乱 
金玉均の暗殺に呼応するかのように勃発したのが東学党の乱である。東学とは西欧の学問に対抗するという意味で、本来キリスト教を排斥する新興宗教であったが、広く朝鮮民衆に浸透するとともに政治的色彩を帯び、政府の失政、地方政治の悪政に抗して内政改革を標榜し、ついには乱を起こすに至ったものである。
明治27年(1894)4月 全羅北道の一隅に起こった東学党の乱はたちまち朝鮮全土に波及、6月には全洲以南がすべて反乱勢力の手中に陥り、さながら革命前夜の状態となった。朝鮮政府は自力解決は困難と判断、6月3日に清国に救援を求めた。清国は直ちにこれに応じ、6月7日には清国軍第1陣約1000名の牙山上陸を開始した。日本に送った通知には「属邦保護のための出兵」とあり、明らかに天津条約違反であった。清国からの通知を受けた日本政府は、「朝鮮を貴国の属邦と認めることはできない」旨を回答し、「居留民保護のため朝鮮に派兵する」と通知、6月9日には第5師団の一部を宇品から出港させた。
日本は清国に対し、協同して朝鮮の内乱を鎮圧し内政改革をすすめようと申し込んだが清国はこれを拒絶した。宗属関係の強化を目指すことが清国の基本方針であったためである。甲申の変後朝鮮の改革派が壊滅状態になっていたため朝鮮側からの改革は事実上不可能であった。そうなると日本軍が朝鮮王宮、政府を抑えたのちに上から改革を指導する他なく、そのためには清国の宋主権の排除が避けられなくなった。英米ロ三国は、それぞれの立場から調停を斡旋しようとしたが清国は、日本の撤兵後でなければ何事の協議にも応じないという態度を固持したためいずれも失敗し、各国ともに傍観の立場をとるに至った。
7月12日 日本政府は第二次絶交書といわれる宣言を発し、戦争も辞さない決意を示した。7月19日には大島公使が朝鮮政府に清国軍の撤去要求を求める「最後通牒」を手交した。6月中旬以来武力をもって京城を抑えていた日本は、閔氏一族に代わるものとして隠棲中の大院君に出馬を促し改革に着手した。7月23日 大院君は日本兵に護られて王宮に入り閔氏一族を一掃して政権を握り、対日協力の態度を明らかにした。ここにおいて朝鮮における日本の立場は一挙に好転するとともに、清国との戦争はいよいよ避けがたいものとなったのである。 
中華思想と世界観の相違 
朝鮮は長い伝統を有する中華思想に基づく朝貢体勢に組み込まれ、清国を主君、朝鮮を臣下とする主従関係を結び、清国を宗主国と仰ぐ属国の立場を守っていた。自ら中華と称し4000年の文化を誇る清国は、新興国日本を中華秩序の破壊者としてとらえ、中華世界の防衛を軍備強化の目的とした。これに対し日本は、清国を欧米列強の前に放置された前近代国家と位置付け、阿片戦争以来自国の独立すら危うい半植民地国家が隣国朝鮮の保護をまっとうできるとは思えず、もしこれが破綻すれば朝鮮もまた西欧列強の草刈場となり、日本の存立も脅かされることは必定であった。
当の李氏朝鮮側からすれば、どちらか一方につけば必ず他方の反発を招き、大国清国と新興国日本の間で後進国として混迷を続けていた。日本は朝鮮に対し自由な独立国となることを期待したが、自力救済能力がなく他国に依存を続ける他力本願的政策をとる国は往々にして失敗し、国家を危険な立場に立たせることは史上に例が少なくない。この場合の朝鮮はまさにこれであった。
このように旧体制国家の干渉を排除し、欧米の侵出から我が国ひいては東洋全体の平和を確保しうる近代国家の建設を目指していたのが日本である。新旧の異なる世界観と秩序をめぐって推進された日清両国の軍備強化は、その考えを変更しない限り衝突は不可避であった。 
日清戦争2

 

陸上戦力 
日本軍
平時編成は総員7万名で7個師団に分けていた。戦時編成によれば動員兵力は守備部隊を含めて約23万名であり、参加実数は24万を超えた。国軍としての編成・装備も統一され訓練・士気ともに高く、質的には清国軍を著しく凌駕していた。
清国軍
清国本来の正規軍は八旗と緑営であった。八旗は満州族の世襲軍で平時は行政単位で戦時のみ軍隊編成の単位であり、清朝の支那支配に伴い武力をもって漢民族を支配する地位にあった。約29万人と言われた。緑営は漢人のみで編成し、各省に駐屯させて治安の維持に当たらせていたものであり、約54万人と言われた。これらは清朝建国当時の制度をそのまま受け継ぎ創設以来約200年以上経ており、大砲と機関銃の時代に弓と太刀の技術によって将校を採用していた。軍制は乱れ精神的にも腐敗堕落しており、「阿片戦争」や「太平天国の乱(長髪族の乱)」などでもはや軍隊としての実態を失っていることを露呈していた。
これらに代わって清国軍の実戦力となったのは勇軍と練軍である。
勇軍は、阿片戦争などで正規軍が無力であったために応急的に編成した私兵集団で、傭兵的な色彩を持っていた。練軍は、八旗の中から選抜されたもので外国人将校の訓練を受けた新式軍隊である。開戦当初の勇軍・練軍の総員は約35万名、戦時に新たに募集し総数約98万にも達したが、本戦争に使用されたのは直隷省近くにあった部隊だけである。それでも日本軍よりもはるかに多かったが、その多くは編成・装備・訓練も統一されていない雑多な軍隊であった上に、統帥組織に欠点を抱えており全軍を集中的に運用することができなかった。そのなかで李鴻章直率の北洋陸軍約3万と東北三省の練軍5千名は精鋭部隊であった。 
海上戦力 
日本軍
清国艦隊に総隻数、総トン数において劣り、定遠、鎮遠のような巨大戦艦は有していなかったが、快速と速射砲主体の新鋭艦を保有し軍の士気、技能、指揮統率面においては清国海軍よりも遥かに優れていた。
清国軍
清国は明治8年に装甲艦を購入して以来近代海軍の発展に努めていた。英・独両国に軍艦を発注し香港に東洋艦隊司令部を置く英国と緊密な関係を持ち、顧問ラング大佐の指導のもと海軍力の拡大を図っていた。上記のように数では勝る清国海軍であったが、旧型艦艇が多く、訓練・士気に劣るだけでなく陸軍同様統帥組織に欠陥があった。作戦区分として北洋、南洋、福建、広東の各水師に分かれ、それぞれが所管の大臣・総督に隷属しており、指揮権も訓練も統一されておらず合同で作戦する態勢にはなかった。中でも北洋水師は錬度も高く別格であったが、他の3水師は一部を除き外洋での作戦すら困難であったとされる。実際に日清戦争に参加したのは北洋水師と広東水師のうちの3隻のみで、軍艦25隻、水雷艇12隻、総計44000トンに過ぎなかった。
この中で「定遠」と「鎮遠」は、東洋一の堅艦としてその威容を誇っていたが、艦齢は10数年が経過していた。他の艦も日本艦隊と比較して一般に速力も遅く、新式速射砲を備えた軍艦はなかった。これは清国の内政が乱れ近代化を維持できなかったためで、本来は海軍力拡張に充てられるべき予算が、西太后の還暦祝いのため万寿山の大庭園の建設費用に流用されたためといわれている。 
作戦構想 
大帝国たる清国はかねてより日本を弱小国視しており、明治維新後の日本については、軽佻浮薄、みだりに西洋文明のまねごとをした一小国夷と嘲り、優勢な陸海軍をもってすれば戦わずして屈服しうるか、戦ったとしても一撃のもとに粉砕しうるものと信じられていた。それ以前に、日本の政争から和戦国論の一致が得られず、たとえ戦うも内部崩壊の危険をはらむ脆弱な国家であると判断していた。世界各国も、同様に国土面積・経済力その他あらゆる面から見て清国の勝利は始めから疑う余地がないとする観測が支配的であった。
そうした中で日本軍の作戦計画は、『陸軍の主力を山海関付近に上陸せしめ、直隷平野において清国野戦軍と決戦するにあり、これが為先ず第5師団を朝鮮方面に進め海軍をして速やかに黄海及び渤海湾の制海権を収めしむ』 と戦争終末の状況を想定し、制海権掌握後の敵野戦軍主力撃滅を作戦の主眼に置いた。 
豊島沖海戦 
旅順西海岸の制海の大本営訓令を受けた聯合艦隊は、7月23日1100佐世保を出港、朝鮮全羅道西北端の郡山沖へ向かった。第1遊撃隊(司令官 坪井航三少将)の「吉野」「浪速」「秋津島」の三隻は、25日豊島沖で清国軍艦「済遠」「広乙」と会合した。
開戦前であったため礼砲準備をしていたところ、0750 距離3000Mにて「済遠」が突如砲火を開いた。日本の3艦は直ちに応戦、交戦数分後「済遠」は西方に遁走を開始、「吉野」「浪速」はこれを追撃中、清国軍艦「操江」と英国商船旗を掲げた汽船「高陞号」と遭遇した。「高陞号」は西方に退避したが同商船は清国兵約1200名を搭載していたので、遊撃隊司令官は「浪速」艦長・東郷平八郎大佐に英船の処置を命じた。東郷艦長は英船に停船を命じ、臨検後船員に退去を命じ警告信号の後にこれを撃沈、清国兵を捕虜とした。中立国である英国船舶を撃沈したことで国際問題となりかけたが、東郷艦長の処置は適切であると、世界的国際法学者ホーランド・ウェストレーキ両博士からも評価されたため英国世論は沈静化した。牙山への増援部隊を乗せた「高陞号」の撃沈は、この後の陸軍による成歓・牙山作戦に大きく貢献し、この勇断は東郷の名を国際的にも有名にした。
なおこの海戦で日本側に死傷者はなく、「済遠」に大損害を与え、早々に降伏した「操江」は我が「秋津島」に捕獲され、「広乙」は座礁したのち火薬庫が爆発し残骸を残すのみとなった。この海戦は、戦力的に日本は清国側に数倍し、勝敗は始めから明らかであったが、緒戦の快勝は海軍のみならず陸軍、そして国民にも自信を与え士気を高揚した。 
成歓・牙山作戦 
朝鮮政府救援を名目として出兵した清国軍は6月9日 葉志超を総指揮官として2465名と砲8門の部隊が京城南方約100KMの牙山に上陸、その後も増援を繰り返し7月23日に牙山にある清国軍は4165名を数えた。しかし前述のように「高陞号」に乗艦していた1200名と砲12門の増援部隊は豊島沖で撃沈されていた。牙山に集結した清国軍北上の情報がしばしば伝えられ、平壌付近に集結しつつある清国軍主力(約10000)とともに京城付近の日本軍が挟撃される恐れがあり、戦略上からは清国軍主力の平壌集中・南下に先立ち機先を制して牙山付近の清国軍を撃破することが望ましかった。7月25日 朝鮮政府から牙山の清国軍撃退の要請を依頼された大鳥公使は、翌26日 第9歩兵旅団長・大島義昌少将にその旨を通達した。そのころ豊島沖海戦勝利の報が伝わり、全軍みな勇躍、士気は大いに上がった。
大島旅団長は清国軍の主力約3000余が成歓北方に陣地を占領して防戦準備をしていることを知り、これを目標として29日早暁から攻撃を開始することとした。7月29日0200 左右両翼に別れて全軍は一斉に行動を開始した。右翼隊は満潮にあたり道路と水田の区別ができず行軍は困難であったところ、前衛中隊が安城川を渡った辺りで突如敵襲を受け、第12中隊長松崎直臣大尉戦死のほか数名の死傷者を出した。これが日清戦争最初の犠牲者であった。激戦30分ののち敵を撃退、成歓を目指して行軍を続行した。0520 旅団長直率の主力左翼隊は、成歓の東北高地に到着、ただちに敵陣に向かって攻撃を開始した。両軍の小銃・砲兵火力の応酬は激烈を極めたが右翼隊もやがて到着、敵堡塁を続けて陥れた。0700敵主力は退却を始めたので旅団は敵陣に突入、激戦2時間で成歓の敵陣地を占領した。
旅団は態勢を整えふたたび左右両翼に別れて追撃に移り、南北から牙山を衝こうとした。もともと牙山は清国軍がその本拠として長く布陣していた所なので、成歓の敗兵はすべてここに集結し頑強に抵抗するものと考えられ、日本軍は激戦を覚悟して進撃した。ところが夕刻、右翼前衛がその地に到着すると敵は退散した後で清国兵の姿はどこにもなかった。無血のうちに牙山を占領したのである。その後少数の夜襲を受けたがこれを撃退、戦利品は軍旗、銃砲、弾薬その他多数にのぼり作戦は日本軍の快勝に終わった。こののちしばしば見られたように清国兵はあまりにも弱く、逃げ足だけは速かったのである。成歓の敗残兵2000余は多数の小集団に分かれ、多くは変装して山野を踏破し、敵将・葉志超以下は300マイルも果ての平壌まで敗走したという。
なお安城渡の戦闘で第21聯隊第9中隊の喇叭手白神源次郎一等卒が、胸部を敵弾に撃たれたにもかかわらずラッパを口から放さず吹きつづけた、という忠勇美談が当時の国民の士気を鼓舞した。近代日本の忠勇談1号であった。(のちに第5師団は当該喇叭手を第12中隊の木口小平二等卒である、と訂正、修身教科書にも木口の名前で掲載された。) 
宣戦布告 
豊島沖海戦、成歓・牙山作戦で事実上戦争状態に入ってはいたが、明治27年8月1日 明治天皇は宣戦の詔勅を煥発し、政府は開戦を各国に告げた。清国駐在代理公使・小村寿太郎は公使館員や居留民とともに北京を引き揚げ、帰国の途についた。同じ日に清国皇帝も宣戦を布告、これを受けて西欧諸国は局外中立を宣言した。日本政府の勧告を容れて諸政刷新を断行した朝鮮新政府は、8月26日 日鮮両国同盟条約に調印し、日本と攻守同盟を結んだ。 
平壌作戦 
8月下旬 平壌付近に集中した清国軍は12000名、野山砲32門、機関砲6門に達し、成歓の敗将葉志超の指揮下に、敗残兵3000が加わり京城を威圧する勢を示した。8月19日 京城に到着した第5師団長野津道貫中将は、師団全力の到着とともに北進を決意して平壌に向かう前進を命じた。
 1 混成第9旅団(長・大島少将 3600名) 義州街道に沿って北進、敵を牽制
 2 朔寧支隊(長・立見少将 3600名) 義州街道東側を平壌北側に前進、敵側面を攻撃
 3 元山支隊(長・佐藤大佐 4700名) 朔寧支隊とともに敵の左翼にあたる
 4 師団主力(師団長直卒 5400名) 総予備として混成旅団の後方を北進のち敵の退路に迫る
各部隊は後方からの追送補給の不足を自らの糧秣収集や担送などで補いつつ前進、9月15日早朝から一斉に攻撃を開始した。
混成旅団は頑強な敵の抵抗を受け戦況は進展しなかったが、敵を牽制することには成功した。そのうち朔寧支隊と元山支隊方面の戦況は有利に進展し、平壌の背後から突入、奮戦の結果朔寧支隊は0600頃には牡丹台の険要を占領、ここに砲を移して敵を猛射した。これと連携した元山支隊は、猛将佐藤正大佐の指揮で敵の背後に廻り次々と敵堡塁を占領していた。その一角に玄武門があった。三村中尉の指揮する16名の決死隊は玄武門に近づき開門を試み、原田重吉一等卒ほかが挺身し12メートルの城壁内から飛び降りて門扉を開いて玄部門占領の端緒を作った。敵は騎兵を含む数度の逆襲を試みたが我が反撃によって大損害を与えて撃退した。戦況は一進一退のうちに続けられ、日没近くなった1640 朔寧支隊の前面城壁の敵兵は突如白旗を掲げた。交渉の結果明朝の開城を約束し、元山支隊正面の敵も白旗を掲げ翌日の開城を約束し停戦となった。
ところがこれは清国軍の謀略であった。2100 敵は約束を違え風雨と夜陰に紛れて大挙して逃走していき、射撃をすると抵抗することなく遁走していった。これを見た日本軍は15日2400から城内に突撃したが既に敵のほとんどは敗走しており、ほとんど抵抗なく平壌城内を掃討し占領した。成歓・牙山の敗将葉志超は不戦退却案を持っていたと云われ、かかる弱将のもとでは攻撃精神は期待できなかった。 
黄海海戦 
9月16日 聯合艦隊は豊島沖を出港、途中清国艦隊を捜索しつつ海洋島に向かった。翌17日1030 海洋島北東に煤煙を確認、清国艦隊であった。明治27年9月17日1250 距離5700Mで敵旗艦「定遠」が攻撃を開始、日清戦争における最大の海戦の幕は開かれた。
日本側兵力は聯合艦隊司令長官伊藤祐亨中将率いる旗艦「松島」以下12隻、清国艦隊は丁女昌提督率いる「定遠」「鎮遠」等14隻と水雷艇4隻であった。清国艦隊は輸送船5隻を護衛し鴨緑江に停泊中であったが、こちらも日本艦隊の煤煙を認めて南下してきたのである。清国艦隊の陣形は、中央に「定遠」「鎮遠」を配し、左右に各艦を配する後翼単梯陣形(三角隊形)で日本艦隊の側面に衝突するように航進してきた。これに対し日本艦隊は、第1遊撃隊・本隊の順に単縦陣・一列縦隊で臨んだ。これは運動の自由があり、速度に勝る日本艦隊は旋回しつつ距離3000Mに近接してから猛烈なる砲撃を浴びせた。
戦闘開始直後から敵の陣形は乱れ始め、旗艦「定遠」は操舵通信機能を損壊し、艦隊の指揮をとれなくなり各艦ごとの攻撃になった。右翼の「揚威」「超勇」は早々に火災を起こしており、日本艦隊は勢いに乗じて接近して猛撃を加えた。戦闘は日没まで続き、激戦5時間、敵艦「超勇」「致遠」「経遠」を撃沈、「揚威」「広甲」を擱座させ、他の艦にも大損害を与えた。一方の日本艦隊にも相当の損害があり、旗艦「松島」は死傷者90名に及び勇敢なる水兵こと三浦虎次郎三等水兵も戦死した。本隊最後尾の「比叡」は、「定遠」「鎮遠」らに包囲され集中砲火を浴び死傷者50名を出し、ほとんど原型をとどめないまで破壊された。速力の遅い「赤城」も同様で、艦長坂元八郎太少佐は戦死した。
清国海軍の顧問武官として「鎮遠」に乗り込んでいたマッギフィン米少佐は、「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利して有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値する。」と日本海軍の一糸乱れぬ操艦を高く評価した。このように殲滅させることはできなかったが清国艦隊に大打撃を与え、その後は威海衛に閉じ込め黄海・朝鮮の制海権をほぼ掌中に入れることができた。爾後我が陸海軍の作戦は極めて有利となり、戦局の前途に明るい兆しが見えた。 
日清戦争3

 

鴨緑江作戦
平壌占領後、山縣有朋大将の指揮する第1軍は第3師団、第5師団を基幹として9月末までに集結を完了、ただちに北進することに決し、第2軍(大山巌大将)の遼東半島上陸と呼応して鴨緑江渡河作戦を実施する準備を整えた。一方清国軍は平壌の敗戦後、安洲・義州で日本軍の北進に反撃した後に、宋慶を総指揮官とし、約18000で九連城を中心に二里にわたって大小50もの堅固な陣地を占領、15キロ上流の水口鎮対岸付近に依克唐阿(いこくとうあ)の指揮する約5500を配備して鴨緑右岸を防御した。
10月25日払暁 第1軍主力は敵前進陣地の虎山に対する渡河作戦を開始した。前日夜半から密かに進出していた佐藤支隊など一部前衛部隊は、南側から虎山を攻撃、敵主力の側背に迫った。日本軍の夜間軍橋構築と渡河準備に気づかなかった清国軍は虎山付近を固守し、0800頃各陣地から日本軍に対して反撃を開始した。虎山の主将は馬玉崑で、大いに奮戦し頑強な抵抗を示して第6聯隊の一部が苦境に陥る程であったが、支えることができずに九連城方面に後退した。25日夜、第3師団は迂回して九連城攻撃の布陣で露営、第5師団は馬溝から虎山にわたる地域に露営して九連城攻撃を準備した。10月26日0600 歩兵第11聯隊が九連城北側台地に進出してみると敵の抵抗はなく、城内は閑散としていて人影はなかった。清国軍は虎山の戦闘に敗退すると、老将宋慶は25日夜半鳳凰城に退却し、これを知った清国軍諸部隊も例によって戦わずして九連城を放棄して遁走したのである。この作戦で日本軍ははじめて敵地清国領内に占領地を得た。そして国境の要衝九連城の勝報がもたらされると、明治天皇は第1軍に勅語を賜った。
なお第1軍は九連城の無血占領後、直ちに追撃し鳳凰城及び大東溝を占領、清国軍はほとんど抵抗を示さずに三方面に敗走した。敵将宋慶も主力とともに奉天方面に逃れた。 
旅順攻略戦
黄海海戦で制海権を得た我が軍は、大山巌大将の指揮する第2軍を編成、旅順要塞を攻略するため10月24日から金州半島の花園口に上陸した。敵前上陸にもかかわらず清国軍の抵抗はほとんどなく、第1師団は11月6日には半日足らずの攻撃で金州城を占領、敵兵3500は旅順口及び大連湾方面に退却、我が死傷者は25名に留まった。敗走する清国軍を追撃する第1師団は11月8日までに大連湾諸砲台をすべて占領、戦意を失った清国軍はここでも旅順口まで敗走した。11月17日第2軍は金州を出発、途中前衛の一部が清国部隊の反撃に苦戦した他は大きな抵抗もなく20日には旅順背面防御線に進出した。
旅順は清国北洋艦隊の最重要軍港であり、巨万の財と10数年の時日を費やして当時の新式砲台を構築した東洋一の要塞で、13の永久砲台と4つの臨時砲台には、カノン砲、山砲など各種約100門が配備されていた。李鴻章は増援に努めたが、我が陸海軍に阻まれて十分な増援ができず、要塞守備隊約8000と大連の敗残兵約4000が守備していた。このうち約9000は新規徴募兵であり、守備隊指揮系統は複雑で、実質的な総指揮官は文官であり守将の決意はなく力量に欠けた。配下の将兵たちも日本軍の大連占領に狼狽して逃亡するものが相次ぎ、造船所の官吏も貴重品を盗んで逃走し、旅順市街は大混乱と化していた。
11月21日未明 旅順口攻撃の火蓋が切られた。第1旅団、第12旅団が西方東方からそれぞれ牽制する中、第1師団は旅順の弱点である西北正面から、第2旅団は案子山砲台郡の攻略を開始した。0800には椅子山を占領、松樹山、二竜山の砲台も次々陥落、半日の戦闘で正面の砲台はことごとく日本側に帰した。日本軍が砲台群を攻略して旅順市街に迫るのを知ると、清国軍部隊は潰乱しある者は軍服を脱いで市民を装って逃走した。午後になり海岸砲台の攻撃に着手し、黄金山砲台に突入、吶喊攻撃によって難なくこれを占領した。こうして海正面防備の砲台群もことごとく我が掌中に陥り、1700には大勢は決した。東洋一の大要塞は世界の軍事専門家の予想を裏切りわずか一日で陥落したのである。
この快勝は旅順要塞の軽視となり、のちの日露戦争において旅順攻撃作戦の失敗に繋がるのであった。 
威海衡作戦
旅順陥落後も北洋艦隊は威海衛軍港内に引き篭り渤海湾口を防護して出撃の気配はなかった。これを海上から撃滅することも湾口を完全に封鎖することも困難であり、第2軍大山司令官と聯合艦隊伊東司令長官は連名にて山東作戦/威海衛攻略の意見具申を行った。即ち清国北洋艦隊を壊滅させ、直隷平野での決戦の前提をつくり清国に講和を請わしめる目的で実施した作戦であった。
威海衛は山東省の北岸にあって海峡をへだてて旅順口と相対する直隷湾再要の要塞である。旅順に匹敵する10年余の歳月と巨費を費やして構築された要塞で、24センチカノン砲以下161門の火砲・機関砲を備えていた。ここでも指揮官は文官であり、守備兵の多くは新規徴募の者が多く相次ぐ敗戦に士気は低下していた。
陸上戦闘
1月20日から日本軍は栄城湾に上陸を開始、聯合艦隊の支援砲撃の下にまず陸戦隊が上陸、ついで第6、第2師団が上陸した。各隊は26日を期して進撃を開始、途中百尺崖において歩兵第11旅団長大寺安純少将は戦死、将官の戦死者は大東亜戦争まで大寺少将ただ一人であった。2月1日 大山軍司令官は総攻撃を開始、降雪を冒して北側要塞に向かって前進したが、清国軍のほとんどは既に退却しており大きな抵抗を受けることなく2日までに威海衛市街と堡塁群を攻略した。
海上戦闘
2月の威海衛は寒気は氷点下を示し、艦体は氷で覆い尽くされ小艦艇は航行不能の状態であった。 2月3日未明 我が水雷戦隊は荒れ狂う港内に進入、決死的な奇襲攻撃を敢行した。奇襲攻撃は5日にも実施され。0320 敵旗艦「定遠」を大破、「来遠」「威遠」ほか一隻を撃沈した。 2月7日 伊東長官は全艦隊をもって敵砲台の防御力に致命的大打撃を与え清国海軍の戦意を著しく喪失させた。9日には「靖遠」が撃沈、大破した旗艦「定遠」は自沈し艦長は自決した。2月10日 各艦長らは丁汝昌提督に降伏するように強要、既に降伏の気が清国全艦艇に蔓延しており丁提督は降伏の決意に至った。丁提督と親交のあった伊東司令長官は、葡萄酒と枯露柿を贈りその労を慰めたが、12日丁提督は、伊藤長官の友情を深く謝し、部下将兵の助命を乞うて幕僚二名とともに自決した。伊東長官は丁の死を悼み、礼を尽くしてその遺体を清国に送還した。この経緯は日清両国に深い感銘を与えた。
こうして威海衛は陥落北洋艦隊は全滅し、制海権はすべて日本に帰し、遼東半島の直隷作戦を準備した。 
第2期作戦計画
我が軍は陸海に全勝を収め、遼東半島内の敵を撃破し大連方面に転進した第1軍は、3月5日 牛荘を占領、9日からは田庄台付近の敵を包囲攻撃しこれを占領、満州内作戦を終了した。また3月26日には陸軍の比志島支隊によって澎湖島を占領、支那海方面における海軍根拠地とする目的を達成していた。
大本営は次の主作戦である直隷平野での野戦軍決戦のため、第2期作戦計画が実現されることになった。直隷作戦に参加予定の兵力は既に出征した4個師団に加え、近衛、第4師団ほかで全軍約20余万である。これは当時動員が予想される清国軍約20万人に比べやや優勢であると考えられた。これを統率するため、参謀総長・小松宮彰仁大将を征討大総督に、川上操六中将と樺山資紀中将を総参謀長に任じ、作戦準備中であったが、4月17日に講和条約が調印されたため、清国軍に対する作戦停止が発令された。遼東半島と威海衛に守備部隊を残し、部隊は逐次内地に凱旋帰国した。 
下関講和条約
日清開戦以来連戦連敗の清国は、明治27年初冬から一日も早い戦争終結を望んでいた。だが大国の体面を気にする清国は敗戦国として戦勝国たる日本に和を講じようとするほどの決意もなく、密かに欧米各国に対し仲裁の労をとって欲しいと懇願したが西欧各国はいずれもこれに応じようとはしなかった。
12月17日 天津海税務司のデトリングというドイツ人が李鴻章から伊藤博文首相への照会書を持って神戸に現れた。これは日本政府の考えている講和条件を探るためと思われ、その資格にも不審な点があったので日本政府は面会を謝絶した。清国政府はその後も数度にわたり米国公使を通じて講和を申し込んできたが、講和提議についてその誠意に疑問を持った日本政府は、清国政府に日本の意図を知らしめるため、米国公使を通じて、
『軍事賠償と朝鮮独立を確認するほか、土地の割譲と将来の国交を律する条約締結を基礎として、全権を有する使節を派遣しなければ何らの講和も無効である。』と宣言した。
2月18日 清国政府は米国公使を通じて李鴻章を全権大臣に任命したので会合場所を指示されたい、とする申し入れを行った。3月14日 李鴻章は天津を出発して下関に向かい3月20日から春帆楼で第1回会合を開いた。清国全権は講和会議の前に即時休戦を要請、日本側全権とは休戦条件で難航していたところ、3月24日 日本中を震撼させた小山六之助(豊太郎)による李鴻章狙撃事件が発生した。この事件により日本の講和外交は一気に苦境に陥り、明治天皇の聖旨によって直ちに全6条からなる休戦条約が締結され休戦が成立した。言わば李鴻章遭難事件の代償として休戦が成立したのである。その後も講和条約について協議を重ね、清国側全権の誠意のない駆け引きに対し、日本側全権が憤激して脅迫的言辞で応酬する一幕もあったが、4月17日には日清講和条約及び付属議定書の調印を終えた。
明治28年4月17日調印の講和条約の主な内容は以下のとおり。
  ・朝鮮独立の確認
  ・遼東半島、台湾、澎湖島の割譲
  ・賠償金2億テールの支払
  ・通商に関し、西欧列強と均等の権利の授与
  ・開港場と開市場における工業企業権の確立
  ・条約履行の担保として威海衛の占領 
三国干渉
日清の講和が成立し、全国民が戦勝に酔っていたとき、急転直下、全国民をして色を失わしめたのは、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉である。4月23日 在京の三国公使は外務省に外務次官を訪ね、『日本が遼東半島を所有することは、東洋永遠の平和に害があるから速やかにこれを放棄すべきである』と勧告した。ついで清国政府もこの干渉を口実に講和条約の批准延期を要求してきた。
西欧列強が干渉にでることは以前からある程度予想されたことで、必ずしも唐突の出来事ではなかった。極東への東侵政策をとっていたロシアはかねてより日清問題には関心を示し、暫定的現状維持政策から戦争中は一応静観の立場をとっていた。ところが予想に反し日本が大勝を博すると見るや、大陸割譲は現状変更になることからロシアの態度は積極的となり、侵略的意図を剥き出しにしてきたのである。
フランスは、当時の外交関係からみてその生存上ロシアとの密接な関係があった。ロシアが干渉を決意しドイツがこれに応じる動きを示すと、勢いこの二国に従わざるを得ない立場にあった。またドイツは開戦当初から日本に好意的ではあったがその行動はあいまいな点が少なくなかった。密かに清国に対し戦時禁制品を輸出したり退役将校を清国に関係させたりして自国の利益を図っていたのである。東洋の利害関係が比較的少ないドイツにとって、露仏同盟は脅威でありこの機会に露仏二国に接近を図り、ロシアの勢力を欧州から極東に向ける必要があった。いずれも国際関係の複雑さが絡んだ結果であったが、日本の外務当局はこの複雑な国際情勢を正しく理解してはおらず、陸軍が創生期に教師国としていた独・仏の同調を衝撃的に受け止めた。
中でも公然と干渉の度を強めたのはロシアであった。日本に停泊中の艦船に出港準備を命じたり予備兵を召集するなどといった対日恫喝を具体化させており、三国干渉の張本人がロシアであることは明白であった。
4月24日 広島大本営で三国干渉のことを議する御前会議が開かれた。伊藤博文首相は採るべき案として3案を提示した。
 1 たとえ新たに敵国が増加するも三国の勧告を断固拒絶する
 2 列国会議を開催し遼東半島問題を協議する
 3 勧告を容れ清国に恩恵的に還付する
以上3案について討議を尽くしたが、1案は、陸海軍の戦力上到底勝ち目はない。2案は、列国会議がかえって新たな干渉を導く危険性があり、結局三国の勧告を容れざるを得なかった。日本外交の敗北であった。明治28年5月10日 遼東半島還付の詔勅が下り、全国民は万斛の涙を呑んで三国の武力干渉の前に屈した。やがて、ロシア撃つべしとの声が期せずして沸き起こり、「臥薪嘗胆」は全国民の合言葉となって富国強兵に努めることとなった。
このときから日露戦争までの10年間は近代日本史上最も民族的意識の発揚した時期となり、「臥薪嘗胆」は日露戦争で辛うじて勝利を収める原動力となった。
なお大東亜戦争の動因の一つは、支那事変に対する列国の蒋介石への援助−いわゆる援蒋−の排除にあったが、支那大陸に対する我が勢力の拡大を阻止し、妨害しようとする列強の動きは、既にその45年前において見られたのである。 
 
旅順攻囲戦

 

明治37年-明治38年(1904/8/19〜1905/1/1)は、日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順港を守る旅順要塞を日本軍が攻略し陥落させた。 
背景

 

ロシアは、1898年の遼東半島租借以降、旅順口を根拠地とする旅順艦隊(第1太平洋艦隊)を極東に配備し、旅順口を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた。日本が日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島との間の補給路の安全の確保が欠かせず、したがって朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえることが必須であり、そのためには旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。また最終的に旅順に立て籠ったロシア陸軍勢力(2個師団)は日本軍の補給にとって重要な大連港に対する脅威でもあった。
1903年12月30日に陸海軍間の作戦協議が行われ、「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき」との海軍側の主張と「臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき」との陸軍側の主張の間で調整が計られ、陸軍側が譲って決着した。海軍側は第一段階として港外奇襲を行い、第二段階として港口を封鎖し、第三段階として港外からの間接射撃によって港内の艦艇を撃破することを想定していたとされる。第一段階(奇襲)の機密保持を重視して、30日に初めてこの構想を陸軍に知らせた。海軍側としては、陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。
開戦後、港外奇襲と港口封鎖作戦が実行されたが、失敗もしくは不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全され続けた。2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始め、3月以降は第二艦隊を対ウラジオストク巡洋艦隊専任に裂かねばならなくなった。しかし海軍はなおも「海軍独力による旅順艦隊の処置」に拘り、以後も港口の閉塞を目的とした作戦が続けられた。 3月27日、第二回閉塞作戦が実行されたが、閉塞は果たせなかった。4月には機雷による封鎖策に転換され、12〜13日に実施された。その後5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。5月9日より、日本海軍は、旅順艦隊の行動の自由を制限するために港口近くに艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換したが、15日には当時日本海軍が保有する戦艦の六隻のうち2隻を触雷により一挙に失う深刻な事態も生じた。現状では旅順艦隊の行動の自由を制限するため、日本海軍は旅順港口に貼り付かざるを得なくなり、陸上から旅順を攻撃する必要性が増していくことになる。
このような状況に加えて、ロシアがバルト海艦隊(バルチック艦隊)の主力艦船群を極東に派遣することが予想された。いまだ健在の旅順艦隊にこれらが増派で加われば、日本海軍の倍近い戦力となる。もしこの合流を許した場合、極東の制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、この増派艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られた。このような経緯から海軍は、開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。
対して陸軍は、海軍側の意向もあり要塞攻略に対して開戦初頭の3月上旬までは監視で充分であると判断していたが、中旬に入り、海軍の緒戦の作戦が失敗し旅順艦隊が未だ健在であることから3月14日、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定する。
しかしながら海軍はその後も海軍だけによる旅順艦隊の無力化に固執し、4月6日の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文にも「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文があるなど陸軍との共闘を拒み続けた。このような経緯により攻城特殊部隊を擁する第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わっている。当時の先端知識を学んでいた人材、特にドイツで要塞戦を学んでいた井上幾太郎が参謀として加わっている事は、旅順難戦の打開に大きく貢献した。軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。当時すでに第1軍、第2軍が大陸に上陸しており、金州城攻略戦を終え北上する第2軍から2個師団(第1師団、第11師団)が抽出され、第3軍の主力となった。 
旅順要塞

 

旅順はもともとは清国の軍港で、露国が旅順を手中に収めた時点である程度の諸設備を持っていた。しかし防御施設などが旧式で不十分と判断し更なる強化を行った。1901年より開始されたこの工事は、203高地や大弧山も含めた広い範囲に防御線を設置し守備兵2万5000を常駐させるものだった。しかし予算不足で規模を縮小され防御線は203高地や大弧山より港湾側に、守備兵も1万3000の常駐に変更された。完成は1909年の予定とされたが1904年に開戦となり要塞は未完成のまま戦争に突入することになった。
要塞の主防御線はベトンで周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなりあらゆる方角からの攻撃に備え、後方の高台に砲台を造り支援砲撃を行うことになっていた。更に突破された場合に備えて堡塁と塹壕と砲台を連ねた小規模な副郭が旅順旧市街を取り囲んでいた。海上方面も220門の火砲を砲台に配備して艦船の接近を妨害するようになっていた。
それでも工事の途上だったこともあり施設の不備があった。砲台の上部は剥き出しでその殆どが防衛線上にあり、日本側の砲撃に晒される可能性があった。こうした弱点を補強するために防衛線を更に外周に設置する計画もあったが開戦に間に合わず203高地や大弧山などに野戦陣地・前哨陣地を設けるにとどまった。これらの陣地は第三軍の総攻撃前に奪取されたりしたが第7師団長ロマン・コンドラチェンコ少将の精力的な強化工事でかなりの強度を誇るものになっていた。
開戦時、露軍が満州に配備する戦力は6個師団であったが、その3分の1に当たる2個師団約3万名が旅順及び大連地域に配備された。これに要塞固有の守備兵力、工兵、要塞砲兵なども含め最終的に4万4千名(これに軍属他7千名、海軍将兵1万2千名)が立て籠り第三軍を苦しめることになる。 
経過

 

前哨戦
露軍では、この要塞を含めた地域一帯を防衛するロシア関東軍が新設され軍司令としてアナトーリイ・ステッセリ中将、旅順要塞司令官にコンスタンチン・スミルノフ中将が就任。守備部隊として東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将)と同第4師団(師団長:アレクサンドル・フォーク少将)この他、東シベリア第5狙撃兵連隊や要塞砲兵隊、騎兵・工兵など総勢4万4千名、火砲436門(海岸砲は除く)が籠っていた。
海軍は、単独で旅順艦隊を無力化することを断念し、1904年7月12日に伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請した。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出。6月31日、大本営からも陸軍に対して旅順要塞攻略を急ぐよう通達が出ていた。
しかし、旅順要塞を攻略することを当初念頭に置いていなかったために、陸軍はこれら要塞の情報が不足していた。露軍の強化した要塞設備に関する事前情報は殆どなく第三軍に渡された地図には要塞防御線の前にある前進陣地(竜眼北方堡塁、水師営南方堡塁、竜王廟山、南山披山、203高地など)が全く記載されていなかった。防御線でも二竜山、東鶏冠山両堡塁は臨時築城と書いているなど誤記が多かった。
こうした中で要塞攻略の主軸をどの方向からにするかが議題となった。戦前の図上研究では西正面からの攻略が有利であると考えられていた。しかし第三軍司令部は大連上陸前の事前研究によりその方面からの攻略には敵陣地を多数攻略していく必要があり、鉄道や道路もないので攻城砲などの部隊展開に時間を要し「早期攻略」ができないと考え東北方面の主攻に変更する。だが新たに軍令部次長となった長岡外史や、満州軍参謀井口省吾らが西方主攻を支持し議論となる(注意するのはこの「西方主攻」説はあくまで要塞攻略の主軸をどの方面にするかの話であり、後に出る203高地攻略とは全く別次元の議論だということである)。 結局この議論は第三軍司令部が現地に到着する7月ごろまで持ち越される。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出していた。7月3日、コンドラチェンコ師団の一部が逆襲に転じるが塹壕に待ち構える日本軍の反撃に撤退している。
その後第三軍に第9師団や後備第1旅団が相次いで合流し戦力が増強された。このあと乃木は懸案だった主攻方面を要塞東北方面と決定する。西方主攻案を断念した理由は、
1. 展開までに敵前の開けた平地を長駆移動せねばならず危険
2. 鉄道も攻城砲などの砲を移動させれる道路もないので砲兵展開が難しい
3. 要塞の死命を一挙に制することができる望台が東北方面にある
4. 203高地や南山披山などの前進陣地が多くあり、それらを攻略した上で要塞防御線攻略となるので時間が掛かる
であった。
準備を整えた第三軍は7月26日旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始する。要塞の前進陣地は、主に西方に203高地近辺諸陣地、北方に水師営近辺諸陣地、東方に大小狐山諸陣地が存在しており、当面の主目標は東方の大弧山とされた。これらの防御施設は未完成だった。3日間続いた戦闘で日本軍2,800名、ロシア軍1,500名の死傷者を出し、30日に露軍は要塞内部に後退した。この頃乃木は、増援の砲兵隊の到着を経た8月19日まで総攻撃を延期する決断をしている。
8月7日、黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊が大弧山に観測所を設置し、旅順港への砲撃を開始。9日9時40分に戦艦レトウィザンに命中弾を与えた。旅順艦隊に被害が出始めたこと、また極東総督アレクセイエフの度重なるウラジオストクへの回航命令もあり、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)司令ヴィトゲフトは8月10日、ウラジオストクへ回航しようと旅順港を出撃した。海軍側が陸軍に要請した「旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出す」ことは、これによって達成された。
しかし日本連合艦隊は黄海海戦で二度に渡り砲撃戦を行う機会を得つつも1隻も沈没せしめることなく、薄暮に至り見失い、更に旅順港への帰還を許してしまう。帰港した艦艇の殆どは上部構造を破壊しつくされ旅順港の設備では修理ができない状況だった。結局最も損害が軽微だった戦艦セヴァストポリ のみが外洋航行可能にまで修理したのみで、旅順艦隊はその戦闘力をほぼ喪失した。 
第一回総攻撃(明治37年8月19日〜24日)
総攻撃を前に第三軍は軍司令部を柳樹房から鳳凰山東南高地に進出させた。更に団山子東北高地に戦闘指揮所を設け戦闘の状況を逐一把握できるようにした。ここは激戦地となった東鶏冠山保塁から3キロという場所でしばしば敵弾に見舞われる場所であった。以降、攻囲戦は主にここで指揮が取られることになる。
8月18日深夜、第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)各師団は其々目標とされる敵陣地の射程圏外まで接近し総攻撃に備えた。
翌8月19日、各正面において早朝より準備射撃が始まる。使用弾丸数11万3千発という前例の無い大砲撃が1時間強に渡って加えられ午前6時、日本第三軍は旅順要塞に対して総攻撃を開始した。後備第11旅団は目標の大頂子山を3日連日の猛攻の末22日に占領。しかし水師営方面を担当した第1師団と東鶏冠山方面の第11師団は進撃できず大損害を被った。
第9師団は同じく大損害を蒙りながらも左翼の第6旅団(旅団長:一戸兵衛少将)が善戦、配下の歩兵第7連隊では連隊長が戦死する程の死闘となったが20日に盤竜山東西堡塁の占領に成功した。ここは半ば要塞の第二防衛線に食い込んだ要地で第二防衛線で最も標高が高く旅順港全てを見渡せる望台の眼前だった。
乃木は占領地を維持し、望台を占領すべく第1師団・第11師団も盤竜山方面に投入する。第6旅団も望台攻略のため、疲弊した第7連隊を下げ先月30日に連隊長が戦傷のため交代したばかりの歩兵第35連隊を投入する。しかし激戦となり22日には連隊長が戦死してしまう。23日には第6旅団に替わり歩兵第12・22・44の計3連隊が投入されるが、狭い盤竜山に集中したため周囲の保塁からの砲撃と予備兵力の逆襲に遭い一時的に望台を占領できたのみで確保には失敗した。
翌24日、乃木は総攻撃の中止を指示、第一回総攻撃と呼ばれたこの攻撃で日本軍は戦死5,017名、負傷10,843名という大損害を蒙り、対するロシア軍の被害は戦死1,500名、負傷4,500名だった。第三軍はほぼ一個師団分の損害を出したことになる。 
第二回総攻撃前哨戦(明治37年9月19日〜22日)
軍司令部は、大本営からの「速やかなる早期攻略」の要請のため、第一回総攻撃を歩兵の突撃による強襲法で行った。しかし突撃による攻撃では要塞は陥落できないと判断し、要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進んで進撃路を確保する正攻法と呼ばれる方式に切り替える(正攻法併用による攻撃計画の策定)。ロシア軍に近接するための塹壕建設を開始した。30日にはコンドラチェンコ少将の独断による盤竜山への攻撃が行われたが日本軍の反撃で3割を失い失敗した。
9月15日、対壕建設を終えた第3軍は19日、占領した盤竜山と大頂子山から周辺へ陣地を拡大し安定化を目指した攻撃(第2回総攻撃に向けての前哨戦)を行った。17時頃より南山披山と203高地へ2個後備連隊4,000名による攻撃が行われた。その晩は月夜でロシア軍の攻撃は正確を極め前進することができず、翌20日に突撃は延期された。20日5時より始まった突撃で南山披山はわずか10分で守備隊が後退し占領。しかし203高地では激戦となり20日の夕刻には西南堡塁を占領するが東北堡塁の露軍と射撃戦となる。21日には双方増援を出すが日本側は予備隊の配置が後方すぎたため、進撃中に激しい銃火を浴び到着は夜間になってしまう。そのまま22時に東北保塁へ攻撃を掛けるが失敗。22日の10時までに6度に亘る東北堡塁への攻撃は全て失敗し日本軍は撤退を余儀なくされた。龍眼北方堡塁や水師営周辺の堡塁群などは制圧に成功し203高地以外の戦略目標の占領には成功した。
この戦いでの損害は日本軍は戦死924名、負傷3,925名。ロシア軍は戦死約600名、負傷約2,200名だった。
第一回総攻撃が失敗に終わった後、東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた二八cm榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)が戦線に投入されることになった。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は工兵の努力によって克服された。
二八cm榴弾砲は、9月30日旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した南山披山を観測点として湾内の艦船の多くに命中弾を与え損害をもたらした。しかし艦隊自身は黄海海戦ですでに戦力を喪失しており、この砲撃がロシア将兵の戦意に強い衝撃を加えることはなかった。砲撃自体は良好な成果を収めたため逐次増加され、最終的に計18門が第3軍に送られた。 
第二回総攻撃(明治37年10月26日〜30日)
10月15日、バルチック艦隊がウラジオストクに向かって出航したという報を受け、陸軍は海軍から矢のような催促を受けるようになる。そのような中で10月26日、二八cm榴弾砲を配備して、第二回総攻撃を開始する。目標は突起部を形成している盤竜山及び竜眼北方保塁の周辺を占領し安定化させることであった。
4日間に亘る二八cm榴弾砲の威力は凄まじく、目標となった二竜山堡塁は兵舎が破壊され東鶏冠山堡塁では火薬庫が爆発するなどの大損害を蒙った。29日にはロシア軍が反撃に転じるが失敗し、30日に今度は日本軍第9師団が無名の堡塁(通称P堡塁)を攻撃し、第6旅団が苦闘の末夜半には占領する(後にP堡塁は一戸堡塁と改称する)。日本軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害を出すが、ロシア軍も戦死616名、負傷4,453名と日本軍以上の損害を受けた。日本軍は作戦目的は達成していたが占領したのはP堡塁のみであったため、第二回総攻撃は失敗と考えた。 
第三回総攻撃(明治37年11月26日〜12月6日)
11月14日、203高地主攻に固執する参謀本部は御前会議で「203高地主攻」を決定する。しかし満州軍総司令官大山巌元帥はこれを容れず、総参謀長の児玉源太郎大将は、10月までの観測砲撃で旅順艦隊軍艦の機能は失われたと判断して艦船への砲撃も禁止を命じた。こういった上層部の意見の食い違いは乃木と第3軍を混乱させ、第三回総攻撃案は両者の意見を全部取り入れた折衷案となった。
11月中旬に盤竜山・一戸両保塁から両側の二竜山と東鶏冠山保塁の直下まで塹壕を掘ることに成功し更に中腹からトンネルを掘り胸壁と外岸側防を爆破することを計画。参謀本部は内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、第7師団を投入、部隊を第1、第9師団の間に配置し203高地攻撃にも備えた布陣をする。
11月26日、東鶏冠山北堡塁と二竜山堡塁への準備砲撃を開始。午後には第11師団が東鶏冠山北堡塁を、第9師団が二竜山堡塁をそれぞれ攻撃した。しかし数波に亘る攻撃は失敗に終わり、夜半には有志志願による突撃隊を、中村覚少将の指揮のもとに攻撃を行う。この突撃隊は夜間の敵味方の識別を目的として、隊員全員が白襷を着用したので白襷隊と呼ばれた。白襷隊は要塞へ決死の奇襲突撃を試みるが、司令官が局所攻撃に没頭してしまったことや、予備兵力の少なさ、局所的に日本軍が密集してしまったことなどの結果、大損害を蒙り失敗した。
当初の攻撃計画が頓挫したことで第3軍は27日、攻撃目標を要塞正面から203高地に変更した。28日より第1師団による攻撃を始めるが、頼みの二八cm榴弾砲も203高地の泥に刺さるだけで効果は少なく1500名程にまで消耗していた第1師団は前進できなかった。29日に新着の第7師団が投入され、30日17時頃に西南堡塁を占領、数時間後には東北堡塁も占領するが露軍の激しい反撃を受け翌12月1日早朝には西南部の一角以外を奪還されてしまう。
11月29日に旅順へ向かった児玉満州軍総参謀長が12月1日に到着。途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知った児玉は大山満州軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の第8師団の歩兵第17連隊を南下させるように要請した。
日本軍は12月1日から3日間を攻撃準備に充て、攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行った。12月4日早朝から203高地に猛攻を開始し、5日9時過ぎより第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部の一角を拠点に第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し10時過ぎには制圧。態勢を整え13時45分頃より東北堡塁へ攻撃を開始し22時にはロシア軍は撤退、203高地を完全に占領した。翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、攻撃隊は900名程に激減していた。
この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。ロシア軍は戦死5,308名、負傷者は12,000名近くに達した。ロシア太平洋艦隊の全滅が確認され、児玉は煙台にある満州軍司令部へと戻った。 
要塞正面突破とロシア軍の降伏
12月10日、第11師団による東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始。15日に勲章授与のため兵舎を訪れていたコンドラチェンコ少将が二八cm榴弾砲の直撃を受け戦死する。18日には日本軍工兵が胸壁に取り付けた2トンもの爆薬による爆破で胸壁が崩壊、ロシア軍は僅か150名の守備兵しかいなかったが果敢に反撃し第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け死闘の末夜半に占領する。ロシア側は150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった。
このため、乃木司令部は胸壁や塹壕を完全に破壊してから突撃に移る方針を固め、28日には第9師団による二竜山堡塁への攻撃が始まる。胸壁に設置された3トン弱の爆薬により300名の守備兵の半数が生き埋めとなるが残兵が激しく抵抗、水兵の増援もあり双方射撃戦になる。しかし後方に回り込んだ歩兵第36連隊を見た守備隊長が撤退を決断したので29日3時には占領する。第9師団は戦死237名、負傷953名の損害を被り、ロシア軍も300名以上の死者を出している。
31日、第一師団による松樹山堡塁への攻撃が始まりロシア軍守備兵208名のうち坑道爆破で半数が死亡、占拠した二竜山保塁からの援護射撃もあり後方を遮断することに成功、11時に降伏した。第一師団は戦死18名、負傷169名の損害を被りロシア軍も生存者は103名だった。
203高地攻防で予備戦力が枯渇し、正面の主要保塁が落ちたことでロシア軍の士気は非常に落ち込み、首脳部においても抗戦派は勢いを失う。1月1日未明より日本軍は重要拠点である虎頭山や望台への攻撃を開始、16時半にロシア軍は降伏を申し入れた。
5日に旅順要塞司令官ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称え合い、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。また、乃木将軍は武士道精神に則り降伏したロシア将兵への帯剣を許した。この様子は後に文部省唱歌「水師営の会見」として広く歌われた。こうして旅順攻囲戦は終了した。日本軍の投入兵力は延べ13万名、死傷者は約6万名に達した。 
影響

 

旅順要塞の攻略によって旅順艦隊は撃滅された。
日本軍は本格的な攻城戦の経験が少なかった。陸軍全体に近代戦での要塞戦を熟知した人間がおらず、参謀本部の指導ミス等も重なり第1回総攻撃では空前の大損害を生じてしまった。要塞攻略に必要な坑道戦の教範の欠如に関しては、上原勇作少将が戦前工兵監として整備しようとしてできなかったため、この戦いの苦戦があると思われ、上原少将はこの反省から明治39年坑道教範を作成し、小倉に駐屯していた工兵隊によって、初めての坑道戦訓練が敵味方に分かれて実施されている。
軽量化が図られた上に毎分500連発と実用性の高い機関銃であるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に運用され威力を発揮した。機関銃陣地からの十字砲火に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明した。この状況を打開する攻撃法を日露戦争後も暫くは見いだすことはできなかった。
当時の日露両軍は世界的に見ても例外的に機関銃を大量配備していたが、早くから防衛兵器としての運用を考え出したロシア軍に対し、日本軍側はあくまでも野戦の補助兵器として考えていたので、初期には効果的な運用は行われていなかった。後に日本側もロシア側の運用法を応用している。
同時代のヨーロッパ各国では、機関銃をごく少数配備していただけで運用法も確立されていなかった。この戦闘における機関銃の威力は各国観戦武官によって本国に報告されたが、辺境の特殊事例としてほとんど黙殺された。ヨーロッパ各国がこの事実に気づき、機関銃の攻撃に対して有効な解決策が考え出されるのは第一次世界大戦における戦車の発明まで待つことになる。 
旅順攻囲戦に関する論点

 

203高地
203高地は要塞主防御線の外側に位置しており、ここの防御施設はいわゆる前進陣地として築かれた。本高地から旅順港内が展望できるということはロシア側も開戦前から承知していたが、予算不足で規模が縮小されたこともあり防御線には組み込まれなかった。開戦後にコンドラチェンコ少将により、総攻撃開始までにかなりの防御を有するまでになってはいたが、他の露軍陣地から距離があり予備兵力の投入に負担があるので従来通り前進陣地として運用する予定だった。しかしながら戦闘を経て露軍は方針を変更して203高地を固守するようになり予備兵力を次々とここに注ぎ込んでいった。日本側としてみたら予備兵力の消耗を誘う上では最適の戦場であったのである。
203高地攻防戦の終局後、ロシア側の抵抗力は著しく減衰しており、12月中旬より行われた東北面の主防御線上の攻防戦では主要三保塁と望台という重要拠点が立て続けに陥落した。要塞司令官ステッセリが降伏を決断した理由は、予備兵力を消耗したことにより戦線を支えられなくなったためである。203高地は、この意味で旅順攻囲戦において重要な場所であった。
203高地の攻防戦については、様々な見解が語られている。特に203高地の観測所としての価値を重視する見解が多い。本防御線の外から旅順港内のロシア艦艇を砲撃する場合の観測所として本高地は最適な場所であり、攻略は早期に行われるべきだったとするものである。
だが第三軍の作戦目的は要塞の攻略であり旅順艦隊の殲滅ではなかった。また総攻撃開始時点で第三軍に配備されている重砲は最大で15cm榴弾砲であり、能力的に観測射撃による艦隊撃滅など第三軍には不可能だった。また、観測所の設置自体は本高地以外でも可能であり、攻囲戦の早期から効果的に行われていた。第1回総攻撃以前の7月30日に、すでに占領していた前進陣地の一つである大孤山に観測所が設置されている。大孤山を観測所とする砲撃に耐えかねたために、旅順艦隊は旅順港を出て黄海海戦に至った。海戦後に旅順港に舞い戻った旅順艦隊は、以後戦局が進むにつれて諸処に増設された観測所群によって次第に停泊所を奪われていき、遂には龍河河口の浅瀬(干潮時には砂州に座礁して船体を傷め行動不能になることを免れない)に追い込まれた。
旅順港には大艦を収容できるドックがなく、砲撃による損傷の修理もままならなかった。また、艦船の乗組員を陸戦隊として地上戦に投入することは攻囲戦の初期から行われており、203高地が占領される以前より旅順艦隊の戦力は著しく低下していた。本高地が最適な観測所であったことは事実としても、戦況の進展に伴って、占領当時にはその価値は相当に減じていたと言える。
203高地の観測所としての価値を重視する場合、203高地が攻略されて旅順艦隊が壊滅し、これによって旅順要塞も存在意義を失って降伏したという見解に繋がるのだが、 実際には12月6日の203高地占領から1月1日の要塞降伏までは25日もの日数が存在する。旅順要塞の存在意義をいうのならば、艦隊の有無に関わらず、第3軍を可能な限り長く旅順攻略作戦に拘束することにも大きな意義があるわけで、旅順艦隊の存否がロシア軍が降伏を決断したことの主要因とは言えない。
第三軍司令部は、攻囲完成以後の継続的な砲撃によって旅順艦隊の戦闘力は失われつつあることを認識しており、大本営にもその報告を行っている。しかしながら大本営は203高地に執着しており、ここへの攻撃を要求し続けた。第三軍はこれに従わず、また第三軍が所属する満州軍総司令部も大本営からの容喙に強く拒絶の意を示した。大山総司令と児玉総参謀長はそれぞれ大本営と山県参謀総長に電報を送り203高地主攻に不同意を伝えている。
大本営がこのように強硬に旅順戦に介入してきたのは、海軍側の意見を容れたものと思われる。このことから連想されたものか、203高地の攻略を陸軍に進言したのは海軍の秋山真之少佐であるとする説があるが、根拠に乏しく(書簡は時期が遅すぎる)、現在では否定されている。
第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった。海軍からこの時点で203高地攻略の要請があったと小説などで描かれることも多いが実際には、この時点で203高地攻略を論じられたことはなかった。大本営が総攻撃前に唱えていたのは主目標を西北の椅子山、大案子山の突破、もしくは地形が平坦で進軍しやすいと予想される西方からの攻撃による要塞の攻略であり203高地云々は考慮されていないものであった。これらは鉄道線から離れていて策源地から遠く補給に難がある。更に平坦部は移動中に敵に姿を曝け出し被害を増す危険があったので却下された。仮に、第1回総攻撃の時点で第3軍が203高地を主目標に含め、これを占領できたとしても、至近に赤阪山・藤家大山という防御陣地が構築されており、また背後に構築された主防御線内の多数の保塁・砲台から猛烈な砲撃を受けることは容易に想像でき、占領を維持することは困難であったと考えられる。
高地の占領を維持できたとしても上記の通り第三軍に旅順艦隊を撃滅するだけの重砲はこの時点ではなかった。この時点で第三軍が所持する重砲は15cm榴弾砲16門と12cm榴弾砲28門、これに海軍陸戦重砲隊の12cmカノン砲6門だけであり装甲で覆われた戦艦を撃沈できる威力はない。最大の15cm砲にしてもこれは海軍では戦艦や装甲巡洋艦の副砲程度の大きさでしかないし艦載砲より砲身が短いものなので初速、貫通力は劣る。それでも仮に旅順艦隊を殲滅出来たとしても、要塞守備隊を降伏させられなければ第三軍は北方の戦線に向かうことができない。艦隊殲滅後にやはり正攻法による要塞攻略を完遂しなければならない以上、包囲戦全体に費やされる期間と損害は変わらないと予想される。むしろ史実ほど兵力を消耗することなく主防御線を堅固に守られてしまい、要塞の攻略は、より遅れた可能性すらある。
旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第3軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回したというのが総論として近年定着している。
開戦前の計画段階から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍の意向に振り回され、陸軍の旅順攻撃開始は大幅に遅れた。開戦から要塞攻略戦着手までの期間が長すぎたために要塞側に準備期間を与えることになったことは、旅順難戦の大きな要因として指摘される。しかし、近代戦における要塞攻防戦の何たるかを知らなかった当時の事情、またそもそも当時の日本の国力・武力を考えれば、結局のところ無理を承知でこのような作戦を行わざるを得なかったとも言える。 
乃木希典
賛否両論ともにあり、それらが論じられてきたおよその経緯は次の通り。
日露戦争勃発時の乃木は休職中だったが、日清戦争の戦績から野戦が得意な将軍と評価されており、一般的にも高く評価されていた。旅順攻略戦が難航すると、東京の乃木邸に投石されたり、軍司令部に批判の投書が多数寄せられるなど激しく批判された。その後攻略戦が勝利に終わり、水師営会見などの美談が喧伝されたことや、奉天会戦における活躍から、凱旋帰国時には非常に好印象をもって迎えられた。日露戦後も概ね評価は高く、明治天皇大葬の際に殉死するに及んで神格化された。
その後、伊地知幸介第3軍参謀長と犬猿の仲であった井口省吾満州軍参謀が陸軍大学校長を六年半(1906年(明治39年)2月〜1912年(大正元年)11月)と長期に勤め、またその後、陸軍内部において長州閥排斥の気運が高まり、陸軍大学の教官が結束して山口県出身者を入学試験に合格させなかったことなどがあった。井口が陸軍大学校長を務めていた時期に入校し優等で卒業(1909年(明治42年)〜1912年(大正元年))した谷寿夫が、後に陸大兵学教官となった際に日露戦争の政戦略機密戦史を著した。いわゆる戦争指導史であり俗に「谷戦史」と呼ばれる。「谷戦史」中の旅順戦に関する記述は、伊地知第3軍参謀と意見を異にした長岡外史参謀次長、井口省吾満州軍参謀の書簡を原資料としたものが大部分を占め、実際の当事者である第3軍参謀部(伊地知幸介、大庭二郎、白井二郎、津野田是重ら)による記録によるものがなく、一方的見地に偏った資料が用いられており、また誤りも多い。
以上のような経緯が、後世の第3軍の戦争指導ならびに乃木・伊地知らの評価に影響を与えた。
太平洋戦争後の昭和40年代に「谷戦史」が「機密日露戦史」と題して原書房から刊行された。その後、小説家司馬遼太郎が、旅順攻囲戦で日本軍が膨大な戦死者を出したのは第3軍司令官の乃木と参謀長の伊地知幸介の無為無策が原因とする考えに基づいて小説を発表した。 司馬のいわゆる愚将論は一般的に受け入れられ、これと同じ考えに基づく書籍が多く出版された。しかし、これらには誤解・偏見を根底とした誤りが多く見られ、公平な評価とは言い難いものだった。これらの点を考察し直して当時の状況を考慮すると、史実程度の損害は、これをやむを得ないものと擁護する意見、またその程度で目的を達した事はむしろ評価すべきものであるという意見も出ている。一方で、人気の高い司馬小説は解説・ガイド本の類が発行される場合が多く、その中では小説の記述を事実と見なして書かれることが多いため、誤解・偏見を根底とした誤りに基づく評価も再生産され、未だに根強く支持されている。以上のように現在も賛否両論があり評価は定まっていない。
現在、攻城戦間に乃木が記した日記の内容が一部公開され、また福島県立図書館の佐藤文庫には「手稿本日露戦史(仮称)」の旅順戦関連部分が所蔵されていることが明らかになった。また以前から防衛研究所資料室に第三軍参謀大庭次郎の日記が所蔵されていることは知られていたが、長く研究資料とて活用されないままでいた。これらの考察が深まるにつれ、以後も評価は変化していくと思われる。
第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという。また乃木が自ら失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳という見方と無能故の所作という見方ができる。
司馬遼太郎のような乃木無能論と正逆の立場から乃木の作戦を評価する声として、当時の従軍記者、スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn、1878〜1950)の記録が挙げられる。ウォシュバンの指摘では、第一回総攻撃の後、乃木は即座に強襲策の無益さを悟り、工兵と一般士卒に、銃剣に変わって鶴嘴ととシャベルという見栄えはしないが効果的な武器を取らせ、塹壕をなるべく攻撃目標に向かって延伸し、余すところ200-30ヤードになった地点から、砲兵の援護射撃のもとに攻撃を開始するという攻撃方針に変更したとしている。さらに、203高地の重要性を指摘し第7師団を集中的に投入する方向で第三軍の軍議をまとめたのも乃木であったとしている。 
第三軍司令部
司馬の作品を含め明治当時から現代に至る無能論の主な根拠には以下のものがある。
1. 単純な正面攻撃を繰り返したといわれること。
2. 兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。
3. 総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。
4. 旅順攻略の目的はロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも関わらず、要塞本体の攻略に固執し無駄な損害を出したこと。
5. 初期の段階では、ロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させず、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。
6. 旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行ったところ、4日後に203高地の奪取に成功したと伝えられること。
などが多く述べられているが、最近では新資料の発見や当事者である第三軍関係者の証言・記録などから事実誤認、知識不足による誤った結論などであったことが分かってきている。上記の6点に対しても
1. 第一次総攻撃以降は攻撃法を強襲法から塹壕を掘り進んで友軍の損害を抑える正攻法に切り替えており、単純な正面攻撃を繰り返したと表現することは事実ではない。正面というのも、旅順要塞自体は全周囲を防御している要塞であり正面とか側面などというのは存在しない。北東方面も203高地のある北西方面も同等の防御機能を持っているので、自軍の部隊展開や補給面で有利な東北方面を主攻に選んだ判断は誤りではない。
2. 兵力を分散するというのは機関銃や榴散弾が本格的に投入されだしたこの時代では逆に必須なことで、集中するとかえって犠牲を増やすだけである。塹壕戦の突破法として第一次世界大戦で編み出された浸透戦術も歩兵が小隊や分隊に散らばって目標に攻め込むものであり、第三軍はいち早くそれを取り入れたことになる。
3. 総攻撃の情報が敵に漏れていたという確実な証拠は存在しない。当時の物資輸送面からして総攻撃に準備が1ヶ月は掛かるため、「毎月26日頃に攻勢をかけるので露軍もそれに気付いて準備していた」という話は早期攻略を迫られている第三軍としては致し方ない面もある。
4. 旅順攻略の目的は終始要塞攻略であり艦隊撃滅ではない「艦隊撃滅が目的だった」というのは誤り。また第一次総攻撃時点で第三軍には重砲にその様な能力はないので、艦船の撃滅自体不可能だった。第三軍が艦隊殲滅を目的に編成された部隊でない事が分かる。命令が要塞攻略である以上、それに何ら寄与しない203高地攻略は第三軍は選択できないのは当たり前である。11月に大本営が御前会議を開いてまで203高地主攻を決めたが、第三軍の上級司令部たる満州軍が反対しているので第三軍としては従来通りの攻撃を続けたことは当然である。是非はともかく、固執した点を問題視するなら第三軍ではなく満州軍の方が上級司令部である以上責任が大である。
5. 203高地が初期の段階で防御が手薄だった事実はなく、第二軍の南山攻略戦後からすでに防御強化の工事が始められている。第一次総攻撃時点で第三軍の12cm榴弾砲の砲撃に耐えうる強固さを持っていたし(攻城砲兵司令部参謀佐藤鋼次郎中佐談)、守備兵力も9月時点で613名だった203高地は12月の最終攻撃時で516名であり増強されているわけでもない。もし仮に当初より攻めるにしても、要塞北西方面は鉄道もなく主要な道路もないので部隊転換がしずらく、早期に攻勢に出るよう要請する海軍や大本営の要請には答えられない。
6. 目標を203高地に変更したのは児玉が来る以前、第三次総攻撃中で判断したのは乃木である。児玉ではない(児玉自身は203高地攻略に反対すらしている)。作戦も児玉が来てから変更された点は殆どなく、従来の第三軍のプランのまま実行されている。重砲の配置転換は12cm榴弾砲と9cm臼砲が数10門だけであり、主力の28cm榴弾砲は動いていない。動いた重砲も目標を203高地ではなく遥か後方の陣地にしており、203高地攻撃に直接寄与していない。他にも同士討覚悟の連続砲撃はすでに攻城砲兵司令部によって行われていた、と反論されている。
他にも、要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な近代要塞として構築していたのに対して、日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく、急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。旅順要塞を甘く見ていたのは第三軍だけではなく、大本営も満州軍も海軍も同様である。また、陸軍が手本にした仏独両陸軍からして要塞攻略の基本は奇襲か強襲を基本としており、当時の感覚では強襲法が「愚策」ではなかったことが分かる。逆にこの戦いで初めて問題提起されたとすら言える。 
海軍の問題
海軍は日露開戦以来陸軍の旅順参戦をさせず、海軍単独での旅順艦隊の無力化に固執した。ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、陸海軍の共同和合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における海軍の作戦失敗の連続といった、海軍の不手際も攻略の困難さの主因として無視できない。 
軍中枢部の問題
日露開戦後に現地陸軍の総司令部として設置された満州軍の方針と大本営の方針が異なり、それぞれが乃木第三軍に指令通達を出していたという軍令上の構造的な問題も第三軍は悩まされ作戦に影響を与え続けた。また弾薬の備蓄量を陸軍省は日清戦争を基準に計算したため、第三軍のみならず全軍で慢性的な火力不足、特に砲弾不足に悩まされていた。新史料を用いた長南政義氏の研究によれば、例えば欧州において要塞攻略に際し、必要な砲弾数は1門につき千発が基本だったが第三軍の1門800発の要請に対し陸軍省は相談なしに1門400発と勝手に変更し激論となったという。長南政義氏は軍政側の砲弾備蓄の見積の甘さも責任として大きいだろう、と指摘している。なお、海軍の要請を受けて、旅順攻撃を主目標としつつも、陥落させることが不可能な場合は港内を俯瞰できる位置を確保して、艦船、造兵廠に攻撃を加えるという方針で煙台総司令部(大山司令官)と大本営間の調整が付いたのは、御前会議を経て11月半ばになってからのことであった。 
児玉源太郎
旅順攻囲戦においては児玉源太郎満州軍総参謀長の功績が語られることがある。日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと機密日露戦史で紹介され司馬遼太郎の作品などで世間に広まった。ただし、機密日露戦史は旅順戦に於いて第三軍の方針と反発した大本営側の人間の証言を取り入れ現場の第三軍側の証言を殆ど採用していない偏った内容の資料であり誤りも多いことが別宮暖郎、長南政義、原剛などの研究調査で判明し書籍などで発表されている。
まず、司馬の作品などで児玉らは203高地攻略を支持していたかのように描かれているが、児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持している。正攻法の途中段階で大本営や海軍に急かされ実施した2回の総攻撃には反対で、準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当然203高地攻略も反対だった。
満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。しかし第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みがなくなると決心を変更し203高地攻略を決意する。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得した程だった。
児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し伊地知参謀長らを論破したとも言われているが、第三軍の参謀は殆どが児玉と会っておらず電話連絡で済ましているので事実ではない。地図の記載ミスで児玉に陸大卒業記章をもぎ取られたのは第三軍参謀ではなく第7師団の参謀であるし、戦闘視察時に第三軍参謀を叱責した話も事実ではない(この際同行していたのは松村務本第一師団長と大迫尚敏第七師団長)。
また児玉が命じたとされる攻城砲の24時間以内の陣地変更と味方撃ちを覚悟した連続砲撃も、児玉は実質的には何もしていない。すでに28cm榴弾砲は第三軍に配備されていた全砲門が203高地戦に対して使用されているし、児玉来着から攻撃再開の5日までの間に陣地変更することは当時の技術では不可能である。実際のところは12cm榴弾砲15門と9cm臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけである。味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたと機密日露戦史では記述されているが、攻城砲兵司令部にいた奈良武次少佐は「友軍がいても砲兵が射撃して困る」と逆に児玉と大迫師団長が攻城砲兵に抗議したと述べている。奈良少佐の「ロシア軍の行動を阻止するためには致し方ない」という説明に児玉は納得したが、第三軍の津野田参謀も「日本の山砲隊は動くものが見えたら発砲していた」と証言しており、児玉ではなく第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していたことが分かる。
攻撃部隊の陣地変更などもなされておらず、上記の様に従来言われる児玉の指揮介入も大きなものではなかったことから見て、203高地は殆ど従来の作戦計画通りに攻撃が再開され第三軍の作戦で1日で陥落したことが分かっている。
近年、第三軍参謀白井二郎や独立砲兵大隊長上島善重の回想といった第三軍司令部側の史料から、児玉が旅順で実際に第三軍の作戦に指示を与えていたことを指摘する研究が新しく出されている。ただし、これによると児玉は作戦立案自体は伊地知幸介第三軍参謀長以下の第三軍司令部に行わせており、児玉の発案だけで作戦が決まったとは述べられていない。上記の通り作戦自体ほとんど変更が見られない点から見ても、児玉の指導があったにせよ内容的には極めて少なかったと考えられている。 
長岡外史
旅順攻略戦当時に参謀本部参謀次長の職にあった。開戦時の大山参謀総長と児玉参謀次長が、満州軍総司令部設置に当たり内地を離れ大陸に移動するに及んで児玉次長の後を任された。長岡はのちに「長岡外史回顧録」を纏め、その中で旅順攻略戦についての感想を残している。長岡の記述は「谷戦史」などに引用されるなど、後世の旅順攻略戦研究に大きな影響を与えた。当時の陸軍中央部に位置した人物の記録であり貴重なものであることは間違いないが、その内容には明らかな誤りが認められる。
例えば9月の攻撃は、主防御線より外側の前進陣地を攻略対象としたものであり、龍眼北方保塁や水師営周辺保塁また203高地周辺の拠点の占領に成功しているのだが、「第一回総攻撃と同様殆ど我になんらの収穫なし」と誤りを述べている。また10月の旅順攻撃が失敗に終わったことについては「また全く前回のと同一の悲惨事を繰り返して死傷三千八百余名を得たのみであった。それもそのはずで、一、二、三回とも殆ど同一の方法で同一の堅塁を無理押しに攻め立てた」と述べており、主防御線への攻撃と前進陣地への攻撃の区別もなされず、また強襲法から正攻法へと戦法を変更したことについても触れていない。
203高地については「9月中旬までは山腹に僅かの散兵壕があるのみにて、敵はここになんらの設備をも設けなかった」と述べ、これを根拠として「ゆえに9月22日の第一師団の攻撃において今ひと息奮発すれば完全に占領し得る筈であった」との見解を述べている。この長岡の見解は多くの著作に引用されているが、これは現在の研究によれば否定される。
28cm榴弾砲の旅順派遣についても、自己の関与が大きかったことを述べているが(この件に関しては第3軍の伊地知参謀長が「(巨砲は)送るに及ばず」と電報したという話が有名だが、これを含めて)、現在では長岡の創作(擁護するとしても記憶違い)であると結論付けられている。28cm瑠弾砲を旅順要塞攻撃に用いることは、第3軍編成以前の5月10日に陸軍省技術審査部が砲兵課長に具申し陸軍大臣以下もこれを認め参謀本部に申し入れていたが、参謀本部は中小口径砲の砲撃に次ぐ強襲をもってすれば旅順要塞を陥落することができると判断してこの提案を取り入れなかった。その後8月21日の総攻撃失敗ののち、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に28cm瑠弾砲を使用すべきと主張していた有坂成章技術審査部長を招いて25ー26日と意見を聞いたのち採用することを決断し、参謀本部の山縣参謀総長と協議してすでに鎮海湾に移設のため移設工事を開始していた28cm砲六門を旅順に送ることを決定したというのが実際の動きである。しかし長岡談話によれば、参謀本部側の長岡参謀次長が、総攻撃失敗ののちに28瑠弾砲の旅順要塞攻撃に用いるべきという有坂少将の意見を聞いて同意し、陸軍大臣を説得したと、まったく逆のことになっている。
これらの誤った見解また創作された話を根本として第三軍批判の大部が喧伝され、現在もそれは続いている。 
東郷平八郎
乃木と共に日露戦争後に英雄化・神格化された東郷平八郎については、日本海海戦の輝かしい戦果の影響からか、旅順攻囲戦における分析および評価が、乃木に比して圧倒的に少ない。日露開戦直後の対地砲撃作戦敗退、3回に及ぶ港口閉塞作戦失敗、敗退ではないが詰めが甘く失敗と評される黄海海戦、海軍の作戦全般を指揮した東郷平八郎も旅順攻囲戦においては目立った戦績はない。陸軍の乃木の評価と共に、旅順攻囲戦での海軍の東郷の評価も必要という声も一部に存在する。また評価はどうあれ、旅順要塞に乃木(陸軍)も東郷(海軍)も苦しめられたことは史実として残る。 
逸話
ロシア軍の敗因として、ビタミンC不足が原因の壊血病による戦意喪失が一因として挙げられている。旅順要塞内の備蓄食料には大豆などの穀物類が多く、野菜類は少なかった。大豆を水に漬けて発芽させればビタミン豊富なもやしができるが、ロシアにはもやしを作って食べる習慣が無かった。そのうえビタミンCが発見されたのは1920年であり、さらに、もやしにビタミンが含まれていることが発見されるのはもっと後の時代だった。一方、日本陸軍の戦時兵食は日清戦争と同じく白米飯(精白米6合)であったこともあり、脚気が大流行していた。
与謝野晶子は、旅順包囲軍の中に在る弟籌三郎を嘆く内容の『君死にたまふことなかれ』を1904年9月に『明星』で発表した。しかし実際には弟は第4師団所属であり、旅順攻囲戦には参加していない。 
 
203高地

 

中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。1904 - 1905年の日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となった場所。旧市街地から北西2kmほどのところにある。海抜203mであることからこの名が付けられた。
日露戦争
日露戦争において、旅順攻略は必要不可欠になり、日本陸軍は第三軍を編成し旅順要塞を攻撃した。
203高地は、当初あまり重要視されなかった。日本側は観測できる地点は203高地の他にもあり、既に総攻撃前に占領した大孤山から観測射撃を実施していた。砲撃開始2日目には戦艦レトヴィザンに命中弾を与え、旅順艦隊に危機感を抱かせ、黄海海戦への端緒になってもいる。
ロシア軍側も、203高地一帯は要塞主防御線から離れており攻撃側からすると移動に時間がかかるだけでなく、その際は他の防御保塁からはまる見えで迎撃を被るという攻めるに不利な地点であったため、警戒陣地・前進陣地として運用していた。
しかし南山の戦い後より防御強化の工事がなされており、第三軍の包囲完了時点でかなり強固な陣地となっていた事が攻城砲兵司令部参謀の証言にある。
こういった理由により第一回総攻撃では目標とされなかったが、攻撃失敗後に海軍が旅順港停泊中のロシア艦隊を砲撃する際の弾着観測点として好適であるとして攻略を進言(秋山真之が進言したともいわれるが定かではない)し、これに当初から要塞西方主攻勢論だった中央の大本営が同調して203高地攻略を支持する。
これに対し満州軍総司令官の大山巌や総参謀長の児玉源太郎、現地軍である第3軍司令官の乃木希典らは
1. 既に大孤山からの観測砲撃や黄海海戦で旅順艦隊は壊滅しており、観測点など必要としない。
2. 艦隊を殲滅しても要塞守備隊は降伏せず、降伏しない限り第3軍は北上することはできない。そのためには、要塞正面への攻撃による消耗戦しかない。
と判断し、海軍や大本営の203高地攻撃要請を却下し続けた。
戦車や航空機のない当時としては、第二次世界大戦での電撃戦のような早期突破はできない以上、塹壕に籠り鉄条網と機関銃で守っている敵要塞を落とすには消耗戦しかなかったのである。
しかし大本営からの圧力(本来、第3軍は満州軍の所属で、大本営の直接指揮下にない)に第3軍が屈し1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するもロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。
結局12月5日に203高地は陥落する。結果的にこの戦いで要塞の予備戦力が枯渇し、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、正面防御線の東鶏冠山保塁、二龍山保塁などが相次いで陥落、翌1905年1月1日に要塞は降伏した。
本争奪戦は、多くの戦死者を出した。第7師団(旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減少した。ロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもが、この高地で命を落とした。乃木希典は、自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん)と詠んだ。
203高地からの観測射撃について
1904年12月5日に日本軍が占領し、永野修身海軍大尉が指揮した陸上からの砲撃でロシア東洋艦隊を壊滅させたというのが通説だが、陥落後の陸海軍による沈艦への調査では、ほとんどの艦は命中しても艦底に損害を受けておらず、浸水などは起こしていなかった(陸軍省軍務局砲兵課石光真臣や武田三郎、上田貢らが調査を開始、1906年11月最終報告)。
使用した二十八糎砲の砲弾が古く、信管の動作不良もあったようで不発弾も多かった。報告を受けた陸軍省技術審査部長有坂成章は砲弾の全面変更を指示している。海軍側の調査では、多くの艦艇がキングストン弁を開いていた事が確認されていたようで、報告では自沈処理されたとなっている。
また第一次総攻撃前に行われた黄海海戦で、旅順艦隊は既に戦闘不能な程の大損害を被っており、旅順港の施設では修復は不可能だった。結局、戦艦セヴァストポリだけが外洋航行可能な程度まで修復された(その後セヴァストポリは戦艦の中で唯一観測射撃をのがれたが、日本海軍の水雷艇の雷撃により大破し自沈した)が、他の艦艇は戦闘不能なまま放置され、最後は自沈処理された。203高地の「旅順艦隊殲滅のための観測点」としての価値は、実際はほとんどなかったといえる。 
 
203高地を見る

 

旅順港を巡る日露の争奪戦で激戦地となった海抜203mの山
突撃と退却が繰り返され多くの死傷者を出した戦場
旅順 − 明治を生きた日本人にとって、この二文字は地名以上に、様々な意味を持っていたであろう。それは世界最強のロシア軍に勝利したという感動だったかもしれない。旅順陥落の報に接し、日本中が沸きかえり、街には提灯行列が出て勝利を祝ったと聞いている。
その一方で、信じられないほど多くの戦死者を出した。ロシア側の旅順要塞守備兵力は35、600名、これをを攻囲した日本軍は延べ12万名、戦闘期間は155日だったが、旅順開城の時点で日本軍の死傷者は約6万、ロシア軍のそれは3万であったという。
日露戦争は、近代日本の戦史の中で最も悲哀をもって語られることが多いが、旅順攻囲戦はその悲哀を象徴する戦いだった。その中でも、1904年(明治37)の11月26日から12月6日まで続けられた203高地攻略戦で、日本軍は約6万4千の兵士を投入し、戦死者5、052名、負傷者11、884名、合計16、936名という信じがたい数の犠牲者を出した。
旅順博物館を見学した後、旅順口区にあるホテルのレストランで昼食をとった。その後訪れたのは、日露戦争の主戦場の一つだった203高地である。203高地は、旧市街地から北西2.2kmほどのところにある標高203mの山とも言えない丘陵である。頂上に向かう車窓から、旅順港が一望できるのではと期待したが、残念ながら車道の両脇に生い茂る樹木が視界を遮って、旅順港は頂上に着くまで眺めることはできなかた。
日露戦争を扱った書籍には、旅順要塞や203高地の攻略を従軍記者がレンズでとらえた写真が掲載されている。それを見るとロシア軍が永久要塞を築いて日本軍を迎え撃った東鶏冠山や二龍山、松木山の堡塁付近も、203高地の斜面も、ほとんどがはげ山である。当時はもともと荒れ地だったのか、それとも両軍から撃ち出される砲弾によって、地表が変えられてしまったのか、ともかく当時はこの付近も荒涼とした戦場だった。
バスに揺られること10分ほどで、203高地の駐車場に着いた。駐車場の前に「二○三景区」と彫り込んだ岩場があり、山頂までは急坂がその左から続いている。徒歩での登頂が無理な観光客に対しては、有料でマイクロバスが別のルートで山頂まで運んでくれる。
午後の日差しは強かったが、急坂をたどって山頂まで登ってみることにした。目の前に続く急坂は今は舗装されすっかり遊歩道として整備されているが、今から105年前、この山の頂上を占領するために実に多くの同胞の血が流された。それは紛れもない歴史的事実である。
ロシア軍の永久要塞の前に屍の山を築いた日本軍
実は、203高地攻略は日露戦争の当初の作戦にはなかった。1904年(明治37)2月6日、ロシア政府に国交断絶を通告したその日、日本政府は連合艦隊を進発させ、全面戦争への火ぶたをきった。大本営が開戦前に決めた作戦の基本は、
1 陸軍の主作戦を満州におき、ロシアの野戦軍を求めて攻撃、遠く北方地区に掃討する
2 海軍は積極的にロシア太平洋艦隊を攻撃し、これを撃滅して極東における制海権を確立する、
というものだった。
当時、ロシアの太平洋艦隊は旅順港を拠点としていた。この艦隊を壊滅させなければ、日本海や黄海での我が国の制海権は保証されない。ところで、旅順港の入り口は旅順口と呼ばれている。老虎尾半島の突端と対岸の黄金山山麓に挟まれた水路は、幅が270mほどしかなく、しかも、水深の関係から大型戦艦が航行できるのは、そのうちの91mにすぎない。そこで、連合艦隊は旅順口に貨物船などの廃船を爆破して沈め、ロシアの太平洋艦隊が外洋に出られなくするという奇策をとった。これを「旅順口閉塞作戦」という。
この無謀きわまりない「旅順口閉塞作戦」は三度試みられたが、いずれも失敗した。たまたま天候に恵まれなかったり、廃船を目的地点に運ぶ前に発見されて集中砲火を浴びたためである。一方、ロシアのバルチック艦隊が遠くヨーロッパから巡航してくる動きをみせていた。日本の連合艦隊がバルチック艦隊を迎え撃つ前に、旅順の太平洋艦隊を壊滅させなければならない。さもないと、挟み撃ちされる危険性があった。
そこで、陸軍に旅順の高地の一つを奪取させ背後から旅順を遅うことになった。大本営は第三軍を急遽編成して、その司令長官に乃木希典(のぎまれすけ)を任命した。乃木将軍の率いる第三軍は6月6日、遼東半島の塩大澳(えんたいおう)に上陸すると、旅順のロシア軍要塞への攻撃を開始し、以下のように三回の総攻撃を行った。
第一回総攻撃:8月19日に二龍山、東鶏冠山にあった旅順北東部のロシア要塞への攻撃を開始した。戦闘は8月26日まで6日間に及んだ。しかし、ロシア軍の頑強な反撃にあい、失敗に終わる(この戦闘に5万765名が参加し、そのうち15、860名の死傷者を出した)。
第二回総攻撃:9月9日から龍眼北堡塁および水師営南方堡塁への坑道の掘削を掘り進み、10月26日から6日間、突撃隊は敵の銃撃を避けて堡塁に接近し、至近距離から白兵戦を挑んだ。だが、今回もロシア軍の頑強な抵抗にあって作戦は成功せず(この戦闘で、1、092名の戦死者、2、728名の負傷者を出した)。
第三回総攻撃:11月26日に開始され、二龍山以東の一戸堡塁、東鶏冠山、松樹山にいたる旧囲壁への攻撃を繰り返したが、日本の各師団はことごとく目標を達成できなかった。日露戦史に残る、特別予備隊2600余名からなる白襷隊の奇襲攻撃もこのとき行われた(日本側は4、500名の死傷者を出し。ロシア軍も戦死者を出した)。
なぜか第三軍司令官の乃木将軍は、旅順要塞の正面攻撃に固執している。大本営が旅順港を見下ろせる西側の二〇三高地に攻撃の目標を切り替えるようたびたび訓令を発していた。しかし、乃木将軍は203高地に振り向こうともせず、鉄壁の要塞へ真っ正面から挑み、悪戦苦闘するばかりだった。
乃木将軍がとった作戦は、一気呵政に敵の本陣をつくという日本古来の野戦向きの戦法だったようだ。だが、10年前の日清戦争当時とは、旅順の要塞はまったく様変わりしていた。ロシア軍は地形を巧みに生かし、巨費を投じて鉄骨とベトン(コンクリート)で固めた砲台と銃座を無数に構築していた。この永久要塞を取り囲む防御陣地は25キロにも及んだ。連ねられた700門の砲台と三十二個大隊、約4万2千人の守備隊が日本軍を待ちかまえていた。果敢に攻撃する日本軍が屍の山を築くだけだったのは当然である。
5万の犠牲者を出した末にやっと203高地を奪取
乃木将軍が203高地攻略に作戦を切り替えたのは、第三回総攻撃で甚大な被害を受けた後である。203高地への砲撃は、11月28日の朝から開始され、夜半までに203高地の西南山頂を占領した。日本軍の攻撃目標が203高地に変わったことを察知したロシア軍は、要塞から増援部隊を出して逆襲にでてきた。突撃と退却が繰り返される戦場では、敵味方の死体が四重にも五重にも重なっていた。占領した地点に陣地を構えるのに、日本軍は土壌が不足したため死体を積み上げて戦ったといわれる。それでも占領地を支えきれず、29日の夜には奪還されてしまう。
こうした状況にしびれを切らしたのは、満州軍総参謀長だった児玉源太郎である。彼は11月30日に第三軍司令部に急行すると、大山総司令官の代理として、乃木将軍から一時的に第三軍の指揮権を取り上げ、みずから第三軍を指揮して二〇三高地を集中的に攻撃した。しかし戦況は一進一退を繰り返した。
12月5日、日本軍は203高地西南部を再び占領することができたが、日本軍に対するロシア軍の反撃は壮絶を極めた。弾丸が欠乏し致命的な状況に追い込まれた日本軍は、石塊や砂礫、木片まで武器に変えて応戦し、必至でロシア軍を撃退した。劣勢が必至となったロシア軍は12月6日払暁までに、雪崩を打って敗走し、203高地はようやく日本軍の手に落ちた。
203高地を確保した日本軍は、ただちに砲撃の観測所を設け、その観測指揮にしたがって港内のロシア戦艦に対して28cm砲の砲撃を開始した。午後2時、四方を圧する砲声を轟かせ、最初の28cm砲弾が山稜を越えて湾内のロシア艦隊に襲いかかった。砲撃は以後も続けられ12月8日までにロシアの太平洋艦隊をことごとく撃沈していった。こうしてロシア太平洋艦隊は一度も日本の艦隊と砲火を交えることなく消え去った。

11月28日から12月6日までの203高地攻略戦で、日本軍は約6万4千人を投入し、戦死者5、052名、負傷者11、884名、合計16、936名という信じがたい犠牲者をだした。今歩いている山頂への道付近も、敵味方の砲弾が炸裂して山の斜面は月面のような無惨な姿に変わり果てていたはずである。せっかく占領した陣地を守ろうとしても、日本兵はすでに弾丸を撃ちつくしていた。迫り来る敵兵に対して、石塊や砂礫、木片まで武器に変えて応戦して撃退したという。そうした光景を頭の隅で描くだけで、周囲の景観は酸鼻を極めた戦場に変わり、背筋に冷たいものが走った。
ポーツマスで日露講和が成って10年後に、ロシアの世界的声楽家シャリアピンが203高地を訪れたときの話が伝わっている。折から雨上がりで、高地の斜面には方々に白い貝殻が散らばっているのが見えた。実は貝殻でなくて人骨のかけらだった。シャリアピンは山頂に立って鎮魂の歌を歌った。ふと目を開けると、斜面から幾百幾千の青い服をまとったロシア兵が、蟻のごとく山頂へはい上がってくるのが見えたという。日本人にとってだけでなく、ロシア人にとっても203高地は多くの同胞が眠る戦地なのだ。
大汗をかきながらようやく山頂にたどりついた。広場の中央には銃弾の形をした奇妙な忠魂碑が立ち、爾霊山(にれいさん)と書かれている。203高地攻略戦で犠牲となった将兵の霊を慰めるために、日露戦争が終わった1905年に建て始め、1913年に完成した忠魂碑である。銃弾の形の塔は、203高地で拾い集められた弾丸と砲弾の薬莢を集めて日本製のライフル弾の形に鋳直したものだ。爾靈山(にれいさん)は、203を中国語読みすると爾霊山となるために、乃木希典将軍が名付けたという。
ちなみに、乃木将軍は「爾靈山」と題する漢詩も残している。
 爾靈山嶮豈難攀 (爾霊山〔にれいさん〕 嶮〔けん〕なれども 豈〔あ〕に攀〔よ〕ぢ難〔がた〕からんや)
 男子功名期克艱 (男子功名 艱〔かん〕に 克〔か〕つを期す)
 鐵血覆山山形改 ( 鉄血山を覆ひて 山形改まる)
 萬人齊仰爾靈山 (万人斉〔ひと〕しく仰ぐ 爾霊山 )
乃木将軍の詩にあるように、203高地攻略戦は山形を変えてしまうほど壮絶な攻防戦だった。現在の203高地の標高は200mしかない。日露戦争で3m山が低くなったとされている。その山頂を奪取したときの日本軍の歓喜はいかばかりだっただろうか。眼下に、旅順港を見下ろせ、湾内に停泊しているロシアの艦船が手に取るように見える。まさにこの場所は旅順港に砲撃を加えやすい要地だった。
広場の近くに、ロシア式150ミリカノン砲が2門展示してあった。説明書きによると、203高地争奪戦で高地に駐屯するロシア軍は150ミリカノン砲2台と76ミリ速射野戦砲2台を設け、散兵塹壕、歩兵塹壕、掩体などを掘って、日本軍からの進撃をねばり強く阻止したという。 
 
日露戦争とベンチャーの資金調達

 

「日露戦争、資金調達の戦い - 高橋是清と欧米バンカーたち」(板谷敏彦著、新潮選書)という本について取り上げてみたいと思います。
日露戦争時に日本が国際資本市場から大量の資金調達を行えたということについては、以前より「一体どうやったんだろう?」という疑問と強い興味がありました。だって、英語の放送やコンテンツも巷(ちまた)にあふれて何年も英語教育を受ける現代の日本でさえ、「海外の投資家から資金を調達してこい」と言われたら、並大抵のことじゃないですよね? それを、明治維新から40年もたっておらず、まだ重工業もろくに立ち上がっていない明治期の日本人がやるというのは大変なことであります。それも、「大国ロシアと戦争しますので」という、かなり成功が怪しい目的のために、です。
もちろん、ちょっと歴史をご存じの方は、「当時は帝政ロシアによるユダヤ人迫害(ポグロム)がヒドかったので、ユダヤ資本は日本に好意的だったんだよ」といったウンチクを披露されるかも知れません。確かにそうした事実もありました。しかし、ではその人が(またはあなたが)その当時の日本にタイムスリップして、「ちょっと外国に行って国家予算並みの金額を調達してきてくれ」と言われたら出来ますか?ということであります。少なくとも私は(日露戦争がどういう結果になるかを知っており、当時の一般的な日本人より当時の世界情勢や金融の知識もあるとは思いますが、それでも)あまり自信はありません。
ということで、この本は、一見ベンチャーに関係ないようですが、資金調達を考えている起業家やベンチャーのCFOの方々が読んでも非常に参考になるんじゃないかと思った次第であります。「坂の上の雲」が日露戦争を正面から描いた本だとしたら、この本は同じ日露戦争期をファイナンス的な側面から描いた本だと言うことができると思います。
ベンチャーの人がこの本を読んでツボにはまる第一のポイントは、日露戦争に際しての資金調達額の桁が、たまたま現代のベンチャーのそれと似ているところかも知れません。日本のベンチャーが上場前に調達する金額は、だいたい数億円前後の場合が多いと思いますが、高橋是清たちに求められた調達の金額も「億円」の単位でした。
もちろん、その当時から現在までのインフレがあるので、当時の1億円と今の1億円の価値が同じわけではないです。しかし、今まさに数千万円から数億円の調達を目指して動いているベンチャーも多いと思いますし、同じ(名目)規模の資金調達にトライする話には引き込まれる人が多いのではないかと思います。
もう一点は、当時の日本という国の「ベンチャーっぽさ」について。
この資金調達の中心となった高橋是清が日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣などを歴任した人だということはよく知られていると思いますが、その華麗な経歴から、幕末のそれなりの家系に生まれたエリート的な人物だと思っている人も多いんではないかと思います。実際の高橋是清は、幕府御用絵師の川村庄右衛門の非嫡出子として生まれました。3歳で仙台藩の足軽、高橋家に養子に出され、12歳から横浜の外資系銀行でボーイとして働いており、「エリート」というよりは、事業も手がける「ベンチャー」的な人だったということがわかります。当時は日本という国全体も坂の上の雲を目指す「ベンチャー」みたいなもんでしたし、それを支える人材もベンチャー的だったということかも知れません。
三つ目に、この本は当時の世界の経済や金融市場全般を俯瞰(ふかん)する上でも役立つと思います。
現在の世界は、情報を運ぶインターネットやモバイル通信が世界の隅々まで普及しつつあるフェーズにありますが、当時の世界は、モノを運ぶ鉄道がまさにインフラとして普及しつつある時期であり、そこでベンチャー的な投資や買収劇が繰り広げられていました。
また、私は、現代の洗練された資本市場というのは徐々に形成されてきたものであり、現在のアメリカの証券取引法にあたる「1933年証券法」や「1934年証券取引所法」以前の、1920年代以前のアメリカの資本市場なんてものは、原始的な無法状態だったのじゃないかと思っていました。しかしこの本に、日本が英米での国債発行を私募から公募に切り替える際に、弁護士等に依頼してドキュメンテーションが非常に大量に増えた、といった記述が出てきて、「おっ」と思った次第です。
特に日本の金融制度はアメリカ等の制度をコピーして導入した部分が多いので、現代のガチガチに規制された金融の世界しか知らないと、「金融は規制が無いと成立しないし、規制に従うのが金融なのだ」と思いがちです。しかし、「市場メカニズム」というのは、個人や法人間の契約などによって、お互いにメリットのある取引を発見する自律的なしくみであり、お金を扱う「資本市場」はその市場メカニズムの中でも最大規模のものです。「情報にウソがあったり契約違反があったりしたら、それにペナルティを与える」といったメカニズムが存在しないと、コワくて投資が発生するわけもないので、公的な規制が洗練されていない時代にも、実はかなりのところまで自律的に動いていたのかも知れません。(金融に関する規制の中には、経済理論的に必ずしも必要だというわけではないが、国民の「安心」のために(つまり「政治的に」)導入せざるを得なかったものも多いのでしょう。)
日本の国債を引き受ける中心的役割を果たしたクーン・ローブ商会はその後リーマンに吸収されて今では姿を消してしまいましたが、モルガン、ベアリング、香港上海銀行、ウォーバーグといった現代金融の主要プレイヤー達が、すでにこの明治期から存在したのだということもわかります。
もちろん、戦争は相手との合意に基づかない暴力行為であり、ベンチャーは顧客との合意(契約)などに基づく非暴力的な行為であるという点で全く異なるものですし、日露戦争を礼賛しているわけでもありませんので念のため。しかし、この明治期の日本が、アジア人が西欧国家に戦いを挑むという誰もやったことがないことを、国際的に資金を手当てして成し遂げたという物語は、起業を志す人達の刺激にも大いになるんじゃないかと思います。 
 
日露戦争斜め論 

 

徳川幕府を倒し新しい政府を打ち立てた維新の志士達は、富国強兵・殖産興業を合い言葉に近代国家を目指して新しい国作りを始めました。
明治政府の国家目標は欧米列強の植民地にならないことでした。当時の日本を取り巻く地域はすでにほとんど欧米の植民地にされていました。このことを常に踏まえて日本の行動を見なければ日本の行動を理解できなくなってしまいます。
今の時代に生きる人の感覚で当時の歴史を眺める愚を侵してはならないということです。つまり当時の国際情勢と日本の置かれている状況を前提にして検証しなければ何も見えてきません。
国際社会に参入した明治政府は、東アジア世界の中でどのように歩み、そしてロシアとの戦争を始めるに至ったのか、そして日本の勝利が人類の歴史に偉大なる影響を与え,人類の歴史を画期的に大転換させたのです。
日本の勝利は「全人類の歴史をコペルニクス的に大転換させた」などの記述を見れば、なんと「大げさな」と思うのは今の時代の感覚で見るからです。当時は白人だけが人間であって、黒人や黄色人種は人間にあらずと考えたのが世界の常識でした。
清国の「大公報」には黄色人種と白色人種との間の優劣は天の定めだというふうに書かれています。アジアのほとんどの国は白人の知能能力はアジア人よりはるかに上である、白人には永久に勝てないと信じていたのです。
それを日本人は日露戦争での勝利でひっくり返した、人類の歴史はここから変わったのです。
日露戦争直前のロシア側の日本への認識を書いてみます。
「日本軍がヨーロッパの最弱小国に太刀打ち出来るまでには、数十年、おそらく100年はかかるであろう」陸軍武官ゲ・バノフスキー中佐
「ロシア軍は日本軍の3倍以上である。来るべき戦争は単に軍事的散歩に過ぎない」クロパトキン大将
「小猿があえて朕に戦争を仕掛けるなぞと、一瞬たりとも想像出来ない。帽子の一振りでかたづけてしまうさ」ツアー・ニコライ皇帝
「我々に対する日本の戦争は日本にとって自殺行為であろう。彼らの希望の全ての破壊となろう」ノボエ・ボレミヤ紙
「日本海軍は外国から艦艇を購入し、物質的装備だけは整えた。しかし海軍軍人としての精神は到底われわれには及ばない。さらに軍艦の操縦や運用に至っては極めて幼稚である」巡洋艦アスコリッド艦長
このように、ロシアは「人種的優越感」から日本人をことごとく蔑視していたことがよくわかります。何もロシア人だけでなく他の白人も有色人種も同じように考えていました。同時に日本側の多くの将校も到底戦争は勝ち目がないと考えていました。しかし当時のアジアの環境では戦争回避の道はありませんでした。
日露戦争は客観的に見ても大人と子供の戦争でロシアの全兵力約300万人に対して日本の兵力は約20万人、軍艦約60万トンに対して日本は26万トンでした。
それでは何故、ナポレオンでさえ敗退させた世界屈指の大国ロシアに対して極東の小国日本が勝利出来たのか、それは単なる幸運だけではありません。私の見解は日露戦争の勝利は必然の勝利だったと見ています。
当時世界一のバルチック艦隊と戦った日本海海戦では史上稀に見る一方的大勝利でした。バルチック艦隊は戦力の大半を1回の海戦でうしなったが、日本の損害は水雷艇3隻のみという信じられない大勝利でした。
この日本海海戦の勝利を作戦の妙であると解説していますが、私の見立ては技術力の差であるとあえて断言します。
「技術力の差」などと言えば袋たたきにあいそうですが、日本海の作戦を可能にしたのは、日本海軍の高速化によります。「宮原式」の性能と言ってもあまり知られていませんが、当時日本艦隊の船のスピードは世界最高でした。この世界最高のエンジンを発明したのが、海軍の宮原二郎です。
宮原式エンジンは価格も安く、給水が楽で、掃除も楽、エネルギー効率が高く、馬力が強い、小型なので、スペースをとらない。明治30年イギリスに特許を申請しました。この技術力に同盟国のイギリスが驚嘆しました。これが日本海軍の高速化をもたらし、ロシアを驚かせた日本海海戦の作戦を可能にしたのです。
現在世界のハイテク製品の部品、資材、工作機械などの、いわゆる資本財の約80%が日本製であるように、「技術立国」日本の萌芽はすでに100年前から存在していたのです。
例えばアメリカの自動車産業の技術を、日本の機械工業に完全に依存していますが、これは「国際分業」などと呼べるレベルでなく、もはやその技術が日本にしかない状況なのです。
ロシアが日本を東洋の遅れた民族としてしか見ていなかったが、日本人の文化はすでにロシアをはるかに凌駕していたのです。その証拠に当時の日本国民の識字率は75%と欧米諸国より圧倒的に高かった。だから複雑な兵器の取り扱い方法が紙の説明書による伝達が可能であったために、訓練のスピードを上げる事が出来たのです。
一方ロシア側は、日露戦争で捕虜となったロシア人の中で自分の名前すら書く事の出来ない者が過半数もいました。名前が書けても文章が読める人は幹部クラスだけだという現状でした。これは、貴族への教育制度しかない当時の欧米の識字率の低さがもたらした当然の結果です。
逆にロシアの捕虜となった日本兵の書いた論文が欧米の新聞に紹介されると一兵卒すら論文が書ける日本の文化度に欧米の識者は驚愕し、その後貴族中心の教育制度から、庶民を含めた教育制度への社会改革をもたらしたほどでした。
これを見ても日本の文化度の高さは当時世界一だったといえます。つまり私が言いたいのは、ロシアより圧倒的文化度の高い技術立国日本の勝利は歴史の必然だったということです。 
 
技術が制した日露戦争

 

無線機
明治38年(1905)5月27日、ロシアのバルチック艦隊発見の報告を受けた戦艦三笠は、大本営に宛てて電文を発信します。これが有名な、「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
この電文は、当時、世界最高の性能を誇った無線機によって打電されました。それが明治36年に開発された三六式無線電信機です。この電信機は、逓信省の技師・松代松之助が作り上げていた実験機を、海軍技師・木村駿吉が大幅に改良したものです。150km以上の通信が可能だったことで、通信技術に劣ったロシア軍より優位に立つことが可能でした。
また、無線機の電源は、島津製作所が国産第1号として開発した蓄電池でした。
日本海海戦の勝利は、「敵前回頭」や「T字戦法」など、フォーメーションの勝利とされますが、実は日本の高い技術力が勝利をもたらした側面が強いのです。 
火薬
日露戦争で日本が勝利した理由はいくつかありますが、特に大きな理由の1つに、日本海軍が世界最高の火薬を持っていたことがあげられます。
もちろん火薬自体は昔からありましたが、日本軍の火薬は圧倒的な破壊力でした。まずは破壊されたロシア艦アリヨールの写真を見てくださいな。甲板がほとんど崩れ、焼き尽くされていることがわかります。どれほど破壊力が強いか一目瞭然です。
この火薬の発明者は、日本海軍技士の下瀬雅允(しもせまさちか)です。下瀬は安政6年、広島の鉄砲町で生まれました。この場所は名前の通り、鉄砲を作っていた場所です。
下瀬は幼い頃は虚弱体質でまともに勉強もできなかったといいますが、それなのに工部大学(現、東大工学部)に3番で合格する俊英でした。
卒業後、印刷局に勤務し、ここで紙幣用のインクを開発します。このインクにより、精巧な印刷が可能となり、偽札防止に大いに役立ちました。
その後、下瀬は海軍省の技官となり、ここでパワフルな火薬を発明するのです。
当時の火薬は乾燥しているとすぐ爆発してしまうため、15〜20%程度の水分を含ませていました。ですがこの調整が非常に難しかったのです。当たり前ですが、水分が多すぎると爆発力は落ちるし、かといって少なすぎると危険だからです。
明治26年(1893)、下瀬は染料に使われたピクリン酸にワックスを混ぜることで、きわめて安全性の高い火薬をつくり出しました。この火薬は冷やすと固まり、温まると液体となるので、保存も容易になりました。
もちろん火薬だけでは大きな爆発力は得られません。ですが、伊集院五郎・海軍大将が高品質の伊集院信管を開発。こうして日本軍は明治27〜28年の日露戦争でバルチック艦隊を撃破、大勝利を収めるのです。
下瀬火薬の製造法は極秘とされ、世界中からおそれられました。海軍では第2次世界大戦でも使っていたほどです。
ちなみにこの功績で下瀬は海軍省から1200円の賞金を得ました。褒状には「我兵器に一層の鋭利を加へ帝国海軍に裨益(=助け)を与ふる少からざるのみならず其勤労等に大なりとす」とありました。 
船のスピード
火薬も重要でしたが、日本艦隊は船のスピードも世界最高レベルでした。当時、軍艦は石炭と水による水管式汽罐を積んでいましたが、当時最高峰の汽罐を発明したのが、海軍の宮原二郎です。
安政5年生まれの宮原は、海軍兵学寮機関科を優秀な成績で卒業したため、海軍省からイギリスへ派遣されました。宮原はのべ16年もイギリスにいましたが、この間、グラスゴーの造船会社やグリニッチ海軍大学などで研究を重ね、明治29年、ついに独自の機関を発明します。
明治30年イギリスと日本で特許を取得、明治33年に軍艦「厳島」「松島」に搭載され、実験航海が行われました。結果は石炭も水もはるかに少なくて済み、非常にいい成績を収めました。
宮原式の性能は抜群で、
・外国製汽罐が90万円なのに、宮原式は40万円と価格が安く、しかもどの工場でも作れるほど製作が容易
・給水がラクで、掃除もラク。乱暴に扱っても安全
・エネルギー効率が高く、馬力が強い
・小型なので、スペースをとらない
とイギリス人もビックリの高性能。これが日本海軍の高速化をもたらしたのでした。 
宮原二郎
1858年(安政5年)-1918年 日本海軍の軍人。最終階級は海軍機関中将。男爵。工学博士、宮原式水管缶の発明者。宮原成叔の長男として生まれ、幕臣宮原木石の養子となる。静岡学問所を経て、1872年、海軍兵学寮予科に入学。その後、イギリスに留学し、グリニッチ海軍大学校3年課程で学んだ。1883年3月、中機関士任官。主船局機関課、イギリス駐在、艦政局機関課長、兼東京帝国大学工科大学教授、横須賀鎮守府造船部計画科長、造船造兵監督官(イギリス出張)などを歴任し、1896年4月、造船大監に進級。
海軍省軍務局造船課課僚などを経て、1900年5月、機関総監に進級。艦政本部第4部長を勤め、1906年11月、海軍機関中将となり、1909年8月、予備役に編入された。のち、貴族院議員となる。1899年3月、工学博士号を取得。1907年9月、男爵の爵位を授爵し華族となる。

第五回内国勧業博覧会事務局編 『第五回内国勧業博覧会審査報告』(1904)
宮原二郎出品の水管式汽罐
汽罐とは蒸気を発生させるボイラーで、宮原二郎は海軍技術者。重要な水の循環法に不足があった従来の水管式汽罐を改良した。意匠斬新で蒸気発生の率も高く、欧米の優等工場で製作したものにも劣らないとの評価を受けた。

宮原式水管汽罐の発明(宮原二郎)
展示資料は、明治37年、「宮原式水管汽罐」(特許第3014号)の発明の功績により、宮原二郎(1858―1918)に勲二等旭日重光章が下賜された際の文書です。海軍技術将校だった宮原二郎は、通算16年にもおよぶ英国への留学で得た技術と経験を活かし、明治29年「宮原式水管汽罐」を発明しました。汽罐とはボイラーのことです。宮原の汽罐は、木炭を燃料とした蒸気船だった当時の軍艦や商船に採用されました。宮原の汽罐は、価格が当時の世界標準の半分であり、給水・掃除が容易で、耐久性に富み、さらに燃費がよく、小型でありながら高馬力である点で、画期的な発明でした。そして、宮原式水管汽罐で高速化した日本海軍の活躍が日露戦争の勝利に貢献したことで、その性能は世界からも注目されました。 
海軍造機技術自立過程と渋谷隆太郎
軍艦だけでなく造船所までまるごと輸入で出発した日本の海軍だが、人材養成を中心課題としつつ技術の自立に努めた結果、海軍は早くも明治時代に自主開発の宮原ボイラを主力艦に独占的に採用した時期がある。
その宮原二郎氏は蒸気タービンの採用にも積極的で、1906(明治39)年、艦政本部第四部長だった同氏の決断により巡洋艦伊吹の計画を変更し、軍艦用として当時世界最大のタービンを米国フォアリバー会社に注文し、翌年9月に艦内に搭載した。
1912(大正1)年、海軍は宮原ボイラからイ号艦本式ボイラに転換した。以来、外国産ボイラの輸入、搭載もありはしたが、渋谷隆太郎氏がその技術者としての経歴を開始された時には、ボイラ技術とレシプロ蒸気機関技術を中核とする造機技術において海軍はほぼ自立を達成し、国内で未経験の蒸気タービンについても、先進諸国からの情報を大筋で正確に判断していた。渋谷隆太郎氏自身が「旧海軍技術資料」(生産技術協会、1970)の第2分冊(この渋谷文庫に収納、50−002)、P.35に次のように書いておられる。
「私は大正9(1920)年に旧海軍大学校専科学生として、蒸気推進機関を専修した際、当時米海軍の巡洋戦艦レキシントン(電気推進)と同一馬力の蒸気タービン装置の設計を課せられ1カ年かかって機関室の配備図を作成した。艦本五部長の視察があって、同年12月1日から、艦本五部に勤務することとなった。当時主力艦の建造とともに、巡洋艦駆逐艦等も多数建造中であった。巡洋艦、駆逐艦のタービンに故障頻発、その渦中に巻き込まれ非常に鍛え上げられた(下略)」。
この引用文中にも片鱗が出ているが、当時世界各国で起こっていたタービンの故障は大変なものだった。一般に真の革新的技術はトラブルを克服しつつ発達するのであり、蒸気タービンも例外ではあり得なかった。旧海軍タービンの1、2号機は当時の最有カメーカからの輸入機ではあったが、それらは当時の世界最大機だったから当然に頻々と故障した。ただしそれらを使いこなすだけの技術力を旧海軍技術陣はすでに備えており、その上にカーチスタービンとパーソンスタービンの製造権取得による技術修得を積み重ねたのである。
上記の時間的経過によれば、旧海軍のタービン技術自立過程の重要部分と渋谷氏の技術者としての経歴は丁度重なっている。旧海軍は、大正4(1915)年度計画の二等駆逐艦桃と樫(2機2軸、16700馬力)に艦政本部独自設計の単シリンダ直結タービンを装備するまでになっていた。1923年にカーチスタービン、1928年にパーソンスタービンとの製造権契約期限の到来とともに契約を打ち切り、外国特許から自立した艦本式タービンが名実ともに成立した。
この技術開発チームの中枢に渋谷隆太郎氏は1920年に艦政本部員として参加され、以来タービン技術の自立に大きく貢献され、1944年11月以降終戦までは艦政本部長の要職にあり、戦後も1973年4月8日に逝去される直前まで、日本技術の発展のために尽力された。
艦本式ボイラ、タービンを中心とした旧海軍の造機技術は艦本式タービンの成立期以後順調に発達し、1940年ころ竣工の主力艦では、1機2缶、1軸1機4万馬力、4軸、タービン入口で30気圧350℃程度であった。内燃機関でも潜水艦用に艦本式が開発、実用され、また、大和、武蔵に搭載を目標に開発された大型複動ディーゼル機関は、大和、武蔵には不採用となったが、次期計画戦艦用としての実用試験目的で水上機母艦日進(3機1軸、2軸で47000馬力)に採用されている。旧海軍の機関は、内燃機関、補機、軸系、プロペラ、電気、計装、等も含めて、1941年以来4ヵ年に亙る戦争中を通じて、機関の故障により作戦に支障を来したことは殆どない好成績をあげている。 
 
日露戦争時の無電望楼折衝における外務省の愚かさ

 

1.まえがき 
日露戦争の時代の外務省には、小村寿太郎のような愛国の有能外交官がいて、日本の国益のために活躍したことが知られていますが、外務省そのものの体質には、すでにあの時代から、現在の「事勿れ体質」の萌芽が見られたようです。こういう問題にはまったくの素人ですが、無線技術の歴史を調べている間に知ったことを、以下に記します。 
2.無電望楼の緊急性 
日露戦争の海戦において、日本人が製造した無電装置が大活躍し、日本海海戦などを勝利に導いたことは、(年輩者には)よく知られています。日本海軍が無電を装備するに至った経緯を簡単に記すと、以下のとおりです。
日露戦争の時代は、マルコーニが無電を発明してまもないころで、世界のどの軍隊も、無電の装備には未着手でした。そのようなとき、天才的な先見性をもった海軍の秋山眞之(日露戦争時の旗艦三笠の参謀)が「無電の実用化と大陸半島沿岸における無電望楼(*1)の建設」を軍首脳に提案しました。やはり天才だった山本権兵衛海軍大臣(のちの総理)は、この若い士官の提案の重要性をいち早く見抜き、号令をかけました。はじめはマルコーニの無電装置を購入する計画もあったようですが、あまりにも高額だったので中止し、必死で自力開発を急ぎました。技術を受け持って努力したのは、最初期は学歴の無い天才技術者・松代松之助で、本格化してからは、木村駿吉でした。
木村駿吉は、勝海舟や福澤諭吉をのせた咸臨丸の最高責任者だった木村摂津守の次男で、東大理学部の大学院を出てアメリカのイエール大で博士号PhDを得た学者でした。もともとは理論家でしたが、国家存亡の危機であるため、好きな理論を封印して、戦争時に素人でも使用可能な、壊れにくく扱いやすい無電装置の開発に全力を注ぎ、かろうじて間に合わせました。
[当時の日本で無電の技術を経験している人は一人もおらず、紙の上の知識を多少は持っている人もたかだか数人でしたから、じつによくやったと思いますし、開発を提案した秋山眞之の達識も印象的です]
軍では、この無電装置を軍艦に装備するとともに、全国に望楼をつくってそこに設置する計画をたて、大車輪で実行に移しました。しかし、ロシアの艦隊を迎え撃つためには、日本の沿岸だけの望楼では不十分です。東シナ海や日本海での海戦に備えるためには、どうしても、朝鮮半島やシナ大陸の沿岸に無電望楼をつくる必要がありました。陸海軍はこのことに必死になりました。
[以下は、田丸直吉「日本海軍エレクトロニクス秘史」からの抜粋です。田丸氏は、戦中にドイツの技術情報を日本に知らせるために、潜水艦で密かにドイツをめざして奇跡的にドイツに到着し、奇跡的にドイツの敗戦を生き抜き、戦後も活躍しました。この秘史は、ドイツに行く前に海軍の日露戦争時の史料を見る機会があって、その折りにメモした極秘のノートを元にしているそうです]
[*1 当時は無線による電話はまったく未開拓で、無線電信(無電)がやっと出来るかどうかという時代でした] 
3.陸海軍の外務省への要望 
そこで陸海軍は、外務省にあてて文書を出し、大陸の清国政府と半島の韓国政府に、無電望楼用の土地借用の折衝を依頼しました。すなわち、
「清国南部において」
一、福建省沿岸の重要なる市邑及開港場等に電信局設置並之を設置すへき土地の使用権。
一、福州より福建省内重要なる市邑等に電信局設置並之を設置すへき土地の使用権。
「韓国において」
一、沿岸に於ける重要なる市邑及開港場等に電信局設置並之を設置すへき土地の使用権。
等を取得する件の閣議請議案を提出、直ちに交渉を開始することに閣議の決定を見た。
・・・というわけで、下記のような総理大臣あての文書、および外務大臣あての文書が出されました。 
4.総理大臣宛の文書 
「 官房第3656号ノ2
近来無線電信の研究頗る其の歩を進め之を軍事上其の他に応用するに其の効力頗る大なるものあり、殊に之を清国南部及韓国沿岸と帝国領土及艦船との間に設置するを得は、平時は勿論戦時と謂通信を確実敏活ならしめ軍事上其の他に便益を与ふること至大なるへきに付諸外国に先んし前記の清国南部及韓国沿岸に無線電信交換所を設置するの特権を帝国政府に取得し置かんこと最必要と認め茲に閣議を請ふ
明治32年9月4日
海軍大臣 山本権兵衛 / 陸軍大臣 子爵 桂太郎 / 内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋 殿 」 
5.外務大臣宛の文書 
「 官房機密第219号ノ2
今般清国南部及韓国沿岸に無線電信交換所を設置するの特権を帝国政府に取得し置度件に関し請議に及ひ置候処別紙甲号写の通閣議決定相成候に付ては別紙乙号要領に依り右特権取得方可然御取計相成度此段及御照会候也
明治32年11月14日
海軍大臣 山本権兵衛 / 陸軍大臣 子爵 桂太郎 / 外務大臣 子爵 青木周蔵 殿
別紙甲号(省略)
別紙乙号(交換所設置の特権を取得し度線路。以下3.と同一内容) 
6.担当窓口の先見性の無さ 
この閣議決定に基づく訓令に対しまして、清国特命全権公使男爵西徳二郎は、外務大臣宛に、以下のような【恐るべき意見書】を送ってきたそうです。要約いたします。
(1)無線電信は未だ実験段階なので、直ちに清国に設置するのは軽挙である。
(2)しかも陸上では有線電信の方が良い。
(3)清国が拒絶するのは必然なので、余計なトラブルを起こす必要はない。
(4)鉄道敷設のような問題ならまだしも、日本の利益にならない問題で清国の心証を害するのは得策ではない。
田丸氏は、この窓口の態度に対して、
「当時ロシアの侵略意図は察知されており、バルチック艦隊の回航に備えて海軍が万全の対策をとらねばならなかったが、出先機関にはそれを察知する能力が無かったらしい」と記しています。日本そのものが死ぬか生きるかの瀬戸際だったというのに、そのあまりの呑気さに唖然とします。田丸氏は書いておりませんが、海軍は激怒した模様です。そして、次節のように、もっと具体的に15の地点を指示して、さらなる折衝を強く依頼しました。
[当時の外務大臣の青木周蔵は、例のペルー人質事件のとき、白髪傲慢大使と言われた人の曾祖父です。司馬遼太郎は青木周蔵のことを、「何をしたのかよく分からない人物」と批判しています] 
7.具体的に指示した15の地点 
福州市街若は其の附近 / 五虎島若は羅星島錨地附近 / 東丈島 / 回船島 / 烏拉島 / ピラミッド角 / チンモ角 / ケモイ島南東部 / 廈門市街若は其の附近 / チャペル島 / タオンヒール / ジョカコ角 / 東引島若は蘭嶼 / 三都島南東部 / ヒューヤン島
[これらの場所がどこかについては、知識がありませんが、バルチック艦隊が通りそうな沿岸であることは確かです]
海軍としては、これらを大使に書き送ることによって、ぜひ折衝するよう圧力をかけたのでしょう。しかし、ダメでした。 
8.惨めだった清国との折衝結果 
その後、明治33年の義和団の事件などがあって折衝が遅れましたが、それでも形式的には申し入れたようです。しかし、言を左右するなど、いいかげんな返事しか得られず、体よく拒絶されてしまったそうです。田丸氏は、つぎのように評しています。
「日清戦争に勝利を収めた後でもあり、もっと有能な外交官を得ておれば、その後大きな影響があったものをと惜しまれる」
まったくその通りです。肝心の折衝担当の公使が「最初からやる気が無い」のですから、うまくいく筈はありません。
[現在中国や韓国にいる外交官と同じですね]
この外務官僚のだらしのなさによりまして、海軍は余計な苦労をしなければなりませんでした。 
9.どうしようもなかった韓国との折衝結果 
他方韓国で折衝にあたった特命全権公使林権助は、ある程度は折衝したらしいのですが、適当な口実で拒絶されてしまいました。そこで借地を釜山にしぼって申し入れましたが、これも受諾されず。結局、
甲:軍事力を背景に強硬に申し入れる。
乙:折衝を継続しながら、事実上は建設してしまう。
――の二案しかないだろう、という結論になり、双方ともに不可能だとして、韓国への無電望楼建設も消滅してしまいました。 
10.結局、日露戦争ではどうしたのか 
清国も韓国も、要人たちは、ロシアに籠絡されてしまって、これが極東が植民地になってしまうかどうか(シナ、朝鮮半島、日本の人たちがロシアの奴隷になって消滅してしまうかどうか)の瀬戸際であるとの認識も責任感もなく、日本ただ一国が多大な犠牲を払って戦い抜きました。そして、朝鮮半島が戦場になってから、いくつかの半島沿岸の島に必死で無電望楼を建設して、ロシア艦隊との戦いに活用しました。一方シナの大陸沿岸の方は、ほとんど建設できずに終わったようです。
しかしそれでも、日本海に浮かぶ日韓双方の小島などに多くの無電望楼を作り、日本海軍はそれらを最大限に活用して、ロシア艦隊を撃滅しました。
[有名な竹島にも設置されました。そのための竹島調査が多くなされており、当時かなりの数の日本人が居住していたことが、日露戦史に記されています。完全に日本人が活躍していた島であり、韓国とは無関係でした。]
[無電望楼は目視によって敵情を探り、さらに無電によって敵の情報をキャッチし、味方の軍艦や国内の司令中枢と連絡しますが、ほとんどの無電望楼は国内要所と有線で連結されました。近くは有線電話、遠方は有線電信です。この有線網によって、必要な情報が東京の大本営や軍令部に送られました。島の場合にはこの有線網は海底ケーブルでした。現在のように無線による自在な通信は出来ませんでした。また暗号も未発達でした。なお日露戦争ではほとんどの分野で日本の技術が上でしたが、暗号の解読はロシアが上だったようです(というよりも日本人が苦手とする分野です)] 
11.むすび 
以上は、先見性がなく事勿れ主義で国益を損ねる外務省の体質は日露戦争の前からあったのだ――という近代史の事例です。南京大虐殺の記念館が無数にできても抗議ひとつしない日本外務省の萌芽を見る思いです。
「国際通信の日本史」(東海大学)にも書きましたが、戦前戦中も、ロシアを刺激したくない――という外務省の弱腰が、日本の国際通信の植民地状態からの離脱を大幅に遅らせたと思います。
[戦争になって外務省が忙しくて通信関係の対外折衝に出席しなくなった時代になって、はじめて、遞信省の対外折衝がうまくいくようになった――という皮肉な話が、遞信省側の史料に記録されています]
この事件から多くの教訓が得られますが、おそらく川口外務大臣などは、まったく無関心だと思います。
[日本の名誉のために付記。外務官僚ではありませんが、アメリカ世論を日本の味方につけるために、獅子奮迅の活躍をした人物がいました。金子堅太郎や高峰譲吉です。このような人物の活躍が日本を救いました。戦費調達のために心血を注いだ高橋是清もそうです] 
 
山本権兵衛

 

山本権兵衛は、日本海軍の近代化のため、私情を完全に捨てきって改革を断行した。何度か欧米を見て回り、それに比肩する海軍が必要であることを痛感していたからである。改革はいつの世も、命がけである。既得権益との軋轢、抵抗勢力の妨害、これらをどう処理するか。ここにそのモデルがある。
日本海軍の父
山本権兵衛は海軍士官であり、海軍大臣、首相を務めた政治家でもある。「日本海軍の父」と言われた。海軍を創設したわけではない。海軍の近代化のために、蛮勇をふるって諸制度の改革、人事の刷新を断行したからである。この改革が行われていなければ、日清、日露の両戦争に日本は勝てなかったかもしれない。日露戦争時の東郷平八郎の活躍も、山本がいなければあり得なかった。
彼を「西郷隆盛と大久保利通の長所を兼ねたような男」と称する者もいた。西郷の徳、大久保の知性と胆力(度胸)、これらを有するというのである。海軍の改革をなすに当たり、彼は一切の私情を排し、それを断行したからだ。改革はいつの世でも痛みが伴うものである。当然、幾多の抵抗勢力が山本の前に立ちふさがる。しかし彼は一切妥協を許さなかった。清国(中国)、ロシアに勝てる海軍を作るという至上目的があったからである。
西郷隆盛に心酔
山本権兵衛が生まれたのは1852年10月15日、薩摩藩(鹿児島)の加治屋町である。薩摩出身のほとんどの者がそうであるように、山本も西郷隆盛を尊敬し、彼に心酔していた。
山本は幼い頃から、気性が激しく、喧嘩が早いことで有名だった。喧嘩している子供たちのところに彼が現れると、「権兵衛が来た!」と言って皆一目散に逃げたという。子供たちから恐れられる存在であった。こうした荒っぽい男が、西郷に心酔し彼から徳を学ぶことになる。大胆無比でありながらも思慮綿密、その上愛情豊かな人格の持ち主になっていくのである。
明治の新政府ができた直後、16歳の山本は西郷の自宅を訪ねて、自分の進路について相談した。西郷の回答は、「海軍に行くのがいい」。山本の海軍行きが決定した瞬間である。「ありがとうございます」と礼を述べた山本に、西郷は勝海舟への紹介状を書いてくれた。勝は徳川幕府の幕臣でありながら新政府の成立に貢献した人物であり、海軍奉行(海軍大臣)を経験していた。海軍に精通していたのである。
西郷の紹介状を携えて、東京の勝海舟宅を訪問して勝に会ってみると、予想外の返答が返ってきた。「海軍はやめたほうがいい。海軍の修業なんて並大抵のものじゃない」。勝に反対され、その日はいったん引き揚げた。しかし、海軍行きは西郷との約束である。そう簡単に諦められるものではない。勝宅への日参が始まった。ようやく勝が折れ、勝宅に居候を許された山本は、東京開成所(東京大学の前身)で海軍の基礎学ともいうべき高等普通学(数学、外国語、国語、漢文、歴史、物理、化学、地理など)を学ぶことになったのである。
ドイツ海軍のモンツ艦長
山本権兵衛が心から尊敬していた人物は、西郷隆盛の他もう一人いた。ドイツ人のグラフ・モンツである。こんなことを述べたことがある。「日本人では西郷南洲(隆盛)、外国人ではグラフ・モンツ、これが世界広しといえども大人物だ」。
このグラフ・モンツはドイツ海軍の練習艦「ヴィネタ」の艦長である。山本は24歳のとき、他の海軍少尉補7名と共に、この練習艦への乗り組みを命じられ、10ヶ月に及ぶ世界半周の航海に出た。この間、山本はグラフ・モンツから多くを学んだ。船の操縦や軍事技術はもちろんのこと、政治、経済、法律、哲学など多岐にわたる。そればかりではない。モンツは、服装、生活態度、礼儀、趣味なども、慈愛に満ちた態度で誠実にきめ細かく教えた。
モンツはドイツの貴族出身で、高い教養と高潔な人格の持ち主だった。温情溢れる人柄、その中に鉄骨のような合理性が矛盾なく貫かれていた。「私の今日あるのは、まったくモンツ艦長の感化による」と山本が語っているほどに影響を受けた。軍人として、人間として、またリーダーとして、山本はモンツをモデルとするようになるのである。
妻トキとの出会い
モンツから学んだことは他にもある。それは妻に対する姿勢である。ドイツの練習船「ヴィネタ」に乗る直前、山本は17歳の少女トキと出会った。場所は、海軍士官合宿所の向かいにあった女郎屋。新潟の漁師の娘で、家が貧しくて、最近売られて来たばかりであるという。山本はトキの身の上を聞き、心からいとおしく思い、何としてでもこの苦境から彼女を救い、自分の妻にしようと決心した。
山本は同僚の協力を得て、女郎屋の二階からひそかにトキを綱で下ろして、知り合いの下宿にかくまったのである。トキを生涯の伴侶と決めた山本は、その後ドイツの軍艦「ヴィネタ」に乗り込み、一方トキは海軍士官の妻としての必要な心得を学びながら、彼の帰国を待つことになった。
結婚してしばらくして、妻が山本の乗る軍艦を見学に来たときのこと。中尉であった山本は自分で艦内を案内した。その帰り。軍艦からボートに乗り、そのボートから桟橋に移ろうとするとき、山本は妻の履き物を持って先に桟橋に渡り、妻の前にそれをそろえて置いたという。
これを見ていた他の将兵たちは、山本を冷笑した。当時の日本でこんなことをする者はほとんどいなかった。妻を軍艦に案内することが、まずあり得ない。まして妻の履き物を夫がそろえて置くなど、男として恥ずべき行為であったのである。しかし、山本は意に介さなかった。「敬妻(妻を敬うこと)は一家に秩序と平和をもたらす」と言ってはばからなかった。これもモンツ艦長から学んだ西洋の美風であったのだ。
大改革の断行
山本権兵衛が後に「海軍の父」と呼ばれるようになる本格的な仕事を始めたのは、38歳で海軍大臣官房主事(後の海軍省主事)に抜擢されてからである。当時の海軍大臣は西郷従道、西郷隆盛の弟である。
欧米に比肩しうる精強な近代海軍を作らなければならない。6年前の1887年10月から彼は1年間欧米に渡り、各国の海軍制度を視察して以来、特にその感を強く持つに至った。そのためには、海軍諸制度の改革と不要な人員整理は不可避であると考えた。
改革案を練り上げ、海軍大臣の西郷に提出したとき、物事に動じない西郷も度肝を抜かれてしまった。将官(局長、部長級)8名、佐官(課長、課長補佐級)と尉官(係長、主任級)89名、合計97名の士官をクビにするという内容であった。西郷が驚いたのは、それだけではない。その中に薩摩出身者も大勢名を連ねていたからでもあった。
「こんなに整理したら、有事の際に、支障はないか」と西郷。山本は、「新教育を受けた士官が増えております。心配はありません。戦争になったら、整理した予備役の人を召集すれば十分です」と応えた。西郷は山本案でいく腹を決めた。
山本の人員整理案には、明確な方針があった。たとえ同郷出身の先輩でも、明治維新当時からの勲功を積んでいても、現在将官級の地位にあっても、あるいは自分と親交があっても、海軍の将来の計画に対して、淘汰しなければならないと認める者は淘汰する。また、自分に対して、たとえ悪口を言う者でも、将来国家にとって有用な人材と認める者は残す。
山本はこの方針を厳格に守り抜いて、一切の異議申し立てを認めなかったと言う。私情を殺し、将来予想される清国、ロシアとの戦いに勝てる海軍を作ることを至上目的としていたからである。
東郷平八郎を司令長官に選ぶ
1898年、山本は第二次山県有朋内閣の海軍大臣に就任した。対ロシア戦を想定した海軍作りに辣腕をふるう中で、最も大きな決断は常備艦隊(後の連合艦隊)の司令長官として東郷平八郎を選んだことである。後にこの人事は、陸軍の児玉源太郎の参謀次長就任と並ぶ二大傑作と称された。しかし、山本にとってこれは辛い苦渋の決断であった。現長官である日高壮之丞を解任することを意味したからである。日高は山本の竹馬の友であり、海軍兵学寮に一緒に入り、親友と言ってもいい間柄であったのだ。山本は、ここでも私情を捨てた。
日高は有能な海軍士官であることは認めていたが、自分の才気に溺れ、独断専行の傾向が見受けられた。対ロシア戦は、国運を賭けた戦争になる。その司令長官は上の方針に反する者であってはならない。その点、東郷には不安はない。その上、合理的かつ冷静沈着な判断と行動、それにきわめて強運である。山本は東郷こそ司令長官に相応しいと判断した。
山本から解任を通告された日高は、腰の短剣を抜いて、「権兵衛、何も言わん。これで俺を刺し殺してくれ」と言った。竹馬の友からの通告に、誇り高き軍人、日高の怒りと失望は察してあまりあるものである。山本は日高の心が痛いほどわかった。彼は日高の性格が国家の大事に際して、不向きであること、東郷を選ばざるを得なかったことを諄々と説いて聞かせた。そして最後に言った。「二人は竹馬の友だし、少しも変わらぬ友情を今でも抱いている。しかし、国家の大事の前には、私情は切り捨てなければならないのだ」。
日高も愛国者であった。目に涙を浮かべて、うなずいた。「権兵衛、よくわかった。よく言ってくれた」。山本も泣いた。そして日高の手を両手で固く握ったという。英雄、東郷平八郎の誕生の背後にはこうしたドラマがあったのである。
1933年12月8日、山本権兵衛は81歳の大往生を遂げた。その年の3月30日には、73歳になる妻登喜子(トキを改名)を失っていた。登喜子の最期のとき、山本も病床に臥していたが、妻のいる2階に運んでもらい、妻の手を握って言葉をかけた。「お互い苦労してきたが、これまで何一つ曲がったことをした覚えはない。安心して行ってくれ。いずれ遠からず、後を追っていくから」。登喜子は目からポロポロと涙をながして夫の手を握り返したという。その日、登喜子は夫の愛を胸に抱きながら、あの世に旅立った。山本が他界したのは、その年の暮れであった。
山本権兵衛の生涯は、海軍の大改革を断行して、日本を危機から救ったことで称えられている。しかし、それと共に妻を危機から救い出し、生涯愛し続けたその人生をもって、その偉大さを後世に残したのである。 
 
東郷平八郎 

 

東郷平八郎は、日露戦争にて卓越したリーダーシップを発揮し、日本を勝利に導いた。日本の危機を救ったこの不世出の英雄は、軍人になるつもりはなかった。彼の人生を変えたのは、7年間のイギリス留学である。この留学は、海の男・東郷平八郎を作り上げた。
戦争を嫌った軍人
日露戦争の陸戦の英雄が、乃木希典、児玉源太郎であるとすれば、海戦の英雄は東郷平八郎である。第二次世界大戦以前の日本において、最も尊敬された軍人の一人であった。乃木と同様に軍神とあがめられ、東郷神社まで存在する。しかし、戦後教育の現場で東郷の名を聞くことがほとんどなくなった。軍人を英雄視し神格化することは、軍国主義につながるということでタブー視されたからである。今や東郷平八郎の名は、日本人において忘れられつつあるのである。
しかし、東郷の精神とその生き方は、軍国主義とは程遠いところにある。そもそも彼は戦争が嫌いであった。幕末、薩摩(鹿児島県)藩士として多くの戦争に参加し、その悲惨さをいやと言うほど味わった。自分は軍人向きの人間ではない、鉄道技師として国家に奉仕したい。これが若い頃の東郷の夢であった。
東郷は戦争を嫌悪した。残酷無比な戦争の現実を知り抜いていたからだ。部下が次々と死んでいく。そんな戦場の現実に平然としていられるタイプの人間ではなかった。しかし彼は常に国家への忠節、愛国心に溢れる人間でもあった。国家が生きるか死ぬかの瀬戸際での勇気と決断力は今なお語り伝えられている。慈悲の中に勇気があり、冷静沈着でありなお大胆でもあった。東郷平八郎は理想的リーダーとして尊敬されたのである。
箱館戦争で見た武士の心
東郷の青春時代は戦争の連続であった。鹿児島湾でのイギリスとの砲撃戦。幕府崩壊後、官軍として臨んだ旧幕府勢力(会津藩をはじめ東北諸藩)との戦争。そして榎本武揚軍との戦い(箱館戦争)。
幕臣であった榎本武揚は艦隊を率いて、蝦夷地(北海道)の箱館(函館)に立てこもり、共和国の設立を宣言した。政府は、榎本軍鎮圧のため急遽、軍を派遣することにした。東郷は三等士官として政府軍の軍艦「春日」に乗り込むことになる。明治2(1869)年、22歳の時である。
箱館港への総攻撃が始まったときのこと。味方の軍艦の一つに敵の砲弾が命中し、大爆発を起こした。船体は真っ二つに折れ、東郷の乗る「春日」の目の前で撃沈した。瓦礫と化した軍艦の残骸。手足が引き裂かれた遺体。助けを求める怪我人の絶叫。海は修羅場と化していた。東郷は無我夢中で怪我人の救助に当たった。敵艦を見る余裕はない。
こうした修羅場の中で唯一の救いだったのは、榎本軍によって示された武士の魂であった。榎本軍の軍艦は沈没地点に接近していたが、攻撃はしなかった。東郷たちの救助活動が続けられている間、それをじっと見守ってくれたのである。東郷は敵である榎本軍に仏の心、武士の心を見た。
イギリス留学
軍人になるつもりのなかった東郷が海軍に入ることになったのは、西郷隆盛の説得による。西郷は同郷の先輩であり、明治維新の立役者であった。鉄道技師になろうとしていた東郷は、西郷を訪ねてイギリス留学を相談した。しかし西郷の返事は、「鉄道技師では当面、留学の計画はない」というものであった。西郷は、日本がこれから世界に伍して行くには海軍力が不可欠であること、さらにこの海軍に東郷が必要であることを断固たる口調で説得した。
東郷の心は揺れた。イギリスに留学したい。しかし、鉄道技師にこだわっていては、そのチャンスを逸する。東郷は思い悩んだ末、尊敬する郷里の先輩、西郷に人生を預けようと思った。そしてこの時に海軍を生涯の仕事とする決断をしたのである。
明治4(1871)年3月、東郷は横浜港を出発し、イギリスに向かった。23歳の時である。当初カレッジにて、英語を始め、数学、理科などの基礎知識を学び、2年後、入学を許された学校は、「ウースター」という商船学校であった。ここは校舎も宿舎もなく、「ウースター」という名の練習船があるだけ。学生はこの船で授業を受け、寝泊まりする。船が校舎であり、宿舎であった。常に実践を伴う船上での授業は実に厳しいものであったが、2年後優秀な成績で「ウースター」を卒業した。教官や学生仲間からの東郷の評価は、「学術優秀、品行方正、礼儀正しい」という非常に高いものであった。
卒業後、恒例に従って東郷は帆船「ハンプシャー」に乗り込んで世界一周の遠洋航海の途についた。学んだ知識を実際の場で試すためである。7ヶ月に及ぶ航海で、東郷はすっかり海の男になっていた。マストに登れば、風の強さと方向を即座に判断し、天候や波の変化を予測した。操船に関しても、ここまで叩き込まれた男は、日本海軍にはいないとまで言われた。
イギリス留学で得たものは、単に海と船に関する知識や技術ばかりではない。イギリスの船乗りと生活を共にして、彼らのプライドを垣間見ることもしばしばだった。彼らは愛国心に溢れ、国家に忠誠を尽くす心構えができていた。たとえ商船といえども、ひとたび戦争となれば戦場に赴くのである。その愛国心が彼らのプライドの源であったのだ。
連合艦隊司令長官に
ロシアの脅威が現実的なものとなり、日本は国家存亡の危機にある。これは当時のリーダーに共有されていた認識であった。ロシアとの戦争を想定して、海軍大臣の山本権兵衛は、連合艦隊の司令長官として東郷を迷いなく選択した。同じ薩摩の出身であったからではない。山本は、日本海軍の歴史の中でこれほど強力な大臣はいないとまで言われた逸材であった。年功序列や薩長の派閥人事を排除し、能力のある人材を登用したことで知られている。その彼があえて同郷の東郷を選んだのは、東郷のリーダーとしての資質を評価してのことであった。
東郷を選んだ山本の判断は間違っていなかった。日露戦争の最大の山場、ロシアのバルチック艦隊との日本海決戦において、それは証明されることになる。1904年10月、ロシアのバルチック艦隊はフィンランドから日本に向かう1万8千キロの大航海に出発。これを東郷の連合艦隊は日本海で迎え撃った。翌年の5月27日のことである。
この海戦は、連合艦隊の圧倒的な勝利で決着がついた。東郷自身の言葉によれば、「この海戦は戦闘開始30分で決まった。われに天運あり、勝利したのだ」。数字を見れば一目瞭然である。バルチック艦隊の死者1万1千人(日本側発表)に対し、連合艦隊の死者は116名にすぎない。
勝利の要因は何であったのか。高度な戦略戦術。半年以上の長旅によるロシア側の戦意の喪失。砲撃の命中率の差などいろいろあげられている。しかし、何と言っても決定的な差は士気の差にあったことは間違いない。東郷にとって、この戦いは単に自己の名誉に関わる問題ではなかった。日本が消滅するかどうかの戦いであり、命を投げ出す覚悟ができていた。
日本の命運を背負う司令長官東郷の緊迫感は、この戦いに臨む全ての将兵に伝わっていた。「この戦争は国家の安否に関わる決戦であり、諸君と共に粉骨砕身、敵を撃退して天皇の御心を安んじ奉らん」。決戦に際し、艦隊の将兵に語った東郷の言葉である。厳粛にして、決然たるこの言葉は艦内に凛として響き渡り、涙を流す者も多かったという。国家を消滅の危機から守るため、将兵と運命を共にしょうという覚悟が伝わった。
戦闘の間、東郷は敵の砲弾が乱れ飛び、吹きさらしの艦橋に立ち続けた。いくら部下がすすめても、分厚い鋼板で固められた安全な司令塔に入ろうとはしなかった。命の危険に直接さらされている兵士たちと運命を共にしたかったからである。いかに砲弾の雨が降ろうが、艦橋からは絶対に退避しない。東郷はこう堅く誓っていた。全軍の兵士は、波しぶきを受けながら、艦橋で果敢に指揮を執る東郷の姿を見て奮い立った。国家のために命を懸けて戦おうとしている司令長官の姿を見たのである。兵士は東郷と共に戦うことを誇りに思い、彼と共に国家のために命を投げ出そうとしたのであった。
東郷の偉大さは、この海戦においてのみ示されたわけではない。常日頃の勤務ぶりは、海軍内では知らぬ者はいなかった。海軍の幹部にのぼりつめても、誰よりも早く起きて素足で甲板を洗い、便所掃除まで行った。暴風雨の時なども、自ら寝ずに警戒に当たったという。部下だけに辛い思いをさせることはなかったのである。
一つの船に乗る海の男は、運命共同体である。ひとたび船が沈没すれば部下も上官もなく、みな海に投げ出される。死ぬも生きるも一緒である。連合艦隊は、司令長官東郷を中心として、一糸乱れぬ組織となって戦ったのだ。
東郷のもとで、部下は自らの能力を最大限発揮することができた。東郷は自己を厳しく律しながらも、部下への誠実な態度、思いやりに溢れていたからだ。日本海海戦は、東郷平八郎という一人の偉大なリーダーを日本人の心に刻みつけた戦争でもあった。
「勝って兜の緒を締めよ」
東京湾で行われた連合艦隊の解散式で、東郷は「勝って兜の緒を締めよ」と語って、その演説を締めくくった。この言葉の通り、東郷には勝者の驕りはまるで見られない。もともと寡黙であった東郷は、戦後さらに寡黙になった。新聞などの取材に一切応じなかったという。彼は元来が戦争を嫌った人間である。たとえ防衛という意味があろうとも、生身の人間が殺し合うのが戦争である。勝利したからといって、自慢すべきものとは思えなかったからだ。
晩年の東郷の生活は、国家の危機を救った英雄とはおよそかけ離れたものであった。東郷大明神などと称賛されることを極端に嫌った。清貧な生活を貫き、いつも周囲に思いやりを寄せたという。常日頃、彼が語っていた言葉がある。「人間に一番大切なのは真面目ということである。少しばかりの才気など、何の役にも立たないものだ。たとえ愚直と誹られても、結局は真面目な者が勝利をおさめるのだ」。
1934年5月30日、87歳の東郷は家族に見守られながら静かに息を引き取った。国家に忠節を尽くし、真面目にそして誠実に生きたその生涯は、今なお輝きを失っていない。
 
日本海海戦と東郷平八郎   
乃木希助率いる第三軍が旅順要塞に対する第2回総攻撃を開始する11日前の、明治37年(1904)10月15日にバルチック艦隊はリバウ軍港から出航している。ロシア海軍は、バルチック海にある精鋭の艦隊を極東に派遣して、旅順港にある太平洋艦隊とともに日本海軍と戦えば、日本艦隊のほぼ2倍の戦力となるので、勝利して制海権を確保できるとの考えであったのだが、バルチック海から極東に向かう航海は地球を半周するほどの距離がある苛酷なものであった。
そもそも、バルチック艦隊は出航して間もなくトラブルを起こしている。国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、佐藤市郎氏の『海軍五十年史』という本が公開されている。そこにはこう書かれている。
「出発前より、日本軍は丁抹(デンマーク)海峡に機雷を敷設したとか、北海には日本水雷艦艇がひそんでいるとかと、いろいろ噂がとんでいたので、悲壮な決意をもって壮途には就いたものの、水鳥の音にも肝をつぶし、薄氷を踏む思いであった。果たして北海航路の際には、英国漁船の燈火を見て、すはこそ日本水雷艇隊の襲撃と、盲(めくら)滅法に砲撃して漁船を沈めた上に、巡洋艦アウロラは同志討ちにあい、水線上に四弾をうけるという悲喜劇を演じ、英国の憤激と世界の嘲笑とを招いた。」
要するにバルチック艦隊の構成は世界最強を誇っていたが、極東への出航が急遽決定されて農民らを徴集し5カ月程度の準備期間があったものの、彼らの多くは戦闘員として充分に訓練されたレベルではなかったのである。
英国は自国の漁船が砲撃されたことを強く抗議し、後に賠償金を勝ち取っただけではとどまらなかった。菊池寛の『大衆明治史』によると、
「英国は、とにかくバルチック艦隊は危険だという口実で、巡洋艦10隻を派して、艦隊の後を追って、監視の目を光らせて、スペイン沿岸まで併航した。もちろん、同艦隊の編成と行動は、詳細に英国政府と、同盟国日本政府に打電されているのである。」と書かれている。
また、当時の艦船の燃料は石炭で、燃料効率が悪かったことから、航海には大量の石炭補給を何度も何度も繰り返さねばならなかったということを知る必要がある。石炭資源開発株式会社の大槻重之氏の『石炭をゆく』というサイトには、
「艦隊の一日の石炭使用量は三千トン、フルスピードの場合は一万トンという数字が記録されている。石炭貯蔵庫の容量の小さい船は数日おきに補炭しなければならず、その都度、大船団は停滞をよぎなくされた。石炭積込み作業は水兵に大変な労力負担になった。船間に渡した板の上を石炭籠を天秤でかついで運ぶ。作業のため波の小さい日を選ぶということは必然的に炎天下の作業になる。何れにしろロシア水兵が慣れているはずのない熱帯の海上である。熱病で死ぬ水兵が相次いだ。」と書かれている。
この文章を読むと、バルチック艦隊の水兵は燃料である大量の石炭を運ぶという重労働を海の上でやっていたことが分かるのだが、当時の世界航路の石炭保有港は英国が支配しており、遠大な航路の大半は英国海軍の勢力下にあった。英国は日本の同盟国であるから、バルチック艦隊は英国が支配する港では石炭を補給することが出来ず、公海上で石炭船を探し求めての航海が続いたようなのだ。当然良質の石炭は手に入らない。
また、バルチック艦隊の航路を見るとスエズ運河を通った船ルートと、アフリカ南端の喜望峰を経由したルートと、二手に分かれているのにも驚く。燃料効率が悪くかつ、燃料が手に入りにくかったのだから、最短距離で進むことが優先されるはずなのだが、二手に分かれたのは、吃水の深い戦艦は当時のスエズ運河を通ることが出来なかったということがその理由のようだ。
ロシアの同盟国であるフランス領マダガスカル島のノシベ港でバルチック艦隊は合流し、物資の補給を行なった後1905年3月16日にノシベ港を出港したが、この時点では乃木軍の活躍で既に旅順要塞は陥落しており、旅順港に停泊していた艦船も壊滅していたため、日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するという当初の目的達成は困難な状況になっていた。そのうえ、インド洋方面ではロシアの友好国は少なく、将兵の疲労は蓄積し、水・食料・石炭の不足はかなり深刻であったという。そして1905年4月14日に同盟国フランス領インドシナ(現ベトナム)のカムラン湾に投錨し、そこで石炭などの補給を行ない、5月9日にはヴァンフォン沖で追加に派遣された太平洋第三艦隊の到着を待ち、いよいよウラジオストックに向けて50隻の大艦隊が出航した。
小笠原長生 著『撃滅 : 日本海海戦秘史』という本がある。なぜバルチック艦隊の艦船が簡単に沈没したかについて書かれているが、その理由は、隣の国の客船セウォル号沈没とよく似たところがあって興味深い。
「…5月23日は早朝より各艦に最後の石炭搭載を行わしめ、出来うるだけ多量に積み入れるよう命令したので、中には定量の倍以上にも及んだものがあった。これがのち激戦となった際、脆く転覆する艦が続出した一つの原因をなしたのである。露国壮年将校中の腕利きといわれたクラード中佐は、その著『対馬沖会戦論』中に、『我が良戦艦スウォーロフ。ボロヂノ。オスラービヤの三隻は砲火を以て撃沈せられた。かくの如きは近世の戦闘において甚だ稀有のことであるが、その原因たるや明白だ。即ちこの三艦は過大の積載をなし、復元力が欠乏していたからである。それも静穏の天候であったなら、ああまでならなかったろうが、波浪高く艦隊が動揺したので、水面近い弾孔より自由に浸水した結果だと思う。』と論じている。のみならず積載過多のため、水際の装甲鈑は水中に没し、全く防御の役に立たなかったことも見逃せない一事であろう。何にしてもこうまですること為すこと手違いになってゆくのは、悲運といわば悲運のようなものの、国交に信義を無視した天譴ではあるまいか。…」
バルチック艦隊が石炭の調達に苦労した話は以前に読んだことがあるが、イギリスだけでなくアメリカも、バルチック艦隊に物資を供給した国に抗議した記録があり、そのためにバルチック艦隊の兵士はほとんど陸上に上がることが出来ず、海上での燃料運搬作業などで労力を削がれ、半年にもわたる大航海に相当疲弊していたことは重要なポイントだと思う。
ここで日露の戦力を比較しておこう。
日本海軍は、戦艦4、装甲巡洋艦8、装甲海防艦1、巡洋艦12他
バルチック艦隊は戦艦8、装甲巡洋艦3、装甲海防艦3、巡洋艦6他
で戦艦の数では日本海軍はロシアの半分に過ぎなかった。
もし日本海軍が、この艦隊を一旦ウラジオストックに帰港することを許してしまえば、ロシア軍は万全の準備をして戦えるので、戦艦が日本軍の倍もあるロシアに分があったであろう。日本海軍としては、バルチック艦隊がウラジオストックに戻る前に決戦に持ち込むことができれば、相当疲弊した艦隊と戦うことになるので、緒戦の優勢が期待できる。
しかし、この時代には今のレーダーのようなものは存在しなかった。バルチック艦隊が今どのあたりを航海しているかはつかめず、ウラジオストックに戻るのに、対馬海峡を通るのか、津軽海峡を通るのか、宗谷海峡を通るのかもわからなかったのである。そこでもし、それぞれの可能性を考えて日本海軍の戦力を分散させて数ヵ所で待ち構えていたとしたら、日本軍が勝利できなかった可能性が高かったと思う。
ここが東郷平八郎の偉いところだが、東郷は、異常な長旅の果てにわざわざ太平洋側を経由する可能性は低く、バルチック艦隊の戦力に自信があるならば必ず最短距離の対馬海峡を通ると確信し、全艦が対馬海峡で待ち伏せしていたのだ。先ほど紹介した『撃滅 : 日本海海戦秘史』には、日本軍が対馬海峡に全勢力を集めていることが想定外であったとのロシア側の感想が紹介されている。
「…まさかに宗谷・津軽の二海峡をあれ程思い切って放擲(ほうてき)し、朝鮮海峡にのみ全勢力を集めていたとは思わなかったらしい。クラード中佐はこれに対し、『最も驚くべきは、我が艦隊にあって全日本艦隊と遭遇するが如きは、全く予想外で不意に乗せられたようなものだ。と言うている事だ。』と冷評し…」と書いてある。
そして、運命の5月27日の朝を迎えた。
巡洋艦から敵艦発見の連絡を受け、東郷平八郎は午前6時21分に、「敵艦見ゆとの警報に接し、吾艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす。此の日、天気晴朗なれど波高し」と大本営に打電している。
両艦隊は急速に接近し、距離8000mにまでなったとき、東郷は左に舵を切ることを命じ、丁字型に敵の先頭を圧迫しようとした。軍艦は、その構造上、敵は正面にいるよりも左右どちらかにいた方が、目標に対して攻撃できる大砲の数が多くなる。その反面、回転運動中は自軍からの攻撃は難しく逆に敵艦の正面の大砲の射程圏にとどまることになる。しかし回転運動中の日本海軍の位置は、敵艦の射程圏のギリギリのところであり、当然命中精度は低い。
この時東郷平八郎司令長官の作戦担当参謀であった秋山真之は、自著の『軍談』にこう書いている。
「敵の艦隊が、初めて火蓋を切って砲撃したのが、午後二時八分で、我が第一戦隊が、暫くこれに耐えて、応戦したのが三四分遅れて二時十一分頃であったと記憶している。この三四分に飛んできた敵弾の数は、少なくとも三百発以上で、それが皆我が先頭の旗艦『三笠』に集中されたから、『三笠』は未だ一弾をも打ち出さぬうちに、多少の損害も死傷もあったのだが、幸いに距離が遠かったため、大怪我はなかったのである。…午後2時12分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾…、午後二時四拾五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分かれた時の対勢である。その間実に三十五分で正味のところは三十分にすぎない。…勢力はほぼ対等であったが、ただやや我が軍の戦術と砲術が優れておったために、この決勝を贏(か)ち得たので、皇国の興廃は、実にこの三十分間の決戦によって定まったのである。」
海戦は実はこの日の夜まで続いたのだが、この戦いでバルチック艦隊を構成していた8隻の戦艦のうち6隻が沈没し2隻が捕獲された。装甲巡洋艦5隻が沈み1隻が自沈、巡洋艦アルマーズがウラジオストックに、海防艦3隻がマニラに逃げ、駆逐艦は9隻中の5隻が撃沈され、2隻がウラジオストックに逃げた。ロシア側の人的被害は戦死5046名、負傷809名、捕虜6106名。一方日本側の損害は、水雷艇3隻、戦死者116名、負傷538名であった。結果は日本軍の圧勝であり、日本軍のこの勝利で日露戦争の趨勢は決定的となったのである。
日本海海戦における日本勝利のニュースは世界を驚嘆させ、殆んどの国が号外で報じたという。有色人種として自国のことにように狂喜したアジアやアラブ諸国、ロシアの南下を阻止したかった英米は日本の勝利を讃え、ロシアの同盟国フランスはロシアに講和を薦め、ドイツはこの開戦の勝利を機に対日接近を強めたようだ。
ところで、日本海海戦で命令に違反して戦場から離脱してマニラに向かったロシアの巡洋艦が3隻あったという。そのうちのひとつが「アウロラ」である。この記事の最初に、バルチック艦隊がロシアのリバウ軍港を出発した直後に英国漁船を誤爆したことを書いたが、その時に同志討ちにあい、水線上に味方から四弾をうけたのがこの「アウロラ」で、日本海海戦の時は艦長が戦死するなど損傷を受けたのちに逃亡して、中立国であるアメリカ領フィリピンに辿りつきマニラで抑留されたのだが、この巡洋艦のその後の運命が興味深い。1906年に「アウロラ」はバルト海に戻り、1917年に大改装のためにペトログラードに回航されると、二月革命が起こって艦内に革命委員会が設けられ、多くの乗組員がボルシェビキに同調したそうだ。11月7日(露暦10月25日)には臨時政府が置かれていた冬宮を砲撃し、さらにアウロラの水兵たちが、赤衛隊や反乱兵士とともに、冬宮攻略に参加して10月革命の成功に寄与したという。
1923年には革命記念艦に指定されて、ロシア革命のシンボルのひとつとしてサンクトペテルブルグのネヴァ河畔に今も係留・保存されているという。
一方、日本海海戦で東郷平八郎が座乗した、連合艦隊旗艦の戦艦三笠はその後どういう運命を辿ったのか。1921年のワシントン軍縮条約によって廃艦が決定し、1923年の関東大震災で岸壁に衝突した際に、応急修理中であった破損部位から浸水しそのまま着底してしまう。解体される予定であったが、国内で保存運動が起こり1925年に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定された。第二次大戦後の占領期には、ロシアからの圧力で解体処分にされそうになったが、ウィロビーらの反対でそれを免れた後、アメリカ軍人のための娯楽施設が設置されて、一時は「キャバレー・トーゴー」が艦上で開かれたという。その後、物資不足で金属類や甲板の多くが盗まれて荒廃する一方だったが、英国のジョン.S.ルービン、米海軍のチェスター・ニミッツ提督の尽力により保存運動が盛り上がって昭和36年(1961)に修理復元され、現在は神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として公開されている。
わが国の歴史遺産として幾世代にもわたって残されるべき船が、占領軍によって娯楽施設にされその後荒れるに任されたことは、日本人の誇りを奪うために占領軍が押し付けた、日露戦争の英雄である乃木や東郷を顕彰しない歴史観と無関係ではなかったと思うのだ。
「三笠」は日露戦争に勝利しわが国の独立を守った象徴として有志者により護られてきて、現在は三笠記念会メンバーの会費と見学者の観覧料により維持・管理されているのだが、観覧者が少なくては、それも難しくなる日がいずれ来るかもしれない。
日本海海戦にもしわが国が敗れていたら、日本海の制海権がロシアに奪われて、満州や朝鮮半島だけではなく日本列島の北の一部も、ロシアの領土になっていておかしくはなかった。今の多くの日本人は、われわれの祖先が命を懸けて戦って勝利し、わが国を守ってくれたことに感謝することを、忘れてしまってはいないだろうか。 
 
大山巌

 

第二次世界大戦直後、多くの軍人の銅像が撤去される中、大山巌の銅像だけは撤去を免れた。日本を統治したマッカーサー元帥が、自室に大山巌の肖像画を飾っていたほどの大山ファンだったからだ。マッカーサーを心酔させた英雄大山巌を作り上げたものは、何であったのか。
西郷隆盛とのつながり
明治時代、日本は日清戦争、日露戦争に勝利し、世界の先進国家の仲間入りを果たした。その立役者の一人が大山巌である。軍人として元帥にまで登りつめ、近代国家日本の建設の柱として活躍したその功績で公爵の地位に輝いている。歴史家は大山巌を称して言う。軍人でありながら、軍人以上のものであると。その一生は明治維新の英雄、西郷隆盛の再来とまで言われた。もし西郷が西南戦争で死なずに生きていれば、こんな生涯を送っていたのではないかと思わせる人物だった。
1842年、大山巌は薩摩藩の鹿児島城下の下加治屋町で、彦八と競子の間の次男として生まれた。父の彦八は西郷隆盛の父の弟で大山家に養子に入った人物である。つまり隆盛とは従兄弟の関係。二人は濃い血縁関係で結ばれていた。
大山は6歳の頃から、薩摩の郷中と呼ばれた地区別の青少年の軍事・教育組織に入り、郷中頭の西郷隆盛から読み書きなどを教わった。大山より15歳も年長の西郷は、兄であり、父でもあるような存在だった。この郷中教育の中で、大山は薩摩武士の神髄を学び、それを身に付けた。卑怯を嫌い、死を覚悟してことに臨む潔さである。そして、リーダーのあるべき姿は、身近な西郷から吸収した。後の英雄大山巌は、薩摩なしにも、西郷なしにも、存在しえなかったと言える。
兵器研究のため留学
大山巌は、その生涯で3回も海外渡航を経験している。最初の渡欧は1870年8月、明治新政府ができた2年後のこと。アメリカ、ヨーロッパを訪問し、約半年にわたる旅であった。彼が主に見て回った先は、海軍の造船所、武器工場、大砲製造所などである。なぜ、こんなものができるのか。その規模といい、精巧さといい、日本の比ではなかった。こういう国と戦争したら、日本はひとたまりもない。近代化を急がなければならない。「国の独立は兵器の独立だ」という気持ちを抱いて、1871年3月に帰国した。
本格的な兵器の研究を急がなければならない。焦燥感を持って帰国した大山は、再渡航を願い出た。帰国して8ヶ月後の11月、大山は再度欧州に向けて旅立った。29歳のかなり遅い留学である。大山がヨーロッパから学ぼうとしたのは、単に兵器のことだけではない。こうした兵器を生み出す素地、つまり近代文明そのものに関心が向けられていた。オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会(1873年8月)には、何と1ヶ月の滞在中26回も会場を訪れている。よほど強い刺激を受けたのであろう。
西郷の下野で帰国
留学中の大山に薩摩の先輩である吉井友実から、驚くべき手紙が届いた。西郷隆盛が下野し、鹿児島に帰ってしまい、これに相当数の薩摩藩士が同調して帰郷したと言う。新政府の最大危機である。手紙は、この対立の解決のため、すぐ帰国してほしいと結んでいた。
手紙を受け取ってから2ヶ月後、吉井友実自身が欧州に乗り込んできた。大山を連れ戻すためである。事態は、想像以上に深刻だった。1874年10月、大山は西郷を政権に復帰させるという重責を担って帰国した。
3年ぶりに鹿児島に戻った大山は、その足で西郷のもとを訪れた。新政府に戻って欲しいという大山の必死の説得も空しく、岩のような西郷の心を変えることはできなかった。ならば、大山の選択は一つである。西郷のもとで腐敗した新政府の立て直しを図るまでのこと。西郷と運命を共にしたいと申し出た。西郷の周辺を不平武士が取り囲んでいた。彼らが暴発すれば、西郷は命の危険にさらされる。西郷を守るためにも、大山は西郷と行動を共にすべきだと考えた。
大山の申し出に対し、西郷は首を横に振った。「おはん(お前)は、これからの日本に必要な人材じゃ。東京におって、天皇陛下のお役に立たねばならん。おい(俺)の役には、立たんでもいい」。「おいの命、兄さぁにお預けします」。西郷は急に立ち上り、「ならん、断じてならん。帰れっ、東京に帰れっ」と怒鳴った。
西郷は滅多なことで人を叱りつけることのない人間である。大山は、西郷の怒声の中にその悲壮なる決意を感じ取った。不平武士たちの側に身を置きながら、彼らと運命を共にする。そして彼らと共に死ぬ。新しく誕生した政府を守るにはこれしかない。西郷の「国家へのご奉公」であった。その「ご奉公」に大山を巻き添えにしたくなかったのだ。大山には、そんな西郷の気持ちが痛いほどわかる。大山は西郷のもとを去り、実家にも寄らずに東京へと急いだ。これが西郷との今生の別れとなるかもしれないと思うと、涙が溢れ出て止まらなかった。
西郷の死
大山が恐れていた最悪の事態が起きてしまった。西郷を擁立して、ついに鹿児島の武士たちが暴発した。西南戦争(1877年)である。大山にも、鎮圧のため鹿児島に向かう命令が下された。大山は軍人である。戦場にあっては、味方(政府軍)の勝利に最善を尽くさざるを得ない。最も辛い戦いとなった。半年以上に渡る激戦の末、西郷が立て籠もった城山への砲撃の時が来た。その任は、非情にも大山巌に下った。
早朝4時に始まった攻撃は、明け方には大勢が決まった。西郷自刃。遺体が浄光寺に運ばれた。大山は、決してそれを見ようとはしなかった。西郷夫人に弔慰金(遺族に贈るお金)を渡そうとしたが突き返され、巌の姉は泣きながら巌を責め立てた。胸が張り裂けるような辛い立場だった。しかし、彼は一切弁解をしなかった。理解してもらえると思っていなかったからだ。「兄さぁだけが、わかってくれればそれでいい」。西郷の新政府への「ご奉公」を見届けるのだ。そんな思いが、彼の心をぎりぎりのところで支えていた。
西南戦争の翌年、明治天皇が北陸・東海地方を巡幸されたとき、大山巌はその同行を命じられた。天皇が大山に語り始めた。「私は、西郷に育てられた。今、西郷は『賊』の汚名を着せられ、さぞ悔しかろうと思う。私も悔しい。西郷亡き後、私はその方を西郷の身代わりと思うぞ」。
大山は感激で身が震えた。「もったいないお言葉でございます。全身全霊を陛下に捧げる所存でございます」と答えるのがやっとだった。西郷を失って以来、大山は元気を失っていた。何をするにも、気合いが入らないのだ。この時の天皇のお言葉で、西郷亡き後の自分の生き方が見えてきた。「自分は兄さぁの代わりとなろう」。西郷の人生を生きればいいのだ。大山の目から、熱い涙がとめどなく頬をつたった。
大山流の統率術
日本が先進国の仲間入りを果たすことになった日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)の勝利は、大山巌の存在抜きに語ることはできない。第二軍の司令官として参戦した日清戦争の出陣に際し、「敵国民といえども仁愛を持って接すべし」と訓示した。訓示を垂れる大山の姿に、「勇者は義に篤くなければならん」と語っていた西郷隆盛を見た者は、決して少なくなかった。敵兵からも称賛された日本軍の規律正しさは、後々まで語り種になっている。
満州軍総司令官として戦った日露戦争でも、大山巌の存在感は圧倒的だった。大山巌の許可を得た作戦ならば、きっと勝てる。そう思わせる力、人徳が大山にはあった。「この戦争は、大山巌で決まる」と語ったのは、参謀次長の児玉源太郎である。陸軍の勝利は、この二人の二人三脚に負っていた。大山は児玉の作戦を全面的に信頼し任せ切った。任せた以上は口出しをしない。そしてその結果に対しては、自分が責任を取ればいい。大山はこのスタイルを貫いた。
秋山好古少将率いる騎兵第一旅団がロシア軍に包囲されるという報告が、司令部に飛び込んできた。秋山旅団が崩れれば、全軍が分断される。司令部に戦慄が走った。情報が錯綜。児玉の怒声が飛ぶ。ただごとではない雰囲気が大山の部屋にも伝わってきた。大山は、この時「おいが、指揮をとる」と決断したという。
しかし咄嗟に思った。兄さぁ(西郷)だったらどうするだろうか。そう思い返したとたん、大山は軍服を脱ぎ、わざと寝る支度をして、眠そうな顔でドアのノブに手をかけた。そして、とぼけた調子で、「はー、なんじゃ、にぎやかじゃのう」。みんなあっけにとられて、寝間着姿の大山に目を向けた。「さっきから、大砲の音がしちょりますが、今日はどこぞで、いくさでもやってござるのか?」。
大山の間の抜けた声に一人が笑った。それが引き金となって、司令部の全員が笑い出した。司令部に漂っていた緊張感が一気に和らぎ、冷静さが戻り、状況把握が的確になされるようなったという。大山は、決して愚鈍なリーダーではない。むしろ頭の回転はすこぶる速い。状況認識も的確である。しかし、知っていながら、知らないふりをする。これは忍耐力と胆力がなければ、できないことなのだ。大山流統率の真髄であった。
愛妻家で子煩悩
日露戦争後、大山は那須(栃木県)の別邸で農作業などに打ち込む悠々自適の生活に入った。彼を総理大臣に推戴しようとする動きもあったが、これを固辞。政治的な野心とは無縁の男だった。家人に対しても、部下に対しても、威張ることがない。人の悪口を言うこともない。先妻の死後、後妻に入った捨松は、そういうところが大山を好きになった理由の一つだったと言っている。私心なく、海のように広い心を持ち、誰に対しても謙虚な大山の姿は西郷隆盛を彷彿とさせた。
愛妻家で子煩悩も、大山の特長の一つであった。仕事を終えると寄り道をせず、まっすぐに家族のもとに帰る習慣は生涯続いた。芸者遊びなどを好まず、家族と過ごす時を大切にしたのである。そんな家族に見守られながら、1916年12月10日、大山巌は74年の生涯を終え永眠した。妻の捨松は、大山が意識朦朧の中、「兄さぁ」とうわごとを言うのを聞いている。「やっと西郷さんと会えたのね」。捨松は夫にそう語りかけた。 
 

 

 
明治時代 万博に見る最新技術

 

熱エネルギーの利用
〜蒸気機関からガソリンエンジンまで〜
画像は、1876年のフィラデルフィア万博の機械館で、機械たちを動かしていた巨大な蒸気機関。同じ会場にはガスエンジンも出展され、この数年後にはガソリンエンジンが登場する。
火力、電力、水力等のエネルギーを継続的に動力に変換する装置を原動機という。中でも熱エネルギーを利用するものが「熱機関」だが、これは次の2つに分類できる。
1.外燃機関燃料の燃焼より発生した熱が媒体となり、間接的に動力を生む。 例)蒸気機関、蒸気タービンなど2.内燃機関燃料の燃焼で発生したガスそのものが直接動力を生む。 例)ガスエンジン、ガソリンエンジン、ディーゼルエンジンなど
火薬から蒸気へ−外燃機関の誕生
大きな動力を生み出す機械として熱機関の本格使用が始まったのは産業革命以降であるが、17世紀にも、火薬や蒸気を利用した外燃機関で水を汲み上げる試みが行われた。この頃、炭鉱では排水が悩みの種だった。1712年、ニューコメン(T. Newcomen)が石炭を燃やして水を水蒸気にし、それが冷えて水に戻る時に大気圧がシリンダー(筒)内のピストンを下げて動力にする揚水機を開発すると、多くの鉱山で使用された。
蒸気機関の登場
ニューコメンの蒸気機関は、熱効率の悪いものであったが、その後、復水器を用いて効率よく動力を発生させることに成功したのが、ワット(J. Watt)である。彼が1776年に改良した蒸気機関は熱効率が大幅に向上しており、1780年代に揚水ポンプの動力源として急速に普及した。ワットは更に改良を重ね、蒸気機関の動力は、それまでの水車に替わって*工場でも使われ、製鉄所では蒸気ハンマーが活躍した。1803年には世界初の蒸気機関車が完成し、1807年に汽船が実用化される。1884年にはパーソンズ(C. A. Parsons)が蒸気タービン(羽根車が回転する)の特許を取得すると、船舶や発電の際の動力に使われた。
このように、蒸気機関は、鉱山、製鉄業、物流など様々な分野で応用されて産業革命の原動力として発展を遂げたが、19世紀後半には、大型で移動用には不向き、ボイラー爆発事故が多発、熱効率が低いなど欠点が目立ち始める。特に、交通輸送機関には軽くてより効率のよい動力源が求められ、それに応えて登場したのが内燃機関である。
*なお、水力の利用も工夫が試みが続けられ、万博にも水力機関が出展された。
内燃機関の誕生
密閉空間で混合気を燃やして動力を発生させる現在の内燃機関は、1794年にストリート(R. Street)が考案したといわれる。その後、1860年にルノアール(J. J. E. Lenoir)がガスエンジンを実用化させ、世界初の内燃機関が誕生した。これは、石炭ガスと空気の混合気を使用した「2サイクル」(2行程)のエンジンで、熱効率は蒸気機関の約3倍も向上した。彼のエンジンは1867年第2回パリ万博で出品されている。同じパリ万博では、オットー(N. A. Otto)とランゲン(E. Langen)が、ガス燃焼時にピストンが上がり、その後大気圧で下がるという、燃費の良い「フリー・ピストン機関」で金賞を受賞している。1876年には、オットーは吸入・圧縮・膨張・排気の「4サイクル」のガスエンジンを試作し、翌年特許を取得した。彼のエンジンは出力・熱効率に優れ、騒音も少なかった。
燃料の変遷−石炭から石油へ
これらの内燃機関の燃料はいずれも石炭ガスだったため、移動用には重いガス発生器などが必要だった。そこで、容積あたりの発熱量が高く運搬が容易な燃料として、石油を精製したガソリンを用いる研究が進められた。
1883年、ダイムラー(G. Daimler)がガソリン用の気化器を備えた4サイクルのガソリンエンジンを開発し、エンジンの小型化・高性能化に成功する。内燃機関は点火装置も大切だが、彼は熱管をシリンダーに刺し、自然着火させるという特許もとっている。1886年にはベンツ(C. F. Bentz)が世界最初の実用的なガソリン自動車(3輪車)を製作した。2サイクルのガソリンエンジンも作られ、1881年にクラーク(D. Clerk)が実用化第一号を発明、1891年にデイ(J. Day)が発明したエンジンは4サイクルのものよりコンパクトで、20世紀にオートバイやモーターボートに普及した。1887年ボッシュ(R. A. Bosch)が磁石発電機を用いた火花点火方式を完成、1893年マイバッハ(W. Maybach)が霧吹き式の気化器を発明するなどガソリンエンジンの開発が進んだ。
以後、ガソリンに代わり低質油を燃料とするエンジン開発への需要も高まり、1893年、ディーゼル(R. Diesel)が軽油を燃料とした圧縮空気着火式エンジン(ディーゼルエンジン)を発表、1895年に完成させ、安価な軽油や重油の利用に道を開いた。
1870年代から1890年代は現在のエンジン技術の基礎が確立された黄金時代であった。そして2度にわたる世界大戦期を迎えると、軍用機や兵器への応用のために技術開発が加速し、熱機関はさらなる進歩を遂げていくことになる。 
電気エネルギーの利用

 

画像は、1893年シカゴ万博の電気館に設置された蒸気機関アリスエンジンである。これで発電機を回して発電し、会場内に電気を供給した。シカゴ万博では電気を利用した様々な発明品が展示され、電気の時代の到来を印象づけた。
18世紀以前は、電気といえば摩擦により発生する静電気だった。1800年にヴォルタ(A. Volta)が、溶液を介して異種金属を接触させたときに電気が発生する現象を発見して「ヴォルタの電堆(電池)」を発明したことにより、持続的に電気の流れを起こすことが可能となった。彼の発明は、ほどなく、クルークシャンク(W. Cruikshank)によって実用的な電池に改良された。
1821年にはファラデー(M. Faraday)がはじめて電動機(モーター)の原理を考案する。これは、電流を流した針金を磁石に近づけると力を受けるという現象を利用したものであった。彼は1831年には逆に、鉄心に巻いたコイルに永久磁石を出し入れすると電気が生じる、つまり磁気によって電気を作れるという「電磁誘導の法則」を発表した。現在の発電機、変圧器はすべてこの応用である。翌年、ピクシー(H. Pixii)がこれを応用して世界初の発電機(ダイナモ)を発明した。電動機と発電機は、同じ原理を利用しているが、前者は電気エネルギーにより機械を作動させ、後者は機械の作動による回転力で電気エネルギーを発生させるという働きをする。
1860年前後になると、アーク灯の実用化、電信機の登場などで電力需要が高まり、ジーメンス(W. von Siemens)やグラム(Z. T. Gramme)の製品に代表される実用的な発電機が続々と製作される。1882年には、イギリスで一般消費者向けとしては初の発電所(ホルボーン・ヴァイアダクトHolborn Viaduct)が稼動した。一方、電動機が実用化されたのは発電機よりも少々遅れた1870年代以降である。1873年には、ウィーン万博で先のグラムが直流電動機を出展した。この頃の電力技術は直流が主流であったが、1880年代後半以降、フェラーリス(G. Ferraris)による二相交流電動機の発明、ウェスティングハウス (Westinghouse) 社による交流方式の採用、フェランティ(S. Z. de Feranti)による交流送電方式の発電所建設など交流の台頭が始まる。これに伴い、交流方式の電動機の登場が待たれた。1887年にテスラ(N. Tesla)が実用的な交流電動機(二相誘導電動機)を発明する。
発電機の登場とその後の改良は、大量の電力供給を実現し、電灯、電動機、電信・電話の発達を促した。また、手動であった農機具や生活用品など様々な分野で電気が利用されるようになった。特に、これまで蒸気を利用していた機関車が電動になるなど、19世紀後半においては蒸気から電気への動力の大きな変化があったと言えよう。医療、生活用品など様々な技術分野でも電気の利用が試みられた。

エレベータ / エレベータの歴史は案外古く、19世紀初頭には、水圧を利用したエレベータが開発されていた。1853年のニューヨーク万博では、蒸気を動力としたオーティス社製のエレベータが出展され、オーティス(E. G. Otis)自身が実演してその安全性を示してみせたと言う。また、1867年パリ万博では水圧式エレベータが出展されていた。
この画像は、1893年のシカゴ万博の会場に設置されたエレベータである。圧倒的な電気の力が示されたシカゴ万博では、エレベータも電動になった。 
印刷関連機械 

 


画像は、1862年第2回ロンドン万博で展示された、ホー型10方給紙輪転機である。ホー型機は1860、70年代に多くの新聞社で使用された。印刷機の発展は、活字鋳造、植字機、製紙技術等の発展ともあいまって、短時間における大量の印刷を可能にした。
手引き平圧機〜円圧印刷機
近代印刷技術は、15世紀半ばのグーテンベルク(J. H. Gutenberg)による活版印刷の考案に端を発する(電子展示会「インキュナブラ−西洋印刷技術の黎明」)。時を経て1798年には、イギリスのスタンホープ(C. Stanhope)が、てこの原理を応用した総鉄製の手引き印刷機を開発し、ロンドンのタイムズ紙の印刷工場で最初に使用されて毎時片面250枚を印刷した。
19世紀に入ると、蒸気機関の応用、戦争による新聞需要の高まりとともに生産性の高い印刷機が現れる。また、この頃、平版印刷(石版印刷、リトグラフ)が考案され、これまでの銅版や木版に比べ描画が容易に再現できるようになり、多色刷りも開発される。ほぼ同時期の写真技術の開発、製紙技術の発展とともに、近代印刷の発展に大きく寄与することになる。
1812年にドイツのケーニヒ(F. Konig)とバウアー(A. Bauer)により、蒸気機関で稼動する円圧印刷機(版と紙を円筒でプレスするもの)が誕生し、その後タイムズ社の依頼を受けて改良を重ね、円筒を2つ用いて同時に2枚の片面刷りが可能となり、毎時1,100枚ほどを印刷できるようになった。
活字鋳造・植字
活字鋳造や植字の分野でも、蒸気機関の登場を背景に人力から機械化への動きが進む。1838年にアメリカ特許を取得したブルース(D. Bruce)による手回し式活字鋳造機は、2個のL字型の鋳型を合わせ、ポンプで地金を鋳型に流し込むものであったが、それまでの鋳型とひしゃくによる活字鋳造に比して格段に早く鋳造することが可能になった。また、活字鋳造や印刷機の改良とともに、活字を版面に組む植字作業の機械化も求められた。1820年代からチャーチやカステンバインらにより数々の植字機が開発されてきたが、画期的だったのは、アメリカのマーゲンターラー(O. Mergenthaler)が1886年に発明した、1行をまるごと活字にするライノタイプの登場である。タイプライターのキーボードを叩くように原稿通りにキーを打つと、機械が活字の母型を選び出し、1行分並べて活字の固まりを鋳造する。これまで3名で行っていた操作が1名で可能になり、作業効率が向上した。

Johnson & Mackellarの活字鋳造機
輪転機による発展
新聞やその他の定期刊行物の発行部数が増大するにつれ、さらに高速の印刷機が求められるようになった。1846年には、アメリカのホー(R. M. Hoe)が輪転式印刷機を実用化する。活字の間に楔形の金属板を付けて円筒形の「版胴」に固定し、その周囲に4本の「圧胴」を取り付け、間に紙を通して連続印刷するもので、円圧印刷機と違って版をもとの場所に戻す必要がないため時間短縮になった。1857年にはタイムズ社から発注を受けて、圧胴10本、10人で紙を通すという巨大な機械が製作された。毎時2万枚もの印刷が可能だったという。
また、1851年ロンドン万博では、フォスター(J. Foster)が新聞用折りたたみ機を出品している。後世、折りたたみ機の改良が印刷の高速化、自動化を推し進める一つの重要な要素となった。
輪転圧式印刷機は、活字が円筒から落ちやすい欠点があったが、紙型の鋳型から鉛版を作る方法を使って、円筒そのものを版にすることができるようになった。1865年、バロック(W. Bullock)が連続巻取紙に印刷する世界初の輪転機を製作すると、これまでのように人が紙を挿す必要がなくなった。巻取紙を切断後に2本の版胴を通して両面が印刷され、排紙受けに排出される仕組みで、現在の輪転機と基本構造は同じである。
一方、イギリスでは、1862年の第2回ロンドン万博で輪転機のモデルに感銘を受けたタイムズ社の社長(J. Walter V)の指示により、1866年、ウォルター輪転機が製作される。これは、巻取紙が送り出されて加湿装置を通過し、上部の版胴で表面、下部の版胴で裏面を印刷後に裁断され、振り分けられるという仕組みであった。一度に4ページを印刷、毎時12,000枚の両面刷りを可能とした。
1870年代は、各国の主要な印刷機製造会社が輪転機の製作を行う時代となっていく。アメリカのアール・ホー (R. Hoe) 社、ドイツのマシーネンファブリックアウグスブルグ (Maschinenfabrik Augusburg) 合資会社、ケーニッヒ・バウアー (Konig-Bauer) 社などが輪転機の製作に取り組んだ。フランスでは、1872年、日本に馴染みの深いマリノニ (Marinoni) 社が巻取式印刷機を製作している。従来のものに比べて構造が簡便で、高性能であることが特徴だった。1889年第4回パリ万博で新聞の高速印刷を実演し、1890年には、日本の内閣官報局で導入、第1回帝国議会議事速記録を官報付録として印刷した。また、東京朝日新聞社にも輸入された。

Walter Pressの輪転機 

ミーレ社出品の円柱印刷機
1880年になると、輪転機のさらなる高速化を目指して折りたたみ部分の開発が活性化していき、その後の輪転機や印刷機は、切断部や給紙部などの機構の改良を重ねて高速化していった。1893年には、アメリカのミーレ(R. Miehle)により1工程で圧動が左右に1回転ずつ計2回転する2回転式印刷機が発明された。従来型の1工程圧動1回転に比べて印刷能力が飛躍的に向上する。同年のシカゴ万博にミーレ社の製品が出品されている。1904年にルベール(I. W. Rubel)の発明によるオフセット印刷の手法(版からゴム布に転写してから印刷する)が確立されてからは、オフセット輪転機の時代へと変化していく。
輪転機

HopkinsonとCope発明のアルビオン印刷機
1822年にR. W. Copeによって発明されたアルビオン(Albion)型手引き印刷機。この種類の印刷機は明治時代に日本に多数輸入された。

Hoe Pressの輪転機
ホー社(Hoe press)の輪転印刷機。両面印刷が可能であり、同時に印刷した新聞を二つ折りにする機能もあった。

W.H. Mitchell発明の植字機・解版機
W. H. Mitchellにより発明、出品された植字機・解版機でメダルを受賞した。左側が必要な活字を送り出す操作機で、キーを押すと順番に活字が出てくる。解版機とは活字を仕分けする装置。仕分けした活字を植字機に戻す。
植字機
           封筒折機
タイプライター
製紙機 
船舶

 

画像は1889年第4回パリ万博から、蒸気船の断面図。中央に蒸気機関、船尾(左端)にはスクリュー・プロペラがついている。今日でも、船の推進機といえばほとんどがスクリューである。
18世紀に蒸気機関が発明されると、手漕ぎや帆にかえて船舶の動力源とする試みが始まる。1783年フランスで、ボート両船舷の水掻き車輪(外輪)を蒸気機関で廻し川を15分航行したのが、世界初の蒸気船の実用化といわれる。1807年には、アメリカのハドソン川で外輪式蒸気船が旅客運送を開始し、商業的に成功を収める。
河川や湖で活躍した蒸気船は海上輸送へも進出し、船舶の大型化に伴い、1820年代以降、木製にかわる鉄船の建造も始まる。1840年には大西洋定期航路が開設されるなど、外輪式蒸気船が帆船に代わる輸送手段となっていった。そのころには、推進力を加速させるスクリュー・プロペラの開発も進み、グレート・ブリテン号という、スクリューが推進機の外洋航海用の鉄船(初の近代船舶)の登場をみることとなる。
蒸気機関は広い設置スペースが必要なため、軍艦には不向きとされていたが、鉄製商船やスクリュー・プロペラの普及に伴い、蒸気機関採用が検討され、1845年にイギリス海軍は外輪船とスクリュー船の綱引き実験をして、スクリュー船を採用する。1853年に勃発したクリミア戦争は軍艦の性能向上に拍車をかけ、1859年にフランス海軍が木造の船体を鉄板で防護した軍艦グロワール、翌年にイギリス海軍が世界初の全鉄製船体をもつ軍艦ウォーリアを進水させるなど、装甲艦建造が始まる。
南北戦争では初めて装甲艦同士の戦闘が行われた。軍艦の兵器は、砲以外に魚雷などの装備が加速度的に進み、偵察や商船の護衛を行う巡洋艦が発達していく。
蒸気船のエンジンは、2つのシリンダーで高圧蒸気と低圧蒸気を利用する複合機関から、3つのシリンダーで高圧・中圧・低圧の蒸気を活用する三段膨張式機関へと進化した。その後、パーソンズ(C. A. Parsons)が開発した蒸気タービンエンジン(蒸気で羽根車が回転する)の登場でさらなる進化を遂げる。1897年には、ヴィクトリア女王即位60年記念祭に参加した彼のタービニア号が34ノットで走行し、人々を驚かせた(当時の駆逐艦が27ノット)。蒸気タービンは、すぐに駆逐艦に搭載され、商業用船舶にも採用される。そして、20世紀には外洋航海定期船から軍艦に至るまで有名船舶の主動力源となる。 
カメラ

 

画像は、1862年のロンドン万博に出品されたパノラマレンズと三脚カメラである。世界で初めての写真は露出に8時間もかかったが、この頃には露出時間も短くなり、屋外や旅先に写真機を持ちだし、撮影することが想定されるようになった。
レンズに映った映像を化学作用によって固定した最初の人は、フランスのニエプス(J. N. Niépce)である。1826年に窓の外の風景を撮影し、露出時間は約8時間もかかったと言われている。感光物質として用いたのはアスファルトの一種で、光に当たると硬化する性質を利用した。
ニエプスと共同研究を進めていたダゲール(L. J. M. Daguerre)は、ニエプスの死後、1837年に、銀メッキを施した銅板を用いる銀板写真(ダゲレオタイプ)を完成した。現像を行うことにより露出時間を数十分と短くすることができた。とは言っても動くものには使えず、左右反転した画像で、得られる写真は一枚きりであった。
その後、イギリスのトールボット(W. H. F. Talbot)がカロタイプとよばれるネガ=ポジ法を発明し、何枚もの写真を作ることを実現。また、フランス政府は銀板写真法の特許を買い取り一般公開したため、ヨーロッパ各地で感光材料とレンズの改良が進み、露出時間も数分と短くなった。そのため、中産階級の間で肖像写真撮影が大流行した。また、1839年には蛇腹式携行型銀板カメラ、三脚なども発明され、1844年にはすでに、150度の角度を写すパノラマ写真も撮られている。焦点距離の短いレンズの首を振り、冒頭画像のように湾曲した版に撮影した。
カロタイプはネガに紙を使っていたため画像があまり鮮明ではなかったが、1851年にはイギリスのアーチャー(F. S. Archer)がガラス板にコロジオンという液体の感光材料を塗布し、湿った状態で用いる湿板写真を発表し、鮮明な写真を低廉に作成することを可能にした。これにより、新聞の報道写真など、世界の様々な場所が撮影されるようになり、戦禍の様子やピラミッドといった名所、そして第1回ロンドン万博の会場である水晶宮の建設状況の撮影もなされた。
冒頭画像のカメラはこの頃のものである。
その後1871年にマドックス(R. L. Maddox)によって、ガラス板にゼラチンを用いた乾板写真が発明された。乾板は保存がきくため商品として販売されるようになり、写真の一般への普及が進んだ。さらに1888年、現コダック(Kodak)社の創業者であるアメリカのイーストマン(G. Eastman)が、重く割れやすいガラス板にかわって、軽く柔らかいセルロイド製のロールフィルムを開発したことにより、現在のような、素人でもシャッターを押すだけで撮影できるカメラが実現した。ちなみに、1893年のシカゴ万博では写真撮影の独占権をコダック社が有しており、1日100ドルで許可書を発行していた。 
 
内国勧業博覧会 

 

第1回内国勧業博覧会 / 殖産興業のために
開催期間:1877(明治10)年8月21日〜11月30日場所:東京上野公園入場者数:454,168人
1877(明治10)年の8月、西南戦争開戦の中、日本で初めての内国勧業博覧会の開場式が行われた。本会は、日本が参加した1873年のウィーン万国博覧会を参考に、初代内務卿大久保利通が推し進めたものである。
博覧会と銘打ったものは、以前にも存在したが、そのほとんどが名宝や珍品を集めて観覧させることが目的であった。この博覧会は、特に「勧業」の二文字を冠していることからも明らかなように、出品物の中から殖産興業推進には不必要な"見世物"のイメージを厳格に否定し、欧米からの技術と在来技術の出会いの場となる産業奨励会としての面を前面に押し出している。
約10万平方メートルの会場には、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、寛永寺旧本坊の表門の上には大時計が掲げられた。また、公園入り口に造られた約10メートルのアメリカ式の風車(地下水汲み上げ用)や上野東照宮前から公園にかけての数千個の提灯が彩を添えた。
全国から集められた出品物は、前年のフィラデルフィア万博にならって大きく6つの部(鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸)に分類され、素材・製法・品質・調整・効用・価値・価格などの基準で審査が行われた。優秀作には賞牌・褒状等が授与され、いわば物品調査と産業奨励が同時に行われていたと言える。 この博覧会では、紡織産業が多くの割合を占めたが、その中で最高の賞牌、鳳紋賞牌を与えられた臥雲辰致は、日本の特許制度を語る上でもよく挙げられる人物である(コラム 明治の特許制度)。

第1回は、殖産興業を担当する内務省勧業寮の設立(1874年)から3年というスピード開催で、展示品は政府によるものが最も多かった。政府は短期間で多数の国内出展品を募るため、出品人助成法を作って運搬費助成等を行い、出品を促した。展示品は府県別に展示され、競争心を煽った。
外国製品は政府購入品のみが出展され(第4回内国博までこの状態は継続)、内務省勧農局出品の風車や金属製の農機具などが展示された。
外国の模倣として、外国製品を分解して模造したというミシンや印刷機の出展もあった。
工部省工作局の旋盤、京都西陣の荒木小平の木製ジャガード織機のように西欧の技術を日本の産業に合う形で取り入れた製品が出展されている点は注目すべきである。また、ウィーン万博の技術伝習生による出展も見逃せない。測量技術を学んだ藤島常興が工作局時代に製作した尺度劃線機(ものさしに目盛を刻む機械)は、その一例である。一方、臥雲辰致の紡績機(ガラ紡)のように在来産業から生まれた製品もあり、これは従来の綿糸生産体系を変えることなく使用できたため、急速に普及した。
量的には、紡績や農業関係の出展品が多かった。農業機械では、神村平介の煙草切り機や播種機が人力を省いたという点で高評価を得た。しかし、高額だったため普及は進まなかったようだ。
工業発展の基礎と目される原動機類では、横浜製鉄所の杉山徳三郎が出品した蒸気機関が2等賞を受賞しているが、実用には適さないとの意見もあった。外国ではまだ水力利用も盛んであり、水資源の豊富な我が国では、まずその利用が試みられた。
第1回ではこのように、国内製品は、外国製品の模倣、改良といった段階に留まっていた。 
第2回内国勧業博覧会 / 不況下でも大盛況
開催期間:1881(明治14)年3月1日〜6月30日場所:東京上野公園入場者数:823,094人
第2回の内国勧業博覧会は、西南戦争の戦費捻出を契機とするインフレーション、幕末開港以来の貿易不均衡による正貨流出等による不況下で開かれた博覧会であったが、出品数は第1回の4倍にも増え、入場者数等ほとんどの分野で第1回の内国勧業博覧会の規模を凌ぐ結果となった。また、第1回の所管は内務省であったが、第2回ではさらに大蔵省も加わり、政府としても勧業博覧会に一層注力していることが伺える。
会場約14万3,000平方メートルに、本館ほか6館の陳列館が建設された。上野の山の花見客を期待して3月に開会したことが功を奏したのか、会期中の入場者は82万人で、一日平均6,740人と、第1回の倍近くの人を集め大盛況だった。また、明治天皇も皇后と行幸し、熱心に観覧した。
第1回に続き第2回の内国勧業博覧会においても指導者的役割を果たしたお雇い外国人ワグネル(G. Wagener)は、日本政府への報告書の中で日本産業の現状分析と将来への提言を行い、例えば日本農業を外国の資本や技術等を導入して発展させるべきだと述べているが、これは農商務省でお雇い外国人を廃止するなどしていた日本政府への抵抗であり、外国人技術者依存からの自立を目指していた当時の日本の政策との対照が浮き彫りとなっている。
なお、第1回では出品物を府県別に陳列したが、第2回では出品者相互の競争心を煽ることを目的として種別に陳列した。また、第1回以後の改良発展を期待し、前回と同様のものの出品を禁じた。

西南戦争を契機としたインフレーションにより、勧業政策の縮小を余儀なくされる状況で開催されたにもかかわらず、規模は第1回を凌ぐものだった。各府県群区に設置された世話掛による出展勧誘が一因だったようである。出展品は種別に展示され、製品を比較することに重点が置かれた。ここでも政府の出展品が最も多く、勧農局(博覧会終了時は農商務省農務局)と工部省のものが中心であった。
出展数は、紡績関係が約3分の1を占めたが、臥雲辰致製作の改良版ガラ紡以外は、ほとんどガラ紡の模造品だった。特許制度がない時期だったため、改良版ガラ紡と模造品の両方が受賞している(コラム「明治の特許制度」参照)。ほかに、第1回の水車式織物機械で受賞した渡辺恭・柴田徳蔵兄弟が、その際入手したアメリカ製品の図式を元に改良を重ねて、足踏機で再度受賞している。
次いで多かったのは、農業機械である。勧農局(三田農具製作所)が籾摺機やポンプなどで受賞しているが、すべて外国製品の模造だった。しかし、海外の大農場向けの機械は日本でそのまま使うには不適当で、農業機械はその後も外国技術を輸入するのではなく、日本独自の方向に発展していく。
原動機類では、民間からの出品も徐々に増え、蒸気動力利用の萌芽が窺える(この2年後には、蒸気機関を使った大規模な紡績業として有名な大阪紡績会社も操業をしている)。
勧業政策の面では、博覧会により国内各地から出展品が集積されるため、各地の産業状態を把握することができた。しかし、民間には、博覧会出展が利益を生むという認識はまだ浸透していなかったようだ。 
第3回内国勧業博覧会 / 世界へアピール
開催期間:1890(明治23)年4月1日〜7月31日場所:東京上野公園入場者数:1,023,693人
当初は、ウィーン万博副総裁であった佐野常民を中心として、将来の万博開催を目指して少しでも規模を拡大した「アジア博覧会」を、皇紀2550年にあたる1890年に開催する案が構想されていた。しかし、大蔵大臣松方正義らの反対によって、純然たる内国博として第3回内国勧業博覧会が開催されることになった。このような経緯により、内国博ではあったが出展品の販路拡大のために外国人客の誘致に力が入れられ、世界各国に招待状が送られた。最終的には、外国から246人の入場者があった。
不景気・インフルエンザの流行・連日の雨、7月1日には帝国議会衆議院選挙があったなどの影響から、全体の入場者数は伸び悩んだ。そのほかにも、単に西洋の文物というだけでは満足できなくなりつつある民衆に対して、政府はあくまで、第1回以来の娯楽を排除する方針を貫いたことも、影響していたと考えられている。
会場の建坪は9,725坪(3万2,000平方メートル)で、本館のほかに、美術館、農林館、動物館、水産館、機械館、外国製品を並べる参考館からなり、建物全体の面積は、第2回の約1.3倍、出展品数は441,458点と増加した。東京電灯会社が会場内に、日本ではじめての電車となる路面電車を走らせたことが特筆に価する。
官庁出品物は褒賞の審査の対象外とされたので、民業を振興する意図が明確になった。しかし、褒賞については、審査の結果次第では商品の売れ行きに大きな影響が出たため、等数に不満をもった出展者から訴訟が起こることもあった。一方、この博覧会は1888年からの意匠登録制度を促進したことも注目される。政府は意匠条例を社会に認知させる意図のもと、出展物に限り出願手数料と登録料を徴収しないことにしたので、出願数が急増した。
このように様々な新しい動きがあった第3回内国勧業博覧会であったが、不景気なども重なり、出品数の増加に対して、大量の売れ残りが出る結果となった。

内国勧業博覧会も3回を数え、次第に社会に定着していく。政府出展品が審査対象外とされ、ここから民業振興の性格が明確となった。褒賞の等級が商品価値を左右するため、審査に対する不満も出るようになる。1884年の商標条例を皮切りに特許制度の整備も進みつつあった。出展品数は前回を凌ぎ、その種類も多様化し、機械製品の分類が詳細化される。
民間出品は前回の約4倍も増加したものの、大型機械については参考として展示された官製品のみで、最も出展数が多かった「気球・汽車・汽船等」の部門でも、大半は馬具で、蒸気車や電車の出展は一品もなかった。会場内に東京電燈株式会社の藤岡市助が輸入の電車を走らせてはいたが、特に鉄道関係はまだ官営が中心であったためにこのような状態だった。造船業は早くから産業化・民営化されており、川崎造船所が大砲輸送船模型を出展している。鉄製の蒸気船である。参考出品では海軍省の軍艦模型があった。
紡績関係の出展は相変わらず多かったが、格段の進歩は見られなかった。数少ない受賞者の中には、以降受賞を重ねる御法川直三郎の名前がある。
農業機械では、渡辺万吉の軽便打簸器(馬力脱穀機を人用に改造)が受賞している。人力の省力化を図ろうとしていた農商務省の意図とは逆行するが、人間の賃金の方が馬の使用より安価だった当時の現状をふまえていた。
原動機部門の出品は17点に留まったが、東京電燈株式会社がエジソン・ダイナモ(発電機)の模造等を出品し、電力の時代の到来を示した。中央発電による電力事業のはじまりは、この東京電燈株式会社(1886年設立)で、白熱灯を供給した。その後次々に、大阪、京都などで電灯会社が作られている。出展品では、ほかに、石川島造船所が「舶用高圧蒸気機械」で賞を得ている。民間機械工業がめばえつつあった。 
第4回内国勧業博覧会 / 京都の巻き返し
開催期間:1895(明治28)年4月1日〜7月31日場所:京都市岡崎公園入場者数:1,136,695人
博覧会開催が利益をうむことが周知されたため、誘致活動が行われるようになり、第4回の開催地は、東京遷都以降の低迷を活性化したい京都に決まった。当初、第4回内国勧業博覧会は1894年に開催される予定であったが、京都市民は京都の建都1100年の記念事業として、1895年に開催することを強く望んだ。1894年には日清戦争が勃発したが、政府は殖産興業政策は戦時中であっても重要であるとし、予定通りの開催を決めた。
会場は平安神宮の南に当たり、会場面積は17万8,000平方メートル、建物敷地総数は4万7,000平方メートルであった。会場の正面には大理石製の噴水が建ち、その左右両側に売店が並んだ。
建物は、美術館、工業館、農林館、機械館、水産館、動物館の6館が主要なものであり、機械館の動力源はそれまでの石炭から電力に変わった。
水産館の前には水産室、今日でいう水族館があり、鰻や鯉、鮒などを見せた。ここでは魚を上から見るというそれまでの方法とは異なり、側面から見ることができるということで珍しがられた。ただし海水魚はここでは見られず、兵庫県の和田岬にある遊園地和楽園内に設けた生け簀で見ることができた。
また、美術館ではフランスから帰った黒田清輝が出品した『朝妝』と題した裸体画(のちに焼失)が、風俗擾乱の大騒動を起こした。結局、絵の一部を布で覆って陳列続行に落ち着いたが、ビゴー(G. Bigot)の風刺漫画にもこの事件が登場している。
ほかに大きな話題として、会場の外に正式な交通機関として日本ではじめて市街電車が登場したことがある。運行は、京都七条から会場の平安神宮付近と琵琶湖疏水のほとりまで、南の伏見方面にも走り、電力は疎水の水力発電でまかなった。電力時代の幕開けを象徴するものと言えよう。
何かと話題の多い博覧会であったが、7万3,781人の出品人から16万9,098点の出品を得て、入場者数も113万6,695人に達し、大変な賑わいの中で終了した。また、道路・旅宿の整備が進み、京都の観光都市としての基礎が作られた。

ここにきて、工業部類以外は、軒並み出展品が減少するという事態が起きた。日清戦争の影響による造船所の繁忙、輸送船徴用による運送手段の欠如などが一因といわれる。
注目度の高い原動機部門の出展は7点に留まり、芝浦製作所(現「東芝」)製の風車や藤井総太郎の柱付験水器(ボイラーの気圧上昇による事故を防止する装置)が受賞している。
しかし、新しい産業は着実に育っており、発電・電気応用の部が新設されている。前年に設立された京都電気鉄道による、日本初の営業用電車も京都市内を走行していた(モーターは、国産と輸入の両方)。電気の分野は輸入に頼る部分も少なくなかったが、沖牙太郎(現「沖電気工業」の創始者)が電信機や電話機を、芝浦製作所が変圧器やアーク灯などを出品して受賞している。
紡績関係機械は、出品数だけ多い低迷の状態であった。その中で、会場内で運転された御法川直三郎出展の製糸機(四条繰糸機=生糸を巻き取る小枠をこれまでの二つから四つに増やして生産性を向上させた)は好評を得て、その後全国に設置されていった。
他に特筆すべき出展品はあまりないが、浅沼藤吉(浅沼商会)、杉浦六右衛門(のちの「コニカ」)、山田与七(現「古河電気工業」)ら、今に続く企業の創始者達の出展が目を引く。内国勧業博覧会は商品宣伝の場としての地位を得て、民間にも活用されつつあったようだ。 
第5回内国勧業博覧会 / 最後にして最大の内国博
開催期間:1903(明治36)年3月1日〜7月31日場所:大阪市天王寺今宮入場者数:4,350,693人
1903(明治36)年に大阪で開催された博覧会である。第5回内国勧業博覧会は当初、1899年に開催予定だったが、1900年のパリ万博、1901年のグラスゴー万博への参加準備のため延期されたという経緯がある。日清戦争(1894-95年)の勝利により各企業が活発に市場を拡大していたこと、鉄道網がほぼ日本全国にわたったことなどがあり、博覧会への期待は大きく、敷地は前回の二倍余、会期も最長の153日間で、最後にして最大の内国勧業博覧会となった。
会場には、農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、教育館、美術館、通運館、動物館のほか、台湾館、参考館が建設された(写真)。建物はこれまでの仮設ではなく漆喰塗りで、美術館は大阪市民博物館としてその後使われている。第二会場として、堺に水族館も建てられた。
将来の万博を意識して建てられた参考館は、それまで認められていなかった諸外国の製品を陳列しており、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、ロシアなど十数か国が出品した。その中で新しい時代を強く印象付けたのはアメリカ製の8台の自動車であった。内国博覧会といえども、念願の万国博覧会に近づいていると言えよう。
初めての夜間開場が行われ、会場にはイルミネーションが取り付けられた。大噴水も5色の照明でライトアップされ、エレベーターつきの大林高塔も人気を呼んだ。これらは、日本にも本格的な電力時代が到来したことを示している。また、茶臼山の池のほとりに設けられた飛艇戯(ウォーターシュート)、メリーゴーラウンド、パノラマ世界一周館、不思議館(電灯や火薬を用いた幻想的な舞踏、無線電信、X線、活動写真などを見せた)、大曲馬など、娯楽施設が人気を呼んだ。堺の水族館は二階建ての本建築で、閉会後は堺水族館として市民に親しまれた。各館は夜間は閉館していたにもかかわらず、多くの入場者はこれらのイルミネーションや余興目当てで来場し、入場者は内国勧業博覧会始まって以来の数を記録した。
本来、国内の産業振興を目的としていた内国博は、入場者の消費等による経済効果に重点が置かれるようになり、事実、大阪市は莫大な経済効果を受けた。博覧会は都市を活性化させる手段として重要視され、万国博覧会の日本開催へ期待が高まり、1907年に予定された第6回を万国博覧会に、という声も上がる。しかし、日露戦争ののち財政難に陥ると、産業振興の費用対効果を疑問視されて第6回は延期、ついには中止されてしまう。その後、府県による博覧会は開かれるものの、国家的博覧会の日本での実現は、戦後、1970年の大阪万博まで待つこととなる。

第5回では、上位受賞者の半数以上を企業が占めており、国内企業の成長を窺うことができる。工業関係の出品は全体の過半数にも上った。
日清戦争において船舶不足を痛感した政府は、1890年代後半から造船業を奨励し、欧米と肩を並べるまでには到らないものの、産業としての発展をみる。三菱造船所、川崎造船所、大阪鉄工所の船模型などが受賞しており、受賞理由として、出展品の評価以外に、製作のための機械設備の整備、技術者養成等、業界全般にわたる貢献が触れられている。ほかに、蒸気機関車での受賞も見られる。自動車は、輸入品のデモンストレーションをしている段階だった。
電気分野では、沖牙太郎の電気通信機、日本電気株式会社(米国ウェスタン・エレクトリック社との合弁で1899年設立)の電話機、東京電気株式会社(のちに「東芝」)出展の各種電球が、製品の性能とともに低価格が評価されて賞を得ている。同じく受賞した屋井先蔵の乾電池は当時海外に輸出されていた功績が評価のポイントだったようだ。芝浦製作所による発電機も受賞しているが、こちらの内部部品は輸入品であった。
紡績の分野では、御法川直三郎の十二条繰糸機が出品される。製糸作業効率を向上させるもので、製糸機械国産化への道を開いた。
原動機部門の出展は76点にも及び、海軍技術者の宮原二郎出展の水管式汽罐(ボイラー)が賞を得る。性能もさることながら、溶接や維持が容易、国内で修理・製造が可能というのが大きな利点で、ほどなく軍艦に搭載されるようになる。
なお、外国製品については、この博覧会でようやく自由な出品や販売が許可され、参考館で展示が行われた。日本は1899年に工業所有権の国際的保護を定めたパリ条約に加盟したので、想定を上回る十数か国もの出展があった。この加盟は、同時に、日本がもはや外国の模造には頼れない、ということを意味した。 
東京勧業博覧会 / 新聞記事抜粋
(明治40年3〜7月、主催東京府・東京上野会場にて開催)
明治40年6月17日(読売新聞)/「博覧会売店のぞき」
競争の安売り 会場外の売店は何れも競争の形で大勉強大安売りをして居るからお土産の買い物は凡て其処に限ると独りで定めて第二会場観覧の帰途観月門より出で池の西畔なる表面より巡視すれば
服部七宝店(略)
岡山県物産売店(略)
アイヌ館 館と云うとどうやら大袈裟に思われるが其の実小さな売店に過ぎぬのでアイヌ人種の製作品と称し木細工、甲掛け、鳥皮の類を掛け列ね傍に茶飲み所なども設けてありまた皺くちゃのお婆さんが店先に控えてツレップと名づくるアイヌノ菓子を一袋五銭で頻りに買え買えと薦めているが皆袋へ入れっきりで見本と云う物が一つも出ておらぬため剣呑がって買う人がいない
函館名産売店 には干し鯣(するめ)及び昆布、菓子、昆布茶、昆布缶詰の類があり之は隣と違い一口づつは何でも見本をつまませるので中々繁盛している(以下略)
明治40年4月25日(東京朝日新聞)/「諸国名産売店めぐり(一)」
殆ど全国を網羅せる名産揃い、珍し、気に入れり、土産に直ぐと買わんとは思えども陳列場にてはオイソレとも参らねば池の端なる即売店の重なるものを紹介すべし
アイヌ作品売店 観月門を出でて、四五軒行くと右側にアイヌの店がある、作品は数多からねど、鉈、盆、絲捲きなど例の不得要領の彫があって先ず古雅と見れば見る可しである、次に脚絆腹巻様の物もありて孰(いずれ)も馴路(クシロ)、春採(ハルトリ)、標茶(シペチャ)、白糖(シヲタウ)の土人の手に成ったと云うことだが定価が判然とせぬので買い手が一寸躊躇する、尤もチラリホラリ羅馬数字で450などと云う小札が無いでもないが四十五銭やら四銭五厘やら頗る曖昧である、即売店は最も迅速をたっとぶのにこんな事にてはスグと其の間にアイヌ代物(しろもの)となる(原文ママ)、注意すべしだ、それに此の店にてはアイヌの手製と称しツレップとか云うおこしの如き物を売って居るが、こんな物は東北に行けば到る所に沢山ある
明治40年6月17日 (読売新聞)/「韓国流の婦人解放」
博覧会第一会場内なる水晶館が場所柄の悪しき為か一向不景気なるより、呼び物とせんとてか一名の朝鮮婦人を雇い入れこれを楽器(オルゴール)の捻巻(ねじま)きとして使い居りしが、これによりて端なくも韓国留学生の激昂を招き目下紛争中なる由。さて聞く処によれば元来水晶館の起源とも云うべきは初め博覧会第一会場内に朝鮮館の名にて開場せんとし金儲けに抜け目なき人々は定めて此処にも多くの入場者があるならんと考え、其の場所は会場中極めて辺鄙なる処なれども十五六軒の飲食店軒を並べて開業したるがいよいよ博覧会の開会さるゝやこの辺は一向客なく実に寂莫たる有様なるより飲食店の営業者はこれではならぬと博覧会に朝鮮館の発展方法を願い出でたるも、一向煮え切らざるより然らばと鳥又主人寺島又吉等にて美術学校に依頼し何か客寄せの方法を考案せんとせし結果が即ち今の水晶館にて、博覧会よりは朝鮮館の付属として許可したるなり。然るに其の後此の水晶館より下谷御徒町三丁目四十二番地の飯田鉄之助と云う人に依頼して朝鮮婦人鄭命先(二十)及び通弁を雇い入れ、去月二十日より同館内宝玉殿中央に楽器オルゴールの捻巻きに使用したるに、其の後四五日は何らの変わりたる事もなかりしに二十五六日ごろ二三人の韓国留学生来たりて此の有様を見るや一口二口何とか云い居りしが、其の後は日々必ず数十人の韓国人留学生来たりて、頻りに「自国の習慣として婦人を客に接見せしむること、或いは斯くの如き見世物に自国の婦人を使用するは無礼なり、速やかに帰国せしむべし」などと事務員に苦情を持ち込みしより、同館にてはうるさく思いて遂に初め周旋を受けたる飯田氏に依頼して調停を請いたるより、飯田氏も捨て置かれずと留学生に向かい「決して韓国婦人を侮辱したるにはあらず。寧ろ韓国の為に、これを機会として婦人の活動を誘わんと欲し、徹頭徹尾善意を以ってなしたる事なり」と説き諭したるも、彼等はなかなか聞き入れず、遂に目下芝区櫻田本郷町の清光館に滞在中なる韓国内務参官兼帝室会計審査委員日本国宮内省事務視察員正三品と云う長き肩書きを有する閔元植と云える人より水晶館に対し表向きの交渉を始めさせたるより、飯田氏は去る九日本郷春木町一町目四十四番地の韓国留学生寄宿舎に到り閔氏立会いの上再び彼等に向かいて懇々訓辞的の演説を試みしも何等の効果なく、彼等の反抗運動は益々勢いを増し来たるにぞ水晶館にても殆ど持てあまし、此の上は止むを得ずとて既に雇い入れたる韓人の為に投じたる費用を弁償すれば鄭命先を帰国せしむべしと譲歩したるも彼等は裕ならざる留学生の事とて金の用意も無きより、崔錫夏、金永爵等の学生を総代として尚もいろいろと(原文いろとゝ)これに対する苦情持ち込み来るより水晶館にては益々うるさがり然らば弁償金は兎に角鄭命先を帰国せしむるに要する旅費其の他だけを韓人の手にて用意せしむることとして談判は漸く進行せしも彼等には多分其の金もあらざるべければ、畢竟水晶館にて損耗を厭わず彼等の要求通り二三日中に鄭命先を帰国せしむることとなるべしと云う。但し鄭命先自身は余り帰国を喜び居らずとのことなり。因みに記す如何に商売の魂胆に出でたるにもせよ、オルゴールの捻巻きとて一個の立派なる職業なり、婦人が職業を得て働きつつあるものをわざわざ無職業とならしめて帰国せしめんとするが韓国流、否(いな)東洋流の婦人蟄居主義の道徳なれば、彼等の習慣として激昂するも無理ならぬことなれども、一方には婦人を男子の勢力より脱せしめて、蟄居を免れしめんとする婦人解放運動あるかと思えば、一方にはまたこれを逆に行く婦人無職業運動もあり、世は様々と云うべし。肝心の本人が帰国を喜ばずと云うに至ってはいよいよ面白し。
(注 水晶館とは、朝鮮館の近くに余興的なものが無く、客足が良くないのを心配した付近の売店店主達が、共同で建設した余興場。鏡を張り巡らせた迷路、ミラーハウスのことです。東京朝日新聞 明治40年4月10日記事を元に補足) 
博覧会一覧(年表)

 

世界初の万国博覧会は、1851年にロンドンで開催された。それを皮切りに、欧米諸国を中心に万博ブームが起こり、各国で続々と開催されるようになる。日本が初めて正式に参加した万博は、1867(慶応3)年のパリ万博である。明治時代に入ると、国内でも博覧会(内国勧業博覧会)が開催されるようになる。
 

 

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博覧会一覧(年表)
海外の万国博覧会 日本の博覧会 海外事情 日本事情
1851(嘉永4) 第1回ロンドン万博 薬品会、本草会、物産会    
1852(嘉永5)   フランス第二帝政(〜1870)  
1853(嘉永6) ニューヨーク万博 クリミア戦争(〜1856) ペリー来航
1854(安政1)     日米和親条約
1855(安政2) 第1回パリ万博   長崎海軍伝習所開設
1856(安政3)   ベッセマー製鋼法  
1858(安政5)     日米修好通商条約(蘭・露・英・仏とも)
1861(文久1)   南北戦争(〜1865)/ロシア農奴解放令
イタリア王国成立
長崎製鉄所竣工
1862(文久2) 第2回ロンドン万博   ロンドン覚書(開市開港延期)
1866(慶応2)   普墺戦争  
1867(慶応3) 第2回パリ万博   大政奉還
1868(明治1)       戊辰戦争・明治改元
高島炭鉱に日本初の蒸気ポンプを設置
1870(明治3)     普仏戦争(〜1871)/フランス第三共和制
1871(明治4)   京都博覧会 ドイツ帝国成立 廃藩置県/岩倉遣外使節団派遣(〜1873)/専売略規則公布(翌年停止)/横須賀造船所(製鉄所から改称)
1872(明治5)   湯島聖堂博覧会   横浜-新橋鉄道開通/学制公布/官営富岡製糸場開業
1873(明治6) ウィーン万博     徴兵令/征韓論破れ西郷隆盛ら下野
1876(明治9) フィラデルフィア万博   ベルが電話を発明 廃刀令/神風連の乱、秋月の乱、萩の乱
1877(明治10)   第1回内国勧業博覧会 露土戦争(〜1878)
イギリス領インド帝国の成立
西南戦争
1878(明治11) 第3回パリ万博   エディソンが白熱電球を発明  
1879(明治12) シドニー万博      
1880(明治13) メルボルン万博     工場払下概則で官営事業を民間払下げ
1881(明治14)   第2回内国勧業博覧会   明治14年の政変/松方正義が大蔵卿に就任
1883(明治16)     工業所有権の保護に関するパリ条約/ダイムラーが4サイクルガソリンエンジンを発明
1884(明治17)     清仏戦争  
1885(明治18)     レントゲンがX線を発見 内閣制度/専売特許条例
1887(明治20)       東京電燈(電力会社)営業開始
1888(明治21) バルセロナ万博      
1889(明治22) 第4回パリ万博     大日本帝国憲法発布
1890(明治23)   第3回内国勧業博覧会   第一回帝国議会開催
1893(明治26) シカゴ万博      
1894(明治27)     露仏同盟 日清戦争(〜1895)
1895(明治28)   第4回内国勧業博覧会   三国干渉/京都電気鉄道開業
1897(明治30) ブリュッセル万博      
1898(明治31)     米西戦争  
1899(明治32)     ボーア戦争(〜1902) 工業所有権の保護に関するパリ条約加盟
1900(明治33) 第5回パリ万博   義和団事件  
1901(明治34)       官営八幡製鉄所操業開始
1902(明治35)       日英同盟
1903(明治36)   第5回内国勧業博覧会    
1904(明治37) セントルイス万博   ルベールがオフセット印刷を発明 日露戦争(〜1905)
1907(明治40)   東京勧業博覧会 英仏露三国協商成立